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江戸湾
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江戸湾(えどわん)は、近世(およそ江戸後期)の東京湾を指すとされる造語。
明治時代以前にそういう呼び名があったわけではないことに注意する必要がある。日本語での「江戸湾」という語の初出は不明であるが、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』に登場し、この小説やテレビドラマなどで広まった。
日本武尊の東征において「馳水海」、あるいは景行天皇東国巡狩では「淡水門」と呼んだ例がある。だが、これらの名は東京湾の入り口の水道、もしくは三浦半島から見て「馳水海」、房総半島から見て「淡水門」呼んだ水門(みなと)を指したものである。以降の対岸交通では東海道の古道として中世文書に記されている。
地名としての江戸の成立は平安時代後期まで遡ると考えられるが、湾状の地形自体は意識されず、その名の由来の通り「江の入り口」との認識にとどまっている。江戸湊は、北の浅草湊、南の品川湊とならぶ港や河岸のことであった。また江戸前は単純に江戸城の前の意であり、芝浜(現・港区)や須崎(現・江東区)、佃沖などと並び、ほぼ漁場を示す語であった。江戸初期の三浦浄心『慶長見聞録』には「相模、安房、上総、下総、武蔵五カ国の中に大いなる入海あり」「今は鯨江戸浦まで来てうしおを空へ吹き上るを見れば」などの記述があるが、主に陸上の地名を表した三大国絵図(『正保国絵図』、『元禄国絵図』、『天保国絵図』)をはじめとする国絵図には東京湾に該当する地名はない。
江戸時代は鎖国と、主要航路は下田からの沿岸航路と利根川経由の河運だったため簡易的な「海瀬舟行図」以外には海図はほとんど用いられることがなかった。しかし、欧米各国の船が開国を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためとして、勝手に沿岸を測量し海図を作成し始める国も出た。ベネチアに残る1690年の日本図には、自国語で「江戸湾」の表記が見られる。このような状況は海防や海上交通の安全から問題視され、対策として沿岸の測量を実施し、1821年(文政4年)伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』(伊能図)が完成した。この図にも東京湾に該当する記載はないが、この頃より湾状の地形が意識されてようやく江戸前海や江戸内海の語が現れる。ただし、その意味するところは単に(武蔵相模上総下総の)内海、または裏海にすぎなかったようである。
その後の幕末や明治初期の記録文献を見ても依然としてこれらの語が用いられていて「江戸湾」の用例は知られていないが、やがて「東京湾」の語が定着し、区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多いとされる。
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江戸湾(えどわん)は、近世(およそ江戸後期)の東京湾を指すとされる造語。
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'''江戸湾'''(えどわん)は、[[近世]](およそ[[江戸時代|江戸]]後期)の[[東京湾]]を指すとされる[[造語]]。
== 解説 ==
[[明治]]時代以前にそういう呼び名があったわけではないことに注意する必要がある<ref name="to">児玉幸多 『東京都の地名(日本歴史地名大系 13)』 平凡社、2002年、ISBN 4-582-49013-1、43頁。</ref>。日本語での「江戸湾」という語の初出は不明であるが、[[司馬遼太郎]]の[[小説]]『[[竜馬がゆく]]』に登場し<ref>司馬遼太郎 『竜馬がゆく 1』 文芸春秋〈文春文庫〉、1998年、 ISBN 978-4-16-710567-9、114頁。</ref>、この小説や[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|テレビドラマ]]などで広まった。
[[ヤマトタケル|日本武尊]]の東征において「[[浦賀水道|馳水海]]」、あるいは[[景行天皇]]東国巡狩では「[[淡水門]]」と呼んだ例がある。だが、これらの名は東京湾の入り口の[[水道 (地理)|水道]]、もしくは[[三浦半島]]から見て「馳水海」、[[房総半島]]から見て「淡水門」呼んだ水門(みなと)を指したものである。以降の対岸交通では[[東海道]]の古道として中世文書に記されている<ref name="wa">菊池利夫 『東京湾史』 大日本図書印刷、1974年、13-14頁。</ref>。
地名としての[[江戸]]の成立は[[平安時代]]後期まで遡ると考えられるが、湾状の地形自体は意識されず、その名の由来の通り「江の入り口」との認識にとどまっている。[[江戸湊]]は、北の[[浅草湊]]、南の[[品川湊]]とならぶ[[港]]や[[河岸]]のことであった。また[[江戸前]]は単純に[[江戸城]]の前の意であり、[[芝 (東京都港区)|芝]]浜(現・[[港区 (東京都)|港区]])や[[洲崎 (東京都)|須崎]](現・[[江東区]])、[[佃 (東京都中央区)|佃]]沖などと並び、ほぼ[[漁場]]を示す語であった<ref name="to" />。江戸初期の[[三浦浄心]]『[[見聞集|慶長見聞録]]』には「相模、安房、上総、下総、武蔵五カ国の中に大いなる'''入海'''あり」「今は鯨'''江戸浦'''まで来てうしおを空へ吹き上るを見れば」などの記述があるが<ref name="fujii">藤井克彦『江戸前の素顔 遊んだ・食べた・釣りをした』第8章 「江戸前」という言葉を検証する。</ref>、主に陸上の地名を表した三大国絵図(『[[正保国絵図]]』、『元禄国絵図』、『天保国絵図』)をはじめとする[[江戸幕府の地図事業|国絵図]]には東京湾に該当する地名はない<ref name="wa" />。
江戸時代は[[鎖国]]と、主要航路は[[下田]]からの沿岸航路と[[利根川]]経由の河運だったため簡易的な「海瀬舟行図」以外には[[海図]]はほとんど用いられることがなかった。しかし、欧米各国の船が[[開国]]を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためとして、勝手に沿岸を測量し海図を作成し始める国も出た。ベネチアに残る[[1690年]]の日本図には、自国語で「'''江戸湾'''」の表記が見られる<ref name="fujii" />。このような状況は海防や海上交通の安全から問題視され、対策として沿岸の測量を実施し、1821年(文政4年)[[伊能忠敬]]による『[[大日本沿海輿地全図]]』(伊能図)が完成した。この図にも東京湾に該当する記載はないが<ref name="wa" />、この頃より湾状の地形が意識されてようやく'''江戸前海'''や'''江戸内海'''の語が現れる<ref name="to" />。ただし、その意味するところは単に([[武蔵国|武蔵]][[相模国|相模]][[上総国|上総]][[下総国|下総]]の)内海、または裏海にすぎなかったようである<ref name="wa" />。
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== 出典 ==
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聖徳太子
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聖徳太子(しょうとくたいし、旧字体: 聖󠄁德太子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また近年は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない。
叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。
本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている。
『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない。
また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。
「上宮」の語は、古くは『宋書』や『南斉書』に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている。また、南朝における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から百済を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する。
「厩戸」の語は、厩戸皇子やその一族と関係が深い片岡や馬見丘の地に、馬産に関わった渡来人、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂といった馬産に関する地名があったことなどが関連するとする説がある。
「豊聡耳」の語は、「天寿国繡帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあることから、飛鳥時代には「とよとみみ」と読まれていたことがわかる(厩戸皇子の存命中にそのように呼ばれたかは不明)。また「耳(みみ)」は、神八井耳命や布帝耳神のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世(奈良時代以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる。
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。
713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
またこれらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。(丁未の変)
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇20年(612年)、百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年(613年))を著した。これらを「三経義疏」と総称する。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した(『日本書紀』では、同29年2月5日(621年))。享年49。『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、このとき厩戸皇子が田村皇子に熊凝寺を譲っており、これは嫡流の交替を象徴するものであった。
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている『古事記』『日本書紀』(記紀)の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。
「厩の前で生まれた」「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。
『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
近年では、当時の日本は渡来人も行き来しており日本国内での言語はまだ一つに統一されておらず、聖徳太子が様々な言語や方言を聞き取ることができた人物だった、という意味ではないのかとする説が浮かび上がってきた。
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に未来記(聖徳太子による予言)の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。
中世から近世にかけて未来記は多数偽作され、有名なものでは寛弘4年(1007年)の『荒陵寺御手印縁起』、慶安元年(1648年)の『聖徳太子日本国未来記』、延宝7年(1679年)の『先代旧事本紀大成経』の69巻目『未然本記』などがある。
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(七代記)』『上宮皇太子菩薩伝』『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。
『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。
隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている。
敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。聖徳太子に仮託した偽書も多く、『十七条憲法』や『三経義疏』のように研究者間でも意見が分かれるものが存在する。
聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既に見えており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもある。
その他、室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。
親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略)」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠われ、「和国の教主聖徳皇」と太子を日本に生まれて正法を興した主である詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、六角堂に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる。
以降、親鸞を開祖とする浄土真宗では聖徳太子への尊崇が高まった。また、昭和時代に十七条憲法に疑問を呈した津田左右吉を告訴した原理日本社は、親鸞を尊崇する超国家主義団体であった。
聖徳太子は古代から評価されていた人物であるが、其の内容は時代によって大いに異なる。浄土信仰が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇された。また、戦国時代には物部守屋を破った「軍神」としても信仰された。江戸時代の儒学者や国学者には仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判された。明治時代になると憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として評価された。第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」「承詔必謹」の部分が強調され、聖徳太子に関連する小冊子を文部省が配布することもあった。戦後になると「和」は平和と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになった。また亀井勝一郎や家永三郎のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れた。こうした状況を新川登亀男や井上章一などは「聖徳太子観は時代と自らを映す鏡」であると評している。
関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」。
田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」。
内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している。
聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。
近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』がある。
また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者狩谷棭斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した。第二次世界大戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。
高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。
1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)が刊行された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している。
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」
大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる。
また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている。
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている。
遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している。
ほか、和田萃や、曽根正人らの批判がある。
平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。
倉本一宏は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。また石井公成は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている。
聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法]、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳(天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文、法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。
大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする。
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている。
天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。
道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年)。
大山は、道後湯岡碑銘文における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している。
また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている。
慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。
但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。
また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している。
『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある。2013年(平成25年)3月27日付『朝日新聞』によれば、清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた(本項「#虚構説」も参照)。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)
なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。
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"text": "聖徳太子(しょうとくたいし、旧字体: 聖󠄁德太子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。",
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"text": "「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また近年は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない。",
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"text": "叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。",
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"text": "本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている。",
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"text": "『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない。",
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"text": "また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。",
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"text": "「厩戸」の語は、厩戸皇子やその一族と関係が深い片岡や馬見丘の地に、馬産に関わった渡来人、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂といった馬産に関する地名があったことなどが関連するとする説がある。",
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"text": "「豊聡耳」の語は、「天寿国繡帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあることから、飛鳥時代には「とよとみみ」と読まれていたことがわかる(厩戸皇子の存命中にそのように呼ばれたかは不明)。また「耳(みみ)」は、神八井耳命や布帝耳神のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世(奈良時代以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる。",
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"text": "『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。",
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"text": "713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。",
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"text": "敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。(丁未の変)",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。",
"title": "略歴"
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{
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"text": "同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。",
"title": "略歴"
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{
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"text": "推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。",
"title": "略歴"
},
{
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"text": "推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "推古天皇20年(612年)、百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年(613年))を著した。これらを「三経義疏」と総称する。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した(『日本書紀』では、同29年2月5日(621年))。享年49。『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、このとき厩戸皇子が田村皇子に熊凝寺を譲っており、これは嫡流の交替を象徴するものであった。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。",
"title": "そのほかの伝説"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている『古事記』『日本書紀』(記紀)の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「厩の前で生まれた」「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "近年では、当時の日本は渡来人も行き来しており日本国内での言語はまだ一つに統一されておらず、聖徳太子が様々な言語や方言を聞き取ることができた人物だった、という意味ではないのかとする説が浮かび上がってきた。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に未来記(聖徳太子による予言)の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "中世から近世にかけて未来記は多数偽作され、有名なものでは寛弘4年(1007年)の『荒陵寺御手印縁起』、慶安元年(1648年)の『聖徳太子日本国未来記』、延宝7年(1679年)の『先代旧事本紀大成経』の69巻目『未然本記』などがある。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(七代記)』『上宮皇太子菩薩伝』『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "『日本書紀』によると次のようなものである。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
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"text": "翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。",
"title": "そのほかの伝説"
},
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"text": "『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
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"text": "",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
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"text": "また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
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"tag": "p",
"text": "隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。",
"title": "そのほかの伝説"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている。",
"title": "ゆかりの寺院"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。",
"title": "ゆかりの神社"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。",
"title": "墓"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。",
"title": "墓"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。聖徳太子に仮託した偽書も多く、『十七条憲法』や『三経義疏』のように研究者間でも意見が分かれるものが存在する。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既に見えており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。",
"title": "太子信仰"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもある。",
"title": "太子信仰"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "その他、室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。",
"title": "太子信仰"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。",
"title": "太子信仰"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略)」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠われ、「和国の教主聖徳皇」と太子を日本に生まれて正法を興した主である詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、六角堂に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる。",
"title": "太子信仰"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "以降、親鸞を開祖とする浄土真宗では聖徳太子への尊崇が高まった。また、昭和時代に十七条憲法に疑問を呈した津田左右吉を告訴した原理日本社は、親鸞を尊崇する超国家主義団体であった。",
"title": "太子信仰"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "聖徳太子は古代から評価されていた人物であるが、其の内容は時代によって大いに異なる。浄土信仰が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇された。また、戦国時代には物部守屋を破った「軍神」としても信仰された。江戸時代の儒学者や国学者には仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判された。明治時代になると憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として評価された。第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」「承詔必謹」の部分が強調され、聖徳太子に関連する小冊子を文部省が配布することもあった。戦後になると「和」は平和と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになった。また亀井勝一郎や家永三郎のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れた。こうした状況を新川登亀男や井上章一などは「聖徳太子観は時代と自らを映す鏡」であると評している。",
"title": "後世の評価"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している。",
"title": "後世の評価"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。",
"title": "紙幣の肖像など"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』がある。",
"title": "虚構説とその否定"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者狩谷棭斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した。第二次世界大戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。",
"title": "虚構説とその否定"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。",
"title": "虚構説とその否定"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)が刊行された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。",
"title": "虚構説とその否定"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している。",
"title": "虚構説とその否定"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる。",
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"text": "また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている。",
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"text": "仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている。",
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"text": "遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している。",
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"text": "ほか、和田萃や、曽根正人らの批判がある。",
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"text": "平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。",
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"text": "倉本一宏は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している。",
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"text": "聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。また石井公成は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている。",
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"text": "聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法]、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳(天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文、法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。",
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"text": "大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする。",
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"text": "『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている。",
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"text": "天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。",
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"text": "道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年)。",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "大山は、道後湯岡碑銘文における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している。",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている。",
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"text": "慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。",
"title": "虚構説とその否定"
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{
"paragraph_id": 92,
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"text": "また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している。",
"title": "虚構説とその否定"
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"text": "『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。",
"title": "虚構説とその否定"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある。2013年(平成25年)3月27日付『朝日新聞』によれば、清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた(本項「#虚構説」も参照)。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)",
"title": "教育における扱い"
},
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"text": "なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。",
"title": "教育における扱い"
}
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聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また近年は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない。 叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。
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{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]など}}
{{基礎情報 皇親
| 名 = {{big|{{ruby-ja|聖徳太子|しょうとくたいし}}}}<br/>(豊聡耳皇子)
| 画像 = Umayado Miko.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 聖徳太子像([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』より)
| 皇継称号 = 皇太子
| 皇継在位 = [[推古天皇]]元年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]([[593年]][[5月15日]])- [[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[622年]][[4月8日]])
| 時代 = [[飛鳥時代]]
| 生誕 =[[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[574年]][[2月7日]])
| 死没 = [[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[622年]][[4月8日]])<ref>{{Kotobank|聖徳太子}}</ref>
| 改名 =
| 別名 = 上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、厩戸豊聡耳皇子、法主王、豊聡耳聖、徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮厩戸、厩戸皇太子、[[多利思比孤]]
| 諡号 = 聖徳太子
| 尊号 =
| 戒名 =
| 墓所 = 磯長墓([[叡福寺北古墳]])
| 官位 =
| 父母 = 父:[[用明天皇]]、母:[[穴穂部間人皇女]]
| 兄弟 = [[田目皇子]]、'''豊聡耳皇子'''、[[当麻皇子]]、[[来目皇子]]、[[殖栗皇子]]、[[茨田皇子]]、[[酢香手姫皇女]]<br/>(同母異父妹)[[佐富女王]]
| 妻 =[[菟道貝蛸皇女]]、[[刀自古郎女]]、[[橘大郎女]]、[[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]
| 子 =[[山背大兄王]]、[[財王]]、[[日置王]]、[[白髪部王]]、[[長谷王]]、[[三枝王]]、[[伊止志古王]]、[[麻呂古王]]、[[片岡女王]]、[[手島女王]]、[[舂米女王]]、[[久波太女王]]、[[波止利女王]]、[[馬屋古女王]]
| 特記事項 =
}}
'''聖徳太子'''(しょうとくたいし、{{旧字体|'''聖󠄁德太子'''}})は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]・[[政治家]]。[[用明天皇]]の第二[[皇子]]で、母は[[欽明天皇]]の皇女・[[穴穂部間人皇女]]。
「聖徳太子」は後世の[[尊称]]ないし[[諡号]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOIH266HV0W0A121C2000000/|title=聖徳太子1400年忌「和」の願い今に|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2021-01-02|accessdate=2021-02-07}}</ref>。また近年は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%A9%E6%88%B8%E7%9A%87%E5%AD%90-441411 厩戸皇子 ウマヤドノオウジ]</ref>)、厩戸王(うまやとおう<ref>[[文部科学省]][[教科書検定|検定教科書]]『詳説 日本史』[[山川出版社]]</ref>)など本名は'''厩戸'''と言われることも多いが、あくまでも[[第二次世界大戦]]後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない{{sfn|石井公成|2018|p=2}}。
叔母の[[推古天皇]]の下、[[蘇我馬子]]と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで[[遣隋使]]を派遣するなど[[中国大陸]]を当時統治していた[[隋]]から進んだ文化や制度をとりいれて、[[冠位十二階]]や[[十七条憲法]]を定めるなど[[天皇]]を中心とした[[中央集権]]国家体制の確立を図った。このほか[[仏教]]を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が[[日本の仏教]]で尊崇の対象となった([[#太子信仰|太子信仰]])<ref>榊原史子『[https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101267 聖徳太子信仰とは何か]』[[勉誠出版]]、2021年</ref>。
== 名称 ==
=== 本名 ===
本名については同時代史料には残っておらず、[[和銅]]5年([[712年]])成立の『[[古事記]]』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また[[養老]]4年([[720年]])成立の『[[日本書紀]]』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている{{sfn|宮本要太郎|2000|p=61}}ほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳{{efn|「天寿国繡帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあるため、『[[新古典文学大成]]』では「豊聡耳」の誤記であるとしている。石井公成は命名の根拠という説がある『[[法華経]]』に「其耳聡利」という文句があり、「耳聡」の用法も有り得るのではないかとしている{{ref|石井公成|2012|p=114}}}}」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる{{sfn|石井公成|2012|p=114}}。「聖徳太子」の語は『[[懐風藻]]』の序に見えるのが初出であり{{sfn|石井公成|2018|p=2}}、「厩戸王」という名は歴史学者の[[小倉豊文]]が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく{{sfn|石井公成|2012|p=111}}、[[田村圓澄]]が1964年発刊の[[中公新書]]『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった{{sfn|石井公成|2018|p=2}}。『[[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]』{{efn|この文書は[[醍醐寺]]が所蔵する書物で、聖徳太子本人が書いたとされる史料ではあるが、奥付きには[[天平]]19年(747年)の成立とある。このため、実際の成立年代には論争があり、[[孝徳天皇]]期から平安時代までの幅広い期間で諸説が検討されている。<ref> {{Cite journal|和書|title=元興寺伽藍縁起并流記資財帳の研究|author=吉田一彦|authorlink=吉田一彦 (歴史学者)|journal=名古屋市立大学人文社会学部研究紀要|volume=15|publisher=筑波大学哲学・思想学系|year=2003|pages=346-307}}</ref>}}が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、[[前之園亮一]]は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている{{sfn|前之園亮一|2016|p=1}}。
『日本書紀』推古天皇元年四月条には[[厩舎|厩戸]]前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている{{sfn|前之園亮一|2016|p=1}}。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。[[古市晃]]は[[舒明天皇]]期の王宮であった[[厩坂宮]]が由来であるとし、[[渡里恒信]]は養育を行った[[額田部氏|額田部湯坐連]]が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている{{sfn|前之園亮一|2016|p=2}}。また[[井上薫 (歴史学者)|井上薫]]は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない{{sfn|石井公成|2012|p=112-113}}。
また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた[[斑鳩宮]]を指して「上宮」と呼称しているほか、子の[[山背大兄王]]を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している{{sfn|石井公成|2012|p=112-113}}。[[顕真]]が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、[[恵慈]]が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある{{sfn|宮本要太郎|2000|p=61}}。
「上宮」の語は、古くは中国の歴史書『[[宋書]]』{{efn|『宋書』巻十七志第七禮四「皇太子入住上宮」}}や『[[南斉書]]』{{efn|『南斉書』卷二十一列傳第二「太子與竟陵王子良俱好釋氏、立六疾館以養窮民。風韻甚和而性頗奢麗、宮內殿堂、皆雕飾精綺、過於上宮。」}}に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている<ref>岡部毅史「[梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察-- https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/118/1/118_KJ00005181508/_pdf/-char/ja]」(『史学雑誌』118編1号、2009年1月)</ref>。また、[[南北朝時代 (中国)#南朝|南朝]]における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から[[百済]]を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する<ref>石井公成「「上宮」という名の由来: 岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察-- [https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/2b4f0bf965b5688f98bd823b38a31225]」聖徳太子研究の最前線(2023年12月6日閲覧)</ref>。
「厩戸」の語は、厩戸皇子やその一族と関係が深い片岡や馬見丘の地に、馬産に関わった渡来人、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂といった馬産に関する地名があったことなどが関連するとする説がある<ref>廣岡孝信「推古朝の『片岡』・馬見丘陵と王権の基盤--奈良県馬見丘陵の飛鳥時代--」菅谷文則編『王権と武器と信仰』(同成社、2008年)</ref>。
「豊聡耳」の語は、「[[天寿国繡帳]]」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあることから、[[飛鳥時代]]には「とよとみみ」と読まれていたことがわかる(厩戸皇子の存命中にそのように呼ばれたかは不明)。また「耳(みみ)」は、[[神八井耳命]]や[[布帝耳神]]のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世([[奈良時代]]以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる<ref>古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」(『仏教史研究』1号、1949年)</ref>。
=== 尊称 ===
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている{{sfn|宮本要太郎|2000|p=61}}。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の[[天平勝宝]]3年([[751年]])に編纂された『懐風藻』が初出と言われる{{Efn|懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」}}。そして、[[平安時代]]に成立した史書である『[[日本三代実録]]<ref>巻二[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])五月十九日甲戌条、巻八貞観6年([[864年]])正月十四日辛丑条、巻卅八[[元慶]]4年([[880年]])十月廿日庚子条など。</ref>』『[[大鏡]]』『[[東大寺要録]]』『[[水鏡]]』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。
[[713年]]-[[717年]]頃の成立とされる『[[播磨国風土記]]』[[印南郡]]大國里条にある[[生石神社]]の「[[石の宝殿]]」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 {{Smaller|厩戸}} 弓削大連 {{Smaller|守屋}} 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二[[丈]](つえ)、廣さ一丈五尺(さか、[[尺]]または[[咫]])、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は[[物部守屋]]、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子<ref>『日本古典文学大系 風土記』([[岩波書店]]、1977年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、間壁忠彦・ 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』([[神戸新聞]]総合出版センター、 1996年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>と解釈する説もある。また、[[大宝令]]の注釈書『古記』(天平10年、[[738年]]頃)には上宮太子の[[諡号]]を「聖徳王」としたとある。
またこれらを複合したものでは、[[慶雲]]3年([[706年]])頃に作られた「[[法起寺]]塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘]]」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく){{sfn|石井公成|2012|p=114}}」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。
== 略歴 ==
[[画像:Asuka dera Prince Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子立像([[飛鳥寺]])]]
[[敏達天皇]]3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は[[蘇我稲目]]の娘[[蘇我堅塩媛|堅塩媛]]を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・[[蘇我小姉君|小姉君]]であり、つまり厩戸皇子は[[蘇我氏]]と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも[[欽明天皇]]を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の[[兄弟姉妹婚|兄妹婚]]によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年([[585年]])、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した([[用明天皇]])。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の[[蘇我馬子]]と排仏派の[[物部守屋]]とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年([[587年]])、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の[[詔]]を得て、守屋が推す[[穴穂部皇子]]を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は[[河内国]][[渋川郡]]の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白[[膠]]の木を切って[[四天王]]の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば[[仏塔]]をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は[[迹見赤檮]]に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。([[丁未の変]])
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた([[崇峻天皇]])。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年([[592年]])、馬子は[[東漢駒]]に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年([[593年]])、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた([[推古天皇]])。皇室史上初の[[女帝]]である。厩戸皇子は[[皇太子]]{{Efn|[[荒木敏夫]]は皇太子制を[[飛鳥浄御原令]]での成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』吉川弘文館、1985年{{要ページ番号|date=2017年2月}})が、[[河内祥輔]]は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急な死去により竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が死去するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする{{refnest|『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)pp.49-54}}。}}となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、[[摂津国]][[大阪|難波]]に[[四天王寺]]を建立した。四天王寺に[[施薬院]]、療病院、[[悲田院]]、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年([[594年]])、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年([[595年]])、[[高句麗]]の僧[[慧慈]]が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年([[597年]])、[[吉士磐金]]を[[新羅]]へ派遣し、翌年に[[新羅]]が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年([[600年]])に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる{{Efn|開皇20年(600年)『[[隋書]]』に、{{補助漢字フォント|俀}}國の「{{補助漢字フォント|俀}}王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩{{JIS2004フォント|雞}}彌」から初めて[[遣隋使]]がきた記事がある。この使者は「{{補助漢字フォント|俀}}王は天を兄とし、日を弟とする」即ち天・王・日は三兄弟であると述べ、[[楊堅|高祖]]は「甚だ義理なし」と応じたという。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「{{補助漢字フォント|俀}}」と表記したとする説が有力である。}}。
推古天皇9年([[601年]])、[[斑鳩宮]]を造営した。
推古天皇10年([[602年]])、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・[[来目皇子]]を将軍に[[筑紫]]に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・[[当麻皇子]]が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族([[秦氏]]や[[膳氏]]など)が[[九州]]各地に[[部民]]を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の[[大宰府]]の元になった[[筑紫大宰]]も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある<ref>酒井芳司「九州地方の軍事と交通」(館野和己・出田和久編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』吉川弘文館、2016年)ISBN 978-4-642-01728-2 pp.236-238</ref>。書生を選び、来日した[[観勒]]に[[暦]]を学ばせる。
推古天皇11年([[603年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、いわゆる[[冠位十二階]]を定めた。[[氏姓制]]ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年([[604年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる[[十七条憲法]]を制定した。[[豪族]]たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。{{Efn|日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。『日本書紀』は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。}}
推古天皇13年([[605年]])、諸王諸臣に、[[褶]]の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
推古天皇15年([[607年]])、[[屯倉]]を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、[[山城国|山背国]]栗隈に大溝を掘る。[[小野妹子]]、[[鞍作福利]]を使者とし隋に国書{{Efn|日本書紀は隋を大唐国としている。また、『日本書紀』には国書の内容(「日出る処…」)の記述はない。}}を送った。翌年、返礼の使者である[[裴世清]]が訪れた{{Efn|『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の[[天子]]、書を日没する処の[[天子]]に致す(「{{lang|zh|聞海西菩薩天子重興佛法}}」「{{lang|zh|日出處天子致書日沒處天子無恙云云}}」「{{lang|zh|卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國}}」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の[[煬帝]]([[開皇]]11年(591年)に菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「{{lang|zh|帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞}}」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『[[摩訶般若波羅蜜多経]]』の注釈書『[[大智度論]]』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。また、「天子」という表現も天子とは[[天帝]]の子である皇帝を意味するとしてきた隋側には許容できないものであった。この国書は{{補助漢字フォント|俀}}國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の{{補助漢字フォント|俀}}國と結ぶ必要があった。}}。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」){{Efn|皇帝が「倭皇」の文字を用いるとは考え難く、実際は「倭王」であったと見られる。}}とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す){{Efn|『隋書』にこの記述はない。}}とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」{{Efn|どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。}}としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、[[高向玄理]]、[[南淵請安]]、[[旻]]ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇20年([[612年]])、[[百済]]人の味摩之が[[伎楽]]を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
推古天皇21年([[613年]])、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。[[難波津|難波]]から飛鳥までの大道を築く。日本最古の[[官道]]であり<ref>{{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |page=86|isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}</ref>、現在の[[竹内街道]]とほぼ重なる。
推古天皇22年([[614年]])、[[犬上御田鍬]]らを隋へ派遣する(最後の[[遣隋使]]となる)。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年([[615年]])までに『[[法華経|法華]]義疏』(伝:[[推古天皇]]23年([[615年]]))、『[[勝鬘経]]義疏』(伝:推古天皇19年([[611年]]))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年([[613年]]))を著した。これらを「[[三経義疏]]」と総称する。
推古天皇28年([[620年]])、厩戸皇子は馬子と議して『[[国記]]』『[[天皇記]]』『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』を編纂した。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・[[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した(『[[日本書紀]]』では、同29年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[621年]]))。[[享年]]49。『[[大安寺伽藍縁起幷流記資材帳]]』によれば、このとき厩戸皇子が[[舒明天皇|田村皇子]]に[[熊凝寺]]を譲っており、これは嫡流の交替を象徴するものであった<ref>倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)</ref>。
== そのほかの伝説 ==
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2022年11月|独自研究=2022年11月}}
[[File:Standing Namubutsu Taishi Nara National Museum.jpg|thumb|[[鎌倉時代]]に製作された南無仏太子立像([[奈良国立博物館]]所蔵)。聖徳太子が2歳時に東の方角に向かい、合掌して「南無仏」と唱えたとする伝説を表した彫像で、鎌倉時代末期から作例が増加した<ref>[https://www.narahaku.go.jp/collection/1430-0.html 南無仏太子立像] - 奈良国立博物館、2020年12月4日閲覧。</ref>。]]
[[画像:Araiyakushi Prince Shotoku right.jpg|240px|thumb|16歳の聖徳太子像([[新井薬師寺]])]]
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている『古事記』『日本書紀』([[記紀]])の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。[[平安時代]]に著された聖徳太子の伝記『[[聖徳太子伝暦]]』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている{{Efn|田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を[[藤原兼輔]]とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(『日本大百科全書』(小学館{{要ページ番号|date=2017年2月}}) )。}}。
=== 出生について ===
「厩の前で生まれた」「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」([[受胎告知]])などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた[[景教]]([[キリスト教]]の[[ネストリウス派]])の[[福音書]]の内容などが日本に伝わり、その中から[[イエス・キリスト]]誕生の逸話が[[貴種]]出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者([[久米邦武]]が代表例)もいる{{Efn|久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。[[佐伯好朗]]は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い[[秦氏]]と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と[[古代イスラエル]]民族と直接に関連するという[[日ユ同祖論]]を唱える極端な仮説([[手島郁郎]]『[[太秦]]の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年{{要ページ番号|date=2017年2月}})が代表例)も存在する。}}。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の[[干支]]は[[甲午]](きのえうま)でいわゆる[[午]]年であるし、また古代中国にも[[観音]]や[[神仙]]により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の[[釈迦]]出生の際の逸話にも似ている)。出生地は[[橘寺]]またはその付近とされる。橘寺は[[田道間守|タヂマモリ]]が[[垂仁天皇]]の御世に[[常世の国]]から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。
=== 豊聡耳 ===
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった{{Efn|[[妙法蓮華経]]法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)}}。
『[[上宮聖徳法王帝説]]』『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。
『日本書紀』と『[[日本現報善悪霊異記]]』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
近年では、当時の日本は渡来人も行き来しており日本国内での言語はまだ一つに統一されておらず、聖徳太子が様々な言語や[[方言]]を聞き取ることができた人物だった、という意味ではないのかとする説が浮かび上がってきた{{要出典|date=2023年8月}}。
=== 兼知未然===
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に[[未来記]](聖徳太子による予言)の存在が噂される一因となった。『[[平家物語]]』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『[[太平記]]』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には[[楠木正成]]が未来記を実見し、[[後醍醐天皇]]の復帰とその[[建武の新政|親政]]を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。
中世から近世にかけて未来記は多数偽作され、有名なものでは寛弘4年(1007年)の『荒陵寺御手印縁起』、慶安元年(1648年)の『聖徳太子日本国未来記』、延宝7年(1679年)の『[[先代旧事本紀大成経]]』の69巻目『[[未然本記]]』などがある<ref>[[石井公成]] [https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/ee946be458846da692fbda261f5df25e 中世の聖徳太子のイメージは「未来記」を残した予言者:小峯和明『予言文学の語る中世』 - 聖徳太子研究の最前線]</ref>。
=== 南嶽慧思の生まれ変わり ===
「[[南嶽慧思後身説]](慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は[[天台宗]]開祖の[[智顗|天台智顗]]の師の[[慧思|南嶽慧思]](515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『[[四天王寺障子伝]]([[七代記]])』『[[上宮皇太子菩薩伝]]』『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており[[鑑真]]渡日の動機となったとする説もある<ref>王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』(大修館書店、1994年){{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
=== 飛翔伝説 ===
『聖徳太子伝暦』や『[[扶桑略記]]』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い[[甲斐の黒駒]]を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて[[東国]]へ赴き、[[富士山]]を越えて[[信濃国]]まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
=== 片岡飢人(者)伝説 ===
{{main|片岡山伝説}}
『日本書紀』によると次のようなものである。
[[推古天皇]]21年[[12月 (旧暦)|12月]][[庚午]][[朔]](613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
{{Quotation|「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」|}}
{{Quotation|しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ|}}
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『[[万葉集]]』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
{{Quotation|上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首<br/>(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田諡推古)<br/>「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人𪫧怜」|}}
{{Efn|万葉集(『萬葉集』巻三 415)では片岡山ではなく[[龍田山]]とある。}}
{{Quotation|家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ|}}
また、『[[拾遺和歌集]]』には聖徳太子作として次の歌がある{{Efn|拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『[[源氏物語]]』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ[[源典侍]]にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください。[[与謝野晶子]]訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」}}。
{{Quotation|しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし|}}
後世、この飢人は[[達磨]]大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に[[達磨寺 (北葛城郡王寺町)|達磨寺]]が建立されている{{Efn|『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『[[荘子 (書物)|荘子]]』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は[[仙人]]の[[尸解仙]](しかいせん)にも類似し、『[[新約聖書]]』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と[[道教]]に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している{{要出典|date=2017年2月}}。}}。
=== 箸の奨励について===
隋へ派遣した[[小野妹子]]からの報告をきっかけに、宮中での[[箸]]の使用を奨励したという<ref>
一色八郎『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』(御茶の水書房、1998年)p.54</ref>。
== ゆかりの寺院 ==
[[File:Horyu-ji36s3200.jpg|240px|thumb|夢殿([[法隆寺]])]]
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる[[寺院]]が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、[[境野黄洋]]は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている<ref>[[境野黄洋]]『聖徳太子伝』(丙午出版社、1917年)p.128</ref>。
; 四天王寺
: [[大阪市]][[天王寺区]]。『日本書紀』によれば、[[蘇我氏]]と[[物部氏]]の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、[[四天王]]を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、[[摂津国]][[大阪|難波]]に[[四天王寺]]を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、[[施薬院]]、療病院、[[悲田院]]の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる[[七星剣]]と[[丙子椒林剣]]が現在、四天王寺に保管されている。[[本尊]]は[[救世観音]]で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の[[如意輪観音]]とも同一視される。
; 法隆寺(斑鳩寺)
: [[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]]。[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|金堂薬師如来像光背銘]]によれば、[[法隆寺]]は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに死去したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『日本書紀』には[[天智天皇]]9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、[[若草伽藍]]の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ[[斑鳩宮]]の旧地に建てられている。
; [[斑鳩寺 (兵庫県太子町)|斑鳩寺]](播磨)
: [[兵庫県]][[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]]。聖徳太子は推古天皇から賜った[[播磨国]][[揖保郡]]の地を「鵤荘」と名付け、[[伽藍]]を建立し、法隆寺に寄進をした。これが[[斑鳩寺 (兵庫県太子町)|斑鳩寺]]の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に[[天台宗]]へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「[[聖徳太子の地球儀]]」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の[[叡福寺]]を結んだライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置しているとの伝来がある。
; 太子建立七大寺
: 四天王寺、法隆寺、[[中宮寺]](中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺([[広隆寺]])、池後寺([[法起寺]])、[[葛木寺]](葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺[[資財帳|伽藍縁起并流記資財帳]]』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
; 河内三太子
: 聖徳太子ゆかりの寺院とされる[[叡福寺]]、[[野中寺]]、[[大聖勝軍寺]]はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「[[河内国|河内]]三太子」と総称されている{{Efn|叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅([[南北朝時代 (日本)|南北朝]]-[[室町時代]]の制作)は2008年に修復が完成した。}}。
== ゆかりの神社==
敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は[[神道]]の神をも厚く祀った。四天王寺[[境内]]には[[鳥居]]があるほか、[[伊勢神宮|伊勢]]遥拝所・[[熊野信仰|熊野権現]]遥拝所、守屋祠がある。
* [[四天王寺七宮]] - 聖徳太子創建。[[小儀神社]](四天王寺東門前)、[[土塔神社]](同南門前)、[[河堀稲生神社]](大阪市[[天王寺区]][[大道 (大阪市)|大道]])、[[久保神社]](同[[勝山 (大阪市)|勝山]])、[[大江神社]](同[[夕陽丘町]])、[[堀越神社]](同[[茶臼山町]])、[[上野王子 (大阪市)|上之宮神社]](同[[上之宮町]])
* [[玉造稲荷神社]](大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]][[玉造 (大阪市)|玉造]]) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
* [[龍田神社]](奈良県生駒郡[[斑鳩町]]龍田) - 聖徳太子が法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
*[[龍田大社]](奈良県生駒郡三郷町) − 聖徳太子が法隆寺建立の際、龍田大社に祈願し、落慶の際に法隆寺の守り神として龍田大社の御分霊をお祀りした。
* [[綱敷天満神社 (神戸市)|御影の綱敷天満宮]](兵庫県[[神戸市]][[東灘区]][[御影 (神戸市)|御影]]) - 四天王寺創建の際、[[六甲山]]の[[御影石]]を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御[[神体]]と、聖徳太子の所持していた[[笏]]と駒角が現存する。
* 竜王宮([[滋賀県]][[竜王町]]鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら[[観音]]像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。雨の神・水の神ともいわれる[[八大竜王]]が龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
* 飽波神社(生駒郡[[安堵町]]) - 聖徳太子が[[牛頭天王]]を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主[[祭神]]は[[素戔嗚尊]]。
* 森之宮神社([[鵲森宮]]〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区[[森之宮]]) - [[用明天皇]]と[[間人皇后]]を祀る。聖徳太子創建。
* 福王神社([[三重県]][[三重郡]][[菰野町]]田口) - 聖徳太子の命により[[毘沙門天]]が安置され、国の鎮護と[[伊勢神宮]]の守りとしたと伝わる。
* 御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県[[東近江市]]上平木町) - 主祭神は[[市杵嶋姫命]]、[[弁財天女]]、聖徳太子、[[八大龍王]]。聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾したとき、用水の[[溜池]]として清水(きよみず)池、白水(はくすい)池、泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
* 白龍大神天宮塚(兵庫県[[宝塚市]]) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]と関わる。
* 大歳神社([[和歌山県]][[紀の川市]]) - 朝敵退治の誓願のため軍を率い、この地に着陣して年越しをする。その跡地を大歳神社と号し祀るようになる。
== 墓 ==
[[File:Eifukuji Kita Kofun, haisho-1.jpg|220px|thumb|{{center|聖徳太子 [[叡福寺北古墳|磯長墓]]<br />([[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]])}}]]
[[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]の[[叡福寺]]境内にある'''磯長墓'''(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「[[叡福寺北古墳]]」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。[[穴穂部間人皇女]]と[[膳部菩岐々美郎女]]を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした[[横穴式石室]]の復元模型が[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]に存在する。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、[[宮内庁書陵部]]によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている<ref>「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日{{要ページ番号|date=2017年2月}}、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日</ref>{{Efn|『[[徒然草]]』第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」}}。
== 系譜 ==
; 先祖
{{ahnentafel top|聖徳太子の系譜|width=100%}}
{{ahnentafel-compact5
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
|border=1
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
|boxstyle_2=background-color: #fb9;
|boxstyle_3=background-color: #ffc;
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
|1= 1. 聖徳太子
|2= 2. [[用明天皇|第31代 用明天皇]]
|3= 3. [[穴穂部間人皇女]]
|4= 4. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=6)
|5= 5. [[蘇我堅塩媛]]
|6= 6. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=4)
|7= 7. [[蘇我小姉君]]
|8= 8. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=12)
|9= 9. [[手白香皇女]](=13)
|10= 10. [[蘇我稲目]](=14)
|12= 12. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=8)
|13= 13. [[手白香皇女]](=9)
|14= 14. [[蘇我稲目]](=10)
|16= 16.[[彦主人王]](=24)
|17= 17. [[振媛]](=25)
|18= 18. [[仁賢天皇|第24代 仁賢天皇]](=26)
|19= 19. 春日大娘皇女(=27)
|20= 20. [[蘇我高麗]](=28)
|24= 24. [[彦主人王]](=16)
|25= 25. [[振媛]](=17)
|26= 26. [[仁賢天皇|第24代 仁賢天皇]](=18)
|27= 27. 春日大娘皇女(=19)
|28= 28. [[蘇我高麗]](=20)
}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
; 兄弟姉妹
* 母・''穴穂部間人皇女''(欽明天皇の皇女。のち田目皇子の妃)
** '''厩戸皇子(聖徳太子)'''
** [[来目皇子]]
** [[殖栗皇子]]
** [[茨田皇子]]
* 母・[[蘇我石寸名]]([[蘇我稲目]]の娘)
** [[田目皇子]](用明天皇の第一皇子)
*** [[佐富女王]](母は[[穴穂部間人皇女]])
* 母・[[葛城廣子]]([[葛城直磐村]]の娘)
** [[麻呂子皇子]]
** [[酢香手姫皇女]]
; 妻子
* [[菟道貝蛸皇女]]([[敏達天皇]]・[[推古天皇]]の皇女)
* [[橘大郎女]]([[尾張皇子]]の娘。菟道貝蛸皇女の姪)
** [[白髪部王]]
** [[手島女王]]
* [[刀自古郎女]]([[蘇我馬子]]の娘)
** [[山背大兄王]]
** [[財王]]
** [[日置王]]
** [[片岡女王]]
* [[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]([[膳傾子|膳臣傾子]]の娘)
** [[泊瀬王]](妻は佐富女王)
** [[三枝王]]
** [[伊止志古王]]
** [[麻呂古王]]
** [[舂米女王]](山背大兄王の妃)
** [[久波太女王]]
** [[波止利女王]]
** [[馬屋古女王]]
== 著作 ==
[[Image:Lotus Sutra written by Prince Shōtoku.jpg|right|thumb|140px|法華義疏]]
ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。聖徳太子に仮託した[[偽書]]も多く{{Efn|[[1675年]]([[延宝]]3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は[[1679年]]([[延宝]]7年)に現れた偽書『[[先代旧事本紀大成経]]』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。}}、『[[十七条憲法]]』や『[[三経義疏]]』のように研究者間でも意見が分かれるものが存在する。
* 『三経義疏』。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが[[御物]]となっており、現存する書跡では最も古く、[[書道史]]においても重要な筆跡である。
* 『四天王寺[[縁起]]』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世([[平安時代]]中期)の仮託と見られている。
* 『十七条憲法』は、『[[日本書紀]]』(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。『上宮聖徳法王帝説』には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
* 『[[天皇記]]』、『[[国記]]』、『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』は、『[[日本書紀]]』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
* 『[[先代旧事本紀]]』は、序文で聖徳太子と[[蘇我馬子]]が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。その中には全85条からなり、神職、僧侶、儒者、政治家、公務員へ向けた5種類の[[十七条憲法]]が掲載されている。(十七条五憲法)
* 『[[未来記]]』は、聖徳太子による予言の書として度々古文書に登場しているが、聖徳太子が著した証拠は発見されていない。[[鎌倉時代]]から江戸時代にかけて、聖徳太子に仮託し『未来記』を称する偽書群が何度か作成された。
== 太子信仰 ==
{{seealso|太子信仰}}
[[ファイル:Kakogawa Kakurinji16n4592.jpg|thumb|240px|[[太子堂]]([[鶴林寺 (加古川市)|鶴林寺]])]]
聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既に見えており、8世紀には「本朝(日本)の[[釈迦]]」と仰がれ、[[鎌倉時代]]までに『[[聖徳太子伝暦]]』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝([[中世太子伝]])が成立した<ref>『日本大百科全書』(小学館)聖徳太子の項</ref>。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った[[太子堂]]が各地の寺院にある。聖徳太子は[[観音菩薩]]の化身として尊ばれた<ref>宮城顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』p.222</ref>。なお、「聖徳太子は[[観音菩薩]]の生まれ変わりである」とする考えもある。
その他、室町時代の終わり頃から、太子の[[祥月命日]]とされる[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]を「[[太子講]]」の日と定め、大工や木工職人の間で[[講]]が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり[[聖徳太子諸職|諸職]]を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に[[左官]]や[[桶]]職人、[[鍛冶]]職人など様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった<ref>能門伊都子「特定の職業・人に信仰される神々」『大法輪』第72巻1号、[[法藏館]]、[[2005年]](平成17年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする[[宗派]]として[[聖徳宗]](法隆寺が本山)が存在している。
=== 親鸞 ===
[[ファイル:Rokkakudo.jpg|thumb|180px|[[頂法寺|六角堂(頂法寺・本堂)]]]]
[[親鸞]]は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している<ref>名畑應順『親鸞和讃集』p.313</ref>。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略){{Efn|原文:「佛智不思議の誓願を 聖德皇のめぐみにて 正定聚に歸入して 補處の彌勒のごとくなり」}}」と[[阿弥陀如来]]の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと<ref>名畑應順『親鸞和讃集』p.194</ref>詠われ、「和国の教主聖徳皇{{Efn|原文:和國の敎主聖德皇 廣大恩德謝しがたし 一心に歸命したてまつり 奉讚不退ならしめよ}}」と太子を日本に生まれて正法を興した主である{{Efn|和国の教主とは、日本に生まれて正法を興した主。釈尊を教主世尊と崇めるのに準じて、太子を日本の教主と尊称する。(名畑應順親鸞和讃集』p.198)}}詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、[[頂法寺|六角堂]]に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる<ref>宮城顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』pp.188-189</ref>。
以降、親鸞を開祖とする[[浄土真宗]]では聖徳太子への尊崇が高まった。また、[[昭和]]時代に十七条憲法に疑問を呈した[[津田左右吉]]を告訴した[[原理日本社]]は、親鸞を尊崇する[[超国家主義]]団体であった{{sfn|石井公成|2012|p=132}}。
== 後世の評価 ==
聖徳太子は古代から評価されていた人物であるが、其の内容は時代によって大いに異なる。[[浄土信仰]]が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇された{{sfn|石井公成|2012|p=133}}。また、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には物部守屋を破った「軍神」としても信仰された{{sfn|石井公成|2012|p=133}}。江戸時代の[[儒学]]者や[[国学]]者には仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判された{{sfn|石井公成|2012|p=131}}。[[明治時代]]になると憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として評価された{{sfn|石井公成|2012|p=132}}。[[第二次世界大戦]]期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」「承詔必謹」の部分が強調され、聖徳太子に関連する小冊子を[[文部省]]が配布することもあった{{sfn|石井公成|2012|p=131}}。戦後になると「和」は[[平和]]と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになった{{sfn|石井公成|2012|p=132}}。また[[亀井勝一郎]]や[[家永三郎]]のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れた{{sfn|石井公成|2012|p=132}}。こうした状況を[[新川登亀男]]や[[井上章一]]などは「聖徳太子観は時代と自らを映す鏡」であると評している{{sfn|石井公成|2012|p=131}}。
=== 歴史家の評価 ===
[[関晃]]は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、[[十七条憲法]]の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」<ref>『[[世界大百科事典]]』第二版([[平凡社]]){{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
[[田村圓澄]]は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」<ref>『日本大百科全書』小学館{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
[[内藤湖南]]は『[[隋書]]』「{{lang|zh|卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國}}」に記述された{{補助漢字フォント|俀}}王[[多利思比孤|多利思北孤]]による「{{lang|zh|日出處天子致書日沒處天子無恙云云}}」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している{{Efn|「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」(「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房、1976年{{要ページ番号|date=2017年2月}}))}}。
== 紙幣の肖像など ==
[[Image:Taishi 10000JPY.jpg|thumb|280px|聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)]]
[[画像:Shotoku taishi revenue 500Yen 1948.jpg|thumb|right|聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)]]
聖徳太子の肖像画は[[1930年]](昭和5年)、[[紙幣]]([[日本銀行券]])の絵柄として[[百円紙幣]]に初めて登場して以来、[[千円紙幣]]、[[五千円紙幣]]、[[一万円紙幣]]と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる[[1958年]](昭和33年)<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20190410-00121772|title=「安倍政権は天文学的な金額の利権を求めて紙幣の刷新を決めた」Twitterでデマ広がる(篠原修司) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2019-04-10|accessdate=2020-12-01}}</ref>から[[1984年]](昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる[[唐本御影]]から採られている。[[1948年]](昭和23年)発行の500円[[収入印紙]]にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。
== 虚構説とその否定 ==
{{参照方法|date=2011年4月|section=1}}
=== 研究史 ===
[[ファイル:Prince Shotoku with Two Princes by Kano Osanobu 1842.png|180px|thumb|聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『[[唐本御影]]』(8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある)]]
近代における実証的研究には[[久米邦武]]の『上宮太子実録』<ref>『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』吉川弘文館 1988年{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>がある。
また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の[[考証学]]者[[狩谷棭斎]]らに始まり、[[津田左右吉]]は十七条憲法を太子作ではないと主張した<ref>1930年の『日本上代史研究』による。津田左右吉『日本古典の研究』(岩波書店、1972年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。第二次世界大戦後、[[井上光貞]]、[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]や[[関晃]]らは津田説に反論している<ref>井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫、 1974年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館、 1979年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|[[関晃]]は偽作説の根拠はあまり有力とはいえない」とする。『世界大百科事典第二版』平凡社{{要ページ番号|date=2017年2月}}}}。一方、[[森博達]]は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている<ref>森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書、 1999年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
[[高野勉]]の『聖徳太子暗殺論』([[1985年]])は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・[[蘇我善徳|善徳]]が真の聖徳太子であり、後に[[天智天皇|中大兄皇子]]に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が[[蘇我入鹿]]であると主張している。また[[石渡信一郎]]は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』([[1992年]])を出版し、[[谷沢永一]]は『聖徳太子はいなかった』([[2004年]])を著している。近年は歴史学者の[[大山誠一]]らが主張している(後述)。
=== 大山誠一による聖徳太子虚構説 ===
[[1999年]]、[[大山誠一]]『「聖徳太子」の誕生』([[吉川弘文館]])が刊行された<ref name="kokai-koza">[https://web.archive.org/web/20090927144109/http://www.aoyama-matsudo.com/shohtoku-taishi-ishda.htm 公開講演『聖徳太子は実在するか』](2009年9月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても『[[隋書]]』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり{{Efn|[[高森明勅]]([[國學院大學]]講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている(「歴史教科書10の争点」レポート
高森明勅「日本の国柄をつくった聖徳太子」{{要ページ番号|date=2017年2月}} )。}}{{Efn|[[安本美典]]は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の[[疑古|擬古]]派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」(邪馬台国の会 講演会記録第249回聖徳太子は実在した (2006.9.24{{要ページ番号|date=2017年2月}}))}}、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺薬師像光背銘文]]、[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘|法隆寺釈迦三尊像光背銘文]]、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、[[藤原不比等]]らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』([[NHK出版]]、2009年)など多数の研究を発表している<ref>ほか『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)。大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(上・下)(『[[弘前大学]]國史研究』100、1996年3月、10月)</ref>。
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは[[藤原不比等]]、[[長屋王]]、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]の後、[[光明皇后]]らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と[[救世観音]]を本尊とする[[夢殿]]、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」<ref>『聖徳太子の実像と幻像』([[大和書房]]、 2001年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|また、用明、崇峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している}}
大山説は雑誌『[[東アジアの古代文化]]』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。[[石田尚豊]]は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している<ref name="kokai-koza"/>。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。[[三浦佑之]]など大山説に賛同を表明する研究者もいる{{Efn|三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[https://web.archive.org/web/20140720193528/http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kinin-gizou-jiken.html]。}}。
また、[[岡田英弘]]、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている<ref>岡田英弘『日本史の誕生』([[筑摩書房]]、2008年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、宮脇淳子『淳子先生の歴史講座―こんなの常識!日本誕生①つくられた聖徳太子』(WiLL2009年7月号別冊 『歴史通』NO.2{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
=== 大山説への反論 ===
[[仁藤敦史]]([[国立歴史民俗博物館]]研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している{{Efn|「奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える[[諡]]とする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていた」と指摘した{{要出典|date=2017年2月}}。}}。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている<ref>仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』([[帝国書院]]、 2005年9月){{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
[[遠山美都男]]は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している<ref>遠山美都男『天皇と日本の起源』(講談社、 2003年){{要ページ番号|date=2017年2月}})および遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』([[2000年]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
ほか、[[和田萃]]{{Efn|和田は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする。『日本経済新聞』2004年1月10日}}や、[[曽根正人]]<ref>[[曽根正人]]『聖徳太子と飛鳥仏教』([[2007年]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。}}らの批判がある。
[[平林章仁]]は、日本書紀はそもそも[[舎人親王]]が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。
[[倉本一宏]]は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は[[南都七大寺]]で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している<ref>『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2013年11月号、pp.256-257</ref>。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、[[直木孝次郎]]「厩戸王の政治的地位について」、[[上田正昭]]「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)([[2001年]])、[[森田悌]]『推古朝と聖徳太子』([[2005年]])、などがある。また[[石井公成]]は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし{{sfn|石井公成|2012|p=111}}、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている<ref>石井公成[https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/bcb5914613f70d26a0eb662a86ec0ddd 「聖徳太子研究の最前線」](2021年8月19日閲覧)</ref>。
=== 虚構説の論点と歴史的資料 ===
[[ファイル:Tenjyukoku embroidery.jpg|240px|thumb|天寿国繡帳]]
聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法]、『古事記』{{Efn|[[用明天皇]]の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。}}、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、[[天寿国繡帳]](天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺[[薬師如来]]像および[[釈迦三尊像]]の[[光背]]銘文、同三尊像台座内墨書、[[伊予湯岡碑|道後湯岡碑銘文]]、[[法起寺]]塔露盤銘、『[[播磨国風土記]]』、『[[上宮記]]』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。
====『日本書紀』における聖徳太子像====
大山説は藤原不比等と[[長屋王]]の意向を受けて、僧[[道慈]](在[[唐]]17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、[[森博達]]は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある{{誰|date=2011年4月}}。森博達は[[文武天皇]]朝(697年-707年)に[[文章博士]]の[[山田史御方]]がβ群の述作を開始したとする<ref>森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年)、[https://web.archive.org/web/20070423005319/http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon14.html 謎解き日本史](2007年4月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
==== 『勝鬘経義疏』 ====
* 『[[勝鬘経]]』の注釈書である『勝鬘経義疏』について[[藤枝晃]]は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の[[南北朝時代 (中国)#北朝|中国北朝]]で作られたもので<ref>藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』(岩波書店 1975年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>、大山はこれが筆写されたものとしている<ref name="名前なし-1">『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
* 『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶[[行信]]が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
* [[安本美典]]は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
* [[王勇 (歴史学者)]]は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする<ref>王勇「東アジアにおける「三経義疏」の流伝」(『中国の日本研究』第2号、[[浙江大学]]日本文化研究所、 2000年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。また[[花山信勝]]は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している<ref>『大日本仏教全書』(鈴木学術財団{{要ページ番号|date=2017年2月}})、[[花山信勝]]『法華義疏の研究―聖徳太子御製』([[東洋文庫]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
====『上宮聖徳法王帝説』の系譜====
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、[[家永三郎]]は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている<ref>『日本思想大系2 聖徳太子集』(岩波書店 1975年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
==== 天寿国繡帳 ====
[[天寿国繡帳]]について大山は天皇号、[[和風諡号]]などから推古朝成立を否定している。また、[[金沢英之]]は天寿国繡帳の銘文に現れる[[干支]]が日本では[[持統天皇]]4年(690年)に採用された[[儀鳳暦]](麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、[[大橋一章]]は図中の[[服制]]など、幾つかの理由から推古朝のものとしている<ref>大橋一章『天寿国繡帳の研究』(吉川弘文館 1995年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。[[義江明子]]は1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする<ref>義江明子「天寿國繡帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号、 1989年{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。[[石田尚豊]]は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
==== 法隆寺釈迦三尊像光背銘文 ====
法隆寺[[釈迦三尊]]像光背銘文について、大山説が援用する[[福山敏男]]説では後世の追刻ではないかとする<ref>福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題 金堂薬師像・釋迦像・同寺小釋迦像の光背銘」(夢殿第13册 法隆寺の銘文 1935年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。一方、1979年に[[志水正司]]は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする<ref>志水正司『古代寺院の成立』(六興出版、1979年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
==== 道後湯岡碑銘文 ====
[[伊予湯岡碑|道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)]]についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた([[牧野謙次郎]],1938年{{Efn|「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城[[宇治橋]]の碑、[[船首王]]の墓誌等がその最なるもの」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『[[続日本紀|續日本紀]]』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた」。牧野謙次郎 述/[[三浦叶]] 筆記『日本漢學史』(世界堂書店、 1938年{{要ページ番号|date=2017年2月}})}})。
大山は、道後湯岡碑銘文<ref>外部リンク[http://www.geocities.jp/kituno_i/iyoyuokahibun.html 伊予湯岡碑文の考察]。伊予国風土記逸文による道後湯岡碑銘文([[駢儷体]]の詩文)[http://221.130.193.65/japanese/book/hanxueshi/07.htm 日本漢學史 道後温泉碑]{{リンク切れ|date=2011年4月}}</ref>{{Efn|「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 [[柿本人麻呂]]の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而…」のように大王は皇子に使用される例がある。[[山部赤人]]が伊豫温泉([[道後温泉]])を訪れて詠んだ歌(『[[万葉集]]』巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある{{要出典|date=2011年4月}}。}}における[[法興]]6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号([[逸年号]]、[[私年号]])であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している<ref name="名前なし-1"/>。
また大山は[[仙覚]]『万葉集註釈』([[文永]]年間(1264年-1275年)頃)と『[[釈日本紀]]』(文永11年-[[正安]]3年頃(1274年-1301年頃))の引用([[伊予国風土記]]逸文)が初出であるとして、[[鎌倉時代]]に捏造されたものとする。一方、[[荊木美行]]は伊予国風土記逸文を[[風土記]](和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている<ref>荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』([[皇學館大学|皇學館]]出版部、 2002年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
==== 法起寺塔露盤銘 ====
[[慶雲]]3年(706年)に彫られたとされる[[法起寺]]塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が[[暦仁]]元年(1238年)頃に[[顕真 (法隆寺の僧)|顕真]]が著した『[[古今目録抄|聖徳太子伝私記]]』にしか見出せないことなどから偽作とする。
但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、[[嘉禄]]三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている<ref>大橋一章「[https://hdl.handle.net/2065/8543 法起寺の発願と造営]」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』49巻(2003年)pp.91-701, {{ncid|AA11910228}}, [[早稲田大学]]大学院文学研究科</ref>。
また[[直木孝次郎]]は『万葉集』と飛鳥・[[平城京]]跡の出土[[木簡]]における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている<ref>直木孝次郎「万葉集と木簡に見える「皇」」(『東アジアの古代文化』108号、大和書房、 2001年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している<ref>『日本経済新聞』2004年1月10日※記事名不明</ref>。
====『播磨国風土記』の記述====
『[[播磨国風土記]]』([[713年]]-[[717年]]頃の成立とされる)印南郡大國里条にある[[生石神社]]の「[[石の宝殿]]」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 {{Smaller|厩戸}} 弓削大連 {{Smaller|守屋}} 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二[[丈]](つえ)、廣さ一丈五尺(さか、[[尺]]または[[咫]])、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は[[物部守屋]]、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら<ref>『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、間壁忠彦・ 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター、 1996年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>、『播磨国風土記』は物部守屋が[[大連 (古代日本)|大連]]であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、[[738年]]頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
== 教育における扱い ==
一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば[[山川出版社]]の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度[[教科書検定|検定]]版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・[[皇国史観]]の行き過ぎという批判がある{{Efn|小林よしのりは自身の著書『天皇論』にて「聖徳太子」という諡号をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)}}{{Efn|「厩戸王」は大山説でも使用されているが、'''史料には見られない。'''日本書紀は「厩戸皇子」。[[日本書籍]]の教科書を執筆した[[吉村武彦]]は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞)。}}{{Efn|ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「推古天皇」「[[後白河天皇]]」「[[魏 (三国)|魏]]の[[曹操|武帝]]」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と[[院号]]で呼ぶのが一般的であったし、[[長慶天皇]]や[[仲恭天皇]]のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「[[前漢]]」「[[後漢]]」「[[蜀漢]]」「[[南漢]]」はみな[[国号]]は「漢」である}}。2013年(平成25年)3月27日付『[[朝日新聞]]』<ref>{{Cite news|title=
聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述|url=http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html#Contents|newspaper=朝日新聞|date=2013-03-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130327130342/http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html|archivedate=2013-03-27|accessdate=2015-08-31}}</ref>によれば、[[清水書院]]の高校日本史教科書では2014年([[平成]]26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた'''聖徳太子虚構説'''(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた(本項「[[#虚構説]]」も参照)。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)
なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の[[学習指導要領]]案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された<ref>{{Cite web|和書|date=2017-03-20 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG20H3H_Q7A320C1CR8000/ |title=「聖徳太子」復活を検討 次期指導要領で文科省 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2017-03-22}}</ref>。
== 聖徳太子を題材とした作品 ==
; 小説
* [[聖徳太子 (小説)|聖徳太子]](1990年、[[黒岩重吾]])
; 漫画
* [[日出処の天子]](1980年-1984年、[[山岸凉子]])
* [[聖徳太子 (漫画)|聖徳太子]](1991年-1994年、[[池田理代子]])
* [[天智と天武-新説・日本書紀-]](2012年-2016年、[[中村真理子]]) - 聖徳太子=蘇我入鹿説を採る。
; テレビドラマ
* [[夢殿 (テレビドラマ)|夢殿]](1962年、日本テレビ、演:[[松本錦四郎]])
* [[聖徳太子 (テレビドラマ)|聖徳太子]](2001年、NHK、演:[[本木雅弘]])
; 楽曲
* 聖徳太子(2023年、歌:[[水曜日のカンパネラ]])<ref>[https://natalie.mu/music/news/540044 「何で一気にしゃべるの!?」聖徳太子の内心を歌う水曜日のカンパネラ新曲]、音楽ナタリー、2023年9月7日。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|}}
== 参考文献 ==
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]『聖徳太子』[[人物叢書]]:[[吉川弘文館]] ISBN 4642050019
* 曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』2007年 吉川弘文館 ISBN 4642056289
* 瀧藤尊教『以和為貴 聖徳太子の信仰と思想』善本社
* [[前田恵学]]、引田弘道『人間聖徳太子』[[講談社]]
* 石田尚豊『聖徳太子辞典』[[柏書房]] ISBN 4760115404
* 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007年 講談社 ISBN 4062583828
* [[谷沢永一]]『聖徳太子はいなかった』2004年 [[新潮新書]] ISBN 978-4106100628
* 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006年 新版 [[新泉社]] ISBN 4787706055
* [[梅原猛]]『聖徳太子』2003 小学館、1993年 [[集英社文庫]]
* 梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』1986 新潮社 ISBN 4101244014
* 遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』2000年 [[角川書店]] ISBN 4043551010
* 森田悌『推古朝と聖徳太子』2005年 岩田書院 ISBN 4872943910
* 吉村武彦『聖徳太子』2002年 [[岩波新書]] 岩波書店 ISBN 4004307694
* 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』1994年 大修館書店 ISBN 4469290696
* 梅原猛・黒岩重吾・上田正昭ほか『聖徳太子の実像と幻像』2001年 大和書房 ISBN 4479840591
* 小林惠子『聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた』1990年 [[文藝春秋]] ISBN 4163447202
* 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』2004年 [[PHP研究所|PHP]] ISBN 4569638279
* 宮東斎臣『聖徳太子に学ぶ十七絛五憲法』1995年 [[文一総合出版]] ISBN 482991100X
* 恵美嘉樹『図説 最新日本古代史』2008年 [[学習研究社]] ISBN 4054038344
* 大山誠一『長屋王家木簡と金石文』 ISBN 4642023259
* 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1992年 吉川弘文館 ISBN 4642021671
* 大山誠一『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』1999年 吉川弘文館 ISBN 4642054650
* 大山誠一『聖徳太子と日本人』2001年 風媒社 ISBN 4833105209
* 大山誠一(編集・共著)『聖徳太子の真実』2003年 平凡社 ISBN 4582469043
* 大山誠一『聖徳太子と日本人 ― 天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像』2005年 角川書店 ISBN 4043782012
* 『聖徳太子の実像と幻像』2001年 大和書房 ISBN 4479840591
* {{Cite book|和書|author=名畑應順 校注|year=1976|title=親鸞和讃集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫 青318-3|isbn=4-00-333183-4}}
* {{Cite book|和書|author=本多弘之 監修|year=2009|title=知識ゼロからの親鸞入門|publisher=幻冬舎|isbn=978-4-344-90148-3}}
* {{Cite book|和書|author=宮城 顗|year=2003|title=和讃に学ぶ-正像末和讃|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=4-8341-0306-4}}
* {{Cite journal|和書|title=(講演) 聖徳太子研究の今後|author=石井公成|authorlink=石井公成|journal=祝祷 文化講演集|volume=19|publisher=駒澤大学|year=2018|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|title=問題提起 聖徳太子研究の問題点|author=石井公成|authorlink=石井公成|journal=藝林|volume=61|publisher=|year=2012|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|title=厩戸皇子の名前と誕生伝承|author=前之園亮一|authorlink=前之園亮一|journal=紀要|volume=26|publisher=共立女子短期大学文科|year=2016|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|title=『日本書紀』における聖徳太子--そのヒストリオグラフィカル・イメージ|author=宮本要太郎|authorlink=宮本要太郎|journal=哲学・思想論集|volume=26|publisher=[[筑波大学]]哲学・思想学系|year=2000|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Prince Shōtoku}}
{{Wikiquote}}
* [[日本の仏教]]
* [[十七条憲法]]
* [[日本の書道史]]
* [[日本の書家一覧]]
* [[聖徳太子霊跡]]
* [[聖徳太子流]]
* [[七種宝物]]
== 外部リンク ==
* [http://www.shitennoji.or.jp/ 和宗総本山 四天王寺]
* [https://www.sigisan.or.jp 総本山 信貴山朝護孫子寺]
* [http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html 隋書倭国伝]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/wa.htm |title=隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/new_tou/nihon.htm |title=新唐書卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本}}
* [{{NDLDC|780715/1}} 皇太子未来記 未然本記]
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トマトジュース
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トマトジュース(英: tomato juice)とは、トマトをつぶして絞ったジュースである。日本農林規格 (JAS) では、「トマトを破砕して搾汁し、又は裏ごしし、皮、種子等を除去したもの又はこれに食塩を加えたもの」または「濃縮トマト(食塩以外のものを加えていないものに限る)を希釈して搾汁の状態に戻したもの又はこれに食塩を加えたもの」としている。
そのまま飲むのが基本的で一般的である。米国で特に朝食時などに飲む飲み方が普及した。手軽なトマトスープとして使われたり、煮込料理の材料などとしても使われる。 他にもカクテルの材料とする使い方もある(ブラッディ・マリーや、ビールと混ぜる飲料レッド・アイなど)。
世界で初めてトマトジュースの製品化に成功したのは米国のLibby, McNeill & Libby リビー=マクニール&リビー社で1923年のことであった。しかしこの時のトマトジュースは色が茶色く、消費者に受け入れられなかった。1929年に同社がトマトジュースの圧縮製法を開発し、真っ赤な色のトマトジュースが発売されると消費者に受け入れられ、朝食時の飲み物として米国の家庭に定着した。
日本では1933年に愛知トマト(後のカゴメ)が最初にトマトジュースを発売した。国産第一号のトマトジュースは、トマトジュースというものを知らない人達に飲んでもらうために糖分を加え甘くしたものであった。しかし日本ではあまり普及せず、1941年に戦争の影響もあり製造は中止された。
第二次世界大戦直後にトマトジュースは米国の放出物資として学校給食に取り入れられた。1949年には愛知トマトが製造を再開すると、日本への欧米風食文化の浸透と相まって首都圏を中心に徐々にトマトジュースは普及し、長野トマトやイカリソースといった国産メーカーが相次いでトマトジュースを発売した。さらに1963年にはデルモンテがキッコーマンと提携し日本市場に進出した。
日本でのトマトジュースの出荷量は、190g缶×24本1ケース換算で1951年に年間5000ケースだったが、1964年には年間120万ケースに達した。トマトジュース缶の内部の錫が溶出し中毒事件が1969年に起きると一時的に消費が落ち込んだが、すぐに需要は回復した。
ただし日本の現状としては、野菜ジュース、その中でも主に飲み易さを重視した野菜・果実ミックスジュースの普及により、販売は減少傾向にある。
一般に調味料として塩が使われており、塩が入っているかどうかで、「有塩」(加塩)と「無塩」(食塩無添加)に分かれる。
リコピン(リコペン)を多く含む。繊維質のために少しどろりとしているがネクターほどではない。
トマトジュースには生命活動を維持する上で重要な成分であるカリウムが豊富であり、日本で販売されているトマトジュースには100gあたりおよそ250mg程度含まれる。カリウムは食塩などの摂取により体内に増えすぎたナトリウムを体外に排出する作用がある。
また、トマトジュースに含まれるナトリウムの量はカリウムの含有量に比べると塩を含んだものでもその半分程度のため、汗や尿などによりカリウムと同じ量のナトリウムも排出されることを考えると、必ずしも無塩のトマトジュースにこだわる必要はない。
カリウムの摂取目安量は厚生労働省発表日本人の食事摂取基準2005年度版によれば、成人ではおよそ1日2000mgであり、生活習慣病予防の観点から、2005年4月の厚生労働省「日本人の食事摂取基準」生活習慣病予防の観点からみた望ましい摂取量では3500mg/日となっており積極的に摂取したいミネラルであるが、腎機能低下などでカリウム制限のある場合は1日の目安量が1500mgあるいはそれ以下に制限される場合がある。
世界的に見るとデルモンテ、キャンベル、モッツなどの製造量が多い。日本のメーカーではカゴメが老舗であり、上述のように「デルモンテ」ブランドでも製造・販売の歴史が長い。他にも長野トマトやキリンビバレッジなども。また近年は日本各地で、有機栽培によるトマトを使用するなど、付加価値をつけた少量生産のトマトジュースが出荷されている。
果汁100%の製品が一般的であるが、飲み易さを狙って、1976年には日本コカ・コーラがHi-Cトマトという、より飲みやすい果汁70%のトマトドリンクとして、今までトマトジュースを飲まなかった層を狙った製品を発売した。これは消費者には受け入れられず、1983年に同社はトマトジュース市場から撤退しているが、トマトに砂糖を掛けて食べる習慣のある韓国等ではこうしたトマトジュースが定着している。日本では現在もアサヒ飲料などが果汁90%で甘味をつけたトマトジュースを製造している。
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トマトジュースとは、トマトをつぶして絞ったジュースである。日本農林規格 (JAS) では、「トマトを破砕して搾汁し、又は裏ごしし、皮、種子等を除去したもの又はこれに食塩を加えたもの」または「濃縮トマト(食塩以外のものを加えていないものに限る)を希釈して搾汁の状態に戻したもの又はこれに食塩を加えたもの」としている。 そのまま飲むのが基本的で一般的である。米国で特に朝食時などに飲む飲み方が普及した。手軽なトマトスープとして使われたり、煮込料理の材料などとしても使われる。
他にもカクテルの材料とする使い方もある(ブラッディ・マリーや、ビールと混ぜる飲料レッド・アイなど)。
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{{出典の明記|date=2013年11月}}
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'''トマトジュース'''({{Lang-en-short|tomato juice}})とは、[[トマト]]をつぶして絞った[[ジュース]]である<ref>大辞泉</ref>。[[日本農林規格]] (JAS) では、「トマトを破砕して搾汁し、又は裏ごしし、皮、種子等を除去したもの又はこれに食塩を加えたもの」または「濃縮トマト(食塩以外のものを加えていないものに限る)を希釈して搾汁の状態に戻したもの又はこれに食塩を加えたもの」としている。
[[File:Campbell's tomato juice on a flight of Icelandair.JPG|thumb|right|250px|飛行機内で提供されたトマトジュース]]
そのまま飲むのが基本的で一般的である。米国で特に[[朝食]]時などに飲む飲み方が普及した。手軽な[[トマトスープ]]として使われたり、[[煮込み|煮込料理]]の材料などとしても使われる。
他にも[[カクテル]]の材料とする使い方もある([[ブラッディ・マリー]]や、ビールと混ぜる飲料[[レッド・アイ]]など)。
== 歴史 ==
世界で初めてトマトジュースの製品化に成功したのは米国の[[:en:Libby's|Libby, McNeill & Libby]] リビー=マクニール&リビー社で[[1923年]]のことであった。しかしこの時のトマトジュースは色が茶色く、消費者に受け入れられなかった。1929年に同社がトマトジュースの圧縮製法を開発し、真っ赤な色のトマトジュースが発売されると消費者に受け入れられ、[[朝食]]時の飲み物として米国の家庭に定着した。
;日本
日本では[[1933年]]に愛知トマト(後の[[カゴメ]])が最初にトマトジュースを発売した。国産第一号のトマトジュースは、トマトジュースというものを知らない人達に飲んでもらうために糖分を加え甘くしたものであった。しかし日本ではあまり普及せず、[[1941年]]に戦争の影響もあり製造は中止された。
第二次世界大戦直後にトマトジュースは米国の放出物資として学校給食に取り入れられた。[[1949年]]には愛知トマトが製造を再開すると、日本への欧米風食文化の浸透と相まって[[首都圏 (日本)|首都圏]]を中心に徐々にトマトジュースは普及し、[[ナガノトマト|長野トマト]]や[[イカリソース]]といった国産メーカーが相次いでトマトジュースを発売した。さらに[[1963年]]には[[デルモンテ・フーズ|デルモンテ]]が[[キッコーマン]]と提携し日本市場に進出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kikkoman.com/jp/corporate/about/history/|title=キッコーマングループの歩み|website=kikkoman|date=|access-date=2023年6月18日}}</ref>。
日本でのトマトジュースの出荷量は、190g缶×24本1ケース換算で[[1951年]]に年間5000ケースだったが、[[1964年]]には年間120万ケースに達した。トマトジュース缶の内部の[[スズ|錫]]が溶出し中毒事件が1969年に起きると一時的に消費が落ち込んだが、すぐに需要は回復した。
ただし日本の現状としては、[[野菜ジュース]]、その中でも主に飲み易さを重視した野菜・果実ミックスジュースの普及により、販売は減少傾向にある。
== 分類と成分 ==
一般に調味料として[[塩]]が使われており、塩が入っているかどうかで、「有塩」(加塩)と「無塩」(食塩[[無添加]])に分かれる。
[[リコペン|リコピン]](リコペン)を多く含む。[[食物繊維|繊維質]]のために少しどろりとしているが[[ネクター]]ほどではない。
トマトジュースには生命活動を維持する上で重要な成分である[[カリウム]]が豊富であり、日本で販売されているトマトジュースには100gあたりおよそ250mg程度含まれる。カリウムは[[食塩]]などの摂取により体内に増えすぎた[[ナトリウム]]を体外に排出する作用がある。
また、トマトジュースに含まれるナトリウムの量はカリウムの含有量に比べると塩を含んだものでもその半分程度のため、汗や尿などによりカリウムと同じ量のナトリウムも排出されることを考えると、必ずしも無塩のトマトジュースにこだわる必要はない。
カリウムの摂取目安量は[http://vitamine.jp/minera/kari00.html 厚生労働省発表日本人の食事摂取基準2005年度版]によれば、成人ではおよそ1日2000mgであり、生活習慣病予防の観点から、2005年4月の厚生労働省「日本人の食事摂取基準」生活習慣病予防の観点からみた望ましい摂取量では3500mg/日となっており積極的に摂取したいミネラルであるが、腎機能低下などでカリウム制限のある場合は1日の目安量が1500mgあるいはそれ以下に制限される場合がある。
== 製造 ==
[[Image:Tomato juice.JPG|right|150px]]
世界的に見ると[[デルモンテ・フーズ|デルモンテ]]、[[キャンベル・スープ・カンパニー|キャンベル]]、[[モッツ]]などの製造量が多い。日本のメーカーでは[[カゴメ]]が老舗であり、上述のように「[[デルモンテ・フーズ|デルモンテ]]」ブランドでも製造・販売の歴史が長い。他にも[[長野トマト]]や[[キリンビバレッジ]]<ref group="注釈">発売開始([[1978年]])から1990年代初頭までは[[麒麟麦酒]]名義で製造・販売。</ref>なども。また近年は日本各地で、[[有機栽培]]によるトマトを使用するなど、付加価値をつけた少量生産のトマトジュースが出荷されている。
;果汁100%以外
果汁100%の製品が一般的であるが、飲み易さを狙って、[[1976年]]には[[コカ・コーラ|日本コカ・コーラ]]がHi-Cトマトという、より飲みやすい果汁70%のトマトドリンクとして、今までトマトジュースを飲まなかった層を狙った製品を発売した。これは消費者には受け入れられず、[[1983年]]に同社はトマトジュース市場から撤退しているが、トマトに[[砂糖]]を掛けて食べる習慣のある[[大韓民国|韓国]]等ではこうしたトマトジュースが定着している。日本では現在も[[アサヒ飲料]]などが果汁90%で甘味をつけたトマトジュースを製造している。
== トマトジュースを題材にした楽曲 ==
* 夜更けのトマトジュース - [[吉川忠英]]
* [[トマトジュースで追いかえすのかい]] - [[大塚博堂]]・[[梓みちよ]]
* トマトジュース乾杯!!(Viva la Pappa col Pomodoro 〔Rita Pavone〕) - レコードジャケットにカゴメのトマトジュースプレゼントの応募券がついていた。
==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Tomato juice}}
* [[ジュースの一覧]]
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台風
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台風(たいふう、颱風、英: Typhoon)とは、熱帯低気圧のうち北西太平洋または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速が約17.2 m/s(34ノット(kt)、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称。
強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、ほとんどの場合、気象災害を引き起こす。上空から地球に向かって見ると反時計回りの積乱雲の渦からなる。超大型と呼ばれる台風は風速15m/sの強風域が半径800km以上と、とても大きな台風となる。「年別台風記事一覧」も参照。
気圧が最も低い位置を「気圧中心」といい、その位置と勢力で台風は定義される。温帯低気圧との最大の違いは、前線を伴っていないことである。
北西太平洋の「東経100度線から180度経線までの北半球」に中心が存在するものをいう。海域としては北太平洋西部(北西太平洋)およびその付属海である南シナ海、東シナ海、フィリピン海、日本海などにあたり、陸域としては東アジア、東南アジア、ミクロネシアのそれぞれ一部が含まれる。
最大風速が17 m/s以上の熱帯低気圧のうち、北インド洋にあるものは「サイクロン」と呼ばれる。南太平洋、北太平洋(180度経線以東)、北大西洋の熱帯低気圧のうち最大風速が33 m/s(64 kt)以上のものは「ハリケーン」と呼ばれる。ただし、台風、サイクロン、ハリケーンともに現象としては同一である。これらの熱帯低気圧が地理的な境界線を越えた場合は呼び方が変わる。例えば、2006年に北東太平洋で発生したハリケーン・イオケは、西進して経度180度を越えたため台風12号になった。このように、区域を跨って台風に変わったものを越境台風と呼ぶ。越境で台風でなくなるものもあり、2019年の台風1号は、マレー半島付近で東経100度線を越えたことにより台風からサイクロンに変わった。
なお世界気象機関の国際分類では地理的な領域に関係なく、熱帯低気圧を最大風速によりトロピカル・デプレッション、トロピカル・ストーム、シビア・トロピカル・ストーム、タイフーンの4段階に分類している。この場合における「タイフーン」と本項で述べている「台風」は英語では共に"typhoon"と呼ぶが、概念としては異なる。
台風の場合、熱帯低気圧域内で最大風速17 m/s以上を満たしたものを指す。
台風の位置や中心気圧、最大風速、大きさの数値は過去の観測データの蓄積により確立されたドボラック法に基づいて人工衛星画像から推定し、地上や船舶で風速が観測できた場合にその都度修正していく方法を採っているため、「中心付近の最大風速」は必ずしも実測値ではない。例えば洋上にある台風中心の風速を実測するには航空機が必要となり、実際に1987年(昭和62年)までは米軍が航空機観測を実施していた時期もあるが、観測員や設備・運用等の負担が大きく、現在日本では航空機による観測は恒常的な手段としては行われていない(学術研究目的での観測例はある)。
なお、世界気象機関 (WMO) の世界気象監視計画 (WWW) により、北西太平洋海域の台風監視活動を行う中枢として、日本の気象庁が「熱帯低気圧プログラムに参画する地域特別気象中枢」(RSMC for TCP) に指定され、気象庁の判断が国際的には公式のものとされる。ただ、この海域では中華人民共和国、台湾、フィリピン、ベトナム、アメリカ合衆国などの気象機関がそれぞれ台風の監視を行い独自に推定を行っているため、機関によって風速等に多少の誤差が出ることもある。
日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。ただし、野分とは暴風そのものを指す言葉であり、気象学上の台風とは概念が異なる。
江戸時代には熱帯低気圧を清国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書『颶風新話』)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。
明治末頃、岡田武松によって颱風という言葉が生まれたとされている。1956年(昭和31年)に指針として「同音の漢字による書きかえ」が示されて以降は多く台風と書かれるようになった(これに対し台湾、香港では現在も「颱風」と呼称する)。由来には諸説があり、主な説としては、以下のものが挙げられる。
英語の「typhoon」は、古くは「touffon」と綴り、中国語の「大風」が由来とする説は不自然とされており、アラビア語起源、ギリシア語起源の二つの説が有力とされる。
ちなみに沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称される。
台風の中心位置、最大風速、中心気圧、暴風域半径、強風域半径などを総称して台風諸元という。
亜熱帯や熱帯で海から供給される大量の水蒸気が上昇して空気が渦を巻き、できるのが熱帯低気圧で、これが最大風速17.2m/sを超えると台風となる。この点で冷たい空気と暖かい空気が混ざりあおうとして空気が渦を巻きできる温帯低気圧とは構造が異なる。温帯低気圧では冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあっており前線を伴うことがあるが、台風本体は暖かい空気のみでできているため前線を伴うことがない。台風の北上によって冷たい空気が流入したときには温帯低気圧に変化する(「#台風の発生から消滅」参照)。
台風の中心付近は、風向きが乱れているために暴風が互いに打ち消し合う。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなることがある。
発達した台風では背の高い積乱雲が中心部を取り巻いておりアイウォールと呼ばれている。構造としては、台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。壁の高さは地上1000mから上空1万mに達する。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上ではこの台風の進行方向右側半分を危険半円と呼ぶ。また、台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために相対的に風は弱く可航半円と呼ぶ。しかし、可航半円という概念はかつて帆船が台風の中心から遠ざかる針路をとるとき台風の進行方向左側に入っていれば右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(逆に、帆船が台風の進行方向右側に入っていると右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないよう保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
台風の勢力を分かりやすく表現する目的などから、台風は「強さ」と「大きさ」によって階級が定められ分類されている。
強さによる分類は、国際的にはWMOが規定する分類法が使用されているが、それに準じた多少差異のある分類法も熱帯低気圧の等級のようにいくつか使用されていて、同じ台風でも気象機関によって異なるレベルに分類される場合がある。具体的には、米軍の合同台風警報センター (JTWC) では1分間平均の最大風速、日本の気象庁では10分間平均の最大風速によって分類する。例えば同じ台風の同時刻の観測において、米軍の合同台風警報センターが台風の強度に達したと判断しても、日本では強い台風の強度に達せず並の強さと判断する場合も生じる(1分間平均風速は10分間平均風速よりも1.2 - 1.3倍ほど大きく出る傾向にある)。また、最大風速で強さを分類しているが過去には中心気圧が用いられており、その名残りから、日本で発表される台風情報には中心気圧も網羅される。
なお、日本でもマスメディアなどにおいて用いられる「スーパー台風」の呼称については、気象庁における明確な定義は無いが、米国の合同台風警報センターでは最大強度階級130 knot(約67m/s・240 km/h)以上の台風のことを指して「スーパー台風」と呼んでいるほか、中華人民共和国(香港、マカオを含む)などでは風速100 ノット (185 km/h) 以上の台風を「スーパー台風」としている。
また日本の気象庁では、大きさによる分類も行っている。風速15m/s以上の強風域の大きさによって分類する。15m/s以上の半径が非対称の場合は、その平均値をとる。なお、以前は1,000ミリバール(現在使用されている単位系ではヘクトパスカルに相当)等圧線の半径で判断していた。
これらを組み合わせて、かつては「大型で並の強さの台風」というような言い方をしていた。しかし、組み合わせによっては「ごく小さく弱い台風」となる場合もある。1999年(平成11年)8月14日の玄倉川水難事故を契機に、このような表現では、危険性を過小評価した人が被害に遭うおそれがあるという防災の観点から、気象庁は2000年(平成12年)6月1日から、「弱い」や「並の」といった表現をやめ、上記表の(新)の欄のように表現を改めた。したがって、「小型で『中型で・ごく小さく』弱い『並の強さの』台風」と呼ばれていたものは、単に「台風」、「大型で並の強さの台風」は「大型の台風」と表現されるようになった。
ほとんどの台風は北半球における夏から秋にかけて発生する。最盛期のコースを例にとると、発生当初は貿易風の影響で西寄りに北上しつつ、太平洋高気圧の縁に沿って移動し、転向した後は偏西風の影響で東寄りに北上し、ジェット気流の強い地域に入ると速度を速めて東進し、海水温や気温の低下に起因する中心部上昇気流勢力の低下、海上に比べ起伏が激しくまた昼夜の温度差が大きい陸への上陸によって勢力を弱めていく。ただこのような教科書的なコースを辿るものはそれほど多くなく、太平洋高気圧の影響により西進し続けたり、停滞したりと、複雑な経路をとるものもしばしば現れる。日本列島やフィリピン諸島、台湾、中国華南・華中沿海部、朝鮮半島などに大きな被害を与える。コースによってはベトナムやマレーシア、マリアナ諸島、ミクロネシアなどを通ることもある。稀ではあるが冬季にも、海水温の高い低緯度で発生する。コースの北限はジェット気流であり、その流路変化に伴って暖かくなるにつれコースは北に移り、夏を過ぎると南に下がってくる。
台風やハリケーン・サイクロンなどの熱帯低気圧を発生する機構については様々な説が唱えられてきた。熱帯の強い日射により海面に生じた上昇気流によるという説、熱帯収束帯(赤道前線)上に発生するという説などが出されたが、どれも不完全であった。
現在では、「偏東風波動説」が多くの支持を集めている。南北両半球の北緯(南緯)30度付近には、赤道で上昇して北上(南下)した空気塊(潜熱を含む空気)がハドレー循環により上空に滞留してのち下降し、「亜熱帯高圧帯」が形成される。北太平洋高気圧もその例であるが、これらの高気圧から赤道方向に向けて吹き出した風はコリオリの力を受けて恒常的な東風になる。これが偏東風で、この風の流れの中にうねり(波動)ができると反時計周りの渦度が生じ、水蒸気が凝結する際に発生する潜熱がエネルギー源となり熱帯低気圧となるという考えである。なぜ波動が出来るのかはまだはっきりしないが、実際の状況には最もよく合致した説である。
ただし、そうして発生した波動の多くは発達せずにつぶれてしまう。1万メートル以上の上層に高気圧を伴う場合には高気圧の循環による上昇気流の強化により台風に発達すると思われる。
一般に台風が発生する場合は海面の水温が26 - 27 °C以上であり、高温の海面から蒸発する水蒸気が原動力になっている。また台風の発生のうえでコリオリの力は必要であり、コリオリの力が小さい赤道付近(緯度5度くらいまで)では顕著な熱帯低気圧が発生しない。
台風の発達過程はかなり詳しくわかっている。台風の原動力は凝結に伴って発生する熱である。温暖な空気と寒冷な空気の接触等による有効位置エネルギーが変換された運動エネルギーが発達のエネルギー源になっている温帯低気圧との大きな違いはここにある。
上昇気流に伴って空気中の水蒸気は凝結し、熱(潜熱)を放出する。軽くなった空気は上昇する。すると地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。このような条件を満たすときに台風は発達する。このような対流雲の発達の仕方をシスク(CISK、第2種条件付不安定)という。
なお、台風が北半球で反時計周りの渦を巻くのは、風が中心に向かって進む際にコリオリの力を受けるためである。
2個の台風が1,000 km以内にある場合、互いに干渉し合って複雑な経路をたどることがある。これを提唱者である第五代中央気象台長の藤原咲平の名前をとって藤原の効果と呼ぶ。その動きは、相寄り型、指向型、追従型、時間待ち型、同行型、離反型の6つに分類されている。
一般に、台風は日本の南海上で発達し日本列島に接近・上陸すると衰える傾向がある。これは、南海上では海水温が高く、上述した台風の発達に必要な要素が整っているためで、日本列島に近づくと海水温が26 °C未満(真夏~初秋は日本列島付近でも26 °C以上の場合があり、台風が衰えない場合もある)になることにより台風の発達は収束傾向になる。初夏および晩夏~秋に日本列島へ近づく台風の多くは高緯度から寒気を巻き込んで、徐々に温帯低気圧の構造へと変化し、前線が形成されるようになる。温帯低気圧化が進んだ台風は南北の温度差により運動エネルギーを得るため、海水温が25°C以下の海域を進んだり上陸してもほとんど衰えない場合がある。さらに高緯度へ進み、前線が中心部にまで達すると温帯低気圧化が完了となる。もしくは、台風内の暖気核が消滅することで温帯低気圧化することもあるが、この場合は必ずしも低気圧の中心まで前線が描かれない場合がある。
日本列島に上陸せず対馬海峡を通過して日本海南部に入った場合、または台風が日本列島にいったん上陸し、勢力が衰えた後に日本海南部へ出た場合は、暖流である対馬海流(海水温が26 °C以上の場合のみ)の暖気が台風へエネルギーを供給することで再発達し、普段は台風による被害を受けにくい北海道、東北地方に甚大な被害を与える場合もある。1954年の洞爺丸台風(昭和29年台風第15号)や、1991年の平成3年台風第19号(りんご台風)、2004年の平成16年台風第18号などがその例である。
台風が海面水温の低い海域に達して水蒸気の供給が減少したり、移動する際の地表との摩擦によって台風本来のエネルギーを失うと熱帯低気圧や温帯低気圧に変化する。特に台風が北上して北方の冷たい空気を巻き込み始めると温帯低気圧に構造が変化する。
ただし、台風から温帯低気圧への変化は低気圧の構造の変化であり、必ずしも雨量や風速が弱くなるわけではない。2004年の台風18号では温帯低気圧に変化した後も中心気圧968hpa、最大風速30m/sの勢力をもち、この低気圧で北海道札幌市では最大瞬間風速50.2m/sを観測した。
台風が日本本土を襲う経路は様々であり、類型化は難しいが、典型的な台風として、北緯15度付近のマリアナ諸島近海で発生して西寄りに時速20キロメートル程度で進み、次第に北寄りに進路を変えて北緯25度付近、沖縄諸島の東方で転向し、北東に向けて加速しながら日本本土に達するというパターンが考えられる。台風の経路として書籍にもしばしば掲載される型であるが、実際にはこのような典型的な経路を取るものは少なく、まれには南シナ海で発生してそのまま北東進するもの、日本の南東海上から北西進するもの、あるいは狩野川台風(1958年〈昭和33年〉台風第22号)のように明確な転向点がなく北上するものなどもある。さらに、盛夏期で台風を流す上層の気流が弱く方向も定まらないような時期には、複雑な動きをする台風も見られる。
日本の気象庁の定義によれば、台風の上陸とは、台風の中心が北海道、本州、四国、九州の海岸に達することをいう。したがって、台風の中心が上記4島以外の島の海岸に至っても上陸とは言わないため、沖縄県に台風が上陸することはない。台風の中心が、小さい島や半島を横切って、短時間で再び海上に出ることは、台風の通過と呼ばれる。また、ある場所への台風の接近とは、台風の中心がその場所から半径300km以内に達することである。
日本には、平均して、毎年11個前後の台風が接近し、そのうち3個くらいが日本本土に上陸する。2004年には10個の台風が上陸し、上陸数の記録を更新した(2004年の台風集中上陸参照)。その一方で1984年、1986年、2000年、2008年、2020年のように台風が全く上陸しなかった年もある。
台風が日本本土に上陸するのは多くが7月から9月であり、年間平均上陸数は8月が最も多く、9月がこれに次ぐ。8月は、太平洋高気圧が日本付近を覆い、台風が接近しにくい状況ではあるが、台風発生数も最も多く、また高気圧の勢力には強弱の周期があるため、弱まって退いた時に台風が日本に接近・上陸することが多い。無論、西に進んでフィリピン・台湾・中国に上陸したり朝鮮半島方面に進んだりするものも少なくない。6月や10月にも数年に1度程度上陸することがある。最も早い例では1956年4月25日に台風3号が鹿児島県に上陸したことがあり、最も遅いものとしては、1990年11月30日に台風28号が紀伊半島に上陸した例がある。
フィリピンでは毎年6月から12月にかけてに台風が襲来するリスクが高くなる。フィリピンでは年平均で約20個の台風が領域内で発生するか領海内に進んできており、うち6~9個の台風が上陸している。フィリピンでは2004年から2014年にかけての11年間に88の台風の影響を受け、合計死者数18,015人、合計負傷者43,840人、合計経済損害額13,700百万USドルの被害が発生した。
アメリカでは、1943年にテキサス州ヒューストンを襲ったサプライズ・ハリケーン(英語版)の際に敢行された直接観測をきっかけとして、アメリカ軍が航空機により台風を直接観測するため、ハリケーン・ハンターと呼ばれる専門部隊を編成した。当初はアメリカ空軍とアメリカ海軍が個別に観測していたが、1993年からはアメリカ海洋大気庁 (NOAA) のNOAA ハリケーン・ハンターズ(英語版)に移管され、NOAA士官部隊が運用する観測機で直接観測を継続している。
日本の気象庁は緯度では赤道から北緯60度、経度では東経100度から180度までの範囲にある台風の位置決定と予報を担当する。
現在、台風の観測では気象衛星ひまわりが重要な役割を果たしており、雲画像の連続的な解析により台風の中心や風速などの観測がなされる。日本付近に接近あるいは上陸した台風については気象レーダーやアメダスも利用される。
2017年からは名古屋大学や琉球大学などの研究グループが航空機からドロップゾンデを投下、観測ドローンなどで直接観測を実施している。同研究グループは2017年10月21日、日本人研究者として初めて台風の中心付近を飛行機で直接観測することに成功した。得られたデータを衛星やレーダーからのデータと合わせることで予報精度の向上を目指している。
台風の進路予報表示では、平均風速が15m/s以上の強風域を黄色の円、同じく25m/s以上の暴風域を赤色の円で表す。12、24、48、72、96および120時間後の到達予想範囲は点線の予報円で記す。台風の進路が予報円の中に入る確率はおおよそ70%である。また、台風の中心が予報円の中を通った場合、暴風域に入る恐れがある範囲を赤い線で囲む。これを暴風警戒域という。
台風の進路予報表示は1953年(昭和28年)6月から1982年(昭和57年)5月まで扇形方式、1986年(昭和61年)5月まで予報円方式が用いられ、1986年(昭和61年)6月以降は現行の予報円・暴風警戒域方式が用いられている。また、予報期間は2002年(平成14年)6月から2009年(平成21年)3月は72時間先まで、2009年(平成21年)4月から120時間先まで発表されるようになっている。さらに、2020年(令和2年)9月9日からは、24時間以内に台風に発達する見込みの熱帯低気圧についても120時間先までの予報が出されている。
台風が上陸あるいは接近すると、暴風(強風)による人工物や樹木の倒壊、高潮・高波や大雨による水害(洪水や浸水のほか、土砂崩れ・地すべりなどの被害が発生する。
台風により暴風・強風を生じる。海岸近くでは吹き付けられた海水による塩害を生じることがあり、送電線の碍子(がいし)で放電現象を伴うこともある。
台風により高波やうねりを生じる。波の高さが10mを超えることもある。強風による吹き寄せと気圧低下によって高潮を生じることがある。珊瑚礁のある海岸など地形によっては波群津波が発生することもある。
雲が発達する割には台風本体接近時には雷を伴うことは少ない。しかし台風による間接的な雷雨が発生することがある。台風本体においては、進行方向の左側で比較的発生しやすい。
台風が日本海側を通った時、接近時の日本海側や、台風が太平洋側を通った時の離れていく時の太平洋側で、台風によるフェーン現象が発生しやすく(特に前者)乾燥した熱風による火災や急激な気温上昇による雪崩なども起こりやすい。
なお、台風が過ぎ去った後、台風が通過した地域では空が晴れ渡って良い天気になることがあり、これを「台風一過(たいふういっか)」と呼ぶ。( ウィクショナリーには、台風一過の項目があります。)
日本における台風の被害は、記録が明確な20世紀中盤以降、確実に減少してきている。これには、学術面では台風研究の発展、行政では予報の充実や経験等をもとにした防災体制の構築、民間では災害記録の伝承や自主防災活動による効果と考えられる。上陸時勢力が日本史上稀に見る強さであった伊勢湾台風以降、災害対策基本法制定をはじめ、伊勢湾台風クラスあるいは「スーパー伊勢湾台風」クラスの台風に耐えられるような防災体制が目標とされてきた。しかし、現在においても大きな被害が出て、さらなる防災の強化が行われている地域もある。また、日本の周辺諸国、特に東南アジアでは防災体制やインフラ等がまだ成熟していないため、地すべりや洪水等により多数の死者を伴う甚大な被害が発生することがある。
風による被害は比較的小さい一方で、雨による被害が大きい台風を雨台風と呼ぶ。一般的に、梅雨期に接近上陸する台風や秋雨前線の活動が活発な秋季の台風は、風よりも雨による被害が大きい。過去の代表的な雨台風の例としては、1947年のカスリーン台風や1958年の狩野川台風などが挙げられる。反対に、雨による被害は比較的小さい一方で、風による被害が大きい台風を風台風と呼び、過去の代表的な風台風の例としては、1954年の洞爺丸台風や1991年の平成3年台風第19号、2004年の平成16年台風第18号などが挙げられる。しかし、これらはいずれも気象庁が定めた俗称であり、あくまで便宜的な区別であるため厳密な定義はない。なお、台風そのものに「雨が強い」「風が強い」などの性質があるわけではなく、台風によって引き起こされた災害の結果によって、これらの言葉が使用されているだけである。
勢力が強い台風の場合は、雨と風の両方で甚大な被害が出ることも少なくない。平成18年台風第13号(2006年)では、九州付近の前線の活発化で、梅雨末期のような集中豪雨を呈した。佐賀県伊万里市では期間降水量の7割が上陸前日に降る集中豪雨となった。
被害という視点で語られることの多い台風も、日本では梅雨以後の夏期における、各地のダムや山間部の川の水資源確保の観点から見れば、定期的な台風の襲来は重要である。例えば、平成17年台風第14号(2005年)や平成19年台風第4号(2007年)は大きな被害(ともに激甚災害)を生んだが、台風襲来前は渇水によって0%となっていた早明浦ダムの貯水率をたった一晩で一気に100%以上にまで回復させたため、取水制限が解除された。つまり「台風が来なければよい」と一概には言えない。
気候変動に関する政府間パネルの第5次評価報告書でも示されているように、台風の大型化と地球温暖化は関係があるとする見方が強い。実際2004年には例年の3.8倍の数の台風が日本に上陸し、平成27年9月関東・東北豪雨、令和元年東日本台風は日本各地に甚大な被害をもたらした。地球温暖化は海洋、大気両方に影響を与える。前者において海水温上昇による海水の蒸発量の増加に伴い大気中の水蒸気が増加し、上昇気流が起きやすくなる。これによって発生した台風は大型化しやすくなる。後者においては対流圏の気温減率が小さくなり大気は安定する。このため台風ができにくくなり数は減少する。地球温暖化は台風に相反する2種の影響を与える。
台風は災害ではあるが、定期的に襲来するものであり、それなりに地域の自然の中で位置づけを持つものでもある。たとえば沖縄では台風の降水は地域住民にとっては水確保の上で重要な意味を持つ。同様に、沖縄における森林の物質循環を考える場合、落葉量に関しては、台風時のそれを無視することが出来ない。
また、台風に乗って移動する動物もある。定着している分布域ではないところに見つかるチョウを迷蝶というが、日本では熱帯域の種が本土で見つかる例があり、往々にして台風の後である。たとえばメスアカムラサキやカバマダラなどが、このようにして出現し、冬までに世代を重ねる例が知られる。それらは冬を越せない死滅回遊の例でもある。ウスバキトンボなどもこの例である。同様に、沖縄以南で繁殖し、本州付近ではまれにしか観察されない野鳥が迷鳥として台風の後に観察されることがある。
また、台風が太平洋上の生物を日本沿岸に吹き寄せる例もある。台風通過後に砂浜にそれらが打ち上げられる場合があり、カツオノエボシやカツオノカンムリなどのクラゲ類、アサガオガイやルリガイ、あるいはササノツユやマルカメガイなどの翼足類などが見られることがあり、貝類採集家などがこれを狙う。
日本では、台風の目に航空機から氷や水、人工降雨を促すヨウ化銀を散布して熱を奪い、勢力を弱める研究「タイフーンショット」が始まっている(「ムーンショット」にちなんだ命名)。また無人の帆船に台風を自動追尾させて発電に利用する構想もある
台風は、日本では「台風第○号」「台風○号」のように台風番号で呼称されることが多いが、それぞれの台風には、国際的に使用される固有名が付けられている。これを国際名という(2000年以降はアジア各国が提案した名前が付けられているためアジア名ともいう)。
以下に示す平年値は、1981年 - 2010年の30年のデータを基にした平均値である。
以下の記録のほとんどは、一部の例外を除いて、統計資料がある1951年からの統計に基づく。
(2022年現在)
(2022年現在)
(2022年現在)
海水温が最も低くなる2月が台風に関する年変わりの時期ともいえ、下記に示す1月1日基準は社会的な区分であることには注意が必要である。
※ - 測器破損のため推定値
複雑な進路を辿り、時に進路予報が難しいことのある台風のこと。「迷走台風」とも呼ばれるが、気象庁ではこの用語は用いられない。
台風に発達してから熱帯低気圧や温帯低気圧に変わるまでの期間が長い台風のこと。対義語は「短命台風」。前述の「複雑な動きをする台風」が「長寿台風」になることが多い。
太平洋のうち、日本の気象庁が観測対象とする範囲 (太平洋北西部・南シナ海) 以外で、ハリケーンやサイクロンなどとして発生したものが、観測範囲の境界線を越えて「台風」と分類されるようになった熱帯低気圧のこと。
1回以上勢力が衰え、最大風速が17.2m/s (33.5 kt) 以下の熱帯低気圧となってから、再び発達し最大風速が17.2m/s以上になって、「台風」になった熱帯低気圧のこと。
「年越し台風」とも呼ばれ、その名の通り年を跨いで発生する台風。基本的に12月に発生し翌年の1月に消滅する。このような台風の出現は非常に珍しく、過去(1951年以降)に5件しか例がない。越年台風の1つである2000年の平成12年台風第23号は、20世紀と21世紀を跨いだ、(観測記録が残る範囲で)過去唯一の「世紀越し台風」でもあった。
地球温暖化が進んだ将来、発生する台風の勢力は現在よりも強くなり、いわゆる「スーパー台風」と呼ばれるような強力な台風の発生が増加し、それによる日本への影響なども含めて増加するであろうと懸念されている。しかしその一方で、台風の発生数は温暖化により現在よりも少なくなるともいわれている。
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"text": "台風(たいふう、颱風、英: Typhoon)とは、熱帯低気圧のうち北西太平洋または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速が約17.2 m/s(34ノット(kt)、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称。",
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"text": "強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、ほとんどの場合、気象災害を引き起こす。上空から地球に向かって見ると反時計回りの積乱雲の渦からなる。超大型と呼ばれる台風は風速15m/sの強風域が半径800km以上と、とても大きな台風となる。「年別台風記事一覧」も参照。",
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"text": "気圧が最も低い位置を「気圧中心」といい、その位置と勢力で台風は定義される。温帯低気圧との最大の違いは、前線を伴っていないことである。",
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"text": "北西太平洋の「東経100度線から180度経線までの北半球」に中心が存在するものをいう。海域としては北太平洋西部(北西太平洋)およびその付属海である南シナ海、東シナ海、フィリピン海、日本海などにあたり、陸域としては東アジア、東南アジア、ミクロネシアのそれぞれ一部が含まれる。",
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"text": "なお世界気象機関の国際分類では地理的な領域に関係なく、熱帯低気圧を最大風速によりトロピカル・デプレッション、トロピカル・ストーム、シビア・トロピカル・ストーム、タイフーンの4段階に分類している。この場合における「タイフーン」と本項で述べている「台風」は英語では共に\"typhoon\"と呼ぶが、概念としては異なる。",
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"text": "なお、世界気象機関 (WMO) の世界気象監視計画 (WWW) により、北西太平洋海域の台風監視活動を行う中枢として、日本の気象庁が「熱帯低気圧プログラムに参画する地域特別気象中枢」(RSMC for TCP) に指定され、気象庁の判断が国際的には公式のものとされる。ただ、この海域では中華人民共和国、台湾、フィリピン、ベトナム、アメリカ合衆国などの気象機関がそれぞれ台風の監視を行い独自に推定を行っているため、機関によって風速等に多少の誤差が出ることもある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。ただし、野分とは暴風そのものを指す言葉であり、気象学上の台風とは概念が異なる。",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には熱帯低気圧を清国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書『颶風新話』)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "明治末頃、岡田武松によって颱風という言葉が生まれたとされている。1956年(昭和31年)に指針として「同音の漢字による書きかえ」が示されて以降は多く台風と書かれるようになった(これに対し台湾、香港では現在も「颱風」と呼称する)。由来には諸説があり、主な説としては、以下のものが挙げられる。",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "英語の「typhoon」は、古くは「touffon」と綴り、中国語の「大風」が由来とする説は不自然とされており、アラビア語起源、ギリシア語起源の二つの説が有力とされる。",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ちなみに沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称される。",
"title": "「台風」の語源"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "台風の中心位置、最大風速、中心気圧、暴風域半径、強風域半径などを総称して台風諸元という。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "亜熱帯や熱帯で海から供給される大量の水蒸気が上昇して空気が渦を巻き、できるのが熱帯低気圧で、これが最大風速17.2m/sを超えると台風となる。この点で冷たい空気と暖かい空気が混ざりあおうとして空気が渦を巻きできる温帯低気圧とは構造が異なる。温帯低気圧では冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあっており前線を伴うことがあるが、台風本体は暖かい空気のみでできているため前線を伴うことがない。台風の北上によって冷たい空気が流入したときには温帯低気圧に変化する(「#台風の発生から消滅」参照)。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "台風の中心付近は、風向きが乱れているために暴風が互いに打ち消し合う。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなることがある。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "発達した台風では背の高い積乱雲が中心部を取り巻いておりアイウォールと呼ばれている。構造としては、台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。壁の高さは地上1000mから上空1万mに達する。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上ではこの台風の進行方向右側半分を危険半円と呼ぶ。また、台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために相対的に風は弱く可航半円と呼ぶ。しかし、可航半円という概念はかつて帆船が台風の中心から遠ざかる針路をとるとき台風の進行方向左側に入っていれば右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(逆に、帆船が台風の進行方向右側に入っていると右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないよう保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "台風の勢力を分かりやすく表現する目的などから、台風は「強さ」と「大きさ」によって階級が定められ分類されている。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "強さによる分類は、国際的にはWMOが規定する分類法が使用されているが、それに準じた多少差異のある分類法も熱帯低気圧の等級のようにいくつか使用されていて、同じ台風でも気象機関によって異なるレベルに分類される場合がある。具体的には、米軍の合同台風警報センター (JTWC) では1分間平均の最大風速、日本の気象庁では10分間平均の最大風速によって分類する。例えば同じ台風の同時刻の観測において、米軍の合同台風警報センターが台風の強度に達したと判断しても、日本では強い台風の強度に達せず並の強さと判断する場合も生じる(1分間平均風速は10分間平均風速よりも1.2 - 1.3倍ほど大きく出る傾向にある)。また、最大風速で強さを分類しているが過去には中心気圧が用いられており、その名残りから、日本で発表される台風情報には中心気圧も網羅される。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、日本でもマスメディアなどにおいて用いられる「スーパー台風」の呼称については、気象庁における明確な定義は無いが、米国の合同台風警報センターでは最大強度階級130 knot(約67m/s・240 km/h)以上の台風のことを指して「スーパー台風」と呼んでいるほか、中華人民共和国(香港、マカオを含む)などでは風速100 ノット (185 km/h) 以上の台風を「スーパー台風」としている。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また日本の気象庁では、大きさによる分類も行っている。風速15m/s以上の強風域の大きさによって分類する。15m/s以上の半径が非対称の場合は、その平均値をとる。なお、以前は1,000ミリバール(現在使用されている単位系ではヘクトパスカルに相当)等圧線の半径で判断していた。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これらを組み合わせて、かつては「大型で並の強さの台風」というような言い方をしていた。しかし、組み合わせによっては「ごく小さく弱い台風」となる場合もある。1999年(平成11年)8月14日の玄倉川水難事故を契機に、このような表現では、危険性を過小評価した人が被害に遭うおそれがあるという防災の観点から、気象庁は2000年(平成12年)6月1日から、「弱い」や「並の」といった表現をやめ、上記表の(新)の欄のように表現を改めた。したがって、「小型で『中型で・ごく小さく』弱い『並の強さの』台風」と呼ばれていたものは、単に「台風」、「大型で並の強さの台風」は「大型の台風」と表現されるようになった。",
"title": "台風の構造と階級"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの台風は北半球における夏から秋にかけて発生する。最盛期のコースを例にとると、発生当初は貿易風の影響で西寄りに北上しつつ、太平洋高気圧の縁に沿って移動し、転向した後は偏西風の影響で東寄りに北上し、ジェット気流の強い地域に入ると速度を速めて東進し、海水温や気温の低下に起因する中心部上昇気流勢力の低下、海上に比べ起伏が激しくまた昼夜の温度差が大きい陸への上陸によって勢力を弱めていく。ただこのような教科書的なコースを辿るものはそれほど多くなく、太平洋高気圧の影響により西進し続けたり、停滞したりと、複雑な経路をとるものもしばしば現れる。日本列島やフィリピン諸島、台湾、中国華南・華中沿海部、朝鮮半島などに大きな被害を与える。コースによってはベトナムやマレーシア、マリアナ諸島、ミクロネシアなどを通ることもある。稀ではあるが冬季にも、海水温の高い低緯度で発生する。コースの北限はジェット気流であり、その流路変化に伴って暖かくなるにつれコースは北に移り、夏を過ぎると南に下がってくる。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "台風やハリケーン・サイクロンなどの熱帯低気圧を発生する機構については様々な説が唱えられてきた。熱帯の強い日射により海面に生じた上昇気流によるという説、熱帯収束帯(赤道前線)上に発生するという説などが出されたが、どれも不完全であった。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "現在では、「偏東風波動説」が多くの支持を集めている。南北両半球の北緯(南緯)30度付近には、赤道で上昇して北上(南下)した空気塊(潜熱を含む空気)がハドレー循環により上空に滞留してのち下降し、「亜熱帯高圧帯」が形成される。北太平洋高気圧もその例であるが、これらの高気圧から赤道方向に向けて吹き出した風はコリオリの力を受けて恒常的な東風になる。これが偏東風で、この風の流れの中にうねり(波動)ができると反時計周りの渦度が生じ、水蒸気が凝結する際に発生する潜熱がエネルギー源となり熱帯低気圧となるという考えである。なぜ波動が出来るのかはまだはっきりしないが、実際の状況には最もよく合致した説である。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ただし、そうして発生した波動の多くは発達せずにつぶれてしまう。1万メートル以上の上層に高気圧を伴う場合には高気圧の循環による上昇気流の強化により台風に発達すると思われる。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "一般に台風が発生する場合は海面の水温が26 - 27 °C以上であり、高温の海面から蒸発する水蒸気が原動力になっている。また台風の発生のうえでコリオリの力は必要であり、コリオリの力が小さい赤道付近(緯度5度くらいまで)では顕著な熱帯低気圧が発生しない。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "台風の発達過程はかなり詳しくわかっている。台風の原動力は凝結に伴って発生する熱である。温暖な空気と寒冷な空気の接触等による有効位置エネルギーが変換された運動エネルギーが発達のエネルギー源になっている温帯低気圧との大きな違いはここにある。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "上昇気流に伴って空気中の水蒸気は凝結し、熱(潜熱)を放出する。軽くなった空気は上昇する。すると地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。このような条件を満たすときに台風は発達する。このような対流雲の発達の仕方をシスク(CISK、第2種条件付不安定)という。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、台風が北半球で反時計周りの渦を巻くのは、風が中心に向かって進む際にコリオリの力を受けるためである。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2個の台風が1,000 km以内にある場合、互いに干渉し合って複雑な経路をたどることがある。これを提唱者である第五代中央気象台長の藤原咲平の名前をとって藤原の効果と呼ぶ。その動きは、相寄り型、指向型、追従型、時間待ち型、同行型、離反型の6つに分類されている。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一般に、台風は日本の南海上で発達し日本列島に接近・上陸すると衰える傾向がある。これは、南海上では海水温が高く、上述した台風の発達に必要な要素が整っているためで、日本列島に近づくと海水温が26 °C未満(真夏~初秋は日本列島付近でも26 °C以上の場合があり、台風が衰えない場合もある)になることにより台風の発達は収束傾向になる。初夏および晩夏~秋に日本列島へ近づく台風の多くは高緯度から寒気を巻き込んで、徐々に温帯低気圧の構造へと変化し、前線が形成されるようになる。温帯低気圧化が進んだ台風は南北の温度差により運動エネルギーを得るため、海水温が25°C以下の海域を進んだり上陸してもほとんど衰えない場合がある。さらに高緯度へ進み、前線が中心部にまで達すると温帯低気圧化が完了となる。もしくは、台風内の暖気核が消滅することで温帯低気圧化することもあるが、この場合は必ずしも低気圧の中心まで前線が描かれない場合がある。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本列島に上陸せず対馬海峡を通過して日本海南部に入った場合、または台風が日本列島にいったん上陸し、勢力が衰えた後に日本海南部へ出た場合は、暖流である対馬海流(海水温が26 °C以上の場合のみ)の暖気が台風へエネルギーを供給することで再発達し、普段は台風による被害を受けにくい北海道、東北地方に甚大な被害を与える場合もある。1954年の洞爺丸台風(昭和29年台風第15号)や、1991年の平成3年台風第19号(りんご台風)、2004年の平成16年台風第18号などがその例である。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "台風が海面水温の低い海域に達して水蒸気の供給が減少したり、移動する際の地表との摩擦によって台風本来のエネルギーを失うと熱帯低気圧や温帯低気圧に変化する。特に台風が北上して北方の冷たい空気を巻き込み始めると温帯低気圧に構造が変化する。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ただし、台風から温帯低気圧への変化は低気圧の構造の変化であり、必ずしも雨量や風速が弱くなるわけではない。2004年の台風18号では温帯低気圧に変化した後も中心気圧968hpa、最大風速30m/sの勢力をもち、この低気圧で北海道札幌市では最大瞬間風速50.2m/sを観測した。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "台風が日本本土を襲う経路は様々であり、類型化は難しいが、典型的な台風として、北緯15度付近のマリアナ諸島近海で発生して西寄りに時速20キロメートル程度で進み、次第に北寄りに進路を変えて北緯25度付近、沖縄諸島の東方で転向し、北東に向けて加速しながら日本本土に達するというパターンが考えられる。台風の経路として書籍にもしばしば掲載される型であるが、実際にはこのような典型的な経路を取るものは少なく、まれには南シナ海で発生してそのまま北東進するもの、日本の南東海上から北西進するもの、あるいは狩野川台風(1958年〈昭和33年〉台風第22号)のように明確な転向点がなく北上するものなどもある。さらに、盛夏期で台風を流す上層の気流が弱く方向も定まらないような時期には、複雑な動きをする台風も見られる。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本の気象庁の定義によれば、台風の上陸とは、台風の中心が北海道、本州、四国、九州の海岸に達することをいう。したがって、台風の中心が上記4島以外の島の海岸に至っても上陸とは言わないため、沖縄県に台風が上陸することはない。台風の中心が、小さい島や半島を横切って、短時間で再び海上に出ることは、台風の通過と呼ばれる。また、ある場所への台風の接近とは、台風の中心がその場所から半径300km以内に達することである。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本には、平均して、毎年11個前後の台風が接近し、そのうち3個くらいが日本本土に上陸する。2004年には10個の台風が上陸し、上陸数の記録を更新した(2004年の台風集中上陸参照)。その一方で1984年、1986年、2000年、2008年、2020年のように台風が全く上陸しなかった年もある。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "台風が日本本土に上陸するのは多くが7月から9月であり、年間平均上陸数は8月が最も多く、9月がこれに次ぐ。8月は、太平洋高気圧が日本付近を覆い、台風が接近しにくい状況ではあるが、台風発生数も最も多く、また高気圧の勢力には強弱の周期があるため、弱まって退いた時に台風が日本に接近・上陸することが多い。無論、西に進んでフィリピン・台湾・中国に上陸したり朝鮮半島方面に進んだりするものも少なくない。6月や10月にも数年に1度程度上陸することがある。最も早い例では1956年4月25日に台風3号が鹿児島県に上陸したことがあり、最も遅いものとしては、1990年11月30日に台風28号が紀伊半島に上陸した例がある。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "フィリピンでは毎年6月から12月にかけてに台風が襲来するリスクが高くなる。フィリピンでは年平均で約20個の台風が領域内で発生するか領海内に進んできており、うち6~9個の台風が上陸している。フィリピンでは2004年から2014年にかけての11年間に88の台風の影響を受け、合計死者数18,015人、合計負傷者43,840人、合計経済損害額13,700百万USドルの被害が発生した。",
"title": "台風の発生から消滅"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは、1943年にテキサス州ヒューストンを襲ったサプライズ・ハリケーン(英語版)の際に敢行された直接観測をきっかけとして、アメリカ軍が航空機により台風を直接観測するため、ハリケーン・ハンターと呼ばれる専門部隊を編成した。当初はアメリカ空軍とアメリカ海軍が個別に観測していたが、1993年からはアメリカ海洋大気庁 (NOAA) のNOAA ハリケーン・ハンターズ(英語版)に移管され、NOAA士官部隊が運用する観測機で直接観測を継続している。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本の気象庁は緯度では赤道から北緯60度、経度では東経100度から180度までの範囲にある台風の位置決定と予報を担当する。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "現在、台風の観測では気象衛星ひまわりが重要な役割を果たしており、雲画像の連続的な解析により台風の中心や風速などの観測がなされる。日本付近に接近あるいは上陸した台風については気象レーダーやアメダスも利用される。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2017年からは名古屋大学や琉球大学などの研究グループが航空機からドロップゾンデを投下、観測ドローンなどで直接観測を実施している。同研究グループは2017年10月21日、日本人研究者として初めて台風の中心付近を飛行機で直接観測することに成功した。得られたデータを衛星やレーダーからのデータと合わせることで予報精度の向上を目指している。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "台風の進路予報表示では、平均風速が15m/s以上の強風域を黄色の円、同じく25m/s以上の暴風域を赤色の円で表す。12、24、48、72、96および120時間後の到達予想範囲は点線の予報円で記す。台風の進路が予報円の中に入る確率はおおよそ70%である。また、台風の中心が予報円の中を通った場合、暴風域に入る恐れがある範囲を赤い線で囲む。これを暴風警戒域という。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "台風の進路予報表示は1953年(昭和28年)6月から1982年(昭和57年)5月まで扇形方式、1986年(昭和61年)5月まで予報円方式が用いられ、1986年(昭和61年)6月以降は現行の予報円・暴風警戒域方式が用いられている。また、予報期間は2002年(平成14年)6月から2009年(平成21年)3月は72時間先まで、2009年(平成21年)4月から120時間先まで発表されるようになっている。さらに、2020年(令和2年)9月9日からは、24時間以内に台風に発達する見込みの熱帯低気圧についても120時間先までの予報が出されている。",
"title": "台風の観測と進路予測"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "台風が上陸あるいは接近すると、暴風(強風)による人工物や樹木の倒壊、高潮・高波や大雨による水害(洪水や浸水のほか、土砂崩れ・地すべりなどの被害が発生する。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "台風により暴風・強風を生じる。海岸近くでは吹き付けられた海水による塩害を生じることがあり、送電線の碍子(がいし)で放電現象を伴うこともある。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "台風により高波やうねりを生じる。波の高さが10mを超えることもある。強風による吹き寄せと気圧低下によって高潮を生じることがある。珊瑚礁のある海岸など地形によっては波群津波が発生することもある。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "雲が発達する割には台風本体接近時には雷を伴うことは少ない。しかし台風による間接的な雷雨が発生することがある。台風本体においては、進行方向の左側で比較的発生しやすい。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "台風が日本海側を通った時、接近時の日本海側や、台風が太平洋側を通った時の離れていく時の太平洋側で、台風によるフェーン現象が発生しやすく(特に前者)乾燥した熱風による火災や急激な気温上昇による雪崩なども起こりやすい。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、台風が過ぎ去った後、台風が通過した地域では空が晴れ渡って良い天気になることがあり、これを「台風一過(たいふういっか)」と呼ぶ。( ウィクショナリーには、台風一過の項目があります。)",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "日本における台風の被害は、記録が明確な20世紀中盤以降、確実に減少してきている。これには、学術面では台風研究の発展、行政では予報の充実や経験等をもとにした防災体制の構築、民間では災害記録の伝承や自主防災活動による効果と考えられる。上陸時勢力が日本史上稀に見る強さであった伊勢湾台風以降、災害対策基本法制定をはじめ、伊勢湾台風クラスあるいは「スーパー伊勢湾台風」クラスの台風に耐えられるような防災体制が目標とされてきた。しかし、現在においても大きな被害が出て、さらなる防災の強化が行われている地域もある。また、日本の周辺諸国、特に東南アジアでは防災体制やインフラ等がまだ成熟していないため、地すべりや洪水等により多数の死者を伴う甚大な被害が発生することがある。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "風による被害は比較的小さい一方で、雨による被害が大きい台風を雨台風と呼ぶ。一般的に、梅雨期に接近上陸する台風や秋雨前線の活動が活発な秋季の台風は、風よりも雨による被害が大きい。過去の代表的な雨台風の例としては、1947年のカスリーン台風や1958年の狩野川台風などが挙げられる。反対に、雨による被害は比較的小さい一方で、風による被害が大きい台風を風台風と呼び、過去の代表的な風台風の例としては、1954年の洞爺丸台風や1991年の平成3年台風第19号、2004年の平成16年台風第18号などが挙げられる。しかし、これらはいずれも気象庁が定めた俗称であり、あくまで便宜的な区別であるため厳密な定義はない。なお、台風そのものに「雨が強い」「風が強い」などの性質があるわけではなく、台風によって引き起こされた災害の結果によって、これらの言葉が使用されているだけである。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "勢力が強い台風の場合は、雨と風の両方で甚大な被害が出ることも少なくない。平成18年台風第13号(2006年)では、九州付近の前線の活発化で、梅雨末期のような集中豪雨を呈した。佐賀県伊万里市では期間降水量の7割が上陸前日に降る集中豪雨となった。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "被害という視点で語られることの多い台風も、日本では梅雨以後の夏期における、各地のダムや山間部の川の水資源確保の観点から見れば、定期的な台風の襲来は重要である。例えば、平成17年台風第14号(2005年)や平成19年台風第4号(2007年)は大きな被害(ともに激甚災害)を生んだが、台風襲来前は渇水によって0%となっていた早明浦ダムの貯水率をたった一晩で一気に100%以上にまで回復させたため、取水制限が解除された。つまり「台風が来なければよい」と一概には言えない。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "気候変動に関する政府間パネルの第5次評価報告書でも示されているように、台風の大型化と地球温暖化は関係があるとする見方が強い。実際2004年には例年の3.8倍の数の台風が日本に上陸し、平成27年9月関東・東北豪雨、令和元年東日本台風は日本各地に甚大な被害をもたらした。地球温暖化は海洋、大気両方に影響を与える。前者において海水温上昇による海水の蒸発量の増加に伴い大気中の水蒸気が増加し、上昇気流が起きやすくなる。これによって発生した台風は大型化しやすくなる。後者においては対流圏の気温減率が小さくなり大気は安定する。このため台風ができにくくなり数は減少する。地球温暖化は台風に相反する2種の影響を与える。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "台風は災害ではあるが、定期的に襲来するものであり、それなりに地域の自然の中で位置づけを持つものでもある。たとえば沖縄では台風の降水は地域住民にとっては水確保の上で重要な意味を持つ。同様に、沖縄における森林の物質循環を考える場合、落葉量に関しては、台風時のそれを無視することが出来ない。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、台風に乗って移動する動物もある。定着している分布域ではないところに見つかるチョウを迷蝶というが、日本では熱帯域の種が本土で見つかる例があり、往々にして台風の後である。たとえばメスアカムラサキやカバマダラなどが、このようにして出現し、冬までに世代を重ねる例が知られる。それらは冬を越せない死滅回遊の例でもある。ウスバキトンボなどもこの例である。同様に、沖縄以南で繁殖し、本州付近ではまれにしか観察されない野鳥が迷鳥として台風の後に観察されることがある。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、台風が太平洋上の生物を日本沿岸に吹き寄せる例もある。台風通過後に砂浜にそれらが打ち上げられる場合があり、カツオノエボシやカツオノカンムリなどのクラゲ類、アサガオガイやルリガイ、あるいはササノツユやマルカメガイなどの翼足類などが見られることがあり、貝類採集家などがこれを狙う。",
"title": "台風の影響"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "日本では、台風の目に航空機から氷や水、人工降雨を促すヨウ化銀を散布して熱を奪い、勢力を弱める研究「タイフーンショット」が始まっている(「ムーンショット」にちなんだ命名)。また無人の帆船に台風を自動追尾させて発電に利用する構想もある",
"title": "台風の制御・利用の試み"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "台風は、日本では「台風第○号」「台風○号」のように台風番号で呼称されることが多いが、それぞれの台風には、国際的に使用される固有名が付けられている。これを国際名という(2000年以降はアジア各国が提案した名前が付けられているためアジア名ともいう)。",
"title": "台風の名前"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "以下に示す平年値は、1981年 - 2010年の30年のデータを基にした平均値である。",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "以下の記録のほとんどは、一部の例外を除いて、統計資料がある1951年からの統計に基づく。",
"title": "台風の統計"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(2022年現在)",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "(2022年現在)",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "(2022年現在)",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "海水温が最も低くなる2月が台風に関する年変わりの時期ともいえ、下記に示す1月1日基準は社会的な区分であることには注意が必要である。",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 71,
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"text": "※ - 測器破損のため推定値",
"title": "台風の統計"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "複雑な進路を辿り、時に進路予報が難しいことのある台風のこと。「迷走台風」とも呼ばれるが、気象庁ではこの用語は用いられない。",
"title": "特殊な台風"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "台風に発達してから熱帯低気圧や温帯低気圧に変わるまでの期間が長い台風のこと。対義語は「短命台風」。前述の「複雑な動きをする台風」が「長寿台風」になることが多い。",
"title": "特殊な台風"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "太平洋のうち、日本の気象庁が観測対象とする範囲 (太平洋北西部・南シナ海) 以外で、ハリケーンやサイクロンなどとして発生したものが、観測範囲の境界線を越えて「台風」と分類されるようになった熱帯低気圧のこと。",
"title": "特殊な台風"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1回以上勢力が衰え、最大風速が17.2m/s (33.5 kt) 以下の熱帯低気圧となってから、再び発達し最大風速が17.2m/s以上になって、「台風」になった熱帯低気圧のこと。",
"title": "特殊な台風"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "「年越し台風」とも呼ばれ、その名の通り年を跨いで発生する台風。基本的に12月に発生し翌年の1月に消滅する。このような台風の出現は非常に珍しく、過去(1951年以降)に5件しか例がない。越年台風の1つである2000年の平成12年台風第23号は、20世紀と21世紀を跨いだ、(観測記録が残る範囲で)過去唯一の「世紀越し台風」でもあった。",
"title": "特殊な台風"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "地球温暖化が進んだ将来、発生する台風の勢力は現在よりも強くなり、いわゆる「スーパー台風」と呼ばれるような強力な台風の発生が増加し、それによる日本への影響なども含めて増加するであろうと懸念されている。しかしその一方で、台風の発生数は温暖化により現在よりも少なくなるともいわれている。",
"title": "台風の将来予測"
}
] |
台風とは、熱帯低気圧のうち北西太平洋または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速が約17.2 m/s(34ノット、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称。 強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、ほとんどの場合、気象災害を引き起こす。上空から地球に向かって見ると反時計回りの積乱雲の渦からなる。超大型と呼ばれる台風は風速15m/sの強風域が半径800km以上と、とても大きな台風となる。「年別台風記事一覧」も参照。
|
{{Redirect|颱風|その他|台風 (曖昧さ回避)}}
{{ウィキポータルリンク|気象と気候}}
{{ウィキポータルリンク|災害}}
[[ファイル:Haiyan 2013-11-07 1345Z (alternate).png|サムネイル|台風の[[人工衛星]]画像([[平成25年台風第30号]]、[[2013年]])]]
'''台風'''(たいふう、'''颱風'''、{{lang-en-short|Typhoon|links=no}})とは、[[熱帯低気圧]]のうち北西[[太平洋]]または[[南シナ海]]に存在し、かつ[[低気圧]]域内の最大[[風速]]が約17.2 [[メートル毎秒|m/s]](34[[ノット]](kt)、[[ビューフォート風力階級|風力]]8)以上にまで発達したものを指す呼称<ref name="yougo">{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi2.html|title=予報用語 台風に関する用語|publisher=気象庁|accessdate=2019-10-13}}</ref>。
[[強風域]]や[[暴風域]]を伴って強い[[雨]]や[[風]]をもたらすことが多く、ほとんどの場合、[[気象]][[災害]]を引き起こす。上空から[[地球]]に向かって見ると反時計回りの[[積乱雲]]の渦からなる。超大型と呼ばれる台風は風速15m/sの強風域が半径800[[キロメートル|km]]以上と、とても大きな台風となる。「[[年別台風記事一覧]]」も参照。
== 定義 ==
気圧が最も低い位置を「気圧中心」といい<ref name="gijutsu">{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/koushu/taifu_kaiseki_gijutsu.pdf |title=台風解析の技術|publisher=気象庁予報部|date=2009年10月29日 |accessdate=2021-09-20 |format=PDF }}</ref>、その位置と勢力で台風は定義される。温帯低気圧との最大の違いは、'''[[前線 (気象)|前線]]を伴っていない'''ことである。
=== 位置 ===
[[File:Tropical cyclone name number.png|thumb|位置による違い1:ハリケーン、'''2:台風'''、3:サイクロン]]
北西太平洋の「[[東経100度線]]から[[180度経線]]までの[[北半球]]」に中心が存在するものをいう<ref name="typhoonknow">{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq14.html |title=台風について|website=気象庁 よくある質問|accessdate=2021-09-20}}</ref>。海域としては[[北太平洋]]西部(北西太平洋)およびその付属海である[[南シナ海]]、[[東シナ海]]、[[フィリピン海]]、[[日本海]]などにあたり、陸域としては[[東アジア]]、[[東南アジア]]、[[ミクロネシア]]のそれぞれ一部が含まれる。
最大風速が17 m/s以上の熱帯低気圧のうち、北[[インド洋]]にあるものは「'''[[サイクロン]]'''」<ref group="注">ただし、サイクロンは、[[温帯低気圧]]を含めた全ての低気圧を意味することもある{{要出典|date=2021年9月}}。</ref>と呼ばれる<ref name="typhoonknow" />。南太平洋、北太平洋([[180度経線]]以東)、北大西洋の熱帯低気圧のうち最大風速が33 m/s(64 kt)以上のものは「'''[[ハリケーン]]'''」と呼ばれる{{Sfn|小倉|2016|p=231}}<ref group="注">ハリケーンは台風やサイクロンよりも風速の基準が高い。なお、この区域で最大風速が17.2m/s以上32.7m/s未満のものを[[トロピカルストーム]]と呼ぶ。</ref>。ただし、台風、サイクロン、ハリケーンともに現象としては同一である{{Sfn|小倉|2016|p=231}}{{Sfn|田中|2017|p=277}}。これらの熱帯低気圧が地理的な境界線を越えた場合は呼び方が変わる。例えば、[[2006年]]に北東太平洋で発生したハリケーン・イオケは、西進して経度180度を越えたため[[平成18年台風第12号|台風12号]]になった。このように、区域を跨って台風に変わったものを'''[[越境台風]]'''と呼ぶ。<!--ここから出典あり-->越境で台風でなくなるものもあり、[[2019年]]の[[平成31年台風第1号|台風1号]]は、[[マレー半島]]付近で東経100度線を越えたことにより台風からサイクロンに変わった<ref>{{Cite web|和書|url=https://weathernews.jp/s/topics/201901/030065/|title=台風1号 気象庁の監視域外へ出る 21年ぶりにサイクロンに|publisher=[[ウェザーニューズ|ウェザーニュース]]|date=2019-01-05|accessdate=2019-01-05}}</ref>。
{{See also|熱帯低気圧#分類・命名}}
なお[[熱帯低気圧#分類・命名|世界気象機関の国際分類]]では地理的な領域に関係なく、熱帯低気圧を最大風速によりトロピカル・デプレッション、トロピカル・ストーム、シビア・トロピカル・ストーム、'''タイフーン'''の4段階に分類している。この場合における「タイフーン」と本項で述べている「台風」は英語では共に"typhoon"と呼ぶが、概念としては異なる。
=== 勢力 ===
台風の場合、熱帯低気圧域内で最大風速17 m/s以上を満たしたものを指す<ref name="typhoonknow" />。
台風の位置や中心気圧、最大風速、大きさの数値は過去の観測データの蓄積により確立された[[ドボラック法]]に基づいて[[人工衛星]]画像から推定し、地上や船舶で風速が観測できた場合にその都度修正していく方法を採っている<ref name="gijutsu" />ため、「中心付近の最大風速」は必ずしも実測値ではない。例えば洋上にある台風中心の風速を実測するには航空機が必要となり、実際に[[1987年]]([[昭和]]62年)までは[[アメリカ軍|米軍]]が[[ハリケーン・ハンター|航空機観測]]を実施していた時期もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/help/dvorak.html.ja |title=デジタル台風:台風観測とドボラック法 |publisher=北本 朝展@[[国立情報学研究所]](NII)|accessdate=2016-08-24}}</ref>が、観測員や設備・運用等の負担が大きく、現在日本では航空機による観測は恒常的な手段としては行われていない(学術研究目的での観測例はある)。
なお、[[世界気象機関]] (WMO) の[[世界気象監視計画]] (WWW) により、北西太平洋海域の台風監視活動を行う中枢として、日本の[[気象庁]]が「熱帯低気圧プログラムに参画する[[地域特別気象中枢]]」(RSMC for TCP) に指定され、気象庁の判断が国際的には公式のものとされる。ただ、この海域では[[中華人民共和国]]、[[台湾]]、[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[アメリカ合衆国]]などの気象機関がそれぞれ台風の監視を行い独自に推定を行っているため、機関によって風速等に多少の誤差が出ることもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/help/life.html.ja |title=台風(熱帯低気圧)の定義とその一生 |accessdate=2015-10-06}}</ref>。
== 「台風」の語源 ==
日本では、古くは野の[[草]]を吹いて分けるところから、'''野分'''(のわき、のわけ)といい、[[11世紀]]初頭の『[[枕草子]]』『[[源氏物語]]』などにもその表現を見ることが出来る<ref name="kininaru0922">{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/197893.html|title=台風の語源|work=トクする日本語|publisher=[[日本放送協会]]|date=2014-09-22|accessdate=2014-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141012013252/http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/197893.html|archivedate=2014-10-12}}</ref><ref>また、[[柳田国男]]は、古代語「わき」におそろしい強風という意味が含まれていなかったかと指摘している。参照:[[山本健吉]]『基本季語五〇〇選』([[講談社学術文庫]]、1989年)600-601頁。</ref>。ただし、野分とは暴風そのものを指す言葉であり、[[気象学]]上の台風とは概念が異なる{{Sfn|高橋|1976|pp=155-156}}。
江戸時代には熱帯低気圧を[[清|清国]]にならって'''颶風'''(ぐふう)と訳した文献([[伊藤慎蔵]]によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書『颶風新話』)があるが、[[明治]]の初めには'''タイフーン'''または'''大風'''(おおかぜ)などと表していた<ref>『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]] 1998年</ref>。
明治末頃、[[岡田武松]]によって'''颱風'''という言葉が生まれたとされている{{Sfn|高橋|1976|p=155}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1960/1960_07_0220.pdf|title=台風の古い日本名|accessdate=2020/11/3|publisher=日本気象学会|author=肥沼寛一|format=PDF}}</ref>。[[1956年]](昭和31年)に指針として「[[同音の漢字による書きかえ]]」が示されて以降は多く'''台風'''と書かれるようになった{{Sfn|高橋|1976|p=155}}(これに対し台湾、香港では現在も「颱風」と呼称する)。由来には諸説があり、主な説としては、以下のものが挙げられる<ref name="kininaru0922" />。
# [[ギリシア神話]]に登場する怪物・[[テューポーン|テュポン]] ({{lang|el|τυφων}}, {{lang|el-latn|Typhon}}) に由来する「{{lang|el-latn|typhoon}}」から「{{lang|ja|颱風}}」となった。
# [[アラビア語]]で嵐を意味する「{{lang|fa|[[wikt:طوفان|طوفان]]}} ({{lang|fa-latn|tufan}})」が東洋に伝わり、「{{lang|ja|颱風}}」となった。また、英語では「{{lang|en|typhoon}}」(タイフーン)となった。
# 中国[[広東省]]で、南または東の激しい風のことを外国からの風のとして{{lang|yue-Hant|'''大風'''}}({{lang|yue-latn|daai6fung1}}、ターイフォン)といい、その後、西洋に伝わり、ギリシア神話の[[テューポーン|テュポン]]の影響でギリシャ式の"{{lang|en|typhoon}}"というつづりで書かれるようになり、東洋に逆輸入され「{{lang|ja|颱風}}」となった。
# {{要出典範囲|[[沖縄諸島|沖縄]](当時は琉球)でつくられた言葉とする説:[[久米 (那覇市)|久米村]]の気象学者[[蔡温]]の[[造語]]であるといわれる|date=2021-11-18|title=NHK出典に一切記述なし}}。
[[英語]]の「{{lang|en|typhoon}}」は、古くは「{{lang|en|touffon}}」と綴り、中国語の「{{lang|yue-Hant|大風}}」が由来とする説は不自然とされており、[[アラビア語]]起源、[[ギリシア語]]起源の二つの説が有力とされる。
{{誰2|date=2021-11-18}}
ちなみに沖縄の[[沖縄方言|ウチナーグチ]]では「{{lang|ryu|カジフチ}}(風吹き)」または「{{lang|ryu|テーフー}}(台風)」と称される。
== 台風の構造と階級 ==
台風の中心位置、最大風速、中心気圧、暴風域半径、強風域半径などを総称して台風諸元という<ref name="gijutsu" />。
=== 台風の構造 ===
[[ファイル:Hurricane profile.svg|thumb|280x280px|熱帯低気圧の構造図(垂直方向に拡大してある)。目の周辺部では上昇気流、目の中心部の上空では下降気流が起きている。|代替文=]]
[[亜熱帯]]や[[熱帯]]で海から供給される大量の[[水蒸気]]が上昇して空気が渦を巻き、できるのが熱帯低気圧で、これが最大風速17.2m/sを超えると台風となる<ref name="Q&A_taihuu">{{Cite web|和書|url=https://www.jma-net.go.jp/akita/Q&A/qandanew_taihuu.htm |title=台風と熱帯低気圧と温帯低気圧は何が違うのですか? |publisher=[[秋田県|秋田]][[地方気象台]] |accessdate=2016-09-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323085715/https://www.jma-net.go.jp/akita/Q&A/qandanew_taihuu.htm|archivedate=2011-03-23}}</ref>。この点で冷たい空気と暖かい空気が混ざりあおうとして空気が渦を巻きできる温帯低気圧とは構造が異なる<ref name="Q&A_taihuu" />。温帯低気圧では冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあっており前線を伴うことがあるが、台風本体は暖かい空気のみでできているため前線を伴うことがない<ref name="Q&A_taihuu" />。台風の北上によって冷たい空気が流入したときには温帯低気圧に変化する(「[[#台風の発生から消滅]]」参照)。
[[ファイル:Hurricane_Isabel_from_ISS.jpg|サムネイル|196x196px|中央に見える丸い空洞のような部分が「台風の目」である。|代替文=|左]]
台風の中心付近は、風向きが乱れているために暴風が互いに打ち消し合う<ref group="注">中心付近は[[遠心力]]が強く、中心へ収束しようとする暴風と打ち消し合う。</ref>。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を'''[[台風の目]]'''と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなることがある。
発達した台風では背の高い積乱雲が中心部を取り巻いており'''アイウォール'''と呼ばれている<ref>[https://tenki.jp/bousai/knowledge/5accc20.html 台風の仕組み] 日本気象協会</ref>。構造としては、台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる('''内側降雨帯''')。壁の高さは地上1000mから上空1万mに達する。そして、その外周には'''外側降雨帯'''が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に'''先駆降雨帯'''が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して'''右側(南東側)'''のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上ではこの台風の進行方向右側半分を'''危険半円'''と呼ぶ。また、台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために相対的に風は弱く'''可航半円'''と呼ぶ。しかし、可航半円という概念はかつて帆船が台風の中心から遠ざかる針路をとるとき台風の進行方向左側に入っていれば右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(逆に、帆船が台風の進行方向右側に入っていると右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないよう保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
=== 台風の階級 ===
台風の勢力を分かりやすく表現する目的などから、台風は「強さ」と「大きさ」によって階級が定められ分類されている<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi2.html 気圧配置 台風に関する用語] 気象庁(2021年9月20日閲覧)</ref><ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-3.html 台風の大きさと強さ] 気象庁(2021年9月20日閲覧)</ref>。
強さによる分類は、国際的にはWMOが規定する分類法が使用されているが、それに準じた多少差異のある分類法も{{仮リンク|熱帯低気圧の等級|en|Tropical cyclone scales}}のようにいくつか使用されていて、同じ台風でも気象機関によって異なるレベルに分類される場合がある。具体的には、米軍の[[合同台風警報センター]] (JTWC) では1分間平均の最大風速、日本の気象庁では10分間平均の最大風速によって分類する。例えば同じ台風の同時刻の観測において、米軍の合同台風警報センターが台風の強度に達したと判断しても、日本では強い台風の強度に達せず並の強さと判断する場合も生じる(1分間平均風速は10分間平均風速よりも1.2 - 1.3倍ほど大きく出る傾向にある)。また、最大風速で強さを分類しているが過去には中心気圧が用いられており、その名残りから、日本で発表される台風情報には中心気圧も網羅される。
なお、日本でもマスメディアなどにおいて用いられる「'''[[スーパー台風]]'''」の呼称については、気象庁における明確な定義は無いが<ref>[[知恵蔵]]mini|[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E5%8F%B0%E9%A2%A8-689113 スーパー台風] [[コトバンク]](2021年9月20日閲覧)</ref>、米国の合同台風警報センターでは最大強度階級130 knot(約67m/s・240 km/h)以上の台風のことを指して「スーパー台風」と呼んでいるほか<ref>『天気』[[坪木和久]]「{{PDFlink|[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2018/2018_06_0073.pdf スーパー台風]}}」、2018年10月25日閲覧。</ref><ref name="名前なし-1">[http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/feedback/ja/0044.html.ja 質問44:スーパー台風とスーパー伊勢湾台風は同じ表現?] デジタル台風、2009年10月12日閲覧。</ref>、中華人民共和国([[香港]]、[[マカオ]]を含む)などでは風速100 ノット (185 km/h) 以上の台風を「スーパー台風」としている。
{| class="wikitable"
!rowspan="2"|最大風速 (m/s)!!rowspan="2"|最大風速 (knot)!!rowspan="2"|国際分類!!colspan="4"|日本の分類
|-
!colspan="2"|(旧)!!colspan="2"|(新)
|-
|<17.2||≦33||bgcolor=#{{storm colour|TD}}|'''Tropical Depression''' /'''トロピカル・デプレッション''' ('''TD''')|| colspan="2" |弱い熱帯低気圧||colspan="2"|熱帯低気圧
|-
|17.2 - 24.5||34 - 47||bgcolor=#{{storm colour|TS}}|'''Tropical Storm''' /'''トロピカル・ストーム''' ('''TS''')|| rowspan="5" |台風||弱い||rowspan="5"|台風||rowspan="2"|(特になし)
|-
|24.6 - 32.6||48 - 63||bgcolor=#{{storm colour|STS}}|'''Severe Tropical''' '''Storm''' / '''シビア・トロピカル・ストーム''' ('''STS''')||並の強さ
|-
|32.7 - 43.7||64 - 84||rowspan="3" bgcolor=#{{storm colour|TY}}|'''Typhoon''' / '''タイフーン''' ('''T'''または'''TY''')||強い||強い
|-
|43.7 - 54.0||85 - 104||非常に強い||非常に強い
|-
|>54.0||≧105||猛烈な||猛烈な
|}
{| class="wikitable"
|+JTWCによる分類
!階級
!最大風速 (1分間平均)
|-
! style="background-color:#8A2BE2" |<span style="color:#fff;">スーパー台風</span>
|130 knot (240 km/h) 以上
|-
! style="background-color:#FF0000" |<span style="color:#fff;">台風</span>
|63 - 129 knot (118 - 239 km/h)
|-
! style="background-color:#FF8C00" |熱帯性暴風雨
|34 - 62 knot (63 - 117 km/h)
|-
! style="background-color:#FFFF00" |熱帯低気圧
|22 - 33 knot (41 - 62 km/h)
|}
{| class="wikitable"
|+[[フィリピン大気地球物理天文局]] (PAGASA) による分類
!階級
!風速
|-
! style="background-color:#8A2BE2" |<span style="color:#fff;">スーパー台風</span>
|221 km/h 以上
|-
! style="background-color:#FF0000" |<span style="color:#fff;">台風</span>
|118 - 220 km/h
|-
! style="background-color:#FF8C00" |激しい熱帯性暴風雨
|89 - 117 km/h
|-
! style="background-color:#FFFF00" |熱帯性暴風雨
|61 - 88 km/h
|-
! style="background-color:#00FFFF" |熱帯低気圧
|30 - 60 km/h
|}
{| class="wikitable"
|+[[香港天文台]]・[[マカオ地球物理気象局]]による分類
!階級
!風速
|-
! style="background-color:#8A2BE2" |<span style="color:#fff;">スーパー台風</span>
|100 knot (185 km/h) 以上
|-
! style="background-color:#FF0000" |<span style="color:#fff;">強い台風</span>
|81 - 99 knot (150 - 184 km/h)
|-
! style="background-color:#FF8C00" |台風
|64 - 80 knot (118 - 149 km/h)
|-
! style="background-color:#FFFF00" |激しい熱帯性暴風雨
|48 - 63 knot (88 - 117 km/h)
|-
! style="background-color:#ADFF2F" |熱帯性暴風雨
|34 - 47 knot (63 - 87 km/h)
|-
! style="background-color:#00FFFF" |熱帯低気圧
|22 - 33 knot (41 - 62 km/h)
|}
{| class="wikitable"
|+{{仮リンク|国家気象センター|zh|国家气象中心|label=}}による分類
!階級
!風速
|-
! style="background-color:#8A2BE2" |<span style="color:#fff;">スーパー台風</span>
|51.4 m/s (185 km/h) 以上
|-
! style="background-color:#FF0000" |<span style="color:#fff;">強い台風</span>
|41.7 - 51.3 m/s (150 - 184 km/h)
|-
! style="background-color:#FF8C00" |台風
|32.8 - 41.6 m/s (118 - 149 km/h)
|-
! style="background-color:#FFFF00" |激しい熱帯性暴風雨
|24.5 - 32.7 m/s (88 - 117 km/h)
|-
! style="background-color:#ADFF2F" |熱帯性暴風雨
|17.5 - 24.4 m/s (63 - 87 km/h)
|-
! style="background-color:#00FFFF" |熱帯低気圧
|17.4 m/s (62 km/h) 以下
|}
また日本の気象庁では、大きさによる分類も行っている<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|台風の大きさと強さ|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-3.html|website=www.jma.go.jp|accessdate=2020-04-15}}</ref>。風速15m/s以上の[[強風域]]の大きさによって分類する。15m/s以上の半径が非対称の場合は、その平均値をとる。なお、以前は1,000[[ミリバール]](現在使用されている単位系では[[ヘクトパスカル]]に相当)等圧線の半径で判断していた。
{| class="wikitable"
! colspan="2" |大きさの階級
! rowspan="2" |風速15m/s以上の半径
|-
!(旧)
!(新)
|-
! colspan="2" style="background-color:#8A2BE2" |<span style="color:#fff;">超大型の台風</span>
|≧ 800km
|-
! colspan="2" style="background-color:#FF0000" |<span style="color:#fff;">大型の台風</span>
|500 - 800km
|-
! style="background-color:#FF8C00" |中型 (並みの大きさ) の台風
| rowspan="3" |(特になし)
|300 - 500km
|-
! style="background-color:#FFFF00" |小型の (小さい) 台風
|200 - 300km
|-
! style="background-color:#00FFFF" |ごく小さい台風
|< 200 km
|}
これらを組み合わせて、かつては「大型で並の強さの台風」というような言い方をしていた。しかし、組み合わせによっては「ごく小さく弱い台風」となる場合もある。[[1999年]](平成11年)[[8月14日]]の[[玄倉川水難事故]]を契機に、このような表現では、危険性を過小評価した人が被害に遭うおそれがあるという防災の観点から、気象庁は[[2000年]](平成12年)[[6月1日]]から、「弱い」や「並の」といった表現をやめ、上記表の(新)の欄のように表現を改めた。したがって、「小型で『中型で・ごく小さく』弱い『並の強さの』台風」と呼ばれていたものは、単に「台風」、「大型で並の強さの台風」は「大型の台風」と表現されるようになった。
== 台風の発生から消滅 ==
[[ファイル:Pacific typhoon tracks 1980-2005.jpg|thumb|right|300px|1980年から2005年までの北西太平洋上での熱帯低気圧の経路。]]
ほとんどの台風は[[北半球]]における[[夏]]から[[秋]]にかけて発生する。最盛期のコースを例にとると、発生当初は貿易風の影響で西寄りに北上しつつ、[[太平洋高気圧]]の縁に沿って移動し、[[転向 (気象)|転向]]した後は[[偏西風]]の影響で東寄りに北上し、[[ジェット気流]]の強い地域に入ると速度を速めて東進し、海水温や気温の低下に起因する中心部上昇気流勢力の低下、海上に比べ起伏が激しくまた昼夜の温度差が大きい陸への上陸によって勢力を弱めていく。ただこのような教科書的なコースを辿るものはそれほど多くなく、太平洋高気圧の影響により西進し続けたり、停滞したりと、複雑な経路をとるものもしばしば現れる。日本列島や[[フィリピン]]諸島、台湾、中国[[華南]]・[[華中]]沿海部、[[朝鮮半島]]などに大きな被害を与える。コースによっては[[ベトナム]]や[[マレーシア]]、[[マリアナ諸島]]、[[ミクロネシア]]などを通ることもある。稀ではあるが冬季にも、海水温の高い低緯度で発生する<ref group="注">例えばユーラシア大陸からの冷たい寒気が対馬暖流の上を移動する事で、下層と上層の温度差が極地方の海上並みに非常に大きくなる等して発生し得る。</ref>。コースの北限はジェット気流であり、その流路変化に伴って暖かくなるにつれコースは北に移り、夏を過ぎると南に下がってくる。
{{See also|熱帯低気圧#発生から消滅まで}}
=== 台風の一生 ===
==== 台風の発生 ====
台風やハリケーン・サイクロンなどの熱帯低気圧を発生する機構については様々な説が唱えられてきた。[[熱帯]]の強い日射により海面に生じた上昇気流によるという説、[[熱帯収束帯]](赤道前線)上に発生するという説などが出されたが、どれも不完全であった。
{{要検証範囲|現在では、「偏東風[[波動]]説」が多くの支持を集めている。南北両半球の北緯(南緯)30度付近には、[[赤道]]で上昇して北上(南下)した[[空気]]塊([[潜熱]]を含む空気)が[[ハドレー循環]]により上空に滞留してのち下降し、「[[亜熱帯高圧帯]]」が形成される。[[太平洋高気圧|北太平洋高気圧]]もその例であるが、これらの高気圧から赤道方向に向けて吹き出した風は[[コリオリの力]]を受けて恒常的な東風になる。これが[[偏東風]]で、この風の流れの中にうねり(波動)ができると反時計周りの渦度が生じ、水蒸気が凝結する際に発生する潜熱がエネルギー源となり熱帯低気圧となるという考えである。なぜ波動が出来るのかはまだはっきりしないが、実際の状況には最もよく合致した説である。|date=2019年10月}}
ただし、そうして発生した波動の多くは発達せずにつぶれてしまう。1万メートル以上の上層に高気圧を伴う場合には高気圧の循環による上昇気流の強化により台風に発達すると思われる。
一般に台風が発生する場合は海面の水温が26 - 27 [[セルシウス度|℃]]以上であり{{Sfn|小倉|2016|p=232}}、高温の海面から蒸発する水蒸気が原動力になっている{{Sfn|田中|2017|p=279}}。また台風の発生のうえでコリオリの力は必要であり、コリオリの力が小さい赤道付近(緯度5度くらいまで)では顕著な熱帯低気圧が発生しない{{Sfn|小倉|2016|p=231}}。
==== 台風の発達 ====
[[ファイル:Hurricane structure graphic.jpg|thumb|300 px|台風の内部構造を示した図{{-}}Eye:目、Eyewall:目の壁、Rain Bands:降雨帯<ref>{{Cite web|和書
|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200906070137790682&q=&t=2
|title=rain band=降雨帯
|publisher=[[科学技術振興機構]]
|accessdate=2009-10-07
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|author=坪木和久
|url=http://www.rain.hyarc.nagoya-u.ac.jp/~tsuboki/src/pdf_papers_nr/KUDPRI_Typhoon_Conf2006_KTsuboki.pdf
|title=台風に伴う竜巻をもたらす降雨帯の雲解像モデルを用いた数値シミュレーション
|format=PDF
|pages=3/8ページ
|publisher=[[名古屋大学]]気象学研究室
|accessdate=2009-10-08
}}</ref>]]
台風の発達過程はかなり詳しくわかっている。台風の原動力は[[凝縮|凝結]]に伴って発生する熱である。温暖な空気と寒冷な空気の接触等による[[対流有効位置エネルギー|有効位置エネルギー]]が変換された[[運動エネルギー]]が発達のエネルギー源になっている[[温帯低気圧]]との大きな違いはここにある。
上昇気流に伴って空気中の水蒸気は凝結し、熱([[潜熱]])を放出する。軽くなった空気は上昇する。すると地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。このような条件を満たすときに台風は発達する。このような[[対流雲]]の発達の仕方をシスク(CISK、[[第2種条件付不安定]])という。
なお、台風が北半球で反時計周りの渦を巻くのは、風が中心に向かって進む際に[[コリオリの力]]を受けるためである。
2個の台風が1,000 km以内にある場合、互いに干渉し合って複雑な経路をたどることがある。これを提唱者である第五代[[気象庁#沿革|中央気象台]]長の[[藤原咲平]]の名前をとって[[藤原の効果]]と呼ぶ。その動きは、相寄り型、指向型、追従型、時間待ち型、同行型、離反型の6つに分類されている。
一般に、台風は日本の南海上で発達し日本列島に接近・上陸<ref name="yougo" />すると衰える傾向がある。これは、南海上では海水温が高く、上述した台風の発達に必要な要素が整っているためで、日本列島に近づくと海水温が26 ℃未満(真夏~初秋は日本列島付近でも26 ℃以上の場合があり、台風が衰えない場合もある)になることにより台風の発達は収束傾向になる。初夏および晩夏~秋に日本列島へ近づく台風の多くは高緯度から寒気を巻き込んで、徐々に温帯低気圧の構造へと変化し、[[前線 (気象)|前線]]が形成されるようになる。温帯低気圧化が進んだ台風は南北の温度差により運動エネルギーを得るため、海水温が25℃以下の海域を進んだり上陸してもほとんど衰えない場合がある。さらに高緯度へ進み、前線が中心部にまで達すると温帯低気圧化が完了となる。もしくは、台風内の暖気核が消滅することで温帯低気圧化することもあるが、この場合は必ずしも低気圧の中心まで前線が描かれない場合がある<ref>鈴木和史「{{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/mscweb/technotes/msctechrep38-3.pdf 台風の温帯低気圧化における衛星画像の特徴]}}」『気象衛星センター 技術報告』38号(2000年3月)2021年9月20日閲覧</ref>。
日本列島に上陸せず[[対馬海峡]]を通過して[[日本海]]南部に入った場合、または台風が日本列島にいったん上陸し、勢力が衰えた後に日本海南部へ出た場合は、暖流である[[対馬海流]](海水温が26 ℃以上の場合のみ)の暖気が台風へエネルギーを供給することで再発達し、普段は台風による被害を受けにくい北海道、東北地方に甚大な被害を与える場合もある。[[1954年]]の[[洞爺丸台風]](昭和29年台風第15号)や、[[1991年]]の[[平成3年台風第19号]](りんご台風)、[[2004年]]の[[平成16年台風第18号]]などがその例である。
==== 台風の消滅 ====
台風が海面水温の低い海域に達して水蒸気の供給が減少したり、移動する際の地表との摩擦によって台風本来のエネルギーを失うと熱帯低気圧や温帯低気圧に変化する<ref name="hitachi" />。特に台風が北上して北方の冷たい空気を巻き込み始めると温帯低気圧に構造が変化する<ref name="hitachi">{{PDFlink|[http://www.hitachi-hoken.co.jp/group/products/pdf/report_13.pdf 防災調査の現場から 第13回]}} 日立保険サービス(2020年2月13日閲覧</ref>。
ただし、台風から温帯低気圧への変化は低気圧の構造の変化であり、必ずしも雨量や風速が弱くなるわけではない<ref name="hitachi" />。2004年の台風18号では温帯低気圧に変化した後も中心気圧968hpa、最大風速30m/sの勢力をもち、この低気圧で北海道札幌市では最大瞬間風速50.2m/sを観測した<ref name="hitachi" />。
=== 各国への影響 ===
==== 日本 ====
台風が日本[[本土]]を襲う経路は様々であり、類型化は難しいが、典型的な台風として、北緯15度付近の[[マリアナ諸島]]近海で発生して西寄りに時速20キロメートル程度で進み、次第に北寄りに進路を変えて北緯25度付近、[[沖縄諸島]]の東方で転向し、北東に向けて加速しながら日本本土に達するというパターンが考えられる。台風の経路として書籍にもしばしば掲載される型であるが、実際にはこのような典型的な経路を取るものは少なく、まれには南シナ海で発生してそのまま北東進するもの、日本の南東海上から北西進するもの、あるいは[[狩野川台風]]([[1958年]]〈昭和33年〉台風第22号)のように明確な転向点がなく北上するものなどもある。さらに、盛夏期で台風を流す上層の気流が弱く方向も定まらないような時期には、[[複雑な動きをする台風]]も見られる。
日本の気象庁の定義によれば、台風の'''上陸'''とは、台風の中心が[[北海道]]、[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]の海岸に達することをいう<ref name="yougo" />。したがって、台風の中心が上記4島以外の島の海岸に至っても上陸とは言わないため、[[沖縄県]]に台風が上陸することはない。台風の中心が、小さい島や半島を横切って、短時間で再び海上に出ることは、台風の'''通過'''と呼ばれる<ref name="yougo" />。また、ある場所への台風の'''接近'''とは、台風の中心がその場所から半径300km以内に達することである<ref name="yougo" />。
日本には、平均して、毎年11個前後の台風が接近し、そのうち3個くらいが日本本土に上陸する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-4.html |title=気象庁|台風の発生、接近、上陸、経路 |publisher=気象庁 |accessdate=2016-07-25}}</ref>。[[2004年]]には10個の台風が上陸し、上陸数の記録を更新した([[2004年の台風集中上陸]]参照)。その一方で[[1984年]]、[[1986年]]、[[2000年]]、[[2008年]]、[[2020年]]のように台風が全く上陸しなかった年もある。
台風が日本本土に上陸するのは多くが7月から9月であり、年間平均上陸数は8月が最も多く、9月がこれに次ぐ。8月は、太平洋高気圧が日本付近を覆い、台風が接近しにくい状況ではあるが、台風発生数も最も多く、また高気圧の勢力には強弱の周期があるため、弱まって退いた時に台風が日本に接近・上陸することが多い。無論、西に進んでフィリピン・台湾・中国に上陸したり朝鮮半島方面に進んだりするものも少なくない。6月や10月にも数年に1度程度上陸することがある。最も早い例では[[1956年]][[4月25日]]に[[昭和31年台風第3号|台風3号]]が鹿児島県に上陸したことがあり<ref name="kishocho ranking">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/ranking/late_early_l.html |title=気象庁|上陸日時 |publisher=気象庁 |accessdate=2016-07-25}}</ref>、最も遅いものとしては、1990年11月30日に[[平成2年台風第28号|台風28号]]が紀伊半島に上陸した例がある<ref name="kishocho ranking" />。
==== フィリピン ====
フィリピンでは毎年6月から12月にかけてに台風が襲来するリスクが高くなる<ref name="irric">{{PDFlink|[https://www.irric.co.jp/pdf/risk_info/asia/2017_02.pdf フィリピンの台風・洪水シーズンに備えて]}} インターリスク総研(2020年2月13日閲覧)</ref>。フィリピンでは年平均で約20個の台風が領域内で発生するか[[領海]]内に進んできており、うち6~9個の台風が上陸している<ref name="irric" />。フィリピンでは2004年から2014年にかけての11年間に88の台風の影響を受け、合計死者数18,015人、合計負傷者43,840人、合計経済損害額13,700百万[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]の被害が発生した<ref name="irric" />。<!-- 日本とフィリピン以外にも、台風の影響を受ける国はたくさんあります(台湾・中国・ベトナムなど。稀に韓国なども。)が、それらについては記載しないのでしょうか? -->
== 台風の観測と進路予測 ==
=== 台風の観測 ===
[[ファイル:Hurricane Katrina Eye viewed from Hurricane Hunter.jpg|thumb|200px|NOAAの観測機から撮影された[[ハリケーン・カトリーナ]]の中心部]]
アメリカでは、[[1943年]]に[[テキサス州]][[ヒューストン]]を襲った{{仮リンク|サプライズ・ハリケーン|en|1943 Surprise Hurricane|label=}}の際に敢行された直接観測をきっかけとして、アメリカ軍が航空機により台風を直接観測するため、[[ハリケーン・ハンター]]と呼ばれる専門部隊を編成した。当初は[[アメリカ空軍]]と[[アメリカ海軍]]が個別に観測していたが、1993年からは[[アメリカ海洋大気庁]] (NOAA) の{{仮リンク|NOAA ハリケーン・ハンターズ|en|NOAA Hurricane Hunters|label=}}に移管され、NOAA[[アメリカ海洋大気庁士官部隊|士官部隊]]が運用する観測機で直接観測を継続している。
日本の気象庁は緯度では赤道から北緯60度、経度では東経100度から180度までの範囲にある台風の位置決定と予報を担当する<ref name="typhoonknow" />。
現在、台風の観測では気象衛星[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]が重要な役割を果たしており、雲画像の連続的な解析により台風の中心や風速などの観測がなされる。日本付近に接近あるいは上陸した台風については気象レーダーや[[アメダス]]も利用される。
2017年からは[[名古屋大学]]や[[琉球大学]]などの研究グループが航空機から[[ドロップゾンデ]]を投下、観測[[無人航空機|ドローン]]などで直接観測を実施している。同研究グループは2017年10月21日、日本人研究者として初めて台風の中心付近を飛行機で直接観測することに成功した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22881800Q7A031C1CR8000/|title=台風21号の目に飛行機で突入 中は青空、雲の壁も|website=[[日本経済新聞]]|date=2017年10月30日|accessdate=2021-03-05}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20171021113456/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171021/k10011185351000.html 台風21号の「目」に飛行機で入り 直接観測に成功] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。得られたデータを衛星やレーダーからのデータと合わせることで予報精度の向上を目指している<ref>[https://web.archive.org/web/20160829070038/https://www.sankei.com/west/news/160827/wst1608270053-n1.html 「航空機で大型台風観測へ 勢力予測の精度アップ狙う 名古屋大など、来年から」][[産経新聞]]</ref>。
=== 台風の進路予報表示 ===
台風の進路予報表示では、平均風速が15m/s以上の強風域を黄色の円、同じく25m/s以上の暴風域を赤色の円で表す。12、24、48、72、96および120時間後の到達予想範囲は点線の[[予報円]]で記す。台風の進路が予報円の中に入る確率はおおよそ70%である。また、台風の中心が予報円の中を通った場合、暴風域に入る恐れがある範囲を赤い線で囲む。これを暴風警戒域という。
台風の進路予報表示は1953年(昭和28年)6月から1982年(昭和57年)5月まで扇形方式、1986年(昭和61年)5月まで予報円方式が用いられ、1986年(昭和61年)6月以降は現行の予報円・暴風警戒域方式が用いられている。また、予報期間は2002年(平成14年)6月から<ref group="注">船舶向けは1997年(平成9年)7月から。</ref>2009年(平成21年)3月は72時間先まで、2009年(平成21年)4月から120時間先まで発表されるようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/katahirablog/entry-10357967357.html |title=台風進路予報の歴史 |accessdate=2020-09-23}}</ref>。さらに、2020年([[令和]]2年)9月9日からは、24時間以内に台風に発達する見込みの熱帯低気圧についても120時間先までの予報が出されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/sugieyuji/20200909-00197469 |title=『台風に発達する熱帯低気圧の予報を延長します』これはどういうこと? |website=[[Yahoo! JAPAN]]|date=2020-09-09|accessdate=2020-09-24}}</ref>。
== 台風の影響 ==
=== 台風による被害 ===
[[ファイル:1959_Typhoon_Vera_damage_at_Handa.jpg|サムネイル|332x332ピクセル|伊勢湾台風による[[愛知県]][[半田市]]における被害の様子]]
[[ファイル:Tacloban_Typhoon_Haiyan_2013-11-14.jpg|サムネイル|200x200px|2013年の台風30号通過後の[[タクロバン]]市街(フィリピン)]]
台風が上陸あるいは接近すると、暴風(強風)による人工物や樹木の倒壊、[[高潮]]・高波や大雨による[[水害]]([[洪水]]や[[水害|浸水]]のほか、土砂崩れ・[[地すべり]]などの被害が発生する。
==== 雨 ====
* 渦性降雨 - 台風の中心付近では激しい雨となる。
* 地形性降雨 - 台風により山地に向かって気流を生じるような地形では大雨となりやすい。
* 前線の発達 - 台風の接近により時期によっては[[秋雨]]前線や[[梅雨]]前線を刺激して大雨をもたらし、これによる被害が発生することも多い(例:[[平成24年台風第4号]])。なお、台風の中心付近は暖かい空気で覆われた構造であり、台風そのものが前線を伴うことはない<ref name="typhoonknow" />。しかし、冷たい空気の影響で台風の中心に前線が達した場合、台風は温帯低気圧に変化する<ref name="typhoonknow" />。
==== 風 ====
台風により暴風・強風を生じる。海岸近くでは吹き付けられた海水による[[塩害]]を生じることがあり、送電線の[[碍子]](がいし)で放電現象を伴うこともある。
==== 波 ====
台風により高波やうねりを生じる。波の高さが10mを超えることもある。強風による吹き寄せと気圧低下によって[[高潮]]を生じることがある。[[珊瑚礁]]のある海岸など地形によっては波群[[津波]]が発生することもある。
==== 雷 ====
雲が発達する割には台風本体接近時には[[雷]]を伴うことは少ない。しかし台風による間接的な[[雷雨]]が発生することがある。台風本体においては、進行方向の左側で比較的発生しやすい<ref>中野藤之・森本健志・牛尾知雄・河崎善一郎」「{{PDFlink|[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2011/2011_02_0019.pdf TRMM 搭載 LISにより観測された台風における雷放電の特徴]}}」日本気象学会(2011年2月)2021年9月20日閲覧</ref>。
==== その他 ====
*'''竜巻''' - 関連性は解明されていないが、台風の接近による[[竜巻]]も発生することがある。
*'''雪''' - 熱帯低気圧であるため台風である時期には[[雪]]は降らないが、温帯低気圧に変化した後に高緯度地区で降雪となることや、冬型気圧配置となることによる降雪となることがある。稀に[[1932年]]晩秋に上陸した[[七五三台風]]や1990年の晩秋に上陸した台風28号のように、台風接近時に山間部の集落で大雪が降ったケースもある。
台風が日本海側を通った時、接近時の日本海側や、台風が太平洋側を通った時の離れていく時の太平洋側で、台風による[[フェーン現象]]が発生しやすく(特に前者)乾燥した熱風による火災や急激な気温上昇による[[雪崩]]なども起こりやすい。
なお、台風が過ぎ去った後、台風が通過した地域では空が晴れ渡って良い天気になることがあり、これを「'''台風一過'''(たいふういっか)」と呼ぶ<ref>{{コトバンク|台風一過}}</ref>。({{Wiktionary-inline|台風一過}})
日本における台風の被害は、記録が明確な20世紀中盤以降、確実に減少してきている。これには、学術面では台風研究の発展、行政では予報の充実や経験等をもとにした防災体制の構築、民間では災害記録の伝承や自主防災活動による効果と考えられる。上陸時勢力が日本史上稀に見る強さであった[[伊勢湾台風]]以降、[[災害対策基本法]]制定をはじめ、伊勢湾台風クラスあるいは「[[スーパー伊勢湾台風]]」クラスの台風に耐えられるような防災体制が目標とされてきた<ref>{{Cite web|和書|author=[[国土交通省]][[木曽川]]下流河川事務所|coauthors=[[桑名市]]|date=2009-06-03|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/jigyou/kisodayori_pdf/No_121.pdf|title=演題:スーパー伊勢湾台風にどう備えるか|format=PDF|publisher=国土交通省[[中部地方整備局]]|accessdate=2021-03-05}}</ref><ref name="名前なし-1"/>。しかし、現在においても大きな被害が出て、さらなる防災の強化が行われている地域もある。また、日本の周辺諸国、特に[[東南アジア]]では防災体制やインフラ等がまだ成熟していないため、地すべりや洪水等により多数の死者を伴う甚大な被害が発生することがある。
=== 雨台風・風台風 ===
{{Double image aside|right|1947 Typhoon Kathleen damage at Koiwa 01.jpg|228|Toya-Maru Disaster.JPG|180|雨台風であったカスリーン台風は、関東を中心に豪雨による甚大な浸水被害をもたらした。|風台風であった洞爺丸台風は、記録的暴風や高波により[[洞爺丸]]を沈没させた。}}
風による被害は比較的小さい一方で、雨による被害が大きい台風を'''雨台風'''と呼ぶ<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=雨台風(あめたいふう)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A8%E5%8F%B0%E9%A2%A8-27404|website=コトバンク|accessdate=2020-05-17|language=ja|first=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典/[[大辞林]] 第三版/[[日本大百科全書]](ニッポニカ)精選版|last=日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=気象庁|予報用語 台風に関する用語|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi2.html|website=www.jma.go.jp|accessdate=2020-05-17}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=デジタル台風:雨台風、風台風って何ですか? - レシピ集|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/contribution/recipe/010.html.ja|website=agora.ex.nii.ac.jp|accessdate=2020-05-17}}</ref>。一般的に、梅雨期に接近上陸する台風や[[秋雨前線]]の活動が活発な秋季の台風は、風よりも雨による被害が大きい<ref name=":0" />。過去の代表的な雨台風の例としては、1947年の[[カスリーン台風]]や1958年の[[狩野川台風]]などが挙げられる<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=台風19号は「特殊な雨台風」 地形条件も重なり大被害:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASMBF6GCGMBFULBJ00N.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-05-23|language=ja}}</ref>。反対に、雨による被害は比較的小さい一方で、風による被害が大きい台風を'''風台風'''と呼び<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=風台風(かぜたいふう)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E5%8F%B0%E9%A2%A8-44763|website=コトバンク|accessdate=2020-05-17|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/大辞林 第三版/日本大百科全書(ニッポニカ)精選版|last=日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及}}</ref><ref name=":1" /><ref name=":2" />、過去の代表的な風台風の例としては、1954年の[[洞爺丸台風]]や1991年の[[平成3年台風第19号]]、2004年の[[平成16年台風第18号]]などが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/bousai/saigai/2005/24.pdf|title=台風18号(暴風が大地を引き裂く 全国に被害を残した風台風)|accessdate=2020/05/23|publisher=国土交通省|format=PDF}}</ref>。しかし、これらはいずれも気象庁が定めた俗称であり<ref name=":1" />、あくまで便宜的な区別であるため厳密な定義はない<ref name=":3" /><ref name=":0" />。なお、台風そのものに「雨が強い」「風が強い」などの性質があるわけではなく、台風によって引き起こされた災害の結果によって、これらの言葉が使用されているだけである<ref>{{Cite book|title=『天変地異がまるごとわかる本』|date=|year=2013|publisher=[[Gakken]]|page=62|url=https://hon.gakken.jp/book/1340576100}}</ref>。
勢力が強い台風の場合は、雨と風の両方で甚大な被害が出ることも少なくない。[[平成18年台風第13号]](2006年)では、[[九州]]付近の前線の活発化で、梅雨末期のような集中豪雨を呈した。[[佐賀県]][[伊万里市]]では期間降水量の7割が上陸前日に降る集中豪雨となった。
=== 台風による社会的な影響 ===
* [[交通機関]]の乱れ
** 特に[[航空]]や[[フェリー]][[航路]]の場合、暴風を伴うと大変危険なこと、また機体や使用船舶の遣り繰りがつかない(目的地や避難先が台風の進路上で運航できない)事等から台風が通過した後も運休するケースが多い。
** 国内航空に関しては一日の機体の遣り繰りが複雑で一つの機体が5、6便運航することが多く、台風の関係ない地方でもどこかの路線で台風による欠航が発生することにより後続の機材繰りによって、使用する航空機が出発までに用意できずに欠航や遅延することもある。
** また[[鉄道]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[道路|自動車道路]]([[高速道路]]・[[国道]]など)も一定の風速または雨量をオーバーすると運休や通行止め、あるいは速度徐行がなされる場合もある。近年鉄道においては影響が予想される場合はあらかじめ長距離列車の運休や間引き運転・全列車の各駅停車運転などが行われ、事前事後のダイヤの混乱防止と輸送手段の確保の両立を図るケースが多い。(「[[計画運休]]」参照)
* 公衆施設(自治体の公共施設・サービス受付、レジャー施設、[[百貨店]]・[[スーパーマーケット]]など)の営業休止・または早期打ち切り
* スポーツ試合やコンサート、イベントの中止・延期
* 屋内施設([[ドーム球場]]や[[体育館]]、コンサートホールなど)で開かれるイベントであっても、交通機関のマヒによる関係者の現地入り不能や、観客の安全などを考慮してイベントを中止する事例がある(プロ野球でのドーム球場の中止事例は[[ドーム球場#ドーム球場での試合中止事例]]参照)。
* [[屋内退避]]による風水害からの避難を要する場合もある。
=== 台風と水資源 ===
被害という視点で語られることの多い台風も、日本では梅雨以後の夏期における、各地の[[ダム]]や山間部の川の水資源確保の観点から見れば、定期的な台風の襲来は重要である。例えば、[[平成17年台風第14号]](2005年)や[[平成19年台風第4号]](2007年)は大きな被害(ともに激甚災害)を生んだが、台風襲来前は渇水によって0%となっていた[[早明浦ダム]]の貯水率をたった一晩で一気に100%以上にまで回復させたため、取水制限が解除された。つまり「台風が来なければよい」と一概には言えない。
===台風と地球温暖化===
[[気候変動に関する政府間パネル]]の第5次評価報告書でも示されているように、台風の大型化と[[地球温暖化]]は関係があるとする見方が強い。実際2004年には例年の3.8倍の数の台風が日本に上陸し、[[平成27年9月関東・東北豪雨]]、[[令和元年東日本台風]]は日本各地に甚大な被害をもたらした。地球温暖化は海洋、大気両方に影響を与える。前者において海水温上昇による海水の蒸発量の増加に伴い大気中の水蒸気が増加し、上昇気流が起きやすくなる。これによって発生した台風は大型化しやすくなる。後者においては[[対流圏]]の[[気温減率]]が小さくなり大気は安定する。このため台風ができにくくなり数は減少する。地球温暖化は台風に相反する2種の影響を与える<ref>竹見哲也「地球温暖化と台風災害」『農業および園芸=Agriculture and horticulture』92巻・3号、2017年、pp.197-198</ref><ref>村本貢司『台風学入門』2006年</ref>。
=== 台風と生物学的自然 ===
台風は災害ではあるが、定期的に襲来するものであり、それなりに地域の自然の中で位置づけを持つものでもある。たとえば沖縄では台風の降水は地域住民にとっては水確保の上で重要な意味を持つ。同様に、沖縄における[[森林]]の[[物質循環]]を考える場合、[[落葉]]量に関しては、台風時のそれを無視することが出来ない。
また、台風に乗って移動する動物もある。定着している分布域ではないところに見つかる[[チョウ]]を[[迷蝶]]というが、日本では熱帯域の種が本土で見つかる例があり、往々にして台風の後である。たとえば[[メスアカムラサキ]]や[[カバマダラ]]などが、このようにして出現し、冬までに世代を重ねる例が知られる。それらは冬を越せない[[回遊#死滅回遊|死滅回遊]]の例でもある。[[ウスバキトンボ]]などもこの例である。同様に、沖縄以南で繁殖し、本州付近ではまれにしか観察されない[[野鳥]]が[[迷鳥]]として台風の後に観察されることがある。
また、台風が太平洋上の生物を日本沿岸に吹き寄せる例もある。台風通過後に砂浜にそれらが打ち上げられる場合があり、[[カツオノエボシ]]や[[カツオノカンムリ]]などのクラゲ類、[[アサガオガイ]]や[[ルリガイ]]、あるいは[[ササノツユ]]や[[マルカメガイ]]などの[[翼足類]]などが見られることがあり、貝類採集家などがこれを狙う。
== 台風の制御・利用の試み ==
{{seealso|気象制御}}
日本では、台風の目に航空機から[[氷]]や水、[[人工降雨]]を促す[[ヨウ化銀]]を散布して熱を奪い、勢力を弱める研究「タイフーンショット」が始まっている(「[[ムーンショット]]」にちなんだ命名)。また無人の[[帆船]]に台風を自動追尾させて発電に利用する構想もある<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15038957.html 凶暴台風 制御に挑む「目」に水まき弱体化/発電に利用の構想も]『[[朝日新聞]]』朝刊2021年9月10日(教育・科学面)2021年9月20日閲覧</ref>
== 過去の記録的な台風 ==
=== 日本 ===
;1930年代以前
{{Double image aside|right|1934 Typhoon Muroto damage at Shitenno-ji.jpg|160|Shitennoji after Muroto typhoon.JPG|240|室戸台風通過後の[[四天王寺]]の様子}}
* [[永祚の風]]:989年9月([[永祚 (日本)|永祚]]元年8月)[[近畿地方]]。「夜、天下に大風。[[皇居]]の門・高楼・寝殿・回廊及び諸々の役所、建物、塀、庶民の住宅、神社仏閣まで皆倒れて一軒も立つもの無く、木は抜け山は禿ぐ。又洪水高潮有り、畿内の海岸・河岸・人・畑・家畜・田この為皆没し、死亡損害、天下の大災、古今にならぶる無し、云々」(『[[扶桑略記]]』、原文は漢文)
* [[弘安の役台風]]:1281年8月([[弘安]]4年閏7月)西日本。[[弘安の役]]([[元寇]])で日本に来襲した[[元 (王朝)|元]]・[[高麗]]連合軍14万人のうち約10万人溺死。(これが後に[[神風]]として言い継がれることとなる。)
*[[シーボルト台風]]
*[[安政3年の大風災]]:1856年9月23日([[安政]]3年8月25日)から24日にかけての夜間に[[関東地方]]を襲った。[[伊豆半島]]付近から[[江戸]]のすぐ北を通過したと考えられる。猛烈な暴風と高潮で江戸をはじめ関東の広い範囲に大被害が起き、『近世史略』は死者10万人余りとしている。
* 1890年9月16日の台風:[[オスマン帝国]]の軍艦[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル号]]が、[[和歌山県]]の[[紀伊大島]]沖で遭難([[エルトゥールル号遭難事件]])
* [[足尾台風]]([[1902年]][[9月28日]])
* 1906年10月24日の台風:九州近海でサンゴ採り漁船が多数遭難、死者行方不明630名余り。
* [[東京湾台風]](1917年10月1日):フィリピン東方から北東に進んで10月1日未明に東京北方を通過した台風で、[[東京湾]]に高潮発生、死傷者およそ3,000人<ref>{{Cite web|和書|title=日本の台風年表|防災情報ナビ|url=https://www.ibousai.jp/disaster/typhoon_japan.html|website=www.ibousai.jp|accessdate=2020-04-15}}</ref>、全半壊流失家屋6万戸。東京で記録した952.4ヘクトパスカルの最低気圧記録は2019年10月現在も破られていない。
* 1921年9月26日の台風:本州南方をゆっくり東進していた台風が急に北上し、不意打ちの形で紀伊半島から日本を縦断。そのため警報発表が遅れ、[[富山県]]下で漁船の遭難多数。当時の伏木測候所長が世間の糾弾のため自殺した事件で知られる台風。ただし、測候所長の自殺の裏には気象観測施設に関する県と国のいさかいがあったようである。
* [[新高台風]](にいたかたいふう、1922年8月26日):8月24日関東地方を通過した台風が北上して26日にはカムチャツカ半島付近に達し、その近海にいた日本帝国海軍の[[新高 (防護巡洋艦)|巡洋艦新高]]が沈没した。高緯度であったので、事故発生時には台風は温帯低気圧に変わっていた可能性もある。初めて固有名(ただし非公式)が付いた台風。
* [[室戸台風]]([[1934年]][[9月21日]])
;1940年代
* [[周防灘台風]](昭和17年台風第16号)
* [[枕崎台風]](昭和20年台風第16号・Ida)
* [[阿久根台風]](昭和20年台風第20号・Louise)
* [[カスリーン台風]](昭和22年台風第9号・Kathleen)
* [[アイオン台風]](昭和23年台風第21号・Ione)
* [[デラ台風]](昭和24年台風第2号・Della)
* [[ジュディス台風]](昭和24年台風第9号・Judith)
* [[キティ台風]](昭和24年台風第10号・Kitty)
;1950年代
{{Double image aside|right|Flooded of Osaka by Typhoon Jane.jpg|200|Tess at Sukiyabashi Clossing.jpg|178|ジェーン台風による高潮で浸水した大阪市街|1953年の台風13号の際に風で落下した[[広告塔]]}}
[[ファイル:Typhoon_Vera_1959_CBC_Location.jpg|代替文=|サムネイル|200x200ピクセル|伊勢湾台風の被災地を取材する[[中部日本放送|CBC]]のテレビニュース班]]
* [[ジェーン台風]](昭和25年台風第28号・Jane)
* [[ルース台風]](昭和26年台風第15号・Ruth)
* [[ダイナ台風]](昭和27年台風第2号・Dinah)
* [[昭和28年台風第13号]] (Tess)
* [[昭和29年台風第12号]](June)
* [[洞爺丸台風]](昭和29年台風第15号・Marie)
* [[狩野川台風]](昭和33年台風第22号・Ida)
* [[昭和34年台風第7号]](Georgia)
* [[宮古島台風]](昭和34年台風第14号・Sarah)
* [[伊勢湾台風]](昭和34年台風第15号・Vera)
;1960年代
* [[第2室戸台風]](昭和36年台風第18号・Nancy)
* [[昭和36年台風第26号]]
* [[昭和40年台風第23・24・25号]]
* [[第2宮古島台風]](昭和41年台風第18号・Cora)
* [[昭和41年台風第24・26号]]
* [[第3宮古島台風]](昭和43年台風第16号・Della)
;1970年代
* [[昭和49年台風第8号]]
* [[昭和51年台風第17号]] (Fran)
* [[沖永良部台風]](昭和52年台風第9号・Babe)
* [[昭和54年台風第20号]] (Tip)
;1980年代
* [[昭和57年台風第10号]] (Bess)
* [[昭和62年台風第12号]] (Dinah)
*[[平成元年台風第6号]]
*[[平成元年台風第11・12・13号]]
*[[平成元年台風第17号]]
*[[平成元年台風第22号]]
;1990年代
* [[平成2年台風第19号]] (Flo)
* [[平成2年台風第20号]]
* [[平成3年台風第17号]]
* [[平成3年台風第18号]]
* [[平成3年台風第19号]] (Mireille)
*[[平成4年台風第10号]]
* [[平成5年台風第13号]] (Yancy)
* [[平成11年台風第18号]] (Bart)
;2000年代
* [[平成15年台風第14号]] (Maemi)
* [[平成16年台風第18号]] (Songda)
* [[平成16年台風第23号]] (Tokage)
* [[平成17年台風第14号]] (Nabi)
;2010年代
{{Double image aside|right|Namba-nikkocamera.jpg|105|令和元年台風第19号における長野県長野市大字穂保地区における千曲川の破堤箇所.png|279|2018年の台風21号により被災した建物|令和元年東日本台風により破堤が起きた[[千曲川]]}}
* [[平成23年台風第12号]] (Talas)
* [[平成25年台風第26号]] (Wipha)
* [[平成28年台風第10号]] (Lionrock)
* [[平成30年台風第21号]] (Jebi)
* [[令和元年房総半島台風]] (令和元年台風第15号・Faxai)
* [[令和元年東日本台風]](令和元年台風第19号・Hagibis)
;2020年代
* [[令和4年台風第14号]] (Nanmadol)
== 台風の名前 ==
{{Main|台風の名前}}
台風は、日本では「台風第○号」「台風○号」のように[[台風番号]]で呼称されることが多いが、それぞれの台風には、国際的に使用される固有名が付けられている。これを'''国際名'''という(2000年以降はアジア各国が提案した名前が付けられているため'''アジア名'''ともいう)。
== 台風の統計 ==
* 統計の基準について
** 日時 - 全て[[日本標準時]] (JST)。([[世界時]] (UTC) で観測されたものを日本標準時 (JST) に直している。)
** 接近 - '''台風の中心が日本の[[海岸#海岸線|海岸線]]から300km以内に入った場合'''を「日本に接近した台風」としている。ただし、現在は[[気象官署]]からの距離で算出してある。
** 上陸 - '''台風の中心が[[北海道]]、[[本州]]、[[四国]]、九州の海岸線に達した場合'''を「日本に上陸した台風」としている。ただし、[[沖縄本島]]などの離島や小さい半島を横切り短時間で再び海に出る場合は「通過」としている。
=== 台風の平年値 ===
以下に示す平年値は、[[1981年]] - [[2010年]]の30年のデータを基にした平均値である<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=気象庁|台風の平年値|url=https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/average/average.html|website=www.data.jma.go.jp|accessdate=2020-06-26}}</ref><ref group="注">値が空白となっている月は、平年値を求める統計期間内に該当する台風が1例もなかったことを示している。</ref><ref group="注">接近は2か月に跨る場合があり、各月の接近数の合計と年間の接近数とは必ずしも一致しない。</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-bottom: 1.0em; font-size: 85%; text-align: right"
|+台風の平年値<ref name=":7" /><ref group="注">括弧内は[[1970年]] - [[2000年]]の平均値。</ref>
!
!1月
!2月
!3月
!4月
!5月
!6月
!7月
!8月
!9月
!10月
!11月
!12月
!年間
|-
|発生数
|0.3
|0.1
|0.3
|0.6
|1.1
|1.7
|3.6
|5.9
|4.8
|3.6
|2.3
|1.2
|25.6 (26.7)
|-
|日本接近数
|
|
|
|0.2
|0.6
|0.8
|2.1
|3.4
|2.9
|1.5
|0.6
|0.1
|11.4 (10.8)
|-
|日本上陸数
|
|
|
|
|0.0
|0.2
|0.5
|0.9
|0.8
|0.2
|0.0
|
|2.7 (2.6)
|}
{| class="wikitable" style="margin-bottom: 1.0em; font-size: 85%; text-align: right"
|+本土および沖縄・[[奄美諸島|奄美]]への台風接近数の平年値<ref name=":7" />
!
!1月
!2月
!3月
!4月
!5月
!6月
!7月
!8月
!9月
!10月
!11月
!12月
!年間
|-
|本土<ref group="注">「本土」は本州、北海道、九州、四国のいずれかの気象官署から300km以内に入った場合を指す。</ref>
|
|
|
|0.0
|0.1
|0.4
|1.0
|1.7
|1.7
|0.7
|0.0
|
|5.5
|-
|沖縄・奄美<ref group="注">「沖縄・奄美」は沖縄地方、奄美地方のいずれかの気象官署から300km以内に入った場合を指す。</ref>
|
|
|
|0.0
|0.4
|0.6
|1.5
|2.3
|1.7
|1.0
|0.3
|0.1
|7.6
|}
{| class="wikitable" style="margin-bottom: 1.0em; font-size: 85%; text-align: right"
|+地方ごとの台風接近数の平年値<ref name=":7" /><ref group="注">地方の区分については、[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/tiikimei.html 気象庁のサイト]を参照。</ref><ref name=":0" group="注">「九州北部地方」は[[山口県]]を含み、「中国地方」は山口県を含まない。</ref><ref group="注">「関東地方」は伊豆諸島および小笠原諸島を含まない。</ref>
!地方
!1月
!2月
!3月
!4月
!5月
!6月
!7月
!8月
!9月
!10月
!11月
!12月
!年間
|-
|沖縄地方
|
|
|
|0.0
|0.4
|0.6
|1.4
|2.2
|1.7
|0.9
|0.3
|0.1
|7.4
|-
|奄美地方
|
|
|
|0.0
|0.1
|0.3
|0.8
|1.0
|1.1
|0.6
|0.0
|
|3.8
|-
|九州地方南部
|
|
|
|0.0
|0.0
|0.4
|0.7
|0.9
|1.0
|0.4
|0.0
|
|3.3
|-
|九州地方北部
|
|
|
|0.0
|0.0
|0.3
|0.8
|1.0
|1.0
|0.3
|
|
|3.2
|-
|四国地方
|
|
|
|
|0.0
|0.3
|0.6
|1.0
|0.9
|0.3
|0.0
|
|3.1
|-
|[[中国地方]]
|
|
|
|
|0.0
|0.3
|0.5
|0.8
|0.9
|0.2
|0.0
|
|2.6
|-
|近畿地方
|
|
|
|
|0.0
|0.3
|0.5
|1.0
|1.0
|0.5
|0.0
|
|3.2
|-
|[[東海地方]]
|
|
|
|
|0.0
|0.2
|0.5
|1.0
|1.0
|0.5
|0.0
|
|3.3
|-
|[[北陸地方]]
|
|
|
|
|
|0.2
|0.4
|0.9
|0.8
|0.2
|0.0
|
|2.5
|-
|関東地方・[[甲信地方]]
|
|
|
|
|0.0
|0.2
|0.4
|0.9
|1.1
|0.6
|0.0
|
|3.1
|-
|[[伊豆諸島]]・[[小笠原諸島]]
|
|
|
|0.1
|0.4
|0.3
|0.8
|1.2
|1.3
|1.1
|0.3
|0.1
|5.4
|-
|東北地方
|
|
|
|
|0.0
|0.1
|0.3
|0.8
|0.9
|0.4
|
|
|2.6
|-
|北海道地方
|
|
|
|
|
|0.1
|0.2
|0.7
|0.7
|0.1
|
|
|1.8
|}
=== 台風の記録 ===
以下の記録のほとんどは、一部の例外を除いて、統計資料がある[[1951年]]からの統計に基づく。
==== 数に関する記録 ====
{| class="wikitable mw-collapsible" style="margin-bottom: 1.0em; font-size: 85%; text-align: right"
! colspan="14" |過去の台風発生数一覧<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|台風の発生数|url=https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/generation/generation.html|website=www.data.jma.go.jp|accessdate=2021-04-05}}</ref>
|-
!年
!1月
!2月
!3月
!4月
!5月
!6月
!7月
!8月
!9月
!10月
!11月
!12月
!年間
|-
|2023
|
|
|
|1
|1
|1
|3
|6
|
|
|
|
|
|-
|2022
|
|
|
|2
|
|1
|3
|5
|7
|5
|1
|1
|25
|-
|2021
|
|1
|
|1
|1
|2
|3
|4
|4
|4
|1
|1
|22
|-
|2020
|
|
|
|
|1
|1
|
|8
|3
|6
|3
|1
|23
|-
|2019
|1
|1
|
|
|
|1
|4
|5
|6
|4
|6
|1
|29
|-
|2018
|1
|1
|1
|
|
|4
|5
|9
|4
|1
|3
|
|29
|-
|2017
|
|
|
|1
|
|1
|8
|5
|4
|3
|3
|2
|27
|-
|2016
|
|
|
|
|
|
|4
|7
|7
|4
|3
|1
|26
|-
|2015
|1
|1
|2
|1
|2
|2
|3
|4
|5
|4
|1
|1
|27
|-
|2014
|2
|1
|
|2
|
|2
|5
|1
|5
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! colspan="14" |過去の台風の日本上陸数一覧<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|台風の上陸数|url=https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/landing/landing.html|website=www.data.jma.go.jp|accessdate=2021-04-05}}</ref>
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{{台風の年間日本接近数}}(2022年現在)
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==== 時期などに関する記録 ====
海水温が最も低くなる2月が台風に関する年変わりの時期ともいえ、下記に示す1月1日基準は社会的な区分であることには注意が必要である。
{{発生日時が早い台風}}
{{発生日時が遅い台風}}
{{日本上陸日時が早い台風}}
{{日本上陸日時が遅い台風}}
{{長寿台風}}
==== 規模に関する記録 ====
{{台風の中心気圧 (海上)}}
{{台風の中心気圧 (陸上)}}
{{台風の中心気圧 (上陸時)}}
{{台風の最大風速 (気象庁)}}{{台風の最大風速 (米海軍)}}
{{台風の最大風速 (陸上)}}{{台風の最大瞬間風速}}
{{台風の強風域}}
{{猛烈な勢力の期間が長い台風}}
==== その他の記録 ====
{{南下した台風}}
=== 各番号の台風 ===
{{Main|Category:台風 (番号別)}}
=== 各年の台風 ===
{{Main|年別台風記事一覧}}
== 特殊な台風 ==
=== 複雑な動きをする台風 ===
{{Main|複雑な動きをする台風}}
複雑な進路を辿り、時に進路予報が難しいことのある台風のこと。「迷走台風」とも呼ばれるが、気象庁ではこの用語は用いられない<ref>{{Cite web|和書|title=複雑な動きをする台風について|url=https://www.umikaisei.jp/news/surflegend/15636|website=www.umikaisei.jp|accessdate=2020-03-25|language=ja}}</ref>。
=== 長寿台風 ===
{{Main|長寿台風}}
台風に発達してから[[熱帯低気圧]]や[[温帯低気圧]]に変わるまでの期間が長い台風のこと<ref name="jma">[https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/ranking/longevity.html 気象庁|長寿台風] 2017年8月6日閲覧</ref>。[[対義語]]は「短命台風」。前述の「複雑な動きをする台風」が「長寿台風」になることが多い。
=== 越境台風 ===
{{Main|越境台風}}
[[太平洋]]のうち、日本の気象庁が観測対象とする範囲 (太平洋北西部・[[南シナ海]]) 以外で、[[ハリケーン]]や[[サイクロン]]などとして発生したものが、観測範囲の境界線を越えて「台風」と分類されるようになった熱帯低気圧のこと。
=== 復活台風 ===
{{Main|復活台風}}
1回以上勢力が衰え、最大風速が17.2m/s (33.5 kt) 以下の熱帯低気圧となってから、再び発達し最大風速が17.2m/s以上になって、「台風」になった熱帯低気圧のこと。
=== 越年台風 ===
「年越し台風」とも呼ばれ、その名の通り年を跨いで発生する台風。基本的に12月に発生し翌年の1月に消滅する。このような台風の出現は非常に珍しく、過去(1951年以降)に5件しか例がない<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=デジタル台風:台風リスト|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/cgi-bin/dt/search_name2.pl?basin=wnp<=ay&lang=ja|website=agora.ex.nii.ac.jp|accessdate=2020-06-17}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://typhoon21.world.coocan.jp/period/newyear.html|title=越年台風一覧(1951-)|accessdate=2020/06/17|publisher=}}</ref>。越年台風の1つである2000年の[[平成12年台風第23号]]は、[[20世紀]]と[[21世紀]]を跨いだ、(観測記録が残る範囲で)過去唯一の「世紀越し台風」でもあった<ref>{{Cite web|和書|title=デジタル台風:台風シーズンと発生時期に関する統計|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/help/season.html.ja|website=agora.ex.nii.ac.jp|accessdate=2020-06-17}}</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-bottom: 1.5em; font-size: 95%"
|+越年台風一覧([[UTC]]基準)<ref name=":4" /><ref name=":5" />
!台風
!国際名
!発生日時(UTC)
!消滅日時(UTC)
|-
|[[昭和27年台風第27号]]
|Hester
|[[1952年]][[12月28日]] 0時
|[[1953年]][[1月5日]] 12時
|-
|[[昭和34年台風第23号]]
|Harriet
|[[1959年]][[12月24日]] 0時
|[[1960年]][[1月2日]] 12時
|-
|[[昭和52年台風第21号]]
|Mary
|[[1977年]][[12月21日]] 9時
|[[1978年]]1月2日 18時
|-
|[[昭和61年台風第29号]]
|Norris
|[[1986年]][[12月23日]] 0時
|[[1987年]]1月2日 0時
|-
|[[平成12年台風第23号]]
|Soulik
|[[2000年]][[12月30日]] 0時
|[[2001年]][[1月4日]] 18時
|}
== 台風の将来予測 ==
{{See also|スーパー台風|}}
[[地球温暖化]]が進んだ将来、発生する台風の勢力は現在よりも強くなり、いわゆる「[[スーパー台風]]」と呼ばれるような強力な台風の発生が増加し、それによる日本への影響なども含めて増加するであろうと懸念されている。しかしその一方で、台風の発生数は温暖化により現在よりも少なくなるともいわれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=高橋浩一郎|title=気象を見る眼|series=科学ブックス21|publisher=[[共立出版]]|year=1976|isbn=978-4-320-00678-2|ref={{SfnRef|高橋|1976}}|date=}}
* {{Cite book|和書|author=小倉義光|authorlink=小倉義光|year=2016|title=一般気象学|edition=第2版補訂版|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4-13-062725-2|ref={{SfnRef|小倉|2016}}|date=}}
* {{Cite book|和書|author=田中博|year=2017|title=地球大気の科学|publisher=共立出版|isbn-978-4-320-04711-2|ref={{SfnRef|田中|2017}}|date=}}
== 関連項目 ==
* [[極低気圧]]([[真冬日|真冬]]の台風とも呼ばれる)
* [[越境台風]]
* [[復活台風]]
* [[複雑な動きをする台風]]
* [[台風情報]]
* [[自然災害]]
* [[八朔]] - [[二百十日]] - [[二百二十日]]
* [[気象学]]
* [[台風の目]]
* [[気象庁が命名した自然現象の一覧]]
* [[豆台風]]
* [[袋風]]
* [[岩崎卓爾]]
* [[年度別台風記事一覧]]
* [[タイフーン]](英語のタイフーンにちなんで命名された[[兵器]]などの一覧)
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wikinewscat}}
{{Wiktionary|台風}}
* [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/ 台風について] {{ja icon}} - [[気象庁]]
* [http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/ デジタル台風] {{ja icon}}
* [https://www.eorc.jaxa.jp/TRMM/typhoon/ TRMM台風データベース] {{ja icon}}
* [http://typhoon21.world.coocan.jp/ Typhoon21] {{ja icon}}
* [https://severeweather.wmo.int/ 世界の熱帯低気圧・台風のリアルタイム情報] - [[世界気象機関|WMO]]
* [http://typhoon.ws/ 台湾台風情報センター]
* {{コトバンク|台風}}
{{熱帯低気圧}}
{{台風関連記事}}
{{気象現象}}
{{自然災害}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たいふう}}
[[Category:うず]]
[[Category:台風|*]]
[[Category:熱帯低気圧]]
[[Category:気象災害]]
[[Category:秋]]
[[Category:秋の季語]]
|
2003-09-04T18:32:22Z
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アンデス山脈
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アンデス山脈(アンデスさんみゃく、スペイン語: Cordillera de los Andes)は、主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500キロメートル (km)、幅750 kmにわたる世界最長の連続した褶曲()山脈である。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。最高峰はアコンカグア(6960メートル 〈m〉・一説には7021 m)で、6000 mを越える高峰が20座以上そびえ立っている。山脈が現在の姿になり始めたのは白亜紀で、その後現在まで太平洋プレート、ナスカプレートと南米大陸のぶつかり合いで隆起し、場所により異なる構造運動を受けて大きくなったと考えられている。
上記のように海洋プレートの沈み込み帯の上側に乗った大陸プレートが、海洋プレートからの圧力を受けて隆起してできたと考えられている。この構造は日本列島とよく似ており、沖合には沈み込み帯に由来する海溝が存在し、山脈上にはたくさんの火山が噴出し、海溝周辺では度々チリ地震などの大きな地震が起きている。現在でも火山活動は活発であり、1985年にはコロンビアにあるネバドデルルイス火山の噴火による火山泥流が麓のアルメロの街を直撃し、人口2万8700人の約4分の3にあたる2万1000人が死亡する大惨事となるなど、災害が多発している。標高が非常に高いため、高山の頂上付近には氷河が発達していることも多い。しかし、近年これらの氷河は縮小傾向にあり、ペルーでは1970年以降2014年までに氷河の40 %が失われ、最も減少率の高かったパストルリ氷河においては氷河の52 %が失われていた。同じくエクアドルにおいても、1980年代末に92平方キロメートル (km) あった氷河が2010年には42 kmにまで縮小した。
アンデス山脈の始まりはベネズエラ北部、トリニダード島に近いカリブ海沿岸である。アンデス山脈は、ここからほぼ東西にベネズエラ高地として伸びる。ベネズエラの首都カラカスもこの高地の中に存在する高原都市である。カラカス周辺以西のベネズエラ高原は気候がよく人口稠密地域となっており、東から西にカラカス、マラカイ、バレンシア、バルキシメトといった都市が点在する。やがてベネズエラ高地は南西に向きを変え、メリダ山脈となる。メリダ山脈はメリダ、サン・クリストバルといった都市がある。この山脈はコロンビアにも続き、コロンビア東部山脈となる。コロンビア国内のアンデス山脈はこの東部山脈のほか、中央山脈と西部山脈があり、このに3つの山脈が北から南へ並走する形となる。この3山脈間には深い谷が刻まれており、東部・中央両山脈間にはマグダレナ川、中央・西部両山脈間にはカウカ川がそれぞれ南北に流れ、両河川は合流したのちカリブ海へと注ぐ。こういった地形のため、ボゴタやメデリンといった主要都市から太平洋岸へと輸送を行うには4000 m級の山脈を1つまたは2つ越えなければならず、経済の大きなネックとなっている。また、こういった起伏に富んだ地形のため、コロンビアの治安は行き届いているとは到底言えず、各地にゲリラや武装勢力の跳梁を許す一つの理由となっている。
東部山脈にはベネズエラとの国境に位置するククタのほか、ブカラマンガやトゥンハといった都市があり、中部にはコロンビアの首都ボゴタを擁するクンディナマルカ高原(スペイン語版)(海抜約2600 m)がある。中央山脈にも、主に中腹にコロンビア第2の都市であるメデリンや、マニサレス、アルメニア、ポパヤンといった都市があるが、西部山脈内には目立った都市はない。しかし、カウカ谷にはコロンビア第3の都市であるカリ市があり、この3山脈と間のマグダレナ・カウカ両河谷をあわせた地域はアンデス地域と総称され、コロンビア人口の大半が居住する経済の中心となっている。この3つの山脈は、コロンビア南部のコロンビア山塊(スペイン語版)で中央・東部両山脈が合流し、さらにコロンビア南端のロス・パストス山塊で西部山脈をも併せて、一本の太い山脈となる。この地域にはパスト市がある。コロンビア山塊に位置するスアサ川(スペイン語版)流域のクエバ・デ・ロス・グアチャロス国立自然公園(スペイン語版)、マグダレナ川、カウカ川、カケタ川の水源があるプラセ国立自然公園(スペイン語版)とネバド・デル・ウイラ国立自然公園は1979年にユネスコの生物圏保護区に指定された。
エクアドルではアンデス地域はシエラ(山地)と呼ばれ、オリエンタル・オクシデンタルの両山脈に分かれて南へ伸び、エクアドルの首都キトやクエンカなどの都市が位置する。キト盆地(海抜約2800 m)も古くからの集住地である。キトで赤道を越えるが、この付近には4000 mを越える稜線の上にチンボラソ(6267 m)や、世界最高の活火山であるコトパクシ山(5897 m)などたくさんの火山が噴出している。ペルーからエクアドルにかけての国境付近でアンデスはいったんやや高度が低くなる。ここまでは北アンデスとも呼ばれる。北アンデスには高原や肥沃な谷間が点在し、人口密度は高い。エクアドルは、このアンデス山地地方(シエラ)と、海岸地方(コスタ)の二つの地区の勢力が拮抗している。エクアドル南部のポドカルプス国立公園(スペイン語版)、ヤクリ国立公園(スペイン語版)とプラテアード丘陵生物保護区(スペイン語版)を含む一帯は「マキ・コンドル生物圏保護区」として2007年に、カハス国立公園(スペイン語版)は2013年に、首都のキトが位置するピチンチャ県一帯は2018年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。カハス国立公園は2002年にラムサール条約登録地となった。
ペルーに入るとアンデス山脈は、海岸沿いの西部山脈とアマゾンに面する東部山脈、そしてその中間の中央山脈に分かれ、それぞれ南北に並行して伸びる。ペルー北部においてはアンデスの幅は南部に比べればそれほど広くはなく、カハマルカなどの都市が点在するものの人口は多くない。ペルーにおいてもエクアドルと同じく、シエラとコスタの対立構造があるものの、ペルーでは海岸地方の開発が進んでおり、大都市の多くは海岸地方にありペルー人口の半分以上も海岸地方に居住するため、アンデス山地の経済比重は海岸部に比べ低い。この地域にあるアンカシュ県のワスカラン国立公園は1977年に、オクサパンパ(スペイン語版)周辺のパスコ県とフニン県の雲霧林は2010年と2020年に、サン・マルティン県のグラン・パハテン(スペイン語版)周辺のリオ・アビセオ国立公園は2016年に、フニン県とクスコ県にまたがるオクサパンパ周辺の雲霧林とマヌー国立公園をつなぐ緑の回廊一帯は2021年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。
ペルー南部に入り、南緯15度以南では山脈の幅が広がり、南緯28度くらいまで最も幅の広い地区となるが、この中でも最も広くなるボリビアでも幅は600 km程度にしかならない。しかし、この地区のアンデスはペルー南部からボリビアにかけて、高度3500 mから4500 mあたりに広大で平坦な高原であるアルティプラーノ(海抜約4000 m)が広がっている。そこにはチチカカ湖やポーポー湖などの湖が広がり、ボリビアの首都ラパスやインカ帝国の首都だったクスコなどの大都市があって、ボリビアの人口の大半はこの高原部に集中している。その北も高原や肥沃な谷が広がっており、多くの人々が居住する。山脈が分かれた間には平坦な土地も多い。また、アンデスの西部山腹にはペルー第2の都市であるアレキパがある。チチカカ湖の北東部の国境一帯には東部山脈に属するアポロバンバ山地(スペイン語版)があり、1977年にユネスコの生物圏保護区に指定された。
ボリビアに入ると、西部にはアルティプラーノが広がり、首都ラパスのほか、20世紀に入り世界最大の錫鉱山としてボリビア経済を支えたオルロ、16世紀より世界最大の銀鉱山として栄えたポトシといった古い鉱山都市が点在する。アルティプラーノは南部に行くにしたがって乾燥していき、南西部には巨大な塩湖であるウユニ塩湖が広がる。一方、アルティプラーノの東に広がる東アンデス山脈地方は、高度がアルティプラーノよりも低く、地形は険しいものの肥沃な谷間が各地に点在し、農業生産力の高い地域である。このため、コチャバンバやスクレなどの都市が生まれ、ボリビア経済を支える地域となってきた。とくにコチャバンバ盆地は、オルロやポトシへの食糧供給基地として繁栄してきた。また、首都ラパスの北東に位置するユンガス地方は、アンデスの東麓にあたり、アマゾンから吹いてくる風の影響で暑く湿った気候となっている。このため霧が非常に多い。この地方も温暖なため農業生産力が高く、首都ラパスの食糧供給を担っている。しかし、地形は非常に険しく、とくにラパスとユンガスとを結ぶユンガスの道は重要な幹線であるにもかかわらず非常な悪路として知られており、2006年に新道が開通するまで年に100人近い死者が出ていた。
南緯25度に近いユヤイヤコ山より南は南アンデスと呼ばれる。南アンデスは高原の広がる中央アンデスとは違い、地形は険しくなり主脈の上に平地はなくなる。南アンデスの主脈は、そのままアルゼンチンとチリとの国境をなす。ただしアンデスが太平洋岸に迫った山脈であるため、アンデス西麓を領土とするチリの国土は非常に細長いものとなっている。32度には最高峰アコンカグア山がそびえる。35度付近までは3000 m級の山が連なるが、それ以南はやや高度を下げる。チリの首都サンティアゴはこの付近の、西部山脈と主脈の間の構造平野に位置する。南緯42度以南はパタゴニア地方に入り、高度は2000 m程度であまり高くないが、寒冷な気候と西風による降水で氷河地帯を形成する。
アルゼンチンのサンフアン州のアンデス山脈にあるサン・ギジェルモ国立保護区(スペイン語版)は1980年に、カタマルカ州のガラン山(スペイン語版)付近のブランカ湖生物圏保護区(スペイン語版)は1982年に、フフイ州北部の高山湖でラムサール条約登録地でもあるポスエロ湖自然保護区(スペイン語版)は1990年に、フフイ州とサルタ州のカリレグア国立公園(スペイン語版)、バリトゥ国立公園(スペイン語版)、エル・ノルガラル・デ・ロス・トルドス国立保護区(スペイン語版)、ポトレーロ・デ・ヤラ州立公園(スペイン語版)、ピンタスカヨ州立公園(スペイン語版)を含むユンガス(スペイン語版)地域は2002年に、チュブ州、リオネグロ州、ネウケン州を跨ぐパタゴニア地方北西部のアンディーノ・ノルパタゴニカ生物圏保護区(スペイン語版)は2007年に、チリのラウカ国立公園(スペイン語版)、ラス・ビクニャス国立保護区(スペイン語版)とスリレ塩原国立記念物(スペイン語版)一帯のラウカ生物圏保護区(英語版)は1981年に、コンギージョ国立公園(スペイン語版)とアルト・ビオビオ国立保護区(スペイン語版)一帯のアラウカリアス生物圏保護区(英語版)は1983年に、南部アンデス温帯雨林(スペイン語版)は2007年に、ネバドス・デ・チジャン山(スペイン語版)およびラ・ラハ湖(スペイン語版)は2011年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。一帯にはFestuca dolichophylla(英語版)、Laretia acaulis(スペイン語版)、パタゴニアヒバ、レンガ(英語版)、ドンベイミナミブナ(英語版)、ナンキョクブナ(英語版)などのナンキョクブナ属、チリマツなどのナンヨウスギ属、シロガネヨシ属、ホタルイ属、イグサ属(英語版)、デンモザ属(英語版)、マイフエニオプシス属(英語版)、トリコケレウス属(英語版)、オプンティア属、アウストロケドルス属(英語版)、ピルゲロデンドロン属(英語版)などの植物が生え、ビクーニャ、グアナコ、ビスカッチャ、キツネ、ペルーケナガアルマジロ(英語版)、ピューマ、アンデスネコ、ジャガー、アメリカバク、ペルーゲマルジカ(英語版)、ゲマルジカ(英語版)、オセロット、オナガカワウソ、チリカワウソ、クチジロペッカリー(英語版)、フサオマキザル、コロンビアハナナガヘラコウモリ(英語版)、アンデスリス(英語版)、オマキヤマアラシ(英語版)、フタイロオマキヤマアラシ(英語版)、シャカイツコツコ(英語版)、ダーウィンレア、フラミンゴなどの動物が生息している。
アンデス山脈は有用な鉱物が多く、金・銀・銅・錫など多様な鉱物を多量に産出する。金や銀はアンデス文明時代から盛んに採掘され、インカ帝国の文化を支えたほか、スペイン植民地時代には多くの金・銀山が操業し、なかでもボリビアのポトシから産出された銀は多量であり、同市は17世紀には繁栄を極めた。しかし金・銀はスペインの中南米侵略以降の数百年の間に掘り尽くされた感があり、ペルーのセロ・デ・パスコなどで産出されるものの、現在の産出量はそれほど多くはない。銅に関しては古くから盛んに採掘されていたが、特に20世紀に入ってからチリ北部においてチュキカマタなどで近代的な銅の大鉱山が相次いで採掘され、チリ経済の重要な柱となっている。錫に関しては、20世紀にボリビアのオルロで大鉱脈が発見され、ワヌニ鉱山などの大鉱山が開かれた。この錫輸出は、産出量の大幅に減った銀に代わるボリビア財政の柱となり、シモン・パティーニョなど何人かの錫成金を生み出した。第二次世界大戦の前後に需要が高まり、鉱山は好景気になったが、1952年にはこれらボリビアの錫鉱山はすべて国有化され、1990年代になって民営化がすすめられた。このほか、鉛やタングステンといった他の鉱物も盛んに産出される。近年、ボリビアのウユニ塩湖において世界の埋蔵量の半分にあたる巨大なリチウム鉱脈が発見されるなど、希少金属が各地で発見され注目されている。
アンデス山脈は気候が温暖であることから農耕が盛んであり、とくに北アンデスから中央アンデスにかけては耕地が広がり、人口も稠密である。一方で、これらの農地の多くは自給農業が主であり、またそれほど肥沃ではなく、農地も細分化されていたり地主の支配下にあるなどして効率がよくなく、第二次世界大戦以降に海岸部で発達したプランテーションや大農園に押され気味である。このため、アンデスの農村の多くは豊かではなく、ペルーにおいては1940年代以降アンデス山脈地方から多くの人口流出が起き、首都リマなどのスラムへと流れ込むものが多くなっている。
アンデスにおいては観光業も重要である。特に、インカ帝国の旧首都であるクスコや、その遺跡であるマチュピチュなどには世界中から観光客が訪れ、一大観光地となっている。そのほかにもチチカカ湖や、近年ではウユニ塩湖もその幻想的な光景によって人気を博しつつある。また、インカ帝国時代の遺跡やスペイン植民時代の遺跡など、アンデス山脈には多くの世界遺産が存在し、これらの観光もさかんである。
赤道直下を含む長い山脈であるため、北部と南部では気候は大きく違う。また、標高によっても気候は大きく異なり、それに伴って土地利用も大きく異なる。
中央アンデスにおいては、海岸側の標高500 mから2300 mにかけての地域はユンガと呼ばれ、海岸側の寒流の影響を受けて基本的には乾燥した地域であり、アンデス山脈の主脈から流れる短い河川に沿って点々と居住地域が連なる。標高が低いためこの地域は海岸部と同じく熱帯作物の生産が主な産業となる。また、アンデス主脈と海岸との間が狭いため、この地域はかなり急峻な地形であり平地は少ない。2300 mから3500 mにかけてはケチュアと呼ばれる地域となり、ここでは夏季にまとまった降雨があり、また河谷も広く山もややなだらかになる上に涼しく過ごしやすい気候であるため、居住者が多い。農業としてはトウモロコシが主に栽培される。3500 mから4000 mにかけてはスニと呼ばれ、気候は冷涼で、農業としてはジャガイモが主なものとなるが、この地域も農業は盛んである。4000 mから4800 mにかけてはプーナと呼ばれ、寒く乾燥しているために農業は困難であり、リャマやアルパカなどの放牧が主産業となる。アルティプラーノ南部はほぼこの標高に位置する。4800 m以上になるとハンカと呼ばれ、農業・牧畜が不可能な非居住地帯となり、氷河などがしばしば広がる。アマゾン側に関しては、高峰からケチュア帯まではほぼ同じであるものの、ユンガ帯はアマゾンからの熱く湿った空気が流れ込んでくるために密林地帯となっており、ボリビアのユンガス地方など一部を除いては農業は盛んではなく、人口もまばらである。このアンデス東麓では標高1000 m以下は完全な熱帯雨林気候となり、アマゾン熱帯雨林の一部となっている。特徴的な植物種としては高山帯に生える絶滅危惧種のプヤ・ライモンディが挙げられ、「アンデスの女王」とも呼ばれる。また、山脈にはリャマとアルパカのほか、ビクーニャ、オジロジカ、メガネグマ、アンデスイワドリ(英語版)、クチジロペッカリー、アメリカバク、ジャガー、オウギワシ、ヤマビスカーチャ(英語版)、クルペオギツネ、ペルーゲマルジカ、コンドル、Ctenophryne barbatula(英語版)などの動物も生息している。
一方、北アンデスにおいては赤道に近くより温暖な気候であるため、この区分はやや異なってくる。標高1000 m位までの地域は熱帯雨林であり、1000 mから2000 mまでの間は温暖な気候となる。2000m以上3000mまでの地域はやや冷涼な気候となり、コロンビアの首都ボゴタのあるクンディナマルカ高原やエクアドルの首都キトのあるキト盆地など、過ごしやすい気候のため多くの人々の住む地域となっている。この高度帯までは農業も盛んである。3000 m以上4700 mあたりまでの高度の地域はパラモ(スペイン語版)と呼ばれ、中央アンデスのプーナに対応する寒冷な地域であるが、プーナとは異なりこの地域は湿潤な気候である。しかしプーナとは違い、パラモは農業や牧畜にそれほど使用されてはおらず、未開発の地域となっているところが多いが、逆にそのために豊かな自然が残り、生物多様性も豊富である。パラモ、プーナ、ジャルカを含む高地草原群系に位置する高地アンデス生態系には、氷河、湖沼、湿性草地、蘚類湿地、高地湿原、塩田、泥炭湿原など、生態学的、社会的、文化的に高い価値を有する湿地系が含まれており、ノガリヤス属(英語版)、ウシノケグサ属などが支配的で、アンデスフラミンゴ、メガネグマ、コンドルなどが生息している。他にはマキ属、ポリレピス属(英語版)の樹木も生えている。
標高により気温が変わることは、アンデス地方の住民の言葉にも現れている。旅行者などがしばしば「君が生まれたところは標高どれくらいか?」という質問を受けることがあるが、これは「暖かいところで生まれたのか、寒いところで生まれたのか」を尋ねている。
ペルー・ボリビアやチリに広がる高地、アルティプラーノは、寒冷で乾燥した気候である。より寒冷な南部は作物の栽培にも牧畜にも適さないが、アルティプラノ北部はより赤道に近いためやや気温が高く、トウモロコシやジャガイモなどを中心に盛んに農耕がおこなわれ、また灌漑をおこなうことによりより大規模な生産をおこなうことができるため、ティワナク文化やインカ帝国など古代文明を生み出す母体となった。また、標高が高く空気が希薄であるため紫外線が強い。
アンデス山脈は世界の8つの植物栽培化の起源地域の一つであり、多くの食用植物の原産地としても知られる。とくに中央アンデスが原産地として知られる。アンデス原産の食用植物中最も重要なものはジャガイモであり、紀元前5000年ごろにはチチカカ湖周辺で栽培が始まったと考えられている。アンデスのジャガイモは長い栽培化と利用の歴史によって多様な品種が育成され、形・色・味などのバラエティも豊富である。アルティプラーノでは寒冷で乾燥した気候を生かし、ジャガイモを屋外で軽く踏んだ後に凍結乾燥させたチューニョと呼ばれる食材が有名である。また、このほかにも世界各地で野菜や調味料として使用されるトマトや、ナッツや油脂原料として使用されるラッカセイなど世界的に重要な作物がアンデスにおいて栽培化されている。アンデスにおける栽培化植物は多岐にわたり、カボチャやインゲンマメ、ライマメ、トウガラシなどはアンデスが原産である。インカ帝国時代には主穀として重要視されたキヌアもアンデス原産植物であり、スペイン植民地時代にはコムギなどにとってかわられて栽培が減少し他地域にも伝播しなかったものの、20世紀末以降雑穀が世界的に見直される中でキヌアの栽培も復活傾向にある。食用植物ではないが、タバコもアンデスのボリビア・アルゼンチン国境地域が原産地域であり、ここから世界に広まっていった。トウモロコシは中米原産であり、アンデスに元からあった作物ではないが、インカ帝国時代にはすでにアンデスに伝播しており、主要作物の一つに数えられていた。しかしこの時代の主食はジャガイモであり、トウモロコシはむしろ儀式に用いるチチャと呼ばれる酒の原料として重要視されていた。アンデス各地には、インカ時代に建設されたトウモロコシ栽培用の階段耕地が各地に残っており、現在でも使用されている。
アンデス山脈は、細いが非常に高度が高い上に長く伸びているので、近隣の気候にも重大な影響を及ぼしている。アンデスの北部においては、熱帯収束帯に位置するため一年中多雨であり、熱帯雨林が広がっている (en:Tropical Andes)。中部のエクアドルやペルー、チリ北部では、西麓は太平洋を寒流であるフンボルト海流が流れるために降雨がほとんどなく、砂漠気候の地域が延々と広がっている (en:Dry Andes)。アンデス山脈内には降雨があるため、そこから流れ下る川の流域のみがオアシスとなっている (en:Puna grassland, en:Central Andean wet puna, en:Central Andean puna, en:Central Andean dry puna)。中部の東麓はサバナ気候となってリャノが広がる。チリ中部やアルゼンチン中部となる南緯30度くらいより南のホーン岬(南緯56度)までになると、西麓には偏西風が山脈にぶつかり降雨があるため地中海性気候や西岸海洋性気候となり (en:Wet Andes)、一方東麓(パタゴニア)では乾燥気候が広がるようになる。
アンデス山脈はインカ帝国の基盤であり、その時代はインディオ人口の多くはアンデス山脈地域に居住していた。スペインによる植民地化後もこの構図は変わらず、疫病や暴政によって人口は激減したものの、白人のかなりが海岸部に定着したこともあって、アンデスにおいては先住民であるインディオの割合がかなり高い。とくに中央アンデスにおいてこの傾向は顕著であり、ペルーやボリビアにおいては先住民族であるケチュア人やアイマラ人といった諸民族が大きな勢力をいまだ保っており、ケチュア語やアイマラ語といった彼らの言語もまた広く使用されている。しかし、言語的には各国の公用語であるスペイン語がきわめて深く浸透しており、これらの先住諸言語は押され気味である。また、白人と先住民の混血であるメスティソの割合も高くなっている。しかし先住民族の文化はある程度保たれており、現代でも民族衣装や音楽などは独自のものが残されている。音楽においては、ケーナ・サンポーニャ・ロンダドールなどの先住民系の管楽器とギターやチャランゴなどのスペイン系の弦楽器を組み合わせた、いわゆる「アンデスのフォルクローレ」が1950年代に完成し、世界で広く親しまれるようになった。
上記冷涼地域に紀元前1000年頃からチャビン文化が成立し、紀元前後からはナスカ、ティワナク、モチェなどのアンデス文明が生まれた。紀元700年頃にはペルー中央高地にワリ文化が成立し、アルティプラノにて継続していたティワナク文化との並立期を迎えた。9世紀後半頃にはモチェ文化の遺民によってチムー王国がペルーの北部海岸に成立し、シカン文化などを併合して海岸部を支配する帝国となった。1100年頃にティワナクが衰退するとチチカカ湖周辺は諸民族の抗争の舞台となったが、そのうちインカ帝国が勢力を拡大し、1476年ごろには最後の敵対する大勢力であったチムー王国を併合し、1500年頃にはインカがエクアドルからチリ北部までのアンデスを制覇した。しかし、1532年のスペイン人の侵入によって、アンデスの先住民独自の文明と政治組織は滅びた。「アンデス」という名称は、このインカを興した民族であるケチュア族の言葉で東を指す「アンティ」によるものとされる。
1533年にフランシスコ・ピサロがクスコに入城し、インカ帝国がほぼ滅亡すると、アンデス全域はスペインの植民地統治のもとにおかれた。リマに本拠を置いたペルー副王領がアンデスのみならず南アメリカのスペイン領全土を統括したが、その統治は過酷なもので、アンデスのインディオ人口はこの時期に激減している。しかしそれでもインディオはかなりの人数が生き残り、アンデスのほとんどはインディオが多数を占める世界であり続けた。一方、アンデスの各地にはスペインが植民都市を建設し、多くの白人が流入した。なかでもボリビアのポトシは16世紀以降世界最大の銀鉱山として知られ、ここからの莫大な銀の産出はスペイン黄金時代を現出させることとなった。これらの白人とインディオの間の混血はメスティソと呼ばれ、やがてアンデスの人口の多くを占めるようになっていく。インカ帝国はビルカバンバに逃れて数十年間抵抗をつづけたもののやがて滅ぼされたが、スペイン政府はクスコ周辺のインカ有力者たちについては地位を認めるなど懐柔策を取り、この地域のインディオ有力者たちは植民地時代末にいたるまで一定の力を保ち続けた。
18世紀末になると、本国からの白人が優位を占める体制に、植民地人たちが不満を強めていき、1780年にはクスコ周辺でトゥパク・アマルー2世の乱がおきるなど、スペインの支配体制が揺らぎ始める。スペイン本国においてもナポレオン戦争によって従来の体制が大きく揺らぐ中、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンの手によって大コロンビア、チリ、アルト・ペルー(ボリビア)、そしてペルーと、アンデス諸国は次々と独立を達成していった。
独立はしたものの、アンデス諸国の情勢は不安定なものだった。各国を大きく統合しようとしたシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンが相次いで失脚すると、各地のカウディーリョたちは各地に割拠し、この動きの中で大コロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの3か国に分裂して、やがて現在の7か国にまとまった。しかし各国の勢力範囲は固まっておらず、国境線は何度も引き直された。1836年にはボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルスがペルーを征服し、ペルーを北ペルー共和国と南ペルー共和国に分けたうえでペルー・ボリビア連合を建国したものの、この統合に危機感を覚えた周辺各国の介入によって1839年にこの連合は崩壊し、以後アンデスの国家数は7で固定された。
19世紀のラテンアメリカ諸国を巻き込んだ保守派と自由主義派の対立はアンデス諸国においても激しかったが、アンデス諸国においては保守派はアンデス山岳部に基盤を置くことが多かった。とくにエクアドルにおいては、首都キトを中心とするアンデス山岳地方(シエラ)と太平洋岸のグアヤキル港を中心とする海岸部(コスタ)との対立が19世紀後半にいたるまでエクアドル国内政治の主要な争点となっていた。エクアドルは山岳部の人口が稠密であり、19世紀半ばの山岳部と海岸部の人口比は8対2にも及んでいたため山岳部を握る保守派が優勢となっていたが、やがて山岳部の農地の疲弊と海岸部の開発の進展によって海岸部が経済力をつけ、海岸部に基盤を置く自由主義派の政治が行われるようになっていった。
1879年にはペルー・ボリビアとチリの間で太平洋戦争が勃発し、勝利したチリはボリビア領のアントファガスタやペルー領のアリカやイキケを占領し、アンデス西部山麓の広大な領土を獲得した。一方、この戦争に敗れたペルーはグアノの大産地を失って経済危機に陥り、ボリビアは西部山脈以東に押し込められて内陸国となった。この戦争以降、アンデス部分においては大幅な国境変更はなくなった。
20世紀に入ると各国で近代化がより進んでいく一方、アンデス高地農村の貧困は一向に改善されず、20世紀後半にはコロンビアやペルーなどでアンデス農村部はゲリラが跳梁するようになった。とくにペルーのセンデロ・ルミノソは1980年代にペルー中部のアンデスを根拠地として猛威を振るったが、1992年に幹部のアビマエル・グスマンが逮捕されて以降急速に衰え、2010年代には残った組織も他の重要幹部の拘束により大打撃を受けて、この脅威はほぼ取り除かれた形となっている。
アンデス山脈の走る7か国のうち、大西洋を志向し国内におけるアンデス地区の比重が非常に低いアルゼンチンを除く6か国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ)はアンデス諸国またはアンデス6か国と呼ばれる。このうちベネズエラを除く5か国は1969年、アンデス共同体を結成し、1973年にはベネズエラも加盟したものの、1976年にチリが脱退、2006年にはベネズエラも脱退した。一方で残った4か国は徐々に協力体制を深め、1993年にはベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビア間で域内関税が撤廃され、2006年にはペルーもこれに参加してアンデス自由貿易圏が完成した。また、加盟国間の移動に関しては2003年より身分証明書の提示のみでパスポートがなくとも各国間を移動できるようになるなど、一定の統合が進んでいる。一方で、政治的にはこれら諸国は対立することもしばしばあり、2008年には北アンデス3国において、アメリカ寄りのアルバロ・ウリベ率いるコロンビアと、反米を掲げるエクアドルのラファエル・コレアおよびベネズエラのウゴ・チャベスとの間で対立、アンデス危機と呼ばれる政治危機が起こった。
南から北へ順番に、主要な山のみ(標高は資料によって異なる)
パタゴニア・アンデス
チリ / アルゼンチン・アンデス
ボリビア・アンデス レアル山群
ボリビア・アンデス その他
ペルー・アンデス ブランカ山群
ペルー・アンデス ワイワッシュ山群
ペルー・アンデス その他
エクアドル・アンデス
コロンビア/ベネズエラ・アンデス
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"text": "アンデス山脈(アンデスさんみゃく、スペイン語: Cordillera de los Andes)は、主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500キロメートル (km)、幅750 kmにわたる世界最長の連続した褶曲()山脈である。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。最高峰はアコンカグア(6960メートル 〈m〉・一説には7021 m)で、6000 mを越える高峰が20座以上そびえ立っている。山脈が現在の姿になり始めたのは白亜紀で、その後現在まで太平洋プレート、ナスカプレートと南米大陸のぶつかり合いで隆起し、場所により異なる構造運動を受けて大きくなったと考えられている。",
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"text": "上記のように海洋プレートの沈み込み帯の上側に乗った大陸プレートが、海洋プレートからの圧力を受けて隆起してできたと考えられている。この構造は日本列島とよく似ており、沖合には沈み込み帯に由来する海溝が存在し、山脈上にはたくさんの火山が噴出し、海溝周辺では度々チリ地震などの大きな地震が起きている。現在でも火山活動は活発であり、1985年にはコロンビアにあるネバドデルルイス火山の噴火による火山泥流が麓のアルメロの街を直撃し、人口2万8700人の約4分の3にあたる2万1000人が死亡する大惨事となるなど、災害が多発している。標高が非常に高いため、高山の頂上付近には氷河が発達していることも多い。しかし、近年これらの氷河は縮小傾向にあり、ペルーでは1970年以降2014年までに氷河の40 %が失われ、最も減少率の高かったパストルリ氷河においては氷河の52 %が失われていた。同じくエクアドルにおいても、1980年代末に92平方キロメートル (km) あった氷河が2010年には42 kmにまで縮小した。",
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"text": "アンデス山脈の始まりはベネズエラ北部、トリニダード島に近いカリブ海沿岸である。アンデス山脈は、ここからほぼ東西にベネズエラ高地として伸びる。ベネズエラの首都カラカスもこの高地の中に存在する高原都市である。カラカス周辺以西のベネズエラ高原は気候がよく人口稠密地域となっており、東から西にカラカス、マラカイ、バレンシア、バルキシメトといった都市が点在する。やがてベネズエラ高地は南西に向きを変え、メリダ山脈となる。メリダ山脈はメリダ、サン・クリストバルといった都市がある。この山脈はコロンビアにも続き、コロンビア東部山脈となる。コロンビア国内のアンデス山脈はこの東部山脈のほか、中央山脈と西部山脈があり、このに3つの山脈が北から南へ並走する形となる。この3山脈間には深い谷が刻まれており、東部・中央両山脈間にはマグダレナ川、中央・西部両山脈間にはカウカ川がそれぞれ南北に流れ、両河川は合流したのちカリブ海へと注ぐ。こういった地形のため、ボゴタやメデリンといった主要都市から太平洋岸へと輸送を行うには4000 m級の山脈を1つまたは2つ越えなければならず、経済の大きなネックとなっている。また、こういった起伏に富んだ地形のため、コロンビアの治安は行き届いているとは到底言えず、各地にゲリラや武装勢力の跳梁を許す一つの理由となっている。",
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"text": "東部山脈にはベネズエラとの国境に位置するククタのほか、ブカラマンガやトゥンハといった都市があり、中部にはコロンビアの首都ボゴタを擁するクンディナマルカ高原(スペイン語版)(海抜約2600 m)がある。中央山脈にも、主に中腹にコロンビア第2の都市であるメデリンや、マニサレス、アルメニア、ポパヤンといった都市があるが、西部山脈内には目立った都市はない。しかし、カウカ谷にはコロンビア第3の都市であるカリ市があり、この3山脈と間のマグダレナ・カウカ両河谷をあわせた地域はアンデス地域と総称され、コロンビア人口の大半が居住する経済の中心となっている。この3つの山脈は、コロンビア南部のコロンビア山塊(スペイン語版)で中央・東部両山脈が合流し、さらにコロンビア南端のロス・パストス山塊で西部山脈をも併せて、一本の太い山脈となる。この地域にはパスト市がある。コロンビア山塊に位置するスアサ川(スペイン語版)流域のクエバ・デ・ロス・グアチャロス国立自然公園(スペイン語版)、マグダレナ川、カウカ川、カケタ川の水源があるプラセ国立自然公園(スペイン語版)とネバド・デル・ウイラ国立自然公園は1979年にユネスコの生物圏保護区に指定された。",
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"text": "エクアドルではアンデス地域はシエラ(山地)と呼ばれ、オリエンタル・オクシデンタルの両山脈に分かれて南へ伸び、エクアドルの首都キトやクエンカなどの都市が位置する。キト盆地(海抜約2800 m)も古くからの集住地である。キトで赤道を越えるが、この付近には4000 mを越える稜線の上にチンボラソ(6267 m)や、世界最高の活火山であるコトパクシ山(5897 m)などたくさんの火山が噴出している。ペルーからエクアドルにかけての国境付近でアンデスはいったんやや高度が低くなる。ここまでは北アンデスとも呼ばれる。北アンデスには高原や肥沃な谷間が点在し、人口密度は高い。エクアドルは、このアンデス山地地方(シエラ)と、海岸地方(コスタ)の二つの地区の勢力が拮抗している。エクアドル南部のポドカルプス国立公園(スペイン語版)、ヤクリ国立公園(スペイン語版)とプラテアード丘陵生物保護区(スペイン語版)を含む一帯は「マキ・コンドル生物圏保護区」として2007年に、カハス国立公園(スペイン語版)は2013年に、首都のキトが位置するピチンチャ県一帯は2018年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。カハス国立公園は2002年にラムサール条約登録地となった。",
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"text": "ペルーに入るとアンデス山脈は、海岸沿いの西部山脈とアマゾンに面する東部山脈、そしてその中間の中央山脈に分かれ、それぞれ南北に並行して伸びる。ペルー北部においてはアンデスの幅は南部に比べればそれほど広くはなく、カハマルカなどの都市が点在するものの人口は多くない。ペルーにおいてもエクアドルと同じく、シエラとコスタの対立構造があるものの、ペルーでは海岸地方の開発が進んでおり、大都市の多くは海岸地方にありペルー人口の半分以上も海岸地方に居住するため、アンデス山地の経済比重は海岸部に比べ低い。この地域にあるアンカシュ県のワスカラン国立公園は1977年に、オクサパンパ(スペイン語版)周辺のパスコ県とフニン県の雲霧林は2010年と2020年に、サン・マルティン県のグラン・パハテン(スペイン語版)周辺のリオ・アビセオ国立公園は2016年に、フニン県とクスコ県にまたがるオクサパンパ周辺の雲霧林とマヌー国立公園をつなぐ緑の回廊一帯は2021年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。",
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"text": "ペルー南部に入り、南緯15度以南では山脈の幅が広がり、南緯28度くらいまで最も幅の広い地区となるが、この中でも最も広くなるボリビアでも幅は600 km程度にしかならない。しかし、この地区のアンデスはペルー南部からボリビアにかけて、高度3500 mから4500 mあたりに広大で平坦な高原であるアルティプラーノ(海抜約4000 m)が広がっている。そこにはチチカカ湖やポーポー湖などの湖が広がり、ボリビアの首都ラパスやインカ帝国の首都だったクスコなどの大都市があって、ボリビアの人口の大半はこの高原部に集中している。その北も高原や肥沃な谷が広がっており、多くの人々が居住する。山脈が分かれた間には平坦な土地も多い。また、アンデスの西部山腹にはペルー第2の都市であるアレキパがある。チチカカ湖の北東部の国境一帯には東部山脈に属するアポロバンバ山地(スペイン語版)があり、1977年にユネスコの生物圏保護区に指定された。",
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"text": "ボリビアに入ると、西部にはアルティプラーノが広がり、首都ラパスのほか、20世紀に入り世界最大の錫鉱山としてボリビア経済を支えたオルロ、16世紀より世界最大の銀鉱山として栄えたポトシといった古い鉱山都市が点在する。アルティプラーノは南部に行くにしたがって乾燥していき、南西部には巨大な塩湖であるウユニ塩湖が広がる。一方、アルティプラーノの東に広がる東アンデス山脈地方は、高度がアルティプラーノよりも低く、地形は険しいものの肥沃な谷間が各地に点在し、農業生産力の高い地域である。このため、コチャバンバやスクレなどの都市が生まれ、ボリビア経済を支える地域となってきた。とくにコチャバンバ盆地は、オルロやポトシへの食糧供給基地として繁栄してきた。また、首都ラパスの北東に位置するユンガス地方は、アンデスの東麓にあたり、アマゾンから吹いてくる風の影響で暑く湿った気候となっている。このため霧が非常に多い。この地方も温暖なため農業生産力が高く、首都ラパスの食糧供給を担っている。しかし、地形は非常に険しく、とくにラパスとユンガスとを結ぶユンガスの道は重要な幹線であるにもかかわらず非常な悪路として知られており、2006年に新道が開通するまで年に100人近い死者が出ていた。",
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"text": "南緯25度に近いユヤイヤコ山より南は南アンデスと呼ばれる。南アンデスは高原の広がる中央アンデスとは違い、地形は険しくなり主脈の上に平地はなくなる。南アンデスの主脈は、そのままアルゼンチンとチリとの国境をなす。ただしアンデスが太平洋岸に迫った山脈であるため、アンデス西麓を領土とするチリの国土は非常に細長いものとなっている。32度には最高峰アコンカグア山がそびえる。35度付近までは3000 m級の山が連なるが、それ以南はやや高度を下げる。チリの首都サンティアゴはこの付近の、西部山脈と主脈の間の構造平野に位置する。南緯42度以南はパタゴニア地方に入り、高度は2000 m程度であまり高くないが、寒冷な気候と西風による降水で氷河地帯を形成する。",
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"text": "アルゼンチンのサンフアン州のアンデス山脈にあるサン・ギジェルモ国立保護区(スペイン語版)は1980年に、カタマルカ州のガラン山(スペイン語版)付近のブランカ湖生物圏保護区(スペイン語版)は1982年に、フフイ州北部の高山湖でラムサール条約登録地でもあるポスエロ湖自然保護区(スペイン語版)は1990年に、フフイ州とサルタ州のカリレグア国立公園(スペイン語版)、バリトゥ国立公園(スペイン語版)、エル・ノルガラル・デ・ロス・トルドス国立保護区(スペイン語版)、ポトレーロ・デ・ヤラ州立公園(スペイン語版)、ピンタスカヨ州立公園(スペイン語版)を含むユンガス(スペイン語版)地域は2002年に、チュブ州、リオネグロ州、ネウケン州を跨ぐパタゴニア地方北西部のアンディーノ・ノルパタゴニカ生物圏保護区(スペイン語版)は2007年に、チリのラウカ国立公園(スペイン語版)、ラス・ビクニャス国立保護区(スペイン語版)とスリレ塩原国立記念物(スペイン語版)一帯のラウカ生物圏保護区(英語版)は1981年に、コンギージョ国立公園(スペイン語版)とアルト・ビオビオ国立保護区(スペイン語版)一帯のアラウカリアス生物圏保護区(英語版)は1983年に、南部アンデス温帯雨林(スペイン語版)は2007年に、ネバドス・デ・チジャン山(スペイン語版)およびラ・ラハ湖(スペイン語版)は2011年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された。一帯にはFestuca dolichophylla(英語版)、Laretia acaulis(スペイン語版)、パタゴニアヒバ、レンガ(英語版)、ドンベイミナミブナ(英語版)、ナンキョクブナ(英語版)などのナンキョクブナ属、チリマツなどのナンヨウスギ属、シロガネヨシ属、ホタルイ属、イグサ属(英語版)、デンモザ属(英語版)、マイフエニオプシス属(英語版)、トリコケレウス属(英語版)、オプンティア属、アウストロケドルス属(英語版)、ピルゲロデンドロン属(英語版)などの植物が生え、ビクーニャ、グアナコ、ビスカッチャ、キツネ、ペルーケナガアルマジロ(英語版)、ピューマ、アンデスネコ、ジャガー、アメリカバク、ペルーゲマルジカ(英語版)、ゲマルジカ(英語版)、オセロット、オナガカワウソ、チリカワウソ、クチジロペッカリー(英語版)、フサオマキザル、コロンビアハナナガヘラコウモリ(英語版)、アンデスリス(英語版)、オマキヤマアラシ(英語版)、フタイロオマキヤマアラシ(英語版)、シャカイツコツコ(英語版)、ダーウィンレア、フラミンゴなどの動物が生息している。",
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"text": "アンデス山脈は有用な鉱物が多く、金・銀・銅・錫など多様な鉱物を多量に産出する。金や銀はアンデス文明時代から盛んに採掘され、インカ帝国の文化を支えたほか、スペイン植民地時代には多くの金・銀山が操業し、なかでもボリビアのポトシから産出された銀は多量であり、同市は17世紀には繁栄を極めた。しかし金・銀はスペインの中南米侵略以降の数百年の間に掘り尽くされた感があり、ペルーのセロ・デ・パスコなどで産出されるものの、現在の産出量はそれほど多くはない。銅に関しては古くから盛んに採掘されていたが、特に20世紀に入ってからチリ北部においてチュキカマタなどで近代的な銅の大鉱山が相次いで採掘され、チリ経済の重要な柱となっている。錫に関しては、20世紀にボリビアのオルロで大鉱脈が発見され、ワヌニ鉱山などの大鉱山が開かれた。この錫輸出は、産出量の大幅に減った銀に代わるボリビア財政の柱となり、シモン・パティーニョなど何人かの錫成金を生み出した。第二次世界大戦の前後に需要が高まり、鉱山は好景気になったが、1952年にはこれらボリビアの錫鉱山はすべて国有化され、1990年代になって民営化がすすめられた。このほか、鉛やタングステンといった他の鉱物も盛んに産出される。近年、ボリビアのウユニ塩湖において世界の埋蔵量の半分にあたる巨大なリチウム鉱脈が発見されるなど、希少金属が各地で発見され注目されている。",
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"text": "アンデス山脈は気候が温暖であることから農耕が盛んであり、とくに北アンデスから中央アンデスにかけては耕地が広がり、人口も稠密である。一方で、これらの農地の多くは自給農業が主であり、またそれほど肥沃ではなく、農地も細分化されていたり地主の支配下にあるなどして効率がよくなく、第二次世界大戦以降に海岸部で発達したプランテーションや大農園に押され気味である。このため、アンデスの農村の多くは豊かではなく、ペルーにおいては1940年代以降アンデス山脈地方から多くの人口流出が起き、首都リマなどのスラムへと流れ込むものが多くなっている。",
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"text": "アンデスにおいては観光業も重要である。特に、インカ帝国の旧首都であるクスコや、その遺跡であるマチュピチュなどには世界中から観光客が訪れ、一大観光地となっている。そのほかにもチチカカ湖や、近年ではウユニ塩湖もその幻想的な光景によって人気を博しつつある。また、インカ帝国時代の遺跡やスペイン植民時代の遺跡など、アンデス山脈には多くの世界遺産が存在し、これらの観光もさかんである。",
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"text": "赤道直下を含む長い山脈であるため、北部と南部では気候は大きく違う。また、標高によっても気候は大きく異なり、それに伴って土地利用も大きく異なる。",
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"text": "中央アンデスにおいては、海岸側の標高500 mから2300 mにかけての地域はユンガと呼ばれ、海岸側の寒流の影響を受けて基本的には乾燥した地域であり、アンデス山脈の主脈から流れる短い河川に沿って点々と居住地域が連なる。標高が低いためこの地域は海岸部と同じく熱帯作物の生産が主な産業となる。また、アンデス主脈と海岸との間が狭いため、この地域はかなり急峻な地形であり平地は少ない。2300 mから3500 mにかけてはケチュアと呼ばれる地域となり、ここでは夏季にまとまった降雨があり、また河谷も広く山もややなだらかになる上に涼しく過ごしやすい気候であるため、居住者が多い。農業としてはトウモロコシが主に栽培される。3500 mから4000 mにかけてはスニと呼ばれ、気候は冷涼で、農業としてはジャガイモが主なものとなるが、この地域も農業は盛んである。4000 mから4800 mにかけてはプーナと呼ばれ、寒く乾燥しているために農業は困難であり、リャマやアルパカなどの放牧が主産業となる。アルティプラーノ南部はほぼこの標高に位置する。4800 m以上になるとハンカと呼ばれ、農業・牧畜が不可能な非居住地帯となり、氷河などがしばしば広がる。アマゾン側に関しては、高峰からケチュア帯まではほぼ同じであるものの、ユンガ帯はアマゾンからの熱く湿った空気が流れ込んでくるために密林地帯となっており、ボリビアのユンガス地方など一部を除いては農業は盛んではなく、人口もまばらである。このアンデス東麓では標高1000 m以下は完全な熱帯雨林気候となり、アマゾン熱帯雨林の一部となっている。特徴的な植物種としては高山帯に生える絶滅危惧種のプヤ・ライモンディが挙げられ、「アンデスの女王」とも呼ばれる。また、山脈にはリャマとアルパカのほか、ビクーニャ、オジロジカ、メガネグマ、アンデスイワドリ(英語版)、クチジロペッカリー、アメリカバク、ジャガー、オウギワシ、ヤマビスカーチャ(英語版)、クルペオギツネ、ペルーゲマルジカ、コンドル、Ctenophryne barbatula(英語版)などの動物も生息している。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "一方、北アンデスにおいては赤道に近くより温暖な気候であるため、この区分はやや異なってくる。標高1000 m位までの地域は熱帯雨林であり、1000 mから2000 mまでの間は温暖な気候となる。2000m以上3000mまでの地域はやや冷涼な気候となり、コロンビアの首都ボゴタのあるクンディナマルカ高原やエクアドルの首都キトのあるキト盆地など、過ごしやすい気候のため多くの人々の住む地域となっている。この高度帯までは農業も盛んである。3000 m以上4700 mあたりまでの高度の地域はパラモ(スペイン語版)と呼ばれ、中央アンデスのプーナに対応する寒冷な地域であるが、プーナとは異なりこの地域は湿潤な気候である。しかしプーナとは違い、パラモは農業や牧畜にそれほど使用されてはおらず、未開発の地域となっているところが多いが、逆にそのために豊かな自然が残り、生物多様性も豊富である。パラモ、プーナ、ジャルカを含む高地草原群系に位置する高地アンデス生態系には、氷河、湖沼、湿性草地、蘚類湿地、高地湿原、塩田、泥炭湿原など、生態学的、社会的、文化的に高い価値を有する湿地系が含まれており、ノガリヤス属(英語版)、ウシノケグサ属などが支配的で、アンデスフラミンゴ、メガネグマ、コンドルなどが生息している。他にはマキ属、ポリレピス属(英語版)の樹木も生えている。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "標高により気温が変わることは、アンデス地方の住民の言葉にも現れている。旅行者などがしばしば「君が生まれたところは標高どれくらいか?」という質問を受けることがあるが、これは「暖かいところで生まれたのか、寒いところで生まれたのか」を尋ねている。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ペルー・ボリビアやチリに広がる高地、アルティプラーノは、寒冷で乾燥した気候である。より寒冷な南部は作物の栽培にも牧畜にも適さないが、アルティプラノ北部はより赤道に近いためやや気温が高く、トウモロコシやジャガイモなどを中心に盛んに農耕がおこなわれ、また灌漑をおこなうことによりより大規模な生産をおこなうことができるため、ティワナク文化やインカ帝国など古代文明を生み出す母体となった。また、標高が高く空気が希薄であるため紫外線が強い。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アンデス山脈は世界の8つの植物栽培化の起源地域の一つであり、多くの食用植物の原産地としても知られる。とくに中央アンデスが原産地として知られる。アンデス原産の食用植物中最も重要なものはジャガイモであり、紀元前5000年ごろにはチチカカ湖周辺で栽培が始まったと考えられている。アンデスのジャガイモは長い栽培化と利用の歴史によって多様な品種が育成され、形・色・味などのバラエティも豊富である。アルティプラーノでは寒冷で乾燥した気候を生かし、ジャガイモを屋外で軽く踏んだ後に凍結乾燥させたチューニョと呼ばれる食材が有名である。また、このほかにも世界各地で野菜や調味料として使用されるトマトや、ナッツや油脂原料として使用されるラッカセイなど世界的に重要な作物がアンデスにおいて栽培化されている。アンデスにおける栽培化植物は多岐にわたり、カボチャやインゲンマメ、ライマメ、トウガラシなどはアンデスが原産である。インカ帝国時代には主穀として重要視されたキヌアもアンデス原産植物であり、スペイン植民地時代にはコムギなどにとってかわられて栽培が減少し他地域にも伝播しなかったものの、20世紀末以降雑穀が世界的に見直される中でキヌアの栽培も復活傾向にある。食用植物ではないが、タバコもアンデスのボリビア・アルゼンチン国境地域が原産地域であり、ここから世界に広まっていった。トウモロコシは中米原産であり、アンデスに元からあった作物ではないが、インカ帝国時代にはすでにアンデスに伝播しており、主要作物の一つに数えられていた。しかしこの時代の主食はジャガイモであり、トウモロコシはむしろ儀式に用いるチチャと呼ばれる酒の原料として重要視されていた。アンデス各地には、インカ時代に建設されたトウモロコシ栽培用の階段耕地が各地に残っており、現在でも使用されている。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アンデス山脈は、細いが非常に高度が高い上に長く伸びているので、近隣の気候にも重大な影響を及ぼしている。アンデスの北部においては、熱帯収束帯に位置するため一年中多雨であり、熱帯雨林が広がっている (en:Tropical Andes)。中部のエクアドルやペルー、チリ北部では、西麓は太平洋を寒流であるフンボルト海流が流れるために降雨がほとんどなく、砂漠気候の地域が延々と広がっている (en:Dry Andes)。アンデス山脈内には降雨があるため、そこから流れ下る川の流域のみがオアシスとなっている (en:Puna grassland, en:Central Andean wet puna, en:Central Andean puna, en:Central Andean dry puna)。中部の東麓はサバナ気候となってリャノが広がる。チリ中部やアルゼンチン中部となる南緯30度くらいより南のホーン岬(南緯56度)までになると、西麓には偏西風が山脈にぶつかり降雨があるため地中海性気候や西岸海洋性気候となり (en:Wet Andes)、一方東麓(パタゴニア)では乾燥気候が広がるようになる。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "アンデス山脈はインカ帝国の基盤であり、その時代はインディオ人口の多くはアンデス山脈地域に居住していた。スペインによる植民地化後もこの構図は変わらず、疫病や暴政によって人口は激減したものの、白人のかなりが海岸部に定着したこともあって、アンデスにおいては先住民であるインディオの割合がかなり高い。とくに中央アンデスにおいてこの傾向は顕著であり、ペルーやボリビアにおいては先住民族であるケチュア人やアイマラ人といった諸民族が大きな勢力をいまだ保っており、ケチュア語やアイマラ語といった彼らの言語もまた広く使用されている。しかし、言語的には各国の公用語であるスペイン語がきわめて深く浸透しており、これらの先住諸言語は押され気味である。また、白人と先住民の混血であるメスティソの割合も高くなっている。しかし先住民族の文化はある程度保たれており、現代でも民族衣装や音楽などは独自のものが残されている。音楽においては、ケーナ・サンポーニャ・ロンダドールなどの先住民系の管楽器とギターやチャランゴなどのスペイン系の弦楽器を組み合わせた、いわゆる「アンデスのフォルクローレ」が1950年代に完成し、世界で広く親しまれるようになった。",
"title": "気候と風土"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "上記冷涼地域に紀元前1000年頃からチャビン文化が成立し、紀元前後からはナスカ、ティワナク、モチェなどのアンデス文明が生まれた。紀元700年頃にはペルー中央高地にワリ文化が成立し、アルティプラノにて継続していたティワナク文化との並立期を迎えた。9世紀後半頃にはモチェ文化の遺民によってチムー王国がペルーの北部海岸に成立し、シカン文化などを併合して海岸部を支配する帝国となった。1100年頃にティワナクが衰退するとチチカカ湖周辺は諸民族の抗争の舞台となったが、そのうちインカ帝国が勢力を拡大し、1476年ごろには最後の敵対する大勢力であったチムー王国を併合し、1500年頃にはインカがエクアドルからチリ北部までのアンデスを制覇した。しかし、1532年のスペイン人の侵入によって、アンデスの先住民独自の文明と政治組織は滅びた。「アンデス」という名称は、このインカを興した民族であるケチュア族の言葉で東を指す「アンティ」によるものとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1533年にフランシスコ・ピサロがクスコに入城し、インカ帝国がほぼ滅亡すると、アンデス全域はスペインの植民地統治のもとにおかれた。リマに本拠を置いたペルー副王領がアンデスのみならず南アメリカのスペイン領全土を統括したが、その統治は過酷なもので、アンデスのインディオ人口はこの時期に激減している。しかしそれでもインディオはかなりの人数が生き残り、アンデスのほとんどはインディオが多数を占める世界であり続けた。一方、アンデスの各地にはスペインが植民都市を建設し、多くの白人が流入した。なかでもボリビアのポトシは16世紀以降世界最大の銀鉱山として知られ、ここからの莫大な銀の産出はスペイン黄金時代を現出させることとなった。これらの白人とインディオの間の混血はメスティソと呼ばれ、やがてアンデスの人口の多くを占めるようになっていく。インカ帝国はビルカバンバに逃れて数十年間抵抗をつづけたもののやがて滅ぼされたが、スペイン政府はクスコ周辺のインカ有力者たちについては地位を認めるなど懐柔策を取り、この地域のインディオ有力者たちは植民地時代末にいたるまで一定の力を保ち続けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "18世紀末になると、本国からの白人が優位を占める体制に、植民地人たちが不満を強めていき、1780年にはクスコ周辺でトゥパク・アマルー2世の乱がおきるなど、スペインの支配体制が揺らぎ始める。スペイン本国においてもナポレオン戦争によって従来の体制が大きく揺らぐ中、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンの手によって大コロンビア、チリ、アルト・ペルー(ボリビア)、そしてペルーと、アンデス諸国は次々と独立を達成していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "独立はしたものの、アンデス諸国の情勢は不安定なものだった。各国を大きく統合しようとしたシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンが相次いで失脚すると、各地のカウディーリョたちは各地に割拠し、この動きの中で大コロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの3か国に分裂して、やがて現在の7か国にまとまった。しかし各国の勢力範囲は固まっておらず、国境線は何度も引き直された。1836年にはボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルスがペルーを征服し、ペルーを北ペルー共和国と南ペルー共和国に分けたうえでペルー・ボリビア連合を建国したものの、この統合に危機感を覚えた周辺各国の介入によって1839年にこの連合は崩壊し、以後アンデスの国家数は7で固定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "19世紀のラテンアメリカ諸国を巻き込んだ保守派と自由主義派の対立はアンデス諸国においても激しかったが、アンデス諸国においては保守派はアンデス山岳部に基盤を置くことが多かった。とくにエクアドルにおいては、首都キトを中心とするアンデス山岳地方(シエラ)と太平洋岸のグアヤキル港を中心とする海岸部(コスタ)との対立が19世紀後半にいたるまでエクアドル国内政治の主要な争点となっていた。エクアドルは山岳部の人口が稠密であり、19世紀半ばの山岳部と海岸部の人口比は8対2にも及んでいたため山岳部を握る保守派が優勢となっていたが、やがて山岳部の農地の疲弊と海岸部の開発の進展によって海岸部が経済力をつけ、海岸部に基盤を置く自由主義派の政治が行われるようになっていった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1879年にはペルー・ボリビアとチリの間で太平洋戦争が勃発し、勝利したチリはボリビア領のアントファガスタやペルー領のアリカやイキケを占領し、アンデス西部山麓の広大な領土を獲得した。一方、この戦争に敗れたペルーはグアノの大産地を失って経済危機に陥り、ボリビアは西部山脈以東に押し込められて内陸国となった。この戦争以降、アンデス部分においては大幅な国境変更はなくなった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "20世紀に入ると各国で近代化がより進んでいく一方、アンデス高地農村の貧困は一向に改善されず、20世紀後半にはコロンビアやペルーなどでアンデス農村部はゲリラが跳梁するようになった。とくにペルーのセンデロ・ルミノソは1980年代にペルー中部のアンデスを根拠地として猛威を振るったが、1992年に幹部のアビマエル・グスマンが逮捕されて以降急速に衰え、2010年代には残った組織も他の重要幹部の拘束により大打撃を受けて、この脅威はほぼ取り除かれた形となっている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "アンデス山脈の走る7か国のうち、大西洋を志向し国内におけるアンデス地区の比重が非常に低いアルゼンチンを除く6か国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ)はアンデス諸国またはアンデス6か国と呼ばれる。このうちベネズエラを除く5か国は1969年、アンデス共同体を結成し、1973年にはベネズエラも加盟したものの、1976年にチリが脱退、2006年にはベネズエラも脱退した。一方で残った4か国は徐々に協力体制を深め、1993年にはベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビア間で域内関税が撤廃され、2006年にはペルーもこれに参加してアンデス自由貿易圏が完成した。また、加盟国間の移動に関しては2003年より身分証明書の提示のみでパスポートがなくとも各国間を移動できるようになるなど、一定の統合が進んでいる。一方で、政治的にはこれら諸国は対立することもしばしばあり、2008年には北アンデス3国において、アメリカ寄りのアルバロ・ウリベ率いるコロンビアと、反米を掲げるエクアドルのラファエル・コレアおよびベネズエラのウゴ・チャベスとの間で対立、アンデス危機と呼ばれる政治危機が起こった。",
"title": "政治"
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{
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"text": "南から北へ順番に、主要な山のみ(標高は資料によって異なる)",
"title": "山名のリスト"
},
{
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"text": "パタゴニア・アンデス",
"title": "山名のリスト"
},
{
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"text": "チリ / アルゼンチン・アンデス",
"title": "山名のリスト"
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{
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"text": "ボリビア・アンデス レアル山群",
"title": "山名のリスト"
},
{
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"text": "ボリビア・アンデス その他",
"title": "山名のリスト"
},
{
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"text": "ペルー・アンデス ブランカ山群",
"title": "山名のリスト"
},
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"text": "ペルー・アンデス ワイワッシュ山群",
"title": "山名のリスト"
},
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"text": "ペルー・アンデス その他",
"title": "山名のリスト"
},
{
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"text": "エクアドル・アンデス",
"title": "山名のリスト"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "コロンビア/ベネズエラ・アンデス",
"title": "山名のリスト"
}
] |
アンデス山脈は、主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500キロメートル (km)、幅750 kmにわたる世界最長の連続した褶曲山脈である。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。最高峰はアコンカグア(6960メートル 〈m〉・一説には7021 m)で、6000 mを越える高峰が20座以上そびえ立っている。山脈が現在の姿になり始めたのは白亜紀で、その後現在まで太平洋プレート、ナスカプレートと南米大陸のぶつかり合いで隆起し、場所により異なる構造運動を受けて大きくなったと考えられている。
|
{{山系
|名称=アンデス山脈
|画像=[[File:Andes.png|300px]]<br><small>南米の地形 太平洋岸と平行に走るアンデス山脈</small>
|所在地={{plainlist|
*{{ARG}}
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}}
| 緯度度 = 32 | 緯度分 = 39 | 緯度秒 = 10 |N(北緯)及びS(南緯) = S
| 経度度 = 70 |経度分 = 0 | 経度秒 = 40 |E(東経)及びW(西経) = W
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|最高峰=[[アコンカグア]]
|標高=6,960
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}}
'''アンデス山脈'''(アンデスさんみゃく、{{lang-es|Cordillera de los Andes}})は、主に[[南アメリカ大陸]]の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500[[キロメートル|キロメートル{{nbsp}}(km)]]、幅750{{nbsp}}kmにわたる世界最長の連続した{{読み仮名|[[褶曲]]|しゅうきょく}}山脈である。山脈は[[ベネズエラ]]、[[コロンビア]]、[[エクアドル]]、[[ペルー]]、[[ボリビア]]、[[アルゼンチン]]、[[チリ]]の7カ国にまたがる。最高峰は[[アコンカグア]](6960[[メートル|メートル{{nbsp}}〈m〉]]・一説には7021{{nbsp}}m)で、6000{{nbsp}}mを越える高峰が20座以上そびえ立っている。山脈が現在の姿になり始めたのは白亜紀で、その後現在まで[[太平洋プレート]]、[[ナスカプレート]]と南米大陸のぶつかり合いで隆起し、場所により異なる構造運動を受けて大きくなったと考えられている。
== 地質 ==
[[ファイル:MAGMAARC1.jpg|サムネイル|4つの火山帯]]
上記のように海洋プレートの沈み込み帯の上側に乗った大陸プレートが、海洋プレートからの圧力を受けて隆起してできたと考えられている。この構造は日本列島とよく似ており、沖合には沈み込み帯に由来する[[海溝]]が存在し、山脈上にはたくさんの[[火山]]が噴出し、海溝周辺では度々[[チリ地震]]などの大きな[[地震]]が起きている。現在でも火山活動は活発であり、[[1985年]]にはコロンビアにある[[ネバドデルルイス火山]]の噴火による[[火山泥流]]が麓のアルメロの街を直撃し、人口2万8700人の約4分の3にあたる2万1000人が死亡する大惨事となるなど、災害が多発している。標高が非常に高いため、高山の頂上付近には氷河が発達していることも多い。しかし、近年これらの氷河は縮小傾向にあり、ペルーでは1970年以降2014年までに氷河の40{{nbsp}}[[%]]が失われ、最も減少率の高かったパストルリ氷河においては氷河の52{{nbsp}}%が失われていた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3029142 ペルーの氷河、70年以降40%縮小 政府報告] afpbb 2014年10月17日 2015年2月1日閲覧</ref>。同じくエクアドルにおいても、1980年代末に92[[平方キロメートル|平方キロメートル{{nbsp}}(km{{sup|2}})]] あった氷河が2010年には42{{nbsp}}km{{sup|2}}にまで縮小した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3029142 アンデス山脈の氷河融解、気候変動で危機的状況に] afpbb 2014年12月04日 2015年2月1日閲覧</ref>。
== 地理 ==
=== 北アンデス ===
[[ファイル:Paramos.JPG|サムネイル|300ピクセル|北アンデス]]
[[ファイル:Casa Cural de la Catedral 2.jpg|サムネイル|ボゴタ旧市街]]
アンデス山脈の始まりはベネズエラ北部、[[トリニダード島]]に近いカリブ海沿岸である。アンデス山脈は、ここからほぼ東西にベネズエラ高地として伸びる。ベネズエラの首都[[カラカス]]もこの高地の中に存在する高原都市である。カラカス周辺以西のベネズエラ高原は気候がよく人口稠密地域となっており、東から西にカラカス、[[マラカイ]]、[[バレンシア (ベネズエラ)|バレンシア]]、[[バルキシメト]]といった都市が点在する。やがてベネズエラ高地は南西に向きを変え、[[メリダ山脈]]となる。メリダ山脈は[[メリダ]]、[[サン・クリストバル]]といった都市がある。この山脈はコロンビアにも続き、コロンビア東部山脈となる。コロンビア国内のアンデス山脈はこの東部山脈のほか、中央山脈と西部山脈があり、このに3つの山脈が北から南へ並走する形となる。この3山脈間には深い谷が刻まれており、東部・中央両山脈間には[[マグダレナ川]]、中央・西部両山脈間には[[カウカ川]]がそれぞれ南北に流れ、両河川は合流したのちカリブ海へと注ぐ。こういった地形のため、ボゴタやメデリンといった主要都市から太平洋岸へと輸送を行うには4000{{nbsp}}m級の山脈を1つまたは2つ越えなければならず、経済の大きなネックとなっている。また、こういった起伏に富んだ地形のため、コロンビアの治安は行き届いているとは到底言えず、各地にゲリラや武装勢力の跳梁を許す一つの理由となっている。
東部山脈にはベネズエラとの国境に位置する[[ククタ]]のほか、[[ブカラマンガ]]や[[トゥンハ]]といった都市があり、中部にはコロンビアの首都[[ボゴタ]]を擁する{{仮リンク|クンディボヤカ高原|es|Altiplano cundiboyacense|label=クンディナマルカ高原}}(海抜約2600{{nbsp}}m)がある。中央山脈にも、主に中腹にコロンビア第2の都市である[[メデリン]]や、[[マニサレス]]、アルメニア、[[ポパヤン]]といった都市があるが、西部山脈内には目立った都市はない。しかし、カウカ谷にはコロンビア第3の都市である[[カリ]]市があり、この3山脈と間のマグダレナ・カウカ両河谷をあわせた地域はアンデス地域と総称され、コロンビア人口の大半が居住する経済の中心となっている。この3つの山脈は、コロンビア南部の{{仮リンク|コロンビア山塊|es|Macizo Colombiano}}で中央・東部両山脈が合流し、さらにコロンビア南端のロス・パストス山塊で西部山脈をも併せて、一本の太い山脈となる<ref>二村久則編集『コロンビアを知るための60章』エリアスタディーズ90 18ページ [[明石書店]] 2011年6月30日初版第1刷 </ref>。この地域には[[パスト]]市がある。コロンビア山塊に位置する{{仮リンク|スアサ川|es|Río Suaza}}流域の{{仮リンク|クエバ・デ・ロス・グアチャロス国立自然公園|es|Parque nacional natural Cueva de los Guácharos}}、[[マグダレナ川]]、[[カウカ川]]、[[カケタ川]]の水源がある{{仮リンク|プラセ国立自然公園|es|Parque nacional natural Puracé}}と[[ネバド・デル・ウイラ|ネバド・デル・ウイラ国立自然公園]]は1979年に[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定された<ref>{{Cite web |title=Cinturón Andino Biosphere Reserve, Colombia |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/cinturon-andino |website=UNESCO |date=2019-06-25 |access-date=2023-03-23 |language=en}}</ref>。
エクアドルではアンデス地域はシエラ(山地)と呼ばれ、オリエンタル・オクシデンタルの両山脈に分かれて南へ伸び、エクアドルの首都[[キト]]や[[クエンカ (エクアドル)|クエンカ]]などの都市が位置する。[[キト盆地]](海抜約2800{{nbsp}}m)も古くからの集住地である。キトで[[赤道]]を越えるが、この付近には4000{{nbsp}}mを越える稜線の上に[[チンボラソ]](6267{{nbsp}}m)や、世界最高の[[活火山]]である[[コトパクシ山]](5897{{nbsp}}m)などたくさんの火山が噴出している。ペルーからエクアドルにかけての国境付近でアンデスはいったんやや高度が低くなる。ここまでは北アンデスとも呼ばれる。北アンデスには高原や肥沃な谷間が点在し、人口密度は高い。エクアドルは、このアンデス山地地方(シエラ)と、海岸地方(コスタ)の二つの地区の勢力が拮抗している。エクアドル南部の{{仮リンク|ポドカルプス国立公園|es|Parque nacional Podocarpus}}、{{仮リンク|ヤクリ国立公園|es|Parque nacional Yacurí}}と{{仮リンク|プラテアード丘陵生物保護区|es|Reserva biológica Cerro Plateado}}を含む一帯は「[[マキ属|マキ]]・[[コンドル]]生物圏保護区」として2007年に<ref>{{Cite web |title=Podocarpus - El Condor Biosphere Reserve, Ecuador |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/podocarpus-elcondor |website=UNESCO |date=2019-06-24 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>、{{仮リンク|カハス国立公園|es|Parque nacional Cajas}}は2013年に<ref name=":10">{{Cite web |title=Macizo del Cajas Biosphere Reserve, Ecuador |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/macizo-del-cajas |website=UNESCO |date=2019-06-24 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>、首都のキトが位置する[[ピチンチャ県]]一帯は2018年にそれぞれ[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定された<ref>{{Cite web |title=Chocó Andino de Pichincha Biosphere Reserve, Ecuador |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/choco-andino-pichincha |website=UNESCO |date=2018-10 |access-date=2023-03-31 |language=en}}</ref>。カハス国立公園は2002年に[[ラムサール条約]]登録地となった<ref name=":11">{{Cite web |title=Parque Nacional Cajas {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/1203 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-03-28 |date=2002-08-14}}</ref>。
=== 中央アンデス ===
[[ファイル:Nasa anden.jpg|サムネイル|300ピクセル|中央アンデス<br>コロンビア南部からエクアドル、ペルー、ボリビアのアルティプラーノにかけて]]
[[ファイル:Potosi1.jpg|サムネイル|ポトシ市とセロ・リコ]]
ペルーに入るとアンデス山脈は、海岸沿いの西部山脈と[[アマゾン川|アマゾン]]に面する東部山脈、そしてその中間の中央山脈に分かれ、それぞれ南北に並行して伸びる。ペルー北部においてはアンデスの幅は南部に比べればそれほど広くはなく、[[カハマルカ]]などの都市が点在するものの人口は多くない。ペルーにおいてもエクアドルと同じく、シエラとコスタの対立構造があるものの、ペルーでは海岸地方の開発が進んでおり、大都市の多くは海岸地方にありペルー人口の半分以上も海岸地方に居住するため、アンデス山地の経済比重は海岸部に比べ低い。この地域にある[[アンカシュ県]]の[[ワスカラン国立公園]]は1977年に<ref name=":02">{{Cite web |title=Huascarán Biosphere Reserve, Peru |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/huascaran |website=UNESCO |date=2020-6 |access-date=2023-03-26 |language=en}}</ref>、{{仮リンク|オクサパンパ|es|Oxapampa}}周辺の[[パスコ県]]と[[フニン県]]の[[雲霧林]]は2010年と2020年に<ref name=":9">{{Cite web |title=Oxapampa-Ashaninka-Yanesha Biosphere Reserve, Peru |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/oxapampa-ashaninka-yanesha |website=UNESCO |date=2020-6 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref><ref name=":12">{{Cite web |title=Bosques de Neblina-Selva Central Biosphere Reserve, Peru |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/bosquesdeneblina-selvacentral |website=UNESCO |date=2021-11 |access-date=2023-03-31 |language=en}}</ref>、[[サン・マルティン県]]の{{仮リンク|グラン・パハテン|es|Gran Pajatén}}周辺の[[リオ・アビセオ国立公園]]は2016年に<ref>{{Cite web |title=Avireri-Vraem Biosphere Reserve, Peru |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/avireri-vraem |website=UNESCO |date=2021-01-31 |access-date=2023-03-31 |language=en}}</ref>、フニン県と[[クスコ県]]にまたがるオクサパンパ周辺の雲霧林と[[マヌー国立公園]]をつなぐ[[緑の回廊]]一帯は2021年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された<ref>{{Cite web |title=Gran Pajatén Biosphere Reserve, Peru |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/gran-pajaten |website=UNESCO |date=2020-6 |access-date=2023-03-29 |language=en}}</ref>。
ペルー南部に入り、南緯15度以南では山脈の幅が広がり、南緯28度くらいまで最も幅の広い地区となるが、この中でも最も広くなるボリビアでも幅は600{{nbsp}}km程度にしかならない。しかし、この地区のアンデスはペルー南部からボリビアにかけて、高度3500{{nbsp}}mから4500{{nbsp}}mあたりに広大で平坦な高原である[[アルティプラーノ]](海抜約4000{{nbsp}}m)が広がっている。そこには[[チチカカ湖]]や[[ポーポー湖]]などの湖が広がり、ボリビアの首都[[ラパス]]やインカ帝国の首都だった[[クスコ]]などの大都市があって、ボリビアの人口の大半はこの高原部に集中している。その北も高原や肥沃な谷が広がっており、多くの人々が居住する。山脈が分かれた間には平坦な土地も多い。また、アンデスの西部山腹にはペルー第2の都市である[[アレキパ]]がある。チチカカ湖の北東部の国境一帯には東部山脈に属する{{仮リンク|アポロバンバ山地|es|Cordillera Apolobamba}}があり、1977年にユネスコの生物圏保護区に指定された<ref name=":0">{{Cite web |title=Apolobamba National Natural Area of Integrated Management Biosphere Reserve, Bolivia |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/apolobamba |website=UNESCO |date=2020-07 |access-date=2023-03-22 |language=en}}</ref>。
ボリビアに入ると、西部にはアルティプラーノが広がり、首都ラパスのほか、20世紀に入り世界最大の[[錫]]鉱山としてボリビア経済を支えた[[オルロ]]、16世紀より世界最大の[[銀]]鉱山として栄えた[[ポトシ]]といった古い鉱山都市が点在する。アルティプラーノは南部に行くにしたがって乾燥していき、南西部には巨大な塩湖である[[ウユニ塩湖]]が広がる。一方、アルティプラーノの東に広がる東アンデス山脈地方は、高度がアルティプラーノよりも低く、地形は険しいものの肥沃な谷間が各地に点在し、農業生産力の高い地域である。このため、[[コチャバンバ]]や[[スクレ]]などの都市が生まれ、ボリビア経済を支える地域となってきた。とくにコチャバンバ盆地は、オルロやポトシへの食糧供給基地として繁栄してきた<ref>眞鍋周三 編著 『ボリビアを知るための73章 【第2版】 』 明石書店〈エリア・スタディーズ 54〉 2013年、80頁、{{ISBN2|978-4-7503-3763-0}}</ref>。また、首都ラパスの北東に位置する[[ユンガス地方]]は、アンデスの東麓にあたり、アマゾンから吹いてくる風の影響で暑く湿った気候となっている。このため霧が非常に多い。この地方も温暖なため農業生産力が高く、首都ラパスの食糧供給を担っている。しかし、地形は非常に険しく、とくにラパスとユンガスとを結ぶ[[ユンガスの道]]は重要な幹線であるにもかかわらず非常な悪路として知られており、[[2006年]]に新道が開通するまで年に100人近い死者が出ていた。
=== 南アンデス ===
[[ファイル:Andes 70.30345W 42.99203S.jpg|サムネイル|300ピクセル|南アンデス]]
南緯25度に近い[[ユヤイヤコ山]]より南は南アンデスと呼ばれる。南アンデスは高原の広がる中央アンデスとは違い、地形は険しくなり主脈の上に平地はなくなる。南アンデスの主脈は、そのままアルゼンチンとチリとの国境をなす。ただしアンデスが太平洋岸に迫った山脈であるため、アンデス西麓を領土とするチリの国土は非常に細長いものとなっている。32度には最高峰アコンカグア山がそびえる。35度付近までは3000{{nbsp}}m級の山が連なるが、それ以南はやや高度を下げる。チリの首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]はこの付近の、西部山脈と主脈の間の構造平野に位置する。南緯42度以南は[[パタゴニア]]地方に入り、高度は2000{{nbsp}}m程度であまり高くないが、寒冷な気候と西風による降水で氷河地帯を形成する。
アルゼンチンの[[サンフアン州 (アルゼンチン)|サンフアン州]]のアンデス山脈にある{{仮リンク|サン・ギジェルモ国立保護区|es|Parque nacional San Guillermo}}は1980年に<ref name=":1">{{Cite web |title=San Guillermo Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/san-guillermo |website=UNESCO |date=2018-10-25 |access-date=2023-03-23 |language=en}}</ref>、[[カタマルカ州]]の{{仮リンク|ガラン山|es|Cerro Galán}}付近の{{仮リンク|ブランカ湖生物圏保護区|es|Reserva de biosfera Laguna Blanca}}は1982年に<ref name=":2">{{Cite web |title=Laguna Blanca Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/laguna-blanca |website=UNESCO |date=2020-05 |access-date=2023-03-23 |language=en}}</ref>、[[フフイ州]]北部の高山湖でラムサール条約登録地でもある{{仮リンク|ポスエロ湖自然保護区|es|Monumento natural Laguna de los Pozuelos}}は1990年に<ref>{{Cite web |title=Laguna de Pozuelos, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/laguna-de-pozuelos |website=UNESCO |date=2018-10-26 |access-date=2023-03-23 |language=en}}</ref><ref name=":4">{{Cite web |title=Laguna de los Pozuelos {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/555 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-03-23 |date=1996-1-1}}</ref>、フフイ州と[[サルタ州]]の{{仮リンク|カリレグア国立公園|es|Parque nacional Calilegua}}、{{仮リンク|バリトゥ国立公園|es|Parque nacional Baritú}}、{{仮リンク|エル・ノルガラル・デ・ロス・トルドス国立保護区|es|Reserva nacional El Nogalar de Los Toldos}}、{{仮リンク|ポトレーロ・デ・ヤラ州立公園|es|Parque provincial Potrero de Yala}}、{{仮リンク|ピンタスカヨ州立公園|es|Parque provincial Laguna Pintascayo}}を含む{{仮リンク|ユンガス|es|Yungas}}地域は2002年に<ref name=":5">{{Cite web |title=Las Yungas Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/yungas |website=UNESCO |date=2020-05-25 |access-date=2023-03-26 |language=en}}</ref>、[[チュブ州]]、[[リオネグロ州]]、[[ネウケン州]]を跨ぐパタゴニア地方北西部の{{仮リンク|アンディーノ・ノルパタゴニカ生物圏保護区|es|Reserva de biosfera andino norpatagónica}}は2007年に<ref name=":6">{{Cite web |title=Andino Norpatagónica Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/andino-norpatagonica |website=UNESCO |date=2020-05-26 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>、チリの{{仮リンク|ラウカ国立公園|es|Parque nacional Lauca}}、{{仮リンク|ラス・ビクニャス国立保護区|es|Reserva nacional Las Vicuñas}}と{{仮リンク|スリレ塩原国立記念物|es|Monumento natural Salar de Surire}}一帯の{{仮リンク|ラウカ生物圏保護区|en|Lauca}}は1981年に<ref name=":7">{{Cite web |title=Lauca Biosphere Reserve, Chile |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/lauca |website=UNESCO |date=2020-06 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>、{{仮リンク|コンギージョ国立公園|es|Parque nacional Conguillío}}と{{仮リンク|アルト・ビオビオ国立保護区|es|Reserva nacional Alto Biobío}}一帯の{{仮リンク|アラウカリアス生物圏保護区|en|Araucarias Biosphere Reserve}}は1983年に<ref name=":3">{{Cite web |title=Araucarias Biosphere Reserve, Chile |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/araucarias |website=UNESCO |date=2020-05 |access-date=2023-03-23 |language=en}}</ref>、{{仮リンク|南部アンデス温帯雨林|es|Bosques Templados Lluviosos de los Andes Australes}}は2007年に<ref name=":8">{{Cite web |title=Bosques Templados Lluviosos de los Andes Australes Biosphere Reserve, Chile |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/bosques-templados-lluviosos |website=UNESCO |date=2020-02-19 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>、{{仮リンク|ネバドス・デ・チジャン山|es|Nevados de Chillán}}および{{仮リンク|ラ・ラハ湖|es|Laguna de La Laja}}は2011年にそれぞれユネスコの生物圏保護区に指定された<ref>{{Cite web |title=Corredor Biológico Nevados de Chillán-Laguna del Laja Biosphere Reserve, Chile |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/chillan-lajas |website=UNESCO |date=2020-02-19 |access-date=2023-03-28 |language=en}}</ref>。一帯には{{仮リンク|Festuca dolichophylla|en|Festuca dolichophylla|label=''Festuca dolichophylla''}}、{{仮リンク|Laretia acaulis|es|Laretia acaulis|label=''Laretia acaulis''}}、[[パタゴニアヒバ]]、{{仮リンク|レンガ (木)|en|Nothofagus pumilio|label=レンガ}}、{{仮リンク|ドンベイミナミブナ|en|Nothofagus dombeyi}}、{{仮リンク|ナンキョクブナ|en|Nothofagus antarctica}}などの[[ナンキョクブナ属]]、[[チリマツ]]などの[[ナンヨウスギ属]]、[[シロガネヨシ属]]、[[ホタルイ属]]、{{仮リンク|イグサ属|en|Juncus}}、{{仮リンク|デンモザ属|en|Denmoza}}、{{仮リンク|マイフエニオプシス属|en|Maihueniopsis}}、{{仮リンク|トリコケレウス属|en|Echinopsis}}、[[オプンティア属]]、{{仮リンク|アウストロケドルス属|en|Austrocedrus}}、{{仮リンク|ピルゲロデンドロン属|en|Pilgerodendron}}などの植物が生え、[[ビクーニャ]]、[[グアナコ]]、[[ビスカッチャ]]、[[キツネ]]、{{仮リンク|ペルーケナガアルマジロ|en|Andean hairy armadillo}}、[[ピューマ]]、[[アンデスネコ]]、[[ジャガー]]、[[アメリカバク]]、{{仮リンク|ペルーゲマルジカ|en|Taruca}}、{{仮リンク|ゲマルジカ|en|South Andean deer}}、[[オセロット]]、[[オナガカワウソ]]、[[チリカワウソ]]、{{仮リンク|クチジロペッカリー|en|White-lipped peccary}}、[[フサオマキザル]]、{{仮リンク|コロンビアハナナガヘラコウモリ|en|Tailed tailless bat}}、{{仮リンク|アンデスリス|en|Bolivian squirrel}}、{{仮リンク|オマキヤマアラシ|en|Brazilian porcupine}}、{{仮リンク|フタイロオマキヤマアラシ|en|Bicolored-spined porcupine}}、{{仮リンク|シャカイツコツコ|en|Social tuco-tuco}}、[[ダーウィンレア]]、[[フラミンゴ]]などの動物が生息している<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":4" /><ref name=":5" /><ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":3" /><ref name=":8" />。
== 経済 ==
[[ファイル:Salar de Uyuni making salt.jpg|サムネイル|ウユニ塩原の塩採掘]]
アンデス山脈は有用な[[鉱物]]が多く、[[金]]・[[銀]]・[[銅]]・[[錫]]など多様な鉱物を多量に産出する。金や銀はアンデス文明時代から盛んに採掘され、インカ帝国の文化を支えたほか、スペイン植民地時代には多くの金・銀山が操業し、なかでもボリビアのポトシから産出された銀は多量であり、同市は17世紀には繁栄を極めた。しかし金・銀は[[スペイン]]の中南米侵略以降の数百年の間に掘り尽くされた感があり、ペルーの[[セロ・デ・パスコ]]などで産出されるものの、現在の産出量はそれほど多くはない。銅に関しては古くから盛んに採掘されていたが、特に20世紀に入ってからチリ北部において[[チュキカマタ]]などで近代的な銅の大鉱山が相次いで採掘され、チリ経済の重要な柱となっている。錫に関しては、20世紀にボリビアのオルロで大鉱脈が発見され、[[ワヌニ鉱山]]などの大鉱山が開かれた。この錫輸出は、産出量の大幅に減った銀に代わるボリビア財政の柱となり、[[シモン・パティーニョ]]など何人かの錫成金を生み出した。[[第二次世界大戦]]の前後に需要が高まり、鉱山は好景気になったが、[[1952年]]にはこれらボリビアの錫鉱山はすべて国有化され、[[1990年代]]になって民営化がすすめられた。このほか、[[鉛]]や[[タングステン]]といった他の鉱物も盛んに産出される。近年、ボリビアのウユニ塩湖において世界の埋蔵量の半分にあたる巨大な[[リチウム]]鉱脈が発見される<ref>眞鍋周三編著 『ボリビアを知るための73章 【第2版】 』p199 明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年 ISBN 978-4-7503-3763-0</ref>など、[[希少金属]]が各地で発見され注目されている。
アンデス山脈は気候が温暖であることから農耕が盛んであり、とくに北アンデスから中央アンデスにかけては耕地が広がり、人口も稠密である。一方で、これらの農地の多くは自給農業が主であり、またそれほど肥沃ではなく、農地も細分化されていたり地主の支配下にあるなどして効率がよくなく、第二次世界大戦以降に海岸部で発達した[[プランテーション]]や大農園に押され気味である。このため、アンデスの農村の多くは豊かではなく、ペルーにおいては1940年代以降アンデス山脈地方から多くの人口流出が起き、首都リマなどの[[スラム]]へと流れ込むものが多くなっている<ref>細谷広美編著 『ペルーを知るための62章』p227 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2004年1月。ISBN 4-7503-1840-X</ref>。
アンデスにおいては観光業も重要である。特に、インカ帝国の旧首都であるクスコや、その遺跡である[[マチュピチュ]]などには世界中から観光客が訪れ、一大観光地となっている。そのほかにもチチカカ湖や、近年ではウユニ塩湖もその幻想的な光景によって人気を博しつつある。また、インカ帝国時代の遺跡やスペイン植民時代の遺跡など、アンデス山脈には多くの[[世界遺産]]が存在し、これらの観光もさかんである。
== 気候と風土 ==
赤道直下を含む長い山脈であるため、北部と南部では気候は大きく違う。また、標高によっても気候は大きく異なり、それに伴って土地利用も大きく異なる。
中央アンデスにおいては、海岸側の標高500{{nbsp}}mから2300{{nbsp}}mにかけての地域はユンガと呼ばれ、海岸側の寒流の影響を受けて基本的には乾燥した地域であり、アンデス山脈の主脈から流れる短い河川に沿って点々と居住地域が連なる。標高が低いためこの地域は海岸部と同じく熱帯作物の生産が主な産業となる。また、アンデス主脈と海岸との間が狭いため、この地域はかなり急峻な地形であり平地は少ない。2300{{nbsp}}mから3500{{nbsp}}mにかけてはケチュアと呼ばれる地域となり、ここでは夏季にまとまった降雨があり、また河谷も広く山もややなだらかになる上に涼しく過ごしやすい気候であるため、居住者が多い。農業としてはトウモロコシが主に栽培される。3500{{nbsp}}mから4000{{nbsp}}mにかけてはスニと呼ばれ、気候は冷涼で、農業としてはジャガイモが主なものとなるが、この地域も農業は盛んである。4000{{nbsp}}mから4800{{nbsp}}mにかけてはプーナと呼ばれ、寒く乾燥しているために農業は困難であり、[[リャマ]]や[[アルパカ]]などの[[放牧]]が主産業となる<ref>「ラテンアメリカ」(朝倉世界地理講座 大地と人間の物語14) p254-255 朝倉書店 2007年7月10日初版第1刷</ref>。アルティプラーノ南部はほぼこの標高に位置する。4800{{nbsp}}m以上になるとハンカと呼ばれ、農業・牧畜が不可能な非居住地帯となり、氷河などがしばしば広がる。アマゾン側に関しては、高峰からケチュア帯まではほぼ同じであるものの、ユンガ帯はアマゾンからの熱く湿った空気が流れ込んでくるために密林地帯となっており、ボリビアのユンガス地方など一部を除いては農業は盛んではなく、人口もまばらである。このアンデス東麓では標高1000{{nbsp}}m以下は完全な[[熱帯雨林気候]]となり、[[アマゾン熱帯雨林]]の一部となっている。特徴的な植物種としては高山帯に生える[[絶滅危惧種]]の[[プヤ・ライモンディ]]が挙げられ、「アンデスの女王」とも呼ばれる<ref name=":12" /><ref>{{Cite web|和書|title=アンデスの女王、百年に一度だけ咲く花 |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/3433/ |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |access-date=2023-03-30 |language=ja |date=2010.11.18}}</ref>。また、山脈にはリャマとアルパカのほか、[[ビクーニャ]]、[[オジロジカ]]、[[メガネグマ]]、{{仮リンク|アンデスイワドリ|en|Andean cock-of-the-rock}}、クチジロペッカリー、アメリカバク、ジャガー、[[オウギワシ]]、{{仮リンク|ヤマビスカーチャ|en|Northern viscacha}}、[[クルペオギツネ]]、ペルーゲマルジカ、コンドル、{{仮リンク|Ctenophryne barbatula|en|Ctenophryne barbatula|label=''Ctenophryne barbatula''}}などの動物も生息している<ref name=":9" /><ref name=":12" /><ref name=":0" />。
一方、北アンデスにおいては赤道に近くより温暖な気候であるため、この区分はやや異なってくる。標高1000{{nbsp}}m位までの地域は[[熱帯雨林]]であり、1000{{nbsp}}mから2000{{nbsp}}mまでの間は温暖な気候となる。2000m以上3000mまでの地域はやや冷涼な気候となり、コロンビアの首都ボゴタのあるクンディナマルカ高原やエクアドルの首都キトのあるキト盆地など、過ごしやすい気候のため多くの人々の住む地域となっている。この高度帯までは農業も盛んである。3000{{nbsp}}m以上4700{{nbsp}}mあたりまでの高度の地域は{{仮リンク|パラモ|es|Páramo (biogeografía)}}と呼ばれ、中央アンデスのプーナに対応する寒冷な地域であるが、プーナとは異なりこの地域は湿潤な気候である<ref>二村久則編集『コロンビアを知るための60章』エリアスタディーズ90 22ページ [[明石書店]] 2011年6月30日初版第1刷 </ref>。しかしプーナとは違い、パラモは農業や牧畜にそれほど使用されてはおらず、未開発の地域となっているところが多いが、逆にそのために豊かな自然が残り、生物多様性も豊富である<ref>新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 p30</ref>。パラモ、プーナ、ジャルカを含む高地[[草原]]群系に位置する高地アンデス生態系には、[[氷河]]、[[湖沼]]、湿性草地、蘚類湿地、高地湿原、[[塩田]]、泥炭湿原など、生態学的、社会的、文化的に高い価値を有する湿地系が含まれており、{{仮リンク|ノガリヤス属|en|Calamagrostis}}、[[ウシノケグサ属]]などが支配的で、[[アンデスフラミンゴ]]、メガネグマ、コンドルなどが生息している。他には[[マキ属]]、{{仮リンク|ポリレピス属|en|Polylepis}}の樹木も生えている<ref name=":10" /><ref name=":11" /><ref>{{Cite web|和書|title=ラムサール条約決議Ⅷ.39:高地アンデス湿地 |url=http://www.biwa.ne.jp/~nio/ramsar/cop8/key_res_viii_39_j.htm |website=琵琶湖水鳥・湿地センター |access-date=2022-07-25 |date=2002年11月18-26日}}</ref>。
標高により気温が変わることは、アンデス地方の住民の言葉にも現れている。旅行者などがしばしば「君が生まれたところは標高どれくらいか?」という質問を受けることがあるが、これは「暖かいところで生まれたのか、寒いところで生まれたのか」を尋ねている。
ペルー・ボリビアやチリに広がる高地、[[アルティプラーノ]]は、寒冷で乾燥した気候である。より寒冷な南部は作物の[[栽培]]にも[[牧畜]]にも適さないが、アルティプラノ北部はより赤道に近いためやや気温が高く、トウモロコシやジャガイモなどを中心に盛んに農耕がおこなわれ、また灌漑をおこなうことによりより大規模な生産をおこなうことができる<ref> 「ラテンアメリカを知る事典」p55 平凡社 1999年12月10日新訂増補版第1刷 </ref>ため、[[ティワナク文化]]やインカ帝国など古代文明を生み出す母体となった。また、標高が高く空気が希薄であるため[[紫外線]]が強い。
アンデス山脈は世界の8つの植物栽培化の起源地域の一つであり、多くの食用植物の原産地としても知られる。とくに中央アンデスが原産地として知られる。アンデス原産の食用植物中最も重要なものは[[ジャガイモ]]であり、[[紀元前5000年]]ごろにはチチカカ湖周辺で栽培が始まったと考えられている<ref>「新訂 食用作物」p431 国分牧衛 養賢堂 2010年8月10日第1版</ref>。アンデスのジャガイモは長い栽培化と利用の歴史によって多様な品種が育成され、形・色・味などのバラエティも豊富である。アルティプラーノでは寒冷で乾燥した気候を生かし、ジャガイモを屋外で軽く踏んだ後に凍結乾燥させた[[チューニョ]]と呼ばれる[[食材]]が有名である。また、このほかにも世界各地で[[野菜]]や[[調味料]]として使用される[[トマト]]や、[[ナッツ]]や[[油脂]]原料として使用される[[ラッカセイ]]など世界的に重要な作物がアンデスにおいて栽培化されている。アンデスにおける栽培化植物は多岐にわたり、[[カボチャ]]や[[インゲンマメ]]、[[ライマメ]]、[[トウガラシ]]などはアンデスが原産である。インカ帝国時代には主穀として重要視された[[キヌア]]もアンデス原産植物であり、スペイン植民地時代にはコムギなどにとってかわられて栽培が減少し他地域にも伝播しなかったものの、20世紀末以降雑穀が世界的に見直される中でキヌアの栽培も復活傾向にある。食用植物ではないが、[[タバコ]]もアンデスのボリビア・アルゼンチン国境地域が原産地域であり、ここから世界に広まっていった{{r|タバコの原産地}}。[[トウモロコシ]]は中米原産であり、アンデスに元からあった作物ではないが、インカ帝国時代にはすでにアンデスに伝播しており、主要作物の一つに数えられていた。しかしこの時代の主食はジャガイモであり、トウモロコシはむしろ儀式に用いる[[チチャ]]と呼ばれる酒の原料として重要視されていた。アンデス各地には、インカ時代に建設されたトウモロコシ栽培用の階段耕地が各地に残っており、現在でも使用されている。
アンデス山脈は、細いが非常に高度が高い上に長く伸びているので、近隣の気候にも重大な影響を及ぼしている。アンデスの北部においては、[[熱帯収束帯]]に位置するため一年中多雨であり、熱帯雨林が広がっている ([[:en:Tropical Andes]])。中部のエクアドルやペルー、チリ北部では、西麓は太平洋を寒流である[[フンボルト海流]]が流れるために降雨がほとんどなく、[[砂漠気候]]の地域が延々と広がっている ([[:en:Dry Andes]])。アンデス山脈内には降雨があるため、そこから流れ下る川の流域のみが[[オアシス]]となっている ([[:en:Puna grassland]], [[:en:Central Andean wet puna]], [[:en:Central Andean puna]], [[:en:Central Andean dry puna]])。中部の東麓は[[サバナ気候]]となって[[リャノ]]が広がる。チリ中部やアルゼンチン中部となる南緯30度くらいより南の[[ホーン岬]](南緯56度)までになると、西麓には偏西風が山脈にぶつかり降雨があるため[[地中海性気候]]や[[西岸海洋性気候]]となり ([[:en:Wet Andes]])、一方東麓([[パタゴニア]])では乾燥気候が広がるようになる。
アンデス山脈はインカ帝国の基盤であり、その時代はインディオ人口の多くはアンデス山脈地域に居住していた。スペインによる植民地化後もこの構図は変わらず、疫病や暴政によって人口は激減したものの、白人のかなりが海岸部に定着したこともあって、アンデスにおいては先住民である[[インディオ]]の割合がかなり高い。とくに中央アンデスにおいてこの傾向は顕著であり、ペルーやボリビアにおいては先住民族である[[ケチュア人]]や[[アイマラ人]]といった諸民族が大きな勢力をいまだ保っており、[[ケチュア語]]や[[アイマラ語]]といった彼らの言語もまた広く使用されている。しかし、言語的には各国の[[公用語]]である[[スペイン語]]がきわめて深く浸透しており、これらの先住諸言語は押され気味である。また、白人と先住民の混血である[[メスティソ]]の割合も高くなっている。しかし先住民族の文化はある程度保たれており、現代でも[[民族衣装]]や音楽などは独自のものが残されている。音楽においては、[[ケーナ]]・[[サンポーニャ]]・[[ロンダドール]]などの先住民系の[[管楽器]]と[[ギター]]や[[チャランゴ]]などのスペイン系の弦楽器を組み合わせた、いわゆる「アンデスの[[フォルクローレ]]」が[[1950年代]]に完成し、世界で広く親しまれるようになった。
== 歴史 ==
[[ファイル:Cono de Arita, Salta. (Argentina).jpg|サムネイル|Cono de Arita ([[アリサロ塩原]], アルゼンチン北西部)]]
[[ファイル:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|サムネイル|[[マチュ・ピチュ]]の風景]]
上記冷涼地域に紀元前1000年頃からチャビン文化が成立し、紀元前後からは[[ナスカ]]、[[ティワナク]]、[[モチェ文化|モチェ]]などの[[アンデス文明]]が生まれた。紀元[[700年]]頃にはペルー中央高地に[[ワリ]]文化が成立し、アルティプラノにて継続していたティワナク文化との並立期を迎えた。9世紀後半頃にはモチェ文化の遺民によって[[チムー王国]]がペルーの北部海岸に成立し、[[シカン文化]]などを併合して海岸部を支配する帝国となった。[[1100年]]頃にティワナクが衰退するとチチカカ湖周辺は諸民族の抗争の舞台となったが、そのうちインカ帝国が勢力を拡大し、[[1476年]]ごろには最後の敵対する大勢力であったチムー王国を併合し、1500年頃には[[インカ帝国|インカ]]がエクアドルからチリ北部までのアンデスを制覇した。しかし、[[1532年]]のスペイン人の侵入によって、アンデスの先住民独自の文明と政治組織は滅びた。「アンデス」という名称は、このインカを興した[[民族]]である[[ケチュア族]]の言葉で東を指す「アンティ」によるものとされる。
[[1533年]]に[[フランシスコ・ピサロ]]がクスコに入城し、インカ帝国がほぼ滅亡すると、アンデス全域はスペインの植民地統治のもとにおかれた。[[リマ]]に本拠を置いたペルー副王領がアンデスのみならず南アメリカのスペイン領全土を統括したが、その統治は過酷なもので、アンデスのインディオ人口はこの時期に激減している。しかしそれでもインディオはかなりの人数が生き残り、アンデスのほとんどはインディオが多数を占める世界であり続けた。一方、アンデスの各地にはスペインが植民都市を建設し、多くの白人が流入した。なかでもボリビアのポトシは16世紀以降世界最大の銀鉱山として知られ、ここからの莫大な銀の産出は[[スペイン黄金時代]]を現出させることとなった。これらの白人とインディオの間の混血は[[メスティソ]]と呼ばれ、やがてアンデスの人口の多くを占めるようになっていく。インカ帝国は[[ビルカバンバ]]に逃れて数十年間抵抗をつづけたもののやがて滅ぼされたが、スペイン政府はクスコ周辺のインカ有力者たちについては地位を認めるなど懐柔策を取り、この地域のインディオ有力者たちは植民地時代末にいたるまで一定の力を保ち続けた。
18世紀末になると、本国からの白人が優位を占める体制に、植民地人たちが不満を強めていき、[[1780年]]にはクスコ周辺で[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]の乱がおきるなど、スペインの支配体制が揺らぎ始める。スペイン本国においても[[ナポレオン戦争]]によって従来の体制が大きく揺らぐ中、[[シモン・ボリーバル]]や[[ホセ・デ・サン=マルティン]]の手によって[[大コロンビア]]、チリ、[[アルト・ペルー]](ボリビア)、そしてペルーと、アンデス諸国は次々と独立を達成していった。
独立はしたものの、アンデス諸国の情勢は不安定なものだった。各国を大きく統合しようとしたシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンが相次いで失脚すると、各地の[[カウディーリョ]]たちは各地に割拠し、この動きの中で大コロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの3か国に分裂して、やがて現在の7か国にまとまった。しかし各国の勢力範囲は固まっておらず、国境線は何度も引き直された。[[1836年]]にはボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]がペルーを征服し、ペルーを[[北ペルー共和国]]と[[南ペルー共和国]]に分けたうえで[[ペルー・ボリビア連合]]を建国したものの、この統合に危機感を覚えた周辺各国の介入によって[[1839年]]にこの連合は崩壊し<ref>眞鍋周三編著 『ボリビアを知るための73章 【第2版】 』p255 明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年 ISBN 978-4-7503-3763-0</ref>、以後アンデスの国家数は7で固定された。
19世紀のラテンアメリカ諸国を巻き込んだ保守派と自由主義派の対立はアンデス諸国においても激しかったが、アンデス諸国においては保守派はアンデス山岳部に基盤を置くことが多かった。とくにエクアドルにおいては、首都キトを中心とするアンデス山岳地方(シエラ)と太平洋岸のグアヤキル港を中心とする海岸部(コスタ)との対立が19世紀後半にいたるまでエクアドル国内政治の主要な争点となっていた<ref>新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年 p47</ref>。エクアドルは山岳部の人口が稠密であり、19世紀半ばの山岳部と海岸部の人口比は8対2にも及んでいたため山岳部を握る保守派が優勢となっていたが、やがて山岳部の農地の疲弊と海岸部の開発の進展によって海岸部が経済力をつけ、海岸部に基盤を置く自由主義派の政治が行われるようになっていった。
[[1879年]]にはペルー・ボリビアとチリの間で[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]が勃発し、勝利したチリはボリビア領の[[アントファガスタ]]やペルー領の[[アリカ]]や[[イキケ]]を占領し、アンデス西部山麓の広大な領土を獲得した。一方、この戦争に敗れたペルーは[[グアノ]]の大産地を失って経済危機に陥り、ボリビアは西部山脈以東に押し込められて内陸国となった。この戦争以降、アンデス部分においては大幅な国境変更はなくなった。
20世紀に入ると各国で近代化がより進んでいく一方、アンデス高地農村の貧困は一向に改善されず、20世紀後半にはコロンビアやペルーなどでアンデス農村部は[[ゲリラ]]が跳梁するようになった。とくにペルーの[[センデロ・ルミノソ]]は[[1980年代]]にペルー中部のアンデスを根拠地として猛威を振るったが、[[1992年]]に幹部の[[アビマエル・グスマン]]が逮捕されて以降急速に衰え、[[2010年代]]には残った組織も他の重要幹部の拘束により大打撃を受けて、この脅威はほぼ取り除かれた形となっている。
== 政治 ==
アンデス山脈の走る7か国のうち、[[大西洋]]を志向し国内におけるアンデス地区の比重が非常に低いアルゼンチンを除く6か国(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ)はアンデス諸国またはアンデス6か国と呼ばれる<ref>「地球を旅する地理の本 7 中南アメリカ」p65 大月書店 1993年11月29日第1刷発行</ref>。このうちベネズエラを除く5か国は[[1969年]]、[[アンデス共同体]]を結成し、[[1973年]]にはベネズエラも加盟したものの、[[1976年]]にチリが脱退、2006年にはベネズエラも脱退した。一方で残った4か国は徐々に協力体制を深め、[[1993年]]にはベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビア間で域内関税が撤廃され、[[2006年]]にはペルーもこれに参加してアンデス自由貿易圏が完成した<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/keizai/andes/andina_gaiyo.html「アンデス共同体 概要」] 外務省、2015年1月28日閲覧</ref>。また、加盟国間の移動に関しては2003年より身分証明書の提示のみでパスポートがなくとも各国間を移動できるようになる<ref>二村久則編集『コロンビアを知るための60章』エリアスタディーズ90 135ページ [[明石書店]] 2011年6月30日初版第1刷 </ref>など、一定の統合が進んでいる。一方で、政治的にはこれら諸国は対立することもしばしばあり、[[2008年]]には北アンデス3国において、アメリカ寄りの[[アルバロ・ウリベ]]率いるコロンビアと、反米を掲げるエクアドルの[[ラファエル・コレア]]およびベネズエラの[[ウゴ・チャベス]]との間で対立、[[アンデス危機]]と呼ばれる政治危機が起こった<ref>二村久則編集『コロンビアを知るための60章』エリアスタディーズ90 121ページ [[明石書店]] 2011年6月30日初版第1刷 </ref>。
== 山名のリスト ==
{{右|
[[File:ILLIMANI.jpg|thumb|280px|none|イリマニ (ボリビア)]]
[[File:Alpamayo.jpg|thumb|280px|none|アルパマーヨ (ペルー)]]
[[File:Ecuador Chimborazo fromnorthwest.JPG|thumb|280px|none|チンボラソ (エクアドル)]]
}}
{{Main|{{仮リンク|アンデス山脈の山名のリスト|es|Anexo:Montañas de la cordillera de los Andes|en|List of mountains in the Andes}}}}
南から北へ順番に、主要な山のみ(標高は資料によって異なる)
=== Wet Andes ===
{{Main|en:Wet Andes}}
'''パタゴニア・アンデス'''
*サン・バレンティン [[:en:Monte San Valentin|San Valentin]] 4058{{nbsp}}m
*サン・ロレンソ [[:en:Monte San Lorenzo|San Lorenzo]] 3660{{nbsp}}m
*[[フィッツ・ロイ]] 3405{{nbsp}}m
=== Dry Andes ===
{{Main|en:Dry Andes}}
'''チリ / アルゼンチン・アンデス'''
*[[アコンカグア]] Aconcagua 6960{{nbsp}}m アンデス最高峰
*[[オホス・デル・サラード]] Ojos del Salado 6880{{nbsp}}m アンデス第2位
*[[トゥプンガト]] Tupungato 6800{{nbsp}}m
*メルセダリオ [[:en:Mercedario|Mercedario]] 6770{{nbsp}}m
*[[ユーヤイヤコ]] Llullaillaco 6723{{nbsp}}m
*[[タアパカ]] Taapacá 5860{{nbsp}}m
=== Tropical Andes ===
{{Main|en:Tropical Andes}}
'''ボリビア・アンデス レアル山群'''
*[[イリマニ]] Illimani 6439{{nbsp}}m
*ハンクマ [[:en:Ancohuma|Janq'uma]] 6427{{nbsp}}m
*イリャンプ [[:en:Illampu|Illampu]] 6368{{nbsp}}m
*[[ワイナ・ポトシ]] Huayna Potosí 6088{{nbsp}}m
*チャチャクマニ [[:en:Chachacomani|Chachacomani]] 6000{{nbsp}}m
*[[チャカルタヤ]] Chacaltaya 5395{{nbsp}}m
'''ボリビア・アンデス その他'''
*[[サハマ]] Volcán Sajama 6549{{nbsp}}m ボリビア最高峰
*[[パリナコータ山|パリナコータ]] Volcán Parinacota 6348{{nbsp}}m
*ウトゥルンク [[:en:Uturuncu|Uturuncu]] 6008{{nbsp}}m
'''ペルー・アンデス ブランカ山群'''
*[[ワスカラン]] Huascaran 6768{{nbsp}}m ペルー最高峰
*ワンツァン [[:en:Huantsan|Huantsan]] 6395{{nbsp}}m
*チョピカルキ [[:en:Chopicalqui|Chopicalqui]] 6345{{nbsp}}m
*チャクララフ [[:es:Chacraraju|Chacraraju]] 6112{{nbsp}}m
*[[アルパマーヨ]] Alpamayo 5947{{nbsp}}m
'''ペルー・アンデス ワイワッシュ山群'''
*[[イェルパハ]] Yerupajá 6632{{nbsp}}m
'''ペルー・アンデス その他'''
*コロプナ [[:en:Coropuna|Coropuna]] 6425{{nbsp}}m
*ミスティ [[:en:El Misti|Misti]] 5822{{nbsp}}m
*[[ウビナス]] Ubinas 5672{{nbsp}}m
'''エクアドル・アンデス'''
*[[チンボラソ]] Chimborazo 6310{{nbsp}}m
*[[コトパクシ山|コトパクシ]] Cotopaxi 5896{{nbsp}}m
'''コロンビア/ベネズエラ・アンデス'''
*[[ネバド・デル・ウイラ|ウィラ]] Huila 5750{{nbsp}}m
*[[ネバドデルルイス火山|ネバド・デル・ルイス]] Nevado del Ruiz 5389{{nbsp}}m
*トリマ [[:en:Nevado del Tolima|Tolima]] 5215{{nbsp}}m
*[[ボリバル山|ボリバル]] Pico Bolívar 5008{{nbsp}}m
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="タバコの原産地">{{Cite web|和書
| url = http://www.jti.co.jp/tobacco-world/journal/chronicle/2007/03/03.html
| archiveurl = https://archive.ph/GfFvv
| title = 明らかになったタバコの原産地
| website = たばこワールド
| publisher = [[日本たばこ産業|JT]]
| accessdate = 2015-2-1
| archivedate = 2015-1-31
| deadlinkdate = 2022年10月7日 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2019年7月}}
=== 地名 ===
{{Div col}}
*[[アタカマ砂漠]]
*[[アルティプラーノ]]
*[[ウユニ]]
*[[オルロ]]
*[[キト]]
*[[クスコ]]
*[[チチカカ湖]]
*[[ティアワナコ]]
*[[パタゴニア]]
*[[ボゴタ]]
*[[マラカイボ湖]]
*[[メリダ山脈]]
*[[ラパス]]
*[[南極半島]] - [[ドレーク海峡]]を挟んで向かい合う。山が多くアンデス山脈の続きに当たる地形と考えられている。
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=== 関連国 ===
{{Div col}}
*[[ベネズエラ]]
*[[コロンビア]]
*[[エクアドル]]
*[[ペルー]]
*[[ボリビア]]
*[[アルゼンチン]]
*[[チリ]]
{{Div col end}}
=== 歴史・文化 ===
{{Div col}}
*[[アイマラ]]
*[[アイリュ]](アイユ)
*[[アンデス文明]]
*[[インカ帝国]]
*[[エケコ]]
*[[エル・ドラード]]
*[[コージャ]]
*[[チャビン・デ・ワンタル]]
*[[チョリータ]]
*[[チョロ]]
*[[ナスカ]]
*[[ナスカの地上絵]]
*[[パチャママ]]
*[[ワリ]]
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=== 言語 ===
{{Div col}}
* [[スペイン語]]
* [[アンデス・スペイン語]]
* [[アイマラ語]]
* [[ケチュア語]]
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=== 音楽 ===
{{Div col}}
*[[ケーナ]]
*[[コンドルは飛んでいく]]
*[[サンポーニャ]]
*[[チャランゴ]]
*[[フォルクローレ]]
*[[ボンボ]]
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=== 食文化 ===
{{Div col}}
*[[アヒ・アマリージョ]]
*[[ウルピカ]]
*[[ジャイアントコーン (植物)|チョクロ]](ジャイアントコーン)
*[[ジャガイモ]]
*[[チチャ]]
*[[唐辛子]]
*[[トマト]]
*[[ロコト]]
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=== 動物 ===
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*[[アルパカ]]
*[[アルマジロ]]
*[[グアナコ]]
*[[コンドル]]
*[[チンチラ]]
*[[モルモット]]
*[[リャマ]]
*[[レア (鳥類)|レア]]
*[[デグー]]
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== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Andes|Andes}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あんてすさんみやく}}
[[Category:アンデス山脈|*]]
[[Category:南アメリカの地形]]
[[Category:南アメリカの山地]]
[[Category:生物圏保護区]]
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15,093 |
大乃国康
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大乃国 康(おおのくに やすし、本名:青木 康(あおき やすし)、1962年10月9日 - )は、北海道河西郡芽室町出身の元大相撲力士。第62代横綱(昭和最後の横綱)。現在は年寄・芝田山。芝田山部屋の師匠を務めている。
1962年に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときに北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校から帰ってくると畑仕事を手伝い、小学校3年の時に、畑の中でトラクターを動かし、刈り取った豆を脱穀機まで運んでいた。小学校4年の時に、実家の牛と預かった近所の農家の牛に水をやり、サイロから餌を出して牛舎に運んでいた。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが野球・水泳・スキー・スケートで運動し、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった。
芽室中学校では柔道部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。北海道・十勝管内の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・北勝海信芳、広尾郡広尾町出身)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した陸上競技大会では全く練習していなかった砲丸投げに出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて東海大学付属第四高等学校から勧誘されたほどである。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きで廻しを付けられ、相撲を取らされた。かなりの力量を同郷の高島正雄(花籠部屋の元十両・若十勝)に見出され、高島から連絡を受けた魁傑(当時大関。のち放駒親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの、相撲取りになるつもりが皆無で進学を決めていたために逃げ回った。 後日魁傑が実家まで訪ねてきて、「時の大関がこんな田舎に」と大騒ぎになる。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった(日本大学で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、魁傑の内弟子として花籠部屋へ入門した。
入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった。「大ノ国」の名は、花籠親方(元幕内・大ノ海)の現役時代の四股名と、故郷である「十勝平野」にちなんで命名された。1978年3月場所で初土俵を踏む。
この場所7日目に師匠の魁傑が大関・旭國との対戦で4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番を見た。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている。
本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付け人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。1981年に引退して間もない頃の放駒(魁傑)が分家独立した放駒部屋へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現す。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門の二子山部屋へ毎日出掛けていた。当時の二子山部屋は若乃花や隆の里の2横綱始め、若嶋津など大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい二子山が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた。二子山部屋での出稽古は壮絶で、時間にして20分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車に乗って帰る力が残っていなかった。 しかし二子山部屋での出稽古から放駒部屋に戻ってから、ぶつかり稽古をみっちりさせられた。
1982年3月場所で新十両に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている。実際に、二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる旭富士と共に新入幕を果たした。
新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所で新小結に昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55代横綱)・千代の富士(第58代横綱)・隆の里(第59代横綱)の3横綱を破り、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である。
1984年1月場所では新関脇で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改め、3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。
平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では関脇に戻り、初日から好調で9日目に千代の富士を土俵際の掬い投げで破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を抱かせたが、翌10日目は既に負け越していた逆鉾の出足に苦杯を喫し、さらに11日目はこの場所平幕優勝を果たすことになる多賀竜に上手出し投げで脆くも横転し連敗。10日目から13日目の小錦に上手投げで敗れるまで4連敗となり、結局10勝5敗に終わった。
その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている。大関昇進披露宴では、引き出物に広辞苑を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠・放駒親方の考えだったという。また、地元選出代議士である中川昭一の他に、東京大学新聞研究所長の竹内郁郎が、東京大学教授として初めて力士の後援会長を務めたことで注目を集めた。
1985年7月場所千秋楽の小錦戦は大乃国本人にとって生涯最高の相撲である。本人は引退後に「とにかく突き飛ばされないこと。まわしを取りたいけど、がっぷり四つにもなりたくない。自分にとっていちばんいい形、左の上手を引いて、右の前まわしをいかにして取るか。考えに考えましたよ」と工夫したところを語っており「絶対に勝っておかなくてはいけない一番。それに、関脇を長くやると大関になれないって、へんなジンクスもあって(当時は関脇として通算9場所め)。いろんなことが頭の中でぐるぐるしていた」と当時の気持ちを明かしていた。
大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、次の横綱候補の筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も北尾(のち第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。
同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所は千代の富士を土俵際の投げで破った際に失神させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。
しかし、1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽で当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした。杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋で行われた横綱昇進伝達式では、「初一念を忘れず、相撲道に精進します」と口上を述べた。1987年10月1日、二所ノ関一門の親方が揃う中、放駒部屋で綱打ち式が行われた。横綱土俵入りの指導は、佐渡ヶ嶽が当初行っていたが、途中から一門の総帥である二子山が土俵にあがり、直々に土俵入りを指導、「ウっと四股を踏んで、ダッと腰を下ろしたら拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言を受けた。
昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では貴乃花(41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・2代若乃花と並ぶ最高タイ記録)であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される。それ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている。
横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の理事長・春日野(第44代横綱・栃錦)は「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と期待を寄せた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤に3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「睡眠時無呼吸症候群」の症状(土俵下でいきなり強烈な睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。
1988年1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや糖尿病を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。
早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、千秋楽結びの一番では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで寄り倒し、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の突き落としで下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に九重部屋(千代の富士・北勝海の両横綱)らの活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いに加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった。
当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の番付に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東張出横綱・大乃国)、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった。
横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の千秋楽、結果的に昭和時代最後となった結びの一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことである。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、せめて(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って、館内をにぎやかすぐらいのことをしてこい」と強烈な発破をかけられる。大乃国は飯も喉を通らず、そののまま箸を置いて立ちたいぐらいの気持ちになり、「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」と闘志に火がついたという 。
千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く稽古場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。この取組では、大乃国が立合い鋭く踏み込み、千代の富士のまわしを取り、千代の富士に左上手を与えない体制で一気に寄り立て、あせった千代の富士が右下手投げを打ったところを、左から押しつぶすように寄り倒した。 「自分の呼吸で立つ。それだけを念入りにやった。いつも負ける時は相手に先に左上手を取られ、動かれてゴロンとひっくり返された。だから自分が先にまわしを取って、がむしゃらに出た。」
後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の発言をしている。その気持ちの表れとして、連勝ストップを決めた当時「俺だって横綱だ」と記者に対して発言していた。
のちに放駒親方が、千秋楽で大乃国が千代の富士の連勝を止められなければ、翌年初場所千秋楽の横綱同士の対戦で横綱・双葉山の69連勝に並ぶと計算していたことを知り、「師匠のその思いを知ったら震えて負けていたかもしれない。師匠は先の先を読んで頭の中で計算していた。師匠の「親心を象徴する場面だった」と歴史的一番の裏にあった秘話を明かした 。
1989年5月場所は、横綱・北勝海と大関・旭富士と3人での優勝争いは千秋楽までもつれた。12勝2敗で迎えた北勝海との千秋楽結びの一番(勝った方が旭富士との優勝決定戦に進出)では肩透かしに敗れたが、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが、立行司と勝負審判5人いずれもこの「はき手」に気付かず、さらに物言いもつかなかったため、不幸にも大乃国の黒星となった(優勝決定戦は北勝海が旭富士を送り出して勝利)。この一番について、当時協会の審判部長だった九重(元横綱・北の富士)は「審判委員五人の目で見ており、もしはき手があればだれもが物言いをつけるはず。テレビはカメラの角度により実際と違うシーンが出るもの」と話し判定の正当性を主張している。
同年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大学医学部附属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「睡眠時無呼吸症候群」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。入院加療ののち病気の症状は回復して退院するも完治せず、横綱として2年近くも低迷することとなる。
同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・初代若乃花)からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。
一場所休場した後の1990年1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。大乃国は当時の週刊誌報道などで真面目横綱として知られていたせいか、報道陣も大乃国に対して非難する声は強くなく、日本経済新聞の夕刊コラムでは森鷗外が訳したヨハン・アウグスト・ストリンドベリの「苦痛は人を清める。悲哀は人を高める」という言葉を引用し、「たかが相撲じゃないか。まだ28歳になったばかりの青年だ。相撲ばかりが人生じゃないが、大乃国はわき目もふらず土俵人生の再起を目指す。再起の成否はまだわからないが、彼は一回り大きな人間に成長するにちがいない。」と掲載されるなど、 苦しい土俵を続ける横綱の復活を見守る雰囲気があったと中野翠は文藝春秋に書いている。
1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、必死に取り組む姿に声援を送るファンも多く、オール讀物の特集では井上ひさし、石堂淑朗、畑山博、保坂正康、黒鉄ヒロシが、「大乃国はプレハブ住宅を組み立てる建設作業者とは異なった、手作りの家を建てようとする職人のようなもの。」、「病や怪我でなかなか勝てなくても必死に取り組んでいる君の不器用な相撲人生を、己が人生と重ね合わせて記憶の底に焼きつけて声援を送っている者も多い。」などと寄稿した。同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった霧島に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、ふたたび全休となった。
1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった貴花田(のち第65代横綱)・若花田(のち第66代横綱)に勝利したが、初日に曙(のち第64代横綱)の突っ張りに一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった安芸ノ島戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に押し出されたりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した玉の海を除けば、栃ノ海の28歳8か月に次ぐ若さだった。毎日新聞は、「妥協を許さない相撲を取り続け、格闘技のもつ真剣勝負としての相撲を楽しませてくれた力士」という論評を載せ、もろさと底知れぬ強さが同居した大乃国の栄光と挫折は、全力を傾注して妥協することのない土俵態度が生み出した結果であり、勝負にかけるかたくななまでの意地には価値があった。引退間際の横綱特有のみじめさはあったが、相撲界の受け止め方はずいぶん違い、「なにごとにもまじめな横綱だった。とくに勝負に対しては潔癖すぎるほど潔癖だった。七勝七敗で千秋楽に負け越したのを見てもわかるだろう。貴花田など元気な若手が出てきて盛り上がっているが、相撲界がまともなことをファンに分かってもらうためにも、もう少し頑張ってほしかった。」というある親方の言葉を紹介、刀折れ、矢尽きて土俵を去ったが、大乃国の姿勢は評価されるべきであると報じた。引退会見で現役時代の思い出の一番として、稽古をつけてくれた同門の先輩である隆の里に初めて勝った相撲をあげた。
この際、既に10代芝田山(宮錦)から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの年寄・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の若獅子へ年寄名跡を一時的に貸すことになり、1993年3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。
引退相撲は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に一人横綱だった北勝海が引退となり、横綱空位となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時二子山部屋の現役幕内力士だった隆三杉(露払い)と三杉里(太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された。 横綱大乃国の現役時代の壮大な土俵入りは定評があった。
芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の1999年6月に独立して「芝田山部屋」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい。
師匠の放駒親方同様、「社会に通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位に見合った人徳、品格がないと力士としては一人前とは言えないという考え方に基づき、新潟県十日町の後援者から田んぼを借り、一から米作りを体験させることで、体づくりとともに、食べ物を粗末にしない教育をしている。 目的は、弟子たちに米が出来る過程にある大変さを知ってもらい、米一粒の大事さ、一粒一粒が重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日の稽古の積み重ね、地味で地道な練習の積み重ねが力になることに通じるからという考えからである。自身が農業を営んでいた実家の酪農設備を新築するために両親が借り入れた約2000万円の借入金を代わりに返済し、実家の近所でも「孝行息子」と言われていたことから、農業に対する思いが強く、弟子の教育に取り入れた。
また、部屋の弟子たちを連れて毎年夏に故郷・芽室町で合宿をするのに合わせて、老人ホームや障害者支援施設を慰問し、子供たちの心と身体の健全育成を目的に芽室神社前の土俵で、「芝田山杯子供相撲大会」を毎年8月に実施している。 部屋にお客さんが来た時は、「呼出しの克之です。」など、部屋にいる裏方を紹介するという。力士だけでなく、裏方も部屋の一員という意識を徹底させ、モチベーションをあげるためである。
相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志を隠して、ここぞというときに勝負をかける」と述べている。 弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱や努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても、誰でもなれるわけではない。心底から相撲取りになりたいと思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足で相撲を取れる今の自分に感謝して、前向きに一生懸命努力しなさい。全力でぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず、立ち向かう姿勢が大事。」と、自分が若い頃の稽古を通じて学んだ話をするという。
相撲協会の業務では監察委員や勝負審判などを歴任した後に、2014年に副理事に昇格、巡業部副部長、さらに広報部副部長となった。巡業でちゃんこが廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある。2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している。
2018年2月2日の日本相撲協会理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で広報部長に就任した。
5月29日午前、大相撲の「女人禁制」に関する参議院文教科学委員会の参考人質疑に出席。「公益法人として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した。
2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、芝田山を含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選し、同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任。再任後はこれまでの広報部長に加え、総合企画部長を兼務することが発表された。
2020年3月、2019新型コロナウイルス感染拡大防止のため、史上初の無観客興行となった春場所で、「無観客開催運営プロジェクトチーム」のリーダーとして、毎日各担当部署の関係者を集め、どんなささいなことも話し合い、情報が回るように徹底した。感染者を出さないため親方衆専用の入口を設置し、世話人が明け荷を運ぶ動線も何度もシミュレーション、タクシーの待機場所や方向など、密集による接触や混乱を回避する方法を考え抜き、大きなトラブルを防いだ。
新型コロナウイルス感染拡大が広まる中、その後の対応の協議の方法としてのインターネット電話などの導入も進んでいないことから、対応の遅れを指摘する報道もあった。広報部長である自身がインターネットを使わず電話で取材を受けていることもインターネット導入の遅れの例に出されている。
5月13日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、現役で死去した三段目力士の勝武士幹士について「私としてもなんとか心の中で回復してくれという思いでいっぱいだった。うちの部屋にも同期の弟子がいるんですが、非常に残念な思いです」と広報部長の立場でコメントを残した。
5月29日、7月場所の開催に関しては「まず無観客が目標」と広報部長として見解を示した。
7月30日、新弟子のスカウト活動などを念頭に、協会員の原則的な外出禁止を7月場所後に緩和する方針を示唆した。
2021年12月9日、2022年夏に地方巡業を再開する準備を進めていることを明かした。同時点では巡業地は未定だが、2022年1月場所後にも開催の可否を含めて決定する見込みが立った。
2022年10月9日に60歳の誕生日を迎えたが、約2年前から歩行の際に杖が必要となるなど支障が出た理由で、還暦土俵入りは行われなかった。また、還暦記念の赤い綱の製作についても未公表である(但し、その代替として「芝田山親方還暦を祝う会」が開催され、自ら赤い帽子と羽織を着用して登場した)。
2023年6月23日、相撲協会ナンバー2の事業部長を務めていた陸奥(元大関・初代霧島)が辞任したことに伴い、総合企画部長から横滑りで事業部長に就任した(広報部長は引き続き兼務)。
現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースやNHK大相撲中継に出演すると、実際は話がうまく、舞の海秀平が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。バラエティ番組出演もこなしている。最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。 本人は相撲の解説をする時は、「相撲の面白さ、醍醐味を多くの人にわかってもらうために、なるべく専門用語を使わない。」、「勝った力士、負けた力士どちらのファンが聞いても納得できるイーブンな解説」をいつも意識しているという。
師匠の放駒親方は、弟子の大乃国に関して、「頭のいい人。若い時から1つを1回教えただけで、教えていない3つを自分で考えて実践していた。」と評している。実は機械いじりが大好きで、中学時代に中古のポンコツバイクを入手して、自分で新しく作り替えて、実家の畑で乗り回していた。
非常にまじめで優しい性格で、横綱になっても少女にサインを頼まれた際に、最後の一人になるまでサインをしたり、パーティーでお年寄が立っていると、すぐそばに寄って椅子のあるところに案内するなど、師匠・放駒親方ゆずりの誠実な紳士ぶりで女性やお年寄りにも根強い人気があった。
幕内入りしてからの大乃国は全てガチンコ相撲を通したとされている。大相撲八百長問題とは全く無縁の人である、と当時の報道を知る大相撲ファンからは評価されており、ガチンコ横綱と言われている。
角界きっての食通で、大の甘党。「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」を持論としている。本人曰く最近は「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」などと呼ばれるという。元祖!でぶやなどのグルメバラエティ番組に出演している。少しでも相撲を知るきっかけになって、相撲の面白さがPRできればいい、相撲取りになってみたいという若者が出てくるきっかけになればと考えているという。
甘党だからといって、甘いものの過剰摂取による糖尿病とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ評論家になりたい」と日刊スポーツで述べている。
(カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)
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"text": "大乃国 康(おおのくに やすし、本名:青木 康(あおき やすし)、1962年10月9日 - )は、北海道河西郡芽室町出身の元大相撲力士。第62代横綱(昭和最後の横綱)。現在は年寄・芝田山。芝田山部屋の師匠を務めている。",
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"text": "1962年に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときに北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校から帰ってくると畑仕事を手伝い、小学校3年の時に、畑の中でトラクターを動かし、刈り取った豆を脱穀機まで運んでいた。小学校4年の時に、実家の牛と預かった近所の農家の牛に水をやり、サイロから餌を出して牛舎に運んでいた。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが野球・水泳・スキー・スケートで運動し、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった。",
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"text": "芽室中学校では柔道部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。北海道・十勝管内の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・北勝海信芳、広尾郡広尾町出身)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した陸上競技大会では全く練習していなかった砲丸投げに出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて東海大学付属第四高等学校から勧誘されたほどである。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きで廻しを付けられ、相撲を取らされた。かなりの力量を同郷の高島正雄(花籠部屋の元十両・若十勝)に見出され、高島から連絡を受けた魁傑(当時大関。のち放駒親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの、相撲取りになるつもりが皆無で進学を決めていたために逃げ回った。 後日魁傑が実家まで訪ねてきて、「時の大関がこんな田舎に」と大騒ぎになる。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった(日本大学で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、魁傑の内弟子として花籠部屋へ入門した。",
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"text": "入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった。「大ノ国」の名は、花籠親方(元幕内・大ノ海)の現役時代の四股名と、故郷である「十勝平野」にちなんで命名された。1978年3月場所で初土俵を踏む。",
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"text": "この場所7日目に師匠の魁傑が大関・旭國との対戦で4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番を見た。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている。",
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"text": "本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付け人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。1981年に引退して間もない頃の放駒(魁傑)が分家独立した放駒部屋へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現す。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門の二子山部屋へ毎日出掛けていた。当時の二子山部屋は若乃花や隆の里の2横綱始め、若嶋津など大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい二子山が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた。二子山部屋での出稽古は壮絶で、時間にして20分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車に乗って帰る力が残っていなかった。 しかし二子山部屋での出稽古から放駒部屋に戻ってから、ぶつかり稽古をみっちりさせられた。",
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"text": "1982年3月場所で新十両に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている。実際に、二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる旭富士と共に新入幕を果たした。",
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"text": "新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所で新小結に昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55代横綱)・千代の富士(第58代横綱)・隆の里(第59代横綱)の3横綱を破り、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である。",
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"text": "1984年1月場所では新関脇で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改め、3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では関脇に戻り、初日から好調で9日目に千代の富士を土俵際の掬い投げで破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を抱かせたが、翌10日目は既に負け越していた逆鉾の出足に苦杯を喫し、さらに11日目はこの場所平幕優勝を果たすことになる多賀竜に上手出し投げで脆くも横転し連敗。10日目から13日目の小錦に上手投げで敗れるまで4連敗となり、結局10勝5敗に終わった。",
"title": "来歴"
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"text": "その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている。大関昇進披露宴では、引き出物に広辞苑を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠・放駒親方の考えだったという。また、地元選出代議士である中川昭一の他に、東京大学新聞研究所長の竹内郁郎が、東京大学教授として初めて力士の後援会長を務めたことで注目を集めた。",
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"text": "1985年7月場所千秋楽の小錦戦は大乃国本人にとって生涯最高の相撲である。本人は引退後に「とにかく突き飛ばされないこと。まわしを取りたいけど、がっぷり四つにもなりたくない。自分にとっていちばんいい形、左の上手を引いて、右の前まわしをいかにして取るか。考えに考えましたよ」と工夫したところを語っており「絶対に勝っておかなくてはいけない一番。それに、関脇を長くやると大関になれないって、へんなジンクスもあって(当時は関脇として通算9場所め)。いろんなことが頭の中でぐるぐるしていた」と当時の気持ちを明かしていた。",
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"text": "大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、次の横綱候補の筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も北尾(のち第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。",
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"text": "同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所は千代の富士を土俵際の投げで破った際に失神させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。",
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"text": "しかし、1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽で当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした。杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋で行われた横綱昇進伝達式では、「初一念を忘れず、相撲道に精進します」と口上を述べた。1987年10月1日、二所ノ関一門の親方が揃う中、放駒部屋で綱打ち式が行われた。横綱土俵入りの指導は、佐渡ヶ嶽が当初行っていたが、途中から一門の総帥である二子山が土俵にあがり、直々に土俵入りを指導、「ウっと四股を踏んで、ダッと腰を下ろしたら拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言を受けた。",
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"text": "昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では貴乃花(41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・2代若乃花と並ぶ最高タイ記録)であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される。それ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている。",
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"text": "横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の理事長・春日野(第44代横綱・栃錦)は「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と期待を寄せた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤に3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「睡眠時無呼吸症候群」の症状(土俵下でいきなり強烈な睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。",
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"text": "1988年1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや糖尿病を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。",
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"text": "早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、千秋楽結びの一番では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで寄り倒し、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の突き落としで下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に九重部屋(千代の富士・北勝海の両横綱)らの活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いに加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった。",
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"text": "当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の番付に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東張出横綱・大乃国)、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の千秋楽、結果的に昭和時代最後となった結びの一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことである。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、せめて(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って、館内をにぎやかすぐらいのことをしてこい」と強烈な発破をかけられる。大乃国は飯も喉を通らず、そののまま箸を置いて立ちたいぐらいの気持ちになり、「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」と闘志に火がついたという 。",
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"text": "千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く稽古場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。この取組では、大乃国が立合い鋭く踏み込み、千代の富士のまわしを取り、千代の富士に左上手を与えない体制で一気に寄り立て、あせった千代の富士が右下手投げを打ったところを、左から押しつぶすように寄り倒した。 「自分の呼吸で立つ。それだけを念入りにやった。いつも負ける時は相手に先に左上手を取られ、動かれてゴロンとひっくり返された。だから自分が先にまわしを取って、がむしゃらに出た。」",
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"paragraph_id": 22,
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"text": "後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の発言をしている。その気持ちの表れとして、連勝ストップを決めた当時「俺だって横綱だ」と記者に対して発言していた。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "のちに放駒親方が、千秋楽で大乃国が千代の富士の連勝を止められなければ、翌年初場所千秋楽の横綱同士の対戦で横綱・双葉山の69連勝に並ぶと計算していたことを知り、「師匠のその思いを知ったら震えて負けていたかもしれない。師匠は先の先を読んで頭の中で計算していた。師匠の「親心を象徴する場面だった」と歴史的一番の裏にあった秘話を明かした 。",
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1989年5月場所は、横綱・北勝海と大関・旭富士と3人での優勝争いは千秋楽までもつれた。12勝2敗で迎えた北勝海との千秋楽結びの一番(勝った方が旭富士との優勝決定戦に進出)では肩透かしに敗れたが、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが、立行司と勝負審判5人いずれもこの「はき手」に気付かず、さらに物言いもつかなかったため、不幸にも大乃国の黒星となった(優勝決定戦は北勝海が旭富士を送り出して勝利)。この一番について、当時協会の審判部長だった九重(元横綱・北の富士)は「審判委員五人の目で見ており、もしはき手があればだれもが物言いをつけるはず。テレビはカメラの角度により実際と違うシーンが出るもの」と話し判定の正当性を主張している。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "同年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大学医学部附属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「睡眠時無呼吸症候群」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。入院加療ののち病気の症状は回復して退院するも完治せず、横綱として2年近くも低迷することとなる。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・初代若乃花)からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "一場所休場した後の1990年1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。大乃国は当時の週刊誌報道などで真面目横綱として知られていたせいか、報道陣も大乃国に対して非難する声は強くなく、日本経済新聞の夕刊コラムでは森鷗外が訳したヨハン・アウグスト・ストリンドベリの「苦痛は人を清める。悲哀は人を高める」という言葉を引用し、「たかが相撲じゃないか。まだ28歳になったばかりの青年だ。相撲ばかりが人生じゃないが、大乃国はわき目もふらず土俵人生の再起を目指す。再起の成否はまだわからないが、彼は一回り大きな人間に成長するにちがいない。」と掲載されるなど、 苦しい土俵を続ける横綱の復活を見守る雰囲気があったと中野翠は文藝春秋に書いている。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、必死に取り組む姿に声援を送るファンも多く、オール讀物の特集では井上ひさし、石堂淑朗、畑山博、保坂正康、黒鉄ヒロシが、「大乃国はプレハブ住宅を組み立てる建設作業者とは異なった、手作りの家を建てようとする職人のようなもの。」、「病や怪我でなかなか勝てなくても必死に取り組んでいる君の不器用な相撲人生を、己が人生と重ね合わせて記憶の底に焼きつけて声援を送っている者も多い。」などと寄稿した。同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった霧島に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、ふたたび全休となった。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった貴花田(のち第65代横綱)・若花田(のち第66代横綱)に勝利したが、初日に曙(のち第64代横綱)の突っ張りに一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった安芸ノ島戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に押し出されたりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した玉の海を除けば、栃ノ海の28歳8か月に次ぐ若さだった。毎日新聞は、「妥協を許さない相撲を取り続け、格闘技のもつ真剣勝負としての相撲を楽しませてくれた力士」という論評を載せ、もろさと底知れぬ強さが同居した大乃国の栄光と挫折は、全力を傾注して妥協することのない土俵態度が生み出した結果であり、勝負にかけるかたくななまでの意地には価値があった。引退間際の横綱特有のみじめさはあったが、相撲界の受け止め方はずいぶん違い、「なにごとにもまじめな横綱だった。とくに勝負に対しては潔癖すぎるほど潔癖だった。七勝七敗で千秋楽に負け越したのを見てもわかるだろう。貴花田など元気な若手が出てきて盛り上がっているが、相撲界がまともなことをファンに分かってもらうためにも、もう少し頑張ってほしかった。」というある親方の言葉を紹介、刀折れ、矢尽きて土俵を去ったが、大乃国の姿勢は評価されるべきであると報じた。引退会見で現役時代の思い出の一番として、稽古をつけてくれた同門の先輩である隆の里に初めて勝った相撲をあげた。",
"title": "来歴"
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"text": "この際、既に10代芝田山(宮錦)から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの年寄・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の若獅子へ年寄名跡を一時的に貸すことになり、1993年3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。",
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"text": "引退相撲は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に一人横綱だった北勝海が引退となり、横綱空位となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時二子山部屋の現役幕内力士だった隆三杉(露払い)と三杉里(太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された。 横綱大乃国の現役時代の壮大な土俵入りは定評があった。",
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"text": "芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の1999年6月に独立して「芝田山部屋」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい。",
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"text": "師匠の放駒親方同様、「社会に通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位に見合った人徳、品格がないと力士としては一人前とは言えないという考え方に基づき、新潟県十日町の後援者から田んぼを借り、一から米作りを体験させることで、体づくりとともに、食べ物を粗末にしない教育をしている。 目的は、弟子たちに米が出来る過程にある大変さを知ってもらい、米一粒の大事さ、一粒一粒が重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日の稽古の積み重ね、地味で地道な練習の積み重ねが力になることに通じるからという考えからである。自身が農業を営んでいた実家の酪農設備を新築するために両親が借り入れた約2000万円の借入金を代わりに返済し、実家の近所でも「孝行息子」と言われていたことから、農業に対する思いが強く、弟子の教育に取り入れた。",
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"text": "また、部屋の弟子たちを連れて毎年夏に故郷・芽室町で合宿をするのに合わせて、老人ホームや障害者支援施設を慰問し、子供たちの心と身体の健全育成を目的に芽室神社前の土俵で、「芝田山杯子供相撲大会」を毎年8月に実施している。 部屋にお客さんが来た時は、「呼出しの克之です。」など、部屋にいる裏方を紹介するという。力士だけでなく、裏方も部屋の一員という意識を徹底させ、モチベーションをあげるためである。",
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"text": "相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志を隠して、ここぞというときに勝負をかける」と述べている。 弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱や努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても、誰でもなれるわけではない。心底から相撲取りになりたいと思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足で相撲を取れる今の自分に感謝して、前向きに一生懸命努力しなさい。全力でぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず、立ち向かう姿勢が大事。」と、自分が若い頃の稽古を通じて学んだ話をするという。",
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"text": "相撲協会の業務では監察委員や勝負審判などを歴任した後に、2014年に副理事に昇格、巡業部副部長、さらに広報部副部長となった。巡業でちゃんこが廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある。2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "2018年2月2日の日本相撲協会理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で広報部長に就任した。",
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"text": "5月29日午前、大相撲の「女人禁制」に関する参議院文教科学委員会の参考人質疑に出席。「公益法人として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した。",
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"text": "2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、芝田山を含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選し、同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任。再任後はこれまでの広報部長に加え、総合企画部長を兼務することが発表された。",
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"text": "2020年3月、2019新型コロナウイルス感染拡大防止のため、史上初の無観客興行となった春場所で、「無観客開催運営プロジェクトチーム」のリーダーとして、毎日各担当部署の関係者を集め、どんなささいなことも話し合い、情報が回るように徹底した。感染者を出さないため親方衆専用の入口を設置し、世話人が明け荷を運ぶ動線も何度もシミュレーション、タクシーの待機場所や方向など、密集による接触や混乱を回避する方法を考え抜き、大きなトラブルを防いだ。",
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"text": "新型コロナウイルス感染拡大が広まる中、その後の対応の協議の方法としてのインターネット電話などの導入も進んでいないことから、対応の遅れを指摘する報道もあった。広報部長である自身がインターネットを使わず電話で取材を受けていることもインターネット導入の遅れの例に出されている。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "5月13日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、現役で死去した三段目力士の勝武士幹士について「私としてもなんとか心の中で回復してくれという思いでいっぱいだった。うちの部屋にも同期の弟子がいるんですが、非常に残念な思いです」と広報部長の立場でコメントを残した。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "5月29日、7月場所の開催に関しては「まず無観客が目標」と広報部長として見解を示した。",
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"text": "7月30日、新弟子のスカウト活動などを念頭に、協会員の原則的な外出禁止を7月場所後に緩和する方針を示唆した。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "2021年12月9日、2022年夏に地方巡業を再開する準備を進めていることを明かした。同時点では巡業地は未定だが、2022年1月場所後にも開催の可否を含めて決定する見込みが立った。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "2022年10月9日に60歳の誕生日を迎えたが、約2年前から歩行の際に杖が必要となるなど支障が出た理由で、還暦土俵入りは行われなかった。また、還暦記念の赤い綱の製作についても未公表である(但し、その代替として「芝田山親方還暦を祝う会」が開催され、自ら赤い帽子と羽織を着用して登場した)。",
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "2023年6月23日、相撲協会ナンバー2の事業部長を務めていた陸奥(元大関・初代霧島)が辞任したことに伴い、総合企画部長から横滑りで事業部長に就任した(広報部長は引き続き兼務)。",
"title": "来歴"
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"text": "現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースやNHK大相撲中継に出演すると、実際は話がうまく、舞の海秀平が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。バラエティ番組出演もこなしている。最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。 本人は相撲の解説をする時は、「相撲の面白さ、醍醐味を多くの人にわかってもらうために、なるべく専門用語を使わない。」、「勝った力士、負けた力士どちらのファンが聞いても納得できるイーブンな解説」をいつも意識しているという。",
"title": "人物"
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"text": "師匠の放駒親方は、弟子の大乃国に関して、「頭のいい人。若い時から1つを1回教えただけで、教えていない3つを自分で考えて実践していた。」と評している。実は機械いじりが大好きで、中学時代に中古のポンコツバイクを入手して、自分で新しく作り替えて、実家の畑で乗り回していた。",
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"text": "非常にまじめで優しい性格で、横綱になっても少女にサインを頼まれた際に、最後の一人になるまでサインをしたり、パーティーでお年寄が立っていると、すぐそばに寄って椅子のあるところに案内するなど、師匠・放駒親方ゆずりの誠実な紳士ぶりで女性やお年寄りにも根強い人気があった。",
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"text": "幕内入りしてからの大乃国は全てガチンコ相撲を通したとされている。大相撲八百長問題とは全く無縁の人である、と当時の報道を知る大相撲ファンからは評価されており、ガチンコ横綱と言われている。",
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"text": "角界きっての食通で、大の甘党。「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」を持論としている。本人曰く最近は「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」などと呼ばれるという。元祖!でぶやなどのグルメバラエティ番組に出演している。少しでも相撲を知るきっかけになって、相撲の面白さがPRできればいい、相撲取りになってみたいという若者が出てくるきっかけになればと考えているという。",
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"text": "甘党だからといって、甘いものの過剰摂取による糖尿病とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ評論家になりたい」と日刊スポーツで述べている。",
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"text": "(カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)",
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大乃国 康は、北海道河西郡芽室町出身の元大相撲力士。第62代横綱(昭和最後の横綱)。現在は年寄・芝田山。芝田山部屋の師匠を務めている。
|
{{Infobox 力士
|名前 = 大乃国 康
|画像 = [[Image:Onokuni 08 Sep.jpg|300px]]
|説明 = 芝田山親方
|四股名 = 青木康 → 大ノ国康 → 大乃国康
|本名 = 青木 康
|愛称 = 白熊パンダ・象・スイーツ王子<br />スイーツおじさん・スイーツ親方<br />キング・オブ・スイーツ
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1962|10|9}}
|没年月日 =
|出身 = [[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]
|身長 = 189cm
|体重 = 211kg
|BMI = 59.07
|所属部屋 = [[花籠部屋]]→[[放駒部屋]]<ref name="nishonoo23" />
|得意技 = 右四つ、寄り、上手投げ
|現在の番付 = 引退
|最高位 = 62代横綱
|生涯戦歴 = 560勝319敗107休 (81場所)
|幕内戦歴 = 426勝228敗105休 (51場所)
|優勝 = [[幕内最高優勝]]2回<br />十両優勝1回
|賞 = [[殊勲賞]]5回<br />[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]2回
|初土俵 = [[1978年]]3月場所<ref name="nishonoo23" />
|新十両 = [[1982年]]3月場所
|入幕 = [[1983年]]3月場所<ref name="nishonoo23" />
|引退 = [[1991年]]7月場所<ref name="nishonoo23" />
|引退後 = [[芝田山部屋]]師匠<br />日本相撲協会理事(3期)<br />2018年3月 -<br />日本相撲協会副理事(2期)<br />2014年4月 - 2018年3月
|他の活動 =
|趣味 =
|備考 = [[金星 (相撲)|金星]]4個([[北の湖敏満|北の湖]]1個、[[千代の富士貢|千代の富士]]1個、[[隆の里俊英|隆の里]]2個)
|作成日時 = [[2022年]][[3月30日]]
}}
'''大乃国 康'''(おおのくに やすし、[[1962年]][[10月9日]] - )は、[[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]出身で[[放駒部屋]](入門時は[[花籠部屋]])に所属した元[[大相撲]][[力士]]。第62代[[横綱]](昭和最後の横綱)。本名は'''青木 康'''(あおき やすし)<ref name="nishonoo23">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p23</ref>。現在は[[年寄]]・[[芝田山]]。[[芝田山部屋]]の師匠を務めている。
== 来歴 ==
=== 誕生〜入門 ===
[[1962年]]に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときに北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校から帰ってくると畑仕事を手伝い、小学校3年の時に、畑の中で[[トラクター]]を動かし、刈り取った豆を脱穀機まで運んでいた。小学校4年の時に、実家の牛と預かった近所の農家の牛に水をやり、[[サイロ]]から餌を出して牛舎に運んでいた<ref>「負けるも勝ち」P19~21</ref>。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが[[野球]]・[[水泳]]・[[スキー]]・[[スケート]]で運動し、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった<ref name="koubun">光文社</ref>。
芽室中学校では[[柔道]]部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。北海道・[[十勝総合振興局|十勝管内]]の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・[[北勝海信芳]]、[[広尾郡]][[広尾町]]出身)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した[[陸上競技]]大会では全く練習していなかった[[砲丸投げ]]に出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて[[東海大学付属第四高等学校]]から勧誘されたほどである<ref name="koubun" />。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きで[[廻し]]を付けられ、相撲を取らされた<ref name="koubun" />。かなりの力量を同郷の高島正雄([[花籠部屋]]の元十両・[[若十勝正雄|若十勝]])に見出され、高島から連絡を受けた[[魁傑將晃|魁傑]](当時[[大関]]。のち[[放駒]]親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの、相撲取りになるつもりが皆無で進学を決めていたために逃げ回った。
後日魁傑が実家まで訪ねてきて、「時の大関がこんな田舎に」と大騒ぎになる<ref name="名前なし-20231105131122">読売新聞2023年3月8日24面「相撲論 師匠 鬼の稽古に親心」第62代横綱大乃国 芝田山親方</ref>。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった([[日本大学]]で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、魁傑の[[内弟子]]として花籠部屋へ入門した<ref name="koubun" />。
=== 入門後〜関脇 ===
入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった<ref name="koubun" />。「大ノ国」の名は、[[花籠]]親方(元[[幕内]]・[[大ノ海久光|大ノ海]])の現役時代の[[四股名]]と、故郷である「[[十勝平野]]」にちなんで命名された。[[1978年]]3月場所で[[初土俵]]を踏む。
この場所7日目に師匠の魁傑が大関・[[旭國斗雄|旭國]]との対戦で4分26秒の大相撲で[[水入り]]して3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - [[青葉山弘年|青葉山]]戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で[[掬い投げ]]で勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番を見た<ref>「大関にかなう」P224</ref>。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている<ref>中日新聞社『土俵一途に 心に残る名力士たち』心に残る大関列伝・魁傑) </ref>。
本人が述懐するところによると花籠部屋時代は[[稽古]]も然ることながら[[ちゃんこ]]番や雑用、[[付け人]]など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。[[1981年]]に引退して間もない頃の放駒(魁傑)が分家独立した[[放駒部屋]]へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現す。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門の[[貴乃花部屋|二子山部屋]]へ毎日出掛けていた。当時の二子山部屋は[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]や[[隆の里俊英|隆の里]]の2横綱始め、[[若嶋津六夫|若嶋津]]など大勢の現役[[関取]]が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた<ref name="koubun" />。二子山部屋での出稽古は壮絶で、時間にして20分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車に乗って帰る力が残っていなかった。
しかし二子山部屋での出稽古から放駒部屋に戻ってから、ぶつかり稽古をみっちりさせられた<ref name="名前なし-20231105131122"/>。
[[1982年]]3月場所で新[[十両]]に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている<ref name="koubun" />。実際に、二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという<ref>「負けるも勝ち」P80</ref>。翌5月場所は[[幕下]]に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた<ref name="koubun" />。翌[[1983年]]3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる[[旭富士正也|旭富士]]と共に新入幕を果たした。
新入幕の場所を8勝7敗と[[勝ち越し]]た後、4場所目の1983年9月場所で新[[小結]]に昇進した。この場所は6勝9敗と[[負け越し]]たために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では[[北の湖敏満|北の湖]](第55代横綱)・[[千代の富士貢|千代の富士]](第58代横綱)・[[隆の里俊英|隆の里]](第59代横綱)の3横綱を破り<ref name="nishonoo23" />、10勝5敗で初の[[三賞]](殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である<ref>『大相撲中継』2017年11月18日号 p.89.</ref>。
[[1984年]]1月場所では新[[関脇]]で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改め、3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。
平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、[[蔵前国技館]]最後の場所となった同年9月場所では関脇に戻り、初日から好調で9日目に千代の富士を土俵際の[[掬い投げ]]で破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を抱かせたが、翌10日目は既に負け越していた[[逆鉾昭廣|逆鉾]]の出足に苦杯を喫し、さらに11日目はこの場所[[幕内最高優勝の記録一覧#平幕優勝|平幕優勝]]を果たすことになる[[多賀竜昇司|多賀竜]]に[[上手出し投げ]]で脆くも横転し連敗。10日目から13日目の[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]に[[上手投げ]]で敗れるまで4連敗となり、結局10勝5敗に終わった。
その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、[[1985年]]5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した<ref group="注">過去に[[琴風豪規|琴風]]・[[増位山太志郎|増位山]]の3場所31勝(大乃国と同数)、さらには[[北の富士勝昭|北の冨士]](のち第52代横綱)・[[北葉山英俊|北葉山]]の3場所28勝で大関昇進した例がある。横綱・大関の員数が少ない場合は昇進が甘くなるケースもあるが、1985年7月場所では2横綱3大関が在位していて、大乃国の場合はこのケースに当てはまらない。</ref>。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている<ref name="koubun" />。大関昇進披露宴では、引き出物に[[広辞苑]]を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた<ref>神戸新聞2014年5月20日1面正平調</ref><ref>日本経済新聞2014年5月19日「評伝 誠実・不屈貫いた苦労人」</ref>。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠・放駒親方の考えだったという<ref>「相撲」1992年4月号P127</ref>。また、地元選出代議士である[[中川昭一]]の他に<ref>[http://nakagawa-shoichi.jp/2008/05/最近読んだ本(5月)『負けるも勝ち』 芝田山康/ 中川昭一ライブラリ2008年5月28日 最近読んだ本(5月)『負けるも勝ち』 芝田山康 ダイヤモンド社 ]</ref>、[[東京大学大学院情報学環教育部|東京大学新聞研究所]]長の[[竹内郁郎]]が、[[東京大学]]教授として初めて力士の後援会長を務めたことで注目を集めた<ref>「サンデー毎日」1985年(昭和60年)8月11日号「新大関・大乃国の後援会長は角界初の東大教授」</ref>。
1985年7月場所千秋楽の小錦戦は大乃国本人にとって生涯最高の相撲である。本人は引退後に「とにかく突き飛ばされないこと。まわしを取りたいけど、がっぷり四つにもなりたくない。自分にとっていちばんいい形、左の上手を引いて、右の前まわしをいかにして取るか。考えに考えましたよ」と工夫したところを語っており「絶対に勝っておかなくてはいけない一番。それに、関脇を長くやると大関になれないって、へんなジンクスもあって(当時は関脇として通算9場所め)。いろんなことが頭の中でぐるぐるしていた」と当時の気持ちを明かしていた<ref>[https://smart-flash.jp/sports/59570/1/ 元横綱・大乃国の「わが生涯最高の一番」1985年の小錦戦] SmartFLASH 2019.01.09 11:00 (増刊FLASH DIAMOND 2018年11月10日号より、2021年12月20日閲覧)</ref>。
=== 大関時代 ===
大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、次の横綱候補の筆頭だった。[[1986年]]1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も[[北尾光司|北尾]](のち第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの<ref group="注">現在では12勝3敗の優勝次点程度では「綱獲り」と騒がれることはほとんどない。事実、年6場所制定着以降に綱取りを果たした力士の中で直近2場所前が12勝の優勝次点にとどまった者は他に北尾と[[稀勢の里]]しかおらず、これを下回る例は直近2場所前が11勝であった[[柏戸剛|柏戸]]、直近2場所前が10勝止まりであった[[玉の海正洋|玉の海]]のみである。参考として、 [[北勝海信芳|北勝海]]は直近2場所前が12勝での優勝であった。</ref>、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。
同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で[[賜杯|優勝]]では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「[[花のサンパチ組]]」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所は千代の富士を土俵際の投げで破った際に[[失神]]させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。
しかし、[[1987年]]5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽で当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の[[幕内]]最高優勝を果たした<ref name="nishonoo23" /><ref name="100retsu" />。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした<ref name="nishonoo23" />。杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋で行われた横綱昇進伝達式では、「'''初一念を忘れず、相撲道に精進します'''」と口上を述べた<ref>Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63</ref>。1987年10月1日、[[二所ノ関一門]]の親方が揃う中、放駒部屋で綱打ち式が行われた。横綱土俵入りの指導は、[[琴櫻傑將|佐渡ヶ嶽]]が当初行っていたが、途中から一門の総帥である二子山が土俵にあがり、直々に土俵入りを指導、「ウっと[[四股]]を踏んで、ダッと腰を下ろしたら拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言を受けた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=hyaku_00001_20170127&p=hyaku001-jpp12890093 時事ドットコムニュース 「鬼」と「おしん」と稀勢の里]</ref><ref>「負けるも勝ち」p120~121</ref>。
昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では[[貴乃花光司|貴乃花]](41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・[[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]]と並ぶ最高タイ記録)<ref name="koubun" />であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・[[立浪]]親方(元関脇・[[安念山治|安念山]])らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される<ref group="注">旭富士も大関時代の1989年1月から5月にかけて、大乃国の横綱昇進時と同じ3場所通算で40勝5敗という成績を残したが、「横綱昇進基準厳格化」の煽りを受けて昇進が見送られた。その後旭富士は翌1990年5月と同年7月に大関で2場所連続優勝を果たしてようやく横綱に昇進した。</ref>。それ以降、第63代・旭富士から第70代・[[日馬富士公平|日馬富士]]の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・[[鶴竜力三郎|鶴竜]]は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている<ref group="注">ただし、鶴竜以降の横綱も直前場所で優勝して横綱に昇進しており、直前場所優勝無しで昇進したのは現在のところ大乃国を最後に出ていない</ref>。
=== 第62代横綱===
横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の理事長・[[春日野]](第44代横綱・[[栃錦清隆|栃錦]])は「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた[[明治時代]]の名横綱・[[常陸山谷右衛門|常陸山]]を目指せ」と期待を寄せた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤に3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる<ref group="注">平成以降の新横綱では、[[2012年]]11月場所・第70代横綱の日馬富士と、及び[[2014年]]3月場所・第71代横綱の鶴竜が、共に9勝6敗の1桁勝利に終わった。</ref>。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「[[睡眠時無呼吸症候群]]」の症状(土俵下でいきなり強烈な睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)142ページから143ページ</ref><ref name="mukokyu">朝日新聞 2013年1月15日</ref>
[[1988年]]1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった<ref name="mukokyu" />。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや[[糖尿病]]を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。<ref name="mukokyu" />
早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、[[千秋楽結びの一番]]では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで[[寄り倒し]]、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の[[突き落とし]]で下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした<ref name="100retsu" />。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に[[九重部屋]](千代の富士・北勝海の両横綱)ら<ref group="注">ほか大乃国が引退する迄の幕内優勝力士は、大関の小錦(1989年11月場所)、大関〜横綱の旭富士(1990年5月・7月・1991年5月場所)、大関の霧島(1991年1月場所)、平幕の[[琴富士孝也|琴富士]](1991年7月場所)の4人が居る。</ref>の活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いに加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった<ref name="nishonoo23" /><ref group="注">大乃国の1988年5月〜1991年7月と通算20場所(期間・3年2か月)の間、横綱として一度も幕内優勝無しは、年6場所制(1958年)以降では最長記録となる。</ref>。
当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の[[番付]]に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東[[張出]]横綱・大乃国)<ref>[http://www2.tokai.or.jp/tamaro/newpage2-1-10.htm 優勝者番付上位の正当性(タマローのコラム2001)]</ref>、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった<ref group="注">1997年9月[[日本相撲協会]]の[[理事会]]で、「同地位で優勝決定戦を行った場合優勝者を上位とする」という規定に改正。現在のケースであれば翌場所の番付は、優勝者(大乃国)が東正位横綱に上がり、優勝同点者(北勝海)は西正位横綱に廻す形式となる。</ref>。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった<ref group="注">東正位の地位に1度もつかなかった横綱は、双羽黒以来史上5人目。</ref>。
横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の[[千秋楽]]、結果的に[[昭和]]時代最後となった[[結びの一番]]で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことである<ref name="nishonoo23" /><ref name="100retsu" />。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは'''「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、'''せめて(千代の富士を)'''ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って、館内をにぎやかすぐらいのことをしてこい」'''と強烈な発破をかけられる<ref name="100retsu" />。大乃国は飯も喉を通らず、そののまま箸を置いて立ちたいぐらいの気持ちになり、'''「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」'''と闘志に火がついたという<ref name="名前なし-20231105131122"/>
。
千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く[[稽古]]場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。この取組では、大乃国が立合い鋭く踏み込み、千代の富士のまわしを取り、千代の富士に左上手を与えない体制で一気に寄り立て、あせった千代の富士が右下手投げを打ったところを、左から押しつぶすように寄り倒した<ref name="koubun" />。
「自分の呼吸で立つ。それだけを念入りにやった。いつも負ける時は相手に先に左上手を取られ、動かれてゴロンとひっくり返された。だから自分が先にまわしを取って、がむしゃらに出た。<ref name="名前なし-20231105131122"/>」
後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の発言をしている<ref name="koubun" />。その気持ちの表れとして、連勝ストップを決めた当時「俺だって横綱だ」と記者に対して発言していた<ref>Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p59</ref>。
のちに放駒親方が、千秋楽で大乃国が千代の富士の連勝を止められなければ、翌年初場所千秋楽の横綱同士の対戦で横綱・双葉山の69連勝に並ぶと計算していたことを知り、「師匠のその思いを知ったら震えて負けていたかもしれない。師匠は先の先を読んで頭の中で計算していた。師匠の「親心を象徴する場面だった」と歴史的一番の裏にあった秘話を明かした<ref>[https://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170905-OHT1T50177.html スポーツ報知2017/9/6「芝田山親方、トークショーで熱弁 千代の富士戦の秘話明かす」]</ref> <ref name="名前なし-20231105131122"/>。
=== 相次ぐ不運・病気と怪我 ===
[[1989年]]5月場所は、横綱・北勝海と大関・旭富士と3人での優勝争いは千秋楽までもつれた。12勝2敗で迎えた北勝海との千秋楽結びの一番(勝った方が旭富士との優勝決定戦に進出)では[[肩透かし]]に敗れたが、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)<ref name="asa0522">朝日新聞1989年5月22日付朝刊</ref>。ところが、[[立行司]]と[[勝負審判]]5人いずれもこの「はき手」に気付かず、さらに[[物言い]]もつかなかったため、不幸にも大乃国の黒星となった(優勝決定戦は北勝海が旭富士を[[送り出し]]て勝利)。この一番について、当時協会の審判部長だった九重(元横綱・[[北の富士勝昭|北の富士]])は「審判委員五人の目で見ており、もしはき手があればだれもが物言いをつけるはず。テレビはカメラの角度により実際と違うシーンが出るもの」と話し判定の正当性を主張している<ref name="asa0522"/>。
同年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。[[日本大学医学部附属板橋病院]]に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「[[睡眠時無呼吸症候群]]」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり<ref name="koubun" />、[[心不全]]による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した<ref name="mukokyu" /><ref group="注">読売「大相撲」平成元年4月号・「北出清五郎のやあこんにちは」での本人談「180kgが理想体重。(中略)関脇のころが最高だった。200kgはムリがあると思うがなろうと思ってなったんじゃない、なってしまった。(中略)体質的に太りやすいんだよ」</ref>。入院加療ののち病気の症状は回復して退院するも完治せず、横綱として2年近くも低迷することとなる。
同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった<ref group="注">15日制定着以前も含めれば1945年11月場所の[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]以来。</ref><ref group="注">事実、横綱昇進後の大乃国の9月場所の成績は15勝15敗15休と全く振るわなかった。</ref><ref group="注">10年後の1999年9月場所には、[[花田虎上|若乃花]](第66代横綱)も7勝8敗の皆勤負け越しを喫している。</ref>。一旦は引退届を提出するも、当時の[[二子山 (相撲)|二子山]]理事長(第45代横綱・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]])からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。<ref name="koubun" />
一場所休場した後の[[1990年]]1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ<ref name="mukokyu" />。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。大乃国は当時の週刊誌報道などで真面目横綱として知られていたせいか、報道陣も大乃国に対して非難する声は強くなく、[[日本経済新聞]]の夕刊コラムでは[[森鷗外]]が訳した[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]]の「苦痛は人を清める。悲哀は人を高める」という言葉を引用し、「たかが相撲じゃないか。まだ28歳になったばかりの青年だ。相撲ばかりが人生じゃないが、大乃国はわき目もふらず土俵人生の再起を目指す。再起の成否はまだわからないが、彼は一回り大きな人間に成長するにちがいない。」と掲載されるなど<ref>1990年11月17日(土)日本経済新聞夕刊1面「鏡」</ref>、
苦しい土俵を続ける横綱の復活を見守る雰囲気があったと[[中野翠]]は[[文藝春秋]]に書いている<ref>文藝春秋1991-1「中野翠 大乃国さまハラハラ日記」P282~290</ref><ref>1990年11月16日号 日刊ゲンダイ終面「大乃国はなぜ八百長しないのか 八百長するなら相撲やめるというクリーン横綱が孤立する相撲界の怪」</ref>。
1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、必死に取り組む姿に声援を送るファンも多く、[[オール讀物]]の特集では[[井上ひさし]]、[[石堂淑朗]]、[[畑山博]]、[[保坂正康]]、[[黒鉄ヒロシ]]が、「大乃国はプレハブ住宅を組み立てる建設作業者とは異なった、手作りの家を建てようとする職人のようなもの。」、「病や怪我でなかなか勝てなくても必死に取り組んでいる君の不器用な相撲人生を、己が人生と重ね合わせて記憶の底に焼きつけて声援を送っている者も多い。」などと寄稿した<ref>「オール讀物」1991年3月号p240~p249『特集:それでも「大乃国」を愛する理由』</ref>。同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった[[霧島一博|霧島]]に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた<ref group="注">横綱昇進後も大乃国は相手が不振や弱敵でも、常に安心して見られない不安定さがあった。また霧島との幕内対戦成績は6勝8敗と非常に分が悪かった。</ref>。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に[[蜂窩織炎]]による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、ふたたび全休となった。
=== 現役引退 ===
1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった[[貴乃花光司|貴花田]](のち第65代横綱)・[[花田虎上|若花田]](のち第66代横綱)に勝利したが、初日に[[曙太郎|曙]](のち第64代横綱)の[[突っ張り]]に一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった[[安芸乃島勝巳|安芸ノ島]]戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に[[押し出し (相撲)|押し出され]]たりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった<ref group="注">この場所は他の横綱陣も大変な不調で、千秋楽は北勝海と旭富士で8勝6敗同士の横綱戦という事態だった。</ref>。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した<ref group="注">9日目の[[琴ヶ梅剛史|琴ヶ梅]]戦は不戦敗。</ref>。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した[[玉の海正洋|玉の海]]を除けば、[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]の28歳8か月に次ぐ若さだった<ref group="注">なお、このとき大乃国本人は引退するつもりはなかったが、二子山理事長(当時)が続投を許さなかった{{要出典|date=2013年6月|}}。</ref>。[[毎日新聞]]は、「'''妥協を許さない相撲を取り続け、格闘技のもつ真剣勝負としての相撲を楽しませてくれた力士'''」という論評を載せ、もろさと底知れぬ強さが同居した大乃国の栄光と挫折は、全力を傾注して妥協することのない土俵態度が生み出した結果であり、勝負にかけるかたくななまでの意地には価値があった。引退間際の横綱特有のみじめさはあったが、相撲界の受け止め方はずいぶん違い、「なにごとにもまじめな横綱だった。とくに勝負に対しては潔癖すぎるほど潔癖だった。七勝七敗で千秋楽に負け越したのを見てもわかるだろう。貴花田など元気な若手が出てきて盛り上がっているが、相撲界がまともなことをファンに分かってもらうためにも、もう少し頑張ってほしかった。」というある親方の言葉を紹介、刀折れ、矢尽きて土俵を去ったが、大乃国の姿勢は評価されるべきであると報じた<ref>1991年(平成3年)7月17日(水)毎日新聞4面・記者の目「妥協ない横綱だった大乃国 ひとり孤高を保ち勝負に予断与えず」</ref>。引退会見で現役時代の思い出の一番として、稽古をつけてくれた同門の先輩である隆の里に初めて勝った相撲をあげた<ref>1991年(平成3年)7月15日(月)朝日新聞</ref><ref group="注">大乃国の最後の対戦相手である安芸乃島も、引退会見で思い出の一番として、1988年秋場所で同門の先輩である大乃国に初めて勝った相撲(初金星)をあげている</ref>。
この際、既に10代芝田山([[宮錦浩|宮錦]])から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが<ref>引退を表明した当夜(1991年7月場所8日目)に放送された[[大相撲ダイジェスト]]では「今後は年寄・芝田山を襲名しまして後進の指導に当たることになっています。」と司会の[[松苗慎一郎]]から紹介されている。</ref>、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの[[年寄名跡#過去の一代年寄|年寄]]・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の[[若獅子茂憲|若獅子]]へ[[年寄名跡]]を一時的に貸すことになり<ref group="注">1993年3月に若獅子の師匠である10代[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が停年を迎えるため、年寄名跡の都合が付くことが確定していたため、それまでの繋ぎとして芝田山を借用した。</ref>、[[1993年]]3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。
[[引退相撲]]は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での[[横綱土俵入り]]の[[露払い]]と[[太刀持ち]]は、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に[[横綱#一人横綱|一人横綱]]だった北勝海が引退となり、[[横綱#横綱空位・横綱不在|横綱空位]]となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時[[貴乃花部屋|二子山部屋]]の現役幕内力士だった[[隆三杉太一|隆三杉]](露払い)と[[三杉里公似|三杉里]](太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された<ref group="注">この横綱空位のために、同年10月、旭富士の引退相撲でも露払い:[[旭里憲治|旭里]]・太刀持ち:[[旭道山和泰|旭道山]]と、同じ大島部屋の平幕力士が務めている。翌年1月、北勝海の引退相撲では横綱になったばかりの曙が太刀持ちを、大関・小錦が露払いを務めた。しかし[[2003年]]の貴乃花以降、横綱・大関の空位とは関係なく、大関以下の現役幕内力士が露払いと太刀持ちを務めるケースが続いている。</ref>。
横綱大乃国の現役時代の壮大な土俵入りは定評があった<ref>Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p79</ref>。
=== 芝田山親方として ===
芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の[[1999年]]6月に独立して「[[芝田山部屋]]」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい。<ref group="注">短期間で独立するか、自身の所属部屋または一門の別の部屋を継承するか、[[日本相撲協会]]から退職するか、あるいは部屋付きとして長期間在籍した場合は後継者として部屋を譲渡されそのまま部屋持ち親方となるか部屋付きのまま終わる例がほとんどである。[[千代の山雅信|千代の山]]や[[鏡里喜代治|鏡里]]が引退後十年ほど部屋付きとして務めた後で独立しているが、後継者争いに敗れたことによるもので大乃国とは事情が異なる。</ref>
師匠の放駒親方同様、「社会に通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位に見合った人徳、品格がないと力士としては一人前とは言えないという考え方に基づき、新潟県十日町の後援者から田んぼを借り、一から米作りを体験させることで、体づくりとともに、食べ物を粗末にしない教育をしている<ref>[https://www.sankei.com/article/20150725-YGFZRY6NDBJ3ZK5QA2DOTLJU5E/ 【私のふるさと】ばあちゃんのようかん、格別な味 芝田山親方」産経新聞2015年7月25日]</ref>。
目的は、弟子たちに米が出来る過程にある大変さを知ってもらい、米一粒の大事さ、一粒一粒が重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日の稽古の積み重ね、地味で地道な練習の積み重ねが力になることに通じるからという考えからである<ref name="名前なし-1">2003年5月28日 日刊スポーツ 芝田山部屋、田植えで力士教育</ref><ref>「負けるも勝ち」p172</ref>。自身が農業を営んでいた実家の酪農設備を新築するために両親が借り入れた約2000万円の借入金を代わりに返済し、実家の近所でも「孝行息子」と言われていたことから<ref name="名前なし-2">「週刊現代」1984年12月8日号『大乃国、小錦、北尾ユニーク個性番付』</ref>、農業に対する思いが強く、弟子の教育に取り入れた。
また、部屋の弟子たちを連れて毎年夏に故郷・芽室町で合宿をするのに合わせて、老人ホームや障害者支援施設を慰問し、子供たちの心と身体の健全育成を目的に芽室神社前の土俵で、「芝田山杯子供相撲大会」を毎年8月に実施している<ref>[http://www.memuro.info/oonokuni.shtml 北海道・十勝・芽室町観光協会ホームページ]</ref>。
部屋にお客さんが来た時は、「呼出しの克之です。」など、部屋にいる裏方を紹介するという。力士だけでなく、裏方も部屋の一員という意識を徹底させ、モチベーションをあげるためである<ref>『裏まで楽しむ大相撲』P148~155「芝田山部屋裏方さん大集合」(ダグハウス)</ref>。
相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志を隠して、ここぞというときに勝負をかける」と述べている<ref>「負けるも勝ち」p161~162</ref>。
弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱や努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても、誰でもなれるわけではない。心底から相撲取りになりたいと思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足で相撲を取れる今の自分に感謝して、前向きに一生懸命努力しなさい。全力でぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず、立ち向かう姿勢が大事。」と、自分が若い頃の稽古を通じて学んだ話をするという<ref>「負けるも勝ち」p212~219</ref>。
相撲協会の業務では[[相撲競技監察委員会|監察委員]]や[[勝負審判]]などを歴任した後に、[[2014年]]に副理事に昇格、巡業部副部長、さらに広報部副部長となった。巡業で[[ちゃんこ]]が廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140818-1352626.html 大相撲巡業で弁当の改善が課題に] nikkansports.com 2014年8月18日9時56分 紙面から</ref>。[[2015年]]8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1517595.html 巡業で21年ぶりちゃんこ配給復活 暑さを乗り切れ] nikkansports.com 2015年8月4日8時37分 紙面から</ref>。
[[2018年]]2月2日の[[日本相撲協会]]理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で広報部長に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20180202-OHT1T50316.html|title=“スイーツ理事”芝田山親方「人任せでなく自分でやっていく」|newspaper=スポーツ報知|date=2018-02-03|accessdate=2018-06-27}}</ref>。
5月29日午前、大相撲の「[[女人禁制]]」に関する[[参議院]][[文教科学委員会]]の[[参考人]]質疑に出席。「[[公益法人]]として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した<ref>[https://hochi.news/articles/20180529-OHT1T50223.html 芝田山広報部長、「女人禁制」めぐり参院文科委の参考人質疑出席で説明「女性差別をしていない」] 2018年5月30日6時0分 スポーツ報知(報知新聞社、2018年9月3日)</ref>。
2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、芝田山を含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202001300000221.html 12年ぶり無投票で理事決定 相撲協会の役員候補選] 日刊スポーツ 2020年1月30日12時18分(2020年1月30日閲覧)</ref>し、同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任<ref>{{Cite news |和書|title=親方の理事10人選任 日本相撲協会評議員会 |newspaper=産経新聞 |date=2020-03-23 |url=https://www.sankei.com/article/20200323-DZQCFXOO7ZNVLG2CW6UFNC3VTQ/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>。再任後はこれまでの広報部長に加え、総合企画部長を兼務することが発表された。
2020年3月、[[2019新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため、史上初の無観客興行となった春場所で、「無観客開催運営プロジェクトチーム」のリーダーとして、毎日各担当部署の関係者を集め、どんなささいなことも話し合い、情報が回るように徹底した。感染者を出さないため親方衆専用の入口を設置し、世話人が明け荷を運ぶ動線も何度もシミュレーション、タクシーの待機場所や方向など、密集による接触や混乱を回避する方法を考え抜き、大きなトラブルを防いだ<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/column/sumo/news/202003220000481.html 芝田山広報部長「無の境地」春場所完走の大きな意味] 日刊スポーツ 2020年3月23日</ref>。
新型コロナウイルス感染拡大が広まる中、その後の対応の協議の方法としてのインターネット電話などの導入も進んでいないことから、対応の遅れを指摘する報道もあった。広報部長である自身がインターネットを使わず電話で取材を受けていることもインターネット導入の遅れの例に出されている<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/200501/spn2005010004-n2.html 相撲協会「テレビ会議?」の古典的世界 緊急事態宣言延長も…夏場所問題協議できず (2/2ページ)] zakzak 2020.5.1(2020年5月2日閲覧)</ref>。
5月13日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、現役で死去した三段目力士の[[勝武士幹士]]について「私としてもなんとか心の中で回復してくれという思いでいっぱいだった。うちの部屋にも同期の弟子がいるんですが、非常に残念な思いです」と広報部長の立場でコメントを残した<ref>[https://www.daily.co.jp/general/2020/05/13/0013339200.shtml 勝武士さんがコロナ死 芝田山広報部長「なんとか回復してくれと…」] デイリースポーツ 2020.05.13(2020年5月17日閲覧)</ref>。
5月29日、7月場所の開催に関しては「まず無観客が目標」と広報部長として見解を示した<ref>[https://web.archive.org/web/20200607184714/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020052901059&g=spo 7月場所「まず無観客が目標」] JIJI.COM 2020年05月29日18時50分(2020年6月8日閲覧)</ref>。
7月30日、新弟子のスカウト活動などを念頭に、協会員の原則的な外出禁止を7月場所後に緩和する方針を示唆した<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202007310000063.html 相撲協会、新弟子スカウト活動念頭に外出禁止緩和へ] 日刊スポーツ 2020年7月31日8時56分 (2020年7月31日閲覧)</ref>。
2021年12月9日、2022年夏に地方巡業を再開する準備を進めていることを明かした。同時点では巡業地は未定だが、2022年1月場所後にも開催の可否を含めて決定する見込みが立った<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202112090000847.html 来夏地方巡業再開へ「準備は進めている」芝田山広報部長 初場所後に決定] 日刊スポーツ 2021年12月9日19時36分 (2021年12月10日閲覧)</ref>。
2022年10月9日に60歳の誕生日を迎えたが、約2年前から歩行の際に杖が必要となるなど支障が出た理由で、[[還暦土俵入り]]は行われなかった。また、[[還暦]]記念の赤い綱の製作についても未公表である(但し、その代替として「芝田山親方還暦を祝う会」が開催され、自ら赤い帽子と羽織を着用して登場した)。
2023年6月23日、相撲協会ナンバー2の事業部長を務めていた陸奥(元大関・[[霧島一博|初代霧島]])が辞任したことに伴い、総合企画部長から横滑りで事業部長に就任した(広報部長は引き続き兼務)<ref>{{Cite news |和書 |title=元霧島の陸奥親方に報酬減額処分 協会NO・2の事業部長は辞任 兄弟子から三段目安西への暴力 |newspaper=日刊スポーツ |date=2023-06-23 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202306230000435.html |access-date=2023-06-23}}</ref>。
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|File:Yokoduna Keiko Soken-3.jpg|横綱審議委員会稽古総見(両国国技館 2017年5月3日撮影)
|File:Yokoduna Keiko Soken-2.jpg|同左
}}
== 人物 ==
現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースや[[日本放送協会|NHK]][[大相撲中継]]に出演すると、実際は話がうまく、[[舞の海秀平]]が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。バラエティ番組出演もこなしている。最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。
本人は相撲の解説をする時は、「相撲の面白さ、醍醐味を多くの人にわかってもらうために、なるべく専門用語を使わない。」、「勝った力士、負けた力士どちらのファンが聞いても納得できるイーブンな解説」をいつも意識しているという<ref>「負けるも勝ち」P182~186</ref>。
師匠の放駒親方は、弟子の大乃国に関して、「頭のいい人。若い時から1つを1回教えただけで、教えていない3つを自分で考えて実践していた。」と評している<ref name="名前なし-1"/>。実は機械いじりが大好きで、中学時代に中古のポンコツバイクを入手して、自分で新しく作り替えて、実家の畑で乗り回していた<ref name="名前なし-2"/>。
非常にまじめで優しい性格で、横綱になっても少女にサインを頼まれた際に、最後の一人になるまでサインをしたり、パーティーでお年寄が立っていると、すぐそばに寄って椅子のあるところに案内するなど、師匠・放駒親方ゆずりの誠実な紳士ぶりで女性やお年寄りにも根強い人気があった<ref>「週刊ポスト」1989年11月24日号『八百長をしないから仲間はずれ 大乃国の嫌気』</ref><ref>「現代」1987年10月号 p296~303 『相撲狂いの才女、ウンチク放談会 知的な女はお相撲サンのお尻が大好き-大乃国のお腹で滑り台を。ああタニマチ的母性愛』 神津カンナ;久和ひとみ;杉浦日向子;マッハ文朱</ref>。
幕内入りしてからの大乃国は全て[[ガチンコ]]相撲を通したとされている。[[大相撲八百長問題]]とは全く無縁の人である、と当時の報道を知る大相撲ファンからは評価されており、'''ガチンコ横綱'''と言われている<ref>週刊ポスト1988年15号(945)「角界浄化独走スクープ 八百長をしないガチンコ横綱・大乃国を狐立させるな--関取Aの真相告白・第3弾!」/p38~41</ref>。
角界きっての[[食通]]で、大の甘党。'''「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」'''を持論としている。本人曰く最近は'''「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」'''などと呼ばれるという。[[元祖!でぶや]]などのグルメバラエティ番組に出演している。少しでも相撲を知るきっかけになって、相撲の面白さがPRできればいい、相撲取りになってみたいという若者が出てくるきっかけになればと考えているという<ref>「負けるも勝ち」P193~200</ref>。
[[甘党]]だからといって、甘いものの過剰摂取による[[糖尿病]]とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ[[評論家]]になりたい」と[[日刊スポーツ]]で述べている。
== 合い口 ==
*「昭和の大横綱」第55代横綱・北の湖とは全く互角の成績だった。
* 同じく「昭和の大横綱」第58代横綱・千代の富士とは過去幕内で32回取組の内9勝に留まった。又自身が横綱昇進した1987年11月場所以降千代の富士からの勝利は、53連勝で止めた1988年11月と最後の取組となる1990年11月の2場所のみ。
* 第59代横綱・隆の里とは2つの差で勝ち越している。
* 第60代横綱・双羽黒とは北の湖同様に五分の成績である。
* 第61代横綱・北勝海とは大関時代までは16勝7敗と大の得意とし、一時6連勝するなど圧倒していた。だが自身が横綱昇進して以降の成績は、優勝決定戦を含め5勝7敗と逆に分が悪くなった。
* 第63代横綱・旭富士は三役時代より得意とし、大きく勝ち越している。ただし横綱昇進してからは4連敗を喫するなど、7勝7敗の互角となった。
* のちの第64代横綱・曙に初対戦から2連勝したが、最後の取組となる1991年7月場所初日に一方的に押し倒された。
* のちの第65代横綱・貴乃花(当時貴花田)と第66代横綱・若乃花(当時若花田)は1991年7月場所で二人共に勝利するも、同場所限りで大乃国が引退の為これが唯一の対戦となった。
* 先輩大関だった琴風・若嶋津・朝潮・北天佑は、自身が三役定着〜大関昇進後辺りから力関係が逆転し、4人全員に勝ち越している。
* 反対に後輩大関の小錦と霧島は相性が悪く、2人共に揃って負け越している。
* [[板井圭介|板井]]に8勝8敗と非常に苦手としていた。板井は金星を3個獲得しているが全て大乃国から。
== 師弟関係 ==
* 師匠の放駒親方について、「周りの人は『優しい親方で』なんてイメージで言うけど、弟子からすれば鬼。日常生活の指導を含め、一切の妥協がない師匠だった。どんな子供だって、死ぬまで自分の親を抜くことはありえない。自分にとって師匠は、親以上に一目も二目も三目も置く存在。今でも夢に出てきて怒られることがある。」と語っている<!--<ref name="名前なし-20231105132627"/>-->。
*放駒親方が叱る時は、「相撲界は“コラッ!”と一発、拳固を食らって済むようなことが多かったなか、師匠は理論的に、理詰めで来る。時に心の臓を撃ち抜かれるくらいの言葉で……。ちゃんこも喉を通らない状態になったこともありますよ。それは、私が横綱を張っていた時でも、変わりませんでした」と引退後述べている<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/824352 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 大相撲復活の礎はあなたが作った ] [[Sports Graphic Number|Number]]Web2015年10月20日 </ref>。
*親子関係以上の濃密な師匠と弟子の関係が希薄になることへの危機感が常にあるとし、「どんな子供だって、死ぬまで自分の親を抜くことはありえない。相撲界も同じで、相撲部屋は単なる合宿所ではなく、衣食住を含めた修業の場であり、一つ屋根の下で寝食を共にする疑似家族であり、師匠は父親で弟子は息子。親の喜ぶ顔を見るために厳しい稽古に耐えることができた。もし師匠をないがしろにして、親と子の節度がなくなる風潮が出たら、部屋制度を前提とするこの社会は成り立たなくなる。」と述べている<!--<ref name="名前なし-20231105132627"/>-->。
* 自身が中卒で入門したことから、大相撲に入門するのは高卒や大卒より中卒の方が良いとしている。「右も左も分からないで入るから良い。相撲ももちろん、社会人としての心構えも身につく。染まっていない時に入るのが大事なんだ」と話しており、自身が新入幕した1983年3月場所は幕内35人中18人が中卒だった<ref>日刊スポーツ 2017年6月1日</ref>。この考えの背景は、大学中退で角界入りして年下の先輩との関係に悩んだ師匠の放駒親方から、「高校卒業してから相撲取りになって年下のやつに張り倒されるよりは、十五歳で入って先輩から張り倒される方が、まだ我慢できるだろ。」と入門前に言われたことも影響しているという<ref>「負けるも勝ち」P68~69</ref>。
*部屋にお客さんが来た時は、「呼出しの克之です。」など、部屋にいる裏方を紹介するという。力士だけでなく、裏方も部屋の一員という意識を徹底させ、モチベーションをあげるためである<ref>『裏まで楽しむ大相撲』P148~155「芝田山部屋裏方さん大集合」(ダグハウス)</ref>。
*[[大勇武龍泉|大勇武]]など部屋の元力士から自身や弟子による暴行容疑に対する訴訟を過去に2度起こされるなど弟子育成に関しては、一部週刊誌からは「弟子に興味のない親方」という趣旨の書き立てられ方をされた<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/147084/2 失明した元弟子に提訴された「スイーツ親方」の指導と評判] 日刊ゲンダイ 2014年1月8日(講談社、2017年11月16日閲覧)</ref>。
*芝田山本人は自分が師匠になって弟子に口酸っぱくして言うのは、一人前に育ち、仮に相撲界を離れても社会で耐えられる人間に育ってもらいたいとの思いがあるからこそと述べている<ref name="名前なし-20231105131122"/>。
== エピソード ==
{{出典の明記|date=2014年3月|section=1}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2014年3月}}
=== スイーツ関連 ===
* 現役時代から大の甘党・美食家でも大きく知られており、相撲雑誌の力士紹介欄では他の力士が趣味を「ゲーム」「絵画」「音楽鑑賞」としている中で「'''食べ歩き'''」と記載されていた。好きな食べ物として[[あんみつ]]・[[豆パン|うぐいすパン]]と答えていた時期があった。
* 特に[[ケーキ]]は、2ホールを軽くたいらげるという。自らも大関時代から部屋でケーキ作りをするほどで、趣味を生かした『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(ISBN 4532165687)・『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(ISBN 9784532167066)を出版している(どちらも[[日本経済新聞出版社]]より)。新十両昇進が決まった[[大勇武龍泉]]に記者会見で祝いのケーキ(現役時代の自身の似顔絵入り)を渡した。
* [[2007年]]6月30日放送の[[テレビ朝日]]「[[ザ・クイズマン!|ザ・クイズマンショー]]」では数々のスイーツに関するクイズを回答して優勝した。「'''スイーツ賢人'''」の称号を送られている。
* [[2008年]][[3月31日]]からは、[[ゆうどきネットワーク]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])にて'''「芝田山親方のごっつあんスイーツ」'''のコーナーを担当していた(大相撲千秋楽の翌日など、主に月曜に出演)。
* [[2008年]]7月放送の海外向け国際放送・[[NHKワールド]]TVの紀行番組である『NIPPON OUT&ABOUT』(英語放送番組)に出演。出身地である芽室町のあるお宅をたずね、あんこの付いた[[ぼたもち]]を試食する様子が放送された。
* [[2013年]]6月放送のNHKテレビ「[[ゆうどきネットワーク]]」に出演し、[[京都]]の[[和菓子]]巡り(麦手餅・あんこ炊きなど)を堪能していた。
* [[2015年]]6月6日放送の朝の[[連続テレビ小説]]『[[まれ]]』に[[服部幸應]]、[[辻口博啓]]らとともに審査員役で出演した。
* 元プロ野球選手・監督の[[権藤博]]と親交があり、ともに甘党である事から暇を見つけては二人で甘味処巡りを行っている。
* 現役時代に[[花乃湖健|花乃湖]]、[[貴闘力忠茂|貴闘力]]、[[三杉里公似|三杉里]]らと共に「大相撲甘党部」を結成していた。
* 敬愛する甘味として姫路の玉椿、福岡の筑紫もち、北海道の大沼だんごを自身のベスト3として挙げている。
*スイーツ以外にも[[蓬萊_(飲食店)|蓬萊]]の豚まんをこよなく愛しており、春場所終わりには大量に買い込んで東京に戻っている。
=== 大きな太鼓腹 ===
* 大きすぎるほどの太鼓腹をしたアンコ型力士であり、特に海外からは、いかにも力士という体型から、ある意味日本以上に人気があるという考えもあった。220キロ超の体重よりも恐ろしいほど大きく前へ突き出た腹が語り草になり、特に立合いの蹲踞時に腹を膨らませてグッと前へ突き出す癖があり、その際のあまりにも大きなお腹は、観客からどよめきが起こるほどであった。
* 最重量の小錦よりも大きな腹をしており、横綱当時「体重の小錦」「腹の大乃国」との異名もあった。
* その非常に大きな体型から、春日野親方(元栃錦)からは「'''[[パンダ]]'''」<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_06 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref>というあだ名が付けられており、1987年6月の力士運動会では大乃国自ら「[[ジャイアントパンダ]]」の扮装をしたことがあった。
=== その他 ===
* 1985年7月、大関に昇進したばかりの北海道巡業中、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『第4回[[全国高等学校クイズ選手権]]』北海道予選の取材を受け、「東京に来て最初に出くわした嫌いなモノは?」という問題を高校生に出題した。正解は[[ゴキブリ]]で、「入門当時、力士たちの集う部屋に入り、足元にうろつくゴキブリを見た瞬間うつ伏せになってしまい、しばらく何もできなかった」と司会の[[福留功男]]に話していた。[[ネズミ]]も幼い頃から苦手だという。
*横綱昇進の際には「史上初の200kg超えの横綱」として話題になった<ref>アプリスタイル『[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|スポーツ報知 大相撲ジャーナル]]』2020年1月号 60頁</ref>。
* 常識人としても知られ、力士の健康診断では横綱特権(優先検診)をせず順番を守っていた。家事にも積極的で、家庭ごみの分配なども自ら行っている。
* 2008年3号より[[ダイヤモンド社]]の隔週刊テレビ情報誌「[[TVステーション]]」にて、「親方に訊け!」というコラムを連載。
* 2008年7月28日放送の[[日本放送協会|NHK]]『[[鶴瓶の家族に乾杯]]』で[[ホイアン]]を旅し、現地の子どもたちに相撲を教えた。その際、持参した稽古用[[廻し|まわし]]を半ズボンの上から着けさせた。
* テレビ朝日の深夜番組『[[虎の門]]』にゲスト出演しており、番組エンディングの情報コーナーでは「新弟子募集」の告知を必ず行っていた。
* 「'''肉の多い大乃国(にくのおおいおおのくに)'''」という[[回文]]がある。[[2010年]][[1月1日]]放送の日本テレビ『[[笑点]]』の新春スペシャルに出演した際に自らネタにした。
* 2010年1月6日にテレビ朝日系で放送された『[[史上最強のメガヒット カラオケBEST100 完璧に歌って1000万円]]』内のコーナー「採点カラオケNo.1決定戦」で優勝し賞金30万円を獲得した。
* 2013年11月場所後の番付編成会議で、放駒部屋からの移籍組である[[魁猛|魁]]が新関取昇進の内定を得る。しかし西幕下4枚目で4勝3敗の魁の十両昇進は難しいと考え、芝田山は新関取発表日に韓国旅行へ出掛けていた。結局その日の午後5時に慌てて帰国し、正規の会見会場ではなく福岡空港の特別待合室での出張昇進会見が設定された。芝田山は遠路駆け付けた報道陣を気遣い「皆さん、このお返しはスイーツで」。好物を話題に取り上げて笑いを誘ったという<ref>[http://www.daily.co.jp/general/2013/11/28/0006531122.shtml 魁ただ1人新十両 ドタバタ空港会見] Daily Sports Online 2013年11月28日</ref>。
* [[2016年]]7月31日、大乃国と同じ北海道出身でかつ連勝記録を53でストップさせた「昭和の大横綱」こと元千代の富士・九重親方が61歳で死去。「現役時代よく九重部屋に出稽古に行った。相四つだったので何とか先に左上手を取らせないよう研究した。体重は自分が上でも、力が強かった」と振り返った後、「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった」と、先輩横綱の死に驚きを隠せなかった<ref>[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/250109.html 元横綱・千代の富士の九重親方が死去] NHKかぶんブログ 2016年7月31日記事</ref>。
* [[2017年]]1月24日、[[二所ノ関一門]]で[[田子ノ浦部屋]]所属の大関・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の第72代横綱への昇進が決まり、1月26日に芝田山は[[横綱土俵入り#雲龍型の土俵入り|雲龍型]]の[[横綱土俵入り]]の指導・継承役を務めた。横綱土俵入りの見せ場である「せり上がり」の際の右手のひらの向きについて、右手のひらの上に粘着テープ1巻を置き、落ちないように上に向けたまま実演して稀勢の里を指導する姿、1987年に若乃花幹士 (初代)が大乃国の土俵入りを直々に指導した過去の写真、映像が報道された姿が報道された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=rTffscAhyOw KyodoNews2017/1/26 稀勢の里関の綱完成 土俵入り練習、無難に]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/sports/news/20170126/sum17012608560006-n1.html|title=稀勢の里の綱完成 芝田山親方が雲竜型の土俵入り指導|work=SANSPO.COM|publisher=産業経済新聞社|date=2017年1月26日|accessdate=2017年1月26日}}</ref>。稀勢の里への指導の最後に、新横綱の大師匠にあたる[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]親方が大乃国の新横綱土俵入り指導で言った「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ」の言葉を伝えている<ref>[https://www.sanspo.com/article/20170127-JLJIETGO2BM5JC4TWUMCJSERFA/ 稀勢、鬼の化粧まわしで教え受けた!芝田山親方が「雲竜型」伝授 サンケイスポーツ2017年1月27日]</ref><ref>サンケイスポーツ特別版「祝誕生!第72代横綱稀勢の里」P10~11 2017年2月6日発行</ref>。1月27日に稀勢の里は東京・[[明治神宮]]で横綱推挙式と奉納土俵入りを行い、大師匠・若乃花幹士 (初代)が使用した化粧廻しを身に着け、18000人の観衆を前に雲竜型を披露<ref>日刊スポーツ 2017年1月27日</ref>、現役時代のライバルだった[[北勝海信芳|八角]]は「同じ型をするんだけど、人によってせり上がりが微妙に違うのがいいところ。大乃国さん(芝田山親方)に教わったから当たり前だけど、やっぱり似ているな、という感じがした」と述べた<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20170129/spo1701291000005-n1.htm 稀勢の里“正統派”土俵入り継承 不評の白鵬とは違う「手のひらは上に向ける!」 夕刊フジ2017年1月27日]</ref>。
**しかし稀勢の里は新横綱の2017年3月場所13日目、横綱[[日馬富士公平|日馬富士]]戦で敗れた際、左大胸・上腕筋を部分断裂する重傷を負ってしまうが、同場所千秋楽では、大関(当時)[[照ノ富士春雄|照ノ富士]]戦で本割り・決定戦で逆転優勝を果たす。だがその大怪我の回復が遅れ<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20170524_557660.html 稀勢の里「仁義なき包囲網」は悲劇の短命・大乃国と似ている] NEWSポストセブン 2017年5月24日</ref>、更に相次ぐ負傷にも見舞われて、翌2017年5月場所~2018年7月場所迄、横綱ワースト記録の8場所も連続して休場(途中休場4回・全休4回)。復帰した2018年9月場所で10勝を挙げるも、次の11月場所は初日から4連敗で又も途中休場。2019年1月場所で進退を掛けたが序盤3連敗(横綱としては最悪の8連敗も記録)を喫し、芝田山親方は「もうダメでしょう」と厳しい現状をコメント<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201901150000826.html 芝田山親方、3連敗稀勢の里に「もうダメでしょう」] 日刊スポーツ 2019年1月15日]</ref>。結局稀勢の里は同場所4日目に、横綱在位12場所の短命で現役引退を表明。その報道に芝田山親方は「今迄けがだけでなく、周りから責められることとも闘っていた。ご苦労さんと言ってあげたい」と労いの言葉を送っていた<ref>[https://www.sanspo.com/sports/news/20190116/sum19011620460043-n1.html 芝田山親方、稀勢の里は「責められることとも闘った」/初場所] サンスポ 2019年1月16日</ref>。
* 2018年4月4日に行われた大相撲舞鶴場所にて、[[多々見良三]]が倒れた際に救命処置で土俵に上がった医療関係者の女性に対する、大相撲の女人禁制を優先した対応が物議を醸したが、芝田山は「場内アナウンスの指導や緊急時のマニュアルの作成が必要である」と言う趣旨のコメントをしており、相撲協会全体の問題としてとらえていた。一方で「緊急事態と女人禁制は別の話」としており、一部で女性が土俵を下りた後に大量の塩が撒かれたと報じられたことに対しても「撒かれた塩の量は一般的な量であるし、安全祈願の意味であって女性が土俵に上がったことは関係が無い」という内容の見解を示している<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804060000829.html 芝田山広報部長、緊急事態と女性を土俵上げる話は別] 日刊スポーツ 2018年4月6日20時43分(日刊スポーツ新聞社、2018年4月9日閲覧)</ref>。
* 2018年4月19日、兵庫県宝塚市の中川智子市長が、土俵の女人禁制を見直すことなどの要望書を日本相撲協会とスポーツ庁に提出、対応した理事・広報部長の芝田山は、「わざわざ来ていただくのに、『(要望書を)受け取りました。さようなら』ということはしません」と、向島「長命寺」の桜餅でもてなして約45分も会談し、相撲の伝統などを力説した。“手ぶら”で要望書だけを出しにきた中川市長に、相撲グッズのおみやげまで渡す対応に、「一刀両断に『議論しません』という答えもありうると思っていましたが、『理事会などで議論する』と明言していただきました。誠実に対応してくださった。“柏餅”を出してくださって、親方はとても優しかった」と中川市長は相撲協会の反応にホクホクだった。しかし、芝田山は「関東と関西の桜餅は違うんだよ。関西は道明寺粉というピンクの色がついている。関東は薄い皮であんを包んでいる。俺は“専門家”だから、これは桜餅だと説明したのに…」と残念そうだったという<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180421/spo1804210002-n1.html 「女人禁制」見直し要望書提出の宝塚市長にスイーツ親方が神対応] (夕刊フジ、2018年4月21日閲覧)</ref>。
* 2019年11月25日の[[横綱審議委員会]]の定例会合で[[矢野弘典]]委員長らが[[白鵬翔|白鵬]]のかち上げに苦言を呈したが、芝田山は「(白鵬の)隙を見つけ、もっと気迫を持たないといけない」といい、対戦力士に自覚を求めた<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019112500996&g=spo 白鵬のかち上げに苦言 相撲協会に指導要望も―横綱審議委員会] JIJI.COM 2019年11月25日20時09分(2019年11月29日閲覧)</ref>。同年12月27日に2019年の仕事納めを迎えた際には「(かち上げは脇が開くので)そこを狙っていかなきゃ。白鵬に力を出させないように」と改めて対戦力士の実力や自覚の問題であるとの見解を示した<ref>[https://hochi.news/articles/20191227-OHT1T50144.html 仕事納めの相撲協会 芝田山親方は若手にハッパ「もっと気迫を」 白鵬のかち上げにも言及] 2019年12月27日 18時5分スポーツ報知(2019年12月27日閲覧)</ref>。
== 主な成績 ==
=== 通算成績 ===
* 通算成績:560勝319敗107休 勝率.637
* 幕内成績:426勝228敗105休 勝率.651
* 横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662
* 大関成績:140勝55敗 勝率.718
* 現役在位:81場所
* 幕内在位:51場所
* 横綱在位:23場所
* 大関在位:13場所
* 三役在位:10場所(関脇9場所、小結1場所)
* 連勝記録:19(1987年5月場所初日 - 1987年7月場所4日目)※大関時代に記録
* 連続6場所勝利:68勝(1986年11月場所 - 1987年9月場所)
* 連続6場所勝利(横綱昇進以降):66勝(1988年3月場所 - 1989年1月場所、1988年7月場所 - 1989年5月場所)
* 通算幕内連続勝ち越し記録:21場所(1984年7月場所 - 1987年11月場所)
* 幕内連続二桁勝利記録:5場所(1985年5月場所 - 1986年1月場所)
* 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1987年5月場所 - 1987年9月場所)
=== 各段優勝 ===
* 幕内最高優勝:2回(1987年5月場所=全勝、1988年3月場所)
** 全勝1回
* 十両優勝:1回(1983年1月場所)
=== 三賞・金星 ===
* [[三賞]]:7回
** 殊勲賞:5回(1983年11月場所、1984年11月場所、1984年3月場所、1984年7月場所、1985年5月場所)
** 敢闘賞:2回(1984年3月場所、1985年7月場所)
* 金星:4個(北の湖1個・千代の富士1個・隆の里2個)
=== 場所別成績 ===
{{Sumo record box start|大乃国康}}
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=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数!!力士名!!勝数!!負数
|-
|[[青葉城幸雄|青葉城]]||2||2
|[[安芸乃島勝巳|安芸乃島(安芸ノ島)]]||7||3
|[[曙太郎|曙]]||2||1
|[[朝潮太郎|朝潮]]||19||13
|-
|[[旭富士正也|旭富士]]||26||10
|[[板井圭介|板井]]||8||8
|[[恵那櫻徹|恵那櫻]]||2||0
|[[大潮憲司|大潮]]||0||1
|-
|[[巨砲丈士|巨砲]]||14||7
|[[大錦一徹|大錦]]||3||0
|[[大豊昌央|大豊]]||4||1
|[[魁輝薫秀|魁輝]]||1||0
|-
|[[春日富士晃大|春日富士]]||2||0
|[[北の湖敏満|北の湖]]||3||3
|[[旭道山和泰|旭道山]]||1||0
|[[霧島一博|霧島]]||6||8
|-
|[[起利錦利郎|起利錦]]||3||0
|[[麒麟児和春|麒麟児]]||11||2
|[[久島海啓太|久島海]]||1||0
|[[蔵間竜也|蔵間]]||4||2
|-
|[[高望山大造|高望山]]||8||1
|[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]||1||0
|[[琴ヶ梅剛史|琴ヶ梅]]||12||9(1)
|[[琴風豪規|琴風]]||8||3
|-
|[[琴錦功宗|琴錦]]||3||0
|[[琴富士孝也|琴富士]]||1||1
|[[小錦八十吉|小錦]]||13||16
|[[斉須稔|斉須]]||1||0
|-
|[[逆鉾伸重|逆鉾]]||24||10(1)
|[[佐田の海鴻嗣|佐田の海]]||8||3
|[[薩洲洋康貴|薩洲洋]]||1||0
|[[嗣子鵬慶昌|嗣子鵬]]||2||0
|-
|[[陣岳隆|陣岳]]||8||2
|[[太寿山忠明|太寿山]]||14||4
|[[大翔山直樹|大翔山]]||1||1
|[[大徹忠晃|大徹]]||2||1
|-
|[[貴闘力忠茂|貴闘力]]||1||2
|[[隆の里俊英|隆の里]]||6(1)||4
|[[貴乃花光司|貴乃花(貴花田)]]||1||0
|[[孝乃富士忠雄|孝乃富士]]||5||0
|-
|[[隆三杉太一|隆三杉]]||4||1
|[[高見山大五郎|高見山]]||1||1
|[[多賀竜昇司|多賀竜]]||4||4
|[[玉龍大蔵|玉龍]]||6||1
|-
|[[千代の富士貢|千代の富士]]||9||23
|[[寺尾常史|寺尾]]||12||6
|[[出羽の花義貴|出羽の花]]||16(1)||4
|[[闘竜賢二|闘竜]]||7||1
|-
|[[栃司哲史|栃司]]||6||3
|[[栃剣展秀|栃剣]]||1||0
|[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]]||11||4
|[[栃光興福|栃光]]||1||0
|-
|[[南海龍太郎|南海龍]]||2||0
|[[飛騨乃花成栄|飛騨乃花]]||1||1
|[[富士櫻栄守|富士櫻]]||1||0
|[[藤ノ川祐兒|藤ノ川]]||1||0
|-
|[[富士乃真司|富士乃真]]||1||1(1)
|[[双羽黒光司|双羽黒]]||9||8
|[[鳳凰倶往|鳳凰]]||1||3
|[[北天佑勝彦|北天佑]]||22||14
|-
|[[北勝海信芳|北勝海]]||20*(1)||14
|[[前乃臻康夫|前乃臻]]||0||1
|[[舛田山靖仁|舛田山]]||2||2
|[[益荒雄宏夫|益荒雄]]||5||1
|-
|[[三杉磯拓也|三杉磯(東洋)]]||1||1
|[[三杉里公似|三杉里]]||4||0
|[[水戸泉眞幸|水戸泉]]||8||3
|[[両国梶之助|両国]]||12||0
|-
|[[若嶋津六夫|若嶋津]]||13(1)||10
|[[若瀬川剛充|若瀬川]]||2||3
|[[若乃花勝|若乃花(若花田)]]||1||0
|||||
|}
* 他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]で北勝海に1勝がある。
(カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)
== 改名歴 ==
* 青木 康(あおき やすし)1978年3月場所
* 大ノ国 康(おおのくに - )1978年5月場所 - 1984年1月場所
* 大乃国 康(おおのくに - )1984年3月場所 - 1991年7月場所
== 年寄変遷 ==
* 大乃国 康(おおのくに やすし)1991年9月場所 - 1993年3月場所([[一代年寄]])
* 芝田山 康(しばたやま - )1993年5月場所 -
== 参考資料 ==
* [https://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/yr005_sm0006.pdf 第62代横綱 大乃国康]光文社のインタビュー
* 『横綱』武田葉月(2013年5月)講談社
== 関連書籍 ==
* 『負けるも勝ち 相撲とは-人生とは』(2008年3月)ISBN 4478003157
* 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(2006年9月)ISBN 4532165687
* 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(2009年9月)ISBN 453216706X
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[横綱一覧]]
* [[大相撲優勝力士一覧]]
* [[現役年寄一覧]]
* [[中川昭一]]
== 外部リンク ==
* [http://shibatayama.fc2web.com/index.html 芝田山部屋公式ホームページ]
* [https://ameblo.jp/sweets-oyakata 芝田山親方オフィシャルブログ「スイーツ親方のちょっといい話」]本人によるブログ
* [http://www.shibatayama.com/ ちゃんこ芝田山]
* [http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/onokuni.html 大乃国 康] - goo 大相撲
{{大相撲幕内優勝力士}}
{{芝田山部屋}}
{{現役年寄}}
{{歴代横綱|第62代|1987年11月-1991年7月}}
{{歴代大関|第219代|1985年9月-1987年9月}}
{{DEFAULTSORT:おおのくに やすし}}
[[Category:北海道出身の大相撲力士]]
[[Category:花籠部屋]]
[[Category:放駒部屋]]
[[Category:横綱]]
[[Category:日本相撲協会の役員]]
[[Category:日本の料理研究家]]
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[[Category:1962年生]]
[[Category:存命人物]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%83%E5%9B%BD%E5%BA%B7
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15,094 |
交響曲第25番 (モーツァルト)
|
交響曲第25番 ト短調 K. 183 (173dB) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲。
1773年10月5日、モーツァルトが17歳の時にザルツブルクで完成されたこの曲は、同じくト短調で作曲された第40番ト短調 K. 550に対して、小ト短調ともよばれる(なお、モーツァルトの交響曲のうち、短調で書かれているのはこの曲と第40番のみである)。
調性、曲調、楽器法などからフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第39番 ト短調 Hob. I:39からの影響が指摘されている。
交響曲第24番完成の2日後に完成しており、並行して作曲されたとも考えられている。
特筆すべき点として、この時代にしては珍しくホルンを4本用いている(ハイドンの39番も同様である)。これはホルンの本数を増やして響きを豊かにするだけでなく、当時は自然管の楽器しかなかったため、また特に短調の場合は自然管で出せる音が限られてしまうため、G管とB♭管(アルト)の両方を使うことでそれを補おうとしたものである。これによって第1、3、4楽章では不完全ながらもホルンが主題を奏でることが出来るようになっている。
ちなみに第40番では第1、4楽章でG管とB♭管(アルト)のホルンが1本ずつ用いられている(第2楽章ではE♭が2、第3楽章ではGが2)。
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ
メヌエット
トリオ
アレグロ
など、数多くの指揮者、団体により演奏されている。
|
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交響曲第25番 ト短調 K. 183 (173dB) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲。
|
{{出典の明記|date=2016年10月}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''交響曲第25番 ト短調 [[ケッヘル番号|K. 183 (173dB)]]''' は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]が作曲した[[交響曲]]。
== 概要 ==
[[1773年]][[10月5日]]、モーツァルトが17歳の時に[[ザルツブルク]]で完成されたこの曲は、同じく[[ト短調]]で作曲された[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番ト短調 K. 550]]に対して、'''小ト短調'''ともよばれる(なお、モーツァルトの交響曲のうち、[[短調]]で書かれているのはこの曲と第40番のみである<ref>他に[[1765年]]の作とされ、[[1983年]]に[[デンマーク]]の[[オーデンセ]]で再発見された[[交響曲K.16a|交響曲 イ短調 K. Anh. 220 (16a)『オーデンセ』]]があるが、こちらは偽作説が有力となっている。また、モーツァルトは宗教劇『救われたベトゥーリア』の序曲を交響曲に編曲しているが、こちらは[[ニ短調]]である。</ref>)。
調性、曲調、楽器法などから[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]の[[交響曲第39番 (ハイドン)|交響曲第39番 ト短調 Hob. I:39]]からの影響が指摘されている。
[[交響曲第24番 (モーツァルト)|交響曲第24番]]完成の2日後に完成しており、並行して作曲されたとも考えられている。
== 楽器編成 ==
[[File:Mozart by Martin Knoller 1773.jpg|thumb|right|220px|『交響曲第25番』を書き上げた1773年当時のモーツァルト([[:en:Martin Knoller|Martin Knoller]]による[[肖像|肖像画]])]]
* [[オーボエ]]2
* [[ファゴット]]2(第2楽章、第3楽章のトリオ)
* [[ホルン]]4(第2楽章のみ2)
* [[弦楽合奏|弦五部]]
特筆すべき点として、この時代にしては珍しくホルンを4本用いている(ハイドンの39番も同様である)。これはホルンの本数を増やして響きを豊かにするだけでなく、当時は自然管の楽器しかなかったため、また特に短調の場合は自然管で出せる音が限られてしまうため、G管とB♭管(アルト)の両方を使うことでそれを補おうとしたものである。これによって第1、3、4楽章では不完全ながらもホルンが主題を奏でることが出来るようになっている。
ちなみに第40番では第1、4楽章でG管とB♭管([[アルト]])のホルンが1本ずつ用いられている(第2楽章ではE♭が2、第3楽章ではGが2)。
{{-}}
== 曲の構成 ==
=== 第1楽章 ===
*[[ト短調]]、4分の4拍子、[[ソナタ形式]]。
アレグロ・コン・ブリオ
<score>
\relative c''' {
\version "2.18.2"
\tempo "Allegro con brio"
\key g \minor
g8\f g4 g g g8 |
d8 d4 d d d8 |
es8 es4 es es es8 |
fis,8 fis4 fis fis fis8 |
g8 bes d g bes16( a g fis g4)-. |
}
</score>
=== 第2楽章 ===
*[[変ホ長調]]、4分の2拍子、ソナタ形式。
アンダンテ
<score>
\relative c''' {
\version "2.18.2"
\tempo "Andante"
\key ees \major
\time 2/4
\tempo 4 = 50
\partial 4 \partial 8 bes,8\p^\markup { \italic {con sordini} } (aes g) r8
c8 (bes aes) r8
aes (g f) r8 bes (aes g) r8
ees'-! ees (f,) r8 bes-!
aes (g) r8 c-!
c (bes) r8
d, (ees4) r8
}
</score>
=== 第3楽章 ===
*ト短調 - [[ト長調]]、4分の3拍子、[[複合三部形式]]。
[[メヌエット]]
<score>
\relative c''' {
\version "2.18.2"
\tempo "Menuetto"
\key bes \major
\time 3/4
g,4\f d g
bes2 c8 (a)
g4 fis g
a8 (fis) d4 r4
c'4\p c c
b4.\fp (c16 d c4)
ees ees ees
d4.\fp (ees16 f ees4)
g4\f g g
fis (c') bes-!
\grace bes16 (a4) g fis
g2 r4\bar ":|."
}
</score>
トリオ
<score>
<<
\new Staff \with { instrumentName = #"Hb1 "}
\relative c'' {
\version "2.18.2"
\key g \major
\tempo "Trio"
\time 3/4
d2 \p b'8 (g)
g (fis) fis4 fis
fis (c') b16 (a g fis)
g8 (b) d,4 r4
g (fis e)
a4.\fp (g8) fis4
\grace a16 (g4) fis e
d2 r4 \bar ":|."
}
\new Staff \with { instrumentName = #"Hb2 "}
\relative c'' {
\key g \major
\time 3/4
b2\p r4
r4 c c
c (fis,) g16 (a b c)
b8 (d) b4 r4
e4 (d cis)
fis4.\fp (e8) d4
\grace fis16 (e4) d cis
d2 r4 \bar ":|."
}
>>
</score>
=== 第4楽章 ===
*ト短調、4分の4拍子、ソナタ形式。
アレグロ
<score>
\relative c'' {
\version "2.18.2"
\key bes \major
\tempo "Allegro"
\time 2/2
\tempo 4 = 140
g4 \p d bes'4. a8
g4 bes (a g)
fis d c'4. bes8
a4 c (bes a)
g bes ees4. d8
c4 a d4. c8
bes4 g ees cis
d! c' (bes a)
g8\f d'4 d d d8~ d4 g (fis g)
}
</score>
== 演奏例 ==
{{External media
| width = 310px
| topic = 全曲を試聴する
| audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=ojDuSz7YxTw Mozart: Sinfonie g-Moll KV 183] - [[フランソワ・ルルー]]指揮[[hr交響楽団]]による演奏。hr交響楽団公式YouTube。
| audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=mWGr0OalmrI W.A.モーツァルト 交響曲第25番] - アンドレア・マルコン指揮[[ケルンWDR交響楽団]]による演奏。[[西部ドイツ放送|WDR Klassik]]公式YouTube。
}}
*[[ブルーノ・ワルター]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]によるライヴ録音(1956年)
*[[オットー・クレンペラー]]指揮[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団]]のライヴ録音(1951年)
*[[トン・コープマン]]指揮[[アムステルダム・バロック管弦楽団]]
*[[ニコラウス・アーノンクール]]指揮[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]]
など、数多くの指揮者、団体により演奏されている。
==使用例==
* [[アマデウス (映画)|アマデウス]] - [[1984年]]に公開された映画。冒頭のシーンでこの曲の第1楽章が印象的に使われた。
* [[THE ALFEE]]が本作と自身の楽曲である「[[Brave Love 〜Galaxy Express 999]]」を一体化させた楽曲([[THE ALFEE CLASSICS III]]に収録。)を演奏したこともあった。なお、このアレンジは[[服部克久]]の楽曲によるものである。
* [[愛知県]]の[[大府市]]にある宝石店「宝石の八神」が長きにわたりこの曲をCMで使用していた。2021年現在は、この曲を引用した「HASSIN」なる楽曲がCMに使用されている。
* [[フジテレビ]]のバラエティー番組『[[アウト×デラックス]]』では、この曲の第1楽章が度々流れていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{IMSLP2|work=Symphony_No.25_(Mozart%2C_Wolfgang_Amadeus)|cname=交響曲第25番 ト短調 K. 183 (173dB)}}
* [http://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op1/k183.html 解説] - Mozart con grazia
{{モーツァルトの交響曲}}
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[[Category:モーツァルトの交響曲|*25]]
[[Category:ト短調]]
[[Category:1773年の楽曲]]
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エッフェル塔
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エッフェル塔(エッフェルとう、仏: La tour Eiffel、英: Eiffel Tower)は、フランスの首都・パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。パリ万国博覧会に際して建設され、名称は設計および建設者であるギュスターヴ・エッフェルに由来する。
19世紀後半、建築技術の進歩や新素材の開発、産業革命による工業力の増加や総体としての富の増大によって、先進各国において相次いで高層建築が建設され、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていた。1647年から200年以上にわたって世界で最も高い建築物は同じフランスのストラスブールにあるストラスブール大聖堂(高さ142m)であったが、1874年にはドイツ帝国のハンブルクに建てられた聖ニコライ教会が147mとなって取って代わり、それ以降、この地位は数年ごとに交代を繰り返すようになった。1876年にはフランス・ルーアンのルーアン大聖堂が151m、1880年にはドイツ帝国ケルンのケルン大聖堂が完成して157mとなった。ここまでの高さ競争は全てキリスト教会の尖塔であったが、1884年にはアメリカ合衆国ワシントンD.C.に高さ169mのワシントン記念塔が完成し、これが世界で最も高い建造物となっていた。しかしいずれの建造物も高さは140mから160m台にすぎなかった。
1889年のフランス革命100周年を記念してパリで第4回万国博覧会が開催されることが1884年に決定したものの、当初はそれほど目玉となるプランがあるわけではなかった。そうしたなか、橋梁建設、特に鉄橋において高い評価を得ていた建設会社エッフェル社の技師であるモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエは1884年5月に、高さ300mの鉄の塔を建てて万博のシンボルとする案を立てた。この案に同じく社員であるステファン・ソーヴェストルが修正を加え、現在みられるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。この案は社長であるギュスターヴ・エッフェルの賛同と強力な支援を受け、各方面に売り込みが行われた。先行する160m級建築物群を大きく超える高さとなるが、基礎となる技術は、エッフェルが手掛けたポルトガルのマリア・ピア橋(1877年完成)、フランス国内のガラビ高架橋(1884年完成)、アメリカ合衆国ニューヨーク市の「自由の女神像」(1886年完成)を内部で支える鉄製支柱で実証されていた。
1886年、万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。
建設候補地となったのはセーヌ川を挟んだシャン・ド・マルスとトロカデロの2つの地区であったが、トロカデロは地下に空洞があったために地盤が不安視され、シャン・ド・マルスへの建設が決まった。7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなった。これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した。
1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された。まず基礎工事が開始され、潜函工法によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった。同年8月14日には2階展望台が完成し、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工。1889年3月30日には竣工した。3月31日には首相ピエール・ティラールらを招いて竣工式が行われた。竣工式でエッフェルは自らの手で先端にフランス国旗を掲げ、「300メートルの旗竿に国旗を掲げる唯一の国」と語った。
建設は万博に間に合わせるため2年2カ月5日という驚異的な速さで完成した。5300枚のデッサンを描いて、1万8000の部品を工場で生産して送り出し、常時150~300人が現場で組み立てるプレハブ工法を採用した。またエッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義をとるとともに工事中の安全対策には特に注意を払い、工事期間中の死者は1人にとどまった。総工費は650万フランであった。
後世では「鉄の貴婦人(La Dame de fer)」と称えられるエッフェル塔であるが、建設当時としては奇抜な外見のため、賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。
1889年5月6日に開幕したパリ万博においてエッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった。エレベーター自体は5月15日に完成したものの、テストが必要なためしばらく商業運行は不可能だった。しかし来場者や市民からの不満の声が高まったため、同日エッフェルは塔の一般公開に踏み切り、観光客は階段で展望台へと向かった。エレベーター運行までの9日間にエッフェル塔に入場し、1,710段の階段を昇った入場客の数は約30,000人にのぼった。エレベーターは5月26日に運行を開始した。エレベーター料金は1階までが2フラン、2階までが3フラン、最上階までが5フラン、日曜日は半額となっていた。
展望台の上にある塔の最上階には来客用のサロンを備えたエッフェルの小さな私室が設けられた。この私室は現在では一般公開されており、当時の内装がそのまま保存され、またエッフェルおよび著名なゲストたちを模したマネキン人形が展示されている。私室の隣には、様々な実験を行うための研究室も設けられた。この研究室においては、気象観測や空気抵抗の実験などが行われていた。
万博の会期中には、2階に『フィガロ』紙の編集室と印刷機が設けられ、毎日『Le Figaro de la Tour(フィガロ・エッフェル塔版)』を発行していた。会期中にエッフェル塔を訪れた著名人としては、イギリス皇太子であるエドワード王子や、大女優サラ・ベルナール、バッファロー・ビル(彼の『ワイルド・ウェスト・ショー』は博覧会の目玉の一つだった)、トーマス・エジソンなどがいた。エッフェルはエジソンを塔最上階の私室に招き、エジソンは彼の発明した蓄音機をエッフェルへと贈った。これはこの博覧会におけるハイライトの一つだった。塔の1階にはフランス料理、フランドル料理、ロシア料理の3軒のレストランおよびアングロ・アメリカン・バーが設けられていた。
エッフェル塔は大盛況となり、11月8日の博覧会終了までの入場者数は1,896,987人、1889年の入場者数は200万人を記録した。
万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間10万から20万人台の入場者数は保っていた。1900年に再度パリで万国博覧会が開催されることが決定すると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後の入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実視されていた。しかし1904年、フランス軍で通信を担当していたギュスターヴ・フェリエが軍事用の無線電波をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代に至るまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。
第一次世界大戦が始まると、エッフェル塔の入場は1915年から1919年まで中止された。大戦中には塔からジャミングを出して、ドイツ帝国軍を悩ませた。1919年に大戦が終わると入場は再開され、1921年にはエッフェル塔からラジオ放送が開始された。1925年にはシトロエンがエッフェル塔に巨大な照明看板を出し、1936年までの11年間この広告は続いた。1930年にはアメリカのニューヨークでクライスラー・ビルディングが完成し、エッフェル塔は世界一高い建造物の地位を失った。第二次世界大戦が始まり、1940年にパリがナチス・ドイツによって占領されるとエッフェル塔も閉鎖された。パリの解放(1944年)後、塔は入場を再開した。2002年11月28日にはエッフェル塔の通算入場者数が2億人に達した。
2011年12月に日刊紙『フィガロ』で、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道されたが、パリ市や塔運営会社は否定している。
エッフェル塔は鋼製ではなく、鋼よりも炭素含有量が少なく、強度の低い錬鉄でできている。エッフェル塔本体の錬鉄の重さは7,300トンで、これにエレベーターや店舗、アンテナを加えた総重量は約10,100トンとなっている。展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6m、第2展望台が115.7m、最も高い第3展望台が276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年に米国ニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでは世界一高い建造物であった。1957年、アンテナなどを設置して約321mとなった。2000年に放送用アンテナを設置して約324mとなった。
2022年3月15日、ヘリコプターを使って新たに地上デジタルラジオ放送用アンテナが設置され、約330mとなった。
エッフェル塔は錬鉄で作られているため、防錆のためにも塗装は欠かせない。塗装の色はかつては赤褐色だったが、1968年の塗り替えの際にエッフェルブラウンと呼ばれている現在のブロンズ色へと変更された。ただし、これは1色ではなく、パリの風景に溶け込みやすいように3つの色調が使い分けられており、塔の下部はより暗い色調(明度の低い色)、塔の先端部はより明るい色調(明度の高い色)に塗り分けられている。これらの塗料の総重量は50tにも達し、7年ごとの塗り替え作業には40万人時の工数を要する。
現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた。この数字は、2006年に塔を訪れた6,719,200人を含んでいる。この数字はさらに増大しており、2017年9月には通算来場者数が3億人を突破して記念式典が開催された。エッフェル塔は、世界で最も多くの人が訪れた有料建造物である。一日平均で25,000人が塔にのぼるため、入場待ちの行列が長くなる場合がある。
エッフェル塔内部には1階の「Le 58 Tour Eiffel」と、2階の「ジュール・ヴェルヌ」の2軒のレストランが開業している。ジュール・ヴェルヌはスターシェフとして知られるアラン・デュカスの店で、2007年に開業し、専用のエレベーターを持ち、ミシュランガイドでも1つ星を獲得している。
エッフェル塔の最寄り駅は、地下鉄(Métro)利用の場合は6号線ビラケム駅(Bir Hakeim)、または8号線のエコール・ミリテール駅となる。RER(近郊鉄道)利用の場合はC線 シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅(Champs de Mars - Tour Eiffel)で下車する。バスの場合は42、69、82、87番を利用する。
エッフェル塔のバルコニーの下には、エッフェル自身が選んだ72人の偉大なフランスの科学者のリストが、各面18人ずつ刻まれている(「エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧」参照)。
先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の『ル・タン(Le Temps)』紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、画家のエルネスト・メソニエとウィリアム・ブーグロー、作曲家のシャルル・グノー、建築家のシャルル・ガルニエ、作家のモーパッサン(前述)やアレクサンドル・デュマ・フィス、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールらがいる。以下はその文書の一部である。
これに対し、ギュスターヴ・エッフェルは、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。
また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。
エッフェル塔の建設は世界に大きな衝撃を与えた。それまで世界最高だったワシントン記念塔の高さ169mの2倍近くにもなる巨塔の建設によって高さ競争は鎮静化し、以後巨大建造物の高さ競争は教会や高層ビルなど、エッフェル塔を除いた各部門別によって争われるようになった。1930年にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでの41年間にわたってエッフェル塔は世界最高の建築物であり続けた。またエッフェル塔によって実現された鉄のトラス構造の塔というコンセプトも広がり、東京タワーを始め後の鉄塔のデザインに大きな影響を与えた。さらにエッフェル塔のレプリカは世界各地に見られ、特に米国ラスベガスのものは有名である。
エッフェル塔は電波塔としても使用され、周波数は以下のようになっている。
1957年にテレビアンテナが初めて塔に設置され、エッフェル塔は18.7m高くなった。2000年に実施された追加工事によって塔はさらに5.3m高くなり、その後は324mに、2022年3月15日に上端へ新たなアンテナが設置されて330メートルに伸びた。エッフェル塔からのアナログテレビ信号は2011年3月8日に停波した。
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"text": "エッフェル塔の最寄り駅は、地下鉄(Métro)利用の場合は6号線ビラケム駅(Bir Hakeim)、または8号線のエコール・ミリテール駅となる。RER(近郊鉄道)利用の場合はC線 シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅(Champs de Mars - Tour Eiffel)で下車する。バスの場合は42、69、82、87番を利用する。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "エッフェル塔のバルコニーの下には、エッフェル自身が選んだ72人の偉大なフランスの科学者のリストが、各面18人ずつ刻まれている(「エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧」参照)。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の『ル・タン(Le Temps)』紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、画家のエルネスト・メソニエとウィリアム・ブーグロー、作曲家のシャルル・グノー、建築家のシャルル・ガルニエ、作家のモーパッサン(前述)やアレクサンドル・デュマ・フィス、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールらがいる。以下はその文書の一部である。",
"title": "エッフェル塔をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "これに対し、ギュスターヴ・エッフェルは、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。",
"title": "エッフェル塔をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。",
"title": "エッフェル塔をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "エッフェル塔の建設は世界に大きな衝撃を与えた。それまで世界最高だったワシントン記念塔の高さ169mの2倍近くにもなる巨塔の建設によって高さ競争は鎮静化し、以後巨大建造物の高さ競争は教会や高層ビルなど、エッフェル塔を除いた各部門別によって争われるようになった。1930年にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでの41年間にわたってエッフェル塔は世界最高の建築物であり続けた。またエッフェル塔によって実現された鉄のトラス構造の塔というコンセプトも広がり、東京タワーを始め後の鉄塔のデザインに大きな影響を与えた。さらにエッフェル塔のレプリカは世界各地に見られ、特に米国ラスベガスのものは有名である。",
"title": "影響"
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"text": "エッフェル塔は電波塔としても使用され、周波数は以下のようになっている。",
"title": "電波塔としてのエッフェル塔"
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"text": "1957年にテレビアンテナが初めて塔に設置され、エッフェル塔は18.7m高くなった。2000年に実施された追加工事によって塔はさらに5.3m高くなり、その後は324mに、2022年3月15日に上端へ新たなアンテナが設置されて330メートルに伸びた。エッフェル塔からのアナログテレビ信号は2011年3月8日に停波した。",
"title": "電波塔としてのエッフェル塔"
}
] |
エッフェル塔は、フランスの首都・パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。パリ万国博覧会に際して建設され、名称は設計および建設者であるギュスターヴ・エッフェルに由来する。
|
{{Infobox building
| name = エッフェル塔
| native_name = {{Lang|fr|Tour Eiffel}}
| native_name_lang = fr
| image = File:Tour Eiffel Wikimedia Commons (cropped).jpg
| caption = [[シャン・ド・マルス公園]]から見たエッフェル塔(向こう側は[[イエナ橋]]が架かる[[セーヌ川]]対岸の[[シャイヨ宮]])
| highest_start = 1889
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<!--
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| map_type = France Paris#7th arrondissement of Paris
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| start_date = 1887年1月28日
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| architectural = {{convert|300|m|ft|0|abbr=on}}<ref name=CTBUH>{{ctbuh|id=9410|title=Eiffel Tower}}</ref>
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| architect = [[ステファン・ソーヴェストル]]
| structural_engineer = [[モーリス・ケクラン]]<br />[[エミール・ヌーギエ]]
| main_contractor = [[エファージュ (フランスの企業)|エッフェル社]]<ref>{{Cite web |url=http://www.eiffage.com/history |title=HISTORY |publisher=EIFFAGE |date=2013 |accessdate=2017-11-30}}</ref>
| developer =
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[[File:Eiffel Tower Drone 4k-Qx c1X3zfEc-313-251.webm|thumb|エッフェル塔]]
'''エッフェル塔'''(エッフェルとう、{{Lang-fr-short|La tour Eiffel}}、{{Lang-en-short|Eiffel Tower}})は、[[フランス]]の[[首都]]・[[パリ]]の象徴的な名所となっている[[塔]]である。[[7区 (パリ)|パリ7区]]、[[シャン・ド・マルス公園]]の北西に位置する。[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]に際して建設され<ref name="日経20220417">天に架ける橋エッフェル塔(上)工学とアート「鉄の貴婦人」『[[日本経済新聞]]』朝刊2022年4月17日14-15面</ref>、名称は設計および建設者である[[ギュスターヴ・エッフェル]]に由来する。
== 歴史 ==
=== 高層建築ブーム ===
[[19世紀]]後半、建築技術の進歩や新素材の開発、[[産業革命]]による工業力の増加や総体としての富の増大によって、先進各国において相次いで高層建築が建設され、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていた。[[1647年]]から200年以上にわたって世界で最も高い建築物は同じフランスの[[ストラスブール]]にある[[ストラスブール大聖堂]](高さ142m)であったが、[[1874年]]には[[ドイツ帝国]]の[[ハンブルク]]に建てられた聖ニコライ教会が147mとなって取って代わり、それ以降、この地位は数年ごとに交代を繰り返すようになった。[[1876年]]にはフランス・[[ルーアン]]の[[ルーアン大聖堂]]が151m、[[1880年]]にはドイツ帝国[[ケルン]]の[[ケルン大聖堂]]が完成して157mとなった。ここまでの高さ競争は全て[[キリスト教会]]の尖塔であったが、[[1884年]]には[[アメリカ合衆国]][[ワシントンD.C.]]に高さ169mの[[ワシントン記念塔]]が完成し、これが世界で最も高い建造物となっていた。しかしいずれの建造物も高さは140mから160m台にすぎなかった。
=== コンペティション開催 ===
[[1889年]]の[[フランス革命]]100周年を記念してパリで[[パリ万国博覧会 (1889年)|第4回万国博覧会]]が開催されることが[[1884年]]に決定したものの、当初はそれほど目玉となるプランがあるわけではなかった。そうしたなか、[[橋梁]]建設、特に[[鉄橋]]において高い評価を得ていた建設会社エッフェル社の技師である[[モーリス・ケクラン]]とエミール・ヌーギエは[[1884年]]5月に、高さ300mの鉄の塔を建てて万博のシンボルとする案を立てた。この案に同じく社員である[[ステファン・ソーヴェストル]]が修正を加え、現在みられるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。この案は社長である[[ギュスターヴ・エッフェル]]の賛同と強力な支援を受け、各方面に売り込みが行われた<ref>ケネス・パウエル編、井上廣美訳『世界の建築家図鑑』([[原書房]]ヴィジュアル歴史人物シリーズ、2012年10月15日第1刷)pp.143-144</ref>。先行する160m級建築物群を大きく超える高さとなるが、基礎となる技術は、エッフェルが手掛けた[[ポルトガル]]の[[マリア・ピア橋]](1877年完成)、フランス国内の[[ガラビ橋|ガラビ高架橋]](1884年完成)、アメリカ合衆国[[ニューヨーク市]]の「[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]」(1886年完成)を内部で支える鉄製支柱で実証されていた<ref name="日経20220417"/>。
[[1886年]]、万博の目玉となる大建造物を選定するための[[コンペティション]]が開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=12}}、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。
建設候補地となったのは[[セーヌ川]]を挟んだシャン・ド・マルスと[[トロカデロ]]の2つの地区であったが、トロカデロは地下に空洞があったために地盤が不安視され、シャン・ド・マルスへの建設が決まった。7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の[[1909年]]には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万[[フランス・フラン|フラン]]が交付されることとなった。これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=39-40}}。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した<ref>Loyrette, p.121.</ref>。
=== 建設 ===
1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された<ref name=origins>{{cite web |url=http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/themed-files/69.html |title=Origins and construction of the Eiffel Tower |author=SETE |website=Official Eiffel Tower website |accessdate=1 January 2014 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150731073057/http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/themed-files/69.html |archivedate=31 July 2015 |df=dmy }}</ref>。まず基礎工事が開始され、[[潜函工法]]によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=51}}。同年8月14日には2階展望台が完成し{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=37}}、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=58}}。1889年3月30日には竣工した{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=64}}。3月31日には[[フランスの首相#フランス第三共和政|首相]]ピエール・ティラールらを招いて竣工式が行われた{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=65}}。竣工式でエッフェルは自らの手で先端に[[フランス国旗]]を掲げ、「300メートルの旗竿に国旗を掲げる唯一の国」と語った<ref name="日経20220417"/>。
建設は万博に間に合わせるため2年2カ月5日という驚異的な速さで完成した<ref name="日経20220417"/><ref>{{Cite book|和書 |author= ジョン・バクスター|authorlink=ジョン・バクスター |year = 2013 |title = 二度目のパリ 歴史歩き |publisher = [[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |page = 87 |isbn = 978-4-7993-1314-5}}</ref>。5300枚のデッサンを描いて、1万8000の部品を工場で生産して送り出し、常時150~300人が現場で組み立てる[[プレハブ]]工法を採用した<ref name="日経20220417"/>。またエッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義をとるとともに工事中の安全対策には特に注意を払い、工事期間中の死者は1人にとどまった{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=57}}。総工費は650万フランであった<ref>『国民百科事典1』([[平凡社]]、1961年2月1日初版発行)p.423</ref>。
<gallery>
ファイル:Construction tour eiffel2.JPG|塔の建設(1887年)
ファイル:Construction tour eiffel4.JPG|塔の建設(1888年)
ファイル:Construction tour eiffel8.JPG|エッフェル塔(1889年)
ファイル:Tour Eiffel Ascenseur Roux, Combaluzier et Lepape.jpg|1889年万博当時のエッフェル塔エレベーター
</gallery>
=== 当時の評価 ===
{{See also|#エッフェル塔をめぐる論争}}
後世では「鉄の貴婦人(La Dame de fer)」と称えられる<ref name="日経20220417"/>エッフェル塔であるが、建設当時としては奇抜な外見のため、賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している<ref>アンドレ・ヴァルノ著、北澤真木訳『パリ風俗史』([[講談社]]、1999年11月10日第1刷)pp.331-332</ref>。反対派の文学者[[ギ・ド・モーパッサン]]は、エッフェル塔1階の[[レストラン]]によく通ったが<ref>{{cite book| last=Jonnes | first=Jill | title=Eiffel's Tower: And the World's Fair Where Buffalo Bill Beguiled Paris, the Artists Quarreled, and Thomas Edison Became a Count | publisher=Viking Adult | year=2009 | pages=163–64 | url = | id = | isbn=978-0670020607}}</ref>、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」という[[ことわざ]]も生まれた。
[[ファイル:Tour Eiffel, École militaire, Champ-de-Mars, Palais de Chaillot, La Défense - 01.jpg|thumb|260px|エッフェル塔と[[ラ・デファンス]]の超高層ビル街]]
=== パリ万博 ===
1889年5月6日に開幕したパリ万博においてエッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=82}}。エレベーター自体は5月15日に完成したものの、テストが必要なためしばらく商業運行は不可能だった。しかし来場者や市民からの不満の声が高まったため、同日エッフェルは塔の一般公開に踏み切り、観光客は階段で展望台へと向かった{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=85}}。エレベーター運行までの9日間にエッフェル塔に入場し、1,710段の階段を昇った入場客の数は約30,000人にのぼった<ref name=Exposition>{{cite web|url=http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/themed-files/70.html |title=The Eiffel Tower during the 1889 Exposition Universelle |author=SETE |website=Official Eiffel Tower website |accessdate=16 April 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160425081036/http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/themed-files/70.html |archivedate=25 April 2016 |df=dmy }}</ref>。エレベーターは5月26日に運行を開始した{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=86}}。エレベーター料金は1階までが2フラン、2階までが3フラン、最上階までが5フラン、日曜日は半額となっていた<ref>Harvie, pp. 144–45.</ref>。
展望台の上にある塔の最上階には来客用のサロンを備えたエッフェルの小さな私室が設けられた。この私室は現在では一般公開されており、当時の内装がそのまま保存され、またエッフェルおよび著名なゲストたちを模した[[マネキン人形]]が展示されている<ref name=Morton>{{cite web|author=Caitlin Morton|title=There is a secret apartment at the top of the Eiffel Tower|url=http://www.architecturaldigest.com/story/eiffel-tower-paris-secret-apartment?sp&sp|website=Architectural Digest|publisher=Conde Nast|accessdate=30 June 2015|date=31 May 2015}}</ref>。私室の隣には、様々な実験を行うための研究室も設けられた。この研究室においては、気象観測や空気抵抗の実験などが行われていた<ref>Watson, p.829.</ref>。
万博の会期中には、2階に『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』紙の編集室と印刷機が設けられ、毎日『{{Lang|fr|Le Figaro de la Tour}}(フィガロ・エッフェル塔版)』を発行していた{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=86}}。会期中にエッフェル塔を訪れた著名人としては、[[プリンス・オブ・ウェールズ|イギリス皇太子]]である[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード]]王子や、大女優[[サラ・ベルナール]]、[[バッファロー・ビル]](彼の『[[ワイルド・ウェスト・ショー]]』は博覧会の目玉の一つだった)、[[トーマス・エジソン]]などがいた<ref name=Exposition/>。エッフェルはエジソンを塔最上階の私室に招き、エジソンは彼の発明した[[蓄音機]]をエッフェルへと贈った。これはこの博覧会におけるハイライトの一つだった<ref>{{cite web|url=http://www.wondersandmarvels.com/2009/05/thomas-edison-at-eiffel-tower.html|author=Jill Jonnes|publisher=Wonders and Marvels|title=Thomas Edison at the Eiffel Tower|accessdate=2 January 2014}}</ref>。塔の1階には[[フランス料理]]、フランドル料理、[[ロシア料理]]の3軒のレストランおよび[[アングロ・アメリカ|アングロ・アメリカン]]・[[スナックバー (飲食店)|バー]]が設けられていた。
エッフェル塔は大盛況となり、11月8日の博覧会終了までの入場者数は1,896,987人<ref name=Key_figures>{{cite web |url=http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/the-eiffel-tower-at-a-glance.html |title=The Eiffel Tower at a glance |author=SETE |website=Official Eiffel Tower website |accessdate=15 April 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160414130600/http://www.toureiffel.paris/en/everything-about-the-tower/the-eiffel-tower-at-a-glance.html |archivedate=14 April 2016 |df=dmy }}</ref>、1889年の入場者数は200万人を記録した{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=102}}。
=== 万博終了後 ===
[[ファイル:Prince Hirohito going up Eiffel Tower 1921-6.jpg|サムネイル|[[皇太子裕仁親王の欧州訪問]]時のエッフェル塔観覧(1921年)]]
万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間10万から20万人台の入場者数は保っていた。[[1900年]]に再度パリで[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]が開催されることが決定すると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後の入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る[[1909年]]には解体されることが確実視されていた。しかし[[1904年]]、[[フランス軍]]で通信を担当していたギュスターヴ・フェリエが[[軍事]]用の[[無線通信|無線電波]]をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代に至るまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。
[[第一次世界大戦]]が始まると、エッフェル塔の入場は[[1915年]]から1919年まで中止された。大戦中には塔から[[通信妨害|ジャミング]]を出して、[[ドイツ帝国軍]]を悩ませた。[[1919年]]に大戦が終わると入場は再開され、[[1921年]]にはエッフェル塔から[[ラジオ放送]]が開始された。[[1925年]]には[[シトロエン]]がエッフェル塔に巨大な照明看板を出し、[[1936年]]までの11年間この広告は続いた{{Sfn|『エッフェル塔ものがたり』|1983|p=124}}。1930年にはアメリカのニューヨークで[[クライスラー・ビルディング]]が完成し、エッフェル塔は世界一高い建造物の地位を失った<ref>{{cite news |title=The Silver Spire: How two men's dreams changed the skyline of New York |author=Claudia Roth Pierpont |url=http://www.jayebee.com/discoveries/criticism/silver_spire.htm |magazine=The New Yorker |date=18 November 2002 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120227015047/http://www.jayebee.com/discoveries/criticism/silver_spire.htm|archivedate=27 February 2012}}</ref>。[[第二次世界大戦]]が始まり、[[1940年]]にパリが[[ナチス・ドイツ]]によって[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]されるとエッフェル塔も閉鎖された。[[パリの解放]]([[1944年]])後、塔は入場を再開した。2002年11月28日にはエッフェル塔の通算入場者数が2億人に達した<ref>{{cite web|url=http://www.france.com/editorials/eiffel_tower/|title=The Eiffel Tower|publisher=France.com|date=23 October 2003|accessdate=16 April 2016}}</ref>。
[[2011年]]12月に日刊紙『フィガロ』で、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道されたが、パリ市や塔運営会社は否定している<ref>{{Cite web|url=http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_soc&rel=j7&k=20111202028003a |title=【こぼれ話】エッフェル塔に‘緑化’計画?=仏紙報道、当局は否定 |date=2011-12-02|publisher=[[時事通信|時事ドットコム]]|accessdate=2011-12-02}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
== 構造 ==
[[File:Dimensions Eiffel Tower-fr.svg|200px|thumb|right|エッフェル塔の構造]]
[[File:Paris Eiffel 092.JPG|thumb|right|塔脚基礎]]
エッフェル塔は[[鋼鉄|鋼]]製ではなく、鋼よりも[[炭素]]含有量が少なく、強度の低い[[錬鉄]]でできている<ref>{{cite book|title=Inventing the Modern World: Technology since 1750|last1=Bud|first1=Robert|last2=Niziol|first2=Simon|last3=Boon|first3=Timothy|last4=Nahum|first4=Andrew| year =2000|publisher=Dorling Kindersley |location =London |isbn = | page=95}}</ref>。エッフェル塔本体の錬鉄の重さは7,300トンで<ref name="Hanser2006">{{cite book|author=David A. Hanser|title=Architecture of France|url=https://books.google.com/books?id=zojzUU976h0C&pg=PA66|year=2006|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=978-0-313-31902-0|page=66}}</ref>、これにエレベーターや店舗、アンテナを加えた総重量は約10,100トンとなっている<ref>{{cite book|title=DK Eyewitness Travel Guide: Europe|url=https://books.google.com/books?id=AiYCSa4U6UYC&pg=PA163|year=2012|publisher=Dorling Kindersley|isbn=978-1-4093-8577-6|page=163}}</ref>。展望台は簡単な[[柵]]あるいは[[金網]]が設置されているだけの吹きさらしである。展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6m、第2展望台が115.7m、最も高い第3展望台が276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧[[エレベーター]]など、当時の基本構造は今でも現役で稼動している<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 42 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>。塔の支点の下には、水平に保つための[[ジャッキ]]がある。
{{節スタブ}}
<gallery>
File:Tour Eiffel pic11.jpg|塔の下部アーチ
File:Different view of the Eiffel Tower 2010.jpg|塔脚の内部
File:Eiffel Tower spire, 10 October 2010.jpg|塔の先端
</gallery>
===高さ===
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年に米国ニューヨークに[[クライスラー・ビルディング]]が完成するまでは世界一高い建造物であった。1957年、アンテナなどを設置して約321mとなった。2000年に放送用アンテナを設置して約324mとなった。
2022年3月15日、[[ヘリコプター]]を使って新たに地上デジタルラジオ放送用アンテナが設置され、約330mとなった<ref>[https://www.sankei.com/article/20220316-PGV7T52SIZM2PIGIX3JSCVGEUA/ 「鉄の貴婦人」まだ成長 エッフェル塔、330m][[産経デジタル|産経新聞ニュース]]2022年3月16日配信の[[共同通信]]記事(2022n3n4月30日閲覧)</ref>。
=== 塗装 ===
エッフェル塔は錬鉄で作られているため、防[[錆]]のためにも塗装は欠かせない。塗装の色はかつては赤褐色だったが、1968年の塗り替えの際に'''エッフェルブラウン'''と呼ばれている現在のブロンズ色へと変更された<ref name=painting>{{cite web |title=Painting the Eiffel Tower |url=http://www.toureiffel.paris/everything-about-the-tower/themed-files/97 |author=SETE |website=Official Eiffel Tower website |accessdate=25 January 2017 |deadurl=yes |archiveurl=https://archive.is/20161026114502/http://www.toureiffel.paris/everything-about-the-tower/themed-files/97 |archivedate=26 October 2016 |df=dmy-all }}</ref>。ただし、これは1色ではなく、パリの風景に溶け込みやすいように3つの色調が使い分けられており、塔の下部はより暗い色調([[明度]]の低い色)、塔の先端部はより明るい色調(明度の高い色)に塗り分けられている<ref name=paintingcolor>{{cite web |title=The Eiffel Tower gets beautified |url=http://www.toureiffel.paris/images/actualites/PDF/how_the_eiffel_tower_gets_beautified.pdf |author=SETE|website=Official Eiffel Tower website|accessdate=8 November 2015}}</ref>。これらの塗料の総重量は50tにも達し、7年ごとの塗り替え作業には40万[[人月|人時]]の工数を要する<ref>中嶋 一史「塔の構造材の変遷:エッフェル塔の以前と以後」[[日本建築学会]].1990:105(1305):40-41</ref>。
== 観光 ==
[[File:Tour eiffel at sunrise from the trocadero.jpg|thumb|150px|夜明けのエッフェル塔]]
[[File:Eiffel Tower and Pont Alexandre III at night.jpg|thumb|セーヌ川とエッフェル塔]]
[[File:Eiffel Tower Visitors.svg|thumb|1889年の開業から2004年までの入場者数の推移]]
現在では、パリを代表するシンボルとなっている。[[1991年]]、この塔を含むパリの[[セーヌ川]]周辺は[[世界遺産]]として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた<ref>{{cite web|url=http://www.tour-eiffel.fr/teiffel/uk/documentation/chiffres/page/frequentation.html |title=Number of visitors since 1889 |language={{Fr icon}} |publisher=Tour-eiffel.fr |accessdate=24 May 2010}}</ref>。この数字は、2006年に塔を訪れた6,719,200人を含んでいる<ref name="fdkfke">{{cite web|url=http://www.tour-eiffel.fr/teiffel/uk/documentation/structure/page/chiffres.html |title=A few statistics |language={{Fr icon}} |publisher=Tour-eiffel.fr |accessdate=24 May 2010}}</ref>。この数字はさらに増大しており、2017年9月には通算来場者数が3億人を突破して記念式典が開催された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3144856 「パリのエッフェル塔、来場者3億人突破 音楽祭で祝う」][[フランス通信社|AFPBB]](2017年9月29日)2018年1月1日閲覧</ref>。エッフェル塔は、世界で最も多くの人が訪れた有料建造物である<ref>{{cite web|url=http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3232,36-938349,0.html |title=Tour Eiffel et souvenirs de Paris |work=Le Monde |location=France |accessdate=24 May 2010}}</ref>。一日平均で25,000人が塔にのぼるため、入場待ちの行列が長くなる場合がある<ref>{{cite web|url=http://www.foxnews.com/world/2013/06/27/eiffel-tower-reopens-to-tourists-after-rare-closure-for-2-day-strike/|title=Eiffel Tower reopens to tourists after rare closure for 2-day strike|work=Associated Press|publisher=Fox News|date=27 June 2013|accessdate=16 April 2016}}</ref>。
エッフェル塔内部には1階の「{{Lang|fr|Le 58 Tour Eiffel}}」と、2階の「ジュール・ヴェルヌ」の2軒のレストランが開業している。ジュール・ヴェルヌはスター[[シェフ]]として知られる[[アラン・デュカス]]の店で、[[2007年]]に開業し<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2330439 「アラン・デュカス氏、エッフェル塔内のレストランを新装オープン」]AFPBB(2007年12月28日)2018年1月1日閲覧</ref>、専用のエレベーターを持ち、[[ミシュランガイド]]でも1つ星を獲得している<ref>{{cite web|author=Dali Wiederhoft|url=http://www.bonjourparis.com/story/eiffel-tower-sightseeing-restaurants-links-transit/|title=Eiffel Tower: Sightseeing, restaurants, links, transit|publisher=Bonjour Paris|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140106040320/http://www.bonjourparis.com/story/eiffel-tower-sightseeing-restaurants-links-transit/|archivedate=6 January 2014|accessdate=2018年1月1日}}</ref>。
エッフェル塔の最寄り駅は、[[メトロ (パリ)|地下鉄]]({{Lang|fr|Métro}})利用の場合は[[パリメトロ6号線|6号線]][[ビラケム駅]]({{Lang|fr|Bir Hakeim}})、または[[パリメトロ8号線|8号線]]のエコール・ミリテール駅となる。[[RER (イル=ド=フランス)|RER]](近郊鉄道)利用の場合は[[RER C線|C線]] [[シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅]]({{Lang|fr|Champs de Mars - Tour Eiffel}})で下車する<ref>[http://jp.france.fr/ja/discover/30160 エッフェル塔] フランス観光 公式サイト(フランス観光開発機構)2018年1月1日閲覧</ref>。バスの場合は42、69、82、87番を利用する。
エッフェル塔のバルコニーの下には、エッフェル自身が選んだ72人の偉大なフランスの科学者のリストが、各面18人ずつ刻まれている(「[[エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧]]」参照)。
{{Center|<gallery caption="万博">
File:Brooklyn Museum - Paris Exposition-Eiffel Tower and Celestial Globe, Paris, France, 1900 (pd).jpg|[[パリ万国博覧会 (1900年)|1900年万博]]でのエッフェル塔。
File:Tour Eiffel Citroen.jpg|[[パリ万国博覧会 (1925年)|1925年パリ万博]]から1934年までのエッフェル塔は、夜には[[シトロエン]]の社名の広告電飾が灯った。
|[[パリ万国博覧会 (1937年)|1937年万博]]、[[ソ連館]]とドイツ館に挟まれたエッフェル塔。
</gallery>}}
=== 眺望 ===
{{wide image|Tour Eiffel 360 Panorama.jpg|1400px|エッフェル塔からの眺望}}
== エッフェル塔をめぐる論争 ==
先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、[[1887年]][[2月14日]]の『ル・タン(Le Temps)』紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、画家の[[エルネスト・メソニエ]]と[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー|ウィリアム・ブーグロー]]、作曲家の[[シャルル・グノー]]、建築家の[[シャルル・ガルニエ]]、作家のモーパッサン(前述)や[[アレクサンドル・デュマ・フィス]]、[[シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール]]らがいる。以下はその文書の一部である。
[[File:Eiffel Tower Monochrome Photograph.JPG|right|thumb|150px|エッフェル塔]]
[[File:Eiffel Tower (9275419675).jpg|right|thumb|150px|250万個のリベット接合]]
: 「われわれ作家、画家、彫刻家、建築家ならびに、これまで無傷に保持されてきたパリの美を熱愛する愛好家たちは、わが首都の真ただ中に、無用にして醜悪なるエッフェル塔、良識と正しい理性を持つ辛酸なる大衆の多くがすでに「[[バベルの塔]]」と名指したエッフェル塔の建築に対し、無視されたフランスの趣味の名において、また危機に瀕したフランスの芸術と歴史の名において、あらん限りの力と憤りを込め、ここに抗議するものである。
: われわれはいたずらな[[愛国主義]]に陥る事なく、パリは世界に並ぶ物のない街である事を高らかに宣言する権利を有する。(中略)
: エッフェル塔が、黒く巨大な工場の煙突のごとく、目が眩むような馬鹿げた塔が[[パリ]]を見下ろし、野蛮な塊で[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム]]や[[サント・シャペル]]やサン・ジャックの塔や[[ルーヴル宮殿|ルーヴル宮]]や[[オテル・デ・ザンヴァリッド|廃兵院のドーム]]や[[エトワール凱旋門|凱旋門]]といった[[建築]]を圧倒し、われらがすべての記念建造物を辱め、すべての建築を矮小化して、唖然とさせるような夢幻の中に消滅せしめることを想像すれば、われわれの主張を納得するに十分である。これから20年間ものあいだ、幾世紀も前からその精気を沸き立たせてきたパリ市全域に、[[ボルト (部品)|ボルト]]締めされた鉄製の醜悪な円柱の影が、まるでインクのシミのように長々と横たわるのを見る事になるだろう。パリを愛しその美化に努め、行政の手になる破壊や産業界の蛮行から幾度もこれを守ってきた皆さん、皆さんこそは今一度、このパリを守る栄誉の担い手なのです。」<ref>{{cite book|first1=Henri|last1=Loyrette|title=Eiffel, un Ingenieur et Son Oeuvre|url=https://books.google.com/books?id=uHlRAAAAMAAJ|year=1985|publisher=Rizzoli|isbn=978-0-8478-0631-7}}p174</ref>
[[ファイル:Paris 75007 Rue de Buenos Aires 20070709 Eiffel Tower.jpg|right|150px|thumb|近くの街角から見上げるエッフェル塔]]
これに対し、[[ギュスターヴ・エッフェル]]は、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。
: 「塔というものに独特の美がある。われわれ技師が、建築物の耐久性のみを考え、優美なものを作ろうとしていないと考えるのは誤りである。この塔について考慮したのは[[風圧]]に対する抵抗である。巨大な基礎部分から発している塔の四つの稜曲線は、塔の頂点にいくに従って細くなっているが、そこには力強い美しさが感じられると思う。(中略)
: 今回の塔は人類史上最高の建造物となるであろう。壮大なものだ。[[エジプト]]で讃えられているものが、なぜパリでは醜悪だと言われるのか理解できない。」<ref name="SouriauSouriau1983">{{cite book|author1=Paul Souriau|author2=Manon Souriau|title=The Aesthetics of Movement|url=https://books.google.com/books?id=7CzUTXhzDb8C&pg=PR7|year=1983|publisher=University of Massachusetts Press|isbn=0-87023-412-9|page=100}}</ref>
また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。
: 「塔は、[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}、[[気象]]、[[物理]]の観測・研究に寄与するものとみられるし、戦時には監視塔として役立つ。つまりこれは、今世紀における工業技術の進歩を輝かしく証明するものとなろう。われわれの時代になって初めてかなり精密に[[鉄]]を加工できるようになったことで、かくも大きな事業が実現されるのである。この現代科学の精華といえるものが、パリ市内に聳えたつことがパリの栄光と無縁だというのであろうか。」
== 影響 ==
エッフェル塔の建設は世界に大きな衝撃を与えた。それまで世界最高だったワシントン記念塔の高さ169mの2倍近くにもなる巨塔の建設によって高さ競争は鎮静化し、以後巨大建造物の高さ競争は教会や高層ビルなど、エッフェル塔を除いた各部門別によって争われるようになった<ref>河村英和『タワーの文化史』([[丸善]]出版、平成25年8月30日発行)p.98</ref>。[[1930年]]にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでの41年間にわたってエッフェル塔は世界最高の建築物であり続けた。またエッフェル塔によって実現された鉄の[[トラス構造]]の塔というコンセプトも広がり、[[東京タワー]]を始め後の鉄塔のデザインに大きな影響を与えた。さらに[[エッフェル塔のレプリカ一覧|エッフェル塔のレプリカ]]<ref>河村英和『タワーの文化史』(丸善出版、平成25年8月30日発行)p.155</ref>は世界各地に見られ、特に米国[[ラスベガス]]のものは有名である。
== 電波塔としてのエッフェル塔 ==
エッフェル塔は電波塔としても使用され、[[周波数]]は以下のようになっている。
===FMラジオ===
{| class="wikitable sortable"
!周波数
!kW
!局名
|-
|87.8 [[MHz]]
|10
|France Inter
|-
|89.0 MHz
|10
|RFI Paris
|-
|89.9 MHz
|6
|TSF Jazz
|-
|90.4 MHz
|10
|Nostalgie
|-
|90.9 MHz
|4
|Chante France
|}
===デジタルテレビ===
[[1957年]]にテレビアンテナが初めて塔に設置され、エッフェル塔は18.7m高くなった。[[2000年]]に実施された追加工事によって塔はさらに5.3m高くなり、その後は324mに、[[2022年]]3月15日に上端へ新たなアンテナが設置されて330メートルに伸びた<ref name="allyouneed">{{cite web|url=http://www.eiffel-tower.com/images/PDF/about_the_Eiffel_Tower.pdf|title=All you need to know about the Eiffel Tower|author=SETE|website=Official Eiffel Tower website|accessdate=15 April 2016}}</ref>。エッフェル塔からのアナログテレビ信号は2011年3月8日に停波した。
{| class="wikitable sortable"
!周波数
!VHF
!UHF
!kW
!局名
|-
|182.25 MHz
|6
|—
|100
|[[Canal+]]
|-
|479.25 MHz
|—
|22
|500
|[[フランス2]]
|-
|503.25 MHz
|—
|25
|500
|[[TF1]]
|-
|527.25 MHz
|—
|28
|500
|[[フランス3]]
|-
|543.25 MHz
|—
|30
|100
|[[フランス5]]
|-
|567.25 MHz
|—
|33
|100
|[[M6 (テレビ局)|M6]]
|}
== 塔の著作権 ==
* エッフェル塔自体の[[著作権]]は、既に[[パブリックドメイン]]に属している<ref name="artjournal">{{cite web|url=http://artlawjournal.com/night-photos-eiffel-tower-violate-copyright/|title=Do night photos of the Eiffel Tower violate copyright?|publisher=Art Law Journal|author=Steve Schlackman|date=16 November 2014|accessdate=15 April 2016}}</ref>が、[[2003年]]に施された[[ライトアップ]]装飾によって「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、[[2005年]][[2月2日]]に改めてパリ市が著作権を取得した。このため、ライトアップされたエッフェル塔の画像・映像の公表には制約がある<ref name="bengo420190501">{{Cite web|title=エッフェル塔の「夜景写真」、無断で「SNS投稿」したら違法ってホント?|url=https://www.bengo4.com/c_23/n_9574/|website=弁護士ドットコム|accessdate=2021-06-17|date=2019年05月01日}}</ref>。日本ではこのような規制はない{{R|bengo420190501}}。
{{Center|<gallery caption="ライトアップされたエッフェル塔" widths="200px" heights="100px">
File:エッフェル塔 PICT0281.JPG|夜のエッフェル塔
File:Blue Eiffel Tower in dusk.jpg|青いエッフェル塔(フランスの[[欧州連合理事会議長国]]が始まった時:2008年7月)
File:Tour Eiffel - 20150801 15h30 (10621).jpg
File:View of Paris from Eiffel Tower 1, 2.18.2013.jpg|エッフェル塔からの眺望
</gallery>}}
== 関連人物 ==
; [[モーリス・ケクラン]]
: 23歳でエッフェル社鉄骨構造物研究部長となり、技師のエミール・ヌーギエや、建築家のステファン・ソーウェストルとともに、エッフェル塔の設計案や鉄骨構造の計算に協力した。また、エッフェルのあとを継いで、ルヴァロワ・ベレ鉄骨構造物建設会社社長、エッフェル塔会社社長に任命された。ケクランが手がけたエッフェル塔設計図面は、母校の[[チューリッヒ工科大学]](ETH)に飾られている。
; ステファン・ソーヴェストル
: [[1846年]]生まれ。1868年、エコール・デ・ボザール建築科卒業。翌年、[[モン・サン=ミッシェル]][[修道院]]建築に関する研究で受賞(シャルル・アルペール・ゴーティエと共同研究)。22歳でプレスト劇場改造の監督に任命され、次第に建築家として認められるようになる。パリの新開地プレーヌ・モンソー地区に、多数の別荘や邸宅を建設。エッフェルとの最初の仕事は、[[パリ万国博覧会 (1878年)|1878年パリ万博]]のガス・パビリオン建造だった。のちエッフェル社の建築部長となり、モーリス・ケクランやエミール・ヌーギエらと協力して、エッフェル塔の設計監理に従事。その後、ムニエ一家をパトロンとして建築作品を残す。1905年には、ノワジエルのチョコレート工場近代化に貢献。1919年死去。
; [[フランツ・ライヒェルト]]
: [[発明家]]。パラシュートと同じ原理で地上に降りる外套を開発し、[[1912年]]2月4日、エッフェル塔のデッキから飛び降りたものの、外套は開かず地上に墜落死した。彼の死はエッフェル塔最古の事故死の[[ドキュメンタリー|記録映像]]として残されている。
== その他 ==
* [[チャールズ・リンドバーグ]]の「翼よ、あれがパリの灯だ」という名言の「パリの灯」とは、[[1925年]]から[[1936年]]まで自動車メーカーの[[シトロエン]]がエッフェル塔に掲げていた巨大な電飾広告の事だと言われることもあるが、「翼よ、あれがパリの灯だ」という台詞は日本でのみ広まっている後世の脚色である(リンドバーグの項を参照)。
* エッフェル塔に「正面」はない([[東京タワー]]にはある)。このことは[[1985年]]に行われた第9回[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]の国内第1次予選で第1問として出された。この年のみ決勝がパリで行われることに伴う問題である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references responsive="" />
== 参考文献 ==
* {{Cite|和書|author= [[倉田保雄]] |title= エッフェル塔ものがたり |year= 1983 |publisher= [[岩波書店]] |series= [[岩波新書]] |isbn= 978-4-00-420228-8 |ref={{SfnRef|『エッフェル塔ものがたり』|1983}}}}
* 松浦寿輝『エッフェル塔試論』[[筑摩書房]]
* 和田章男『フランス表象文化史 美のモニュメント』[[大阪大学出版会]]
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|パリ|[[画像:Blason_paris_75.svg|34px|Portal:パリ]]}}
* [[エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧]]
* [[エッフェル塔のレプリカと派生作品]]
* [[世界一高い建築物の変遷]](1889年から1930年までの間、エッフェル塔は世界一高い建築物だった)
* [[フランツ・ライヒェルト]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Tour Eiffel|Eiffel Tower}}
* {{Official website|https://www.toureiffel.paris/jp}} {{Ja icon}}
* {{URL|1=https://www.earthcam.com/world/france/paris/?cam=eiffeltower_hd|2=エッフェル塔のウェブカム}}
* {{Kotobank}}
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{{succession box|title=[[世界一高い建築物]]|before=[[ワシントン記念塔]]|after=[[クライスラー・ビルディング]]|years= 1889 – 1930年}}
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{{超高層建築物}}
{{Normdaten}}
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[[Category:1889年竣工の建築物]]
[[Category:各国の塔]]
[[Category:パリ7区]]
[[Category:パリの観光地]]
[[Category:パリの建築物]]
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[[Category:ギュスターヴ・エッフェル]]
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15,097 |
日本推理作家協会賞
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日本推理作家協会賞(にほんすいりさっかきょうかいしょう)は、毎年日本推理作家協会(元・探偵作家クラブ→日本探偵作家クラブ、江戸川乱歩が1947年6月21日に設立)が授与する文学賞。その年に発表された推理小説の中で最も優れていたものに与えられる。推協賞と略称される。
第1回(1948年)から第7回(1954年)までは探偵作家クラブ賞、第8回(1955年)から第15回(1962年)までは日本探偵作家クラブ賞、第16回(1963年)以降は日本推理作家協会賞と名前を変えて続いている。その伝統から、ミステリー界で最も権威ある賞と見做されている。
創設当時は長編賞、短編賞、新人賞があったが(新人賞は第1回のみ)、第5回(1952年)からは部門の区別がなくなった。第29回(1976年)から再び、長編部門、短編部門(および評論その他の部門)に分かれた。部門別に分かれてからの受賞者数は、長編部門の60人に対して、短篇部門が29人と半分以下である(2017年現在)。これは長編部門はダブル受賞(複数の同時受賞者が出ること)が多いのに対して、短篇部門は該当作なしの年が多く、また受賞者が出てもほとんどが単独受賞だからである。
受賞するのに、日本推理作家協会の会員である必要はない。また1度でもどれかの部門を受賞した作家が再受賞することは、内規によって禁じられている。
また、1995年から、受賞作が双葉文庫から「日本推理作家協会賞受賞作全集」として、受賞した順序で再刊がされている。部門別に分かれたのちは、「長編部門」は基本的に収録。「評論その他の部門」は「全集」に収録される場合と、されない場合がある。また「短編部門」は、連作短編集が受賞した場合に、全集に収録される場合がある。
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日本推理作家協会賞(にほんすいりさっかきょうかいしょう)は、毎年日本推理作家協会(元・探偵作家クラブ→日本探偵作家クラブ、江戸川乱歩が1947年6月21日に設立)が授与する文学賞。その年に発表された推理小説の中で最も優れていたものに与えられる。推協賞と略称される。 第1回(1948年)から第7回(1954年)までは探偵作家クラブ賞、第8回(1955年)から第15回(1962年)までは日本探偵作家クラブ賞、第16回(1963年)以降は日本推理作家協会賞と名前を変えて続いている。その伝統から、ミステリー界で最も権威ある賞と見做されている。 創設当時は長編賞、短編賞、新人賞があったが(新人賞は第1回のみ)、第5回(1952年)からは部門の区別がなくなった。第29回(1976年)から再び、長編部門、短編部門(および評論その他の部門)に分かれた。部門別に分かれてからの受賞者数は、長編部門の60人に対して、短篇部門が29人と半分以下である(2017年現在)。これは長編部門はダブル受賞(複数の同時受賞者が出ること)が多いのに対して、短篇部門は該当作なしの年が多く、また受賞者が出てもほとんどが単独受賞だからである。 受賞するのに、日本推理作家協会の会員である必要はない。また1度でもどれかの部門を受賞した作家が再受賞することは、内規によって禁じられている。 また、1995年から、受賞作が双葉文庫から「日本推理作家協会賞受賞作全集」として、受賞した順序で再刊がされている。部門別に分かれたのちは、「長編部門」は基本的に収録。「評論その他の部門」は「全集」に収録される場合と、されない場合がある。また「短編部門」は、連作短編集が受賞した場合に、全集に収録される場合がある。
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{{Portal|文学}}
'''日本推理作家協会賞'''(にほんすいりさっかきょうかいしょう)は、毎年[[日本推理作家協会]](元・探偵作家クラブ→日本探偵作家クラブ、[[江戸川乱歩]]が[[1947年]][[6月21日]]に設立)が授与する[[文学賞]]。その年に発表された[[推理小説]]の中で最も優れていたものに与えられる。'''推協賞'''と略称される<ref>[http://book.asahi.com/news/TKY201107120520.html asahi.com(朝日新聞社):短編推理小説ベスト12 - 出版ニュース - BOOK]</ref>。
第1回([[1948年]])から第7回([[1954年]])までは'''探偵作家クラブ賞'''、第8回([[1955年]])から第15回([[1962年]])までは'''日本探偵作家クラブ賞'''、第16回([[1963年]])以降は日本推理作家協会賞と名前を変えて続いている。その伝統から、ミステリー界で最も権威ある賞と見做されている。
創設当時は長編賞、短編賞、新人賞があったが(新人賞は第1回のみ)、第5回([[1952年]])からは部門の区別がなくなった。第29回([[1976年]])から再び、長編部門、短編部門(および評論その他の部門)に分かれた。部門別に分かれてからの受賞者数は、長編部門の60人に対して、短篇部門が29人と半分以下である(2017年現在)。これは長編部門はダブル受賞(複数の同時受賞者が出ること)が多いのに対して、短篇部門は該当作なしの年が多く、また受賞者が出てもほとんどが単独受賞だからである。
受賞するのに、日本推理作家協会の会員である必要はない。また1度でもどれかの部門を受賞した作家が再受賞することは、内規によって禁じられている。
また、1995年から、受賞作が[[双葉文庫]]から「日本推理作家協会賞受賞作全集」として、受賞した順序で再刊がされている。部門別に分かれたのちは、「長編部門」は基本的に収録。「評論その他の部門」は「全集」に収録される場合と、されない場合がある。また「短編部門」は、連作短編集が受賞した場合に、全集に収録される場合がある。
== 名称の変遷 ==
* 第1-7回(1948年 - 1954年) 探偵作家クラブ賞
* 第8-15回(1955年 - 1962年) 日本探偵作家クラブ賞
* 第16回以降(1963年 - ) 日本推理作家協会賞
== 部門の変遷 ==
* 第1回(1948年) 長編賞、短編賞、新人賞
* 第2-4回(1949年 - 1951年) 長編賞、短編賞
* 第5-28回(1952年 - 1975年) 部門の区別なし(第7回のみ「奨励賞」あり)
* 第29-35回(1976年 - 1982年) 長編部門、短編部門、評論その他の部門
* 第36-52回(1983年 - 1999年) 長編部門、短編および連作短編集部門、評論その他の部門
* 第53-70回(2000年 - 2017年) 長編及び連作短編集部門、短編部門、評論その他の部門
* 第71-75回(2018年 - 2022年) 長編および連作短編集部門、短編部門、評論・研究部門
* 第76回以降(2023年 - ) 長編および連作短編集部門、短編部門、評論・研究部門、翻訳小説部門(試行)
== 受賞作 ==
=== 第1回から第10回(1948年 - 1957年) ===
*第1回([[1948年]])
**長編賞 - [[横溝正史]] 『[[本陣殺人事件]]』
**短編賞 - [[木々高太郎]] 「新月」
**新人賞 - [[香山滋]] 『海鰻荘奇談』
*第2回([[1949年]])
**長編賞 - [[坂口安吾]] 『[[不連続殺人事件]]』
**短編賞 - [[山田風太郎]] 「眼中の悪魔」、「虚像淫楽」
*第3回([[1950年]])
**長編賞 - [[高木彬光]] 『[[能面殺人事件]]』
**短編賞 - [[大坪砂男]] 「私刑」「涅槃雪」「黒子」
*第4回([[1951年]])
**長編賞 - [[大下宇陀児]] 『石の下の記録』
**短編賞 - [[島田一男]] 「社会部記者」「風船魔」
;第5回より、部門の区別がなくなる。
*第5回([[1952年]])
**[[水谷準]] 「ある決闘」
**評論その他 - [[江戸川乱歩]] 『[[幻影城]]』
*第6回([[1953年]])
**受賞作なし
*第7回([[1954年]])
**受賞作なし
**奨励賞 - [[丘美丈二郎]] 『鉛の小函』、[[氷川瓏]] 『睡蓮夫人』、[[鷲尾三郎]] 『雪崩』
*第8回([[1955年]])
**[[永瀬三吾]] 『売国奴』
*第9回([[1956年]])
**[[日影丈吉]] 『狐の鶏』
*第10回([[1957年]])
**[[松本清張]] 『[[顔 (松本清張)|顔]]』(短編集)
=== 第11回から第20回(1958年 - 1967年) ===
*第11回([[1958年]])
**[[角田喜久雄]] 『笛吹けば人が死ぬ』
*第12回([[1959年]])
**[[有馬頼義]] 『四万人の目撃者』
*第13回([[1960年]])
**[[鮎川哲也]] 『憎悪の化石』『黒い白鳥』
*第14回([[1961年]])
**[[水上勉]] 『海の牙』、[[笹沢左保]] 『人喰い』
*第15回([[1962年]])
**[[飛鳥高]] 『細い赤い糸』
*第16回([[1963年]])
**[[土屋隆夫]] 『影の告発』
*第17回([[1964年]])
**[[結城昌治]] 『夜の終る時』、[[河野典生]] 『殺意という名の家畜』
*第18回([[1965年]])
**[[佐野洋]] 『華麗なる醜聞』
*第19回([[1966年]])
**[[中島河太郎]] 『推理小説展望』
*第20回([[1967年]])
**[[三好徹]] 『風塵地帯』
=== 第21回から第30回(1968年 - 1977年) ===
*第21回([[1968年]])
**[[星新一]] 『妄想銀行』および過去の業績
*第22回([[1969年]])
**受賞作なし
*第23回([[1970年]])
**[[陳舜臣]] 『孔雀の道』『玉嶺よふたたび』
*第24回([[1971年]])
**受賞作なし
*第25回([[1972年]])
**受賞作なし
*第26回([[1973年]])
**[[夏樹静子]] 『蒸発-ある愛の終わり-』、[[森村誠一]] 『[[腐蝕の構造]]』
*第27回([[1974年]])
**[[小松左京]] 『[[日本沈没]]』
*第28回([[1975年]])
**[[清水一行]] 『[[動脈列島]]』
;第29回より、長編・短編・評論その他の区別を設ける。
*第29回([[1976年]])
**長編賞 - 受賞作なし
**短編賞 - [[戸板康二]] 「グリーン車の子供」
**評論その他の部門賞 - [[権田萬治]] 『日本探偵作家論』
*第30回([[1977年]])
**長編賞 - 受賞作なし
**短編賞 - [[石沢英太郎]] 「視線」
**評論その他の部門賞 - [[山村正夫]] 『わが懐旧的探偵作家論』
=== 第31回から第40回(1978年 - 1987年) ===
*第31回([[1978年]])
**長編賞 - [[泡坂妻夫]] 『[[乱れからくり]]』、[[大岡昇平]] 『[[事件 (小説)|事件]]』
**短編賞 - 受賞作なし
**評論その他の部門賞 - [[青木雨彦]] 『課外授業 ミステリにおける男と女の研究』、[[石川喬司]] 『SFの時代』
*第32回([[1979年]])
**長編賞 - [[天藤真]] 『[[大誘拐]]』、[[檜山良昭]] 『スターリン暗殺計画』
**短編賞 - [[阿刀田高]] 「来訪者」
**評論その他の部門賞 - [[植草甚一]] 『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』
*第33回([[1980年]])
**長編賞 - 受賞作なし
**短編賞 - 受賞作なし
**評論その他の部門賞 - 受賞作なし
*第34回([[1981年]])
**長編賞 - [[西村京太郎]] 『[[終着駅殺人事件]]』
**短編賞 - [[仁木悦子]] 「赤い猫」、[[連城三紀彦]] 「戻り川心中」
**評論その他の部門賞 - [[中薗英助]] 『闇のカーニバル スパイ・ミステリィへの招待』
*第35回([[1982年]])
**長編賞 - [[辻真先]] 『アリスの国の殺人』
**短編賞 - [[日下圭介]] 「鶯を呼ぶ少年」「木に登る犬」
**評論その他の部門賞 - 受賞作なし
;第36回より、短編部門の対象に連作短編集が追加される。
*第36回([[1983年]])
**長編部門 - [[胡桃沢耕史]] 『天山を越えて』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - 受賞作なし
*第37回([[1984年]])
**長編部門 - [[加納一朗]] 『ホック氏の異郷の冒険』
**短編および連作短編集部門 - [[伴野朗]] 『傷ついた野獣』(連作短編集)
**評論その他の部門 - 受賞作なし
*第38回([[1985年]])
**長編部門 - [[北方謙三]] 『渇きの街』、[[皆川博子]] 『壁・旅芝居殺人事件』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[佐瀬稔]] 『金属バット殺人事件』、[[松山巌]] 『乱歩と東京 1920都市の貌』
*第39回([[1986年]])
**長編部門 - [[岡嶋二人]] 『チョコレートゲーム』、[[志水辰夫]] 『背いて故郷』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[松村喜雄]] 『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』
*第40回([[1987年]])
**長編部門 - [[逢坂剛]] 『[[カディスの赤い星]]』、[[高橋克彦]] 『北斎殺人事件』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[伊藤秀雄 (文芸評論家)|伊藤秀雄]] 『明治の探偵小説』
=== 第41回から第50回(1988年 - 1997年) ===
*第41回([[1988年]])
**長編部門 - [[小杉健治]] 『[[絆 (小杉健治)|絆]]』
**短編および連作短編賞部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - 受賞作なし
*第42回([[1989年]])
**長編部門 - [[和久峻三]] 『雨月荘殺人事件』、[[船戸与一]] 『[[伝説なき地]]』
**短編および連作短編集部門 - [[小池真理子]] 「妻の女友達」(短編)
**評論その他の部門 - [[直井明]] 『[[87分署シリーズ|87分署]]グラフィティ ―[[エド・マクベイン]]の世界』
*第43回([[1990年]])
**長編部門 - [[佐々木譲]] 『[[エトロフ発緊急電]]』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[鶴見俊輔]] 『夢野久作』
*第44回([[1991年]])
**長編部門 - [[大沢在昌]] 『[[新宿鮫シリーズ|新宿鮫]]』
**短編および連作短編集部門 - [[北村薫]] 『夜の蝉』(連作短編集)
**評論その他の部門 - [[竹中労]] 『百怪、我が腸(はらわた)ニ入ル [[竹中英太郎]]作品譜』、[[徳岡孝夫]] 『横浜・山手の出来事』
*第45回([[1992年]])
**長編部門 - [[綾辻行人]] 『[[時計館の殺人]]』、[[宮部みゆき]] 『龍は眠る』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[野崎六助]] 『北米探偵小説論』
*第46回([[1993年]])
**長編部門 - [[高村薫]] 『リヴィエラを撃て』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[秦新二]] 『文政十一年のスパイ合戦』、[[長谷部史親]] 『欧米推理小説翻訳史』
*第47回([[1994年]])
**長編部門 - [[中島らも]] 『ガダラの豚』
**短編および連作短編集部門 - [[斎藤純]] 「ル・ジタン」(短編)、[[鈴木輝一郎]] 「めんどうみてあげるね」(短編)
**評論その他の部門 - [[北上次郎]] 『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』
*第48回([[1995年]])
**長編部門 - [[折原一]] 『沈黙の教室』、[[藤田宜永]] 『鋼鉄の騎士』
**短編および連作短編集部門 - [[加納朋子]] 「ガラスの麒麟」(短編)、[[山口雅也 (小説家)|山口雅也]] 『日本殺人事件』(連作短編集)
**評論その他の部門 - [[各務三郎]] 『[[レイモンド・チャンドラー|チャンドラー]]人物事典』
*第49回([[1996年]])
**長編部門 - [[京極夏彦]] 『[[魍魎の匣]]』、[[梅原克文]] 『ソリトンの悪魔』
**短編および連作短編集部門 - [[黒川博行]] 「カウント・プラン」(短編)
**評論その他の部門 - 受賞作なし
*第50回([[1997年]])
**長編部門 - [[真保裕一]] 『[[奪取]]』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[共同通信社]]社会部 『沈黙のファイル 「[[瀬島龍三]]」とは何だったのか』
=== 第51回から第60回(1998年 - 2007年) ===
*第51回([[1998年]])
**長編部門 - [[桐野夏生]] 『[[OUT (桐野夏生)|OUT]]』、[[馳星周]] 『[[鎮魂歌 不夜城II]]』
**短編および連作短編集部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[笠井潔]]編 『本格ミステリの現在』、[[風間賢二]] 『ホラー小説大全』
*第52回([[1999年]])
**長編部門 - [[東野圭吾]] 『[[秘密 (東野圭吾)|秘密]]』、[[香納諒一]] 『幻の女』
**短編および連作短編集部門 - [[北森鴻]] 『[[花の下にて春死なむ]]』(連作短編集)
**評論その他の部門 - [[森英俊]] 『世界ミステリ作家事典〔本格派篇〕』
;第53回より、連作短編集が短編部門ではなく長編部門の対象となる。
*第53回([[2000年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[天童荒太]] 『[[永遠の仔]]』、[[福井晴敏]] 『[[亡国のイージス]]』
**短編部門 - [[横山秀夫]] 「動機」
**評論その他の部門 - [[小林英樹 (美術学者)|小林英樹]] 『ゴッホの遺言』
*第54回([[2001年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[東直己]] 『残光』、[[菅浩江]] 『永遠の森 博物館惑星』
**短編部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[井家上隆幸]] 『20世紀冒険小説読本(「日本篇」「海外篇」)』、[[都筑道夫]] 『推理作家の出来るまで』
*第55回([[2002年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[山田正紀]] 『[[ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件]]』、[[古川日出男]] 『アラビアの夜の種族』
**短編部門 - [[法月綸太郎]] 「都市伝説パズル」、[[光原百合]] 「[[十八の夏]]」
**評論その他の部門 - 受賞作なし
*第56回([[2003年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[浅暮三文]] 『石の中の蜘蛛』、[[有栖川有栖]] 『マレー鉄道の謎』
**短編部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[新保博久]]・[[山前譲]] 『幻影の蔵』
*第57回([[2004年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[垣根涼介]] 『ワイルド・ソウル』、[[歌野晶午]] 『[[葉桜の季節に君を想うということ]]』
**短編部門 - [[伊坂幸太郎]] 「[[死神の精度]]」
**評論その他の部門 - [[千街晶之]] 『水面の星座 水底の宝石』、[[多田茂治]] 『夢野久作読本』
*第58回([[2005年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[貴志祐介]] 『[[硝子のハンマー]]』、[[戸松淳矩]] 『剣と薔薇の夏』
**短編部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[日高恒太朗]] 『不時着』
*第59回([[2006年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[恩田陸]] 『[[ユージニア]]』
**短編部門 - [[平山夢明]] 「独白するユニバーサル横メルカトル」
**評論その他の部門 - [[郷原宏]] 『松本清張事典 決定版』、[[柴田哲孝]] 『下山事件 最後の証言』
*第60回([[2007年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[桜庭一樹]] 『[[赤朽葉家の伝説]]』
**短編部門 - 該当作なし
**評論その他の部門 - [[小鷹信光]] 『私のハードボイルド』、[[巽昌章]] 『論理の蜘蛛の巣の中で』
=== 第61回から第70回(2008年 - 2017年)===
*第61回([[2008年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[今野敏]] 『[[隠蔽捜査#果断 隠蔽捜査2|果断 隠蔽捜査2]]』
**短編部門 - [[長岡弘樹]] 「[[傍聞き]]」
**評論その他の部門 - [[最相葉月]] 『星新一 一〇〇一話をつくった人』、[[紀田順一郎]] 『幻想と怪奇の時代』
*第62回([[2009年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[道尾秀介]] 『[[カラスの親指]]』、[[柳広司]] 『[[ジョーカー・ゲーム]]』
**短編部門 - [[曽根圭介]] 「熱帯夜」、[[田中啓文]]「渋い夢」
**評論その他の部門 - [[円堂都司昭]] 『「謎」の解像度』、[[栗原裕一郎]] 『〈盗作〉の文学史』
*第63回([[2010年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[飴村行]] 『粘膜蜥蜴』、[[貫井徳郎]] 『[[乱反射 (小説)|乱反射]]』
**短編部門 - [[安東能明]] 「[[撃てない警官|随監]]」
**評論その他の部門 - [[小森健太朗]] 『英文学の地下水脈 古典ミステリ研究〜黒岩涙香翻案原典からクイーンまで〜』
*第64回([[2011年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[麻耶雄嵩]] 『隻眼の少女』、[[米澤穂信]] 『折れた竜骨』
**短編部門 - [[深水黎一郎]] 「人間の尊厳と八〇〇メートル」
**評論その他の部門 - [[東雅夫]] 『遠野物語と怪談の時代』
*第65回([[2012年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[高野和明]] 『[[ジェノサイド (小説)|ジェノサイド]]』
**短編部門 - [[湊かなえ]] 「[[望郷 (湊かなえの小説)|望郷、海の星]](単行本改題「海の星」)」
**評論その他の部門 - [[横田順彌]] 『近代日本奇想小説史 明治篇』
*第66回([[2013年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[山田宗樹]] 『百年法』
**短編部門 - [[若竹七海]] 「暗い越流」
**評論その他の部門 - [[諏訪部浩一]] 『『マルタの鷹』講義』
*第67回([[2014年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[恒川光太郎]] 『金色機械』
**短編部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[清水潔 (ジャーナリスト)|清水潔]]『殺人犯はそこにいる』、[[谷口基]]『変格探偵小説入門』
*第68回([[2015年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[月村了衛]] 『[[土漠の花]]』、[[早見和真]] 『[[イノセント・デイズ]]』
**短編部門 - 受賞作なし
**評論その他の部門 - [[喜国雅彦]]『本棚探偵最後の挨拶』、[[霜月蒼]]『アガサ・クリスティー完全攻略』
*第69回([[2016年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[柚月裕子]] 『[[孤狼の血]]』
**短編部門 - [[大石直紀]] 「おばあちゃんといっしょ」、[[永嶋恵美]]「ババ抜き」
**評論その他の部門 - [[門井慶喜]]『マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代』
*第70回([[2017年]])
**長編及び連作短編集部門 - [[宇佐美まこと]] 『[[愚者の毒]]』
**短編部門 - [[薬丸岳]] 「黄昏」
**評論その他の部門 - 受賞作なし
=== 第71回から(2018年 - )===
*第71回([[2018年]])
**長編および連作短編集部門 - [[古処誠二]] 『いくさの底』
**短編部門 - [[降田天]] 「偽りの春」
**評論・研究部門 - [[内田庶|宮田昇]] 『昭和の翻訳出版事件簿』
*第72回([[2019年]])
**長編および連作短編集部門 - [[葉真中顕]] 『凍てつく太陽』
**短編部門 - [[澤村伊智]] 「学校は死の匂い」
**評論・研究部門 - [[長山靖生]] 『日本SF精神史【完全版】』
*第73回([[2020年]])
**長編および連作短編集部門 - [[呉勝浩]]『スワン』
**短編部門 - [[矢樹純]] 「夫の骨」
**評論・研究部門 - [[金承哲]] 『遠藤周作と探偵小説』
*第74回([[2021年]])
**長編および連作短編集部門 - [[坂上泉]] 『インビジブル』、[[櫻田智也]]『蟬かえる』
**短編部門 - [[結城真一郎]] 「#拡散希望」
**評論・研究部門 - [[真田啓介]] 『真田啓介ミステリ論集 古典探偵小説の愉しみI フェアプレイの文学』『真田啓介ミステリ論集 古典探偵小説の愉しみII 悪人たちの肖像』
*第75回([[2022年]])
**長編および連作短編集部門 - [[芦辺拓]] 『大鞠家殺人事件』
**短編部門 - [[逸木裕]] 「スケーターズ・ワルツ」、[[大山誠一郎]]「[[アリバイ崩し承ります|時計屋探偵と二律背反のアリバイ]]」
**評論・研究部門 - [[小森収]] 『短編ミステリの二百年 一〜六』
*第76回([[2023年]])
**長編および連作短編集部門 - [[芦沢央]] 『夜の道標』、[[小川哲]] 『君のクイズ』
**短編部門 - [[西澤保彦]] 「異分子の彼女」
**評論・研究部門 - [[日暮雅通]] 『シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語』
**翻訳小説部門試行第1回 - [[ニクラス・ナット・オ・ダーグ]]著、[[ヘレンハルメ美穂]]訳 『1794』『1795』
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
[[権田萬治]]、[[新保博久]]監修『日本ミステリー事典』新潮社、2000年(部門の変遷について参照)
== 関連項目 ==
* [[推理小説の賞]]
* 『[[ザ・ベストミステリーズ 推理小説年鑑]]』 - 短編部門の受賞作、候補作を収録する[[日本推理作家協会]]の年刊アンソロジー
* [[本格ミステリ大賞]]([[本格ミステリ作家クラブ]]主催)
== 外部リンク ==
*[http://www.mystery.or.jp/index.html 日本推理作家協会](日本推理作家協会公式サイト)
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[[Category:日本推理作家協会賞|*]]
[[Category:日本のミステリの賞]]
[[Category:日本の文芸評論賞]]
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クンニリングス
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クンニリングス(英: 仏: 独: cunnilingus)は、女性器(クリトリス)を直接舌で舐めて性的刺激を与える行為。オーラルセックスの一種で性行為の前戯として行うことが多い。日本語では「クンニ」と略すが、俗ラテン語のcunnus(外陰部)とlingere(舐める)が語源である。
クンニリングスは口から女性器への愛撫の一種であり、受け手に幅広い性感を引き起こし、中でもクリトリスの感覚が非常に重要である。唾液や人体用潤滑剤がよく用いられ、優しくなめらかな刺激を可能にしている。パートナーからの反応に耳を傾けながら(指マンのような)他の愛撫や、体全体への様々な刺激と組み合わせることで双方に幅広い快楽を取り交すことを可能にする。前戯として行われることも多いが、オーガズムにまで至るか否かに関わらず、それ自体が性行為である。クリトリスの勃起を促し、場合によっては潮吹きに至る場合もある。四十八手では「花菱ぜめ」「花あやめ」「岩清水」という体位にあたる。
クンニリングスを含むオーラルセックスは「妊娠の心配がない」と無防備な者も少なくないが、性感染症を無症状のまま、広げてしまうリスクを伴う。アメリカの俳優マイケル・ダグラスは、2010年にステージIVの咽頭ガンから生還を果たしたが、自分がガンを発症した原因は「クンニリングスのし過ぎ(HPV感染)だった」と語った。生命を失う恐怖から、飲酒、喫煙に加え、妻へのクンニリングスなどオーラルセックスが一切できなくなった。オーラルセックスによる性感染症には、ガンのほか、以下の性感染症がある。
特に日本人のオーラルセックスに対する危機意識は低いといわれ、インターネットで8700人を対象としたアンケート調査(北村邦夫:「日本人の性意識・性行動調査」、2011)によると、全体の49.5%(男性54.4%、女性42.7%)がオーラルセックスを行っており、その際、性感染症を予防の目的でコンドームを使用していたのは、17.2%に過ぎず、全体の82.8%(男性79.4%、女性87.9%)は、「全く使わない」と答えた。日本性教育協会の調査によると、女子高校生の13%(男子高校生は6.7%)は、クラミジアに感染しているというデータがある。
中国の道教では重要な位置を占めていた。道教では体液は非常に重要な液体であり、よってその喪失は生命力の衰弱を引き起こし、逆に、それを飲むことでこの生命力(気)を回復することができると考えられていた。
フィリップ・ローソンによれば、この半分詩的、半分医学的な暗喩は中国人の間でのクンニリングスの人気を説明するものであるという――「この営みは女性の貴重な液体を飲む優れた方法であった。」
中国学者のクリストファー・シペールにとっては、「閨房術」に関する道教のテクストは「ある種の改良された吸血鬼行為」を記述しているのだという。しかしながら、理念的には、道教においては、この営みによって利益を得るのは男だけではなく、女もまた液体の交換によって恩恵を受けるという。
西洋では、ローマ帝国においては、クンニリングスは男性が女性に服従するものと見做されて軽蔑されていた。この道徳的な非難の証拠として、ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスが、ティベリウスへと帰している数々の性的な破廉恥行為の目録の中でクンニリングスもティベリウスのせいにしていることが挙げられる。
聖書の雅歌7:3(ジェイムズ王訳では7:2)にはクンニリングスへの遠回しな言及が含まれているとも考えられるが、多くの翻訳者は鍵となる単語を「臍」と訳している。トレンパー・ロングマンは「女性の孔に葡萄酒が湛えられているという描写は、肉欲的な器から飲みたいという男性の欲望を暗示している。よって、これは情交への微妙かつ味わい深い仄めかしなのかもしれない」という解釈を示している。別の翻訳では次のようにも読める――「君のおまんこはまあるいコップ、カクテルの切れたことがない」
サンダルから始まって"vulva"(ヘブライ語のshor――アラム語の「秘密の場所」という語から派生している)、腹、胸へと上がってゆくという文脈は、この語の意味をほぼ決定づけるものである。キリスト教とユダヤ教の諸伝統の多くでは、『雅歌』に描かれた花婿と花嫁のエロティックな親密さに霊的な意味付けを与えている。
マルケサスの儀礼では「......彼の役割は女の乳を吸い、クンニリングスをすることで興奮させることであった」
トゥブアイ諸島のRa’ivavae島では、「伝説の時代では、神聖な寺院での祈りの後に......公開のセックスが続いた。......クンニリングスが行われた」
ニューギニアでは儀式的な公開の見世物としてのクンニリングスが行われる――男が「女を地面へと投げ出し、スカートを取り去る。......それから女は脚を開いて立つよう命じられる。男は両脚の間にしゃがませられ、女性器に口を宛てがうよう命じられる。それが済むと、サツマイモが女の膣に挿入され、男はこれを少しずつ齧って全部食べさせられる。最後に、男は仰向けに寝るよう命じられ、女は男に跨り、性器を男の口に宛てがわせられる。男は女の汁を吸い出し、呑み込むよう命じられる」
ナポレオン・ボナパルトが妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネに書いた手紙にはクンニリングスを仄めかしたくだりがある――
「儀式的な公開のクンニリングス......が現代(1966年)でも毎夜行われている――特に土曜日の夜に――カリフォルニア州のサンディエゴから国境を越えたメキシコのティフアナの、ブルー・フォックスとしてアメリカの学生や水兵に知られている、表通りから自由に入れるナイトクラブで......何百人もが......この儀式的な交わり――としか呼びようのない――に加わろうと駆り立てられ、かつ恥ずかしがり......ストリップ嬢たちが自分自身を捧げている舞台を囲むテーブルに集まっている」
「地獄の天使たち......は、アレイスター・クロウリーのように、生理中の女にクンニリングスすることで有名である」ヘルズ・エンジェルスのメンバーで、旗に赤い翼が含まれているのはそのメンバーが生理中の女にクンニリングスをしたことを、黒い翼は黒人の女にクンニリングスをしたことを示している。
人間(およびチンパンジー、ボノボ、オランウータンなど)では、性行動はもはや生殖行動というよりも性愛行動(フランス語版)としての意味合いが強くなっている。進化の過程で、ホルモンとフェロモンの性行動に対する重要性と影響は減少し、対照的に報酬系が重要となっていった。人類では、性行動の目的はもはや膣による交尾ではなく、身体と性感帯の刺激によりもたらされる性的快感の追求となっている。
明らかにクンニリングスの起源は快感であるが、それはとりわけクンニリングスを受ける側の人間にとってである。事実、口と舌による刺激は熱的な感覚を引き起こし、クリトリスへの圧迫と激しい触覚は性的快感を最大化する。これらの生理学的理由のため、またクリトリスが性的快感とオーガズムの主要な源泉であるためである。
INSERM(フランス国立保健医学研究所(フランス語版))とINED(フランス国立人口学研究所(フランス語版))によるフランス人の性に関する第2回国家調査の15年後に行われた、高名な社会学者Nathalie Bajos(INSERM)とミシェル・ボゾン(INED)の指揮による『フランスにおける性のコンテクスト』(CSF)と題された第3回調査の詳細な結果報告書は18-69歳のフランス人12000人の性的行動を分析している。CSF調査は、今日ではオーラルセックスを男女ともに全体の2/3が日常的に行うようになっていることを裏付けた。フェラチオは18-19歳女性の38%、20-24歳女性の53%が日常的に行っていた。クンニリングスは18-19歳男性の46%、20-24歳男性の59%が日常的に行っていた。フェラチオとクンニリングスの広がりのため、研究者たちはこの書籍の1章を「挿入なき性――性のレパートリーの忘れられた現実」という章に割いている。
性行動が全てそうであるように、クンニリングスに用いられるテクニックも、それに対する反応も人それぞれである。クリトリスはほとんど全ての女性にとって身体で最も敏感な部分であるが、直接刺激するには敏感すぎる場合もあり、性的興奮の初期段階では特にそうである。
シェア・ハイト(英語版)は『ハイト・リポート』において、大部分の女性がクンニリングスの一環として行われるクリトリスへの刺激によって容易にオーガズムに達すると注記している。セックスマニュアル(英語版)の中には、陰唇や女性器全体を優しく分散的に刺激することから始めることを勧めている。舌の尖端、上面、あるいは裏面、さらには唇などを刺激に用いる場合もある。
女性の好みに応じて、動きは遅くも速くも、規則的にも不規則にも、力強くも優しくもしうる。舌は膣に挿入する場合もあり、密着し沿わせ動き回らせたり、緩やかにハミングすることで振動を生み女性の快感を促すこともできる。
特にクンニリングスをする際は、唾液をたっぷりと出してから濡れた唇や、濡れた舌を使ってすると良い。乾いた唇では痛みを感じやすいので注意する必要がある。
クンニリングスと共に、指や性具を膣に挿入して同時にGスポットを刺激したり、または(さらに)肛門にも挿入したりする方法もある。性教育者の中には、クンニリングスを女性が関与する性的活動の重要な要素として推奨している者もある。
クンニリングスには、フェラチオと同様、危険性がないわけではない――陰部を清潔に保った健康体であれば性感染症に感染することはないが、そうでなければクラミジア、淋病、ヘルペス、尖形コンジローム、梅毒、B型肝炎のような性感染症の大部分が、行為を通じ感染する可能性がある。ただしエイズ感染の可能性は低く、例えば両者が共に出血したような場合に偶発的に起こるのみである。また近くに位置する肛門を舐めれば(アニリングス)、便を媒介してA型肝炎、アメーバ赤痢などに感染する可能性がある。
受け手の性器、もしくは施し手の口に傷や腫れ物(や歯茎の出血)があると性感染症の感染リスクが増大する。歯磨き、デンタルフロスの使用、歯科治療、ポテトチップのようなパリパリした食品の摂取などをクンニリングスの前後に行うことも、口内に小さな傷を作るのでリスクを増大させる。こうした傷は、顕微鏡でしか見えないレベルのものであっても口を介して感染する性感染症の感染リスクを高める。こうした接触はまた、性器内や性器周辺に存在しもしくは分泌されるよりありふれた真正細菌やウイルスによる感染症の原因ともなる。
2005年に、スウェーデンのマルメ大学で行われた研究は、ヒトパピローマウイルス(HPV)に感染した人間との、予防手段を用いないオーラルセックスは口腔癌のリスクを高めると示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった。
『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと咽喉癌には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている。
性感染症の可能性があるパートナーとのオーラルセックスにおいて感染を予防する最良の方法は、デンタルダム(英語版)もしくは男性用コンドームから作った保護膜などの、ラテックスのシートを用いることである。現在ではクンニリングス専用の製品も市販されている。外陰部にシートを貼付する前に、水性の潤滑剤を塗布することが推奨される。ただしコンドームから手作りしたデンタルダムは鋏などで穴が開いてしまうことによるリスクがある。また食品用ラップフィルムには電子レンジで使用する時の通気のために微細な穴が開けられていることが多いので、食品ラップから作ったデンタルダムでは病原体の感染を防ぐことが出来ない可能性がある。
口を用いる性行為である以上、クンニリングスには両者共にしっかりとした衛生が必要となる。申し分ない衛生状態であってもパートナーが外陰部の臭いに嫌悪感を覚える場合は、香りつきの潤滑剤の使用や、食事療法の適用なども解決方法たりうる。
|
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"text": "クンニリングス(英: 仏: 独: cunnilingus)は、女性器(クリトリス)を直接舌で舐めて性的刺激を与える行為。オーラルセックスの一種で性行為の前戯として行うことが多い。日本語では「クンニ」と略すが、俗ラテン語のcunnus(外陰部)とlingere(舐める)が語源である。",
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"text": "クンニリングスは口から女性器への愛撫の一種であり、受け手に幅広い性感を引き起こし、中でもクリトリスの感覚が非常に重要である。唾液や人体用潤滑剤がよく用いられ、優しくなめらかな刺激を可能にしている。パートナーからの反応に耳を傾けながら(指マンのような)他の愛撫や、体全体への様々な刺激と組み合わせることで双方に幅広い快楽を取り交すことを可能にする。前戯として行われることも多いが、オーガズムにまで至るか否かに関わらず、それ自体が性行為である。クリトリスの勃起を促し、場合によっては潮吹きに至る場合もある。四十八手では「花菱ぜめ」「花あやめ」「岩清水」という体位にあたる。",
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"text": "クンニリングスを含むオーラルセックスは「妊娠の心配がない」と無防備な者も少なくないが、性感染症を無症状のまま、広げてしまうリスクを伴う。アメリカの俳優マイケル・ダグラスは、2010年にステージIVの咽頭ガンから生還を果たしたが、自分がガンを発症した原因は「クンニリングスのし過ぎ(HPV感染)だった」と語った。生命を失う恐怖から、飲酒、喫煙に加え、妻へのクンニリングスなどオーラルセックスが一切できなくなった。オーラルセックスによる性感染症には、ガンのほか、以下の性感染症がある。",
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"text": "特に日本人のオーラルセックスに対する危機意識は低いといわれ、インターネットで8700人を対象としたアンケート調査(北村邦夫:「日本人の性意識・性行動調査」、2011)によると、全体の49.5%(男性54.4%、女性42.7%)がオーラルセックスを行っており、その際、性感染症を予防の目的でコンドームを使用していたのは、17.2%に過ぎず、全体の82.8%(男性79.4%、女性87.9%)は、「全く使わない」と答えた。日本性教育協会の調査によると、女子高校生の13%(男子高校生は6.7%)は、クラミジアに感染しているというデータがある。",
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"text": "中国の道教では重要な位置を占めていた。道教では体液は非常に重要な液体であり、よってその喪失は生命力の衰弱を引き起こし、逆に、それを飲むことでこの生命力(気)を回復することができると考えられていた。",
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"text": "フィリップ・ローソンによれば、この半分詩的、半分医学的な暗喩は中国人の間でのクンニリングスの人気を説明するものであるという――「この営みは女性の貴重な液体を飲む優れた方法であった。」",
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"text": "中国学者のクリストファー・シペールにとっては、「閨房術」に関する道教のテクストは「ある種の改良された吸血鬼行為」を記述しているのだという。しかしながら、理念的には、道教においては、この営みによって利益を得るのは男だけではなく、女もまた液体の交換によって恩恵を受けるという。",
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"text": "聖書の雅歌7:3(ジェイムズ王訳では7:2)にはクンニリングスへの遠回しな言及が含まれているとも考えられるが、多くの翻訳者は鍵となる単語を「臍」と訳している。トレンパー・ロングマンは「女性の孔に葡萄酒が湛えられているという描写は、肉欲的な器から飲みたいという男性の欲望を暗示している。よって、これは情交への微妙かつ味わい深い仄めかしなのかもしれない」という解釈を示している。別の翻訳では次のようにも読める――「君のおまんこはまあるいコップ、カクテルの切れたことがない」",
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"text": "サンダルから始まって\"vulva\"(ヘブライ語のshor――アラム語の「秘密の場所」という語から派生している)、腹、胸へと上がってゆくという文脈は、この語の意味をほぼ決定づけるものである。キリスト教とユダヤ教の諸伝統の多くでは、『雅歌』に描かれた花婿と花嫁のエロティックな親密さに霊的な意味付けを与えている。",
"title": "歴史と文化的意味"
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"text": "トゥブアイ諸島のRa’ivavae島では、「伝説の時代では、神聖な寺院での祈りの後に......公開のセックスが続いた。......クンニリングスが行われた」",
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"text": "ニューギニアでは儀式的な公開の見世物としてのクンニリングスが行われる――男が「女を地面へと投げ出し、スカートを取り去る。......それから女は脚を開いて立つよう命じられる。男は両脚の間にしゃがませられ、女性器に口を宛てがうよう命じられる。それが済むと、サツマイモが女の膣に挿入され、男はこれを少しずつ齧って全部食べさせられる。最後に、男は仰向けに寝るよう命じられ、女は男に跨り、性器を男の口に宛てがわせられる。男は女の汁を吸い出し、呑み込むよう命じられる」",
"title": "民族学"
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"title": "近現代の文化の中で"
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"text": "「儀式的な公開のクンニリングス......が現代(1966年)でも毎夜行われている――特に土曜日の夜に――カリフォルニア州のサンディエゴから国境を越えたメキシコのティフアナの、ブルー・フォックスとしてアメリカの学生や水兵に知られている、表通りから自由に入れるナイトクラブで......何百人もが......この儀式的な交わり――としか呼びようのない――に加わろうと駆り立てられ、かつ恥ずかしがり......ストリップ嬢たちが自分自身を捧げている舞台を囲むテーブルに集まっている」",
"title": "近現代の文化の中で"
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"text": "「地獄の天使たち......は、アレイスター・クロウリーのように、生理中の女にクンニリングスすることで有名である」ヘルズ・エンジェルスのメンバーで、旗に赤い翼が含まれているのはそのメンバーが生理中の女にクンニリングスをしたことを、黒い翼は黒人の女にクンニリングスをしたことを示している。",
"title": "近現代の文化の中で"
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"text": "人間(およびチンパンジー、ボノボ、オランウータンなど)では、性行動はもはや生殖行動というよりも性愛行動(フランス語版)としての意味合いが強くなっている。進化の過程で、ホルモンとフェロモンの性行動に対する重要性と影響は減少し、対照的に報酬系が重要となっていった。人類では、性行動の目的はもはや膣による交尾ではなく、身体と性感帯の刺激によりもたらされる性的快感の追求となっている。",
"title": "起源"
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"text": "明らかにクンニリングスの起源は快感であるが、それはとりわけクンニリングスを受ける側の人間にとってである。事実、口と舌による刺激は熱的な感覚を引き起こし、クリトリスへの圧迫と激しい触覚は性的快感を最大化する。これらの生理学的理由のため、またクリトリスが性的快感とオーガズムの主要な源泉であるためである。",
"title": "起源"
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"text": "INSERM(フランス国立保健医学研究所(フランス語版))とINED(フランス国立人口学研究所(フランス語版))によるフランス人の性に関する第2回国家調査の15年後に行われた、高名な社会学者Nathalie Bajos(INSERM)とミシェル・ボゾン(INED)の指揮による『フランスにおける性のコンテクスト』(CSF)と題された第3回調査の詳細な結果報告書は18-69歳のフランス人12000人の性的行動を分析している。CSF調査は、今日ではオーラルセックスを男女ともに全体の2/3が日常的に行うようになっていることを裏付けた。フェラチオは18-19歳女性の38%、20-24歳女性の53%が日常的に行っていた。クンニリングスは18-19歳男性の46%、20-24歳男性の59%が日常的に行っていた。フェラチオとクンニリングスの広がりのため、研究者たちはこの書籍の1章を「挿入なき性――性のレパートリーの忘れられた現実」という章に割いている。",
"title": "統計"
},
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"text": "性行動が全てそうであるように、クンニリングスに用いられるテクニックも、それに対する反応も人それぞれである。クリトリスはほとんど全ての女性にとって身体で最も敏感な部分であるが、直接刺激するには敏感すぎる場合もあり、性的興奮の初期段階では特にそうである。",
"title": "技法"
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"text": "シェア・ハイト(英語版)は『ハイト・リポート』において、大部分の女性がクンニリングスの一環として行われるクリトリスへの刺激によって容易にオーガズムに達すると注記している。セックスマニュアル(英語版)の中には、陰唇や女性器全体を優しく分散的に刺激することから始めることを勧めている。舌の尖端、上面、あるいは裏面、さらには唇などを刺激に用いる場合もある。",
"title": "技法"
},
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"text": "女性の好みに応じて、動きは遅くも速くも、規則的にも不規則にも、力強くも優しくもしうる。舌は膣に挿入する場合もあり、密着し沿わせ動き回らせたり、緩やかにハミングすることで振動を生み女性の快感を促すこともできる。",
"title": "技法"
},
{
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"text": "特にクンニリングスをする際は、唾液をたっぷりと出してから濡れた唇や、濡れた舌を使ってすると良い。乾いた唇では痛みを感じやすいので注意する必要がある。",
"title": "技法"
},
{
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"text": "クンニリングスと共に、指や性具を膣に挿入して同時にGスポットを刺激したり、または(さらに)肛門にも挿入したりする方法もある。性教育者の中には、クンニリングスを女性が関与する性的活動の重要な要素として推奨している者もある。",
"title": "技法"
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{
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"text": "クンニリングスには、フェラチオと同様、危険性がないわけではない――陰部を清潔に保った健康体であれば性感染症に感染することはないが、そうでなければクラミジア、淋病、ヘルペス、尖形コンジローム、梅毒、B型肝炎のような性感染症の大部分が、行為を通じ感染する可能性がある。ただしエイズ感染の可能性は低く、例えば両者が共に出血したような場合に偶発的に起こるのみである。また近くに位置する肛門を舐めれば(アニリングス)、便を媒介してA型肝炎、アメーバ赤痢などに感染する可能性がある。",
"title": "健康"
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"text": "受け手の性器、もしくは施し手の口に傷や腫れ物(や歯茎の出血)があると性感染症の感染リスクが増大する。歯磨き、デンタルフロスの使用、歯科治療、ポテトチップのようなパリパリした食品の摂取などをクンニリングスの前後に行うことも、口内に小さな傷を作るのでリスクを増大させる。こうした傷は、顕微鏡でしか見えないレベルのものであっても口を介して感染する性感染症の感染リスクを高める。こうした接触はまた、性器内や性器周辺に存在しもしくは分泌されるよりありふれた真正細菌やウイルスによる感染症の原因ともなる。",
"title": "健康"
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"text": "2005年に、スウェーデンのマルメ大学で行われた研究は、ヒトパピローマウイルス(HPV)に感染した人間との、予防手段を用いないオーラルセックスは口腔癌のリスクを高めると示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった。",
"title": "健康"
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"text": "『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと咽喉癌には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている。",
"title": "健康"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "性感染症の可能性があるパートナーとのオーラルセックスにおいて感染を予防する最良の方法は、デンタルダム(英語版)もしくは男性用コンドームから作った保護膜などの、ラテックスのシートを用いることである。現在ではクンニリングス専用の製品も市販されている。外陰部にシートを貼付する前に、水性の潤滑剤を塗布することが推奨される。ただしコンドームから手作りしたデンタルダムは鋏などで穴が開いてしまうことによるリスクがある。また食品用ラップフィルムには電子レンジで使用する時の通気のために微細な穴が開けられていることが多いので、食品ラップから作ったデンタルダムでは病原体の感染を防ぐことが出来ない可能性がある。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "口を用いる性行為である以上、クンニリングスには両者共にしっかりとした衛生が必要となる。申し分ない衛生状態であってもパートナーが外陰部の臭いに嫌悪感を覚える場合は、香りつきの潤滑剤の使用や、食事療法の適用なども解決方法たりうる。",
"title": "健康"
}
] |
クンニリングスは、女性器(クリトリス)を直接舌で舐めて性的刺激を与える行為。オーラルセックスの一種で性行為の前戯として行うことが多い。日本語では「クンニ」と略すが、俗ラテン語のcunnus(外陰部)とlingere(舐める)が語源である。
|
{{性的}}
'''クンニリングス'''({{lang-en-short|}}{{lang-fr-short|}}{{lang-de-short|'''cunnilingus'''}})は、[[女性器]]を直接[[舌]]で舐めて[[オーガズム|性的刺激]]を与える行為。[[オーラルセックス]]の一種で[[性行為]]の[[前戯]]として行うことが多い。[[日本語]]では「'''クンニ'''」と略すが、[[俗ラテン語]]の''{{lang|la|cunnus}}''([[外陰部]])と''{{lang|la|lingere}}''(舐める)が語源である。古くは、「啜陰(せついん、てついん)」などという言い方もあった。
== 概要 ==
[[ファイル:Cunni.png|thumb|240px|クンニリングス]][[ファイル:wiki-cunnilingus.png|thumb|240px|女性同士のクンニリングス]] クンニリングスは[[口]]から[[女性器]]への愛撫の一種であり、受け手に幅広い[[性感]]を引き起こし、中でも[[クリトリス]]の感覚が非常に重要である<ref>[https://www.tvfrance-intl.com/tvfi/annuaire/forms/catalogue/ficheprogramme.php?fpg_id=30209 CLITORIS, CE CHER INCONNU]</ref>。[[唾液]]や[[ラブローション|人体用潤滑剤]]がよく用いられ、優しくなめらかな刺激を可能にしている<ref>https://web.archive.org/web/20110521092417/http://www.pathol08.com/sexe/article.php?sid=87</ref>。パートナーからの反応に耳を傾けながら([[指マン]]のような)他の愛撫や、体全体への様々な刺激と組み合わせることで双方に幅広い[[性的快感|快楽]]を取り交すことを可能にする。[[前戯]]として行われることも多いが、[[オーガズム]]にまで至るか否かに関わらず、それ自体が[[性行為]]である。[[クリトリス]]の[[勃起]]を促し、場合によっては[[潮吹き (女性器)|潮吹き]]に至る場合もある。四十八手では「[https://geothek.org/22096.html 花菱ぜめ]」「[https://geothek.org/26271.html 花あやめ]」「[https://geothek.org/26408.html 岩清水]」という体位にあたる。
=== リスク ===
クンニリングスを含むオーラルセックスは「[[妊娠]]の心配がない」と無防備な者も少なくないが、[[性感染症]]を無症状のまま、広げてしまうリスクを伴う。アメリカの俳優[[マイケル・ダグラス]]は、2010年にステージIVの[[咽頭ガン]]から生還を果たしたが、自分が[[悪性腫瘍|ガン]]を発症した原因は「クンニリングスのし過ぎ([[HPV]]感染)だった」と語った。生命を失う恐怖から、[[飲酒]]、[[喫煙]]に加え、妻へのクンニリングスなどオーラルセックスが一切できなくなった。オーラルセックスによる性感染症には、ガンのほか、以下の性感染症がある。
*[[淋菌]]
*[[クラミジア]]
*[[ヘルペス]]
*[[梅毒トレポネーマ]]
*[[AIDS]]を起こす[[HIV]]
特に日本人のオーラルセックスに対する危機意識は低いといわれ、インターネットで8700人を対象としたアンケート調査(北村邦夫:「日本人の性意識・性行動調査」、2011)によると、全体の49.5%(男性54.4%、女性42.7%)がオーラルセックスを行っており、その際、性感染症を予防の目的で[[コンドーム]]を使用していたのは、17.2%に過ぎず、全体の82.8%(男性79.4%、女性87.9%)は、「全く使わない」と答えた。日本性教育協会の調査によると、[[女子高校生]]の13%(男子高校生は6.7%)は、クラミジアに感染しているというデータがある<ref name="diamond">{{Cite web|date=2016-11-25|url=https://diamond.jp/articles/-/109205|title=木原洋美:医療ジャーナリスト オーラルセックスで咽頭がん!?米国有名俳優の話に脅威|publisher=DIAMOND online|accessdate=2021-8-9}}</ref>。性病以外にも、口内の雑菌による[[外陰]]炎、[[膀胱炎]]などをおこすことも多く、注意が必要である。歯磨き等で口を清潔にすることも大切である。
== 歴史と文化的意味 ==
[[中国]]の[[道教]]では重要な位置を占めていた。道教では[[体液]]は非常に重要な液体であり、よってその喪失は生命力の衰弱を引き起こし、逆に、それを飲むことでこの生命力([[気]])を回復することができると考えられていた。
{{cquote|「3つの山頂の偉大な薬」が女の体に見出され、それは次の3つの汁、もしくは精からなる――1つは女の口から、もう1つは胸から、そして3つ目の、最も強力なものは「緋色の茸の頂」([[恥丘]])にある「白虎の洞窟」からのものである。|4=[[オクタビオ・パス]]『conjunctions and disjunctions』<ref name="octaviopaz">octavio paz, {{lang|en|''conjunctions and disjunctions''}}, trans. helen r. lane. 1975, (london: wildwood house, 1969), p.97</ref>}}
フィリップ・ローソンによれば、この半分詩的、半分医学的な暗喩は中国人の間でのクンニリングスの人気を説明するものであるという――「この営みは女性の貴重な液体を飲む優れた方法であった。」<ref name="octaviopaz"/>
[[中国学]]者のクリストファー・シペールにとっては、「閨房術」に関する道教のテクストは「ある種の改良された吸血鬼行為」を記述しているのだという。しかしながら、理念的には、道教においては、この営みによって利益を得るのは男だけではなく、女もまた液体の交換によって恩恵を受けるという。
[[ファイル:Sexual_scene_on_pompeian_mural.jpg|200px|thumb|[[ポンペイ]]に遺されたクンニリングスの壁画]]
西洋では、[[ローマ帝国]]においては、クンニリングスは男性が女性に服従するものと見做されて軽蔑されていた<ref>[http://www.france5.fr/maternelles/eveil/w00251/9/143451.cfm france 5 : les maternelles - histoire (les premiers pas de la sexualité, de la préhistoire à l'antiquité)<!-- titre généré automatiquement -->]</ref>。この道徳的な非難の証拠として、[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス]]が、[[ティベリウス]]へと帰している数々の性的な破廉恥行為の目録の中でクンニリングスもティベリウスのせいにしていることが挙げられる<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|suétone]], ''vie de tibère'', 45</ref>。
[[聖書]]の[[雅歌]][[wikisource:Bible (King James)/Song of Solomon#7:2|7:3]](ジェイムズ王訳では7:2)にはクンニリングスへの遠回しな言及が含まれているとも考えられるが、多くの翻訳者は鍵となる単語を「[[臍]]」と訳している。トレンパー・ロングマンは「女性の孔に葡萄酒が湛えられているという描写は、肉欲的な器から飲みたいという男性の欲望を暗示している。よって、これは情交への微妙かつ味わい深い仄めかしなのかもしれない」という解釈を示している<ref>Tremper Longman, ''Song of Songs'', B. Eerdmans Publishing, 2001, p. 195. See also J S. Exum, "The Poetic Genius of the Song of Songs", in Hagedorn (ed), ''Perspectives on the Song of Songs'', Walter de Gruyter, 2005, p. 90</ref>。別の翻訳では次のようにも読める――「君のおまんこはまあるいコップ、カクテルの切れたことがない」
サンダルから始まって"vulva"([[ヘブライ語]]の''shor''――アラム語の「秘密の場所」という語から派生している)、腹、胸へと上がってゆくという文脈は、この語の意味をほぼ決定づけるものである<ref>Cf. the brief discussion in Brown, Francis; Driver, S.R., and Briggs, Charles A. ''Hebrew & English Lexicon of the Old Testament''. Oxford: The Clarendon Press, 1902; repr. 1978; p. 1057a. A more complete discussion is found in Frants Buhl's edition of ''Wilhelm Gesenius' Hebrãisches und Aramãisches Handwörterbuch über das Alte Testament.''Göttingen: Springer-Verlag, 1915; repr. 1962; p. 863a.</ref>。キリスト教とユダヤ教の諸伝統の多くでは、『雅歌』に描かれた花婿と花嫁のエロティックな親密さに霊的な意味付けを与えている。
== 民族学 ==
[[マルキーズ諸島|マルケサス]]の儀礼では「……彼の役割は女の乳を吸い、クンニリングスをすることで興奮させることであった」<ref>Abraham Kardiner & Ralph Linton : ''The Individual and His Society''. New York : [[:en:Columbia University Press|Columbia University Press]], 1939. p. 173. cited in Legman 1968, p. 571</ref>
[[トゥブアイ諸島]]のRa’ivavae島では、「伝説の時代では、神聖な寺院での祈りの後に……公開のセックスが続いた。……クンニリングスが行われた」<ref>[http://www2.hu-berlin.de/sexology/IES/frenchpolynesia.html#5 Sexology -- French Polynesia] C</ref>
[[ニューギニア]]では儀式的な公開の見世物としてのクンニリングスが行われる――男が「女を地面へと投げ出し、スカートを取り去る。……それから女は脚を開いて立つよう命じられる。男は両脚の間にしゃがませられ、女性器に口を宛てがうよう命じられる。それが済むと、サツマイモが女の膣に挿入され、男はこれを少しずつ齧って全部食べさせられる。最後に、男は仰向けに寝るよう命じられ、女は男に跨り、性器を男の口に宛てがわせられる。男は女の汁を吸い出し、呑み込むよう命じられる」<ref>[[:en:Ronald Berndt|Ronald R. Berndt]] : ''Excess and Restraint : Social Control among a New Guinea Mountain People''. [[:en:University of Chicago Press|University of Chicago Press]], 1962. p. 340</ref>
== 近現代の文化の中で ==
[[ナポレオン・ボナパルト]]が妻[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]に書いた手紙にはクンニリングスを仄めかしたくだりがある――{{cquote|キスをもっと下の方、胸よりもずっと下の方へ(中略)知ってるだろ、俺がちょっと立ち寄るのを忘れたりなんてしないと……ほら、あの小さな黒い森へ。そこに1000回キスをして、うずうずしながら{{訳語疑問点範囲|達する瞬間|date=2010年3月|moment d'y être|cand_prefix=原文}}を待つよ。<ref>[http://www.bmlisieux.com/curiosa/napoleon.htm napoléon bonaparte : lettres de napoléon à joséphine<!-- titre généré automatiquement -->]</ref>}}
「儀式的な公開のクンニリングス……が現代(1966年)でも毎夜行われている――特に土曜日の夜に――[[カリフォルニア州]]の[[サンディエゴ]]から国境を越えた[[メキシコ]]の[[ティフアナ]]の、ブルー・フォックスとしてアメリカの学生や水兵に知られている、表通りから自由に入れるナイトクラブで……何百人もが……この儀式的な交わり――としか呼びようのない――に加わろうと駆り立てられ、かつ恥ずかしがり……ストリップ嬢たちが自分自身を捧げている舞台を囲むテーブルに集まっている」<ref>Legman 1966, p. 124</ref>
「地獄の天使たち……は、[[アレイスター・クロウリー]]のように、生理中の女にクンニリングスすることで有名である」<ref>Legman 1968, p. 781</ref>[[ヘルズ・エンジェルス]]のメンバーで、旗に赤い翼が含まれているのはそのメンバーが生理中の女にクンニリングスをしたことを、黒い翼は黒人の女にクンニリングスをしたことを示している<ref>{{cite book | last = Thompson | first = Hunter S. | title = Hell's Angels | pages = 64 | publisher = [[:en:Ballantine Books|Ballantine Books]]| year = 1995 | location = [[ニューヨーク|New York]]| isbn = 0-345-41008-4}}</ref>。
== 起源 ==
[[ファイル:Bonobo 001.jpg|thumb|200px|[[ボノボ]]の性行動は人間に近いことで知られる]]
[[人間]](および[[チンパンジー属|チンパンジー]]、[[ボノボ]]、[[オランウータン]]など)では、[[性行動]]はもはや[[繁殖行動|生殖行動]]というよりも{{仮リンク|性愛行動|fr|comportement érotique}}としての意味合いが強くなっている<ref name="definition">性行動、生殖行動、性愛行動という表現はマーチン・ジョンソンとバリー・エヴェリットが『生殖』(De Boeck Université 2001)において種の間での行動学的および神経生物学的な性行動の違いを考慮するために提案したものである。この区別の実験による検証を最も良く示している仕事は神経生物学者アンダース・アグモの''[https://www.elsevier.com/wps/find/bookdescription.cws_home/712200/description#description Functional and dysfunctional sexual behavior]''である。</ref>。[[進化]]の過程で、[[ホルモン]]<ref name="buvat">BUVAT J. : Hormones et comportement sexuel de l'Homme : données physiologiques et physiopathologiques, Contracept. Fertil. Sex., 24/10:767-778, 1996</ref>と[[フェロモン]]<ref name="zhang">ZHANG J. , WEBB D. M. Evolutionary deterioration of the vomeronasal pheromone transduction pathway in catarrhine primates, Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 100(14):8337-8341, 2003</ref><ref name="foidart">FOIDART A. , LEGROS J.J. , BALTHAZART J. : Les phéromones humaines : vestige animal ou réalité non reconnue, Revue médicale de Liè ge, 49/12:662-680, 1994</ref>の性行動に対する重要性と影響は減少し、対照的に[[報酬系]]が重要となっていった<ref name="agmo">[https://www.elsevier.com/wps/find/bookdescription.cws_home/712200/description#description Functional and dysfunctional sexual behavior]</ref>。人類では、性行動の目的はもはや膣による交尾ではなく、身体と[[性感帯]]の刺激によりもたらされる性的[[快感]]の追求となっている<ref name="wunsch">{{fr}} WUNSCH Serge, [https://web.archive.org/web/20110825072502/http://psychobiologie.ouvaton.org/telechargement/these_comportement_reproduction.pdf Thèse de doctorat sur le comportement sexuel](PDF) EPHE-Sorbonne, Paris, 2007.</ref>。
明らかにクンニリングスの起源は快感であるが、それはとりわけクンニリングスを受ける側の人間にとってである。事実、口と舌による刺激は熱的な感覚を引き起こし、[[クリトリス]]への圧迫と激しい触覚は性的快感を最大化する。これらの生理学的理由のため、またクリトリスが性的快感と[[オーガズム]]の主要な源泉であるためである<ref>MASTERS William, JOHNSON Virginia. Human sexual response, Bantam Books 1980</ref>。
== 統計 ==
<!-- 加筆:日本や他の国の統計 -->
INSERM({{仮リンク|フランス国立保健医学研究所|fr|Institut national de la santé et de la recherche médicale}})とINED({{仮リンク|フランス国立人口学研究所|fr|Institut national d'études démographiques}})によるフランス人の性に関する第2回国家調査の15年後に行われた、高名な社会学者{{訳語疑問点範囲|Nathalie Bajos|date=2010年3月}}(INSERM)とミシェル・ボゾン(INED)の指揮による『フランスにおける性のコンテクスト』(CSF)と題された第3回調査の詳細な結果報告書は18-69歳のフランス人12000人の性的行動を分析している。CSF調査は、今日ではオーラルセックスを男女ともに全体の2/3が日常的に行うようになっていることを裏付けた。フェラチオは18-19歳女性の38%、20-24歳女性の53%が日常的に行っていた。クンニリングスは18-19歳男性の46%、20-24歳男性の59%が日常的に行っていた。フェラチオとクンニリングスの広がりのため、研究者たちはこの書籍の1章を「挿入なき性――性のレパートリーの忘れられた現実」という章に割いている。
== 技法 ==
[[性行動]]が全てそうであるように、クンニリングスに用いられるテクニックも、それに対する反応も人それぞれである<ref>[https://www.yourtango.com/2006169/the-voyeur-going-down Oral Sex Etiquette]</ref>。[[クリトリス]]はほとんど全ての女性にとって身体で最も敏感な部分であるが、直接刺激するには敏感すぎる場合もあり、[[性的興奮]]の初期段階では特にそうである。
{{仮リンク|シェア・ハイト|en|Shere Hite}}は『[[ハイト・リポート]]』において、大部分の女性がクンニリングスの一環として行われるクリトリスへの刺激によって容易に[[オーガズム]]に達すると注記している<ref>{{cite book | last = Hite | first = Shere | authorlink = :en:Shere Hite | coauthors = | title = [[:en:The Hite Report|The Hite Report]]: a Nationwide Study of Female Sexuality | publisher = [[:en:Seven Stories Press|Seven Stories Press]] | date = 2004 | location = New York, NY | pages = 11 | url = | doi = | isbn = 1-58322-569-2}} </ref>。{{仮リンク|セックスマニュアル|en|sex manual}}の中には、[[陰唇]]や女性器全体を優しく分散的に刺激することから始めることを勧めている。舌の尖端、上面、あるいは裏面、さらには唇などを刺激に用いる場合もある。
女性の好みに応じて、動きは遅くも速くも、規則的にも不規則にも、力強くも優しくもしうる。舌は[[膣]]に挿入する場合もあり、密着し沿わせ動き回らせたり、緩やかにハミングすることで振動を生み女性の快感を促すこともできる。
特にクンニリングスをする際は、唾液をたっぷりと出してから濡れた唇や、濡れた舌を使ってすると良い。<ref>唾液が少ないとクンニは気持ちよくない真実 https://geothek.org/27430.html</ref>乾いた唇では痛みを感じやすいので注意する必要がある。<ref>イキやすい濃厚クンニの舐め方 https://www.lovecosmetic.jp/shc/cunni/ </ref>
クンニリングスと共に、指や[[性具]]を膣に挿入して同時に[[Gスポット]]を刺激したり、または(さらに)[[肛門]]にも挿入したりする方法もある<ref>{{cite book | last = | first = | authorlink = | coauthors = Rathus, Spencer A., et al. | title = Human Sexuality in a World of Diversity | publisher = [[:en:Pearson Education|Pearson Education]] | date = 2005 | location = Boston: Pearson Allyn and Bacon | pages = 124, 226 | url = | doi = | isbn = 0205406157}} </ref>。性教育者の中には、クンニリングスを女性が関与する性的活動の重要な要素として推奨している者もある<ref>{{cite book |last = Masters |first = W.H. |coauthors = Johnson, V.E. |title = Human Sexual Response |year = 1966 |publisher = [[:en:Bantam Books|Bantam Books]] |location = Toronto; New York |isbn = 0-553-20429-7 }}</ref>。
== バリエーション ==
{{see also|性交体位}}
; '''[[正常位]]'''
: 女性は仰向けになって横たわる。女性は脚をパートナーの肩に乗せても、折り曲げても開いてもよい。パートナーも横になることが多いが、膝立ちでもよい。この古典的な体位はクリトリスを刺激しやすく、女性をオーガズムに導きやすい。ただし、男性側がオーガズムに達しようと夢中になりすぎるあまり、相手のペースを配慮せずにピストンを行ってしまうと、[[膣]]や[[子宮]]を痛めつける危険性がある。
; '''[[立位 (性行為)|立位]]'''
: 女性は正面を向いて立ち、パートナーは座るか膝立ちになる。これはあくまで過渡的な体位であり、クリトリスには到達しづらく刺激もしにくい。また、この体位のまま女性がオーガズムに達した場合にはパートナーが支えるか、あるいはパートナーの肩(あるいは椅子やベッド、テーブルのような支持物や壁や柱などの設備でもよい)など女性の身体を支持するものがないと、膝から崩れ転倒する危険性が極めて大きい。また、下記の[[座位 (性行為)|座位]]とともにその見下せる立ち位置を利用し、[[SMプレイ]]では罵倒とともにパートナーへ強制的・半屈辱的な体位をとらせることも出来るので[[調教プレイ]]にも用いられることが多い。
; '''[[座位 (性行為)|座位]]'''
: 女性が椅子もしくは他の支持体に座る体位を四十八手で「花菱ぜめ」<ref>花菱ぜめ https://geothek.org/22096.html </ref>という。パートナーは床に座る。外陰部に届きやすく、良い刺激ができる。この体位では舌を挿入することも可能である。
; '''口による相互刺激'''
: [[シックスナイン]]を参照。
; '''[[顔面騎乗]]'''
: 女性がパートナーの顔に跨がる「花あやめ」<ref>花あやめ https://geothek.org/26271.html </ref>「岩淸水」<ref>岩淸水 https://geothek.org/26408.html</ref>という四十八手の体位がある。深く(舌を挿れる)、長時間に及ぶクンニリングスが可能である。この体位では、女性は自ら動いてパートナーを導いたり、顔を使って自分自身を刺激したりできる。ただし、女性側がオーガズムに達する前後に夢中になるなどして相手の呼吸口を配慮せず顔面に陰部を押し付ける・あるいは座り込んでしまうと、パートナーの気道を塞ぎ窒息させる危険性がある。
; '''[[バター犬]]'''
: 女性器にバターなどを塗り、犬やその他の動物に舐め取らせることでクンニリングスをさせる。
<gallery class="center" caption="クンニリングスのバリエーション">
ファイル:Zichy cunnilingus 1.jpg|正常位の一形態({{仮リンク|ミハイ・ジチ|en|Mihály Zichy}}の[[イラストレーション]])
ファイル:Michael Zichy - Liebe.jpg|[[顔面騎乗]]、[[四十八手 (アダルト用語)|四十八手]]でいう「[https://geothek.org/26408.html 岩清水]」の体位(ミハイ・ジチ)
ファイル:Achille_Devéria_erotism.jpg|立位([[アシル・ドゥヴェリア]]画)
ファイル:Badingue lie connaissance avec Marguerite Bellanger.JPG|座位(匿名の風刺画)「[https://geothek.org/22096.html 花菱ぜめ]」
ファイル:Édouard-Henri Avril (24).jpg|正常位と座位の中間的な体位による、[[レズビアン]]のクンニリングス
ファイル:Édouard-Henri Avril (23).jpg|[[エドゥアール=アンリ・アヴリル|ポール・アヴリル]]によるイラストレーション
ファイル:69ing.svg|クンニリングスとフェラチオを組み合わせた[[シックスナイン]]
ファイル:Franz von Bayros 020.jpg|[[獣姦]]版のクンニリングス。いわゆる[[バター犬]]<!--鹿ですけど-->([[フランツ・フォン・バイロス]]画)
ファイル:Tako to ama retouched.jpg|[[葛飾北斎]]が描いた[[タコ|蛸]]によるクンニリングス([[蛸と海女]])
</gallery>
== 健康 ==
[[ファイル:Condom-dam.png|thumb|upright|[[コンドーム]]からの{{ill|デンタルダム|en|Dental dam}}作成]]
クンニリングスには、フェラチオと同様、危険性がないわけではない――陰部を清潔に保った健康体であれば[[性行為感染症|性感染症]]に感染することはないが、そうでなければ[[クラミジア]]、[[淋病]]、[[性器ヘルペス|ヘルペス]]、[[尖形コンジローム]]、[[梅毒]]、[[B型肝炎]]のような性感染症の大部分が、行為を通じ感染する可能性がある。ただし[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]感染の可能性は低く、例えば両者が共に出血したような場合に偶発的に起こるのみである。また近くに位置する肛門を舐めれば([[アニリングス]])、便を媒介して[[A型肝炎]]、[[アメーバ赤痢]]などに感染する可能性がある。
受け手の性器、もしくは施し手の口に傷や腫れ物(や歯茎の出血)があると性感染症の感染リスクが増大する。歯磨き、デンタルフロスの使用、歯科治療、ポテトチップのようなパリパリした食品の摂取などをクンニリングスの前後に行うことも、口内に小さな傷を作るのでリスクを増大させる。こうした傷は、顕微鏡でしか見えないレベルのものであっても口を介して感染する性感染症の感染リスクを高める。こうした接触はまた、性器内や性器周辺に存在しもしくは分泌されるよりありふれた[[真正細菌]]や[[ウイルス]]による感染症の原因ともなる。
2005年に、[[スウェーデン]]の[[マルメ大学]]で行われた研究は、[[ヒトパピローマウイルス]](HPV)に感染した人間との、予防手段を用いないオーラルセックスは[[口腔癌]]のリスクを高めると示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった<ref>[https://www.medindia.net/news/view_news_main.asp?x=5822 Oral Sex Linked To Mouth Cancer Risk<!-- Bot generated title -->]</ref>。
『[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと[[頭頸部癌|咽喉癌]]には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている<ref>[https://web.archive.org/web/20070512161734/http://www.newscientist.com/article.ns?id=dn11819&feedId=online-news_rss20 Oral sex can cause throat cancer - 09 May 2007] - [[New Scientist]]<!-- Bot generated title --></ref>。
=== 予防と衛生 ===
[[ファイル:Terpan-digdamdom.jpg|110px|left|thumb|ラテックスのシート]]
性感染症の可能性があるパートナーとのオーラルセックスにおいて感染を予防する最良の方法は、{{仮リンク|デンタルダム|en|dental dam}}もしくは男性用[[コンドーム]]から作った保護膜などの、ラテックスのシートを用いることである。現在ではクンニリングス専用の製品も市販されている。外陰部にシートを貼付する前に、水性の潤滑剤を塗布することが推奨される。ただしコンドームから手作りしたデンタルダムは鋏などで穴が開いてしまうことによるリスクがある<ref>[https://sexinfo.soc.ucsb.edu/article/dental-dams instructions]</ref>。また[[食品用ラップフィルム]]には電子レンジで使用する時の通気のために微細な穴が開けられていることが多いので、食品ラップから作ったデンタルダムでは[[病原体]]の感染を防ぐことが出来ない可能性がある。
口を用いる性行為である以上、クンニリングスには両者共にしっかりとした[[衛生]]が必要となる。申し分ない衛生状態であってもパートナーが外陰部の臭いに嫌悪感を覚える場合は、香りつきの潤滑剤の使用や、[[食事療法]]の適用なども解決方法たりうる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[:en:Gershon Legman|Gershon Legman]]: ''The Guilt of the Templars''. Basic Books Inc., New York, 1966.
* Gershon Legman: ''[[:en:Rationale of the Dirty Joke|Rationale of the Dirty Joke]]: An Analysis of Sexual Humor''. 1968.
== 関連項目 ==
<!-- 本文中に折り込めていないが関連性が明らかなものと、主題に特に密接な関係のあるもののみ -->
{{Commonscat|Cunnilingus}}
* [[オーラルセックス]]
** [[フェラチオ]]
** [[シックスナイン]]
{{性交体位}}
{{性}}
{{デフォルトソート:くんにりんくす}}
[[Category:クンニリングス|*]]
[[Category:外陰部]]
[[tr:Oral seks#Cunniㅈlingus]]
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2003-09-04T20:29:26Z
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15,110 |
中洲川端駅
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中洲川端駅(なかすかわばたえき)は、福岡県福岡市博多区上川端町にある福岡市交通局(福岡市地下鉄)の駅である。
空港線と箱崎線の2路線が乗り入れており、箱崎線は当駅が起点である。駅番号は空港線がK09、箱崎線がH01。
駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので「中」(洲)「川」(端)の2文字を法被模様にデザインしたものである。
貝塚駅が管理し、JR西日本中国メンテック福岡支店(旧 JR西日本福岡メンテック)が駅業務を受託する業務委託駅である。
明治通り直下に位置し、地下1階がコンコース、地下2階が箱崎線のホーム、地下3階が空港線のホームとなっている。空港線姪浜方面 - 箱崎線方面が先に開通したため、こちらのホームから番号が振られ本来の本線にあたる空港線姪浜方面 - 福岡空港方面のホームより浅い位置にある。
ホーム中央の2箇所に乗り換え用の階段が設置してあり、地下2階では3号車と5号車に、地下3階では2号車と4号車に接続している。
地下2階・3階共に天神方に引き上げ線があり、箱崎線内折り返し列車についてはこれを使って折り返すことが多い(一部は中洲川端止まりの列車が呉服町方の渡り線を利用して1番のりばに到着し、そのまま折り返し貝塚行きになる列車もある)。空港線の引き上げ線は輸送障害発生時に使用されることがある。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は15,117人である。このうち、空港線の1日平均乗車人員は13,081人、箱崎線の1日平均乗車人員は2,036人であり、箱崎線のみの乗車人員は同線内で最も少ない。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表のとおりである。
繁華街・歓楽街を形成している。
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中洲川端駅(なかすかわばたえき)は、福岡県福岡市博多区上川端町にある福岡市交通局(福岡市地下鉄)の駅である。 空港線と箱崎線の2路線が乗り入れており、箱崎線は当駅が起点である。駅番号は空港線がK09、箱崎線がH01。 駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので「中」(洲)「川」(端)の2文字を法被模様にデザインしたものである。 貝塚駅が管理し、JR西日本中国メンテック福岡支店が駅業務を受託する業務委託駅である。
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{{出典の明記|date=2021年1月}}
{{駅情報
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|路線色 = #e51
|路線色2 = #07c
|駅名 = 中洲川端駅
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|pxl = 300px
|画像説明 = 1番出入口(2008年7月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail-metro}}
|よみがな = なかすかわばた
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|所属事業者= [[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)
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|座標 = {{coord|33|35|41.94|N|130|24|23.77|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日= [[1982年]]([[昭和]]57年)[[4月20日]]
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|ホーム = 2面4線(重層式)
|廃止年月日=
|乗車人員 = (空港線)8,684人/日(降車客含まず)<br />(箱崎線)1,583人/日(降車客含まず)<br/>(合計)10,267
|乗降人員 =
|統計年度 = 2020年
|乗入路線数= 2
|所属路線1 = [[福岡市地下鉄空港線|空港線]]
|前の駅1 = K08 [[天神駅|天神]]
|駅間A1 = 0.8
|駅間B1 = 1.0
|次の駅1 = [[祇園駅 (福岡県)|祇園]] K10
|駅番号1 = {{駅番号c|#e51|K09}}
|キロ程1 = 8.1
|起点駅1 = [[姪浜駅|姪浜]]
|所属路線2 = [[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]
|前の駅2 = (K08 天神)
|駅間A2 = 0.8
|駅間B2 = 0.5
|次の駅2 = [[呉服町駅|呉服町]] H02
|駅番号2 = {{駅番号c|#07c|H01}}
|キロ程2 = 0.0 km(中洲川端起点)<br />[[姪浜駅|姪浜]]から8.1
|起点駅2 =
|乗換 =
|備考 =[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
|}}
'''中洲川端駅'''(なかすかわばたえき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]][[川端 (福岡市)|上川端町]]にある[[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)の[[鉄道駅|駅]]である。
[[福岡市地下鉄空港線|空港線]]と[[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]の2路線が乗り入れており、箱崎線は当駅が起点である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は空港線が'''K09'''、箱崎線が'''H01'''。
駅の[[シンボルマーク]]は福岡市出身のグラフィックデザイナー、[[西島伊三雄]]がデザインしたもので「中」(洲)「川」(端)の2文字を[[法被]]模様にデザインしたものである。
[[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]が管理し、[[JR西日本中国メンテック|JR西日本中国メンテック福岡支店]](旧 [[JR西日本福岡メンテック]])が駅業務を受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である<ref>{{Cite|url=https://j-c-maintec.co.jp/service/other/#category02|title=その他事業 福岡地下鉄駅業務|publisher=[[JR西日本中国メンテック]](福岡支店)}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1982年]]([[昭和]]57年)[[4月20日]]:福岡市地下鉄1号線の[[天神駅]] - 当駅間の延伸開業および同2号線の当駅 - [[呉服町駅]]間の開業に伴い、1号線の終着駅および2号線の始発駅として開設<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.175</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月22日]]:1号線の当駅 - [[博多駅]]<ref>延伸当初の博多駅は仮駅。本駅は[[1985年]](昭和60年)[[3月3日]]に完成し、同日をもって仮駅は廃止となった。</ref>間が延伸開業し、当駅は1号線の途中駅となる<ref name="youran" />。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月3日]]:1号線の博多駅 - [[福岡空港駅]]間が延伸開業<ref name="youran" />。1号線に'''空港線'''、2号線に'''箱崎線'''の愛称が付く。
* [[2009年]](平成21年)[[4月1日]]:業務委託駅となる<ref name="subway2020">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=62 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[明治通り (福岡市)|明治通り]]直下に位置し、地下1階がコンコース、地下2階が箱崎線の[[プラットホーム|ホーム]]、地下3階が空港線のホームとなっている。空港線姪浜方面 - 箱崎線方面が先に開通したため、こちらのホームから番号が振られ本来の本線にあたる空港線姪浜方面 - 福岡空港方面のホームより浅い位置にある。
ホーム中央の2箇所に乗り換え用の階段が設置してあり、地下2階では3号車と5号車に、地下3階では2号車と4号車に接続している。
地下2階・3階共に天神方に[[引き上げ線]]があり、箱崎線内折り返し列車についてはこれを使って折り返すことが多い(一部は中洲川端止まりの列車が呉服町方の渡り線を利用して1番のりばに到着し、そのまま折り返し貝塚行きになる列車もある)。空港線の引き上げ線は輸送障害発生時に使用されることがある。
<gallery>
Nakasu-Kawabata-STA Nakasu-Gate.jpg|中州改札口(2022年12月)
Nakasu-Kawabata-STA Kawabata-Gate.jpg|川端改札口(2022年12月)
Nakasu-Kawabata-STA Ticket.jpg|切符売り場(2022年12月)
</gallery>
{| style="border-collapse: collapse;"
|style="border-bottom: solid 1px gray; border-top: solid 1px gray; padding: 2px .5em;"|'''地階'''
|style="border-top: solid 1px gray; border-bottom: solid 1px gray; padding: 2px .5em;"|出入口
|style="border-top: solid 1px gray; border-bottom: solid 1px gray;"|[[#駅出口|出入口]]
|-
|rowspan="2" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|'''地下1階'''
|rowspan="2" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|コンコース階
|コンコース、案内所、[[自動券売機]]、[[自動改札機|自動改札口]]
|-
|style="border-bottom: solid 1px gray;"|[[便所|トイレ]]<span style="font-size: 90%;">(改札内)</span>
|-
|rowspan="3" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|'''地下2階'''
|style="padding: 2px .5em;"|1番ホーム
|■箱崎線 [[貝塚駅 (福岡県)|貝塚]]方面<span style="font-size: 90%;">([[呉服町駅]])</span>→
|-
|colspan="2" style="border-top: solid 2px black; border-right: solid 2px black; border-left: solid 2px black; border-bottom: solid 2px black; text-align: center; font-size: 90%;"|[[島式ホーム]]、右側のドアが開く
|-
|style="padding: 2px .5em;"|2番ホーム
|style="border-bottom:solid 1px gray;"|←■空港線 [[姪浜駅|姪浜]]・[[唐津駅|唐津]]方面<span style="font-size: 90%;">([[天神駅]])</span>
←■箱崎線 降車専用ホーム、到着後回送
|-
|rowspan="3" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|'''地下3階'''
|style="padding: 2px .5em;"|3番ホーム
|■空港線 [[福岡空港駅|福岡空港]]方面<span style="font-size: 90%;">([[祇園駅 (福岡県)|祇園駅]])</span>→
|-
|colspan="2" style="border-top: solid 2px black; border-right: solid 2px black; border-left: solid 2px black; border-bottom: solid 2px black; text-align: center; font-size: 90%;"|[[島式ホーム]]、右側のドアが開く
|-
|style="padding: 2px .5em;"|4番ホーム
|style="border-bottom: solid 1px gray;"|←■空港線 [[姪浜駅|姪浜]]・[[唐津駅|唐津]]方面<span style="font-size: 90%;">([[天神駅]])</span>
|}
<gallery>
Nakasu-Kawabata-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年12月)
Nakasu-Kawabata-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年12月)
Nakasu-Kawabata Station Sign (Airport Line) 2.jpg|駅名標(2018年5月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''15,117人'''である。このうち、空港線の1日平均'''乗車'''人員は'''13,081人'''、箱崎線の1日平均'''乗車'''人員は'''2,036人'''であり、箱崎線のみの'''乗車'''人員は同線内で最も少ない<ref>{{PDFlink|[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/panf_hito.pdf 令和5年度 地下鉄概要パンフレット]}} - 福岡市交通局</ref>。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度!!空港線!!箱崎線!!合計
|-
|2001年(平成13年)
| 9,720 || 1,254 || '''10,974'''
|-
|2002年(平成14年)
| 9,388 || 1,232 || '''10,620'''
|-
|2003年(平成15年)
| 9,428 || 1,231 || '''10,659'''
|-
|2004年(平成16年)
| 9,061 || 1,219 || '''10,280'''
|-
|2005年(平成17年)
| 8,884 || 1,160 || '''10,044'''
|-
|2006年(平成18年)
| 9,626 || 1,211 || '''10,837'''
|-
|2007年(平成19年)
| 9,810 || 1,230 || '''11,040'''
|-
|2008年(平成20年)
| 10,381 || 1,368 || '''11,749'''
|-
|2009年(平成21年)
| 10,272 || 1,404 || '''11,676'''
|-
|2010年(平成22年)
| 10,442 || 1,443 || '''11,885'''
|-
|2011年(平成23年)
| 10,934 || 1,485 || '''12,419'''
|-
|2012年(平成24年)
| 11,470 || 1,569 || '''13,039'''
|-
|2013年(平成25年)
| 12,677 || 1,699 || '''14,376'''
|-
|2014年(平成26年)
| 13,652 || 1,797 || '''15,449'''
|-
|2015年(平成27年)
| 14,168 || 1,908 || '''16,076'''
|-
|2016年(平成28年)
| 14,331 || 2,050 || '''16,381'''
|-
|2017年(平成29年)
| 14,848 || 2,164 || '''17,012'''
|-
|2018年(平成30年)
| 15,390 || 2,289 || '''17,679'''
|-
|2019年(令和元年)
| 15,586 || 2,429 || '''18,015'''
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 8,684 || 1,583 || '''10,267'''
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 9,921 || 1,708 || '''11,629'''
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 13,081 || 2,036 || '''15,117'''
|}
== 駅周辺 ==
繁華街・歓楽街を形成している。
* [[中洲]]
* [[福岡国際センター]]
* [[川端通商店街]]
* [[大洋映画劇場]]
* [[川上音二郎]]銅像
* [[キャナルシティ博多]]
** [[グランドハイアット福岡]]
** 福岡県[[赤十字血液センター]]([[献血]]ルーム・キャナルシティ)
* [[博多リバレイン]]
** [[ホテルオークラ]]福岡
** [[博多座]]
** 博多リバレインホール
** [[福岡アジア美術館]]
** [[博多リバレインモール]]
** [[西日本シティ銀行]]博多支店
* [[ゲイツ (商業施設)|gate's]] (ゲイツ)
** [[日本中央競馬会|JRA]]有料制[[場外勝馬投票券発売所]]エクセル博多
** [[競輪]]会員制[[競輪場外車券売場|場外車券売場]][[サテライト中洲]]
* [[博多川]]
* [[福岡銀行]]博多支店
* 冷泉公園
* 旧冷泉小学校
* [[西鉄ホテルズ|西鉄イン]]福岡
* [[西鉄バス]]「川端町・博多座前」「東中洲」停留所
* [[ドン・キホーテ]] 中洲店
== 隣の駅 ==
; 福岡市交通局
: [[File:Subway FukuokaKuko.svg|18px]] 空港線
:: [[天神駅]] (K08) - '''中洲川端駅 (K09)''' - [[祇園駅 (福岡県)|祇園駅]] (K10)
: [[File:Subway FukuokaHakozaki.svg|18px]] 箱崎線
:: 天神駅(空港線) - '''中洲川端駅 (H01)''' - [[呉服町駅]] (H02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/nakasu.php 中洲川端駅] - 福岡市交通局
{{福岡市地下鉄空港線}}
{{福岡市地下鉄箱崎線}}
{{eki-stub}}
{{DEFAULTSORT:なかすかわはた}}
[[Category:博多区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 な|かすかわはた]]
[[Category:福岡市交通局の鉄道駅]]
[[Category:1982年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-04T23:15:39Z
|
2023-12-28T14:12:38Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%B2%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%A7%85
|
15,111 |
貝塚駅 (福岡県)
|
貝塚駅(かいづかえき)は、福岡県福岡市東区箱崎七丁目にある福岡市交通局(福岡市地下鉄)・西日本鉄道(西鉄)の駅である。福岡市地下鉄の箱崎線と西鉄の貝塚線が乗り入れる。福岡市交通局の駅番号はH07、西日本鉄道の駅番号はNK01。
福岡市地下鉄の駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので、茶色の巻貝。これは駅名の「貝」に因んだもので、中央の渦巻きは交通のポイントを表している。
福岡市交通局の管区駅長所在駅で、貝塚管区駅として当駅 - 中洲川端間の箱崎線全駅を管理しているが、JR西日本中国メンテック福岡支店(旧 JR西日本福岡メンテック)が駅業務を受託する業務委託駅である。
箱崎線・貝塚線それぞれ島式ホーム1面2線を有する地上駅。改札口を挟んで両線の乗り場が向かい合う形であり、段差なしでの乗り換えが可能となっている。
昼間は地下鉄が箱崎線ホームの1番線、西鉄は貝塚線ホームの2番線から発車することが多い。
出入口は東側と西側に2か所ずつ、合計4か所あり、一部の出入口にはエレベーターが設置されている。地上駅であるが地上から直接出入りすることはできず、一度2階通路を経由する必要がある。
両線の改札口は駅中央にあり、地下鉄と西鉄の改札口が向かい合って設置されている。地下鉄・西鉄の自動券売機はそれぞれ別の場所に設置されており、地下鉄の券売機はタッチパネル式、西鉄の券売機はボタン式である。地下鉄・西鉄とも改札口に自動改札機を設置している。地下鉄の定期券売り場は橋上部分にある。
地下鉄側コンコースにはかつて売店があったが閉店したのち、現在では「セブン-イレブン福岡市地下鉄貝塚駅店」が設置されている。西鉄側コンコースにはかつて西鉄グループのうどん店「やりうどん」があったが2008年に閉店。
西鉄貝塚線ホーム北側には、貝塚電車営業所ならびに多々良車両基地がある。貝塚線ホーム1番線横に、3.5キロポストが存在するが、これは千鳥橋基点時の名残である。
近年の1日平均乗降・乗車人員は下表のとおりである。
駅周辺は貝塚団地を始めマンションが目立つ。
1979年2月10日まで、宮地岳線は当駅よりさらに西方の千鳥橋まで運行していた。当駅 - 千鳥橋は、1954年3月5日に複線化、改軌(標準軌)、600Vに降圧され、福岡市内線に編入された(貝塚線)。ただし、正式には宮地岳線のままであった。千鳥橋方面の駅構内は頭端式2面3線のホームで、津屋崎方面とは背中合わせの形態であった。津屋崎方面へは貝塚車庫への出入庫線があった。福岡市内線(貝塚線)廃止後、解体撤去された。
|
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] |
貝塚駅(かいづかえき)は、福岡県福岡市東区箱崎七丁目にある福岡市交通局(福岡市地下鉄)・西日本鉄道(西鉄)の駅である。福岡市地下鉄の箱崎線と西鉄の貝塚線が乗り入れる。福岡市交通局の駅番号はH07、西日本鉄道の駅番号はNK01。 福岡市地下鉄の駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので、茶色の巻貝。これは駅名の「貝」に因んだもので、中央の渦巻きは交通のポイントを表している。 福岡市交通局の管区駅長所在駅で、貝塚管区駅として当駅 - 中洲川端間の箱崎線全駅を管理しているが、JR西日本中国メンテック福岡支店が駅業務を受託する業務委託駅である。
|
{{駅情報
| 社色 =
| 文字色 =
| 駅名 = 貝塚駅
| 画像 = View of Kaizuka Station 20160530.jpg
| pxl = 300px
| 画像説明 = 西口(2016年5月)
| 地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
| よみがな = かいづか
| ローマ字 = Kaizuka
| 電報略号 =
| 所属事業者= [[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)<br/>[[西日本鉄道]]
| 所在地 =[[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[箱崎 (福岡市)|箱崎]]七丁目1-1
| 座標 = {{coord|33|37|55.83|N|130|25|32.08|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
| 開業年月日= [[1950年]]([[昭和]]25年)[[4月10日]]<br/>(駅昇格)
| 駅構造 = [[地上駅]]
| ホーム = 1面2線(福岡市地下鉄)<br />1面2線(西日本鉄道)
| 廃止年月日=
| 乗車人員 =(福岡市地下鉄) -2020年-<br />5,281
| 乗降人員 =(西日本鉄道) -2022年-<br />16,071
| 統計年度 =
| 乗入路線数= 2
| 所属路線1 = [[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]](福岡市地下鉄)
| 前の駅1 = H06 [[箱崎九大前駅|箱崎九大前]]
| 駅間A1 = 1.0
| 駅間B1 =
| 次の駅1 =
| 駅番号1 = {{駅番号c|#07c|H07}}
| キロ程1 = 4.7 km([[中洲川端駅|中洲川端]]起点)<br/>[[姪浜駅|姪浜]]から12.8
| 起点駅1 =
| 所属路線2 = {{Color|yellow|■}}[[西鉄貝塚線|貝塚線]](西鉄)
| 前の駅2 =
| 駅間A2 =
| 駅間B2 = 1.4
| 次の駅2 = [[名島駅|名島]] NK02
| 駅番号2 = {{西鉄駅番号|NK|'''01'''}}
| キロ程2 = 0.0
| 起点駅2 = 貝塚
| 乗換 =
| 備考 = 1935 - 1950年 農科裏信号所<br>1950 - 1954年 西鉄多々良駅<br>1954 - 1962年 競輪場前駅
}}
{{駅情報
| 社色= #ccc
| 文字色= #000
| 駅名 = 貝塚駅
| 画像 =
| pxl =
| 画像説明 =
| よみがな = かいづか
| ローマ字 = Kaizuka
| 前の駅 = 九大中門
| 駅間A = 0.5
| 駅間B =
| 次の駅 =
| 電報略号 =
| 駅番号 =
| 所属事業者 = 西日本鉄道
| 所属路線 = [[西鉄福岡市内線|福岡市内線]](宮地岳線)
| キロ程 = 3.3
| 起点駅 = [[西鉄博多駅|千鳥橋]]
| 所在地 = [[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]]
| 座標 =
| 駅構造 = [[地上駅]]
| ホーム = 2面2線
| 開業年月日 = [[1950年]][[4月20日]]
| 廃止年月日 = [[1979年]][[2月10日]]
| 乗車人員 =
| 乗降人員 =
| 統計年度 =
| 乗換 =
| 備考 =
}}
'''貝塚駅'''(かいづかえき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[箱崎 (福岡市)|箱崎]]七丁目にある[[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)・[[西日本鉄道]](西鉄)の[[鉄道駅|駅]]である。福岡市地下鉄の[[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]と西鉄の[[西鉄貝塚線|貝塚線]]が乗り入れる。福岡市交通局の[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''H07'''、西日本鉄道の駅番号は'''NK01'''。
福岡市地下鉄の駅の[[シンボルマーク]]は福岡市出身の[[グラフィックデザイナー]]、[[西島伊三雄]]がデザインしたもので、[[茶色]]の[[巻貝]]。これは駅名の「貝」に因んだもので、中央の渦巻きは[[交通結節点|交通のポイント]]を表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/kaizuka.php |title=各駅情報 貝塚駅 |publisher=福岡市地下鉄 |accessdate=2023-01-03}}</ref>。
福岡市交通局の管区駅長所在駅で、貝塚管区駅として当駅 - [[中洲川端駅|中洲川端]]間の箱崎線全駅を管理しているが、[[JR西日本中国メンテック|JR西日本中国メンテック福岡支店]](旧 [[JR西日本福岡メンテック]])が駅業務を受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である<ref>{{Cite|url=https://j-c-maintec.co.jp/service/other/#category02|title=その他事業 福岡地下鉄駅業務|publisher=[[JR西日本中国メンテック]]|accessdate=2023-01-03}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1935年]]([[昭和]]10年)[[2月4日]]:箱崎松原 - 名島間に'''農科裏信号所'''を設置。
* [[1950年]](昭和25年)[[4月20日]]:'''西鉄多々良駅'''として駅昇格。(但し、所在地は当時存在した[[糟屋郡]][[多々良町]]ではない。)
* [[1954年]](昭和29年)[[3月5日]]:'''競輪場前駅'''に改称(駅前に[[福岡競輪場]]が開設されたことによる)。新博多(旧・[[西鉄博多駅|西鉄博多]]、のちの千鳥橋) - 競輪場前間に[[西鉄福岡市内線]]が乗り入れ。
* [[1962年]](昭和37年)[[11月1日]]:福岡競輪場の廃止により、'''貝塚駅'''に改称。
* [[1979年]](昭和54年)[[2月10日]]:西鉄福岡市内線廃止に伴い、千鳥橋 - 貝塚間が廃止。
* [[1983年]](昭和58年)[[9月12日]]:地下鉄2号線の駅名決定。仮称は「貝塚公園駅」であった。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月12日]]:福岡市地下鉄2号線(箱崎線)が開業<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |page = 121 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[7月1日]]:福岡市地下鉄の駅が業務委託駅となる<ref name="subway2020">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=61 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[3月7日]]:福岡市地下鉄改札で[[ICカード]][[はやかけん]]の利用開始。
* [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:貝塚線改札で[[nimoca]]導入、福岡市地下鉄・西鉄貝塚線双方の改札でnimoca・はやかけん・[[SUGOCA]]・Suicaの相互利用開始。
* [[2011年]](平成23年)[[3月2日]]:地下鉄貝塚駅に[[駅ナンバリング]]を導入。
* [[2017年]](平成29年)[[2月1日]]:西鉄貝塚駅に駅ナンバリングを導入<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-24|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2017/16_097.pdf|title=西鉄電車の全駅に駅ナンバリングを導入します!|format=PDF|publisher=西日本鉄道|accessdate=2017年3月20日}}</ref>。
== 駅構造 ==
箱崎線・貝塚線それぞれ[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。改札口を挟んで両線の乗り場が向かい合う形であり、段差なしでの乗り換えが可能となっている。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
| colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999" |'''福岡市交通局'''
|-
!のりば<!--事業者側による呼称--->!!路線!!行先!!備考
|-
!1・2
|[[File:Subway FukuokaHakozaki.svg|18px]] 福岡市地下鉄箱崎線
|[[中洲川端駅|中洲川端]]・[[天神駅|天神]]・[[西新駅|西新]]・[[姪浜駅|姪浜]]<small>方面</small>
|
|-
| colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999" |'''西日本鉄道'''
|-
!のりば<!--事業者側による呼称--->!!路線!!行先!!備考
|-
!1・2
|{{Color|yellow|'''■'''}}西鉄貝塚線
|[[千早駅#西鉄千早駅|千早]]・[[西鉄香椎駅|香椎]]・[[和白駅|和白]]・[[西鉄新宮駅|新宮]]<small>方面</small>
|
|}
昼間は地下鉄が箱崎線ホームの1番線、西鉄は貝塚線ホームの2番線から発車することが多い。
<gallery>
Fukuoka Kaizuka-STA Gate.jpg|福岡市交通局の改札口(2022年12月)
Fukuoka Kaizuka-STA Platform1-2.jpg|福岡市交通局のホーム(2022年12月)
Nishitetsu Kaizuka-STA Gate.jpg|西日本鉄道の改札口(2022年12月)
Platform of Kaizuka Station (Nishitetsu Kaizuka Line) 8.jpg|西日本鉄道のホーム(2020年7月)
</gallery>
=== 駅舎など ===
出入口は東側と西側に2か所ずつ、合計4か所あり、一部の出入口にはエレベーターが設置されている。地上駅であるが地上から直接出入りすることはできず、一度2階通路を経由する必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/kaizuka.php |title=貝塚駅 {{!}} 福岡市地下鉄 |access-date=2023-04-29 |publisher=福岡市交通局 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230326172516/https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/kaizuka.php |archive-date=2023-03-26}}</ref>。
両線の改札口は駅中央にあり、地下鉄と西鉄の改札口が向かい合って設置されている。地下鉄・西鉄の自動券売機はそれぞれ別の場所に設置されており、地下鉄の券売機はタッチパネル式、西鉄の券売機はボタン式である。地下鉄・西鉄とも改札口に自動改札機を設置している。地下鉄の定期券売り場は橋上部分にある。
地下鉄側コンコースにはかつて売店があったが閉店したのち、現在では「[[セブン-イレブン]]福岡市地下鉄貝塚駅店」が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics_2/tpd.cgi?gid=10337 |title=地下鉄貝塚駅構内にコンビニエンスストアが誕生!! |accessdate=2015-05-27 |date=2012-02-28 |publisher=福岡市交通局営業課 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140811215414/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics_2/tpd.cgi?gid=10337 |archivedate=2014年8月11日 |deadlinkdate=2015年5月}}</ref><ref>[http://www.sej.co.jp/sej_case/case/ekinaka/int_fukuoka_kaiduka.html ご担当者に聞く(福岡市地下鉄貝塚駅店様)] - セブン-イレブン・ジャパン、2015年1月27日閲覧</ref>。西鉄側コンコースにはかつて西鉄グループの[[立ち食いそば・うどん店|うどん店]]「やりうどん」があったが2008年に閉店。
西鉄貝塚線ホーム北側には、貝塚電車営業所ならびに[[多々良車両基地]]がある。貝塚線ホーム1番線横に、3.5キロポストが存在するが、これは千鳥橋基点時の名残である。
== 利用状況 ==
* '''福岡市交通局''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''6,433人'''であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |title=令和四年度事業概要 |format=PDF|publisher=福岡市地下鉄|date=2022-7|accessdate=2023-01-03}}</ref>、箱崎線内では1番多い。
** 上記の値には西日本鉄道からの乗継人員を含まない。西日本鉄道からの1日平均乗継人員は'''3,542人'''であり、これらを合算した1日平均'''乗車'''人員は'''9,975人'''となる。
* '''西日本鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''16,071人'''である<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道事業 |url=http://www.nishitetsu.co.jp/group/enterprise_1.html |website=西日本鉄道株式会社 |accessdate=2022-10-22 |language=ja}}</ref>。西鉄の駅としては第9位で<ref>順位は[[西日本鉄道#鉄道事業]]の項目を参照の事</ref>、西鉄天神大牟田線以外の駅では最も多い。<ref>[https://www.city.fukuoka.lg.jp/soki/tokeichosa/shisei/toukei/toukeisyo/2020/toukeisyo2020-21.html 2020年版 福岡市統計書] 2021年9月21日閲覧。</ref>。
** 上記の値には福岡市交通局との乗継人員を含む。
近年の1日平均乗降・乗車人員は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align: right;"
!rowspan="3"|年度
!colspan="2"|西日本鉄道
!colspan="3"|福岡市交通局
|-
!rowspan="2"|1日平均<br>乗降人員
!rowspan="2"|1日平均<br>乗車人員
!colspan="3"|1日平均乗車人員
|-
!乗車人員
!乗継人員
!合計
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|18,452
|9,321
|
|
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|18,162
|9,200
|
|
|
|-
|1998年(平成10年)
|17,562
|8,871
|
|
|
|-
|1999年(平成11年)
|17,189
|8,697
|
|
|
|-
|2000年(平成12年)
|16,636
|8,441
|
|
|
|-
|2001年(平成13年)
|16,142
|8,211
|4,288
|4,876
|'''9,164'''
|-
|2002年(平成14年)
|15,542
|7,795
|3,988
|5,078
|'''9,066'''
|-
|2003年(平成15年)
|14,738
|7,372
|3,846
|4,561
|'''8,407'''
|-
|2004年(平成16年)
|13,097
|6,953
|3,700
|4,215
|'''7,915'''
|-
|2005年(平成17年)
|13,633
|6,816
|3,775
|4,135
|'''7,910'''
|-
|2006年(平成18年)
|13,658
|6,830
|3,873
|4,046
|'''7,919'''
|-
|2007年(平成19年)
|12,292
|6,148
|3,830
|3,807
|'''7,637'''
|-
|2008年(平成20年)
|12,567
|6,285
|3,980
|3,959
|'''7,939'''
|-
|2009年(平成21年)
|12,321
|6,162
|4,241
|3,861
|'''8,102'''
|-
|2010年(平成22年)
|12,455
|6,227
|5,227
|3,271
|'''8,498'''
|-
|2011年(平成23年)
|12,522
|6,262
|5,560
|3,100
|'''8,660'''
|-
|2012年(平成24年)
|13,012
|6,057
|5,930
|3,139
|'''9,069'''
|-
|2013年(平成25年)
|13,806
|6,904
|6,338
|3,141
|'''9,479'''
|-
|2014年(平成26年)
|14,312
|7,216
|6,446
|3,121
|'''9,567'''
|-
|2015年(平成27年)
|15,088
|7,544
|6,841
|3,228
|'''10,069'''
|-
|2016年(平成28年)
|15,722
|7,860
|7,037
|3,513
|'''10,550'''
|-
|2017年(平成29年)
|16,195
|8,096
|7,257
|3,598
|'''10,855'''
|-
|2018年(平成30年)
|16,508
|8,255
|7,276
|3,686
|'''10,962'''
|-
|2019年(令和元年)
|16,924
|8,462
|7,365
|3,782
|'''11,147'''
|-
|2020年(令和2年)
|13,568
|
|5,281
|3,171
|'''8,452'''
|-
|2021年(令和3年)
|14,622
|
|5,610
|3,321
|'''8,931'''
|-
|2022年(令和4年)
|16,071
|
|6,433
|3,542
|'''9,975'''
|}
== 駅周辺 ==
駅周辺は貝塚団地を始めマンションが目立つ。
* [[鹿児島本線]] - 当駅東側を地下鉄・西鉄に並行して通っており、当駅周辺の[[箱崎駅]] - [[千早駅]]間に新駅を設置する予定である<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/10/16/201016kaizuka_sineki.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201016072634/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/10/16/201016kaizuka_sineki.pdf|format=PDF|language=日本語|title=鹿児島本線 千早〜箱崎駅間 新駅設置について|publisher=九州旅客鉄道|date=2020-10-16|accessdate=2020-10-16|archivedate=2020-10-16}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200916/k00/00m/040/244000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200917003403/https://mainichi.jp/articles/20200916/k00/00m/040/244000c|title=JR九州、九大跡地再開発で新駅検討 箱崎-千早間 乗り換えなしで博多駅に|newspaper=毎日新聞|date=2020-09-16|accessdate=2020-09-18|archivedate=2020-09-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/645259/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200918112340/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/645259/|title=JR九州が貝塚に新駅検討 地下鉄・西鉄の駅と近接 鹿児島線|newspaper=西日本新聞|date=2020-09-16|accessdate=2020-09-18|archivedate=2020-09-18}}</ref>。2027年頃に開業予定<ref>{{Cite press release |title=鹿児島本線 千早~箱崎駅間 新駅の開業時期見直しについて |publisher=九州旅客鉄道株式会社 |date=2023-05-12 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/05/12/kaidukasineki_minaoshi.pdf |format=PDF |language=ja |access-date=2023-05-15 }} </ref>。
* [[国道3号]] - 当駅西側を地下鉄・西鉄に並行して通る。
* 宇美川 - 当駅東側を流れ、駅北東部で[[多々良川]]に合流する。
* [[博多臨港線]] [[福岡貨物ターミナル駅]] - 当駅西側。
* [[福岡高速4号粕屋線|都市高速粕屋線]] - 当駅北側で西鉄の線路をオーバークロスする。駅北西に[[貝塚出入口 (福岡県)|貝塚出入口]]がある。
* [[流通センター通り (福岡市)|流通センター通り]] - 都市高速粕屋線に並行し、当駅北側で西鉄の線路をオーバークロスする。
* [[九州大学]]箱崎地区跡地 - 当駅から隣の箱崎九大前駅までの間の一帯がキャンパスとなっており、農学部・文系キャンパスは箱崎九大前駅より当駅が近かった。2018年秋に一部を残して伊都キャンパスに移転。
* 貝塚交通公園 - 駅前西側にある交通公園で、[[福岡競輪場]]跡地にある。地下鉄駅の仮称駅名の由来。
* [[東警察署 (福岡県)|福岡県東警察署]]
* [[福岡市立箱崎中学校]]
* [[福岡市立東箱崎小学校]]
* [[コカ・コーラボトラーズジャパンホールディングス]]本店
* [[ベッセル (不動産業)|ベッセルホテル]]福岡貝塚 - 旧[[チョイスホテルズジャパン|スリープイン]]福岡貝塚。国道3号沿いにあるビジネスホテル。
* 貝塚病院
* [[タラソ福岡]]
* 福岡市東部水処理センター
* 福岡市臨海3Rステーション
* [[マンガ倉庫]] 箱崎店
=== バス路線 ===
: '''2022年3月19日現在の路線'''(太字は終点停留所)
:: [[西鉄バス]] 貝塚駅バス停
* <span style="color:deepskyblue">■</span>{{Color|black|■}} 20
** '''貝塚駅''' - 築港口 - 石城町 - '''[[天神 (福岡市)|天神]]''' - [[薬院駅]]前 - 桜坂 - [[六本松]] - 鳥飼三丁目 - 地行 - '''[[福岡タワー]]([[TNC放送会館]])'''
: ※ほかに駅西側の国道3号上に「貝塚」バス停が、駅東側に「月見町」バス停がある。
== その他 ==
* [[福岡市交通局1000系電車|地下鉄1000系電車]]の一部には、かつて仮称である「貝塚公園」行の方向幕が装備されていた車両もあった。
== 廃止路線 ==
1979年2月10日まで、宮地岳線は当駅よりさらに西方の千鳥橋まで運行していた。当駅 - 千鳥橋は、1954年3月5日に複線化、改軌(標準軌)、600Vに降圧され、福岡市内線に編入された(貝塚線)。ただし、正式には宮地岳線のままであった。千鳥橋方面の駅構内は頭端式2面3線のホームで、津屋崎方面とは背中合わせの形態であった。津屋崎方面へは貝塚車庫への出入庫線があった。福岡市内線(貝塚線)廃止後、解体撤去された。
== 隣の駅 ==
; 福岡市交通局
: [[File:Subway FukuokaHakozaki.svg|18px]] 箱崎線
:: [[箱崎九大前駅]] (H06) - '''貝塚駅 (H07)'''
; 西日本鉄道
: {{Color|yellow|■}}貝塚線
:: '''貝塚駅(NK01)''' - [[名島駅]](NK02)
=== 廃止路線 ===
; 西日本鉄道
: {{Color|gray|■}}福岡市内線貝塚線(廃止)
:: 九大中門 - '''貝塚'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[福岡競輪場]]
== 外部リンク ==
* [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/kaizuka.php 貝塚駅] - 福岡市地下鉄
* [http://www.ensen24.jp/kaiduka-line/kaizuka.html 貝塚駅] - 西鉄電車各駅情報サイト
{{福岡市地下鉄箱崎線}}
{{西鉄貝塚線|mode=3}}
{{eki-stub}}
{{デフォルトソート:かいつか}}
[[Category:福岡市東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 か|いつか]]
[[Category:西日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:博多湾鉄道汽船の鉄道駅]]
[[Category:福岡市交通局の鉄道駅]]
[[Category:1950年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-04T23:16:50Z
|
2023-12-26T13:43:42Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E9%A7%85_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C)
|
15,112 |
福岡空港駅
|
福岡空港駅(ふくおかくうこうえき)は、福岡県福岡市博多区大字下臼井にある福岡市地下鉄空港線の駅。同線の終着駅であり、福岡空港国内線ターミナルの地下に位置する。駅番号はK13。
駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので、「空港」にちなんだ「空を飛ぶ飛行機」である。
博多駅が管理し、JR九州サービスサポートが駅業務を受託する業務委託駅である。
島式ホーム1面2線を持つ地下駅。ホームドアが設置されている。ホームは地下2階にあり、地下1階にコンコースがある。通常は2番のりばを使用し、1番のりばはラッシュ時等列車本数が多い時に使用する。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は23,041人であり、博多駅、天神駅に次ぐ第3位である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表のとおりである。
福岡空港の最寄り駅であるが、単なる空港最寄り駅にとどまらず、駅前には宇美町・志免町など郊外への一般路線バスも発着しているほか、空港ターミナル前には高速バスも多く発着しており、福岡市の交通の結節点としての役割も強い。
福岡市地下鉄空港線は、日本の地下鉄で唯一空港に直接乗り入れている路線である。東京国際空港(羽田空港)・成田国際空港(成田空港)も都営地下鉄浅草線直通列車が運行されているが、京浜急行電鉄空港線(羽田空港)ならびに京成電鉄本線・成田スカイアクセス線(共に成田空港)との相互直通運転によるものであり、空港駅を含む区間が「地下鉄」というわけではない。
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] |
福岡空港駅(ふくおかくうこうえき)は、福岡県福岡市博多区大字下臼井にある福岡市地下鉄空港線の駅。同線の終着駅であり、福岡空港国内線ターミナルの地下に位置する。駅番号はK13。 駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので、「空港」にちなんだ「空を飛ぶ飛行機」である。 博多駅が管理し、JR九州サービスサポートが駅業務を受託する業務委託駅である。
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{{駅情報
|社色 = #e51
|文字色 = #fff
|駅名 = 福岡空港駅
|画像 = Fukuoka City Transportation Bureau - Fukuoka Airport Station - 01.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 1番出口(2018年10月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = ふくおかくうこう
|ローマ字 = Fukuoka Airport
|前の駅 = K12 [[東比恵駅|東比恵]]
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|起点駅 = [[姪浜駅|姪浜]]
|所在地 = [[福岡市]][[博多区]]大字下臼井
|座標 = {{coord|33|35|49.48|N|130|26|54.75|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月3日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 12,487
|乗降人員 =
|統計年度 = 2020年
|乗換 =
|備考 =[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
'''福岡空港駅'''(ふくおかくうこうえき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]大字下臼井にある[[福岡市地下鉄空港線]]の[[鉄道駅|駅]]。同線の[[終着駅]]であり、[[福岡空港]]国内線ターミナルの地下に位置する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''K13'''。
駅の[[シンボルマーク]]は福岡市出身のグラフィックデザイナー、[[西島伊三雄]]がデザインしたもので、「空港」にちなんだ「空を飛ぶ[[飛行機]]」である。
[[博多駅]]が管理し、[[JR九州サービスサポート]]が駅業務を受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である<ref>{{Cite|url=https://www.jrksp.co.jp/guide/guide01.html|title=鉄道駅業務・旅行事業|publisher=[[JR九州サービスサポート]]}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月3日]]:[[博多駅|博多]] - 当駅間開通と同時に開業。
* [[2018年]](平成30年)[[4月1日]]:業務委託駅となる<ref name="subway2020">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=64 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月28日]]:従来の改札(東口)の反対側に地下鉄アクセスホール改札(西口)の運用を開始<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=775 福岡空港駅ターミナルビル直結の新改札口が開業します。] - 福岡市交通局経営企画課(2019年3月13日)</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を持つ[[地下駅]]。[[ホームドア]]が設置されている。ホームは地下2階にあり、地下1階にコンコースがある。通常は2番のりばを使用し、1番のりばはラッシュ時等列車本数が多い時に使用する。
{| style="border-collapse: collapse;"
|style="border-bottom: solid 1px gray; border-top: solid 1px gray; padding: 2px .5em;"|'''地階'''
|style="border-top: solid 1px gray; border-bottom: solid 1px gray; padding: 2px .5em;"|出入口
|style="border-top: solid 1px gray; border-bottom: solid 1px gray;"|[[#出入口|出入口]]
|-
|rowspan="2" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|'''地下1階'''
|rowspan="2" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|コンコース階
|コンコース、案内所、[[自動券売機]]、[[自動改札機|自動改札口]]
|-
|style="border-bottom: solid 1px gray;"|[[便所|トイレ]]<span style="font-size: 90%;">(改札内)</span>、地下鉄アクセスホール
|-
|rowspan="3" style="border-bottom: solid 1px gray; vertical-align: top; padding: 2px .5em;"|'''地下2階'''
|style="padding: 2px .5em;"|1番ホーム
|←■空港線 [[姪浜駅|姪浜]]・[[唐津駅|唐津]]方面<span style="font-size: 90%;">([[東比恵駅]])</span>
|-
|colspan="2" style="border-top: solid 2px black; border-right: solid 2px black; border-left: solid 2px black; border-bottom: solid 2px black; text-align: center; font-size: 90%;"|[[島式ホーム]]、ホーム側のドアが開く
|-
|style="border-bottom: solid 1px gray; padding: 2px .5em;"|2番ホーム
|style="border-bottom: solid 1px gray;"|←■空港線 姪浜・唐津方面<span style="font-size: 90%;">(東比恵駅)</span>
|}
<gallery>
Fukuoka-kuko-STA Domestic-Passenger-Terminal-Gate.jpg|ターミナル改札口(2022年12月)
Fukuoka-kuko-STA International-flight-shuttle-bus-Gate.jpg|国際線連絡バス改札口(2022年12月)
Fukuoka-kuko-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2022年12月)
Fukuokakuko station.jpg|駅名標(2007年8月)
</gallery>
=== 出入口 ===
* 1番出口 - 南西側
* 2番出口 - 北西側
* 3番出口 - 南東側
* 4番出口 - 東側
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''23,041人'''であり、[[博多駅]]、[[天神駅]]に次ぐ第3位である。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
|-
|2001年(平成13年)
|20,774
|-
|2002年(平成14年)
|20,746
|-
|2003年(平成15年)
|20,177
|-
|2004年(平成16年)
|20,098
|-
|2005年(平成17年)
|20,017<ref name="subway2010">{{Cite web|和書|title=福岡市高速鉄道事業概要 平成22年 |publisher=福岡市交通局 |page=24 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2011-06-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110609231706/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|20,094<ref name="subway2010" />
|-
|2007年(平成19年)
|20,053<ref name="subway2010" />
|-
|2008年(平成20年)
|19,885<ref name="subway2010" />
|-
|2009年(平成21年)
|19,116<ref name="subway2010" />
|-
|2010年(平成22年)
|18,994<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市高速鉄道事業概要 平成23年 |publisher=福岡市交通局 |page=24 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2012-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119232257/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|19,732<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市高速鉄道事業概要 平成24年 |publisher=福岡市交通局 |page=24 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2013-08-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130829055432/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|21,203<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市高速鉄道事業概要 平成25年 |publisher=福岡市交通局 |page=24 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2014-04-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140411193404/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|22,640<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成26年度 |publisher=福岡市交通局 |page=25 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2015-05-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150526172252/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|23,748<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成27年度 |publisher=福岡市交通局 |page=26 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2016-03-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305060857/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|24,901<ref name="subway2017">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成29年度 |publisher=福岡市交通局 |page=26 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2018-01-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180111224040/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|25,839<ref name="subway2017" />
|-
|2017年(平成29年)
|26,728<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成30年度 |publisher=福岡市交通局 |page=26 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2019-06-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190605084227/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|27,742<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和元年度 |publisher=福岡市交通局 |page=28 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2020-02-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200214092410/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|27,845<ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=28 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>
|-
|2020年(令和 2年)
|12,487<ref name=":0">{{PDFlink|[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/panf_hito.pdf 令和3年度 地下鉄概要パンフレット]}} - 福岡市交通局</ref>
|-
|2021年(令和 3年)
|15,513<ref name=":0" />
|-
|2022年(令和 4年)
|23,041<ref name=":0" />
|}
== 駅周辺 ==
[[福岡空港]]の最寄り駅であるが、単なる空港最寄り駅にとどまらず、駅前には[[宇美町]]・[[志免町]]など郊外への一般路線バスも発着しているほか、空港ターミナル前には高速バスも多く発着しており、福岡市の[[交通結節点|交通の結節点]]としての役割も強い。
* 福岡空港国内線ターミナル
* 福岡空港国際線ターミナル - 国内線ターミナルより無料連絡バスが運行している。
* [[福岡空港警察署]]
* [[福岡市東部農業協同組合]]空港前支店
* [[福岡市立席田小学校]]
* [[東平尾公園]](博多の森)
=== バス路線 ===
{{See also|福岡空港#バス路線}}
* 福岡空港第1・第2バス停 - 1番出口前
** 高速バス・特急バス・急行バス
* 福岡空港前バス停 - 3番出口前
** [[博多駅]]・志免・[[須恵町|須恵]]方面
* 福岡空港前バス停 - 4番出口前
** [[金隈]]・[[南福岡駅]]・[[イオンモール福岡]]・志免・須恵・宇美方面
** このほか、博多の森(東平尾公園)の最寄り駅となっていることから、[[東平尾公園博多の森球技場|ベスト電器スタジアム]]で[[アビスパ福岡]]のホームゲームが開催される日には、試合開始3時間前から直行シャトルバスが運行される。
== その他 ==
福岡市地下鉄空港線は、[[日本の地下鉄]]で唯一空港に直接乗り入れている路線である。[[東京国際空港]](羽田空港)・[[成田国際空港]](成田空港)も[[都営地下鉄浅草線]]直通列車が運行されているが、[[京浜急行電鉄]][[京急空港線|空港線]](羽田空港)ならびに[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]](共に成田空港)との[[直通運転|相互直通運転]]によるものであり、空港駅を含む区間が「地下鉄」というわけではない。
== 隣の駅 ==
; 福岡市交通局
:[[ファイル:Subway FukuokaKuko.svg|18px]] 空港線
:: [[東比恵駅]] (K12) - '''福岡空港駅 (K13)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/kuko.php 福岡空港駅] - 福岡市地下鉄
{{福岡市地下鉄空港線}}
{{デフォルトソート:ふくおかくうこう}}
[[Category:博多区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ふ|くおかくうこう]]
[[Category:福岡市交通局の鉄道駅]]
[[Category:日本の空港駅]]
[[Category:1993年開業の鉄道駅]]
[[Category:福岡空港|えき]]
|
2003-09-04T23:17:56Z
|
2023-11-29T17:13:55Z
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[
"Template:脚注ヘルプ",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E9%A7%85
|
15,113 |
姪浜駅
|
姪浜駅(めいのはまえき)は、福岡県福岡市西区姪の浜四丁目にある、福岡市交通局(福岡市地下鉄)・九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。駅番号は福岡市交通局がK01、JR九州がJK01である。事務管コードは▲911806。
福岡市交通局の空港線と、JR九州の筑肥線の2路線が乗り入れており、それぞれの起点となっているが、空港線の列車の約半数が筑肥線に、筑肥線の全列車が空港線にそれぞれ直通運転しており、福岡空港駅 - 唐津駅・西唐津駅間の路線の中間駅としての性格が強い。なおJR九州の車両は空港線全区間に乗り入れているが、福岡市交通局の車両は筑肥線内は筑前前原駅までの運行である。
福岡市交通局とJR九州の共同使用駅で駅自体は福岡市交通局が管轄しているため、空港線開業時点では国鉄ならびにJRの駅数には計上されていなかったが、現在の有価証券報告書等に記載されるJR九州の公称駅数は、当駅も含んだ数となっている。かつては日本国有鉄道(国鉄)筑肥線の中間駅だったため駅は国鉄が管轄していたが、1983年の空港線(当時は1号線)開業および筑肥線の部分廃止、1987年の国鉄分割民営化により現在の形となった。
当駅は福岡市交通局の管轄であるが、駅名標は長らく空港線・箱崎線の福岡市地下鉄標準デザインではなく、国鉄のデザインに準拠したもの(書体は汎用の写植文字)を用いていた。福岡市地下鉄の駅番号導入以降は駅番号アイコンが追加されたが、2018年のJR九州の駅番号導入の際に両方の駅番号アイコンとヨットのシンボルマークを入れた福岡市地下鉄オリジナルデザイン(漢字表記が大きめ)のものに更新された。
2019年度までは福岡市交通局の管区駅長所在駅で、姪浜管区駅として当駅 - 藤崎駅間を管理していた。現在は天神管区駅の被管理駅となっているが、同管区駅傘下の姪浜駅長所在駅となっており、引き続き福岡市交通局の直営駅である。
島式ホーム2面4線を有する高架駅。内側2・3番線を当駅発着(地下鉄方面)列車が使用し、下山門にある福岡市地下鉄姪浜車両基地へつながっている。外側1・4番線をJR筑肥線直通の列車が使用する。事故や災害等でダイヤが乱れた場合は筑肥線の列車も姪浜発着となる場合があり、その際は対面のホームでの乗り換えとなる。
折返し運転となる場合、筑肥線からの列車は1番線に入り、回送車として一度下山門側へ引き上げ、その後3または4番線に入って筑肥線の当駅始発列車となる。このとき地下鉄からの姪浜終着の列車は3または4番線に入って対面接続を取っている。
地下鉄線の引上げ線はなく、上述の筑肥線の引上げは車庫への線路を利用している。
JRの長距離きっぷは購入不可能である。
駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので駅付近にある小戸ヨットハーバーにちなんだヨットである。
当駅は筑肥線の起点ではあるが、ホーム横にあるキロポストは12.5kmとなっている。これは筑肥線の博多駅から鳥飼駅経由の距離であり、この12.5の数字は1963年に移転する前の博多駅(博多駅#歴史の節参照)の位置からの距離を示している。
ダイヤ乱れの際は3番線から筑肥線の列車が発車し、4番線に地下鉄線の終着列車が入ることもある。
などが入居している。
なお、かつては
も姪浜駅内ないしえきマチ1丁目に入居していたが閉店している。
近年の1日平均乗車人員は下表のとおりである。
高層マンションが並ぶ住宅街である。駅前にはバスターミナルがあり、バスが多数発着している。
西鉄バス
昭和バス
姪浜タクシー
2008年から2009年にかけて福岡県内の鉄道会社が相次いで導入した交通系ICカードについては、福岡市交通局の駅であることから、まず、2009年3月7日に地下鉄系の「はやかけん」から対応した。
乗り入れているJR九州の「SUGOCA」と、西日本鉄道の「nimoca」及びJR東日本の「Suica」については、2010年3月13日の相互利用開始時に対応を開始。それまでは地下鉄とJRを乗り通す場合、「ワイワイカード」のみが対応していた。しかし福岡市地下鉄の管理駅であることから駅では「はやかけん」しか発売されていない。
2011年3月5日より「SUGOCA」とJR西日本の「ICOCA」・JR東海の「TOICA」との相互利用を開始した当時、これに「はやかけん」は加わっておらず姪浜駅が福岡市地下鉄の駅であることから、ICOCA・TOICAでは地下鉄全線とJR筑肥線・唐津線(姪浜駅~西唐津駅間)の乗車には利用できなかったが、福岡市交通局も参加し主要鉄道会社間で大規模な相互利用協定に向けた協議が始められた結果、合意に達したため、2013年3月23日よりICOCA・TOICAのみならずKitaca・PASMO・manaca・PiTaPa参加ICカード全てが相互利用可能となった。
|
[
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"text": "福岡市交通局の空港線と、JR九州の筑肥線の2路線が乗り入れており、それぞれの起点となっているが、空港線の列車の約半数が筑肥線に、筑肥線の全列車が空港線にそれぞれ直通運転しており、福岡空港駅 - 唐津駅・西唐津駅間の路線の中間駅としての性格が強い。なおJR九州の車両は空港線全区間に乗り入れているが、福岡市交通局の車両は筑肥線内は筑前前原駅までの運行である。",
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"text": "乗り入れているJR九州の「SUGOCA」と、西日本鉄道の「nimoca」及びJR東日本の「Suica」については、2010年3月13日の相互利用開始時に対応を開始。それまでは地下鉄とJRを乗り通す場合、「ワイワイカード」のみが対応していた。しかし福岡市地下鉄の管理駅であることから駅では「はやかけん」しか発売されていない。",
"title": "ICカードへの対応"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2011年3月5日より「SUGOCA」とJR西日本の「ICOCA」・JR東海の「TOICA」との相互利用を開始した当時、これに「はやかけん」は加わっておらず姪浜駅が福岡市地下鉄の駅であることから、ICOCA・TOICAでは地下鉄全線とJR筑肥線・唐津線(姪浜駅~西唐津駅間)の乗車には利用できなかったが、福岡市交通局も参加し主要鉄道会社間で大規模な相互利用協定に向けた協議が始められた結果、合意に達したため、2013年3月23日よりICOCA・TOICAのみならずKitaca・PASMO・manaca・PiTaPa参加ICカード全てが相互利用可能となった。",
"title": "ICカードへの対応"
}
] |
姪浜駅(めいのはまえき)は、福岡県福岡市西区姪の浜四丁目にある、福岡市交通局(福岡市地下鉄)・九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。駅番号は福岡市交通局がK01、JR九州がJK01である。事務管コードは▲911806。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 姪浜駅
|画像 = Meinohama-STA South.jpg
|pxl =300px
|画像説明 = 南口(2021年12月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = めいのはま
|ローマ字 = Meinohama
|所在地 = [[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]][[姪浜|姪の浜]]四丁目8-1
|座標 = {{coord|33|35|1.33|N|130|19|30.85|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]<ref name="zeneki08">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =08号 博多駅・伊万里駅・西戸崎駅ほか81駅 |date =2012-09-30 |page =25 }}</ref>
|ホーム = 2面4線{{R|zeneki08}}
|開業年月日 = [[1925年]]([[大正]]14年)[[4月15日]](筑肥線・唐津方面)<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=723}}</ref><br />[[1983年]]([[昭和]]58年)[[3月22日]](空港線){{R|停車場}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = {{Small|(JR九州)-2021年-}}<br />5,083人/日(降車客含まず)<!--JR九州HPによる--><hr />{{Small|(福岡市交通局)-2020年-}}<br />16,764<!--直通人員を含まない-->
|乗降人員 =
|統計年度 =
|乗換 =
|電報略号 = メイ
|乗入路線数 = 2
|所属事業者 = [[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)<br/>[[九州旅客鉄道]](JR九州)
|駅番号1 = {{駅番号c|#e51|K01}}
|所属路線1 = [[福岡市地下鉄空港線]]*
|前の駅1 =
|駅間A1 =
|駅間B1 = 1.5
|次の駅1 = [[室見駅|室見]] K02
|キロ程1 = 0.0
|起点駅1 = 姪浜
|所属路線2 = {{JR九駅番号|JK}} [[筑肥線]]*(JR九州)
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.6
|次の駅2 = [[下山門駅|下山門]] JK02
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 姪浜
|備考 = [[共同使用駅]](福岡市交通局の管轄駅)<br/>[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
|備考全幅 = * 両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。
|駅番号2={{JR九駅番号|JK|01}}}}
{{駅情報
|社色 = #ccc
|文字色 = #000
|駅名 = 姪浜駅
|よみがな = めいのはま
|ローマ字 = Meinohama
|前の駅 = [[西新駅 (国鉄)|西新]]
|駅間A = 2.8
|所属事業者 = [[日本国有鉄道]](国鉄)
|所属路線 = [[筑肥線]]
|キロ程 = 11.7
|起点駅 = [[博多駅|博多]]
|開業年月日 = 1925年(大正14年)[[6月15日]](筑肥線・博多方面)
|廃止年月日 = 1983年(昭和58年)3月22日{{R|停車場}}
}}
[[画像:Fukuoka Meinohama subway station 2.jpg|thumb|250px|北口(2004年12月)]]
'''姪浜駅'''(めいのはまえき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]][[姪浜|姪の浜]]四丁目にある、[[福岡市交通局]](福岡市地下鉄)・[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は福岡市交通局が'''K01'''、JR九州が'''JK01'''である。[[事務管理コード|事務管コード]]は▲911806<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。
== 概要 ==
福岡市交通局の[[福岡市地下鉄空港線|空港線]]と、JR九州の[[筑肥線]]の2路線が乗り入れており、それぞれの起点となっているが、空港線の列車の約半数が筑肥線に、筑肥線の全列車が空港線にそれぞれ[[直通運転]]しており、[[福岡空港駅]] - [[唐津駅]]・[[西唐津駅]]間の路線の中間駅としての性格が強い。なおJR九州の車両は空港線全区間に乗り入れているが、福岡市交通局の車両は筑肥線内は[[筑前前原駅]]までの運行である。
福岡市交通局とJR九州の[[共同使用駅]]で駅自体は福岡市交通局が管轄しているため、空港線開業時点では国鉄ならびにJRの駅数には計上されていなかったが<ref group="注釈">同様のケースとして、[[常磐緩行線|常磐線]][[綾瀬駅]]・[[紀勢本線]][[和歌山市駅]]・[[予土線]][[若井駅]]および[[鹿児島交通枕崎線]]が接続していた時代の[[枕崎駅]]があり、若井駅は現在も同様の措置が採られている。</ref>、現在の有価証券報告書等に記載されるJR九州の公称駅数は、当駅も含んだ数となっている。かつては[[日本国有鉄道]](国鉄)筑肥線の中間駅だったため駅は国鉄が管轄していたが、[[1983年]]の空港線(当時は1号線)開業および筑肥線の部分廃止、[[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]により現在の形となった<ref group="注釈">同じく地下鉄乗り入れで管轄が変わった例として、[[御陵駅]]([[京都市交通局]]・[[京阪電気鉄道|京阪]])や[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]](京都市交通局・[[近畿日本鉄道|近鉄]])、[[天神橋筋六丁目駅]]([[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]・[[阪急電鉄|阪急]])、[[綾瀬駅]]([[東京メトロ千代田線]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])がある。[[渋谷駅]]([[東急田園都市線]]・[[東京メトロ半蔵門線]])も地下鉄乗り入れ後は[[東京地下鉄|東京メトロ]](変更当時は[[帝都高速度交通営団|営団]])に管轄が変わったが、現在は[[東急電鉄|東急]]管轄に戻っている。</ref>。
当駅は福岡市交通局の管轄であるが、[[駅名標]]は長らく空港線・箱崎線の福岡市地下鉄標準デザインではなく、国鉄のデザインに準拠したもの(書体は汎用の写植文字)を用いていた。福岡市地下鉄の駅番号導入以降は駅番号アイコンが追加されたが、2018年のJR九州の駅番号導入の際に両方の駅番号アイコンとヨットのシンボルマークを入れた福岡市地下鉄オリジナルデザイン(漢字表記が大きめ)のものに更新された。
2019年度までは福岡市交通局の管区駅長所在駅で、姪浜管区駅として当駅 - [[藤崎駅 (福岡県)|藤崎駅]]間を管理していた<ref name="subway2019">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和元年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2020-02-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200214092410/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。現在は[[天神駅|天神管区駅]]の被管理駅となっているが、同管区駅傘下の姪浜駅長所在駅となっており、引き続き福岡市交通局の直営駅である<ref name="subway2020">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1925年]]([[大正]]14年)
** [[4月15日]]:[[北九州鉄道]]の当駅 - 前原駅(現在の[[筑前前原駅]])間の延伸開業に伴い、'''姪ノ浜駅'''として開設<ref>[{{NDLDC|2955946/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年4月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{R|停車場}}。
** [[6月15日]]:北九州鉄道の新柳町駅(後の[[筑前高宮駅]]) - 当駅間の延伸開業に伴い、途中駅となる<ref>[{{NDLDC|2955994/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年6月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1937年]]([[昭和]]12年)[[10月1日]]:北九州鉄道が[[鉄道省]]により買収され、国有化。'''姪浜駅'''に改称し、筑肥線の所属駅となる<ref>[{{NDLDC|2959709/11}} 「鉄道省告示第359号・第360号」『官報』1937年9月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{R|停車場}}。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:日本国有鉄道法施行に伴い、筑肥線が[[公共企業体]][[日本国有鉄道]](国鉄)に移管。
* [[1981年]](昭和56年)[[7月26日]]:福岡市地下鉄1号線の[[室見駅]] - [[天神駅]]間が開業<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.175</ref>。
** 開業当初、地下鉄は[[姪浜車両基地]] - 当駅 - 室見駅間が未完成であったため、車庫に入庫する地下鉄の車両はトンネルの出口から筑肥線への連絡線上まで自走した後、蓄電池式の機関車BB-1が牽引して筑肥線の当駅構内を通り、車両基地に入るという方式を採用していた。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月22日]]:国鉄筑肥線の当駅 - [[唐津駅]]間の[[鉄道の電化|電化]]([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]])が完成し、[[博多駅]] - 当駅間が廃止。当駅は高架化され、筑肥線の起点となる{{R|停車場}}。当駅 - [[浜崎駅]]間の貨物営業を廃止。地下鉄1号線の当駅 - 室見駅間と[[中洲川端駅]] - 博多駅(仮駅)間が開通し、地下鉄1号線と国鉄筑肥線の相互直通運転を開始。当駅は福岡市交通局の管轄駅となり、[[特定都区市内|福岡市内]]駅から外れる。急行「[[シーサイドライナー (列車)#大村線優等列車沿革|平戸]]」の運転区間短縮に伴い、当駅に停車する優等列車が消滅する。
* [[1986年]](昭和61年)[[7月20日]]:筑肥線の当駅 - [[下山門駅]]間が複線化。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、筑肥線が[[九州旅客鉄道]](JR九州)に継承される{{R|停車場}}。
* [[1993年]](平成5年)[[3月3日]]:福岡市地下鉄1号線の博多駅 - [[福岡空港駅]]間が開業し、同線に「'''空港線'''」の愛称が付く。
* [[2009年]]([[平成]]21年)[[3月7日]]:[[ICカード]]「[[はやかけん]]」の供用開始(当初の1年間は福岡市地下鉄のみの対応となった)。
* [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:筑肥線方面へのICカード「[[SUGOCA]]」の供用開始<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=3 |date=2010.3.16 }}</ref>、はやかけん・[[nimoca]]・[[Suica]]とも相互利用開始。
* [[2013年]](平成25年)[[3月23日]]:上記のICカードのほか[[ICOCA]]・[[TOICA]]・[[Kitaca]]・[[PASMO]]・[[manaca]]・[[PiTaPa]]とも相互利用開始。
* [[2015年]](平成27年)4月1日:[[唐人町駅]]を[[天神駅|天神管区駅]]へ移管する<ref name="subway2014">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成26年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2015-05-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150526172252/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref><ref name="subway2015">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成27年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2016-03-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305060857/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)4月1日:[[西新駅]]を天神管区駅へ移管する<ref name="subway2018">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 平成30年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2019-06-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190605084227/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref><ref name="subway2019"/>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)4月1日:姪浜管区駅が廃止され天神管区駅へ統合。同駅の被管理駅となる<ref name="subway2019"/><ref name="subway2020"/>。
<gallery>
画像:JNR_Chikuhi_Line_at_Meinohama_stn.jpg|旧線末期のホーム。旧地上ホームと未開業の高架ホームが併存している(1981年)
ファイル:姪浜駅(旧駅舎).jpg|地上駅時代の旧駅舎(1975年)
</gallery>
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]{{R|zeneki08}}。内側2・3番線を当駅発着([[福岡市地下鉄空港線|地下鉄]]方面)列車が使用し{{R|zeneki08}}、下山門にある福岡市地下鉄[[姪浜車両基地]]へつながっている。外側1・4番線をJR筑肥線直通の列車が使用する{{R|zeneki08}}。事故や災害等でダイヤが乱れた場合は筑肥線の列車も姪浜発着となる場合があり、その際は対面のホームでの乗り換えとなる。
折返し運転となる場合、筑肥線からの列車は1番線に入り、回送車として一度下山門側へ引き上げ、その後3または4番線に入って筑肥線の当駅始発列車となる。このとき地下鉄からの姪浜終着の列車は3または4番線に入って対面接続を取っている。
地下鉄線の引上げ線はなく、上述の筑肥線の引上げは車庫への線路を利用している。
JRの長距離きっぷは購入不可能である<ref group="注釈">開業当初は博多連絡の一部中長距離区間の硬券(地図式常備券と準常備券)を福岡市営地下鉄の定期券発売所で販売していたが、硬券の廃止以降は長距離の連絡乗車券の窓口発売を行っていない。一方JR九州では駅構内に所在した[[JR九州旅行]]姪浜支店が事実上姪浜駅のJR窓口として連絡乗車券やJR単独券を取り扱っていた。さらにはJR九州様式の姪浜駅入場券(入場券は別途福岡市営地下鉄の券売機でも地下鉄様式で販売)もマルス端末または常備券で発売していたが、2014年3月31日に同支店が閉店したため不可能になった。</ref>。
駅の[[シンボルマーク]]は福岡市出身のグラフィックデザイナー、[[西島伊三雄]]がデザインしたもので駅付近にある小戸ヨットハーバーにちなんだヨットである。
当駅は筑肥線の起点ではあるが、ホーム横にあるキロポストは12.5kmとなっている。これは筑肥線の[[博多駅]]から[[鳥飼駅]]経由の距離であり、この12.5の数字は[[1963年]]に移転する前の博多駅([[博多駅#歴史]]の節参照)の位置からの距離を示している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/report/177/|title=姪浜駅のキロポストに隠された秘密 実際のキロ程と食い違う理由とは|publisher=鉄道コム|accessdate=2019-07-20}}</ref>。
=== のりば ===
{| class="wikitable" rules="rows"
|-
!番線!!路線!!行先
|-
!1 - 3
|[[File:Subway FukuokaKuko.svg|18px]] 空港線
|[[天神駅|天神]]・[[博多駅|博多]]・[[福岡空港駅|福岡空港]]・[[貝塚駅 (福岡県)|貝塚]]{{smaller|方面}}
|-
!4
|{{JR九駅番号|JK}} 筑肥線
|[[筑前前原駅|筑前前原]]・[[唐津駅|唐津]]・[[西唐津駅|西唐津]]{{smaller|方面}}
|}
ダイヤ乱れの際は3番線から筑肥線の列車が発車し、4番線に地下鉄線の終着列車が入ることもある。<gallery>
File:Meinohama-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム
File:Meinohama-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム
File:Meinohama-STA West-Gate.jpg|西改札口
File:Meinohama-STA Ekimachi-1-Gate.jpg|えきマチ一丁目口改札
File:Meinohama Station Sign 4.jpg|小戸ヨットハーバーをイメージしたイラストが付加された現行駅名標
File:Meinohama Station Sign.jpg|2018年まで使用されていた国鉄風デザインの駅名標
</gallery>
=== 駅構内の施設 ===
[[画像:Ekimachi-1Chome_Meinohama.jpg|thumb|200px|right|えきマチ1丁目 姪浜<br/>(2014年11月)]]
*[[ファミリーマート]]<ref group="注釈">旧:[[生活列車]]→[[am/pm]]</ref>([[JR九州リテール]]運営)JR姪浜駅店(駅高架下)
*[[セブン-イレブン]]福岡市地下鉄姪浜駅店(駅コンコース内)
* [[えきマチ1丁目]]姪浜<ref group="注釈">旧:姪浜[[デイトス]]・駅構内に食料品やカフェ、ファッション、サービス店等の店が約30店舗ある商業施設 姪浜駅は1号店にあたる</ref>
**[[ロッテリア]]
**[[シアトルズベストコーヒー]]
などが入居している。
なお、かつては
*やりうどん([[西日本鉄道|西鉄]]系列の[[立ち食いそば・うどん店#駅そば|うどん店]])
*[[トランドール]](駅高架下)
*[[キヨスク]](同上・駅コンコース内)
*[[ソフトバンクショップ]]<ref group="注釈">[[デジタルツーカー]]時代に開店。その後、J-フォンショップ・[[ボーダフォン]]ショップを経てソフトバンクショップとなった。</ref>
*カレーの298(えきマチ1丁目内・[[ふくや]]のグループ店舗)
も姪浜駅内ないしえきマチ1丁目に入居していたが閉店している。
== 利用状況 ==
* '''JR九州''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''5,083人'''である<ref name="jr-2021"/>。
*: 上記の値には福岡市交通局からの直通人員を含まない。
*: JR九州管内の駅の中では[[九産大前駅]]に次ぐ第31位。
* '''福岡市交通局''' - 2022年度の1日平均'''乗車'''人員は'''19,188人'''である<ref>{{PDFlink|[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/panf_hito.pdf 令和5年度 地下鉄概要パンフレット]}} - 福岡市交通局</ref>。
*: 福岡市交通局では、[[博多駅]]、[[天神駅]]、[[福岡空港駅]]、[[天神南駅]]、[[西新駅]]についで多い。上記の値にはJR九州からの直通人員を含まない。JR九州からの1日平均直通人員は'''23,095人'''であり、これらを合算した1日平均乗車人員は'''42,283人'''となる。
近年の1日平均'''乗車'''人員は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align: right;"
!rowspan="3"|年度
!JR九州
!colspan="3"|福岡市交通局
|-
!rowspan="2"|1日平均<br>乗車人員
!colspan="3"|1日平均乗車人員
|-
!乗車人員
!直通人員
!合計
|-
|2001年(平成13年)
|
|20,581
|23,798
|'''44,379'''
|-
|2002年(平成14年)
|
|18,993
|22,797
|'''41,790'''
|-
|2003年(平成15年)
|
|19,035
|22,056
|'''41,091'''
|-
|2004年(平成16年)
|
|19,048
|21,540
|'''40,588'''
|-
|2005年(平成17年)
|4,830
|18,122
|21,249
|'''39,371'''
|-
|2006年(平成18年)
|5,314
|18,455
|22,020
|'''40,475'''
|-
|2007年(平成19年)
|5,503
|18,603
|22,501
|'''41,104'''
|-
|2008年(平成20年)
|5,608
|18,460
|22,909
|'''41,369'''
|-
|2009年(平成21年)
|5,495
|18,861
|22,544
|'''41,405'''
|-
|2010年(平成22年)
|5,630
|18,850
|23,789
|'''42,639'''
|-
|2011年(平成23年)
|5,446
|19,164
|24,463
|'''43,627'''
|-
|2012年(平成24年)
|5,388
|19,466
|25,408
|'''44,874'''
|-
|2013年(平成25年)
|5,360
|19,727
|26,547
|'''46,274'''
|-
|2014年(平成26年)
|5,327
|19,989
|26,729
|'''46,718'''
|-
|2015年(平成27年)
|5,384
|20,388
|27,299
|'''47,687'''
|-
|2016年(平成28年)
|<ref name="jr-2016">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2016jousya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170801162701/http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2016jousya.pdf|title=駅別乗車人員上位300駅(平成28年度)|archivedate=2017-08-01|accessdate=2020-08-31|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>5,547
|20,984
|27,673
|'''48,657'''
|-
|2017年(平成29年)
|<ref name="jr-2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2017ekibetsu.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190706113212/http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2017ekibetsu.pdf|title=駅別乗車人員上位300駅(2017年度)|archivedate=2019-07-06|accessdate=2020-08-24|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>5,862
|21,548
|28,269
|'''49,817'''
|-
|2018年(平成30年)
|<ref name="jr-2018">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2018ekibetsu.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200315132711/https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2018ekibetsu.pdf|title=駅別乗車人員上位300駅(2018年度)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2020-03-15|accessdate=2020-03-27|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>6,105
|22,128
|29,249
|'''51,377'''
|-
|2019年(令和元年)
|<ref name="jr-2019">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2019ekibetsu.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200824052042/https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2019ekibetsu.pdf|title=駅別乗車人員上位300駅(2019年度)|archivedate=2020-08-24|accessdate=2020-08-24|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>6,232
|22,125
|28,722
|'''50,847'''
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
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|2022年(令和{{0}}4年)
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|19,188
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|'''42,283'''
|}
== 駅周辺 ==
高層マンションが並ぶ住宅街である。駅前にはバスターミナルがあり、バスが多数発着している。
* 西区役所
* 西市民センター
** 福岡市西図書館
* 西保健所
* [[公共職業安定所|ハローワーク]]福岡西
* [[日本年金機構]]西福岡年金事務所
* 小戸公園
* 福岡市ヨットハーバー
* 能古渡船場: [[能古島]]行き市営渡船のりば
* [[イオンマリナタウン店]]
* [[マックスバリュ]]エクスプレス姪浜駅前店
* [[西鉄ストア]]姪浜店
* [[ウエストコート姪浜]]
* [[マリノアシティ福岡]]
* 西福岡マリーナ マリノア
* 福岡市立内浜小学校
* [[福岡市立内浜中学校]]
* [[福岡市立姪浜小学校]]
* 福岡市立姪北小学校
* 福岡市立愛宕浜小学校
* [[福岡市立姪浜中学校]]
* 福岡市立福重小学校
* [[福岡市立福岡女子高等学校]]
* [[九州電力]]株式会社福岡西営業所
* 姪浜キリスト教会
== バス路線 ==
'''[[西鉄バス]]'''
:北口・南口のバス停より発車。'''路線は2022年3月19日現在'''(太字は終点停留所)
; 北口 (マリナタウン・能古渡船場・野方方面) ☆は北口→南口に停まる。('''南口から北口は経由しない''')
* {{Color|black|■}} 1 シーサイドももち線
**姪浜駅北口→名柄団地→'''[[西日本鉄道愛宕浜自動車営業所|能古渡船場]]'''
* {{Color|black|■}} {{Color|red|直行}} 1 シーサイドももち線
**姪浜→愛宕浜四丁目→'''能古渡船場'''(左記のバス停以外停車しない)
* {{Color|black|■}} 98 シーサイドももち線
**姪浜駅北口→名柄団地→マリナタウン→'''能古渡船場'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 1 姪浜フィーダー線 ☆
**姪浜駅南口→新室見→橋本→'''[[西日本鉄道壱岐自動車営業所|野方]]'''→藤ヶ丘団地→([[橋本駅 (福岡県)|橋本駅]])→'''壱岐丘中学校'''→羽根戸→'''[[西日本鉄道金武自動車営業所|金武営業所]]'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 1-5 姪浜フィーダー線☆
**姪浜駅南口→新室見→→中村→拾六町団地→'''野方'''
; 南口 (藤崎・福岡タワー・天神・博多駅・県庁・橋本駅・三陽高校・野方方面)
* {{Color|black|■}} 1・1-5 姪浜フィーダー線(藤崎行きは1番のみ)
**姪浜駅南口→'''藤崎'''→[[福岡タワー]]南口→[[ヒルトン福岡シーホーク]]→'''医療センター場内'''
* {{Color|black|■}} 7 昭代~天神線
**姪浜駅南口→室見三丁目→昭代→六本松→国体道路→'''天神'''→明治通→県庁前→'''[[西日本鉄道吉塚自動車営業所|吉塚営業所]]'''
**姪浜駅南口→室見三丁目→昭代→六本松→国体道路→天神→'''那の津四丁目'''
*{{Color|black|■}} <span style="color:blue">快速</span> 105 (快速区間 荒江四角 → 住吉) 野方(都市高速)博多線
**福重三丁目→小田部一丁目→原→荒江四角→別府二丁目→六本松→雙葉学園入口→薬院大通り→[[薬院駅]]前→渡辺通一丁目→'''[[博多駅]]'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 525 福重(都市高速)線
**愛宕ランプ→都市高速→天神→(警固町・六本松方面へ)
* {{Color|deepskyblue|■}} 526 野方(都市高速)博多線
**愛宕ランプ→都市高速→天神→国体道路→[[キャナルシティ博多]]前→祇園町→'''博多駅'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 1 姪浜フィーダー線
**新室見→橋本→'''野方'''→藤ヶ丘団地→(橋本駅)→'''壱岐丘中学校前'''→羽根戸→'''金武営業所'''
**新室見→橋本→野方→[[福岡市立福岡西陵高等学校|福岡西陵高校]]前→'''[[中村学園三陽中学校・高等学校|三陽高校]]前'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 1-4 姪浜フィーダー線
**都橋→外環状線→福岡西郵便局前→→野方→生松台団地→(橋本駅)→'''野方'''→(1-6へ)
* {{Color|deepskyblue|■}} 1-5 姪浜フィーダー線・525 福重(都市高速)線
**新室見→石丸三丁目→中村→拾六町団地→'''野方'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 1-6 姪浜フィーダー線
**外環状線→[[福岡西郵便局]]前→石丸三丁目→中村→下山門団地→宮の前団地→生の松原団地南→ウエストヒルズ→生松台団地→'''野方'''→(1-4へ)
* {{Color|deepskyblue|■}} 1-7 姪浜フィーダー線
**車両基地前→下山門→中村→下山門団地→下山門駅入口→生の松原団地→'''三陽高校前'''
* {{Color|deepskyblue|■}} 526 野方(都市高速)博多線
**外環状線→福岡西郵便局前→石丸三丁目→中村→下山門団地→宮の前団地→生の松原団地南→ウエストヒルズ→'''野方'''
'''[[昭和自動車|昭和バス]]'''
: 南口の昭和バス乗り場より発車。
* マリノアシティ線
** 姪浜→小戸→小戸中央→小戸公園→マリノアシティ福岡
'''[[姪浜タクシー]]'''
: 北口タクシーのりば付近に停車
* [[姪浜タクシー#今宿姪浜線乗合マイクロバス「なぎさ号」|今宿姪浜線]]
** 小戸→生の松原→大谷→長垂海浜公園前→今宿駅→青木→今宿野外活動センター
== 隣の駅 ==
; 福岡市交通局・九州旅客鉄道(JR九州)
: [[File:Subway FukuokaKuko.svg|18px]] 地下鉄空港線・{{JR九駅番号|JK}} 筑肥線
:: {{Color|#fc0|■}}快速
::: [[室見駅]] (K02)(空港線)- '''姪浜駅 (K01・JK01)''' - (平日は[[下山門駅]] (JK02)) - [[九大学研都市駅]] (JK04)(筑肥線)
::{{Color|#666568|■}}普通
::: [[室見駅]] (K02)(空港線)- '''姪浜駅 (K01・JK01)''' - 下山門駅 (JK02)(筑肥線)
=== かつて存在した路線 ===
; 日本国有鉄道
: 筑肥線(廃止時点)
:: [[西新駅 (国鉄)|西新駅]] - *<s>筑前庄駅</s> - '''姪浜駅'''
:: *:筑前庄駅は1941年廃止
== ICカードへの対応 ==
2008年から2009年にかけて福岡県内の鉄道会社が相次いで導入した交通系ICカードについては、福岡市交通局の駅であることから、まず、2009年3月7日に地下鉄系の「[[はやかけん]]」から対応した。
乗り入れているJR九州の「[[SUGOCA]]」と、[[西日本鉄道]]の「[[nimoca]]」及び[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の「[[Suica]]」については、2010年3月13日の相互利用開始時に対応を開始。それまでは地下鉄とJRを乗り通す場合、「[[ワイワイカード]]」のみが対応していた。しかし福岡市地下鉄の管理駅であることから駅では「はやかけん」しか発売されていない。
2011年[[3月5日]]より「SUGOCA」と[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の「[[ICOCA]]」・[[東海旅客鉄道|JR東海]]の「[[TOICA]]」との相互利用を開始した当時、これに「はやかけん」は加わっておらず姪浜駅が福岡市地下鉄の駅であることから、ICOCA・TOICAでは地下鉄全線とJR筑肥線・唐津線(姪浜駅~[[西唐津駅]]間)の乗車には利用できなかったが、福岡市交通局も参加し主要鉄道会社間で大規模な相互利用協定に向けた協議が始められた結果、合意に達したため、2013年3月23日よりICOCA・TOICAのみならず[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]の[[Kitaca]]や[[PASMO]]・[[manaca]]・[[PiTaPa]]参加ICカード全てが相互利用可能となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/meinohama.php 姪浜駅] - 福岡市交通局
* [https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191910_1601.html 姪浜駅] - 九州旅客鉄道<!-- テンプレートは適切にリンクしないため除去しています -->
{{福岡市地下鉄空港線}}
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{{デフォルトソート:めいのはま}}
[[Category:福岡市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 め|いのはま]]
[[Category:福岡市交通局の鉄道駅]]
[[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1925年開業の鉄道駅]]
[[Category:北九州鉄道の鉄道駅]]
[[Category:福岡市西区の交通|めいのはまえき]]
[[Category:福岡市西区の建築物]]
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福岡市交通局
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福岡市交通局(ふくおかしこうつうきょく、英: Fukuoka City Transportation Bureau)は、福岡県福岡市内で公営交通事業を行う福岡市の地方公営企業の一つである。地下鉄事業のみを行い、3路線31.4 kmの地下鉄路線を営業している。
福岡市の地下鉄事業の正式名称は福岡市高速鉄道といい、JRの座席予約システム「マルス」でもこの正式名称で登録されている。開業後、旅客案内上は「福岡市営地下鉄」と呼称した時期もあったが、現在では「福岡市地下鉄」の呼称が使用されている。また、鉄道愛好家の間では「フクチカ」で呼ばれることもある。
地下鉄開業前の福岡市においては、市内のバス事業や市内中心部を走る路面電車事業は市営ではなく、純民間企業である西日本鉄道(西鉄)が運営していた。そのため、交通局は地下鉄建設に伴い、初めて(開業前は福岡市高速鉄道建設局として)発足した組織である。その経緯から日本の公営交通事業者で唯一、発足当初から一貫して地下鉄のみを運営し、「交通局」と名が付く日本の公営交通事業者で唯一過去も含めて市営バス事業を保有したことがない。交通局は当初、路面電車(西鉄福岡市内線)の廃止で余剰になった西鉄の従業員を採用していたが、その全員が定年退職を迎え、現在の正規職員は一部の技術系職員を除き、ほぼ全員が福岡市で直接採用された職員である。
地下鉄開業後、西鉄バスは、地下鉄が所要時間で圧倒的優位を持つ福岡市中心部と福岡空港を結ぶ空港連絡バス路線を廃止したのをはじめ、並行路線の整理・廃止・減便などを行う一方、地下鉄沿線の郊外部と市中心部を福岡都市高速道路を経由して結び、所要時間で地下鉄に真正面から対抗するバス路線も新設しており、互いに激しい競争を繰り広げている。
福岡市では、地下鉄開業前から市営の交通事業として福岡市営渡船を運航しているが、この事業は港湾空港局(総務部客船事務所)の管轄であり、交通局と直接の関係はない。
福岡市の地下鉄は年間148,202千人(1日当たり406,035人)(2014年度:365日)が利用している。
2004年度は約14億9600万円の黒字を確保した。黒字を確保したのは2003年度から2期連続のことであるが、七隈線が開業した2005年度以降再び赤字となっている。その後、2011年度の決算においては約7億9700万円の黒字、2012年度は約6億4900万円の黒字、2013年度は約15億4700万円の黒字、2014年度は公営企業会計制度の見直しなどによる特別損失約82億6300万円が生じたため約63億200万円の赤字決算である。なお、福岡市から運営費補助金を受けており、その額は、2012年度から2014年度において、それぞれ、約26億9400万円、約21億2300万円、約18億2000万円である。
(単位:千人)
以下の3路線で構成されている。空港線と箱崎線は狭軌、七隈線は標準軌の鉄輪式リニアである。電化方式は全路線で直流1,500 Vとなっている。
全線が福岡市内に所在しており、空港線は博多区・中央区・早良区・西区を、箱崎線は博多区・東区を、七隈線は博多区・中央区・城南区・早良区・西区を通る。
博多区には全ての路線が通る一方、南区はいずれの路線も通っていない。
空港線ではJR九州筑肥線との相互直通運転が行われている。福岡市交通局の車両は筑肥線の姪浜駅 - 筑前前原駅間に乗り入れる。過去には一部が同線の筑前深江駅まで乗り入れていたが、2021年9月現在、福岡市交通局の車両で筑前深江駅まで乗り入れる列車はない。JR九州の車両は唐津線西唐津駅から筑肥線を経て空港線全線に乗り入れる。福岡市交通局・JR九州の車両ともに、地下鉄線内はすべてATOによるワンマン運転を行い、筑肥線の姪浜駅 - 筑前前原駅間ではワンマン運転(ATOは不使用)、筑前前原駅 - 唐津駅・西唐津駅間ではJRの車掌が乗務しツーマン運転を行う。
箱崎線および七隈線では他社との相互直通運転はない。幾度か箱崎線と接続する西鉄貝塚線との相互直通運転が検討されたが、費用対効果の面から凍結される見込みとなった。
七隈線では、全体計画として天神南駅から中洲川端駅を経て築港方面を結ぶ計画と、渡辺通1丁目付近(薬院駅東方)で分岐して住吉通り経由で博多駅に乗り入れる計画があった。その後、天神南駅からキャナルシティ博多付近を経由して博多駅に乗り入れる計画も検討された。このうち3番目の計画が採用され、天神南駅から博多駅までの区間の鉄道事業許可を取得、工事が着手された。当初は2020年度に開通する予定であったが、2016年11月8日に本工事に伴う博多駅前2丁目交差点付近での大規模な道路陥没事故が発生し(「博多駅前道路陥没事故」も参照)工事が一時期中断した影響で2022年度に延期され、2023年3月27日に延伸開業した。なお正式に採択されていないが、さらに福岡空港国際線ターミナルへ延伸する構想もある。
空港線でも、福岡空港駅から東平尾公園方面への延伸構想がある。また、福岡空港駅から長者原駅への延伸を目指し、地域住民や飯塚市・篠栗町による活動もあり、福岡県が2021年に検討を始めることになった。
ほかにアイランドシティへの鉄道路線整備構想があるが、事実上凍結されている。
福岡市地下鉄各線の駅には、駅名や駅周辺の観光地、名物、自然にちなんだシンボルマークが制定されている。例えば天神駅のシンボルマークは、地名の由来となった「天神様」にちなみ、菅原道真が愛した梅の花をモチーフにし、天神南駅では通りゃんせをする子供を描いている。
空港線・箱崎線の各駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたものである。七隈線各駅のシンボルマークについては伊三雄が2001年に死去したため、それ以前に描かれていた原案を元に、息子で同じくグラフィックデザイナーの西島雅幸が完成させた。
また、2011年3月までに駅ナンバリングの導入が完了し、従来のシンボルマークと併用されている。
乗客がプラットホームから線路へ転落する、あるいは飛び降りるのを防ぐため、ホームドアを地下鉄全駅に設置している(三菱電機製。空港線は2004年、箱崎線は2005年末に全駅設置完了、七隈線は2005年の開業時から全駅設置)。ホームドアは、ATOを搭載している福岡市交通局の車両とJR九州の303系・305系の場合は車両扉と連動して開閉する。
以下の管区駅が置かれ、各管区駅が複数の駅を管理している。
2020年(令和2年)4月1日付で姪浜管区駅(廃止直前は姪浜駅から藤崎駅を管理)が廃止され、天神管区駅に統合された。
福岡市地下鉄の変電所については次の通り。
福岡市交通局では運賃を「料金」と呼んでいる。
大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
福岡市高速鉄道連絡運輸規程に基づき、九州旅客鉄道(JR九州)及び西日本鉄道(西鉄)の間で以下の連絡運輸(相互連絡運輸)が設定されている。
また、JR各社とは片道・往復・連続乗車券、JR線の乗車区間が100km以内の定期券・団体券において、以下の通過連絡運輸が設定されている。西鉄との通過連絡運輸(天神大牟田線 - 地下鉄 - 貝塚線など)は設定されていない。
2009年3月7日よりICカード乗車券「はやかけん」を導入している。
九州旅客鉄道(JR九州)のICカード「SUGOCA」のほか、西日本鉄道のICカード「nimoca」および、東日本旅客鉄道(JR東日本)のICカード「Suica」とも互換性を持たせる方向で、2008年2月「九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会」を発足させ、2010年3月13日に相互利用を開始した。
2013年3月23日には交通系ICカード全国相互利用サービスが開始、北海道旅客鉄道(JR北海道)のKitaca、首都圏私鉄などのPASMO、中京圏私鉄などのmanaca、東海旅客鉄道(JR東海)のTOICA、西日本旅客鉄道(JR西日本)のICOCA、関西私鉄などのPiTaPaとの相互利用が開始された。
他には全日空 (ANA) と提携し、2009年12月16日より「ANAはやかけん」を発行している。
2023年8月1日現在、福岡市地下鉄全線全駅と、JR九州鹿児島本線・香椎線の一部区間、西鉄天神大牟田線・太宰府線の一部区間で、クレジットカード等の非接触型決済による改札乗車の実証実験が行われている。なお、事業者ごとに対応するカードブランドが異なる。また、おサイフケータイ対応スマートフォンにiDまたはQUICPayで登録されたカード等は、この実験用端末では利用できない。
みまもりタッチは、福岡市交通局が2010年7月27日から2021年6月30日まで提供していた、ICカード乗車券「はやかけん」を利用して、通学児童の所在確認を提供するサービス。FeliCaポケットの領域を利用し、端末とシステムは日本信号社製。類似のサービスにあんしんグーパスがあるが、システムが異なる。
事前に登録が必要。各駅のICカード対応改札機および公共施設77ヶ所(2010年10月時点)に設置された読み取り機に、児童がICカード乗車券をかざすと、親権者にメールで連絡が行く。当初は無料で利用できた。
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"text": "空港線・箱崎線の各駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたものである。七隈線各駅のシンボルマークについては伊三雄が2001年に死去したため、それ以前に描かれていた原案を元に、息子で同じくグラフィックデザイナーの西島雅幸が完成させた。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、2011年3月までに駅ナンバリングの導入が完了し、従来のシンボルマークと併用されている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "乗客がプラットホームから線路へ転落する、あるいは飛び降りるのを防ぐため、ホームドアを地下鉄全駅に設置している(三菱電機製。空港線は2004年、箱崎線は2005年末に全駅設置完了、七隈線は2005年の開業時から全駅設置)。ホームドアは、ATOを搭載している福岡市交通局の車両とJR九州の303系・305系の場合は車両扉と連動して開閉する。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "以下の管区駅が置かれ、各管区駅が複数の駅を管理している。",
"title": "路線"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)4月1日付で姪浜管区駅(廃止直前は姪浜駅から藤崎駅を管理)が廃止され、天神管区駅に統合された。",
"title": "路線"
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"text": "福岡市地下鉄の変電所については次の通り。",
"title": "変電所"
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{
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"text": "福岡市交通局では運賃を「料金」と呼んでいる。",
"title": "料金"
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"text": "大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。",
"title": "料金"
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"text": "福岡市高速鉄道連絡運輸規程に基づき、九州旅客鉄道(JR九州)及び西日本鉄道(西鉄)の間で以下の連絡運輸(相互連絡運輸)が設定されている。",
"title": "料金"
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"text": "また、JR各社とは片道・往復・連続乗車券、JR線の乗車区間が100km以内の定期券・団体券において、以下の通過連絡運輸が設定されている。西鉄との通過連絡運輸(天神大牟田線 - 地下鉄 - 貝塚線など)は設定されていない。",
"title": "料金"
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"text": "2009年3月7日よりICカード乗車券「はやかけん」を導入している。",
"title": "料金"
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"text": "九州旅客鉄道(JR九州)のICカード「SUGOCA」のほか、西日本鉄道のICカード「nimoca」および、東日本旅客鉄道(JR東日本)のICカード「Suica」とも互換性を持たせる方向で、2008年2月「九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会」を発足させ、2010年3月13日に相互利用を開始した。",
"title": "料金"
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{
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"text": "2013年3月23日には交通系ICカード全国相互利用サービスが開始、北海道旅客鉄道(JR北海道)のKitaca、首都圏私鉄などのPASMO、中京圏私鉄などのmanaca、東海旅客鉄道(JR東海)のTOICA、西日本旅客鉄道(JR西日本)のICOCA、関西私鉄などのPiTaPaとの相互利用が開始された。",
"title": "料金"
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"text": "他には全日空 (ANA) と提携し、2009年12月16日より「ANAはやかけん」を発行している。",
"title": "料金"
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"tag": "p",
"text": "2023年8月1日現在、福岡市地下鉄全線全駅と、JR九州鹿児島本線・香椎線の一部区間、西鉄天神大牟田線・太宰府線の一部区間で、クレジットカード等の非接触型決済による改札乗車の実証実験が行われている。なお、事業者ごとに対応するカードブランドが異なる。また、おサイフケータイ対応スマートフォンにiDまたはQUICPayで登録されたカード等は、この実験用端末では利用できない。",
"title": "料金"
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{
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"tag": "p",
"text": "みまもりタッチは、福岡市交通局が2010年7月27日から2021年6月30日まで提供していた、ICカード乗車券「はやかけん」を利用して、通学児童の所在確認を提供するサービス。FeliCaポケットの領域を利用し、端末とシステムは日本信号社製。類似のサービスにあんしんグーパスがあるが、システムが異なる。",
"title": "みまもりタッチ"
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"tag": "p",
"text": "事前に登録が必要。各駅のICカード対応改札機および公共施設77ヶ所(2010年10月時点)に設置された読み取り機に、児童がICカード乗車券をかざすと、親権者にメールで連絡が行く。当初は無料で利用できた。",
"title": "みまもりタッチ"
}
] |
福岡市交通局は、福岡県福岡市内で公営交通事業を行う福岡市の地方公営企業の一つである。地下鉄事業のみを行い、3路線31.4 kmの地下鉄路線を営業している。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{画像改訂依頼|路線図([[:ファイル:Fukuoka city subway map JA.png]])|七隈線の博多延伸を反映したもの|date=2023年8月|cat=福岡市|cat2=鉄道}}
{{Infobox 組織
|名称 = 福岡市交通局
|正式名称 =
|英文名称 = Fukuoka City Transportation Bureau
|ロゴ = ファイル:Fukuoka City Subway Logo.svg
|ロゴサイズ = 100px
|ロゴ説明 =
|画像 = ファイル:FukuokaCity ChuoWard Office 2018.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 福岡市中央区役所と福岡市交通局の合同庁舎
|地図 =
|地図サイズ =
|地図説明 =
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|地図2サイズ =
|地図2説明 =
|略称 =
|愛称 =
|名の由来 =
|標語 =
|前身 = 福岡市高速鉄道建設局
|合併先 =
|後継 =
|設立 = <!-- 設立年 -->
|設立者 =
|設立地 =
|解散 = <!-- 解散年 -->
|合併元 =
|種類 = [[地方公営企業]]
|地位 = [[地方公営企業法]]
|目的 = 第一種鉄道事業
|本部 =
|所在地 = [[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[大名 (福岡市)|大名]]二丁目5番31号
| 緯度度 = 33|緯度分 = 35|緯度秒 = 20.9
| 経度度 = 30|経度分 = 23|経度秒 = 33.4
|会員数 =
|言語 = <!-- 公用語 -->
|事務局長 =
|幹部呼称 = 交通事業管理者
|幹部氏名 = 重光知明
|人物 = <!-- 重要人物 -->
|機関 =
|加盟 = 一般社団法人[[日本地下鉄協会]]
|提携 =
|関連組織 =
|予算 =
|スタッフ = <!-- 職員数 -->
|ボランティア =
|ウェブサイト = https://subway.city.fukuoka.lg.jp/
|補足 = <!-- 特記事項 -->
|旧称 =
|注記 = <!-- 注記欄 -->
}}
'''福岡市交通局'''(ふくおかしこうつうきょく、{{Lang-en-short|Fukuoka City Transportation Bureau}})は、[[福岡県]][[福岡市]]内で[[公営交通|公営交通事業]]を行う福岡市の[[地方公営企業]]の一つである。[[地下鉄]]事業のみを行い、3路線31.4 [[キロメートル|km]]の地下鉄路線を営業している。
== 概要 ==
福岡市の地下鉄事業の正式名称は'''福岡市高速鉄道'''といい、JRの座席予約システム「[[マルス (システム)|マルス]]」でもこの正式名称で登録されている。開業後、旅客案内上は「'''福岡市営地下鉄'''」と呼称した時期もあったが、現在では「'''福岡市地下鉄'''」の呼称が使用されている。また、鉄道愛好家の間では「'''フクチカ'''」で呼ばれることもある。<!-- 「福岡市営地下鉄」と全く呼ばれないわけでもない模様 例: http://www.city.fukuoka.lg.jp/jutaku-toshi/toshikeikan/machi/toshikeikanshou/071.html、http://www.city.fukuoka.lg.jp/hofuku/hokenyobo/faq/FAQ1890.html -->
地下鉄開業前の福岡市においては、市内のバス事業や市内中心部を走る路面電車事業は市営ではなく、純民間企業である[[西日本鉄道]](西鉄)が運営していた。そのため、交通局は地下鉄建設に伴い、初めて(開業前は'''福岡市高速鉄道建設局'''として)発足した組織である。その経緯から日本の[[公営交通]]事業者で唯一、発足当初から一貫して地下鉄のみを運営し、「'''交通局'''」と名が付く日本の公営交通事業者で唯一過去も含めて[[公営バス|市営バス事業]]を保有したことがない。交通局は当初、路面電車([[西鉄福岡市内線]])の廃止で余剰になった西鉄の従業員を採用していたが、その全員が定年退職を迎え、現在の正規職員は一部の技術系職員を除き、ほぼ全員が福岡市で直接採用された職員である。
地下鉄開業後、[[西鉄バス]]は、地下鉄が所要時間で圧倒的優位を持つ福岡市中心部と[[福岡空港]]を結ぶ空港連絡バス路線を廃止したのをはじめ、並行路線の整理・廃止・減便などを行う一方、地下鉄沿線の郊外部と市中心部を[[福岡高速道路|福岡都市高速道路]]を経由して結び、所要時間で地下鉄に真正面から対抗するバス路線も新設しており、互いに激しい競争を繰り広げている。
福岡市では、地下鉄開業前から市営の交通事業として[[福岡市営渡船]]を運航しているが、この事業は'''港湾空港局'''(総務部客船事務所)の管轄であり、交通局と直接の関係はない{{Efn|福岡市営渡船では、交通系ICカードに関して[[はやかけん]]をベースシステムとし、電子マネー扱いで導入しているという程度の関係である。}}。
== 経営状況 ==
{{See also|日本の地下鉄#日本の地下鉄の経営状況}}
福岡市の地下鉄は年間148,202千人(1日当たり406,035人)(2014年度:365日)が利用している<ref name=outline_h26 />。
2004年度は約14億9600万円の[[黒字と赤字|黒字]]を確保した。黒字を確保したのは2003年度から2期連続のことであるが、七隈線が開業した2005年度以降再び[[黒字と赤字|赤字]]<ref>{{Cite news|title=福岡市営地下鉄七隈線 赤字解消、2069年に先送り|newspaper=朝日新聞|date=2009年3月13日|url=http://www.asahi.com/travel/rail/news/SEB200903130019.html|access-date=2022-11-11|archive-url=https://web.archive.org/web/20221026235713/http://www.asahi.com/travel/rail/news/SEB200903130019.html|archive-date=2022-10-26}}</ref>となっている。その後、2011年度の決算においては約7億9700万円の黒字、2012年度は約6億4900万円の黒字<ref name=outline_h24 />、2013年度は約15億4700万円の黒字<ref name=outline_h25 />、2014年度は公営企業会計制度の見直しなどによる特別損失約82億6300万円が生じたため約63億200万円の赤字決算<ref name=outline_h26 />である。なお、福岡市から運営費補助金を受けており、その額は、2012年度から2014年度において、それぞれ、約26億9400万円、約21億2300万円、約18億2000万円である<ref name=outline_h26 /><ref name=outline_h24 /><ref name=outline_h25 />。
=== 地下鉄輸送人員の推移 ===
(単位:千人)
* 2003年度 - 104,573
* 2004年度 - 104,932
* 2005年度 - 114,211 七隈線(2月3日)開業
* 2006年度 - 120,811
* 2007年度 - 123,906
* 2008年度 - 125,826
* 2009年度 - 123,865
* 2010年度 - 127,136
* 2011年度 - 133,434
* 2012年度 - 137,246<ref name=outline_h24>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h24/outline.pdf |title=平成24年度 福岡市高速鉄道事業会計決算の概要 |access-date=2022-11-11 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |archive-url=https://web.archive.org/web/20180619163751/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h24/outline.pdf |archive-date=2018-06-19}}</ref>
* 2013年度 - 143,152<ref name=outline_h25>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h25/outline.pdf |title=平成25年度 福岡市高速鉄道事業会計決算の概要 |access-date=2022-11-11 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |archive-url=https://web.archive.org/web/20180619163723/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h25/outline.pdf |archive-date=2018-06-19}}</ref>
* 2014年度 - 148,202<ref name=outline_h26>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h26/outline.pdf |title=平成26年度 福岡市高速鉄道事業会計決算の概要 |access-date=2022-11-11 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |archive-url=https://web.archive.org/web/20180619163621/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/pdf/settlement/h26/outline.pdf |archive-date=2018-06-19}}</ref>
* 2015年度 - 156,081<ref name="名前なし-1">{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |title=福岡市地下鉄 事業概要 平成29年度 |access-date=2022-11-11 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |page=22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180619163654/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archive-date=2018-06-19}}</ref>
* 2016年度 - 160,390<ref name="名前なし-1"/>
* 2017年度 - 165,786<ref>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |title=福岡市地下鉄 事業概要 平成30年度 |access-date=2022-11-11 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |page=22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190605084227/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archive-date=2019-06-05}}</ref>
* 2018年度 - 171,551
* 2019年度 - 173,294
* 2020年度 - 110,919
* 2021年度 - 122,497<ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |title=福岡市地下鉄 事業概要 令和4年度 |access-date=2023-05-21 |publisher=福岡市交通局 |format=PDF |page=24}}</ref>
== 歴史 ==
* [[1973年]]([[昭和]]48年)[[12月22日]]:福岡市議会において、市が高速交通事業を行なうことを議決。
* [[1974年]](昭和49年)[[8月22日]]:姪浜 - 博多間(1号線)、中洲川端 - 貝塚間(2号線)地方鉄道免許。
* [[1975年]](昭和50年)[[11月12日]]:起工。
* [[1981年]](昭和56年)[[7月26日]]:[[福岡市地下鉄空港線|1号線]] 室見 - 天神間開業。[[福岡市交通局1000系電車|1000系]]電車が営業運転を開始。
* [[1982年]](昭和57年)[[4月20日]]:1号線 天神 - 中洲川端間延伸開業、[[福岡市地下鉄箱崎線|2号線]] 中洲川端 - 呉服町間開業。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月22日]]:1号線 姪浜 - 室見間・中洲川端 - 博多(仮)間延伸開業。[[日本国有鉄道|国鉄]][[筑肥線]]との相互直通運転開始。1号線で国鉄[[国鉄103系電車|103系1500番台]]電車が営業運転を開始。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[1月20日]]:[[ワンマン運転]]開始。
** [[4月27日]]:2号線 呉服町 - 馬出九大病院前間延伸開業。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月3日]]:博多(仮) - 博多間延伸開業。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[1月31日]]:2号線 馬出九大病院前 - 箱崎九大前間延伸開業。
** [[10月13日]]:1号線 博多 - 福岡空港間免許。
** 11月12日:2号線 箱崎九大前 - 貝塚間延伸開業(全通)。
* [[1988年]](昭和63年)[[11月8日]]:車内での[[英語]]放送開始。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[12月16日]]:1号線・2号線で[[福岡市交通局2000系電車|2000系]]電車が営業運転を開始。
* [[1993年]](平成5年)3月3日:1号線 博多 - 福岡空港間延伸開業(全通)。1号線に空港線、2号線に箱崎線の愛称付与。
* [[1995年]](平成7年)
** [[5月8日]]:[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]「[[えふカード]]」導入。
** [[6月7日]]:3号線 橋本 - 天神南間[[鉄道事業者|第一種鉄道事業]]免許。
* [[1996年]](平成8年)7月26日:地下鉄マスコットとして「[[ちかまる]]」が誕生。
* [[1997年]](平成9年)
** [[1月22日]]:3号線起工。
** [[8月1日]]:1日乗車券導入。
* [[1999年]](平成11年)[[4月1日]]:[[西日本鉄道]]との共通乗車カード「[[よかネットカード]]」導入。
* [[2000年]](平成12年)
** [[1月22日]]:空港線でJR九州[[JR九州303系電車|303系]]電車が営業運転を開始。
** [[3月27日]]:全駅へのエレベーター導入完了。
** [[7月24日]]:[[弱冷房車]]導入。
* [[2001年]](平成13年)
** 4月1日:[[九州旅客鉄道]](JR九州)との共通乗車カード「[[ワイワイカード]]」導入。
** [[6月28日]]:サブフェアシステム(入出場確認システム)導入。
** [[10月1日]]:回数券販売休止。
** [[12月1日]]:地下鉄・福岡市営自転車駐車場共通定期券「[[乗っチャリパス]]」導入。
* [[2002年]](平成14年)
** 4月1日:[[西鉄天神大牟田線]]との連絡定期券導入。
** [[7月15日]]:「マイショットカード」導入。
* [[2003年]](平成15年)[[6月20日]]:3号線の愛称が七隈線と決定<ref>{{Cite news|和書|url=http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/subway/bn/20030621.html|title=3号線 愛称は「七隈線」 福岡市営地下鉄|newspaper=[[西日本新聞]]|publisher=[[西日本新聞社]]|date=2003-06-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051118042731/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/subway/bn/20030621.html|archivedate=2005-11-18}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[2月3日]]:[[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]] 橋本 - 天神南間開業。同線で[[福岡市交通局3000系電車|3000系]]電車が営業運転を開始。
* [[2009年]](平成21年)[[3月7日]]:IC乗車券「[[はやかけん]]」導入。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月13日]]:「はやかけん」がJR九州の[[SUGOCA]]・西日本鉄道の[[nimoca]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[Suica]]と相互利用開始。
** [[3月31日]]:「よかネットカード」の発売を終了。なお、未利用カードや残額があるカードについては、4月1日以降も福岡市地下鉄・西鉄天神大牟田線(太宰府線・甘木線含む)では引き続き利用可能(西鉄バスでは2010年3月31日をもって利用終了)。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月2日:地下鉄全駅に[[駅ナンバリング]]導入。
** 3月31日:「ワイワイカード」の発売を終了。
** 10月31日:「ワイワイカード」「よかネットカード」の利用終了。
* [[2012年]](平成24年)12月31日:「えふカード」の発売を終了。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月23日:「はやかけん」が[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]とも相互利用開始。
** 10月31日:「えふカード」の利用終了。
* [[2014年]](平成26年)3月25日:女性運転士2人に運転士の辞令が交付され<!-- 単に「誕生」では免許交付日か、辞令交付日か、乗務開始日か曖昧。-->、当局初の女性運転士が誕生<ref>[http://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=10670 福岡市地下鉄 初の女性運転士・株式会社TVQ九州放送ホームページ 2014年3月25日 17:38]</ref>。
* [[2015年]](平成27年)2月5日:空港線でJR九州[[JR九州305系電車|305系]]電車が営業運転を開始。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[3月27日]]:七隈線 天神南 - 博多間開業<ref name="subway_about" />。
* [[2024年]](令和6年)秋頃:空港線・箱崎線およびJR筑肥線姪浜駅 - 筑前前原駅間で4000系電車が営業運転を開始予定<ref name="fukuoka20231130" />。
== 路線 ==
[[ファイル:Fukuoka city subway map JA.png|thumb|right|240px|路線図<br>(七隈線の博多延伸前時点)]]
以下の3路線で構成されている<ref name="subway_about">{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/ |title=地下鉄の概要 |access-date=2023-03-27 |publisher=福岡市交通局}}</ref>。空港線と箱崎線は[[狭軌]]、七隈線は[[標準軌]]の[[リニアモーターカー|鉄輪式リニア]]である。[[鉄道の電化|電化]]方式は全路線で[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]となっている。
{| class="wikitable" style="font-size:90%"
|+営業中の路線
|-
! colspan=2|色
!記号<ref name="numbering">[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics_2/tpd.cgi?gid=10257 駅ナンバリングの導入について]</ref>
!路線番号
!路線名
!区間<small>〔( )内は駅番号〕<ref name="numberinglist">{{PDFlink|[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/pdf/pdf_10100112563799.pdf 各駅番号一覧表]}}</ref></small>
!キロ程
|-
|style="background:#e51; color:white; width:5em;"|オレンジ
|style="text-align:center"|[[File:Subway FukuokaKuko.svg|25px]]
|style="text-align:center"|K
|style="text-align:center"|1号線
|[[福岡市地下鉄空港線|空港線]]
|[[姪浜駅]] (K01) - [[福岡空港駅]] (K13)
|style="text-align:right"|13.1 km
|-
|style="background:#07c; color:white;"|青
|style="text-align:center"|[[File:Subway FukuokaHakozaki.svg|25px]]
|style="text-align:center"|H
|style="text-align:center"|2号線
|[[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]
|[[中洲川端駅]] (H01) - [[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]] (H07)
|style="text-align:right"|4.7 km
|-
|style="background:#00936b; color:white;"|緑
|style="text-align:center"|[[File:Subway FukuokaNanakuma.svg|25px]]
|style="text-align:center"|N
|style="text-align:center"|3号線
|[[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]]
|[[橋本駅 (福岡県)|橋本駅]] (N01) - [[博多駅]] (N18)
|style="text-align:right"|13.6 km
|}
全線が福岡市内に所在しており、空港線は[[博多区]]・[[中央区 (福岡市)|中央区]]・[[早良区]]・[[西区 (福岡市)|西区]]を、箱崎線は博多区・[[東区 (福岡市)|東区]]を、七隈線は博多区・中央区・[[城南区]]・早良区・西区を通る。
博多区には全ての路線が通る一方、[[南区 (福岡市)|南区]]はいずれの路線も通っていない。
=== 相互直通運転区間 ===
<!-- 空港線"相互"直通運転区間について
公式サイト
http://subway.city.fukuoka.jp/subway/about/construction.html 線区概要の相互直通運転の項、および
http://subway.city.fukuoka.jp/subway/about/histry.html 平成14年3月23日の項
で確認 -->
空港線ではJR九州[[筑肥線]]との[[直通運転|相互直通運転]]が行われている。福岡市交通局の車両は筑肥線の[[姪浜駅]] - [[筑前前原駅]]間に乗り入れる。過去には一部が同線の[[筑前深江駅]]まで乗り入れていたが、2021年9月現在、福岡市交通局の車両で筑前深江駅まで乗り入れる列車はない。JR九州の車両は[[唐津線]][[西唐津駅]]から筑肥線を経て空港線全線に乗り入れる。福岡市交通局・JR九州の車両ともに、地下鉄線内はすべて[[自動列車運転装置|ATO]]による[[ワンマン運転]]を行い、筑肥線の姪浜駅 - 筑前前原駅間ではワンマン運転(ATOは不使用)、筑前前原駅 - 唐津駅・西唐津駅間ではJRの[[車掌]]が乗務しツーマン運転を行う。
箱崎線および七隈線では他社との相互直通運転はない。幾度か箱崎線と接続する[[西鉄貝塚線]]との相互直通運転が検討されたが、費用対効果の面から凍結される見込みとなった。
=== 延伸構想 ===
{{See also|福岡市地下鉄七隈線#延伸計画}}
'''七隈線'''では、全体計画として天神南駅から中洲川端駅を経て築港方面を結ぶ計画と、渡辺通1丁目付近(薬院駅東方)で分岐して[[住吉通り]]経由で[[博多駅]]に乗り入れる計画があった<ref>「{{PDFlink|[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/nanakuma.pdf 地下鉄七隈線の概要]}}」 福岡市交通局 p2,p8</ref>。その後、天神南駅から[[キャナルシティ博多]]付近<!-- ルート案が示された時点では駅名等は未定です。-->を経由して博多駅に乗り入れる計画<ref>「[http://minkara.carview.co.jp/userid/180424/blog/11797359/ 「地下鉄七隈線 延伸新ルート キャナル経由最有力 福岡市、議会報告へ]」 西日本新聞 2009年1月16日</ref>も検討された。このうち3番目の計画が採用され、天神南駅から博多駅までの区間の鉄道事業許可を取得<ref>{{PDFLink|[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/pdf/pdf_12061114423764.pdf 地下鉄七隈線延伸(天神南〜博多)について、鉄道事業許可を取得しました]}} 福岡市交通局ニュースリリース(2012年6月11日)</ref>、工事が着手された。当初は2020年度に開通する予定であったが、2016年11月8日に本工事に伴う博多駅前2丁目交差点付近での大規模な道路陥没事故が発生し(「[[博多駅前道路陥没事故]]」も参照)工事が一時期中断した影響で2022年度に延期され<ref>{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/378884|title=七隈線延伸最大2年遅れ 陥没の影響で開業22年度に 福岡市見通し|newspaper=[[西日本新聞]]|date=2017-12-08|accessdate=2023-09-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171213040031/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/378884|archivedate=2017-12-13}}</ref>、2023年3月27日に延伸開業した。なお正式に採択されていないが、さらに[[福岡空港]]国際線ターミナルへ延伸する構想もある<ref>{{Cite news|title=地下鉄七隈線、福岡空港国際線へ延伸検討…高島市長|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20221121-OYTNT50071/|newspaper=読売新聞オンライン |date=2022-11-21|access-date=2022-12-08|language=ja}}</ref>。
'''空港線'''でも、福岡空港駅から[[東平尾公園]]方面への延伸構想がある<ref>{{WAP|pid= 1368326 |url=www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/6752/1/koutusesaku.pdf |title= 「鉄軌道系交通施策」 |date=2010-06-01}} 福岡市</ref>。また、福岡空港駅から[[長者原駅]]への延伸を目指し、地域住民や[[飯塚市]]・[[篠栗町]]による活動もあり、福岡県が2021年に検討を始めることになった<ref>{{Cite news |title=地下鉄「福岡空港駅」-福北ゆたか線 接続を検討 |newspaper=RKBニュース |date=2021-05-26 |author= |authorlink=RKB毎日放送 |url=https://rkb.jp/news/002540.html |accessdate=2021-05-26 |publisher=RKB毎日放送 |language=jpn |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210526121446/https://rkb.jp/news/002540.html |archivedate=2021-05-26}}</ref>。
ほかに[[福岡アイランドシティ|アイランドシティ]]への鉄道路線整備構想があるが、事実上凍結されている。
=== シンボルマーク・駅ナンバリング ===
福岡市地下鉄各線の駅には、駅名や駅周辺の観光地、名物、自然にちなんだ[[シンボルマーク]]が制定されている。例えば[[天神駅]]のシンボルマークは、地名の由来となった「[[天神信仰|天神様]]」にちなみ、[[菅原道真]]が愛した[[ウメ|梅]]の花をモチーフにし、[[天神南駅]]では[[通りゃんせ]]をする子供を描いている。
空港線・箱崎線の各駅のシンボルマークは[[福岡市]]出身の[[グラフィックデザイナー]]、[[西島伊三雄]]がデザインしたものである<ref>「[http://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/hisho/shisei/006.html 福岡市 西島 伊三雄 氏(2004年12月17日選定)]」福岡市</ref>。[[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]]各駅のシンボルマークについては伊三雄が[[2001年]]に死去したため、それ以前に描かれていた原案を元に、息子で同じくグラフィックデザイナーの西島雅幸が完成させた<ref>「{{PDFlink|[http://www.ffac.or.jp/magazine/back_number/archive__file/WA17/wa17.pdf FUKUOKA NOW 故・西島伊三雄さんの思いを入れて 福岡市営地下鉄3号線の駅マーク、まもなくお披露目]}}」 [http://www.ffac.or.jp/magazine/ 福岡市文化芸術振興財団機関誌「wa」] 17号 2003年7月発行</ref>。
また、2011年3月までに[[駅ナンバリング]]の導入が完了し、従来のシンボルマークと併用されている<ref name="numbering" /><ref name="numberinglist" />。
=== 安全対策 ===
乗客が[[プラットホーム]]から線路へ転落する、あるいは飛び降りるのを防ぐため、[[ホームドア]]を地下鉄全駅に設置している([[三菱電機]]製<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/area/installations/kyusyu/kyusyu03.html 三菱電機 法人のお客様 地域ビジネス活動 地域の導入事例|福岡市交通局様 可動式ホーム柵]</ref>。空港線は2004年、箱崎線は2005年末に全駅設置完了、七隈線は2005年の開業時から全駅設置)。ホームドアは、ATOを搭載している福岡市交通局の車両とJR九州の[[JR九州303系電車|303系]]・[[JR九州305系電車|305系]]の場合は車両扉と連動して開閉する。
=== 管区駅 ===
以下の管区駅が置かれ、各管区駅が複数の駅を管理している。
* 天神管区駅 - 姪浜駅から天神駅
* 博多管区駅 - 祇園駅から福岡空港駅
* 貝塚管区駅 - 中洲川端駅から貝塚駅
* 天神南管区駅 - 櫛田神社前駅から別府駅
* 橋本管区駅 - 茶山駅から橋本駅
2020年(令和2年)4月1日付で姪浜管区駅(廃止直前は姪浜駅から藤崎駅を管理<ref name="subway2019">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和元年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2020-02-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200214092410/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-02-14 }}</ref>)が廃止され、天神管区駅に統合された<ref name="subway2020">{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄事業概要 令和2年度 |publisher=福岡市交通局 |page=5 |date= |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |archivedate=2021-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101131836/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_all.pdf |accessdate=2021-07-03 }}</ref>。
== 車両 ==
; 空港線・箱崎線
: 空港線・箱崎線用の車両はJR筑肥線直通にも用いられる。
:* [[福岡市交通局1000系電車|1000N系]] - 1000系の大規模改修車。
:* [[福岡市交通局2000系電車|2000N系]] - 2000系の大規模改修車。
: 2024年秋頃から、既存の1000N系の置き換えを目的に新車両である4000系を導入する予定<ref name="fukuoka20231130">{{Cite press release|title=地下鉄空港線・箱崎線 新しい車両が決定しました!!|publisher=福岡市交通局|date=2023-11-30|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/files/uploads/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E7%B7%9A%E3%83%BB%E7%AE%B1%E5%B4%8E%E7%B7%9A%20%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E8%BB%8A%E4%B8%A1%E3%81%8C%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F!!.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-12-02}}</ref>。製造は[[川崎車両]]となる<ref>[https://www.khi.co.jp/pressrelease/detail/20220207_1.html 福岡市交通局向け地下鉄車両を受注] - 川崎車両、2022年2月7日</ref>。
<gallery widths="200">
ファイル:Fukuoka-City-Subway-Series1000-10F.jpg|1000N系
ファイル:2000N系.jpg|2000N系
</gallery>
; 七隈線
:* [[福岡市交通局3000系電車|3000系・3000A系]]
<gallery widths="200">
ファイル:Fukuoka city subway emu3000.jpg|3000系
</gallery>
== 変電所 ==
福岡市地下鉄の変電所については次の通り<ref>{{Cite web|和書| author = 福岡市交通局(Fukuoka City Transportation Bureau) | url = https://subway.city.fukuoka.lg.jp/ | title = 福岡市地下鉄 | publisher = | accessdate = 2022-08-12 }}→経営情報→地下鉄について→設備・規格</ref>。
=== 空港線・箱崎線 ===
{{columns-list|2|
*姪浜変電所(西区愛宕一丁目25)
*今川橋変電所(福岡市中央区地行二丁目3)
*中洲変電所
*榎田変電所
*箱崎変電所
}}
<gallery caption="変電所(空港線・箱崎線)" widths="200px" heights="100px" perrow="2">
File:Meinohama Electrical Substation of Fukuoka City Transportation Bureau 20220804.jpg|姪浜変電所
File:Imagawabashi Electrical Substation of Fukuoka City Transportation Bureau 20220812.jpg|今川橋変電所
</gallery>
=== 七隈線 ===
*賀茂変電所
*茶山変電所
*薬院変電所
== 料金 ==
福岡市交通局では運賃を「料金」と呼んでいる。
大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/467787/ 福岡市営地下鉄が値上げ検討 消費増税時に一部区間で10円] - 西日本新聞、2018年11月23日</ref><ref>{{Cite web|和書|title=普通料金の改定
|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/1.futsu.pdf|format=PDF|publisher=福岡市交通局|date=2019-10-03|accessdate=2021-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003201041/https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/1.futsu.pdf |archivedate=2019-10-03}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!区間
!キロ程(km)!!運賃(円)
|-
|1区
|1 - 3||210
|-
|2区
|4 - 7||260
|-
|3区
|8 - 11||300
|-
|4区
|12 - 15||340
|-
|5区
|16 - 19||360
|-
|6区
|20 - ||380
|}
* 福岡市在住の[[福祉乗車証]]所持者は無料。[[身体障害者手帳]]・[[療育手帳]]・[[精神障害者保健福祉手帳]]所持者<ref>2017年3月までは、福岡市在住の福祉割引証所持者のみが割引対象となっていた。</ref>、介護者(条件あり)は半額<ref>[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/waribiki.php 料金割引] - 福岡市交通局、2017年4月6日閲覧</ref>。
* JR九州・福岡市地下鉄共通プリペイドカード「[[ワイワイカード]]」(2011年発売・利用終了)利用時は、地下鉄線内の運賃が20円引きされていた。<!--カードが廃止された件は後の節に記述しています。 -->
* [[2023年]][[3月27日]]の七隈線の博多駅への延伸に伴う料金区間の変更はなし。ただし空港線[[天神駅]]と七隈線[[天神南駅]]を120分以内に乗り継ぐ場合は乗車距離を通算して求めた料金で乗車できる改札外乗継制度が前日3月26日をもって廃止され、3月27日からは空港線と七隈線の乗換駅が博多駅に変更されたため、一部の駅間で乗車料金が増減した。乗車料金が増加した区間については2024年3月31日まで経過措置としてICカード「はやかけん」で博多経由で乗車した場合、普通料金について増加する料金負担の1/2の「はやかけんポイント」を付与するなどの負担緩和策がとられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/nanakumaline_extension/data/pdf/R3pdf.pdf#page=7 |title=高速鉄道3号線(※すなわち七隈線)の計画等について |access-date==2023-03-27 |publisher=福岡市交通局}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/nanakumaline_extension/fare_guide/ |title=のりかえ駅変更に関するお知らせ |access-date=2023-03-27 |publisher=福岡市交通局}}</ref>。
=== 連絡運輸 ===
福岡市高速鉄道連絡運輸規程<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukuoka.lg.jp/d1w_reiki/reiki_honbun/q003RG00000937.html|title=福岡市高速鉄道連絡運輸規程(昭和58年3月14日 交通事業管理規程第5号)|work=福岡市例規集|accessdate=2015-07-04}}</ref>に基づき、[[九州旅客鉄道]](JR九州)及び[[西日本鉄道]](西鉄)の間で以下の[[連絡運輸]](相互連絡運輸)が設定されている。
* [[姪浜駅]]経由で福岡市地下鉄全駅とJR[[筑肥線]]([[下山門駅]] - [[唐津駅]]間)・[[唐津線]](唐津駅 - [[西唐津駅]]間)各駅の間を乗降する場合(往復乗車券を除く)
** 空港線[[室見駅]] - [[赤坂駅 (福岡県)|赤坂駅]]間各駅とJR筑肥線[[周船寺駅]] - 下山門駅間各駅の間を乗車する場合、[[運賃]]が地下鉄・JR合算額の20円引きになる。
* [[博多駅]]経由で福岡市地下鉄全駅とJR[[鹿児島本線]]([[門司港駅]] - [[大牟田駅]]間)・[[香椎線]](全線)・[[篠栗線]](全線)・[[筑豊本線]](全線)・[[長崎本線]]([[鳥栖駅]] - [[佐賀駅]]間)各駅の間を乗降する場合(定期券に限る)
** 長崎本線各駅発着の連絡定期券はJR九州でのみ発売する。
* [[天神駅]]・[[天神南駅]]経由または[[薬院駅]]経由で福岡市地下鉄全駅と[[西鉄天神大牟田線]]各駅の間を乗降する場合(定期券に限る)。
** 天神駅・天神南駅経由の定期券は[[西鉄福岡(天神)駅]]連絡。
** 西鉄側の発着駅には[[西鉄太宰府線|太宰府線]]・[[西鉄甘木線|甘木線]]各駅を含む<ref name="nishitetsu-teiki">{{Cite web|和書|url=http://www.nishitetsu.jp/train/kippu/teiki/renraku.html|title=連絡定期券|publisher=西日本鉄道|accessdate=2015-07-04}}</ref>。
** 薬院駅を接続駅とした定期券で天神乗り換えは不可。天神を接続駅とした定期券での薬院乗り換えは、天神南駅 - 薬院駅間と西鉄福岡(天神)駅 - 薬院駅間の両方を経路に含んだ定期券(すなわち薬院大通以西 - 西鉄平尾以南の天神乗り換え定期)以外は不可。
* [[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]経由で福岡市地下鉄全駅と[[西鉄貝塚線]]各駅の間を乗降する場合(片道普通券・定期券・乗継乗車券に限る。ICカードも対象)
** 西鉄貝塚線各駅([[西鉄新宮駅]]を除く)との連絡運輸は運賃が地下鉄・西鉄合算額の20円引き(貝塚駅から地下鉄線2区以内と西鉄貝塚線[[名島駅]] - [[唐の原駅]]各駅の間を乗車する場合は60円引き)になる。
また、JR各社とは片道・往復・連続乗車券、JR線の乗車区間が100km以内の定期券・団体券において、以下の[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]が設定されている。西鉄との通過連絡運輸(天神大牟田線 - 地下鉄 - 貝塚線など)は設定されていない<ref name="nishitetsu-teiki"/>。
* 空港線姪浜駅 - 博多駅間を介してJR筑肥線(全線)・唐津線([[小城駅]] - 西唐津駅間)各駅とJR九州・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[四国旅客鉄道|JR四国]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]各駅の間を乗車する場合(下記例外を除き福岡市交通局では発売しない)
** 空港線姪浜駅 - 博多駅間を介してJR筑肥線(下山門駅 - 唐津駅間)・唐津線(唐津駅 - 西唐津駅間)各駅とJR鹿児島本線(門司港駅 - 大牟田駅間)・香椎線(全線)・篠栗線(全線)・筑豊本線(全線)各駅の間を乗車する場合の、JR線の乗車区間が100km以内の定期券に限り、福岡市交通局でも発売する。
** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]および[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]との連絡運輸規程は廃止された。
** ICカードのエリア内となる乗車(具体的には「西唐津 - 下山門間」-(姪浜・博多経由)- 「筑肥線・唐津線・博多駅以外のSUGOCAの福岡・佐賀・大分・熊本エリア内各駅」の乗車)の場合、[[SUGOCA]]や[[はやかけん]]などICカードで乗車した場合にも通過連絡運輸として運賃が計算される<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/rule/2012_rule01_03.html ICカード乗車券取扱規則 第55条] [[九州旅客鉄道]]、2017年2月11日閲覧。</ref>(博多駅の地下鉄改札で一度精算し、乗り継ぎ後の下車駅で残りの分を再び精算する。当日中であれば博多駅で打ち切られない)。
** JR部分の営業キロが通算して100kmを超えている場合、途中下車が可能になる(ICカードは対象外。地下鉄線内で途中下車することはできない)。
** 博多駅から直接福岡市地下鉄に乗りJR筑肥線方面へ向かう場合、JR博多駅のみどりの窓口でも購入可能。
=== 企画乗車券 ===
; [[一日乗車券]]
: 福岡市地下鉄全線で利用できる一日乗車券は640円(小児320円)で発売している。この乗車券を提示することで市内の施設の一部が割引になるサービスも行っている。一日乗車券には、[[博多どんたく]]などのお祭りや特定イベント、特定日(正月など)の時に限定で、通常より100円安い520円で発売される時もある(発売予定に関しては、福岡市交通局の公式ホームページで確認できる)。2017年現在、1区料金では4回以上、2 - 3区料金では3回以上、4区以上の料金では2回以上利用する場合、一日乗車券の方が安くなる(小児除く)。
; ファミちかきっぷ
: 一家族が同一行程で地下鉄全線を一家族1000円(大人2人まで、小児・幼児は人数制限無し。2[[親等]]内の親族に限る)で利用可能な一日乗車券。「ファミちかきっぷ」とは別に駅窓口等で配布するファミリーカードに利用者の氏名を記入して入場時に提示して利用する。また、「ファミちかきっぷ」利用者を対象に橋本駅および姪浜駅の対象駐車場限定で、当日の駐車料金の100円割引券を受け取れる「パーク&ライド家族割」も実施している<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=429 パーク&ライド家族割(ファミちかきっぷ)サービスの開始について] - 福岡市交通局、2017年5月2日</ref>。2021年4月26日からインターネット販売も開始した<ref name="fukuoka1271">[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=1271 ファミちかきっぷ,ファミリーペア券をインターネットで販売します!!] - 福岡市交通局、2021年4月20日</ref>。
; ファミリーペア券
: 2018年7月26日に発売を開始した大人用と小児用の一日乗車券のセットで、大人1名と小児1名が利用できる<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=643 「ファミリーペア券」の発売について] - 福岡市交通局、2018年7月25日</ref>。800円。2021年4月26日からインターネット販売も開始した<ref name="fukuoka1271" />。
; 天神・博多間1日フリーきっぷ
: [[非接触決済]]に対応した[[クレジットカード]]([[Visa#Visaのタッチ決済|Visaのタッチ決済]]に対応するカード)を専用の改札機でタッチして利用できる全国初となる一日乗車券<ref>{{Cite web|和書|title=全国初!クレジットカードが1日乗車券に 福岡市営地下鉄|url=https://rkb.jp/news/002006.html|website=RKBニュース|publisher=RKB毎日放送|accessdate=2021-04-22|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210416031600/https://rkb.jp/news/002006.html|archivedate=2021-04-16}}</ref>。空港線博多駅 - 天神駅間が1日乗降自由。また、[[ジョルダン (企業)|ジョルダン]]の[[乗換案内]]アプリにてスマートフォンで利用する[[乗車カード#デジタルチケット|デジタルチケット]]としても発売。発売期間は2021年4月16日から8月15日まで<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=1269 企画乗車券「天神・博多間1日フリーきっぷ」の発売開始について] - 福岡市交通局、2021年4月16日</ref>。
; [[ちかパス]]
: 地下鉄全線乗り放題の定期券(運賃制度上は企画乗車券)。1か月券は12,570円。3か月券(35,830円)、6か月券(67,880円)もある<ref>{{Cite web|和書|title=ちかパスの改定 (全線乗り放題定期券)|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/3.chikapass.pdf|format=PDF|publisher=福岡市交通局|date=2019-10-03|accessdate=2021-01-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003201924/https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/3.chikapass.pdf |archivedate=2019-10-03}}</ref>。4区以上の場合はちかパスの方が安くなる<ref>{{Cite web|和書|title=定期料金の改定|url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/2.teiki.pdf|format=PDF|publisher=福岡市交通局|date=2019-10-03|accessdate=2021-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003202033/https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_webapp/app/webroot/files/uploads/2.teiki.pdf |archivedate=2019-10-03}}</ref>。
; [[ちかパス]]65
: 「ちかパス」の65歳以上利用者に対する割引制度。通勤用や小児用よりも安くなる。1か月券は6000円。3か月券、6か月券もある。また[[運転免許]]自主返納者に「運転免許返納割」として3000ポイントを最大2回付与するサービスを2017年5月3日に開始した<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=431 運転免許返納割(ちかパス65)サービスの開始について] - 福岡市交通局、2017年5月2日</ref>。
; [[乗っチャリパス]]
: 福岡市営駐輪場定期をセットにした定期券。通常の駐輪場定期料金よりも最大5,400円安くなる。地下鉄沿線のみならず、JR九州および西鉄沿線の定期券連絡運輸区間の福岡市営駐輪場の利用もできる。全線定期券「ちかパス」にも設定があるが、小児用(小学生用)定期券や高齢者定期券「ちかパス65」には設定がない。
; アビスパ応援きっぷ
: 福岡市が[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[アビスパ福岡]]の主要株主ということもあり、[[東平尾公園博多の森球技場|ベスト電器スタジアム]]で行なわれるアビスパ福岡のホームゲームのいずれかで利用できるフリースタイルチケット(各座席エリアの前売り券の価格)と地下鉄の一日乗車券がセットになった乗車券を地下鉄各駅で販売している。
; 伊都・キャンパス回数券
; 伊都・シーサイド回数券(2023年3月31日をもって販売終了)
: それぞれ地下鉄各駅から筑肥線[[九大学研都市駅]]経由で[[昭和自動車|昭和バス]]・「九大前」(伊都・キャンパス回数券)または「西の浦」/「畑中」/「大原橋」(伊都・シーサイド回数券)との間で乗車できる回数券。それぞれ、10枚綴り回数券となっており詳細はWEB参照のこと(小児設定なし)<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/card/itocampus.php 伊都・キャンパス回数券] - 福岡市交通局</ref><ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/card/itoseaside.php 伊都・シーサイド回数券] - 福岡市交通局</ref>
=== 乗車カード対応(ICカード) ===
2009年3月7日より[[ICカード#日本の鉄道|ICカード乗車券]]「[[はやかけん]]」を導入している。
[[九州旅客鉄道]](JR九州)のICカード「[[SUGOCA]]」のほか、[[西日本鉄道]]のICカード「[[nimoca]]」および、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)のICカード「[[Suica]]」とも互換性を持たせる方向で、2008年2月「九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会」を発足させ、[[2010年]]3月13日に相互利用を開始した<ref>「[http://subway.city.fukuoka.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10188 九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会を発足しました] 」福岡市交通局 2008年2月07日</ref><ref>「[http://kyushu.yomiuri.co.jp/entame/railway/news/0903/ne_903_09030701.htm 福岡のICカード乗車券3種出そろう、相互利用は1年先]」読売新聞 2009年3月7日</ref>。
2013年3月23日には[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]が開始、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[Kitaca]]、首都圏私鉄などの[[PASMO]]、中京圏私鉄などの[[manaca]]、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[TOICA]]、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[ICOCA]]、関西私鉄などの[[PiTaPa]]との相互利用が開始された。
他には[[全日本空輸|全日空]] (ANA) と提携し、2009年12月16日より「ANAはやかけん」を発行している<ref>「[http://www.ana.co.jp/pr/09-0406/09-ana-fuk0610.html ANAと福岡市交通局の業務提携について]」全日本空輸・福岡市交通局 2009年6月10日</ref>。
2023年8月1日現在、福岡市地下鉄全線全駅と、JR九州[[鹿児島本線]]・[[香椎線]]の一部区間{{Efn|[[門司港駅]] - [[久留米駅]]の各駅と[[海ノ中道駅]]。対応する改札口も一部の駅では一部限定となる。}}、西鉄[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]・[[西鉄太宰府線|太宰府線]]の一部区間{{Efn|[[西鉄福岡(天神)駅]]、[[薬院駅]]、[[大橋駅 (福岡県)|大橋駅]]、[[西鉄二日市駅]]、[[太宰府駅]]、[[西鉄久留米駅]]、[[西鉄柳川駅]]の7駅だけで対応する。非対応の駅では乗降できない。}}で、[[クレジットカード]]等の[[非接触型決済]]{{Efn|種別としては「EMVコンタクトレス決済方式」(NFC-A/B方式)である。従来の[[Suica]]等の[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード]]は、「[[FeliCa]]方式」(NFC-F)であり、対応と仕組みが異なる。[[スマートフォン]]は、一方または両方に対応するものがある。}}による改札乗車の実証実験が行われている。なお、事業者ごとに対応するカードブランドが異なる。また、[[おサイフケータイ]]対応[[スマートフォン]]に[[ID (クレジット決済サービス)|iD]]または[[QUICPay]]で登録されたカード等は、この実験用端末では利用できない<ref>{{Cite web|和書|title=JR九州、クレカタッチ決済改札の実証を24年3月まで延長 |url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1488275.html |website=Impress Watch |date=2023-03-24 |access-date=2023-03-29 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Visaのタッチ決済とSuica一体の自動改札。福岡市営地下鉄で実証 |url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1411378.html |website=Impress Watch |date=2022-05-24 |access-date=2023-03-29 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=福岡市地下鉄 |url=https://subway.city.fukuoka.lg.jp/ |website=福岡市地下鉄のホームページ |access-date=2023-03-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishitetsu.co.jp/ja/news/news20220525103061/main/0/link/22_016.pdf |title=西日本鉄道でVisaのタッチ決済による実証実験 ~福岡の観光地への移動がスムーズに~ |access-date=2023年3月29日 |publisher=[[西日本鉄道]]}}</ref>。
=== 過去に発行されていた乗車券類 ===
; おとなりきっぷ
: [[2006年]][[4月1日]]からは乗車する駅からその隣の駅までの1駅間の運賃を100円とし、「おとなりきっぷ」の名称で隣の駅まで専用の乗車券を発売していたほか、2009年に導入したICカード「はやかけん」(相互利用可能な他社のICカード含む)を利用した場合でも運賃100円となっていた。2013年まで利用できた「えふカード」や、2011年まで利用できた「よかネットカード」も100円、2011年まで利用できた「ワイワイカード」の場合は一律正規運賃より20円引きされ80円となっていた。ただし、定期券や他社線との連絡乗車券の場合は地下鉄線内の乗車区間が1駅間であっても割引対象外だった。この「おとなりきっぷ」を使うと、2駅間を通しで乗るよりも安く乗れる区間があった。なお、乗り越し精算では適用されなかった。
:: 例:博多 - 東比恵 - 福岡空港(通して乗ると260円、分けて買うと100円+100円で200円となった。さらにワイワイカード利用の場合は80円+80円で160円となった)
: [[2016年]][[9月30日]]をもっておとなりきっぷは廃止となり、以後は通常の初乗り運賃が必要となる<ref name="otonariekochikahaishi">[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=305 「エコちかきっぷ」「おとなりきっぷ」「ちかまるきっぷ」発売終了のお知らせ] - 福岡市交通局、2016年9月6日</ref>。代替として、「はやかけん」で一駅区間利用時に、はやかけんに100ポイントを付与する「はやかけん ひと駅ポイント」へ移行した。
; [[一日乗車券]]
: 2016年9月25日まで、土日祝日限定の「エコちかきっぷ」が520円で発売されていた<ref name="otonariekochikahaishi" />。また、2016年夏まで学校の長期休暇期間には小児専用の「ちかまるきっぷ」が100円で発売されていた<ref name="otonariekochikahaishi" />。「ちかまるきっぷ」には[[マクドナルド]]のオレンジジュース無料引換券が付いていた。
: 2016年10月1日からは土日祝日も通常の一日乗車券での利用となった。
: 2012年3月25日までは、金曜日のみ利用可能な「[[ノーマイカーデー]]1日乗車券」も発売していたが、同年4月から福岡市が「ノーマイカーウィークデー」を実施することに伴い発売を終了した<ref>[http://www.city.fukuoka.lg.jp/kankyo/ondan/shisei/kisyahaifusiryou1_3.html 福岡市「ノーマイカーデー1日乗車券」の発売終了について]</ref>。かつて「エコちかきっぷ」は第2土日曜日のみの発売、「ノーマイカーデー1日乗車券」は金曜日の5日前から発売だったが、「エコちかきっぷ」は[[2009年]][[3月14日]]から利用日が拡大、「ノーマイカーデー1日乗車券」は同年3月20日から事前発売が廃止され、両乗車券とも自動券売機での販売のみとなり、販売枚数制限が撤廃されていた<ref>「[http://subway.city.fukuoka.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10274 エコちかきっぷ 3月14日から全ての土・日・祝日に発売拡大]」福岡市交通局 2009年02月10日</ref>。
; 磁気式ストアードフェアカード各種
: 地下鉄線内のみ利用可能でプレミアムのある「[[えふカード]]」、地下鉄と西鉄電車([[西鉄貝塚線|宮地岳線]]・無人駅を除く)で共通利用可能でプレミアムがえふカードより少ない「[[よかネットカード]]」、地下鉄とJR九州で共通利用可能でプレミアムがなく地下鉄乗車時に運賃が20円割引となる「[[ワイワイカード]]」があったが、いずれもICカードへの転換に伴い2010年から2012年にかけて相次いで廃止された。
== みまもりタッチ ==
[[ファイル:Mimamori touch 01.jpg|thumb|150px|みまもりタッチ]]
'''みまもりタッチ'''は、福岡市交通局が2010年7月27日<ref name="fukuoka20100722" />から2021年6月30日まで<ref>[https://mimamori-touch.ansinanzen.jp/pc/indexone.php みまもりタッチ パソコンサイト]、2021年12月19日閲覧。</ref>提供していた、ICカード乗車券「はやかけん」を利用して、通学児童の所在確認を提供するサービス。[[FeliCa]]ポケットの領域を利用し、端末とシステムは[[日本信号]]社製<ref>[http://www.sony.co.jp/Products/felica/felicapocket/biz/csy/ FeliCaポケット] ソニー公式サイト</ref>。類似のサービスに[[グーパス#あんしんグーパス|あんしんグーパス]]があるが、システムが異なる。
事前に登録が必要。各駅のICカード対応改札機および公共施設77ヶ所(2010年10月時点)に設置された読み取り機に、児童がICカード乗車券をかざすと、親権者にメールで連絡が行く。当初は無料で利用できた<ref>{{Cite news |title=「見守りタッチ」本格スタート 通学時の通過履歴 保護者に配信 福岡市IC乗車券活用 71カ所に端末設置 |newspaper=西日本新聞 |date=2010-07-27 |url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/187026 |publisher=西日本新聞社 |accessdate=2021-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100729031121/https://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/187026/ |archivedate=2010-07-29}}</ref><ref name="fukuoka20100722">{{Cite web|和書|date=2010-07-22 |url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10386 |title=「みまもりタッチ」サービスを開始します! |website=福岡市地下鉄 |publisher=福岡市交通局 |accessdate=2021-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119230804/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10386 |archivedate=2012-01-19}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[九州の鉄道]]
* [[美少女戦士セーラームーンCrystal]] - 2021年公開の[[美少女戦士セーラームーンCrystal#劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal|『劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal』]]でコラボ企画を行った。また、主人公の[[月野うさぎ]]が駅構内放送に出演している。
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]] - 「お父さんの地下鉄」として開業直後の1981年8月9日に放送。廃止となった西鉄福岡市内線電車の運転士から福岡市営地下鉄に転職し、再び地下鉄の運転士を目指す男性の人生を描いたドラマ。
== 外部リンク ==
* [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/ 福岡市交通局 公式サイト]
* {{Twitter|Chikamaru_info|福岡市地下鉄【公式】}}
* {{YouTube|channel=UCBAINwAGzZRUX6EH_n1hvqg|福岡市交通局公式チャンネル}}
*[http://www.city.fukuoka.lg.jp/d1w_reiki/reiki_honbun/q003RG00000932.html 福岡市高速鉄道乗車料金等条例施行規程]
*[http://www.city.fukuoka.lg.jp/d1w_reiki/reiki_honbun/q003RG00000937.html 福岡市高速鉄道連絡運輸規程]
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熊本市交通局
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熊本市交通局(くまもとし こうつうきょく)は、日本の熊本県熊本市で公共交通事業を行う熊本市の地方公営企業の一つで、熊本市電(路面電車)を運営している。交通局庁舎は熊本市中央区大江5丁目に所在する。
かつては熊本市営バス(くまもとしえいバス)として公営バス(乗合バス事業)も運営していたが、2015年(平成27年)3月31日をもって廃止され、熊本都市バスに移管された。
熊本市電についても2025年度に上下分離方式を導入することを決定しており、2024年度に熊本市交通局を廃止し、2025年(令和7年)4月から熊本市に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている。熊本市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行する。
熊本市内の交通機関としては、明治末期より大日本軌道が運行されていたが、蒸気軌道のため評判はよくなかった。市民から電車化の要望が出てくるようになり、市当局では1917年(大正6年)に「電車期成会」を結成し、翌年には同じ九州で当時既に電車が運行されていた福岡、長崎、久留米、鹿児島の各都市へ視察団を派遣した。こうした結果を踏まえ、熊本市では大日本軌道と電車化についての交渉をすることとなった。大日本軌道側も電車化を受け入れたが、結局実現はみることはなかった。そこで熊本市では審議の結果、電気会社の熊本電気に対し、軌道事業の兼営を提案することになった。交渉の結果、熊本電気も条件付きで受け入れることになり、1920年(大正9年)仮契約を結ぶことになった。しかし、この年の不況により計画は中断してしまう。
その後、熊本電気は新会社を設立して軌道事業を経営するという提案をした。熊本市もこれを了承し、1921年(大正10年)11月に軌道敷設特許状が下付されるのを待って、熊本電車株式会社が設立された。ところがこの頃から、市民の間からは電車市営の要望が出されるようになる。1922年(大正11年)には新市長が誕生したことにより、市営化の方針となり、軌道特許敷設権は熊本市へ譲渡されることとなった。
熊本市では第一期工事として、幹線と水前寺線を選定した。その建設費は起債によることとして、1923年(大正12年)3月に許可を得た。そして5月から用地買収に取り掛かった。幹線は熊本駅前を起点とする市の中心部を貫通する道路であるが、道幅は狭く、幅員を10間ないし12間に拡張することになった。幸い家屋移転は順調に進み、10月には起工式を挙げ、1924年(大正13年)8月1日に開通した。
第二期工事(春竹線、上熊本線、黒髪線〈子飼橋線〉)については、1926年(大正15年)6月16日に市議会において可決され、工事施工及び起債発行の申請が1927年(昭和2年)4月及び7月に認可となったため、1928年(昭和3年)より用地買収と工事にかかり、1928年(昭和3年)12月に黒髪線が開通。1929年(昭和4年)6月に春竹線辛島町 - 春竹間および上熊本線辛島町 - 段山町間が開通した。上熊本線段山町 - 上熊本駅前間は藤崎台にある陸軍練兵場の堀鑿や井芹川の改修工事、耕地整理事業の関係で着工が遅れていた。市では1935年(昭和10年)3月の熊本大博覧会の開催までには開通するべく昼夜工事を敢行し、博覧会開催の前日の1935年(昭和10年)3月24日に開通することができた。
熊本市内には熊本市のほか、熊本電気軌道が運営する路面電車路線もあったが、1945年に熊本市は熊本電気軌道を買収した。
2023年(令和5年)3月7日、熊本市議会都市整備委員会で市交通局は「上下分離方式」の導入に伴い、2024年度に交通局を廃止する方針を示した。上下分離方式の導入に伴い、市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行し、熊本市は2025年4月に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている。
熊本市交通局の運転士ら111人については熊本市が出資する一般財団法人の正規職員として採用する方針で、事務職や技工職の正規職員84人は熊本市から法人への出向という形を取る。
路線数は5本、運転系統は2系統ある。洗馬橋 - 新町間のみが専用軌道であり、他は全路線併用軌道となっている。また、熊本駅前から田崎橋にかけてはサイドリザベーション化されている。軌間は全線1435mm(標準軌。廃止路線も1067mmの百貫線以外同じ)。田崎橋電停付近と健軍町電停の乗車ホーム部分を除くほぼ全線が複線で、電化方式は直流600V。車庫は上熊本にあるが、以前車庫があった大江の交通局横にも留置線が少し残されており、交通局前停留場の味噌天神前電停側に引き込み線がある。
電線地中化・電柱撤去への対応としては、道幅の関係でセンターポール方式は採用せず、照明柱添加方式を採用しており、対象区間では道路端に建植された道路照明柱にスパンワイヤーを取り付けて架線を吊架している。
随所に設けたトロリーコンタクターにより電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、車両無線も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応を図っている。
A系統・B系統それぞれ全線通しての運転が主であるが、熊本駅前発着や交通局前発着の便もある(ただし、交通局前発便のうち健軍町方面に向かう便は、大江車庫からの出庫時に乗車取り扱いができないため、交通局前発ではなく次の味噌天神前発となる)。そのほか、便数は少ないが健軍交番前発、神水交差点発着、辛島町発着および新水前寺駅前行きなども設定されている。ただし、これらの停留場などで途中折り返しが可能な停留場が終点となる便はA系統の熊本駅前行きを除いてすべて「臨」で運行される。ラインカラーは黄色。あくまでも「増発」 による「臨時」ではなく、途中で終点となることを意味している。
JR九州線とは熊本駅前で九州新幹線・鹿児島本線・豊肥本線、上熊本で鹿児島本線、新水前寺駅前で豊肥本線と乗り換えが可能。上熊本では熊本電気鉄道とも乗り換え可能。
2011年(平成23年)3月1日に、運転系統名や電停名などの改称など、以下の変更が実施された。
5系統廃止段階では、6系統は段山町 - 辛島町 - 南熊本駅前の路線であった。その後、上熊本駅前まで延伸された後、辛島町 - 南熊本駅前となり、最後は5系統と同じ路線となった。
熊本市は以下の区間の特許も保有していたが1937年に失効している。
ほかにも、無軌条電車(トロリーバス)による路線が昭和初期に構想されていたものの、水害などで断念を余儀なくされている。
熊本市運輸局では、2002年(平成14年)1月に市電網拡大についての路線10案を発表した。この中には、熊本港や熊本空港方面への延伸、熊本電鉄との接続が含まれていた。
また、2015年(平成27年)1月1日付の『熊本日日新聞』では、市電延伸検討を公約に掲げる大西一史の熊本市長就任を機に、田崎橋から西と、健軍町から東方面の延伸について、調査を再開すると報道されている。また、2016年(平成28年)9月11日付の『熊本日日新聞』で、2つの方面の延伸が優先して整備されることが報じられている。
2004年(平成16年)1月の『熊本日日新聞』において、熊本市が策定中の江津湖観光活性化計画の一環として、市電の延伸を検討していると報じられた。この計画は2002年(平成14年)の路線10案には含まれていない。総事業費は約10億円。報道によれば、2007年度(平成19年度)の着工、2008年度(平成20年度)中の開業を考えているなど、最も実現性の高い計画であった。概要は以下のようなものである。
続いて同2008年9月には、路線10案の中にある健軍町から東部への延伸と自衛隊方面の新設の2案が追加された。こちらの事業費は60億から70億円と見込まれたが、市有地が少ないため、道路拡幅による用地取得が鍵となっている。しかし、庄口公園方面の延伸については、同年度の予算によって調査をした結果、採算性が見込めないことと、湖の水質に悪影響を与える可能性があることから、同年12月に計画の中止を発表した。また、益城方面への延伸については調査が開始された。
一方、熊本電気鉄道は2004年(平成16年)7月に藤崎宮前駅と市電の接続計画を発表した。電鉄全線を市電に合わせて改軌した上でLRT化、国道3号のバスレーンに軌道を敷設して市電に接続、熊本駅方面へ直通させるもの。総事業費は100億円以上と見込まれ、電鉄では負担しきれないことから、公的支援を要請した。また、受け入れられない場合は2008年(平成20年)3月に鉄道事業を廃止するとして、自治体側を強く牽制していた。
電鉄は2005年(平成17年)10月に計画を市に譲り渡し、その後、熊本市は熊本県と合志市と共同で、電鉄案(電鉄から熊本市に譲渡した)のほかにも、市電を藤崎宮前まで延長して電鉄と同一ホーム乗り換えを行うという形も含めて検討することとし、委員会を設けて事業計画の策定を行うことを2007年(平成18年)3月に決定した。これを受けて熊本電鉄側では廃止案を撤回している。しかし、交通渋滞を引き起こす可能性があることや、採算性の問題などで、計画は一時凍結となった。その後、熊本県・熊本市・合志市は電鉄案のほか、市電の藤崎宮前までの延長と同一ホーム乗り換えという形も含め、都心結節計画検討委員会を設けて事業計画を策定し、2008年3月、鉄道を廃止して線路敷をバス専用道に転用し、連節バスやガイドウェイバスを走らせる新バスシステム導入を軸に検討を進める方針を決めた。その後、同年6月に熊本電気鉄道が7か年での経営再建計画を発表し、LRT(超低床電車)などの新規投資ができる環境にないことから、8月に検討委員会は計画検討の凍結を決定した。
熊本市は、2016年(平成28年)9月9日までに、市電の延伸を検討しているいくつかの計画線のうち、自衛隊(健軍駐屯地)ルート(健軍町電停から東区東町の第二空港線までの1.5km)と南熊本ルート(辛島町電停からJR南熊本駅までの1.7km、旧・春竹線)のどちらかを優先的に整備する方針を固めた。同年10月から詳細検討に入り、2017年度(平成29年度)には自衛隊ルートか南熊本ルートに絞り込むとした。そして、2017年6月16日、熊本市が「自衛隊ルート」を優先して整備する方針であることが報じられた。今後、地元住民にアンケートを行い、電停数などを決めていく方針。2018年(平成30年)12月、熊本市は「自衛隊ルート」の整備方針について、仮に2019年(平成31年)中に設計に取りかかった場合、2022年に着工、2026年の開業というスケジュールを発表したと報じられた。また、報道では他ルートについても計画は無くなったわけではなく、あくまで「自衛隊ルート」から進めるということになっているとも報じている。
2021年(令和3年)3月に策定された熊本市交通局の2028年度までの経営計画においても、自衛隊ルートの延伸計画が具体化され次第、経営計画に盛り込むものとしている。
熊本市電の停留場における、1日平均乗車人員数のトップ5の停留場は以下のとおりである(2015年度)。
合計45両
市電全線、おとな180円、こども90円の均一運賃(2023年6月1日改定)。
2007年(平成19年)10月12日より、それまでの距離制運賃(改定前日時点では130円から200円まで)から、利用者増加策の一環として分かりやすい運賃体系への統一や長距離利用者に対する値下げ、整理券の廃止による経費削減を狙って、均一制運賃に改められた。これに伴い、整理券が廃止されたため、乗車口に設置されていた整理券発行機とTO熊カードの乗車位置記録用のカードライターが撤去された。
上述のように運賃均一化により整理券は廃止されたが、ICカードを利用する場合は、乗車時に乗車口のICカードリーダーにタッチするようになっている。
辛島町停留場でA系統とB系統とを乗り換える際は乗換券が発行される。運転士がボールペンで書き込むもので、降車時から20分以内に乗り継ぐ必要がある。ただし、大人用ICカードで大人1名が乗車する場合は乗換券を発行しない(乗り換え後の電車で同じICカードを利用すれば運賃は差し引かれない)。また、nimoca利用の場合はどの電停で下車しても60分以内に次の電車に乗り継げば20円引きとなる(nimoca以外のICカードでは適用されない)。
しかしながら、車両によって時刻整合ミスで「乗り換えた乗車時間が過去」という現象が起きた場合は、乗り換えた車両の降車時にも課金されることがある。カードの利用記録をプリントアウトとしたものを交通局に持ち込むと当該額が現金で返金され、帰路の市電の無料乗車券が渡される。辛島町電停がスクランブル交差点を挟んだ位置に再配置されてからは、乗り換えに要する時間が長くなったため、結果として発生し難くなった。
ほかに、九州旅客鉄道が発行する旅名人の九州満喫きっぷが全線で利用できる。
熊本県内のバス事業者5社は2015年(平成27年)4月1日にICカード「熊本地域振興ICカード」(くまモンのIC CARD)を導入したが、市電でも同年8月7日より利用可能になった。
熊本市電は、2014年(平成26年)時点で5路線2系統が存続しているが、かつては全線を廃止する計画があった。熊本市電は1960年代(昭和35年 - 44年)頃から他都市の路面電車と同じく採算悪化に悩まされ、5路線2系統を残して廃止された。
さらに残る5路線2系統についても1980年(昭和55年)前後をめどに廃止し、代替としてモノレールを建設する構想もあったが、市民から存続を求める声が上がったことや、オイルショックによる車社会依存の見直し等により、熊本市議会により存続が決議された。
広告電車は、昭和30年代(1955年 - 1964年)には小型広告を、また、昭和40年代(1965年 - 1974年)には全面広告を取り付た車両が走りだした。登場した背景には赤字に悩む熊本市電の経営安定化がある。1988年(昭和63年)9月7日には、熊本県は観光都市・熊本のイメージアップのため、屋外広告物条例とその施行規則を改正し、交通局は1989年(平成元年)4月1日から外部の全面広告及び小型広告を自主的に全廃した。しかし、広告廃止から10年ほどが経過した交通局の経営状態は決して良くはなく、独立採算性や経営安定化という点からも市電の車体広告を復活するべきであるとして、1999年(平成11年)4月1日から広告電車が復活した。広告はかつての小型広告ではなく、ラッピングによるフル広告となり、民間企業の広告では8503号の 不二家ミルキー を皮切りに、現在も約20車両程が広告車両となっている。
熊本市電において、自動両替機がまだ無かった昭和40年代初め(1960年代前半)までは、運転士と車掌役の男性2名体制での運行であった。1966年(昭和41年)から自動両替機や整理券発行機の導入でワンマン運行体制となり、車掌の居た位置に整理券発行機が設置された。しかし、2007年(平成19年)の再度の運賃定額化により、整理券発行機は撤去された。1997年(平成9年)の超低床連接車である9700型の導入にあたり、男性もしくは女性車掌が採用され(2011年〈平成23年〉から「トラムガイド」と呼称)、後部ドア側の業務及び車内案内などを行っている。
トミーテックの「鉄道むすめ 〜鉄道制服コレクション〜」では、2013年に トラムガイド「辛島みく」が設定され、車内等の掲示物(交通局の人材募集など)にも用いられている。イラストは伊能津。
姓の「辛島」は辛島町電停、名前の「みく」は、上熊本駅前(か みく まもとえきまえ)電停から来ている。
背丈は小柄、笑顔は人一倍。明るく元気なムードメーカー。熊本城の歴史を覚えるうち歴史全般が好きに。全国の名城巡りを計画中。ちょっと小顔のせいか制帽がズレやすく、常に気にしている。
熊本市内各地に路線を持つ路線バスのみの運営を基本としていたが、熊本競輪場への無料バスを運行しているため、貸切免許も保有していた。また、過去には熊本市に合併以前の旧・北部町や(かすめる程度であるが)旧・富合町にも運行していた。
1927年(昭和2年)に運行を開始し、最盛期の1969年(昭和44年)には34路線で約3906万人の輸送人員に達した。
しかし、2003年(平成15年)には29路線で約1536万人に落ち込んだ上、同年に九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)が産業再生機構の支援を受けたことから、民間のバス事業者各社の慢性的な赤字解消を兼ねて事業の集約を進めることになった。
それを受けて、2004年(平成16年)から2008年(平成20年)にかけての約4年間で、民間のバス事業者3社に路線の移管を進めた。
その後、2009年(平成21年)以降は民間3社が共同出資して設立した熊本都市バス株式会社への移管を進め、2015年(平成27年)4月1日付の最後の路線を含めて23路線が移管されることになった。
2015年3月31日で最後の1路線の運行を終了すると共に、同路線を運営していた小峯営業所の営業も終えることになり、88年間走った熊本市営バスの幕を下ろした。なお、バス事業に従事する職員は他部門に転配している。
熊本市営バスの路線では、SUNQパスが当初は利用できなかったものの2006年(平成18)10月1日から利用できるようになった。また、同日から熊本城周遊バスの運行が九州産交バスへ移管された(さらに2011年〈平成23年〉10月1日から熊本都市バスに再移管)。
メーカーは国内大型4メーカー全社を使用している。1995年(平成7年)までは西日本車体工業製車体を架装した車両を中心に導入していたが、その後は車両の低床化(ワンステップバス、ノンステップバス)により、純正車体での購入の割合が増えた。日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)のノンステップバスのみ西日本車体工業製の車体を架装した車両を一部導入している。
1994年(平成6年)に車椅子乗降用リフト付きバスを1台、翌1995年に大型ワンステップバスを1台導入したのち、1997年(平成9年)10月からノンステップバスを投入している。九州では大分バスに次ぎ2番目のノンステップバス導入事業者となっている。
また、ノンステップバスの購入開始と同時に、並行して都営バスから中古車を購入したのを皮切りに、その後、全国各社から中古車を購入し、特に大型車の代替としていた。主な譲受先は、東京都交通局、京浜急行バス、西武バス、川崎鶴見臨港バス、江ノ電バス、船橋新京成バスである。熊本都市バスへの移管を控えた2008年度(平成20年度)以降は新車の導入が無くなった。
塗装はツーステップ車(リフト付きバスを含む)は緑色と白色のツートンカラー。ノンステップバスは黄緑色・白色・橙色の3色で前面窓下に赤帯を加えた塗装である。ワンステップバスはこれに赤帯を加えた塗装を施していた。その後、ワンステップバス・リフト付きバスはすべて熊本都市バスに譲渡されたため、この塗装の車両は消滅した。
1993年(平成5年)、市電のレトロ調電車導入と同時期にレトロ調バスを1台導入している。シャーシはこの種のファンタスティックバスに多く使用されている日野自動車の特装車シャーシ (U-CG3KSAU) で、車体は地元のイズミ車体製作所製。この車両は熊本都市バスへ移籍することなく除籍された。
運賃表示器は交通電業社製、整理券発行機と運賃箱は小田原機器製(整理券発行機はSAN-V型、運賃箱はRX-SB型)が導入されている。
2008年(平成20年)4月1日時点での路線名に基づいて記す。ただし、系統番号は1996年(平成8年)以降は熊本都市圏に乗り入れている他社と共通の「漢字1文字」と「アラビア数字」を組み合わせた番号を用いている、数字のみの番号は実質的には使われていない。かつては、番号を表示せず、各路線ごとに異なる動物のイラストを描いた路線番号板を車両前面に掲出していたが、1996年4月1日に系統番号の使用が開始されたため中止した。
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"text": "熊本市交通局(くまもとし こうつうきょく)は、日本の熊本県熊本市で公共交通事業を行う熊本市の地方公営企業の一つで、熊本市電(路面電車)を運営している。交通局庁舎は熊本市中央区大江5丁目に所在する。",
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"text": "かつては熊本市営バス(くまもとしえいバス)として公営バス(乗合バス事業)も運営していたが、2015年(平成27年)3月31日をもって廃止され、熊本都市バスに移管された。",
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"text": "熊本市電についても2025年度に上下分離方式を導入することを決定しており、2024年度に熊本市交通局を廃止し、2025年(令和7年)4月から熊本市に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている。熊本市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行する。",
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"text": "熊本市内の交通機関としては、明治末期より大日本軌道が運行されていたが、蒸気軌道のため評判はよくなかった。市民から電車化の要望が出てくるようになり、市当局では1917年(大正6年)に「電車期成会」を結成し、翌年には同じ九州で当時既に電車が運行されていた福岡、長崎、久留米、鹿児島の各都市へ視察団を派遣した。こうした結果を踏まえ、熊本市では大日本軌道と電車化についての交渉をすることとなった。大日本軌道側も電車化を受け入れたが、結局実現はみることはなかった。そこで熊本市では審議の結果、電気会社の熊本電気に対し、軌道事業の兼営を提案することになった。交渉の結果、熊本電気も条件付きで受け入れることになり、1920年(大正9年)仮契約を結ぶことになった。しかし、この年の不況により計画は中断してしまう。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、熊本電気は新会社を設立して軌道事業を経営するという提案をした。熊本市もこれを了承し、1921年(大正10年)11月に軌道敷設特許状が下付されるのを待って、熊本電車株式会社が設立された。ところがこの頃から、市民の間からは電車市営の要望が出されるようになる。1922年(大正11年)には新市長が誕生したことにより、市営化の方針となり、軌道特許敷設権は熊本市へ譲渡されることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "熊本市では第一期工事として、幹線と水前寺線を選定した。その建設費は起債によることとして、1923年(大正12年)3月に許可を得た。そして5月から用地買収に取り掛かった。幹線は熊本駅前を起点とする市の中心部を貫通する道路であるが、道幅は狭く、幅員を10間ないし12間に拡張することになった。幸い家屋移転は順調に進み、10月には起工式を挙げ、1924年(大正13年)8月1日に開通した。",
"title": "歴史"
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"text": "第二期工事(春竹線、上熊本線、黒髪線〈子飼橋線〉)については、1926年(大正15年)6月16日に市議会において可決され、工事施工及び起債発行の申請が1927年(昭和2年)4月及び7月に認可となったため、1928年(昭和3年)より用地買収と工事にかかり、1928年(昭和3年)12月に黒髪線が開通。1929年(昭和4年)6月に春竹線辛島町 - 春竹間および上熊本線辛島町 - 段山町間が開通した。上熊本線段山町 - 上熊本駅前間は藤崎台にある陸軍練兵場の堀鑿や井芹川の改修工事、耕地整理事業の関係で着工が遅れていた。市では1935年(昭和10年)3月の熊本大博覧会の開催までには開通するべく昼夜工事を敢行し、博覧会開催の前日の1935年(昭和10年)3月24日に開通することができた。",
"title": "歴史"
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"text": "熊本市内には熊本市のほか、熊本電気軌道が運営する路面電車路線もあったが、1945年に熊本市は熊本電気軌道を買収した。",
"title": "歴史"
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"text": "2023年(令和5年)3月7日、熊本市議会都市整備委員会で市交通局は「上下分離方式」の導入に伴い、2024年度に交通局を廃止する方針を示した。上下分離方式の導入に伴い、市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行し、熊本市は2025年4月に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "熊本市交通局の運転士ら111人については熊本市が出資する一般財団法人の正規職員として採用する方針で、事務職や技工職の正規職員84人は熊本市から法人への出向という形を取る。",
"title": "歴史"
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"text": "路線数は5本、運転系統は2系統ある。洗馬橋 - 新町間のみが専用軌道であり、他は全路線併用軌道となっている。また、熊本駅前から田崎橋にかけてはサイドリザベーション化されている。軌間は全線1435mm(標準軌。廃止路線も1067mmの百貫線以外同じ)。田崎橋電停付近と健軍町電停の乗車ホーム部分を除くほぼ全線が複線で、電化方式は直流600V。車庫は上熊本にあるが、以前車庫があった大江の交通局横にも留置線が少し残されており、交通局前停留場の味噌天神前電停側に引き込み線がある。",
"title": "熊本市電"
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"text": "電線地中化・電柱撤去への対応としては、道幅の関係でセンターポール方式は採用せず、照明柱添加方式を採用しており、対象区間では道路端に建植された道路照明柱にスパンワイヤーを取り付けて架線を吊架している。",
"title": "熊本市電"
},
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"text": "随所に設けたトロリーコンタクターにより電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、車両無線も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応を図っている。",
"title": "熊本市電"
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"text": "A系統・B系統それぞれ全線通しての運転が主であるが、熊本駅前発着や交通局前発着の便もある(ただし、交通局前発便のうち健軍町方面に向かう便は、大江車庫からの出庫時に乗車取り扱いができないため、交通局前発ではなく次の味噌天神前発となる)。そのほか、便数は少ないが健軍交番前発、神水交差点発着、辛島町発着および新水前寺駅前行きなども設定されている。ただし、これらの停留場などで途中折り返しが可能な停留場が終点となる便はA系統の熊本駅前行きを除いてすべて「臨」で運行される。ラインカラーは黄色。あくまでも「増発」 による「臨時」ではなく、途中で終点となることを意味している。",
"title": "熊本市電"
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"text": "JR九州線とは熊本駅前で九州新幹線・鹿児島本線・豊肥本線、上熊本で鹿児島本線、新水前寺駅前で豊肥本線と乗り換えが可能。上熊本では熊本電気鉄道とも乗り換え可能。",
"title": "熊本市電"
},
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"text": "2011年(平成23年)3月1日に、運転系統名や電停名などの改称など、以下の変更が実施された。",
"title": "熊本市電"
},
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"text": "5系統廃止段階では、6系統は段山町 - 辛島町 - 南熊本駅前の路線であった。その後、上熊本駅前まで延伸された後、辛島町 - 南熊本駅前となり、最後は5系統と同じ路線となった。",
"title": "熊本市電"
},
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"text": "熊本市は以下の区間の特許も保有していたが1937年に失効している。",
"title": "熊本市電"
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"text": "ほかにも、無軌条電車(トロリーバス)による路線が昭和初期に構想されていたものの、水害などで断念を余儀なくされている。",
"title": "熊本市電"
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"text": "熊本市運輸局では、2002年(平成14年)1月に市電網拡大についての路線10案を発表した。この中には、熊本港や熊本空港方面への延伸、熊本電鉄との接続が含まれていた。",
"title": "熊本市電"
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"text": "また、2015年(平成27年)1月1日付の『熊本日日新聞』では、市電延伸検討を公約に掲げる大西一史の熊本市長就任を機に、田崎橋から西と、健軍町から東方面の延伸について、調査を再開すると報道されている。また、2016年(平成28年)9月11日付の『熊本日日新聞』で、2つの方面の延伸が優先して整備されることが報じられている。",
"title": "熊本市電"
},
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"text": "2004年(平成16年)1月の『熊本日日新聞』において、熊本市が策定中の江津湖観光活性化計画の一環として、市電の延伸を検討していると報じられた。この計画は2002年(平成14年)の路線10案には含まれていない。総事業費は約10億円。報道によれば、2007年度(平成19年度)の着工、2008年度(平成20年度)中の開業を考えているなど、最も実現性の高い計画であった。概要は以下のようなものである。",
"title": "熊本市電"
},
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"tag": "p",
"text": "続いて同2008年9月には、路線10案の中にある健軍町から東部への延伸と自衛隊方面の新設の2案が追加された。こちらの事業費は60億から70億円と見込まれたが、市有地が少ないため、道路拡幅による用地取得が鍵となっている。しかし、庄口公園方面の延伸については、同年度の予算によって調査をした結果、採算性が見込めないことと、湖の水質に悪影響を与える可能性があることから、同年12月に計画の中止を発表した。また、益城方面への延伸については調査が開始された。",
"title": "熊本市電"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "一方、熊本電気鉄道は2004年(平成16年)7月に藤崎宮前駅と市電の接続計画を発表した。電鉄全線を市電に合わせて改軌した上でLRT化、国道3号のバスレーンに軌道を敷設して市電に接続、熊本駅方面へ直通させるもの。総事業費は100億円以上と見込まれ、電鉄では負担しきれないことから、公的支援を要請した。また、受け入れられない場合は2008年(平成20年)3月に鉄道事業を廃止するとして、自治体側を強く牽制していた。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "電鉄は2005年(平成17年)10月に計画を市に譲り渡し、その後、熊本市は熊本県と合志市と共同で、電鉄案(電鉄から熊本市に譲渡した)のほかにも、市電を藤崎宮前まで延長して電鉄と同一ホーム乗り換えを行うという形も含めて検討することとし、委員会を設けて事業計画の策定を行うことを2007年(平成18年)3月に決定した。これを受けて熊本電鉄側では廃止案を撤回している。しかし、交通渋滞を引き起こす可能性があることや、採算性の問題などで、計画は一時凍結となった。その後、熊本県・熊本市・合志市は電鉄案のほか、市電の藤崎宮前までの延長と同一ホーム乗り換えという形も含め、都心結節計画検討委員会を設けて事業計画を策定し、2008年3月、鉄道を廃止して線路敷をバス専用道に転用し、連節バスやガイドウェイバスを走らせる新バスシステム導入を軸に検討を進める方針を決めた。その後、同年6月に熊本電気鉄道が7か年での経営再建計画を発表し、LRT(超低床電車)などの新規投資ができる環境にないことから、8月に検討委員会は計画検討の凍結を決定した。",
"title": "熊本市電"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "熊本市は、2016年(平成28年)9月9日までに、市電の延伸を検討しているいくつかの計画線のうち、自衛隊(健軍駐屯地)ルート(健軍町電停から東区東町の第二空港線までの1.5km)と南熊本ルート(辛島町電停からJR南熊本駅までの1.7km、旧・春竹線)のどちらかを優先的に整備する方針を固めた。同年10月から詳細検討に入り、2017年度(平成29年度)には自衛隊ルートか南熊本ルートに絞り込むとした。そして、2017年6月16日、熊本市が「自衛隊ルート」を優先して整備する方針であることが報じられた。今後、地元住民にアンケートを行い、電停数などを決めていく方針。2018年(平成30年)12月、熊本市は「自衛隊ルート」の整備方針について、仮に2019年(平成31年)中に設計に取りかかった場合、2022年に着工、2026年の開業というスケジュールを発表したと報じられた。また、報道では他ルートについても計画は無くなったわけではなく、あくまで「自衛隊ルート」から進めるということになっているとも報じている。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)3月に策定された熊本市交通局の2028年度までの経営計画においても、自衛隊ルートの延伸計画が具体化され次第、経営計画に盛り込むものとしている。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "熊本市電の停留場における、1日平均乗車人員数のトップ5の停留場は以下のとおりである(2015年度)。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "合計45両",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "市電全線、おとな180円、こども90円の均一運賃(2023年6月1日改定)。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)10月12日より、それまでの距離制運賃(改定前日時点では130円から200円まで)から、利用者増加策の一環として分かりやすい運賃体系への統一や長距離利用者に対する値下げ、整理券の廃止による経費削減を狙って、均一制運賃に改められた。これに伴い、整理券が廃止されたため、乗車口に設置されていた整理券発行機とTO熊カードの乗車位置記録用のカードライターが撤去された。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "上述のように運賃均一化により整理券は廃止されたが、ICカードを利用する場合は、乗車時に乗車口のICカードリーダーにタッチするようになっている。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "辛島町停留場でA系統とB系統とを乗り換える際は乗換券が発行される。運転士がボールペンで書き込むもので、降車時から20分以内に乗り継ぐ必要がある。ただし、大人用ICカードで大人1名が乗車する場合は乗換券を発行しない(乗り換え後の電車で同じICカードを利用すれば運賃は差し引かれない)。また、nimoca利用の場合はどの電停で下車しても60分以内に次の電車に乗り継げば20円引きとなる(nimoca以外のICカードでは適用されない)。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、車両によって時刻整合ミスで「乗り換えた乗車時間が過去」という現象が起きた場合は、乗り換えた車両の降車時にも課金されることがある。カードの利用記録をプリントアウトとしたものを交通局に持ち込むと当該額が現金で返金され、帰路の市電の無料乗車券が渡される。辛島町電停がスクランブル交差点を挟んだ位置に再配置されてからは、乗り換えに要する時間が長くなったため、結果として発生し難くなった。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ほかに、九州旅客鉄道が発行する旅名人の九州満喫きっぷが全線で利用できる。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "熊本県内のバス事業者5社は2015年(平成27年)4月1日にICカード「熊本地域振興ICカード」(くまモンのIC CARD)を導入したが、市電でも同年8月7日より利用可能になった。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "熊本市電は、2014年(平成26年)時点で5路線2系統が存続しているが、かつては全線を廃止する計画があった。熊本市電は1960年代(昭和35年 - 44年)頃から他都市の路面電車と同じく採算悪化に悩まされ、5路線2系統を残して廃止された。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "さらに残る5路線2系統についても1980年(昭和55年)前後をめどに廃止し、代替としてモノレールを建設する構想もあったが、市民から存続を求める声が上がったことや、オイルショックによる車社会依存の見直し等により、熊本市議会により存続が決議された。",
"title": "熊本市電"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "広告電車は、昭和30年代(1955年 - 1964年)には小型広告を、また、昭和40年代(1965年 - 1974年)には全面広告を取り付た車両が走りだした。登場した背景には赤字に悩む熊本市電の経営安定化がある。1988年(昭和63年)9月7日には、熊本県は観光都市・熊本のイメージアップのため、屋外広告物条例とその施行規則を改正し、交通局は1989年(平成元年)4月1日から外部の全面広告及び小型広告を自主的に全廃した。しかし、広告廃止から10年ほどが経過した交通局の経営状態は決して良くはなく、独立採算性や経営安定化という点からも市電の車体広告を復活するべきであるとして、1999年(平成11年)4月1日から広告電車が復活した。広告はかつての小型広告ではなく、ラッピングによるフル広告となり、民間企業の広告では8503号の 不二家ミルキー を皮切りに、現在も約20車両程が広告車両となっている。",
"title": "熊本市電"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "熊本市電において、自動両替機がまだ無かった昭和40年代初め(1960年代前半)までは、運転士と車掌役の男性2名体制での運行であった。1966年(昭和41年)から自動両替機や整理券発行機の導入でワンマン運行体制となり、車掌の居た位置に整理券発行機が設置された。しかし、2007年(平成19年)の再度の運賃定額化により、整理券発行機は撤去された。1997年(平成9年)の超低床連接車である9700型の導入にあたり、男性もしくは女性車掌が採用され(2011年〈平成23年〉から「トラムガイド」と呼称)、後部ドア側の業務及び車内案内などを行っている。",
"title": "熊本市電"
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"text": "トミーテックの「鉄道むすめ 〜鉄道制服コレクション〜」では、2013年に トラムガイド「辛島みく」が設定され、車内等の掲示物(交通局の人材募集など)にも用いられている。イラストは伊能津。",
"title": "熊本市電"
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"text": "姓の「辛島」は辛島町電停、名前の「みく」は、上熊本駅前(か みく まもとえきまえ)電停から来ている。",
"title": "熊本市電"
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"text": "背丈は小柄、笑顔は人一倍。明るく元気なムードメーカー。熊本城の歴史を覚えるうち歴史全般が好きに。全国の名城巡りを計画中。ちょっと小顔のせいか制帽がズレやすく、常に気にしている。",
"title": "熊本市電"
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"text": "熊本市内各地に路線を持つ路線バスのみの運営を基本としていたが、熊本競輪場への無料バスを運行しているため、貸切免許も保有していた。また、過去には熊本市に合併以前の旧・北部町や(かすめる程度であるが)旧・富合町にも運行していた。",
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"text": "1927年(昭和2年)に運行を開始し、最盛期の1969年(昭和44年)には34路線で約3906万人の輸送人員に達した。",
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"text": "しかし、2003年(平成15年)には29路線で約1536万人に落ち込んだ上、同年に九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)が産業再生機構の支援を受けたことから、民間のバス事業者各社の慢性的な赤字解消を兼ねて事業の集約を進めることになった。",
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"text": "それを受けて、2004年(平成16年)から2008年(平成20年)にかけての約4年間で、民間のバス事業者3社に路線の移管を進めた。",
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"text": "2015年3月31日で最後の1路線の運行を終了すると共に、同路線を運営していた小峯営業所の営業も終えることになり、88年間走った熊本市営バスの幕を下ろした。なお、バス事業に従事する職員は他部門に転配している。",
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"text": "熊本市営バスの路線では、SUNQパスが当初は利用できなかったものの2006年(平成18)10月1日から利用できるようになった。また、同日から熊本城周遊バスの運行が九州産交バスへ移管された(さらに2011年〈平成23年〉10月1日から熊本都市バスに再移管)。",
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"text": "メーカーは国内大型4メーカー全社を使用している。1995年(平成7年)までは西日本車体工業製車体を架装した車両を中心に導入していたが、その後は車両の低床化(ワンステップバス、ノンステップバス)により、純正車体での購入の割合が増えた。日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)のノンステップバスのみ西日本車体工業製の車体を架装した車両を一部導入している。",
"title": "バス事業"
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"text": "1994年(平成6年)に車椅子乗降用リフト付きバスを1台、翌1995年に大型ワンステップバスを1台導入したのち、1997年(平成9年)10月からノンステップバスを投入している。九州では大分バスに次ぎ2番目のノンステップバス導入事業者となっている。",
"title": "バス事業"
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"text": "また、ノンステップバスの購入開始と同時に、並行して都営バスから中古車を購入したのを皮切りに、その後、全国各社から中古車を購入し、特に大型車の代替としていた。主な譲受先は、東京都交通局、京浜急行バス、西武バス、川崎鶴見臨港バス、江ノ電バス、船橋新京成バスである。熊本都市バスへの移管を控えた2008年度(平成20年度)以降は新車の導入が無くなった。",
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"text": "塗装はツーステップ車(リフト付きバスを含む)は緑色と白色のツートンカラー。ノンステップバスは黄緑色・白色・橙色の3色で前面窓下に赤帯を加えた塗装である。ワンステップバスはこれに赤帯を加えた塗装を施していた。その後、ワンステップバス・リフト付きバスはすべて熊本都市バスに譲渡されたため、この塗装の車両は消滅した。",
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"text": "1993年(平成5年)、市電のレトロ調電車導入と同時期にレトロ調バスを1台導入している。シャーシはこの種のファンタスティックバスに多く使用されている日野自動車の特装車シャーシ (U-CG3KSAU) で、車体は地元のイズミ車体製作所製。この車両は熊本都市バスへ移籍することなく除籍された。",
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"text": "運賃表示器は交通電業社製、整理券発行機と運賃箱は小田原機器製(整理券発行機はSAN-V型、運賃箱はRX-SB型)が導入されている。",
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"text": "2008年(平成20年)4月1日時点での路線名に基づいて記す。ただし、系統番号は1996年(平成8年)以降は熊本都市圏に乗り入れている他社と共通の「漢字1文字」と「アラビア数字」を組み合わせた番号を用いている、数字のみの番号は実質的には使われていない。かつては、番号を表示せず、各路線ごとに異なる動物のイラストを描いた路線番号板を車両前面に掲出していたが、1996年4月1日に系統番号の使用が開始されたため中止した。",
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] |
熊本市交通局は、日本の熊本県熊本市で公共交通事業を行う熊本市の地方公営企業の一つで、熊本市電(路面電車)を運営している。交通局庁舎は熊本市中央区大江5丁目に所在する。 かつては熊本市営バス(くまもとしえいバス)として公営バス(乗合バス事業)も運営していたが、2015年(平成27年)3月31日をもって廃止され、熊本都市バスに移管された。 熊本市電についても2025年度に上下分離方式を導入することを決定しており、2024年度に熊本市交通局を廃止し、2025年(令和7年)4月から熊本市に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている。熊本市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行する。
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{{脚注の不足|date=2022年7月26日}}<!--※出典の出し方が特定著者の出版物のような仕様(割り込み編集や改訂を考慮しなくてよい方式)になっています。出典の数が割と多いので充実しているように見えますが、具体的に示されていない箇所も非常に多いと感じます(例:年表や、熊本市電の大部分)。面倒でも代表的な典拠の一つくらいはいちいち示しておかないと。あるいは、常駐的執筆陣の責任編集を条件に、冒頭にて代表的出典を示して略式とし、例外のみ個別に扱う旨を明記する。そうしないと、例えば、不慣れな編集者による典拠なき記述が混ざり込んでも「きっとこれにも前後の内容と同じように典拠はあるのだろう」となり、実際は無いので、巻き添えで全体の信頼性まで台無しになります。-->
{{基礎情報 会社
|社名 = 熊本市交通局
|英文社名 = Kumamoto City Transportation Bureau
|画像 = [[File:Kumamoto_City_Transportation_Bureau_and 0802AB_01.jpg|320px|熊本市交通局大江庁舎と超低床電車0800型]]
|画像説明 = 熊本市交通局大江庁舎と超低床電車[[熊本市交通局0800形電車|0800型]]
|種類 = [[地方公営企業]]
|略称 = 熊本市電、市電、<br />熊本市営バス(市営バス、市バス)は2015年3月31日付けで廃止。
|国籍 = {{JPN}}
|郵便番号 = 862-0971
|本社所在地 = [[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]][[大江 (熊本市)|大江]]五丁目1番40号
|設立 = [[1921年]][[11月16日]]
|業種 = 陸運業
|事業内容 = 路面電車
|代表者 =
|資本金 =
|売上高 =
|総資産 =
|従業員数 =
|外部リンク = http://www.kotsu-kumamoto.jp/
|特記事項 =
}}
'''熊本市交通局'''(くまもとし こうつうきょく)は、[[日本]]の[[熊本県]][[熊本市]]で[[公共交通]]事業を行う熊本市の[[地方公営企業]]の一つで、'''[[#熊本市電|熊本市電]]'''([[路面電車]])を運営している。交通局庁舎は熊本市[[中央区 (熊本市)|中央区]][[大江 (熊本市)|大江5丁目]]に所在する。
かつては'''熊本市営バス'''(くまもとしえいバス)として[[公営バス]]([[路線バス|乗合バス]]事業)も運営していたが、[[2015年]]([[平成]]27年)[[3月31日]]をもって廃止され<ref name="asahi-np-2015-4-1">成田太昭「[https://web.archive.org/web/20150331233256/http://www.asahi.com/articles/ASH3R35NFH3RTLVB002.html 熊本市営バス、歴史に幕 駆けた88年]」『[[朝日新聞]]』2015年4月1日(朝日新聞社)</ref>、[[熊本都市バス]]に移管された。
熊本市電についても2025年度に[[上下分離方式]]を導入することを決定しており、2024年度に熊本市交通局を廃止し、[[2025年]](令和7年)4月から熊本市に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている<ref name="kumanichi20220307" />。熊本市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行する<ref name="kumanichi20220307" />。
== 歴史 ==
[[ファイル:Kumamoto City Tram and Bus 1956.jpg|thumb|240px|1956年頃の熊本市電・バス路線図。徳王-大窪間は[[北部町|北部村]]を通過する]]
熊本市内の交通機関としては、[[明治]]末期より[[熊本軽便鉄道|大日本軌道]]が運行されていたが、[[蒸気機関車|蒸気]]軌道のため評判はよくなかった。市民から[[電車]]化の要望が出てくるようになり、市当局では1917年([[大正]]6年)に「電車期成会」を結成し、翌年には同じ[[九州]]で当時既に電車が運行されていた[[福岡市|福岡]]、[[長崎市|長崎]]、[[久留米市|久留米]]、[[鹿児島市|鹿児島]]の各都市へ視察団を派遣した。こうした結果を踏まえ、熊本市では大日本軌道と電車化についての交渉をすることとなった。大日本軌道側も電車化を受け入れたが、結局実現はみることはなかった。そこで熊本市では審議の結果、電気会社の[[熊本電気]]に対し、軌道事業の兼営を提案することになった<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100188611|title=熊本の電車計画|oldmeta=00096863}} 「熊本の電車計画」『大阪朝日新聞』1918年5月24日]([[神戸大学]]新聞記事文庫)</ref>。交渉の結果、熊本電気も条件付きで受け入れることになり、1920年(大正9年)仮契約を結ぶことになった。しかし、[[戦後恐慌#1920年の戦後恐慌|この年の不況]]により計画は中断してしまう。
その後、熊本電気は新会社を設立して軌道事業を経営するという提案をした。熊本市もこれを了承し、1921年(大正10年)11月に軌道敷設特許状が下付されるのを待って、熊本電車株式会社が設立された。ところがこの頃から、市民の間からは電車市営の要望が出されるようになる。1922年(大正11年)には新市長が誕生したことにより、市営化の方針となり、軌道特許敷設権は熊本市へ譲渡されることとなった<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100251374|title=愈熊本市電敷設 : 熊本電気買収契約成立|oldmeta=10027334}} 「愈熊本市電敷設 熊本電気買収契約成立」『大阪朝日新聞 九州版』1922年7月26日](神戸大学新聞記事文庫)</ref>。
熊本市では第一期工事として、[[熊本市電幹線|幹線]]と[[熊本市電水前寺線|水前寺線]]を選定した。その建設費は起債によることとして、1923年(大正12年)3月に許可を得た。そして5月から用地買収に取り掛かった。幹線は[[熊本駅]]前を起点とする市の中心部を貫通する道路であるが、道幅は狭く、幅員を10[[間]]ないし12間に拡張することになった。幸い家屋移転は順調に進み、10月には起工式を挙げ、1924年(大正13年)8月1日に開通した。
第二期工事([[熊本市電春竹線|春竹線]]、[[熊本市電上熊本線|上熊本線]]、[[熊本市電黒髪線|黒髪線]]〈子飼橋線〉)については、1926年(大正15年)6月16日に市議会において可決され、工事施工及び起債発行の申請が1927年([[昭和]]2年)4月及び7月に認可となったため、1928年(昭和3年)より用地買収と工事にかかり、1928年(昭和3年)12月に黒髪線が開通。1929年(昭和4年)6月に春竹線[[辛島町停留場|辛島町]] - [[春竹町停留場|春竹]]間および上熊本線辛島町 - [[段山町停留場|段山町]]間が開通した。上熊本線段山町 - [[上熊本駅#熊本市交通局|上熊本駅前]]間は藤崎台にある[[大日本帝国陸軍|陸軍]]練兵場の堀鑿や[[井芹川]]の改修工事、耕地整理事業の関係で着工が遅れていた。市では1935年(昭和10年)3月の熊本大博覧会の開催までには開通するべく昼夜工事を敢行し、博覧会開催の前日の1935年(昭和10年)3月24日に開通することができた。
熊本市内には熊本市のほか、[[熊本電気軌道]]が運営する路面電車路線もあったが、1945年に熊本市は熊本電気軌道を買収した。
=== 上下分離方式へ ===
2023年(令和5年)3月7日、熊本市議会都市整備委員会で市交通局は「[[上下分離方式]]」の導入に伴い、2024年度に交通局を廃止する方針を示した<ref name="kumanichi20220307">{{Cite web|和書|url=https://kumanichi.com/articles/971023|title=熊本市交通局、24年度に廃止へ 市電「上下分離方式」導入で担当部署を新設 車両や施設などインフラ運営|publisher=熊本日日新聞|date=2023-03-07|accessdate=2023-03-07}}</ref>。上下分離方式の導入に伴い、市電の運行は熊本市が出資する一般財団法人に移行し、熊本市は2025年4月に車両や軌道の管理を担う部署を新設することになっている<ref name="kumanichi20220307" />。
熊本市交通局の運転士ら111人については熊本市が出資する一般財団法人の正規職員として採用する方針で、事務職や技工職の正規職員84人は熊本市から法人への出向という形を取る<ref name="kumanichi20220307" />。
=== 年表 ===
==== 20世紀前半 ====
[[ファイル:Kumamoto City Tram in 1924.JPG|thumb|大正期の熊本駅前と熊本市電]]
[[ファイル:Kumamoto_City_Tram_Oct_7_2012.JPG|right|thumb|軌道緑化された通町筋電停の市電と[[熊本城]]]]
[[ファイル:Kumamoto City Transport Bus 1954.jpg|right|thumb|1954年頃の[[トレーラーバス]]]]
* [[1921年]]([[大正]]10年)
** 11月14日 - 熊本電車に対して軌道特許状下付{{Sfn|官報 1921年11月17日|p=392-393}}。
** [[11月16日]] - '''熊本電車株式会社'''を設立。
* [[1923年]](大正12年)[[4月13日]] - 熊本電車は予定線の特許などの全権利義務を熊本市へ譲渡し{{Sfn|官報 1923年3月28日}}、のちに解散。
* [[1924年]](大正13年)[[8月1日]] - [[熊本市電幹線|幹線]][[熊本駅|熊本駅前]] - [[浄行寺町停留場|浄行寺町]]間および[[熊本市電水前寺線|水前寺線]][[水道町停留場|水道町]] - [[水前寺公園停留場|水前寺]]間が開通。当初の事業者は熊本市電車部。
* [[1926年]](大正15年)[[5月11日]] - 水道部と統合して電気水道局に改組。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月23日]] - バス事業開始。当時は熊本市外であった[[健軍村]]、[[龍田村 (熊本県)|龍田村]]への乗り入れも行われた{{Sfnp|全国乗合自動車総覧|1934|p=1682}}。
* [[1928年]](昭和3年)
** [[6月21日]] - 水道局が分離して電気局に改組。
** [[12月26日]] - [[熊本市電黒髪線|黒髪線]]浄行寺町 - [[子飼橋停留場|子飼橋]]間が開通。
* [[1929年]](昭和4年)[[6月20日]] - [[熊本市電春竹線|春竹線]][[辛島町停留場|辛島町]] - [[南熊本駅|春竹駅前(のちの南熊本駅前)]]間および[[熊本市電上熊本線|上熊本線]]辛島町 - [[段山町停留場|段山町]]間が開通。
* [[1932年]](昭和7年)[[12月28日]] - 電気局局舎を大江町九品寺(現在地)に移転。
* [[1935年]](昭和10年)[[3月24日]] - 上熊本線段山町 - [[上熊本駅|上熊本駅前]]間が開通。
* 1937年(昭和12年)2月9日 - 軌道特許失効(1921年11月14日特許 熊本市東坪井町-同市池田町間、同市薬園町-同市黒髪町間、同市水道町-同市新鍛冶町間、指定ノ期限マテニ施工認可申請為ササルタメ){{Sfn|官報 1937年2月9日}}。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]] - 熊本市電気局を熊本市交通局に改称。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[5月6日]] - [[熊本市電健軍線|健軍線]]水前寺公園 - 三菱工場前(現在の[[健軍町停留場|健軍町]])間が開通。
** [[12月1日]] - 熊本電気軌道を買収し、同社が保有していた[[熊本市電百貫線|百貫線]]田崎 - 百貫石間および[[熊本市電川尻線|川尻線]][[河原町停留場|河原町]] - [[川尻町停留場|川尻町]]間を交通局の管理下に置く(百貫線は休止中のまま買収し、そのまま再開せず)。
==== 20世紀後半 ====
* [[1954年]](昭和29年)[[10月1日]] - [[熊本市電坪井線|坪井線]][[藤崎宮前停留場|藤崎宮前]] - 上熊本駅前間が開通。
* [[1959年]](昭和34年)
** 8月1日 - 局舎を建替。
** [[12月24日]] - [[熊本市電田崎線|田崎線]]熊本駅前 - [[田崎橋停留場|田崎橋]]間が開通。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[2月11日]] - 休止中の百貫線を廃止。
** [[2月21日]] - 川尻線を廃止。
* [[1970年]](昭和45年)[[5月1日]] - 坪井線および春竹線を廃止。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月1日]] - 幹線水道町 - 浄行寺町間および黒髪線を廃止。
* [[1978年]](昭和53年)[[8月2日]] - [[熊本市交通局1200形電車|1200型]]電車改造による初の冷房車が2両登場{{Sfnp|池田|1993|p=58}}。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[5月3日]] - 貸切バス事業を休止(廃止は同年8月1日)。
** [[12月14日]] - 上熊本線の存続を議決。
* [[1982年]](昭和57年)8月2日 - 日本全国初の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ方式]]軽快電車[[熊本市交通局8200形電車|8200型]]運行開始。
* [[1983年]](昭和58年)[[7月24日]] - 8200型電車が[[鉄道友の会]] [[ローレル賞]]受賞。
* [[1988年]](昭和63年)[[12月18日]] - 国際交流電車「[[サンアントニオ]]号」(8801号)命名式。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[7月29日]] - 国際交流電車「[[桂林市|桂林]]号」(8802号)命名式。市政100周年記念運行(1353号)。
* [[1992年]](平成4年)
** 8月1日 - [[火の国まつり|火の国祭り]]出発式の中で[[戦後]]初の女性運転士登場(1名)。
** [[9月14日]] - 国際交流電車「[[ハイデルベルク]]号」(9201号)命名式。
* [[1993年]](平成5年)[[9月23日]] - レトロ調電車[[熊本市交通局8800形電車|101号]]の登場。
* [[1996年]](平成8年)[[7月13日]] - 貸切事業免許を再取得し熊本競輪の無料バス輸送を開始。
* [[1997年]](平成9年)8月1日 - 超低床電車[[熊本市交通局9700形電車|9700型]]運行開始式。
* [[1998年]](平成10年)[[4月17日]] - 9700型が第19回国際交通安全学会賞とローレル賞受賞。
==== 2000年代 ====
* [[2001年]](平成19年)[[10月24日]] - [[10月28日]] - 「路面電車サミットin熊本」を開催<ref>「[http://www.techno-net.com/~lrt-hrkt/kaiho9/LRTSummitInKumamoto.htm 路面電車サミットin熊本 調査報告]」枚方・LRT研究会会報『らいと・れーる』9号(2020年9月25日閲覧)</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[9月30日]] - 市電の車庫・検査設備を上熊本駅前へ移転(局舎は移転せず)。建物跡地は県道(電車通り)に面しては「[[熊本市総合保健福祉センター]]」となったが、奧に若干の[[留置線]]があり、局舎は留置線を挟んだ位置に新築された。
* [[2004年]](平成16年) - 市営バス路線の民間バス事業者への民間移譲が開始される。
* [[2005年]](平成17年)10月1日 - 市電全線130円均一[[運賃]]の試行(同年10月31日まで)。
* [[2006年]](平成18年)
** [[7月1日]]からの夏季3か月間に[[ビール]]電車「ビアガー電」運行開始。
** 10月1日 - 市電全線150円均一運賃の試行(同年12月31日まで)。
* [[2007年]](平成19年)
** [[10月12日]] - 市電全線150円均一運賃の実施。
** [[12月15日]] - 大江新局舎落成(2008年2月18日に移転)。
** [[12月25日]] - [[熊本都市バス]]設立。
* [[2008年]](平成20年)[[12月10日]] - イルミネーション電車運行開始。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月27日]] - 熊本市と熊本都市バスが協定書に調印。
** [[4月1日]] - [[熊本市営バス本山車庫]]と管轄路線を熊本都市バスへ移譲。
** 4月1日 - 超低床電車[[熊本市交通局0800形電車|0800型]]運行開始。
==== 2010年代 ====
* [[2010年]](平成22年)[[4月26日]] - 田崎線を[[路面電車#路面電車関連用語|サイドリザベーション]]化。市電「緑のじゅうたん」サポーター制度開始<ref>[http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/content/web/asp/kiji_detail.asp?ID=6784&mid=6&LS=182 市電緑のじゅうたんサポーター制度] 熊本市役所ホームページ</ref>。[[熊本城・市役所前停留場|市役所前]] - [[通町筋停留場|通町筋]]間を軌道緑化。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月1日 - 市電の[[運行系統]]の名称変更と色分け、一部の電停名称変更、[[駅ナンバリング|停留場ナンバリング]]を実施。通町筋 - [[水道町停留場|水道町]]間を軌道緑化。
** 4月1日 - [[熊本市営バス上熊本営業所]]と管轄路線を[[熊本都市バス上熊本営業所|熊本都市バス]]へ移譲。
* [[2012年]](平成24年)4月1日 - [[熊本市営バス小峯営業所]]が管轄する一部路線を[[熊本都市バス小峯営業所|熊本都市バス]]へ移譲。以降2015年4月1日まで段階的に移管開始。
* [[2013年]](平成25年)4月1日 - 熊本市営バス小峯営業所が管轄する一部路線を熊本都市バスへ移譲。
* [[2014年]](平成26年)
** 3月28日 - [[乗車カード#ICカード乗車券|交通系ICカード]]「[[nimoca]]」を「でんでんnimoca」の名称で導入、運用開始。[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にも加入<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/Content/asp/topics/topics_detail.asp?PageID=2&ID=514&type=1 熊本市電ICカードの名称決定について] - 熊本市交通局2013年10月28日</ref><ref name="nishitetsu20131028">{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2013/13_106.pdf 熊本市電でnimocaがご利用いただけるようになります!]|株式会社ニモカ 2013年10月28日}}</ref>。
** 4月1日 - 熊本市営バス小峯営業所が管轄する一部路線を熊本都市バスへ移譲。
** 10月3日 - [[水戸岡鋭治]]デザイン市電車両「[[熊本市交通局0800形電車#COCORO (0803AB)|COCORO]]」運行開始。
* [[2015年]](平成27年)
** 3月31日 - この日をもってバス事業を廃止、「熊本市営バス」としての88年の歴史に幕を下ろす<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
** 4月1日 - 最後まで市営バスとして運行していた1路線「小峯京塚線」がこの日より熊本都市バスに譲渡され、2004年から進めていた市営バス路線の民間移譲が全路線完了<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
* [[2016年]](平成28年)
** [[2月1日]] - 市電の運賃を170円に値上げ<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20160116/ddl/k43/020/354000c 熊本市電 来月から170円に 運賃20円値上げ]」『[[毎日新聞]]』朝刊2016年1月16日(熊本県版)2020年9月25日閲覧</ref>。
** 11月 - [[2017年]](平成29年)3月にかけて、熊本市出身の[[ものまねタレント|モノマネ芸人]]・[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]の声による一部の市電停留場の案内放送を実施。
* [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)
** 4月1日 - 電車課を運行管理課に改称。
** 10月1日 - 一部の電停名称を変更。
==== 2020年代 ====
* [[2020年]](令和2年)
** 4月25日 - 土曜ダイヤと日祝ダイヤを統合。平日ダイヤにおける深夜運行の減便・区間変更により日付越えの運行は消滅<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&id=1087&pg=1 新型コロナウイルスの影響に伴う市電運行ダイヤの見直しについて] 熊本市交通局(2020年5月11日)2020年11月18日閲覧</ref>。これまで日本でもっとも遅い時間まで運行されていた路面電車であったが、同日付で[[豊橋鉄道]](本社所在地・[[愛知県]][[豊橋市]])にこの座を譲った。
** [[9月14日]] - [[女性専用車両]]を試験導入(12月28日までの予定)<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&type=top&id=1110 女性専用車両の試験導入について] 熊本市交通局(2020年9月1日)2020年9月25日閲覧</ref>。
* [[2021年]](令和3年)3月 - 2021年度から2028年度までの8年間の経営計画を策定<ref name="keikaku2021">熊本市交通局 『[http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=57&id=818&set_doc=1 熊本市交通局経営計画(2021 - 2028)]』(2022年8月13日閲覧)</ref>。経営形態の見直し検討、運賃・支払方法の検討、朝夕ラッシュ時の急行ダイヤの導入検討、多両編成車両の導入、乗務員をはじめとした職員の雇用環境の改善(正規職員化)、車両基地の移設検討等を内容とする<ref name="keikaku2021"/>。
* [[2022年]](令和4年)[[7月7日]] - 日本の路面電車初の[[Visa#Visaのタッチ決済|Visaのタッチ決済]]の実証実験を全43編成中16編成で開始。[[2023年]]3月31日までの実験。乗車時のタッチ不要。降車時のタッチは専用読み取り機。乗り継ぎ割引は適用されず、辛島町での乗り換え割引も運転士やトラムガイドに申し出る必要がある<ref name="kotsu-kumamoto20220707">[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&type=top&id=1281 熊本市電でVisaのタッチ決済の実証実験を実施中です!] - 熊本市交通局、2022年7月7日 </ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 1月28日 - この日より熊本県内での[[MaaS]]のサービス開始に伴い、[[トヨタファイナンシャルサービス]]の「[[my route]]」アプリ上で市電1日乗車券と[[わくわく1dayパス]](区間指定1・2)の発売を開始<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=3&id=1341&sub_id=1&flid=2876 熊本県で MaaS アプリ「my route」のサービスを開始します!] - 熊本県 MaaS 推進交通事業者連絡会 2023年1月27日(2023年6月19日閲覧)</ref>。
** 4月1日 - 市電運賃の[[非接触型決済|タッチ決済]]を本格導入。対応車両を24日までに全車両に順次拡大。25日から対応ブランド追加<ref name="kotsu-kumamoto20230417">[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&id=1353&pg=1 熊本市電におけるタッチ決済とQRコード決済の導入について] - 熊本市交通局、2022年7月7日 </ref>。
** 4月25日 - 市電運賃支払いに[[QRコード決済]]を導入<ref name="kotsu-kumamoto20230417" />。
** [[6月1日]] - 市電の運賃を180円に値上げ<ref name="kumamoto20230208" />。同時に、[[レシップ]]の「QUICK RIDE」でモバイル回数券を、トヨタファイナンシャルサービスの「my route」及び[[ジョルダン (企業)|ジョルダン]]の「[[乗換案内]]」でモバイル24時間乗車券を発売開始<ref name="kotsu-kumamoto20230525">[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&type=top&id=1368 熊本市電におけるタッチ決済とQRコード決済の導入について] - 熊本市交通局、2023年5月25日 </ref>。
== 熊本市電 ==
[[ファイル:Kumamoto city tram map JA.png|thumb|熊本市電の路線図]]
[[ファイル:Kumamoto-shiden.jpg|right|thumb|緑化された線路を走る市電([[二本木口停留場|二本木口電停]]付近)]]
=== 現有路線 ===
路線数は5本、運転系統は2系統ある。[[洗馬橋停留場|洗馬橋]] - [[新町停留場|新町]]間のみが[[専用軌道]]であり、他は全路線[[併用軌道]]となっている。また、熊本駅前から田崎橋にかけてはサイドリザベーション化されている。[[軌間]]は全線1435[[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]。廃止路線も1067mmの百貫線以外同じ)。田崎橋電停付近と健軍町電停の乗車ホーム部分を除くほぼ全線が[[複線]]で、電化方式は[[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]。車庫は上熊本にあるが、以前車庫があった大江の交通局横にも留置線が少し残されており、[[交通局前停留場_(熊本県)|交通局前停留場]]の[[味噌天神前停留場|味噌天神前電停]]側に引き込み線がある。
[[電線類地中化|電線地中化・電柱撤去]]への対応としては、道幅の関係でセンターポール方式は採用せず、照明柱添加方式を採用しており<ref group="注">センターポール方式を採用するには軌道敷の拡幅が必要となる。</ref>{{Sfn|鉄道ピクトリアル 1989年3月臨時増刊号|p=131}}{{Sfn|鉄道ピクトリアル 1994年7月臨時増刊号|p=201}}、対象区間では道路端に建植された道路照明柱にスパンワイヤーを取り付けて架線を吊架している<ref name="keikaku2021p24">熊本市交通局 『[http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=57&id=818&set_doc=1 熊本市交通局経営計画(2021 - 2028)]』p.24(2022年9月13日閲覧)</ref>。
随所に設けた[[トロリーコンタクター]]により電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、[[列車無線|車両無線]]も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応を図っている{{Sfn|鉄道ピクトリアル 1992年3月臨時増刊号|p=174}}。
; 路線
:* [[熊本市電幹線|幹線]]([[熊本駅|熊本駅前]] - [[水道町停留場|水道町]])
:* [[熊本市電水前寺線|水前寺線]](水道町 - [[水前寺公園停留場|水前寺公園]])
:* [[熊本市電健軍線|健軍線]](水前寺公園 - [[健軍町停留場|健軍町]])
:* [[熊本市電上熊本線|上熊本線]]([[辛島町停留場|辛島町]] - [[上熊本駅|上熊本]])
:* [[熊本市電田崎線|田崎線]](熊本駅前 - [[田崎橋停留場|田崎橋]])
; 運転系統
:* {{Color|red|■}}[[熊本市電A系統|A系統(通称・Aライン)]]〈赤〉(田崎橋 - 熊本駅前 - 辛島町 - 水道町 - 水前寺公園 - 健軍町)
:* {{Color|blue|■}}[[熊本市電B系統|B系統(通称・Bライン)]]〈青〉(上熊本 - 辛島町 - 水道町 - 水前寺公園 - 健軍町)
A系統・B系統それぞれ全線通しての運転が主であるが、熊本駅前発着や[[交通局前停留場 (熊本県)|交通局前]]発着の便もある(ただし、交通局前発便のうち健軍町方面に向かう便は、大江車庫からの出庫時に乗車取り扱いができないため、交通局前発ではなく次の[[味噌天神前停留場|味噌天神前]]発となる)。そのほか、便数は少ないが[[健軍交番前停留場|健軍交番前]]発、[[神水交差点停留場|神水交差点]]発着、辛島町発着および新水前寺駅前行きなども設定されている。ただし、これらの停留場などで途中折り返しが可能な停留場が終点となる便はA系統の熊本駅前行きを除いてすべて「臨」で運行される。ラインカラーは黄色。あくまでも「増発」 による「臨時」ではなく、途中で終点となることを意味している。
[[九州旅客鉄道|JR九州]]線とは熊本駅前で[[九州新幹線]]・[[鹿児島本線]]・[[豊肥本線]]、上熊本で鹿児島本線、[[新水前寺駅|新水前寺駅前]]で豊肥本線と乗り換えが可能。上熊本では[[熊本電気鉄道]]とも乗り換え可能。
[[2011年]](平成23年)[[3月1日]]に、運転系統名や電停名などの改称など、以下の変更が実施された。
* 現存する「2系統」と「3系統」の運転系統をそれぞれ「A系統」「B系統」へ改称し、A系統を赤、B系統を青とするラインカラーを制定する。
* 電停の[[駅ナンバリング|ナンバリング]]を実施。
** A系統(元の2系統)は、田崎橋を1番とし、26番の健軍町まで数字のみの番号を振る。
** B系統(元の3系統)は、上熊本をB1番とし、B9番の[[西辛島町停留場|西辛島町]]まで "B" を冠した番号とする。辛島町から健軍町まではA系統と同じ番号(8番から26番)。
* 6か所の電停を改称。
** 熊本城前 → 花畑町
** 市役所前 → 熊本城・市役所前
** 動植物園前 → 動植物園入口
** 神水橋 → 神水・市民病院前
** 水前寺駅通 → 新水前寺駅前
** 本妙寺前 → 本妙寺入口
=== 廃止路線 ===
; 路線
:* [[熊本市電幹線|幹線]](水道町 - [[浄行寺町停留場|浄行寺町]])
:* [[熊本市電黒髪線|黒髪線]](浄行寺町 - [[子飼橋停留場|子飼橋]])
:* [[熊本市電坪井線|坪井線]]([[藤崎宮前停留場|藤崎宮前]] - 上熊本駅前)
:* [[熊本市電春竹線|春竹線]](辛島町 - [[南熊本駅|南熊本駅前]])
:* [[熊本市電百貫線|百貫線]](百貫石 - 田崎)
:* [[熊本市電川尻線|川尻線]]([[河原町停留場|河原町]] - [[川尻町停留場|川尻町]])
; 運転系統(運行区間は廃止時点のもの)
:* 1系統(田崎橋 - 熊本駅前 - 辛島町 - 水道町 - 子飼橋)
:* 4系統(上熊本駅前 - 藤崎宮前 - 水道町 - [[市立体育館前停留場|体育館前]])
:* 5系統(交通局前 - 水道町 - 辛島町 - 南熊本駅前)
:* 6系統(交通局前 - 水道町 - 辛島町 - 南熊本駅前)
:* 7系統(辛島町 - 河原町 - 川尻町)
5系統廃止段階では、6系統は[[段山町停留場|段山町]] - 辛島町 - [[南熊本駅]]前の路線であった。その後、[[上熊本駅]]前まで延伸された後、辛島町 - 南熊本駅前となり、最後は5系統と同じ路線となった。
=== 未成線 ===
熊本市は以下の区間の特許も保有していたが1937年に失効している{{Sfn|官報 1937年2月9日}}{{Sfnp|森口|2001|p=175}}。
* 東坪井町 - 池田町
* 黒髪町 - 薬園町
* 水道町 - 新鍛冶屋町
ほかにも、無軌条電車([[トロリーバス]])による路線が昭和初期に構想されていたものの、[[水害]]などで断念を余儀なくされている。
=== 計画路線 ===
熊本市運輸局では、[[2002年]](平成14年)1月に市電網拡大についての路線10案を発表した。この中には、[[熊本港]]や[[熊本空港]]方面への延伸、[[熊本電気鉄道|熊本電鉄]]との接続が含まれていた。
また、[[2015年]](平成27年)[[1月1日]]付の『[[熊本日日新聞]]』では、市電延伸検討を公約に掲げる[[大西一史]]の熊本市長就任を機に、田崎橋から西と、健軍町から東方面の延伸について、調査を再開すると報道されている<ref>「[https://web.archive.org/web/20141231225018/http://kumanichi.com/news/local/main/20150101002.xhtml 熊本市電の延伸検討 西部と東部、調査費計上へ]」『熊本日日新聞』2015年1月1日</ref>。また、2016年(平成28年)9月11日付の『熊本日日新聞』で、2つの方面の延伸が優先して整備されることが報じられている<ref name="kumanichi20160910">[https://web.archive.org/web/20160911181909/http://kumanichi.com/news/local/main/20160910003.xhtml 熊本市電延伸 「自衛隊」か「南熊本」優先整備]『熊本日日新聞』くまにちコム(2016年9月10日配信)</ref>。
==== 健軍町方面延伸案 ====
[[2004年]](平成16年)1月の『熊本日日新聞』において、熊本市が策定中の[[江津湖]]観光活性化計画の一環として、市電の延伸を検討していると報じられた。この計画は2002年(平成14年)の路線10案には含まれていない。総事業費は約10億円。報道によれば、2007年度(平成19年度)の着工、2008年度(平成20年度)中の開業を考えているなど、最も実現性の高い計画であった。概要は以下のようなものである。
* [[熊本市電健軍線|健軍線]]の[[動植物園入口停留場|動植物園入口電停]]から分岐し、熊本市[[東区 (熊本市)|東区]]の[[庄口公園]]の東側に単線を敷設、動植物園正門まで800メートル延伸する。
* 公園の南側と終点の動植物園正門前の2箇所に交換設備つき電停を設置する。
* 動植物園の第一駐車場(330台収容)は[[パークアンドライド]]駐車場として活用する。
* 公園北側には現在の大江車両基地に代わる12両収容の車庫を設ける。
続いて同2008年9月には、路線10案の中にある健軍町から東部への延伸と自衛隊方面の新設の2案が追加された。こちらの事業費は60億から70億円と見込まれたが、市有地が少ないため、道路拡幅による用地取得が鍵となっている。しかし、庄口公園方面の延伸については、同年度の予算によって調査をした結果、採算性が見込めないことと、湖の水質に悪影響を与える可能性があることから、同年12月に計画の中止を発表した。また、益城方面への延伸については調査が開始された。
==== 熊本電鉄接続案 ====
一方、[[熊本電気鉄道]]は2004年(平成16年)7月に[[藤崎宮前駅]]と市電の接続計画を発表した。電鉄全線を市電に合わせて改軌した上で[[ライトレール|LRT]]化、[[国道3号]]の[[バスレーン]]に軌道を敷設して市電に接続、熊本駅方面へ直通させるもの。総事業費は100億円以上と見込まれ、電鉄では負担しきれないことから、公的支援を要請した。また、受け入れられない場合は[[2008年]](平成20年)3月に鉄道事業を廃止するとして、自治体側を強く牽制していた。
電鉄は[[2005年]](平成17年)10月に計画を市に譲り渡し、その後、熊本市は熊本県と[[合志市]]と共同で、電鉄案(電鉄から熊本市に譲渡した)のほかにも、市電を藤崎宮前まで延長して電鉄と同一ホーム乗り換えを行うという形も含めて検討することとし、委員会を設けて事業計画の策定を行うことを2007年(平成18年)3月に決定した。これを受けて熊本電鉄側では廃止案を撤回している。しかし、[[渋滞|交通渋滞]]を引き起こす可能性があることや、採算性の問題などで、計画は一時凍結となった。その後、熊本県・熊本市・合志市は電鉄案のほか、市電の藤崎宮前までの延長と同一ホーム乗り換えという形も含め、都心結節計画検討委員会を設けて事業計画を策定し、2008年3月、鉄道を廃止して線路敷をバス専用道に転用し、[[連節バス]]や[[ガイドウェイバス]]を走らせる新バスシステム導入を軸に検討を進める方針を決めた。その後、同年6月に熊本電気鉄道が7か年での経営再建計画を発表し、LRT([[超低床電車]])などの新規投資ができる環境にないことから、8月に検討委員会は計画検討の凍結を決定した。
==== 自衛隊・南熊本延伸案 ====
熊本市は、2016年(平成28年)9月9日までに、市電の延伸を検討しているいくつかの計画線のうち、'''自衛隊'''([[健軍駐屯地]])'''ルート'''([[健軍町停留場|健軍町電停]]から東区東町の[[熊本県道36号熊本益城大津線|第二空港線]]までの1.5km)と'''南熊本ルート'''(辛島町電停からJR南熊本駅までの1.7km、旧・[[熊本市電春竹線|春竹線]])のどちらかを優先的に整備する方針を固めた。同年10月から詳細検討に入り、2017年度(平成29年度)には'''自衛隊ルート'''か'''南熊本ルート'''に絞り込むとした<ref name="kumanichi20160910" />。そして、2017年6月16日、熊本市が「自衛隊ルート」を優先して整備する方針であることが報じられた。今後、地元住民にアンケートを行い、電停数などを決めていく方針<ref>[http://kumanichi.com/news/local/main/20170617004.xhtml 「自衛隊ルート」優先 熊本市電延伸で市方針]{{リンク切れ|date=2020年9月}}『熊本日日新聞』くまにちコム(2017年6月17日配信)</ref>。2018年(平成30年)12月、熊本市は「自衛隊ルート」の整備方針について、仮に2019年(平成31年)中に設計に取りかかった場合、[[2022年]]に着工、[[2026年]]の開業というスケジュールを発表したと報じられた<ref>「[https://web.archive.org/web/20181220051703/https://www.yomiuri.co.jp/kyushu/odekake/railway/20181220-OYS1T50023.html 熊本市電、健軍町から市民病院へ延伸…方針決定]」『[[読売新聞]]』2018年12月20日</ref>。また、報道では他ルートについても計画は無くなったわけではなく、あくまで「自衛隊ルート」から進めるということになっているとも報じている。
2021年(令和3年)3月に策定された熊本市交通局の2028年度までの経営計画においても、自衛隊ルートの延伸計画が具体化され次第、経営計画に盛り込むものとしている<ref name="keikaku2021p5">熊本市交通局 『[http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=57&id=818&set_doc=1 熊本市交通局経営計画(2021 - 2028)]』p.5(2022年9月13日閲覧)</ref>。
=== 乗車人員 ===
熊本市電の停留場における、1日平均乗車人員数のトップ5の停留場は以下のとおりである(2015年度)<ref>{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/soumu/file02/youran/6.tetsudou2-28.pdf 『九州運輸要覧』平成28年度版]}} -[[ 国土交通省]]九州運輸局</ref>。
{| class="wikitable"
!順位
!停留場名
!乗車人員(人)
|-
|1
|[[熊本駅|熊本駅前]]
|style="text-align:right;"|4,073
|-
|2
|[[通町筋停留場|通町筋]]
|style="text-align:right;"|3,850
|-
|3
|[[健軍町停留場|健軍町]]
|style="text-align:right;"|3,542
|-
|4
|[[新水前寺駅|新水前寺駅前]]
|style="text-align:right;"|2,559
|-
|5
|[[辛島町停留場|辛島町]]
|style="text-align:right;"|2,556
|}
=== 車両 ===
==== 現有車両 ====
{| class="wikitable"
! style="width:7em;" | 型式 !! 車両数(在籍車) !! style="width:5em;" | 製造年 !! 備考
|-
| [[熊本市交通局1060形電車|1060型]] || 1両 (1063) || [[1951年]] ||全国唯一の[[廣瀬車輌]]製現存車
|-
| [[熊本市交通局1080形電車|1080型]] || 2両 (1081, 1085) || [[1954年]] ||
|-
| [[熊本市交通局1090形電車|1090型]] || 7両 (1091-1097) || [[1955年]]、[[1957年]] ||
|-
| [[熊本市交通局1200形電車|1200型]] || 6両 (1201, 1203-1205, 1207, 1210) || [[1958年]] || 日本初の冷房付路面電車車両があった。[[熊本市交通局8500形電車|8500型]]に機器を提供し廃車された車両がある。
|-
| [[熊本市交通局1350形電車|1350型]] || 6両 (1351-1356) || [[1960年]] ||
|-
| [[熊本市交通局5000形電車|5000型]] || 1編成 (5014AB) || 1957年 || 旧[[西鉄1000形電車 (軌道)|西日本鉄道1000形]]、連接車。
|-
| [[熊本市交通局8200形電車|8200型]] || 2両 (8201, 8202) || [[1982年]] || 営業用鉄道車両として、日本で初めて[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を採用。8201号は「しらかわ」、8202号は「火の国」の愛称がある。
|-
| [[熊本市交通局8500形電車|8500型]] || 4両 (8501-8504) || [[1985年]]、[[1986年]] || 1200型の車体更新車。
|-
| [[熊本市交通局8800形電車|8800型]] || 3両 (8801, 8802, 101) || [[1988年]]、[[1993年]] || 8801号は「サンアントニオ号」、8802号は「桂林号」(熊本市の友好都市である米国・[[サンアントニオ]]市、中国・[[桂林市]]にちなむ)、101号はレトロ調電車。
|-
| [[熊本市交通局9200形電車|9200型]] || 5両 (9201-9205) || [[1992年]]、[[1994年]] || 9201号は「ハイデルベルク号」(熊本市の友好都市であるドイツ・[[ハイデルベルク]]市にちなむ)。
|-
| [[熊本市交通局9700形電車|9700型]] || 5編成 (9701AB-9705AB) || [[1997年]]、[[1999年]]、[[2001年]] || 日本初の[[超低床電車]]、連接車。
|-
| [[熊本市交通局0800形電車|0800型]] || 3編成 (0801AB-0803AB) || [[2009年]]、[[2014年]] || 超低床電車、連接車。0803編成は[[水戸岡鋭治]]デザインの「COCORO」。
|}
合計45両
<gallery widths="200px">
Kumamoto1210_1.jpg|1200型
Kumamototram9704.jpg|日本初の超低床車9700型
Type0800-0803F-COCORO.jpg|水戸岡鋭治デザインの[[熊本市交通局0800形電車|0800型「COCORO」]]
</gallery>
==== 過去の形式 ====
{| class="wikitable"
|+
! style="width:7em;" | 型式 !! 備考
|-
| 10型 ||廃車後に23号車が市内の仁愛幼稚園で倉庫として使用されていたが{{Sfn|鉄道ファン 1998年8月号|p=111}}、1997年に解体された{{Sfn|鉄道ファン 1998年10月号|p=115}}。
|-
| 50型(初代) ||
|-
| [[熊本市交通局50形電車 (2代)|50型(2代)]] || [[熊本市交通局1060形電車|1050型]]から改造された[[花電車]]用電動[[貨車]]。
|-
| 60型 ||
|-
| 70型 ||
|-
| 80型 ||
|-
| [[熊本市交通局120形・130形電車|120型]] ||
|-
| [[熊本市交通局120形・130形電車|130型]] ||
|-
| 170型 || 廃車後に[[長崎電気軌道]]へ譲渡され、[[長崎電気軌道600形電車|長崎電気軌道600形]]として運用されている。
|-
| [[熊本市交通局380形電車|380型]] || もと[[大阪市交通局901形電車|大阪市電901形]]。
|-
| [[熊本市交通局380形電車|390型]] || もと大阪市電901形。
|-
| [[熊本市交通局380形電車|400型]] || もと大阪市電901形。
|-
| [[熊本市交通局380形電車|1000型]] || もと大阪市電901形、ワンマンカー。
|-
| [[熊本市交通局1060形電車|1050型]] || 旧150型、ワンマンカー。
|}
<gallery widths="200px">
長崎電気軌道600形601号.jpg|170型(現・長崎電気軌道600形)
Kumamoto City tram 403.jpg|400型廃車体
</gallery>
=== 日本初 ===
* 路面電車として日本初の冷房装置付き車両を運用開始([[熊本市交通局1200形電車|1200型]]1202号・1208号に改造で設置、[[1978年]][[8月2日]])。1060型 - 1350型については冷風が乗客に直接当たらないよう冷房吹き出し口の改良が行われている。
* 営業用車両として日本初の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車両([[熊本市交通局8200形電車|8200型]]、[[1982年]])
* 日本初の超低床路面電車([[熊本市交通局9700形電車|9700型]]、[[1997年]])
* 軌道を樹脂で固定し、騒音と振動を軽減する[[インファンド工法]]を日本で初めて採用([[上熊本駅|上熊本電停]]付近、[[2002年]])。
* 本格的なサイドリザベーション化([[熊本駅#熊本市交通局|熊本駅前]] - [[田崎橋停留場|田崎橋]]、[[2010年]]){{Efn2|group="注"|「日本鉄道賞表彰選考委員会 路面電車活性化賞」(平成23年10月14日)選考理由<ref>{{Cite web|和書|date= |title=「日本鉄道賞表彰選考委員会 路面電車活性化賞」(平成23年10月14日)選考理由 |url=http://www.kotsu-kumamoto.jp/Content/asp/topics/topics_detail.asp?PageID=3&ID=350&pg=1&sort=0 |publisher= |work= |accessdate=2022-07-26 }}{{リンク切れ|date=2022年7月26日}}{{出典無効|date=2022年7月26日|title=基本情報の不備、形式無効。}}</ref>の中で、『道路中央にある軌道を歩道側に寄せる「軌道のサイドリザベーション化」を全国で初めて本格的に実施』と触れられているが、サイドリザベーションそのものを全国初としているわけではない。道路端に併用軌道を確保することは古くから例があり、[[名鉄美濃町線]]の[[上芥見駅|上芥見]] - [[白金駅|白金]] - [[小屋名駅|小屋名]]間の一部の併用軌道{{Sfn|鉄道ピクトリアル 2000年7月臨時増刊号|p=182}}に同様な例が見られたほか、[[富山地方鉄道富山港線]]の[[富山駅#富山港線 富山駅北停留場(廃止)|富山駅北]] - [[インテック本社前駅|インテック本社前]]間の一部もサイドリザベーションとなっている{{Sfn|鉄道ピクトリアル 2011年8月臨時増刊号|p=187}}。また、工事に伴う一時的な道路端への軌道移設は、[[岡山電気軌道清輝橋線]]でも行われたことがある{{Sfn|鉄道ピクトリアル 2011年8月臨時増刊号|p=220}}。}}。
* 路面電車では日本初の[[Visa#Visaのタッチ決済|Visaのタッチ決済]]の実証実験を2022年7月7日から2023年3月31日まで実施<ref name="kotsu-kumamoto20220707" />。翌4月1日から本格運用が開始された<ref name="kotsu-kumamoto20230417" />。
=== 運賃 ===
市電全線、おとな180円、こども90円の均一運賃(2023年6月1日改定)<ref name="kumamoto20230208">[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&type=top&id=1339 市電の運賃改定のお知らせ] - 熊本市交通局、2023年2月8日</ref>。
2007年(平成19年)10月12日より、それまでの[[運賃制度#距離制|距離制運賃]](改定前日時点では130円から200円まで)から、利用者増加策の一環として分かりやすい運賃体系への統一や長距離利用者に対する値下げ、[[乗車整理券#乗車票・乗車駅証明書|整理券]]の廃止による経費削減を狙って、[[運賃制度#均一制|均一制運賃]]に改められた<ref>「[https://web.archive.org/web/20080604133621/http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/20080510-OYS1T00237.htm 熊本市電150円均一で収益アップ、半年で1380万円増]」『読売新聞』熊本面2008年5月10日</ref>。これに伴い、整理券が廃止されたため、乗車口に設置されていた整理券発行機と[[TO熊カード]]の乗車位置記録用のカードライターが撤去された。
上述のように運賃均一化により整理券は廃止されたが、ICカードを利用する場合は、乗車時に乗車口のICカードリーダーにタッチするようになっている。
==== 乗り換え ====
[[辛島町停留場]]でA系統とB系統とを乗り換える際は[[のりかえ券|乗換券]]が発行される。運転士がボールペンで書き込むもので、降車時から20分以内に乗り継ぐ必要がある。ただし、大人用ICカードで大人1名が乗車する場合は乗換券を発行しない(乗り換え後の電車で同じICカードを利用すれば運賃は差し引かれない)<ref name = "transfer">{{Cite web|和書|date=2017-4-11 |url=http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=18&id=112&set_doc=1 |page= 21|title=でんでんnimocaご利用ガイド(全ページ一括版)|format=PDF |publisher=熊本市交通局 |accessdate=2017-06-04}}</ref>。また、[[nimoca]]利用の場合はどの電停で下車しても60分以内に次の電車に乗り継げば20円引きとなる(nimoca以外のICカードでは適用されない)<ref name="transfer" />。
しかしながら、車両によって時刻整合ミスで「乗り換えた乗車時間が過去」という現象が起きた場合は、乗り換えた車両の降車時にも課金されることがある。カードの利用記録をプリントアウトとしたものを交通局に持ち込むと当該額が現金で返金され、帰路の市電の無料乗車券が渡される。辛島町電停がスクランブル交差点を挟んだ位置に再配置されてからは、乗り換えに要する時間が長くなったため、結果として発生し難くなった。
==== 乗車券・乗車カードなど ====
* でんでんnimoca - IC乗車カード。2014年(平成26年)3月28日導入。[[西日本鉄道]]などで導入されている「[[nimoca]]」のシステムに独自の名称を付けたもの。「nimoca」のほか、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]対象ICカード([[Kitaca]]、[[Suica]]、[[PASMO]]、[[TOICA]]、[[manaca]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[SUGOCA]]、[[はやかけん]])も利用できる。なお、2017年(平成29年)4月頃より、他のnimocaに設定されている障がい者用nimocaを発売開始した<ref>{{Cite web|和書|date=2017-4-11 |url=http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=18&id=112&set_doc=1 |page= 3|title=でんでんnimocaご利用ガイド(全ページ一括版)|format=PDF |publisher=熊本市交通局 |accessdate=2017-06-04}}</ref>。
* 市電1日乗車券(500円) - モバイル版(乗換案内・my route)あり。
* 動植物園入園券付回数乗車券 - 市電乗車券2枚と[[熊本市動植物園]]入園券1枚のセット。2016年(平成28年)1月31日で販売終了。ただし、入園券、乗車券(150円券)双方とも販売終了後も使用可能であるが、翌日の2月1日より運賃が170円に改定されたため、利用する際には差額分(20円)が必要になる。
* [[わくわく1dayパス]] - [[一日乗車券|1日乗車券]]。適用範囲によって販売価格が異なる。my routeを使用したモバイル版もあり(区間指定1・2のみ発売)。市電全線のほか、適用範囲により[[熊本電気鉄道]]の電車・バス、[[熊本都市バス]]、[[九州産交バス|九州産交バス、産交バス]]も利用できる(市電以外の利用可能区間は前記の通り発売金額で異なる適用範囲により、また[[熊本バス]]は全路線使用できない)。当日のチケット及び画面提示により施設利用の割引が受けられ、内容としては旅行者向けとなっている。
* モバイル回数券 - 2023年6月1日から発売開始<ref name="kotsu-kumamoto20230525" />。レシップの「QUICK RIDE」でのみ発売。
* モバイル24時間乗車券(600円) - 2023年6月1日から発売開始<ref name="kotsu-kumamoto20230525" />。トヨタファイナンシャルサービスの「my route」及びジョルダンの「乗換案内」でのみ発売。有効にしてから24時間有効。
ほかに、[[九州旅客鉄道]]が発行する[[旅名人の九州満喫きっぷ]]が全線で利用できる。
熊本県内のバス事業者5社は2015年(平成27年)4月1日にICカード「[[熊本地域振興ICカード]]」([[くまモン]]のIC CARD)を導入したが、市電でも同年8月7日より利用可能になった<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=3&type=top&id=709 市電で熊本地域振興ICカード「くまモンのIC CARD」が使えます] - 熊本市交通局、2015年7月24日</ref>。
=== 全線廃止計画 ===
熊本市電は、2014年(平成26年)時点で5路線2系統が存続しているが、かつては全線を廃止する計画があった。熊本市電は[[1960年代]](昭和35年 - 44年)頃から他都市の路面電車と同じく採算悪化に悩まされ、5路線2系統を残して廃止された。
さらに残る5路線2系統についても[[1980年]](昭和55年)前後をめどに廃止し、代替として[[モノレール]]を建設する構想もあったが、市民から存続を求める声が上がったことや、[[オイルショック]]による[[モータリゼーション|車社会]]依存の見直し等により、[[熊本市議会]]により存続が決議された。
=== 車体広告 ===
広告電車は、昭和30年代([[1955年]] - [[1964年]])には小型広告を、また、昭和40年代([[1965年]] - [[1974年]])には全面広告を取り付た車両が走りだした。登場した背景には赤字に悩む熊本市電の経営安定化がある。[[1988年]](昭和63年)9月7日には、熊本県は観光都市・熊本のイメージアップのため、屋外広告物条例とその施行規則を改正し、交通局は[[1989年]](平成元年)4月1日から外部の全面広告及び小型広告を自主的に全廃した。しかし、広告廃止から10年ほどが経過した交通局の経営状態は決して良くはなく、独立採算性や経営安定化という点からも市電の車体広告を復活するべきであるとして、[[1999年]](平成11年)4月1日から広告電車が復活した。広告はかつての小型広告ではなく、[[ラッピング広告|ラッピングによるフル広告]]となり、民間企業の広告では[[熊本市交通局8500形電車|8503号]]の [[不二家]]ミルキー を皮切りに、現在も約20車両程が広告車両となっている。
=== トラムガイド ===
熊本市電において、自動[[両替機]]がまだ無かった昭和40年代初め(1960年代前半)までは、運転士と[[車掌]]役の男性2名体制での運行であった。1966年(昭和41年)から自動両替機や整理券発行機の導入で[[ワンマン運転|ワンマン運行]]体制となり、車掌の居た位置に整理券発行機が設置された。しかし、2007年(平成19年)の再度の運賃定額化により、整理券発行機は撤去された。1997年(平成9年)の[[超低床電車|超低床]][[連接台車|連接車]]である9700型の導入にあたり、男性もしくは女性車掌が採用され(2011年〈平成23年〉から「トラムガイド」と呼称)、後部ドア側の業務及び車内案内などを行っている。
=== 鉄道むすめ ===
[[トミーテック]]の「[[鉄道むすめ]] 〜鉄道制服コレクション〜」では、2013年に トラムガイド「辛島みく」が設定され、車内等の掲示物(交通局の人材募集など)にも用いられている。イラストは[[伊能津]]。
姓の「辛島」は辛島町電停、名前の「みく」は、上熊本駅前(か みく まもとえきまえ)電停から来ている。
背丈は小柄、笑顔は人一倍。明るく元気なムードメーカー。熊本城の歴史を覚えるうち歴史全般が好きに。全国の名城巡りを計画中。ちょっと小顔のせいか制帽がズレやすく、常に気にしている<ref>[https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=PU02 鉄道むすめPickUp!!2013 PU02 辛島みく Miku Karashima <トラムガイドは、おもてなしの心で熊本の魅力をお伝えします> 熊本市交通局/トラムガイド] - トミーテック、2022年7月31日閲覧</ref>。
== バス事業 ==
{{Main2|民営化後の路線・営業所|熊本都市バス}}
<!-- 民間移譲2012年4月分 -->
熊本市内各地に路線を持つ路線バスのみの運営を基本としていたが、[[熊本競輪場]]への無料バスを運行しているため、貸切免許も保有していた。また、過去には熊本市に合併以前の旧・[[北部町]]や(かすめる程度であるが)旧・[[富合町]]にも運行していた。
[[1927年]](昭和2年)に運行を開始し、最盛期の[[1969年]](昭和44年)には34路線で約3906万人の輸送人員に達した<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
しかし、[[2003年]](平成15年)には29路線で約1536万人に落ち込んだ上、同年に[[九州産業交通ホールディングス|九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)]]が[[産業再生機構]]の支援を受けたことから、民間のバス事業者各社の慢性的な赤字解消を兼ねて事業の集約を進めることになった<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
それを受けて、[[2004年]](平成16年)から[[2008年]](平成20年)にかけての約4年間で、民間のバス事業者3社に路線の移管を進めた<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
その後、[[2009年]](平成21年)以降は民間3社が共同出資して設立した[[熊本都市バス|熊本都市バス株式会社]]への移管を進め、[[2015年]](平成27年)[[4月1日]]付の最後の路線を含めて23路線が移管されることになった<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
2015年[[3月31日]]で最後の1路線の運行を終了すると共に、同路線を運営していた小峯営業所の営業も終えることになり、88年間走った熊本市営バスの幕を下ろした<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。なお、バス事業に従事する職員は他部門に転配している<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
=== 廃止された営業所 ===
* [[熊本市営バス本山車庫|本山車庫]] - 熊本市中央区本山2丁目9番23号
*: 2009年(平成21年)より[[熊本都市バス|熊本都市バス本社]]および[[熊本都市バス本山営業所]]
* [[熊本市営バス坪井営業所|坪井営業所]] - 熊本市中央区黒髪3丁目3番10号(現在は熊本市の施設がある)
* [[熊本市営バス上熊本営業所|上熊本営業所]] - 熊本市西区上熊本3丁目15番61号
*: 2011年(平成23年)より[[熊本都市バス上熊本営業所]]
* [[熊本市営バス小峯営業所|小峯営業所]] - 熊本市東区月出5丁目2番35号
*: 2015年(平成27年)3月31日で営業終了。翌4月1日から[[熊本都市バス小峯営業所]])<ref name="asahi-np-2015-4-1" />。
=== SUNQパス ===
熊本市営バスの路線では、[[SUNQパス]]が当初は利用できなかったものの2006年(平成18)10月1日から利用できるようになった<ref group="注">2015年3月31日バス事業廃止と同時にSUNQパス運営委員会から脱退。</ref>。また、同日から[[熊本城周遊バス]]の運行が[[九州産交バス]]へ移管された(さらに[[2011年]]〈平成23年〉10月1日から[[熊本都市バス]]に再移管)。
=== 車両概説 ===
メーカーは国内大型4メーカー全社を使用している。[[1995年]](平成7年)までは[[西日本車体工業]]製車体を架装した車両を中心に導入していたが、その後は車両の[[低床バス|低床化]]([[ワンステップバス]]、[[ノンステップバス]])により、純正車体での購入の割合が増えた。[[UDトラックス|日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)]]のノンステップバスのみ西日本車体工業製の車体を架装した車両を一部導入している。
[[1994年]](平成6年)に[[車椅子]]乗降用リフト付きバスを1台、翌1995年に大型ワンステップバスを1台導入したのち、1997年(平成9年)10月からノンステップバスを投入している。九州では[[大分バス]]に次ぎ2番目のノンステップバス導入事業者となっている。
また、ノンステップバスの購入開始と同時に、並行して[[都営バス]]から中古車を購入したのを皮切りに、その後、全国各社から中古車を購入し、特に大型車の代替としていた。主な譲受先は、[[東京都交通局]]、[[京浜急行バス]]、[[西武バス]]、[[川崎鶴見臨港バス]]、[[江ノ電バス]]、[[船橋新京成バス]]である。熊本都市バスへの移管を控えた[[2008年]]度(平成20年度)以降は新車の導入が無くなった。
塗装はツーステップ車(リフト付きバスを含む)は緑色と白色のツートンカラー。ノンステップバスは黄緑色・白色・橙色の3色で前面窓下に赤帯を加えた塗装である。ワンステップバスはこれに赤帯を加えた塗装を施していた。その後、ワンステップバス・リフト付きバスはすべて熊本都市バスに譲渡されたため、この塗装の車両は消滅した。
[[1993年]](平成5年)、市電のレトロ調電車導入と同時期にレトロ調バスを1台導入している。シャーシはこの種の[[ファンタスティックバス]]に多く使用されている日野自動車の特装車シャーシ (U-CG3KSAU) で、車体は地元の[[イズミ車体製作所]]製。この車両は熊本都市バスへ移籍することなく除籍された。
[[運賃表示器]]は[[交通電業社]]製、[[乗車整理券|整理券]]発行機と[[運賃箱]]は[[小田原機器]]製(整理券発行機はSAN-V型、運賃箱はRX-SB型)が導入されている。
<gallery widths="200" heights="200">
ファイル:Kumamotocitybus 2320.JPG|1995年まで導入されていた西日本車体工業製車体のツーステップバス
ファイル:Kumamoto city bus03.jpg|1995年に2台導入されたスロープ付きワンステップバス。赤帯が特徴
ファイル:熊本都市バス 熊本200か386-01.jpg|大型ノンステップ車。写真は最終運行日の[[いすゞ・エルガ#KL-LV280/380系|No.386]]
ファイル:Kumamoto City Bus 452.JPG|中型ノンステップ車
ファイル:Kumamoto City Bus 863.JPG|2000年代以降は移籍車も導入された。写真は京浜急行バスからの移籍車。
ファイル:Kumamoto City Bus 2803.JPG|1993年に1台導入されたレトロ調バス<ref group="注">最終運行日まで使用されたが、熊本都市バスには継承されなかった。廃車後に熊本市南区御幸西にある自動車販売店の事務所として置かれ2023年時点でも使われている([https://www.google.co.jp/maps/@32.7557667,130.7030813,3a,75y,309.53h,85.32t/data=!3m7!1e1!3m5!1s_2ThLk2xhUPSqmWrig2GzQ!2e0!6shttps:%2F%2Fstreetviewpixelspa.googleapis.com%2Fv1%2Fthumbnail%3Fpanoid%3D_2ThLk2xhUPSqmWrig2GzQ%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D343.90356%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i16384!8i8192?hl=ja googleストリートビュー])。</ref>
ファイル:Kumamoto City Bus 464.JPG|[[熊本競輪場|熊本競輪]]送迎バス<ref group="注">都市バスには継承されず。</ref>
</gallery>
=== 路線 ===
[[2008年]](平成20年)4月1日時点での路線名に基づいて記す。ただし、系統番号は1996年(平成8年)以降は熊本都市圏に乗り入れている他社と共通の「[[漢字]]1文字」と「[[アラビア数字]]」を組み合わせた番号を用いている、数字のみの番号は実質的には使われていない。{{要出典範囲|date=2015年5月|かつては、番号を表示せず、各路線ごとに異なる動物のイラストを描いた路線番号板を車両前面に掲出していたが、1996年4月1日に系統番号の使用が開始されたため中止した}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+熊本市営バス路線一覧<br /><span style="font-weight:normal"><!--{{Color|#cfc|■}}現存、{{Color|#fec|■}}-->2015年4月1日までにすべて廃止または民間移譲</span>
! 旧番号 !! 路線名 !! イラスト !!style="width:28em"|備考 !! 担当営業所<br />(臨時増発等のぞく)
|-
! 1
| (第1環状線) || ([[ゾウ]]) || 2009年4月に[[熊本都市バス|都市バス]]へ譲渡 || 本山
|-
! 2
| (第2環状線) || ([[ウシ]]) || 八王寺環状線と子飼渡瀬線に分割され廃止 || 小峯
|-
! 3
| (池田大窪線) || ([[ツバメ]]) || 2005年4月に大窪方面の系統を[[九州産交バス|産交バス]]へ移譲。残った系統(池田京町線)も2011年4月に都市バスへ譲渡 || 上熊本
|-
! 4
| 小峯京塚線 || [[ライオン]] ||2015年3月をもって運行を終了。2015年4月に都市バスへ譲渡。 || 小峯
|-
! 5
| (川尻帯山線) || ([[ハト]]) || 2004年6月に川尻町方面の系統を産交バス・[[熊本バス]]へ移譲。残った系統(帯山線)も2012年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯・本山
|-
! 6
|(島崎保田窪線) || ([[シカ]]) || 2012年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯・上熊本
|-
! 7
| (子飼長嶺線) || ([[イヌ]]) || 2006年1月に廃止 || 小峯・上熊本
|-
! 8
| (楠城西線) || ([[ワニ]]) || 2008年4月に蓮台寺・[[熊本駅]]・[[熊本交通センター|交通センター]] - [[竜田口駅]]・[[楠団地]]・[[武蔵塚駅]]の系統を産交バス・[[熊本電気鉄道|電鉄バス]]へ移譲。営業所からの出庫ダイヤであった[[上熊本駅]]→竜田口駅・楠団地・武蔵塚駅の系統は廃止。残った[[熊本市立城西小学校|城西校]] - 交通センターの系統は大江城西線へ、2010年4月に大江城西線も都市バスへ譲渡 || 上熊本・本山
|-
! 9
| (流通団地線) || ([[ウマ]]) || 2009年4月に都市バスへ譲渡 || 本山
|-
! 10
| (秋津健軍線) || ([[ジャイアントパンダ|パンダ]]) || 旧・野口健軍線。2005年4月に[[熊本市立春日小学校|春日校]]経由の[[アクアドームくまもと|アクアドーム]]系統を産交バスへ譲渡、2009年4月熊本駅・島団地経由のアクアドーム系統も都市バスへ譲渡、2013年4月残りの全線を都市バスへ譲渡 || 小峯・本山
|-
! 11
| (御幸木部線) || ([[ワシ]]) || 御幸木部町系統は2007年4月に熊本バスへ譲渡、川尻町系統は廃止 || 本山
|-
! 12
| (花園柿原線) || ([[タヌキ]]) || 2011年4月に都市バスへ譲渡 || 上熊本
|-
! 13
| (川尻(国道)線) || ([[サル]]) || 2005年4月に産交バスへ移譲 || 本山
|-
! 14
| (画図線) || ([[トラ]]) || 2008年4月に熊本バスへ移譲 || 小峯
|-
! 15
| (池田健軍線) || ([[カンガルー]]) || 2011年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯
|-
! 16
| (健軍長嶺線) || [[リス]] || 2013年4月に都市バスへ譲渡|| 小峯
|-
! 17
| (川尻土河原線) || ([[インコ]]) || 廃止 || 本山
|-
! 18
| (東町団地線) || [[クジラ]] ||2013年4月都市バスへ譲渡 || 小峯
|-
! 19
| (中央環状線) || ([[キリン]]) || 2009年4月に都市バスへ譲渡 || 本山
|-
! 20
| (昭和町線) || ([[ダチョウ]]) || 2011年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯・上熊本
|-
! 21
| (高平団地線) || ([[ネズミ]]) || 2007年7月に電鉄バスへ移譲 || 上熊本
|-
! 22
| (熊本駅県庁線) || ([[ネコ]]) || 2012年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯(本山担当は先に廃止)
|-
! 23
| (上熊本線) || ([[ペンギン]]) || 2011年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯・上熊本
|-
! 24
| (長溝団地線) || ([[ウサギ]]) || 2009年4月に都市バスへ譲渡 || 本山
|-
! 25
| (上熊本車庫線) || ([[ニワトリ]]) || 共同運行時にはイラストなしになっていた。2010年4月に都市バスとの共同運行を開始し、2011年4月に全便移管 || 上熊本
|-
! 26
| (川尻県庁線) || ([[ミミズク]]) || 廃止 || 本山
|-
! 27
| (本山車庫線) || (なし) || イラストなし。2009年4月に都市バスへ譲渡 || 本山
|-
! 28
| (八王寺環状線) || ([[サイ]]) || 2009年4月に都市バスへ譲渡 || 本山・上熊本
|-
! 29
| (子飼渡瀬線) || ([[ハクチョウ]]) || 2010年4月に都市バスへ譲渡。営業所から出入庫の交通センター - 小峯営業所の系統は廃止 || 小峯
|-
! 30
| ([[熊本城周遊バス]]) || (なし) || 2006年10月に民間移譲 || 上熊本・本山
|-
! 31
| (熊本駅長嶺線)|| ([[イノシシ]]) || 2012年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯
|-
! 32
| (渡鹿長嶺線)|| ([[カメ]]) || 2014年4月に都市バスへ譲渡 || 小峯
|-
! (33)
| (大江城西線) || (ワニ) || 2010年4月に都市バスへ譲渡 || 上熊本
|}
<!--
2014年(平成26年)時点では、'''小峯京塚線'''(下記2路線)のみの運行となっている。
* '''西1/味4''' 蓮台寺 - 熊本駅前 - 交通センター - 水前寺駅前 - 競輪場前 - 京塚 - 新外 - 小峯営業所 - 小峯 - 西戸島 - 三山荘
*: 交通センター発や小峯営業所止めや小峯止めあり。また三山荘行きの一部は東部交流センターを経由する。
* '''味5/味4''' 熊本交通センター - 水前寺駅前 - 競輪場前 - 京塚 - 新外 - 小峯営業所 - [[熊本県立東稜高等学校|東稜高校]]
*: 西1/味5の蓮台寺 - 熊本駅前 - 熊本交通センター 経由東稜高校行きはなくなったので、味5/味4の交通センター発着のみになった。-->
== 参考文献 ==
; 書籍、ムック
* <!--いけだ-->{{Cite book |和書 |author=池田光雅 編著 |date=1993-08 |title=鉄道総合年表 : 1972-93 |publisher=[[中央書院]] |ref={{SfnRef|池田|1993}} }}{{Small|{{ISBN2|4-924420-82-4}}、{{ISBN2|978-4-924420-82-3}}、{{OCLC|674367635}} }}。
* <!--てつどうこう...-->{{Cite book |和書 |editor=[[鉄道省]] |date=1934 |title=全国乗合自動車総覧 |publisher=鉄道公論社出版部 |ref={{SfnRef|全国乗合自動車総覧|1934}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/1234531}} }}。{{Small|[{{NDLDC|1234531/1682}} 1682頁] }}。
* <!--もりぐち-->{{Cite book |和書 |author=森口誠之 編著 |date=2001-09 |title=鉄道未成線を歩く─夢破れて消えた鉄道計画線実地踏査 私鉄編 |publisher=[[JTB]] |series=JTBキャンブックス 鉄道 |page=175 |ref={{SfnRef|森口|2001}} }}{{Small|{{ISBN2|4-533-03922-7}}、{{ISBN2|978-4-533-03922-5}}、{{OCLC|675693807}} }}。
<!--※以下は法人など。-->
* <!--てつどう...-->{{Cite book |和書 |editor=[[鉄道ピクトリアル]]編集部 |date=1977 |title=私鉄車両めぐり特輯 第1輯 |publisher=[[鉄道図書刊行会]] |series=私鉄車両めぐり特輯 }}{{Small|{{全国書誌番号|22576129}} }}。
** {{Wikicite |ref={{SfnRef|中村弘之|1977}} |reference=中村弘之「熊本市交通局」}}
; 雑誌
* <!--こうゆうしゃ-->{{Cite journal |和書 |date=1998 |title=|url= |publisher=[[交友社]] |journal=[[鉄道ファン]] |volume=[https://railf.jp/japan_railfan_magazine/1998/448/ 1998年8月号] |issue=(通巻448号)|page=111 |ref={{SfnRef|鉄道ファン 1998年8月号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=1998 |title=|url= |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |volume=[https://railf.jp/japan_railfan_magazine/1998/450/ 1998年10月号] |issue=(通巻450号)|page=115 |ref={{SfnRef|鉄道ファン 1998年10月号}} }}
* <!--でんき...-->{{Cite journal |和書 |date=1989 |title= |publisher=[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |volume=1989年3月臨時増刊号「特集 九州・四国・北海道地方のローカル私鉄」 |issue={{Space}}(No.509) |page=131 |ref={{SfnRef|鉄道ピクトリアル 1989年3月臨時増刊号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=1992 |title= |publisher=鉄道図書刊行会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=1992年3月臨時増刊号「特集 九州の鉄道」 |issue={{Space}}(No.557) |page=174 |ref={{SfnRef|鉄道ピクトリアル 1992年3月臨時増刊号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=1994 |title= |publisher=鉄道図書刊行会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=1994年7月臨時増刊号「特集 路面電車」 |issue={{Space}}(No.593) |page=201 |ref={{SfnRef|鉄道ピクトリアル 1994年7月臨時増刊号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=2000 |title=|publisher=鉄道図書刊行会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=2000年7月臨時増刊号 |issue={{Space}}(No.688) |page=182 |ref={{SfnRef|鉄道ピクトリアル 2000年7月臨時増刊号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=2011 |title=|publisher=鉄道図書刊行会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=2011年8月臨時増刊号 |issue={{Space}}(No.852) |pages=187, 220頁 |ref={{SfnRef|鉄道ピクトリアル 2011年8月臨時増刊号}} }}
* <!--にほんマイクロ...-->{{Cite journal |和書 |editor=[[大蔵省印刷局]] |date=1921-11-17 |title=軌道特許状下付 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954905/7 |publisher=日本マイクロ写真 |journal=[[官報]] |volume=1921年11月17日 |issue=(第2789号)|pages=392-393 |ref={{SfnRef|官報 1921年11月17日}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/2954905}} }}。
* {{Cite journal |和書 |editor=大蔵省印刷局 |date=3月26日許可 |title=軌道特許敷設権譲渡 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955317/10 |publisher=日本マイクロ写真 |journal=官報 |volume=1923年3月28日 |issue=(第3195号)|pages=714-715 |ref={{SfnRef|官報 1923年3月28日}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/2955317}} }}。
* {{Cite journal |和書 |editor=大蔵省印刷局 |date=1937-02-09 |title=軌道特許失効 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959511/14 |publisher=日本マイクロ写真 |journal=官報 |volume=1937年2月9日 |issue=(第3029号)|pages=250-251 |ref={{SfnRef|官報 1937年2月9日}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/2959511}} }}。
== 関連文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2022-07-26}}
{{ページ番号|section=1|date=2022-07-26}}<!--※推奨されている出典の表示の例:{{Sfn|||p=ページ番号}}--><!--※出典未使用の場合は「関連文献」節へ移動。-->
* <!--おおまゆ-->{{Cite book |和書 |author=大眉一末 |date=1939 |title=熊本市政五十年史 |publisher=[[九州中央新聞社]] |ref={{SfnRef|大眉|1939}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/1267948}} }}。{{Small|[{{NDLDC|1267948/182}} 309頁]、[{{NDLDC|1267948/237}} 418頁]、[{{NDLDC|1267948/247}} 438頁]、[{{NDLDC|1267948/254}} 453頁]、[{{NDLDC|1267948/286}} 516頁] }}。
* <!--きむら-->{{Cite book |和書 |editor=木村俊作 |date=1925 |title=熊本県案内 |publisher=熊本市三大事業記念国産共進会熊本県協賛会 |ref={{SfnRef|木村|1925}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/921105}} }}。{{Small|[{{NDLDC|921105/11}} 1頁] }}。
* <!--くまもとし-->{{Cite book |和書 |editor=熊本市 |date=1932 |title=熊本市史 |publisher=熊本市 |ref={{SfnRef|熊本市史|1932}} }}{{Small|{{DOI|10.11501/1209620}} }}。{{Small|[{{NDLDC|1209620/500}} 835頁]、[{{NDLDC|1209620/520}} 872頁] }}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kumamoto City Transportation Bureau}}
* [[熊本都市バス]]
* [[熊本軽便鉄道]]
* [[熊本市]]
* [[わくわく1dayパス]] - [[市電・市バス1日乗車券]]に代わって2010年4月から発売されている熊本市交通局・熊本都市バス・九州産交バス・産交バス・熊本電気鉄道共通の一日乗車券
* [[路面電車の走る街の一覧]]
* [[ライトレール]] (LRT)
== 外部リンク ==
* {{Citation |title=熊本市交通局 |url=http://www.kotsu-kumamoto.jp/ |website=公式ウェブサイト |ref={{SfnRef|official}} }}
** {{Citation |title=交通局の沿革(歴史)|url=http://www.kotsu-kumamoto.jp/one_html3/pub/Default.aspx?c_id=24 |ref={{SfnRef|his}} }}
<!-- 個人サイトのリンクは貼らないこと(「外部リンクの選び方」の方針に反します) -->
{{日本の路面電車}}
{{旅名人九州満喫きっぷ}}
<!--{{熊本市交通局の路面電車}} 当記事の車両節にすべてかかれているはずなのであえて貼る必要あるのか。-->
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[[Category:熊本市交通局|*]]
[[Category:熊本県の地方公営企業]]
[[Category:日本の軌道事業者]]
[[Category:かつて存在した日本のバス事業者]]
[[Category:熊本市の交通]]
[[Category:熊本市中央区の企業]]
[[Category:1921年設立の企業]]
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15,116 |
名古屋市交通局
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名古屋市交通局(なごやしこうつうきょく、英称:Transportation Bureau City of Nagoya 市バス方向幕上は Nagoya City Transportation Bureau)は、愛知県名古屋市内及び周辺地域で公営交通事業を行う名古屋市の地方公営企業の事業組織である。略称は名市交(めいしこう)。名古屋市交通事業の設置等に関する条例(昭和41年12月26日名古屋市条例第59号)に基づき、自動車運送事業(市営バス)及び高速度鉄道事業(市営地下鉄)を運営している。交通事業の管理者は交通局長である。
かつては名古屋市電(路面電車)や、名古屋市営トロリーバス(無軌条電車)も運行していた。
マスコットキャラクターは、名古屋市章である「丸八」と名古屋城の金鯱にちなんだ「ハッチー」。
各事業の詳細は以下の項目を参照。
市章を稲妻で囲んだ交通局徽章は名古屋市電気局時代の1922年(大正11年)7月21日に制定されたものである。交通局改組後も継続して使用しており、後述するロゴマーク制定後も制服のワッペンなどに使用されている。
2022年(令和4年)11月には市営交通100周年を記念して、 新たに名古屋市交通局ロゴマークを制定した(作成・森旬子)。ロゴマークの構成要素であるシンボルマークは「人」の形を組み合わせて交通の「交」を形成する意匠で、下段の「人」が局員によって支えられる交通システムを、上段の「人」が活動する人々によって繋がる街を表している。
名古屋市営地下鉄を表すマークは1956年(昭和31年)に交通局が杉本健吉にデザインを依頼し創出されたものである。その意匠は市章の「丸八」をトンネルと軌道に見立てたもので、当初はトンネルに5本の区切り線が入っていた。このマークは徽章としては用いられず、1957年(昭和32年)6月の決定では「乗客の利便と業務上必要な時に使用するマーク」とされた。また厳密なデザインの規定はされず、白の縁取りとされたり、5本の区切り線が無かったりと、複数のパターンが併用された。
地下鉄シンボルマークのデザインが正式に規定されたのは1979年(昭和54年)4月16日のことで、高速電車の章標と称された。この制定でシンボルマークは杉本健吉考案の意匠を下地としつつも、区切り線は入れないことで統一された。
公営事業体による高コスト体質から赤字経営が続いていたが、職員・経費などの削減により市バス部門は2006年(平成18年)度以来黒字を続けており、地下鉄も2008年(平成20年)度には27年ぶりに黒字となった。
ただし、地方財政健全化法に基づく「資金不足比率」の計算においては市バス事業が資金不足と判定されたため、2009年(平成21年)度より期間がおおむね8年の経営健全化計画を策定することになった。なお、2013年(平成25年)度決算で資金不足比率が経営健全化基準を達成したことにより、3年前倒しで計画は完了した。
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"text": "地下鉄シンボルマークのデザインが正式に規定されたのは1979年(昭和54年)4月16日のことで、高速電車の章標と称された。この制定でシンボルマークは杉本健吉考案の意匠を下地としつつも、区切り線は入れないことで統一された。",
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"title": "歴史"
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名古屋市交通局は、愛知県名古屋市内及び周辺地域で公営交通事業を行う名古屋市の地方公営企業の事業組織である。略称は名市交(めいしこう)。名古屋市交通事業の設置等に関する条例(昭和41年12月26日名古屋市条例第59号)に基づき、自動車運送事業(市営バス)及び高速度鉄道事業(市営地下鉄)を運営している。交通事業の管理者は交通局長である。 かつては名古屋市電(路面電車)や、名古屋市営トロリーバス(無軌条電車)も運行していた。 マスコットキャラクターは、名古屋市章である「丸八」と名古屋城の金鯱にちなんだ「ハッチー」。
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{{出典の明記|date=2016年6月11日 (土) 10:26 (UTC)}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 名古屋市交通局
|英文社名 = Transportation Bureau City of Nagoya
|ロゴ = [[File:Transportation Bureau City of Nagoya.svg|100px]]
|画像 = [[File:名古屋市西庁舎.jpg|220px]]
|画像説明 =交通局本局のある市役所西庁舎
|種類 = [[地方公営企業]]
|略称 = 名市交
|国籍={{JPN}}
|郵便番号 =
|本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]二丁目3番1号 [[名古屋市役所]]西庁舎
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 10|本社緯度秒 = 52.2|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 136|本社経度分 = 54|本社経度秒 = 17.2|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP-23
|設立 = [[1922年]]([[大正]]11年)[[8月1日]](※1)
|業種 = 陸運業
|事業内容 = 鉄道事業、自動車運送事業、電気事業
|代表者 = 交通局長 小林史郎<ref>[https://www.mlit.go.jp/jidosha/anzen/03punishment/cgi-bin/details.cgi?row=5529]</ref>
|売上高 =
|営業利益 =
|純利益 =
|純資産 =
|総資産 =
|従業員数 =
|決算期 =
|外部リンク = https://www.kotsu.city.nagoya.jp/
|特記事項 = ※1:[[1922年]](大正11年)[[8月1日]]名古屋市電気局として局制、[[1945年]](昭和20年)[[10月2日]]名古屋市交通局に改組。
}}
'''名古屋市交通局'''(なごやしこうつうきょく、[[英語|英称]]:<span lang="en" xml:lang="en">''Transportation Bureau City of Nagoya 市バス方向幕上は Nagoya City Transportation Bureau''</span>)は、[[愛知県]][[名古屋市]]内及び周辺地域で公営交通事業を行う名古屋市の[[地方公営企業]]の事業組織である。略称は'''名市交'''(めいしこう)。名古屋市交通事業の設置等に関する条例(昭和41年12月26日名古屋市条例第59号)に基づき、自動車運送事業([[名古屋市営バス|市営バス]])及び高速度鉄道事業([[名古屋市営地下鉄|市営地下鉄]])を運営している。交通事業の管理者は交通局長である。
かつては[[名古屋市電]]([[路面電車]])や、[[名古屋市営トロリーバス]]([[トロリーバス|無軌条電車]])も運行していた。
[[マスコット|マスコットキャラクター]]は、名古屋市章である「丸八」と[[名古屋城]]の[[金鯱]]にちなんだ「[[ハッチー]]」。
== 事業 ==
各事業の詳細は以下の項目を参照。<!-- 詳細は以下の項目に記述してください。-->
* 現在の事業
** 地下鉄:[[名古屋市営地下鉄]](6路線 93.3km)
** バス:[[名古屋市営バス]]
* 過去の事業
** 路面電車:[[名古屋市電]]
** トロリーバス:[[名古屋市営トロリーバス]]
== 徽章・章標 ==
市章を稲妻で囲んだ交通局徽章<ref group="注釈">[[神戸市交通局]]も同様のものを使用。</ref>は名古屋市電気局時代の[[1922年]](大正11年)7月21日に制定されたものである<ref name="100-143">{{Cite book|和書|author=名古屋レール・アーカイブズ(編)・服部重敬|year=2022|title=名古屋市営交通の100年|publisher=フォト・パブリッシング|page=143}}</ref>。交通局改組後も継続して使用しており、後述するロゴマーク制定後も制服のワッペンなどに使用されている<ref name="新ロゴ"/>。
[[2022年]](令和4年)11月には市営交通100周年を記念して、 新たに'''名古屋市交通局ロゴマーク'''を制定した(作成・森旬子)<ref name="新ロゴ"/>。ロゴマークの構成要素であるシンボルマークは「人」の形を組み合わせて交通の「交」を形成する意匠で、下段の「人」が局員によって支えられる交通システムを、上段の「人」が活動する人々によって繋がる街を表している<ref name="新ロゴ"/>。
名古屋市営地下鉄を表すマークは[[1956年]](昭和31年)に交通局が[[杉本健吉]]にデザインを依頼し創出されたものである。その意匠は市章の「丸八」をトンネルと軌道に見立てたもので、当初はトンネルに5本の区切り線が入っていた<ref name="100-142">{{Cite book|和書|author=名古屋レール・アーカイブズ(編)・服部重敬|year=2022|title=名古屋市営交通の100年|publisher=フォト・パブリッシング|page=143}}</ref>。このマークは徽章としては用いられず、[[1957年]](昭和32年)6月の決定では「乗客の利便と業務上必要な時に使用するマーク」とされた。また厳密なデザインの規定はされず、白の縁取りとされたり、5本の区切り線が無かったりと、複数のパターンが併用された<ref name="100-142"/>。
地下鉄シンボルマークのデザインが正式に規定されたのは[[1979年]](昭和54年)4月16日のことで、'''高速電車の章標'''と称された。この制定でシンボルマークは杉本健吉考案の意匠を下地としつつも、区切り線は入れないことで統一された<ref name="100-142"/>。
<gallery widths="120px" style="font-size:90%;">
TBCN logomark.svg|交通局徽章<br />(1922年制定)
Transportation Bureau City of Nagoya.svg|交通局シンボルマーク<br />(2022年制定)
Nagoya Subway Logo Type2.svg|地下鉄シンボルマーク<br />(1957年制定)
Nagoya Subway Logo (black).svg|高速電車の章標<br />(1979年制定)
</gallery>
== 歴史 ==
<!-- 各路線の詳細な歴史は各路線の記事で記述 -->
* [[1922年]](大正11年)[[8月1日]] : '''名古屋市電気局'''が[[名古屋電気鉄道]]から市内線を買収し[[名古屋市電]]営業開始。
* [[1930年]](昭和5年)[[2月1日]] : 市営バス営業開始。
* [[1935年]](昭和10年)[[12月28日]] : 名古屋乗合自動車のバス事業を継承。
* [[1936年]](昭和11年)
** [[5月24日]] : 愛知乗合自動車のバス事業・[[中村電気軌道]]の軌道・バス事業を継承。
** [[5月26日]] : 中央乗合自動車のバス事業を継承。
* [[1937年]](昭和12年)[[3月1日]] : [[新三河鉄道]]の軌道・市内バス事業、[[下之一色電車軌道]]の軌道事業、[[築地電軌]]の軌道・バス事業を継承。岩塚バス・東海自動車・名古屋桴扱所のバス事業を継承。
* [[1938年]](昭和13年)2月1日 : 葵乗合自動車のバス事業を継承。
* [[1943年]](昭和18年)[[5月10日]] : [[名古屋市営トロリーバス|市営トロリーバス]]開業。
* [[1945年]](昭和20年)[[10月2日]] : '''名古屋市交通局'''に改組。
* [[1947年]](昭和22年)[[6月1日]] : 総務部、運輸部、技術部、高速度鉄道部を設置
* [[1949年]](昭和24年)[[4月6日]] : 運輸部を業務部に、技術部を工務部、高速度鉄道部を高速度鉄道調査班に名称変更
* [[1950年]](昭和25年)[[8月19日]] : 総務部、業務部、工務部を廃止
* [[1951年]](昭和26年)[[1月16日]] : トロリーバス廃止。
* [[1952年]](昭和27年)[[11月1日]] : 高速度鉄道調査班を廃止、工務課高速度調査係を設置
* [[1954年]](昭和29年)
** [[2月25日]] : 管理部、運輸部、技術部を設置
*** 高速度鉄道建設部設置。同部の下に計画課、工事課、建設事務所設置
* [[1956年]](昭和31年)[[9月1日]] : 建設事務所を廃止
* [[1957年]](昭和32年)
**[[6月11日]] : 運輸部に業務課、高速運輸課設置
*** 技術部に軌道事務所、電路事務所設置
** 11月1日 : 高速運輸課に乗務所を設置
** [[11月15日]] : 地下鉄1号線(現・[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]])開業。
* [[1960年]](昭和35年)
** [[5月25日]] : 運輸部に[[名古屋駅]]務区、[[池下駅]]務区設置
** 6月1日 : 技術部に高速軌道事務所設置
* [[1961年]](昭和36年)
** [[4月1日]] : 技術部に高速電気事務所設置
** [[4月13日]] : 高速度鉄道建設部に工事事務所設置
* [[1963年]](昭和38年)[[6月10日]] : 自動車部設置
* [[1965年]](昭和40年)
** [[6月16日]] : 運輸部を電車部に名称変更
** [[10月15日]] : 地下鉄2号線(現・[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]の一部および[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]])開業。
** 10月 : 名城線開業を記念し、地下鉄により親しみを持ってもらおうと名古屋市営地下鉄の歌の歌詞を一般公募。1307通の応募の中から市内在住の豊永郁夫の作品に決定。[[いずみたく]]作曲、[[川路英夫]]の歌で[[ビクター]]から発売。題名は「若いサブウェイ」
* [[1966年]](昭和41年)[[5月1日]] : 工事事務所を廃止。第1工事事務所、第2工事事務所を設置
* [[1967年]](昭和42年)
** 3月1日 : 乗務所を高速運転区に名称変更
*** 池下駅務区を廃止し、金山駅務区を設置
** [[7月1日]] : 技術部と車両部を統合、施設車両部を設置
* [[1968年]](昭和43年)5月1日 : 高速軌道事務所を軌道事務所に統合
* [[1969年]](昭和44年)
** 3月1日 : 電車部に東山駅務区を設置
** [[4月25日]] : 1号線の愛称を'''東山線'''、2号線の愛称を'''名城線'''と決定。同年5月1日から使用開始。
* [[1970年]](昭和45年)4月1日 : 高速度鉄道建設部に、設計課を設置
* [[1971年]](昭和46年)
** 3月1日 : 高速運転区を東山線高速運転区・名城線高速運転区に分割
** 8月1日 : 高速度鉄道建設部に調査課を設置
** [[11月20日]] : 電車部に[[大曽根駅]]務区を設置
* [[1973年]](昭和48年)
** 4月1日 : 高速度鉄道建設部に、第3工事事務所を設置
** [[8月24日]] : 管理部を総務部に名称変更
*** 経理部を設置
* [[1974年]](昭和49年)
** 3月1日 : 電車部に、池下駅務区、[[新瑞橋駅]]務区を設置
** [[3月30日]] : 地下鉄4号線(現・名城線の一部)開業。
** [[3月31日]] : 市電全廃。
** 4月1日 : 高速運輸課を運輸課に名称変更
*** 電車部に運転課を設置
*** 東山線高速運転区を東山線運転区に、名城線高速運転区を名城線運転区に名称変更
*** 施設車両部を廃止し、車両部、施設部を設置
*** 車両部に、[[名城工場]]設置
*** 高速度鉄道建設部に管理課、建築課を設置
*** 高速度鉄道建設部調査課を総務部に移管
* [[1976年]](昭和51年)[[5月15日]] : 総務部を廃止
* [[1977年]](昭和52年)
** 2月1日 : 電車部に[[伏見駅 (愛知県)|伏見駅]]務区を設置
** [[3月18日]] : 地下鉄[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]開業。
* [[1978年]](昭和53年)
** 4月1日 : 経理部を廃止
*** 管理部を設置
*** 7つある駅務区を東山線駅務区、名城線駅務区、鶴舞線駅務区に統合
*** 車両部と施設部を統合し、施設車両部を再設置
*** 施設車両部に[[日進工場]]、施設事務所を設置
*** 高速度鉄道建設部管理課を廃止
** [[10月1日]] : 電車部に鶴舞線運転区を設置
* [[1979年]](昭和54年)[[7月29日]] : 地下鉄鶴舞線が名鉄豊田新線(現在の[[名鉄豊田線|豊田線]])と相互直通運転開始。
* [[1985年]](昭和59年)
** 4月1日 : 管理部を廃止
*** 営業本部制を創設し、営業部を設置
*** 労務部、経理部を設置
* [[1987年]](昭和62年)
** 4月1日 : 営業本部制を拡充し、管理部、経理部、電車部、自動車部を設置
*** 営業部、労務部を廃止
* [[1988年]](昭和63年)3月1日 : [[乗車カード|磁気カード]]「[[リリーカード]]」発売(使用開始は同年4月1日から)。
* [[1989年]](平成元年)
** 4月1日 : 技術本部制を創設。その下に、施設車両部、高速度鉄道建設部を設置
** 9月1日 : 電車部に、桜通線駅務区、桜通線運転区を設置
** [[9月10日]] : 地下鉄[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]開業。同時に地下鉄[[回数乗車券|回数券]]を磁気カード化し「回数券カード」となる。名古屋市営地下鉄では初の[[自動改札機]]に直接投入できる乗車カードである。
** 10月2日 - 「リリーカード」を[[基幹バス (名古屋市)|基幹1号系統]]に試験導入。
* [[1991年]](平成3年)10月1日:「リリーカード」を市営バス全線に導入。
* [[1992年]](平成4年)4月1日:[[名鉄バス]]と[[共同運行]]する基幹2号系統で「リリーカード」と「[[パノラマカード]]」の[[共通乗車制度|共通利用]]を開始。
* [[1993年]](平成5年)[[8月12日]] : 地下鉄鶴舞線が名鉄[[名鉄犬山線|犬山線]]と相互直通運転開始。
* [[1994年]](平成6年)
** 4月1日 : 営業部を設置
*** 高速度鉄道建設部に、用地課を設置
** [[6月5日]] : 「いこまいきっぷ」発売開始。
* [[1996年]](平成8年)
** 4月1日 : 「[[なごや環境きっぷ]]」発売開始(「ドニチエコきっぷ」導入により2006年(平成18年)3月8日をもって発売終了)。
** 11月1日 : 「地下鉄1区特別きっぷ」発売開始。
* [[1998年]](平成10年)
** [[5月5日]] : 「リリーカード」「回数券カード」発売終了。
** [[5月6日]] : 「[[ユリカ]]」によるストアードフェアシステム導入。
* [[2000年]](平成12年)[[1月19日]] : 「ユリカ」の積み増し機能導入。
* [[2001年]](平成13年)
** 4月1日 : 管理部を総務部、営業部を企画営業部、経理部を財務部、高速度鉄道建設部を建設部に、それぞれ名称変更。
*** 施設車両部の電車車両課を電車運転課に名称変更。
* [[2003年]](平成15年)
** [[2月28日]] : 「いこまいきっぷ」発売終了。
** [[3月27日]] : 地下鉄[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]開業。[[名鉄小牧線]]と相互直通運転開始。
** 3月27日 : ユリカの一部を共通[[乗車カード]]システム「[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]」対応とする。同時にリリーカードの使用を停止し、ユリカへの交換手続き開始(2006年(平成18年)3月31日交換手続き終了)。
** 夏休み期間に小児専用の一日乗車券「1DAYお子サマーパス」発売開始(300円)。
* [[2004年]](平成16年)
** 4月1日 : 電車部運転課を電車運転課に名称変更。
*** 用地課、第1工事事務所を廃止。
*** 第2工事事務所と第3工事事務所を統合し、工事事務所を設置。
** 10月1日 : 名城線駅務区を名城線西部駅務区と名城線東部駅務区に分割。
*** 藤ヶ丘工場を藤が丘工場に名称変更。
*** 名城工場を廃止し、名港工場を設置。
** [[10月6日]] : 地下鉄4号線全通。日本初の地下鉄[[環状運転]]開始。名城線大曽根駅 - 金山駅間と4号線を併せた環状部を'''名城線'''、名城線金山駅 - 名古屋港駅間を'''名港線'''と愛称を改めた。
* [[2005年]](平成17年)
** 4月1日 : 建築課を廃止し、設計課建築係となる。
*** 工事事務所を廃止。
* [[2006年]](平成18年)
** 4月1日 : 「[[ドニチエコきっぷ]]」の発売開始など市バス・地下鉄に新サービスを導入。交通局サービスセンターの終了時間の延長やインターネット予約定期券の交付窓口を拡大、なごや乗換ナビなどインターネットを利用したサービスの充実。
*** 企画営業部を廃止し、総合企画部、営業統括部を設置。
*** 工事事務所を設置。
* [[2008年]](平成20年)10月1日 : 一日乗車券、ドニチエコきっぷで観光・グルメスポットのサービスが受けられる「なごや得ナビ」のサービスを開始。
* [[2010年]](平成22年)3月1日 : 「学生定期券」発売開始。通学定期券を改めたもので、従来は自宅と学校の最短経路しか発売しなかったものを、学生であればそれ以外の区間でも利用可能とした<ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/006039.html 「学生定期券を発売中!」]名古屋市交通局ウェブサイト、2010年4月9日閲覧</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
**[[2月10日]] : ユリカ、地下鉄1区特別きっぷの発売終了。
** [[2月11日]] : ICカード乗車券「[[manaca]]」を導入<ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/iccard.html ICカード乗車券の名称とデザインを決定しました] 名古屋市交通局お知らせ 2010年4月16日</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** 1月 : 交通局施設等長期維持管理計画を策定。この計画は施設・設備・機器・車両が順次経年劣化が進み、維持管理に伴う 財政負担が大きくなる中、市バス・地下鉄事業を長期間かつ安定的に運営していくために策定された。この計画は2017年と2020年に2回改定された。計画の期間は2012年から50年間<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0002000/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%B1%80%E6%96%BD%E8%A8%AD%E7%AD%89%E9%95%B7%E6%9C%9F%E7%B6%AD%E6%8C%81%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%A8%88%E7%94%BB.pdf|title=交通局施設等長期維持管理計画|accessdate=2021-08-04|publisher=名古屋市交通局}}</ref>。
** [[2月29日]] : ユリカ、地下鉄1区特別きっぷの使用を停止。
** [[4月21日]] : manacaについて[[東海旅客鉄道]]の[[TOICA]]との相互利用を開始<ref>「[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/iccard.html マナカ(manaca)とTOICAの乗車券機能の相互利用サービスを平成24年4月21日(土)に開始します]」 名古屋市交通局お知らせ 2011年12月22日</ref>。
<!-- ドニチエコきっぷ関係は発売開始を除きドニチエコきっぷに移しました。-->
* [[2013年]](平成25年)[[3月23日]] : [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2016年]](平成28年) : これまで磁気カードだった[[敬老パス (名古屋市)|敬老パス]]、[[福祉特別乗車券 (名古屋市)|福祉特別乗車券]]がmanacaに切り替わる。切り替え時期は、敬老パスが9月1日、福祉特別乗車券が11月1日。
* [[2017年]](平成29年)10月1日 : コスト縮減の観点より、市営地下鉄駅の自動券売機で発券される一日乗車券(バス・地下鉄一日乗車券、地下鉄一日乗車券、ドニチエコきっぷ)のみ、樹脂製磁気カードから紙製磁気券に変更<ref>[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0002365.htm 「自動券売機で発売する一日乗車券が変わります」] - 名古屋市交通局</ref><ref group="注釈">地下鉄駅自動券売機で発売する紙製磁気券と、手売りの樹脂製磁気カードでは、事前購入の可否や、有効期日が確定するタイミング、払い戻し条件が異なる。</ref><ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/sp/TICKET/TRP0002467.htm 「地下鉄駅自動券売機で購入された一日乗車券のバスでのご利用方法について」] - 名古屋市交通局</ref><ref group="注釈">地下鉄駅自動券売機で発売する紙製磁気券と、手売りの樹脂製磁気カードでは、バス料金箱のカード挿入口への対応が異なる。</ref><ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2016091702000223.html 1日乗車券を紙製に「年3000万円経費減」] 1枚当たりのコストは、樹脂製磁気カードが15円前後、紙製磁気券が2円前後。いずれも使い捨て。 - 中日新聞(2016年9月17日)</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 8月1日 : 交通局100周年を迎える。2021年度から2023年度にかけて市営交通100年祭として、スタンプラリーや、[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]および[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]・[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]で[[黄電]]を再現した[[ラッピング車両]]の運行([[2023年]]1月まで)などのイベントが開催される<ref>{{Cite press release|和書|title=市営交通100年祭を実施します!!|publisher=名古屋市交通局|date=2021-07-19|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0004300/2021%E5%B9%B47%E6%9C%8819%E6%97%A5%E3%80%80%E5%B8%82%E5%96%B6%E4%BA%A4%E9%80%9A100%E5%B9%B4%E7%A5%AD%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%EF%BC%81%EF%BC%81.pdf|format=PDF|accessdate=2021-08-11}}</ref>。
** 11月12日 : 交通局[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]を新たに制定し使用開始<ref name="新ロゴ">{{Cite press release|和書|title=市営交通100周年 名古屋市交通局ロゴマークの制定と新制服の導入について|publisher=名古屋市交通局|date=2022-11-14|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/sp/ABOUT/TRP0004615/2022%E5%B9%B411%E6%9C%8814%E6%97%A5-%E5%B8%82%E5%96%B6%E4%BA%A4%E9%80%9A%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E3%80%80%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%B1%80%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%88%B6%E5%AE%9A%E3%81%A8%E6%96%B0%E5%88%B6%E6%9C%8D%E3%81%AE%E5%B0%8E%E5%85%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-03}}</ref>。
=== 収支 ===
公営事業体による高コスト体質から赤字経営が続いていたが、職員・経費などの削減により市バス部門は2006年(平成18年)度以来黒字を続けており、地下鉄も2008年(平成20年)度には27年ぶりに黒字となった。
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:80%; text-align:center; "
|+ 決算概要 (金額 億円)<ref>{{Cite web|和書|title=決算概要 |publisher=名古屋市交通局|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0000681.htm|accessdate=2022-01-12}}</ref>
! rowspan="2"|年度
! colspan="4"|市バス
! colspan="4"|地下鉄
|-
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|収入
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|支出
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|差額
! style="font-weight: normal; width: 6em;"|累積赤字
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|収入
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|支出
! style="font-weight: normal; width: 4em;"|差額
! style="font-weight: normal; width: 6em;"|累積赤字
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年度
|245||246|| style="color:red"|▲1|| style="color:red"|726||823||905|| style="color:red"|▲82|| style="color:red"|3,135
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年度
|234||230||4|| style="color:red"|562||817||862|| style="color:red"|▲45|| style="color:red"|3,185
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年度
|237||228||9|| style="color:red"|542||826||842|| style="color:red"|▲16|| style="color:red"|3,204
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年度
|244||235||9|| style="color:red"|533||833||815||18|| style="color:red"|3,186
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年度
|240||227||12|| style="color:red"|512||809||765||44|| style="color:red"|3,145
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年度
|245||229||16|| style="color:red"|495||793||751||42|| style="color:red"|3,105
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年度
|238||226||12|| style="color:red"|482||787||769||18|| style="color:red"|3,088
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年度
|242||227||15|| style="color:red"|465||811||762||49|| style="color:red"|3,043
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年度
|236||221||15|| style="color:red"|440||828||756||72|| style="color:red"|2,979
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年度
|235||221||14|| style="color:red"|424||856||791||65|| style="color:red"|2,759
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年度
|235||220||15|| style="color:red"|403||911||788||123|| style="color:red"|2,646
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年度
|243||221||22|| style="color:red"|380||945||784||161|| style="color:red"|2,482
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年度
|247||230||17|| style="color:red"|361||946||777||169|| style="color:red"|2,310
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年度
|249||236||13|| style="color:red"|332||944||777||167|| style="color:red"|2,141
|-
! style="font-weight: normal;"|2019年度
|256||244||12||style="color:red" |317||929||778||151||style="color:red" |1,990
|-
! style="font-weight: normal;"|2020年度
|234||242||style="color:red" |▲8||style="color:red" |329||677||764||style="color:red" |▲87||style="color:red" |2080
|}
ただし、[[地方公共団体の財政の健全化に関する法律|地方財政健全化法]]に基づく「資金不足比率」の計算においては市バス事業が資金不足と判定されたため、2009年(平成21年)度より期間がおおむね8年の経営健全化計画を策定することになった。なお、2013年(平成25年)度決算で資金不足比率が経営健全化基準を達成したことにより、3年前倒しで計画は完了した。
== 不祥事 ==
* [[2015年]][[4月13日]]に[[自殺]]した職員の親族が、原因は上司からの[[パワーハラスメント]]にあったとして、名古屋市に対し[[民事訴訟]]を起こした。[[名古屋地方裁判所]]は、[[2020年]]2月に名古屋市に責任があったとして約7,353万円の支払いを命じる[[判決 (日本法)|判決]]を下した。名古屋市は[[控訴]]せずに[[損害賠償]]の支払いを行った<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-01|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20200501-OYT1T50148/|title=市技師「みんなお前と仕事したくない」…部下「つらい、逃げたい」と投稿して自殺|publisher=読売新聞|accessdate=2020-04-29|deadlinkdate=2020-12-17}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[名古屋交通開発機構]]
** [[manaca]]
* [[名古屋市交通局協力会]]
* [[名古屋市交通局協力会東山公園モノレール]]
* [[なごや地下鉄ガイド]] - 名古屋市交通局が協力しているタブロイド情報紙
* [[上飯田連絡線]]
* [[レトロでんしゃ館]]
* [[名古屋市交通局市営交通資料センター]]
* [[ゆるキャン△ (アニメ)|ゆるキャン△ 劇場版]] - 名古屋市交通局が取材協力<ref>[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0004587.htm 映画「ゆるキャン△」取材協力について(乗客誘致推進課)] - 名古屋市交通局、2022年9月16日閲覧</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.kotsu.city.nagoya.jp/ 名古屋市交通局]{{Ja icon}}
* {{Twitter|nagoya_kotsu100|名古屋市交通局}}{{Ja icon}}
* {{Twitter|nagoya_kotsu|名古屋市交通局(運行情報)}}{{Ja icon}}
* {{Instagram|tbcn_city_nagoya}}{{Ja icon}}
* {{Facebook|tbcn.city.nagoya}}{{Ja icon}}
{{トランパス}}
{{Normdaten}}
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[[Category:名古屋市交通局|*]]
[[Category:愛知県の地方公営企業]]
[[Category:名古屋市の交通]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:中部地方の乗合バス事業者]]
[[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]]
[[Category:愛知県の交通]]
[[Category:名古屋市中区の企業]]
[[Category:1922年設立の企業]]
[[Category:三の丸 (名古屋市)]]
|
2003-09-04T23:26:48Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%B1%80
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15,118 |
54
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54(五十四、ごじゅうよん、ごじゅうし、いそよん、いそじあまりよつ)は、自然数、また整数において、53の次で55の前の数である。
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54(五十四、ごじゅうよん、ごじゅうし、いそよん、いそじあまりよつ)は、自然数、また整数において、53の次で55の前の数である。
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{{整数|Decomposition=2×3{{sup|3}}}}
'''54'''('''五十四'''、ごじゅうよん、ごじゅうし、いそよん、いそじあまりよつ)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[53]]の次で[[55]]の前の数である。
== 性質 ==
*54 は[[合成数]]であり、約数は [[1]], [[2]], [[3]], [[6]], [[9]], [[18]], [[27]], 54 である。
**約数の和は[[120]]。
***自身を除く約数の和は[[66]]であり10番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[48]]、次は[[56]]。
***約数の和が[[倍積完全数]]120となる最小の数である。次は[[56]]。
***約数の和が[[倍積完全数]]となる4番目の数である。1つ前は[[12]]、次は56。
*54{{sup|2}} + 1 = 2917 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で[[素数]]を生む13番目の数である。1つ前は[[40]]、次は[[56]]。
*{{sfrac|1|54}} = 0.0{{underline|185}}… (下線部は[[循環節]]で長さは3)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が3になる3番目の数である。1つ前は[[37]]、次は[[74]]。({{OEIS|A069105}})
** [[六進法]]では {{sfrac|1|130}} = 0.004 となり、[[十二進法]]では {{sfrac|1|46}} = 0.028 となる。
*[[九九]]では6の段で6 × 9 = 54 (ろっくごじゅうし)、9の段で9 × 6 = 54 (くろくごじゅうし)と2通りの表し方がある。
*54 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 2{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} = 3{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 6{{sup|2}}
**3つの[[平方数]]の和3通りで表せる最小の数である。次は[[66]]。({{OEIS|A025323}})
**3つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の2通りは[[27]]、次の4通りは[[129]]。({{OEIS|A025414}})
**54 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 7{{sup|2}}
*** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる15番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[56]]。({{OEIS|A025339}})
*** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[352]]。({{OEIS|A074503}})
*[[八進法|八進数]]では 54 = 8 × 6 + 6 = 66{{sub|(8)}} と[[回文数]]になる13番目の数である。1つ前は[[45]]、次は[[63]]。({{OEIS|A029803}})
*24番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[50]]、次は[[60]]。
**9を基としたとき6番目のハーシャッド数である。1つ前は[[45]]、次は[[63]]。
*54 = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}}
**4連続[[平方和]]で表せる数である。1つ前は[[30]]、次は[[86]]。
*約数の和が54になる数は2個ある。([[34]], [[53]]) 約数の和2個で表せる5番目の数である。1つ前は[[32]]、次は[[56]]。
* 54 = 2 × 3{{sup|3}}
** ''n'' = 3 のときの 2''n''{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[512]]。({{OEIS|A013499}})
** 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} (''i'' ≧ 1, ''j'' ≧ 1) で表せる7番目の数である。1つ前は[[48]]、次は[[72]]。({{OEIS|A033845}})
** ''n'' = 3 のときの 2''n''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[128]]。({{OEIS|A033431}})
** ''n'' = 3 のときの 2 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[162]]。({{OEIS|A008776}})
** 54 = 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}}
*** 2つの正の数の[[立方数]]の和で表せる6番目の数である。1つ前は[[35]]、次は[[65]]。({{OEIS|A003325}})
*** ''n'' = 3 のときの 3{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[145]]。({{OEIS|A001585}})
** 54 = 6 × 3{{sup|2}}
*** ''n'' = 3 のときの 6''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[24]]、次は[[96]]。({{OEIS|A033581}})
* sin 54°= {{sfrac|1|2}}φ (ただしφは[[黄金数]])({{OEIS|A019863}})
== その他 54 に関連すること ==
*[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]を含めた[[トランプ]]の最大枚数は54枚。
*[[パーラーシャー]]の数
*[[原子番号]] 54 の元素は[[キセノン]] (Xe)。
*年始から数えて54日目は[[2月23日]]。
*第54代[[天皇]]は[[仁明天皇]]である。
*[[日本]]の第54代[[内閣総理大臣]]は[[鳩山一郎]]である。
*[[大相撲]]の第54代[[横綱]]は[[輪島大士]]である。
*第54代[[教皇|ローマ教皇]]は[[フェリクス4世 (ローマ教皇)|フェリクス4世]](在位:[[526年]][[7月12日]]~[[530年]][[9月22日]])である。
*[[源氏物語]]は全編が五十四帖より成っている。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第54番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#帰妹|雷沢帰妹]]。
*[[クルアーン]]における第54番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[月 (クルアーン)|月]]である。
*3×3の[[ルービックキューブ]]の面は54個 (9×6=54) ある。
*[[国鉄キハ54形気動車]]は、国鉄製造の一般型気動車である。
* その他の固有名詞・作品名など
** 54 - デスクトップマスコットアプリ「[[伺か]]」の Ghost(キャラクタデータ)名。
** {{仮リンク|スタジオ54|en|Studio 54}} - アメリカ合衆国[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]で1977年から1986年まで営業していた[[ディスコ]]。
*** [[54 フィフティ★フォー]] - 上記ディスコを題材にした、1998年公開のアメリカ映画。
** [[54字の物語]] - [[氏田雄介]]の小説。
== 関連項目 ==
{{数字2桁|5|- [[1979年|昭和54年]]}}
*[[5月4日]]
{{自然数}}
|
2003-09-05T00:35:47Z
|
2023-12-07T13:49:38Z
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[
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"Template:整数",
"Template:Sub",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/54
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15,119 |
青函トンネル
|
青函トンネル(せいかんトンネル)または青函隧道(せいかんずいどう)は、本州の青森県東津軽郡今別町と北海道上磯郡知内町を結ぶ鉄道トンネルである。世界最長の海底トンネルおよび三線軌条のトンネルであり、2016年にスイスの「ゴッタルドベーストンネル」が開通するまでは、世界最長のトンネルであった。
日本鉄道建設公団によって建設され、後身の鉄道建設・運輸施設整備支援機構が保有し、北海道旅客鉄道(JR北海道)が管理および列車運行を行っている。
津軽海峡の海底下約100 mの地中を穿って設けられたトンネルで、全長53.85 kmは交通機関用のトンネルとしては日本一である。全長は約53.9 kmであることからゾーン539の愛称があった。
海底トンネルおよび三線軌条のトンネルとしては世界一の長さと深さを持つトンネルである。海底部の総距離では英仏海峡トンネルが世界一の長さを持つ。1988年3月13日の開通時は世界一の長さを持つトンネルでもあった。
青函トンネルの木古内駅方には、非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁、さらに長さ約1.2 kmの第1湯の里トンネルが続き青函トンネルに一体化しており、これらを含めたトンネル状構造物の総延長は約55 kmになる。なお、トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯による目印があったが、北海道新幹線の開業前に撤去された。
青函トンネルを含む区間は当初在来線の「海峡線」として開業したが、当初より新幹線規格で建設されており、2016年3月26日から三線軌条を北海道新幹線が走行している。
また、トンネルを利用して通信ケーブルや送電線が敷設されており、通信や送電の大動脈でもある(後述)。
日本鉄道建設公団により建設工事が行われ、公団を引き継いだ独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構がトンネルを所有している。トンネルを走行する列車を運行しているJR北海道は、機構に対してトンネルの使用料を払っている。その額は租税および管理費程度とされており、年額4億円である。また、トンネル内の鉄道敷設部分についてはJR北海道所有として整備されており、この部分の維持管理費は年間約8億円となっている。1999年度から改修事業が行われており、事業費のうち3分の2を国の補助金でまかない、3分の1をJR北海道が負担している。海底にあるため施設の老朽化が早く、線区を管轄するJR北海道にとって、青函トンネルの保守管理は大きな問題になっている。
また、開業当初は、乗車券のみで乗れた青函連絡船の代替という意味もあり、主たる輸送が快速「海峡」にて行われ、特急「はつかり」は一部速達性を要する時間帯のみであったが、2002年12月1日の東北新幹線八戸開業に伴い列車体系が大幅に変更され、特急・急行列車のみの運行となった。2016年3月26日の北海道新幹線開業以降、青函トンネルを走行する定期旅客列車は北海道新幹線のみとなっている。
ちなみに、青函トンネルの中央部は、公海下の建造物ということで、開業前にその帰属および固定資産税の課税の可否が問題となったが、トンネル内には領土と同様に日本の主権が及ぶものと判断された。それに伴い各自治体へ編入され、固定資産税もそれに応じて課税されることとなった。
全工程においての殉職者は34名。竜飛崎に殉職者の碑が建っている。
青函トンネルは「日本最長の海底トンネル」という特殊条件であることから、万が一の事故・災害防止のために厳重な安全対策が施されており、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっている。トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量な煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまう。なお、開業初日には3か所の火災検知器が誤作動を起こし、快速「海峡」などが最大39分遅れるトラブルが発生している。
なお、2015年4月に発生した特急列車の発煙トラブル(後述)を踏まえ、JR北海道は青函トンネルにおける乗客の避難方法や避難所設備などを改善していく考えを示している。定点など陸底部にある施設を拡充し、定点のケーブルカー(定員15名)の荷台に座席を取り付け、定員を増やすほか、待避所のベンチやトイレなども増設する。また、トンネルの陸底部に4つある資材運搬用の斜坑を新たに避難路として活用する。
青函トンネルは通信の大動脈でもある。青函トンネルの中には開通当時の日本テレコム(のちソフトバンクテレコム、ソフトバンクモバイルを経て、現在のソフトバンク)と、KDDIが光ファイバーケーブルを敷設しており、北海道と本州を結ぶ電信・電話の重要な管路となっている。
青函トンネルを利用し本州と北海道を結ぶ送電線の建設が進められ、2019年3月に「新北本連系設備」として運用を開始した。この送電線は、30万 kW分の送電を行える直流送電線である。従来北海道と本州を結ぶ送電線は海底ケーブルによってまかなわれていたが、船舶のいかりが引っかかって損傷するなどのトラブルが起こっており、青函トンネルを利用すれば安全性が確保され、敷設費用も抑えられる利点もあるとされ、従来の海底ケーブルでのルートと合わせて90万キロワット相当の電力の送電が可能となった。
かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、1950年代に朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入し、また1954年(昭和29年)9月26日には台風接近下において誤った気象判断によって暴風雨の中出航した連絡船のうち洞爺丸他4隻が函館港外で遭難するという大惨事(洞爺丸事故)が発生するなど、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、第二次世界大戦前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
計画時、青森県東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西口ルートと、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現在の函館市)を結ぶ東口ルートが検討された。当初は距離が短い東口ルートが有力視されたが、東口ルートは西口ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西口ルートでの建設に決定した。なお、もし東口ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路(大間 - 函館)開設目的として建設されていた大間線第2期線および大日本帝国陸軍津軽要塞の兵員や軍事物資輸送の目的で建設されていた戸井線(いずれも未成線)の建設が再開され、開通していたとも言われている。
当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。
トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円であったが、実際には7455億円を要している。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6890億円、実際には9000億円に上る。なお、工事での犠牲者は34名だった。
青函航路全盛期の着工当時と打って変わって、東日本ですら北海道への旅客輸送は既に航空機が大半を占める状況であり、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっていた。貨物側も、ストライキや遵法闘争の多発をはじめとする当時の国鉄の労使関係の悪化もあって、貨物輸送もフェリーや内航海運にシェアを奪われて低迷が続いていた。さらに完成後も大量の湧水を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども埋没費用とみなし、放棄した方が経済的であるとまで言われ、「昭和三大馬鹿」、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
しかし開通後は、北海道と本州のJR貨物による貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きく、特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加した。
また首都圏で印刷された、雑誌類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの、外部効果は高い。2010(平成22)年度では年間貨物輸送は450万トンでシェアは42 %に達しており、フェリー輸送とほぼ同等となった。
「青函トンネルカートレイン構想」として、1997年には財団法人東北産業活性化センター(現 東北活性化研究センター)が狭軌かつ津軽今別駅 - 知内駅間においてカートレイン構想を提言しているが、実現には至っていない。
対照的に、旅客はバブル崩壊以後の観光客の減少や、旅客機輸送の多頻度化・格安航空会社の登場により、航空機との激しい競争になっている。
2007年(平成19年)9月1日には、青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年(平成20年)5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)11月1日で運航休止となった。
当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできなくなり、やむなくTBMの前方まで迂回坑道を掘って前から押し出さざるを得なくなるなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。そこで、本坑に先駆けて先進ボーリングで先進導坑を掘り進み、それにより先の地質や湧水の状況を調査しながら本坑が後を追うという方式で掘り進むことになった。しかし、先進ボーリングは水平方向でボーリング調査を行うため水平を維持するのが難しく、ボーリングした孔内の圧力を維持できずに孔壁が崩れたり湧水が噴出したりしたため、最初の頃は月に100 mも進まなかった。そこで、従来はボーリングのロッド管内から送った水を先端のビットから管外に出してビットを冷却しつつ、その水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管と孔壁の間から取り除いていたのに対して、ロッド管と孔壁の間から送った水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管内に回収する「リバース工法」を考案した。これにより、ボーリングの掘進速度は月に数百メートルに向上した。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、新オーストリアトンネル工法による「注入」と「吹付コンクリート」と呼ばれるものである。注入とは、セメントミルクと水ガラスの混合物である注入材を注入用高圧ポンプを用いて超高圧で岩盤へ注入し、注入材が固まった後そこを掘っていく工法であり、坑道の太さ以上にセメントで硬い岩盤をあらかじめ作っておき、そこを掘り進む理屈である。しかし、注入材は強度を上げようすると流動性を保つ時間が短くなり注入できなくなる問題があった。そこで、竜飛岬にある試験場において、最適な水ガラスの種類や配合物を解明するとともに、流動性を保つ時間帯をストップウォッチを使用して計測した。吹付コンクリートとは、掘削直後にコンクリートを岩盤に吹き付けて緩みや崩落を防ぐ工法であり、1950年代にヨーロッパで開発されていたのだが、吹き付け圧による跳ね上がり・剥落・管詰まりなどのトラブルが多かったため、トンネル内に模擬トンネルを造って試行錯誤の繰り返し行い、急結剤の改良や耐圧ホース・吹き付け用自動アームなどを開発した。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。
掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている。
全長53.85 kmの本坑は9つの工区に分けて掘削が行われた。そのうち、本州寄りの4つの工区と北海道寄りの3つの工区は陸上部の地下を掘り進めるもの、残る2つの工区が津軽海峡の海底下を掘り進めるものであった。各工区の長さ及び施工業者を以下に示す。
2005年(平成17年)に北海道新幹線の新青森 - 新函館北斗間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、トンネル両側の奥津軽いまべつ駅と湯の里知内信号場に待避施設を建設する事になっている。2007年(平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6 kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止されていた。
また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによるダイヤへの負荷などを解消すべく、狭軌用の貨物列車を列車ごと標準軌用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させるトレイン・オン・トレイン技術がJR北海道によって研究されている。だが費用面などの問題があり、2019年現在、実現の見込みは立っていない。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設してカートレインを運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
2014年(平成26年)3月15日に北海道新幹線の開業工事に伴い、2つの海底駅(竜飛海底駅・吉岡海底駅)が廃止された。
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には運輸省(現在の国土交通省)が省令で定めた防災基準を満たす構造であることが要求されている。なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから湿度が常に100 %であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。
火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走および牽引はできない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られている。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により甲種輸送される。
なお、1988年(昭和63年)10月にはオリエント急行の車両が本トンネルを通行しているが、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している上、食堂車では石炭レンジを使用しており、火災対策上通行が認められない車両であった。しかし、この時には津軽海峡線内では調理しない事と、各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特別に通行が認められている。
北海道新幹線開業時に、青函トンネルを含む海峡線の架線電圧を新幹線にあわせて25,000 V (50 Hz)に昇圧し、保安装置もそれ以前のATC-LからDS-ATCに変更された。
北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間開業を1年後に控えた2015年4月3日には、青函トンネル内を走行していた特急「スーパー白鳥34号」の車両下で発煙する事故が発生し、青函トンネル開業後初めて乗客・乗員が竜飛定点を経由して地上へ避難する事態になったほか、2日後の4月5日には江差線の札苅 - 木古内間の「き電線」の吊り下げ絶縁碍子が、老朽化や塩害での腐食が原因で破損したために送電トラブルが起き、青函トンネル内で停電が発生した。これにより特急「スーパー白鳥」など4本が運休し、6本に最大で4時間15分の遅れが発生した。北海道新幹線が経由予定である青函トンネルにおいて管理面での事故が1週間以内に連続して発生し、北海道新幹線の安全性に疑問の声が上がった。それに対し、JR北海道は4月7日から8日にかけて、江差線の停電に対する説明および青函トンネルに関する防災設備・避難に関する説明と車両状況の報告を行った。また、4月10日には記者会見で避難誘導マニュアルの改定を実施する旨と、4月7日に社内委員会を設置したことを発表した。
その一方、JR貨物側にも問題が起きた。青函トンネルで貨物列車を牽引するEH800形電気機関車の故障が2015年8月21日に起きていたことが判明した。大阪貨物ターミナル駅発札幌貨物ターミナル駅行きの貨物列車(20両編成)牽引時において、8月21日17時半頃に運転士が故障告知ランプが点灯を確認したため、知内町側の出口まで約5 kmのトンネル内に緊急停車し、電圧変換装置に電流が流れないよう応急処置の後に運転再開。木古内駅に到着後に社員が故障を確認した。電気系統の異常によるもので、電圧変換装置のボルトの締め付け不足が原因で過大な電流が流れ絶縁体の樹脂が溶結したという経緯で故障に至った。この障害を国土交通省北海道運輸局に報告したものの、「単なる車両故障と認識し、発表する内容ではないと考えた」(広報室)として公表していなかった。JR北海道の発表では、この障害の影響で特急列車4本が最大53分遅延した。
2016年2月9日にも竜飛定点での合同異常時訓練中に停電が発生し、救援列車が緊急停止するトラブルがあった。
津軽海峡は「いわゆる国際海峡」である特定海域にあたり、また青函トンネルは一部主権が及ぶ領海ではない領域を通るが、日本政府の見解では国際法に基づき青函トンネル全体に対して日本国の管轄権が及ぶと解されている。
扁額の揮毫は、本州側が中曽根康弘、北海道側(正確には第1湯の里トンネル)が橋本龍太郎である。扁額には「青函トンネル」ではなく「青函隧道」と書かれている。
中曽根は1985年3月のトンネル貫通および1987年4月の国鉄分割民営化当時の内閣総理大臣、橋本は1987年4月当時の運輸大臣であった。
開業当日は民放各局が開業式典から生放送した。その中継は函館駅・青森駅だけではなく吉岡海底駅・竜飛海底駅からも行われた。さらには旅客一番列車の函館発盛岡行き特急「はつかり」10号がトンネルに入った様子を車内からも生放送した。
列車内からの中継はNHKが代表取材し、その映像を運転席に設置したFPUから地上に送信し、地上ではその電波を受信し再度中継した。開業一番列車の写真を見ると運転席に「NHK」と書かれたパラボラアンテナが映っているのはそのためである。民放各局はこのNHKの映像を受信し再送信したため、なんの前振りもなく突然NHKアナウンサーの木原秋好が民放の画面に現れた。
また、海底駅からの中継には当時実用化され始めていた放送中継用の光ファイバー伝送装置が使用された。
本中継の番組ではないが、NHKで開通前の1970年(昭和45年)3月23日に新日本紀行「青函トンネル」を、1983年(昭和58年)1月21日にNHK特集「検証・青函トンネル」を、2000年(平成12年)4月11日に『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事〜」を、それぞれ放送。2016年(平成28年)2月28日には北海道新幹線開業を前に、この後者2番組を再編集したNHKアーカイブス「北海道新幹線 開業へ〜青函トンネルに懸けた情熱〜」が放送された。また、青森放送でも1988年(昭和63年)に『竜飛の二人』という青函トンネルをテーマにしたドキュメンタリー番組も制作、放送した。
開通直後の1988年(昭和63年)4月4日には月曜・女のサスペンス初回拡大スペシャル「青函特急から消えた男」(夏樹静子原作のトラベルサスペンス)がテレビ東京系列で放送されている。
2014年7月9日付河北新報によれば、青森県議会議長は同年6月30日の定例記者会見にて、国土交通省事務次官に対し非公式ながら「もう1本掘ってください」と伝えていたことを明らかにしている。
2014年-2015年頃、複数のゼネコン、コンサルタント会社により「鉄道路線強化検討会」が発足。2016年、青函トンネルの西側に、貨物専用の第2青函トンネルを建設する構想を取りまとめている。工費は約3900億円、工期は約15年を想定した。第一の背景として、2004年に国土交通省が「平成16年度の整備新幹線建設推進高度化等事業」における「青函トンネルにおいて貨物列車が新幹線上を走行する場合の安全性の検討などを行う」調査を実施し、それを受けて2012年7月には国土交通省内で「青函共用走行区間技術検討WG(ワーキンググループ)」も設置され、その議事録で「北海道新幹線札幌延伸の10年後には現在の青函トンネルも大改修が必要となり、そのときに減速しながらの作業となってしまっては意味がない」という意見もあった事や、2016年12月の豪雪の際に航空便が欠航した際も札幌-新函館北斗間の特急列車が大混雑となった事や貨物列車の増発に現状の青函トンネルでは容量不足であるという需要の必要性が挙げられる。
2017年2月14日付の北海道新聞によれば、日本プロジェクト産業協議会は同年2月13日、貨物列車用と自動車用の2本のトンネルを新たに建設し、トンネル内に送電線やガスパイプラインを敷設することで、既存の青函トンネルを新幹線専用とする構想を発表した。事業費は約7500億円、工期は約20年間を想定し、地上から海に向かって掘り進む際の傾斜を急にすることで延長を約30 kmに短縮するとしている。その後2020年には道路案と貨物列車案を折衷し上部に2車線の自動運転車専用の本線車道と下部に貨物列車用単線鉄道と緊急車用路・避難路を設けた事業費約7200億円・工期15年・延長約31 kmの構想を発表している。
また有人運転に対応した道路専用トンネルとして、「第二青函多用途トンネル構想研究会」が延長30 km、内径14.5 mの円形トンネル事業費7299億円、工期10年から15年、道路構造規格第1種第3級、上部に完成2車線本線車道と下部に緊急車両用道路及び避難路、設計速度80 km/hの想定計画を発表しており、レベル3以上の自動運転に対応する場合に内径を2 m程縮小することも織り込まれた。
ちなみに現在、本州・四国間には瀬戸大橋を渡るルートなど3本の本州四国連絡道路が、本州・九州間は関門トンネルや関門橋といった道路がすでに開通しているが、本州・北海道間を自動車で走って行き来できる道路は存在せず津軽海峡フェリーまたは青函フェリーといったカーフェリーを必ず利用することとなるが、本州・北海道間に自動車トンネルが完成すれば、日本の4つの主要な島全てを自動車で走って行き来できるようになる。
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円であったが、実際には7455億円を要している。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6890億円、実際には9000億円に上る。なお、工事での犠牲者は34名だった。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "青函航路全盛期の着工当時と打って変わって、東日本ですら北海道への旅客輸送は既に航空機が大半を占める状況であり、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっていた。貨物側も、ストライキや遵法闘争の多発をはじめとする当時の国鉄の労使関係の悪化もあって、貨物輸送もフェリーや内航海運にシェアを奪われて低迷が続いていた。さらに完成後も大量の湧水を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども埋没費用とみなし、放棄した方が経済的であるとまで言われ、「昭和三大馬鹿」、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "しかし開通後は、北海道と本州のJR貨物による貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きく、特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加した。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "また首都圏で印刷された、雑誌類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの、外部効果は高い。2010(平成22)年度では年間貨物輸送は450万トンでシェアは42 %に達しており、フェリー輸送とほぼ同等となった。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "「青函トンネルカートレイン構想」として、1997年には財団法人東北産業活性化センター(現 東北活性化研究センター)が狭軌かつ津軽今別駅 - 知内駅間においてカートレイン構想を提言しているが、実現には至っていない。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "対照的に、旅客はバブル崩壊以後の観光客の減少や、旅客機輸送の多頻度化・格安航空会社の登場により、航空機との激しい競争になっている。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)9月1日には、青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年(平成20年)5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)11月1日で運航休止となった。",
"title": "経緯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできなくなり、やむなくTBMの前方まで迂回坑道を掘って前から押し出さざるを得なくなるなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。そこで、本坑に先駆けて先進ボーリングで先進導坑を掘り進み、それにより先の地質や湧水の状況を調査しながら本坑が後を追うという方式で掘り進むことになった。しかし、先進ボーリングは水平方向でボーリング調査を行うため水平を維持するのが難しく、ボーリングした孔内の圧力を維持できずに孔壁が崩れたり湧水が噴出したりしたため、最初の頃は月に100 mも進まなかった。そこで、従来はボーリングのロッド管内から送った水を先端のビットから管外に出してビットを冷却しつつ、その水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管と孔壁の間から取り除いていたのに対して、ロッド管と孔壁の間から送った水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管内に回収する「リバース工法」を考案した。これにより、ボーリングの掘進速度は月に数百メートルに向上した。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、新オーストリアトンネル工法による「注入」と「吹付コンクリート」と呼ばれるものである。注入とは、セメントミルクと水ガラスの混合物である注入材を注入用高圧ポンプを用いて超高圧で岩盤へ注入し、注入材が固まった後そこを掘っていく工法であり、坑道の太さ以上にセメントで硬い岩盤をあらかじめ作っておき、そこを掘り進む理屈である。しかし、注入材は強度を上げようすると流動性を保つ時間が短くなり注入できなくなる問題があった。そこで、竜飛岬にある試験場において、最適な水ガラスの種類や配合物を解明するとともに、流動性を保つ時間帯をストップウォッチを使用して計測した。吹付コンクリートとは、掘削直後にコンクリートを岩盤に吹き付けて緩みや崩落を防ぐ工法であり、1950年代にヨーロッパで開発されていたのだが、吹き付け圧による跳ね上がり・剥落・管詰まりなどのトラブルが多かったため、トンネル内に模擬トンネルを造って試行錯誤の繰り返し行い、急結剤の改良や耐圧ホース・吹き付け用自動アームなどを開発した。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "全長53.85 kmの本坑は9つの工区に分けて掘削が行われた。そのうち、本州寄りの4つの工区と北海道寄りの3つの工区は陸上部の地下を掘り進めるもの、残る2つの工区が津軽海峡の海底下を掘り進めるものであった。各工区の長さ及び施工業者を以下に示す。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)に北海道新幹線の新青森 - 新函館北斗間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、トンネル両側の奥津軽いまべつ駅と湯の里知内信号場に待避施設を建設する事になっている。2007年(平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6 kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止されていた。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによるダイヤへの負荷などを解消すべく、狭軌用の貨物列車を列車ごと標準軌用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させるトレイン・オン・トレイン技術がJR北海道によって研究されている。だが費用面などの問題があり、2019年現在、実現の見込みは立っていない。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設してカートレインを運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2014年(平成26年)3月15日に北海道新幹線の開業工事に伴い、2つの海底駅(竜飛海底駅・吉岡海底駅)が廃止された。",
"title": "技術"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には運輸省(現在の国土交通省)が省令で定めた防災基準を満たす構造であることが要求されている。なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから湿度が常に100 %であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。",
"title": "走行車両"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走および牽引はできない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られている。",
"title": "走行車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により甲種輸送される。",
"title": "走行車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、1988年(昭和63年)10月にはオリエント急行の車両が本トンネルを通行しているが、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している上、食堂車では石炭レンジを使用しており、火災対策上通行が認められない車両であった。しかし、この時には津軽海峡線内では調理しない事と、各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特別に通行が認められている。",
"title": "走行車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "北海道新幹線開業時に、青函トンネルを含む海峡線の架線電圧を新幹線にあわせて25,000 V (50 Hz)に昇圧し、保安装置もそれ以前のATC-LからDS-ATCに変更された。",
"title": "走行車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間開業を1年後に控えた2015年4月3日には、青函トンネル内を走行していた特急「スーパー白鳥34号」の車両下で発煙する事故が発生し、青函トンネル開業後初めて乗客・乗員が竜飛定点を経由して地上へ避難する事態になったほか、2日後の4月5日には江差線の札苅 - 木古内間の「き電線」の吊り下げ絶縁碍子が、老朽化や塩害での腐食が原因で破損したために送電トラブルが起き、青函トンネル内で停電が発生した。これにより特急「スーパー白鳥」など4本が運休し、6本に最大で4時間15分の遅れが発生した。北海道新幹線が経由予定である青函トンネルにおいて管理面での事故が1週間以内に連続して発生し、北海道新幹線の安全性に疑問の声が上がった。それに対し、JR北海道は4月7日から8日にかけて、江差線の停電に対する説明および青函トンネルに関する防災設備・避難に関する説明と車両状況の報告を行った。また、4月10日には記者会見で避難誘導マニュアルの改定を実施する旨と、4月7日に社内委員会を設置したことを発表した。",
"title": "事故・トラブル"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "その一方、JR貨物側にも問題が起きた。青函トンネルで貨物列車を牽引するEH800形電気機関車の故障が2015年8月21日に起きていたことが判明した。大阪貨物ターミナル駅発札幌貨物ターミナル駅行きの貨物列車(20両編成)牽引時において、8月21日17時半頃に運転士が故障告知ランプが点灯を確認したため、知内町側の出口まで約5 kmのトンネル内に緊急停車し、電圧変換装置に電流が流れないよう応急処置の後に運転再開。木古内駅に到着後に社員が故障を確認した。電気系統の異常によるもので、電圧変換装置のボルトの締め付け不足が原因で過大な電流が流れ絶縁体の樹脂が溶結したという経緯で故障に至った。この障害を国土交通省北海道運輸局に報告したものの、「単なる車両故障と認識し、発表する内容ではないと考えた」(広報室)として公表していなかった。JR北海道の発表では、この障害の影響で特急列車4本が最大53分遅延した。",
"title": "事故・トラブル"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2016年2月9日にも竜飛定点での合同異常時訓練中に停電が発生し、救援列車が緊急停止するトラブルがあった。",
"title": "事故・トラブル"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "津軽海峡は「いわゆる国際海峡」である特定海域にあたり、また青函トンネルは一部主権が及ぶ領海ではない領域を通るが、日本政府の見解では国際法に基づき青函トンネル全体に対して日本国の管轄権が及ぶと解されている。",
"title": "主権"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "扁額の揮毫は、本州側が中曽根康弘、北海道側(正確には第1湯の里トンネル)が橋本龍太郎である。扁額には「青函トンネル」ではなく「青函隧道」と書かれている。",
"title": "扁額"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "中曽根は1985年3月のトンネル貫通および1987年4月の国鉄分割民営化当時の内閣総理大臣、橋本は1987年4月当時の運輸大臣であった。",
"title": "扁額"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "開業当日は民放各局が開業式典から生放送した。その中継は函館駅・青森駅だけではなく吉岡海底駅・竜飛海底駅からも行われた。さらには旅客一番列車の函館発盛岡行き特急「はつかり」10号がトンネルに入った様子を車内からも生放送した。",
"title": "テレビ番組"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "列車内からの中継はNHKが代表取材し、その映像を運転席に設置したFPUから地上に送信し、地上ではその電波を受信し再度中継した。開業一番列車の写真を見ると運転席に「NHK」と書かれたパラボラアンテナが映っているのはそのためである。民放各局はこのNHKの映像を受信し再送信したため、なんの前振りもなく突然NHKアナウンサーの木原秋好が民放の画面に現れた。",
"title": "テレビ番組"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、海底駅からの中継には当時実用化され始めていた放送中継用の光ファイバー伝送装置が使用された。",
"title": "テレビ番組"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "本中継の番組ではないが、NHKで開通前の1970年(昭和45年)3月23日に新日本紀行「青函トンネル」を、1983年(昭和58年)1月21日にNHK特集「検証・青函トンネル」を、2000年(平成12年)4月11日に『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事〜」を、それぞれ放送。2016年(平成28年)2月28日には北海道新幹線開業を前に、この後者2番組を再編集したNHKアーカイブス「北海道新幹線 開業へ〜青函トンネルに懸けた情熱〜」が放送された。また、青森放送でも1988年(昭和63年)に『竜飛の二人』という青函トンネルをテーマにしたドキュメンタリー番組も制作、放送した。",
"title": "テレビ番組"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "開通直後の1988年(昭和63年)4月4日には月曜・女のサスペンス初回拡大スペシャル「青函特急から消えた男」(夏樹静子原作のトラベルサスペンス)がテレビ東京系列で放送されている。",
"title": "テレビ番組"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2014年7月9日付河北新報によれば、青森県議会議長は同年6月30日の定例記者会見にて、国土交通省事務次官に対し非公式ながら「もう1本掘ってください」と伝えていたことを明らかにしている。",
"title": "第二青函トンネル構想"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2014年-2015年頃、複数のゼネコン、コンサルタント会社により「鉄道路線強化検討会」が発足。2016年、青函トンネルの西側に、貨物専用の第2青函トンネルを建設する構想を取りまとめている。工費は約3900億円、工期は約15年を想定した。第一の背景として、2004年に国土交通省が「平成16年度の整備新幹線建設推進高度化等事業」における「青函トンネルにおいて貨物列車が新幹線上を走行する場合の安全性の検討などを行う」調査を実施し、それを受けて2012年7月には国土交通省内で「青函共用走行区間技術検討WG(ワーキンググループ)」も設置され、その議事録で「北海道新幹線札幌延伸の10年後には現在の青函トンネルも大改修が必要となり、そのときに減速しながらの作業となってしまっては意味がない」という意見もあった事や、2016年12月の豪雪の際に航空便が欠航した際も札幌-新函館北斗間の特急列車が大混雑となった事や貨物列車の増発に現状の青函トンネルでは容量不足であるという需要の必要性が挙げられる。",
"title": "第二青函トンネル構想"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2017年2月14日付の北海道新聞によれば、日本プロジェクト産業協議会は同年2月13日、貨物列車用と自動車用の2本のトンネルを新たに建設し、トンネル内に送電線やガスパイプラインを敷設することで、既存の青函トンネルを新幹線専用とする構想を発表した。事業費は約7500億円、工期は約20年間を想定し、地上から海に向かって掘り進む際の傾斜を急にすることで延長を約30 kmに短縮するとしている。その後2020年には道路案と貨物列車案を折衷し上部に2車線の自動運転車専用の本線車道と下部に貨物列車用単線鉄道と緊急車用路・避難路を設けた事業費約7200億円・工期15年・延長約31 kmの構想を発表している。",
"title": "第二青函トンネル構想"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また有人運転に対応した道路専用トンネルとして、「第二青函多用途トンネル構想研究会」が延長30 km、内径14.5 mの円形トンネル事業費7299億円、工期10年から15年、道路構造規格第1種第3級、上部に完成2車線本線車道と下部に緊急車両用道路及び避難路、設計速度80 km/hの想定計画を発表しており、レベル3以上の自動運転に対応する場合に内径を2 m程縮小することも織り込まれた。",
"title": "第二青函トンネル構想"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ちなみに現在、本州・四国間には瀬戸大橋を渡るルートなど3本の本州四国連絡道路が、本州・九州間は関門トンネルや関門橋といった道路がすでに開通しているが、本州・北海道間を自動車で走って行き来できる道路は存在せず津軽海峡フェリーまたは青函フェリーといったカーフェリーを必ず利用することとなるが、本州・北海道間に自動車トンネルが完成すれば、日本の4つの主要な島全てを自動車で走って行き来できるようになる。",
"title": "第二青函トンネル構想"
}
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青函トンネル(せいかんトンネル)または青函隧道(せいかんずいどう)は、本州の青森県東津軽郡今別町と北海道上磯郡知内町を結ぶ鉄道トンネルである。世界最長の海底トンネルおよび三線軌条のトンネルであり、2016年にスイスの「ゴッタルドベーストンネル」が開通するまでは、世界最長のトンネルであった。 日本鉄道建設公団によって建設され、後身の鉄道建設・運輸施設整備支援機構が保有し、北海道旅客鉄道(JR北海道)が管理および列車運行を行っている。
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{{Infobox tunnel
|name=青函トンネル(青函隧道)
|image=Seikantunnel - Tsugaru street detail.PNG
|caption=青函トンネルの位置<ref group="注釈">JR北海道[[松前線]]、[[江差線]]([[木古内駅]] - [[江差駅]]間)、[[下北交通]][[下北交通大畑線|大畑線]]、[[南部縦貫|南部縦貫鉄道]][[南部縦貫鉄道線]]、[[十和田観光電鉄線]]などの廃止以前の地図に青函トンネルのみ着色。</ref>
|line=[[北海道新幹線]]、[[海峡線]]
|location=[[津軽海峡]]
|coordinates=
|system=
|status=供用中
|start=[[青森県]][[東津軽郡]][[今別町]]浜名({{Coord|41|10|39.4|N|140|27|30|E|region:JP|name=青函トンネルの起点}})
|end=[[北海道]][[上磯郡]][[知内町]]湯の里({{Coord|41|35|32.2|N|140|19|18.5|E|region:JP|name=青函トンネルの終点}})
|stations=
|startwork=[[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月23日]]
|open=[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]
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|owner=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]<ref name="jrtt.go/organization/invester/data/kikousai_22_2" />
|operator=[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
|character=鉄道トンネル
|linelength=
|tracklength=53.85 [[キロメートル|km]](全長)<br />23.30 km(海底部)
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|gauge=海峡線:1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<br />北海道新幹線:1,435 mm([[標準軌]])<br />([[三線軌条|三線式]][[スラブ軌道]])
|el=有([[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]])
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|grade=12 [[パーミル|‰]]
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|}}
{{座標一覧}}
[[ファイル:Seikan_tonneru_aomori.JPG|270px|thumb|青函トンネル入口広場より撮影した本州側入口部分([[青森県]][[今別町]])]]
[[ファイル:Seikan Tunnel Entrance Honshu side.jpg|270px|thumb|789系電車使用特急「スーパー白鳥」先頭車両展望窓より撮影した本州側入口部分<ref group="注釈">[[2010年]](平成22年)[[1月29日]]に[[函館本線]] [[深川駅|深川]] - [[妹背牛駅|妹背牛]]間で発生した[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線踏切事故|踏切傷害事故]]を受けて、同年JR北海道が特急形車両の先頭車運転台側の貫通路への立ち入りを禁止したため、以後はこのアングルでの撮影は不可能となり、さらに[[2016年]](平成28年)の[[北海道新幹線]]開通後は基本的に新幹線のみ乗り入れるため前面展望そのもの不可能になっている。</ref>]]
[[ファイル:Seikan Tunnel 3d cross section 1a.svg|270px|thumb|海底部標準断面図<br />1.本坑 2.作業坑 3.先進導坑 4.連絡誘導路]]
[[ファイル:Seikan Tunnel profile diagram.svg|270px|thumb|縦断図]]
[[ファイル:JR Hokkaido Tappi-kaitei station nameplate.jpg|270px|thumb|かつてはトンネルの内部、海底よりも深い地下に駅があった([[竜飛定点|竜飛海底駅]])]]
'''青函トンネル'''(せいかんトンネル)または'''青函隧道'''(せいかんずいどう)<ref>出入口の[[#扁額|扁額]]。</ref>{{Refnest|group="注釈"|「隧」が[[常用漢字]]外であるため、'''青函ずい道'''と表記されていたこともある<ref>“新幹線鉄道建設に関する整備計画”. [[運輸省]]. (1973年11月13日)</ref>。}}は、[[本州]]の[[青森県]][[東津軽郡]][[今別町]]と[[北海道]][[上磯郡]][[知内町]]を結ぶ鉄道[[トンネル]]である。世界最長の[[水底トンネル|海底トンネル]]および[[狭軌|三線軌条]]のトンネルであり、2016年に[[スイス]]の「[[ゴッタルドベーストンネル]]」が開通するまでは、世界最長のトンネルであった。
[[日本鉄道建設公団]]によって建設され、後身の[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が保有し、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が管理および列車運行を行っている。
== 概要 ==
[[津軽海峡]]の海底下約100 [[メートル|m]]の地中を穿って設けられたトンネルで、全長53.85 kmは交通機関用のトンネルとしては[[鉄道に関する日本一の一覧|日本一]]である。全長は約53.9 kmであることから'''ゾーン539'''の愛称があった。
[[水底トンネル|海底トンネル]]および[[狭軌|三線軌条]]のトンネルとしては世界一の長さと深さを持つトンネルである。海底部の総距離では[[英仏海峡トンネル]]が世界一の長さを持つ。[[1988年]][[3月13日]]の開通時は[[鉄道に関する世界一の一覧|世界一]]の長さを持つトンネルでもあった<ref group="新聞" name="jp.reuters-20160601-article/gotthard-idJPKCN0YN3FI" />。
青函トンネルの[[木古内駅]]方には、非常に短い[[シェルター]]で覆われた'''コモナイ川橋梁'''、さらに長さ約1.2 [[キロメートル|km]]の'''第1湯の里トンネル'''が続き青函トンネルに一体化しており、これらを含めたトンネル状構造物の総延長は約55 kmになる。なお、トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯による目印があったが、北海道新幹線の開業前に撤去された。
青函トンネルを含む区間は当初在来線の「[[海峡線]]」として開業したが、当初より[[新幹線鉄道規格新線|新幹線規格]]で建設されており、2016年[[3月26日]]から[[三線軌条]]を[[北海道新幹線]]が走行している。
また、トンネルを利用して通信ケーブルや送電線が敷設されており、通信や送電の大動脈でもある([[#通信ケーブル|後述]])。
日本鉄道建設公団により建設工事が行われ、公団を引き継いだ[[独立行政法人]]鉄道建設・運輸施設整備支援機構がトンネルを所有している。トンネルを走行する列車を運行しているJR北海道は、機構に対してトンネルの使用料を払っている。その額は租税および管理費程度とされており、年額4億円である。また、トンネル内の鉄道敷設部分についてはJR北海道所有として整備されており、この部分の維持管理費は年間約8億円となっている。[[1999年]]度から改修事業が行われており、事業費のうち3分の2を国の補助金でまかない、3分の1をJR北海道が負担している<ref name="jrtt.go/organization/invester/data/kikousai_22_2" /><ref name="homepage1.nifty/JR-RENGO/k-seisaku/seisakunews/sn37" />。海底にあるため施設の老朽化が早く、線区を管轄するJR北海道にとって、青函トンネルの保守管理は大きな問題になっている<ref name="homepage1.nifty/JR-RENGO/k-seisaku/seisakunews/sn37" /><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.nikkenko.com/feature/kikaku/page/020110_shinnen_1.htm|title=「青函トンネルのフタ閉め」論争|newspaper=日刊建設工業新聞(北海道版)|publisher= |date=2002-01-10|accessdate=2002-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020704120527/http://www.nikkenko.com/feature/kikaku/page/020110_shinnen_1.htm|archivedate=2002-07-04}}</ref>。
また、開業当初は、乗車券のみで乗れた[[青函連絡船]]の代替という意味もあり、主たる輸送が[[快速列車|快速]]「[[海峡 (列車)|海峡]]」にて行われ、[[特別急行列車|特急]]「[[はつかり (列車)|はつかり]]」は一部速達性を要する時間帯のみであったが、[[2002年]]12月1日の[[東北新幹線]][[八戸駅|八戸]]開業に伴い列車体系が大幅に変更され、特急・[[急行列車]]のみの運行となった<ref group="報道" name="jrhokkaido20020920">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2002/1412daiya.html|title=平成14年12月ダイヤ改正について|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date=2002-09-20|accessdate=2014-06-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021010072608/www.jrhokkaido.co.jp/press/2002/1412daiya.html|archivedate=2002年10月10日}}</ref><ref group="注釈">なお、これに合わせて蟹田駅 - 木古内駅間に、乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できる特例が設定された。この特例は「[[青春18きっぷ]]」・「[[北海道&東日本パス]]」などの普通・快速列車に限って利用可能な[[特別企画乗車券]]にも適用された。</ref>。[[2016年]]3月26日の北海道新幹線開業以降、青函トンネルを走行する定期旅客列車は北海道新幹線のみとなっている。
ちなみに、青函トンネルの中央部は、[[公海]]下の建造物ということで、開業前にその帰属および[[固定資産税]]の課税の可否が問題となったが、トンネル内には[[領域 (国家)|領土]]と同様に[[日本]]の[[主権]]が及ぶものと判断された。それに伴い各自治体へ編入され、固定資産税もそれに応じて課税されることとなった<ref group="注釈">1988年(昭和63年)3月13日に事務次官会議において自治体境界を定め、公海下部分のうち、約4.7 kmを青森県[[東津軽郡]][[三厩村]](現:同郡[[外ヶ浜町]])、約5 kmを北海道[[松前郡]][[福島町]]に編入することとなり、同月16日の政府[[閣議]]で決定し、同月24日に告示された。</ref>。
全工程においての殉職者は34名。[[竜飛崎]]に殉職者の碑が建っている。
=== 防災設備 ===
青函トンネルは「日本最長の海底トンネル」<ref group="注釈">他のトンネルに比べ長大であり、トンネル中央部に向けて下り勾配が長く続いていることが大きな特徴である。</ref>という特殊条件であることから、万が一の事故・災害防止のために厳重な安全対策が施されており、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっている。トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量な煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまう。なお、開業初日には3か所の火災検知器が誤作動を起こし、快速「海峡」などが最大39分遅れるトラブルが発生している。<!---動画投稿サイト「YOUTUBE」に寄せられた開業当日のNHKニュースから--->
なお、[[2015年]]4月に発生した特急列車の発煙トラブル(後述)を踏まえ、JR北海道は青函トンネルにおける乗客の避難方法や避難所設備などを改善していく考えを示している<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0141106.html|title=青函トンネルの避難方法改善へ 参院委でJR北海道社長|newspaper=[[北海道新聞]](どうしんウェブ)|publisher=[[北海道新聞社]]|date=2015-06-03|accessdate=2015-06-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150603033748/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0141106.html|archivedate=2015-06-03}}</ref>。定点など陸底部にある施設を拡充し、定点のケーブルカー(定員15名)の荷台に座席を取り付け、定員を増やすほか、待避所のベンチやトイレなども増設する。また、トンネルの陸底部に4つある資材運搬用の斜坑を新たに避難路として活用する<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/opinion/editorial/2-0026948.html|title=社説 青函トンネル 新幹線の避難、大丈夫か|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=北海道新聞社|date=2015-06-18|accessdate=2015-06-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150627162508/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/opinion/editorial/2-0026948.html|archivedate=2015-06-27}}</ref>。
; 斜坑・作業坑・先進導坑<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150408-1.pdf|format=PDF|title=青函トンネルにおける防災設備、お客様避難に関する考え方及び現段階での車両調査について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-08|accessdate=2015-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150410033323/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150408-1.pdf|archivedate=2015年4月10日}}</ref>
: 作業坑・先進導坑には、連絡誘導路が約600 mおきに設置されている。陸底部には算用師(さんようし)、袰内(ほろない)、白符(しらふ)、三岳(みたけ)の4つの斜坑があり、階段の他、自動車の通行が可能な斜路が設置されている。
: 青函トンネル内を移動する事態となった場合、[[障害者]]・体調不良の人を、トンネル内にある保守作業用自動車等に乗車させることも検討している。
; 定点<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />
: {{see also|竜飛定点|吉岡定点}}
: 万一、列車火災事故などが発生した場合に列車を停止させ、乗客の避難誘導及び消火作業を行うため、青森県東津軽郡外ヶ浜町竜飛({{Coord|41|15|26|N|140|20|52.6|E|region:JP|name=竜飛海底駅}})および北海道松前郡福島町館崎({{Coord|41|26|31.7|N|140|14|21.6|E|region:JP|name=吉岡海底駅}})の陸底部2箇所(海岸直下から僅かに海底寄り)に設置された施設。[[1972年]](昭和47年)[[11月6日]]に[[日本国有鉄道]](国鉄)[[北陸本線]]の[[北陸トンネル]]内で発生した[[北陸トンネル火災事故|列車火災事故]]を教訓にしたもので、これによりトンネルは3分割され、防災上からみればトンネルの長さは従来の最長クラスの鉄道トンネルと同程度のトンネルが間をおかず、連続していると考えることができる。
: 開業後はこの定点をトンネル施設の見学ルートとしても利用する事になり、それぞれ「'''竜飛海底駅'''」、「'''吉岡海底駅'''」と命名された。この2つの駅は、見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降できる特殊な駅であったが、吉岡海底駅は[[2006年]]([[平成]]18年)[[8月28日]]に長期休止となった<ref group="報道" name="jrhokkaido20051222">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|format=PDF|title=平成18年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2005-12-22|accessdate=2010-07-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051230090557/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|archivedate=2005年12月30日}}</ref><ref group="報道" name="jrhokkaido20060614">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2006/060614-3.pdf|format=PDF|title=吉岡海底駅「ドラえもん海底ワールド」は8月27日でファイナルを迎えます!|publisher=北海道旅客鉄道|date=2006-06-14|accessdate=2014-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060706190916/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2006/060614-3.pdf|archivedate=2006年7月6日}}</ref>ほか、竜飛海底駅も2013年(平成25年)11月10日をもって休止となった<ref group="報道" name="jrhokkaido20130913">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130913-1.pdf|format=PDF|title=駅の営業終了について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-13|accessdate=2014-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130927095752/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130913-1.pdf|archivedate=2013年9月27日}}</ref>。なお、これらの海底駅は[[2014年]][[3月15日]]に、[[鉄道駅]]としては廃止され<ref group="報道" name="jrhokkaido20131220">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|format=PDF|title=平成26年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-12-20|accessdate=2014-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224105741/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|archivedate=2013年12月24日}}</ref>、現在は「'''竜飛定点'''」、「'''吉岡定点'''」となっている。
: ホーム、消火栓及び乗客を一時避難させる避難所(ベンチ、トイレ設備)が設置され、指令所から遠隔操作する一斉照明設備(100ルクス程度)、[[消防用設備]](水噴霧設備、[[監視カメラ]]及び非常放送設備等)を備えている。また非常発電機が備えてあり、72時間稼働できる様に備えている。
: また、竜飛・吉岡定点はそれぞれ竜飛・吉岡斜坑を通じて地上に脱出できるようになっており、これらの斜坑には[[ケーブルカー]]の他、階段(段数1,317段)が設置されている<ref group="注釈">竜飛斜坑は外ヶ浜町の[[道の駅みんまや]](青函トンネル記念館)、吉岡斜坑は福島町吉岡地区のトンネルメモリアルパーク付近が出口となっている。なお、竜飛斜坑のケーブルカーは[[青函トンネル竜飛斜坑線]]として営業運転を行っている。</ref>。健脚の場合、階段の歩行時間は25分程度である。
; 列車火災対策<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />
:; 火災検知設備
::; 赤外線温度式火災検知器
::: [[赤外線カメラ]]を利用して、両側から列車表面の温度を測定することにより火災を検知する設備であり、トンネルの前後および内部の上下線4箇所ずつ、合計8箇所に設置されている。車軸検知器と連動させてデータ処理を行うことにより、火災発生位置(両数、部位)も検知できる。
::; 煙検知器
::: 赤外線温度式火災検知器では、熱が車両表面に現れずに煙の発生する、いわゆる煙火災に対応することができないため、補完設備としてトンネル内に煙検知器を5箇所設置した。
:; 火災時の列車制御設備
::; 火災列車停止装置
::: 火災を検知すると、ブレーキ開始表示灯と停止位置目標灯を点灯させ、それを目標に運転士がマニュアルブレーキで停車する。なお、北海道新幹線開業後は、ATC信号により自動的に減速し、最後の停止位置合わせのみ運転士がマニュアルブレーキを操作する。
::; 支障列車停止装置
::: 列車火災が発生したときに、他列車への波及を食い止めるため、火災検知器と連動して自動的に設定したブロック単位に送信し、後続列車及び対向列車を停めるべき地点の軌道回路に停止信号を現示する。
::
:; 消火設備
:: 列車火災が発見された場合、その列車は最寄りの定点かトンネル前後の停車場まで走行して、そこで消火救援活動を行うことを基本としており、定点及び停車場に消火設備を設けている。
:; 換気設備
:: 列車からの発熱の蓄積による坑内温度の上昇の抑制、及び保守用車からの排気ガスの排出のため、縦流式の換気方法としている。これは斜坑口付近に送風機を設けて空気を送り込み、先進導坑を通って海底中央部の連絡横坑から本坑に入り、各々の坑口に向かって換気する方式である。
:; 排煙設備
:: 列車火災が発生し、列車が定点に停止したときに、避難する乗客が煙にまかれることのないような排煙方式としている。列車停止位置に応じて指令が排煙装置を遠隔制御で調整し、斜坑から定点への短絡ルートにある風門を開くことにより、換気流を斜坑から直接定点に送り込むと同時に、立坑口に設けた排煙機を運転して煙を立坑から吸い出すものである。これにより本坑の風向きが調整され、作業坑、先進導坑へ本坑の煙が流入しないようしている。
:; 避難誘導設備
:: 火災列車が定点に停止した場合、一時旅客を避難させ避難所から坑外に脱出させる必要がある場合に、安全に誘導するためにITVカメラ、非常放送などの避難誘導設備を設置している。
:; 情報連絡設備
:: 列車火災時には旅客の避難誘導、関係列車の抑止、消火栓、排煙、換気等の手配を緊急に行う必要があるため、トンネル内乗務員と函館指令センターの指令員との情報連絡が、迅速かつ効率よく又確実に行われる体制にしておく必要がある。情報連絡設備として、できるだけ多くの通信手段を設けることにより[[冗長化]]を図り、トンネル内と指令センター等との連絡を密にするため列車無線、乗務員無線等を設置している。
:
; 地震対策<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />
: 列車抑止の方式は、[[地震計]]からの警報によって、ATCで列車を停止させる方式を採用した。120ガル以上の場合、一旦停止後に徐行でトンネル外まで運転する。
: なお、青函トンネル部は、十分な耐震構造になっているが、長大でかつ海底トンネルという特殊性から、地震が発生して列車が停止した後の応急的な運転再開については、長時間を要する徒歩巡回点検方式はとらず、警報地震計(トンネルの前後および内部に合計8箇所)とモニタリングシステム(地震早期検知システム、トンネル覆工歪計(トンネル内に4箇所)、湧水量検知装置)による迅速な情報処理判断を活用している。
; 異常出水対策<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />
: トンネル内に湧水量検知装置を27箇所設置し、地震時の異常はもちろんのこと経年によるトンネル及びトンネル周辺地山の劣化を監視して、函館指令センターでその状況に応じて応急処置がとれるよう万全を期している。
: くみ上げポンプ用非常発電設備が設置されており、ポンプの排水能力を超えた場合、本坑下部にある先進導坑に貯水する仕組みになっている。
; 防災監視体制<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />
: 青函トンネルにおいて災害が発生した場合に迅速に対処するため、トンネル内の各種防災情報を函館指令センターに表示して、常時監視できる設備になっている。また、異常時には各種防災機器を、函館指令センターから遠隔制御により直接操作できる。
: このように青函トンネルにおいては、万一、災害が発生した場合でも、迅速に対応するために、情報を函館指令センターに表示して指令員が常時監視するとともに、異常時には各種防災機器を遠隔制御により、直接操作するよう総合システムを構成している。
=== 通信ケーブル ===
青函トンネルは通信の大動脈でもある。青函トンネルの中には開通当時の[[日本テレコム]](のち[[ソフトバンクテレコム]]、ソフトバンクモバイルを経て、現在の[[ソフトバンク]])と、[[KDDI]]が[[光ファイバー]]ケーブルを敷設しており、北海道と本州を結ぶ電信・電話の重要な管路となっている<ref group="注釈">北海道と本州の間の通信ルートとしては、青函トンネルルートに加え、石狩~秋田・仙台間(KDDI)、苫小牧~大間間(NTT東日本)、室蘭~八戸間(ソフトバンク)に光海底ケーブルが敷設されている。</ref>。
=== 送電線設備 ===
青函トンネルを利用し本州と北海道を結ぶ[[北海道・本州間連系設備|送電線]]の建設が進められ、[[2019年]]3月に「新北本連系設備」として運用を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hepco.co.jp/energy/distribution_eq/north_reinforcement.html|title=新北本連系設備 - 北海道電力|accessdate=2019-05-21}}</ref>。この送電線は、30万 kW分の送電を行える[[直流送電|直流送電線]]である。従来北海道と本州を結ぶ送電線は[[海底ケーブル]]によってまかなわれていたが、船舶のいかりが引っかかって損傷するなどのトラブルが起こっており、青函トンネルを利用すれば安全性が確保され、敷設費用も抑えられる利点もあるとされ、従来の海底ケーブルでのルートと合わせて90万キロワット相当の電力の送電が可能となった<ref>{{PDFlink|[http://www.hepco.co.jp/info/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/07/31/130731_2.pdf 北海道本州間連系設備増強の概要]}} 北海道電力 2013年7月31日。[http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/2012setsuden_winter/179064.html <4>北本連系はどんな設備? 本州と60万キロワット送受電-北海道新聞] 北海道新聞 2012年11月9日 閲覧2014年1月16日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
== 経緯 ==
かつて[[青森駅]]と[[函館駅]]を結ぶ[[鉄道連絡船]]として、日本国有鉄道により'''[[青函航路]](青函連絡船)'''が運航されていた。しかし、[[1950年代]]に[[朝鮮戦争]]によるものと見られる浮流[[機雷]]がしばしば津軽海峡に流入し、また[[1954年]](昭和29年)[[9月26日]]には[[台風]]接近下において誤った気象判断によって暴風雨の中出航した連絡船のうち[[洞爺丸]]他4隻が函館港外で遭難するという大惨事('''[[洞爺丸事故]]''')が発生するなど、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、[[第二次世界大戦]]前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
計画時、青森県東津軽郡三厩村(現在の[[外ヶ浜町]])と北海道松前郡福島町を結ぶ西口ルートと、青森県[[下北郡]][[大間町]]と北海道[[亀田郡]][[戸井町]](現在の[[函館市]])を結ぶ東口ルートが検討された。当初は距離が短い東口ルートが有力視されたが、東口ルートは西口ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西口ルートでの建設に決定した。なお、もし東口ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路([[大間港|大間]] - 函館)開設目的として建設されていた[[大間線]]第2期線および[[大日本帝国陸軍]][[津軽要塞]]の兵員や軍事物資輸送の目的で建設されていた[[戸井線]](いずれも[[未成線]])の建設が再開され、開通していたとも言われている{{誰によって|date=2019-02}}。
当初は[[在来線]]規格での設計であったが、[[整備新幹線]]計画に合わせて[[新幹線]]規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、[[軌間]]や[[架線]]電圧の違いを除けば、[[自動列車制御装置#ATC-L型|保安装置(ATC-L型)]]も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案される[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]の原型となった。
トンネルは在来工法(一部[[TBM工法]]・[[新オーストリアトンネル工法]])により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円であったが、実際には7455億円を要している<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.nikkenko.com/feature/kikaku/page/020110_shinnen_3.htm|title=青函トンネルの費用便益帰着表|newspaper=日刊建設工業新聞(北海道版)|publisher= |date=2002-01-10|accessdate=2002-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020818042548/http://www.nikkenko.com/feature/kikaku/page/020110_shinnen_3.htm|archivedate=2002-08-18}}</ref>。取り付け線を含めた[[海峡線]]としての建設費は計画段階で6890億円、実際には9000億円に上る。なお、工事での犠牲者は34名だった。
青函航路全盛期の着工当時と打って変わって、東日本ですら北海道への旅客輸送は既に[[航空機]]が大半を占める状況であり、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっていた。貨物側も、[[ストライキ]]や[[遵法闘争]]の多発をはじめとする当時の国鉄の労使関係の悪化もあって、貨物輸送もフェリーや[[内航海運]]に[[市場占有率|シェア]]を奪われて低迷が続いていた。さらに完成後も大量の[[湧水]]を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども[[埋没費用]]とみなし、放棄した方が経済的であるとまで言われ、「[[昭和三大馬鹿査定|昭和三大馬鹿]]」、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
<!--
{{要出典|date=2019-8|トンネルの有効活用としては「道路用に転用すべきだ」「[[キノコ]]の栽培をすべきだ」「[[石油]]の貯蔵庫にすべきだ」などのアイデアも報じられたが、結局は在来線で暫定使用を行うことになった。}}-->
しかし開通後は、北海道と[[本州]]の[[日本貨物鉄道|JR貨物]]による[[貨物]]輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの[[貨物列車]]が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きく、特に北海道の基幹産業である[[農産物]]の輸送量が飛躍的に増加した。
また[[首都圏 (日本)|首都圏]]で印刷された、[[雑誌]]類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの、[[外部効果]]は高い。[[2010年|2010]](平成22)年度では年間貨物輸送は450万トンでシェアは42 %に達しており、[[フェリー]]輸送とほぼ同等となった。
「'''青函トンネルカートレイン構想'''」として、1997年には財団法人東北産業活性化センター(現 [[東北活性化研究センター]])が狭軌かつ津軽今別駅 - 知内駅間において[[カートレイン]]構想を提言している<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/10001907331 ユーロトンネルに学ぶ青函カートレイン構想] - 平間 久雄 (財)東北産業活性化センター</ref>が、実現には至っていない。
対照的に、[[旅客]]は[[バブル崩壊]]以後の観光客の減少や、[[旅客機]]輸送の多頻度化・[[格安航空会社]]の登場により、航空機との激しい競争になっている。
[[2007年]](平成19年)[[9月1日]]には、青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船[[ナッチャンRera]]が、[[2008年]](平成20年)[[5月2日]]には[[ナッチャンWorld]]が就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)[[11月1日]]で運航休止となった<ref group="注釈">ナッチャンWorldについては、[[津軽海峡フェリー]]が[[2009年]] - [[2012年]]の夏季限定で運航していた。</ref>。
== 歴史 ==
=== 構想 ===
* [[1923年]]([[大正]]12年):函館市議会議員の[[阿部覺治]]が「大函館論」の中で、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]構想を参考に青函トンネル(大間 - 函館間)構想を記す<ref name="town sotogahama">{{Cite web|和書|url=http://www.town.sotogahama.lg.jp/%E5%B9%B3%E6%88%9020%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B71-24.pdf|format=PDF|title=広報そとがはま 平成20年3月号 (No.36)|publisher=外ヶ浜町|page=7頁|date=2008-03|accessdate=2014-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130412234059/http://www.town.sotogahama.lg.jp/%E5%B9%B3%E6%88%9020%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B71-24.pdf|archivedate=2013-04-12}}</ref><ref>青函トンネル事典海峡回廊 p14-17</ref><ref>わが街 はこだてタウン誌50年 p78-79</ref>。
* [[1939年]]([[昭和]]14年)6月1日:鉄道省盛岡建設事務所が東口ルートの調査を[[鉄道総合技術研究所|鉄道大臣官房技術研究所]]へ依頼。発案者は不明<ref name="seikan-tunnel-story">青函トンネル物語 青函トンネル物語編集委員会編 1988年 p16-19</ref>。
* [[1940年]]([[昭和]]15年)8月:鉄道省計画課内に線路調査室が設けられる。
* [[1946年]](昭和21年)
** 2月26日:運輸省鉄道総局施設局長室にて「津軽海峡連絡隧道調査法打ち合わせ会議」を開催。この会議で本命は西口ルートになり、東口ルートは参考ルートになった<ref name="seikan-tunnel-story"/>。
** 4月:「津軽海峡連絡ずい道調査委員会」設置。地上部の地質調査開始<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前">{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/seikan/03_01.html|title=青函トンネルのあゆみ(完成前)|publisher=北海道旅客鉄道|date= |accessdate=2014-10-31|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
** 9月:西口ルートを調査することに決定<ref name="seikan-tunnel-story">青函トンネル物語 青函トンネル物語編集委員会編 1988年 p16-19</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)8月:[[第16回国会|第16回特別国会]]にて「'''青森県三厩附近より渡島国福島に至る鉄道'''」が予定線として鉄道敷設法に追加された<ref name="seikan-tunnel-story"/>。以後、漁船を使用した海底部の地質調査開始<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1954年]](昭和29年)[[9月26日]]:[[青函航路]]([[青函連絡船]])[[洞爺丸事故]]が発生。青函トンネル建設計画が本格的に浮上<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
* [[1955年]]([[昭和]]30年)2月18日:津軽海峡連絡隧道技術委員会発足。
* [[1960年]]([[昭和]]35年)10月12日:[[秋田県]][[八峰町]]にて実験隧道建設工事開始。以後注入試験などが実施される。
=== 着工 ===
* [[1961年]](昭和36年)
** [[3月23日]]:建設開始。
** 月日不明:[[深海探査艇]]「[[福島町青函トンネル記念館|くろしおII号]]」による海底調査を実施<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[2月11日]]:北海道側の期成会により、[[北海道]][[松前郡]][[福島町]]吉岡で着工式を実施<ref name="town sotogahama"/>。
** [[10月18日]]:北海道側で試掘調査準備工事に着手<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[1月26日]]:北海道側の請負により、斜坑口掘削開始<ref name="town sotogahama"/>。
** [[3月23日]]:[[日本鉄道建設公団]]発足。
** [[4月22日]]:北海道側で調査工事起工式を実施<ref name="town sotogahama"/>。
** [[5月8日]]:北海道側の吉岡斜坑(全長:12.3 [[メートル|m]])掘削開始(直轄)<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
** [[8月20日]]:本州側の期成会で鍬入式を実施<ref name="town sotogahama"/>。
** [[10月26日]]:本州側で試掘調査準備に着手<ref name="town sotogahama"/>。
** [[10月28日]]:本州側で工事用道路改修工事に着手<ref name="town sotogahama"/>。
** [[11月20日]]:日本鉄道建設公団が青函建設局竜飛鉄道建設所を設置<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[1月7日]]:北海道側で先進ボーリング開始(334 m)<ref name="town sotogahama"/>。
** [[3月15日]]:本州側で坑口切取とその他工事に着手<ref name="town sotogahama"/>。
** [[5月17日]]:北海道側で海岸線直下415 m地点に到達<ref name="town sotogahama"/>。
** [[8月9日]]:工事実施計画認可(調査)<ref name="town sotogahama"/>。
** [[8月19日]]:本州側の請負により、斜坑口掘削開始<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[2月20日]]:本州側で掘削51 m、覆工30 m、りょう盤45 m 終了する<ref name="town sotogahama"/>。
** [[3月21日]]:本州側の竜飛斜坑(全長:51 m)掘削開始(直轄)<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
** [[12月9日]]:本州側で先進ボーリング開始(443 m)<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[2月23日]]:北海道側でトンネル掘進機の試験掘削終了<ref name="town sotogahama"/>。
** [[3月4日]]:北海道側で斜坑底に到達(1,210 m)。先進導坑(北海道側)掘削開始<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
** [[9月27日]]:本州側で海岸線直下815 m地点に到達<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1968年]](昭和43年)12月:北海道側の吉岡作業坑掘削開始<ref name="あゆみ 完成前"/>。
* [[1969年]](昭和44年)[[2月13日]]:本州側の調査坑1,223 m地点で異常出水(最大湧水量:11トン/分)<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[1月17日]]:本州側で斜坑底に到達(1,315 m)。先進導坑(本州側)掘削開始<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
** [[7月13日]]:本州側の竜飛作業坑着手および掘削開始<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[9月28日]]:本工事着手<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
** [[11月14日]]:北海道側・本州側で本工事の起工式を実施<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[1月8日]]:吉岡作業坑3,509 m付近で異常出水(最大湧水量:16トン/分)<ref name="town sotogahama"/>。
** [[4月17日]]:三岳工区の斜坑底に到達<ref name="town sotogahama"/>。
** [[5月10日]]:袰内工区の斜坑底に到達<ref name="town sotogahama"/>。
** [[12月5日]]:竜飛作業坑3,692 m付近で異常出水(最大湧水量:6トン/分)<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1975年]](昭和50年)[[12月22日]]:算用師工区の斜坑底に到達<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1976年]](昭和51年)[[5月6日]]:吉岡作業坑4,588 m付近で異常出水(最大湧水量:85トン/分)<ref>青函トンネル記念館のパネル</ref>。
**[[5月6日]]:2時30分、切羽付近の湧水が急増。3時30分、湧水量が排水能力を超える。8時、切羽後方100 mの固定ポンプ座の貯水槽が完全に水没。湧水量4トンから30トンと増加。16時、3つめのバルクヘッドが破られる。出水ピーク毎分85トンを記録。19時30分、作業抗880 mが水浸{{sfn |RailwayEle29-6 |1976 |p=48}}。
**[[5月7日]]:1時30分、防水扉破られる。
**[[5月9日]]:4トンポンプ3台が稼働開始し、先進導坑のポンプ座に連結した4トンポンプ5台と合わせて排水能力が向上。翌日までに浸水区間の拡大は止まり、水没範囲は作業坑2028 m、本坑1300 mにとどまる<ref>順調に排水 青函トンネル『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月10日夕刊、3版、7面</ref>。
**[[5月10日]]:作業抗と本坑にたまった水を100 m下を走る先進導坑に落下させ排水作業開始{{sfn |RailwayEle29-6 |1976 |p=48}}。
**[[5月14日]]:毎分68トンの排水能力を確保。本坑の排水を完了。
**[[6月24日]]:毎分16トンだった湧水が60トンまで増大。作業坑は出水切羽から76.5 mの地点で閉塞することを決定。
**[[7月12日]]:排水作業完了。
**[[7月20日]]:作業坑を右へ迂回し、掘削開始。
**[[10月15日]]:出水切羽と同じ距離まで到達(出水から162日目)。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月4日]]:北海道側の陸上部(白符工区、三岳工区)が全て貫通<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1979年]](昭和54年)9月21日:竜飛作業坑完成<ref name="あゆみ 完成前"/>。海底部で作業坑と本坑が連結された。完成祝賀会は日本鉄道建設公団内での不祥事を受けて中止された<ref>時期悪い 祝賀会中止 鉄建公団の青函建設局『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月18日朝刊 13版 23面</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)3月9日:吉岡作業坑完成<ref name="あゆみ 完成前"/>。
* [[1981年]](昭和56年)[[7月3日]]:本州側の陸上部(算用師工区、袰内工区)が全て貫通<ref name="town sotogahama"/>。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[1月27日]]:先進導坑貫通<ref group="注釈">発破ボタンの押下は、[[中曽根康弘]](当時・[[内閣総理大臣]])が[[総理大臣官邸|総理官邸]]から電話回線を使用して行った。</ref><ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>
** [[9月19日]]:レール敷設に着手。
* [[1984年]](昭和59年)[[8月20日]]:開業は1987年度(昭和62年度)となることが公にされる(津島運輸政務次官 青森で発表)。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月10日]]:本坑全貫通<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成前"/>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、青函トンネル内の鉄道敷設部分を[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が所有。
** [[9月28日]]:[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]の牽引で、[[建築限界測定車]]の[[国鉄オヤ31形客車|オヤ31形]]を含む7両編成の試験列車が青函トンネルを初めて走行<ref name="RJ254">{{Cite journal|和書 |date = 1987-12 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 14 |page = 111 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
** [[10月21日]]:試運転電車が青函トンネルを初めて走行<ref name="town sotogahama"/><ref name="RJ254"/>。
** 11月:青函トンネル完成<ref name="あゆみ 完成前"/>。
=== 供用開始後 ===
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:[[海峡線]] [[中小国駅|中小国]] - [[木古内駅|木古内]]間の開業とともに供用開始<ref group="注釈">下り一番列車「海峡1号」の機関車には、[[石原慎太郎]](当時・運輸大臣)が添乗した。</ref>。[[吉岡定点|吉岡海底駅]]、[[竜飛定点|竜飛海底駅]]が開業。青函連絡船廃止<ref name="town sotogahama"/><ref name="あゆみ 完成後">{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/seikan/03_02.html|title=青函トンネルのあゆみ(完成後)|publisher=北海道旅客鉄道|date= |accessdate=2014-10-31|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 6月:トンネルの壁面に「タイムスリット<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ussline.co.jp/timeslit.html|title=タイムスリットとは|website=USS商事|accessdate=2021-01-12}}</ref>」と称される情報表示装置が設置される<ref>{{Cite web|和書|date=1990-06-19 |url=https://www.enaa.or.jp/GEC/active/gecnews/10.htm |title=GECニュース(第10号)|website=地下開発利用研究センター |accessdate=2021-01-12}}</ref>。「ようこそ北海道」の文字や、北海道の各名所のイラストなどを表示していた<ref>{{Cite book|和書|author=川島令三|year=2004-09-20|title=日本の鉄道名所100を歩く|publisher=講談社|page=27|isbn=406272278X }}</ref>。
** 7月:[[上皇明仁|明仁天皇]]及び[[上皇后美智子|美智子皇后]](いずれも当時)が、竜飛海底駅を視察<ref name="あゆみ 完成後"/>。
*[[2020年|1993年]]([[平成]]5年)[[3月13日]]:開業5周年
*[[2020年|1998年]]([[平成]]10年)[[3月13日]]:開業10周年
*[[2003年]](平成15年)
**[[3月13日]]:開業15周年
**[[10月1日]]:日本鉄道建設公団が[[運輸施設整備事業団]]と統合し、[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]設立。
* [[2006年]](平成18年)[[8月28日]]:北海道新幹線の工事のため、吉岡海底駅が長期休止駅となる<ref group="報道" name="jrhokkaido20051222" /><ref group="報道" name="jrhokkaido20060614" />。
* [[2006年|2008年]](平成20年)[[8月28日|3月13日]]:開業20周年
* [[2013年]](平成25年)
**[[3月13日]]:開業25周年
**[[11月11日]]:竜飛海底駅休止<ref name="あゆみ 完成後"/><ref group="報道" name="jrhokkaido20130913" />。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月15日]]:吉岡海底駅、竜飛海底駅廃止<ref name="あゆみ 完成後"/><ref group="報道" name="jrhokkaido20131220" />。それぞれ吉岡定点、竜飛定点となる。
** [[12月7日]]:[[12月1日|同月1日]]に開始した[[北海道新幹線]] [[奥津軽いまべつ駅]] - [[新函館北斗駅]]間の走行試験に伴い<ref group="報道" name="jrh20140910">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140910-2.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線の開業準備に関する今後の取り組みについて|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-09-10|accessdate=2014-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140911002027/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140910-2.pdf|archivedate=2014年9月11日}}</ref><ref group="報道" name="jrtt20141001">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrtt.go.jp/08-2Press/pdf/H26/pressh261001.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線(奥津軽いまべつ・新函館北斗間)の平成26年度列車走行試験について|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構|date=2014-10-01|accessdate=2014-10-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141002115033/http://www.jrtt.go.jp/08-2Press/pdf/H26/pressh261001.pdf|archivedate=2014年10月2日}}</ref><ref group="新聞" name="hokkaido-np-2014-10-16">{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_special/246375.html|title=北海道新幹線特集 道新幹線、歴史の始発 H5系車両、函館初上陸|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=北海道新聞社|date=2014-10-16|accessdate=2014-10-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150118143152/http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_special/246375.html|archivedate=2015-01-18}}</ref>、新幹線車両([[新幹線E5系電車|H5系電車]])が初通過<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/578735.html|title=北海道新幹線、海峡を抜け青森に 青函トンネルで走行試験|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=北海道新聞社|date=2014-12-07|accessdate=2014-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209092725/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/578735.html|archivedate=2014-12-09}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20141207-OYT1T50067.html?from=yartcl_blist|title=北海道新幹線の車両、初めて青函トンネルを通過|newspaper=[[読売新聞]]([[YOMIURI ONLINE]])|publisher=[[読売新聞社]]|date=2014-12-07|accessdate=2014-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209065323/http://www.yomiuri.co.jp/national/20141207-OYT1T50067.html?from=yartcl_blist|archivedate=2014-12-09}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141207/k10013782741000.html|title=北海道新幹線 青函トンネルで試験走行|newspaper=[[NHKオンライン]]|publisher=[[日本放送協会]]|date=2014-12-07|accessdate=2014-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141211010528/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141207/k10013782741000.html|archivedate=2014-12-11}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
**[[4月3日]]:青函トンネル内を走行していた特急「スーパー白鳥34号」の車両下で発煙する事故が発生し、青函トンネル開業後初めて、乗客・乗員が竜飛定点を経由して地上へ避難する事態になった<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150404-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150404-1.pdf|format=PDF|title=特急スーパー白鳥34号車両から白煙が出た事象について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-04|accessdate=2015-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150404154323/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150404-1.pdf|archivedate=2015年4月4日}}</ref><ref group="新聞" name="hokkaido-np20150403">{{Cite news|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0119424.html|title=青函トンネルで特急から煙 乗客120人、2人搬送|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=北海道新聞社|date=2015-04-03|accessdate=2015-04-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150403165602/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0119424.html|archivedate=2015-04-03}}</ref><ref group="新聞" name="asahi20150405-ASH44536PH44IIPE00W">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH44536PH44IIPE00W.html|title=北海道)新幹線の安全に課題 青函トンネル事故|newspaper=[[朝日新聞]]([[朝日新聞デジタル]])|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2015-04-05|accessdate=2015-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150406144244/http://www.asahi.com/articles/ASH44536PH44IIPE00W.html|archivedate=2015-04-06}}</ref>。
** [[4月5日]]:[[江差線]]の[[札苅駅|札苅]] - 木古内間で、「き電線」の吊り下げ絶縁碍子が老朽化や塩害での腐食からの破損したために送電トラブルが起き、青函トンネル内で停電が発生し、特急「スーパー白鳥」など4本が運休し、6本に最大で4時間15分の遅れが発生した<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150407-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150407-1.pdf|format=PDF|title=江差線 札苅駅・木古内駅間での停電による輸送障害の原因について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-07|accessdate=2015-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150409025715/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150407-1.pdf|archivedate=2015年4月9日}}</ref><ref group="新聞" name="asahi20150405-ASH457H5TH45IIPE029">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH457H5TH45IIPE029.html|title=青函トンネルの一部停電 JR江差線で送電トラブル|newspaper=朝日新聞(朝日新聞デジタル)|publisher=朝日新聞社|date=2015-04-05|accessdate=2015-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150406143621/http://www.asahi.com/articles/ASH457H5TH45IIPE029.html|archivedate=2015-04-06}}</ref><ref group="新聞" name="mynavi20150410">{{Cite news|url=http://news.mynavi.jp/news/2015/04/10/229/|title=JR北海道、江差線停電の理由を説明 - 老朽化と塩害による碍子の破損が原因|newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|date=2015-04-10|accessdate=2015-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150427065228/http://news.mynavi.jp/news/2015/04/10/229/|archivedate=2015-04-27}}</ref>。
** [[8月21日]]:[[札幌貨物ターミナル駅]]行きの貨物列車を牽引していた[[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形電気機関車]]において故障が発生。[[知内町]]側の出口まで約5 km地点のトンネル内で緊急停車し、電圧変換装置に電流が流れないよう応急処置の後に運転再開して、[[木古内駅]]へ到着後にJR貨物社員が故障を確認した。この故障の障害の影響により特急列車4本が最大53分遅延した<ref group="新聞" name="hokkaido-np20151121">{{Cite news |author=どうしんウェブ |date=2015-11-21 |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0204421.html |title=青函トンネル内で故障 8月にJR貨物の新型機関車 過電流 |publisher=北海道新聞社 |newspaper=[[北海道新聞]] |accessdate=2015-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151122183329/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0204421.html |archivedate=2015-11-22}}</ref>。
** [[12月31日]]:北海道新幹線開業に向けた「地上設備最終切替」の「事前確認」実施のため、同日の深夜から2016年[[1月2日]]の早朝にかけて青函トンネルを通る全ての列車が運休<ref>[http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150717-3.pdf 北海道新幹線開業に向けた「地上設備最終切替」の「事前確認」に伴う元日にかけての津軽海峡線の全面運休について] - JR北海道 2015年7月17日</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 2月9日:[[竜飛定点]]において合同非常訓練中に停電事故が発生<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20160210-3">{{Cite press release|和書|title=竜飛定点での合同異常時訓練中の停電の発生について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2016-2-10 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-3.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016-2-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160210105026/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-3.pdf |archivedate=2016-2-10}}</ref>。
** 2月19日:[[NTTドコモ]]により竜飛定点と[[吉岡定点]]において、災害時の非常連絡手段として携帯電話を開通および提供開始させる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=青函トンネル 旧竜飛海底駅(竜飛定点)および旧吉岡海底駅(吉岡定点)における携帯電話サービスの提供開始について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2016-2-12 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160212-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016-2-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160213112825/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160212-1.pdf |archivedate=2016-2-13}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=青函トンネル 旧竜飛海底駅(竜飛定点)および旧吉岡海底駅(吉岡定点)における携帯電話サービスの提供開始について |publisher=NTTドコモ |date=2016-2-12 |url=https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/tohoku/page/2015/160212_01.html |language=日本語 |accessdate=2016-2-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160213114452/https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/tohoku/page/2015/160212_01.html |archivedate=2016-2-13}}</ref>。
** [[3月22日]]未明 - [[3月25日]]:北海道新幹線開業に向けて「地上設備最終切替」実施のため、青函トンネルを通る全ての旅客列車が運休<ref>[https://web.archive.org/web/20160428164626/http://www.jrhokkaido.co.jp/unkyuuinfo/pdf/info04.pdf 北海道新幹線設備切替に伴う 列車運休等のお知らせ]、北海道旅客鉄道</ref>。
** [[3月26日]]:北海道新幹線 [[新青森駅|新青森]] - [[新函館北斗駅|新函館北斗]]間開業。これに伴い、海峡線と北海道新幹線の共用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150916-3.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線 新青森〜新函館北斗間開業に伴う運行計画の概要について|publisher=北海道旅客鉄道・東日本旅客鉄道|date=2015-09-16|accessdate=2015-09-16|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
** 6月1日:[[スイス]]の[[ゴッタルドベーストンネル]]が開通。これにより世界一の長さの鉄道用トンネルの座を失う<ref group="新聞" name="jp.reuters-20160601-article/gotthard-idJPKCN0YN3FI" />。 ただし、ゴッタルドベーストンネルは、アルプス山脈を突貫する山岳トンネルであるため、海底トンネルとしては引き続き世界一の長さを誇る。また、[[狭軌|三線軌条]]のトンネルとしても世界一の長さを誇る。
*[[2019年|2018年]](平成30年)[[3月13日]]:開業30周年
*[[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** [[3月16日]]:北海道新幹線の青函トンネル内での最高速度を140 km/hから160 km/hに引き上げ<ref name="jrhokkaido20181214_KO_H31Kaisei" group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181214_KO_H31Kaisei.pdf|format=PDF|title=2019年3月ダイヤ改正について|language=日本語|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-12-14|accessdate=2018-12-17|archiveurl=|archivedate=}}</ref>(青函トンネル以外の区間では、引き上げはなく、引き続き140km/hで走行)。
** [[4月17日]]:[[総務省]]の「電波遮へい事業」において[[移動通信基盤整備協会]]の協力の上で、トンネルの一部区間でNTTドコモ・[[KDDI]]・[[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]の携帯電話サービスを本格的に開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=青函トンネル内一部区間における携帯電話サービスの提供開始について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2019-04-10|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20190410_KO_seikannT%20mobile.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416141918/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20190410_KO_seikannT%20mobile.pdf|archivedate=2019-04-16}}</ref>。
** [[9月5日]]:上記3社の携帯電話サービスエリアが、青函トンネル全区間に広がる<ref>[https://www.soumu.go.jp/soutsu/hokkaido/2019/0829.html 青函トンネル全区間で携帯電話が使用可能に] 北海道総合通信局 2019年8月29日</ref>。
*[[2020年]]([[令和]]2年)
** [[12月31日]]:この日から毎年、ゴールデンウィーク、お盆、年末年始の繁忙期に5日間、始発から15時半頃までの間に限り、貨物列車と時間帯を区分し、上下各7本の計14本の北海道新幹線で青函トンネル内で210 km/h走行を実施するようになる(青函トンネル以外の区間では、引き上げはなく、引き続き140km/hで走行)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=報道発表資料:年末年始の一部時間帯における北海道新幹線青函トンネル内の高速走行(「時間帯区分方式」による210km/h 走行) |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000088.html|publisher=[[国土交通省]]|date=2020-09-24}}</ref>。
*[[2020年|2023年]]([[令和]]5年)[[3月13日]]:開業35周年
== 技術 ==
=== 先進導坑 ===
当初はTBM([[トンネルボーリングマシン]])を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできなくなり、やむなくTBMの前方まで迂回坑道を掘って前から押し出さざるを得なくなるなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。そこで、本坑に先駆けて先進ボーリングで先進導坑を掘り進み、それにより先の地質や湧水の状況を調査しながら本坑が後を追うという方式で掘り進むことになった。しかし、先進ボーリングは水平方向でボーリング調査を行うため水平を維持するのが難しく、ボーリングした孔内の圧力を維持できずに孔壁が崩れたり湧水が噴出したりしたため、最初の頃は月に100 mも進まなかった。そこで、従来はボーリングのロッド管内から送った水を先端のビットから管外に出してビットを冷却しつつ、その水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管と孔壁の間から取り除いていたのに対して、ロッド管と孔壁の間から送った水で孔を開く際に出る粘土や泥をロッド管内に回収する「リバース工法」を考案した。これにより、ボーリングの掘進速度は月に数百メートルに向上した<ref name="JR Hokkaido">{{Cite journal|和書 |date = 2016-3 |journal = THE JR Hokkaido |volume = 337 |issue = |page = 7 |publisher = 北海道ジェイ・アール・エージェンシー }}</ref>。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、新オーストリアトンネル工法による「注入」と「吹付コンクリート」と呼ばれるものである。注入とは、セメントミルクと[[水ガラス]]の[[混合物]]である注入材を注入用高圧ポンプを用いて超高圧で岩盤へ注入し、注入材が固まった後そこを掘っていく工法であり、坑道の太さ以上にセメントで硬い岩盤をあらかじめ作っておき、そこを掘り進む理屈である。しかし、注入材は強度を上げようすると流動性を保つ時間が短くなり注入できなくなる問題があった。そこで、竜飛岬にある試験場において、最適な水ガラスの種類や配合物を解明するとともに、流動性を保つ時間帯をストップウォッチを使用して計測した。吹付コンクリートとは、掘削直後にコンクリートを岩盤に吹き付けて緩みや崩落を防ぐ工法であり、1950年代にヨーロッパで開発されていたのだが、吹き付け圧による跳ね上がり・剥落・管詰まりなどのトラブルが多かったため、トンネル内に模擬トンネルを造って試行錯誤の繰り返し行い、急結剤の改良や耐圧ホース・吹き付け用自動アームなどを開発した。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する<ref name="JR Hokkaido"></ref>。
掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている<ref group="注釈">その影響で坑内は常に湿度100 %であり、通過車両や施設には塩害対策が欠かせない。</ref>。
=== 本坑 ===
全長53.85 kmの本坑は9つの工区に分けて掘削が行われた。そのうち、本州寄りの4つの工区と北海道寄りの3つの工区は陸上部の地下を掘り進めるもの、残る2つの工区が津軽海峡の海底下を掘り進めるものであった。各工区の長さ及び施工業者を以下に示す<ref>“青函トンネル建設の組織論的研究”. 小島廣光. (1984年3月)</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 工区名 !! 地域 !! 陸海の別 !! 長さ<br>([[メートル|m]]) !! 施工業者
|-
| '''浜名'''
| rowspan="5" | 本州側
| rowspan="4" | 陸上部
| style="text-align:right" | 1470
| style="text-align:left" | [[フジタ|フジタ工業]]
|-
| '''増川'''
| style="text-align:right" | 438
| style="text-align:left" | [[錢高組]]
|-
| '''算用師'''
| style="text-align:right" | 5492
| style="text-align:left" | [[飛島建設]]・[[三井建設]][[共同企業体|JV]]
|-
| '''袰内'''
| style="text-align:right" | 3500
| style="text-align:left" | [[佐藤工業]]
|-
| '''竜飛'''
| rowspan="2" | 海底部
| style="text-align:right" | 1万3000
| style="text-align:left" | [[鹿島建設]]・[[熊谷組]]・[[鉄建建設]]JV
|-
| '''吉岡'''
| rowspan="4" | 北海道側
| style="text-align:right" | 1万4700
| style="text-align:left" | [[大成建設]]・[[間組]]・[[前田建設工業]]JV
|-
| '''白符'''
| rowspan="3" | 陸上部
| style="text-align:right" | 3900
| style="text-align:left" | [[奥村組]]・[[五洋建設]]JV
|-
| '''三岳'''
| style="text-align:right" | 6400
| style="text-align:left" | [[大林組]]・[[清水建設]]JV
|-
| '''千軒'''
| style="text-align:right" | 4950
| style="text-align:left" | [[西松建設]]・[[青木建設]]JV
|}
=== 北海道新幹線 ===
[[2005年]](平成17年)に[[北海道新幹線]]の[[新青森駅|新青森]] - [[新函館北斗駅|新函館北斗]]間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように[[三線軌条]]とし、トンネル両側の[[奥津軽いまべつ駅]]<ref group="注釈">新幹線開業前は津軽今別駅。</ref>と[[湯の里知内信号場]]<ref group="注釈">旧・知内駅。2014年(平成26年)3月14日営業終了。新幹線開業前は知内信号場。</ref><ref group="新聞" name="hokkaido-nl hakodate 20141117">{{Cite news|url=http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=23051|title=列車火災想定、青函トンネルで防災訓練【福島】|newspaper=[[函館新聞]](北海道ニュースリンク)|publisher=函館新聞社|date=2014-11-17|accessdate=2014-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129054151/http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=23051|archivedate=2014-11-29}}</ref>に待避施設を建設する事になっている。[[2007年]](平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6 kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために[[吉岡定点|吉岡海底駅]]は休止されていた。
また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによる[[ダイヤグラム|ダイヤ]]への負荷などを解消すべく、[[狭軌]]用の貨物列車を列車ごと[[標準軌]]用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させる[[トレイン・オン・トレイン]]技術がJR北海道によって研究されている。だが費用面などの問題があり、2019年現在、実現の見込みは立っていない<ref>{{cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/102046 |title=「貨物新幹線」は本当に津軽海峡を走るのか |date=2016-01-26|accessdate=2019-01-06|website=東洋経済}}</ref>。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設して[[カートレイン]]を運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
[[2014年]](平成26年)3月15日に[[北海道新幹線]]の開業工事に伴い、2つの海底駅([[竜飛定点|竜飛海底駅]]・[[吉岡定点|吉岡海底駅]])が廃止された<ref group="注釈">駅機能はなくなったが定点となり、2015年(平成27年)4月3日の事故の様に避難口として利用される事もある。</ref>。
== 走行車両 ==
[[ファイル:Kaikyou oha50-5009 information-panel.jpg|270px|thumb|50系客車に設置されていた列車位置表示装置]]
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には[[運輸省]](現在の[[国土交通省]])が[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令|省令]]で定めた防災基準を満たす構造であることが要求されている。なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから[[湿度]]が常に100 [[パーセント|%]]であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。
火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が[[電車]]または[[電気機関車]]牽引の[[客車]]・[[貨車]]のみに制限されており、内燃機関を用いる車両([[気動車]]・[[ディーゼル機関車]])は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走および牽引はできない。さらに青函トンネルを通る[[日本のコンテナ輸送#リーファー・コンテナ_(鉄道)|冷凍コンテナ]]は、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となる[[ディーゼルエンジン]]を切るための専用回路を搭載したタイプに限られている<ref group="注釈">[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]系統の貨物列車に積まれる冷凍コンテナの一部には、この回路が非搭載のタイプがあり、「青函トンネル通過禁止」と書かれている。</ref>。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により[[車両輸送|甲種輸送]]される<ref group="注釈">21世紀初頭に青函トンネル経由で行われた[[車両輸送|甲種輸送]]は、[[2008年]](平成20年)11月の[[ミャンマー]]譲渡車両、[[2009年]](平成21年)[[3月24日]]の[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形]]ディーゼル機関車などがある。</ref>。
なお、[[1988年]](昭和63年)10月には[[オリエント・エクスプレス '88|オリエント急行]]の車両が本トンネルを通行している<ref name="rj505-105">{{Cite journal|和書|author=床下の仕掛人|authorlink= |coauthors= |year=2008|month=11|title=電車まんだら 21.オリエント急行来日のはなし|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=505|pages=105|publisher=鉄道ジャーナル社([[成美堂出版]])|ref= }}</ref>が、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している<ref name="rj505-105"/>上、食堂車では石炭レンジを使用しており<ref name="rj505-105"/>、火災対策上通行が認められない車両であった<ref name="rj505-105"/>。しかし、この時には[[津軽海峡線]]内では調理しない事と、各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上<ref name="rj505-105"/>、防火専任の保安要員を乗務させるという条件<ref name="rj505-105"/>で特別に通行が認められている<ref name="rj505-105"/>。
北海道新幹線開業時に、青函トンネルを含む海峡線の架線電圧を新幹線にあわせて25,000 V (50 Hz)に昇圧し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/common/000193032.pdf|format=PDF|title=JR貨物 整備新幹線小委員会ヒアリング資料|publisher=国土交通省|date=2012-02-27|accessdate=2016-1-2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130326024825/http://www.mlit.go.jp/common/000193032.pdf|archivedate=2013-03-26}}</ref>、保安装置もそれ以前の[[自動列車制御装置#ATC-L型|ATC-L]]から[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://hokkaido-shinkansen.com/outline/approach/|title=開業に向けた取り組み(北海道新幹線スペシャルサイト)|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|accessdate=2016-1-2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161025175442/http://hokkaido-shinkansen.com/outline/approach/|archivedate=2016-10-25|deadlinkdate=2019年4月}}</ref>。<!--現状では、蟹田 - 木古内間には駅間につき一本しか列車が入れないよう設定されているが、貨物列車を減らさずに新幹線列車を走行させるためには続行運転を行わなければならず、[[デッドセクション]]によって対応することはできない{{要出典|date=2014年12月}}。-->
=== 定期運行車両 ===
* [[電車]]([[新幹線車両]])
** [[新幹線E5系・H5系電車|E5系]](JR東日本)
** [[新幹線E5系・H5系電車|H5系]](JR北海道)
**: 「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」および「[[はやて (列車)|はやて]]」として運用<ref group="報道" name="jrh press 20141120-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-1.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線の列車名決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126175309/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-1.pdf|archivedate=2014年11月26日}}</ref><ref group="報道" name="jreast press 20141120">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141113.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線の列車名決定について|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129040630/http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141113.pdf|archivedate=2014年11月29日}}</ref>。
* [[電気機関車]]
** [[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形]](JR貨物)
**: 貨物列車を牽引。20,000 V・25,000 V 双方に対応した[[複電圧車]]の電気機関車。北海道新幹線開業後、青函トンネルを含む海峡線を通過する電気機関車は本系列に統一された。
=== 過去の定期運行車両 ===
* 電車(在来線車両)
** [[国鉄485系電車|485系]](JR東日本)
**: 当初[[特別急行列車|特急]]「[[はつかり_(列車)|はつかり]]」で運行。東北新幹線八戸開業以降は「[[スーパー白鳥|白鳥]]」として運用された。
** [[JR北海道789系電車|789系]](JR北海道)
**: 特急「[[スーパー白鳥]]」で運用。
** [[JR北海道785系電車|785系]](JR北海道)
**: 特急「スーパー白鳥」の増結車両として使用された。
* 電気機関車
** [[国鉄ED79形電気機関車|ED79形]](JR北海道・JR貨物)
**: 両社所属機とも貨物列車を牽引したほか、JR北海道所属機は客車列車も牽引した。
** [[国鉄ED76形電気機関車|ED76形]](JR北海道)
**: ED79形の予備として客車列車を牽引した。通常はトワイライトエクスプレスや[[エルム]]と言った臨時列車中心に使用されていた。
** [[JR貨物EH500形電気機関車|EH500形]](JR貨物)
**: 貨物列車やカシオペアを牽引した。
* [[客車]]
** [[国鉄50系客車|50系]](JR北海道)
**: [[快速列車|快速]]「[[海峡 (列車)|海峡]]」で運用。
** [[国鉄14系客車|14系]](JR北海道)
**: [[急行列車|急行]]「[[はまなす (列車)|はまなす]]」で運用。[[緩急車|緩急]][[電源車]]は消火装置等の対策済みのものが限定使用されていた。「はまなす」の間合い運用として快速「海峡」に充当された時期もある。
** [[国鉄24系客車|24系]](JR北海道・JR東日本・JR西日本)
**: JR北海道およびJR東日本所属車は特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」で運用。またJR北海道所属車のみ「はまなす」の寝台車としても使用された。
**: JR西日本所属車は特急「[[日本海 (列車)|日本海]]」で定期運行された。また、臨時特急「[[トワイライトエクスプレス]]」でも専用車両が運用された。
** [[JR東日本E26系客車| E26系]] (JR東日本)
**: 車両はJR東日本の所属だが乗務員はJR東日本およびJR北海道の常務で運用されていた。2016年3月をもって定期運行が終了したが、その後も臨時列車やカシオペアクルーズとして北海道に乗り入れをしていた。しかし機関車の老朽化問題やEH800を使用するうえでの国土交通省からの提言によりJR貨物、JR北海道、JR東日本で協議した結果、2017年2月に北海道内の乗り入れ終了した。
=== 臨時・検測列車で使用実績のある車両 ===
* 電車(新幹線車両)
** [[新幹線E926形電車|E926形]](JR東日本)
**: 新幹線電気軌道総合試験車「East i」。北海道新幹線検測時に運行される。
** [[新幹線E956形電車|E956形]](JR東日本)
**: 次世代新幹線試験車両「ALFA-X」。試験走行時に運行される。
* 電車(在来線車両)
** [[国鉄781系電車|781系]](JR北海道)
**: 臨時特急「[[スーパー白鳥#ドラえもん海底列車|ドラえもん海底列車]]」仕様車が海底駅見学コースで使用された。車両自体は以前に青函トンネル試験走行した際に改造したものを再改造している。
** [[JR北海道721系電車]]
**:1993年1月11日・12日にF-2編成が試験走行を行った
**E001形(JR東日本)
**: 「[[TRAIN SUITE 四季島]]」の北海道乗り入れ時に運行される。
* 気動車
** [[国鉄キハ183系気動車|キハ183系]](JR北海道)
**: 臨時列車や団体列車において5200番台「[[ノースレインボーエクスプレス]]」および6000番台の[[くつろぎ (札幌鉄道管理局)#キハ183系6000番台|お座敷車両]]が使用された実績がある。ED79形による牽引で走行した。
** [[JR東日本キヤE193系気動車|キヤE193系]](JR東日本)
**: 非電化区間用検測車「East i-D」。ED79形のちEH800形に牽引され、JR北海道での貸し出し運転で使用される。
* 客車
** [[国鉄マヤ34形客車|マヤ34形]](JR北海道)
**: 軌道検測車。「はまなす」に連結されて走行し、レールを検測していた。
** [[国鉄12系客車|12系]]・14系(JR東日本)
**: 急行「八甲田」の間合い運用で「海峡」の臨時便として運行された。また開業当初は青函トンネルブームで利用が殺到したため、北海道所属車では車両不足が起きたためJR東日本車も動員された。但し、北海道向きの耐寒耐雪構造ではないため、冬季以外で使用されていた。[[スーパーエクスプレスレインボー]]も[[夢空間]]と共に入線実績がある。
** [[オリエント・エクスプレス '88]]用客車(JR東日本)
**: イベントのため1回限りで走行した。走行条件や防火基準は満たしていなかったが、特認を受けて走行した。
== 事故・トラブル ==
北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間開業を1年後に控えた[[2015年]][[4月3日]]には、青函トンネル内を走行していた特急「スーパー白鳥34号」の車両下で発煙する事故が発生し、青函トンネル開業後初めて乗客・乗員が竜飛定点を経由して地上へ避難する事態になった<ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150404-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np20150403" />ほか、2日後の[[4月5日]]には[[江差線]]の[[札苅駅|札苅]] - [[木古内駅|木古内]]間の「き電線」の吊り下げ絶縁碍子が、老朽化や塩害での腐食が原因で破損したために送電トラブルが起き、青函トンネル内で停電が発生した。これにより特急「スーパー白鳥」など4本が運休し、6本に最大で4時間15分の遅れが発生した<ref group="新聞" name="asahi20150405-ASH457H5TH45IIPE029" /><ref group="新聞" name="mynavi20150410" />。北海道新幹線が経由予定である青函トンネルにおいて管理面での事故が1週間以内に連続して発生し、北海道新幹線の安全性に疑問の声が上がった<ref group="新聞" name="asahi20150405-ASH44536PH44IIPE00W" />。それに対し、JR北海道は4月7日から8日にかけて、江差線の停電に対する説明および青函トンネルに関する防災設備・避難に関する説明と車両状況の報告を行った<ref group="報道" name="江差線201504停電">{{Cite press release|和書|url = http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150407-1.pdf|format = PDF|language = 日本語|title = 江差線札苅駅・木古内駅間での停電による輸送障害の原因について|publisher = 北海道旅客鉄道|date = 2015-04-07|accessdate = 2015-04-09|archiveurl = |archivedate = }}</ref><ref group="報道" name="jrhokkaido press/20150408-1" />。また、[[4月10日]]には記者会見で避難誘導マニュアルの改定を実施する旨と、[[4月7日]]に社内委員会を設置したことを発表した<ref group="新聞">{{cite news2|url=http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/rnews/hokkaido/20150409-OYT8T50108.html|title=青函トンネル、避難誘導マニュアル改定へ|newspaper=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|publisher=読売新聞社|date=2015-04-10|accessdate=2015-04-24|archiveurl=https://archive.is/2015.04.23-221717/http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/rnews/hokkaido/20150409-OYT8T50108.html|archivedate=2015-04-23}}</ref>。
その一方、JR貨物側にも問題が起きた。青函トンネルで貨物列車を牽引する[[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形電気機関車]]の故障が2015年8月21日に起きていたことが判明した。[[大阪貨物ターミナル駅]]発[[札幌貨物ターミナル駅]]行きの貨物列車(20両編成)牽引時において、8月21日17時半頃に運転士が故障告知ランプが点灯を確認したため、[[知内町]]側の出口まで約5 kmのトンネル内に緊急停車し、電圧変換装置に電流が流れないよう応急処置の後に運転再開。[[木古内駅]]に到着後に社員が故障を確認した。電気系統の異常によるもので、電圧変換装置のボルトの締め付け不足が原因で過大な電流が流れ絶縁体の樹脂が溶結したという経緯で故障に至った。この障害を国土交通省北海道運輸局に報告したものの、「単なる車両故障と認識し、発表する内容ではないと考えた」(広報室)として公表していなかった。JR北海道の発表では、この障害の影響で特急列車4本が最大53分遅延した<ref group="新聞" name="hokkaido-np20151121" />。
2016年2月9日にも[[竜飛定点]]での合同異常時訓練中に停電が発生し、救援列車が緊急停止するトラブルがあった<ref group="新聞">{{cite news2 |date=2016-02-09 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG09H4P_Z00C16A2CC0000/ |title=北海道新幹線、訓練中に緊急停車 送電の手順にミス |publisher=日本経済新聞社 |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2016-02-14}}</ref><ref group="報道" name="jrhokkaido press/20160210-3" />。
==主権==
[[津軽海峡]]は「いわゆる[[国際海峡]]」である[[国際海峡#日本における「特定海域」|特定海域]]にあたり、また青函トンネルは一部[[主権]]が及ぶ[[領海]]ではない領域を通るが<ref>{{Cite web|和書|title= 管轄海域情報~日本の領海〜 特定海域|url= https://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/ryokai/tokutei/tokutei.html|website=[[海上保安庁]]|accessdate=2022-01-30}}</ref>、日本政府の見解では[[国際法]]に基づき青函トンネル全体に対して[[日本国]]の[[管轄権]]が及ぶと解されている<ref>{{Cite web|和書|title= 青函トンネルと津軽海峡|url= https://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column502.htm|website=参議院法制局|accessdate=2022-01-30}}</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/txt/109805254X01319830322/20 第98回国会 衆議院 本会議 第13号 昭和58年3月22日 020 中曽根康弘](国会会議録検索システム)</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/txt/110214720X01719850528/44 第102回国会 参議院 地方行政委員会 第17号 昭和60年5月28日 044 谷内正太郎](国会会議録検索システム)</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-H8-1059_3.pdf] [[国連海洋法条約]]第五部排他的経済水域([[外務省]])</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=408AC0000000074_20150801_000000000000000]([[排他的経済水域及び大陸棚に関する法律]]第三条)</ref>。
== 扁額 ==
[[ファイル:Seikan tunnel nameplate.JPG|thumb|250px|本州側扁額]]
[[扁額]]の[[揮毫]]は、本州側が[[中曽根康弘]]、北海道側(正確には第1湯の里トンネル)が[[橋本龍太郎]]である。扁額には「青函トンネル」ではなく「青函隧道」と書かれている。
中曽根は1985年3月のトンネル貫通および1987年4月の[[国鉄分割民営化]]当時の[[内閣総理大臣]]、橋本は1987年4月当時の[[運輸大臣]]であった。
== 記念発行物 ==
[[File:青函トンネル開通記念500円白銅貨.jpg|thumb|青函トンネル開通記念500円白銅貨]]
* [[記念切手]] - 60円が1988年3月11日に発行された。図柄は寝台特急「[[日本海 (列車)|日本海]]」のヘッドマークを付けた[[国鉄ED79形電気機関車|ED79形電気機関車]]である。
* [[記念貨幣]] - 500円白銅貨が1988年8月29日に発行された。
== 映画 ==
* [[海峡 (映画)|海峡]]([[1982年]])
== テレビ番組 ==
開業当日は[[民間放送|民放]]各局が開業式典から[[生放送]]した。その中継は[[函館駅]]・[[青森駅]]<ref group="注釈">この日放送のTBSテレビ「[[サンデーモーニング]]」では、「はつかり10号」が停車した蟹田駅からも中継を行った。</ref>だけではなく[[吉岡定点|吉岡海底駅]]・[[竜飛定点|竜飛海底駅]]からも行われた。さらには旅客一番列車<ref group="注釈">営業運転最初の列車は貨物列車であった。</ref>の函館発[[盛岡駅|盛岡]]行き特急「[[はつかり (列車)|はつかり]]」10号がトンネルに入った様子を車内からも生放送した。
列車内からの中継は[[日本放送協会|NHK]]が代表取材し、その映像を運転席に設置した[[FPU (放送)|FPU]]から地上に送信し、地上ではその電波を受信し再度中継した。開業一番列車の写真を見ると運転席に「NHK」と書かれたパラボラアンテナが映っているのはそのためである。民放各局はこのNHKの映像を受信し再送信したため、なんの前振りもなく突然NHK[[アナウンサー]]の[[木原秋好]]が民放の画面に現れた。
また、海底駅からの中継には当時実用化され始めていた放送中継用の[[光ファイバー]]伝送装置が使用された。
本中継の番組ではないが、NHKで開通前の[[1970年]](昭和45年)[[3月23日]]に[[新日本紀行]]「青函トンネル」<!---「歳月 あおもりふれあいの五十年」(NHK青森放送局開局50年記念史)より--->を、[[1983年]](昭和58年)[[1月21日]]に[[NHKスペシャル|NHK特集]]「検証・青函トンネル」を、2000年(平成12年)4月11日<!---2011年にNHK青森で放送された「開局70周年記念 NHKが伝えた青森」から--->に『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』で「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事〜」を、それぞれ放送。2016年(平成28年)2月28日には北海道新幹線開業を前に、この後者2番組を再編集した[[NHKアーカイブス]]「北海道新幹線 開業へ〜青函トンネルに懸けた情熱〜」が放送された<ref>{{Cite news|url=http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/|title=NHKアーカイブス|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2016-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160228053301/http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/|archivedate=2016-02-28}}</ref>。また、[[青森放送]]でも1988年(昭和63年)に『[[親の目・子の目|竜飛の二人]]』という青函トンネルをテーマにしたドキュメンタリー番組も制作、放送した。
開通直後の1988年(昭和63年)4月4日には[[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ|月曜・女のサスペンス]]初回拡大スペシャル「青函特急から消えた男」([[夏樹静子]]原作のトラベルサスペンス)が[[テレビ東京]][[TXN|系列]]で放送されている。
==第二青函トンネル構想==
2014年7月9日付河北新報によれば、青森県議会議長は同年6月30日の定例記者会見にて、国土交通省事務次官に対し非公式ながら「もう1本掘ってください」と伝えていたことを明らかにしている<ref group="新聞">{{Cite news |author= |date=2014年07月09日 |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140709_25001.html |title=「第2青函トンネル」建設を 青森県内で待望論 |publisher=[[河北新報社]] |newspaper=[[河北新報]]ONLINE NEWS |accessdate=2017年1月6日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140814060854/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140709_25001.html |archivedate=2014年8月14日}}</ref><!--<ref>[http://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/188144.html?p=2 予算5000億円以上...「第2青函トンネル」、本当に必要なの?]J-タウンネット東京都-地方コラム(2014年7月10日)2016年1月2日閲覧</ref>-->。
2014年-2015年頃、複数の[[ゼネコン]]、コンサルタント会社により「鉄道路線強化検討会」が発足。2016年、青函トンネルの西側に、貨物専用の第2青函トンネルを建設する構想を取りまとめている。工費は約3900億円、工期は約15年を想定した<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年1月1日 |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0353789.html |title=青函に「第2トンネル」専門家ら構想-貨物線で新幹線高速化 |publisher=[[北海道新聞社]] |newspaper=[[北海道新聞]](どうしんウェブ)|accessdate=2017年1月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170102171554/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0353789.html |archivedate=2017年1月2日}}</ref>。第一の背景として、2004年に国土交通省が「平成16年度の整備新幹線建設推進高度化等事業」における「青函トンネルにおいて貨物列車が新幹線上を走行する場合の安全性の検討などを行う」調査を実施し、それを受けて2012年7月には国土交通省内で「青函共用走行区間技術検討WG(ワーキンググループ)」も設置され、その議事録で「北海道新幹線札幌延伸の10年後には現在の青函トンネルも大改修が必要となり、そのときに減速しながらの作業となってしまっては意味がない」という意見もあった事や、2016年12月の豪雪の際に航空便が欠航した際も札幌-新函館北斗間の特急列車が大混雑となった事や貨物列車の増発に現状の青函トンネルでは容量不足であるという需要の必要性が挙げられる<!--また、沈埋工法は熊谷組が開発した「大水深構造物沈設システム」と言う技術の進歩によるものもある。--><ref group="新聞">{{Cite news |author=杉山淳一 |url=http://news.mynavi.jp/series/railwaynews/051/ |title="初夢"に終わらせたくない「第2青函トンネル構想」 |newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|date=2017年1月5日 |accessdate=2017年1月6日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170105230040/http://news.mynavi.jp/series/railwaynews/051/ |archivedate=2017年1月5日-->}}</ref>。
2017年2月14日付の北海道新聞によれば、[[日本プロジェクト産業協議会]]は同年2月13日、貨物列車用と自動車用の2本のトンネルを新たに建設し、トンネル内に送電線やガスパイプラインを敷設することで、既存の青函トンネルを新幹線専用とする構想を発表した。事業費は約7500億円、工期は約20年間を想定し、地上から海に向かって掘り進む際の傾斜を急にすることで延長を約30 kmに短縮するとしている<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2017-02-14/news/economy/economy/1-0368398" />。その後2020年には道路案と貨物列車案を折衷し上部に2車線の自動運転車専用の本線車道と下部に貨物列車用単線鉄道と緊急車用路・避難路を設けた事業費約7200億円・工期15年・延長約31 kmの構想を発表している<ref name="hs201122"/>。
また有人運転に対応した道路専用トンネルとして、「第二青函多用途トンネル構想研究会」が延長30 km、内径14.5 mの円形トンネル事業費7299億円、工期10年から15年、道路構造規格第1種第3級、上部に[[暫定2車線#完成2車線|完成2車線]]本線車道と下部に[[緊急車両]]用道路及び避難路、設計速度80 km/hの想定計画を発表しており、レベル3以上の自動運転に対応する場合に内径を2 m程縮小することも織り込まれた<ref>[https://www.hkk.or.jp/kouhou/file/no666_contribution.pdf 実現へ向けて:夢ではない第二青函多用途トンネル構想] - 開発こうほう2019年1月号</ref><ref name="hs201122">[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/484109 第2青函トンネルに新案 産業協議会 上に自動運転車、下に貨物列車 関係者「集大成に近い」] - 北海道新聞 2020年11月22日</ref>。
ちなみに現在、本州・四国間には[[瀬戸大橋]]を渡るルートなど[[本州四国連絡道路|3]]本の[[本州四国連絡道路]]が、本州・九州間は[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]や[[関門橋]]といった道路がすでに開通しているが、本州・北海道間を自動車で走って行き来できる道路は存在せず[[津軽海峡フェリー]]または[[青函フェリー]]といったカーフェリーを必ず利用することとなるが、本州・北海道間に自動車トンネルが完成すれば、日本の4つの主要な島全てを自動車で走って行き来できるようになる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<!-- <ref name="日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン 18">[[#日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン|『日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン』 18頁]]</ref> -->
<ref name="jrtt.go/organization/invester/data/kikousai_22_2">{{Cite web|和書|author= |url=http://www.jrtt.go.jp/organization/invester/data/kikousai_22_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=鉄道建設・運輸施設整備支援機構債券内容説明書|pages=19頁|work= |publisher=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]|date=2009-01-05|accessdate=2010-05-15|archiveurl= |archivedate=}}{{リンク切れ|date=2014年10月}}</ref>
<ref name="homepage1.nifty/JR-RENGO/k-seisaku/seisakunews/sn37">{{Cite web|和書|author= |url=http://homepage1.nifty.com/JR-RENGO/k-seisaku/seisakunews/sn37.htm|language=日本語|title=JR連合 政策News 第37号|work= |publisher=[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)|date=2005-06-28|accessdate=2010-05-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090608084417/http://homepage1.nifty.com/JR-RENGO/k-seisaku/seisakunews/sn37.htm|archivedate=2009-06-08}}</ref>
}}
=== 報道発表資料 ===
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=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"|refs=
<ref group="新聞" name="jp.reuters-20160601-article/gotthard-idJPKCN0YN3FI">{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/gotthard-idJPKCN0YN3FI|title=アルプス縦貫の「ゴッタルド鉄道トンネル」開通、世界最長57キロ|date=2016-06-01|accessdate=2016-06-02|newspaper=[[ロイター]]|publisher=[[トムソン・ロイター]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602053122/http://jp.reuters.com/article/gotthard-idJPKCN0YN3FI|archivedate=2016-06-02}}</ref>
<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2017-02-14/news/economy/economy/1-0368398">{{Cite news|author= |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0368398.html|language=日本語|title=青函に新たなトンネル構想 貨物と自動車用2本 経済団体発表|newspaper=[[北海道新聞]]|agency=どうしんウェブ/電子版(経済)|publisher=[[北海道新聞社]]|date=2017-02-14|accessdate=2017-02-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170214082930/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0368398.html|archivedate=2017-02-14}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
{{Cite journal |和書 |author=日本鉄道建設公団札幌工事事務所 |title=津軽海峡線工事誌(青函トンネル) |url=https://www.jrtt.go.jp/14archive/archive-constS01.html |date=1990-03 |publisher=日本鉄道建設公団札幌工事事務所 編|ref=harv }}
* {{Cite book|和書|author=伊藤博康|title=日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン ―日本一の鉄道をたずねる旅|date=2014-12-15|publisher=[[創元社]]|pages=18|isbn=978-4-422-24069-5|ref=日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン}}
* 青函トンネル物語 青函トンネル物語編集委員会編 1988年
=== 雑誌 ===
* {{cite journal |year=1976 |month=6 |title=青函トンネル最大規模の出水 |journal=電気車の科学 |volume=29 |issue=6 |ref={{sfnref |RailwayEle29-6 |1976 }} }}
== 関連項目 ==
[[File:Inside seikan tunnel.JPG|thumb|200px|トンネル内部にある竜飛海底駅に列車が接近する様子。]]
* [[一本列島]]
* [[青函トンネル開通記念博覧会]]
* [[青函トンネル記念館]]
** 財団法人青函トンネル記念館 - [[青森県]][[東津軽郡]][[外ヶ浜町]]。[[道の駅みんまや]]に併設。
** [[福島町青函トンネル記念館]] - [[北海道]][[松前郡]][[福島町]]
* [[津軽海峡大橋]] - 本州 - 北海道間に道路単独[[吊り橋]]を架設する構想。世界最長の吊り橋「[[明石海峡大橋]]」を大きく上回るため、建設や維持管理が非常に高コストになることから実現の目処が立っていない。
* [[キャッツキルアケダクト]] - [[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク州]]の水道水の40 %を供給する水道トンネル。全長147.2 kmで土木構造物としてのトンネルでは世界最長。
* [[海峡 (映画)]]
* [[英仏海峡トンネル]] - 海峡部分は世界最長だが、トンネル自体は海底トンネル中2位の長さ。
* [[延長別トンネルの一覧]]
* [[延長別日本の交通用トンネルの一覧]]
* [[北海道新幹線]]
* [[ブラキストン線]] - 本州北部と北海道の生態系を分けている境界線。動物が青函トンネルを通ることで、生態系の変化が懸念されている。
* [[国道280号]] - 青函トンネルに並行する[[海上国道]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Seikan Tunnel}}
* [https://www.jrhokkaido.co.jp/network/seikan/index.html 青函トンネル〜吉岡海底駅・竜飛海底駅よ、永遠に。〜] - [[北海道旅客鉄道]]
* [http://seikan-tunnel-museum.jp/ 青函トンネル記念館(青森県外ヶ浜町)] - 公式ホームページ
* [https://be-happy-fukushima.com/attractions/seikan-tunnel-kinenkan/ 青函トンネル記念館(北海道福島町)] - [[北海道]][[福島町]]観光協会
* {{NHK放送史|D0009043929_00000|海底トンネルの男たち~青森県津軽半島竜飛崎~}}(1976年)
* {{NHK放送史|D0009030221_00000|青函トンネル・瀬戸大橋 開業}}(1988年)
* {{YouTube|VJBbcBqmVj0|青函トンネル【JRTT鉄道・運輸機構】}}
* {{YouTube|0IR_qcu-CXY|【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】青函トンネル開通 一方で青函連絡船終了}}
* {{YouTube|FvMk-vEBGWA|【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】青函トンネル開通から30年}}
* [https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/s304_seikan01.html 青函共用走行区間技術検討WG] - [[国土交通省]]
* [https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/s304_seikan02.html 青函共用走行区間等高速化検討WG] - 国土交通省
{{海底トンネル}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せいかんとんねる}}
[[Category:青函トンネル|*]]
[[Category:海底トンネル]]
[[Category:日本の鉄道トンネル]]
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[[Category:県境]]
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人形劇
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人形劇(にんぎょうげき)は、人形(物体)を介して表現する演劇。起源については呪術・祈祷などで発生したと言われている。江戸時代以前に成立した伝統的なものを人形芝居と呼んで区別することも。人形の操作方法により、手遣い人形(パペット)、棒遣い人形、糸操り人形(マリオネット)に大きく分類される。日本の伝統的な人形劇には文楽(人形浄瑠璃)がある。他に映画(テレビ)人形劇もある。海外ではアメリカのジム・ヘンソンとフランク・オズが創設したマペット、フランスのギニョール、イギリスの「パンチとジュディ」が有名。
日本には、活動中のプロ人形劇団は多くあるが、形態が多岐にわたるため把握できない。30年以上継続して活動している人形劇団には、人形劇団ひとみ座、人形劇団プーク、人形劇団クラルテ、人形劇団京芸、人形劇団ポポロ、人形館ぽー、人形劇団ゆりかご、人形劇団むすび座、結城座、貝の火、人形劇・トロッコ、人形劇団童心座、糸操り人形劇団みのむし、かわせみ座、などがある。また、劇団の連合体として、日本人形劇ネットワーク、全国専門人形劇団協議会、日本人形劇人協会、日本ウニマなどの専門的な団体がある。
滋賀県大津市にある人形劇の図書館は、日本で唯一の人形劇の専門図書館で、人形劇の研究などのために、現代人形劇を中心とした図書・資料を蒐集し公開している。人形劇・人形芝居関係の図書は、他に国立劇場や国立文楽劇場の図書資料室、早稲田大学演劇博物館などに多い。
2003年には香川県東かがわ市のとらまる公園内に日本で初めての体験型博物館である『とらまる人形劇ミュージアム』と『人形劇学校パペットアーク』が日本人形劇ネットワークによって設立された。2013年3月に国内唯一の人形劇専門学校だった「パペットアーク」が資金難から閉鎖した。
これらの作品は、「ひょっこりひょうたん島」までは平日午後5時台、それ以降「プリンプリン物語」までは平日午後6時台の帯番組だった。いずれもNHKの子供向け番組の看板番組で視聴率・人気も高い傾向にあり、当時の子供たちの生活習慣になじんでいた。以後は「三国志」が土曜日6時台に週1回放映、「ひげよさらば」が平日午後5時台の帯番組となった。しかし、NHKでは平日夕方枠のニュース拡充(特にローカルニュース枠)、アニメ放映に積極的に乗り出したこと、子供たちの生活習慣の変化などを理由に枠は消失した。以降、人形劇のレギュラー放映枠は作られていなかったが、三谷幸喜の脚色による企画が立ち上がり、それぞれ単発ではあるものの2009年10月から「連続人形活劇 新・三銃士」が、2014年10月から「シャーロックホームズ」が放送された。
なお、同枠の特徴として「新八犬伝」から「紅孔雀」までの4作品が伝奇時代もの、「三国志」が中国古典を基にしている以外は、SFファンタジー作品であることを挙げることができる。伝奇時代ものであっても、SF性など現代性を持たせていて、その折々の国内・国際情勢の風刺なども積極的に織り込まれた。
また通常の人間が演じるドラマ等には無いキャラクターの動きや表情なども魅力としてあげられる。
プリンプリン物語のころまではビデオテープ(2インチVTR)が高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他の番組に使い回されていたため、映像はプリンプリン物語の三年目までは満足に残っていない。
イギリスには人形劇番組が多い。これは、日本ではアニメが高年齢で特撮が低年齢、アメリカではアニメが低年齢で特撮が高年齢中心なのに対し、イギリスでは人形劇が低年齢番組の主役だからである。下で説明しているジェリー&シルヴィア・アンダーソン夫妻も、最初は低年向人形劇を作っていた。ただし、時代の変化に伴い、「きかんしゃトーマス」の現行シリーズや「サンダーバード」の新作は人形劇ではなくCGアニメーションで製作されている。
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"title": "TV人形劇"
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人形劇(にんぎょうげき)は、人形(物体)を介して表現する演劇。起源については呪術・祈祷などで発生したと言われている。江戸時代以前に成立した伝統的なものを人形芝居と呼んで区別することも。人形の操作方法により、手遣い人形(パペット)、棒遣い人形、糸操り人形(マリオネット)に大きく分類される。日本の伝統的な人形劇には文楽(人形浄瑠璃)がある。他に映画(テレビ)人形劇もある。海外ではアメリカのジム・ヘンソンとフランク・オズが創設したマペット、フランスのギニョール、イギリスの「パンチとジュディ」が有名。
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{{Redirect|人形芝居|高尾滋の漫画|人形芝居 (漫画)}}
'''人形劇'''(にんぎょうげき)は、[[人形]](物体)を介して表現する[[演劇]]。起源については[[呪術]]・[[祈祷]]などで発生したと言われている。江戸時代以前に成立した伝統的なものを'''人形芝居'''と呼んで区別することも<ref>[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc10/index.html 人形芝居について]独立行政法人日本芸術文化振興会</ref>。人形の操作方法により、[[パペット|手遣い人形(パペット)]]、[[棒遣い人形]]、[[糸操り人形|糸操り人形(マリオネット)]]に大きく分類される。日本の伝統的な人形劇には[[文楽]](人形浄瑠璃)がある。他に映画(テレビ)人形劇もある。海外では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジム・ヘンソン]]と[[フランク・オズ]]が創設した[[マペット]]、フランスの[[ギニョール]]、イギリスの「パンチとジュディ」が有名。
== 日本の人形劇 ==
日本には、活動中のプロ人形劇団は多くあるが、形態が多岐にわたるため把握できない。30年以上継続して活動している人形劇団には、人形劇団[[ひとみ座]]、[[人形劇団プーク]]、人形劇団クラルテ、人形劇団京芸、[[人形劇団ポポロ]]、人形館ぽー、人形劇団ゆりかご、人形劇団[[むすび座]]、[[結城座]]、貝の火、[[人形劇・トロッコ]]、人形劇団童心座、糸操り人形劇団みのむし、かわせみ座、などがある。また、劇団の連合体として、[[日本人形劇ネットワーク]]、[[全国専門人形劇団協議会]]、[[日本人形劇人協会]]、[[日本ウニマ]]などの専門的な団体がある。
[[滋賀県]][[大津市]]にある[[人形劇の図書館]]は、日本で唯一の人形劇の専門図書館で、人形劇の研究などのために、現代人形劇を中心とした図書・資料を蒐集し公開している。人形劇・人形芝居関係の図書は、他に[[国立劇場]]や[[国立文楽劇場]]の図書資料室、[[早稲田大学演劇博物館]]などに多い。
2003年には[[香川県]][[東かがわ市]]の[[とらまる公園]]内に日本で初めての体験型[[博物館]]である『[[とらまる人形劇ミュージアム]]』と『[[人形劇学校パペットアーク]]』が日本人形劇ネットワークによって設立された。2013年3月に国内唯一の人形劇専門学校だった「パペットアーク」が資金難から閉鎖した<ref>[https://web.archive.org/web/20130605084502/http://www.47news.jp/CN/201303/CN2013030901001119.html 人形劇専門学校が閉校へ 国内唯一、資金難 47news]</ref>。
== 伝統的な人形劇 ==
=== 日本 ===
* [[文楽]](人形浄瑠璃)
* [[桐生からくり人形]]
* [[八王子車人形]]
* [[相模人形芝居]]
* [[佐渡の人形芝居]]
* [[真桑人形浄瑠璃]]
* [[安乗の人形芝居]]
* [[北原人形芝居]]([[大分県]][[中津市]])
=== 日本以外 ===
{{節スタブ}}
*[[布袋劇]] - 台湾の伝統芸能
*[[コクトゥカクシノルム]] - 朝鮮の唯一の人形劇
*[[ワヤン・クリ]] - インドネシアの伝統芸能
*{{仮リンク|カラゴズ|en|Karagöz and Hacivat}} - トルコの伝統芸能
*[[チェコ]]のマリオネット - チェコの伝統芸能
*[[水上人形劇 (ベトナム)|水上人形劇]] - ベトナムの伝統芸能
*[[:en:Hun lakhon lek]]、[[:en:Hun krabok]]、[[サーコン・ヤンキアウソット]] - タイ
;中国<ref>[http://www.foway.com.cn/yanghuaxiao/cdbwgjp/zhanlan/201901/67.html 操り人形の百態——中国木偶展] [[成都博物館]]</ref>
* 提線木偶戯(糸あやつり人形劇)
* 杖頭木偶戯(棒遣い人形劇)
* 鉄枝木偶戯
* 布袋木偶戯(手指遣い人形劇)
* 扁担木偶戯(てんびん棒操り人形劇)
==TV人形劇==
=== 日本国内製作 ===
*[[日本放送協会|NHK]]連続TV人形劇
**1953年02月20日~同年10月30日 [[玉藻前 (NHK人形劇)|玉藻前]]
**1956年04月14日~1964年04月03日 [[チロリン村とくるみの木]]
**1960年09月05日~1962年03月27日 [[宇宙船シリカ]]
**1963年04月07日~1965年04月01日 [[銀河少年隊]]
**1964年04月06日~1969年04月04日 [[ひょっこりひょうたん島]]
**1969年04月07日~1970年04月03日 [[空中都市008]]
**1970年04月06日~1973年03月16日 [[ネコジャラ市の11人]]
**1973年04月02日~1975年03月28日 [[新八犬伝]]
**1975年04月07日~1977年03月25日 [[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]]
**1977年04月04日~1978年03月17日 [[笛吹童子]]
**1978年04月03日~1979年03月16日 [[紅孔雀]]
**1979年04月02日~1982年03月19日 [[プリンプリン物語]]
**1982年10月02日~1984年03月24日 [[人形劇 三国志]]
**1984年04月02日~1985年03月15日 [[ひげよさらば]]
**1993年12月10日~1995年01月26日 [[人形歴史スペクタクル 平家物語]]
**2009年10月12日~2010年05月28日 [[連続人形活劇 新・三銃士]]
**2014年10月12日~2015年02月15日 [[シャーロック ホームズ (人形劇)|シャーロックホームズ]]
これらの作品は、「ひょっこりひょうたん島」までは平日午後5時台、それ以降「プリンプリン物語」までは平日午後6時台の帯番組だった。いずれもNHKの子供向け番組の看板番組で視聴率・人気も高い傾向にあり、当時の子供たちの生活習慣になじんでいた。以後は「三国志」が土曜日6時台に週1回放映、「ひげよさらば」が平日午後5時台の帯番組となった。しかし、NHKでは平日夕方枠のニュース拡充(特に[[地域情報番組|ローカルニュース]]枠)、アニメ放映に積極的に乗り出したこと、子供たちの生活習慣の変化などを理由に枠は消失した。以降、人形劇のレギュラー放映枠は作られていなかったが、[[三谷幸喜]]の脚色による企画が立ち上がり、それぞれ単発ではあるものの2009年10月から「連続人形活劇 新・三銃士」が、2014年10月から「シャーロックホームズ」が放送された。
なお、{{要出典範囲|同枠の特徴として「新八犬伝」から「紅孔雀」までの4作品が伝奇時代もの、「三国志」が中国古典を基にしている以外は、SFファンタジー作品であることを挙げることができる。伝奇時代ものであっても、SF性など現代性を持たせていて、その折々の国内・国際情勢の風刺なども積極的に織り込まれた|date=2023年12月}}。
また通常の人間が演じるドラマ等には無いキャラクターの動きや表情なども魅力としてあげられる。
プリンプリン物語のころまではビデオテープ([[2インチVTR]])が高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他の番組に使い回されていたため、映像はプリンプリン物語の三年目までは満足に残っていない。
*NHK教育テレビ<!-- ジョン --> [[学校放送]]、幼稚園・保育所向け番組
**[[ピコピコポン]]
**[[ぼうけん!メカラッパ号]]
**[[小学校]]低学年向け[[国語]]番組、幼稚園・保育所向け
***[[にんぎょうげき]]:[[1959年]] - [[1990年]]
***[[おとぎのへや]]:1962年 - 1990年
***[[こどもにんぎょう劇場]]:1990年 - 2011年
**小学校低学年向け[[道徳]]番組
***[[大きくなる子]]:[[1961年]] - [[1988年]]
***[[あつまれ!じゃんけんぽん]]:1988年 - [[2003年]]
***[[のびのびノンちゃん]]:1990年 - [[1996年]]
***[[ざわざわ森のがんこちゃん]]:1996年 -
***[[ぼうけん!メカラッパ号]] :2000年 - 2002年
***[[バケルノ小学校 ヒュードロ組]]:[[2003年]] - [[2009年]]
***[[銀河銭湯パンタくん]] - [[2013年]] -
*民放各社
**[[おーい!チロリン村だよ]]
**[[伊賀の影丸]]
**[[ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空|飛べ!孫悟空]]
**[[Xボンバー]]
**[[ブンブンバンバン#人形劇|地下鉄のドジ]]
**[[ウルトラマンM730 ウルトラマンランド]]
**[[いとしのファブリオ]]
**[[オー!マイキー]]
**Spitting Image Japan (ラスタとんねるず'94内コーナー)
*独立UHF局
**[[Kawaii! JeNny]]
**[[モンキーパーマ]]
**[[Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀]]
===日本以外での製作===
イギリスには人形劇番組が多い。{{要出典範囲|これは、日本ではアニメが高年齢で特撮が低年齢、アメリカではアニメが低年齢で特撮が高年齢中心なのに対し、イギリスでは人形劇が低年齢番組の主役だからである|date=2023年12月}}。下で説明している[[ジェリー・アンダーソン|ジェリー]]&[[シルヴィア・アンダーソン]]夫妻も、最初は低年向人形劇を作っていた。ただし、時代の変化に伴い、「きかんしゃトーマス」の現行シリーズや[[サンダーバード ARE GO|「サンダーバード」の新作]]は人形劇ではなくCGアニメーションで製作されている。
*「[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]」「[[地球防衛軍テラホークス]]」等一連のアンダーソン夫妻の作品は「[[ジェリー・アンダーソン]]」および「[[シルヴィア・アンダーソン]]」を参照。
*「[[きかんしゃトーマス]]」
*「[[がんばれタッグス]]」
*「[[くまのパディントン]]」
*「[[スピッティング・イメージ]]」
*「マペット・ショー」
*「セサミ・ストリート」
*「[[ネビュラ・75]]」
*「[[ミークシ]]」
== 人形劇の全国コンクール ==
=== 日本 ===
*[[全国青年大会]]
=== 日本以外 ===
{{節スタブ}}
== 公立人形劇場 ==
=== 日本 ===
* {{Flagicon|JPN}} [[札幌市こども人形劇場こぐま座]] - [[北海道]][[札幌市]](公立としては日本で初めてつくられた人形劇の専門劇場)
* {{Flagicon|JPN}} [[札幌市こどもの劇場やまびこ座]]
* {{Flagicon|JPN}} [[横浜人形の家]] - [[神奈川県]][[横浜市]]
* {{Flagicon|JPN}} [[飯田人形劇場]] - [[長野県]][[飯田市]]
* {{Flagicon|JPN}} [[ドリームシアター岐阜]] - [[岐阜県]][[岐阜市]]
* {{Flagicon|JPN}} [[若州一滴文庫]] - [[福井県]][[おおい町]]
* {{Flagicon|JPN}} [[吹田市文化会館]] - [[大阪府]][[吹田市]]
* {{Flagicon|JPN}} [[人形劇場とらまる座]] - [[香川県]][[東かがわ市]]
=== 日本以外 ===
{{節スタブ}}
*台北偶戯館(人形劇館)<ref>[http://superspace.moc.gov.tw/jp/local_culture_page.asp?rid=214 台北偶戯館]台湾文化部</ref>
*林柳新紀念偶戯博物館<ref>[http://superspace.moc.gov.tw/jp/local_culture_page.asp?rid=123 林柳新紀念偶戯博物館]台湾文化部</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
*クリスタベル安藤 「[http://www.h2.dion.ne.jp/~ando777/database/ ETVデータベース]」 {{Wayback|url=http://www.h2.dion.ne.jp/~ando777/ |title=クリスタベル安藤オンライン |date=20040818035135}}、2005年5月10日
== 関連項目 ==
*[[ペープサート]]
*[[人形劇ギルド]]
*[[傀儡子]]
*[[日本の人形劇団一覧]]
*[[人形]]
*[[人形アニメ]]
*[[パネルシアター]]
*[[ロワイヤル・ド・リュクス]](巨大人形劇団)
*[[人形劇の図書館]]
*[[伊藤熹朔]]
*[[千田是也]]
*[[遠山静雄]]
*[[水上勉]]
*[[いいだ人形劇フェスタ]]
* {{ill2|マロット|en|Marotte}} - 「道化師の笏」・「道化杖」とも訳される顔の付いた杖。[[宮廷道化師]]が大抵所持していた小道具。
== 外部リンク ==
*[http://www.zenninkyo.jp/ 全国専門人形劇団協議会(全人協)]
*[http://www.eva.hi-ho.ne.jp/dabdab/toninkyo.htm 全人協東日本ブロック]
*[http://chubu.jp-puppet.org/ 全人協中日本ブロック]
*[https://puppeteerassociation.jimdofree.com/ 日本人形劇人協会]
*{{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/unima/ |title=日本ウニマ|date=20130427100147}}
*[http://www.yo.rim.or.jp/~tomte/maps/ 日本人形劇地図]
*[http://www.st-nova.jp スタジオ・ノーヴァ](日本のテレビ人形劇制作会社)
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010850 番組エピソード人形劇 全リスト - NHKアーカイブス]
{{Normdaten}}
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[[Category:人形劇|*]]
[[Category:無形文化遺産]]
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15,122 |
愛情表現
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愛情表現(あいじょうひょうげん、英: Public display of affection)は、愛を表現する行為である。男性と女性の接吻や抱擁、ペッティングなどの性行為を伴ったものから、親と幼児、子供の間でのものから、成人になった子供から高齢の親に対するものまで色々ある。
その表現としては、握手、接吻、抱擁、手をつなぐ、頭、頬など身体の一部に触れる、撫でる、すり合せるなど。
民族、文化によって、その形態は様々で、スラブ民族では、親愛の情を示すために男性同士でも抱擁したり、頬に接吻したりすることもある。
他のボディーランゲージと同様に、親愛の情を示すために行った行為が、他の民族では忌み嫌われている行為である場合もある。
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'''愛情表現'''(あいじょうひょうげん、{{lang-en-short|Public display of affection}})は、[[愛]]を[[表現]]する[[行為]]である。[[男性]]と[[女性]]の[[接吻]]や[[抱擁]]、[[ペッティング]]などの[[性行為]]を伴ったものから、[[親]]と[[幼児]]、[[子供]]の間でのものから、成人になった子供から高齢の親に対するものまで色々ある。
その表現としては、[[握手]]、[[接吻]]、[[抱擁]]、[[手]]をつなぐ、[[頭]]、頬など身体の一部に触れる、撫でる、すり合せるなど。
[[民族]]、[[文化]]によって、その形態は様々で、[[スラブ民族]]では、親愛の情を示すために男性同士でも抱擁したり、頬に接吻したりすることもある。
他の[[ボディーランゲージ]]と同様に、親愛の情を示すために行った行為が、他の民族では忌み嫌われている行為である場合もある。
== 参考文献 ==
* [[デズモンド・モリス]]『マン・ウォッチング』 - [[小学館]]
* デズモンド・モリス『ふれあい』 - [[平凡社]]
== 関連項目 ==
* [[スキンシップ]]
* [[非言語コミュニケーション]]
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15,123 |
インプット メソッド エディタ
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インプット メソッド エディタ(英: input method editor、IME)とは、パーソナルコンピュータをはじめとした情報機器で、ハードウェアキーボード(物理キーボード)あるいは画面上に表示されるソフトウェアキーボード(仮想キーボード)の上にある限られたキーの組み合わせで、漢字、ハングル、かな文字などキーボード上には無い文字を入力するためのソフトウェアである。マイクロソフトの日本語版ドキュメントでは入力方式エディターと訳されている。
英語のようにASCII範囲の文字セットで事足りる言語ではIMEによる入力補助は不要だが、中国語・日本語・朝鮮語といった漢字文化圏の言語(ベトナム語を除く)や、アラビア語などのアブジャド表記の言語など、ラテン文字を使わない言語の文字入力ではほぼ必須となっている。言語種ごとにIMEが別個に用意され、中国語対応版/朝鮮語対応版/日本語対応版などに分かれている方式のものもあれば、最初から多言語対応になっていて後から言語セットおよび辞書のみを追加する方式のものもある。
元々は、IMEはOS/2とMicrosoft Windowsで使用されていたプラットフォーム固有の用語であり、他のプラットフォームでは同種のソフトウェア(Mac OSにおける「ことえり」など)を単にインプットメソッド (IM) と呼んでいることが多い。ただし、厳密にはIMEはインプットメソッド全体を指すものではなく、それを構成しているモジュールのうちの一つである。マルチタスクOSではシステム系サービスのひとつとして動作し、入力を必要とするアプリケーションソフトウェアとプロセス間通信をしながら連携動作する形態になっていることが多い。GUIベースのシステムでは直感的な補助インターフェイスが提供されることもあり、マウスやペンタブレットといったポインティングデバイスを利用した手書き入力の機能を持つIMEもある。
近年ではWindows以外のプラットフォームでもIMEという語が使用されることが多くなりつつある。特にAndroidやChromeOSでは公式にIMEという語が使用されている。その一方で、IMEを「インプット メソッド エディタ」ではなく「インプット メソッド エンジン」 の略称とする定義も存在する。前述のAndroidの場合は、APIリファレンス文書において「input method editor」「input method engine」「input method」と記述が混在している。
オペレーティングシステムには通例複数のIMEをインストールすることができ、設定によって切り替えたり、無効化/有効化したりすることができるようになっている。
Windowsに標準で組み込まれているマイクロソフト製のIMEは、「Microsoft IME」(MS-IME) である。Microsoft Officeには、「Office IME」という名称の独立した別のIMEが同梱されているバージョンもある。
中国語対応版では拼音に対応するアルファベットの列を漢字に変換する。
日本語対応版では日本語入力システムとしてユーザーのキー入力を基にローマ字かな変換やかな漢字変換といった処理を行い、英数字や記号なども含みうる仮名漢字交じり文(あるいはその断片)の文字列に変換、アプリケーションソフトウェアに渡す(確定する)役割を担う。
通例IMEは入力言語ごとの辞書データベースと連携しており、現在の入力途中の文字列(未確定文字列)に応じて辞書からピックアップした入力候補あるいは変換候補を表示することができる。ユーザー入力履歴をもとに学習して辞書や入力/変換候補の精度を強化していくものもあるが、入力履歴は個人情報と密接につながりがあるため、iOSのようにセキュリティ面への配慮からサードパーティ製IMEのインストールを制限したり、ユーザーへの許可を求めることを条件としたりしているプラットフォームもある。
オペレーティングシステム標準のGUIアプリケーションフレームワークおよびウィジェット・ツールキットでは、テキストボックスなどにIMEを使って入力することのできる機能が最初から組み込まれていることが大半であり、一般的なアプリケーションを開発する場合はIMEの存在を特に意識する必要はない。
|
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インプット メソッド エディタとは、パーソナルコンピュータをはじめとした情報機器で、ハードウェアキーボード(物理キーボード)あるいは画面上に表示されるソフトウェアキーボード(仮想キーボード)の上にある限られたキーの組み合わせで、漢字、ハングル、かな文字などキーボード上には無い文字を入力するためのソフトウェアである。マイクロソフトの日本語版ドキュメントでは入力方式エディターと訳されている。 英語のようにASCII範囲の文字セットで事足りる言語ではIMEによる入力補助は不要だが、中国語・日本語・朝鮮語といった漢字文化圏の言語(ベトナム語を除く)や、アラビア語などのアブジャド表記の言語など、ラテン文字を使わない言語の文字入力ではほぼ必須となっている。言語種ごとにIMEが別個に用意され、中国語対応版/朝鮮語対応版/日本語対応版などに分かれている方式のものもあれば、最初から多言語対応になっていて後から言語セットおよび辞書のみを追加する方式のものもある。
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'''インプット メソッド エディタ'''({{lang-en-short|input method editor}}、IME)とは、[[パーソナルコンピュータ]]をはじめとした[[情報機器]]で、[[キーボード (コンピュータ)|ハードウェアキーボード]](物理キーボード)あるいは画面上に表示される[[ソフトウェアキーボード]](仮想キーボード)の上にある限られたキーの組み合わせで、[[漢字]]、[[ハングル]]、[[かな文字]]などキーボード上には無い文字を入力するためのソフトウェアである。[[マイクロソフト]]の[[日本語]]版ドキュメントでは'''入力方式エディター'''<ref>[https://support.microsoft.com/ja-jp/help/4027029/windows-advanced-input-methods-for-east-asian-languages 東アジア言語用の高度な入力方式 | Windowsサポート]</ref>と訳されている。
[[英語]]のように[[ASCII]]範囲の[[文字セット]]で事足りる[[言語]]ではIMEによる入力補助は不要だが、[[中国語]]・日本語・[[朝鮮語]]といった[[漢字文化圏]]の言語([[ベトナム語]]を除く)や、アラビア語などの[[アブジャド]]表記の言語など、[[ラテン文字]]を使わない言語の文字入力ではほぼ必須となっている。言語種ごとにIMEが別個に用意され、中国語対応版/朝鮮語対応版/日本語対応版などに分かれている方式のものもあれば、最初から[[多言語]]対応になっていて後から言語セットおよび辞書のみを追加する方式のものもある。
== 概要 ==
元々は、IMEは[[OS/2]]と[[Microsoft Windows]]で使用されていた[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]固有の用語であり<ref>{{Cite web|和書
| title=[XML MOJI 01742] EUDCという言葉が生まれた経緯
| url=http://www2.xml.gr.jp:8255/log.html?MLID=xmlmoji&TID=1742&F=0&L=10&R=0
| archiveurl=https://archive.is/mnGbK
| date=2007-4-26
| accessdate=2014-1-15
| archivedate=2014-1-17
| deadlinkdate=2019-11-20
}}</ref>、他のプラットフォームでは同種のソフトウェア([[Mac OS]]における「[[ことえり]]」など)を単に[[インプットメソッド]] (IM) と呼んでいることが多い。ただし、厳密にはIMEはインプットメソッド全体を指すものではなく、それを構成しているモジュールのうちの一つである。[[マルチタスク]][[オペレーティングシステム|OS]]ではシステム系サービスのひとつとして動作し、入力を必要とする[[アプリケーションソフトウェア]]と[[プロセス間通信]]をしながら連携動作する形態になっていることが多い。[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ベースのシステムでは直感的な補助インターフェイスが提供されることもあり、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]や[[ペンタブレット]]といった[[ポインティングデバイス]]を利用した手書き入力の機能を持つIMEもある。
{{いつ範囲|date=2019-11-20|近年}}ではWindows以外のプラットフォームでもIMEという語が使用されることが多くなりつつある。特に[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]や[[ChromeOS]]では公式にIMEという語が使用されている<ref name="android1">{{cite web
| title=Creating an Input Method (Android Developers)
| quote=An input method editor (IME) is a user control that enables users to enter text.
| url=http://developer.android.com/guide/topics/text/creating-input-method.html
| accessdate=2014-01-15
}}</ref><ref>{{cite web
| title=Input Method Editor - The Chromium Projects
| url=http://www.chromium.org/developers/design-documents/extensions/proposed-changes/apis-under-development/input-method-editor
| accessdate=2014-01-15
}}</ref>。その一方で、IMEを「インプット メソッド エディタ」ではなく「インプット メソッド エンジン」 {{efn2|{{lang-en-short|input method engine}}}}の略称とする定義も存在する<ref>{{Cite web|和書
| title=言語の自動判別を利用した多言語入力 - 言語処理学会
| author=江原遙、田中久美子
| format=[[PDF]]
| quote=多言語を入力するためのインターフェースには,一般にキーボードのキー列を対象言語の文字列に変換する Input Method Engine (IME) と呼ばれるソフトウェアを用いる.
| url=http://www.anlp.jp/proceedings/annual_meeting/2007/pdf_dir/E2-6.pdf
| accessdate=2014-01-15
}}</ref><ref>{{cite web
| title=I18N/InputMethods - FedoraProject
| quote=Terminology: Input method engine (IME) - Also referred as Input method editor, it is a program that actually implement an input method. ibus-chewing and scim-chewing implements the Chewing for IBus and SCIM.
| url=https://fedoraproject.org/wiki/I18N/InputMethods
| accessdate=2014-01-15
}}</ref><ref>{{cite web
| title=IBusComponent (IBus Reference Manual)
| quote=An IBusComponent is an executable program. It provides services such as user interface, configuration, and input method engine (IME).
| url=http://ibus.googlecode.com/svn/docs/ibus-1.5/IBusComponent.html
| accessdate=2014-01-15
}}</ref><ref>{{cite web
| title=vietnameseime - Android Vietnamese Input Method Engine - Vietnamese IME - Google Project Hosting
| quote=The first Vietnamese Input Method Engine for Android!
| url=https://code.google.com/p/vietnameseime/
| accessdate=2014-01-15
}}</ref>。前述のAndroidの場合は、APIリファレンス文書において「input method editor」「input method engine」「input method」と記述が混在している<ref name="android1" /><ref name="android2">{{cite web
| title=android.view.inputmethod.InputConnection (Android Developers)
| quote=Text input is the result of the synergy of two essential components: an Input Method Engine (IME) and an editor.
| url=http://developer.android.com/reference/android/view/inputmethod/InputConnection.html
| accessdate=2014-01-15
}}</ref><ref name="android3">{{cite web
| title=android.view.inputmethod.InputMethodManager (Android Developers)
| quote=An input method (IME) implements a particular interaction model allowing the user to generate text.
| url=http://developer.android.com/reference/android/view/inputmethod/InputMethodManager.html
| accessdate=2014-01-15
}}</ref>。
[[オペレーティングシステム]]には通例複数のIMEをインストールすることができ、設定によって切り替えたり、無効化/有効化したりすることができるようになっている。
Windowsに標準で組み込まれている[[マイクロソフト]]製のIMEは、「[[Microsoft IME]]」(MS-IME) である。[[Microsoft Office]]には、「Office IME」という名称の独立した別のIMEが同梱されているバージョンもある<ref>[https://www.microsoft.com/ja-jp/office/2010/ime/default.aspx Microsoft Office IME 2010 | Microsoft Office 2010]</ref>。
中国語対応版では[[拼音]]に対応するアルファベットの列を漢字に変換する。
日本語対応版では[[日本語入力システム]]としてユーザーのキー入力を基に[[ローマ字かな変換]]やかな漢字変換といった処理を行い、英数字や記号なども含みうる[[仮名交じり文|仮名漢字交じり文]](あるいはその断片)の文字列に変換、[[アプリケーションソフトウェア]]に渡す(確定する)役割を担う。
通例IMEは入力言語ごとの辞書データベースと連携しており、現在の入力途中の文字列(未確定文字列)に応じて辞書からピックアップした入力候補あるいは変換候補を表示することができる。ユーザー入力履歴をもとに学習して辞書や入力/変換候補の精度を強化していくものもあるが、入力履歴は個人情報と密接につながりがあるため、[[iOS]]のようにセキュリティ面への配慮からサードパーティ製IMEのインストールを制限したり、ユーザーへの許可を求めることを条件としたりしているプラットフォームもある。
[[オペレーティングシステム]]標準の[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]][[アプリケーションフレームワーク]]および[[ウィジェット・ツールキット]]では、[[テキストボックス]]などにIMEを使って入力することのできる機能が最初から組み込まれていることが大半であり、一般的なアプリケーションを開発する場合はIMEの存在を特に意識する必要はない。
==主な製品==
{|class="wikitable sortable"
!製品名!!中国語対応!!朝鮮語対応!!日本語対応
|-
|[[ATOK]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[SKK]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Japanist]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Social IME]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Canna]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Wnn]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[風 (日本語入力システム)|風]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[かわせみ_(ソフトウェア)|かわせみ]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[FSKAREN]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[:zh:微软拼音输入法|微软拼音输入法]] ([[簡体字]]){{efn2|name="Windows2000標準"|[[Windows 2000]]以降のWindowsにはシステム言語にかかわらず標準で付属している。}}||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|微軟新注音輸入法 ([[繁体字]]){{r|group="注"|Windows2000標準}}||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|[[倉頡輸入法|微軟新倉頡輸入法]] (繁体字){{r|group="注"|Windows2000標準}}||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|[[:zh:谷歌拼音输入法|谷歌拼音输入法]] (繁体字)||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|[[:zh:搜狗拼音输入法|搜狗拼音输入法]] (繁体字)||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|[[:zh:Yahoo!奇摩輸入法|Yahoo!奇摩輸入法]] (繁体字)||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{no|なし}}
|-
|[[Microsoft IME]](MS-IME)||{{yes|あり}}||{{yes|あり}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Google 日本語入力]]||{{no|なし}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Gboard]]||{{yes|あり}}||{{yes|あり}}||{{yes|あり}}
|-
|[[Baidu IME]]||{{yes|あり}}||{{no|なし}}||{{yes|あり}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{notelist2}}
'''出典'''
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[インプットメソッド]]
* [[言語バー]]
* [[フロントエンドプロセッサ]]
* [[Text Services Framework]]
* [[日本語入力システム]]
* [[中国語入力システム]]
{{DEFAULTSORT:いんふつとめそつとえていた}}
[[Category:インプットメソッド]]
{{software-stub}}
|
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2023-10-08T07:23:53Z
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フロントエンドプロセッサ
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フロントエンドプロセッサ (英語: front‐end processor) は、主にコンピュータの、フロントエンド処理を行う機能または装置である。略称FEP(エフイーピー、フェップ)。
「フロンドエンド」は「前側の端、手前の終端」の意味で、「フロントエンドプロセッサ」は「最も手前に置かれた処理機構、前置処理機構」の意味で、システムの前処理(または前処理および後処理)を行うもの全般を意味する。具体例には、メインフレームなどで中心となるコンピュータの負担軽減のためにデータの前処理などを行う補助プロセッサなどで、IBMのSNAネットワークの例では37xx通信制御装置などがFEPとも呼ばれた。あるいはスーパーコンピュータシステムで、計算力を必要とする主な計算以外のデータ処理などを担当するコンピュータなどといったものもある。
また日本のパーソナルコンピュータ環境においては、主にMS-DOSにおいてかな漢字変換などを行う日本語入力システムを指して、よくFEPと呼んだ。
主に日本のMS-DOS普及期には、コンピュータへの文字列入力時にかな漢字変換を行うための日本語入力システムを、「日本語入力フロントエンドプロセッサ」(日本語入力FEP)と呼び、略してFEPとも呼んだ。
これはワープロソフトなどのアプリケーションソフトウェアから見ると、(MS-DOS用の多くの)日本語入力システムが前処理を行い、漢字変換などをした後の文字列を、「入力」として受け取るためである。「日本語入力フロントエンドプロセッサ」という用語が初めて用いられた製品は、1986年にバックス社がPC-9800シリーズ用に発売した、かな漢字変換システム「VJE-86」である。このため当時の業界・ユーザー・マスコミ等の一部では、文字入力システム全般を「FEP」とも呼称した。
ただし当時のMS-DOS供給元である各メーカーは「FEP」とは呼ばなかった。Microsoft Windows(Windowsでは日本語入力はフロントエンドプロセッサ方式ではないのでフロントエンドプロセッサと呼ぶこと自体誤り)の普及以後は、一般的な用語である「インプットメソッド」や、マイクロソフトの用語である「インプットメソッドエディタ」 (IME) という用語が普及した。
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フロントエンドプロセッサ は、主にコンピュータの、フロントエンド処理を行う機能または装置である。略称FEP(エフイーピー、フェップ)。 「フロンドエンド」は「前側の端、手前の終端」の意味で、「フロントエンドプロセッサ」は「最も手前に置かれた処理機構、前置処理機構」の意味で、システムの前処理(または前処理および後処理)を行うもの全般を意味する。具体例には、メインフレームなどで中心となるコンピュータの負担軽減のためにデータの前処理などを行う補助プロセッサなどで、IBMのSNAネットワークの例では37xx通信制御装置などがFEPとも呼ばれた。あるいはスーパーコンピュータシステムで、計算力を必要とする主な計算以外のデータ処理などを担当するコンピュータなどといったものもある。 また日本のパーソナルコンピュータ環境においては、主にMS-DOSにおいてかな漢字変換などを行う日本語入力システムを指して、よくFEPと呼んだ。
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[[File:80_early_pcp_2.jpg|frame|大型汎用機システムにおけるフロントエンドプロセッサの例。[[PDP-11]]ベース]]
'''フロントエンドプロセッサ''' ({{lang-en|front‐end processor}}) は、主に[[コンピュータ]]の、[[フロントエンド]]処理を行う機能または装置である<ref name="dictionary.com">[http://dictionary.reference.com/browse/front-end+processor dictionary.com]</ref>。略称'''FEP'''(エフイーピー、フェップ)。
「フロンドエンド」は「前側の端、手前の終端」の意味で、「フロントエンドプロセッサ」は「最も手前に置かれた処理機構、前置処理機構」の意味で、システムの前処理(または前処理および後処理)を行うもの全般を意味する。具体例には、[[メインフレーム]]などで中心となるコンピュータの負担軽減のためにデータの前処理などを行う補助プロセッサなどで、[[IBM]]の[[Systems Network Architecture|SNA]]ネットワークの例では37xx通信制御装置などがFEPとも呼ばれた<ref>[http://www.javvin.com/networkingterms/FEP.html Network, Networking Technology, Data Communication Terms, Glossary and Dictionary - FEP: Front-end Processor]</ref>。あるいは[[スーパーコンピュータ]]システムで、計算力を必要とする主な計算以外のデータ処理などを担当するコンピュータなどといったものもある。
また[[日本]]の[[パーソナルコンピュータ]]環境においては、主に[[MS-DOS]]においてかな漢字変換などを行う[[日本語入力システム]]を指して、よくFEPと呼んだ<ref>吉森ゆき「[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0809/20/news002.html 松茸、WX、VJE - 懐かしのFEPを思い出す]」、[[ITmedia]]、2008年9月20日08時00分。</ref>。
== 日本語入力フロントエンドプロセッサ ==
{{seealso|日本語入力システム|インプットメソッド}}
主に[[日本]]のMS-DOS普及期には、コンピュータへの文字列入力時に[[かな漢字変換]]を行うための[[日本語入力システム]]を、「日本語入力フロントエンドプロセッサ」(日本語入力FEP)と呼び、略してFEPとも呼んだ。
これは[[ワープロソフト]]などの[[アプリケーションソフトウェア]]から見ると、(MS-DOS用の多くの)日本語入力システムが前処理を行い、漢字変換などをした後の文字列を、「入力」として受け取るためである。「日本語入力フロントエンドプロセッサ」という用語が初めて用いられた製品は、[[1986年]]に[[バックス (企業)|バックス]]社が[[PC-9800シリーズ]]用に発売した、かな漢字変換システム「[[VJE|VJE-86]]」である<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0707/vacs.htm バックス、パッケージソフトの販売を14日で終了 ~ 日本語FEPの創始者VJEシリーズ事実上の終焉]、[[Impress Watch]]、2005年7月7日。</ref><ref>[http://www4.airnet.ne.jp/koabe/com_inet/im/history1.html 日本語入力プログラムの歴史(MS-DOS~Windows)]</ref>。このため当時の業界・ユーザー・マスコミ等の一部では、文字入力システム全般を「FEP」とも呼称した{{Refnest|group="注釈"|かな漢字変換ソフトウェア全般を指して一般にFEPと呼ぶことは誤用とする意見もある<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』([[SBクリエイティブ|ソフトバンク]])1995年2月号、168頁。</ref>。}}。
ただし当時のMS-DOS供給元である各メーカーは「FEP」とは呼ばなかった。[[Microsoft Windows]](Windowsでは日本語入力はフロントエンドプロセッサ方式ではないのでフロントエンドプロセッサと呼ぶこと自体誤り)の普及以後は、一般的な用語である「[[インプットメソッド]]」や、マイクロソフトの用語である「[[インプット メソッド エディタ|インプットメソッドエディタ]]」 (IME) という用語が普及した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{デフォルトソート:ふろんとえんとふろせつさ}}
[[Category:オペレーティングシステムの仕組み]]
[[Category:日本語入力システム]]
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鹿苑寺
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鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている。正式名称は、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。
寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。
応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される。相国寺の七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる。
応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた。
当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。
足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。
1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。
1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。
1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
2003年(平成15年)茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。
金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。三層は一回り小さく、方3間である。
初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている。この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面(東・西面)はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。背面(北面)は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない。
初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる。西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。床は板敷、天井は鏡天井とする。
二層は鎌倉時代の武家造りの建築様式で「潮音洞」とよばれ、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。仏間内部は、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には四天王像が立つ。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く。東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目(須弥壇の背後)を板扉とするほかは板壁とする。
三層は唐様の禅宗仏殿造で「究竟頂」(くっきょうちょう)とよばれ、方3間の1室で、仏舎利を安置する。初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた禅宗様である。三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする。「究竟頂」の扁額は後小松天皇の宸筆である。
鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺した。この事件は川端龍子の日本画『金閣炎上』、三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されている。なお、当事件にいち早く取材に駆け付けたのは、産経新聞京都支局の福田定一(後の作家・司馬遼太郎)記者である。
再建金閣は、消失後に故・村上慈海住職らの再建托鉢に始まり、やがて村田治郎らの指導で1952年(昭和27年)から再建に着手し、1955年(昭和30年)に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。
焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に連子窓が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている。
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、1986年(昭和61年)2月から翌1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1μm)の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55μm)の「五倍箔」約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5tが使用されている。
屋上の鳳凰像も一新されており、片岡宏幹の作品である。
最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であったという。一方で、「一枚板」は天井ではなく床板であるという説もある。例えば『雍州府志』巻五に見える鹿苑寺の説明には「斯床三間四面也。以板一枚為床」とある。なお、明治期、鹿苑寺が「一枚板の天井」を目玉として誘客していたことも知られている。
伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である相国寺が管理しており、承天閣美術館で保管されている。
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"text": "鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている。正式名称は、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。",
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"text": "寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。",
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"text": "また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。",
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"text": "鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。",
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"text": "応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。",
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"text": "応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される。相国寺の七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる。",
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"text": "応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。",
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"text": "応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。",
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"text": "応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた。",
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"text": "当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。",
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"text": "足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた。",
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"text": "足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。",
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"text": "応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。",
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"text": "舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。",
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"text": "1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。",
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"text": "1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。",
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"text": "1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。",
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"text": "1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。",
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"text": "2003年(平成15年)茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。",
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"text": "金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。三層は一回り小さく、方3間である。",
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"text": "初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている。この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面(東・西面)はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。背面(北面)は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない。",
"title": "舎利殿(金閣)"
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"text": "初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる。西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。床は板敷、天井は鏡天井とする。",
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"text": "二層は鎌倉時代の武家造りの建築様式で「潮音洞」とよばれ、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。仏間内部は、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には四天王像が立つ。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く。東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目(須弥壇の背後)を板扉とするほかは板壁とする。",
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"text": "再建金閣は、消失後に故・村上慈海住職らの再建托鉢に始まり、やがて村田治郎らの指導で1952年(昭和27年)から再建に着手し、1955年(昭和30年)に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。",
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"text": "焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に連子窓が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている。",
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"text": "現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、1986年(昭和61年)2月から翌1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1μm)の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55μm)の「五倍箔」約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5tが使用されている。",
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"text": "最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であったという。一方で、「一枚板」は天井ではなく床板であるという説もある。例えば『雍州府志』巻五に見える鹿苑寺の説明には「斯床三間四面也。以板一枚為床」とある。なお、明治期、鹿苑寺が「一枚板の天井」を目玉として誘客していたことも知られている。",
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"text": "伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である相国寺が管理しており、承天閣美術館で保管されている。",
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鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている。正式名称は、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。 寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。 また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
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{{Redirect|金閣寺}}
{{Otheruses|京都市にある寺院|岐阜県美濃市にある同名寺院|鹿苑寺 (美濃市)}}
{{日本の寺院
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|画像説明 = 舎利殿(金閣)
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|正式名 = 北山鹿苑禪寺
|別称 = 金閣寺<br />北山殿<br />北山第
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]第93番(京都第13番)
|文化財 = 絹本著色足利義満像、木造[[不動明王]]立像、大書院障壁画ほか([[重要文化財]])<br />庭園(国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]])<br />[[世界遺産]]
|公式HP = https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/
|公式HP名= 臨済宗相国寺派 金閣寺
}}
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[[画像:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|[[足利義満]] - [[室町時代]]の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]]。]]
'''鹿苑寺'''(ろくおんじ)は、[[日本]]の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]金閣寺町にある[[臨済宗#相国寺派|臨済宗相国寺派]]の[[寺院]]である<ref>{{Cite web|和書|title=金閣寺について |url=https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/about/ |website=臨済宗相国寺派 |access-date=2022-10-31}}</ref>。[[本山|大本山]][[相国寺]]の境外[[塔頭]]で[[山号]]は北山(ほくざん)。[[本尊]]は[[聖観音]]となっており、建物の内外に[[金箔]]が貼られていることから'''金閣寺'''(きんかくじ)とも呼ばれている<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 金閣寺とは] 臨済宗相国寺派</ref>。正式名称は、'''北山鹿苑禅寺'''(ほくざんろくおんぜんじ)である{{要出典|date=2023年6月}}。
寺名は[[開山 (仏教)|開基]]の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の[[戒名|法号]]「鹿苑院殿」にちなんでつけられた<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/h_k.html 金閣寺のあゆみ] 臨済宗相国寺派</ref>。寺紋は[[桐紋|五七桐]]<ref>[[千鹿野茂|千鹿野 茂]]『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 [[角川書店]]、1993年、373頁。</ref>、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は[[室町時代]]前期の[[北山文化]]を代表する建築だったが、[[1950年]]([[昭和]]25年)に放火により焼失し、[[1955年]](昭和30年)に再建された。
また[[1994年]]([[平成]]6年)には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])「[[古都京都の文化財]]」の構成資産に登録された。
== 歴史 ==
鹿苑寺の一帯は、[[鎌倉時代]]の[[元仁]]元年([[1225年]])に[[藤原公経]]が[[西園寺]]を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である<ref>[https://www.ritsumei.ac.jp/archives/common/file/publication/journal-21.pdf 「衣笠キャンパス略史 — 校地・校舎の変遷について - (著・久保田謙次)」 立命館百年史紀要 第二十一号(2013年3月28日発行)287頁 - 332頁]</ref>。またこれ以後も公経の子孫である[[西園寺家]]が代々領有を続けていた。西園寺家は代々[[朝廷 (日本)|朝廷]]と[[鎌倉幕府]]の連絡役である[[関東申次]]を務めていたが、幕府滅亡後に当主の[[西園寺公宗]]が[[後醍醐天皇]]暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。
[[応永]]4年([[1397年]])、金閣寺の開祖である[[足利義満]]が[[河内国]]と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年([[1394年]])に将軍職を子の[[足利義持|義持]]に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
応永6年([[1399年]])には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される<ref name="早島">早島大祐「室町幕府論」(講談社選書メチエ)</ref>。[[相国寺]]の[[七重塔|七重大塔]]も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる<ref name="七重大塔">[https://www.shokoku-ji.jp/reference/relation/nana/ 相国寺七重大塔 | 関連資料 | 資料室 | 臨済宗相国寺派] 2023年2月15日閲覧</ref>。
応永10年([[1403年]])、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると<ref name="七重大塔" />、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる<ref>{{Cite news|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20160708000465|title=京都・金閣寺で相輪出土/義満建立、幻の北山大塔|newspaper=Shikoku News|publisher=四国新聞社|date=2016-07-08|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20160815-JZQ3EISOAJKKFN6AIMVDFWL3EU/|title=金閣寺で「北山大塔」の破片発見 「幻の110メートルタワー」の姿とは|newspaper=産経新聞|publisher=産経新聞社|date=2016-08-15|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP4T72SBP4BPLZB001.html|title=金閣寺の「幻の塔」の一部か 境内土壇から鎌倉期の木片|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2021-04-26|accessdate=2022-11-30}}</ref>。
応永15年([[1408年]])に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟[[足利義嗣|義嗣]]をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年([[1409年]])には北山第の一部を破却して[[三条坊門殿|三条坊門第]]に移った。
応永23年([[1416年]])1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた<ref>[[細川武稔]]「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』([[吉川弘文館]])2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875、29・36p</ref>。
当時は義満の妻である北山院[[日野康子]]の御所となっていたが、応永26年([[1419年]])11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の[[寝殿造|寝殿]]等は解体され、[[南禅寺]]や[[建仁寺]]に寄贈された<ref>[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』([[講談社学術文庫]])[[2009年]](原著は[[2001年]] ISBN 406268912X)ISBN 978-4062689120、84-85p</ref>。そして、応永27年([[1420年]])に北山第は義満の遺言により[[禅宗|禅寺]]とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、[[夢窓疎石]]を勧請開山(名目上の[[開山 (仏教)|開山]])とした。
足利義満の孫・第8代将軍[[足利義政]]はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、[[応仁の乱]]が終わって8年ほど経った[[文明 (日本)|文明]]17年([[1485年]])10月15日に義政が参詣した際の、義政と[[亀泉集証]](『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には[[阿弥陀如来]]と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.99</ref><ref>『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』pp.91 - 92</ref>。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・[[慈照寺]])に観音殿(近世以降[[慈照寺#観音殿(銀閣)|銀閣]]と通称される)を建てた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、[[江戸時代]]に[[西笑承兌]]が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も[[慶安]]2年([[1649年]])に大修理された。[[明治維新]]後の[[廃仏毀釈]]により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職[[貫宗承一]]により[[1894年]]([[明治]]27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
舎利殿(金閣)は[[古社寺保存法]]に基づき[[1897年]](明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、[[1929年]]([[昭和]]4年)7月1日の[[国宝保存法]]施行に伴い(旧)[[国宝]]に指定された。また、[[1904年]](明治37年)から[[1906年]](明治39年)に解体修理が行われた。庭園は[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]([[文化財保護法]]の前身の1つ)により[[1925年]]([[大正]]14年)10月8日に[[史跡]]・[[名勝]]、文化財保護法により[[1956年]](昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。
[[1935年]](昭和10年)には、[[満州国|満洲国]]の皇帝である[[愛新覚羅溥儀]]が、[[要人#国賓|国賓]]として来日した際、鹿苑寺を訪れている。
[[1950年]](昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する([[金閣寺放火事件]])。[[文部省]]文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ<ref>{{Cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081123/acd0811231442003-n2.htm | title = 【もう一つの京都】日本国王・義満の威光から昭和の放火まで 鹿苑寺金閣の魅力 (2/2ページ) | publisher = [[産業経済新聞社|産経デジタル]] | date = 2008-11-23 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090210043150/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081123/acd0811231442003-n2.htm | archivedate = 2009-02-10 | accessdate = 2020-04-28 }}</ref>、[[1952年]](昭和27年)着工、[[1955年]](昭和30年)竣工。同年10月10日に[[落慶]]法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
[[1986年]](昭和61年)から[[1987年]](昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、[[1997年]]([[平成]]9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、[[2005年]](平成17年)から[[2007年]](平成19年)に方丈の解体修理も行われている。
[[1994年]](平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった[[ユネスコ世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])「[[古都京都の文化財]]」が登録された。
[[2003年]](平成15年)茶室「常足亭」 に[[チタン]]屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。
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画像:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|鏡湖池と金閣
画像:Rokuonjikinkaku-winter commons.jpg|雪化粧した神秘的な金閣
画像:Kinkakujihonden.jpg|金閣(北東から)
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== 舎利殿(金閣) ==
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File:Kinkakuji Kyoto, Japan. (10795616574).jpg|焼失前の金閣
画像:Kinkakuji, 1893.jpg|焼失前の金閣([[1893年]])
画像:GoldenPavillion1905.jpg|焼失前の金閣をデザインした絵葉書([[1905年]])
画像:Burned Kinkaku.jpg|焼失直後の金閣([[1950年]][[7月2日]])
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=== 建築形式と間取り ===
金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は[[宝形造]]、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製[[鳳凰]]を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.103</ref>。三層は一回り小さく、方3間である。
初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている<ref name="初層1">『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.103</ref>。この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面(東・西面)はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。背面(北面)は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.106</ref>。
初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる<ref name="初層1"/>。西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠[[釈迦如来]]坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する<ref name="初層2">『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.29</ref>。床は板敷、天井は鏡天井とする<ref name="初層2"/>。
二層は[[鎌倉時代]]の武家造りの建築様式で「潮音洞」とよばれ、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。仏間内部は、須弥壇上に[[観音菩薩]]坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には[[四天王]]像が立つ<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.34 - 35</ref>。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.20 - 21</ref>。東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目(須弥壇の背後)を板扉とするほかは板壁とする。
三層は唐様の禅宗仏殿造で「究竟頂」(くっきょうちょう)とよばれ、方3間の1室で、仏舎利を安置する。初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた[[禅宗様]]である<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.23</ref>。三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.30 - 31</ref><ref>本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.100 - 103
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』pp.124 - 127</ref>。「究竟頂」の扁額は[[後小松天皇]]の宸筆である。
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File:Restoration of Kinjakuji in 1955 (2).JPG|修繕の様子(1955年秋)
画像:KinkakuJiDetail.jpg|三層の桟唐戸、[[火灯窓]]、禅宗様高欄
画像:Kinkaku-ji 04.jpg|屋上の鳳凰像
File:Kinkaku-ji 03.jpg|初層内部(宝冠釈迦如来像と足利義満像がみえる)
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=== 放火事件(昭和25年7月2日)からの再建 ===
鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上([[金閣寺放火事件]])。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝[[運慶]]作の観世音菩薩像、春日仏師作の[[夢窓疎石]]像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに[[保津峡]]で投身自殺した。この事件は[[川端龍子]]の日本画『[[金閣炎上]]』、[[三島由紀夫]]の小説『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、[[水上勉]]の小説『[[五番町夕霧楼]]』・『金閣炎上』の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は[[1999年]](平成11年)に京都市指定文化財に指定されている<ref>[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka09.html 文化史09 金閣寺(鹿苑寺)]、京都市歴史資料館「フィールドミュージアム京都」</ref>。なお、当事件にいち早く取材に駆け付けたのは、[[産経新聞]]京都支局の福田定一(後の作家・[[司馬遼太郎]])記者である。
再建金閣は、消失後に故・村上慈海住職らの再建托鉢に始まり、やがて[[村田治郎]]らの指導で1952年(昭和27年)から再建に着手し、1955年(昭和30年)に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。
焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.100 - 101</ref>。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の[[宮上茂隆]]は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.102</ref>。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に[[連子窓]]が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.101 - 102</ref>。
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので<ref>[http://www.kyokenro.or.jp/bunkazai/1998/01/post-10.html 北山 鹿苑寺 金閣|文化財の修理の現場から]、全京都建築労働組合</ref>、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の[[漆|黒漆]]が見えるようになり、その漆も[[紫外線]]で劣化するようになったため、[[1986年]](昭和61年)2月から翌[[1987年]](昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1[[マイクロメートル|µm]])の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55µm)の「五倍箔」<ref>[http://www.koetsuan.jp/kinkaku/index.html 金閣寺昭和大修復]、浩悦庵</ref>約20万枚(約20[[キログラム|kg]])、漆は国産の「[[浄法寺漆]]」約1.5tが使用されている。
屋上の鳳凰像も一新されており、片岡宏幹の作品である。
最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられる<ref>京都市編纂『京都名勝志』(金閣寺の項、1928年、p.468)など</ref>が、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であったという<ref>坂内直頼の論説(『山州名跡志』巻七鹿園寺、1711年、p.159)、村田治郎の文章(鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺、1955年、p.16)、後藤柴三郎(京都府文化財保護課技師:当時)の座談会での証言(村田治郎ほか「金閣の復旧をめぐって」文化財保護委員会監修『日本文化財』No.6、奉仕会出版部、1955年10月、p.32)など</ref>。一方で、「一枚板」は天井ではなく床板であるという説もある。例えば『[[雍州府志]]』巻五に見える鹿苑寺の説明には「斯床三間四面也。以板一枚為床」とある。なお、明治期、鹿苑寺が「一枚板の天井」を目玉として誘客していたことも知られている。
== 境内 ==
[[File:Golden Pavillion 2010 03 29 41.jpg|thumb|200px|金閣(北西から、右手の小建物は「漱清」)]]
[[画像:Rokuonji Sekkatei.jpg|thumb|200px|夕佳亭と南天床柱]]
[[画像:Kinkakuji side pond panorama.jpg|thumb|200px|安民沢と白蛇の塚]]
[[画像:Kinkaku-ji reflection in pond.jpg|thumb|200px|鏡湖池に映る「逆さ金閣」]]
* 方丈 - [[本堂]]に相当。単層[[入母屋造]]で[[瓦葺き|桟瓦葺]]。[[延宝]]6年([[1678年]])、[[後水尾天皇]]の寄進により再建された。[[2005年]]([[平成]]17年)から解体修理が行われ、[[2007年]](平成19年)に修復工事を終えた。
* 茶室「常足亭」
* 陸舟(りくしゅう)の松 - 方丈北側にある[[足利義満]]手植えと伝えられる松。京都三松の一つ。
* 大書院 - 江戸時代中期の[[貞享]]年間([[1684年]] - [[1688年]])の建築。[[伊藤若冲]]の障壁画(襖絵)で知られていたが、保存上の問題から[[承天閣美術館]]に移管され(下記'''[[#文化財|文化財]]'''の項を参照)、現在は[[加藤東一]]によって「淡墨桜図」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている。
* 庫裏 - [[明応]]・[[文亀]]年間([[1492年]] - [[1504年]])建立。
* 唐門 - 方丈(客殿)の門にあたり、正面に[[唐破風]]がついている「向唐門」である。通常は閉め切られている。
* 舎利殿 金閣 - [[#舎利殿(金閣)|舎利殿(金閣)]]の項を参照。
* 天鏡閣跡 - 『臥雲日件録』<ref group="注釈">[[臨済宗]][[相国寺]]の[[瑞渓周鳳]]が[[文安]]3年([[1446年]])から[[文明 (日本)|文明]]5年([[1473年]])まで書いた日記。</ref>に「舎利殿北、有天鏡閣」(舎利殿の北側に天鏡閣がある)と記されており金閣と「複道」で繋がっていた<ref>[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/houkokusyo/15_kin_honbun.pdf 鹿苑寺庭園 防災防犯施設工事に伴う発掘調査報告書]</ref>。『教言卿記』には天鏡閣に15間の会所があったと記されている。外観や構造を詳細に記述した文献や絵図は残っておらず、電子調査を行ったが礎石などの遺構は確認できていない。
* 庭園(国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]]) - 金閣を水面に映す鏡湖池を中心に一帯は[[回遊式庭園|池泉回遊式庭園]]となっている。鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
* 榊雲(シンウン) - 祭神:[[春日神|春日明神]]
* 銀河泉(ぎんがせん) - 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。
* 巌下水(がんかすい) - 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉<ref>{{Cite web|和書|url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=6&ManageCode=1000053 |title = 室町時代<前期>(1392~1467)2 |publisher = 京都観光Navi |accessdate = 2018-02-17 }}</ref>。
* 安民沢 - 西園寺当時の遺跡でもある池。
* 白蛇の塚 - [[西園寺家]]の鎮守とされる。
* 茶室「夕佳亭(せっかてい)」 - [[金森重近|金森宗和]]好みと伝えられる茶室。[[寄棟造]][[茅葺]]、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、[[切妻造]]こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。宗和が作ったものは[[明治]]初年に焼失したため、現在の建物は[[1874年]]([[明治]]7年)に再建されたもの。[[1997年]](平成9年)に解体修理を行っている。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく[[ナンテン|南天]]の木が用いられており、殊によく知られている。
* 不動堂 - [[天正]]年間([[1573年]] - [[1593年]])、[[宇喜多秀家]]による再建。金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は[[空海]](弘法大師)作の伝承を有する[[不動明王|石不動明王]]。江戸時代から既に庶民信仰の対象であった。
* [[荼枳尼天|吒枳尼天]]社
* 鐘楼 - 梵鐘は[[西園寺家]]に由来し、鎌倉時代に作られたとされるもの。
* 総門
* 七重大塔(北山大塔)跡
== 文化財 ==
=== 重要文化財 ===
* 絹本著色[[足利義満]]像(応永十五年六月足利義持賛)・絹本著色足利義満像(義満の和歌三首あり)
* 絹本著色[[達磨]]図
* 大書院障壁画 - [[伊藤若冲]]筆。[[宝暦]]九年の年記がある。
** 紙本墨画葡萄図(葡萄之間)(一之間)15面
** 紙本墨画松鶴図(松鶴之間)(二之間)8面
** 紙本墨画芭蕉図(芭蕉之間)(三之間)12面
** 紙本墨画鶏及秋海棠図(四之間)11面
** 紙本墨画竹図(狭屋之間)4面
* 木造[[不動明王]]立像(不動堂安置) - 西園寺護摩堂旧本尊。
* 子元祖元[[高峰顕日]]問答語
* 慈聖院并寿寧院遺誡
伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である[[相国寺]]が管理しており、[[承天閣美術館]]で保管されている。
=== 国の特別史跡・特別名勝 ===
* 鹿苑寺(金閣寺)庭園 - [[史蹟名勝天然紀念物保存法]](現在の[[文化財保護法]])により[[1925年]]([[大正]]14年)10月8日に史跡・名勝に指定。[[1956年]](昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定。
=== 京都市指定有形文化財 ===
* 金銅鳳凰
* 紙本墨画董奉図 六曲屏風 - [[狩野探幽]]筆。
* 隔冥記 30冊 - 鹿苑寺住持[[鳳林承章]]の日記。
* 鹿苑寺出土の修羅 2基
=== 京都市指定天然記念物 ===
* 鹿苑寺(金閣寺)の[[イチイガシ]] - 境内にあるイチイガシの巨樹は、現在の境内が再建、整備された330年ほど前に植えられたものとも思われるが、通常イチイガシは境内などには植えられないものなので自然植生と考えられ、かつて存在した極相性のカシ林の残存木とも考えられる。樹高19.5m、胸高幹周4.93mに達し、幹の基部は1mくらいまで根上りして板根(幹の支持のために、幹の基部から張り出している根)状になっている。京都に残るイチイガシの巨木として貴重であることから、[[1983年]](昭和58年)6月に京都市の[[天然記念物]]に指定された。
=== 焼失した文化財 ===
[[File:Lost statue of Ashikaga Yoshimitsu at Kinkaku-ji.jpg|thumb|木造足利義満坐像]]
* 鹿苑寺金閣 - [[1897年]](明治30年)12月28日、古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定<ref>文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996年</ref>。[[1929年]]([[昭和]]4年)7月1日、国宝保存法の施行に伴い国宝(旧国宝)となる。[[1950年]](昭和25年)7月2日焼失<ref group="注釈">文化財保護法の施行(1950年8月29日)以前に焼失したため、同法に基づく国宝(新国宝)には指定されていない。</ref>。
* 木造足利義満坐像 - [[1901年]](明治34年)8月2日、古社寺保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定。金閣と共に焼失した<ref>文化庁編『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』、[[便利堂]]、1983年</ref>。
== 前後の札所 ==
; [[神仏霊場巡拝の道]]
: 92 [[仁和寺]] - '''93 鹿苑寺''' - 94 [[平野神社]]
== アクセス ==
* 所在地:京都市北区金閣寺町1
* 交通:[[京都市営バス]]「'''金閣寺道'''」([[京都市営バス西賀茂営業所#12号系統|12]]・[[京都市営バス梅津営業所#59号系統|59]]・[[京都市営バス烏丸営業所#急行101号系統|急行101]]・[[京都市営バス錦林出張所#急行102号系統|急行102]]・[[京都市営バス烏丸営業所#204号系統|204]]・[[京都市営バス九条営業所#205・快速205号系統|205]]・[[京都市営バス梅津営業所#M1・特M1号系統|M1]]号系統)[[バス停留所|バス停]]下車徒歩2分ほど。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』[[淡交社]]、1977年12月1日、井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著
* 『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983年11月 [[竹村俊則]]
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』[[新潮社]]、1992年11月 柴田秋介、[[杉本苑子]]、[[宮上茂隆]]
** 解説 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』淡交社、1977年
** 村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」
*『日本歴史地名大系 京都市の地名』[[平凡社]] 1979年9月1日
*『角川日本地名大辞典 京都府』[[角川書店]] 1982年07月
*『国史大辞典(4)』[[吉川弘文館]] 1984年1月1日
== 関連項目 ==
* [[鹿苑院]]
* [[相国寺]]
* [[慈照寺]] - 通称「銀閣寺」。
* [[有馬頼底]] - 相国寺派管長。
* [[ブラジル金閣寺]]
* [[吉田山 (名古屋市)#聞天閣|聞天閣]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.shokoku-ji.jp/ 相国寺 | 臨済宗相国寺派]
** [https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/ 金閣寺]
* {{Wayback |url=http://www.archi-channel.com/2009/09/30/%e9%b9%bf%e8%8b%91%e5%af%ba%e9%87%91%e9%96%a3%e3%80%80kinkakurokuon-ji-temple/ |title=日本建築の美 Aesthetics in Nippon Architecture 鹿苑寺金閣 |date=20111109171932}}
* {{Cite journal|和書|author=冨井正憲 |title=折衷の美-金閣 |journal=神奈川大学工学研究所所報 |ISSN=03870324 |publisher=神奈川大学 |year=2004 |month=nov |issue=27 |pages=34-40 |naid=110004688911 |url=https://hdl.handle.net/10487/1477 |ref=harv}}
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[[Category:鹿苑寺|*]]
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バンブーアトラス
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バンブーアトラス(1979年4月27日 - 2003年1月8日)は日本のサラブレッド競走馬。1982年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬であり、同年優駿賞最優秀4歳牡馬を受賞した。主戦騎手は岩元市三。種牡馬としても1989年の菊花賞優勝馬バンブービギンなど7頭の中央競馬重賞勝利馬を輩出した。
1979年、北海道浦河町のバンブー牧場に生まれる。父ジムフレンチは1977年にフランスから輸入された種牡馬で、本馬はその初年度産駒。母バンブーシザラは競走馬時代に6勝を挙げている。幼駒の頃からバランスの良い馬体を持ち、期待を受けたが、2歳の秋に股関節を脱臼、様々な手段を講じて治療に努めたが全快に至らず、一時はデビューを危ぶまれた。最終的には「駄目で元々、とりあえず走らせてみる」という結論に達し、牧場主竹田春夫の父・辰一の所有馬として、滋賀県栗東トレーニングセンターの布施正厩舎に入った。
1981年10月、京都競馬場の新馬戦でデビュー。布施厩舎に所属する岩元市三を鞍上に、初戦は3着であった。その後脚部に不安を生じて休養に入り、翌年1月31日の未勝利戦で初勝利を挙げた。次走の400万下条件戦も連勝したが、続く800万下条件戦で2着と敗れたため、4歳クラシック初戦の皐月賞を断念し、目標を東京優駿に切り替えた。
4月3日に条件特別戦で3勝目を挙げた後、東京優駿への前哨戦としてNHK杯(ダービートライアル)に出走。12番人気と低評価だったが、勝ったアスワンから3馬身差の6着と一定の走りを見せた。
5月30日に東京優駿に臨み、当日は28頭立て7番人気の評価であった。レースは1度目のスタート時にカンパイを起こして外枠発走で再スタートしたロングヒエンが逃げる中で先行集団の中を進み、最後の直線半ばで馬群から抜け出して先頭に立った。ゴール前は直後を追って来ていたワカテンザン(2番人気)を半馬身抑えて優勝。走破タイム2分26秒5は、1979年の優勝馬カツラノハイセイコの記録を0.8秒更新するレースレコードであった。騎手、調教師、馬主、生産者のいずれにとっても、これが初めての八大競走優勝となった。この勝利の様子は、翌年に郵政省が発行した「第50回日本ダービー記念切手」にもモデルとして使用された。
東京優駿の後は休養に入り、秋はクラシック二冠となる菊花賞を目標に神戸新聞杯から始動した。ダービー馬であるにもかかわらず8頭立て4番人気という評価で、レースは後方から一気の追い込みを見せながら、勝ったハギノカムイオーから2馬身余の差での3着となった。この競走後、骨折を生じていたことが判明し、菊花賞を断念。以後復帰できず、そのまま競走馬を引退した。
引退後は種牡馬となり、北海道の日高軽種馬農協・荻伏種馬場で繋養された。初年度産駒から抽せん馬のストロングレディーがクイーンステークスを制して産駒が重賞初勝利を挙げ、1989年にはバンブー牧場の生産で、布施が管理したバンブービギンが菊花賞を制し、「父の無念を晴らした」と言われた。布施はバンブーアトラスが菊花賞で好勝負できると確信を持ちながら、出走させられなかったことを長く心残りとしており、普段ささやかな祝杯を「さすがに目一杯、関係者と上げました」と語っている。また岩元は同年3月に騎手を引退して調教師に転身しており、バンブービギンで菊花賞を勝てなかったことが心残りとした。
以後も中距離重賞路線で活躍したエルカーサリバーなどコンスタントに重賞勝利馬を輩出し、内国産有力種牡馬の1頭に数えられた。2002年以降産駒はなく、2003年1月8日、かねて発症していた蹄葉炎の悪化により死亡した。22歳(旧表記23歳)没。
※競走名太字は八大競走。
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。
本馬の主戦騎手を務めた岩元市三の幼馴染みに、「テイエム」の冠名で知られる馬主・竹園正繼がいる。両者はともに鹿児島県垂水町の出身で、少年の頃から親しく付き合っていたが、竹園は高校卒業後に実業家を志して上京したため、以後は長らく没交渉となっていた。しかしバンブーアトラスがダービーを制した際、竹園は勝利騎手インタビューを受ける岩元の姿を偶然にテレビで発見した。竹園は人づてに「岩元は花屋に就職した」聞いていたため非常に驚き、同時に「立派になったな。俺は馬主になって岩元に再会しよう」と決意した。その後、竹園は自身が創業したテイエム技研の成功によって馬主資格を取得し、志通りに馬主として岩元と再会した。その後は馬主・調教師の関係で、GI競走7勝のテイエムオペラオーを輩出するなど広く知られたコンビとなっている。
5代母にアーガー・ハーン3世が生産したエプソムオークス優勝馬ウダイプールがおり、同馬から連なる牝系には数々の活躍馬がいる。母バンブーシザラの従兄には二度の全日本リーディングサイアーを獲得したアローエクスプレス、曾祖母の従兄に同7回のヒンドスタン、ほか同牝系の出身馬にアメリカのブリーダーズカップ・クラシック第1回優勝馬ワイルドアゲインなどがいる。また、伯父のファストバンブーは重賞2勝を挙げている。
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"text": "以後も中距離重賞路線で活躍したエルカーサリバーなどコンスタントに重賞勝利馬を輩出し、内国産有力種牡馬の1頭に数えられた。2002年以降産駒はなく、2003年1月8日、かねて発症していた蹄葉炎の悪化により死亡した。22歳(旧表記23歳)没。",
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"text": "※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。",
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"text": "本馬の主戦騎手を務めた岩元市三の幼馴染みに、「テイエム」の冠名で知られる馬主・竹園正繼がいる。両者はともに鹿児島県垂水町の出身で、少年の頃から親しく付き合っていたが、竹園は高校卒業後に実業家を志して上京したため、以後は長らく没交渉となっていた。しかしバンブーアトラスがダービーを制した際、竹園は勝利騎手インタビューを受ける岩元の姿を偶然にテレビで発見した。竹園は人づてに「岩元は花屋に就職した」聞いていたため非常に驚き、同時に「立派になったな。俺は馬主になって岩元に再会しよう」と決意した。その後、竹園は自身が創業したテイエム技研の成功によって馬主資格を取得し、志通りに馬主として岩元と再会した。その後は馬主・調教師の関係で、GI競走7勝のテイエムオペラオーを輩出するなど広く知られたコンビとなっている。",
"title": "エピソード"
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"text": "5代母にアーガー・ハーン3世が生産したエプソムオークス優勝馬ウダイプールがおり、同馬から連なる牝系には数々の活躍馬がいる。母バンブーシザラの従兄には二度の全日本リーディングサイアーを獲得したアローエクスプレス、曾祖母の従兄に同7回のヒンドスタン、ほか同牝系の出身馬にアメリカのブリーダーズカップ・クラシック第1回優勝馬ワイルドアゲインなどがいる。また、伯父のファストバンブーは重賞2勝を挙げている。",
"title": "血統表"
}
] |
バンブーアトラスは日本のサラブレッド競走馬。1982年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬であり、同年優駿賞最優秀4歳牡馬を受賞した。主戦騎手は岩元市三。種牡馬としても1989年の菊花賞優勝馬バンブービギンなど7頭の中央競馬重賞勝利馬を輩出した。
|
{{参照方法|date=2015年7月}}
{{競走馬
|名 = バンブーアトラス
|画 = no
|性 = [[牡馬|牡]]
|色 = [[鹿毛]]
|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1979年]][[4月27日]]
|死 = [[2003年]][[1月8日]](22歳没)
|父 = [[ジムフレンチ]]
|母 = バンブーシザラ
|母父 = [[テスコボーイ]]
|産 = [[バンブー牧場]]
|国 = {{JPN}} ([[北海道]][[浦河町]])
|主 = 竹田辰一
|調 = [[布施正]] ([[栗東トレーニングセンター|栗東]])
|厩 = 吉田政弘
|績 = 8戦4勝
|金 = 1億505万8900円
}}
'''バンブーアトラス'''([[1979年]][[4月27日]] - [[2003年]][[1月8日]])は[[日本]]の[[サラブレッド]][[競走馬]]。1982年の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬であり、同年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|優駿賞最優秀4歳牡馬]]を受賞した。[[主戦騎手]]は[[岩元市三]]。[[種牡馬]]としても1989年の[[菊花賞]]優勝馬[[バンブービギン]]など7頭の[[中央競馬]][[重賞]]勝利馬を輩出した。
== 経歴 ==
1979年、北海道浦河町の[[バンブー牧場]]に生まれる。父[[ジムフレンチ]]は1977年に[[フランス]]から輸入された種牡馬で、本馬はその初年度産駒。母バンブーシザラは競走馬時代に6勝を挙げている。幼駒の頃からバランスの良い馬体を持ち、期待を受けたが、2歳の秋に股関節を脱臼、様々な手段を講じて治療に努めたが全快に至らず、一時はデビューを危ぶまれた。最終的には「駄目で元々、とりあえず走らせてみる」という結論に達し、牧場主竹田春夫の父・[[竹田辰一|辰一]]の所有馬として、[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]の[[布施正]][[厩舎]]に入った。
=== 戦績 ===
[[1981年]]10月、[[京都競馬場]]の新馬戦でデビュー。布施厩舎に所属する岩元市三を鞍上に、初戦は3着であった。その後脚部に不安を生じて休養に入り、翌年1月31日の未勝利戦で初勝利を挙げた。次走の400万下条件戦も連勝したが、続く800万下条件戦で2着と敗れたため、4歳クラシック初戦の[[皐月賞]]を断念し、目標を東京優駿に切り替えた。
4月3日に条件特別戦で3勝目を挙げた後、東京優駿への前哨戦として[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]](ダービートライアル)に出走。12番人気と低評価だったが、勝った[[アスワン (競走馬)|アスワン]]から3馬身差の6着と一定の走りを見せた。
5月30日に東京優駿に臨み、当日は28頭立て7番人気の評価であった。レースは1度目のスタート時に[[カンパイ (競馬)|カンパイ]]を起こして[[外枠発走]]で再スタートしたロングヒエンが逃げる中で先行集団の中を進み、最後の直線半ばで馬群から抜け出して先頭に立った。ゴール前は直後を追って来ていた[[ワカテンザン]](2番人気)を半馬身抑えて優勝。走破タイム2分26秒5は、1979年の優勝馬[[カツラノハイセイコ]]の記録を0.8秒更新するレースレコードであった。騎手、調教師、馬主、生産者のいずれにとっても、これが初めての[[八大競走]]優勝となった。この勝利の様子は、翌年に[[郵政省]]が発行した「第50回日本ダービー[[記念切手]]」にもモデルとして使用された。
東京優駿の後は休養に入り、秋はクラシック二冠となる[[菊花賞]]を目標に[[神戸新聞杯]]から始動した。ダービー馬であるにもかかわらず8頭立て4番人気という評価で、レースは後方から一気の追い込みを見せながら、勝ったハギノカムイオーから2馬身余の差での3着となった。この競走後、骨折を生じていたことが判明し、菊花賞を断念。以後復帰できず、そのまま競走馬を引退した。
=== 種牡馬時代 ===
引退後は種牡馬となり、北海道の日高軽種馬農協・荻伏種馬場で繋養された。初年度産駒から[[抽せん馬]]のストロングレディーが[[クイーンステークス]]を制して産駒が重賞初勝利を挙げ、1989年にはバンブー牧場の生産で、布施が管理したバンブービギンが菊花賞を制し、「父の無念を晴らした」と言われた。布施はバンブーアトラスが菊花賞で好勝負できると確信を持ちながら、出走させられなかったことを長く心残りとしており、普段ささやかな祝杯を「さすがに目一杯、関係者と上げました」と語っている。また岩元は同年3月に騎手を引退して調教師に転身しており、バンブービギンで菊花賞を勝てなかったことが心残りとした。
以後も中距離重賞路線で活躍した[[エルカーサリバー]]などコンスタントに重賞勝利馬を輩出し、内国産有力種牡馬の1頭に数えられた。2002年以降産駒はなく、2003年1月8日、かねて発症していた[[蹄葉炎]]の悪化により死亡した。22歳(旧表記23歳)没。
== 全成績 ==
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
|colspan="3"|年月日
|競馬場
|レース名
|頭数
|人気
|着順
|距離([[馬場状態|状態]])
|タイム
|着差
|[[騎手]]
|[[負担重量|斤量]]<br/>[kg]
|馬体重<br/>[kg]
|勝ち馬/(2着馬)
|-
|1981
|10.
|4
|[[京都競馬場|京都]]
|新馬
|8
|5
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝1200m(良)
|1:11.4
|0.4秒
|[[岩元市三]]
|53
|492
|イセムーン
|-
|1982
|1.
|31
|[[中京競馬場|中京]]
|未勝利
|11
|1
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(良)
|1:43.5
|1 1/2身
|岩元市三
|55
|504
|(タニノサンビー)
|-
|
|2.
|20
|中京
|つくし賞
|13
|2
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(不)
|1:52.7
|1/2身
|岩元市三
|55
|498
|(ハクバショウグン)
|-
|
|3.
|14
|中京
|あすなろ賞
|8
|2
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1800m(良)
|1:50.2
|0.1秒
|岩元市三
|55
|492
|センターグルフォス
|-
|
|4.
|3
|[[阪神競馬場|阪神]]
|れんげ賞
|10
|2
|{{color|darkred|1着}}
|芝1400m(不)
|1:25.6
|2身
|岩元市三
|55
|492
|(タカノカイウン)
|-
|
|5.
|9
|[[東京競馬場|東京]]
|[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
|16
|12
|6着
|芝2000m(良)
|2:02.0
|0.5秒
|岩元市三
|56
|500
|[[アスワン (競走馬)|アスワン]]
|-
|
|5.
|30
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|28
|7
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|2:26.5
|1/2身
|岩元市三
|57
|500
|([[ワカテンザン]])
|-
|
|10.
|3
|阪神
|[[神戸新聞杯]]
|8
|4
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2000m(良)
|2:00.3
|0.4秒
|岩元市三
|56
|508
|[[ハギノカムイオー]]
|}
※競走名太字は八大競走。
== 主な産駒 ==
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。
*1984年産
**ストロングレディー([[クイーンステークス]])
*1986年産
**[[バンブービギン]]('''菊花賞'''、[[京都新聞杯]])
*1989年産
**[[エルカーサリバー]](日経新春杯、[[ローズステークス]]、金杯、[[アーリントンカップ]])
**バンブーゲネシス([[マーチステークス]])
*1990年産
**プレイリークイーン([[中山牝馬ステークス]])
*1991年産
**アグネスパレード([[チューリップ賞]])
*1995年産
**バンブーマリアッチ([[愛知杯]])
=== 母の父としての主な産駒 ===
*[[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]](父[[サンデーサイレンス]]):[[産経大阪杯]]、[[新潟大賞典]]2勝、[[中山金杯]]
*ナナヨーウイング(父[[セレスティアルストーム]]):[[優駿牝馬|オークス]]2着
== エピソード ==
本馬の主戦騎手を務めた岩元市三の幼馴染みに、「テイエム」の[[冠名]]で知られる馬主・[[竹園正繼]]がいる。両者はともに鹿児島県垂水町の出身で、少年の頃から親しく付き合っていたが、竹園は高校卒業後に実業家を志して上京したため、以後は長らく没交渉となっていた。しかしバンブーアトラスがダービーを制した際、竹園は勝利騎手インタビューを受ける岩元の姿を偶然にテレビで発見した。竹園は人づてに「岩元は花屋に就職した」聞いていたため非常に驚き、同時に「立派になったな。俺は馬主になって岩元に再会しよう」と決意した。その後、竹園は自身が創業したテイエム技研の成功によって馬主資格を取得し、志通りに馬主として岩元と再会した。その後は馬主・調教師の関係で、GI競走7勝の[[テイエムオペラオー]]を輩出するなど広く知られたコンビとなっている。
== 血統表 ==
{{競走馬血統表
|name = バンブーアトラス
|inf = [[リボー系]] / Hyperion 5×4=9.38%
|f = *[[ジムフレンチ]]<br />Jim French 1968<br />鹿毛 アメリカ
|m = バンブーシザラ 1969<br />鹿毛 日本
|ff = [[グロースターク|Graustark]] 1963<br />栗毛 アメリカ
|fm = [[ディナーパートナー|Dinner Partner]] 1969<br />鹿毛 アメリカ
|mf = *[[テスコボーイ]]<br />Tesco Boy 1963<br />黒鹿毛 イギリス
|mm = *シザラ<br />Cithara 1955<br />栃栗毛 イギリス
|fff = [[リボー|Ribot]]
|ffm = [[フラワーボウル|Flower Bowl]]
|fmf = [[トムフール|Tom Fool]]
|fmm = Bluehaze
|mff = [[プリンスリーギフト|Princely Gift]]
|mfm = Suncourt
|mmf = Marsyas
|mmm = Panagani
|ffff = [[テネラニ|Tenerani]]
|fffm = Romanella
|ffmf = [[アリバイ (競走馬)|Alibhai]]
|ffmm = Flower Bed
|fmff = [[メノウ (競走馬)|Menow]]
|fmfm = Gaga
|fmmf = [[ブルーラークスパー|Blue Larkspur]]
|fmmm = Flaming Swords
|mfff = [[ナスルーラ|Nasrullah]]
|mffm = Blue Gem
|mfmf = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]
|mfmm = Inquisition
|mmff = Trimdon
|mmfm = Astronomie
|mmmf = [[フェアトライアル|Fair Trial]]
|mmmm = Clovelly [[ファミリーナンバー|F-No.3-e]]
}}
5代母に[[アーガー・ハーン3世]]が生産した[[エプソムオークス]]優勝馬[[ウダイプール (競走馬)|ウダイプール]]がおり、同馬から連なる[[ファミリーライン|牝系]]には数々の活躍馬がいる。母バンブーシザラの従兄には二度の全日本[[リーディングサイアー]]を獲得した[[アローエクスプレス]]、曾祖母の従兄に同7回の[[ヒンドスタン]]、ほか同牝系の出身馬にアメリカの[[ブリーダーズカップ・クラシック]]第1回優勝馬[[ワイルドアゲイン]]などがいる。また、伯父の[[ファストバンブー]]は重賞2勝を挙げている。
== 参考文献 ==
*今井昭雄『ダービー馬の履歴書』(保育資料社、1987年)ISBN 978-4829302170
*『[[優駿]]』1982年8月号(日本中央競馬会)
**[[西野広祥]]「ダービー馬の故郷 バンブー牧場 - 初出走初制覇のダービー」
*『優駿』1990年1月号(日本中央競馬会)
**寺田文雄「今月の記録室 - 第50回菊花賞 バンブービギン」
*『優駿』2000年8月号(日本中央競馬会)
**石田敏徳「2000年春の主役に聞くインタビュー・スペシャル - 竹園正繼オーナー 引き寄せた「成功」」
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1979101247|jbis=0000114852}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000114852|バンブーアトラス}}
{{JRA賞最優秀3歳牡馬|優駿賞最優秀4歳牡馬}}
{{東京優駿勝ち馬}}
{{デフォルトソート:はんふうあとらす}}
[[Category:1979年生 (競走馬)|日はんふうあとらす]]
[[Category:2003年没]]
[[Category:サラブレッド]]
[[Category:日本生産の競走馬]]
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エルコンドルパサー
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エルコンドルパサー(欧字名:El Condor Pasa、1995年3月17日 - 2002年7月16日)は、アメリカ合衆国で生産された日本の競走馬、種牡馬。
日本人実業家・渡邊隆による生産所有馬。1997年に中央競馬(JRA)でデビューし、翌1998年にNHKマイルカップとジャパンカップを制し、JRA賞最優秀4歳牡馬に選出される。1999年にはフランスへの長期遠征を行い、サンクルー大賞などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる凱旋門賞で2着の成績を残して引退。同年は日本で未出走ながらJRA年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。インターナショナル・クラシフィケーションによるレート「134」、タイムフォームによるレート「136」は、いずれも2022年時点で日本調教馬についての史上最高数値として保持されている。
2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に腸捻転により死亡。遺された3世代からはヴァーミリアン、ソングオブウインド、アロンダイトと3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、JRA顕彰馬に選出。
以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された数え年で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている満年齢で記述。
生産者・馬主の渡邊隆は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった。渡邊はサドラーズウェルズやその全弟のフェアリーキング、ヌレイエフといった世界的な大種牡馬を輩出していたソングの牝系に憧れを抱き、日頃から外国の血統書やせり名簿に目を通していたが、1992年のある日イギリスのタタソールズセリのせり名簿に載っていた、ソングの曾孫にしてサドラーズウェルズの産駒で、母の父にシアトルスルー、「ソングの3×4」というクロスを有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた。サドラーズギャルは体調不良のためタタソールズセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが、諦められなかった渡邊はエージェントを介して牧場サイドと交渉を行い、改めて買い取ることに成功。そしてサドラーズギャルをアメリカ・ケンタッキー州のレーンズエンドファームへ預託した。
同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げたミスタープロスペクター産駒・キングマンボの生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフの孫でG1競走10勝の名牝・ミエスクの仔であることに惹かれた渡邊は、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配させた。両馬が配合されるとソング、ノーザンダンサー、ネイティヴダンサー、フォルリ、スペシャルといった多くのクロスが発生し、後に渡邊は「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」と語ったが、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという。渡邊はこのような配合をした理由について「ヨーロッパで種牡馬にしたかったから」とし、「そのためにはヨーロッパの二千メートルのGIに勝ちたい」と意気込んでいた渡邊は、種牡馬選定レースとして評価が高いイギリスのエクリプスステークスを第一目標に挙げていた。エルコンドルパサーの配合を編み出した渡邊はアメリカの競馬誌『デイリーレーシングフォーム』において「フェデリコ・テシオ、マルセル・ブサックに続く(Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)」と絶賛され、またエルコンドルパサーは「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう(With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)」と高い評価を受けた。
1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた調教師・二ノ宮敬宇(にのみや・よしたか。のち管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった。翌1996年1月に日本へ輸送され、北海道門別町のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教を開始した。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、茨城県・美浦トレーニングセンターの二ノ宮のもとへ入厩した。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度だった。一方、デビュー当週の併走による調教で本馬に騎乗した的場均はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望してデビュー戦の騎手を務めることになった。
競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「コンドルは飛んでいく」に由来する。渡邊が慶應義塾体育会ソッカー部在籍時に中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その先輩を尊敬していたことから、父名の一部「マンボ」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代はデビュー前の骨折で予後不良となっていた。
デビュー戦は11月8日の東京開催で迎えた。まだ身体が出来上がっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、ダートの1600メートル戦が選ばれた。単勝オッズ2.5倍でステルスショットと並んでの1番人気に推されたが、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、的場がスパートを掛けると先行勢を一気にかわして先頭に立つ。さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり、後に京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた。上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、他馬は全て40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーが記録したものは37秒2という突出したものだった。このレースについて的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった」と回顧し、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している。渡邊は4コーナーを回った時点でも最後方を走っていたことで帰ろうとしていたところを、直線でのスパートを見て非常に驚き、「こんなに走ると思わなかった」と当時思っていたと回顧している。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったため、「小心な馬」とも感じていたという。
翌1998年1月に2戦目(中山開催、ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に前走を上回る9馬身差をつけて連勝した。
このあと二ノ宮は的場に対して、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーと同期馬にしてこちらも的場が主戦騎手を務める朝日杯3歳ステークス優勝馬・グラスワンダーがおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったためである。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された。
3戦目・共同通信杯4歳ステークスで重賞に初出走。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の東京新聞杯(優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった。
競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった。これを受け、管理調教師の尾形充弘はエルコンドルパサー陣営に対して的場の騎乗継続を進言したが、既に後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標としたNHKマイルカップの前哨戦・ニュージーランドトロフィー4歳ステークスへ臨むことになった。
ニュージーランドトロフィーでは初の芝のレースへの出走、また距離短縮への不安が懸念され、出走メンバーも前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていたマイネルラヴ、フラワーカップ優勝馬スギノキューティーらが相手となったが、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された。初の芝コースに返し馬ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を語り、二ノ宮は「この距離と出走頭数では馬群を捌くのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手く捌いてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい」と的場の騎乗を称えた。
5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他にトキオパーフェクト、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた。レースではそれまでにない好スタートを切ると、道中では3、4番手を追走。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした。この勝利は二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった。
的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている」、「デビュー当時は心配な面もあったが、こちらの思うとおりに成長してくれた。本当に能力の高い、素晴らしい馬です」などと感想を述べた。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と語った。渡邊は後に、NHKマイルカップを勝利したことで海外遠征も考えるようになったと回顧している。
NHKマイルカップ後、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養及び秋の目標をマイルチャンピオンシップに据えることを明言したが、後に方針が変わり、目標は国際招待競走のジャパンカップに改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「マイル」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていた。ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であったが、渡邊は血統の観点から母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合はマイルよりも2000メートルから2400メートルの方が向いていると考えていた。
この変更は年度代表馬争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の東京優駿(日本ダービー)優勝馬・スペシャルウィーク、そして春夏に安田記念とフランスのG1競走ジャック・ル・マロワ賞を制していたタイキシャトルに対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有したホスピタリテイが、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた。又、政治家の中川昭一とは、互いの娘が同級生という縁から私的に親交があった。中川が小渕内閣で農水相を務めていた当時の1998年8月、オフサイドトラップが「農林水産大臣賞典」の新潟記念を勝った際にその旨を中川に伝えたところ、「僕はジャパンカップの表彰式に行くことになってる」と聞かされ、これが同競走へエルコンドルパサーが出走する選択理由のひとつになったという。ジャパンカップも農林水産大臣賞典であり、優勝した場合は渡邊は中川から優勝トロフィーを授与されることになる。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる京都コースが馬に良くないと嫌がっていたともいう。ただし、この後毎日王冠での敗戦後に渡邊は「自分のエゴで愛馬に負担をかけることにならないか」と不安になることがあったため、二ノ宮に「実績のあるマイル戦(マイルチャンピオンシップ)に行くべきかとも考えたけど、二ノ宮さんはどう思いますか?」と相談したところ、二ノ宮は悩むことなく「どちらへ行っても勝てます。どうしますか?」と答えたため、迷いが無くなったという。
ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の毎日王冠であった。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたため、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した。
的場の後任としては、第一候補として翌年の遠征を見据えてフランス人騎手のオリビエ・ペリエが挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念。次いで国際経験も豊富な武豊に打診したが、春のグランプリ・宝塚記念を含め5連勝中のサイレンススズカと共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた蛯名正義に決まった。蛯名は7月11日に行われた七夕賞、8月30日に行われた新潟記念とこちらも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた蛯名武五郎の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている。
10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が東京競馬場に詰めかけた。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持され、2番人気には休養前の怪物的なイメージや的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった。スタートが切られると、逃げ馬のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6、1000メートルを57秒7というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった。
蛯名は「相手が強かった。完敗だった」としたが、「負けはしたが、タイムは速いし、こっちは4歳馬だからね」とも語った。二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している。一方、勝利したサイレンススズカ鞍上の武豊は、勝利騎手インタビュー後の地下道で「2着の馬(エルコンドルパサー)も強いよ。休み明けで57kgを背負っていたんだから。サイレンスは4歳の時はあんなに走れなかった」と感想を述べている。
なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない天皇賞(秋)を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった。
11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年のブリーダーズカップ・ターフ優勝馬・チーフベアハートのみだったことで、戦前から『近年稀に見る大物不在』と言われる日本馬優勢の前評判であった。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・スペシャルウィークが推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬エアグルーヴが入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた。エルコンドルパサーは当時父のキングマンボがマイラーと見られていたことと毎日王冠から距離が600メートル延びるという不安が懸念され、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた。
レースではサイレントハンターが単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした。
蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り、「はじめて乗った時から、スーパーホースになってくれるんじゃないかと期待を抱かせてくれた馬なんです。その期待に今日は応えてくれた。ホント、強さは半端じゃないですよ」とコメントした。二ノ宮は「走る馬は極端なステイヤーやスプリンターでない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『プレストウコウで菊花賞を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した。ジャパンカップでのレースぶりについて柴田政人は、「正攻法のレースをして力で勝った、という点を評価したいね。相当強い勝ち方ですよ」と称賛し、野平祐二は1コーナーまでに馬を控えさせた蛯名の騎乗を称賛すると同時に、柴田が用いた正攻法という表現について、「2400mのレースでまともに競馬をやってちゃんと勝たせたのだから、すごいわけよ」と称している。
秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・有馬記念へは出走せず、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した。
当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは皐月賞と菊花賞に優勝したセイウンスカイを抑え、最優秀4歳牡馬に選出された。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げたタイキシャトルが208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった。
仮定の負担重量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限ればイギリスダービー優勝馬ハイライズ(127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬サガミックスと並ぶ世界第2位の評価であった。
1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、アメリカのブリーダーズカップ、UAEのドバイワールドカップといった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された。渡邊は従来の日本馬の遠征のように狙いを定めたレースにスポット参戦するやり方では好結果が得られないのではないかと考え、この場で「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません。勝とうと思ったら欧州仕様の馬にする必要があるので、ある程度、腰を据えて挑戦しないといけないと考えています」と発言し、今回の遠征が長期遠征であることを発表した。ただし、当時はまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春はイスパーン賞かブリガディアジェラードステークスを経て、エクリプスステークスへ」という展望を語っていた。
エルコンドルパサーは冬場を休養に充てられ、2月10日に休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となるシャンティイ調教場のトニー・クラウト厩舎に入った。本厩舎は前年のジャック・ル・マロワ賞を制したタイキシャトルも預託されていたが、平松さとしによるとトニーは「実はタイキシャトルよりも先にエルコンドルパサーの話が合ったんです」と言っていたといい、トニーは1991年に来日した際に共通の知人を通して渡邊を紹介してもらっていた。1998の2月に再来日した折、渡邊と再会したトニーは渡邊から「エルコンドルパサーが強くなって遠征する際にはよろしくお願いします」と言われていたという。
21日に二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった。
調教開始後、エルコンドルパサーは日本より遥かに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せ、より盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていた。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった。それでも、調教助手の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている。
5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気のクロコルージュにゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという。
6月2日、エルコンドルパサーが年内で引退し、種牡馬として18億円のシンジケートが組まれたうえで社台スタリオンステーションで繋養されることが明らかとなった。
イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった。次走はイギリスのロイヤルアスコット開催で行われるプリンスオブウェールズステークス(G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった。
7月4日、G1・サンクルー大賞へ出走。芝丈が長く起伏に富んだサンクルー競馬場のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの斤量といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた。陣営もスタミナ面に不安を抱いていたが、クラウトから「この馬は12ハロンでも問題ない」と説かれ、出走を決意した。また相手は大幅に強化され、前年のフランスダービー、アイリッシュダービーを制し全欧年度代表馬に選ばれたドリームウェル、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒル、ドイチェスダービー優勝馬でアメリカのブリーダーズカップ・ターフでも2着の実績があるボルジアといった全欧の一線級が揃い、「近年最高のメンバーが揃った」という評もあった。
当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた。サンクルー大賞で上記のメンバーを相手に勝利したことと安定したレースぶりから、エルコンドルパサーはヨーロッパでも注目を集めることなった。
サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・モンジューに並び、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り、渡邊のブレーンの一人であった合田直弘は「遠征の成否を分ける剣が峰だった」と振り返っている。
サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口に菌が入り炎症を起こすフレグモーネの症状であった。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く屈腱炎に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ。
凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・エリシオが使った1600メートル戦、ムーラン・ド・ロンシャン賞を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じロンシャン競馬場の2400メートルで行われるフォワ賞(G2)が選択された。
9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進め、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた。この日は1969年の凱旋門賞に出走したスピードシンボリの主戦騎手・野平祐二も応援に駆け付け、渡邊は野平の「日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けた」という言葉を聞いて目頭が熱くなったという。この日は世論の盛り上がりに押されてNHKがレースの模様を生中継していた。
同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られるニエユ賞ではモンジューが、ヴェルメイユ賞ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた。モンジューは終始進路が塞がっていた中、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという。また前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていたデイラミが圧勝していた。
フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりを見せた。この頃にはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという。
10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた。
スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った。モンジュー陣営が用意していたペースメーカー・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めた。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた。
敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた。渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した。
エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国。帰国時には空港に「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掲げられて出迎えられた。日本中央競馬会や種牡馬としての繋養先となる社台スタリオンステーションからは、現役を続行しジャパンカップへ出走するよう要望が送られたが、渡邊はこれを固辞し、「余力を持って牧場に送り返すのもオーナーの役割」と語った。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えたジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った。
式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した厩務員・根来邦雄に付き添われ、北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている。
翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーの他、春秋の天皇賞とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念の春秋グランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことで、11人で構成された選考委員会で審議されることになった。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していたエアジハード(最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・白井寿昭や伊藤雄二といったホースマンからも異議が唱えられた。作家の木村幸治はこの結果について「スペシャルウィークも武豊も見事だった。しかし『日本競馬人が、エルコンドルパサーと蛯名正義のフランスでの仕事を"フロック"と評価した』と世界から誤解されないために、世界にしっかりと敬意を表す意味で選んだのではなかったか」と述べている。
JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった。
なお、当年は馬主の渡邊に対しても東京競馬記者クラブ賞が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた。
種牡馬としては当時リーディングサイアーの地位を占め続けていたサンデーサイレンスに代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する社台グループの繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた。しかし3年目の種付けを終えた後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは腸捻転により社台スタリオンステーションで死亡した。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた。遺骨は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立された。
死から2年後の2004年、2年目の産駒であるヴァーミリアンがラジオたんぱ杯2歳ステークスを制し、種牡馬としての重賞初勝利。2006年秋にはソングオブウインドが菊花賞、アロンダイトがジャパンカップダートと、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った川崎記念を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝という日本記録を樹立。また、トウカイトリックはGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年ステイヤーズステークス)、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年阪神大賞典)を打ち立てた。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた。
JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした。
以下の内容は、netkeiba.com、Racing Postおよび『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』の情報に基づく。
蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、2000年に受けたインタビューにおいて「本当にパーフェクトと言っていい」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬」と評している。二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている。野平祐二はエルコンドルパサーの成長力について、陣営のレースへの使い方を評価しつつ、「めいっぱいの力を他人にあまり見せないで、いつの間にか強くなった」と評している。
社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、サドラーズウェルズが出ているのかミスタープロスペクターが出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている。
エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、シーキングザパール、タイキシャトル、アグネスワールドといった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンドルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている。日本馬主協会連合会はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、1979(昭和54)年以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した。
蛯名正義は「世界に挑戦してきた人たちの努力が無駄ではないことを証明してくれた」と述べ、伊藤雄二はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と評した。瀬戸口勉も「外国であれだけ結果を出した馬はいない」と評している。吉沢譲治は凱旋門賞について、「限りなく金メダルに近い銀メダルだろう。過去の日本馬の凱旋門賞挑戦は、何十馬身もちぎられて入線する屈辱を繰り返すばかりだった。それだけに、どえらいことをやってのけた馬という印象が強い」と述べている。二ノ宮敬宇はエルコンドルパサーが顕彰馬に選定されたことを受けて、「エルコンドルパサーが凱旋門賞への扉を少しでも開ける一助となれたことに、我々の行ったことが無意味ではなかったと証明されたように思います」と語った。
1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、2018年時点で、日本調教馬に与えられた史上最高の数値である。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付されたディープインパクトを引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている。
なお、2010年には二ノ宮が管理するナカヤマフェスタが蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み、イギリスのワークフォースから頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれが初めてのことだった。2012年と2013年の凱旋門賞ではオルフェーヴルが2着となっている。
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。
父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝している。サドラーズギャルとの交配が行われた年は種牡馬として1年目であり、エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に日本でスターキングマン、キングカメハメハ、アルカセットといったGI馬が出たことで日本の芝に合う種牡馬との定評ができ、海外においてもレモンドロップキッド、キングズベストなどを送り出したことで、世界中で活躍馬を輩出する種牡馬となった。
母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝。曾祖母リサデルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている。5代母ラフショッド(Rough Shod。ソング Thongの母)からは世界的に牝系が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている。
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"text": "エルコンドルパサー(欧字名:El Condor Pasa、1995年3月17日 - 2002年7月16日)は、アメリカ合衆国で生産された日本の競走馬、種牡馬。",
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"text": "日本人実業家・渡邊隆による生産所有馬。1997年に中央競馬(JRA)でデビューし、翌1998年にNHKマイルカップとジャパンカップを制し、JRA賞最優秀4歳牡馬に選出される。1999年にはフランスへの長期遠征を行い、サンクルー大賞などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる凱旋門賞で2着の成績を残して引退。同年は日本で未出走ながらJRA年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。インターナショナル・クラシフィケーションによるレート「134」、タイムフォームによるレート「136」は、いずれも2022年時点で日本調教馬についての史上最高数値として保持されている。",
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"text": "2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に腸捻転により死亡。遺された3世代からはヴァーミリアン、ソングオブウインド、アロンダイトと3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、JRA顕彰馬に選出。",
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"text": "以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された数え年で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている満年齢で記述。",
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"text": "生産者・馬主の渡邊隆は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった。渡邊はサドラーズウェルズやその全弟のフェアリーキング、ヌレイエフといった世界的な大種牡馬を輩出していたソングの牝系に憧れを抱き、日頃から外国の血統書やせり名簿に目を通していたが、1992年のある日イギリスのタタソールズセリのせり名簿に載っていた、ソングの曾孫にしてサドラーズウェルズの産駒で、母の父にシアトルスルー、「ソングの3×4」というクロスを有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた。サドラーズギャルは体調不良のためタタソールズセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが、諦められなかった渡邊はエージェントを介して牧場サイドと交渉を行い、改めて買い取ることに成功。そしてサドラーズギャルをアメリカ・ケンタッキー州のレーンズエンドファームへ預託した。",
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"text": "同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げたミスタープロスペクター産駒・キングマンボの生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフの孫でG1競走10勝の名牝・ミエスクの仔であることに惹かれた渡邊は、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配させた。両馬が配合されるとソング、ノーザンダンサー、ネイティヴダンサー、フォルリ、スペシャルといった多くのクロスが発生し、後に渡邊は「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」と語ったが、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという。渡邊はこのような配合をした理由について「ヨーロッパで種牡馬にしたかったから」とし、「そのためにはヨーロッパの二千メートルのGIに勝ちたい」と意気込んでいた渡邊は、種牡馬選定レースとして評価が高いイギリスのエクリプスステークスを第一目標に挙げていた。エルコンドルパサーの配合を編み出した渡邊はアメリカの競馬誌『デイリーレーシングフォーム』において「フェデリコ・テシオ、マルセル・ブサックに続く(Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)」と絶賛され、またエルコンドルパサーは「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう(With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)」と高い評価を受けた。",
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"text": "1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた調教師・二ノ宮敬宇(にのみや・よしたか。のち管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった。翌1996年1月に日本へ輸送され、北海道門別町のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教を開始した。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、茨城県・美浦トレーニングセンターの二ノ宮のもとへ入厩した。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度だった。一方、デビュー当週の併走による調教で本馬に騎乗した的場均はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望してデビュー戦の騎手を務めることになった。",
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"text": "競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「コンドルは飛んでいく」に由来する。渡邊が慶應義塾体育会ソッカー部在籍時に中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その先輩を尊敬していたことから、父名の一部「マンボ」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代はデビュー前の骨折で予後不良となっていた。",
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"text": "デビュー戦は11月8日の東京開催で迎えた。まだ身体が出来上がっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、ダートの1600メートル戦が選ばれた。単勝オッズ2.5倍でステルスショットと並んでの1番人気に推されたが、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、的場がスパートを掛けると先行勢を一気にかわして先頭に立つ。さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり、後に京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた。上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、他馬は全て40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーが記録したものは37秒2という突出したものだった。このレースについて的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった」と回顧し、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している。渡邊は4コーナーを回った時点でも最後方を走っていたことで帰ろうとしていたところを、直線でのスパートを見て非常に驚き、「こんなに走ると思わなかった」と当時思っていたと回顧している。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったため、「小心な馬」とも感じていたという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "翌1998年1月に2戦目(中山開催、ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に前走を上回る9馬身差をつけて連勝した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "このあと二ノ宮は的場に対して、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーと同期馬にしてこちらも的場が主戦騎手を務める朝日杯3歳ステークス優勝馬・グラスワンダーがおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったためである。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された。",
"title": "生涯"
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"text": "3戦目・共同通信杯4歳ステークスで重賞に初出走。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の東京新聞杯(優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった。これを受け、管理調教師の尾形充弘はエルコンドルパサー陣営に対して的場の騎乗継続を進言したが、既に後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標としたNHKマイルカップの前哨戦・ニュージーランドトロフィー4歳ステークスへ臨むことになった。",
"title": "生涯"
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"text": "ニュージーランドトロフィーでは初の芝のレースへの出走、また距離短縮への不安が懸念され、出走メンバーも前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていたマイネルラヴ、フラワーカップ優勝馬スギノキューティーらが相手となったが、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された。初の芝コースに返し馬ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を語り、二ノ宮は「この距離と出走頭数では馬群を捌くのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手く捌いてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい」と的場の騎乗を称えた。",
"title": "生涯"
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"text": "5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他にトキオパーフェクト、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた。レースではそれまでにない好スタートを切ると、道中では3、4番手を追走。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした。この勝利は二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている」、「デビュー当時は心配な面もあったが、こちらの思うとおりに成長してくれた。本当に能力の高い、素晴らしい馬です」などと感想を述べた。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と語った。渡邊は後に、NHKマイルカップを勝利したことで海外遠征も考えるようになったと回顧している。",
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"text": "NHKマイルカップ後、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養及び秋の目標をマイルチャンピオンシップに据えることを明言したが、後に方針が変わり、目標は国際招待競走のジャパンカップに改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「マイル」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていた。ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であったが、渡邊は血統の観点から母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合はマイルよりも2000メートルから2400メートルの方が向いていると考えていた。",
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},
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"paragraph_id": 17,
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"text": "この変更は年度代表馬争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の東京優駿(日本ダービー)優勝馬・スペシャルウィーク、そして春夏に安田記念とフランスのG1競走ジャック・ル・マロワ賞を制していたタイキシャトルに対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有したホスピタリテイが、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた。又、政治家の中川昭一とは、互いの娘が同級生という縁から私的に親交があった。中川が小渕内閣で農水相を務めていた当時の1998年8月、オフサイドトラップが「農林水産大臣賞典」の新潟記念を勝った際にその旨を中川に伝えたところ、「僕はジャパンカップの表彰式に行くことになってる」と聞かされ、これが同競走へエルコンドルパサーが出走する選択理由のひとつになったという。ジャパンカップも農林水産大臣賞典であり、優勝した場合は渡邊は中川から優勝トロフィーを授与されることになる。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる京都コースが馬に良くないと嫌がっていたともいう。ただし、この後毎日王冠での敗戦後に渡邊は「自分のエゴで愛馬に負担をかけることにならないか」と不安になることがあったため、二ノ宮に「実績のあるマイル戦(マイルチャンピオンシップ)に行くべきかとも考えたけど、二ノ宮さんはどう思いますか?」と相談したところ、二ノ宮は悩むことなく「どちらへ行っても勝てます。どうしますか?」と答えたため、迷いが無くなったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の毎日王冠であった。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたため、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "的場の後任としては、第一候補として翌年の遠征を見据えてフランス人騎手のオリビエ・ペリエが挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念。次いで国際経験も豊富な武豊に打診したが、春のグランプリ・宝塚記念を含め5連勝中のサイレンススズカと共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた蛯名正義に決まった。蛯名は7月11日に行われた七夕賞、8月30日に行われた新潟記念とこちらも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた蛯名武五郎の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が東京競馬場に詰めかけた。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持され、2番人気には休養前の怪物的なイメージや的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった。スタートが切られると、逃げ馬のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6、1000メートルを57秒7というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "蛯名は「相手が強かった。完敗だった」としたが、「負けはしたが、タイムは速いし、こっちは4歳馬だからね」とも語った。二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している。一方、勝利したサイレンススズカ鞍上の武豊は、勝利騎手インタビュー後の地下道で「2着の馬(エルコンドルパサー)も強いよ。休み明けで57kgを背負っていたんだから。サイレンスは4歳の時はあんなに走れなかった」と感想を述べている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない天皇賞(秋)を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年のブリーダーズカップ・ターフ優勝馬・チーフベアハートのみだったことで、戦前から『近年稀に見る大物不在』と言われる日本馬優勢の前評判であった。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・スペシャルウィークが推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬エアグルーヴが入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた。エルコンドルパサーは当時父のキングマンボがマイラーと見られていたことと毎日王冠から距離が600メートル延びるという不安が懸念され、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた。",
"title": "生涯"
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"text": "レースではサイレントハンターが単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り、「はじめて乗った時から、スーパーホースになってくれるんじゃないかと期待を抱かせてくれた馬なんです。その期待に今日は応えてくれた。ホント、強さは半端じゃないですよ」とコメントした。二ノ宮は「走る馬は極端なステイヤーやスプリンターでない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『プレストウコウで菊花賞を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した。ジャパンカップでのレースぶりについて柴田政人は、「正攻法のレースをして力で勝った、という点を評価したいね。相当強い勝ち方ですよ」と称賛し、野平祐二は1コーナーまでに馬を控えさせた蛯名の騎乗を称賛すると同時に、柴田が用いた正攻法という表現について、「2400mのレースでまともに競馬をやってちゃんと勝たせたのだから、すごいわけよ」と称している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・有馬記念へは出走せず、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは皐月賞と菊花賞に優勝したセイウンスカイを抑え、最優秀4歳牡馬に選出された。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げたタイキシャトルが208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "仮定の負担重量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限ればイギリスダービー優勝馬ハイライズ(127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬サガミックスと並ぶ世界第2位の評価であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、アメリカのブリーダーズカップ、UAEのドバイワールドカップといった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された。渡邊は従来の日本馬の遠征のように狙いを定めたレースにスポット参戦するやり方では好結果が得られないのではないかと考え、この場で「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません。勝とうと思ったら欧州仕様の馬にする必要があるので、ある程度、腰を据えて挑戦しないといけないと考えています」と発言し、今回の遠征が長期遠征であることを発表した。ただし、当時はまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春はイスパーン賞かブリガディアジェラードステークスを経て、エクリプスステークスへ」という展望を語っていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "エルコンドルパサーは冬場を休養に充てられ、2月10日に休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となるシャンティイ調教場のトニー・クラウト厩舎に入った。本厩舎は前年のジャック・ル・マロワ賞を制したタイキシャトルも預託されていたが、平松さとしによるとトニーは「実はタイキシャトルよりも先にエルコンドルパサーの話が合ったんです」と言っていたといい、トニーは1991年に来日した際に共通の知人を通して渡邊を紹介してもらっていた。1998の2月に再来日した折、渡邊と再会したトニーは渡邊から「エルコンドルパサーが強くなって遠征する際にはよろしくお願いします」と言われていたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "21日に二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "調教開始後、エルコンドルパサーは日本より遥かに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せ、より盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていた。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった。それでも、調教助手の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気のクロコルージュにゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "6月2日、エルコンドルパサーが年内で引退し、種牡馬として18億円のシンジケートが組まれたうえで社台スタリオンステーションで繋養されることが明らかとなった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった。次走はイギリスのロイヤルアスコット開催で行われるプリンスオブウェールズステークス(G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "7月4日、G1・サンクルー大賞へ出走。芝丈が長く起伏に富んだサンクルー競馬場のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの斤量といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた。陣営もスタミナ面に不安を抱いていたが、クラウトから「この馬は12ハロンでも問題ない」と説かれ、出走を決意した。また相手は大幅に強化され、前年のフランスダービー、アイリッシュダービーを制し全欧年度代表馬に選ばれたドリームウェル、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒル、ドイチェスダービー優勝馬でアメリカのブリーダーズカップ・ターフでも2着の実績があるボルジアといった全欧の一線級が揃い、「近年最高のメンバーが揃った」という評もあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた。サンクルー大賞で上記のメンバーを相手に勝利したことと安定したレースぶりから、エルコンドルパサーはヨーロッパでも注目を集めることなった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・モンジューに並び、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り、渡邊のブレーンの一人であった合田直弘は「遠征の成否を分ける剣が峰だった」と振り返っている。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口に菌が入り炎症を起こすフレグモーネの症状であった。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く屈腱炎に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・エリシオが使った1600メートル戦、ムーラン・ド・ロンシャン賞を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じロンシャン競馬場の2400メートルで行われるフォワ賞(G2)が選択された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進め、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた。この日は1969年の凱旋門賞に出走したスピードシンボリの主戦騎手・野平祐二も応援に駆け付け、渡邊は野平の「日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けた」という言葉を聞いて目頭が熱くなったという。この日は世論の盛り上がりに押されてNHKがレースの模様を生中継していた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られるニエユ賞ではモンジューが、ヴェルメイユ賞ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた。モンジューは終始進路が塞がっていた中、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという。また前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていたデイラミが圧勝していた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりを見せた。この頃にはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った。モンジュー陣営が用意していたペースメーカー・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めた。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた。",
"title": "生涯"
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"text": "敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた。渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した。",
"title": "生涯"
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"text": "エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国。帰国時には空港に「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掲げられて出迎えられた。日本中央競馬会や種牡馬としての繋養先となる社台スタリオンステーションからは、現役を続行しジャパンカップへ出走するよう要望が送られたが、渡邊はこれを固辞し、「余力を持って牧場に送り返すのもオーナーの役割」と語った。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えたジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った。",
"title": "生涯"
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"text": "式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した厩務員・根来邦雄に付き添われ、北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている。",
"title": "生涯"
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"text": "翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーの他、春秋の天皇賞とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念の春秋グランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことで、11人で構成された選考委員会で審議されることになった。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していたエアジハード(最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・白井寿昭や伊藤雄二といったホースマンからも異議が唱えられた。作家の木村幸治はこの結果について「スペシャルウィークも武豊も見事だった。しかし『日本競馬人が、エルコンドルパサーと蛯名正義のフランスでの仕事を\"フロック\"と評価した』と世界から誤解されないために、世界にしっかりと敬意を表す意味で選んだのではなかったか」と述べている。",
"title": "生涯"
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"text": "JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった。",
"title": "生涯"
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"text": "なお、当年は馬主の渡邊に対しても東京競馬記者クラブ賞が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた。",
"title": "生涯"
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"text": "種牡馬としては当時リーディングサイアーの地位を占め続けていたサンデーサイレンスに代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する社台グループの繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた。しかし3年目の種付けを終えた後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは腸捻転により社台スタリオンステーションで死亡した。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた。遺骨は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立された。",
"title": "生涯"
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"text": "死から2年後の2004年、2年目の産駒であるヴァーミリアンがラジオたんぱ杯2歳ステークスを制し、種牡馬としての重賞初勝利。2006年秋にはソングオブウインドが菊花賞、アロンダイトがジャパンカップダートと、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った川崎記念を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝という日本記録を樹立。また、トウカイトリックはGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年ステイヤーズステークス)、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年阪神大賞典)を打ち立てた。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "以下の内容は、netkeiba.com、Racing Postおよび『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』の情報に基づく。",
"title": "競走成績"
},
{
"paragraph_id": 56,
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"text": "蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、2000年に受けたインタビューにおいて「本当にパーフェクトと言っていい」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬」と評している。二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている。野平祐二はエルコンドルパサーの成長力について、陣営のレースへの使い方を評価しつつ、「めいっぱいの力を他人にあまり見せないで、いつの間にか強くなった」と評している。",
"title": "特徴・評価"
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"tag": "p",
"text": "社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、サドラーズウェルズが出ているのかミスタープロスペクターが出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、シーキングザパール、タイキシャトル、アグネスワールドといった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンドルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている。日本馬主協会連合会はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、1979(昭和54)年以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した。",
"title": "特徴・評価"
},
{
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"text": "蛯名正義は「世界に挑戦してきた人たちの努力が無駄ではないことを証明してくれた」と述べ、伊藤雄二はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と評した。瀬戸口勉も「外国であれだけ結果を出した馬はいない」と評している。吉沢譲治は凱旋門賞について、「限りなく金メダルに近い銀メダルだろう。過去の日本馬の凱旋門賞挑戦は、何十馬身もちぎられて入線する屈辱を繰り返すばかりだった。それだけに、どえらいことをやってのけた馬という印象が強い」と述べている。二ノ宮敬宇はエルコンドルパサーが顕彰馬に選定されたことを受けて、「エルコンドルパサーが凱旋門賞への扉を少しでも開ける一助となれたことに、我々の行ったことが無意味ではなかったと証明されたように思います」と語った。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、2018年時点で、日本調教馬に与えられた史上最高の数値である。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付されたディープインパクトを引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "なお、2010年には二ノ宮が管理するナカヤマフェスタが蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み、イギリスのワークフォースから頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれが初めてのことだった。2012年と2013年の凱旋門賞ではオルフェーヴルが2着となっている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝している。サドラーズギャルとの交配が行われた年は種牡馬として1年目であり、エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に日本でスターキングマン、キングカメハメハ、アルカセットといったGI馬が出たことで日本の芝に合う種牡馬との定評ができ、海外においてもレモンドロップキッド、キングズベストなどを送り出したことで、世界中で活躍馬を輩出する種牡馬となった。",
"title": "血統"
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"text": "母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝。曾祖母リサデルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている。5代母ラフショッド(Rough Shod。ソング Thongの母)からは世界的に牝系が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている。",
"title": "血統"
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] |
エルコンドルパサーは、アメリカ合衆国で生産された日本の競走馬、種牡馬。 日本人実業家・渡邊隆による生産所有馬。1997年に中央競馬(JRA)でデビューし、翌1998年にNHKマイルカップとジャパンカップを制し、JRA賞最優秀4歳牡馬に選出される。1999年にはフランスへの長期遠征を行い、サンクルー大賞などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる凱旋門賞で2着の成績を残して引退。同年は日本で未出走ながらJRA年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。インターナショナル・クラシフィケーションによるレート「134」、タイムフォームによるレート「136」は、いずれも2022年時点で日本調教馬についての史上最高数値として保持されている。 2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に腸捻転により死亡。遺された3世代からはヴァーミリアン、ソングオブウインド、アロンダイトと3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、JRA顕彰馬に選出。
|
{{Otheruses|[[競走馬]]|[[楽曲]]「El Cóndor Pasa」|コンドルは飛んでいく}}
{{競走馬
|画 = [[File:El Condor Pasa 19991128I1.jpg|240px]]
|説 = 1999年11月28日 東京競馬場
|名 = エルコンドルパサー
|英 = {{Lang|en|El Condor Pasa}}<ref name="yu1512"/>
|性 = [[牡馬|牡]]<ref name="yu1512"/>
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|種 = [[サラブレッド]]<ref name="yu1512"/>
|生 = [[1995年]][[3月17日]]<ref name="yu1512"/>
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|績 = 11戦8勝<br />([[中央競馬]])7戦6勝<br />([[フランスの競馬|フランス]])4戦2勝
|金 = 4億5300万800[[円 (通貨)|円]]<br />(中央競馬)3億7607万8000円<ref name="earnings" /><br />(フランス)380万[[フランス・フラン|フラン]]<ref name="earnings">『優駿』2002年9月号、p.35</ref>{{efn2|日本円で7692万2800円<ref>[https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse30.html エルコンドルパサー:競馬の殿堂 JRA]</ref>。}}
|レ = [[インターナショナル・クラシフィケーション|IC]]
|レ値 = M117 - L126 / 1998年<ref name="rating98" /><br />L134 / 1999年<ref name="rating99" />{{efn2|日本調教馬の歴代最高値<ref name="netkeiba_books" />。}}
|medaltemplates =
{{MedalGI|[[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]|1998年}}
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{{MedalGII|[[フォワ賞]]|1999年}}
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|漢=
}}
'''エルコンドルパサー'''(欧字名:{{Lang|en|El Condor Pasa}}、[[1995年]][[3月17日]] - [[2002年]][[7月16日]])は、[[アメリカ合衆国]]で生産された[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
日本人実業家・[[渡邊隆]]による生産所有馬。1997年に[[中央競馬]](JRA)でデビューし、翌1998年に[[NHKマイルカップ]]と[[ジャパンカップ]]を制し、[[JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出される。1999年には[[フランスの競馬|フランス]]への長期遠征を行い、[[サンクルー大賞]]などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる[[凱旋門賞]]で2着の成績を残して引退。同年は日本で未出走ながら[[JRA賞|JRA年度代表馬]]と[[JRA賞最優秀5歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]]に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。[[インターナショナル・クラシフィケーション]]によるレート「134」、[[タイムフォーム]]によるレート「136」は、いずれも2022年時点で日本調教馬についての史上最高数値として保持されている<ref name="netkeiba_books">{{Cite web|和書|url=https://books.netkeiba.com/?pid=book_detail&bid=18&cid=4|title=空白の時代を乗り越えた優駿・エルコンドルパサー登場 - 世界に挑んだサムライサラブレッド ~Part1・欧州編~|website=netkeiba Books+|publisher=ネットドリーマーズ|date=2018-03-27|accessdate=2019-08-13}}</ref>。
2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に[[腸捻転]]により死亡。遺された3世代からは[[ヴァーミリアン]]、[[ソングオブウインド]]、[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]と3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、[[JRA顕彰馬]]に選出。
== 生涯 ==
''以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された[[数え年]]で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている[[満年齢]]で記述。''
=== 出生までの経緯 ===
生産者・馬主の[[渡邊隆]]は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった<ref name="ezura">江面(2017)pp.243-251</ref>。渡邊は[[サドラーズウェルズ]]やその全弟の[[フェアリーキング]]、[[ヌレイエフ]]といった世界的な大種牡馬を輩出していたソングの[[ファミリーライン|牝系]]に憧れを抱き、日頃から外国の血統書やせり名簿に目を通していたが<ref name="ezura"/>、1992年のある日イギリスのタタソールズセリのせり名簿に載っていた、ソングの曾孫にしてサドラーズウェルズの産駒で、母の父に[[シアトルスルー]]、「ソングの3×4」という[[インブリード|クロス]]を有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた<ref name="ezura"/><ref name="yu9910" /><ref name="hiramatsu">平松(2014)pp.19-21</ref>。サドラーズギャルは体調不良のためタタソールズセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが<ref name="hiramatsu"/>、諦められなかった渡邊はエージェントを介して牧場サイドと交渉を行い、改めて買い取ることに成功<ref name="ezura"/>。そしてサドラーズギャルを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ケンタッキー州]]のレーンズエンドファームへ預託した<ref name="yu9910">『優駿』1999年10月号、pp.20-22</ref>。
同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げた[[ミスタープロスペクター]]産駒・[[キングマンボ]]の生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフの孫でG1競走10勝の名牝・[[ミエスク]]の仔であることに惹かれた渡邊は<ref name="ezura"/>、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配させた<ref name="yu9910" />。両馬が配合されるとソング、[[ノーザンダンサー]]、[[ネイティヴダンサー]]、[[フォルリ (競走馬)|フォルリ]]、[[スペシャル (競走馬)|スペシャル]]といった多くのクロスが発生し<ref name="ezura"/><ref name="shosai">『書斎の競馬(1)』pp.41-49</ref>、後に渡邊は「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」と語ったが<ref>『優駿』1998年6月号、p.146</ref>、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという<ref name="yu9910" />。渡邊はこのような配合をした理由について「ヨーロッパで種牡馬にしたかったから」とし<ref name="ezura"/>、「そのためにはヨーロッパの二千メートルのGIに勝ちたい」と意気込んでいた渡邊は、種牡馬選定レースとして評価が高いイギリスの[[エクリプスステークス]]を第一目標に挙げていた<ref name="ezura"/>。エルコンドルパサーの配合を編み出した渡邊はアメリカの競馬誌『[[デイリーレーシングフォーム]]』において「[[フェデリコ・テシオ]]、[[マルセル・ブサック]]に続く<small>''(Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)''</small>」と絶賛され、またエルコンドルパサーは「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう<small>''(With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)''</small>」と高い評価を受けた<ref name="shosai"/><ref group="注">なお、この記事では馬主名が「Kihachiro Watanabe」とされていたが、誤りである。</ref>。
=== 生い立ち ===
{{Double image aside|right|Yoshitaka-Ninomiya20110403.jpg|150|Matoba_hitoshi_on_rice_shower.jpg|150|二ノ宮敬宇(2011年)|的場均(1993年)}}
1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産<ref name="ezura"/>。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた[[調教師]]・[[二ノ宮敬宇]](にのみや・よしたか。のち管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった<ref name="yu0210">『優駿』2002年10月号、pp.100-104</ref>。翌1996年1月に日本へ輸送され、[[北海道]][[門別町]]のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教を開始した<ref name="yu0210" />。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、[[茨城県]]・[[美浦トレーニングセンター]]の二ノ宮のもとへ入厩した<ref name="yu0210" />。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた<ref name="yu0210" />。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度だった<ref name="monogatari">『名馬物語2』pp.116-124</ref>。一方、デビュー当週の併走による調教で本馬に騎乗した[[的場均]]はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望してデビュー戦の騎手を務めることになった<ref name="matoba">的場(2001)pp.177-182</ref>。
==== 馬名の由来 ====
競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「[[コンドルは飛んでいく]]」に由来する<ref name="yu0209" />。渡邊が[[慶應義塾体育会ソッカー部]]在籍時に中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その先輩を尊敬していたことから<ref name="ezura"/>、父名の一部「[[マンボ]]」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された<ref name="yu9905">『優駿』1999年5月号、pp.86-89</ref>。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000219444/|title=エルコンドルパサー|publisher=[[公益社団法人]][[日本軽種馬協会]]|website=JBIS-Search|accessdate=2020-01-02}}</ref>はデビュー前の骨折で[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となっていた<ref name="yu9905" />。
=== 戦績 ===
==== 3-4歳時(1997-1998年) ====
===== デビュー - ダートでの快走 =====
デビュー戦は11月8日の[[東京競馬場|東京開催]]で迎えた。まだ身体が出来上がっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、[[ダート]]の1600メートル戦が選ばれた<ref name="yu0210" />。単勝オッズ2.5倍でステルスショットと並んでの1番人気に推されたが<ref name="yu0712">『優駿』2007年12月号、pp.56-63</ref>、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった<ref name="yu0210" />。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、的場がスパートを掛けると先行勢を一気にかわして先頭に立つ<ref name="yu0712" />。さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり<ref name="yu0712" />、後に[[京成杯]]を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた<ref name="matoba" />。[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン (単位)|ハロン]]<ref group="注">1ハロン=約200メートル。</ref>(ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、他馬は全て40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーが記録したものは37秒2という突出したものだった<ref name="yu0712" />。このレースについて的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった<ref name="matoba" />」と回顧し、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している<ref name="yu0210" />。渡邊は4コーナーを回った時点でも最後方を走っていたことで帰ろうとしていたところを、直線でのスパートを見て非常に驚き、「こんなに走ると思わなかった」と当時思っていたと回顧している<ref name="yu9905"/>。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったため、「小心な馬」とも感じていたという<ref name="matoba" />。
翌1998年1月に2戦目([[中山競馬場|中山開催]]、ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に前走を上回る9馬身差をつけて連勝した<ref name="100meiba">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.12-20</ref>。
[[ファイル:Grass_Wonder_19991226.jpg|thumb|200px|グラスワンダー(画像)は朝日杯をレコードタイムで圧勝し、レーティングではJRA所属の3歳馬として史上最高の評価を得ていた<ref>『優駿』1998年2月号、p.125</ref>。]]
このあと二ノ宮は的場に対して、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーと同期馬にしてこちらも的場が主戦騎手を務める[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝馬・[[グラスワンダー]]がおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったためである<ref name="matoba" />。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された<ref name="matoba" />。
3戦目・[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]で重賞に初出走。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された<ref name="yu0712" />。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した<ref name="yu0712" />。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った<ref name="100meiba" />。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている<ref name="matoba2">的場(2001)pp.182-188</ref>。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の[[東京新聞杯]](優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった<ref name="100meiba" />。
===== 芝路線へ - NHKマイルカップ制覇 =====
競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが<ref name="matoba2" />、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった<ref>『週刊100名馬 Vol.89 グラスワンダー』p.11</ref>。これを受け、管理調教師の[[尾形充弘]]はエルコンドルパサー陣営に対して的場の騎乗継続を進言したが、既に後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという<ref name="matoba2" />。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標とした[[NHKマイルカップ]]の前哨戦・[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]へ臨むことになった<ref name="matoba2" />。
ニュージーランドトロフィーでは初の芝のレースへの出走、また距離短縮への不安が懸念され<ref name="yu0512"/>、出走メンバーも前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていた[[マイネルラヴ]]、[[フラワーカップ]]優勝馬スギノキューティーらが相手となったが<ref name="yu9806">『優駿』1998年6月号、p.67</ref>、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された<ref name="yu0712" />。初の芝コースに返し馬<ref group="注">ウォーミングアップを兼ねた待機所への移動。</ref>ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた<ref name="yu9806" />。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが<ref name="yu9806" />、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した<ref name="100meiba" />。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を語り<ref name="100meiba" />、二ノ宮は「この距離と出走頭数<ref group="注">フルゲートの18頭。</ref>では馬群を捌くのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手く捌いてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい<ref name="yu9806" />」と的場の騎乗を称えた。
5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他に[[トキオパーフェクト]]、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った<ref name="yu9807">『優駿』1998年7月号、pp.29-33</ref>。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた<ref name="yu9807" />。レースではそれまでにない好スタートを切ると<ref name="yu0712"/>、道中では3、4番手を追走。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち<ref name="yu0712"/>、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした<ref name="yu9807" />。この勝利は二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった<ref name="yu9807" />。
的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている<ref name="yu98072">『優駿』1998年7月号、pp.134-135</ref>」、「デビュー当時は心配な面もあったが、こちらの思うとおりに成長してくれた。本当に能力の高い、素晴らしい馬です<ref name="yu0712"/>」などと感想を述べた。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と語った<ref name="yu98072" />。渡邊は後に、NHKマイルカップを勝利したことで海外遠征も考えるようになったと回顧している<ref name="yu9905"/>。
===== 毎日王冠 - 騎手交代 =====
NHKマイルカップ後、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養及び秋の目標を[[マイルチャンピオンシップ]]に据えることを明言したが<ref name="yu98072" />、後に方針が変わり、目標は国際招待競走の[[ジャパンカップ]]に改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「[[マイル]]」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていた<ref name="yu9901">『優駿』1999年1月号、pp.12-19</ref>。ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であったが、渡邊は血統の観点から母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合はマイルよりも2000メートルから2400メートルの方が向いていると考えていた<ref name="yu0712"/>。
この変更は[[JRA賞|年度代表馬]]争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬・[[スペシャルウィーク]]、そして春夏に[[安田記念]]とフランスのG1競走[[ジャック・ル・マロワ賞]]を制していた[[タイキシャトル]]に対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである<ref name="yu9901" />。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有した[[ホスピタリテイ]]が、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた<ref name="yu99012" />。又、[[政治家]]の[[中川昭一]]とは、互いの娘が同級生という縁から私的に親交があった。中川が[[小渕内閣]]で[[農林水産大臣|農水相]]を務めていた当時の1998年8月、[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]が「農林水産大臣賞典」の[[新潟記念]]を勝った際にその旨を中川に伝えたところ、「僕はジャパンカップの表彰式に行くことになってる」と聞かされ、これが同競走へエルコンドルパサーが出走する選択理由のひとつになったという<ref name="shosai"/>。ジャパンカップも農林水産大臣賞典であり、優勝した場合は渡邊は中川から優勝トロフィーを授与されることになる。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる[[京都競馬場|京都コース]]が馬に良くないと嫌がっていたともいう<ref name="matoba2" />。ただし、この後毎日王冠での敗戦後に渡邊は「自分のエゴで愛馬に負担をかけることにならないか」と不安になることがあったため、二ノ宮に「実績のあるマイル戦(マイルチャンピオンシップ)に行くべきかとも考えたけど、二ノ宮さんはどう思いますか?」と相談したところ、二ノ宮は悩むことなく「どちらへ行っても勝てます。どうしますか?」と答えたため、迷いが無くなったという<ref name="hiramatsu"/>。
ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の[[毎日王冠]]であった。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたため、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた<ref name="yu0102">『優駿』2001年2月号、pp.92-95</ref>。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという<ref name="matoba3">的場(2001)pp.199-202</ref>。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した<ref name="matoba3" />。
[[File:Masayoshi Ebina Horse trainer first winning.jpg|thumb|蛯名正義(2022年)|240px]]
的場の後任としては、第一候補として翌年の遠征を見据えて[[フランス人]]騎手の[[オリビエ・ペリエ]]が挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念<ref name="100meiba5">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.3-9</ref>。次いで国際経験も豊富な[[武豊]]に打診したが、春のグランプリ・[[宝塚記念]]を含め5連勝中の[[サイレンススズカ]]と共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた[[蛯名正義]]に決まった<ref name="100meiba5" />。蛯名は7月11日に行われた[[七夕賞]]、8月30日に行われた新潟記念とこちらも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた[[蛯名武五郎]]の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という<ref name="100meiba5" />。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている<ref name="yu9901" />。
10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が東京競馬場に詰めかけた<ref name="yu0102" />。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持され、2番人気には休養前の怪物的なイメージや的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった<ref name="yu0102" />。スタートが切られると、[[脚質#逃げ|逃げ馬]]のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6<ref name="yu0102" />、1000メートルを57秒7<ref name="yu0712" />というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走<ref name="yu0102" />。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く<ref name="yu0102" />。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった<ref name="yu0102" />。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった<ref name="yu0102" />。
蛯名は「相手が強かった。完敗だった<ref name="yu9901" />」としたが、「負けはしたが、タイムは速いし、こっちは4歳馬だからね<ref name="yu0712"/>」とも語った。二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている<ref name="yu9901" />。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している<ref name="yu0102" />。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している<ref name="matoba3" />。一方、勝利したサイレンススズカ鞍上の武豊は、勝利騎手インタビュー後の地下道で「2着の馬(エルコンドルパサー)も強いよ。休み明けで57kgを背負っていたんだから。サイレンスは4歳の時はあんなに走れなかった」と感想を述べている<ref>『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)』pp.122-127</ref>。
なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない[[天皇賞(秋)]]を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが<ref name="yu0102" />、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった<ref>『優駿』1999年2月号、pp.109-115</ref>。
===== ジャパンカップ制覇 - 最優秀4歳牡馬となる =====
11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年の[[ブリーダーズカップ・ターフ]]優勝馬・[[チーフベアハート]]のみだったことで、戦前から『近年稀に見る大物不在』<ref>『競馬モンスター列伝』p.110</ref>と言われる日本馬優勢の前評判であった<ref name="yu9901" />。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・[[スペシャルウィーク]]が推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬[[エアグルーヴ]]が入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた<ref name="yu9901" />。エルコンドルパサーは当時父のキングマンボがマイラーと見られていたことと毎日王冠から距離が600メートル延びるという不安が懸念され<ref name="yu1512"/>、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた<ref name="yu9901" />。
レースでは[[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]]が単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ<ref name="yu9901" />。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す<ref name="yu9901" />。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした<ref name="yu9901" />。
蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り<ref name="yu9901" />、「はじめて乗った時から、スーパーホースになってくれるんじゃないかと期待を抱かせてくれた馬なんです。その期待に今日は応えてくれた。ホント、強さは半端じゃないですよ」とコメントした<ref name="yu0712"/>。二ノ宮は「走る馬は極端な[[ステイヤー]]や[[競走馬#スプリンター|スプリンター]]でない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた<ref name="yu99012">『優駿』1999年1月号、pp.144-145</ref>。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『[[プレストウコウ]]で[[菊花賞]]を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り<ref name="yu99012" />、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した<ref name="yu9901" />。ジャパンカップでのレースぶりについて[[柴田政人]]は、「正攻法のレースをして力で勝った、という点を評価したいね。相当強い勝ち方ですよ」と称賛し<ref name="gallop98">『臨時増刊号Gallop'98』pp.10-16</ref>、[[野平祐二]]は1コーナーまでに馬を控えさせた蛯名の騎乗を称賛すると同時に、柴田が用いた正攻法という表現について、「2400mのレースでまともに競馬をやってちゃんと勝たせたのだから、すごいわけよ」と称している<ref name="gallop98"/>。
秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・[[有馬記念]]へは出走せず<ref name="yu9901" />、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った<ref name="yu9901" />。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている<ref name="shosai" />。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した<ref>『優駿』1999年2月号、p.141</ref>。
当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは[[皐月賞]]と[[菊花賞]]に優勝した[[セイウンスカイ]]を抑え、最優秀4歳牡馬に選出された<ref name="yu9902">『優駿』1999年2月号、p.22</ref>。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げた[[タイキシャトル]]が208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった<ref name="yu9902" />。
仮定の[[負担重量]]数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限れば[[ダービーステークス|イギリスダービー]]優勝馬[[ハイライズ]](127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬[[サガミックス]]と並ぶ世界第2位の評価であった<ref name="rating98">『優駿』1999年2月号、pp.30-35</ref>。
==== 5歳時(1999年) ====
===== ヨーロッパ遠征へ =====
1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、[[合田直弘]]、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスの[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、アメリカの[[ブリーダーズカップ]]、UAEの[[ドバイワールドカップ]]といった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定<ref name="yu0210" />。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された<ref name="100meiba2">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』p.11</ref>。渡邊は従来の日本馬の遠征のように狙いを定めたレースにスポット参戦するやり方では好結果が得られないのではないかと考え<ref name="yu0712"/>、この場で「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません。勝とうと思ったら欧州仕様の馬にする必要があるので、ある程度、腰を据えて挑戦しないといけないと考えています」と発言し、今回の遠征が長期遠征であることを発表した<ref name="hiramatsu"/>。ただし、当時はまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春は[[イスパーン賞]]かブリガディアジェラードステークスを経て、[[エクリプスステークス]]へ」という展望を語っていた<ref name="shosai" />。
エルコンドルパサーは冬場を休養に充てられ<ref name="yu0712"/>、2月10日に休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発<ref name="100meiba2" />。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となる[[シャンティイ調教場]]の[[トニー・クラウト]]厩舎に入った<ref name="100meiba2" />。本厩舎は前年のジャック・ル・マロワ賞を制したタイキシャトルも預託されていたが、[[平松聡|平松さとし]]によるとトニーは「実はタイキシャトルよりも先にエルコンドルパサーの話が合ったんです」と言っていたといい、トニーは1991年に来日した際に共通の知人を通して渡邊を紹介してもらっていた。1998の2月に再来日した折、渡邊と再会したトニーは渡邊から「エルコンドルパサーが強くなって遠征する際にはよろしくお願いします」と言われていたという<ref name="hiramatsu"/>。
21日に二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された<ref name="100meiba2" />。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され<ref name="100meiba3" />、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった<ref name="100meiba5" />。
調教開始後、エルコンドルパサーは日本より遥かに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せ<ref name="yu0210" />、より盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていた<ref name="yu0210" />。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった<ref name="yu0210" />。それでも、[[調教助手]]の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている<ref name="100meiba3">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.34-39</ref>。
===== イスパーン賞、サンクルー大賞 =====
5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気の[[クロコルージュ]]にゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた<ref>『優駿』1999年7月号、pp.46-51</ref>。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた<ref name="100meiba4">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.24-33</ref>。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが<ref name="yu0210" />、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという<ref name="100meiba3" />。
6月2日、エルコンドルパサーが年内で引退し、[[種牡馬]]として18億円の[[シンジケート]]が組まれたうえで[[社台スタリオンステーション]]で繋養されることが明らかとなった<ref name="100meiba2" />。
イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった<ref name="100meiba3" />。次走はイギリスの[[ロイヤルアスコット開催]]で行われる[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]](G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった<ref name="100meiba5" />。
[[ファイル:Saint-Cloud_Racecourse_001.jpg|thumb|エルコンドルパサーがフランス初勝利を挙げたサンクルー競馬場。|250px]]
7月4日、G1・[[サンクルー大賞]]へ出走。芝丈が長く起伏に富んだ[[サンクルー競馬場]]のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの[[負担重量|斤量]]といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた<ref name="100meiba5" />。陣営もスタミナ面に不安を抱いていたが、クラウトから「この馬は12ハロンでも問題ない」と説かれ、出走を決意した<ref name="yu1512"/>。また相手は大幅に強化され、前年の[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]、[[アイリッシュダービー]]を制し[[カルティエ賞|全欧年度代表馬]]に選ばれた[[ドリームウェル]]、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬[[タイガーヒル]]、[[ドイチェスダービー]]優勝馬でアメリカの[[ブリーダーズカップ・ターフ]]でも2着の実績がある[[ボルジア]]といった全欧の一線級が揃い<ref name="yu9908">『優駿』1999年8月号、pp.48-51</ref>、「近年最高のメンバーが揃った」という評もあった<ref name="yu1512"/>。
当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける<ref name="yu9908" />。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝<ref name="100meiba4" />。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ<ref name="100meiba5" />、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ<ref name="100meiba4" />、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した<ref name="100meiba5" />。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた<ref name="100meiba4" />。サンクルー大賞で上記のメンバーを相手に勝利したことと安定したレースぶりから、エルコンドルパサーはヨーロッパでも注目を集めることなった<ref name="yu0712"/>。
サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・[[モンジュー]]に並び<ref name="100meiba5" />、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった<ref>『優駿』1999年9月号、p.122</ref>。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り<ref name="100meiba5" />、渡邊のブレーンの一人であった合田直弘は「遠征の成否を分ける[[剣ヶ峰#剣が峰|剣が峰]]だった」と振り返っている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999〜2000』pp.24-25</ref>。
===== フォワ賞 =====
サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口に[[菌]]が入り炎症を起こす[[フレグモーネ]]の症状であった<ref name="100meiba3" />。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く[[屈腱炎]]に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した<ref name="100meiba3" />。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ<ref name="100meiba3" />。
凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・[[エリシオ]]が使った1600メートル戦、[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じ[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]の2400メートルで行われる[[フォワ賞]](G2)が選択された<ref name="100meiba5" />。
9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった<ref name="yu99101">『優駿』1999年10月号、pp.44-45</ref>。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった<ref name="yu0712"/>。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる<ref name="yu99101" />。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進め、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した<ref>『優駿』1999年10月号、pp.4-5</ref>。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた<ref name="100meiba4" />。この日は1969年の凱旋門賞に出走した[[スピードシンボリ]]の主戦騎手・野平祐二も応援に駆け付け、渡邊は野平の「日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けた」という言葉を聞いて目頭が熱くなったという<ref name="yu1512"/>。この日は世論の盛り上がりに押されて[[日本放送協会|NHK]]がレースの模様を生中継していた<ref name="yu1512"/>。
同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られる[[ニエユ賞]]では[[モンジュー]]が、[[ヴェルメイユ賞]]ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた<ref name="yu99101" />。モンジューは終始進路が塞がっていた中、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという<ref name="100meiba3" />。また前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていた[[デイラミ]]が圧勝していた<ref name="100meiba3" />。
===== 凱旋門賞 =====
フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりを見せた<ref name="100meiba3" />。この頃にはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという<ref name="100meiba3" />。
10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した<ref name="yu9911">『優駿』1999年11月号、pp.120-121</ref>。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた<ref name="yu9911" />。
[[ファイル:Montjeu_19991128C1.jpg|thumb|モンジュー(ジャパンカップ出走時)|250px]]
スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った<ref name="yu0712"/>。モンジュー陣営が用意していた[[ペースメーカー (競馬)|ペースメーカー]]・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めた<ref name="yu9911" />。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ<ref name="yu9911" />。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる<ref name="yu9911" />。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた<ref name="yu9911" />。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた<ref name="yu9911" />。
敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた<ref name="yu9911" />。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え<ref name="100meiba4" />、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている<ref name="yu0209">『優駿』2002年9月号、pp.38-41</ref>。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた<ref name="100meiba4" />。渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した<ref name="100meiba4" />。
===== 引退式 - 年度代表馬となる =====
エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国。帰国時には空港に「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掲げられて出迎えられた<ref name="yu0512">『優駿』2005年12月号、pp.35-39</ref>。日本中央競馬会や種牡馬としての繋養先となる社台スタリオンステーションからは、現役を続行しジャパンカップへ出走するよう要望が送られたが、渡邊はこれを固辞し<ref name="yu1512">『優駿』2015年12月号、pp.72-77</ref>、「余力を持って牧場に送り返すのもオーナーの役割」と語った<ref name="yu0712"/>。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えたジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた<ref name="yu0001">『優駿』2000年1月号、pp.6-7</ref>。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた<ref name="yu0001" />。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り<ref name="100meiba4" />、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った<ref name="100meiba4" />。
式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した<ref name="100meiba4" />厩務員・根来邦雄に付き添われ、北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった<ref name="yu0001" />。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている<ref>『優駿』2000年1月号、p.15</ref>。
翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーの他、春秋の[[天皇賞]]とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念の春秋グランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった<ref name="yu0002">『優駿』2000年2月号、pp.30-36</ref>。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことで、11人で構成された選考委員会で審議されることになった<ref name="yu0002" />。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された<ref name="yu0002" />。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していた[[エアジハード]](最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した<ref name="yu0002" />。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・[[白井寿昭]]<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999〜2000』pp.28-29</ref>や[[伊藤雄二]]<ref>鶴木(2000)pp.106-108</ref>といったホースマンからも異議が唱えられた。作家の木村幸治はこの結果について「スペシャルウィークも武豊も見事だった。しかし『日本競馬人が、エルコンドルパサーと蛯名正義のフランスでの仕事を"フロック"と評価した』と世界から誤解されないために、世界にしっかりと敬意を表す意味で選んだのではなかったか」と述べている<ref>木村(2000)p.86</ref>。
JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった<ref name="rating99">『優駿』2000年2月号、pp.40-45</ref>。
なお、当年は馬主の渡邊に対しても[[東京競馬記者クラブ賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20020804213620/http://keibanihon.co.jp/free/news/h120109.htm |title=東京競馬記者クラブ賞に渡邊隆氏 |author= |publisher=競馬ニホン |accessdate=2015年11月8日 |date=2000-1-9}}</ref>が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を<ref name="100meiba3" />、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた<ref name="100meiba2" />。
=== 引退後 ===
種牡馬としては当時リーディングサイアーの地位を占め続けていた[[サンデーサイレンス]]に代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する[[社台グループ]]の繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた<ref name="yu0209" />。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた<ref name="yu0209" />。しかし3年目の種付けを終えた後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは[[腸捻転]]により社台スタリオンステーションで死亡した<ref name="yu02092">『優駿』2002年9月号、p.7</ref>。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた<ref name="yu02092" />。[[遺骨]]は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立された<ref name="monogatari" />。
死から2年後の2004年、2年目の産駒である[[ヴァーミリアン]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]を制し、種牡馬としての重賞初勝利。2006年秋には[[ソングオブウインド]]が[[菊花賞]]、[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]が[[ジャパンカップダート]]と、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った[[川崎記念]]を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝という日本記録を樹立<ref name="ver">『優駿』2012年2月号、p.81</ref>。また、[[トウカイトリック]]はGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年[[ステイヤーズステークス]])、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年[[阪神大賞典]])を打ち立てた<ref name="trick">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140209111059/http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20140208-1254710.html |title=トウカイトリック引退 中央平地最高齢V |author= |publisher=nikkansports.com |accessdate=2014年2月8日 |date=}}</ref>。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた<ref name="trick" />。
JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140529140719/http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20140426/spo1404261454002-n1.htm |title=【馬じぃの継続は非力なり】エルコンドルパサー殿堂入り 凱旋門賞の門戸こじ開けたパイオニア |author=品川達夫 |publisher=[[夕刊フジ]] |accessdate=2015年11月8日 |date=2014-4-22}}</ref>。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20151107194515/http://keiba.radionikkei.jp/keiba/post_3194.html |title=エルコンドルパサー、顕彰馬に選定される |author= |publisher=[[ラジオNIKKEI]] 競馬実況web |accessdate=2015年11月8日 |date=2014-4-22}}</ref>。
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web2|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1995108742/|title=エルコンドルパサーの競走成績|website=netkeiba.com|accessdate=2015-11-10}}</ref>、Racing Post<ref>{{Cite web|url=https://www.racingpost.com/profile/horse/488784/el-condor-pasa/form|title=El Condor Pasa {{!}} Race Record & Form {{!}} Racing Post|website=www.racingpost.com|publisher=[[Racing Post|レーシング・ポスト]]|accessdate=2022-08-05}}</ref>および『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』の情報に基づく。
{|style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse; white-space:nowrap"
|-
!colspan="2"|競走日!!競馬場!!競走名!!格!!オッズ<br />(人気)!!着順!!距離(馬場)!!タイム<br />(上り3F)!!着差!!騎手!!1着馬(2着馬)
|-
| [[1997年|1997.]]
| 11.{{0}}8
| [[東京競馬場|東京]]
| [[新馬|3歳新馬]]
|
| 2.5(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1600m(良)
| 1:39.3(37.2)
| 7身
| [[的場均]]
| (マンダリンスター)
|-
| [[1998年|1998.]]
| {{0}}1.11
| [[中山競馬場|中山]]
| 4歳500万下
|
| 1.3(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1800m(不)
| 1:52.3(37.5)
| 9身
|的場均
| (タイホウウンリュウ)
|-
|
| {{0}}2.15
| 東京
| [[共同通信杯|共同通信杯4歳S]]
| 重賞
| 1.2(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1600m(不)
| 1:36.9(35.6)
| 2身
| 的場均
| (ハイパーナカヤマ)
|-
|
| {{0}}4.26
| 東京
| [[ニュージーランドトロフィー|NZT4歳S]]
| {{GII}}
| 2.0(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1400m(重)
| 1:22.2(35.8)
| 2身
| 的場均
| (スギノキューティー)
|-
|
| {{0}}5.17
| 東京
| [[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
| {{GI}}
| 1.8(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(稍)
| 1:33.7(34.9)
| 1 3/4身
| 的場均
| (シンコウエドワード)
|-
|
| 10.11
| 東京
| [[毎日王冠]]
| {{GII}}
| 5.3(3人)
| {{color|darkblue|2着}}
| 芝1800m(良)
| 1:45.3(35.0)
|(2 1/2身)
| [[蛯名正義]]
| [[サイレンススズカ]]
|-
|
| 11.29
| 東京
| [[ジャパンカップ|ジャパンC]]
| {{GI}}
| 6.0(3人)
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(良)
| 2:25.9(35.0)
| 2 1/2身
| 蛯名正義
| ([[エアグルーヴ]])
|-
| [[1999年|1999.]]
| {{0}}5.23
| [[パリロンシャン競馬場|ロンシャン]]
| [[イスパーン賞]]
| {{G1}}
| 2.7(1人)
| {{color|darkblue|2着}}
| 芝1850m(重)
| 1:53.8
| (3/4身)
| 蛯名正義
| [[クロコルージュ|Croco Rouge]]
|-
|
|{{0}}7.{{0}}4
| [[サンクルー競馬場|サンクルー]]
| [[サンクルー大賞]]
| {{G1}}
| 3.2(2人)
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(稍)
| 2:28.8
| 2 1/2身
| 蛯名正義
| (Tiger Hill)
|-
|
| {{0}}9.12
| ロンシャン
| [[フォワ賞]]
| {{G2}}
| 1.3(1人)
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(稍)
| 2:31.4
| アタマ
| 蛯名正義
| ([[ボルジア_(競走馬)|Borgia]])
|-
|
| 10.{{0}}3
| ロンシャン
| [[凱旋門賞]]
| {{G1}}
| 4.6(2人)
| {{color|darkblue|2着}}
| 芝2400m(不)
| 2:38.6
| (1/2身)
| 蛯名正義
| [[モンジュー|Montjeu]]
|}
*海外のオッズ・人気はRacing Postのもの(日本式のオッズ表記とした)
== 特徴・評価 ==
=== 競走馬としての特徴 ===
蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、2000年に受けたインタビューにおいて「本当にパーフェクトと言っていい<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999-2000』pp.26-27</ref>」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬<ref name="yu0010">『優駿』2000年10月号、p.20</ref>」と評している。二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている<ref name="yu0210" />。野平祐二はエルコンドルパサーの成長力について、陣営のレースへの使い方を評価しつつ、「めいっぱいの力を他人にあまり見せないで、いつの間にか強くなった」と評している<ref name="gallop98"/>。
=== 身体面の特徴 ===
社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、[[サドラーズウェルズ]]が出ているのか[[ミスタープロスペクター]]が出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている<ref>『優駿』2000年9月号、p.27</ref>。
=== フランス遠征と1999年度の評価 ===
エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、[[シーキングザパール]]、[[タイキシャトル]]、[[アグネスワールド]]といった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンドルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている<ref name="yu0010" />。[[日本馬主協会連合会]]はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、[[1979年|1979(昭和54)年]]以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.126-127</ref>。
蛯名正義は「世界に挑戦してきた人たちの努力が無駄ではないことを証明してくれた」と述べ<ref name="numberplus15"/>、[[伊藤雄二]]はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と評した<ref>鶴木(2000)p.45</ref>。[[瀬戸口勉]]も「外国であれだけ結果を出した馬はいない」と評している<ref name="numberplus15"/>。[[吉沢譲治]]は凱旋門賞について、「限りなく金メダルに近い銀メダルだろう。過去の日本馬の凱旋門賞挑戦は、何十馬身もちぎられて入線する屈辱を繰り返すばかりだった。それだけに、どえらいことをやってのけた馬という印象が強い」と述べている<ref>『優駿』2004年3月号、p.28</ref>。二ノ宮敬宇はエルコンドルパサーが顕彰馬に選定されたことを受けて、「エルコンドルパサーが凱旋門賞への扉を少しでも開ける一助となれたことに、我々の行ったことが無意味ではなかったと証明されたように思います」と語った<ref>『優駿』2014年6月号、p.155</ref>。
1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、2018年時点で、日本調教馬に与えられた史上最高の数値である<ref name="netkeiba_books" />。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付された[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]を引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている<ref name="yu1008">『優駿』2010年8月号、pp.24-25</ref>。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている<ref name="kyori24">『優駿』2012年9月号、p.26</ref>。
なお、2010年には二ノ宮が管理する[[ナカヤマフェスタ]]が蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み<ref>『優駿』2010年10月号、pp.38-41</ref>、イギリスの[[ワークフォース]]から頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれが初めてのことだった<ref>『優駿』2010年10月号、pp.112-113</ref>。2012年と2013年の凱旋門賞では[[オルフェーヴル]]が2着となっている<ref>『優駿』2014年2月号、p.13</ref>。
=== 投票企画などの結果 ===
{| class="wikitable"
!年度!!企画者!!企画!!順位||出典
|-
||1999年||[[Sports Graphic Number]]||ホースメンが選ぶ20世紀最強馬||第4位||<ref name="numberplus15">『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)』p.15 </ref>
|-
|rowspan="2"|2000年||日本中央競馬会||20世紀の名馬大投票||第10位||<ref name="yu0010" />
|-
||優駿(日本中央競馬会)||プロの目で厳選した20世紀のベストホース100||選出||<ref>『優駿』2000年11月号、p.29</ref>
|-
|rowspan="3"|2001年||rowspan="3"|[[日本馬主協会連合会]]||アンケート「一番の名馬と思う競走馬は?」||第10位||rowspan="3"|<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.198-199</ref>
|-
||アンケート「一番好きな競走馬は?」||第21位
|-
||アンケート「一番印象に残る競走馬は?」||第24位
|-
||2004年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||年代別代表馬BEST10(1990年代)||第2位||<ref>『優駿』2004年3月号、p.26</ref>
|-
|rowspan="2"|2010年||未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち||第7位||<ref name="yu1008" />
|-
||[[AERA]]([[朝日新聞社]])||競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10||第5位||<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.5 </ref>
|-
|rowspan="2"|2012年||rowspan="3"|優駿(日本中央競馬会)||距離別「最強馬」はこの馬だ!(2400メートル部門)||第2位||<ref name="kyori24" />
|-
||距離別「最強馬」はこの馬だ!(ダート部門)||第7位||<ref>『優駿』2012年9月号、p.41</ref>
|-
||2015年||未来に語り継ぎたい名馬BEST100||第10位||<ref>『優駿』2015年3月号、pp.36-37</ref>
|}
=== 表彰 ===
{| class="wikitable"
!年度!!表彰!!票数!!出典
|-
||1998年||JRA賞最優秀4歳牡馬||119/208||<ref name="yu9902" />
|-
|rowspan="2"|1999年||JRA賞年度代表馬||-||rowspan="2"|<ref name="yu0002" />
|-
||JRA賞最優秀5歳以上牡馬||73/212<br />(決選投票:7/11)
|}
=== レーティング ===
{| class="wikitable"
!年度!!馬齢!!馬場!!距離区分([[メートル|m]])!!値!!対象!!出典
|-
|rowspan="2"|1998年||rowspan="2"|4歳||芝||M(1400-1800)||117||rowspan="3"|インターナショナル・クラシフィケーション||rowspan="2"|<ref name="rating98" />
|-
||芝||L(2200-2700)||126
|-
||1999年|||5歳||芝||L(2200-2799)||134||<ref name="rating99" />
|}
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。
== 種牡馬成績 ==
=== GI級競走優勝馬 ===
*2002年産
**[[ヴァーミリアン]](2004年[[ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]、2005年[[浦和記念]]、2006年[[ダイオライト記念]],[[名古屋グランプリ]]、2007年'''[[川崎記念]]''','''[[JBCクラシック]]''','''[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]''','''[[東京大賞典]]'''、2008年'''フェブラリーステークス''','''JBCクラシック'''、2009年'''帝王賞''','''JBCクラシック'''、2010年'''川崎記念''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000742999/ |title=ヴァーミリアン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2003年産
**[[ソングオブウインド]](2006年'''[[菊花賞]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000760831/ |title=ソングオブウインド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]](2006年'''ジャパンカップダート''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000762374/ |title=アロンダイト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
<gallery>
Vermilion 20071229P1.jpg|ヴァーミリアン(2002年産)
2006-10-22-songofwind.JPG|ソングオブウインド(2003年産)
Alondite horse.jpg|アロンダイト(2003年産)
</gallery>
=== 中央競馬重賞・ダートグレード競走勝利馬 ===
*2001年産
**[[ビッググラス]](2007年[[根岸ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000726973/ |title=ビッググラス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2002年産
**[[トウカイトリック]](2007年[[ダイヤモンドステークス]]、2010年[[阪神大賞典]]、2012年[[ステイヤーズステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000734588/ |title=トウカイトリック |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[アイルラヴァゲイン]](2007年[[オーシャンステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000742986/ |title=アイルラヴァゲイン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[サクラオリオン]](2008年[[中京記念]],[[函館記念]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000735520/ |title=サクラオリオン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2003年産
**[[ラピッドオレンジ]](2008年[[TCK女王盃]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000757693/ |title=ラピッドオレンジ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[エアジパング]](2008年ステイヤーズステークス)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000756900/ |title=エアジパング |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
=== 地方競馬重賞勝利馬 ===
*2001年産
**[[ルースリンド]](2007年[[スパーキングサマーカップ]]・[[川崎競馬場|川崎]]、2008年[[金盃]]・[[大井競馬場|大井]],[[東京記念]]・大井、2009年東京記念・大井)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000730684/ |title=ルースリンド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2019年11月4日 |date=}}</ref>
**ジュークジョイント(2008年[[北上川大賞典]]・[[水沢競馬場|水沢]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000725172/ |title=ジュークジョイント |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2002年産
**バンブージーコ(2008年[[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]]・[[園田競馬場|園田]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000734076/ |title=バンブージーコ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2003年産
**ファンドリコンドル(2009年[[福山スプリントカップ]]・[[福山競馬場|福山]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000759373/ |title=ファンドリコンドル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**ディスパーロ(2010年[[新春盃]]・[[名古屋競馬場|名古屋]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000762369/ |title=ディスパーロ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
=== ブルードメアサイアーとしての重賞勝利産駒 ===
*2007年産
**マサノブルース:父[[マヤノトップガン]](2012年[[京都ジャンプステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001049127/ |title=マサノブルース |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*2009年産
**[[アイムユアーズ]]:父[[ファルブラヴ]](2011年[[ファンタジーステークス]] 2012年[[フィリーズレビュー]]、[[クイーンステークス]] 2013年クイーンステークス)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001109443/ |title=アイムユアーズ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
**[[オメガハートランド]]:父[[アグネスタキオン]](2012年[[フラワーカップ]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001109214/ |title=オメガハートランド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*2010年産
**[[クリソライト (競走馬)|クリソライト]]:父[[ゴールドアリュール]](2013年'''[[ジャパンダートダービー]]''' 2014年[[日本テレビ盃]] 2015年・2016年・2017年[[ダイオライト記念]] 2016年[[コリアカップ (競馬)|コリアカップ]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001124299/ |title=クリソライト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
**マキオボーラー:父[[メイショウボーラー]](2016年[[小倉サマージャンプ]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001123335/ |title=マキオボーラー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017年10月23日 |date=}}</ref>
*2011年産
**[[オメガハートロック]]:父[[ネオユニヴァース]](2014年[[フェアリーステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001139198/ |title=オメガハートロック |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
**[[マリアライト (競走馬)|マリアライト]]:父ディープインパクト(2015年'''[[エリザベス女王杯]]''' 2016年'''[[宝塚記念]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://db.netkeiba.com/horse/2011103832/ |title=マリアライト |author= |publisher=[[netkeiba.com]] |accessdate=2015.11.17 |date=}}</ref>
**[[シュンドルボン (競走馬)|シュンドルボン]]:父[[ハーツクライ]](2016年[[中山牝馬ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001139816/ |title=シュンドルボン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2016年3月13日 |date=}}</ref>
*2012年産
**[[ミュゼエイリアン]]:父[[スクリーンヒーロー]](2015年[[毎日杯]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153655/ |title=ミュゼエイリアン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
**[[アンビシャス (競走馬)|アンビシャス]]:父[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](2015年[[ラジオNIKKEI賞]] 2016年産経大阪杯)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001152157/ |title=アンビシャス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
**[[リアファル]]:父[[ゼンノロブロイ]](2015年[[神戸新聞杯]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153334/ |title=リアファル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*2013年産
**ヨカグラ:父[[ハービンジャー]](2018年小倉サマージャンプ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001123335/ |title=ヨカグラ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018年7月30日 |date=}}</ref>
*2016年産
**[[クリソベリル (競走馬)|クリソベリル]]:父ゴールドアリュール(2019年[[兵庫チャンピオンシップ]]、'''ジャパンダートダービー'''、日本テレビ盃、[[チャンピオンズカップ_(中央競馬)|'''チャンピオンズカップ''']]、2020年'''[[帝王賞]]'''、'''[[JBCクラシック]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001215726/ |title=クリソベリル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2020年02月02日 |date=}}</ref>
== 血統 ==
=== 血統背景 ===
父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝している<ref name="yu98072" />。サドラーズギャルとの交配が行われた年は種牡馬として1年目であり<ref name="ezura"/>、エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に日本で[[スターキングマン]]、[[キングカメハメハ]]、[[アルカセット]]といったGI馬が出たことで日本の芝に合う種牡馬との定評ができ<ref name="yu1512"/>、海外においても[[レモンドロップキッド]]、[[キングズベスト]]などを送り出したことで<ref name="yu0712"/>、世界中で活躍馬を輩出する種牡馬となった<ref name="yu1512"/>。
母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝<ref name="yu98072" />。曾祖母リサデルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている<ref name="yu98072" />。5代母ラフショッド(''Rough Shod''。[[ソング (競走馬)|ソング]] ''Thong''の母)からは世界的に[[ファミリーライン|牝系]]が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている<ref name="hiraide">平出(2014)pp.192-193</ref>。
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = エルコンドルパサー
|f = [[キングマンボ|Kingmambo]]<br />1990 [[鹿毛]]
|m = *サドラーズギャル<br />Saddlers Gal<br />1989 鹿毛
|ff = [[ミスタープロスペクター|Mr. Prospector]]<br />1970 鹿毛
|fm = [[ミエスク|Miesque]]<br />1984 鹿毛
|mf = [[サドラーズウェルズ|Sadler's Wells]]<br />1981 鹿毛
|mm = Glenveagh<br />1986 鹿毛
|fff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]]
|ffm = [[ゴールドディガー|Gold Digger]]
|fmf = [[ヌレイエフ|Nureyev]]
|fmm = Pasadoble
|mff = '''[[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]'''
|mfm = [[フェアリーブリッジ|Fairy Bridge]]
|mmf = [[シアトルスルー|Seattle Slew]]
|mmm = [[リサデル|Lisadell]]
|ffff = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]]
|fffm = Raise You
|ffmf = [[ナシュア (競走馬)|Nashua]]
|ffmm = Sequence
|fmff = '''Northern Dancer'''
|fmfm = '''[[スペシャル (競走馬)|Special]]'''
|fmmf = Prove Out
|fmmm = Santa Quilla
|mfff = [[ニアークティック|Nearctic]]
|mffm = [[ナタルマ|Natalma]]
|mfmf = [[ボールドリーズン|Bold Reason]]
|mfmm = '''Special'''
|mmff = Bold Reasoning
|mmfm = [[マイチャーマー|My Charmer]]
|mmmf = [[フォルリ (競走馬)|Forli]]
|mmmm = [[ソング (競走馬)|Thong]]
|ref1 = <ref name="jbis_ped">{{Cite web|和書|url= http://www.jbis.or.jp/horse/0000299155/pedigree/ |title= 血統情報:5代血統表|エルコンドルパサー |work=JBIS-Search|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2020-01-01}}</ref>
|mlin = [[ミスタープロスペクター系]]
|ref2 = <ref name="netkeiba_ped">{{Cite web|和書|url= https://db.sp.netkeiba.com/horse/ped/1995108742/ |title=エルコンドルパサーの血統表|work=[[netkeiba.com]]|publisher=株式会社ネットドリーマーズ|accessdate=2020-08-07}}</ref>
|flin = Rough Shod系
|FN = [[5号族|5-h]]
|ref3 = <ref name="yu1512"/>
|inbr = Northern Dancer M3×S4、Native Dancer S4×M5、Special S4×M4、[[フォルリ (競走馬)|Forli]] M4×S5×M5、Thong M4×S5×M5
|ref4 = <ref name="jbis_ped"/>
|}}
=== 近親 ===
*弟 - ナイスベンゲル(種牡馬)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000616236/ |title=ナイスベンゲル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月8日 |date=}}</ref>
*曾祖母 - リサデル(コロネーションステークス、アサシステークス)<ref name="hiraide" />
*[[はとこ]] - バチェラーデューク([[アイリッシュ2000ギニー]])<ref name="hiraide" />
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
*江面弘也『名馬を読む』(三賢社、2017年)ISBN 4908655073
*木村幸治『馬は知っていたか―スペシャルウィーク・エルコンドル…手綱に込められた「奇跡」の秘密』(祥伝社、2000年)ISBN 4396312199
*鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 458418545X
*[[平松聡|平松さとし]]『凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち―誰も書かなかった名勝負の舞台裏』(KADOKAWA、2014年)ISBN 4046003669
*的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 4947770031
*日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
*平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 4908960003
*『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088
*『競馬名馬&名勝負年鑑―ファンのファンによるファンのための年度代表馬 (1999-2000)』(宝島社、2000年)ISBN 4796694927
*『競馬モンスター列伝 ターフに君臨した"絶対王者"たちの系譜』(洋泉社、2005年)ISBN 4896919564
*『書斎の競馬』第1号(飛鳥新社、1999年)
*『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 4022744278
*『名馬物語 - The best selection (2)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 4757714971
*『[[優駿]]』(日本中央競馬会)各号
*『臨時増刊号Gallop'98』(産業経済新聞社、1999年)
*『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』(産業経済新聞社、2000年)
*『週刊100名馬 Vol.89 グラスワンダー』(産業経済新聞社、2000年)
== 関連項目 ==
* [[連対率100%の競走馬一覧]]
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1995108742|yahoo=1995108742|jbis=0000299155|racingpost=488784/el-condor-pasa}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000299155|エルコンドルパサー(USA)}}
* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse30.html エルコンドルパサー:競馬の殿堂 JRA]
{{日本中央競馬会・顕彰馬}}
{{Navboxes|title=表彰・GI勝ち鞍
|list1=
{{JRA賞年度代表馬}}
{{JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬}}
{{JRA賞最優秀4歳以上牡馬|JRA賞最優秀5歳以上牡馬}}
{{NHKマイルカップ勝ち馬}}
{{ジャパンカップ勝ち馬}}
}}
{{Good article}}
{{デフォルトソート:えるこんとるはさあ}}
[[Category:1995年生 (競走馬)|日えるこんとるはさあ]]
[[Category:2002年没]]
[[Category:サラブレッド]]
[[Category:アメリカ合衆国生産の競走馬]]
[[Category:日本調教の競走馬]]
[[Category:日本供用種牡馬]]
[[Category:競馬殿堂]]
|
2003-09-05T01:57:08Z
|
2023-12-09T01:10:37Z
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クロフネ
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クロフネ(欧字名:Kurofune、1998年3月31日 - 2021年1月17日)は、日本の競走馬、種牡馬。
アメリカ合衆国で生産され、日本で調教された外国産馬。2001年春にNHKマイルカップに優勝、ダート路線に転じた秋にはジャパンカップダートを含む2戦をいずれも大差でレコード勝ちしたが、同年末に屈腱炎発症のため引退した。同年のJRA賞最優秀ダートホース。通算10戦6勝、うちレコード勝利4回。芝とダートの双方で活躍したが、特にダートでは日本競馬史上最強馬と評される1頭である。
2002年より種牡馬。短距離GI競走で2勝を挙げたカレンチャン、白毛馬として史上初めてGI競走を勝利したソダシなど10頭のGI級競走優勝馬を輩出している。2020年限りで種牡馬を引退。
日本軽種馬協会が運営するJBISサーチにおいては、同名の競走馬が1957年産、1971年産において存在。本記事では1998年産の競走馬について記述。
アメリカ合衆国ケンタッキー州のニコラス・M・ロッツによる生産。父フレンチデピュティは競走馬時代に米G2・ジェロームハンデキャップなど4勝を挙げ、2年前にアメリカで種牡馬入りしたばかりだった。母ブルーアヴェニューは北米で5勝を挙げ、その姉にはヴァニティー招待ハンデキャップ、ミレイディハンデキャップ(いずれもG1)など11勝を挙げたブロートツウマインドがいた。他方、母の父であるクラシックゴーゴーはテキサス州において無料に近い種付け料で種牡馬生活を送っていた無名の存在であった。
1歳時にピンフッカーに7万ドルで購買された後、ナイルブレイン・ステーブルズで調教を積まれ、2000年2月にファシグ・ティプトン社主催のトレーニングセールに上場された。当時ナイルブレイン・ステーブルズで研修していた吉田俊介(後のノーザンファーム空港牧場場長)によれば、同所で育成されていた後のホープフルステークス(アメリカ)優勝馬・ヨナグスカに勝るとも劣らないという評判であったといい、吉田自身も「大物感というか、落ち着き払った感じで風格があった」と回想している。ここで最初の購買時から6倍強の価格となる43万ドルで吉田勝己に落札され、4月に輸送され北海道早来町のノーザンファームで育成調教を積んだ。同場の育成担当者も「良い動きをするし、古馬のような雰囲気を感じる」と高く評価し、調教の進捗に連れてその評判はさらに高まっていった。翌年の2001年には東京優駿(日本ダービー)がはじめて外国産馬にも開放される予定となっており、馬主となった金子真人は本馬に「開放初年度のダービーを勝って欲しい」という願いを込め、1853年に浦賀へ来港し日本に開国を迫ったマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の通称「黒船」に由来するものである「クロフネ」と命名した。
8月、管理調教師・松田国英(栗東トレーニングセンター)のもとへ入厩。松田はトレーニングセールでの姿をビデオで観た際、その雄大な馬格から「歴戦の古馬のようだ」という印象を抱いていたが、当時は日本到着後の長い検疫明けだったこともあり、痩せた牝馬のようであったという。しかし松田はクロフネがこうした厳しい経験をしたことでさらなる成長が見込めると期待していた。松田は気心の知れた記者から「今年期待の新馬は」と問われた時にクロフネの名を挙げ、「馬体のバランスが良くて、勝負根性もある。しかも品がある。彼こそ本当の紳士だよ」とクロフネを言い表した。
10月14日、京都開催の新馬戦で松永幹夫を鞍上にデビュー。関係者の間では注目を集めていたが、直前の調教でのタイムは水準級といったものであり、父・フレンチデピュティの実力も未知数だったということに加えて芝の適性に疑問符がつく血統だったため当日は3番人気であった。レースでは逃げるシゲルフェニックスの2番手につけて折り合いもつき、終始楽な手応えを維持。4コーナーではエイシンスペンサーとほぼ同じ位置取りだったものの、馬群の中を割ったエイシンスペンサーに対して窮屈な内に入ってしまい、立て直して外に持ち出し急追したもののエイシンスペンサーにクビ差届かず2着に敗れた。
続いて出走した2戦目の新馬戦は距離が前走の1600メートルから2000メートルに延長されたが、単勝オッズは1.3倍の人気を集めた。道中は3番手につけ、スタート直後の1コーナーでやや行きたがるそぶりを見せたもののそれ以降はスムーズに折り合う。直線持ったままで先頭に並びかけると松永がわずかに鞭を入れたのみで抜け出してゴールし、従来のレコードを1秒2更新しての初勝利を挙げた。続くエリカ賞でも単勝1.3倍の人気を集め、レースではマイネルユーゲントとアドマイヤコンドルの先頭争いを見ながら3番手を追走し、外目を回って直線に向くと松永が軽く追い出しただけで抜け出して快勝。2000メートルで2戦連続のレコードを記録する。2000メートルという中距離を連続して使われた背景には、2400メートルで行われる日本ダービーに向け、騎手の手綱に反して先へ行きたがる気性を矯正しておきたいという思惑もあった。
重賞初出走となったラジオたんぱ賞3歳ステークスでは、当年の日本ダービー優勝馬アグネスフライトの全弟・アグネスタキオン、札幌3歳ステークスの優勝馬・ジャングルポケットが出走してきたものの当日の単勝オッズでは1.4倍の1番人気に支持された。クロフネの馬体はレースを使いつつ絞れてきた馬体だったが、松田はクロフネが最も強いとみて余裕を残した仕上げで送り出し、前走から6キロ増の514kgで出走した。レースはスターリーロマンスとマイネルエスケープの2頭が先行争いを演じるもペースは上がらず、1000メートルの通過は61秒8。淡々とした展開の中でジャングルポケットとともに5番手を追走。その直後にアグネスタキオンがつけて3コーナーに入ると久々のレースで手応えが悪いジャングルポケットが下がり気味になり、変わって上がってきたアグネスタキオンとともに先頭に立つ勢いで直線へ入った。しかし、前走までのような伸びがなくクロフネをマークしていたアグネスタキオンに難なく抜き去られ、さらにはゴール前でジャングルポケットにも先着を許しての3着に敗れた。
レース後、松永は「今日はテンから外へ逃げ気味。ロスが多かったよ」とコメントし、松田は「エリカ賞と同じタイム(2分1秒2)で勝てる」とみていたが、アグネスタキオンのタイムはそれを0秒4上回るレコードであった。松田は「初めて味わう挫折」であったと述べている。レース後のレントゲン検査では左内側の管骨溜が判明し、当年はこのレースを最後に休養に入った。
3歳となっての初戦は、当初は2月4日に東京競馬場で行われる共同通信杯を目標に調整を進めていたが、軽い骨瘤と歯替わりがあったため回避し、3月24日の毎日杯に出走した。レースが行われるまでの調教はモタれる癖を矯正するためにブリンカーを着用して行い、レースでもブリンカーを着用して出走した。それまでの4レースで鞍上を務めた松永幹夫はドバイへ遠征を行っていたため四位洋文に乗り替わっての出走となり、単勝1.3倍の1番人気に支持された。終始楽な手応えで2番手を追走し、直線入り口で馬なりのまま先頭に立ち、4コーナーでルゼルとコイントスが迫っていったもののスピードの違いで振り切って瞬く間にリードを広げていき、2着コイントスに5馬身、3着ダイタクバートラムにさらに5馬身という差をつけて重賞初勝利を挙げた。後半5ハロンは全て11秒台で走り、走破タイム1分58秒6は前走同じ距離で走ったアグネスタキオンのタイムを2秒2上回り、古馬のコースレコードに0秒3差迫るという優秀なものだった。レース後、四位洋文は「僕は乗ってただけでした。本当にいい馬。順調にいってほしいですね」とコメントし、松田は「3か月かけてまっすぐ、かつ自信を持って走れるようにテーマを持ってきました。いろんなことをクリアしてきましたが、前に馬を置いて願ったりのレースができましたね。より強い勝ち方をすることで、ファンも喜んでくれるでしょう。次走はNHKマイルカップを使う公算が大きいですが、ブリンカーは取る予定。そこでどんな走りをするかチェックしてダービーに向かいます」とコメントした。
日本ダービーを目指すに当たっては、GI・NHKマイルカップで2着までに入るか、京都新聞杯または青葉賞に勝利するという条件を満たす必要があった。それまでの出走歴から、2000メートルの京都新聞杯か、ダービーと同じ2400メートルの青葉賞に向かうともみられていたが、松田は馬主の金子と相談のうえで、距離が1600メートルと短いNHKマイルカップを選択。東京競馬場のゆったりとしたコース形態と、GIの格を重視してのものだった。また、クラシック三冠初戦の皐月賞を無敗のまま制したアグネスタキオンを意識し、「GIのタイトルを持ってアグネスタキオンと対決すれば、よりダービーが盛り上がるだろうと決めた」と公言してもいたが、アグネスタキオンはNHKマイルカップの最終追い切りを済ませた後に屈腱炎を発症と報じられて戦線を離脱。以後復帰することなく、9月に引退している。
5月6日に迎えたNHKマイルカップでは、馬主の金子が当時フランスに滞在していた武豊に直接騎乗を依頼し、武もこれを快く承諾したため新コンビを組んでの出走となった。当日は単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持される。スタートが切られると行き脚がつかず、それまで好位からのレースを続けていたところから一転し、後方14番手から進むことになった。平均ペースで流れるなか、そのまま後方待機策をとると、最後の直線では馬群を縫うようにして抜け出していった。その時点ではまだ10番手で逃げるグラスエイコウオーと未だ大きな差があったが、鞍上の武が鞭を入れると一気に加速し、ゴール前で同馬を半馬身差し切っての優勝を果たした。クロフネに加え、松田にとってもこれが開業6年目でのGI初制覇となった。武豊もデビュー2年目からの連続GI勝ちの記録を14年に伸ばした。出走権獲得となったダービーへ向け、松田は「道中の位置取りに少しハラハラしました。後方から直線だけで差し切っての競馬でしたが、次のダービーにつながる内容だったと思います」と感想を述べ、また武は「ストライドが大きく、乗っていてあまりスピード感がない馬なので一瞬心配しましたが、きちんと差し切ってくれましたね。素晴らしい馬だと思います。間違いなくダービーの有力馬の1頭でしょう」と称えた。
日本ダービー(5月27日)ではアグネスタキオンこそ不在だったが、皐月賞2着のダンツフレーム、同3着のジャングルポケットが顔を揃え、クロフネに対する皐月賞上位馬の決戦という図式となった。1番人気には皐月賞で大きな出遅れから3着まで追い上げたジャングルポケットが推されて2.3倍、クロフネが3倍でこれに続き、ダンツフレームが6倍という順となった。スタートが切られるとテイエムサウスポーが大逃げを打ち、ダンツフレームが2番手集団の前方、ジャングルポケットが12番手、その直後にクロフネという隊列となった。重馬場にもかかわらず、1000メートル通過は58秒4とダービー史上最速のペースとなり、ダンツフレームが位置取りを下げて一時は上位人気3頭が並ぶように進む。第3コーナー過ぎからクロフネとダンツフレームが上位に進出していき最後の直線に入ったが、仕掛けを遅らせたジャングルポケットが抜け出しを図る両馬を一気にかわし、ダンツフレームに1馬身半差を付けて優勝。クロフネは伸びあぐねて5着と敗れた。松田によれば、ダービーに向けての「手加減した調整」が裏目に出たといい、「5着という着順は、成功したという感じはもちろんないし、かといって、大きく失敗したという感じもない。馬主さんも褒めもしないし、非難もしない。何となく中途半端なレースになってしまった」と振り返っている。
夏の休養を経ての秋シーズンは、これも当年より外国産馬に2頭の出走枠が設けられた天皇賞(秋)を目標に、9月の神戸新聞杯から復帰。鞍上は蛯名正義が務めた。ここではダービー2着のダンツフレームと再戦することになったが、当日の1番人気は札幌記念でジャングルポケットを破っていた外国産馬エアエミネムに譲った。レースではスタートで躓いて後手を踏み、道中もスローペースを堪えきれず蛯名との折り合いを欠いた。最後の直線では鋭く追い込んだものの、勝ったエアエミネム、さらにサンライズペガサスも捉えきれず3着と敗れた。松田は「馬が気負いすぎて出遅れてしまった。本当なら馬群の外目を先行するはずだったので、差す競馬は予定外だった。それでも終いの脚は良かったし、天皇賞に向けて収穫はあったと思う」と語った。敗れはしたものの、上がり3ハロンはメンバー中最速の34秒2をマークした。
その後は天皇賞出走を予定していたが、2頭の外国産馬枠に対して獲得賞金額でクロフネを上回る年長馬のメイショウドトウとアグネスデジタルが優先権をもったことから、出走することができなくなった。2頭のうちアグネスデジタルは直前になって急遽出走を決めたもので、クロフネへの期待を摘まれた一部ファンからはアグネスデジタル陣営への非難の声が上げられた。松田も「『まさか』が正直な気持ちだった」と振り返っているが、この時点で翌年の予定にダートGI競走・フェブラリーステークスが入っていたことから、これを機会に一度ダートを走らせようと、天皇賞前日に行われるGIII・武蔵野ステークスに出走することになった。
当日は1番人気ながらオッズでは連勝中のエンゲルグレーゼと2倍台を分け合った。外の15番枠から好スタートを切ると中団の好位につけ、初ダートとは思えぬ抜群の行きっぷりで楽々とハイペースを追走。3コーナーを前にして動き出すと、第4コーナーでは一気に先頭を行くサウスヴィグラスに並びかける。最後の直線では後続を引き離し、前年のNHKマイルカップ優勝馬・イーグルカフェに9馬身差をつけて圧勝した。走破タイム1分33秒3は、1992年にナリタハヤブサが記録した1分34秒5を1秒2更新するJRAレコードであり、芝コースのタイムに匹敵するものだった。騎乗した武は「3コーナーから一気に上がっていく競馬を、あえてしてみた。普通、直線が長くて最後に坂がある東京であんなレースをしたら、惨敗するのが当たり前だが、この馬は最後に突き放して勝ってくれた。他の馬とは次元が違うというか、レベルが違いすぎた」と振り返っている。なお、翌日に行われた天皇賞ではアグネスデジタルが優勝し、同馬の馬主である渡辺孝男は「周りから心ないことを色々言われたが、言った人たちは恥をかいたんじゃないか」と語った。
11月24日、ダートの国際招待競走・ジャパンカップダートへ出走。当年はアメリカから一線級の実績馬であるリドパレスが出走したが、クロフネは同馬を抑えオッズ1.7倍の1番人気に支持された。スタート直後クロフネは隣のゲートのジェネラスロッシと接触、やや出負けした感じで後方からの競馬となったが、2コーナーで外に出すと馬なりのまま徐々に順位を上げていく。3コーナーを前にしてリドパレスもかわして3番手まで上がると、4コーナーで持ったままで単独の先頭に躍り出た。直線に入ると独走態勢となって前年度優勝馬ウイングアローに7馬身差をつけての優勝を果たした。走破タイム2分5秒9は同馬が前年度に記録した2分7秒2を1秒3更新する、2戦連続のJRAレコードであった。武は「これまでにも、いい馬にたくさん乗せていただきましたが、今日のレースに限って言えば、今まで乗ってきた馬の中でも、こんなに強い馬はいませんでした」と称え、松田は「スムーズに4コーナーを回ったところで勝てると思いました。レコードで2回続けて走ったので、注意深く馬の様子を見ていく必要がありますね」とコメントした。8着と敗れたリドパレス騎乗のジェリー・ベイリーは「言い訳はしない。勝った馬が強すぎた」と述べた。
ジャパンカップダートの後は休養に入り、翌年にはダートで行われる世界最高賞金競走・ドバイワールドカップを目標とすることが決定していた。12月6日には有馬記念のファン投票の最終集計結果が発表され、クロフネ陣営は出走回避を明言していたものの8万9171票を集め、このレースを以って引退するテイエムオペラオーに次ぐ2位に選ばれていた。しかし、それから19日後の12月25日、スポーツ紙が一斉にクロフネが右前脚に屈腱炎を発症、最悪引退と報道した。報道3日前の22日、フェブラリーステークスに向けて調整されていたクロフネは調教後、右前脚に熱を持っていることが判明し、直ちに栗東トレーニングセンター競走馬診療所で検査を受けた。検査の結果右前浅屈腱炎、少なくても9か月の休養が必要と診断され、これで翌年出走を予定していたドバイワールドカップ、ブリーダーズカップクラシックへの出走プランはすべて白紙となった。報道翌日の26日には競走登録の抹消と種牡馬入りが発表された。引退の報を聞いた武豊は「来年を楽しみにしていただけに本当に残念です」とコメントし、松田は後に調教師としての立場からこの故障について次のように語っている。
翌年1月、年度表彰・JRA賞が発表され、クロフネは最優秀ダートホースに選出された。同月15日には、ダート競走格付け委員会によるダートグレード競走最優秀馬にも選ばれた。またJPNクラシフィケーションでは、ダート2戦の内容が北米のハンディキャッパーからも高く評価され、アメリカのケンタッキーダービー優勝馬モナーコスと並び、国内ダートでは史上最高評価となる125ポンドを獲得、3歳のMコラム(1400メートル以上、1900メートル未満)では芝を含めても世界第1位となった。
2002年より社台スタリオンステーションで種牡馬となり、初年度から201頭の交配相手を集めた。初年度産駒は2005年にデビュー、フサイチリシャールが朝日杯フューチュリティステークスを制し順調なスタートを切る。2007年以降はランキング10位以内に定着し、2010年には3位、2011年には2位を記録している。2015年には史上16頭目となる産駒のJRA通算1000勝を達成した。芝、ダートの双方で重賞勝利馬を輩出しているが、特に牝馬の活躍が多い。産駒は芝、ダートを問わずに走ることから中央のみならず地方でも多数活躍しており、2021年8月22日現在、中央・地方合計で1686頭が出走し、このうち1210頭が勝ち上がっているが、これは日本で供用された種牡馬の歴代最多記録であり、中央・地方合計の勝鞍4339勝は歴代第2位である。2023年にはママコチャがスプリンターズステークスを制したことで、産駒が19年連続でJRAの重賞を勝利。これはパーソロンと並んで歴代1位タイの記録である。2001年には父・フレンチデピュティも日本に輸入されて数々の重賞勝利馬を輩出し、北米の主流血統であったヴァイスリージェント系の日本への定着に父子で貢献した。
2019年からは体調面がすぐれないために種付けを中止して経過観察をしていたが、良化の兆候がみられず高齢となったこともあり、2020年をもって種牡馬を引退することとなった。その後は社台スタリオンステーションで引き続き余生を過ごしていたが、2021年1月17日14時、老衰のため、死亡した。
クロフネ死亡時点で後継種牡馬はテイエムジンソク一頭のみであるが、この種付け数が2020年は7頭となっている。
以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。
4戦で騎乗した武豊は、2003年に行われたインタビューの中で「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」、「全く別の次元の競馬をして、能力の高さだけで押し切れる。そんな馬はそうそういない」と述べている。また、乗り味の良さは抜群のものであったといい、「これほど大きいストライドで走る馬は、なかなかいない」とも評している。武はクロフネに人気がある理由について「負けるときは負けるけど、(勝つときは)ぶっチギって勝つからでしょうね」としており、このような競走成績からテイエムオペラオーより強いというイメージを持っている人も多いのではないかと述べている。評論家の吉沢譲治もストライドの大きさに言及し、「まるで1頭だけ、むかしの長距離戦を走っているようだった。そのふわりふわりと走るさまが、遊んでいるようにも、はなからやる気がないようにも見えた」と評している。
ダートでは日本競馬史上の最強馬とも評される。日本中央競馬会 (JRA) の広報誌『優駿』が2012年に読者へ行った「カテゴリー別最強馬」のアンケートでは、ダート部門で2位ホクトベガに3倍以上の差を付ける532票を集め、第1位に据えられた。生産者、騎手、調教師にもあわせてアンケートがとられ、回答者17人のうち、松田国英・池江泰郎・池江泰寿・岡田繁幸・国枝栄・小島茂之・四位洋文・中舘英二・松永幹夫の9人がクロフネをダートの最強馬として挙げた。岡田は「アメリカのダートでも勝負できたかもしれないと思わせるほど、能力が高かった」と添えている。松田は「普通、ダート馬は勝ち気で人の言うことをあまり聞かないようなタイプが多いが、クロフネは精神的に余裕があって、おっとりしていた。精神面だけでなく、肉体面も立派な馬だった。フレンチデピュティ産駒らしい顎の張った馬で、だから飼い葉食いも良く、筋肉の盛り上がった雄大な馬体をしていた。だからといって、決してパワータイプという感じではなかった。素晴らしいスピードがあって、芝でも通用するダート馬だったと思う」と評した。伊藤雄二は、東京競馬場のダートコースが速い時計の出る造りになっているとはいえダートのクロフネは本当に走る馬だと評しており、ジャパンカップダート後も怪我をせずに予定通りドバイワールドカップに出走していたら勝てたのではないかと述べている。
武蔵野ステークス(ダート1600m・1分33秒3)、ジャパンカップダート(ダート2100m・2分05秒9)の2戦で記録した中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)は20年以上更新されていない上に(2021年現在)、中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)のうち現存しない距離のレコードタイムを除くと良馬場で記録されたものはクロフネによるこの2戦の記録のみである 。
『優駿』が2010年と2015年にそれぞれアンケートをとった「未来に語り継ぎたい名馬ベスト100」では、いずれも19位となっている。
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走。太字はGI、JpnIおよびJ・GI競走。
※GII、JpnIIおよびJ・GII以下の重賞優勝馬。
※地方競馬限定格付けの重賞勝利馬。
父フレンチデピュティ、母ブルーアヴェニューはいずれも、2001年に日本に輸入された。兄弟の主な活躍馬として、全妹のBella Bellucciがアメリカで重賞を2勝している。
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"text": "3歳となっての初戦は、当初は2月4日に東京競馬場で行われる共同通信杯を目標に調整を進めていたが、軽い骨瘤と歯替わりがあったため回避し、3月24日の毎日杯に出走した。レースが行われるまでの調教はモタれる癖を矯正するためにブリンカーを着用して行い、レースでもブリンカーを着用して出走した。それまでの4レースで鞍上を務めた松永幹夫はドバイへ遠征を行っていたため四位洋文に乗り替わっての出走となり、単勝1.3倍の1番人気に支持された。終始楽な手応えで2番手を追走し、直線入り口で馬なりのまま先頭に立ち、4コーナーでルゼルとコイントスが迫っていったもののスピードの違いで振り切って瞬く間にリードを広げていき、2着コイントスに5馬身、3着ダイタクバートラムにさらに5馬身という差をつけて重賞初勝利を挙げた。後半5ハロンは全て11秒台で走り、走破タイム1分58秒6は前走同じ距離で走ったアグネスタキオンのタイムを2秒2上回り、古馬のコースレコードに0秒3差迫るという優秀なものだった。レース後、四位洋文は「僕は乗ってただけでした。本当にいい馬。順調にいってほしいですね」とコメントし、松田は「3か月かけてまっすぐ、かつ自信を持って走れるようにテーマを持ってきました。いろんなことをクリアしてきましたが、前に馬を置いて願ったりのレースができましたね。より強い勝ち方をすることで、ファンも喜んでくれるでしょう。次走はNHKマイルカップを使う公算が大きいですが、ブリンカーは取る予定。そこでどんな走りをするかチェックしてダービーに向かいます」とコメントした。",
"title": "経歴"
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"text": "日本ダービーを目指すに当たっては、GI・NHKマイルカップで2着までに入るか、京都新聞杯または青葉賞に勝利するという条件を満たす必要があった。それまでの出走歴から、2000メートルの京都新聞杯か、ダービーと同じ2400メートルの青葉賞に向かうともみられていたが、松田は馬主の金子と相談のうえで、距離が1600メートルと短いNHKマイルカップを選択。東京競馬場のゆったりとしたコース形態と、GIの格を重視してのものだった。また、クラシック三冠初戦の皐月賞を無敗のまま制したアグネスタキオンを意識し、「GIのタイトルを持ってアグネスタキオンと対決すれば、よりダービーが盛り上がるだろうと決めた」と公言してもいたが、アグネスタキオンはNHKマイルカップの最終追い切りを済ませた後に屈腱炎を発症と報じられて戦線を離脱。以後復帰することなく、9月に引退している。",
"title": "経歴"
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"text": "5月6日に迎えたNHKマイルカップでは、馬主の金子が当時フランスに滞在していた武豊に直接騎乗を依頼し、武もこれを快く承諾したため新コンビを組んでの出走となった。当日は単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持される。スタートが切られると行き脚がつかず、それまで好位からのレースを続けていたところから一転し、後方14番手から進むことになった。平均ペースで流れるなか、そのまま後方待機策をとると、最後の直線では馬群を縫うようにして抜け出していった。その時点ではまだ10番手で逃げるグラスエイコウオーと未だ大きな差があったが、鞍上の武が鞭を入れると一気に加速し、ゴール前で同馬を半馬身差し切っての優勝を果たした。クロフネに加え、松田にとってもこれが開業6年目でのGI初制覇となった。武豊もデビュー2年目からの連続GI勝ちの記録を14年に伸ばした。出走権獲得となったダービーへ向け、松田は「道中の位置取りに少しハラハラしました。後方から直線だけで差し切っての競馬でしたが、次のダービーにつながる内容だったと思います」と感想を述べ、また武は「ストライドが大きく、乗っていてあまりスピード感がない馬なので一瞬心配しましたが、きちんと差し切ってくれましたね。素晴らしい馬だと思います。間違いなくダービーの有力馬の1頭でしょう」と称えた。",
"title": "経歴"
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"text": "日本ダービー(5月27日)ではアグネスタキオンこそ不在だったが、皐月賞2着のダンツフレーム、同3着のジャングルポケットが顔を揃え、クロフネに対する皐月賞上位馬の決戦という図式となった。1番人気には皐月賞で大きな出遅れから3着まで追い上げたジャングルポケットが推されて2.3倍、クロフネが3倍でこれに続き、ダンツフレームが6倍という順となった。スタートが切られるとテイエムサウスポーが大逃げを打ち、ダンツフレームが2番手集団の前方、ジャングルポケットが12番手、その直後にクロフネという隊列となった。重馬場にもかかわらず、1000メートル通過は58秒4とダービー史上最速のペースとなり、ダンツフレームが位置取りを下げて一時は上位人気3頭が並ぶように進む。第3コーナー過ぎからクロフネとダンツフレームが上位に進出していき最後の直線に入ったが、仕掛けを遅らせたジャングルポケットが抜け出しを図る両馬を一気にかわし、ダンツフレームに1馬身半差を付けて優勝。クロフネは伸びあぐねて5着と敗れた。松田によれば、ダービーに向けての「手加減した調整」が裏目に出たといい、「5着という着順は、成功したという感じはもちろんないし、かといって、大きく失敗したという感じもない。馬主さんも褒めもしないし、非難もしない。何となく中途半端なレースになってしまった」と振り返っている。",
"title": "経歴"
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"text": "夏の休養を経ての秋シーズンは、これも当年より外国産馬に2頭の出走枠が設けられた天皇賞(秋)を目標に、9月の神戸新聞杯から復帰。鞍上は蛯名正義が務めた。ここではダービー2着のダンツフレームと再戦することになったが、当日の1番人気は札幌記念でジャングルポケットを破っていた外国産馬エアエミネムに譲った。レースではスタートで躓いて後手を踏み、道中もスローペースを堪えきれず蛯名との折り合いを欠いた。最後の直線では鋭く追い込んだものの、勝ったエアエミネム、さらにサンライズペガサスも捉えきれず3着と敗れた。松田は「馬が気負いすぎて出遅れてしまった。本当なら馬群の外目を先行するはずだったので、差す競馬は予定外だった。それでも終いの脚は良かったし、天皇賞に向けて収穫はあったと思う」と語った。敗れはしたものの、上がり3ハロンはメンバー中最速の34秒2をマークした。",
"title": "経歴"
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"text": "その後は天皇賞出走を予定していたが、2頭の外国産馬枠に対して獲得賞金額でクロフネを上回る年長馬のメイショウドトウとアグネスデジタルが優先権をもったことから、出走することができなくなった。2頭のうちアグネスデジタルは直前になって急遽出走を決めたもので、クロフネへの期待を摘まれた一部ファンからはアグネスデジタル陣営への非難の声が上げられた。松田も「『まさか』が正直な気持ちだった」と振り返っているが、この時点で翌年の予定にダートGI競走・フェブラリーステークスが入っていたことから、これを機会に一度ダートを走らせようと、天皇賞前日に行われるGIII・武蔵野ステークスに出走することになった。",
"title": "経歴"
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"text": "当日は1番人気ながらオッズでは連勝中のエンゲルグレーゼと2倍台を分け合った。外の15番枠から好スタートを切ると中団の好位につけ、初ダートとは思えぬ抜群の行きっぷりで楽々とハイペースを追走。3コーナーを前にして動き出すと、第4コーナーでは一気に先頭を行くサウスヴィグラスに並びかける。最後の直線では後続を引き離し、前年のNHKマイルカップ優勝馬・イーグルカフェに9馬身差をつけて圧勝した。走破タイム1分33秒3は、1992年にナリタハヤブサが記録した1分34秒5を1秒2更新するJRAレコードであり、芝コースのタイムに匹敵するものだった。騎乗した武は「3コーナーから一気に上がっていく競馬を、あえてしてみた。普通、直線が長くて最後に坂がある東京であんなレースをしたら、惨敗するのが当たり前だが、この馬は最後に突き放して勝ってくれた。他の馬とは次元が違うというか、レベルが違いすぎた」と振り返っている。なお、翌日に行われた天皇賞ではアグネスデジタルが優勝し、同馬の馬主である渡辺孝男は「周りから心ないことを色々言われたが、言った人たちは恥をかいたんじゃないか」と語った。",
"title": "経歴"
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"text": "11月24日、ダートの国際招待競走・ジャパンカップダートへ出走。当年はアメリカから一線級の実績馬であるリドパレスが出走したが、クロフネは同馬を抑えオッズ1.7倍の1番人気に支持された。スタート直後クロフネは隣のゲートのジェネラスロッシと接触、やや出負けした感じで後方からの競馬となったが、2コーナーで外に出すと馬なりのまま徐々に順位を上げていく。3コーナーを前にしてリドパレスもかわして3番手まで上がると、4コーナーで持ったままで単独の先頭に躍り出た。直線に入ると独走態勢となって前年度優勝馬ウイングアローに7馬身差をつけての優勝を果たした。走破タイム2分5秒9は同馬が前年度に記録した2分7秒2を1秒3更新する、2戦連続のJRAレコードであった。武は「これまでにも、いい馬にたくさん乗せていただきましたが、今日のレースに限って言えば、今まで乗ってきた馬の中でも、こんなに強い馬はいませんでした」と称え、松田は「スムーズに4コーナーを回ったところで勝てると思いました。レコードで2回続けて走ったので、注意深く馬の様子を見ていく必要がありますね」とコメントした。8着と敗れたリドパレス騎乗のジェリー・ベイリーは「言い訳はしない。勝った馬が強すぎた」と述べた。",
"title": "経歴"
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"text": "ジャパンカップダートの後は休養に入り、翌年にはダートで行われる世界最高賞金競走・ドバイワールドカップを目標とすることが決定していた。12月6日には有馬記念のファン投票の最終集計結果が発表され、クロフネ陣営は出走回避を明言していたものの8万9171票を集め、このレースを以って引退するテイエムオペラオーに次ぐ2位に選ばれていた。しかし、それから19日後の12月25日、スポーツ紙が一斉にクロフネが右前脚に屈腱炎を発症、最悪引退と報道した。報道3日前の22日、フェブラリーステークスに向けて調整されていたクロフネは調教後、右前脚に熱を持っていることが判明し、直ちに栗東トレーニングセンター競走馬診療所で検査を受けた。検査の結果右前浅屈腱炎、少なくても9か月の休養が必要と診断され、これで翌年出走を予定していたドバイワールドカップ、ブリーダーズカップクラシックへの出走プランはすべて白紙となった。報道翌日の26日には競走登録の抹消と種牡馬入りが発表された。引退の報を聞いた武豊は「来年を楽しみにしていただけに本当に残念です」とコメントし、松田は後に調教師としての立場からこの故障について次のように語っている。",
"title": "経歴"
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"text": "翌年1月、年度表彰・JRA賞が発表され、クロフネは最優秀ダートホースに選出された。同月15日には、ダート競走格付け委員会によるダートグレード競走最優秀馬にも選ばれた。またJPNクラシフィケーションでは、ダート2戦の内容が北米のハンディキャッパーからも高く評価され、アメリカのケンタッキーダービー優勝馬モナーコスと並び、国内ダートでは史上最高評価となる125ポンドを獲得、3歳のMコラム(1400メートル以上、1900メートル未満)では芝を含めても世界第1位となった。",
"title": "経歴"
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"text": "2002年より社台スタリオンステーションで種牡馬となり、初年度から201頭の交配相手を集めた。初年度産駒は2005年にデビュー、フサイチリシャールが朝日杯フューチュリティステークスを制し順調なスタートを切る。2007年以降はランキング10位以内に定着し、2010年には3位、2011年には2位を記録している。2015年には史上16頭目となる産駒のJRA通算1000勝を達成した。芝、ダートの双方で重賞勝利馬を輩出しているが、特に牝馬の活躍が多い。産駒は芝、ダートを問わずに走ることから中央のみならず地方でも多数活躍しており、2021年8月22日現在、中央・地方合計で1686頭が出走し、このうち1210頭が勝ち上がっているが、これは日本で供用された種牡馬の歴代最多記録であり、中央・地方合計の勝鞍4339勝は歴代第2位である。2023年にはママコチャがスプリンターズステークスを制したことで、産駒が19年連続でJRAの重賞を勝利。これはパーソロンと並んで歴代1位タイの記録である。2001年には父・フレンチデピュティも日本に輸入されて数々の重賞勝利馬を輩出し、北米の主流血統であったヴァイスリージェント系の日本への定着に父子で貢献した。",
"title": "経歴"
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"text": "2019年からは体調面がすぐれないために種付けを中止して経過観察をしていたが、良化の兆候がみられず高齢となったこともあり、2020年をもって種牡馬を引退することとなった。その後は社台スタリオンステーションで引き続き余生を過ごしていたが、2021年1月17日14時、老衰のため、死亡した。",
"title": "経歴"
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"text": "クロフネ死亡時点で後継種牡馬はテイエムジンソク一頭のみであるが、この種付け数が2020年は7頭となっている。",
"title": "経歴"
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"text": "以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。",
"title": "競走成績"
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{
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"text": "4戦で騎乗した武豊は、2003年に行われたインタビューの中で「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」、「全く別の次元の競馬をして、能力の高さだけで押し切れる。そんな馬はそうそういない」と述べている。また、乗り味の良さは抜群のものであったといい、「これほど大きいストライドで走る馬は、なかなかいない」とも評している。武はクロフネに人気がある理由について「負けるときは負けるけど、(勝つときは)ぶっチギって勝つからでしょうね」としており、このような競走成績からテイエムオペラオーより強いというイメージを持っている人も多いのではないかと述べている。評論家の吉沢譲治もストライドの大きさに言及し、「まるで1頭だけ、むかしの長距離戦を走っているようだった。そのふわりふわりと走るさまが、遊んでいるようにも、はなからやる気がないようにも見えた」と評している。",
"title": "特徴・評価"
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"tag": "p",
"text": "ダートでは日本競馬史上の最強馬とも評される。日本中央競馬会 (JRA) の広報誌『優駿』が2012年に読者へ行った「カテゴリー別最強馬」のアンケートでは、ダート部門で2位ホクトベガに3倍以上の差を付ける532票を集め、第1位に据えられた。生産者、騎手、調教師にもあわせてアンケートがとられ、回答者17人のうち、松田国英・池江泰郎・池江泰寿・岡田繁幸・国枝栄・小島茂之・四位洋文・中舘英二・松永幹夫の9人がクロフネをダートの最強馬として挙げた。岡田は「アメリカのダートでも勝負できたかもしれないと思わせるほど、能力が高かった」と添えている。松田は「普通、ダート馬は勝ち気で人の言うことをあまり聞かないようなタイプが多いが、クロフネは精神的に余裕があって、おっとりしていた。精神面だけでなく、肉体面も立派な馬だった。フレンチデピュティ産駒らしい顎の張った馬で、だから飼い葉食いも良く、筋肉の盛り上がった雄大な馬体をしていた。だからといって、決してパワータイプという感じではなかった。素晴らしいスピードがあって、芝でも通用するダート馬だったと思う」と評した。伊藤雄二は、東京競馬場のダートコースが速い時計の出る造りになっているとはいえダートのクロフネは本当に走る馬だと評しており、ジャパンカップダート後も怪我をせずに予定通りドバイワールドカップに出走していたら勝てたのではないかと述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "武蔵野ステークス(ダート1600m・1分33秒3)、ジャパンカップダート(ダート2100m・2分05秒9)の2戦で記録した中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)は20年以上更新されていない上に(2021年現在)、中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)のうち現存しない距離のレコードタイムを除くと良馬場で記録されたものはクロフネによるこの2戦の記録のみである 。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "『優駿』が2010年と2015年にそれぞれアンケートをとった「未来に語り継ぎたい名馬ベスト100」では、いずれも19位となっている。",
"title": "特徴・評価"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "※括弧内は当該馬の優勝重賞競走。太字はGI、JpnIおよびJ・GI競走。",
"title": "種牡馬成績"
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"tag": "p",
"text": "※GII、JpnIIおよびJ・GII以下の重賞優勝馬。",
"title": "種牡馬成績"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "※地方競馬限定格付けの重賞勝利馬。",
"title": "種牡馬成績"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "父フレンチデピュティ、母ブルーアヴェニューはいずれも、2001年に日本に輸入された。兄弟の主な活躍馬として、全妹のBella Bellucciがアメリカで重賞を2勝している。",
"title": "血統"
}
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クロフネは、日本の競走馬、種牡馬。 アメリカ合衆国で生産され、日本で調教された外国産馬。2001年春にNHKマイルカップに優勝、ダート路線に転じた秋にはジャパンカップダートを含む2戦をいずれも大差でレコード勝ちしたが、同年末に屈腱炎発症のため引退した。同年のJRA賞最優秀ダートホース。通算10戦6勝、うちレコード勝利4回。芝とダートの双方で活躍したが、特にダートでは日本競馬史上最強馬と評される1頭である。 2002年より種牡馬。短距離GI競走で2勝を挙げたカレンチャン、白毛馬として史上初めてGI競走を勝利したソダシなど10頭のGI級競走優勝馬を輩出している。2020年限りで種牡馬を引退。 日本軽種馬協会が運営するJBISサーチにおいては、同名の競走馬が1957年産、1971年産において存在。本記事では1998年産の競走馬について記述。
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{{Otheruses|競走馬|[[リブレ出版]]の雑誌|クロフネ (電子雑誌)|その他の「黒船」「KUROFUNE」|黒船 (曖昧さ回避)}}
{{馬齢混}}
{{競走馬
|名 = クロフネ
|英 = {{lang|en|Kurofune}}<ref name="JBIS"/>
|画 = [[ファイル:Kurofune_at_NHK_Mile_Cup.jpg|230px]]
|説 = クロフネ(2001年5月6日、東京競馬場)
|性 = [[牡馬|牡]]<ref name="JBIS"/>
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|生 = [[1998年]][[3月31日]]<ref name="JBIS"/>
|死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1998|3|31|2021|1|17}}
|父 = [[フレンチデピュティ]]<ref name="JBIS"/>
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|国 = {{USA}}<ref name="JBIS"/>
|主 = [[金子真人]]<ref name="JBIS"/>
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|助 = 渡辺勉<ref>{{Cite web|author=内尾篤嗣|date=2012-09-25|url=http://weblog.hochi.co.jp/pog/2012/09/post-1c34.html|title=栗東から|work=報知競馬ブログ「現場発!POGブログ」|publisher=[[報知新聞社]]|accessdate=2017-02-11}}</ref>
|装 = [[西内荘]]<ref>{{Cite web|url=http://pearldash.jp/members/nishiuchi/|title=西内 荘|publisher=[[パールダッシュ]]|accessdate=2017-02-11}}</ref>
|冠 = [[JRA賞最優秀ダートホース]](2001年)<br />[[NARグランプリダートグレード競走特別賞|ダートグレード競走最優秀馬]](2001年)
|績 = 10戦6勝<ref name="JBIS"/>
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|レ値 = I125 - M125 / 2001年<ref name="rating" />
|medaltemplates =
{{MedalGI|[[NHKマイルカップ]]|2001年}}
{{MedalGI|[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]|2001年}}
{{MedalGIII|[[毎日杯]]|2001年}}
{{MedalGIII|[[武蔵野ステークス]]|2001年}}
}}
'''クロフネ'''(欧字名:{{Lang|en|Kurofune}}、[[1998年]][[3月31日]] - [[2021年]][[1月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/|title=クロフネ(USA)|publisher=[[公益社団法人]][[日本軽種馬協会]]|website=JBIS-Search|accessdate=2019-03-06}}</ref>。
[[アメリカ合衆国]]で生産され、日本で調教された[[外国産馬]]。[[2001年]]春に[[NHKマイルカップ]]に優勝、[[ダート]]路線に転じた秋には[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]を含む2戦をいずれも大差でレコード勝ちしたが、同年末に[[屈腱炎]]発症のため引退した。同年の[[JRA賞最優秀ダートホース]]。通算10戦6勝、うちレコード勝利4回。芝とダートの双方で活躍したが、特にダートでは日本競馬史上最強馬と評される1頭である。
2002年より種牡馬。短距離[[競馬の競走格付け|GI競走]]で2勝を挙げた[[カレンチャン]]、白毛馬として史上初めてGI競走を勝利した[[ソダシ]]など10頭のGI級競走優勝馬を輩出している。2020年限りで種牡馬を引退。
[[日本軽種馬協会]]が運営するJBISサーチにおいては、同名の競走馬が1957年産<ref>{{Cite web|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000005268/ |title= クロフネ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|website=JBIS-Search|accessdate=2020-10-06}}</ref>、1971年産<ref>{{Cite web|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000046631/ |title= クロフネ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|website=JBIS-Search|accessdate=2020-10-06}}</ref>において存在。本記事では1998年産の競走馬について記述<ref group="注">日本競馬においては、顕著な活躍(GI・JpnI級の競走優勝、あるいは主要国際競走優勝馬と同じ馬名)や種牡馬登録などによって保護された馬名以外は、登録抹消後に一定期間を経れば再利用することができる。[[競走馬#馬名登録のルール]]も参照のこと。</ref>。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[アメリカ合衆国]][[ケンタッキー州]]のニコラス・M・ロッツによる生産。父[[フレンチデピュティ]]は競走馬時代に米G2・ジェロームハンデキャップなど4勝を挙げ、2年前にアメリカで種牡馬入りしたばかりだった<ref name="yushun0105">『優駿』2001年5月号、p.139</ref>。母ブルーアヴェニューは北米で5勝を挙げ、その姉には[[ビホルダーマイルステークス|ヴァニティー招待ハンデキャップ]]、ミレイディハンデキャップ(いずれもG1)など11勝を挙げたブロートツウマインドがいた<ref name="yushun0105" />。他方、[[競走馬の血統#祖父母の関係|母の父]]であるクラシックゴーゴーは[[テキサス州]]において無料に近い種付け料で種牡馬生活を送っていた無名の存在であった<ref name="yushun0202">『優駿』2002年2月号、pp.22-25</ref>。
1歳時にピンフッカー<ref group="注">育成調教後に転売する業者</ref>に7万ドルで購買<ref name="yushun0202" />された後、ナイルブレイン・ステーブルズで調教を積まれ<ref name="yushun0106">『優駿』2001年6月号、pp.138-139</ref>、2000年2月に[[ファシグ・ティプトン]]社主催のトレーニングセールに上場された<ref name="yushun0105" />。当時ナイルブレイン・ステーブルズで研修していた[[吉田俊介]](後の[[ノーザンファーム空港牧場]]場長)によれば、同所で育成されていた後の[[ホープフルステークス (アメリカ合衆国)|ホープフルステークス(アメリカ)]]優勝馬・ヨナグスカに勝るとも劣らないという評判であったといい、吉田自身も「大物感というか、落ち着き払った感じで風格があった」と回想している<ref name="yushun0106" />。ここで最初の購買時から6倍強の価格となる43万ドルで[[吉田勝己]]に落札され<ref name="yushun0202"/><ref name=100名馬クロフネ11>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.11</ref>、4月に輸送され[[北海道]][[早来町]]の[[ノーザンファーム]]で育成調教を積んだ<ref name="yushun0105" /><ref name=100名馬クロフネ11/>。同場の育成担当者も「良い動きをするし、古馬のような雰囲気を感じる」と高く評価し、調教の進捗に連れてその評判はさらに高まっていった<ref name="yushun0105" />。翌年の2001年には[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]がはじめて[[外国産馬]]にも開放される予定となっており、馬主となった[[金子真人]]は本馬に「開放初年度のダービーを勝って欲しい」という願いを込め、1853年に[[浦賀]]へ来港し日本に開国を迫った[[マシュー・ペリー]]率いるアメリカ艦隊の通称「[[黒船]]」に由来するものである「クロフネ」と命名した<ref name="yushun0105" /><ref name="yushun1503">『優駿』2015年3月号、p.46</ref>。
=== 競走馬時代 ===
==== 2歳(旧3歳)時(2000年) ====
[[File:Kunihide-Matsuda20100306.jpg|thumb|松田国英(2010年)|170px]]
8月、管理調教師・[[松田国英]](栗東トレーニングセンター)のもとへ入厩<ref name="meiba">『名馬物語』pp.18-24</ref>。松田はトレーニングセールでの姿をビデオで観た際、その雄大な馬格から「歴戦の古馬のようだ」という印象を抱いていたが、当時は日本到着後の長い検疫明けだったこともあり、痩せた[[牝馬]]のようであったという<ref name="meiba" />。しかし松田はクロフネがこうした厳しい経験をしたことでさらなる成長が見込めると期待していた<ref name="meiba" />。松田は気心の知れた記者から「今年期待の新馬は」と問われた時にクロフネの名を挙げ、「馬体のバランスが良くて、勝負根性もある。しかも品がある。彼こそ本当の紳士だよ」とクロフネを言い表した<ref name=100名馬クロフネ5>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.5</ref>。
10月14日、[[京都競馬場|京都開催]]の新馬戦で[[松永幹夫]]を鞍上にデビュー。関係者の間では注目を集めていたが<ref name=100名馬クロフネ5/>、直前の調教でのタイムは水準級といったものであり<ref name="meiba" />、父・フレンチデピュティの実力も未知数だったということに加えて芝の適性に疑問符がつく血統だったため当日は3番人気であった<ref name=100名馬クロフネ5/><ref name=100名馬クロフネ12>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.12</ref>。レースでは逃げるシゲルフェニックスの2番手につけて折り合いもつき、終始楽な手応えを維持<ref name=100名馬クロフネ12/>。4コーナーではエイシンスペンサーとほぼ同じ位置取りだったものの、馬群の中を割ったエイシンスペンサーに対して窮屈な内に入ってしまい<ref name=100名馬クロフネ12/>、立て直して外に持ち出し急追したもののエイシンスペンサーにクビ差届かず2着に敗れた<ref name=100名馬クロフネ12/><ref name="meiba" />。
続いて出走した2戦目の新馬戦は距離が前走の1600メートルから2000メートルに延長されたが、単勝オッズは1.3倍の人気を集めた<ref name=100名馬クロフネ12/>。道中は3番手につけ、スタート直後の1コーナーでやや行きたがるそぶりを見せたもののそれ以降はスムーズに折り合う<ref name=100名馬クロフネ12/>。直線持ったままで先頭に並びかけると松永がわずかに鞭を入れたのみで抜け出してゴールし、従来のレコードを1秒2更新しての初勝利を挙げた<ref>『優駿』2000年12月号、p.72</ref><ref name=100名馬クロフネ12/>。続くエリカ賞でも単勝1.3倍の人気を集め<ref name=100名馬クロフネ13>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.13</ref>、レースではマイネルユーゲントとアドマイヤコンドルの先頭争いを見ながら3番手を追走し、外目を回って直線に向くと松永が軽く追い出しただけで抜け出して快勝<ref name=100名馬クロフネ13/>。2000メートルで2戦連続のレコードを記録する<ref>『優駿』2001年2月号、p.72</ref>。2000メートルという中距離を連続して使われた背景には、2400メートルで行われる日本ダービーに向け、騎手の手綱に反して先へ行きたがる気性を矯正しておきたいという思惑もあった<ref name="meiba" />。
重賞初出走となった[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ賞3歳ステークス]]では、当年の日本ダービー優勝馬[[アグネスフライト]]の全弟・[[アグネスタキオン]]、[[札幌2歳ステークス|札幌3歳ステークス]]の優勝馬・[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]が出走してきたものの当日の単勝オッズでは1.4倍の1番人気に支持された<ref name="yushun0102">『優駿』2001年2月号、p.69</ref>。クロフネの馬体はレースを使いつつ絞れてきた馬体だったが<ref name=100名馬クロフネ14>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.14</ref>、松田はクロフネが最も強いとみて余裕を残した仕上げで送り出し<ref name="meiba" />、前走から6キロ増の514kgで出走した<ref name=100名馬クロフネ14/>。レースはスターリーロマンスとマイネルエスケープの2頭が先行争いを演じるもペースは上がらず、1000メートルの通過は61秒8<ref name=100名馬クロフネ6>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.6</ref>。淡々とした展開の中でジャングルポケットとともに5番手を追走。その直後にアグネスタキオンがつけて3コーナーに入ると久々のレースで手応えが悪いジャングルポケットが下がり気味になり、変わって上がってきたアグネスタキオンとともに先頭に立つ勢いで直線へ入った<ref name=100名馬クロフネ14/>。しかし、前走までのような伸びがなくクロフネをマークしていたアグネスタキオンに難なく抜き去られ<ref name=100名馬クロフネ6/>、さらにはゴール前でジャングルポケットにも先着を許しての3着に敗れた<ref name=100名馬クロフネ6/><ref name=100名馬クロフネ14/>。
レース後、松永は「今日はテンから外へ逃げ気味。ロスが多かったよ」とコメントし<ref name=100名馬クロフネ14/>、松田は「エリカ賞と同じタイム(2分1秒2)で勝てる」とみていたが<ref name="meiba" />、アグネスタキオンのタイムはそれを0秒4上回るレコードであった<ref name="yushun0102" />。松田は「初めて味わう挫折」であったと述べている<ref name="meiba" />。レース後のレントゲン検査では左内側の管骨溜が判明し<ref name=100名馬クロフネ15>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.15</ref>、当年はこのレースを最後に休養に入った<ref name="meiba" />。
==== 3歳時(2001年) ====
===== NHKマイルカップ、日本ダービー =====
3歳となっての初戦は、当初は2月4日に[[東京競馬場]]で行われる[[共同通信杯]]を目標に調整を進めていたが、軽い骨瘤と歯替わりがあったため回避し<ref name=100名馬クロフネ6/>、3月24日の[[毎日杯]]に出走した。レースが行われるまでの調教はモタれる癖を矯正するために[[ブリンカー]]を着用して行い<ref name=100名馬クロフネ15/>、レースでもブリンカーを着用して出走した<ref name="yushun01051">『優駿』2001年5月号、p.126</ref>。それまでの4レースで鞍上を務めた松永幹夫は[[ドバイ]]へ遠征を行っていたため{{Refnest|group="注"|[[ドバイワールドカップ]]で[[レギュラーメンバー]]に騎乗するため<ref name=100名馬クロフネ15/>。}}[[四位洋文]]に乗り替わっての出走となり、単勝1.3倍の1番人気に支持された<ref name=100名馬クロフネ15/>。終始楽な手応えで2番手を追走し、直線入り口で馬なりのまま先頭に立ち<ref name=100名馬クロフネ15/>、4コーナーで[[ルゼル]]と[[コイントス (競走馬)|コイントス]]が迫っていったもののスピードの違いで振り切って瞬く間にリードを広げていき<ref name=100名馬クロフネ15/>、2着コイントスに5馬身、3着ダイタクバートラムにさらに5馬身という差をつけて重賞初勝利を挙げた<ref name="yushun01051" />。後半5ハロンは全て11秒台で走り、走破タイム1分58秒6は前走同じ距離で走ったアグネスタキオンのタイムを2秒2上回り<ref name=100名馬クロフネ6/><ref name=100名馬クロフネ15/>、古馬のコースレコードに0秒3差迫るという優秀なものだった<ref name="meiba" />。レース後、四位洋文は「僕は乗ってただけでした。本当にいい馬。順調にいってほしいですね」とコメントし、松田は「3か月かけてまっすぐ、かつ自信を持って走れるようにテーマを持ってきました。いろんなことをクリアしてきましたが、前に馬を置いて願ったりのレースができましたね。より強い勝ち方をすることで、ファンも喜んでくれるでしょう。次走はNHKマイルカップを使う公算が大きいですが、ブリンカーは取る予定。そこでどんな走りをするかチェックしてダービーに向かいます」とコメントした<ref name=100名馬クロフネ15/>。
日本ダービーを目指すに当たっては、GI・[[NHKマイルカップ]]で2着までに入るか、[[京都新聞杯]]または[[青葉賞]]に勝利するという条件を満たす必要があった。それまでの出走歴から、2000メートルの京都新聞杯か、ダービーと同じ2400メートルの青葉賞に向かうともみられていたが、松田は馬主の金子と相談のうえで<ref name="yushun0106" />、距離が1600メートルと短いNHKマイルカップを選択。東京競馬場のゆったりとしたコース形態と、GIの格を重視してのものだった<ref name="meiba" />。また、クラシック三冠初戦の[[皐月賞]]を無敗のまま制したアグネスタキオンを意識し、「GIのタイトルを持ってアグネスタキオンと対決すれば、よりダービーが盛り上がるだろうと決めた」と公言してもいたが<ref name="yushun01052">『優駿』2001年5月号、p.7</ref>、アグネスタキオンはNHKマイルカップの最終追い切りを済ませた後に[[屈腱炎]]を発症と報じられて戦線を離脱<ref>『優駿』2001年5月号、p.5</ref><ref name=100名馬クロフネ16-17>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』pp.16-17</ref>。以後復帰することなく、9月に引退している。
5月6日に迎えたNHKマイルカップでは、馬主の金子が当時[[フランス]]に滞在していた[[武豊]]に直接騎乗を依頼し、武もこれを快く承諾したため新コンビを組んでの出走となった<ref name=100名馬クロフネ16-17/><ref name=100名馬クロフネ28>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.28</ref>。当日は単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持される<ref name="yushun01062">『優駿』2001年6月号、pp.24-25</ref>。スタートが切られると行き脚がつかず、それまで好位からのレースを続けていたところから一転し、後方14番手から進むことになった<ref name="yushun01062" />。平均ペースで流れるなか、そのまま後方待機策をとると、最後の直線では馬群を縫うようにして抜け出していった<ref name="yushun01062" />。その時点ではまだ10番手で<ref name=100名馬クロフネ16-17/>逃げるグラスエイコウオーと未だ大きな差があったが、鞍上の武が鞭を入れると一気に加速し、ゴール前で同馬を半馬身差し切っての優勝を果たした<ref name="yushun01062" />。クロフネに加え、松田にとってもこれが開業6年目でのGI初制覇となった<ref name="yushun0106" />。武豊もデビュー2年目からの連続GI勝ちの記録を14年に伸ばした<ref name=100名馬クロフネ16-17/>。出走権獲得となったダービーへ向け、松田は「道中の位置取りに少しハラハラしました。後方から直線だけで差し切っての競馬でしたが、次のダービーにつながる内容だったと思います<ref name="yushun0106" />」と感想を述べ、また武は「ストライドが大きく、乗っていてあまりスピード感がない馬なので一瞬心配しましたが、きちんと差し切ってくれましたね。素晴らしい馬だと思います。間違いなくダービーの有力馬の1頭でしょう<ref name="yushun0106" />」と称えた。
日本ダービー(5月27日)ではアグネスタキオンこそ不在だったが、皐月賞2着の[[ダンツフレーム]]、同3着の[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]が顔を揃え、クロフネに対する皐月賞上位馬の決戦という図式となった<ref>『優駿』2001年7月号、p.7</ref>。1番人気には皐月賞で大きな出遅れから3着まで追い上げたジャングルポケットが推されて2.3倍、クロフネが3倍でこれに続き、ダンツフレームが6倍という順となった<ref name="yushun0107">『優駿』2001年7月号、pp.10-13</ref>。スタートが切られるとテイエムサウスポーが大逃げを打ち、ダンツフレームが2番手集団の前方、ジャングルポケットが12番手、その直後にクロフネという隊列となった<ref name="yushun0107" />。[[馬場状態|重馬場]]にもかかわらず、1000メートル通過は58秒4とダービー史上最速のペースとなり、ダンツフレームが位置取りを下げて一時は上位人気3頭が並ぶように進む<ref name="yushun0107" />。第3コーナー過ぎからクロフネとダンツフレームが上位に進出していき最後の直線に入ったが、仕掛けを遅らせたジャングルポケットが抜け出しを図る両馬を一気にかわし、ダンツフレームに1馬身半差を付けて優勝<ref name="yushun0107" />。クロフネは伸びあぐねて5着と敗れた<ref name="yushun0107" />。松田によれば、ダービーに向けての「手加減した調整」が裏目に出たといい、「5着という着順は、成功したという感じはもちろんないし、かといって、大きく失敗したという感じもない。馬主さんも褒めもしないし、非難もしない。何となく中途半端なレースになってしまった」と振り返っている<ref name="meiba" />。
===== 天皇賞への蹉跌 =====
夏の休養を経ての秋シーズンは、これも当年より外国産馬に2頭の出走枠が設けられた天皇賞(秋)を目標に、9月の[[神戸新聞杯]]から復帰。鞍上は[[蛯名正義]]が務めた。ここではダービー2着のダンツフレームと再戦することになったが、当日の1番人気は[[札幌記念]]でジャングルポケットを破っていた外国産馬[[エアエミネム]]に譲った<ref name="yushun0111">『優駿』2001年11月号、p.121</ref>。レースではスタートで躓いて後手を踏み、道中もスローペースを堪えきれず蛯名との折り合いを欠いた<ref name="yushun0111" />。最後の直線では鋭く追い込んだものの、勝ったエアエミネム、さらに[[サンライズペガサス]]も捉えきれず3着と敗れた<ref name="yushun0111" />。松田は「馬が気負いすぎて出遅れてしまった。本当なら馬群の外目を先行するはずだったので、差す競馬は予定外だった。それでも終いの脚は良かったし、天皇賞に向けて収穫はあったと思う」と語った<ref>『優駿』2001年11月号、p.21</ref>。敗れはしたものの、上がり3ハロンはメンバー中最速の34秒2をマークした<ref name=100名馬クロフネ19>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.19</ref>。
その後は天皇賞出走を予定していたが、2頭の外国産馬枠に対して獲得賞金額でクロフネを上回る年長馬の[[メイショウドトウ]]と[[アグネスデジタル]]が優先権をもったことから、出走することができなくなった。2頭のうちアグネスデジタルは直前になって急遽出走を決めたもので、クロフネへの期待を摘まれた一部ファンからはアグネスデジタル陣営への非難の声が上げられた<ref>『優駿』2001年12月号、p.12</ref>。松田も「『まさか』が正直な気持ちだった」と振り返っているが、この時点で翌年の予定にダートGI競走・[[フェブラリーステークス]]が入っていたことから、これを機会に一度ダートを走らせようと、天皇賞前日に行われるGIII・[[武蔵野ステークス]]に出走することになった<ref name="meiba" />。
===== ダートで他を圧倒 =====
当日は1番人気ながらオッズでは連勝中のエンゲルグレーゼと2倍台を分け合った。外の15番枠から好スタートを切ると中団の好位につけ、初ダートとは思えぬ抜群の行きっぷりで楽々とハイペースを追走<ref name=100名馬クロフネ20-21>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』pp.20-21</ref>。3コーナーを前にして動き出すと、第4コーナーでは一気に先頭を行く[[サウスヴィグラス]]に並びかける<ref name=100名馬クロフネ20-21/>。最後の直線では後続を引き離し、前年のNHKマイルカップ優勝馬・[[イーグルカフェ]]に9馬身差をつけて圧勝した<ref>『優駿』2001年12月号、p.126</ref>。走破タイム1分33秒3は、1992年に[[ナリタハヤブサ]]が記録した1分34秒5を1秒2更新するJRAレコードであり<ref>『優駿』2001年12月号、p.140</ref>、芝コースのタイムに匹敵するものだった<ref name="yushun0201">『優駿』2002年1月号、pp.27-30</ref>。騎乗した武は「3コーナーから一気に上がっていく競馬を、あえてしてみた。普通、直線が長くて最後に坂がある東京であんなレースをしたら、惨敗するのが当たり前だが、この馬は最後に突き放して勝ってくれた。他の馬とは次元が違うというか、レベルが違いすぎた」と振り返っている<ref name="meiba" />。なお、翌日に行われた天皇賞ではアグネスデジタルが優勝し、同馬の馬主である[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]は「周りから心ないことを色々言われたが、言った人たちは恥をかいたんじゃないか」と語った<ref>『優駿』2001年12月号、p.134</ref>。
[[ファイル:Kurofune_at_Japan_Cup_Dirt.jpg|thumb|クロフネ(2001年11月24日、東京競馬場)|250px]]
11月24日、ダートの国際招待競走・[[ジャパンカップダート]]へ出走。当年はアメリカから一線級の実績馬である[[リドパレス]]が出走したが、クロフネは同馬を抑えオッズ1.7倍の1番人気に支持された<ref name="yushun0201" />。スタート直後クロフネは隣のゲートのジェネラスロッシと接触、やや出負けした感じで後方からの競馬となったが<ref name=100名馬クロフネ22-23>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』pp.22-23</ref>、2コーナーで外に出すと馬なりのまま徐々に順位を上げていく<ref name=100名馬クロフネ22-23/>。3コーナーを前にしてリドパレスもかわして3番手まで上がると、4コーナーで持ったままで単独の先頭に躍り出た<ref name=100名馬クロフネ22-23/>。直線に入ると独走態勢となって前年度優勝馬[[ウイングアロー]]に7馬身差をつけての優勝を果たした<ref name="yushun0201" />。走破タイム2分5秒9は同馬が前年度に記録した2分7秒2を1秒3更新する、2戦連続のJRAレコードであった<ref name="yushun02012">『優駿』2002年1月号、pp.134-135</ref>。武は「これまでにも、いい馬にたくさん乗せていただきましたが、今日のレースに限って言えば、今まで乗ってきた馬の中でも、こんなに強い馬はいませんでした」と称え<ref name="yushun02012" /><ref name=100名馬クロフネ22-23/>、松田は「スムーズに4コーナーを回ったところで勝てると思いました。レコードで2回続けて走ったので、注意深く馬の様子を見ていく必要がありますね」とコメントした<ref name=100名馬クロフネ22-23/>。8着と敗れたリドパレス騎乗の[[ジェリー・ベイリー]]は「言い訳はしない。勝った馬が強すぎた」と述べた<ref name="yushun0201" />。
===== 引退 =====
ジャパンカップダートの後は休養に入り、翌年にはダートで行われる世界最高賞金競走・[[ドバイワールドカップ]]を目標とすることが決定していた。12月6日には[[有馬記念]]のファン投票の最終集計結果が発表され、クロフネ陣営は出走回避を明言していたものの8万9171票を集め、このレースを以って引退する[[テイエムオペラオー]]に次ぐ2位に選ばれていた<ref name=100名馬クロフネ4>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.4</ref>。しかし、それから19日後の12月25日<ref name=100名馬クロフネ4/>、スポーツ紙が一斉にクロフネが右前脚に[[屈腱炎]]を発症、最悪引退と報道した<ref name=100名馬クロフネ4/>。報道3日前の22日、[[フェブラリーステークス]]に向けて調整されていたクロフネは調教後、右前脚に熱を持っていることが判明し<ref name=100名馬クロフネ4-5>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』pp.4-5</ref>、直ちに栗東トレーニングセンター競走馬診療所で検査を受けた<ref name=100名馬クロフネ4-5/>。検査の結果右前浅屈腱炎、少なくても9か月の休養が必要と診断され、これで翌年出走を予定していたドバイワールドカップ、[[ブリーダーズカップクラシック]]への出走プランはすべて白紙となった<ref name=100名馬クロフネ4-5/>。報道翌日の26日には競走登録の抹消と種牡馬入りが発表された<ref name="yushun0202" />。引退の報を聞いた武豊は「来年を楽しみにしていただけに本当に残念です」とコメントし<ref name=100名馬クロフネ10>『週刊100名馬vol.93 クロフネ』p.10</ref>、松田は後に調教師としての立場からこの故障について次のように語っている<ref name="meiba" />。
{{Quotation|「人を殺したわけじゃないけど、私の中ではそれと同じくらい、『大変なことをしてしまった』という思いが強かった。毎日の調教を私が指示して、確認して。その繰り返しの中で起こった故障ですから。マツクニという人間は馬の世界しか知りません。そんな自分が自信を持ってやったことが、まるで否定されたかのようで……。クロフネはGIをふたつ勝ちました。レコードタイムも4度マークしました。けど、その勲章と、屈腱炎とを天秤にかけたら、はるかに屈腱炎の方が重いんです。たとえダービーを勝っていても、同じ気持ちになっていたと思います」}}
翌年1月、年度表彰・[[JRA賞]]が発表され、クロフネは[[JRA賞最優秀ダートホース|最優秀ダートホース]]に選出された<ref name="jra">『優駿』2002年2月号、p.64</ref>。同月15日には、ダート競走格付け委員会による[[NARグランプリダートグレード競走特別賞|ダートグレード競走最優秀馬]]にも選ばれた<ref name="keibado">{{Cite web|author=[[ケイバブック]]|date=2002|url=https://www.keibado.ne.jp/keibabook/020128/plaza_t.html|title=ニュースぷらざ|publisher=インターグロー|accessdate=2017-05-18}}</ref>。また[[JPNサラブレッドランキング|JPNクラシフィケーション]]では、ダート2戦の内容が北米のハンディキャッパーからも高く評価され、アメリカの[[ケンタッキーダービー]]優勝馬[[モナーコス]]と並び、国内ダートでは史上最高評価となる125[[ポンド (質量)|ポンド]]を獲得、3歳のMコラム(1400メートル以上、1900メートル未満)では芝を含めても世界第1位となった<ref name="rating">『優駿』2002年2月号、pp.69-72</ref>。
=== 種牡馬時代 ===
2002年より[[社台スタリオンステーション]]で種牡馬となり、初年度から201頭の交配相手を集めた<ref name="meiba" />。初年度産駒は2005年にデビュー、[[フサイチリシャール]]が[[朝日杯フューチュリティステークス]]を制し順調なスタートを切る<ref name="yushun1412">『優駿』2014年12月号、pp.90-91</ref>。2007年以降はランキング10位以内に定着し、2010年には3位、2011年には2位を記録している<ref name="yushun1412" />。2015年には史上16頭目となる産駒のJRA通算1000勝を達成した<ref>{{Cite web |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/post_5956.html |title=クロフネ産駒がJRA通算1000勝達成 |author= |publisher=ラジオNIKKEI |accessdate=2015年8月4日 |date=2015-5-10}}</ref>。芝、ダートの双方で重賞勝利馬を輩出しているが、特に牝馬の活躍が多い<ref name="yushun1412" />。産駒は芝、ダートを問わずに走ることから中央のみならず地方でも多数活躍しており、2021年8月22日現在、中央・地方合計で1686頭が出走し、このうち1210頭が勝ち上がっているが、これは日本で供用された種牡馬の歴代最多記録であり、中央・地方合計の勝鞍4339勝は歴代第2位である<ref>{{Cite web|title=【札幌記念】距離不安を払拭した価値のある1勝 - 柏木集保 {{!}} 競馬コラム |url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=49519|website=netkeiba.com|accessdate=2021-08-23|language=ja}}</ref>。2023年には[[ママコチャ (競走馬)|ママコチャ]]が[[スプリンターズステークス]]を制したことで、産駒が19年連続でJRAの重賞を勝利。これは[[パーソロン]]と並んで歴代1位タイの記録である<ref>{{Cite web |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=243099 |title=クロフネ産駒が19年連続でJRA重賞制覇 パーソロンと並んで歴代1位タイ |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2023年10月4日 |date=2023-10-01}}</ref>。2001年には父・フレンチデピュティも日本に輸入されて数々の重賞勝利馬を輩出し、北米の主流血統であった[[ヴァイスリージェント系]]の日本への定着に父子で貢献した<ref name="yushun1412" />。
2019年からは体調面がすぐれないために種付けを中止して経過観察をしていたが、良化の兆候がみられず高齢となったこともあり、2020年をもって種牡馬を引退することとなった。その後は社台スタリオンステーションで引き続き余生を過ごしていた<ref>[https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202007130000971&year=2020&month=7&day=14 クロフネが種牡馬を引退、余生は社台SSで過ごす] - 日刊スポーツ(極ウマ・プレミアム)2020年7月14日</ref>が、2021年1月17日14時、老衰のため、死亡した<ref>[https://www.daily.co.jp/horse/2021/01/18/0014014447.shtml 芦毛の怪物クロフネが老衰のため23歳で死す] - デイリースポーツ online 2021年1月18日</ref>。
クロフネ死亡時点で後継種牡馬は[[テイエムジンソク]]一頭のみであるが、この種付け数が2020年は7頭<ref>[https://www.jairs.jp/contents/archives/2020/47.html 2020年の種付情報の公開と各種雄馬の種付頭数]</ref>となっている。
== 競走成績 ==
以下の内容は、JBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/record/ |title= クロフネ 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2021-01-19}}</ref>およびnetkeiba.com<ref name="netrcd">{{Cite web|url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1998110135/ |title= クロフネの競走成績|work=netkeiba|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2021-01-19}}</ref>に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
! 競走日 !! nowrap| 競馬場 !! 競走名 !! 格 !! 距離<br />(馬場) !! 頭<br />数 !! 枠<br />番 !! 馬<br />番 !! オッズ<br />(人気) !! 着順 !! タイム<br />(上り3F) !! 着差 !! 騎手 !! 斤量<br />[kg] !! 1着馬(2着馬)!! 馬体重<br />[kg]
|-
| [[2000年|2000.]][[10月14日|10.14]]
| [[京都競馬場|京都]]
| [[新馬|3歳新馬]]
|
| 芝1600m(良)
| 9
| 4
| 4
| {{0|00}}6.9{{0}}(3人)
| {{0}}{{color|darkblue|2着}}
| {{0|R}}1:35.7(34.2)
| {{0|-}}0.0
| {{0}}[[松永幹夫]]
| 53
| エイシンスペンサー
| 516
|-
| {{0|0000.}}[[10月28日|10.28]]
| 京都
| 3歳新馬
|
| 芝2000m(良)
| 9
| 3
| 3
| {{0|00}}1.3{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R2:00.7}}(34.8)
| {{Nowiki|-}}0.3
| {{0}}松永幹夫
| 53
| (マイネルエスケープ)
| 512
|-
| {{0|0000.}}[[12月3日|12.{{0}}3]]
| [[阪神競馬場|阪神]]
| エリカ賞
| {{small|500万下}}
| 芝2000m(良)
| 12
| 7
| 10
| {{0|00}}1.3{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R2:01.2}}(35.1)
| {{Nowiki|-}}0.5
| {{0}}松永幹夫
| 54
| (ダイイチダンヒル)
| 508
|-
| {{0|0000.}}[[12月23日|12.23]]
| 阪神
| {{small|[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳S]]}}
| {{JRAGIII}}
| 芝2000m(良)
| 12
| 5
| 5
| {{0|00}}1.4{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkgreen|3着}}
| {{0|R}}2:01.4(34.8)
| {{0|-}}0.6
| {{0}}松永幹夫
| 54
| [[アグネスタキオン]]
| 514
|-
| [[2001年|2001.]][[3月24日|{{0}}3.24]]
| 阪神
| [[毎日杯]]
| {{JRAGIII}}
| 芝2000m(良)
| 11
| 2
| 2
| {{0|00}}1.3{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:58.6(34.5)
| {{Nowiki|-}}0.9
| {{0}}[[四位洋文]]
| 55
| ([[コイントス (競走馬)|コイントス]])
| 510
|-
| {{0|0000.}}[[5月6日|{{0}}5.{{0}}6]]
| [[東京競馬場|東京]]
| [[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
| {{JRAGI}}
| 芝1600m(良)
| 18
| 2
| 4
| {{0|00}}1.2{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:33.0(34.3)
| {{Nowiki|-}}0.1
| {{0}}[[武豊]]
| 57
| (グラスエイコウオー)
| 506
|-
| {{0|0000.}}[[5月27日|{{0}}5.27]]
| 東京
| [[東京優駿]]
| {{JRAGI}}
| 芝2400m(重)
| 18
| 8
| 17
| {{0|00}}3.0{{0}}(2人)
| {{0}}5着
| {{0|R}}2:27.9(36.7)
| {{0|-}}0.9
| {{0}}武豊
| 57
| [[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]
| 510
|-
| {{0|0000.}}[[9月23日|{{0}}9.23]]
| 阪神
| [[神戸新聞杯]]
| {{JRAGII}}
| 芝2000m(良)
| 12
| 6
| 7
| {{0|00}}4.4{{0}}(2人)
| {{0}}{{color|darkgreen|3着}}
| {{0|R}}1:59.6(34.2)
| {{0|-}}0.1
| {{0}}[[蛯名正義]]
| 56
| [[エアエミネム]]
| 520
|-
| {{0|0000.}}[[10月27日|10.27]]
| 東京
| [[武蔵野ステークス|武蔵野S]]
| {{JRAGIII}}
| ダ1600m(良)
| 15
| 8
| 15
| {{0|00}}2.3{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R1:33.3}}(35.6)
| {{Nowiki|-}}1.4
| {{0}}武豊
| 57
| ([[イーグルカフェ]])
| 520
|-
| {{0|0000.}}[[11月24日|11.24]]
| 東京
| [[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンCダート]]
| {{JRAGI}}
| ダ2100m(良)
| 16
| 5
| 9
| {{0|00}}1.7{{0}}(1人)
| {{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R2:05.9}}(35.8)
| {{Nowiki|-}}1.1
| {{0}}武豊
| 55
| ([[ウイングアロー]])
| 520
|}
*タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
== 特徴・評価 ==
=== 表彰 ===
{| class="wikitable"
!年度!!表彰!!票数!!出典
|-
|rowspan="2"|2001年||JRA賞最優秀ダートホース||282/283||<ref name="jra" />
|-
||ダートグレード競走最優秀馬||-||<ref name="keibado" />
|}
=== レーティング ===
{| class="wikitable"
!年度!!種類!!馬齢!!馬場!!距離区分 ([[メートル|m]])!!値!!出典
|-
||2000年||JPNクラシフィケーション||(旧)3歳||芝||-||107||<ref>『優駿』2001年2月号、p.30</ref>
|-
|rowspan="8"|2001年||rowspan="3"|JPNクラシフィケーション||rowspan="8"|3歳||rowspan="2"|ダート||M (1400 - 1899)||125||rowspan="3"|<ref name="rating" />
|-
||I(1900-2199)||125
|-
||芝||M(1400-1899)||113
|-
|rowspan="5"|合同フリーハンデ||rowspan="2"|ダート||M (1600)||124||rowspan="5"|<ref>{{Cite web|url=http://www.keibabook.co.jp/homepage/k2001/kfh03_1.html|title=2001年合同フリーハンデ確定3歳(1)|publisher=ケイバブック|accessdate=2017-05-18}}</ref>
|-
||I (2000)||130
|-
|rowspan="3"|芝||M (1600)||114
|-
||I (2000)||112
|-
||L (2400)||111
|}
4戦で騎乗した武豊は、2003年に行われたインタビューの中で「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、[[オグリキャップ]]、[[サイレンススズカ]]、そしてクロフネぐらい」、「全く別の次元の競馬をして、能力の高さだけで押し切れる。そんな馬はそうそういない」と述べている<ref name="meiba" />。また、乗り味の良さは抜群のものであったといい、「これほど大きいストライドで走る馬は、なかなかいない」とも評している<ref name="meiba" />。武はクロフネに人気がある理由について「負けるときは負けるけど、(勝つときは)ぶっチギって勝つからでしょうね」としており、このような競走成績から[[テイエムオペラオー]]より強いというイメージを持っている人も多いのではないかと述べている<ref>島田(2007)p.270</ref>。評論家の[[吉沢譲治]]もストライドの大きさに言及し、「まるで1頭だけ、むかしの長距離戦を走っているようだった。そのふわりふわりと走るさまが、遊んでいるようにも、はなからやる気がないようにも見えた」と評している<ref name="yushun0202" />。
ダートでは日本競馬史上の最強馬とも評される。[[日本中央競馬会]] (JRA) の広報誌『[[優駿]]』が2012年に読者へ行った「カテゴリー別最強馬」のアンケートでは、ダート部門で2位[[ホクトベガ]]に3倍以上の差を付ける532票を集め、第1位に据えられた<ref name="yushun1209">『優駿』2012年9月号、pp.36-39</ref>。生産者、騎手、調教師にもあわせてアンケートがとられ、回答者17人のうち、松田国英・[[池江泰郎]]・[[池江泰寿]]・[[岡田繁幸]]・[[国枝栄]]・[[小島茂之 (競馬)|小島茂之]]・[[四位洋文]]・[[中舘英二]]・[[松永幹夫]]の9人がクロフネをダートの最強馬として挙げた<ref name="yushun12092">『優駿』2012年9月号、pp.47-49</ref>。岡田は「アメリカのダートでも勝負できたかもしれないと思わせるほど、能力が高かった」と添えている<ref name="yushun12092" />。松田は「普通、ダート馬は勝ち気で人の言うことをあまり聞かないようなタイプが多いが、クロフネは精神的に余裕があって、おっとりしていた。精神面だけでなく、肉体面も立派な馬だった。フレンチデピュティ産駒らしい顎の張った馬で、だから飼い葉食いも良く、筋肉の盛り上がった雄大な馬体をしていた{{Refnest|group="注"|全10レースの出走時の馬体重は506〜520kg<ref name=100名馬クロフネ11/>。}}。だからといって、決してパワータイプという感じではなかった。素晴らしいスピードがあって、芝でも通用するダート馬だったと思う」と評した<ref name="yushun1209" />。[[伊藤雄二]]は、東京競馬場のダートコースが速い時計の出る造りになっているとはいえダートのクロフネは本当に走る馬だと評しており、ジャパンカップダート後も怪我をせずに予定通りドバイワールドカップに出走していたら勝てたのではないかと述べている<ref>鶴木 (2009) pp.130-134</ref>。
武蔵野ステークス(ダート1600m・1分33秒3)、ジャパンカップダート(ダート2100m・2分05秒9)の2戦で記録した中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)は20年以上更新されていない上に(2021年現在)<ref name="record_dirt_distance">{{Cite web|url=https://jra.jp/keiba/#|title=レコードタイム表|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021-12-17}}</ref>{{refnest|group="注"|地方競馬も含めた日本レコードでは2020年に[[盛岡競馬場]]のダート1600m([[マイルチャンピオンシップ南部杯]])にて[[アルクトス]]が稍重で1分32秒7を記録し更新されている<ref>{{cite web|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/sports/smp/articles/2020/10/014288.html|title=【南部杯】アルクトス日本レコードV!悲願のG1初制覇 クロフネの記録を更新|date=2020-10-12|publisher=[[テレビ東京]]|accessdate=2022-01-04}}</ref>。}}、中央競馬のダート競走における距離別レコードタイム(3歳以上)のうち現存しない距離のレコードタイムを除くと良馬場で記録されたものはクロフネによるこの2戦の記録のみである
<ref name="record_dirt_distance" /><ref group="注">ダートコースにおいては良馬場よりも稍重{{~}}重のほうが時計が出やすい傾向にある([[馬場状態#ダートコース|馬場状態]]の記事を参照)</ref>。
『優駿』が2010年と2015年にそれぞれアンケートをとった「未来に語り継ぎたい名馬ベスト100」では、いずれも19位となっている<ref>『優駿』2010年8月号、p.40</ref><ref name="yushun1503" />。
== 種牡馬成績 ==
=== 年度別成績 ===
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!rowspan="2"|年!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金
|-
!頭数!!回数!!頭数!!回数
|-
|2005年||47||116||13||19||76||1.55||2億7580万1000円
|-
|2006年||147||687||55||71||25||1.37||7億9785万6000円
|-
|2007年||218||1331||103||170||10||1.61||13億9705万2500円
|-
|2008年||273||1814||137||211||5||1.91||20億7256万6000円
|-
|2009年||355||2371||164||264||5||1.61||22億3976万7000円
|-
|2010年||372||2627||178||310||3||1.74||26億2181万8000円
|-
|2011年||375||2660||161||296||2||1.77||26億1135万5500円
|-
|2012年||391||2928||181||322||5||1.60||23億9096万9000円
|-
|2013年||406||3158||176||353||8||1.31||19億9628万0500円
|-
|2014年||400||3088||169||339||9||1.18||17億8795万1250円
|-
|2015年||410||3259||187||318||7||1.19||18億2521万6000円
|-
|2016年||396||3456||188||347||6||1.23||19億3095万2000円
|-
|2017年||383||3400||180||344||7||1.31||21億3917万9000円
|}
#出典:JBISサーチ「クロフネ [http://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/sire/record/ 種牡馬成績]、[http://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/sire/generation/thorough_s/ 世代・年次別]」
#2017年終了時点。
=== 重賞勝利産駒 ===
==== GI級競走優勝馬 ====
''※括弧内は当該馬の優勝重賞競走。'''太字'''はGI、JpnIおよびJ・GI競走。''
*2003年産
**[[フサイチリシャール]](2005年'''[[朝日杯フューチュリティステークス]]'''、[[東京スポーツ杯2歳ステークス]] 2006年[[阪神カップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000759656/ |title=フサイチリシャール |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2004年産
**[[スリープレスナイト]](2008年[[CBC賞]]、[[北九州記念]]、'''[[スプリンターズステークス]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000806562/ |title=スリープレスナイト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2007年産
**[[カレンチャン]](2011年[[阪神牝馬ステークス]]、[[函館スプリントステークス]]、[[キーンランドカップ]]、'''スプリンターズステークス''' 2012年'''[[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001044299/ |title=カレンチャン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2008年産
**[[ホエールキャプチャ]](2011年[[クイーンカップ]]、[[ローズステークス]] 2012年'''[[ヴィクトリアマイル]]''' 2013年[[府中牝馬ステークス]] 2014年[[東京新聞杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001094404/ |title=ホエールキャプチャ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2010年産
**[[アップトゥデイト]](2015年'''[[中山グランドジャンプ]]'''、[[小倉サマージャンプ]]、'''[[中山大障害]]'''、2017年[[阪神ジャンプステークス]]、2018年[[阪神スプリングジャンプ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001119983/ |title=アップトゥデイト |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-03-12}}</ref>、2018年[[阪神ジャンプステークス]])
*2012年産
**[[クラリティスカイ]](2014年[[いちょうステークス]] 2015年'''[[NHKマイルカップ]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153933/ |title=クラリティスカイ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**[[ホワイトフーガ]](2015年[[関東オークス]]<ref>[http://www.nankankeiba.com/win_uma/09.do 関東オークス競走優勝馬]南関東競馬情報サイト、2015年11月3日閲覧</ref>、'''[[JBCレディスクラシック]]'''<ref>[http://www.nankankeiba.com/result/2015110320130308.do 2015年JBCレディスクラシック結果]南関東競馬情報サイト、2015年11月3日閲覧</ref> 2016年[[TCK女王盃]]、[[スパーキングレディーカップ]]、'''JBCレディスクラシック''' 2017年[[マリーンカップ]]、[[さきたま杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001155978/ |title=ホワイトフーガ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-06-01}}</ref>)
*2014年産
** [[アエロリット]](2017年'''[[NHKマイルカップ]]'''<ref>[http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=121646 牝馬アエロリットが3歳マイル王に輝く!/NHKマイルC] - netkeiba.com、2017年5月7日閲覧</ref>、[[クイーンステークス]]、2018年[[毎日王冠]])
*2018年産
**[[ソダシ]](2020年[[札幌2歳ステークス]]、[[アルテミスステークス]]、'''[[阪神ジュベナイルフィリーズ]]'''、2021年'''[[桜花賞]]'''、[[札幌記念]]、2022年'''ヴィクトリアマイル''')
*2019年産
**[[ママコチャ (競走馬)|ママコチャ]](2023年'''スプリンターズステークス''')<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001310713/|title=ママコチャ|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-10-01}}</ref>
<gallery>
ファイル:Fusaichi Richard.jpg|フサイチリシャール(2003年産)
ファイル:Sleepless Night 20080817P1.jpg|スリープレスナイト(2004年産)
ファイル:Curren-Chan20111002(1).jpg|カレンチャン(2007年産)
File:Whale-Capture IMG 0267-2 20131110.JPG|ホエールキャプチャ(2008年産)
ファイル:UptoDate-20150801.JPG|アップトゥデイト(2010年産)
file:Clarity-Sky Satsuki-Sho 2015.jpg|クラリティスカイ(2012年産)
File:WhiteFugue(JPN)-20170531urawarc.jpg|ホワイトフーガ(2012年産)
File:Aerolithe(JPN) 20160619tokyorc.jpg|アエロリット(2014年産)
File:Sodashi Victoria Mile 2022(IMG1).jpg|ソダシ(2018年産)
</gallery>
==== その他グレード制重賞優勝馬 ====
''※GII、JpnIIおよびJ・GII以下の重賞優勝馬。''
*2004年産
**[[ホワイトメロディー]](2007年[[関東オークス]]、[[クイーン賞]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000807137/ |title=ホワイトメロディー |author= |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
*2005年産
**[[オディール]](2007年[[ファンタジーステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000886112/ |title=オディール |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[ユキチャン]](2008年関東オークス、2009年クイーン賞、2010年[[TCK女王盃]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000886869/ |title=ユキチャン |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[ブラボーデイジー]](2009年[[福島牝馬ステークス]] 2010年[[エンプレス杯]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000888882/ |title=ブラボーデイジー |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
*2007年産
**[[セイコーライコウ]](2014年[[アイビスサマーダッシュ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001048863/ |title=セイコーライコウ |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[ドリームセーリング]](2016年[[京都ジャンプステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001048673/ |title=ドリームセーリング |website=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2008年産
**[[マルモセーラ]](2010年ファンタジーステークス<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001093508/ |title=マルモセーラ |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2009年産
**[[アースソニック]](2013年[[京阪杯]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001102557/ |title=アースソニック |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
*2010年産
**[[ストークアンドレイ]](2012年[[函館2歳ステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001120692/ |title=ストークアンドレイ |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[クロフネサプライズ]](2013年[[チューリップ賞]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001120040/ |title=クロフネサプライズ |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[インパルスヒーロー]](2013年[[ファルコンステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001118404/ |title=インパルスヒーロー |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
**[[マイネルクロップ]](2015年[[佐賀記念]]、[[マーチステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001124690/ |title=マイネルクロップ |website=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 }}</ref>)
*2012年産
**[[テイエムジンソク]](2017年[[みやこステークス]]、2018年[[東海ステークス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001155728/ |title=テイエムジンソク |website=JBISサーチ |accessdate=2018-01-23}}</ref>)
*2013年産
**[[オウケンビリーヴ]](2018年[[クラスターカップ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001167303/ |title=オウケンビリーヴ |website=JBISサーチ |accessdate=2018-08-17}}</ref>)
*2014年産
**[[ジューヌエコール]](2016年[[デイリー杯2歳ステークス]]、2017年[[函館スプリントステークス]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001187443/ |title=ジューヌエコール |website=JBISサーチ |accessdate=2021-10-8}}</ref>
*2015年産
**[[パクスアメリカーナ (競走馬)|パクスアメリカーナ]](2019年[[京都金杯]])<ref>{{Cite web |url=https://db.netkeiba.com/horse/2015105905/ |title=パクスアメリカーナ |website=JBISサーチ |accessdate=2019-02-04}}</ref>
*2016年産
**[[エメラルファイト]](2019年[[スプリングステークス]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001219360/ |title=エメラルファイト |website=JBISサーチ |accessdate=2019-11-20}}</ref>
*2017年産
**[[レーヌブランシュ]](2020年[[関東オークス]]、2021年[[レディスプレリュード]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001237388/ |title=レーヌブランシュ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-10-8}}</ref>
*2018年産
**[[マリアエレーナ]](2022年[[小倉記念]])
==== 地方重賞優勝馬 ====
''※[[地方競馬]]限定格付けの重賞勝利馬。''
*2004年産
**ディアーウィッシュ(2010年[[京成盃グランドマイラーズ]]、[[スパーキングサマーカップ]]、2011年京成盃グランドマイラーズ<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000805479/ |title=ディアーウィッシュ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**スターシップ(2012年[[報知オールスターカップ]]、2013年[[報知グランプリカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000800752/ |title=スターシップ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ジョーモルデュー(2012年[[コスモバルク記念]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000800693/ |title=ジョーモルデュー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2005年産
**アースファイヤー(2009年[[ノースクイーンカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000889084/ |title=アースファイヤー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**タートルベイ(2010年[[北國王冠]]、[[中日杯 (金沢競馬)|中日杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000888018/ |title=タートルベイ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ジョーイロンデル(2010年[[しらさぎ賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000888236/ |title=ジョーイロンデル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ビーボタンダッシュ(2013年[[ファイナルグランプリ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000886148/ |title=ビーボタンダッシュ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2006年産
**ベレンバン(2009年[[フロイラインカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000996413/ |title=ベレンバン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2007年産
**ハイパーフォルテ(2010年[[兵庫ダービー]]、2012年[[楠賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001047411/ |title=ハイパーフォルテ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**スウィングダンス(2012年[[名古屋記念]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001044024/ |title=スウィングダンス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**バトードール(2015年報知グランプリカップ<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001045051/ |title=バトードール |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2008年産
**ナターレ(2011年[[クラウンカップ]]、[[戸塚記念]]、2012年[[OROカップ]]、2013年しらさぎ賞、OROカップ<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001094492/|title=ナターレ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ミヤサンキューティ(2011年[[優駿スプリント]]、2012年[[東京シンデレラマイル]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001090151/ |title=ミヤサンキューティ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2009年産
**ドラゴンシップ(2011年[[ローレル賞 (競馬のレース)|ローレル賞]]、[[ハイセイコー記念]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001108147/ |title=ドラゴンシップ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ロクイチスマイル(2012年[[北斗盃]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001105095/ |title=ロクイチスマイル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
*2010年産
**カツゲキドラマ(2012年[[園田プリンセスカップ]]、[[プリンセス特別]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001121678/ |title=カツゲキドラマ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**エーシンスパイシー(2015年[[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]]・園田<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001125345/ |title=エーシンスパイシー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**キョウワカイザー(2015年大分川賞、如月賞、黒髪山賞、佐賀弥生賞、[[佐賀皐月賞]]、遠賀川賞、五ケ瀬川賞、韓国岳賞、雲仙岳賞、[[中島記念]]、2016年球磨川賞、周防灘賞、中島記念、2017年九州オールカマー、[[九州大賞典]]、周防灘賞、中島記念<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001124630/ |title=キョウワカイザー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-12-25}}</ref>)
**ナンディン(2015年[[金沢スプリングカップ|スプリングカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001119388/ |title=ナンディン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**スクワドロン(2016年[[黒潮スプリンターズカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001120605/ |title=スクワドロン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2011年産
**ホウライナデシコ(2014年[[スプリングカップ (名古屋競馬)|スプリングカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001139835/ |title=ホウライナデシコ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**サーモピレー(2014年[[東京湾カップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001135314/ |title=サーモピレー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>)
**ワットロンクン(2015年[[白嶺賞]]、2018年唐津湾賞<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001140470/ |title=ワットロンクン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-02-13}}</ref>)
*2012年産
**[[トーコーヴィーナス]](2014年園田プリンセスカップ、[[兵庫若駒賞]]、2015年[[園田クイーンセレクション]]、[[梅桜賞]]、[[東海クイーンカップ]]、[[のじぎく賞]]、2016年[[読売レディス杯]]、[[秋桜賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001148948/ |title=トーコーヴィーナス |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2013年産
**ディックカントウ(2016年[[あやめ賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001167502/ |title=ディックカントウ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**テイエムサンピラー(2017年鶴見岳賞、2018年春望賞<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001170887/ |title=テイエムサンピラー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-03-06}}</ref>)
*2014年産
**アンティノウス(2021年[[プラチナカップ]]<ref>{{Cite web|title=アンティノウス|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001189647/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-07-23}}</ref>)
**ブラックランナー (2022年[[御厨人窟賞]])
**エルデュクラージュ (2023年[[報知オールスターカップ]])
*2016年産
**ナガタブラック(2019年優駿スプリント<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001222175/ |title=ナガタブラック |publisher=JBISサーチ |accessdate=2020-03-20}}</ref>)
*2017年産
**コバルトウィング(2022年[[東海菊花賞]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001229482/|title=コバルトウィング|accessdate=2022-11-11|website=JBISサーチ}}</ref>
=== 母の父としての主な産駒 ===
==== グレード制重賞優勝馬 ====
*2008年産
**カラフルデイズ([[関東オークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001096583/ |title=カラフルデイズ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2011年産
**[[ステファノス]]([[富士ステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001141375/ |title=ステファノス |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**[[メドウラーク]]([[七夕賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001140523/ |title=メドウラーク |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-07-17}}</ref>、[[阪神ジャンプステークス]])
*2012年産
**[[シャイニングレイ]]([[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]、[[CBC賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153992/ |title=シャイニングレイ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2014年産
**[[アドマイヤミヤビ]]([[クイーンカップ]]<ref>{{Cite news|title=アドマイヤミヤビが差し切り、3連勝で重賞初V!/クイーンC|newspaper=[[netkeiba.com]]|date=2017-02-11|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=118928|accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**[[カワキタエンカ]]([[中山牝馬ステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001189560/ |title=カワキタエンカ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-03-21}}</ref>)
**[[ベストアクター]]([[阪急杯]])
*2015年産
**[[ノームコア (競走馬)|ノームコア]]([[紫苑ステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001203281/ |title=ノームコア |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-10-11}}</ref>、'''[[ヴィクトリアマイル]]'''、富士ステークス、[[札幌記念]]、'''[[香港カップ]]''')
**[[リュウノユキナ]]([[東京スプリント]]2回、[[クラスターカップ]])<ref>{{Cite web|title=リュウノユキナ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001203106/|website=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-04-19}}</ref>
*2016年産
**[[ノーヴァレンダ]]('''[[全日本2歳優駿]]'''、[[ダイオライト記念]]、*報知オールスターカップ)<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001216178/ |title=ノーヴァレンダ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-02-11}}</ref>
**[[クロノジェネシス]](クイーンカップ、'''[[秋華賞]]'''、[[京都記念]]、'''[[宝塚記念]]'''2回、'''[[有馬記念]]''')<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001216129/ |title=クロノジェネシス |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-02-11}}</ref>
**[[ハヤヤッコ]]([[レパードステークス]]、[[函館記念]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001222192/ |title=ハヤヤッコ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2019-08-05}}</ref>
**[[パッシングスルー]]([[紫苑ステークス]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001218291/ |title=パッシングスルー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2019-12-11}}</ref>
**[[リオンリオン]]([[青葉賞]]、[[セントライト記念]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001216661/ |title=リオンリオン|publisher=JBISサーチ |accessdate=2019-12-11}}</ref>
**[[ゲンパチルシファー]]([[プロキオンステークス]])<ref>{{Cite web|title=ゲンパチルシファー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001219784/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2022-07-10}}</ref>
**[[ハヤブサナンデクン]]([[マーチステークス]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001218350/|title=ハヤブサナンデクン|website=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-03-26}}</ref>
*2017年産
**[[レイパパレ]]([[チャレンジカップ (中央競馬)|チャレンジカップ]]、'''[[大阪杯]]''')
**[[ヴェラアズール]]([[京都大賞典]]、'''[[ジャパンカップ]]''')<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001233443/|title=ヴェラアズール|accessdate=2022-10-10|website=www.jbis.or.jp|publisher=JBISサーチ}}</ref>
**[[イロゴトシ]]('''[[中山グランドジャンプ]]''')<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001237002/|title=イロゴトシ|website=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-04-15}}</ref>
**[[モズナガレボシ]]([[小倉記念]])
**[[テリオスベル]]([[クイーン賞]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001237577/|title=テリオスベル|accessdate=2022-11-30|website=JBISサーチ}}</ref>
*2018年産
**[[ブレークアップ]]([[アルゼンチン共和国杯]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001265810/|title=ブレークアップ|accessdate=2022-11-06|website=JBISサーチ}}</ref>
**[[スルーセブンシーズ]](中山牝馬ステークス)<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001264847/|title=スルーセブンシーズ|website=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-03-11}}</ref>
*2019年産
**[[スタニングローズ]]([[フラワーカップ]]、紫苑ステークス、'''秋華賞''')<ref>{{Cite web|title=スタニングローズ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001305728/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2022-04-13}}</ref>
**[[プラダリア]](青葉賞、京都大賞典)<ref>{{Cite web|title=プラダリア|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001312416/|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-10-09}}</ref>
**[[ガイアフォース]](セントライト記念)<ref>{{Cite web|title=ガイアフォース|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001307900/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2022-09-19}}</ref>
==== 地方重賞優勝馬 ====
*2010年産
**ガッツオブトップ([[金沢プリンセスカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001125792/ |title=ガッツオブトップ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**ユメノアトサキ([[菊水賞]]、[[のじぎく賞]]、[[兵庫ダービー]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001126473/ |title=ユメノアトサキ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**タガノギャラクシー([[金沢スプリントカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001125556/ |title=タガノギャラクシー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2011年産
**ドラゴンエアル([[ダービーグランプリ]]、[[報知オールスターカップ]]、[[瑞穂賞]]、[[コスモバルク記念]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001139367/ |title=ドラゴンエアル |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2012年産
**ジュエルクイーン([[ラブミーチャン記念]]、[[ゴールドジュニア]]、[[若草賞]]、[[ヒダカソウカップ]]2回、[[ビューチフルドリーマーカップ]]2回、[[ノースクイーンカップ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153866/ |title=ジュエルクイーン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**ユズチャン([[花吹雪賞]]、[[ル・プランタン賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001154174/ |title=ユズチャン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
*2013年産
**クインズサターン([[道営記念]]2回、コスモバルク記念、[[旭岳賞]])
*2014年産
**ミサイルマン([[ハイセイコー記念]]、[[だるま夕日賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001187286/ |title=ミサイルマン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-02-11}}</ref>)
**ドリームズライン([[駿蹄賞]]、[[東海ダービー]]、[[岐阜金賞]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001190527/ |title=ドリームズライン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017-05-18}}</ref>)
**ローレライ([[東京シンデレラマイル]])
**エルデュクラージュ(報知オールスターカップ)
*2016年産
**トーセンガーネット([[ニューイヤーカップ]]、[[桜花賞 (浦和競馬)|桜花賞]]【浦和】、[[東京プリンセス賞]])
**ケイアイターコイズ([[ウポポイオータムスプリント]])
*2017年産
**ネーロルチェンテ([[ブロッサムカップ]]、ノースクイーンカップ、ヒダカソウカップ)<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001232740/|title=ネーロルチェンテ|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-05-25}}</ref>
**エムティエーレ([[金沢ヤングチャンピオン]])
**ファルコンビーク([[川崎マイラーズ]])
**シェダル([[摂津盃]])
*2018年産
**マツリダスティール ([[若鮎賞]]、[[ジュニアグランプリ (岩手競馬)|ジュニアグランプリ]]、[[イーハトーブマイル]]、[[不来方賞]])
**シビックドライヴ([[サンライズカップ]])
**イロエンピツ([[たんぽぽ賞]])
**パールプレミア (若草賞、[[園田ウインターカップ|兵庫ウインターカップ]]、[[サマーカップ]])
**シェナキング(菊水賞、[[MRO金賞]])
**ルーチェドーロ([[フジノウェーブ記念]]、[[笠松グランプリ]]2回、[[東海桜花賞]])
**ロッキーブレイヴ([[オータムカップ (笠松競馬)|オータムカップ]]、[[ウインター争覇]]、[[マーチカップ (競馬)|マーチカップ]])
*2019年産
**シャルフジン([[ブリーダーズゴールドジュニアカップ]])
**レディーアーサー([[イノセントカップ]])
**ケウ(ル・プランタン賞)
**フジクラウン(イーハトーブマイル)
**ガルボマンボ([[高知優駿]]、[[黒潮菊花賞]]、[[高知県知事賞]]、[[だるま夕日賞]]、[[二十四万石賞]]、[[黒潮マイルチャンピオンシップ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001305313/|title=ガルボマンボ|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-11-05}}</ref>
**カイル([[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]、[[金盃]])
*2020年産
**フジラプンツェル(若鮎賞、[[ビギナーズカップ]]、[[プリンセスカップ (岩手競馬)|プリンセスカップ]])
**サラキャサリン([[兵庫クイーンセレクション]]、若草賞)
*2021年産
**シトラルテミニ([[金沢シンデレラカップ]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001341760/|title=シトラルテミニ|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-10-22}}</ref>
== 血統 ==
=== 血統背景 ===
父フレンチデピュティ、母ブルーアヴェニューはいずれも、2001年に日本に輸入された<ref name="yushun1412" />。兄弟の主な活躍馬として、全妹のBella Bellucciがアメリカで[[重賞]]を2勝している<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000714957/ |title=Bella Bellucci(USA) |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年8月4日 |date=}}</ref>。
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = クロフネ
|ref1 = [https://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/pedigree/ JBISサーチ クロフネ 5代血統表]2015年8月4日閲覧。
|mlin = [[デピュティミニスター系]]
|ref2 = [https://db.netkeiba.com/horse/ped/1998110135/ netkeiba.com クロフネの血統表]2017年2月11日閲覧。
|flin = ブルーアヴェニュー(USA)系
|FN = [[2号族|2-r]]
|ref3 = [https://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/pedigree/ JBISサーチ クロフネ 5代血統表]2015年8月4日閲覧。
|inbr = [[ニアークティック|Nearctic]] 5×4、[[ナスルーラ|Nasrullah]] 5×5
|ref4 = [https://www.jbis.or.jp/horse/0000615577/pedigree/ JBISサーチ クロフネ 5代血統表]2015年8月4日閲覧。
|f = *[[フレンチデピュティ]]<br />French Deputy<br />1992 [[栗毛]] アメリカ
|ff = [[デピュティミニスター|Deputy Minister]]<br />1979 [[黒鹿毛]]
|fff = [[ヴァイスリージェント|Vice Regent]]
|ffff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]
|fffm = Victoria Regina
|ffm = Mint Copy
|ffmf = Bunty's Flight
|ffmm = Shakney
|fm = Mitterand<br />1981 [[鹿毛]]
|fmf = Hold Your Peace
|fmff = Speak John
|fmfm = Blue Moon
|fmm = Laredo Lass
|fmmf = [[ボールドルーラー|Bold Ruler]]
|fmmm = Fortunate Isle
|m = *ブルーアヴェニュー<br />Blue Avenue<br />1990 芦毛 アメリカ
|mf = Classic Go Go<br />1978 鹿毛
|mff = Pago Pago
|mfff = Matrice
|mffm = Pompilia
|mfm = Classic Perfection
|mfmf = [[ネヴァーベンド|Never Bend]]
|mfmm = Mira Femme
|mm = Eliza Blue 1983<br />芦毛
|mmf = [[アイスカペイド|Icecapade]]
|mmff = [[ニアークティック|Nearctic]]
|mmfm = Shenanigans
|mmm = *コレラ<br />Corella
|mmmf = [[ロベルト (競走馬)|Roberto]]
|mmmm = Catania
|}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
*[[島田明宏]]『武豊インタビュー集スペシャル 勝負篇』(廣済堂文庫、2007年)ISBN 978-4331654125
*鶴木遵『新編・調教師 伊藤雄二の確かな目 真相』(KKベストセラーズ、2009年)ISBN 978-4584392874
*『週刊100名馬Vol.93 クロフネ』([[産業経済新聞社]]、2002年){{全国書誌番号|20234784}}
*『名馬物語 - The best selection (3) 』(エンターブレイン、2004年)ISBN 978-4757720794
*『優駿』(日本中央競馬会)各号
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1998110135|yahoo=1998110135|jbis=0000615577|racingpost=546559|racingpostname=kurofune}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000615577|クロフネ(USA)}}
{{Navboxes|title=表彰・G1,重賞勝ち鞍
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</span>
{{JRA賞最優秀ダートホース}}
{{NHKマイルカップ勝ち馬}}
{{ジャパンカップダート勝ち馬|ジャパンカップダート}}
}}
{{デフォルトソート:くろふね}}
[[Category:1998年生 (競走馬)|日くろふね]]
[[Category:2021年没]]
[[Category:サラブレッド]]
[[Category:アメリカ合衆国生産の競走馬]]
[[Category:日本調教の競走馬]]
[[Category:競走馬セリ市出身馬]]
[[Category:日本供用種牡馬]]
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15,131 |
バルト三国
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バルト三国(バルトさんごく、英: Baltic states、Baltic countries、露: Прибалтика、独: Baltische Staaten、波: Kraje bałtyckie)は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)および経済協力開発機構(OECD)の加盟国、シェンゲン協定加盟国である。通貨は三国ともユーロである。
三国は、ロシア帝国とソビエト連邦にそれぞれ支配され統治・併合された時期があるものの、歴史的にはエストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。バルト三国のうちエストニアとラトビアはロシアと、リトアニアはロシアの飛び地であるカリーニングラード州と、それぞれ接している。
現在、三国共に政府の長が全て女性である。
ロシア帝国に設置された「沿バルト諸県」とは現在のエストニアとラトビアにあたる地域であり、リトアニアに相当する地域はそこに含まれていなかった。リトアニアも含めた3カ国が「バルト」という一つの地域と見なされるようになったのは、いずれの国も第一次世界大戦後にロシアからの独立を果たし、第二次世界大戦中にソ連に編入されたという共通の歴史をたどったためである。それまではエストニアおよびラトビアとリトアニアとでは異なる歴史をたどってきたと考えられていたが、1970年にバルト・ドイツ人の歴史家ゲオルク・フォン・ラオホ(英語版)が3カ国をまとめた歴史書を著してからは、バルト地域としての歴史も語られるようになった。
エストニア人は、フィン人と近縁の民族で、エストニア語はフィンランド語と同じウラル語族である。一方、ラトビア人とリトアニア人はバルト系民族(印欧語族バルト語派の話者)である。リトアニアが独自の文化を築いて来たのに比べ、ラトビアはリヴォニアを基礎としていたため、民族の覚醒は19世紀に起こる。これら別個の文化を共通化、また自立化させたのは、中世以来政治的支配を行ってきた少数民族のバルト・ドイツ人であった。
三国の宗教事情は大きく異なる。リトアニアは過去に同一の王国を形成したポーランドの影響を深く受けたため、国民のほとんどはローマ・カトリックの信者である。ラトビアではプロテスタントのルター派が多い。エストニアでは国民の半数以上が無宗教である。
バルト三国を構成する国々は一つにくくられて語られがちではあるが、近代までの三国は別々の歴史を歩んできている。
近代まではドイツ語のエストラントという地名が主流であった。フィンランドと同じくフィン・ウゴル系民族である。ヴァイキングに侵攻を受けた後は、ロシア人やデーン人の侵略を受ける。ドイツ騎士団に支配された事もあるが、13世紀にデンマークが領有する。16世紀にリヴォニア戦争が起こると、その支配はスウェーデンに帰する(エストニア公国)。この時代は、スウェーデン・バルト帝国と呼ばれた。18世紀に起きた大北方戦争の結果、ロシア帝国の支配下に入る。
古くは先住民族としてフィン・ウゴル系民族のリーヴ人が居住していたため、リヴォニアと呼ばれた(ドイツ風にリヴラントとも言われる)。13世紀にドイツ騎士団の一組織リヴォニア帯剣騎士団によって征服される。この騎士団は、常軌を逸した侵略行為を行ったため、民族はほぼ浄化され、後発のバルト人に同化された。これ以降、リヴォニアは、ドイツ騎士団、リトアニア、ポーランド王国によって支配を受ける。16世紀、リヴォニア戦争の後にこの地は分断され、南部はクールラント公国となった。17世紀に北部リヴォニアは、スウェーデン領となり、バルト帝国の一州となった。この地も大北方戦争やポーランド分割の後、18世紀に南北ともロシア帝国に帰することとなった。
中世にリトアニア大公国として栄える。元々は非キリスト教国家だったため、北方十字軍であるドイツ騎士団との抗争が繰り返された。しかしリトアニアはコサックの地であるウクライナ(ポドリア)の領有に成功する。1386年、ドイツ騎士団の侵略に耐えかねたリトアニアはキリスト教を受け入れ、ポーランド王国と同盟を組む。これがいわゆるポーランド・リトアニア連合である。リトアニア人は1430年まで自立していたが、以降ポーランドとの同君連合(王朝連合)となり、リトアニアのすべての貴族階級はポーランド文化に同化した。そして1569年のルブリン合同によって、ポーランド・リトアニア共和国という政治的統一体が誕生すると、リトアニアはその構成国の一つとなった。以降のリトアニアはポーランドと運命を共にする。1795年、第3次ポーランド分割によってポーランド・リトアニア連合が消滅した際、現在のリトアニアの大半の地域はロシア帝国に編入された。
18世紀から三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命ののち、1918年に三国とも独立を達成した。しかし第二次世界大戦中の独ソ不可侵条約における秘密議定書を発端として1939年秋には、ソビエト連邦とバルト三国が相次いで相互援助条約を締結し、ソ連軍の駐留と基地設置が認められた。1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト連邦構成共和国であるエストニア・ラトビア・リトアニアの各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。1941年に始まった独ソ戦によりこの地域はナチス・ドイツの支配を受けたが、1944年から1945年にかけて再びソ連に占領された(ソ連とドイツによる占領)。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定した。
1980年代後半、ソビエト連邦内でグラスノスチとペレストロイカが進展すると独立回復運動が高まり、1988年にはバルト三国でそれぞれ人民戦線が結成された。1990年3月11日に独立を宣言したリトアニア共和国では1991年1月にソ連軍との衝突で死者が発生した(血の日曜日事件)。その後、ソ連8月クーデター後の8月20日にそろって再独立を実現させ、同年12月のソビエト連邦の崩壊へ大きな影響を与えた。
1991年には北欧理事会の情報事務所がバルト三国に開設されたほか、エストニア、リトアニア、ラトビアのバルト三国は北欧理事会への加盟希望を表明している。
1992年にバルト海諸国理事会が設立されると、三国ともに加盟。理事会は北ヨーロッパとバルト海周辺に位置する諸国による国際的な地域組織として設立・運営され、欧州連合も加盟した。
独立後は概ね三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開し、2004年3月29日に三国そろって北大西洋条約機構(NATO)へ加盟した。同年5月1日には、やはり三国そろって欧州連合(EU)へ加盟した。同日に揃ってシェンゲン協定に調印した。
2005年にウラジーミル・プーチン大統領はバルト三国併合を「悲劇」と認めたものの、新たな謝罪は拒んだ。同年の対独戦争60周年記念式典にはラトビア以外のエストニアのリュイテリ大統領とリトアニアのアダムクス大統領は出席を拒否した。
リトアニアの国会は、ナチス・ドイツの鉤十字と同様に、ソビエト連邦と共産主義の標章(ソビエト連邦の国旗と国章である「鎌と鎚」、ソビエト連邦の国歌)を禁止する法案を可決し、エストニアではソ連軍兵士の銅像を撤去する事でロシア系住民の暴動が起きている。
2007年12月21日にシェンゲン協定を揃って施行し、シェンゲン圏に組み込まれた。
2007年以後はエストニアが、2008年以後はリトアニアとラトビアがそれぞれ、ナチス・ドイツの「鉤十字」とソビエト連邦の「鎌と鎚」を禁止している。バルト三国はソビエト統治時代を「暗黒時代」と見なしている。一方、ベラルーシやウクライナ東部の親ロシア派支配地域はソビエト連邦時代の戦勝記念を祝っている。
2011年1月1日にエストニアがクローンから、2014年1月1日にラトビアがラッツから、2015年1月1日にリトアニアがリタスから通貨をユーロに変更した。なお、三国の通貨が同じになるのは1992年にエストニアが、1993年にラトビア・リトアニアがそれぞれ国内でソビエト・ルーブルを使用しなくなって以来である。
2010年12月9日にエストニアが、2016年7月1日にラトビアが、2018年7月5日にリトアニアがOECDに加盟した。
前項の「歴史」でも説明した通り、バルト三国では「旧ソ連国家」という表現は禁止されている。
日本のニュース番組TBSの公式ツイッターアカウントである「TBS NEWS」が2022年2月24日、「 旧ソ連のバルト三国共同声明 “ロシアをスウィフトから排除”呼びかけ」という内容のツイートを発信した。
これに対して在日エストニア大使館の公式ツイッターアカウント「Estonia in japan」は、
と、「旧ソ連国家」という表現に非難を表した。
なお、自国の国名表記をめぐってロシア語由来の名称“グルジア“を放棄したジョージアの在日ジョージア大使館は、
と、エストニアの意見に同調する姿勢を表した。
総人口が多い都市
バルト三国の基幹民族(エストニア人、ラトビア人、リトアニア人)の人口が多い都市。
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バルト三国は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)および経済協力開発機構(OECD)の加盟国、シェンゲン協定加盟国である。通貨は三国ともユーロである。 三国は、ロシア帝国とソビエト連邦にそれぞれ支配され統治・併合された時期があるものの、歴史的にはエストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。バルト三国のうちエストニアとラトビアはロシアと、リトアニアはロシアの飛び地であるカリーニングラード州と、それぞれ接している。 現在、三国共に政府の長が全て女性である。
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'''バルト三国'''(バルトさんごく、{{lang-en-short|Baltic states}}、Baltic countries、{{lang-ru-short|Прибалтика}}、{{lang-de-short|Baltische Staaten}}、{{lang-pl-short|Kraje bałtyckie}})は、[[バルト海]]の東岸、[[フィンランド]]の南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、'''[[エストニア]]'''、'''[[ラトビア]]'''、'''[[リトアニア]]'''である。3か国ともに、[[北大西洋条約機構]](NATO)・[[欧州連合]](EU)および[[経済協力開発機構]](OECD)の加盟国、[[シェンゲン協定]]加盟国である<ref>{{Cite web|和書|title=バルト三国とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E4%B8%89%E5%9B%BD-605608 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-27 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,精選版 |last=日本国語大辞典,デジタル大辞泉}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=外務省: バルト三国と日本 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html |website=www.mofa.go.jp |accessdate=2022-02-27}}</ref>。通貨は三国とも[[ユーロ]]である<ref>{{Cite web|和書|title=ユーロ圏│初めてでもわかりやすい用語集│SMBC日興証券 |url=https://www.smbcnikko.co.jp/terms/japan/yu/J0300.html |website=www.smbcnikko.co.jp |accessdate=2022-02-27}}</ref>。
三国は、[[ロシア帝国]]と[[ソビエト連邦]]にそれぞれ支配され統治・併合された時期があるものの、歴史的にはエストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国や[[ドイツ]]と、リトアニアは[[ポーランド]]とのつながりが深く、また3か国は[[ロシア]]とも深く関わってきた。バルト三国のうちエストニアとラトビアはロシアと、リトアニアはロシアの飛び地である[[カリーニングラード州]]と、それぞれ接している。
== バルト地域概念の移り変わり ==
ロシア帝国に設置された「沿バルト諸県」とは現在のエストニアとラトビアにあたる地域であり、リトアニアに相当する地域はそこに含まれていなかった{{Sfn|重松|2021|p=550}}。リトアニアも含めた3カ国が「バルト」という一つの地域とみなされるようになったのは、いずれの国も第一次世界大戦後にロシアからの独立を果たし、第二次世界大戦中にソ連に編入されたという共通の歴史をたどったためである{{Sfn|重松|2021|p=550}}。それまではエストニアおよびラトビアとリトアニアとでは異なる歴史をたどってきたと考えられていたが、[[1970年]]に[[バルト・ドイツ人]]の歴史家{{仮リンク|ゲオルク・フォン・ラオホ|en|Georg von Rauch (historian)}}が3カ国をまとめた歴史書を著してからは、バルト地域としての歴史も語られるようになった{{Sfn|重松|2021|p=550}}{{Efn|例えば、{{Harvnb|カセカンプ|2014|}}など。}}。
== 民族 ==
[[エストニア人]]は、[[フィン人]]と近縁の民族で、エストニア語は[[フィンランド語]]と同じ[[ウラル語族]]である。一方、[[ラトビア人]]と[[リトアニア人]]はバルト系民族([[印欧語族]][[バルト語派]]の話者)である。リトアニアが独自の文化を築いて来たのに比べ、ラトビアは[[リヴォニア]]を基礎としていたため、民族の覚醒は[[19世紀]]に起こる。これら別個の文化を共通化、また自立化させたのは、中世以来政治的支配を行ってきた[[少数民族]]の[[バルト・ドイツ人]]であった。
== 宗教 ==
三国の[[宗教]]事情は大きく異なる。リトアニアは過去に同一の王国を形成した[[ポーランド]]の影響を深く受けたため、国民のほとんどは[[ローマ・カトリック]]の信者である。ラトビアでは[[プロテスタント]]の[[ルター派]]が多い<ref>{{Cite web|和書|title=杉原千畝がいた「リトアニア」中世は大国だった片りん {{!}} 藻谷浩介の世界「来た・見た・考えた」 {{!}} 藻谷浩介 |url=https://mainichi.jp/premier/business/articles/20201106/biz/00m/020/013000c |website=毎日新聞「経済プレミア」 |accessdate=2022-03-02 |language=ja |date=2020年11月9日}}</ref>。エストニアでは国民の半数以上が[[無宗教]]である<ref>{{Cite web|和書|title=エストニア基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/estonia/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-03-02 |language=ja}}</ref>。
== 歴史 ==
バルト三国を構成する国々は一つにくくられて語られがちではあるが、[[近代]]までの三国は別々の歴史を歩んできている。
=== 近代まで ===
==== エストニア ====
[[ファイル:Flag of Estonia.svg|thumb|right|180px|[[エストニアの国旗|エストニア共和国の国旗]]]]
{{Main|エストニアの歴史}}
[[近代]]までは[[ドイツ語]]の[[エストラント]]という地名が主流であった。フィンランドと同じく[[フィン・ウゴル語派|フィン・ウゴル系民族]]である。[[ヴァイキング]]に侵攻を受けた後は、[[ロシア人]]や[[デーン人]]の侵略を受ける。[[ドイツ騎士団]]に支配された事もあるが、[[13世紀]]に[[デンマーク]]が[[領有]]する。[[16世紀]]に[[リヴォニア戦争]]が起こると、その支配は[[スウェーデン]]に帰する([[エストニア公国]])。この時代は、[[バルト帝国|スウェーデン・バルト帝国]]と呼ばれた。[[18世紀]]に起きた[[大北方戦争]]の結果、[[ロシア帝国]]の支配下に入る。
==== ラトビア ====
[[ファイル:Flag of Latvia.svg|thumb|right|180px|[[ラトビアの国旗|ラトビア共和国の国旗]]]]
{{Main|ラトビアの歴史}}
古くは[[先住民族]]としてフィン・ウゴル系民族の[[リーヴ人]]が居住していたため、[[リヴォニア]]と呼ばれた(ドイツ風にリヴラントとも言われる)。13世紀に[[ドイツ騎士団]]の一組織[[リヴォニア帯剣騎士団]]によって征服される。この[[騎士団]]は、常軌を逸した侵略行為を行ったため、民族はほぼ浄化され、後発の[[バルト人]]に同化された。これ以降、リヴォニアは、ドイツ騎士団、[[リトアニア]]、[[ポーランド王国]]によって支配を受ける。16世紀、[[リヴォニア戦争]]の後にこの地は分断され、南部は[[クールラント公国]]となった。[[17世紀]]に北部リヴォニアは、[[スウェーデン]]領となり、バルト帝国の一州となった。この地も[[大北方戦争]]や[[ポーランド分割]]の後、18世紀に南北ともロシア帝国に帰することとなった。
==== リトアニア ====
[[ファイル:Flag of Lithuania.svg|thumb|right|180px|[[リトアニアの国旗|リトアニア共和国の国旗]]]]
{{Main|リトアニアの歴史}}
[[中世]]に[[リトアニア大公国]]として栄える。元々は非[[キリスト教]]国家だったため、[[北方十字軍]]である[[ドイツ騎士団]]との抗争が繰り返された。しかしリトアニアは[[コサック]]の地である[[ウクライナ]]([[ポジーリャ|ポドリア]])の領有に成功する。[[1386年]]、ドイツ騎士団の侵略に耐えかねたリトアニアはキリスト教を受け入れ、[[ポーランド王国]]と同盟を組む。これがいわゆる[[ポーランド・リトアニア連合]]である。[[リトアニア人]]は[[1430年]]まで自立していたが、以降ポーランドとの[[同君連合]]([[王朝連合]])となり、リトアニアのすべての貴族階級はポーランド文化に[[同化]]した。そして[[1569年]]の[[ルブリン合同]]によって、[[ポーランド・リトアニア共和国]]という政治的統一体が誕生すると、リトアニアはその構成国の一つとなった。以降のリトアニアは[[ポーランド]]と運命を共にする。[[1795年]]、第3次[[ポーランド分割]]によってポーランド・リトアニア連合が消滅した際、現在のリトアニアの大半の地域はロシア帝国に編入された。
=== 近代以降 ===
18世紀から三国とも[[ロシア帝国]]に支配されていたが、[[ロシア革命]]ののち、[[1918年]]に三国とも独立を達成した<ref name=":0" />。しかし[[第二次世界大戦]]中の[[独ソ不可侵条約]]における[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]を発端として[[1939年]]秋には、[[ソビエト連邦]]とバルト三国が相次いで相互援助条約を締結し、ソ連軍の駐留と基地設置が認められた。[[1940年]]にソビエト連邦に併合され、[[ソビエト連邦構成共和国]]である[[エストニア・ソビエト社会主義共和国|エストニア]]・[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国|ラトビア]]・[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国|リトアニア]]の各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。[[1941年]]に始まった[[独ソ戦]]によりこの地域は[[ナチス・ドイツ]]の支配を受けたが、[[1944年]]から[[1945年]]にかけて再びソ連に占領された([[バルト諸国占領|ソ連とドイツによる占領]])。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定した。
[[1980年代]]後半、ソビエト連邦内で[[グラスノスチ]]と[[ペレストロイカ]]が進展すると独立回復運動が高まり、1988年にはバルト三国でそれぞれ人民戦線が結成された。[[1990年]][[3月11日]]に独立を宣言したリトアニア共和国では[[1991年]]1月にソ連軍との衝突で死者が発生した([[血の日曜日事件 (リトアニア)|血の日曜日事件]])。その後、[[ソ連8月クーデター]]後の[[8月20日]]にそろって再独立を実現させ、同年12月の[[ソビエト連邦の崩壊]]へ大きな影響を与えた。
1991年には[[北欧理事会]]の情報事務所がバルト三国に開設されたほか、エストニア、リトアニア、ラトビアのバルト三国は北欧理事会への加盟希望を表明している。
[[1992年]]に[[バルト海諸国理事会]]が設立されると、三国ともに加盟。理事会は[[北ヨーロッパ]]と[[バルト海]]周辺に位置する諸国による国際的な地域組織として設立・運営され、欧州連合も加盟した。
独立後は概ね三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開し、[[2004年]][[3月29日]]に三国そろって[[北大西洋条約機構]](NATO)へ加盟した。同年[[5月1日]]には、やはり三国そろって[[欧州連合]](EU)へ加盟した。同日に揃って[[シェンゲン協定]]に調印した。
[[2005年]]に[[ウラジーミル・プーチン]]大統領はバルト三国併合を「悲劇」と認めたものの、新たな謝罪は拒んだ。同年の対独戦争60周年記念式典にはラトビア以外のエストニアのリュイテリ大統領とリトアニアの[[ヴァルダス・アダムクス|アダムクス]][[リトアニアの統治者の一覧|大統領]]は出席を拒否した。
[[セイマス|リトアニアの国会]]は、[[ナチス・ドイツ]]の[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]と同様に、[[ソビエト連邦]]と[[共産主義]]の標章([[ソビエト連邦の国旗]]と[[ソビエト連邦の国章|国章]]である「[[鎌と鎚]]」、[[ソビエト連邦の国歌]])を禁止する法案を可決し、エストニアではソ連軍兵士の銅像を撤去する事でロシア系住民の暴動が起きている。
[[2007年]][[12月21日]]にシェンゲン協定を揃って施行し、[[シェンゲン圏]]に組み込まれた。
[[2007年]]以後は[[エストニア]]が、[[2008年]]以後は[[リトアニア]]と[[ラトビア]]がそれぞれ、ナチス・ドイツの「鉤十字」とソビエト連邦の「鎌と鎚」を禁止している。バルト三国はソビエト統治時代を「[[暗黒時代]]」とみなしている。一方、[[ベラルーシ]]や[[ウクライナ]]東部の親ロシア派支配地域はソビエト連邦時代の戦勝記念を祝っている。
[[2011年]][[1月1日]]にエストニアが[[クローン (通貨)|クローン]]から、[[2014年]][[1月1日]]にラトビアが[[ラッツ]]から、[[2015年]][[1月1日]]にリトアニアが[[リタス]]から通貨を[[ユーロ]]に変更した。なお、三国の通貨が同じになるのは1992年にエストニアが、[[1993年]]にラトビア・リトアニアがそれぞれ国内で[[ソビエト連邦ルーブル|ソビエト・ルーブル]]を使用しなくなって以来である。
[[2010年]][[12月9日]]にエストニアが、[[2016年]][[7月1日]]にラトビアが、[[2018年]][[7月5日]]にリトアニアが[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟した。
[[2023年]]、三国ともに[[政府の長]]が全て女性となる<ref>[https://nordot.app/1075594781775545148 ラトビア首相にシリニャ氏 バルト3国、全員女性に] [[共同通信社]] 2023年9月16日配信 2023年9月16日閲覧</ref>。
== 「旧ソ連国家」表記めぐる問題 ==
前項の「歴史」でも説明した通り、バルト三国では「旧[[ソビエト連邦|ソ連]]国家」という表現は禁止されている。
日本のニュース番組[[TBSテレビ|TBS]]の公式ツイッターアカウントである「TBS NEWS」が2022年2月24日、「 旧[[ソビエト連邦|ソ連]]のバルト三国共同声明 “ロシアをスウィフトから排除”呼びかけ」という内容のツイートを発信した<ref>{{Cite tweet|user=tbs_news|author=TBS NEWS|number=1496764999309484035|title=旧ソ連のバルト3国 共同声明 “ロシアをスウィフトから排除”呼びかけ|date=2022-02-24|accessdate=2022-03-19}}</ref>。
これに対して在日エストニア大使館の公式ツイッターアカウント「Estonia in japan」は、
TBSさん,またですか..いいかげんエストニア,ラトビア,リトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます?歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日の本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです<ref>{{Cite tweet|user=estembassyjp|author=Estonia in Japan|number=1496798387856834561|title=TBSさん,またですか..いいかげんエストニア,ラトビア,リトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます?|date=2022-02-24|accessdate=2022-03-19}}</ref>
と、「旧ソ連国家」という表現に非難を表した。
なお、自国の国名表記をめぐってロシア語由来の名称“グルジア“を放棄したジョージアの在日ジョージア大使館は、
エストニアさんのお気持ちとても良く分かります…<ref>{{Cite tweet|user=GeorgiainJapan|author=在日ジョージア大使館|number=1498086198581293060|title=エストニアさんのお気持ちとても良く分かります…|date=2022-02-28|accessdate=2022-03-19}}</ref>
と、エストニアの意見に同調する姿勢を表した。
== 統計 ==
総人口が多い都市
* {{旗アイコン|LAT}} [[リガ]] - 725,578 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[ヴィリニュス]] - 540,318 人
* {{旗アイコン|EST}} [[タリン]] - 396,193 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[カウナス]] - 361,274 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[クライペダ]] - 188,954 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[シャウレイ]] - 125,883 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[パネヴェジース]] - 116,749 人
* {{旗アイコン|LAT}} [[ダウガフピルス]] - 110,265 人
* {{旗アイコン|EST}} [[タルトゥ]] - 101,740 人
* {{旗アイコン|LAT}} [[リエパーヤ]] - 85,448 人
バルト三国の基幹民族([[エストニア人]]、[[ラトビア人]]、[[リトアニア人]])の人口が多い都市。
* {{旗アイコン|LTU}} [[カウナス]] - 335,624 人
* {{旗アイコン|LAT}} [[リガ]] - 312,858 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[ヴィリニュス]] - 312,303 人
* {{旗アイコン|EST}} [[タリン]] - 216,996 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[クライペダ]] - 135,557 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[シャウレイ]] - 120,263 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[パネヴェジース]] - 113,585 人
* {{旗アイコン|EST}} [[タルトゥ]] - 81,550 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[アリートゥス]] - 66,390 人
* {{旗アイコン|LTU}} [[マリヤンポレ]] - 44,555 人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |last=カセカンプ |first=アンドレス |authorlink=アンドレス・カセカンプ |translator=小森宏美、重松尚 |year=2014 |title=バルト三国の歴史——エストニア・ラトヴィア・リトアニア 石器時代から現代まで |publisher=[[明石書店]] |isbn= 9784750339870 |ref={{SfnRef|カセカンプ|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=重松尚 |chapter=バルトの歴史 |title=中欧・東欧文化事典 |publisher=丸善出版 |year=2021 |isbn=9784621306161 |ref={{SfnRef|重松|2021}}}}
== 関連項目 ==
* [[エストニアの歴史]]
* [[ラトビアの歴史]]
* [[リトアニアの歴史]]
* [[北方十字軍]]
* [[民族自決]]
* [[バルト諸国占領]]
* [[独ソ不可侵条約]]
* [[バルトの虎]]
* {{仮リンク|バルト諸国の経済|ru|Экономика Прибалтики}}
* [[北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備]]
* [[エストニア料理]]
* [[ラトビア料理]]
* [[リトアニア料理]]
== 外部リンク ==
* [http://www.balticnet.jp バルト三国情報サイト]
* {{Kotobank}}
{{ヨーロッパ}}
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[[Category:バルト地方|*]]
[[Category:北ヨーロッパ]]
[[Category:ヨーロッパの地域]]
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ゼノン
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ゼノン
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ゼノン
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'''ゼノン'''
;人名
:{{Lang-el|Ζήνων}} {{IPA-el|zdɛ̌ː.nɔːn|}}、{{lang-en|Zeno}} {{IPA-en|ˈziːnoʊ|}}、{{lang-de|Zenon, Zeno}} {{IPA-de|ˈtseːnɔn, ˈtseːno|}}。[[ゼウス]]に由来する。ギリシア語では長母音を考慮すると「ゼーノーン」、英語では「ジーノウ」、ドイツ語では「ツェーノン」と発音する。
:* [[ゼノン (エレア派)]] - [[エレア派]]の哲学者。[[パルメニデス]]の弟子。
:* [[ゼノン (ストア派)]] - [[ストア派]]の創始者。
:* [[ゼノン (エピクロス派)]] - 後期[[エピクロス派]]の哲学者。シドンのゼノンとも呼ぶ。
:* [[ゼノン (東ローマ皇帝)]] - [[東ローマ帝国]]の皇帝。
:* [[ゼノ・ゼブロフスキー|ゼノン・ジェブロフスキ]] - ポーランド出身のキリスト教聖職者。
:* [[ゼノン・バレッチ]] - サッカーの元スペイン代表のキャプテン。
:* [[ゼノン・ヤスクワ]] - ポーランドの自転車競技選手。
:* ゼノン石川([[石川俊介]]) - [[聖飢魔II]]の構成員であったベーシスト。
:
; 化学
:*元素[[キセノン]] (Xenon) のカタカナ表記の別法。<!--日本化学会による日本語名は語源の[[ギリシア語]]発音に近いキセノンであるが、[[原子力発電]]関係など一部の業界では英語での発音に近いゼノンと呼ぶことが好まれる。-->
:
; 会社名
:*[[ゼノン (企業)]] - [[ダイエー|ダイエーグループ]]の時計・眼鏡の専門店。
:
; 製品名
:*[[Xenon (マイクロプロセッサ)]] - [[Xbox 360]]で使用されている[[PowerPC]]ベースの[[マイクロプロセッサ]]。
:
;漫画雑誌
:*[[コミックゼノン]] - 複数誌ある。リンク先(曖昧さ回避ページ)を参照。
:
;コンピュータゲーム
:*{{仮リンク|ゼノン (コンピュータゲーム)|en|Xenon (video game)}} - イギリスの{{仮リンク|ビットマップブラザーズ|en|The Bitmap Brothers}}が[[Atari ST]]向けに開発し、[[1988年]]に発売したシューティングゲーム。同社のデビュー作でもあり、[[Amiga]]や[[コモドール64]]等にも移植された。
:*{{仮リンク|ゼノン2 メガブラスト|en|Xenon 2: Megablast}} - イギリスのビットマップブラザーズがAmiga・Atari ST向けに開発し、[[1989年]]に発売したシューティングゲーム。前述ゲームの続編であり、[[メガドライブ]]や[[セガ・マスターシステム|マスターシステム]]等にも移植された。日本でも[[X68000]]・[[PC-9800シリーズ|PC-98]]版が[[エピックレコードジャパン|Epic/Sony Records]]から、[[ゲームボーイ]]版がPCMコンプリートから発売された。
:*[[XENON -夢幻の肢体-]] - 日本のシーズウェアがPC-98向けに開発し、[[1994年]]に発売した[[アダルトゲーム|18禁]][[アドベンチャーゲーム]]。[[FM TOWNS]]や[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]にも移植された。
:
;フィクション上のゼノン
:* [[永井豪]]の漫画『[[デビルマン]]』、およびその続編や外伝に登場する悪魔。
:* [[重機甲兵ゼノン]]、[[XENON-199X・R-]] - [[神崎将臣]]の漫画。また同作品の主人公の呼称および、作中でのサイボーグとその技術システム。
:* ウルトラマンゼノン - 特撮テレビ番組『[[ウルトラマンマックス]]』に登場する巨大ヒーロー。
:* [[超速変形ジャイロゼッター]]に登場する敵組織。
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タイムボカンシリーズ
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タイムボカンシリーズは、タツノコプロ制作による日本のSFギャグアクションアニメシリーズの総称。
本シリーズは同一の作品ではなく、基本コンセプトやフォーマットを共有した複数の作品が、登場人物や設定を変えつつ継続しているものである。各シリーズ作品に共通して、「正義の味方である主人公たちと、悪役3人組」が、「動物を模したタイムマシンなどのスーパーテクノロジーを有するメカ」で「古今東西に(タイム)トラベル」し、「その時代・地域の歴史的偉人などを巻き込んで不思議な力を持つ宝の争奪戦を繰り広げる」という要素が盛り込まれている。詳細はシリーズの特色の節なども参照。昭和から平成にかけての40年余りの間、度々の中断期間を挟みながらテレビシリーズが10作以上制作され、またOVAやラジオ番組、実写映画などといった派生展開も行われている。
海外映画に影響を受けた、ミニカーを売るためのカーレース物のアニメという発想に端を発し、またそれまでのタツノコプロの芸風の一つであったハードなアクション物から趣を変えたコメディ作品として、「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」というテレビアニメの企画が1972年頃に立ち上げられた。その後メインスポンサーとしてタカトクトイスが入るなどの紆余曲折を経て、フジテレビ系ネット各局にて1975年10月に放送が開始されたのが、シリーズ第1作『タイムボカン』である。当初2クールの放送期間を予定していた同作品であるが、その好評ぶりから最終的に5クールにまで延長され、同作品の終了後もシリーズとして定着、1970年代後半から1980年代初頭にかけて高い人気を獲得した。シリーズ作品では『タイムボカン』が最高26.3%、『ヤッターマン』が最高26.5%という高視聴率を記録している。なお、タツノコプロの資料では別数値もある。
テレビシリーズはおよそ8年にわたって続いたが、転機となったのはシリーズ第7作『イタダキマン』で、同作品では放送時間の変更や原点回帰に向けた取り組みがなされたものの、制作局側との軋轢からシリーズ構成の小山高生と音楽担当の山本正之が外され、視聴率も振るわぬままわずか半年で番組は終了。続編として『タイムボカンエクスプレス』、『タイムボカンウォーズ サッパリマン』が計画されていたが、これらも同作品の早期終了で日の目を見ることないまま、テレビシリーズは長期間にわたり中断を余儀なくされた。
1990年代に入ると、本シリーズを題材としたOVAや各種テレビゲーム、それに派生作品が度々制作され、ラジオ番組『平成タイムボカン』でもテレビシリーズの復活に向けた署名が行われるなど、草の根レベルでの人気は持続し続けた。こうした動きを経て、放送局をテレビ東京に移す形で平成最初のテレビシリーズとなる『タイムボカン2000 怪盗きらめきマン』が2000年に放送されたが、放送枠における作劇上の制約などもあり、往時の人気を復活するまでには至らなかった。
同作品の終了後も、2005年にシリーズ誕生30周年を迎えたことを受け記念作品の制作が計画されていたが、同年6月にタツノコプロがタカラ(現:タカラトミー)の子会社になった際の社内的混乱もあり、企画は凍結された。その後同社のタツノコ作品のコンテンツ事業展開の一つとして再度テレビシリーズの企画が進められ、2008年に昭和期のテレビシリーズのリメイク版として『ヤッターマン』が、よみうりテレビ(ytv)・日本テレビ系で放送された。同作品の放送期間中である2009年3月には、日活(配給・松竹)による『ヤッターマン』の実写映画も公開された。『ヤッターマン』のリメイクは2015年にも行われ、元祖ヤッターマンと世界観を共有しつつもドロンボーの子孫を主人公に、ヤッターマンを敵側に据えたスピンオフ作品『夜ノヤッターマン』がTOKYO MX他で放送された。
2016年には、タツノコプロ創立55周年記念を兼ねたシリーズ最新作『タイムボカン24』が、リメイク版『ヤッターマン』と同様にytvをキー局として放送され、2017年には続編にあたる『タイムボカン 逆襲の三悪人』も制作された。両作品とも『タイムボカン』のリメイク作品として位置づけられているが、ストーリーや世界観、登場キャラクター等はほぼ一新されている。
平成に入ってからはCS放送などでも繰り返し再放送が行われており、2017年6月から2018年6月までの1年間には、キッズステーションにてタツノコプロアニメ放送55周年を記念した企画『タツノコ55YEAR 昭和のタイムボカンシリーズ全作見せます!』がスタート。それまでHDリマスター版を放送していた『ヤッターマン』を含む昭和期のテレビシリーズ全7作が、月曜~木曜の深夜に再放送された。
昭和期のテレビシリーズのメインスポンサーはタカトクトイスで、各種メカのおもちゃをはじめとした関連商品も同社より多数発売されていた。同社は第1作のタイムボカンから制作に関与し、『イタダキマン』終了後の翌1984年に倒産。文字通り命運を共にする格好となった。
平成以降は、『きらめきマン』ではバンプレストがスポンサーについたものの、タカトクトイスに代わるおもちゃ等の関連商品を発売するスポンサーは確保できなかった。リメイク版『ヤッターマン』と『タイムボカン24』ではタツノコプロの親会社となったタカラトミーがメインスポンサーとなり、同社からおもちゃ等の関連商品が発売された。
雑誌掲載は小学館の学習雑誌や『てれびくん』がメイン。その後は掲載誌が変更され、『イタダキマン』の頃は秋田書店発行『TVアニメマガジン』、『きらめきマン』の頃は講談社発行『テレビマガジン』がメイン掲載誌となっていた。リメイク版『ヤッターマン』では『てれびくん』と『テレビマガジン』の両誌で掲載。『タイムボカン24』では『てれびくん』『テレビマガジン』のほかに『月刊コロコロコミック』『コロコロイチバン!』でも掲載された。『テレビマガジン』はアニメ情報を中心に掲載し、『てれびくん』『コロコロコミック』は関連玩具の情報のみ掲載。『コロコロイチバン!』は玩具情報のほか、コミカライズを連載。
本シリーズの劇場上映は数本あるが、その大半はテレビシリーズのブローアップであり、完全な劇場用新作は東映まんがまつり用に制作された『ゼンダマン』(1980年)と『オタスケマン』(1981年)の2本のみ。前者は13分、後者は15分の短編である。長編としては、リメイク版『ヤッターマン』(2009年)が初めてである。
東映・東宝の両社と繋がりの深いフジテレビと、東宝と繋がりのあったタツノコプロの制作であることから、テレビシリーズのブローアップ版は東宝の配給で、新作2本は東映の配給だった。当時まだ日本ではシネマコンプレックスは本格的な展開がなされておらず、ほとんどの封切館が大手映画会社の直系による経営かまたはそれと強い提携関係にあった中で、非常に珍しいケースだった。実写版『ヤッターマン』の配給は松竹であり、事実上3つの映画会社の配給を渡り歩いたことになる。
「三悪(さんあく)」(または「悪玉トリオ」など)は『タイムボカンシリーズ』全作に登場する、主人公たちと敵対するトリオの総称。本シリーズの人気の根源を支える名キャラクターたちである。ヤットデタマンでは人形として、平成版ヤッターマンではソフビとして、またドロンジョのみが『ミクロアクションシリーズ』の流れを汲むアクションフィギュアにて商品化されている。
小悪魔的な性格の「お色気系」女性キャラクターをリーダーとし、彼女に忠誠を誓う小ずるい知能に長けつつ肝心なところでウッカリミスする「頭脳派」男性キャラと、頭よりも手が先に出る「怪力タイプ」男性キャラ、以上の3名で構成される。
ナンセンスなギャグと同じストーリー展開を繰り返し継続しているため、ワンパターン(マンネリ)と言われかねないが、これがいわゆる “お約束” と化し、大人から子供までの人気を博した。また下記に記すような、当時のアニメーション作品としては斬新な演出も多く、それがさらなる人気を呼び込んだ。
監督を務めた笹川ひろしによると、当初は「シリアス作なのかギャグ作なのか、どう捉えればいいか理解不能」という反応が多かったという。女性キャラクターの衣装が弾け飛ぶお色気シーンも人気があった(『きらめきマン』以降では時代の変遷による規制の強化もあり、この要素はかなりトーンダウンしており、リメイク版『ヤッターマン』では、これを逆手に取った演出もされている)。
その一方でヤッターマン以降、若い女性層に人気を博し、徐々に女性スタッフや美形キャラやドラマ性などが追加されていく。
『逆転イッパツマン』ではシリーズのテコ入れの一環としてサラリーマンの悲哀を描くペーソス感と、タツノコプロ作品のもう一つの芸風でもあるシリアスで渋いハードタッチのストーリーが渾然一体となって展開、異色のシリーズ作となっている。
本シリーズでは作品ごとに、主人公も含めたキャラクターやその担当声優を変えることがほとんどであるが、いくつかの作品でレギュラーの声を担当した登場した声優が数名いる。例としては多くの作品でナレーターとして出演した富山敬、敵のボスなどで、印象的なキャラクターを多く演じた滝口順平など。これら個性的な声優陣によって作品の雰囲気に統一感が与えられた。その他、ゲストキャラクターにも数々の大物声優を惜しみなく起用している。
唯一の例外として、「三悪」を演じた小原乃梨子、八奈見乗児、たてかべ和也の3名は、第1作『タイムボカン』以降派生作品なども含め、リメイク版『ヤッターマン』まで長らく継続して出演していた。同作品の終了後はこの3名の高齢化や逝去などに伴い、『夜ノヤッターマン』にて三悪を演じた喜多村英梨、平田広明、三宅健太の3名がこれを引き継いでいる。
一部作品を除き、『きらめきマン』までのシリーズ作品については、主題歌、挿入歌の作詞・作曲・歌を山本正之が担当。リメイク版『ヤッターマン』では別の歌手によるリミックス→実写版・アニメ劇場版で山本自身によるセルフカバーが用いられた。
山本作曲の主題歌は、所謂サビの繰り返しをしないことが特徴で、OP・EDに関しては山本の作詞に拠らない『イタダキマン』OP以外のすべてに共通する(挿入歌については例外あり)。低年齢層向けの『タイムボカン』から『オタスケマン』までは子供のコーラスが入ったり、擬音が歌詞の中に頻繁に出てきて、山本節の特徴とされたが、若干対象年齢が上げられた『ヤットデタマン』以降はこの傾向は(カバー曲であるヤッターマンを除き)見られなくなった。
山本はアニメ制作スタッフとも親密な関係を築き、『ゼンダマン』以降『イッパツマン』までの作品でレギュラーキャラを、『きらめきマン』でもゲストキャラとして、役を演じるに至っている。
『タイムボカン』では中村光毅がメカデザインを手がけ、『ヤッターマン』の途中から大河原邦男が基本的にメインメカのデザインを担当した。大河原がデザインしたメカたちは、シリーズ初期から中期においてはコミカルなメインメカとマスコット的なサブメカが中心で、キャラクターの延長上に位置するものであった。また、『逆転イッパツマン』では1作に2機の巨大ロボット(前期の主役ロボ逆転王、後期の主役ロボ三冠王)が登場。シリアス気味なストーリー展開とも相まって、他のロボット作品を彷彿とさせる活躍を見せた。
シリーズ最新作『タイムボカン24』では大河原は敵側メカデザインのみを担当。メインメカデザインについては原案をレベルファイブ、アニメ用デザインを川原智弘がそれぞれ担当している。
各ストーリーの題材として、「想像上の動物・モンスター」「歴史上の人物」「その他の歴史上の逸話や世界・日本各地の珍しい習慣」「昔話・伝説」「童話・児童文学」など、児童でも周知のものが多く扱われる。本シリーズはギャグアニメというジャンルを考慮し、「想像上の動物・モンスター」については、恐ろしいものとはされず、むしろ愛らしい姿で善良な性格とされることが多い。また、「昔話・伝説」「童話・児童文学」についても元の話とは異なり、本来死を迎える筈の題材作における主人公にも悲しい結末ではなく、ハッピーエンドが与えられる傾向が多かった。
その中でも特に印象が残るとされることが多い題材が「昔話・伝説」である。また本来の登場人物に代わって、主人公が悪人退治をするなどのストーリーの改変もあった。これ以外の文学・文芸作品・演劇など、子供らにとってはやや難しい話も多く扱った。聖書も『エデンの園』『ノアの箱舟』など、布教にはならないエピソードは扱われた例がある。
未来を取り上げた作品も数話ある。『タイムボカン』では人類の文明が崩壊した後の暗い未来が取り上げられたが、『ゼンダマン』と『タイムパトロール隊オタスケマン』では人類が宇宙を自由に航行する、比較的明るい未来が設定されている。『イタダキマン』ではそれまでの作品と異なり、元となった題材から大きくアレンジされた物語になっている。また、『怪盗きらめきマン』では物語を基にしていないものが多い。各話でのメカ戦は岩山などの多い場所で行われることが多く、中には実際の物語の舞台には存在しない地形も多い。
以下の各作品とも、フジテレビ系列で放送された。
平成に入ってからは、作品によって制作・放送局が異なる場合が多い。
ゼンダマンとオタスケマンはオリジナル作品が上映された。
タイトル後の西暦は発売(放送)年。
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"text": "タイムボカンシリーズは、タツノコプロ制作による日本のSFギャグアクションアニメシリーズの総称。",
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"text": "本シリーズは同一の作品ではなく、基本コンセプトやフォーマットを共有した複数の作品が、登場人物や設定を変えつつ継続しているものである。各シリーズ作品に共通して、「正義の味方である主人公たちと、悪役3人組」が、「動物を模したタイムマシンなどのスーパーテクノロジーを有するメカ」で「古今東西に(タイム)トラベル」し、「その時代・地域の歴史的偉人などを巻き込んで不思議な力を持つ宝の争奪戦を繰り広げる」という要素が盛り込まれている。詳細はシリーズの特色の節なども参照。昭和から平成にかけての40年余りの間、度々の中断期間を挟みながらテレビシリーズが10作以上制作され、またOVAやラジオ番組、実写映画などといった派生展開も行われている。",
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"text": "海外映画に影響を受けた、ミニカーを売るためのカーレース物のアニメという発想に端を発し、またそれまでのタツノコプロの芸風の一つであったハードなアクション物から趣を変えたコメディ作品として、「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」というテレビアニメの企画が1972年頃に立ち上げられた。その後メインスポンサーとしてタカトクトイスが入るなどの紆余曲折を経て、フジテレビ系ネット各局にて1975年10月に放送が開始されたのが、シリーズ第1作『タイムボカン』である。当初2クールの放送期間を予定していた同作品であるが、その好評ぶりから最終的に5クールにまで延長され、同作品の終了後もシリーズとして定着、1970年代後半から1980年代初頭にかけて高い人気を獲得した。シリーズ作品では『タイムボカン』が最高26.3%、『ヤッターマン』が最高26.5%という高視聴率を記録している。なお、タツノコプロの資料では別数値もある。",
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"text": "テレビシリーズはおよそ8年にわたって続いたが、転機となったのはシリーズ第7作『イタダキマン』で、同作品では放送時間の変更や原点回帰に向けた取り組みがなされたものの、制作局側との軋轢からシリーズ構成の小山高生と音楽担当の山本正之が外され、視聴率も振るわぬままわずか半年で番組は終了。続編として『タイムボカンエクスプレス』、『タイムボカンウォーズ サッパリマン』が計画されていたが、これらも同作品の早期終了で日の目を見ることないまま、テレビシリーズは長期間にわたり中断を余儀なくされた。",
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"text": "1990年代に入ると、本シリーズを題材としたOVAや各種テレビゲーム、それに派生作品が度々制作され、ラジオ番組『平成タイムボカン』でもテレビシリーズの復活に向けた署名が行われるなど、草の根レベルでの人気は持続し続けた。こうした動きを経て、放送局をテレビ東京に移す形で平成最初のテレビシリーズとなる『タイムボカン2000 怪盗きらめきマン』が2000年に放送されたが、放送枠における作劇上の制約などもあり、往時の人気を復活するまでには至らなかった。",
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"text": "同作品の終了後も、2005年にシリーズ誕生30周年を迎えたことを受け記念作品の制作が計画されていたが、同年6月にタツノコプロがタカラ(現:タカラトミー)の子会社になった際の社内的混乱もあり、企画は凍結された。その後同社のタツノコ作品のコンテンツ事業展開の一つとして再度テレビシリーズの企画が進められ、2008年に昭和期のテレビシリーズのリメイク版として『ヤッターマン』が、よみうりテレビ(ytv)・日本テレビ系で放送された。同作品の放送期間中である2009年3月には、日活(配給・松竹)による『ヤッターマン』の実写映画も公開された。『ヤッターマン』のリメイクは2015年にも行われ、元祖ヤッターマンと世界観を共有しつつもドロンボーの子孫を主人公に、ヤッターマンを敵側に据えたスピンオフ作品『夜ノヤッターマン』がTOKYO MX他で放送された。",
"title": "概要"
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"text": "2016年には、タツノコプロ創立55周年記念を兼ねたシリーズ最新作『タイムボカン24』が、リメイク版『ヤッターマン』と同様にytvをキー局として放送され、2017年には続編にあたる『タイムボカン 逆襲の三悪人』も制作された。両作品とも『タイムボカン』のリメイク作品として位置づけられているが、ストーリーや世界観、登場キャラクター等はほぼ一新されている。",
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"text": "平成に入ってからはCS放送などでも繰り返し再放送が行われており、2017年6月から2018年6月までの1年間には、キッズステーションにてタツノコプロアニメ放送55周年を記念した企画『タツノコ55YEAR 昭和のタイムボカンシリーズ全作見せます!』がスタート。それまでHDリマスター版を放送していた『ヤッターマン』を含む昭和期のテレビシリーズ全7作が、月曜~木曜の深夜に再放送された。",
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"text": "昭和期のテレビシリーズのメインスポンサーはタカトクトイスで、各種メカのおもちゃをはじめとした関連商品も同社より多数発売されていた。同社は第1作のタイムボカンから制作に関与し、『イタダキマン』終了後の翌1984年に倒産。文字通り命運を共にする格好となった。",
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"text": "平成以降は、『きらめきマン』ではバンプレストがスポンサーについたものの、タカトクトイスに代わるおもちゃ等の関連商品を発売するスポンサーは確保できなかった。リメイク版『ヤッターマン』と『タイムボカン24』ではタツノコプロの親会社となったタカラトミーがメインスポンサーとなり、同社からおもちゃ等の関連商品が発売された。",
"title": "概要"
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"text": "雑誌掲載は小学館の学習雑誌や『てれびくん』がメイン。その後は掲載誌が変更され、『イタダキマン』の頃は秋田書店発行『TVアニメマガジン』、『きらめきマン』の頃は講談社発行『テレビマガジン』がメイン掲載誌となっていた。リメイク版『ヤッターマン』では『てれびくん』と『テレビマガジン』の両誌で掲載。『タイムボカン24』では『てれびくん』『テレビマガジン』のほかに『月刊コロコロコミック』『コロコロイチバン!』でも掲載された。『テレビマガジン』はアニメ情報を中心に掲載し、『てれびくん』『コロコロコミック』は関連玩具の情報のみ掲載。『コロコロイチバン!』は玩具情報のほか、コミカライズを連載。",
"title": "概要"
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"text": "本シリーズの劇場上映は数本あるが、その大半はテレビシリーズのブローアップであり、完全な劇場用新作は東映まんがまつり用に制作された『ゼンダマン』(1980年)と『オタスケマン』(1981年)の2本のみ。前者は13分、後者は15分の短編である。長編としては、リメイク版『ヤッターマン』(2009年)が初めてである。",
"title": "概要"
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"text": "東映・東宝の両社と繋がりの深いフジテレビと、東宝と繋がりのあったタツノコプロの制作であることから、テレビシリーズのブローアップ版は東宝の配給で、新作2本は東映の配給だった。当時まだ日本ではシネマコンプレックスは本格的な展開がなされておらず、ほとんどの封切館が大手映画会社の直系による経営かまたはそれと強い提携関係にあった中で、非常に珍しいケースだった。実写版『ヤッターマン』の配給は松竹であり、事実上3つの映画会社の配給を渡り歩いたことになる。",
"title": "概要"
},
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"text": "「三悪(さんあく)」(または「悪玉トリオ」など)は『タイムボカンシリーズ』全作に登場する、主人公たちと敵対するトリオの総称。本シリーズの人気の根源を支える名キャラクターたちである。ヤットデタマンでは人形として、平成版ヤッターマンではソフビとして、またドロンジョのみが『ミクロアクションシリーズ』の流れを汲むアクションフィギュアにて商品化されている。",
"title": "三悪"
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"text": "小悪魔的な性格の「お色気系」女性キャラクターをリーダーとし、彼女に忠誠を誓う小ずるい知能に長けつつ肝心なところでウッカリミスする「頭脳派」男性キャラと、頭よりも手が先に出る「怪力タイプ」男性キャラ、以上の3名で構成される。",
"title": "三悪"
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"text": "ナンセンスなギャグと同じストーリー展開を繰り返し継続しているため、ワンパターン(マンネリ)と言われかねないが、これがいわゆる “お約束” と化し、大人から子供までの人気を博した。また下記に記すような、当時のアニメーション作品としては斬新な演出も多く、それがさらなる人気を呼び込んだ。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "監督を務めた笹川ひろしによると、当初は「シリアス作なのかギャグ作なのか、どう捉えればいいか理解不能」という反応が多かったという。女性キャラクターの衣装が弾け飛ぶお色気シーンも人気があった(『きらめきマン』以降では時代の変遷による規制の強化もあり、この要素はかなりトーンダウンしており、リメイク版『ヤッターマン』では、これを逆手に取った演出もされている)。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "その一方でヤッターマン以降、若い女性層に人気を博し、徐々に女性スタッフや美形キャラやドラマ性などが追加されていく。",
"title": "シリーズの特色"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "『逆転イッパツマン』ではシリーズのテコ入れの一環としてサラリーマンの悲哀を描くペーソス感と、タツノコプロ作品のもう一つの芸風でもあるシリアスで渋いハードタッチのストーリーが渾然一体となって展開、異色のシリーズ作となっている。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "本シリーズでは作品ごとに、主人公も含めたキャラクターやその担当声優を変えることがほとんどであるが、いくつかの作品でレギュラーの声を担当した登場した声優が数名いる。例としては多くの作品でナレーターとして出演した富山敬、敵のボスなどで、印象的なキャラクターを多く演じた滝口順平など。これら個性的な声優陣によって作品の雰囲気に統一感が与えられた。その他、ゲストキャラクターにも数々の大物声優を惜しみなく起用している。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "唯一の例外として、「三悪」を演じた小原乃梨子、八奈見乗児、たてかべ和也の3名は、第1作『タイムボカン』以降派生作品なども含め、リメイク版『ヤッターマン』まで長らく継続して出演していた。同作品の終了後はこの3名の高齢化や逝去などに伴い、『夜ノヤッターマン』にて三悪を演じた喜多村英梨、平田広明、三宅健太の3名がこれを引き継いでいる。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "一部作品を除き、『きらめきマン』までのシリーズ作品については、主題歌、挿入歌の作詞・作曲・歌を山本正之が担当。リメイク版『ヤッターマン』では別の歌手によるリミックス→実写版・アニメ劇場版で山本自身によるセルフカバーが用いられた。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "山本作曲の主題歌は、所謂サビの繰り返しをしないことが特徴で、OP・EDに関しては山本の作詞に拠らない『イタダキマン』OP以外のすべてに共通する(挿入歌については例外あり)。低年齢層向けの『タイムボカン』から『オタスケマン』までは子供のコーラスが入ったり、擬音が歌詞の中に頻繁に出てきて、山本節の特徴とされたが、若干対象年齢が上げられた『ヤットデタマン』以降はこの傾向は(カバー曲であるヤッターマンを除き)見られなくなった。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "山本はアニメ制作スタッフとも親密な関係を築き、『ゼンダマン』以降『イッパツマン』までの作品でレギュラーキャラを、『きらめきマン』でもゲストキャラとして、役を演じるに至っている。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "『タイムボカン』では中村光毅がメカデザインを手がけ、『ヤッターマン』の途中から大河原邦男が基本的にメインメカのデザインを担当した。大河原がデザインしたメカたちは、シリーズ初期から中期においてはコミカルなメインメカとマスコット的なサブメカが中心で、キャラクターの延長上に位置するものであった。また、『逆転イッパツマン』では1作に2機の巨大ロボット(前期の主役ロボ逆転王、後期の主役ロボ三冠王)が登場。シリアス気味なストーリー展開とも相まって、他のロボット作品を彷彿とさせる活躍を見せた。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "シリーズ最新作『タイムボカン24』では大河原は敵側メカデザインのみを担当。メインメカデザインについては原案をレベルファイブ、アニメ用デザインを川原智弘がそれぞれ担当している。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "各ストーリーの題材として、「想像上の動物・モンスター」「歴史上の人物」「その他の歴史上の逸話や世界・日本各地の珍しい習慣」「昔話・伝説」「童話・児童文学」など、児童でも周知のものが多く扱われる。本シリーズはギャグアニメというジャンルを考慮し、「想像上の動物・モンスター」については、恐ろしいものとはされず、むしろ愛らしい姿で善良な性格とされることが多い。また、「昔話・伝説」「童話・児童文学」についても元の話とは異なり、本来死を迎える筈の題材作における主人公にも悲しい結末ではなく、ハッピーエンドが与えられる傾向が多かった。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "その中でも特に印象が残るとされることが多い題材が「昔話・伝説」である。また本来の登場人物に代わって、主人公が悪人退治をするなどのストーリーの改変もあった。これ以外の文学・文芸作品・演劇など、子供らにとってはやや難しい話も多く扱った。聖書も『エデンの園』『ノアの箱舟』など、布教にはならないエピソードは扱われた例がある。",
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"text": "未来を取り上げた作品も数話ある。『タイムボカン』では人類の文明が崩壊した後の暗い未来が取り上げられたが、『ゼンダマン』と『タイムパトロール隊オタスケマン』では人類が宇宙を自由に航行する、比較的明るい未来が設定されている。『イタダキマン』ではそれまでの作品と異なり、元となった題材から大きくアレンジされた物語になっている。また、『怪盗きらめきマン』では物語を基にしていないものが多い。各話でのメカ戦は岩山などの多い場所で行われることが多く、中には実際の物語の舞台には存在しない地形も多い。",
"title": "シリーズの特色"
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"text": "以下の各作品とも、フジテレビ系列で放送された。",
"title": "シリーズ一覧"
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"text": "平成に入ってからは、作品によって制作・放送局が異なる場合が多い。",
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"text": "ゼンダマンとオタスケマンはオリジナル作品が上映された。",
"title": "シリーズ一覧"
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"text": "タイトル後の西暦は発売(放送)年。",
"title": "派生作品"
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タイムボカンシリーズは、タツノコプロ制作による日本のSFギャグアクションアニメシリーズの総称。
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* {{Pathnav|[[タツノコプロ|竜の子プロダクション(タツノコプロ)]]}}
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{{出典の明記|date=2023年3月}}
'''タイムボカンシリーズ'''は、[[タツノコプロ]]制作による日本のSFギャグアクション[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]シリーズの総称。
== 概要 ==
本シリーズは同一の作品ではなく、基本コンセプトやフォーマットを共有した複数の作品が、登場人物や設定を変えつつ継続しているものである。各シリーズ作品に共通して、「[[正義の味方]]である主人公たちと、悪役3人組」が、「動物を模した[[タイムマシン]]などのスーパーテクノロジーを有するメカ」で「古今東西に(タイム)トラベル」し、「その時代・地域の歴史的偉人などを巻き込んで不思議な力を持つ宝の争奪戦を繰り広げる」という要素が盛り込まれている。詳細は[[タイムボカンシリーズ#シリーズの特色|シリーズの特色]]の節なども参照。昭和から平成にかけての40年余りの間、度々の中断期間を挟みながらテレビシリーズが10作以上制作され、またOVAやラジオ番組、実写映画などといった派生展開も行われている。
=== 昭和期 ===
海外映画に影響を受けた、ミニカーを売るためのカーレース物のアニメという発想に端を発し、またそれまでのタツノコプロの芸風の一つであったハードなアクション物から趣を変えたコメディ作品として、「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」というテレビアニメの企画が1972年頃に立ち上げられた。その後メインスポンサーとして[[タカトクトイス]]が入るなどの紆余曲折を経て、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ネット各局にて[[1975年]]10月に放送が開始されたのが、シリーズ第1作『[[タイムボカン]]』である。当初2クールの放送期間を予定していた同作品であるが、その好評ぶりから最終的に5クールにまで延長され、同作品の終了後もシリーズとして定着、[[1970年代]]後半から[[1980年代]]初頭にかけて高い人気を獲得した。シリーズ作品では『タイムボカン』が最高26.3%、『[[ヤッターマン]]』が最高26.5%という高視聴率を記録している<ref>[[ビデオリサーチ]]調べ、関東地区。</ref>。なお、タツノコプロの資料では別数値もある<ref>[https://web.archive.org/web/20090225120721/http://tatsunoko.co.jp/tatsunocomm/legacy/200702.html タツノコ世界遺産 タイムボカンシリーズと視聴率編]</ref>。
テレビシリーズはおよそ8年にわたって続いたが、転機となったのはシリーズ第7作『[[イタダキマン]]』で、同作品では放送時間の変更や原点回帰に向けた取り組みがなされたものの、制作局側との軋轢からシリーズ構成の[[小山高生]]と音楽担当の[[山本正之]]が外され、視聴率も振るわぬままわずか半年で番組は終了。続編として『タイムボカンエクスプレス』<ref>『タイムボカン全集』(ソフトバンククリエイティブ、1997年、ISBN 4797303662)に掲載</ref>、『タイムボカンウォーズ サッパリマン』<ref>[http://www.tatsunoko.co.jp/tatsunocomm/legacy/200502.html タツノコ世界遺産「タイムボカンウォーズ サッパリマン」編]</ref>が計画されていたが、これらも同作品の早期終了で日の目を見ることないまま、テレビシリーズは長期間にわたり中断を余儀なくされた。
=== 平成以降 ===
[[1990年代]]に入ると、本シリーズを題材とした[[OVA]]や各種[[テレビゲーム]]、それに派生作品が度々制作され、ラジオ番組『平成タイムボカン』でもテレビシリーズの復活に向けた署名が行われるなど、草の根レベルでの人気は持続し続けた。こうした動きを経て、[[放送局]]を[[テレビ東京]]に移す形で平成最初のテレビシリーズとなる『[[タイムボカン2000 怪盗きらめきマン]]』が[[2000年]]に放送されたが、放送枠における作劇上の制約などもあり、往時の人気を復活するまでには至らなかった。
同作品の終了後も、[[2005年]]にシリーズ誕生30周年を迎えたことを受け記念作品の制作が計画されていたが、同年6月にタツノコプロが[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](現:[[タカラトミー]])の[[子会社]]になった際の社内的混乱もあり、企画は凍結された。その後同社のタツノコ作品のコンテンツ事業展開の一つとして再度テレビシリーズの企画が進められ、2008年に昭和期のテレビシリーズのリメイク版として『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]』が、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]](ytv)・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送された。同作品の放送期間中である[[2009年]]3月には、[[日活]](配給・[[松竹]])による『[[ヤッターマン (映画)|ヤッターマン]]』の実写映画も公開された。『ヤッターマン』のリメイクは[[2015年]]にも行われ、元祖ヤッターマンと世界観を共有しつつもドロンボーの子孫を主人公に、ヤッターマンを敵側に据えたスピンオフ作品『[[夜ノヤッターマン]]』がTOKYO MX他で放送された。
[[2016年]]には、タツノコプロ創立55周年記念を兼ねたシリーズ最新作『[[タイムボカン24]]』が、リメイク版『ヤッターマン』と同様にytvをキー局として放送され、2017年には続編にあたる『タイムボカン 逆襲の三悪人』も制作された。両作品とも『タイムボカン』のリメイク作品として位置づけられているが、ストーリーや世界観、登場キャラクター等はほぼ一新されている。
平成に入ってからは[[衛星放送|CS放送]]などでも繰り返し[[再放送]]が行われており、[[2017年]]6月から2018年6月までの1年間には、[[キッズステーション]]にてタツノコプロアニメ放送55周年を記念した企画『'''タツノコ55YEAR 昭和のタイムボカンシリーズ全作見せます!'''』がスタート。それまでHDリマスター版を放送していた『ヤッターマン』を含む昭和期のテレビシリーズ全7作が、月曜~木曜の深夜に再放送された。
=== スポンサー ===
昭和期のテレビシリーズのメインスポンサーは[[タカトクトイス]]で、各種メカのおもちゃをはじめとした関連商品も同社より多数発売されていた。同社は第1作の[[タイムボカン]]から制作に関与し、『イタダキマン』終了後の翌[[1984年]]に[[倒産]]。文字通り命運を共にする格好となった。
平成以降は、『きらめきマン』では[[バンプレスト]]がスポンサーについたものの、タカトクトイスに代わるおもちゃ等の関連商品を発売するスポンサーは確保できなかった。リメイク版『ヤッターマン』と『タイムボカン24』ではタツノコプロの親会社となったタカラトミーがメインスポンサーとなり、同社からおもちゃ等の関連商品が発売された。
=== 雑誌掲載 ===
雑誌掲載は[[小学館]]の学習雑誌や『[[てれびくん]]』がメイン。その後は掲載誌が変更され、『イタダキマン』の頃は[[秋田書店]]発行『[[TVアニメマガジン]]』、『きらめきマン』の頃は[[講談社]]発行『[[テレビマガジン]]』がメイン掲載誌となっていた。リメイク版『ヤッターマン』では『てれびくん』と『テレビマガジン』の両誌で掲載。『タイムボカン24』では『てれびくん』『テレビマガジン』のほかに『[[月刊コロコロコミック]]』『[[コロコロイチバン!]]』でも掲載された。『テレビマガジン』はアニメ情報を中心に掲載し、『てれびくん』『コロコロコミック』は関連玩具の情報のみ掲載。『コロコロイチバン!』は玩具情報のほか、コミカライズを連載。
=== 劇場版 ===
本シリーズの劇場上映は数本あるが、その大半はテレビシリーズの[[ブローアップ]]であり、完全な劇場用新作は[[東映まんがまつり]]用に制作された『[[ゼンダマン ピラミッドの謎の箱だよ!ゼンダマン|ゼンダマン]]』([[1980年]])と『[[タイムパトロール隊オタスケマン アターシャの結婚披露宴!?|オタスケマン]]』([[1981年]])の2本のみ。前者は13分、後者は15分の短編である。長編としては、リメイク版『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]』([[2009年]])が初めてである。
[[東映]]・[[東宝]]の両社と繋がりの深いフジテレビと、[[東宝]]と繋がりのあったタツノコプロの制作であることから、テレビシリーズのブローアップ版は東宝の配給で、新作2本は東映の配給だった。当時まだ日本では[[シネマコンプレックス]]は本格的な展開がなされておらず、ほとんどの[[封切館]]が大手映画会社の[[子会社|直系]]による経営かまたはそれと強い提携関係にあった中で、非常に珍しいケースだった。実写版『ヤッターマン』の配給は[[松竹]]であり、事実上3つの映画会社の配給を渡り歩いたことになる。
== 三悪 ==
「三悪(さんあく)」(または「悪玉トリオ」など)は『タイムボカンシリーズ』全作に登場する、主人公たちと敵対するトリオの総称。本シリーズの人気の根源を支える名キャラクターたちである。[[ヤットデタマン]]では人形として、平成版ヤッターマンではソフビとして、またドロンジョのみが『ミクロアクションシリーズ』の流れを汲むアクションフィギュアにて商品化されている。
小悪魔的な性格の「お色気系」女性キャラクターをリーダーとし、彼女に忠誠を誓う小ずるい知能に長けつつ肝心なところでウッカリミスする「頭脳派」男性キャラと、頭よりも手が先に出る「怪力タイプ」男性キャラ、以上の3名で構成される。
{{main2|歴代の「三悪」たちの名称、詳細|三悪 (タイムボカンシリーズ)}}
== シリーズの特色 ==
=== 演出 ===
ナンセンスな[[ギャグ]]と同じストーリー展開を繰り返し継続しているため、ワンパターン([[マンネリ]])と言われかねないが、これがいわゆる “お約束” と化し、大人から子供までの人気を博した。また下記に記すような、当時のアニメーション作品としては斬新な演出も多く、それがさらなる人気を呼び込んだ。
* 基本的に[[勧善懲悪]][[ヒーロー]]ものであるが、むしろ悪役の出番の方が多く、悪役の方がキャラが立っている
* 比較的ハードな[[機械|メカ]]が多数登場する[[サイエンス・フィクション|SF]]ストーリーでありながら全体としてはギャグアニメ。
* スタッフ・出演者の内輪ネタを堂々と劇中に取り入れる。
* 劇中で[[視聴者]]との積極的なコミュニケーションを図る。
** 一例としては視聴者に挿入歌を唄ってもらう、視聴者から寄せられた応援の[[はがき|ハガキ]]を作中で読み上げる、視聴者の顔写真を挿入したりする(再放送やビデオ化においても目線などの修正は一切施されない)など
監督を務めた[[笹川ひろし]]によると、当初は「シリアス作なのかギャグ作なのか、どう捉えればいいか理解不能」という反応が多かったという。女性キャラクターの衣装が弾け飛ぶ[[色気|お色気]]シーンも人気があった(『きらめきマン』以降では時代の変遷による規制の強化もあり、この要素はかなりトーンダウンしており、リメイク版『ヤッターマン』では、これを逆手に取った演出もされている)。
その一方でヤッターマン以降、若い女性層に人気を博し、徐々に女性スタッフや美形キャラやドラマ性などが追加されていく。
『[[逆転イッパツマン]]』では[[シリーズ (作品)|シリーズ]]のテコ入れの一環として[[サラリーマン]]の悲哀を描くペーソス感と、[[タツノコプロ]]作品のもう一つの芸風でもあるシリアスで渋いハードタッチのストーリーが渾然一体となって展開、異色のシリーズ作となっている。
=== 声優陣 ===
本シリーズでは作品ごとに、主人公も含めたキャラクターやその担当声優を変えることがほとんどであるが、いくつかの作品でレギュラーの声を担当した登場した[[声優]]が数名いる。例としては多くの作品で[[ナレーター]]として出演した[[富山敬]]<ref group="注">『[[逆転イッパツマン]]』では富山が主役を演じるため、当時まだ若手だった[[鈴置洋孝]]がナレーターに抜擢された。また、[[ラジオドラマ]](CDドラマ)版、『きらめきマン』、リメイク版『ヤッターマン』、『タイムボカン24』はすでに富山が他界しているため、ラジオドラマ(CDドラマ)版は[[堀内賢雄]]、『きらめきマン』では[[滝口順平]]、リメイク版並びに実写版『ヤッターマン』では[[山寺宏一]]、『タイムボカン24』では[[千葉繁]]がそれぞれ担当している。</ref>、敵のボスなどで、印象的なキャラクターを多く演じた[[滝口順平]]など。これら個性的な声優陣によって作品の雰囲気に統一感が与えられた。その他、ゲストキャラクターにも数々の大物声優を惜しみなく起用している。
唯一の例外として、「三悪」を演じた[[小原乃梨子]]、[[八奈見乗児]]、[[たてかべ和也]]の3名は、第1作『タイムボカン』以降派生作品なども含め、リメイク版『ヤッターマン』まで長らく継続して出演していた。同作品の終了後はこの3名の高齢化や逝去などに伴い、『夜ノヤッターマン』にて三悪を演じた[[喜多村英梨]]、[[平田広明]]、[[三宅健太]]の3名がこれを引き継いでいる。
=== 主題歌 ===
一部作品を除き、『きらめきマン』までのシリーズ作品については、主題歌、挿入歌の[[作詞]]・[[作曲]]・歌を[[山本正之]]が担当。リメイク版『ヤッターマン』では別の歌手によるリミックス→実写版・アニメ劇場版で山本自身によるセルフカバーが用いられた<ref group="注">リメイク版『ヤッターマン』の最終回では山本のオリジナル版が使用された。</ref>。
山本作曲の主題歌は、所謂サビの繰り返しをしないことが特徴で、OP・EDに関しては山本の作詞に拠らない『イタダキマン』OP以外のすべてに共通する(挿入歌については例外あり)。低年齢層向けの『タイムボカン』から『オタスケマン』までは子供の[[合唱|コーラス]]が入ったり、[[擬音]]が歌詞の中に頻繁に出てきて、山本節の特徴とされたが、若干対象年齢が上げられた『ヤットデタマン』以降はこの傾向は(カバー曲であるヤッターマンを除き)見られなくなった。
山本はアニメ制作スタッフとも親密な関係を築き、『ゼンダマン』以降『イッパツマン』までの作品でレギュラーキャラを、『きらめきマン』でもゲストキャラとして、役を演じるに至っている。
=== キャラクターデザイン ===
* [[天野喜孝|天野嘉孝]](タイムボカン〜イタダキマン)
* [[上北ふたご]](怪盗きらめきマン・ヤッターマン第2作)
* [[後藤圭祐]](夜ノヤッターマン)
* [[吉松孝博]](タイムボカン24)※ キャラ原案はゲームメーカー・[[レベルファイブ]]による。
=== メカデザイン ===
『タイムボカン』では中村光毅がメカデザインを手がけ、『[[ヤッターマン]]』の途中から[[大河原邦男]]が基本的にメインメカのデザインを担当した。大河原がデザインしたメカたちは、シリーズ初期から中期においてはコミカルなメインメカとマスコット的なサブメカが中心で、キャラクターの延長上に位置するものであった。また、『[[逆転イッパツマン]]』では1作に2機の巨大ロボット(前期の主役ロボ'''逆転王'''、後期の主役ロボ'''三冠王''')が登場。シリアス気味なストーリー展開とも相まって、他のロボット作品を彷彿とさせる活躍を見せた。
シリーズ最新作『タイムボカン24』では大河原は敵側メカデザインのみを担当。メインメカデザインについては原案をレベルファイブ、アニメ用デザインを川原智弘がそれぞれ担当している。
=== トラベル(タイムトラベル)で行く先の世界 ===
各[[ストーリー]]の題材として、「想像上の[[動物]]・[[怪物|モンスター]]」「[[歴史]]上の人物」「その他の歴史上の逸話や世界・日本各地の珍しい[[習慣]]」「[[昔話]]・[[伝説]]」「[[童話]]・[[児童文学]]」など、児童でも周知のものが多く扱われる。本シリーズはギャグアニメという[[ジャンル]]を考慮し、「想像上の動物・モンスター」については、恐ろしいものとはされず、むしろ愛らしい姿で善良な性格とされることが多い。また、「昔話・伝説」「童話・児童文学」についても元の話とは異なり、本来死を迎える筈の題材作における主人公にも悲しい結末ではなく、ハッピーエンドが与えられる傾向が多かった。
その中でも特に印象が残るとされることが多い題材が「昔話・伝説」である。また本来の登場人物に代わって、主人公が悪人退治をするなどのストーリーの改変もあった。これ以外の[[文学]]・文芸作品・[[演劇]]など、子供らにとってはやや難しい話も多く扱った。[[聖書]]も『[[エデンの園]]』『[[ノアの方舟|ノアの箱舟]]』など、[[宣教|布教]]にはならないエピソードは扱われた例がある。
未来を取り上げた作品も数話ある。『[[タイムボカン]]』では人類の文明が崩壊した後の暗い未来が取り上げられたが、『[[ゼンダマン]]』と『[[タイムパトロール隊オタスケマン]]』では人類が宇宙を自由に航行する、比較的明るい未来が設定されている。『[[イタダキマン]]』ではそれまでの作品と異なり、元となった題材から大きくアレンジされた物語になっている。また、『[[怪盗きらめきマン]]』では物語を基にしていないものが多い。各話でのメカ戦は岩山などの多い場所で行われることが多く、中には実際の物語の舞台には存在しない地形も多い。
== シリーズ一覧 ==
=== テレビシリーズ ===
; 昭和期
以下の各作品とも、フジテレビ系列で放送された。
* '''[[タイムボカン]]'''(1975年10月4日 - 1976年12月25日、全61話)
* '''[[ヤッターマン|タイムボカンシリーズ ヤッターマン]]'''(第1作)(1977年1月1日 - 1979年1月27日、全108話)
* '''[[ゼンダマン|タイムボカンシリーズ ゼンダマン]]'''(1979年2月3日 - 1980年1月26日、全52話)
* '''[[タイムパトロール隊オタスケマン|タイムボカンシリーズ タイムパトロール隊オタスケマン]]'''(1980年2月2日 - 1981年1月31日、全53話)
* '''[[ヤットデタマン|タイムボカンシリーズ ヤットデタマン]]'''(1981年2月7日 - 1982年2月6日、全52話)
* '''[[逆転イッパツマン|タイムボカンシリーズ 逆転イッパツマン]]'''(1982年2月13日 - 1983年3月26日、全58話)
** 以上の各作品は毎週土曜18:30 - 19:00(以下、特記のない限り[[日本標準時|JST]])に放送。
* '''[[イタダキマン|タイムボカンシリーズ イタダキマン]]'''(1983年4月9日 - 9月24日、全20話<ref group="注">このうち、第19話のみ本放送では未放送。</ref>)
** 同作品は毎週土曜19:30 - 20:00に放送。
; 平成以降
平成に入ってからは、作品によって制作・放送局が異なる場合が多い。
* '''[[タイムボカン2000 怪盗きらめきマン]]'''(2000年4月5日 - 9月27日、全26話、テレビ東京系列)
* '''[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]'''(2008年1月14日 - 2009年9月27日、全60話、ytv / 日テレ系列)
** 昭和期に放送された同名作品のリメイク版。シリーズ初で唯一の[[ISDB|地上デジタル放送]]にしてハイビジョン制作であり、同時にシリーズ最後の[[NTSC|地上アナログ放送]]となった。
* '''[[夜ノヤッターマン]]'''(2015年1月11日 - 3月29日、全12話、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]、読売テレビ他)
** 昭和期に放送された同名作品のスピンオフ版。TOKYO MXでは日曜の[[プライムタイム]]、読売テレビなどでは[[深夜番組|深夜]]帯に放送された。
* '''[[グッド・モーニング!!!ドロンジョ]]'''(2015年3月30日 - 2016年3月25日、全243話、日本テレビ系列)
** 同局の朝の情報番組『[[ZIP!]]』内の「あさアニメ」として、平日朝に1分間放送された。
* '''[[タイムボカン24]]'''(2016年10月1日 - 2017年3月18日、全24話、ytv / 日テレ系列)
* '''タイムボカン 逆襲の三悪人'''(2017年10月7日 - 2018年3月24日、全24話、ytv / 日テレ系列)
** 両作品とも昭和期に放送された同名作品のリメイク版。企画協力やキャラクター・メカ原案にはテレビゲームメーカーの[[レベルファイブ]]が協力している。
=== 劇場作品 ===
; 昭和期
ゼンダマンとオタスケマンはオリジナル作品が上映された。
* [[東映まんがまつり]]内『[[ゼンダマン ピラミッドの謎の箱だよ!ゼンダマン|タイムボカンシリーズ ゼンダマン ピラミッドの謎の箱だよ! ゼンダマン]]』(1980年3月15日公開)
** シリーズ初の完全新作映画。
* 東映まんがまつり内『[[タイムパトロール隊オタスケマン アターシャの結婚披露宴!?|タイムボカンシリーズ タイムパトロール隊オタスケマン アターシャの結婚披露宴!?]]』(1981年3月14日公開)
; 平成以降
* [[ヤッターマン (映画)|ヤッターマン]](2009年3月7日公開)
* [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)#劇場版|劇場版 ヤッターマン 新ヤッターメカ大集合! オモチャの国で大決戦だコロン!]](2009年8月22日公開)
** 劇場作品としては初の長編。
=== OVA作品 ===
* [[タイムボカン王道復古]]
** タイムボカン王道復古『チキチキ・ウゴウゴ・ホゲホゲマシーン猛レース』(1993年11月)
** タイムボカン王道復古『ヤッターマン タツノッコン王国で同窓会だコロン』(1994年1月)
*** タツノコプロ創立30周年記念作品として制作された。前編では昭和期の三悪がメカを用いてレースを繰り広げる内容になっており、後編では『ヤッターマン』の基本フォーマットをなぞらえつつ、タツノコ作品のキャラクターが生活する『タツノッコン王国』を舞台に復活したヤッターマンとドロンボー一味が対決する内容となっている。特に後編ではタツノコキャラが多数登場するほか、『[[科学忍者隊ガッチャマン|ガッチャマン]]』『[[新造人間キャシャーン|キャシャーン]]』『[[宇宙の騎士テッカマン|テッカマン]]』『[[破裏拳ポリマー|ポリマー]]』のタツノコヒーローがドロンボー一味をそれぞれのヒーローが戦ってきた敵組織と思い込みながら戦うという形で登場する。
=== テレビ特番 ===
* 世紀末伝説ワンダフルタツノコランド 円盤星人UBO(1999年12月31日放映)
** [[TBSテレビ|TBS]]の[[年末長時間特別番組]]『[[超える!テレビ]]』の中の1コーナー。タツノコキャラが総登場する年末特番として制作され、特にハクション大魔王やドロンボー一味がメインキャラとして位置付けられている。
=== スピンオフドラマ ===
* [[DORONJO / ドロンジョ]](2022年10月7日 - 12月16日)
{{前後番組|
放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列|
放送枠=[[フジテレビ土曜夕方6時台枠のアニメ|土曜18:30 - 19:00]]|
番組名=タイムボカンシリーズ<br />(タイムボカン〜イッパツマン)|
前番組=18:30 [[FNNニュース6:30]]<br />18:50 [[産経テレニュースFNN|サンケイテレニュース]]<br />※ローカルニュース枠<br />18:55 [[冒険ロックバット]]<br />※以上 月〜土|
次番組=[[未来警察ウラシマン]]<br />※[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18:00 - 18:30]]より移動|
2放送局=フジテレビ系列|
2放送枠=[[フジテレビ系列土曜夜7時台枠のアニメ|土曜19:30 - 20:00]]|
2番組名=タイムボカンシリーズ<br />(イタダキマン)|
2前番組=[[パタリロ!|ぼくパタリロ!]]<br />※金曜19:00 - 19:30へ移動|
2次番組=[[みんな出て恋恋来い!]]|
3放送局=[[テレビ東京]]系列|
3放送枠=[[テレビ東京平日夕方6時枠のアニメ|水曜18:00 - 18:30]]|
3前番組=[[無限のリヴァイアス]]|
3番組名=タイムボカンシリーズ<br />(きらめきマン)|
3次番組=[[GEAR戦士電童]]|
4放送局=[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系|
4放送枠=[[読売テレビ制作月曜夜7時枠のアニメ|月曜19:00 - 19:30]]|
4前番組=[[結界師 (アニメ)|結界師]]<br />※深夜枠へ移動<br />↓<br />秋のミステリースペシャル<br />(19:00 - 20:00)|
4番組名=ヤッターマン|
4次番組=[[アニメ☆7]] [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]<br />※30分繰上げ|
5放送局=読売テレビ・日本テレビ系|
5放送枠=[[読売テレビ制作月曜夜7時30分枠のアニメ|月曜19:30 - 20:00]]|
5番組名=ヤッターマン<br />※本番組のみ「[[アニメ☆7]]」第2枠|
5前番組=名探偵コナン<br />※30分繰上げ|
5次番組=[[SUPER SURPRISE|サプライズ]]<br />(平日帯19:00 - 19:58)<br />※月曜はNTV制作<hr />[[世界まる見え!テレビ特捜部]]<br />(19:58 - 20:54)<br />※2分拡大、NTV制作|
6放送局=読売テレビ・日本テレビ系|
6放送枠=[[読売テレビ制作日曜朝7時枠のアニメ|日曜7:00 - 7:30]]|
6前番組=[[所さんの目がテン!]]<br />※一部系列局は遅れネット・自社制作番組|
6番組名=ヤッターマン|
6次番組=[[夢色パティシエール]]|
7放送局=読売テレビ・日本テレビ系系列(※[[テレビ大分]]を除く)|
7放送枠=[[読売テレビ制作土曜夕方5時30分枠のアニメ|土曜17:30 - 18:00]]|
7前番組=[[逆転裁判 〜その「真実」、異議あり!〜]]|
7番組名=タイムボカン24|
7次番組=[[僕のヒーローアカデミア (アニメ)|僕のヒーローアカデミア]](第2期)|
8放送局=読売テレビ制作・日本テレビ系列(※テレビ大分を除く)|
8放送枠=土曜17:30 - 18:00|
8番組名=タイムボカン 逆襲の三悪人|
8前番組=僕のヒーローアカデミア(第2期)|
8次番組=僕のヒーローアカデミア(第3期)|
|}}
== 代表的なメカ ==
=== 善玉側 ===
; 『タイムボカン』
: タイムメカブトン(タイムボカンⅠ)、 タイムドタバッタン(タイムボカンⅡ)、タイムクワガッタン(タイムボカンⅢ)
:: テントウキ、ヤゴマリン、シャクトリン、ヘリボタル、ビーチクリン、ダンゴロリン
; 『ヤッターマン』
: ヤッターワン、ヤッターキング、ヤッターゾウ
:: ヤッターペリカン、ヤッターアンコウ、ヤッターブル、ヤッタードジラ、ヤッターパンダ&コパンダ、ヤッターヨコヅナ
; 『ゼンダマン』
: ゼンダライオン
:: ゼンダモグラ、ゼンダビーバー、ゼンダシロクマ、ゼンダゴリラ、ゼンダワン、ゼンダコトラ
; 『オタスケマン』
: オタスケサンデー号
:: オタスケタヌキ、オタスケサイ、オタスケアシカ、オタスケウータン、オタスケキンタ、オタスケガエル
; 『ヤットデタマン』
: 大巨神(巨神号)+ 大天馬 → 大馬神(大馬神戦車)
:: タイムカーゴ、タイムハヤウマ
; 『逆転イッパツマン』
: (前期)トッキュウザウルス + 弾丸ヘッド号 → 逆転王 & リリーフドン
: (後期)トッキュウマンモス + 弾丸ブースター号 → 三冠王 & リリーフカー
; 『イタダキマン』
: カブトゼミ(カブトムシ型 → セミ型)、ペリギン(ペリカン型 → ペンギン型)、ワンガルー(犬型 → カンガルー型)
; 『怪盗きらめきマン』
: おでかけキャット → トッタルニャン
: おでかけフクブクロ → トッタルフグロー or トッタルぶくろう
; 『ヤッターマン(リメイク版)』
: ヤッターワン、ヤッターキング、ヤッタージンベエ
:: ヤッターペリカン、ヤッターアンコウ、ヤッターモグラ、ヤッタードラゴン、ヤッターコング&ココング、ヤッターゼロ
; 『夜ノヤッターマン』
: ヤッターワン、ヤッターコウノトリ、ヤッターパグ、ヤッターオヤカタ、ヤッター兵
; 『タイムボカン24(逆襲の三悪人)』
: B01メカブトン、B02クワガッタン、B03ゴーカブトン、B24ドタバッタン
:: B04カットンボ、B05ハチブルーン、B06カマキリッパー、B07セミトブン、B08モスキートン、B09ホタルジャイロ、B10カナブーン、B11アメンボート、
::B12スズムピーカー、B13アリボマー、B14ヤドカリン、B15モンシロン、B16クモモーター、B17サソモビル、B18オケドリラー、B19カタツムリン、
::B20カミキリン、B21ダンゴロン、B22イモムシータンク、B23テントウキ
=== 悪玉側 ===
; 『タイムボカン』
: タイムガイコッツ
; 『ヤッターマン』
: おしおき三輪車(この作品のみ、毎回登場する敵役メカに搭載するコアメカが登場しなかったため。ただし、第55話と第57話にはそれらしき物があった。)第1話に登場したダイドコロンは、その後も王道復古、リメイク版の最初期のオープニングアニメーションや限定版第2弾、実写映画版、タツノコVSカプコンと様々な作品に登場し、半ばドロンボー一味の代表的なメカとなっている。
: 後年の派生作品では専用メカがないことを逆手に取り、ドロンボー一味(及びそれに相当するキャラ)はさまざまなメカに乗ることが多い。
:* ラジオドラマ版:前半・スーパーマシン4704(通称:世直し号)、後半・超タイムガイコッツ2に搭乗。
:* テレビゲーム版『ボカンと一発ドロンボー』『ボカンですよ』 ドロンボー一味3人の顔を模した3機のオリジナルバギーメカ(ボカンですよ、ではドクロベエ型のメカを含め4機)、『ボカン伝説〜豚もおだてりゃドロンボー〜』『ボカンGOGOGO』ではドロンボータンクと呼ばれるメカに搭乗。
; 『ゼンダマン』
: シャレコウベメカ
; 『オタスケマン』
: アンドロメダマ号(『ボカンGOGOGO』では脚部に車輪がついたアンドロメダマ号αを使用)、名称不明の移動用のコアメカ(シャレコウベメカとは色違いで、これに様々な装備をつけたのが顔メカなどである。「ドクロメカ」「ドクロン号」と表記している文献がある)
; 『ヤットデタマン』
: タイムラクーダ、タイムナガモチ、タイムローバ(ドン・ファンファン専用)
; 『逆転イッパツマン』
: シャレコーベバギー(前期)、シャレコーベダチョウ(後期)
; 『イタダキマン』
: デンデンメカ(OVA版では竜子メカと呼称)
; 『怪盗きらめきマン』
: ワンダーブル、コレッキリン(第16話のみ)
; 『ヤッターマン(リメイク版)』
: おしおき三輪車(第1作と同じ)、ネエトン(ドクボン専用)
; 『夜ノヤッターマン』
: おしおき三輪車(第1作及びリメイク版と同じ)
; 『タイムボカン24(逆襲の三悪人)』
: ドクロクラフター
== 善玉側の名乗り口上 ==
; 『タイムボカン』『タイムボカン24(逆襲の三悪人)』
: 名乗り口上はなし。
; 『ヤッターマン』『ヤッターマン(リメイク版)』
: 「ヤッターマンがいる限りこの世に悪は栄えない!」<ref group="注">この口上の際、アイちゃんが語尾に「栄えない'''わよ'''!」と[[女性語|女性口調]]で言った回もあった。</ref>
; 『ゼンダマン』
: 「この世に悪のはこびる限りゼンダマンは現われる!善意の塊・ゼンダマン、只今参上!」<ref group="注">一定しておらず複数のパターンがある。</ref>
; 『オタスケマン』
: 「歴史を守って過去未来、正しい歴史の守り神!世界の助っ人・オタスケマン、天に変わって只今参上!」
; 『ヤットデタマン』
: 「驚き桃の木山椒の木、一気に時を渡りきり、ついに出た出たやっと出た!地球のアイドル・ヤットデタマン!」
; 『逆転イッパツマン』
: 「待ちに待ってた出番が来たぜ!ここはおまかせ、逆転イッパツマン!」
; 『イタダキマン』
: 「天から降ったか地から湧いたか、三千世界を乱す奴、天に代わって打ち砕く!頂き上手に命を賭ける、イタダキマン参上!ここであったがこんにちは!」
; 『怪盗きらめきマン』
: 1号(リップ)「花の都で大評判、不景気風もなんのその」
: 2号(パフ)「心ときめき、頭ひらめき、力めきめき」
: 1号「怪盗きらめきマン1号」
: 2号「同じく2号」
: 1号・2号「予告状通り、只今参上!」
: 1号「よろしくニャン」
: 2号「同じく、巷で評判の2号もついでによろしく」<ref group="注">回が進むと「巷で評判の -」の部分は変わることもあった。</ref>
; 『夜ノヤッターマン』
: ドロンジョ「清く正しく美しく。ドロンボーがいる限り、この世にヤッターマンは栄えない。闇を払い、新たなる夜明けを!」<ref group="注">これは旧作や2008年度版におけるヤッターマン登場時の口上とほぼ同じである。</ref>
== 派生作品 ==
タイトル後の西暦は発売(放送)年。
=== 漫画化作品 ===
* [[小学館]]『[[てれびくん]]』
** ヤッターマン(初期:[[久松文雄]]、後期:[[竹村よしひこ]])
** ゼンダマン(初期:[[宮のぶなお]]、後期:竹村よしひこ)
** タイムパトロール隊オタスケマン(竹村よしひこ)
* 小学館『[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]』
** ヤットデタマン(すのうちさとる)
* 小学館『[[月刊コロコロコミック]]』
** ヤッターマン外伝 ボケボケボヤッキー([[萬屋不死身之助]])
* 小学館『[[コロコロイチバン]]』
** ただいま参上!! ヤッターマン([[難波孝]])
* [[講談社]]『[[テレまんがヒーローズ]]』
** ヤッターマン([[あおきけい&みかまる]])
* [[双葉社]]『[[100てんコミック]]』
** オタスケヤッターゼンダマン(おりはるこん)
* [[秋田書店]]『[[TVアニメマガジン]]』
** イタダキマン([[のなかみのる]])
* [[徳間書店]]『[[テレビランド]]コミックス』
** ヤッターマンけっさく選(さわだなおみ) - 単行本のみ。
=== ラジオ番組 ===
; [[平成タイムボカン]]
: 1996年4月 - 10月 [[エフエムナックファイブ|NACK5]]、1996年10月 - 1997年3月 [[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]
: 小原乃梨子・山本正之がパーソナリティーを務める。八奈見乗児・たてかべ和也がイレギュラーゲストで登場した。番組内では同名のラジオドラマが放送され、三悪がなぜか世直しに奔走する「世直しドロンボー」、元の路線に戻った「カエッテキタマン」が放送された。ナレーターは[[堀内賢雄]]が担当、テーマソング、番組のエンディングテーマはテレビシリーズ同様、山本正之が手がけている。
=== ゲーム作品 ===
* タイムボカン(1995年/アーケードゲーム/[[バンプレスト]]) - 主に海外のみ、国内は発売中止とのことだが少数が国内でも流通している。
* [[NEWヤッターマン 難題かんだいヤジロベエ]](1996年/[[スーパーファミコン|SFC]]/[[ポピー (玩具メーカー)|ユタカ]])
* [[ボカンと一発!ドロンボー]](1996年/[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]/[[バンプレスト]])
* [[ボカンと一発!ドロンボー 完璧版]](1997年/[[セガサターン|SS]]/バンプレスト)
* [[ボカンですよ]](1998年/PS/バンプレスト)
* [[ボカン伝説 ブタもおだてりゃドロンボー]](2000年/[[ワンダースワン|WS]]/バンプレスト)
* [[ボカンGoGoGo]](2001年発売/PS/バンプレスト)
* [[ヤッターマンDS ビックリドッキリ大作戦だコロン]](2008年4月発売/[[ニンテンドーDS|DS]]/[[タカラトミー]])
* [[ヤッターマンDS2 ビックリドッキリアニマル大冒険]](2008年10月発売/DS/タカラトミー)
* [[ヤッターマンWii ビックリドッキリマシンで猛レースだコロン]](2008年12月発売/[[Wii]]/タカラトミー)
* [[タツノコ VS. CAPCOM|タツノコ VS. CAPCOM CROSS GENERATION OF HEROES]](2008年12月稼働アーケードゲーム&2008年12月発売/Wii/[[カプコン]]) - ヤッターマン1号(&ヤッターワン、ヤッターペリカン)(第1作)、ドロンジョ(&ボヤッキー、トンズラー)、イッパツマン(&逆転王)が参戦。
* [[タツノコ VS. CAPCOM|TATSUNOKO VS. CAPCOM ULTIMATE ALL-STARS]](2010年1月発売/Wii/カプコン) - 前作のキャラに加えてタイムボカンシリーズからは ヤッターマン2号(第1作)が参戦。
* タイムボカン24 ボカンメカバトル!(2017年 アプリ)
=== Webコンテンツ ===
; タツノコベイビー
: タツノコキャラをベイビー化したベイビー星人がタレント活動をするという形で、ヤッタマ(ヤッターマン)、ドロンコキッズ(ドロンボー一味)というキャラクターたちが登場。
; [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)#ヤッターマン×トウシバ|ヤッターマン×トウシバ]]
: [[東芝]]とのコラボレーションによるヤッターマンFLASHアニメ
; [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)#アラシ★タツノコ|アラシ★タツノコ animation film of Believe]]
: [[ドワンゴ]]で配信された[[嵐 (グループ)|嵐]]とのコラボレーションによる[[着うたフル]]アニメーションPV。タイムボカン〜ヤットデタマンまでの主人公に扮した嵐のメンバーが登場。
=== パチンコ・パチスロ ===
; パチンコ
:* [[CRヤッターマン]](2001年・2009年、[[平和 (パチンコ)|平和]])
:* [[CRヤッターマン|CRドロンジョにおまかせ]](2005年、平和)
:* CRAポチッと一発! おだてブタ(2008年、[[オリンピア (パチスロ)|オリンピア]]/平和)
:* CRタイムボカン(2011年、[[平和 (パチンコ)|アムテックス]])
; パチスロ
:* [[ヤッターマン只今参上#ドロンジョにおまかせ|ドロンジョにおまかせ]](2003年、平和)
:** スロッターUPコア3 愉打! ドロンジョにおまかせ(2004年/[[ドラス]]、上記パチスロの[[PlayStation 2|PS2]]用シミュレーションゲーム)
:* [[ヤッターマン只今参上]](2007年、平和)
: 2009年に平和から「すぐに当たるよ! タイムボカン」が発売される予定だったが、機種名の「すぐに当たるよ」が問題視され発売中止になった。
=== コラボ作品 ===
* 『[[Peeping Life]] -手塚プロ・タツノコプロワンダーランド- 』 - 『Peeping Life』と[[手塚プロ]]&[[タツノコプロ]]とのコラボレーションアニメを放送。
=== その他 ===
* 『小説タイムボカン - ヤッターマン・オタスケマン・逆転イッパツマン』(1989年12月) - [[山本優]]著, [[エニックス文庫]], ISBN 9784900527232
* 『タイムボカン名曲大全』(1991年3月) - シリーズの主題歌、挿入歌の全集(CD2枚組)。小原、八奈見、たてかべ、富山が出演するミニドラマつき。都会の雑踏で3人が再会するという内容。解説書にはアニメ監督・[[庵野秀明]]も寄稿している(庵野は本シリーズを初めとしたタツノコアニメファンとして知られる)。
* 『タイムボカン MEGA-MIX』 - シリーズ中に登場する楽曲(主に主題歌)をメドレーにしたシングルCD。
* [[携帯電話]]用ゲームアプリ
** [[ロールプレイングゲーム|RPG]]ヤッターマン(2006年・[[コトブキソリューション|ケムコ]]、([[iアプリ|i]]、[[EZアプリ (BREW)|EZ]]、[[S!アプリ|S!]]に配信)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
*[[とんでも戦士ムテキング]]
*[[一発必中!! デバンダー]]
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ジャパンブリーディングファームズカップ
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ジャパンブリーディングファームズカップ(Japan Breeding Farms' Cup)は、日本のJBC実行委員会が中心となって開催する競馬の持ち回り開催による統一グレード競走デーである。略称はJBC。ただし、JBC実行委員会では告知・宣伝など一貫して「JBC」を用いており、「ジャパンブリーディングファームズカップ」の名称が使われることはない。この名称は「JBC」の略号を使い続けるための名目的なものである(事情は後述)。
1984年から開催されているアメリカのブリーダーズカップを参考に生産者が企画・運営するダート競馬の祭典として、2001年に創設。複数の統一JpnI競走が原則として同一日(2006年の第6回のみ2日間)に施行される。
当初はジャパンブリーダーズカップ(略称JBC)という名称で開催する予定だった(競走名はジャパンブリーダーズカップ・クラシックとジャパンブリーダーズカップ・スプリント)が、アメリカのブリーダーズカップ協会からクレームが来たため、ジャパンブリーダーズカップは使うことができなくなった。その結果、JBCの名称およびロゴは変更せずJBCの意味するものをジャパンブリーディングファームズカップとした。それぞれの競走はJBCクラシックとJBCスプリントが正式名称となった。以後、従来は略称であったJBCを告知・宣伝などで用いている。なお、地方競馬情報サイト英語版においては、JBCの説明として、Japan Breeding Farms' Cupの表記がなされている。
基本的にはアメリカのブリーダーズカップと同じく全国の競馬場を毎年持ち回り開催とする方針で、2001年の第1回は大井競馬場で開催された。原則的に中央競馬(JRA)の競馬場に属さない地方競馬の競馬場で開催されるが、2018年は中央競馬の京都競馬場で開催された。
2005年の第5回(名古屋競馬場)、2006年の第6回(川崎競馬場)はフサイチの冠名の競走馬を多数保有してきた関口房朗が代表を務める株式会社FDOが協賛した。第5回は「フサイチネットJBC」として開催されている。
賞金は当年の主催者、日本中央競馬会(JRA)、一般社団法人ジャパンブリーダーズカップ協会(JBC協会)の3者が拠出している。また「生産牧場賞」と「種牡馬登録者賞」があり、JBC協会から賞金の5パーセントに相当する額が該当者に支給される。2010年の第10回は優勝馬の騎手にチャンピオンリングが贈呈された。
開催競馬場は、前年(2014年の開催なら2013年)に開かれるJBC実行委員会で決定する。
創設当初はJBCスプリントとJBCクラシックの2つのJpnI競走が施行されていた。2011年(第11回)よりダート牝馬路線の重賞競走としてJBCレディスクラシック(3歳以上牝馬限定、施行距離は基本ダート1800m、1着賞金4000万円以上)が新設された。ダートグレード競走としての格付けは新設から2012年まで付与されず、2013年よりJpnIに新規格付けされ、日本の競馬では初めて同日に3つのJpnI競走が施行される。また2020年より北海道2歳優駿を発展させJBC2歳優駿(JpnIII)を新設、JBC競走として2歳馬の競走を実施することとなった。2020年からのJBC2歳優駿はJpnIの3競走とは別に門別競馬場で行われ、同日に2場で開催される(後述)。
基本的に、JBCスプリントはダート1200m、JBCクラシックはダート2000m、JBCレディスクラシックはダート1800mで施行されるが、持ち回り開催が故に競馬場の形態により基本コースが合わず、基本距離から前後して開催する場合もある(詳しくは下記の表を参照)。2006年の第6回ではJBCスプリントにおいて、距離が1600mとなることから名称をJBCマイルとした。
インターネット投票の楽天競馬、SPAT4、オッズパークのほか、日本中央競馬会の即PAT、IPATに加え、全国の主たる地方競馬場を含む地方競馬の馬券発売施設における窓口投票も実施されている。
(2020年度)
北米では1970年代から1980年代にかけてサラブレッド市場が拡大期に入り、生後数ヶ月の幼駒や数回出走しただけの2歳馬が高値で取引されたり、将来の繁殖馬候補としてシンジケートが組まれるなど、生産者だけのマネーゲームの様相を呈していた。その一方で、各競馬場は入場者数や発売額が伸び悩み、大衆の支持を失いつつあった。このことは生産者にも危機感として現れることとなった。競馬は直接・間接的に関与している大衆の支持(興行収入=賭けとしての参加)によって支えられているものであり、その大衆から見放されてしまえば、どんなに高価な馬であっても、その必要がなくなってしまうからである。「沈滞した競馬を救うために生産者も何かをしなければならない」という発想が、生産者自ら発案し主導するレースである「ブリーダーズカップ」創設の原点となった。
ブリーダーズカップ創設時の北米と全く同様には至っていなかったものの、日本の生産者もまた危機感を抱えていた。日本では競走馬の供給先として中央競馬のほかに地方競馬があるが、一時期には多くの地方競馬が経営不振に陥り、存廃が議論されるようになった。また、賞金の減額によって馬の価格が低下したり、売れ残りが発生する現状は既に生産者にも打撃を与えており、生産者として抱いている競馬の現状に対する危機感や、自ら立ち上がるべきという決意は、北米とも共通するものがある。
生産者の発案・主導によるレースを創設し、競馬を幅広い層にアピールし大衆の娯楽、スポーツとしての支持を集めるという思想に基き、とくに地方競馬の窮状を打開することによって日本競馬全体の発展を図る意味合いから、主に地方競馬で行われているダート競走において「チャンピオンデー」を設けることとして計画が進められ、ダートの選手権距離である2000mで行う「JBCクラシック」、優秀馬の生産に不可欠な要素であるスピード能力を問うため1200mで行う「JBCスプリント」の2競走が、2001年に創設された。
競馬は、その主役である「馬」という存在により、単にスポーツと賭け事というくくりを超え、様々に幅広い関わりを受け入れてきました。馬と人間のパートナーシップという長い歴史背景と、馬という生き物自体が備える人間の心を捉えて離さない魅力は、競馬に特別の趣きを与え、例えばそれは、競馬が美術や文学のモチーフでさえある理由のひとつとなっているかもしれません。
同時に、馬が主役であることは、競馬がその背後に生産という産業的な広がりを持っていることを意味します。この生産との密接な結びつき、これが競馬をより多面的なものとしている大きな要因でしょう。
競馬において、競走と生産は理想の競走馬の追求という目的を共有することでその関係を成立させています。競走にとっての生産はそうした馬の供給源であり、生産にとっての競走は、その追求の成果を確認する場であるとともに、さらなる理想へ向けての生産資源を選定する場となっています。そして、この共通の価値観に基づく選定、例えば「チャンピオンの決定」と表現されるでしょうか、これが両者にとって最大の支持者たる大衆に訴えかけ、その共感を得ることができる最大の魅力となっているのです。
競走と生産、そして大衆の支持の良好な関係、これが競馬の発展を生んでいると言えるでしょう。
JBC当日は注目を集めるために、JBCの他にも重賞が組まれる(ただしJRAでの開催時を除く)。以下は主なアンダーカードとして行われた競走を挙げる。
JBCの前哨戦は大きくトライアル競走である「Road to JBC」とJBC指定競走の2本立てで構成され、出走馬は上記JBC3レースの出走権をかけて争う。
以下に示した競走の当該年度優勝馬には、所属を問わず表記の競走に対する優先出走権が与えられる。
2021年の対象競走は以下の通り。
※コースはすべてダート。
地方競馬各地区の有力馬を選定するための指標となる競走として指定されており、優勝馬への優先出走権はないものの、選定にあたってその成績が重要視される。
2023年の対象競走は以下の通り。
※コースはすべてダート。
2018年の第18回は開催地として、JRAの京都競馬場が選ばれた。JRAの競馬場での開催は創設以来初のことで、理由として「JBCの魅力をより広く、多くのファンに伝えるため、訴求力の高いJRAの競馬場で実施を要請するべき」としており、全国公営競馬主催者協議会がJBC実行委員会に提案、JBC実行委員会も「JBCの発展に寄与する提案」と判断しJRAに要請した結果、JRAも「ダートグレード競走の魅力を知っていただく契機になる」と要請を受諾し主催した。なお、2018年については、JRAでの開催となったため、「農林水産大臣賞典」ではなく、「農林水産省賞典」として行われていた。
なお、中央競馬においては2010年以降、新設重賞を除く全ての平地重賞競走が国際競走として国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)の承認を受けたグレード(G1~G3)を付与しており、IRPACの認定を受けていない独自グレードであるJpn1~Jpn3を付与した重賞競走が開催されなくなってから久しく、2018年のJBC3競走(Jpn1)の開催時は番組表など一部刊行物・公式ウェブサイトを除き競馬場・ウインズ等での掲示物・場内放送・映像においてグレードの表記をせず「Jpn1(ジーワン)」といった案内や呼称も行われなかった。
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"title": "開催の経緯"
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"text": "生産者の発案・主導によるレースを創設し、競馬を幅広い層にアピールし大衆の娯楽、スポーツとしての支持を集めるという思想に基き、とくに地方競馬の窮状を打開することによって日本競馬全体の発展を図る意味合いから、主に地方競馬で行われているダート競走において「チャンピオンデー」を設けることとして計画が進められ、ダートの選手権距離である2000mで行う「JBCクラシック」、優秀馬の生産に不可欠な要素であるスピード能力を問うため1200mで行う「JBCスプリント」の2競走が、2001年に創設された。",
"title": "開催の経緯"
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"title": "中央競馬での開催"
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ジャパンブリーディングファームズカップは、日本のJBC実行委員会が中心となって開催する競馬の持ち回り開催による統一グレード競走デーである。略称はJBC。ただし、JBC実行委員会では告知・宣伝など一貫して「JBC」を用いており、「ジャパンブリーディングファームズカップ」の名称が使われることはない。この名称は「JBC」の略号を使い続けるための名目的なものである(事情は後述)。
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{{出典の明記|date=2015年6月}}
{{右|
[[Image:Nagoya racetrack main gate.jpg|thumb|none|300px|JBCデーの装飾(2005年名古屋競馬場時)]]
}}
'''ジャパンブリーディングファームズカップ'''('''Japan Breeding Farms' Cup''')は、[[日本]]のJBC実行委員会が中心となって開催する競馬の持ち回り開催による[[ダートグレード競走|統一グレード競走デー]]である。略称は'''JBC'''。ただし、JBC実行委員会では告知・宣伝など一貫して「'''JBC'''」を用いており、「ジャパンブリーディングファームズカップ」の名称が使われることはない。この名称は「JBC」の略号を使い続けるための名目的なものである(事情は後述)。
== 概要 ==
[[1984年]]から開催されている[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]]を参考に生産者が企画・運営するダート競馬の祭典として、[[2001年]]に創設。複数の統一JpnI競走が原則として同一日([[2006年]]の第6回のみ2日間)に施行される。
当初はジャパンブリーダーズカップ(略称'''JBC''')という名称で開催する予定だった(競走名はジャパンブリーダーズカップ・クラシックとジャパンブリーダーズカップ・スプリント)が、アメリカのブリーダーズカップ協会からクレームが来たため、ジャパンブリーダーズカップは使うことができなくなった。その結果、JBCの名称およびロゴは変更せずJBCの意味するものを'''ジャパンブリーディングファームズカップ'''とした。それぞれの競走は[[JBCクラシック]]と[[JBCスプリント]]が正式名称となった。以後、従来は略称であったJBCを告知・宣伝などで用いている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keiba.go.jp/wnew/index20010610.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010712130305/www.keiba.go.jp/wnew/index20010610.html|archivedate=2001年7月12日|title=ジャパンブリーダーズカップの競走名を変更します|publisher=地方競馬全国協会|date=2001-6-10|accessdate=2020-04-12}}</ref>。なお、地方競馬情報サイト英語版においては、JBCの説明として、Japan Breeding Farms' Cupの表記がなされている<ref name="narEnglish_JBC">[https://www.goracing.jp/english/english2018.pdf Racing by Local Governments in Japan 2018 (PDF)](keiba.go.jp)</ref>。 <!-- https://web.archive.org/web/20010712130305/www.keiba.go.jp/wnew/index20010610.html -->
基本的にはアメリカのブリーダーズカップと同じく全国の競馬場を毎年持ち回り開催とする方針で、2001年の第1回は[[大井競馬場]]で開催された。原則的に[[中央競馬]]([[日本中央競馬会|JRA]])の競馬場に属さない[[地方競馬]]の競馬場で開催されるが、2018年は中央競馬の[[京都競馬場]]で開催された。
{{See also|#中央競馬での開催}}
[[2005年]]の第5回([[名古屋競馬場]])、2006年の第6回([[川崎競馬場]])はフサイチの[[冠名]]の競走馬を多数保有してきた[[関口房朗]]が代表を務める株式会社FDOが協賛した。第5回は「フサイチネットJBC」として開催されている<ref name="nar20051012">[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2005/1012.html 第5回JBCに『フサイチネット』の協賛が決定](keiba.go.jp、[[2005年]][[10月12日]])</ref>。
賞金は当年の主催者、日本中央競馬会(JRA)、一般社団法人[[ジャパンブリーダーズカップ協会]](JBC協会)の3者が拠出している<ref name="nar20051012" />。また「生産牧場賞」と「種牡馬登録者賞」があり、JBC協会から賞金の5パーセントに相当する額が該当者に支給される<ref>[https://www.keiba.go.jp/jbc2009/about/youryou.html JBC実施要綱(2009年)]</ref>。[[2010年]]の第10回は優勝馬の騎手に[[チャンピオンリング]]が贈呈された<ref>[http://www.f-keiba.com/news/detail.php?id=1023 『JBCチャンピオンリング』について](船橋ケイバ公式サイト [[2010年]][[10月5日]])</ref>。
開催競馬場は、前年(2014年の開催なら2013年)に開かれるJBC実行委員会で決定する<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2013/0212.html 第14回JBCは盛岡競馬場で開催(2013年2月12日)] - 地方競馬全国協会、2014年9月3日閲覧</ref><ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2012/0210.html 第13回JBCは金沢競馬場で開催(2012年2月10日)] - 地方競馬全国協会、2014年9月3日閲覧</ref><ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2010/0209.html 第11回JBC競走の開催競馬場が決定!(2010年2月9日)] - 地方競馬全国協会、2014年9月3日閲覧</ref>。
=== 施行競走 ===
創設当初は'''[[JBCスプリント]]'''と'''[[JBCクラシック]]'''の2つのJpnI競走が施行されていた。[[2011年]](第11回)よりダート牝馬路線の重賞競走として'''[[JBCレディスクラシック]]'''(3歳以上牝馬限定、施行距離は基本ダート1800m、1着賞金4000万円以上)が新設された<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2010/1207_3.html 「JBCレディスクラシック」を新設へ] - 地方競馬情報サイト 2010年[[12月7日]]</ref>。ダートグレード競走としての格付けは新設から[[2012年]]まで付与されず<ref group="注">[[日本グレード格付け管理委員会]]の取り決めで、同条件かそれに準じるオープン特別の重賞格上げを除き、原則2年間はグレード格付けをせず「(新設)重賞」と表記して施行するとしている。[[2011年]]([[大井競馬場|大井]])は[[南関東公営競馬]]のローカルグレード「S1」のみ格付け。[[2012年]]([[川崎競馬場|川崎]])は南関東グレードも格付けせず「重賞」と表記。</ref>、[[2013年]]よりJpnIに新規格付けされ、日本の競馬では初めて同日に3つのJpnI競走が施行される。また[[2020年]]より[[北海道2歳優駿]]を発展させ'''[[JBC2歳優駿]]'''({{JpnIII}})を新設、JBC競走として2歳馬の競走を実施することとなった。2020年からのJBC2歳優駿はJpnIの3競走とは別に門別競馬場で行われ、同日に2場で開催される(後述)<ref name="NRA-190318">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2019/03/18100000.html|title=“ダート競馬の祭典”JBC第20回記念開催概要決定 新たに2歳カテゴリーを創設|publisher=地方競馬全国協会|date=2019-03-18|accessdate=2019-03-18}}</ref><ref>{{Cite news2|title=【地方競馬】来年のJBCは金沢で3競走、門別でJBC2歳優駿を開催|date=2020-03-16|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=168633|agency=netkeiba.com|accessdate=2020-08-14}}</ref>。
基本的に、JBCスプリントはダート1200m、JBCクラシックはダート2000m、JBCレディスクラシックはダート1800mで施行されるが、持ち回り開催が故に競馬場の形態により基本コースが合わず、基本距離から前後して開催する場合もある(詳しくは下記の表を参照)<ref group="注">3競走のすべての距離が設定可能な地方競馬の競馬場は、2022年10月現在で門別・盛岡・船橋・大井の4競馬場のみとなっている。ただし、船橋競馬場のダート1200mについてはフルゲートが12頭となっているため、2010年に同場でJBCが開催された際、スプリントは最大で14頭が出走可能なダート1000mで実施されている。</ref>。[[2006年]]の第6回ではJBCスプリントにおいて、距離が1600mとなることから名称をJBCマイルとした。
===勝ち馬投票券の購入===
[[電話投票|インターネット投票]]の[[楽天競馬]]、[[SPAT4]]<ref group="注">楽天競馬とSPAT4は全地方競馬場対応</ref>、[[オッズパーク]]<ref group=注>南関東以外の全会場対応。南関東はJpnグレードのみ。</ref>のほか、[[日本中央競馬会]]の即PAT、IPAT<ref group="注">通常は、即PATは購入不可の日を除く毎日、IPATに関しては土・日・祝日・1月5・6日と12月28日のJRAの競馬レース開催日のみだがJBC開催当日は利用可能となっている。</ref>に加え、全国の主たる地方競馬場を含む地方競馬の馬券発売施設における窓口投票も実施されている。
==テレビ中継==
(2020年度)<ref>[https://www.keiba.go.jp/jbc2020/broadcast/ 中継情報]</ref>
*地上デジタル放送 [[東京メトロポリタンテレビジョン]]([[東京都]]ローカル)「[[東京シティ競馬中継]]」
*無料BS放送 [[ビーエスフジ|BSフジ]]
*有料BS放送 [[グリーンチャンネル]]「[[グリーンチャンネル地方競馬中継]]」
*有料CS放送 [[南関東地方競馬チャンネル]]・[[地方競馬ナイン]](いずれも当日に限り無料生放送)
*インターネット動画配信コンテンツサービス [[DAZN]]、地方競馬ライブ、南関東4競馬場公式サイト、[[楽天競馬]](投票会員のみ閲覧可能)、[[ニコニコ生放送]]「ニコニコ競馬チャンネル」
:※南関東地方競馬チャンネル、地方競馬ナイン、ネット動画コンテンツは同内容で配信
== 開催の経緯 ==
=== 米国ブリーダーズカップ創設の背景 ===
{{See also|ブリーダーズカップ}}
北米では1970年代から1980年代にかけてサラブレッド市場が拡大期に入り、生後数ヶ月の幼駒や数回出走しただけの2歳馬が高値で取引されたり、将来の繁殖馬候補としてシンジケートが組まれるなど、生産者だけのマネーゲームの様相を呈していた。その一方で、各競馬場は入場者数や発売額が伸び悩み、大衆の支持を失いつつあった。このことは生産者にも危機感として現れることとなった。競馬は直接・間接的に関与している大衆の支持(興行収入=賭けとしての参加)によって支えられているものであり、その大衆から見放されてしまえば、どんなに高価な馬であっても、その必要がなくなってしまうからである。「沈滞した競馬を救うために生産者も何かをしなければならない」という発想が、生産者自ら発案し主導するレースである「[[ブリーダーズカップ]]」創設の原点となった<ref name="JBC2014">[https://www.keiba.go.jp/jbc2014/about/index.html JBC特設サイト2014] - 地方競馬全国協会、2014年7月22日閲覧</ref>。
=== JBCの創設 ===
ブリーダーズカップ創設時の北米と全く同様には至っていなかったものの、日本の生産者もまた危機感を抱えていた。日本では競走馬の供給先として中央競馬のほかに地方競馬があるが、一時期には多くの地方競馬が経営不振に陥り、存廃が議論されるようになった。また、賞金の減額によって馬の価格が低下したり、売れ残りが発生する現状は既に生産者にも打撃を与えており、生産者として抱いている競馬の現状に対する危機感や、自ら立ち上がるべきという決意は、北米とも共通するものがある<ref name="JBC2014" />。
生産者の発案・主導によるレースを創設し、競馬を幅広い層にアピールし大衆の娯楽、スポーツとしての支持を集めるという思想に基き、とくに地方競馬の窮状を打開することによって日本競馬全体の発展を図る意味合いから、主に地方競馬で行われているダート競走において「チャンピオンデー」を設けることとして計画が進められ、ダートの選手権距離である2000mで行う「JBCクラシック」、優秀馬の生産に不可欠な要素であるスピード能力を問うため1200mで行う「JBCスプリント」の2競走が、2001年に創設された<ref name="JBC2014" />。
{{Quotation|
競馬は、その主役である「馬」という存在により、単にスポーツと賭け事というくくりを超え、様々に幅広い関わりを受け入れてきました。馬と人間のパートナーシップという長い歴史背景と、馬という生き物自体が備える人間の心を捉えて離さない魅力は、競馬に特別の趣きを与え、例えばそれは、競馬が美術や文学のモチーフでさえある理由のひとつとなっているかもしれません。
同時に、馬が主役であることは、競馬がその背後に生産という産業的な広がりを持っていることを意味します。この生産との密接な結びつき、これが競馬をより多面的なものとしている大きな要因でしょう。
競馬において、競走と生産は理想の競走馬の追求という目的を共有することでその関係を成立させています。競走にとっての生産はそうした馬の供給源であり、生産にとっての競走は、その追求の成果を確認する場であるとともに、さらなる理想へ向けての生産資源を選定する場となっています。そして、この共通の価値観に基づく選定、例えば「チャンピオンの決定」と表現されるでしょうか、これが両者にとって最大の支持者たる大衆に訴えかけ、その共感を得ることができる最大の魅力となっているのです。
競走と生産、そして大衆の支持の良好な関係、これが競馬の発展を生んでいると言えるでしょう。
|JBC特設サイト2014【JBCについて】<ref name="JBC2014" />}}
== 開催競馬場の変遷 ==
* 走路はすべてダートコース。
* 2003年の第3回JBCスプリントは大井競馬場のスタンド改修工事に伴い、ゴール板が10m手前に移動したため。
* 2006年の第6回は2日間開催とし11月2日にナイター(スパーキングナイター)で「JBCマイル」、3日は昼間開催で「JBCクラシック」を開催。
{| class="wikitable"
|-
!rowspan=2|回!!rowspan=2|施行日!!rowspan=2|共催団体!!rowspan=2|競馬場!!rowspan=2|開催形態!!colspan=4|施行距離
|- style="font-size:smaller"
!JBC<br>クラシック!!JBC<br>スプリント!!JBC<br>レディス<br>クラシック!!JBC<br>2歳優駿
|-
|style="text-align:center;"|1||[[2001年]][[10月31日]]||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[特別区競馬組合]]||[[大井競馬場|大井]]||[[ナイター競走|ナイター]]||2000m||1200m||rowspan="10"| ||rowspan="19"|
|-
|style="text-align:center;"|2||[[2002年]][[11月4日]]||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[岩手県競馬組合]]||[[盛岡競馬場|盛岡]]||昼間開催||2000m||1200m
|-
|style="text-align:center;"|3||[[2003年]][[11月3日]]||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井||[[薄暮競走|薄暮開催]]||2000m||1190m
|-
|style="text-align:center;"|4||[[2004年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井||ナイター||2000m||1200m
|-
|style="text-align:center;"|5||[[2005年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[愛知県競馬組合]]<br />冠協賛:フサイチネット||[[名古屋競馬場|名古屋]]||昼間開催||1900m||1400m
|-
|style="text-align:center;"|6||[[2006年]][[11月2日|11月2]]・3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[神奈川県川崎競馬組合]]<br />冠協賛:フサイチネット||[[川崎競馬場|川崎]]||ナイター<br />昼間開催||2100m||1600m<br />(JBCマイル)
|-
|style="text-align:center;"|7||[[2007年]]10月31日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井||ナイター||2000m||1200m
|-
|style="text-align:center;"|8||[[2008年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[兵庫県競馬組合]]||[[園田競馬場|園田]]||昼間開催||1870m||1400m
|-
|style="text-align:center;"|9||[[2009年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />愛知県競馬組合||名古屋||昼間開催||1900m||1400m
|-
|style="text-align:center;"|10||[[2010年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[千葉県競馬組合]]||[[船橋競馬場|船橋]]||昼間開催||1800m||1000m
|-
|style="text-align:center;"|11||[[2011年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井||ナイター||2000m||1200m||1800m
|-
|style="text-align:center;"|12||[[2012年]][[11月5日]]||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />神奈川県川崎競馬組合||川崎||ナイター||2100m||1400m||1600m
|-
|style="text-align:center;"|13||[[2013年]]11月4日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />石川県競馬事業局||[[金沢競馬場|金沢]]||昼間開催||2100m||1400m||1500m
|-
|style="text-align:center;"|14||[[2014年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />岩手県競馬組合||盛岡||昼間開催||2000m||1200m||1800m
|-
|style="text-align:center;"|15||[[2015年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2014/11/20/kiji/K20141120009314880.html 南関競馬の15年度開催日程発表 6・15から船橋で初ナイター実施] - スポニチアネックス、2014年11月27日閲覧</ref>||昼間開催||2000m||1200m||1800m
|-
|style="text-align:center;"|16||[[2016年]][[11月3日]]||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />神奈川県川崎競馬組合||川崎<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2015/0227.html 第16回(2016年)JBCは川崎競馬場で開催] 地方競馬全国協会 - 2015年3月2日閲覧</ref>||昼間開催||2100m||1400m||1600m
|-
|style="text-align:center;"|17||[[2017年]]11月3日<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2016/1017.html 2017年のJBC開催日が11月3日(金・祝)に決定!]地方競馬全国協会、2016年10月17日閲覧</ref>||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2016/0205.html “ダート競馬の祭典”第17回JBCは大井競馬場で開催] - 地方競馬全国協会、2016年3月7日閲覧</ref>||薄暮開催||2000m||1200m||1800m
|-
|style="text-align:center;"|18||[[2018年]]11月4日<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201710/101604.html 2018年度開催日割および重賞競走について]日本中央競馬会、2017年10月16日閲覧</ref>||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[日本中央競馬会]]||[[京都競馬場|京都]]||昼間開催||1900m||1200m||1800m
|-
|style="text-align:center;"|19||[[2019年]]11月4日<ref>[http://www.urawa-keiba.jp/news/nws2018031901.html 第19回(2019年)JBC競走は初の浦和競馬場開催!]浦和競馬、2018年3月19日、同日閲覧</ref>||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[埼玉県浦和競馬組合]]||[[浦和競馬場|浦和]]||昼間開催||2000m||1400m||1400m
|-
|style="text-align:center;" rowspan=2|20||rowspan=2|[[2020年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合 ||大井<ref name="NRA-190318" />||rowspan=2|薄暮開催||2000m||1200m||1800m||style="text-align:center;"|-
|-
|style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[ホッカイドウ競馬]]||[[門別競馬場|門別]]</small>||style="text-align:center;" colspan=3|-||1800m
|-
|style="text-align:center;" rowspan=2|21||rowspan=2|[[2021年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />石川県競馬事業局 ||金沢<ref>[https://www.keiba.go.jp/topics/2020/03/1613463512514.html “ダート競馬の祭典”JBC第21回開催概要決定]
地方競馬全国協会・2020年3月16日・同日閲覧</ref>||rowspan=2|昼間開催||2100m||1400m||1500m||style="text-align:center;"|-
|-
|style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />ホッカイドウ競馬||門別</small>|| style="text-align:center;" colspan=3 |-||1800m
|-
| rowspan="2" |22|| rowspan="2" |[[2022年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />岩手県競馬組合||盛岡<ref>{{Cite web|和書|title=お知らせ|地方競馬情報サイト|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2021/03/1709005817099.html|accessdate=2021-03-17|language=ja}}</ref>||rowspan=2|薄暮開催<ref>{{Cite web|和書|title=JBC競走(11/3)の発走予定時刻について|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2022/09/0114310625488.html|website=地方競馬全国協会|accessdate=2022-09-02 |language=ja}}</ref>||2000m||1200m||1800m||style="text-align:center;"|-
|-
|style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />ホッカイドウ競馬||門別||style="text-align:center;" colspan="3" | -||1800m
|-
| rowspan="2" |23|| rowspan="2" |[[2023年]]11月3日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />特別区競馬組合||大井<ref>{{Cite web|和書|title=お知らせ|地方競馬情報サイト|url= https://www.keiba.go.jp/topics/2022/03/1408204022846.html |accessdate=2022-03-14|language=ja}}</ref>||rowspan="2"|昼間開催||2000m||1200m||1800m||style="text-align:center;"|-
|-
|style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />ホッカイドウ競馬||門別||style="text-align:center;" colspan="3" | -||1800m
|-
| rowspan="2" |24|| rowspan="2" |[[2024年]]11月4日||style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />[[佐賀県競馬組合]]||[[佐賀競馬場|佐賀]]<ref>{{Cite web|和書|title=“ダート競馬の祭典”JBC第24回開催概要決定|地方競馬情報サイト|url= https://www.keiba.go.jp/topics/2023/03/2708454633225.html |accessdate=2023-03-27|language=ja}}</ref>||未定||2000m||1400m||1860m||style="text-align:center;"|-
|-
|style="font-size:smaller;"|JBC実行委員会<br />ホッカイドウ競馬||門別||未定||style="text-align:center;" colspan="3" | -||1800m
|}
=== アンダーカード ===
{{独自研究|section=1|date=2014年8月}}
{{要出典範囲|JBC当日は注目を集めるために、JBCの他にも重賞が組まれる|date=2014年8月}}(ただしJRAでの開催時を除く)。以下は主なアンダーカードとして行われた競走を挙げる。
* 距離欄に記載があるものを除き、走路はすべてダートコース。
* 出走資格はすべて[[サラブレッド|サラブレッド系]]。
{| class="wikitable"
!回!!競馬場!!競走名!!格!!距離!!出走資格
|-
|style="text-align:center;"|1||大井||武蔵野オープン||オープン特別||1600m||style="font-size:smaller;"|3歳以上
|-
|style="text-align:center;"|2||盛岡||第3回[[オパールカップ]]||重賞||芝1700m||style="font-size:smaller;"|3歳・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|3||大井||'03[[TCKディスタフ]]||準重賞||1800m||style="font-size:smaller;"|3歳以上牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|4||大井||第1回TCKディスタフ||重賞G3||1800m||style="font-size:smaller;"|3歳以上牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|5||名古屋||第44回[[ゴールドウィング賞]]||重賞SPI||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳
|-
|style="text-align:center;" rowspan="2"|6||rowspan="2"|川崎||第17回[[ロジータ記念]]||重賞G2||2100m||style="font-size:smaller;"|3歳牝馬
|-
|第6回[[ローレル賞 (競馬のレース)|ローレル賞]]||重賞G3||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳牝馬
|-
|style="text-align:center;"|7||大井||第4回TCKディスタフ||重賞SIII||1800m||style="font-size:smaller;"|3歳以上牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;" rowspan="2"|8||rowspan="2"|園田||第47回[[楠賞]]||重賞1||1700m||style="font-size:smaller;"|3歳
|-
|第5回[[兵庫クイーンカップ]]||重賞1||1700m||style="font-size:smaller;"|3歳以上牝馬・北陸・東海・近畿・中国地区交流
|-
|style="text-align:center;"|9||名古屋||第48回ゴールドウィング賞||重賞SPI||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳
|-
|style="text-align:center;"|10||船橋||第56回[[平和賞 (船橋競馬)|平和賞]]||重賞SIII||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|12||川崎||第12回[[ローレル賞 (競馬のレース)|ローレル賞]]||重賞SIII||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|13||金沢||第1回[[百万石ジュニアカップ]]||重賞||1500m||style="font-size:smaller;"|2歳
|-
|style="text-align:center;" rowspan="2"|14||rowspan="2"|盛岡||第46回[[不来方賞]]||重賞||2000m||style="font-size:smaller;"|3歳
|-
|秋嶺賞||オープン特別||芝1700m||style="font-size:smaller;"|3歳以上
|-
|style="text-align:center;"|16||川崎||第16回[[ローレル賞 (競馬のレース)|ローレル賞]]||重賞SIII||1600m||style="font-size:smaller;"|2歳牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;"|20||門別||第8回[[ブロッサムカップ]]||重賞H3||1700m||style="font-size:smaller;"|2歳牝馬・地方全国交流
|-
|style="text-align:center;" rowspan="2"|22||rowspan="2"|盛岡||第24回[[ジュニアグランプリ (岩手競馬)|ジュニアグランプリ]]||M1||芝1600m||style="font-size:smaller;"|2歳
|-
|第24回[[OROカップ|岩手県知事杯OROカップ]]||M1||芝1700m||style="font-size:smaller;"|3歳以上
|}
== JBCの前哨戦 ==
JBCの前哨戦は大きくトライアル競走である「Road to JBC」とJBC指定競走の2本立てで構成され、出走馬は上記JBC3レースの出走権をかけて争う。
=== Road to JBC(トライアル競走) ===
以下に示した競走の当該年度優勝馬には、所属を問わず表記の競走に対する優先出走権が与えられる。
2021年の対象競走は以下の通り<ref name="road-to-jbc-2019">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/jbc2019/road/index.html|title=JBC2019特設サイト【レース紹介】|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2019-10-16}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!競走!!格付!!競馬場!!距離!!優先出走権付与対象競走
|-
|[[日本テレビ盃]]||{{JpnII}}||[[船橋競馬場|船橋]]||1800m||JBCクラシック
|-
|[[東京盃]]||{{JpnII}}||[[大井競馬場|大井]]||1200m||JBCスプリント
|-
|[[レディスプレリュード]]||{{JpnII}}||大井||1800m||JBCレディスクラシック
|-
|[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]||{{JpnI}}||[[盛岡競馬場|盛岡]]||1600m||JBCクラシックまたはJBCスプリント
|}
※コースはすべてダート。
=== JBC指定競走 ===
地方競馬各地区の有力馬を選定するための指標となる競走として指定されており、優勝馬への優先出走権はないものの、選定にあたってその成績が重要視される。
2023年の対象競走は以下の通り<ref name="road-to-jbc-2019" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!競走!!競馬場!!距離!!ノミネート対象競走
|-
|[[東京記念]]||[[大井競馬場|大井]]||2400m||rowspan="3"|JBCクラシック
|-
|[[珊瑚冠賞]]||[[高知競馬場|高知]]||1900m
|-
|[[オータムカップ (笠松競馬)|オータムカップ]]||[[笠松競馬場|笠松]]||1900m
|-
|[[アフター5スター賞]]||大井||1200m||rowspan="2"|JBCスプリント
|-
|[[ウポポイオータムスプリント]]||[[門別競馬場|門別]]||1200m
|-
|[[青藍賞]]||[[水沢競馬場|水沢]]||1600m||rowspan="2"|JBCクラシックまたはJBCスプリント
|-
|[[姫山菊花賞]]||[[園田競馬場|園田]]||1700m
|-
|[[ビューチフルドリーマーカップ]]||[[水沢競馬場|水沢]]||2000m||rowspan="2"|JBCレディスクラシック
|-
|[[秋桜賞]]||[[名古屋競馬場|名古屋]]||1700m
|-
|[[ゴールドジュニア (大井競馬)|ゴールドジュニア]]||[[大井競馬場|大井]]||1200m||rowspan="4"|JBC2歳優駿
|-
|[[サンライズカップ]]||[[門別競馬場|門別]]||1800m
|-
|[[鎌倉記念]]||[[川崎競馬場|川崎]]||1500m
|-
|[[兵庫若駒賞]]||[[園田競馬場|園田]]||1400m
|}
※コースはすべてダート。
== 2007年の開催における騒動 ==
* 2007年[[3月12日]]、[[大井競馬場]]の現役外国馬の導入決定に反発する形でJBC実行委員会は2007年に予定されていた大井のJBC関連の支援中止を決定、JBC関連の名称・ロゴの使用を認めないという態度を取っていると報道された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/gamble/flash/KFullFlash20070312057.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070323020903/http://www.sponichi.co.jp/gamble/flash/KFullFlash20070312057.html|archivedate=2007年3月23日|title=外国馬導入で大井のJBCへの支援中止|work=Sponichi Annex|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2007-03-12|accessdate=2014-08-16|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。特別区競馬組合もJBC協会に対する対抗措置を検討するも、その後[[4月19日]]に開催されたJBC特別委員会において、従前どおり第7回JBCとして実施することになった<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2007/0420.html 第7回JBC競走について] - 地方競馬全国協会、2014年9月3日閲覧</ref>。
* さらに8月に発生した[[馬インフルエンザ]]の影響で[[ダービーグランプリ]]と[[日本テレビ盃]]がダートグレードの格付け取消により優先出走権が消滅したほか、青藍賞([[水沢競馬場]])、オータムカップ(笠松競馬場)が当初の交流範囲で実施されなかったため指定競走として取り扱わないことになった<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2007/0911_2.html JBC出走馬選定要領の取扱い変更について] - 地方競馬全国協会、2014年9月3日閲覧</ref>。
== 中央競馬での開催 ==
2018年の第18回は開催地として、JRAの[[京都競馬場]]が選ばれた。JRAの競馬場での開催は創設以来初のことで、理由として「JBCの魅力をより広く、多くのファンに伝えるため、訴求力の高いJRAの競馬場で実施を要請するべき」としており、全国公営競馬主催者協議会がJBC実行委員会に提案、JBC実行委員会も「JBCの発展に寄与する提案」と判断しJRAに要請した結果、JRAも「ダートグレード競走の魅力を知っていただく契機になる」と要請を受諾し主催した<ref>[http://www.hochi.co.jp/horserace/20170306-OHT1T50109.html 2018年のJBCは京都競馬場で開催 JRAの競馬場での開催は初],スポーツ報知,2017年3月6日</ref><ref>[http://jra.jp/news/201703/030602.html 平成30年のJBC競走の実施競馬場等について] - 日本中央競馬会 2017年3月6日</ref>。なお、2018年については、JRAでの開催となったため、「[[農林水産大臣賞典|'''農林水産大臣'''賞典]]」ではなく、「'''農林水産省'''賞典」として行われていた<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201711/111401.html 2018年度競馬番組等について] - 日本中央競馬会(JRAニュース)2017年11月14日</ref>。
なお、中央競馬においては2010年以降、新設重賞を除く全ての平地重賞競走が国際競走として[[国際格付番組企画諮問委員会]](IRPAC)の承認を受けたグレード(G1~G3)を付与しており、IRPACの認定を受けていない独自グレードであるJpn1~Jpn3を付与した重賞競走が開催されなくなってから久しく、2018年のJBC3競走(Jpn1)の開催時は番組表など一部刊行物・公式ウェブサイトを除き競馬場・ウインズ等での掲示物・場内放送・映像においてグレードの表記をせず「Jpn1(ジーワン)」といった案内や呼称も行われなかった<ref group="注">2011年に[[東京競馬場]]で代替開催された[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]ではJpn1表記がされており、実況でも「ジーワン」と呼称されていた。</ref>。
== 世界的な競馬イベント同日複数重賞競走 ==
* [[サウジカップデー]]…[[サウジアラビア]]において[[サウジカップ]]含む1日で6つの国際グレード[[重賞]]競走を実施、時期は[[2月]]下旬
*[[ドバイワールドカップミーティング]]…[[ドバイ]]において[[ドバイワールドカップ]]含む1日で5つのG1競走を実施、時期は[[3月]]の最終土曜日
*[[チャンピオンズデー|香港チャンピオンズデー]]…[[香港]]において1日で3つのG1競走を実施、時期は4月最終日曜日
*[[ロイヤルアスコット開催]]…[[イギリス]]において5日間で8つのG1競走を実施、時期は[[6月]]の[[中旬]]
*[[アイリッシュチャンピオンズウィークエンド]]…[[アイルランド]]において[[アイリッシュチャンピオンステークス]]含む2日間で10の重賞競走を実施、時期は9月
*[[凱旋門賞ウィークエンド]]…[[フランス]]において[[凱旋門賞]]含む2日間で8つのG1競走を実施、時期は[[10月]]の第1日曜日とその前日の土曜日
*[[ブリティッシュ・チャンピオンズデー]]…[[イギリス]]において[[チャンピオンステークス]]含む1日で5つの重賞競走を実施、時期は10月下旬
*[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ]]…[[アメリカ]]競馬の祭典といわれ、世界最高賞金のレースを含む。開催2日間で14のG1競走を実施、時期は[[10月]]下旬 - [[11月]]上旬
*[[香港国際競走]]…[[香港]]において[[香港カップ]]をメインに、1日で4つのG1競走を実施、時期は12月第2日曜
== 脚注 ==
{{Reflist|group="注"}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.keiba.go.jp/jbc2023/ 地方競馬全国協会公式サイトよりJBC特設サイト(2023年版)]
{{ジャパンブリーディングファームズカップ}}
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[[Category:競馬のイベント]]
[[Category:地方競馬]]
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[[Category:2001年開始のスポーツイベント]]
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Hello world
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Hello world(ハロー・ワールド)は、画面に「Hello, world!」やそれに類する文字列を表示するプログラムの通称である。多くのプログラミング言語において非常に単純なプログラムであり、プログラミング言語の入門書で、プログラムを動かすためのプログラミング言語の基本文法の解説例として提示される。
ハロー・ワールドは伝統的にプログラミング言語をプログラム初心者に紹介するために使われる。また、ハロー・ワールドはプログラミング言語が正しくインストールされていること、およびプログラミング言語の使用方法を理解するための健全性テストにも使用される。
『プログラミング言語C』(第2版)では、初めに「新しいプログラミング言語を学ぶ唯一の道は、それでプログラムを書いてみることである」との考えが示され、プログラムを入力して実行し、出力を確認することを習得すれば、言語の他の要素を学ぶことは容易だと訓示される。そして、「hello,world という単語を印字せよ」との例題が示される。この例題について、まずプログラムのソースコードが示され、次にUNIXにおける典型的なコンパイル・実行方法が例示される。そして、このプログラムの詳細が解説される。
大抵のプログラミング言語の入門書では、このプログラムを作ることを最初の例題としており、ほとんどの場合、新しくプログラミング言語を習得する際に最初に作るのがこのプログラムである。そのため、「世界一有名なプログラム」と呼ばれることもある。
プログラミングできるコンピュータの開発以来、小さなテストプログラムは存在してきたが、テスト文言として「Hello, World!」を使う習慣はブライアン・カーニハンとデニス・リッチーによる著書「プログラミング言語C」(1978年)のC言語バージョンから始まったと言われている。同著書のプログラム例はhello, world(大文字なし、感嘆符なし)を標準出力に出力する。この例はブライアン・カーニハンがまとめたベル研究所の内部資料「Programming in C: A Tutorial」(1974年)を継承したものである。
C言語バージョンの以前にはカーニハンの前著「A Tutorial Introduction to the Language B」(1973年)での例があったが、存在が知られている最初のバージョンのプログラムは外部変数を説明するための例だった。プログラムはターミナルに改行を含むhello, world!を出力するものだった。B言語では文字数の長さがASCII文字の4文字までという制限があったため、文言は複数の文字列に分割されていた。前節の例はターミナルにhi!を出力するもので、hello, world!という文言はそれを表す為に複数の文字列を必要とする少し長い挨拶文として紹介された。
hello, worldの起源はBCPL(1967年)であるとも言われている。この主張はBCPLの発明者ブライアン・カーニハンとマーティン・リチャーズのアーカイブノートに依るものである。
モダンな言語においてHello Worldは洗練された変化を遂げている。例えば、Go言語は多言語対応プログラムを紹介し、Sun JavaはSVGで文言を表し、XL言語は3Dグラフィックの地球で見せている 。hello, worldの出力には、Perl、Python、Rubyのような言語では一行だけを必要とするかもしれないが、一方で低レベルのアセンブリ言語では数十行の命令を必要とする。マーク・ガスディアル(英語版)とエリオット・ソロウェイは、グラフィックスやサウンドがテキストより簡単に操作できるようになり、「Hello, World!」のテスト文言が過去のものとなる可能性があることを示唆している。
この文言は句読点や頭文字の異なる多数の種類が存在している。その種類はコンマ「,」や感嘆符「!」の有無、頭文字の「H」および「W」が大文字かどうかを含む。いくつかの大文字のみサポートするシステム上の言語では「HELLO WORLD」のように異なる形式の実装を強制し、難解プログラミング言語でのハロー・ワールドはわずかに修正された文字列を出力する。「Hello, world!」以外の文言でも良いので、同様の意味で英語圏で用いられるスラング「Howdy」を使って、「Howdy, World!」が用いられることもあり、日本語プログラミング言語では「Hello World」を直訳した「こんにちは世界」が用いられることもある。
利用目的にも異なる種類がある。LISP・ML・Haskellのような関数型プログラミング言語では、再起手法を強調する関数型プログラミングの実例として利用されることがある。一方で、オリジナルの例は副作用を伴った純粋関数型言語に違反した入出力の例として見られる。アセンブリ言語・C言語・VHDLのような組み込みで使われる言語では、文言を出力することが追加のコンポーネントや他機器との連携なしでは難しい、もしくは、その手法が存在しないことの例として用いられる。マイクロコンピュータ (マイコン)・FPGA・CPLDなどの機器では、制御間隔と機器連携を実験するLEDの発光(Lチカ)が文言出力の代わりに利用される。
DebianとUbuntuはaptパッケージシステムでハロー・ワールドプログラムを提供している。利用者はapt-get install helloと入力すると依存ソフトウェアと一緒に同プログラムがインストールされる。それ自身には意味はないが、そのプログラムが健全性テストを提供すると同時に、初心者にパッケージのインストール方法を伝えるシンプルな例となる。しかし、開発者にとってはより重要な利便性があり、手作業だったりdebhelperを使ってのdebパッケージの作り方の良い例であり、GNU Helloを使ったバージョンはGNUプログラムの書き方の例となる。
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"text": "DebianとUbuntuはaptパッケージシステムでハロー・ワールドプログラムを提供している。利用者はapt-get install helloと入力すると依存ソフトウェアと一緒に同プログラムがインストールされる。それ自身には意味はないが、そのプログラムが健全性テストを提供すると同時に、初心者にパッケージのインストール方法を伝えるシンプルな例となる。しかし、開発者にとってはより重要な利便性があり、手作業だったりdebhelperを使ってのdebパッケージの作り方の良い例であり、GNU Helloを使ったバージョンはGNUプログラムの書き方の例となる。",
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Hello world(ハロー・ワールド)は、画面に「Hello, world!」やそれに類する文字列を表示するプログラムの通称である。多くのプログラミング言語において非常に単純なプログラムであり、プログラミング言語の入門書で、プログラムを動かすためのプログラミング言語の基本文法の解説例として提示される。
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{{Otheruses}}
[[File:HelloWorld Maktivism ComputerProgramming LEDs.jpg|thumb|[[LED]]ライトの[[発光]]を用いた"Hello, World!"の表示]]
'''Hello world'''(ハロー・ワールド)は、画面に「Hello, world!」やそれに類する文字列を表示する[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の通称である。多くの[[プログラミング言語]]において非常に単純なプログラムであり、[[プログラミング言語]]の入門書で、プログラムを動かすためのプログラミング言語の基本文法の解説例として提示される。
== 利用目的 ==
ハロー・ワールドは伝統的にプログラミング言語をプログラム初心者に紹介するために使われる。また、ハロー・ワールドはプログラミング言語が正しくインストールされていること、およびプログラミング言語の使用方法を理解するための[[健全性テスト]]にも使用される。
『[[プログラミング言語C]]』(第2版)では、初めに「新しいプログラミング言語を学ぶ唯一の道は、それでプログラムを書いてみることである」との考えが示され、プログラムを入力して実行し、出力を確認することを習得すれば、言語の他の要素を学ぶことは容易だと訓示される。そして、「hello,world という単語を印字せよ」との例題が示される。この例題について、まずプログラムのソースコードが示され、次にUNIXにおける典型的なコンパイル・実行方法が例示される。そして、このプログラムの詳細が解説される<ref>『プログラミング言語C 第2版』(訳書訂正版)「第1章 やさしい入門」</ref>。
大抵のプログラミング言語の入門書では、このプログラムを作ることを最初の例題としており、ほとんどの場合、新しくプログラミング言語を習得する際に最初に作るのがこのプログラムである。そのため、「世界一有名なプログラム」と呼ばれることもある{{要出典|date=2017年5月}}。
== 歴史 ==
[[File:Hello World Brian Kernighan 1974.jpg|thumb|[[ブライアン・カーニハン]]による"Hello, world"プログラム (1978)]]
プログラミングできる[[コンピュータ]]の開発以来、小さなテストプログラムは存在してきたが、テスト文言として「Hello, World!」を使う習慣は[[ブライアン・カーニハン]]と[[デニス・リッチー]]による著書「[[プログラミング言語C]]」(1978年)<ref>{{cite book | last = Kernighan | first = Brian W. | authorlink = ブライアン・カーニハン |author2=Ritchie, Dennis M. | title = The C Programming Language | edition = 1st | publisher = Prentice Hall | date = 1978 | location = Englewood Cliffs, NJ | isbn = 0-13-110163-3 | authorlink2 = デニス・リッチー }}</ref>のC言語バージョンから始まったと言われている。同著書のプログラム例は<code>hello, world</code>(大文字なし、感嘆符なし)を[[標準ストリーム|標準出力]]に出力する。この例は[[ブライアン・カーニハン]]がまとめた[[ベル研究所]]の内部資料「Programming in C: A Tutorial」(1974年)<ref>{{cite web|last1=Kernighan|first1=Brian|title=Programming in C: A Tutorial|url=https://www.lysator.liu.se/c/bwk-tutor.html|accessdate=28 November 2016}}</ref>を継承したものである。
<syntaxhighlight lang="c">
#include <stdio.h>
main( )
{
printf("hello, world\n");
}
</syntaxhighlight>
C言語バージョンの以前にはカーニハンの前著「{{lang|en|A Tutorial Introduction to the Language B}}」(1973年)での例があったが、存在が知られている最初のバージョンのプログラムは外部変数を説明するための例だった。プログラムはターミナルに[[改行]]を含む<code>hello, world!</code>を出力するものだった。[[B言語]]では文字数の長さが[[ASCII]]文字の4文字までという制限があったため、文言は複数の文字列に分割されていた。前節の例はターミナルに<code>hi!</code>を出力するもので、<code>hello, world!</code>という文言はそれを表す為に複数の文字列を必要とする少し長い挨拶文として紹介された。
<syntaxhighlight lang="c">
main(){
extrn a,b,c;
putchar(a); putchar(b); putchar(c); putchar('!*n');
}
a 'hell';
b 'o, w';
c 'orld';
</syntaxhighlight>
<code>hello, world</code>の起源は[[BCPL]](1967年)であるとも言われている。この主張はBCPLの発明者[[ブライアン・カーニハン]]と[[マーティン・リチャーズ]]の[[アーカイブ]]ノートに依るものである。
モダンな言語においてHello Worldは洗練された変化を遂げている。例えば、[[Go (プログラミング言語)|Go言語]]は多言語対応プログラムを紹介し<ref>[http://golang.org/doc/go_tutorial.html#tmp_20 A Tutorial for the Go Programming Language.] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100726052120/http://golang.org/doc/go_tutorial.html#tmp_20 |date=July 26, 2010 }} The Go Programming Language. Retrieved July 26, 2011.</ref>、[[サン・マイクロシステムズ|Sun]] [[Java]]は[[Scalable Vector Graphics|SVG]]で文言を表し<ref>{{cite news|last=Jolif|first=Christophe|title=Bringing SVG Power to Java Applications|newspaper=Sun Developer Network|date=January 2003}}</ref>、[[XL (プログラミング言語)|XL言語]]は3Dグラフィックの地球で見せている<ref>{{cite web|last=de Dinechin|first=Christophe|title=Hello world!|url=http://grenouillebouillie.wordpress.com/2010/07/24/hello-world/|publisher=Grenouille Bouillie|date=July 24, 2010|accessdate=2018-02-04}}</ref> 。<code>hello, world</code>の出力には、[[Perl]]、[[Python]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]のような言語では一行だけを必要とするかもしれないが、一方で低レベルのアセンブリ言語では数十行の命令を必要とする。{{仮リンク|マーク・ガスディアル|en|Mark Guzdial}}とエリオット・ソロウェイは、グラフィックスやサウンドがテキストより簡単に操作できるようになり、「Hello, World!」のテスト文言が過去のものとなる可能性があることを示唆している。
== 種類 ==
[[Image:PSP-Homebrew.jpeg|thumb|left|[[:en:PlayStation Portable homebrew|PSP Homebrew]]の[[概念実証|実証実験]]のためのハロー・ワールド]]
この文言は[[約物|句読点]]や[[頭文字]]の異なる多数の種類が存在している。その種類は[[コンマ]]「,」や[[感嘆符]]「!」の有無、頭文字の「H」および「W」が大文字かどうかを含む。いくつかの大文字のみサポートするシステム上の言語では「HELLO WORLD」のように異なる形式の実装を強制し、[[難解プログラミング言語]]でのハロー・ワールドはわずかに修正された文字列を出力する。「{{lang|en|Hello, world!}}」以外の文言でも良いので、同様の意味で英語圏で用いられるスラング「[[Howdy]]」を使って、「{{lang|en|Howdy, World!}}」が用いられることもあり、[[日本語プログラミング言語]]では「Hello World」を直訳した「こんにちは世界」が用いられることもある。
利用目的にも異なる種類がある。[[LISP]]・[[ML (プログラミング言語)|ML]]・[[Haskell]]のような[[関数型プログラミング言語]]では、[[再帰#再帰呼出し|再起手法]]を強調する関数型プログラミングの実例として利用されることがある。一方で、オリジナルの例は副作用を伴った[[関数型言語|純粋関数型言語]]に違反した入出力の例として見られる。[[アセンブリ言語]]・[[C言語]]・[[VHDL]]のような組み込みで使われる言語では、文言を出力することが追加のコンポーネントや他機器との連携なしでは難しい、もしくは、その手法が存在しないことの例として用いられる。[[マイクロコンピュータ]] (マイコン)・[[FPGA]]・[[CPLD]]などの機器では、制御間隔と機器連携を実験するLEDの発光([[Lチカ]])が文言出力の代わりに利用される。
[[Debian]]と[[Ubuntu]]は[[apt]]パッケージシステムでハロー・ワールドプログラムを提供している。利用者は<code>apt-get install hello</code>と入力すると依存ソフトウェアと一緒に同プログラムがインストールされる。それ自身には意味はないが、そのプログラムが[[健全性テスト]]を提供すると同時に、初心者にパッケージのインストール方法を伝えるシンプルな例となる。しかし、開発者にとってはより重要な利便性があり、手作業だったりdebhelperを使っての[[deb (ファイルフォーマット)|deb]]パッケージの作り方の良い例であり、[[GNU Hello]]を使ったバージョンは[[GNU]]プログラムの書き方の例となる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
{{wikisource|プログラマが知るべき97のこと/Hello, Worldから始めよう}}
{{Commons category|Hello World}}
*[http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/btut.html {{lang|en|A Tutorial Introduction to the Language B}}] — {{lang|en|Hello, world!}} の初出とされるB.カーニハンによるB言語チュートリアル(1973)
*[http://www.ariel.com.au/jokes/The_Evolution_of_a_Programmer.html {{lang|en|The Evolution of a Programmer}}] - プログラミング技術向上による変化(冗談サイト)
*[http://www.gnu.org/software/hello/ {{lang|en|Hello - GNU Project}}] - [[GNUプロジェクト|{{lang|en|GNU}}プロジェクト]]による実装。コーディングスタイルや、プロジェクトメンテナンスのサンプルとして運用されている。
{{プログラミング言語の関連項目}}
{{標準テストアイテム}}
[[Category:プログラミング・フォークロア]]
[[Category:アプリケーションソフト]]
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2003-09-05T02:31:02Z
|
2023-10-25T09:03:40Z
| false | false | false |
[
"Template:Otheruses",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web",
"Template:Webarchive",
"Template:Wikisource",
"Template:Commons category",
"Template:プログラミング言語の関連項目",
"Template:要出典",
"Template:Lang",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite news",
"Template:標準テストアイテム"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hello_world
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ゼノンのパラドックス
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ゼノンのパラドックスとは、エレア派のゼノンの議論で、特にパルメニデスを擁護してなされたいくつかの論駁を指す。多・場所・運動・粟粒等の論があったと伝えられているが、本人の書は失われ、断片が残るだけである。アリストテレスが『自然学』の中で、ゼノンに対する反論として引用した議論が、比較的詳しいものであり、重要なものとして取り上げられてきた。そのなかで運動のパラドックスと呼ばれるものは、運動があるとするとこのような不合理が帰結すると論じられた。シンプリキウスがアリストテレスを注釈しつつ他の議論に触れているものおよびその他の断片から、多(多数性plurality)の議論もいくつか残った。
プラトンは、対話編でゼノンに次のように語らせている。
「そこでわたしのこの書物は、それら存在の多を主張する人たちに対する反論の形をとることになる。そしてかれらにも同じ難点、いや、もっと多くの難点があることを返礼として指摘してやるのです。つまりかれらの考え方の前提となっている、もしも存在が多ならばということは、これにひとが充分な検討を加えるなら、存在を一であるとする前提(仮定)よりも、もっとおかしな事を許容しなければならなくなるだろう、ということを明らかにするのがこの書物のねらいなのです。」
以下は、多とその他の論考を、断片などから再現しパラドックス風に整形したものである。
アリストテレスが、自らの運動論の展開に利用し且つ対質しつつ伝えるゼノンの四つ議論は、それぞれが、後世いろいろの解釈のもと論ぜられてきた。二分法(dichotomy)は、race courseなどとも呼ばれるが、アリストテレスはもっとも力を入れ、繰り返し論じている。「アキレスと亀」は、もっとも遅い者の代表として、ウサギとカメのイソップ寓話の連想から古くから亀の名が登場している。
「まず第一の議論は、移動するものは、目的点へ達するよりも前に、その半分の点に達しなければならないがゆえに、運動しない、という論点にかんするものである」。この文は二通りに解釈しうる。
目的点の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、到着しなければならない。更にその残りの半分にも同様、と到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着しない。だから運動はない、と見る解釈。
目的点の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。更にその前の半分にも同様、と限りなく先に着いているべき点があり、一歩も進み出得ない。だから運動はない、と見る解釈。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である」。
あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。
スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
ゼノンのパラドックスの中でも最もよく知られたものの一つであり、多数の文献は彼の手に帰しているが、ディオゲネス・ラエルティオスが引くパボリノスの説によれば、この議論を創始したのはパルメニデスであるという。
その議論やキャラクターの面白さから、アキレスと亀という組み合わせは、この論自体とともに多くの作家に引用された。たとえば、ルイス・キャロルの『亀がアキレスに言ったこと』や、ダグラス・ホフスタッターの啓蒙書『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に主役として登場する。
「もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれは言うのである。」
アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べている。この言から、ゼノンも「時間が瞬間より成る」を前提としていると解される。瞬間においては矢は静止している。どの瞬間においてもそうである。という事は位置を変える瞬間はないのだから、矢は位置を変えることはなく、そこに静止したままである。ゼノンの意が単純にこうであったのかは確定的な事ではない。
第四の議論としてアリストテレスの伝えるところは、先の三つとは異なり、ゼノンの論として不明確なところがあって、解釈が分かれる。
第四の議論は、競走場において、一列の等しい物塊の傍を、反対方向に、一方は競走場の終点から、他方はその折返し点から、等しい速さで運動する二列の等しい物塊にかんするものである。この議論では、ゼノンは、半分の時間がその二倍の時間に等しいという結論になると思っている。ところで、この論過は、等しい大きさのものが自分と等しい大きさのものの傍を等しい速さで移動するさいには、後者が運動していても、静止していても、要する時間は等しいと考えているところにある。しかし、これは偽りである。
「例えば」として、アリストテレスが以下に続ける文章は、解釈を加えたうえで、補わなければ意味が通らない。「列ΑΑ」と2物塊(或いは線分)で説明されているが、ここでは3ブロックに変え、事態を表す。
第一図 A:競技場、B:右方向へ移動するブロック列RQP、Γ:左方向へ移動するブロック列XYZとして、初期状態は、ΒとΓの先頭PとXがΑの中間ブロックに並ぶ。
第二図 B、Γそれぞれが移動を開始し、次のように、Βの先頭PがAの右端に、Γの先頭XがΑの左端に並んだとする。
このとき、B、Γそれぞれは、Aに対しては1ブロック分しか移動していないが、互いには2ブロック分移動している。この事態をゼノンは次のように説明している、とアリストテレスは言う。
ΓはBの傍らを2ブロック分移動したのに対し、BはAの傍らを1ブロック分しか移動していない。したがって、Bの要した時間は、Γの半分である。しかるに、BとΓは共にAの終端に達しているのだから、Bの要した時間は、Γの要した時間に等しいはずである。すなわち、半分の時間はその二倍の時間に等しい、ということになる。
アリストテレスは、図式的に示すことで、相対的には倍速になることは自明であるとしている。では、ゼノンは相対速度を知らなかったのか。どう見るかで、解釈は分かれる。
以上とは異なり、原子論的見解に対する論難であるとする解釈も多くなされる。ゼノンが上記の説明図を基に論じたとして、時間・空間が不可分割な単位を持つとする見解は、次の様なパラドックスをもたらす、と解する。
上図に現れない次の第三図のケースを問題としていたとする解釈もある。下図の位置に関して、論理的には二種の解釈がありうる。
第三図 Αの3ブロック▲の間▽に、BのブロックQとΓのブロックXが並ぶ、あるいはBのブロックPとΓのブロックYが並ぶ
A: ▲▽▲▽▲
B:R Q P
Γ: X Y Z
ゼノンの指摘は運動を位置関係で捉えているが、後世の数学はそれらを時間と距離との関係として捉え返す。以下は、1次元実数空間上の運動であると仮定する。
異なる二点に中点が存在することだけで、目的点に着かないと論ぜられている。数学的にみるなら、運動としての条件が不足している。加えられる仮定によっていくつかの事例が生まれ得る。
時間項を入れ、運動速度を勘案すると、二種類の事例がみられる。
二つの条件(亀がアキレスの前からスタートする、亀はアキレスより遅い)の下において、追付くか否かが問題とされている。純粋に数学的に見れば、この条件下では、それは定まらない。ゼノン式に捉えたとしてもそれは同じである。従って、ゼノンの誤りは、何れとも決せられないことであるのに、一方を断じていることである。そのことは、アリストテレスを始めとする、ゼノン式の捉え方そのものが問題を孕むのだとする論議は、追付かないケースもある事を見ていない限りにおいて、何処かに問題を孕んでいる可能性があることを示唆している。
アリストテレスは、時間が「不可分割的な今から成るのではない」としてゼノンを否定する一方、「今においては運動も静止もありえない」として、疑似的な論議と見ている風もある。数学的に見れば、瞬間においては運動も静止もないと見ることも可能であるが、同時に、運動方程式は瞬間における速度を示し得るのであって、言葉の定義の問題に過ぎない。しかし、前者の否定は成り立たない。時間が瞬間より成るとしても、運動は否定され得ない。時間が連続体であれば、時間が瞬間=点よりなり、矢が瞬間=点においては静止しているとしたとしても、動くことは出来る。近代解析学においては、ゼノンの結論は否定されるが、アリストテレスの論議も否定される。
ゼノンの議論は、プラトンが伝えるように、当時から哲学者たちに注目されて来た。いかなる価値があると見るかは別として、歴史上そうそうたる顔ぶれによって取り上げられ、論じてられて来た。どの議論を取り上げるか、またそれが何を論じていると見るかなど、解釈の違い、関心の持ち方はさまざまではあったが、特に運動のパラドックスは、多様な論議が古代から現在まで続いている。
アリストテレスは著書でゼノンの議論をいくつか取り上げているが、後世もっともよく論じられたのは運動のパラドックスに関するものである。アリストテレスは、運動の否定という結論は退けるが、連続に関わって、運動は時空間が無限分割可能であるとして捉えうるとの論証を支える一つとして、ゼノンの議論を持ち出している。すなわち、否定されるのは運動ではない。パラドックス(飛ぶ矢)の成立は、不可分割的な長さ・時間という前提がある故であるから、その前提が否定される、としている。しかし、分割が無限に可能ならば、無限の問題を解かなければならない。彼は、
「ゼノンの議論も、有限な時間において、無限なものども〔点〕を通過することができない、あるいは、無限なものどもと一つ一つ接触することができないという誤った仮定に立っているのである。...有限な時間においては、...分割にかんして無限なものどもと接触することはできる。」
と言い、無限分割される空間には無限分割される時間が対応する、とする。つづけて彼は、有限なものには有限な時間で通過できるとの論証を試みている。彼は、それに留まらず、更に別の観点で、
人々は、或る距離の「全距離を通過したとすれば、無限な数を数えおえたことになるだろうが、これが不可能なことは広く承認されているところである、と考えるのである。」
と言い、これに答えて言う。一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、「運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」
「それゆえ、時間においてにせよ、長さ〔距離〕においてにせよ、無限なものどもを通過することができるかどうかを質問する人にたいしては、或る意味ではできるが、他の意味ではできないと答えるべきである。すなわち、無限なものどもが完全現実的にあるとすれば、それらを通過することは出来ないが、可能的にあるとすれば、通過することが出来る。というのは、連続的に運動する人は、付帯的な意味で無限なものどもを通過し終えたのであって、無条件的な意味で通過し終えたのではないからである。というのは、半分なものどもが無限にあるということは、線にとっては、付帯的なことに過ぎず、その実体すなわちそのあり方は、それとは異なっているからである。」
と、論じている。ただし、これは、ゼノンへの回答としての閉じたものではなく、
「以上述べた議論や何かそれに類した議論は、直線運動は連続的ではなく円運動のみが連続的でありうるというここでの論点を人が確信するための適切な議論であると言えよう。」としている。
数学上の問題が一段落したのち、新たな見解がいくつか提案された。その一人、ラッセルは、
「したがって、ゼノンの議論は空間と時間とが点と瞬間で構成されているという見解に向けられているのであって、空間と時間の有限のひろがりは、有限の数の点と瞬間からなっているという意見に対する反論と同じように、ゼノンの論証は詭弁ではなく、まったく正しいのである、と私たちは結論することが出来る。」
と言う。そして、逃れる道は、
(1)空間と時間は点と瞬間で構成されているが、有限の空間的あるいは時間的区間に含まれる点や瞬間の数は無限であると主張するか、(2)空間と時間が点と瞬間で構成されていることを否定するか、(3)空間と時間の実在性を全面的に否定するか、といういずれかの方法に依らなければならない。
ラッセルは(1)の見地から、歴史上のゼノンが考えていたかはさておいて、たとえばと、アキレスと亀を再解釈し、
時間の系列から見ると、アキレスと亀は1対1に対応する。もしアキレスが亀に追いついたなら、亀の通過した場所とアキレスの場所が1対1に対応する。すなわち異なる距離が1対1に対応するということになる。
このパラドックスは、集合論に於ける無限の定義によって、初めて厳密に解消された、と。ただしここでラッセルの言う無限とは、基数としてであって、単なる「限りが無いこと」ではない。飛ぶ矢については、
「私たちは、矢が飛んでいる時には次の瞬間に矢が占める次の位置があるという想定を避けることは難しいと考えるのであるが、実際は、次の位置も次の瞬間も存在しないのである。」
ゼノンの指摘の通り、矢はある時刻にある位置にいる。だからといって動かないのではなく、「運動とは、時間と場所とに相関があって、異なった時点において異なった位置を占めること」に過ぎない、とラッセルは言う。
ラッセルの言う(2)の見地から論じた者としては、ベルクソンが第一に挙げられる。
『物質と記憶』第四章にて、ゼノンの間違いは、動体が描いた軌跡によって表される線分及びそこから切り出されうる無限の点の性質でしかない不動性を、動体自体の性質に割り当ててしまうことにあるという。その線分はたしかに流れ「終わった」持続を表しはするものの、流れ「つつある」持続や流れ「ている」持続の性質はもはや表さないものである。
ライルは、「アキレスと亀」に関して、追いつく事例においてゼノンの論が如何にして追いつかない様に見せているかを論じ、一つの解決を示した、とする。ケーキカットを例にとって、彼は説明する。常に一切れ残るように切れという指示であれば、キリがないと見えるが、それは残り一切れを足すとケーキ全体ができあがる点を見逃している。ゼノンの議論からすると、アキレスは亀との相対速度を知らず、常に前に居ると思わされている。「私たちはアキレスの眼を通してレースを見るように誘導されることによって、その知識〔ゴールまでの一部が残るだけであること〕を冷凍冷蔵庫に入れるように仕向けられたのである。」ゼノンの言う決して追いつかないと、数列の和が決して収束値に達しないとはまったく異なった意味である。
大森は、「運動の時間的連続性がある限りゼノンの論法を避けることはできない。」と論じ、続けて、「点運動とは矛盾を含んでいる」、「幾何図形の運動とは矛盾概念なのである。」とする。従って、点運動にもとづくゼノンの論法は、この矛盾として解消される。物理学・工学がこの矛盾から逃れているのは、それらが運動をではなく、静止図を扱っている限りであるに過ぎない、と言う。その点運動の逆理とは、点Xが動くということは、同一の点Xが始めは点Aと同一で、終わりには点Bと同一である、と言うことである。この逆理は、点時刻概念によってもたらされる。それは、線形時間の刻み目として考えられたもので、経験的実用時間の「基準となるように考えられた理論的時間なのである。」「一言で言えば、この理論的時間は基本的自然法則を成り立たせるように思考された時間である。...それ故に科学理論の中では飛ぶ矢の逆理は生きているはずである。」「科学に飛ぶ矢の逆理から激しい症状が起きる可能性は常にある。」と言う。
級数による「解決」或いはラッセルの言う無限数の導入によるという数学的な捉え方に対して、いくつかの疑問が提出される。マックス・ブラック等は、スーパータスク・無限作業の問題を提出する。トムソンのランプなど、無限の作業が完了したとすると説明の付かない事態が出来する。二分法に於いて、前進型で目的点に到着するケースにあたる無限数列Z={0,1/2,3/4,7/8,...}は、上限が1である。Zの各数に順にオンオフを対応させるとすると、上限1において到着するというならば、その時それはオンなのかオフなのか。どちらでもあり得ない、とジェームズ・F・トムソン(英語版)は言う。この例が、スーパータスクの自己矛盾性を証明しているか否かは、見解が分かれる。
量子力学において、ある確率で放射性崩壊を起こすはずの不安定な原子核が、完全に連続した観測の下では崩壊を起こさないことを(ゼノンの議論と直接の関係はないものの)量子ゼノンパラドックスと呼んでいる。また、実際に、非常に短いスパンで観測を行うと、原子核が本来予測されるよりも低い確率で崩壊することが実験で確かめられている。これは量子ゼノン効果と呼ばれる。
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"text": "アリストテレスは著書でゼノンの議論をいくつか取り上げているが、後世もっともよく論じられたのは運動のパラドックスに関するものである。アリストテレスは、運動の否定という結論は退けるが、連続に関わって、運動は時空間が無限分割可能であるとして捉えうるとの論証を支える一つとして、ゼノンの議論を持ち出している。すなわち、否定されるのは運動ではない。パラドックス(飛ぶ矢)の成立は、不可分割的な長さ・時間という前提がある故であるから、その前提が否定される、としている。しかし、分割が無限に可能ならば、無限の問題を解かなければならない。彼は、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「ゼノンの議論も、有限な時間において、無限なものども〔点〕を通過することができない、あるいは、無限なものどもと一つ一つ接触することができないという誤った仮定に立っているのである。...有限な時間においては、...分割にかんして無限なものどもと接触することはできる。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "と言い、無限分割される空間には無限分割される時間が対応する、とする。つづけて彼は、有限なものには有限な時間で通過できるとの論証を試みている。彼は、それに留まらず、更に別の観点で、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "人々は、或る距離の「全距離を通過したとすれば、無限な数を数えおえたことになるだろうが、これが不可能なことは広く承認されているところである、と考えるのである。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "と言い、これに答えて言う。一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、「運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "「それゆえ、時間においてにせよ、長さ〔距離〕においてにせよ、無限なものどもを通過することができるかどうかを質問する人にたいしては、或る意味ではできるが、他の意味ではできないと答えるべきである。すなわち、無限なものどもが完全現実的にあるとすれば、それらを通過することは出来ないが、可能的にあるとすれば、通過することが出来る。というのは、連続的に運動する人は、付帯的な意味で無限なものどもを通過し終えたのであって、無条件的な意味で通過し終えたのではないからである。というのは、半分なものどもが無限にあるということは、線にとっては、付帯的なことに過ぎず、その実体すなわちそのあり方は、それとは異なっているからである。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "と、論じている。ただし、これは、ゼノンへの回答としての閉じたものではなく、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "「以上述べた議論や何かそれに類した議論は、直線運動は連続的ではなく円運動のみが連続的でありうるというここでの論点を人が確信するための適切な議論であると言えよう。」としている。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "数学上の問題が一段落したのち、新たな見解がいくつか提案された。その一人、ラッセルは、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "「したがって、ゼノンの議論は空間と時間とが点と瞬間で構成されているという見解に向けられているのであって、空間と時間の有限のひろがりは、有限の数の点と瞬間からなっているという意見に対する反論と同じように、ゼノンの論証は詭弁ではなく、まったく正しいのである、と私たちは結論することが出来る。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "と言う。そして、逃れる道は、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "(1)空間と時間は点と瞬間で構成されているが、有限の空間的あるいは時間的区間に含まれる点や瞬間の数は無限であると主張するか、(2)空間と時間が点と瞬間で構成されていることを否定するか、(3)空間と時間の実在性を全面的に否定するか、といういずれかの方法に依らなければならない。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ラッセルは(1)の見地から、歴史上のゼノンが考えていたかはさておいて、たとえばと、アキレスと亀を再解釈し、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "時間の系列から見ると、アキレスと亀は1対1に対応する。もしアキレスが亀に追いついたなら、亀の通過した場所とアキレスの場所が1対1に対応する。すなわち異なる距離が1対1に対応するということになる。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "このパラドックスは、集合論に於ける無限の定義によって、初めて厳密に解消された、と。ただしここでラッセルの言う無限とは、基数としてであって、単なる「限りが無いこと」ではない。飛ぶ矢については、",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "「私たちは、矢が飛んでいる時には次の瞬間に矢が占める次の位置があるという想定を避けることは難しいと考えるのであるが、実際は、次の位置も次の瞬間も存在しないのである。」",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ゼノンの指摘の通り、矢はある時刻にある位置にいる。だからといって動かないのではなく、「運動とは、時間と場所とに相関があって、異なった時点において異なった位置を占めること」に過ぎない、とラッセルは言う。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ラッセルの言う(2)の見地から論じた者としては、ベルクソンが第一に挙げられる。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "『物質と記憶』第四章にて、ゼノンの間違いは、動体が描いた軌跡によって表される線分及びそこから切り出されうる無限の点の性質でしかない不動性を、動体自体の性質に割り当ててしまうことにあるという。その線分はたしかに流れ「終わった」持続を表しはするものの、流れ「つつある」持続や流れ「ている」持続の性質はもはや表さないものである。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ライルは、「アキレスと亀」に関して、追いつく事例においてゼノンの論が如何にして追いつかない様に見せているかを論じ、一つの解決を示した、とする。ケーキカットを例にとって、彼は説明する。常に一切れ残るように切れという指示であれば、キリがないと見えるが、それは残り一切れを足すとケーキ全体ができあがる点を見逃している。ゼノンの議論からすると、アキレスは亀との相対速度を知らず、常に前に居ると思わされている。「私たちはアキレスの眼を通してレースを見るように誘導されることによって、その知識〔ゴールまでの一部が残るだけであること〕を冷凍冷蔵庫に入れるように仕向けられたのである。」ゼノンの言う決して追いつかないと、数列の和が決して収束値に達しないとはまったく異なった意味である。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "大森は、「運動の時間的連続性がある限りゼノンの論法を避けることはできない。」と論じ、続けて、「点運動とは矛盾を含んでいる」、「幾何図形の運動とは矛盾概念なのである。」とする。従って、点運動にもとづくゼノンの論法は、この矛盾として解消される。物理学・工学がこの矛盾から逃れているのは、それらが運動をではなく、静止図を扱っている限りであるに過ぎない、と言う。その点運動の逆理とは、点Xが動くということは、同一の点Xが始めは点Aと同一で、終わりには点Bと同一である、と言うことである。この逆理は、点時刻概念によってもたらされる。それは、線形時間の刻み目として考えられたもので、経験的実用時間の「基準となるように考えられた理論的時間なのである。」「一言で言えば、この理論的時間は基本的自然法則を成り立たせるように思考された時間である。...それ故に科学理論の中では飛ぶ矢の逆理は生きているはずである。」「科学に飛ぶ矢の逆理から激しい症状が起きる可能性は常にある。」と言う。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "級数による「解決」或いはラッセルの言う無限数の導入によるという数学的な捉え方に対して、いくつかの疑問が提出される。マックス・ブラック等は、スーパータスク・無限作業の問題を提出する。トムソンのランプなど、無限の作業が完了したとすると説明の付かない事態が出来する。二分法に於いて、前進型で目的点に到着するケースにあたる無限数列Z={0,1/2,3/4,7/8,...}は、上限が1である。Zの各数に順にオンオフを対応させるとすると、上限1において到着するというならば、その時それはオンなのかオフなのか。どちらでもあり得ない、とジェームズ・F・トムソン(英語版)は言う。この例が、スーパータスクの自己矛盾性を証明しているか否かは、見解が分かれる。",
"title": "哲学的解釈"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "量子力学において、ある確率で放射性崩壊を起こすはずの不安定な原子核が、完全に連続した観測の下では崩壊を起こさないことを(ゼノンの議論と直接の関係はないものの)量子ゼノンパラドックスと呼んでいる。また、実際に、非常に短いスパンで観測を行うと、原子核が本来予測されるよりも低い確率で崩壊することが実験で確かめられている。これは量子ゼノン効果と呼ばれる。",
"title": "その他"
}
] |
ゼノンのパラドックスとは、エレア派のゼノンの議論で、特にパルメニデスを擁護してなされたいくつかの論駁を指す。多・場所・運動・粟粒等の論があったと伝えられているが、本人の書は失われ、断片が残るだけである。アリストテレスが『自然学』の中で、ゼノンに対する反論として引用した議論が、比較的詳しいものであり、重要なものとして取り上げられてきた。そのなかで運動のパラドックスと呼ばれるものは、運動があるとするとこのような不合理が帰結すると論じられた。シンプリキウスがアリストテレスを注釈しつつ他の議論に触れているものおよびその他の断片から、多(多数性plurality)の議論もいくつか残った。
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{{redirect|アキレスと亀|[[ビートたけし|北野武]]の映画作品|アキレスと亀 (映画)}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2015年10月
| 独自研究 = 2015年10月
}}
'''ゼノンのパラドックス'''とは、[[ゼノン (エレア派)|エレア派のゼノン]]の議論で、特に[[パルメニデス]]を擁護してなされたいくつかの論駁を指す。多・場所・運動・粟粒等の論があったと伝えられているが、本人の書は失われ、断片が残るだけである<ref>山川偉也『ゼノン4つの逆理』第1章注2</ref>。[[アリストテレス]]が[[自然学 (アリストテレス)|『自然学』]]の中で、ゼノンに対する反論として引用した議論が、比較的詳しいものであり、重要なものとして取り上げられてきた。そのなかで運動のパラドックスと呼ばれるものは、運動があるとするとこのような不合理が帰結すると論じられた。[[キリキアのシンプリキオス|シンプリキウス]]がアリストテレスを注釈しつつ他の議論に触れているものおよびその他の断片から、多(多数性plurality)の議論もいくつか残った。
==多のパラドックス==
[[プラトン]]は、対話編でゼノンに次のように語らせている。
<blockquote>
そこでわたしのこの書物は、それら存在の多を主張する人たちに対する反論の形をとることになる。そしてかれらにも同じ難点、いや、もっと多くの難点があることを返礼として指摘してやるのです。つまりかれらの考え方の前提となっている、もしも存在が多ならばということは、これにひとが充分な検討を加えるなら、存在を一であるとする前提(仮定)よりも、もっとおかしな事を許容しなければならなくなるだろう、ということを明らかにするのがこの書物のねらいなのです。<ref>プラトン『パルメニデス』第2章 128D、田中美知太郎訳「プラトン全集4」岩波書店:ISBN 4000904140</ref>
</blockquote>
以下は、多とその他の論考を、断片などから再現しパラドックス風に整形したものである。
;似て且つ似ていない
:存在が多であれば、果然それは似ていて似ていないということにならなければならない。しかしそれは不可能である。<ref>『パルメニデス』第2章 127E</ref>
:<div style="font-size:smaller; margin-left:1.5em">なぜなら、と続けるプラトンは、この説が受け入れられると「存在の多」が否定されると確認する。次いで、この説の前提を自説のイデアの分有論によって否定、と議論を続ける。そこには、ゼノンの立論そのものの解説はない。</div>
;大であり且つ小である
:もし多くの事物があるならば、それらは小さく且つ大きくなければならない、サイズがないほど小さく、制限されないほど大きく。<ref name="Macm">"Zeno of Elea", 'Encyclopedia of Philosophy', Macmillian, New York: ISBN 0028657896</ref>
;限定され且つ無限定である
:もし多くの事物があるならば、それらはちょうどあるだけあるものでなければならない、多くでもなく少なくでもなく。すなわち限界がある。ところが、事物の間には別の事物がなければならない。すべての事物についてそうなのだから、限界はない。<ref name="Macm"></ref>
===その他===
;粟粒
:粟(黍とも訳される)の一粒とその1万分の1の粒は落ちるとき音はしない。しかし、1万粒の粟の塊は落ちると音がする。そうであるなら、1万分の1の粒の1万倍である一粒も音がしなければならない。<ref>『自然学』第7巻第5章250a20</ref>
;場所の場所
:存在する物は、すべてある場所にある。それ故場所は存在する。そうであるなら、場所の場所も存在しなければならない。場所の場所の場所と、限界がない、故に場所は存在し得ない。<ref>『自然学』第4巻第1章209a23-25</ref>
:<div style="font-size:smaller; margin-left:1.5em">アリストテレスは「場所は、それのうちにあるものの質料でもなく形相でもなく、そのどちらとも異なるものであろう<ref>『自然学』第4巻第3章210b30</ref>」として、5章にわたって反論し、場所とは何かを論じている。</div>
==運動のパラドックス==
アリストテレスが、自らの運動論の展開に利用し且つ対質しつつ伝えるゼノンの四つ議論<ref name="arist1">『自然学』第6巻第9章239b10-240a19</ref>は、それぞれが、後世いろいろの解釈のもと論ぜられてきた。二分法(dichotomy)は、race courseなどとも呼ばれるが、アリストテレスはもっとも力を入れ、繰り返し論じている。「アキレスと亀」は、もっとも遅い者の代表として、ウサギとカメの[[イソップ寓話]]の連想から古くから亀の名が登場している。
=== 二分法 ===
「まず第一の議論は、移動するものは、目的点へ達するよりも前に、その半分の点に達しなければならないがゆえに、運動しない、という論点にかんするものである」<ref name="arist1"></ref>。この文は二通りに解釈しうる。
====前進型解釈====
目的点の半分の点にまで到着したとしても更に残りの半分の半分にも、到着しなければならない。更にその残りの半分にも同様、と到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着しない。だから運動はない、と見る解釈。
====後進型解釈====
目的点の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。更にその前の半分にも同様、と限りなく先に着いているべき点があり、一歩も進み出得ない。だから運動はない、と見る解釈。
:古代から後退型の解釈が優勢であったが、アリストテレスは、これはアキレスと亀と同じ論法であると述べていることからも、前進型と解していたと見られる<ref>山川偉也『ゼノン4つの逆理』第3章p89より。前進型・後退型も同書による。講談社刊 ISBN 4-06-206400-6</ref>。
=== アキレスと亀 ===
<blockquote>
走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である<ref name="arist1"></ref>。
</blockquote>
あるところに[[アキレウス|アキレス]]と[[カメ|亀]]がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか<ref>[[イリアス]]においてアキレスの枕詞の一つは「駿足の」である</ref>なので亀が[[ハンディキャップ]]をもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。
スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
ゼノンのパラドックスの中でも最もよく知られたものの一つであり、多数の文献は彼の手に帰しているが、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]が引く[[パボリノス]]の説によれば、この議論を創始したのは[[パルメニデス]]であるという<ref>{{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス|translator=加来彰俊|year=1994|title=ギリシア哲学者列伝(下)|publisher=岩波書店|isbn=4-00-336633-6|pages=110, 117}}</ref>。
その議論やキャラクターの面白さから、アキレスと亀という組み合わせは、この論自体とともに多くの作家に引用された。たとえば、[[ルイス・キャロル]]の『[[亀がアキレスに言ったこと]]』や、[[ダグラス・ホフスタッター]]の啓蒙書『[[ゲーデル、エッシャー、バッハ]]』に主役として登場する。
=== 飛んでいる矢は止まっている ===
<blockquote>
もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれは言うのである。<ref>『自然学』第6巻第9章 239b5-</ref>
</blockquote>
アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べている。この言から、ゼノンも「時間が瞬間より成る」を前提としていると解される。瞬間においては矢は静止している。どの瞬間においてもそうである。という事は位置を変える瞬間はないのだから、矢は位置を変えることはなく、そこに静止したままである。ゼノンの意が単純にこうであったのかは確定的な事ではない。
=== 競技場 ===
第四の議論としてアリストテレスの伝えるところは、先の三つとは異なり、ゼノンの論として不明確なところがあって、解釈が分かれる。
====アリストテレスによる説明====
<blockquote>
第四の議論は、競走場において、一列の等しい物塊の傍を、反対方向に、一方は競走場の終点から、他方はその折返し点から、等しい速さで運動する二列の等しい物塊にかんするものである。この議論では、ゼノンは、半分の時間がその二倍の時間に等しいという結論になると思っている。ところで、この論過は、等しい大きさのものが自分と等しい大きさのものの傍を等しい速さで移動するさいには、後者が運動していても、静止していても、要する時間は等しいと考えているところにある。しかし、これは偽りである<ref>『自然学』第6巻第9章 239b33</ref>。
</blockquote>
「例えば」として、アリストテレスが以下に続ける文章は、解釈を加えたうえで、補わなければ意味が通らない<ref>『自然学』第6巻第9章訳者注</ref>。「列ΑΑ」と2物塊(或いは線分)で説明されているが、ここでは3ブロックに変え、事態を表す<ref>Stanford Encyclopedia of Philosophy, 'Zeno's Paradoxes', 3.4 The Stadium</ref>。
第一図 ''A'':競技場、''B'':右方向へ移動するブロック列RQP、''Γ'':左方向へ移動するブロック列XYZとして、初期状態は、''Β''と''Γ''の先頭PとXが''Α''の中間ブロックに並ぶ。
<pre>
A: ▲▲▲
B:RQP
Γ: XYZ
</pre>
第二図 ''B''、''Γ''それぞれが移動を開始し、次のように、''Β''の先頭Pが''A''の右端に、''Γ''の先頭Xが''Α''の左端に並んだとする。
<pre>
A: ▲▲▲
B: RQP
Γ: XYZ
</pre>
このとき、''B''、''Γ''それぞれは、''A''に対しては1ブロック分しか移動していないが、互いには2ブロック分移動している。この事態をゼノンは次のように説明している、とアリストテレスは言う。
{{Indent|''Γ''は''B''の傍らを2ブロック分移動したのに対し、''B''は''A''の傍らを1ブロック分しか移動していない。したがって、''B''の要した時間は、''Γ''の半分である。しかるに、''B''と''Γ''は共に''A''の終端に達しているのだから、''B''の要した時間は、''Γ''の要した時間に等しいはずである。すなわち、半分の時間はその二倍の時間に等しい、ということになる。}}
====諸種の解釈====
アリストテレスは、図式的に示すことで、相対的には倍速になることは自明であるとしている。では、ゼノンは相対速度を知らなかったのか。どう見るかで、解釈は分かれる。
*(1)アリストテレスの言そのままに、相対的な速度を知らず、一事象に二つの時間がある矛盾、との説をゼノンのものであると解する。あるいは、その説は、時間を等しいとするならば、''B''が''A''の傍らを通過する距離が、''B''が''Γ''の傍らを通過する距離に等しい、すなわち距離1=距離2という矛盾になる、とも受け止めうる。
*(2)アリストテレスは伝えていないが、2分割と同様の議論を含めていたとの見方もある<ref>山川偉也『ゼノン4つの逆理』第1章37頁</ref>。
以上とは異なり、原子論的見解に対する論難であるとする解釈も多くなされる。ゼノンが上記の説明図を基に論じたとして、時間・空間が不可分割な単位を持つとする見解は、次の様なパラドックスをもたらす、と解する。
*(3)1ブロック分の移動に1最小単位時間を要するとするなら、''B''は、''A''に対し1単位時間、''Γ''に対し2単位時間を要することになり、1単位時間=2単位時間という矛盾である。あるいは、時間を等しいとすると、''A''に対する距離(ブロック数1)と''Γ''に対する距離(ブロック数2)とが等しいことになる。
上図に現れない次の第三図のケースを問題としていたとする解釈もある<ref name="Russ1">ラッセル「第六講 歴史的に見た無限の問題」『外部世界はいかにして知られうるか』ISBN 4124006802</ref>。下図の位置に関して、論理的には二種の解釈がありうる。
*(4)時間が、不可分な最小単位時間から成るとし、第一図から第二図へが1最小単位時間の移動であるとするなら、第三図に於ける
** PとYあるいはQとXが並ぶ瞬間▽は存在しない、ということになる(相対運動に於ける時間の不連続性を容認)。
** あるいは、在るとするなら、最小単位時間に挟まれる瞬間▽がなければならず、不可分の最小単位時間と矛盾する。
*(5)距離(延長)が、不可分な最小単位から成るとし、第一図から第二図へが1最小単位距離の移動であるとするなら、第三図に於ける
** PとYあるいはQとXが並ぶ地点▽が存在しない、ということになる(相対運動に於ける空間の不連続性を容認)。
** あるいは、在るとするなら、分割点▽が存在しなければならず、不可分な最小単位距離と矛盾する。
第三図 ''Α''の3ブロック▲の間▽に、''B''のブロックQと''Γ''のブロックXが並ぶ、あるいは''B''のブロックPと''Γ''のブロックYが並ぶ
{{Indent|''A'': ▲▽▲▽▲ }}
{{Indent|''B'':R Q P}}
{{Indent|''Γ'': X Y Z}}
== 運動のパラドックスの数学的解説 ==
ゼノンの指摘は運動を位置関係で捉えているが、後世の数学はそれらを時間と距離との関係として捉え返す。以下は、1次元実数空間上の運動であると仮定する。
===二分法 ===
異なる二点に中点が存在することだけで、目的点に着かないと論ぜられている。数学的にみるなら、運動としての条件が不足している。加えられる仮定によっていくつかの事例が生まれ得る。
;前進型解釈
:時間項を入れ、運動速度を勘案すると、二種類の事例がみられる。
:*'''目的点に着かない例'''、減速運動で、半分の点に着くと速度も半分になるとする。次の半分の半分の点に着くと更に速度も半分と、次々と減速していく運動であるとする。各々の過程は直前の半分の距離を半分の速度で運動するのだから、各過程の経過時間は同一になる。したがってその積算は、無限大に発散する。よって、決して静止しないにも拘わらず、到着には無限の時間が必要となる。
:アリストテレスは、「有限な線距離を無限な時間において運動することは不可能である、」<ref>『自然学』第6巻第7章237b24</ref>と断定しており、この事例には考えが及ばず、それはアキレスの件の考察にも関わる。
:*'''目的点に着く例'''、運動が等速度とするならば、半分、更に残りの半分の半分と進行していく各過程の経過時間の積算は、[[コーシー列]]となる。よって積算は[[上限 (数学)|上限]]を持ち、到着すると言いうる。
:
===アキレスと亀===
二つの条件(亀がアキレスの前からスタートする、亀はアキレスより遅い)の下において、追付くか否かが問題とされている。純粋に数学的に見れば、この条件下では、それは定まらない。ゼノン式に捉えたとしてもそれは同じである。従って、ゼノンの誤りは、何れとも決せられないことであるのに、一方を断じていることである。そのことは、アリストテレスを始めとする、ゼノン式の捉え方そのものが問題を孕むのだとする論議は、追付かないケースもある事を見ていない限りにおいて、何処かに問題を孕んでいる可能性があることを示唆している。
*'''追付かない事例'''は、亀がアキレスより遅い事を維持しつつ、両者の速度差が急速に縮まる設定にすれば、亀に追いつくまでのゼノン式捉え方での時間の積算が発散する事例を作ることが出来る。この事例は、古代ギリシャ時代の数学では困難であったかも知れない。
*'''追付く事例'''も無数に作りうる。例えば、両者がそれぞれ等速度で動くと仮定すると、亀に追いつくまでの時間のゼノン式捉え方での各過程の経過時間の積算はコーシー列となる。よって上限を持ち、追付くと言いうる。この仮定の下での計算例を、以下参考に示す。
<div style="font-size:smaller; margin-left:1.5em">
アキレスの走行速度を ''v'' m/s、亀の歩行速度を ''rv'' m/s とし、亀はアキレスより ''L'' m 前方にいるとする。亀の歩行速度はアキレスの走行速度よりも小さいので、0 < ''r'' < 1 である。両者が同時にスタートして、アキレスが亀の出発点まで到達する時間は (''L''/''v'') s である。その時亀はアキレスより ''rv'' × ''L''/''v'' = ''rL'' m 前方にいる。そしてアキレスがその位置まで到達するのはさらに (''rL''/''v'') s 後であり、その時亀はさらに ''r''<sup>2</sup>''L'' m 前方にいる。以下同様にそれを繰り返していくと、アキレスが亀の位置まで到達する時間の合計は
<math display="block">\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\cdots</math>
となる。つまり、項が無限に続き、「常にいくらかずつ先んじて」いるかに見える。
これは初項 ''L''/''v'', 公比 ''r'' の[[等比数列]]で、''n'' + 1 項までの部分和(=各経過時間の積算)は
<math display="block">\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\dotsb+r^n\frac{L}{v}= \frac{1-r^{n+1}}{1-r}\frac{L}{v}</math>
となる。ここで ''n'' → ∞ とすると、0 < ''r'' < 1 であるので、''r''<sup>''n''+1</sup> → 0 となる。つまり無限[[級数]]
<math display="block">\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\cdots</math>
の[[総和|和]]は <math>\frac{1}{1-r}\frac{L}{v}</math> (=各経過時間の積算の上限)となる。このように級数の[[収束]]の問題に還元される。
なお、最後の計算結果は、「アキレスが ''t'' 秒後に追いつく」として立てられる1次方程式
<math display="block">vt=L+rvt</math>
の解と一致している。
</div>
===飛んでいる矢は止まっている===
アリストテレスは、時間が「不可分割的な今から成るのではない」<ref>『自然学』第6巻第9章239b9</ref>としてゼノンを否定する一方、「今においては運動も静止もありえない」<ref>『自然学』第6巻第8章239b2</ref>として、疑似的な論議と見ている風もある。数学的に見れば、瞬間においては運動も静止もないと見ることも可能であるが、同時に、[[運動方程式]]は瞬間における速度を示し得るのであって、言葉の定義の問題に過ぎない。しかし、前者の否定は成り立たない。時間が瞬間より成るとしても、運動は否定され得ない。時間が[[連続]]体であれば、時間が瞬間=点よりなり、矢が瞬間=点においては静止しているとしたとしても、動くことは出来る。近代[[解析学]]においては、ゼノンの結論は否定されるが、アリストテレスの論議も否定される。
==哲学的解釈==
ゼノンの議論は、プラトンが伝えるように、当時から哲学者たちに注目されて来た。いかなる価値があると見るかは別として、歴史上そうそうたる顔ぶれによって取り上げられ、論じてられて来た。どの議論を取り上げるか、またそれが何を論じていると見るかなど、解釈の違い、関心の持ち方はさまざまではあったが、特に運動のパラドックスは、多様な論議が古代から現在まで続いている。
===アリストテレス===
アリストテレスは著書でゼノンの議論をいくつか取り上げているが、後世もっともよく論じられたのは運動のパラドックスに関するものである。アリストテレスは、運動の否定という結論は退けるが、[[連続]]に関わって、運動は時空間が無限分割可能であるとして捉えうるとの論証を支える一つとして、ゼノンの議論を持ち出している。すなわち、否定されるのは運動ではない。パラドックス(飛ぶ矢)の成立は、不可分割的な長さ・時間という前提がある故であるから、その前提が否定される、としている。しかし、分割が無限に可能ならば、無限の問題を解かなければならない。彼は、
<blockquote>
ゼノンの議論も、有限な時間において、無限なものども〔点〕を通過することができない、あるいは、無限なものどもと一つ一つ接触することができないという誤った仮定に立っているのである。…有限な時間においては、…分割にかんして無限なものどもと接触することはできる。<ref>『自然学』6巻2章233a22-8</ref>
</blockquote>
と言い、無限分割される空間には無限分割される時間が対応する、とする。つづけて彼は、有限なものには有限な時間で通過できるとの論証を試みている<ref>『自然学』6巻2章233a31-b13</ref>。彼は、それに留まらず、更に別の観点で、
<blockquote>
人々は、或る距離の「全距離を通過したとすれば、無限な数を数えおえたことになるだろうが、これが不可能なことは広く承認されているところである、と考えるのである。<ref>『自然学』8巻8章263a10</ref>」
</blockquote>
と言い、これに答えて言う。一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、「運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」
<blockquote>
それゆえ、時間においてにせよ、長さ〔距離〕においてにせよ、無限なものどもを通過することができるかどうかを質問する人にたいしては、或る意味ではできるが、他の意味ではできないと答えるべきである。すなわち、無限なものどもが完全現実的にあるとすれば、それらを通過することは出来ないが、可能的にあるとすれば、通過することが出来る。というのは、連続的に運動する人は、付帯的な意味で無限なものどもを通過し終えたのであって、無条件的な意味で通過し終えたのではないからである。というのは、半分なものどもが無限にあるということは、線にとっては、付帯的なことに過ぎず、その実体すなわちそのあり方は、それとは異なっているからである。<ref>『自然学』8巻8章263b5-9</ref>
</blockquote>
と、論じている。<div style="font-size:smaller">ただし、これは、ゼノンへの回答としての閉じたものではなく、
<blockquote>
以上述べた議論や何かそれに類した議論は、直線運動は連続的ではなく円運動のみが連続的でありうるというここでの論点を人が確信するための適切な議論であると言えよう。}}<ref>『自然学』8巻8章264a7</ref>
</blockquote>
としている。</div>
===近代まで===
{{sectstub}}
*[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。<!--しかしてこの線より狭く薄いものは何一つ存在し得ない。-->線の極限は<!--二個の-->点である。次に面は線の<!--横ざり-->運動から生れ、<!--これより薄いものは何一つ存在し得ず、-->そしてその極限は線である。立体は(面積の)運動によって作られる。(そしてその極限は面である)(「手記」)」と語っている。
*[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]は「持続が瞬間から成るとの主張は、悟性によって把握される不可分な無限の量、表象能力によって把握される可分的な有限の量の両者が区別されないことに基づく」と指摘している<!--エチカ1定理15備考、書簡12-->。
*[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]はゼノンの議論を認めた上で、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾である<ref>『大論理学』第二巻本質論第一編第二章C</ref>ということであるとしている。
===バートランド・ラッセル===
数学上の問題が一段落したのち、新たな見解がいくつか提案された。その一人、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]は、
<blockquote>
したがって、ゼノンの議論は空間と時間とが点と瞬間で構成されているという見解に向けられているのであって、空間と時間の有限のひろがりは、有限の数の点と瞬間からなっているという意見に対する反論と同じように、ゼノンの論証は詭弁ではなく、まったく正しいのである、と私たちは結論することが出来る。<ref name="Russ1"></ref>
</blockquote>
と言う。そして、逃れる道は、
<blockquote>
(1)空間と時間は点と瞬間で構成されているが、有限の空間的あるいは時間的区間に含まれる点や瞬間の数は無限であると主張するか、(2)空間と時間が点と瞬間で構成されていることを否定するか、(3)空間と時間の実在性を全面的に否定するか、といういずれかの方法に依らなければならない。<ref name="Russ1"></ref>
</blockquote>
ラッセルは(1)の見地から、歴史上のゼノンが考えていたかはさておいて、たとえばと、アキレスと亀を再解釈し、
<blockquote>
時間の系列から見ると、アキレスと亀は1対1に対応する。もしアキレスが亀に追いついたなら、亀の通過した場所とアキレスの場所が1対1に対応する。すなわち異なる距離が1対1に対応するということになる。<ref name="Russ2">ラッセル「五、数学と形而上学者たち」『神秘主義と論理』ISBN 4622074257</ref>
</blockquote>
このパラドックスは、集合論に於ける無限の定義によって、初めて厳密に解消された、と。ただしここでラッセルの言う無限とは、[[基数]]としてであって、単なる「限りが無いこと」ではない。飛ぶ矢については、
<blockquote>
私たちは、矢が飛んでいる時には'''次の'''瞬間に矢が占める'''次の'''位置があるという想定を避けることは難しいと考えるのであるが、実際は、次の位置も次の瞬間も存在しないのである。<ref name="Russ2"></ref>
</blockquote>
ゼノンの指摘の通り、矢はある時刻にある位置にいる。だからといって動かないのではなく、「運動とは、時間と場所とに相関があって、異なった時点において異なった位置を占めること<ref>{{Harv|Russell|1903|loc=chap. 54. §446}}</ref>」に過ぎない、とラッセルは言う。
===アンリ・ベルクソン===
{{sectstub}}
ラッセルの言う(2)の見地から論じた者としては、[[アンリ・ベルクソン|ベルクソン]]が第一に挙げられる。
『[[アンリ・ベルクソン#『物質と記憶』|物質と記憶]]』第四章にて、ゼノンの間違いは、動体が描いた軌跡によって表される線分及びそこから切り出されうる無限の点の性質でしかない不動性を、動体自体の性質に割り当ててしまうことにあるという。その線分はたしかに流れ「終わった」持続を表しはするものの、流れ「つつある」持続や流れ「ている」持続の性質はもはや表さないものである。<ref>アンリ・ベルクソン著・杉山直樹訳「知覚と物質」「第四章 イマージュの限定と固定について」『物質と記憶』(2019)p271-278、講談社</ref>
===ギルバート・ライル===
[[ギルバート・ライル|ライル]]は、「アキレスと亀」に関して、追いつく事例においてゼノンの論が如何にして追いつかない様に見せているかを論じ、一つの解決を示した、とする。ケーキカットを例にとって、彼は説明する。常に一切れ残るように切れという指示であれば、キリがないと見えるが、それは残り一切れを足すとケーキ全体ができあがる点を見逃している。ゼノンの議論からすると、アキレスは亀との相対速度を知らず、常に前に居ると思わされている。「私たちはアキレスの眼を通してレースを見るように誘導されることによって、その知識〔ゴールまでの一部が残るだけであること〕を冷凍冷蔵庫に入れるように仕向けられたのである。」ゼノンの言う'''決して追いつかない'''と、数列の和が'''決して収束値に達しない'''とはまったく異なった意味である。<ref>ライル「第3章アキレスと亀」『ジレンマ 日常言語の哲学』(1954)、篠澤和久訳(1997)、勁草書房 ISBN 4-326-19896-6</ref>
===大森荘蔵===
[[大森荘蔵|大森]]は、「運動の時間的連続性がある限りゼノンの論法を避けることはできない。<ref>大森荘蔵「刹那仮説とアキレス及び観測問題」『時間と自我』青土社, 1992.3. ISBN 479175171X</ref>」と論じ、続けて、「点運動とは矛盾を含んでいる」、「幾何図形の運動とは矛盾概念なのである。<ref>”四 幾何学の図形の運動は矛盾”、「幾何学と運動」『時間と存在』青土社 , 1994.3 ISBN 4791753054</ref>」とする。従って、点運動にもとづくゼノンの論法は、この矛盾として解消される。物理学・工学がこの矛盾から逃れているのは、それらが運動をではなく、静止図を扱っている限りであるに過ぎない、と言う。その'''点運動の逆理'''とは、点Xが動くということは、同一の点Xが始めは点Aと同一で、終わりには点Bと同一である、と言うことである。この逆理は、'''点時刻概念'''によってもたらされる<ref>”三 飛ぶ矢の逆理”、「ゼノンの逆理と現代科学」『時間と存在』</ref>。それは、線形時間の刻み目として考えられたもので、経験的実用時間の「基準となるように考えられた'''理論的時間'''なのである。」「一言で言えば、この理論的時間は基本的自然法則を成り立たせるように'''思考された'''時間である。...それ故に科学理論の中では飛ぶ矢の逆理は生きているはずである。」「科学に飛ぶ矢の逆理から激しい症状が起きる可能性は常にある。<ref>”七 点時刻関数”、「ゼノンの逆理と現代科学」</ref>」と言う。
===スーパータスク論===
[[級数]]による「解決」或いはラッセルの言う無限数の導入によるという数学的な捉え方に対して、いくつかの疑問が提出される。[[マックス・ブラック]]<ref>Black, Max (1951). 'Achilles and the Tortoise,' ''Analysis'', 11, pp. 91–101.</ref>等は、[[スーパータスク]]・無限作業の問題を提出する。[[トムソンのランプ]]など、無限の作業が完了したとすると説明の付かない事態が出来する。二分法に於いて、前進型で目的点に到着するケースにあたる無限数列Z={0,1/2,3/4,7/8,...}は、上限が1である。Zの各数に順にオンオフを対応させるとすると、上限1において到着するというならば、その時それはオンなのかオフなのか。どちらでもあり得ない、と{{仮リンク|ジェームズ・F・トムソン|en|James F. Thomson (philosopher)}}は言う。この例が、スーパータスクの自己矛盾性を証明しているか否かは、見解が分かれる。
*[[ポール・ベナセラフ]]は、スーパータスク自己矛盾論者を、現代のエレア派と名付ける。「無限作業の完了」が、何を指しているかというところに難点があるとする。無限数列Zの各項に規定された関係が、上限においても規定されるとは論理的には言えない。従って、自己矛盾であるとの証明はなされていないと、彼はスーパータスク論を批判する。{{sfn|Benacerraf|1962}}
*[[野矢茂樹]]は、「時間・空間はそれ自身が語られる対象ではなく、何ごとかを語り出す形式にほかならない。」と言い、「点的な語り方では運動は語れない」とする一方、この無限作業の不可能性から次のように結論する。ゼノンが要求するのは、運動の記述として不可能なものであり、運動そのものは別様の表現が可能なのである。ゼノンの議論に従うなら、つまり無限分割の語りに従うならば、自然数を数え尽くすか、あるいは追い抜けないことになるかのどちらか、と見えるのは、その語り方の欠陥であるに過ぎない。「それはいささかも運動の不可能性を証明しはしないのである。」「運動と運動の語りを区別する観点」から、運動に対するゼノン式の記述の不可能性が示されたことを以て「アキレスと亀」はケリが付いた、<ref>野矢茂樹「アキレスは亀を追い抜けないのか」「アキレスと亀のパラドックスにけりを付ける」『他者の声 実在の声』産業図書 (2005/07) ISBN 4782801548</ref>と。[[青山拓央]]は、しかし、野矢やライルは追いつくケースしか見ていない。言わば論点先取の議論である、<ref>青山拓央、「[https://doi.org/10.4216/jpssj.43.2_8 アキレスと亀:なぜ追いつく必要がないのか]」『科学哲学』 2010年 43巻 2号 p.2_81-2_94, {{doi|10.4216/jpssj.43.2_81}}, 日本科学哲学会</ref>と評する。
===経験・観測の問題として===
*[[ウィリアム・ジェームズ]]は言う。「ゼノンやカントの論理的矛盾は、定義によって、無限な項の系列が終点に到達しうるまでのあいだ継続的に数えられねばならない場合には常に真理である。」「ラッセルの説は真の困難をたくみにそらしているように思われる。」ラッセルは競争が終わったところから問題を見ているが、真の困難は「通過せねばならない間隔が永久に再生産され続けて進路を阻んでいる場合に、目標点に到達すること」に他ならない。連続量の持つ無限という問題を避ける手っ取り早い方法は、そうした概念を捨てること。「現実の変化の過程を連続的過程として扱うのでなく、有限な、無限小ではない段階によって起こるものとして扱えばよい。<ref>ジェイムズ「第11章連続と無限(二)」『哲学の根本問題』(1921)上山 春平訳、『世界の名著48』中央公論 (1968) ISBN 4124001282</ref>」
*[[中村秀吉]]は、ジェームズに同意し、「自然はある意味で、無限の分割を嫌う。」「われわれは『自然は飛躍せず』のモットーを運動に具体化することによって、無限の操作を'''現実に'''必要とするような事態を経験的世界から放逐することができる。こうしてゼノンの分割とアキレスと亀のパラドックスは成立しなくなるのである。」というのも、無限数列Zの各項にオンオフを対応させる無限に振動する連続関数はある。しかしそれは、上限において連続であっても、導関数は上限において連続にならず、実在の運動ではないと言える。<ref>中村秀吉「第12章ゼノンのパラドックス(2)」『時間のパラドックス』中央公論(1980) ISBN 4121005759</ref>
*[[無限小|無限小量]]によって運動を捉えることができると、{{仮リンク|ウィリアム・マクローリン|en|William I. McLaughlin}}とミラー(Sylvia L. Miller)は言う。時空間を、[[超準解析]]の定式化の一種である{{仮リンク|内的集合論|en|Internal Set theory}}の中でモデル化することで、ゼノンの論駁から逃れる運動論を展開できる、とする。認識論的原理として次のものが置かれる<ref>McLaughlin & Miller, 'An Epistemological Use of Nonstandard Analysis to Answer Zeno's Objections Against Motion', ''Synthese'', Vol. 92, No. 3, pp. 371-384</ref>:
# 物体が位置することのできる時空間の各点は実数値の座標によって記述される。ただし、我々は内的集合論の中でモデル化しているから、実数の中には無限小や無限大といった超準的な実数も含まれている。
# 物体が超準的な座標を持つ点に位置するとき、その対象の位置は確証できない。例えば、物体が零でない無限小の空間座標を持つ位置にあるとき、その物体は空間座標 0 の点に位置すると我々は誤解するかもしれない。
# 物体の運動は区別可能な2点に位置することによって確証される。例えば、物体の空間座標が(異なる時点に於いて) 0 から正の無限小に変化するとしても、その物体が運動していることは確証されない。しかし、0 から 1/2 に変化するならば、その物体が運動していると確証できる。
{{Indent|この原則に基づけば、「私たちが観察できない状況に対しては説明する責任がない」、「チェックポイントの列の外にある微小世界での運動に関する仮説が成り立つ余地があり、...運動という考えを追放する理由はない。<ref>マクローリン「ゼノンのパラドックスを解く」有沢誠訳『日経サイエンス』1995年1月号</ref>」と主張する。[[山川偉也]]は、しかし、このような議論では、「ゼノンを論駁できないと思います<ref>「始原としてのギリシャ/山川偉也+野家啓一」『現代思想』青土社1999.8号; ISBN 978-4-7917-1049-2</ref>」と評する。}}
*ゼノンの議論が提起する問題を、論理的・数学的なものと限定せず、物理的・実在的過程の問題でもあるとして、あるいは多のパラドックスと関係づけて、意味のあるものとして捉えようとする論考は、他にもいくつか提出されている。{{仮リンク|アドルフ・グリュンバウム|en|Adolf Grünbaum}}<ref>"Modern Science and Zeno's Paradoxes", Allen & Unwin (1968/11) ISBN 0045130043</ref>、とか{{仮リンク|ウェスリー・サモン|en|Wesley C. Salmon}}<ref>"Zeno's Paradoxes", Hackett Pub Co Inc; ISBN 0872205606</ref>らを挙げることができる。
==その他==
[[量子力学]]において、ある確率で[[放射性崩壊]]を起こすはずの不安定な[[原子核]]が、完全に連続した[[観測問題|観測]]の下では崩壊を起こさないことを(ゼノンの議論と直接の関係はないものの)[[量子ゼノンパラドックス]]と呼んでいる。また、実際に、非常に短いスパンで観測を行うと、原子核が本来予測されるよりも低い確率で崩壊することが実験で確かめられている。これは[[量子ゼノン効果]]と呼ばれる。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
==参考文献==
* 藤沢令夫「運動と実在 ゼノンの運動論駁をめぐって」『藤澤令夫著作集』第1巻、岩波書店2000;ISBN 4-00-092411-7
* Richard M. Sainsbury『パラドックスの哲学』市ノ瀬正樹訳、勁草書房1993;ISBN 4-326-15277-X
* Joseph Mazur『ゼノンのパラドックス』松浦俊輔訳、白揚社2009;ISBN 978-4-8269-0152-9
* {{Citation|last=Russell|first=Bertrand|year=1903|title=The Principles of Mathematics|location=Cambridge|publisher=Cambridge University Press|url=http://fair-use.org/bertrand-russell/the-principles-of-mathematics/}}
* {{cite journal|title=Tasks, Super-Tasks, and the Modern Eleatics|first=Paul|last=Benacerraf|journal=The Journal of Philosophy|volume=59|issue=24|year=1962|pages=765–784|jstor=2023500}}
==関連項目==
* [[亀がアキレスに言ったこと]] - 「ゼノンのパラドックス」を引き継いだ[[ルイス・キャロル]]によるパラドックス
* [[名家 (諸子百家)]]
* [[ナイトライダー]](アメリカのテレビドラマ)- シーズン1第8話「激闘!善と悪2台のナイト2000」において、マイケル・ナイトの相棒ナイト2000に搭載された人工知能K.I.T.T.(キット)が、自身のプロトタイプであるもう1台のナイト2000「K.A.R.R.(カール)」と戦えばどうなるかについて分析し、「もしK.A.R.R.が私と同等のパワーと頑健さを備えているなら、ゼノンのパラドックスが成立します」と述べている。また中国の故事「[[矛盾]]」も例に挙げ、自分とK.A.R.R.がぶつかり合った結果は「誰にも分かりません。誰にも」と答えている。
== 外部リンク ==
{{SEP|paradox-zeno|Zeno's Paradoxes}}
{{パラドックス}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:せのんのはらとつくす}}
[[Category:ギリシア哲学]]
[[Category:哲学的パラドックス]]
[[Category:思考実験]]
[[Category:スーパータスク]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:エポニム]]
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米内光政
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米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。
連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。
1880年(明治13年)、岩手県南岩手郡三割村(現:盛岡市)に旧盛岡藩士・米内受政の長男として誕生する。
1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。同期生には高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがいる。兵学校では「グズ政」というあだ名がついた。
当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは詰め込み式教育が当然だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという。
1901年(明治34年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、練習艦「金剛」乗り組み。1903年(明治36年)、任海軍少尉。
1905年(明治38年)、日露戦争に従軍。第三艦隊第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の駆逐艦「電」乗組み。海軍中尉。日本海海戦に参戦。1906年(明治39年)、功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。1912年(大正元年)、任海軍少佐。海軍大学校甲種学生12期。1914年(大正3年)海軍大学校卒業。旅順要港部参謀。
1915年(大正4年)2月、ロシア帝国サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は『ラスプーチン秘録』というロシア語で記述されたルポを翻訳したりしている。
1916年(大正5年)、任海軍中佐。1917年(大正6年)4月、ロシア駐在を免ぜられる。1918年(大正7年)8月、ウラジオストック駐在。ロシア革命の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。1919年(大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられ、海軍大学校教官。12月、軍令部参謀。1920年(大正9年)6月よりベルリン駐在。12月、任海軍大佐。1921年(大正10年)、ポーランド駐在員監督。1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。米内はニュージーランドの小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I am very glad to see you, thank you.」としか話さなかった。
1924年(大正13年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将、第二艦隊参謀長。当時の司令長官は谷口尚真であるが、谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを要求したため米内が「河の水魚棲むほどの清さかな」という句を贈っている。谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。1926年(大正15年)、軍令部第三班長。1927年(昭和2年)、第四水雷戦隊司令官。特別大演習に参加。1928年(昭和3年)、第一遣外艦隊司令官。
1930年(昭和5年)、任 海軍中将、鎮海要港部司令官。この役職は「首5分前」と言われた閑職であり、鎮海要港部司令官を最後に予備役に編入された例が多かった。米内は読書三昧の日々を過ごしたという。
鎮海要港部司令官に在任中の米内は現役を離れることを覚悟しており、実際に海軍は米内を予備役編入する予定であった。しかし、海軍政務次官を務めていた政治家の牧山耕蔵(米内と面識があった)がそのことを知り、米内を現役に残すように東郷平八郎に掛け合ったことで、米内は予備役編入を免れた。
1932年(昭和7年)、第三艦隊司令長官に親補される。米内はインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した。米内の兵29期同期生で、海軍次官(人事権者である海軍大臣を補佐する)を務めていた藤田尚徳は、同じく兵29期同期生である軍令部次長・高橋三吉と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1か月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている。
幕僚の保科善四郎によれば、砲艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。米内を辞めさせてはならないと考えた保科は、電報を打ったフリをして独断で握り潰した。この措置がなければ後に日本は本土決戦に突入することになった、と保科は語っている。
1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に親補される。友鶴事件が発生し、査問委員会の一人として佐世保に米内を訪ねた森田貫一機関中将に対し、米内は徹底した調査を求めた。調査の結果、設計上の問題が判明し、強度不足の艦艇は改造されることになった。こうした結果を出せたのは、米内が保身に走らなかったからだと森田は評している。1934年(昭和9年)、第二艦隊司令長官に親補される。
1935年(昭和10年)、横須賀鎮守府司令長官に親補される。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件発生の際、米内は柳橋の待合茶屋に宿泊しており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰った。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。
12月1日、連合艦隊司令長官に親補される。
1937年(昭和12年)2月2日、林内閣の海軍大臣に就任。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2か月で退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。当初、林銑十郎は海相に末次信正を望み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は前海相・永野修身に米内を強く推し、軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定した。米内は山本を次官に留任させている。軍務局第一課長だった保科善四郎によれば、「広田内閣崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取った」という。永野からの招電は、米内が横須賀を出港するわずか1時間前であった。
4月、海軍大将に親任される。海相の初期には、見かけだけ立派な大臣、という皮肉をこめ「金魚大臣」と渾名がついた。
大臣秘書官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。
海軍大臣を務めていたころ、年末になると海軍からはボーナスが、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内は笑顔で受け取ったという。
休日返上で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の古賀峯一などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食していたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官を全て解任にしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは悪戯ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたという。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と「消極的だった」と記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。
中国・華南でハンセン氏病に罹患した兵が、戦闘ではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。
下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は大蔵大臣・結城豊太郎に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決した。
1937年(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。
8月9日に第二次上海事変が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。1938年(昭和13年)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、「蔣介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながった。1月15日の大本営政府連絡会議において、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた。これは中国における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。
11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった。
1939年(昭和14年)1月5日、平沼内閣でも海相に留任した。
海軍次官山本五十六、軍務局長井上とともに、ナチス・ドイツ及びイタリア王国との日独伊三国軍事同盟に反対する。日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった。
8月、五相会議の席上で、「同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうか」と大蔵大臣・石渡荘太郎から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという。
米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。
同年に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
平沼内閣の総辞職により海相を辞任して軍事参議官となる。
1940年(昭和15年)1月16日、阿部信行予備役陸軍大将の後任として第37代内閣総理大臣に就任する。
内大臣の湯浅倉平は米内首相就任の実現に大いに働いている。
なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。
1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一、斎藤実、岡田啓介、林銑十郎、阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は山縣有朋ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だった(米内以後に首相になった軍人4人のうち、東條英機、東久邇宮稔彦王は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまった。残りの小磯国昭、鈴木貫太郎は大命降下時予備役であった)。
海相吉田善吾らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は「総理が現役将官であることは統帥権を干犯することに繋がりかねない」と言ってこれを受け入れなかった。米内が予備役となったことは、軍令部総長伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。
就任直後の1月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス海軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を臨検、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生した。世論がイギリスを非難する中、米内はドイツ人船客の解放を巡ってイギリスと難しい交渉を行うことになった。
一方、5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は日独伊三国軍事同盟の締結を目指し、外交一新を掲げ、倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。米内内閣は、三国軍事同盟を締結すれば対英米開戦が必至になるとして反対していた。陸軍は米内と対立、陸軍大臣畑俊六を辞任させ、同年7月22日に米内内閣を総辞職に追い込んだ。後継政権には、首相経験のあった公爵近衛文麿が再就任し、第2次近衛内閣が成立した。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。米内は畑の疲労し切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。
総理大臣を辞任した直後に、栃木県日光市を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は いはぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「ねたふりを しても動くや 猫の耳」という句(川柳)を詠んでいる。
米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が設立された。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会(いちろくかい)」と名付けられ、戦後も長く行われ平成期になっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫、入江籌直などがいる。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と言ったという。
総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりした。日本では総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが一般的であるため、公共交通機関を利用して通院した戦前の総理は米内くらいだったという。海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使用して、国民の顰蹙を買っていたりしていた。
9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官山本五十六は、海相及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。
1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友山本五十六の国葬委員長を務める。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった。米内は『朝日新聞』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている。
1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。
軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は、海軍次官の岡敬純を「一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉妹は井上の兄・井上達三に嫁いでおり、米内、井上には私的にもつながりがあった。
米内の現役復帰を画策した岡田啓介は、「米内を円満に海軍へ復帰させるには、海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要がある」との声を受けたため、岡田は藤山愛一郎の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。末次信正と米内の関係は、過去に宴席で五・一五事件に対する責任などで口論となるなど険悪であった。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対などのためにそれっきりとなってしまった。「軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうか」と米内に勧める者もいたが、米内は応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており、末次の総長人事には熱意を持っていた。結局軍令部総長には及川古志郎が就くこととなった。
12月3日、神雷部隊を視察し、飛行場で閲兵式を行う。
1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞職し自分が留任するというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木に申し入れていたのだった。
5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉について、「ソ連からの援助を引き出すべきだ」と主張したが、「ソ連を軍事的経済的に利用できる段階では、もはやない」と外務大臣・東郷茂徳に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソ連に対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。
5月25日の空襲で海軍省と大臣官邸が焼失してしまい、麻生孝雄海軍大臣秘書官が堤康次郎所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。この空襲では明治宮殿も焼失し、翌日参内した際の天皇の態度から、米内は和平に向けた意志を読み取った。
5月末の会議で一勝の後に終戦とすることを主張した陸軍大臣・阿南惟幾に対し、米内は早期講和を主張した。
6月9日の鈴木による議会での発言(天罰発言事件)を継戦派の議員が2日後に問題視したことで国会は混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。これにより、米内は議会の内閣に対する姿勢を問題視して辞意を表明したところ、阿南から辞意を思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れた。
ソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦を決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言が発表される。東郷は受諾の可能性を主張するが、阿南をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、原子爆弾投下とソ連の対日参戦という新たな事態が発生した。米内は連合国のポツダム宣言発表から鈴木の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。
原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し本土決戦を主張する阿南と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に決着はつかなかった。
8月9日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する。
8月12日、軍令部総長・豊田副武大将と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する帷幄上奏を行う。同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長・大西瀧治郎の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。
8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。
鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。
米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や吉田英三、豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。
米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿や細川護貞などに語った。
海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。
海軍省廃止の翌日の12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって...。これからは会う機会も少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、香淳皇后も別室で米内を涙ながらに厚く労っている。現在その硯は、郷里の盛岡市先人記念館に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して、硯のみ米内家の所有物として展示されている。
海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科はY委員会を通して現在の海上自衛隊創設に間接的に影響を与えており、後に衆議院議員となった保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。
戦後の極東国際軍事裁判では証人として1946年(昭和21年)3月と5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「陛下は、開戦に個人的には強く反対されていたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認された」と、昭和天皇の立場を擁護する発言に終始した。
その上で、満州事変・支那事変・日英米蘭開戦を推進した責任者として、土肥原賢二・板垣征四郎・武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、弁護側証人として出廷したときには、畑は他から圧力をかけられたのだと思うとして庇った。これは既に亡くなっていたが事件当時に陸軍参謀総長であった閑院宮載仁ひいては皇族の戦争責任を示唆しかねない問題であった。しかし、米内は畑を信じていたのか、畑の部下の名も挙げて陸軍全体の総意だったのではないかと、当時の新聞記事等を証拠品に追及する検事に対し、徹底的にしらを切り続けた。この間、検事の訊いていることに答えるようにとの裁判長の指示を無視して、たびたび自身のしたい否定発言ばかりを行い、裁判長ウィリアム・ウェブから「The prime minister is the most stupid witness I have ever listened to.(この首相は私がこれまで話を聞いた中で一番鈍感な証人だ)」と法廷で謗られている。一方で、首席検事ジョセフ・キーナンはむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない」と敬意を表したという。もっとも、米内の証言に対し、裁判長のウェッブは「本来なら信頼性のない証人として退場させるところだ」とも語っていて、キーナンにとっては新聞報道のほうがよほど信頼性があると受けとめられて好都合だった可能性もある。キーナンは翌月若槻禮次郎、岡田啓介、宇垣一成らとともに米内を招いてカクテルパーティーを開き、4人を「真の平和愛好者」と呼んだ。
マッカーサーは日本の占領統治で天皇を利用するため、昭和天皇の戦争責任を問わない方針を定めていたが、連合国の中には「天皇の戦争責任を問うべきだ」とする国もあった。そのためマッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ」と語ったと言う。
1946年(昭和21年)、公職追放となる(死去後の1952年追放解除)。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、小島秀雄元海軍少将や大臣時代の副官らと共に北海道釧路町の達古武湖付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。
1948年(昭和23年)、肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていたものの、帯状疱疹が寿命を縮めた。
昭和天皇が日本学士院を招いて催された昼食会で、天皇は小泉信三に、「雑誌に米内のことを書いたね」と語りかけた。小泉が『心』昭和24年1月号に寄稿した米内の想い出を読んでのことである。「拙文がお目に触れてしまいましたか」と小泉が恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と天皇は言う。それで陪食にあずかる他の参加者もそれぞれ米内の思い出話を紹介しはじめたが、やがて天皇は感慨深げに「惜しい人であった」と言ったきり口を閉ざしてしまい、このためその場は静まり返ったという。
米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像 が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていた。
身長五尺七寸(約173cm)、体重80kg。趣味は長唄。ロシア文学にも親しみ、プーシキンを愛読した。「好物はおからと豆腐だった」という。
極端に口数が少なく、面倒くさがりで、説明や演説を嫌った。しかし、佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中は「米内さんは口数が少ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と証言しており、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。
米内は坊主頭が一般的だった他の軍人とは異なり、髪を七三に分けていた。練習艦「磐手」艦長時代に横須賀鎮守府長官・野間口兼雄大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという(もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという)。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。
長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と諭されたと剛政は述懐している。
米内は酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。
総理大臣の時に満州国の皇帝・愛新覚羅溥儀が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、高松宮宣仁親王が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。
酔っ払うことはほとんどなかったが、ほろ酔い加減になると長唄の調子が棒読みになったともいう。また米内自らロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言ったこともある。保科善四郎は「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。
海軍料亭などで飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。若いころは自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。
米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた盛岡尋常中学校時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。
女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会ったり、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。佐世保鎮守府長官退任の際、佐世保駅周辺には見送りに訪れた芸者で黒山の人だかりができたといわれている。
「陸奥」艦長時代、艦は呉軍港に在泊していたのだが東京より娘の病死の連絡が入った。米内は「艦長として艦は離れがたい用事があるので帰京はあきらめる。代わりの子供は幾らでもできる。」と言ったという。
また、横須賀鎮守府長官時代に上海から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在のストーカーのようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった井上成美も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している。これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消え、それ以後の消息は不明だという。
米内は、日独伊三国同盟締結時、この報を聞いて「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイアガラの流れに逆らって船をこいでるようなもので、今から見ると無駄な努力であった」と嘆息し、緒方竹虎の米内、山本の海軍が続いていたなら徹頭徹尾反対したかの質問に対し「無論反対したが殺されていたでしょうね」と述懐している。
米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、佐世保鎮守府長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の荒城二郎向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。
武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べたという。
戦後高血圧で悩まされた際、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介された。武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である牧野伸顕より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日ごろから聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。米内の高血圧は既に対処不能な段階になっていたため酒が解禁されたといわれているが、米内の晩年は比較的穏やかで、最終的には肺炎で最期を迎えている。
山本五十六は海軍次官として米内の部下だったころに「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の井上成美の大将昇進、軍令部次長に大西瀧治郎を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。
井上大将は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛・加藤友三郎・米内の三人だけであった。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。大西新蔵は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。保科善四郎は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。高木惣吉は、「世にいう秀才タイプでなかったことは事実」「雄弁も、迫力も、政治的烱眼もたしかに持ち合せていなかった」「だがその代り、いつも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後までくりかえした」と評する。
前田稔は、「米内さんは老荘の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている。
中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている。
戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。
敗戦間もない1945年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議にて、反軍演説などで知られる斎藤隆夫による軍国主義に対する軍の責任を問う質問への答弁において、最後の陸軍大臣下村定大将は、陸軍を代表して自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認め、その原因の分析と共にこれを総括し、国民に対して謝罪を行っている。しかし、下村と同じく最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は、(斎藤の質問には)海軍大臣を対象とした答弁が求められておらず、議事録にもないことを理由に答弁に立つ事を拒否、米内は下村陸相とは対照的に、場内の議員達の憤激を買うという一幕があった。
下村率いる陸軍が組織としての敗戦責任の非を公的な場で認めた一方で、米内率いる海軍はその後の組織解体に至るまで、敗戦責任について組織として公的な分析と総括、自省を行う事はついになかった。その後、多くの文化人により米内を始めとする海軍左派を「良識派」として大書した傾向も相まって、いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史の上で定着する遠因ともなったと、自らの著作すらもそうした傾向のあった半藤一利をして言わしめる事となった。陸軍悪玉論・海軍善玉論自体は半藤を始めとする海軍派の作家や、戦史研究者の中ですらも既に一方的に偏った不正確な主張であるとみなされているが、海上自衛隊が公的に「海軍の後裔」たる事を公言する事が日本社会が受容している一方で、陸上自衛隊は同様の主張は控えめに行う傾向にあるなど、2020年代現在に至るまで日本国民の印象の中に極めて強い影響を残し続けている。
アメリカのタイム誌は、海軍大臣のとき と総理のとき の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱っている。
米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。
陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。
三女和子が元竹中工務店会長の竹中錬一に嫁いでいる。
参考: 佐藤朝泰「竹中家を中心とする閨閥地図」『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、214-215頁。ISBN 978-4-651-70079-3。
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"text": "米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。",
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"text": "連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。",
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"text": "1880年(明治13年)、岩手県南岩手郡三割村(現:盛岡市)に旧盛岡藩士・米内受政の長男として誕生する。",
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"text": "1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。同期生には高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがいる。兵学校では「グズ政」というあだ名がついた。",
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"text": "当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは詰め込み式教育が当然だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという。",
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"text": "1901年(明治34年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、練習艦「金剛」乗り組み。1903年(明治36年)、任海軍少尉。",
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"text": "1905年(明治38年)、日露戦争に従軍。第三艦隊第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の駆逐艦「電」乗組み。海軍中尉。日本海海戦に参戦。1906年(明治39年)、功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。1912年(大正元年)、任海軍少佐。海軍大学校甲種学生12期。1914年(大正3年)海軍大学校卒業。旅順要港部参謀。",
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"text": "1915年(大正4年)2月、ロシア帝国サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は『ラスプーチン秘録』というロシア語で記述されたルポを翻訳したりしている。",
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"text": "1916年(大正5年)、任海軍中佐。1917年(大正6年)4月、ロシア駐在を免ぜられる。1918年(大正7年)8月、ウラジオストック駐在。ロシア革命の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。1919年(大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられ、海軍大学校教官。12月、軍令部参謀。1920年(大正9年)6月よりベルリン駐在。12月、任海軍大佐。1921年(大正10年)、ポーランド駐在員監督。1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。米内はニュージーランドの小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I am very glad to see you, thank you.」としか話さなかった。",
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"text": "1924年(大正13年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将、第二艦隊参謀長。当時の司令長官は谷口尚真であるが、谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを要求したため米内が「河の水魚棲むほどの清さかな」という句を贈っている。谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。1926年(大正15年)、軍令部第三班長。1927年(昭和2年)、第四水雷戦隊司令官。特別大演習に参加。1928年(昭和3年)、第一遣外艦隊司令官。",
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"text": "1930年(昭和5年)、任 海軍中将、鎮海要港部司令官。この役職は「首5分前」と言われた閑職であり、鎮海要港部司令官を最後に予備役に編入された例が多かった。米内は読書三昧の日々を過ごしたという。",
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"text": "鎮海要港部司令官に在任中の米内は現役を離れることを覚悟しており、実際に海軍は米内を予備役編入する予定であった。しかし、海軍政務次官を務めていた政治家の牧山耕蔵(米内と面識があった)がそのことを知り、米内を現役に残すように東郷平八郎に掛け合ったことで、米内は予備役編入を免れた。",
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"text": "1932年(昭和7年)、第三艦隊司令長官に親補される。米内はインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した。米内の兵29期同期生で、海軍次官(人事権者である海軍大臣を補佐する)を務めていた藤田尚徳は、同じく兵29期同期生である軍令部次長・高橋三吉と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1か月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている。",
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"text": "幕僚の保科善四郎によれば、砲艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。米内を辞めさせてはならないと考えた保科は、電報を打ったフリをして独断で握り潰した。この措置がなければ後に日本は本土決戦に突入することになった、と保科は語っている。",
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"text": "1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に親補される。友鶴事件が発生し、査問委員会の一人として佐世保に米内を訪ねた森田貫一機関中将に対し、米内は徹底した調査を求めた。調査の結果、設計上の問題が判明し、強度不足の艦艇は改造されることになった。こうした結果を出せたのは、米内が保身に走らなかったからだと森田は評している。1934年(昭和9年)、第二艦隊司令長官に親補される。",
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"text": "1935年(昭和10年)、横須賀鎮守府司令長官に親補される。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件発生の際、米内は柳橋の待合茶屋に宿泊しており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰った。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。",
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"text": "12月1日、連合艦隊司令長官に親補される。",
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"text": "1937年(昭和12年)2月2日、林内閣の海軍大臣に就任。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2か月で退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。当初、林銑十郎は海相に末次信正を望み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は前海相・永野修身に米内を強く推し、軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定した。米内は山本を次官に留任させている。軍務局第一課長だった保科善四郎によれば、「広田内閣崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取った」という。永野からの招電は、米内が横須賀を出港するわずか1時間前であった。",
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"text": "4月、海軍大将に親任される。海相の初期には、見かけだけ立派な大臣、という皮肉をこめ「金魚大臣」と渾名がついた。",
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"text": "大臣秘書官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。",
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"text": "海軍大臣を務めていたころ、年末になると海軍からはボーナスが、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内は笑顔で受け取ったという。",
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"text": "休日返上で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の古賀峯一などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食していたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官を全て解任にしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは悪戯ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたという。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と「消極的だった」と記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。",
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"text": "中国・華南でハンセン氏病に罹患した兵が、戦闘ではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。",
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"text": "下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は大蔵大臣・結城豊太郎に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決した。",
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"text": "1937年(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。",
"title": "生涯"
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"text": "8月9日に第二次上海事変が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。1938年(昭和13年)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、「蔣介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながった。1月15日の大本営政府連絡会議において、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた。これは中国における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。",
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"text": "11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった。",
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"text": "1939年(昭和14年)1月5日、平沼内閣でも海相に留任した。",
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"text": "海軍次官山本五十六、軍務局長井上とともに、ナチス・ドイツ及びイタリア王国との日独伊三国軍事同盟に反対する。日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった。",
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"text": "8月、五相会議の席上で、「同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうか」と大蔵大臣・石渡荘太郎から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという。",
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"text": "米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。",
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"text": "同年に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。",
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"text": "平沼内閣の総辞職により海相を辞任して軍事参議官となる。",
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"text": "1940年(昭和15年)1月16日、阿部信行予備役陸軍大将の後任として第37代内閣総理大臣に就任する。",
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"text": "内大臣の湯浅倉平は米内首相就任の実現に大いに働いている。",
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"text": "なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。",
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"text": "1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一、斎藤実、岡田啓介、林銑十郎、阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は山縣有朋ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だった(米内以後に首相になった軍人4人のうち、東條英機、東久邇宮稔彦王は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまった。残りの小磯国昭、鈴木貫太郎は大命降下時予備役であった)。",
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"text": "海相吉田善吾らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は「総理が現役将官であることは統帥権を干犯することに繋がりかねない」と言ってこれを受け入れなかった。米内が予備役となったことは、軍令部総長伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。",
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"text": "就任直後の1月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス海軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を臨検、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生した。世論がイギリスを非難する中、米内はドイツ人船客の解放を巡ってイギリスと難しい交渉を行うことになった。",
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"text": "一方、5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は日独伊三国軍事同盟の締結を目指し、外交一新を掲げ、倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。米内内閣は、三国軍事同盟を締結すれば対英米開戦が必至になるとして反対していた。陸軍は米内と対立、陸軍大臣畑俊六を辞任させ、同年7月22日に米内内閣を総辞職に追い込んだ。後継政権には、首相経験のあった公爵近衛文麿が再就任し、第2次近衛内閣が成立した。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。米内は畑の疲労し切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。",
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"text": "総理大臣を辞任した直後に、栃木県日光市を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は いはぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「ねたふりを しても動くや 猫の耳」という句(川柳)を詠んでいる。",
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"text": "米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が設立された。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会(いちろくかい)」と名付けられ、戦後も長く行われ平成期になっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫、入江籌直などがいる。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と言ったという。",
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"text": "総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりした。日本では総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが一般的であるため、公共交通機関を利用して通院した戦前の総理は米内くらいだったという。海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使用して、国民の顰蹙を買っていたりしていた。",
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"text": "9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官山本五十六は、海相及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友山本五十六の国葬委員長を務める。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった。米内は『朝日新聞』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている。",
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"text": "1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。",
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"text": "軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は、海軍次官の岡敬純を「一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉妹は井上の兄・井上達三に嫁いでおり、米内、井上には私的にもつながりがあった。",
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"text": "米内の現役復帰を画策した岡田啓介は、「米内を円満に海軍へ復帰させるには、海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要がある」との声を受けたため、岡田は藤山愛一郎の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。末次信正と米内の関係は、過去に宴席で五・一五事件に対する責任などで口論となるなど険悪であった。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対などのためにそれっきりとなってしまった。「軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうか」と米内に勧める者もいたが、米内は応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており、末次の総長人事には熱意を持っていた。結局軍令部総長には及川古志郎が就くこととなった。",
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"text": "12月3日、神雷部隊を視察し、飛行場で閲兵式を行う。",
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"text": "1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞職し自分が留任するというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木に申し入れていたのだった。",
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"text": "5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉について、「ソ連からの援助を引き出すべきだ」と主張したが、「ソ連を軍事的経済的に利用できる段階では、もはやない」と外務大臣・東郷茂徳に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソ連に対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。",
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"paragraph_id": 51,
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"text": "5月25日の空襲で海軍省と大臣官邸が焼失してしまい、麻生孝雄海軍大臣秘書官が堤康次郎所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。この空襲では明治宮殿も焼失し、翌日参内した際の天皇の態度から、米内は和平に向けた意志を読み取った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "5月末の会議で一勝の後に終戦とすることを主張した陸軍大臣・阿南惟幾に対し、米内は早期講和を主張した。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "6月9日の鈴木による議会での発言(天罰発言事件)を継戦派の議員が2日後に問題視したことで国会は混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。これにより、米内は議会の内閣に対する姿勢を問題視して辞意を表明したところ、阿南から辞意を思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "ソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦を決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言が発表される。東郷は受諾の可能性を主張するが、阿南をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、原子爆弾投下とソ連の対日参戦という新たな事態が発生した。米内は連合国のポツダム宣言発表から鈴木の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。",
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"text": "原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し本土決戦を主張する阿南と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に決着はつかなかった。",
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"text": "8月9日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する。",
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"text": "8月12日、軍令部総長・豊田副武大将と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する帷幄上奏を行う。同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長・大西瀧治郎の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。",
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"text": "8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。",
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"text": "鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。",
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"text": "米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や吉田英三、豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。",
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"text": "米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿や細川護貞などに語った。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。",
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"text": "海軍省廃止の翌日の12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって...。これからは会う機会も少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、香淳皇后も別室で米内を涙ながらに厚く労っている。現在その硯は、郷里の盛岡市先人記念館に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して、硯のみ米内家の所有物として展示されている。",
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"text": "海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科はY委員会を通して現在の海上自衛隊創設に間接的に影響を与えており、後に衆議院議員となった保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。",
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"text": "戦後の極東国際軍事裁判では証人として1946年(昭和21年)3月と5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「陛下は、開戦に個人的には強く反対されていたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認された」と、昭和天皇の立場を擁護する発言に終始した。",
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"paragraph_id": 66,
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"text": "その上で、満州事変・支那事変・日英米蘭開戦を推進した責任者として、土肥原賢二・板垣征四郎・武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった。",
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"paragraph_id": 67,
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"text": "一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、弁護側証人として出廷したときには、畑は他から圧力をかけられたのだと思うとして庇った。これは既に亡くなっていたが事件当時に陸軍参謀総長であった閑院宮載仁ひいては皇族の戦争責任を示唆しかねない問題であった。しかし、米内は畑を信じていたのか、畑の部下の名も挙げて陸軍全体の総意だったのではないかと、当時の新聞記事等を証拠品に追及する検事に対し、徹底的にしらを切り続けた。この間、検事の訊いていることに答えるようにとの裁判長の指示を無視して、たびたび自身のしたい否定発言ばかりを行い、裁判長ウィリアム・ウェブから「The prime minister is the most stupid witness I have ever listened to.(この首相は私がこれまで話を聞いた中で一番鈍感な証人だ)」と法廷で謗られている。一方で、首席検事ジョセフ・キーナンはむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない」と敬意を表したという。もっとも、米内の証言に対し、裁判長のウェッブは「本来なら信頼性のない証人として退場させるところだ」とも語っていて、キーナンにとっては新聞報道のほうがよほど信頼性があると受けとめられて好都合だった可能性もある。キーナンは翌月若槻禮次郎、岡田啓介、宇垣一成らとともに米内を招いてカクテルパーティーを開き、4人を「真の平和愛好者」と呼んだ。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "マッカーサーは日本の占領統治で天皇を利用するため、昭和天皇の戦争責任を問わない方針を定めていたが、連合国の中には「天皇の戦争責任を問うべきだ」とする国もあった。そのためマッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ」と語ったと言う。",
"title": "生涯"
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"text": "1946年(昭和21年)、公職追放となる(死去後の1952年追放解除)。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、小島秀雄元海軍少将や大臣時代の副官らと共に北海道釧路町の達古武湖付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。",
"title": "生涯"
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"text": "1948年(昭和23年)、肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていたものの、帯状疱疹が寿命を縮めた。",
"title": "生涯"
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"text": "昭和天皇が日本学士院を招いて催された昼食会で、天皇は小泉信三に、「雑誌に米内のことを書いたね」と語りかけた。小泉が『心』昭和24年1月号に寄稿した米内の想い出を読んでのことである。「拙文がお目に触れてしまいましたか」と小泉が恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と天皇は言う。それで陪食にあずかる他の参加者もそれぞれ米内の思い出話を紹介しはじめたが、やがて天皇は感慨深げに「惜しい人であった」と言ったきり口を閉ざしてしまい、このためその場は静まり返ったという。",
"title": "生涯"
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"text": "米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像 が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていた。",
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"text": "身長五尺七寸(約173cm)、体重80kg。趣味は長唄。ロシア文学にも親しみ、プーシキンを愛読した。「好物はおからと豆腐だった」という。",
"title": "人物"
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"text": "極端に口数が少なく、面倒くさがりで、説明や演説を嫌った。しかし、佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中は「米内さんは口数が少ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と証言しており、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。",
"title": "人物"
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"text": "米内は坊主頭が一般的だった他の軍人とは異なり、髪を七三に分けていた。練習艦「磐手」艦長時代に横須賀鎮守府長官・野間口兼雄大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという(もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという)。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。",
"title": "人物"
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"text": "長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と諭されたと剛政は述懐している。",
"title": "人物"
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"text": "米内は酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。",
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"text": "総理大臣の時に満州国の皇帝・愛新覚羅溥儀が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、高松宮宣仁親王が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。",
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"text": "酔っ払うことはほとんどなかったが、ほろ酔い加減になると長唄の調子が棒読みになったともいう。また米内自らロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言ったこともある。保科善四郎は「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。",
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"text": "海軍料亭などで飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。若いころは自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。",
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"text": "米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた盛岡尋常中学校時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。",
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"text": "女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会ったり、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。佐世保鎮守府長官退任の際、佐世保駅周辺には見送りに訪れた芸者で黒山の人だかりができたといわれている。",
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"text": "「陸奥」艦長時代、艦は呉軍港に在泊していたのだが東京より娘の病死の連絡が入った。米内は「艦長として艦は離れがたい用事があるので帰京はあきらめる。代わりの子供は幾らでもできる。」と言ったという。",
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"text": "また、横須賀鎮守府長官時代に上海から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在のストーカーのようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった井上成美も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している。これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消え、それ以後の消息は不明だという。",
"title": "人物"
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"text": "米内は、日独伊三国同盟締結時、この報を聞いて「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイアガラの流れに逆らって船をこいでるようなもので、今から見ると無駄な努力であった」と嘆息し、緒方竹虎の米内、山本の海軍が続いていたなら徹頭徹尾反対したかの質問に対し「無論反対したが殺されていたでしょうね」と述懐している。",
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"text": "米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、佐世保鎮守府長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の荒城二郎向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。",
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"text": "武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べたという。",
"title": "人物"
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"text": "戦後高血圧で悩まされた際、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介された。武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である牧野伸顕より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日ごろから聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。米内の高血圧は既に対処不能な段階になっていたため酒が解禁されたといわれているが、米内の晩年は比較的穏やかで、最終的には肺炎で最期を迎えている。",
"title": "人物"
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"text": "山本五十六は海軍次官として米内の部下だったころに「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の井上成美の大将昇進、軍令部次長に大西瀧治郎を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。",
"title": "評価"
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"text": "井上大将は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛・加藤友三郎・米内の三人だけであった。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。大西新蔵は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。保科善四郎は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。高木惣吉は、「世にいう秀才タイプでなかったことは事実」「雄弁も、迫力も、政治的烱眼もたしかに持ち合せていなかった」「だがその代り、いつも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後までくりかえした」と評する。",
"title": "評価"
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"text": "前田稔は、「米内さんは老荘の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている。",
"title": "評価"
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"text": "中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 93,
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"text": "戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。",
"title": "評価"
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"text": "敗戦間もない1945年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議にて、反軍演説などで知られる斎藤隆夫による軍国主義に対する軍の責任を問う質問への答弁において、最後の陸軍大臣下村定大将は、陸軍を代表して自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認め、その原因の分析と共にこれを総括し、国民に対して謝罪を行っている。しかし、下村と同じく最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は、(斎藤の質問には)海軍大臣を対象とした答弁が求められておらず、議事録にもないことを理由に答弁に立つ事を拒否、米内は下村陸相とは対照的に、場内の議員達の憤激を買うという一幕があった。",
"title": "評価"
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"text": "下村率いる陸軍が組織としての敗戦責任の非を公的な場で認めた一方で、米内率いる海軍はその後の組織解体に至るまで、敗戦責任について組織として公的な分析と総括、自省を行う事はついになかった。その後、多くの文化人により米内を始めとする海軍左派を「良識派」として大書した傾向も相まって、いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史の上で定着する遠因ともなったと、自らの著作すらもそうした傾向のあった半藤一利をして言わしめる事となった。陸軍悪玉論・海軍善玉論自体は半藤を始めとする海軍派の作家や、戦史研究者の中ですらも既に一方的に偏った不正確な主張であるとみなされているが、海上自衛隊が公的に「海軍の後裔」たる事を公言する事が日本社会が受容している一方で、陸上自衛隊は同様の主張は控えめに行う傾向にあるなど、2020年代現在に至るまで日本国民の印象の中に極めて強い影響を残し続けている。",
"title": "評価"
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"text": "アメリカのタイム誌は、海軍大臣のとき と総理のとき の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱っている。",
"title": "評価"
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"text": "",
"title": "履歴"
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"text": "米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。",
"title": "系譜"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。",
"title": "系譜"
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"text": "三女和子が元竹中工務店会長の竹中錬一に嫁いでいる。",
"title": "系譜"
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{
"paragraph_id": 101,
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"text": "参考: 佐藤朝泰「竹中家を中心とする閨閥地図」『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、214-215頁。ISBN 978-4-651-70079-3。",
"title": "系譜"
}
] |
米内 光政は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。 連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。
|
{{政治家
|人名 = {{big|{{ruby-ja|米内|よない}} {{ruby-ja|光政|みつまさ}}}}
|各国語表記 = <small>{{kyujitai|'''米內 光政'''}}</small>
| 画像 = Mitsumasa yonai.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 海軍大臣時代の米内
| 国略称 ={{JPN}}
| 生年月日 = [[1880年]][[3月2日]]
| 出生地 = {{JPN}}・[[岩手県]][[南岩手郡]]三割村<br>(現:[[盛岡市]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1880|3|2|1948|4|20}}
| 死没地 =
| 出身校 = [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](29期)<br />[[海軍大学校]](12期)
| 称号・勲章 = [[ファイル:Imperial Japan-Navy-OF-9-collar.svg|30px]] [[海軍大将]]<br />[[従二位]]<br />[[勲一等旭日大綬章]]<br /> [[File:JPN Kinshi-kunsho blank BAR.svg|38px]] [[金鵄勲章|功一級金鵄勲章]]
| 親族(政治家) =
| 配偶者 = [[米内こま]]
| サイン = YonaiM kao.png
| 国旗 = JPN
| 職名 = 第37代 [[内閣総理大臣]]
| 内閣 = [[米内内閣]]
| 就任日 = [[1940年]][[1月16日]]
| 退任日 = 1940年[[7月22日]]
| 元首職 = 天皇
| 元首 = [[昭和天皇]]
| 国旗2 = JPN
| 職名2 = 第19・24代 [[海軍大臣]]
| 内閣2 = [[林内閣]]<br />[[第1次近衛内閣]]<br />[[平沼内閣]]<hr />[[小磯内閣]]<br />[[鈴木貫太郎内閣]]<br />[[東久邇宮内閣]]<br />[[幣原内閣]]
| 就任日2 = [[1937年]][[2月2日]] - [[1939年]][[8月30日]]<hr />[[1944年]]7月22日
| 退任日2 = [[1945年]][[12月1日]]
| 国旗3 = JPN
| 職名3 =
| 内閣3 =
| 就任日3 =
| 退任日3 =
}}
'''米内 光政'''(よない みつまさ、{{旧字体|'''米內 光政'''}}、[[1880年]]〈[[明治]]13年〉[[3月2日]] - [[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[4月20日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[海軍軍人|軍人]]、[[政治家]]。[[海軍兵学校 (日本)|海兵]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|29期]]・[[海軍大学校|海大]][[海軍大学校卒業生一覧#甲種12期|12期]]。最終階級は[[海軍大将]]。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功一級]]。
[[連合艦隊司令長官]](第23代)、[[海軍大臣]](第19・24代)、[[内閣総理大臣]](第[[米内内閣|37]]代)を歴任した。
== 生涯 ==
=== 出生から海軍兵学校時代 ===
[[1880年]]([[明治]]13年)、[[岩手県]][[南岩手郡]]三割村(現:[[盛岡市]])に旧[[盛岡藩]]士・[[米内受政]]の長男として誕生する{{sfnm|生出|1989|1p=230|神川|2001|2p=21|高田|1990a|3p=2|高橋|1998|4p=18|豊田|1978|5p=235}}<ref>{{Cite web|和書|title=米内光政- 盛岡市先人記念館 |url=https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index |website=www.mfca.jp |accessdate=2023-12-14}}</ref>。
[[1886年]](明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学{{sfnm|高田|1990a|1p=6|高橋|1998|2p=23}}。[[1890年]](明治23年)、[[盛岡市立下橋中学校|盛岡高等小学校]]に入学{{sfn|高橋|1998|p=27}}<!--緒方-->。[[1894年]](明治27年)、[[岩手県立盛岡第一高等学校|岩手県尋常中学校]]に入学{{sfn|高田|1990a|p=8}}<!--生出は231ページで1893年・明治26年だと書いている。1893年入学だと記載している書籍は他にもある。-->。[[1898年]](明治31年)、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|29期]]に入校{{sfnm|生出|1989|1p=235|高田|1990a|2p=14|高橋|1998|3pp=52-55}}。同期生には[[高橋三吉]]、[[藤田尚徳]]、[[佐久間勉]]、[[八角三郎]](中学も同期)らがいる{{sfn|神川|2001|pp=24-25, 27, 30}}。兵学校では「グズ政」というあだ名がついた{{Sfnm|阿川|1994|1p=126|生出|1989|2p=82|実松|2009|3p=70|高橋|1998|4pp=61-62|吉田|2000|5p=294}}。
{{要出典範囲|当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは[[詰め込み教育|詰め込み式教育]]が当然だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた|date=2021年1月}}。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の[[呉鎮守府]]司令長官・[[谷口尚真]]から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという{{Sfnm|阿川|1994|1p=48|生出|1989|2p=242|緒方|1983|3p=188|神川|2001|4p=125|実松|2009|5p=45}}<!--生出によれば、藤田はこのとき米内を大器晩成型と評しており、谷口は面倒くさがりの部分を藤田から本人に伝えさせることが目的だったという。必ずしも米内を持ち上げる話ではない。-->。
=== 海軍士官として ===
[[1901年]]([[明治]]34年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|29期]]を125人中68番の成績で卒業{{Sfnm|神川|2001|1pp=27, 222|実松|2009|2p=30|高田|1990a|3p=16|高橋|1998|4p=62|豊田|1978|5p=250}}。海軍少尉候補生、練習艦「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」乗り組み{{sfnm|緒方|1983|1p=163|高橋|1998|2pp=62-63|豊田|1978|3p=251}}。[[1903年]]([[明治]]36年)、任海軍少尉{{sfnm|緒方|1983|1pp=163-164|高橋|1998|2p=65|豊田|1978|3p=253}}。
[[1905年]](明治38年)、[[日露戦争]]に従軍。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]第十六水雷艇隊所属{{sfnm|高橋|1998|1pp=66-67|豊田|1978|2p=253}}。第一艦隊第二駆逐隊所属の[[駆逐艦]]「[[電 (雷型駆逐艦)|電]]」乗組み{{Sfnm|神川|2001|1pp=27-28|高田|1990a|2pp=19-20|高橋|1998|3p=74|豊田|1978|4p=254}}。海軍[[中尉]]{{sfnm|高橋|1998|1p=84|豊田|1978|2p=253}}。[[日本海海戦]]に参戦{{sfnm|緒方|1983|1pp=165-166|高田|1990a|2pp=20-21|豊田|1978|3p=254}}。[[1906年]](明治39年)、功五級金鵄勲章{{sfnm|高橋|1998|1p=85|豊田|1978|2p=254}}。[[米内こま|大隈コマ]]と結婚{{sfnm|緒方|1983|1p=169|高橋|1998|2pp=85-86}}。任海軍大尉{{sfnm|緒方|1983|1p=167|豊田|1978|2p=254}}。[[1912年]]([[大正]]元年)、任海軍少佐{{Sfnm|神川|2001|1p=35|高田|1990a|2p=27|豊田|1978|3p=119}}。[[海軍大学校]]甲種学生12期。[[1914年]](大正3年)海軍大学校卒業{{sfnm|高田|1990a|1p=27|高橋|1998|2p=92}}。[[旅順要港部]]参謀{{sfnm|高田|1990a|1p=27|高橋|1998|2p=92}}。
[[1915年]](大正4年)2月、[[ロシア帝国]][[サンクトペテルブルク]][[在ロシア日本国大使館|大使館]]付[[駐在武官]]補佐官{{sfnm|高田|1990a|1pp=27-28|高橋|1998|2pp=93-94}}<!--神川2001は3月だと言っている-->。{{要出典範囲|ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る[[海軍省]]内唯一の人」と回想し、|date=2021-01}}[[佐世保鎮守府]]参謀時代は『[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]秘録』というロシア語で記述されたルポを翻訳したりしている{{sfn|高橋|1998|pp=95, 163-164}}。
[[1916年]](大正5年)、任海軍中佐。[[1917年]](大正6年)4月、ロシア駐在を免ぜられる{{sfn|高田|1990a|p=29}}<!--高橋1998 97ページによると、帰国したのが4月4日-->。[[1918年]](大正7年)8月、[[ウラジオストク|ウラジオストック]]駐在{{Sfnm|神川|2001|1p=37|高田|1990a|2p=31|高橋|1998|3p=101|豊田|1978|4pp=258-259}}。[[ロシア革命]]の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。[[1919年]](大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられ{{sfnm|高田|1990a|1p=31|高橋|1998|2p=104|豊田|1978|3p=260}}、海軍大学校教官{{sfnm|高橋|1998|1p=104|豊田|1978|2p=260}}。12月、[[軍令部]]参謀{{sfnm|高橋|1998|1p=104|豊田|1978|2p=260}}。[[1920年]](大正9年)6月よりベルリン駐在{{sfnm|高田|1990a|1p=35|高橋|1998|2pp=105-106}}。12月、任海軍大佐{{Sfnm|神川|1p=38|高橋|1998|2p=106}}。[[1921年]](大正10年)、ポーランド駐在員監督{{sfn|高橋|1998|p=107}}。[[1922年]](大正11年)、装甲巡洋艦「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長{{sfnm|阿川|1994|1p=16|緒方|1983|2p=181|高田|1990a|3p=39|高橋|1998|4p=109|豊田|1978|5p=261}}。[[1923年]](大正12年)、練習艦「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」艦長{{Sfnm|阿川|1994|1p=■|緒方|1983|2p=183|神川|2001|3p=40|高田|1990a|4p=40|高橋|1998|5p=111|豊田|1978|6p=262}}。米内は[[ニュージーランド]]の小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I am very glad to see you, thank you.」としか話さなかった{{Sfnm|緒方|1983|1pp=185-186|神川|2001|2pp=75-77|高橋|1998|3pp=117-118|豊田|1978|4pp=264-265|5a1=半藤|5a2=横山|5a3=秦|5a4=戸高|5y=2005|5pp=235-236}}。
[[1924年]](大正13年)戦艦「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」艦長{{Sfnm|神川|2001|1pp=89, 106|高田|1990a|2p=43|高橋|1998|3p=120|豊田|1978|4p=266}}。[[1925年]](大正14年)、任海軍少将、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長{{sfnm|高田|1990a|1p=44|高橋|1998|2p=122|豊田|1978|3p=268}}。当時の司令長官は谷口尚真であるが、谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを要求したため米内が「河の水魚棲むほどの清さかな」という句を贈っている。谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという{{sfnm|緒方|1983|1pp=187-188|高橋|1998|2pp=122-123}}。[[1926年]](大正15年)、軍令部第三班長{{Sfnm|神川|2001|1p=127|高田|1990a|2p=44|高橋|1998|3p=123|豊田|1978|4p=269}}。[[1927年]]([[昭和]]2年)、第四水雷戦隊司令官{{sfn|豊田|1978|p=270}}。特別大演習に参加。[[1928年]](昭和3年)、[[第一遣外艦隊]]司令官{{Sfnm|神川|2001|1p=131|高田|1990a|2p=54|高橋|1998|3p=125|豊田|1978|4p=270}}。
==== 予備役編入の危機 ====
[[1930年]](昭和5年)、任 海軍中将、[[鎮海要港部]]司令官{{sfnm|神川|2001|1p=142|高田|1990a|2p=65|高橋|1998|3p=133|豊田|1978|4p=272}}。この役職は「[[免職|首]]5分前」<ref name=":0" /><!--「[[流罪|島流し]]」-->と言われ<!--、米内が赴任したころは「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれ-->た閑職であり、鎮海要港部司令官を最後に予備役に編入された例が多かった<ref name=":0">{{Harvnb|阿川|2002|pp=97-100|loc=第三章:九}}</ref>。米内は<!--「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、-->読書三昧の日々を過ごし<!--、[[漢籍]]から[[ロシア文学]]や[[社会科学]]、中学の後輩である[[野村胡堂]]の小説まで読み耽っ-->たという{{sfn|高橋|1998|pp=134-135}}。<!--[[荒城二郎]]に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官といってもほとんどやることがなく執務中にも読書をしていたという。-->
鎮海要港部司令官に在任中の米内は現役を離れることを覚悟しており<ref name=":0" />、実際に海軍は米内を予備役編入する予定であった<ref name=":1" />。しかし、海軍政務次官を務めていた政治家の[[牧山耕蔵]](米内と面識があった)がそのことを知り、米内を現役に残すように[[東郷平八郎]]に掛け合ったことで、米内は予備役編入を免れた<ref name=":1">{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置No 2292-2380、米内光政-「肚の人」}}</ref>。
[[1932年]](昭和7年)、第三艦隊司令長官に親補される{{Sfnm|神川|2001|1p=164|高田|1990a|2p=87|高橋|1998|3p=149|豊田|1978|4p=274}}。米内は[[インフルエンザ]]をこじらせて[[胸膜炎]]になり療養を必要としたが拒絶した。米内の[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|兵29期]]同期生で、海軍次官(人事権者である[[海軍大臣]]を補佐する)を務めていた[[藤田尚徳]]は、同じく兵29期同期生である軍令部次長・[[高橋三吉]]と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1か月後には米内は職務に復帰することができた{{Sfnm|神川|2001|1pp=169-170|高橋|1998|2pp=155-157}}。<!--インフルエンザの件は高田によれば緒方-->のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら[[予備役]]編入を願い出ている{{Sfn|半藤|横山|秦|戸高|2005|p=233}}。
幕僚の[[保科善四郎]]によれば、砲艦[[二見 (砲艦)|二見]]が[[長江|揚子江]]を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。米内を辞めさせてはならないと考えた保科は、電報を打ったフリをして独断で握り潰した。この措置がなければ後に日本は本土決戦に突入することになった、と保科は語っている{{Sfnm|神川|2001|1pp=165-168|実松|2009|2pp=57-58|高田|1990a|3pp=92-93|高橋|1998|4pp=153-155|豊田|1978|5pp=122-123, 275|吉田|2000|6pp=288-289}}<!--保科がそう言ったという話と、書き手が本土決戦になったという文献がある。また高田・神川は海相が強硬派で打っていれば受理されただろうと言っている-->。
==== 連合艦隊司令長官へ ====
[[ファイル:Mitsumasa Yonai.jpg|thumb|200px|[[1936年]]ごろ、[[連合艦隊司令長官]]当時]]
[[1933年]](昭和8年)、[[佐世保鎮守府]]司令長官に親補される{{Sfnm|神川|2001|1p=171|高田|1990a|2p=103|高橋|1998|3p=157|豊田|1978|4p=277}}。[[友鶴事件]]が発生し、査問委員会の一人として佐世保に米内を訪ねた[[森田貫一]]機関中将に対し、米内は徹底した調査を求めた。調査の結果、設計上の問題が判明し、強度不足の艦艇は改造されることになった。こうした結果を出せたのは、米内が保身に走らなかったからだと森田は評している{{Sfn|吉田|2000|pp=289-291}}<!--神川2001 175-177には委員の名前がない-->。[[1934年]](昭和9年)、第二艦隊司令長官に親補される{{Sfnm|神川|2001|1p=182|高田|1990a|2p=110|高橋|1998|3pp=165-166|豊田|1978|4p=281}}。
[[1935年]](昭和10年)、[[横須賀鎮守府]]司令長官に親補される{{Sfnm|神川|2001|1p=203|高田|1990a|2pp=114-115|高橋|1998|3p=170|豊田|1978|4p=118}}。[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]、[[二・二六事件]]発生の際、米内は[[柳橋 (花街)|柳橋]]の[[待合茶屋]]に宿泊しており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰った{{Sfnm|1a1=半藤|1a2=横山|1a3=秦|1a4=戸高|1y=2005|1pp=237-238|2a1=三村|2y=2002|2p=32}}。鎮守府に着いた米内は[[参謀長]]の[[井上成美]]とともにクーデター部隊を「[[反乱]]軍」と断定、制圧に動いた{{sfnm|神川|2001|1pp=212-213|高田|1990a|2pp=115-116|高橋|1998|3pp=177-178|三村|2002|4pp=32-33}}。
12月1日、[[連合艦隊司令長官]]に親補される{{Sfnm|神川|2001|1p=222|高田|1990a|2p=129|高橋|1998|3p=192|豊田|1978|4p=118}}。
==== 第19代海軍大臣 ====
[[ファイル:Mitsumasa Yonai and Isoroku Yamamoto.jpg|right|150px|thumb|米内と山本五十六]]
[[ファイル:Admiral Mitsumasa Yonai portrait c1937.jpg|thumb|米内提督(1937年頃 )]]
[[1937年]](昭和12年)2月2日、[[林内閣]]の[[海軍大臣]]に就任{{sfnm|高橋|1998|1pp=192-197|豊田|1978|2p=39, 125}}。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2か月で退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという{{Sfn|半藤|横山|秦|戸高|2005|p=238}}{{efn2|ただし、『新岩手人』によれば、海軍省に着任しての第一声の中で「たゞ僕個人としては武人として最大の名誉たる聯合艦隊の司令長官から一個の軍属に過ぎない海軍大臣などになるのはいやだ」と言う一方で「然しそれでは卑怯だと言はれては武人の屈辱だから御引受けしたのだ」とも述べている<ref name="iwatejin">{{Cite journal |和書|title=米内聯合艦隊司令長官海相就任 |date=1937-2-25 |publisher=新岩手人の会 |journal=新岩手人 |volume=7 |issue=2 |pages=27 }}</ref>。}}。当初、[[林銑十郎]]は海相に[[末次信正]]を望み、両人間で了解済みであった。しかし[[海軍省#次官|海軍次官]]・[[山本五十六]]は前海相・[[永野修身]]に米内を強く推し、[[軍令部]]総長・[[伏見宮博恭王]]の同意を得て決定した{{Sfn|野村|1988|pp=157-160|ps=「林内閣の海相人事」}}。米内は山本を次官に留任させている。軍務局第一課長だった[[保科善四郎]]によれば、「[[広田内閣]]崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取った」という。永野からの招電は、米内が横須賀を出港するわずか1時間前であった<ref name="iwatejin" />。
4月、[[大将|海軍大将]]に親任される{{sfnm|高橋|1998|1p=199|豊田|1978|2p=128}}。海相の初期には、見かけだけ立派な大臣、という皮肉をこめ「金魚大臣」と渾名がついた{{sfnm|阿川|1994|1p=140|高木|1950|2p=183|高田|1990a|3p=219|高橋|1998|4p=224|豊田|1978|5pp=127-128}}。
大臣秘書官だった[[実松譲]]中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している{{Sfn|吉田|2000|p=284}}。
海軍大臣を務めていたころ、年末になると海軍からは[[賞与|ボーナス]]が、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内は笑顔で受け取ったという{{sfn|神川|2001|pp=319-320}}<!--生出はこの話を阿川、実松の新版、『追想録』のいずれかからひいている-->。
[[月月火水木金金|休日返上]]で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の[[古賀峯一]]などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食していたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官を全て解任にしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは[[ドッキリ|悪戯]]ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたという{{sfn|阿川|1994|pp=158-161}}。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と「消極的だった」と記しており、[[阿川弘之]]が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。
{{要出典範囲|中国・[[華南]]で[[ハンセン氏病]]に罹患した兵が、戦闘ではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった[[清水光美]]に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と[[漢詩]]を書いた書と絵画を送ったという。|date=2021年1月}}
[[下士官]]・[[兵 (日本軍)|兵]]の家族の[[福利厚生]]、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は[[大蔵大臣]]・[[結城豊太郎]]に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を[[大蔵省]]に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に[[財界]]の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決した。<!--緒方、高田a-->
[[ファイル:First Konoe Cabinet.jpg|thumb|200px|[[1937年]][[6月4日]]、[[第1次近衛内閣]]の[[内閣総理大臣]][[近衛文麿]](前列中央)と]]
[[1937年]](昭和12年)6月4日、[[第1次近衛内閣]]でも海相に留任した{{sfnm|高田|1990a|1p=138|高橋|1998|2pp=199-200}}。
8月9日に[[第二次上海事変]]が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は[[支那事変]]になったとして、全面戦争論を展開、台湾から[[杭州市|杭州]]に向けて{{sfn|高橋|1998|p=212}}、さらに8月15日には長崎から[[南京]]に向けて[[海軍航空隊]]による渡洋爆撃を敢行した{{sfn|高橋|1998|pp=213-214}}。さらに同日から8月30日まで、[[上海市|上海]]・[[揚州市|揚州]]・[[蘇州市|蘇州]]・[[句容市|句容]]・[[浦口区|浦口]]・[[南昌市|南昌]]・[[九江市|九江]]を連日爆撃し、これにより[[日中戦争]]の戦火が各地に拡大した。[[1938年]](昭和13年)1月11日の[[御前会議]]では、[[トラウトマン和平工作|トラウトマン工作]]の交渉打切りを強く主張、「[[蔣介石]]を対手とせず」の[[第一次近衛声明]]につながった<ref>南京戦史資料集、偕行社、1989年</ref>。1月15日の[[大本営政府連絡会議]]において、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・[[多田駿]]に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた{{sfnm|高田|1990a|1pp=195, 197-198|三村|2002|2pp=62-64}}。これは[[中国]]における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。
11月25日の[[五相会議]]で、米内は[[海南島]]攻略を提案し合意事項とした<ref>{{cite journal|和書|journal = 防衛研究所紀要|volume = 2|issue = 1|year = 1999 |publisher = 防衛研究所|title=太平洋上の「満州事変」? -日本海軍による海南島占領・統治-|author=相澤淳|page=120|url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j2-1.pdf}}</ref>。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する[[賀屋興宣]]を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある{{要出典|date=2017-03}}。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった<ref name="福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋">福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋</ref>。
[[ファイル:Yonai, Itagaki and Hiranuma at a Budjet Committee session cropped.jpg|thumb|250px|1939年(昭和14年)1月、[[予算委員会|衆議院予算総会]]の大臣席で[[板垣征四郎]]陸相(左)と言葉を交わす米内海相。米内の右には[[平沼騏一郎]]首相も見える。]]
[[1939年]](昭和14年)1月5日、[[平沼内閣]]でも海相に留任した{{sfn|高橋|1998|p=246}}。
海軍次官山本五十六、[[軍務局長]]井上とともに、[[ナチス・ドイツ]]及び[[イタリア王国]]との[[日独伊三国軍事同盟]]に反対する。[[日独防共協定]]締結に際しては、「なぜ[[ソビエト連邦|ソ連]]と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった<ref>[[新名丈夫]]編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』(毎日新聞社、1976年)pp.64-65</ref>。
8月、五相会議の席上で、「同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうか」と大蔵大臣・[[石渡荘太郎]]から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた{{sfnm|高田|1990a|1p=337|豊田|1978|2pp=227-228}}。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという{{sfn|高橋|1998|p=264}}。
米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある<ref name="福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋"/>。
同年に[[豊後水道]]で[[潜水艦]]が沈没し[[呉鎮守府]]が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が[[海軍省]]に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している{{Sfn|緒方|1983|p=220-221}}。
平沼内閣の総辞職により海相を辞任して[[軍事参議院|軍事参議官]]となる{{sfnm|高田|1990a|1p=338|高橋|1998|2p=263-265}}。
=== 内閣総理大臣 ===
[[ファイル:Mitsumasa Yonai smiling.jpg|thumb|親任式を終えてほっと一息の米内(1940年1月16日)]]
[[ファイル:Yonai comforting kids 29 March 1940.jpg|thumb|200px|郷里岩手県において戦地で父を失った子供たちを招いて励ます米内([[総理大臣官邸]]にて、1940年3月29日)]]
{{See also|米内内閣}}
[[1940年]](昭和15年)[[1月16日]]、[[阿部信行]]予備役陸軍大将の後任として第37代[[内閣総理大臣]]に就任する{{sfn|高田|1990b|p=13}}。
[[内大臣府|内大臣]]の[[湯浅倉平]]は米内首相就任の実現に大いに働いている{{sfn|高田|1990b|pp=8-9}}。
なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら[[予備役]]となる。
1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した[[加藤友三郎]]を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった[[田中義一]]、[[斎藤実]]、[[岡田啓介]]、[[林銑十郎]]、[[阿部信行]]は、いずれも予備役か[[退役]]の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は[[山縣有朋]]ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だった(米内以後に首相になった軍人4人のうち、[[東條英機]]、[[東久邇宮稔彦王]]は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまった。残りの[[小磯国昭]]、[[鈴木貫太郎]]は大命降下時予備役であった)。
海相[[吉田善吾]]らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は「総理が現役将官であることは[[統帥権]]を干犯することに繋がりかねない」と言ってこれを受け入れなかった{{Sfnm|1a1=野村|1y=1988|1pp=163-164|2a1=半藤|2a2=横山|2a3=秦|2a4=戸高|2y=2005|2p=240}}。米内が予備役となったことは、[[軍令部]]総長[[伏見宮博恭王]]の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。
就任直後の[[1月21日]]、[[千葉県]][[房総半島]]沖合いの公海上で[[イギリス海軍]]巡洋艦が貨客船「[[浅間丸]]」を臨検、乗客のドイツ人男性21名を[[戦時捕虜]]として連行する[[浅間丸事件]]が発生した{{sfn|高田|1990b|p=20}}。世論が[[イギリス]]を非難する中、米内はドイツ人船客の解放を巡ってイギリスと難しい交渉を行うことになった{{sfn|豊田|1978|pp=298-300}}。
一方、5月に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は日独伊三国軍事同盟の締結を目指し、外交一新を掲げ、倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。米内内閣は、三国軍事同盟を締結すれば対英米開戦が必至になるとして反対していた。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は米内と対立、[[陸軍大臣]][[畑俊六]]を辞任させ、同年[[7月22日]]に米内内閣を[[内閣総辞職|総辞職]]に追い込んだ{{sfn|豊田|1978|pp=16, 304-317}}。後継政権には、首相経験のあった公爵[[近衛文麿]]が再就任し、[[第2次近衛内閣]]が成立した。当時は[[軍部大臣現役武官制]]があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた<ref>{{cite book|和書|author=半藤一利|publisher=平凡社|title=昭和史 1926-1945|pages=169-170|year=2004|isbn=4-582-45430-5}}</ref>{{efn2|倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に[[立憲政友会|立憲政友会正統派]][[総裁]][[久原房之助]]が同様の要求を行って拒絶されると、[[内閣参議]]を辞職して[[松野鶴平]][[鉄道大臣]]ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように[[新体制運動]]を支持する意見と[[鳩山一郎]]のように[[立憲民政党]]と合同してでも[[政党政治]]を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかったことと、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任した。}}{{efn2|畑は当時の[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]だった[[閑院宮載仁親王]]から陸相を辞任するように迫られ、[[皇族]]への忠誠心が厚かった畑はその命令を拒否することができなかった。「閑院宮の顔を立てたい」と考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、米内は辞表を受理した。}}。米内は畑の疲労し切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという{{sfn|豊田|1978|pp=314-315}}。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば[[太平洋戦争|戦争]]になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている{{sfn|神川|2001|p=665-666}}。
=== 首相辞任後、海相再就任まで ===
総理大臣を辞任した直後に、[[栃木県]][[日光市]]を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は いはぬが花と 猿はいうなり」という[[短歌]]と、「ねたふりを しても動くや 猫の耳」という句([[川柳]])を詠んでいる{{sfn|神川|2001|pp=407-409}}。
[[ファイル:Yonai and his staff.jpg|thumb|250px|1940年10月、「一六会」の親睦会で]]
米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が設立された。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「'''一六会'''(いちろくかい)」と名付けられ、戦後も長く行われ[[平成]]期になっても存続した。会員には[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]、[[福地誠夫]]、入江籌直などがいる<ref>[[福地誠夫]]『回想の海軍ひとすじ物語』(光人社)p.108</ref>。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と言ったという{{sfn|阿川|1994|pp=202-203}}。
総理大臣を辞任後、病院通いに[[東京市電]]を利用していたが{{sfn|緒方|1983|p=225}}、米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりした。日本では総理経験者となると[[自家用車]]や[[ハイヤー]]などを使って通院するのが一般的であるため、'''[[公共交通機関]]を利用して通院した戦前の総理は米内くらいだった'''という。海軍から公用車が派遣されたが、「[[予備役]]なので」と断っている。{{要出典範囲|逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使用して、国民の顰蹙を買っていたりしていた。|date=2023年9月}}
9月15日、[[日独伊三国同盟]]に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長[[伏見宮博恭王]]が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官[[山本五十六]]は、海相[[及川古志郎]]に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、[[第3次近衛内閣]]成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに、[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[真珠湾攻撃]]により[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])を迎えた{{Sfn|野村|1988|pp=165-172|ps=米内の現役復帰を図る山本}}<!--9月15日以降、この段落全体が同書による-->。
[[1943年]](昭和18年)、[[海軍甲事件]]で戦死した盟友[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長を務める。だが軍人が[[軍神|神格化]]されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった{{Sfn|阿川|1994|p=245}}。米内は『[[朝日新聞]]』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている<ref>朝日新聞昭和18年(1943)5月22日号</ref>。
=== 第24代海軍大臣 ===
[[ファイル:Kuniaki-Koiso-Cabinet-Photo-July-1944.png|thumb|250px|1944年7月22日、[[小磯内閣]]の閣僚らと(前列最右に米内)]]
[[ファイル:Kantaro_Suzuki_cabinet_-_April_7,_1945.jpg|thumb|250px|1945年4月7日、[[鈴木貫太郎内閣]]の閣僚らと(前列右に米内)]]
[[ファイル:Prince Naruhiko Higashikuni Cabinet 19450817.jpg|thumb|250px|1945年8月17日、[[東久邇宮内閣]]の閣僚らと(2列目左から2人目に米内)]]
[[ファイル:The Shidehara Cabinet.jpg|thumb|250px|1945年10月9日、[[幣原内閣]]の閣僚らと(前列左から3人目に米内)]]
[[1944年]](昭和19年)、[[東條内閣]]が倒れると、予備役から現役に復帰して[[小磯内閣]]で再び海軍大臣となる{{Sfn|半藤|横山|秦|戸高|2005|pp=240-241}}。
軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の[[小磯國昭]]と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた{{Sfn|生出|1989|pp=276-279}}。米内は、海軍次官の[[岡敬純]]を「一夜にして放逐する」と更迭{{Sfn|生出|1989|p=279}}、[[横須賀鎮守府]]でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた{{efn2|{{要出典範囲|井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。|date=2021-01}}東條内閣末期から米内邸に日参していた[[中山定義]]によると、大臣就任前から「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、中山は「米内が大臣に復帰したら、次官は必ず井上だ」という感触を得ていた<ref>{{cite book|和書|title=一海軍士官の回想―開戦前夜から終戦まで―|pages=190-191|author=中山定義|publisher=毎日新聞社|year=1981}}</ref>。}}。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉妹は井上の兄・[[井上達三]]に嫁いでおり<ref>帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』「井上達三」</ref>、米内、井上には私的にもつながりがあった。
米内の現役復帰を画策した[[岡田啓介]]は、「米内を円満に海軍へ復帰させるには、海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要がある」との声を受けたため、岡田は[[藤山愛一郎]]の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた{{sfn|豊田|1978|pp=333-334}}。[[末次信正]]と米内の関係は、過去に宴席で[[五・一五事件]]に対する責任などで口論となる<!--、会っても口をきかない-->など険悪であった{{sfn|豊田|1978|pp=274, 334}}。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対など<!--と末次の急病と悪化-->のためにそれっきりとなってしまった{{sfn|豊田|1978|p=349}}。「軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうか」と米内に勧める者もいたが、米内は応じなかった<!--高田と阿川-->。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『[[昭和天皇独白録]]』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており{{Sfn|野村|1988|p=17}}、末次の総長人事には熱意を持っていた{{Sfn|緒方|1983|pp=39-40}}。結局軍令部総長には及川古志郎が就くこととなった。
[[12月3日]]、[[神雷部隊]]を視察し、飛行場で閲兵式を行う<ref>戦友会『海軍神雷部隊』12頁</ref>。
[[1945年]](昭和20年)、[[鈴木貫太郎内閣]]にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞職し自分が留任するというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木<!--や内大臣・[[木戸幸一]]-->に申し入れていたのだった<ref name="Agawa1994">{{cite book|和書|author=阿川弘之|title=井上成美|edition=新装版|publisher=新潮社|year=1994|isbn=4-10-300414-2|page=324}}</ref><!--井上の申し入れに関して記載がある-->{{efn2|この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している<ref name="Agawa1994"/>。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。}}。
5月11日、[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツ降伏]]直後に宮中で開かれた[[最高戦争指導会議]]における対ソ交渉について、「ソ連からの援助を引き出すべきだ」と主張したが、「ソ連を軍事的経済的に利用できる段階では、もはやない」と外務大臣・[[東郷茂徳]]に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソ連に対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。
5月25日の[[空襲]]で[[海軍省]]と大臣官邸が焼失してしまい、{{要出典範囲|麻生孝雄海軍大臣秘書官が[[堤康次郎]]所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。|date=2021-01}}この空襲では[[明治宮殿]]も焼失し、翌日参内した際の天皇の態度から、米内は和平に向けた意志を読み取った。
5月末の会議で一勝の後に終戦とすることを主張した陸軍大臣・[[阿南惟幾]]に対し、米内は早期講和を主張した{{sfn|豊田|1978|p=395}}{{efn2|のちに米内と共に内閣で終戦を主張する[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[東郷茂徳]]は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で[[5月11日]]の戦争最高指導会議構成員会合においで米内が[[ソ連]]を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられている。}}。
6月9日の鈴木による議会での発言([[天罰発言事件]])を継戦派の議員が2日後に問題視したことで国会は混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。これにより、米内は議会の内閣に対する姿勢を問題視して辞意を表明したところ、阿南から辞意を思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れた。
ソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦を決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告する[[ポツダム宣言]]が発表される。東郷は受諾の可能性を主張するが、阿南をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、[[日本への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]と[[ソ連の対日参戦]]という新たな事態が発生した。米内は連合国のポツダム宣言発表から鈴木の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。
原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し[[本土決戦]]を主張する阿南と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に決着はつかなかった{{sfn|豊田|1978|pp=418-419}}<!--受諾に反対し…以降の部分。発言の細部には相違がある。-->。
8月9日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、[[平沼騏一郎]]は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、[[梅津美治郎]]、[[豊田副武]]は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された{{sfn|豊田|1978|pp=419-420}}<!--豊田には「多数の条件をつけるべき」の記載はない。豊田は保科善四郎『大東亜戦争秘史』を使っている。-->。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する{{sfn|豊田|1978|pp=422-423}}。
8月12日、軍令部総長・豊田副武大将と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する[[帷幄上奏]]を行う{{sfn|豊田|1978|p=423}}。同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長・[[大西瀧治郎]]の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471-473頁</ref>。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している<ref>『[[昭和天皇独白録]]』</ref>。
8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。
鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は[[終戦の日]]当日に「米内を斬れ{{efn2|元々、米内と阿南は気質的な部分でなかなか反りが合わず、[[竹下正彦]]陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった。阿南は[[鈴木貫太郎]]首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も[[小島秀雄]]海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている{{Harvnb|阿川弘之|1982|p=}}。また、終戦の[[玉音放送]]の原稿についても、「戦勢日ニ非ニシテ」を「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあったという。会議中に中座する際、米内は[[迫水久常]]に絶対に修正を認めないよう指示した。しかし会議に戻ってきた米内は鈴木の仲介で修正を受け入れ、「戦局必スシモ好転セス」と改められた{{sfn|高橋|1998|p=371}}。}}」と言い残して自決したが{{Sfn|半藤|横山|秦|戸高|2005|p=241}}、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。[[戦争犯罪人|戦犯]]として拘束されることを予期し、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]へ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった{{efn2|知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物を全てまとめており「(収監される)準備はできているよ」と笑顔で答えたという{{sfn|神川|2001|pp=660-661}}。}}。
米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や[[吉田英三]]、[[豊田隈雄]]などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、[[東久邇宮内閣]]・[[幣原内閣]]でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から{{efn2|[[血圧]]は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で{{sfn|吉田|2000|p=303}}、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。}}辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。
米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は[[天佑]]だった」{{Sfnm|1a1=半藤|1a2=横山|1a3=秦|1a4=戸高|1y=2005|1p=241|2a1=三村|2y=2002|2pp=199-200, 229-230, 361}}続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿や[[細川護貞]]などに語った。
海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、[[朝日新聞]]の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され[[第二復員省]]となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。
海軍省廃止の翌日の12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって…。これからは会う機会も少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、[[香淳皇后]]も別室で米内を涙ながらに厚く労っている{{sfnm|神川|2001|1pp=670-671|高橋|1998|2pp=388-389|豊田|1978|3pp=439-441}}。現在その硯は、郷里の盛岡市先人記念館に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して、硯のみ米内家の所有物として展示されている{{sfnm|神川|2001|1p=672|高橋|1998|2p=390}}。
海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科は[[Y委員会]]を通して現在の[[海上自衛隊]]創設に間接的に影響を与えており、後に衆議院議員となった保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。
=== 東京裁判 ===
戦後の[[極東国際軍事裁判]]では[[証人]]として[[1946年]](昭和21年)3月と5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「陛下は、開戦に個人的には強く反対されていたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認された」と、昭和天皇の立場を擁護する発言に終始した。
その上で、[[満州事変]]・[[支那事変]]・日英米蘭開戦を推進した責任者として、[[土肥原賢二]]・[[板垣征四郎]]・[[武藤章]]、文官では[[松岡洋右]]の名前も挙げて、陸軍の[[戦争責任]]を追及している。しかし、[[東條英機]]の責任については言明する事がなかった{{efn2|昭和16年(1941年)10月に[[近衛文麿]]が内閣を投げ出すと、後継首班を決める[[重臣会議]]では[[及川古志郎]]海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と[[岡田啓介]]で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。}}。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、弁護側証人として出廷したときには、畑は他から圧力をかけられたのだと思うとして庇った。これは既に亡くなっていたが事件当時に陸軍参謀総長であった閑院宮載仁ひいては皇族の戦争責任を示唆しかねない問題であった。しかし、米内は畑を信じていたのか、畑の部下の名も挙げて陸軍全体の総意だったのではないかと、当時の新聞記事等を証拠品に追及する検事に対し、徹底的にしらを切り続けた。この間、検事の訊いていることに答えるようにとの裁判長の指示を無視して、たびたび自身のしたい否定発言ばかりを行い、裁判長[[ウィリアム・ウェブ]]から「The prime minister is the most stupid witness I have ever listened to.(この首相は私がこれまで話を聞いた中で一番鈍感な証人だ)」と法廷で謗られている{{sfnm|神川|2001|1pp=680-681|高橋|1998|2pp=397-399|豊田|1978|3pp=445-446}}<ref>{{Cite web |url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071272500?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KIND=summary_normal&IS_START=1&IS_NUMBER=20&IS_TAG_S51=iFi&IS_KEY_S51=F2008081909482363040&IS_EXTSCH=F2006090409562792309%2BF2008072314121759728%2BF2008072314215861903%2BF2008072314225861904&IS_ORG_ID=F2008081909482363040&IS_SORT_FLD=&IS_SORT_KND=&DIS_SORT_FLD= |title=A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和22.9.18~昭和22.9.23(第28716~29142頁) |access-date=2023-12-4 |publisher=国立公文書館 |page=243コマ}}</ref>。一方で、首席検事[[ジョセフ・キーナン]]はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない」と敬意を表したという{{sfn|神川|2001|p=682}}{{efn2|[[山田風太郎]]は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している<ref>『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5</ref>。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]の[[閑院宮載仁親王]]を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼすことを恐れて実状を口にすることを避けたともいわれている{{sfn|高橋|1998|p=398}}。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル(nice admiral)」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた[[緒方竹虎]]は聞いている{{sfn|高橋|1998|pp=399-400}}<!--「ある検事が」以降のみ-->。畑はその米内の態度について、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)[東京裁判にて] 毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。}}。もっとも、米内の証言に対し、裁判長のウェッブは「本来なら信頼性のない証人として退場させるところだ」とも語って<ref>{{Cite web |url=https://www.digital.archives.go.jp/file/3339689.html |title=A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和22.9.11~昭和22.11.20(第269~318号) |access-date=2023-12-4 |publisher=国立公文書館}}</ref>いて、キーナンにとっては新聞報道のほうがよほど信頼性があると受けとめられて好都合だった可能性もある。キーナンは翌月[[若槻禮次郎]]、[[岡田啓介]]、[[宇垣一成]]らとともに米内を招いてカクテルパーティーを開き、4人を「真の平和愛好者」と呼んだ{{sfnm|高橋|1998|1p=400|豊田|1978|2p=447}}。
[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は[[連合国軍占領下の日本|日本の占領統治]]で天皇を利用するため、[[昭和天皇の戦争責任論|昭和天皇の戦争責任]]を問わない方針を定めていたが、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の中には「天皇の戦争責任を問うべきだ」とする国もあった。そのためマッカーサーの秘書官[[ボナー・フェラーズ|フェラーズ]]准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ」と語ったと言う<ref>『資料日本現代史2』栗屋健太郎</ref>{{sfn|高橋|1998|p=394}}<!--高橋には米内の返事は書かれていない。-->。
=== 晩年 ===
[[ファイル:Yonai Mitsumasa statue.JPG|thumb|[[盛岡八幡宮]]境内にある米内光政像。像の原型は盛岡市出身の[[堀江赳]]、碑文は[[小泉信三]]による。]]
1946年(昭和21年)、[[公職追放]]となる<ref>『朝日新聞』1946年3月11日一面。</ref>(死去後の[[1952年]]追放解除<ref>『朝日新聞』1952年3月4日夕刊一面。</ref>)。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、[[小島秀雄]]元海軍少将や大臣時代の副官らと共に[[北海道]][[釧路町]]の[[達古武湖]]付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。
[[1948年]](昭和23年)、[[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い[[脳溢血]]に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の[[高血圧|高血圧症]]に[[腎臓病|慢性腎臓病]]の既往症があり、さらに[[帯状疱疹]]にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた{{Sfn|阿川|1994|p=362}}。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていたものの、帯状疱疹が寿命を縮めた。
=== 死後 ===
[[昭和天皇]]が[[日本学士院]]を招いて催された昼食会で、天皇は[[小泉信三]]に、「雑誌に米内のことを書いたね」と語りかけた。小泉が『心』昭和24年1月号に寄稿した米内の想い出を読んでのことである。「拙文がお目に触れてしまいましたか」と小泉が恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と天皇は言う。それで陪食にあずかる他の参加者もそれぞれ米内の思い出話を紹介しはじめたが、やがて天皇は感慨深げに「惜しい人であった」と言ったきり口を閉ざしてしまい、このためその場は静まり返ったという{{sfn|緒方|1983|pp=251-252}}。
米内の死後12年を経た[[1960年]](昭和35年)、[[盛岡八幡宮]]境内に背広姿の米内の銅像<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-yonai04.jpg 背広姿の米内の銅像]</ref> が立てられ、[[10月12日]]に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていた{{Sfn|阿川|1994|p=365}}。
== 人物 ==
[[ファイル:Yonai, Itagaki, Tojo.jpg|thumb|200px|昭和14年(1939年)1月、[[板垣征四郎]] (中央右) の「陸相就任祝賀会」に参加する米内海相。板垣の右には当時陸軍次官だった[[東條英機]]も見える。]]
=== 人柄 ===
身長五尺七寸(約173cm)、体重80kg。趣味は[[長唄]]{{Sfn|高田|1990a|p=37}}。[[ロシア文学]]にも親しみ、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]を愛読した{{Sfn|高田|1990a|p=37}}。「好物は[[おから]]と[[豆腐]]だった」という。
極端に口数が少なく、面倒くさがりで、説明や[[演説]]を嫌った。しかし、佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中は「米内さんは口数が少ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と証言しており、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。
米内は坊主頭が一般的だった他の軍人とは異なり、髪を[[七三分け|七三]]に分けていた{{sfn|高田|1990a|p=135}}。[[練習艦]]「磐手」艦長時代に[[横須賀鎮守府]]長官・[[野間口兼雄]]大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では[[囚人]]の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという{{sfn|緒方|1983|p=184}}。{{要出典範囲|また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという(もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという)。|date=2021-01}}米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。<!--七宮涬三編1994に出てくる話だが、発言の内容は少し異なる-->
長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と諭されたと剛政は述懐している{{Sfn|七宮涬三|1994|p=}}。
=== 酒が米内か、米内が酒か ===
米内は酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた{{sfn|緒方|1983|p=232}}。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。
総理大臣の時に[[満州国]]の皇帝・[[愛新覚羅溥儀]]が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、[[高松宮宣仁親王]]が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある{{sfn|阿川|1994|p=199}}。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。
酔っ払うことはほとんどなかったが、ほろ酔い加減になると[[長唄]]の調子が棒読みになったともいう。また米内自らロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言ったこともある{{sfn|緒方|1983|p=259}}。保科善四郎は「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。
海軍料亭などで飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。若いころは自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった{{Sfn|神川|2001|p=319}}。<!--生出はこの話を阿川、実松の新版、『追想録』のいずれかからひいている-->
=== 逸話 ===
[[ファイル:Yonai and Itagaki honoring their teacher.jpg|thumb|200px|1939年6月3日に東京の料亭で開かれた謝恩会で尋常中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む[[板垣征四郎]]陸相(最左)、[[田中舘愛橘]]帝大名誉教授(右から二人目)、米内海相。]]
米内と[[陸軍大将]]の[[板垣征四郎]]は政治的立場も思想も異なったが、同郷([[岩手県]])出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡尋常中学校]]時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の[[野村胡堂]]、言語学者の[[金田一京助]]など、冨田の教え子たちが多く集った。
女性によくもてたようで、特に[[花街|花柳界]]では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、[[愛人]]だったと称する女性にあちこちで会ったり{{sfn|阿川|1994|p=127}}、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという{{sfn|阿川|1994|p=40}}。[[佐世保鎮守府]]長官退任の際、[[佐世保駅]]周辺には見送りに訪れた[[芸者]]で黒山の人だかりができたといわれている{{sfn|豊田|1978|pp=281-282}}。
「陸奥」艦長時代、艦は呉軍港に在泊していたのだが東京より娘の病死の連絡が入った。米内は「艦長として艦は離れがたい用事があるので帰京はあきらめる。代わりの子供は幾らでもできる。」と言ったという{{sfn|緒方|1983|p=187}}。
また、横須賀鎮守府長官時代に[[上海]]から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在の[[ストーカー]]のようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった[[井上成美]]も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している。これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消え、それ以後の消息は不明だという{{sfn|阿川|1994|pp=124-125}}。
米内は、日独伊三国同盟締結時、この報を聞いて「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイアガラの流れに逆らって船をこいでるようなもので、今から見ると無駄な努力であった」と嘆息し、[[緒方竹虎]]の米内、山本の海軍が続いていたなら徹頭徹尾反対したかの質問に対し「無論反対したが殺されていたでしょうね」と述懐している{{sfnm|緒方|1983|1p=64|神川|2001|2pp=420-421|実松|2009|3pp=229-230}}。
米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている{{sfn|緒方|1983|p=237}}。また、[[佐世保鎮守府]]長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという{{Sfnm|生出|1989|1pp=254-255|緒方|1983|2pp=207-208|豊田|1978|3p=281}}。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の[[荒城二郎]]向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。
[[武見太郎]](後の[[日本医師会]]会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による占領政策を批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという{{sfn|阿川|1994|pp=352-353}}。米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べたという{{sfn|阿川|1994|p=363}}。
戦後高血圧で悩まされた際、[[幣原内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]だった[[吉田茂]]から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介された。武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である[[牧野伸顕]]より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日ごろから聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという{{sfn|阿川|1994|pp=336-337}}。米内の高血圧は既に対処不能な段階になっていたため酒が解禁されたといわれているが、米内の晩年は比較的穏やかで、最終的には肺炎で最期を迎えている。
== 評価 ==
[[山本五十六]]は海軍次官として米内の部下だったころに「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、[[大井篤]]は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の[[井上成美]]の大将昇進、[[軍令部]]次長に[[大西瀧治郎]]を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。
井上大将は戦後、「[[海軍大将]]にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは[[山本権兵衛]]・[[加藤友三郎]]・米内の三人だけであった。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった[[小泉信三]]は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。[[大西新蔵]]は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。[[保科善四郎]]は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。[[高木惣吉]]は、「世にいう秀才タイプでなかったことは事実」{{sfn|高木|1950|p=176}}「雄弁も、迫力も、政治的烱眼もたしかに持ち合せていなかった」{{sfn|高木|1950|p=187}}「だがその代り、いつも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後までくりかえした」{{sfn|高木|1950|p=188}}と評する。
[[前田稔 (海軍軍人)|前田稔]]は、「米内さんは[[老荘思想|老荘]]の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている{{Sfn|阿川|1994|pp=126-127}}。
中国文学者の[[守屋洋]]は『[[老子]]』を解説した著書の中で[[大山巌]]と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている。
戦争への危機感が高まる中、[[海軍左派]]を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして[[連合艦隊司令長官]]に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に[[多田武雄]]、軍務局長に周囲から[[本土決戦]]派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。
敗戦間もない1945年11月28日の第89回[[帝国議会]][[衆議院]]本会議にて、[[反軍演説]]などで知られる[[斎藤隆夫]]による[[軍国主義]]に対する軍の責任を問う質問への答弁において、最後の[[陸軍大臣]][[下村定]]大将は、陸軍を代表して自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認め、その原因の分析と共にこれを総括し、国民に対して謝罪を行っている。しかし、下村と同じく最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は、(斎藤の質問には)海軍大臣を対象とした答弁が求められておらず、議事録にもないことを理由に答弁に立つ事を拒否、米内は下村陸相とは対照的に、場内の議員達の憤激を買うという一幕があった{{sfn|高橋|1998|p=385}}。
下村率いる陸軍が組織としての敗戦責任の非を公的な場で認めた一方で、米内率いる海軍はその後の組織解体に至るまで、敗戦責任について組織として公的な分析と総括、自省を行う事はついになかった。その後、多くの文化人により米内を始めとする海軍左派を「良識派」として大書した傾向も相まって、いわゆる[[陸軍悪玉論|陸軍悪玉論・海軍善玉論]]が昭和史の上で定着する遠因ともなったと、自らの著作すらもそうした傾向のあった[[半藤一利]]をして言わしめる事となった<ref>[[半藤一利]]『指揮官と参謀 - コンビの研究』文春文庫、1992年</ref>。陸軍悪玉論・海軍善玉論自体は半藤を始めとする海軍派の作家や、戦史研究者の中ですらも既に一方的に偏った不正確な主張であるとみなされているが、{{要出典範囲|[[海上自衛隊]]が公的に「海軍の後裔」たる事を公言する事が日本社会が受容している一方で、[[陸上自衛隊]]は同様の主張は控えめに行う傾向にあるなど、2020年代現在に至るまで日本国民の印象の中に極めて強い影響を残し続けている|date=2023-11}}。
アメリカの[[タイム誌]]は、海軍大臣のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19370830,00.html 1937年8月30日号]</ref> と総理のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19400304,00.html 1940年3月4日号]</ref> の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾る[[タイム誌#表紙を飾った日本人|カバーパーソン]]として扱っている。
== 履歴 ==
=== 略歴 ===
<ref name=":2">{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 4731 - 4746, 海軍大将略歴:米内光政}}</ref>
* 1880年([[明治]]13年)3月2日 - [[岩手県]]三ツ割村(現:[[盛岡市]])に生まれる<ref name=":3" />。
* 1886年(明治19年) - 鍛冶町尋常小学校に入学。
* 1891年(明治24年) - 盛岡高等小学校(現:[[盛岡市立下橋中学校]])に入学。
* 1894年(明治27年) - 岩手尋常中学校(現:[[岩手県立盛岡第一高等学校]])に入学。
* 1898年(明治31年) - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校。
* 1901年(明治34年) - 海軍兵学校卒業(第29期)。海軍少尉候補生。練習艦「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」乗組。
* 1903年(明治36年) - 1月:[[海軍少尉]]に任官。9月:第16水雷艇隊付。
* 1904年(明治37年) - [[日露戦争]](明治37年2月 - 明治38年9月)に従軍<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=盛岡の先人たち:米内光政|url=https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html|website=盛岡市公式ホームページ|accessdate=2021-12-18|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2021-1218-1134-54/https://www.city.morioka.iwate.jp:443/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html|archivedate=2021-12-18|date=2018-12-10}}</ref>。7月:[[海軍中尉]]に進級。10月:待命(病休)。
*1905年(明治38年) - 8月:[[装甲巡洋艦]]「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」分隊長心得。12月:[[海軍砲術学校|砲術練習所]]。
* 1906年(明治39年) - 功五級[[金鵄勲章]]。[[米内こま|大隈コマ]]と結婚。6月:[[防護巡洋艦]]「[[新高 (防護巡洋艦)|新高]]」分隊長心得。9月:[[海軍大尉]]に進級・「新高」分隊長。
*1907年(明治40年) - 「新高」砲術長。
*1908年(明治41年) - [[海軍砲術学校]]教官。
*1909年(明治42年) - [[戦艦]]「[[敷島 (戦艦)|敷島]]」分隊長。
*1910年(明治43年) - 戦艦「[[薩摩 (戦艦)|薩摩]]」砲術長。
*1911年(明治44年) - 1月:防護巡洋艦「[[利根 (防護巡洋艦)|利根]]」砲術長。12月:海軍砲術学校教官。
* 1912年([[大正]]元年) - 12月:[[海軍少佐]]に進級・[[海軍大学校]]甲種学生。
* 1914年(大正3年) - 海大甲種学生卒業(第12期)、[[旅順要港部]]参謀。
* 1915年(大正4年) - [[ロシア]]駐在(大正4年2月 – 大正6年4月)。
* 1916年(大正5年) - [[海軍中佐]]に進級。
*1917年(大正6年) - [[佐世保鎮守府]]参謀。
* 1918年(大正7年) - 4月:[[軍令部|海軍軍令部]]出仕(ロシア出張)。8月:[[浦塩派遣軍]]司令部付。
*1919年(大正8年) - 9月:[[海防艦]]「[[富士 (戦艦)|富士]]」副長。12月:[[軍令部|海軍軍令部]]参謀。
* 1920年(大正9年) - 海軍軍令部出仕・欧州出張(ポーランド・[[ベルリン]]に駐在(大正9年6月 – 大正11年12月))。大正9年12月: [[海軍大佐]]に進級。
* 1922年(大正11年) - 装甲巡洋艦「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長。
* 1923年(大正12年) - 装甲巡洋艦「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」艦長。
* 1924年(大正13年) - 7月:[[戦艦]]「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」艦長。11月:戦艦「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」艦長。
* 1925年(大正14年) - [[海軍少将]]に進級・[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。
* 1926年(大正15年) - [[軍令部]]第三班長。
* 1928年(昭和3年) - [[第一遣外艦隊]]司令官。
* 1930年(昭和5年) - [[海軍中将]]に進級・[[鎮海警備府|鎮海要港部]]司令官。
* 1932年(昭和7年) - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官に親補される。
* 1933年(昭和8年) - 9月:軍令部出仕。11月:[[佐世保鎮守府]]司令長官に親補される。
* 1934年(昭和9年) - 第二艦隊司令長官に親補される。
* 1935年(昭和10年) - [[横須賀鎮守府]]司令長官に親補される。
* 1936年(昭和11年) - [[連合艦隊司令長官]] 兼 [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官に親補される。
* 1937年(昭和12年) - 2月:[[林内閣]]で[[海軍大臣]]を拝命(つづく[[第1次近衛内閣]]と[[平沼内閣]]でも留任)。4月:[[海軍大将]]に親任される。
* 1939年(昭和14年) - [[軍事参議官]]に親補される。
* 1940年(昭和15年) - 1月:[[予備役]]に編入され[[内閣総理大臣]]となる。7月:[[親任官#前官礼遇|前官礼遇]]。
* 1943年(昭和18年) - 戦死した連合艦隊司令長官[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長を務める。
* 1944年(昭和19年) - [[現役]]に復帰して[[小磯内閣]]の海軍大臣となる(つづく[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]、[[東久邇宮内閣]]、[[幣原内閣]]でも留任)。
* 1948年(昭和23年)4月20日 - [[肺炎]]により死去。墓所は盛岡市円光寺。
=== 栄典 ===
;位階
* [[1903年]](明治36年)[[4月10日]] - [[正八位]]<ref name="光政">{{アジア歴史資料センター|A11114945900|海軍大将米内光政特旨叙位ノ件}}</ref><ref>『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。</ref>
* [[1904年]](明治37年)[[8月30日]] - [[従七位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。</ref>
* [[1906年]](明治39年)[[11月30日]] - [[正七位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。</ref>
* [[1911年]](明治44年)[[12月20日]] - [[従六位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。</ref>
* [[1916年]](大正5年)[[12月28日]] - [[正六位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。</ref>
* [[1921年]](大正10年)[[1月20日]] - [[従五位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。</ref>
* [[1926年]](大正15年)[[1月15日]] - [[正五位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。</ref>
* [[1930年]](昭和5年)[[12月27日]] - [[従四位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。</ref>
* [[1933年]](昭和8年)[[2月1日]] - [[正四位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。</ref>
* [[1936年]](昭和11年)[[2月15日]] - [[従三位]]<ref name="光政"/>
* [[1938年]](昭和13年)[[3月1日]] - [[正三位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第3357号「叙任及辞令」1938年3月15日。</ref>
* [[1940年]](昭和15年)[[8月1日]] - [[従二位]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第4072号「叙任及辞令」1940年8月2日。</ref>
;勲章など
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[旭日章|勲五等双光旭日章]]・[[金鵄勲章|功五級金鵄勲章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="光政"/>
* [[1912年]](明治45年)[[5月24日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="光政"/>
* [[1915年]](大正4年)[[11月7日]] - [[旭日章|旭日小綬章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref name="光政"/>
* [[1918年]](大正7年)[[5月25日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref name="光政"/>
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[旭日章|旭日中綬章]]・[[金鵄勲章|功四級金鵄勲章]]<ref name="光政"/>
* [[1927年]](昭和2年)[[4月16日]] - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第91号「叙任及辞令」1907年7月21日。</ref>
* [[1933年]](昭和8年)[[1月19日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]<ref name="光政"/><ref>『官報』第1815号「叙任及辞令」1933年1月20日。</ref>
* [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - [[勲一等旭日大綬章|旭日大綬章]]<ref name="光政"/>
* [[1940年]](昭和15年)[[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref>
* [[1942年]](昭和17年)[[4月4日]] - [[功一級金鵄勲章]]<ref>『官報』第4570号「宮廷録事 勲章親授式」1942年4月7日。</ref>
;外国勲章佩用允許
* [[1907年]](明治40年)[[6月13日]] - [[大韓帝国]]:勲四等八卦章<ref name="光政"/>
* 勲一位景雲章 - 1942年(昭和17年)2月9日<ref name="kanpo19420212">[{{NDLDC|2961028}} 『官報』1942年2月12日 賞勳局]</ref>
* [[ドイツ鷲勲章|ドイツ鷲勲章大十字章]] - 1940年(昭和15年)2月27日<ref>[{{NDLDC|2960442/6}} 『官報』第3946号、昭和15年3月4日]</ref>
* 3等{{仮リンク|聖アンナ勲章|en|Order of St. Anna}}
* {{仮リンク|八卦章|label=勲四等八卦章|ko|팔괘장 (훈장)|}}
* 建国神廟創建記念章 - 1942年(昭和17年)2月9日<ref name="kanpo19420212"/>
== 系譜 ==
米内家は[[摂津国]]大坂から盛岡に移住し、[[南部信直]]に仕えた[[宮崎勝良|宮崎庄兵衛勝良]]を祖とし、三代目[[傳秀政|傳左衛門秀政]]の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が[[出雲国]][[米内郷]]から来るもので、本来の[[陸奥国]]の[[米内氏]]の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。
陸奥米内氏は[[一方井]]氏の分家筋にあたり、[[一方井氏]]は[[俘囚]]長[[安倍頼時|安倍頼良]]・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を[[安倍貞任]]の末裔だと称していた。
三女和子が元[[竹中工務店]]会長の[[竹中錬一]]に嫁いでいる{{Sfn|高田|1990b|p=86}}<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤朝泰|authorlink=佐藤朝泰|title=豪閥 地方豪族のネットワーク|publisher=[[立風書房]]|year=2001|page=216|isbn=978-4-651-70079-3}}</ref>。
<pre>
┏竹中藤右衛門━━┳寿美
┃ ┃
┃ ┣竹中宏平
┃ ┃ ┣━━竹中祐二
┗竹中藤五郎 ┃ りゅう子 ┃
┃ ┃
┃竹下登━━━━公子
┃(首相)
┃
┃(15代)
┗竹中錬一
┣━━━竹中統一
米内光政━━━┳和子
(首相) ┃
┗米内剛政
</pre>
参考: {{Cite book|和書|author=佐藤朝泰|authorlink=佐藤朝泰|title=豪閥 地方豪族のネットワーク|publisher=[[立風書房]]|year=2001|pages=214-215|isbn=978-4-651-70079-3|chapter=竹中家を中心とする閨閥地図}}
== 関連作品 ==
;映画
* 『[[黎明八月十五日]]』(1952年、演:[[森野五郎]])※劇中の役名は海軍大臣
* 『[[太平洋の鷲]]』(1953年、東宝、演:[[柳永二郎]])
* 『[[日本敗れず]]』(1954年、新東宝、演:柳永二郎)※劇中の役名は米田海軍大臣
* 『[[軍神山本元帥と連合艦隊]]』(1956年、新東宝、演:[[阿部九州男]])
* 『[[大東亜戦争と国際裁判]]』(1959年、新東宝、演:[[坂東好太郎]])
* 『[[皇室と戦争とわが民族]]』(1960年、新東宝、演:[[近衛敏明]])
* 『[[八月十五日の動乱]]』(1962年、演:[[神田隆 (俳優)|神田隆]])
* 『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』(1967年、東宝、演:[[山村聰|山村聡]])
* 『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年、東宝、演:山村聡)
* 『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』(1968年、東宝、演:[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]])
* 『[[あゝ決戦航空隊]]』(1974年、東映、演:[[池部良]])
* 『[[太陽 (映画)|太陽]]』(2005年、ロシア映画、演:[[西沢利明]])
* 『[[聯合艦隊司令長官 山本五十六]]』(2011年、東映、演:[[柄本明]])
* 『[[日本のいちばん長い日#2015年版の映画|日本のいちばん長い日]]』(2015年、松竹、演:[[中村育二]])
;テレビドラマ
* 『[[激浪]]』(1961年、TBS、演:[[早川雪洲]])
* 『[[NHK特集]] [[日本の戦後]]』第1集 日本分割 知られざる占領計画(1977年、NHK、演:[[増田順司]])
* 『[[大いなる朝]]』(1979年、テレビ朝日、演:[[児玉清]])
* 『[[歴史の涙]]』(1980年、TBS、演:神田隆)
* 『[[海にかける虹〜山本五十六と日本海軍]]』(1983年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]、演:[[渡辺文雄 (俳優)|渡辺文雄]])
* 『[[山河燃ゆ]]』(1984年、NHK大河ドラマ、演:[[村上幹夫]])
* 『[[そして戦争が終った]]』(1985年、TBS、演:[[渥美国泰]])
* 『[[日本の夏]]』(1987年、テレビ西日本、演:[[平幹二朗]])
* 『[[海の夕映え 最後の海軍大将井上成美]]』(1992年、日本テレビ、演:[[村井国夫]])
* 『[[ザ・ラストUボート]]』(1993年、NHK、演:児玉清)
* 『[[命なりけり 悲劇の外相・東郷茂徳]]』(1994年、TBS、演:[[滝田裕介]])
* 『[[ヒロシマ 原爆投下までの4か月]]』(1996年、NHK、演:[[神山繁]])
* 『[[聖断 (テレビドラマ)|聖断]]』(2005年、テレビ東京、演:[[原田大二郎]])
* 『[[大いなる楯 米内光政]]』(2020年、[[IBC岩手放送]]、演:[[村上弘明]])
;テレビアニメ
* 『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』(2004年、TBS[[テレビアニメ]]、演:[[佐々木敏]]{{efn2|佐々木は米内と同じ[[岩手県]]出身でアニメでも東北訛りで演じている。}})
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献・関連文献 ==
{{参照方法|date=2015年2月|section=1}}
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
** [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031062100 Ref.A06031062100]「写真週報 26号」(昭和13年8月10日号) 米内光政「海軍作戦一年を回顧して国民に告ぐ」
** [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031069600 Ref.A06031069600]「写真週報 101号」(昭和15年1月31日号) 米内内閣組閣・浅間丸事件
** [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031033300 Ref.A06031033300]「週報 第171号」(昭和15年1月24日号) 米内光政「全国民の協力を求む」
* {{Cite book|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008246789-00?ar=4e1f |title=米内光政追想録|publisher=米内光政銅像建設会|year=1961}}
;書籍
* {{Cite book|和書|author=阿川弘之|authorlink=阿川弘之|title=米内光政|publisher=[[新潮社]]|year=1994|isbn=4-10-300413-4|ref={{Sfnref|阿川|1994}}|edition=新装版}}
**{{Citation|和書|last=阿川|first=弘之|authorlink=阿川弘之|year=2002|title=米内光政|edition=|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-111006-6|series=新潮文庫|ref=harv}}
* 阿川弘之『軍艦長門の生涯』新潮社(上下)、のち各「全集」新潮社
* {{Cite book|和書|author=生出寿|title=不戦海相 米内光政|year=1989|publisher=[[徳間書店]]|isbn=4-19-813966-0|ref={{sfnref|生出|1989}}}}
* {{Cite book|和書|author=緒方竹虎|title=一軍人の生涯 提督・米内光政|year=1983|publisher=光和堂|isbn=4-87538-059-3|ref={{sfnref|緒方|1983}}}}
* {{Cite book|和書|author=神川武利|title=米内光政-海軍魂を貫いた無私・廉潔の提督|series=PHP文庫|year=2001|isbn=4-569-57518-8|ref={{sfnref|神川|2001}}}}
* {{Cite book|和書|editor1=実松譲|editor1-link=実松譲|editor2=高木惣吉|editor2-link=高木惣吉|title=海軍大将米内光政覚書|publisher=[[潮書房光人新社|光人社]]|isbn=4-7698-0021-5}}新版・産経NF文庫、2022年
* {{Cite book|和書|author=実松譲|edition=新版|title=海軍大将 米内光政正伝-肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯|publisher=光人社|year=2009|ref={{Sfnref|実松|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author=高木惣吉|title=山本五十六と米内光政|publisher=[[文藝春秋新社]]|year=1950|ref={{sfnref|高木|1950}}|pages=173-231|chapter=回想の米内光政}}
* {{Cite book|和書|author=高田万亀子|title=静かなる楯-米内光政|publisher=[[原書房]]|volume=上|isbn=4-562-02120-9|year=1990|ref={{sfnref|高田|1990a}}}}
* {{Cite book|和書|author=高田万亀子|title=静かなる楯-米内光政|publisher=原書房|volume=下|isbn=4-562-02121-7|year=1990|ref={{sfnref|高田|1990b}}}}
* {{Cite book|和書|author=高田万亀子|title=米内光政の手紙|publisher=原書房|year=1993|month=10|isbn=978-4562024780}}
* {{Cite book|和書|author=高橋文彦|authorlink=松田十刻|title=海軍 一軍人の生涯 肝脳を国にささげ尽くした宰相の深淵|publisher=光人社|isbn=4-7698-0846-1|year=1998|ref={{sfnref|高橋|1998}}}}
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|title=激流の孤舟 提督・米内光政の生涯|publisher=講談社|year=1978|ref={{sfnref|豊田|1978}}}}
* {{Cite book|和書|author=七宮涬三 編著|authorlink=七宮涬三|title=米内光政のすべて|publisher=[[新人物往来社]]|year=1994|month=1|isbn=4404020678|ref={{Sfnref|七宮涬三|1994}} }}
* {{Cite book|和書|author=野村實|authorlink=野村実|title=天皇・伏見宮と日本海軍|year=1988|isbn=4-16-342120-3|ref={{Sfnref|野村|1988}}|publisher=[[文藝春秋]]}}
* {{Cite book|和書|author=三村文男|title=米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す|year=2002|month=7|publisher=テーミス|isbn=978-4901331067|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|author2=横山恵一|author3=秦郁彦|authorlink3=秦郁彦|author4=戸高一成|authorlink4=戸高一成|title=歴代海軍大将全覧|year=2005|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-150177-2|series=[[中公新書ラクレ]]|ref={{SfnRef|半藤|横山|秦|戸高|2005}}}}
** {{Citation|和書|title=歴代海軍大将全覧|year=2013|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|series=中公新書ラクレ|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|ref=harv}}
* {{cite book|和書|author=吉田俊雄|title=日本海軍のこころ|pages = 273-305|chapter = 海軍三羽烏|isbn=4-16-356900-6|ref={{Sfnref|吉田|2000}}|year=2000}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mitsumasa Yonai}}
* [[竹中工務店]]
* [[大日本帝国海軍軍人一覧]]
* [[佐久間勉]]
* [[親和銀行]]
* [[浅間丸事件]]
* [[実松譲]]
* [[盛岡八幡宮]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|url= https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index |publisher=[[公益財団法人]][[盛岡市]]文化振興事業団|work=盛岡市先人記念館|title=米内光政|accessdate=2015-02-27}}
* {{Kotobank}}
{{S-start}}
{{s-off}}
{{succession box
| title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]
| before = [[阿部信行]]
| years = 第37代:1940年1月16日 - 同7月22日
| after = [[近衛文麿]]
}}
{{succession box
| title = {{Flagicon|JPN}} [[海軍大臣]]
| before = [[永野修身]]<br />[[野村直邦]]
| years = 第39・40・41代:1937年2月2日 - 1939年8月30日<br />第49 - 52代:1944年7月22日 - 1945年12月1日
| after = [[吉田善吾]]<br />[[第二復員省]]へ移行
}}
{{s-mil}}
{{succession box
| title = {{Flagicon|JPN}} [[連合艦隊司令長官]]
| before = [[高橋三吉]]
| years = 第23代 : 1936年12月1日 - 1937年2月2日
| after = [[永野修身]]
}}
{{S-end}}
{{日本国歴代内閣総理大臣
|当代=[[米内内閣|37]]
|在任期間= 1940年1月16日 - 同7月22日
|前代=[[阿部内閣|36]]
|前首相名=阿部信行
|次代=[[第2次近衛内閣|38]]・[[第3次近衛内閣|39]]
|次首相名=近衛文麿}}
{{海軍大臣}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:よない みつまさ}}
[[Category:米内光政|*]]
[[Category:大日本帝国海軍大将]]
[[Category:連合艦隊司令長官]]
[[Category:横須賀鎮守府司令長官]]
[[Category:佐世保鎮守府司令長官]]
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フォーセリア
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フォーセリアは、ファンタジー小説・ロールプレイングゲームの『ロードス島戦記』、『ソード・ワールド』、『クリスタニア』の舞台となる架空の世界。翻訳作品ではない日本国産の正統的な中世ヨーロッパ風ファンタジー世界としては、国内最大級の設定規模を持つシェアード・ワールド(共有世界)でもある。
水野良が『ロードス島戦記』発表時に、それまで温めていた世界を公表したもので、『ロードス島戦記』の源流となった『ダンジョンズ&ドラゴンズ (Dungeons & Dragons) 』や、さらにその源流となった『指輪物語』、また『ルーンクエスト』の背景世界であるグローランサの世界像を強く受け継いでいる。現在も水野良やグループSNEのメンバーによって設定が追加、拡張されている。
神々の時代より更に太古の時代、世界は一人の巨人(後に「始源の巨人」と呼ばれる)がいる他は完全な無が広がっていた。全知全能の知性と永遠不滅の肉体を持つ巨人は長い年月を一人で過ごしたが、あるとき孤独に耐えられずに自分自身を焼き殺してしまう。その死骸(混沌)から生まれた神々によって作られた「精霊界」「物質界」「妖精界」などから成る世界がフォーセリアであり、これらの世界はその残滓である混沌界に浮かぶ小島に例えられる。
最初に創造されたのが「精霊界」で、混沌の中から地水火風の四大元素を始めとするさまざまな自然現象の基になる秩序立った精霊力が選り分けられ、それを制御する精霊が創造され住んでいる。
次に創造されたのが現在人間の住む「人間界」をはじめとする物質界で、人間界は元々神々が住むために作られた特別な場所といわれる。そのため「神々の大戦」では主戦場となり、戦いの過程で他の世界から様々な種族が召喚され、他に類を見ない多種多様な種族が住むようになったとされる。
他の物質界の研究は主に古代王国時代に盛んに行われ、ファラリスに従う者達が住む「魔界」が発見されている。また「星界」の存在もこの時代に確認されており、強力な破壊魔法として知られる「メテオ・ストライク」の魔法は、「星界」から隕石を呼び寄せる召喚魔法の一種である。ただ共に魔法王国時代の政争によって発見者が処刑されており、殊に「星界」の研究は以後禁忌とされてしまっている。他にも各教団は死後の世界として「冥界」の存在を説いており、代表的なものとしてはマイリー教団の「喜びの野」、チャ・ザ教団の「至福の島」などがある。それらいくつもの世界をラーダが統べるとされる「星界」が取り囲んで物質界を構成しているとされている。この他にも確認されていない物質界が存在すると考えられており、代表的な例としては「魔界」と対になるファリスに従う者達が住む「天界」や、「神々の大戦」で竜族が“召喚”されたと伝えられていることから「竜族だけが住む物質界」などがある。
最後に「精霊界」のさまざまな力が「物質界」に届くように、その仲介となる「妖精界」が作られたとされる。エルフやドワーフ・グラスランナーなどは、元々この「妖精界」の住人であり、「神々の大戦」の時に物質界に召喚されている。また「夢幻界」と呼ばれる世界もあり、混沌界と同じ意味なのかどうかで意見が分かれている。
大地は地球のような球体ではなく正方形をした平面であり、その4つの頂点はそれぞれ東西南北を差しているとされる。ただし、理由は解説されていないが地平線は存在する。北に氷の門(あるいは大地の門)、南に炎の門、東に風の門があり、険しい気象条件や精霊力によって扉を閉ざしているが、唯一西の水の門だけは閉じられておらず、水が滝となって零れ落ちているとされている。この水の流れが時の流れを作っている。一方、クリスタニアはこの不完全であった世界から一つの大陸を隔離することで、完全な世界を作ろうとしたものである。クリスタニアの世界にとって「時間」という概念は存在せず、歴史はあらかじめ決まっているもの、繰り返すものであり(これを「周期」という)、人々は神の定めた周期に従って生きていた。しかし、紆余曲折の末にこの周期は作中で終わりを告げている。
世界設定の根底に流れる世界観は、国々の設定の多くに中世ヨーロッパ風のイメージを取り入れながらも善悪二元論で語られることは少なく、むしろ陰陽思想に近い。フォーセリアで最終的に越えるべき障害として立ちはだかるものは、パワーバランスが「善悪」や「秩序と混沌」、またはそれ以外であっても、ある一方に偏ったときに出現している。これに対抗する思想がロードス島戦記に登場するカーラに代表される。これについては、カーラを参照のこと。
文章中に東西南北などの表現がみられるが、フォーセリアにおいて気候風土はその土地でより強く影響を及ぼしている精霊によって様々である。
ソード・ワールドの中心舞台。フォーセリア世界の北部に位置する。世界で最も広大な大陸。古代魔法王国の中心地でもあった。その広さからほぼ7つの地域(東から「極東地方」「北東地方」「無の砂漠」「南部地方」「中部地方」「中原地方」「西部諸国」)に分けられる。無の砂漠を除外し、中原地方を北部と南部に分ける数え方もある。
アレクラスト大陸の中央部からやや西よりに位置する地域。北東部は遠く無の砂漠へと続き、南東部は巨大な湖であるエア湖と接する。中原で最も南部に位置するロマールには「自由人たちの街道」が通っており、東部は中部地方のザインと、西部は西部諸国のベルダインと繋がっている。ロマールからは北部にむかって「いにしえの街道」が伸びており、順にファンドリア、オーファン、ラムリアースと結んでいる。また、オーファンからはヤスガルン山脈とクロスノー山脈の間を抜けるように西部諸国のタイデルと結ぶ道も存在するが、これは冬の間は閉ざされて使用することができない。北部と南部に分ける場合は、それぞれオーファンとラムリアースが北部、ロマールとファンドリアが南部に分類される。
中部地方は、新王国暦300年代に整備された「自由人たちの街道」によって東部地方と西部地方が結ばれてから、街道沿いに誕生・発展した地域である。よって東西の文明圏が交じり合い、言語もこの地方が分岐点(西のロマールと接するザインは西方語圏、東のオランと接するエレミアは東方語圏)となる。
現在はオラン王国しかないため、オラン地方とする呼び方もある。
10の都市国家が存在することから「10の子供たち」(テン・チルドレン)と呼ばれている。この呼び名は、東の大国などから小国であることを揶揄する意味で使われだしたが、現在では一般的な通称として定着しており、当初の蔑称的な意味合いは希薄になっている。文化面では大陸で最も先進的な地域であるとされる。
東に隣接する中原で、ファン王国の滅亡とファンドリア・オーファンの建国、ロマールのレイド併合といった波乱が続いたことで危機感を抱いた各国が、新王国暦500年のタイデルの盟約によって、東の大国(オーファンやロマール)に対する同盟関係を結んでいる。ただし、軍事面は総じて貧弱であるため、実際には10国を合わせても東の大国の武力には遠く及ばない。
アレクラスト大陸の南東に位置する諸島。大小4つの島があり、シナリオ集『虹の水晶宮』の舞台となっている。文化形態は大陸のものと全く同じで、交易も盛んに行われている。ソード・ワールドRPGリプレイ風雲ミラルゴ編、ソード・ワールドRPGリプレイアンマント財宝編ではアザーン諸島の商人が大陸で活動していることも描写された。
アレクラスト大陸の東にある細長い島。形状が日本列島に似ており、独自の文化が発達しているといわれている。ロードス島より遥かに近い位置にあるが、閉鎖的な社会のためか交易はあまり行われていない。土着の太陽神「天照神シャナ」を奉じる「神宮」が治める神官政治が行われている。
『ロードス島戦記』の舞台。「呪われた島」と通称され、実際に呪われたと表現しても過言ではないような過酷な場所が島の随所に存在する。アレクラスト大陸の南に位置し、大陸とはわずかながら交易が行なわれている。大まかに7つの地方に分けられる。
神話の時代にはアレクラスト大陸の一部であったが、「神々の戦い」において破壊神カーディスの呪いを受け、呪いの拡大を防ぐべく大地母神マーファによってアレクラスト大陸から切り離された、とされている。ロードス島の南にある小島マーモが破壊神カーディスの封印された地とされ、大地母神マーファもロードス島にて力尽きたと伝えられる。
新王国暦525年の邪神戦争終結(灰色の魔女カーラの活動停止)以来、「呪われた島」は次第に使われなくなり、「解放された島」との呼称が広まりつつある。数十年後の時点ではアレクラスト大陸で「楽園の島」と呼ばれた例がある。また、約300年後のクリスタニアでは、ロードス島出身者の末裔は自らの故郷を「北の解放された島」と呼んでいる。
アレクラスト大陸の西にある大陸。「混沌の地」と呼ばれ、大陸の北部は混沌を司る存在(あるいは混沌そのもの)であるジャカオに飲み込まれつつある。ジャカオを信奉する混沌の勢力と、神話の時代に他の神々が混沌から逃げ去った後も唯一この地に踏み留まってジャカオと戦った「バルキリーの女王」を信奉する氏族との間で争いが続いている。それ故に六大神を始めとする他の神々は、混沌から逃げた存在であるため信仰の対象とされていない。
創世神話では、西の果てにある「水の門」が閉じられて世界創造が完成する前に神々の大戦が勃発し、結局「門」は閉じられずに終わったとされているが、西方に位置するケイオスランドで混沌からの干渉が強いのは、このことと関係があるのかも知れない。
古代王国時代には版図に含まれていた模様で、アレクラスト大陸と同様の遺跡が存在する他、「凶主」という名で古代の魔術師が伝承されている。今日では失われた混沌魔術の発祥に深く関わっていたと思われるが、魔法王国崩壊と共にその記録も失われた。
長らくアレクラスト大陸の住人からは忘れられた存在であったが、新王国歴501年にベルダイン王リカルド・ハディスが派遣した「混沌の地」遠征隊がケイオスランドに到達したことで、様相が大きく変わる。冒険者出身の騎士プライア・ウルグを隊長とする遠征隊は到達直後に船を失い、現地のオークレイ氏族との争いや侵攻してきた混沌の勢力との戦いで多くの犠牲を出しながら、ついに最初の村(十一番目の子供:イレブンスチャイルド)を確保することに成功する。そしてマーファの司祭マリク・ポストが、「リターンホーム」により唯一アレクラスト大陸への帰還を果たす。それから3年後、マリクがケイオスランドで体験した出来事を纏めた“帰還者の手記”を発表したことにより、広くケイオスランドの存在が世に知られるようになる。その後、満を持して航路図が発表されると、様々な理由で新天地を求める人々がベルダインに集まり、海路でケイオスランドへ向かうことが可能になった。
また、“墜ちた都市”レックスの遺跡でケイオスランド北部の都市ゾディークに通じる「移送の扉」が発見されたが、発見した冒険者達の手によって直後に破壊されてしまった。これ以後、新たな「移送の扉」は発見されておらず、ケイオスランドへ行くには海路が唯一の方法となっている。
なお、この地でマイリーの神官が神に祈ると「女王」が答えるという深刻な事態に遭遇するが、他の神々については大陸と特に相違点は見られない。
ロードス島のさらに南に位置する大陸。現在公表されているフォーセリア世界の大陸の中では最も南部に位置すると考えられている。瓢箪のように中央部がくびれた形で、大きく北クリスタニアと南クリスタニアに分けられる。
神話の時代の神々の大戦において中立を貫いた中立神たちが、闇の陣営の放った「神殺しの竜」から身を隠した大陸で、中立神達は神の肉体を捨て獣の体に魂を移すことで追手の目を欺いた。この神の魂を宿した獣を「神獣」と呼び、神獣達はクリスタニアを外界から遮断することで完成させた世界を創ろうとした。
この大陸を舞台とするクリスタニアシリーズは、ソード・ワールド及びロードス島戦記の時代から300年以上後の年代とされている。
プレイヤーに対して、完全に解放されている大陸。公式の設定は何一つなく(「公式設定は永遠に作られない」と言うのが、この大陸に関する唯一の公式設定)、プレイヤー間で自由に設定、使用が認められている。
フォーセリアには、概念としてでなく、神が実際に存在する。勿論信者もおり精神体も存在している。 だが、その全ては神話の時代に起こったといわれる「神々の大戦」によって肉体を失い、物質世界に直接干渉することはできなくなっている。 司祭がこの神々に祈り願うことによって、間接的に神の力を借りて奇跡を行使することができ、これを神聖魔法と呼ぶ。
このほか、クリスタニア大陸では獣の身体に神の魂が宿った神獣が現存している。これについてはクリスタニア#神獣で扱う。
アレクラストやロードスで特に信仰されている神々の内、主要な存在である6柱の神を「六大神」という。以下に示す。
上記の他にも数多くの神々が知られており、それぞれに信者や司祭も存在する。ただし、六大神以外の神々には大きな神殿や高位の司祭があまり存在しない傾向がある(ブラキ神は例外的に神殿・信者ともに多く、特にドワーフに信仰されている。邪神の側ではニルガル神の教団がその教義から整った階級制度、組織体系を持ち、大組織を作り上げる例がある)。また、当然ながら「邪神」の教団や神殿は公にはされず、地下活動で組織を維持していることが多い。
「邪神」が必ずしもファラリスの協力神というわけでもない。例えば、ニルガルは元々光の陣営の神であったものの、ラーダやチャ・ザとの諍いから光の神々の主流派と開戦したと伝えられており、自由を司り妖魔などの人間外種族に対しても肯定的なファラリスとは現在でも不倶戴天の敵同士である。破壊神カーディスの勢力に対しては、ファラリス教徒も危険視しており、マーモ島における終末戦争では他の五大神の信徒と協力してカーディス教団との戦いに参戦している。
神話の時代に起こった出来事は、正確に人間たちに伝わっているとは言いがたく、神話や教義の解釈は神殿間や地域間で必ずしも一致していない。六大神が上位の神であり、それ以外の神々は従属する下位の神というのがアレクラストやロードスでの一般的な信仰(六大神信仰)だが、ケイオスランドやクリスタニアのように六大神信仰とは大きく異なる信仰が主流の地域も存在する。
クリスタニアの神獣王の一柱、周期の神獣王フェネスは、ファリスとファラリスの兄弟神であり(始原の巨人のどの部分から生まれたかは知られていない)月を司る存在であるとも、邪神「名も無き狂気の神」の正体であるともいわれる。また、戦いの神獣王ブルーザはマイリーの従属神であった。
神々の間のささいな諍いを、恨みと復讐を司る邪神ミゴリが煽り立てて不和を助長し、遂には「大戦」にまで発展して互いを滅ぼす結果になってしまった、という伝承も存在する。無論真偽は定かではない。
他の神々が「始源の巨人」に属しているのとは異なり、未来に存在する「終末の巨人」に属しているとされる唯一の神がカーディスである。「終末の巨人」はこの世界の終わりに姿を現すとされ、世界が無に帰したあと次の「始源の巨人」となり、新たな世界を創世するとされている。
カーディスはこの世界を破壊することで「終末の巨人」を出現させ、次の世界を誕生させるために存在しているといわれる。そして新たに生まれる世界では創造の神(大地母神マーファの位置付け)として生まれ変わるとされている(そのためマーファとは本質的には同じ神でありながら、その存在理由から対立することになる)。
未来と同義語である「終末の巨人」に属しているという特異性から、その高位の司祭達の中には現世での死を超越した「転生者」となり、繰り返しこの世に生を受けて世界を破滅に導くために暗躍するものもいる(未来に属しているため、現世での死は意味が異なる、ただし転生に失敗した場合は未来が消滅することを意味し、魂の完全なる消滅となる)。また彼ら転生者達はカーディスと共に次の世界への転生が約束されているという。ロードスにはこうした終末信仰の転生者たちによるカーディスの大規模な教団が存在し、『新ロードス島戦記』などでは、これら「終末のもの」達との熾烈な戦いが描かれている。
しかしカーディスの司祭であっても終末信仰や転生を行わず、破壊神としてのカーディスを崇拝するものも多い。この場合のカーディスは、存在理由に反して来世すら破壊された無を良しとして、死と破壊と否定を司る(終末に属する物を破壊したことさえある)。一般には「終末の巨人」との関係はほとんど知られておらず、ファラリスなどと同じ邪神で闇の神の一柱であると認識されている。
不死者達の支配者であるともされ、強力な死霊魔術を行使する際にその助力を得るために魔術師達がカーディスと交信を行うこともある。
信者達は死後は虚無界に堕ちて消滅する、あるいは転生を繰り返し新たな世界に生まれ変わるとされている。破壊神としてのカーディスに仕えるものは前者、終末の眷属としてのカーディスに仕えるものは後者の教えを支持する。
フォーセリアには、「始原の巨人」から生まれた種族およびその眷属である太古種族や、神話の時代に神々が創造した数多くの古代種族、およびそれらの種族の子孫として派生した下位種族が住んでいる。どの種族も「進化」のように環境に適応していく能力を持っているが、物質界での適応は繁殖力などが高まる代わりに、魔力や知性や寿命を減らしていく傾向にあるようだ。そのため太古の姿を残した種族ほど個体としては高い能力をもち、上位種とも言われる。
誕生時から物質界に生を受けた種族だけでなく、本来は神々が「妖精界」の住人として創造した種族も、「神々の大戦」時に召喚されて以来、物質界に暮らしている。
この他にも、多くの種族が存在する。
この分類はどちらかと言うと人間側の勝手な分類であり、古代語魔法(創成魔術)で作られた人工的な生物と、自然な生物がごちゃ混ぜにされていたりする。
暗黒神によって召喚された妖精族は妖魔と呼ばれる。闇の種族であるゆえか、ほとんどすべての妖魔は暗視能力を持っている。
「始原の巨人」が自らの怒りの炎に焼かれて死んだ後、「始原の巨人」の鱗から生まれたとされる種族。未分化の精霊力を宿していて、基本的に巨人の鱗を焼いた火の精霊力を強く宿していてどのドラゴンも炎のブレスを吐けるが、他に精霊力を強く宿しているかによって、火竜(ファイアドラゴン)、水竜(ウォータードラゴン)、氷竜、風竜(エアードラゴン)、地竜(アースドラゴン)などと分類される。また光や闇の神々によって聖別された光竜(ライトドラゴン)、闇竜(ダークドラゴン)といった種族もある。
その咆哮は聞く者の魂を傷つけ恐慌をもたらし、その身を覆う鱗は鋼を超える強度を持ち、鉤爪はあらゆる生き物を引き裂き、尾の一振りは一軍を蹴散らすとされる、最強の魔獣にして幻獣、比類するものの無いフォーセリア最強の存在が竜である。
幽霊やゾンビなど、すでに死んでいるにもかかわらず、この世に留まり活動する死者のこと。負の生命の精霊力で活動しており、肉体のみ、霊体のみであるものもいる。世界樹には「正の生命の実」と「負の生命の実」が生っており、前者から生物が、後者からアンデッドが創造されたといわれている。
一般に通常の生物としての寿命を持たず、破壊されない限りは半永久的に活動しつづける。ある意味不老不死とも言える存在であり、「不死者」「生ける屍」などとも呼ばれている。魔法の武器か銀の武器でないと傷つけられないものもある。
ファリスやマーファをはじめ、光の神々はその存在を不浄で正しからざるものとして否定している。
主に死んだ人間が何らかの理由で変異して生まれるが、たいていの場合生前の人格や記憶などは残っておらず、生者を襲う危険な存在である。生前の人格や意思を保ったアンデッドも存在しており、中には一部の人間が自ら望んでそういったアンデッドに成るケースもある。
人間界とは別に存在する物質界とも言われる世界。暗黒神ファラリスの信じる者は死後、魂が闇に溶けるとも、魔界の魔神(デーモン)に転生するとも言われる。また、魔界は冥界と同一であるという説もあるが、定かではない。魔神はファラリスの神聖魔法(暗黒魔法)を使うことから、ファラリスと関係深い世界だと思われる。人間界に召喚された魔神の肉体は仮の器でしかなく、破壊されても死ぬことなく魔界の本体へと帰る。
魔神はその強さにより、4段階に大きく分類されている。
魔神だけでなく、魔界の魔獣(アザービースト)なども存在している。
クリスタニアには、以上の種族のほか神獣によって創造された亜人が存在する。リザードマン、バードマン、ウィングミュルミドンらの種族もPCとして選択することができる。
フォーセリアで使われる主な言語には以下のようなものがある。
この他にも、地域によって異なった言語が存在する。主なものは以下の通り。
いずれの言語も、下位古代語が基になって派生したものとされる。特にケイオスランド語は、文字や単語に下位古代語との共通点が多い。しかし、言語同士の互換性は無きに等しい。
人間以外の種族も、住んでいる地域の人間の言語(主として共通語)を用いる。
この他にも、ケンタウロス語・ミノタウロス語・マーマン語・ハーピィ語・インプ語・フェアリー語・グラスランナー語・ジャイアント語など、様々な種族に固有の言語が多数存在する。 なお、グラスランナー語は知られていない。彼らは故郷である妖精界から物質界へとやってきた際に、人間との交流の中から自分たちの言語を忘れてしまい、人間の言語を使用するようになったらしい。
フォーセリアの魔法は言葉によって世界に働きかけ、あるいは神や精霊に呼びかけるものなので、関連するいくつかの言語が存在する。それらの内、直接魔法に用いる言語を魔法語(ルーン)と称する。
以下は過去には用いられていたが、現在では使い手がほとんど、もしくは全くいない失われた言語/魔法語である。
フォーセリアでは、全ての物質を構成する”もの”、全ての力の”源”の根源は同一でありであり、上位古代語(ハイ・エンシェント)で「マナ」と発音される根源体「魔力」である。これを操ることであらゆる物質・あらゆる力を生み出し、変化、消滅させることが可能である。特定の手順を踏むことでマナを直接的または間接的に操り、意図的に万象を操作する奇跡=魔法を行使することができる。その技を使う者らを総称して「魔法使い(ルーンマスター)」と呼ぶ。それぞれの魔法は専用の魔法語を用いてかけられるため、魔法系統そのものも魔法語と同じ名称で呼ばれる。
各魔法の間には絶対ではないが強さの差がある。基本的には、
上位古代語で直接マナを操る古代語魔法>物質界に干渉できなくなった神々による神聖(暗黒)魔法>物質界の現象を司る精霊に呼びかける精霊魔法
の順である。これは各呪文の特徴《対抗/消滅》《対抗/優越》で表されている。同種同等の呪文には《対抗/消滅》が起こり、異種間の呪文には《対抗/優越》が起こる。竜語魔法はこれらに当てはまらない。
『ロードス島伝説』におけるウォートの解説によると、現在の人間が古代語魔法、精霊魔法、神聖魔法を使用するために必要な適性を有している可能性は各20%であるとされている。即ち人間の約半数が何らかの魔法の適性を有している計算になるが、環境によってコツを学べないこともあるため、実際社会での魔法使いの比率はこれよりも低い。
クリスタニア大陸では、神獣として神が実在するため、神獣の民は「神聖魔法」ではなく神獣から授けられた特殊な「能力(タレント)」として発揮されている。タレントの使い手は「ビーストマスター」と呼ばれる。
ソードワールド各作品やロードス島戦記より500年以上前に栄えた王国。残された遺跡やダンジョンには、当時の魔法の品や書物などが今も残されており、魔法の品の多くは現在では作ることが出来ず、書物には今では喪われた高度な知識が書かれており、手に入れば極めて高価な値段で取引される。ただし、当時の魔法生命体やトラップが残されていたり、実験動物の末裔であるモンスターが生息していることが多く、遺跡を探索することは非常に危険なこととされている。
カストゥール王国においても神話時代〜暗黒時代の歴史は、なかば伝説や神話のように扱われている。
神々の大戦の後、魂だけの存在となった神々は物質界に直接介入する手段を喪い、「神話の時代」は終わりを告げ、神々の庇護を失った「暗黒の時代」が始まる。
始源の巨人から生まれた太古種族や、神話の時代に誕生した古代種族など、遥かに強大な力を持つ種族の脅威にさらされる中で人間は上古の魔法語(ルーン)による魔法で対抗した。しかし神より授けられたのは魔法の基本でしかなかった。
古代王国滅亡より4000年前とも5000年前とも言われる過去において、後に「創設者」と伝えられる十人の賢者により、神々が人間に与えた言語を再編して上位古代語(ハイエンシェント)としてこれを解析、強大な古代語魔法が作られた。(十系統の魔法はこの十人の「創設者」から始まる)。そして古代語魔法を習得した者達がアレクラスト東部に都市を築き、これが人類最初の王国でありカストゥール王国の礎となったと伝えられている。後のカストゥール王国の歴史観では、十人の賢者による研究開始の時を以って建国としている。
古代語魔法は絶大な威力を発揮したが、太古種族や古代種族もまた圧倒的な力を持つ存在であり、三千年間とも四千年間とも言われる永きにおいてカストゥール王国は興亡を繰り返すことになる。
暗黒の時代で最後に大きな滅亡をすることになったのは古代王国滅亡より1200年ほど前、単眼の巨人族(サイクロプス)による大破壊であった。
古代王国滅亡より約1000年前、大破壊から200年ほど後にアレクラスト大陸の中央山地に興った王国がカストゥール王国の最後となる王朝となる。
数々の太古種族や古代種族が滅亡したり衰退して下位種族へと変遷するなか、成長を続けるカストゥール王国の前に立ち塞がったのが、「暗黒の時代」を生き抜いた古代種族であり、なかでも特に上位巨人族であった。現在では数も少なく人間の世界からは離れた地域に生息しているが当時は、「始源の巨人」から生まれた太古の巨人族の子孫である各種の上位巨人族も「暗黒の時代」を生き抜き各地に独自の王国を築き上げ、人間と地上世界の覇権を争う一大勢力となっていた(妖魔に属する下位巨人族は除く)。
また、古代種族から下位種族への種としての衰退が人間にとっても深刻な問題となっていた。古代王国滅亡より500年ほど前には80%の人間が魔法を使う才能を有していたが、古代王国滅亡より300年前から減少傾向にあり、古代王国末期には2%ほどの人間だけが魔法を使える貴族であり、98%は魔法を使う才能を持たない市民もしくは蛮族であった(繁栄による人口増加で、滅亡の100年ほど前から魔術師の絶対数は増加傾向にあった)。また、魔術師としての質が高い者も年々減少していったという。
その状態が激変するのは、カストゥール最後の魔法王国時代の末期に登場した召喚魔術師門主ディールによる魔界の発見と魔神軍団の召喚であった。ディールらによって支配された魔神王とその軍団は、巨人族の中でも最大の強敵でカストゥール王国を滅亡に追い込んだ事もある「サイクロプスの王国」を短期間で滅ぼしてしまう。
また同時期、当時の魔法王ラムゼーらが復活させた統合魔術(ウィザードリィ)により「魔力の塔」が建設され、無尽蔵とも言うべき魔力を行使することが可能となった。これにより、それまで「理論上は可能」とされていた幾つもの強大な魔法が現実のものとなり、宿敵巨人族のみならず、遥かに強大だった上位精霊や古竜を始めとした竜族なども次々に支配下に収め、ここにカストゥール王国は絶頂期を迎え、この時代は「魔法の時代」と呼ばれるに至った。 そして、その版図はアレクラスト大陸を超えて西のケイオスランドにおよび、更に南方のロードス島、果てはクリスタニア大陸にまで侵略の手を伸ばすことになる。
その絶頂期から僅か50年後に、カストゥールは滅亡のときを迎える。きっかけは新たに王都となった精霊都市フリーオンから始まる。この都市は様々な精霊の力によって維持されていたが、その内の地の上位精霊ベヒモスが突如変異、他の精霊達を次々と吸収し、ついに魔精霊「アトン」へと変貌した。この魔精霊はフリーオン周辺を「無の砂漠」に変え、更に増殖を続けていった。カストゥール王国の魔術師達はこの危機に総力を結集し、魔精霊を滅ぼすために当時の魔法王の肉体を素材にファーラムの剣を作って魔精霊を滅ぼすが、その際に予想を遥かに上回る魔力が消費され膨大な魔力の供給に耐えられず「魔力の塔」が崩壊してしまう。「魔力の塔」の建設以後、魔術師は額に黒水晶を埋め込み、自身の魔力が使えなくなることを代償に「魔力の塔」から魔力を供給されていた。そのため「魔力の塔」が崩壊した時点で魔法を使える者は居なくなってしまったのである。
魔術師が無力化した機に乗じて、それまで蛮族として支配されていた民の反乱が勃発。突然魔法を喪ったカストゥールの民に対抗手段はなく、極めて短期間で強大無比を誇った古代魔法王国カストゥールは滅亡する。
そして蛮族と呼ばれていた民によって、サーダイン王国が建国された年を新王国暦元年として、「剣の時代」が幕を開ける。
10人の創始者から始まった10系統の系統魔術(ブランチ)の使い手は、それぞれの系統を深く研究するために魔術師(メイジ)の一門(カレッジ)を作り上げた。しかし時が経つにつれてそれぞれの一門は派閥化して権力争いに明け暮れ、能力よりも血統を重んじるようになっていった。
各一門の上首は門主と呼ばれる。またカストゥール王国の魔法王は世襲ではなく30年を任期として次王が各門主の中から功績あるものが選ばれるため、門主は王位継承者としての側面も持ち合わせる。各一門ではそれぞれ決まった色の長衣(ローブ)を着ることになっている。ただし魔法王は一門のローブではなく、紫紺色のローブを着る。
古代王国の後期には、魔法に力により幾多の特殊な都市が作られている。
アレクラスト大陸で広域に使用されている通貨は「ガメル」で、主に銀貨で流通している。銀貨1枚が1ガメルであり、日本円にして100円程度の価値をもつ。一般庶民の1日の生活費の最低水準が約10ガメルとされている。現実世界のユーロ貨幣のように、生産は各国で行われておりデザインも様々であるが、銀貨1枚あたりの銀の量は規格化されており、ガメルを採用している地域であれば、どの国のガメル銀貨でも問題なく使用できる。また、あまり一般的ではないが、1枚が50ガメルに相当する金貨も流通している。銅貨などの補助貨幣の存在も確認できるが、作品中の記述があまりに乏しく、どの程度の価値があるのかいまひとつはっきりしていない。
かつて中原に存在したモラーナ王国のガメル伯爵が大きさや純度などの規定を定め、他国へも貨幣制度とともにこの基準が普及した。貨幣の代わりに宝石や金・銀塊などが使用されることもあるが、鑑定の手間や、両替時の手数料による目減りなど不便な点が多く、あくまで貨幣による取引が主流となっている。
ロードス島では金本位制による独自の貨幣が流通しており、アレクラスト大陸の金貨よりは少額の金貨が主に使用されている。金貨の他に銀貨や銅貨なども流通している。なお、ロードス島に貨幣経済が普及した過程については、作中で語られていない。
ケイオスランドでは貨幣経済がほとんど発達していない。アレクラスト大陸からの移住者のコミュニティは小規模であるため、移住者同士でも貨幣経済は成立しなくなっている。
時代が異なるが、クリスタニア大陸でも貨幣経済はほとんど発達しておらず、傭兵部隊「獣の牙」への報酬は主に食料の現物支給で支払われている。ただし、北の「故郷の島」「呪われた島」(いずれもロードス島のこと)からの移住者の間では貨幣が流通しており、先住民である神獣の民にも部分的に貨幣が浸透しつつある。
古代魔法王国では、「魔晶石」と呼ばれる魔力を蓄えた宝石が貨幣だったと言われている。魔晶石は古代王国の遺跡などから比較的大量に発見されるが、製法や魔力の充填方法は失われている。現代では各種の魔法を唱える際に精神力を肩代わりしてくれるアイテムとして、使い捨てで利用される。
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"text": "フォーセリアは、ファンタジー小説・ロールプレイングゲームの『ロードス島戦記』、『ソード・ワールド』、『クリスタニア』の舞台となる架空の世界。翻訳作品ではない日本国産の正統的な中世ヨーロッパ風ファンタジー世界としては、国内最大級の設定規模を持つシェアード・ワールド(共有世界)でもある。",
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"text": "水野良が『ロードス島戦記』発表時に、それまで温めていた世界を公表したもので、『ロードス島戦記』の源流となった『ダンジョンズ&ドラゴンズ (Dungeons & Dragons) 』や、さらにその源流となった『指輪物語』、また『ルーンクエスト』の背景世界であるグローランサの世界像を強く受け継いでいる。現在も水野良やグループSNEのメンバーによって設定が追加、拡張されている。",
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"text": "神々の時代より更に太古の時代、世界は一人の巨人(後に「始源の巨人」と呼ばれる)がいる他は完全な無が広がっていた。全知全能の知性と永遠不滅の肉体を持つ巨人は長い年月を一人で過ごしたが、あるとき孤独に耐えられずに自分自身を焼き殺してしまう。その死骸(混沌)から生まれた神々によって作られた「精霊界」「物質界」「妖精界」などから成る世界がフォーセリアであり、これらの世界はその残滓である混沌界に浮かぶ小島に例えられる。",
"title": "世界概略"
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"text": "最初に創造されたのが「精霊界」で、混沌の中から地水火風の四大元素を始めとするさまざまな自然現象の基になる秩序立った精霊力が選り分けられ、それを制御する精霊が創造され住んでいる。",
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"text": "次に創造されたのが現在人間の住む「人間界」をはじめとする物質界で、人間界は元々神々が住むために作られた特別な場所といわれる。そのため「神々の大戦」では主戦場となり、戦いの過程で他の世界から様々な種族が召喚され、他に類を見ない多種多様な種族が住むようになったとされる。",
"title": "世界概略"
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"text": "他の物質界の研究は主に古代王国時代に盛んに行われ、ファラリスに従う者達が住む「魔界」が発見されている。また「星界」の存在もこの時代に確認されており、強力な破壊魔法として知られる「メテオ・ストライク」の魔法は、「星界」から隕石を呼び寄せる召喚魔法の一種である。ただ共に魔法王国時代の政争によって発見者が処刑されており、殊に「星界」の研究は以後禁忌とされてしまっている。他にも各教団は死後の世界として「冥界」の存在を説いており、代表的なものとしてはマイリー教団の「喜びの野」、チャ・ザ教団の「至福の島」などがある。それらいくつもの世界をラーダが統べるとされる「星界」が取り囲んで物質界を構成しているとされている。この他にも確認されていない物質界が存在すると考えられており、代表的な例としては「魔界」と対になるファリスに従う者達が住む「天界」や、「神々の大戦」で竜族が“召喚”されたと伝えられていることから「竜族だけが住む物質界」などがある。",
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"text": "最後に「精霊界」のさまざまな力が「物質界」に届くように、その仲介となる「妖精界」が作られたとされる。エルフやドワーフ・グラスランナーなどは、元々この「妖精界」の住人であり、「神々の大戦」の時に物質界に召喚されている。また「夢幻界」と呼ばれる世界もあり、混沌界と同じ意味なのかどうかで意見が分かれている。",
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"text": "大地は地球のような球体ではなく正方形をした平面であり、その4つの頂点はそれぞれ東西南北を差しているとされる。ただし、理由は解説されていないが地平線は存在する。北に氷の門(あるいは大地の門)、南に炎の門、東に風の門があり、険しい気象条件や精霊力によって扉を閉ざしているが、唯一西の水の門だけは閉じられておらず、水が滝となって零れ落ちているとされている。この水の流れが時の流れを作っている。一方、クリスタニアはこの不完全であった世界から一つの大陸を隔離することで、完全な世界を作ろうとしたものである。クリスタニアの世界にとって「時間」という概念は存在せず、歴史はあらかじめ決まっているもの、繰り返すものであり(これを「周期」という)、人々は神の定めた周期に従って生きていた。しかし、紆余曲折の末にこの周期は作中で終わりを告げている。",
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"text": "世界設定の根底に流れる世界観は、国々の設定の多くに中世ヨーロッパ風のイメージを取り入れながらも善悪二元論で語られることは少なく、むしろ陰陽思想に近い。フォーセリアで最終的に越えるべき障害として立ちはだかるものは、パワーバランスが「善悪」や「秩序と混沌」、またはそれ以外であっても、ある一方に偏ったときに出現している。これに対抗する思想がロードス島戦記に登場するカーラに代表される。これについては、カーラを参照のこと。",
"title": "世界概略"
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"text": "文章中に東西南北などの表現がみられるが、フォーセリアにおいて気候風土はその土地でより強く影響を及ぼしている精霊によって様々である。",
"title": "地理"
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"text": "ソード・ワールドの中心舞台。フォーセリア世界の北部に位置する。世界で最も広大な大陸。古代魔法王国の中心地でもあった。その広さからほぼ7つの地域(東から「極東地方」「北東地方」「無の砂漠」「南部地方」「中部地方」「中原地方」「西部諸国」)に分けられる。無の砂漠を除外し、中原地方を北部と南部に分ける数え方もある。",
"title": "地理"
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"text": "アレクラスト大陸の中央部からやや西よりに位置する地域。北東部は遠く無の砂漠へと続き、南東部は巨大な湖であるエア湖と接する。中原で最も南部に位置するロマールには「自由人たちの街道」が通っており、東部は中部地方のザインと、西部は西部諸国のベルダインと繋がっている。ロマールからは北部にむかって「いにしえの街道」が伸びており、順にファンドリア、オーファン、ラムリアースと結んでいる。また、オーファンからはヤスガルン山脈とクロスノー山脈の間を抜けるように西部諸国のタイデルと結ぶ道も存在するが、これは冬の間は閉ざされて使用することができない。北部と南部に分ける場合は、それぞれオーファンとラムリアースが北部、ロマールとファンドリアが南部に分類される。",
"title": "地理"
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"text": "中部地方は、新王国暦300年代に整備された「自由人たちの街道」によって東部地方と西部地方が結ばれてから、街道沿いに誕生・発展した地域である。よって東西の文明圏が交じり合い、言語もこの地方が分岐点(西のロマールと接するザインは西方語圏、東のオランと接するエレミアは東方語圏)となる。",
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"text": "現在はオラン王国しかないため、オラン地方とする呼び方もある。",
"title": "地理"
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"text": "10の都市国家が存在することから「10の子供たち」(テン・チルドレン)と呼ばれている。この呼び名は、東の大国などから小国であることを揶揄する意味で使われだしたが、現在では一般的な通称として定着しており、当初の蔑称的な意味合いは希薄になっている。文化面では大陸で最も先進的な地域であるとされる。",
"title": "地理"
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"text": "東に隣接する中原で、ファン王国の滅亡とファンドリア・オーファンの建国、ロマールのレイド併合といった波乱が続いたことで危機感を抱いた各国が、新王国暦500年のタイデルの盟約によって、東の大国(オーファンやロマール)に対する同盟関係を結んでいる。ただし、軍事面は総じて貧弱であるため、実際には10国を合わせても東の大国の武力には遠く及ばない。",
"title": "地理"
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"text": "アレクラスト大陸の南東に位置する諸島。大小4つの島があり、シナリオ集『虹の水晶宮』の舞台となっている。文化形態は大陸のものと全く同じで、交易も盛んに行われている。ソード・ワールドRPGリプレイ風雲ミラルゴ編、ソード・ワールドRPGリプレイアンマント財宝編ではアザーン諸島の商人が大陸で活動していることも描写された。",
"title": "地理"
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"text": "アレクラスト大陸の東にある細長い島。形状が日本列島に似ており、独自の文化が発達しているといわれている。ロードス島より遥かに近い位置にあるが、閉鎖的な社会のためか交易はあまり行われていない。土着の太陽神「天照神シャナ」を奉じる「神宮」が治める神官政治が行われている。",
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"text": "『ロードス島戦記』の舞台。「呪われた島」と通称され、実際に呪われたと表現しても過言ではないような過酷な場所が島の随所に存在する。アレクラスト大陸の南に位置し、大陸とはわずかながら交易が行なわれている。大まかに7つの地方に分けられる。",
"title": "地理"
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"text": "神話の時代にはアレクラスト大陸の一部であったが、「神々の戦い」において破壊神カーディスの呪いを受け、呪いの拡大を防ぐべく大地母神マーファによってアレクラスト大陸から切り離された、とされている。ロードス島の南にある小島マーモが破壊神カーディスの封印された地とされ、大地母神マーファもロードス島にて力尽きたと伝えられる。",
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"text": "新王国暦525年の邪神戦争終結(灰色の魔女カーラの活動停止)以来、「呪われた島」は次第に使われなくなり、「解放された島」との呼称が広まりつつある。数十年後の時点ではアレクラスト大陸で「楽園の島」と呼ばれた例がある。また、約300年後のクリスタニアでは、ロードス島出身者の末裔は自らの故郷を「北の解放された島」と呼んでいる。",
"title": "地理"
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"text": "アレクラスト大陸の西にある大陸。「混沌の地」と呼ばれ、大陸の北部は混沌を司る存在(あるいは混沌そのもの)であるジャカオに飲み込まれつつある。ジャカオを信奉する混沌の勢力と、神話の時代に他の神々が混沌から逃げ去った後も唯一この地に踏み留まってジャカオと戦った「バルキリーの女王」を信奉する氏族との間で争いが続いている。それ故に六大神を始めとする他の神々は、混沌から逃げた存在であるため信仰の対象とされていない。",
"title": "地理"
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"text": "創世神話では、西の果てにある「水の門」が閉じられて世界創造が完成する前に神々の大戦が勃発し、結局「門」は閉じられずに終わったとされているが、西方に位置するケイオスランドで混沌からの干渉が強いのは、このことと関係があるのかも知れない。",
"title": "地理"
},
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"text": "古代王国時代には版図に含まれていた模様で、アレクラスト大陸と同様の遺跡が存在する他、「凶主」という名で古代の魔術師が伝承されている。今日では失われた混沌魔術の発祥に深く関わっていたと思われるが、魔法王国崩壊と共にその記録も失われた。",
"title": "地理"
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"text": "長らくアレクラスト大陸の住人からは忘れられた存在であったが、新王国歴501年にベルダイン王リカルド・ハディスが派遣した「混沌の地」遠征隊がケイオスランドに到達したことで、様相が大きく変わる。冒険者出身の騎士プライア・ウルグを隊長とする遠征隊は到達直後に船を失い、現地のオークレイ氏族との争いや侵攻してきた混沌の勢力との戦いで多くの犠牲を出しながら、ついに最初の村(十一番目の子供:イレブンスチャイルド)を確保することに成功する。そしてマーファの司祭マリク・ポストが、「リターンホーム」により唯一アレクラスト大陸への帰還を果たす。それから3年後、マリクがケイオスランドで体験した出来事を纏めた“帰還者の手記”を発表したことにより、広くケイオスランドの存在が世に知られるようになる。その後、満を持して航路図が発表されると、様々な理由で新天地を求める人々がベルダインに集まり、海路でケイオスランドへ向かうことが可能になった。",
"title": "地理"
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"text": "また、“墜ちた都市”レックスの遺跡でケイオスランド北部の都市ゾディークに通じる「移送の扉」が発見されたが、発見した冒険者達の手によって直後に破壊されてしまった。これ以後、新たな「移送の扉」は発見されておらず、ケイオスランドへ行くには海路が唯一の方法となっている。",
"title": "地理"
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{
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"text": "なお、この地でマイリーの神官が神に祈ると「女王」が答えるという深刻な事態に遭遇するが、他の神々については大陸と特に相違点は見られない。",
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"text": "ロードス島のさらに南に位置する大陸。現在公表されているフォーセリア世界の大陸の中では最も南部に位置すると考えられている。瓢箪のように中央部がくびれた形で、大きく北クリスタニアと南クリスタニアに分けられる。",
"title": "地理"
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"text": "神話の時代の神々の大戦において中立を貫いた中立神たちが、闇の陣営の放った「神殺しの竜」から身を隠した大陸で、中立神達は神の肉体を捨て獣の体に魂を移すことで追手の目を欺いた。この神の魂を宿した獣を「神獣」と呼び、神獣達はクリスタニアを外界から遮断することで完成させた世界を創ろうとした。",
"title": "地理"
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"text": "この大陸を舞台とするクリスタニアシリーズは、ソード・ワールド及びロードス島戦記の時代から300年以上後の年代とされている。",
"title": "地理"
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"text": "プレイヤーに対して、完全に解放されている大陸。公式の設定は何一つなく(「公式設定は永遠に作られない」と言うのが、この大陸に関する唯一の公式設定)、プレイヤー間で自由に設定、使用が認められている。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "フォーセリアには、概念としてでなく、神が実際に存在する。勿論信者もおり精神体も存在している。 だが、その全ては神話の時代に起こったといわれる「神々の大戦」によって肉体を失い、物質世界に直接干渉することはできなくなっている。 司祭がこの神々に祈り願うことによって、間接的に神の力を借りて奇跡を行使することができ、これを神聖魔法と呼ぶ。",
"title": "神"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "このほか、クリスタニア大陸では獣の身体に神の魂が宿った神獣が現存している。これについてはクリスタニア#神獣で扱う。",
"title": "神"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "アレクラストやロードスで特に信仰されている神々の内、主要な存在である6柱の神を「六大神」という。以下に示す。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "上記の他にも数多くの神々が知られており、それぞれに信者や司祭も存在する。ただし、六大神以外の神々には大きな神殿や高位の司祭があまり存在しない傾向がある(ブラキ神は例外的に神殿・信者ともに多く、特にドワーフに信仰されている。邪神の側ではニルガル神の教団がその教義から整った階級制度、組織体系を持ち、大組織を作り上げる例がある)。また、当然ながら「邪神」の教団や神殿は公にはされず、地下活動で組織を維持していることが多い。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "「邪神」が必ずしもファラリスの協力神というわけでもない。例えば、ニルガルは元々光の陣営の神であったものの、ラーダやチャ・ザとの諍いから光の神々の主流派と開戦したと伝えられており、自由を司り妖魔などの人間外種族に対しても肯定的なファラリスとは現在でも不倶戴天の敵同士である。破壊神カーディスの勢力に対しては、ファラリス教徒も危険視しており、マーモ島における終末戦争では他の五大神の信徒と協力してカーディス教団との戦いに参戦している。",
"title": "神"
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"text": "神話の時代に起こった出来事は、正確に人間たちに伝わっているとは言いがたく、神話や教義の解釈は神殿間や地域間で必ずしも一致していない。六大神が上位の神であり、それ以外の神々は従属する下位の神というのがアレクラストやロードスでの一般的な信仰(六大神信仰)だが、ケイオスランドやクリスタニアのように六大神信仰とは大きく異なる信仰が主流の地域も存在する。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "クリスタニアの神獣王の一柱、周期の神獣王フェネスは、ファリスとファラリスの兄弟神であり(始原の巨人のどの部分から生まれたかは知られていない)月を司る存在であるとも、邪神「名も無き狂気の神」の正体であるともいわれる。また、戦いの神獣王ブルーザはマイリーの従属神であった。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "神々の間のささいな諍いを、恨みと復讐を司る邪神ミゴリが煽り立てて不和を助長し、遂には「大戦」にまで発展して互いを滅ぼす結果になってしまった、という伝承も存在する。無論真偽は定かではない。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "他の神々が「始源の巨人」に属しているのとは異なり、未来に存在する「終末の巨人」に属しているとされる唯一の神がカーディスである。「終末の巨人」はこの世界の終わりに姿を現すとされ、世界が無に帰したあと次の「始源の巨人」となり、新たな世界を創世するとされている。",
"title": "神"
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"text": "カーディスはこの世界を破壊することで「終末の巨人」を出現させ、次の世界を誕生させるために存在しているといわれる。そして新たに生まれる世界では創造の神(大地母神マーファの位置付け)として生まれ変わるとされている(そのためマーファとは本質的には同じ神でありながら、その存在理由から対立することになる)。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "未来と同義語である「終末の巨人」に属しているという特異性から、その高位の司祭達の中には現世での死を超越した「転生者」となり、繰り返しこの世に生を受けて世界を破滅に導くために暗躍するものもいる(未来に属しているため、現世での死は意味が異なる、ただし転生に失敗した場合は未来が消滅することを意味し、魂の完全なる消滅となる)。また彼ら転生者達はカーディスと共に次の世界への転生が約束されているという。ロードスにはこうした終末信仰の転生者たちによるカーディスの大規模な教団が存在し、『新ロードス島戦記』などでは、これら「終末のもの」達との熾烈な戦いが描かれている。",
"title": "神"
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"text": "しかしカーディスの司祭であっても終末信仰や転生を行わず、破壊神としてのカーディスを崇拝するものも多い。この場合のカーディスは、存在理由に反して来世すら破壊された無を良しとして、死と破壊と否定を司る(終末に属する物を破壊したことさえある)。一般には「終末の巨人」との関係はほとんど知られておらず、ファラリスなどと同じ邪神で闇の神の一柱であると認識されている。",
"title": "神"
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"text": "不死者達の支配者であるともされ、強力な死霊魔術を行使する際にその助力を得るために魔術師達がカーディスと交信を行うこともある。",
"title": "神"
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"text": "信者達は死後は虚無界に堕ちて消滅する、あるいは転生を繰り返し新たな世界に生まれ変わるとされている。破壊神としてのカーディスに仕えるものは前者、終末の眷属としてのカーディスに仕えるものは後者の教えを支持する。",
"title": "神"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "フォーセリアには、「始原の巨人」から生まれた種族およびその眷属である太古種族や、神話の時代に神々が創造した数多くの古代種族、およびそれらの種族の子孫として派生した下位種族が住んでいる。どの種族も「進化」のように環境に適応していく能力を持っているが、物質界での適応は繁殖力などが高まる代わりに、魔力や知性や寿命を減らしていく傾向にあるようだ。そのため太古の姿を残した種族ほど個体としては高い能力をもち、上位種とも言われる。",
"title": "種族"
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"text": "誕生時から物質界に生を受けた種族だけでなく、本来は神々が「妖精界」の住人として創造した種族も、「神々の大戦」時に召喚されて以来、物質界に暮らしている。",
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"text": "この他にも、多くの種族が存在する。",
"title": "種族"
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"text": "この分類はどちらかと言うと人間側の勝手な分類であり、古代語魔法(創成魔術)で作られた人工的な生物と、自然な生物がごちゃ混ぜにされていたりする。",
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"text": "暗黒神によって召喚された妖精族は妖魔と呼ばれる。闇の種族であるゆえか、ほとんどすべての妖魔は暗視能力を持っている。",
"title": "種族"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "「始原の巨人」が自らの怒りの炎に焼かれて死んだ後、「始原の巨人」の鱗から生まれたとされる種族。未分化の精霊力を宿していて、基本的に巨人の鱗を焼いた火の精霊力を強く宿していてどのドラゴンも炎のブレスを吐けるが、他に精霊力を強く宿しているかによって、火竜(ファイアドラゴン)、水竜(ウォータードラゴン)、氷竜、風竜(エアードラゴン)、地竜(アースドラゴン)などと分類される。また光や闇の神々によって聖別された光竜(ライトドラゴン)、闇竜(ダークドラゴン)といった種族もある。",
"title": "種族"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "その咆哮は聞く者の魂を傷つけ恐慌をもたらし、その身を覆う鱗は鋼を超える強度を持ち、鉤爪はあらゆる生き物を引き裂き、尾の一振りは一軍を蹴散らすとされる、最強の魔獣にして幻獣、比類するものの無いフォーセリア最強の存在が竜である。",
"title": "種族"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "幽霊やゾンビなど、すでに死んでいるにもかかわらず、この世に留まり活動する死者のこと。負の生命の精霊力で活動しており、肉体のみ、霊体のみであるものもいる。世界樹には「正の生命の実」と「負の生命の実」が生っており、前者から生物が、後者からアンデッドが創造されたといわれている。",
"title": "種族"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "一般に通常の生物としての寿命を持たず、破壊されない限りは半永久的に活動しつづける。ある意味不老不死とも言える存在であり、「不死者」「生ける屍」などとも呼ばれている。魔法の武器か銀の武器でないと傷つけられないものもある。",
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ファリスやマーファをはじめ、光の神々はその存在を不浄で正しからざるものとして否定している。",
"title": "種族"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "主に死んだ人間が何らかの理由で変異して生まれるが、たいていの場合生前の人格や記憶などは残っておらず、生者を襲う危険な存在である。生前の人格や意思を保ったアンデッドも存在しており、中には一部の人間が自ら望んでそういったアンデッドに成るケースもある。",
"title": "種族"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "人間界とは別に存在する物質界とも言われる世界。暗黒神ファラリスの信じる者は死後、魂が闇に溶けるとも、魔界の魔神(デーモン)に転生するとも言われる。また、魔界は冥界と同一であるという説もあるが、定かではない。魔神はファラリスの神聖魔法(暗黒魔法)を使うことから、ファラリスと関係深い世界だと思われる。人間界に召喚された魔神の肉体は仮の器でしかなく、破壊されても死ぬことなく魔界の本体へと帰る。",
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"text": "魔神はその強さにより、4段階に大きく分類されている。",
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "魔神だけでなく、魔界の魔獣(アザービースト)なども存在している。",
"title": "種族"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "クリスタニアには、以上の種族のほか神獣によって創造された亜人が存在する。リザードマン、バードマン、ウィングミュルミドンらの種族もPCとして選択することができる。",
"title": "種族"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "フォーセリアで使われる主な言語には以下のようなものがある。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "この他にも、地域によって異なった言語が存在する。主なものは以下の通り。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "いずれの言語も、下位古代語が基になって派生したものとされる。特にケイオスランド語は、文字や単語に下位古代語との共通点が多い。しかし、言語同士の互換性は無きに等しい。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "人間以外の種族も、住んでいる地域の人間の言語(主として共通語)を用いる。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "この他にも、ケンタウロス語・ミノタウロス語・マーマン語・ハーピィ語・インプ語・フェアリー語・グラスランナー語・ジャイアント語など、様々な種族に固有の言語が多数存在する。 なお、グラスランナー語は知られていない。彼らは故郷である妖精界から物質界へとやってきた際に、人間との交流の中から自分たちの言語を忘れてしまい、人間の言語を使用するようになったらしい。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "フォーセリアの魔法は言葉によって世界に働きかけ、あるいは神や精霊に呼びかけるものなので、関連するいくつかの言語が存在する。それらの内、直接魔法に用いる言語を魔法語(ルーン)と称する。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "以下は過去には用いられていたが、現在では使い手がほとんど、もしくは全くいない失われた言語/魔法語である。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "フォーセリアでは、全ての物質を構成する”もの”、全ての力の”源”の根源は同一でありであり、上位古代語(ハイ・エンシェント)で「マナ」と発音される根源体「魔力」である。これを操ることであらゆる物質・あらゆる力を生み出し、変化、消滅させることが可能である。特定の手順を踏むことでマナを直接的または間接的に操り、意図的に万象を操作する奇跡=魔法を行使することができる。その技を使う者らを総称して「魔法使い(ルーンマスター)」と呼ぶ。それぞれの魔法は専用の魔法語を用いてかけられるため、魔法系統そのものも魔法語と同じ名称で呼ばれる。",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "各魔法の間には絶対ではないが強さの差がある。基本的には、",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "上位古代語で直接マナを操る古代語魔法>物質界に干渉できなくなった神々による神聖(暗黒)魔法>物質界の現象を司る精霊に呼びかける精霊魔法",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "の順である。これは各呪文の特徴《対抗/消滅》《対抗/優越》で表されている。同種同等の呪文には《対抗/消滅》が起こり、異種間の呪文には《対抗/優越》が起こる。竜語魔法はこれらに当てはまらない。",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "『ロードス島伝説』におけるウォートの解説によると、現在の人間が古代語魔法、精霊魔法、神聖魔法を使用するために必要な適性を有している可能性は各20%であるとされている。即ち人間の約半数が何らかの魔法の適性を有している計算になるが、環境によってコツを学べないこともあるため、実際社会での魔法使いの比率はこれよりも低い。",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "クリスタニア大陸では、神獣として神が実在するため、神獣の民は「神聖魔法」ではなく神獣から授けられた特殊な「能力(タレント)」として発揮されている。タレントの使い手は「ビーストマスター」と呼ばれる。",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "魔法"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ソードワールド各作品やロードス島戦記より500年以上前に栄えた王国。残された遺跡やダンジョンには、当時の魔法の品や書物などが今も残されており、魔法の品の多くは現在では作ることが出来ず、書物には今では喪われた高度な知識が書かれており、手に入れば極めて高価な値段で取引される。ただし、当時の魔法生命体やトラップが残されていたり、実験動物の末裔であるモンスターが生息していることが多く、遺跡を探索することは非常に危険なこととされている。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "カストゥール王国においても神話時代〜暗黒時代の歴史は、なかば伝説や神話のように扱われている。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "神々の大戦の後、魂だけの存在となった神々は物質界に直接介入する手段を喪い、「神話の時代」は終わりを告げ、神々の庇護を失った「暗黒の時代」が始まる。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "始源の巨人から生まれた太古種族や、神話の時代に誕生した古代種族など、遥かに強大な力を持つ種族の脅威にさらされる中で人間は上古の魔法語(ルーン)による魔法で対抗した。しかし神より授けられたのは魔法の基本でしかなかった。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "古代王国滅亡より4000年前とも5000年前とも言われる過去において、後に「創設者」と伝えられる十人の賢者により、神々が人間に与えた言語を再編して上位古代語(ハイエンシェント)としてこれを解析、強大な古代語魔法が作られた。(十系統の魔法はこの十人の「創設者」から始まる)。そして古代語魔法を習得した者達がアレクラスト東部に都市を築き、これが人類最初の王国でありカストゥール王国の礎となったと伝えられている。後のカストゥール王国の歴史観では、十人の賢者による研究開始の時を以って建国としている。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "古代語魔法は絶大な威力を発揮したが、太古種族や古代種族もまた圧倒的な力を持つ存在であり、三千年間とも四千年間とも言われる永きにおいてカストゥール王国は興亡を繰り返すことになる。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "暗黒の時代で最後に大きな滅亡をすることになったのは古代王国滅亡より1200年ほど前、単眼の巨人族(サイクロプス)による大破壊であった。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "古代王国滅亡より約1000年前、大破壊から200年ほど後にアレクラスト大陸の中央山地に興った王国がカストゥール王国の最後となる王朝となる。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "数々の太古種族や古代種族が滅亡したり衰退して下位種族へと変遷するなか、成長を続けるカストゥール王国の前に立ち塞がったのが、「暗黒の時代」を生き抜いた古代種族であり、なかでも特に上位巨人族であった。現在では数も少なく人間の世界からは離れた地域に生息しているが当時は、「始源の巨人」から生まれた太古の巨人族の子孫である各種の上位巨人族も「暗黒の時代」を生き抜き各地に独自の王国を築き上げ、人間と地上世界の覇権を争う一大勢力となっていた(妖魔に属する下位巨人族は除く)。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また、古代種族から下位種族への種としての衰退が人間にとっても深刻な問題となっていた。古代王国滅亡より500年ほど前には80%の人間が魔法を使う才能を有していたが、古代王国滅亡より300年前から減少傾向にあり、古代王国末期には2%ほどの人間だけが魔法を使える貴族であり、98%は魔法を使う才能を持たない市民もしくは蛮族であった(繁栄による人口増加で、滅亡の100年ほど前から魔術師の絶対数は増加傾向にあった)。また、魔術師としての質が高い者も年々減少していったという。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "その状態が激変するのは、カストゥール最後の魔法王国時代の末期に登場した召喚魔術師門主ディールによる魔界の発見と魔神軍団の召喚であった。ディールらによって支配された魔神王とその軍団は、巨人族の中でも最大の強敵でカストゥール王国を滅亡に追い込んだ事もある「サイクロプスの王国」を短期間で滅ぼしてしまう。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また同時期、当時の魔法王ラムゼーらが復活させた統合魔術(ウィザードリィ)により「魔力の塔」が建設され、無尽蔵とも言うべき魔力を行使することが可能となった。これにより、それまで「理論上は可能」とされていた幾つもの強大な魔法が現実のものとなり、宿敵巨人族のみならず、遥かに強大だった上位精霊や古竜を始めとした竜族なども次々に支配下に収め、ここにカストゥール王国は絶頂期を迎え、この時代は「魔法の時代」と呼ばれるに至った。 そして、その版図はアレクラスト大陸を超えて西のケイオスランドにおよび、更に南方のロードス島、果てはクリスタニア大陸にまで侵略の手を伸ばすことになる。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "その絶頂期から僅か50年後に、カストゥールは滅亡のときを迎える。きっかけは新たに王都となった精霊都市フリーオンから始まる。この都市は様々な精霊の力によって維持されていたが、その内の地の上位精霊ベヒモスが突如変異、他の精霊達を次々と吸収し、ついに魔精霊「アトン」へと変貌した。この魔精霊はフリーオン周辺を「無の砂漠」に変え、更に増殖を続けていった。カストゥール王国の魔術師達はこの危機に総力を結集し、魔精霊を滅ぼすために当時の魔法王の肉体を素材にファーラムの剣を作って魔精霊を滅ぼすが、その際に予想を遥かに上回る魔力が消費され膨大な魔力の供給に耐えられず「魔力の塔」が崩壊してしまう。「魔力の塔」の建設以後、魔術師は額に黒水晶を埋め込み、自身の魔力が使えなくなることを代償に「魔力の塔」から魔力を供給されていた。そのため「魔力の塔」が崩壊した時点で魔法を使える者は居なくなってしまったのである。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "魔術師が無力化した機に乗じて、それまで蛮族として支配されていた民の反乱が勃発。突然魔法を喪ったカストゥールの民に対抗手段はなく、極めて短期間で強大無比を誇った古代魔法王国カストゥールは滅亡する。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "そして蛮族と呼ばれていた民によって、サーダイン王国が建国された年を新王国暦元年として、「剣の時代」が幕を開ける。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "10人の創始者から始まった10系統の系統魔術(ブランチ)の使い手は、それぞれの系統を深く研究するために魔術師(メイジ)の一門(カレッジ)を作り上げた。しかし時が経つにつれてそれぞれの一門は派閥化して権力争いに明け暮れ、能力よりも血統を重んじるようになっていった。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "各一門の上首は門主と呼ばれる。またカストゥール王国の魔法王は世襲ではなく30年を任期として次王が各門主の中から功績あるものが選ばれるため、門主は王位継承者としての側面も持ち合わせる。各一門ではそれぞれ決まった色の長衣(ローブ)を着ることになっている。ただし魔法王は一門のローブではなく、紫紺色のローブを着る。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "古代王国の後期には、魔法に力により幾多の特殊な都市が作られている。",
"title": "古代魔法王国カストゥール"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "アレクラスト大陸で広域に使用されている通貨は「ガメル」で、主に銀貨で流通している。銀貨1枚が1ガメルであり、日本円にして100円程度の価値をもつ。一般庶民の1日の生活費の最低水準が約10ガメルとされている。現実世界のユーロ貨幣のように、生産は各国で行われておりデザインも様々であるが、銀貨1枚あたりの銀の量は規格化されており、ガメルを採用している地域であれば、どの国のガメル銀貨でも問題なく使用できる。また、あまり一般的ではないが、1枚が50ガメルに相当する金貨も流通している。銅貨などの補助貨幣の存在も確認できるが、作品中の記述があまりに乏しく、どの程度の価値があるのかいまひとつはっきりしていない。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "かつて中原に存在したモラーナ王国のガメル伯爵が大きさや純度などの規定を定め、他国へも貨幣制度とともにこの基準が普及した。貨幣の代わりに宝石や金・銀塊などが使用されることもあるが、鑑定の手間や、両替時の手数料による目減りなど不便な点が多く、あくまで貨幣による取引が主流となっている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ロードス島では金本位制による独自の貨幣が流通しており、アレクラスト大陸の金貨よりは少額の金貨が主に使用されている。金貨の他に銀貨や銅貨なども流通している。なお、ロードス島に貨幣経済が普及した過程については、作中で語られていない。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ケイオスランドでは貨幣経済がほとんど発達していない。アレクラスト大陸からの移住者のコミュニティは小規模であるため、移住者同士でも貨幣経済は成立しなくなっている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "時代が異なるが、クリスタニア大陸でも貨幣経済はほとんど発達しておらず、傭兵部隊「獣の牙」への報酬は主に食料の現物支給で支払われている。ただし、北の「故郷の島」「呪われた島」(いずれもロードス島のこと)からの移住者の間では貨幣が流通しており、先住民である神獣の民にも部分的に貨幣が浸透しつつある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "古代魔法王国では、「魔晶石」と呼ばれる魔力を蓄えた宝石が貨幣だったと言われている。魔晶石は古代王国の遺跡などから比較的大量に発見されるが、製法や魔力の充填方法は失われている。現代では各種の魔法を唱える際に精神力を肩代わりしてくれるアイテムとして、使い捨てで利用される。",
"title": "その他"
}
] |
フォーセリアは、ファンタジー小説・ロールプレイングゲームの『ロードス島戦記』、『ソード・ワールド』、『クリスタニア』の舞台となる架空の世界。翻訳作品ではない日本国産の正統的な中世ヨーロッパ風ファンタジー世界としては、国内最大級の設定規模を持つシェアード・ワールド(共有世界)でもある。 水野良が『ロードス島戦記』発表時に、それまで温めていた世界を公表したもので、『ロードス島戦記』の源流となった『ダンジョンズ&ドラゴンズ 』や、さらにその源流となった『指輪物語』、また『ルーンクエスト』の背景世界であるグローランサの世界像を強く受け継いでいる。現在も水野良やグループSNEのメンバーによって設定が追加、拡張されている。
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{{出典の明記|date=2019-06-03}}
{{一次資料|date=2019-06-03}}
{{ページ番号|date=2019-06-03}}
'''フォーセリア'''は、[[ファンタジー]]小説・[[ロールプレイングゲーム]]の『[[ロードス島戦記]]』、『[[ソード・ワールドRPG|ソード・ワールド]]』、『[[クリスタニア]]』の舞台となる[[架空世界|架空の世界]]。翻訳作品ではない日本国産の正統的な中世ヨーロッパ風ファンタジー世界としては、国内最大級の設定規模を持つ[[シェアード・ワールド]](共有世界)でもある。
[[水野良]]が『ロードス島戦記』発表時に、それまで温めていた世界を公表したもので、『ロードス島戦記』の源流となった『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ|ダンジョンズ&ドラゴンズ (Dungeons & Dragons) ]]』や、さらにその源流となった『[[指輪物語]]』、また『[[ルーンクエスト]]』の背景世界である[[グローランサ]]の世界像を強く受け継いでいる。現在も水野良や[[グループSNE]]のメンバーによって設定が追加、拡張されている<ref>[[友野詳]]は『コクーンワールド』『ティルトワールド』などの作品の背景世界として、フォーセリア世界のパロディである[[ファイブリア]]という世界を定義している。神々や地名などのほとんどはフォーセリアや他のファンタジー世界などからのパロディである。</ref><ref>この世界に登場する用語は多数が[[競走馬]]に由来しており、神の名だけでも[[ファリス]]、[[ファラリス (競走馬)|ファラリス]]、[[ミルリーフ]]、[[マイリー (競走馬)|マイリー]]、[[ミゴリ]]などがあり、その他街の名[[リファール]]や道具名などにも競走馬に由来しているものが多々ある。</ref>。
== 世界概略 ==
神々の時代より更に太古の時代、世界は一人の巨人(後に「始源の巨人」と呼ばれる)がいる他は完全な無が広がっていた。全知全能の知性と永遠不滅の肉体を持つ巨人は長い年月を一人で過ごしたが、あるとき孤独に耐えられずに自分自身を焼き殺してしまう。その死骸(混沌)から生まれた神々によって作られた「精霊界」「物質界」「妖精界」などから成る世界がフォーセリアであり、これらの世界はその残滓である混沌界に浮かぶ小島に例えられる。
最初に創造されたのが「精霊界」で、混沌の中から地水火風の四大元素を始めとするさまざまな自然現象の基になる秩序立った精霊力が選り分けられ、それを制御する[[フォーセリアの精霊一覧|精霊]]が創造され住んでいる。
次に創造されたのが現在人間の住む「人間界」をはじめとする物質界で、人間界は元々神々が住むために作られた特別な場所といわれる。そのため「神々の大戦」では主戦場となり、戦いの過程で他の世界から様々な種族が召喚され、他に類を見ない多種多様な種族が住むようになったとされる。
他の物質界の研究は主に古代王国時代に盛んに行われ、ファラリスに従う者達が住む「魔界」が発見されている。また「星界」の存在もこの時代に確認されており、強力な破壊魔法として知られる「メテオ・ストライク」の魔法は、「星界」から隕石を呼び寄せる召喚魔法の一種である。ただ共に魔法王国時代の政争によって発見者が処刑されており、殊に「星界」の研究は以後禁忌とされてしまっている。他にも各教団は死後の世界として「[[冥界]]」の存在を説いており、代表的なものとしてはマイリー教団の「喜びの野」、チャ・ザ教団の「至福の島」などがある。それらいくつもの世界をラーダが統べるとされる「星界」が取り囲んで物質界を構成しているとされている<ref>このように、フォーセリアの世界設定はしばしば推量形で説明される。これは、世界設定を「フォーセリアに住む人々はこう考えている」として紹介しているからであり、小説やワールドガイドで「事実である(公式設定である)」と説明されない限り、曖昧な記述となる(つまり、説明が覆されるという可能性が常に付きまとう)。これは、実際に[[テーブルトークRPG]]を遊ぶ人間、とりわけ[[ゲームマスター]]にシナリオ制作の自由度を与えるための措置である([[清松みゆき]]著『ソード・ワールドRPG Q&Aブック』参照)。</ref>。この他にも確認されていない物質界が存在すると考えられており、代表的な例としては「魔界」と対になるファリスに従う者達が住む「天界」や、「神々の大戦」で竜族が“召喚”されたと伝えられていることから「竜族だけが住む物質界」などがある。
最後に「精霊界」のさまざまな力が「物質界」に届くように、その仲介となる「妖精界」が作られたとされる。[[エルフ]]や[[ドワーフ]]・[[グラスランナー]]などは、元々この「妖精界」の住人であり、「神々の大戦」の時に物質界に召喚されている。また「夢幻界」と呼ばれる世界もあり、混沌界と同じ意味なのかどうかで意見が分かれている。
大地は地球のような球体ではなく正方形をした平面であり、その4つの頂点はそれぞれ東西南北を差しているとされる。ただし、理由は解説されていないが[[地平線]]は存在する。北に氷の門(あるいは大地の門)、南に炎の門、東に風の門があり、険しい気象条件や精霊力によって扉を閉ざしているが、唯一西の水の門だけは閉じられておらず、水が滝となって零れ落ちているとされている。この水の流れが時の流れを作っている。一方、クリスタニアはこの不完全であった世界から一つの大陸を隔離することで、完全な世界を作ろうとしたものである。クリスタニアの世界にとって「時間」という概念は存在せず、歴史はあらかじめ決まっているもの、繰り返すものであり(これを「周期」という)、人々は神の定めた周期に従って生きていた。しかし、紆余曲折の末にこの周期は作中で終わりを告げている<ref>『漂流伝説クリスタニア』を参照。</ref>。
世界設定の根底に流れる[[世界観]]は、国々の設定の多くに中世ヨーロッパ風のイメージを取り入れながらも[[善悪二元論]]で語られることは少なく、むしろ[[陰陽|陰陽思想]]に近い。フォーセリアで最終的に越えるべき障害として立ちはだかるものは、パワーバランスが「善悪」や「秩序と混沌」、またはそれ以外であっても、ある一方に偏ったときに出現している。これに対抗する思想がロードス島戦記に登場するカーラに代表される。
== 地理 ==
文章中に東西南北などの表現がみられるが、フォーセリアにおいて気候風土はその土地でより強く影響を及ぼしている精霊によって様々である。
=== アレクラスト大陸 ===
ソード・ワールドの中心舞台。フォーセリア世界の北部に位置する。世界で最も広大な大陸。古代魔法王国の中心地でもあった。その広さからほぼ7つの地域(東から「極東地方」「北東地方」「無の砂漠」「南部地方」「中部地方」「中原地方」「西部諸国」)に分けられる。無の砂漠を除外し、中原地方を北部と南部に分ける数え方もある<ref>前者は、清松みゆき監修・[[秋田みやび]]/グループSNE著『明かせ!へっぽこ大冒険 新ソード・ワールドRPGリプレイ集ガイドブック』による。後者は、水野良/グループSNE著『ソード・ワールドRPG ワールドガイド』や『ソード・ワールドRPG 完全版』などによる。ソード・ワールドRPGには「後付の法則」と呼ばれる「矛盾する設定がある場合は発表順の遅い記述を優先する」という決まりがあるので、前者資料の記述を優先した。</ref>。
==== 中原地方 ====
アレクラスト大陸の中央部からやや西よりに位置する地域。北東部は遠く無の砂漠へと続き、南東部は巨大な湖であるエア湖と接する。中原で最も南部に位置するロマールには「自由人たちの街道」が通っており、東部は中部地方のザインと、西部は西部諸国のベルダインと繋がっている。ロマールからは北部にむかって「いにしえの街道」が伸びており、順にファンドリア、オーファン、ラムリアースと結んでいる。また、オーファンからはヤスガルン山脈とクロスノー山脈の間を抜けるように西部諸国のタイデルと結ぶ道も存在するが、これは冬の間は閉ざされて使用することができない。北部と南部に分ける場合は、それぞれオーファンとラムリアースが北部、ロマールとファンドリアが南部に分類される<ref>なお、名称の由来は中国において「政治や文明の中心地、係争の地」を表す[[中原]]である。</ref>。
; [[オーファン王国]]
: 王都はファン、王城はシーダー、現国王は建国王リジャール、騎士団は鉄の槍騎士団。
: アレクラスト大陸中原地方の北部に位置する王国。新王国暦500年に、冒険者出身で邪竜クリシュを倒した「竜殺し」リジャールによって建国され、以来「剣の国」と称せられる。新王国暦494年まで存在した「ファン王国」の継承国家であるが、南部地方がファンドリア王国として分立したために継承したのはファンの領土の北半分に留まっている。
; ファンドリア王国
: 王都はファンドリア、王城はスカイリフター、現国王はテイラーII世、騎士団は月桂樹騎士団と暗黒騎士団(黒剣騎士団)の2つ。
: 中原地方の中央に位置し、大陸で唯一“暗黒神”ファラリスの信仰を公認しており、「混沌の王国」とも称せられる。
: 新王国暦494年にテイラーI世が“鉄足のロバ”貿易商ギルド、“千の指”盗賊ギルド、“鮮血の短剣”暗殺者同盟、ファラリス神殿などの有力組織によって擁立され建国。ファンドリアが建国を宣言した新王国暦494年をもってファン王国の滅亡年とされている。
: 現在でも強力な王権が存在せず、国政の実権はファラリス教団“闇の最高司祭”ベイルと暗殺者同盟に握られており、王権強化を志した初代国王と前国王は変死を遂げている。
: 国を牛耳る有力組織が自分達に都合の良い法律を乱発したために、「束縛からの解放」を謳うファラリスを公認しているにもかかわらず、法律がやたら多い国となっている。
; ロマール王国
: 王都はロマール、王城はウインドライダー、現国王はアスナーII世、騎士団は隼騎士団と白鳥騎士団。他に禿鷹の傭兵隊と燕の傭兵隊がある。
: アレクラスト大陸中原地方南部に位置する王国。当初は大国に囲まれた都市国家に過ぎなかったが、新王国暦500年代、現国王で獅子王と渾名されるアスナーII世の時代に軍事大国レイド帝国を吸収(レイド併合)して、急速に強大化した。
: 王都ロマールは、東西に「自由人の街道」北から「古の街道」南から「夏への街道」が交わる交通の要衝に位置し、「旅人たちの王国」「十字路の王国」の通称がある。そのため古くから交易が盛んで、盗賊ギルドが支配する「闇市」は“手に入らない物は無い”とさえ言われるほどで、実際に金次第でどんなに違法なものでも手に入る。またその潤沢な資金により、この街の盗賊ギルドはアレクラスト最大規模を誇っており、国内外に強い影響力を及ぼしている。
: 国名など多くの部分で[[ローマ帝国]]を設定の原点にしており、闘技場における[[剣闘士]][[奴隷]]の存在はその最たるものである。
; ラムリアース王国
: 王都ライナス、王城グレイ・フォレスト、第16代国王フレアホーン(「ワールドガイド」では第27代)。騎士団は魔法騎士団と白蹄騎士団。新王国暦7年に建国されて以来存続しているアレクラスト大陸最古の王国で、国名は古代王国の言葉で「森」を意味する。
: 初代国王リチャード・アレスタスは古代王国の出身と伝えられ<ref>ラムリアース国内でもごく限られた人にしか明かされていないが真実であり、リチャードの正体はカストゥール王国最後の魔法王・ファーラムシアの異母兄レパースである。</ref>、「剣の時代」にあって建国時から一貫して古代語魔法の伝統を受け継ぎ、「魔法王国」の異名を持つ。ラムリアースの「賢者の学院」は、マナ・ライによって魔術師ギルドが創設されるまでは、アレクラスト大陸唯一の魔法研究機関であった。また魔法が盛んであることから、都市部を中心にラーダ神の信徒が多いのも特徴。
: 「ユニコーンの国」との異称もあり、「一角獣([[ユニコーン]])の森」にはユニコーンやドルイド達が住み、優秀な兵士(レンジャー)によって構成された約100名ほどの森林衛士隊が常時守りに就いている。また魔精霊「アトン」が出現した無の砂漠(古代王国時代の王都フリーオン跡)が隣接している。「一角獣の森」のドルイドには昔から優秀なシャーマンが多く、古代王国時代末期には邪宗として弾圧されながらも、早くから精霊都市フリーオンの危険に気付き、たびたび警告を発していた。
: 過去に隣国ファン王国の侵攻を受け、その後継国家のうち憎悪の対象であった暗黒騎士団を継承したファンドリア王国とは現在も対立関係にあるが、そのファンドリアと対立関係にあるもう一方のオーファン王国とは友好関係を維持している(正確には「相互不可侵」の関係)。
; 巨人たちの王国
: ロマールの南に位置する「ドゥーデント半島」の俗称。その名のとおり多数の巨人が住んでおり、高い知性を持つ古代種の巨人が下位の巨人や人間たちを治め、外部とはほとんど交流がなかった。自由人たちがロマールから南へ新しい街道を建設したことによりロマール軍の侵略を受けたため、魔力によって閉ざされた<ref>「自由人の歎き(上・下)」</ref>。
==== 中部地方 ====
中部地方は、新王国暦300年代に整備された「自由人たちの街道」によって東部地方と西部地方が結ばれてから、街道沿いに誕生・発展した地域である。よって東西の文明圏が交じり合い、言語もこの地方が分岐点(西のロマールと接するザインは西方語圏、東のオランと接するエレミアは東方語圏)となる。
; ザイン王国
: 王都はザイン、王城はシャイニングトライデント、現国王は第4代ゼウヌス、騎士団は雷魚騎士団。
: 北部にアレクラスト最大の湖であるエア湖があり、「湖岸の王国」との異名を持つ。主産業は農業。
: 前身は新王国暦490年に邪竜クリシュによって滅ぼされたモラーナ王国。ガメル銀貨を発明したガメル伯爵は、モラーナ王国の大臣であった。また、オーファンのリジャールの王妃メレーテもモラーナ王家の出身である。国内にモラーナ王国再興を望む一派を抱えていたため、『湖岸の国の魔法戦士』で和解が成立するまでオーファンとの仲は必ずしも良好とは言えなかった。
; エレミア王国
: 王都はエレミア、王城はバーニングアイアン(出典:「ワールドガイド」)、現国王は第11代サニトークIII世、騎士団は角笛騎士団。
: 「砂塵の王国」や「職人たちの王国」と呼ばれ、商工業が発展している。大きな港を持ち海洋貿易も盛んで、南海に浮かぶ“呪われた島”ロードス島からも行商人が訪れ、陸と海、双方の交易でも栄えている。
: 北部は「悪意の砂漠」との異名を持つカーン砂漠と接し、ここには邪教であり終末の巨人に属する“約束の地に導く偉大な精霊アトン”を信奉するケシュ族の大集落がある。
: 建物や衣服、王家の歴史などに[[千夜一夜物語|アラビアン・ナイト]]からの影響を想起させる設定を持つ。
==== 北東地方 ====
; ロドーリル王国
: 王都はチェイス、王城はサンダークラップ、現国王は第14代ジューネIV世(女王)、騎士団は鉄の鎚騎士団。
: 周囲をバヤン山脈・マスラウム山脈・エストン山脈に囲まれた盆地に位置し、寒暖の差が激しく、農業には厳しい土地柄となっている。
: 「女王の国」と呼ばれるほどの国民の「絶対的な忠誠」を背景に現女王の即位と共に領土拡張を推し進め、瞬く間にファノン王国を始め周辺の小国を征服、「戦争王国」とも称せられる。その後十年かかって城塞都市プリシスを手中にした。これによりオラン・ミラルゴと国境を接することとなり、両国への脅威となっている。
: 度重なる対外侵略は街道の名前にも影響し、プリシスに至る「麦の街道」は「白刃の街道」に、バイカルに至る「青の街道」は「ひび割れし街道」へと名前を変えた。現女王は魔法を異様に嫌い、魔法の使用を禁止している。
: 現在は領土拡大の侵略が限界に達し、プリシスを侵略した“鮮血の将軍”ヒュードが率いる軍勢がオラン・ミラルゴ連合軍に大敗し、ジューネ女王がプリシス解放を宣言、ヒュードの首を敗戦の証として差し出しミラルゴ・オランと不戦条約を結んだ。北のバイカルからも軍を撤退。
; バイカル
: 王都はボリス、王城はシルバーホエール、現王は第11代スノーリクII世、騎士団は銀鮫騎士団。
: アレクラスト大陸の最北に位置する多数の部族からなる連合国家。「海賊王国」とも「海の国」とも呼ばれる。実質的な権力は、バイカル最大の部族の長で「海賊王」とも呼ばれるギアースが握っている。
; プリシス
: 同名の都市国家で、王城はアンバーキャッスル、最後の国王は第14代セファイル、騎士団は琥珀の騎士団
: 10年余りに渡ってロドーリルの侵攻を退けてきた「城塞都市」だったが、迎撃戦を主導していた“指し手”ルキアルが新王国暦519年にロマールに招聘され、残されたセファイル王やマイリーの高司祭"砕ける事なき"ロンドバーグの奮戦も虚しく、ロドーリルに征服されてしまった。
: ロドーリルがミラルゴ・オラン連合軍に敗れたことで解放され、滅亡した王族に代わって有力市民達が評議会を組織し、自治都市を宣言する。初代元首として“指し手”ルキアルがプリシスに戻り<ref>この頃のルキアルは、オーファン王国のリウイ王子などによって策謀が次々に阻止されており、ロマールでの立場が危うくなっていた。</ref>、自らを「頭領」と称した。
: ごく親しい相手以外には自分の真の名を隠し、日常では偽名を用いるという独特の風習がある。ただし「国王は国民の最も親しき友であれ」との思想の下、国王のみは常から真の名を名乗る。
==== 南部地方 ====
現在はオラン王国しかないため、オラン地方とする呼び方もある。
; オラン王国
: 王都はオラン、王城はエイトサークル、現国王はカイアルタードVII世、騎士団は車輪の騎士団。
: 首都オランは大陸一の大都会であり、そこに作られた『賢者の学院』はラムリアースで作られて以降、初めて魔術師ギルドを作った“大賢者にして至高の魔術師”マナ・ライ師を始め、オランの学院で『知識の塔』の長を務め“知らぬ事なき”クロードット、ラーダ大神殿の最高司祭“旧きを伝える”トルセドラ、「自由人たちの街道」の建設を主導したパルマー・ローリなど、著名な賢者を数多く輩出し「賢者の国」とも称せられる。
: また国内の都市「パダ」はかつて魔法王国時代の空中都市レックスが地上に墜落した跡地であり、様々なマジックアイテムが得られるため国内外から冒険者たちが集う。
==== 極東地方 ====
; アノス
: 王都はファーズ、王城はホーリーハンマー、現国王は法王レファルドIV世、騎士団は光の騎士団。またファリス神官戦士団である聖堂騎士団を擁している。
: 国民の大多数がファリス信者であり、王都ファーズのファリス神殿は大陸最大規模を誇り、この大神殿の最高司祭(法王)はアノス国王であると共にアレクラスト大陸東方の全ファリス教団を統括している。そのため、実質的にファリス教団による国家という意味で「聖王国」と冠して呼ばれる。
; ミラルゴ
: 王都はグラード、王城はグレートプレーン、現国王は第13代クーナ(ジャーバ族出身)、騎士団は鉄の蹄騎士団。
: 遊牧民の諸部族による連合国家で、会議によって王を選出する草原の国。部族同士の争いは「戦い」と呼ばれるが実態は一種の模擬試合で、国外への領土的野心もほとんど無い平和な国であったが、プリシス陥落によりロドーリルと国境を接することになった。
: 半人半馬の幻獣[[ケンタウロス]]がミラルゴでは国民として扱われており、族長である“金色の尾”パタを筆頭に古代魔法語を扱うケンタウロスも存在。パタはミラルゴの大臣を務めている。
: 『巨人像』と呼ばれる古代王国の遺物がかつて存在した。特殊な石材で作られ大木ほどの高さがある巨大な人形の彫像で、アノスとミラルゴの国境地帯に佇んでいたが、あるとき冒険者と共に“無の砂漠”を目指し人里を避けるように消えていった。
; ムディール
: 王都はムディール(孔雀羽の都)、王城は青竜城、現国王は第21代ティン、騎士団は虎の牙騎士団。
: アレクラスト大陸極東部東端に位置し「最果ての国」と称せられ、大陸南岸の諸都市を中心とした交易で栄える極東の国。王都の別名「孔雀羽の都」は、街の建物の多くが派手な原色に塗られていることに由来し、彩色だけでなく装飾にも凝った建物が多く見られる。内陸部では小麦を中心とする農業が盛んで、他に絹や木綿の織物を特産とする。(中世の中国のイメージが強いと思われる)
: 交易には主にガレー船が使われ、この国の武装商船は勇猛さで鳴るバイカルの海賊すら手出しをためらうほどだと云われ、実際に海賊被害は少ないらしい。交易相手は大陸全土はもちろん、イーストエンドにまで広がっている。港湾都市クォンにはチャ・ザ教団の本拠地(大神殿)があり、「万物を計る」ダーベルチェイスが最高司祭を務めている。また北部には古代王国時代の幻覚都市「マーラ・アジャニスの都」が眠る「妖魔の森」が存在する。
==== 西部諸国 ====
10の都市国家が存在することから「10の子供たち」(テン・チルドレン)と呼ばれている。この呼び名は、東の大国などから小国であることを揶揄する意味で使われだしたが、現在では一般的な通称として定着しており、当初の蔑称的な意味合いは希薄になっている。文化面では大陸で最も先進的な地域であるとされる。
東に隣接する中原で、ファン王国の滅亡とファンドリア・オーファンの建国、ロマールのレイド併合といった波乱が続いたことで危機感を抱いた各国が、新王国暦500年のタイデルの盟約によって、東の大国(オーファンやロマール)に対する同盟関係を結んでいる。ただし、軍事面は総じて貧弱であるため、実際には10国を合わせても東の大国の武力には遠く及ばない。
; ベルダイン王国
: 現国王はブラウン・ハディス、騎士団は真紅の星騎士団。「真紅の星」はベルダイン城の形に由来する。
: 新王国暦430年のコリア湾沖地震後に建設された新市街と、それ以前からの旧市街(港湾部)とで「親子都市」と呼ばれる。
: コリア湾に面し、比較的温暖で冬でも雪はほとんど降らず、農業と牧畜が主産業。しかし都市部では商業が盛んで西部諸国中最大の経済力を誇ると共に、「芸術の街」と異称されるほど芸術も盛んである。芸術の神ヴェーナーの信者が多い。
; ガルガライス
: 現国王は黒真珠の女王ベイブリス。王城のガルガライス城は海岸から1km沖合いの小島にあり、日に2回の干潮時だけ陸路が出現する。
: コリア湾の東岸に位置し、真珠漁とオリーブを始め農業が主産業で、海路を用いた東の国との交易も盛んに行われている。一年中真夏のような気候のため「終わりなき夏の街」と呼ばれる。海に面した傾斜地に村がそのまま巨大化したかのような外観で、50m幅のメインストリートが放射状に配置されている。
: ガルガライス人は健康的な肉体を晒すことをごく自然なことと考えており、他国でもよほど寒くない限りは出来るだけ肌を晒す服装を好む。
; ザーン
: 現国王はギャスクV世。
: 西部域最小の王国であるが、オパール鉱山の跡地を利用した「岩の街」と呼ばれる城塞都市であり、西部域最大の防衛力を有するとされる。
: 特産のワインを中心にした農業と牧畜の国。街の南側の岩壁に建国の女王ナイアフェスの上半身が彫られており、ちょうど冠に当たる部分が王族の居住部分となっている。また街の最上部には「空中庭園」と呼ばれる上流階級だけが入れる庭がある。
: この街の盗賊ギルドは、隣国ドレックノールのギルドと比べれば規模が小さいながらも、国内での影響力が大きく国家運営にも関与している。ドレックノール盗賊ギルドから度々干渉・策謀を受けているが、すべて退けて独立を守っている。
; ドレックノール
: 現国王はショルスIX世であるが、彼は傀儡に過ぎず、人並みの能力は何ひとつ持たぬと言われている。実質上の支配者は盗賊ギルドのギルドマスターのドルコン。
: コリア湾に面するシエント川の河口に位置し、都市は三角州の中にある。比較的温暖で冬でも雪はほとんど降らず、輸入品を扱う商業と漁業が主産業。
: 住人の一割が盗賊ギルドの構成員だともいわれており、盗賊ギルドが事実上の支配権を握っていることから「盗賊都市」と呼ばれる。盗賊ギルドに保護料さえ払えば、闇司祭やダークエルフも居住することが可能である。西部諸国のみならず大陸全体でもロマールに次ぐ規模を誇る盗賊ギルドは、ドレックノールの尖兵として他国で勝手に活動する事があり、他の盗賊ギルドからは警戒されることが多い。隣国ザーンやリファールの盗賊ギルドとは明確に対立している。
; リファール
: 現領主はリュキアン・ラジール王女。リファールでは「女王」は王の夫人のみ名乗るため、独身であるリュキアンは急逝した父王から地位を受け継いだ後も王女を名乗っている。
: サイモーン王国を崩壊させたダッカ・ラジールによって建国された。西部域のほぼ中央に位置し、シエント河中流に川を挟む形で街が形成され、気候的に農業や牧畜に適しており、街の西地区を中心に染物、陶器、金属細工、革細工などの二次産業が発展している。そのため商業の神チャ=ザに入信している者が多く、事実上の国教の地位を得ている。
: 楽観的な住民気質から外敵に備えた城壁を作らず、他国からは少なからず嘲笑を込めて「夢見る都」と呼ばれている。騎士団は少数精鋭主義で編成されており、数こそ40人しかいないが西部諸国で最強との呼び声が高い。兵数の少なさは冒険者・傭兵などから構成されるフリーガードと呼ばれる巡回守備隊を組織することによって補完している。
: 現領主のリュキアンは、美貌と優しい性格から国民の人気は非常に高いが<ref>新王国暦524年に発生したリュキアン暗殺未遂事件の影響でドレックノールと断交した際、リファールの交易商人は経営に大打撃を受けながらもリュキアンを支持したため、経済制裁が想定よりも長期化したドレックノールで開戦の可能性が取り沙汰される事態に至った。</ref>、優柔不断な性格のため政治には不向きで(ただし、小説「ジェライラの鎧」に於いて理に適った経済論を見せている)、既に老境にさしかかった大蔵大臣ピド・オレイアスが治世を補佐している。また適齢期に達した王女の結婚話は西部諸国全体の話題になっている。北のゴーバとの間で領土紛争が存在している。
; ラバン
: 現国王はフォルク・ブリード。「女たらし」の異名があり、独身ながら隠し子10人以上と噂されるが、統治者としては水準以上で、国民の評判は悪くはない。
: 王国暦379年の建国で、西部諸国内でも歴史の最も浅い国ゆえ「新しき街」と呼ばれる。農業と牧畜が盛んな国で、名馬の産地として有名。
: 約150年前にサイモーン王国の「無能王」マバーロIII世が、巨大な地下迷宮を作るために平原だった地に人を集めたことに由来する。そのため、高度な石工技術を有する西部域最大の石工ギルドがある。また、建設途中で放棄された地下迷宮が街の地下に広がっているといわれている。
; タイデル
: 現国王はアルバスIV世。
: ヤスガルン山脈とクロスノー山脈の間に位置し、西部諸国で最大の国土と軍事力を誇り、軍事・政治面では西部諸国の中核的存在。
: 農業と牧畜が盛んであるが、中原地方と西部諸国との結節点でもある交通の要衝で、東西南北の四方に街道が伸びていることから「十字路の街」と呼ばれる。必然的に交易・商業が発達し、物資と共に情報も集まることから情報戦の技術にも長けている。この国の諜報機関(ディスポーザル・スプライツ)の優秀さは裏の世界では有名で、現諜報大臣アルトニー・カントロは「千の目と耳を持つ」と異称される。さらに西部諸国ではドレックノールに次ぐ規模の盗賊ギルドがある。
; タラント
: 現国王はカーナニスIII世。
: 「空への梯子」と言われ大陸で最も高い山々を有するクロスノー山脈のうち、ヤスガルン山中の盆地にある。「森と草原の王国」とも呼ばれ、街はテーブル状の岩山の上に作られ「空に近い街」と呼ばれる。そのため街に入るには、隣の山から渡された吊り橋を利用するか、「牛の坂」と呼ばれる急坂を登ることになる。
: 主な産業は鉱業と牧畜。人口の1割以上をエルフが占める。当然ハーフエルフも多く、精霊魔法を使う魔法戦士も多い。現王のカーナニスもエルフの血を引くと噂されるほか、王妃はエルフ、王太子と妹姫はハーフエルフであり、他にもエルフ集落の族長が国政に参加しているなど、国の中枢部にもエルフやハーフエルフが食い込んでいる。そのため、表面的な差別は少ないが、一部の人間至上主義者が過激化して問題になっている。
; ゴーバ
: 王城は荒鷲城、現国王はサナンI世。
: シエント川の上流にあり鉱山と林業が主産業で、斜面に階段状に都市が形成されていることから「階段都市」と呼ばれる。概ね機能別に5層に分れ、金(上流居住区)、銀(商業地区)、銅(工業地区)、鉄(精錬地区)、石(採掘場)と呼ばれる。
: 最上部の王城へ通じる道は、急坂の「王の道」、ゆるやかな「臣の道」、荷物や病人用のゴンドラの3本がある。国王は必ず「王の道」を使わねばならず、これに耐えられなくなったら退位と定められている。
: 人口の4割をドワーフ族が占め、戦の神マイリーと鍛冶の神ブラキが広く信仰されている。森林伐採に伴う森の民との確執が問題化している。
; プロミジー
: 王城は白骨の城(巨大海獣の牙や骨で飾られている)、現国王は「狩人王」タズラン。彼は異名の通り元狩人で、その腕と活躍を見込まれて先代の国王の娘婿となり、後を継いだ。なお王妃とは死別している。
: タイデルから北に伸びる街道の終点で、氷結海と呼ばれる氷の精霊力が非常に強い海に面したプロム湾岸に築かれた「さいはての街」。人口約2,500人の西部諸国で最小規模の王都は、高い丸太を並べた城壁を持ち、猟師や漁師、鉱夫の交易所として機能している。
: 気象条件から事実上農業は不可能で、狩猟と小規模な鉱業が主産業。特にバリスタ付きの氷上帆船を使った巨大アザラシ狩りが有名で、アザラシの皮から作られるレザー・アーマーを特産品として輸出している。この地の戦士達は、厳しい気象条件から凍傷の危険性がある金属製の鎧や装具は好まず、武器も柄の長い斧や槍を扱うのが一般的となっている。また盗賊ギルドにはスリや物乞いがおらず、漁師や狩人を副業としている者が多く、国内的には自警団的な性格を持っているが、諜報機関として国外での活動も盛んだといわれている。
: ソリの付いた氷上帆船で構成された海軍があり、旗艦である大型戦艦「嵐の大帝」(ストームカイザー)を擁する。
; パルマー
: 国家に属さない500人ほどの自由開拓民の村で、「自由人たちの街道」の西の終端。村の名前は「自由人たちの街道」建設を主導したパルマー・ローリに由来する。
: 住人の多くは「自由人たちの街道」を建設した人々の末裔で、そのため西部諸国のうちにありながら東方語を日常語としている。ドレックノールからパルマー村までの自由人たちの街道は、馬車1台がやっと通れるほどの小道になる。
: 精霊力を矯正することで病気を治す術が、混沌の地から渡ってきた一人の男によって授けられたと伝えられている。
; サイモーン王国
: 新王国暦324年に、現在のドレックノール・リファール・ゴーバ・ラバンを含む地域に、当時のドレックノール侯だったマバーロI世により建国された。
: 「無能王」と呼ばれたマバーロIII世の失政から、後のリファール建国王ダッカ・ラジールの叛乱を招き滅亡。
; パイニーヒル神殿
: リファールとゴーバの国境付近にある男子禁制のマーファ神殿で、通称「縁切り神殿」とも呼ばれる。不幸な女性の救済を目的としており、主に結婚の解消を望む女性を保護している。
: 創建時から一切の公権力の介入を断固拒否し続けるなど、マーファ神殿としては異例と思えるほど戦闘的な面があり、「タイデルの盟約」でも特別に不介入・独立を不文律として認めている。またこの神殿の神官戦士団は、西部諸国屈指の戦闘力を持つといわれている。
==== 街道 ====
; 思い人の街道
: ミードからミラルゴに至る街道(ミード〜フオス)。ある恋人たちの伝説からその名が付いた。
; 蛇の街道
: オランとプリシスを結ぶ街道で、山岳部を曲がりくねって進むことから名付けられた。
; 雲の上の街道
: アノスからグロザムル山脈を越えてオランに至る街道(ファーズ〜ソーミー〜ブラード〜カゾフ〜オラン)。グロザムル山脈越えの道は、数百段という石段が多数ある。
; 白刃の街道
: ロドーリルのチェイスからプリシスを経由して、オランのミードに至る街道。元々は南部から北部への主要な食料供給路であったため「麦の街道」と呼ばれていたが、近年度重なるロドーリルのプリシス侵攻に利用されたため、白刃の街道と呼ばれるようになる。
; 歌声の街道
: タイデルとベルダインを結ぶ険しい山岳街道。盗賊や妖魔が出没する危険な街道だが景観は秀逸で、この街道を往来する吟遊詩人やヴェーナーの神官がこの景観を題材に多くの詩を残したことが由来。
; 自由人たちの街道
: オランから始まり、エレミア〜ザイン〜ロマール〜レイド〜ベルダイン〜ザーン〜ドレックノールに至り、最終的にパルマー村を終端とする街道。
: オランの賢者パルマー・ローリの提唱によって新王国暦300年頃に建設が始まり、パルマー・ローリの死後新王国暦350年に完成した。街道沿いは、徒歩半日の間隔で宿泊のための小さな小屋が完備されている。
; エールの街道
: オーファンの王都ファン〜グードン〜ラムリアースの王都ライナスを結ぶ街道。酒樽を満載した荷馬車が通ることに由来した名前。
; 光と闇の街道
: オーファンの王都ファン(光)とファンドリア(闇)を結ぶ街道。
; いにしえの街道
: ラムリアース王国の王都ライナス〜ルーナム〜ファンドリア〜レムリア〜ロマールに至る、中原地方を縦断する幹線街道。
; 夏への街道
: ロマールと「常夏の街」フェルダーを結ぶ街道。
=== アザーン諸島 ===
アレクラスト大陸の南東に位置する諸島。大小4つの島があり、シナリオ集『虹の水晶宮』の舞台となっている。文化形態は大陸のものと全く同じで、交易も盛んに行われている。[[ソード・ワールドRPGリプレイ風雲ミラルゴ編]]、[[ソード・ワールドRPGリプレイアンマント財宝編]]ではアザーン諸島の商人が大陸で活動していることも描写された。
=== イーストエンド ===
アレクラスト大陸の東にある細長い島。形状が[[日本列島]]に似ており、独自の文化が発達しているといわれている。ロードス島より遥かに近い位置にあるが、閉鎖的な社会のためか交易はあまり行われていない。土着の太陽神「天照神シャナ」を奉じる「神宮」が治める神官政治が行われている。
=== ロードス島 ===
『[[ロードス島戦記]]』の舞台。「呪われた島」と通称され、実際に呪われたと表現しても過言ではないような過酷な場所が島の随所に存在する。アレクラスト大陸の南に位置し、大陸とはわずかながら交易が行なわれている。大まかに7つの地方に分けられる。
{{main|ロードス島戦記#ロードス諸国}}
神話の時代にはアレクラスト大陸の一部であったが、「神々の戦い」において破壊神カーディスの呪いを受け、呪いの拡大を防ぐべく大地母神マーファによってアレクラスト大陸から切り離された、とされている。ロードス島の南にある小島マーモが破壊神カーディスの封印された地とされ、大地母神マーファもロードス島にて力尽きたと伝えられる。
新王国暦525年の[[邪神戦争]]終結(灰色の魔女カーラの活動停止)以来、「呪われた島」は次第に使われなくなり、「解放された島」との呼称が広まりつつある。数十年後の時点ではアレクラスト大陸で「楽園の島」と呼ばれた例がある<ref>「ロードス島戦記 誓約の宝冠 1」p.131。</ref>。また、約300年後の[[クリスタニア]]では、ロードス島出身者の末裔は自らの故郷を「北の解放された島」と呼んでいる。
=== ケイオスランド ===
アレクラスト大陸の西にある大陸。「混沌の地」と呼ばれ、大陸の北部は混沌を司る存在(あるいは混沌そのもの)であるジャカオに飲み込まれつつある。ジャカオを信奉する混沌の勢力と、神話の時代に他の神々が混沌から逃げ去った後も唯一この地に踏み留まってジャカオと戦った「バルキリーの女王」を信奉する氏族との間で争いが続いている。それ故に六大神を始めとする他の神々は、混沌から逃げた存在であるため信仰の対象とされていない。
創世神話では、西の果てにある「水の門」が閉じられて世界創造が完成する前に神々の大戦が勃発し、結局「門」は閉じられずに終わったとされているが、西方に位置するケイオスランドで混沌からの干渉が強いのは、このことと関係があるのかも知れない。
<!-- 「水の門」からは、世界そのものが虚空へと流れ落ちており、これが時の流れを作り出している、とされる。つまりフォーセリアは巨大な水時計なのだという。 -->
古代王国時代には版図に含まれていた模様で、アレクラスト大陸と同様の遺跡が存在する他、「凶主」という名で古代の魔術師が伝承されている。今日では失われた混沌魔術の発祥に深く関わっていたと思われるが、魔法王国崩壊と共にその記録も失われた。
長らくアレクラスト大陸の住人からは忘れられた存在であったが、新王国歴501年にベルダイン王リカルド・ハディスが派遣した「混沌の地」遠征隊がケイオスランドに到達したことで、様相が大きく変わる。冒険者出身の騎士プライア・ウルグを隊長とする遠征隊は到達直後に船を失い、現地のオークレイ氏族との争いや侵攻してきた混沌の勢力との戦いで多くの犠牲を出しながら、ついに最初の村(十一番目の子供:イレブンスチャイルド)を確保することに成功する。そしてマーファの司祭マリク・ポストが、「リターンホーム」により唯一アレクラスト大陸への帰還を果たす。それから3年後、マリクがケイオスランドで体験した出来事を纏めた“帰還者の手記”を発表したことにより、広くケイオスランドの存在が世に知られるようになる。その後、満を持して航路図が発表されると、様々な理由で新天地を求める人々がベルダインに集まり、海路でケイオスランドへ向かうことが可能になった。
また、“墜ちた都市”レックスの遺跡でケイオスランド北部の都市ゾディークに通じる「移送の扉」が発見されたが、発見した冒険者達の手によって直後に破壊されてしまった<ref>[[ソード・ワールドRPGリプレイ第3部]]第6話「混沌魔術師の挑戦」。</ref>。これ以後、新たな「移送の扉」は発見されておらず、ケイオスランドへ行くには海路が唯一の方法となっている。
なお、この地でマイリーの神官が神に祈ると「女王」が答えるという深刻な事態に遭遇するが、他の神々については大陸と特に相違点は見られない。
=== クリスタニア大陸 ===
{{Main|クリスタニア}}
ロードス島のさらに南に位置する大陸。現在公表されているフォーセリア世界の大陸の中では最も南部に位置すると考えられている。瓢箪のように中央部がくびれた形で、大きく北クリスタニアと南クリスタニアに分けられる。
神話の時代の神々の大戦において中立を貫いた中立神たちが、闇の陣営の放った「神殺しの竜」から身を隠した大陸で、中立神達は神の肉体を捨て獣の体に魂を移すことで追手の目を欺いた。この神の魂を宿した獣を「[[クリスタニア#神獣|神獣]]」と呼び、神獣達はクリスタニアを外界から遮断することで完成させた世界を創ろうとした。
この大陸を舞台とするクリスタニアシリーズは、ソード・ワールド及びロードス島戦記の時代から300年以上後の年代とされている。
=== ファーランド ===
プレイヤーに対して、完全に解放されている大陸。公式の設定は何一つなく(「公式設定は永遠に作られない」と言うのが、この大陸に関する唯一の公式設定)、プレイヤー間で自由に設定、使用が認められている。
== 神 ==
フォーセリアには、概念としてでなく、神が実際に存在する。勿論信者もおり精神体も存在している。
だが、その全ては神話の時代に起こったといわれる「神々の大戦」によって肉体を失い、物質世界に直接干渉することはできなくなっている。
司祭がこの神々に祈り願うことによって、間接的に神の力を借りて奇跡を行使することができ、これを神聖魔法と呼ぶ。
このほか、クリスタニア大陸では獣の身体に神の魂が宿った'''神獣'''が現存している。これについては[[クリスタニア#神獣]]で扱う。
=== 六大神 ===
アレクラストやロードスで特に信仰されている神々の内、主要な存在である6柱の神を「六大神」という。以下に示す。
; ファリス{{Anchors|ファリス}}
: 至高神。始源の巨人の左腕より生まれ、光の下の平等と正義を司る。信者には裏表の無い公明さを持ち、約束を守り、等しく働き助け合うことを求める。法律は人々に平等に適用される大きな約束事であるためにこれを重んじることが推奨されており、結果として二義的に法と秩序をも司っている。また光の象徴である太陽とも密接な関係があり、太陽神としての神格も言及されることがある。
: 光の神々の長であるとされ、神々の大戦の時には光の陣営を率いて、暗黒神ファラリス率いる闇の陣営と戦った。
: 教義にはいわゆる基本的な道徳に通ずる部分が多々あるため、フォーセリア世界における文明圏では広く浸透しており、最も多くの人々の間に信仰されている。ただし、法と秩序という神格であるがゆえに、ファリスの教団は形式化されたより複雑な教義を定めている。それは本来神の声を聞くための手段に過ぎないのだが、熱心な信者であるほどしばしば教義の形式に呑まれ、意味ではなく形のみを盲信する、狭量あるいは融通の利かない人物になりがちである。そのため教団で高位の司祭であっても神聖魔法を使えない者が少なからずいる。
: アレクラスト大陸極東地方の聖王国アノスや、ロードス島の神聖王国ヴァリスでは国教とされており、政治の上層部には教団の実力者が就いている。また、その他の多くの国でも特定の国教を持たない限り、政治上層部はファリス信者であることが多い。
: ホーリーシンボルは先端の尖った十字形で「光十字」と呼ばれている。また、善なる者は死後天国へ迎え入れられ、邪悪な者は冥界に堕ちると説く。
: クリスタニアの神であるフェネスは月の神であり、ファリスの弟であるとされている。
; マーファ{{Anchors|マーファ}}
: 大地母神。始源の巨人の胴体より生まれ、自然と豊穣を司る。慈愛の女神でもあり、結婚・出産を祝福してもいる。
: 教義は「自然であれ」。ただし自然崇拝というわけではなく、人間として自然に生きることを説いている<ref>アレクラストには自然崇拝のドルイドも存在するが、彼らはマーファやその他の神の信者ではなく、宗教的にはむしろエルフに近い。</ref>。自衛や狩り以外のあらゆる戦闘を禁止している。ただし、アンデッドは存在すべきではないものとしている。また、自殺を固く禁じている。
: 農民層に信者が多く、農村出身者の多い下級兵士にも影響力が及んでいる。その反面、既存の支配体制と相反する面を有していることから、王族や貴族など支配階級には煙たがられる傾向にあるが、結婚・出産を司ることから支配階級であっても女性には信者が多い。
: 死者は大地に還り、新たな再生を迎える、と説く。
: 神々の大戦では宿敵である破壊の女神カーディスと戦い、相討ちとなった。その終焉の地はロードス島の北部とされている(カーディスの終焉の地はロードス島南部のマーモ島である)。カーディスが滅びる間際に大地にかけた呪いが広範囲に広がることを防ぐため、最後の力で、当時は大陸と陸続きであったロードス島を大陸から切り離し、はるか南へ移動させたのだという。同島西北端の「大直崖(グレート・ストレート・クリフ)」がその痕跡であるとされる。
: ホーリーシンボルは三日月に見えるが、実は農業に用いる鎌を表している。
; マイリー
: 戦神。始源の巨人の右足より生まれ、戦いと勇気を司る。戦士や傭兵が主に信仰する。戦槌がシンボルとされることが多い。
: 教義は「生きる事は戦いである」「勇気は力を導く」。正義のための戦いを推奨し、勇者に力を与える。臆病や卑怯な振る舞いを禁じている。神官は、「勇者」に仕え導くこと、あるいは自らが勇者となることを目指し、それを自らの信仰の最大の証と考える。そのため神官は多くの場合、戦士としての鍛錬も積んでおり、マイリーの神官戦士軍団は極めて強力である。
: 勇気を持って戦い死んだ魂は喜びの野に赴いて永遠の戦いを楽しみ、臆病な生き方をした魂は冥界に堕ちると教えている。永遠の戦いを死後の報酬としているため、普段一般的な意味での戦いに縁のない人々には信者は稀である。
: 「混沌の地」で信仰されている“戦乙女を統べる「女王」”(キュラフ)との共通点が多く、あるいは同一の神格ではないかと言う意見や、マイリーの従属神である「有翼の女神」との類似性を指摘する意見が散見されるが、混沌の地で「女王」の声を聞いたマイリーの神官は、マイリー神とは異質と否定している。一方で彼の地では「女王」こそがジャカオに対抗した唯一の神であり、ジャカオから逃げ去ったその他の神と「女王」を同一視することは、その「使徒」のみならず多くの者にとって受け容れ難いことである。なお、名前ではなく単に「女王」と呼ばれるのは、他に同列視する存在の居ない唯一神を崇める民には良くある事例で、混沌の地でも安易にキュラフの名前を口にする事は避けられるが、禁忌と言うほどではない。
; チャ・ザ
: 幸運神。始源の巨人の左足より生まれ、幸運と交流を司る。転じて商売の神としても信仰されていて、商人の他に職人が主に信仰する。盗みを禁じているが、盗賊にも信者が多い。
: 商売は人と人との交流に繋がり、交流は幸せに繋がると説いている。不平等な取引、盗みや詐欺などの「他人を不幸にすること」を禁止している。しかし、商業神としての神格ゆえに商人たちとの繋がりが多く、神殿もかなりの富を保有していることが多いために、しばしば本来の教義からすればはむしろ禁じられるべき不正な取引や過剰な蓄財などに堕す信者もいる。
: 信者達は死後、チャ・ザが住むとされる「至福の島」に招かれ、そこで永遠に幸福な暮らしを営むことができると説く。
: ホーリーシンボルは鳥(不幸の象徴とされるカラスは除く)、天秤など複数存在する。
; ラーダ
: 知識神。始源の巨人の頭部より生まれ、英知と知識を司る。知恵の神としての神格もあり、発明や発見などを司るともいわれている。主に学者や魔術師が信仰する。
: 知識欲を最も美徳とし、世界のあらゆる物事の真実を理解し、保存することを奨励している。欺瞞を禁止して、この世の真実を明らかにする行為を教えている。また、知識を破壊する行為、振る舞いを禁じている。
: 信者達は死後ラーダのもとに赴いて、見えざる真実の星々となり、世界の行く末を観察し続けると説く。
: ホーリーシンボルは星の形などを表したものが主に用いられる。
: クリスタニアの神であるメルキシュは、知識神を決める対決でラーダに敗れた存在だと伝えられているが、対決の際にラーダが盗賊の神ガネードに解答を盗ませたという伝承もある。
; ファラリス
: 暗黒神。始源の巨人の右腕より生まれ、自由を司る。双子神たるファリスと対で「双の天帝」、そこから「夜の天帝」とも呼ばれる。[[ダークエルフ]]などの妖魔にとっての神でもあり、その存在を肯定する神でもある。
: いにしえの神々の大戦では闇の神々の筆頭として立ち、光の神々と戦った。そのため、光の主神であるファリスに対して、闇の主神とも言える存在である。破壊の女神カーディスの出現により、世界の完成や安定こそが「終末の巨人」に属する存在の出現と世界の破滅につながると考えて、闇の陣営を率いて神々の戦いを引き起こし、光と闇が対立し続ける世界を招いたとも言われる。
: 教義は、「汝の成したいように成すがよい」という言葉に象徴される完全なる自由である。人は何でもすることができ、それを試みるからこそ向上があり、制限を課して自らを閉ざすのは悪である、欲望を否定せずその実現を求めて生きよと教える。その教義ゆえに多くのファラリス信者は法律や規制を侮蔑しており、それを破ることに倫理的な禁忌を覚えない。したがってファラリス信者は容易に犯罪に走りやすく、反社会的な存在となりやすいために、ほとんどの国家において禁教となっている。通常のプレイではGMの許可がない限りPCはファラリス(および他の邪神)のダークプリーストになることはできない。
: 一部の信者は単純に邪悪ではなく「己の精神の自由」を求めており、少数ながら善良なファラリス信者も存在はしている。他の信者、例えば後述のドレックノールの盗賊集団などは単純に「やりたい放題」を求めてファラリスを信仰している。ファラリスはいずれに対しても等しく恩恵を与える。
: アレクラスト大陸では、ファラリス教団が建国に寄与した中原の「混沌の王国」ファンドリアがファラリス教団の根拠地となっている他、西部諸国のドレックノール、ロードス島のマーモ帝国などでも信仰が公に認められている。また表向き禁教とされていても、例えばロマールの奴隷階級のように制度として抑圧や拘束の対象となっている人々から、「抑圧からの解放神」として信仰を得ている事例もある。
: 信者達は死後、魂が闇に溶ける、魔界の魔神(デーモン)に転生する、虚無界に堕ちて消滅する、などいくつかの説があるが定かではない。「死は最後の、究極の自由である」と表現した闇司祭もいる。
: ホーリーシンボルは、ところどころ線が欠落した逆五芒星。
: クリスタニアの古の民は『汝欲する所を為せ されど理知的であれ』とするのがファラリスの正しい教義であるとしている。しかし、古の民以外でそういった信仰を広めている教団はフォーセリアには非常に少ない。
=== その他 ===
; 「光の神」とされるもの
:; 鍛冶の神ブラキ
:: ドワーフの神ともされ、六大神に次いで信者が多い。
:; 楽曲と芸術の神ヴェーナー
:: バード(吟遊詩人)の神。「運命の神」としての側面を持つ。吟遊詩人の多くは放浪者であるため、神殿というものがほとんどなく、オーファンの首都であるファンでは橋の下にバラック小屋を構えている。
:; 匠の神ガネード
:: 一部では「盗賊の神」とされる。教義は「技を磨け」「工夫せよ」「諦めるな」。
; 「邪神」とされるもの
:; カーディス
:: “死と破壊を司る女神”。光や闇、中立の神々とは本質的に異なる存在である。後述の[[#カーディス]]を参照。
:; ミルリーフ
:: “荒ぶる海の神にして死者の神”。肉体を失った神々の中では例外的に、肉体の断片が現世に残っている神であり、現世への影響力が比較的強い。水死体が増えることで現世への影響力がさらに増していくため、信者に呼びかけて水死体を増やそうとする。つまり端的に言って教義は「水死体を増やすと神が喜ぶ」。ただしこれでは身も蓋もないため、信者側は「生きること自体が苦痛であるから殺すことでそこから解放してあげよう」という風に解釈・理論武装している。
:; ニルガル
:: 司るところは「予定調和」。人々には果たすべき役割があり、その役割に殉じろと説く。そこだけ聞くとそこまで邪悪には聞こえないが、その「役割」の中に「他人の食料になれ」といった滅茶苦茶なものがあったり、他宗教の信者を「食料になる価値さえない存在悪」と差別するため、邪神と呼ばれている。
:; ゴーヤマー
:: 驕りと嫉妬を教え、肯定する。
:;ミゴリ
:: 不和と復讐を唱える。
:; 名も無き狂気の神
:: あまりの狂気故に意思疎通がとれず、誰もその名を知ることができないとされる。精神に異常を来した者だけでなく、新しい発想を求める芸術家の一部も隠れて信仰することがある。獣人(ライカンスロープ)の神、月の神と言われることがあり、クリスタニアの神であるフェネスがその正体という説がある。
:; ジャカオ
:: 始原の巨人の躯から世界が生まれた後に残ったもの。混沌界の擬人化(擬神化)ともいわれている。他の神とは異なり、特に「信者」を教え導こうという行動はしておらず、ただ求める者に(信者であるなしに関わらず)「力」を与えるだけである。与えられる能力は千差万別で、同じ能力は一つとしてない。その無秩序さ故に、力を授かった信者は'''混沌'''と呼ばれる。
:: ただし、「女王」の使徒が使徒としての力を持ったまま「混沌」と化した例があり、ジャカオを神と考えるかどうかは異論がある。
上記の他にも数多くの神々が知られており、それぞれに信者や司祭も存在する。ただし、六大神以外の神々には大きな神殿や高位の司祭があまり存在しない傾向がある(ブラキ神は例外的に神殿・信者ともに多く、特にドワーフに信仰されている。邪神の側ではニルガル神の教団がその教義から整った階級制度、組織体系を持ち、大組織を作り上げる例がある)。また、当然ながら「邪神」の教団や神殿は公にはされず、地下活動で組織を維持していることが多い。
「邪神」が必ずしもファラリスの協力神というわけでもない。例えば、ニルガルは元々光の陣営の神であったものの、ラーダやチャ・ザとの諍いから光の神々の主流派と開戦したと伝えられており、自由を司り妖魔などの人間外種族に対しても肯定的なファラリスとは現在でも不倶戴天の敵同士である。破壊神カーディスの勢力に対しては、ファラリス教徒も危険視しており、マーモ島における終末戦争では他の五大神の信徒と協力してカーディス教団との戦いに参戦している。
神話の時代に起こった出来事は、正確に人間たちに伝わっているとは言いがたく、神話や教義の解釈は神殿間や地域間で必ずしも一致していない。六大神が上位の神であり、それ以外の神々は従属する下位の神というのがアレクラストやロードスでの一般的な信仰(六大神信仰)だが、ケイオスランドやクリスタニアのように六大神信仰とは大きく異なる信仰が主流の地域も存在する。
クリスタニアの神獣王の一柱、周期の神獣王フェネスは、ファリスとファラリスの兄弟神であり(始原の巨人のどの部分から生まれたかは知られていない)月を司る存在であるとも、邪神「名も無き狂気の神」の正体であるともいわれる。また、戦いの神獣王ブルーザはマイリーの従属神であった。
神々の間のささいな諍いを、恨みと復讐を司る邪神ミゴリが煽り立てて不和を助長し、遂には「大戦」にまで発展して互いを滅ぼす結果になってしまった、という伝承も存在する。無論真偽は定かではない。
==== カーディス ====
他の神々が「始源の巨人」に属しているのとは異なり、未来に存在する「終末の巨人」に属しているとされる唯一の神がカーディスである。「終末の巨人」はこの世界の終わりに姿を現すとされ、世界が無に帰したあと次の「始源の巨人」となり、新たな世界を創世するとされている。
カーディスはこの世界を破壊することで「終末の巨人」を出現させ、次の世界を誕生させるために存在しているといわれる。そして新たに生まれる世界では創造の神(大地母神マーファの位置付け)として生まれ変わるとされている(そのためマーファとは本質的には同じ神でありながら、その存在理由から対立することになる)。
未来と同義語である「終末の巨人」に属しているという特異性から、その高位の司祭達の中には現世での死を超越した「転生者」となり、繰り返しこの世に生を受けて世界を破滅に導くために暗躍するものもいる(未来に属しているため、現世での死は意味が異なる、ただし転生に失敗した場合は未来が消滅することを意味し、魂の完全なる消滅となる)。また彼ら転生者達はカーディスと共に次の世界への転生が約束されているという。ロードスにはこうした終末信仰の転生者たちによるカーディスの大規模な教団が存在し、『[[新ロードス島戦記]]』などでは、これら「終末のもの」達との熾烈な戦いが描かれている。
しかしカーディスの司祭であっても終末信仰や転生を行わず、破壊神としてのカーディスを崇拝するものも多い。この場合のカーディスは、存在理由に反して来世すら破壊された無を良しとして、死と破壊と否定を司る(終末に属する物を破壊したことさえある)。一般には「終末の巨人」との関係はほとんど知られておらず、ファラリスなどと同じ邪神で闇の神の一柱であると認識されている。
不死者達の支配者であるともされ、強力な死霊魔術を行使する際にその助力を得るために魔術師達がカーディスと交信を行うこともある。
信者達は死後は虚無界に堕ちて消滅する、あるいは転生を繰り返し新たな世界に生まれ変わるとされている。破壊神としてのカーディスに仕えるものは前者、終末の眷属としてのカーディスに仕えるものは後者の教えを支持する。
<!-- カーディスの説明から離れているのでコメントアウト。世界観の説明に移すべき
世界が完全に安定して永続してしまうと次の世界が生まれなくなってしまうので、終末の者は安定に対抗する形で発生する。そして出現する終末の者は、安定を支えていた力に反する者として存在する。
神の創造と完成の時代が安定しすぎた結果として破壊の女神カーディスが生まれたのと同様に、魔法の支配によりカストゥール王国が安定しすぎて天地万物を司る精霊をも支配した結果としてあらゆる精霊を喰らい尽くす魔精霊アトンが生じ、[[クリスタニア]]では神獣の支配が安定しすぎた結果として魔神獣が誕生した。
つまりどのような形態であろうとも世界が安定すればするほど、その対抗として終末の巨人に属する勢力が誕生してしまうと考えられ、どのように努力してもいずれはフォーセリアは終末を迎えると考えられる。
ただし、これまでの歴史の中で出現した終末の眷属は全て一時的なものであるにせよ退けられており、最終的な終末は避けられずとも努力することによってその到来は遅らせられるというのもまた確かなようである。
またこの現象を逆手にとってわざと安定を崩すことで終末を遅らせることも出来るらしく、ファラリスが神々の大戦を引き起こしたのは神々の時代の安定を崩すことで終末を遅らせようとしたのではないかという推測もある。
-->
== 種族 ==
フォーセリアには、「始原の巨人」から生まれた種族およびその眷属である太古種族や、神話の時代に神々が創造した数多くの古代種族、およびそれらの種族の子孫として派生した下位種族が住んでいる。<ref>グループSNEの2007年7月のソードワールドQ&Aによると、作品毎で太古種族と古代種族の分類の用語統一ができていなかった場合もあり、頭を痛めているとのこと。</ref>どの種族も「進化」のように環境に適応していく能力を持っているが、物質界での適応は繁殖力などが高まる代わりに、魔力や知性や寿命を減らしていく傾向にあるようだ。そのため太古の姿を残した種族ほど個体としては高い能力をもち、上位種とも言われる。
誕生時から物質界に生を受けた種族だけでなく、本来は神々が「妖精界」の住人として創造した種族も、「神々の大戦」時に召喚されて以来、物質界に暮らしている。
{{main2|精霊力を担うべく「精霊界」の住人として創造された種族|フォーセリアの精霊一覧}}
=== 主な種族 ===
; 人間
: 神々が自らの姿を模して物質界に創造した種族。神々が亡き後の「暗黒の時代」を生き抜いて、フォーセリア世界の覇者として「魔法の時代」「剣の時代」を創り上げた。
: 個体の能力差が激しく、そして適性も多種多様である。極一般的な両親から英雄的な活躍を果たす人間が生まれたり、その逆もまた然りである。
: 人型は種族の中では寿命が短く、現在の平均的な寿命は50歳生きれば長生きな部類である。寿命の限界としては100歳程度とされ、ごく稀に100歳以上生きる者もいる。おおよそ15歳程度で成人とされる。
: なお、かつて「魔法の時代」を築いたカストゥールの民はいわば「人間族の古代種」であり、「剣の時代」の覇者である現在の人間とは別種であると考えられている。
; エルフ
: 森の妖精。「神話の時代」に光の神々により召喚された妖精界出身の種族。「始源の巨人」の体毛から生まれた「世界樹」を起源とする種族ゆえに、神々に対する信仰を持たない。
: 外見は人間と比べると小柄・華奢で、尖った長い耳が特徴。体毛は薄く髭を生やすことはない。色素の薄い肌と頭髪をしており、金髪などに碧眼であるものが多く、整った容姿を男女共に備えている。
: 妖精は「精霊界」の精霊力を「物質界」に伝える役割を持ち、その性格を今も残すエルフ族は物質界にあっても精霊との親和性が高く、精霊魔法の優秀な使い手と目されている。あまり一般的ではないが、学べば古代語魔法を習得することもできる。神への信仰心を持たないため、神聖魔法は習得できない(これは遺伝的素養というよりも教育環境の問題であり、例えば人間に育てられたエルフであれば、神聖魔法を習得できる可能性はある)。元々は植物の精霊力を管理する種族であったためか、物質界での棲家には森林を好み、エルフの集落は多くの場合森林地域に存在している。
: 種族の性向として変化を嫌い、一般に人間社会と深く交わることを避ける傾向にあるが、亜種族の中では唯一人間との混血が可能。ドワーフを嫌ったりと、基本的に他種族に対して保守的。
: 例外的に、アレクラスト西部諸国のタラント王国やロードス島のハイランド王国に隣接した鏡の森の集落群は人間の文化風俗を大きく受容しており、前者は国民としてエルフが登録されて王妃まで輩出している、後者は人間とほぼ変わらない集落を構え、外敵襲来時には人間の国に集団亡命して救援を仰ぐなど近隣の人間と比較的緊密な協力関係を築いている。
: 本来は同種であったダークエルフは、「神話の時代」に闇の神々によって召喚された者達の末裔で、特徴的な黒い肌を持ち、召喚したファラリス神を崇拝している。また、『サーラの冒険シリーズ』には、エルフの父親とダークエルフの母親から生まれた人物が登場している。
: 一般的なエルフはおよそ千年ほどの寿命を持っているが、より妖精に近い古代種であるハイエルフは実質無限の寿命を持つとされる(ロードス島の「帰らずの森」にあるハイエルフ集落の族長は、神話の時代に神々によって精霊界から物質界へ召喚された存在であることが確認されている)。ハイエルフはロードス島に集落の存在が確認されているだけで、アレクラスト大陸では魔法戦士リウイ2においてターシャスの森に一人登場した以外は確認されていない。
; ドワーフ
: 大地の妖精。エルフと同じく「神話の時代」に光の神々により召喚された妖精界出身の種族。元は大地の精霊力を管理する種族だったが、精霊を操る能力は喪失しており、精霊魔法は使えない。古代語魔法を習得することもできない。頑固な性格が信仰心と結びつくことで神聖魔法を習得することは可能。エルフの様な太古種族起源なのか、人間と同じ神々に創造された種族なのかは不明。
: 背が低く頑丈な体型で、元々は大地の妖精であったので地下に集落を形成することが多く、暗視の能力を持つ。体は筋骨逞しく頑健である反面敏捷さでは大きく劣る。
: 金属の加工や細工に秀でており、真銀(ミスリル)の精錬は一部のドワーフのみが可能とされている。「歩く酒樽」と揶揄されるほど酒に強く、酒好き。良質の酒を造るが、ほとんど自分たちで飲んでしまうため人間達の世界にはほとんど出回らない。
: 妖精族の中では最も人間と緊密に交わっており、金属製品を輸出して、農産物や軽工業製品を輸入している。ゴーバやグードンなど人間とドワーフが共同で都市を構えている例もある。
: エルフほどではないが、人間を遥かに凌駕する長寿を誇る。またエルフに対するハイエルフに相当するハイドワーフが過去に存在し、精霊魔法が使えたと伝えられる。
: 属する精霊力の違いから、エルフとの仲はあまりよくない。
; [[グラスランナー]]
: エルフやドワーフと同じく妖精界から召喚された種族で、成人しても人間の半分ほどの身長しかなく、子どものような体型をしている。「草原を走る者」の異名の如く、身のこなしの素早さと手先の器用さは抜きん出ている反面、力はエルフよりも更に弱い。だが、体はそこそこに頑健である。
: 性格は非常に楽観的で、好奇心がとても強く、定住することを好まずに、好奇心の赴くままに移動することを好む。流浪の生活ゆえかその多くが狩人そして盗賊としての技能を有している。幼少期には三人一組で行動し、成長すると互いの名を名乗り合うという風習がある。
: ドワーフと同じく精霊を操る能力は喪失してしまったが、昆虫や植物の感情に同調することができる(会話というほど明瞭なものではないが、ある程度行動を教唆・誘導できることが小説では描写されている)。古代語魔法を修得することもできない。またエルフ同様に、(こちらは種族というよりも性格上の問題で)神を信仰しないため、神聖魔法を修得することもできない。つまりグラスランナーはあらゆるルーンマスター技能を修得できない。しかし、魔法に対しては総じて非常に強い耐性を持つ(ゲーム的には、精神点が非常に高い)。
: なお、ロードス島では土着のグラスランナーは過去に絶滅したため存在せず、作中に登場するグラスランナーは全てアレクラスト大陸から渡った冒険者である。
; ハーフエルフ
: 人間とエルフの混血児。多くは人間社会でもエルフ社会でも差別・迫害される。耳と同時に黒い肌を受け継いだダークエルフとのハーフも存在し、より激しい差別を受ける。
: 外見も能力も、人間とエルフの中間。どちらの社会で育てられたかで多少の違いが出る。一例としてエルフに育てられた場合、神を信仰することはない。
: 時折(主に人間の両親から)先祖返りによるハーフエルフが生まれることがあり、「取替えっ子(チェンジリング)」と呼ばれて忌み嫌われることが多い。人間の両親からエルフが生まれてしまうケースも、ごく稀に存在する。
: 人間に混じると多少華奢であることから、エルフに混じると人間に似て丸みを帯びる。わずかに尖っていて大きい、あるいはエルフと同じくロバのようだがやや短い耳を持つ。寿命は200年程度と人間よりは長いが、1000年の寿命を持つとされるエルフには遠く及ばず、人間同様強く寿命を意識する存在である。
: 『ソード・ワールドRPG』においては、人間とエルフの長所を共に受け継ぐ存在として設定されている。エルフ譲りの高い知力を活かして魔術師や精霊使いになることが最良の道とされ、戦士として身を立てることは不可能ではないが筋力の低さから困難であるとされている。人間社会に育った場合、プリースト技能を取得することも可能であるため、司祭になるケースもある。
:; フォーセリア社会におけるハーフエルフ
:: フォーセリアのハーフエルフはダークエルフなどの妖魔と異なりあからさまな排斥の対象でこそないものの(ただしダークエルフとのハーフはファンドリア以外ではダークエルフ同様に排斥の対象である)、多くは白眼視を受けて育ち、屈折した部分や影のある性格を持つ。ハーフエルフへの偏見はエルフ、人間いずれの社会にも存在するが、エルフ社会の方が強く、『[[ロードス島伝説]]RPGリプレイ』のティエルのようにあからさまな蔑視・迫害を受ける例が少なくない。このため、エルフ社会に育った多くのハーフエルフは森に留まるよりは人間社会で生活することを選ぶ。存在として稀なハーフエルフが冒険者に多く見られるのはこうした経緯によるものである。もっとも、迫害と縁なく育ったハーフエルフも少なからず見られる。
:; 展開
:: [[1990年代]]初頭まではソード・ワールドでも屈折したハーフエルフの例が多かったが、『[[スチャラカ冒険隊]]』のアリシアンひいては『[[ソード・ワールドRPGリプレイ第1部]]』のGMにして[[ソード・ワールドRPGアドベンチャー]]の執筆者でもある[[山本弘 (作家)|山本弘]]の影響でかお気楽である、明朗快活であるなど従前のイメージとは異なる性格付けをされることも増えてゆき、[[1993年]]から[[1996年]]まで企画が展開されたソード・ワールドRPGアドベンチャーではハーフエルフの武闘家ボウイというキャラクターも登場した。近年では『[[新ソード・ワールドRPGリプレイ]]』のマウナ・ガジュマ、『[[新ソード・ワールドRPGリプレイNEXT]]』のマロウのように社会的困難に直面しつつも明るさを失わないハーフエルフという、両者の折衷型といえる性格付けをなされたハーフエルフも現われている。
:; ハーフエルフと人間やエルフの交配
::『ソード・ワールドRPG』においては、ハーフエルフと人間、ハーフエルフとエルフの中間は存在しないことが明記されている。人間の[[ABO式血液型|血液型]]のA型とB型のように、ハーフエルフの子供は人間・エルフ・ハーフエルフのいずれかとなる。
:: 山本弘は『ソードワールドRPGアドベンチャー』で、母親がハーフエルフであるサラサ・アディについて「エルフの血のせいか耳がやや長い」という描写を行い物議をかもしている(「クォーターエルフは反則です。」という読者投稿イラストが紹介された)。この一件は「サラサは耳の尖った人間」という形で決着し、これが契機となってフォーセリアでも「クォーターエルフは誕生しない」ということが結論付けられた。『[[魔法戦士リウイ]]』においても、主人公リウイの母親はハーフエルフであるとされているが、リウイにエルフの血は見られない。
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; [[リザードマン]](クリスタニア以外)
: 沼地や湿地帯、離島など、多くは人間社会から離れた地域に生息する種族。竜族を崇拝している。
: 厳格な階層社会を築いていることが知られており、「クー・ルー」と呼ばれる掟に従って生きる。ただ一般には「トカゲ人間」として、妖魔や魔獣と同じ扱いを受けることが多い。これは「クー・ルー」が人間や他の妖精族が持つ神への信仰や一般的な善悪・道徳の規範と大きく隔たっているためである。
: リザードマンはドラゴンと同じく「始原の巨人」の鱗から生まれたとされている。上位種である貴族種(ノーブル種)は太古種族に分類され、非常に知性が高いと考えられている。上位種と区別する場合、下位種はスレイブ種と呼ばれる。
: リザードマン達が使う言葉は、竜語魔法で使われる魔法語(ドラゴン・ロアー)の下位語と思われ、老竜(エルダードラゴン)をはじめ竜族が使う言葉と同じである。
; リザードマン(クリスタニア)
: 上記のリザードマンとは全く起源を異とする『リザードマン』もフォーセリアには存在する。それはクリスタニア大陸に存在する結界の神獣王ルーミスが自身の従者として創造したとされる種族で、創造主であるルーミスを信仰し、人間と同程度の知性と強靭な肉体を持ち、非常に保守的で仲間意識の強い集団を形成している。何故か全員左利きである。
: 彼らにとってはルーミスは絶対であり、その意思に反する者は誰であろうと容赦しないが、ルーミスに従う同胞は種族を超えて手厚くもてなす。
この他にも、多くの種族が存在する。
=== その他妖精 ===
; マーマン(マーメイド)
: 海洋種族の代表的な存在。上半身は人間で下半身が魚の妖精。男性をマーマン、女性をマーメイドと呼ぶ。水中呼吸しかできず、地上では生活できない(可能とする説もある)。「呪縛の島の魔法戦士」の舞台となったルノアナ湖に生息する男性のマーマンは、全身を鱗で被われた、所謂「半魚人」の姿をしている。
: 百年以上前に「人魚の肉を食すと不老長寿になれる」との迷信が広まり乱獲され、それ以降は人間を嫌い避ける傾向が強く、今も人間と積極的に交わることはない。
; フェザーフォルク
: 翼を持つ人型の妖精。山岳地帯などに居住し、文化レベルはそれほど高くはない。精霊魔法を使う者がよく見られる。人間と交流を持つ部族も存在する。
=== 幻獣・魔獣 ===
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この分類はどちらかと言うと人間側の勝手な分類であり、古代語魔法(創成魔術)で作られた人工的な生物と、自然な生物がごちゃ混ぜにされていたりする。
; ケンタウロス
: 上半身は人間、下半身は馬の種族。厳密には幻獣ではなく、エルフやリザードマンと同じく太古から存在する亜人種としての種族。
: かつて人間が魔法王国カストゥールを築いていた時期、上位ケンタウロス語魔法(正式名称は不明)なるものを発展させ、独自の魔法王国を築いていた。
: このケンタウロスの魔法王国は人間のカストゥール王国とは良好な関係であり、お互いが対等の存在であったという。
: だが、時の流れと共に種として劣化していき、しかも上位ケンタウロス語は文字がなく口伝に頼っていたため、この魔法系統も現在では途絶えている。
: 現在は下位種が主流であり、その生活スタイルは部族によってさまざまで、人との交流が盛んだったり、逆にしごく閉鎖的で原始的だったりする。
: 一応、「人」としての人権は認められており、東方の草原の国ミラルゴにおいては人間と同じ住人の扱いを受け、国政にも参加している。
: 稀に古代の上位種の個体が生まれてくるらしく、それらは古代語魔法に精通している。
: このことから、上位ケンタウロス語魔法は古代語魔法と同種のマナを扱う魔法系統であると推測できる。
; ツインテール・キャット
: 2本の尻尾を持つ黒猫の外見をした幻獣。
: 人間以上の知能を持ち、古代語魔法・精霊魔法を操る。アザーン諸島のカイオス島における猫族の支配者。
; ユニコーン
: 額から長い螺旋状の角を生やした白馬の姿をした幻獣。
: 警戒心が強く、人間・エルフ・ハーフエルフの乙女にのみ心を許す。
: 知能は人間以上に高く、精霊語を話すことができ精霊魔法を操る。特に知られざる生命の精霊との結びつきが強く、寿命には限りがない。
: 力の源である魔力を宿した角を狙う密猟者は多い。
: アレクラスト大陸の魔法王国ラムリアースにおいては国を挙げて保護を行っている
; マンティコア
: 老人の顔、獅子の体、蝙蝠の羽根と蠍の尾をもつ魔獣。
: 邪悪な知識の守護者とも言われており、知能は人間以上に高く、暗黒魔法を操る。
=== 妖魔 ===
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暗黒神によって召喚された妖精族は妖魔と呼ばれる。闇の種族であるゆえか、ほとんどすべての妖魔は暗視能力を持っている。
; ダークエルフ
: 森の妖魔。「神々の戦い」において暗黒神によって妖精界から召喚されたエルフ。黒い肌を持ち、暗黒神の加護によって魔法への抵抗力がエルフより高く、暗視能力を備えている。
: 森は恵みを与えるだけでなく、光や大地や水の精霊力を収奪する闇の側面もあり、その性質が具現化した種族とも言われている。
: 高い知能と精霊魔法・暗黒魔法の力を持つことから、妖魔を統率することが多い。
; ゴブリン
: 高い繁殖力を持つ。様々な亜種(上級種)も存在している。
: 繁殖力の高さゆえに、種族としてはかなり繁栄しているが、個体としての能力は低い。
: そのためいわゆる「雑魚敵」として扱われており、TRPGでは駆け出し冒険者の敵としてよく登場する。
; コボルド
: 狗頭の妖魔。妖魔の中では最下級とされている。銀を腐らせるという伝承があり、特にドワーフにとって憎悪の対象となっている。その一方で腐銀([[コバルト]])を何らかの目的に(例えば顔料として)利用できるのは、現在のところドワーフだけである。
: 大地の妖精界のコボルドが石積み遊びを行っていて、崩れずに完成すると世界が滅びるといわれている。
; インプ
: 翼を持つ小型の妖魔で、肉体的には貧弱であるものの尾に麻痺毒を持ち、初歩の暗黒魔法を使いこなす。
: 闇司祭が召喚し、使い魔として用いることもある。
: その特性や姿などからデーモンと何らかの関わりがあるという説もあるが、真偽は定かではない。
; マーシュマン
: ウォーターインプとも呼ばれる水陸両生の妖魔。ただし、体が乾燥すると長くは生きられない。
: 主に沼地に住み、排他的である。精霊魔法を使いこなすことができる。
=== 巨人 ===
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; 始原の巨人
: 世界の元になった巨人。永遠に生きる完全な存在であったが、完全故に孤独であり、孤独を憤るあまりに自らを滅ぼし、その骸から世界が生まれたと伝えられる。
; 終末の巨人
: 世界の終わりに現れるという巨人。次の世界の始原の巨人となる。
; 上位巨人族
: 「始原の巨人」から生まれたとされる太古種族。上位ジャイアント語という魔法言語を持っていた。神は上位巨人族の最上位種ではないかともいわれている。
; 通常の巨人族
: 巨大な身体を持ち、さまざまな種族がいる。ジャイアント語という言語を持つ。
; オーガー
: 身長は2m程度で巨人族としては小柄であり、知能は低く、家畜や人を襲って食らうために喰人鬼とも呼ばれる。
: 妖魔なども食べるため、オーガーは妖魔の子供を食い、代わりに彼らの用心棒役になるという形でゴブリンなどの妖魔と共生することも多い。
: オーガーやトロールなどの小型の巨人族は、比較的小型であることや妖魔と共存する習性などから、正確には巨人族ではなく大型の妖魔に分類されると推測する賢者もいる。
; トロール
: 身長は3m程度で、岩のような肌を持つ巨人族。
: 周囲の岩肌に溶け込んで獲物を奇襲する。知能は低い。
; スプリガン
: オーガーと同程度の大きさの巨人族。邪悪な性向を持ち、暗黒魔法を使うこともある。
: 人間の子供に化ける能力を持ち、それを利用して人を食うために子化けの巨人とも呼ばれる。
; イエティ
: 寒冷な地帯に生息する希少な巨人族。大きさはオーガーと同程度。
=== ドラゴン ===
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「始原の巨人」が自らの怒りの炎に焼かれて死んだ後、「始原の巨人」の鱗から生まれたとされる種族。未分化の精霊力を宿していて、基本的に巨人の鱗を焼いた火の精霊力を強く宿していてどのドラゴンも炎のブレスを吐けるが、他に精霊力を強く宿しているかによって、火竜(ファイアドラゴン)、水竜(ウォータードラゴン)、氷竜、風竜(エアードラゴン)、地竜(アースドラゴン)などと分類される。また光や闇の神々によって聖別された光竜(ライトドラゴン)、闇竜(ダークドラゴン)といった種族もある。
その咆哮は聞く者の魂を傷つけ恐慌をもたらし、その身を覆う鱗は鋼を超える強度を持ち、鉤爪はあらゆる生き物を引き裂き、尾の一振りは一軍を蹴散らすとされる、最強の魔獣にして幻獣、比類するものの無いフォーセリア最強の存在が竜である。
; 火竜
: もっとも一般的な種。他種よりも肉体的な力とブレスの火勢に優れ、激しい気性を持つとされる。
; 水竜
: 翼を持たず、水中での生活に適応した種。水の精霊力を無効化する。
; 氷竜
: 寒冷な地域での生活に適応した種。氷の精霊力を無効化する。
; 風竜
: 最も速く天を翔ける種。風の精霊力を無効化する。
; 地竜
: 翼を持たず、大地を闊歩する種。地の精霊力を無効化する。
; 光竜
: 光の神々によって聖別された種。神聖魔法を使う。
; 闇竜
: 暗黒神によって聖別された種。神聖魔法(暗黒魔法)を使い、ダークエルフと同様に高い精神的な耐性を有する。
; 竜王(ドラゴンロード)
: 「始原の巨人」の鱗から直接生まれたとされる太古種族。神々に仕え、神々の大戦では神殺しの竜と呼ばれる強大な力を持つ竜王たちが神々の肉体を滅ぼした。詳細なデータは明かされていない。
; 古竜(エンシェントドラゴン)
: 「始原の巨人」の鱗から直接生まれたとされる太古種族。ドレイクとも呼ばれる。知能は高く、老竜をも上回る力を持つ。現在ではほとんど見られず、ごくわずかな個体だけが確認されている。
; 通常のドラゴン
: 卵から生まれるが、ドラゴンは卵を産まないため、正確な出自は不明。成長段階によって幼竜(インファントドラゴン)、成竜(レッサードラゴン)、老竜(エルダードラゴン)と呼ばれる。各段階からの成長は脱皮によって行われ、この脱皮には全ての魔法の呪縛から解き放たれる効果がある。老竜は高い知能を持ち、竜語魔法、古代語魔法を操ることもできる。光竜や闇竜であれば、神聖魔法(暗黒魔法)も使いこなす。
; 転生竜
: 竜司祭は最高位の竜語魔法「転生竜(リボーンドラゴン)」によってドラゴンの卵に生まれ変わることができる。転生する竜の種類は術者の精神状態に影響される。ドラゴンも瀕死の際には竜語魔法で転生を行ってドラゴンの卵になることがある。成竜として生まれるとされているが、[[魔法戦士リウイ]]では幼竜として生まれるとされた。老竜になれば生前の記憶を取り戻す。それ以外は通常のドラゴンと変わりはない。
; 亜竜
: ドラゴンではないがドラゴンの眷属とされる種族。竜語魔法で呼び寄せることもできる。ワイバーンなど。
=== 植物 ===
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; [[世界樹]]
: 「始原の巨人」の体毛から生まれた太古種族。生命の精霊力の実を実らせて、神々はその実を使って古代種族を創造した。負の生命力の実もあり、そこから創造されたアンデッドも居る。また世界樹の植物から直接生まれたハイエルフなどの種族や、世界樹の不肖の息子である樹なども居る。
: 神々が世界樹の実を使いすぎたため世界樹が枯れ始め、神々は世界樹そのものを植物の精霊界として精霊界に移した。
; 古代樹
: 枯れ始めた世界樹を移す際に、神々が世界樹の枝を物質界の各地に挿し木した古代種族。黄金に輝くことから「黄金樹」とも呼ばれる。また「生命の樹」とも呼ばれる。この古代樹から全ての植物が始まっている。
: 意思がありさまざまな精霊力を操る力を持つ。ロードス島の鏡の森や帰らずの森や闇の森、海底の海草の森など、さまざまな古代樹の森を形成している。
; マグナ・ロイ
: 魔法樹。古代樹の末裔で意思や植物の精霊魔法を操る力を持つ。古代王国時代にはマジックアイテムの材料として乱獲された。
=== アンデッド ===
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幽霊やゾンビなど、すでに死んでいるにもかかわらず、この世に留まり活動する死者のこと。負の生命の精霊力で活動しており、肉体のみ、霊体のみであるものもいる。世界樹には「正の生命の実」と「負の生命の実」が生っており、前者から生物が、後者からアンデッドが創造されたといわれている。
一般に通常の生物としての寿命を持たず、破壊されない限りは半永久的に活動しつづける。ある意味不老不死とも言える存在であり、「不死者」「生ける屍」などとも呼ばれている。魔法の武器か銀の武器でないと傷つけられないものもある。
ファリスやマーファをはじめ、光の神々はその存在を不浄で正しからざるものとして否定している。
主に死んだ人間が何らかの理由で変異して生まれるが、たいていの場合生前の人格や記憶などは残っておらず、生者を襲う危険な存在である。生前の人格や意思を保ったアンデッドも存在しており、中には一部の人間が自ら望んでそういったアンデッドに成るケースもある。
;[[吸血鬼]]
:生前の姿のみならず人格や記憶を留めるアンデッド。それらの維持に他者の生血や精神点を必要とするため、人里の近くないし人の生息圏内に常に存在している上、吸血鬼の犠牲者もまた吸血鬼に変ずることから恐れられている。
:その肌は青白く目には見た者を恐怖で麻痺させる赤い光が宿っており、冷たいその肉体には銀の武器か魔法の武器でないと打撃を与えられず、強い再生力を持つ。反面、太陽の光にさらされると生命点と精神点を消耗し続ける。武器を使わないことが多いが、素手の攻撃は怪力に加え鎧の防御力を無視する精神点吸収を伴う。
:吸血鬼は無抵抗状態の相手の全血液を10分で飲み干す。この吸血行為や前述の精神点吸収で死亡した者は24時間後、レッサー・バンパイアとして復活する。
; レッサー・バンパイア
: 下位の吸血鬼。吸血鬼の犠牲者が変異したもの。レッサー・バンパイアの犠牲者もまた、レッサー・バンパイアと化す。生前の記憶や人格を残しているものの、「親」そして大本の吸血鬼の命令には必ず従う。全血液を失っているため、痩せこけた姿のものが多い。
; バンパイア
: 上位の吸血鬼。主に暗黒神の寵愛を受けたものが、死後に新しい「命」を与えられて生まれるが、暗黒神以外の闇の神々によって変化した例も確認されている。
: 青白い肌と目に宿る赤い光を除けば生前と同じ姿を持ち、生命点が0になったり「ターン・アンデッド」の魔法で破壊された肉体は靄となって霧散する。自ら靄と化すこともでき、この状態のバンパイアは逃亡以外何もできない反面、いかなる攻撃や太陽の光でもダメージを受けない。
: 生前の技能を保持しているほか、高位の暗黒魔法の技能を与えられる<ref>神聖魔法の技能は失われる。また生前の暗黒魔法技能より高くはならない</ref>。また空中を浮遊して移動することもできる。
:その肉体は「邪な土(アンホーリー・ソイル)」と呼ばれる土と結びついており、靄と化した肉体は24時間後この土の傍に復活する。盛り土や棺に敷き詰める形などで時には複数個所にまとめられており、直接取り除いたり聖水などで清めることで結びつきを断つことができる。全ての「邪な土」との結びつきを断った上で生命点を0にするか、太陽光や魔法で精神点を0にすることでバンパイアは滅ぼされる。
; [[ノーライフキング]]
: 最上位の吸血鬼。強大な死霊魔術師が、永遠の命を求めて、自らをバンパイアに変異させたもの。同名と伝えられる儀式魔法の成功率は高くないが、バンパイアの特性全てを備える上各能力値はより高い<ref>古代語魔法>神聖(暗黒)魔法>精霊魔法という魔法の性質による。後述</ref>。
: 自然に誕生することはなく、現存するノーライフキングの多く<ref>といっても数えるほどに多いわけではない</ref>が古代カストゥール王国時代の死霊魔術師一門の有力な当主であり、失われた古代の知識を持ち非常に高位の古代語魔法や暗黒魔法を使いこなす。今なおその魔術の研鑽を欠かしていないことのみならず、現在では遺失していたり新たに編み出した独自のものなど未知の呪文を使い得ることが最も警戒すべき点である。
; アンデッド・ナイト
: 森の奥深くなど人里はなれた危険地帯をうろつく強力なアンデッドで、手にした剣による攻撃や視線には、犠牲者の精神力を奪い去る力がある。
: 中身のない錆びた甲冑に赤く輝く瞳が浮かび上がった姿をしているがどのようにして生まれるのかは不明であり、志半ばにして倒れたファリスの聖戦士の戦う意志だけが残って彷徨っている、古代王国期に魔法で作られた見張り兵である、などの説がある。
: ロードスにおいては、デーモンによって使役されていた例も確認されている。
; ジャック・オー・ランタン
: 主に沼地の上などに漂っている、ハロウィンの南瓜のような姿をしたアンデッド。その見かけや行動からは想像し難いほど知性は高く、強力な暗黒魔法を使いこなす。常に飢えており、犠牲者を見つけると殺してその肉を喰らおうとする。
: どのようにして生まれるのかは不明であるが、これもロードスにおいてデーモンによって使役されていた例が確認されている。
; ワイト
: やつれ果てた屍のごとき姿をしたアンデッドで、その攻撃には犠牲者の精神力(精神点)を奪い取る力がある。あらゆる生者に対して強い憎しみを抱いており、暴力的に襲い掛かってくる。ワイトやアンデッド・ナイトなどによって精神力を奪いつくされた犠牲者が変異して誕生することが知られている。
; グール
: 腐りかけて歪んだ屍のような姿をしたアンデッド。爪には生物を麻痺させる毒があり、常に飢えていて腐肉や殺害した生物の肉を喰らうことから食屍鬼とも呼ばれている。ウェンディゴと呼ばれる巨人族の凍えるブレスによって殺害された犠牲者が変異して誕生することが知られているが、それ以外の誕生経路は不明である。
;レイス
:古代語魔法で幽体離脱した後、自分の肉体に戻れなくなった幽体。
:実体がなく、物質に触れることができないが、触れられることもない。そのため物理攻撃で傷つけることはできないし、壁や地面などを透過することもできる。戦闘時には、主に魔法を使って戦う。日の光に非常に弱く、わずかに浴びただけですぐに消滅してしまう。
:幽体離脱の魔法は現在失伝しており、現在存在しているレイスは、基本的にカストゥール王国の「生き残り」である。
:生前の意志を保ったアンデッドであり、ある種の不老不死といえる。
;ゾンビ
:古代語魔法や暗黒魔法で死体に負の生命力を吹き込むことで生み出される低級なアンデッド。
:精神というものがなく、生前の技能や個性は何も保っていない。作成者の命令に従って行動するが、知能が低いため複雑な命令は理解できず、主に戦闘や単純作業に使われる。言葉は話せず、道具も使えない。
:ゾンビを作成する呪文には腐敗の進行を防止する効果はないため、肉体はどんどん朽ち果てていく。
;ブアウ・ゾンビ
:古代語魔法で生み出されるアンデッド。
:ゾンビの上級種のようなもので、ゾンビと同様精神は持たないが生前の知識や技能を一部を除き維持しており、複雑な命令も理解する。言葉や道具を使うこともできる。
:また、呪文には腐敗を抑止する働きもあり、数十年から数百年もの間腐敗せずに肉体を維持できる。作成するための魔法は現在では遺失呪文とされている。
;スケルトン
:ゾンビを作成するのと同じ呪文を、既に白骨化した死体に対して用いることで生み出される低級なアンデッド。
:ゾンビと同様に精神を持たず、作成者の命令に黙々と従う操り人形である。何故かゾンビと違って武器を用いることができる。ゾンビに比べれば耐久力では劣るがより俊敏に動く。
;アッシュ
:死体を焼いた遺灰から生み出されるアンデッド。古代の遺跡などに配置されていることがあるが、作成のための呪文は現在一般的には知られていない。
:ごく低級なアンデッドだが、精神を持たず、体が灰であるために武器では倒すことができない厄介な存在である。彼らは敵を包み込み、呼吸器官に侵入して体内からダメージを与える。
=== 魔界の種族 ===
{{節スタブ}}
人間界とは別に存在する物質界とも言われる世界。暗黒神ファラリスの信じる者は死後、魂が闇に溶けるとも、魔界の魔神(デーモン)に転生するとも言われる。また、魔界は冥界と同一であるという説もあるが、定かではない。魔神はファラリスの神聖魔法(暗黒魔法)を使うことから、ファラリスと関係深い世界だと思われる。人間界に召喚された魔神の肉体は仮の器でしかなく、破壊されても死ぬことなく魔界の本体へと帰る。
魔神はその強さにより、4段階に大きく分類されている。
* 魔神王(デーモンロード)
* 魔神将(アークデーモン)
* 上位魔神(グレーターデーモン)
* 下位魔神(レッサーデーモン)
魔神だけでなく、魔界の魔獣(アザービースト)なども存在している。
=== クリスタニアの種族 ===
クリスタニアには、以上の種族のほか神獣によって創造された[[亜人]]が存在する。リザードマン、バードマン、ウィングミュルミドンらの種族もPCとして選択することができる。
; リザードマン
: 結界の神獣王“虹色の大蛇”ルーミスによって創造されたとされる亜人。直立したトカゲの姿をしており、虹色の鱗を持つ。種族の平均能力値を比較した場合に、最も高い耐久力を持つ。なお、アレクラスト大陸のリザードマンとの関連は不明である。
; バードマン
: 白頭の大鷲フォルティノによって創造されたとされる亜人。背に大きな翼を持ち、自由に空を飛ぶことができる。アレクラスト大陸のフェザーフォルクとの関連は不明。
; ウィングミュルミドン
: 真紅の蟻帝クロイセによって創造されたとされる亜人。直立した羽の生えた赤蟻の姿をしている。ただし、手足は6本ではなく4本である。羽のないソルジャー種やワーカー種のミュルミドンは自発的な意思をほとんど持たず、上位の者からの命令に従って動く。
== 言語 ==
フォーセリアで使われる主な言語には以下のようなものがある。
=== 人間の言語 ===
; 共通語(コモン)
: 共通語は、アレクラスト大陸全域で通じる、文字通りの共通語。
この他にも、地域によって異なった言語が存在する。主なものは以下の通り。
; 東方語(マールダン)、西方語(グンダール)
: 東方語と西方語はそれぞれ大陸の東西地域で一般に使用される。中部地方がその境界であり、エレミア以東が東方語圏、ザイン以西が西方語圏である(ただし、西部諸国最西端のパルマー村では東方語が使用されている)。古代魔法王国が崩壊して大陸各地を繋いでいた「移送の扉」などの魔法による移動手段が失われ、地域が分断された結果生じた方言であるとされる。
; ロードス共通語
: ロードス共通語は、ロードス島全域で通じる。またクリスタニアの暗黒の民と新しき民が使っており、暗黒の民の支配地域から「ベルディア言葉」と呼ばれている。
; ケイオスランド語
: ケイオスランド語は、ケイオスランドでのみ通じる。
いずれの言語も、下位古代語が基になって派生したものとされる。特にケイオスランド語は、文字や単語に下位古代語との共通点が多い。しかし、言語同士の互換性は無きに等しい。
; クリスタニア共通語
: クリスタニアの神獣の民が使う言語。閉鎖された世界で同じ歴史を繰り返したために神の時代のころからほとんど変化していない。文法はロードス共通語とさほど変わらないようで、それが話せると単語さえ覚えれば片言で話すことも可能らしい。
人間以外の種族も、住んでいる地域の人間の言語(主として共通語)を用いる。
=== 各種族の言語 ===
; エルフ語
: エルフ・ダークエルフ特有の言語。
; ドワーフ語
: ドワーフ特有の言語。
; ゴブリン語
: ゴブリン・ホブゴブリン、コボルドなどの妖魔が使う言語。
; リザードマン語
: リザードマン特有の言語。ドラゴンも使用する。
この他にも、ケンタウロス語・ミノタウロス語・マーマン語・ハーピィ語・インプ語・フェアリー語・グラスランナー語・ジャイアント語など、様々な種族に固有の言語が多数存在する。
なお、グラスランナー語は知られていない。彼らは故郷である妖精界から物質界へとやってきた際に、人間との交流の中から自分たちの言語を忘れてしまい、人間の言語を使用するようになったらしい。
=== 魔法に関する言語 ===
フォーセリアの魔法は言葉によって世界に働きかけ、あるいは神や精霊に呼びかけるものなので、関連するいくつかの言語が存在する。それらの内、直接魔法に用いる言語を'''魔法語(ルーン)'''と称する。
; 下位古代語(ロー・エンシェント)
: 古代の魔法王国で日常会話や文書に使われていた言語。
: この言語で魔法を直接行使することは出来ないが、魔法の物品類を使用する時の合言葉などに良く使用される。
: 古代語魔法を学んだ者以外は普通使わない。ただし、知識階層には必須教養であり、読める者は少なくない。いわばラテン語のようなもの。
; 上位古代語(ハイ・エンシェント)
: 古代語魔法を行使するための特殊な言語。
: 神々が人間に与えた世界の秘密「万象に干渉・操作する言葉」を研究・体系づけた言語。一種の暗号のように複雑な言語形態であり、古代語魔法に習熟した職種(ソーサラー)でなくては通常読むことすら出来ない。
; 精霊語(サイレント・スピリット)
: 精霊に呼びかけ、精霊魔法を行使するための言語。
: 日常会話も行え、感情などの細かいニュアンスを伝えるのに優れているとも言われるが、文字は存在しない。
; 神聖語(ホーリー・プレイ)
: 神に助力を願い、神聖魔法を行使するための特殊な言語。
: 闇司祭が暗黒魔法を行使する際に使用する'''暗黒語(デーモン・スクリーム)'''も、神聖語と基本的には同じ。
: 本来神々を礼賛するための言語なので日常的な会話に用いるのはほぼ不可能。
以下は過去には用いられていたが、現在では使い手がほとんど、もしくは全くいない失われた言語/魔法語である。
* 上位ジャイアント語
* 上位ケンタウロス語
* 竜語(ドラゴン・ロアー)
== 魔法 ==
フォーセリアでは、全ての物質を構成する”もの”、全ての力の”源”の根源は同一でありであり、上位古代語(ハイ・エンシェント)で「[[マナ]]」と発音される根源体「魔力」である。これを操ることであらゆる物質・あらゆる力を生み出し、変化、消滅させることが可能である<ref name=":0">ソード・ワールドRPGサプリメント『ソード・ワールドRPGワールドガイド』p43 [[富士見書房]] 1993.1.15.</ref>。特定の手順を踏むことでマナを直接的または間接的に操り、意図的に万象を操作する奇跡=魔法を行使することができる。その技を使う者らを総称して「[[魔法使い|魔法使い(ルーンマスター)]]」と呼ぶ。それぞれの魔法は専用の魔法語を用いてかけられるため、魔法系統そのものも魔法語と同じ名称で呼ばれる。
; 古代語魔法(ハイ・エンシェント)
: 「暗黒の時代」に十人の「創設者」が上位古代語を解明して誕生した魔法と伝えられている。
: 神々は世界を創造するとき、マナを操る言葉を用いたという。この言葉こそ上位古代語であり、「神話の時代」に神々が自らを模して作った人間族に与えた言葉<ref name=":0" />。上位古代語で「万物の根元たるマナ」を具現化させ、世界の創造を模倣する技が古代語魔法である。理論的には神の力を完全に再現することも可能であるのだが、それを操る『人が万能ではない』ため、神そのものの領域に立つことは決してできないとも言われている。
: しかし、古代カストゥール王国最晩期に誕生した魔力の塔が供給する無限の魔力が、その人間としての限界を大きく超えさせることを可能とした。
: 結果としてさまざまな問題を引き起こしながらも、人間種族が大陸を制圧し、一大魔法文明とその繁栄の絶頂を現出させた力の源となったのである。
: 古代語魔法は古代王国末期に全盛期を迎え、その崩壊と共に一旦は滅び去る。続く「剣の時代」においてはその歴史的経緯から長らく忌避されていたが、現在では各地に「賢者の学院」が設立されるなど、一定の地位を得て復興している。ただ、多くの知識が喪われたままであり、古代王国時代の遺跡で発見される魔法のアイテムはそのほとんどが再現不可能とされる。
: 基本となる基本魔術と、基本魔術を基に特化した八の系統(拡大魔術・召喚魔術・付与魔術・死霊魔術など)、さらにそれら統合した統合魔術がある(詳細は後述)。
: この魔法を使う者は「魔術師」(ソーサラー)と呼ばれ、その多くは「賢者の学院」出身者であるが、極少数の独立系魔術師も存在している。さらに「賢者の学院」もラムリアース系(ラムリアース及び西部諸国)とオラン系(それ以外のアレクラスト全土)、アラン系(ロードス島)に大別され、秘密主義の強いラムリアース系、一般と交流の盛んなオラン系、攻撃魔法を禁忌とするアラン系と性格も少しずつ異なっている。
: 基本的に才能のある人間族とエルフ族(ダークエルフも含む)にしか使えないとされているが、付与魔術(エンチャント)によって魔力の込められた物品は、決められたキーワードや行為に反応して魔力が発動し、魔力のない者でも魔法を使うことができる。キーワードは上位古代語を簡略化した下位古代語(ロー・エンシェント)である場合が多い。しかし、付与魔術の知識や技術も他の魔法と同様に古代王国の崩壊とともに多くが喪われ、初歩的な魔法しか付与できない。
: また更に簡略化したものが魔術師[[ギルド]]で製造・販売され、共通語でキーワードを唱えることで特定の簡単な呪文(明りや施錠など)を使うことができる。これを共通語魔法(コモン・ルーン)と呼ぶ。原理的にはどんな古代語魔法の呪文も共通語魔法にすることが可能だが、高位の強力な呪文は消費する魔力も膨大であり、それに見合った精神力を持つ者でなければ使用できない。また、鍵開けの呪文や、眠りの雲などの呪文は悪用されやすいため、魔術師ギルドの自主規制により、共通語魔法として一般に流通することはない。
: ケンタウロス、デーモン、ドラゴンなどの種族にも古代語魔法と同様の効果を発揮する魔法を使える個体が存在しており、人間界で遺失扱いになっている魔法を使用することもある。特にケンタウロスとデーモンの魔法は上位古代語とある程度の互換性があり、カストゥール時代にはこれらの種族の魔法や知識が古代語魔法の改良に投入されていた。
: 吟遊詩人(バード)の用いる呪歌(バード・ソング)は、古代語魔法の特殊な応用例であり、歌詞(またはメロディ)を丸暗記して歌唱・演奏することによって、本来は魔力の使えない者や種族(ドワーフやグラスランナー)であっても効果を発揮することができる。ただし、古代語魔法に比べて効果がやや弱く、呪歌を聴いた者には無差別に効果が及ぼされる、という特徴がある。
; 精霊魔法(サイレント・スピリット)
: 「[[精霊界]]」に住む[[フォーセリアの精霊一覧|精霊]]を物質界に召喚して、その力を借りて精霊力を行使する魔法で、使い手は[[精霊使い|精霊使い(シャーマン)]]と呼ばれる。
: 通常は師匠や先輩が精霊と交感するのを観察して見様見真似で体得する必要があり、基礎的な修行で1年かそれ以上かかる場合が多い。ただし、[[新ソード・ワールドRPGリプレイ]]のパーティーメンバーであるマウナ・ガジュマや[[ロードス島戦記]]のオルソンのように、極めて高い素質の持ち主が激しい怒りや憎しみの感情の爆発を引き金として突然使えるようになる例も存在している。
: 精霊力は「妖精界」を仲介として「物質界」の至るところにおよんでおり、世界を構成する[[四大元素]]「火」「水」「風」「土」や、「森」「氷」などの自然物、さらには「恐怖」「好奇心」といった感情など、さまざまな力が確認されている。
: 精霊には上位、中位、下位という概念があり、厳格なヒエラルキーが存在する。そのヒエラルキーに従って上位精霊は下位精霊を従えることができる。
: 精霊を召喚し力を借りるには、素質や技術と共に精霊との“相性”が極めて重要とされる。また上位精霊の力を借りれば絶大な力を行使できるが、接触するだけでも多大な技術と精神力を必要とし、さらに召喚(あるいは盟約を結ぶ)には極めて高い危険を伴う。一旦上位精霊と盟約というものを結べば、後は盟約に則って比較的簡単に召喚することが可能となるが、こうした盟約を行えるのは極めて力のある精霊使いだけである。盟約の効力は術者の死によって消滅せず、盟約の内容によっては術者の死後もその内容に則って精霊が働き続けてくれる。精霊と精霊使いとの関係は、実力不足だが友として力を貸してもらえる関係から完全に支配・制御している場合まで様々であり、同じ精霊でもできることに違いがある。
: 精霊との接触には精霊語という言語を用いるが、これはイメージを直接相手に伝える物で、念話(テレパシー)に近い(ただし発声は必要)。
: 精霊使いは精霊の存在や精霊力の強弱を感知することができる。これは視覚ではなく「匂い」や「気配」といったものであるとされている。また、「赤外線視力(インフラヴィジョン)」の能力を持つ。
: 精霊と精霊力は異なるものである。精霊力は物質界に広く存在しているが、精霊は普段精霊界に存在しており、精霊使いの術の行使に応じて一時的に物質界へ実体化するだけである。一部の精霊使いは下位の精霊を封じて所持しているが、中位・上位の精霊を封じる精霊術は一般に知られていない(存在しないのかもしれない)。
: 古代語魔法にも「四大制圧」という精霊を召喚する魔法があるが、これは精霊を強制的に使役する技であり、精霊の力を「借りる」精霊魔法とは根本的に異なる。絶頂期の古代王国は上位精霊を長期間拘束して使役することさえもできたが、これは非常な危険を孕むもので、その結果として絶頂期からの突然の滅亡を招くこととなった。
; 神聖魔法(ホーリー・プレイ)/暗黒魔法'''(デーモン・スクリーム)'''
: 敬虔な信者が神々に奇跡を願い、聞き入れた神々が奇跡を発現するという魔法であり、一般に神聖魔法と呼ばれる。信仰の力によるものであるため、複数の神の神聖魔法を同時に習得できる者は存在しない。これを使える者は通常“奇跡の使い手”と呼ばれる[[司祭|司祭(プリースト)]]以上の神官であり、戦いを主にする場合は「神官戦士」と呼ばれる(ただし、司祭以上の神官であっても、必ずしも神聖魔法が使えるとは限らない)。
: 信仰する神の教義によっては、いろいろな制約を課されていることも多い。また必ずしも成功するわけではなく、神に認められぬような行動をとった場合は、力が借りられない場合もある。しかし、教団の教義と神の考えが完全に一致するとは限らないため、場合によっては神が司る一面性に合致した者が、神に認められ啓示と共に神聖魔法を授けられることもある。人間の教団から破門されたとしても、神の意に反していなければ、神聖魔法を行使できなくなるわけではない。
: 神々との対話には神聖語という独自の言語を用いる。
: ファラリス神などの邪神を信奉する闇司祭(ダークプリースト)が用いるものは「暗黒魔法(デーモン・スクリーム)」と一般には呼ばれるが、これもまた神聖魔法の一種である。しかし殺傷の魔法など神聖魔法の使い手が禁忌と考える魔法もあり無意識に抑制をかけてしまっているため、例外的な人物を除いてそのような魔法を用いることはできず、実質的に闇司祭専用となっている。また光竜・闇竜などの一部竜族や魔神(デーモン)なども、それぞれの神聖魔法(または暗黒魔法)が使える。
; 竜語魔法(ドラゴン・ロアー)
: 「始源の巨人」から生まれた太古種族起源である竜族には、独自の魔法語が存在している。竜を信奉し竜に近づくために自己鍛錬を行うことで、他種族もこの竜語魔法を行使することが出来る。
: 竜語魔法を会得した者は、竜司祭(ドラゴン・プリースト)と呼ばれる。
: 他の魔法とは大きく異なり、魔法語の発音を介さず、念じるだけで発動する。
: その効果は竜の特殊能力が行使可能となるのだが、それは自身の心身が竜に近づいていくことに他ならない。そのため、竜司祭は生肉を食すなどの生活習慣を持ち、この技法に長ずれば鱗や翼が生える。ある意味「人間」をやめる行為であり、一般社会ではまず見られない。竜族を信奉する辺境の蛮族やリザードマンなどにごく稀に使い手が見られる程度である。
: 後述のビーストマスターに近いかもしれない。
:
各魔法の間には絶対ではないが強さの差がある。基本的には、
上位古代語で直接マナを操る古代語魔法>物質界に干渉できなくなった神々による神聖(暗黒)魔法>物質界の現象を司る精霊に呼びかける精霊魔法
の順である<ref>「SWORD WORLD RPG AID Q&A」『[[月刊ドラゴンマガジン]] 1990年9月号』[[富士見書房]]</ref>。これは各呪文の特徴《対抗/消滅》《対抗/優越》で表されている。同種同等の呪文には《対抗/消滅》が起こり、異種間の呪文には《対抗/優越》が起こる<ref>1レベル古代語魔法「ダークネス」は2レベル精霊魔法「ウィル・オー・ウィスプ」6レベル精霊魔法「スピリット・ウォール・ウィル・オー・ウィスプ」に《対抗/優越》であり、「ダークネス」の影響下では3レベル基本神聖魔法「ホーリーライト」はかからない。「ホーリーライト」と1レベル古代語魔法「ライト」は2レベル精霊魔法「シェイド」6レベル精霊魔法「スピリット・ウォール・シェイド」に《対抗/優越》である。</ref>。竜語魔法はこれらに当てはまらない。
『[[ロードス島伝説]]』におけるウォートの解説<ref>第1章 たちこめる暗雲『ロードス島伝説ー亡国の王子』[[角川スニーカー文庫]] 1994.9.1.</ref>によると、現在の人間が古代語魔法、精霊魔法、神聖魔法を使用するために必要な適性を有している可能性は各20%であるとされている。即ち人間の約半数が何らかの魔法の適性を有している計算になるが、環境によってコツを学べないこともあるため、実際社会での魔法使いの比率はこれよりも低い。
=== その他 ===
[[クリスタニア]]大陸では、[[神獣]]として神が実在するため、神獣の民は「神聖魔法」ではなく神獣から授けられた特殊な'''「能力(タレント)」'''として発揮されている。タレントの使い手は'''「ビーストマスター」'''と呼ばれる。
== 古代魔法王国カストゥール ==
ソードワールド各作品やロードス島戦記より500年以上前に栄えた王国。残された遺跡やダンジョンには、当時の魔法の品や書物などが今も残されており、魔法の品の多くは現在では作ることが出来ず、書物には今では喪われた高度な知識が書かれており、手に入れば極めて高価な値段で取引される。ただし、当時の魔法生命体やトラップが残されていたり、実験動物の末裔であるモンスターが生息していることが多く、遺跡を探索することは非常に危険なこととされている。
=== 古代王国の歴史 ===
カストゥール王国においても神話時代〜暗黒時代の歴史は、なかば伝説や神話のように扱われている。
==== 暗黒の時代 ====
神々の大戦の後、魂だけの存在となった神々は物質界に直接介入する手段を喪い、「神話の時代」は終わりを告げ、神々の庇護を失った「暗黒の時代」が始まる。
始源の巨人から生まれた太古種族や、神話の時代に誕生した古代種族など、遥かに強大な力を持つ種族の脅威にさらされる中で人間は上古の魔法語(ルーン)による魔法で対抗した。しかし神より授けられたのは魔法の基本でしかなかった。
古代王国滅亡より4000年前とも5000年前とも言われる過去において、後に「創設者」と伝えられる十人の賢者により、神々が人間に与えた言語を再編して上位古代語(ハイエンシェント)としてこれを解析、強大な古代語魔法が作られた。(十系統の魔法はこの十人の「創設者」から始まる)。そして古代語魔法を習得した者達がアレクラスト東部に都市を築き、これが人類最初の王国でありカストゥール王国の礎となったと伝えられている。後のカストゥール王国の歴史観では、十人の賢者による研究開始の時を以って建国としている。
古代語魔法は絶大な威力を発揮したが、太古種族や古代種族もまた圧倒的な力を持つ存在であり、三千年間とも四千年間とも言われる永きにおいてカストゥール王国は興亡を繰り返すことになる。
暗黒の時代で最後に大きな滅亡をすることになったのは古代王国滅亡より1200年ほど前、単眼の巨人族(サイクロプス)による大破壊であった。
==== 魔法の時代 ====
古代王国滅亡より約1000年前、大破壊から200年ほど後にアレクラスト大陸の中央山地に興った王国がカストゥール王国の最後となる王朝となる。
数々の太古種族や古代種族が滅亡したり衰退して下位種族へと変遷するなか、成長を続けるカストゥール王国の前に立ち塞がったのが、「暗黒の時代」を生き抜いた古代種族であり、なかでも特に上位巨人族であった。現在では数も少なく人間の世界からは離れた地域に生息しているが当時は、「始源の巨人」から生まれた太古の巨人族の子孫である各種の上位巨人族も「暗黒の時代」を生き抜き各地に独自の王国を築き上げ、人間と地上世界の覇権を争う一大勢力となっていた(妖魔に属する下位巨人族は除く)。
また、古代種族から下位種族への種としての衰退が人間にとっても深刻な問題となっていた。古代王国滅亡より500年ほど前には80%の人間が魔法を使う才能を有していたが、古代王国滅亡より300年前から減少傾向にあり、古代王国末期には2%ほどの人間だけが魔法を使える貴族であり、98%は魔法を使う才能を持たない市民もしくは蛮族であった(繁栄による人口増加で、滅亡の100年ほど前から魔術師の絶対数は増加傾向にあった)。また、魔術師としての質が高い者も年々減少していったという。
その状態が激変するのは、カストゥール最後の魔法王国時代の末期に登場した召喚魔術師門主ディールによる魔界の発見と魔神軍団の召喚であった。ディールらによって支配された魔神王とその軍団は、巨人族の中でも最大の強敵でカストゥール王国を滅亡に追い込んだ事もある「[[キュクロープス|サイクロプス]]の王国」を短期間で滅ぼしてしまう。
また同時期、当時の魔法王ラムゼーらが復活させた統合魔術(ウィザードリィ)により「魔力の塔」が建設され、無尽蔵とも言うべき魔力を行使することが可能となった。これにより、それまで「理論上は可能」とされていた幾つもの強大な魔法が現実のものとなり、宿敵巨人族のみならず、遥かに強大だった上位精霊や古竜を始めとした竜族なども次々に支配下に収め、ここにカストゥール王国は絶頂期を迎え、この時代は「魔法の時代」と呼ばれるに至った。 そして、その版図はアレクラスト大陸を超えて西のケイオスランドにおよび、更に南方のロードス島、果てはクリスタニア大陸にまで侵略の手を伸ばすことになる。
==== 滅亡 ====
その絶頂期から僅か50年後に、カストゥールは滅亡のときを迎える。きっかけは新たに王都となった精霊都市フリーオンから始まる。この都市は様々な精霊の力によって維持されていたが、その内の地の上位精霊ベヒモスが突如変異、他の精霊達を次々と吸収し、ついに魔精霊「アトン」へと変貌した。この魔精霊はフリーオン周辺を「無の砂漠」に変え、更に増殖を続けていった。カストゥール王国の魔術師達はこの危機に総力を結集し、魔精霊を滅ぼすために当時の魔法王の肉体を素材にファーラムの剣を作って魔精霊を滅ぼすが、その際に予想を遥かに上回る魔力が消費され膨大な魔力の供給に耐えられず「魔力の塔」が崩壊してしまう。「魔力の塔」の建設以後、魔術師は額に黒水晶を埋め込み、自身の魔力が使えなくなることを代償に「魔力の塔」から魔力を供給されていた。そのため「魔力の塔」が崩壊した時点で魔法を使える者は居なくなってしまったのである。
魔術師が無力化した機に乗じて、それまで蛮族として支配されていた民の反乱が勃発。突然魔法を喪ったカストゥールの民に対抗手段はなく、極めて短期間で強大無比を誇った古代魔法王国カストゥールは滅亡する。
そして蛮族と呼ばれていた民によって、サーダイン王国が建国された年を新王国暦元年として、「剣の時代」が幕を開ける。
=== 一門(カレッジ) ===
10人の創始者から始まった10系統の系統魔術(ブランチ)の使い手は、それぞれの系統を深く研究するために魔術師(メイジ)の一門(カレッジ)を作り上げた。しかし時が経つにつれてそれぞれの一門は派閥化して権力争いに明け暮れ、能力よりも血統を重んじるようになっていった。
各一門の上首は門主と呼ばれる。またカストゥール王国の魔法王は世襲ではなく30年を任期として次王が各門主の中から功績あるものが選ばれるため、門主は王位継承者としての側面も持ち合わせる。各一門ではそれぞれ決まった色の長衣(ローブ)を着ることになっている。ただし魔法王は一門のローブではなく、紫紺色のローブを着る。
; 基本魔術師一門 (ソーサラー カレッジ)
: 基本魔術(ソーサリー)は、マナ自体に干渉する魔術。
: 基礎研究として重要な分野であるが、古代王国末期には他の一門から、ないがしろにされている。
; 付与魔術師一門 (エンチャンター カレッジ)
: 付与魔術(エンチャントメント)は、物品に魔力を込めて魔法装置や魔法の道具を作ることができる。
: 古代王国末期にはブランプ(ブランプナス)を門主として、天空都市レックスを拠点にしていた。
: 魔法王の鍛冶師ヴァン(ヴァリント・ガーク・ル・ヴァル)、灰色の魔女カーラ(アルナカーラ)などもこの一門の魔術師である。
; 精神魔術師一門 (チャーマー カレッジ)
: ローブの色は碧緑色。精神魔術(チャーム)は、精神を操ったり支配することができる。
; 召喚魔術師一門 (コンジュアラー カレッジ)
: 召喚魔術(コンジュアリング)は、異界のものを召喚することができる。
: 門主ハドア・ゲラルクが星界について深く研究したことにより、星界から召喚した隕石を降らせる魔法メテオ・ストライクが開発されている。
: 古代王国末期には門主ディール(アズナディール・ロンヴァビル)が偶然、魔界とそこに住む魔神(デーモン)が発見したことで、強大な魔神の軍団を操ることができるようになった。
; 幻覚魔術師一門 (イリュージョニスト カレッジ)
: ローブの色は赤色。幻覚魔術(イリュージョン)は、五感を欺く幻覚を操る。非常に高位の幻覚魔法では、幻覚が現実に影響を与えるようにすることも可能。(例えば、幻覚の食べ物を食べることで、実際に腹を満たすことができる)
; 死霊魔術師一門 (ネクロマンサー カレッジ)
: 死霊魔術(ネクロマンシー)は、負の生命力を操って不死生物([[アンデッド]])を作り出す。
: その奥義によって不死の王([[ノーライフキング]])に転生することも可能。古代王国末期の門主アルヴィンス・デラクロスもまた不死の王になっており、滅亡までの数百年間ずっと門主の座にあり続けていた。
: 有力な一門だったが、門主の不死性故に魔法王に選出されることは無かった<ref>もし魔法王になってしまうと永遠に王であり続けてしまう</ref>。ロードス島最後の太守サルバーンもこの一門の術者。
; 四大魔術師一門 (エレメンタリスト カレッジ)
: ローブの色は緑色。四大魔術(エレメンタル)は、精霊や精霊力を操ることができる。四大(しだい)とは世界の根幹をなす火、水、風、地の四種類の精霊を指す。ただし、ただし四大は代表例であって、四大以外の闇や光などの精霊・精霊力の操作もこの一門の分野である。複数の精霊力の複合などの研究も行われていた。この一門から後に、「混沌魔術」と呼ばれる複合に特化した異端の魔術が派生する。
; 創成魔術師一門 (クリエイター カレッジ)
: ローブの色は山吹色。創成魔術(クリエイション)は、生物を改造や融合させて[[キメラ]]などの[[新生物]]を作り出すことができる。
; 拡大魔術師一門 (エンハンサー カレッジ)
: 拡大魔術(エンハンス)は、人間の肉体や精神の秘められた潜在能力を引き出す。これによって古代王国では寿命を200年ほどにすることが可能だった。古代王国末期の門主は第152代魔法王ラムゼー(メルドラムゼー・パラサノス)。
; 統合魔術師一門 (ウィザード カレッジ)
: 統合魔術(ウィザードリィ)は、専門化した8系統から複数の系統魔術の要素を併せて発展させた魔術。各派閥が争うようになっていたため、最後の古代王国時代には使い手が居なくなっていたが、後に魔法王となるファーラム(ファーラムシア)を門主として再興された。
: 統合魔術を復活させるための研究には、拡大魔術師一門の門主にして第152代魔法王ラムゼー、創成魔術師一門の門主エルヴォーク・ドルロス、四大魔術師一門を追放されていたベルーガ(リハルトベルーガ・アズモウル)、その他に能力が高いが家柄を理由に冷遇されてきた各一門の魔術師などが参加している。
=== 魔法都市 ===
古代王国の後期には、魔法に力により幾多の特殊な都市が作られている。
; 地中都市フリーオン
: 「精霊都市」とも呼ばれる最後に建設された魔法都市で、「偉大な精霊使いベルーガ」によって建設され、古代王国末期の王都となった。他にも「精霊都市」と冠した魔法都市はあるが、単に「精霊都市」と言った場合はフリーオンを指す場合が多い。地中に作られた球状の空洞の中心に炎の上位精霊イフリートを封じて太陽を模し、壁面には幾多の大地の上位精霊ベヒモスを配して重力を作り、闇の精霊シェードによって定期的に夜が訪れ、更に風や水などの環境も全て精霊によって整えられた街。しかし「精霊界」において精霊力を司る精霊を、長期間「物質界」に留め置くのは極めて危険な行為であり、結局のところカストゥール滅亡の原因となった。
: 空中都市レックスやマーラ・アジャニスの幻覚都市と並ぶ、古代王国の三大都市の一つに名を挙げられている。
; 空中都市レックス
: 古代王国崩壊の凡そ100年前(魔力の塔が作られる以前)に、環状列石の魔力によって大地の精霊力(重力)を打ち消し、都市全体を空に浮かべた空中都市として誕生した最初に建造された魔法都市。これ以後、各地に様々な魔法都市が次々と建設されることになる。
: 当時の付与魔術一門の門主であり、建設者兼初代太守であったブランプの時代は“楽園”とも呼ばれていたが、その後の太守が他の魔法都市に対抗して無理な拡大政策を続けた結果、古代王国最大規模の都市となるも、拡張された外周はスラムと化し“病める都市”とまで呼ばれるようになってしまった。魔法王国末期の遷都では王都候補に挙げられるも、結局フリーオンに敗れている。
: 古代王国崩壊時に地上の装置を破壊されて墜落、現在は"墜ちた都市"と呼ばれている。また土台となる岩を掘り出した跡は、現在のミード湖になったと伝えられている。壊されていない一部の装置の上空には、現在も岩などが空に浮いているのが見られる。
; 幻覚都市マーラ・アジャニスの都
: 現在のオラン北部の街ミードの北に位置する妖魔の森に、幻覚魔術師マーラ・アジャニスが夢を現実化するために建設した“幻覚都市”。
: 建物、衣服、食料など全てが幻覚の魔法で作られ、当時の下層民や蛮族にも都市を開放し、その住人は幻覚の建物に住み、幻覚の衣服を身に着け、幻覚の食べ物や飲み物で何不自由なく暮らしていた、と伝えられている。
: 新王国暦513年にオーファンの魔術師ラヴェルナ一行が調査に訪れるまで、無人の都市ではあったが作られた当初のままの姿を留めていた。現在は廃墟と化している。
; 海上都市ウリュウ
: 現在のアノス東方の沖合いに建設された都市で、現在も海底に遺跡が残されており、マーマンやマーメイドなど海洋種族が棲家としている。
; 海上都市ダリート
: オラン南東のカゾフ沖にあるナノス島付近に建設された。現在では「カゾフの水上都市」と呼ぶことが多い。
; 人工の妖精界イシュフェーン
: プロム湾中央にある孤島に時間と空間を歪めて作り出した人工の妖精界で“理想境”の二つ名で呼ばれていた。飢えも病気もなく働く必要もなく、そこに暮らすものは歳をとることさえなかったが、魔力の塔の崩壊により魔力供給が途絶え、強引に捻じ曲げられていた時空が安定を失い異常現象を誘発。偉大な精霊使いが氷の精霊王を使って時空の歪みごと凍結させたが、氷が溶ければ時空の歪みが解放されて大災害が大陸全土を襲うという。
; 精霊都市トールストリナ
: パダの南に存在する。初めて「精霊都市」の名を冠した都市とも言われる。初出は『ソード・ワールドPC』。
; 樹上の精霊都市アーティス
: エストン山脈の"深き森"に、生きた樹木を素材として構成された森林都市。環状列石を使った浮遊道によって空中都市レックスと繋がっていた。
; 湖上都市クード
: 古代王国によるロードス支配の核となった都市。初代ロードス太守ル・フロイによってロードス島中部のルノアナ湖上に建設された。
: 最後のロードス太守サルバーンが蛮族の侵攻により命を落とす(ただし彼は「[[ノーライフキング|不死の王]]」として復活している<ref>「復讐の霧」『ザ・スニーカー 93年秋号』掲載 『ハイエルフの森ーディードリット物語』[[角川スニーカー文庫]]1995.8.25.収録</ref><ref>ソード・ワールドRPGサプリメント『ロードス島ワールドガイド』p24 [[富士見書房]] 1998.12.10.</ref>)と同時に、彼の仕掛けにより湖底に沈んだ<ref>『ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上)』p76-82 角川スニーカー文庫 1990.1.10.</ref>。
=== 関連作品 ===
; 魔法王国カストゥール 復讐の継承者
:『S BLUE』2010年 角川スニーカー文庫 ISBN 978-4-04-474813-5 に収録。
: 魔法王ファーラムの少年時代を描く短編。
== その他 ==
=== 経済 ===
アレクラスト大陸で広域に使用されている通貨は「ガメル」で、主に銀貨で流通している。銀貨1枚が1ガメルであり、日本円にして100円程度の価値をもつ。一般庶民の1日の生活費の最低水準が約10ガメルとされている。現実世界の[[ユーロ]]貨幣のように、生産は各国で行われておりデザインも様々であるが、銀貨1枚あたりの銀の量は規格化されており、ガメルを採用している地域であれば、どの国のガメル銀貨でも問題なく使用できる。また、あまり一般的ではないが、1枚が50ガメルに相当する金貨も流通している。銅貨などの補助貨幣の存在も確認できるが、作品中の記述があまりに乏しく、どの程度の価値があるのかいまひとつはっきりしていない。
かつて中原に存在したモラーナ王国のガメル伯爵が大きさや純度などの規定を定め、他国へも貨幣制度とともにこの基準が普及した<ref>設定上はガメル伯爵の名に由来して通貨単位が命名されたことになっているが、実際には『ソード・ワールドRPG』のサポート雑誌である[[ドラゴンマガジン (富士見書房)|ドラゴンマガジン]]の読者投稿コーナーに掲載された者に発送された景品交換券「ガメル札」が由来である。</ref>。貨幣の代わりに宝石や金・銀塊などが使用されることもあるが、鑑定の手間や、両替時の手数料による目減りなど不便な点が多く、あくまで貨幣による取引が主流となっている。
ロードス島では金本位制による独自の貨幣が流通しており、アレクラスト大陸の金貨よりは少額の金貨が主に使用されている。金貨の他に銀貨や銅貨なども流通している。なお、ロードス島に貨幣経済が普及した過程については、作中で語られていない。
ケイオスランドでは貨幣経済がほとんど発達していない。アレクラスト大陸からの移住者のコミュニティは小規模であるため、移住者同士でも貨幣経済は成立しなくなっている。
時代が異なるが、クリスタニア大陸でも貨幣経済はほとんど発達しておらず、傭兵部隊「獣の牙」への報酬は主に食料の現物支給で支払われている。ただし、北の「故郷の島」「呪われた島」(いずれもロードス島のこと)からの移住者の間では貨幣が流通しており、先住民である神獣の民にも部分的に貨幣が浸透しつつある。
古代魔法王国では、「魔晶石」と呼ばれる魔力を蓄えた宝石が貨幣だったと言われている。魔晶石は古代王国の遺跡などから比較的大量に発見されるが、製法や魔力の充填方法は失われている。現代では各種の魔法を唱える際に精神力を肩代わりしてくれるアイテムとして、使い捨てで利用される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考書籍 ==
* ルールブック
**[[ソード・ワールドRPG]] 完全版 ISBN 4-8291-7306-8
<!--** ソード・ワールド・カードRPG←この項の執筆に関係あるかどうか微妙なので、コメントアウト-->
** ロードス島戦記コンパニオン
*#ISBN 4-0471-4001-5
*# ISBN 4-0471-4006-6
*# ISBN 4-0471-4012-0
** [[ロードス島RPG]]
*# ベーシックルール ISBN 4-0448-8502-8
*# エキスパートルール ISBN 4-04-488505-2
**[[クリスタニアRPG]] ISBN 4-0730-1084-0
* ワールドガイド・ガイドブック
** ソード・ワールドRPG ワールドガイド ISBN 4-8291-7222-3
** 西部諸国 ワールドガイド ISBN 4-8291-7320-3
** ロードス島 ワールドガイド ISBN 4-8291-7404-8
** ソード・ワールド・サポート1 ISBN 4-7753-0455-0
** クリスタニア完全ガイドブック ISBN 4-8402-1352-6
== 関連項目 ==
* [[エルフ語]]
* [[オーク (架空の生物)]]
* [[ファイブリア]] - [[友野詳]]によって創作されたファンタジー世界。世界の名前を含めた多数の設定がフォーセリアのパロディになっている。
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新居宿
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新居宿(旧名「荒井宿」あらいしゅく)は、東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。
新居宿は、東海道舞坂宿と白須賀宿の間に設置された宿場町で、江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町である。浜名湖西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地し、隣接する新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面していた。現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。
平安から中世までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化している。新居関所は、「新居関跡(あらいのせきあと)」として、国の特別史跡に指定された。隣接地に新居関所史料館がある。
浜名湖の水を外洋に流出していた浜名川は、阿礼の崎から浜名、小松茶屋を経て帯の湊で遠州灘で外洋に開かれていた。浜名と小松茶屋の間に浜名川の橋(浜名橋)が架けられていた。地名は浜名から橋本、阿礼の崎(あれのみさき)から荒江、帯の湊から松山へと変わった。橋本は、浜名橋による地名で浜名川と東海道が交差した港湾都市であった。鎌倉時代には東海道の要衝として宿が置かれ、応永9年には足利義満により橋本、天龍、大井、富士河、木瀬河は、今川泰範を「奉行職」として管理されていた。
「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると舞阪(舞坂)と新居は陸続きで、新居の地名の由来となる、阿礼の崎に荒井の集落があり、舞阪(舞坂)は当時前沢と呼ばれていたという。また、『近江国風土記伝』によると、応永12年、文明7年、明応8年の地震の説明にて、その地名がある。
明応7年(1498年)8月25日に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に襲われた。浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、塩水湖となった。また、明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転した。その他の橋本での地震の被害は『近江国風土記伝』にて記録がある。
浜名湖水運の拠点は橋本から、今切・新居地区に移ったことを示す記録には、天文22年(1553年)に「今切渡」、弘治3年(1557年)に「新居里宿」が文書にあり、新居を浜名湖水運の拠点とする記録に永禄5年(1562年)の今川氏真朱印状があった。
近世宿駅の起立は慶長6年(1601年)とされ、後に追加されたものもある新居宿は、東海道の遠州路9宿の内の一つであり、宿駅では人馬継立を行うため、問屋が宿を統轄し、宿・助郷の人馬、継立事務処理を行っていた。しかし、宿駅の力が弱い場合隣接する村落が加宿となり、人馬継立の義務を分担した。
人馬継立は、東海道に伝馬を定めたのは関ケ原合戦直後の慶長6年に各宿常備伝馬36疋、豊臣氏滅亡後の元和2年に75疋、参勤交代確立後の寛永15年(1638年)には100疋となっている。その後、元禄2年(1689年)に助郷改正の下令が下され、元禄7年には助郷制度が確立した。新居宿の常備人馬100人・100疋のうち人足36人・馬36疋は橋本村が引請け一部分担させられていた。
新居宿の助郷高は、文政2年(1819年)に5,705石であり、遠州路最低で(東海道53次中51位)、加宿をもつ宿場町で、加宿は橋本村であった。助郷は新井宿から北西に延びて浜名湖西岸に分布している。
元禄12年(1699年)には高潮被害により関所が大破し、新居宿では約120軒が流出した。元禄14年(1701年)に津波のため関所を移転した。その後、宝永4年(1707年)に宝永地震が起こり、地震と津波のため家屋855軒が倒壊または浸水した。新居宿や渡船は大きな被害を受けた。新居の宝永地震の被害は戸数665軒中120軒が流失、1丈程(3m)の津波が3回あり、「関所跡かたなし」との記録が残っている。翌宝永5年(1708年)に関所は現在地に移転した。
今切口の復興と今切関所の流出・移転によって、今切の渡しが27丁(2.9km)から1里(約4km)に延長して渡航が不便になったため、旅人は東海道の利用を回避して本坂通を通行するようになった。
翌宝永5年4月に今切口の修復と新居宿の移転は一応の完了をみたが、宝永地震から1年以上経過した後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、宝永6年3月(1709年)に新居宿を始め、浜松・舞阪・白須賀・二川・吉田の6宿は、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書を出した。
10年後の享保2年(1717年)11月になり、本坂道の通行差留となった。しかし、幕府道中奉行の指令にもかかわらず旅人がなかなか東海道筋に戻らなかったという。
慶応4年(1868年)に「海内一統助郷」の令(東海道七万石助郷)がだされ、助郷制度の改革が始まり、明治2年村高残高四分勤が定められる。これによる新居宿の付属助郷は、遠州43ゕ村が浜名湖周囲に並び西隣する三河国で八名郡18ゕ村、設楽郡32ゕ村、幡豆郡14ゕ村、加茂郡53ゕ村、紀州で名草郡19ゕ村、海士郡34ゕ村であった。その勤高は、遠州で約1万4000石、三州・紀州ではそれぞれ2万3000石で、総計6万石であった 明治3年(1870年)には、付属助郷制の廃止が行われ、明治5年(1872年)に助郷制が廃止され、人馬継立は民間に委託される。そして、明治15年(1882年)に完全に廃止された。
明治22年(1889年)には、 町村制施行により敷知郡新居町を設置し、明治29年(1896年)に 郡の再編により浜名郡新居町となった。
明治時代まで、関所の建物が残り、その後学校に転用されたりしながら、保存された。現在、新居に残っている関所の建物は、安政2年(1855年)に再建されたもので、日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されている。 2014年(平成26年)10月6日、発掘調査によって大御門や土塁の遺構が出土した桝形広場が、特別史跡に追加指定された。 新居関所史料館が、関所に隣接している。
新居と舞阪を結ぶ様子は、歌川広重の「東海道五十三次 荒井」では今切の渡しが、また「五十三次名所図会 丗二 荒井」では今切の渡しと関所が描かれている。
明応7年(1498年)8月25日に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われた。津波により浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となった。そのため、浜名湖の今切口を通過するための舞坂ー新居間を結ぶ渡船である今切の渡しが置かれていた。 始めは幕府自身が管理していたが、元禄15年(1702年)以降には、吉田城主が今切の渡しの管理を委任された。
今切の渡しは、新居宿の水夫360人、舟数120艘をもって行われ、一部が舞坂宿に常駐、渡船・輸送していた。しかし、大通行の際、今切渡船の常備船が新居宿だけでは足りず、文久3年(1863年)将軍上洛の時は大沢領では堀江村15艘・和田村5艘・白須村25艘・村櫛村40艘が出動している。
新居から対岸の舞坂との間は約6キロ離れていたが、宝永4年(1707年)の宝永地震の津波被害により今切口の復興と今切関所の流出と移転によって、舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路であった今切の渡しが27丁(2.9km)から1里(約4km)の延長により渡航が不便になったため、東海道の利用を避け本坂道に回避した。
天保期の渡船と船賃は、渡船が84艘あったが、大通行の際には漁船や周辺の村からの寄船で補った。天保15年(1844年)にて船賃は、人一人18文、荷物一駄53文、借切船417文となっていた。
新居は浜名湖と遠州灘がつながる開口部にある為、新居から約6キロ離れた対岸の舞坂との間を「今切の渡し」と呼ばれる渡し舟で結ばれていた。こうした地形を自然の要害と考えた徳川家康は、慶長5年(西暦1600年)に渡船場に今切関所(新居関所)を設置して、「入り鉄砲と出女」を水際で厳しく取り締まることにした。今切関所(新居関所)は東海道の通過だけでなく、今切港の検閲も兼ねていた。
中世から江戸時代に新居宿を含む浜名湖周辺では、地震・津波被害にあった。
明応地震(明応7年)では、浜名湖開口部の沈下、今切口の決壊、橋本の壊滅により今切・新居地区への移転をもたらした。宝永地震(宝永4年)では、津波による被害にて関所の移転、今切の渡しの航路の延長により東海道の往来者は本坂通へ回避するようになった。『江府京駿雑志』には、新居(荒井)の被害状況と本坂通(本坂)への回避が記録されている。
その他にも、地震・津波の被害の記録は残されており、慶長10年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震などがある。安政2年の文書には以下のようなものがあり、
安政東海地震の被害により、東海道の交通を避け本坂道(本坂越)の利用が記録されている。
新居関跡(あらいのせきあと)(国の特別史跡)
旅籠紀伊国屋(湖西市指定文化財建造物)
その他
|
[
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"text": "新居宿(旧名「荒井宿」あらいしゅく)は、東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。",
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"text": "新居宿は、東海道舞坂宿と白須賀宿の間に設置された宿場町で、江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町である。浜名湖西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地し、隣接する新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面していた。現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。",
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"text": "平安から中世までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。",
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"text": "現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化している。新居関所は、「新居関跡(あらいのせきあと)」として、国の特別史跡に指定された。隣接地に新居関所史料館がある。",
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"text": "浜名湖の水を外洋に流出していた浜名川は、阿礼の崎から浜名、小松茶屋を経て帯の湊で遠州灘で外洋に開かれていた。浜名と小松茶屋の間に浜名川の橋(浜名橋)が架けられていた。地名は浜名から橋本、阿礼の崎(あれのみさき)から荒江、帯の湊から松山へと変わった。橋本は、浜名橋による地名で浜名川と東海道が交差した港湾都市であった。鎌倉時代には東海道の要衝として宿が置かれ、応永9年には足利義満により橋本、天龍、大井、富士河、木瀬河は、今川泰範を「奉行職」として管理されていた。",
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"text": "「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると舞阪(舞坂)と新居は陸続きで、新居の地名の由来となる、阿礼の崎に荒井の集落があり、舞阪(舞坂)は当時前沢と呼ばれていたという。また、『近江国風土記伝』によると、応永12年、文明7年、明応8年の地震の説明にて、その地名がある。",
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"text": "明応7年(1498年)8月25日に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に襲われた。浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、塩水湖となった。また、明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転した。その他の橋本での地震の被害は『近江国風土記伝』にて記録がある。",
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"text": "浜名湖水運の拠点は橋本から、今切・新居地区に移ったことを示す記録には、天文22年(1553年)に「今切渡」、弘治3年(1557年)に「新居里宿」が文書にあり、新居を浜名湖水運の拠点とする記録に永禄5年(1562年)の今川氏真朱印状があった。",
"title": "背景"
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"text": "近世宿駅の起立は慶長6年(1601年)とされ、後に追加されたものもある新居宿は、東海道の遠州路9宿の内の一つであり、宿駅では人馬継立を行うため、問屋が宿を統轄し、宿・助郷の人馬、継立事務処理を行っていた。しかし、宿駅の力が弱い場合隣接する村落が加宿となり、人馬継立の義務を分担した。",
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"text": "人馬継立は、東海道に伝馬を定めたのは関ケ原合戦直後の慶長6年に各宿常備伝馬36疋、豊臣氏滅亡後の元和2年に75疋、参勤交代確立後の寛永15年(1638年)には100疋となっている。その後、元禄2年(1689年)に助郷改正の下令が下され、元禄7年には助郷制度が確立した。新居宿の常備人馬100人・100疋のうち人足36人・馬36疋は橋本村が引請け一部分担させられていた。",
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"text": "新居宿の助郷高は、文政2年(1819年)に5,705石であり、遠州路最低で(東海道53次中51位)、加宿をもつ宿場町で、加宿は橋本村であった。助郷は新井宿から北西に延びて浜名湖西岸に分布している。",
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"text": "元禄12年(1699年)には高潮被害により関所が大破し、新居宿では約120軒が流出した。元禄14年(1701年)に津波のため関所を移転した。その後、宝永4年(1707年)に宝永地震が起こり、地震と津波のため家屋855軒が倒壊または浸水した。新居宿や渡船は大きな被害を受けた。新居の宝永地震の被害は戸数665軒中120軒が流失、1丈程(3m)の津波が3回あり、「関所跡かたなし」との記録が残っている。翌宝永5年(1708年)に関所は現在地に移転した。",
"title": "沿革"
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"text": "今切口の復興と今切関所の流出・移転によって、今切の渡しが27丁(2.9km)から1里(約4km)に延長して渡航が不便になったため、旅人は東海道の利用を回避して本坂通を通行するようになった。",
"title": "沿革"
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"text": "翌宝永5年4月に今切口の修復と新居宿の移転は一応の完了をみたが、宝永地震から1年以上経過した後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、宝永6年3月(1709年)に新居宿を始め、浜松・舞阪・白須賀・二川・吉田の6宿は、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書を出した。",
"title": "沿革"
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"text": "10年後の享保2年(1717年)11月になり、本坂道の通行差留となった。しかし、幕府道中奉行の指令にもかかわらず旅人がなかなか東海道筋に戻らなかったという。",
"title": "沿革"
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"text": "慶応4年(1868年)に「海内一統助郷」の令(東海道七万石助郷)がだされ、助郷制度の改革が始まり、明治2年村高残高四分勤が定められる。これによる新居宿の付属助郷は、遠州43ゕ村が浜名湖周囲に並び西隣する三河国で八名郡18ゕ村、設楽郡32ゕ村、幡豆郡14ゕ村、加茂郡53ゕ村、紀州で名草郡19ゕ村、海士郡34ゕ村であった。その勤高は、遠州で約1万4000石、三州・紀州ではそれぞれ2万3000石で、総計6万石であった 明治3年(1870年)には、付属助郷制の廃止が行われ、明治5年(1872年)に助郷制が廃止され、人馬継立は民間に委託される。そして、明治15年(1882年)に完全に廃止された。",
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"text": "明治22年(1889年)には、 町村制施行により敷知郡新居町を設置し、明治29年(1896年)に 郡の再編により浜名郡新居町となった。",
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"text": "明治時代まで、関所の建物が残り、その後学校に転用されたりしながら、保存された。現在、新居に残っている関所の建物は、安政2年(1855年)に再建されたもので、日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されている。 2014年(平成26年)10月6日、発掘調査によって大御門や土塁の遺構が出土した桝形広場が、特別史跡に追加指定された。 新居関所史料館が、関所に隣接している。",
"title": "沿革"
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"text": "新居と舞阪を結ぶ様子は、歌川広重の「東海道五十三次 荒井」では今切の渡しが、また「五十三次名所図会 丗二 荒井」では今切の渡しと関所が描かれている。",
"title": "交通路・関所"
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"text": "明応7年(1498年)8月25日に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われた。津波により浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となった。そのため、浜名湖の今切口を通過するための舞坂ー新居間を結ぶ渡船である今切の渡しが置かれていた。 始めは幕府自身が管理していたが、元禄15年(1702年)以降には、吉田城主が今切の渡しの管理を委任された。",
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"text": "今切の渡しは、新居宿の水夫360人、舟数120艘をもって行われ、一部が舞坂宿に常駐、渡船・輸送していた。しかし、大通行の際、今切渡船の常備船が新居宿だけでは足りず、文久3年(1863年)将軍上洛の時は大沢領では堀江村15艘・和田村5艘・白須村25艘・村櫛村40艘が出動している。",
"title": "交通路・関所"
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"text": "新居から対岸の舞坂との間は約6キロ離れていたが、宝永4年(1707年)の宝永地震の津波被害により今切口の復興と今切関所の流出と移転によって、舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路であった今切の渡しが27丁(2.9km)から1里(約4km)の延長により渡航が不便になったため、東海道の利用を避け本坂道に回避した。",
"title": "交通路・関所"
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"text": "天保期の渡船と船賃は、渡船が84艘あったが、大通行の際には漁船や周辺の村からの寄船で補った。天保15年(1844年)にて船賃は、人一人18文、荷物一駄53文、借切船417文となっていた。",
"title": "交通路・関所"
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"title": "交通路・関所"
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"text": "中世から江戸時代に新居宿を含む浜名湖周辺では、地震・津波被害にあった。",
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"text": "明応地震(明応7年)では、浜名湖開口部の沈下、今切口の決壊、橋本の壊滅により今切・新居地区への移転をもたらした。宝永地震(宝永4年)では、津波による被害にて関所の移転、今切の渡しの航路の延長により東海道の往来者は本坂通へ回避するようになった。『江府京駿雑志』には、新居(荒井)の被害状況と本坂通(本坂)への回避が記録されている。",
"title": "地震・津波の被害"
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"text": "その他にも、地震・津波の被害の記録は残されており、慶長10年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震などがある。安政2年の文書には以下のようなものがあり、",
"title": "地震・津波の被害"
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"title": "地震・津波の被害"
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"text": "新居関跡(あらいのせきあと)(国の特別史跡)",
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"text": "その他",
"title": "名所・旧跡・接続道路等"
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新居宿(旧名「荒井宿」あらいしゅく)は、東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。
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{{Otheruses|東海道五十三次の宿場|川口市の地名|新井宿}}
[[ファイル:Tokaido31 Arai.jpg|thumb|right|250px|[[歌川広重]]『東海道五十三次・荒井』]]
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|34.695089|137.559057}}|caption=新居宿(本陣跡)|width=256}}
'''新居宿'''(旧名「荒井宿」あらいしゅく)は、[[東海道五十三次]]の[[江戸]]・[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]から数えて31番目の[[宿場]]。旧国名は[[遠江国]]、現在の[[静岡県]][[湖西市]][[新居町 (静岡県)|新居町]]新居に相当する。
== 概要 ==
新居宿は、東海道[[舞坂宿]]と[[白須賀宿]]の間に設置された宿場町で、江戸・[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]から数えて31番目の宿場町である。[[浜名湖]]西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地し{{Refnest|group="注釈"|国指定文化財等データベース・・・国宝、重要文化財 史跡名勝天然記念物:新居関跡 詳細解説 文化庁 閲覧日2016年11月11日。}}、隣接する[[新居関所|新居関所(今切関所)]]は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は[[遠州灘]]([[太平洋]])に面していた。現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。
[[平安時代|平安]]から[[中世日本紀|中世]]までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の[[橋本宿]]が繁栄していたが、[[明応地震]]・[[津波]]の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。[[江戸時代]]には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化している{{Refnest|group="注釈"|国指定文化財等データベース・・・国宝、重要文化財 史跡名勝天然記念物:新居関跡 詳細解説 文化庁 閲覧日2016年11月11日。}}。新居関所は、「新居関跡(あらいのせきあと)」として、国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]に指定された。隣接地に新居関所史料館がある。
== 背景 ==
[[File:明応地震前の浜名湖図(lake of Hamanako was damaged by tsunami in Meiou - Toukai earthquake in 1498.).png|thumb|right|250px|明応地震により消滅した浜名湖の陸地{{Refnest|group="注釈"|矢田俊文(2005)の図2を基に作成。}}]]{{See also|明応地震|浜名湖}}
=== 平安から中世の橋本 ===
浜名湖の水を外洋に流出していた浜名川は、阿礼の崎から浜名、[[小松茶屋]]を経て帯の湊で[[遠州灘]]で外洋に開かれていた。浜名と小松茶屋の間に[[浜名川]]の橋([[浜名橋]])が架けられていた{{Refnest|group="注釈"|浜名橋は、[[元慶]]8年([[884年]])の「[[日本三代実録]]」に「浜名橋」、「[[枕草子]]」に「浜名の橋」との記録がある<ref>矢田(2005),10頁。</ref>。}}。地名は浜名から橋本、阿礼の崎(あれのみさき)から荒江、帯の湊から松山へと変わった<ref>飯田(1980)、172頁。</ref>。橋本は、浜名橋による地名で浜名川と東海道が交差した港湾都市であった。鎌倉時代には東海道の要衝として宿が置かれ、[[応永]]9年には[[足利義満]]により橋本、[[天龍]]、大井、富士河、木瀬河は、[[今川泰範]]を「奉行職」として管理されていた<ref>矢田(2005)、10頁。</ref>。
「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると舞阪(舞坂)と新居は陸続きで、新居の地名の由来となる、阿礼の崎に荒井の集落があり、舞阪(舞坂)は当時前沢と呼ばれていた<ref>都司(1979年)18頁。</ref>という。また、『近江国風土記伝』によると<ref name=":6">都司(1979)、188頁。</ref>、応永12年、文明7年、明応8年の地震の説明にて、その地名がある。
{{Quotation|古老曰 今荒井者古中之郷也。 古新居ハ関東海中十二三町在。 応永十二年 文明七年 明応八年及永正七年等急波有。於荒崎破、 湖水変潮海為矣。 日箇崎千戸。 北山千戸・旧荒井・中荒井同時海為。 今切所於号本荒井松原中於、中荒井云也。 礎石今於存焉。|『近江国風土記伝』(漢文訓読に倣い改変)|都司(1979)、188頁所収。}}
=== 地震と橋本 ===
[[明応]]7年([[1498年]])8月25日{{Refnest|group="注釈"|公家飛鳥井雅康の和歌集体の紀行文『富士歴覧記』により、明応地震を明応7年8月25日との説もある<ref name="tj019">都司(1979年)19頁。</ref>。}}に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に襲われた。浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、[[塩水湖]]となった<ref name="tj019" />。また、明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転した<ref name=":矢田2005-11">矢田(2005)、11頁。</ref>。その他の橋本での地震の被害は『近江国風土記伝』にて記録がある<ref name=":6" />。
{{Quotation|宝永四年関司政愈書曰
「応永十二年大波破此崎。 或曰文明七年八月八日。明応八年六月十日 甚兩大風、潮海与湖水之問駅路没。 日箇崎千戸水没。 在堰東南十町計白洲浜住吉八王子之森間 尾崎孫兵衛者之祖 繋柑樹抄存命矣。 其□今住橋本。 永正七年八月廿七日 波涛中断於駅路。又破橋矣。 従是以来。 湖水変為潮海。 橋本駅家没 置新井宿也。(以下略)」|『近江国風土記伝』|都司(1979)、188頁。所収。}}
浜名湖水運の拠点は橋本から、今切・新居地区に移ったことを示す記録には、[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])に「今切渡」、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に「新居里宿」が文書にあり、新居を浜名湖水運の拠点とする記録に[[永禄]]5年([[1562年]])の[[今川氏真]][[朱印状]]があった<ref name=":矢田2005-11" />。
== 沿革 ==
[[File:本坂通と東海道.png|thumb|250px|right|新居関所と浜名湖周辺の主要街道]]
=== 新居宿の設置 ===
{{See also|[[東海道#道(みち)としての東海道|東海道]]|新居関所}}
近世宿駅の起立は[[慶長]]6年([[1601年]])とされ、後に追加されたものもある<ref>佐々木(1984)、148頁。</ref>新居宿は、東海道の[[遠江国|遠州]]路9宿の内の一つであり<ref name="名前なし-1">佐々木(1984)、154頁。</ref>、宿駅では人馬継立を行うため、問屋が宿を統轄し、宿・助郷の人馬、継立事務処理を行っていた。しかし、宿駅の力が弱い場合隣接する村落が加宿となり、人馬継立の義務を分担した<ref>佐々木(1984)、152頁。</ref>。
人馬継立は、東海道に伝馬を定めたのは関ケ原合戦直後の慶長6年に各宿常備伝馬36疋、豊臣氏滅亡後の元和2年に75疋、参勤交代確立後の寛永15年(1638年)には100疋となっている<ref>佐々木(1984)、155頁。</ref>。その後、元禄2年(1689年)に助郷改正の下令が下され、元禄7年には助郷制度が確立した<ref>佐々木(1984)、156頁。</ref>。新居宿の常備人馬100人・100疋のうち人足36人・馬36疋は橋本村が引請け一部分担させられていた<ref name="名前なし-1"/>。
新居宿の助郷高は、文政2年(1819年)に5,705石であり、遠州路最低で(東海道53次中51位)<ref name="名前なし-1"/>、加宿をもつ宿場町で、加宿は橋本村であった<ref name="名前なし-1"/>。助郷は新井宿から北西に延びて浜名湖西岸に分布している<ref>佐々木(1984)、157頁。</ref>。
=== 宝永地震・津波の被害と影響 ===
{{see also|宝永地震|新居関所}}
[[元禄]]12年([[1699年]])には[[高潮]]被害により関所が大破し<ref name="mtr025">松浦(2014)、25頁。</ref>、新居宿では約120軒が流出した。元禄14年([[1701年]])に津波のため関所を移転した。その後、[[宝永]]4年([[1707年]])に[[宝永地震]]が起こり<ref name="mtr025" />、地震と津波のため家屋855軒が倒壊または浸水した。新居宿や渡船は大きな被害を受けた<ref name="wtb022">渡辺(1971)、22頁。</ref>。新居の宝永地震の被害は戸数665軒中120軒が流失、1丈程(3m)の津波が3回あり、「関所跡かたなし」との記録が残っている<ref name="羽鳥2014-35">羽鳥(2014年)35頁。</ref>{{refnest|group=注釈|内閣府『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 '''1707 宝永地震''' 』(2014年)による|}}。翌宝永5年([[1708年]])に関所は現在地に移転した<ref name="wtb022" />。
今切口の復興と今切関所の流出・移転によって、今切の渡しが27丁(2.9㎞)から1里(約4km)に延長して渡航が不便になったため、旅人は東海道の利用を回避して[[本坂通]]を通行するようになった<ref name=":1">都司(1979)、16頁。</ref>。
翌宝永5年4月に今切口の修復と新居宿の移転は一応の完了をみたが<ref name="wtb021">渡辺(1971)、21頁。</ref>、宝永地震から1年以上経過した後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、宝永6年3月(1709年)に新居宿を始め、[[浜松宿|浜松]]・舞阪・[[白須賀宿|白須賀]]・[[二川宿|二川]]・[[吉田宿|吉田]]の6宿は、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書を出した<ref name=":2" />。
{{Quotation|乍恐差上申口上書 三年以前地震以来往還御衆中様本坂越被遊、困窮之役人共弥以無力仕、御役難勤渡世経営不罷成迷惑仕、今度六宿罷下り本坂通御止メ被為下候様ニ奉願上候、尤新居渡海能く御座候様ニ御普請可被為、仰付難有奉存候、右候ヘハ末々者御大名様方・諸往来共ニ御通り可被遊と奉存候得共、当分本坂道御通り被遊候而ハ、六宿之御伝馬役人・末々之者迄及渇命、指当りひしと難儀仕候、恐多く奉存候得共、六宿近在迄御救ニ御座候間、見付宿ゟ市野村・御油宿ゟすせ村江馬継立不申候様ニ被為、仰付被下候者難有可奉存候、浜松之義ハ本坂道・東海道両道ニ御座候間、人馬支度難仕御座候、御用ニ而御通り被為遊候御方様へハ、人馬為用意遠見之者遣し申義ニ御座候、両道へ遠見遣し候得者、役人共迷惑仕候、舞坂ゟ吉田迄之宿々も御触状通り候得ハ、遠見之者毎日差遣し、人馬相集メ宿々ニ而奉待候処ニ付、俄ニ本坂道江御通り被遊候故、別而難儀仕候、以御慈悲見付宿より市野村・御油宿よりすせ村江人馬継立不申候様ニ被為、仰付被下者難有可奉存候、以上、 宝永六年丑三月|『新居町史 第八巻 近世資料四』『宿方・地方資料』より。<ref>東京大学地震研究所(1981)、45頁。</ref>|「御役難勤渡世経営不罷成迷惑」}}
10年後の享保2年(1717年)11月になり、本坂道の通行差留となった<ref name=":2">松浦(2014)、25頁。</ref>。しかし、幕府道中奉行の指令にもかかわらず旅人がなかなか東海道筋に戻らなかったという<ref name="wtb021" />。
=== 幕末期の新居宿と助郷 ===
[[慶応]]4年([[1868年]])に「海内一統助郷」の令(東海道七万石助郷)がだされ、助郷制度の改革が始まり、[[明治]]2年村高残高四分勤が定められる<ref>佐々木(1984)、166-168頁。</ref>。これによる新居宿の付属助郷は、遠州43ゕ村が浜名湖周囲に並び西隣する三河国で八名郡18ゕ村、設楽郡32ゕ村、幡豆郡14ゕ村、加茂郡53ゕ村、[[紀州]]で名草郡19ゕ村、海士郡34ゕ村であった。その勤高は、[[遠江国|遠州]]で約1万4000石、[[三河国|三州]]・[[紀伊国|紀州]]ではそれぞれ2万3000石で、総計6万石であった<ref>佐々木(1984)、168頁。</ref>
[[明治]]3年(1870年)には、付属助郷制の廃止が行われ、明治5年(1872年)に助郷制が廃止され、人馬継立は民間に委託される。そして、明治15年(1882年)に完全に廃止された<ref>佐々木(1984)、169頁。</ref>。
=== 宿場廃止以降 ===
明治22年(1889年)には、 町村制施行により敷知郡新居町を設置し、明治29年(1896年)に 郡の再編により浜名郡新居町となった。
[[明治時代]]まで、関所の建物が残り、その後学校に転用されたりしながら、保存された。現在、新居に残っている関所の建物は、[[安政]]2年([[1855年]])に再建されたもので、日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されている。
2014年(平成26年)10月6日、発掘調査によって[[大御門]]や[[土塁]]の遺構が出土した[[桝形広場]]が、[[特別史跡]]に追加指定された{{Refnest|group="注釈"|平成26年10月6日文部科学省告示第139号}}。
新居関所史料館が、関所に隣接している。
== 交通路・関所 ==
[[File:GojūSanTsugi-MeishoZu'e, Arai by Hiroshige.jpg|thumb|250px|『五十三次名所図会 丗二 荒井』、渡舟着岸 御関所]]新居と舞阪を結ぶ様子は、[[歌川広重]]の「[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]] 荒井」では今切の渡しが、また「[[五十三次名所図会]] 丗二 荒井」では今切の渡しと関所が描かれている。
=== 今切の渡し ===
[[明応]]7年([[1498年]])8月25日に、[[明応地震]]が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われた。津波により浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となった<ref>都司(1979)19頁。</ref>。そのため、[[浜名湖]]の今切口を通過するための[[舞阪宿|舞坂]]ー新居間を結ぶ[[渡し船|渡船]]である[[渡し船|今切の渡し]]が置かれていた<ref>都司(1979)、15頁。</ref>。
始めは幕府自身が管理していたが<ref name=":7">児玉編(1977)、113頁。</ref>、元禄15年(1702年)以降には、吉田城主が今切の渡しの管理を委任された<ref name="名前なし-2">浜松市(1971)185頁。</ref>。
今切の渡しは、新居宿の水夫360人、舟数120艘をもって行われ、一部が舞坂宿に常駐、渡船・輸送していた<ref name="名前なし-2"/>。しかし、大通行の際、今切渡船の常備船が新居宿だけでは足りず、文久3年(1863年)将軍上洛の時は大沢領では堀江村15艘・和田村5艘・白須村25艘・村櫛村40艘が出動している<ref>浜松市(1971)、275・276頁。</ref>。
新居から対岸の舞坂との間は約6キロ離れていたが<ref name="名前なし-3">渡辺(1971)、22頁。</ref>、[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永地震]]の津波被害により今切口の復興と今切関所の流出と移転によって、舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路であった今切の渡しが27丁(2.9㎞)から1里(約4km)の延長により渡航が不便になったため、東海道の利用を避け本坂道に回避した<ref name=":1" />。
天保期の渡船と船賃は、渡船が84艘あったが、大通行の際には漁船や周辺の村からの寄船で補った<ref name=":7" />。天保15年(1844年)にて船賃は、人一人18文、荷物一駄53文、借切船417文となっていた<ref name=":7" />。
=== 今切関所(新居関所) ===
{{see also|新居関所}}
新居は[[浜名湖]]と[[遠州灘]]がつながる開口部にある為、新居から約6キロ離れた対岸の舞坂との間を「今切の渡し」と呼ばれる[[渡し船|渡し舟]]で結ばれていた。こうした地形を自然の要害と考えた[[徳川家康]]は、[[慶長]]5年(西暦[[1600年]])に[[渡船場]]に[[新居関所|今切関所(新居関所)]]を設置して、「[[入鉄炮出女|入り鉄砲と出女]]」を水際で厳しく取り締まることにした。今切関所(新居関所)は東海道の通過だけでなく、今切港の検閲も兼ねていた<ref name="wtb022" />。
== 地震・津波の被害 ==
中世から江戸時代に新居宿を含む浜名湖周辺では、地震・津波被害にあった。
明応地震(明応7年)では、浜名湖開口部の沈下、今切口の決壊<ref>都司(1979)、19頁。</ref>、橋本の壊滅により今切・新居地区への移転をもたらした<ref>矢田(2005)、11頁。</ref>。宝永地震(宝永4年)では、津波による被害にて関所の移転<ref name="名前なし-3"/>、今切の渡しの航路の延長により東海道の往来者は本坂通へ回避するようになった<ref name="名前なし-3"/>。『江府京駿雑志』には、新居(荒井)の被害状況と本坂通(本坂)への回避が記録されている。
{{Quotation|荒井ハ津波ニテ番所不残海ヘ執テ行、家ハ不及言人死太甚多、渡カゝリタル舟七艘有之内二艘ハ無事ニ上リ五艘ハ行衛不知失由、御荷物数十駄長持二棹ニ並置ノ処ニ此宰領共ニ浪ニトラル、銀座者ノ荷物并乗捨ノ駕籠共ニ波ニトラル主人ハ昼飯時ニテ支度シ無事云々、自大坂下ス足袋荷物二駄波ニトラレ宰領ハ無事、如此故ニ往来留リ本坂ヘ回ル云々 愚諸国ノ使者又ハ往来ノ士下々々失命失器者海道筋ニテ、多之|『江府京駿雑志』|東京大学地震研究所(1983)、67-68頁より}}
その他にも、地震・津波の被害の記録は残されており、慶長10年(1605年)の慶長地震<ref>飯田(1982)、152頁。</ref>、嘉永7年(1854年)の安政東海地震<ref>飯田(1985)、171頁。</ref>などがある。安政2年の文書には以下のようなものがあり<ref name="名前なし-4">東京大学地震研究所(1987)、1155頁。</ref>、
{{Quotation|渡海あしく候故、御往来之大名方当年ハ木曾路又は本坂越ニ御道行被遊候|(安政2年の文書)『新居町関所資料館所蔵史料』|東京大学地震研究所(1987)、1155頁。より。}}
安政東海地震の被害により、東海道の交通を避け本坂道(本坂越)の利用が記録されている<ref name="名前なし-4"/>。
{| class="wikitable"
|+新居宿周辺の中近世の地震被害
!地震
! colspan="2" |年
!場所
!死者
!家屋倒壊数
!震度
!津波
!その他
|-
| rowspan="2" |[[明応地震]]
| rowspan="2" |[[明応]]7年
| rowspan="2" |1498
|荒居(新居)
|
|流出約100<ref name=":4">飯田(1980)、173頁。</ref>
| rowspan="2" |6<ref name=":4" />
| rowspan="2" |6~8m<ref name="飯田1985-768">飯田(1985)、768頁</ref>
|橋本・日ヶ崎・北山で各約1000軒流出<ref name=":4" />
|-
|浜名湖周辺
|一万余人溺死<ref name=":4" />
|数千軒流失 <ref name=":4" />
|浜名湖南部を中心に陸地30haが海になった<ref name=":4" />
|-
|[[慶長地震]]
|慶長10年
|1605
|橋本
|死傷者が少なからずあり<ref name=":5">飯田(1981)、160頁。</ref>
|100軒のうち流失80<ref name=":5" />
|6<ref name=":5" />
|5~6m<ref name="飯田1985-768" />
|馬の死傷<ref name=":5" />
|-
|[[宝永地震]]
|宝永4年
|1707
|新居
|溺死者24人<ref name=":3">飯田(1982)、152頁。</ref>
|850のうち半壊502、流出241<ref name=":3" />
(戸数665のうち流出120)<ref name="羽鳥2014-35" />、
|6-7<ref>飯田(1982)、146頁。</ref>
|3~5m<ref name="飯田1985-768" />
|関所跡かたなし<ref name="羽鳥2014-35" />船舶90流出、船199破損<ref name=":3" />
|-
|[[安政東海地震]]
|嘉永7年
|1854
|新居
|溺死者14人<ref name="名前なし-5">都司(1979)、15頁。</ref>
|倒壊12,流失 8,土蔵23,寺 3、
半壊58,破損214,土蔵 9<ref name=":0">飯田(1985)、171頁。</ref>
|6<ref name=":0" />
|5~9m<ref name="飯田1985-768" />
|関所が大破<ref name="名前なし-5"/>
|}
== 名所・旧跡・接続道路等 ==
=== 史跡・旧跡 ===
'''[[新居関所|新居関跡]]'''(あらいのせきあと)(国の[[特別史跡]])
:[[新居関所]]を参照。新居関所史料館
'''旅籠紀伊国屋'''(湖西市[[指定文化財]]建造物)
:新居宿では最大規模を誇った老舗旅館。紀州藩の[[公事宿|御用宿]]であり、浪花講など各種の講の定宿であった。旅館廃業後は紀伊国屋資料館として保存、公開されている。
'''その他'''
:'''小松楼まちづくり交流館'''(国の[[登録有形文化財]])、一里塚跡、棒鼻跡、風炉の井がある。
=== 隣の宿(東海道) ===
: [[舞阪宿]] - (今切の渡し) - [[新居関所]] - '''新居宿''' - [[白須賀宿]]
== 「新居宿」ギャラリー ==
<gallery caption>
ファイル:Japan National Route 301 Izumichō crossing at Kosai city.JPG|荒井宿本陣跡
ファイル:Kinokuniya, Former Inn at Arai-juku, Kosai city.JPG|旅籠「紀伊国屋」
File:Arai no Seki 01.JPG|特別史跡「新居関跡」
</gallery>
== その他 ==
=== 最寄り駅 ===
:*[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道本線]] [[新居町駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Reflist|group="注釈"}}
'''出典'''
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|3}}
== 引用文献 ==
=== 文献 ===<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
* 飯田汲事「歴史地震の研究 (3) 明応 7 年 8 月 25 日(1498 年 9 月 20 日)の地震及び津波災害について」『愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集』15、愛知工業大学、1980年、171-177頁。
* 飯田汲事「歴史地震の研究 (4) 慶長 9 年 12 月 16 日(1605 年 2 月 3 日)の地震及び津波災害について」『愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集』16、愛知工業大学、1981年、159-164頁。
* 飯田汲事「歴史地震の研究 (5) 宝永 4 年 10 月 4 日(1707 年 10 月 28 日)の地震及び津波災害について」『愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集』17、愛知工業大学、1982年、143-157頁。
* 飯田汲事「歴史地震の研究 (6) 嘉永 7 年(安政元年) 11 月 4 日(1854 年 12 月 23 日)の安政東海地震の震害・震度分布および津波災害」『愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集』20、愛知工業大学、1985年、167-182頁。
* 飯田汲事「愛知県及び隣接県被害津波史」 、『東海地方地震・津波災害誌(飯田汲事教授論文選集)』、飯田汲事教授論文選集発行会、1985年、.669-789頁。
* 児玉幸多編「第四章 遠州灘の道」『愛蔵版 江戸時代図誌 第15巻 東海道二』、筑摩書房、95-118頁。
* 佐々木清治 「宿場町と助郷村との関係」、『歴史地理学紀要/日本歴史地理学研究会【編】』第26巻、歴史地理学会編、歴史地理学会・古今書院、1984、147-170頁。
* 東京大学地震研究所『新収 日本地震史料』続補遺別巻、東京大学地震研究所、1981年。
* [[都司嘉宣]]「浜名湖今切口の変遷」.『防災科学技術』 35、1979年、15-20頁.
* 羽鳥徳太郎 「第2章 宝永地震による被害とその後、第3節 津波災害の概観」、『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 '''1707 宝永地震''' 』、[[内閣府(防災担当)]]、2014年、28-38頁。
* {{Cite book |和書 |author=浜松市|editor= 浜松市役所 |year= 1971 |title= 浜松市史 |volume= 2 |publisher= 浜松市役所 |id= {{全国書誌番号|73004094}} |url= https://adeac.jp/hamamatsu-city/table-of-contents/mp010020-100020/d100020 |accessdate=2016-12-04 |ref= harv }}
* 松浦律子「第2章 宝永地震による被害とその後、第2節 各地の被害と救援や復興策」、『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 '''1707 宝永地震''' 』、内閣府(防災担当)、2014年、23-27頁。
* 矢田俊文(2005)「[講演記録] 1498 年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災」、『歴史地震』第20号、歴史地震研究会、2005年、 9-12 頁。
* 渡辺和敏「近世関所の諸形態」、『法政史学』第23巻、法政大学史学会、1971年、 17-26頁。
=== ウェブサイト ===
* {{Cite web|和書|url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html|title=国指定文化財等データベース・・・国宝、重要文化財|accessdate=2016-11-22|publisher=文化庁|work=新居関跡|date=2016-11-22}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.pref.shizuoka.jp/j-no1/m_araiseki.html|title=“ふじのくに静岡県公式ホームページ”.|accessdate=2016-11-13|date=2016-2-5|work=新居関所現存する日本唯一の関所建物|publisher=静岡県}}
* {{Cite web|和書|url=http://kosaicity.com/araiseki.html|title=浜名湖西岸のまち、湖西|accessdate=2016年11月20日|date=2016-11-16|month=|work=新居関所|publisher=湖西市観光振興協議会}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[橋本宿]]
* [[東海道五十三次]]
* [[今切関所]](新居関所)
* [[浜名湖]]
* [[明応地震]]
* [[宝永地震]]
* [[安政東海地震]]
{{coord|34.69509|137.5506|region:JP_type:landmark|format=dms|display=title}}<!--新居宿本陣跡-->
{{東海道}}
{{DEFAULTSORT:あらいしゆく}}
[[Category:東海道]]
[[category:遠江国|宿あらいしゆく]]
[[Category:宿場|あらい]]
[[Category:湖西市の交通]]
[[Category:湖西市の歴史]]
[[Category:静岡県の交通史]]
|
2003-09-05T03:19:23Z
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15,142 |
新潮社
|
株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。
1896年7月に創業された新聲社が前身。田山花袋などの自然主義者の書籍を出版していた。1914年には新潮文庫を創刊した。他にも単行本、全集などを多数発行している。
文芸雑誌は1904年創刊の文芸誌『新潮』の他に、第二次世界大戦後の1947年に創刊された中間小説誌『小説新潮』などを発行している。週刊誌は1956年創刊の『週刊新潮』が初めての出版社系週刊誌として成功を収める。
1981年には日本初の写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』を創刊。『フォーカス』は法廷を隠し撮りした未成年(14歳)の容疑者の写真を掲載したりするなど、過激な編集方針で一時期には発行部数200万部強までになったが、1990年代後半に売れ行きが悪化し2001年に休刊。スポーツ年鑑『ウィナーズ』や、タレント・グラビアアイドルの写真ムック『月刊~』(不定期)の発行、『nicola』、『週刊コミックバンチ』の創刊(2010年8月休刊)、女性誌での『旅』の再創刊(2012年3月休刊)に踏み切り、従来の路線からは大きく転換された。また新潮文庫もサブカルチャー面での刊行を多くした。
社長職は創業者佐藤義亮から、代々世襲によって引き継がれている同族企業である。第2代佐藤義夫(長男)、第3代佐藤俊夫(次男)、第4代 佐藤亮一(義夫の息子)を経て、現社長の佐藤隆信(亮一の息子)が第5代目である。
専用の装幀部門(新潮社装幀室)を持っており、刊行する文庫・書籍のほとんどを社内装幀している。
東京都新宿区矢来町に、広大な不動産を持っていることでも知られている。
新潮社では、単行本の発行部数が累計で10万部を突破すると、記念に革装本が4部だけ作られる。4部の内、2部は著者に贈られ、残る2部は新潮社用として、1部は資料室の閉架に、もう1部はガラス戸付き本棚に鍵がかかった状態で保管されている。この10万部突破記念の特装本は新書も含まれる。なお、単行本には山羊の革が、新書には羊の革が使用される。
1956年、三島由紀夫の『金閣寺』が10万部を突破した際に担当編集者が何か記念になるものを作ろうとスタートした企画から始まった。2009年11月までに作られた特装本は547点に上り、三島由紀夫、司馬遼太郎、松本清張、遠藤周作、大江健三郎などのほか、さくらももこ『さくらえび』や『鈴井貴之編集長 大泉洋』なども革装本になっている。村上春樹の『1Q84』は初版から10万部を超えたが、38刷で特装本化された伊坂幸太郎の『重力ピエロ』のように版を重ねての特装本化の例もある。
また、三島由紀夫賞・山本周五郎賞の正賞として、上記特装本とはことなる、限定1部の製本作家による総革装本が作成されており、毎年受賞者に贈呈されている。
2015年10月5日、橋下徹大阪市長の出自に関する2011年11月3日号に掲載された『週刊新潮』の記事で精神的苦痛を受けたとして、発行元の新潮社に慰謝料など1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は名誉棄損があったと認め275万円の支払いを命じた。週刊新潮編集部は控訴、上告したが、2017年6月最高裁判所で地裁判決が確定した。
上の1件に限らず、週刊新潮は、訴えられることの大変多い雑誌である。
刊行した書籍の宣伝のために、NHKを利用したことがある。(例:大森あきこ『最後に「ありがとう」と言えたなら』2021年11月17日刊)
|
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"text": "文芸雑誌は1904年創刊の文芸誌『新潮』の他に、第二次世界大戦後の1947年に創刊された中間小説誌『小説新潮』などを発行している。週刊誌は1956年創刊の『週刊新潮』が初めての出版社系週刊誌として成功を収める。",
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"text": "上の1件に限らず、週刊新潮は、訴えられることの大変多い雑誌である。",
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"text": "刊行した書籍の宣伝のために、NHKを利用したことがある。(例:大森あきこ『最後に「ありがとう」と言えたなら』2021年11月17日刊)",
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] |
株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社新潮社
|英文社名 = SHINCHOSHA Publishing Co.,Ltd.
|ロゴ =
|画像 = [[Image:shinchosha_1.jpg|250px]]<br />新潮社本館<br />[[Image:Shinchosha_(annex_1).jpg|250px]]<br />新潮社別館
|画像説明 =
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません -->
|略称 = 新潮
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 162-8711
|本社所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[矢来町]]71<ref name="info">[https://www.shinchosha.co.jp/info/ 会社情報|新潮社]</ref>
|本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 42|本社緯度秒 = 10.6|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
|本社経度度 = 139|本社経度分 = 43|本社経度秒 = 58.9|本社E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード = JP
|設立 = 1896年<ref name="info" />
|業種 = 5250
|事業内容 = 書籍、文庫・雑誌・コミックの制作・出版・販売
|代表者 = [[佐藤隆信]](代表取締役社長)<ref name="info" />
|資本金 = 1億5,000万円
|売上高 =
|従業員数 = 346名(2020年4月1日現在) <ref name="info" />
|決算期 =
|主要株主 =
|主要子会社 =
|関係する人物 = [[佐藤義亮]](創業者)
|外部リンク = https://www.shinchosha.co.jp/
|特記事項 = 佐藤一族による、[[同族経営]]である。
|}}
'''株式会社新潮社'''(しんちょうしゃ)は、[[日本]]の[[出版社]]。
== 概要 ==
[[1896年]]7月<ref>[https://tenshoku.mynavi.jp/jobinfo-121106-3-2-1/ マイナビ(新潮社)]</ref><ref>[https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/bungakukan/kikaku08.html 仙北市ホームページ(企画展・平成20年度)]</ref>に創業された新聲社<ref group="注">[[新声社]]とは無関係。</ref>が前身。[[田山花袋]]などの[[自然主義]]者の書籍を出版していた。[[1914年]]([[大正]]3年)には[[新潮文庫]]を創刊した。他にも[[単行本]]、[[全集]]などを多数発行している。
[[文芸誌]]は[[1904年]]([[明治]]37年)創刊の『[[新潮]]』<ref>[https://www.shinchosha.co.jp/shincho/100year/ 表紙と目次で見る「新潮」110年|新潮|新潮社]</ref>の他に、[[第二次世界大戦]]後の[[1947年]]([[昭和]]22年)に創刊された[[中間小説]]誌『[[小説新潮]]』<ref>[https://www.shinchosha.co.jp/shoushin/ 小説新潮|新潮社]</ref>などを発行している。[[週刊誌]]は[[1956年]](昭和31年)創刊の『[[週刊新潮]]』が、日本初の出版社系週刊誌として成功を収める<ref>[https://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/ 週刊新潮|新潮社]</ref>。
[[1981年]](昭和56年)には日本初の[[写真週刊誌]]『[[FOCUS]](フォーカス)』を創刊。『フォーカス』は[[法廷]]を[[隠し撮り]]した[[未成年]](14歳)の[[容疑者]]の写真を掲載したりするなど、過激な編集方針で一時期は発行部数200万部が200万部強までになったが、[[1990年代]]後半から売れ行きが悪化し、[[2001年]]([[平成]]13年)に[[休刊]]。スポーツ年鑑『ウィナーズ』や、[[タレント]]・[[グラビアアイドル]]の[[ムック (出版)|写真ムック]]『月刊~』(不定期刊)の発行、『[[ニコラ (雑誌)|nicola]]』、『[[週刊コミックバンチ]]』の創刊([[2010年]]〈平成22年〉8月休刊)、『[[旅 (雑誌)|旅]]』は女性誌としての再創刊([[2012年]]〈平成24年〉3月休刊)に踏み切り、従来の路線から大きく転換した。また、[[新潮文庫]]も[[サブ・カルチャー]]系の刊行を増やした。
社長職は創業者[[佐藤義亮]]から、代々[[世襲]]によって引き継がれている[[同族企業]]である。第2代[[佐藤義夫 (実業家)|佐藤義夫]](長男)、第3代[[佐藤俊夫 (実業家)|佐藤俊夫]](次男)、第4代 [[佐藤亮一 (実業家)|佐藤亮一]](義夫の息子)を経て、現社長の[[佐藤隆信]](亮一の息子)が第5代目である。
専用の[[装幀]]部門(新潮社装幀室)を持っており、刊行する文庫・書籍のほとんどを社内装幀している。
[[東京都]][[新宿区]][[矢来町]]に、広大な不動産を持っていることでも知られている。
=== 特装本 ===
新潮社では、単行本の発行部数が累計で10万部を突破すると、記念に[[皮革|革]]装本が4部だけ作られる。4部の内、2部は著者に贈られ、残る2部は新潮社用として、1部は資料室の閉架に、もう1部はガラス戸付き本棚に鍵がかかった状態で保管されている。この特装本には[[新書]]も含まれ、単行本には[[ヤギ|山羊]]の革が、新書には[[ヒツジ|羊]]の革が使用される。
[[1956年]](昭和31年)、[[三島由紀夫]]の『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』が10万部を突破した際、担当編集者による、何か記念になるものを作ろうとの企画から始まった。[[2009年]](平成21年)11月までに作られた特装本は547点に上り、三島由紀夫、[[司馬遼太郎]]、[[松本清張]]、[[遠藤周作]]、[[大江健三郎]]などのほか、[[さくらももこ]]『さくらえび』や『[[鈴井貴之]]編集長 [[大泉洋]]』なども革装本になっている。[[村上春樹]]の『[[1Q84]]』は初版から10万部を超えたが、38刷で特装本化された[[伊坂幸太郎]]の『[[重力ピエロ]]』のように、[[重版|版を重ねて]]特装本化された例もある。<ref>「新潮社『幻の特装本』の謎に迫る!」『本の雑誌』2010年1月号 p.16-17</ref>
また、上記の、記念品としての特装本とは異なり、三島由紀夫賞・山本周五郎賞の正賞として、限定1部の製本作家による総革装本が作成されており、毎年受賞者に贈呈されている。
== ギャラリー ==
<gallery widths="160" heights="200">
File:Sato Toshio.JPG|<small>[[佐藤俊夫 (実業家)|佐藤俊夫]](第3代社長)</small>
File:Sato Ryoichi.JPG|<small>[[佐藤亮一 (実業家)|佐藤亮一]](第4代社長)</small>
File:Shōsetsu Shinchō first issue.jpg|<small>『[[小説新潮]]』1947年9月創刊号</small>
File:Chunichi1964-02-03-1.jpg|<small>『[[週刊新潮]]』1964年2月10日号</small>
</gallery>
== 不祥事 ==
[[2015年]][[10月5日]]、[[橋下徹]][[大阪市長]]の出自に関する[[2011年]]11月3日号に掲載された『[[週刊新潮]]』の記事で精神的苦痛を受けたとして、発行元の新潮社に[[慰謝料]]など1100万円の[[損害賠償]]を求めた訴訟の判決で、[[大阪地裁]]は[[名誉棄損]]があったと認め275万円の支払いを命じた。<ref>[https://www.sankei.com/article/20151005-IPOBALVQKNNRXK35F56DBBJKNM/ 橋下氏の出自記事、週刊新潮に賠償命令 大阪地裁] 産経WEST 2015/10/05</ref>週刊新潮編集部は[[控訴]]、[[上告]]したが、2017年6月[[最高裁判所]]で地裁判決が確定した。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16H9K_W7A610C1000000/ 橋下氏勝訴の判決確定 週刊新潮の記事巡る訴訟] 日本経済新聞 2017/06/16</ref>
上の1件に限らず、週刊新潮は、訴えられることの大変多い雑誌である。
== 刊行物 ==
=== 選書 ===
* [[新潮選書]] - [[江藤淳]]『[[漱石]]とその時代』、[[藤原正彦]]『天才の栄光と挫折』など、多数のロングセラーがある。
=== 叢書 ===
* [[新潮クレスト・ブックス]] - 日本国外の文学の翻訳。『[[朗読者]]』がベストセラーとなる。
* 新潮モダン・クラシックス
* [[とんぼの本]] - 美術・文化を中心としたビジュアル本のシリーズ
* [[新潮日本古典集成]]
* プリシラブックス
=== 新書 ===
* ラッコブックス - 実用・雑学分野を扱う。新潮新書創刊時を境に発行は止まっている。
* [[新潮新書]] - [[養老孟司]]『[[バカの壁]]』、藤原正彦『[[国家の品格]]』がベストセラーとなる。
=== 文庫 ===
* [[新潮文庫]] - [[哲学]]、[[古典]]から、[[サブ・カルチャー]]や[[タレント]]本まで、文庫レーベルで最も多彩で刊行数も多いが、[[初版]]のみで[[絶版]]となるタイトルも多い。
** 新潮文庫nex - 新潮文庫創刊100周年の節目に、2014年8月28日刊行開始<ref>[https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1406/25/news085.html 新潮文庫創刊100周年で新レーベル「新潮文庫nex」が誕生]</ref>。
* 新潮pico文庫 - [[1996年]]、短期間発行していた手のひらサイズの小冊子。なお、同様のコンセプトのレーベルとして[[角川mini文庫]]がある。
* 新潮OH!文庫 - [[実用]]・[[雑学]]分野を扱う。[[2003年]](平成15年)以降新刊はないが、一部の[[重版]]は続けられている。新潮文庫で新版刊行もある。
== 雑誌 ==
=== 週刊 ===
* [[週刊新潮]] - [[週刊誌|総合週刊誌]]([[1956年]] - )
=== 月刊 ===
* [[新潮]] - 純文学[[文芸雑誌|文芸誌]]([[1904年]] - )
* [[小説新潮]] - [[小説誌]]([[1947年]] - )
* [[芸術新潮]] - 総合アート誌([[1950年]] - )
* [[波 (雑誌)|波]] - 読書情報誌([[1967年]] - )
* [[ニコラ (雑誌)|nicola]](ニコラ) - ローティーン向け女性[[ファッション雑誌|ファッション誌]]([[1997年]] - )
* [[エンジン_(雑誌)|ENGINE]](エンジン) - [[自動車雑誌]]([[2000年]] - )
* [[月刊コミックバンチ]] - [[漫画雑誌|コミック誌]]([[2011年]] - )
=== 隔月刊 ===
* [[ニコ☆プチ]] - 小学生向け<!-- 対象年齢は新潮社のサイトから "https://www.shinchosha.co.jp/magazines/" -->女性[[ファッション雑誌|ファッション誌]]([[2006年]] - )
* ニコ☆プチKiDS<!-- 「i」のみ小文字 --> - 小学1・2・3年生向け<!-- 対象年齢は新潮社のサイトから "https://www.shinchosha.co.jp/magazines/" -->女性[[ファッション雑誌|ファッション誌]]([[2014年]]<!-- 定期刊行物としては2014年から。 --> - )
<!-- === 季刊 ===
-->
=== ウェブメディア ===
* Foresight([[フォーサイト (雑誌)|フォーサイト]]) - 国際情報誌(2010年 - )
* yomyom pocket - [[文芸雑誌|文芸誌]](2013年1月<!-- 21日 --> - 2015年)
* くらげバンチ - [[漫画雑誌|コミック誌]](2013年10月<!--25日 --> - )
* デイリー新潮 - 総合ニュースサイト(2015年12月 - )<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.shinchosha.co.jp/info/saiyo/work/episode03/page01.html |date= |title=新潮社初の総合ニュースサイト、「デイリー新潮」誕生の舞台裏 |website=新潮社 |access-date=2021-02-03 }}</ref>
* Bバンチ - コミック誌(2017年7月<!-- 21日 --> - ) - コミックバンチweb内
=== かつて発行・発売していた雑誌 ===
* [[FOCUS]](週刊、[[1981年]]10月 - [[2001年]]8月) - 休刊中
* [[03 (雑誌)|03 Tokyo calling]](月刊、[[1989年]]12月 - [[1991年]]11月) - 休刊中
* Mother Nature's([[1990年]]3月 - [[1993年]]6月) - 全7冊、廃刊
* SINRA(月刊、[[1994年]]1月 - [[2000年]]7月) - 休刊中
* アウフォト([[1997年]]5月 - [[2000年]]5月) - 全13冊、休刊中
* Gramophone Japan(月刊、[[1999年]]12月 - [[2001年]]1月)
* [[週刊コミックバンチ]]([[2001年]]5月 - [[2010年]]8月) - 編集は[[コアミックス]]
* フォーサイト(月刊、[[1990年]][[3月]] - [[2010年]][[3月]]) - [[2010年]][[9月]]にウェブマガジンとして復活。
* [[旅 (雑誌)|旅]](月刊(途中から隔月刊)、[[2004年]] - [[2012年]]3月) - [[JTBパブリッシング|JTB]]が発行していたものを譲り受けたもの。休刊中。
* [[「月刊」シリーズ]] - [[グラビア雑誌|グラビア誌]]
* [[考える人 (雑誌)|考える人]] - 総合誌([[2002年]] - [[2017年]]) - 休刊中
* [[yom yom]](ヨムヨム) - [[文芸雑誌|文芸誌]]<!-- 2010年~2011年の号は年5回刊 -->([[2006年]]<!-- 12月7日 --> - [[2017年]]) - 休刊中
* ROLA<!-- 全て大文字 --><ref group="注">2014年9月号までは「ROLa」<!-- 「a」のみ小文字 --></ref>(ローラ) - 女性誌([[2013年]]<!-- 8月1日(9月号) --> - [[2016年]])
* [[ゴーゴーバンチ]]<!-- 新潮社やバンチの公式サイトでの表記は、「GoGoバンチ」ではなく「ゴーゴーバンチ」 --> - [[漫画雑誌|コミック誌]]([[2013年]]<!-- 10月9日 http://www.comicbunch.com/blog/gogo-bunch/2013/10/ --> - [[2018年]])
* [[新潮45]] - 総合誌([[1982年]](「新潮45+」として創刊) - 2018年) - 休刊中
== 賞 ==
* [[三島由紀夫賞]]
* [[山本周五郎賞]]
* [[小林秀雄賞]]
* [[新潮ドキュメント賞]]
;以上の4賞で「新潮四賞」と呼ばれる。
* [[新潮学芸賞]]
*: 小林秀雄賞と新潮ドキュメント賞の原型となった賞。かつてこの賞と日本芸術大賞、三島賞・山本賞で新潮四賞だった。なお、[[日本文学大賞]]の文学部門は純文学を対象とした三島賞と大衆文学を対象にした山本賞にそれぞれ分離し、新潮学芸賞は日本文学大賞の学芸部門から改名した。
* [[川端康成文学賞]]
* [[新田次郎文学賞]]
* [[萩原朔太郎賞]]
* [[日本ファンタジーノベル大賞]]
* [[女による女のためのR-18文学賞]]
* [[新潮エンターテインメント大賞]]
* [[新潮ミステリー大賞]] - [[日本推理サスペンス大賞]]、[[新潮ミステリー倶楽部賞]]、[[ホラーサスペンス大賞]]の後継
== 関連人物 ==
{{See|Category:新潮社の人物}}
== 関連会社 ==
* [[大泉書店]] - [[1946年]]に関連会社として設立された実用書専門の出版社。
* [[ピコハウス]] - [[1987年]]に新潮社の映像・音楽部門として設立された制作会社。
* [[コアミックス]] - [[2000年]]に設立された漫画雑誌編集・著作権事業を行う会社。
== その他 ==
刊行した書籍の宣伝のために、[[日本放送協会|NHK]]を利用したことがある。(例:大森あきこ『最後に「ありがとう」と言えたなら』2021年11月17日刊)<ref>「著者の大森あきこさんが11月10日「NHKジャーナル」に出演決定!」([https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000387.000047877.html 「ウィズコロナの時代だから一層胸を打つ。4000人以上を見送ってきた納棺師による宝石のような実話集『最後に「ありがとう」と言えたなら』(新潮社)11月17日に発売!」]【[[PR_TIMES]]】2021年11月09日付)</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[紀田順一郎]]監修 『新潮社一〇〇年図書総目録』(別冊索引付で2冊組)、新潮社、[[1996年]]10月。
*: 『八十年図書総目録』(1976年)、『九十年図書総目録』(1986年)も出されている、各[[小田切進]]監修。
* [[百目鬼恭三郎]] 『新潮社八十年小史』、新潮社、[[1976年]]。『九十年小史』、1986年。(各非売品)
* 『新潮社七十年』 佐藤俊夫編、新潮社(非売品)、[[1966年]]10月。
== 関連項目 ==
* [[コミック出版社の会]]
* [[デジタルコミック協議会]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Shinchosha}}
* [https://www.shinchosha.co.jp/ 新潮社]
* [https://www.shincho-shop.jp/store/top.aspx 新潮ショップ]
* {{Twitter|SHINCHOSHA_PR}}
* {{Facebook|shinchosha}}
* {{ニコニコチャンネル|shinchosha|新潮社チャンネル}}
* {{YouTube|user = webSHINCHOSHA}}
* {{kotobank|新潮社(株)|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* {{kotobank|新潮社|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
* {{kotobank|新潮社<nowiki>[株]</nowiki>|2=百科事典マイペディア}}
* [https://jpsearch.go.jp/csearch/jps-cross?csid=jps-cross&from=0&size=100&keyword=%E6%96%B0%E6%BD%AE%E7%A4%BE 横断検索] - ジャパンサーチ(BETA)
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんちようしや}}
[[Category:新潮社|*]]
[[Category:日本の出版社]]
[[Category:漫画出版社]]
[[Category:新宿区の企業]]
[[Category:1896年設立の企業]]
[[Category:東京都のマスメディア]]
[[Category:佐藤義亮家|*]]
|
2003-09-05T03:42:30Z
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2023-12-04T01:42:37Z
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15,143 |
戦国大名
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戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。
戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、1953年に安良城盛昭「太閤検地の歴史的前提(2)」(『歴史学研究』164号、1953年)と菊池武雄「戦国大名の権力構造」(『歴史学研究』166号、1953年)が、 あいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている。
「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代の守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。また、有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において軍役を課すシステム(例えば貫高制)を確立している。
最初の戦国大名は北条早雲の興した後北条家であり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。
領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停した。そのため目安制を導入し領民や家臣からの訴え出を把握し、評定衆による裁判を行わせるなどして、大名主導により紛争の解決を行い、その基準を明文化した分国法(戦国法)を制定するものもあった。戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される事もあるが、分国法を制定していた戦国大名は少数である。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。
守護大名が室町幕府より守護に任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職は令制国単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、下克上により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。
こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名の領国を主権的な「国家」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する(勝俣鎮夫ら)。
一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動し守護への補任を受ける事例も多い。こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、戦国大名を地域国家とみなす考えには否定的な戦国期守護論も提唱されている(矢田俊文ら)。
また、戦国期においても室町幕府直轄の室町殿御分国では守護、守護代の権力が維持されており、室町殿御分国内で国人領主から一国規模以上の戦国大名となったのは毛利氏、長宗我部氏の二氏のみ、九州の龍造寺氏を含めても三氏に過ぎないことから、国人領主の戦国大名化は関東御分国内特有のものとされている。
一方で、戦国大名は武田信玄の信濃守護補任など地域支配への明瞭な影響の認められない事例も存在し、戦国大名は守護公権とは別に独自の大名権力をもっていたと評価されている。また、支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに 官位(武家官位)を獲得する戦国大名も多数存在しており、権威づけが守護職に限られないのも戦国大名の特徴である。これにより衰亡寸前だった天皇の権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期~安土桃山期の天下統一に少なからぬ役割を果たした。
戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に同盟関係を結び、また境界などをめぐって合戦を繰り広げた。こうした状況のなかで尾張国の織田信長は当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた(織田政権)。信長のあとには豊臣秀吉が天下統一を達成し、中央政権としての豊臣政権を樹立し、豊臣政権は諸大名家への介入を強め、戦国大名の独立性は否定されていく。
豊臣政権の後には徳川氏による江戸幕府が成立し、徳川氏は室町将軍家と同じく征夷大将軍職を世襲するが主従関係にある諸大名を守護に任じることは行わず、戦国大名は幕藩体制のもと近世大名へと移行していった。
戦国大名は以上の特徴をもつことが指摘されているが、一方で戦国大名論が研究されたものは主に東国地域であり、対して戦国期守護論は室町将軍の御分国で影響力の強かった畿内・西国を中心に展開されている。
東国地域は駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名に出自をもつ大名家から相模後北条氏のような非守護大名家の戦国大名も存在し、関東から東北地方には守護から国衆まで多様な出自で、なおかつ一国以下の郡規模の地域勢力が分立しており、戦国大名の定義には曖昧さが残されている点が指摘され、現在に到るまで検討が続けられている。
戦国大名の出自を概観すると、宇都宮氏・佐竹氏・今川氏・武田氏・土岐氏・六角氏・大内氏・大友氏・島津氏らのように守護大名を出自とする例、朝倉氏・尼子氏・長尾氏・三好氏・長宗我部氏・神保氏・波多野氏・松永氏らのように守護代やその臣・陪臣を出自とする例が多数を占めたが、毛利氏・田村氏・龍造寺氏・筒井氏らのように国人層や宗教勢力を出自とした例も多い。その他、後北条氏・斎藤氏のように幕府吏僚・浪人を出自とする者も少なからずいた。また、守護と関東管領を兼ねていた上杉氏の例や、北畠氏のように国司から、或いは土佐一条氏のように公家から戦国大名化した例もあった。
管領や四職といった幕府の宿老の多くが勢力を失った背景には通常これらの大名は京都に在住し、守護代に領国を任せていた事が大きく関係している。
出自が、守護大名や守護代である戦国大名も、実際には、島津氏・織田氏のように半ば国人領主化した分家・庶流などが、養子縁組などで本家を襲った例も多い。
戦国時代の大名や武将には、家格や身分にとらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解が娯楽作品などにより定着している。しかし現実の戦国時代は足利将軍を頂点とした厳格な身分社会であり、官途や官位といった栄典のランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた。
戦国時代後期、キリスト教の布教のため来日した宣教師たちは当初、天皇を権威だけの権力者としか見ておらず、積極的な評価をしていなかった。しかし実力では天皇を上回る戦国大名たちが天皇に敬意を表す姿を見、権力のみでは把握できない日本の政治構造を知り、天皇や将軍を改めて評価するようになっていった。そして宣教師たちは日本は権力面から見れば連合国家のようにも見えるが、権威の面から見れば統一国家であるとし、そこに戦国期・日本国の政治的重層性を発見した。
このように戦国期の日本国は天皇や朝廷、将軍の権威のもとに国家の統一性が維持されていたが、この事は大名らが天皇・将軍を頂点とした「礼」の秩序の下に身分編成されていることを意味していた。戦国期の大名らは自力で権威を確立することが出来ず、献金・献納を通じて朝廷・天皇から官位・官職の獲得を期待せざるを得なかった。また古河公方や後北条氏が、官途を用いて自らの政治的立場の正当性を主張しているように、戦国期領主らにとって官位・官途は重要視されていた。
天文8年7月、肥前の大名・有馬晴純は在京雑掌の大村純前を介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった。その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見する名誉に浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された。
しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上の申し出を行った。有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子の純忠を大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった。また永禄5~6年頃、伊予・喜多郡の宇都宮豊綱が将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予の河野通宣が妨害工作を行っており、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。
家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。16世紀前半、陸奥の伊達氏は大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置する奥州探題の大崎氏が存在し身分的には国人に過ぎなかった。文亀3年(1503年)に伊達尚宗が越後の上杉氏に送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になり上杉房能を怒らせたこともあった。そのような状況を打開するため尚宗の子、稙宗は猟官運動に励むようになった。永正14年(1517年)、残存史料から判明するだけでも幕府関係者に太刀7腰・黄金117両(3500貫相当)・馬17疋を、朝廷へは太刀代10貫・馬代20貫・その他仲介料として20貫300文と、膨大な金銭を献上し左京大夫への任官と偏諱を賜った。さらに大永2年(1522年)に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めた。しかし幕府は陸奥守護という「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わることはなかった。その後幕府と距離を置くようになった稙宗は軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き、嫡男晴宗の手によって幽閉されてしまうことになった(伊達氏天文の乱)。稙宗のひ孫にあたる伊達政宗は稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる。
中国地方の戦国大名、毛利隆元は、父である毛利元就の偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府の御相伴衆に列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた。また大内義興は永正9年(1512年)、前年の船岡山合戦の褒賞として朝廷に従三位の位階を求めて、これを賜ることに成功しており、官位は恩賞としても重要なものであった。戦国期の大名たちは、下剋上する成り上り者が結局は官位を得て飾りとする、と言われるように本来的に権威志向的な存在であり、そのため官位・官途の付与者である天皇・将軍は大名らにとって必要不可欠の存在であり続けた。
戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった 。また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた。
戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させて城下町を形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、検地を実施して新たな租税収取体系を構築した。また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準として分国法を制定する者もいた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。
ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。室町時代中期頃から日本社会に広がった一揆は、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例は主君押込と呼ばれた。
また足利将軍のように広域の複数の諸大名に対して影響力を行使できる存在は、一般の大名の中には見られず戦国大名がどれだけ勢力を拡大したとしても、所詮それは各大名の「国」内に留まるものであり、将軍のように列島規模で影響力を行使する存在にはなりえなかった。そのため戦国大名たちも全国的な武家の社会秩序の中に自らを位置づける事を必要としており、そこから脱退する発想は持たなかった。
以下のリストには戦国大名と国衆の区別に議論のある家も含む。
(蝦夷地、陸奥、出羽)
(常陸、下野、上野、下総、上総、安房、武蔵、相模、伊豆)
(佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、甲斐、信濃、飛騨、美濃、駿河、遠江、三河、尾張)
(山城、大和、摂津、河内、和泉、近江、伊勢、志摩、伊賀、若狭、丹後、丹波、紀伊)
(播磨、備前、美作、備中、備後、安芸、但馬、因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見、周防、長門、淡路、讃岐、阿波、土佐、伊予)
(豊前、豊後、対馬、壱岐、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)
なお、ここに記したものは一部のみである。
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"text": "戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。",
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"text": "戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、1953年に安良城盛昭「太閤検地の歴史的前提(2)」(『歴史学研究』164号、1953年)と菊池武雄「戦国大名の権力構造」(『歴史学研究』166号、1953年)が、 あいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている。",
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"text": "「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代の守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。また、有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において軍役を課すシステム(例えば貫高制)を確立している。",
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"text": "最初の戦国大名は北条早雲の興した後北条家であり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。",
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"text": "領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停した。そのため目安制を導入し領民や家臣からの訴え出を把握し、評定衆による裁判を行わせるなどして、大名主導により紛争の解決を行い、その基準を明文化した分国法(戦国法)を制定するものもあった。戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される事もあるが、分国法を制定していた戦国大名は少数である。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。",
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"text": "守護大名が室町幕府より守護に任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職は令制国単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、下克上により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。",
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"text": "こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名の領国を主権的な「国家」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する(勝俣鎮夫ら)。",
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"text": "一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動し守護への補任を受ける事例も多い。こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、戦国大名を地域国家とみなす考えには否定的な戦国期守護論も提唱されている(矢田俊文ら)。",
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"text": "また、戦国期においても室町幕府直轄の室町殿御分国では守護、守護代の権力が維持されており、室町殿御分国内で国人領主から一国規模以上の戦国大名となったのは毛利氏、長宗我部氏の二氏のみ、九州の龍造寺氏を含めても三氏に過ぎないことから、国人領主の戦国大名化は関東御分国内特有のものとされている。",
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"text": "(蝦夷地、陸奥、出羽)",
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},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "(常陸、下野、上野、下総、上総、安房、武蔵、相模、伊豆)",
"title": "主な戦国大名"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "(佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、甲斐、信濃、飛騨、美濃、駿河、遠江、三河、尾張)",
"title": "主な戦国大名"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(山城、大和、摂津、河内、和泉、近江、伊勢、志摩、伊賀、若狭、丹後、丹波、紀伊)",
"title": "主な戦国大名"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "主な戦国大名"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "(播磨、備前、美作、備中、備後、安芸、但馬、因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見、周防、長門、淡路、讃岐、阿波、土佐、伊予)",
"title": "主な戦国大名"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "(豊前、豊後、対馬、壱岐、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)",
"title": "主な戦国大名"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、ここに記したものは一部のみである。",
"title": "現在の旧大名家"
}
] |
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。
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{{Otheruses|戦国時代の日本の領主|シミュレーションゲーム|戦国大名 (ゲーム)}}
'''戦国大名'''(せんごくだいみょう)は、[[日本]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した[[大名]]を指す。
[[File:Map_Japan_Genki1.png|thumb|right|400px|元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]]
== 概要 ==
[[File:Soun_Hojo_portrait.jpg|thumb|220px|[[北条早雲]] ]]{{Wikisource|北条五代記/巻第一#早雲寺殿廿一箇条|北条五代記|原文「早雲寺殿廿一ケ條」}}
戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、[[1953年]]に[[安良城盛昭]]「太閤検地の歴史的前提(2)」(『歴史学研究』164号、1953年)と[[菊池武雄]]「戦国大名の権力構造」(『歴史学研究』166号、1953年)が、
あいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている<ref name="arakawa">荒川善夫「史料に見る東国戦国大名の類型」(『戦国期東国の権力と社会』岩田書店、2012年) ISBN 978-4-87294-780-9<br />(原論文:{{Cite journal|和書|author=荒川善夫|date=1999-05|title=史料で見る東国戦国大名の類型|journal=千葉史学|issue=34|pages=50-64|publisher=千葉歴史学会|CRID=1520009408723409152|ISSN=02868148}})</ref>。
「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね[[室町時代]]の[[守護大名]]と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。また、有力国衆など[[被官]]・[[家臣]]の統制を強化し[[家中]](家臣団)を構成し、領国内において[[軍役]]を課すシステム(例えば[[貫高制]])を確立している。
最初の戦国大名は[[北条早雲]]の興した[[後北条家]]であり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。
領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停した。そのため目安制を導入し領民や家臣からの訴え出を把握し、評定衆による裁判を行わせるなどして、大名主導により紛争の解決を行い、その基準を明文化した[[分国法]]([[戦国法]])を制定するものもあった。戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される事もあるが、分国法を制定していた戦国大名は少数である。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を[[大名領国制]]という。これは守護大名の[[守護領国制]]がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。
守護大名が室町幕府より[[守護]]に任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職は[[令制国]]単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、[[下克上]]により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。
こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名の領国を主権的な「[[国家]]」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する([[勝俣鎮夫]]ら)。
一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動し[[守護]]への補任を受ける事例も多い。こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、戦国大名を地域国家とみなす考えには否定的な[[戦国期守護]]論も提唱されている([[矢田俊文 (歴史学者)|矢田俊文]]ら)。
また、戦国期においても室町幕府直轄の室町殿御分国では守護、守護代の権力が維持されており、室町殿御分国内で国人領主から一国規模以上の戦国大名となったのは毛利氏、長宗我部氏の二氏のみ、九州の龍造寺氏を含めても三氏に過ぎないことから、国人領主の戦国大名化は[[関東御分国]]内特有のものとされている<ref name=今岡>{{Cite journal|和書|author=今岡典和 |date=2009-03 |url=https://kusw.repo.nii.ac.jp/records/10 |title=戦国期の守護権をめぐって:越前朝倉氏の場合 |journal=関西福祉大学社会福祉学部研究紀要 |ISSN=1883566X |publisher=関西福祉大学社会福祉学部研究会 |issue=12 |pages=56-57 |naid=40016560024 |CRID=1050282812568651520 |ref=harv}}</ref>。
一方で、戦国大名は武田信玄の信濃守護補任など地域支配への明瞭な影響の認められない事例も存在し、戦国大名は守護公権とは別に独自の大名権力をもっていたと評価されている。また、支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに [[官位]]([[武家官位]])を獲得する戦国大名も多数存在しており、権威づけが守護職に限られないのも戦国大名の特徴である。これにより衰亡寸前だった[[天皇]]の権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期~[[安土桃山時代|安土桃山期]]の天下統一に少なからぬ役割を果たした。
戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に[[同盟]]関係を結び、また境界などをめぐって[[合戦]]を繰り広げた。こうした状況のなかで尾張国の[[織田信長]]は当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた([[織田政権]])。信長のあとには[[豊臣秀吉]]が天下統一を達成し、中央政権としての[[豊臣政権]]を樹立し、豊臣政権は諸大名家への介入を強め、戦国大名の独立性は否定されていく。
豊臣政権の後には徳川氏による江戸幕府が成立し、徳川氏は室町将軍家と同じく征夷大将軍職を世襲するが主従関係にある諸大名を守護に任じることは行わず、戦国大名は[[幕藩体制]]のもと[[近世大名]]へと移行していった。
戦国大名は以上の特徴をもつことが指摘されているが、一方で戦国大名論が研究されたものは主に東国地域であり、対して戦国期守護論は室町将軍の御分国で影響力の強かった畿内・西国を中心に展開されている。
東国地域は駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名に出自をもつ大名家から相模後北条氏のような非守護大名家の戦国大名も存在し、関東から東北地方には守護から国衆まで多様な出自で、なおかつ一国以下の郡規模の地域勢力が分立しており、戦国大名の定義には曖昧さが残されている点が指摘され、現在に到るまで検討が続けられている{{Refnest|group="注釈"|例えば、[[市村高男]]や[[藤木久志]]は関東地方の戦国大名を後北条氏のような「統一権力」と結城氏・宇都宮氏・那須氏などの数郡程度の支配者である「地域権力」の2種類に分け、[[黒田基樹]]は「国主」として認知されていた両上杉氏(山内・扇谷)・後北条氏・里見氏および天正期に彼らとほぼ同等の支配体制を確立した佐竹氏のみを戦国大名とした。だが、実際には後北条氏・上杉氏・武田氏などが結城氏のような規模の武家に対して同格扱いの[[書札礼]]を用いた例や「大名衆」と「国衆」がほぼ同義あるいは同じ対象相手に対して用いられている例もあり、戦国大名の定義づけや類型化には複雑な問題を抱えている([[荒川善夫]]「史料に見る東国戦国大名の類型」)。なお、関東の数郡規模の大名を戦国大名から外すことについては、土佐一国を支配した長宗我部氏が戦国大名で、同氏とほぼ同規模の石高領域を支配していた宇都宮氏が下野一国の支配していないことを理由に戦国大名ではないとするのはおかしい(一国以上を支配していたか否かという量的側面は基準にはならない)という[[江田郁夫]]の批判がある<ref>{{cite book|和書|author=江田郁夫 |title=戦国大名宇都宮氏と家中 |publisher=岩田書院 |year=2014 |series=岩田選書 |ISBN=9784872948479 |id={{全国書誌番号|22378107}} |pages=2-3}}</ref>。}}<ref group="注釈">東国において一国未満の勢力しか持たない戦国大名が多いのは、他の地域よりも令制国が広大である事も原因であり、例えば[[伊達氏]]の領国は最盛期においても[[陸奥国]]の一部に過ぎないが、実質は複数国にまたがる支配領域を持つ戦国大名の勢力に匹敵あるいは凌駕するものであった。</ref>。
== 出自 ==
戦国大名の出自を概観すると、[[宇都宮氏]]・[[佐竹氏]]・[[今川氏]]・[[武田氏]]・[[土岐氏]]・[[六角氏]]・[[大内氏]]・[[大友氏]]・[[島津氏]]らのように[[守護大名]]を出自とする例、[[朝倉氏]]・[[尼子氏]]・[[長尾氏]]・[[三好氏]]・[[長宗我部氏]]・[[神保氏]]・[[波多野氏]]・[[松永氏]]らのように[[守護代]]やその[[臣]]・[[陪臣]]を出自とする例が多数を占めたが、[[毛利氏]]・[[田村氏]]・[[龍造寺氏]]・[[筒井氏]]らのように[[国人]]層や[[宗教]]勢力を出自とした例も多い。その他、[[後北条氏]]・[[斎藤氏]]のように幕府吏僚・[[浪人]]を出自とする者も少なからずいた。また、守護と[[関東管領]]を兼ねていた[[上杉氏]]の例や、[[北畠氏]]のように[[国司]]から、或いは[[土佐一条氏]]のように[[公家]]から戦国大名化した例もあった。
[[管領]]や[[四職]]といった幕府の宿老の多くが勢力を失った背景には通常これらの大名は[[京都]]に在住し、守護代に領国を任せていた事が大きく関係している。
出自が、守護大名や守護代である戦国大名も、実際には、島津氏・織田氏のように半ば国人領主化した[[分家]]・[[庶流]]などが、[[養子縁組]]などで本家を襲った例も多い。
== 戦国大名の家格と身分秩序 ==
戦国時代の大名や武将には、家格や身分にとらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解が娯楽作品などにより定着している。しかし現実の戦国時代は足利将軍を頂点とした厳格な身分社会であり、官途や官位といった栄典のランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた{{sfn|山田康弘|2011|p=58}}。
戦国時代後期、キリスト教の布教のため来日した宣教師たちは当初、天皇を権威だけの権力者としか見ておらず、積極的な評価をしていなかった。しかし実力では天皇を上回る戦国大名たちが天皇に敬意を表す姿を見、権力のみでは把握できない日本の政治構造を知り、天皇や将軍を改めて評価するようになっていった<ref>堀新(編著)『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年2月)114頁</ref>。そして宣教師たちは日本は権力面から見れば連合国家のようにも見えるが、権威の面から見れば統一国家であるとし、そこに戦国期・日本国の政治的重層性を発見した<ref>堀新(編著)『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年2月)115‐116頁</ref>。
このように戦国期の日本国は天皇や朝廷、将軍の権威のもとに国家の統一性が維持されていたが、この事は大名らが天皇・将軍を頂点とした「礼」の秩序の下に身分編成されていることを意味していた<ref>久留島典子『一揆と戦国大名』(講談社、2001年11月)231‐232頁</ref>。戦国期の大名らは自力で権威を確立することが出来ず、献金・献納を通じて朝廷・天皇から官位・官職の獲得を期待せざるを得なかった<ref>有光友學(編)『戦国の地域国家』(吉川弘文館、2003年5月)155頁</ref>。また[[古河公方]]や[[後北条氏]]が、官途を用いて自らの政治的立場の正当性を主張しているように<ref>{{Cite journal|和書|author=長塚孝 |date=1988-09 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20540/ |title=戦国武将の官途・受領名 |journal=駒澤史学 |publisher=駒澤大学文学部史学会 |volume=39・40 |pages=50-51 |naid=120006613013 |CRID=1050282813210386176}}</ref>、戦国期領主らにとって官位・官途は重要視されていた。
天文8年7月、肥前の大名・[[有馬晴純]]は在京雑掌の[[大村純前]]を介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった<ref>山田康弘「戦国時代の足利将軍に関する諸問題」(『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年10月)81-82頁</ref>。その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見する名誉に浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された<ref>山田、2012年、82-83頁</ref>。
しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上の申し出を行った。有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子の[[大村純忠|純忠]]を大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった<ref>山田、2012年、85頁</ref>。また永禄5~6年頃、伊予・喜多郡の[[宇都宮豊綱]]が将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予の[[河野通宣 (左京大夫)|河野通宣]]が妨害工作を行っており{{sfn|山田康弘|2011|p=55}}、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。
[[File:Date Tanemune.JPG|thumb|right|100px|伊達稙宗]]
家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。16世紀前半、陸奥の[[伊達氏]]は大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置する[[奥州探題]]の[[大崎氏]]が存在し身分的には国人に過ぎなかった。文亀3年(1503年)に[[伊達尚宗]]が越後の[[上杉氏]]に送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になり[[上杉房能]]を怒らせたこともあった<ref>{{Cite journal|和書|author=小久保嘉紀 |date=2007 |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/2004350 |title=日本中世書札礼の成立の契機 |journal=HERSETEC : テクスト布置の解釈学的研究と教育 |ISSN=1882-8833 |publisher=Graduate School of Letters, Nagoya University |volume=1 |issue=2 |page=170 |hdl=2237/0002004350 |CRID=1050857899426465792 |ref=harv}}</ref>{{sfn|黒嶋敏|2012|p=43-44}}。そのような状況を打開するため尚宗の子、[[伊達稙宗|稙宗]]は猟官運動に励むようになった。永正14年(1517年)、残存史料から判明するだけでも幕府関係者に太刀7腰・黄金117両(3500貫相当)・馬17疋を、朝廷へは太刀代10貫・馬代20貫・その他仲介料として20貫300文と、膨大な金銭を献上し[[左京大夫]]への任官と[[偏諱]]を賜った<ref>脇田晴子『戦国大名』小学館、1988年8月、168頁</ref>。さらに大永2年(1522年)に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めた。しかし幕府は[[陸奥国|陸奥]][[守護]]という「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わることはなかった。その後幕府と距離を置くようになった稙宗は軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き、嫡男[[伊達晴宗|晴宗]]の手によって幽閉されてしまうことになった([[天文の乱|伊達氏天文の乱]]){{sfn|黒嶋敏|2012|p=45}}。稙宗のひ孫にあたる[[伊達政宗]]は稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる<ref>遠藤ゆり子編『伊達氏と戦国争乱』( 吉川弘文館、2016年1月)36頁</ref>。
[[File:Mōri Takamoto.jpg|thumb|right|100px|毛利隆元]]
中国地方の戦国大名、[[毛利隆元]]は、父である[[毛利元就]]の偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府の[[御相伴衆]]に列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた{{sfn|山田康弘|2011|p=53}}。また[[大内義興]]は永正9年(1512年)、前年の[[船岡山の戦い|船岡山合戦]]の褒賞として朝廷に[[従三位]]の位階を求めて、これを賜ることに成功しており、官位は[[恩賞]]としても重要なものであった<ref>脇田晴子 『天皇と中世文化』(吉川弘文館、2003年7月)35‐36頁</ref>。戦国期の大名たちは、[[下剋上]]する成り上り者が結局は官位を得て飾りとする、と言われるように本来的に権威志向的な存在であり<ref>脇田、2003年、7頁</ref>、そのため官位・官途の付与者である天皇・将軍は大名らにとって必要不可欠の存在であり続けた<ref>{{Cite journal|和書|author=市村高男 |year=2004 |title=戦国大名研究と列島戦国史 |journal=武田氏研究 |issue=30 |page=11 |CRID=1010000781784108161}}</ref><ref>市村、2005年11月、50‐51頁</ref>。
戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった
<ref>{{Cite journal|和書|author=小林健彦 |date=1990-03 |url=https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/1533 |title=大内氏の対京都政策 : 在京雑掌(僧)を中心として |journal=学習院史学 |ISSN=02861658 |publisher=学習院大学史学会 |issue=28 |page=17 |hdl=10959/1810 |CRID=1050564288171432704 |ref=harv}}</ref>。また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた{{sfn|山田康弘|2011|p=43}}。
== 支配とその限界 ==
戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させて[[城下町]]を形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、[[検地]]を実施して新たな租税収取体系を構築した。また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準として[[分国法]]を制定する者もいた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を[[大名領国制]]という。
ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。室町時代中期頃から日本社会に広がった[[一揆]]は、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例は[[主君押込]]と呼ばれた。
また足利将軍のように広域の複数の諸大名に対して影響力を行使できる存在は、一般の大名の中には見られず戦国大名がどれだけ勢力を拡大したとしても、所詮それは各大名の「国」内に留まるものであり、将軍のように列島規模で影響力を行使する存在にはなりえなかった<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24471/shigaku.112.11_1790 |title=戦国期大名聞外交と将軍 |author=山田康弘 |year=2003 |journal=史学雑誌 |publisher=史学会 |volume=112 |issue=11 |pages=51-52 |doi=10.24471/shigaku.112.11_1790}}</ref>。そのため戦国大名たちも全国的な武家の社会秩序の中に自らを位置づける事を必要としており、そこから脱退する発想は持たなかった{{sfn|黒嶋敏|2012|p=320‐321}}。
== 主な戦国大名 ==
以下のリストには戦国大名と国衆の区別に議論のある家も含む。
=== 蝦夷地・奥羽===
([[蝦夷地]]、[[陸奥国|陸奥]]、[[出羽国|出羽]])
{{Col|
* [[蠣崎氏]]
* 大浦氏([[津軽氏]])
* [[浪岡氏|浪岡北畠氏]]
* [[南部氏]]
* [[高水寺斯波氏]]
* [[葛西氏]]
* [[大崎氏]]
* [[伊達氏]]
* [[相馬氏]]
* [[二本松氏]]
* [[田村氏]]
* [[岩城氏]]
* [[陸奥石川氏]]
* [[白河結城氏]]
* [[二階堂氏]]
* [[蘆名氏]]
* [[留守氏]]
* [[国分氏 (陸奥国)|國分氏]]
|
* [[安東氏]]
* [[戸沢氏]]
* [[小野寺氏]]
* [[大宝寺氏|大宝寺武藤氏]]
* [[天童氏]]
* [[最上氏]]
}}
=== 関東 ===
([[常陸国|常陸]]、[[下野国|下野]]、[[上野国|上野]]、[[下総国|下総]]、[[上総国|上総]]、[[安房国|安房]]、[[武蔵国|武蔵]]、[[相模国|相模]]、[[伊豆国|伊豆]])
{{Col|
* [[佐竹氏]]
* [[小田氏]]
* [[那須氏]]
* [[宇都宮氏]]([[下野宇都宮氏]])
* [[佐野氏]]
* [[壬生氏]]
* [[皆川氏]]
* [[小山氏]]
* [[山内上杉氏]]
* [[横瀬氏]](由良氏)
* [[上野長野氏]]
|
* [[結城氏|下総結城氏]]
* [[古河公方|古河足利氏]]
* [[千葉氏]]
* [[武田氏#上総武田氏|上総武田氏]]
* [[安房正木氏|正木氏]]
* [[里見氏]]
* [[扇谷上杉氏]]
* [[太田氏]]
* [[多賀谷氏]]
* [[江戸氏]]
* [[相模三浦氏]]
* [[後北条氏|北条氏]](後北条氏)
* [[足利氏]] ([[堀越公方]])
}}
=== 甲信越・東海・北陸 ===
([[佐渡国|佐渡]]、[[越後国|越後]]、[[越中国|越中]]、[[能登国|能登]]、[[加賀国|加賀]]、[[越前国|越前]]、[[甲斐国|甲斐]]、[[信濃国|信濃]]、[[飛騨国|飛騨]]、[[美濃国|美濃]]、[[駿河国|駿河]]、[[遠江国|遠江]]、[[三河国|三河]]、[[尾張国|尾張]])
{{Col|
* [[長尾氏]]([[上杉氏]])
* [[神保氏]]
* [[椎名氏]]
* [[畠山氏]]
* [[朝倉氏]]
* [[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]
* [[高梨氏]]
* [[信濃村上氏]]
* [[真田氏]]
* [[海野氏]]
* [[仁科氏]]
* [[小笠原氏]]
* [[大井氏]]
* [[諏訪氏]]
* [[木曾氏]]
|
* [[江馬氏]]
* [[三木氏]]([[姉小路氏]])
* [[土岐氏]]
* [[斎藤氏]]
* [[今川氏]]
* [[井伊氏]]
* [[松平氏]]([[徳川氏]])
* [[水野氏]]
* [[斯波氏]]
* [[織田氏]]
** [[織田政権]]:朝廷を庇護した戦国大名の政権
}}
=== 畿内近国 ===
([[山城国|山城]]、[[大和国|大和]]、[[摂津国|摂津]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[近江国|近江]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[志摩国|志摩]]、[[伊賀国|伊賀]]、[[若狭国|若狭]]、[[丹後国|丹後]]、[[丹波国|丹波]]、[[紀伊国|紀伊]])'''
{{Col|
* [[足利将軍家]]
* [[京極氏]]
* [[浅井氏]]
* [[六角氏]]
* [[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]
* [[一色氏]]
* [[内藤氏]]
* [[丹波赤井氏|赤井氏]]
* [[波多野氏#丹波波多野氏|波多野氏]]
* [[関氏]]
* [[神戸氏]]
* [[長野工藤氏]]
* [[北畠氏]]
* [[桑山氏]]|
* [[筒井氏]]
* [[大和越智氏]]
* [[松永氏]]
* [[仁木氏]]
* [[宮部氏]]([[土肥氏]])
* [[畠山氏#畠山金吾家|河内畠山氏]]
* [[細川氏]]
** [[細川政権 (戦国時代)|細川政権]]:朝廷を庇護した戦国大名の政権
*[[九鬼氏]]
}}
=== 山陽・山陰・四国 ===
([[播磨国|播磨]]、[[備前国|備前]]、[[美作国|美作]]、[[備中国|備中]]、[[備後国|備後]]、[[安芸国|安芸]]、[[但馬国|但馬]]、[[因幡国|因幡]]、[[伯耆国|伯耆]]、[[隠岐国|隠岐]]、[[出雲国|出雲]]、[[石見国|石見]]、[[周防国|周防]]、[[長門国|長門]]、[[淡路国|淡路]]、[[讃岐国|讃岐]]、[[阿波国|阿波]]、[[土佐国|土佐]]、[[伊予国|伊予]])
{{Col|
* [[赤松氏]]
* [[別所氏]]
* [[山名氏]]
* [[美作後藤氏]]
* [[美作三浦氏]]
* [[浦上氏]]
* [[宇喜多氏]]
* [[松田氏#備前松田氏|備前松田氏]]
* [[庄氏]]
* [[三村氏]]
* [[山内氏#備後山内氏|備後山内氏]]
* [[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]
* [[毛利氏]]
* [[吉川氏]]
* [[小早川氏]]
|
* [[南条氏]]
* [[尼子氏]]
* [[大内氏]]
* [[十河氏]]
* [[三好氏]]
** [[三好政権]]:朝廷を庇護した戦国大名の政権
* [[安芸氏]]
* [[本山氏]]
* [[長宗我部氏]]
* [[土佐一条氏]]
* [[河野氏]]
* [[香川氏]]
* [[伊予宇都宮氏]]
* [[西園寺氏]]
*[[京極氏]]
}}
=== 九州 ===
([[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[対馬国|対馬]]、[[壱岐国|壱岐]]、[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[大隅国|大隅]]、[[薩摩国|薩摩]])
{{Col|
* [[大友氏]]
* [[宗氏]]
* [[宗像氏]]
* [[立花氏]]
* [[少弐氏]]
* [[秋月氏]]
* [[蒲池氏]]
* [[田尻氏]]
* [[筑紫氏]]
* [[西牟田氏]]
* [[龍造寺氏]]
* [[鍋島氏]]
* [[松浦氏]]
* [[宇久氏]]
* [[大村氏]]
* [[肥前有馬氏|有馬氏]]
|
* [[菊池氏]]
* [[阿蘇氏]]
* [[相良氏]]
* [[土持氏]]
* [[北原氏]]
* [[田中氏]]
* [[伊東氏]]
* [[肝付氏]]
* [[島津氏]]
}}
== その他の勢力 ==
=== 寺院勢力 ===
* [[日光山輪王寺]]
* [[比叡山]]([[延暦寺]])
* [[園城寺]]
* [[浄土真宗]][[本願寺の歴史|本願寺教団]](一般に[[一向宗]]と通称、各地方での一向一揆や石山本願寺の石山合戦が知られる)
* 浄土真宗[[高田派]]
* [[興福寺]]
* [[東大寺]]
* [[根来衆]]([[根来寺]])
* [[熊野別当]]
=== 神社勢力 ===
* [[平泉寺白山神社]]
* [[諏訪大社]]
* [[日吉大社]]
* [[賀茂神社]]
** [[上賀茂神社]]
** [[下賀茂神社]]
* [[石清水八幡宮]]
** [[離宮八幡宮]]
* [[祇園社]](現 [[八坂神社]])
* [[多武峰]]
* [[宇佐神宮]]などの神社
=== 公家方(公家政権) ===
* [[朝廷 (日本)|朝廷]]
=== 武家方(間接的に全国を支配した武家政権) ===
* [[室町幕府]]([[足利氏]])
** [[篠川公方]]
** [[稲村公方]]
** [[古河公方]](足利氏)
** [[小弓公方]]
** [[鎌倉公方]]
** [[堀越公方]](足利氏)
** [[越中公方]]
** [[堺公方]]
** [[平島公方]]([[阿波公方]])
== 現在の旧大名家 ==
* [[徳川氏]] - 現当主 : [[徳川家広]]
* [[肥前有馬氏]] - 現当主:[[有馬匡澄]]
* [[相馬氏]] - 現当主:[[相馬行胤]]
* [[真田氏]] - 現当主 : [[真田幸俊]]
* [[阿蘇氏]] - 現当主 : [[阿蘇惟邑]](叔父の[[阿蘇治隆|治隆]]が現大宮司)
* [[吉川氏]] - 現当主は血縁的には[[毛利隆元]]・[[毛利輝元]]の男系子孫。
* [[京極氏]] - 現当主 : [[京極高晴 (宗家)|京極高晴]]
* [[長宗我部氏]] - 現当主 : [[長宗我部友親]]
* [[南部氏]] - 現当主 : [[南部利文]]
* [[武田氏]] - 現当主 : [[武田邦信]]
* [[上杉氏]] - 現当主 : [[上杉邦憲]]
* [[細川氏|細川奥州家]] - 現当主 : [[細川護熙]]
* [[宗氏]] - 現当主 : [[宗立人]]
* [[最上氏]] - 現当主 : [[最上義治]]
* [[佐竹氏]] - 現当主 : [[佐竹孝]]
* [[織田氏|信雄系高長流織田氏]] - 現当主 : [[織田孝一|織田信孝]]
* [[前田氏]] - 現当主 : [[前田利祐]]
* [[島津氏]] - 現当主 : [[島津修久]]
* [[毛利氏]] - 現当主 : [[毛利元栄]]
* [[伊達氏]] - 現当主 : [[伊達泰宗]]
* [[秋月氏]] - 現当主 : [[秋月種高]]
* [[宇喜多氏]] - 現当主 : [[宇喜多秀臣]]
* [[浅井氏]]・[[明智氏]]・[[北畠家]]・[[斎藤氏]] : 氏族としては滅亡したが、血を引く著名な人物として[[徳仁|今上天皇]]がいる([[浅井長政]]、[[明智光秀]]、[[お市の方]]、[[北畠晴具]]、[[斎藤道三]]等の血を引いている)。
*[[大友氏]] - [[大友義鎮|大友宗麟]]の娘のジェスタ([[清田鎮忠]]室)は大友氏流[[清田氏]]に嫁いで血を残し、後に清田氏からは[[細川忠興]]の側室・幾知([[清田鎮乗]]の娘)が出る。幾知は[[細川立孝]]([[宇土藩]]主)を産み、宗家が絶えた後は立孝の子孫が[[熊本藩]]を継いだ。その為、[[細川斉茲]]以降の細川氏当主は宗麟の子孫であり、元[[内閣総理大臣]]の[[細川護煕]]もその一人である。
なお、ここに記したものは一部のみである。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 永原慶二『戦国大名』(小学館、1975年)
* 勝俣鎮夫『戦国法成立史論』(東京大学出版会、1979年)
* 杉山博『日本の歴史11 戦国大名』(中央公論社、 2005年3月1日)
* 小和田哲男『戦国大名』(中央公論社、1981年12月)
* 渡辺慶一編『上杉謙信のすべて』(新人物往来社、1987年)
* 磯貝正義編『武田信玄のすべて』(新人物往来社、1978年)
* 河合正治編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
* 渡邊大門『戦国誕生―中世日本が終焉するとき―』(講談社、2011年)
* {{cite book|和書|author=山田康弘 |title=戦国時代の足利将軍 |publisher=吉川弘文館 |year=2011 |series=歴史文化ライブラリー |ISBN=9784642057233 |id={{全国書誌番号|21950773}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011211730-00 |ref=harv}}
* {{cite book|和書|author=黒嶋敏 |title=中世の権力と列島 |publisher=高志書院 |year=2012 |ISBN=9784862151131 |id={{全国書誌番号|22158847}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023951273-00 |ref=harv}}
== 関連文献 ==
* [[黒田基樹]] 『百姓から見た戦国大名』[[ちくま新書]]、[[筑摩書房]]、[[2006年]] ISBN 4480063137
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|日本の戦国時代|Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg}}
*[[大名領国制]]
*[[豪族]]
*[[城下町]]
*[[分国法]]
*[[戦国時代史料の一覧]]
*[[戦国時代の人物一覧]]
*[[ウォーロード]]
== 外部リンク ==
* [http://srtutsu.ninja-x.jp/ 戦国大名の軌跡を追う]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:せんこくたいみよう}}
[[Category:室町時代]]
[[category:戦国時代 (日本)]]
[[Category:戦国大名|*]]
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DMOZ
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Open Directory Project(オープン・ディレクトリー・プロジェクト)は、ボランティア方式で運営される世界最大のウェブディレクトリである。ODP のドメイン名には、Directory Mozilla を略したDMozが用いられ、ミラーサイトにはその初期の名称の NewHoo もある。 Netscape に売却され、現在では AOL Time Warner の傘下にある。 また、DMOZは、2017年3月17日(UTC)に運用を終了し、その機能はDMOZのエディターによって作られたミラーサイト dmoztools.netに引き継がれている。 その後、全てのコンテンツはcurlie.orgへ引き継がれ、2019年現在も活動している。
ODPに登録されているウェブサイトはカテゴリに分類され、カテゴリは担当のエディタによって管理されている。エディタをボランティアによるというやり方はオックスフォード英語辞典での先例をWorld Wide Webでの索引作りに取り入れたものである。
ODPは、オープンコンテントであり、その成果はRDFの形で毎週供給され、ライセンスを遵守する限り、無料で利用することができる。言語ごとやカテゴリごとなど、自由に改変して利用することが認められている。
また、下記の外部リンクにも紹介されている通り、RDFダンプを利用したディレクトリーサイトが多数存在しているため、Google等のロボット型検索エンジンのポジショニングを決定する際の指標のひとつであるとされているバックリンク対策として有効性が高いとされた時期があった。
ODPは、その初期の名称である GnuHoo や NewHoo が示すように、当時先行していたウェブディレクトリであるYahoo! への不満から出発した。その頃、Yahoo! の手法をビジネスモデルとみなして、ただ単にこれを真似ただけのウェブディレクトリが数多くあったが、その大部分が淘汰され、現在では消滅してしまっている。
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Open Directory Project(オープン・ディレクトリー・プロジェクト)は、ボランティア方式で運営される世界最大のウェブディレクトリである。ODP のドメイン名には、Directory Mozilla を略したDMozが用いられ、ミラーサイトにはその初期の名称の NewHoo もある。
Netscape に売却され、現在では AOL Time Warner の傘下にある。
また、DMOZは、2017年3月17日(UTC)に運用を終了し、その機能はDMOZのエディターによって作られたミラーサイト dmoztools.netに引き継がれている。
その後、全てのコンテンツはcurlie.orgへ引き継がれ、2019年現在も活動している。
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[[File:DMOZ logo.png|alt=|thumb]]
'''Open Directory Project'''(オープン・ディレクトリー・プロジェクト)は、[[ボランティア]]方式で運営される世界最大の[[ウェブディレクトリ]]である。'''ODP''' の[[ドメイン名]]には、'''D'''irectory '''Moz'''illa を略したDMozが用いられ、[[ミラーサイト]]にはその初期の名称の '''NewHoo''' もある。
[[ネットスケープ・コミュニケーションズ|Netscape]] に売却され、現在では [[AOL]] [[Time Warner]] の傘下にある。
また、DMOZは、2017年3月17日(UTC)に運用を終了し、その機能はDMOZのエディターによって作られたミラーサイト [https://dmoztools.net/ dmoztools.net]に引き継がれている。
その後、全てのコンテンツは[https://curlie.org/ curlie.org]へ引き継がれ、2019年現在も活動している。
== 特徴 ==
ODPに登録されている[[ウェブサイト]]は[[カテゴリ]]に分類され、カテゴリは担当の[[エディタ]]によって管理されている。エディタをボランティアによるというやり方は[[オックスフォード英語辞典]]での先例を[[World Wide Web]]での[[索引]]作りに取り入れたものである。
ODPは、[[オープンコンテント]]であり、その成果は[[Resource Description Framework|RDF]]の形で毎週供給され、ライセンスを遵守する限り、無料で利用することができる。言語ごとやカテゴリごとなど、自由に改変して利用することが認められている。
また、下記の外部リンクにも紹介されている通り、RDFダンプを利用した[[ディレクトリー]]サイトが多数存在しているため、[[Google]]等のロボット型[[検索エンジン]]のポジショニングを決定する際の指標のひとつであるとされているバックリンク対策として有効性が高いとされた時期があった。
== 歴史 ==
ODPは、その初期の名称である GnuHoo や NewHoo が示すように、当時先行していたウェブディレクトリである[[Yahoo!]] への不満から出発した。その頃、Yahoo! の手法を[[ビジネスモデル]]とみなして、ただ単にこれを真似ただけのウェブディレクトリが数多くあったが、その大部分が淘汰され、現在では消滅してしまっている。
== 年表 ==
* 1998年6月 Rich Skrenta と Bob Truel が Gnuhoo を開始
* 1998年11月 [[ネットスケープ・コミュニケーションズ|Netscape]] が NewHoo Community Directory Project を取得 [https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/981119/newhoo.htm]
* 1999年1月 Netscape Open Directory が正式オープン [https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0126/nod.htm]
* 2000年3月 [[Google]] が ODP を採用 [https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2000/0316/google.htm]
* 2001年8月 Google日本語がODP日本語階層を採用 [https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2001/0814/godp.htm]
* 2003年12月 全言語での登録サイト総数が400万件を超える
* 2011年7月 Googleディレクトリがサービスを終了
== 各国語別の利用状況 ==
*2012年10月時点で、Open Directory Project が対応する言語の数は、87か国語である。
*2012年10月時点で、カテゴリ数は日本語階層だけで1万7000以上、全言語での総数は187万以上。
*2012年10月時点で、掲載されているサイトの数は公称で510万強。
*2012年10月時点で、登録サイト数の言語ごとのサイト数、及び比率は
** 1位 [[英語]] 約320万 全体の約60%
** 2位 [[ドイツ語]] 51万強 約10%
** 3位 [[フランス語]] 25万弱 約5%
** 4位 [[日本語]] 18万弱
** 5位 [[イタリア語]] 18万弱 いずれも約3%
== 外部リンク ==
{{wikidata property|P998}}
* [https://dmoztools.net/ The Directory of the Web] {{en icon}}
* [https://ameblo.jp/dmoz/ dmozエディタ日記](エディタによる非公式のウェブログ)
* [http://odp.org/World/Japanese/ ODP][https://web.archive.org/web/20121031023743/http://www.dmoz.org/]
{{Netscape プロジェクト}}
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[[Category:ウェブディレクトリ]]
[[Category:検索エンジン]]
[[Category:Netscape]]
[[Category:協働]]
[[Category:オープンコンテントプロジェクト]]
[[Category:クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのウェブサイト]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/DMOZ
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電力
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電力(でんりょく、英: electric power)とは、単位時間に電流がする仕事(量)のことである。国際単位系 (SI) においてはワット W が単位として用いられる。
なお、電力を時間ごとに積算したものは電力量 (electric energy) と呼び、電力とは区別される。つまり、電力を時間積分したものが電力量であり、量の次元としてはエネルギーに等しい。
なお、消費電力あるいは「電力系統における電力」とは、単位時間に発電機等によって発電され、送電線によって送られ(送電)、そして電気器具によって消費される、単位時間あたりの電気エネルギーを言う。
専門用語では、「電力」とは単位時間に電流がする仕事(量)のことである。単位はW (ワット) であり、電圧Vの電源から電流Iが流れているとき、電力はV・Iという式で表せる。つまり電力は、電圧と電流の積である(物理学概念の分類体系で言うと、仕事率 (power) に分類される)。→#定義と公式
なお、一般用語(非専門用語)では、「電力」が、電気の形で伝えられるエネルギーを指していることも多い。なお専門用語ではこのエネルギーに関しては「電力量」と呼び分けて区別している。
電力は電池(← 化学エネルギー)、発電機(← 運動エネルギー)、太陽電池(← 光エネルギー)などにより、それぞれのエネルギーから電気エネルギーに変換される。これを総称して発電と呼ぶ。
発電された電力はそのまま使うか(自家使用、または自家発電)、または電力網に投入して遠隔地に送り、需要のあるところで使われる。電線により、発電するところと電力を消費する負荷とを、電力網を介して繋ぐだけで電力の利用ができ、また様々なエネルギー形態、例えば光エネルギー(白熱電球やLEDほか)や運動エネルギー(電動機ほか)、熱エネルギー(電熱・冷暖房)そして、化学エネルギー(蓄電池や電気分解、電気めっきほか)などなど、他のエネルギーに容易に変換できる優れた特性を持つのが、電力の大きな特徴である。
電力を貯蔵する方法は多数ある。
近年では、世界各国の政府により「脱カーボン」を推進することは至上命題となっており、再生可能エネルギーである太陽光発電や風力発電を増やしつつ、その日の天候による発電量の変動や、昼間と夜間の差や生じるという性質を補うために蓄電システムの活用ならびに増強が重視されている。太陽光発電や風力発電と蓄電システムとを組み合わせることで、脱炭素と電力の安定供給を両立するシステムを構築することができる。その一方で電力網の運用の現場では従来の回転機による発電機でない、太陽光発電システムや系統連系用蓄電池が用いるインバータ電源が系統に増え過ぎるとブラックアウトの危険性が増すことも危惧されている
たとえば蓄電池を使った電力の貯蔵も小規模から大規模なものまで実用化されている。リチウムイオン二次電池を利用した家庭用や電気自動車用の小規模蓄電から、大規模なものは送配電会社の変電所、太陽光発電所や風力発電所に併設されている、チタン酸リチウム二次電池やナトリウム・硫黄電池(NAS電池)またはリチウムイオン二次電池による蓄電設備に至るまで、数々のものが実用に供されている。なお日本においてはリチウムイオン蓄電池設備は消防法上の蓄電池設備の規制のほか、可燃性の電解液が法に基づく危険物(第四類 第二石油類)とされるため危険物施設としての制限を受けることがネックとなっており、内閣府としても規制緩和を求めている。
定置型蓄電装置には電気自動車ほどの急速充放電特性は求められないため、役目を終えた電気自動車の廃棄バッテリーによる蓄電設備が普及しつつある。また次世代電池として注目されている全固体電池による蓄電も検討されている。ただ送電網向けのリチウムイオン蓄電池ともなると未だに高コストであり、MITテクノロジーレビューによれば、アメリカ合衆国エネルギー省 エネルギー情報局の報告として2018年現在、資本コストは 1 kWhあたり625米ドルの数値を挙げ、2015年に比べてコストは3分の1以下となったものの、まだまだ高価であるとしている。
たとえば日本では古くから、水の位置エネルギーとして電力を保存する方法が活用されている。(このシステムは本当は蓄電システムなのだが、なぜか発電のほうに焦点を当てた名称「揚水発電」と呼ばれている。) 昼間の需要時には起動に数分間あれば良いため、発電(蓄電)効率は 70 % 程度に留まるとは言え、急激な需要増加に対応可能な、実用的な大規模蓄電装置である。なお日本の揚水発電は約40箇所あり、その設備容量はおよそ26 GW (2,600万キロワット)に達する。1回あたり5時間発電するとして、発電量は 1回あたり130 GWh (13,0000万キロワット時)の充放電容量を持つ計算である。設備利用率を17 %と仮定すると、日本全体で年間 40TWh もの蓄電量を持つことになる。ただ揚水発電は発電コストが他の発電方式より高価であるため、実際の設備利用率は 3 %と低い。またもう日本には揚水発電に適した地点は、もうほとんど無く、機動的に揚水発電を蓄電手段として使用するには中小規模の揚水発電所を数多く建設する必要がある。
科学技術振興機構が2019年に出した炭素社会実現に向けた政策立案のための提案書の試算によれば、揚水発電の設備コストは48,200円/kWh(耐用40年)、発電コストは22.6円/kWh、一方で蓄電池は設備コストは11,000円/kWh(耐用10年)、発電コストは16.5円/kWhとなり、設備の寿命を考え、かつ土木工事のコストダウンを図れば蓄電池と同等のコストで実現できるとしている。
トヨタ自動車が、様々な企業と連携して他の多くの企業と手を携え、推進しているプロジェクトである。大規模な水素システムは、『水素』という物質の形で行う電力の蓄電手法である。水は、電気分解すると水素と酸素とに分解できる。逆に、「水素」という物質の形でそれをタンクなどに貯えておけば、安定したエネルギーの保存ができ、電力を必要とするときは「燃料電池」と呼ばれる、水素と酸素の反応装置を使い、貯えておいた水素と、我々の周囲にある空気中の酸素とを反応させて電力を得られる(2H2 + O2 → 2H2O + 電気エネルギー)。また水素は内燃機関などで単純に燃やしても水が生じるだけであり、水素システムはとてもクリーンだという優れた性質がある。ただ水素の難点として軽く密度が低いこと、空気と混合したときの爆発範囲が 4 - 75 % と幅広く極めて爆発しやすい(燃速も速い)問題があり、このことと金属の水素脆化の問題から水素配管には他のガス配管以上に設計・施工・維持管理に係る安全性確保が必要である。さらに他の気体よりも高圧にして運搬しないとコスト的に引き合わないこと、液化水素の取り扱いが難しいことから、水素単体のまま運搬せず、アンモニアやメタンなど水素を含む化合物に変換して運搬・利用する動きもある。
電力の用途は、その約3分の1が冷暖房の熱源である。したがって電力をその用途である熱エネルギーにあらかじめ変換した状態で蓄えてもよい。
フィンランドの電力会社バタヤンコスキは、ポーラー・ナイト・エナジー社の特許技術に基づく大量の砂に熱を蓄える蓄熱システムの運用を2022年に開始した。再生可能エネルギーで発電した電力を、地域暖房ネットワークで使用する『熱』に変換して、砂に蓄える世界初の商用ソリューションである。「砂電池」と呼ばれる蓄熱槽は、幅4メートル、高さ7メートルの大きさの断熱された鋼タンクの中に100トンの砂が入れてあり、その中央に熱交換器が埋め込まれているシンプルな構造である。タンク中央に埋め込まれた熱交換器を電力で加熱し、蓄熱槽の砂を500〜600 °C程度の高温まで加熱することで、8 MWh(公称出力100 kW)という大量の電力に相当する熱エネルギーを蓄えることを可能にした。蓄熱媒体に砂を使う理由は、砂は素材として丈夫であり、おまけに極めて安価、さらに高熱に耐えられるためである。高温で蓄熱することで、より小さな体積で多くの熱エネルギーを蓄えることを可能にした。設置費用は1 kWhあたりわずか10ユーロ(1300円)と安価である。 なお日本においては、一番求められる熱源が夏場の冷熱であることから、深夜電力でヒートポンプを動かして蓄熱槽に氷を貯める氷蓄熱空調装置の設置が盛んである。このシステムは「エコアイス」の商品名で知られ、東京スカイツリーや、赤坂・六本木アークヒルズなど、地域冷暖房にまで蓄熱冷暖房を行う例もある。ごく小さな例では自動販売機の商品を蓄熱槽代わりに使うピークシフト自販機だけでなく、自販機自体に蓄熱槽を設け、冷暖適温の商品をより低電力で提供できるようにしたものもある。
日本の中小企業の、大半が契約する電力料金体系は「年間最大電力」の大きさを基準にして電力基本料金が決まる仕組み(デマンド料金制)である。このため、電力単価も電力使用量も大きな夏場・冬場のピーク需要を抑えることが、年間を通しての電力料金節減の鍵となる。このことを利用して最大電力を常時監視し、設定した契約最大電力に近づいたらアラームを鳴らし、人の手で消費電力を節減する簡易なサービスから、ビルまるごと人の流れ等を監視し冷暖房を必要なところに絞ったり、ピーク時間を避けて冷暖房の電源を入れ、ピーク時は冷暖房を止めることで最大電力を抑えるビル管理システムのようなエネルギー管理システムもある。このようにして『節電』された電力はネガワットと呼ばれ、実質的に蓄電や発電をしたとみなせる。また時々刻々のネガワットを取引する市場での売買対象になる。
全世界の電力消費量は、2000年時点では13兆2380億 kW·hであったが、2010年時点では18兆704億 kW·hとなり、2015年は21兆279億 kW·h、2018年は23兆398億 kW·hであった(つまり右肩上がりに増加している)。
電力の消費量が多い順に国を挙げると次のようになる。
2015年時点の資料では、中国、アメリカ合衆国、日本、ロシア、インドの順であった。 それが2021年では、中国、アメリカ合衆国、インド、日本、ロシアの順となっている
一方、国民一人当たりの電力消費量の多い順に挙げると、2021年でアイスランド、ノルウェー、バーレーン、クウェート、カナダの順になり、日本は19番目となる。アイスランドの一人当たりの消費電力は1位であるが、地熱発電が20 %、他が水力発電と、ほぼ100 %が自然エネルギーで賄われている。カナダは、湖や河川など豊富な水資源に恵まれていて電気料金が安いので一人あたりの消費量が特に多いのである。一方、中国は一人当たりの電力消費量は世界平均ほどだが、国民の人数が大きいので国全体の電力消費量が大きくなっている(なお中国は急速に経済成長しているので電力不足が深刻化している)。
家庭での電力の消費の量やその内訳というのは、国、地域、季節、日々の気温ごとにかなり異なっている。
参考までに、日本の家庭の一世帯あたりの電気消費量は、平成21年度(2009年4月〜2010年3月、冷夏・暖冬であった期間)の通年では4618 kW·h/世帯であった。内訳としては、大きいものから電気冷蔵庫14.2 %、照明器具13.4 %、テレビ8.9 %、エアコン7.4 %と試算された。 なお、同じ日本の家庭の消費電力の内訳でも、夏で最大需要が発生する日の日中(14時ころ)の消費電力の内訳は、資源エネルギー庁推計によると、エアコン53 %、冷蔵庫23 %、テレビ5 %、照明5 %だとのことである。
国ごとの大まかな統計資料は「消費電力」の記事に掲載している。
電力を節約すること、電力消費量を減らすことを節電という。
全エネルギー供給に占める電気エネルギーの割合を電力化率という。
初期の電力の装置として摩擦電気を集める静電発電機があり、電圧は高かったものの、容量的には極めて小さいものだった。19世紀中頃には電池が発明されアーク灯に利用された。さらに電磁気学の進展により、1870年頃から直流発電機、1880年頃から交流発電機が実用化された。
最初の電力会社、トーマス・エジソンの会社が設立したPearl Street Stationは直流方式で送電し一時期はそれが標準となっていたが、ニコラ・テスラやジョージ・ウェスティングハウスは交流送電を推し、両陣営間で激しい対立が起き、結果として交流送電方式が普及し(そのいきさつや理由については「電流戦争」の記事で詳説)、現代の電力会社は一般的には電力を三相交流で供給しており、電圧としては高圧電力・低圧電力の両方を販売している。電力会社の業界を電力業界という。
電気エネルギーの発電、送電、配電さらに最終需要家までの設備と運用制御を総称して電気エネルギーシステムという。
1990年代から、欧米を中心として、世界中の多くの国や地域において、電力の自由化が積極的に進められている。
欧州の各国の電力事業は、各国それぞれの歴史を持っている。かつてはひとつの国にひとつの電力事業業者、という形が一般的であったが、1999年に欧州電力市場では市場の自由化が導入され、各国でいくつもの電力事業業者が活動するようになった。欧州のなかでも、いちはやく自由化された電力市場を整備したのは英国であった。
英国ではかつて英国電力公社が英国全体に電力を供給しており、発電も送電も全て行っていた。1990年にその英国電力公社が民営化され、その時に、同時に発電事業と送電事業の分離が行われ、消費者に電力を供給する配電事業にはいくつもの電力供給事業者が参加できるようになった。消費者は、(ちょうど、携帯電話の通信サービスを比較して決められるように)電力の価格などを比較して、自分が利用する電力供給事業者を選択できるようになった(なお送電に関しては、英国ではもともとひとつの電気事業者が全国の電力供給を管理していたため、結果として、高圧送電系統はナショナルグリッド1社が送電系統管理事業者として運用する方式を採用した。)。このようにして英国では、発電・送電・配電が完全に分離された。
現在、欧州各国で行われている電力事業の形態というのは、上記の英国の形態と似たものになっている。つまり、発電と送電が分離されており、送電に関しては送電系統管理事業者が行っている。そして欧州の各国はそれぞれ隣接する国々と高圧電線で結ばれ、日々、電力の輸出・輸入が行われている。
グリーン電力とは、風力発電や太陽光発電、バイオマス発電、小規模水力発電 等々、温室効果ガスの排出が少なくて環境への負荷が小さい自然エネルギーや再生可能エネルギーによって発電された電力のことである。
2000年代に入り、欧州で風力発電の導入がかなり進みはじめてから、発電出力の変動に伴う供給の不安定化の問題への対応策が打たれるようになっており、EUレベルでスマートグリッド化が検討されるようになった。
日本では第二次世界大戦前に、電力の供給を独占する体制(電力独占体制)が形成された。日本においても、1995年の電気事業法の改正により、電力自由化に向けての様々な動きが始まった。1995年に制度化されたのはIPP(Independent Power Producer 卸供給事業者)で、IPPが発電した電力を既存の10電力会社が買い取るという仕組みで、IPPが需要家に直接販売するわけではない。だから、電力料金に直接影響を与えるものではなかった。
電気回路において電力を供給する装置を電源 (electric source)、電力を消費する装置を負荷 (electrical load)と呼ぶ。
直流回路の中でも特に電圧や電流が時間的に変化しない定常電流の回路においては、電力は時間にかかわらず
となる。
交流とは、時間ともに大きさと向きが周期的に変化する電圧または電流を言う。そのため、三角波やのこぎり波も交流となるが、大きさが時間と共に正弦波 (sine wave)状に変化する交流を特に正弦波交流と呼ぶ。交流回路に代表される電圧や電流が時間的に変化する回路においては、電力も時間に依存して変動をすることから、定常な場合と違って様々な量が定義される。
ここで、電圧の波高値 (peak value)を Vm、電流の波高値を Im そして周期 (period)を Tとする。さらに、瞬時電力 (instantaneous electric power)を p(t) で表す。なお、瞬時電流 (instantaneous current)を i(t)、瞬時電圧 (instantaneous voltage) を v(t) とすれば、
が成り立つ。
瞬時電力を1周期 T に渡って平均した値を有効電力 (effective power) と呼ぶ。電力料金請求の対象となるのはこの有効電力である。
有効電力 P は、
P = 1 T ∫ 0 T p ( t ) d t {\displaystyle P={\frac {1}{T}}\int _{0}^{T}p(t)\mathrm {d} t}
で定義される。
ここで、電力回路に代表される正弦波交流回路に限った上で、具体的に有効電力を算出することとする。
正弦波交流であることから、瞬時電流 i(t) と瞬時電圧 v(t) を
と表すとする。ただし、角周波数 ω について ω = 2 π / T {\displaystyle \omega =2\pi /T} とする。ところで、瞬時電圧の実効値を V、瞬時電流の実効値を I とすれば、それぞれ V = V m 2 , I = I m 2 {\displaystyle V={\frac {V_{m}}{\sqrt {2}}}\;,\;I={\frac {I_{m}}{\sqrt {2}}}} が成り立つ。
このとき、有効電力 P は
となる。ここで位相差 φ {\displaystyle \phi } の余弦 c o s ( φ ) {\displaystyle cos(\phi )} を力率、位相差 φ {\displaystyle \phi } 自体を力率角と呼ぶ。
電力回路において、有効電力は電力機器を動かすために必要であるが、電圧の調整に使われるものとして電圧と電流の実効値の積に力率角 φ {\displaystyle \phi } の正弦 s i n ( φ ) {\displaystyle sin(\phi )} をかけたものを無効電力 (reactive power) と呼ぶ。なお、無効電力は、『電力』と銘打っているものの、負荷と電源とを往復するだけの、消費されないエネルギーである。無効電力の概念は難解であるが、「力率とは、有効電力と負荷(容量性・誘導性)に残留しソースに戻されるエネルギー、および非線形負荷によって生成される高調波を含む皮相電力の比と定義される」と説明されており、瞬時の充放電、高調波などが無効電力を構成していると捉えると理解しやすい。無効電力は接地された中性線を介してソース(大地)へ戻る。
記号 Q で表され、単位はバール (記号: var)が用いられる。
無効電力は、自己インダクタンスに由来する誘導負荷と、静電容量に由来する容量負荷から生じる。誘導負荷による無効電力を「遅れ無効電力」、容量負荷による無効電力を「進み無効電力」と呼ぶ。電力関係では電圧を基準として、電流が遅れている場合の無効電力を正とすることが多い。
誘導性負荷は遅れ無効電力を増やし、容量性負荷は進み無効電力を増やす。遅れ無効電力と進み無効電力は互いに打ち消しあう関係であり、これら両者の無効電力が互いに等しい状態(無効電力がゼロ)が、最も理想的な状態といえる。電力会社が力率100 %に対し、料金の割引制度を設けているのは、無効電力がゼロすなわち無効電力源が不要な状態であり電力会社にとって好ましい状態だからである。逆に誘導電動機を多用するなどして遅れ無効電力を電力会社から頂戴するような環境だと(力率が低い)、電力会社は割増料金を取らざるを得なくなる。
インピーダンスを用いて無効電力を表すと、
となる。X > 0 であれば Q > 0 であり、これは誘導性負荷で電圧に対して電流が遅れる。 同じくアドミタンスを用いれば
となる。B > 0 であれば Q < 0 であり、これは容量性負荷で電圧に対して電流が進む。
正弦波交流回路において、電圧の実効値 V と電流の実効値 I の積を皮相電力 (apparent power) と呼ぶ。
単位はボルトアンペア(記号: VA)が用いられる。記号としては S で表されることが多い。
この皮相電力 S と有効電力 P、無効電力 Q そして力率 cos(φ) との間には以下の関係
が成り立つ。
なお、インピーダンスを用いれば
となり、アドミタンスを用いれば
となる。
上記は電圧・電流ともに正弦波の場合であるが、ダイオードなどの非直線性素子が入った回路においては電流が正弦波とはならず、説明が複雑となる。基本は瞬時電圧と瞬時電流から瞬時電力を求め、それを平均することによりまず有効電力Pを求める。
また、電圧Vの実効値と電流Iの実効値の積から、皮相電力Sが求められる。
さらに、皮相電力と有効電力、無効電力Qの関係式
を変形すると、皮相電力と有効電力から無効電力が求められる。
非直線性回路では、電圧が正弦波であっても電流に高調波成分を含むことになり、従来力率改善に用いられた同期調相機や電力用コンデンサでは十分な改善効果が得られないだけでなく、電力用コンデンサなどに障害を与える場合がある。特に、コンピュータなどに内蔵されるAC-DCコンバータや、省エネルギーのためのインバータ制御機器が問題になる。このため、高調波成分を減少させ、力率を改善するための規制が行われることも多い。
起電力Eとその内部抵抗rと外部抵抗Rにおいての電源より供給できる最大電力。または消費電力が最大になるときの最大電力。
電気工学では最大電力供給条件という。分野によってはマッチングとも。記号はPまたはPmax、単位はワット (Watt; W)。
rは内部抵抗、Rは外部抵抗として説明する。
直流電力の公式
これを1とする。
起電力
ゆえに
となる。これを2とする。
1へ2を代入
P = R ( E r + R ) 2 = E 2 r 1 r R + R r + 2 {\displaystyle {\begin{alignedat}{2}P&=R\left({\frac {E}{r+R}}\right)^{2}\\&={\frac {E^{2}}{r}}{\cfrac {1}{{\cfrac {r}{R}}+{\cfrac {R}{r}}+2}}\\\end{alignedat}}}
相加平均と相乗平均の関係を分母に用いると P = E 2 4 r {\displaystyle P={\frac {E^{2}}{4r}}} という公式が導き出される。
電力網においては、各瞬間の需要と供給の量は、つまり各発電所の発電量と電力網の先で電力が消費される量は等量になる。これを、電力の「同時同量の原則」という。
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"text": "電力(でんりょく、英: electric power)とは、単位時間に電流がする仕事(量)のことである。国際単位系 (SI) においてはワット W が単位として用いられる。",
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"text": "なお、電力を時間ごとに積算したものは電力量 (electric energy) と呼び、電力とは区別される。つまり、電力を時間積分したものが電力量であり、量の次元としてはエネルギーに等しい。",
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"text": "なお、消費電力あるいは「電力系統における電力」とは、単位時間に発電機等によって発電され、送電線によって送られ(送電)、そして電気器具によって消費される、単位時間あたりの電気エネルギーを言う。",
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"text": "専門用語では、「電力」とは単位時間に電流がする仕事(量)のことである。単位はW (ワット) であり、電圧Vの電源から電流Iが流れているとき、電力はV・Iという式で表せる。つまり電力は、電圧と電流の積である(物理学概念の分類体系で言うと、仕事率 (power) に分類される)。→#定義と公式",
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"text": "なお、一般用語(非専門用語)では、「電力」が、電気の形で伝えられるエネルギーを指していることも多い。なお専門用語ではこのエネルギーに関しては「電力量」と呼び分けて区別している。",
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"text": "電力を貯蔵する方法は多数ある。",
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"text": "近年では、世界各国の政府により「脱カーボン」を推進することは至上命題となっており、再生可能エネルギーである太陽光発電や風力発電を増やしつつ、その日の天候による発電量の変動や、昼間と夜間の差や生じるという性質を補うために蓄電システムの活用ならびに増強が重視されている。太陽光発電や風力発電と蓄電システムとを組み合わせることで、脱炭素と電力の安定供給を両立するシステムを構築することができる。その一方で電力網の運用の現場では従来の回転機による発電機でない、太陽光発電システムや系統連系用蓄電池が用いるインバータ電源が系統に増え過ぎるとブラックアウトの危険性が増すことも危惧されている",
"title": "電力の蓄電"
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"text": "たとえば蓄電池を使った電力の貯蔵も小規模から大規模なものまで実用化されている。リチウムイオン二次電池を利用した家庭用や電気自動車用の小規模蓄電から、大規模なものは送配電会社の変電所、太陽光発電所や風力発電所に併設されている、チタン酸リチウム二次電池やナトリウム・硫黄電池(NAS電池)またはリチウムイオン二次電池による蓄電設備に至るまで、数々のものが実用に供されている。なお日本においてはリチウムイオン蓄電池設備は消防法上の蓄電池設備の規制のほか、可燃性の電解液が法に基づく危険物(第四類 第二石油類)とされるため危険物施設としての制限を受けることがネックとなっており、内閣府としても規制緩和を求めている。",
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"text": "定置型蓄電装置には電気自動車ほどの急速充放電特性は求められないため、役目を終えた電気自動車の廃棄バッテリーによる蓄電設備が普及しつつある。また次世代電池として注目されている全固体電池による蓄電も検討されている。ただ送電網向けのリチウムイオン蓄電池ともなると未だに高コストであり、MITテクノロジーレビューによれば、アメリカ合衆国エネルギー省 エネルギー情報局の報告として2018年現在、資本コストは 1 kWhあたり625米ドルの数値を挙げ、2015年に比べてコストは3分の1以下となったものの、まだまだ高価であるとしている。",
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"text": "たとえば日本では古くから、水の位置エネルギーとして電力を保存する方法が活用されている。(このシステムは本当は蓄電システムなのだが、なぜか発電のほうに焦点を当てた名称「揚水発電」と呼ばれている。) 昼間の需要時には起動に数分間あれば良いため、発電(蓄電)効率は 70 % 程度に留まるとは言え、急激な需要増加に対応可能な、実用的な大規模蓄電装置である。なお日本の揚水発電は約40箇所あり、その設備容量はおよそ26 GW (2,600万キロワット)に達する。1回あたり5時間発電するとして、発電量は 1回あたり130 GWh (13,0000万キロワット時)の充放電容量を持つ計算である。設備利用率を17 %と仮定すると、日本全体で年間 40TWh もの蓄電量を持つことになる。ただ揚水発電は発電コストが他の発電方式より高価であるため、実際の設備利用率は 3 %と低い。またもう日本には揚水発電に適した地点は、もうほとんど無く、機動的に揚水発電を蓄電手段として使用するには中小規模の揚水発電所を数多く建設する必要がある。",
"title": "電力の蓄電"
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"text": "科学技術振興機構が2019年に出した炭素社会実現に向けた政策立案のための提案書の試算によれば、揚水発電の設備コストは48,200円/kWh(耐用40年)、発電コストは22.6円/kWh、一方で蓄電池は設備コストは11,000円/kWh(耐用10年)、発電コストは16.5円/kWhとなり、設備の寿命を考え、かつ土木工事のコストダウンを図れば蓄電池と同等のコストで実現できるとしている。",
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"text": "トヨタ自動車が、様々な企業と連携して他の多くの企業と手を携え、推進しているプロジェクトである。大規模な水素システムは、『水素』という物質の形で行う電力の蓄電手法である。水は、電気分解すると水素と酸素とに分解できる。逆に、「水素」という物質の形でそれをタンクなどに貯えておけば、安定したエネルギーの保存ができ、電力を必要とするときは「燃料電池」と呼ばれる、水素と酸素の反応装置を使い、貯えておいた水素と、我々の周囲にある空気中の酸素とを反応させて電力を得られる(2H2 + O2 → 2H2O + 電気エネルギー)。また水素は内燃機関などで単純に燃やしても水が生じるだけであり、水素システムはとてもクリーンだという優れた性質がある。ただ水素の難点として軽く密度が低いこと、空気と混合したときの爆発範囲が 4 - 75 % と幅広く極めて爆発しやすい(燃速も速い)問題があり、このことと金属の水素脆化の問題から水素配管には他のガス配管以上に設計・施工・維持管理に係る安全性確保が必要である。さらに他の気体よりも高圧にして運搬しないとコスト的に引き合わないこと、液化水素の取り扱いが難しいことから、水素単体のまま運搬せず、アンモニアやメタンなど水素を含む化合物に変換して運搬・利用する動きもある。",
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"text": "電力の用途は、その約3分の1が冷暖房の熱源である。したがって電力をその用途である熱エネルギーにあらかじめ変換した状態で蓄えてもよい。",
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"text": "フィンランドの電力会社バタヤンコスキは、ポーラー・ナイト・エナジー社の特許技術に基づく大量の砂に熱を蓄える蓄熱システムの運用を2022年に開始した。再生可能エネルギーで発電した電力を、地域暖房ネットワークで使用する『熱』に変換して、砂に蓄える世界初の商用ソリューションである。「砂電池」と呼ばれる蓄熱槽は、幅4メートル、高さ7メートルの大きさの断熱された鋼タンクの中に100トンの砂が入れてあり、その中央に熱交換器が埋め込まれているシンプルな構造である。タンク中央に埋め込まれた熱交換器を電力で加熱し、蓄熱槽の砂を500〜600 °C程度の高温まで加熱することで、8 MWh(公称出力100 kW)という大量の電力に相当する熱エネルギーを蓄えることを可能にした。蓄熱媒体に砂を使う理由は、砂は素材として丈夫であり、おまけに極めて安価、さらに高熱に耐えられるためである。高温で蓄熱することで、より小さな体積で多くの熱エネルギーを蓄えることを可能にした。設置費用は1 kWhあたりわずか10ユーロ(1300円)と安価である。 なお日本においては、一番求められる熱源が夏場の冷熱であることから、深夜電力でヒートポンプを動かして蓄熱槽に氷を貯める氷蓄熱空調装置の設置が盛んである。このシステムは「エコアイス」の商品名で知られ、東京スカイツリーや、赤坂・六本木アークヒルズなど、地域冷暖房にまで蓄熱冷暖房を行う例もある。ごく小さな例では自動販売機の商品を蓄熱槽代わりに使うピークシフト自販機だけでなく、自販機自体に蓄熱槽を設け、冷暖適温の商品をより低電力で提供できるようにしたものもある。",
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"text": "電気エネルギーの発電、送電、配電さらに最終需要家までの設備と運用制御を総称して電気エネルギーシステムという。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1990年代から、欧米を中心として、世界中の多くの国や地域において、電力の自由化が積極的に進められている。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "欧州の各国の電力事業は、各国それぞれの歴史を持っている。かつてはひとつの国にひとつの電力事業業者、という形が一般的であったが、1999年に欧州電力市場では市場の自由化が導入され、各国でいくつもの電力事業業者が活動するようになった。欧州のなかでも、いちはやく自由化された電力市場を整備したのは英国であった。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "英国ではかつて英国電力公社が英国全体に電力を供給しており、発電も送電も全て行っていた。1990年にその英国電力公社が民営化され、その時に、同時に発電事業と送電事業の分離が行われ、消費者に電力を供給する配電事業にはいくつもの電力供給事業者が参加できるようになった。消費者は、(ちょうど、携帯電話の通信サービスを比較して決められるように)電力の価格などを比較して、自分が利用する電力供給事業者を選択できるようになった(なお送電に関しては、英国ではもともとひとつの電気事業者が全国の電力供給を管理していたため、結果として、高圧送電系統はナショナルグリッド1社が送電系統管理事業者として運用する方式を採用した。)。このようにして英国では、発電・送電・配電が完全に分離された。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現在、欧州各国で行われている電力事業の形態というのは、上記の英国の形態と似たものになっている。つまり、発電と送電が分離されており、送電に関しては送電系統管理事業者が行っている。そして欧州の各国はそれぞれ隣接する国々と高圧電線で結ばれ、日々、電力の輸出・輸入が行われている。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "グリーン電力とは、風力発電や太陽光発電、バイオマス発電、小規模水力発電 等々、温室効果ガスの排出が少なくて環境への負荷が小さい自然エネルギーや再生可能エネルギーによって発電された電力のことである。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2000年代に入り、欧州で風力発電の導入がかなり進みはじめてから、発電出力の変動に伴う供給の不安定化の問題への対応策が打たれるようになっており、EUレベルでスマートグリッド化が検討されるようになった。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本では第二次世界大戦前に、電力の供給を独占する体制(電力独占体制)が形成された。日本においても、1995年の電気事業法の改正により、電力自由化に向けての様々な動きが始まった。1995年に制度化されたのはIPP(Independent Power Producer 卸供給事業者)で、IPPが発電した電力を既存の10電力会社が買い取るという仕組みで、IPPが需要家に直接販売するわけではない。だから、電力料金に直接影響を与えるものではなかった。",
"title": "電気エネルギーシステム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "電気回路において電力を供給する装置を電源 (electric source)、電力を消費する装置を負荷 (electrical load)と呼ぶ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "直流回路の中でも特に電圧や電流が時間的に変化しない定常電流の回路においては、電力は時間にかかわらず",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "交流とは、時間ともに大きさと向きが周期的に変化する電圧または電流を言う。そのため、三角波やのこぎり波も交流となるが、大きさが時間と共に正弦波 (sine wave)状に変化する交流を特に正弦波交流と呼ぶ。交流回路に代表される電圧や電流が時間的に変化する回路においては、電力も時間に依存して変動をすることから、定常な場合と違って様々な量が定義される。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ここで、電圧の波高値 (peak value)を Vm、電流の波高値を Im そして周期 (period)を Tとする。さらに、瞬時電力 (instantaneous electric power)を p(t) で表す。なお、瞬時電流 (instantaneous current)を i(t)、瞬時電圧 (instantaneous voltage) を v(t) とすれば、",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "瞬時電力を1周期 T に渡って平均した値を有効電力 (effective power) と呼ぶ。電力料金請求の対象となるのはこの有効電力である。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "有効電力 P は、",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "P = 1 T ∫ 0 T p ( t ) d t {\\displaystyle P={\\frac {1}{T}}\\int _{0}^{T}p(t)\\mathrm {d} t}",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "で定義される。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ここで、電力回路に代表される正弦波交流回路に限った上で、具体的に有効電力を算出することとする。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "正弦波交流であることから、瞬時電流 i(t) と瞬時電圧 v(t) を",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "と表すとする。ただし、角周波数 ω について ω = 2 π / T {\\displaystyle \\omega =2\\pi /T} とする。ところで、瞬時電圧の実効値を V、瞬時電流の実効値を I とすれば、それぞれ V = V m 2 , I = I m 2 {\\displaystyle V={\\frac {V_{m}}{\\sqrt {2}}}\\;,\\;I={\\frac {I_{m}}{\\sqrt {2}}}} が成り立つ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このとき、有効電力 P は",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで位相差 φ {\\displaystyle \\phi } の余弦 c o s ( φ ) {\\displaystyle cos(\\phi )} を力率、位相差 φ {\\displaystyle \\phi } 自体を力率角と呼ぶ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "電力回路において、有効電力は電力機器を動かすために必要であるが、電圧の調整に使われるものとして電圧と電流の実効値の積に力率角 φ {\\displaystyle \\phi } の正弦 s i n ( φ ) {\\displaystyle sin(\\phi )} をかけたものを無効電力 (reactive power) と呼ぶ。なお、無効電力は、『電力』と銘打っているものの、負荷と電源とを往復するだけの、消費されないエネルギーである。無効電力の概念は難解であるが、「力率とは、有効電力と負荷(容量性・誘導性)に残留しソースに戻されるエネルギー、および非線形負荷によって生成される高調波を含む皮相電力の比と定義される」と説明されており、瞬時の充放電、高調波などが無効電力を構成していると捉えると理解しやすい。無効電力は接地された中性線を介してソース(大地)へ戻る。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "記号 Q で表され、単位はバール (記号: var)が用いられる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "無効電力は、自己インダクタンスに由来する誘導負荷と、静電容量に由来する容量負荷から生じる。誘導負荷による無効電力を「遅れ無効電力」、容量負荷による無効電力を「進み無効電力」と呼ぶ。電力関係では電圧を基準として、電流が遅れている場合の無効電力を正とすることが多い。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "誘導性負荷は遅れ無効電力を増やし、容量性負荷は進み無効電力を増やす。遅れ無効電力と進み無効電力は互いに打ち消しあう関係であり、これら両者の無効電力が互いに等しい状態(無効電力がゼロ)が、最も理想的な状態といえる。電力会社が力率100 %に対し、料金の割引制度を設けているのは、無効電力がゼロすなわち無効電力源が不要な状態であり電力会社にとって好ましい状態だからである。逆に誘導電動機を多用するなどして遅れ無効電力を電力会社から頂戴するような環境だと(力率が低い)、電力会社は割増料金を取らざるを得なくなる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "インピーダンスを用いて無効電力を表すと、",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "となる。X > 0 であれば Q > 0 であり、これは誘導性負荷で電圧に対して電流が遅れる。 同じくアドミタンスを用いれば",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "となる。B > 0 であれば Q < 0 であり、これは容量性負荷で電圧に対して電流が進む。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "正弦波交流回路において、電圧の実効値 V と電流の実効値 I の積を皮相電力 (apparent power) と呼ぶ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "単位はボルトアンペア(記号: VA)が用いられる。記号としては S で表されることが多い。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この皮相電力 S と有効電力 P、無効電力 Q そして力率 cos(φ) との間には以下の関係",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "なお、インピーダンスを用いれば",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "となり、アドミタンスを用いれば",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "上記は電圧・電流ともに正弦波の場合であるが、ダイオードなどの非直線性素子が入った回路においては電流が正弦波とはならず、説明が複雑となる。基本は瞬時電圧と瞬時電流から瞬時電力を求め、それを平均することによりまず有効電力Pを求める。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また、電圧Vの実効値と電流Iの実効値の積から、皮相電力Sが求められる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "さらに、皮相電力と有効電力、無効電力Qの関係式",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "を変形すると、皮相電力と有効電力から無効電力が求められる。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "非直線性回路では、電圧が正弦波であっても電流に高調波成分を含むことになり、従来力率改善に用いられた同期調相機や電力用コンデンサでは十分な改善効果が得られないだけでなく、電力用コンデンサなどに障害を与える場合がある。特に、コンピュータなどに内蔵されるAC-DCコンバータや、省エネルギーのためのインバータ制御機器が問題になる。このため、高調波成分を減少させ、力率を改善するための規制が行われることも多い。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "起電力Eとその内部抵抗rと外部抵抗Rにおいての電源より供給できる最大電力。または消費電力が最大になるときの最大電力。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "電気工学では最大電力供給条件という。分野によってはマッチングとも。記号はPまたはPmax、単位はワット (Watt; W)。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "rは内部抵抗、Rは外部抵抗として説明する。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "直流電力の公式",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "これを1とする。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "起電力",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ゆえに",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "となる。これを2とする。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1へ2を代入",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "P = R ( E r + R ) 2 = E 2 r 1 r R + R r + 2 {\\displaystyle {\\begin{alignedat}{2}P&=R\\left({\\frac {E}{r+R}}\\right)^{2}\\\\&={\\frac {E^{2}}{r}}{\\cfrac {1}{{\\cfrac {r}{R}}+{\\cfrac {R}{r}}+2}}\\\\\\end{alignedat}}}",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "相加平均と相乗平均の関係を分母に用いると P = E 2 4 r {\\displaystyle P={\\frac {E^{2}}{4r}}} という公式が導き出される。",
"title": "定義と公式"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "電力網においては、各瞬間の需要と供給の量は、つまり各発電所の発電量と電力網の先で電力が消費される量は等量になる。これを、電力の「同時同量の原則」という。",
"title": "電力網における同時同量の原則"
}
] |
電力とは、単位時間に電流がする仕事(量)のことである。国際単位系 (SI) においてはワット W が単位として用いられる。 なお、電力を時間ごとに積算したものは電力量 と呼び、電力とは区別される。つまり、電力を時間積分したものが電力量であり、量の次元としてはエネルギーに等しい。 なお、消費電力あるいは「電力系統における電力」とは、単位時間に発電機等によって発電され、送電線によって送られ(送電)、そして電気器具によって消費される、単位時間あたりの電気エネルギーを言う。
|
{{Otheruses|一般用語|企業全般|電力会社}}
{{物理量
|名称=
|英語= electric power
|記号= {{mvar|P}}
|次元= [[長さ|L]]{{sup|2}} [[質量|M]] [[時間|T]]{{sup-|3}}
|階= スカラー
|SI= [[ワット]] (W)
|CGS= [[エルグ]]毎[[秒]] (erg/s)
|FPS= [[フィート・パウンダル]]毎秒 (ft pdl/s)
|MKSG= [[重量キログラムメートル]]毎秒 (kgf m/s)
|FPSG= [[フィート重量ポンド]]毎秒 (ft lbf/s)
}}
'''電力'''(でんりょく、{{lang-en-short|electric power|links=no}})とは、[[単位時間]]に[[電流]]がする[[仕事 (物理学)|仕事]](量)のことである<ref name="physics" />。[[国際単位系]] (SI) においては[[ワット]] W が[[単位]]として用いられる。
なお、電力を時間ごとに[[積算]]したものは[[電力量]] ({{En|electric energy}}) と呼び、電力とは区別される。つまり、電力を時間積分したものが電力量であり、[[量の次元]]としては[[エネルギー]]に等しい。
なお、[[消費電力]]あるいは「[[電力系統]]における電力」とは、単位時間に[[発電機]]等によって[[発電]]され、[[送電線]]によって送られ([[送電]])、そして電気器具<ref group="注">一般に広く'''負荷''' (electrical load)と呼ばれる。</ref>によって消費される、単位時間あたりの[[電気エネルギー]]を言う<ref>[[#近角(2013) |近角(2013)]] p.363 '''消費電力''' ({{En|electricity consumption}}) とも呼ばれる。</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Solar panels on house roof.jpg|thumb|160px|屋根にソーラーパネルを設置して自家発電している家]]
[[ファイル:HUUSYA.JPG|thumb|160px|家庭で用いられることのある{{仮リンク|小型風力発電機|en|Small wind turbine}}]]
専門用語では、「電力」とは[[単位時間]]に[[電流]]がする[[仕事 (物理学)|仕事]](量)のことである。単位は[[W]] ([[ワット]]) であり<ref name="physics" />、電圧Vの電源から電流Iが流れているとき、電力はV・Iという[[数式|式]]で表せる<ref name="physics">『改定版 物理学事典』「電力」</ref>。つまり電力は、[[電圧]]と[[電流]]の[[積]]である<ref>電気学会『電気磁気学 電気学会大学講座』</ref>(物理学概念の分類体系で言うと、[[仕事率]] (power) に分類される)。→[[#定義と公式]]
なお、一般用語(非専門用語)では、「電力」が、[[電気]]の形で伝えられる[[エネルギー]]を指していることも多い。なお専門用語ではこのエネルギーに関しては「[[電力量]]」と呼び分けて区別している。
電力は[[電池]](← [[化学エネルギー]])、[[発電機]](← [[運動エネルギー]])、[[太陽電池]](← [[光エネルギー]])などにより、それぞれのエネルギーから電気エネルギーに変換される。これを総称して'''発電'''と呼ぶ。
発電された電力はそのまま使うか(自家使用、または[[自家発電]])、または[[電力系統|電力網]]に投入して遠隔地に送り、需要のあるところで使われる。[[電線]]により、発電するところと電力を消費する負荷とを、電力網を介して繋ぐだけで電力の利用ができ、また様々なエネルギー形態、例えば光エネルギー([[白熱電球]]や[[発光ダイオード|LED]]ほか)や運動エネルギー([[電動機]]ほか)、[[熱エネルギー]]([[電熱]]・冷暖房)そして、化学エネルギー([[蓄電池]]や[[電気分解]]、[[電気めっき]]ほか)などなど、他のエネルギーに容易に変換できる優れた特性を持つのが、電力の大きな特徴である。
== 電力の蓄電 ==
電力を貯蔵する方法は多数ある。
近年では、世界各国の政府により「[[脱炭素|脱カーボン]]」を推進することは至上命題となっており、再生可能エネルギーである[[太陽光発電]]や[[風力発電]]を増やしつつ、その日の天候による発電量の変動や、昼間と夜間の差や生じるという性質を補うために蓄電システムの活用ならびに増強が重視されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/shingikai/energy_environment/storage_system/pdf/003_05_00.pdf |title=資料5 定置用蓄電システムの普及拡大に関する取組(PDF形式:6,010KB) |access-date=2022-12-23 |author=経済産業省 資源エネルギー庁 新エネルギーシステム課 |date=2021-1-19 |publisher=経済産業省 定置用蓄電システム普及拡大検討会 |language=ja}}</ref>。太陽光発電や風力発電と蓄電システムとを組み合わせることで、脱炭素と電力の安定供給を両立するシステムを構築することができる。その一方で電力網の運用の現場では従来の回転機による発電機でない、太陽光発電システムや系統連系用蓄電池が用いるインバータ電源が系統に増え過ぎるとブラックアウトの危険性が増すことも危惧されている<ref>{{Cite web|和書|language=ja |url=https://www.tdgc.jp/information/2021/06/16_1600.html |title=【知っトク!送配電】同期電源の減少に起因する技術的課題 |access-date=2022-12-23 |publisher=[[送配電網協議会]] |quote=ゴールデンウィークの昼間のように、需要が低く、再エネ出力が大きい時間帯には、発電電力(kW)に占める再エネの割合が増え、火力発電等の同期電源の運転台数が減少します。このような状態で、大規模な電源脱落が発生すると、周波数の低下により連鎖的に電源が脱落し、大規模な停電に至るリスクが高まります。}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |language=ja |title=(資料)同期電源の減少に起因する技術的課題[4.3 MB] |url=https://www.tdgc.jp/information/docs/2785aa13a30ecb96df84519f3c93308a03b20f9c.pdf |publisher=[[送配電網協議会]] |access-date=2022-12-23}}</ref>
=== 二次電池による蓄電 ===
たとえば[[二次電池|蓄電池]]を使った電力の貯蔵も小規模から大規模なものまで実用化されている。[[リチウムイオン二次電池]]を利用した家庭用や[[電気自動車]]用の小規模蓄電から、大規模なものは送配電会社の変電所、太陽光発電所や風力発電所に併設されている、[[チタン酸リチウム二次電池]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://sgforum.impress.co.jp/news/2088 |title=東芝社会インフラシステム社、東北電力株式会社向け系統用蓄電池システムの営業運転を開始 |date=2016-02-26 |publisher=[[インプレス]] |language=ja |accessdate=2022-07-25}}</ref>や[[ナトリウム・硫黄電池]](NAS電池)またはリチウムイオン二次電池による蓄電設備に至るまで、数々のものが実用に供されている。なお日本においてはリチウムイオン蓄電池設備は消防法上の蓄電池設備の規制のほか、可燃性の電解液が法に基づく危険物(第四類 第二石油類)とされるため危険物施設としての制限を受けることがネックとなっており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fdma.go.jp/singi_kento/kento/items/kento080_51_03_houkoku.pdf |title=リチウムイオン電池に係る危険物施設の安全対策のあり方に関する検討報告書【最終報告書】 |access-date=2022-12-23 |author=総務省消防庁危険物保安室 |year=2011 |month=12 |format=PDF |publisher=総務省消防庁 |pages=10–13 |language=ja}}</ref>、内閣府としても規制緩和を求めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/publication/program/220607/03_initiatives.pdf |title=規制改革実施計画関連資料集 |access-date=2022-12-23 |year=2022 |month=6 |format=PDF |publisher=内閣府 規制改革推進室 |pages=8–9 |quote=内閣府の公表資料 [https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/publication/p_index.html] より。 |language=ja}}</ref>。
定置型蓄電装置には[[電気自動車]]ほどの急速充放電特性は求められないため、役目を終えた[[電気自動車]]の廃棄[[電池|バッテリー]]による蓄電設備が普及しつつある<ref>{{Cite web|和書|title=電気自動車の使用済み駆動バッテリーはどうなるの?【EVの疑問、解決します】 |url=https://www.goo-net.com/magazine/newmodel/car-technology/50857/ |website=中古車なら【グーネット】 |date=2021-07-23 |access-date=2022-07-10 |language=ja}}</ref>。また次世代電池として注目されている[[全固体電池]]による蓄電も検討されている。ただ送電網向けのリチウムイオン蓄電池ともなると未だに高コストであり、[[MITテクノロジーレビュー]]によれば、[[アメリカ合衆国エネルギー省]] エネルギー情報局の報告として2018年現在、資本コストは 1{{nbsp}}kWhあたり625米ドルの数値を挙げ、2015年に比べてコストは3分の1以下となったものの、まだまだ高価である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.technologyreview.jp/s/278252/can-grid-storage-batteries-save-japans-power-supply-crisis/ |title=送電網向け蓄電池は「需給ひっ迫」の危機を救えるか? |access-date=2022-12-23 |author=本橋恵一 |date=2022-06-15 |website=MITテクノロジーレビュー}}{{Subscription required}}</ref>としている。
=== 揚水による蓄電(揚水蓄電) ===
たとえば日本では古くから、水の[[位置エネルギー]]として電力を保存する方法が活用されている。(このシステムは本当は蓄電システムなのだが、なぜか発電のほうに焦点を当てた名称「[[揚水発電]]」と呼ばれている。)
<!--日本の[[原子力発電所]]は、定常運転中は基本的に出力を変動させない運転をするルールであり、大規模火力発電所も、一度火を落とすと再立ち上げに最短でも数時間単位で要するため、夜間の余った電力を揚水発電所に送電し、夜のうちに水を上貯水池に貯めておく。-->昼間の需要時には起動に数分間<ref group="注">水車に水を落とす前の運転準備に掛ける時間を除く。</ref>あれば良いため、発電(蓄電)効率は 70{{nbsp}}% 程度に留まるとは言え<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />、急激な需要増加に対応可能な、実用的な大規模[[二次電池|蓄電装置]]である。なお日本の揚水発電は約40箇所あり、その設備容量はおよそ26{{nbsp}}[[ギガワット|GW]] (2,600万キロワット)に達する<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />。1回あたり5時間発電するとして、発電量は 1回あたり130{{nbsp}}GWh (13,0000万キロワット時)の充放電容量を持つ計算である<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />。設備利用率を17{{nbsp}}%と仮定すると、日本全体で年間 40TWh もの蓄電量を持つことになる<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />。ただ揚水発電は発電コストが他の発電方式より高価であるため、実際の設備利用率は 3{{nbsp}}%と低い<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />。またもう日本には揚水発電に適した地点は、もうほとんど無く、機動的に揚水発電を蓄電手段として使用するには中小規模の揚水発電所を数多く建設する必要がある<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />。
科学技術振興機構が2019年に出した炭素社会実現に向けた政策立案のための提案書<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />の試算によれば、揚水発電の設備コストは48,200円/kWh(耐用40年)、発電コストは22.6円/kWh、一方で蓄電池は設備コストは11,000円/kWh(耐用10年)、発電コストは16.5円/kWhとなり<ref name="LCS-fy2018-pp-08" />、設備の寿命を考え、かつ土木工事のコストダウンを図れば蓄電池と同等のコストで実現できるとしている<ref name="LCS-fy2018-pp-08">{{Cite web|和書|url=https://www.jst.go.jp/lcs/pdf/fy2018-pp-08.pdf |title=日本における蓄電池システムとしての揚水発電のポテンシャルとコスト |access-date=2022-12-23 |format=PDF |work=低炭素社会実現に向けた政策立案のための提案書 |publisher=科学技術振興機構 低炭素社会戦略センター}}</ref>。
=== 水素による蓄電 ===
[[トヨタ自動車]]が、様々な企業と連携して他の多くの企業と手を携え、推進しているプロジェクトである。大規模な[[水素]]システムは、『水素』という物質の形で行う電力の蓄電手法である<ref>[https://ikikuru.com/column/post-46403/]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1414219.html |title=トヨタ、「ポータブル水素カートリッジ」開発 |access-date=2022-12-23 |publisher=インプレス}}</ref>。[[水]]は、[[電気分解]]すると[[水素]]と酸素とに分解できる。逆に、「水素」という物質の形でそれをタンクなどに貯えておけば、安定したエネルギーの保存ができ、電力を必要とするときは「[[燃料電池]]」と呼ばれる、水素と酸素の反応装置を使い、貯えておいた水素と、我々の周囲にある空気中の酸素とを反応させて電力を得られる(2H<sub>2</sub> + O<sub>2</sub> → 2H<sub>2</sub>O + 電気エネルギー)。また水素は内燃機関などで単純に燃やしても水が生じるだけであり、水素システムはとてもクリーンだという優れた性質がある。ただ水素の難点として軽く密度が低いこと、空気と混合したときの爆発範囲が 4 - 75{{nbsp}}% と幅広く極めて爆発しやすい(燃速も速い)問題があり<ref>{{Cite journal |author=三宅 淳巳 |year=1997 |title=水素の爆発と安全性 |url=https://www.hess.jp/Search/data/22-02-009.pdf |journal=水素エネルギーシステム |volume=22 |issue=2 |pages=9–17 |language=ja |accessdate=2022-12-23 |format=PDF}}</ref>、このことと金属の水素脆化の問題から水素配管には他のガス配管以上に設計・施工・維持管理に係る安全性確保が必要である。さらに他の気体よりも高圧にして運搬しないとコスト的に引き合わないこと、[[液体水素|液化水素]]の取り扱いが難しいことから、水素単体のまま運搬せず、アンモニアやメタンなど水素を含む化合物に変換して運搬・利用する動きもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/energy/suiso_nenryodenchi/suiso_nenryodenchi_wg/pdf/005_02_00.pdf |title=水素の製造、輸送・貯蔵について |access-date=2022-12-23 |author=資源エネルギー庁 燃料電池推進室 |date=2014-04-14 |language=ja}}</ref>。
=== 蓄熱システム ===
電力の用途は、その約3分の1が冷暖房の熱源である。したがって電力をその用途である熱エネルギーにあらかじめ変換した状態で蓄えてもよい。
[[フィンランド]]の電力会社バタヤンコスキは、ポーラー・ナイト・エナジー社の特許技術に基づく大量の砂に熱を蓄える蓄熱システムの運用を2022年に開始した。[[再生可能エネルギー]]で発電した電力を、地域暖房ネットワークで使用する『熱』に変換して、砂に蓄える世界初の商用ソリューションである<ref name="PolarNightEnergy">{{Cite web |url=https://polarnightenergy.fi/news/2022/7/5/the-first-commercial-sand-based-thermal-energy-storage-in-the-world-is-in-operation-bbc-news-visited-polar-night-energy |title=The First Commercial Sand-based Thermal Energy Storage in the World Is in Operation – BBC News Visited Polar Night Energy |access-date=2022-12-23 |author=Polar Night Energy |language=en}}</ref>。「砂電池」と呼ばれる蓄熱槽は、幅4メートル、高さ7メートルの大きさの断熱された鋼タンクの中に100[[トン]]の砂が入れてあり、その中央に熱交換器が埋め込まれているシンプルな構造である。タンク中央に埋め込まれた熱交換器を電力で加熱し、蓄熱槽の砂を500〜600{{nbsp}}℃程度の高温まで加熱することで、8{{nbsp}}MWh(公称出力100{{nbsp}}kW)という大量の電力に相当する熱エネルギーを蓄えることを可能にした。蓄熱媒体に砂を使う理由は、砂は素材として丈夫であり、おまけに極めて安価、さらに高熱に耐えられるためである。高温で蓄熱することで、より小さな体積で多くの熱エネルギーを蓄えることを可能にした。設置費用は1{{nbsp}}kWhあたりわずか10ユーロ(1300円)と安価である<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20220708-sand-battery-polar-night/ |title=世界初の商用「砂電池」がフィンランドでエネルギー貯蔵を開始 |access-date=2022-12-23 |date=2022-07-08 |website=Gigazine |language=ja}}[https://texal.jp/2022/07/08/worlds-first-commercial-sand-battery-begins-energy-storage-in-finland/ 「フィンランドで世界初の「砂電池」による熱エネルギー貯蔵が開始 – 蓄えたエネルギーで地域暖房が可能に」]</ref>。
なお日本においては、一番求められる熱源が夏場の冷熱であることから、深夜電力で[[ヒートポンプ]]を動かして蓄熱槽に氷を貯める氷蓄熱空調装置<ref group="注">冬場は同じヒートポンプで熱湯を貯める。</ref>の設置が盛んである。このシステムは「[[エコアイス]]」の商品名で知られ、[[東京スカイツリー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1106/16/news113.html |title=スカイツリーは地下もすごかった 工場のような熱供給システムを見てきた |access-date=2022-12-23 |publisher=ITmedia |language=ja}}</ref>や、[[アークヒルズ|赤坂・六本木アークヒルズ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jdhc.or.jp/article/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E3%83%BB%E5%85%AD%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%BA/ |title=熱供給事業の導入事例 - 赤坂・六本木アークヒルズ |access-date=2022-12-23 |publisher=日本熱供給事業組合 |language=ja}}</ref>など、地域冷暖房にまで蓄熱冷暖房を行う例もある。ごく小さな例では自動販売機の商品を蓄熱槽代わりに使うピークシフト自販機だけでなく、自販機自体に蓄熱槽を設け、冷暖適温の商品をより低電力で提供できるようにしたものもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1303/18/news019.html |title=熱の活用で電力使用量が半分以下に、「超省エネ自販機」を全国展開へ |access-date=2022-12-23 |date=2013-03-18 |website=スマートジャパン |publisher=ITmedia}}</ref><ref>{{Cite journal |last=秀俊 |first=藤井 |last2=秀昭 |first2=佐藤 |last3=潤一郎 |first3=粕谷 |last4=梨奈 |first4=小坂 |last5=浩一 |first5=中曽 |last6=潤 |first6=深井 |date=2018 |title=CO<sub>2</sub> ヒートポンプ飲料自動販売機における潜熱蓄熱槽の利用 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tjsrae/35/1/35_17-56/_article/-char/ja/ |journal=日本冷凍空調学会論文集 |volume=35 |issue=1 |pages=35 |doi=10.11322/tjsrae.17-56}}</ref>。
=== エネルギー管理システム ===
日本の中小企業の、大半が契約する電力料金体系は「年間最大電力」の大きさを基準にして電力基本料金が決まる仕組み(デマンド料金制)である。このため、電力単価も電力使用量も大きな夏場・冬場のピーク需要を抑えることが、年間を通しての電力料金節減の鍵となる。このことを利用して最大電力を常時監視し、設定した契約最大電力に近づいたらアラームを鳴らし、人の手で消費電力を節減する簡易なサービス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ksdh.or.jp/service/security/demand_fee.html |title=デマンド料金制とは |access-date=2022-12-23 |publisher=関西電気保安協会 |quote=電気料金抑制のためには、最大需要電力(デマンド値)を下げる工夫が必要となります。 |language=ja}}</ref>から、ビルまるごと人の流れ等を監視し冷暖房を必要なところに絞ったり、ピーク時間を避けて冷暖房の電源を入れ、ピーク時は冷暖房を止めることで最大電力を抑えるビル管理システム{{Refnest|例としてパナソニックの本田技研工業株式会社 鈴鹿物流センターへの納入事例集を挙げる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.panasonic.biz/jp/works/building/detail/id/123620000/?building-filter=detail&product-series[]=ba_system |title=納入事例集 - 物件詳細: 本田技研工業株式会社 鈴鹿物流センター |access-date=2022-12-23 |publisher=パナソニック}}</ref>。}}のような[[スマートグリッド|エネルギー管理システム]]もある<ref group="注">一般にビルの電気代は年間の最大電力需要をもとにした基本単価と電力量単価の和になっていることから、最大電力需要を下げると電気代が大幅に削減できる。</ref>。このようにして『節電』された電力は[[ネガワット]]と呼ばれ、実質的に蓄電や発電をしたとみなせる。また時々刻々の[[ネガワット]]を取引する市場での売買対象になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.egmkt.co.jp/column/corporation/20200923_16.html |title=【2017年スタート!】ネガワット取引とは?取引の流れとメリット、注意点をご紹介します。 |access-date=2022-12-23 |publisher=エバーグリーン・リテイリング |language=ja}}</ref>。
== 電力の消費 ==
=== 電力消費量 ===
全世界の電力消費量は、2000年時点では13兆2380億 kW·hであったが、2010年時点では18兆704億 kW·hとなり、2015年は21兆279億 kW·h、2018年は23兆398億 kW·hであった<ref>[https://www.statista.com/statistics/280704/world-power-consumption/ STATISTA, Net consumption of electricity worldwide in select years from 1980 to 2018]</ref>(つまり右肩上がりに増加している)。
==== 国別 ====
電力の消費量が多い順に国を挙げると次のようになる。
2015年時点の資料では、[[中国]]、[[アメリカ合衆国]]、[[日本]]、[[ロシア]]、[[インド]]の順であった<ref name='2015_sikiku'>http://www.yonden.co.jp/life/kids/museum/energy/world/005.html</ref>。
それが2021年では、中国、アメリカ合衆国、インド、日本、ロシアの順となっている<ref name="2021一人の消費電力">{{Cite web|和書| url = https://datacommons.org/ranking/Amount_Consumption_Electricity_PerCapita/Country/?h=country%2FJPN&unit=kW·h&hl=ja | title = 1 人あたりの電力消費量 別のランキング | publisher = Google | accessdate = 2021-06-5 }}</ref>
一方、国民一人当たりの電力消費量の多い順に挙げると、2021年で[[アイスランド]]、[[ノルウェー]]、[[バーレーン]]、[[クウェート]]、[[カナダ]]の順になり、日本は19番目となる<ref name="2021一人の消費電力" />。アイスランドの一人当たりの消費電力は1位であるが、[[地熱発電]]が20 %、他が[[水力発電]]と、ほぼ100 %が[[自然エネルギー]]で賄われている<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.renewable-ei.org/activities/column/REupdate/20210308_1.php#:~:text=現在、アイスランドの電力,で賄われている。 | title = 自然と調和するエネルギー利用:日本でも地熱の活用を | publisher = 自然エネルギー財団 | accessdate = 2021-06-5 }}</ref>。カナダは、湖や河川など豊富な水資源に恵まれていて電気料金が安いので一人あたりの消費量が特に多いのである<ref name='2015_sikiku' />。一方、中国は一人当たりの電力消費量は世界平均ほどだが、国民の人数が大きいので国全体の電力消費量が大きくなっている(なお中国は急速に経済成長しているので電力不足が深刻化している)<ref name='2015_sikiku' />。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+ 世界の消費電力ランキング(資料年不明)<ref name="2021一人の消費電力" />
! 順位 !! 1位 !! 2位 !! 3位 !! 4位 !! 5位 !! 6位 !! 7位 !!8位 !! 9位 !! 10位
|-
! 総消費電力
| 中華人民共和国 || アメリカ合衆国 || インド || 日本 || ロシア || ドイツ || カナダ || 大韓民国 || ブラジル || イギリス
|-
! 一人当たりの消費電力
| アイスランド || ノルウェー || バーレーン || クウェート || カナダ || [[フィンランド]] || [[カタール]] || [[ルクセンブルク]] || [[スウェーデン]] || アメリカ合衆国
|}
::なお、消費電力量順の国の一覧は{{仮リンク|電力消費順の国のリスト|en|List of countries by electricity consumption}}として、独立記事が立てられている(国旗と数字で読みとれるので英語が理解できない人でも内容は分かる記事となっている)。
====家庭での電力の消費量====
家庭での電力の消費の量やその内訳というのは、国、地域、季節、日々の[[気温]]ごとにかなり異なっている。
参考までに、日本の家庭の一世帯あたりの電気消費量は、平成21年度(2009年4月〜2010年3月、[[冷夏]]・[[暖冬]]であった期間)の通年では4618 [[キロワット時|kW·h]]/世帯であった。内訳としては、大きいものから[[電気冷蔵庫]]14.2 %、[[照明器具]]13.4 %、[[テレビ]]8.9 %、[[エアコン]]7.4 %と試算された<ref group="注">資源エネルギー庁による試算。「平成21年度 民生部門エネルギー消費実態調査」(有効回答数10,040)および「機器の使用に関する補足調査」(1,448件)を用いて日本エネルギー経済研究所が試算した数字である。</ref><ref>資源エネルギー庁「[https://megalodon.jp/2014-0830-1026-57/www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saving/data/13summer0172.pdf 省エネ 性能カタログ 2013年夏版]」</ref>。
なお、同じ日本の家庭の消費電力の内訳でも、夏で最大需要が発生する日の日中(14時ころ)の消費電力の内訳は、資源エネルギー庁推計によると、エアコン53 %、冷蔵庫23 %、テレビ5 %、照明5 %だとのことである<ref>[https://megalodon.jp/2014-0830-1034-59/www.env.go.jp/chemi/heat_stroke/ic_rma/2301/mat08-5.pdf 資源エネルギー庁作成の節電に関するパンフレット]</ref>。
国ごとの大まかな統計資料は「[[消費電力]]」の記事に掲載している。
{{Seealso|消費電力}}
==== 節電 ====
電力を節約すること、電力消費量を減らすことを[[節電]]という。
=== 電力化率 ===
全エネルギー供給に占める電気エネルギーの割合を電力化率という<ref name="e9">{{Cite book |和書 |author=八坂保能編著 |year=2017 |title=電気エネルギー工学 新装版 発電から送配電まで |publisher=森北出版 |page=9}}</ref>。
== 歴史 ==
;電力利用の歴史
初期の電力の装置として摩擦電気を集める[[静電発電機]]があり、電圧は高かったものの、容量的には極めて小さいものだった<ref name="e9" />。19世紀中頃には[[電池]]が発明され[[アーク灯]]に利用された<ref name="e9" />。さらに[[電磁気学]]の進展により、[[1870年]]頃から[[直流発電機]]、[[1880年]]頃から交流発電機が実用化された<ref name="e9" />。
最初の電力会社、[[トーマス・エジソン]]の会社が設立した[[:en:Pearl Street Station|Pearl Street Station]]は[[直流送電|直流方式で送電]]し一時期はそれが標準となっていたが、[[ニコラ・テスラ]]やジョージ・ウェスティングハウスは[[交流送電]]を推し、両陣営間で激しい対立が起き、結果として交流送電方式が普及し(そのいきさつや理由については「[[電流戦争]]」の記事で詳説)、現代の電力会社は一般的には電力を[[三相交流]]で供給しており、電圧としては高圧電力・低圧電力の両方を販売している。電力会社の業界を電力業界という。
== 電気エネルギーシステム ==
電気エネルギーの発電、送電、配電さらに最終需要家までの設備と運用制御を総称して電気エネルギーシステムという<ref>{{Cite book |和書 |author=八坂保能編著 |year=2017 |title=電気エネルギー工学 新装版 発電から送配電まで |publisher=森北出版 |page=119}}</ref>。
1990年代から、欧米を中心として、世界中の多くの国や地域において、電力の自由化が積極的に進められている<ref name="jiyuuka_keizaigaku_hashi">『電力自由化の経済学』はしがき</ref>。
[[欧州]]の各国の電力事業は、各国それぞれの歴史を持っている<ref name="yokuwakaru_6_1">『よくわかる最新スマートグリッドの基本と仕組み』6章-1 pp.134-135</ref>。かつてはひとつの国にひとつの電力事業業者、という形が一般的であったが<ref name="yokuwakaru_6_1" />、1999年に欧州電力市場では市場の自由化が導入され、各国でいくつもの電力事業業者が活動するようになった<ref name="yokuwakaru_6_1" />。欧州のなかでも、いちはやく自由化された電力市場を整備したのは[[英国]]であった<ref name="yokuwakaru_6_1" />。
英国ではかつて英国電力公社が英国全体に電力を供給しており、発電も送電も全て行っていた<ref name="yokuwakaru_6_1" />。1990年にその英国電力公社が民営化され、その時に、同時に[[発電]]事業と[[送電]]事業の分離が行われ、消費者に電力を供給する配電事業にはいくつもの電力供給事業者が参加できるようになった<ref name="yokuwakaru_6_1" />。消費者は、(ちょうど、携帯電話の通信サービスを比較して決められるように)電力の価格などを比較して、自分が利用する電力供給事業者を選択できるようになった<ref name="yokuwakaru_6_1" />(なお送電に関しては、英国ではもともとひとつの電気事業者が全国の電力供給を管理していたため、結果として、高圧送電系統は[[ナショナルグリッド]]1社が送電系統管理事業者として運用する方式を採用した<ref name="yokuwakaru_6_1" />。)。このようにして英国では、発電・送電・配電が完全に分離された<ref name="yokuwakaru_6_1" />。
現在、欧州各国で行われている電力事業の形態というのは、上記の英国の形態と似たものになっている<ref name="yokuwakaru_6_1" />。つまり、発電と送電が分離されており、送電に関しては送電系統管理事業者が行っている<ref name="yokuwakaru_6_1" />。そして欧州の各国はそれぞれ隣接する国々と高圧[[電線]]で結ばれ、日々、電力の輸出・輸入が行われている<ref name="yokuwakaru_6_1" />。
[[グリーン電力]]とは、[[風力発電]]や[[太陽光発電]]、[[バイオマス発電]]、[[小規模水力発電]] 等々、[[温室効果ガス]]の排出が少なくて[[環境]]への負荷が小さい[[自然エネルギー]]や[[再生可能エネルギー]]によって発電された電力のことである<ref name="zukai_78">『図解入門ビジネス最新温暖化対策の基本と仕組みがよーくわかる本』p.78</ref>。
2000年代に入り、欧州で[[風力発電]]の導入がかなり進みはじめてから、発電出力の変動に伴う供給の不安定化の問題への対応策が打たれるようになっており、[[EU]]レベルで[[スマートグリッド]]化が検討されるようになった<ref name="yokuwakaru_6_1" />。
日本では第二次世界大戦前に、電力の供給を[[独占]]する体制(電力独占体制)が形成された<ref>渡哲郎『戦前期のわが国電力独占体』</ref>。日本においても、1995年の[[電気事業法]]の改正により、[[電力自由化]]に向けての様々な動きが始まった<ref name="jiyuuka_keizaigaku_hashi" />。1995年に制度化されたのはIPP(Independent Power Producer 卸供給事業者)で、IPPが発電した電力を既存の10電力会社が買い取るという仕組みで、IPPが需要家に直接販売するわけではない。だから、電力料金に直接影響を与えるものではなかった<ref>吉松崇「電力会社が原発に固執するのは何故か」(『世界』岩波書店 第824号 2011年12月 292ページ)</ref>。
{{See also|電力自由化}}
== 定義と公式 ==
電気回路において電力を供給する装置を[[電源]] (electric source)、電力を消費する装置を[[負荷 (電力)|負荷]] ([[:en:Electrical load|electrical load]])と呼ぶ。
=== 定常電流の電力 ===
[[直流回路]]の中でも特に電圧や電流が時間的に変化しない定常電流の回路<ref group="注">例えば、電源が乾電池、負荷が豆電球しかない直流回路を流れる電流は定常的(定常電流)である。</ref>においては、電力は時間にかかわらず
:<math>P = VI = I^2R = \frac{V^2}{R}</math>
:ただし、P : 電力[W]、V : 電圧[V]、I : 電流[A]、R : 抵抗[Ω]
となる。
=== 正弦波交流電流の電力 ===
[[交流]]とは、時間ともに大きさと向きが周期的に変化する電圧または電流を言う<ref>[[#安岡(2012)|安岡(2012)]] p.23</ref>。そのため、三角波やのこぎり波も交流となるが、大きさが時間と共に正弦波 (sine wave)状に変化する交流を特に正弦波交流と呼ぶ<ref group="注">すなわち、正弦波交流は sin 関数と cos 関数で表すことができる。</ref>。[[交流回路]]に代表される電圧や電流が時間的に変化する回路においては、電力も時間に依存して変動をすることから<ref group="注">負荷によっては電圧と電流間で[[位相差]]が発生する場合もある。</ref>、定常な場合と違って様々な量が定義される。
ここで、電圧の波高値 (peak value)を V<sub>m</sub>、電流の波高値を I<sub>m</sub> そして周期 (period)を Tとする。さらに、瞬時電力 (instantaneous electric power)を p(t) で表す。なお、瞬時電流 (instantaneous current)を i(t)、瞬時電圧 (instantaneous voltage) を v(t) とすれば、
: <math>p(t) = v(t) \cdot i(t)</math>
が成り立つ。
==== 有効電力 (effective power) ====
瞬時電力を1周期 T に渡って平均した値を'''有効電力''' (effective power) と呼ぶ<ref>[[#安岡(2012)|安岡(2012)]] p.28</ref>。電力料金請求の対象となるのはこの有効電力である。
有効電力 P は、
{{Quotation|
<math>P = \frac{1}{T} \int_0^T p(t) \mathrm{d}t</math>
}}
で定義される。
ここで、[[電力回路]]に代表される正弦波交流回路に限った上で、具体的に有効電力を算出することとする。
正弦波交流であることから、瞬時電流 i(t) と瞬時電圧 v(t) を
:<math>v(t) = V_m \sin(\omega t)</math> 、 <math>i(t) = I_m \sin(\omega t - \phi)</math>
と表すとする。ただし、角周波数 ω について <math>\omega = 2\pi / T</math> とする。ところで、瞬時電圧の実効値を V、瞬時電流の実効値を I とすれば、それぞれ <math>V = \frac{V_m}{ \sqrt{2} } \; , \; I = \frac{ I_m }{ \sqrt{2} }</math> が成り立つ。
このとき、有効電力 P は
:<math>\begin{align}
P &= \frac{1}{T} \int_0^T p(t) \mathrm{d}t = \frac{1}{T} \int_0^T v(t)i(t) \mathrm{d}t \\
&= \frac{\omega}{2\pi} \int_0^{ \frac{2\pi}{\omega} } V_m I_m \sin(\omega t) \sin(\omega t - \phi) \mathrm{d} t \\
&= V_m I_m \frac{\omega}{2\pi} \int_0^{ \frac{2\pi}{\omega} } \frac{ \cos(\phi) - \cos(2\omega t - \phi) }{2} \mathrm{d}t \\
&= \frac{V_m I_m}{2} \cos(\phi) \frac{\omega}{2\pi} \int^{ \frac{2\pi}{\omega} }_0 \mathrm{d} t - \frac{V_m I_m}{2} \frac{\omega}{2\pi} \left[ \frac{1}{2\omega} \sin(2\omega t - \phi) \right]^{\frac{2\pi}{\omega} }_0 \\
&= \frac{V_m}{\sqrt{2} } \frac{I_m}{\sqrt{2} } \cos(\phi) - 0 = VI \cos(\phi)
\end{align}</math>
となる。ここで位相差 <math>\phi</math> の余弦 <math>cos(\phi)</math> を[[力率]]、位相差 <math>\phi</math> 自体を力率角と呼ぶ<ref group="注">力率角が <math>\phi = 0</math> の状態、すなわち力率が <math>cos(\phi) = 1</math> の場合が理想的な状態であり、負荷の力率が1に近いほど「力率が良い」といい、逆にゼロに近いほど「力率が悪い」という。</ref>。
==== 無効電力 (reactive power) ====
電力回路において、有効電力は電力機器を動かすために必要であるが、電圧の調整に使われるものとして電圧と電流の実効値の積に力率角 <math>\phi</math> の正弦 <math>sin(\phi)</math> をかけたものを'''無効電力''' (reactive power) と呼ぶ。なお、無効電力は、『電力』と銘打っているものの、負荷と電源とを往復するだけの、消費されないエネルギーである。無効電力の概念は難解であるが、「力率とは、有効電力と負荷(容量性・誘導性)に残留しソースに戻されるエネルギー、および非線形負荷によって生成される高調波を含む皮相電力の比と定義される」と説明されており<ref>https://www.infineon.com/dgdl/an-1173.pdf?fileId=5546d462533600a40153559ad4eb1143</ref>、瞬時の充放電<ref>https://industrial.panasonic.com/jp/ss/technical/b2</ref>、高調波などが無効電力を構成していると捉えると理解しやすい。無効電力は接地された中性線を介してソース(大地)へ戻る<ref>https://catalog.clubapc.jp/pdf/wp/SADE-5TNQZ5_R0_JA.pdf</ref>。
記号 Q で表され、単位はバール (記号: var)が用いられる。
:<math>Q = VI \sin\phi</math>
無効電力は、[[自己インダクタンス]]に由来する誘導負荷と、[[静電容量]]に由来する容量負荷から生じる。誘導負荷による無効電力を「遅れ無効電力」、容量負荷による無効電力を「進み無効電力」と呼ぶ。電力関係では電圧を基準として、電流が遅れている場合の無効電力を正とすることが多い。
誘導性負荷は遅れ無効電力を増やし、容量性負荷は進み無効電力を増やす。遅れ無効電力と進み無効電力は互いに打ち消しあう関係であり、これら両者の無効電力が互いに等しい状態(無効電力がゼロ)が、最も理想的な状態といえる。電力会社が[[力率]]100 [[パーセント|%]]に対し、料金の割引制度を設けているのは、無効電力がゼロすなわち無効電力源が不要な状態であり電力会社にとって好ましい状態だからである。逆に誘導電動機を多用するなどして遅れ無効電力を電力会社から頂戴するような環境<ref group="注">なお、送電網の安定性の観点から進み無効電力が過多となる負荷は、電力会社は認めていない。</ref>だと(力率が低い)、電力会社は割増料金を取らざるを得なくなる。
インピーダンスを用いて無効電力を表すと、
:<math> \begin{align}
Q &=Z I^2\sin\phi =X I^2 \\
&=\frac{X V^2}{Z^2}=\frac{XV^2}{R^2+X^2} \\
\end{align} </math>
となる。X > 0 であれば Q > 0 であり、これは誘導性負荷で電圧に対して電流が遅れる。
同じくアドミタンスを用いれば
:<math> \begin{align}
Q &=Y V^2\sin\phi =-B V^2 \\
&=-\frac{BI^2}{Y^2}=-\frac{BI^2}{G^2+B^2} \\
\end{align} </math>
となる。B > 0 であれば Q < 0 であり、これは容量性負荷で電圧に対して電流が進む。
==== 皮相電力 (apparent power) {{Anchors|皮相電力}}====
正弦波交流回路において、電圧の実効値 V と電流の実効値 I の積を'''皮相電力''' (apparent power) と呼ぶ<ref group="注">その意味は表向き(見かけ)の電力である。</ref>。
:<math>S = VI </math>
単位は[[ボルトアンペア]](記号: VA)が用いられる。記号としては S で表されることが多い。
この皮相電力 S と有効電力 P、無効電力 Q そして力率 cos(φ) との間には以下の関係
:<math>S^2 = P^2 + Q^2</math>
:<math>P =S\cos\phi =\sqrt{S^2 -Q^2}</math> 、 <math>Q =S\sin\phi,~
|Q| =\sqrt{S^2 -P^2}</math>
が成り立つ。
なお、インピーダンスを用いれば
:<math> \begin{align}
S &=ZI_\text{e}^2 =I_\text{e}^2\sqrt{R^2+X^2} \\
&=\frac{V_\text{e}^2}{Z} =\frac{V_\text{e}^2}{\sqrt{R^2+X^2}}
\end{align} </math>
となり、アドミタンスを用いれば
:<math> \begin{align}
S &=YV_\text{e}^2 =V_\text{e}^2\sqrt{G^2+B^2} \\
&=\frac{I_\text{e}^2}{Y} =\frac{I_\text{e}^2}{\sqrt{G^2+B^2}} \\
\end{align} </math>
となる。
=== 非直線性回路の電力 ===
上記は電圧・電流ともに正弦波の場合であるが、[[ダイオード]]などの非直線性素子が入った回路においては電流が正弦波とはならず、説明が複雑となる。基本は瞬時電圧と瞬時電流から瞬時電力を求め、それを平均することによりまず有効電力Pを求める。
また、電圧Vの実効値と電流Iの実効値の積から、皮相電力Sが求められる。
: <math>S = |V||I|</math>
さらに、皮相電力と有効電力、無効電力Qの関係式
: <math>S = \sqrt{P^2 + Q^2}</math>
を変形すると、皮相電力と有効電力から無効電力が求められる。
: <math>Q = \sqrt{S^2 - P^2}</math>
非直線性回路では、電圧が正弦波であっても電流に[[高調波]]成分を含むことになり、従来力率改善に用いられた[[同期調相機]]や電力用[[コンデンサ]]では十分な改善効果が得られないだけでなく、電力用コンデンサなどに障害を与える場合がある。特に、コンピュータなどに内蔵される[[スイッチング電源|AC-DCコンバータ]]や、[[省エネルギー]]のための[[インバータ]]制御機器が問題になる<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.eccj.or.jp/qanda/he_qa/elec/d0406.html|title=電気設備に高調波が及ぼす影響|publisher=一般財団法人省エネルギーセンター|accessdate=2013-10-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091228011132/http://www.eccj.or.jp/qanda/he_qa/elec/d0406.html |archivedate=2009-12-28}}</ref>。このため、高調波成分を減少させ、力率を改善するための規制が行われることも多い。
=== 固有電力 (intrinsic power) ===
起電力Eとその内部抵抗rと外部抵抗Rにおいての電源より供給できる最大電力。または消費電力が最大になるときの最大電力。
[[電気工学]]では'''最大電力供給条件'''という。分野によっては[[マッチング]]とも。記号はPまたはPmax、単位はワット (Watt; W)。
rは内部抵抗、Rは外部抵抗として説明する。
直流電力の公式
: <math>P=VI=RI^2</math>
これを1とする。
起電力
: <math>E=rI+RI</math>
ゆえに
: <math>I=\frac{E}{r+R}</math>
となる。これを2とする。
1へ2を代入
<math>\begin{alignat}{2}
P&=R\left(\frac{E}{r+R}\right)^2 \\
&=\frac{E^2}{r}\cfrac{1}{\cfrac{r}{R}+\cfrac{R}{r}+2} \\
\end{alignat}</math>
[[算術平均|相加平均]]と[[幾何平均|相乗平均]]の関係を分母に用いると<math>P=\frac{E^2}{4r}</math>という公式が導き出される。
== 電力網における同時同量の原則 ==
[[電力網]]においては、各瞬間の[[需要]]と[[供給]]の量は、つまり各発電所の発電量と電力網の先で電力が消費される量は等量になる。これを、電力の「同時同量の原則」という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/balance_game.html |title=電気の安定供給のキーワード「電力需給バランス」とは?ゲームで体験してみよう |date=2019-08-06 |publisher=[[資源エネルギー庁]] |accessdate=2022-07-07}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{reflist|group="注"}}
===出典===
<references />
== 参考文献 ==
* 野村宗訓『電力:自由化と競争』同文舘出版、2000
* 南部鶴彦『電力自由化の制度設計:系統技術と市場メカニズム』東京大学出版会、2003
* 橘川武郎『日本電力業発展のダイナミズム』名古屋大学出版会、2004
* 井上雅晴『電力自由化2007年の扉』[[エネルギーフォーラム]]、2004
* 八田達夫、田中誠『電力自由化の経済学』[[東洋経済新報社]]、2004
* 穴山悌三『電力産業の経済学』NTT出版、2005
* 打川和男、内藤高志『図解入門ビジネス最新温暖化対策の基本と仕組みがよーくわかる本』[[秀和システム]]、2008
* {{cite book | 和書 | author=安岡 康一 | title=基本を学ぶ 電力工学 | publisher=オーム社 | year=2012 | ref=安岡(2012) }}
* {{cite book | 和書 | title=理解しやすい物理 物理基礎収録版 | editor=近角 聰信, 三浦 登(編) | publisher=文英堂 | year=2013 | ref=近角(2013) }}
== 関連項目 ==
* [[電力工学]] - [[電力回路]] - [[系統連系]]
* [[電力計]] - [[電力量計]]
* [[力率]] - [[インピーダンス]] - [[アドミタンス]]
* [[実効値]] - [[平均]]値
* [[仕事率の比較]]
* [[消費電力]]
{{電気電力}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんりよく}}
[[Category:電力|*]]
[[Category:電気理論]]
[[Category:物理量]]
[[Category:産業]]
[[da:Effekt (fysik)#Effekt i elektriske kredsløb]]
[[et:Võimsus#Võimsus elektrotehnikas]]
[[sv:Effekt#För likström (DC) och spänning]]
|
2003-09-05T04:27:27Z
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2023-12-04T14:10:41Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8A%9B
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頭山満
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頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、日本の国家主義者、アジア主義者。号は立雲。
1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した。
頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。
条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町の福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎(おとじろう)。のちに鎮西八郎為朝にあやかって、自ら八郎と名を改める。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった。町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の講談に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる。慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る。
16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む、男装の女医(眼科医)で儒学者の高場乱(たかば おさむ)が開いていた興志塾(高場塾、人参塾とも)に入門する。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太、箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに浅見絅斎の『靖献遺言』を講義することもあった。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている。
頭山が興志塾で学んでいた頃、板垣退助らを中心として全国的に自由民権運動が盛んになっていた。1874年の愛国公党の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で愛国社を結成する。この結成大会には興志塾出身の武部小四郎と越知彦四郎が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した。頭山はこのうちの矯志社の社員となった。
1874年の佐賀の乱をはじめとして、明治9年(1876年)には神風連の乱、秋月の乱などの不平士族の反乱が相次いで起こった。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が萩の乱を起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた大久保利通襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)し、武部や越知がこの中心であった。彼らと同じように、尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった。頭山らは福岡に戻り、海の中道の土地を官有地の払い下げで手に入れる。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった。
西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。
高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。
玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。
結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。
明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は軌道に乗り、板垣退助は自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。
明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。
頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人は元玄洋社社員来島恒喜であり、その場で頸動脈を切って自決したが、頭山が人を介して爆弾を提供させたという。また元玄洋社社員の犯行だと判明するや同社で多数検挙者が出たにも拘らず、周到な準備により、頭山に累は及ばなかった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。
明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。
しかし大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。
明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて山本権兵衛首相に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。
明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。
玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。
大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。
並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。
またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国にインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。
頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。
大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。
翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。
昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。
昭和10年(1935年)、頭山満は、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し、近衛文麿、尾崎行雄、望月圭介、岡崎邦輔、安達謙蔵、小久保喜七、国沢新兵衛、菅原傳、日野国明、泊武治らと共に「板垣会館建設準備会」の顧問に就任。頭山は東京角力協会に協力を要請。さらにこの活動を円滑に進めるため、翌年(1936年)、望月圭介、胎中楠右衛門らと「板垣会館寄附相撲後援会」を組織し、各界の名士113名を集めた。この結果、東京角力協会は会館建設に協力し、春場所終了後にあたる昭和11年(1936年)6月5日に「板垣会館建設寄附興行」を行い興行収入を寄附した。また、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、大阪朝日新聞社に勤務していた久琢磨が協力を表明。さらに頭山の意を受けて天龍関が「板垣伯報恩相撲」に賛同の意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう協力を請う。その結果、昭和12年(1937年)1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された。同年4月6日に挙行された板垣会館の落成式に頭山は来賓として臨席。「板垣會館」の扁額を揮毫し、刀剣を奉納した。
日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。
近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった。
戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。
これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。
頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
晩年は、揮毫をすることと囲碁を楽しむことを日課として静かに過ごしていた。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、本因坊秀栄らを後援。また、秀栄と金玉均とをひきあわせた。
倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。存命中は常々、「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。葬儀委員長は元総理の広田弘毅がつとめた。
頭山家の菩提寺である圓應寺と博多、崇福寺 (福岡市)の玄洋社墓地にも墓はあるが東京青山霊園にも墓があり、その同じ墓所の隣には交通事故死した三男の頭山秀三の墓がある。
※近年の新版刊のみ
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"text": "頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、日本の国家主義者、アジア主義者。号は立雲。",
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"text": "1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した。",
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"text": "頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。",
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"text": "条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。",
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"text": "安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町の福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎(おとじろう)。のちに鎮西八郎為朝にあやかって、自ら八郎と名を改める。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった。町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の講談に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる。慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る。",
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"text": "16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む、男装の女医(眼科医)で儒学者の高場乱(たかば おさむ)が開いていた興志塾(高場塾、人参塾とも)に入門する。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太、箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに浅見絅斎の『靖献遺言』を講義することもあった。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている。",
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"text": "頭山が興志塾で学んでいた頃、板垣退助らを中心として全国的に自由民権運動が盛んになっていた。1874年の愛国公党の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で愛国社を結成する。この結成大会には興志塾出身の武部小四郎と越知彦四郎が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した。頭山はこのうちの矯志社の社員となった。",
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"text": "1874年の佐賀の乱をはじめとして、明治9年(1876年)には神風連の乱、秋月の乱などの不平士族の反乱が相次いで起こった。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が萩の乱を起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた大久保利通襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)し、武部や越知がこの中心であった。彼らと同じように、尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった。頭山らは福岡に戻り、海の中道の土地を官有地の払い下げで手に入れる。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった。",
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"text": "西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。",
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"text": "高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。",
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"text": "玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。",
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"text": "結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。",
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"text": "明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は軌道に乗り、板垣退助は自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。",
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"text": "明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。",
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"text": "頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。",
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"text": "明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。",
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"text": "政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人は元玄洋社社員来島恒喜であり、その場で頸動脈を切って自決したが、頭山が人を介して爆弾を提供させたという。また元玄洋社社員の犯行だと判明するや同社で多数検挙者が出たにも拘らず、周到な準備により、頭山に累は及ばなかった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。",
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"text": "明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。",
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"text": "しかし大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。",
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"text": "明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。",
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"text": "明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて山本権兵衛首相に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。",
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"text": "明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。",
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"text": "玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。",
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"text": "大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。",
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"paragraph_id": 24,
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"text": "並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国にインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。",
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"text": "翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。",
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"text": "昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。",
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"text": "昭和10年(1935年)、頭山満は、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し、近衛文麿、尾崎行雄、望月圭介、岡崎邦輔、安達謙蔵、小久保喜七、国沢新兵衛、菅原傳、日野国明、泊武治らと共に「板垣会館建設準備会」の顧問に就任。頭山は東京角力協会に協力を要請。さらにこの活動を円滑に進めるため、翌年(1936年)、望月圭介、胎中楠右衛門らと「板垣会館寄附相撲後援会」を組織し、各界の名士113名を集めた。この結果、東京角力協会は会館建設に協力し、春場所終了後にあたる昭和11年(1936年)6月5日に「板垣会館建設寄附興行」を行い興行収入を寄附した。また、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、大阪朝日新聞社に勤務していた久琢磨が協力を表明。さらに頭山の意を受けて天龍関が「板垣伯報恩相撲」に賛同の意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう協力を請う。その結果、昭和12年(1937年)1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された。同年4月6日に挙行された板垣会館の落成式に頭山は来賓として臨席。「板垣會館」の扁額を揮毫し、刀剣を奉納した。",
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"text": "日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。",
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"text": "近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった。",
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"text": "戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。",
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"text": "これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "晩年は、揮毫をすることと囲碁を楽しむことを日課として静かに過ごしていた。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、本因坊秀栄らを後援。また、秀栄と金玉均とをひきあわせた。",
"title": "生涯"
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"text": "倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。存命中は常々、「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。葬儀委員長は元総理の広田弘毅がつとめた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "頭山家の菩提寺である圓應寺と博多、崇福寺 (福岡市)の玄洋社墓地にも墓はあるが東京青山霊園にも墓があり、その同じ墓所の隣には交通事故死した三男の頭山秀三の墓がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "※近年の新版刊のみ",
"title": "著作"
}
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頭山 満は、日本の国家主義者、アジア主義者。号は立雲。 1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した。
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{{脚注の不足|date=2018年10月}}
{{Infobox 革命家
|名前=頭山 満
|生没=
|画像=[[image:Toyama_Mitsuru.jpg|250px]]
|説明=
|通称=
|生年=[[1855年]][[5月27日]]
|生地={{Flagicon|JPN}} [[筑前国]][[早良郡]][[西新町]]([[福岡県]][[福岡市]])
|没年={{死亡年月日と没年齢|1855|5|27|1944|10|5}}
|没地={{JPN}} [[静岡県]][[御殿場市]]
|思想=[[アジア主義]]
|活動=
|組織=[[玄洋社]]
|藩=
|受賞=
|裁判=
|投獄=1876年
|刑場=
|記念碑=
|廟=[[圓應寺]]・[[崇福寺 (福岡市)]]}}
'''頭山 満'''(とうやま みつる、[[安政]]2年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]([[1855年]][[5月27日]])<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=頭山満 {{!}} 近代日本人の肖像|url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/295/|website=www.ndl.go.jp|accessdate=2021-11-07|language=ja}}</ref> - [[昭和]]19年([[1944年]])[[10月5日]]<ref name=":0" />、幼名:乙次郎)は、[[日本]]の[[国家主義]]者<ref>{{Cite book|和書|author=有馬 学, 石瀧 豊美, 小西 秀隆|title=福岡県の近現代|publisher=山川出版社|date=2021-9-2|page=43|isbn=978-4634590823}}</ref>、[[アジア主義者]]<ref name="nipo">[https://kotobank.jp/word/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80-19063 日本大百科全書(ニッポニカ) 朝日日本歴史人物事典「頭山満」]</ref>、[[西日本新聞]]創業者。[[雅号|号]]は'''立雲'''<ref name=":0" />。
[[1878年]]に[[板垣退助]]の影響で[[自由民権運動]]に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に[[国会開設の詔勅]]が出ると共愛会を'''[[玄洋社]]'''と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、[[大アジア主義]]を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、[[孫文]]の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した<ref name="nipo"/>。
== 概略 ==
頭山満の組織した[[玄洋社]]は、日本における民間の[[国家主義|国家主義運動]]の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や[[右翼団体]]に道を開いたとされる。また、教え子の[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]の奨めで[[黒龍会]]顧問となると、[[大陸浪人]]にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・[[黒幕]]的存在と見られた。一方、[[中江兆民]]や[[吉野作造]]などの民権運動家や、遠縁の[[アナキスト]]の[[伊藤野枝]]や[[大杉栄]]とも交流があった。また、[[鳥尾小弥太]]・[[犬養毅]]・[[広田弘毅]]など政界にも広い人脈を持ち、[[実業家]](鉱山経営者)や[[フィランソロピー|篤志家]]としての側面も持っていた<ref name="toyama seishin" />。
[[条約改正交渉]]に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって[[日露戦争]]開戦論を主張した。同時に、[[中国]]の[[孫文]]や[[蔣介石]]、[[インド]]の[[ラス・ビハリ・ボース]]、[[ベトナム]]の[[ファン・ボイ・チャウ]]、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[金玉均]]など、日本に[[亡命]]したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った<ref name="itagaki seishin" />。
== 生涯 ==
=== 初期の経歴 ===
[[画像:頭山満署名.jpg|thumb|200px|頭山満の署名「立雲」]]
[[安政]]2年([[1855年]])4月12日、[[筑前国]][[早良郡]][[西新町]]の[[福岡藩]]士・筒井亀策の三男として生まれる<ref name=":0" />。幼名は乙次郎(おとじろう){{sfn|嵯峨|2021|p=16}}。のちに[[源為朝|鎮西八郎為朝]]にあやかって、自ら八郎と名を改める{{sfn|嵯峨|2021|p=17}}。13歳の時には、[[太宰府天満宮]]の「満」から名前を授かって筒井満と改める{{sfn|嵯峨|2021|p=17}}。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る{{sfn|嵯峨|2021|p=19}}。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める{{sfn|嵯峨|2021|p=19}}。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである{{sfn|嵯峨|2021|p=19}}。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった{{sfn|嵯峨|2021|p=16}}。町で[[サツマイモ]]を売り歩く貧しい少年時代をすごす{{要出典|date=2021年11月}}。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の[[講談]]に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる{{sfn|嵯峨|2021|p=17}}。[[慶応]]元年([[1865年]])、11歳の時に「[[楠木正成]]のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えた[[クスノキ]]が、現在も生家跡(現・[[西新エルモールプラリバ]])北側の西新緑地に残る{{sfn|嵯峨|2021|p=17}}<ref>[http://www.city.fukuoka.lg.jp/sawaraku/c-shinko/charm/005.html 福岡市 西新公園のクスノキと筒井條之助記念碑]</ref>。
16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む{{要出典|date=2021年11月}}、男装の女医(眼科医)で儒学者の[[高場乱]](たかば おさむ)が開いていた[[興志塾]](高場塾{{要出典|date=2021年11月}}、人参塾とも)に入門する{{sfn|嵯峨|2021|p=20}}。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった{{sfn|嵯峨|2021|p=21-22}}。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで[[進藤喜平太]]、[[箱田六輔]]ら後の[[玄洋社]]の創設メンバーと出会う{{要出典|date=2021年11月}}。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している{{要出典|date=2021年11月}}。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに[[浅見絅斎]]の『[[靖献遺言]]』を講義することもあった{{sfn|嵯峨|2021|p=22}}。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている{{sfn|嵯峨|2021|p=23}}。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている{{sfn|嵯峨|2021|p=22}}{{sfn|嵯峨|2021|p=24}}。
頭山が興志塾で学んでいた頃、[[板垣退助]]らを中心として全国的に[[自由民権運動]]が盛んになっていた{{sfn|嵯峨|2021|p=27}}。1874年の[[愛国公党]]の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]を結成する{{sfn|嵯峨|2021|p=27}}。この結成大会には興志塾出身の[[武部小四郎]]と[[越智彦四郎|越知彦四郎]]が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した{{sfn|嵯峨|2021|p=28}}。頭山はこのうちの矯志社の社員となった{{sfn|嵯峨|2021|p=28}}。
1874年の[[佐賀の乱]]をはじめとして、[[明治]]9年([[1876年]])には[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]などの不平士族の反乱が相次いで起こった{{sfn|嵯峨|2021|p=28-29}}。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が[[萩の乱]]を起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった{{sfn|嵯峨|2021|p=29}}。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた[[大久保利通]]襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される{{sfn|嵯峨|2021|p=29}}。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された{{sfn|嵯峨|2021|p=29}}。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された{{sfn|嵯峨|2021|p=29}}。翌年の[[西南戦争]]は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起([[福岡の変]])し、武部や越知がこの中心であった{{sfn|嵯峨|2021|p=30}}。彼らと同じように、尊敬する[[西郷隆盛]]とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている{{要出典|date=2021年11月}}。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった{{sfn|嵯峨|2021|p=30}}。頭山らは福岡に戻り、[[海の中道]]の土地を官有地の払い下げで手に入れる{{sfn|嵯峨|2021|p=31}}。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し{{sfn|嵯峨|2021|p=31}}、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み{{要出典|date=2021年11月}}、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった{{sfn|嵯峨|2021|p=31}}。
=== 自由民権運動への参加 ===
[[Image:Mitsuru_Toyama_at_25.jpg|thumb|180px|25歳の頭山 1880年ごろ]]
西南戦争の翌年の明治11年([[1878年]])5月14日、[[大久保利通]]が暗殺される([[紀尾井坂の変]])。西郷討伐の中心人物の死を受け、[[板垣退助]]が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに[[自由民権運動]]に参画した頭山は、板垣が興した[[立志社 (政治団体)|立志社]]集会で初めて演説を体験し、[[植木枝盛]]ら民権運動家と交流を結ぶ。
高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に[[向陽社]]を結成し<ref name=":0" />、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて[[福岡県立修猷館高等学校|向陽義塾]]を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「[[スラム]]の帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。
=== 玄洋社 ===
==== 設立 ====
玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された<ref name=":0" />。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年([[1881年]])2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年([[1879年]])12月成立という研究結果もある{{要出典|date=2021年11月}}。社員は61名。[[自由民権運動]]を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。[[箱田六輔]](30歳)・[[平岡浩太郎]](29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。
==== 憲則三条 ====
結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。
* 第一条 [[皇室]]を敬戴すべし。
* 第二条 本国を愛重すべし。
* 第三条 人民の権利を固守すべし。
=== 政党政治時代 ===
明治13年([[1880年]])5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の[[河野広中]]はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年([[1881年]])、政府は[[国会開設の詔]]を発布し、九年後の国会開設を決定した。[[自由民権運動]]は軌道に乗り、[[板垣退助]]は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、[[玄洋社]]にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。
==== 金玉均と朝鮮独立党支援 ====
明治17年([[1884年]])12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した[[金玉均]]が率いる[[開化派|独立党]]によるクーデター([[甲申政変]])が起こるが、[[清国]]軍の介入により三日間で失敗に終わった。
頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。
==== 福陵新報創刊 ====
明治20年([[1887年]])8月、頭山は『[[福陵新報]]』([[九州日報]]の前身、現・[[西日本新聞]])を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、[[不平等条約]]改正反対運動の盛り上がり、[[清国]]に対する敵愾心などである。
==== 不平等条約改正問題 ====
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた[[不平等条約]]を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、[[自由民権運動]]の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え[[自由民権運動]]とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年([[1889年]])10月18日、首相・[[黒田清隆]]が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・[[大隈重信]]が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人は元玄洋社社員[[来島恒喜]]であり、その場で頸動脈を切って自決したが、頭山が人を介して爆弾を提供させたという<ref name=":1">{{Cite book |title=Tōyama Mitsuru : Ajia shugisha no jitsuzō |url=https://www.worldcat.org/oclc/1274113525 |date=2021 |location=Tōkyō |isbn=978-4-480-07433-1 |oclc=1274113525 |first=Takashi |last=Saga |last2=嵯峨隆}}</ref>。また元玄洋社社員の犯行だと判明するや同社で多数検挙者が出た<ref>[[杉山茂丸#玄洋社時代]]</ref>にも拘らず、周到な準備により、頭山に累は及ばなかった<ref name=":1" />。この事件で[[黒田内閣]]は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。
==== 選挙干渉 ====
明治23年([[1890年]])7月、[[第1回衆議院議員総選挙]]が行われ、政府側は敗北した。[[日清戦争]]に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では[[土佐派]]の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・[[松方正義]]は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年([[1892年]])の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった<ref>[[杉山茂丸#香港貿易と不遇の頃]]</ref>。<!--玄洋社がダークなイメージで見られるようになった理由の一つに、この事件があることは否定できない。現在の[[民主主義]]立場からすると、玄洋社のとった行動は誤りである。一方、玄洋社を擁護する意見には、次のようなものがある。
* 当時の外交バランスを考えると、国力拡大は避けて通れなかった。軍備の充実がなければ日本は他のアジア諸国と同様欧米の植民地と化していた可能性がある。玄洋社は現実路線をとったのである。
* 実施されたばかりの選挙制度は、これをもとに国政を運営して行くには不備が多いと思われた(今なおそうだとの意見もある)。
* 民党もそれ以前は清の対日政策を非難し主戦論を唱えていたのであり、反対に転じたのは多分に党利党略によるものである。-->
しかし大規模な選挙干渉にもかかわらず、[[第2回衆議院議員総選挙]]も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は[[自由民権運動]]の志士から脱却し、「国士」として[[アジア主義]]への道を歩み始める。
=== 孫文と頭山 ===
明治28年([[1895年]])、[[日清戦争]]の終結後、広州での武装蜂起を企てた[[孫文]]が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、[[宮崎滔天]]の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて[[平岡浩太郎]]から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である[[早稲田鶴巻町]]の2千平方メートルの屋敷は[[犬養毅]]が斡旋した。
明治32年([[1899年]])、[[義和団の乱]]が発生し、翌年、孫文は[[恵州市|恵州]]で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年([[1911年]])、[[辛亥革命]]が成功し、その翌年、孫文が[[中華民国臨時政府]]の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、[[袁世凱]]に大総統の座を譲った孫文は、[[大正]]2年([[1913年]])の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて[[山本権兵衛]]首相に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。
=== アジア主義とその挫折 ===
[[Image:Oni Toyama Uchida.jpg|250px|thumb|左から、[[出口王仁三郎]]、頭山、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]]]
[[Image:Toyama Mitsuru honors Rash Behari Bose.jpg|thumb|250px|「ラス・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)テーブルの向こう側中央が頭山、そのうしろがボース、手前が犬養]]
[[Image:Tsuyoshi Inukai with Mitsuru Toyama and Chiang Kai-shek cropped.jpg|thumb|250px|頭山(左)と犬養毅(中央)のもとを訪れる蔣介石(右) 1929年]]
明治35年([[1902年]])、欧米列強による[[清]]の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに[[日英同盟]]を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年([[1904年]])、[[日露戦争]]が勃発すると玄洋社は若者を中心に[[満州義軍]]を結成、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の協力を得て満州の[[馬賊]]を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。
玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年([[1910年]])の日韓併合にも暗躍したとされている。[[杉山茂丸]]や[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。
大正4年([[1915年]])、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家[[ラス・ビハリ・ボース]]と会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースは[[イギリス領インド帝国]]の[[植民地]]政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。
並行して日本国内では、[[1919年]]11月、[[河合徳三郎]]、[[梅津勘兵衛]]、[[倉持直吉]]、[[青山広吉]]、[[篠信太郎]]、[[西村伊三郎]]、[[中安信三郎]]を中心とし、[[原敬内閣]]の内務大臣・[[床次竹二郎]]([[立憲政友会]])を世話役に、伯爵[[大木遠吉]]を総裁、[[村野常右衛門]]を会長、[[中安信三郎]]を理事長として、会員数60万と称する[[國粹会|大日本国粹会]]を立ち上げた。
またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、[[バーラクザイ朝|アフガニスタン首長国]]に[[w:Provisional Government of India|インド臨時政府]]を樹立していた[[w:Mahendra Pratap|マヘンドラ・プラタップ]]にも会った。大正12年([[1923年]])、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞を[[アフガニスタン国王|アフガニスタン首長]]に送った。
頭山はこのような独立支援の対象を[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[エチオピア]]など当時[[アメリカ]]や[[フランス]]、[[イタリア]]などの[[列強]]の[[帝国主義]]の元にひれ伏していた地にも拡大していった。
大正13年([[1924年]])11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。
翌年、孫文の後継者として[[蔣介石]]が[[中華民国]]の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を成功させる。昭和4年([[1929年]])、[[南京市|南京]]の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。
昭和7年([[1932年]])の[[関東軍]]の主導による[[満州国]]建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年([[1935年]])、来日した満州国皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。
=== 板垣会館建設に盡力 ===
昭和10年(1935年)、頭山満は、[[板垣退助]]の生家である[[高知市]]・[[高野寺 (高知市)|高野寺]]に[[谷信讃|板垣会館]]を建設せんとする[[谷信讃]]らの活動に賛同し、[[近衛文麿]]、[[尾崎行雄]]、[[望月圭介]]、[[岡崎邦輔]]、[[安達謙蔵]]、[[小久保喜七]]、[[国沢新兵衛]]、[[菅原傳]]、[[日野国明]]、[[泊武治]]らと共に「板垣会館建設準備会」の顧問に就任<ref name="itagaki seishin" />。頭山は[[日本相撲協会|東京角力協会]]に協力を要請。さらにこの活動を円滑に進めるため、翌年([[1936年]])、[[望月圭介]]、[[胎中楠右衛門]]らと「板垣会館寄附相撲後援会」を組織し、各界の名士113名を集めた。この結果、[[日本相撲協会|東京角力協会]]は会館建設に協力し、春場所終了後にあたる昭和11年([[1936年]])[[6月5日]]に「板垣会館建設寄附興行」を行い興行収入を寄附した。また、京都では[[第三高等学校]]校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、[[大阪朝日新聞社]]に勤務していた[[久琢磨]]が協力を表明<ref name="itagaki seishin">{{Cite web|和書|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28040443|title=『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』|publisher=[[板垣退助先生顕彰会|一般社団法人板垣退助先生顕彰会]]|date=2019-02-11|accessdate=2021-08-01}}</ref>。さらに頭山の意を受けて[[天竜三郎|天龍]]関が「板垣伯報恩相撲」に賛同の意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう協力を請う<ref name="toyama seishin">『頭山精神』藤本尚則著</ref>。その結果、昭和12年([[1937年]])[[1月17日]]、梅田[[阪急百貨店]]横に特設された[[土俵]]で「板垣伯報恩相撲」が興行された<ref name="itagaki seishin" />。同年[[4月6日]]に挙行された板垣会館の落成式に頭山は来賓として臨席。「板垣會館」の扁額を揮毫し、刀剣を奉納した<ref>『憲政と土佐』財団法人板垣会編纂</ref>。
==== 幻に終わった日中和平会談 ====
[[日中戦争]](支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)[[通州事件]]が起き、当時の首相・[[近衛文麿]]は、父の[[近衛篤麿]]や外相・[[広田弘毅]]と親密な関係だった頭山を[[内閣参議]]に起用する計画を立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。
近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた[[内大臣府|内大臣]]・[[湯浅倉平]](元[[警視総監]]・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった<ref>[[服部龍二]]『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』([[中公新書]]、2008年)ISBN 978-4121019516、163-164p</ref>。
戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年([[1941年]])9月、頭山は[[東久邇宮稔彦王]]から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で[[朝日新聞社]][[主筆]]の[[緒方竹虎]]に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。
これを受けて東久邇宮が首相・[[東條英機]]に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、[[満州事変]]も不賛成、[[日中戦争|日華事変]]に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。
=== 晩年 ===
[[画像:頭山満「温知新」.jpg|thumb|400px|頭山満の揮毫「温知新」]]
[[File:頭山満先覚之墓.jpg|thumb|頭山満先覚之墓 (福岡市)]]
頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、[[第二次世界大戦]]末期の昭和19年([[1944年]])[[10月5日]]、89年の生涯を閉じた。
晩年は、[[揮毫]]をすることと囲碁を楽しむことを日課として静かに過ごしていた。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、[[本因坊秀栄]]らを後援。また、秀栄と[[金玉均]]とをひきあわせた。
倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。存命中は常々、「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。葬儀委員長は元総理の[[広田弘毅]]がつとめた。
頭山家の菩提寺である[[圓應寺]]と博多、[[崇福寺 (福岡市)]]の玄洋社墓地にも墓はあるが東京[[青山霊園]]にも墓があり、その同じ墓所の隣には交通事故死した三男の[[頭山秀三]]の墓がある。
== 略年表 ==
* [[安政]] 2年(1855年)誕生
* [[明治]] 9年([[1876年]])[[萩の乱]]に連座し箱田六輔らとともに投獄される
* 明治11年([[1878年]])土佐に[[板垣退助]]を訪ねて[[自由民権運動]]に目覚め、向陽社を設立
* 明治12年([[1879年]])向陽社を玄洋社と改名、平岡浩太郎が初代社長に就任
* 明治18年([[1885年]])神戸で[[金玉均]]と出会う。峰尾と結婚
* 明治20年([[1887年]])全国有志懇談会で[[中江兆民]]と出会う。福陵新報創刊
* 明治22年([[1889年]])来島恒喜が大隈重信を襲撃
* 明治25年([[1892年]])選挙干渉に協力
* 明治30年([[1897年]])[[孫文]]と出会う
* 明治37年([[1904年]])[[日露戦争]]勃発を受けて[[満州義軍]]を結成
* 明治43年([[1910年]])[[日韓併合]]
* 明治45年([[1912年]])[[犬養毅]]と[[辛亥革命]]後の中国へ渡る
* [[大正]]4年 ([[1915年]])日本に亡命したラス・ビハリ・ボースと出会う
* 大正13年([[1924年]])孫文最後の来日、「[[大アジア主義講演|大アジア主義]]」演説の前日神戸にて会談
* 大正15年([[1926年]])亡命中の[[蔣介石]]を匿う
* [[昭和]]4年([[1929年]])[[12月8日]]、[[日光東照宮]]の[[板垣退助]]像建立の時には、除幕式で、[[板垣退助]]の門人代表([[自由民権運動]]の直系後継者)として祝辞を述べている<ref>『土陽新聞』昭和4年([[1929年]])[[12月10日]]号参照</ref><ref>田辺昇吉『日光の板垣退助銅像』(所収『土佐史談』第161号)</ref>。([[板垣正貫|日光の板垣像建立]]も参照)
* 昭和7年 ([[1932年]])[[五・一五事件]]。[[満州国]]建国
* 昭和12年([[1937年]])[[4月6日]]、[[板垣退助]]の生家[[高野寺 (高知市)|高野寺]]の[[谷信讃|板垣会館]]建立落成式に来賓として参列のため来高<ref name="toyama seishin" />。「板垣會館」の扁額を揮毫し刀剣を奉納<ref name="itagaki seishin" />。
* 昭和16年([[1941年]])[[東久邇宮]]の依頼で蔣介石との和平会談を模索するも実現せず
* 昭和19年(1944年)10月、御殿場にて死去
[[Image:Kokushikan_founding_fathers.jpg|thumb|right|300px|国士舘の設立を協議する有志 前列左から'''頭山満'''、[[野田卯太郎]]、[[渋沢栄一]]、[[徳富蘇峰]]、後列左から[[花田半助]]、[[渡辺海旭]]、[[柴田徳次郎]]<ref>{{cite book|和書|author=田中健介|title=柴田徳二郎伝|format=PDF|url=http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/1000885/0000/registfile/1346_194X_024_01.pdf|accessdate=2011-06-05|page=9}}</ref>]]
== 逸話 ==
* 頭山は24歳の時、薩摩の[[西郷隆盛]]の旧宅を突然訪ね、「西郷先生に会いに来ました」と言った。「西郷はもう亡くなったよ」と家人が応じると、頭山は「いえ、西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。私は西郷先生の精神に会いに来たのです」と答えた。このときのことは西郷家で記録されている{{要出典|date=2021年11月}}。
* 頭山は金銭の使い惜しみをせず、このことが頭山の迫力・魅力を倍増させた。財源は玄洋社社員の事業収入もあったが、倒産覚悟で支援してくれる企業家も少なくなかった。頭山は、資産がある時は[[筑豊]]で4百万坪、[[夕張郡|夕張]]で1,500万坪の炭坑を所有していたといわれ、また「40万坪くらいの山はいくつもあって、2、3万円(現在の金額で1億以上)くらいで売っていた」と回想している。ただし、これらの資産を売却して得た現金は、もっぱら借金返済に充てられたため、手元に残ることはなかった。金はある時もあり、ない時は「全くない」という状態で、実際にはない時の方が多かったため、財政的にはいつも苦労していた{{要出典|date=2021年11月}}。
* ラス・ビハリ・ボースを自邸にかくまったとき、ある人が頭山に向かって、「そんなことをすると法律に背きます。縛られます」と言ったところ、頭山は「わしは法律というやつが嫌いでね。だいいち憲法というのは、わしの嫌いな伊藤公が書いたのだろう。それから細かい法律となると議員どもが作るのじゃないか。わしはそんなものに関係しないぞ」と答えたという<ref>『國家改造計畫綱領』 中野正剛 千倉書房 1933年10月28日 131p</ref>。
== 著作 ==
※近年の新版刊のみ
* 『幕末三舟伝』([[国書刊行会]] 2007年、島津書房 1999年)
* 『大西郷遺訓 立雲頭山満先生講評』(k&kプレス 2006年)
* 『アジア主義者たちの声(上) 玄洋社と黒竜会、あるいは行動的アジア主義の原点』
::明治十年戦争の翌年の板垣退助との交渉、西郷隆盛と征韓論ほか
* 『頭山満直話集』[[薄田斬雲]]編著
* 『頭山満言志録』
* 『頭山満思想集成』、のち増補新版
* 『玄洋社怪人伝 頭山満とその一派』(以上、各[[書肆心水]] 2006-2016年)
* 『吉田松陰と長州五傑』[[伊藤痴遊]]・[[田中光顕]]と(国書刊行会 2015年)
== 親族 ==
[[画像: Mitsuru Tōyama with the wife.jpg|thumb|200px|頭山と妻]]
; 実家
* 実父:筒井亀策
* 実母:(旧姓 頭山)
; 自家
* 妻:峰尾
** 長男:立助(1891生-1941没<ref>『聖戦』人文協會、昭和17年</ref>, [[国士舘大学|国士舘]]監事。妻・鶴子は[[五・一五事件]]で秀三の弁護を担当した濱地八郎の三女<ref>[https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/pdf/vol6.pdf 国士舘を支えた人々 濱地八郎] 楓原 : 国士舘史研究年報, p197-204, 2014</ref>)
** 次男:泉 (日本[[杖道]]連盟会長。二代目・頭山家当主<ref name=gendai/>)
** 三男:秀三[[天行会]]会長。[[五・一五事件]]に関与、連座。戦後、[[愛国青年有志会]]主宰、1952年7月21日に演説会の帰りに国鉄蒲田の踏切事故にて45歳で死去、その後[[愛国青年有志会]]の行動隊が、[[殉国青年隊]]として独立。(会長 [[豊田一夫]]) 妻は[[徳川夢声]]の妻の妹。
;子孫
*孫(秀三の子<ref>[http://www.toyamamitsuru.jp/jinbutsu/sengo60.html 頭山満という巨人 戦後六十年を経過して 葦津泰國氏(葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』より)] 頭山満、呉竹会</ref>):頭山統一(『筑前玄洋社』の著者。[[洗足学園大学]]講師。1990年に満の墓前で拳銃自殺) 、頭山立国([[GANEFO]]選手団長。三代目・頭山家当主<ref name=gendai/>)、頭山秀徳(慶應義塾中等部ラグビー部初代主将<ref>[http://www.kgc.keio.ac.jp/koyukai/rugby/ob/dvd/dvd.html 50周年記念DVDについて] 慶應義塾中等部ラグビー部</ref>。[[伊勢丹]]役員、[[森ビル]]常務・相談役)<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/133653?page=4 プレイボーイと称される彼らが持つ本質] GQ JAPAN, 2016年09月04日</ref><ref>『週刊新潮』2005年6月30日号「ハゲタカ外資の虚像と実像」菊池雅志</ref>、[[頭山興助]]([[呉竹会]]会長)
*曾孫:[[頭山晋太郎]](1977生-<ref>[http://55shintaro.jp/about/ 自己紹介] 頭山晋太郎後援会公式ホームページ</ref>) - 興助の長男。[[第47回衆議院議員総選挙]]に出馬。元[[太陽の党]]職員<ref>「明治天皇、頭山満、大隈重信 偉人の子孫が総選挙に続々登場」『NEWSポストセブン』2012.12.03</ref>
*曾孫:[[松任谷國子]] - 孫・尋子(満の娘・立子の子)の長女。女優<ref name=gendai/>。國子の姪(尋子の長男琢司の子)に[[松任谷玉子]]<ref name=gendai/>。
;遠縁
*[[黒木瞳]] - 曾孫の妻
*[[松任谷正隆]] - 孫の頭山尋子が嫁いだ松任谷健太郎(農林省官僚)の腹違いの弟、功三郎(旧[[東京銀行]]横浜支店長<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO08753080V21C16A0NZBP00/ 松任谷正隆さん、私を「兄貴」と呼んだ父 ] 日本経済新聞夕刊2016年10月25日</ref>)の息子<ref name=gendai>[https://gendai.media/articles/-/51254 ユーミンと大物右翼「頭山家」の知られざる血脈と交流 ポップカルチャー界の「華麗なる一族」]『週刊現代』2017年3月25日・4月1日合併号、2017.3.29</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|title=頭山満―アジア主義者の実像|year=2021|last=嵯峨|first=隆|authorlink=嵯峨隆|publisher=[[筑摩書房]]〈[[ちくま新書]]〉|isbn=978-4-480-07433-1}}
==関連文献==
* 頭山満、[[由利公正]]、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系 第14』[[誠文堂新光社]]、1935年
* [[東久邇宮稔彦王]]『私の記録』東方書房、1947年
* 頭山満翁正伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』葦書房、1981年
**[[岩波書店]]から出版予定だったが戦災で中止。編纂委員会責任者は[[緒方竹虎]]
* 平井晩村『頭山満と玄洋社物語』葦書房(復刻)、1987年
* [[葦津珍彦]]『大アジア主義と頭山満』葦津事務所(新版)、2007年。旧版・[[日本教文社]]
* [[大川周明]]『頭山満と近代日本』春風社、2007年([[中島岳志]]編・解説)
* [[松本健一]]『雲に立つ-頭山満の「場所」』[[文藝春秋]]、1996年
* [[読売新聞]]西部本社編『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』[[海鳥社]]、2001年
* 井川聡・小林寛『人ありて 頭山満と玄洋社』海鳥社、2003年
* 井川聡『頭山満伝 ただ一人で千万人に抗した男』潮書房[[潮書房光人新社|光人社]]、2015年/産経NF文庫、2022年
* [[杉森久英]]『浪人の王者 頭山満』[[河出文庫]](新版)、1984年
* [[ラルフ・イーザウ]]『[[暁の円卓]]』長崎出版 - 第1巻、目覚めの歳月。第2巻、情熱の歳月
::ファンタジー小説の悪役として登場。「アムール会のトーヤマ」と呼ばれ、西洋人や伊藤博文らの側の視点で“背の高い不気味な人物”という描写
== 関連項目 ==
:本文中に説明のある項目を除く
* [[条約改正]]
* [[アジア主義]]
* [[学校法人国士舘]]
* [[宮崎滔天]]
* [[平岡浩太郎]]
* [[内田良平 (政治運動家)]]
* [[小川平吉]]
* [[梅屋庄吉]]
*[[夢野久作]]
* [[葛生能久]]<!--頭山満の弟子、黒龍会最後の会長--><!--リンク先に詳述されていますので-->
* [[浪人会]]
* [[國粹会]]
* [[ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇]]<!--頭山を軸に論が展開されている-->
* [[北炭真谷地炭鉱]] - 前身であるクリキ炭鉱の所有者の一人であった。1905年[[北海道炭礦汽船|北炭]]に売却。
* [[田岡満]] - 父親である[[田岡一雄]]が、頭山満を尊敬していたことにより、命名したとされる。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Genyosha|玄洋社}}
* [http://www.toyamamitsuru.jp/ 頭山満] - 呉竹会(代表は頭山満の孫・頭山興助)が運営する頭山満のサイト
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/295/ 頭山満 | 近代日本人の肖像]
* [https://kuretakekai.tokyo/ 呉竹会 | 頭山満の孫・頭山興助が運営する政治団体]
*[https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/061/01.html 頭山満翁の生涯] 西日本シティ銀行
*{{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうやま みつる}}
[[Category:日本の政治運動家]]
[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]]
[[Category:玄洋社の人物]]
[[Category:浪人会の人物]]
[[Category:東邦協会の人物]]<!-- 東邦協会報告12会員姓名 -->
[[Category:自由民権運動の人物]]
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[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]
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MSN
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MSN(英: The Microsoft Network)は、Windows、携帯機器用のポータルサイトサービス、またそれらに関連するサービスの総称である。マイクロソフトが運営し、Windows 95のリリースと並行する形で1995年8月24日に開始された。
MSNの起源となるものは無名で、当時はただ単に定額制でダイヤルアップ接続事業を行うものだったが、後にMSNダイヤルアップ(英語版)としてインターネットサービスプロバイダとなり、同時にMicrosoft Internet Startというポータルサイトを立ち上げる。それがInternet Explorerのデフォルトのホームページ、即ちウェブブラウザとなる起源である。1998年、マイクロソフトはこのホームページにwww.msn.comというドメイン名を当て振り、このページはそこに移動した。2022年時点で、インターネットサービスプロバイダとしての事業はアメリカ合衆国およびカナダを除いて終了している。日本ではぷららに売却された。
ダイヤルアップ事業に加え、長年多くの事業を展開しており、Hotmail(後のOutlook.com)、MSN メッセンジャー(これはかつてインターネットスラング上で「MSN」と同義であったが、現在はSkypeに置き換えられている)、ウェブ検索エンジン(英語版)『Bing』などが代表的な例に挙げられる。これ以外にも多くの事業があるが、それらはMSNのサービス一覧(英語版)を参照。
今日に至るまで使用されているウェブサイト、アプリの形は2014年10月のリニューアルで施行されたものである。現状の拠点はアメリカ合衆国に位置し、世界数十か国で使用される言語用の専用ポータルサイトも提供されている。
MSNは1995年のWindows 95の発売と共にサービスを開始した。当時の名称は "The Microsoft Network" であった。当初はいわゆるパソコン通信サービスとして提供されていたが、インターネットの急成長にともにインターネット接続サービスに転換した。
1995年当時はまだ一般家庭からのインターネットサービスプロバイダの利用は一般的ではなかったが、大手パソコン通信業者の一部はインターネットと相互接続しており、パソコン通信のメニューを通じてe-mailやFTPを利用することができた。MSNもこれらと同様、e-mailをはじめとするインターネットとの相互接続を当初から提供していた。あくまでパソコン通信でありIP接続ではないため、インターネットの利用はログイン後の専用メニューから間接的に操作する必要があった。
最大の特徴は、非公開の専用プロトコルを使用していたため、Microsoft Windows 95以外からはアクセスできないようになっていたことである。このため、米国では独占禁止法上の違法性が話題となった。また、Windows 95 のデスクトップにMSNへのオンラインサインアップを促すアイコンが常時表示され、簡単には削除できない点も非難の対象となった(削除するにはレジストリを手動で操作する必要があった)。
技術的にはWindows Explorerに専用のコンポーネントをインストールすることでGUI端末として機能させていた。掲示板などの表示フォーマットはHTMLではなくリッチテキストであり、電子メールクライアントはMicrosoft Exchange用の受信トレイ(後のMicrosoft Outlook)を使用していた。マイクロソフト側のサーバーにはWindows NTマシンが使われていた。
1995年から1998年までのMSN.comは現在と大きく異なり、ただMSNを宣伝する目的のサイトだった。カスタムスタートページ、およびチュートリアルページも存在はしていたが、マイクロソフトの主要なポータルサイトはhome.microsoft.com、当時のMicrosoft Internet Startとして知られていた。
Internet StartはInternet Explorerの規定ホームページとして機能し、ニュース、他のウェブサイトへのリンク、マイクロソフトスタッフのブログ、更新プログラムなどの、基本情報を提供していた。1996年に立ち上げられたMSNBCも、Internet Startとの密接な関わりがあった。
1998年、使用用途において十分な活動を行えていないMSN.comはInternet Startと合併。ウェブサイト、並びにブランド化として再開発された。これにより、当時の最上位の巨大サイトYahoo!、エキサイト、Go.com(英語版)などとの競合を実現した。この形式ではサービスの無償提供を行ったため、それまでの定額制のプロパイダなどはMSNインターネットアクセスに改名。これが後にMSNダイヤルアップと呼ばれるものである。日本ではNTTPCコミュニケーションズとの提携で事業を開始している。
再開発されたMSN.comは独自のコンテンツ、実験段階だったMSN2.0より引き継がれたWeb shows、急速に追加された新機能などの一連のサイトが追加された。Internet Start時代のすべてがMSN.comに集約されており、これが結果的にInternet Explorerのスタートページの後継になった。
この時代に立ち上げたサイトのいくつかは、今も形は違うが健在なものもある。例えばMicrosoft Investorは、CNBCがマイクロソフトと共同で開発したビジネス報道(英語版)、投資サービスであり、現在のMSN Moneyとほぼ同じものである。また、自動車比較・ショッピングサイトのCarpointは現在のMSNオートスで、カジュアルゲームを提供していたInternet Gaming Zoneは後のMSNゲーム(英語版)である。売却したものには、エクスペディア、Slate(英語版)、Sidewalk.com(英語版)がある。
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MSNは、Windows、携帯機器用のポータルサイトサービス、またそれらに関連するサービスの総称である。マイクロソフトが運営し、Windows 95のリリースと並行する形で1995年8月24日に開始された。 MSNの起源となるものは無名で、当時はただ単に定額制でダイヤルアップ接続事業を行うものだったが、後にMSNダイヤルアップとしてインターネットサービスプロバイダとなり、同時にMicrosoft Internet Startというポータルサイトを立ち上げる。それがInternet Explorerのデフォルトのホームページ、即ちウェブブラウザとなる起源である。1998年、マイクロソフトはこのホームページにwww.msn.comというドメイン名を当て振り、このページはそこに移動した。2022年時点で、インターネットサービスプロバイダとしての事業はアメリカ合衆国およびカナダを除いて終了している。日本ではぷららに売却された。 ダイヤルアップ事業に加え、長年多くの事業を展開しており、Hotmail(後のOutlook.com)、MSN メッセンジャー(これはかつてインターネットスラング上で「MSN」と同義であったが、現在はSkypeに置き換えられている)、ウェブ検索エンジン『Bing』などが代表的な例に挙げられる。これ以外にも多くの事業があるが、それらはMSNのサービス一覧を参照。 今日に至るまで使用されているウェブサイト、アプリの形は2014年10月のリニューアルで施行されたものである。現状の拠点はアメリカ合衆国に位置し、世界数十か国で使用される言語用の専用ポータルサイトも提供されている。
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| logo_alt = 現行ロゴ
}}
'''MSN'''(エムエスエヌ、{{lang-en-short|The Microsoft Network}})は、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[携帯機器]]用の[[ポータルサイト]]サービス、またそれらに関連するサービスの総称である。[[マイクロソフト]]が運営し、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]のリリースと並行する形で1995年8月24日に開始された<ref>{{Cite web |title=Operating System (OS) Definition & Examples |url=https://www.lifewire.com/operating-systems-2625912 |website=Lifewire |access-date=2022-10-08 |language=en |date=2022-01-24}}</ref>。
MSNの起源となるものは無名で、当時はただ単に定額制で[[ダイヤルアップ接続]]事業を行うものだったが、後に{{仮リンク|MSNダイヤルアップ|en|MSN Dial-up}}として[[インターネットサービスプロバイダ]]となり、同時に'''Microsoft Internet Start'''というポータルサイトを立ち上げる。それが[[Internet Explorer]]のデフォルトの[[ホームページ]]、即ち[[ウェブブラウザ]]となる起源である。[[1998年]]、マイクロソフトはこのホームページにwww.msn.comという[[ドメイン名]]を当て振り、このページはそこに移動した<ref name=":0">{{Cite web |url=http://ecommerce.hostip.info/pages/734/Microsoft-Network-MSN-MSN-WORKS-FIND-ITS-FOCUS.html |title=Microsoft Network (MSN) - Msn Works To Find Its Focus |access-date=2022-10-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070606060442/http://ecommerce.hostip.info/pages/734/Microsoft-Network-MSN-MSN-WORKS-FIND-ITS-FOCUS.html |archive-date=2007-06-06 |deadlinkdate=2022-10}}</ref>。2022年時点で、インターネットサービスプロバイダとしての事業は[[アメリカ合衆国]]および[[カナダ]]を除いて終了している。[[日本]]では[[ぷらら]]に売却された<ref>{{Citation|和書
|url=http://www.nikkeibp.co.jp/archives/106/106794.html
|title=MSNネット接続事業をぷららに移管、コンテンツはMSNに併合
|publisher=[[日経BP]]
|date=2000-07-06
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140722191330/http://www.nikkeibp.co.jp/archives/106/106794.html
|archivedate=2014-07-22
|deadlinkdate=2017-12-25
}}</ref>。
ダイヤルアップ事業に加え、長年多くの事業を展開しており、Hotmail(後の[[Outlook.com]])、[[MSN メッセンジャー]](これはかつて[[インターネットスラング]]上で「MSN」と同義であったが、現在は[[Skype]]に置き換えられている)、{{仮リンク|ウェブ検索エンジン|en|Search engine|preserve=1}}『[[Microsoft Bing|Bing]]』などが代表的な例に挙げられる。これ以外にも多くの事業があるが、それらは{{仮リンク|MSNのサービス一覧|en|List of services by MSN}}を参照。
今日に至るまで使用されているウェブサイト、アプリの形は2014年10月のリニューアルで施行されたものである<ref>{{Cite web |title=MSN’s rebirth brings Microsoft’s new approach into focus |url=https://www.geekwire.com/2014/msns-rebirth-brings-microsofts-new-approach-focus/ |website=GeekWire |date=2014-09-30 |access-date=2022-10-08 |language=en-US |first=Todd |last=Bishop}}</ref>。現状の拠点は[[アメリカ合衆国]]に位置し、世界数十か国で使用される言語用の専用ポータルサイトも提供されている<ref>{{Cite web |title=MSN Worldwide |url=https://www.msn.com/en-us/msn-worldwide |website=MSN |access-date=2022-10-08 |language=en-US}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 当初 ===
MSNは1995年のWindows 95の発売と共にサービスを開始した。当時の名称は "The Microsoft Network" であった。当初はいわゆる[[パソコン通信]]サービスとして提供されていたが、[[インターネット]]の急成長にともにインターネット接続サービスに転換した。
1995年当時はまだ一般家庭からのインターネットサービスプロバイダの利用は一般的ではなかったが、大手パソコン通信業者の一部はインターネットと相互接続しており、パソコン通信のメニューを通じて[[e-mail]]や[[File Transfer Protocol|FTP]]を利用することができた。MSNもこれらと同様、e-mailをはじめとするインターネットとの相互接続を当初から提供していた。あくまでパソコン通信でありIP接続ではないため、インターネットの利用はログイン後の専用メニューから間接的に操作する必要があった。
最大の特徴は、非公開の専用プロトコルを使用していたため、[[Microsoft Windows 95]]以外からはアクセスできないようになっていたことである。このため、米国では[[独占禁止法]]上の違法性が話題となった。また、Windows 95 のデスクトップにMSNへのオンラインサインアップを促すアイコンが常時表示され、簡単には削除できない点も非難の対象となった(削除するにはレジストリを手動で操作する必要があった)。
技術的には[[Windows Explorer]]に専用の[[ソフトウェアコンポーネント|コンポーネント]]を[[インストール]]することで[[GUI]]端末として機能させていた。掲示板などの表示[[フォーマット]]は[[HyperText Markup Language|HTML]]ではなく[[リッチテキスト]]であり、[[電子メール]][[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]は[[Microsoft Exchange]]用の'''受信トレイ'''(後の[[Microsoft Outlook]])を使用していた。マイクロソフト側のサーバーには[[Windows NT]]マシンが使われていた。
[[1995年]]から1998年までのMSN.comは現在と大きく異なり、ただMSNを宣伝する目的のサイトだった。カスタムスタートページ、および[[チュートリアル]]ページも存在はしていたが、マイクロソフトの主要なポータルサイトは[https://web.archive.org/web/19970327143617/http://home.microsoft.com/ home.microsoft.com]、当時の'''Microsoft Internet Start'''として知られていた。
Internet StartはInternet Explorerの規定ホームページとして機能し、ニュース、他のウェブサイトへのリンク、マイクロソフト[[スタッフ]]の[[ブログ]]、[[パッチ|更新プログラム]]などの、基本情報を提供していた。1996年に立ち上げられた[[MSNBC]]も、Internet Startとの密接な関わりがあった。
=== MSN.com ===
1998年、使用用途において十分な活動を行えていないMSN.comはInternet Startと合併。ウェブサイト、並びにブランド化として再開発された。これにより、当時の最上位の巨大サイト[[Yahoo!]]、[[エキサイト]]、{{仮リンク|Go.com|en|Go.com}}などとの競合を実現した。この形式ではサービスの無償提供を行ったため、それまでの定額制のプロパイダなどはMSNインターネットアクセスに改名。これが後にMSNダイヤルアップと呼ばれるものである<ref name=":0" />。日本では[[NTTPCコミュニケーションズ]]との提携で事業を開始している。
再開発されたMSN.comは独自のコンテンツ、実験段階だったMSN2.0より引き継がれたWeb shows、急速に追加された新機能などの一連のサイトが追加された。Internet Start時代のすべてがMSN.comに集約されており、これが結果的にInternet Explorerのスタートページの後継になった<ref name=":0" />。
この時代に立ち上げたサイトのいくつかは、今も形は違うが健在なものもある。例えばMicrosoft Investorは、[[CNBC]]がマイクロソフトと共同で開発した{{仮リンク|ビジネス報道|en|Business journalism}}、投資サービスであり、現在のMSN Moneyとほぼ同じものである<ref>{{Cite web |url=http://www.prnewswire.com/news-releases/cnbc-on-msn-moneys-stockscouter-celebrates-two-year-track-record-of-outperforming-standard--poors-500-70756152.html |title=CNBC on MSN Money's StockScouter Celebrates Two-Year Track Record Of Outperforming Standard & Poor's 500 |access-date=2022-10-09 |date=2003-07-08 |website=PRnewspire |archive-url=https://web.archive.org/web/20161220123414/http://www.prnewswire.com/news-releases/cnbc-on-msn-moneys-stockscouter-celebrates-two-year-track-record-of-outperforming-standard--poors-500-70756152.html |archive-date=2016-12-20 |deadlinkdate=2022-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=Cheapest Way to Build a Website |url=https://yourbusiness.azcentral.com/cheapest-way-build-website-14105.html |website=Your Business |access-date=2022-10-08 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news|title=An epic bear market is coming|newspaper=MSN Money|date=2013-01-02|url=http://money.msn.com/investing/an-epic-bear-market-is-coming/|access-date=2022-10-09|archive-url=https://web.archive.org/web/20140913104243/http://money.msn.com/investing/an-epic-bear-market-is-coming/|archive-date=2014-09-13}}</ref>{{Efn|[[Microsoft Money]]とは異なる。}}。また、自動車比較・ショッピングサイトのCarpointは現在のMSNオートスで、[[カジュアルゲーム]]を提供していたInternet Gaming Zoneは後の{{仮リンク|MSNゲーム|en|MSN Games}}である。売却したものには、[[エクスペディア]]、{{仮リンク|Slate|en|Slate (magazine)}}、{{仮リンク|Sidewalk.com|en|Sidewalk.com}}がある。
==日本国内における沿革==
*1995年 - [[パソコン通信]]サービス "The Microsoft Network" として、[[Microsoft Windows 95]]発売と同時にサービスを開始(米国では8月、日本では11月23日)。
*1996年{{0}}4月 - [[NTTPCコミュニケーションズ]]との提携により、従量価格制のインターネットプロバイダ事業 "MSN Internet Access" を開始。同社のアクセスポイントを利用してインターネットへのアクセスが可能になった。
*1997年 4月
**ニュースサイト内に「MSNジャーナル」開設。執筆陣に[[田中宇]]、[[田口ランディ]]、[[マーティ・キーナート]]、鈴木真二、[[白河桃子]]らをそろえ、元[[ニューズウィーク]]の仲達志、元[[CNN]]の[[たまさぶろ]]らを編集者に配し2004年、毎日新聞との協業まで同サイトのキラーコンテンツとなる。
** ユーザー数900万人のHoTMaiL社を買収<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1305/03/news010.html |title=Microsoft、HotmailからOutlook.comへの移行を完了 |access-date=2023-06-27 |publisher=ITmedia News |date=2013-05-03}}</ref>。[[Hotmail|MSN Hotmail]]としてサービス提供開始。
*1998年 - インターネット全文検索サービス「MSNサーチ」提供開始。
*1999年 - 虹色の[[チョウ|蝶]]のシンボルマークの使用を開始する。
*2000年7月 - 「MSNオークション」を提供開始<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1101/05/news086.html |title=「MSNオークション」4月に終了 |access-date=2023-03-05 |publisher=ITmedia NEWS |date=2011-01-05}}</ref>。
*2000年12月1日 - 日本国内のインターネットプロバイダ事業を終了、全顧客を[[ぷらら]]に移管。[[コンテンツプロバイダ]]事業に完全に移行する。この頃を境に "The Microsoft Network" の名称は使われなくなり、"MSN" にほぼ一本化される。
*2003年12月16日 - 有料サービス「MSN[[エンカルタ]]百科事典」開始。
* 2004年
**4月 - [[毎日新聞社]]と提携し「[[MSN毎日インタラクティブ]]」を開始<ref> {{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/tamasaburo/mainichi_microsoft_b_11274108.html|title=「毎日新聞とマイクロソフト協業の真相から考察する新聞社サイトの将来|date=2016-08-03|accessdate=2022-05-04|publisher=[[ハフポスト|HUFFPOST]]}}</ref>。
**10月 - [[音楽配信]]サイト「MSN Music」開始。
*2006年 - 「MSNサーチ」の[[検索エンジン]]を変更し、「Windows Live Search」に名称変更。
*2007年10月 - 「MSN毎日インタラクティブ]」を終了(毎日新聞社は独自に「[[毎日jp]]」を開始)し、[[産経新聞]]グループと提携した「[[MSN産経ニュース]]」を開始、デフォルトのホームページとして登録された。
*2009年 - 「Windows Live Search」を新ブランド名「[[Microsoft Bing|Bing]]」に名称変更。
*2011年
**4月 - 「MSNオークション」を終了<ref name=":1" />。
**1月17日 - ロゴマーク・サイトデザインを一新。
*2013年 - チャットサービスを「[[Windows Live メッセンジャー]]」から「[[Skype]]」に([[中華人民共和国|中国]]本土を除く)、[[Webメール]]サービスを「[[Windows Live Hotmail]]」から「[[Outlook.com]]」に移行。米Microsoftでは、現地時間5月2日に、HotmailユーザーのOutlook.comへの移行を完了したと発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1305/03/news010.html |title=Microsoft、HotmailからOutlook.comへの移行を完了 |access-date=2023-01-29 |publisher=IT media NEWS |date=2013-05-03}}</ref>。
*2014年10月1日 - 世界共通のプラットフォームとしてリニューアル<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.microsoft.com/ja-jp/2014/09/08/140908-new-msn/|title= マイクロソフトのポータルサイト「MSN」を刷新|date=2014/9/8|accessdate=2022-05-04|publisher=[[マイクロソフト|Microsoft]]}}</ref>。「MSN産経ニュース」を終了し、複数紙の記事を配信するようになった<ref>{{Cite web|和書
|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/665746.html
|title=「MSN」リニューアル、マルチデバイス対応強化、ニュースは複数社からの提供に -INTERNET Watch
|date=2014/9/8
|accessdate=2017-12-25
|publisher=株式会社[[インプレス]]
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/669329.html
|title=ポータルサイト“MSN”がリニューアル、“Bing”ブランドアプリも“MSN”ブランドに - 窓の杜
|date=2014/10/1
|accessdate=2017-12-25
|publisher=株式会社[[インプレス]]
}}</ref>。なお、産経デジタルは独立サイト「[[産経デジタル|産経ニュース]]」を同日にオープンした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1409/08/news124.html |title=MSNが「20年で最大」のリニューアル 全世界でデザイン統一、マルチデバイス対応 パーソナライズ機能も強化 |access-date=2023-01-29 |publisher=IT media NEWS |date=2014-09-08}}</ref>。
*2018年6月20日 - 米Microsoftが、「Microsoft News」を発表。MSN.comなどのニュースサイト用ニュースエンジンの新たな名称で、AI(人工知能)がピックアップしたニュースを最終的に人間がキュレーションする。世界中の3000以上のメディア([[USAトゥデイ|USA Today]]、[[The Guardian]]、[[共同通信社|共同通信]]など)との提携により、重要なニュースをキュレートして表示する<ref>{{Cite web |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1806/21/news083.html |title=Microsoft、iOSおよびAndroid向け「Microsoftニュース」アプリ AIと人間がキュレーション |access-date=2023-10-17 |publisher=ITmedia Inc. |date=2018-06-21}}</ref>。
==主な無料サービス==
*[[Outlook.com]] - Webメール(Windows Live Hotmailから移行)
*[[Skype]] - チャット(中国本土のみWindows Live メッセンジャーを継続)
*[[Microsoft OneDrive|OneDrive]] - オンライン
*[[Microsoft Bing|Bing]] - 全文検索
*[[Bing Maps]] - 地図
*[[Windows Live Spaces]] - ブログ(2011年{{0}}3月16日にサービス終了)
==日本国内で提供される有料サービス==
*MSN9 Premium
*広告なしのOutlook.com - 「MSN Hotmail Plus」から移行
*MSN オークション([[DeNAショッピング]]と提携)
*MSN Music(2007年9月に音楽配信を終了、それ以降は音楽情報サイトとして継続)
*MSN [[エンカルタ]]百科事典(1回あたり2時間まで無料でダイジェスト版の利用が可能。2009年12月31日にサービス終了)
==関連項目==
*[[MSN Explorer]]
*[[MSN メッセンジャー]]
*[[Windows Live]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
== 注釈 ==
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== 出典 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
*[https://www.msn.com/ MSN]
*[https://web.archive.org/web/20040214103624/http://game.msn.co.jp/home.armx MSNゲーム アーカイブ]
*[https://web.archive.org/web/20140924095613/http://topics.jp.msn.com/wadai/r25/ MSNトピックス] - [[R25 (雑誌)|R25]]/[[L25 (雑誌)|L25]]の記事一覧
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[[Category:ポータルサイト]]
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2003-09-05T05:00:51Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MSN
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二・二六事件
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座標: 北緯35度39分51秒 東経139度41分49秒 / 北緯35.66417度 東経139.69694度 / 35.66417; 139.69694
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。
皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させた。
昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた(派閥については後述)。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた。
一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。
しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。
皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。
将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。
他
大日本帝国陸軍の高級将校の間では、明治時代の藩閥争いを源流とする、派閥争いの歴史があった。1930年代初期までに、陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。一つは荒木貞夫大将とその盟友真崎甚三郎大将を中心とする皇道派、もう一つは、永田鉄山少将を中心とする統制派であった。
皇道派は天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、無論、反共産党主義であり、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張していた(北進論)。
統制派は、当時のドイツ参謀本部の思想、ならびに第一次世界大戦からの影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画(総力戦理論)、技術の近代化・機械化を重視、中国への拡大を支持していた(南進論)。
荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替された。
陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、警察や憲兵隊からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。
隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた。
たとえば、二・二六事件に参加した高橋太郎(事件当時少尉)の事件後の獄中手記に、高橋が歩兵第3連隊で第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は...」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している。
また、1933年(昭和8年)11月に偕行社(陸軍の将校クラブ)で皇道派・統制派の両派の中心人物が集まって会談した際、統制派の武藤章らが「青年将校は勝手に政治運動をするな。お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部の中心になってやっていくからやめろ」と主張した際、青年将校たちはこう反駁した。「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」。
こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。北が著した『日本改造法案大綱』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。
青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けていた。
緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。その非公式のリーダーは西田税であった。
元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。1931年(昭和6年)の三月事件と十月事件に続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。
皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことが分かる。皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。
国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治的テロの威力は大きかった。参謀たちや皇族の中にも理解者がおり、中でも特筆すべきは、天皇の弟(1933年までは皇位継承者)で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった秩父宮雍仁親王であった。また、国体原理派はかなり反資本主義的であったにもかかわらず、我が身を守りたい財閥から資金を調達することに成功した。三井財閥は血盟団事件(1932年2月-3月)で総帥の團琢磨が暗殺されたのち、青年将校らの動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(平成25年の価値にして約7000万円)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税にもその一部が渡っていた。
2月22日、西田から蹶起の意思を知らされた北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。
2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。
2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。
二・二六事件に至るまでの数年は、軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期であった。最も顕著なものは1932年(昭和7年)の五・一五事件で、この事件では若い海軍士官が犬養毅首相を暗殺した上に、各地を襲撃した。この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件の計画を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。
また、その前にあった三月事件や十月事件と同様、事件の加担者たちは比較的軽い禁錮15年以下の刑を受けただけであった。このことも、二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。
統制派のエリート幕僚たちは、第一次世界大戦の国家総力戦の教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制(総動員体制)が必要と考えた。したがって統制派の志向する国家改造とは、総力戦を可能にするために、軍部が国家の全般を指導できるようにするための国家体制の改造である。
この統制派の将校グループとしては、1918年(大正7年)頃から永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機による二葉会があり、1926年(昭和元年)頃からは陸軍の長州閥を打倒して、総力戦への体制を整えることの2点を大きな目標とした。
また、1927年(昭和2年)頃から、鈴木貞一を中心とする木曜会も形成され、満蒙問題の解決について議論していた。
二葉会と木曜会は、1929年(昭和4年)に統合され、一夕会と改称した。ここで掲げられた目標は、1人事の刷新。具体的には宇垣閥を追放し、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。2満蒙問題の解決。具体的には機を見て武力で占領すること、などであった。
また、これとは別に1930年(昭和5年)には、橋本欣五郎を中心とする陸大卒エリートが日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して桜会を結成した。桜会は、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件と二度にわたってクーデター計画を立てたが、いずれも未遂に終わった。計画の段階では青年将校たちにも参加するよう誘っていたが、青年将校たちには橋本自身の権勢欲のためと映ったため、青年将校たちは反発を感じて参加しなかった。
青年将校たち自身もクーデターを含む構想を持っていながら、別のクーデター計画を立てた橋本一派を嫌悪する点は一見理解しづらいが、青年将校たちは自分たちが政権を担うつもりはなく、蹶起後の政権作りは民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って陛下の股肱を斬ったことを詫びるつもりであった。「失敗はもとより死、成功もまた死」という「純粋な動機」からなすべき維新であると考えていた。それに比べて橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取にすぎないと考えたのである。
三月事件、十月事件事件後、同年12月には荒木貞夫陸相に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。青年将校らは橋本の計画に反対していたため、この処断を行った荒木陸相(皇道派)を支持した。一方、統制派はこの荒木陸相人事で重用されなかったため、一夕会(統制派)は1934年(昭和9年)になると荒木陸相に見切りをつけ、荒木陸相排除に動いて、林銑十郎が陸相に就任した。
林陸相の下で、永田鉄山が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で「国防の本義と其強化の提唱」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発表された。ここで示された統制派の目指す国家改造は軍部主導の総動員国家、統制国家を樹立する方向性であったが、国防のためにも国民全体の生活基盤の安定が必要との観点から、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」と論じ、「窮迫せる農村を救済せんが為めには、社会政策的対策は固より緊要であるが、(中略)経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずることが必要」とした。これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった。
しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。統制派も青年将校も国家改造を求めてはいたが、両者は国家改造の方向性が異なるのである。このため、陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校たちの動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていた。
また、永田鉄山は皇道派の追放と併せて、先に三月事件、十月事件の件で左遷された橋本欣五郎や長勇ら清軍派(旧桜会)メンバーの復活を図った。青年将校たちは統制派に対する不信感を更に強めた。クーデターを計画した橋本らを処断しないことは、軍紀を乱すばかりでなく、天皇に対する欺瞞であり不忠であり、その意味では統制派も「君側の奸」の一種と映ったからである(青年将校らは自らのクーデターで自らが処断されることは覚悟していた)。
中央幕僚らは目障りになってきた隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。
1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で陸軍士官学校事件(十一月事件)において、国体原理派の主要メンバーである村中孝次大尉と磯部浅一一等主計が、士官学校生徒らとともにクーデターを計画したとして逮捕された。村中と磯部は、そのようなクーデターについて議論したことは認めたが、それを実行するための具体的な計画をしたことについては否定した。1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。事件を調査した軍法会議は、3月20日、証拠不十分で不起訴としたが、4月1日、村中と磯部は停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。二人は、事件は統制派による青年将校への攻撃であると確信し、7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。この中で、先の三月事件や十月事件に中央の幕僚たちが関与した事情を暴露した上で、これらの逆臣行動を隠蔽し、これに関与した中央幕僚らを処断しないことこそ、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。これらのことによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。
陸軍士官学校事件のあと、1935年(昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官(教育総監)の地位に残っていた真崎甚三郎大将が罷免された。このことで皇道派と統制派との反目は度を深めた。青年将校たちはこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。
また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた。陸軍教育総監は陸軍三長官の一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は、制度上は陸軍大臣が握っていたが、長い間の慣行で、陸軍三長官の合意により決められることになっていた。三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た。こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した。このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された。村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した。
1935年8月12日白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害する事件を起こした(相沢事件)。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。
二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。
1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。
1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1936年1月28日、磯部が真崎大将の元を訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部からの参加要請を断ったことを野中から叱責され、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した。
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、竹島中尉、高橋少尉、安田少尉など、新たな国家体制の確立よりは、とにかく自分たちは奸臣を斬れば良いのだという考えの者もいた。いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響を受けた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。
磯部は獄中手記で「......ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。......藤田東湖の『大義を明らかにし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを患えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。......けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。......」と述べている。
村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。......本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は......昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。
「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
蹶起趣意書は、神武天皇の建国、明治維新を経た国家の発展を称え、八紘一宇を完成させる国体こそ我が国の神州たる所以とし、思想は一君万民論などを基礎とする。また、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例を挙げ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した(後述)。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。
対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。
21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。
23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。
24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。
西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、静岡県警察部長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。
事件発生後、午前6時40分頃、木戸幸一が興津にある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」と女中が返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であった橋本清吉が手記にそのときの詳細を書いている。
反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。
反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。
内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。
全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた。
まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間に邸内警備の土井清松巡査が総理秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵退役陸軍歩兵大佐とともに岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂左衛門巡査部長が廊下で警戒に当たった。また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査が特別警備隊に事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した。
廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から銃剣で刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また、襲撃部隊は松尾大佐の遺体を見て岡田総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。
一方、遺体が松尾のものであることを確認し、女中たちの様子から総理生存を察知した福田耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹および小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。
元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
叛乱当日は中橋基明中尉および中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。
斎藤実内大臣は、退役海軍大将であり第30代内閣総理大臣である。長く海軍大臣を勤めていたところ、1914年のシーメンス汚職事件により引責辞任し、朝鮮総督期に子爵の称号を受けたあと退役し、犬養毅首相が1932年に武装した海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとは、元老の西園寺公望の推薦を受け斉藤内閣を率いる内閣総理大臣兼外務大臣に任命され、関東軍による満州事変などの混迷した政局において軍部に融和的な政策をとり、満州国を認めなかった国際連盟を脱退するなどしたうえ、帝人事件による政府批判の高まりから内閣総辞職をしていたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けたものである。
坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、四谷区仲町三丁目(現:新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
目の前で夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。
斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。外国勲章はシーメンス汚職事件での海軍大臣引責辞任よりあとは受けていない。
鈴木貫太郎(予備役海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。
叛乱当日は、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を永田露曹長が、第2小隊を堂込喜市曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を上村盛満軍曹が率い、麹町区(現:千代田区)三番町の侍従長公邸に乱入した。鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。襲撃部隊の撤収後、少年期の昭和天皇の教育係であった鈴木たかは天皇に直接電話し、宮内省の医師を派遣してくれるように依頼した。この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。
安藤は、以前に鈴木侍従長を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。
その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。
陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。ただし異説もあり、一部参加者の証言では、事態収拾のための仲介を依頼するために出向いただけで殺害の意図はなかったのだが、行き違いから撃ち合いになり、結局殺害ということになったとも言う。
斎藤内大臣襲撃後の高橋少尉および安田少尉が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある。
殺されるであろうことを感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長および憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。
28日付で教育総監部本部長の中村孝太郎中将が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。
牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。
河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。
脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、同行者や消防団等の協力により避難に成功する。襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。
なお、吉田茂の娘で牧野の孫に当たる麻生和子は、この日牧野を尋ねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されている。
1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部に対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。このことから、警視庁では特別警備隊(現在の機動隊に相当する)に機関銃を装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった。
警視庁と首相官邸の間には非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられた。警視庁の特別警備隊においては、当日は第3中隊(中隊長 堀江末吉警部)が宿直であり、待機の第1小隊(小隊長 野老山幸風警部補)に堀江警部が同行して出動したものの、官邸付近に到着した時には既に官邸は占拠されて前には重機関銃が据えられており、野老山警部補と小隊長伝令(金井巡査)は兵士との押し問答の中で拳銃を奪われそうになり、金井巡査は銃剣で大腿部を傷つけられたうえ、突破を諦めて帰隊しようとする両名は背後から銃撃されて、近くの外務大臣官邸に退避する状況であった。
野老山小隊の出動直後より、警視庁庁舎付近にも反乱部隊が進出し、機関銃を庁舎に向けて包囲の態勢をとっていた。部隊を指揮した野中大尉は「我々は警視庁に敵対するものではない。ただ特別警備隊の出動を阻止するものだ」と語った。庁舎全体の占拠には至らなかったものの、電話交換室など庁舎の一部を占拠し、交換手の背に銃剣を突きつけて警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた。また警察官の出勤を阻止するための遮断線を貼っていたが、これを突破して強行登庁した特別警備隊隊長の岡崎英城警視によって在庁員は把握されていた。
電話手の働きにより、小栗一雄警視総監をはじめ各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた。
警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、安倍源基特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした。
半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、宮内省直通の非常電話が設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査が出た。一度「ヒロヒト、ヒロヒト...」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという。
作家の戸川猪佐武によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。
警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸も襲撃して、これを占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。
さらに、反乱部隊は陸軍省および参謀本部、有楽町の東京朝日新聞(のちの朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。
26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。
事件後まもなく北一輝の元に渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人の亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官・中島鉄蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが昭和天皇に直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係にあった。中島侍従武官に連絡を受けた甘露寺受長侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、しばらくは呆然としていたが、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。
襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平・宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。宮中グループの支持を得られなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。
午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。
午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。
26日早朝、石原莞爾大佐宅に、新聞班長である鈴木貞一中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。その後、石原は軍事高級課員である武藤章中佐に電話をかけ「......いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こちらから役所に電話したが通じない...」と話し、直ちに参謀本部に出かけている。
歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、赤坂見付台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!俺は参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方は今危険千万、死線はこれからも連続ですぞ。私は貴方を誰よりも尊敬しています。死線から貴方を守りたい。どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。お願いです」とそっと耳打ちをしたという。麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという。
このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった難波三十四砲兵大尉(陸士第35期。終戦時は大佐、近衛第1師団参謀長、東京湾兵団参謀)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の杉山元さんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している。
磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰り下さい」と迫られた石原は「何が維新だ。何も知らない下士官を巻き込んで維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはすぐやめろ、やめねば軍旗をもって討伐するぞ!」と再び一喝したとある。
山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。また、磯部が陸軍省軍務局の片倉衷少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという。ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。早く事態を収めることだ」と答えている。なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。俺も昭和維新については同じに思っている。しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。私兵を動かしてはいかん」と説論している。
この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。この際、川島義之陸軍大臣と古荘幹郎陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている。
石原と皇道派の関係について、筒井清忠が真崎甚三郎と橋本欣五郎・石原の間に近接関係が構築されつつあったことや、北博昭も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している。ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。この案をあなたはどう思いますか」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。やってみよう。だが、このことたるや、事まことに重大だ。僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。次長はあの部屋にいるから相談してくる。待っててくれ」と言い残して席をはずして杉山元参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている。ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。
26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。
真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治と共に軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮を含む3人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく汲んでいないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。
杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊および佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。
午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。
正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。
一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ二、諸󠄀子ノ眞意󠄁ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム三、國體ノ眞姿󠄁顯現ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼ニ堪ヘズ四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ
この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。
26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
諸󠄀子ノ行動ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム
と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突󠄁ヲ絕對ニ避󠄁クルコト二、軍事參議官ハ積極的󠄁ニ部隊󠄁ヲ說得シ一丸トナリテ活潑ナル經綸ヲ爲ス。閣議モ其趣旨ニ從ヒ善處セラル
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令の施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。
午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。
26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、宮中東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。その直後に宮中に居合わせていた内田信也鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから......』と、はねつけた」と証言している。なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている。
なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。
午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。
「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする老臣らを悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。
午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰を勧めた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
午後5時、弘前より上京した秩父宮が上野駅に到着。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。
午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は再び反対し、武力鎮圧を主張した。
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」と非常な不満を示して叱責した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。
自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。同時刻、皇居には皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。
午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。
また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。
一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。
29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである...」に始まる勧告が放送され、また田村町(現・西新橋)の飛行館には「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を図ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。
3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。
皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた小坂慶助曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている。とはいえ、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという。
2019年のNHKスペシャルでの調査による海軍極秘文書発見により、事件発生直後、昭和天皇は伏見宮博恭軍令部総長に会い、海軍がクーデターに参加する可能性がないことを伏見宮に確認し、大海令を発動し陸軍のクーデター部隊の鎮圧に対する準備を海軍が進めていたことが明らかになっている 。
また憲兵(東京憲兵隊長)からの情報として、海軍省は事件発生の一週間前には決起部隊の将校の名簿とその襲撃対象とされていた人物までの詳細な情報を掴んでいたが、この情報は次官クラスで極秘のまま隠蔽されていた。また、その後の事件の経過も詳細に記録している。
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍出身の大将だったことから、東京市麹町区にあった海軍省は早くも26日午前に反乱部隊に対する徹底抗戦を発令、省舎の警備態勢を臨戦態勢に移した。
もとより海軍では事件の第一報当初より蜂起部隊を「反軍」(反乱軍)と位置付けていた。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官)の海軍陸戦隊4個大隊を芝浦埠頭に上陸させるとともに、第一艦隊を東京湾内に急行させ、27日午後には旗艦「長門」以下各艦の主砲の照準を反乱軍の占拠する都内各地に合わさせた。
この臨戦態勢は大阪にも及び、27日午前には第二艦隊の各艦が大阪港外に投錨した。
また、海軍に対し叛乱軍将兵が自身らの拠点に海軍将校を1名派遣することを要求してきた際に、軍令部部員の岡田為次中佐を派遣させている。岡田中佐は岡田啓介内閣総理大臣と同じ苗字であることを利用して「同じ苗字の大先輩へ弔問をしたい」として遺体をいち早く確認し岡田総理が生存していることを確認した。
陸軍の統制派は二・二六事件の蹶起がもたらした状況を最大限に利用した。政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。そして、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2.26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった。
事件の収拾後、岡田内閣は総辞職し、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。しかし組閣大命が下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。3月6日には新聞で新閣僚予定者の名簿も掲載され、親任式まで順調に進むかに思われた。
しかし陸軍は陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とまず釘をさした。そして、陸軍省軍務局の武藤章中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、下村宏、中島知久平、川崎卓吉、小原直、吉田茂などを名指しして、自由主義的な思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。
20名が2月29日付で、3月2日には山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。
事件により、大臣達の護衛についていた5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣から警察官吏及消防官吏功労記章を付与された。国民からの反響も大きく、全国から弔文十万通、弔慰金21万9833円が集まり、4月30日に弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到するほどであった。築地本願寺において行われた合同警視庁葬においては数万人の市民が焼香した。
これが原因で戦後の陸上自衛隊も警視庁公安部公安第3課の監視対象になっている。
この他に、歩兵第15連隊の兵士4人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡するなど、鎮圧側部隊の兵士計6名が、29日から3月1日にかけて死亡している。
事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。
やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。
事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。
当時の陸軍人事局長であった後宮淳中将から、事後処理のため近衛歩兵第2連隊付から参謀本部庶務課高級部員(課長代理)に抜擢された富永恭次は、難航すると思われた皇道派将校からの予備役編入願を手際よく集めてきたため、大きな混乱もなく多数の皇道派将校を予備役行きにすることができて、富永の実務能力への評価が高まった。関東軍の東條も目にかけてきた富永の優秀な仕事ぶりの噂を聞くと喜び、相沢事件で皇道派の将校相沢三郎に殺害された、東條にとっての恩人であった永田鉄山の仇をとってくれたとさらに富永を高く評価することとなり、のちに富永が「東條の腰巾着」などと揶揄されるほど重用されるきっかけともなった。
一方、事件に対する陸軍の責任をめぐっては貴族院で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった。
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。「命令と服従」の関係が焦点となり、下士官・兵に対する処罰が軍法会議にかけられた。無罪となった兵士たちは、それぞれの連隊に帰ったが、歩兵第1連隊も歩兵第3連隊もすでに渡満していたことから、彼らは留守部隊の所属となっていた。そこで無罪放免となった歩兵第3連隊の兵隊たちのうち8名は渡満を希望し、8月上旬に東京を出発して満州北部のチチハルに駐在する歩兵第3連隊へと向かった。しかし、ここで事件後に着任した湯浅政雄連隊長から思いがけないことを言われた。8人の中の1人だった春山安雄伍長勤務上等兵は証言している。「到着するとすぐに本部に行き晴々した気持ちで連隊長に申告したところ、湯浅連隊長はいきなり『軍旗をよごした不忠者めが』と怒鳴り、軍旗の前に引き出され、散々にしぼられた」春山伍勤上等兵は「私たちは命令によって行動したのに不忠者とは何ごとか」と連隊長の言葉に反発し、思わずムッとして開き直った態度をとると、さらに、「何だ、その態度は!」と一喝された。
反乱軍とみなされていたのは軍法会議に付された者ばかりではなかった。歩兵第3連隊は5月22日に渡満の途についたが、出発に先立ち湯浅連隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示したという。これに対して、歩兵第3連隊第3中隊の福田守次上等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じた」と戦後に憤りを語っている。こうした事情は歩兵第1連隊も同じで、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵の回想によると、歩兵第1連隊の新連隊長に着任した牛島満大佐も「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と発言したという。事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。
歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(落語家。後の人間国宝・5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後の埼玉県知事、社会党衆議院議員)がいる。また、歩兵第1連隊第5中隊には、後に映画監督として『ゴジラ』や『モスラ』といった東宝特撮映画を撮る本多猪四郎がいた。
反乱軍を出した各部隊等では指揮官が責任を問われ更迭された。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。
事件後、東條英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、結果としては陸軍では統制派の政治的発言力がますます強くなることとなった。
事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。
2月28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。
迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった。特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て3月4日に公布されたものである。この日、天皇は本庄繁侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。すなわち、「軍法会議の構成も定まりたることなるが、相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言ったのである。
実際、裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。その方法は、審理の内容を徹底して「反乱の四日間」に絞り込み、その動機についての審理を行わないことであった。これは先の相沢事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。2.26事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、蹶起した青年将校らは「昭和維新の精神」を訴える機会を封じられてしまった。
当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。
第二十五條黨ヲ結ヒ兵器󠄁ヲ執リ叛亂ヲ爲シタル者󠄁ハ左ノ區別ニ從テ處斷ス一 首魁ハ死𠛬ニ處ス二 謀議ニ參與シ又ハ群衆ノ指揮ヲ爲シタル者󠄁ハ死𠛬、無期󠄁若ハ五年以上ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處シ其ノ他諸󠄀般ノ職務ニ從事シタル者󠄁ハ三年以上ノ有󠄁期󠄁ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス三 附和隨行シタル者󠄁ハ五年以下ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。
そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長は、北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないとして、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。
軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した。また田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。
匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという。ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことが窺える。
公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988年9月になって判明した。だがこれらは関係者の実名が多く載せられているためか撮影・複写すら禁止されており、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し、1998年に出版した。2001年2月21日に放送された「その時歴史が動いた シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜』」において、初めて一部撮影が許可された。2014年から国立公文書館に軍法会議録が移管され、2022年には『オンライン版 二・二六事件東京陸軍軍法会議録』として公開された。
民間人に関しては、木内曽益検事が主任検事として事件の処理に当たった。
自決等
階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。
田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。
7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く、後述の水上源一を含む、15名の刑が執行された。
1937年(昭和12年)8月19日に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された。
事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。
一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢総明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。
しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある。
一方、当時真崎大将の護衛であった金子桂憲兵伍長(少尉候補者第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。
また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。真崎は好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈ありと誤解されて勝手に祭り上げられていただけの可能性が高い。
決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官など)と改造主義グループ(政情変革を狙っており、北一輝の思想に影響を受けた磯部、栗原など)があり、特に後者はクーデター後を睨んで宮中などへの上部工作を行った。また陸軍省・参謀本部ではクーデターが万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた。
推理作家の松本清張は「昭和史発掘」で
と主張している。
磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。
『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。
青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、二・二六事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、西園寺公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。また、小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が磯村年裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている。
1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
水上源一は、河野大尉と共に湯河原での牧野伸顕襲撃に加わったメンバーで、一連の事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた(1936年7月12日処刑)。
1936年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人15名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。
青年将校の多くは、天皇陛下万歳と三唱して処刑されたと伝えられる。ただ、磯部朝一のみは激しく昭和天皇のとった態度を痛罵する手記を残している。また、北一輝は西田税から我々も天皇陛下万歳を三唱しますかと聞かれたとき、断っている。昭和天皇自身は、「青年将校は私をかつぐが私の真意を少しも尊重しない」とし、青年将校らの目的があくまで平等主義に比重を置いた青年将校らの理念やその理想政治の実現であり、天皇自身の利益には必ずしも合致しないことを理解し、また、青年将校らが秩父宮を即位させることを狙っているのではないかと疑っていた。「天皇はその大御心でつねに国民の事を考えている」との天皇制プロパガンダに洗脳され、その最大の犠牲者となったのが、彼ら青年将校らだったのかもしれない。
二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により荒川区南千住の回向院に葬られている。またこれとは別に、港区元麻布の賢崇寺内に墓碑があり、毎年2月26日・7月12日に合同慰霊祭が行われている。
1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島健吉輜重兵中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された。妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた。
2月29日朝、歩兵第1連隊の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。
3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。
3月16日、電信第1連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。
10月18日、三月事件や十月事件にも関与した田中彌歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた。田中大尉は十月事件以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。
歩兵第61連隊中隊長であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した。なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。
2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあったと言われている。たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった。2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。しかし、実際には「同志」の間柄の人々ですら地方から駆けつけてくるようなことは無かったため、革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったフシがあり、また陸軍大臣らの行動も、単に事態を丸く収めようとしただけであり、反乱に同調していたわけでは無かったと考えられる。
「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。このように、日本軍の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。
これについて、蹶起将校の一人である磯部浅一は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏を恨みました」。ロシア革命は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、一家ともども虐殺された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、皇室がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。
もともと大日本帝国憲法下では、天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた(張作霖爆殺事件の処理に関して、内閣総理大臣田中義一を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の2つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件も鈴木貫太郎が関わっている)。
それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていた。また、1981年1月17日に現在の警視庁本部庁舎を視察した際に、今泉正隆警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と訊ねている。
岡田内閣総辞職の後の5月、廣田内閣は思想犯保護観察法(昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。思想犯保護観察団体には全日本仏教会なども加わっていた。
1945年(昭和20年)12月14日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し二・二六事件をはじめとした、1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を命令した。提出命令に先立ち、同年12月6日までにA級戦犯容疑者の逮捕命令が出されていた。
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"text": "座標: 北緯35度39分51秒 東経139度41分49秒 / 北緯35.66417度 東経139.69694度 / 35.66417; 139.69694",
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"text": "二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。",
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"text": "皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させた。",
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"text": "昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた(派閥については後述)。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた。",
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"text": "一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。",
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"text": "しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。",
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"text": "皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。",
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"text": "将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。",
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"text": "事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。",
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"text": "他",
"title": "主な関係者"
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"text": "大日本帝国陸軍の高級将校の間では、明治時代の藩閥争いを源流とする、派閥争いの歴史があった。1930年代初期までに、陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。一つは荒木貞夫大将とその盟友真崎甚三郎大将を中心とする皇道派、もう一つは、永田鉄山少将を中心とする統制派であった。",
"title": "背景"
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"text": "皇道派は天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、無論、反共産党主義であり、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張していた(北進論)。",
"title": "背景"
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"text": "統制派は、当時のドイツ参謀本部の思想、ならびに第一次世界大戦からの影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画(総力戦理論)、技術の近代化・機械化を重視、中国への拡大を支持していた(南進論)。",
"title": "背景"
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{
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"text": "荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替された。",
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"text": "陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、警察や憲兵隊からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。",
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"text": "隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた。",
"title": "背景"
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"text": "たとえば、二・二六事件に参加した高橋太郎(事件当時少尉)の事件後の獄中手記に、高橋が歩兵第3連隊で第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は...」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している。",
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"text": "また、1933年(昭和8年)11月に偕行社(陸軍の将校クラブ)で皇道派・統制派の両派の中心人物が集まって会談した際、統制派の武藤章らが「青年将校は勝手に政治運動をするな。お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部の中心になってやっていくからやめろ」と主張した際、青年将校たちはこう反駁した。「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」。",
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"text": "こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。北が著した『日本改造法案大綱』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。",
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"text": "青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けていた。",
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"text": "緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。その非公式のリーダーは西田税であった。",
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"text": "元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。1931年(昭和6年)の三月事件と十月事件に続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。",
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"text": "皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことが分かる。皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。",
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"text": "国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治的テロの威力は大きかった。参謀たちや皇族の中にも理解者がおり、中でも特筆すべきは、天皇の弟(1933年までは皇位継承者)で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった秩父宮雍仁親王であった。また、国体原理派はかなり反資本主義的であったにもかかわらず、我が身を守りたい財閥から資金を調達することに成功した。三井財閥は血盟団事件(1932年2月-3月)で総帥の團琢磨が暗殺されたのち、青年将校らの動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(平成25年の価値にして約7000万円)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税にもその一部が渡っていた。",
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"text": "2月22日、西田から蹶起の意思を知らされた北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。",
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"text": "2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。",
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"text": "2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。",
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"text": "二・二六事件に至るまでの数年は、軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期であった。最も顕著なものは1932年(昭和7年)の五・一五事件で、この事件では若い海軍士官が犬養毅首相を暗殺した上に、各地を襲撃した。この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件の計画を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。",
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"text": "また、その前にあった三月事件や十月事件と同様、事件の加担者たちは比較的軽い禁錮15年以下の刑を受けただけであった。このことも、二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。",
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"text": "統制派のエリート幕僚たちは、第一次世界大戦の国家総力戦の教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制(総動員体制)が必要と考えた。したがって統制派の志向する国家改造とは、総力戦を可能にするために、軍部が国家の全般を指導できるようにするための国家体制の改造である。",
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"text": "この統制派の将校グループとしては、1918年(大正7年)頃から永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機による二葉会があり、1926年(昭和元年)頃からは陸軍の長州閥を打倒して、総力戦への体制を整えることの2点を大きな目標とした。",
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"text": "また、1927年(昭和2年)頃から、鈴木貞一を中心とする木曜会も形成され、満蒙問題の解決について議論していた。",
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"text": "二葉会と木曜会は、1929年(昭和4年)に統合され、一夕会と改称した。ここで掲げられた目標は、1人事の刷新。具体的には宇垣閥を追放し、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。2満蒙問題の解決。具体的には機を見て武力で占領すること、などであった。",
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"text": "また、これとは別に1930年(昭和5年)には、橋本欣五郎を中心とする陸大卒エリートが日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して桜会を結成した。桜会は、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件と二度にわたってクーデター計画を立てたが、いずれも未遂に終わった。計画の段階では青年将校たちにも参加するよう誘っていたが、青年将校たちには橋本自身の権勢欲のためと映ったため、青年将校たちは反発を感じて参加しなかった。",
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"text": "青年将校たち自身もクーデターを含む構想を持っていながら、別のクーデター計画を立てた橋本一派を嫌悪する点は一見理解しづらいが、青年将校たちは自分たちが政権を担うつもりはなく、蹶起後の政権作りは民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って陛下の股肱を斬ったことを詫びるつもりであった。「失敗はもとより死、成功もまた死」という「純粋な動機」からなすべき維新であると考えていた。それに比べて橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取にすぎないと考えたのである。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "三月事件、十月事件事件後、同年12月には荒木貞夫陸相に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。青年将校らは橋本の計画に反対していたため、この処断を行った荒木陸相(皇道派)を支持した。一方、統制派はこの荒木陸相人事で重用されなかったため、一夕会(統制派)は1934年(昭和9年)になると荒木陸相に見切りをつけ、荒木陸相排除に動いて、林銑十郎が陸相に就任した。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "林陸相の下で、永田鉄山が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で「国防の本義と其強化の提唱」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発表された。ここで示された統制派の目指す国家改造は軍部主導の総動員国家、統制国家を樹立する方向性であったが、国防のためにも国民全体の生活基盤の安定が必要との観点から、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」と論じ、「窮迫せる農村を救済せんが為めには、社会政策的対策は固より緊要であるが、(中略)経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずることが必要」とした。これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった。",
"title": "背景"
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"text": "しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。統制派も青年将校も国家改造を求めてはいたが、両者は国家改造の方向性が異なるのである。このため、陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校たちの動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていた。",
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"text": "また、永田鉄山は皇道派の追放と併せて、先に三月事件、十月事件の件で左遷された橋本欣五郎や長勇ら清軍派(旧桜会)メンバーの復活を図った。青年将校たちは統制派に対する不信感を更に強めた。クーデターを計画した橋本らを処断しないことは、軍紀を乱すばかりでなく、天皇に対する欺瞞であり不忠であり、その意味では統制派も「君側の奸」の一種と映ったからである(青年将校らは自らのクーデターで自らが処断されることは覚悟していた)。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "中央幕僚らは目障りになってきた隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で陸軍士官学校事件(十一月事件)において、国体原理派の主要メンバーである村中孝次大尉と磯部浅一一等主計が、士官学校生徒らとともにクーデターを計画したとして逮捕された。村中と磯部は、そのようなクーデターについて議論したことは認めたが、それを実行するための具体的な計画をしたことについては否定した。1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。事件を調査した軍法会議は、3月20日、証拠不十分で不起訴としたが、4月1日、村中と磯部は停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。二人は、事件は統制派による青年将校への攻撃であると確信し、7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。この中で、先の三月事件や十月事件に中央の幕僚たちが関与した事情を暴露した上で、これらの逆臣行動を隠蔽し、これに関与した中央幕僚らを処断しないことこそ、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。これらのことによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "陸軍士官学校事件のあと、1935年(昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官(教育総監)の地位に残っていた真崎甚三郎大将が罷免された。このことで皇道派と統制派との反目は度を深めた。青年将校たちはこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。",
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた。陸軍教育総監は陸軍三長官の一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は、制度上は陸軍大臣が握っていたが、長い間の慣行で、陸軍三長官の合意により決められることになっていた。三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た。こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した。このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された。村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "1935年8月12日白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害する事件を起こした(相沢事件)。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。",
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。",
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"paragraph_id": 49,
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"text": "1936年1月28日、磯部が真崎大将の元を訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。",
"title": "背景"
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"text": "磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部からの参加要請を断ったことを野中から叱責され、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、竹島中尉、高橋少尉、安田少尉など、新たな国家体制の確立よりは、とにかく自分たちは奸臣を斬れば良いのだという考えの者もいた。いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響を受けた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "磯部は獄中手記で「......ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。......藤田東湖の『大義を明らかにし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを患えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。......けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。......」と述べている。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。......本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は......昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "蹶起趣意書は、神武天皇の建国、明治維新を経た国家の発展を称え、八紘一宇を完成させる国体こそ我が国の神州たる所以とし、思想は一君万民論などを基礎とする。また、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例を挙げ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した(後述)。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。",
"title": "蹶起の計画"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、静岡県警察部長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。",
"title": "蹶起の計画"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "事件発生後、午前6時40分頃、木戸幸一が興津にある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」と女中が返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であった橋本清吉が手記にそのときの詳細を書いている。",
"title": "蹶起の計画"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間に邸内警備の土井清松巡査が総理秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵退役陸軍歩兵大佐とともに岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂左衛門巡査部長が廊下で警戒に当たった。また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査が特別警備隊に事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から銃剣で刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また、襲撃部隊は松尾大佐の遺体を見て岡田総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "一方、遺体が松尾のものであることを確認し、女中たちの様子から総理生存を察知した福田耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹および小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "叛乱当日は中橋基明中尉および中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "斎藤実内大臣は、退役海軍大将であり第30代内閣総理大臣である。長く海軍大臣を勤めていたところ、1914年のシーメンス汚職事件により引責辞任し、朝鮮総督期に子爵の称号を受けたあと退役し、犬養毅首相が1932年に武装した海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとは、元老の西園寺公望の推薦を受け斉藤内閣を率いる内閣総理大臣兼外務大臣に任命され、関東軍による満州事変などの混迷した政局において軍部に融和的な政策をとり、満州国を認めなかった国際連盟を脱退するなどしたうえ、帝人事件による政府批判の高まりから内閣総辞職をしていたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けたものである。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、四谷区仲町三丁目(現:新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "目の前で夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。外国勲章はシーメンス汚職事件での海軍大臣引責辞任よりあとは受けていない。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "鈴木貫太郎(予備役海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 86,
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"text": "叛乱当日は、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を永田露曹長が、第2小隊を堂込喜市曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を上村盛満軍曹が率い、麹町区(現:千代田区)三番町の侍従長公邸に乱入した。鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。襲撃部隊の撤収後、少年期の昭和天皇の教育係であった鈴木たかは天皇に直接電話し、宮内省の医師を派遣してくれるように依頼した。この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 87,
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"text": "安藤は、以前に鈴木侍従長を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。",
"title": "事件経過"
},
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。ただし異説もあり、一部参加者の証言では、事態収拾のための仲介を依頼するために出向いただけで殺害の意図はなかったのだが、行き違いから撃ち合いになり、結局殺害ということになったとも言う。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "斎藤内大臣襲撃後の高橋少尉および安田少尉が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある。",
"title": "事件経過"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "殺されるであろうことを感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長および憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。",
"title": "事件経過"
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"tag": "p",
"text": "28日付で教育総監部本部長の中村孝太郎中将が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。",
"title": "事件経過"
},
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。",
"title": "事件経過"
},
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、同行者や消防団等の協力により避難に成功する。襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。",
"title": "事件経過"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "なお、吉田茂の娘で牧野の孫に当たる麻生和子は、この日牧野を尋ねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されている。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部に対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。このことから、警視庁では特別警備隊(現在の機動隊に相当する)に機関銃を装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった。",
"title": "事件経過"
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{
"paragraph_id": 98,
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"text": "警視庁と首相官邸の間には非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられた。警視庁の特別警備隊においては、当日は第3中隊(中隊長 堀江末吉警部)が宿直であり、待機の第1小隊(小隊長 野老山幸風警部補)に堀江警部が同行して出動したものの、官邸付近に到着した時には既に官邸は占拠されて前には重機関銃が据えられており、野老山警部補と小隊長伝令(金井巡査)は兵士との押し問答の中で拳銃を奪われそうになり、金井巡査は銃剣で大腿部を傷つけられたうえ、突破を諦めて帰隊しようとする両名は背後から銃撃されて、近くの外務大臣官邸に退避する状況であった。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 99,
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"text": "野老山小隊の出動直後より、警視庁庁舎付近にも反乱部隊が進出し、機関銃を庁舎に向けて包囲の態勢をとっていた。部隊を指揮した野中大尉は「我々は警視庁に敵対するものではない。ただ特別警備隊の出動を阻止するものだ」と語った。庁舎全体の占拠には至らなかったものの、電話交換室など庁舎の一部を占拠し、交換手の背に銃剣を突きつけて警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた。また警察官の出勤を阻止するための遮断線を貼っていたが、これを突破して強行登庁した特別警備隊隊長の岡崎英城警視によって在庁員は把握されていた。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "電話手の働きにより、小栗一雄警視総監をはじめ各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた。",
"title": "事件経過"
},
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、安倍源基特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした。",
"title": "事件経過"
},
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"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、宮内省直通の非常電話が設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査が出た。一度「ヒロヒト、ヒロヒト...」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "作家の戸川猪佐武によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸も襲撃して、これを占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "さらに、反乱部隊は陸軍省および参謀本部、有楽町の東京朝日新聞(のちの朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。",
"title": "事件経過"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "事件後まもなく北一輝の元に渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人の亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官・中島鉄蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが昭和天皇に直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係にあった。中島侍従武官に連絡を受けた甘露寺受長侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、しばらくは呆然としていたが、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平・宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。宮中グループの支持を得られなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "26日早朝、石原莞爾大佐宅に、新聞班長である鈴木貞一中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。その後、石原は軍事高級課員である武藤章中佐に電話をかけ「......いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こちらから役所に電話したが通じない...」と話し、直ちに参謀本部に出かけている。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、赤坂見付台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!俺は参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方は今危険千万、死線はこれからも連続ですぞ。私は貴方を誰よりも尊敬しています。死線から貴方を守りたい。どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。お願いです」とそっと耳打ちをしたという。麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった難波三十四砲兵大尉(陸士第35期。終戦時は大佐、近衛第1師団参謀長、東京湾兵団参謀)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の杉山元さんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している。",
"title": "鎮圧へ"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰り下さい」と迫られた石原は「何が維新だ。何も知らない下士官を巻き込んで維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはすぐやめろ、やめねば軍旗をもって討伐するぞ!」と再び一喝したとある。",
"title": "鎮圧へ"
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"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。また、磯部が陸軍省軍務局の片倉衷少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという。ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。早く事態を収めることだ」と答えている。なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。俺も昭和維新については同じに思っている。しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。私兵を動かしてはいかん」と説論している。",
"title": "鎮圧へ"
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{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。この際、川島義之陸軍大臣と古荘幹郎陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている。",
"title": "鎮圧へ"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "石原と皇道派の関係について、筒井清忠が真崎甚三郎と橋本欣五郎・石原の間に近接関係が構築されつつあったことや、北博昭も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している。ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。この案をあなたはどう思いますか」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。やってみよう。だが、このことたるや、事まことに重大だ。僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。次長はあの部屋にいるから相談してくる。待っててくれ」と言い残して席をはずして杉山元参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている。ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。",
"title": "鎮圧へ"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。",
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治と共に軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮を含む3人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。」と取り合わなかった。",
"title": "鎮圧へ"
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{
"paragraph_id": 122,
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"text": "午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく汲んでいないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。",
"title": "鎮圧へ"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊および佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。",
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"paragraph_id": 124,
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"text": "午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。",
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{
"paragraph_id": 125,
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"text": "正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。",
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{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ二、諸󠄀子ノ眞意󠄁ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム三、國體ノ眞姿󠄁顯現ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼ニ堪ヘズ四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "諸󠄀子ノ行動ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突󠄁ヲ絕對ニ避󠄁クルコト二、軍事參議官ハ積極的󠄁ニ部隊󠄁ヲ說得シ一丸トナリテ活潑ナル經綸ヲ爲ス。閣議モ其趣旨ニ從ヒ善處セラル",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令の施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、宮中東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。その直後に宮中に居合わせていた内田信也鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから......』と、はねつけた」と証言している。なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする老臣らを悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰を勧めた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "午後5時、弘前より上京した秩父宮が上野駅に到着。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は再び反対し、武力鎮圧を主張した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」と非常な不満を示して叱責した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。同時刻、皇居には皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである...」に始まる勧告が放送され、また田村町(現・西新橋)の飛行館には「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を図ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。",
"title": "鎮圧へ"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた小坂慶助曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている。とはいえ、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという。",
"title": "憲兵隊の動き"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "2019年のNHKスペシャルでの調査による海軍極秘文書発見により、事件発生直後、昭和天皇は伏見宮博恭軍令部総長に会い、海軍がクーデターに参加する可能性がないことを伏見宮に確認し、大海令を発動し陸軍のクーデター部隊の鎮圧に対する準備を海軍が進めていたことが明らかになっている 。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "また憲兵(東京憲兵隊長)からの情報として、海軍省は事件発生の一週間前には決起部隊の将校の名簿とその襲撃対象とされていた人物までの詳細な情報を掴んでいたが、この情報は次官クラスで極秘のまま隠蔽されていた。また、その後の事件の経過も詳細に記録している。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍出身の大将だったことから、東京市麹町区にあった海軍省は早くも26日午前に反乱部隊に対する徹底抗戦を発令、省舎の警備態勢を臨戦態勢に移した。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "もとより海軍では事件の第一報当初より蜂起部隊を「反軍」(反乱軍)と位置付けていた。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官)の海軍陸戦隊4個大隊を芝浦埠頭に上陸させるとともに、第一艦隊を東京湾内に急行させ、27日午後には旗艦「長門」以下各艦の主砲の照準を反乱軍の占拠する都内各地に合わさせた。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "この臨戦態勢は大阪にも及び、27日午前には第二艦隊の各艦が大阪港外に投錨した。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "また、海軍に対し叛乱軍将兵が自身らの拠点に海軍将校を1名派遣することを要求してきた際に、軍令部部員の岡田為次中佐を派遣させている。岡田中佐は岡田啓介内閣総理大臣と同じ苗字であることを利用して「同じ苗字の大先輩へ弔問をしたい」として遺体をいち早く確認し岡田総理が生存していることを確認した。",
"title": "海軍の動き"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "陸軍の統制派は二・二六事件の蹶起がもたらした状況を最大限に利用した。政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。そして、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2.26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "事件の収拾後、岡田内閣は総辞職し、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。しかし組閣大命が下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。3月6日には新聞で新閣僚予定者の名簿も掲載され、親任式まで順調に進むかに思われた。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "しかし陸軍は陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とまず釘をさした。そして、陸軍省軍務局の武藤章中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、下村宏、中島知久平、川崎卓吉、小原直、吉田茂などを名指しして、自由主義的な思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "20名が2月29日付で、3月2日には山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "事件により、大臣達の護衛についていた5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣から警察官吏及消防官吏功労記章を付与された。国民からの反響も大きく、全国から弔文十万通、弔慰金21万9833円が集まり、4月30日に弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到するほどであった。築地本願寺において行われた合同警視庁葬においては数万人の市民が焼香した。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "これが原因で戦後の陸上自衛隊も警視庁公安部公安第3課の監視対象になっている。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "この他に、歩兵第15連隊の兵士4人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡するなど、鎮圧側部隊の兵士計6名が、29日から3月1日にかけて死亡している。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "当時の陸軍人事局長であった後宮淳中将から、事後処理のため近衛歩兵第2連隊付から参謀本部庶務課高級部員(課長代理)に抜擢された富永恭次は、難航すると思われた皇道派将校からの予備役編入願を手際よく集めてきたため、大きな混乱もなく多数の皇道派将校を予備役行きにすることができて、富永の実務能力への評価が高まった。関東軍の東條も目にかけてきた富永の優秀な仕事ぶりの噂を聞くと喜び、相沢事件で皇道派の将校相沢三郎に殺害された、東條にとっての恩人であった永田鉄山の仇をとってくれたとさらに富永を高く評価することとなり、のちに富永が「東條の腰巾着」などと揶揄されるほど重用されるきっかけともなった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "一方、事件に対する陸軍の責任をめぐっては貴族院で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。「命令と服従」の関係が焦点となり、下士官・兵に対する処罰が軍法会議にかけられた。無罪となった兵士たちは、それぞれの連隊に帰ったが、歩兵第1連隊も歩兵第3連隊もすでに渡満していたことから、彼らは留守部隊の所属となっていた。そこで無罪放免となった歩兵第3連隊の兵隊たちのうち8名は渡満を希望し、8月上旬に東京を出発して満州北部のチチハルに駐在する歩兵第3連隊へと向かった。しかし、ここで事件後に着任した湯浅政雄連隊長から思いがけないことを言われた。8人の中の1人だった春山安雄伍長勤務上等兵は証言している。「到着するとすぐに本部に行き晴々した気持ちで連隊長に申告したところ、湯浅連隊長はいきなり『軍旗をよごした不忠者めが』と怒鳴り、軍旗の前に引き出され、散々にしぼられた」春山伍勤上等兵は「私たちは命令によって行動したのに不忠者とは何ごとか」と連隊長の言葉に反発し、思わずムッとして開き直った態度をとると、さらに、「何だ、その態度は!」と一喝された。",
"title": "事件後の処理"
},
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"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "反乱軍とみなされていたのは軍法会議に付された者ばかりではなかった。歩兵第3連隊は5月22日に渡満の途についたが、出発に先立ち湯浅連隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示したという。これに対して、歩兵第3連隊第3中隊の福田守次上等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じた」と戦後に憤りを語っている。こうした事情は歩兵第1連隊も同じで、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵の回想によると、歩兵第1連隊の新連隊長に着任した牛島満大佐も「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と発言したという。事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。",
"title": "事件後の処理"
},
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"paragraph_id": 180,
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"text": "歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(落語家。後の人間国宝・5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後の埼玉県知事、社会党衆議院議員)がいる。また、歩兵第1連隊第5中隊には、後に映画監督として『ゴジラ』や『モスラ』といった東宝特撮映画を撮る本多猪四郎がいた。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "反乱軍を出した各部隊等では指揮官が責任を問われ更迭された。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。",
"title": "事件後の処理"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "事件後、東條英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、結果としては陸軍では統制派の政治的発言力がますます強くなることとなった。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "2月28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった。特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て3月4日に公布されたものである。この日、天皇は本庄繁侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。すなわち、「軍法会議の構成も定まりたることなるが、相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言ったのである。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "実際、裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。その方法は、審理の内容を徹底して「反乱の四日間」に絞り込み、その動機についての審理を行わないことであった。これは先の相沢事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。2.26事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、蹶起した青年将校らは「昭和維新の精神」を訴える機会を封じられてしまった。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "第二十五條黨ヲ結ヒ兵器󠄁ヲ執リ叛亂ヲ爲シタル者󠄁ハ左ノ區別ニ從テ處斷ス一 首魁ハ死𠛬ニ處ス二 謀議ニ參與シ又ハ群衆ノ指揮ヲ爲シタル者󠄁ハ死𠛬、無期󠄁若ハ五年以上ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處シ其ノ他諸󠄀般ノ職務ニ從事シタル者󠄁ハ三年以上ノ有󠄁期󠄁ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス三 附和隨行シタル者󠄁ハ五年以下ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "民間人を受け持っていた吉田悳裁判長は、北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないとして、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した。また田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという。ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことが窺える。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988年9月になって判明した。だがこれらは関係者の実名が多く載せられているためか撮影・複写すら禁止されており、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し、1998年に出版した。2001年2月21日に放送された「その時歴史が動いた シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜』」において、初めて一部撮影が許可された。2014年から国立公文書館に軍法会議録が移管され、2022年には『オンライン版 二・二六事件東京陸軍軍法会議録』として公開された。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "民間人に関しては、木内曽益検事が主任検事として事件の処理に当たった。",
"title": "捜査・公判"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "自決等",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く、後述の水上源一を含む、15名の刑が執行された。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "1937年(昭和12年)8月19日に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢総明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "一方、当時真崎大将の護衛であった金子桂憲兵伍長(少尉候補者第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。真崎は好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈ありと誤解されて勝手に祭り上げられていただけの可能性が高い。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官など)と改造主義グループ(政情変革を狙っており、北一輝の思想に影響を受けた磯部、栗原など)があり、特に後者はクーデター後を睨んで宮中などへの上部工作を行った。また陸軍省・参謀本部ではクーデターが万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "推理作家の松本清張は「昭和史発掘」で",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "と主張している。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、二・二六事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、西園寺公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。また、小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が磯村年裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。",
"title": "判決"
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{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "水上源一は、河野大尉と共に湯河原での牧野伸顕襲撃に加わったメンバーで、一連の事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた(1936年7月12日処刑)。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "1936年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人15名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "青年将校の多くは、天皇陛下万歳と三唱して処刑されたと伝えられる。ただ、磯部朝一のみは激しく昭和天皇のとった態度を痛罵する手記を残している。また、北一輝は西田税から我々も天皇陛下万歳を三唱しますかと聞かれたとき、断っている。昭和天皇自身は、「青年将校は私をかつぐが私の真意を少しも尊重しない」とし、青年将校らの目的があくまで平等主義に比重を置いた青年将校らの理念やその理想政治の実現であり、天皇自身の利益には必ずしも合致しないことを理解し、また、青年将校らが秩父宮を即位させることを狙っているのではないかと疑っていた。「天皇はその大御心でつねに国民の事を考えている」との天皇制プロパガンダに洗脳され、その最大の犠牲者となったのが、彼ら青年将校らだったのかもしれない。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により荒川区南千住の回向院に葬られている。またこれとは別に、港区元麻布の賢崇寺内に墓碑があり、毎年2月26日・7月12日に合同慰霊祭が行われている。",
"title": "判決"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島健吉輜重兵中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された。妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
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{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "2月29日朝、歩兵第1連隊の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
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{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "3月16日、電信第1連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "10月18日、三月事件や十月事件にも関与した田中彌歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた。田中大尉は十月事件以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "歩兵第61連隊中隊長であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した。なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。",
"title": "事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあったと言われている。たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった。2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。しかし、実際には「同志」の間柄の人々ですら地方から駆けつけてくるようなことは無かったため、革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったフシがあり、また陸軍大臣らの行動も、単に事態を丸く収めようとしただけであり、反乱に同調していたわけでは無かったと考えられる。",
"title": "昭和天皇に与えた影響"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。このように、日本軍の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。",
"title": "昭和天皇に与えた影響"
},
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"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "これについて、蹶起将校の一人である磯部浅一は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏を恨みました」。ロシア革命は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、一家ともども虐殺された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、皇室がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。",
"title": "昭和天皇に与えた影響"
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"text": "もともと大日本帝国憲法下では、天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた(張作霖爆殺事件の処理に関して、内閣総理大臣田中義一を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の2つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件も鈴木貫太郎が関わっている)。",
"title": "昭和天皇に与えた影響"
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"text": "それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていた。また、1981年1月17日に現在の警視庁本部庁舎を視察した際に、今泉正隆警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と訊ねている。",
"title": "昭和天皇に与えた影響"
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"text": "岡田内閣総辞職の後の5月、廣田内閣は思想犯保護観察法(昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。思想犯保護観察団体には全日本仏教会なども加わっていた。",
"title": "思想犯保護観察所の設置"
},
{
"paragraph_id": 230,
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"text": "1945年(昭和20年)12月14日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し二・二六事件をはじめとした、1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を命令した。提出命令に先立ち、同年12月6日までにA級戦犯容疑者の逮捕命令が出されていた。",
"title": "GHQによる調査"
}
] |
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させた。
|
{{混同|二・二八事件}}
{{coord|35|39|51|N|139|41|49|E|region:JP-13_type:landmark_source:kolossus-dewiki|display=title}}
{{Infobox 事件・事故
|名称 = 二・二六事件
|画像 = File:2 26 Incident.jpg
|脚注 = 叛乱軍の[[栗原安秀]][[中尉|陸軍歩兵中尉]](中央[[マント]]姿)と[[下士官]]・[[兵]]
|場所 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
|経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|日付 = [[1936年]]([[昭和]]11年)<br>[[2月26日]]-[[2月29日]]
|時間 =
|開始時刻 =
|終了時刻 =十五860
|時間帯 =
|概要 = [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[皇道派]]の青年[[将校]]が1,483名の[[下士官]]・[[兵]]を率い[[明治維新]]に継ぐ、天皇を中心とする「[[一君万民論|一君万民]]([[非自由主義的民主主義|擬似的民主制]])」復元のため「[[昭和維新]]」と称し、「君側の奸」である政府要人を襲った[[クーデター]][[未遂]]事件<ref>山崎国紀『磯部浅一と二・二六事件』(河出書房新社、平成1年)</ref>
|原因 = 陸軍内部の[[皇道派]]と[[統制派]]の派閥対立<br />重臣、[[軍閥]]、[[財閥]]、[[政争]]を繰り返す[[政党政治]]・[[政治家]]への失望と憎悪<ref>高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』中公新書、増補新版1994年</ref>
|手段 =
|武器 =
|兵器 = [[重機関銃]]、[[軽機関銃]]、[[小銃]]、[[拳銃]]、[[銃剣]]、[[軍刀]]
|攻撃人数 = 約1500人
|標的 = [[天皇|君側]]の奸と見なした[[重臣]]([[岡田啓介]]、[[斎藤実]]、[[高橋是清]]、[[鈴木貫太郎]]、[[渡辺錠太郎]]、[[牧野伸顕]])・[[国会議事堂]]や[[警視庁]]、[[首相官邸]]など首都機能の要を担う施設
|死亡 = [[松尾伝蔵]]・内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)<br />[[高橋是清]]・[[大蔵大臣]]<br />[[斎藤実]]・[[内大臣府|内大臣]]<br />[[渡辺錠太郎]]・[[教育総監]]
|負傷 = [[鈴木貫太郎]]・[[侍従長]]
|行方不明 =
|被害者 = [[日本の警察官|警察官]]5名[[殉職]]、1名[[重傷]]
|損害 =
|犯人 = [[野中四郎]]、[[安藤輝三]]、[[栗原安秀]]、[[香田清貞]]、[[磯部浅一]]、[[村中孝次]]、[[林八郎]]、[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]] 他
|容疑 =
|動機 =
|関与 = [[北一輝]]、[[西田税]]、[[真崎甚三郎]]、[[本庄繁]]他皇道派将官
|防御 =
|対処 = 首謀者の裁判<br />処刑や禁錮
|謝罪 =
|賠償 =
}}
[[画像:Troops occupying Nagata-cho 1.jpg|300px|thumb|[[内務省 (日本)|内務省]]庁舎前で歩哨線を張る叛乱軍兵士]]
[[画像:226 Hi no Maru.svg|300px|thumb|叛乱部隊「安藤隊」旗]]
[[画像:Lt Nibu Masatada Rebels Feb 26 Incident 1936.png|300px|thumb|叛乱軍将兵。左手前は丹生誠忠陸軍歩兵中尉]]
'''二・二六事件'''(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[2月26日]]から[[2月29日]]にかけて発生した[[日本]]の[[クーデター]][[未遂]]事件。
[[皇道派]]の影響を受けた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]青年[[将校]]らが1,483名の[[下士官]]・[[兵]]を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに[[永田町]]や[[霞が関|霞ヶ関]]などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、[[岡田内閣]]が総辞職し、後継の[[広田内閣]]([[廣田内閣]])が[[思想犯保護観察法]]を成立させた。
== 概要 ==
昭和初期から、陸軍では'''[[統制派]]'''と'''[[皇道派]]'''の思想が対立し、また、海軍では'''[[艦隊派]]'''と'''[[条約派]]'''が対立していた([[#陸軍高級幹部の派閥争い:皇道派と統制派|派閥については後述]])。統制派の中心人物であった[[永田鉄山]]らは、1926年(大正15年/昭和元年)には[[第1次若槻内閣]]下で、諸国の[[国家総動員法]]の研究を行っていた{{sfn|沢本孟虎|1926|p=171}}{{efn|永田鉄山は当時は陸軍歩兵中佐であった{{sfn|沢本孟虎|1926|p=171}}。のちに首相となる[[東條英機]]も統制派であるが、当の永田鉄山によれば統制派は明確な派閥としては存在しなかった{{要出典|date=2023年11月}}。}}。
一方、その後の[[犬養内閣]]は、[[荒木貞夫]]陸軍[[大将]]兼[[陸軍大臣]]や[[教育総監]][[真崎甚三郎]]陸軍大将、陸軍軍人兼[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員の[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]を中心とする、[[ソ連]]との対立を志向する[[皇道派]]を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の[[大尉]]、[[中尉]]、[[少尉]]達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている[[元老]]重臣を殺害すれば[[親政|天皇親政]]が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「[[昭和維新]]、[[尊王論|尊皇]]斬奸」などの[[標語]]を掲げる者もあった{{efn|日本においては[[明治維新]]前後から、政治的理由による暗殺は「斬奸」と呼ばれ、その理由を書いた[[斬奸状]]を付すことが通例であった。[[紀尾井坂の変|大久保利通暗殺事件]]などに斬奸状が付されている。}}。
しかし[[満州事変]]に続く[[五・一五事件|犬養首相暗殺事件]]ののち、日本国は[[軍政]]に移行する。[[斎藤内閣]]は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により[[軍拡]]と[[総力戦]]を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する[[南進政策]])を優遇した。行政においても、1934年には[[司法省 (日本)|司法省]]が[[ナチス]]法を喧伝しはじめ{{sfn|法曹会|1934}}、[[帝国弁護士会]]が[[ワシントン海軍軍縮条約]]脱退支持の声明を行い{{sfn|帝国弁護士会|1934}}、[[陸軍大臣]]には統制派の[[林銑十郎]][[陸軍大将]]が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、[[陸軍省]]内で陸軍中佐[[相沢三郎]]による[[相沢事件]]が発生し、当時は陸軍[[軍務局長]]となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]の満州派遣を決定する。
皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは[[歩兵第1連隊]]、[[歩兵第3連隊]]、[[近衛歩兵第3連隊]]、[[野戦重砲兵第7連隊]]等の部隊中の一部を指揮して、[[岡田啓介]][[内閣総理大臣]]、[[鈴木貫太郎]][[侍従長]]、[[斎藤実]][[内大臣府|内大臣]]、[[高橋是清]][[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]、[[渡辺錠太郎]][[教育総監]]、[[牧野伸顕]]前・内大臣を襲撃、[[総理大臣官邸|首相官邸]]、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]、内務大臣官邸、[[陸軍省]]、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、陸軍大臣官邸、[[東京朝日新聞]]を占拠した。元首相兼海軍軍人[[斎藤実]]は殺害されたが後継の[[岡田啓介]]首相は無傷であった。
将校らは、[[林銑十郎]]ら陸軍首脳を通じ、[[昭和天皇]]に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら[[近衛師団]]を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「[[反乱|叛乱]]軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は[[自殺|自決]]したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく[[廣田内閣]]の陸軍大臣[[寺内寿一]]の下、[[一審制]]裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の[[北一輝]]らが[[銃殺刑]]に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
事件後しばらくは「'''不祥事件'''(ふしょうじけん)」「'''帝都不祥事件'''(ていとふしょうじけん)」<ref>[http://www.jphistoryrd.com/sho/ni.html 日本歴史めぐり・二・二六事件]</ref>とも呼ばれていた。[[算用数字]]で'''226事件'''、'''2・26事件'''<ref>[https://web.archive.org/web/20110217030326/http://kotobank.jp/word/2%E3%83%BB26%E4%BA%8B%E4%BB%B6 2・26事件] - [[コトバンク]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230225/k00/00m/010/330000c|title=「2・26事件」が現代社会に鳴らす警鐘とは|accessdate=2023-02-27|publisher=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20230226-00338662|title=寒い積雪の中の「226事件」 当時の最高気温は今の最低気温|accessdate=2023-02-27|publisher=YahooJapan}}</ref>とも書かれる。
== 主な関係者 ==
=== 叛乱軍 ===
==== 首謀者(首魁) ====
<gallery>
Shirou Nonaka.jpg|野中四郎陸軍歩兵大尉
Cap. Koda.jpg|香田清貞陸軍歩兵大尉
Teruzo Ando.jpg|安藤輝三陸軍歩兵大尉
Yasuhide Yurihara.jpg|栗原安秀陸軍歩兵中尉
Asaichi Isobe.jpg|磯部浅一元陸軍一等主計
Kita Ikki.jpg|北一輝
Nishida Mitugi1.JPG|西田税
</gallery>
*[[野中四郎]](陸軍[[歩兵]]大尉・歩兵第3連隊第7[[中隊|中隊長]])
*香田清貞(陸軍歩兵大尉・歩兵第1旅団副官)
*[[安藤輝三]](陸軍歩兵大尉・歩兵第3連隊第6中隊長)
*[[河野壽]](陸軍[[航空兵]]大尉・[[所沢陸軍飛行学校]]操縦学生)
*[[栗原安秀]](陸軍歩兵中尉・歩兵第1連隊附)
*[[村中孝次]](元陸軍歩兵大尉)
*[[磯部浅一]](元[[大尉|陸軍一等主計]])
*[[北一輝]]([[思想家]])
*[[西田税]](思想家、元陸軍[[騎兵]]少尉)
==== 参加者(群衆指揮等) ====
<gallery>
Motoaki Nakahashi.jpg|中橋基明陸軍歩兵中尉
Taro Takahashi.jpg|高橋太郎陸軍歩兵少尉
</gallery>
*竹嶌継夫(陸軍歩兵中尉・[[豊橋陸軍教導学校]]附)
*対馬勝雄(陸軍歩兵中尉・豊橋陸軍教導学校附)
*[[中橋基明]](陸軍歩兵中尉・近衛歩兵第3連隊附)
*丹生誠忠(陸軍歩兵中尉・歩兵第1連隊附)
*[[坂井直]](陸軍歩兵中尉・歩兵第3連隊附)
*[[田中勝 (軍人)|田中勝]](陸軍[[砲兵]]中尉・野戦重砲兵第7連隊附)
*[[安田優]](陸軍砲兵少尉・[[陸軍砲工学校]]学生(野砲兵第7連隊附))
*中島莞爾(陸軍[[工兵]]少尉・[[鉄道連隊|鉄道第2連隊]]附)
*高橋太郎(陸軍歩兵少尉・歩兵第3連隊)
*[[林八郎]](陸軍歩兵少尉・歩兵第1連隊)
*[[渋川善助]](思想家、元[[士官候補生]])
他
===被害者 ===
==== 死亡 ====
*[[松尾伝蔵]](内閣嘱託、[[内閣総理大臣秘書官]]事務取扱<ref name=":0">{{Harvnb|岡田貞寛|1998|p=|pp=21-30|loc=第一部 首相官邸襲撃-「貴様のお父さんが亡くなられた」}}</ref>・陸軍歩兵[[大佐]])
*[[高橋是清]](大蔵大臣、元内閣総理大臣)
*[[斎藤実]](内大臣、元内閣総理大臣)
*[[渡辺錠太郎]](教育総監・[[陸軍大将]])
*[[日本の警察官|警察官]]5名<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100346988|title=機関銃の乱射に抵抗 : 弾丸尽きて刃に伏す : 真相初めて公にさる|oldmeta=10188145}} 報知新聞1936年10月14日]神戸大学附属図書館新聞記事文庫、2016年8月10日閲覧。</ref>
==== 重傷 ====
*[[鈴木貫太郎]](侍従長・[[海軍大将]])
*他警察官など負傷者数名
==== 他 ====
*[[岡田啓介]](内閣総理大臣・海軍大将) - 殺害対象であり首相官邸を襲撃されるが、襲撃グループが[[松尾伝蔵]]を岡田と誤認・殺害したことで難を逃れた。
== 背景 ==
=== 陸軍高級幹部の派閥争い:皇道派と統制派 ===
[[画像:Araki Sadao.jpg|thumb|right|300px|[[皇道派]]のリーダー[[荒木貞夫]]]]
大日本帝国陸軍の高級将校の間では、[[明治]]時代の[[藩閥]]争いを源流とする、派閥争いの歴史があった。[[1930年代]]初期までに、陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。一つは[[荒木貞夫]]大将とその盟友[[真崎甚三郎]]大将を中心とする皇道派、もう一つは、[[永田鉄山]]少将を中心とする[[統制派]]であった<ref>Storry (1957) p.137</ref><ref>Shillony (1973) pp.37-38</ref><ref>Crowley (1962) p.310</ref>。
'''皇道派'''は天皇を中心とする[[日本の文化|日本文化]]を重んじ、[[物質]]より[[精神]]を重視、無論、反共産党主義であり、[[ソビエト連邦]]を攻撃する必要性を主張していた([[北進論]])。
'''統制派'''は、当時の[[ナチス・ドイツ|ドイツ]][[参謀本部]]の思想、ならびに[[第一次世界大戦]]からの影響が濃く、[[中央集権]]化した経済・軍事計画([[国家総力戦|総力戦]]理論)、技術の近代化・機械化を重視、[[中国大陸|中国]]への拡大を支持していた([[南進論]])。
荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替された<ref>Crowley (1962) pp.313-14.</ref><ref>Storry (1957) pp.137-143</ref>。
=== 青年将校の政治化 ===
陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、[[陸軍大学校]](陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する<ref>{{Cite book|title=2 26 jiken ga yoku wakaru hon : Shuto o shinkansaseta hanran wa naze okitanoka : 20 pointo de rikaisuru.|url=https://www.worldcat.org/oclc/676007660|publisher=PHP Kenkyūjo|date=2008|location=Tōkyō|isbn=978-4-569-66988-5|oclc=676007660|others=Taiheiyō Sensō Kenkyūkai, 太平洋戦争研究会|page=92}}</ref>。一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、[[日本の警察|警察]]や[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった<ref name="名前なし-1">Crowley (1962) pp.311-12</ref><ref>Shillony (1973) p.13</ref>。
隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた。
たとえば、二・二六事件に参加した高橋太郎(事件当時少尉)の事件後の獄中手記に、高橋が[[歩兵第3連隊]]で第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.166</ref>。
また、[[1933年]](昭和8年)[[11月]]に[[偕行社]](陸軍の将校クラブ)で皇道派・統制派の両派の中心人物が集まって会談した際、統制派の[[武藤章]]らが「青年将校は勝手に政治運動をするな。お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部<ref>陸軍省と参謀本部のこと</ref>の中心になってやっていくからやめろ」と主張した際、青年将校たちはこう反駁した。「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)pp.112-113</ref>。
こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な[[国家社会主義]]者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。北が著した『[[日本改造法案大綱]]』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.174</ref>。『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする[[尉官]]クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と[[財閥]]系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、[[大恐慌]]から続く深刻な[[不況]]等の現状を打破して、特権階級を排除した[[天皇]]政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。
青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき[[国体]]から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。彼らの考えでは、その解決策は70年前の[[明治維新]]をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。これらの信念は当時の[[国粋主義]]者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けていた<ref>Shillony (1973) p. x, 60, 64?68, 70</ref>。
緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。その非公式のリーダーは[[西田税]]であった。
元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、[[1920年代]]後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。[[1931年]](昭和6年)の[[三月事件]]と[[十月事件]]に続いて、当時の政治的[[テロリズム|テロ]]の大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した<ref name="名前なし-1"/><ref>Kita (2003) pp.13-16, 19</ref><ref>Shillony (1973) p.21</ref>。
皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことが分かる。皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた<ref>Crowley (1962) p.311</ref><ref>Shillony (1973) pp.39, 55</ref><ref>Kita (2003) p.19</ref>。
====資金源====
国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治的テロの威力は大きかった。参謀たちや皇族の中にも理解者がおり、中でも特筆すべきは、天皇の弟(1933年までは皇位継承者)で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった[[秩父宮雍仁親王]]であった。また、国体原理派はかなり[[反資本主義]]的であったにもかかわらず、我が身を守りたい財閥から資金を調達することに成功した<ref>Shillony (1973) pp. 55, 83-85, 99-102</ref>。[[三井財閥]]は[[血盟団事件]]([[1932年]][[2月]]-[[3月]])で[[総帥]]の[[團琢磨]]が暗殺されたのち、青年将校らの動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万[[円 (通貨)|円]](平成25年の価値にして約7000万円<ref name="stat.go.jp">[[総務省]][[統計局]]の戦前基準国内企業[[物価指数]]</ref>)を[[北一輝]]に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、[[西田税]]にもその一部が渡っていた{{refnest|group=注釈|当時の総理大臣の年俸が8,000円であったことから、年額2万円は相当な額であると[[大谷敬二郎]]は書いている<ref name="ootani">[[大谷敬二郎]]『昭和憲兵史』みすず書房、1979年、pp.211-212.</ref>。}}。
[[2月22日]]、西田から蹶起の意思を知らされた北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという<ref name="ootani"/>。
[[2月23日]]、栗原中尉は[[石原広一郎]]から蹶起資金として3000円受領した。
[[2月25日]]夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、[[久原房之助]]から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した<ref name="名前なし-2">福本亀治『兵に告ぐ』</ref>。
=== 政治的テロ ===
二・二六事件に至るまでの数年は、軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期であった。最も顕著なものは1932年(昭和7年)の[[五・一五事件]]で、この事件では若い海軍士官が[[犬養毅]]首相を暗殺した上に、各地を襲撃した。この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件の計画を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。
また、その前にあった三月事件や十月事件と同様、事件の加担者たちは比較的軽い[[禁錮]]15年以下の刑を受けただけであった<ref>Kita (2003), pp.20-22</ref>。このことも、二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は[[古賀清志]]海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。
=== 統制派による青年将校への抑圧 ===
統制派のエリート幕僚たちは、[[第一次世界大戦]]の[[国家総力戦]]の教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制([[国家総動員法|総動員体制]])が必要と考えた。したがって統制派の志向する国家改造とは、総力戦を可能にするために、軍部が国家の全般を指導できるようにするための国家体制の改造である<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.98</ref>。
この統制派の将校グループとしては、[[1918年]]([[大正]]7年)頃から[[永田鉄山]]、[[小畑敏四郎]]、[[岡村寧次]]、[[東条英機]]による二葉会があり、[[1926年]](昭和元年)頃からは陸軍の長州閥を打倒して、総力戦への体制を整えることの2点を大きな目標とした<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.96</ref>。
また、[[1927年]](昭和2年)頃から、[[鈴木貞一]]を中心とする[[木曜会]]も形成され、[[満蒙問題]]の解決について議論していた<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.99</ref>。
二葉会と木曜会は、[[1929年]](昭和4年)に統合され、[[一夕会]]と改称した<ref name="よくわかる_p102">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.102</ref>。ここで掲げられた目標は、①人事の刷新。具体的には[[宇垣一成|宇垣閥]]を追放し、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。②満蒙問題の解決。具体的には機を見て武力で占領すること、などであった<ref name="よくわかる_p102"/>。
また、これとは別に[[1930年]](昭和5年)には、[[橋本欣五郎]]を中心とする陸大卒エリートが日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して[[桜会]]を結成した。桜会は、1931年(昭和6年)3月の[[三月事件]]、同年10月の[[十月事件]]と二度にわたってクーデター計画を立てたが、いずれも未遂に終わった。計画の段階では青年将校たちにも参加するよう誘っていたが、青年将校たちには橋本自身の権勢欲のためと映ったため、青年将校たちは反発を感じて参加しなかった<ref name="よくわかる_p43">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.43</ref>。
青年将校たち自身もクーデターを含む構想を持っていながら、別のクーデター計画を立てた橋本一派を嫌悪する点は一見理解しづらいが、青年将校たちは自分たちが政権を担うつもりはなく、蹶起後の政権作りは民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って陛下の股肱を斬ったことを詫びるつもりであった。「失敗はもとより死、成功もまた死」という「純粋な動機」からなすべき維新であると考えていた。それに比べて橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取にすぎないと考えたのである<ref name="よくわかる_p43"/>。
[[三月事件]]、[[十月事件]]事件後、同年12月には荒木貞夫陸相に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。青年将校らは橋本の計画に反対していたため、この処断を行った荒木陸相(皇道派)を支持した<ref name="よくわかる_p43"/>。一方、統制派はこの荒木陸相人事で重用されなかったため、一夕会(統制派)は[[1934年]](昭和9年)になると荒木陸相に見切りをつけ、荒木陸相排除に動いて、[[林銑十郎]]が陸相に就任した<ref name="よくわかる_p109">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.109</ref>。
林陸相の下で、[[永田鉄山]]が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で「[[国防の本義と其強化の提唱]]」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発表された。ここで示された統制派の目指す国家改造は軍部主導の総動員国家、統制国家を樹立する方向性であったが、国防のためにも国民全体の生活基盤の安定が必要との観点から、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」<ref>「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍省新聞班) 1934. p.39</ref>と論じ、「窮迫せる農村を救済せんが為めには、社会政策的対策は固より緊要であるが、(中略)経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずることが必要」とした<ref>「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍省新聞班)1934. p.41</ref>。これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった<ref name="よくわかる_p109"/>。
しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。統制派も青年将校も国家改造を求めてはいたが、両者は国家改造の方向性が異なるのである。このため、陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校たちの動きを危険思想と判断し、長期に渡り[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]に青年将校の動向を監視させていた。
また、永田鉄山は皇道派の追放と併せて、先に[[三月事件]]、[[十月事件]]の件で左遷された[[橋本欣五郎]]や[[長勇]]ら清軍派(旧[[桜会]])メンバーの復活を図った<ref name="よくわかる_p109"/>。青年将校たちは統制派に対する不信感を更に強めた。クーデターを計画した橋本らを処断しないことは、軍紀を乱すばかりでなく、天皇に対する欺瞞であり不忠であり、その意味では統制派も「君側の奸」の一種と映ったからである(青年将校らは自らのクーデターで自らが処断されることは覚悟していた)。
中央幕僚らは目障りになってきた隊付青年将校に圧迫を加えるようになった<ref name="seishungunzo">須山幸雄『二・二六青春群像』</ref>{{refnest|group=注釈|[[菅波三郎]]が満洲にいるとき、[[辻政信]]や[[武藤章]]が訪ねてきて、[[永田鉄山]]の傘下に入れば優遇すると言ってきた。断ると陰に陽に圧迫が加わってきた<ref>須山幸雄『二・二六青春群像』</ref>。}}。
==== 陸軍士官学校事件 ====
1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で[[陸軍士官学校事件]](十一月事件)において、国体原理派の主要メンバーである[[村中孝次]]大尉と[[磯部浅一]]一等主計が、士官学校生徒らとともにクーデターを計画したとして逮捕された。村中と磯部は、そのようなクーデターについて議論したことは認めたが、それを実行するための具体的な計画をしたことについては否定した。[[1935年]](昭和10年)[[2月7日]]、村中は[[片倉衷]]と[[辻政信]]を[[誣告罪]]で告訴したが、軍当局は黙殺した。事件を調査した軍法会議は、[[3月20日]]、証拠不十分で不起訴としたが、[[4月1日]]、村中と磯部は停職となった。[[4月2日]]、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。[[4月24日]]、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。[[5月11日]]、村中は陸軍大臣と第一師団[[軍法会議]]あてに、上申書を提出し、磯部は[[5月8日]]と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。二人は、事件は統制派による青年将校への攻撃であると確信し、[[7月11日]]、「粛軍に関する意見書<ref name="iken">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3947480 粛軍に関する意見書]</ref>」を陸軍の[[陸軍三長官|三長官]]と[[軍事参議官]]全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。この中で、先の[[三月事件]]や[[十月事件]]に中央の幕僚たちが関与した事情を暴露した上で、これらの逆臣行動を隠蔽し、これに関与した中央幕僚らを処断しないことこそ、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した<ref name="iken"/>。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。[[8月2日]]、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった<ref name="seishungunzo"/>{{refnest|group=注釈|2人を行政処分によって、免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と[[荒木貞夫]]は述べている<ref>荒木貞夫『荒木貞夫風雲三十年』</ref>。}}<ref>Kita (2003) pp.33-35</ref><ref>Crowley (1962) p.319</ref><ref>Shillony (1973) pp.46-47, 49</ref>。これらのことによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。
=== 真崎教育総監罷免 ===
陸軍士官学校事件のあと、[[1935年]](昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官([[教育総監]])の地位に残っていた[[真崎甚三郎]]大将が罷免された。このことで[[皇道派]]と[[統制派]]との反目は度を深めた。青年将校たちはこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。
また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた<ref name="よくわかる_p144">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.144</ref>。陸軍教育総監は[[陸軍三長官]]の一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は、制度上は陸軍大臣が握っていたが、長い間の慣行で、陸軍三長官の合意により決められることになっていた<ref name="よくわかる_p141">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.141</ref>。三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た<ref name="よくわかる_p142">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.142</ref>。こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した<ref name="よくわかる_p142"/>。このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された<ref name="よくわかる_p144"/>。村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した<ref>Crowley (1962) p.322</ref><ref>Shillony (1973) pp.48-49</ref><ref>Kita (2003) p.25</ref>。
==== 相沢事件 ====
1935年[[8月12日]]白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、[[永田鉄山]][[陸軍省]][[軍務局]]長を殺害する事件を起こした([[相沢事件]])。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった<ref>Crowley (1962) p.323</ref><ref>Shillony (1973) p.54</ref>。
=== 磯部と陸軍幹部の接触 ===
二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後[[憲兵]]の尋問に答えている。
1935年(昭和10年)9月、磯部が[[川島義之]][[陸軍大臣]]を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、[[国体明徴]]はその最も重要なる一つだ」と語った。
1935年12月14日、磯部は[[小川三郎 (陸軍大尉)|小川三郎]]大尉を連れて、[[古荘幹郎]][[陸軍次官]]、[[山下奉文]][[軍事調査部長]]、[[真崎甚三郎]][[軍事参議官]]を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1936年1月28日、磯部が真崎大将の元を訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人[[森伝]]を通じての500円の提供を約束した。
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した<ref name="tenno"/>。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、[[新井勲]]、[[坂井直]]などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、[[十一月事件]]に関しては「[[永田鉄山|永田]]は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した<ref>新井勲『日本を震撼させた四日間』</ref>。
=== 決起のきっかけ ===
青年将校らは主に東京[[衛戍]]の[[第1師団 (日本軍)|第1師団]][[歩兵第1連隊]]、[[歩兵第3連隊]]および[[近衛師団]][[近衛歩兵第3連隊]]に属していたが、第1師団の[[満州]]への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、[[山口一太郎]]大尉{{refnest|group=注釈|事件後岳父の本庄大将に宛てて「三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、[[武藤章]]、[[片倉衷]]、それから[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]の[[菅太郎]]であります」という文章を書き送った<ref name="名前なし-2"/>。}}や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
[[安藤輝三]]大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長[[井出宣時]]大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部からの参加要請を断ったことを野中から叱責され、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って[[天誅]]がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく[[2月22日]]になって決断した<ref name="suzaki">[[須崎慎一]]『二・二六事件 ― 青年将校の意識と心理』</ref>。
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、竹島中尉、高橋少尉、安田少尉など、新たな国家体制の確立よりは、とにかく自分たちは奸臣を斬れば良いのだという考えの者もいた。いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響を受けた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、[[柴有時]]大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている<ref name="suzaki"/>。
磯部は獄中手記で「……[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン条約]]以来、[[統帥権]]干犯されること二度に及び、[[天皇機関説]]を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……[[藤田東湖]]の『大義を明らかにし、人心を正さば、皇道{{ruby|奚|な}}んぞ{{ruby|興起|こうき}}せざるを{{ruby|患|うれ}}えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている<ref>河野司編『二・二六事件』より</ref>。
村中の憲兵調書には「統帥権干犯{{refnest|group=注釈|教育総監更迭}}ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が[[閑院宮載仁親王|総長宮]]と[[林銑十郎|林]]が悪いと仰せられたということを聞きました。……[[本庄繁|本庄]]閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、[[永田鉄山|永田]]が悪い』と本庄[[侍従武官]]長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう<ref name="tsutsui">[[筒井清忠]]『昭和期日本の構造』講談社学術文庫 1996年</ref>。天皇→本庄[[侍従武官長]]→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる<ref name="tsutsui"/>。
「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と[[菅波三郎]]は断定している<ref name="seishungunzo"/>{{refnest|group=注釈|1935年12月ごろ、ある青年将校は山口大尉に「我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だというんです」と述べている<ref>[[山口一太郎]]『時論』1949年7月号「嵐はかくして起きた--二・二六事件の真相」</ref>。}}{{refnest|group=注釈|幕僚らの中には、戦争こそ勲章や立身出世を勝ち得る大切な道具と考える者がおり、殊に満洲事変で一部の者が[[旭日章]]や[[金鵄勲章]]を釣り出してから、彼らの眼玉の光は異常に輝き出した<ref>山口一太郎『時論』1949年8月号「嵐のあとさき--2.26事件の起きるまで」</ref>。}}。
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。
== 蹶起の計画 ==
=== 蹶起趣意書 ===
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている{{refnest|group=注釈|[[児島襄]]の「天皇III」(文春文庫、新版カゼット出版 2007年)では、野中の遺書をもとに村中孝次が草案を書き上げ、西田税が村中と話し合って3分の2ほどに縮小修正したとなっている。}}。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった{{refnest|group=注釈|山下奉文少将は決起趣意書の草案を見ており、筆まで加えたと栗原安秀は述べている。}}。
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では[[宇垣一成]]大将、[[南次郎]]大将、[[小磯国昭]]中将、[[建川美次]]中将の逮捕・拘束、[[林銑十郎]]大将、[[橋本虎之助]][[近衛師団]]長の罷免を要求している。
蹶起趣意書は、[[神武天皇]]の建国、[[明治維新]]を経た国家の発展を称え、[[八紘一宇]]を完成させる国体こそ我が国の神州たる所以とし、思想は[[一君万民論]]などを基礎とする。また、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例を挙げ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し[[国体]]の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている{{Citation needed|date=2021-03}}。
=== 襲撃目標 ===
2月21日、磯部と村中は[[山口一太郎]]大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老[[西園寺公望]]の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した(後述)。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた<ref name="tenno"/>。
==== 第一次目標 ====
*[[岡田啓介]]([[内閣総理大臣]])
*[[鈴木貫太郎]]([[侍従長]])
*[[斎藤実]]([[内大臣府|内大臣]])
*[[高橋是清]]([[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]])
*[[牧野伸顕]](前・内大臣)
*[[渡辺錠太郎]]([[教育総監]])
*[[西園寺公望]]([[元老]])(組閣のために対象から外される)
==== 第二次目標 ====
*[[後藤文夫]]([[内務大臣 (日本)|内務大臣]])
*[[一木喜徳郎]]([[枢密院 (日本)|枢密院議長]])
*[[伊沢多喜男]]([[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、元[[台湾総督]])
*[[三井八郎右衛門|三井高公]]([[三井財閥]]当主)
*[[池田成彬]]([[三井合名会社]]筆頭常務理事)
*[[岩崎小弥太]]([[三菱財閥]]当主)
==== 西園寺公望襲撃の計画と取りやめ ====
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が[[愛知県]][[豊橋市]]へ行き、[[豊橋陸軍教導学校]]の[[対馬勝雄]]中尉に依頼し、同意を得る。
対馬は同じ教導学校の[[竹島継夫]]中尉、[[井上辰雄 (陸軍軍人)|井上辰雄]]中尉、[[板垣徹]]中尉、[[歩兵第6連隊]]の[[鈴木五郎]]一等主計、[[独立歩兵第1連隊]]の[[塩田淑夫]]中尉の5名に根回しした。
21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。
23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。
24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した<ref name="kita">北博昭『二・二六事件全検証』(朝日新聞社 [朝日選書]、2003年)</ref>。
西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、[[静岡県警察部]]長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。
事件発生後、午前6時40分頃、[[木戸幸一]]が[[興津]]にある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」と[[女中]]が返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であった[[橋本清吉]]が手記にそのときの詳細を書いている。
== 事件経過 ==
=== 襲撃または占拠等の状況 ===
{|class="wikitable sortable" style="font-size: small"
!目標!!時刻!!指揮者!!兵員
!被害
|-
|[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]||午前5時10分頃||
*[[栗原安秀|栗原]]中尉・歩一
*対馬中尉
*竹島中尉
*[[池田俊彦 (軍人)|池田]]少尉・歩一
*[[林八郎|林]]少尉・歩一
||<span style="display:none;">300</span>約300
|
<span style="display:none;">死6</span>
*[[松尾伝蔵]] 秘書官{{efn|内閣嘱託、内閣総理大臣秘書官事務取扱<ref name=":0"/>。|name=松尾伝蔵の辞令}}・陸軍歩兵大佐(即死)
*警察官4名(即死)
|-
|高橋大蔵大臣私邸||午前5時05分 ||
*[[中橋基明|中橋]]中尉・近歩三
*中島中尉
||<span style="display:none;">100</span>約100
|
<span style="display:none;">死1</span>
*[[高橋是清]] 大蔵大臣(即死)
*警察官1名(負傷)
|-
|東京[[朝日新聞社]]||午前8時55分頃||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>
*栗原中尉・歩一
*[[田中勝 (軍人)|田中]]中尉・野重七
*中橋中尉・近歩三
*池田少尉・歩一
||
<span style="display:none;">060</span>
*兵60
*軍用トラック3台
*機関銃2基
|
<span style="display:none;">0</span>約3万円の損害
|-
|[[日本電報通信社]]||午前8時55分頃||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>同上
||<span style="display:none;">060</span>同上
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|[[報知新聞社|報知新聞]]||午前9時30分||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>同上
||<span style="display:none;">060</span>同上
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|[[東京日日新聞社]]||午前9時35分頃||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>同上
||<span style="display:none;">060</span>同上
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|[[国民新聞社]]||午前9時40分||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>同上
||<span style="display:none;">060</span>同上
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|[[時事新報社]]||午前9時50分||
<span style="display:none;">新聞社ほか</span>同上
||<span style="display:none;">060</span>同上
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|斎藤内大臣私邸||午前5時05分頃||
*[[坂井直|坂井]]中尉・歩三
*高橋少尉・歩三
*[[安田優|安田]]少尉
||150
|
<span style="display:none;">死1</span>
*[[斎藤実]]内大臣(即死)
*民間人1名(重傷)
|-
|渡辺教育総監私邸||午前6時00分頃||
*安田少尉
*高橋少尉・歩三
||<span style="display:none;">030</span>約30
|
<span style="display:none;">死1</span>
*[[渡辺錠太郎]] 教育総監・陸軍大将(即死)
|-
|侍従長官邸||午前5時10分頃||
*安藤大尉・歩三
||150
|
<span style="display:none;">傷</span>
*[[鈴木貫太郎]] 侍従長・海軍大将(負傷)
*警察官2名(負傷)
|-
|陸軍大臣官邸||午前5時00分頃||
<span style="display:none;">陸軍省</span>
*丹生中尉・歩一
*香田大尉・歩一旅
*山本又
*[[村中孝次]]
*[[磯部浅一]]
||150
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|[[陸軍省]]並[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]||午前9時30分||
<span style="display:none;">陸軍省</span>同上
||<span style="display:none;">150</span>同上
|
<span style="display:none;">傷</span>
*[[片倉衷]]歩兵少佐(負傷)
|-
|[[警視庁]]||午前5時00分頃||
*[[野中四郎|野中]]大尉・歩三
*常盤少尉・歩三
*鈴木少尉・歩三
*[[清原康平|清原]]少尉・歩三
||<span style="display:none;">400</span>約400
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|内務大臣官邸||午前6時35分頃||
*鈴木少尉・歩三
||<span style="display:none;">060</span>約60
|
<span style="display:none;">0</span>無
|-
|湯河原・光風荘<br />([[牧野伸顕|牧野]] 元・[[内大臣府#歴代内大臣|内府]]滞在先)||午前5時40分頃~<br />午前6時20分頃||
*[[河野壽|河野]]大尉
||<span style="display:none;">008</span>指揮者共6 (8) 名
|
<span style="display:none;">死1</span>
*巡査1名(即死)
*[[看護師|看護婦]]1名・旅館業1名(銃創)
*旅館業1名(瓦にて負傷)
*別荘1棟焼失損害約6千円
*応戦により河野寿大尉および[[宮田晃]]予備陸軍歩兵[[曹長]]が負傷
|}
=== 陸軍将校の指揮による出動 ===
反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の[[週番]]司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした{{refnest|group=注釈|首謀者たちはかなり以前から、実弾演習の際に[[薬莢]]の員数確認をごまかしたりして実弾を隠匿し、決起に備えていたが、それだけで足りるはずもなく、歩兵第3連隊は首謀者である安藤が週番司令であったのでその命令によって武器弾薬を調達し、歩兵第1連隊の場合は山口の黙認のもとで栗原らが弾薬庫警備の下士官らを脅し、軟禁して武器弾薬を用意している。}}。事件当日は雪であった。
反乱軍は[[機関銃]]など圧倒的な兵力を有しており、警備の[[日本の警察官|警察官]]らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。
=== 政府首脳・重臣への襲撃 ===
==== 岡田啓介首相 ====
[[画像:Okada Matsuo.jpg|250px|thumb|岡田首相(左)と松尾大佐]]
[[内閣総理大臣]]・[[退役]]海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。
全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を[[林八郎]]少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた{{refnest|group=注釈|岡田首相と姻戚関係にある丹生中尉が襲撃前に耳打ちした事実がある<ref name="名前なし-2"/>。}}。
まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間に邸内警備の土井清松[[巡査]]が総理秘書官{{efn|name=松尾伝蔵の辞令}}兼身辺警護役の[[松尾伝蔵]]退役陸軍歩兵大佐とともに岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂左衛門[[巡査部長]]が廊下で警戒に当たった。また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査が[[特別警備隊 (警視庁)|特別警備隊]]に事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した<ref name="TMPD-p447">{{harvnb|警視庁史編さん委員会|1962|pp=447-450}}</ref>。
廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から[[銃剣]]で刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また、襲撃部隊は松尾大佐の遺体を見て岡田総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ<ref name="TMPD-p447"/>{{refnest|group=注釈|[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]]の「生きている二.二六」(文藝春秋 1987年)では、女中部屋に料理番の老人が風邪のため寝ているという知らせがあったとあり、筆者が見廻りの最中に女中部屋の押入れの中に老人を確認している。}}。
{{main2|松尾大佐の遺体を見た襲撃部隊が、岡田総理を殺害したと誤認した経緯|松尾伝蔵#二・二六事件での死}}
一方、遺体が松尾のものであることを確認し、女中たちの様子から総理生存を察知した[[福田耕]]総理秘書官と[[迫水久常]]総理秘書官らは、[[憲兵 (日本軍)|麹町憲兵分隊]]の[[小坂慶助]]憲兵[[曹長]]、青柳利之憲兵[[軍曹]]および小倉倉一憲兵[[伍長]]らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた<ref>福田耕『栄枯論ずるに足らず』</ref><ref>[http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=03809 『歴史秘話ヒストリア 「二・二六事件 首相官邸、奇跡の脱出劇」』](2016年2月17日放送)</ref>。
==== 高橋是清蔵相 ====
[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|250px|thumb|高橋蔵相(元首相/左) と斎藤内大臣 (右)]]
元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果[[インフレーション|インフレ]]の兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
叛乱当日は中橋基明中尉および[[中島莞爾]]少尉が襲撃部隊を指揮し、[[赤坂区|赤坂表町]]3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、[[軍刀]]でとどめを刺され即死した。
27日午前9時に商工大臣[[町田忠治]]が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに[[大勲位菊花大綬章]]が贈られた。
==== 斎藤実内大臣 ====
[[斎藤実]]内大臣は、退役海軍大将であり第30代[[内閣総理大臣]]である。長く[[海軍大臣]]を勤めていたところ、[[1914年]]の[[シーメンス事件|シーメンス汚職事件]]により引責辞任し、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]期に[[子爵]]の称号を受けたあと[[退役]]し、[[犬養毅]]首相が[[1932年]]に武装した海軍将校らによって殺害された[[五・一五事件]]のあとは、[[元老]]の[[西園寺公望]]の推薦を受け[[斉藤内閣]]を率いる[[内閣総理大臣]]兼[[外務大臣]]に任命され、[[関東軍]]による[[満州事変]]などの混迷した政局において[[軍部]]に融和的な政策をとり、[[満州国]]を認めなかった[[国際連盟]]を脱退するなどしたうえ、[[帝人事件]]による政府批判の高まりから[[内閣総辞職]]をしていたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けたものである。
坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、[[四谷区]]仲町三丁目(現:[[新宿区]][[若葉 (新宿区)|若葉]]一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの[[弾丸]]が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
目の前で夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通[[銃創]]を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、[[奥州市]][[水沢市|水沢]]の斎藤実記念館に展示されている。
斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に[[誄]](るい、お悔やみの言葉)を賜った。外国勲章は[[シーメンス事件|シーメンス汚職事件]]での海軍大臣引責辞任よりあとは受けていない。
==== 鈴木貫太郎侍従長 ====
[[画像:Suzuki Kantaro.jpg|145px|thumb|鈴木貫太郎侍従長{{small|(写真は連合艦隊司令長官当時のもの)}}]]
[[鈴木貫太郎]](予備役海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]の地位にいたことから襲撃を受ける。
叛乱当日は、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を[[永田露]]曹長が、第2小隊を[[堂込喜市]]曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を[[上村盛満]]軍曹が率い、[[麹町区]](現:[[千代田区]])[[三番町 (千代田区)|三番町]]の侍従長公邸に乱入した。鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の[[鈴木たか]]の懇願により安藤大尉は止めを刺さず[[敬礼]]をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。襲撃部隊の撤収後、少年期の昭和天皇の教育係であった鈴木たかは天皇に直接電話し、宮内省の医師を派遣してくれるように依頼した<ref>半藤一利、宮部みゆき「昭和史の10大事件」東京書籍</ref>。この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。
安藤は、以前に鈴木侍従長を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は[[西郷隆盛]]のような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。
その後、[[太平洋戦争]]末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常([[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。
==== 渡辺錠太郎教育総監 ====
[[画像:Jotaro Watababe posing cropped.jpg|145px|thumb|渡辺錠太郎教育総監]]
陸軍教育総監の[[渡辺錠太郎]]大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した[[国体明徴]]に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。ただし異説もあり、一部参加者の証言では、事態収拾のための仲介を依頼するために出向いただけで殺害の意図はなかったのだが、行き違いから撃ち合いになり、結局殺害ということになったとも言う。
斎藤内大臣襲撃後の高橋少尉および安田少尉が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市[[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|上荻窪]]2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある。
殺されるであろうことを感じた渡辺は、傍にいた次女の[[渡辺和子]]を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は[[分隊#分隊 (憲兵)|牛込憲兵分隊]]から派遣された憲兵伍長および憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという<ref>『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2012年9月特別号、渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」</ref>。
28日付で教育総監部本部長の[[中村孝太郎]]中将が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に[[位階]]を一等追陞されるとともに[[勲一等旭日桐花大綬章]]が追贈された。
==== 牧野伸顕 ====
[[画像:Nobuaki Makino in later years.jpg|145px|thumb|牧野前内大臣]]
牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。
河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、[[湯河原町|湯河原]]の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した<ref>{{Cite web|和書|date=2011-01-31 |url=http://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html |title=光風荘 |work=観光 |publisher=湯河原町観光課 |accessdate=2013-07-30}}</ref>。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の[[皆川義孝]]巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した<ref>{{harvnb|警視庁史編さん委員会|1962|p=454}}</ref>。なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。
脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、同行者や消防団等の協力により避難に成功する。襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。
なお、[[吉田茂]]の娘で牧野の孫に当たる[[麻生和子]]は、この日牧野を尋ねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されている。
==== 警視庁 ====
1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って[[東京警備司令部]]に対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。このことから、警視庁では[[特別警備隊 (警視庁)|特別警備隊]](現在の[[機動隊]]に相当する)に[[機関銃]]を装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった<ref>{{harvnb|警視庁史編さん委員会|1962|pp=446-447}}</ref>{{refnest|group=注釈|作家[[松本清張]]の『[[昭和史発掘]]』によれば、特別警備隊の存在は決起部隊にとって問題にはならぬ存在であり、警視庁に大部隊をあてた真意は宮城の占拠にあったのではないかとしている。同書によればその根拠として、
#帝都に異常事態が発生した場合に宮城守備の増援につく当番部隊が、決起の日にあわせて中橋の部隊であったこと。(異常事態の発生など滅多にあることでは無いので、増援当番部隊の決定は連隊内でやりくりできた)
#高橋是清を襲撃した後ただちに宮城内に入った中橋が手旗信号をもって警視庁の部隊と連絡を取ろうとして取り押さえられた事実(その後、中橋は部下を残して単独で脱出)
を挙げている。時期尚早、実現困難として最後まで決起に慎重であった安藤が決断したのは、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊の週番司令が山口と安藤自ら、宮城警備の当番が中橋で、皇居坂下門の目と鼻の先の警視庁に、自分が参加することによって大部隊を配置する計画を立てられたからではないか、と述べている。}}。
警視庁と首相官邸の間には非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官([[小館喜代松]]巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられた。警視庁の[[特別警備隊 (警視庁)|特別警備隊]]においては、当日は第3中隊(中隊長 堀江末吉警部)が宿直であり、待機の第1小隊(小隊長 野老山幸風警部補)に堀江警部が同行して出動したものの、官邸付近に到着した時には既に官邸は占拠されて前には[[重機関銃]]が据えられており、野老山警部補と小隊長伝令(金井巡査)は兵士との押し問答の中で拳銃を奪われそうになり、金井巡査は銃剣で大腿部を傷つけられたうえ、突破を諦めて帰隊しようとする両名は背後から銃撃されて、近くの[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]官邸に退避する状況であった{{Sfn|野老山|1974}}。
野老山小隊の出動直後より、警視庁庁舎付近にも反乱部隊<!-- (歩兵第3連隊第7中隊[[常盤稔]]少尉以下156名、同第3中隊[[清原康平]]少尉以下152名、同第10中隊[[鈴木金次郎]]少尉以下142名、同機関銃隊[[立石利三郎]]曹長以下75名) -->が進出し、機関銃を庁舎に向けて包囲の態勢をとっていた{{Sfn|張本|1977}}。部隊を指揮した野中大尉は「我々は警視庁に敵対するものではない。ただ特別警備隊の出動を阻止するものだ」と語った{{Sfn|張本|1977}}。庁舎全体の占拠には至らなかったものの、電話交換室など庁舎の一部を占拠し、交換手の背に銃剣を突きつけて警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた{{Sfn|警視庁史編さん委員会|1962|pp=450-454}}。また警察官の出勤を阻止するための遮断線を貼っていたが、これを突破して強行登庁した特別警備隊隊長の[[岡崎英城]]警視によって在庁員は把握されていた{{Sfn|野老山|1974}}。
電話手の働きにより、小栗一雄警視総監をはじめ各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は[[神田警察署|神田錦町警察署]]に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた{{Sfn|警視庁史編さん委員会|1962|pp=461-463}}。
警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、[[安倍源基]]特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした{{Sfn|警視庁史編さん委員会|1962|pp=461-463}}。
半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、[[宮内省]]直通の[[非常電話]]が設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長を[[サイドカー]]に乗せて走り回る役目の巡査が出た。一度「ヒロヒト、ヒロヒト…」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという<ref>[[猪瀬直樹]]「東条英機処刑の日」(旧書名「ジミーの誕生日」第2章)</ref>。
作家の[[戸川猪佐武]]によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。
==== 後藤文夫内相 ====
警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸<ref group="注釈">現在は跡地に[[中央合同庁舎第3号館]]が置かれている。</ref>も襲撃して、これを占拠した。歩兵第3連隊の[[鈴木金次郎]]少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。<!--襲撃時刻と、後藤内相がどこにいて、いつ参内したのか加筆願います-->
==== 霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠 ====<!--
[[画像:Sanno Hotel.jpg|250px|thumb|占拠した山王ホテル前を見張る兵士]]-->
さらに、反乱部隊は陸軍省および[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、[[有楽町]]の[[東京朝日新聞]](のちの[[朝日新聞東京本社]])なども襲撃し、[[日本の政治]]の中枢である[[永田町]]、[[霞が関|霞ヶ関]]、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、[[三宅坂]]の一帯を占領した。<!--永田町にあった[[山王ホテル]]を占拠し、本部とした。そしてゆくゆくは皇居そのものを占拠、昭和天皇に親政を宣言して貰うことによって念願である昭和維新を実現させるという計画を立てていた。ここには重臣への襲撃が終わり次第、中尉中橋が先鋒として赴き占拠する計画であったが、[[皇居]]に入れないまま終わった。-->
=== 要望事項 ===
26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。
*現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
*皇軍相撃つことは避けなければならない
*全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
*警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
*南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
*速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
*軍の中央部にある軍閥の中心人物([[根本博|根本]]大佐(統帥権干犯事件{{refnest|group=注釈|真崎教育総監罷免事件}}に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、[[武藤章|武藤]]中佐([[大本教]]に関する[[新日本国民同盟]]となれあい、政治策動をなす)、[[片倉衷|片倉]]少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し[[陸軍士官学校事件|十一月事件]]の誣告をなす)を除くこと
*[[林銑十郎|林]]大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
*[[荒木貞夫|荒木]]大将を関東軍司令官に任命すること
*同志将校([[大岸頼好|大岸]]大尉(歩61)、[[菅波三郎|菅波]]大尉(歩45)、[[小川三郎 (陸軍大尉)|小川三郎]]大尉(歩12)、[[大蔵栄一|大蔵]]大尉(歩73)、[[朝山小二郎|朝山]]大尉(砲25)、[[佐々木二郎]]大尉(歩73)、[[末松太平|末松]]大尉(歩5)、[[江藤五郎|江藤]]中尉(歩12)、[[若松満則|若松]]大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
*同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
*報道を統制するため山下少将を招致すること
*次の者を陸相官邸に招致すること
**26日午前7時までに招致する者――[[古荘幹郎|古荘]]陸軍次官、[[斎藤瀏]]少将、[[香椎浩平|香椎]]警備司令官、[[矢野機|矢野]]憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、[[堀丈夫|堀]]第一師団長、[[小藤恵|小藤]]歩一連隊長、[[山口一太郎|山口]]歩一中隊長、[[山下奉文|山下]]調査部長
**午前7時以降に招致する者――[[本庄繁|本庄]]、荒木、[[真崎甚三郎|真崎]]各大将、[[今井清|今井]]軍務局長、[[小畑敏四郎|小畑]]陸大校長、[[岡村寧次|岡村]]第二部長、[[村上啓作|村上]]軍事課長、[[西村琢磨|西村]]兵務課長、[[鈴木貞一]]大佐、[[満井佐吉|満井]]中佐
== 鎮圧へ ==
=== 26日 ===
[[画像:Hanzomon February 2x 1936.jpg|250px|thumb|蹶起直後の半蔵門。画面右奥には、保護のため[[莚|むしろ]]を掛けられた[[十一年式軽機関銃]](三脚架付き)が据えられている。]]
[[画像:Troops occupying Nagata-cho 2.jpg|250px|thumb|カメラマンに銃口を向ける兵士]]
事件後まもなく北一輝の元に[[渋川善助]]から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も[[政治浪人]]の[[亀川哲也]]からの連絡で事件を知った。真崎は[[加藤寛治]]大将と[[伏見宮]]邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁[[侍従武官長]]のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者[[伊藤常男]]少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した{{refnest|group=注釈|走り書きには「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった<ref>芦沢紀之『暁の戒厳令』</ref>。}}。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は[[岩佐禄郎]][[憲兵 (日本軍)|憲兵司令官]]に電話し、さらに宿直中の[[侍従武官]]・[[中島鉄蔵]]少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが[[昭和天皇]]に直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた<ref>昭和天皇実録 昭和11年篇</ref>。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係<ref>[https://gendai.media/articles/-/1432?page=2 昭和55年12月の記者会見で「鈴木たかは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」と語っている。]</ref>にあった。中島侍従武官に連絡を受けた[[甘露寺受長]][[侍従]]が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、しばらくは呆然としていた<ref>甘露寺受長『背広の天皇』1957年</ref>が、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また[[半藤一利]]によれば天皇はこの第一報のときから「[[賊軍]]」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。
襲撃された内大臣斎藤實私邸の[[書生]]からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長{{refnest|group=注釈|当時[[学習院]]高等科の二年生だった[[黒木従達]](後に東宮侍従長)は、二・二六事件が起こる前夜、級友の[[木戸孝澄]](木戸幸一の長男)から「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と電話を受けたという<ref>[[大隈秀夫]]『昭和は終った』</ref>。}}は、[[小栗一雄]][[警視総監]]、元老西園寺公望の[[原田熊雄]]秘書、[[近衛文麿]][[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた[[湯浅倉平]]・[[宮内大臣]]、[[広幡忠隆]]侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。宮中グループの支持を得られなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。
午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく[[川島義之]]陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。[[斎藤瀏]]少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。
午前8時過ぎ、[[真崎甚三郎]]{{refnest|group=注釈|真崎大将の護衛憲兵として真崎の身辺にあった渋谷憲兵分隊の金子憲兵伍長の報告書によると、午前7時15分に陸相官邸到着、午前8時20分、伏見軍令部総長宮邸に到着。また午前8時10分陸相官邸表玄関を出た際、磯部が片倉に[[拳銃]]を発砲し、拳銃を落とした後[[軍刀]]で殺害しようとしていたので、真崎大将と古荘次官が「同士討ちはやめ」と発言、制止した<ref>田崎末松『評伝 真崎甚三郎』</ref>。}}、[[荒木貞夫]]、[[林銑十郎]]の3大将と[[山下奉文]]少将が[[歩哨線]]通過を許される<ref>[[香椎浩平]]手記。『秘録二・二六事件』永田書房、1980年, p.15</ref>。真崎と山下は陸相官邸{{refnest|group=注釈|当時の麹町区永田町一ノ一。叛乱軍が占拠していた。}}を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた<ref name="tenno"/>。
26日早朝、[[石原莞爾]]大佐宅に、新聞班長である[[鈴木貞一]]中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。その後、石原は軍事高級課員である[[武藤章]]中佐に電話をかけ「……いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こちらから役所に電話したが通じない…」と話し、直ちに参謀本部に出かけている<ref name="imaoka74">今岡豊『石原莞爾の悲劇』 蓉書房 p.74</ref>。
歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、[[赤坂見付]]台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!俺は参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方は今危険千万、死線はこれからも連続ですぞ。私は貴方を誰よりも尊敬しています。死線から貴方を守りたい。どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。お願いです」とそっと耳打ちをしたという。麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという<ref>別冊[[歴史読本]] 特別増刊 1990春号『未公開写真に見る2・26事件』p.131</ref>。
このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった[[難波三十四]]砲兵大尉(陸士第35期。終戦時は大佐、[[近衛第1師団 (日本軍)|近衛第1師団]]参謀長、[[東京湾兵団]]参謀)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の[[石原莞爾]]大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の[[杉山元]]さんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している<ref>[[中田整一]]『盗聴 二・二六事件』文藝春秋 p.59</ref>。
磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰り下さい」と迫られた石原は「何が維新だ。何も知らない下士官を巻き込んで維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはすぐやめろ、やめねば[[軍旗]]をもって討伐するぞ!」と再び一喝したとある。
山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。また、磯部が[[陸軍省]][[軍務局]]の[[片倉衷]]少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという<ref>山本又『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』2013年、文芸春秋 ISBN 978-4-16-376080-3 pp.125-126</ref>。ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。早く事態を収めることだ」と答えている<ref name="imaoka74"/>。なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。俺も昭和維新については同じに思っている。しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。[[私兵]]を動かしてはいかん」と説論している<ref name="imaoka74"/>。
この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。この際、[[川島義之]]陸軍大臣と[[古荘幹郎]]陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている<ref name="imaoka74"/>。このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている<ref>[[中田整一]]『盗聴 二・二六事件』文藝春秋 p.76</ref>。
石原と皇道派の関係について、[[筒井清忠]]が真崎甚三郎と[[橋本欣五郎]]・石原の間に近接関係が構築されつつあったこと<ref>筒井清忠『二・二六事件と青年将校』2014年、吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06465-1, p.161</ref>や、[[北博昭]]も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している<ref name="kita"/>。ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。この案をあなたはどう思いますか」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。やってみよう。だが、このことたるや、事まことに重大だ。僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。次長はあの部屋にいるから相談してくる。待っててくれ」と言い残して席をはずして[[杉山元]]参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている<ref>別冊歴史読本永久保存版 戦記シリーズNo.35『2・26事件と昭和維新』p.122</ref>。ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に[[昭和維新]]断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている<ref>別冊歴史読本永久保存版 戦記シリーズNo.35『2・26事件と昭和維新』p.121</ref>。
26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた[[安井藤治]]東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている<ref>『岡田啓介回顧録』中公文庫 p.180</ref>。
真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍[[艦隊派]]の[[加藤寛治]]と共に[[軍令部総長]][[伏見宮博恭王]]に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮を含む3人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で[[平沼騏一郎]]内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」<ref>本庄繁『本庄日記』2005年、原書房 ISBN 4-562-03949-3 p.272</ref>{{refnest|group=注釈|[[児島襄]]「天皇III」では天皇は「事件を鎮定せよ」と陸相に述べた後に「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と再度声を掛けている。2つめの発言では部隊を「暴徒」と明確にしている。}}せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく汲んでいないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は[[大角岑生]][[海軍大臣]]に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。
杉山元[[参謀次長]]が[[甲府]]の[[歩兵第49連隊]]および[[佐倉市|佐倉]]の[[歩兵第57連隊]]を招致すべく上奏。<!--正午に香椎警備司令官は宮中に参内し戒厳令下における[[帝都]]の治安状況について奏上した。同日午後0時45分には川島陸相が天皇に拝謁、【出典不明】-->
午後に[[清浦奎吾]]元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。
正午半過ぎ、前述の[[荒木貞夫|荒木]]・[[真崎甚三郎|真崎]]・[[林銑十郎|林]]のほか、[[阿部信行]]・[[植田謙吉]]・[[寺内寿一]]・[[西義一]]・[[朝香宮鳩彦王]]・[[梨本宮守正王]]・[[東久邇宮稔彦王]]といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された{{refnest|group=注釈|軍事参議官にはこのような告示を出す権限がなかったので川島陸軍大臣の承諾を得て告示として出された。なお、原文には閣僚と協議した旨の記述があるが、実際には協議されていない。}}。
<blockquote>
{{kyujitai|一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ<br />二、諸󠄀子ノ眞意󠄁ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム<br />三、國體ノ眞姿󠄁顯現ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼ニ堪ヘズ<br />四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ<br />五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ}}
</blockquote>
この告示は[[山下奉文]]少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長[[村上啓作]]大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した<ref name="tenno">[[児島襄]]『天皇III』</ref>。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。
26日午後3時に[[東京警備司令官]][[香椎浩平]]中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1[[師管区|師管]]に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]長[[堀丈夫]]中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。<!--【戦時警備の告諭は戒厳令に比べれば事件の進行上さほど重要な意義を持たないのでは。】-->
午後3時、前述の告示が[[東京警備司令部]]によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
<blockquote>
{{kyujitai|諸󠄀子ノ'''行動'''ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム}}
</blockquote>
と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった<ref>安倍源基『昭和動乱の真相』2006年、中公文庫 ISBN 4-12-204790-0 p.231</ref>。
午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
<blockquote>
{{kyujitai|一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突󠄁ヲ絕對ニ避󠄁クルコト<br />二、軍事參議官ハ積極的󠄁ニ部隊󠄁ヲ說得シ一丸トナリテ活潑ナル經綸ヲ爲ス。閣議モ其趣旨ニ從ヒ善處セラル}}
</blockquote>
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が[[内閣総理大臣臨時代理|首相臨時代理]]に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした{{refnest|group=注釈|この際、川島陸相の辞表の内容が他の大臣と同じであったことに天皇は不快感を示している。}}。その後、閣議が開かれて午後8時40分に[[戒厳|戒厳令]]の施行が閣議決定された。当初[[警視庁 (内務省)|警視庁]]や[[大日本帝国海軍|海軍]]は[[軍事政権|軍政]]につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた<ref>安倍、前掲書。p.225</ref>。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。[[戒厳#勅令による行政戒厳|行政戒厳]]であった。
午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の[[鈴木貞一]]、橋本欣五郎、[[満井佐吉]]が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている<ref name="tenno"/>。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった<ref name="masaki">[[田崎末松]]『評伝 真崎甚三郎』([[1977年]])[[芙蓉書房]] ISBN 978-4829502235</ref>。
26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、[[宮中]]東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に[[戒厳|戒厳令]]を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた<ref name="nakata60">中田整一『盗聴 二・二六事件』文藝春秋 p.60</ref>。その直後に宮中に居合わせていた[[内田信也]]鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、[[陸軍省]]軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室([[宮内省]]臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから……』と、はねつけた」と証言している。なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている<ref name="nakata60"/>。
なお当時、[[東京陸軍幼年学校]]の校長だった[[阿南惟幾]]は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。
=== 27日 ===
[[画像:Marshal Law Headquarters.jpg|200px|thumb|27日の[[戒厳令]]施行を受けて[[九段会館|軍人会館]]に戒厳司令部が設立された]]
午前1時すぎ、[[石原莞爾]]、[[満井佐吉]]、[[橋本欣五郎]]らは[[帝国ホテル]]に集まり、善後処置を協議した。[[山本英輔]]内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた<ref name="kita"/>。
午前3時、戒厳令の施行により[[九段]]の[[九段会館|軍人会館]]に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の[[香椎浩平]]中将が戒厳司令官に、[[参謀本部 (日本)#内部部局|参謀本部作戦課長]]で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。
「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の[[奉勅命令]]が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」<ref>前掲『本庄日記』p.275 原文は文語体</ref>と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする老臣らを悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接[[近衛師団]]を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された<ref>大谷、前掲書。pp.180-187</ref>。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。
午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」{{refnest|group=注釈|北は第5回公判で、「被告は真崎に一任して『法案』の実現を企図したのではないか」との[[法務官 (日本軍)|法務官]]の追及に対し、「ただ時局収拾に関し一般にも青年将校にも信頼の厚い同大将が適当と感じたるのみであります」と答えた。}}という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった{{refnest|group=注釈|一部青年将校は台湾軍司令官として任地にある柳川中将を内閣首班として要求していたという。}}。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰を勧めた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った<ref name="masaki"/>。<!--このとき反乱部隊以外にも、警備中の歩兵第3連隊の新井勲中尉が部下を率いて配置地区を離れるという動きもあった(後に新井中尉は、無断で部隊を連れて配置を離れた廉により禁錮6年の有罪判決を受ける)。【事件の進行上さほど重要な意義を持たないのでは。】-->
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、[[山王ホテル]]、赤坂の[[料亭]]「[[幸楽]]」を宿所にするよう命令が下った。
午後5時、弘前より上京した秩父宮{{refnest|group=注釈|前日午前中、高松宮より電話連絡を受けていた。}}が[[上野駅]]に到着<ref>[[#高松宮日記2巻]]390頁『五時すぎ秩父宮上野駅御着。直ちに御参内』</ref>。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った<ref name="wananikakatta">[[真崎勝次]]『文芸春秋』1954年10月号「罠にかかった真崎甚三郎」</ref>。
=== 28日 ===
[[画像:February 28 map 1936.jpg|250px|thumb|28日時点の反乱部隊の占拠]]
午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、[[香椎浩平]]戒厳司令官から[[堀丈夫]]第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた<ref name="kita"/>。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた[[杉山元|杉山]]参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、[[今井清|今井]]陸軍軍務局長、[[飯田貞固|飯田]]参謀本部総務部長、[[安井藤治|安井]]戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は再び反対し、武力鎮圧を主張した<ref name="kita"/>。
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に[[勅使]]を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ<ref>前掲『本庄日記』p.278</ref>」と非常な不満を示して叱責した<ref>昭和天皇実録 昭和11年2月28日</ref>。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。
自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。同時刻、皇居には皇族7人([[伏見宮博恭王]]、[[久邇宮朝融王|朝融王]]、[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]、[[東久邇宮稔彦王|東久邇宮]]、[[梨本宮守正王|梨本宮]]、[[竹田宮恒徳王|竹田宮]]、[[高松宮宣仁親王|高松宮]])が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した<ref>[[#高松宮日記2巻]]391-392頁『二月二十八日(略)ぶどうの間にて伏見宮、朝融王、秩父宮、朝香宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮それに私(高松宮)の七人集る。今度の事件に対する皇族としての所見の統一と云ふことであつたが、別にさうしたことも定まらず、席上伏見宮は私達二人して弟としてお上をおたすけして呉れと仰しやつて、御自分も感泣なさつた。そんなことは私も始めてゞあつた。夕食をたのむで二一〇〇頃までゐて皈る。』</ref>。
午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)<ref name="kita"/>。
また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。
一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、[[栗原安秀|栗原]]・[[中橋基明|中橋]]部隊は首相官邸、[[坂井直|坂井]]・[[清原康平|清原]]部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、[[田中勝 (軍人)|田中]]部隊と[[栗原安秀|栗原]]部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、[[安藤輝三|安藤]]・[[丹生誠忠|丹生]]部隊は山王ホテル、[[野中四郎|野中]]部隊は予備隊として[[国会議事堂|新国会議事堂]]に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。
[[画像:February 29 map 1936.jpg|250px|thumb|三方向から包囲された反乱部隊は抵抗のすべもなかった(29日)]]
=== 29日 ===
<gallery>
February 29 leaflet.jpg|下士官兵に対し帰順を呼びかける「下士官兵ニ告グ」の[[伝単]]
February 26 Incident Balloon Banner.JPG|田村町の飛行館に掲げられた、投降を促す[[アドバルーン]]
226 Returning Troops.JPG|帰順する下士官兵
</gallery>
{{Wikisource|兵に告ぐ}}
29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]の[[日本放送協会]]東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラ{{refnest|group=注釈|午前3時頃[[大久保弘一]]少佐が勧告ビラの撒布を思い付き、午前中いっぱい時間の猶予をもらうことを8人の軍事参事官にお願いし、寺内大将が戒厳司令官に交渉したという<ref name="名前なし-3">大久保弘一(元陸軍少佐・陸軍省新聞班員)『兵に告ぐ!』日本週報第434号 昭和33年2月25日発行</ref>。}}を飛行機{{refnest|group=注釈|近衛師団所属の飛行機3機を戒厳司令部直轄とした上で午前7時55分に羽田から発進させた。上空からビラを撒くのみならず、威嚇飛行も行わせたという。}}で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告{{refnest|group=注釈|[[NHK放送博物館]]、[[東京都江戸東京博物館]]で聴くことが出来る。ビラと若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後陸軍刑法違反ではないかと問題視された。}}が放送され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www9.nhk.or.jp/a-room/jidai/03.html |title=「二・二六事件」(1936年2月29日) 中村 茂アナウンサー |work=時代を伝えたアナウンサーの声 |publisher=NHK アナウンスルーム |accessdate=2013-01-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121231164529/http://www9.nhk.or.jp/a-room/jidai/03.html |archivedate=2012-12-31 |deadlinkdate=2018-03}}</ref>{{refnest|group=注釈|午前8時30分頃、反乱軍の兵士の家族との昨夜からの騒動の情報が戒厳司令部にもたらされ、[[根本博]]大佐が[[大久保弘一]]少佐にラジオ放送をするよう命じ、大久保は一気呵成に書きなぐった。このラジオ放送は承認無し・誰がいつの間にやらせたのかも全く分からない、と一時問題になり、越権行為だという声もあったが、この放送に対する感謝感激の手紙が全国から1600通戒厳司令官に届いたという<ref name="名前なし-3"/>。}}、また田村町(現・[[西新橋]])の飛行館{{refnest|group=注釈|1978年に全面改築され「航空会館」になっている}}には「[[勅]]命下る [[軍旗#大日本帝国陸軍|軍旗]]に手向かふな」と記された[[アドバルーン]]もあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を図ったものの失敗した{{refnest|group=注釈|部下がその瞬間制止したので手許が狂って失敗した。}}。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが{{refnest|group=注釈|野中大尉は自殺しないように一同を説得している途中、山下、長屋、井出の3大佐に外へ連れ出され、それきり帰ってこなかった。自殺は絶対不可で生き永らえて法廷で陳述しなければならない、と最も強硬に主張していた野中大尉が自殺するはずがない、あれは他殺だというのが、蹶起した同志の解釈である。}}、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
=== 終焉 ===
3月4日午後2時25分に[[山本又]]元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し[[国立国際医療研究センター|東京第一衛戍病院]]に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。
3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。
== 憲兵隊の動き ==
皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた[[小坂慶助]]曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている<ref name="kosaka">小坂慶助『特高 二・二六事件秘史』文春学藝ライブラリー pp.18-19</ref>。とはいえ、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという<ref name="kosaka"/>。
== 海軍の動き ==
2019年の[[NHKスペシャル]]での調査による海軍極秘文書発見により、事件発生直後、昭和天皇は[[伏見宮博恭]]軍令部総長に会い、海軍がクーデターに参加する可能性がないことを伏見宮に確認し、大海令を発動し陸軍のクーデター部隊の鎮圧に対する準備を海軍が進めていたことが明らかになっている
<ref>{{Cite web|和書|title=NHKスペシャル 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~
2019年8月15日(木) 午後7時30分~8時43分
|url=https://www.nhk.or.jp/special/detail/20190815.html |website=NスペPlus {{!}} NHKスペシャル |accessdate=2023-12-17 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。
[[画像:IJN Land Force February 1936.jpg|275px|thumb|芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(26日午後)]]
また[[憲兵 (日本軍)|憲兵]](東京憲兵隊長)からの情報として、海軍省は事件発生の一週間前には決起部隊の将校の名簿とその襲撃対象とされていた人物までの詳細な情報を掴んでいたが、この情報は次官クラスで極秘のまま隠蔽されていた。また、その後の事件の経過も詳細に記録している<ref>{{Cite web|和書|title=NスペPlus 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】 |url=https://web.archive.org/web/20200223143441/https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190829/index_a.html |website=NスペPlus {{!}} NHKスペシャル |accessdate=2022-02-17 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍出身の大将だったことから、東京市麹町区にあった海軍省は早くも26日午前に反乱部隊に対する徹底抗戦を発令、省舎の警備態勢を臨戦態勢に移した。
もとより海軍では事件の第一報当初より蜂起部隊を「反軍」(反乱軍)と位置付けていた<ref>[[#高松宮日記2巻]]390頁「海軍ではすでに反軍と称して、聯合艦隊を第二艦隊は大阪に、第一艦隊は東京に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四ヶ大隊もつてきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやると云ふ意気であつた。」</ref>。26日午後には[[横須賀鎮守府]]([[米内光政]]司令長官<!--、[[井上成美]]参謀長-->)の[[海軍陸戦隊]]4個大隊を芝浦埠頭に上陸させるとともに、[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]を[[東京湾]]内に急行させ、27日午後には[[旗艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」以下各艦の主砲の照準を反乱軍の占拠する都内各地に合わさせた。
この臨戦態勢は[[大阪]]にも及び、27日午前<!--9時40分-->には<!--、[[加藤隆義]]海軍中将率いる-->[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]の<!--旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」以下-->各艦が[[大阪港]]外に投錨した。
また、海軍に対し叛乱軍将兵が自身らの拠点に海軍将校を1名派遣することを要求してきた際に、軍令部部員の[[岡田為次]]中佐を派遣させている<ref>{{Cite web|和書|title=NスペPlus 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】 |url=https://web.archive.org/web/20200223143441/https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190829/index_a.html |website=NスペPlus {{!}} NHKスペシャル |accessdate=2022-02-17 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。<!--この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。-->岡田中佐は岡田啓介内閣総理大臣と同じ苗字であることを利用して「同じ苗字の大先輩へ弔問をしたい」として遺体をいち早く確認し岡田総理が生存していることを確認した。
== 事件後の処理 ==
陸軍の統制派は二・二六事件の蹶起がもたらした状況を最大限に利用した。政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.332</ref>。そして、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2.26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった。
=== 政府・宮中 ===
[[画像:Keisuke Okada extra.jpg|250px|thumb|岡田総理の無事と事件後の政局を伝える新聞]]
事件の収拾後、岡田内閣は[[内閣総辞職|総辞職]]し、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。しかし[[大命降下|組閣大命]]が下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が[[広田弘毅]]を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。3月6日には新聞で新閣僚予定者の名簿も掲載され、親任式まで順調に進むかに思われた<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.220</ref>。
しかし陸軍は陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とまず釘をさした<ref>太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.331</ref>。そして、陸軍省軍務局の[[武藤章]]中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、[[下村宏]]、[[中島知久平]]、[[川崎卓吉]]、[[小原直]]、[[吉田茂]]などを名指しして、自由主義的な思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。
=== 反乱軍将校の免官等 ===
20名が2月29日付で、3月2日には山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、[[位階]]{{refnest|group=注釈|[[大尉]]は[[正七位]]、[[中尉]]は[[従七位]]、[[少尉]]は[[正八位]]であった。}}の返上が命ぜられる。また、[[勲章 (日本)|勲章]]も褫奪された。
=== 殉職・負傷者 ===
事件により、大臣達の護衛についていた5名の警察官が[[殉職]]し、1名が重傷を負った。これらの警察官は、[[旭日章|勲八等白色桐葉章]]を授けられ、内務大臣から[[警察官吏及消防官吏功労記章]]を付与された。国民からの反響も大きく、全国から弔文十万通、弔慰金21万9833円が集まり、4月30日に弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到するほどであった<ref>{{harvnb|警視庁史編さん委員会|1962|pp=475-476}}</ref>。築地本願寺において行われた合同警視庁葬においては数万人の市民が焼香した<ref>{{Cite book|和書 |author=安倍源基|authorlink=安倍源基 |year=2006 |title=昭和動乱の真相 |publisher=中公文庫 |page=193 |isbn=4122062314}}</ref>。
;村上嘉茂左衛門 :巡査部長。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。福島県木幡村(現・二本松市)出身。[[五・一五事件]]の際も犬養毅首相の官邸警備を担当していたが、非番に当たっており難を逃れた<ref>[[福島民報]]1936年3月3日付</ref>。
;土井清松 :巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた[[石川光陽]]とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。
;清水与四郎 :巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。彼の血で染まった庭の芝生は移植され警視庁[[警視庁警備部|警備部]]警護課の窓辺に置かれている<ref>[https://www.sankei.com/article/20160226-PPAVQVAPCVKVTEWLBOXSDS4SPA/ 二・二六事件から80年 「血染めの芝生」警護の誇り今に伝える]産経ニュース、2016年8月11日閲覧。</ref><ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016022502000134.html 二・二六事件で首相守り29歳巡査殉職 それでも戦争…「悔しい」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160820142759/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016022502000134.html |date=2016年8月20日}}[[東京新聞]]、2016年8月11日閲覧。</ref>。
;小館喜代松 :巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
;皆川義孝 :巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
;玉置英夫 :巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。
これが原因で戦後の[[陸上自衛隊]]も[[警視庁公安部]]公安第3課の監視対象になっている<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20150325_307643.html 警察 「前科」がある自衛隊部隊のクーデターを現在も警戒中] [[SAPIO]]2015年4月号</ref>。
この他に、[[歩兵第15連隊]]の兵士4人が、暖房用の炭火による[[一酸化炭素]]中毒で死亡するなど、鎮圧側部隊の兵士計6名が、29日から3月1日にかけて死亡している<ref>松本清張『昭和史発掘 11』(文藝春秋、1971年)p.329</ref>。
=== 皇道派陸軍幹部 ===
事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、[[荒木貞夫|荒木]]・[[真崎甚三郎|真崎]]・[[阿部信行|阿部]]・[[林銑十郎|林]]の4名は3月10日付で[[予備役]]に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった[[川島義之|川島]]は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。
やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長{{refnest|group=注釈|当時[[第20師団 (日本軍)#所属部隊|歩兵第40旅団]]は朝鮮の[[龍山区 (ソウル特別市)|龍山]]に司令部があった。山下自身は事件後には軍から身を引く覚悟も固めていたが、川島陸軍大臣の慰留によって40旅団長への転任に落ち着いた。}}に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に[[陸軍航空本部|陸軍航空本部長]]を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の[[広田弘毅内閣]]の時から[[軍部大臣現役武官制]]が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。
事件当時[[関東軍]]憲兵司令官だった[[東條英機]]は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した<ref>池田純久『日本の曲り角』</ref>。
当時の陸軍人事局長であった[[後宮淳]]中将から、事後処理のため[[近衛歩兵第2連隊]]付から参謀本部庶務課高級部員(課長代理)に抜擢された[[富永恭次]]は、難航すると思われた皇道派将校からの[[予備役]]編入願を手際よく集めてきたため、大きな混乱もなく多数の皇道派将校を予備役行きにすることができて、富永の実務能力への評価が高まった<ref>{{Harvnb|藤井非三四|2007|p=149}}</ref>。関東軍の東條も目にかけてきた富永の優秀な仕事ぶりの噂を聞くと喜び、[[相沢事件]]で皇道派の将校[[相沢三郎]]に殺害された、東條にとっての恩人であった[[永田鉄山]]の仇をとってくれたとさらに富永を高く評価することとなり、のちに富永が「東條の[[腰巾着]]」などと揶揄されるほど重用されるきっかけともなった<ref>{{Harvnb|藤井非三四|2019|p=87}}</ref>。
一方、事件に対する陸軍の責任をめぐっては[[貴族院 (日本)|貴族院]]で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった<ref name="wananikakatta"/>。
=== 事件に関わった下士官兵 ===
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。「命令と服従」の関係が焦点となり、下士官・兵に対する処罰が軍法会議にかけられた。無罪となった兵士たちは、それぞれの連隊に帰ったが、[[歩兵第1連隊]]も[[歩兵第3連隊]]もすでに渡満していたことから、彼らは留守部隊の所属となっていた。そこで無罪放免となった歩兵第3連隊の兵隊たちのうち8名は渡満を希望し、8月上旬に東京を出発して満州北部のチチハルに駐在する歩兵第3連隊へと向かった。しかし、ここで事件後に着任した[[湯浅政雄]]連隊長から思いがけないことを言われた。8人の中の1人だった春山安雄伍長勤務上等兵は証言している。「到着するとすぐに本部に行き晴々した気持ちで連隊長に申告したところ、湯浅連隊長はいきなり『軍旗をよごした不忠者めが』と怒鳴り、軍旗の前に引き出され、散々にしぼられた」春山伍勤上等兵は「私たちは命令によって行動したのに不忠者とは何ごとか」と連隊長の言葉に反発し、思わずムッとして開き直った態度をとると、さらに、「何だ、その態度は!」と一喝された。
反乱軍とみなされていたのは軍法会議に付された者ばかりではなかった。歩兵第3連隊は5月22日に渡満の途についたが、出発に先立ち湯浅連隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示したという。これに対して、歩兵第3連隊第3中隊の福田守次上等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じた」と戦後に憤りを語っている。こうした事情は歩兵第1連隊も同じで、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵の回想によると、歩兵第1連隊の新連隊長に着任した[[牛島満]]大佐も「汚名をすすぐために全員[[骨壷|白木の箱]]で帰還せよ」と発言したという。事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。
歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵([[落語家]]。後の[[人間国宝]]・[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]。当時は前座)や[[畑和]]二等兵(後の[[埼玉県]][[都道府県知事|知事]]、[[日本社会党|社会党]][[衆議院議員]])がいる。また、歩兵第1連隊第5中隊には、後に[[映画監督]]として『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』や『[[モスラ]]』といった[[東宝特撮]]映画を撮る[[本多猪四郎]]がいた{{R|本多全仕事}}。
=== 反乱軍を出した部隊 ===
反乱軍を出した各部隊等では指揮官が責任を問われ[[更迭]]された。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
;[[東京警備司令部]] :司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、[[香椎浩平]]中将から[[岩越恒一]]中将へ交代。香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。
;[[近衛師団]] :師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[橋本虎之助]]中将から[[香月清司]]中将へ交代。橋本中将は同年7月10日、予備役編入。
;[[近衛歩兵第2旅団]] :旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[大島陸太郎]]少将から[[秦雅尚]]少将へ交代。大島少将は同年7月10日、予備役編入。
;[[近衛歩兵第3連隊]] :連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、[[園山光蔵]]大佐から[[井上政吉]]大佐へ交代。園山大佐は同年7月10日、予備役編入。
;[[第1師団 (日本軍)|第1師団]] :師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[堀丈夫]]中将から[[河村恭輔]]中将へ交代。堀中将は同年7月10日、予備役編入。
;[[歩兵第1旅団]] :旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[佐藤正三郎]]少将から[[小泉恭次]]少将へ交代。佐藤少将は同年7月10日、予備役編入。
;[[歩兵第1連隊]] :連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、[[小藤恵]]大佐から[[牛島満]]大佐へ交代。小藤大佐は同年7月10日、予備役編入。
;[[歩兵第2旅団]] :旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[工藤義雄]]少将から[[関亀治]]少将へ交代。工藤少将は同年7月10日、予備役編入。
;[[歩兵第3連隊]] :連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、[[渋谷三郎 (陸軍軍人)|渋谷三郎]]大佐から[[湯浅政雄]]大佐へ交代。渋谷大佐は同年7月10日、予備役編入。
;[[野戦重砲兵第3旅団]] :旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、[[石田保道]]少将から[[菊池門也]]少将へ交代。石田少将は同年7月10日、予備役編入。
;[[野戦重砲兵第7連隊]] :連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、[[真井鶴吉]]大佐から[[北島驥子雄]]大佐へ交代。真井大佐は同年7月10日、予備役編入。
== 捜査・公判 ==
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。
事件後、東條英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、結果としては陸軍では統制派の政治的発言力がますます強くなることとなった。
事件後に事件の捜査を行った[[匂坂春平]][[法務官 (日本軍)|陸軍法務官]](後に法務中将。[[明治法律学校]]卒業。[[軍法会議]]首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。
2月28日、陸軍省[[軍務局]]軍務課の[[武藤章]]らは厳罰主義により速やかに処断するために、[[緊急勅令]]による特設[[軍法会議]]の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は[[合囲地|合囲地境]]戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の[[忌避]]はできず、[[一審]]制で非公開、かつ[[弁護人]]なしという過酷で特異なものであった。[[匂坂春平]]陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した[[大山文雄]]陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる<ref name="kita"/>。
[[迅速な裁判]]は、天皇自身の強い意向でもあった。特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て3月4日に公布されたものである。この日、天皇は[[本庄繁]]侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。すなわち、「軍法会議の構成も定まりたることなるが、相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言ったのである<ref name="よくわかる_p335">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.335</ref>。
実際、裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。その方法は、審理の内容を徹底して「反乱の四日間」に絞り込み、その動機についての審理を行わないことであった<ref name="よくわかる_p335"/>。{{独自研究範囲|これは先の相沢事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる|date=2023年10月}}。2.26事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、蹶起した青年将校らは「昭和維新の精神」を訴える機会を封じられてしまった<ref name="よくわかる_p335" />。
当時の[[陸軍刑法]](明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。
<blockquote>
{{kyujitai|{{big|'''第二十五條'''}}<br />黨ヲ結ヒ兵器󠄁ヲ執リ叛亂ヲ爲シタル者󠄁ハ左ノ區別ニ從テ處斷ス<br />一 首魁ハ死𠛬ニ處ス<br />二 謀議ニ參與シ又ハ群衆ノ指揮ヲ爲シタル者󠄁ハ死𠛬、無期󠄁若ハ五年以上ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處シ其ノ他諸󠄀般ノ職務ニ從事シタル者󠄁ハ三年以上ノ有󠄁期󠄁ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス<br />三 附和隨行シタル者󠄁ハ五年以下ノ懲󠄁役又ハ禁錮ニ處ス}}
</blockquote>
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。
そして、[[小川関治郎]]陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長は、北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないとして、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した<ref name="masaki"/>。
軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族および[[日本放送協会|NHK]]のディレクターだった[[中田整一]]、作家の[[澤地久枝]]、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである{{refnest|group=注釈|中田はNHK特集「二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録」でこれを取り上げ、澤地は『雪は汚れていた』として刊行した。}}。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]]は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した<ref>池田俊彦「NHK特集『消された真実』に反論する」『[[文藝春秋]]』1988年5月号</ref>。また[[田々宮英太郎]]は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている<ref name="gaiyoa">田々宮英太郎『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年</ref>。これらの意見に対し[[北博昭]]は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した<ref name="kita2">北博昭「東京陸軍軍法会議検察官匂坂春平の虚実」『日本歴史』NO.516、日本歴史学会、1991年。北の結論について防衛省[[防衛研究所]]の山本政雄は「説得力がある」と述べている(「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立 -五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察-」
『戦史研究年報 第11号』防衛庁防衛研究所、2008年{{PDFlink|[http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/05.pdf]}})</ref>。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている<ref name="kita2"/>。
匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという<ref>河野司『ある遺族の二・二六事件』河出書房新社 1982年</ref>。ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことが窺える<ref name="gaiyoa"/>。
公判記録は戦後に[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) が押収したのち、返還されて[[東京地方検察庁]]に保管されていたことが1988年9月になって判明した<ref>伊藤隆・北博昭『二・二六事件 判決と証拠』朝日新聞社、1995年</ref>。だがこれらは関係者の実名が多く載せられているためか撮影・複写すら禁止されており、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し、[[1998年]]に出版した<ref>池田俊彦『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』[[原書房]]、1998年。ISBN 4562030690</ref>。[[2001年]][[2月21日]]に放送された「[[その時歴史が動いた]] シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜』」において、初めて一部撮影が許可された。2014年から[[国立公文書館]]に軍法会議録が移管され、2022年には『オンライン版 二・二六事件東京陸軍軍法会議録』として公開された<ref>{{Cite web |title=オンライン版 二・二六事件東京陸軍軍法会議録 |url=https://j-dac.jp/226/index.html |website=j-dac.jp |access-date=2023-11-20}}</ref>。
民間人に関しては、[[木内曽益]][[検事]]が主任検事として事件の処理に当たった。
== 判決 ==
=== 自決 ===
自決等
{|class="wikitable"
!階級!!氏名!!職名!!年齢!![[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|陸士期]]
|-
|歩兵大尉||[[野中四郎]]||歩兵第3連隊第7中隊長||32歳||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#36期|36期]]
|-
|航空兵大尉||[[河野壽]]||所沢陸軍飛行学校操縦科学生||28歳||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#40期|40期]]
|}
階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。
=== 第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡) ===
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!職名!![[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|陸士期]]
|-
|死刑||[[反乱罪|叛乱罪]](首魁)||歩兵大尉||[[香田清貞]]||歩兵第1旅団副官||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#37期|37期]]
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)||歩兵大尉||[[安藤輝三]]||歩兵第3連隊第6中隊長|||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#38期|38期]]
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)||歩兵中尉||[[栗原安秀]]||歩兵第1連隊(機関銃隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#41期|41期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵中尉||[[竹嶌継夫]]||豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#40期|40期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵中尉||[[対馬勝雄]]||豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#41期|41期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵中尉||[[中橋基明]]||近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#41期|41期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵中尉||[[丹生誠忠]]||歩兵第1連隊(第11中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵中尉||[[坂井直]]||歩兵第3連隊(第1中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#44期|44期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||砲兵中尉||[[田中勝 (軍人)|田中勝]]||野戦重砲兵第7連隊(第4中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#45期|45期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||工兵少尉||[[中島莞爾]]
|鉄道第2連隊附(陸軍砲工学校分遣)||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#46期|46期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||砲兵少尉||[[安田優]]||野砲兵第7連隊附(陸軍砲工学校分遣)||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#46期|46期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[高橋太郎(軍人)|高橋太郎]]||歩兵第3連隊(第1中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#46期|46期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[林八郎]]||歩兵第1連隊(機関銃隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)||元歩兵大尉||[[村中孝次]]|| ||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#37期|37期]]
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)||元一等主計||[[磯部浅一]]|| ||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#38期|38期]]
|-
|死刑||叛乱罪(群衆指揮等)||元士官候補生||[[渋川善助]]|| ||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#39期|39期]]
|-
|無期禁錮||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[麦屋清済]]||歩兵第3連隊(第1中隊)附||[[特別志願士官|特志]]
|-
|無期禁錮||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[常盤稔]]||歩兵第3連隊(第7中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|-
|無期禁錮||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[鈴木金次郎]]||歩兵第3連隊(第10中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|-
|無期禁錮||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[清原康平]]||歩兵第3連隊(第3中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|-
|無期禁錮||叛乱罪(群衆指揮等)||歩兵少尉||[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]]||歩兵第1連隊(第1中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|-
|禁錮4年|| ||歩兵少尉||[[今泉義道]]||近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#47期|47期]]
|}
[[田中光顕]]伯、[[浅野長勲]]侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した<ref name="seishungunzo"/>。
[[7月12日]]、磯部浅一・村中孝次を除く、後述の水上源一を含む、15名の刑が執行された。
=== 第2次処断(昭和11年7月29日判決言渡) ===
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!職名!![[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|陸士期]]
|-
|無期禁錮||叛乱者を利す||歩兵大尉||[[山口一太郎]]||歩兵第1連隊第7中隊長||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#33期|33期]]
|-
|禁錮4年||叛乱者を利す||歩兵中尉||[[柳下良二]]||歩兵第3連隊(機関銃隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#45期|45期]]
|-
|禁錮6年||司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る||歩兵中尉||[[新井勲]]||歩兵第3連隊(第10中隊)附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]
|-
|禁錮6年||叛乱予備||一等主計||[[鈴木五郎(軍人)|鈴木五郎]]||[[歩兵第6連隊|歩兵第6連隊附]]||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#38期|38期]]
|-
|禁錮4年||叛乱予備||歩兵中尉||[[井上辰雄 (陸軍軍人)|井上辰雄]]||豊橋陸軍教導学校附||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]
|-
|禁錮4年||叛乱予備||歩兵中尉||[[塩田淑夫]]||[[歩兵第8連隊|歩兵第8連隊附]]||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|44期]]
|}
===背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡) ===
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!職名!![[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|陸士期]]
|-
|禁錮3年|| ||歩兵中佐||[[満井佐吉]]||[[陸軍大学校]]兵学教官
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#26期|26期]]
|-
|禁錮5年|| ||歩兵大尉||[[菅波三郎]]||[[歩兵第45連隊]]第1[[中隊長]]
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#37期|37期]]
|-
|禁錮4年|| ||歩兵大尉||[[大蔵栄一]]||[[歩兵第73連隊]]第2中隊長
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#37期|37期]]
|-
|禁錮4年|| ||歩兵大尉||[[末松太平]]||[[歩兵第5連隊]][[歩兵砲]]隊長
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#39期|39期]]
|-
|禁錮3年|| ||歩兵中尉||[[志村陸城]]||歩兵第5連隊附
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#44期|44期]]
|-
|禁錮1年6月|| ||歩兵中尉||志岐孝人||[[歩兵第13連隊|歩兵第13連隊附]]
|[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#44期|44期]]
|-
|禁錮5年|| ||予備少将||[[斎藤瀏]]|| ||[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#12期|12期]]
|-
|禁錮2年|| || ||[[越村捨次郎]]|| ||
|-
|禁錮3年|| || ||[[福井幸]]|| ||
|-
|禁錮3年|| || ||[[町田専蔵]]|| ||
|-
|禁錮1年6月|| || ||[[宮本正之]]|| ||
|-
|禁錮2年(執行猶予4年)|| || ||[[加藤春海]]|| ||
|-
|禁錮1年6月(執行猶予4年)|| || ||[[佐藤正三]]|| ||
|-
|禁錮1年6月(執行猶予4年)|| || ||[[宮本誠三]]|| ||
|-
|禁錮1年6月(執行猶予4年)|| || ||[[杉田省吾]]|| ||
|}
=== 背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡) ===
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!備考!!年齢
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)|| ||[[北一輝|北輝次郎(一輝)]]|| ||52歳
|-
|死刑||叛乱罪(首魁)||元騎兵少尉||[[西田税]]|| [[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#34期|陸士34期]]
||34歳
|-
|無期禁錮||叛乱罪(謀議参与)|| ||[[亀川哲也]]|| ||
|-
|禁錮3年||叛乱罪(諸般の職務に従事)|| ||[[中橋照夫]]|| ||
|}
1937年(昭和12年)[[8月19日]]に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された<ref>北、西田、村中、磯部の死刑執行『東京朝日新聞』(昭和12年8月20日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p570 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
=== 真崎の事件関与 ===
事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという<ref name="tenno"/>。
一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、[[鵜澤總明|鵜沢総明]]博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に[[久原房之助]]邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである<ref name="masaki"/>。
しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ<ref>磯部浅一『行動記』河野司 編『二・二六事件 ― 獄中手記・遺書』河出書房新社、1972年 所収</ref>、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている<ref name="tenno"/>。このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある。
一方、当時真崎大将の護衛であった[[金子桂]]憲兵伍長([[少尉候補者]]第21期、昭和19年9月1日調では[[北部憲兵隊]]司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている<ref name="masaki"/>。
また、終戦後に[[極東国際軍事裁判]]の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、[[寺内寿一]]陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した[[磯村年]]大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している<ref name="gisiwoutu">[[山口富永]]『二・二六事件の[[偽史]]を撃つ』([[1990年]])[[国民新聞社]]</ref>。{{独自研究範囲|真崎は好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈ありと誤解されて勝手に祭り上げられていただけの可能性が高い|date=2023年11月}}。
決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官など)と改造主義グループ(政情変革を狙っており、北一輝の思想に影響を受けた磯部、栗原など)があり、特に後者はクーデター後を睨んで宮中などへの上部工作を行った<ref>筒井清忠『昭和期日本の構造』1996年、講談社学術文庫、p.278</ref>。また陸軍省・参謀本部ではクーデターが万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた<ref>筒井清忠『昭和期日本の構造』1996年、講談社学術文庫、p.262</ref>。
*内閣総理大臣 真崎甚三郎
*内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫
*陸軍大臣 [[小畑敏四郎]]あるいは[[柳川平助]]
*大蔵大臣 [[勝田主計]]あるいは[[結城豊太郎]]
*司法大臣 [[光行次郎]]
*(不詳) 北一輝
*内閣書記官長 西田税
推理作家の[[松本清張]]は「[[昭和史発掘]]」で
:「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引き受けるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。」
と主張している<ref>{{Cite book|title=昭和史発掘(11)|author=松本清張|publisher=文藝春秋|year=1978}}</ref>。
磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている<ref>伊藤隆、北博昭『月刊Asahi』1993年9月号「真崎大将は黒幕ではない」</ref>。
『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた[[高橋正衛]]は、1989年2月22日、その説に異を唱える[[山口富永]]に対し、[[末松太平]]の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った<ref name="gisiwoutu"/>。
青年将校は相沢裁判を通じて、[[相沢三郎]]を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、二・二六事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、[[西園寺公望|西園寺]]公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は[[持永浅治]]少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。また、[[小川関治郎]]法務官は[[湯浅倉平]]内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が[[磯村年]]裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている<ref>[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]「真崎大将遺書」、[[広瀬順晧]]校訂「現世相に関する特別備忘録」『This is 読売』1992年3月号</ref>。
1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!職名!![[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)|陸士期]]
|-
|無罪||叛乱者を利す||大将||[[真崎甚三郎]]||[[軍事参議官]]||9期
|}
=== その他判決 ===
{|class="wikitable"
!刑!!罪名!!階級!!氏名!!所属部隊!!年齢
|-
|死刑|| || ||[[水上源一]]|| ||27歳
|-
|禁錮15年|| ||予備歩兵曹長||[[中島清治]]|| ||28歳
|-
|禁錮15年|| ||予備歩兵曹長||[[宮田晃]]|| ||27歳
|-
|禁錮15年|| ||軍曹||[[宇治野時参]]||歩兵第1連隊||24歳
|-
|禁錮15年|| ||予備歩兵上等兵||[[黒田昶]]|| ||25歳
|-
|禁錮15年|| ||一等兵||[[黒沢鶴一]]||歩兵第1連隊||21歳
|-
|禁錮15年|| || ||[[綿引正三]]|| ||22歳
|-
|禁錮10年|| ||予備歩兵少尉||[[山本又]]|| ||42歳
|}
水上源一は、河野大尉と共に湯河原での牧野伸顕襲撃に加わったメンバーで、一連の事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた(1936年7月12日処刑)。
=== 刑の執行 ===
[[File:2.26 Incident memorial Shibuya 2022.jpg|upright|thumb|二・二六事件慰霊碑(東京都渋谷区宇田川町1-1)、2022年7月撮影]]
1936年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人15名の処刑場、旧[[軍事刑務所#日本|東京陸軍刑務所]]敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された<ref>[https://web.archive.org/web/20100601185508/http://www.geocities.jp/tatsuo1920/sub-22.html 2・26事件介錯人の告白]</ref>。当日、刑場の隣にあった[[代々木練兵場]]では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。
青年将校の多くは、天皇陛下万歳と三唱して処刑されたと伝えられる。ただ、磯部朝一のみは激しく昭和天皇のとった態度を痛罵する手記を残している。また、北一輝は西田税から我々も天皇陛下万歳を三唱しますかと聞かれたとき、断っている。昭和天皇自身は、「青年将校は私をかつぐが私の真意を少しも尊重しない」とし<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-01.html |title=繰り返し戦争を回顧 後悔語る|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB |access-date=2023-8-20 |publisher=NHK}}</ref>、青年将校らの目的があくまで平等主義に比重を置いた青年将校らの理念やその理想政治の実現であり、天皇自身の利益には必ずしも合致しないことを理解し、また、青年将校らが秩父宮を即位させることを狙っているのではないかと疑っていた。「天皇はその大御心でつねに国民の事を考えている」との天皇制プロパガンダに洗脳され、その最大の犠牲者となったのが、彼ら青年将校らだったのかもしれない。
二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都[[渋谷区]][[宇田川町]]([[神南]]隣)にある。旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により[[荒川区]][[南千住]]の[[回向院]]に葬られている。またこれとは別に、[[港区 (東京都)|港区]][[元麻布]]の[[賢崇寺]]内に墓碑があり、毎年2月26日・7月12日に合同慰霊祭が行われている<ref>[http://www.1242.com/surprise/nikki2/main.php?did=2861 今も続く二・二六事件合同慰霊祭] - [[うえやなぎまさひこのサプライズ!]]</ref>。
== 事件当時の政界・軍部の首脳等 ==
=== 皇族 ===
*[[秩父宮雍仁親王]]:[[歩兵第31連隊]]第3大隊長(陸軍歩兵少佐、陸士34期)
*[[高松宮宣仁親王]]:[[海軍大学校]]甲種学生(海軍少佐、海兵52期)<!-- 宣仁親王は1935年11月15日少佐進級 -->
*[[三笠宮崇仁親王]]:[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]生徒([[士官候補生]]、陸士48期騎兵科)
*[[閑院宮載仁親王]]:参謀総長([[元帥 (日本)|元帥陸軍大将]])
*[[伏見宮博恭王]]:軍令部総長([[元帥 (日本)|元帥海軍大将]])
*[[山階宮武彦王]]:(予備海軍少佐)
*[[賀陽宮恒憲王]]:騎兵第10連隊長(陸軍騎兵中佐、陸士32期)
*[[久邇宮朝融王]]:[[軍令部]]員(海軍少佐、海兵49期)
*[[多嘉王]]:[[伊勢神宮|神宮]][[祭主]]
*[[梨本宮守正王]]:(元帥陸軍大将、陸士7期)
*[[朝香宮鳩彦王]]:[[軍事参議官]](陸軍中将、陸士20期)
*[[朝香孚彦|朝香宮孚彦王]]:歩兵第1連隊附(陸軍歩兵中尉、陸士45期)
*[[東久邇宮稔彦王]]:軍事参議官(陸軍中将、陸士20期)
*[[北白川宮永久王]]:近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵中尉、陸士43期)
*[[竹田宮恒徳王]]:騎兵第1連隊附(陸軍騎兵少尉、陸士42期)
*[[閑院宮春仁王]]:[[陸軍騎兵学校]][[教官]](陸軍騎兵大尉、陸士34期)
=== 内閣(閣僚) ===
*[[内閣総理大臣]]:[[岡田啓介]]
*[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]:[[広田弘毅]]
*[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]:[[後藤文夫]]
*[[大蔵大臣]]:[[高橋是清]]
*[[陸軍大臣]]:[[川島義之]]
*[[海軍大臣]]:[[大角岑生]]
*[[司法大臣]]:[[小原直]]
*[[文部大臣]]:[[川崎卓吉]]
*[[農林大臣]]:[[山崎達之輔]]
*[[商工大臣]]:[[町田忠治]]
*[[逓信大臣]]:[[望月圭介]]
*[[鉄道大臣]]:[[内田信也]]
*[[拓務大臣]]:[[児玉秀雄]]([[伯爵]])
=== 内閣(その他) ===
*[[内閣書記官長]]:[[白根竹介]]
*[[法制局長官]]:[[大橋八郎]]
*[[内閣総理大臣秘書官]]:[[松尾伝蔵]](退役陸軍歩兵大佐、陸士5期)
*内閣総理大臣秘書官:[[迫水久常]]
*内閣総理大臣秘書官:[[福田耕]]
=== 内務省 ===
*[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]:[[後藤文夫]]
*[[警保局|警保局長]]:[[唐沢俊樹]]
*[[警視総監]]:[[小栗一雄]]
*[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[特別高等警察|特高部長]]:[[安倍源基]]
=== 陸軍 ===
==== 陸軍省 ====
*[[陸軍大臣]]:[[川島義之]](陸軍大将、陸士10期)
*[[陸軍次官]]:[[古荘幹郎]](陸軍中将、陸士14期)
*[[軍務局|軍務局長]]:[[今井清]](陸軍中将、陸士15期)
**軍事課長:[[村上啓作]](陸軍歩兵大佐、陸士22期)
*人事局長:[[後宮淳]](陸軍少将、陸士17期)
*兵器局長:[[多田礼吉]](陸軍少将、陸士15期)
*整備局長:[[山脇正隆]](陸軍少将、陸士18期)
*経理局長:[[平手勘次郎]]
*医務局長:[[小泉親彦]]
*法務局長:[[大山文雄]]
==== 参謀本部 ====
*[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]:[[閑院宮載仁親王]]
*[[参謀次長]]:[[杉山元]](陸軍中将、陸士12期)
**[[作戦課長|第一部第二課長(作戦)]]:[[石原莞爾]](陸軍歩兵大佐、陸士21期)
**部員(作戦班長):[[岡本清福]](陸軍砲兵中佐、陸士27期)
==== 官衙・部隊等 ====
*[[東京警備司令部|東京警備司令官]]兼[[東部軍 (日本軍)|東部防衛司令官]]:[[香椎浩平]](陸軍中将、陸士12期)
*東京警備参謀長兼東部防衛参謀長:[[安井藤治]](陸軍少将、陸士18期首席)
*[[近衛師団|近衛師団長]]:[[橋本虎之助]](陸軍中将、陸士14期)
*[[第1師団 (日本軍)|第1師団長]]:[[堀丈夫]](陸軍中将、陸士13期)
*[[歩兵第1連隊|歩兵第1連隊長]]:[[小藤恵]](陸軍歩兵大佐、陸士20期)
*[[歩兵第3連隊|歩兵第3連隊長]]:[[渋谷三郎 (陸軍軍人)|渋谷三郎]](陸軍歩兵大佐、陸士18期)
*[[憲兵 (日本軍)|憲兵司令官]]:[[岩佐禄郎]](陸軍中将、陸士15期)
=== 海軍 ===
*[[軍令部]][[総長]]:[[伏見宮博恭王]](元帥海軍大将)
*[[軍令部次長]]:[[嶋田繁太郎]](海軍中将、海兵32期)
*[[第一部長(作戦)]]:[[近藤信竹]](海軍少将、海兵35期首席)
**[[軍務局第一課長|第一部第一課長(作戦)]]:[[福留繁]](海軍大佐、海兵40期)
**部員(作戦班長):[[中澤佑]](海軍中佐、海兵43期)
**部員:[[岡田為次]](海軍中佐、海兵45期)
*[[海軍大臣]]:[[大角岑生]](海軍大将、海兵24期)
*[[海軍次官]]:[[長谷川清]](海軍中将、海兵31期)
*[[軍務局|軍務局長]]:[[豊田副武]](海軍中将、海兵33期)
**[[軍務局第一課長|軍務局第一課長(軍務)]]:[[保科善四郎]](海軍大佐、海兵41期)
*軍需局長:[[上田宗重]](海軍中将、海機13期)
*人事局長:[[小林宗之助]](海軍少将、海兵35期)
*教育局長:[[住山徳太郎]](海軍少将、海兵34期)
*経理局長:[[村上春一]](主計中将)
*軍医局長:[[高杉新一郎]](軍医中将)
*法務局長:[[山田三郎 (海軍軍人)|山田三郎]]([[法務官 (日本軍)|法務官]])
*[[連合艦隊司令長官|聯合艦隊司令長官]]兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊司令長官]]:[[高橋三吉]](海軍中将、海兵29期)
*聯合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長:[[野村直邦]](海軍少将、海兵35期)
**聯合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:[[宇垣纏]](海軍大佐、海兵40期)
**聯合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:[[朝倉豊次]](海軍中佐、海兵44期)
**聯合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:[[早川幹夫]](海軍中佐、海兵44期)
*[[戦艦]]「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」[[艦長]]:[[草鹿任一]](海軍大佐、海兵37期)
**戦艦「扶桑」[[砲術]]長:[[猪口敏平]](海軍中佐、海兵46期)
*戦艦「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」艦長:[[小沢治三郎|小澤治三郎]](海軍大佐、海兵37期)
*[[第七戦隊]]司令官:[[古賀峯一]](海軍少将、海兵34期)
**第七戦隊参謀:[[富岡定俊]](海軍中佐、海兵45期)
*[[横須賀鎮守府|横須賀鎮守府司令長官]]:[[米内光政]](海軍中将、海兵29期)
*横須賀鎮守府[[参謀長]]:[[井上成美]](海軍少将、海兵37期)
=== 政界 ===
*[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]:[[近衛文麿]]([[公爵]])
*[[立憲政友会]][[総裁]]:[[鈴木喜三郎]]
*[[立憲民政党]]総裁:[[町田忠治]]
=== その他 ===
*[[元老]]:[[西園寺公望]](公爵)
*[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]:[[一木喜徳郎]](男爵)
*[[内大臣府|内大臣]]:[[斎藤實]](海軍大将)
*[[宮内大臣]]:[[湯浅倉平]]
*[[侍従長]]:[[鈴木貫太郎]](海軍大将)
*[[侍従次長]]:[[広幡忠隆]]
*[[侍従武官長]]:[[本庄繁]](陸軍大将)
*[[検事総長]]:[[光行次郎]]
== 事件後に自殺した軍関係者(決起者以外) ==
1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の[[青島健吉]]輜重兵中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された<ref name="wada">[[和田克徳]]『切腹』([[青葉書房]]、1943年9月)。{{Harvnb|20巻|2002|pp=791-792}}</ref>。妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた<ref name="wada"/>。
2月29日朝、[[歩兵第1連隊]]の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。
3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。
3月16日、[[電信第1連隊]]の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で[[カービン|騎銃]]で胸部を撃った。
10月18日、[[三月事件]]や[[十月事件]]にも関与した[[田中彌]]歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた<ref>[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]「真崎大将遺書」『This is 読売』1992年3月号</ref>。田中大尉は十月事件以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた<ref>岩淵辰雄「軍閥の系譜 8」中央公論1946年9月</ref>。
[[歩兵第61連隊]][[中隊長]]であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。部下の[[小隊長]]をしていた[[後宮二郎]]少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長[[後宮淳]]少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した<ref>大久保弘一(元陸軍少佐・陸軍省新聞班員)「兵に告ぐ!」『日本週報』第434号 1958年2月25日発行</ref>{{信頼性要検証|date=2017-06}}。なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。
== 昭和天皇に与えた影響 ==
2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあったと言われている。たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった<ref name="よくわかる_p266">太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.266</ref>。2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の[[香椎浩平]]中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった<ref name="よくわかる_p266"/>。しかし、実際には「同志」の間柄の人々ですら地方から駆けつけてくるようなことは無かったため、{{独自研究範囲|革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったフシがあり、また陸軍大臣らの行動も、単に事態を丸く収めようとしただけであり、反乱に同調していたわけでは無かったと考えられる|date=2023年5月}}。
「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。このように、[[日本軍]]の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。しかしながら、これらは全て[[昭和天皇]]の強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。
これについて、蹶起将校の一人である[[磯部浅一]]は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、[[神]]も[[仏]]もないものかと思い、神仏を恨みました」<ref>太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年)p.154</ref>。[[ロシア革命]]は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、[[ロシア帝国]]最後の皇帝[[ニコライ2世]]は、一家ともども[[ロマノフ家の処刑|虐殺]]された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、皇室がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。<!--
【西園寺公望が2.26事件の天皇の行動に関して諫言したというのは誤り。そのような事実は存在しない。】また、西園寺公望から諌言された事もショックだったようで、その後は「君臨すれど統治せず」の態度を徹底するようになった。日米開戦を承諾し、戦局が悪化し[[高松宮宣仁]]親王らが和平を主張しても曖昧な態度に終始したのも、これが原因であったと言われる
(最終的には[[聖断]]により[[ポツダム宣言]]受諾し[[玉音放送]]となった)。-->
もともと[[大日本帝国憲法]]下では、天皇は[[輔弼]]する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「[[イギリスの政治#国家元首|君臨すれども統治せず]]」の[[君主]]像を叩き込まれていた([[張作霖爆殺事件]]の処理に関して、[[内閣総理大臣]][[田中義一]]を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。二・二六事件は首相不在、[[侍従|侍従長]]不在、[[内大臣府|内大臣]]不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、[[立憲主義]]の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の[[御前会議]]の2つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件も[[鈴木貫太郎]]が関わっている)。
[[画像:List of Ideological Criminal Probation offices in Imperial Japan (思想犯保護観察所一覧、大日本帝国).jpg|thumb|[[思想犯保護観察法]]に基づき設置された思想犯保護観察所の一覧。]]
それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃と[[心的外傷|トラウマ]]は深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の[[卜部亮吾]]に「[[治安]]は何もないか」と尋ねていた<ref>『卜部亮吾侍従日記 第一巻』(朝日新聞社、2007年)p.202</ref>。また、1981年1月17日に現在の[[警視庁本部庁舎]]を視察した際に、[[今泉正隆]]警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と訊ねている<ref>{{Cite web|和書|title=「ヒロヒト、ヒロヒト……」昭和天皇は二・二六事件で何を語ったか(辻田 真佐憲) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/70623 |website=現代ビジネス |access-date=2023-02-24 |language=ja}}</ref>。
== 思想犯保護観察所の設置 ==
[[岡田内閣]]総辞職の後の5月、[[廣田内閣]]は[[思想犯保護観察法]](昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。思想犯保護観察団体には[[全日本仏教会]]なども加わっていた。
== GHQによる調査 ==
[[1945年]](昭和20年)[[12月14日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]]は日本政府に対し二・二六事件をはじめとした、[[1932年]](昭和7年)から[[1940年]](昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を命令した<ref>血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。提出命令に先立ち、同年[[12月6日]]までに[[A級戦犯]]容疑者の逮捕命令が出されていた。
== 題材にした作品 ==
;小説
*[[叛乱 (小説)|叛乱]](1952年、[[立野信之]])
*[[貴族の階段]](1959年、[[武田泰淳]])
*[[憂国|憂國]](1961年、[[三島由紀夫]])
*いやな感じ(1963年、[[高見順]])
*[[宴 (小説)|宴]](1965年、[[利根川裕]])
*[[英霊の声|英霊の聲]](1966年、三島由紀夫)
*[[けんかえれじい]](1966年、[[鈴木隆 (作家)|鈴木隆]])
*落日の門(1993年、[[連城三紀彦]])
*[[蒲生邸事件]](1994年 - 1995年、[[宮部みゆき]])
*邪神たちの2・26(1994年、[[田中文雄]])
*陛下(1996年、[[久世光彦]])
*ねじの回転(2002年、[[恩田陸]])
*[[鷺と雪]](2008年、[[北村薫]])
;戯曲
*叛乱(1953年、[[田中千禾夫]])- 立野信之の同名小説を脚色、[[新国劇]]が明治座にて上演。
*[[十日の菊]](1961年、三島由紀夫)
*貴族の階段(1984年、[[田中千禾夫]])- 武田泰淳の同名小説を[[戯曲]]化。
;映画
*叛乱(1954年、[[新東宝]])- 立野信之の同名小説の映画化。脚本は[[菊島隆三]]。
*[[重臣と青年将校 陸海軍流血史]](1958年、新東宝){{small|※ビデオ題:陸海軍流血史 五・一五から二・二六へ}}
*貴族の階段(1959年、[[大映]])- 武田泰淳の同名小説を映画化。
*[[二・二六事件 脱出]](1962年、[[東映]])
*[[銃殺 2.26の叛乱]](1964年、東映)- 立野信之の小説『叛乱』の映画化。
*[[憂国#映画化|憂國]](1966年、[[アート・シアター・ギルド|ATG]])- 三島由紀夫の同名小説の映画化。
*[[けんかえれじい]](1966年、[[日活]])
*宴(1967年、[[松竹]])- 利根川裕の同名小説の映画化。
*[[日本暗殺秘録]](1969年、東映)
*[[激動の昭和史 軍閥]](1970年、[[東宝]])
*[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]] 第二部 愛と悲しみの山河(1971年、日活)
*[[戒厳令 (1973年の映画)|戒厳令]](1973年、現代映画社 / ATG)
*[[動乱 (映画)|動乱]](1980年、東映 / [[シナノ企画]])
*[[226 (映画)|226]](1989年、フィーチャーフィルムエンタープライズ)
*[[斬殺せよ 切なきもの、それは愛]](1990年、サムエンタープライズグループ)
*[[スパイ・ゾルゲ]](2003年、「スパイ・ゾルゲ」製作委員会)
;テレビドラマ
*宴(1966年11月4日-1967年1月27日、日本テレビ)- 利根川裕の同名小説のドラマ化。
*[[ドキュメンタリードラマ 二・二六事件 目撃者の証言]](1976年3月7日、日本テレビ)
*[[妻たちの二・二六事件]](1976年11月4日-11月25日、NHK)
*[[熱い嵐]](1979年2月26日、TBS)
*[[山河燃ゆ]](1984年、NHK大河ドラマ)
*[[澪つくし]](1985年、[[連続テレビ小説]])
*[[密愛 2.26に散った恋]](1991年2月20日、日本テレビ「水曜グランドロマン」)
*[[蒲生邸事件#テレビドラマ|蒲生邸事件]](1998年11月26日、NHK BS9)- 宮部みゆきの同名小説のドラマ化。
*[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](2019年、NHK大河ドラマ)
;ドキュメンタリー
* [[NHK特集]]「戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」<ref>{{NHK放送史|D0009010235_00000|戒厳指令・・・「交信ヲ傍受セヨ」二・二六事件秘録}}</ref>(1979年、[[日本放送協会|NHK]])
* NHK特集「二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録」<ref>{{NHK放送史|D0009010343_00000|NHK特集 二・二六事件 消された真実 ~陸軍軍法会議秘録~}}</ref>(1988年、NHK)
* [[その時歴史が動いた]]「シリーズ二・二六事件」(全二回)(2001年2月14日・21日、NHK)
** 前編「謎の「大臣告示」」
** 後編「東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜」
* [[BS歴史館]]「徹底検証 二・二六事件~日本をどう変えたのか?~」(2013年2月21日、[[NHK BSプレミアム]])
* [[歴史秘話ヒストリア]]「二・二六事件 奇跡の脱出劇」(2016年2月24日、[[NHK総合テレビジョン]])
* [[NHKスペシャル]]「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」(2019年8月15日、NHK総合テレビジョン)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190829/index_a.html |title=全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/S1OlQ |archivedate=2020-02-23 |accessdate=2021-03-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190829/index_b.html |title=全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【後編】 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/U6zDF |archivedate=2021-03-12 |accessdate=2021-03-12}}</ref>
;バレエ
*M(1993年、音楽[[黛敏郎]]、振付[[モーリス・ベジャール]])
;漫画
* [[血染めの紋章]](原作:[[かわぐちかいじ]] [[芳文社]])
*[[哀国戦争]](原作:[[小池一夫]]、画:[[伊賀和洋]] [[小池書院]])
*[[叛乱! 二・二六事件]]<ref>{{Cite web|和書|title=[全話無料(全24話)] 叛乱! 二・二六事件 {{!}} スキマ {{!}} 無料漫画を読むだけでポイ活ができる |url=https://www.sukima.me/book/title/gomabooks0001015/ |website=www.sukima.me |access-date=2023-07-19}}</ref>(監修:[[石橋恒喜]]、脚本:[[久保田千太郎]]、作画:[[貝塚ひろし]] (1990年 - 1991年、[[小学館]])<ref>{{Cite book |title=叛乱!二・二六事件 : 実録コミックス |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I010251688-00 |publisher=小学館 |date=1990 |first=久保田 |last=千太郎 |first2=貝塚 |last2=ひろし}}</ref> (2008年、[[宙出版]])<ref>{{Cite web|和書|title=叛乱!二・二六事件(上)/貝塚ひろし/宙出版/コミック/まんが王倶楽部 MangaohClub |url=https://www.mangaoh.co.jp/catalog/160808/ |website=www.mangaoh.co.jp |access-date=2023-07-19}}</ref> (2019年、[[ゴマブックス]])<ref>{{Cite book |title=叛乱!二・二六事件 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000098-I000351968-00 |publisher=ゴマブックス |date=2019-02 |location=東京 |first=久保田千太郎 |last=原作 |first2=貝塚ひろし |last2=作画}}</ref><ref>{{Cite book |title=叛乱!二・二六事件 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000098-I000352122-00 |publisher=ゴマブックス |date=2019-02 |location=東京 |first=久保田千太郎 |last=原作 |first2=貝塚ひろし |last2=作画}}</ref>
*[[龍-RON-]](原作:[[村上もとか]] [[小学館]])
*[[二・二六事件 雪降リ止マズ]](監修:[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]]、作画:[[折目朋美]] [[双流社]])
*[[夜叉鴉]](原作:[[荻野真]] [[集英社]])
*[[神軍のカデット]](2016年、[[川端新 (漫画家)|川端新]] [[小学館]])<ref>{{Cite web|和書|title=神軍のカデット 1 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09187665 |website=小学館 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>
*[[昭和天皇物語]](原作:[[半藤一利]]『昭和史』、脚本:[[永福一成]]、監修:[[志波秀宇]]、作画:[[能條純一]] [[小学館]])
;楽曲
*[[日本政変・雪ノサムライ]](作詞・作曲・歌:[[山本正之]])<ref>{{Cite web|和書|title=「日本政変・雪のサムライ/山本正之」の歌詞 って「イイネ!」 |url=https://www.uta-net.com/song/31864/ |website=www.uta-net.com |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>
*[[二月二十六日のタンゴ]] (作曲:[[TSUMUZI]])
;アニメ
*[[閃光のナイトレイド]](TV未放送分)
;ノンフィクション
*[[昭和史発掘]]([[松本清張]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈===
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=== 出典 ===
{{Reflist|25em
|refs=
<ref name="本多全仕事">{{Cite book|和書|editor=竹内博|editor-link=竹内博|title=本多猪四郎全仕事|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=[[ファンタスティックコレクション]]|date=2000-05-01|page=119|chapter=本多猪四郎略年譜|isbn=4-257-03592-7}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
;史料
* {{Cite book| 和書| editor=| translator=| author=沢本孟虎|authorlink=| year=1926| origyear=| title=[{{NDLDC|1017896/94}} 国家総動員の意義]| publisher=青山書院|location =東京| page=|section=| quote=国家総動員準備施設と青少年訓練([[永田鉄山]] 陸軍作戦資材整備会議幹事 陸軍歩兵中佐)| isbn=| ref=harv}}
* {{Cite book| 和書| editor=| translator=| author=帝国弁護士会|authorlink=| year=1934| origyear=| title=正義| publisher=帝国弁護士会編集委員会| location =東京| page=|section=| quote=[[s:華府条約廃止通告に関する声明|華府条約廃止通告に関する声明]]| isbn=| ref=harv}}
* {{Cite book| 和書| editor=| translator=| author=法曹会|authorlink=法曹会| year=1934| origyear=| title=司法資料| publisher=法曹会編集委員会| location =東京| page=|section=| quote=[[s:ナチスの刑法(プロシヤ邦司法大臣の覚書)|ナチスの刑法(プロシヤ邦司法大臣の覚書)]]| isbn=| ref=harv}}
;文献
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
*<!-- イケダ -->池田俊彦『生きている二.二六』([[文藝春秋]] 1977年/[[ちくま文庫]] 2009年)ISBN 4480425721
*<!-- イケダ -->[[池田俊彦 (軍人)|池田俊彦]] 編『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』([[原書房]]、1998年)ISBN 4562030690
*:※元被告の編者により、公判廷での被告23人への訊問および被告陳述の全記録を収録。
*<!-- イソ -->磯直道『二・二六事件 憲兵将校・磯高麿の戒厳令日誌』([[朝日新聞出版]]、2004年)
*:※牛込憲兵隊分隊長の日誌と資料を息子が読み解く。
*<!-- イトウ -->[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]・[[北博昭]] 編『新訂二・二六事件 判決と証拠』([[朝日新聞社]]、1995年)
*:※二・二六事件裁判の正式判決書、校訂を加え、初公刊。
*<!-- イトウ -->伊藤隆ほか『二・二六事件とは何だったのか』([[藤原書店]]、2007年)ISBN 4894345552
*<!-- エヌ -->[[NHK特集]]取材班『[[戒厳]]指令「交信ヲ傍受セヨ」― 二・二六事件秘録』([[日本放送出版協会]]、1980年)
*<!-- オカダ -->{{Citation|和書|last=岡田貞寛|year=1998|title=父と私の二・二六事件 - 昭和史最大のクーデターの真相|publisher=[[潮書房光人社#光人社NF文庫|光人社NF文庫]]}}
*<!-- キタ -->[[北博昭]]『二・二六事件全検証』([[朝日新聞]]社[[[朝日選書]]]、2003年)ISBN 4022598212
*:※「相沢事件判決書」の全文を附録として掲載〔p231〜p271〕と、詳細な「おもな引用・参考文献」表を付載〔p221〜p230〕
** Kita Hiroaki (2003). ''Ni Niroku Jiken Zenkenshō''. ''Asahi Shimbun''.
*<!-- クドウ -->[[工藤美代子]]『昭和維新の朝 ― 二・二六事件と軍師[[斎藤史|斎藤瀏]]』([[日本経済新聞]]出版社 2008年)
*<!-- ケイシチョウ -->{{Citation|和書|editor=警視庁史編さん委員会|year=1962|title=警視庁史 昭和前編|publisher=警視庁|ncid=BN14748807}}
*<!-- コジマ -->[[児島襄]]『天皇 III』([[文春文庫]]/新版 ガゼット出版、2007年)
*<!-- コウノ -->河野司『ある遺族の二・二六事件』(河出書房新社、1982年)
*<!-- サコミズ -->[[迫水久常]]『機関銃下の[[総理官邸]] 二・二六事件から終戦まで』(恒文社、初版1964年/ [[ちくま学芸文庫]]、2011年)、首相秘書官の回想録
*<!-- サワチ -->[[澤地久枝]]『雪はよごれていた ― 昭和史の謎二・二六事件最後の秘録』(日本放送出版協会、1988年)
*<!-- スエマツ -->末松太平『私の昭和史』([[みすず書房]]、1963年、新版1974年/[[中公文庫]] 上下、2013年)、両者は、参加将校による回顧録
**『完本 私の昭和史 二・二六事件異聞』([[中央公論新社]]、2023年、筒井清忠解説)、拾遺八篇と同時代書評を増補
*<!-- スエマツ -->末松太平『軍隊と戦後のなかで─「私の昭和史」拾遺』([[大和書房]]、1980年)
*<!-- スザキ -->[[須崎慎一]]『二・二六事件 ― 青年将校の意識と心理』([[吉川弘文館]]、2003年)ISBN 4642079211
*<!-- タイヘイヨウ -->[[太平洋戦争]]研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』([[PHP文庫]]、2008年)ISBN 4569669883
*<!-- タイヘイヨウ -->太平洋戦争研究会編『図説2・26事件』([[河出書房新社]][ふくろうの本]、2003年)ISBN 4309760260
*<!-- タイヘイヨウ -->太平洋戦争研究会編『2.26事件の衝撃』([[PHP研究所]] 2010年)ISBN 456977640X
*<!-- タカハシ -->[[高橋正衛]]『二・二六事件 ―「[[昭和維新]]」の思想と行動』(中公新書、増補版1994年)ISBN 4121900766
*:※詳細な「参考文献」一覧表を付載〔p207〜p210〕。
*<!-- タカハシ -->高橋正衛『昭和の軍閥』([[中公新書]]/[[講談社学術文庫]] 2003年)
*:※ 著者は[[みすず書房]]の編集者として『現代史資料』や編集、末松の著書を担当。
*<!-- タカマツ -->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第二巻 {{small|昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日}}|publisher=中央公論社|date=1995-06|ISBN=4-12-403392-3|ref=高松宮日記2巻}}
*<!-- タザキ -->田崎末松『評伝 真崎甚三郎』(芙蓉書房、1977年)
*<!-- タタミヤ -->田々宮英太郎『昭和維新 - 二・二六事件と真崎大將』([[サイマル出版会]]、1969年)
*<!-- タタミヤ-->田々宮英太郎『二・二六叛乱』(雄山閣出版、1983年)
*<!-- タタミヤ -->[[田々宮英太郎]]『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』([[雄山閣出版]]、1993年)
*<!-- ツツイ -->[[筒井清忠]]『昭和期日本の構造 ― 二・二六事件とその時代』([[講談社学術文庫]]、1996年/[[ちくま学芸文庫]] 2006年)ISBN 4480090177
*<!-- トコロヤマ --> {{Citation|和書|last=野老山|first=幸風|title=二・二六事件の回想|pages=127-132|journal=自警|volume=56|number=1|publisher=自警会|year=1974|month=01|id={{近代デジタルライブラリー|2706830}}}}
*<!-- ナカタ -->[[中田整一]]『盗聴 ― 二・二六事件』(文藝春秋、2007年/文春文庫、2010年)ISBN 4167773430
*:※ 『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」二・二六事件秘録』の改訂増補版
*<!-- ハタ -->[[秦郁彦]]『[[昭和天皇]] 五つの決断』([[文春文庫]]、1994年)
*<!-- ハタ -->秦郁彦『軍ファシズム運動史』([[原書房]]、増補版1980年)
*<!-- ハマダ -->濱田政彦『神々の軍隊―三島由紀夫、あるいは国際金融資本の闇』(三五館、2000年)
*<!-- ハラ -->原秀男・澤地久枝・匂坂春平 編『検察秘録 二・二六事件』(全4巻、[[角川書店]]、1989〜1991年)
*<!-- ハラ -->原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995年)
*<!-- ハリモト --> {{Citation|和書|last=張本|first=松栄|title=二・二六事件と警視庁|pages=61-63|journal=自警|volume=59|number=2|publisher=自警会|year=1977|month=02|id={{近代デジタルライブラリー|2706867}}}}
*<!-- ヒラツカ -->[[平塚柾緒]]、太平洋戦争研究会編『二・二六事件』([[河出文庫]] 2006年)ISBN 430940782X
* <!-- フジイ -->{{Citation|和書 |last=藤井|first=非三四|authorlink= |year=2007 |title=都道府県別に見た陸軍軍人列伝―西日本編 |publisher=光人社|isbn=978-4769813491}}
*<!-- マエサカ -->[[前坂俊之]]『太平洋戦争と新聞』([[講談社学術文庫]] 2007年)ISBN 9784061598171
*<!-- マツモト -->[[松本清張]]『[[昭和史発掘]]』([[文藝春秋]]、1965年〜1972年)
*{{Citation|和書|date=2002-07|title=決定版 [[三島由紀夫]]全集20巻 短編6|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106425608|ref={{Harvid|20巻|2002}}}}
*<!-- ミヤザキ -->宮崎繁樹 「[https://hdl.handle.net/10291/7845 大日本帝国憲法下における叛乱(二・二六事件)-法律の仮面を被った不法と法律を超える法-]」『法律論叢』80巻 4-5号 2008年 pp.137-193, 明治大学法律研究所, {{ncid|AN00227047}}
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*Shillony, Ben-Ami (1973). ''Revolt in Japan: The Young Officers and the February 26, 1936 Incident''. Princeton University Press.
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*Storry, Richard (1957). ''The Double Patriots: A Study of Japanese Nationalism''. Greenwood Press.
**リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動 昭和帝国のナショナリズム』[[内山秀夫]]訳、[[日本経済評論社]]、2003年
*Yoshii Hiroshi (ed.) (1989). ''Mokugekisha ga Kataru Showa-shi (Vol. 4): 2/26 Jiken''. Shin-Jinbutsuoraisha.
**[[義井博]]編『2・26事件 青年将校の蹶起から鎮圧、処刑まで 目撃者が語る昭和史 第4巻』[[新人物往来社]]、1989年
== 関連項目 ==
{{Commonscat|February 26 Incident}}
*[[清君側]]
*[[五・一五事件]]
*[[血盟団事件]]
*[[神兵隊事件]]
*[[救国埼玉青年挺身隊事件]]
*[[宮城事件]] - [[昭和]]20年(1945年)[[終戦の日|終戦]]の直前に勃発した陸軍によるクーデター未遂事件
*[[三無事件]]
*[[芦原義重|関電二・二六事件]]
*[[恋闕]]
*[[斎藤史]]
*[[第19回衆議院議員総選挙]] - 事件直前の2月20日に投票。岡田内閣の与党だった立憲民政党が第一党となった。
*[[粛軍演説]] - [[斎藤隆夫]]が、事件から二カ月半後に、事件および軍の態度を批判して[[帝国議会]][[衆議院]]で行った演説。
*[[歴史秘話ヒストリア]] - 2016年2月24日放送の『二・二六事件 奇跡の脱出劇』で、岡田首相が官邸襲撃されてから官邸脱出するまでの様子を再現で放送した。
*[[相沢事件]]
*[[柳家小さん (5代目)|柳家小さん]] - 戦後[[人間国宝]]となる。二等兵として従軍
*[[畑和]] - 戦後[[埼玉県知事]]となる。二等兵として従軍
* [[安倍晋三銃撃事件]] - 本事件以降に起きた元首相の暗殺事件
* 極楽大将 - [[大橋ツヨシ]]のマンガ。2.26事件を引用し昔無能と判断された政治家は殺されていたが今の日本は一応平和なので無能でも殺される事はないがもし[[2000年問題]]が実際に起きたら…のストーリーのオチで銃剣を持った将校が小渕を取り囲んでいた。
== 外部リンク ==
* {{NHK放送史|D0009060037_00000|二・二六事件 「兵に告ぐ」}}
* [https://www.youtube.com/watch?v=BKAdbSO6VXo 二・二六事件 - No.ED-002(動画)]・[http://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
* {{Cite web|和書|date=2012-12-20|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/kounotsukasashuushuumonnjo.html|title=河野司収集文書|work=憲政資料室の所蔵資料|publisher=国立国会図書館|accessdate=2013-07-30}} - 自決した河野寿大尉の兄が集めた関係資料
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|二・二六事件/蹶起趣意書|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
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北一輝
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北 一輝(きた いっき、1883年〈明治16年〉4月3日 - 1937年〈昭和12年〉8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。本名は北 輝次郎(きた てるじろう)。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
日蓮宗と労働者の主権、社会主義を結び付けた独特の思想を発表したことで知られる。
1883年(明治16年)4月3日、新潟県加茂郡湊町(現:佐渡市両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。尋常小学校の半ばに右目の眼疾により1年間休学する。
1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に一期生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。「プテレギーム(翼状片)」と診断され、当時の眼科の権威河本重次郎による手術を受けたがよくならなかった。1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。
1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。帰郷中山路を散策した際に木の枝で右目を傷つけてしまい、父親が山林を売り払って治療費を作り、河本博士により再手術を行なったが失明。1903年(明治36年)に父が死去。10月「輝次郎」と改名した。森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)を刊行。自費出版の大著で、河上肇、片山潜、福田徳三の絶賛を受けたという。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。
1911年(明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。これは大隈重信内閣総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げられたもので、日本の対中外交の転換を促しており、第一次世界大戦で日本が対華21カ条要求を中国に認めさせたことを批判している。
1916年(大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。1920年(大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。
1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。
この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。日本帰国後しばらくは貧窮していたとされるが、帰国後すぐに宮中某重大事件に関り、さらに収監中の朴烈・金子文子が便宜を図ってもらい、会わせてもらったとされる写真が流出したという怪写真事件を政治問題化させ倒閣運動を展開した。1926年(大正15年)安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した。同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた。北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。とりわけ三井財閥からとされ、そのため、反乱将校に働きかけて襲撃目標から三井の池田成彬を外させたとも噂された。北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り、「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った。
同年、北海道皇室御料林払下げに宮内省関係者に不正があるとして牧野内大臣の辞職を求めた宮内省怪文書事件に連座し、出版法違反と恐喝の容疑で逮捕。翌1927年(昭和2年)2月の大喪の礼に伴う恩赦には該当しなかったが、同年中に釈放された。
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にもかかわらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。処刑前日、面会に訪れた弟子の馬場園義馬に対して、「日本改造法案大綱」の出版を許可しながらも、「・・・君達はもう一人前になっているのだから、あれを全部信ずる必要は無い。諸君は諸君の魂の上に立って、今後の国家の為に大体ああ云うものを実現する心持で努力すればよろしい」と告げた。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役軍人の西田税らとともに銃殺刑に処された。満54歳没。
辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。
後年白髪で、右目は義眼で、「魔王」とあだ名されたが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。
中国革命家譚人鳳の遺児を養子として引き取る。名を北大輝とし、死後彼に遺書を残す。
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。
日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北は、明治維新後の日本の民主化が進まないことを批判し、その原因を、「維新革命(明治維新)の民主主義」が「無計画の暴発」であったためとした。北は、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によりて一段落を画せられたる、二十三年間の継続運動なりとす」、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったと論じた。
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。
北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。
1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。
また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した。
京都大学名誉教授宮本盛太郎らの研究で、北に二・二六事件への直接の関与はないことが示された。これによれば、北は、計画自体を事前に知っていたこと、首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らに対して時期尚早であると慎重な態度を取っていたが、結局、彼らを説得できなかったこと、この事件を指揮・先導する等の直接関与は行っていなかった。
また、二・二六事件に先立ち、電話で、「マル(金)は大丈夫か」(活動・行動資金は十分か)と、陸軍大尉・安藤輝三へかけた『北の声とされる音声』が、関東戒厳司令部に録音盤(盗聴した音声のレコード)として残されていた。その盗聴された会話の中で、安藤は「(金は)まだ大丈夫です」と返答している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなく、安藤に対し、カマをかけようとした憲兵ではないか、と言われていたが、後に、作家・中田整一(元NHKプロデューサー)の調査によって、この通話は、何者かが北の名を騙(かた)って、安藤にかけたものであることが検証されている。
墓は佐渡市吾潟の勝広寺青山墓地と東京都目黒区の天台宗瀧泉寺(目黒不動尊)墓地にある。
目黒不動尊の境内には、1958年(昭和33年)に建立された「北一輝先生碑」がある。碑文は大川周明による。なお、大川の墓も目黒不動尊墓地にある。
NHK特集 2作品 (プロデューサー中田整一)
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"text": "日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北は、明治維新後の日本の民主化が進まないことを批判し、その原因を、「維新革命(明治維新)の民主主義」が「無計画の暴発」であったためとした。北は、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によりて一段落を画せられたる、二十三年間の継続運動なりとす」、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったと論じた。",
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"text": "法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。",
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"text": "北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。",
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"text": "1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。",
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北 一輝は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。本名は北 輝次郎。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 日蓮宗と労働者の主権、社会主義を結び付けた独特の思想を発表したことで知られる。
|
{{Infobox 革命家
|名前 = {{ruby|北|きた}} {{ruby|一輝|いっき}}
|画像 = [[ファイル:Kita Ikki.jpg|270px|北一輝]]
|説明 =
|生年 = {{生年月日と年齢|1883|4|3|死去}}
|生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]湊町<br />(現在の[[佐渡市]]両津湊)
|没年 = {{死亡年月日と没年齢|1883|4|3|1937|8|19}}
|没地 = {{JPN}}・[[東京府]]
|思想 = [[社会主義]]<br />[[日蓮主義]]<br />[[国家社会主義]]
|活動 = [[大日本帝国憲法]]における[[天皇制]]の批判。中国の[[辛亥革命]]への参加。[[日本改造法案大綱]]で日本の「国家改造」を提唱。[[二・二六事件]]で理論的指導者の一人として、[[銃殺刑]]に処される。
|組織 = [[孫文]]らの[[中国同盟会]]、<br/>辛亥革命に身を投じ、帰国後、<br/>[[満川亀太郎|満川]]らの[[猶存社]]を経て以降、所属なし
|藩 =
|受賞 =
|裁判 = [[二・二六事件]] 背後関係処断<br/>[判決言渡] [[1937年]][[8月14日]]<br/>死刑 [[銃殺刑]]<br/>[ 刑執行 ] 5日後、[[8月19日]]<br/>[ 特設[[軍法会議]] ] 一審制<br/>非公開、弁護人なし、上告不可<br/>国家転覆罪/[[反乱罪|叛乱罪]]<br/>(反乱幇助)
|投獄 =
|刑場 = 東京陸軍刑務所
|記念碑 = [[:ファイル:Memorial February 26.jpg|二・二六事件慰霊碑]]([[渋谷区]])、北一輝先生碑([[目黒区]])
|母校 = 旧制佐渡中学校、[[早稲田大学]]
|信教 = [[日蓮宗]]
|現職 =
|廟 =
|脚注 =
}}
[[File:Kita Ikki.png|thumb|北一輝]]
'''北 一輝'''(きた いっき、[[1883年]]〈[[明治]]16年〉[[4月3日]] - [[1937年]]〈[[昭和]]12年〉[[8月19日]])は、[[戦前]]の[[日本]]の[[思想家]]、[[社会運動|社会運動家]]、[[国家社会主義|国家社会主義者]]。本名は'''北 輝次郎'''(きた てるじろう)。[[二・二六事件]]の[[皇道派]]青年将校の理論的指導者として逮捕され、[[軍法会議]]で死刑判決を受けて刑死した。
[[日蓮正宗|日蓮宗]]と労働者の主権、社会主義を結び付けた独特の思想を発表したことで知られる。
<!--'''[[明治維新]]'''の本義は[[民主主義]]にあると主張し、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]における[[天皇制]]を激しく批判した。すなわち、[[天皇]]の[[国民]]ではなく、国民の天皇であること、これが明治維新による天皇制のあるべき姿だとした。国家体制は、基本的[[人権]]が尊重され、[[言論の自由]]が保証され、[[華族]]や[[貴族院 (日本)|貴族院]]に見られる[[階級]]制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新が本来の目標ではないかと、[[1923年]](大正12年)に「[[日本改造法案大綱]]」を刊行し主張した<ref name="kitakanshi">2013年1月13日放送、NHK「日本人は何を考えてきたのか」第10回「昭和維新の指導者たち ~北一輝と大川周明~」</ref>。しかし、[[内務省 (日本)|内務省]]は、北の考えを危険思想だとして、その著書を発売禁止処分にし、北は要注意人物とされ、[[特別高等警察|特高警察]]の監視対象となった<ref name="kitakanshi" />。テレビは検証可能性無し。検証可能性の「信頼性に乏しい情報源」参照-->
<!--北が、その著書「[[日本改造法案大綱]]」で主張した民主化をはじめとする『国家改造』の実現を生前に見ることはなかったが、8年後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]が、[[軍国主義]]を突き進む日本を[[軍事力|武力]]で倒し、[[連合国軍占領下の日本|占領政策]]を実施した'''[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]'''主導による'''[[日本の戦後改革]]'''を行ったが、その中には北の主張も多く含まれている<ref>北の「[[日本改造法案大綱]]」での下記の要求項目はいずれも戦後実現された。
[[言論の自由]]、基本的[[人権]]尊重、[[華族]]制廃止([[貴族院 (日本)|貴族院]]も廃止)、[[皇室財産]]削減、[[財閥解体]]、[[農地改革]](農地開放)、[[累進課税]]の強化、男女平等・男女政治参画社会の実現(20才以上の[[女性参政権]]獲得)等。</ref>。独自研究。信頼できる情報源による要出典-->
== 生涯 ==
[[1883年]](明治16年)[[4月3日]]、[[新潟県]][[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]湊町(現:[[佐渡市]]両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男'''輝次'''として生まれる。父慶太郎は初代[[両津町|両津町長]]を務めた人物で2歳下の弟は[[衆議院|衆議院議員]]の[[北昤吉]]。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。尋常小学校の半ばに右目の眼疾により1年間休学する<ref>[http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/eng/docs/kss/vol12/vol1205Matsuoka.pdf 北一輝における信仰と社会思想の交渉]松岡幹夫、東京大学大学院『相関社会科学』第12号、2003年3月</ref>。
[[1897年]](明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:[[新潟県立佐渡高等学校|佐渡高校]])に一期生として入学、翌[[1898年]](明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。[[1899年]](明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。「プテレギーム([[翼状片]])」と診断され、当時の眼科の権威[[河本重次郎]]による手術を受けたがよくならなかった<ref name="名前なし-1">「兄北一輝を語る」(外部リンク参照)</ref><ref>『宮崎滔天, 北一輝』中央公論社, 1982、p34</ref>。[[1900年]](明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。
[[1901年]](明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し[[幸徳秋水]]や[[堺利彦]]ら[[平民社]]の運動に関心を持ち、[[社会主義]]思想に接近した。帰郷中山路を散策した際に木の枝で右目を傷つけてしまい、父親が山林を売り払って治療費を作り、河本博士により再手術を行なったが失明<ref name="名前なし-1"/>。[[1903年]](明治36年)に父が死去。10月「'''輝次郎'''」と改名した。[[森知幾]]が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と[[日露戦争|日露開戦]]論、[[国体論]]批判などの論文を発表、国家や[[帝国主義]]に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対[[皇室]]の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟[[北昤吉|れい吉]]が[[早稲田大学]]に入学すると、その後を追うように上京、同大学の[[早稲田大学政治経済学部|政治経済学部]]生となる。[[有賀長雄]]や[[穂積八束]]といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて[[社会科学]]や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。
[[1906年]]([[明治]]39年)に処女作『[[国体論及び純正社会主義]]』(『國體論及び純正社會主義』)を刊行。自費出版の大著で、河上肇、片山潜、福田徳三の絶賛を受けたという<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=二・二六事件裁判の研究 |date=1999-7-12 |publisher=(株)緑蔭書房 |pages=269-270 |author=松本一郎}}</ref>。[[大日本帝国憲法]]における[[天皇制]]を批判したこの本は発売から5日で[[発禁]]処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった<!---この当時はまだ特高警察の前身に当たる特別高等課すら存在しない。--->。内容は[[法学]]・[[哲学]]・[[政治学]]・[[経済学]]・[[生物学]]など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は[[宮崎滔天]]らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、[[中国革命同盟会]]に入党、以後革命運動に身を投じる。
[[1911年]](明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、[[宋教仁]]からの電報により[[黒龍会]]『時事月函』特派員[[記者]]として[[上海市|上海]]に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。[[1913年]](大正2年、中華民国2年)[[3月22日]]、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が[[孫文]]であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事[[有吉明]]に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『[[支那革命外史]]』としてまとめられ出版される。これは[[大隈重信]][[内閣総理大臣]]や政府要人たちへの入説の書として書き上げられたもので、日本の対中外交の転換を促しており、[[第一次世界大戦]]で日本が[[対華21カ条要求]]を中国に認めさせたことを批判している。
[[1916年]](大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある[[日本人]]の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。[[1919年]](大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『[[日本改造法案大綱]]』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。[[1920年]](大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した[[大川周明]]や[[満川亀太郎]]らによって帰国を要請され、[[12月31日]]に清水行之助とともに帰国。
[[1921年]](大正10年)[[1月4日]]から[[猶存社]]の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。[[1923年]](大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、[[二・二六事件]]の首謀者である青年将校の[[村中孝次]]、[[磯部浅一]]、[[栗原安秀]]、[[中橋基明]]らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに[[華族制度]]にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。
この頃東京・[[千駄ヶ谷]]、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。日本帰国後しばらくは貧窮していたとされるが、帰国後すぐに[[宮中某重大事件]]に関り、さらに収監中の朴烈・金子文子が便宜を図ってもらい、会わせてもらったとされる写真が流出したという怪写真事件を政治問題化させ倒閣運動を展開した<ref name=":0" />。[[1926年]](大正15年)[[安田共済事件|安田共済生命事件]]。北の子分の[[清水行之助]]が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した<ref>{{Harvtxt|松本|2010|p=219}}</ref>。同年、北は[[十五銀行]]が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた<ref>{{Harvtxt|松本|2010|p=221}}</ref>。北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。とりわけ三井財閥からとされ、そのため、反乱将校に働きかけて襲撃目標から三井の池田成彬を外させたとも噂された<ref name=":0" />。北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り、「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った<ref>「軍ファシズム運動史」、秦郁彦</ref>。
同年、北海道皇室御料林払下げに宮内省関係者に不正があるとして牧野内大臣の辞職を求めた[[宮内省怪文書事件]]に連座し、[[出版法]]違反と[[恐喝]]の容疑で逮捕。翌[[1927年]](昭和2年)2月の大喪の礼に伴う恩赦には該当しなかった<ref>濃い時制の色、占拠犯罪に広汎な恩赦『東京日日新聞』昭和2年2月7日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p369 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>が、同年中に釈放された。
[[1936年]](昭和11年)二・二六事件で逮捕。[[1937年]](昭和12年)[[8月14日]]、[[民間人]]にもかかわらず、特設[[軍法会議]]で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。処刑前日、面会に訪れた弟子の[[馬場園義馬]]に対して、「日本改造法案大綱」の出版を許可しながらも、「・・・君達はもう一人前になっているのだから、あれを全部信ずる必要は無い。諸君は諸君の魂の上に立って、今後の国家の為に大体ああ云うものを実現する心持で努力すればよろしい」と告げた<ref>北一輝先生の面影、『新勢力』,第10巻第2号,馬場園義馬</ref>。5日後の[[8月19日]]、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役軍人の[[西田税]]らとともに[[銃殺刑]]に処された<ref>北、西田、村中、磯部の死刑執行『東京朝日新聞』昭和12年8月20日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p570 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。{{没年齢2|1883|4|3|1937|8|19}}。
[[辞世]]の句は「若殿に兜とられて負け戦」。
== 人物 ==
後年白髪で、右目は義眼で、「魔王」とあだ名されたが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。
[[ファイル:Memorial February 26.jpg|left|thumb|150px|二・二六事件慰霊碑 (東京都渋谷区[[宇田川町]])]]
中国革命家[[譚人鳳]]の遺児を養子として引き取る。名を[[北大輝]]とし、死後彼に遺書を残す。
== 思想 ==
「'''[[明治維新]]の本義は[[民主主義]]にある'''」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した{{要出典|date=2020年4月30日}}。すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、[[基本的人権]]が尊重され、[[言論の自由]]が保証され、[[華族]]や[[貴族院 (日本)|貴族院]]に見られる[[階級]]制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した{{要出典|date=2020年4月30日}}。
日本を[[社会民主主義]]の国とすることを夢見ていた若い頃の北は、明治維新後の日本の[[民主化]]が進まないことを批判し、その原因を、「維新革命(明治維新)の民主主義」が「無計画の暴発」であったためとした<ref>北一輝著作集1巻、p354.</ref><ref name="ban-kita">[[坂野潤治]]『明治デモクラシー』岩波書店〈岩波新書 新赤版 939〉、2005年3月、p.2-4,199-212</ref>。北は、[[ヨーロッパ]]の革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によりて一段落を画せられたる、二十三年間の継続運動なりとす」<ref>北一輝著作集1巻、p354-5.</ref>、つまり、[[自由民権運動]]の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったと論じた<ref name="ban-kita"/>。
=== 宗教 ===
[[法華経]]読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で[[読経]]していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の[[号 (称号)|号]]を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ[[憑依|神がかり]]([[玉川稲荷]])になったという。
*『北一輝 霊告日記』[[松本健一]] 編 [[第三文明社]] [[1987年]] ISBN 4-476-03127-7
:1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が[[法華経]]読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。
北の[[日蓮]]理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない{{要出典|date=2022年2月}}。
== 評価 ==
[[1906年]](明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として[[大日本帝国憲法]]における[[天皇制]]を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者[[河上肇]]や[[福田徳三]]に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、[[クーデター]]、憲法停止の後、[[戒厳令]]を敷き、強権による[[国家社会主義]]的な政体の導入を主張していた。
ゆえに、北を[[革命家]]と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「[[左翼]]的革命に対抗して[[右翼]]的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている<ref>二・二六事件 憲兵隊調書、『北一輝著作集』第三巻、p.434</ref>。[[花田清輝]]は、北を「[[本塁打|ホームラン]]性の大[[ファール|ファウル]]」と評している。
また[[坂野潤治]]は、「(当時)北だけが歴史論としては'''反天皇制'''で、[[社会民主主義]]を唱えた」と述べ、[[日本人]]は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、[[尊王攘夷]]を思想的基礎としていた[[板垣退助]]や[[中江兆民]]、また天皇制を容認していた[[美濃部達吉]]や[[吉野作造]]と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した<ref>{{Harvtxt|坂野|田原|2006|pp=190-193}}</ref>。
[[京都大学]][[名誉教授]][[宮本盛太郎]]らの研究で、北に二・二六事件への直接の関与はないことが示された。これによれば、北は、計画自体を事前に知っていたこと、首謀者の一人とされた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]少尉の[[西田税]]らに対して時期尚早であると慎重な態度を取っていたが、結局、彼らを説得できなかったこと、この事件を指揮・先導する等の直接関与は行っていなかった<ref name="kita-a">宮本盛太郎著 - 『北一輝研究』(有斐閣、1975年)、『北一輝の人間像 「北日記」を中心に』(有斐閣[有斐閣選書]、1976年)</ref>。
また、二・二六事件に先立ち、電話で、「マル(金)は大丈夫か」(活動・行動資金は十分か)と、陸軍大尉・[[安藤輝三]]<ref>[[二・二六事件]]首謀者の一人とされ昭和11年7月12日死刑となる([[二・二六事件#第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)]]</ref>へかけた『'''北の声とされる音声'''』が、[[関東戒厳司令部]]に録音盤(盗聴した音声の[[レコード]])として残されていた。その盗聴された会話の中で、安藤は「(金は)まだ大丈夫です」と返答している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなく、安藤に対し、カマをかけようとした憲兵ではないか、と言われていたが、後に、作家・[[中田整一]](元[[日本放送協会|NHK]][[テレビプロデューサー|プロデューサー]])の調査によって、この通話は、何者かが北の名を騙(かた)って、安藤にかけたものであることが検証されている<ref name="kita-b">[[中田整一]] 『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋 ISBN 4167773430 初版[[2007年]])を参照。なお、[[1979年]]・[[1988年]]、NHKで放送した中田の”'''[[二・二六事件]]'''2作品”は放送・報道関係の賞を3つ受賞している。([[中田整一#来歴]])([[北一輝#テレビドキュメンタリー作品]])<br />現在、NHKなど放送においても、このレコードの声を、『'''北の声とされる音声'''』と紹介するにとどめ、『北の声』とは断定していない。</ref>。
== 墓所・記念碑 ==
[[File:Kita Ikki Cenotaph at Meguro Fudo Temple.jpg|thumb|150px|北一輝先生碑(東京都目黒区)]]
墓は佐渡市吾潟の[[勝広寺 (佐渡市)|勝広寺]]青山墓地<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.visitsado.com/spot/detail0060/ |title=北一輝の墓 |author= |date= |work= |publisher=一般社団法人 佐渡観光交流機構 |accessdate=2019年9月14日 }}</ref>と東京都目黒区の[[天台宗]][[瀧泉寺]](目黒不動尊)墓地<ref name="uozumi20160703">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/49018 |title=岸信介は革命家・北一輝にここまで傾倒していた〜「国家改造」をめぐる思想の融合 |author=[[魚住昭]] |date=2016年7月3日 |work= |publisher=講談社 |accessdate=2019年9月14日 }}</ref>にある。
目黒不動尊の境内には、[[1958年]](昭和33年)に建立された「北一輝先生碑」がある。碑文は大川周明による。なお、大川の墓も目黒不動尊墓地にある<ref name="uozumi20160703" />。
== 著作史料 ==
*『北一輝著作集』、※のち各巻とも、増補改訂した新版(オンデマンド版)が刊
:第1巻 [[神島二郎]]解説、[[みすず書房]]、1959年3月。ISBN 4-622-02021-1
::「国体論及び純正社会主義」―正式表記は「國體論及び純正社會主義」
:第2巻 野村浩一・[[今井清一]]解説、みすず書房、1959年7月。ISBN 4-622-02022-X
::「支那革命外史」「国家(國家)改造案原理大綱」「日本改造法案大綱」
:第3巻 [[松本健一]]・高橋正衛編・解説、[[澤地久枝]]解説、みすず書房、1972年4月。ISBN 4-622-02023-8
::「論文・詩歌・書簡」
*『北一輝思想集成』 [[書肆心水]]、2005年8月。増補新版 2015年5月。ISBN 4-906917-41-0
:「自己を語る」「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」「対外論策篇 ヴェルサイユ会議に対する最高判決」「『支那革命外史』序」「[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]君に訓ふる公開状」「対外国策に関する建白書」「日米合同対支財団の提議」「遺書・絶筆」
*『アジア主義者たちの声 (中)』、書肆心水 2008年。他は[[宮崎滔天]]、[[萱野長知]]
:「支那革命外史 抄」
*『アジア主義者たちの声 (下)』、書肆心水 2008年。他は[[大川周明]]、[[満川亀太郎]]
:「二・二六事件調書」「『日本改造法案大綱』序文」「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」「緒言」「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」「ヨッフェ君に訓うる公開状」
*『日本改造法案大綱』 中央公論新社〈中公文庫〉、2014年11月。ISBN 4-12-206044-3
*『支那革命外史 <small>抄</small>』 [[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]BIBLIO〉、2001年8月
*『国体論及び純正社会主義 ほか』 [[保坂正康]]解説、中央公論新社〈[[中公クラシックス]]〉、2008年。ISBN 978-4-12-160105-6
:「国体論及び純正社会主義 (抄)」「国民対皇室の歴史的観察-所謂国体論の打破」「自殺と暗殺」「支那革命外史(抄)」「書簡」。
::元版『[[日本の名著]]45 宮崎滔天 北一輝』([[近藤秀樹]]責任編集、中央公論社、1982年)、のち中公バックス
*『国体論及び純正社会主義 自筆修正版』 [[長谷川雄一]]/クリストファー・W.A.スピルマン/萩原稔編、[[ミネルヴァ書房]]、2007年。
*『満川亀太郎書簡集―北一輝・大川周明・西田税らの書簡』 長谷川雄一/今津敏晃/クリストファー・W.A.スピルマン編、論創社、2012年。
*「支那革命外史(全)」 呉PASS出版 2016年。
*「国体論及び純正社会主義(全)」 呉PASS出版 2016年。
== 登場作品 ==
*[[手塚治虫]]『[[一輝まんだら]]』講談社「漫画全集」ほか
*[[別役実]]『戒厳令 -伝説・北一輝-』、角川書店、1973年10月。
*[[村上もとか]]『[[龍-RON-]]』[[小学館]]
=== 映画 ===
*『[[戒厳令 (1973年の映画)|戒厳令]]』、監督:[[吉田喜重]]、主演(北一輝役):[[三國連太郎]]。1973年。
*『[[けんかえれじい]]』、監督:[[鈴木清順]]、主演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]、北一輝役:[[緑川宏]]。1966年。
=== テレビドキュメンタリー作品 ===
[[NHKスペシャル|NHK特集]] 2作品 ([[テレビプロデューサー|プロデューサー]][[中田整一]])
*戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」〜二・二六事件秘録([[1979年]][[2月26日]]) ― 「[[放送文化基金]]本賞」 受賞
*二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録([[1988年]][[2月21日]]) ― 「[[日本新聞協会]]賞」・「[[放送文化基金]]個人賞」 受賞
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*<div id="kita"></div>[[北昤吉]]『[https://web.archive.org/web/20180502090756/http://www.shiro1000.jp/tau-history/reikichi/1951/9.pdf 小川平吉翁の回顧]』。[[政教社]]『[[日本及日本人]]』2(3)、p.55~66。1951年3月。
*{{Cite book|和書|author=中田整一|authorlink=中田整一|date=2007-02-10|title=盗聴 二・二六事件|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-368860-2|ref={{Harvid|中田|2007}}}}
**{{Cite book|和書|author=中田整一|date=2010-02-10|title=盗聴 二・二六事件|series=文春文庫 な61-1|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-777343-4|ref={{Harvid|中田|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=坂野潤治|authorlink=坂野潤治|coauthors=[[田原総一朗]]|year=2006|month=4|title=大日本帝国の民主主義 嘘ばかり教えられてきた!|publisher=小学館|isbn=4-09-389242-3|ref={{Harvid|坂野|田原|2006}}}}
*{{Cite book|和書|author=松本清張|authorlink=松本清張|year=1976|title=北一輝論|publisher=講談社|ref={{Harvid|松本|1976}}}}
**{{Cite book|和書|author=松本清張|year=1978|month=1|title=北一輝論|series=[[講談社文庫]]|publisher=講談社|isbn=978-4-06-131532-7|ref={{Harvid|松本|1978}}}}
**{{Cite book|和書|author=松本清張|date=2010-02-09|title=北一輝論|series=ちくま文庫|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-42682-6|ref={{Harvid|松本|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=宮本盛太郎|authorlink=宮本盛太郎|year=1975|month=3|title=北一輝研究|publisher=有斐閣|ref={{Harvid|宮本|1975}}}}
**{{Cite book|和書|author=宮本盛太郎|year=2003|month=2|title=北一輝研究|edition=オンデマンド版|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-90298-5|ref={{Harvid|宮本|2003}}}}
*{{Cite book|和書|author=宮本盛太郎|year=1976|title=北一輝の人間像 「北日記」を中心に|series=有斐閣選書|publisher=有斐閣|ref={{Harvid|宮本|1976}}}}
== 関連文献 ==
<!--著者五十音順-->
*稲邊小二郎『一輝と昤吉 北兄弟の相克』、新潟日報事業社、2002年6月。ISBN 4-88862-912-9
*G・M・ウィルソン『北一輝と日本の近代』岡本幸治訳、勁草書房、1971年12月(George Macklin Wilson, ''Radical Nationalist in Japan: Kita Ikki, 1883-1937'', Harvard University Press, 1969年)
*臼井裕之「北一輝の<エスペラント採用論>に見る近代日本の<英語問題><国語問題>」、日本コミュニケーション学会『スピーチ・コミュニケーション教育』第20号、2007年3月。
*臼井裕之「ナショナリストが〈国際〉を求めるとき-北一輝によるエスペラント採用論の事例から-」『社会言語学』第7号、2007年11月。
*臼井裕之「北一輝のエスペラント採用論-その源泉と実践、そして展望」、日本エスペラント学会『エスペラント研究』第3号、2008年10月。
*臼井裕之「北一輝によるエスペラント採用論という『逆説』~『超国家主義者』はなぜ日本語死滅を唱えたのか?」『中外日報』2010年6月5日号、6月8日号、6月10日号、6月12日号。
*岡崎正道「魔王の相貌」、『異端と反逆の思想史-近代日本における革命と維新』に所収、(ぺりかん社、1999年1月)
*岡本幸治『北一輝-転換期の思想構造』 ([[ミネルヴァ書房]]「Minerva21世紀ライブラリー」、1996年1月)
*岡本幸治『北一輝 日本の魂のドン底から覆へす』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2010年8月
*嘉戸一将『北一輝-国家と進化 再発見日本の哲学』([[講談社]]、2009年7月)。ISBN 406-2787598
*加藤繁『北一輝 前史/その不思議な目と霊告日記』、加藤繁と北一輝出版会、1993年11月。
*川合貞吉『北一輝』 新人物往来社、1972年12月。
*[[木村時夫]]『北一輝と二・二六事件の陰謀』 恒文社、1996年2月。ISBN 4-7704-0867-6
*粂康弘『北一輝 -ある純正社会主義者-』 三一書房、1998年9月。ISBN 4-380-98305-6
*黄自進「北一輝の辛亥革命・五四運動観-[[吉野作造]]との対比を中心に」、東京外国語大学『クヴァドランテ(''Quadrante'')』第1号、1999年3月。
*後藤信夫『魔王曼陀羅 昭和史の彗星・北一輝』 [[文芸社]]、2008年1月。
*小西豊治『石川啄木と北一輝』[[御茶の水書房]]、1987年4月。ISBN 4-275-00737-9
*[[佐藤美奈子 (政治学者)|佐藤美奈子]]「「忠君」から「愛国」へ-北一輝の進化論」、東京大学大学院『相関社会科学』第8号、1999年3月。
*佐藤美奈子「「東洋」の出現-北一輝『支那革命外史』の一考察」、政治思想学会『政治思想研究』第1号、2001年5月。
*佐藤美奈子「北一輝の「日本」-『国家改造案原理大綱』における進化論理解の変転」、『日本思想史学』第34号、2002年9月。
*清水元『北一輝 もう一つの「明治国家」を求めて』日本経済評論社「評伝日本の経済思想」、2012年8月
*志村正昭「「佐渡が島のぼんやり」から「富豪革命家」へ-岩崎革也宛北一輝書簡にみられる借金懇願の論理と心理」、石塚正英編『二〇世紀の悪党列伝』(『社会思想史の窓』第123号)、社会評論社、2000年8月。ISBN 4-7845-0328-5
*ベン=アミ・シロニー『日本の叛乱 -青年将校たちと二・二六事件』 河野司 訳、河出書房新社、1975年2月。(Ben=Ami Sillony,"REVOLT IN JAPAN -The Young Officers and The February 26,1936 Incident",1973 by Princeton University Press)
*高橋康雄『北一輝と法華経』 第三文明社〈レグルス文庫〉、1976年12月。
*[[滝村隆一]]『北一輝-日本の国家社会主義』、勁草書房、1973年5月 ISBN 4326150203
*[[田々宮英太郎]] 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 [[雄山閣出版]] 1993年「北一輝の思想と青年将校 – 決起の背景にある“精神”のつながり」「考証・北一輝の檄文 – 異本発見とメモ書きの謎」「北一輝と出口王仁三郎 – 隠された巨頭会談」
*[[田中惣五郎]]『日本ファッシズムの源流 -北一輝の思想と生涯-』白揚社 1949年
*[[田中惣五郎]]『北一輝-日本的ファシストの象徴』増補版、三一書房、1971年1月。
*田中真人・山泉進・志村正昭「岩崎革也宛書簡(一)-幸徳秋水(その1)・北一輝・大石誠之助・森近運平・石川三四郎・西川光次郎・西川文子・赤羽一・座間止水・一木幸之助・前田英吉・丹後平民倶楽部」、同志社大学『キリスト教社会問題研究』第54号、2005年12月。※史料紹介
*[[竹山護夫]]『北一輝の研究』名著刊行会「歴史学叢書」、2005年1月。ISBN 4-8390-0325-4
*[[利根川裕]]『革命の使者 北 一輝 近代人物叢書』、人物往来社、1967年9月。
*利根川裕 編・解説『現代のエスプリNO.76 北一輝』、至文堂、1973年11月。
*[[豊田穣]]『革命家・北一輝 -「日本改造法案大綱」と昭和維新-』、講談社、1991年12月。ISBN 4-06-205618-6
*[[野口武彦]]『三島由紀夫と北一輝』、福村出版、1985年10月。
*萩原稔「北一輝における「アジア主義」の源流-初期論説を中心に」、『同志社法学』第53巻第3号(通巻279号)、2001年9月。
*萩原稔『北一輝の「革命」と「アジア」』、ミネルヴァ書房、2011年1月。ISBN 978-4-623-05863-1
*長谷川義記『北一輝』(『紀伊國屋新書』B-36)、紀伊國屋書店、1969年9月。
*藤本眞悟「北一輝の政治思想(I)-国体論の一考察」、『政治経済史学』第385号、1998年9月。
*藤本眞悟「北一輝の政治思想(II)-国体論の一考察」、『政治経済史学』第386号、1998年10月。
*古谷綱正 解説『北一輝「日本改造法案」』、鱒書房、1971年2月。
*松岡幹夫「北一輝における信仰と社会思想の交渉-ファシズムと宗教の関係を考察する手がかりとして」、東京大学大学院『相関社会科学』第12号、2003年3月。
*[[松本健一]]『北一輝論』、[[講談社学術文庫]]、1996年2月。ISBN 4-06-159214-9
*松本健一『若き北一輝』(『評伝北一輝』1)、岩波書店、2004年1月。ISBN 4-00-026476-1
*松本健一『明治国体論に抗して』(『評伝北一輝』2)、岩波書店、2004年2月。ISBN 4-00-026477-X
*松本健一『中国ナショナリズムのただなかへ』(『評伝北一輝』3)、岩波書店、2004年3月。ISBN 4-00-026478-8
*松本健一『二・二六事件へ』(『評伝北一輝』4)、岩波書店、2004年6月。ISBN 4-00-026479-6
*松本健一『北一輝伝説』(『評伝北一輝』5)、岩波書店、2004年9月。ISBN 4-00-026480-X
**各巻とも[[中公文庫]]で新版再刊、2014年
*松本健一ほか『北一輝の革命』、現代書館、2008年10月。ISBN 978-4-7684-0103-3。入門書
*宮川悌二郎『北一輝のこころ』、大東塾出版部、1975年11月。
*[[村上一郎]]『北一輝論』、三一書房、1970年2月。
*矢部俊彦『蹶起前夜』、田畑書店、1982年10月。
*矢部俊彦『二・二六 天皇裕仁と北一輝』、元就出版社。2000年2月。ISBN 4-906631-47-9
*山本修之助『佐渡の百年』、佐渡郷土文化の会、1972年6月。
*[[渡辺京二]]『北一輝』、朝日新聞社〈朝日選書〉、1985年/[[ちくま学芸文庫]] 2007年。ISBN 978-4-480-09046-1
*佐渡歴史文化シリーズIV『北一輝と佐渡』、中村書店、1984年12月。ISBN 4-930692-04-0
== 関連項目 ==
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*[[革新官僚]]
*[[北昤吉]]
*[[国体論及び純正社会主義]]
*[[国家社会主義]]
*[[社会主義]]
*[[辛亥革命]]、[[孫文]]、[[中国革命同盟会]]、[[宋教仁]]、[[宮崎滔天]]
*[[戦後恐慌]]
*[[大日本帝国憲法]](明治憲法)、[[天皇制]]
*[[超国家主義]]
*[[内務省 (日本)|内務省]]、[[特別高等警察]]
*[[中田整一]]
*[[二・二六事件]]、[[軍法会議]]、[[西田税]]、[[磯部浅一]]、[[村中孝次]]
*[[日蓮主義]]
*[[日本改造法案大綱]]
*[[法華経]]
*[[真崎甚三郎]]、[[皇道派]]
*[[猶存社]]、[[満川亀太郎]]、[[大川周明]]
*[[陸軍]]、[[石原莞爾]]、[[梅津美治郎]]
*[[連合国 (第二次世界大戦)]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)]]
*[[連合国軍占領下の日本]]、[[日本の戦後改革]]、[[日本国憲法]](昭和憲法)
*[[老壮会]]<!--関連が少ないようでしたら削除して下さい。より重要なものもあると思います-->
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
<!--*{{Yahoo!百科事典|北一輝|author=[[大野達三]]}}-->
*{{Kotobank|北一輝|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}
* {{青空文庫著作者|89}}
*[https://web.archive.org/web/20070926235859/http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&REFCODE=A04010502600 国立公文書館所蔵:内務省警保局『著書より見たる北一輝の思想』]<!--ネット環境によっては見られません。-->
*[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001012465-00 支那革命外史 増補版] - [[国立国会図書館]]オンライン(デジタルコレクション)
*[http://www.msz.co.jp/book/author/14237.html 北一輝:みすず書房]
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046880/131 兄北一輝を語る]北昤吉、『思想と生活』(日本書荘, 1937)
{{226}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きた いつき}}<!--カテゴリの50音順-->
[[Category:刑死した日本の人物]]
[[Category:十月事件の人物]]
[[Category:昭和維新]]
[[Category:辛亥革命の人物]]
[[Category:隻眼の人物]]
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[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]]
[[Category:日本の国家社会主義者]]
[[Category:日本の政治運動家]]
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[[Category:1937年没]]
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インフォシーク
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インフォシーク (英: Infoseek) は、日米のインフォシーク社、および同社が運営していたポータルサイト。
後にアメリカ法人はウォルト・ディズニー・カンパニーに買収され、同社のポータルサイトgo.comとなった。日本法人は楽天に買収・合併され、現在は楽天が「Infoseek」ブランドで運営している。
2020年12月12日現在のアレクサランキングでの順位は、世界7153位、日本国内919位となっている。
など。
インフォシークのイメージキャラクターとして2000年のTVCFに登場した、インフォシークマークの覆面を被った細身の弱々しいレスラー。演じていたのはお笑いコンビ「アンタッチャブル」の柴田英嗣。
TVCFは前後編の構成であり、前編ではロッカールームで「インフォシーク...インフォシーク...」と自己暗示をかけた後、「ヤッホー」と叫ぶ筋骨隆々の外国人レスラーに「今に目にもの見せてやるぜ!」と勇んで挑みかかるも、後編では一方的な攻撃を受けいとも簡単に捻じ伏せられてしまい、その様子を観戦していた肥満気味の少年が「インフォ...シーク...」と涙声で応援するという自虐的なCMであった。
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インフォシーク は、日米のインフォシーク社、および同社が運営していたポータルサイト。 後にアメリカ法人はウォルト・ディズニー・カンパニーに買収され、同社のポータルサイトgo.comとなった。日本法人は楽天に買収・合併され、現在は楽天が「Infoseek」ブランドで運営している。 2020年12月12日現在のアレクサランキングでの順位は、世界7153位、日本国内919位となっている。
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'''インフォシーク''' ({{lang-en-short|Infoseek}}) は、日米のインフォシーク社、および同社が運営していた[[ポータルサイト]]。
後にアメリカ法人は[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]に買収され、同社のポータルサイト[[go.com]]となった。日本法人は[[楽天グループ|楽天]]に買収・合併され、現在は楽天が「'''Infoseek'''」ブランドで運営している。
2020年12月12日現在の[[アレクサ・インターネット|アレクサランキング]]での順位は、世界7153位、日本国内919位となっている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.alexa.com/siteinfo/infoseek.co.jp|title=infoseek.co.jp Competitive Analysis, Marketing Mix and Traffic - Alexa|accessdate=2020年12月12日|publisher=[[Alexa Internet]]|authorlink=アレクサ・インターネット}}</ref>
==主なサービス==
*[[検索エンジン]]<br>2010年11月現在、ウェブ自然文検索は[[Google]]に切り替えられた。以前は[[インクトミ|Inktomi]]を使用していた。それ以前にはGoogle、さらに過去にはInktomiと変遷を重ねている。
*[[ニュース]](Infoseek ニュース)
*テレビ番組表(Infoseek テレビ番組表)<br>2010年10月より休止中
*[[ブログ]]([[楽天ブログ]])
*[[辞書]](Infoseek マルチ辞書)<br>現在は[[コトバンク]]から供給を受けている。2020年12月14日サービス終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://plaza.rakuten.co.jp/usersupport/diary/202010190000/|title=「Infoseek」一部サービス終了のお知らせ(11/2追記)|date=2020-10-19|accessdate=2020-11-06}}</ref>。
*[[翻訳]](Infoseek マルチ翻訳)<br>テキスト翻訳は、英語・韓国語・中国語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語を日本語に、逆に日本語を各言語に翻訳する以外に[[関西弁]]に翻訳する機能も持つ。翻訳エンジンは[[Cross Language]]を採用。2020年12月14日サービス終了。
*[[地図]](Infoseek 地図)
*路線情報(Infoseek 乗換案内)<br>乗車駅から下車駅までの経路、所要時間、運賃の検索や時刻表検索、終電の検索が行える。
*[[Webメール]](Infoseek メール)<br>2014年4月9日新規メールアドレス取得終了。2014年8月1日[[マイクロソフト]]に運営を移管。「[[Outlook.com]]」にて既存ユーザーへのサービスを継続。
*[[ホスティングサーバ]]([[infoseek isweb]])<br>2010年から2012年にかけて順次サービス終了
*[[動画]](楽天無料動画)<br>[[楽天イーグルスTV]]、楽天ランキングTV、楽天TVショッピングなどが配信されている。楽天イーグルスTVは、2005年は有料だったが2006年以降は無料になっている。
*[[インターネットオークション]]([[楽天オークション]])<br>2016年サービス終了
*[[求人]](楽天仕事市場)<br>転職、紹介、アルバイト、派遣の総合求人サイト。
など。
==歴史(日本法人)==
*1996年 - [[デジタルガレージ]]が米国インフォシーク社と業務提携し、日本での事業を開始。
*1998年11月 - 日本法人としてインフォシークジャパン株式会社を設立。
*1999年6月 - 米インフォシーク社はデジタルガレージとの契約を解消し、新たに米国本社100%子会社として株式会社インフォシークを設立<ref>{{Cite web|和書|date=1999-06-29 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0629/infoseek.htm |title=米Infoseek社、日本法人「株式会社インフォシーク」設立 |publisher=INTERNET Watch |accessdate=2012-09-06}}</ref>。
*2000年12月 - 日本法人が楽天に買収され、同社の100%子会社となる<ref>{{Cite web|和書|date=2000-11-30 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2000/1130/info.htm |title=楽天がインフォシークを買収、100%子会社化 |publisher=INTERNET Watch |accessdate=2012-09-06}}</ref>。
*2001年7月 - トライネット(後の[[平成電電]])の無料ウェブサイトホスティングサービス"freeweb"を買収、「infoseek isweb」としてサービスを開始。
*2002年10月 - 無料ウェブサイトホスティングサービス事業の株式会社フープス([[サイバーエージェント]]と[[オン・ザ・エッヂ]]の共同設立会社)を買収し、iswebに併合する。
*2003年9月 - [[ライコス]](日本法人)とともに親会社の楽天に吸収合併される。ポータルサイトはinfoseekブランドで継続。
==ザ・インフォシーク==
インフォシークのイメージキャラクターとして2000年のTVCFに登場した、インフォシークマークの覆面を被った細身の弱々しいレスラー。演じていたのはお笑いコンビ「[[アンタッチャブル (お笑いコンビ)|アンタッチャブル]]」の[[柴田英嗣]]。
TVCFは前後編の構成であり、前編ではロッカールームで「インフォシーク…インフォシーク…」と自己暗示をかけた後、「[[Yahoo!|ヤッホー]]」と叫ぶ筋骨隆々の外国人レスラーに「今に目にもの見せてやるぜ!」と勇んで挑みかかるも、後編では一方的な攻撃を受けいとも簡単に捻じ伏せられてしまい、その様子を観戦していた肥満気味の少年が「インフォ…シーク…」と涙声で応援するという自虐的なCMであった。
==脚注==
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==外部リンク==
*{{Official website|1=https://www.infoseek.co.jp/|2=Rakuten Infoseek}}
*{{Kotobank|Infoseek|ASCII.jpデジタル用語辞典}}
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軽車両
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軽車両(けいしゃりょう)とは、日本の法令の用語で、原則として原動機を持たない車両の総称である。
運転にあたり運転免許は不要だが、自動車などと同様の交通規則が定められており、違反を取り締まられた場合には交通切符(赤切符)が交付される。なお、軽自動車には「軽」の文字が含まれるが、軽自動車は軽車両ではなく自動車に分類される。
道路交通法の一部を改正する法律(令和4年法律第32号)による定義
すなわち、道路運送車両法(道路運送車両の保安基準を含む)においては、二輪の自転車(側車付きを除く)、四輪自転車(四輪以上含む)に対する規制は存在しない。牛そり、犬ぞり、牛馬も同様。(つまり、道路運送車両法令についてはこれらは規制対象外)。
一方、道路法とその法令においては「自転車」の定義文言は無いが、同法令内における「軽車両」は「道路交通法に規定する軽車両」とされている。よって、道路法と道路標識等における軽車両、自転車の扱いは道路交通法に準ずる。
軽車両は従来原動機を用いないものである事が大前提であったが、道路交通法の一部を改正する法律(令和元年法律第20号)改正施行により、下記の一定の条件を全て満たすものに限り軽車両とみなすこととなった。
ある程度大型の電動荷車・電動リヤカー、電動(アシスト)人力車等を想定しており、また速度は人間の歩行を大きく超えないものと想定される。軽車両扱いであるため、後述のとおり歩道は原則として通行禁止である。
なお、一定の基準(詳細は歩行補助車を参照)を満たす、電動のものである、シルバーカー、四輪歩行器(四輪歩行車) 、歩行器、小児用の車(一般的な構造の乳幼児用の手押し車、乳母車、ベビーカー、大型乳母車(お散歩カー)、避難車など)、ショッピング・カート、キャリーカート、トロリーバッグ、トロリーケース、長さ190cm以下、幅60cm以下の比較的小型の台車などは、これとは異なり歩行補助車扱いとなるため、上記改正および上記規定には依らず歩行者扱いとなる。
具体的には道路交通法上、以下のようなもののことをいう。なお、本章において道路運送車両法上の軽車両の定義に該当するものは太字とする(道路運送車両法上は特に法令上明確な規定がある訳ではなく、前掲参照)。
以下は道路交通法にて歩行者の扱いとなる。
二輪若しくは三輪の自転車(これらの車両で側車付きのもの及び他の車両を牽引しているものを除く)を押して歩いている場合は、道路交通法上歩行者の扱いとなる。ただし、これ以外のもの、例えば人が牛馬を引いている場合や、人力車、荷車などはは、歩行者の扱いにはならない(前述の歩行補助車に該当する場合を除く)。
以上の歩行者扱いになる場合であっても、「行列」(道路交通法第11条)を形成する場合は別の扱いになる。詳細は歩行者参照。
次は、本項目における分類に関し、どの種別に該当するかが曖昧であるため法令上の扱いは一意に定まらない。
下記に該当するものは「ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為」として、「交通のひんぱんな道路」における使用が禁止されている(道路交通法76条4項3号)。違反すると5万円の罰金に処される。「ひんぱん」の基準に関しては明確な基準はないが、凡そ他の歩行者や車両等との交通の危険が生じうる程度の交通量がある場所と解される。
但し、以上に限定されない。また、これらのうち電動機や内燃機関付きのものは、原則として原動機付自転車または自動車扱いとなる。詳細は、当該原則および例外も含めて「原動機付自転車#電動の小型車両等に対する規制」を参照。
ただし、前述「原動機を用いる軽車両」を満たす電動のものは軽車両扱いとなる。また、そのうち、歩行補助車等としての一定の基準を満たすものは、歩行者扱いとなる。
車両法上の軽車両(前述「軽車両の例」に列挙した太字のもの)に対する同法の規制は以下のとおりである。ただし、車両法における定義は厳密ではない。
いずれも空車状態。
軽車両は、自動車、原動機付自転車、トロリーバスとともに、道路交通法では「車両」に含まれ、車両通行帯の設けられていない道路(歩道や路側帯と車道の区別のある道路においては、車道)ではその左側端に寄って、車両通行帯の設けられた道路では最も左の車両通行帯(第一通行帯)を通行しなければならない。
路線バス等優先通行帯、路線バス専用通行帯、普通自転車専用通行帯その他の専用通行帯がある場合にも、全ての形態の自転車を含む全ての軽車両は最も左の車両通行帯(第一通行帯)を通行する。なお、最も左の車両通行帯(第一通行帯)が「普通自転車専用通行帯」の場合も、全自転車を含め全軽車両はそこを通行する事になる。なお「車両通行区分」「特定の種類の車両の通行区分」の場合はその分類に従う。
軽車両のうち二輪若しくは三輪の普通自転車(サイドカー付きのもの及びサイクルトレーラーを除く)については歩道通行の例外が適用される。
これら以外の軽車両(普通自転車以外の自転車、四輪以上の自転車、自転車以外の軽車両、サイドカー付きの自転車またはサイクルトレーラー)、普通自転車で他の車両(リヤカーなど)を牽引した場合は、自動車等と同様に、道路外出入り等のための横断等の例外を除いては、歩道を通行できない。 その為、運送会社や酒屋などが配達などのため、自転車でリヤカーを牽引しながら歩道を通行するのは厳密には交通違反になる。
自転車道がある場合には、二輪若しくは三輪の普通自転車(サイドカー付きのもの及びサイクルトレーラーを除く)は原則としてそこを通行しなければならない。
普通自転車以外の二輪若しくは三輪の自転車(サイドカー付きのもの及びサイクルトレーラーを除く)は、自転車道を通行できる。
上記以外の軽車両(四輪以上の自転車、自転車以外の軽車両、サイドカー付きの自転車またはサイクルトレーラー)は自動車等と同様に、道路外出入り等のための横断等の例外を除いては自転車道を通行できない。
路側帯がある場合には、軽車両は道路左側部分にある路側帯も通行することができるが、歩行者の通行を妨げないような速度と方法で進行しなければならない。(自転車を含めて軽車両は、逆走になるので、道路右側部分にある路側帯は通行できない)
二重白線で区画される歩行者専用路側帯は、道路外出入り等のための横断等の例外を除いて通行できない。
交差点を右折する場合及び道路外へ出入りするために右折する場合は道路交通法第34条第3項に「あらかじめその前からできる限り道路の左側端に寄り、かつ、交差点の側端に沿つて徐行しなければならない」と規定されており、二段階右折をしなければならない。
同じく二段階右折が規定されている原動機付自転車では交通整理の有無等の一定の条件下において義務付けられているが、軽車両は右折する場合には常に二段階右折をしなければならない。また進行方向別通行区分が指定されている交差点を左折、直進又は右折する場合にも、道路交通法第35条第1項の但し書きにより軽車両は除外されており、最も左側の車両通行帯をあらかじめ通行しなければならない。
自転車も含めて軽車両は並進してはならない(追越しなどの一時的並進を除く)
(以下すべて東京都の場合)
軽車両のうち二輪または三輪の自転車に該当するものについては、詳細は「日本の自転車#公道を走る際の必要装備」参照のこと。
重量は、車両重量を含まない。
寸法制限
方法制限
軽車両は、交通の頻繁な道路においては、他の車両を牽引してはならない(サイクルトレーラーもこれに含まれる)
ただし、堅ろうで運行に十分耐える牽引装置で自転車がリヤカーをけん引する場合はこの限りでない。
「道路運送車両法に基づく規制」も参照。
自転車に該当する軽車両は、制動装置(ブレーキ)、警音器などにつき交通法の規制が掛かる。詳細は「日本の自転車#公道を走る際の必要装備」参照。
前照灯、尾灯、反射器材についての規制は、自転車と同様であり次の通り。(東京都の場合)
尾灯は、次の反射器材を備える場合には不要である。
前述のとおり、尾灯と反射器材は、どちらか一方があれば良い(両方あっても良い)。なお、他の車両に牽引される場合には前照灯が、他の車両を牽引する場合には尾灯が不要となる。
荷車(ショッピングカート等の軽車両でないものを除く)、人力車、そり、牛車、馬車なども夜間は灯火や反射器財類が必要である。ただし牛および馬(人が引いており、または騎乗しているもの)は夜間でも不要。
有料道路の通行料金において、「軽車両等」の車種には、自転車などの軽車両のほかに、普通自動二輪車に該当する車両のうち総排気量125cc以下の二輪車(道路運送車両法における「原動機付自転車」に該当する車両)と、原動機付自転車(総排気量50cc以下の二輪車等)も含まれている。なお、道路交通法においては普通自動車に該当するミニカーも、道路運送車両法においては「原動機付自転車」に該当する。
高速道路、有料道路に関わらず、当該道路を通行できるかどうかは「自動車専用」の道路標識(この場合、車両法において原動機付自転車扱いとなる50cc以下の二輪等とミニカーは通行できない)や、個別の通行止めの道路標識により規制されるのが通例である。
よって、通行料金に「軽車両等」が表示されているからと言って、軽車両(または車両法上の原動機付自転車)が通行できることを示すことにはならない。
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"text": "有料道路の通行料金において、「軽車両等」の車種には、自転車などの軽車両のほかに、普通自動二輪車に該当する車両のうち総排気量125cc以下の二輪車(道路運送車両法における「原動機付自転車」に該当する車両)と、原動機付自転車(総排気量50cc以下の二輪車等)も含まれている。なお、道路交通法においては普通自動車に該当するミニカーも、道路運送車両法においては「原動機付自転車」に該当する。",
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軽車両(けいしゃりょう)とは、日本の法令の用語で、原則として原動機を持たない車両の総称である。 運転にあたり運転免許は不要だが、自動車などと同様の交通規則が定められており、違反を取り締まられた場合には交通切符(赤切符)が交付される。なお、軽自動車には「軽」の文字が含まれるが、軽自動車は軽車両ではなく自動車に分類される。
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{{混同|軽自動車}}<!--編集上の注意 law.e-govへの各条項号への直接リンクが無効になりました。直接○法○条○項○号と文章で明記する必要あり。e-govへの直リンクは望ましくない。-->
{{law}}
'''軽車両'''(けいしゃりょう)とは、日本の法令の用語で、原則として[[原動機]]を持たない[[車両]]の総称である。
運転にあたり[[運転免許]]は不要だが、[[自動車]]などと同様の交通規則が定められており、違反を取り締まられた場合には[[交通反則通告制度#告知|交通切符]](赤切符)が交付される。なお、[[軽自動車]]には「軽」の文字が含まれるが、軽自動車は軽車両ではなく自動車に分類される。
== 定義 ==
<!-- ここの部分が多くの記述の出典となるので、要出典などを貼る前に、よく熟読されたい -->
道路交通法の一部を改正する法律(令和4年法律第32号)による定義
; [[道路交通法]]第2条第1項第11号
: 次に掲げるものであって[[移動用小型車]]、身体障害者用の車及び[[歩行補助車]]等以外のものをいう{{refnest|group=注|道路交通法の一部を改正する法律(令和元年法律第20号)による改正では『次に掲げるものであって身体障害者用の車椅子及び歩行補助車等以外のもの』の旨の定義であった<ref>{{Cite web|和書|title=法律|警察庁Webサイト|url=https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/houritsu.html|website=警察庁Webサイト|accessdate=2023-08-16|language=ja}}</ref>。}}{{refnest|group=注|道路交通法の一部を改正する法律(令和元年法律第20号)改正施行以前は『[[自転車]]、[[荷車]]その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつ[[レール]]によらないで運転する車([[ソリ|そり]]及び牛馬を含む。)であつて、[[身体障害者]]用の[[車椅子|車いす]]、[[歩行補助車]]等及び[[小児用の車]]以外のもの』の旨の定義であった<ref>{{Cite web|和書|title=法律|警察庁Webサイト|url=https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/houritsu.html|website=警察庁Webサイト|accessdate=2020-01-29|language=ja}}</ref>。}}<ref group="注">なお、なお、これらの定義に該当する車両であっても、遠隔操作により操縦するもの、または衝突安全防止機能等(衝突安全防止機能の動作により車両の運転を自動的に制御する機能)を動作させる車両は、軽車両には該当しない(令和4年法律第32号改正法における、同号の詳細括弧書き)</ref>
::イ [[自転車]]、[[荷車]]その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつ[[レール]]によらないで運転する車([[ソリ|そり]]及び牛馬を含み、小児用の車を除く。){{refnest|group=注|道路交通法の一部を改正する法律(令和4年法律第32号)による改正で、イ号からは[[小児用の車]]が除外される事が明記された。<ref>{{Cite web|和書|title=法律|警察庁Webサイト|url=https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/houritsu.html|website=警察庁Webサイト|accessdate=2023-08-16|language=ja}}</ref>。}}
::ロ 原動機を用い、かつ、レール又は架線によらないで運転する車であって、車体の大きさ及び構造を勘案してイに準ずるものとして内閣府令で定めるもの (「[[軽車両#原動機を用いる軽車両|原動機を用いる軽車両]]」参照)
; [[道路運送車両法]]第2条第4項
: 人力若しくは畜力により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条若しくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具であつて、政令で定めるもの
; 道路運送車両法施行令第1条(道路運送車両法第2条第4項にいう政令)
: [[馬車]]、[[牛車]]、[[馬そり]]、荷車、[[人力車]]、[[三輪車|'''三輪自転車''']]('''[[サイドカー|側車]]付の'''二輪自転車を含む。)及び[[リヤカー]]
すなわち、[[道路運送車両法]](道路運送車両の保安基準を含む)においては、'''二輪'''の[[自転車]](側車付きを除く)、[[四輪自転車|'''四輪'''自転車]](四輪以上含む)に対する規制は存在しない。牛そり、犬ぞり、牛馬も同様。(つまり、道路運送車両法令についてはこれらは規制対象外)。
一方、[[道路法]]とその法令においては「自転車」の定義文言は無いが、同法令内における「軽車両」は「道路交通法に規定する軽車両」とされている。よって、道路法と道路標識等における軽車両、自転車の扱いは道路交通法に準ずる。
{{Anchors|原動機を用いる軽車両}}
=== 原動機を用いる軽車両 ===
軽車両は従来原動機を用いないものである事が大前提であったが、道路交通法の一部を改正する法律([[令和元年]]法律第20号)改正施行により、下記の一定の条件を全て満たすものに限り'''軽車両とみなす'''こととなった<ref>{{Cite web|和書|title=法律|警察庁Webサイト|url=https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/houritsu.html|website=警察庁Webサイト|accessdate=2020-01-29|language=ja}}</ref><ref>改正道路交通法施行規則第1条の2の2</ref>。
* 車長 4.0m以下
* 車幅 2.0m以下
* 高さ 3.0m以下
* 原動機は、電動機(モーター)であること
* 運転者が歩行しながら運転するものであること(運転者が乗車等をしない、荷台のような態様と想定される。また、貨物用および乗用の両方が想定される)
* 運転者が車から離れた場合原動機が停止すること
ある程度大型の電動荷車・電動リヤカー、電動(アシスト)人力車等を想定しており、また速度は人間の歩行を大きく超えないものと想定される<ref>令和元年9月19日庁内各局部課長警察庁交通局長・道路交通法の一部を改正する法律の施行に伴う交通警察の運営について(通達) https://www.npa.go.jp/laws/notification/koutuu/kouki/291030/7.pdf</ref>。軽車両扱いであるため、後述のとおり歩道は原則として通行禁止である。
{{See also|歩行補助車}}
なお、一定の基準(詳細は[[歩行補助車]]を参照)を満たす、電動のものである、シルバーカー、四輪歩行器(四輪歩行車) 、歩行器、小児用の車(一般的な構造の乳幼児用の手押し車、乳母車、ベビーカー、大型乳母車(お散歩カー)、避難車など)、ショッピング・カート、[[キャリーカート]]、[[トロリーバッグ]]、トロリーケース、長さ190cm以下、幅60cm以下の比較的小型の'''[[台車]]'''<ref name=":0" group="注">他の歩行者の通行を妨げるおそれのないものとして、歩きながら用いるものであること。なおかつ、[[普通自転車]]の乗車装置(幼児用座席を除く。)を使用することができないようにした車であって、通行させる者が乗車することができないもの、または、その他の車で、通行させる者が乗車することができないものに限る。</ref>などは、これとは異なり[[歩行補助車]]扱いとなるため、上記改正および上記規定には依らず'''歩行者扱い'''となる。
== 道路交通法上の扱い ==
=== 軽車両の例 ===
具体的には道路交通法上、以下のようなもののことをいう。なお、''本章において''道路運送車両法上の軽車両の定義に該当するものは'''太字'''とする(道路運送車両法上は特に法令上明確な規定がある訳ではなく、前掲参照)。
* [[日本の自転車|'''自転車''']] ([[#定義|定義]]も参照のこと)
** 但し、[[小児用の車#警察庁の見解|警察庁の見解]]によれば、次の条件を全て満たすものは、[[小児用の車]]に分類され歩行者扱いとなるが、判例では否定的見解もある。
*** 小学校入学前まで(6歳未満)の者が乗車している自転車
*** 車体が6歳未満の者が乗車する程度の大きさ(車輪がおおむね16インチ以下)
*** 走行、制動操作が簡単で、速度が毎時4ないし8キロメートル程度のもの
* '''[[タンデム自転車]]'''(ただし、全長190センチメートルを超え、成年者二人乗りができるため''[[普通自転車]]ではない''<ref>道路交通法施行規則第9条の2の2</ref>)
* '''[[荷車]]'''([[#定義|定義]]、および[[#定義上曖昧なもの|定義上曖昧なもの]]参照)
** 手押しの'''[[台車]]'''、'''[[手押し車|猫車]]'''、'''[[大八車]]'''、'''[[リヤカー]]'''など、相当程度の重量物を運搬できるもの
*** 東京都では、荷台面積が1.65平米を超えるものを'''大車'''としている(積載重量制限の関係)。
** ただし、後述の「歩行補助車等」に該当するものは、歩行者扱い。
* '''[[人力車]]'''
* '''[[橇|そり]]'''([[#定義|定義]]も参照。なお、牛そり、'''[[馬橇|馬そり]]'''、[[犬ぞり]]など[[使役動物]]に牽引されるものを含む)
* [[ウシ|牛]]および[[ウマ|馬]](人が引いており、または騎乗しているもの)
** 牛馬以外の動物は軽車両に該当しない。ただし、[[水牛]]、[[ロバ]]や[[ラバ|騾馬]]については不詳。
** 「[[ゾウ|象]]、[[キリン|きりん]]その他大きな動物をひいている者」は「[[車道]]を通行すべき[[歩行者|行列]]」に該当する。
* 祭りの[[山車]](車輪を備えるもの)<ref>{{Cite web|和書|author=福島県市民交通災害共済組合|coauthors=|url=http://www.fksm.jp/kotu/?page_id=358|title=事故に関する疑問|accessdate=2019-07-14}}</ref>
* '''[[牛車]]'''、'''[[馬車]]'''、その他動物に牽引される車両
** 動物種に限定はないので[[水牛]]、[[ロバ]]、[[ラバ|騾馬]]や犬などによる牽引も含まれる。
** なお、レールによる[[馬車鉄道]]等は[[路面電車]]の扱いとなる<ref>{{Cite web|和書|title=道路交通法(昭和三十五年法律第百五号)第二条十一項 軽車両
|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335AC0000000105#22
|website=[[e-Gov法令検索]]
|publisher=[[総務省行政管理局]]
|date=2019-06-19
|quote=令和元年政令第三十一号改正、2019年7月1日施行分|accessdate=2020-01-21}}</ref>
* 他の車両に牽引される「被牽引車([[トレーラー]])」('''※''')
** トレーラーが[[自動車]]または[[原動機付自転車]]に牽引されている場合は、交通方法(道路交通法第3章)の適用上、その牽引する自動車等の一部とされるが、単独に切り離されている状態では、軽車両の扱いとなる。
** ('''※''')トレーラーの道路運送車両法令での扱いは、交通法とは異なり、牽引・単独切離し状態とは無関係に、[[車格]]と牽引側(親車)の組合せに基いて、自動車または付随車に分類される。
=== 軽車両でないもの ===<!--この見出しは多数の項目からリンクされているので安易に変更しないでください-->
以下は道路交通法にて[[歩行者]]の扱いとなる。
* [[車椅子|車いす]]
** [[シニアカー]] - 大型の電動式車椅子のうち法令を満たす規格のもの
* 歩行補助車等
**[[歩行補助車]]
***[[シルバーカー]] - 高齢者向けの[[手押し車]]であって、荷物の運搬を主眼とするもの
***[[四輪歩行器]]([[四輪歩行車]]) - 高齢者向けの手押し車であって、歩行の補助を主眼とするもの
*** [[歩行器]] - 乳幼児用、リハビリ用、介護用などの医療用具類。
** 小児用の車
*** 一般的な構造の乳母車、ベビーカー、'''大型[[乳母車]]'''('''お散歩カー''')、'''避難車'''
*** 乳幼児用の[[手押し車]] - 荷物運搬用と言うよりは、乳幼児の玩具的性格の方が強いもの
*** 小児用[[三輪車]]、小児用四輪車、小児用[[自転車]]の一部であって、通達や判例により「小児用の車」とされたもの
** [[ショッピングカート|'''ショッピング・カート''']]
**'''[[キャリーカート]]'''(買い物以外の空港などにおける手荷物用の台車で、ショッピングカートに類するもの。また、車輪が付いた小型の荷物運搬用のシャシで、搬送台車とは言えないものも含む。)
**[[トロリーバッグ]]、トロリーケース
**長さ190cm以下、幅60cm以下の比較的小型の'''[[荷車]]'''や'''[[台車]]'''<ref name=":0" group="注" />
* [[輿]] (みこし) - [[山車]](だし)は軽車両扱い。祭礼時は、一般的に[[歩行者|行列]](法第11条)または[[歩行者天国]]等による[[歩行者]]規制の適用除外となる。
二輪若しくは三輪の自転車(これらの車両で側車付きのもの及び他の車両を牽引しているものを除く)を押して歩いている場合は、道路交通法上[[歩行者]]の扱いとなる<ref name=":1">道路交通法2条3項1号</ref>。ただし、これ以外のもの、例えば人が牛馬を引いている場合や、人力車、荷車などはは、歩行者の扱いにはならない(前述の歩行補助車に該当する場合を除く)<ref name=":1" />。
以上の歩行者扱いになる場合であっても、「行列」(道路交通法第11条)を形成する場合は別の扱いになる。詳細は[[歩行者]]参照。
==== 定義上曖昧なもの ====
次は、本項目における分類に関し、どの種別に該当するかが曖昧であるため法令上の扱いは一意に定まらない。
* [[手押し車]]
* [[荷車]] - [[ショッピングカート]]やキャリーカート等(前記)は歩行者扱い
{{anchors|軽車両ではなく遊具とされるもの}}
=== 軽車両ではなく遊具とされるもの ===
<!--この見出しは多数の項目からリンクされているので安易に変更しないでください-->
下記に該当するものは「ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為」として、「交通のひんぱんな道路」における使用が禁止されている(道路交通法76条4項3号)。違反すると''5万円の[[罰金]]''に処される<ref>道路交通法第百二十条第一項第九号</ref>。「ひんぱん」の基準に関しては明確な基準はないが、凡そ他の歩行者や車両等との交通の危険が生じうる程度の交通量がある場所と解される。
* [[一輪車]]
* [[ローラースケート]]
* [[スケートボード]]<ref>朝日新聞デジタル:繁華街でスケボー、4人検挙 道交法違反容疑 大阪 – 社会 [http://www.asahi.com/national/update/0831/OSK201308310005.html ソース] [https://web.archive.org/web/20130901164520/http://www.asahi.com/national/update/0831/OSK201308310005.html アーカイブ]</ref><ref>{{Cite news|title=車道でスケートボード 道交法違反で摘発 {{!}} レスポンス(Response.jp)|url=https://response.jp/article/2006/08/15/84968.html|accessdate=2018-11-11|language=ja|work=レスポンス(Response.jp)}}</ref><ref>{{Cite news|title=車道でスケートボード 道交法違反で摘発 {{!}} レスポンス(Response.jp)|url=https://response.jp/article/2006/08/15/84968.html|accessdate=2018-11-11|language=ja|work=レスポンス(Response.jp)}}</ref><ref>{{Cite news|title=車道をスケートボードで走行していた男性、ひき逃げされて重傷 {{!}} レスポンス(Response.jp)|url=https://response.jp/article/2018/05/10/309519.html|accessdate=2018-11-11|language=ja|work=レスポンス(Response.jp)}}</ref>
* [[スケートサイクル]]
* [[キックボード]]
* [[キックスケーター]]
但し、以上に限定されない。また、これらのうち[[電動機]]や[[内燃機関]]付きのものは、原則として[[原動機付自転車]]または[[自動車]]扱いとなる。詳細は、当該原則および例外も含めて「[[原動機付自転車#電動の小型車両等に対する規制]]」を参照。
ただし、前述「[[軽車両#原動機を用いる軽車両|原動機を用いる軽車両]]」を満たす電動のものは軽車両扱いとなる。また、そのうち、[[歩行補助車]]等としての一定の基準を満たすものは、歩行者扱いとなる<ref group="注">これら遊具とされるもののほか、従前までの例に列挙した軽車両についても、同様である。</ref>。
== 道路運送車両法に基づく規制 ==
[[道路運送車両法|車両法]]上の'''軽車両'''(前述「[[#軽車両の例|軽車両の例]]」に列挙した'''太字'''のもの)に対する同法の規制は以下のとおりである。ただし、車両法における定義は厳密ではない。
=== 寸法 ===
いずれも空車状態<ref>道路運送車両の保安基準68条</ref>。
* 人力によるもの(自転車も含む)は、長さ4.0m以下、幅2.0m、高さ3.0m
* 畜力によるものは、長さ12.0m以下、幅2.5m、高さ3.5m
=== その他 ===
* '''乗用'''[[馬車]]、乗用[[牛車]]、乗用[[馬そり]]、[[人力車]]、乗用[[三輪車|三輪自転車]]([[サイドカー|側車]]付の乗用二輪自転車を含む。)及び乗用の[[リヤカー]]
** これらは、適当なブレーキを備えなければならない(人力車を除く)<ref name=":0" />。ただし、性能ほか詳細基準は、車両法では規定されていない。([[自転車]]に該当する場合は交通法により規定がある、後述)
** これらは、安全な乗車を確保することができ、かつ、適当な座席、警音器を備えなければならない<ref name=":0">[[道路運送車両の保安基準]]第七十条から第七十二条まで</ref>。なお、性能ほか詳細基準については、軽車両に係る「道路運送車両の保安基準の細目を定める告示」が制定されていないと推定される<ref name=":0" />。
* 上の二者以外のもの(例として、'''貨物用'''の軽車両全般や、構造や形態が一輪トレーラー、一輪自転車、一輪車、二輪自転車(側車付きを除く)、[[四輪自転車|四輪以上の自転車]]であるもの)
** [[道路運送車両法|車両法]]に基づくブレーキ、座席、警音器の規制はない([[道路交通法|交通法]]の規制は後述)。
== 通行方法など ==
=== 通行車線 ===
軽車両は、[[自動車]]、[[原動機付自転車]]、[[トロリーバス]]とともに、道路交通法では「[[車両]]」に含まれ<ref>道路交通法2条1項8号</ref>、[[車両通行帯]]の設けられていない[[道路]]([[歩道]]や[[路側帯]]と[[車道]]の区別のある道路においては、車道)ではその左側端に寄って<ref name=":2">道路交通法17条1項</ref><ref>道路交通法18条</ref>、[[車両通行帯]]の設けられた道路では最も左の車両通行帯('''第一通行帯''')を通行しなければならない<ref name=":2" /><ref>道路交通法20条1項本文</ref>。
[[車両通行帯|路線バス等優先通行帯]]、路線バス専用通行帯、[[普通自転車専用通行帯]]その他の専用通行帯がある場合にも、全ての形態の自転車を含む全ての軽車両は最も左の車両通行帯('''第一通行帯''')を通行する<ref name=":3">[[道路標識、区画線及び道路標示に関する命令]]各条</ref>。なお、最も左の車両通行帯(第一通行帯)が「'''普通自転車専用'''通行帯」の場合も、全自転車を含め全軽車両はそこを通行する事になる<ref name=":3" />。なお「[[車両通行帯|車両通行区分]]」「[[車両通行帯|特定の種類の車両の通行区分]]」の場合はその分類に従う<ref name=":3" />。
=== 歩道通行 ===
軽車両のうち二輪若しくは三輪の'''[[普通自転車]]'''([[サイドカー]]付きのもの及び[[サイクルトレーラー]]を除く)については[[自転車歩行者道#自転車の通行方法|歩道通行の例外]]が適用される。
* [[自転車歩行者道#自転車の通行方法|歩道通行の例外]]とは、[[普通自転車]]([[サイドカー]]付きのもの及び[[サイクルトレーラー]]を除く)が、[[自転車歩行者道#普通自転車通行指定部分|歩道上の自転車レーン]]を通行する場合や、運転者が12歳以下の子供、高齢者・障害者であったり、「車道等の状況に照らして自転車の通行の安全を確保するため、歩道を通行することがやむを得ないと認められる」場合に、歩道を徐行ないし通行することである。
*例外により歩道を通行する場合、次を遵守しなければいけない。<ref>{{Cite web|和書|title=自転車も歩道を走っていいの? 通行が認められる4つのケースとは|url=https://trafficnews.jp/post/77050|website=乗りものニュース|accessdate=2020-01-26|language=ja}}</ref>
** 歩道の中央から車道寄りの部分を徐行する。
*** ただし、歩道に[[道路標示]]「普通自転車の歩道通行部分(114の3)」がある場合には、その部分を通行しまたは通行しようとする歩行者がいない場合に限り、「安全な速度と方法で」通行できる<ref>道路交通法第63条の4第2項</ref>
** 歩行者の通行を妨げるようなときは、'''自転車が'''一時停止する。
これら'''以外'''の軽車両([[普通自転車]]以外の自転車、[[四輪自転車|四輪以上の自転車]]、自転車以外の軽車両、[[サイドカー]]付きの自転車または[[サイクルトレーラー]])、[[普通自転車]]で他の車両(リヤカーなど)を牽引した場合は、自動車等と同様に、道路外出入り等のための横断等の例外を除いては、歩道を通行できない。
その為、運送会社や酒屋などが配達などのため、自転車でリヤカーを牽引しながら歩道を通行するのは厳密には交通違反になる。
=== 自転車道 ===
[[自転車道]]がある場合には、二輪若しくは三輪の'''[[普通自転車]]'''([[サイドカー]]付きのもの及び[[サイクルトレーラー]]を除く)は原則としてそこを通行しなければならない<ref>道路交通法63条の3</ref>。
普通自転車'''以外'''の二輪若しくは三輪の'''自転車'''([[サイドカー]]付きのもの及び[[サイクルトレーラー]]を除く)は、自転車道を通行できる<ref name=":4">道路交通法17条3項</ref>。
上記'''以外'''の軽車両([[四輪自転車|四輪以上の自転車]]、自転車以外の軽車両、[[サイドカー]]付きの自転車または[[サイクルトレーラー]])は自動車等と同様に、道路外出入り等のための横断等の例外を除いては自転車道を通行できない<ref name=":4" />。
=== 路側帯 ===
[[路側帯]]がある場合には、軽車両は'''道路左側部分にある'''[[路側帯]]<ref name="cycleleft">改正道路交通法(平成25年12月1日施行)17条の2第1項</ref>も通行することができるが、[[歩行者]]の通行を妨げないような速度と方法で進行しなければならない<ref>道路交通法17条の2第2項</ref>。(自転車を含めて軽車両は、'''逆走'''になるので、'''道路右側部分にある[[路側帯]]は通行できない'''<ref name="cycleleft" /><ref>道路交通法17条4項</ref>)
二重白線で区画される'''歩行者専用路側帯'''は、道路外出入り等のための横断等の例外を除いて通行できない<ref name="cycleleft" />。
=== 右左折 ===
交差点を右折する場合及び道路外へ出入りするために右折する場合は道路交通法第34条第3項に「あらかじめその前からできる限り道路の左側端に寄り、かつ、交差点の側端に沿つて徐行しなければならない」と規定されており、[[二段階右折]]をしなければならない。
同じく二段階右折が規定されている原動機付自転車では交通整理の有無等の一定の条件下において義務付けられているが、軽車両は右折する場合には'''常に'''二段階右折をしなければならない。また[[車両通行帯|進行方向別通行区分]]が指定されている交差点を左折、直進又は右折する場合にも、道路交通法第35条第1項の但し書きにより軽車両は除外されており、最も左側の車両通行帯をあらかじめ通行しなければならない<ref group="注">信号機等は遵守しなければならない。また、軽車両と二段階右折をする原動機付自転車は、右折しようとする時、青色の右矢印の信号機では交差点に進入できない(停止しなければならない)。</ref>。
=== その他 ===
自転車も含めて軽車両は並進してはならない(追越しなどの一時的並進を除く)<ref>道路交通法19条</ref>
=== 道路標識 ===
<gallery>
File:Japan road sign 301.svg|歩行者を含めた全交通が通行止め。
File:Japan road sign 302.svg|車両通行止め。(「軽車両を除く」と書かれていない限り、軽車両にも適用される。)
ファイル:Japan road sign 303.svg|車両進入禁止。(同上)
File:Japan road sign 309.svg|自転車通行止め
File:Japan road sign 308.svg|自転車以外の軽車両通行止め
ファイル:Japan road sign 325-2.svg|自転車専用。(普通自転車以外の車(軽車両を含む)及び歩行者の通行禁止。)
ファイル:Japan road sign 325-3.svg|自転車及び歩行者専用。(普通自転車以外の車(軽車両を含む)の通行禁止。)
ファイル:Japan road sign 325-4.svg|歩行者専用。(軽車両を含む全ての車の通行禁止。)
</gallery>
== 乗車、積載および牽引の制限 ==
(以下すべて'''東京都の場合''')<ref name=":5">東京都道路交通規則</ref>
=== 乗車 ===
軽車両のうち二輪または三輪の自転車に該当するものについては、詳細は「[[日本の自転車|日本の自転車#公道を走る際の必要装備]]」参照のこと。
* 二輪または三輪の自転車以外の軽車両([[サイクルトレーラー|トレーラー]]を含む)については、乗車装置に応じた人員を超えて乗車させないこと(16歳以上の運転者が幼児1人を子守バンド等で確実に背負つている場合の当該幼児は当該16歳以上の運転者の一部とみなす)
=== 積載 ===
重量は、[[車両重量]]を含まない。
* 4輪の[[牛車]]、[[馬車]](他の動物種による場合は不明、以下同じ)は、重量2,000kg以下、2輪の牛馬車は1,500kg以下。
* 大車(荷台の面積が1.65平米以上の[[荷車]])は、750kg以下。
* 牛馬車および大車以外の[[荷車]]は、450kg以下。
* 軽車両でリヤカーをけん引する場合のリヤカーは、120kg以下。
* 荷台等のある自転車は、30kg以下。
寸法制限
* 荷台等のある自転車の場合、長さは荷台等の長さに0.3mを加えたもの以下。幅は、荷台等の幅に0.3mを加えたもの以下。高さは、積載した状態で2.0m以下。
* 牛馬車の場合、長さは荷台等の長さに0.6mを加えたもの以下。幅は、荷台等の幅に0.3mを加えたもの以下。高さは、積載した状態で3.0m以下。
* 大車の場合、長さは荷台等の長さに0.6mを加えたもの以下。幅は、荷台等の幅に0.3mを加えたもの以下。高さは、積載した状態で2.0m以下。
* 牛馬車および大車以外の[[荷車]]の場合、幅は、荷台等の幅に0.3mを加えたもの以下。高さは、積載した状態で2.0m以下。
方法制限
* 荷台等のある自転車の場合、荷台等から前後にはみ出した部分の合計が0.3m以下のこと、左右にはみ出した部分が0.15m以下のこと。
* 牛馬車の場合、荷台および座席から前後にはみ出した部分の合計が0.6m以下のこと、左右にはみ出した部分が0.15m以下のこと。
* 大車および[[荷車]]の場合、荷台等から左右にはみ出した部分が0.15m以下のこと。
=== 牽引 ===
軽車両は、交通の頻繁な道路においては、他の車両を牽引してはならない([[サイクルトレーラー]]もこれに含まれる)
ただし、堅ろうで運行に十分耐える牽引装置で自転車がリヤカーをけん引する場合はこの限りでない。
== 灯火・安全装備==
=== 安全装備===
「[[#道路運送車両法に基づく規制|道路運送車両法に基づく規制]]」も参照。
自転車に該当する軽車両は、制動装置(ブレーキ)、警音器などにつき交通法の規制が掛かる。詳細は「[[日本の自転車#公道を走る際の必要装備]]」参照。
=== 灯火 ===
前照灯、尾灯、反射器材についての規制は、[[日本の自転車|自転車]]と同様であり次の通り。('''東京都の場合<ref name=":5" />''')
* 前照灯 … 白色又は淡黄色で、前方10mの距離にある障害物を確認できる光度のあるもの
* 尾灯 … 赤色で、夜間に後方100mの距離から点灯を容易に確認できる光度にあるもの
尾灯は、次の反射器材を備える場合には不要である。
* 赤色又は橙色で、夜間に後方100mの距離から前照灯の反射光が容易に確認できるもの
* 後面の幅が0.5メートル以上の自転車・軽車両にあつては、両側にそれぞれ1個以上(計2個以上)備えること
前述のとおり、尾灯と反射器材は、どちらか一方があれば良い(両方あっても良い)。なお、他の車両に牽引される場合には前照灯が、他の車両を牽引する場合には尾灯が不要となる。
荷車(ショッピングカート等の軽車両でないものを除く)、人力車、そり、牛車、馬車なども'''夜間は'''灯火や反射器財類が必要である。ただし牛および馬(人が引いており、または騎乗しているもの)は夜間でも不要。
== 有料道路における「軽車両等」の車種の扱いについて ==
[[有料道路]]の通行料金において、「軽車両'''等'''」の車種には、自転車などの軽車両のほかに、[[普通自動二輪車|普通自動二輪車に該当する車両]][[小型自動二輪車|のうち総排気量125cc以下]][[オートバイ|の二輪車]]<ref group="注">ただし、[[普通自動二輪車|普通自動二輪車に該当する車両]][[小型自動二輪車|のうち総排気量125cc以下]]であっても、[[サイドカー#50㏄超|側車]]([[サイドカー]])[[小型自動二輪車#備考|を備えた車両は]][[検査対象外軽自動車|軽自動車]]に該当するので、当然、通行料金区別は「[[軽自動車#軽二輪|軽自動車等]]」に該当する。</ref>(道路運送車両法における「原動機付自転車」に該当する車両)と、[[原動機付自転車]](総排気量50cc以下の二輪車等)も含まれている。なお、[[道路交通法]]においては[[普通自動車]]に該当する[[ミニカー (車両)|ミニカー]]も、道路運送車両法においては「原動機付自転車」に該当する。
[[日本の高速道路|高速道路]]、有料道路に関わらず、当該道路を通行できるかどうかは「自動車専用」の道路標識(この場合、車両法において原動機付自転車扱いとなる50cc以下の二輪等とミニカーは通行できない)や、個別の[[通行止め]]の道路標識により規制されるのが通例である。
よって、通行料金に「軽車両等」が表示されているからと言って、軽車両(または車両法上の原動機付自転車)が通行できることを示すことにはならない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[パーソナルモビリティ]]
* [[あおり運転]]
== 外部リンク ==
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326M50000800067#D 道路運送車両の保安基準(昭和二十六年運輸省令第六十七号、平成三十年国土交通省令第九十号改正、2019年9月1日施行分)第四章 軽車両の保安基準]
*[https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc_wg/h31_r1/shouchou/20190527_shiryou_s_2_1.pdf 道路交通法における車両区分等について]
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クラブメッド
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クラブメッド(仏: Club Méditerranée、英: Club Med)は、1950年にジェラール・ブリッツ(仏:Gérard Blitz)によって創業された、フランスのパリに本社を置く国際的なバカンス会社。2012年に中国の復星国際に買収された。
旅行代金にホテル施設内の食事やドリンク、プールやリラクゼーション施設の利用料金、マリンスポーツなどのアクティビティー料金がほぼ含まれている「オールインクルーシブ(英語版)」というホテルプランを始めた企業である。
初期のクラブメッドは、地中海沿岸を中心に多く建設されたため、Club Méditerranéeという社名がつけられ、日本語では従来、地中海クラブと呼ばれていた。2006年4月1日から、企業イメージと商品ブランド名の統一を図ることを目的として、株式会社クラブメッドに社名を変更した。
1950年、ジェラール・ブリッツは、スペイン領のマヨルカ島アルカディアに非営利団体として地中海クラブを設立。
2017年時点では、世界25ヶ国以上、約70ヶ所、日本国内では北海道と沖縄県の2か所のリゾートを運営している。クラブメッドは、友人の別荘に遊びに行った時のようにゆっくり気楽に滞在し、日常の疲れを取り除いていく、いわゆるフランス風のバカンスを提案しているリゾート運営会社である。
旅行代金にフライトや宿泊、ホテル施設内の食事や飲み物、体験型のアクティビティー料金が全て含まれている「オールインクルーシブ」というホテルプランを始めた企業としても知られている。バカンス村の宿泊客をGM(日:ジェントルメンバー、仏:Gentils Members、英:Guest Members)、スタッフをGO(日:ジェントルオーガナイザー、仏:Gentle Organizer、英:Guest Officers)およびGE(日:ジェントルエンプロイー、仏:Gentle Organizer、英:Guest Employees)と呼ぶ。
クラブメッドは、1950年にベルギー人で水球チャンピオンであった、ジェラール・ブリッツ(仏、Gérard Blitz)が「戦後の暗い時代を生きるひとびとの幸福」を願って創業した。 地中海に浮かぶスペイン領のマヨルカ島アルカディアというビーチで夏季テント村として非営利団体クラブ メディティラネを設立したことが始まりである。
初期は、テントを利用した簡易的なものであったが、太陽と海、そして安らぎと温かなコミュニケーションを求める人々で賑わっていた。そこへ、資金を出せる人、ボランティアでスポーツを教える人、食事の世話をする人らが集まり、それぞれの得意分野を活かした独自のホスピタリティを確立スポーツやパーティーなどを通じて知らないもの同士が自然にかけがえのない仲間になっていく貴重な体験と経験を提供する場となり、現在のクラブメッドへと引き継がれている。
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クラブメッドは、1950年にジェラール・ブリッツによって創業された、フランスのパリに本社を置く国際的なバカンス会社。2012年に中国の復星国際に買収された。 旅行代金にホテル施設内の食事やドリンク、プールやリラクゼーション施設の利用料金、マリンスポーツなどのアクティビティー料金がほぼ含まれている「オールインクルーシブ」というホテルプランを始めた企業である。 初期のクラブメッドは、地中海沿岸を中心に多く建設されたため、Club Méditerranéeという社名がつけられ、日本語では従来、地中海クラブと呼ばれていた。2006年4月1日から、企業イメージと商品ブランド名の統一を図ることを目的として、株式会社クラブメッドに社名を変更した。
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{{出典の明記|date=2017-06-26}}
{{特殊文字|説明=記号([[アキュート・アクセント]])つきのe}}
{{基礎情報 会社
|社名 = Club Méditerranée
|英文社名 = Club Med SAS
|ロゴ = Club Med logo.svg
|種類 = 株式会社
|市場情報 = [[ユーロネクスト]]({{euronext|CU}})
|略称 = Club Med
|本社所在地 = [[パリ]]
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|本社郵便番号=75019
|本店郵便番号=75019
|本店所在地=11, Rue de Cambrai [[パリ|Paris]] [[フランス|France]]
|設立 = [[1950年]]
|業種 = サービス業
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 旅行業および世界各国のクラブメッド・リゾートへの送客活動
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|関係する人物 = {{仮リンク|ジェラール・ブリッツ|en|Gérard Blitz (entrepreneur)}} - 創始者
<br/>{{仮リンク|ジルベール・トリガノ|fr|Gilbert Trigano}} - 創始者
|外部リンク = https://www.clubmed.com
|特記事項 =
}}
'''クラブメッド'''({{lang-fr-short|Club Méditerranée}}、{{lang-en-short|Club Med}})は、[[1950年]]に{{仮リンク|ジェラール・ブリッツ|en|Gérard Blitz (entrepreneur)}}によって創業された、[[フランス]]の[[パリ]]に本社を置く国際的な[[バカンス]]会社。[[2012年]]に[[中国]]の[[復星国際]]に買収された<ref>[https://senken.co.jp/posts/lanvin-sold-chinesecompany 中国の復星国際グループが「ランバン」を買収][[繊研新聞]]、2018/02/23</ref>。
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初期の'''クラブメッド'''は、[[地中海]]沿岸を中心に多く建設されたため、Club Méditerranéeという社名がつけられ、日本語では従来、'''地中海クラブ'''と呼ばれていた。2006年4月1日から、企業イメージと商品ブランド名の統一を図ることを目的として、'''株式会社クラブメッド'''に社名を変更した<ref>[http://www.travelvision.jp/news/detail.php?id=23460 地中海クラブ、4月から「クラブメッド」に社名とブランド名を統一] [[トラベルヴィジョン]] 2006年3月20日</ref>。
== 概要 ==
[[1950年]]、{{仮リンク|ジェラール・ブリッツ|en|Gérard Blitz (entrepreneur)}}は、スペイン領の[[マヨルカ島]]アルカディアに[[非営利団体]]として地中海クラブを設立<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/295224/ 世界を学ぶ「クラブメッド」で働く 後編] [[オールアバウト]] 2008年3月26日</ref>。
2017年時点では、世界25ヶ国以上、約70ヶ所、日本国内では[[北海道]]と[[沖縄県]]の2か所の[[リゾート]]を運営している。クラブメッドは、友人の別荘に遊びに行った時のようにゆっくり気楽に滞在し、日常の疲れを取り除いていく、いわゆるフランス風の[[バカンス]]を提案しているリゾート運営会社である。
旅行代金にフライトや宿泊、ホテル施設内の食事や飲み物、体験型のアクティビティー料金が全て含まれている「オールインクルーシブ」というホテルプランを始めた企業としても知られている<ref>[https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_Cobs_il_201202_-1-3/ クラブメッドが世界中の人々を魅了する理由(1)ワールドワイドに展開するリゾート、クラブメッド ウーマンエキサイトトップ 2012年2月27日]</ref>。バカンス村の宿泊客をGM([[日本語|日]]:ジェントルメンバー、[[フランス語|仏]]:Gentils Members、[[英語|英]]:Guest Members)、スタッフをGO(日:ジェントルオーガナイザー、仏:Gentle Organizer、英:Guest Officers)およびGE(日:ジェントルエンプロイー、仏:Gentle Organizer、英:Guest Employees)と呼ぶ<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/295225/2/ 世界を学ぶ「クラブメッド」で働く 後編 オールアバウト 2008年3月26日]</ref>。
== 歴史 ==
=== 創業 ===
クラブメッドは、[[1950年]]に[[ベルギー人]]で水球チャンピオンであった、{{仮リンク|ジェラール・ブリッツ|en|Gérard Blitz (entrepreneur)}}が「戦後の暗い時代を生きるひとびとの幸福」を願って創業した<ref name="名前なし-1">[https://allabout.co.jp/gm/gc/295224/ 世界で学ぶ「クラブメッド」で働く 全編 オールアバウト 2008年3月26日]</ref>。
[[地中海]]に浮かぶ[[スペイン]]領の[[マヨルカ島]]アルカディアというビーチで夏季テント村として非営利団体クラブ メディティラネを設立したことが始まりである<ref name="名前なし-1"/>。
初期は、テントを利用した簡易的なものであったが、[[太陽]]と[[海]]、そして安らぎと温かなコミュニケーションを求める人々で賑わっていた<ref name="名前なし-2">[https://news.livedoor.com/article/detail/5547848/ 旅の始まりはここから クラブメッドのバカンス哲学 Peachy 2011年5月11日]</ref>。そこへ、資金を出せる人、ボランティアでスポーツを教える人、食事の世話をする人らが集まり、それぞれの得意分野を活かした独自のホスピタリティを確立<ref>。[https://news.livedoor.com/article/detail/5547848/ 旅の始まりはここから クラブメッドのバカンス哲学 Peachy 2011年5月11日]</ref>スポーツやパーティーなどを通じて知らないもの同士が自然にかけがえのない仲間になっていく貴重な体験と経験を提供する場となり、現在のクラブメッドへと引き継がれている<ref name="名前なし-2"/>。
== 沿革 ==
* 1949年 - ジェラール・ブリッツが、非営利組織「クラブ・メディテラネ」の設立許可申請をする。
* 1950年 - [[地中海]]の[[マヨルカ島]]アルカディアで開業。
* 1955年 - [[タヒチ]]にバンガローを設立。
* 1956年 - [[スイス]]の[[レザン]]にウインターリゾート施設を設立。
* 1961年 - [[ロスチャイルド]]パリ家のエドモンに買収される。
* 1965年 - [[アガディール]]にクラブメッド初の常設リゾートを設置。
* 1968年 - [[アメリカ合衆国]]へ進出。[[カリブ海]]の[[グアドループ]]島フォートロイヤルにリゾートを開設。
* 1980年 - 全世界展開を開始。
* 1987年12月4日 - クラブメッド・サホロ(現在の[[クラブメッド北海道サホロ]])を開業、日本初進出。
* 1999年 - クラブメッド石垣島を開業。
* 2015年1月 - [[中華人民共和国|中国]]の[[復星国際]]がクラブメッドの買収を完了。
* 2017年 - [[クラブメッド北海道トマム]]を開業。
* 2022年 - [[キロロリゾート]]で「クラブメッド・キロロ」を開業。
== 日本法人 ==
{{基礎情報 会社
|社名=株式会社クラブメッド
|英文社名=Club Med K.K.
|ロゴ= Club Med logo.svg
|種類=[[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報=非上場
|略称=クラブメッド
|本社所在地=
|本社郵便番号=
|本店郵便番号=141-0032
|本店所在地=[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]五丁目6番2号 都五反田ビル西館2階
|設立=[[1979年]]([[昭和]]54年)[[6月1日]]<br />(株式会社地中海クラブ)
|業種=[[サービス業]]
|法人番号=1010401091446
|統一金融機関コード=
|SWIFTコード=
|事業内容=旅行業([[官公庁]]長官登録旅行業第536号)および世界各国のクラブメッド・リゾートへの送客活動、日本国内におけるクラブメッドツアーの企画および主催
|代表者=Marc Letourneau
|資本金=8,000万円
|発行済株式総数=4万9,990株
|売上高=
|営業利益=
|純利益=
|純資産=
|総資産=
|従業員数=66名
|支店舗数 = 5店舗
|決算期=10月
|主要株主=クラブメッド アジア エスエイ[http://www.clubmed.co.jp/cm/%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%A6%82%E8%A6%81_p-206-l-JP-pa-CORPORATEPROFILE_206JP-ac-ad.html] (100%)
|主要子会社=無し
|関係する人物=
|外部リンク=https://www.clubmed.co.jp/
|特記事項=2006年4月1日に「株式会社地中海クラブ」から商号変更。
}}
=== 本店・支店 ===
* 本店
: [[東京都]]品川区大崎5-6-2都五反田ビル西館2階
* 西日本支店
: [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[心斎橋]] 1-4-5
* 中部支店
: [[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]][[名駅]] 3-16-22
* 九州支店
: [[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[天神 (福岡市)|天神]] 3-4-5
* 北海道支店
: [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]][[大通西 (札幌市)|大通西]] 4-6-1 [[札幌大通西4ビル]] 4F
=== 沿革 ===
* 1973年 - '''地中海クラブジャパン株式会社'''を設立。
* 1979年6月1日 - '''株式会社地中海クラブ'''を設立。
** 10月5日 - 地中海クラブジャパン株式会社を解散。
* 2002年1月25日 - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]三丁目5-5から港区[[南麻布]]三丁目20-1に本店を移転。
* 2006年4月1日 - 株式会社地中海クラブを'''株式会社クラブメッド'''へ商号変更。
* 2020年11月6日 - 本店を[[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]五丁目6-2へ移転。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[クラブメッド北海道サホロ]]
* [[クラブメッド北海道トマム]]
* [[西洋環境開発]]
== 外部リンク ==
* [https://www.clubmed.com/ Club Med公式ウェブサイト(英語・フランス語)]
* [https://www.clubmed.co.jp/ 株式会社クラブメッド]
{{Normdaten}}
{{Company-stub}}
{{デフォルトソート:くらふめつと}}
[[Category:旅行会社]]
[[Category:ホテル運営会社]]
[[Category:パリの企業]]
[[Category:品川区の企業]]
[[Category:中国の企業]]
[[Category:1950年設立の企業]]
[[Category:1979年設立の企業]]
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|
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世界貿易機関
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世界貿易機関(せかいぼうえききかん、英: World Trade Organization、略称:WTO)とは、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。常設事務局がスイスのジュネーヴに置かれている。
GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意によって、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO設立協定)に基づいて1995年1月1日にGATTを発展解消させて成立した。
本来GATTは、第二次世界大戦後の安定を見据え、国際通貨基金および国際復興開発銀行とともに設立が予定されていた国際貿易機関(ITO)の設立準備の際に、暫定協定として結ばれたものであった。国際貿易機関の設立が廃案となり、GATTがその代替として発展強化されていくうちに、再びこの分野の常設機関が求められ、WTOが設立されることとなった。発展解消であるため、GATTの事務局及び事務局長もWTOへと引き継がれることとなった。
WTOはGATTを継承したものであるが、GATTが協定(Agreement)の締約国団(CONTRACTING PARTIES)に留まったのに対し、WTOは機関(Organization)であるのが根本的な違いである。
を基本原則としている。また、物品貿易だけでなく金融、情報通信、知的財産権やサービス貿易も含めた包括的な国際通商ルールを協議する場である。
紛争処理手続きにおいて、
については、全加盟国による反対がなければ提案されたものが、採択されるというネガティブ・コンセンサス方式(逆コンセンサス方式)を採用した強力な紛争処理能力を持つ。これは国際組織としては稀な例であり、コンセンサス方式を採っていたGATTとの大きな違いで、WTOの特徴の一つといえる。
1999年のシアトル閣僚会議で新ラウンドの立ち上げを目指すも開発途上国や反グローバリズムを掲げる市民団体の反発で失敗し、2001年11月にカタールのドーハで行われた第4回WTO閣僚会議でようやく新多角的貿易交渉(新ラウンド)の開始を決定し、ドーハ・ラウンドと呼ばれた。2002年2月1日の貿易交渉委員会で新ラウンドがスタートした。しかし9年に及ぶ交渉は先進国と、急速に台頭してきたBRICsなど新興国との対立によって中断と再開を繰り返した末、ジュネーブで行われた第8回WTO閣僚会議(2011年12月17日)で「交渉を継続していくことを確認するものの、近い将来の妥結を断念する」(議長総括)となり事実上停止状態になり、部分合意等の可能な成果を積み上げる「新たなアプローチ」の採用が合意された。
その後、2013年のインドネシア・バリ島における第9回閣僚会議で、貿易円滑化協定を含む、貿易円滑化・農業・開発の3分野からなる「バリ合意」が成立し、2014年7月まで貿易円滑化協定をWTO協定に加える(附属書1Aに追加)するための文書を一般理事会で採択すべきとされた。
しかしインドが、合意を蒸し返す状態で反対したため、期限までに採択できなかった。その後、食糧備蓄への補助金の問題で先進国側が譲歩することで、ようやくインドが合意し、2014年11月27日の一般理事会で、貿易円滑化協定が採択された。WTO加盟国の3分の2が改正を受諾した日に発効することになっており、2017年2月22日にこの要件を満たし、協定が発効した。
世界貿易機関の略称はWTO(World Trade Organization)であるが、ワルシャワ条約機構の略称もWTOであった(Warsaw Treaty Organization)(ワルシャワ条約機構は1991年に解散)。また、世界観光機関(World Tourism Organization。日本を含む157国が加盟)も略称をWTOとしていた。
そのため、ウルグアイラウンド交渉においてサービス貿易(観光が含まれる)についても扱うことになったため、世界観光機関との混同をさけるために、多角的貿易機構(Multilateral Trade Organization)と呼ばれていた。しかし交渉が実質的合意がされた1993年12月15日に米国の要求によりその名称を世界貿易機関(World Trade Organization)とすることになった
世界観光機関との混同のおそれについては、サービス分野の観光関連については、WTOの略称の使用を避ける等により問題が生じないとされた。なお、世界貿易機関が他の組織に対して区別する必要があるときはWTO-OMCと表記することとされ(OMCは世界貿易機関のフランス語表記「L'Organisation mondiale du commerce」の略称)、また一方世界貿易機関との混同を避けるため、ワルシャワ条約機構の場合は専らWPO(「Treaty:条約」を「Pact:協定」に置換え)という略称が使用された。また、世界観光機関も2003年に国際連合 (UN) の専門機関となった後はUNWTOという略称を使用している。
閣僚会議(Ministerial Conference)は、WTOの最高意志決定機関で、すべての加盟国の代表によって構成され、少なくとも2年に1回開催される(WTO設立協定第4条1)ことになっているが、第6回閣僚会議が2005年12月に開催された後、ドーハラウンドの交渉行き詰まり等により第7回閣僚会議が2009年11月に開催されるまで4年間、閣僚会議が開催されないときがあった。
第12回閣僚会議は、カザフスタンのヌルスルタンで、2020年6月11日から13日までの日程で開催が予定されていた。しかし、2020年3月12日、カザフスタン政府は、アゼベド事務局長に対し、新型コロナウイルス感染症の現状とWHOのパンデミック宣言に関連してとの理由で、閣僚会議開催の開催の再検討を要請した。これを受けてアゼベド事務局長は、ウォーカー一般理事会議長及びカザフスタン代表部と協議の後、当初の予定通りの開始は不可能であるとして、日程の再検討をWTO加盟国に要請した。具体的な変更は一般理事会の特別会合で行われる。2021年3月1日の一般理事会は、第12回閣僚会議の開催について、カザフスタンでの開催を断念して、2021年11月29日の週に、ジュネーブで開催すると決定した。具体的な日程は、2021年11月30日から12月3日と決定された旨、4月16日に発表された。
2021年11月26日の一般理事会は、開催が直前に迫った第12回閣僚会議の開催について、COVID-19ウイルスの特に伝染性の株の発生により、閣僚がジュネーブに到達するのを妨げる旅行制限をされているとして。開催を延期すると決定した。新しい日程は、その時点では決定されていなかったが、2022年2月23日、第12回閣僚会議を2022年6月13日の週に、ジュネーブで開催すると決定した。2022年4月25日、第12回閣僚会議の開催日程が6月12日から15日に決定された旨発表された
第12回閣僚会議は、2022年6月12日から16日までジュネーブで開催された。当初の予定では15日まであったが、16日まで延長され更に最終的な合意は17日となった。当初、総会を開催する予定であったカザフスタンと共催とされ、議長もカザフスタンが務めた。閣僚会議は、過剰な食料輸出制限の抑制や、乱獲につながる漁業補助金の規制で合意し、17日に閣僚宣言を含む「ジュネーブ・パッケージ」を採択した。なお、日本はこの会議に閣僚を派遣せず、細田経済産業副大臣、武部農林水産副大臣、三宅外務大臣政務官が出席するにとどまった。
2022年12月19日の一般理事会は、アラブ首長国連邦及びカメルーンの閣僚会議の開催を承認した。第13回閣僚会議は、2024年2月24日の週にアラブ首長国連邦のアブダビにおいて、第14回閣僚会議は、今後決定される日程によりカメルーンにおいて開催される。
一般理事会(General Council)は、WTOのすべての加盟国の代表によって構成される組織で、閣僚会議と並列して存在する実務組織であり、閣僚会議の会合から会合の間、閣僚会議の任務を遂行する(WTO設立協定第4条2)。この下に各種組織が存在する。
WTO設立協定第4条5に基づく理事会。これらの理事会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている。
WTO設立協定第4条7に基づく委員会。さらに一般理事会の決定を経て設置されている。これらの委員会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている。
以下、特に特記すべき場合以外、各協定における設置規定のみ掲げる。これらの委員会の構成は、次のとおりである。
以上の機関の名称は、WTO協定に直接規定のあるものは、官報で公布されたWTO設立協定の条文に基づく
附属書4の複数国間貿易協定に関する委員会
協定の原文は Director-General。1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)。ここではGATTからの歴代を表示する。国名は出身国。
ロベルト・アゼベドは2020年8月末でに任期を1年残して辞任した。2020年5月に早期辞任すると発表した以後、新事務局長の選任手続が開始され、現在8名が新事務局長に名乗りを上げている。9月以降に候補者の絞り込みが行われる。新事務局長の選出までWTOの4人の副事務局長(DDG)のうちの1人は、事務局長代理となるが、4名のうち誰を事務局長代理にするか、加盟国の間でコンセンサスが得られなかったため、4つの副事務局長はすべて、新しい事務局長が就任するまで、引き続きそれぞれの担当の責任を果たすとされた。
2020年9月18日、事務局長選出の第一段階の選考が行われ、メキシコのヘスス・セアデ、エジプトのアブドゥル・ハミード・マムドゥ、モルドバのトゥドル・ウリアノブスキの3人が候補から除外され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希、ケニアのアミナ・モハメド、サウジアラビアのムハンマド・アル=トワイジリ、イギリスのリアム・フォックスの5人が第二段階に進出した。第二段階の選考は9月24日から10月6日まで行われ、候補者の数を5人から2人まで絞り込まれる。最終段階の日程は、その後決定される。
2020年10月8日、9月24日から10月6日まで行われていた事務局長選出の第二段階の選考結果が公表され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希の2人が最終段階の選考に進出した。これにより、WTO史上初めての女性事務局長が誕生することが確実となった。最終段階の選考は、10月19日に始まり、10月27日まで行われる。
2020年10月28日、最終段階の選考でオコンジョ=イウェアラが加盟国のコンセンサスが得られるもっとも高い候補者であると発表された。これに対して米国が異議を唱えており、11月9日の一般理事会で決着しない場合は、事務局長不在が長期化する可能性が指摘された。WTOの事務局長選考規定のパラ20は、コンセンサス方式による決定を行うことができない場合には、その時に決定される手続による最後の解決手段として投票に訴えることができるとしているものの、採決を行った場合の混乱を考慮すると採決を行うことが支持されない可能性もあり、米国大統領選後に決着を持ち越すと見られた。
結局、2020年11月6日、11月9日に予定していた最終決定のための一般理事会を延期する旨が発表された。延期理由については「公衆衛生や時事問題を含む理由(reasons including the health situation and current events)」とされている。報道では「新型コロナウイルス感染再拡大のほか、加盟国間の意見調整が難航していることも影響した可能性がある」(毎日新聞)とも報じられている。
2021年1月20日にジョー・バイデンがアメリカ合衆国大統領に就任し、2月5日に、兪明希が立候補を取下げ、またアメリカ合衆国通商代表部がオコンジョ=イウェアラを強く支持することを表明したことで流れは決定的となった。2月15日に一般理事会はオコンジョ=イウェアラを次期事務総長に選出し、半年間にも及ぶ空席にようやく終止符が打たれることとなった。2021年3月1日に就任し、任期は、2025年8月31日までとなっている。
世界貿易機関の設立について定めた国際条約は、正式名称を世界貿易機関を設立するマラケシュ協定といい、通常WTO設立協定またはWTO協定と呼ばれている。WTO設立協定は本体および附属書に含まれる各種協定からなる。
附属書は1から4まである。うち附属書1〜3はWTO設立協定と一括受諾の対象とされており、WTO加盟国となるためには附属書1〜3の全ても受諾しなければならない。附属書4は一括受諾の対象ではなく、受諾国間でのみ効力を有する。
WTO協定の改正については、協定第10条に規定がされている。
WTO発足以来、閣僚会議で採択された協定の改正は次の4つであり、漁業補助金協定以外はいずれも発効している。
開発途上国における公衆の健康の問題に対処するため、特許権者以外の者が感染症に関する医薬品を生産し、これら諸国に輸出することを可能とするよう、加盟国がこのような生産等を認めるための条件を緩和する規定(第31条の2)を追加する。
税関手続の透明性の向上及び迅速化等のため、WTO協定を改正し、貿易の円滑化に関する協定を追加するものである。
海洋水産資源の持続可能な利用と保全のため、有害な漁業補助金を禁止するため、WTO協定を改正し、漁業補助金協定を追加するものである。
WTO協定附属書3により加盟国の貿易政策・慣行につき透明性を確保し、理解を深める観点から、加盟国の貿易政策等についての質疑応答を中心とする貿易審査会合を定期的に行うことになっている。この制度を貿易政策検討制度(TPRM:Trade Policy Review Mechanism)といい、審査の周期は、
最大の影響力を有する4の加盟国(欧州共同体は、1の加盟国として取り扱う。)は、2年
次の16の加盟国は、4年
その他の加盟国は、後発開発途上加盟国について一層長い期間が定められる場合を除くほか、6年
となっていたが、加盟国の増加により審査の運営が逼迫している状況に鑑みこれをそれぞれ3年、5年、7年に延長するもので2017年7月26日に一般理事会で採択され、2017年9月14日に各加盟国に通報された。改正は決定の第2項により2019年1月1日に発効した。なお附属書3の改正は閣僚会議が承認した時にすべての加盟国について効力を生ずるものとなっており個別の受諾を要しない。
原加盟国(欧州連合及び地域を含む。以下の記述における加盟国、加盟申請中の国には、すべて加盟・加盟申請中の関税同盟及び地域を含むものであり、本来は表題と同じく、すべて国・地域と記述すべきであるが、煩瑣をさけるために加盟国、加盟申請中の国と表記する。加盟国の数は128(内77か国がWTOの発足時の加盟国)。現在の加盟国数は164。WTO設立後の加盟国の日付は加盟年月日。また、現在加入申請中の国は23ある。
以下の記述における加盟国の名称は外務省ウェブサイトの表記に準拠した。
最近の加盟国は、163番目の加盟国のリベリアと164番目の加盟国のアフガニスタンである。リベリアは2015年12月16日にWTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月14日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月14日に正式加盟国になった。。 アフガニスタンは2015年12月17日にWTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月29日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月29日に正式加盟国になった。
WTOに長年加盟しなかったロシアは「最後の大国」と呼ばれ、1993年の加盟申請(この時点ではWTOの前身であるGATTへの加盟申請)の後、難航していた米国との二国間交渉が妥結したものの、天然ガスの価格問題等の近隣諸国との軋轢や、米国議会で2007年以降民主党が多数派になったこと、更に、ウクライナが2008年5月16日にWTOに加盟したため、ウクライナとの二国間交渉が必要となったこと、2008年以降の経済状況の変化でロシアがそれまでの加盟合意の一部見直しを主張するなど、加盟交渉合意の目処がたたない状況が続いたが、2010年に入り、二国間交渉が大筋合意した。2011年10月にはロシアと領土問題を抱えるジョージアがスイスによる仲介案を受け入れ障壁がなくなり、2011年12月16日に閣僚会議で加盟が承認された。その後、ロシア国内での手続が2012年7月に終了し、2012年8月22日に正式加盟が実現した。
WTO設立協定第11条
に基づき、1947年のGATTの締約国だった国で、ウルグアイラウンドの最終議定書により自己の譲許表及び特定の約束に係る表を1994年のGATT及びGATSに附属させた国又は地域がWTOに入った場合、協定の受諾が遅れてWTO発足以後に加盟した場合でも原加盟国として扱われる。1947年のGATTの締約国であるが、ウルグアイラウンドの最終議定書に自己の譲許表及び約束表を附属させることができなかった国は、WTO協定第12条に基づき加盟することとなった。なお、WTO発足時に1947年のGATTの加盟国だった国(ウルグアイラウンドに参加しなかったユーゴスラビアを除く。)はすべて世界貿易機関の加盟国になっている。
WTO協定第12条に基づく加入交渉を経て新たに加盟した国がこれに該当する。
上記の加盟申請中・申請予定の24か国に
を加えた25か国である。
WTOオブザーバーは、オブザーバー承認後5年以内に加盟申請が義務付けられているが、バチカンは例外的に加盟申請を前提としないオブザーバーの地位が認められている。また、国際機関に対し、WTOの各機関ごとにオブザーバーの地位が認められている。
国際連合加盟国又は日本が承認している国で、WTO加盟国でもオブザーバーでもない国
。
紛争解決機関上級委員は、定員が7名となっているが、2020年12月1日全員が欠員となっている。米国が再任や指名を拒んできたためで、実際の審理は3名で行うため、審議が不可能になっている。この問題については、日本は、外務大臣談話を発表し、またEUがWTO上級委員会機能停止への対応策を提案を行っている。
2020年4月30日、EU、カナダ、中国を含む19の有志のWTO加盟国・地域が、「WTO紛争解決了解(DSU)第25条に基づく多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)(MPIA: Multi-party Interim Appeal Arbitration Arrangement)」(以下、暫定上訴制度)の設立を正式にWTOに通報したと発表した。DSU第25条で認められた、紛争解決の代替的手段としての仲裁を暫定的に上訴に代替させるもの。今後3カ月以内に10人の仲裁人が選定される。他のWTO加盟国・地域は今後、いつでも同制度に加わることができる。
2022年12月21日、暫定上訴制度に基づく初めての仲裁判断が公表された。コロンビアによるEU産冷凍ポテトフライへのアンチダンピング措置に関し、EUが2019年11月にWTO提訴していもので、2022年10月にパネルの報告書を公表。コロンビアは、報告書による同国のアンチダンピング制度に対する法的解釈の一部を不服として上訴を申し立て、直ちに両者の合意に基づき暫定上訴制度の利用に進んでいた。3人の仲裁人決定から2カ月程度と比較的短期で仲裁判断がされた。
2023年3月10日、日本は暫定上訴制度に参加を決定した。現時点の参加国・地域数は52(オーストラリア、ベナン、ブラジル、カナダ、中国、チリ、コロンビア、コスタリカ、エクアドル、EU(及びEU加盟27か国)、グアテマラ、香港、アイスランド、マカオ、メキシコ、モンテネグロ、ニカラグア、ニュージーランド、ノルウェー、パキスタン、ペルー、シンガポール、スイス、ウクライナ、ウルグアイ)。
|
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"text": "世界貿易機関(せかいぼうえききかん、英: World Trade Organization、略称:WTO)とは、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。常設事務局がスイスのジュネーヴに置かれている。",
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"text": "GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意によって、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO設立協定)に基づいて1995年1月1日にGATTを発展解消させて成立した。",
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"text": "本来GATTは、第二次世界大戦後の安定を見据え、国際通貨基金および国際復興開発銀行とともに設立が予定されていた国際貿易機関(ITO)の設立準備の際に、暫定協定として結ばれたものであった。国際貿易機関の設立が廃案となり、GATTがその代替として発展強化されていくうちに、再びこの分野の常設機関が求められ、WTOが設立されることとなった。発展解消であるため、GATTの事務局及び事務局長もWTOへと引き継がれることとなった。",
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"text": "WTOはGATTを継承したものであるが、GATTが協定(Agreement)の締約国団(CONTRACTING PARTIES)に留まったのに対し、WTOは機関(Organization)であるのが根本的な違いである。",
"title": "概説"
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"text": "を基本原則としている。また、物品貿易だけでなく金融、情報通信、知的財産権やサービス貿易も含めた包括的な国際通商ルールを協議する場である。",
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"text": "紛争処理手続きにおいて、",
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"text": "については、全加盟国による反対がなければ提案されたものが、採択されるというネガティブ・コンセンサス方式(逆コンセンサス方式)を採用した強力な紛争処理能力を持つ。これは国際組織としては稀な例であり、コンセンサス方式を採っていたGATTとの大きな違いで、WTOの特徴の一つといえる。",
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"text": "1999年のシアトル閣僚会議で新ラウンドの立ち上げを目指すも開発途上国や反グローバリズムを掲げる市民団体の反発で失敗し、2001年11月にカタールのドーハで行われた第4回WTO閣僚会議でようやく新多角的貿易交渉(新ラウンド)の開始を決定し、ドーハ・ラウンドと呼ばれた。2002年2月1日の貿易交渉委員会で新ラウンドがスタートした。しかし9年に及ぶ交渉は先進国と、急速に台頭してきたBRICsなど新興国との対立によって中断と再開を繰り返した末、ジュネーブで行われた第8回WTO閣僚会議(2011年12月17日)で「交渉を継続していくことを確認するものの、近い将来の妥結を断念する」(議長総括)となり事実上停止状態になり、部分合意等の可能な成果を積み上げる「新たなアプローチ」の採用が合意された。",
"title": "概説"
},
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"text": "その後、2013年のインドネシア・バリ島における第9回閣僚会議で、貿易円滑化協定を含む、貿易円滑化・農業・開発の3分野からなる「バリ合意」が成立し、2014年7月まで貿易円滑化協定をWTO協定に加える(附属書1Aに追加)するための文書を一般理事会で採択すべきとされた。",
"title": "概説"
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"text": "しかしインドが、合意を蒸し返す状態で反対したため、期限までに採択できなかった。その後、食糧備蓄への補助金の問題で先進国側が譲歩することで、ようやくインドが合意し、2014年11月27日の一般理事会で、貿易円滑化協定が採択された。WTO加盟国の3分の2が改正を受諾した日に発効することになっており、2017年2月22日にこの要件を満たし、協定が発効した。",
"title": "概説"
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"text": "世界貿易機関の略称はWTO(World Trade Organization)であるが、ワルシャワ条約機構の略称もWTOであった(Warsaw Treaty Organization)(ワルシャワ条約機構は1991年に解散)。また、世界観光機関(World Tourism Organization。日本を含む157国が加盟)も略称をWTOとしていた。",
"title": "略称"
},
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"text": "そのため、ウルグアイラウンド交渉においてサービス貿易(観光が含まれる)についても扱うことになったため、世界観光機関との混同をさけるために、多角的貿易機構(Multilateral Trade Organization)と呼ばれていた。しかし交渉が実質的合意がされた1993年12月15日に米国の要求によりその名称を世界貿易機関(World Trade Organization)とすることになった",
"title": "略称"
},
{
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"text": "世界観光機関との混同のおそれについては、サービス分野の観光関連については、WTOの略称の使用を避ける等により問題が生じないとされた。なお、世界貿易機関が他の組織に対して区別する必要があるときはWTO-OMCと表記することとされ(OMCは世界貿易機関のフランス語表記「L'Organisation mondiale du commerce」の略称)、また一方世界貿易機関との混同を避けるため、ワルシャワ条約機構の場合は専らWPO(「Treaty:条約」を「Pact:協定」に置換え)という略称が使用された。また、世界観光機関も2003年に国際連合 (UN) の専門機関となった後はUNWTOという略称を使用している。",
"title": "略称"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "閣僚会議(Ministerial Conference)は、WTOの最高意志決定機関で、すべての加盟国の代表によって構成され、少なくとも2年に1回開催される(WTO設立協定第4条1)ことになっているが、第6回閣僚会議が2005年12月に開催された後、ドーハラウンドの交渉行き詰まり等により第7回閣僚会議が2009年11月に開催されるまで4年間、閣僚会議が開催されないときがあった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "第12回閣僚会議は、カザフスタンのヌルスルタンで、2020年6月11日から13日までの日程で開催が予定されていた。しかし、2020年3月12日、カザフスタン政府は、アゼベド事務局長に対し、新型コロナウイルス感染症の現状とWHOのパンデミック宣言に関連してとの理由で、閣僚会議開催の開催の再検討を要請した。これを受けてアゼベド事務局長は、ウォーカー一般理事会議長及びカザフスタン代表部と協議の後、当初の予定通りの開始は不可能であるとして、日程の再検討をWTO加盟国に要請した。具体的な変更は一般理事会の特別会合で行われる。2021年3月1日の一般理事会は、第12回閣僚会議の開催について、カザフスタンでの開催を断念して、2021年11月29日の週に、ジュネーブで開催すると決定した。具体的な日程は、2021年11月30日から12月3日と決定された旨、4月16日に発表された。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2021年11月26日の一般理事会は、開催が直前に迫った第12回閣僚会議の開催について、COVID-19ウイルスの特に伝染性の株の発生により、閣僚がジュネーブに到達するのを妨げる旅行制限をされているとして。開催を延期すると決定した。新しい日程は、その時点では決定されていなかったが、2022年2月23日、第12回閣僚会議を2022年6月13日の週に、ジュネーブで開催すると決定した。2022年4月25日、第12回閣僚会議の開催日程が6月12日から15日に決定された旨発表された",
"title": "構成"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "第12回閣僚会議は、2022年6月12日から16日までジュネーブで開催された。当初の予定では15日まであったが、16日まで延長され更に最終的な合意は17日となった。当初、総会を開催する予定であったカザフスタンと共催とされ、議長もカザフスタンが務めた。閣僚会議は、過剰な食料輸出制限の抑制や、乱獲につながる漁業補助金の規制で合意し、17日に閣僚宣言を含む「ジュネーブ・パッケージ」を採択した。なお、日本はこの会議に閣僚を派遣せず、細田経済産業副大臣、武部農林水産副大臣、三宅外務大臣政務官が出席するにとどまった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "2022年12月19日の一般理事会は、アラブ首長国連邦及びカメルーンの閣僚会議の開催を承認した。第13回閣僚会議は、2024年2月24日の週にアラブ首長国連邦のアブダビにおいて、第14回閣僚会議は、今後決定される日程によりカメルーンにおいて開催される。",
"title": "構成"
},
{
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"text": "一般理事会(General Council)は、WTOのすべての加盟国の代表によって構成される組織で、閣僚会議と並列して存在する実務組織であり、閣僚会議の会合から会合の間、閣僚会議の任務を遂行する(WTO設立協定第4条2)。この下に各種組織が存在する。",
"title": "構成"
},
{
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"text": "WTO設立協定第4条5に基づく理事会。これらの理事会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている。",
"title": "構成"
},
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"text": "WTO設立協定第4条7に基づく委員会。さらに一般理事会の決定を経て設置されている。これらの委員会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている。",
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"text": "以下、特に特記すべき場合以外、各協定における設置規定のみ掲げる。これらの委員会の構成は、次のとおりである。",
"title": "構成"
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"text": "以上の機関の名称は、WTO協定に直接規定のあるものは、官報で公布されたWTO設立協定の条文に基づく",
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"text": "附属書4の複数国間貿易協定に関する委員会",
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"text": "協定の原文は Director-General。1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)。ここではGATTからの歴代を表示する。国名は出身国。",
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"text": "ロベルト・アゼベドは2020年8月末でに任期を1年残して辞任した。2020年5月に早期辞任すると発表した以後、新事務局長の選任手続が開始され、現在8名が新事務局長に名乗りを上げている。9月以降に候補者の絞り込みが行われる。新事務局長の選出までWTOの4人の副事務局長(DDG)のうちの1人は、事務局長代理となるが、4名のうち誰を事務局長代理にするか、加盟国の間でコンセンサスが得られなかったため、4つの副事務局長はすべて、新しい事務局長が就任するまで、引き続きそれぞれの担当の責任を果たすとされた。",
"title": "構成"
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"text": "2020年9月18日、事務局長選出の第一段階の選考が行われ、メキシコのヘスス・セアデ、エジプトのアブドゥル・ハミード・マムドゥ、モルドバのトゥドル・ウリアノブスキの3人が候補から除外され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希、ケニアのアミナ・モハメド、サウジアラビアのムハンマド・アル=トワイジリ、イギリスのリアム・フォックスの5人が第二段階に進出した。第二段階の選考は9月24日から10月6日まで行われ、候補者の数を5人から2人まで絞り込まれる。最終段階の日程は、その後決定される。",
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"text": "2020年10月8日、9月24日から10月6日まで行われていた事務局長選出の第二段階の選考結果が公表され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希の2人が最終段階の選考に進出した。これにより、WTO史上初めての女性事務局長が誕生することが確実となった。最終段階の選考は、10月19日に始まり、10月27日まで行われる。",
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"text": "2020年10月28日、最終段階の選考でオコンジョ=イウェアラが加盟国のコンセンサスが得られるもっとも高い候補者であると発表された。これに対して米国が異議を唱えており、11月9日の一般理事会で決着しない場合は、事務局長不在が長期化する可能性が指摘された。WTOの事務局長選考規定のパラ20は、コンセンサス方式による決定を行うことができない場合には、その時に決定される手続による最後の解決手段として投票に訴えることができるとしているものの、採決を行った場合の混乱を考慮すると採決を行うことが支持されない可能性もあり、米国大統領選後に決着を持ち越すと見られた。",
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "となっていたが、加盟国の増加により審査の運営が逼迫している状況に鑑みこれをそれぞれ3年、5年、7年に延長するもので2017年7月26日に一般理事会で採択され、2017年9月14日に各加盟国に通報された。改正は決定の第2項により2019年1月1日に発効した。なお附属書3の改正は閣僚会議が承認した時にすべての加盟国について効力を生ずるものとなっており個別の受諾を要しない。",
"title": "WTO協定の改正"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "原加盟国(欧州連合及び地域を含む。以下の記述における加盟国、加盟申請中の国には、すべて加盟・加盟申請中の関税同盟及び地域を含むものであり、本来は表題と同じく、すべて国・地域と記述すべきであるが、煩瑣をさけるために加盟国、加盟申請中の国と表記する。加盟国の数は128(内77か国がWTOの発足時の加盟国)。現在の加盟国数は164。WTO設立後の加盟国の日付は加盟年月日。また、現在加入申請中の国は23ある。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "以下の記述における加盟国の名称は外務省ウェブサイトの表記に準拠した。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "最近の加盟国は、163番目の加盟国のリベリアと164番目の加盟国のアフガニスタンである。リベリアは2015年12月16日にWTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月14日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月14日に正式加盟国になった。。 アフガニスタンは2015年12月17日にWTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月29日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月29日に正式加盟国になった。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "WTOに長年加盟しなかったロシアは「最後の大国」と呼ばれ、1993年の加盟申請(この時点ではWTOの前身であるGATTへの加盟申請)の後、難航していた米国との二国間交渉が妥結したものの、天然ガスの価格問題等の近隣諸国との軋轢や、米国議会で2007年以降民主党が多数派になったこと、更に、ウクライナが2008年5月16日にWTOに加盟したため、ウクライナとの二国間交渉が必要となったこと、2008年以降の経済状況の変化でロシアがそれまでの加盟合意の一部見直しを主張するなど、加盟交渉合意の目処がたたない状況が続いたが、2010年に入り、二国間交渉が大筋合意した。2011年10月にはロシアと領土問題を抱えるジョージアがスイスによる仲介案を受け入れ障壁がなくなり、2011年12月16日に閣僚会議で加盟が承認された。その後、ロシア国内での手続が2012年7月に終了し、2012年8月22日に正式加盟が実現した。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
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"text": "WTO設立協定第11条",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "に基づき、1947年のGATTの締約国だった国で、ウルグアイラウンドの最終議定書により自己の譲許表及び特定の約束に係る表を1994年のGATT及びGATSに附属させた国又は地域がWTOに入った場合、協定の受諾が遅れてWTO発足以後に加盟した場合でも原加盟国として扱われる。1947年のGATTの締約国であるが、ウルグアイラウンドの最終議定書に自己の譲許表及び約束表を附属させることができなかった国は、WTO協定第12条に基づき加盟することとなった。なお、WTO発足時に1947年のGATTの加盟国だった国(ウルグアイラウンドに参加しなかったユーゴスラビアを除く。)はすべて世界貿易機関の加盟国になっている。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
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"tag": "p",
"text": "WTO協定第12条に基づく加入交渉を経て新たに加盟した国がこれに該当する。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
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"text": "上記の加盟申請中・申請予定の24か国に",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "を加えた25か国である。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "WTOオブザーバーは、オブザーバー承認後5年以内に加盟申請が義務付けられているが、バチカンは例外的に加盟申請を前提としないオブザーバーの地位が認められている。また、国際機関に対し、WTOの各機関ごとにオブザーバーの地位が認められている。",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "国際連合加盟国又は日本が承認している国で、WTO加盟国でもオブザーバーでもない国",
"title": "加盟国・地域[注 17]"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "。",
"title": "紛争解決機関上級委員"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "紛争解決機関上級委員は、定員が7名となっているが、2020年12月1日全員が欠員となっている。米国が再任や指名を拒んできたためで、実際の審理は3名で行うため、審議が不可能になっている。この問題については、日本は、外務大臣談話を発表し、またEUがWTO上級委員会機能停止への対応策を提案を行っている。",
"title": "紛争解決機関上級委員"
},
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"paragraph_id": 56,
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"text": "2020年4月30日、EU、カナダ、中国を含む19の有志のWTO加盟国・地域が、「WTO紛争解決了解(DSU)第25条に基づく多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)(MPIA: Multi-party Interim Appeal Arbitration Arrangement)」(以下、暫定上訴制度)の設立を正式にWTOに通報したと発表した。DSU第25条で認められた、紛争解決の代替的手段としての仲裁を暫定的に上訴に代替させるもの。今後3カ月以内に10人の仲裁人が選定される。他のWTO加盟国・地域は今後、いつでも同制度に加わることができる。",
"title": "紛争解決機関上級委員"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2022年12月21日、暫定上訴制度に基づく初めての仲裁判断が公表された。コロンビアによるEU産冷凍ポテトフライへのアンチダンピング措置に関し、EUが2019年11月にWTO提訴していもので、2022年10月にパネルの報告書を公表。コロンビアは、報告書による同国のアンチダンピング制度に対する法的解釈の一部を不服として上訴を申し立て、直ちに両者の合意に基づき暫定上訴制度の利用に進んでいた。3人の仲裁人決定から2カ月程度と比較的短期で仲裁判断がされた。",
"title": "紛争解決機関上級委員"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2023年3月10日、日本は暫定上訴制度に参加を決定した。現時点の参加国・地域数は52(オーストラリア、ベナン、ブラジル、カナダ、中国、チリ、コロンビア、コスタリカ、エクアドル、EU(及びEU加盟27か国)、グアテマラ、香港、アイスランド、マカオ、メキシコ、モンテネグロ、ニカラグア、ニュージーランド、ノルウェー、パキスタン、ペルー、シンガポール、スイス、ウクライナ、ウルグアイ)。",
"title": "紛争解決機関上級委員"
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世界貿易機関とは、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。常設事務局がスイスのジュネーヴに置かれている。
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{{Redirect|WTO}}
{{Infobox Organization
|name=世界貿易機関<br /><small>{{Lang-en-short|World Trade Organization}}<br />{{Lang-fr-short|Organisation mondiale du commerce}}<br />{{Lang-es-short|Organización Mundial del Comercio}}</small><!--PLEASE DO NOT ADD LANGUAGES OTHER THAN THE OFFICIAL ENGLISH, FRENCH AND SPANISH—FOR RATIONALE SEE PARAMETER LANGUAGE BELOW WITH LINKED REFERENCE-->
|logo= [[File:WTO Logo.svg|150px]]
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|map_caption=</small><div style="text-align:left;">{{legend|#008000|参加}}{{legend|#0174DF|EUと重複参加}} {{legend|#eeee00|オブサーバ}}{{legend|#ff1111|非参加}}</div>
|purpose=関税およびその他の貿易上の障壁の削減
|headquarters={{CHE}} [[ジュネーヴ]]<br />Centre William Rappard, Rue de Lausanne 154, CH-1211 Geneva 21, Switzerland<br /><small>{{coord|46|13|26|N|6|8|58.7|E|region:CH|display=inline,title}}</small>
|num_members=164か国
|language= [[英語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]<ref>[http://www.wto.org/English/thewto_e/vacan_e/recruit_e.htm#languages General Information on Recruitment in the World Trade Organization], World Trade Organization</ref>
|general= [[ンゴジ・オコンジョ・イウェアラ]]
|formation= [[1995年]][[1月1日]]
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|budget_year=2021
|num_staff=624人(女性336人、男性288人)<ref name="what">{{cite news |url=https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/anrep_e/anrep21_chap9_e.pdf|publisher=World Trade Organization |accessdate=2022-03-04}}</ref>
|website={{Lang|en|https://www.wto.org/}}
}}
'''世界貿易機関'''(せかいぼうえききかん、{{Lang-en-short|World Trade Organization}}、略称:'''WTO''')とは、[[自由貿易]]促進を主たる目的として創設された[[国際機関]]である。常設事務局が[[スイス]]の[[ジュネーブ|ジュネーヴ]]に置かれている。
==概説==
[[関税及び貿易に関する一般協定|GATT]](ガット)[[ウルグアイ・ラウンド]]における合意によって、[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定]](WTO設立協定)に基づいて[[1995年]][[1月1日]]にGATTを発展解消させて成立した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/gaiyo.html WTOとは-日本国外務省]</ref>。
本来GATTは、[[第二次世界大戦]]後の安定を見据え、[[国際通貨基金]]および[[国際復興開発銀行]]とともに設立が予定されていた[[国際貿易機関]](ITO)の設立準備の際に、暫定協定として結ばれたものであった。国際貿易機関の設立が廃案となり、GATTがその代替として発展強化されていくうちに、再びこの分野の常設機関が求められ、WTOが設立されることとなった。発展解消であるため、GATTの事務局及び事務局長もWTOへと引き継がれることとなった<ref>「世界地理大百科事典1 国際連合」p394-399 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>。
WTOはGATTを継承したものであるが、GATTが協定(Agreement)の締約国団(CONTRACTING PARTIES)に留まったのに対し、WTOは機関(Organization)であるのが根本的な違いである。
# 自由(関税の低減、数量制限の原則禁止)
# 無差別([[最恵国待遇]]、[[内国民待遇]])
# 多角的通商体制
を基本原則としている。また、物品貿易だけでなく[[金融]]、[[情報通信]]、[[知的財産権]]やサービス貿易も含めた包括的な国際通商ルールを協議する場である。
紛争処理手続きにおいて、
# パネルの設置
# パネル報告及び上級委員会の報告の採択
# 対抗措置の承認
については、全加盟国による反対がなければ提案されたものが、採択されるというネガティブ・コンセンサス方式(逆コンセンサス方式)を採用した強力な紛争処理能力を持つ。これは国際組織としては稀な例であり、コンセンサス方式を採っていたGATTとの大きな違いで、WTOの特徴の一つといえる。
[[1999年]]の[[第3回世界貿易機関閣僚会議|シアトル閣僚会議]]で新ラウンドの立ち上げを目指すも[[開発途上国]]や[[反グローバリズム]]を掲げる市民団体の反発で失敗し、[[2001年]]11月に[[カタール]]の[[ドーハ]]で行われた第4回WTO閣僚会議でようやく[[新多角的貿易交渉]](新ラウンド)の開始を決定し、[[ドーハ・ラウンド]]と呼ばれた。[[2002年]]2月1日の貿易交渉委員会で新ラウンドがスタートした。しかし9年に及ぶ交渉は[[先進国]]と、急速に台頭してきた[[BRICs]]など[[新興国]]との対立によって中断と再開を繰り返した末、ジュネーブで行われた第8回WTO閣僚会議(2011年12月17日)で「交渉を継続していくことを確認するものの、近い将来の妥結を断念する」(議長総括)となり事実上停止状態になり、部分合意等の可能な成果を積み上げる「新たなアプローチ」の採用が合意<ref name="Doha">{{cite news|title =WTOとドーハ・ラウンド(DDA)交渉|url =https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press1_000310.html|publisher = 外務省|date = | accessdate = 2019/2/28}}</ref>された。
その後、2013年の[[インドネシア]]・[[バリ島]]における第9回閣僚会議で、貿易円滑化協定を含む、貿易円滑化・農業・開発の3分野からなる「バリ合意」が成立<ref name="Doha" />し、2014年7月まで貿易円滑化協定をWTO協定に加える(附属書1Aに追加)するための文書を一般理事会で採択すべきとされた<ref>{{cite news |url=http://wto.org/english/thewto_e/minist_e/mc9_e/balipackage_e.htm |title=9TH WTO MINISTERIAL CONFERENCE, BALI, 2013 |publisher=World Trade Organization |accessdate=2014-12-12}}</ref>。
しかしインドが、合意を蒸し返す状態で反対したため、期限までに採択できなかった<ref name="INDIA">{{cite news |url=http://www.wto.org/english/news_e/news14_e/tnc_infstat_31jul14_e.htm |title=WTO: 2014 NEWS ITEMS |publisher=World Trade Organization |accessdate=2014-12-12}}</ref>。その後、食糧備蓄への補助金の問題で先進国側が譲歩することで、ようやくインドが合意し、2014年11月27日の一般理事会で、貿易円滑化協定が採択された<ref name="INDIA" />。WTO加盟国の3分の2が改正を受諾した日に発効することになっており、2017年2月22日にこの要件を満たし、協定が発効した。
== 略称 ==
世界貿易機関の略称はWTO('''W'''orld '''T'''rade '''O'''rganization)であるが、[[ワルシャワ条約機構]]の略称もWTOであった('''W'''arsaw '''T'''reaty '''O'''rganization)<ref>『国際政治経済資料集 第二版』 2003年 有信堂</ref>(ワルシャワ条約機構は1991年に解散)。また、[[世界観光機関]]('''W'''orld '''T'''ourism '''O'''rganization。日本を含む157国が加盟)も略称をWTOとしていた。
そのため、ウルグアイラウンド交渉においてサービス貿易(観光が含まれる)についても扱うことになったため、世界観光機関との混同をさけるために、多角的貿易機構('''M'''ultilateral '''T'''rade '''O'''rganization)と呼ばれていた。しかし交渉が実質的合意がされた1993年12月15日に米国の要求によりその名称を世界貿易機関('''W'''orld '''T'''rade '''O'''rganization)とすることになった<ref>津久井茂充 WTOとガットp24 日本関税協会 1997</ref>
世界観光機関との混同のおそれについては、サービス分野の観光関連については、WTOの略称の使用を避ける等により問題が生じないとされた。なお、世界貿易機関が他の組織に対して区別する必要があるときは'''WTO-OMC'''と表記することとされ(OMCは世界貿易機関のフランス語表記「L''''O'''rganisation '''m'''ondiale du '''c'''ommerce」の略称)、また一方世界貿易機関との混同を避けるため、ワルシャワ条約機構の場合は専ら'''WPO'''(「Treaty:条約」を「Pact:協定」に置換え)という略称が使用された。また、世界観光機関も2003年に[[国際連合]] (UN) の[[専門機関]]となった後は'''UNWTO'''という略称を使用している。
== 構成 ==
=== WTO設立協定で規定された機関 ===
==== 閣僚会議 ====
'''閣僚会議'''(Ministerial Conference)は、WTOの最高意志決定機関で、すべての加盟国の代表によって構成され、少なくとも2年に1回開催される(WTO設立協定第4条1)ことになっているが、第6回閣僚会議が2005年12月に開催された後、ドーハラウンドの交渉行き詰まり等により第7回閣僚会議が2009年11月に開催されるまで4年間、閣僚会議が開催されないときがあった。
第12回閣僚会議は、[[カザフスタン]]の[[アスタナ|ヌルスルタン]]で、2020年6月11日から13日までの日程で開催が予定されていた。しかし、2020年3月12日、カザフスタン政府は、アゼベド事務局長に対し、新型コロナウイルス感染症の現状とWHOのパンデミック宣言に関連してとの理由で、閣僚会議開催の開催の再検討を要請した<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news20_e/minis_12mar20_e.htm|publisher= WTO|title= DG Azevêdo provides urgent information to WTO members on MC12 date and venue |date= 2020-3-12 |accessdate= 2020-3-18}}</ref>。これを受けてアゼベド事務局長は、ウォーカー一般理事会議長及びカザフスタン代表部と協議の後、当初の予定通りの開始は不可能であるとして、日程の再検討をWTO加盟国に要請した<ref name="12MC">{{cite web|url= https://www.wto.org/english/thewto_e/minist_e/mc12_e/mc12_e.htm|publisher= WTO|title= Twelfth WTO Ministerial Conference |date= 2020-3-12 |accessdate= 2020-3-18}}</ref>。具体的な変更は一般理事会の特別会合で行われる<ref name="12MC" />。2021年3月1日の一般理事会は、第12回閣僚会議の開催について、カザフスタンでの開催を断念して、2021年11月29日の週に、ジュネーブで開催すると決定した<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news21_e/minis_01mar21_e.htm|publisher= WTO|title= Twelfth Ministerial Conference to take place in Geneva in late 2021|date= 2021-03-01 |accessdate= 2021-03-02}}</ref>。具体的な日程は、2021年11月30日から12月3日と決定された旨、4月16日に発表された<ref>{{cite web|url=https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_23feb22_e.htm|publisher= WTO|title=Dates fixed for WTO’s 12th Ministerial Conference|date= 2021-04-16 |accessdate= 2021-04-20}}</ref>。
2021年11月26日の一般理事会は、開催が直前に迫った第12回閣僚会議の開催について、COVID-19ウイルスの特に伝染性の株の発生により、閣僚がジュネーブに到達するのを妨げる旅行制限をされているとして。開催を延期すると決定した。新しい日程は、その時点では決定されていなかった<ref>{{cite web|url=https://www.wto.org/english/news_e/news21_e/mc12_26nov21_e.htm|publisher= WTO|title=General Council decides to postpone MC12 indefinitely|date= 2021-11-26 |accessdate= 2021-11-29}}</ref>が、2022年2月23日、第12回閣僚会議を2022年6月13日の週に、ジュネーブで開催すると決定した<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_23feb22_e.htm|publisher= WTO|title= WTO members agree on mid-June dates for reconvening MC12|date= 2022-02-23 |accessdate= 2022-03-04}}</ref>。2022年4月25日、第12回閣僚会議の開催日程が6月12日から15日に決定された旨発表された<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_25apr22_e.htm|publisher= WTO|title= Dates fixed for 12th Ministerial Conference in June|date= 2022-04-25 |accessdate= 2022-04-28}}</ref>
第12回閣僚会議は、2022年6月12日から16日までジュネーブで開催された。当初の予定では15日まであったが、16日まで延長され<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_15jun22_e.htm|publisher= WTO|title= WTO 12th Ministerial Conference extended by one day to facilitate outcomes|date= 2022-06-16|accessdate= 2022-06-20}}</ref>更に最終的な合意は17日となった<ref name="MC12" />。当初、総会を開催する予定であったカザフスタンと共催とされ、議長もカザフスタンが務めた<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_15jun22_e.htm|publisher= WTO|title= Twelfth WTO Ministerial Conference|date= 2022-06-12|accessdate= 2022-06-20}}</ref>。閣僚会議は、過剰な食料輸出制限の抑制や、乱獲につながる漁業補助金の規制で合意し、17日に閣僚宣言を含む「ジュネーブ・パッケージ」を採択した<ref name="MC12">{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/mc12_17jun22_e.htm|publisher= WTO|title=WTO members secure unprecedented package of trade outcomes at MC12|date= 2022-06-17|accessdate= 2022-06-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR16F490W2A610C2000000/|title= WTO、食料輸出規制の抑制で一致 6年半ぶり閣僚宣言 |date= 2018-6-12|publisher= 日本経済新聞 |author= ジュネーブ=細川倫太郎、パリ=白石透冴 |accessdate= 2020-11-26}}</ref>。なお、日本はこの会議に閣僚を派遣せず、細田経済産業副大臣、武部農林水産副大臣、三宅外務大臣政務官が出席するにとどまった<ref>{{cite news|title =三宅伸吾外務大臣政務官の第12回WTO閣僚会議への出席|url =https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_001156.html|publisher = 外務省|date =2022-06-17| accessdate = 2022-06-20}}</ref>。
2022年12月19日の一般理事会は、[[アラブ首長国連邦]]及び[[カメルーン]]の閣僚会議の開催を承認した。第13回閣僚会議は、2024年2月24日の週にアラブ首長国連邦の[[アブダビ]]において、第14回閣僚会議は、今後決定される日程により[[カメルーン]]において開催される<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/gc_19dec22_e.htm|publisher= WTO|title= WTO members accept UAE, Cameroon offers to host Ministerial Conferences|date= 2022-12-19 |accessdate= 2022-12-20}}</ref>。
==== 一般理事会 ====
'''一般理事会'''(General Council)は、WTOのすべての加盟国の代表によって構成される<ref group="注">WTOにおいては、国連のように加盟国から選出(あるいは特定国が予め指定)されて機関の構成国になるということは、ほとんど行われていない。</ref>組織で、閣僚会議と並列して存在する実務組織であり、閣僚会議の会合から会合の間、閣僚会議の任務を遂行する(WTO設立協定第4条2)。この下に各種組織が存在する。
* '''紛争解決機関'''(Dispute Settlement Body、DSB)
*: WTO設立協定附属書二(紛争解決に係る規則及び手続に関する了解)第2条1に「この了解に定める規則及び手続並びに対象協定の協議及び紛争解決に関する規定を運用するため、この了解により紛争解決機関を設置する。」と規定されている。加盟国・地域同士の貿易上の紛争を解決するための準司法的な制度。<ref name=":0">{{Cite news|title=世界貿易機関(WTO)の紛争処理システム|newspaper=東京新聞|date=2018-6-2|publication-date=}}</ref>WTO設立協定第4条3では「一般理事会は、紛争解決了解に定める紛争解決機関としての任務を遂行するため、適当な場合に会合する。」と規定されており、一般理がDSBとしての機能を果たすこととなっている。「紛争解決委員会」とも呼ばれる。附属書二は、さらに以下の2機関の設置を定めている。
** 小委員会(Panel) - 第6条で規定。「パネル」とも呼ばれる。紛争事件についての実質的な判断を行う(ただし、WTO協定上は、勧告又は裁定はDSB自体が行うとされている)。紛争事件の都度、3名(紛争当事国が合意する場合は5名)の委員が選出される(第8条5)。
** 上級委員会(Appellate Body) - 第17条で規定。小委員会の上級審にあたる。7名の委員で構成されるが、事案の処理は事案毎に指定された3名で行う。任期は4年で1回に限り再任できる。
*: 裁判の原告に当たる国・地域と、被告に当たる国・地域による協議で解決せずに小委員会(パネル)が設置されると、国際通商法の専門家らが「裁判官」となり審理を行う。「二審制」となっており、パネルの法律判断に異議がある場合は、上級委員会に上訴できる。パネル設置からパネル又は上級委員会の報告の採択までの平均期間は19ヶ月(最短7ヶ月、最長74ヶ月)である<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000096399.pdf|publisher= 外務省|title= WTO紛争解決手続と必要な作業 |date= |accessdate= 2019/3/14}}</ref>。
* '''貿易政策検討機関'''(Trade Policy Review Body、TPRB)
*: WTO設立協定附属書書三(貿易政策検討制度)C(i)において「貿易政策に関する検討を実施するため、貿易政策検討機関を設置する。」と規定されている。WTO設立協定第4条4では「一般理事会は、貿易政策検討制度に定める貿易政策検討機関としての任務を遂行するため、適当な場合に会合する。」とされており、一般理がTPRBとしての機能を果たすこととなっている。「貿易政策検討委員会」とも呼ばれる。
; WTO設立協定第4条5に基づく理事会
WTO設立協定第4条5<ref group="注">物品の貿易に関する理事会、サービスの貿易に関する理事会及び知的所有権の貿易関連の側面に関する理事会(以下「貿易関連知的所有権理事会」という。)を設置するものとし、これらの理事会は、一般理事会の一般的な指針に基づいて活動する。物品の貿易に関する理事会は、附属書一Aの多角的貿易協定の実施に関することをつかさどる。サービスの貿易に関する理事会は、サービスの貿易に関する一般協定(以下「サービス貿易一般協定」という。)の実施に関することをつかさどる。貿易関連知的所有権理事会は、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(以下「貿易関連知的所有権協定」という。)の実施に関することをつかさどる。これらの理事会は、それぞれの協定及び一般理事会によって与えられる任務を遂行する。これらの理事会は、一般理事会の承認を条件として、それぞれの手続規則を定める。これらの理事会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放する。これらの理事会は、その任務を遂行するため、必要に応じて会合する。</ref>に基づく理事会。これらの理事会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている<ref group="注">理事会の構成員になることを希望すれば、構成員になるということ。</ref>。
* '''物品の貿易に関する理事会'''(Council for Trade in Goods)
*: 物品の貿易に関する多角的協定(附属書一A)の実施を所管。「物品理事会」と略称される。
* '''サービスの貿易に関する理事会'''(Council for Trade in Services)
*: [[サービスの貿易に関する一般協定]](GATS、附属書一B)の実施を所管。「サービス理事会」と略称される。
* '''知的所有権の貿易関連の側面に関する理事会'''(Council for Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)
*: [[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]](TRIPS協定、附属書一C)の実施を所管。「TRIPS理事会」と略称される。
; WTO設立協定第4条7に基づく委員会
WTO設立協定第4条7<ref group="注">閣僚会議は、貿易及び開発に関する委員会、国際収支上の目的のための制限に関する委員会及び予算、財政及び運営に関する委員会を設置する。これらの委員会は、この協定及び多角的貿易協定によって与えられる任務並びに一般理事会によって与えられる追加的な任務を遂行する。また、閣僚会議は、適当と認める任務を有する追加的な委員会を設置することができる。貿易及び開発に関する委員会は、その任務の一部として、定期的に、多角的貿易協定の後発開発途上加盟国のための特別な規定を検討し、適当な措置について一般理事会に報告する。これらの委員会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放する。</ref>に基づく委員会。さらに一般理事会の決定を経て設置されている。これらの委員会の構成員の地位は、すべての加盟国の代表に開放されている。
* '''貿易及び開発に関する委員会'''(Committee on Trade and Development)
*: 一般理事会の決定<ref>1995年1月31日 WT/L/46</ref>により設置。開発途上国の経済発展と貿易との関連等の項目についての検討を担当。
* '''国際収支上の目的のための制限に関する委員会'''(Committee on Balance-of-Payments Restrictions)
*: 一般理事会の決定<ref>1995年1月31日 WT/L/44</ref>により設置。
* '''予算、財政及び運営に関する委員会'''(Committee on Budget, Finance and Administration)
*: 一般理事会の決定<ref>1995年1月31日 WT/L/45</ref>により設置。
; WTO協定附属書一Aの協定の実施を所管する委員会
以下、特に特記すべき場合以外、各協定における設置規定のみ掲げる。これらの委員会の構成は、次のとおりである。
# 構成員の規定が協定にないもの
#: 農業に関する委員会、衛生植物検疫措置に関する委員会
# 各加盟国の代表で構成
#: 貿易の技術的障害に関する委員会、ダンピング防止措置に関する委員会、関税評価に関する委員会、原産地規則に関する委員会、輸入許可に関する委員会、補助金及び相殺措置に関する委員会、漁業補助金に関する委員会
# すべての加盟国に開放されているもの
#: 貿易に関連する投資措置に関する委員会、セーフガードに関する委員会、貿易円滑化に関する協定
# 各加盟国は、代表を出す権利を有すると規定されているもの
#: 関税評価に関する技術委員会、原産地規則に関する技術委員会
# 特別な構成
#: 繊維・繊維製品監視機関は、議長1名と10名の構成員で構成される。構成員は、物品の貿易に関する理事会によって指名される加盟国によって、任命され、個人の資格で任務を遂行する。
* '''農業に関する委員会'''(Committee on Agriculture)
*:農業に関する協定第17条。
* '''衛生植物検疫措置に関する委員会'''(Committee on Sanitary and Phytosanitary Measures)
*:衛生植物検疫措置の適用に関する協定第12条1。
* '''繊維・繊維製品監視機関(「TMB」)'''(Textiles Monitoring Body (“TMB”))
*:繊維及び繊維製品(衣類を含む。)に関する協定第8条1。繊維及び繊維製品(衣類を含む。)に関する協定が2005年1月1日に終了したことに伴い廃止。
* '''貿易の技術的障害に関する委員会'''(Committee on Technical Barriers to Trade)
*:貿易の技術的障害に関する協定第13条。
* '''貿易に関連する投資措置に関する委員会'''(Committee on Trade-Related Investment Measures)
*:貿易に関連する投資措置に関する協定第17条。
* '''ダンピング防止措置に関する委員会'''(Committee on Anti-Dumping Practices)
*:千九百九十四年の関税及び貿易に関する一般協定第六条の実施に関する協定(アンチダンピング協定)第16条。
* '''関税評価に関する委員会'''(Committee on Trade-Related Investment Measures)
*:千九百九十四年の関税及び貿易に関する一般協定第七条の実施に関する協定(関税評価協定)第18条1。
* '''関税評価に関する技術委員会'''(Technical Committee on Customs Valuation)<ref group="注">この委員会はWTOの機関ではないが、WTO協定に基づき設置されているためここに掲げた。</ref>
*:千九百九十四年の関税及び貿易に関する一般協定第七条の実施に関する協定(関税評価協定)第18条2。<ref group="注">関税評価協定の附属書2に定める任務(関税評価の技術的検討)を所管。この委員会は、関税評価協定第18条2に基づくものであるが、WTOではなく関税協力理事会(CCC)(現在では、通称名の世界税関機構(WCO)と一般的に呼ばれる)のもとに設置されている。</ref>
* '''船積み前検査に関する協定'''(附属書一A)には、WTOの機関としての個別の委員会設置規定はない。第4条の規定により、船積み前検査の機関及び輸出者の紛争を解決するための独立の審査を運用するため、船積み前検査の機関を代表する団体(International Federation of Inspection Agencies (IFIA) 国際検査機関連盟)及び輸出者を代表する団体(International Chamber of Commerce (ICC)国際商工会議所)が共同で設置する独立の機関が設置されている<ref>1995年12月13日一般理事会決定 WT/L/125</ref>。
* '''原産地規則に関する委員会'''(Committee on Rules of Origin)
*:原産地規則に関する協定第4条1。
* '''原産地規則に関する技術委員会'''(Technical Committee on Rules of Origin)<ref group="注">この委員会はWTOの機関ではないが、WTO協定に基づき設置されているためここに掲げた。</ref>
*:原産地規則に関する協定第4条2。協定第4部及び附属書1に定める技術的作業を実施する。<ref group="注">この委員会は、原産地規則に関する協定第4条第2項に基づくものであるが、WTOではなく関税協力理事会(CCC)(現在では、通称名の世税関機構(WCO)と一般的に呼ばれる)のもとに設置されている。</ref>
* '''輸入許可に関する委員会'''(Committee on Import Licensing)
*:輸入許可手続に関する協定第4条。
* '''補助金及び相殺措置に関する委員会'''(Committee on Subsidies and Countervailing Measures)
*:補助金及び相殺措置に関する協定第24条1。
* '''漁業補助金に関する委員会'''(Committee on Fisheries Subsidies)(協定発効時に設置)
*:漁業補助金に関する協定第9条1。
* '''セーフガードに関する委員会'''(Committee on Safeguards)
*:セーフガードに関する協定第13条。附属書一Aの協定の委員会のなかでこの委員会のみ「物品の貿易に関する理事会の権限の下」(under the authority of the Council for Trade in Goods)と規定されている。
* '''貿易の円滑化に関する委員会'''(Committee on Trade Facilitation)
*:貿易円滑化に関する協定第23条1。
; 一般理事会の決定に基づく委員会
* 貿易と環境委員会(Committee on Trade and Environment)
*:一般理事会の決定<ref>1995年1月31日 WT/L/42</ref>により設置。貿易と環境に関する国際的な議論の中心的なフォーラムであり、「多国間環境協定に規定される貿易措置とWTOの下での多角的自由貿易体制との関係」等の項目についての検討を担当。
* 市場アクセス委員会(Committee on Market Access)
*:一般理事会の決定<ref>1995年1月31日 WT/L/47</ref>により設置。関税及び非関税措置に関する譲許の実施を監督(他のWTO機関の所管に属する場合を除く)。
* 地域貿易協定委員会(Committee on Regional Trade Agreements)
*:一般理事会の決定<ref>1996年2月6日 WT/L/127</ref>により設置。地域貿易協定(FTA,EPA)の審査を担当。
<small>以上の機関の名称は、WTO協定に直接規定のあるものは、官報で公布されたWTO設立協定の条文に基づく</small>
=== その他の機関 ===
* 貿易交渉委員会
*: 「Trade Negotiations Committee」(一般に貿易交渉委員会と訳される。略称:TNC)は、[[ドーハ開発ラウンド]]の開始にあたって、ドーハ閣僚宣言において設置が決定された。TNCは一般理事会の下に置かれている。
* 加盟作業部会(Working Party on the Accession)<ref group="注">申請した国毎に設置され、Working Party on the Accession of Liberia のように国名を付したのが正式名称である。</ref>
*: WTO加盟申請があった場合に設置される。加入審査を行い、加入議定書を作成する。部会のメンバーはなることを希望する加盟国である<ref group="注">作業部会設置の決定で“The Membership is open to all WTO Members indicating their wish to serve on the Working Party.”とする。</ref>。
'''附属書4の複数国間貿易協定に関する委員会'''
* '''政府調達に関する委員会'''(Committee on Government Procurement)
*: 政府調達に関する協定の実施を所管。
* '''民間航空機貿易に関する委員会'''(Committee on Government Procurement)
*: 民間航空機貿易に関する協定の実施を所管。
=== 事務局長 ===
協定の原文は Director-General。1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)。ここではGATTからの歴代を表示する<ref>{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/thewto_e/dg_e/exdgs_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title=Previous GATT and WTO Directors-General|accessdate= 2020-09-04}}</ref>。国名は出身国。
# [[エリック・ウィンダム・ホワイト]](Eric Wyndham White)(英国) 1948年–1968年
# [[オリビエ・ロング]](Olivier Long)(スイス) 1968年–1980年
# [[アーサー・ダンケル]](Arthur Dunkel)(スイス) 1980年–1993年
# [[ピーター・サザーランド]](Peter Sutherland(アイルランド) 1993年–1995年
# [[レナート・ルジェロ]](Renato Ruggiero)(イタリア) 1995年–1999年
# [[マイク・ムーア]](Mike Moore)(ニュージーランド) 1999年–2002年
# [[スパチャイ・パニチャパック]](Supachai Panitchpakdi)(タイ) 2002年–2005年
# [[パスカル・ラミー]](Pascal Lamy)(フランス) 2005年–2013年
# [[ロベルト・アゼベド]](Roberto Azevedo)(ブラジル) 2013年–2020年
# [[ンゴジ・オコンジョ・イウェアラ]](Ngozi Okonjo-Iweala)(ナイジェリア) 2021年3月1日-2025年
==== 2020-21年の事務局長選考 ====
ロベルト・アゼベドは2020年8月末でに任期を1年残して辞任した。2020年5月に早期辞任すると発表した以後、新事務局長の選任手続が開始され、現在8名が新事務局長に名乗りを上げている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page24_001131.html |publisher= 外務省 |title= 第17回:群雄割拠、WTO事務局長選出手続開始(上) |accessdate= 2020-09-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page24_001141.html |publisher= 外務省 |title= 第18回:群雄割拠、WTO事務局長選出手続開始(下) |accessdate= 2020-09-04}}</ref>。9月以降に候補者の絞り込みが行われる。新事務局長の選出までWTOの4人の副事務局長(DDG)のうちの1人は、事務局長代理となるが、4名のうち誰を事務局長代理にするか、加盟国の間でコンセンサスが得られなかったため、4つの副事務局長はすべて、新しい事務局長が就任するまで、引き続きそれぞれの担当の責任を果たすとされた<ref>{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/thewto_e/dg_e/dg_e.htm |publisher= 世界貿易機関 |title= WTO Director-General |accessdate= 2020-09-04}}</ref>。
2020年9月18日、事務局長選出の第一段階の選考が行われ、メキシコのヘスス・セアデ、エジプトのアブドゥル・ハミード・マムドゥ、モルドバのトゥドル・ウリアノブスキの3人が候補から除外され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希、ケニアの[[アミナ・モハメド]]、サウジアラビアのムハンマド・アル=トワイジリ、イギリスのリアム・フォックスの5人が第二段階に進出した<ref name="election">{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/thewto_e/dg_e/dg_e.htm |publisher= 世界貿易機関 |title= WTO members narrow field of DG candidates |date= 2020-09-18|accessdate= 2020-09-18}}</ref>。第二段階の選考は9月24日から10月6日まで行われ、候補者の数を5人から2人まで絞り込まれる。最終段階の日程は、その後決定される<ref name="election" />。
2020年10月8日、9月24日から10月6日まで行われていた事務局長選出の第二段階の選考結果が公表され、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ、韓国の兪明希の2人が最終段階の選考に進出した<ref name="election part2">{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news20_e/dgsel_08oct20_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title= WTO members narrow field of DG candidates|date= 2020-10-08|accessdate= 2020-10-09}}</ref>。これにより、WTO史上初めての女性事務局長が誕生することが確実となった<ref name="election part2" />。最終段階の選考は、10月19日に始まり、10月27日まで行われる<ref name="election part2" />。
2020年10月28日、最終段階の選考でオコンジョ=イウェアラが加盟国のコンセンサスが得られるもっとも高い候補者であると発表された<ref name="election part3">{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news20_e/dgsel_28oct20_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title= Members indicate strong preference for Ngozi Okonjo-Iweala as DG but US objects|date= 2020-10-28|accessdate= 2020-10-31}}</ref>。これに対して米国が異議を唱えており<ref name="USA">{{Cite web|url= https://ustr.gov/about-us/policy-offices/press-office/press-releases/2020/october/statement-office-us-trade-representative-wto-director-general-selection-process|publisher= Office of the U.S. Trade Representative |title= Statement from the Office of the U.S. Trade Representative on the WTO Director-General Selection Process|date= 2020-10-28|accessdate= 2020-10-31}}</ref>、11月9日の一般理事会で決着しない場合は、事務局長不在が長期化する可能性が指摘された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/trade-wto-usa-idJPKBN27D2E4|publisher= [[ロイター通信]] |title=WTO委員会、次期事務局長にナイジェリア候補推薦 米は反対|date= 2020-10-29 |accessdate= 2020-10-31}}</ref>。WTOの事務局長選考規定<ref name="WT/L/509">{{Cite web|url= https://docs.wto.org/dol2fe/Pages/SS/directdoc.aspx?filename=Q:/WT/L/509.pdf&Open=True|publisher= 世界貿易機関 |title=PROCEDURES FOR THE APPOINTMENT OF DIRECTORS-GENERAL WT/L/509|date= 2020-10-28|accessdate= 2020-10-31}}</ref>のパラ20は、コンセンサス方式による決定を行うことができない場合には、その時に決定される手続による最後の解決手段として投票に訴えることができるとしているものの、採決を行った場合の混乱を考慮すると採決を行うことが支持されない可能性もあり、[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙|米国大統領選]]後に決着を持ち越すと見られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/wto-secretary-idJPKBN27F0II|publisher= [[ロイター通信]] |title=焦点:迷走するWTOトップ選出、採決強行か米政権交代待ちか|date= 2020-10-30 |accessdate= 2020-10-31}}</ref>。
結局、2020年11月6日、11月9日に予定していた最終決定のための一般理事会を延期する旨が発表された<ref>{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news20_e/dgsel_06nov20_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title=General Council meeting on DG selection postponed|date= 2020-11-06|accessdate= 2020-11-09}}</ref>。延期理由については「公衆衛生や時事問題を含む理由(reasons including the health situation and current events)<ref>{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news20_e/dgsel_06nov20_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title=APPOINTMENT OF THE NEXT DIRECTOR-GENERAL COMMUNICATION FROM THE GENERAL COUNCIL CHAIR, H.E. DR DAVID WALKER JOB/GC/248 |date= 2020-11-06|accessdate= 2020-11-09}}</ref>」とされている。報道では「新型コロナウイルス感染再拡大のほか、加盟国間の意見調整が難航していることも影響した可能性がある」(毎日新聞)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20201108/ddm/002/030/079000c|publisher= [[毎日新聞]] |title=WTO事務局長選出理事会延期|date= 2020-11-06|accessdate= 2020-11-09}}</ref>とも報じられている。
2021年1月20日に[[ジョー・バイデン]]がアメリカ合衆国大統領に就任し、2月5日に、兪明希が立候補を取下げ<ref name="final" />、また[[アメリカ合衆国通商代表部]]がオコンジョ=イウェアラを強く支持することを表明<ref name="USA2">{{Cite web|url= https://ustr.gov/about-us/policy-offices/press-office/press-releases/2021/february/office-united-states-trade-representative-statement-director-general-world-trade-organization|publisher= Office of the U.S. Trade Representative |title= Office of the United States Trade Representative Statement on the Director General of the World Trade Organization|date= 2021-02-05|accessdate= 2021-02-171}}</ref>したことで流れは決定的となった<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210205214003/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020600233&g=int|title=ナイジェリア候補「強く支持」 WTO事務局長選―バイデン米政権|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2021-02-06|accessdate=2021-02-17}}</ref>。2月15日に一般理事会はオコンジョ=イウェアラを次期事務総長に選出し、半年間にも及ぶ空席にようやく終止符が打たれることとなった<ref name="final">{{Cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news21_e/dgno_15feb21_e.htm|publisher= 世界貿易機関 |title=History is made: Ngozi Okonjo-Iweala chosen as Director-General|date= 2021-02-15|accessdate= 2021-02-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/wto-okonjoiweala-newsmaker-idJPKBN2AG0Q7|title=焦点:経験と努力の実行家、WTO新トップのオコンジョイウェアラ氏|agency=[[ロイター]]|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-17}}</ref>。2021年3月1日に就任し、任期は、2025年8月31日までとなっている<ref name="final" />。
== WTO設立協定 ==
世界貿易機関の設立について定めた国際条約は、正式名称を'''[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定]]'''といい、通常'''WTO設立協定'''または'''WTO協定'''と呼ばれている。WTO設立協定は本体および附属書に含まれる各種協定からなる。
附属書は1から4まである。うち附属書1〜3はWTO設立協定と一括受諾の対象とされており、WTO加盟国となるためには附属書1〜3の全ても受諾しなければならない。附属書4は一括受諾の対象ではなく、受諾国間でのみ効力を有する。
* 附属書1
** 附属書1A 物品の貿易に関する多角的協定
*** (A) [[1994年の関税及び貿易に関する一般協定]](1994年のGATT)
**** 1947年の関税及び貿易に関する一般協定
**** 1947年の関税及び貿易に関する一般協定の下で効力を生じた法的文書
**** 解釈了解
**** 1994年の関税及び貿易に関する一般協定のマラケシュ議定書
**** 譲許表
*** (B) [[農業に関する協定]]
*** (C) [[衛生植物検疫措置の適用に関する協定]](通称 SPS協定)
*** (D) [[繊維及び繊維製品(衣類を含む。)に関する協定]](通称''繊維協定''、[[2004年]]末に終了)
*** (E) [[貿易の技術的障害に関する協定]](通称''TBT協定'')
*** (F) [[貿易に関連する投資措置に関する協定]](通称''TRIMs協定'')
*** (G) [[1994年の関税及び貿易に関する一般協定第6条の実施に関する協定]](通称''アンチダンピング協定'')
*** (H) [[1994年の関税及び貿易に関する一般協定第7条の実施に関する協定]](通称''関税評価協定'')
*** (I) [[船積み前検査に関する協定]]
*** (J) [[原産地規則に関する協定]]
*** (K) [[輸入許可手続に関する協定]]
*** (L) [[補助金及び相殺措置に関する協定]]
*** (M) [[漁業補助金に関する協定]](未発効)
*** (N) [[セーフガードに関する協定]]
*** (O) [[貿易の円滑化に関する協定]]
** 附属書1B [[サービスの貿易に関する一般協定]](略称''GATS'')
** 附属書1C [[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]](通称''TRIPS協定'')
* 附属書2 [[紛争解決に係る規則及び手続に関する了解]](通称''紛争解決了解'')
* 附属書3 [[貿易政策審査制度]]
* 附属書4 複数国間貿易協定
** (A) [[民間航空機貿易に関する協定]]
** (B) [[政府調達に関する協定]]
*過去に附属書4の協定だったもの。失効にともないWTO協定第10条9に基づく一般理事会<ref group="注">閣僚会議の権限を代行する。</ref>の1997年12月10日決定<ref>国際酪農品協定国際 WT/L/251、牛肉協定 WT/L/252</ref>により附属書4から削除された。
** (C) [[国際酪農品協定]](1997年末に終了)
** (D) [[国際牛肉協定]](1997年末に終了)
== WTO協定の改正 ==
=== 改正手続 ===
WTO協定の改正については、協定第10条に規定がされている。
# 改正案をすべての加盟国が受諾したときに発効するもの(第2項)。
#: a. WTO協定第9条、第10条
#: b. 1994年のガットの第1条及び第2条
#: c. サービス貿易一般協定第2条1
#: d. 貿易関連知的所有権協定第4条
# 改正案を加盟国の3分の2が受諾した時に当該改正を受諾した加盟国について効力を生じ、その後は、その他の各加盟国について、それぞれによる受諾の時に効力を生ずるもの(第3項、第5項)
#: a. WTO協定(本体)又は附属書1A及び附属書1Cの多角的貿易協定の改正(1及び4に規定する規定の改正を除く。)であって、加盟国の権利及び義務を変更する性質のもの
#: b. サービス貿易一般協定の第一部から第三部までの規定及び同協定の各附属書
# 改正案を加盟国の3分の2が受諾した時にすべての加盟国について効力を生ずるもの(第4項、第5項)
#: a. WTO協定(本体)又は附属書1A及び附属書1Cの多角的貿易協定の改正(1及び4に規定する規定の改正を除く。)であって、加盟国の権利及び義務を変更しない性質のもの
#: b. サービス貿易一般協定の第四部から第六部までの規定及び同協定の各附属書<ref group="注">同協定の各附属書が重複している。これはWTO協定第10条第5項の外務省訳をそのまま引用したものである。この部分の原文は“Parts IV, V and VI of GATS and the respective annexes “であり、「サービス貿易一般協定の第四部から第六部までの規定及びこれに関する附属書」とすべきものと思われる。</ref>
# 閣僚会議が採択のみで、その後の正式な受諾の手続を要しない(第6項)
#: TRIPS協定の改正であって同協定第71条2の要件を満たすもの
# 閣僚会議が承認した時にすべての加盟国について効力を生ずるもの(第8項)
#: 附属書第2及び第3
# 附属書第4の複数国間貿易協定の改正については、当該協定の定めるところによる(第10項)
=== 改正状況 ===
WTO発足以来、閣僚会議で採択<ref group="注">漁業補助金協定以外は、実際にはすべて閣僚会議の権限を代行する一般理事会で採択。</ref>された協定の改正は次の4つであり、漁業補助金協定以外はいずれも発効している。
==== TRIPS協定の改正 ====
開発途上国における公衆の健康の問題に対処するため、特許権者以外の者が感染症に関する医薬品を生産し、これら諸国に輸出することを可能とするよう、加盟国がこのような生産等を認めるための条件を緩和する規定(第31条の2)を追加する。
* 2005年12月6日に一般理事会で採択。
* 2017年1月23日に、受諾が改正発効に必要な全加盟国の3分の2を超え、同日改正が発効した<ref>WT/Let/1236</ref><ref>[https://www.wto.org/english/news_e/news17_e/trip_23jan17_e.htm 2017 News items - WTO IP rules amended to ease poor countries’ access to affordable medicines] WTO</ref>。
* 受諾国 - 110か国+EU(WTO加盟国中、未受諾31か国。2023年4月5日現在)<ref>[https://www.wto.org/english/tratop_e/trips_e/amendment_e.htm intellectual property (TRIPS) and public health: Members accepting amendment] WTO</ref>
*: (注) EUによるTRIPS協定改正の受諾は、EU及びその加盟国を拘束する。なお、クロアチアは、EU加盟前にTRIPS協定改正を受諾している。イギリスは、EUから離脱し移行期間が2020年12月31日で終了した後、再度個別の加盟国として改正を受諾した<ref>WT/LET/1500</ref>。
==== 貿易円滑化協定の追加 ====
税関手続の透明性の向上及び迅速化等のため、WTO協定を改正し、貿易の円滑化に関する協定を追加するものである。
* 2004年11月、WTOドーハ・ラウンド交渉の一分野として貿易の円滑化に関する交渉を開始
* 2013年12月、第9回WTO閣僚会議において貿易の円滑化に関する協定について合意(バリ合意の一部)
* 2014年11月27日に一般理事会で貿易円滑化協定協定をWTO協定に追加するための改正議定書を採択
* 2017年2月22日にチャド、ヨルダン、オマーン及びルワンダが受諾した結果、受諾国が84か国になり、EU加盟国28か国(EUは2015年10月5日に受諾)を加えた112か国が受諾したことになり、改正発効に必要な全加盟国の3分の2に達したため、同日改正が発効した<ref>wt/lwt/140</ref><ref>[https://www.wto.org/english/news_e/news17_e/fac_27feb17_e.htm 2017 News items - WTO members welcome entry into force of the Trade Facilitation Agreement] WTO</ref>。
* 受諾国 - 129か国+EU(WTO加盟国中、未受諾7か国。2022年9月20日現在)<ref>[https://www.wto.org/english/tratop_e/tradfa_e/tradfa_agreeacc_e.htm Trade topics - Trade facilitation - Background] WTO</ref>。未受諾国:ベネズエラ、コンゴ民主共和国、ハイチ、モーリタニア、スリナム、トンガ、イエメン
*: (注) EUによる貿易円滑化協定の受諾は、EUを拘束する。改正発効に必要な受諾数の算定においては、EUの受諾はWTOの加盟国であるEU加盟国の数に等しい数の加盟国による受諾として算入する<ref group="注">この意味するところは、EUの受諾は、その加盟国である28か国(貿易円滑化協定の受諾時点の数)の受諾として発効に必要な受諾数を算定する(EU自体の受諾を1としてカウントはしない)ということである。</ref>。(WTO協定改正議定書パラ4)。EU加盟国の受諾日はEUの受諾日である。なおイギリスについては、離脱協定による移行期間内は、EU加盟国とみなされていたが、移行期間が2020年12月31日で終了した後、再度個別の加盟国として協定を受諾した<ref>WT/LET/1501</ref>。
==== 漁業補助金協定の追加 ====
海洋水産資源の持続可能な利用と保全のため、有害な漁業補助金を禁止するため、WTO協定を改正し、漁業補助金協定を追加するものである。
* 2001年、WTOドーハ・ラウンド交渉の一分野として漁業補助金開始<ref name="maff1">{{cite news|title = WTO漁業補助金交渉の経緯・現状|url = https://www.maff.go.jp/j/kokusai/kousyo/wto/pdf/WTO_fish.pdf|publisher = 農林水産省|date = | accessdate = 2022-07-29}}</ref>。
* 2015年、「持続可能な開発目標(SDGs)」が国連で採択され、目標14.6で、2020年までの特定の形の漁業補助金の禁止が掲げられたことで交渉がが加速。SDGs(持続的開発⽬標)において、過剰漁獲能⼒や過剰漁獲につながる漁業補助⾦の禁⽌等を規定。これを契機に交渉が活性化<ref name="maff1" />。
* 2019年11⽉、日本、EU、韓国、台湾が共同提案を提出<ref name="maff1" />。
* 2021年11⽉、議⻑テキストの第5改訂版が提⽰<ref name="maff1" />。
* 2022年6月17日、第12回WTO閣僚会議で漁業補助金協定をWTO協定に追加するための改正議定書<ref>WTO文書WT/L/1144</ref>を採択<ref name="maff2">{{cite news|title =第12回WTO閣僚会議の結果概要について|url = https://www.maff.go.jp/j/press/y_kokusai/kikou/220617.html|publisher = 農林水産省|date = 2022-06-17| accessdate = 2022-07-29}}</ref>
* 2023年1月20日、スイスが初めての受諾国となった<ref>[https://www.wto.org/english/news_e/news23_e/fish_20jan23_e.htm Switzerland is first WTO member to formally accept new Agreement on Fisheries Subsidies] WTO</ref>。
* 受諾国 - 55か国+EU(2023年12月13日現在)<ref>[https://www.wto.org/english/tratop_e/rulesneg_e/fish_e/fish_acceptances_e.htm Members submitting acceptance of Agreement on Fisheries Subsidies]</ref>
*: (注) EUによる漁業補助金協定の受諾は、EUを拘束する。改正発効に必要な受諾数の算定においては、EUの受諾はWTOの加盟国であるEU加盟国の数に等しい数の加盟国による受諾として算入する<ref group="注">この意味するところは、EUの受諾は、その加盟国である27か国(漁業補助金協定の受諾時点の数)の受諾として発効に必要な受諾数を算定する(EU自体の受諾を1としてカウントはしない)ということである。</ref>
==== 附属書3貿易政策検討制度の改正 ====
WTO協定附属書3により加盟国の貿易政策・慣行につき透明性を確保し、理解を深める観点から、加盟国の貿易政策等についての質疑応答を中心とする貿易審査会合を定期的に行うことになっている。この制度を貿易政策検討制度(TPRM:Trade Policy Review Mechanism)といい、審査の周期は、
最大の影響力を有する4の加盟国(欧州共同体は、1の加盟国として取り扱う。)は、2年
次の16の加盟国は、4年
その他の加盟国は、後発開発途上加盟国について一層長い期間が定められる場合を除くほか、6年
となっていたが、加盟国の増加により審査の運営が逼迫している状況に鑑み<ref>{{cite news|title = 2018年版不公正貿易報告書第Ⅱ部 WTO協定と主要ケース第18章 貿易政策・措置の監視|url = https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/tsusho_boeki/fukosei_boeki/pdf/2018_02_18.pdf|publisher = 経済産業省|date = 2018/6/18| accessdate = 2019/1/15}}</ref>これをそれぞれ3年、5年、7年に延長するもので2017年7月26日に一般理事会で採択<ref> WT/L/1014</ref>され、2017年9月14日に各加盟国に通報された<ref> WT/L/1276</ref>。改正は決定の第2項により2019年1月1日に発効した<ref> WT/L/1423</ref>。なお附属書3の改正は閣僚会議が承認した時にすべての加盟国について効力を生ずるものとなっており個別の受諾を要しない。
=== 改正の受諾状況 ===
{| class="wikitable" style="width:133%" style="font-size:75%;"
|-
!style="white-space: nowrap;"|加盟国・地域!!style="white-space:nowrap" |WTO加盟日!!style="white-space:nowrap" |TRIPS協定改正受諾日!!Rstyle="white-space:nowrap" |WTO文書!! style="white-space:nowrap" |貿易円滑化協定受諾日!! style="white-space:nowrap" |!WTO文書!!style="white-space:nowrap" |漁業補助金協定受諾日!!style="white-space:nowrap" |WTO文書
|-
|style="text-align: left;"| アンティグア・バーブーダ || 1995年1月1日 || 2021年5月12日 || WT/Let/1551 || 2017年11月27日|| WT/Let/1325 || ||
|-
|| アルゼンチン || 1995年1月1日 || 2011年10月20日 || WT/Let/830 || 2018年1月22日 || WT/Let/1332
|| ||
|-
|| オーストラリア || 1995年1月1日 || 2007年9月12日 || WT/Let/593 || 2015年6月8日 || WT/Let/1043
|| 2023年10月23日 ||WT/Let/1634
|-
|| オーストリア || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| バーレーン || 1995年1月1日 || 2009年8月4日 || WT/Let/652 || 2016年11月23日 || WT/Let/1199
|| ||
|-
|| バングラデシュ || 1995年1月1日 || 2011年3月15日 || WT/Let/758 || 2016年9月27日 || WT/Let/1201
|| ||
|-
|| バルバドス || 1995年1月1日 || 2020年4月1日 || WT/Let/1466 || 2018年1月31日 || WT/Let/1336
|| ||
|-
|| ベルギー || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ベリーズ || 1995年1月1日 || 2016年9月15日 || WT/Let/1197 || 2015年9月1日 || WT/Let/1077
|| 2023年6月16日 || WT/Let/1616
|-
|| ベネズエラ || 1995年1月1日 || || || ||
|| ||
|-
|| ブラジル || 1995年1月1日 || 2008年11月13日 || WT/Let/636 || 2016年3月29日 ||WT/Let/1151
|| ||
|-
|| ブルネイ || 1995年1月1日 || 2015年4月10日 || WT/Let/1037 || 2015年12月15日 || WT/Let/1111
|| ||
|-
|| カナダ || 1995年1月1日 || 2009年6月16日 || WT/Let/646 || 2016年12月16日 || WT/Let/1125
|| 2023年5月2日 || WT/Let/1607
|-
|| チリ || 1995年1月1日 || 2013年7月26日 || WT/Let/888 || 2016年11月21日 || WT/Let/1214
||2023年12月12日 || WT/Let/1645
|-
|| コスタリカ || 1995年1月1日 || 2011年12月8日 || WT/Let/838 || 2017年5月1日 || WT/Let/838
|| ||
|-
|| コートジボワール || 1995年1月1日 || 2018年5月7日 || WT/Let/1353 || 2015年12月8日 || WT/Let/1255
||2023年10月23日 ||WT/Let/1635
|-
|| チェコ || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| デンマーク || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ドミニカ国 || 1995年1月1日 || 2016年11月28日 || WT/Let/1219 || 2016年11月28日 || WT/Let/1218
|| ||
|-
|| エスワティニ || 1995年1月1日 || 2022年5月23日 || WT/Let/1579 || 2016年11月21日 || WT/Let/1215
|| ||
|-
|| 欧州連合 || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| フィンランド || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| フランス || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ガボン || 1995年1月1日 || 2017年11月23日 || WT/Let/1324 || 2016年12月5日 || WT/Let/1222
|| 2023年7月12日 || WT/Let/1626
|-
|| ドイツ || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ガーナ || 1995年1月1日 || || || 2017年1月4日 || WT/Let/1229
|| ||
|-
|| ギリシャ || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ガイアナ || 1995年1月1日 || || || 2015年11月30日 || WT/Let/1102
|| ||
|-
|| ホンジュラス || 1995年1月1日 || 2011年12月16日 || WT/Let/843 || 2016年7月14日 || WT/Let/1179
|| ||
|-
|| 香港 || 1995年1月1日 || 2007年11月27日 || WT/Let/606 || 2014年12月8日 || WT/Let/1025
||2023年8月21日 || WT/Let/1629
|-
|| ハンガリー || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| アイスランド || 1995年1月1日 || 2015年10月12日 || WT/Let/1088 || 2016年10月31日 || WT/Let/1209
||2023年5月10日 || WT/Let/1609
|-
|| インド || 1995年1月1日 || 2007年3月26日 || WT/Let/572 ||2016年4月22日 || WT/Let/1154
|| ||
|-
|| インドネシア || 1995年1月1日 || 2011年10月20日 || WT/Let/831 || 2017年12月5日 || WT/Let/1327
|| ||
|-
|| アイルランド || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| イタリア || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| 日本 || 1995年1月1日 || 2007年8月31日 || WT/Let/592 || 2015年6月1日 || WT/Let/1042
||2023年7月3日 || WT/Let/1625
|-
|| ケニア || 1995年1月1日 || 2015年7月21日 || WT/Let/1052 || 2015年12月10日 || WT/Let/1109
|| ||
|-
|| クウェート || 1995年1月1日 || || || 2018年4月25日 || WT/Let/1352
|| ||
|-
|| ルクセンブルク || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| マカオ || 1995年1月1日 || 2009年6月16日 || WT/Let/645 ||2016年4月11日 ||WT/Let/1148
|| 2023年10月19日 ||WT/Let/1632
|-
|| マレーシア || 1995年1月1日 || 2015年12月10日 || WT/Let/1108 || 2015年5月26日 || WT/Let/1041
|| ||
|-
|| マルタ || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| モーリシャス || 1995年1月1日 || 2008年4月16日 || WT/Let/619 || 2015年3月5日 || WT/Let/1033
|| ||
|-
|| メキシコ || 1995年1月1日 || 2008年5月23日 || WT/Let/620 || 2016年7月26日 || WT/Let/1183
|| ||
|-
|| モロッコ || 1995年1月1日 || 2008年12月2日 || WT/Let/638 || 2019年5月14日 || WT/Let/1435
|| ||
|-
|| ミャンマー || 1995年1月1日 || 2015年12月16日 || WT/Let/1114 || 2015年12月16日 || WT/Let/1113
|| ||
|-
|| ナミビア || 1995年1月1日 || 2023年4月5日 || WT/Let/1604 || 2018年2月9日 || WT/Let/1339
|| ||
|-
|| オランダ || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| ニュージーランド || 1995年1月1日 || 2011年10月21日 || WT/Let/832 || 2015年9月29日 || WT/Let/1082
||2023年9月6日 || WT/Let/1630
|-
|| ナイジェリア || 1995年1月1日 || 2017年1月16日 || WT/Let/1235 || 2017年1月16日 || WT/Let/1237
||2023年6月12日 || WT/Let/1615
|-
|| ノルウェー || 1995年1月1日 || 2007年2月5日 || WT/Let/563 || 2015年12月16日 || WT/Let/1115
|| ||
|-
|| パキスタン || 1995年1月1日 || 2010年2月8日 || WT/Let/664 || 2015年10月27日 || WT/Let/1092
|| ||
|-
|| パラグアイ || 1995年1月1日 || 2018年7月4日 || WT/Let/1380 || 2016年3月1日 || WT/Let/1136
|| ||
|-
|| ペルー || 1995年1月1日 || 2016年9月13日 || WT/Let/1196 || 2016年7月27日 || WT/Let/1185
||2023年7月19日 || WT/Let/1627
|-
|| フィリピン || 1995年1月1日 || 2007年3月30日 || WT/Let/573 || 2016年10月27日 || WT/Let/1208
|| ||
|-
|| ポルトガル || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| 大韓民国 || 1995年1月1日 || 2007年1月24日 || WT/Let/558 || 2015年7月30日 || WT/Let/1062
|| 2023年10月23日 ||WT/Let/1637
|-
|| ルーマニア || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| セントルシア || 1995年1月1日 || 2016年5月2日 || WT/Let/1156 || 2015年12月8日 || WT/Let/1106
||2023年10月23日 ||WT/Let/1638
|-
|| セントビンセント・グレナディーン || 1995年1月1日 || 2017年5月9日 || WT/Let/1258 || 2017年1月9日 || WT/Let/1232
|| ||
|-
|| セネガル || 1995年1月1日 || 2011年1月18日 || WT/Let/753 || 2016年8月24日 || WT/Let/1193
|| ||
|-
|| シンガポール || 1995年1月1日 || 2007年9月28日 || WT/Let/594 || 2015年1月8日 || WT/Let/1028
||2023年2月10日|| WT/Let/1602
|-
|| スロバキア || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| 南アフリカ共和国 || 1995年1月1日 || 2016年2月23日 || WT/Let/1134 ||2017年11月30日 || WT/Let/1326
|| ||
|-
|| スペイン || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| スリランカ || 1995年1月1日 || 2015年9月9日 || WT/Let/1080 || 2016年5月31日 || WT/Let/1166
|| ||
|-
|| スリナム || 1995年1月1日 || || || ||
|| ||
|-
|| スウェーデン || 1995年1月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| タンザニア || 1995年1月1日 || 2016年3月14日 || WT/Let/1139 || 2020年4月8日 || WT/Let/1467
|| ||
|-
|| タイ || 1995年1月1日 || 2016年1月28日 || WT/Let/1132 || 2015年10月5日 || WT/Let/1087
|| ||
|-
|| ウガンダ || 1995年1月1日 || 2010年7月12日 || WT/Let/678 || 2018年6月27日 || WT/Let/1366
|| ||
|-
|| イギリス || 1995年1月1日 || 2007年11月30日<ref group="注" name="UK date">EUとして受諾した日</ref> || WT/Let/608 || 2015年10月5日<ref group="注" name="UK date" /> || WT/Let/1090
||2023年12月13日 || WT/Let/1646
|-
|| アメリカ合衆国 || 1995年1月1日 || 2005年12月17日 || WT/Let/506 || 2015年1月23日 || WT/Let/1029
||2023年4月14日 || WT/Let/1606
|-
|| ウルグアイ || 1995年1月1日 || 2014年7月31日 || WT/Let/984 || 2016年8月30日 || WT/Let/1194
|| ||
|-
|| ザンビア || 1995年1月1日 ||2009年8月10日 || WT/Let/651|| 2015年12月16日 || WT/Let/1116
|| ||
|-
|| トリニダード・トバゴ || 1995年3月1日 || 2013年9月19日 || WT/Let/894 || 2015年7月29日 || WT/Let/1061
|| ||
|-
|| ジンバブエ || 1995年3月5日 || || || 2018年10月17日 || WT/Let/1414
|| ||
|-
|| ドミニカ共和国 || 1995年3月9日 || 2013年5月23日 || WT/Let/884 || 2017年2月28日 || WT/Let/1244
|| ||
|-
|| ジャマイカ || 1995年3月9日 || || || 2016年1月19日 || WT/Let/1127
|| ||
|-
|| トルコ || 1995年3月26日 || 2014年5月14日 || WT/Let/949 || 2016年3月16日 || WT/Let/1143
|| ||
|-
|| チュニジア || 1995年3月29日 || || || 2020年7月17日 || WT/Let/1470
|| ||
|-
|| キューバ || 1995年4月20日 || 2018年6月6日 || WT/Let/1437 || 2017年3月12日 || WT/Let/1349
|| 2023年10月23日 ||WT/Let/1636
|-
|| イスラエル || 1995年4月21日 || 2007年8月10日 || WT/Let/582 || 2017年12月8日 || WT/Let/1328
|| ||
|-
|| コロンビア || 1995年4月30日 || 2009年8月7日 || WT/Let/650 ||2020年8月6日 || WT/Let/1472
|| ||
|-
|| エルサルバドル || 1995年5月7日 || 2006年9月19日 || WT/Let/548 || 2016年7月4日 || WT/Let/1178
|| ||
|-
|| ボツワナ || 1995年5月31日 || 2014年6月18日 || WT/Let/953 || 2015年6月18日 || WT/Let/1044
|| 2023年10月23日 || WT/Let/1639
|-
|| 中央アフリカ共和国 || 1995年5月31日 || 2014年1月13日 || WT/Let/920 ||2018年1月11日 || WT/Let/1330
|| ||
|-
|| ジブチ || 1995年5月31日 || || || 2018年3月5日 || WT/Let/1343
|| ||
|-
|| ギニアビサウ || 1995年5月31日 || || || 2022年9月20日 || WT/Let/1584
|| ||
|-
|| レソト || 1995年5月31日 || 2016年1月4日 || WT/Let/1122 || 2016年1月4日 || WT/Let/1121
|| ||
|-
|| マラウイ || 1995年5月31日 || 2017年7月24日 || WT/Let/1272 || 2017年7月12日 || WT/Let/1271
|| ||
|-
|| モルディブ || 1995年5月31日 ||2020年4月20日 || WT/Let/1576|| 2019年10月1日 || WT/Let/1447
|| ||
|-
|| マリ || 1995年5月31日 || 2016年1月1日 || WT/Let/1129 || 2016年1月20日 || WT/Let/1128
|| ||
|-
|| モーリタニア || 1995年5月31日 || || || ||
|| ||
|-
|| トーゴ || 1995年5月31日 || 2012年3月13日 || WT/Let/848 || 2015年10月1日 || WT/Let/1086
|| ||
|-
|| ブルキナファソ || 1995年6月3日 || || || 2018年9月21日 || WT/Let/1404
|| ||
|-
|| エジプト || 1995年6月30日 || 2008年4月18日 || WT/Let/617 || 2019年6月24日 || WT/Let/1439
|| ||
|-
|| ポーランド || 1995年7月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| 2023年6月7日 || WT/Let/1618
|-
|| スイス || 1995年7月1日 ||2006年9月13日 || WT/Let/547|| 2015年9月2日 || WT/Let/1076
|| 2023年1月20日|| WT/Let/1601
|-
|| グアテマラ || 1995年7月21日 || || || 2017年3月8日 || WT/Let/1246
|| ||
|-
|| ブルンジ || 1995年7月23日 || 2019年12月12日 || WT/Let/1455 || 2019年12月12日 || WT/Let/1454
|| ||
|-
|| シエラレオネ || 1995年7月23日 || 2017年3月21日 || WT/Let/1248 || 2017年5月5日 || WT/Let/1257
|| ||
|-
|| キプロス || 1995年7月30日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| スロベニア || 1995年7月30日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| モザンビーク || 1995年8月26日 || || || 2017年1月6日 || WT/Let/1230
|| ||
|-
|| リヒテンシュタイン || 1995年9月1日 || 2017年1月23日 || WT/Let/1235 || 2015年9月18日 || WT/Let/1081
|| ||
|-
|| ニカラグア || 1995年9月3日 || 2010年1月25日 || WT/Let/663 || 2015年8月4日 || WT/Let/1063
|| ||
|-
|| ボリビア || 1995年9月12日 || 2018年1月30日 || WT/Let/1334 || 2018年1月30日 || WT/Let/1335
|| ||
|-
|| ギニア || 1995年10月25日 || 2018年2月15日 || WT/Let/1340 || 2019年10月24日 || WT/Let/1451
|| ||
|-
|| マダガスカル || 1995年11月17日 || 2017年11月9日 || WT/Let/1321 || 2016年6月20日 || WT/Let/1172
|| ||
|-
|| カメルーン || style="white-space:nowrap" |1995年12月13日 || || || 2018年11月30日 || WT/Let/1421
|| ||
|-
|| カタール || 1996年1月13日 || 2016年4月6日 ||WT/Let/1147 || 2017年6月12日 ||WT/Let/1266
|| ||
|-
|| フィジー || 1996年1月14日 || 2017年5月1日 ||WT/Let/1254 || 2017年5月1日 ||WT/Let/1255
||2023年10月24日 ||WT/Let/1640
|-
|| エクアドル || 1996年1月21日 || 2022年3月8日 ||WT/Let/1562|| 2019年1月15日 ||WT/Let/1424
|| ||
|-
|| ハイチ || 1996年1月30日 || || || ||
|| ||
|-
|| セントクリストファー・ネイビス || 1996年2月21日 || 2015年7月27日 || WT/Let/1055 || 2016年6月17日 || WT/Let/1170
|| ||
|-
|| ベナン || 1996年2月22日 || 2016年11月23日 || WT/Let/1216|| 2018年3月28日 || WT/Let/1350
|| ||
|-
|| グレナダ || 1996年2月22日 || 2015年12月8日 || WT/Let/1107 || 2015年12月8日 || WT/Let/1105
|| ||
|-
|| アラブ首長国連邦 || 1996年4月10日 || 2017年1月23日 || WT/Let/1235 || 2016年4月18日 || WT/Let/1149
|| 2023年5月16日 || WT/Let/1610
|-
|| ルワンダ || 1996年5月22日 || 2011年12月12日 || WT/Let/839 || 2017年2月22日 || WT/Let/1240
|| ||
|-
|| パプアニューギニア || 1996年6月9日 || 2016年6月22日 || WT/Let/1173 || 2018年3月7日 || WT/Let/1347
|| ||
|-
|| ソロモン諸島 || 1996年7月26日 || || || 2022年4月14日 || WT/Let/1568
|| ||
|-
|| チャド || 1996年10月19日 || || || 2017年2月22日 || WT/Let/1240
|| ||
|-
|| ガンビア || 1996年10月23日 || 2020年10月20日 || WT/Let/1475 || 2017年7月11日 || WT/Let/1270
|| 2023年12月13日 || WT/Let/1647
|-
|| アンゴラ || 1996年11月23日 || || || 2019年4月9日 || WT/Let/1431
|| ||
|-
|| ブルガリア || 1996年12月1日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| ニジェール || 1996年12月13日 || 2020年3月12日 || WT/Let/1465 || 2015年8月6日 || WT/Let/1064
|| ||
|-
|| コンゴ民主共和国 || 1997年1月1日 || || || ||
|| ||
|-
|| モンゴル || 1997年1月29日 || 2010年9月17日 || WT/Let/684 || 2016年11月28日 || WT/Let/1217
|| ||
|-
|| コンゴ || 1997年3月27日 || || || 2017年10月7日 || WT/Let/1279
|| ||
|-
|| パナマ || 1997年9月6日 || 2011年11月24日 || WT/Let/837 || 2015年11月17日 || WT/Let/1100
|| ||
|-
|| キルギス || 1998年12月20日 || 2018年2月6日|| WT/Let/1338 || 2016年12月6日 || WT/Let/1223
|| ||
|-
|| ラトビア || 1999年2月10日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| エストニア || 1999年11月13日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| ヨルダン || 2000年4月11日 || 2008年8月6日 || WT/Let/630 || 2017年2月22日 || WT/Let/1240
|| ||
|-
|| ジョージア || 2000年6月14日 || 2018年11月21日 || WT/Let/1420tr || 2016年1月4日 || WT/Let/1123
|| ||
|-
|| アルバニア || 2000年9月8日 || 2009年1月28日 || WT/Let/639 ||2016年5月10日|| WT/Let/1161
|| 2023年10月23日 ||WT/Let/1633
|-
|| オマーン || 2000年11月9日 || 2017年3月1日 || WT/Let/1245 || 2017年2月22日 || WT/Let/1240
|| ||
|-
|| クロアチア || 2000年11月30日 || 2010年12月6日 || WT/Let/747 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| リトアニア || 2001年5月31日 || 2007年11月30日 || WT/Let/608 || 2015年10月5日 || WT/Let/1090
|| ||
|-
|| モルドバ || 2001年7月26日 || 2015年7月7日 || WT/Let/1048 || 2016年6月24日 || WT/Let/1175
|| ||
|-
|| 中華人民共和国 || 2001年12月11日 || 2007年11月28日 || WT/Let/607 || 2015年9月4日 || WT/Let/1078
|| 2023年6月27日 || WT/Let/1624
|-
|| 台湾・澎湖・金門・馬祖 || 2002年1月11日 || 2012年7月31日 || WT/Let/870 || 2015年8月17日 || WT/Let/1069
|| ||
|-
|| アルメニア || 2003年2月5日 || || || 2017年3月20日 || WT/Let/1247
|| ||
|-
|| マケドニア || 2003年4月4日 || 2010年3月16日 || WT/Let/671 || 2015年10月19日 || WT/Let/1091
|| ||
|-
|| ネパール || 2004年4月23日 || 2016年3月11日 || WT/Let/1138 || 2017年1月24日 ||| WT/Let/1238
|| ||
|-
|| カンボジア || 2004年10月13日 || 2011年11月1日 || WT/Let/833 || 2016年2月12日 || WT/Let/1133
|| ||
|-
|| サウジアラビア || 2005年12月11日 || 2012年5月29日 || WT/Let/855 || 2016年7月28日 || WT/Let/1186
|| ||
|-
|| ベトナム || 2007年1月11日 || 2017年1月23日 || WT/Let/1235 || 2015年12月15日 || WT/Let/1112
|| ||
|-
|| トンガ || 2007年7月27日 || || || ||
|| ||
|-
|| ウクライナ || 2008年5月16日 ||2016年3月16日 ||WT/Let/1142 || 2015年12月16日 || WT/Let/1117
|| ||
|-
|| カーボベルデ || 2008年7月23日 || || || 2020年2月8日 ||WT/Let/1464
|| ||
|-
|| モンテネグロ || 2012年4月29日 || 2013年9月9日 || WT/Let/894 || 2016年5月10日
|| WT/Let/1160
|| ||
|-
|| サモア || 2012年5月10日 ||2016年4月21日 ||WT/Let/1153 ||2016年4月21日 ||WT/Let/1152
|| ||
|-
|| ロシア || 2012年8月22日 ||2017年9月22日 ||WT/Let/1278||2016年4月22日 ||WT/Let/1155
|| ||
|-
|| バヌアツ || 2012年8月24日 || || || 2020年5月6日 || WT/Let/1456
|| ||
|-
|| ラオス || 2013年2月2日 || 2015年9月29日 || WT/Let/1084 || 2015年9月29日 || WT/Let/1083
|| ||
|-
|| タジキスタン || 2013年3月2日 || 2016年5月23日 || WT/Let/1164 || 2019年7月2日 || WT/Let/1444
|| ||
|-
|| イエメン || 2014年6月26日 || || || ||
|| ||
|-
|| セイシェル || 2015年4月26日 || 2016年6月6日 || WT/Let/1168 || 2016年1月11日 || WT/Let/1124
|| 2023年3月10日 || WT/Let/1603
|-
|| カザフスタン || 2015年11月30日 || || || 2016年5月26日 || WT/Let/1165
|| ||
|-
|| リベリア || 2016年7月14日 || || || 2021年4月29日 || WT/Let/1550
|| ||
|-
|| アフガニスタン || 2016年7月29日 || || || 2016年7月29日 || WT/Let/1188 || ||
|}
== 加盟国・地域{{refnest|group="注"|WTOに加盟できるのは、すべての国または独立関税地域であるため、外務省ウェブサイト<ref name="kamei">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/data/kamei.html WTOへの加盟] 外務省</ref>に準拠して、表題を「加盟国・地域」とする。WTO協定の英文(正文)ではmemberとしており、国と特定する表現を避けているが、協定の外務省訳では加盟国としている。}} ==
原加盟国([[欧州連合]]<ref group="注">WTO発足時は欧州共同体。協定上、一般に[[関税同盟]]が加盟できる規定はなく、11条で欧州共同体に限り加盟できるとなっている。これは、欧州共同体以外の関税同盟は存在するが、それ自体で対外通商関係権限を有するものは、欧州共同体以外に存在せず、今後も見込まれないためである。</ref>及び地域<ref group="注">WTO協定上の正確な表現は、"separate customs territory possessing full autonomy in the conduct of its external commercial relations and of the other matters provided for in this Agreement and the Multilateral Trade Agreements" (対外通商関係その他この協定及び多角的貿易協定に規定する事項の処理について完全な自治権を有する独立の関税地域)WTO協定第12条。日本語はWTO協定の外務省訳による。なお、"separate customs territory"の外務省訳は「独立の関税地域」であって「個別の関税地域」ではない。</ref>を含む。以下の記述における加盟国、加盟申請中の国には、すべて加盟・加盟申請中の関税同盟及び地域を含むものであり、本来は表題と同じく、すべて国・地域と記述すべきであるが、煩瑣をさけるために加盟国、加盟申請中の国と表記する。加盟国の数は128(内77か国がWTOの発足時の加盟国)。現在の加盟国数は164。WTO設立後の加盟国の日付は加盟年月日。また、現在加入申請中の国は23ある。
以下の記述における加盟国の名称は外務省ウェブサイト<ref name="kamei" />の表記に準拠した。
最近の加盟国は、163番目の加盟国のリベリアと164番目の加盟国のアフガニスタンである。リベリアは2015年12月16日に<ref>WTO文書WT/L/973</ref>WTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月14日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月14日に正式加盟国になった。<ref>WT/LET/1171</ref>。
アフガニスタンは2015年12月17日に<ref>WTO文書WT/L/974</ref>WTO閣僚会議で加盟が承認された。2016年6月29日に国内手続きが終了した旨の受諾書がWTOに提出され、7月29日に正式加盟国になった<ref>WT/LET/1176</ref>。
WTOに長年加盟しなかったロシアは「最後の大国」と呼ばれ<ref>{{Cite news |url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE87K06220120821 |title=ロシアがWTO加盟 18年の交渉経て156番目の加盟国に |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2012-08-22 |accessdate=2012-10-27}}</ref>、1993年の加盟申請(この時点ではWTOの前身であるGATTへの加盟申請)の後、難航していた米国との二国間交渉が妥結したものの、天然ガスの価格問題等の近隣諸国との軋轢や、米国議会で2007年以降民主党が多数派になったこと、更に、[[ウクライナ]]が2008年5月16日にWTOに加盟したため、ウクライナとの二国間交渉が必要となったこと、2008年以降の経済状況の変化でロシアがそれまでの加盟合意の一部見直しを主張するなど、加盟交渉合意の目処がたたない状況が続いたが、2010年に入り、二国間交渉が大筋合意した。2011年10月にはロシアと領土問題を抱える[[ジョージア (国)|ジョージア]]がスイスによる仲介案を受け入れ障壁がなくなり、2011年12月16日に閣僚会議で加盟が承認された。その後、ロシア国内での手続が2012年7月に終了し、2012年8月22日に正式加盟が実現した<ref>{{cite news |url=http://www.wto.org/english/news_e/news11_e/acc_rus_16dec11_e.htm |title=WTO: 2011 NEWS ITEMS |publisher=World Trade Organization |accessdate=2011-12-17}}</ref>。
=== 原加盟国 ===
==== WTO発足時に加盟国になったもの(77か国<!-- 前述のように「加盟国、加盟申請中の国には、すべて加盟・加盟申請中の関税同盟及び地域を含むものであり、本来は表題と同じく、すべて国・地域と記述すべきであるが、煩瑣をさけるために加盟国、加盟申請中の国と表記する。」としています。従って個々に地域を入れないようにお願いします。-->) ====
{{col-begin}}
{{col-3}}
* {{flagicon|Japan}} [[日本]]
* {{flagicon|Ireland}} [[アイルランド]]
* {{flagicon|United States}} [[アメリカ合衆国]]
* {{flagicon|Argentina}} [[アルゼンチン]]
* {{flagicon|Antigua and Barbuda}} [[アンティグア・バーブーダ]]
* {{flagicon|United Kingdom}} [[イギリス]]
* {{flagicon|Italy}} [[イタリア]]
* {{flagicon|India}} [[インド]]
* {{flagicon|Indonesia}} [[インドネシア]]
* {{flagicon|Uganda}} [[ウガンダ]]
* {{flagicon|Uruguay}} [[ウルグアイ]]
* {{flagicon|Eswatini}} [[エスワティニ]]
* {{flagicon|Australia}} [[オーストラリア]]
* {{flagicon|Austria}} [[オーストリア]]
* {{flagicon|Netherlands}} [[オランダ]]<ref group="注">オランダは以前はWTOのリスト(WTO文書(WT/INF/43/Rev.10 18 July 2008)で“Netherlands - For the Kingdom in Europe and for the Netherlands Antilles”となっていたため、この表でも「オランダ領アンティルを含む。」していた。しかしオランダ領アンティルの地位の変更により現在のリスト(WTO文書(WT/INF/43/Rev.11 10 February 2012)では、単に”Netherlands"となったため、この表でも「オランダ領アンティルを含む。」という記載を削除した。</ref>
* {{flagicon|Canada}} [[カナダ]]
* {{flagicon|Ghana}} [[ガーナ]]
* {{flagicon|Guyana}} [[ガイアナ]]
* {{flagicon|Gabon}} [[ガボン]]
* {{flagicon|Greece}} [[ギリシャ]]
* {{flagicon|Kuwait}} [[クウェート]]
* {{flagicon|Croatia}} [[クロアチア]]
* {{flagicon|Kenya}} [[ケニア]]
* {{flagicon|Cote d'Ivoire}} [[コートジボワール]]
* {{flagicon|Costa Rica}} [[コスタリカ]]
* {{flagicon|Zambia}} [[ザンビア]]
{{col-3}}
* {{flagicon|Singapore}} [[シンガポール]]
* {{flagicon|Sweden}} [[スウェーデン]]
* {{flagicon|Spain}} [[スペイン]]
* {{flagicon|Suriname}} [[スリナム]]
* {{flagicon|Sri Lanka}} [[スリランカ]]
* {{flagicon|Slovakia}} [[スロバキア]]
* {{flagicon|Senegal}} [[セネガル]]
* {{flagicon|Saint Vincent and the Grenadines}} [[セントビンセント・グレナディーン]]
* {{flagicon|Saint Lucia}} [[セントルシア]]
* {{flagicon|Thailand}} [[タイ王国|タイ]]
* {{flagicon|South Korea}} [[大韓民国]]
* {{flagicon|Tanzania}} [[タンザニア]]
* {{flagicon|Czech Republic}} [[チェコ]]
* {{flagicon|Chile}} [[チリ]]
* {{flagicon|Denmark}} [[デンマーク]]
* {{flagicon|Germany}} [[ドイツ]]
* {{flagicon|Dominica}} [[ドミニカ国]]
* {{flagicon|Nigeria }} [[ナイジェリア]]
* {{flagicon|Namibia}} [[ナミビア]]
* {{flagicon|Iceland}} [[アイスランド]]
* {{flagicon|New Zealand}} [[ニュージーランド]]
* {{flagicon|Norway}} [[ノルウェー]]
* {{flagicon|Hungary}} [[ハンガリー]]
* {{flagicon|Bahrain}} [[バーレーン]]
* {{flagicon|Barbados}} [[バルバドス]]
* {{flagicon|Bangladesh}} [[バングラデシュ]]
{{col-3}}
* {{flagicon|Pakistan}} [[パキスタン]]
* {{flagicon|Paraguay}} [[パラグアイ]]
* {{flagicon|Philippines}} [[フィリピン]]
* {{flagicon|Finland}} [[フィンランド]]
* {{flagicon|France}} [[フランス]]
* {{flagicon|Brazil}} [[ブラジル]]
* {{flagicon|Brunei}} [[ブルネイ]]
* {{flagicon|Venezuela}} [[ベネズエラ]]
* {{flagicon|Belize}} [[ベリーズ]]
* {{flagicon|Belgium}} [[ベルギー]]
* {{flagicon|Peru}} [[ペルー]]
* {{flagicon|Honduras}} [[ホンジュラス]]
* {{flagicon|Portugal}} [[ポルトガル]]
* {{flagicon|Hong Kong}} [[香港]]
* {{flagicon|Macau}} [[マカオ]]
* {{flagicon|Malta}} [[マルタ]]
* {{flagicon|Malaysia}} [[マレーシア]]
* {{flagicon|South Africa}} [[南アフリカ共和国]]
* {{flagicon|Myanmar}} [[ミャンマー]]
* {{flagicon|Mexico}} [[メキシコ]]
* {{flagicon|Mauritius}} [[モーリシャス]]
* {{flagicon|Morocco}} [[モロッコ]]
* {{flagicon|EU}} [[ヨーロッパ共同体]](関税同盟)
* {{flagicon|Romania}} [[ルーマニア]]
* {{flagicon|Luxembourg}} [[ルクセンブルク]]
{{col-end}}
==== WTO設立協定第11条に基づく原加盟国(46か国) ====
WTO設立協定第11条
: この協定が効力を生ずる日における1947年のGATTの締約国及び欧州共同体であって、この協定及び多角的貿易協定を受諾し、かつ、1994年のGATTに自己の譲許表が附属され及びサービス貿易一般協定に自己の特定の約束に係る表が附属されているものは、世界貿易機関の原加盟国となる
に基づき、1947年のGATTの締約国だった国で、ウルグアイラウンドの最終議定書により自己の譲許表及び特定の約束に係る表を1994年のGATT及びGATSに附属させた国又は地域がWTOに入った場合、協定の受諾が遅れてWTO発足以後に加盟した場合でも原加盟国として扱われる。1947年のGATTの締約国であるが、ウルグアイラウンドの最終議定書に自己の譲許表及び約束表を附属させることができなかった国<ref>[[カタール]]、[[セントクリストファー・ネイビス]]、[[グレナダ]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[パプアニューギニア]]</ref>は、WTO協定第12条に基づき加盟することとなった<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/wto_status_legal_inst15_e.pdf |publisher= World Trade Organization t |title= Status of WTO Legal Instruments |date= 2015|accessdate= 2019/3/7}}</ref><ref>WT/L/30</ref>。なお、WTO発足時に1947年のGATTの加盟国だった国(ウルグアイラウンドに参加しなかったユーゴスラビアを除く。)はすべて世界貿易機関の加盟国になっている。
{{col-begin}}
{{col-2}}
* [[1995年]]
** [[3月1日]] - {{flagicon|Trinidad and Tobago}} [[トリニダード・トバゴ]]
** [[3月5日]] - {{flagicon|Zimbabwe}} [[ジンバブエ]]
** [[3月9日]] - {{flagicon|Jamaica}} [[ジャマイカ]]
** 3月9日 - {{flagicon|Dominican Republic}} [[ドミニカ共和国]]
** [[3月26日]] - {{flagicon|Turkey}} [[トルコ]]
** [[3月29日]] - {{flagicon|Tunisia}} [[チュニジア]]
** [[4月20日]] - {{flagicon|Cuba}} [[キューバ]]
** [[4月21日]] - {{flagicon|Israel}} [[イスラエル]]
** [[4月30日]] - {{flagicon|Colombia}} [[コロンビア]]
** [[5月7日]] - {{flagicon|El Salvador}} [[エルサルバドル]]
** [[5月31日]] - {{flagicon|Guinea-Bissau}} [[ギニアビサウ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Djibouti}} [[ジブチ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Central African Republic}} [[中央アフリカ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Togo}} [[トーゴ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Botswana}} [[ボツワナ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Malawi}} [[マラウイ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Mali}} [[マリ共和国|マリ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Mauritania}} [[モーリタニア]]
** 5月31日 - {{flagicon|Maldives}} [[モルディブ]]
** 5月31日 - {{flagicon|Lesotho}} [[レソト]]
** [[6月3日]] - {{flagicon|Burkina Faso}} [[ブルキナファソ]]
** [[6月30日]] - {{flagicon|Egypt}} [[エジプト]]
** [[7月1日]] - {{flagicon|Switzerland}} [[スイス]]
** 7月1日 - {{flagicon|Poland}} [[ポーランド]]
** [[7月23日]] - {{flagicon|Sierra Leone}} [[シエラレオネ]]
{{col-2}}
* 1995年続き
** 7月23日 - {{flagicon|Burundi}} [[ブルンジ]]
** [[7月21日]] - {{flagicon|Guatemala}} [[グアテマラ]]
** [[7月30日]] - {{flagicon|Cyprus}} [[キプロス]]
** 7月30日 - {{flagicon|Slovenia}} [[スロベニア]]
** [[8月26日]] - {{flagicon|Mozambique}} [[モザンビーク]]
** [[9月1日]] - {{flagicon|Liechtenstein}} [[リヒテンシュタイン]]
** [[9月3日]] - {{flagicon|Nicaragua}} [[ニカラグア]]
** [[9月12日]] - {{flagicon|Bolivia}} [[ボリビア]]
** [[10月25日]] - {{flagicon|Guinea}} [[ギニア]]
** [[11月17日]] - {{flagicon|Madagascar}} [[マダガスカル]]
** [[12月13日]] - {{flagicon|Cameroon}} [[カメルーン]]
* [[1996年]]
** [[1月14日]] - {{flagicon|Fiji}} [[フィジー]]
** [[1月30日]] - {{flagicon|Haiti}} [[ハイチ]]
** [[2月22日]] - {{flagicon|Benin}} [[ベナン]]
** [[5月22日]] - {{flagicon|Rwanda}} [[ルワンダ]]
** [[7月26日]] - {{flagicon|Solomon Islands}} [[ソロモン諸島]]
** [[10月19日]] - {{flagicon|Chad}} [[チャド]]
** [[10月23日]] - {{flagicon|Gambia}} [[ガンビア]]
** [[11月23日]] - {{flagicon|Angola}} [[アンゴラ]]
** [[12月13日]] - {{flagicon|Niger}} [[ニジェール]]
* [[1997年]]
** [[1月1日]] - {{flagicon|Democratic Republic of the Congo}} [[コンゴ民主共和国]]
** [[3月27日]] - {{flagicon|Republic of the Congo}} [[コンゴ共和国]]
{{col-end}}
=== WTO発足後に新たに加盟した国(41か国) ===
WTO協定第12条に基づく加入交渉を経て新たに加盟した国がこれに該当する。
{{col-begin}}
{{col-2}}
* [[1996年]]
** [[1月13日]] - {{flagicon|Qatar}} [[カタール]]
** [[1月21日]] - {{flagicon|Ecuador}} [[エクアドル]]
** [[2月21日]] - {{flagicon|Saint Kitts and Nevis}} [[セントクリストファー・ネイビス]]
** [[2月22日]] - {{flagicon|Grenada}} [[グレナダ]]
** [[4月10日]] - {{flagicon|UAE}} [[アラブ首長国連邦]]
** [[6月9日]] - {{flagicon|Papua New Guinea}} [[パプアニューギニア]]
** [[12月1日]] - {{flagicon|Bulgaria}} [[ブルガリア]]
* [[1997年]]
** [[1月29日]] - {{flagicon|Mongolia}} [[モンゴル]]
** [[9月6日]] - {{flagicon|Panama}} [[パナマ]]
* [[1998年]]
** [[12月20日]] - {{flagicon|Kyrgyzstan}} [[キルギス]]
* [[1999年]]
** [[2月10日]] - {{flagicon|Latvia}} [[ラトビア]]
** [[11月13日]] - {{flagicon|Estonia}} [[エストニア]]
* [[2000年]]
** [[4月11日]] - {{flagicon|Jordan}} [[ヨルダン]]
** [[6月14日]] - {{flagicon|Georgia}} [[ジョージア (国)|ジョージア]]
** [[9月8日]] - {{flagicon|Albania}} [[アルバニア]]
** [[11月9日]] - {{flagicon|Oman}} [[オマーン]]
** [[11月30日]] - {{flagicon|Croatia}} [[クロアチア]]
* [[2001年]]
** [[5月31日]] - {{flagicon|Lithuania}} [[リトアニア]]
** [[7月26日]] - {{flagicon|Moldova}} [[モルドバ]]
** [[12月11日]] - {{flagicon|China}} [[中華人民共和国]]
* [[2002年]]
** [[1月1日]] - {{flagicon|ROC}} [[台湾]] <ref group="注">WTOにおいては、通常"Chinese Taipei"を使用し、正式な名称は“Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu”(台湾、澎湖諸島、金門及び馬祖から成る独立の関税地域)なお、日本語については、マルチチップ集積回路に対する無税待遇の付与に関する協定(平成18年条約第5号)における外務省訳による。</ref>
{{col-2}}
* [[2003年]]
** [[2月5日]] - {{flagicon|Armenia}} [[アルメニア]]
** [[4月4日]] - {{flagicon|Macedonia}} [[北マケドニア]]
** [[4月23日]] - {{flagicon|Nepal}} [[ネパール]]
** [[10月13日]] - {{flagicon|Cambodia}} [[カンボジア]]
* [[2005年]]
** [[12月11日]] - {{flagicon|Saudi Arabia}} [[サウジアラビア]]
* [[2007年]]
** [[1月11日]] - {{flagicon|Vietnam}} [[ベトナム]]
** [[7月27日]] - {{flagicon|Tonga}} [[トンガ]]
* [[2008年]]
** [[5月16日]] - {{flagicon|Ukraine}} [[ウクライナ]]
** [[7月23日]] - {{flagicon|Cape Verde}} [[カーボベルデ]]
* [[2012年]]
** [[4月29日]] - {{flagicon|Montenegro}} [[モンテネグロ]]
** [[5月10日]] - {{flagicon|Samoa}} [[サモア]]
** [[8月22日]] - {{flagicon|Russia}} [[ロシア]]
** [[8月24日]] - {{flagicon|Vanuatu}} [[バヌアツ]]
* [[2013年]]
** [[2月2日]] - {{flagicon|Laos}} [[ラオス]]
** [[3月2日]] - {{flagicon|Tajikistan}} [[タジキスタン]]
* [[2014年]]
** [[6月26日]] - {{flagicon|Yemen}} [[イエメン]]
* [[2015年]]
** [[4月26日]] - {{flagicon|Seychelles}} [[セーシェル]]
** [[11月30日]] - {{flagicon|Kazakhstan}} [[カザフスタン]]
* [[2016年]]
** [[7月14日]] - {{flagicon|Liberia}} [[リベリア]]
** [[7月29日]] - {{flagicon|Afghanistan}} [[アフガニスタン]]
{{col-end}}
=== 加盟申請中の国(24か国) ===
{{col-begin}}
{{col-2}}
* ''' 加盟を前提とするオブザーバー承認国'''(0か国)
* '''A 加盟作業部会(WP)未設置'''(0か国)
* '''B WP設置後・未開催'''(7か国)
** {{flagicon|Curaçao}} [[キュラソー (オランダ王国)|キュラソー]]
** {{flagicon|Equatorial Guinea}} [[赤道ギニア]]
** {{flagicon|Iran}} [[イラン]]
** {{flagicon|Libya}} [[リビア]]
** {{flagicon|Somalia}} [[ソマリア]]
** {{flagicon|Syria}} [[シリア]]
** {{flagicon|Turkmenistan}} [[トルクメニスタン]]<ref group="注">2020年7月22日の一般理事会において、加盟申請を前提としてオブザーバーステータスを付与することが決定され、2021年11月24日加盟申請が提出された。</ref><ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/news_e/news22_e/acc_23feb22_e.htm|publisher= WTO|title= WTO members initiate membership talks for Turkmenistan|date= 2022-02-23 |accessdate= 2022-03-04}}</ref>。
* '''C WP開催・二国間交渉オファー未交渉'''(5か国)
** {{flagicon|East Timor}} [[東ティモール]]
** {{flagicon|Ethiopia}} [[エチオピア]]
** {{flagicon|Iraq}} [[イラク]]
** {{flagicon|São Tomé and Príncipe}} [[サントメ・プリンシペ]]
** {{flagicon|South Sudan}} [[南スーダン]]
{{col-2}}
* '''D 二国間交渉オファー交渉中'''(4か国)
** {{flagicon|Andorra}} [[アンドラ]]
** {{flagicon|Bahamas}} [[バハマ]]
** {{flagicon|Sudan}} [[スーダン]]
** {{flagicon|Uzbekistan}} [[ウズベキスタン]]
* '''E WP報告書案審査中'''(8か国)
** {{flagicon|Azerbaijan}} [[アゼルバイジャン]]
** {{flagicon|Algeria}} [[アルジェリア]]
** {{flagicon|Bosnia and Herzegovina}} [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
** {{flagicon|Bhutan}} [[ブータン]]
** {{flagicon|Belarus}} [[ベラルーシ]]
** {{flagicon|Comoros}} [[コモロ]]
** {{flagicon|Lebanon}} [[レバノン]]
** {{flagicon|Serbia}} [[セルビア]]
* '''F 加盟承認待ち'''(0か国)
* '''G 加盟議定書受諾手続中'''(0か国)
* '''H 加盟議定書受諾・発効待ち'''(0か国)
{{col-end}}
=== WTOオブザーバー(25か国) ===
上記の加盟申請中・申請予定の24か国に
* {{flagicon|Vatican City}} [[バチカン]]
を加えた25か国である。
WTOオブザーバーは、オブザーバー承認後5年以内に加盟申請が義務付けられているが、バチカンは例外的に加盟申請を前提としないオブザーバーの地位が認められている。また、国際機関に対し、WTOの各機関ごとにオブザーバーの地位が認められている。
=== 参考:非加盟国(13か国) ===
国際連合加盟国又は日本が承認している国で、WTO加盟国でもオブザーバーでもない国
{{col-begin}}
{{col-2}}
* {{flagicon|Eritrea}} [[エリトリア]]
* {{flagicon|North Korea}} [[北朝鮮]]
* {{flagicon|Monaco}} [[モナコ]]
* {{flagicon|San Marino}} [[サンマリノ]]
* {{flagicon|Kiribati}} [[キリバス]]
* {{flagicon|Tuvalu}} [[ツバル]]
* {{flagicon|Nauru}} [[ナウル]]
{{col-2}}
* {{flagicon|Palau}} [[パラオ]]
* {{flagicon|Marshall Islands}} [[マーシャル]]
* {{flagicon|Micronesia}} [[ミクロネシア]]
* {{flagicon|Kosovo}} [[コソボ]]
* {{flagicon|Cook Islands}} [[クック諸島]]
* {{Flagicon|NIU}} [[ニウエ]]
{{col-end}}
== 紛争解決機関上級委員 ==
{| class="wikitable style="width:133%" style="font-size:90%;"
! 氏名 !! 国籍 !! 在任期間(2018年以前の前職は年のみ表示)
|-
| rowspan="2" | Georges Michel Abi-Saab
|rowspan="2" | エジプト || 2000 — 2004
|-
| 2004 — 2008
|-
| rowspan="2" | James Bacchus
|rowspan="2" | アメリカ合衆国 || 1995 — 1999
|-
| 1999 — 2003
|-
| rowspan="2" | Luiz Olavo Baptista
|rowspan="2" | ブラジル|| 2001 — 2005
|-
| 2005 — 2009
|-
|| Lilia R Bautista
| フィリピン || 2007 — 2011
|-
| rowspan="2" | Christopher Beeby
|rowspan="2" | ニュージーランド || 1995 — 1999
|-
| 1999 — 2000
|-
| rowspan="2" | Peter Van den Bossche
|rowspan="2" | ベルギー || 2009 — 2013
|-
| 2013 — 2017
|-
||Seung Wha Chang || 大韓民国 || 2012 — 2016
|-
| rowspan="2" | Claus-Dieter Ehlermann
|rowspan="2" | ドイツ || 1995 — 1997
|-
| 1997 — 2001
|-
| rowspan="2" | Said El-Naggar
|rowspan="2" | エジプト || 1995 — 1999
|-
| 1999 — 2000
|-
| rowspan="2" | Florentino Feliciano
|rowspan="2" | フィリピン || 1995 — 1997
|-
| 1997 — 2001
|-
| rowspan="2" | Arumugamangalam Venkatachalam Ganesan
|rowspan="2" | インド || 2000 — 2004
|-
| 2004 — 2008
|-
| Jennifer Hillman
| アメリカ合衆国 || 2007 — 2011
|-
| rowspan="2" | Ricardo Ramírez-Hernández
|rowspan="2" | メキシコ || 2009 — 2013
|-
| 2013 — 2017
|-
|| Merit E. Janow
| アメリカ合衆国 || 2003 — 2007
|-
| rowspan="2" | Julio Lacarte-Muró
|rowspan="2" | ウルグアイ || 1995 — 1997
|-
| 1997 — 2001
|-
| rowspan="2" | John Lockhart
|rowspan="2" | オーストラリア || 2001 — 2005
|-
| 2005 — 2006
|-
| rowspan="2" | [[松下満雄]]
|rowspan="2" | 日本国 || 1995 — 1999
|-
| 1999 — 2000
|-
||[[大島正太郎]] || 日本国 || 2008 — 2012
|-
| rowspan="2" | Giorgio Sacerdoti|
|rowspan="2" | イタリア || 2001 — 2005
|-
| 2005 — 2009
|-
| rowspan="2" | [[谷口安平]]
|rowspan="2" | 日本国 || 2000 — 2003
|-
| 2003 — 2007
|-
| rowspan="2" | David Unterhalter
|rowspan="2" | 南アフリカ || 2006 — 2009
|-
| 2009 — 2013
|-
| rowspan="2" | Yuejiao Zhang
|rowspan="2" | 中華人民共和国 || 2008 — 2012
|-
| 2012 — 2016
|-
| Hyun Chong Kim
| 大韓民国 || 2016 — 2017
|-
| Shree Baboo Chekitan Servansing
| モーリシャス || 2014 — 2018
|-
| rowspan="2" | Ujal Singh Bhatia
|rowspan="2" | インド || 2011年 12月 11日 — 2015年 12月 10日
|-
| 2015年 12月 11日 — 2019年 12月 10日
|-
| rowspan="2" | Thomas R. Graham
|rowspan="2" | アメリカ合衆国 || 2011年 12月 11日 — 2015年 12月 10日
|-
| 2015年 12月 11日 — 2019年 12月 10日
|-
|| Hong Zhao
| 中華人民共和国 || 2016年 12月 1日 — 2020年 11月 30日
|}
<ref name="AB">[https://www.wto.org/english/tratop_e/dispu_e/ab_members_descrp_e.htm Dispute settlement - Appellate Body Members] WTO</ref>。
紛争解決機関上級委員は、定員が7名となっている<ref name="AB" />が、2020年12月1日全員が欠員となっている。米国が再任や指名を拒んできたためで、実際の審理は3名で行うため、審議が不可能になっている<ref>{{cite news|title = WTOの上級委員会、委員が1人となり実質的に機能停止|url =https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/12/68b0069b07164504.html|publisher = 日本貿易振興機構|date = 2019-12-12| accessdate = 201912-17}}</ref>。この問題については、日本は、外務大臣談話を発表し<ref>{{cite news|title = WTO上級委員会の機能停止とWTO改革について(外務大臣談話)|url =https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page1_000971.html|publisher = 外務省|date = 2019-12-11| accessdate = 201912-17}}</ref>、またEUがWTO上級委員会機能停止への対応策を提案<ref>{{cite news|title = 欧州委員会、WTO上級委員会機能停止への対応策を提案へ|url =https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/12/b4711f491e0d7445.html|publisher = 日本貿易振興機構|date = 2019-12-13| accessdate = 201912-17}}</ref><ref>{{cite news|title =欧州委、WTO上級委員会問題の対策を提案|url =https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/12/343f11e10cadba14.html|publisher = 日本貿易振興機構|date = 2019-12-16| accessdate = 2019-12-17}}</ref>を行っている。
2020年4月30日、EU、カナダ、中国を含む19の有志のWTO加盟国・地域<ref group="注">オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、チリ、コロンビア、コスタリカ、EU、グアテマラ、香港、アイスランド、メキシコ、ニュージーランド、ノルウェー、パキスタン、シンガポール、スイス、ウクライナ、ウルグアイ</ref>が、「WTO紛争解決了解(DSU)第25条に基づく多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)(MPIA: Multi-party Interim Appeal Arbitration Arrangement)」(以下、暫定上訴制度)の設立を正式にWTOに通報<ref>JOB/DSB/1/Add.12</ref>したと発表した<ref>{{cite news|title =WTO紛争解決の暫定上訴制度が有志国・地域間で適用開始に|url =https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/05/b891af421e24d139.html|publisher = 日本貿易振興機構|date = 2020-4-30| accessdate = 2020-5-3}}</ref><ref>{{cite|title =Interim appeal arrangement for WTO disputes becomes effective|url =https://trade.ec.europa.eu/doclib/press/index.cfm?id=2143|publisher = Europian Comission|date = 2020-4-30| accessdate = 2020-5-3}}</ref>。DSU第25条で認められた、紛争解決の代替的手段としての仲裁を暫定的に上訴に代替させるもの。今後3カ月以内に10人の仲裁人が選定される。他のWTO加盟国・地域は今後、いつでも同制度に加わることができる。
2022年12月21日、暫定上訴制度に基づく初めての仲裁判断が公表された。コロンビアによるEU産冷凍ポテトフライへのアンチダンピング措置に関し、EUが2019年11月にWTO提訴していもので、2022年10月にパネルの報告書を公表。コロンビアは、報告書による同国のアンチダンピング制度に対する法的解釈の一部を不服として上訴を申し立て、直ちに両者の合意に基づき暫定上訴制度の利用に進んでいた。3人の仲裁人決定から2カ月程度と比較的短期で仲裁判断がされた<ref>{{cite news|title = WTO紛争解決の暫定上訴制度、初の仲裁判断を公表|url =https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/12/c6c2948c3fe5bc3d.html|publisher = 日本貿易振興機構|date = 2022-12-23| accessdate =2022-12-23}}</ref>。
2023年3月10日、日本は暫定上訴制度に参加を決定した<ref name="mpia japan">{{cite news|title =WTOにおける多数国間暫定上訴仲裁アレンジメントへの参加に関する閣議了解について|url =https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_001446.html|publisher =外務省||date = 2022-03-10| accessdate =2022-03-10}}</ref>。現時点の参加国・地域数は52(オーストラリア、ベナン、ブラジル、カナダ、中国、チリ、コロンビア、コスタリカ、エクアドル、EU(及びEU加盟27か国)、グアテマラ、香港、アイスランド、マカオ、メキシコ、モンテネグロ、ニカラグア、ニュージーランド、ノルウェー、パキスタン、ペルー、シンガポール、スイス、ウクライナ、ウルグアイ)<ref name="mpia japan" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|World Trade Organization}}
* [[貿易]]
* [[貿易摩擦]]
* [[自由貿易協定]]
* [[国際経済法]]
* [[新多角的貿易交渉]]
* [[関税及び貿易に関する一般協定]](GATT)
* [[ウルグアイ・ラウンド]]
* [[世界知的所有権機関と世界貿易機関との協定]]
* [[第3回世界貿易機関閣僚会議]]
=== 関連する国際機関 ===
* [[国際連合]]
* [[国際労働機関]]
* [[国際通貨基金]]
* [[世界銀行]]
=== 著名なWTO法学者 ===
* [[岩澤雄司]]
* [[小寺彰]]
* [[小室程夫]]
* [[佐分晴夫]]
* [[清水章雄]]
* [[平覚]]
* [[高橋岩和]]
* [[田村次朗]]
* [[中川淳司]]
* [[松下満雄]]
*[[荒木一郎 (法律学者)]]
== 外部リンク ==
* [https://www.wto.org/ World Trade Organization] - 英語、フランス語、スペイン語
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/page2_000003.html 世界貿易機関(WTO)] - 外務省
* [https://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/wto/ WTO] - 経済産業省
* [https://www.mof.go.jp/customs_tariff/trade/international/wto/ 世界貿易機関(WTO)] - 財務省
* {{Kotobank}}
{{世界貿易機関}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:せかいほうえききかん}}
[[Category:世界貿易機関|*]]
[[Category:世界政府]]
[[Category:ジュネーヴの組織]]
|
2003-09-05T06:13:37Z
|
2023-12-25T12:39:56Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%B2%BF%E6%98%93%E6%A9%9F%E9%96%A2
|
15,158 |
ウィング号 (京急)
|
ウィング号(ウィングごう、Wing)は、京浜急行電鉄が運転している有料座席指定列車の総称である。
種別はいずれも快特である。2023年現在は朝に上り「モーニング・ウィング号」、夜に下り「イブニング・ウィング号」の2列車が設定されているほか、上記以外の快特の一部列車では有料座席指定サービス「ウィング・シート」を導入している。
本項では京浜急行電鉄における着席通勤サービスの沿革についても記述する。
有料座席指定列車「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」と、快特の一部列車に設定される「ウィング・シート」の計3種類の座席指定「ウィング」サービスが設定されており、列車によって運転曜日・方向、停車駅、座席指定制となる車両および区間が異なる。
「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」は、かつては時刻表の種別欄には「快特」(京急ウィング○号)と表記されていたが、現在では種別欄に「ウィング」(モーニング・ウィング○号)(イブニング・ウィング○号)と表記されるようになった。
なお、かつて「京急ウィング号」の運行のみであった頃の種別・行先表示器は、種別表示器に行先を表示し、行先表示器に青緑字で「Wing」(その下に赤字で「ウィング号」)と表示していた。これは2000形時代からのものであったが、後に種別表示器に「Wing」(その下に「ウィング号」)と表示し、行先表示器に行先を表示する方法に改められ、「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」もこちらの方法となっている。なお、「Wing」のロゴは京急ショッピングセンターと同じものを用いている。
2015年(平成27年)12月7日に運行を開始した。平日朝ラッシュ時に運行される上り列車で、三浦海岸駅・横須賀中央駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を京急久里浜線・本線経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で3本が運転されており、1号は横須賀中央発品川行き、3号は三浦海岸発品川行き、5号は三浦海岸発泉岳寺行きである。いずれも品川駅までが座席指定制となっている。品川駅までの途中停車駅は乗車扱いのみで、品川駅に到着するまで降車できない。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは1・3・5...と奇数を付与している。
泉岳寺行きは終点で京成高砂行きに接続する。
現行ダイヤでは後述の「イブニング・ウィング号」より停車駅が少なく、久里浜線内に通過駅が設定されている唯一の列車であり、京急久里浜駅・堀ノ内駅・金沢八景駅なども通過する。
1992年(平成4年)4月16日に「京急ウィング号(Keikyu Wing)」として運行を開始した。平日夕ラッシュ時に最も利用の多い時間帯を過ぎた後に運行される下り列車で、品川駅 - 京急久里浜駅・三崎口駅間を京急本線・久里浜線経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で8本が運転されており、2・4・6号は品川発京急久里浜行き、8・10・12号は品川発三崎口行き、14・16号は品川発金沢文庫行きである。上大岡駅までが座席指定制となっている。品川駅では2 - 12号が行き止まり式の3番線発、14・16号が1番線発となっている。車両は久里浜工場信号所または金沢検車区から回送され、そのまま3番線に入線する。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは「イブニング・ウィング号」に改称した上で2・4・6...と偶数を付与している。
京急久里浜行きは終点で先発する三崎口行きに接続する。三崎口行きは京急久里浜駅で後発の京急久里浜終着列車の接続を受けてから発車する。
特別料金不要列車の最上位種別であるエアポート快特および快特より停車駅が少なく、快特停車駅のうち、京急蒲田駅・京急川崎駅・横浜駅を通過する(14・16号に関しては、快特に併結して運転されるため停車するが、ドアは開かないので乗降できない)。上大岡より先の停車駅は快特と同様である。ただし過密ダイヤにより所要時間は同一時間帯の快特とほぼ同等で、先行列車に接近して運転する時間が長い。最高速度は横浜以北でも110 km/hに抑えられており、遅延回復時以外120 km/h運転は行わない。なお前述したように、京急線で運行される一般の快特とは停車駅が異なるが、正式な列車種別としては、同様に「快特」となっている。そのため公式ホームページの時刻表においては、座席指定券が必要な品川駅では「イブニング・ウィング」となっているが、それ以外の座席指定券が不要な駅では「快特イブニング・ウィング」となっている。
事故や災害などで大幅な遅延が発生している場合、また並行するJR東海道線系統の運転見合わせ、ダイヤ乱れ発生による振替輸送の依頼を受諾した場合は、運転を取りやめ、「イブニング・ウィング号」用の車両を青物横丁駅および平和島駅に臨時停車する快特列車として運転することがある。
2019年(令和元年)10月26日に設定を開始した有料座席指定サービス。2023年11月25日ダイヤ改正時点で土休日の日中に泉岳寺駅 - 三崎口駅間で運行される快特のうち、上り7本、下り8本に設定されている。快特列車の2号車を座席指定制とするもので、上り列車では三崎口駅 - 上大岡駅間、下り列車では泉岳寺駅 - 上大岡駅間の快特停車駅で乗車可能。一方で降車はすべての快特停車駅で可能。2号車にはウィング・アテンダントが添乗し、乗車駅で座席指定券の検札を行う。号数は上りが51・53・55...と奇数を付与し、下りが52・54・56...と偶数を付与している。
もともとは後述の「ホリデー・ウィング号」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日、2019年4月28・29日、5月4・5日、9月14・15日、10月12・13日の期間限定で、品川駅 - 三崎口駅間で運行される快特のうち、下り2本に設定されていた。上大岡駅まで2号車が指定席となり、指定席には京急川崎駅または横浜駅から乗車できた(品川駅 - 京急川崎駅間空車扱い)。また金沢文庫駅までは品川駅寄りに付属編成4両(3ドア車)を増結し12両編成で運転された。なお号数の設定はなかった。
運行中の列車のみ記載。
1952年(昭和27年) - 1965年(昭和40年)の春と秋の行楽シーズンの間、品川駅 - 浦賀駅・逗子海岸駅(現:逗子・葉山駅の一部)・京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)間で運行された列車。ハイキング特急には大きく分けて、1.バスによる三浦半島への周遊を目的としたもの(同一列車名で下り終着駅と上り始発駅が異なる)、2.浦賀または久里浜で金谷航路への連絡を目的としたもの、3.原則として下りのみ営業運転するもの(上りは回送)があり、1.と2.は全車指定席、3.は全車自由席であった。
運転区間および途中停車駅は列車によって異なるが、原則として途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)と横浜駅のみであった。
1956年(昭和31年)3月8日 - 1968年(昭和43年)6月14日の間、品川駅 - 浦賀駅・三浦海岸駅間で運行された列車。毎週土曜日に1日2往復運転され、それぞれ「ラ・メール号」(フランス語で「海」)、「パルラータ号」(イタリア語で「語らい」)と名付けられた。
途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅、京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)、野比駅(現:YRP野比駅)、京浜長沢駅(現:京急長沢駅)、津久井浜駅であった。
当初は全車自由席であったが、1964年2月1日から一部車両が指定席となった。
1968年(昭和43年)6月15日の快速特急運転開始と同時に、一部車両が指定席となる快特が運行された。
当初は愛称が設定されていなかったが、1972年(昭和47年)9月3日に「南房総号」の愛称が設定された。同時にそれまで3往復設定されていた快特「マリンパーク号」の愛称も「城ケ島号」「南房総号」「油壺マリンパーク号」に変更されたが、こちらは全車自由席だった。そのため、一部指定席の「南房総号」と全車自由席の「南房総号」が混在していた。
前述の「ウィング・シート」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日の期間限定で、品川駅 - 三浦海岸駅間で運行された臨時列車。下り1本が設定され、途中停車駅は横浜駅(乗車専用)のみであった。乗車には事前申込の場合は座席指定券(座席指定制)、当日発売の場合は着席整理券(座席定員制)が必要となっており、車内は1 - 3号車が品川駅からの事前申込、4・5号車が品川駅からの当日発売、6 - 8号車が横浜駅からの事前申込という座席区分になっていた。なお号数の設定はなかった。
種別・行先表示には、種別表示器は黒幕(無表示)、行先表示器に「貸切」と表示していた。また前面には「ホリデー・ウィング号」と書かれたトレイン・マークが掲示された。
「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」「ウィング・シート」に乗車する場合は、乗車券(PASMOもしくは、これと相互利用できる交通系ICカードを含む)の他に座席指定券である「Wing Ticket」(大人・小児同額の300円、「ウィング・シート」の車内購入は同500円)または「Wing Pass」(「モーニング・ウィング号」は同5500円、「イブニング・ウィング号」は同5000円)が必要となる。「モーニング・ウィング号」の品川駅以北、「イブニング・ウィング号」の上大岡駅以南は座席指定券なしで乗車できるが、座席指定(着席保証)はなされない。
「Wing Ticket」は指定された列車に対し、乗車日のみ有効(JRにおけるライナー券に相当)。「Wing Pass」は「モーニング・ウィング号」は指定された列車、「イブニング・ウィング号」は全ての列車に対し、乗車月の1日から末日まで有効(JRにおけるライナーセット券に相当)。
座席指定券には号車、座席番号とQRコードが記載され、係員に提示して乗車する。「京急ウィング号」運行当初から2015年12月4日まで、着席整理券は係員により回収する方式が取られていたが、2015年12月7日からの優待制度(座席指定制への移行時に廃止)の開始により、入鋏後は手元に戻ってくるようになった。
「Wing Ticket」は、会員制座席指定券購入サイト「KQuick」と駅の自動券売機(「モーニング・ウィング号」と「イブニング・ウィング号」のみ)と2号車内(「ウィング・シート」のみ)で購入できる。「KQuick」会員は、座席の希望が可能(窓側・通路側・補助席・ボックス席・車椅子スペースから選択可能)。自動券売機は三浦海岸駅・横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅と品川駅に設置されており、直近の列車の空席状況がで表示される。「Wing Pass」は、「KQuick」と品川駅高輪口有人窓口(「イブニング・ウィング号」のみ)での購入のみとなっており、自動券売機での販売は行っていない。
所定の駅(「モーニング・ウィング号」は品川駅、「イブニング・ウィング号」は上大岡駅)到着までに座席を利用できなかった場合や混乗となった場合、あるいは到着が60分以上遅延した場合は座席指定料金を払い戻すことができる。
発売座席数は2100形は539名、1000形1890番台は128名となっている。
「モーニング・ウィング号」の三浦海岸駅は3号車の三崎口駅寄り(5号)および4号車の三崎口駅寄り(3号)、横須賀中央駅は1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の三崎口駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3・4号車の座席も利用可能)(3号)、金沢文庫駅は7・8号車の泉岳寺駅寄り(1・5号)および11・12号車の三崎口駅寄り(車両移動で10号車の座席も利用可能)(3号)、上大岡駅は4 - 6号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の泉岳寺駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および6・8・9号車の三崎口駅寄り(車両移動で5・7号車の座席も利用可能)(3号)のドアから乗車する。なお、上大岡駅発車後までは、割り当てられている号車間以外への移動はできない。品川駅からは全てのドアが開く。
「イブニング・ウィング号」の品川駅は4号車(1 - 4号車指定)と8号車(5 - 8号車指定)の泉岳寺駅寄り(2 - 12号)および3・4号車(14・16号)のドアから乗車する。上大岡駅からは全てのドアが開く。
「ウィング・シート」の2号車は全ての停車駅で三崎口駅寄りのドアから乗降する。
「京急ウィング号」の運行開始当初は2000形が使われていたが、1998年3月28日より転換クロスシートの2100形車両の使用が始まり、翌1999年より全列車が2100形で運行している。
品川での特殊なドア扱いのため、2100形の品川方海側の再開閉ボタンにはロックが取り付けられている。品川では乗務員が非常コックを用いて必要なドアを開けた後にこの再開閉ボタンをロックし、非常コックを復帰することで開扉を維持していたが、「モーニング・ウィング号」に使われる限定開扉が出来る装置が品川方の先頭車にも取り付けられ、非常コックは使用していない。
2021年5月6日から、「モーニング・ウィング3号」が1000形1890番台4両に車種変更の上、金沢文庫で2100形8両を増結する方法に変更となった。また2023年11月27日から、「イブニング・ウィング14・16号」も1000形1890番台4両に車種変更の上、金沢文庫まで8両で運転される快特の後ろ寄りに併結する方法に変更される。
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"text": "ウィング号(ウィングごう、Wing)は、京浜急行電鉄が運転している有料座席指定列車の総称である。",
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"text": "種別はいずれも快特である。2023年現在は朝に上り「モーニング・ウィング号」、夜に下り「イブニング・ウィング号」の2列車が設定されているほか、上記以外の快特の一部列車では有料座席指定サービス「ウィング・シート」を導入している。",
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"text": "本項では京浜急行電鉄における着席通勤サービスの沿革についても記述する。",
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"text": "有料座席指定列車「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」と、快特の一部列車に設定される「ウィング・シート」の計3種類の座席指定「ウィング」サービスが設定されており、列車によって運転曜日・方向、停車駅、座席指定制となる車両および区間が異なる。",
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},
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"text": "「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」は、かつては時刻表の種別欄には「快特」(京急ウィング○号)と表記されていたが、現在では種別欄に「ウィング」(モーニング・ウィング○号)(イブニング・ウィング○号)と表記されるようになった。",
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"text": "なお、かつて「京急ウィング号」の運行のみであった頃の種別・行先表示器は、種別表示器に行先を表示し、行先表示器に青緑字で「Wing」(その下に赤字で「ウィング号」)と表示していた。これは2000形時代からのものであったが、後に種別表示器に「Wing」(その下に「ウィング号」)と表示し、行先表示器に行先を表示する方法に改められ、「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」もこちらの方法となっている。なお、「Wing」のロゴは京急ショッピングセンターと同じものを用いている。",
"title": "運行概要"
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"text": "2015年(平成27年)12月7日に運行を開始した。平日朝ラッシュ時に運行される上り列車で、三浦海岸駅・横須賀中央駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を京急久里浜線・本線経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で3本が運転されており、1号は横須賀中央発品川行き、3号は三浦海岸発品川行き、5号は三浦海岸発泉岳寺行きである。いずれも品川駅までが座席指定制となっている。品川駅までの途中停車駅は乗車扱いのみで、品川駅に到着するまで降車できない。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは1・3・5...と奇数を付与している。",
"title": "運行概要"
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"text": "泉岳寺行きは終点で京成高砂行きに接続する。",
"title": "運行概要"
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"text": "現行ダイヤでは後述の「イブニング・ウィング号」より停車駅が少なく、久里浜線内に通過駅が設定されている唯一の列車であり、京急久里浜駅・堀ノ内駅・金沢八景駅なども通過する。",
"title": "運行概要"
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"text": "1992年(平成4年)4月16日に「京急ウィング号(Keikyu Wing)」として運行を開始した。平日夕ラッシュ時に最も利用の多い時間帯を過ぎた後に運行される下り列車で、品川駅 - 京急久里浜駅・三崎口駅間を京急本線・久里浜線経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で8本が運転されており、2・4・6号は品川発京急久里浜行き、8・10・12号は品川発三崎口行き、14・16号は品川発金沢文庫行きである。上大岡駅までが座席指定制となっている。品川駅では2 - 12号が行き止まり式の3番線発、14・16号が1番線発となっている。車両は久里浜工場信号所または金沢検車区から回送され、そのまま3番線に入線する。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは「イブニング・ウィング号」に改称した上で2・4・6...と偶数を付与している。",
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"text": "京急久里浜行きは終点で先発する三崎口行きに接続する。三崎口行きは京急久里浜駅で後発の京急久里浜終着列車の接続を受けてから発車する。",
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"text": "特別料金不要列車の最上位種別であるエアポート快特および快特より停車駅が少なく、快特停車駅のうち、京急蒲田駅・京急川崎駅・横浜駅を通過する(14・16号に関しては、快特に併結して運転されるため停車するが、ドアは開かないので乗降できない)。上大岡より先の停車駅は快特と同様である。ただし過密ダイヤにより所要時間は同一時間帯の快特とほぼ同等で、先行列車に接近して運転する時間が長い。最高速度は横浜以北でも110 km/hに抑えられており、遅延回復時以外120 km/h運転は行わない。なお前述したように、京急線で運行される一般の快特とは停車駅が異なるが、正式な列車種別としては、同様に「快特」となっている。そのため公式ホームページの時刻表においては、座席指定券が必要な品川駅では「イブニング・ウィング」となっているが、それ以外の座席指定券が不要な駅では「快特イブニング・ウィング」となっている。",
"title": "運行概要"
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"text": "事故や災害などで大幅な遅延が発生している場合、また並行するJR東海道線系統の運転見合わせ、ダイヤ乱れ発生による振替輸送の依頼を受諾した場合は、運転を取りやめ、「イブニング・ウィング号」用の車両を青物横丁駅および平和島駅に臨時停車する快特列車として運転することがある。",
"title": "運行概要"
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"text": "2019年(令和元年)10月26日に設定を開始した有料座席指定サービス。2023年11月25日ダイヤ改正時点で土休日の日中に泉岳寺駅 - 三崎口駅間で運行される快特のうち、上り7本、下り8本に設定されている。快特列車の2号車を座席指定制とするもので、上り列車では三崎口駅 - 上大岡駅間、下り列車では泉岳寺駅 - 上大岡駅間の快特停車駅で乗車可能。一方で降車はすべての快特停車駅で可能。2号車にはウィング・アテンダントが添乗し、乗車駅で座席指定券の検札を行う。号数は上りが51・53・55...と奇数を付与し、下りが52・54・56...と偶数を付与している。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "もともとは後述の「ホリデー・ウィング号」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日、2019年4月28・29日、5月4・5日、9月14・15日、10月12・13日の期間限定で、品川駅 - 三崎口駅間で運行される快特のうち、下り2本に設定されていた。上大岡駅まで2号車が指定席となり、指定席には京急川崎駅または横浜駅から乗車できた(品川駅 - 京急川崎駅間空車扱い)。また金沢文庫駅までは品川駅寄りに付属編成4両(3ドア車)を増結し12両編成で運転された。なお号数の設定はなかった。",
"title": "運行概要"
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"text": "運行中の列車のみ記載。",
"title": "運行概要"
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"text": "1952年(昭和27年) - 1965年(昭和40年)の春と秋の行楽シーズンの間、品川駅 - 浦賀駅・逗子海岸駅(現:逗子・葉山駅の一部)・京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)間で運行された列車。ハイキング特急には大きく分けて、1.バスによる三浦半島への周遊を目的としたもの(同一列車名で下り終着駅と上り始発駅が異なる)、2.浦賀または久里浜で金谷航路への連絡を目的としたもの、3.原則として下りのみ営業運転するもの(上りは回送)があり、1.と2.は全車指定席、3.は全車自由席であった。",
"title": "運行概要"
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"text": "運転区間および途中停車駅は列車によって異なるが、原則として途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)と横浜駅のみであった。",
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"text": "1956年(昭和31年)3月8日 - 1968年(昭和43年)6月14日の間、品川駅 - 浦賀駅・三浦海岸駅間で運行された列車。毎週土曜日に1日2往復運転され、それぞれ「ラ・メール号」(フランス語で「海」)、「パルラータ号」(イタリア語で「語らい」)と名付けられた。",
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"text": "途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅、京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)、野比駅(現:YRP野比駅)、京浜長沢駅(現:京急長沢駅)、津久井浜駅であった。",
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"text": "当初は全車自由席であったが、1964年2月1日から一部車両が指定席となった。",
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"text": "1968年(昭和43年)6月15日の快速特急運転開始と同時に、一部車両が指定席となる快特が運行された。",
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"text": "当初は愛称が設定されていなかったが、1972年(昭和47年)9月3日に「南房総号」の愛称が設定された。同時にそれまで3往復設定されていた快特「マリンパーク号」の愛称も「城ケ島号」「南房総号」「油壺マリンパーク号」に変更されたが、こちらは全車自由席だった。そのため、一部指定席の「南房総号」と全車自由席の「南房総号」が混在していた。",
"title": "運行概要"
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"tag": "p",
"text": "前述の「ウィング・シート」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日の期間限定で、品川駅 - 三浦海岸駅間で運行された臨時列車。下り1本が設定され、途中停車駅は横浜駅(乗車専用)のみであった。乗車には事前申込の場合は座席指定券(座席指定制)、当日発売の場合は着席整理券(座席定員制)が必要となっており、車内は1 - 3号車が品川駅からの事前申込、4・5号車が品川駅からの当日発売、6 - 8号車が横浜駅からの事前申込という座席区分になっていた。なお号数の設定はなかった。",
"title": "運行概要"
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"text": "種別・行先表示には、種別表示器は黒幕(無表示)、行先表示器に「貸切」と表示していた。また前面には「ホリデー・ウィング号」と書かれたトレイン・マークが掲示された。",
"title": "運行概要"
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"text": "「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」「ウィング・シート」に乗車する場合は、乗車券(PASMOもしくは、これと相互利用できる交通系ICカードを含む)の他に座席指定券である「Wing Ticket」(大人・小児同額の300円、「ウィング・シート」の車内購入は同500円)または「Wing Pass」(「モーニング・ウィング号」は同5500円、「イブニング・ウィング号」は同5000円)が必要となる。「モーニング・ウィング号」の品川駅以北、「イブニング・ウィング号」の上大岡駅以南は座席指定券なしで乗車できるが、座席指定(着席保証)はなされない。",
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"text": "「Wing Ticket」は指定された列車に対し、乗車日のみ有効(JRにおけるライナー券に相当)。「Wing Pass」は「モーニング・ウィング号」は指定された列車、「イブニング・ウィング号」は全ての列車に対し、乗車月の1日から末日まで有効(JRにおけるライナーセット券に相当)。",
"title": "座席指定券"
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"text": "座席指定券には号車、座席番号とQRコードが記載され、係員に提示して乗車する。「京急ウィング号」運行当初から2015年12月4日まで、着席整理券は係員により回収する方式が取られていたが、2015年12月7日からの優待制度(座席指定制への移行時に廃止)の開始により、入鋏後は手元に戻ってくるようになった。",
"title": "座席指定券"
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"text": "「Wing Ticket」は、会員制座席指定券購入サイト「KQuick」と駅の自動券売機(「モーニング・ウィング号」と「イブニング・ウィング号」のみ)と2号車内(「ウィング・シート」のみ)で購入できる。「KQuick」会員は、座席の希望が可能(窓側・通路側・補助席・ボックス席・車椅子スペースから選択可能)。自動券売機は三浦海岸駅・横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅と品川駅に設置されており、直近の列車の空席状況がで表示される。「Wing Pass」は、「KQuick」と品川駅高輪口有人窓口(「イブニング・ウィング号」のみ)での購入のみとなっており、自動券売機での販売は行っていない。",
"title": "座席指定券"
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"text": "所定の駅(「モーニング・ウィング号」は品川駅、「イブニング・ウィング号」は上大岡駅)到着までに座席を利用できなかった場合や混乗となった場合、あるいは到着が60分以上遅延した場合は座席指定料金を払い戻すことができる。",
"title": "座席指定券"
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"text": "発売座席数は2100形は539名、1000形1890番台は128名となっている。",
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"text": "「モーニング・ウィング号」の三浦海岸駅は3号車の三崎口駅寄り(5号)および4号車の三崎口駅寄り(3号)、横須賀中央駅は1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の三崎口駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3・4号車の座席も利用可能)(3号)、金沢文庫駅は7・8号車の泉岳寺駅寄り(1・5号)および11・12号車の三崎口駅寄り(車両移動で10号車の座席も利用可能)(3号)、上大岡駅は4 - 6号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の泉岳寺駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および6・8・9号車の三崎口駅寄り(車両移動で5・7号車の座席も利用可能)(3号)のドアから乗車する。なお、上大岡駅発車後までは、割り当てられている号車間以外への移動はできない。品川駅からは全てのドアが開く。",
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"text": "「イブニング・ウィング号」の品川駅は4号車(1 - 4号車指定)と8号車(5 - 8号車指定)の泉岳寺駅寄り(2 - 12号)および3・4号車(14・16号)のドアから乗車する。上大岡駅からは全てのドアが開く。",
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"text": "「ウィング・シート」の2号車は全ての停車駅で三崎口駅寄りのドアから乗降する。",
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"text": "「京急ウィング号」の運行開始当初は2000形が使われていたが、1998年3月28日より転換クロスシートの2100形車両の使用が始まり、翌1999年より全列車が2100形で運行している。",
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"text": "品川での特殊なドア扱いのため、2100形の品川方海側の再開閉ボタンにはロックが取り付けられている。品川では乗務員が非常コックを用いて必要なドアを開けた後にこの再開閉ボタンをロックし、非常コックを復帰することで開扉を維持していたが、「モーニング・ウィング号」に使われる限定開扉が出来る装置が品川方の先頭車にも取り付けられ、非常コックは使用していない。",
"title": "使用車両"
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"text": "2021年5月6日から、「モーニング・ウィング3号」が1000形1890番台4両に車種変更の上、金沢文庫で2100形8両を増結する方法に変更となった。また2023年11月27日から、「イブニング・ウィング14・16号」も1000形1890番台4両に車種変更の上、金沢文庫まで8両で運転される快特の後ろ寄りに併結する方法に変更される。",
"title": "使用車両"
}
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ウィング号(ウィングごう、Wing)は、京浜急行電鉄が運転している有料座席指定列車の総称である。 種別はいずれも快特である。2023年現在は朝に上り「モーニング・ウィング号」、夜に下り「イブニング・ウィング号」の2列車が設定されているほか、上記以外の快特の一部列車では有料座席指定サービス「ウィング・シート」を導入している。 本項では京浜急行電鉄における着席通勤サービスの沿革についても記述する。
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{{出典の明記|date=2014年1月}}
{{Infobox 列車名
|列車名=モーニング・ウィング号<br>イブニング・ウィング号
|ロゴ=Keikyu Wing logo.svg
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|画像説明=「モーニング・ウィング号」<br />(2021年5月6日 [[立会川駅]])
|国={{JPN}}
|種類=[[快速特急|快特]]
|現況=運行中
|地域=[[東京都]]・[[神奈川県]]
|前身=
|運行開始=[[1992年]][[4月16日]](イブニング・ウィング号、「京急ウィング号」として<ref name="kotsu19920418">{{Cite news |title=“着席特急”デビュー 京浜急行「ウイング号」出発式 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-04-18 |page=2 }}</ref>)<br />[[2015年]][[12月7日]](モーニング・ウィング号)
|運行終了=
|後継=
|運営者=[[京浜急行電鉄]]
|旧運営者=
|平均乗客数=
|起点=[[横須賀中央駅]]・[[三浦海岸駅]](モーニング・ウィング号)<br />[[品川駅]](イブニング・ウィング号)
|終点=[[泉岳寺駅]]・品川駅(モーニング・ウィング号)<br />[[金沢文庫駅]]・[[京急久里浜駅]]・[[三崎口駅]](イブニング・ウィング号)
|営業距離=64.7 [[キロメートル|km]](モーニング・ウィング号:三浦海岸 - 泉岳寺間)<br />65.7 km(イブニング・ウィング号:品川 - 三崎口間)
|平均所要時間=
|運行間隔=3本(モーニング・ウィング号)<br />8本(イブニング・ウィング号)
|列車番号=551A・653A・755A(モーニング・ウィング号)<br />1870A・1972A・1974A・1976A・2078A・2080A・2002A・2104A(イブニング・ウィング号)
|使用路線=[[京急本線|本線]]・[[京急久里浜線|久里浜線]]
|身障者対応=1・8号車(3号は2・5・12号車)
|座席=全車[[座席指定席|指定席]](下記区間以外)<br />全車[[自由席]](モーニング・ウィング号の品川駅 - 泉岳寺駅間、イブニング・ウィング号の[[上大岡駅]] - 三崎口駅間)
|就寝=
|車運車=
|食事=
|展望=
|娯楽=
|荷物=
|その他=
|車両=[[京急2100形電車|2100形電車]]<br />[[京急1000形電車 (2代)#20次車「Le Ciel」|1000形電車1890番台]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=120 km/h(北品川 - 横浜間)
|線路所有者=
|ルート番号=
|備考=
|路線図=
|路線図表示=
}}
'''ウィング号'''(ウィングごう、''Wing'')は、[[京浜急行電鉄]]が運転している[[ホームライナー|有料座席指定列車]]の総称である。
[[列車種別|種別]]はいずれも[[京急本線#快特|快特]]である。2023年現在は朝に上り「'''モーニング・ウィング号'''」、夜に下り「'''イブニング・ウィング号'''」の2列車が設定されているほか、上記以外の快特の一部列車では有料座席指定サービス「ウィング・シート」を導入している。
本項では京浜急行電鉄における着席通勤サービスの沿革についても記述する。
== 運行概要 ==
=== 運行中の列車 ===
有料座席指定列車「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」と、快特の一部列車に設定される「ウィング・シート」の計3種類の座席指定「ウィング」サービスが設定されており<ref name="wing service">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/train/wing.html|title=座席指定ウィングサービス|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2023-11-25}}</ref>、列車によって運転曜日・方向、停車駅、座席指定制となる車両および区間が異なる。
「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」は、かつては時刻表の種別欄には「[[京急本線#快特|快特]]」(京急ウィング○号)と表記されていたが、現在では種別欄に「ウィング」(モーニング・ウィング○号)(イブニング・ウィング○号)と表記されるようになった。
[[File:2100wing.JPG|thumb|200px|側面種別・行先表示器]]
[[File:Keikyu Wing.jpg|thumb|200px|側面種別・行先表示器2149編成(2010年5月28日)]]
なお、かつて「京急ウィング号」の運行のみであった頃の[[方向幕|種別・行先表示器]]は、種別表示器に行先を表示し、行先表示器に青緑字で「Wing」(その下に赤字で「ウィング号」)と表示していた。これは[[京急2000形電車|2000形]]時代からのものであったが、後に種別表示器に「Wing」(その下に「ウィング号」)と表示し、行先表示器に行先を表示する方法に改められ、「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」もこちらの方法となっている。なお、「Wing」のロゴは[[京急ショッピングセンター]]と同じものを用いている。
==== モーニング・ウィング号(Morning Wing) ====
2015年(平成27年)12月7日に運行を開始した。平日朝ラッシュ時に運行される上り列車で、三浦海岸駅・横須賀中央駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を[[京急久里浜線]]・[[京急本線|本線]]経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で3本が運転されており、1号は横須賀中央発品川行き、3号は三浦海岸発品川行き、5号は三浦海岸発泉岳寺行きである<ref name="wing service"/>。いずれも品川駅までが座席指定制となっている<ref name="wing service"/>。品川駅までの途中停車駅は乗車扱いのみで、品川駅に到着するまで降車できない<ref name="wing service"/>。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは1・3・5…と奇数を付与している。
泉岳寺行きは終点で京成高砂行きに接続する。
現行ダイヤでは[[#イブニング・ウィング号(Evening Wing)|後述]]の「イブニング・ウィング号」より停車駅が少なく、久里浜線内に通過駅が設定されている唯一の列車であり、京急久里浜駅・堀ノ内駅・金沢八景駅なども通過する。
==== イブニング・ウィング号(Evening Wing) ====
[[1992年]]([[平成]]4年)[[4月16日]]に「京急ウィング号(Keikyu Wing)」として運行を開始した<ref name="kotsu19920418"/>。平日夕ラッシュ時に最も利用の多い時間帯を過ぎた後に運行される下り列車で、[[品川駅]] - [[京急久里浜駅]]・[[三崎口駅]]間を京急本線・久里浜線経由で運転される。2023年11月25日ダイヤ改正時点で8本が運転されており、2・4・6号は品川発京急久里浜行き、8・10・12号は品川発三崎口行き、14・16号は品川発金沢文庫行きである<ref name="wing service"/>。上大岡駅までが座席指定制となっている<ref name="wing service"/>。品川駅では2 - 12号が行き止まり式の3番線発、14・16号が1番線発となっている<ref name="wing service"/>。車両は[[久里浜工場信号所]]または[[金沢検車区]]から回送され、そのまま3番線に入線する。号数はかつては発車順に1から順番に付与していたが、2019年10月26日ダイヤ改正からは「イブニング・ウィング号」に改称した上で2・4・6…と偶数を付与している。
京急久里浜行きは終点で先発する三崎口行きに接続する。三崎口行きは京急久里浜駅で後発の京急久里浜終着列車の接続を受けてから発車する。
特別料金不要列車の最上位種別である[[エアポート快特]]および快特より停車駅が少なく、快特停車駅のうち、[[京急蒲田駅]]・[[京急川崎駅]]・[[横浜駅]]を通過する(14・16号に関しては、快特に併結して運転されるため停車するが、ドアは開かないので乗降できない)。上大岡より先の停車駅は快特と同様である。ただし過密ダイヤにより所要時間は同一時間帯の快特とほぼ同等で、先行列車に接近して運転する時間が長い。最高速度は横浜以北でも110 [[キロメートル毎時|km/h]]に抑えられており、遅延回復時以外120 km/h運転は行わない。なお前述したように、京急線で運行される一般の快特とは停車駅が異なるが、正式な列車種別としては、同様に「快特」となっている。そのため公式ホームページの時刻表においては、座席指定券が必要な品川駅では「イブニング・ウィング」となっているが、それ以外の座席指定券が不要な駅では「快特イブニング・ウィング」となっている。
事故や災害などで大幅な遅延が発生している場合、また並行するJR東海道線系統の運転見合わせ、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]乱れ発生による[[振替輸送]]の依頼を受諾した場合は、運転を取りやめ、「イブニング・ウィング号」用の車両を[[青物横丁駅]]および[[平和島駅]]に臨時停車する快特列車として運転することがある。
==== ウィング・シート(Wing Seat) ====
2019年(令和元年)10月26日に設定を開始した有料座席指定サービス。2023年11月25日ダイヤ改正時点で土休日の日中に泉岳寺駅 - 三崎口駅間で運行される[[京急本線#快特|快特]]のうち、上り7本、下り8本に設定されている<ref name="wing service"/>。快特列車の2号車を座席指定制とするもので、上り列車では三崎口駅 - 上大岡駅間、下り列車では泉岳寺駅 - 上大岡駅間の快特停車駅で乗車可能<ref name="wing service"/>。一方で降車はすべての快特停車駅で可能。2号車にはウィング・アテンダントが添乗し、乗車駅で座席指定券の検札を行う。号数は上りが51・53・55…と奇数を付与し、下りが52・54・56…と偶数を付与している。
もともとは[[#ホリデー・ウィング号(Holiday Wing)|後述]]の「ホリデー・ウィング号」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日、2019年4月28・29日、5月4・5日、9月14・15日、10月12・13日の期間限定で、品川駅 - 三崎口駅間で運行される快特のうち、下り2本に設定されていた。上大岡駅まで2号車が指定席となり、指定席には京急川崎駅または横浜駅から乗車できた(品川駅 - 京急川崎駅間空車扱い)。また金沢文庫駅までは品川駅寄りに付属編成4両(3ドア車)を増結し12両編成で運転された。なお号数の設定はなかった<ref name="keikyu20180906">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180906HP_18125MT.html|title=秋の行楽シーズンに「ホリデー・ウィング号」を期間限定で運行します。|publisher=京急電鉄|date=2018-09-06|accessdate=2018-10-19|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
==== 停車駅 ====
運行中の列車のみ記載。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;"
|+ ウィング号停車駅一覧(2023年11月25日現在)
!列車名/駅名
!指定席
!運転曜日・方向
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[泉岳寺駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[品川駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[京急蒲田駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[京急川崎駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[横浜駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[上大岡駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[金沢文庫駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[金沢八景駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[横須賀中央駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[堀ノ内駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[新大津駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[北久里浜駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[京急久里浜駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[YRP野比駅|YRP野比駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[京急長沢駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[津久井浜駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[三浦海岸駅]]|height=7em}}
! style="width:1em;" |{{縦書き|[[三崎口駅]]|height=7em}}
!備考
|-
!モーニング・ウィング
!全車<br/>(品川駅まで)
!平日上り
|○
|●
|←
|←
|←
|◎
|◎
|←
|◎
|←
|←
|←
|←
|←
|←
|←
|◎
|
|style="text-align:left;" |1号は横須賀中央発品川行き<br/>3号は三浦海岸発品川行き<br/>5号は三浦海岸発泉岳寺行き
|-
!イブニング・ウィング
!全車<br/>(上大岡駅まで)
!平日下り
|
|◎
|→
|→
|→
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|○
|style="text-align:left;" |2・4・6号は品川発京急久里浜行き<br/>8・10・12号は品川発三崎口行き<br/>14・16号は品川発金沢文庫行き(前寄りの快特に併結)
|-
!rowspan="2"|ウィング・シート
!rowspan="2"|2号車<br/>(全区間)
!土休日上り
|○
|○
|○
|○
|○
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|◎
|style="text-align:left;" rowspan="2"|「快特」として運行<br>2号車以外は全ての停車駅で乗降可能
|-
!土休日下り
|◎
|●
|●
|●
|●
|●
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|○
|}
;記号凡例
:●:停車(乗降可能)
:◎:停車(乗車専用)
:○:停車(降車専用)
:←・→:矢印の方向に通過
=== 運行実績のある列車 ===
==== ハイキング特急 ====
1952年(昭和27年) - 1965年(昭和40年)の春と秋の行楽シーズンの間、品川駅 - 浦賀駅・逗子海岸駅(現:逗子・葉山駅の一部)・京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)間で運行された列車。ハイキング特急には大きく分けて、1.バスによる三浦半島への周遊を目的としたもの(同一列車名で下り終着駅と上り始発駅が異なる)、2.浦賀または久里浜で金谷航路への連絡を目的としたもの、3.原則として下りのみ営業運転するもの(上りは回送)があり、1.と2.は全車指定席、3.は全車自由席であった。
運転区間および途中停車駅は列車によって異なるが、原則として途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)と横浜駅のみであった。
==== 週末特急ラ・メール号(La Mer)、パルラータ号(Parlata) ====
1956年(昭和31年)3月8日 - 1968年(昭和43年)6月14日の間、品川駅 - 浦賀駅・三浦海岸駅間で運行された列車。毎週土曜日に1日2往復運転され、それぞれ「ラ・メール号」(フランス語で「海」)、「パルラータ号」(イタリア語で「語らい」)と名付けられた。
途中停車駅は京浜川崎駅(現:京急川崎駅)、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅、京浜久里浜駅(現:京急久里浜駅)、野比駅(現:YRP野比駅)、京浜長沢駅(現:京急長沢駅)、津久井浜駅であった。
当初は全車自由席であったが、1964年2月1日から一部車両が指定席となった。
==== 快速特急南房総号 ====
1968年(昭和43年)6月15日の快速特急運転開始と同時に、一部車両が指定席となる快特が運行された。
当初は愛称が設定されていなかったが、1972年(昭和47年)9月3日に「南房総号」の愛称が設定された。同時にそれまで3往復設定されていた快特「マリンパーク号」の愛称も「城ケ島号」「南房総号」「油壺マリンパーク号」に変更されたが、こちらは全車自由席だった。そのため、一部指定席の「南房総号」と全車自由席の「南房総号」が混在していた。
==== ホリデー・ウィング号(Holiday Wing) ====
前述の「ウィング・シート」とともに、2018年9月22 - 24日、10月6 - 8日の期間限定で、品川駅 - 三浦海岸駅間で運行された臨時列車。下り1本が設定され、途中停車駅は横浜駅(乗車専用)のみであった。乗車には事前申込の場合は座席指定券(座席指定制)、当日発売の場合は着席整理券(座席定員制)が必要となっており、車内は1 - 3号車が品川駅からの事前申込、4・5号車が品川駅からの当日発売、6 - 8号車が横浜駅からの事前申込という座席区分になっていた。なお号数の設定はなかった<ref name="keikyu20180906"/>。
種別・行先表示には、種別表示器は黒幕(無表示)、行先表示器に「貸切」と表示していた。また前面には「ホリデー・ウィング号」と書かれたトレイン・マークが掲示された。
== 座席指定券 ==
「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」「ウィング・シート」に乗車する場合は、[[乗車券]](PASMOもしくは、これと相互利用できる交通系ICカードを含む)の他に座席指定券である「Wing Ticket」(大人・小児同額の300円、「ウィング・シート」の車内購入は同500円)または「[[定期乗車券|Wing Pass]]」(「モーニング・ウィング号」は同5500円、「イブニング・ウィング号」は同5000円)が必要となる<ref name="press20170223">{{Cite press release|和書|title=「モーニング・ウィング号」と下り「ウィング号」がさらに便利に! 5月1日(月)から京急初の座席指定制列車に変わります 座席指定券購入サイト「KQuick」は3月28日(火)オープン|publisher=京浜急行電鉄|date=2017年2月23日|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20170223HP_16215YM.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170223234552/https://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20170223HP_16215YM.html|archivedate=2017-2-23}}</ref><ref name="timetablerevision2022">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/cp/timetablerevision2022/index.html|title=京急線ダイヤ改正2022|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2022-11-21}}</ref>。「モーニング・ウィング号」の品川駅以北、「イブニング・ウィング号」の上大岡駅以南は座席指定券なしで乗車できるが、座席指定(着席保証)はなされない<ref>[https://www1.fastcloud.jp/keikyufaq/keikyucall/web/knowledge/440/1/(2021年5月6日から)ウィング号時刻表.pdf (2021年5月6日から)ウィング号時刻表]</ref>。
「Wing Ticket」は指定された列車に対し、乗車日のみ有効(JRにおける[[乗車整理券#ライナー券|ライナー券]]に相当)。「Wing Pass」は「モーニング・ウィング号」は指定された列車、「イブニング・ウィング号」は全ての列車に対し、乗車月の1日から末日まで有効(JRにおける[[乗車整理券#ライナーセット券|ライナーセット券]]に相当)。
座席指定券には号車、座席番号とQRコードが記載され、係員に提示して乗車する。「京急ウィング号」運行当初から2015年12月4日まで、着席整理券は係員により回収する方式が取られていたが、2015年12月7日からの優待制度(座席指定制への移行時に廃止)の開始により、入鋏後は手元に戻ってくるようになった。
「Wing Ticket」は、会員制座席指定券購入サイト「KQuick」と駅の[[自動券売機]](「モーニング・ウィング号」と「イブニング・ウィング号」のみ)と2号車内(「ウィング・シート」のみ)で購入できる。「KQuick」会員は、座席の希望が可能(窓側・通路側・補助席・ボックス席・車椅子スペースから選択可能)。自動券売機は三浦海岸駅・横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅と品川駅に設置されており、直近の列車の空席状況がで表示される。「Wing Pass」は、「KQuick」と品川駅高輪口有人窓口(「イブニング・ウィング号」のみ)での購入のみとなっており、自動券売機での販売は行っていない。
所定の駅(「モーニング・ウィング号」は品川駅、「イブニング・ウィング号」は上大岡駅)到着までに座席を利用できなかった場合や混乗となった場合、あるいは到着が60分以上遅延した場合は座席指定料金を払い戻すことができる。
発売座席数は2100形は539名、1000形1890番台は128名となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-27 |url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2020/20210127HP_20136EW.html |title=2021年京急線ダイヤ改正について |publisher=京浜急行電鉄 |accessdate=2021-02-09}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Keikyu wing train entrance.jpg|「京急ウィング号」の係員と乗り込む乗客。
ファイル:Keikyu Series2100-2174 Seat.jpg|「京急ウィング号」の際は指定席となる「ウィング・シート」
</gallery>
=== 乗車位置 ===
「モーニング・ウィング号」の三浦海岸駅は3号車の三崎口駅寄り(5号)および4号車の三崎口駅寄り(3号)、横須賀中央駅は1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の三崎口駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および1・2号車の三崎口駅寄り(車両移動で3・4号車の座席も利用可能)(3号)、金沢文庫駅は7・8号車の泉岳寺駅寄り(1・5号)および11・12号車の三崎口駅寄り(車両移動で10号車の座席も利用可能)(3号)、上大岡駅は4 - 6号車の三崎口駅寄り(車両移動で3号車の泉岳寺駅寄りの一部座席も利用可能)(1・5号)および6・8・9号車の三崎口駅寄り(車両移動で5・7号車の座席も利用可能)(3号)のドアから乗車する。なお、上大岡駅発車後までは、割り当てられている号車間以外への移動はできない。品川駅からは全てのドアが開く。
「イブニング・ウィング号」の品川駅は4号車(1 - 4号車指定)と8号車(5 - 8号車指定)の泉岳寺駅寄り(2 - 12号)および3・4号車(14・16号)のドアから乗車する。上大岡駅からは全てのドアが開く。
「ウィング・シート」の2号車は全ての停車駅で三崎口駅寄りのドアから乗降する。
== 使用車両 ==
[[ファイル:Keikyu Type 1000-1891F Wing.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|モーニング・ウィング3号に充当される1000形1891編成]]
「京急ウィング号」の運行開始当初は[[京急2000形電車|2000形]]が使われていた<ref name="kotsu19920331">{{Cite news |title=待たずに座って帰宅京急ウイング号 来月16日から運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-31 |page=2 }}</ref>が、[[1998年]][[3月28日]]より[[鉄道車両の座席#転換式クロスシート(転換腰掛)|転換クロスシート]]の[[京急2100形電車|2100形]]車両の使用が始まり、翌[[1999年]]より全列車が2100形で運行している。
{{独自研究範囲|品川での特殊なドア扱いのため、2100形の品川方海側の再開閉ボタンにはロックが取り付けられている。品川では乗務員が非常コックを用いて必要なドアを開けた後にこの再開閉ボタンをロックし、非常コックを復帰することで開扉を維持していたが、「モーニング・ウィング号」に使われる限定開扉が出来る装置が品川方の先頭車にも取り付けられ、非常コックは使用していない|date=2019年10月}}。
2021年5月6日から、「モーニング・ウィング3号」が[[京急1000形電車 (2代)#20次車「Le Ciel」|1000形1890番台]]4両に車種変更の上、金沢文庫で2100形8両を増結する方法に変更となった。また2023年11月27日から、「イブニング・ウィング14・16号」も1000形1890番台4両に車種変更の上、金沢文庫まで8両で運転される快特の後ろ寄りに併結する方法に変更される。
== 歴史 ==
*[[1992年]]([[平成]]4年)[[4月16日]]:品川駅 - 京急久里浜駅間にて下り「'''京急ウィング号'''」運行開始<ref name="kotsu19920418"/>。使用車両は2000形<ref name="kotsu19920331"/>。1号 - 8号までの8本が設定された<ref name="kotsu19920418"/><ref name="Keikyu1998wing">[https://web.archive.org/web/19991105102735/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/S-1-5-8-5.html 京急ウィング号](京浜急行電鉄ホームページ・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)</ref>。
**当時の停車駅:品川駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 横須賀中央駅 - 京急久里浜駅<ref name="kotsu19920418"/>
*[[1993年]](平成5年)[[4月1日]]:4号以降が三崎口駅まで延長<ref name="Keikyu1998wing"/>。京急久里浜駅 - 三崎口駅間は各駅に停車。当時の快速特急は、野比(現・YRP野比)駅・京急長沢駅を通過していたため、この区間でのみ停車駅の逆転現象が起こっていた<ref group="注">当時三崎口駅発着の快速特急は1往復のみ(該当列車は「マリンパーク号」と呼ばれていた)で、それ以外の快速特急は京急久里浜駅発着であった。なお、三崎口発着の快速特急は1996年以降に順次増発している。</ref>。
*[[1996年]](平成8年)[[7月22日]]:2本増発(9・10号設定)する<ref name="Keikyu1998wing"/>。
*[[1998年]](平成10年)[[3月21日]]:2100形の使用を開始する。
*[[1999年]](平成11年)[[7月31日]]:久里浜線内各駅停車となると同時に、1本増発(11号設定)する<ref name="Keikyu1998wing"/>。
*[[2000年]](平成12年):全列車2100形を用いた運転になる。
*[[2010年]](平成22年)[[5月16日]]:金沢八景駅停車となる<ref>“[https://web.archive.org/web/20140307200335/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html 5月16日(日)ダイヤ改正を実施します]”. (プレスリリース),京浜急行電鉄. (2010年5月7日) 2014年3月7日時点の[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html オリジナル]よりアーカイブ。</ref>。
*[[2011年]](平成23年)
**[[3月22日]] - [[4月15日]]:[[東日本大震災]]に関連した[[東京電力]]管内[[輪番停電|計画停電]]実施による節電ダイヤ設定に伴い、全列車の運転を休止する。
**[[4月18日]]:混雑緩和に伴い、運転を再開する。
*[[2015年]] (平成27年)
**[[7月9日]] - [[7月15日]]:2141編成が人身事故に遭遇したことによる車両修理の影響で、更新工事中である2157編成、2173編成と合わせて2100形の3本が運用から離脱したため、「京急ウィング4号」は京急久里浜行に行き先を変更し、京急久里浜から先は1000形や600形がウィング4号として代走した。
**[[12月7日]]:三浦海岸駅 - 品川駅・泉岳寺駅間にて上り「'''モーニング・ウィング号'''」運行開始。同時に着席整理券の「Wing Ticket」をこれまでの200円から300円に値上げ<ref>[http://home.kingsoft.jp/news/transport/trafficnews/42967.html 「モーニング・ウィング号」12月から運転 京急] - 2015年9月11日、StartHome</ref>。1ヶ月券の「Wing Pass」を5500円で販売開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20151104HP_15139MT.html|title=12月7日(月) 京急線平日ダイヤ改正 都心方面への通勤がより快適に 朝の上り「モーニング・ウィング号」運行開始 夕方の下り「ウィング号」乗るほどお得な優待制度がスタート|accessdate=2020-2-14|publisher=京浜急行電鉄|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151107013426/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20151104HP_15139MT.html|archivedate=2015-11-7|date=2015-11-4}}</ref>。
*[[2016年]](平成28年)
**[[10月3日]]:「モーニング・ウィング号」の駅ごとの発売座席数を変更<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-22 |url=http://www.keikyu.co.jp/report/2016/20160822IN_16027YM.html |title=10月3日(月)から「モーニング・ウィング号」の発売座席数と乗車車両を変更いたします。 |publisher=京浜急行電鉄 |accessdate=2016-08-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160825030805/http://www.keikyu.co.jp/report/2016/20160822IN_16027YM.html|archivedate=2016-8-25}}</ref>する。
**[[11月19日]]:ダイヤ改正により下り「京急ウィング号」の運行時間帯が23時まで拡大される。本数は改正前と変わらず7号以降は約30分間隔の運転で、11号は京急久里浜行きとなる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20160926HP_16100NN.html|title= 11月19日(土)京急線ダイヤ改正~下りウィング号運行時間拡大!品川23:00発誕生~|publisher=京浜急行電鉄|date=2016-9-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160930162302/https://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20160926HP_16100NN.html|archivedate=2016-9-30}}</ref>。
*[[2017年]](平成29年)[[5月1日]]:「モーニング・ウィング号」「京急ウィング号」共に、座席定員制から座席指定制へ変更<ref name="press20170223" />。
*[[2018年]](平成30年)[[9月22日]] - [[9月24日]]、[[10月6日]] - [[10月8日]]:品川駅 - 三浦海岸駅間の下りで「'''ホリデー・ウィング号'''」を運行。ウィング号としては初の休日運行となった。途中停車駅は[[横浜駅]](乗車のみ)。また同期間中、品川駅始発の朝の快特の2号車が品川駅 - 上大岡駅間で「ウィング・シート車」として運行された。こちらは[[京急川崎駅]]でも乗車可能であった<ref name="keikyu20180906"/>。
*[[2019年]]([[令和]]元年)[[10月26日]]:ダイヤ改正により、以下のように変更<ref name="press20190829">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190829HP_19112EW.html|title=座れる通勤列車「モーニング・ウィング号」増発!「ウィング・シート」サービスも提供開始|date=2019-8-29|publisher=京浜急行電鉄|}}</ref><ref name="report20190926">{{Cite press release|和書|title=お知らせ 京急線ダイヤ改正(詳細版)|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20190926HP_19139EW.html|date=2019-09-26|accessdate=2019-10-18}}</ref>。
**横須賀中央駅発の「モーニング・ウィング号」を1本増発(増発分を1号とし、従来の1・2号は3・5号に変更)。しかし、この新1号は[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故|神奈川新町駅での事故]]による車両不足により、12月2日から運転開始となる<ref name="report20191018">[https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20191018_mw.html モーニング・ウィング1号 12月2日(月)から運転開始]</ref>。
**「京急ウィング号」を「'''イブニング・ウィング号'''」に改称。
**土休日に泉岳寺駅 - 三崎口駅間で日中帯に運転される快特のうち、40分毎の上り8本および下り9本の2号車に「ウィング・シート(指定席)」を新設。
**号数を上りは奇数、下りは偶数に統一。
*[[2020年]](令和2年)[[7月18日]]:「ウィング・シート」の車内で座席指定券が購入可能になる。
*[[2021年]](令和3年)[[3月27日]]:ダイヤ改正
** [[3月19日]]:「ウィング・シート」の座席指定券前売販売開始(8日前)。
**20・22号の臨時列車化。
**[[5月6日]]:3号を4両編成の[[京急1000形電車 (2代)|1000形1890番台]]で運行し、金沢文庫で増結して12両編成で運転<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2020/20210127HP_20136EW.html|title=京急線ダイヤ改正を実施します|date=2021-1-27|accessdate=2021-1-27|publisher=京浜急行電鉄|}}</ref>。
*[[2022年]](令和4年)
** [[2月26日]]:ダイヤ改正により、以下のように変更<ref name="press20220125">{{Cite press release|和書|url= https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20220125HP_21128TE.pdf|title= 2022年2月26日(土)土休日ダイヤ・2月28日(月)平日ダイヤ 京急線ダイヤ改正を実施します|date=2022-1-25|publisher=京浜急行電鉄|}}</ref>
***18 - 22号を削減し、16号までの20分間隔の運転となる。
** [[11月26日]]:ダイヤ改正により、以下のように変更<ref name="press20221024">{{Cite press release|和書|url= https://www.keikyu.co.jp/company/news/2022/20221024_22098TE.html|title= 11.26 京急線が23年ぶりの大幅ダイヤ改正を実施します|date=2022-10-24|publisher=京浜急行電鉄|}}</ref>。
*** 5号の運転時刻を約30分繰り上げ。
*** 「ウィング・シート」の運転時刻を一部変更の上、1往復増発。
***品川方面行きが三崎口駅 - 上大岡駅間の快特停車駅全13駅から乗車可能となる。
*[[2023年]](令和5年)[[11月25日]]:ダイヤ改正により14・16号を2100形8両編成から、8両編成の快特後部に4両編成の1000形1890番台を連結した形の金沢文庫行きに変更の上、イブニング・ウィング号が本来通過となる快特停車駅では快特列車に合わせる形で停車はするもののドア扱いを行わない運用となり、同時に品川駅1番線発となる。また、土休日ダイヤでのウィングシートの設定時間が繰上となり、上下1往復適用列車が増える<ref name="press20231024">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2023/20231024HP_23082TE.html|title=2023年11月25日(土)土休日ダイヤ・11月27日(月)平日ダイヤ 京急線ダイヤ改正を実施します|date=2023-10-24|publisher=京浜急行電鉄|}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[ホームライナー]]
*[[通勤輸送向け着席保証列車]]
*[[グリーン車#普通列車|普通グリーン車]] - 並行するJR東日本の東海道線・横須賀線の快速及び普通列車に連結されている。
== 外部リンク ==
*[https://www.keikyu.co.jp/ride/train/wing.html 京浜急行電鉄 座席指定「ウィング」サービス]
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[[Category:日本の列車]]
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[[Category:通勤]]
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クローラ
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クローラもしくはクローラー (Crawler) とは、ウェブ上の文書や画像などを周期的に取得し、自動的にデータベース化するプログラムである。「ボット」 (bot)、「スパイダー」、「ロボット」などとも呼ばれる。
主に検索エンジンのデータベース、インデックス作成に用いられているほか、統計調査などの目的にも利用されている。近年では、電子メールアドレス収集業者などもクローラを利用してスパムの送信効率を上げている。
一般にクローラは、既知のHTML文書の新しいコピーを要求して文書中に含まれるリンクをたどり、別の文書を収集するという動作を繰り返す。新しい文書を見つけた場合はデータベースに登録するほか、既知のファイルが存在しないことを検出した場合はデータベースから削除する。
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クローラもしくはクローラー (Crawler) とは、ウェブ上の文書や画像などを周期的に取得し、自動的にデータベース化するプログラムである。「ボット」 (bot)、「スパイダー」、「ロボット」などとも呼ばれる。 主に検索エンジンのデータベース、インデックス作成に用いられているほか、統計調査などの目的にも利用されている。近年では、電子メールアドレス収集業者などもクローラを利用してスパムの送信効率を上げている。 一般にクローラは、既知のHTML文書の新しいコピーを要求して文書中に含まれるリンクをたどり、別の文書を収集するという動作を繰り返す。新しい文書を見つけた場合はデータベースに登録するほか、既知のファイルが存在しないことを検出した場合はデータベースから削除する。
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{{Otheruses|コンピュータのプログラム|建設機械や農業機械に使用される走行装置|無限軌道}}
{{出典の明記|date=2022年2月}}
'''クローラ'''もしくは'''クローラー''' (Crawler) とは、[[World Wide Web|ウェブ]]上の文書や画像などを周期的に取得し、自動的に[[データベース]]化する[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]である。「ボット」 (bot)、「スパイダー」、「[[ロボット]]」などとも呼ばれる。
主に[[検索エンジン]]のデータベース、インデックス作成に用いられているほか、[[統計]]調査などの目的にも利用されている。近年では、[[メールアドレス|電子メールアドレス]]収集業者などもクローラを利用して[[スパム (メール)|スパム]]の送信効率を上げている。
一般にクローラは、既知の[[HyperText Markup Language|HTML]]文書の新しいコピーを要求して文書中に含まれる[[ハイパーリンク|リンク]]をたどり、別の文書を収集するという動作を繰り返す。新しい文書を見つけた場合はデータベースに登録するほか、既知のファイルが存在しないことを検出した場合はデータベースから削除する。
== 主なクローラ ==
* ManifoldCF ([[Apacheソフトウェア財団|Apache]])
* <!-- [[インターネットNinja]] -->[[ダウンロードNinja]]([[イーフロンティア]]、[[ダウンロード]]用ソフト([[ダウンローダー]]))
* GetHTMLW - ダウンローダー
* [[Wget]] - ダウンローダー
*[[Octoparse]]
*Googlebot
<!--過去
* [http://www.keywalker.co.jp/satori/crawler.html KW Webクローラー]([[キーウォーカー]])
* [[KenKen! Robot]]([[建築系検索エンジンKenKen!]])
* [[MitsuBachi]]([[マイニングブラウニー]])-->
== 関連項目 ==
* [[スパム (メール)]] - [[検索エンジンスパム]]
* [[メールアドレス検索ロボット]]
* [[インターネットボット]]
* [[ウェブスクレイピング]]
* [[Robots Exclusion Standard]]
* [[岡崎市立中央図書館事件]]
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スパイダー
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スパイダー
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スパイダー
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'''スパイダー'''
== spider、spyder ==
* [[クモ]](蜘蛛)の英語名。spider。
* インターネット上のリンクをたどり、情報を収集するプログラム。[[クローラ]]。
* [[スパイダー (トランプゲーム)]] - [[ソリティア]]の一種。
* [[Spyder (ソフトウェア)]] - プログラミング言語[[Python]]の開発環境。
* [[SPYDER 地対空ミサイルシステム|SPYDER]] - [[イスラエル]]で開発された[[地対空ミサイル]]システムの名称。
;馬車や自動車の型式
* 軽量4輪馬車。英語では"spider" もしくは "spyder"と綴り、"spider phaeton"の略である。
* [[自動車]]形式の[[オープンカー]]に付けられる呼称。上記の馬車の型式名からの転用。フランスでは「スピダー」と発音する。例として、以下の車種がある。
** [[三菱・エクリプス]]・スパイダー
** [[アルファロメオ・スパイダー]]
** [[ルノースポール・スパイダー]]
** [[フィアット・ディーノ]]・スパイダー
** [[フィアット・124スポルト・スパイダー]]
** [[フィアット・124スパイダー (2016年)]] - [[マツダ・ロードスター]]がベース。
** [[アバルト・124スパイダー]] - フィアット・124スパイダーのチューンアップ版。
; 作品名
* [[スパイダー (映画)]] - [[2001年]]公開の[[モーガン・フリーマン]]主演の映画。
* [[スパイダー (曲)]] - [[スピッツ (バンド)|スピッツ]]の10thシングル。
* [[スパイダー (小説)]] - [[パトリック・マグラア]]の小説。
* [[スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする]] - 上記の小説を元にした映画。
; 架空の人物
* [[スパイダー (手塚治虫)]] - [[手塚治虫]]の描く漫画に登場するキャラクター。「オムカエデゴンス」のセリフで有名。[[手塚漫画のキャラクター一覧]]を参照。
* [[スパイダー (パルプ誌)]] - パルプ誌の登場人物。
* ジョン・スパイダー - [[ズッコケ三人組]]の登場キャラクター。その正体は長嶋崇。
* [[スパイダーマン]] - 作中では主に「スパイディ」というあだ名が使われるが、ごく一部の人物からは「スパイダー」と呼ばれている。
; [[日本]]の[[バンド (音楽)|音楽バンド]]
* [[ザ・スパイダース]](The Spiders)
; 架空の銃
* スパイダーショット - [[ウルトラマン#科学特捜隊|科学特捜隊]]が所有する熱線銃。
; AV機器の商品名
*[[PTP]]が販売する全録型<ref>複数チャンネル(おおむね6~8)を24時間常時録り続けるタイプ。ハードディスクの容量によるが、これにより予約録画の手続きなしに一定時間まで遡って過去に放送した番組を視聴できる。</ref>[[ハードディスクレコーダー]]の名称。
== SPDR ==
* [[SPDRゴールド・シェア]](スパイダー・ゴールド・シェア) - [[ニューヨーク証券取引所|ニューヨーク証券取引所(NYSE)]]や[[東京証券取引所]]等に上場している[[金]][[上場投資信託|ETF]]<ref>[http://www.spdrgoldshares.com/sites/jp_ja/ SPDR Gold Shares] - 公式サイト</ref><ref>[http://www.tse.or.jp/news/200806/080613_c.html 金の価格に連動する商品現物型ETF「SPDR®ゴールド・シェア」の上場を承認しました] - 東証からのニュース、2008年6月13日</ref><ref>[http://www.tse.or.jp/news/200806/080618_a.html 6月30日上場予定の「SPDR®ゴールド・シェア」について] - 東証からのニュース、2008年6月18日</ref>。[[証券コード]](東証):[http://company.nikkei.co.jp/index.aspx?scode=1326 1326]。[[ティッカーシンボル]](NYSE):[http://www.nyse.com/about/listed/lcddata.html?ticker=GLD GLD]。
== 脚注 ==
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五味
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五味(ごみ)は、5つの味を意味する。ただし、場合によって意味するものは違う。
基本味(きほんあじ)、五原味とも言う。味蕾から味覚神経を伝って脳で認識できる、味覚の根本となる5つの要が発見した「うま味」を加えたもの。
中国の五行説では、5つで木・火・土・金・水の五行に対応している。
四川料理においては一般的に以下の五味が基本とされている。これらに苦み、香味を加えて七味が四川料理の基本とする説もある。
仏教では、牛や羊の乳を精製する過程における、五段階の味を指す。
醍醐味とは精製の段階を経て美味となった最高級の風味や乳製品を指し、このことから物事の真のおもしろさや仏教での衆生に例えられる(涅槃経による五味相生の譬)。
インド伝統医学のアーユルヴェーダでは味覚を6つに分け、毎食6種類の「味(ラサ)」を食べることが望ましいとされる。
清酒の五味は次のように表現される。
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五味(ごみ)は、5つの味を意味する。ただし、場合によって意味するものは違う。
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{{Otheruses|味覚|その他}}
'''五味'''(ごみ)は、5つの[[味]]を意味する。ただし、場合によって意味するものは違う。
== 五基本味 ==
'''基本味'''(きほんあじ)、'''五原味'''とも言う。[[味蕾]]から味覚神経を伝って[[脳]]で認識できる、味覚の根本となる5つの要が発見した「[[うま味]]」を加えたもの。{{main|味覚}}
#[[甘味]]
#[[酸味]]
#[[塩味]]
#[[苦味]]
#[[うま味]]
== 五行 ==
[[中国]]の五行説では、5つで木・火・土・金・水の五行に対応している。{{main|五行説}}
#酸味 - 木
#苦味 - 火
#甘味 - 土
#辛味 - 金
#塩味(鹹) - 水
== 四川料理 ==
[[四川料理]]においては一般的に以下の五味が基本とされている。これらに苦み、香味を加えて七味が四川料理の基本とする説もある<ref name="tai134">{{Citation |和書 |title=新・中国料理大全 4 四川料理: |isbn=9784096808641 |series=新中国料理大全 |url=https://books.google.co.jp/books?id=O\_UoNwAACAAJ |year=1997 |publisher=小学館 |page=137}}</ref>。
#さんしょうのしびれるような味 - 麻
#辛味 - 辣(唐辛子に限定しない)
#甘味 - 甜
#塩味 - 鹹
#酸味 - 酸
== 仏教 ==
[[仏教]]では、[[牛]]や[[羊]]の[[乳]]を精製する過程における、五段階の味を指す。
#乳味
#酪味
#生酥味(しょうそみ)
#熟酥味
#[[醍醐味]]
醍醐味とは精製の段階を経て美味となった最高級の風味や[[乳製品]]を指し、このことから物事の真のおもしろさや仏教での[[衆生]]に例えられる([[涅槃経]]による[[五味相生の譬]])。
== アーユルヴェーダ ==
[[インド]]伝統医学のアーユルヴェーダでは味覚を6つに分け、毎食6種類の「味(ラサ)」を食べることが望ましいとされる。{{main|アーユルヴェーダ}}
#甘味 - madhu(マドゥー)
#酸味 - amla(アムラ)
#塩味 - lavana(ラヴァナ)
#[[辛味]] - katu(カトゥ)
#苦味 - tikta(テクタ)
#[[渋味]] - kashaya(ケシャイ)
==清酒の五味 ==
[[清酒]]の五味は次のように表現される<ref name="Take">{{cite book | 和書 | author = [[小泉武夫]](著) | title = 酒の話 | publisher = [[講談社現代新書]] | date = 1991-05-17 | isbn = 4-06-145676-8 }}</ref>。
#甘味 - [[ブドウ糖]]、[[オリゴ糖]]、[[グリセリン]]、[[ブチレングリコール]]等の糖や多価[[アルコール]]、[[グリシン]]、[[アラニン]]、[[プロリン]]等の[[アミノ酸]]
#辛味 - [[エチルアルコール]]、[[アルデヒド]]類等
#酸味 - [[コハク酸]]、[[乳酸]]等の酸類
#苦味 - [[コリン]]、[[チラミン]]等の[[アミン]]や[[ヒスチジン]]、[[アルギニン]]、[[バリン]]、[[イソロイシン]]等のアミノ酸
#渋味 - [[チロシン]]や[[無機塩]]の一部
== 関連項目 ==
* [[五味五色]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Food-stub}}
{{DEFAULTSORT:こみ}}
[[Category:味覚]]
[[Category:名数5|み]]
|
2003-09-05T07:02:52Z
|
2023-09-21T03:55:55Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%91%B3
|
15,163 |
特別快速
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特別快速(とくべつかいそく)は、日本における列車種別の一種であり、(規則上の)普通列車のうち、通常の快速列車よりも停車駅が少ない列車のことである。略して特快(とくかい・とっかい)と呼ぶこともある。
快速電車(電車線・列車線の項目を参照)の上位に位置する速達列車として登場したもので、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)が、新宿駅 - 八王子駅(京王八王子駅)間で競合する京王帝都電鉄(現・京王電鉄)京王線の特急(特別料金不要)に対抗して1967年7月より中央線で運転を開始した特別快速(現在の中央特快・青梅特快)がその発端である。同様の例として、1969年に仙台鉄道管理局が石巻駅 - 仙台駅間を60分を切ることと、仙台市内の百貨店10時開店を意識したダイヤで特別快速を仙石線に設定した他、1970年に大阪鉄道管理局(現在の西日本旅客鉄道〈JR西日本〉)が京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)・京阪電気鉄道・阪神電気鉄道などの私鉄に対抗して東海道・山陽本線に新快速を設定している。
その後、長らく定期列車としては数線区での運転にとどまったが、臨時列車として運行されることもあった。国鉄分割民営化後は、フリークエンシーサービス向上のため急行列車の格下げなどで指定席・グリーン車の連結がある快速列車などに充てる種別として使用される例も出た。2004年から湘南新宿ラインに、2005年から常磐線に、それぞれ従来の快速列車の上位種別として設定された。
1999年には東海旅客鉄道(JR東海)の東海道線名古屋地区に設定された。この区間では1989年に設定された新快速と並存している。北海道旅客鉄道(JR北海道)では急行列車の格下げ・廃止の補完列車として設定されている例がある。
英語表記はJR東日本では"Special Rapid Service"と表記し、JR東海では"Special Rapid Train"と表記している。なおJR西日本の新快速も"Special Rapid Service"の英語表記を使用している(JR東海では新快速は"New Rapid Train"と表記)。米原駅にはJR東海・JR西日本両社の新快速が乗り入れるが、米原駅在来線ホームがJR西日本管轄のため構内のLED式発車標では同社の表記に合わせる形になっており、岐阜・名古屋方面行きの特別快速・新快速については区別なく "S.Rapid" と表記される。
2022年3月5日現在、特別快速が運行されている線区・列車は次のとおりである。
ともに快速列車のうち停車駅の少ないもの、あるいは始発駅・終着駅間を無停車のものを指したが、現在では停車駅やダイヤパターンの見直しにより、最速列車でも「快速」を名乗っている。また、山田線の「リアス」については、通常の快速列車が別名称(「そとやま」)で存在した。指宿枕崎線「なのはなDX」は、停車駅の違いではなく設備の違いで快速「なのはな」と区分されていた例である。
2020年(令和2年)3月14日ダイヤ改正より設定。既存の快速エアポートのうち朝夕の一部列車についてのみ速達型の特別快速として設定されており、大多数は快速列車として運行されている。
中央線の場合、運行方向・運行時間により以下の列車種別に細分化される。停車駅は中央線快速#駅一覧を参照。
平日に運行されている通勤特快・通勤快速は、基本的に土曜日および休日は中央特快・青梅特快として運行される。沿革については中央線快速#歴史を参照。
発着駅は中央本線大月駅、さらに富士山麓電気鉄道富士急行線河口湖駅となるものもあるが、列車としてはいずれも(快速も含め)高尾駅以西は普通列車として運転する。
いずれも豊田車両センターのE233系で運転される。
中央特快は、平日(通勤ラッシュ時を除く)および土休日に、主に東京駅 - 高尾駅間を運行している。一部は大月駅発着・富士山麓電気鉄道富士急行線河口湖駅発着で運行されている。
設定当時は、中野駅 - 立川駅間の快速運転を行うために設定され、昼間時のみの運行であった。運行時間帯を拡大したのは1986年のことである。本数は、新宿駅基準で上下ともに、早朝に2本、朝以降は1時間に1~4本(土休日のみ)、日中は4本、夕方~深夜は1~4本である。平日夕方の下り方向では運行されず、後述する通勤快速が代わりとなる。とくに日中は、青梅特快と合算すると、1時間に平日は上り5本、下り4本、休日は上下とも6本となる。
かつて平日深夜には、下り列車に新宿始発の列車があった。この列車は中野駅を通過し、三鷹駅まで無停車で運行された。これは中央本線の長距離普通列車が新宿駅まで乗り入れていた時代に、新宿の次の停車駅が三鷹であった名残りであった。こちらの設定は1986年11月1日から2017年3月3日までで、当初は通勤快速として運転されていた。
青梅特快は、中央線東京駅 - 青梅線青梅駅間を中心に運行している。また一時期は五日市線武蔵五日市始発・八高線高麗川始発で、拝島駅で両者を連結し、青梅線経由で乗り入れる列車が土休日朝に1本存在した。青梅線・五日市線・八高線内は各駅に停車する。ほとんどは日中の時間帯に運転されている。
人身事故等により青梅線・中央線間の直通運転が中止された場合、青梅特快は東京駅 - 立川駅・豊田駅・八王子駅間の折り返し運転となる。豊田駅・八王子駅発着の青梅特快は、立川駅で折り返しできない場合に限り運転される。
また、新宿始発として土休日に運転されているホリデー快速「おくたま号」「あきがわ号」も「特別快速」と案内されている。停車駅が異なる青梅特快の運行開始後、誤乗を防ぐため「ホリデー快速」の呼称が付与された。2001年12月1日には毎土休日運行の定期列車に昇格している。詳細は「ホリデー快速おくたま」を参照。
中央特快・青梅特快のいずれも三鷹駅・国分寺駅で快速・各駅停車と連絡するほか、一部は立川駅で連絡するものもある。立川駅での連絡は、主に中央特快と青梅線方面快速、あるいは青梅特快と中央線方面快速との間で行われるが、土休日には八王子・豊田始発の快速を中央特快が追い抜くものも存在する(立川駅12時27分発中央特快と12時30分発快速など)。
東京駅 - 神田駅 - 御茶ノ水駅 - 四ツ谷駅 - 新宿駅 - 中野駅 - 三鷹駅 - 国分寺駅 - 立川駅
平日夕方ラッシュ時下り方向に運行される。中央特快・青梅特快の停車駅に荻窪駅と吉祥寺駅を加えたもの。「特快」という名称こそ使用していないものの、中央線快速系統の通勤快速は中央特快・青梅特快・通勤特快同様に快速に対する速達列車として機能している。なお、中央線・青梅線系統どちらも名称は通勤快速に統一されている。 本数は東京駅基準で1時間に4本運転されている。 行先は高尾行き、大月行き、青梅行き、河口湖行き(後ろ6両大月駅止まり)がある。
東京駅 → 神田駅 → 御茶ノ水駅 → 四ツ谷駅 → 新宿駅 → 中野駅 → 荻窪駅 → 吉祥寺駅 → 三鷹駅 → 国分寺駅 → 立川駅
平日朝のラッシュ時の上りのみ運行している。運行区間は、大月駅、高尾駅、青梅駅のいずれかから東京駅までである。中央線車両の種別表記や駅構内での案内は「通勤特快」で統一されているが、JR東日本公式サイトの時刻表ページでは「通勤特別快速」と表記されている。
主に多摩地域西部の通勤客を対象としている。上の特別快速との差違は、高尾駅 - 新宿駅間の停車駅である。この区間では八王子駅、立川駅、国分寺駅にのみ停車し、国分寺駅 - 新宿駅間は無停車としている。しかし朝の過密ダイヤのため所要時間は日中の特快より長い。運行本数は、中央線大月発1本・高尾発1本、青梅線青梅発2本の合計4本である。
朝ラッシュ時には基本的にこの電車と快速電車が運行していたが、1990年代より「おはようライナー高尾」「ホームライナー高尾」「ホームライナー青梅」(「中央ライナー」「青梅ライナー」を経て現在は特急「はちおうじ」「おうめ」)も運行している。
高尾駅 → 八王子駅 → 立川駅 → 国分寺駅 → 新宿駅 → 四ツ谷駅 → 御茶ノ水駅 → 神田駅 → 東京駅
2004年10月16日より湘南新宿ラインを介して高崎線高崎駅 - 東海道線小田原駅間を運行している。小山車両センターと国府津車両センターのE231系またはE233系(E231系とE233系の併結運転もあり)で運転され、グリーン車を2両連結する。これは2001年の湘南新宿ライン運行開始時より高崎線発着列車は横須賀線区間で西大井・新川崎・保土ケ谷・東戸塚を通過(横須賀線内を快速運転)する快速列車として運行されており、特別快速は「快速」が各駅に停車する東海道線・高崎線内でも通過運転を行う、高崎線(・横須賀線)内を快速運転して東海道線内は各駅に停車していた快速列車の廃止と同時に新規設定されたことの2点の事情からこれら2種類の列車の上位種別として、特別快速と称されることとなった(特別快速は上記に加えて恵比寿駅も通過する)。よって、横須賀線内の各駅に停車する宇都宮線 - 横須賀線系統の湘南新宿ラインには特別快速が設定されていない。最高速度は120km/h。運転開始前後、巨大な屋外看板や電車内のドアに貼付した広告等で新宿-横浜間最速27分運転をアピールしていた。
高崎線側は従来より上野駅・池袋駅 - 籠原駅・高崎駅・前橋駅間で運行されていた快速列車「アーバン」のうち、日中の列車を全て置き換える形で運行されている。一方、東海道線側では、従来より東京駅 - 小田原駅・熱海駅で運行されている快速「アクティー」とは別に増発の形で運行されている。なお、新宿駅 - 小田原駅の所要時分は74 - 78分で、小田急ロマンスカーとほぼ同等の所要時分である。
運転区間は、定期列車は東海道線方が1番列車の平塚駅始発を除いて、すべて小田原駅 ⇔ 高崎駅である。
高崎行(高崎線直通)は、高崎線内では鴻巣駅で、東海道線内では、大船駅ないし平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。一方、小田原行(東海道線直通)は、高崎線内では桶川駅で、東海道線内では平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。
また、2007年3月18日のダイヤ改正以降、土曜・日曜を中心とした多客期には1往復/日が熱海駅まで延長運転していた。この延長運転は2009年3月14日のダイヤ改正以降2往復/日となった。停車駅は2004年10月15日以前の一部の快速「アクティー」と同じである。
詳しくは、湘南新宿ライン・高崎線・東海道線 (JR東日本)の項も参考のこと。
高崎線内は快速「アーバン」の日中の列車を振り分ける形で設定された経緯から日中の快速「アーバン」に準じた停車駅となったが、東海道本線内は快速「アクティー」とは別に設定されたため、当初は快速「アクティー」が当時戸塚駅を通過していたのに対し、特別快速は戸塚駅停車とされた。しかしその後、快速の通過駅が特別快速の停車駅であるのは紛らわしいとされ、特別快速の停車駅に準じ快速「アクティー」も戸塚駅に停車することとなった。
2005年7月9日より上野駅 - 土浦駅間を標準55分(上りは最速56分)で結ぶ列車として、昼間時に上下計5.5往復(上り5本、下り6本)の運転を開始した。増発ではなく、それまで昼間時間帯に運転していた土浦駅発着の普通列車(概ね、1時間に2本)の1本を置き換える形で登場した。この背景としては同年8月24日の首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業への対抗が挙げられる。取手駅以北の交流電化区間へ直通し、最高速度130km/h運転を行うためグリーン車2両込みのE531系(勝田車両センター)で運行する。2006年3月18日から、上下6往復の運転となっている。2015年3月14日のダイヤ改正から北千住駅が新規に停車駅となったため、上野駅 - 土浦駅間の所要時間は下り57分、上り58分となっている。また、上野東京ラインの開業により、全列車が品川駅発着となった。
現在常磐線では定期列車として「快速列車」は運転しておらず、過去に存在した定期列車や、近年も運転する臨時列車(一般車両を用いた自由席の列車)でも、土浦駅以南は基本的に普通列車と同じ停車駅であり、通過運転を行うのは土浦駅以北のみであった。しかし、2004年10月16日から普通列車の取手駅以南での案内上の呼称が「快速」となったため、実質的にこの「快速」の上位種別となっている。また、「快速」と、2006年3月17日まで平日朝ラッシュ時の上りのみ設定されていた通勤快速の中間に当たる種別である(下りの通勤快速は2005年7月に廃止されている)。中央線では通勤快速より特別快速の方が上位だが、常磐線は逆であった(通勤快速は上野-取手間の停車駅は当時の特別快速と同一だったが、取手-土浦間では牛久駅のみ停車、土浦駅以北は各駅に停車し、最遠で高萩駅まで運行していた)。
下り列車で途中通過駅がなくなると案内が「普通」に変更される快速や通勤快速とは異なり、通過駅がなくなる取手以北(下り)でも案内は「特別快速」のままである。また、運行障害が発生している際には特快運転を中止し、取手 - 上野間を快速として運転することがままある。この場合、駅の発車標では種別が「特別快速」のままになっており、また大幅な遅れでなければ特快の通過駅ではダイヤ上の通過時刻が表示される。取手 - 土浦間は各駅に停車するため、所要時間は普通列車と大差ない。
2022年3月12日のダイヤ改正で、日中時間帯の特別快速の運行は取りやめ、1日あたり2往復に減便された。 上りは土浦駅9:00、10:00発の2本で、いずれも土浦駅着の上り列車から接続を受ける。10時台と土休日9時台は取手駅始発の快速と接続、北千住駅で快速(10時台は中距離列車)と相互に接続し追い抜く。平日9時台は取手駅での接続がなく土浦駅で接続受けする普通列車が天王台駅・我孫子駅への先着列車となるほか、1本前の快速は我孫子駅で追い抜く。下りは品川始発で上野15・16時台発の2本。先行列車の追い抜きはなく、取手駅で快速電車からの接続を受ける。なお、上野東京ライン品川・新橋・東京方面から三河島駅・南千住駅へは、同一ホームで乗り換えのできる日暮里駅が便利である。土浦駅からの接続列車はなく、後続の水戸方面行は、約5分後の特急ときわ号(上野駅を特快の19分後に発車)、22分後の普通列車(同2分後)となる。
2015年3月14日から東京駅 - 館山駅間で運転を開始した。1日1往復のみで、朝は東京始発の館山行きで、夕方は館山始発東京行きが運行された。なお、横須賀線との直通運転は行わなかった。使用されていた車両は鎌倉車両センターのE217系。東京駅 - 木更津駅間は基本11両 + 付属4両の15両編成で運転したが、青堀駅 - 館山駅間のホームが15両編成に対応していないため、木更津駅で館山寄り基本11両を切り離し、木更津駅 - 館山駅間は付属の4両編成のみで運転を行った。なお、グリーン車の営業も行っており、基本11両編成の4号車と5号車がグリーン車であるが、前述の通り基本11両編成は木更津駅で増結・切り離しを行ったため、木更津駅 - 館山駅間ではグリーン車の営業は行わなかった。木更津駅では増結・切り離しを行うため、木更津駅で下りは8分、上りは9分停車していた。下りは船橋駅で市川駅で追い越した快速千葉行きに2分で連絡し、終点の館山駅で始発の普通安房鴨川行きに3分で連絡していた。上りは木更津駅で普通千葉行きに4分で連絡し、千葉駅で成田空港駅始発快速久里浜行きに3分で連絡(津田沼・船橋・錦糸町の各駅で乗り換えても同じ列車)、さらに東京駅で成田エクスプレス号大船行きに4分で、東京駅始発横須賀線普通逗子行きに6分で連絡していた。
2017年3月4日のダイヤ改正をもって登場からわずか2年で廃止された。
2015年5月30日から仙台駅 - 石巻駅間で運転開始。1日1往復のみ運行される。
高城町駅 - 石巻駅間では2003年10月まで特別快速(あおば通駅 - 石巻駅間。うみかぜ号)が設定されていたため、当該区間の特別快速としては約12年ぶりの復活となった。
仙台駅 - 塩釜駅 - 高城町駅 - 矢本駅 - 石巻駅
JR東海の浜松駅 - 米原駅間を運行している。1999年12月4日のダイヤ改正時より設定されており、ラッシュ時に運行されるため通勤速達列車としての側面が強い。
快速と新快速の違いとして、共和駅と大府駅を通過する。
朝と夕方の速達列車のほとんどが特別快速である。また、昼間閑散時間帯以外では2本/時間が特別快速となっており、新快速(2本/時間)とともに速達運転をしている。
指宿枕崎線で運行される「なのはなDX」は2004年3月13日から2011年3月11日まで運行されていた列車で、座席指定席車両を連結することから、同じ区間を運行する快速列車「なのはな」との差別化を図るため、特別快速と称していた。指宿枕崎線・指宿のたまて箱も参照。
2011年3月12日のダイヤ改正で特急「指宿のたまて箱」に置き換えられる形で廃止された。
2020年(令和2年)7月4日より設定。「しなのサンライズ号」と「しなのサンセット号」は平日朝夕に有料ライナーの種別としての特別快速として設定されている(以前も設定されていたが特別快速と名乗っていなかった)。また軽井沢リゾート号は土休日の有料の特別快速として設定された。
その他の私鉄においても快速列車を運行している事業者もあるが、私鉄では快速の上位種別として料金不要の特急・急行・快速特急(快特)・快速急行などが基本的に使用されている(急行との上下関係は事業者によって異なる。また、急行を設定していない事業者・路線もある。快速列車及び会社別列車種別一覧を参照)。しかし、快速より上位の派生種別として、特別快速に近い種別としては以下のものがある。
路線バスにおいては、西鉄バスの福岡、北九州市内の一部路線に特別快速が存在する。詳細は西鉄バスの各営業所の項目を参照。
また、銀河鉄道が小平、国分寺市内で実証実験として特別快速路線を2022年3月1日~31日まで期間限定で運行している。
この他、2023年3月から川崎鶴見臨港バスが導入する連節バス路線(KAWASAKI BRT)において特別快速(BRT特快)が設定された。
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"text": "2004年10月16日より湘南新宿ラインを介して高崎線高崎駅 - 東海道線小田原駅間を運行している。小山車両センターと国府津車両センターのE231系またはE233系(E231系とE233系の併結運転もあり)で運転され、グリーン車を2両連結する。これは2001年の湘南新宿ライン運行開始時より高崎線発着列車は横須賀線区間で西大井・新川崎・保土ケ谷・東戸塚を通過(横須賀線内を快速運転)する快速列車として運行されており、特別快速は「快速」が各駅に停車する東海道線・高崎線内でも通過運転を行う、高崎線(・横須賀線)内を快速運転して東海道線内は各駅に停車していた快速列車の廃止と同時に新規設定されたことの2点の事情からこれら2種類の列車の上位種別として、特別快速と称されることとなった(特別快速は上記に加えて恵比寿駅も通過する)。よって、横須賀線内の各駅に停車する宇都宮線 - 横須賀線系統の湘南新宿ラインには特別快速が設定されていない。最高速度は120km/h。運転開始前後、巨大な屋外看板や電車内のドアに貼付した広告等で新宿-横浜間最速27分運転をアピールしていた。",
"title": "JR"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "高崎線側は従来より上野駅・池袋駅 - 籠原駅・高崎駅・前橋駅間で運行されていた快速列車「アーバン」のうち、日中の列車を全て置き換える形で運行されている。一方、東海道線側では、従来より東京駅 - 小田原駅・熱海駅で運行されている快速「アクティー」とは別に増発の形で運行されている。なお、新宿駅 - 小田原駅の所要時分は74 - 78分で、小田急ロマンスカーとほぼ同等の所要時分である。",
"title": "JR"
},
{
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"text": "運転区間は、定期列車は東海道線方が1番列車の平塚駅始発を除いて、すべて小田原駅 ⇔ 高崎駅である。",
"title": "JR"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "高崎行(高崎線直通)は、高崎線内では鴻巣駅で、東海道線内では、大船駅ないし平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。一方、小田原行(東海道線直通)は、高崎線内では桶川駅で、東海道線内では平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。",
"title": "JR"
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"text": "また、2007年3月18日のダイヤ改正以降、土曜・日曜を中心とした多客期には1往復/日が熱海駅まで延長運転していた。この延長運転は2009年3月14日のダイヤ改正以降2往復/日となった。停車駅は2004年10月15日以前の一部の快速「アクティー」と同じである。",
"title": "JR"
},
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"text": "詳しくは、湘南新宿ライン・高崎線・東海道線 (JR東日本)の項も参考のこと。",
"title": "JR"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "高崎線内は快速「アーバン」の日中の列車を振り分ける形で設定された経緯から日中の快速「アーバン」に準じた停車駅となったが、東海道本線内は快速「アクティー」とは別に設定されたため、当初は快速「アクティー」が当時戸塚駅を通過していたのに対し、特別快速は戸塚駅停車とされた。しかしその後、快速の通過駅が特別快速の停車駅であるのは紛らわしいとされ、特別快速の停車駅に準じ快速「アクティー」も戸塚駅に停車することとなった。",
"title": "JR"
},
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2005年7月9日より上野駅 - 土浦駅間を標準55分(上りは最速56分)で結ぶ列車として、昼間時に上下計5.5往復(上り5本、下り6本)の運転を開始した。増発ではなく、それまで昼間時間帯に運転していた土浦駅発着の普通列車(概ね、1時間に2本)の1本を置き換える形で登場した。この背景としては同年8月24日の首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業への対抗が挙げられる。取手駅以北の交流電化区間へ直通し、最高速度130km/h運転を行うためグリーン車2両込みのE531系(勝田車両センター)で運行する。2006年3月18日から、上下6往復の運転となっている。2015年3月14日のダイヤ改正から北千住駅が新規に停車駅となったため、上野駅 - 土浦駅間の所要時間は下り57分、上り58分となっている。また、上野東京ラインの開業により、全列車が品川駅発着となった。",
"title": "JR"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "現在常磐線では定期列車として「快速列車」は運転しておらず、過去に存在した定期列車や、近年も運転する臨時列車(一般車両を用いた自由席の列車)でも、土浦駅以南は基本的に普通列車と同じ停車駅であり、通過運転を行うのは土浦駅以北のみであった。しかし、2004年10月16日から普通列車の取手駅以南での案内上の呼称が「快速」となったため、実質的にこの「快速」の上位種別となっている。また、「快速」と、2006年3月17日まで平日朝ラッシュ時の上りのみ設定されていた通勤快速の中間に当たる種別である(下りの通勤快速は2005年7月に廃止されている)。中央線では通勤快速より特別快速の方が上位だが、常磐線は逆であった(通勤快速は上野-取手間の停車駅は当時の特別快速と同一だったが、取手-土浦間では牛久駅のみ停車、土浦駅以北は各駅に停車し、最遠で高萩駅まで運行していた)。",
"title": "JR"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "下り列車で途中通過駅がなくなると案内が「普通」に変更される快速や通勤快速とは異なり、通過駅がなくなる取手以北(下り)でも案内は「特別快速」のままである。また、運行障害が発生している際には特快運転を中止し、取手 - 上野間を快速として運転することがままある。この場合、駅の発車標では種別が「特別快速」のままになっており、また大幅な遅れでなければ特快の通過駅ではダイヤ上の通過時刻が表示される。取手 - 土浦間は各駅に停車するため、所要時間は普通列車と大差ない。",
"title": "JR"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正で、日中時間帯の特別快速の運行は取りやめ、1日あたり2往復に減便された。 上りは土浦駅9:00、10:00発の2本で、いずれも土浦駅着の上り列車から接続を受ける。10時台と土休日9時台は取手駅始発の快速と接続、北千住駅で快速(10時台は中距離列車)と相互に接続し追い抜く。平日9時台は取手駅での接続がなく土浦駅で接続受けする普通列車が天王台駅・我孫子駅への先着列車となるほか、1本前の快速は我孫子駅で追い抜く。下りは品川始発で上野15・16時台発の2本。先行列車の追い抜きはなく、取手駅で快速電車からの接続を受ける。なお、上野東京ライン品川・新橋・東京方面から三河島駅・南千住駅へは、同一ホームで乗り換えのできる日暮里駅が便利である。土浦駅からの接続列車はなく、後続の水戸方面行は、約5分後の特急ときわ号(上野駅を特快の19分後に発車)、22分後の普通列車(同2分後)となる。",
"title": "JR"
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{
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"tag": "p",
"text": "2015年3月14日から東京駅 - 館山駅間で運転を開始した。1日1往復のみで、朝は東京始発の館山行きで、夕方は館山始発東京行きが運行された。なお、横須賀線との直通運転は行わなかった。使用されていた車両は鎌倉車両センターのE217系。東京駅 - 木更津駅間は基本11両 + 付属4両の15両編成で運転したが、青堀駅 - 館山駅間のホームが15両編成に対応していないため、木更津駅で館山寄り基本11両を切り離し、木更津駅 - 館山駅間は付属の4両編成のみで運転を行った。なお、グリーン車の営業も行っており、基本11両編成の4号車と5号車がグリーン車であるが、前述の通り基本11両編成は木更津駅で増結・切り離しを行ったため、木更津駅 - 館山駅間ではグリーン車の営業は行わなかった。木更津駅では増結・切り離しを行うため、木更津駅で下りは8分、上りは9分停車していた。下りは船橋駅で市川駅で追い越した快速千葉行きに2分で連絡し、終点の館山駅で始発の普通安房鴨川行きに3分で連絡していた。上りは木更津駅で普通千葉行きに4分で連絡し、千葉駅で成田空港駅始発快速久里浜行きに3分で連絡(津田沼・船橋・錦糸町の各駅で乗り換えても同じ列車)、さらに東京駅で成田エクスプレス号大船行きに4分で、東京駅始発横須賀線普通逗子行きに6分で連絡していた。",
"title": "JR"
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"text": "2017年3月4日のダイヤ改正をもって登場からわずか2年で廃止された。",
"title": "JR"
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"text": "2015年5月30日から仙台駅 - 石巻駅間で運転開始。1日1往復のみ運行される。",
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"tag": "p",
"text": "高城町駅 - 石巻駅間では2003年10月まで特別快速(あおば通駅 - 石巻駅間。うみかぜ号)が設定されていたため、当該区間の特別快速としては約12年ぶりの復活となった。",
"title": "JR"
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"text": "仙台駅 - 塩釜駅 - 高城町駅 - 矢本駅 - 石巻駅",
"title": "JR"
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"text": "JR東海の浜松駅 - 米原駅間を運行している。1999年12月4日のダイヤ改正時より設定されており、ラッシュ時に運行されるため通勤速達列車としての側面が強い。",
"title": "JR"
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"text": "快速と新快速の違いとして、共和駅と大府駅を通過する。",
"title": "JR"
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"text": "朝と夕方の速達列車のほとんどが特別快速である。また、昼間閑散時間帯以外では2本/時間が特別快速となっており、新快速(2本/時間)とともに速達運転をしている。",
"title": "JR"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "指宿枕崎線で運行される「なのはなDX」は2004年3月13日から2011年3月11日まで運行されていた列車で、座席指定席車両を連結することから、同じ区間を運行する快速列車「なのはな」との差別化を図るため、特別快速と称していた。指宿枕崎線・指宿のたまて箱も参照。",
"title": "JR"
},
{
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"text": "2011年3月12日のダイヤ改正で特急「指宿のたまて箱」に置き換えられる形で廃止された。",
"title": "JR"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)7月4日より設定。「しなのサンライズ号」と「しなのサンセット号」は平日朝夕に有料ライナーの種別としての特別快速として設定されている(以前も設定されていたが特別快速と名乗っていなかった)。また軽井沢リゾート号は土休日の有料の特別快速として設定された。",
"title": "私鉄・第3セクター"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その他の私鉄においても快速列車を運行している事業者もあるが、私鉄では快速の上位種別として料金不要の特急・急行・快速特急(快特)・快速急行などが基本的に使用されている(急行との上下関係は事業者によって異なる。また、急行を設定していない事業者・路線もある。快速列車及び会社別列車種別一覧を参照)。しかし、快速より上位の派生種別として、特別快速に近い種別としては以下のものがある。",
"title": "私鉄・第3セクター"
},
{
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"tag": "p",
"text": "路線バスにおいては、西鉄バスの福岡、北九州市内の一部路線に特別快速が存在する。詳細は西鉄バスの各営業所の項目を参照。",
"title": "バスにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、銀河鉄道が小平、国分寺市内で実証実験として特別快速路線を2022年3月1日~31日まで期間限定で運行している。",
"title": "バスにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この他、2023年3月から川崎鶴見臨港バスが導入する連節バス路線(KAWASAKI BRT)において特別快速(BRT特快)が設定された。",
"title": "バスにおける事例"
}
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特別快速(とくべつかいそく)は、日本における列車種別の一種であり、(規則上の)普通列車のうち、通常の快速列車よりも停車駅が少ない列車のことである。略して特快(とくかい・とっかい)と呼ぶこともある。
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{{未検証|date=2010年7月}}
'''特別快速'''(とくべつかいそく)は、[[日本]]における[[列車種別]]の一種であり、(規則上の)[[普通列車]]のうち、通常の[[快速列車]]よりも[[停車駅]]が少ない列車のことである。略して'''特快'''(とくかい・とっかい)と呼ぶこともある。
==概説==
快速'''電車'''(''[[電車線・列車線]]の項目を参照'')の上位に位置する速達列車として登場したもので、[[JR]]の前身である[[日本国有鉄道]](国鉄)が、[[新宿駅]] - [[八王子駅]]([[京王八王子駅]])間で競合する京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])[[京王線]]の特急(特別料金不要)に対抗して[[1967年]]7月より[[中央線快速|中央線]]で運転を開始した[[#中央線・青梅線|特別快速]](現在の中央特快・青梅特快)がその発端である。同様の例として、[[1969年]]に仙台鉄道管理局が石巻駅 - 仙台駅間を60分を切ることと、[[仙台市]]内の[[百貨店]]10時開店を意識したダイヤで特別快速を[[仙石線]]<!--(2015年5月より[[仙石東北ライン]])--><!--ここは国鉄時代の話なので、ここに仙石東北ラインのことを書くのは変でしょう-->に設定した他、[[1970年]]に大阪鉄道管理局(現在の[[西日本旅客鉄道]]〈JR西日本〉)が京阪神急行電鉄(現・[[阪急電鉄]])・[[京阪電気鉄道]]・[[阪神電気鉄道]]などの[[私鉄]]に対抗して[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]に'''[[新快速]]'''を設定している。
その後、長らく<!--中央線と仙石線以外には定期運転されることはなかったが<北陸本線や鹿児島本線での運転例があるのでこの部分は誤り。削除-->定期列車としては数線区での運転にとどまったが、[[臨時列車]]として運行されることもあった。[[国鉄分割民営化]]後は、フリークエンシーサービス向上のため[[急行列車]]の格下げなどで[[座席指定席|指定席]]・[[グリーン車]]の連結がある快速列車などに充てる種別として使用される例も出た。[[2004年]]から[[湘南新宿ライン]]に、[[2005年]]から[[常磐線]]に、それぞれ従来の快速'''列車'''の上位種別として設定された。
1999年には[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[#東海道本線(名古屋地区)|東海道線名古屋地区]]に設定された。この区間では1989年に設定された新快速と並存している。[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では急行列車の格下げ・廃止の補完列車として設定されている例がある。
英語表記はJR東日本では"'''Special Rapid Service'''"と表記し、JR東海では"'''Special Rapid Train'''"と表記している。なおJR西日本の[[新快速]]も"Special Rapid Service"の英語表記を使用している(JR東海では新快速は"''New'' Rapid Train"と表記)。[[米原駅]]にはJR東海・JR西日本両社の新快速が乗り入れるが、米原駅在来線ホームがJR西日本管轄のため構内の[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]では同社の表記に合わせる形になっており、岐阜・名古屋方面行きの特別快速・新快速については区別なく "S.Rapid" と表記される。
=== 現行の運転線区 ===
2022年3月5日現在、特別快速が運行されている線区・列車は次のとおりである。
* [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
** [[石北本線]]「[[きたみ (列車)|きたみ]]」
** [[千歳線]]「[[エアポート (列車)|エアポート]]」(朝夕の一部列車にのみ設定)
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[中央本線]]([[中央線快速]])
***[[青梅線]]・[[五日市線]]
** [[常磐線]]・[[上野東京ライン]]([[常磐快速線]] - [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]])
** [[湘南新宿ライン]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] - [[高崎線]])
** [[仙石東北ライン]]([[東北本線]] - [[仙石線]])
* [[東海旅客鉄道]](JR東海)
** [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]](浜松 - 米原)
* [[しなの鉄道]]
** [[しなの鉄道線]]、[[北しなの線]]
=== 過去の運転線区 ===
; 過去に運行されていた線区・列車名として、以下のものが挙げられる。
* [[日本国有鉄道]](国鉄)
** [[函館本線]]([[小樽駅]] - [[岩見沢駅]]間)
** [[総武本線]]・[[成田線]]([[御茶ノ水駅]] - [[成田駅]]間、<!--うち御茶ノ水-錦糸町間は下のJR東「エアポート成田」の区間には入らない-->成田[[初詣臨時列車|初詣臨時]]、列車としては新宿駅 - 成田駅間)
** [[北陸本線]]([[福井駅 (福井県)|福井駅]] - [[富山駅]]間)<!--1972年頃-->
** [[鹿児島本線]]([[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - [[博多駅]]間、1972年 - 1980年。列車としては[[門司港駅]]、南福岡駅、荒木駅、熊本駅、山陽本線または宇部線経由で[[新山口駅|小郡駅]]などを発着駅とするものもあったが、基本的に小倉駅 - 博多駅間以外では各駅停車。ただし、宇部線内では快速として運転するものも時期によっては存在した)
* 東日本旅客鉄道(JR東日本)
** [[山田線]]「[[リアス (列車)|リアス]]」
** [[東北本線]]・[[石巻線]]・[[気仙沼線]]([[仙台駅]] - [[気仙沼駅]])「南三陸シーサイド」(臨時列車、1980〜90年頃夏)
** [[仙石線]]「[[仙石線|うみかぜ]]」<!--「マンガッタンライナー」列車名ではない車両名-->
** [[仙山線]][[仙山 (列車)|「仙山」「ホリデー仙山」]]
** [[磐越西線]]「[[ばんだい]]」(臨時列車)
** [[横須賀線]]・[[総武快速線|総武本線]]・[[成田線]]「エアポート成田」([[大船駅]] - [[東京駅]] - [[成田空港駅]]間、臨時列車、1991年7月20日 - 1992年11月29日)
** 横須賀線・総武本線・成田線・[[鹿島線]]「カシマスタジアム」([[久里浜駅]] - 東京駅 - [[千葉駅]] - 成田駅 - [[鹿島神宮駅]]、臨時列車、2002年6月2日 - 2002年6月8日)
** [[総武本線]]([[横須賀・総武快速線|総武快速線]])・内房線(2015年3月14日 - 2017年3月4日)
* 東海旅客鉄道(JR東海)飯田線(豊橋 - 本長篠間)
* 西日本旅客鉄道(JR西日本)
** [[大阪環状線]]・[[阪和線]]・[[関西空港線]]「[[関空快速・紀州路快速#関空特快「ウイング」|関空特快ウイング]]」
* [[九州旅客鉄道]](JR九州)
** [[指宿枕崎線]]「[[指宿枕崎線#特急「指宿のたまて箱」・快速「なのはな」|なのはなDX]]」
ともに快速列車のうち停車駅の少ないもの、あるいは始発駅・終着駅間を無停車のものを指したが、現在では停車駅やダイヤパターンの見直しにより、最速列車でも「快速」を名乗っている。また、山田線の「リアス」については、通常の快速列車が別名称(「そとやま」)で存在した。指宿枕崎線「なのはなDX」は、停車駅の違いではなく設備の違いで快速「なのはな」と区分されていた例である。
==JR==
=== 石北本線「きたみ」 ===
{{main|きたみ (列車)}}
=== 千歳線「エアポート」 ===
2020年(令和2年)3月14日[[ダイヤ改正]]より設定。既存の快速エアポートのうち朝夕の一部列車についてのみ速達型の特別快速として設定されており、大多数は快速列車として運行されている。
{{main|エアポート (列車)}}
=== 中央線・青梅線 ===
[[ファイル:JRE 201 series Chuō line rapid 2001-05-13.jpg|thumb|240px|right|特別快速の元祖「中央特快」]]
==== 概要 ====
{{Main|中央線快速#特別快速(中央特快・青梅特快)}}
中央線の場合、運行方向・運行時間により以下の列車種別に細分化される。停車駅は[[中央線快速#駅一覧]]を参照。
* '''通勤特別快速'''(つうきんとくべつかいそく/Commuter Special Rapid)(平日朝上りのみ、案内上は'''通勤特快'''と表記される)
* '''中央特快'''(ちゅうおうとっかい/Chūō Special Rapid)
* '''青梅特快'''(おうめとっかい/Ōme Special Rapid)
* '''通勤快速'''(つうきんかいそく/Commuter Rapid)(平日夕方下りのみ)
* '''特別快速'''(とくべつかいそく/Special Rapid)(土曜・休日運転の[[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速おくたま・あきがわ]]のみ)
平日に運行されている通勤特快・通勤快速は、基本的に[[土曜日]]および[[休日]]は中央特快・青梅特快として運行される。沿革については[[中央線快速#歴史]]を参照。
発着駅は中央本線[[大月駅]]、さらに[[富士山麓電気鉄道富士急行線]][[河口湖駅]]となるものもあるが、列車としてはいずれも(快速も含め)高尾駅以西は普通列車として運転する。
いずれも[[豊田車両センター]]のE233系で運転される。
==== {{Visible anchor|中央特快・青梅特快|中央特快|青梅特快}} ====
'''中央特快'''は、平日(通勤[[ラッシュ時]]を除く)および土休日に、主に東京駅 - 高尾駅間を運行している。一部は大月駅発着・富士山麓電気鉄道富士急行線河口湖駅発着で運行されている。
設定当時は、中野駅 - 立川駅間の快速運転を行うために設定され、昼間時のみの運行であった。運行時間帯を拡大したのは[[1986年]]のことである。本数は、新宿駅基準で上下ともに、早朝に2本、朝以降は1時間に1~4本(土休日のみ)、日中は4本、夕方~深夜は1~4本である。平日夕方の下り方向では運行されず、後述する通勤快速が代わりとなる。とくに日中は、青梅特快と合算すると、1時間に平日は上り5本、下り4本、休日は上下とも6本となる。
かつて平日深夜には、下り列車に新宿始発の列車があった。この列車は中野駅を通過し、三鷹駅まで無停車で運行された。これは中央本線の長距離普通列車が新宿駅まで乗り入れていた時代に、新宿の次の停車駅が三鷹であった名残りであった。こちらの設定は[[1986年]][[11月1日]]から[[2017年]][[3月3日]]までで<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/hachioji/20161216/20161216_info04.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正について(多摩版)|accessdate=2017-03-04|author=JR東日本八王子支社|date=2016-12-16|format=PDF|quote=③新宿始発の特別快速を東京発に変更します}}</ref>、当初は通勤快速として運転されていた<ref>交通公社の時刻表 復刻版 1987年4月号・1988年3月号</ref>。
[[ファイル:Series-E233-T27.jpg|thumb|240px|right|青梅特快]]
[[ファイル:Jre233 commuterspecialrapid t5.jpg|thumb|240px|right|通勤特快]]
'''青梅特快'''は、中央線東京駅 - 青梅線[[青梅駅]]間を中心に運行している。また一時期は五日市線[[武蔵五日市駅|武蔵五日市]]始発・八高線[[高麗川駅|高麗川]]始発で、[[拝島駅]]で両者を連結し、青梅線経由で乗り入れる列車が土休日朝に1本存在した。青梅線・五日市線・八高線内は各駅に停車する。ほとんどは日中の時間帯に運転されている。
[[鉄道人身障害事故|人身事故]]等により青梅線・中央線間の直通運転が中止された場合、青梅特快は東京駅 - 立川駅・[[豊田駅]]・[[八王子駅]]間の折り返し運転となる。豊田駅・八王子駅発着の青梅特快は、立川駅で折り返しできない場合に限り運転される。
また、新宿始発として土休日に運転されている[[ホリデー快速]]「おくたま号」「あきがわ号」も「特別快速」と案内されている。停車駅が異なる青梅特快の運行開始後、誤乗を防ぐため「ホリデー快速」の呼称が付与された。[[2001年]][[12月1日]]には毎土休日運行の定期列車に昇格している。詳細は「[[ホリデー快速おくたま]]」を参照。
中央特快・青梅特快のいずれも三鷹駅・国分寺駅で快速・各駅停車と連絡するほか、一部は立川駅で連絡するものもある。立川駅での連絡は、主に中央特快と青梅線方面快速、あるいは青梅特快と中央線方面快速との間で行われるが、土休日には八王子・豊田始発の快速を中央特快が追い抜くものも存在する(立川駅12時27分発中央特快と12時30分発快速など)。
===== 停車駅 =====
[[東京駅]] - [[神田駅 (東京都)|神田駅]] - [[御茶ノ水駅]] - [[四ツ谷駅]] - [[新宿駅]] - [[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[三鷹駅]] - [[国分寺駅]] - [[立川駅]]
* 中央特快・青梅特快とも、立川駅より[[日野駅 (東京都)|日野]]・[[西立川駅|西立川]]側では各駅に停車する。
==== 通勤快速 ====
平日夕方ラッシュ時下り方向に運行される。中央特快・青梅特快の停車駅に荻窪駅と吉祥寺駅を加えたもの。「特快」という名称こそ使用していないものの、中央線快速系統の通勤快速は中央特快・青梅特快・通勤特快同様に快速に対する速達列車として機能している。なお、中央線・青梅線系統どちらも名称は通勤快速に統一されている。
本数は東京駅基準で1時間に4本運転されている。
行先は高尾行き、大月行き、青梅行き、河口湖行き(後ろ6両大月駅止まり)がある。
===== 停車駅 =====
[[東京駅]] → [[神田駅 (東京都)|神田駅]] → [[御茶ノ水駅]] → [[四ツ谷駅]] → [[新宿駅]] → [[中野駅 (東京都)|中野駅]] → [[荻窪駅]] → [[吉祥寺駅]] → [[三鷹駅]] → [[国分寺駅]] → [[立川駅]]
* 青梅線内も含め、立川駅から先は各駅に停車する。
==== {{Visible anchor|通勤特別快速|通勤特快}} ====
平日朝のラッシュ時の上りのみ運行している。運行区間は、大月駅、高尾駅、青梅駅のいずれかから東京駅までである。中央線車両の種別表記や駅構内での案内は「通勤特快」で統一されているが、JR東日本公式サイトの時刻表ページでは「通勤特別快速」<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=時刻表 停車駅一覧:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/1908/train/175/175231.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-08-12|language=ja|publisher=}}</ref>と表記されている。
主に[[多摩地域]]西部の通勤客を対象としている。上の特別快速との差違は、高尾駅 - 新宿駅間の停車駅である。この区間では八王子駅、立川駅、国分寺駅にのみ停車し、国分寺駅 - 新宿駅間は無停車としている。しかし朝の過密ダイヤのため所要時間は日中の特快より長い。運行本数は、中央線大月発1本<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=時刻表 停車駅一覧:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/2205/timetable/tt0331/0331020.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2022-05-20|language=ja|publisher=}}</ref>・高尾発1本<ref>{{Cite web|和書|title=時刻表 停車駅一覧:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/1908/train/130/131101.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-08-12|language=ja|publisher=}}</ref>、青梅線青梅発2本<ref>{{Cite web|和書|title=時刻表 停車駅一覧:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/1908/train/175/175181.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-08-12|language=ja|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=時刻表 停車駅一覧:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/1908/train/175/175481.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-08-12|language=ja|publisher=}}</ref>の合計4本である<ref>{{Cite web|和書|title=時刻表 立川駅 中央本線・中央線快速:JR東日本|url=https://www.jreast-timetable.jp/2205/timetable/tt0958/0958020.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2022-05-20|language=ja|publisher=}}</ref>。
朝ラッシュ時には基本的にこの電車と快速電車が運行していたが、[[1990年代]]より[[ホームライナー#首都圏|「おはようライナー高尾」「ホームライナー高尾」「ホームライナー青梅」]](「中央ライナー」「青梅ライナー」を経て現在は特急[[はちおうじ・おうめ|「はちおうじ」「おうめ」]])も運行している。
===== 停車駅 =====
[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]] → [[八王子駅]] → [[立川駅]] → [[国分寺駅]] → [[新宿駅]] → [[四ツ谷駅]] → [[御茶ノ水駅]] → [[神田駅 (東京都)|神田駅]] → [[東京駅]]
* 大月駅 → 高尾駅間及び、青梅線内は各駅に停車する。
=== 湘南新宿ライン(東海道線 - 高崎線系統) ===
==== 概要 ====
[[2004年]][[10月16日]]より湘南新宿ラインを介して高崎線高崎駅 - 東海道線小田原駅間を運行している。[[小山車両センター]]と[[国府津車両センター]]の[[JR東日本E231系電車|E231系]]または[[JR東日本E233系電車|E233系]](E231系とE233系の併結運転もあり)で運転され、グリーン車を2両連結する。これは[[2001年]]の湘南新宿ライン運行開始時より高崎線発着列車は横須賀線区間で[[西大井駅|西大井]]・[[新川崎駅|新川崎]]・[[保土ケ谷駅|保土ケ谷]]・[[東戸塚駅|東戸塚]]を通過(横須賀線内を快速運転)する'''快速'''列車として運行されており<ref group="注釈">高崎線内・東海道線内は種別を切り替えて'''普通'''になる。</ref>、特別快速は「快速」が各駅に停車する東海道線・高崎線内でも通過運転を行う、高崎線(・横須賀線)内を快速運転して東海道線内は各駅に停車していた快速列車の廃止と同時に新規設定されたことの2点の事情からこれら2種類の列車の上位種別として、特別快速と称されることとなった(特別快速は上記に加えて[[恵比寿駅]]も通過する)。よって、横須賀線内の各駅に停車する[[宇都宮線]] - 横須賀線系統の湘南新宿ラインには特別快速が設定されていない<ref group="注釈">宇都宮線内を快速列車として運転し横須賀線内各駅に停車する列車は特別快速と同時に設定されている。また、[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|快速「アクティー」]]は東京以北は宇都宮線のみと直通し、高崎線とは直通しない。[[上野東京ライン]]高崎線直通は東海道線内は全て普通運転である。</ref>。最高速度は120km/h。運転開始前後、巨大な屋外看板や電車内のドアに貼付した[[広告]]等で新宿-横浜間最速27分運転をアピールしていた。
高崎線側は従来より[[上野駅]]・池袋駅 - [[籠原駅]]・高崎駅・[[前橋駅]]間で運行されていた快速列車「アーバン」のうち、日中の列車を全て置き換える形で運行されている。一方、東海道線側では、従来より東京駅 - 小田原駅・熱海駅で運行されている[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|快速「アクティー」]]とは別に増発の形で運行されている。なお、新宿駅 - 小田原駅の所要時分は74 - 78分で、[[小田急ロマンスカー]]とほぼ同等の所要時分である。
運転区間は、定期列車は東海道線方が1番列車の平塚駅始発を除いて、すべて小田原駅 ⇔ 高崎駅である。
高崎行(高崎線直通)は、高崎線内では鴻巣駅で、東海道線内では、大船駅ないし平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。一方、小田原行(東海道線直通)は、高崎線内では桶川駅で、東海道線内では平塚駅で、普通列車に接続する(一部接続しない列車もあり)。
また、[[2007年]][[3月18日]]のダイヤ改正以降、土曜・日曜を中心とした多客期には1往復/日が熱海駅まで延長運転していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2006_2/20070103.pdf|title=春の増発列車のお知らせ|accessdate=2017-03-04|author=JR東日本|date=2007-01-19|format=PDF|quote=湘南新宿ラインの特別快速を、1日1往復、観光名所の熱海まで延長して運転します。}}</ref>。この延長運転は[[2009年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降2往復/日となった。停車駅は[[2004年]][[10月15日]]以前の一部の快速「アクティー」と同じである。
詳しくは、[[湘南新宿ライン]]・[[高崎線]]・[[東海道線 (JR東日本)]]の項も参考のこと。
===== 停車駅 =====
高崎線内は快速「アーバン」の日中の列車を振り分ける形で設定された経緯から日中の快速「アーバン」に準じた停車駅となったが、東海道本線内は快速「アクティー」とは別に設定されたため、当初は快速「アクティー」が当時戸塚駅を通過していたのに対し、特別快速は戸塚駅停車とされた。しかしその後、快速の通過駅が特別快速の停車駅であるのは紛らわしいとされ、特別快速の停車駅に準じ快速「アクティー」も戸塚駅に停車することとなった。
:[[高崎駅]] - [[熊谷駅]]の各駅 - [[鴻巣駅]] - [[北本駅]] - [[桶川駅]] - [[上尾駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[浦和駅]] -[[赤羽駅]] - [[池袋駅]] - [[新宿駅]] - [[渋谷駅]] - [[大崎駅]] - [[武蔵小杉駅]] - [[横浜駅]] - [[戸塚駅]] - [[大船駅]] - [[藤沢駅]] - [[茅ケ崎駅]] - [[平塚駅]] - [[国府津駅]] - [[小田原駅]]( - [[真鶴駅]] - [[湯河原駅]] - [[熱海駅]])<!--どなた様か画像、お願いします。-->
=== 常磐線===
==== 概要 ====
[[ファイル:Jreast e531.jpg|thumb|right|240px|E531系で運行される<br />[[常磐線]]の特別快速]]
2005年7月9日より上野駅 - 土浦駅間を標準55分(上りは最速56分)で結ぶ列車として、昼間時に上下計5.5往復(上り5本、下り6本)の運転を開始した。増発ではなく、それまで昼間時間帯に運転していた土浦駅発着の普通列車(概ね、1時間に2本)の1本を置き換える形で登場した。この背景としては同年[[8月24日]]の[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]開業への対抗が挙げられる。取手駅以北の交流電化区間へ直通し、最高速度130km/h運転を行うためグリーン車2両込みの[[JR東日本E531系電車|E531系]]([[勝田車両センター]])で運行する。2006年3月18日から、上下6往復の運転となっている。[[2015年]]3月14日のダイヤ改正から北千住駅が新規に停車駅となったため、上野駅 - 土浦駅間の所要時間は下り57分、上り58分となっている。また、上野東京ラインの開業により、全列車が品川駅発着となった。
現在常磐線では定期列車として「快速列車」は運転しておらず<ref group="注釈">[[取手駅]]以南で運転される「[[常磐快速線|快速電車]]」とは異なる。</ref>、過去に存在した定期列車や、近年も運転する臨時列車(一般車両を用いた自由席の列車)でも、土浦駅以南は基本的に普通列車と同じ停車駅であり、通過運転を行うのは土浦駅以北のみであった。しかし、2004年10月16日から普通列車の取手駅以南での案内上の呼称が「快速」となった<ref group="注釈">これは、同年3月より取手駅以南の停車駅が快速電車と同一となったことに伴うものである。</ref>ため、実質的にこの「快速」の上位種別となっている。また、「快速」と、2006年[[3月17日]]まで平日朝ラッシュ時の上りのみ設定されていた通勤快速の中間に当たる種別である(下りの通勤快速は2005年7月に廃止されている)。中央線では通勤快速より特別快速の方が上位だが、常磐線は逆であった(通勤快速は上野-取手間の停車駅は当時の特別快速と同一だったが、取手-土浦間では牛久駅のみ停車、土浦駅以北は各駅に停車し、最遠で高萩駅まで運行していた)。
下り列車で途中通過駅がなくなると案内が「普通」に変更される快速や通勤快速とは異なり、通過駅がなくなる取手以北(下り)でも案内は「'''特別快速'''」のままである。また、運行障害が発生している際には特快運転を中止し、取手 - 上野間を快速として運転することがままある。この場合、駅の発車標では種別が「特別快速」のままになっており、また大幅な遅れでなければ特快の通過駅ではダイヤ上の通過時刻が表示される。取手 - 土浦間は各駅に停車するため、所要時間は[[普通列車]]と大差ない。
[[2022年]]3月12日のダイヤ改正で、日中時間帯の特別快速の運行は取りやめ、1日あたり2往復に減便された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/mito/20211217_mt01.pdf |title=2022年3月のダイヤ改正について |accessdate=2022-02-25 |publisher=東日本旅客鉄道株式会社水戸支社}}</ref>。
上りは土浦駅9:00、10:00発の2本で、いずれも土浦駅着の上り列車から接続を受ける。10時台と土休日9時台は取手駅始発の快速と接続、北千住駅で快速(10時台は中距離列車)と相互に接続し追い抜く。平日9時台は取手駅での接続がなく土浦駅で接続受けする普通列車が天王台駅・我孫子駅への先着列車となるほか、1本前の快速は我孫子駅で追い抜く。下りは品川始発で上野15・16時台発の2本。先行列車の追い抜きはなく、取手駅で快速電車からの接続を受ける。なお、上野東京ライン品川・新橋・東京方面から[[三河島駅]]・[[南千住駅]]へは、同一ホームで乗り換えのできる日暮里駅が便利である。土浦駅からの接続列車はなく、後続の水戸方面行は、約5分後の特急[[ひたち (列車)|ときわ]]号(上野駅を特快の19分後に発車)、22分後の普通列車(同2分後)となる。
: 2006年3月18日のダイヤ改正から[[2014年]]3月14日までは、松戸駅では上り各駅停車から特別快速、下り特別快速から各駅停車、柏駅では上り特別快速から各駅停車、下り各駅停車から特別快速へ、いずれも約3分で接続していた。
: [[2014年]]3月15日のダイヤ改正で日中の各駅停車の運転間隔が変更され、上りは柏駅では各駅停車→特別快速が1分で、松戸駅では各駅停車と特別快速がいずれも5分で接続していた。下りは松戸駅では各駅停車と特別快速がいずれも5分で、柏駅では特別快速→各駅停車が1分で接続している(11時台 - 14時台。10時台と15時台は異なる場合があった)。
<!-- 上りは取手駅で後発の始発快速に接続し(土休日15時台を除く)、北千住駅で先行の普通と相互に接続し追い抜く。下りは上野駅で後発の始発普通に接続し、松戸駅で快速(取手行き。土休日15時台のみ成田行き)と相互に接続し追い抜く。取手駅まで先行して接続する快速は平日の10時台のみ(土休日の同じ時間の電車は我孫子駅止まり。[[2020年]][[3月13日]]までは逆に平日が我孫子行き、土休日が取手行きであった)で、他の時間帯は直前が中距離列車で土浦まで先行するため接続はない。なお、この中距離列車(水戸方面行き)は、土浦駅で特別快速の到着を待つことなく発車する。後続の水戸方面行は、約10分後の特急[[ひたち (列車)|ときわ]]号(上野駅を特快の21分後に発車)、25分後の普通列車(同3分後。ただし上野発10時台は7分後。上野発13時台は土浦止まり、始発列車に接続)となる。上野東京ライン品川・新橋・東京方面から[[三河島駅]]・[[南千住駅]]及び土浦以北の普通列車停車駅へは、同一ホームで乗り換えのできる日暮里駅が便利である。
対[[常磐緩行線]]については、[[2018年]]3月17日のダイヤ改正で各駅停車の時刻が変更され、柏駅は上下とも同発となるため10分を要する。松戸駅では上りは各駅停車から特別快速に2分で、下りは特別快速から各駅停車に4分で乗り換えられるが、上り特別快速から各駅停車は8分、下り各駅停車から特別快速は6分を要する。[[2015年]]3月14日から停車となった北千住は、上り各駅停車から特別快速、下り特別快速から各駅停車のいずれの乗り換えでも8分を要している。また、土休日の15時台のみ取手駅で特別快速と各駅停車が上下とも5分前後で接続していたが、[[2021年]]3月13日のダイヤ改正で土休日の各駅停車の取手駅乗り入れ自体がなくなった。このうち上りについては[[2017年]][[10月14日]]のダイヤ改正より土休日15時台に接続する上りの快速が[[成田線]]直通となったことで、この各駅停車が[[天王台駅]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]・[[北柏駅]]の補完電車となっていた。この廃止にともなう快速の振替もなかったため、天王台駅では25分も空くダイヤとなっていた。
-->
==== 停車駅 ====
: [[品川駅]] - [[新橋駅]] - [[東京駅]] - [[上野駅]] - [[日暮里駅]] - [[北千住駅]] - [[松戸駅]] - [[柏駅]] - [[取手駅]] - [[藤代駅]] - [[龍ケ崎市駅]] - [[牛久駅]] - [[ひたち野うしく駅]] - [[荒川沖駅]] - [[土浦駅]]
:* 取手 - 土浦間は各駅に停車するため、通過駅を伴うのは取手以南の[[常磐快速線]]内のみとなっている。
:* 上野以北の停車パターンは、むしろ複々線化前から直後の時期までの普通列車に近い(最も少ないものは、取手から我孫子・松戸・日暮里・上野)。なお、柏駅は1972年から1980年までは日中のみの停車。
=== 総武快速線・内房線 ===
==== 概要 ====
[[2015年]][[3月14日]]から東京駅 - [[館山駅]]間で運転を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1412_timetable.pdf|title=2015年3月ダイヤ改正について|accessdate=2017-03-04|author=JR東日本千葉支社|date=2014-12-19|format=PDF|quote=総武快速線経由の『特別快速』を新設し、都心と南房総エリアとの新たな直通サービスを開始します。}}</ref>。1日1往復のみで、朝は東京始発の館山行きで、夕方は館山始発東京行きが運行された。なお、[[横須賀線]]との直通運転は行わなかった<ref group="注釈">ただし、なんらかの事情で館山行きが急遽横須賀線内から直通運転したことがある(詳細不明)。</ref>。使用されていた車両は[[鎌倉車両センター]]の[[JR東日本E217系電車|E217系]]。東京駅 - [[木更津駅]]間は基本11両 + 付属4両の15両編成で運転したが、[[青堀駅]] - 館山駅間のホームが15両編成に対応していないため、木更津駅で館山寄り基本11両を切り離し、木更津駅 - 館山駅間は付属の4両編成のみで運転を行った。なお、グリーン車の営業も行っており、基本11両編成の4号車と5号車がグリーン車であるが、前述の通り基本11両編成は木更津駅で増結・切り離しを行ったため、木更津駅 - 館山駅間ではグリーン車の営業は行わなかった。木更津駅では増結・切り離しを行うため、木更津駅で下りは8分、上りは9分停車していた。下りは[[船橋駅]]で[[市川駅]]で追い越した快速千葉行きに2分で連絡し、終点の館山駅で始発の普通[[安房鴨川駅|安房鴨川]]行きに3分で連絡していた。上りは木更津駅で普通千葉行きに4分で連絡し、千葉駅で成田空港駅始発快速久里浜行きに3分で連絡([[津田沼駅|津田沼]]・船橋・[[錦糸町駅|錦糸町]]の各駅で乗り換えても同じ列車)、さらに東京駅で[[成田エクスプレス]]号大船行きに4分で、東京駅始発横須賀線普通[[逗子駅|逗子]]行きに6分で連絡していた。
[[2017年]][[3月4日]]のダイヤ改正をもって登場からわずか2年で廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1612_daikai.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正について|accessdate=2017-03-04|author=JR東日本千葉支社|date=2016-12-16|format=PDF|quote=お客さまのご利用状況から東京~館山間を運行していた『特別快速』を取り止めます。}}</ref>。
=== 仙石東北ライン ===
==== 概要 ====
[[2015年]][[5月30日]]から[[仙台駅]] - [[石巻駅]]間で運転開始。1日1往復のみ運行される。
[[高城町駅]] - 石巻駅間では2003年10月まで特別快速([[あおば通駅]] - 石巻駅間。うみかぜ号)が設定されていたため、当該区間の特別快速としては約12年ぶりの復活となった。
===== 停車駅 =====
仙台駅 - [[塩釜駅]] - 高城町駅 - [[矢本駅]] - 石巻駅
=== 東海道本線(名古屋地区) ===
[[ファイル:JR-Series311-G5 Special-Rapid.jpg|thumb|right|240px|JR東海の特別快速<br />([[JR東海311系電車|311系]]・[[岐阜駅]] - [[木曽川駅]]間)]]
==== 概要 ====
JR東海の[[浜松駅]] - [[米原駅]]間を運行している。1999年12月4日のダイヤ改正時より設定されており、ラッシュ時に運行されるため通勤速達列車としての側面が強い。
快速と新快速の違いとして、[[共和駅]]と[[大府駅]]を通過する。
==== 運行形態 ====
朝と夕方の速達列車のほとんどが特別快速である。また、昼間閑散時間帯以外では2本/時間が特別快速となっており、新快速(2本/時間)とともに速達運転をしている。
==== 停車駅 ====
{{see also|東海道線 (名古屋地区)}}
*([[浜松駅]] - (各駅停車) - )[[豊橋駅]] - [[蒲郡駅]] - 〔[[幸田駅]]*〕 - [[岡崎駅]] - [[安城駅]] - [[刈谷駅]] - [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] - [[名古屋駅]] - [[尾張一宮駅]] - [[岐阜駅]] - (各駅停車) - [[大垣駅]] (- (各駅停車) - [[米原駅]])
* 〔 〕内の駅は平日の早朝下り2本のみ停車。
==== 沿革 ====
{{see|東海道線 (名古屋地区)#東海道本線中京圏の列車の沿革}}
=== 大阪環状線・阪和線・関西空港線「関空特快ウイング」 ===
{{see|関空快速・紀州路快速}}
=== 指宿枕崎線「なのはなDX」 ===
指宿枕崎線で運行される「なのはなDX」は2004年3月13日から2011年3月11日まで運行されていた列車で、座席指定席車両を連結することから、同じ区間を運行する快速列車「なのはな」との差別化を図るため、特別快速と称していた。[[指宿枕崎線]]・[[指宿のたまて箱]]も参照。
2011年3月12日のダイヤ改正で特急「指宿のたまて箱」に置き換えられる形で廃止された。
== 私鉄・第3セクター ==
=== しなの鉄道「しなのサンライズ号」・「しなのサンセット号」・「軽井沢リゾート号」 ===
{{main|しなのサンライズ号・しなのサンセット号|軽井沢リゾート号}}
[[2020年]](令和2年)[[7月4日]]より設定。「しなのサンライズ号」と「しなのサンセット号」は平日朝夕に有料ライナーの種別としての特別快速として設定されている(以前も設定されていたが特別快速と名乗っていなかった)。また軽井沢リゾート号は土休日の有料の特別快速として設定された。
=== (参考)その他の私鉄における近似種別 ===
その他の私鉄においても快速列車を運行している事業者もあるが、私鉄では快速の上位種別として料金不要の[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]・[[快速特急]](快特)・[[快速急行]]などが基本的に使用されている(急行との上下関係は事業者によって異なる。また、急行を設定していない事業者・路線もある。[[快速列車]]及び[[会社別列車種別一覧]]を参照)。しかし、快速より上位の派生種別として、特別快速に近い種別としては以下のものがある。
*[[神戸電鉄]]([[神戸電鉄有馬線|有馬線]]・[[神戸電鉄三田線|三田線]])では快速より上位の種別で「'''特快速'''」が存在する。詳細は「[[神戸電鉄有馬線]]」を参照。
*[[北越急行]]では快速の上位種別として「'''[[超快速]]'''」が存在していた<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuhoku.co.jp/1osirase/press-release/20141219.pdf 平成27年3月14日ほくほく線ダイヤ改正]}} - 北越急行</ref>。詳細は「[[北越急行ほくほく線#超快速「スノーラビット」]]」を参照。
== バスにおける事例 ==
路線バスにおいては、[[西鉄バス]]の福岡、北九州市内の一部路線に特別快速が存在する。詳細は西鉄バスの各営業所の項目を参照。
また、[[銀河鉄道]]が小平、国分寺市内で実証実験として特別快速路線を2022年3月1日~31日まで期間限定で運行している<ref>[http://gintetsu.co.jp/info/%e5%b0%8f%e5%b9%b3%e5%9b%bd%e5%88%86%e5%af%ba%e7%b7%9a%e3%80%8a%e7%89%b9%e5%88%a5%e5%bf%ab%e9%80%9f%e3%80%8b%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%88%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%99%e3%80%82/ 小平国分寺線《特別快速》スタートします。]銀河鉄道株式会社</ref><ref>[https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/096/096156.html?ref=rss 銀河鉄道 路線バス実証実験運行・特別快速新設(2022年3月1日 )]小平市</ref>。
この他、2023年3月から[[川崎鶴見臨港バス]]が導入する[[連節バス]]路線(KAWASAKI [[バス・ラピッド・トランジット|BRT]])において特別快速(BRT特快)が設定された<ref>{{Cite news|url=https://www.rinkobus.co.jp/2023/01/20/f3c3dc1bafe9a84c2cabdd834f70d5ff367516a0.pdf |publisher=川崎鶴見臨港バス |title=川崎臨海部において本市初となるBRTの運行を開始します |date=2023-01-20}}</ref>。
== 備考 ==
*JR旅客会社の中で[[四国旅客鉄道]](JR四国)ではJR発足時より特別快速が設定された実績はなく、四国においては国鉄時代も含めて特別快速が設定されたことがない。
*[[中華人民共和国の鉄道]]においては[[優等列車]]として快速列車が運行されており、その上位種別として「特快列車」が存在するが、追加料金が必要とする優等列車として運行されており、日本のJRの特急列車に近い列車である。また、[[台湾]]の[[台湾鉄路管理局]]においても、{{仮リンク|対号特快|zh|台鐵對號特快}}などの日本における特急としての特快列車が存在したが、1990年代以降においては[[自強号]]に統一されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[快速急行]]
* [[特別急行列車#料金不要の「特急」]]
* [[ムーンライト (列車)]]
* [[快速特急]]
{{日本における列車種別一覧}}
{{DEFAULTSORT:とくへつかいそく}}
[[Category:北海道旅客鉄道の列車]]
[[Category:東日本旅客鉄道の列車]]
[[Category:東海旅客鉄道の列車]]
[[Category:西日本旅客鉄道の列車]]
[[Category:九州旅客鉄道の列車]]
[[Category:列車種別]]
|
2003-09-05T07:09:39Z
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2023-11-28T02:18:27Z
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ISP
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ISP
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ISP インターネットサービスプロバイダの略。
池袋ショッピングパーク - 池袋駅の地下街)の略称。
いしかわサイエンスパーク。
研究開発型ソフトウェアハウス「株式会社システム計画研究所」の略称。
In-System Programming の略。電子部品へのプログラム書き込み方法の一種。
国際ストレプトマイセスプロジェクト - ストレプトマイセス属の真正細菌に関する国際プロジェクト。
ISP法 - イギリスのインペリアル・スメルティング社の技術研究グループが考案した亜鉛の製錬法。
イタカ・スミスリンパウダー - イタカ・スミスリンパウダーの略称。日本のAV監督。
国際科学警察 - 特撮テレビ番組『Kawaii! JeNny』に登場する架空の組織。
株式会社インテックソリューションパワー(インテックのグループ企業)の略称
比推力の略。
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{{WikipediaPage|ウィキペディアのテンプレートについては、[[Template:ISP]]をご覧下さい。}}
'''ISP'''
* [[インターネットサービスプロバイダ]](Internet Service Provider)の略。
* [[池袋ショッピングパーク]](Ikebukuro Shopping Park) - [[池袋駅]]の[[地下街]])の略称。
* [[いしかわサイエンスパーク]](ISHIKAWA Science Park)。
* 研究開発型ソフトウェアハウス「株式会社システム計画研究所」(渋谷区桜丘町; research Institute of Systems Planning)の略称。<ref>[http://www.isp.co.jp/ システム計画研究所/ISP オフィシャルサイト]</ref>
* [[In-System Programming]] の略。電子部品へのプログラム書き込み方法の一種。
* 国際ストレプトマイセスプロジェクト (<!-- 英語版:まだ項目ができていません2011.6 -->International Streptomyces Project) - [[ストレプトマイセス属]]の[[真正細菌]]に関する<!-- 書ける方は追記お願いします -->国際プロジェクト。<!-- <ref>[http:// 外部リンクが必要と思います]</ref> -->
* ISP法 (Imperial Smelting Process) - イギリスのインペリアル・スメルティング社の技術研究グループが考案した[[亜鉛]]の[[製錬]]法。
* [[イタカ・スミスリンパウダー]](Itaka Smith phosphorus Powder) - イタカ・スミスリンパウダーの略称。日本の[[AV監督]]。<ref>[https://www.naturalhigh.co.jp/ NATURAL HIGH(ナチュラルハイ)]</ref>
* 国際科学警察(International Science Police) - 特撮テレビ番組『[[Kawaii! JeNny]]』に登場する架空の組織。
* 株式会社インテックソリューションパワー([[インテック]]のグループ企業)の略称
* [[比推力]](specific impulse)の略。
==脚注==
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プロバイダ
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プロバイダ、プロバイダー(Provider) 日本語で「提供者」「提供会社」。何らかの商品やサービスを提供している人や物や会社の意味。
インターネット接続業者のこと。 インターネットサービスプロバイダを参照。
プログラミング用語では、何らかの機能を提供するオブジェクトを意味することがある。
C-123 (航空機)の愛称
プロヴァイダー (補給艦) - カナダ海軍の補給艦。
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'''プロバイダ'''、'''プロバイダー'''(Provider)
* 日本語で「[[提供]]者」「提供[[会社]]」。何らかの[[商品]]や[[サービス]]を提供している人や物や会社の意味。
* [[インターネット]]接続業者のこと。 [[インターネットサービスプロバイダ]]を参照。
* [[プログラミング]]用語では、何らかの機能を提供する[[オブジェクト]]を意味することがある([[OLE DB]]や[[.NET Framework]]などの[[Windows]]プログラミングで主に使用される用語)。
* [[C-123 (航空機)]]の愛称
* [[プロヴァイダー (補給艦)]] - カナダ海軍の補給艦。
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インターネットサービスプロバイダ
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インターネットサービスプロバイダ(英語: Internet Service Provider)とは、インターネット接続の電気通信役務を提供する組織のことである。プロバイダやISPなどと略して呼ばれることが多い。日本では、電気通信事業者であり、インターネット接続事業者(略して接続事業者)と訳されることが ある。回線事業者がプロバイダ業も兼ねて提供している会社と回線事業者の回線を使ってプロバイダ業のみサービスを提供する会社に分かれる。
基本的にはインターネット接続を希望する個人や団体に対し、一定の対価を徴収した上で接続サービスを提供する。またISPによってはネット上でのオンラインショッピングに対する決済サービス等も提供している(詳しくは主なサービス内容を参照)。
大手ISPの中には自社(あるいはグループ)で大規模なインターネットバックボーンを運用し、併せてインターネットデータセンター (iDC) やインターネットエクスチェンジ (IX) などを運営するものも少なくない一方で、中小ISPになると実際には大手ISPのサービスに独自ブランドをつけてサービスを再販しているに過ぎない(自社設備を持たない)場合もあり、運営形態は様々である。
なおISPの多くは営利目的で運営されている(商用ISP)が、中には非営利団体として運営されるISP(非商用ISP)も存在する(UUNETの初期や、日本ではインターネット互助会横浜(IMASY) など)。
ちなみに日本で最も加入者の多いISPはNTTドコモのiモードである(2014年3月末現在で約5004万人。ただしspモード加入者を含む)。iモードは無線接続によるISPとして世界最大級であり、2006年1月にギネス世界記録から「Largest Wireless Internet Provider」の認定を受けている。
また、2011年時点で加入者数が世界最大のブロードバンドISPは中国電信で、中国が上位二社を占めている。
インターネットサービスプロバイダ(ISP)の中には、動画やその他の広帯域サービスの顧客向け配信を改善するために、独自のコンテンツ配信ネットワーク(CDN)キャッシュノードをネットワークに導入しているところがある。
企業がISPと接続するパターンは複数ある。ISPと1本のリンクで接続する「シングルホーム」と、ISPと2本以上のリンクで冗長化して接続する「デュアルホーム」、複数のISPと接続する「マルチホーム」、そしてISPと2本以上のリンクで冗長化し、かつそれぞれのISPと2本以上のリンクで接続する「デュアル マルチホーム」の4つがある。一般家庭ではISP1社と契約し、回線も1本のシングルホームが標準的である。
インターネット接続サービスの提供としてインターネットへのコネクティビティ(接続性)を提供する事を主要なサービス内容とする。
ネットワークセキュリティが、ユーザへのサービス提供も含めて重要となっている。電子メールアカウントのスパム(いわゆる迷惑メール)対策・コンピュータウイルス対策、パケットフィルタリングを有償または無償で提供している。また、ユーザ自身による不正・不法または違法な行為への対処も(一部限定的ながらも)求められている。(たとえば迷惑メールの発信元対策としてのOP25Bの導入など)
ダイヤルアップ接続のISPは、アクセスポイントからインターネットまでの接続であり、電話会社がアクセス回線を提供する回線事業者である。
常時接続の場合、アクセス回線・インターネット接続が一体の契約と、分離型の契約とがある。
2015年時点での主な回線接続サービス
インターネットは米国のインターネット・バックボーンとなるプロバイダを頂点に、各国にある1次プロバイダ・2次プロバイダ・3次プロバイダ等と階層的なシステムとなっており、そこから末端ユーザーがつながる構造になっている。
元々インターネットの歴史は、1960年代から1970年代にかけて、コンピュータネットワークに関する研究機関(大学・企業の研究所等)同士が個別に互いのネットワークを接続するところから始まっているが(ARPANETやALOHAnetなどは複数の研究機関によるアライアンスの例である)、1980年代に米国内のそれらのネットワークは全米科学財団ネットワーク (NSFnet) に発展した。しかし当時NSFnetの利用には「学術研究目的の利用に限る」という制限が設けられており、この制約のため「企業同士がNSFnet経由でデータをやり取りすることができない」など、 学術機関以外がネットワークを利用する際にいろいろと問題が生じていた。
また1990年代初頭までは、インターネット接続の手段として専用線以外にUUCP接続が広く使われていた。UUCPでは電子メールやネットニュース等の配信をバケツリレー方式で行うが、このリレーの途中にある組織のネットワークが何らかの要因(定期メンテナンス・障害等)で停止すると、それらの配信がストップしてしまうという問題があった。特にネットワークトポロジーの中心に近いところの機関(いわゆる「上流」)でネットワークが停止すると、その機関から配信を受ける多くのネットワーク(いわゆる「下流」)に影響が出ていた。
これらの要因を受け、1980年代後半になると特に企業から「利用目的に制限のないネットワーク」や「上流のメンテナンスの影響を受けない安定した接続」を求める声が強まったことから、1987年にUUNETが設立されサービスを開始。当初は非営利組織としてサービスを開始したUUNETだったが、ISPというビジネスが成り立つ目処が立ったことから2年後の1989年に商用化され、以後米国内で多くの商用ISPが発足した。同じく1989年には、マサチューセッツ州ブルックライン市に拠点を置くThe Worldも世界初期のビジネスとしての一般向けのインターネット・サービス・プロバイダ事業を開始した。
当初はUUNETを含む商用ISPはいずれも「UUCPやTCP/IPを通信プロトコルに用いた、NSFnetとは異なるもう一つのネットワーク」という扱いだったが、これら商用ISPによるネットワークは急速に拡大。1991年には商用ISP同士の初の相互接続点である「CIX」が発足した。さらに、1993年のビル・クリントン政権発足に伴う情報スーパーハイウェイ構想等の影響から、NSFnetがそれまでの方針を転換し「学術研究目的以外の利用も認める」ことになったため、NSFnetと商用ISPの間の障壁が消滅し事実上ネットワークが統合された。この結果全米を網羅する巨大なネットワークが誕生し、以後のインターネットの隆盛につながっていくことになる。
日本国内におけるISPは、届出電気通信事業者の中で「電気通信回線設備を設置しない事業者」という区分(旧一般第2種電気通信事業者)にあたる。なお、ISP事業の開始に当たっては総務省(総合通信局)への届け出が必要である。ISP事業は、届出電気通信事業者(電気通信回線設備を設置する事業者)や登録電気通信事業者、認定電気通信事業者の事業範囲に含まれる為、これらの事業者がISPを兼ねる場合もある。
日本では1980年代終盤頃からWIDEプロジェクトやJUNETなどが相次いで立ち上がり、企業や大学等が参加する大規模なネットワークが構成され、米国の流れを受けて1990年代に入り多くの商用ISPが発足した。
中継局より離れた場所からインターネットへと接続するためには加入者と中継局とを結ぶ加入者回線が必要となるが、加入者系光ファイバー網をグループで持つ企業には以下が存在する:
また加入者系は特に持たないものの全国の中継系光ファイバー回線をグループで持つ企業として以下が存在する:
その他、国土交通省や自治体や下水道局などの官公庁も光ファイバーを持っており、その中の一部は自らないし子会社を通じてケーブルテレビおよびインターネット接続サービスを提供している。なお加入者光ファイバー回線の所有会社も電柱を持っているとは限らず電柱所有者に共架料を払って維持が行われてるところもあり、また電柱自体も土地所有者に電柱敷地料を支払うことで維持が行われている。
加入者回線からは先は中継交換網(NGNなど)に接続され、中継交換網を通ってインターネット接続サービス提供のためのISP網や仮想通信サービス網(後述)へと接続されることとなる。
上記の加入者回線および中継交換網を使った固定回線によるインターネット接続サービスには主に以下の3つの種類が存在する:
フレッツ光などの加入者回線〜中継交換網とISPの分離サービスにおいては1つの回線で複数のISPを接続することが可能となっている(マルチセッション)。また一部のISPは自社ISP網の障害時のバックアップ用などとして自社ISP網と他社ISP網の同時提供を行うサービスを展開している(ぷららのダブルルートオプション(終了)など)。
また無線インターネットサービスでも固定回線の加入者回線に相当する無線アクセスネットワーク (RAN) や関連設備に相当するコアネットワークが存在する。固定加入者回線を持つ会社の多くは無線アクセスネットワークも提供しているが、コアネットワークを持つモバイルネットワークコード(MNC)の割り当てを受けた会社は少なく、ケーブルテレビ会社自ら提供する無線サービス(地方BWA)では他社のコアネットワークに相乗りすることが多くなっている。自ら無線アクセスネットワークおよびモバイルネットワークコードを持つ企業およびそれを使ったサービスには以下がある:
また無線アクセスネットワークの卸提供を受けてコアネットワーク以降を運用する企業およびサービス(フルMVNO)には以下がある:
なお近年ではコアネットワークを通さずに無線アクセスネットワークから直接インターネットへとデータを転送するローカルブレイクアウトという仕組みを持った基地局も登場している。また企業向け無線インターネット接続では企業内ネットワークの無線区間にプライベートLTEやローカル5G、無線LANや高出力無線LAN等を用いることで最終的に固定系インターネット接続サービスへと繋げることも行われている。
IPトランジットサービスは国際ティア1ネットワーク(英語版)を通して世界のインターネットへの到達性を提供するBGP接続サービスとなっている。
仮想通信サービスはアクセス回線網から世界のインターネットへと繋がる通信網の卸提供サービスとなっている。仮想固定通信は主にフレッツ光のIPoE接続で使われており、仮想モバイル通信は主に携帯電話各社で使われている。
主な仮想固定通信提供者 (FVNE) およびそのサービスには以下が存在する:
また主な仮想移動体サービス提供者 (MVNE) は仮想移動体サービス提供者#日本におけるMVNEを参照。
固定回線の利用者サービスには、ISPが回線事業者からのアクセス回線網の卸提供を受けたもの(コラボ光など)・回線事業者がISPを一体化したもの(コミュファ光プロバイダ一体型など)・分離型のもの(フレッツ光、auひかり、コミュファ光プロバイダ選択型など)が存在する。ISPと回線事業者との組み合わせが1対1であってISPを選択できないようなサービスの場合は、事業分界点としてのPOIは明確にならない。なお一部の回線事業者のサービスはアクセス回線の大部分を伝送路設備保有会社のダークファイバを用いて構築している(自社網外のauひかり、NUROなど)。
またアクセス回線網(NGN網など)からインターネット網への接続には自社ISP網を使ったもの(フレッツ光のPPPoE接続など)と仮想通信提供者(VNE)網の卸提供を受けたもの(フレッツ光のIPoE接続など)が存在する。両方使えるISPも多い。
携帯電話サービス・無線アクセスサービスでも同様にISPが回線事業者や仮想移動体サービス提供者(MVNE)からのアクセス回線網の卸提供を受けたもの(MVNO)と回線事業者がISPを一体化したもの(auやdocomoやsoftbankなど)が存在する。またそれぞれの単純再販も存在する。
インターネットを使用する国際回線では、末端ユーザーがアクセス・プロバイダに、アクセス・プロバイダが上位のプロバイダに使用料を負担する構造となっているが、開発途上国では先進国に対して使用料を負担することとなるため、先進国と途上国との間の情報格差の要因になっているという指摘がある。
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インターネットサービスプロバイダとは、インターネット接続の電気通信役務を提供する組織のことである。プロバイダやISPなどと略して呼ばれることが多い。日本では、電気通信事業者であり、インターネット接続事業者(略して接続事業者)と訳されることが ある。回線事業者がプロバイダ業も兼ねて提供している会社と回線事業者の回線を使ってプロバイダ業のみサービスを提供する会社に分かれる。
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{{出典の明記|date = 2021年3月}}
'''インターネットサービスプロバイダ'''({{lang-en|Internet service provider}})とは、[[インターネット]]接続の[[電気通信役務]]を提供する組織のことである。'''プロバイダ'''や'''ISP'''などと略して呼ばれることが多い。[[日本]]では、[[電気通信事業者]]であり、'''インターネット接続事業者'''(略して'''接続事業者''')と訳されることが<ref name=":0" /> ある。回線事業者がプロバイダ業も兼ねて提供している会社と回線事業者の回線を使ってプロバイダ業のみサービスを提供する会社に分かれる。
== 概要 ==
基本的にはインターネット接続を希望する個人や団体に対し、一定の対価を徴収した上で接続サービスを提供する。またISPによっては[[インターネット|ネット]]上での[[オンラインショッピング]]に対する決済サービス等も提供している(詳しくは[[#主なサービス内容|主なサービス内容]]を参照)。
大手ISPの中には自社(あるいはグループ)で大規模な[[インターネットバックボーン]]を運用し、併せて[[インターネットデータセンター]] (iDC) や[[インターネットエクスチェンジ]] (IX) などを運営するものも少なくない一方で、中小ISPになると実際には大手ISPのサービスに独自ブランドをつけてサービスを再販しているに過ぎない(自社設備を持たない)場合もあり、運営形態は様々である。
なおISPの多くは営利目的で運営されている(商用ISP)が、中には[[非営利団体]]として運営されるISP(非商用ISP)も存在する(UUNETの初期や、日本ではインターネット互助会横浜(IMASY)<ref name=":0">[http://www.imasy.or.jp/readme/whatisit.html What is IMASY?]</ref> など)。
ちなみに日本で最も加入者の多いISPは[[NTTドコモ]]の[[iモード]]である(2014年3月末現在で約5004万人<ref>[http://www.tca.or.jp/database/2014/03/ 2014年31月末現在 事業者別契約数] - 電気通信事業者協会</ref>。ただし[[spモード]]加入者を含む)。iモードは無線接続によるISPとして世界最大級であり、2006年1月に[[ギネス世界記録]]から「Largest Wireless Internet Provider」の認定を受けている<ref>[http://guinnessworldrecords.com/records/science_and_technology/internet/largest_wireless_internet_provider.aspx Largest Wireless Internet Provider] - ギネス・ワールド・レコーズ</ref>。
また、2011年時点で加入者数が世界最大のブロードバンドISPは[[中国電信]]で、中国が上位二社を占めている<ref>[https://wired.jp/2010/08/06/%E4%B8%AD%E5%9B%BD2%E7%A4%BE%E3%81%A71%E5%84%84%E4%BA%BA%E3%80%81ntt%E3%81%AF3%E4%BD%8D%EF%BC%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AEisp%E8%AA%BF%E6%9F%BB/ 中国2社で1億人、NTTは3位:世界のISP調査]</ref>。
インターネットサービスプロバイダ(ISP)の中には、動画やその他の広帯域サービスの顧客向け配信を改善するために、独自の[[コンテンツデリバリネットワーク|コンテンツ配信ネットワーク]](CDN)キャッシュノードをネットワークに導入しているところがある<ref>{{Cite book|title=Foundations of modern networking : SDN, NFV, QoE, IoT, and Cloud|url=https://www.worldcat.org/oclc/927715441|date=2016|location=Indianapolis, Indiana|isbn=978-0-13-417547-8|oclc=927715441|others=Florence Agboma, Sofiene Jelassi|first=William|last=Stallings}}</ref>。
==接続形態==
企業がISPと接続するパターンは複数ある。ISPと1本のリンクで接続する「シングルホーム」と、ISPと2本以上のリンクで冗長化して接続する「デュアルホーム」、複数のISPと接続する「マルチホーム」、そしてISPと2本以上のリンクで冗長化し、かつそれぞれのISPと2本以上のリンクで接続する「デュアル マルチホーム」の4つがある。一般家庭ではISP1社と契約し、回線も1本のシングルホームが標準的である。
== 主なプロバイダ ==
* 多国籍プロバイダ
** [[ボーダフォン]]
** [[Orange (通信会社)|Orange]]
** [[ドイツテレコム]]
** [[テレフォニカ]]
== 主なサービス内容 ==
インターネット接続サービスの提供としてインターネットへのコネクティビティ(接続性)を提供する事を主要なサービス内容とする。
[[ネットワークセキュリティ]]が、ユーザへのサービス提供も含めて重要となっている。[[電子メール]]アカウントの[[スパム (メール)|スパム(いわゆる迷惑メール)]]対策・[[コンピュータウイルス]]対策、[[ファイアウォール|パケットフィルタリング]]を有償または無償で提供している。また、ユーザ自身による不正・不法または違法な行為への対処も(一部限定的ながらも)求められている。(たとえば迷惑メールの発信元対策としての[[Outbound Port 25 Blocking|OP25B]]の導入など)
* [[電子メール|メール]]アカウント - 家族用などの目的で、一つの契約で複数のメールアカウントを無償または有償で提供可能なことが多い。
* [[スパム (メール)|迷惑メール]]や、[[コンピュータウイルス]]入りメールのチェックサービス
* [[ホスティングサーバ]]([[ウェブページ]]公開スペース) - サーバに対する負担やセキュリティーの問題から、[[Common Gateway Interface|CGI]]や[[Server Side Includes|SSI]]などの利用に制限を設けている場合がほとんどである。
* [[ポータルサイト]]の提供
* [[コンテンツプロバイダ]] - [[ビデオ・オン・デマンド]]で音楽や映像などを提供(大手の一部)
* [[アプリケーションサービスプロバイダ|ASP]] - 定額制の[[ソフトウェア]]の提供
* [[アプリケーションサーバ]]の提供
* [[ホスティングサーバ]](俗に言うレンタルサーバ)
* [[ネットニュース]](ニュースサーバ)の運営([[BIGLOBE]]、[[ニフティ|@nifty]]、[[ドリーム・トレイン・インターネット|DTI]]、[[ODN]]、[[IIJ]]、[[Yahoo! BB]]のように中止したか当初より持たないところも多い)
* 独自[[ドメイン名]]の[[レジストラ]](取得手続きの代行) - [[.jp]]ドメイン、[[.com]]などの[[gTLD]]、[[.tv]]([[ツバル]])など一部他国ドメイン
* [[ダイナミックドメインネームシステム]](一部)
* [[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド回線]]付加サービス - [[IP電話]]・光[[ケーブルテレビ]]
* 企業向の回線サービス - [[専用線]]・[[Virtual Private Network|VPN]]
* ユーザサポート - [[電話]]・メール・出張サービス
== 回線事業者 ==
{{main|ブロードバンドインターネット接続}}
[[ダイヤルアップ接続]]のISPは、[[アクセスポイント (ISP)|アクセスポイント]]からインターネットまでの接続であり、[[電話会社]]がアクセス回線を提供する回線事業者である。
常時接続の場合、アクセス回線・インターネット接続が一体の契約と、分離型の契約とがある。
2015年時点での主な回線接続サービス
* [[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド接続]] : [[FTTH]]・[[ケーブルテレビ]]・[[ADSL]]・[[専用線]](大規模な企業から接続する場合)
* [[モバイルブロードバンド]]([[仮想移動体通信事業者|MVNO]]): [[無線アクセス]]([[携帯電話]]・[[公衆無線LAN]] )
* [[ダイヤルアップ接続]] : [[固定電話|一般電話]]・[[ISDN]]・提携先海外プロバイダの現地アクセスポイントへのダイヤルアップ接続
== 各国のプロバイダ ==
=== アメリカ ===
インターネットは米国のインターネット・バックボーンとなるプロバイダを頂点に、各国にある1次プロバイダ・2次プロバイダ・3次プロバイダ等と階層的なシステムとなっており、そこから末端ユーザーがつながる構造になっている<ref name="handbook">『学びとコンピュータハンドブック』東京電機大学出版局、2008年、361頁</ref>。
==== 歴史 ====
元々インターネットの歴史は、1960年代から1970年代にかけて、コンピュータネットワークに関する研究機関(大学・企業の研究所等)同士が個別に互いのネットワークを接続するところから始まっているが([[ARPANET]]や[[ALOHAnet]]などは複数の研究機関によるアライアンスの例である)、1980年代に米国内のそれらのネットワークは[[全米科学財団ネットワーク]] (NSFnet) に発展した。しかし当時NSFnetの利用には「学術研究目的の利用に限る」という制限が設けられており、この制約のため「企業同士がNSFnet経由でデータをやり取りすることができない」など、 学術機関以外がネットワークを利用する際にいろいろと問題が生じていた<ref>{{PDFlink|[http://www.wide.ad.jp/project/document/reports/pdf1995/part3.pdf 第3部・商用インターネット相互接続実験]}} - 1995年度WIDE報告書 p.66</ref>。
また1990年代初頭までは、インターネット接続の手段として[[専用線]]以外に[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]接続が広く使われていた。UUCPでは[[電子メール]]や[[ネットニュース]]等の配信をバケツリレー方式で行うが、このリレーの途中にある組織のネットワークが何らかの要因(定期メンテナンス・障害等)で停止すると、それらの配信がストップしてしまうという問題があった。特にネットワークトポロジーの中心に近いところの機関(いわゆる「上流」)でネットワークが停止すると、その機関から配信を受ける多くのネットワーク(いわゆる「下流」)に影響が出ていた。
これらの要因を受け、1980年代後半になると特に企業から「利用目的に制限のないネットワーク」や「上流のメンテナンスの影響を受けない安定した接続」を求める声が強まったことから、1987年に[[UUNET]]が設立されサービスを開始。当初は非営利組織としてサービスを開始したUUNETだったが、ISPというビジネスが成り立つ目処が立ったことから2年後の1989年に商用化され、以後米国内で多くの商用ISPが発足した。同じく1989年には、[[マサチューセッツ州]][[ブルックライン|ブルックライン市]]に拠点を置く[[:en:The World (internet service provider)|The World]]も世界初期のビジネスとしての一般向けのインターネット・サービス・プロバイダ事業を開始した<ref>{{cite web
| title=Hobbes' Internet Timeline v10.1
| author=Robert H'obbes' Zakon
|url= http://www.zakon.org/robert/internet/timeline/
|accessdate= November 14, 2011 }}</ref><ref>{{Cite web
|author=Robert H. Zakon
|date= November 1997
|title= Hobbes' Internet Timeline
|work= {{IETF RFC|2235}}
|url= https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2235
|accessdate= November 14, 2011 }}</ref>。
当初はUUNETを含む商用ISPはいずれも「UUCPや[[TCP/IP]]を[[通信プロトコル]]に用いた、NSFnetとは異なるもう一つのネットワーク」という扱いだったが<ref group="注釈">実際UUNETは当時「もう一つのネット」を意味する「AlterNet」というブランド名でサービスを展開していた。ただし電子メールやネットニュース等、一部のサービスについてはNSFnetと相互接続していた。</ref>、これら商用ISPによるネットワークは急速に拡大。1991年には商用ISP同士の初の相互接続点である「CIX」が発足した。さらに、[[1993年]]の[[ビル・クリントン]]政権発足に伴う[[情報スーパーハイウェイ構想]]等の影響から、NSFnetがそれまでの方針を転換し「学術研究目的以外の利用も認める」ことになったため<ref>[http://www.soi.wide.ad.jp/class/20030022/slides/09/30.html NAPとは?] - WIDE大学「ネットワークアーキテクチャ」</ref>、NSFnetと商用ISPの間の障壁が消滅し事実上ネットワークが統合された。この結果全米を網羅する巨大なネットワークが誕生し、以後のインターネットの隆盛につながっていくことになる。
==== 沿革 ====
* 1987年 - [[UUNET]]がサービスを開始。
* 1989年 - UUNETが正式に商用化される(世界初の商用ISP)。
* 1990年 - ダイヤルアップ接続に対応する初の商用ISPとして「The World」が発足<ref name=wide>[http://www.soi.wide.ad.jp/class/20030022/slides/09/25.html 商用インターネットの始まり] - WIDE大学「ネットワークアーキテクチャ」</ref>。
* 1991年 - 米国の商用ISP同士の相互接続を行う組合として「CIX (Commercial Internet eXchange)」が発足<ref name=wide />。
=== 日本 ===
日本国内におけるISPは、届出[[電気通信事業者]]の中で「電気通信回線設備を設置しない事業者」という区分(旧一般第2種電気通信事業者)にあたる。なお、ISP事業の開始に当たっては[[総務省]]([[総合通信局]])への届け出が必要である。ISP事業は、届出電気通信事業者(電気通信回線設備を設置する事業者)や登録電気通信事業者、認定電気通信事業者の事業範囲に含まれる為、これらの事業者がISPを兼ねる場合もある。
==== 歴史 ====
日本では1980年代終盤頃から[[WIDEプロジェクト]]や[[JUNET]]などが相次いで立ち上がり、企業や大学等が参加する大規模なネットワークが構成され、米国の流れを受けて1990年代に入り多くの商用ISPが発足した。
==== 沿革 ====
{{See also|ブロードバンドインターネット接続#日本での展開}}
* 1992年 - AT&T Jens(現[[JENS SpinNet|SpinNet]])が日本初の、また[[インターネットイニシアティブ]] (IIJ) が日本企業初のISPとしてサービスを開始する。同年、[[ニフティサーブ]](現・[[ニフティ]])をはじめとして、[[パソコン通信]]サービス事業者は相次いでインターネットとの相互接続サービスを開始。
* 1993年 - カナダ人起業家ロジャー・ボワベールが日本初の商用インターネットIntercon International K.K. (IIKK)を開始。[[:en:TWICS|TWICS]]が第一号ユーザーとして日本初の個人向けISPとなる。<ref>{{Cite web|title=Daring to Be Different -- Tokyo's GOL: An Idiosyncratic Success Story {{!}} Japan -- Business People Technology {{!}} www.japaninc.com|url=https://www.japaninc.com/article.php?articleID=188|website=www.japaninc.com|accessdate=2020-03-20}}</ref><!-- IIKKは1993年9月事業開始、日本最初の個人向けISP、TWICSは1993年10月。IIJ(の企業向けサービス)1993年11月。リムネットは1994年10月。ベッコアメは1994年9月。 -->
* 1994年 - [[GOL|IIKKによるGlobal OnLine Japan(グローバルオンラインジャパン (GOL) )]]、[http://t21.nikkei.co.jp/g3/CMN0F12.do インターネットイニシアティブ(IIJ])、[[ASAHIネット]]がインターネット接続サービスを開始。<!-- 1994年6月に開始 -->
* 1995年 - [[インターキュー]]が[[ダイヤルQ2]]を利用した非会員制の個人向けISP事業を開始。
* 1996年 - [[日本電信電話|NTT]]直営(当時)によるプロバイダ事業「[[OCN]]」が開始される。
* 1999年 - [[NTTドコモ]]が[[iモード]]を開始。
* 2002年 - [[特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律]](プロバイダ責任制限法)施行。
* 2003年4月1日 - ISP8社(OCN・DION・So-net・BIGLOBE・nifty・ODN・ぷらら・Panasonic hi-ho)を幹事ISPとしてIP電話の普及を目的とした「IP電話普及ISP連絡会」を発足。
* 2015年2月 - NTT[[東日本電信電話|東日本]]・[[西日本電信電話|西日本]]が[[FTTH#光回線サービスの卸売|光回線の卸売]]を開始。
==== 日本の主なプロバイダ事業者 ====
===== 加入者回線および中継交換網 =====
{{節スタブ}}
中継局より離れた場所からインターネットへと接続するためには加入者と中継局とを結ぶ加入者回線が必要となるが、加入者系[[光ファイバー網]]をグループで持つ企業には以下が存在する:
* 通信事業者
** NTT系:[[東日本電信電話|NTT東日本]](新潟県・長野県・山梨県・神奈川県以東)、[[西日本電信電話|NTT西日本]](富山県・岐阜県・静岡県以西)※一部は自治体回線をIRU方式で使用<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000582398.pdf 接続料の算定に関する研究会(第15回)] p.7-8 NTT東日本/NTT西日本 2018年11月1日</ref><!--TODO: [[ベリオ (ISP)|ベリオ]]、NTTコミュニケーションズ(旧[[クロスウェイブコミュニケーションズ]]網)-->
** KDDI系:[[KDDI]](東京23区・元電力系{{efn|東京電力の光ファイバ事業<ref>[https://media3.kddi.com/extlib/files/corporate/ir/library/presentation/2008/pdf/kddi_080424_main.pdf KDDI CORPORATION 2008年3月期決算] p.19 KDDI 2008年4月24日</ref>、[[国際電信電話]]の海底ケーブル、[[日本高速通信]]の高速道路沿いの光ファイバ網を統合}})、[[中部テレコミュニケーション]](中部5県・元電力系)、[[沖縄通信ネットワーク|OTNet]](沖縄・元電力系)
** 丸紅系:[[アルテリア・ネットワークス]](UCOM網、首都圏・愛知・大阪・兵庫、元[[有線ラジオ]]系)
** 外資系:[[Coltテクノロジーサービス]](旧KVH、東名阪、B2Bのみ)<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No71/NL71_0410.pdf JPNIC Newsletter No.71 - JPNIC会員 企業紹介 colt] p.10 JPNIC 2019年3月</ref>
* [[電力系通信事業者]] : [[北海道総合通信網]](北海道)、[[東北インテリジェント通信|トークネット]](東北)、[[北陸通信ネットワーク]](北陸)、[[オプテージ]]{{efn|自前の光ファイバ網を持っていた関西メディアポート (OMP) を吸収}}(関西)、[[エネコム]](中国)、[[STNet]](四国)、[[QTnet]](九州)
* [[ケーブルテレビ]]事業者:
** 西日本の鉄道系{{efn|西日本の鉄道系事業者は光ファイバ網を相互接続しており、相互接続中の事業者は[[近鉄ケーブルネットワーク]]、[[阪神ケーブルエンジニアリング]]、[[JR西日本]]光ファイバネットワーク、[[山陽電鉄]]、[[南海電鉄]]、[[名古屋鉄道]]に及んでいる<ref>[https://peering.osaka/wp-content/uploads/2022/05/2022-jrwon-01.pdf 西日本エリア「第〇〇のNW」な話] p.7 NTT西日本 2022年</ref><ref name="kintesu-fiber">[https://www.kintetsu.jp/kouhou/hikaricable/ 光ファイバケーブル芯線の賃貸事業について] 近畿日本鉄道</ref>。なお名古屋-東京間は[[電源開発]] (J-POWER) 子会社の[[日本ネットワーク・エンジニアリング]]の光ファイバ網が相互接続されている<ref name="kintesu-fiber"/>。}}:[[近鉄ケーブルネットワーク]] (KCN) 系、阪急阪神系([[ベイ・コミュニケーションズ]]など)
** 関東の鉄道系{{efn|東日本の鉄道各社も昔はケーブルテレビに出資することが多かった<ref name="dentetsu-catv">[https://adeac.jp/viewitem/toshima-history/viewer/viewer/10_62_H071208/data/10_62_H071208.pdf 豊島区都市型ケーブルテレビ事業化懇話会について] p.21 豊島区都市型ケーブルテレビ事業化懇話会 1995年12月</ref>ものの、その後は東急を除いて殆どがJ:COMに譲渡されている。なお関東の鉄道会社も光ファイバを相互接続しており、相互接続中の鉄道会社は[[小田急電鉄]]<ref name="k7">[https://www.odakyu.jp/company/otherbiz/others/cablenetwork/img/cablenetwork_kanto.pdf 光ファイバー芯線賃貸事業 関東鉄道7社局共通ネットワーク図] 小田急電鉄</ref>、[[京王電鉄]]<ref name="k7"/>、[[相模鉄道]]<ref name="k7"/>、[[東京急行電鉄]]<ref name="k7"/>、[[東京都交通局]]<ref name="k7"/>、[[東京メトロ]]<ref name="k7"/>、[[東武鉄道]]<ref name="k7"/>、[[横浜市営地下鉄]]<ref name="tokyu-fiber"/>に及んでいる。また各地でKDDIやNTTやイッツコムの光ファイバ網に繋がっている<ref name="odakyu-fiber"/><ref>[https://www.keio.co.jp/train/other/hikari/access_point.html 京王電鉄 光ファイバ芯線賃貸 ネットワーク図] 京王電鉄</ref><ref name="tokyu-fiber">[https://www.tokyu.co.jp/company/business/lifeservice/hikari_net1.pdf ■鉄道敷光ファイバネットワーク] 東京急行電鉄</ref><ref name="metro-fiber">[https://www.tokyometro.jp/corporate/business/optical_fiber/pdf/network_2006.pdf 東京メトロ 光ネットワーク構成図] 東京メトロ</ref>ほか、鶴間と大和の間では道路管理用光ファイバーに<ref name="odakyu-fiber">[https://www.odakyu.jp/company/otherbiz/others/cablenetwork/img/cablenetwork.pdf 小田急線光ファイバネットワーク図] 小田急電鉄</ref>、大手町と有楽町では[[丸の内ダイレクトアクセス]]にも繋がっている<ref name="metro-fiber"/>。なお[[JR東日本]]の光ファイバ網も丸の内ダイレクトアクセスと繋がっている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZRSP652087_Z20C23A3000000/ JR東日本と丸の内ダイレクトアクセス、光ファイバ相互接続による広域なネットワークの提供開始] 日本経済新聞 2023年3月29日</ref>。また、鉄道情報ネットワーク高度利用推進協議会による私鉄6社接続実験<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/304/304230/ 今秋、在京の私鉄6社が光ファイバーの接続実験――アジアインターネットセミナーから(1)] ASCII 1999年7月16日</ref>の発展として生まれた[[日本デジタル配信]]<ref>[https://www.tokyu.co.jp/history/chapter07_6_2/ 第7章 第6節 第2項 沿線を中心とした生活サービスの推進] 東急</ref>がCATV向けバックボーンとしてJDSバックボーンサービスを提供していた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/0203/20/02032028.html 日本デジタル配信,CATV事業者向けのLAN型接続サービスを提供] ITmedia 2002年3月20日</ref>ものの、現在のJDSは通信ではなく放送中心となっている。}}:[[イッツ・コミュニケーションズ]](東急系)、[[横浜ケーブルビジョン]](相鉄系→J:COMと東急の合弁)、[[伊豆急ケーブルネットワーク]](東急傘下の伊豆急系)、[[ケーブルテレビ品川]]{{efn|旧南東京ケーブルテレビ}}(JR東日本出資<ref name="dentetsu-catv"/>→東急系)、[[YOUテレビ]]{{efn|旧横浜アーバンテレビジョン}}([[京浜急行電鉄|京急]]出資<ref name="dentetsu-catv"/>→東急系出資<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp241415/outline.html YOUテレビ(株)の新卒採用・会社概要] マイナビ <!--2023年時点--></ref>)
** [[ケーブルテレビ#MSO|MSO系]]:[[ジュピターテレコム]] (J:COM、[[J:COM せたまち|せたまちエリア]]は元小田急系) ※KDDI系、[[TOKAIケーブルネットワーク]]系、[[CCJ (株式会社)|CCJ]]系、[[コミュニティネットワークセンター]](CNCi)系
** その他:[[ZTV]]{{efn|中継系回線網はZTV名阪ネットワークを持つ<ref>[https://www.ztv.co.jp/business/hikari-index.html 光回線サービス] ZTV</ref>}}など
また加入者系は特に持たないものの全国の中継系光ファイバー回線をグループで持つ企業として以下が存在する:
* [[ソフトバンク]]<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0405/28/news002.html なぜ、ソフトバンクは日本テレコムを買収したのか] ITmedia 2004年5月28日</ref>{{efn|元々のソフトバンク独自網と元[[日本テレコム]]の国鉄沿いの光ファイバ網、[[日本国際通信]]および[[国際デジタル通信]]の海底ケーブルを統合}}
その他、国土交通省や自治体や下水道局などの官公庁も光ファイバーを持っており<ref>[https://peering.osaka/wp-content/uploads/2019/05/opf2019-hara01.pdf ダークファイバーを語ろう] p.15 NTTコミュニケーションズ 2019年5月23日</ref>、その中の一部は自らないし子会社を通じてケーブルテレビおよびインターネット接続サービスを提供している。<!--なお「公設光ファイバケーブル及び関連設備の民間移行に関するガイドライン」が公表され云々-->なお加入者光ファイバー回線の所有会社も電柱を持っているとは限らず電柱所有者に共架料を払って維持が行われてるところもあり、また電柱自体も土地所有者に[[電柱敷地料]]を支払うことで維持が行われている。
加入者回線からは先は中継交換網([[Next Generation Network|NGN]]など)に接続され、中継交換網を通ってインターネット接続サービス提供のためのISP網や仮想通信サービス網(後述)へと接続されることとなる。
上記の加入者回線および中継交換網を使った固定回線によるインターネット接続サービスには主に以下の3つの種類が存在する:
* 自ら設置した構外伝送路設備(電気通信回線設備<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000477428.pdf 電気通信事業参入マニュアル - 追補版 平成17年8月18日策定(令和4年6月28日 改定)] p.4 総務省 2022年</ref>)とその関連設備を使用する自己設置型サービス<ref name="soumu-20150603"/>(フレッツ光、東京23区のKDDIのauひかり<ref name="soumu-20150603"/>、電力系サービス<ref name="soumu-20150603"/>など)
* 他社設置の加入者光ファイバから自ら設置の関連設備への接続を利用した接続型サービス<ref name="soumu-20150603"/>(ソネットのNURO光や23区外のKDDIのauひかり<ref name="soumu-20150603"/>など)
* 他社設置の加入者光ファイバおよび関連設備の卸提供を受けた卸電気通信役務型サービス<ref name="soumu-20150603"/>(プロバイダ各社の[[FTTH#光回線サービスの卸売|光コラボ]]<ref name="soumu-20150603">[https://www.soumu.go.jp/main_content/000364350.pdf 加入光ファイバに係る接続制度の在り方について <平成 27 年2月9日付け諮問第 1220 号>報告書骨子(案)] p.4-5 総務省 2015年6月3日</ref>など)
フレッツ光などの加入者回線〜中継交換網とISPの分離サービスにおいては1つの回線で複数のISPを接続することが可能となっている(マルチセッション)<ref>[https://www.interlink.or.jp/service/flets/multisession.html NTTフレッツ接続のマルチセッションについて] インターリンク</ref>。また一部のISPは自社ISP網の障害時のバックアップ用などとして自社ISP網と他社ISP網の同時提供を行うサービスを展開している(ぷららのダブルルートオプション(終了)<ref>[https://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/242.html ぷらら、バックボーンにIIJ経由も選べる「ダブルルートオプション」] Impress 2002年12月4日</ref>など)。
また無線インターネットサービスでも固定回線の加入者回線に相当する[[無線アクセスネットワーク]] (RAN) や関連設備に相当するコアネットワークが存在する。固定加入者回線を持つ会社の多くは無線アクセスネットワークも提供しているが、コアネットワークを持つ[[Mobile Network Code|モバイルネットワークコード]](MNC)の割り当てを受けた会社は少なく、ケーブルテレビ会社自ら提供する無線サービス([[地方BWA]])では他社のコアネットワーク{{efn|阪神ケーブルエンジニアリング、UQ WiMAX、Wireless City Planningなど}}に相乗りすることが多くなっている。自ら無線アクセスネットワークおよびモバイルネットワークコードを持つ企業およびそれを使ったサービスには以下がある:
* 全国事業者
** NTT系 - [[NTTドコモ]]「[[PREMIUM 4G]]」「5G SA」
** KDDI系 - [[KDDI]]および[[沖縄セルラー電話]]「[[au (携帯電話)|au]]」、[[UQコミュニケーションズ]]「UQ WiMAX」 - 相互ローミングを行っている。
** ソフトバンク系 - ソフトバンクおよび[[Wireless City Planning]]「Hybrid 4G LTE」「SoftBank 5G」
** 楽天系 - [[楽天モバイル (企業) |楽天モバイル社]]「[[楽天モバイル]]」
* 地域BWA<!--TODO: UQコア、WCPコア、ローカル5G-->
** [[阪神電気鉄道]]系 - [[阪神ケーブルエンジニアリング]]「Hai connect」 - 地域BWA事業者間でローミングを行っているものの、エリアは全国事業者に比べて限られたものとなっている<ref>[https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2693 地域BWA事業者47社間でローミングサービスを開始 ~サービスエリアが広がり、地域BWAサービス「ハイコネクト」の利便性が向上~] 阪神電気鉄道 2019年10月1日</ref><ref>[https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20191001-4.pdf <別紙>ローミングサービスを開始する地域 BWA 事業者のマップ] 阪神電気鉄道</ref>。
<!--
TODO: 単体サービス提供なし?
** [[旭化成]]系 - [[ケーブルメディアワイワイ]] - 富士通のコア設備システムを採用<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP532449_W0A400C2000000/ 富士通、スマート工場および地域課題解決向けローカル5G検証システムの構築を開始] 富士通 2020年4月6日</ref>
TODO: U/C分離の扱い?
** [[コミュニティネットワークセンター|CNCi]]系 - [[ひまわりネットワーク]]「ひまわりワイヤレス」
-->
また無線アクセスネットワークの卸提供を受けてコアネットワーク以降を運用する企業およびサービス(フルMVNO)には以下がある:
* [[インターネットイニシアティブ]] (IIJ)<!--440-03-->「IIJモバイルサービス/タイプI」<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1111813.html IIJ、“フルMVNO”の新データ通信サービスを法人向けに提供開始] Impress 2018年3月15日</ref>
* [[丸紅ネットワークソリューションズ]]<!--440-09--><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1234763.html 丸紅、ドコモ網のフルMVNOを提供へ] Impress 2020年2月12日</ref>「法人向けSIM」
<!--
* [[ソラコム]] 441-200 IoT向け
* [[グレープ・ワン]]-->
なお近年ではコアネットワークを通さずに無線アクセスネットワークから直接インターネットへとデータを転送するローカルブレイクアウトという仕組みを持った基地局も登場している<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000826460.pdf 仮想化技術等の進展を踏まえた技術基準の対象範囲に関する検討] p.11 阪神電気鉄道 2022年7月22日</ref>。また企業向け無線インターネット接続では企業内ネットワークの無線区間にプライベートLTEやローカル5G、[[無線LAN]]や[[無線LAN#高出力無線LAN|高出力無線LAN]]等を用いることで最終的に固定系インターネット接続サービスへと繋げることも行われている。
===== IPトランジットサービス =====
IPトランジットサービスは国際{{仮リンク|ティア1ネットワーク|en|Tier 1 network}}を通して世界のインターネットへの到達性を提供するBGP接続サービスとなっている。
* [[NTTコミュニケーションズ]]「グローバルIPネットワーク トランジットサービス」
* KDDI「KDDI インターネットゲートウェイ」
* BIGLOBE(KDDI系)「IPトランジットサービス」
* BBIX(ソフトバンク系)「BBIXトランジットサービス」
* アルテリア・ネットワークス(丸紅系)「VECTANT IPトランジットサービス」
===== 仮想通信サービス (FVNE/MVNE) =====
{{節スタブ}}
仮想通信サービスはアクセス回線網から世界のインターネットへと繋がる通信網の卸提供サービスとなっている。仮想固定通信は主にフレッツ光の[[フレッツ網におけるIPv6#インターネット (IPv6 IPoE) 接続|IPoE接続]]で使われており、仮想モバイル通信は主に携帯電話各社で使われている。
主な[[仮想固定通信提供者]] (FVNE) およびそのサービスには以下が存在する:
* NTTコミュニケーションズ「OCNバーチャルコネクト」
* 日本ネットワークイネイブラー(JPNE。KDDI系)「V6プラス」
* BIGLOBE(KDDI系)「Ipv6オプション」
* BBIX(ソフトバンク系) 「IPv6高速ハイブリッド」
* アルテリア・ネットワークス(丸紅系) 「XPASS(クロスパス)」
* インターネットマルチフィード 「transixサービス」
* 朝日ネット「v6 コネクト」
<!--TODO:
* 楽天モバイル/2023年開始
<ref>[https://www.buffalo.jp/support/other/network-ipv6.html#a03 IPv6(IPoE/IPv4 over IPv6)対応確認済みリスト - 動作確認済みサービス(※)] バッファロー</ref>。
-->
また主な[[仮想移動体サービス提供者]] (MVNE) <!--及びそのサービス-->は[[仮想移動体サービス提供者#日本におけるMVNE]]を参照。<!--TODO: 揃える
* インターネットイニシアティブ (IIJ) 「モバイルパートナープログラム」
* ソニーネットワークコミュニケーションズ スマートプラットフォーム(ソニー系)「MVNO支援事業(MVNE事業)」
* 丸紅無線通信<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/680328.html 丸紅無線通信がMVNE事業に本格参入、ドコモ網のMVNOを包括サポート] Impress 2014年12月15日</ref>
-->
===== 利用者サービス提供事業者 =====
{{節スタブ}}
固定回線の利用者サービスには、ISPが回線事業者からのアクセス回線網の[[卸売|卸]]提供を受けたもの([[FTTH#光回線サービスの卸売|コラボ光]]など)・回線事業者がISPを一体化したもの(コミュファ光プロバイダ一体型など)・分離型のもの(フレッツ光、auひかり、コミュファ光プロバイダ選択型など)が存在する。ISPと回線事業者との組み合わせが1対1であってISPを選択できないようなサービスの場合は、事業分界点としてのPOIは明確にならない。なお一部の回線事業者のサービスはアクセス回線の大部分を伝送路設備保有会社の[[ダークファイバ]]を用いて構築している(自社網外のauひかり、NUROなど)。
またアクセス回線網([[Next Generation Network|NGN網]]など)からインターネット網への接続には自社ISP網を使ったもの(フレッツ光のPPPoE接続など)と[[仮想固定通信提供者|仮想通信提供者]](VNE)網の卸提供を受けたもの(フレッツ光の[[フレッツ網におけるIPv6#インターネット (IPv6 IPoE) 接続|IPoE接続]]など)が存在する。両方使えるISPも多い。
[[携帯電話]]サービス・[[無線アクセス]]サービスでも同様にISPが回線事業者や[[仮想移動体サービス提供者]](MVNE)からのアクセス回線網の卸提供を受けたもの([[仮想移動体通信事業者|MVNO]])と回線事業者がISPを一体化したもの(auやdocomoやsoftbankなど)が存在する。またそれぞれの単純再販も存在する。
<!-- 光回線サービスの卸売、FMCをまとめる -->
<!--TODO: 縁人/enひかり、エクスゲート/おてがる光、リネクト/ヒカリホーダイ、NEXT/@SMART光、ファイバーゲート/FGBB-->
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small; width:100%; margin: 0; padding: 0; summary:日本の利用者インターネットサービス提供事業者"
|+'''日本の利用者インターネットサービス提供事業者'''
|-
! rowspan=3 style="width:5%;" |グループ
! rowspan=3 style="width:5%;" |[[電気通信事業者]]
! colspan=4 style="width:20%;" |固定サービス(◎=10Gbps対応{{Refnest|group="j"|フレッツ 光クロス、au光 ホーム10Gなど}}、○=光対応)
! colspan=4 style="width:20%;" |[[モバイルブロードバンド|モバイルサービス]](含[[仮想移動体通信事業者|MVNO]])
! colspan=3 style="width:20%;" | 自社パブリックピアリング帯域(VNEや上位ISPへの接続等は含まない)<!--yesは100G以上、yes2はそれ未満。TODO: ピアリングプロキシ?-->
! rowspan=3 style="width:30%;" | 備考
|-
! rowspan=2 | サービス名
! rowspan=2 | NTT​回線<br/>{{Refnest|group="j"|[[フレッツ光]]、光コラボ(光サービス卸、[[ドコモ光]]を含む)など}}
! rowspan=2 | au​回線<br/>{{Refnest|group="j"|[[auひかり]]など}}
! rowspan=2 | その他
! rowspan=2 | サービス名
! rowspan=2 | ドコモ回線
! rowspan=2 | au系回線<br/>{{Refnest|group="j"|[[Au (通信)|au]]回線および[[UQコミュニケーションズ]](UQ WiMAX)回線}}
! rowspan=2 | SB系回線<br/>{{Refnest|group="j"|[[ソフトバンク]]回線および[[Wireless City Planning]]回線}}
! 東京
! 大阪
! 福岡
|-
| rowspan=9 | NTT系<br/>{{Refnest|group="j"|[[NTTデータ]]のInterViaもある<!--as4673-->が現状は不明。}}
<!--TODO: 扱い?
|[[東日本電信電話|NTT東]]・[[西日本電信電話|西]]||[[フレッツ]]||○|| ||別にプロバイダ契約が必要
|-
-->
|rowspan=5| [[NTTドコモ]]|| [[ドコモ光]]<br/>{{Refnest|group="j"|独自プロバイダの「ドコモnet」は2023年6月新規受付終了<ref>[https://www.docomo.ne.jp/hikari/provider_list/docomo_net/ ドコモnet] NTTドコモ</ref>}} ||{{yes|◎}}<ref name="docomo-10g-isp">[https://www.docomo.ne.jp/hikari/10g_plan/#anc-03 ドコモ光 10ギガ - 対応プロバイダ] NTTドコモ</ref>||{{no}}|| {{yes|CATV回線​{{Refnest|group="j"|ドコモ光タイプC。回線だけでなくプロバイダ機能もCATVから卸提供されたものを使用している<ref>[https://www.docomo.ne.jp/content/dam/corp/jp/ja/binary/pdf/hikari/notice/docomohikari_notice_type_c.pdf ご利用時の注意事項 ドコモ光タイプC編] NTTドコモ</ref>。対応CATV回線は[[TOKAIケーブルネットワーク]]系、[[CCJ (株式会社)|CCJ]]系、[[コミュニティネットワークセンター]](CNCi)系、[[近鉄ケーブルネットワーク]] (KCN) 系、[[ベイ・コミュニケーションズ]]など<ref>[https://www.docomo.ne.jp/hikari/charge/type_c/ ドコモ光タイプC] NTTドコモ</ref>。}}}} ||[[spモード]]<br>(eximo{{Refnest|group="j"|「5Gギガホ プレミア」「5Gギガホ」などの後継<ref>[https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1510090.html ドコモ新料金プラン 月550円からの「irumo」・5Gギガホ後継「eximo」] Impress 2023年6月20日</ref>}}、ケータイプラン) ||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}|| rowspan=4 {{yes|JPNAP: 700G<br/>JPIX: 300G<br/>BBIQ: 340G<ref name="pdb-as9605">[https://www.peeringdb.com/net/2697 NTT DOCOMO] PeeringDB</ref>}} || rowspan=4 {{yes|JPNAP: 400G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIQ: 200G<ref name="pdb-as9605"/>}} || rowspan=4 {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIQ: 100G<br/><ref name="pdb-as9605"/>}} ||
|-
| ahamo光 ||{{yes|○}}||{{no}}|| {{?}} || [[ahamo]]<br>[[irumo]] ||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}} ||
|-
|[[mopera#mopera U|mopera U]]||{{yes|○}}<ref name="flets-cross-tokyo"/><br/>{{Refnest|group="j"|[[Mopera#U「フレッツ」コース|U「Bフレッツ/フレッツ 光ネクスト」コース]]}}||{{no}}|| || mopera U ||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}||
|-
|[[ぷらら]]||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo">[https://flets.com/sch_provider/pvd_view.php?type=CROSS&pref=tokyo フレッツ 光クロス IPv6 IPoE対応プロバイダ - 東京エリア] NTT東日本</ref><br/>{{Refnest|group="j"|「ぷらら光」及びドコモ光向け「plala」は2023年新規受付終了<ref>[https://www.plala.or.jp/support/info/2022/0526/index.html ドコモとの合併に伴う、サービス提供事業者の変更およびサービスの継続について] NTTぷらら 2022年5月26日</ref><ref>[https://www.docomo.ne.jp/hikari/provider_list/plala/?icid=CRP_HIKARI_10g_plan_to_CRP_HIKARI_provider_list_plala plala] ドコモ</ref>}} ||{{no}}|| || ||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|ドコモ回線を使用した「ぷららモバイルLTE」は2013年開始で2017年終了<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1705/08/news053.html ぷらら、MVNOから撤退 「ぷららモバイルLTE」終了] ITmedia 2017年5月8日</ref>。アクセスポイントはmobac(NTTコミュニケーションズ)→NTTぷらら<ref>[https://www.plala.or.jp/support/info/2015/0901/index.html 「ぷららモバイルLTE」アクセスポイント(APN)統一に伴う設定変更のお願い] NTTぷらら</ref>。}}||{{no}}||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|イー・アクセス回線を使用した「ぷらら高速モバイルオプション(EM)」は2008年開始<ref>[https://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/22311.html ぷらら、イー・アクセス協業のモバイルデータ通信サービス] Impress 2008年6月30日</ref>で2018年終了<ref>[https://www.plala.or.jp/support/info/2018/0201_3/index.html 【重要】「ぷらら高速モバイルオプション(EM)」サービス終了のお知らせ] NTTぷらら 2018年2月1日</ref>}}||2022年[[ぷらら#NTTぷらら|NTTぷらら]]を吸収し、「ぷらら光」は終了<ref>[https://www.plala.or.jp/support/info/2022/0526/index.html ドコモとの合併に伴う、サービス提供事業者の変更およびサービスの継続について] NTTドコモ 2022年5月26日</ref>。オンラインゲーマー向けの「PLALA GGGG光」もあった。
|-
|[[OCN|OCN インターネット]]||{{yes|◎}}<ref name="docomo-10g-isp"/><br/>{{Refnest|group="j"|「OCN 光」及び「OCN for ドコモ光」は2023年6月新規受付終了<ref name="ocn-eos">[https://web.archive.org/web/20230710131615/https://www.nttr.co.jp/info/notice_20230620.html 「OCN モバイル ONE」「OCN 光」等の新規お申込み受付終了について] NTTレゾナント</ref>}}||{{no}}|| || ||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|「OCNモバイルone」は2023年6月終了<ref name="ocn-eos"/>}} ||{{no}}||{{no}}|| || || || 2022年[[NTTコミュニケーションズ]]より[[NTTレゾナント]]へと移管され<ref>[https://www.ntt.com/about-us/press-releases/news/article/2022/0427_2.html NTT Comコンシューマ向け事業のNTTレゾナントへの移管について] NTTコミュニケーションズ 2022年4月27日</ref>、2023年7月、[[NTTレゾナント]]を吸収
|-
| [[NTTコミュニケーションズ]] || 法人向けOCN || {{yes|○}} || {{no}} || || OCN モバイル ONE for Business || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || {{yes|JPNAP: 3600G<ref name="pdb-4713">[https://www.peeringdb.com/net/826 NTT Communications Corporation (OCN)] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 1400G<ref name="pdb-4713"/>}} || || 法人向け
|-
| [[NTTPCコミュニケーションズ]]||[[インフォスフィア|InfoSphere]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| ||Master's ONE||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|アクセスポイントはlte-mobile<ref>[https://mobile-support.customer.jp/hc/ja/articles/360016212031-2-%E5%88%9D%E6%9C%9F%E8%A8%AD%E5%AE%9A 2.初期設定] NTTPCコミュニケーションズ</ref>(自社)。過去にはNTT東日本向けの「InfoSphere モバイルライトプラン for 「フレッツ」」もあった(アクセスポイントはlte-mobile<ref>[https://www.nttpc.co.jp/service/infosphere/pdf/sc01d_manual.pdf モバイルライトプラン for「フレッツ」 設定マニュアル] p.6 NTTPCコミュニケーションズ</ref>(自社))が2016年新規受付終了<ref>[https://www.nttpc.co.jp/service/infosphere/news/2016/0428.html 『InfoSphere モバイルライトプラン for 「フレッツ」』の新規申込受付の終了について] NTTPCコミュニケーションズ 2016年4月28日</ref>。またNTT西日本向けの「モバイルライトプラン for 「フレッツ」(W)」もあった(アクセスポイントはbbisp<ref>[https://www.sphere.ne.jp/mobile-w/ml_manual01.html 『モバイルライトプラン for 「フレッツ」』設定マニュアル - モバイルライトプラン for「フレッツ」(W) -「フレッツ光モバイルパック」] NTTPCコミュニケーションズ</ref>(自社))が2022年3月新規受付終了<ref>[https://www.nttpc.co.jp/service/infosphere/mobile-w/ モバイルライトプラン for「フレッツ」(W)] NTTPCコミュニケーションズ</ref>。}}||{{no}}||{{no}}|| {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 200G<br/>Equinix: 200G<ref name="pdb-as2514">[https://www.peeringdb.com/net/1697 NTT PC Communications (InfoSphere)] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 100G<ref name="pdb-as2514"/>}} || || 法人向け(個人向けはOCNに統合)
|-
|[[NTT-ME]]||[[WAKWAK]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| |||||||||| {{yes|JPNAP: 80G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 50G<ref name="pdb-as9595">[https://www.peeringdb.com/net/2766 NTT-ME (XePhion,WAKWAK)] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<ref name="pdb-as9595"/>}} || || [[東日本電信電話|NTT東日本]]系。マンション向けのWAKWAKピアルもある。
|-
|[[NTTメディアサプライ]]||[[DoCANVAS]]|| {{yes|○}} ||{{no}}|| |||||||||| || || || [[NTT西日本]]系。集合住宅向け一括提供
|-
|rowspan=11|KDDI系
|-
|rowspan=2|[[KDDI]]
| KDDIインターネット||{{yes|◎}}<ref name="flets-tokyo"/><br/>{{Refnest|group="j"|イーサエコノミー}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|イーサシェア}}|| || || |||| || rowspan=2 {{yes|JPIX: 1000G<ref name="pdb-as2516">[https://www.peeringdb.com/net/1022 KDDI] PeeringDB</ref>}} || rowspan=2 {{yes|JPIX: 800G<ref name="pdb-as2516"/>}} || rowspan=2 | || 法人向け
|-
|[[au one net]]{{Refnest|group="j"|旧DION}}||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo">[https://flets.com/sch_provider/pvd_view.php?type=NFM&pref=tokyo フレッツ 光ネクスト 対応プロバイダ(戸建て向け) - 東京エリア] NTT東日本</ref>||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider">[https://www.au.com/internet/auhikari_10-5g/other_provider/ auひかり ホーム10ギガ・5ギガ:プロバイダサービス一覧] KDDI</ref>|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider"/> ||rowspan=2|LTE NET<br/>LTE NET for DATA<br/>5G NET<br/>5G NET for DATA<br/>[[UQコミュニケーションズ#UQ mobile|UQ mobile]]<br/>[[povo]]||rowspan=2 {{no}}||rowspan=2 {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|auのLTE NET系と5G NET系はWiMAX 2+ オプションが標準となっている<ref>[https://www.au.com/mobile/charge/internet-connection/lte-net/ LTE NET] KDDI</ref><ref>[https://www.au.com/mobile/charge/internet-connection/ltenet-for-data/ LTE NET for DATA] KDDI</ref><ref>[https://www.au.com/mobile/charge/internet-connection/5g-net/ 5G NET] KDDI</ref><ref>[https://www.au.com/mobile/charge/internet-connection/5gnet-for-data/ 5G NET for DATA] KDDI</ref>ためUQ回線にも対応している。UQ mobileは+5Gでau回線にも対応している。}}||rowspan=2 {{no}} ||UQ mobileはUQコミュニケーションズより継承。マンション全戸一括加入型の「auひかり マンションギガ(10Gbps)全戸一括加入型」もある<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1451444.html KDDI、最大10Gbpsの専有光回線を提供するマンション開発者向け「auひかり マンションギガ(10Gbps)全戸一括加入型」提供] Impress 2022年10月28日</ref>。
|-
|[[沖縄セルラー電話]]||auひかり ちゅら プロバイダー<ref>[https://okinawa-cellular.jp/personal/hikari/service/service_home/ auひかり ちゅらホーム] 沖縄セルラー電話</ref>||{{no}}||{{no}}||{{yes|OTNet回線}}|| || || || UQ mobileは[[UQモバイル沖縄]]{{Refnest|group="j"|旧沖縄バリューイネイブラー}}を吸収
|-
|[[中部テレコミュニケーション]] (CTC)||[[コミュファ]]光プロバイダ一体型||{{?}}||{{?}}|| {{yes|CTC回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|コミュファ光 10ギガホーム→ホーム10G}} ||||{{no}}||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|以前はコミュファ光モバイル(UQ)が存在した。}}||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|以前はコミュファ光モバイル(EM)が存在した。}}|| {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as18126">[https://www.peeringdb.com/net/1717 Chubu Telecommunications Co.,Inc. (ctc)] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPIX: 200G<ref name="pdb-as18126"/>}} || || [[中部電力]]管内。KDDI子会社。オンラインゲーマー向けの「コミュファ光ゲーミングカスタム」もある。
|-
| [[ジュピターテレコム]]||J:COM NET ([[ZAQ (インターネット接続サービス)|ZAQ]])||{{no}}|| {{yes|◎<br/>{{Refnest|group="j"|J:COM NET 光 10Gコース on auひかり}}}}|| {{yes2|自社[[HFC]]回線{{Refnest|group="j"|J:COM NET 1Gコース}}}} ||[[J:COM MOBILE]]<br/>J:COM WiMAX +5G||{{no}}||{{yes|○}}||{{no}}|| {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 200G<br/>Equinix: 200G<ref name="pdb-as9824">[https://www.peeringdb.com/net/4292 JCOM] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPIX: 200G<ref name="pdb-as9824"/>}} || || ZAQは関西マルチメディアサービスを吸収し[[テクノロジーネットワークス]]の@NetHomeを合併{{Refnest|group="j"|なお関東は元々KDDとの合弁のジェイコムインターネットが担当していた<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980925/jcom.htm J-COM系列のケーブルテレビ局でインターネットサービス ジュピターテレコムとKDD、新会社設立で普及に拍車] Impress 1998年9月25日</ref>。}}
|-
| [[横浜ケーブルビジョン]]||YCV NET ||{{no}}|| {{yes|◎<br/>{{Refnest|group="j"|光10Gコース on auひかり}}}}|| {{yes2|自社[[HFC]]回線}} || || || || || || || || 神奈川県横浜市。J:COMと東急の共同運営会社。元[[相模鉄道|相鉄]]系
|-
|[[UQコミュニケーションズ]]|| || || || ||[[UQ WiMAX#WiMAX+5G(2021年4月から提供)|UQ WiMAX +5G]]|| {{no}}|| {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|元々はUQ単独回線だったが、その後au回線も使える「LTEオプション」が追加され、現在は標準でau回線も使用する。}} || {{no}} || || || ||
|-
|ビッグローブ||[[BIGLOBE]]||{{yes|◎}}<br/><ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1551129.html 「ビッグローブ光 10ギガ」提供開始、新たにWi-Fi 6Eメッシュルーターなどの提供も] Impress 2023年12月1日</ref>||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider"/>|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider"/> ||BIGLOBEモバイル{{Refnest|group="j"|過去にはdonedoneも存在した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2305/12/news205.html ビッグローブのMVNOサービス「donedone」が8月末に終了 BIGLOBEモバイルへの移行で初期費用が無料] ITmedia 2023年5月12日</ref>。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|BIGLOBE SIM タイプD。アクセスポイントは独自<ref name="biglobe-apn">[https://support.biglobe.ne.jp/settei/setuzoku/lte/ 「BIGLOBEモバイル」接続設定方法] BIGLOBE</ref>。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|BIGLOBE SIM タイプA / BIGLOBE WiMAX +5G。アクセスポイントは独自<ref name="biglobe-apn"/>。}} || {{no}} || {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as2518">[https://www.peeringdb.com/net/2229 BIGLOBE Inc.] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as2518"/>}} || {{yes|JPIX: 100G}}<ref name="pdb-as2518"/> || [[日本電気|NEC]]→KDDI系。社内線C&C VAN(Computer & Communication Value Added Network)を開放
|-
|[[沖縄通信ネットワーク|OTNet]]<br/>{{Refnest|group="j"|旧沖縄通信ネットワーク}}||[[ひかりゆいまーる]]||{{yes|○}}<ref>[https://okinawa-cellular.jp/personal/hikari-yui/ ひかりゆいまーる] 沖縄セルラー電話</ref>|| {{no}} || {{Refnest|group="j"|OTNet回線の「ひかりふる」は2004年開始<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/05/27/3261.html OTNet、沖縄向けのFTTHサービス「ひかりふる」を提供] Impress 2004年5月27日</ref>で2010年新規受付終了<ref>[https://www.ii-okinawa.ad.jp/info/100730/index.html 「ひかりふる」の新規お申込み受付の終了について] OTNet 2010年7月30日</ref>}} || || || || || {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as9621">[https://www.peeringdb.com/net/4282 Okinawa Telecommunication Networks] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 10G<ref name="pdb-as9621"/>}} || || 元[[沖縄電力]]系。KDDI沖縄を吸収。
|-
|[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス]]|| || || || || [[ワイヤ・アンド・ワイヤレス#Wi2 300|Wi2]]<br/>[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス#au Wi-Fi SPOT|au Wi-Fi SPOT]] || || || || {{yes|JPIX: 100G<ref name="pdb-as131160">[https://www.peeringdb.com/net/20771 Wire and Wireless Co.,Ltd.] PeeringDB</ref>}} || || || 公衆無線LANサービス
|-
|rowspan=6|ソフトバンク系
|rowspan=5|[[ソフトバンク]]||[[Yahoo! BB#SoftBank光|SoftBank光]]||{{yes|◎}}||{{?}}|| ||[[ソフトバンク]] ||{{no}}||{{no}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|SB+子会社の[[Wireless City Planning]]回線。[[Hybrid 4G LTE]]より前はSB回線の[[SoftBank 4G LTE]]とWCP回線の[[SoftBank 4G]]で別々となっていた。}} ||rowspan=5 {{yes|JPNAP: 200G<br/>BBIX: 2800G<ref name="pdb-as17676">[https://www.peeringdb.com/net/2606 SoftBank Corp.] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=5 {{yes|JPNAP: 200G<br/>BBIX: 800G<ref name="pdb-as17676"/>}} ||rowspan=5| ||固定系は[[ソフトバンクBB]]([[Yahoo! BB]]ブランド)を吸収。
|-
| ULTINA Internet || {{?}} || {{?}} || {{?}} || || || |||| 法人向け
|-
|[[ODN]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider"/> ||||||||||旧[[ソフトバンクテレコム]]←日本テレコム(JR系)。なお国際向けプロバイダの[[JENS SpinNet|SpinNet]]も存在するが2023年2月に新規受付終了予定<ref>[https://www.spinnet.jp/csc/info/221220.html 【重要】SpinNetサービス(基本契約)の新規お申し込み受付終了のお知らせ] SpinNet 2022年12月20日</ref>。
|-
| {{Refnest|group="j"|以前はEMOBILE 光も存在した。}} || || || ||[[ワイモバイル]] ([[Y!mobile]])||{{no}}||{{no}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|SB+WCP回線。}}||元[[イー・アクセス]](2015年吸収)提供。イー・アクセスは2013年に[[ウィルコム]]と合併していた。{{Refnest|group="j"|なおウィルコムはNTTドコモ回線を使用した[[WILLCOM CORE 3G]](2010年9月新規受付終了、2012年12月終了)や[[ソフトバンクモバイル]]回線を使用した同名サービス(2010年10月開始、2017年終了<ref>[https://www.ymobile.jp/plan/info/core3g/ IIJ 3Gサービス(旧 WILLCOM CORE 3Gサービス) 終了について] SoftBank</ref>)を提供していた。またウィルコムの[[PHS]]サービス(WILLCOM CORE 3G/[[WILLCOM CORE XGP]])およびそれを引き継いだ[[Wireless City Planning]]のXGPサービスではISPに[[PRIN]]が使われていた。}}
|-
| || || || || [[LINEMO]]<br/>{{Refnest|group="j"|旧SoftBank on LINE}} ||{{no}}||{{no}}||{{yes|○}}|| [[LINE (企業)|LINE]]とソフトバンクの合弁として提供していた[[LINEモバイル]]の後継
|-
| [[BBIX]] || OCX光 インターネット || {{yes|◎}}<br/><ref>[https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/1476187.html BBIX、最大10Gbpsの法人向けインターネット接続サービス「OCX光 インターネット」を提供開始] Impress 2023年2月6日</ref> || {{no}} || {{no}} || || || || || || || || 法人向け
|-
|rowspan=6|[[丸紅]]系 <!--TODO: UCOM光(法人会員向け)-->
|rowspan=2|[[つなぐネットコミュニケーションズ]]||[[つなぐネットコミュニケーションズ#e-mansion|e-mansion]]||{{yes|○}}||{{yes|○}}||{{yes|アルテリア回線◎}}<br/><ref>[https://japan.zdnet.com/release/30701137/ マンションISP国内シェアNo.1※1のつなぐネットコミュニケーションズ マンションの各住戸まで10Gbps※2の全戸一括インターネットサービスを開始] ZDNet Japan 2022年6月1日</ref>||||||||||rowspan=2| ||rowspan=2| ||rowspan=2| || マンション全戸一括加入型
|-
| [[つなぐネットコミュニケーションズ#UCOM光 レジデンス|UCOM光 レジデンス]] ||{{no}}||{{no}}||{{yes|アルテリア回線◎}}||||||||||マンション全戸一括加入型。[[アルテリア・ネットワークス]]より継承
|-
| rowspan=2 | [[アルテリア・ネットワークス]] || UCOM光 ファストギガビットアクセス(旧ARTERIA光)<ref>[https://www.arteria-net.com/news/2021/0928-01/ ARTERIA光 サービス名称変更のお知らせ] アルテリア・ネットワークス 2021年9月28日</ref> || {{no}}||{{no}}||{{yes|アルテリア回線◎}} || rowspan=2 | VECTANT ブロードバンドアクセス LTE(D)|| rowspan=2 {{yes|○}}|| rowspan=2 {{no|終了}}<br />{{Refnest|group="j"|かつてはVECTANTブロードバンドアクセスWiMAXも存在した。}}|| rowspan=2 {{no}}||rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as2519">[https://www.peeringdb.com/net/2201 ARTERIA Networks Corporation (Vectant)] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as2519"/>}} ||rowspan=2| || rowspan=2 | 法人向け<!--TODO: UCOMモバイル-->{{Refnest|group="j"|VECTANTにはMOW-NETも存在した<ref>[https://web.archive.org/web/20101213050134/http://www.vectant.co.jp/mow-net/index.htm MOW-NET「フレッツシリーズ」対応インターネット接続サービス(2010年時点のキャッシュ)] VECTANT</ref>。}}
|-
| VECTANT(光アクセス(N)) || {{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/> || {{no}} ||
|-
| [[MXモバイリング]] || MarubeniBB(Marubeni光) || {{yes|○}}||{{no}}||{{no}} || || || || || || || || [[丸紅テレコム]]を吸収<ref>[https://www.mtc.co.jp/marubenihikari/info20230601.pdf ~ 吸収合併に関するご案内 ~] 丸紅テレコム 2023年5月</ref>。丸紅テレコムは[[コーエーテクモゲームス]]と共同で「my GAMECITY 光」も提供していた(2021年終了)<ref>[https://www.mtc.co.jp/news/2016/news187.html 「丸紅テレコム」×「コーエーテクモゲームス」 ゲーム業界初の光回線サービス 「my GAMECITY光」のサービス提供開始] 丸紅テレコム 2016年9月15日</ref><ref>[https://www.gamecity.ne.jp/info/20210305.html 【重要】『my GAMECITY 光』サービス終了ならびに『Marubeni 光』へ移行のお知らせ] コーエーテクモゲームス 2021年3月8日</ref>。
|-
| [[丸紅ネットワークソリューションズ]] || @PTOP インターネットアクセスサービス || {{?}} || {{?}} || {{?}} || M-Air || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || <!--as4677?--> || || || 法人向け
|-
|rowspan=2 | 楽天系
|rowspan=2| [[楽天モバイル (企業)|楽天モバイル]]{{Refnest|group="j"|[[楽天コミュニケーションズ]](旧フュージョン・コミュニケーションズ、元東京電力系)より継承<ref>[https://corp.mobile.rakuten.co.jp/news/media/2019/0613_01/ 楽天コミュニケーションズの会社分割によるサービス提供会社変更のお知らせ] 楽天 2019年6月13日</ref>、元[[日商エレクトロニクス]]系。}}||楽天ブロードバンド||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}<br/>{{Refnest|group="j"|「楽天ブロードバンド auひかり」も存在したが2016年6月に新規受付を終了した<ref name="au-hikari-j">[https://www.jpne.co.jp/auhikari_test/ auひかり(J) サービスプロバイダ一覧] JPIX</ref><ref>[https://broadband.rakuten.co.jp/auhikari/ 楽天ブロードバンド: auひかり] 楽天モバイル</ref>。}}|| ||楽天モバイル|| || || || rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as138384">[https://www.peeringdb.com/net/19499 Rakuten Mobile] PeeringDB</ref>}} || rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as138384"/>}} || rowspan=2 | ||[[プラスワン・マーケティング]]より買収したFREETEL SIMを吸収<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1101255.html 楽天、FREETEL SIMを「楽天モバイル」ブランドに統合] Impress 2018年1月15日</ref>。<br />また新規受付終了済みサービスとして[[DMM.com]]より継承したDMM光および[[DMM.com#終了したサービス|DMM mobile]]も存在する<ref>[https://mvno.dmm.com/info/notice190723.html サービス提供事業者変更に関するご案内] DMM 2019年8月27日</ref>。{{Refnest|group="j"|かつては元[[三洋電機]]系の[[SANNET]]およびそのモバイルサービスのSANNET LTEも存在したが2020年に終了した<ref>[https://web.archive.org/web/20200528124314/https://www.sannet.ne.jp/close/ SANNETサービス終了のお知らせ] 楽天モバイル</ref>。}}
|-
|楽天ブロードバンドプレミアム(旧FUSION GOL)||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/><!--2022年現在FUSION GOL名義-->||{{?}}|| || || || || ||法人向け
|-
|rowspan=6|ソニー系
|rowspan=2|[[ソニーネットワークコミュニケーションズ]]([[So-net]])|| So-net ||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider"/>|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider"/> ||So-net モバイル||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|[[So-net モバイル LTE]]。アクセスポイントは独自<ref>[https://support.so-net.ne.jp/supportsitedetailpage?id=000012022 So-net モバイル LTE の接続設定方法を知りたい(Android 5.0 / 6.0 搭載端末)] So-net</ref>。}} ||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|So-net モバイル WiMAX +5G。アクセスポイントは独自。}}||{{no}}|| rowspan=3 {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 200G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as2527">[https://www.peeringdb.com/net/2275 Sony Network Communications] PeeringDB</ref>}} || rowspan=3 {{yes|JPNAP: 100G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as2527"/>}} || rowspan=3 | ||[[BitWarp]]は2017年終了
|-
|[[NURO光]]||rowspan=2 {{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|NTTの加入者光ファイバ回線のみ(ダークファイバ)使用。}}||rowspan=2| {{?}}||rowspan=2| ||[[nuroモバイル|NUROモバイル]]||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|name="nuro-apn"|アクセスポイントはSo-net<ref>[https://mobile.nuro.jp/support/settings/apn/ SIM カード挿入・接続設定方法] ソニーネットワークコミュニケーションズ</ref>。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|name="nuro-apn"}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|name="nuro-apn"}}|| 分譲住宅向けの「NURO 光 Home Connect」も存在する<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1520963.html 「NURO 光」がハウスメーカーと連携、入居時から回線が使える「NURO 光 Home Connect」提供開始] Impress 2023年8月2日</ref>。
|-
| [[ソニーネットワークコミュニケーションズコネクト]] || NURO 光 Connect || || || || || 全戸一括加入型<ref>[https://www.zenchin.com/news/content-1306.php サービス提供戸数、12.9%増【拡大続く全戸一括型インターネット】] 全国賃貸住宅新聞 2023年10月25日</ref>
|-
|rowspan=2| [[ソニービズネットワークス]] || [[NURO 光#法人向け|NUROアクセス<br/>Fライン/Nライン<br/>Kライン]] ||{{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|NUROアクセスはNTTの加入者光ファイバ回線のみ(ダークファイバ)使用。FラインはNTTフレッツ回線を使用。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Kライン}}|| || || ||||||rowspan=2| ||rowspan=2| ||rowspan=2| || 法人向け
|-
| [[bit-drive]](ファイバーリンク)||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| || || ||||||法人向け
|-
| [[ソニーワイヤレスコミュニケーションズ]]||NURO Wireless 5G||{{no}}||{{no}}|| {{yes|[[無線アクセス#Fixed Wireless Access|固定無線]]}} || || ||||||||||||
|-
|[[北海道電力]]系
|[[北海道総合通信網]]||HOTCN||{{yes|○}}<ref>[https://www.hotnet.co.jp/service/broadband/ HOTCN ブロードバンド] 北海道総合通信網</ref>||{{no}}|| {{yes|HOTnet回線}} || {{Refnest|group="j"|[[アステル北海道]]社より継承したPHSサービス「アステル北海道」があった。}} || |||||| {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as7682">[https://www.peeringdb.com/net/2828 HOTnet] PeeringDB</ref>}} || || ||
|-
|rowspan=2 | [[東北電力]]系
|[[東北インテリジェント通信|トークネット]]{{Refnest|group="j"|旧東北インテリジェント通信}}||TOCN||{{?}}||{{?}}|| {{yes|TOHKnet回線}} || || |||||| {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as7516">[https://www.peeringdb.com/net/20399 Tohoku Intelligent Telecommunication] PeeringDB</ref>}} || || || 法人向け
|-
|[[東北電力フロンティア]]||東北電力フロンティア光||{{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|「東北電力フロンティア光(スタンダードプラン)」はNTT東日本提供となっている<ref>[https://www.tohoku-frontier.co.jp/service/hikari/pdf/contractShikari_2310.pdf 東北電力フロンティア光(スタンダードプラン)各種サービス利用規約] p.18 東北電力フロンティア</ref>一方、「東北電力フロンティア光(プレミアム10Gプラン)」は異なっており固定電話サービスも「NURO光でんわ」となっている<ref>[https://www.tohoku-frontier.co.jp/service/hikari/pdf/contract10Ghikari_2310.pdf 東北電力フロンティア光(プレミアム10Gプラン)契約約款] 東北電力フロンティア</ref><!--NURO回線?-->。}} ||{{?}}|| {{?}} || || |||||| || || || 宮城県内<ref name="thk-f-hikari">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC124E50S3A011C2000000/ 東北電力系、家庭向け10ギガ光回線サービス] 日本経済新聞 2023年10月12日</ref>
|-
| [[東京電力]]系
| [[ファミリーネット・ジャパン]] || [[サイバーホーム]] ||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| || || |||||| {{yes|JPNAP: 200G<br/>BBIX: 200G<ref name="pdb-as59125">[https://www.peeringdb.com/net/12022 CYBERHOME] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as131925">[https://www.peeringdb.com/net/15154 CYBERHOME-2] PeeringDB</ref>}} || || マンション全戸一括加入型。元[[大京]]とNTT-MEの合弁
|-
|[[北陸電力]]系
|[[北陸通信ネットワーク]]||HTCN||{{?}}||{{?}}|| {{yes|HTNet回線}} || || |||||| {{yes2|JPIX: 10G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as7668">[https://www.peeringdb.com/net/9832 HTCN] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as7668"/>}} || || 法人向け
|-
|[[関西電力]]系
|[[オプテージ]]{{Refnest|group="j"|旧ケイ・オプティコム}}||[[オプテージ#eo光|eo光]]||{{?}}||{{?}}|| {{yes|オプテージ回線◎}} ||[[オプテージ#mineo|mineo]] ||{{yes|○}}<br>{{Refnest|group="j"|Dプラン。アクセスポイントは独自<ref name="mineo-apn">[https://support.mineo.jp/setup/guide/android_network.html ネットワーク設定(Android・Windows端末等)] オプテージ</ref>。}}||{{yes|○}}<br>{{Refnest|group="j"|Aプラン。アクセスポイントは独自<ref name="mineo-apn"/>。なお過去にあった「eoモバイルWiMAX」は2016年終了<ref>[https://www.k-opti.com/press/2015/press38.html 「eoモバイルWiMAX」のサービス提供終了およびmineo(マイネオ)移行キャンペーンの実施について] オプテージ</ref>。}}||{{yes|○}}<br>{{Refnest|group="j"|Sプラン。アクセスポイントは独自<ref name="mineo-apn"/>。なお過去にあった「eoモバイル3G」は2018年終了<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1043675.html ケイ・オプティコム、「eoモバイル3G」を2018年1月終了] Impress 2017年2月10日</ref>。}}|| {{yes|JPNAP: 200G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as17511">[https://www.peeringdb.com/net/2753 OPTAGE] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 10G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as17511"/>}} || || 関西電力管内。法人向けの「オフィスeo光ネット」もある。
|-
|[[中国電力]]系
|[[エネコム]]{{Refnest|group="j"|旧エネルギア・コミュニケーションズ}}||[[エネコム|MEGA EGG]]||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|メガ・エッグ 光ダブリュー}}||{{no}}|| {{yes|エネルギア回線}}<br/>{{Refnest|group="j"|メガ・エッグ 光ベーシック}} ||{{Refnest|group="j"|メガ・エッグ モバイル MySIM(U-mobileと提携)は2019年新規受付終了<ref>[https://www.megaegg.jp/service/mobile/ メガ・エッグ モバイル] エネルギア・コミュニケーションズ</ref><ref>[https://www.megaegg.jp/service/mobile/mysim_u/index.html メガ・エッグ モバイル MySIM] エネルギア・コミュニケーションズ</ref>}}|||||||| {{yes|JPNAP: 30G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as7670">[https://www.peeringdb.com/net/1574 Energia Communications, Inc.] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 10G<ref name="pdb-as7670"/>}} || || 中国電力管内
|-
|[[四国電力]]系
|[[STNet]]||[[Pikara]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{?}}|| {{yes|STNet回線◎}} ||ピカラモバイル||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Dプラン。アクセスポイントはmineo<ref>[https://www.pikara.jp/mobile/support/pland_network_android.html ネットワーク設定(Android端末)- Dプラン] STNet</ref>(オプテージ)。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Aプラン。アクセスポイントはmineo<ref>[https://www.pikara.jp/mobile/support/plana_network_android.html ネットワーク設定(Android端末)- Aプラン] STNet</ref>(オプテージ)。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Sプラン。アクセスポイントはmineo<ref>[https://www.pikara.jp/mobile/support/plans_network_android.html ネットワーク設定(Android端末)- Sプラン] STNet</ref>(オプテージ)。}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 20G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as7522">[https://www.peeringdb.com/net/2931 STNet, Incorporated] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 10Gbps<ref name="pdb-as7522"/>}} || ||四国電力管内
|-
|[[九州電力]]系
|[[QTnet]]||[[BBIQ]]||{{?}}||{{?}}|| {{yes|QTnet回線◎}} ||QTモバイル||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Dタイプ。アクセスポイントはvmobile<ref name="qtnet-apn">[https://support.qtmobile.jp/setting/050000000005/ 通信(APN)設定方法 お客さまにてご購入の端末 Android] QTnet</ref> (IIJ)。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Aタイプ。アクセスポイントはmineo<ref name="qtnet-apn"/>(オプテージ)。なおUQ回線を使用した「BBIQモバイルルーター(WiMAX2+)」もあったが2022年新規受付終了。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Sタイプ。アクセスポイントは独自。なおイー・アクセス回線を使用した「BBIQモバイル(EM)」もあったが終了している。}}|| {{yes|JPNAP: 40G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 60G<ref name="pdb-as7679">[https://www.peeringdb.com/net/8719 QTnet] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as7679"/>}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<br/><ref name="pdb-as7679"/>}} ||九州電力管内{{Refnest|group="j"|子会社の[[QTmedia]](元コアラ)もインターネット接続サービスを提供していたが2021年に終了している<ref>[https://qtmedia.co.jp/news/detail/73 弊社インターネットサービス等の提供終了について] QTmedia 2021年9月1日</ref>。}}
|-
|rowspan=5 | [[阪急阪神ホールディングス|阪急阪神系]]
|[[アイテック阪急阪神]]||Tigers-net.com(タイガースネット光)||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || || || || || {{yes2|JPNAP: 40G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as7524">[https://www.peeringdb.com/net/3792 iTEC Hankyu Hanshin Co.,Ltd] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as7524"/>}} || ||[[阪神タイガース]]公認。
|-
|[[姫路ケーブルテレビ]]||WINK光||{{?}}||{{?}}|| {{yes|自社回線◎}} |||||||||| {{yes2|JPNAP: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as38628">[https://www.peeringdb.com/net/15138 HIMEJI CABLE TELEVISION CORPORATION] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 20G<ref name="pdb-as38628"/>}} || || 兵庫県の一部
|-
|[[BAN-BANテレビ|BAN-BANネットワークス]]||BAN-BAN光||{{?}}||{{?}}|| {{yes|自社回線◎}} |||||||||| || || ||兵庫県の一部
|-
|[[ベイ・コミュニケーションズ]]||Baycom光||{{?}}||{{?}}|| {{yes|自社回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|Baycom光10G}} ||Baycom LTE<br/>Baycom WiMAX+5G||{{no}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Baycom WiMAX+5G}}||{{no}}|| || || ||大阪府・兵庫県の一部。Baycom LTEは地域BWA
|-
|阪神ケーブルエンジニアリング||||||||||Hai connect||{{no}}||{{no}}||{{no}}|| || || ||地域BWA
|-
|rowspan=3 | [[近畿日本鉄道|近鉄系]]
|[[近鉄ケーブルネットワーク]]||rowspan=3|KCN光<br/>KCN-Net(KCNプラン)||rowspan=3 {{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||rowspan=3|{{?}}||rowspan=2 {{yes|自社回線◎}} ||rowspan=3|KCNモバイル<br/>KCN WiMAX+5G ||rowspan=3 {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|タイプd。アクセスポイントはvmobile<ref>[https://www.kcn.jp/fileadmin/static/popup/mobile/apn_android.html APN設定操作(Android)] 近鉄ケーブルネットワーク</ref> (IIJ)。}} ||rowspan=3 {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|KCNモバイル タイプaおよびKCN WiMAX+5G。前者のアクセスポイントはuqmobile<ref>[https://www.kcn.jp/fileadmin/static/popup/mobile/typea_apn_android.html タイプa APN設定操作(Android)] 近鉄ケーブルネットワーク</ref> (UQ mobile)。}} ||rowspan=3 {{no}}||rowspan=3 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as18081">[https://www.peeringdb.com/net/4250 Kintetsu Cable Network Co.] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=3 {{yes|JPNAP: 40G<br/>JPIX: 40G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as18081"/>}} ||rowspan=3 | ||rowspan=3 | 奈良県・京都府の一部
|-
|[[KCN京都]]
|-
|[[こまどりケーブル]] || {{yes|自社回線}}
|-
|rowspan=3 |[[東急グループ|東急系]]
|[[イッツ・コミュニケーションズ]]||ITSCOM.net(イッツコムひかり)||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| {{yes|自社回線}} ||イッツコムモバイル||{{yes|○}}<br/><ref>[http://faq.itscom.net/its/web1247/faq/detail.aspx?id=13960&a=102&isCrawler=1 イッツコム モバイルとはどのようなサービスですか?] イッツコム</ref><br/>{{Refnest|group="j"|アクセスポイントはvmobile<ref>[https://www.itscom.co.jp/support/mobile/setup/apnfile/ モバイルサポート iPhone、iPadをお使いになる場合] イッツ・コミュニケーションズ</ref> (IIJ)。}}||{{no}}||{{no}}|| {{yes2|JPIX: 60G<br/>Equinix: 20G<ref name="pdb-as9365">[https://www.peeringdb.com/net/5660 its communications inc] PeeringDB</ref>}} || || || 東京都・神奈川県の一部
|-
|[[ケーブルテレビ品川]]||しながわ光||{{?}}||{{?}}|| {{yes|自社回線◎}} |||||||||| || || || 東京都[[品川区]]<!--TODO: しながわ光(N)は?-->
|-
|[[伊豆急ケーブルネットワーク]]||IKC光||{{?}}||{{?}}||{{yes|自社回線◎}} |||||||||| || || || 静岡県・神奈川県の一部
|-
|[[JR|JR系]]
|[[鉄道情報システム]]||[[CYBER STATION]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}||{{?}}|| |||||||| || || ||
|-
|rowspan=5 | [[TOKAIホールディングス|TOKAI系]]
|rowspan=2 | [[TOKAIコミュニケーションズ]]||@T COM||{{yes|◎}}<ref name="docomo-10g-isp"/>||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider"/>|| || rowspan=2 | LIBMO ||rowspan=2 {{yes|○}}<br>{{Refnest|group="j"|アクセスポイントは独自<ref>[https://www.libmo.jp/support/apn_android/ 各種端末のAPN設定方法] TOKAIコミュニケーションズ</ref>。過去にはドコモ回線のモバイル4G/Dもあった<ref name="mobile4g">[https://info.t-com.ne.jp/2017/02/14/4gd_170214.html モバイル4G/Dおよびモバイル4Gサービスの新規受付の終了について] TOKAIホールディングス 2017年2月14日</ref>。}}||rowspan=2 {{no}}||rowspan=2 {{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|過去には[[Wireless City Planning]]回線のモバイル4Gもあった<ref name="mobile4g"/>。}}|| rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 100G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as10010">[https://www.peeringdb.com/net/5620 TOKAI Communications Corporation] PeeringDB</ref>}} || rowspan=2 {{yes2|JPIX: 40G<br/>BBIX: 40G<ref name="pdb-as10010"/>}} || rowspan=2 | || 全国
|-
| TOKAIネットワーククラブ (TNC) || {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|TNCヒカリ}} || {{?}} || {{yes|自社回線​{{Refnest|group="j"|TNCケーブルひかり}}​/​コミュファ回線​{{Refnest|group="j"|TNC+コミュファ光}}<ref name="ctc-provider"/>}} ||
|-
| [[TOKAIケーブルネットワーク]] || ひかりdeネット || {{no}} || {{no}} || {{yes|自社回線◎}} || トコチャンモバイルLIBMO || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || || || || 静岡県
|-
| [[倉敷ケーブルテレビ]] || KCT光 || {{no}} || {{no}} || {{yes|自社回線◎}} || || || || || {{yes2|JPNAP: 20G}}<ref name="pdb-as9622">[https://www.peeringdb.com/net/2760 KCT] PeeringDB</ref> || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 10G}}<ref name="pdb-as9622"/> || || 岡山県の一部
|-
| [[東京ベイネットワーク]] || シンプルネット || {{no}} || {{no}} || {{yes2|自社HFC回線<ref>[https://www.baynet.ne.jp/library/pdf/digital_seikatsu.pdf 江東区にお住まいの方に デジタル生活便利帳 p.13] 東京ベイネットワーク</ref>}} || || || || || {{yes2|JPNAP: 10G<ref name="pdb-as131916">[https://www.peeringdb.com/net/13590 BAYNET] PeeringDB</ref>}} || || || 東京都の一部
|-
| [[ZTV]]系
| ZTV || ZTV光 || {{?}}||{{?}}|| {{yes|ZTV回線◎}} || ZTVモバイル(ケーブルスマホ) || {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|アクセスポイントはvmobile<ref>[https://www.ztv.co.jp/assets/pdf/pages/support/mobile/manual/ztv_simcard_manual1509.pdf ケーブルスマホ SIM カード 取扱説明書 Ver.1.0] p.3 ZTV</ref> (IIJ)。}}||{{no}}||{{no}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as9351">[https://www.peeringdb.com/net/5588 ZTV CO.,LTD] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 40G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as9351"/>}} || ||三重県・滋賀県・和歌山県・京都府
|-
| rowspan=8 | [[コミュニティネットワークセンター|CNCi系]]
| [[ひまわりネットワーク]] || rowspan=4 | [[アイタイネット]](ひまわり光など) || rowspan=4 | {{?}} || rowspan=4 | {{?}} || rowspan=3 {{yes|自社回線◎<br/>{{Refnest|group="j"|ひまわり光10ギガ / シーシーエヌ 10Gコース / 光10ギガ}}}} || ケーブルスマホ || {{no|終了<br/>{{Refnest|group="j"|ケーブルスマホDプラン(新規受付終了)}}}} || {{yes|○<br/>{{Refnest|group="j"|ケーブルスマホAプラン}}}} || {{no}} ||rowspan=8 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 200G<br/>BBIX: 200G<br/>Equinix: 200G<ref name="pdb-as9354">[https://www.peeringdb.com/net/1571 Community Network Center Inc. (CNCI)] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=8 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 200G<br/>Equinix: 100G<ref name="pdb-as9354"/>}} ||rowspan=8 | || 愛知県
|-
| [[シーシーエヌ]] || ケーブルスマホ || {{?}} || {{?}} || {{?}} || 岐阜県
|-
| [[三河湾ネットワーク]] || ケーブルスマホ || {{?}} || {{?}} || {{?}} || 愛知県
|-
| [[おりべネットワーク]] || {{yes|自社回線}} || || || || || 岐阜県
|-
| [[スターキャット・ケーブルネットワーク]] || スターキャット光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || || || || || 愛知県。元[[ヘラルドグループ]]。元KDDI系のMediaCatを吸収<ref>[https://www.cnci.co.jp/upFile/pdf_18_1584959047.pdf CNCIとKDDIの資本提携について] コミュニティネットワークセンター/KDDI 2011年3月31日</ref><ref>[https://www.cnci.co.jp/press/page.html?iNr=66 MediaCatインターネットサービスの事業承継に関するお知らせ] コミュニティネットワークセンター 2018年8月9日</ref>。
|-
| [[知多メディアスネットワーク]] || メディアス光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || || || || || 愛知県
|-
| [[キャッチネットワーク]] || キャッチネクスト || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || || || || || 愛知県
|-
| [[中部ケーブルネットワーク|CCNet]] || CCNet 光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|CCNet光10G}} || || || || || 愛知県・岐阜県・三重県
|-
| rowspan=4 | [[CCJ (株式会社)|CCJ系]]
| [[エヌ・シィ・ティ]] || NCT光 || {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|NCT光(コラボモデル)}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎{{Refnest|group="j"|NCT光10Gサービス}}/長岡市回線}} || NCTモバイル || {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|NCTモバイル Dプラン}} || {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|NCTモバイル Aプラン}} || {{no}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as59126">[https://www.peeringdb.com/net/12501 NCT CO.,LTD.] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 10G<ref name="pdb-as59126"/>}} || ||新潟県
|-
| [[シー・ティー・ワイ]] || CTY光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || CTYスマホ || {{yes|○}} || {{yes|○}} || {{no}} || || || || 三重県の一部
|-
| [[ケーブルネット鈴鹿]] || CNS光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || CNSスマホ || {{yes|○}} || {{yes|○}} || {{no}} || {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as9997">[https://www.peeringdb.com/net/7714 Suzuka Cable Co.] PeeringDB</ref>}} || {{yes|JPNAP: 100G<ref name="pdb-as9997"/>}} || || 三重県の一部
|-
| [[上越ケーブルビジョン]] || JCV光ネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線}} || || || || || {{yes2|JPNAP: 40G<br/>BBIX: 40G<ref name="pdb-as131937">[https://www.peeringdb.com/net/17808 Joetsu Cable Vision] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|BBIX: 40G<ref name="pdb-as131937"/>}} || || 三重県の一部
|-
| rowspan=2 | [[ケーブルテレビ (企業)|ケーブルテレビ社]]系
| [[ケーブルテレビ (企業)|ケーブルテレビ社]] || rowspan=2 | ひかりネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎{{Refnest|group="j"|ひかりネット10ギガ}}}} || || || || ||rowspan=2 {{yes|JPNAP: 100G<br/>JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as18278">[https://www.peeringdb.com/net/3625 CableTV Corporation]</ref>}} ||rowspan=2| ||rowspan=2| ||栃木県、群馬県、茨城県の一部
|-
| [[古河ケーブルテレビ]] || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線{{Refnest|group="j"|ひかりネット3ギガ}}}} || || || || ||茨城県、埼玉県の一部
|-
|
| [[ケーブルテレビ富山]] || ミタスト光 || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線◎}} || || || || || || || ||富山県の一部
|-
|
| [[ニューメディア (ケーブルテレビ局)|ニューメディア]] || NCV光インターネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|自社回線}} || Air-NCVスマホ || {{yes|○}} || {{yes|○}} || {{no}} || {{yes|BBIX: 200G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as59127">[https://www.peeringdb.com/net/13111 Newmedia Corporation] PeeringDB</ref>}} || || ||山形県、北海道、新潟県、福島県の一部
|-
|rowspan=2|エヌディエス系
|エヌディエス||[[TikiTikiインターネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| ||[[TikiTikiインターネット#Tikiモバイル|Tikimo sim]]<br/>Tikiモバイル WiMAX +5G||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Tikimo sim タイプD。アクセスポイントはvmobile<ref name="tikimo-sim-apn">[https://www.tiki.ne.jp/setup/tikimosim/android7.html Android インターネット接続設定方法] エヌディエス</ref> (IIJ)。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Tikimo sim タイプA(アクセスポイントはvmobile<ref name="tikimo-sim-apn"/>)および Tikiモバイル WiMAX +5G。後者はグローバルIPアドレスオプションもある(アクセスポイントはuqwimax(UQコミュニケーションズ))<ref>[https://www.tiki.ne.jp/mobile/gipop/wimaxplus5g.html グローバルIPアドレスオプション] エヌディエス</ref>。}}||{{no|停止中}}<br/>{{Refnest|group="j"|Tikiモバイル YMおよびTikiモバイル EM 4Gも存在したが新規受付停止中<ref>[https://www.tiki.ne.jp/mobile/ym/index.html Tikiモバイル YM] エヌディエス</ref><ref>[https://www.tiki.ne.jp/mobile/em4g/index.html Tikiモバイル EM 4G] エヌディエス</ref>。}}|| || || ||
|-
| [[ニューデジタルケーブル]] || とまこまい光など ||{{yes|○}}||{{no}}||{{yes|独自回線}}||ケーブルスマホ||{{yes|○}}||{{yes|○}}||{{no}}|| || || || 北海道、岩手県、秋田県、宮城県の一部
|-
| [[農業協同組合|農協]]系
| [[長野県協同電算]] || [[長野県協同電算#JANISネット|JANIS]] ||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}||{{yes|CATV回線}}|| || || |||| {{yes2|JPNAP: 20G<br/>BBIX: 20G}}<ref name="pdb-as18268">[https://www.peeringdb.com/net/3190 JANIS] PeeringDB</ref> || {{yes2|BBIX: 10G}}<ref name="pdb-as18268"/> || || 長野県
|-
| [[BIPROGY]]系
| [[ユニアデックス]] || U-netSURF || {{yes|○}} || {{no}} || || {{Refnest|group="j"|JetSURFが存在したが廃止された<ref>[http://www.netsurf.ad.jp/cgi/news/2017/0705.html モバイル通信サービス「JetSURF」サービス終了のご案内] ユニアデックス 2017年7月5日</ref>。}} || || || || {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as4675">[https://www.peeringdb.com/net/11197 UNIADEX, Ltd.] PeeringDB</ref>}} || || ||
|-
| 独立系
|[[朝日ネット]]||[[ASAHIネット]]光||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{yes|○}}<ref name="auhikari_1g_provider">[https://www.au.com/internet/auhikari_1g/other_provider/ auひかり ホーム 1ギガ:プロバイダサービス一覧] KDDI</ref>|| ||ASAHIネット WiMAX +5G<br/>ASAHIネットLTE|| {{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|ASAHIネットLTE。アクセスポイントはmobac<ref>[https://asahi-net.jp/support/guide/mobile/lte/ ASAHIネット LTE(ANSIM)設定・接続方法] 朝日ネット</ref>(NTTコミュニケーションズ)。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|ASAHIネット WiMAX +5G。アクセスポイントはWiMAX 2+時代は独自<ref>[https://asahi-net.jp/support/guide/mobile/wimax2plus/002.html ASAHIネット WiMAX 2+ 無線接続方法] 朝日ネット</ref>、WiMAX +5G時代はKDDI<ref>[https://asahi-net.jp/support/guide/mobile/wimax5g/pdf/settingGuide_5gx11_fixedip_20220721.pdf モバイルルータ Speed Wi-Fi 5G X11 - 接続設定について] p.2 ASAHIネット</ref>。}}||{{no}}|| {{yes|JPNAP: 140G<br/>JPIX: 80G<br/>BBIX: 140G<br/>Equinix: 10G<ref name="pdb-as4685">[https://www.peeringdb.com/net/4646 ASAHI Net] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 40G<br/>BBIX: 40G<ref name="pdb-as4685"/>}} || ||
|-
|rowspan=2 | 独立系
|rowspan=2|[[インターネットイニシアティブ]]||IIJmioひかり||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| {{Refnest|group="j"|コミュファ回線のIIJmio FiberAccess/DCは2023年終了<ref name="ctc-provider"/>}} ||IIJmio||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|IIJmio タイプD / eSIM。アクセスポイントは独自<ref name="iijmio-apn">[https://www.iijmio.jp/hdd/guide/apn.html 初期設定(APN設定)] IIJ</ref>。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|IIJmio タイプA。アクセスポイントは独自<ref name="iijmio-apn"/>}}||{{no}}|| rowspan=2 {{yes|JPNAP: 1100G<ref name="pdb-as2497">[https://www.peeringdb.com/net/690 Internet Initiative Japan] PeeringDB</ref>}} || rowspan=2 {{yes|JPNAP: 600G<ref name="pdb-as2497"/>}} || rowspan=2 | ||2016年4月1日IIJ4Uを統合<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.iij4u.or.jp/info/iij/20150709-1.html|title=IIJ4UサービスのIIJmioサービスへの統合及び一部機能の提供終了について|publisher=インターネットイニシアティブ|date=2015-7-9|accessdate=2015-10-26}}</ref>。
|-
|IIJ FiberAccess||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/><br/>{{Refnest|group="j"|IIJ IPv6 FiberAccess/Fサービス}}||{{no}}||{{yes|アルテリア回線}}<br/>{{Refnest|group="j"|IIJ FiberAccess/U}}||IIJモバイルサービス||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|IIJモバイルサービス/タイプD、IIJモバイルサービス/タイプI。アクセスポイントは独自<ref>[https://www.iijmobile.jp/apn/KID003.pdf IIJモバイルサービス/タイプI] p.1 IIJ</ref>}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|IIJモバイルサービス/タイプK。アクセスポイントは独自。}}||{{no}}||法人向け
|-
|独立系
|[[インターリンク (インターネットサービスプロバイダ)|インターリンク]]||ZOOT NEXT<br/>ZOOT NATIVE||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{?}}|| ||インターリンクLTE SIM||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|アクセスポイントはlte-mobile<ref>[https://faq.interlink.or.jp/faq2/View/wcDisplayContent.aspx?id=1038 よくあるお問い合わせ] インターリンク</ref>(NTTPCコミュニケーションズ)}}||{{no|終了}}<br/>{{refnest|group="j"|INTERLINK WiMAXもあったが、2016年サービス終了<ref>[https://web.archive.org/web/20160323004606/http://www.interlink.or.jp/service/wimax/index.html インターリンクの固定IPに対応したWiMAXサービス] インターリンク</ref>}}||{{no}}|| || || || グローバル固定IPアドレス
|-
|
|[[エキサイト]]||BB.excite||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{?}}|| ||エキサイトモバイル||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|BB.exciteモバイルLTEもあったが2017年に終了した<ref>[https://bb.excite.co.jp/info/detail/303 「BB.exciteモバイルLTE」サービス終了のお知らせ] エキサイト 2017年5月31日</ref>。アクセスポイントはどちらもvmobile<ref name="mynavi-mvno"/><ref>[https://bb.excite.co.jp/exmb/sim/apn/ APN設定(モバイルネットワーク用)] エキサイト</ref> (IIJ)。}}||{{yes|○}}||{{no}}|| || || ||
|-
|rowspan=3 | [[フリービット]]系
|rowspan=2 | [[ドリーム・トレイン・インターネット]]||DTI||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/><br/>{{Refnest|group="j"|かつてはプラチナオプションも存在した<ref name="flets-tokyo"/><ref>[https://www-wp.dream.jp/search.php/?p=4553 プラチナオプションについて] DTI</ref>。}}||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider"/>|| ||DTI SIM<br/>DTI WiMAX||{{yes|○<br />{{Refnest|group="j"|DTI SIM}}}}||{{yes|○<br />{{Refnest|group="j"|DTI WiMAX 2+(+5G 対応プラン)}}}}||{{no}}||rowspan=2| ||rowspan=2| ||rowspan=2| ||[[三菱電機]]→[[東京電力]]→[[フリービット]]系。元[[パワードコム]]のPowered Internet{{Refnest|group="j"|Powered Internetは東京電力系のTTCN、中部電力系のCTCN、関西電力系のWCNを統合したもの<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/0203/25/02032522.html パワードコム,各エリアのサービスを統合した「Powered Internet」サービスを4月より提供] ITmedia 2002年3月25日</ref>。}}を統合<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/348/348790/ DTI、“DREAM TRAIN INTERNET[DTI]”と“Powered Internet [POINT]”を10月に統合] ASCII 2005年7月11日</ref>
|-
| || || || ||[[トーンモバイル#サービス概要|TONE]]||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}||フリービットと[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]]の合弁会社である[[トーンモバイル]]より継承<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1910/21/news093.html トーンモバイルが全事業を12月1日付でDTIに譲渡 フリービットはCCCとの業務提携を解消] ITmedia 2019年10月21日</ref><br/>また新規受付終了済みのサービスとして[[トーンモバイル#ServersMan SIM LTE|ServersMan SIM LTE]]もある。
|-
| [[ギガプライズ]] || PWINS / SPES || {{?}} || {{?}} || {{?}} || || || || || || || || 全戸一括加入型
|-
|rowspan=2 | GMO系
|rowspan=2 | [[GMOインターネット]]||[[GMOとくとくBB]]||{{yes|◎}}<ref name="docomo-10g-isp"/> ||{{yes|○}}<ref name="au-hikari-j"/>|| || とくとくBB SIM<br />GMOとくとくBB WiMAX +5G ||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|とくとくBB SIM}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|GMOとくとくBB WiMAX +5G}}||{{no}}<br/>{{Refnest|group="j"|name="cloud-sim-exception"|クラウドSIMサービスでの使用を除く}} ||rowspan=2 {{yes|JPIX: 100G<br/>BBIX: 100G<ref name="pdb-as7506">[https://www.peeringdb.com/net/2438 GMO Internet Group, Inc.] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=2 {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIQ: 20G<ref name="pdb-as58791">[https://www.peeringdb.com/net/13040 GMO Internet West] PeeringDB</ref>}} ||rowspan=2 {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIQ: 20G<br/><ref name="pdb-as58791"/>}} ||多キャリアを使うクラウドSIMのギガゴリWiFiワールドもある。<br/>また新規受付終了済みのプロバイダとして[[InterQ MEMBERS]]<ref name="flets-tokyo"/>、[[ZERO (インターネットサービスプロバイダ)|ZERO]]<ref name="flets-tokyo"/>(元無料プロバイダ)、3WEB<ref name="flets-tokyo"/>、[[ベッコアメ・インターネット|BEKKOAME//INTERNET]]<ref name="flets-tokyo"/>もある。
|-
| GMO BIZアクセス || {{?}} || {{?}} || {{yes|アルテリア回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|1社専有型}} || 法人向けWiMAX +5G || {{?}} || {{yes|○}} || {{?}} || 法人向け
|-
|rowspan=3 | [[光通信 (企業)|光通信]]系
|rowspan=3 | ハイホー ||hi-ho||{{yes|◎}}<ref name="docomo-10g-isp"/>||{{no}}|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider">[https://www.commufa.jp/services/common/provider 提携プロバイダ一覧] 中部テレコミュニケーションズ</ref> ||hi-hoモバイル||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|hi-ho LTE typeD}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|hi-ho WiMAX+5G / hi-ho モバイルコース-WiMAX2+。hi-ho モバイルコース-WiMAXの後継。}}||{{no}}<br/>{{Refnest|group="j"|hi-ho モバイルコース-EMやhi-ho LTE typeEMも存在したが新規受付終了。}}||rowspan=3| ||rowspan=3| ||rowspan=3| ||Let's Wi-Fiはマルチキャリア(クラウドSIM)。松下電器(パナソニック)系→IIJ系→光通信系(ISPホールディングス→セールスパートナー<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=6010401135446 株式会社ISPホールディングスの情報] 国税庁</ref>)。
|-
| hi-ho NET with games(hi-hoひかり with games) || {{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|hi-ho ひかりクロス with games}} || {{?}} || {{?}} || || || || || オンラインゲーマー向け<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999902/20220801015/ オンラインゲームユーザー向け高速インターネット『with gamesプラン』を8/1より提供開始] 4Gamer 2022年8月1日</ref>。他社ブランドとして[[SBIホールディングス#その他事業|SBI e-Sports]]の「SBI e-Sports NET/SBI e-Sports ひかり(powered by hi-ho)」もある<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1460480.html 対戦型オンラインゲーム向けに専用帯域などを提供する光回線「SBI e-Sports NET/SBI e-Sports ひかり」提供開始] Impress 2022年12月1日</ref>。
|-
|Toppa!<br/>光GiGA||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || {{Refnest|group="j"|かつてはToppa!モバイルもあり、UQ回線のToppa!モバイル(W)/Toppa! WiMAX、ドコモ回線のToppa!モバイル(D)/Toppa!モバイルLTEプラン(D)、SB+WCP回線のToppa!Wi-Fi(S)プラン/Toppa!Wi-Fi(G)プランを提供していた。}} ||{{no}}||{{no}}||{{no}}|| [[光通信 (企業)|光通信]]系のHi-bitより継承<ref>[https://www.hi-bit.co.jp/2019/04/03/20190403/ 吸収分割によるサービス提供元の変更に関するお知らせ] Hi-bit 2019年4月</ref>。
|-
|rowspan=6 |[[USEN-NEXT HOLDINGS|USEN-NEXT系]]
|rowspan=2 | [[USEN NETWORKS]] || USEN NET(USEN光 plus) ||{{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|USEN NET v6 XG}}||{{no}}|| ||||||||||||||||
|-
| 01 NET(USEN光01) ||{{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|USEN 光01 XG(v6)}}||{{no}}|| ||||||||||||||||
|-
|rowspan=2 | [[U-NEXT]]|| withU net(U-NEXT光) ||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/><!--2022年現在WITH U-NET名義-->||{{no}}|| ||{{Refnest|group="j"|U-Mobileは新規受付終了した。これはドコモ回線とSB回線でフリービットがMVNEであった。}}||{{no}}||{{no}}||{{no}}||rowspan=2| ||rowspan=2| ||rowspan=2| ||
|-
| U-NEXT光01 ||{{no}}||{{no}}|| {{yes|アルテリア回線}} || || || || || Qit光、spaaqs光([[集合住宅]]向け)、jasper-netの統合で元は[[アルテリア・ネットワークス]]より継承。元GyaO光<ref>[https://help.ucom.ne.jp/info/info.php?id=213 【重要】「GyaO 光(UCOM)」ブランド名称変更に関するご注意事項] アルテリア・ネットワークス</ref>←USEN BROAD-GATE 01<ref>[https://www.usen.com/cms_data/newsrelease/pdf/2006/20060314_373.pdf USEN、個人向け光ファイバインターネット接続サービスの名称を変更 ~ブロードバンド通信事業と映像・コンテンツ事業においてブランドを「GyaO」に統合~] USEN 2006年3月14日</ref>。
|-
| Y.U-mobile || || || || || y.u mobile<br/>ヤマダニューモバイル{{Refnest|group="j"|旧YAMADA SIM powered by U-mobile}}||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}} || || || ||ドコモ回線。MVNEはフリービット<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2004/10/news057.html 後発だけど勝算は? 逆風が吹く中で新たな格安SIM「y.u mobile」が生まれた理由] ITmedia 2020年4月10日</ref>
|-
| [[USEN ICT Solutions]] || [[USEN GATE 02]] || {{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|USEN光アクセスクロス}} || {{?}} || {{yes|アルテリア回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|プレミアインターネット。アルテリア光の卸提供<ref>[https://usen.com/news/info/2016/20161201_154.html 「USEN GATE 02」サービス開始15周年記念! 高速インターネット『プレミアインターネット』販売開始のおしらせ] USEN 2016年12月1日</ref>。}} || || |||||| || || || 法人向け。旧BROAD-GATE02
|-
| ゲーム系
| [[GameWith]] || GameWith光 || {{yes|◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|GameWith光10G}} || {{no}} || {{yes|アルテリア回線◎}}<br/>{{Refnest|group="j"|GameWith光Pro}}<ref>[https://www.arteria-net.com/news/2023/0201-01/ アルテリア・ネットワークスとGameWithが協業し、オンラインゲーマー向け光回線「GameWith光」シリーズ最高峰プラン「GameWith光Pro」の提供開始] アルテリア・ネットワークス 2023年2月1日</ref> || || || || || || || || オンラインゲーマー向け。GameWith光Proは占有型。
|-
| [[サイバーエージェント|CA]]系
| [[LogicLinks]] || || || || || [[LinksMate]] || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || {{yes2|BBIX: 10G<ref name="pdb-as59129">[https://www.peeringdb.com/net/13306 LogicLinks, Inc.] PeeringDB</ref>}} || || || スマートフォンゲーム向け
|-
|
|[[東名 (企業)]]||オフィスBB119([[オフィス光119]])||{{yes|◎<br/>{{Refnest|group="j"|オフィス光119クロス}}}}||{{no}}|| ||||||||||| || || || 中小企業・店舗など法人向け
|-
|
|シグナル||シグナル (SIGNAL)||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{?}}|| ||[[シグナルモバイル]]|| {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || || || ||法人向けリモートアクセス用
|-
|[[ノジマ]]系
|[[ニフティ]]||@nifty(@nifty光)||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{yes|◎}}<ref name="auhikari_10g_provider"/>|| {{yes|コミュファ回線}}<ref name="ctc-provider"/> ||[[ニフティ#NifMo|NifMo]]||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|ドコモ回線の「@nifty do LTE」もあった(アクセスポイントは富士通系の{{abbr|FENICS|Fujitsu ENhanced Information and Communication Services}}<ref name="mynavi-mvno">[https://news.mynavi.jp/article/20140622-mvno/4 余ったスマホはどうやって運用する? MVNOという選択肢からAPN設定まで p.4] マイナビ 2014年6月22日</ref>)が2017年に終了した。}}||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|UQ回線の「@nifty WiMAX」(およびそのオプションとしてau回線も使える「LTEオプション」<ref>[https://setsuzoku.nifty.com/wimax/option/lte.htm LTEオプション] NIFTY</ref>)もあったが2020年新規受付終了<ref>[https://setsuzoku.nifty.com/wimax/ @nifty WiMAXは2020年3月12日をもって、新規申込受付を終了いたしました。] NIFTY 2020年</ref>。}}||{{no}}|| <!--as2510?--> || || || [[富士通]]→[[ノジマ]]系
|-
| 流通系
|[[エディオン]]||[[エディオンネット]]||{{yes|◎}}<ref name="flets-cross-tokyo"/>||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|エンジョイ☆auひかり}}|| {{yes|コミュファ回線◎}}<ref name="ctc-provider"/><br/>{{Refnest|group="j"|エンジョイ☆コミュファ光 ホーム+/マンション+}} ||KuaLnet||{{no}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|WiMAX+5Gプラン。WiMAX 2+プランの後継。}}||{{no}}<br/>{{Refnest|group="j"|YM4G+プラン、EM4Gプラン、EM-LTEプランも存在したが新規受付終了している。}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as9374">[https://www.peeringdb.com/net/5054 EDION Corporation] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as9374"/>}} || ||旧[[デオデオ]]エンジョイネット
|-
| 流通系
|[[ケーズデンキ]]|| ケーズデンキ光<ref name="ks-hikari">[https://minkabu.jp/news/1028978 ケーズHD (8282) 「ケーズデンキ光 Powered by OCN」新登場!!] みんかぶ 2016年2月12日</ref> || {{yes|○<br/>{{Refnest|group="j"|OCN光に独自サービスを追加<ref name="ks-hikari"/>}}}} || {{no}} || ||KT-WiMAX ||{{no}}||{{yes|○}}||{{no}} || || || ||
|-
| 流通系
|[[ビックカメラ]]/[[ラネット]]|| ビック光 || {{yes|○<br/>{{Refnest|group="j"|ビック光(IIJmioひかり)。IIJmioひかりとは光コラボレーション事業者が異なる<ref>[https://help.iijmio.jp/answer/6128e9092b2265001db15f8e mioひかりとビック光の違いを教えてください。【mioひかり】] [[インターネットイニシアティブ]]</ref>。}}}} || {{no}} || ||BIC SIM<br/>BIC WiMAX||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|BIC SIM タイプD}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|BIC SIM タイプA / BIC WiMAX+5G}}||{{no}}|| || || || SIMはMVNEがIIJ。
|-
| 流通系
|[[ヤマダ電機]]|| || || || ||YAMADA air mobile||{{no}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|YAMADA air mobile WiMAX}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|YAMADA air mobile powered by Y!mobile}}|| || || || 前述のヤマダニューモバイルも参照
|-
| 流通系
|[[イオンリテール]]|| || || || ||[[イオンリテール#店舗ブランド|イオンモバイル]]||{{yes|○}}||{{yes|○}}||{{no}}|| || || ||
|-
|rowspan=18|[[ピーシーデポコーポレーション|PCデポ系]]
|rowspan=18|[[イージェーワークス]]||[[InfoPepper]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka">[https://flets-w.com/service/isp/?act=provider_list&a=27 フレッツ光 対応プロバイダー検索 - 大阪府] NTT西日本</ref>||{{no}}|| |||||||| ||rowspan=18| ||rowspan=18| ||rowspan=18| ||元[[東芝]]系。
|-
|[[ejnet]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[リムネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || |||||||| <!--ラットより譲渡されたNetPlatzを吸収?-->
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|[[アレスネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[四国インターネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[The FSI Network]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[まねきねこインターネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[h555]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[awaji-BB]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[京都アイネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[アイネットコミュニケーションズ]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[SANYNET]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[Momoたろうインターネットクラブ]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[牛若丸インターネットサービス]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[VC-net]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[117net]]||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|[[CityFujisawa]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|Mnet||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||||||||
|-
|
|[[レキオス]]||レキオスBB(レキオス光)||{{yes|○}}||{{no}}|| {{yes|独自回線◎<br/>{{Refnest|group="j"|レキオスダイレクト}}}} ||レキオスモバイル||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}||||||||
|-
|
| イーブロードコミュニケーションズ ||e-Broad(e-Broad光マンション)||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>|| {{?}} || || || || || || || || || 集合住宅向け一括提供。10Gbpsのe-Broad光X導入予定。
|-
| [[伊藤忠商事]]
| 伊藤忠ケーブルシステム || BB4U ||{{no}}|| {{no}} || {{yes|独自回線}} || || || || || {{yes2|BBIX: 10G<ref name="pdb-as131986">[https://www.peeringdb.com/net/28611 ITOCHU Cable Systems] PeeringDB</ref>}} || || || 集合住宅向け一括提供。LAN配線式と光配線式 (BB4U OptimEX) がある。
|-
|
| [[レオパレス21]] || レオパレス21<ref>[https://support.leopalace21.com/hc/ja/articles/360051095393-LEONET%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%80-%EF%BC%A9%EF%BC%B3%EF%BC%B0-%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B- LEONETのインターネットサービスのプロバイダ(ISP)はどこになるのですか?] [[レオパレス21]]</ref>([[レオネット]]) || {{yes|○}}||{{no}}|| || || || || || || || ||同社の賃貸アパート向け一括提供
|-
| rowspan=2 | [[大和ハウス工業|大和ハウス系]]
| rowspan=2 | [[D.U-NET]] || D.U光 || {{yes|○<ref>[https://www.duhikari.jp/faq/ よくある質問] D.U-NET</ref>}}||{{no}}|| || || || || || rowspan=2 | || rowspan=2 | || rowspan=2 | ||rowspan=2 | [[大和リビング]]の賃貸アパート (D-room) 向け。D.U-NETは一括提供。[[大和リビングマネジメント]]と[[U-NEXT]]の合弁会社
|-
| D.U-NET || {{no}}||{{no}}|| {{yes|独自回線}}<!--大本10Gbps、各戸1Gbps?--><ref>[https://www.dunet.jp/faq/ D.U-NETサービスに関するよくある質問をご案内] D.U-NET</ref> || || || ||
|-
|
|[[SORAシム]]{{Refnest|group="j"|旧ジェネス}}|| モバイルクン光 ||{{yes|○}}||{{no}}|| ||@モバイルくん || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || || || ||<!--NTTcomがMVNE→出典?APNは自社(lte.gair.jp)-->
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|
|[[ワークアップ (企業)|ワークアップ]]||グリーンネット||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || ||{{no}}||{{no|終了}}<br />{{Refnest|group="j"|GREEN WiMAX2+も存在したが、新規受付終了となった<ref>[https://www.grnt.ne.jp/wimax2_service.php GREEN WiMAX2+] ワークアップ</ref>。}}||{{no}}|| || || ||
|-
|rowspan=3|
|rowspan=3|[[スピーディア]]||SIS (SPEEDIA INTERNET SERVICE)||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| || || || || || || || ||{{Refnest|group="j"|東北電力系の[[東北インフォメーション・システムズ]]より継承したダイヤルアップ接続サービス「TINet-I」(後にフレッツADSLとBフレッツにも対応)やADSLサービス「BStream」もあった<ref>[http://www.bstream.jp/html/ikou060822.htm インターネットサービスプロバイダー事業の営業譲渡に関するお知らせ] 東北インフォメーション・システムズ 2006年8月22日</ref>。}}
|-
| do!up ||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| {{yes|MEGA EGG回線}} || || || || || || || || 2023年にエネルギア・コミュニケーションズより継承<ref name="doup-and-urban">[https://web.archive.org/web/20221001103755/http://www.do-up.com/news/d20220801-1.html 【重要】do!upブランドのISP事業譲渡について] エネルギア・コミュニケーションズ 2022年8月1日</ref>
|-
| [[アーバンコーポレイション#アーバンインターネット|アーバンインターネット]] ||{{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/>||{{no}}|| {{yes|MEGA EGG回線}} || || || || || || || || 元[[アーバンコーポレイション]]系。2023年にエネルギア・コミュニケーションズより継承<ref name="doup-and-urban"/>
|-
|
| [[ネットフォレスト (企業)|ネットフォレスト]] || かもめインターネット<br/>府中インターネット<br/>ちょっパヤ!ネット<br/>Gaming+{{Refnest|group="j"|「超高速プロバイダ 極」もあったが新規受付終了している<ref>[https://www.kiwami-v6.net/topics/2022/04/003365.html 【重要】新規お申し込み 受付終了のお知らせ] ネットフォレスト 2022年4月1日</ref>。}} || {{yes|◎}}<ref>[https://www.kamome.or.jp/topics/2020/11/002678.html v6プラスX(クロス)サービス提供開始のお知らせ【11/26追記】] ネットフォレスト 2020年11月20日</ref><br/>{{Refnest|group="j"|v6プラスXサービス}} || {{no}} || || || || || || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as17931">[https://www.peeringdb.com/net/12824 Netforest] PeeringDB</ref>}} || || || [[地域間高速ネットワーク機構]]加盟<ref name="ixo-members">[https://www.ixo.or.jp/members.html 会員一覧] 地域間高速ネットワーク機構</ref>。「Gaming+」はオンラインゲーマー向け
|-
|
| [[電算]] || avisインターネットサービス || {{yes|○<ref name="flets-tokyo"/>}} || {{no}} || {{yes|CATV回線}} || || || || || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as17955">[https://www.peeringdb.com/net/3323 AVISNET] PeeringDB</ref>}} || || || [[地域間高速ネットワーク機構]]加盟<ref name="ixo-members"/>
|-
|
| シナプス社 || [[シナプス]] || {{yes|○<ref name="flets-tokyo"/><br/>{{Refnest|group="j"|シナプス光}}}} || {{no}} || {{yes|[[関西ブロードバンド|関西BB]]回線<ref>[https://www.synapse.jp/menu/fixed/bb_hikari_apply.html お申込~ご利用開始:BBアクセス光] シナプス</ref><br/>{{Refnest|group="j"|BBアクセス光。徳之島で提供。}}}} || || || || || {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIX:10G<ref name="pdb-as7511">[https://www.peeringdb.com/net/3976 SYNAPSE] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 20G<br/>BBIX:10G<ref name="pdb-as7511"/>}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<ref name="pdb-as7511"/>}} || [[地域間高速ネットワーク機構]]加盟<ref name="ixo-members"/>。2017年グッドコミュニケーションズより事業継承
|-
| rowspan=3 | [[三谷商事]]系
| [[ミテネインターネット]] || mitene || {{yes|○<ref name="flets-tokyo"/>}} || {{no}} || || || || || || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as17961">[https://www.peeringdb.com/net/2806 mitene internet Co., Ltd.] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPNAP: 20G<br/>JPIX: 10G<ref name="pdb-as17961"/>}} || || [[地域間高速ネットワーク機構]]加盟<ref name="ixo-members"/>
|-
| [[福井ケーブルテレビ]] || rowspan=2 | ケーブルインターネット || rowspan=2 | {{?}} || rowspan=2 | {{?}} || rowspan=2 {{yes|独自回線<br/>{{Refnest|group="j"|光1ギガコース}}}} || rowspan=2 | けーぶるスマホ || rowspan=2 {{yes|○}} || rowspan=2 {{yes|○}} ||rowspan=2 {{no}} ||rowspan=2 | ||rowspan=2 | ||rowspan=2 | ||rowspan=2 |
|-
| [[さかいケーブルテレビ]]
|-
| rowspan=2 | [[未来工業]]系
| [[ミライコミュニケーションネットワーク]] || ミライネット || {{yes|○<ref name="flets-tokyo"/>}} || {{no}} || || || || || || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>BBIX: 10G}}<ref name="pdb-as7690">[https://www.peeringdb.com/net/5565 Mirai Communication Network inc.,] PeeringDB</ref> || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>BBIX: 10G}}<ref name="pdb-as7690"/> || ||
|-
| [[アミックスコム]] || アミパック<br/>ami:ISP(ami:ISP光) || {{yes|○}}<ref name="flets-osaka"/> || {{no}} || {{yes|CATV回線}} || || || || || || || || 岐阜県の一部
|-
| [[旭化成]]系
| [[ケーブルメディアワイワイ]] || ワイワイひかりネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|独自回線}} || ワイワイケーブルモバイル || {{yes|○}} || {{no}} || {{no}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 20G<ref name="pdb-as37892">[https://www.peeringdb.com/net/8596 Cable media waiwai Co., Ltd.] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as37892"/>}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX: 10G<ref name="pdb-as37892"/>}} || 宮崎県の一部
|-
|rowspan=2| [[京セラ]]系
|rowspan=2| [[京セラコミュニケーションシステム|CBBS]]<br/>{{Refnest|group="j"|旧中国ブロードバンドサービス}} || あじさいネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|独自回線}} || || || || || || || || 広島県[[安芸高田市]](IRU契約)
|-
| やませみネット || {{?}} || {{?}} || {{yes|独自回線}} || || || || || || || || 榛原郡[[川根本町]](IRU契約)。東海ブロードバンドサービスより引継ぎ<ref>[http://www.yamasemi.ne.jp/news/?p=1095 「やませみネット」サービス提供会社変更のお知らせ] 中国ブロードバンドサービス 2021年3月19日</ref>。
|-
|
| [[キヤノン]] || Canonetアクセス || {{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/> || {{no}} || || || || || || <!--as4678?--> || || || 法人向け
|-
| 三菱系
| [[三菱電機インフォメーションネットワーク]] || MINDインターネット || {{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/> || {{no}} || {{yes|アルテリア回線}}<br/>{{Refnest|group="j"|プレミアムギガビットアクセス}} || || || || || {{yes2|JPIX: 20G<br/>BBIX: 20G<ref name="pdb-as4680">[https://www.peeringdb.com/net/16318 Mitsubishi Electric Information Network] PeeringDB</ref>}} || || || 法人向け
|-
| 住友系
| [[SCSK]] || ? || {{?}} || {{?}} || {{?}} || S-NICS SIM || {{?}} || {{?}} || {{?}} || {{yes2|JPNAP: 10G<br/>JPIX: 10G<br/>BBIX 10G<ref name="pdb-as4693">[https://www.peeringdb.com/net/3890 SCSK Corporation] PeeringDB</ref>}} || || || 法人向け
|-
|
| [[インテック]]||EINS/MOW IIC||{{?}}||{{?}}|| {{?}} || || || || || {{yes2|JPIX: 10G<ref name="pdb-as4711">[https://www.peeringdb.com/net/2461 Intec] PeeringDB</ref>}} || {{yes2|JPIX: 10G<ref name="pdb-as4711"/>}} || || 法人向け
|-
|
|クイック||[[MOU]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{?}}|| || || || || || || || ||
|-
|
|[[カイクリエイツ]]||[[リンククラブ]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || || || || || || || ||
|-
|
|[[ドルフィンインターナショナル]]||[[ドルフィンインターネット]]||{{yes|○}}<ref name="flets-tokyo"/>||{{no}}|| || || || || || || || ||日本の黎明期から存在する一次プロバイダ。現在では珍しい、or.jpおよびad.jpドメインを保有する。
|-
|独立系
|[[日本通信]]|| || || || ||[[日本通信#bモバイル|b-mobile]]||{{yes|○}}||{{no}}||{{yes|○}}|| || || ||[[日本ヒューレット・パッカード|日本HP]]のHP Mobile Broadbandにも使われた<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20090806-a002/ 日本HPがデータ通信機能内蔵ノート発表 - 日本通信がMVNEとして参画] マイナビ 2009年8月6日</ref>。
|-
|
|[[ワイヤレスゲート]]|| || || || ||SIMサービス<br/>Wi-Fi+WiMAX||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|SIMサービス}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|Wi-Fi+WiMAX}}||{{no}}|| || || ||
|-
|
|[[エックスモバイル]]|| || || || ||X-mobile<br/>{{Refnest|group="j"|旧もしもシークス}}||{{yes|○}}<br />{{Refnest|group="j"|アクセスポイントはjplat<ref name="xmobile-oldapn"/>(日本通信)→vdm<ref name="xmobile-oldapn"/>(NTTPCコミュニケーションズ)→mmtmobile<ref name="xmobile-oldapn">[https://web.archive.org/web/20161114195127/https://www.mosimosi.co.jp/settings/ 通信の設定(2016年時点のキャッシュ)] エックスモバイル</ref>(丸紅無線通信)→vmobile (IIJ)<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1710/16/news040_2.html 薄利のMVNO事業で、なぜ「エックスモバイル」は生き残れたのか] p.2 ITmedia 2017年10月16日</ref>。}}||{{yes|○}}<br/>{{Refnest|group="j"|エックスWiMAX}}||{{no}}<br/>{{Refnest|group="j"|name="cloud-sim-exception"}}|| || || ||多キャリアを使うクラウドSIMの限界突破WiFiもある
|-
|
|[[ガイアース]]|| || || || ||あんしんモバイル||{{yes|○}}||{{no}}||{{yes|○}}|| || || ||
|-
|
|[[スマートモバイルコミュニケーションズ]]|| || || || ||スマモバ||{{yes|○}}||{{yes|○<br/>{{Refnest|group="j"|スマモバ WiMAX +5G}}}}||{{no|終了}}<br/>{{Refnest|group="j"|「スマモバ(Y)プラン S」があったものの2022年12月に終了<ref>[https://www.smamoba.jp/info/press_20220908.pdf スマモバ(Y)プラン S サービス提供終了のお知らせ] スマートモバイルコミュニケーションズ 2022年9月8日</ref>。}}|| || || ||クラウドSIMの「THE WiFi」もある
|-
|[[ソフィアホールディングス|ソフィア系]]
| [[ソフィア総合研究所#グループ企業|ソフィアデジタル]] || || || || ||[[ソフィアモバイル#エスモビ|エスモビ]]|| {{yes|○}} || {{?}} || {{?}} || || || ||[[ソフィアモバイル]]より継承
|-
|[[IMAGICA GROUP|IMAGICA系]]
|IPモーション(旧[[テレキュート]])|| || || || ||COMST SIM||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}|| || || ||プリペイド式サービス。販売代理店は[[兼松#兼松グループ|兼松コミュニケーションズ]]<ref>[https://www.zaikei.co.jp/releases/141122/ プリペイドSIMカードがお得、便利、安心に購入できる!『COMST』が取り扱いSIMを5カ国に拡大し、株式会社テレキュートから新たに発売開始タイ、オーストラリア、中国、韓国、日本と5カ国揃ってますます便利に!] 財経新聞 2013年12月10日</ref>。
|-
|
|[[パナソニック]]|| || || || ||Wonderlink||{{yes|○}}||{{no}}||{{no}}|| || || ||アクセスポイントはFENICSおよびvmobile<ref>[http://www.alphapoint.co.jp/wredd/apn.html APN一覧] [[アルファポイント]]</ref> (IIJ)
|-
|
|[[a2network]]|| || || || ||スカイベリーWiFi|| || || || || || ||クラウドSIM。2010年4月から法人向けとして提供されていたモバイルWiFiルータ[[MiFi]]を使った定額通信サービス「ベリーデータ定額 日本」もあった。
|-
|
|[[FREEDiVE]]|| || || || || MugenWiFi<br/>AiR-WiFi<br/>E-!WiFi || || || || || || ||クラウドSIM。MugenWiFiはsurfave社を<ref>[https://mugen-wifi.com/shotori.html MUGEN WiFi 特定商取引法に関する表記] FREEDiVE</ref><ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=8011001128441 株式会社surfaveの情報] 国税庁</ref>、AiR-WiFiはOceanMap社を吸収<ref>[https://wifi-airwifi.com/company.html WIR-WiFi 会社概要・特定商取引法に基づく表記] FREEDiVE</ref><ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=8050001048662 株式会社OceanMapの情報] 国税庁</ref>。
|-
|家電系
|[[象印マホービン]]|| || || || ||[[象印マホービン#取扱商品|みまもりほっとライン]]||{{yes|○}}<br/><ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/policyreports/chousa/mobi-rev/pdf/081023_2_si3_1_2.pdf UQコミュニケーションズのMVNO受入れ計画の主要事項] p.35 総務省</ref>||{{no}}||{{no}}|| || || ||通信機能のついた[[電気ポット]]で、利用状況を親族にメールで通知する。
|-
|独立系
|ニッチカンパニー|| || || || ||クラウドWi-Fi|| || || || || || ||クラウドSIM<ref>https://www.wifi-tokyo-rentalshop.com/cloudwifi/advantage.html</ref>
|}
{{reflist|3|group="j"}}
===== かつて存在したプロバイダ =====
{{see also|仮想移動体通信事業者#サービス終了または、事業撤退|アットフリード#対応プロバイダ|AIR-EDGE#対応プロバイダ|UQ_WiMAX#旧WiMAXサービス (終了)}}
* 日立 - [[netSpace]] - 2002年個人向けを終了<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0201/21/01.html 日立のISP,個人向けサービス終了] ITmedia 2002年1月21日</ref>。
* [[スピードネット]] - 2003年6月に[[東京電力]]に営業譲渡、清算。
* [[ドリームネット]] - 2005年7月にOCNに統合された。
* [[シャープ]] - シャープスペースタウン インターネット接続サービス - 2006年終了<ref>[https://www.rbbtoday.com/article/2005/12/01/27428.html シャープスペースタウン、インターネット接続サービスを2006年3月末で終了] RBB TODAY 2005年12月1日</ref>。
* [[ドリームキャスト#isao.net|isao.net]] (ISAO) - 旧セガプロバイで元々は[[ドリームキャスト]]向けISPだったが、その後パソコン向けISPに転身して[[CSK (企業)|CSKホールディングス]]子会社となり、フリービット子会社のDTIに買収され統合<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/30/news091.html DTI、ISAOのISP事業を吸収] ITmedia 2008年7月30日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090413033607/http://isao.net/ 統合のご案内] ISAO CORPORATION</ref>
* MTCI - 資金繰りの悪化により2000年10月末をもってサービス停止。
* [[沖縄通信ネットワーク]] - ひかりふる(2010年7月30日新規受付終了)
* アクセスインターネット(旧[[ソフトバンク#沿革|ソフトバンクモバイル]])
* [[ソフトバンクBB#旧めたりっく通信の吸収について|めたりっく通信]]
* エム・ディー・シー - (エンジェルネット・カナルネット・ブレーメンネット)2006年9月中旬に接続不能に陥る。<ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/field/tsuushin04_01.html 総務省 連絡が取れない届出電気通信事業者一覧]</ref><ref>{{Cite news|url=http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMITba000006102006|title=ネットが突然つながらない――ISPが夜逃げか、ユーザーが大混乱|newspaper=IT PLUS|date=2006-10-06|accessdate=2023-10-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080501130243/http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMITba000006102006|archivedate=2008-05-01}}</ref>
* [[ディズニー・モバイル]] - ディズニー・モバイル・オン・ソフトバンク - ソフトバンクのMVNO
* [[ネクシィーズ]] - Nexyz.BB - SBのアクセスラインを利用した個人向け。2018年11月30日終了<ref>{{Cite web|url=https://www.nexyz.jp/news/180601_01.html|title=インターネット接続サービス「Nexyz.BB」提供終了のお知らせ|website=Nexyz|date=2018-06-01|accessdate=2023-10-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190818185249/https://www.nexyz.jp/news/180601_01.html|archivedate=2019-08-18}}</ref>。
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* [[エレコム]] - SkyLinkMobile - NTTPCがMVNE。2018年に新規受付を終了しアイキューブ・マーケティングへと移管<ref>[http://www.elecom.co.jp/slm/slm/jp/news/2018/20180228/ 【重要なお知らせ】「SkyLinkMobile/SkyLinkPhone」のサービス提供事業者変更ならびに一部サービスの終了について] エレコム 2018年2月28日</ref>。
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* [[富士通]] - モバイルPCアクセス - 法人向け。2009年12月4日新規販売終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.fujitsu.com/jp/services/infrastructure/network/archive/mobile-pc/|title=モバイルPCアクセスサービス|publisher=富士通|date=9|accessdate=2015-10-30}}</ref>。
* [[富士通]] - [[7-dj.com]](旧InfoAomori) - 2022年9月30日終了<ref>{{Cite web|url=http://www.7-dj.com/jp/topics/announce39_syusoku.html|title=インターネット接続サービス 「7-dj.com」提供終了のお知らせ|website=富士通|date=2021-09-30|accessdate=2023-10-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210930115212/http://www.7-dj.com/jp/topics/announce39_syusoku.html|archivedate=2021-09-30}}</ref>。
* [[トヨタコネクティッド]] - [[G-BOOK]]、T-Connect DCM - カーナビへの情報配信用に搭載される車載専用通信機(DCM)向けに提供されていた。G-BOOKは2022年に終了<ref>[https://www.toyota-mobi-tokyo.co.jp/information/g-book G-BOOK終了のご案内] TOYOTA Mobility Tokyo</ref>。T-Connect DCMは2021年に新規受付終了し2024年に提供終了予定<ref>[https://tconnect.jp/webregist_tsc/BeforeUse T-Connect WEB申込] トヨタ自動車</ref>。
* 無料プロバイダ
** [[Soloot]]
** アルファ無料接続サービス([[アルファインターネット]])
** かるがるネット(日本システムケア)
** FREECOM(旧ソフトバンクテレコム) - 無料プロバイダ、以前は平成電電系列。2013年3月31日にサービス終了。
== デジタル・デバイドの問題 ==
インターネットを使用する国際回線では、末端ユーザーがアクセス・プロバイダに、アクセス・プロバイダが上位のプロバイダに使用料を負担する構造となっているが、開発途上国では先進国に対して使用料を負担することとなるため、先進国と途上国との間の[[情報格差]]の要因になっているという指摘がある<ref name="handbook" />。
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 関連項目 ==
* [[アプリケーションサービスプロバイダ]] (ASP)
* [[コンテンツプロバイダ]]
* [[インターネットエクスチェンジ]] (IX)
* [[ダイヤルアップ接続]], [[テレホーダイ]], [[フレッツ]]
* [[プロビジョニング]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jaipa.or.jp/ 一般社団法人日本インターネットプロバイダー協会]
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[[Category:インターネット接続]]
[[Category:インターネット・サービス・プロバイダ|*]]
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エアポート快特
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エアポート快特(エアポートかいとく)は、京浜急行電鉄(京急)・東京都交通局(都営地下鉄)が運行する列車種別の一つである。
主に、羽田空港第1・第2ターミナル駅 - (京急空港線・本線から都営地下鉄浅草線)に直通し、押上駅からは、さらに京成押上線・京成成田空港線(成田スカイアクセス)・京成本線に直通する。なお、京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道においては列車種別が変更される(詳しくは後述「#2023年11月現在の運行状況」を参照)。
本項では過去に運行していた「エアポート特急」についても記述する。
1998年11月18日に羽田空港 - 成田空港間のアクセス列車を意図して、京急線内を快速特急(当時、2010年5月16日現在の快特)と同じ駅に停車する羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 成田空港駅間運行の「エアポート快速特急」として設定された。また、京急線内を特急と同じ駅(空港線内各駅停車)に停車する羽田空港駅 - 青砥駅・京成高砂駅間運行の「エアポート特急」も同時に新設された。これらの列車は交互に40分間隔で運行され、新たに都営浅草線内も急行運転(都営線内は同停車駅)とし、京成線ではいずれも「特急」(2010年7月17日現在の快特相当)として相互直通運転を行っていた。「エアポート特急」は京急線内で特急停車駅に停車したが、上下とも平和島駅で快速特急を待避していた。「エアポート快速特急」は京成上野駅 - 京成高砂駅間を往復する特急(2010年7月17日以降の快速特急相当、以下同じ)と、「エアポート特急」は上野駅 - 成田空港駅間を往復する特急と青砥で連絡していた。なお、1999年7月31日の京浜急行電鉄のダイヤ改正に伴う運転系統・種別整理により「エアポート快速特急」は「エアポート快特」に改称(当初は京急のみ。都営地下鉄が同種別名に改称したのは2002年6月の駅放送設備改修時)され、「エアポート特急」は廃止され「エアポート快特」に格上げされた。
羽田・成田空港相互間のアクセスを意図して設定された列車であるが、空港相互間の利用者が少ないことや、京成線内において京成上野駅発着の特急との差別化を図れなかったことから、昼間時の「エアポート快特」については、2002年10月12日 のダイヤ改正で、京成線内の種別が快速に格下げされ京成成田駅(一部成田空港駅)発着に、2006年12月10日の改正では京成佐倉駅発着となり、京成線側の速達運転・直通運転区間が徐々に短縮されていった。このため、羽田空港 - 成田空港間を直通運転するという当初の意図は弱くなった。また、この頃には、京成本線内で「特急」・「通勤特急」となる平日夜間の一部の列車が、都営浅草線内で「エアポート快特」(京急線内急行)として運行されるようになるなど、都営浅草線内での急行運転を行うための東京都交通局独自の種別としての色合いが強くなっていた。
2010年5月16日の京急線のダイヤ改正で京急蒲田駅が通過駅となり、京急線内でも独自の停車駅を持つ列車となった。同時に京急線内のみ「エアポート快特」となる列車も新設され、昼間時は京急・都営線内「エアポート快特」と京急線内のみ「エアポート快特」の列車が交互に約20分間隔での運行となった。その直後、2010年7月17日の成田スカイアクセス線(京成成田空港線)開業に伴い、それまで京成線内快速・京成佐倉駅発着であった昼間時の京急・都営線内「エアポート快特」の京成線側の扱いを、成田スカイアクセス線経由成田空港駅発着の「アクセス特急」に変更し、昼間時の羽田・成田両空港直結列車の運行が再開された。これに伴い従来の京成線内快速として運行するエアポート快特は早朝の1本のみとなり、日中の浅草線直通の京成線快速も西馬込駅発着での運転となった。成田空港駅 - 羽田空港駅間の所要時間は最短103分である。その後、2012年10月21日のダイヤ改正で、京急線内のみ「エアポート快特」となる列車は京急線内発着の列車を除き京急蒲田駅停車の快特となり、昼間時の運行が40分間隔へと戻された。
2023年11月25日の5社一斉ダイヤ改正現在、日中の列車は都営浅草線に直通し、押上駅から「アクセス特急」に変更の上成田スカイアクセス線に直通して、成田空港駅に到着するダイヤが約40分間隔で組まれている。
また早朝5時台に京成本線宗吾参道駅始発として羽田空港行きが1本設定されている。京成線内は「快速」、都営浅草線内は「エアポート快特」・京急線内は平日は「快特」、土休日は「急行」として設定されている。平日は京成車、土休日は都営車で運転されている。
夜間は、京成本線経由で運転される「エアポート快特」が京成線方面にのみ設定されているが、これらは京成線内は通常の「特急」「通勤特急」「快速」、都営浅草線内のみ「エアポート快特」として運転され、京急線内は主に「急行」となる。
浅草線内エアポート快特、押上線内速達列車(普通以外)は、押上線内での種別呼称こそ異なるものの、品川駅 - 京成高砂駅間は同じ停車駅である。
英文種別名はLimited Express(「特急」各社)とAirport Limited Express(「空港特急」各社)と車両、案内板、発車標、各社局各駅毎で異なる表記となり、統一されていない。また、下の写真にある通り、種別幕・種別表示器および路線図の案内では「エアポート」の代わりに飛行機のマーク(✈)を頭に付け、「✈快特」と表記されている。なお、2013年 (平成25年) 10月までは、都営線・京急線内の種別が「エアポート快特」になる羽田空港行きの列車は、京成線内でも種別名にを付し、「アクセス特急」・「快速」と表記されていた。2012年(平成24年)10月21日からは、エアポート快特の表示が緑からオレンジに変更されている。
昼間時に泉岳寺駅 - 羽田空港間を40分間隔で運行しており、都営線と相互直通運転する列車は都営線内も「エアポート快特」として運行されている。途中停車駅は品川・羽田空港第3ターミナルのみで、快特停車駅である京急蒲田駅を通過する。これは都営線大門駅(浜松町駅) - 羽田空港間で競合する 東京モノレール羽田空港線の「空港快速 (HANEDA EXPRESS)」への対抗のためでもある。駅の発車標では、『快特』と表示され、列車種別表示灯では、「 エ 」と表示されている。
2010年5月15日まで、快特と同一の停車駅で運行されており、主要駅に設置されている列車種別表示灯も他の快特と同じ「 快 」が使用され、羽田空港行きの列車については駅の案内板でもマークが表示されず、他の快特と区別はされていなかった。また、2010年5月16日のダイヤ改正から2012年10月20日までは、都営線内を各駅に停車し京急線内のみ「エアポート快特」となる列車(南行の都営線内での種別表示は「快特」)が設定されており、京急線内では朝から昼間時に20分間隔で運行されていた。
2014年11月8日のダイヤ改正で、京急線内のみ「エアポート快特」として運転し、都営浅草線・京成線内は各駅に停車する運用が土休日に2本のみ復活した。
役職、施設、組織名等は当時のものである。
2010年4月下旬、京急は本線と空港線の高架化事業上り線部分完成に伴うダイヤ改正を発表、従来、京急蒲田駅に停車していた羽田空港発着「エアポート快特」・「快特」のほぼ全てが、京急蒲田駅を通過する「エアポート快特」へと鞍替えされることとなった。これにより、日中の羽田空港発着の「快特」系列車の京急蒲田停車が消滅、羽田空港へは空港線内各駅停車の列車を利用せざるを得ない状況となり、品川方面への利用可能列車も減少した。
大田区や同駅周辺住民はダイヤ改正の起因となった高架化事業の総工費1650億円のうち、大田区が200億円を負担したことを根拠に「エアポート快特」の同駅通過に反対、大田区では「通過反対対策協議会」が組織され、通過反対の議決や今後の高架化事業の負担金の拠出拒否を示唆するなどした。これに対して東京都知事の石原慎太郎が「(1時間あたりのエアポート快特相当分の)3本は通過しても、(1時間あたりのエアポート快特相当分を除く)他の6本は停車するのだから、別に停車しなくてよい」と発言した。ただし、その後京急は2012年度のダイヤ改正での「蒲田停車」の可能性を決算会見で示唆した。
2012年7月31日、京急蒲田駅の下り線高架化完成に伴う同年10月21日のダイヤ改正にて、昼間時の品川方面 - 羽田空港間運行の「エアポート快特」・「快特」を10分間隔とし、このうち40分に1本のみを「エアポート快特」、その他を「快特」とすることが発表された。この改正により、「エアポート快特」の京急蒲田通過は継続されたものの、大多数の運行となる羽田空港発着「快特」は京急蒲田に停車することとなった。
昼間時に40分間隔で運行しており、浅草線内で通過駅を有する唯一の列車種別である。都営線内では待避線のある押上駅でのみ緩急接続が行われる。都営線内で「エアポート快特」となる列車は、基本的には京急線内では「エアポート快特」として運行されるが、一部列車(朝および夕方から夜間)は京急線内で「快特」もしくは「急行」として運行される。
運行当初は朝夕の通勤時間帯には設定されていなかったが、2004年以降は平日の押上方面行きについてのみ、夕方以降も運行され、2013年以降は朝のラッシュ時にも都営浅草線内で1本設定されている。
なお、隅田川花火大会開催時は、通常通過する本所吾妻橋駅・蔵前駅・浅草橋駅に臨時停車する。このため、北行のエアポート快特は東日本橋駅でアクセス特急・快速特急(都営線内各駅停車)に種別変更する。
京急線・都営線内で「エアポート快特」となる列車が、昼間は「アクセス特急」として成田スカイアクセス線経由で羽田・成田両空港間を直結している。
夜間は、京成本線経由で運転される「エアポート快特」が京成線方面にのみ設定されているが、これらは京成線内は通常の「特急」「通勤特急」「快速」となるため、都営浅草線内のみ「エアポート快特」として運転され、京急線内は主に「急行」となる。また前述の成田スカイアクセス線経由の列車はすべて成田空港駅着発だが、京成本線経由列車は2本のみ成田空港駅着で、他はすべて宗吾参道駅または京成成田駅着となっている。
「エアポート快特」(「エアポート快速特急」・「エアポート特急」を含む)は、2002年10月11日まで京成線内を「特急」(現行の快特に相当する)として運行されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間や青砥駅で「エアポート快特」に接続する京成上野 - 京成高砂間の特急も「エアポート特急」とされていた。単に「特急」とされたのは都営浅草線西馬込駅 - 成田空港駅間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉駅終着など成田空港発着でない特急(ただし「エアポート快特」直通の青砥駅・京成高砂駅発着をのぞく)のみであった。なお、これらの「エアポート特急」も2013年までの「エアポートアクセス特急」「エアポート快速」と同様、京成線内では原則的に「エアポート」は発音しないものとされ、単に「とっきゅう」と読まれていた。
この特急に限り、京成3500形未更新車や旧3000系列の車両各形式を使用したこともあり、専用の種別板(従来の六角形に「Limited Express」と表記)も用意されていた。
京急・京成・東京都交通局の車両が使われている。当初より京急600形をのぞいては座席が長距離乗車を前提としたクロスシートではなく、通例の相互乗り入れ列車に使用されるロングシート車両が充当されている。また、ダイヤが乱れた場合をのぞき都営浅草線と京成線内で使用する「停車駅予報装置」を搭載する車両のみがこの運用に入る。
以下の車両は特記しているものをのぞき、運行開始当初より使用している車両である。なお、すべて8両編成に組成された編成のみが使用されている。
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"text": "2010年4月下旬、京急は本線と空港線の高架化事業上り線部分完成に伴うダイヤ改正を発表、従来、京急蒲田駅に停車していた羽田空港発着「エアポート快特」・「快特」のほぼ全てが、京急蒲田駅を通過する「エアポート快特」へと鞍替えされることとなった。これにより、日中の羽田空港発着の「快特」系列車の京急蒲田停車が消滅、羽田空港へは空港線内各駅停車の列車を利用せざるを得ない状況となり、品川方面への利用可能列車も減少した。",
"title": "運行形態"
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"text": "大田区や同駅周辺住民はダイヤ改正の起因となった高架化事業の総工費1650億円のうち、大田区が200億円を負担したことを根拠に「エアポート快特」の同駅通過に反対、大田区では「通過反対対策協議会」が組織され、通過反対の議決や今後の高架化事業の負担金の拠出拒否を示唆するなどした。これに対して東京都知事の石原慎太郎が「(1時間あたりのエアポート快特相当分の)3本は通過しても、(1時間あたりのエアポート快特相当分を除く)他の6本は停車するのだから、別に停車しなくてよい」と発言した。ただし、その後京急は2012年度のダイヤ改正での「蒲田停車」の可能性を決算会見で示唆した。",
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"text": "2012年7月31日、京急蒲田駅の下り線高架化完成に伴う同年10月21日のダイヤ改正にて、昼間時の品川方面 - 羽田空港間運行の「エアポート快特」・「快特」を10分間隔とし、このうち40分に1本のみを「エアポート快特」、その他を「快特」とすることが発表された。この改正により、「エアポート快特」の京急蒲田通過は継続されたものの、大多数の運行となる羽田空港発着「快特」は京急蒲田に停車することとなった。",
"title": "運行形態"
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"text": "昼間時に40分間隔で運行しており、浅草線内で通過駅を有する唯一の列車種別である。都営線内では待避線のある押上駅でのみ緩急接続が行われる。都営線内で「エアポート快特」となる列車は、基本的には京急線内では「エアポート快特」として運行されるが、一部列車(朝および夕方から夜間)は京急線内で「快特」もしくは「急行」として運行される。",
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"text": "運行当初は朝夕の通勤時間帯には設定されていなかったが、2004年以降は平日の押上方面行きについてのみ、夕方以降も運行され、2013年以降は朝のラッシュ時にも都営浅草線内で1本設定されている。",
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"text": "なお、隅田川花火大会開催時は、通常通過する本所吾妻橋駅・蔵前駅・浅草橋駅に臨時停車する。このため、北行のエアポート快特は東日本橋駅でアクセス特急・快速特急(都営線内各駅停車)に種別変更する。",
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"text": "京急線・都営線内で「エアポート快特」となる列車が、昼間は「アクセス特急」として成田スカイアクセス線経由で羽田・成田両空港間を直結している。",
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"text": "夜間は、京成本線経由で運転される「エアポート快特」が京成線方面にのみ設定されているが、これらは京成線内は通常の「特急」「通勤特急」「快速」となるため、都営浅草線内のみ「エアポート快特」として運転され、京急線内は主に「急行」となる。また前述の成田スカイアクセス線経由の列車はすべて成田空港駅着発だが、京成本線経由列車は2本のみ成田空港駅着で、他はすべて宗吾参道駅または京成成田駅着となっている。",
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"text": "「エアポート快特」(「エアポート快速特急」・「エアポート特急」を含む)は、2002年10月11日まで京成線内を「特急」(現行の快特に相当する)として運行されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間や青砥駅で「エアポート快特」に接続する京成上野 - 京成高砂間の特急も「エアポート特急」とされていた。単に「特急」とされたのは都営浅草線西馬込駅 - 成田空港駅間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉駅終着など成田空港発着でない特急(ただし「エアポート快特」直通の青砥駅・京成高砂駅発着をのぞく)のみであった。なお、これらの「エアポート特急」も2013年までの「エアポートアクセス特急」「エアポート快速」と同様、京成線内では原則的に「エアポート」は発音しないものとされ、単に「とっきゅう」と読まれていた。",
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"text": "この特急に限り、京成3500形未更新車や旧3000系列の車両各形式を使用したこともあり、専用の種別板(従来の六角形に「Limited Express」と表記)も用意されていた。",
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"text": "京急・京成・東京都交通局の車両が使われている。当初より京急600形をのぞいては座席が長距離乗車を前提としたクロスシートではなく、通例の相互乗り入れ列車に使用されるロングシート車両が充当されている。また、ダイヤが乱れた場合をのぞき都営浅草線と京成線内で使用する「停車駅予報装置」を搭載する車両のみがこの運用に入る。",
"title": "使用車両"
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"text": "以下の車両は特記しているものをのぞき、運行開始当初より使用している車両である。なお、すべて8両編成に組成された編成のみが使用されている。",
"title": "使用車両"
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] |
エアポート快特(エアポートかいとく)は、京浜急行電鉄(京急)・東京都交通局(都営地下鉄)が運行する列車種別の一つである。 主に、羽田空港第1・第2ターミナル駅 - (京急空港線・本線から都営地下鉄浅草線)に直通し、押上駅からは、さらに京成押上線・京成成田空港線(成田スカイアクセス)・京成本線に直通する。なお、京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道においては列車種別が変更される(詳しくは後述「#2023年11月現在の運行状況」を参照)。 本項では過去に運行していた「エアポート特急」についても記述する。
|
{{半保護}}
{{出典の明記|date=2012年1月}}
{{Infobox 列車名
|列車名=エアポート快特
|ロゴ=
|ロゴサイズ=
|画像=Keikyu-Type1000-113.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[京急1000形電車 (2代)#10次車|京急1000形]]によるエアポート快特<br/>(2023年2月 [[糀谷駅]])
|国={{JPN}}
|現況=運行中
|地域=[[東京都]]
|運行開始=[[1998年]][[11月18日]]<ref name="交通981012">{{Cite news |title=モノレールより安く 京急の品川-羽田空港間 来月18日に延伸部開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-12 |page=1 }}</ref>
|運行終了=
|運営者=[[京浜急行電鉄]]<br />[[東京都交通局]]
|旧運営者=
|平均乗客数=
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|運行間隔=
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|使用路線=京急:[[京急空港線|空港線]]・[[京急本線|本線]]<br />都営地下鉄:[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]
|クラス=
|身障者対応=
|座席=全車自由席
|その他=
|車両=[[#使用車両]]を参照
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=
|線路所有者=
|備考=
}}
'''エアポート快特'''(エアポートかいとく)は、[[京浜急行電鉄]](京急)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])が運行する[[列車種別]]の一つである。
主に、[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]] - ([[京急空港線]]・[[京急本線|本線]]から[[都営地下鉄浅草線]])に直通し、[[押上駅]]からは、さらに[[京成押上線]]・[[京成成田空港線|京成成田空港線(成田スカイアクセス)]]・[[京成本線]]に直通する。なお、京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道においては列車種別が変更される(詳しくは後述「[[#2023年11月現在の運行状況]]」を参照)。
本項では過去に運行していた「'''エアポート特急'''」についても記述する。
{{main2|本列車群を含む、羽田・成田両空港直結列車の今後の構想については[[都営地下鉄浅草線#今後の動き]]、[[京成成田空港線#成田 - 羽田連絡鉄道の経緯と構想]]、[[スカイライナー]] を、「'''エアポート急行'''」については[[京急本線#エアポート急行]]を}}
== 概要 ==
=== 「エアポート快特」の運行開始 ===
1998年11月18日に[[東京国際空港|羽田空港]] - [[成田国際空港|成田空港]]間の[[空港連絡鉄道|アクセス列車]]を意図して、京急線内を快速特急(当時、2010年5月16日現在の快特)と同じ駅に停車する羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 成田空港駅間運行の「'''エアポート快速特急'''」として設定された{{R|交通981012}}。また、京急線内を特急と同じ駅(空港線内各駅停車)に停車する羽田空港駅 - 青砥駅・京成高砂駅間運行の「'''エアポート特急'''」も同時に新設された{{R|交通981012}}。これらの列車は交互に40分間隔で運行され、新たに都営浅草線内も急行運転(都営線内は同停車駅)とし、京成線ではいずれも「特急」([[2010年]][[7月17日]]現在の快特相当)として相互直通運転を行っていた。「エアポート特急」は京急線内で特急停車駅に停車したが、上下とも[[平和島駅]]で快速特急を待避していた。「エアポート快速特急」は[[京成上野駅]] - 京成高砂駅間を往復する特急(2010年7月17日以降の快速特急相当、以下同じ)と、「エアポート特急」は上野駅 - 成田空港駅間を往復する特急と青砥で連絡していた。なお、1999年7月31日の京浜急行電鉄のダイヤ改正に伴う運転系統・種別整理により「エアポート快速特急」は「'''エアポート快特'''」に改称(当初は京急のみ。都営地下鉄が同種別名に改称したのは2002年6月の駅放送設備改修時)され、「エアポート特急」は廃止され「エアポート快特」に格上げされた。
=== 京成線直通運転区間の縮小 ===
羽田・成田空港相互間のアクセスを意図して設定された列車であるが、空港相互間の利用者が少ないことや、京成線内において京成上野駅発着の特急との差別化を図れなかったことから、昼間時の「エアポート快特」については、[[2002年]][[10月12日]] のダイヤ改正で、京成線内の種別が快速に格下げされ[[京成成田駅]](一部成田空港駅)発着に、[[2006年]][[12月10日]]の改正では[[京成佐倉駅]]発着となり、京成線側の速達運転・直通運転区間が徐々に短縮されていった。このため、羽田空港 - 成田空港間を直通運転するという当初の意図は弱くなった<ref group="注釈">京成成田空港線開業直前のダイヤでは、運行開始当初の「エアポート快速特急(京成線内特急)」と同様に全走行区間で最速達(有料列車をのぞく)となる羽田・成田両空港直結列車は、土休日ダイヤの羽田空港駅18:29発のみであった(ただし当時と一部の停車駅が異なる)他、上位種別の通過待ちが常態化していた</ref>。また、この頃には、京成本線内で「特急」・「通勤特急」となる平日夜間の一部の列車が、都営浅草線内で「エアポート快特」(京急線内急行)として運行されるようになるなど、都営浅草線内での急行運転を行うための東京都交通局独自の種別としての色合いが強くなっていた。
=== 成田スカイアクセスとの直通運転開始 ===
[[2010年]][[5月16日]]の京急線のダイヤ改正で[[京急蒲田駅]]が通過駅となり、京急線内でも独自の停車駅を持つ列車となった。同時に京急線内のみ「エアポート快特」となる列車も新設され、昼間時は京急・都営線内「エアポート快特」と京急線内のみ「エアポート快特」の列車が交互に約20分間隔での運行となった。その直後、2010年[[7月17日]]の成田スカイアクセス線(京成成田空港線)開業に伴い、それまで京成線内快速・京成佐倉駅発着であった昼間時の京急・都営線内「エアポート快特」の京成線側の扱いを、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由成田空港駅発着の「[[京成成田空港線#運行形態|アクセス特急]]」に変更し、昼間時の羽田・成田両空港直結列車の運行が再開された。これに伴い従来の京成線内快速として運行するエアポート快特は早朝の1本のみとなり、日中の浅草線直通の京成線快速も[[西馬込駅]]発着での運転となった。成田空港駅 - 羽田空港駅間の所要時間は最短103分である<ref name="kspress100528">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正]}} - 京成電鉄ニュースリリース 2010年5月28日</ref><ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001330.html 成田スカイアクセス線開業にともない 7月17日(土)から羽田空港駅⇔成田空港駅直通電車を運行いたします] - 京浜急行電鉄ニュースリリース 2010年5月28日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100530094210/http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2010/025/index.htm 7月17日(土) 成田スカイアクセス開業に伴うダイヤ改正を実施します]{{出典無効|date=2014年12月|title=羽田成田間の所要時間に関する記述がない}} - 北総鉄道 2010年5月27日(2010年5月30日時点での[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。その後、2012年10月21日のダイヤ改正で、京急線内のみ「エアポート快特」となる列車は京急線内発着の列車を除き京急蒲田駅停車の快特となり、昼間時の運行が40分間隔へと戻された。
=== 2023年11月現在の運行状況 ===<!-- ここを修正したら、冒頭文にある『詳しくは、後述「#20**年**月現在の運行状況」を参照』についても修正してください。 -->
[[2023年]][[11月25日]]の5社<ref group="注釈">京浜急行電鉄・都営地下鉄浅草線・京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道</ref>一斉ダイヤ改正現在、日中の列車は[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]に直通し、押上駅から「アクセス特急」に変更の上成田スカイアクセス線に直通して、[[成田空港駅]]に到着するダイヤが約40分間隔で組まれている。
また早朝5時台に[[京成本線]][[宗吾参道駅]]始発として羽田空港行きが1本設定されている。京成線内は「快速」、都営浅草線内は「エアポート快特」・京急線内は平日は「快特」、土休日は「急行」として設定されている。平日は京成車、土休日は都営車で運転されている。
夜間は、京成本線経由で運転される「エアポート快特」が京成線方面にのみ設定されているが、これらは京成線内は通常の[[京成本線#特急|「特急」]]「[[京成本線#通勤特急|通勤特急]]<ref group="注釈">京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅着それぞれ1本</ref>」「快速」、都営浅草線内のみ「エアポート快特」として運転され、京急線内は主に「急行」となる。
浅草線内エアポート快特、押上線内速達列車(普通以外)は、押上線内での種別呼称こそ異なるものの、品川駅 - 京成高砂駅間は同じ停車駅である。
=== 種別表示 ===
英文種別名は'''Limited Express'''(「特急」各社)と'''Airport Limited Express'''(「空港特急」各社)と車両、案内板、[[発車標]]、各社局各駅毎で異なる表記となり、統一されていない。また、下の写真にある通り、[[方向幕|種別幕・種別表示器]]および[[路線図]]の案内では「エアポート」の代わりに[[飛行機]]のマーク(✈)を頭に付け、「✈快特」と表記されている。なお、[[2013年]] (平成25年) 10月までは、都営線・京急線内の種別が「エアポート快特」になる羽田空港行きの列車は、京成線内でも種別名にを付し、「アクセス特急」・「快速」と表記されていた。[[2012年]](平成24年)10月21日からは、エアポート快特の表示が緑からオレンジに変更されている。
<gallery>
ファイル:Airport Ltd Express 001.jpg|京急600形電車 (3代)の正面表示
ファイル:Keikyu airport express 20121021.JPG|京急1000形電車 (2代) のフルカラーLED表示
ファイル:Keisei3400-AIRPORT002.jpg|京成3400形の側面表示(現在はオレンジ色表示になっている)
ファイル:Keisei3050-Airport-Ltd-Exp1.JPG|京成3000形の側面フルカラーLED表示
ファイル:5300aoto1.jpg|都営地下鉄5300形の側面表示
ファイル:EakaiSh.jpg|京急品川駅の運行案内板に表示された「'''エアポート快特'''」
</gallery>
== 運行形態 ==
=== 京急線内 ===
<gallery>
Sign at Shinagawa Sta.jpg|品川駅1番線の出発信号と列車種別表示灯。エアポート快特であることを示す「エ」が表示されている。(2010年8月)
</gallery>
昼間時に[[泉岳寺駅]] - 羽田空港間を40分間隔で運行しており、都営線と相互直通運転する列車は都営線内も「エアポート快特」として運行されている。途中停車駅は[[品川駅|品川]]・[[羽田空港第3ターミナル駅|羽田空港第3ターミナル]]のみで、快特停車駅である京急蒲田駅を通過する。これは都営線[[大門駅 (東京都)|大門駅]]([[浜松町駅]]) - 羽田空港間で競合する [[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]]の「空港快速 (HANEDA EXPRESS)」への対抗のためでもある。駅の発車標では、『快特』と表示され、列車種別表示灯では、「{{Colors|#ff0|#000| エ }}」と表示されている。
2010年5月15日まで、快特と同一の停車駅で運行されており、主要駅に設置されている列車種別表示灯も他の快特と同じ「{{Colors|#ff0|#000| 快 }}」が使用され、羽田空港行きの列車については駅の[[発車標|案内板]]でもマークが表示されず、他の快特と区別はされていなかった。また、2010年5月16日のダイヤ改正から2012年10月20日までは、都営線内を各駅に停車し京急線内のみ「エアポート快特」となる列車(南行の都営線内での種別表示は「快特」)が設定されており、京急線内では朝から昼間時に20分間隔で運行されていた。
2014年11月8日のダイヤ改正で、京急線内のみ「エアポート快特」として運転し、都営浅草線・京成線内は各駅に停車する運用が土休日に2本のみ復活した。
==== 京急蒲田駅通過騒動「蒲田飛ばし」 ====
{{see also|京急本線|京急蒲田駅}}
役職、施設、組織名等は当時のものである。
2010年4月下旬、京急は本線と空港線の[[連続立体交差|高架化事業]]上り線部分完成に伴うダイヤ改正を発表、従来、京急蒲田駅に停車していた羽田空港発着「エアポート快特」・「快特」のほぼ全てが、京急蒲田駅を通過する「エアポート快特」へと鞍替えされることとなった。これにより、日中の羽田空港発着の「快特」系列車の京急蒲田停車が消滅、羽田空港へは空港線内各駅停車の列車を利用せざるを得ない状況となり、品川方面への利用可能列車も減少した。
[[大田区]]や同駅周辺住民はダイヤ改正の起因となった高架化事業の総工費1650億円のうち、大田区が200億円を負担したことを根拠に「エアポート快特」の同駅通過に反対、大田区では「通過反対対策協議会」が組織され、通過反対の議決や今後の高架化事業の負担金の拠出拒否を示唆するなどした。これに対して[[東京都知事]]の[[石原慎太郎]]が「(1時間あたりのエアポート快特相当分の)3本は通過しても、(1時間あたりのエアポート快特相当分を除く)他の6本は停車するのだから、別に停車しなくてよい」と発言した。ただし、その後京急は2012年度のダイヤ改正での「蒲田停車」の可能性を決算会見で示唆した。
2012年7月31日、京急蒲田駅の下り線高架化完成に伴う同年10月21日のダイヤ改正にて、昼間時の品川方面 - 羽田空港間運行の「エアポート快特」・「快特」を10分間隔とし、このうち40分に1本のみを「エアポート快特」、その他を「快特」とすることが発表された<ref name="kkpress120731">{{PDFlink|[http://www.keikyu.co.jp/company/20120731%EF%BC%A8%EF%BC%B0%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3.pdf 10月21日(日) 京急線 ダイヤ改正 ~羽田へ もっと! ラクに~]}} - 京急電鉄ニュースリリース 2012年7月31日</ref>。この改正により、「エアポート快特」の京急蒲田通過は継続されたものの、大多数の運行となる羽田空港発着「快特」は京急蒲田に停車することとなった。
=== 都営線内 ===
{{節スタブ}}
昼間時に40分間隔で運行しており、浅草線内で通過駅を有する唯一の列車種別である。都営線内では[[待避駅|待避線]]のある[[押上駅]]でのみ緩急接続が行われる<ref group="注釈">一部列車は泉岳寺駅で先行・同着もしくは同駅折り返しの西馬込発着の列車に接続するダイヤとなっている。</ref>。都営線内で「エアポート快特」となる列車は、基本的には京急線内では「エアポート快特」として運行されるが、一部列車(朝および夕方から夜間)は京急線内で「快特」もしくは「急行」として運行される。
運行当初は朝夕の[[ラッシュ時|通勤時間帯]]には設定されていなかったが、2004年以降は平日の押上方面行きについてのみ、夕方以降も運行され、2013年以降は朝のラッシュ時にも都営浅草線内で1本設定されている。
なお、[[隅田川花火大会]]開催時は、通常通過する[[本所吾妻橋駅]]・[[蔵前駅]]・[[浅草橋駅]]に臨時停車する。このため、北行のエアポート快特は[[東日本橋駅]]でアクセス特急・快速特急(都営線内各駅停車)に種別変更する。
=== 京成線内での扱い ===
京急線・都営線内で「エアポート快特」となる列車が、昼間は「アクセス特急」として成田スカイアクセス線経由で羽田・成田両空港間を直結している。
夜間は、京成本線経由で運転される「エアポート快特」が京成線方面にのみ設定されているが、これらは京成線内は通常の「特急」「[[京成本線#通勤特急|通勤特急]]<ref group="注釈">京成成田駅着のうち1本、芝山千代田駅着1本</ref>」「快速」となるため、都営浅草線内のみ「エアポート快特」として運転され、京急線内は主に「急行」となる。また前述の成田スカイアクセス線経由の列車はすべて[[成田空港駅]]着発だが、京成本線経由列車は2本のみ成田空港駅着で、他はすべて[[宗吾参道駅]]または[[京成成田駅]]着となっている。
==== 京成線のエアポート特急 ====
「エアポート快特」(「エアポート快速特急」・「エアポート特急」を含む)は、2002年10月11日まで京成線内を「特急」(現行の快特に相当する)として運行されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間や青砥駅で「エアポート快特」に接続する京成上野 - 京成高砂間の特急も「エアポート特急」とされていた。単に「特急」とされたのは都営浅草線西馬込駅 - 成田空港駅間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉駅終着など成田空港発着でない特急(ただし「エアポート快特」直通の青砥駅・京成高砂駅発着をのぞく)のみであった。なお、これらの「エアポート特急」も2013年までの「エアポートアクセス特急」「エアポート快速」と同様、京成線内では原則的に「エアポート」は発音しないものとされ、単に「とっきゅう」と読まれていた。
この特急に限り、京成3500形未更新車や[[赤電 (京成)|旧3000系列の車両各形式]]を使用したこともあり、専用の種別板(従来の六角形に「Limited Express」と表記)も用意されていた。
== 使用車両 ==
京急・京成・東京都交通局の車両が使われている。当初より[[京急600形電車 (3代)|京急600形]]をのぞいては[[鉄道車両の座席|座席]]が長距離乗車を前提とした[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]ではなく、通例の相互乗り入れ列車に使用される[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]車両が充当されている<ref group="注釈">京急600形も順次ロングシート主体の座席への更新が行われ、エアポート快特に使用する8両編成については全車ロングシート化を完了している。</ref>。また、ダイヤが乱れた場合<ref group="注釈">[[鉄道人身障害事故|人身事故]]等のダイヤ混乱時においては、他形式で運行されることもある。</ref>をのぞき都営浅草線と京成線内で使用する「停車駅予報装置」<ref group="注釈">停車駅が近付くとブザーを鳴らす装置のことである。</ref>を搭載する車両のみがこの運用に入る。
以下の車両は特記しているものをのぞき、運行開始当初より使用している車両である。なお、すべて8両編成に組成された編成のみが使用されている。
* 成田スカイアクセス線直通
**京急600形
**[[京急1500形電車|京急1500形]] (2019年12月より それ以前は代走のみ)
**[[京急1000形電車 (2代)#10次車|京急新1000形]] (2010年より それ以前は代走のみ)
**[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形]](2003年2月より)
**[[京成3000形電車 (2代)#7次車(3050形)|京成3000形(7次車 3050形)]](2010年7月17日より)
**[[京成3100形電車 (2代)|京成3100形]](2019年10月より)
**[[京成3700形電車|京成3700形]](アクセス線直通は代走のみ)
**[[東京都交通局5500形電車 (鉄道)|都営5500形]](スカイアクセス線直通は2022年2月より)
* 成田スカイアクセス線非直通
**[[京成3400形電車|京成3400形]]
**2016年度まで運用されていた[[京成3500形電車|京成3500形]]は4両編成を2本連結した8両編成(2+4+2の8両編成もある)、その他の形式は8両固定編成で運行。なお成田スカイアクセス直通可能車両であっても非直通の運用に就くこともある。
<gallery>
Keikyu 600 series 604 approaching Narita Yukawa station 20100719 1623.jpg|京急600形によるアクセス特急
Keikyu-Type1000-169.jpg|京急1000形によるアクセス特急
Keisei3700-AIRPORT001.jpg|京成3700形によるエアポート快特
Keisei-Type3050-3056.jpg|京成3000形7次車(3050形)によるエアポート快特
Keisei-Type3151.jpg|京成3100形によるエアポート快特
</gallery>
== 停車駅 ==
;凡例
*停車駅
:●:停車、|:通過
:直通先の京成線・北総線・芝山鉄道線は最も遠くの駅を表示、停車駅は省略。
*種別
:「京成線内」は「京成」、「都営浅草線内」は「都営」、「京急線内」は「京急」と略記。
:「エアポート快特」は「エ快」、「快速特急」は「快特」、「アクセス特急」は「ア特」、「通勤特急」は「通特」と略記。
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!rowspan="3" style="width:1em;"|{{縦書き|事業者名}}
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|京成:ア特<ref group="注釈">宗吾参道5時21分発1本のみ</ref><br>都営:エ快<br />京急:エ快
|京成:快速
都営:エ快
京急:快特
|京成:快特<ref group="注釈">土休日18時台のみ</ref>、ア特、特急、通特、快速<br />都営:エ快<br />京急:急行
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!rowspan="2"|{{縦書き|[[京成電鉄]]}}
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* [[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由、[[成田空港駅]]
* [[京成本線|本線(京成船橋方面)]]経由、成田空港駅
* [[芝山鉄道]][[芝山鉄道線]]経由、[[芝山千代田駅]]
* [[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]]経由、[[印旛日本医大駅]]
以上においては快速運転
|本線経由、宗吾参道駅
|本線経由、宗吾参道駅
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!{{縦書き|[[京成押上線|押上線]]|height=3.5em}}
|rowspan="2" style="height:6em;"|[[押上駅]](スカイツリー前)
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|[[本所吾妻橋駅]]
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|[[浅草駅]]
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|[[蔵前駅]]
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|[[浅草橋駅]]
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|[[東日本橋駅]]
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|[[人形町駅]]
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|[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]
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|[[宝町駅]]
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|[[東銀座駅]]
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|[[大門駅 (東京都)|大門駅]]
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|[[三田駅 (東京都)|三田駅]]
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|[[品川駅]]
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|[[青物横丁駅]]
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|[[平和島駅]]
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!rowspan="7"|{{縦書き|[[京急空港線|空港線]]}}
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|[[糀谷駅]]
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|[[大鳥居駅]]
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|[[穴守稲荷駅]]
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|[[天空橋駅]]
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|[[羽田空港第3ターミナル駅]]
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|[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]
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== 沿革 ==
* [[1998年]]([[平成]]10年)[[11月18日]] - 「エアポート快速特急」「エアポート特急」が羽田空港 - 成田空港間のアクセス列車として運行開始{{R|交通981012}}。両者合わせて40分間隔(単独では80分間隔)のダイヤで運行される。運行開始当日には羽田空港・成田空港両駅において一番列車の出発式と到着式を行った。また、都営浅草線[[新橋駅]]でも記念[[イベント]]を開催した。
* [[1999年]](平成11年)
** [[1月15日]] - 早朝1本ながら泉岳寺発羽田空港行の「エアポート快速特急」が運行開始<ref>{{Cite news |和書|title=羽田空港直通列車を増発 京急と都交通局 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1999-01-11 |page=1 }}</ref>(2004年改正で都営線内延長(各駅停車)に伴い「快特」に変更)。
** [[7月31日]] - 京浜急行電鉄のダイヤ改正に伴う運転系統整理により「エアポート特急」を吸収し、昼間時に40分間隔で運行するダイヤとなる。正式名称が京急では「エアポート快特」となる。
** 11月18日 - 運転開始1周年並びに[[ワイン]]「[[ボジョレーワイン|ボジョレー・ヌーヴォー]]」[[輸入]]解禁日が重なったため、成田空港駅より「エアポート快特」の1本を「羽田・成田空港直通特急1周年記念 ボジョレー・リレー号」として運転する。なお、成田空港・新橋・羽田空港の各駅で「ボジョレー・ヌーヴォー」の試飲会を実施した<ref group="注釈">新橋駅と羽田空港駅向けの「ボジョレー・ヌーヴォー」は成田空港駅より「ボジョレー・リレー号」を使用して搬送された。</ref>。使用車両は京成3700形だった。また、京成3700形と都営5300形・[[京急2100形電車|京急2100形]]の[[ペーパークラフト|クラフトモデル]]をあしらった[[乗車券#記念乗車券|記念乗車券]]も発売された。
* [[2000年]](平成12年)[[12月12日]] - [[都営地下鉄大江戸線]]の開業に伴い大門駅を停車駅に追加。
* [[2002年]](平成14年)
** [[6月]] - 芝山鉄道開業に伴う都営浅草線内の駅自動案内放送更新を機に都営線内の正式名称も「'''エアポート快特'''」となる。
** [[10月12日]] - 京成電鉄のダイヤ改正に伴う運転系統整理により、以下のように変更。
*** 京成電鉄線内の扱いを「特急」から「快速」に変更。京成本線内の停車駅が増加。これにより成田空港 - 羽田空港直通特急は廃止。
*** 羽田空港行列車は京成成田駅始発に短縮。ただし一部京成高砂駅始発も存在する。
*** [[青砥駅]]・京成高砂駅発着列車を一部をのぞき京成成田駅発着に延長。
* [[2003年]](平成15年)[[7月19日]] - 昼間の京成線内快速・都営線内各駅停車の羽田空港駅発着列車も京急線内が快特運転となる。これに伴い泉岳寺駅 - 羽田空港駅間の快特は20分間隔での運行となり、スピードアップ(下り14分・上り16分)が図られる。
* [[2004年]](平成16年)[[10月30日]] - 都営浅草線および乗り入れ各社のダイヤ改正により、「エアポート快特」が夜間帯に運行されることになり、扱いが以下のように変更される。
** 平日夜間帯に運行される列車は都営浅草線のみ「エアポート快特」とされ、京急線内は「急行」、京成線内は「特急」「通勤特急」として運行される。
** 土曜・休日でも増発列車については京成線内は「特急」として運行される。
** 始発・終着駅に宗吾参道駅(始発のみ)・芝山鉄道線芝山千代田駅(当時は終着のみ、その後両方向で設定)が新たに加わる。
* [[2006年]](平成18年)[[12月10日]] - 都営浅草線および乗り入れ各社のダイヤ改正により、従前京成成田・成田空港両駅に乗り入れていた昼間の「エアポート快特」の乗り入れ区間が京成佐倉までに短縮される。なお、夕方は従来通り羽田空港駅 - 京成成田駅・成田空港駅間の列車が運行される。
* [[2010年]](平成22年)
** [[5月16日]] - 京急蒲田駅上り線高架化に伴うダイヤ改正を実施。日中の品川駅 - 羽田空港駅間の快特を「エアポート快特」に変更(都営線内は種別を「快特」と表示し、泉岳寺で変更)。京急線内は日中20分間隔での運行となる。京急線内の停車駅は泉岳寺・品川・羽田空港の3駅となる<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html 5月16日(日)ダイヤ改正を実施します] - 京浜急行電鉄ニュースリリース 2010年5月7日</ref>。
** [[7月17日]] - [[京成成田空港線]](成田スカイアクセス)開業に伴うダイヤ改正を実施し、同線を経由して羽田空港 - 成田空港間を直通する列車が設定される。
** [[10月21日]] - 京急空港線羽田空港国際線ターミナル駅(現:羽田空港第3ターミナル駅)が開業し、同駅が停車駅となる。
* [[2012年]](平成24年)10月21日 - 京急蒲田駅下り線高架化に伴うダイヤ改正を実施。京急線内のみ「エアポート快特」となる列車の日中の設定廃止(快特に格下げ)。京急・都営ともに昼間時40分間隔の運行となる。また種別色が緑色から、「アクセス特急」と同色の橙色に変更される。
* [[2014年]](平成26年)11月8日 - ダイヤ改正により、品川 - 羽田空港国際線ターミナル間の所要時間が1分短縮される。また、羽田空港始発の「快特 青砥(高砂)行」が品川から「エアポート快特」に種別変更することにより都営浅草線内を20分間隔で運転する<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-02 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/20141002HP_14127NN.pdf |title=11月8日(土)【京急線ダイヤ改正】 羽田空港へますます便利になります! |format=PDF |publisher=京浜急行電鉄 |accessdate=2014-12-19}}</ref>。また、京成線内も「快速特急」で運転されるようになる。
* [[2015年]](平成27年)12月5日 - ダイヤ改正により夜の京成本線・芝山鉄道線着の一部の列車において、京急線内をエアポート急行からエアポート快特に変更。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[空港連絡鉄道]]
* [[快速特急]]
* [[名古屋飛ばし]] - 東海道新幹線「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」の運行開始時に当時運行されていた「のぞみ301号」が名古屋駅を通過していたことでおきた騒動。
* [[成田エクスプレス]] - 始点・終点の両駅以外は東京駅にしか止まらず、政令指定都市の駅である[[千葉駅]]を通過していたため地元からの批判があった。
* [[ウィング号 (京急)]]
{{日本における列車種別一覧}}
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吉田満
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吉田 満(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日 - 1979年〈昭和54年〉9月17日)は、日本の作家。日本銀行職員。キリスト者。
大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。
1923年(大正12年)1月6日、父・吉田茂と母・ツナの長男として、東京市赤坂区青山北町(現・東京都港区北青山)で誕生。上には姉の瑠璃子がいた。同年の9月の関東大震災のため、その後一家は渋谷町(現・渋谷区)に移った。満6歳の1929年(昭和4年)4月に、東京府豊多摩郡渋谷村長谷小学校に入学し、この年に一家は恵比寿西に転居した。
吉田満の父母は富山県の出身であったが、吉田家の先祖は、もとは天皇家から臣籍降下した京都の公卿の家柄で、吉田神社とも縁が深く、祖先の1人には画家の吉田公均がいた。
満12歳となった1935年(昭和10年)の4月に、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に入学。卒業後の1939年(昭和14年)4月には、旧制東京高等学校に入学。この頃からバッハの音楽に傾倒し愛好した。在学中には2度の停学処分を受けたこともあった。
父・茂は約25年間務めた商事会社から1938年(昭和13年)に独立して友人2人と共に小さな電設工事会社を興した。
満19歳となった1942年(昭和17年)の4月、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。この年の11月に姉・瑠璃子は細川宗平と結婚した。
満20歳となった1943年(昭和18年)10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団。翌年1944年(昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として海軍電測学校に入校。同月に帝大法学部を卒業した。この同月には、義兄・細川宗平が中国にて戦病死となった。
同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった。
満22歳となった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、徳之島西北の沖にいた。
その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した。吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった。
その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任した。しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった。米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった。
1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦後、米軍による報復で処刑されるとの風説による須崎の久通村(須崎湾の突端の部落)の住民の願いにより、村の小学校の分教場のただ2人の教師だった夫婦の身重の夫人の代りの教員として一時そこに匿われていた。しかし半月後、上官から呼び出されて叱責された吉田は、村の分教場を去ることになった。
東京恵比寿にあった吉田の留守宅は、前年5月の東京大空襲により焼失してしまったが、それ以前に吉田一家は西多摩郡吉野村(現・東京都青梅市)に疎開していた。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した。
そして、父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した。同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した。
大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された。
同年の12月、吉田は日本銀行に入行し、統計局勤務となった。翌年1946年(昭和21年)3月に外事局勤務となった吉田は、4月1日の勤務中に評論家の小林秀雄の訪問を受けた。小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの文学になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た。
吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった。小林はCCDに抗議文を出し、白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった(その後の初刊行まで詳細経緯は戦艦大和ノ最期を参照)。
白洲次郎の夫人・白洲正子によると、白洲への依頼時に小林は吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという。
吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、この戦記の回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会・今田健美神父(1910年生 - 1982年没)から、来てほしいとの誘いを受けた。それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった。
神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人は一夜を語り明かした。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた。
それが端緒となり、「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」を感じた吉田は、その後カトリックに入信し、25歳となった1948年(昭和23年)3月28日にカトリック世田谷教会で洗礼を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した。
当時日銀では、有志が集まり毎週金曜日の営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田健美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父へ捧ぐ」という短歌も作った。クリスマスには、吉田が創作した4幕の戯曲「犠牲」が世田谷教会で上演された。この劇はキリスト教の真理性をめぐる葛藤に悩む青年と神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じた。
その後、1949年(昭和24年)2月にプロテスタント教徒の中井嘉子と婚約し、5月に世田谷教会で結婚式を挙げた。翌年1950年(昭和25年)の7月の27歳の時に、長女の未知を授かった。しかしながら、同年9月、東大の屋内体育館で友人たちとのバドミントンに参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外の鉄柵でサイダー瓶の口をこすって開けている最中、最後の瓶が破裂し眼球を直撃する事故となり右眼を失明した。吉田は1か月ほど入院し右眼は義眼となった。
それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田の戦記は、改定を重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦を重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体で1952年(昭和27年)8月に創元社からやっと初刊行された。
1956年(昭和31年)12月には長男・望を授かった。妻・嘉子が日本基督教団駒込教会の会員であったので、同教会牧師鈴木正久と親交を温める中、吉田は悩み迷いながらもプロテスタントの駒込教会(1958年から西片町教会と改称)に入会した。それは1957年(昭和32年)2月にニューヨークへ単身駐在する直前のことだった。1969年(昭和44年)7月の鈴木牧師の死後は、『鈴木正久著作集』の編集を行った。
入行した日本銀行では、行員の自主運営で文芸誌『行友』、従業員組合の雑誌『花の輪』、営業局の『わかあゆ』、日銀退職者ら「旧友会」による『日の友』などが発行されており、吉田は新人行員時代から行内文芸誌『行友』の編集委員を務め、その後も編集長として続けた。吉田が最初に配属された統計局の上司には、河合栄治郎門下の人物でアララギ派の歌人でもあった外山茂がおり、吉田の相談相手となっていた。
吉田の勤務地は、1957年(昭和32年)から約1年間のニューヨーク駐在を経験したほか、大阪支店調査役などを経て、1965年(昭和40年)10月から青森支店長、1970年(昭和45年)10月から仙台支店長、1973年(昭和48年)10月から国庫局長などを歴任し、1975年(昭和50年)11月には監事にまで昇進した。
こうした銀行家としての職務と並行し、『戦艦大和ノ最期』の列伝的な作品「臼淵大尉の場合――進歩への願い」(1973年)や、太田孝一少尉(実名は中谷邦夫)を題材にした「祖国と敵国の間」(1974年)を文芸誌『季刊藝術』にそれぞれ発表。1977年(昭和52年)2月には文京区千石の自宅が原因不明の火事により全焼してしまうハプニングに見舞われたものの、その年の11月には書き下ろしで『提督伊藤整一の生涯』を刊行した。
また、吉田は学徒出陣で戦没した学徒兵らの言葉をしばしば引用しながら、彼らの胸の内を同じ世代の生き残った人間として痛恨の思いとして受け止め、自身の随筆で発表する活動を続けた。
その他、吉田は戦中派・キリスト者としての数多くの随筆や評論を発表しながら、戦中・戦後の日本の問題点や非戦への思いを訴え、晩年には経済団体や金融機関に招かれて講演活動も行ない、55歳となった1978年(昭和53年)7月に、『日本銀行職場百年』の編集委員を委託された。キリスト者の吉田はその年の4月の随筆で以下のような思いを綴った。
そうした訴えたいことが沢山あった多忙の中、吉田はその1978年(昭和53年)の秋頃から身体の不調が続き、翌年1979年(昭和54年)7月30日に食道静脈瘤出血により厚生年金病院に入院した。入院中も執筆活動を続け、『鈴木正久著作集』の「序文」や、「病床から」、「死者の身代りの世代」という随筆を書き、8月中旬から妻の壽子に口述筆記させた「戦中派の死生観」(文藝春秋 11月号に掲載)が絶筆となった。
そして、その随筆を書き上げた3日後の9月17日の早暁、肝不全のために死去した。葬儀は吉田が監事を務めていた東京都港区の東洋英和女学院のマーガレット・クレイグ記念講堂で、西片町教会の山本将信牧師の司式により同月20日に行なわれた。約1800名が参列し、中には遺影にテープレコーダーを向けて水葬ラッパで送っている人もいた。葬儀に参列した江藤淳は、吉田の死によって初めてクリスチャンであることを知ったという。吉田の死の約2か月後には、日本銀行カトリック研究会で今田健美神父による特別追悼ミサが行なわれた。
吉田の長男・望は、吉田が自身の異様な痩せ衰え方に気づきながらも、退院後のスケジュールを口にし生きようとする意志を見せていた様子や、家庭人として良き父親であった吉田の戦友への鎮魂の深さに思いを馳せている。
吉田の死から半年後の翌年1980年(昭和55年)2月には、吉田の母・ツナが死去。吉田の絶筆となった随筆には、自身の発病が日頃の不摂生の蓄積によるもので自業自得で恥じ入るとし、「見舞いに駆けつけた七十八歳の母の顔つきが変っているのを見た時、ただ申しわけない思いがした」と綴られていた。
吉田の一周忌の1980年(昭和55年)9月には一ツ橋の如水会館にて追悼会を催された。その際に江藤淳は、自身がアメリカのメリーランド大学付属マッケルディン図書館プランゲ文庫から持ち帰った吉田の未発表初稿「戦艦大和ノ最期」(検閲全文削除で没収された初稿のゲラ刷り)の写しを吉田の霊前に捧げた。
『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲組織CCD(Civil Censorship Detachment)の検閲で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌に発表されるなどの紆余曲折を経て、1974年(昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている。リチャード・マイニアによる英訳版「Requiem for Battleship Yamato」(講談社、1985年) がある。ISBN 4770012292
父・吉田茂、母・ツナ。姉・瑠璃子。数代前の先祖は、絵師の吉田公均。息子・吉田望は、電通勤務を経て経営コンサルタントをしている。
★印は発禁処分作品※印は書き下ろし単行本発表◎印は雑誌媒体未発表▲印は書類現存なし
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"text": "吉田満の父母は富山県の出身であったが、吉田家の先祖は、もとは天皇家から臣籍降下した京都の公卿の家柄で、吉田神社とも縁が深く、祖先の1人には画家の吉田公均がいた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "満12歳となった1935年(昭和10年)の4月に、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に入学。卒業後の1939年(昭和14年)4月には、旧制東京高等学校に入学。この頃からバッハの音楽に傾倒し愛好した。在学中には2度の停学処分を受けたこともあった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "父・茂は約25年間務めた商事会社から1938年(昭和13年)に独立して友人2人と共に小さな電設工事会社を興した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "満19歳となった1942年(昭和17年)の4月、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。この年の11月に姉・瑠璃子は細川宗平と結婚した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "満20歳となった1943年(昭和18年)10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団。翌年1944年(昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として海軍電測学校に入校。同月に帝大法学部を卒業した。この同月には、義兄・細川宗平が中国にて戦病死となった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
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"text": "同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
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"text": "満22歳となった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、徳之島西北の沖にいた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した。吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任した。しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった。米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦後、米軍による報復で処刑されるとの風説による須崎の久通村(須崎湾の突端の部落)の住民の願いにより、村の小学校の分教場のただ2人の教師だった夫婦の身重の夫人の代りの教員として一時そこに匿われていた。しかし半月後、上官から呼び出されて叱責された吉田は、村の分教場を去ることになった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "東京恵比寿にあった吉田の留守宅は、前年5月の東京大空襲により焼失してしまったが、それ以前に吉田一家は西多摩郡吉野村(現・東京都青梅市)に疎開していた。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "そして、父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した。同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "同年の12月、吉田は日本銀行に入行し、統計局勤務となった。翌年1946年(昭和21年)3月に外事局勤務となった吉田は、4月1日の勤務中に評論家の小林秀雄の訪問を受けた。小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの文学になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た。",
"title": "生涯・経歴"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった。小林はCCDに抗議文を出し、白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった(その後の初刊行まで詳細経緯は戦艦大和ノ最期を参照)。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "白洲次郎の夫人・白洲正子によると、白洲への依頼時に小林は吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、この戦記の回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会・今田健美神父(1910年生 - 1982年没)から、来てほしいとの誘いを受けた。それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人は一夜を語り明かした。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "それが端緒となり、「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」を感じた吉田は、その後カトリックに入信し、25歳となった1948年(昭和23年)3月28日にカトリック世田谷教会で洗礼を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した。",
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},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "当時日銀では、有志が集まり毎週金曜日の営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田健美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父へ捧ぐ」という短歌も作った。クリスマスには、吉田が創作した4幕の戯曲「犠牲」が世田谷教会で上演された。この劇はキリスト教の真理性をめぐる葛藤に悩む青年と神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "その後、1949年(昭和24年)2月にプロテスタント教徒の中井嘉子と婚約し、5月に世田谷教会で結婚式を挙げた。翌年1950年(昭和25年)の7月の27歳の時に、長女の未知を授かった。しかしながら、同年9月、東大の屋内体育館で友人たちとのバドミントンに参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外の鉄柵でサイダー瓶の口をこすって開けている最中、最後の瓶が破裂し眼球を直撃する事故となり右眼を失明した。吉田は1か月ほど入院し右眼は義眼となった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田の戦記は、改定を重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦を重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体で1952年(昭和27年)8月に創元社からやっと初刊行された。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1956年(昭和31年)12月には長男・望を授かった。妻・嘉子が日本基督教団駒込教会の会員であったので、同教会牧師鈴木正久と親交を温める中、吉田は悩み迷いながらもプロテスタントの駒込教会(1958年から西片町教会と改称)に入会した。それは1957年(昭和32年)2月にニューヨークへ単身駐在する直前のことだった。1969年(昭和44年)7月の鈴木牧師の死後は、『鈴木正久著作集』の編集を行った。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "入行した日本銀行では、行員の自主運営で文芸誌『行友』、従業員組合の雑誌『花の輪』、営業局の『わかあゆ』、日銀退職者ら「旧友会」による『日の友』などが発行されており、吉田は新人行員時代から行内文芸誌『行友』の編集委員を務め、その後も編集長として続けた。吉田が最初に配属された統計局の上司には、河合栄治郎門下の人物でアララギ派の歌人でもあった外山茂がおり、吉田の相談相手となっていた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "吉田の勤務地は、1957年(昭和32年)から約1年間のニューヨーク駐在を経験したほか、大阪支店調査役などを経て、1965年(昭和40年)10月から青森支店長、1970年(昭和45年)10月から仙台支店長、1973年(昭和48年)10月から国庫局長などを歴任し、1975年(昭和50年)11月には監事にまで昇進した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "こうした銀行家としての職務と並行し、『戦艦大和ノ最期』の列伝的な作品「臼淵大尉の場合――進歩への願い」(1973年)や、太田孝一少尉(実名は中谷邦夫)を題材にした「祖国と敵国の間」(1974年)を文芸誌『季刊藝術』にそれぞれ発表。1977年(昭和52年)2月には文京区千石の自宅が原因不明の火事により全焼してしまうハプニングに見舞われたものの、その年の11月には書き下ろしで『提督伊藤整一の生涯』を刊行した。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "また、吉田は学徒出陣で戦没した学徒兵らの言葉をしばしば引用しながら、彼らの胸の内を同じ世代の生き残った人間として痛恨の思いとして受け止め、自身の随筆で発表する活動を続けた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その他、吉田は戦中派・キリスト者としての数多くの随筆や評論を発表しながら、戦中・戦後の日本の問題点や非戦への思いを訴え、晩年には経済団体や金融機関に招かれて講演活動も行ない、55歳となった1978年(昭和53年)7月に、『日本銀行職場百年』の編集委員を委託された。キリスト者の吉田はその年の4月の随筆で以下のような思いを綴った。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "そうした訴えたいことが沢山あった多忙の中、吉田はその1978年(昭和53年)の秋頃から身体の不調が続き、翌年1979年(昭和54年)7月30日に食道静脈瘤出血により厚生年金病院に入院した。入院中も執筆活動を続け、『鈴木正久著作集』の「序文」や、「病床から」、「死者の身代りの世代」という随筆を書き、8月中旬から妻の壽子に口述筆記させた「戦中派の死生観」(文藝春秋 11月号に掲載)が絶筆となった。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "そして、その随筆を書き上げた3日後の9月17日の早暁、肝不全のために死去した。葬儀は吉田が監事を務めていた東京都港区の東洋英和女学院のマーガレット・クレイグ記念講堂で、西片町教会の山本将信牧師の司式により同月20日に行なわれた。約1800名が参列し、中には遺影にテープレコーダーを向けて水葬ラッパで送っている人もいた。葬儀に参列した江藤淳は、吉田の死によって初めてクリスチャンであることを知ったという。吉田の死の約2か月後には、日本銀行カトリック研究会で今田健美神父による特別追悼ミサが行なわれた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "吉田の長男・望は、吉田が自身の異様な痩せ衰え方に気づきながらも、退院後のスケジュールを口にし生きようとする意志を見せていた様子や、家庭人として良き父親であった吉田の戦友への鎮魂の深さに思いを馳せている。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "吉田の死から半年後の翌年1980年(昭和55年)2月には、吉田の母・ツナが死去。吉田の絶筆となった随筆には、自身の発病が日頃の不摂生の蓄積によるもので自業自得で恥じ入るとし、「見舞いに駆けつけた七十八歳の母の顔つきが変っているのを見た時、ただ申しわけない思いがした」と綴られていた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "吉田の一周忌の1980年(昭和55年)9月には一ツ橋の如水会館にて追悼会を催された。その際に江藤淳は、自身がアメリカのメリーランド大学付属マッケルディン図書館プランゲ文庫から持ち帰った吉田の未発表初稿「戦艦大和ノ最期」(検閲全文削除で没収された初稿のゲラ刷り)の写しを吉田の霊前に捧げた。",
"title": "生涯・経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲組織CCD(Civil Censorship Detachment)の検閲で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌に発表されるなどの紆余曲折を経て、1974年(昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている。リチャード・マイニアによる英訳版「Requiem for Battleship Yamato」(講談社、1985年) がある。ISBN 4770012292",
"title": "『戦艦大和ノ最期』"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "父・吉田茂、母・ツナ。姉・瑠璃子。数代前の先祖は、絵師の吉田公均。息子・吉田望は、電通勤務を経て経営コンサルタントをしている。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "★印は発禁処分作品※印は書き下ろし単行本発表◎印は雑誌媒体未発表▲印は書類現存なし",
"title": "おもな作品"
}
] |
吉田 満は、日本の作家。日本銀行職員。キリスト者。 大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。
|
{{Infobox 作家
| name = 吉田満
| image = <!--写真、肖像画等のファイル名-->
| image_size = <!--画像サイズ-->
| caption = <!--画像説明-->
| pseudonym = <!--ペンネーム-->
| birth_name = <!--出生名-->
| birth_date = [[1923年]][[1月6日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[東京市]][[赤坂区]]青山北町(現・東京都[[港区 (東京都)|港区]][[北青山]])
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1923|01|06|1979|09|17}}
| death_place = {{JPN}}・東京都港区・[[厚生年金病院]]
| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->
| occupation = 作家、銀行員
| language = 日本語
| nationality = {{JPN1947}}
| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->
| alma_mater = [[東京帝国大学]][[法学部]]
| period = 1946年-1979年
| genre = [[戦記]]、[[評論]]
| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
| religion = [[キリスト教]]
| notable_works = 『[[戦艦大和ノ最期]]』
| spouse = 中井嘉子
| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->
| children = 未知(長女)、望(長男)
| relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
| influences = <!--影響を受けた作家名-->
| influenced = <!--影響を与えた作家名-->
| awards = <!--主な受賞歴-->
| debut_works = <!--処女作-->
| signature = <!--署名・サイン-->
| footnotes = <!--脚注・小話-->
}}
'''吉田 満'''(よしだ みつる、[[1923年]]〈大正12年〉[[1月6日]] - [[1979年]]〈昭和54年〉[[9月17日]])は、[[日本]]の作家。[[日本銀行]]職員<ref name="chiha-nen">「吉田満 年譜」({{Harvnb|千早|2004|pp=286-294}})</ref><ref>{{Harvnb|散華|1981|p=222}}</ref>。キリスト者<ref>「『何をするか』と『何であるか』」(西片町教会月報 1977年10月号)。{{Harvnb|下巻|1986|pp=599-601}}</ref>。
[[大日本帝国海軍]]における戦時体験をもとにした[[戦記]]を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『[[戦艦大和ノ最期]]』は、[[戦艦大和 (映画)|映画化]]、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった[[臼淵磐]]も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。
== 生涯・経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1923年]](大正12年)1月6日、父・吉田茂と母・ツナの長男として、[[東京市]][[赤坂区]]青山北町(現・東京都[[港区 (東京都)|港区]][[北青山]])で誕生<ref name="chiha-nen"/>。上には姉の瑠璃子がいた<ref name="chiha-nen"/>。同年の9月の[[関東大震災]]のため、その後一家は[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]](現・[[渋谷区]])に移った<ref name="chiha-nen"/>。満6歳の[[1929年]](昭和4年)4月に、[[東京府]][[豊多摩郡]]渋谷村長谷小学校に入学し、この年に一家は[[恵比寿西]]に転居した<ref name="chiha-nen"/>。
吉田満の父母は[[富山県]]の出身であったが、吉田家の先祖は、もとは天皇家から[[臣籍降下]]した京都の[[公卿]]の家柄で、[[吉田神社]]とも縁が深く、祖先の1人には画家の[[吉田公均]]がいた<ref name="zeni">「重過ぎる善意 父のこと」(季刊藝術 1976年夏季号)。{{Harvnb|戦中派|1980|pp=318-337}}、{{Harvnb|戦中派|2015|pp=346-369}}、{{Harvnb|下巻|1986|pp=248-270}}</ref><ref name="chiha1-1">「第一章 誕生『戦艦大和ノ最期』 1 戦艦大和からの生還」({{Harvnb|千早|2004|pp=7-17}})</ref>。
満12歳となった[[1935年]](昭和10年)の4月に、東京府立第四中学校(現・[[東京都立戸山高等学校]])に入学<ref name="chiha-nen"/>。卒業後の[[1939年]](昭和14年)4月には、[[東京高等学校 (旧制)|旧制東京高等学校]]に入学<ref name="chiha-nen"/>。この頃から[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の音楽に傾倒し愛好した<ref name="chiha-nen"/>。在学中には2度の停学処分を受けたこともあった<ref name="chiha-nen"/>。
父・茂は約25年間務めた商事会社から[[1938年]](昭和13年)に独立して友人2人と共に小さな電設工事会社を興した<ref name="zeni"/>。
=== 学徒出陣 ===
満19歳となった[[1942年]](昭和17年)の4月、[[東京帝国大学]]法学部(現・[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]])に入学<ref name="chiha-nen"/>。この年の11月に姉・瑠璃子は細川宗平と結婚した<ref name="chiha-nen"/>。
満20歳となった[[1943年]](昭和18年)10月の[[学徒出陣]]により、12月から海軍二等水兵として[[武山]]海兵団に入団<ref name="chiha-nen"/>。翌年[[1944年]](昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として[[海軍電測学校]]に入校<ref name="chiha-nen"/>。同月に帝大法学部を卒業した<ref name="chiha-nen"/>。この同月には、義兄・細川宗平が中国にて戦病死となった<ref name="chiha-nen"/>{{refnest|group="注釈"|吉田が一時使用した筆名「細川宗吉」は、この戦死した義兄の名前「細川宗平」に因んでいる<ref name="chiha1-2">「第一章 誕生『戦艦大和ノ最期』 2 検閲との抗争」({{Harvnb|千早|2004|pp=18-32}})</ref>。}}。
同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は[[少尉]](予備少尉)に任官され、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった<ref name="chiha-nen"/><ref name="chiha1-1"/>。
満22歳となった翌年[[1945年]](昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦([[坊ノ岬沖海戦]])に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、[[徳之島]]西北の沖にいた<ref name="chiha1-1"/>。
その運命の日、吉田は[[哨戒]]直士官を命ぜられ、[[艦橋]]にいた<ref name="chiha1-1"/>。8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した<ref name="chiha1-1"/>。吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった<ref name="chiha1-1"/>。
{{Quotation|絶え間ない炸裂、衝撃、叫喚の中で私の肉体はほしいままに翻弄された。躍り{{ruby|匍|は}}い走りすくんだ。こころは今や完全に機能を失い、感覚だけが目ざましい反応をつづけた。筋肉が神経が痙攣して、ただそれに追われるばかりであった。死が、血しぶきとなり肉片となって私の顔にまといついた。或る者は、まなじりを決したまま、一瞬飛び散って一滴の血痕ものこさなかった。他の者は、屍臭にまかれ恐怖に叩きのめされて失神し、身動きも出来ぬままなお生を保っていた。およそ人の訴えを無視し、ときとところを選ばぬ死神の跳梁、生の頂点をのぼりつめて、死の勾配を逆落ちながら、あばかれる赤裸々なその人間。蒼ざめたまま口を歪めてこときれる者。女神のような微笑みをたたえ、ふと唇をとじる者。人生のような、芝居のような、戦闘の一局面。そこでは、一切に対する、想像も批判も連想も通用しない。|吉田満「死・愛・信仰」<ref name="skinko">「死・愛・信仰」([[新潮]] 1948年12月号)。{{Harvnb|下巻|1986|pp=536-555}}、{{Harvnb|戦中派|1980|pp=125-138}}</ref>}}
その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。同年7月に[[高知県]][[高岡郡]]須崎の[[回天]]基地(人間魚雷基地)に赴任した<ref name="chiha1-1"/>。しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった<ref name="chiha1-1"/><ref>「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|p=783}}</ref>。米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった<ref name="chiha-nen"/><ref name="chiha1-1"/>。
=== 戦後――戦記の執筆 ===
1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦後、米軍による報復で処刑されるとの風説による須崎の久通村(須崎湾の突端の部落)の住民の願いにより、村の小学校の分教場のただ2人の教師だった夫婦の身重の夫人の代りの教員として一時そこに匿われていた<ref name="chiha1-1"/>。しかし半月後、上官から呼び出されて叱責された吉田は、村の分教場を去ることになった<ref name="chiha1-1"/>。
東京恵比寿にあった吉田の留守宅は、前年5月の[[東京大空襲]]により焼失してしまったが、それ以前に吉田一家は[[西多摩郡]][[吉野村 (東京都)|吉野村]](現・東京都[[青梅市]])に[[疎開]]していた<ref name="chiha1-1"/>。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した<ref name="chiha1-1"/>。
そして、父の疎開仲間であった作家・[[吉川英治]]宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]」での体験記録「[[戦艦大和ノ最期]]」を執筆した<ref name="chiha1-2">「第一章 誕生『戦艦大和ノ最期』 2 検閲との抗争」({{Harvnb|千早|2004|pp=18-32}})</ref><ref name="senryo">吉田満「占領下の『大和』」(『戦艦大和』角川文庫、1969年7月)</ref>。同作は、自然と[[文語体]]となり一日足らずで完成した<ref name="chiha1-2"/><ref name="atogaki">「あとがき」({{Harvnb|創元社|1952|pp=129-132}}あとがき)。{{Harvnb|上巻|1986|pp=641-644}}、{{Harvnb|講談社文庫|1994|pp=166-170}}</ref>。
大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された<ref name="chiha1-2"/>。
同年の12月、吉田は[[日本銀行]]に入行し、統計局勤務となった<ref name="chiha-nen"/>。翌年1946年(昭和21年)3月に外事局勤務となった吉田は、4月1日の勤務中に評論家の[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の訪問を受けた。小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの[[文学]]になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た<ref name="chiha1-2"/><ref name="senryo"/><ref name="meguri">「めぐりあい――[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]氏」([[毎日新聞]] 1979年5月23日号)。{{Harvnb|戦中派|1980|pp=263-267}}、{{Harvnb|戦中派|2015|pp=285-290}}、{{Harvnb|下巻|1986|pp=319-323}}</ref>。
吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、[[GHQ]]の下部組織CCD([[民間検閲支隊]])の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった<ref name="chiha1-2"/><ref name="meguri"/>。小林はCCDに抗議文を出し、[[白洲次郎]]からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった<ref name="chiha1-2"/>(その後の初刊行まで詳細経緯は[[戦艦大和ノ最期]]を参照)。
白洲次郎の夫人・[[白洲正子]]によると、白洲への依頼時に小林は吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという<ref>[[白洲正子]]『白洲正子自伝』(新潮社、1994年12月)</ref><ref name="waka">[[若松英輔]]「解説 求道する文人の悲願」({{Harvnb|戦中派|2015|pp=378-390}}</ref>。
=== キリスト教との出会い ===
吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、この戦記の回覧写本の1冊を読んだという[[カトリック]]教会・{{ruby|今田健美|こんだたけみ}}神父(1910年生 - 1982年没)から、来てほしいとの誘いを受けた<ref name="skinko"/>。それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった<ref name="skinko"/><ref name="chiha2-2">「第二章 挫折を乗り越えて 2 キリスト教との出会い」({{Harvnb|千早|2004|pp=80-97}})</ref>。
神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人は一夜を語り明かした<ref name="skinko"/>。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた<ref name="skinko"/><ref name="chiha2-2"/>。
それが端緒となり、「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」を感じた吉田は<ref name="skinko"/>、その後カトリックに入信し、25歳となった[[1948年]](昭和23年)3月28日にカトリック世田谷教会で[[洗礼]]を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した<ref name="chiha-nen"/>。
当時日銀では、有志が集まり毎週金曜日の営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田健美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父へ捧ぐ」という短歌も作った<ref name="chiha-nen"/><ref name="chiha2-2"/>。クリスマスには、吉田が創作した4幕の戯曲「犠牲」が世田谷教会で上演された<ref name="chiha2-2"/>。この劇はキリスト教の真理性をめぐる葛藤に悩む青年と神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じた<ref name="chiha2-2"/>。
その後、[[1949年]](昭和24年)2月に[[プロテスタント]]教徒の中井嘉子と婚約し、5月に世田谷教会で結婚式を挙げた<ref name="chiha-nen"/><ref name="chiha2-2"/>。翌年[[1950年]](昭和25年)の7月の27歳の時に、長女の未知を授かった<ref name="chiha-nen"/><ref>「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|p=784}}</ref>。しかしながら、同年9月、東大の屋内体育館で友人たちとの[[バドミントン]]に参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外の鉄柵でサイダー瓶の口をこすって開けている最中、最後の瓶が破裂し眼球を直撃する事故となり右眼を失明した<ref>「病床断想」(わかあゆ 1950年10号)。{{Harvnb|下巻|1986|pp=217-229}}、{{Harvnb|戦中派|1980|pp=139-151}}</ref><ref>[[鶴見俊輔]]「解説『戦艦大和ノ最期』」({{Harvnb|講談社文庫|1994|pp=179-188}})</ref>。吉田は1か月ほど入院し右眼は義眼となった<ref name="chiha2-1">「第二章 挫折を乗り越えて 1 職場での吉田満」({{Harvnb|千早|2004|pp=61-80}})</ref>。
それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田の戦記は、改定を重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦を重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体で[[1952年]](昭和27年)8月に創元社からやっと初刊行された<ref name="chiha1-2"/>。
[[1956年]](昭和31年)12月には長男・望を授かった<ref name="chiha-nen"/><ref>「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|p=785}}</ref>。妻・嘉子が[[日本基督教団]]駒込教会の会員であったので、同教会牧師[[鈴木正久]]と親交を温める中、吉田は悩み迷いながらもプロテスタントの駒込教会(1958年から西片町教会と改称)に入会した<ref name="chiha2-2"/><ref name="fukaki">「底深きもの」(複音と現代 1951年11月号)。{{Harvnb|下巻|1986|pp=556-562}}</ref>。それは[[1957年]](昭和32年)2月にニューヨークへ単身駐在する直前のことだった<ref name="chiha-nen"/><ref name="nen-a">「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|pp=789-790}}</ref>。1969年(昭和44年)7月の鈴木牧師の死後は、『鈴木正久著作集』の編集を行った<ref>『日本キリスト教歴史大辞典』p.1474</ref><ref name="chiha2-2"/>。
=== 銀行家と執筆活動 ===
入行した[[日本銀行]]では、行員の自主運営で文芸誌『行友』、従業員組合の雑誌『花の輪』、営業局の『わかあゆ』、日銀退職者ら「旧友会」による『日の友』などが発行されており、吉田は新人行員時代から行内文芸誌『行友』の編集委員を務め、その後も編集長として続けた<ref name="chiha2-1"/>。吉田が最初に配属された統計局の上司には、[[河合栄治郎]]門下の人物で[[アララギ派]]の歌人でもあった[[外山茂]]がおり、吉田の相談相手となっていた<ref name="chiha2-1"/>。
吉田の勤務地は、1957年(昭和32年)から約1年間の[[ニューヨーク]]駐在を経験したほか{{refnest|group="注釈"|吉田は、[[三島由紀夫]]と「昭和二十二年十二月、大学の二歳年下のこの後輩が東大法学部を出る前後から、なんとなく面識があった」、「手書きの草稿の「戦艦大和ノ最期」を読み、率直な感想を述べてくれた数少ない友人のひとりであった」と回想し<ref name="newyork">「ニューヨークの三島由紀夫」(俳句とエッセイ 1976年11月号){{Harvnb|下巻|1986|pp=330-338}}、{{Harvnb|戦中派|1980|pp=251-258}}</ref><ref>「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|p=788}}</ref>、大蔵省退職後「流行作家」になった三島とは顔を会わす機会もほとんどなくなっていた中、『[[近代能楽集]]』のアメリカでの刊行時に出版社の招きで1957年(昭和32年)7月から訪米していた三島と12月21日に[[グリニッジ・ヴィレッジ]]で待ち合わせ、約9年ぶりに再会を果たした一日の思い出を随筆「ニューヨークの三島由紀夫」で書いている<ref name="newyork"/><ref>「三島由紀夫年譜」{{Harvnb|42巻|2005|p=212}}</ref>。なお、三島は『戦艦大和ノ最期』(1952年8月)刊行の際にも賞賛の跋文を寄せている。}}、大阪支店調査役などを経て、1965年(昭和40年)10月から[[青森市|青森]]支店長、1970年(昭和45年)10月から[[仙台市|仙台]]支店長、1973年(昭和48年)10月から国庫局長などを歴任し、1975年(昭和50年)11月には監事にまで昇進した<ref name="chiha-nen"/><ref name="chiha5-3">「第五章 経済成長と平和を見つめて 3 伝えつづけた信条」({{Harvnb|千早|2004|pp=267-283}})</ref>。
こうした銀行家としての職務と並行し、『戦艦大和ノ最期』の列伝的な作品「[[臼淵磐|臼淵大尉]]の場合――進歩への願い」(1973年)や、太田孝一少尉(実名は中谷邦夫)を題材にした「祖国と敵国の間」(1974年)を文芸誌『季刊藝術』にそれぞれ発表。[[1977年]](昭和52年)2月には[[文京区]][[千石 (文京区)|千石]]の自宅が原因不明の火事により全焼してしまうハプニングに見舞われたものの、その年の11月には書き下ろしで『提督[[伊藤整一]]の生涯』を刊行した<ref name="chiha-nen"/>。
また、吉田は学徒出陣で戦没した学徒兵らの言葉をしばしば引用しながら、彼らの胸の内を同じ世代の生き残った人間として痛恨の思いとして受け止め、自身の随筆で発表する活動を続けた<ref name="chiha4-2">「第四章 戦中派は訴える 2 戦中派、散華の世代」({{Harvnb|千早|2004|pp=205-219}})</ref>。
{{Quotation|私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後二十四年をへた日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。(中略)<br />彼らが身を以て守ろうとした“いじらしい子供たち”は今どのように成人したのか。日本の“清らかさ、高さ、尊さ、美しさ”は、戦後の世界にどんな花を咲かせたのか。それを見とどけなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。(中略)<br />彼らの亡霊は、いま何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、また新聞のトップ記事に、何を見出すだろうか。戦争で死んだ時の自分と同じ年頃の青年男女を見た時、亡霊は何を考えるだろうか。(中略)<br />戦火によごされた自分たちの青春にひきくらべ、今の青年たちが、無限の可能性を与えられ、しかもその恵まれた力を、戦争のためではなく、社会の発展のために、協力のために、建設のために役立てうることをしんから羨み、自分たちの分まで頑張ってほしいと、精一杯の声援を送るであろう。と同時に、もしこの豊かな自由と平和と、それを支える繁栄と成長力とが、単に自己の利益中心に、快適な生活を守るためだけに費やされるならば、戦後の時代は、ひとかけらの人間らしさも与えられなかった戦時下の時代よりも、より不毛であり、不幸であると訴えるであろう。|吉田満「戦没学徒の遺産」<ref>「戦没学徒の遺産」(『昭和十八年十二月一日 戦中派の再証言』学徒出陣25周年記念手記出版会編 1969年8月)。{{Harvnb|下巻|1986|pp=46-64}}</ref>}}
その他、吉田は戦中派・キリスト者としての数多くの随筆や評論を発表しながら、戦中・戦後の日本の問題点や非戦への思いを訴え、晩年には経済団体や金融機関に招かれて講演活動も行ない<ref name="chiha5-3"/><ref name="chiha5-2">「第五章 経済成長と平和を見つめて 2 非戦の誓い」({{Harvnb|千早|2004|pp=258-266}})</ref>、55歳となった[[1978年]](昭和53年)7月に、『日本銀行職場百年』の編集委員を委託された<ref name="chiha-nen"/>。キリスト者の吉田はその年の4月の随筆で以下のような思いを綴った<ref name="seinen">「青年の生と死」([[婦人之友]] 1978年4月号)。{{Harvnb|戦中派|1980|pp=296-302}}、{{Harvnb|戦中派|2015|pp=321-328}}、{{Harvnb|下巻|1986|pp=571-577}}</ref>。
{{Quotation|肉の重荷を負った人間は、美しい抽象的な「平和」そのものを、生きることはできない。それぞれにあたえられた役割を果たしながら、「平和」を求めて自分を鞭打つことだけが、許されているのである。|吉田満「青年の生と死」<ref name="seinen"/>}}
=== その死 ===
そうした訴えたいことが沢山あった多忙の中、吉田はその1978年(昭和53年)の秋頃から身体の不調が続き、翌年[[1979年]](昭和54年)7月30日に[[食道静脈瘤]]出血により[[厚生年金病院]]に入院した<ref name="senchu">「[[戦中派の死生観]]」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1979年11月号)。{{Harvnb|戦中派|1980|pp=9-12}}、{{Harvnb|戦中派|2015|pp=10-14}}、{{Harvnb|下巻|1986|pp=15-18}}</ref>。入院中も執筆活動を続け、『鈴木正久著作集』の「序文」や、「病床から」、「死者の身代りの世代」という随筆を書き、8月中旬から妻の壽子に口述筆記させた「[[戦中派の死生観]]」(文藝春秋 11月号に掲載)が絶筆となった<ref name="chiha5-3"/><ref name="nozomi">吉田望「あとがき」({{Harvnb|戦中派|1980|pp=338-342}})、{{Harvnb|戦中派|2015|pp=370-375}}</ref>。
そして、その随筆を書き上げた3日後の9月17日の早暁、肝不全のために死去した<ref name="chiha-nen"/>。葬儀は吉田が監事を務めていた東京都港区の[[東洋英和女学院]]のマーガレット・クレイグ記念講堂で、西片町教会の山本将信牧師の司式により同月20日に行なわれた<ref name="chiha-nen"/><ref name="nen-a"/><ref name="chiha5-3"/>。約1800名が参列し、中には遺影にテープレコーダーを向けて[[水葬]]ラッパで送っている人もいた<ref name="chiha5-3"/>。葬儀に参列した[[江藤淳]]は、吉田の死によって初めてクリスチャンであることを知ったという<ref name="chiha2-2"/>。吉田の死の約2か月後には、日本銀行カトリック研究会で今田健美神父による特別追悼ミサが行なわれた<ref name="chiha2-2"/>。
吉田の長男・望は、吉田が自身の異様な痩せ衰え方に気づきながらも、退院後のスケジュールを口にし生きようとする意志を見せていた様子や、家庭人として良き父親であった吉田の戦友への鎮魂の深さに思いを馳せている<ref name="nozomi"/>。
{{Quotation|父は、多忙な生活のペースを、身体に変調をきたしてからも、入院するまで変えようとしなかった。幾分、自らの命を粗末に扱ったといえるかもしれない。あるいは、社会的に成功することや、幸せな家庭を築くということと、かつての戦友たちの鎮魂を書きとどめ、死者の残した問いを問い続けることとは、どこかで矛盾するという思いを、父は心の奥で感じていたのではないだろうか。|吉田望「あとがき」<ref name="nozomi"/>}}
吉田の死から半年後の翌年[[1980年]](昭和55年)2月には、吉田の母・ツナが死去<ref name="chiha5-3"/>。吉田の絶筆となった随筆には、自身の発病が日頃の不摂生の蓄積によるもので自業自得で恥じ入るとし、「見舞いに駆けつけた七十八歳の母の顔つきが変っているのを見た時、ただ申しわけない思いがした」と綴られていた<ref name="senchu"/>。
吉田の一周忌の1980年(昭和55年)9月には[[一ツ橋]]の[[如水会館]]にて追悼会を催された<ref name="chiha5-3"/>。その際に江藤淳は、自身がアメリカの[[メリーランド大学]]付属マッケルディン図書館[[プランゲ文庫]]から持ち帰った吉田の未発表初稿「戦艦大和ノ最期」(検閲全文削除で没収された初稿のゲラ刷り)の写しを吉田の霊前に捧げた<ref name="chiha5-3"/>。
== 『戦艦大和ノ最期』 ==
{{Main|戦艦大和ノ最期}}
『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の検閲組織[[民間検閲支隊|CCD]](Civil Censorship Detachment)の[[検閲]]で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌に発表されるなどの紆余曲折を経て、[[1974年]](昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている<ref>詳な始末は[[江藤淳]]『一九四六年憲法 その拘束 その他』([[文春文庫]]、[[1995年]]) ISBN 4-16-736609-6 「死者との絆 占領軍の検閲と『戦艦大和ノ最期』」「『戦艦大和ノ最期』初出の問題」(p343 - p394)を参照。[[メリーランド大学]]図書館で江藤が発見した、『戦艦大和ノ最期』初出テクスト全文も併録(p395 - p433)</ref>。[[リチャード・マイニア]]による英訳版「Requiem for Battleship Yamato」(講談社、1985年)<ref>マイニアは江藤淳の友人でもある。アメリカ本土では、University of Washington Press, 1985.ISBN 0-295-96216-X</ref> がある。ISBN 4770012292
== 家族 ==
父・吉田茂、母・ツナ。姉・瑠璃子<ref>「年譜」{{Harvnb|下巻|1986|p=782}}</ref>。数代前の先祖は、[[絵師]]の[[吉田公均]]<ref name="zeni"/>。息子・[[吉田望]]は、[[電通]]勤務を経て経営コンサルタントをしている{{refnest|group="注釈"|没後まもない1980年([[昭和]]55年)12月に放映された、[[NHKスペシャル|NHK特集]]『散華の世代からの問い〜元学徒兵 吉田満の生と死〜』([[吉田直哉]]演出)に、案内役で出ている。}}。
== おもな作品 ==
★印は発禁処分作品<br />※印は書き下ろし単行本発表<br />◎印は雑誌媒体未発表<br />▲印は書類現存なし
=== 戦記など ===
{{Columns-list|2|
*[[戦艦大和ノ最期]](創元 1946年12月・第1号掲載予定)★ - 初稿
**[[GHQ]]配下CCD([[民間検閲支隊]])検閲により全文削除処分([[文學界]] 1981年9月号に後発掲載)。
*戦艦大和([[新潮]] 1947年10月号)
**「戦艦大和ノ最期」の内容を端折った改定稿。筆名は細川宗吉
*小説戦艦大和(サロン 1949年6月号)
**「戦艦大和ノ最期」の改定稿。
*軍艦大和([[銀座出版社]] 1949年8月)※
**「戦艦大和ノ最期」の改定稿。
*戦艦大和の最期([[創元社]] 1952年8月)※
**「戦艦大和ノ最期」の改定稿。
*戦艦大和ノ最期([[北洋社]] 1974年10月)※
**「戦艦大和ノ最期」の決定稿保存版。
*[[臼淵磐|臼淵大尉]]の場合――進歩への願い(季刊藝術 1973年夏季号)
*祖国と敵国の間(季刊藝術 1974年春季号)
*提督伊藤整一の生涯([[文藝春秋]] 1977年11月)※
}}
=== 随筆 ===
{{Columns-list|2|
*死を思う(カトリック新聞 1948年11月14日、21日号)
*死・愛・信仰(新潮 1948年12月号)
*病床断想(わかあゆ 1950年10号)
*ジェネレーション(行友 1951年1月)
*底深きもの(福音と現代 1951年11月号)
*行用文を斬る(にちぎん 1954年11月号)
*ニューヨークから(西片町教会月報 1957年11月号、1958年6月号)
*「戦艦大和」異聞〈のち「異国にて」と改題〉(新潮 1959年12月号)
*戦争協力の責任はどこにあるのか――「戦艦大和」に対する批判の分析([[思想の科学]] 1960年8月号)
*死と信仰(西片町教会月報 1962年7月号)
*平和の問題(西片町教会月報 1962年9月号)
*戦中派の良心〈のち「一兵士の責任」と改題〉(論争 1962年9月号)
*戦艦大和と私〈のち「死を乗り越えて」と改題〉(こころの友 1963年3月号)
*戦中派の求める平和(福音と世界 1963年8月号)
*信仰によってのみ(西片町教会月報 1964年10月号)
*平和に生きる(西片町教会月報 1965年1月号)
*暖かい友人〈のち「誠実で暖かい友人 田辺公二君追悼」と改題〉(恩寵の器 1965年5月号)
*散華の世代([[中央公論]] 1965年9月号)
*総合都市への夢([[東奥日報]] 1966年1月)
*転機(あおぎん 1966年3月・38号)
*むじゅん〈八戸の顔(1)〉([[デーリー東北]] 1966年4月)
*下北(デーリー東北 1966年6月)
*十和田〈のち「十和田と乙女の像」と改題〉(デーリー東北 1966年7月)
*高体連入場式(デーリー東北 1966年8月)
*青森県の背番号(デーリー東北 1966年9月)
*進歩(デーリー東北 1966年10月)
*みのりある対立(デーリー東北 1966年11月)
*ノルウェーと青森(東奥日報 1966年12月)
*太宰治と津軽(行友 1966年12月号)
*津軽の歴史([[陸奥新報]] 1966年12月号)
*変貌〈八戸の顔(2)〉(デーリー東北 1966年12月)
*津軽の四季(にちぎん 1967年1月号)
*われらに郷土館を(東奥日報 1967年1月)
*みなと町〈八戸の顔(3)〉(デーリー東北 1967年1月)
*姉妹都市(デーリー東北 1967年2月)
*青森人気質(デーリー東北 1967年3月)
*青森県経済の診断書〈のち「青森は未来県」と改題〉(東奥日報 1967年4月)
*死によって失われたもの([[展望 (雑誌)|展望]] 1967年5月号)
*大県岩手(街もりおか 1967年9月号)
*北の国から(西片町教会月報 1967年12月号)
*青森の友へ(西片町教会月報 1968年3月号)
*地方文化を育てる(貯蓄時報 1968年3月号)
*青森の思い出(あおもりほうそう 1968年20号)
*戦争体験と平和への責任(福音と世界 1968年8月号)
*占領下の大和(『戦艦大和』[[角川文庫]] 1968年7月)
*一兵士の責任(『戦艦大和』角川文庫 1968年7月)
*年頭雑感(西片町教会月報 1969年1月号)
*戦没学徒の遺産(『昭和十八年十二月一日 戦中派の再証言』学徒出陣25周年記念手記出版会編 1969年8月)
*前進するキリスト者(『時にかなって――[[鈴木正久]]牧師追悼文集』1969年12月)
*どのように生きるべきか(西片町教会月報 1970年8月号)
*戦争文学の広さ([[河北新報]] 1971年8月18日)
*「戦艦大和ノ最期」を教材にして([[筑摩書房]] 1971年)
*日本を考える(聖書生活 1972年5月号) - 講演要約
**佐伯晴郎『日本のキリスト教に未来はあるのか』([[教文館]] 2003年5月)所蔵
*一生の趣味(日の友 1973年5月号)
*戦責告白と現代(西片町教会月報 1973年8月号)
*東北への長い旅(西片町教会月報 1973年8月号)
*東北・きのう・明日(行友 1973年8月号)
*戦争体験をめぐって―高校生にこたえる([[婦人之友]] 1973年8月号)
*海軍という世界(『勝海舟全集 第16巻』月報 [[講談社]] 1973年)
*学徒出陣三十年([[朝日新聞]] 1973年11月26日号夕刊)
*江田島(街もりおか 1974年1月・73号)
*戦中派はなにを為しえたか――[[阿川弘之]]「暗い波濤」をめぐって(文芸展望 1974年6号)
*伝説の中のひと([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1975年3月号)
*主に従う(西片町教会月報 1975年5月号)
*青森の人びと([[日本経済新聞]] 1975年8月7日号)
*二つの慰霊祭([[野性時代]] 1975年9月号)
*戦争文学者、この三十年の心情([[週間読書人]] 1975年9月8日号)
*網干さんにとっての下北(「網干啓四郎展」パンフレット 1975年12月)
*終戦から「[[高山右近]]」までの頃([[吉川英治]]著『高山右近』講談社 1975年)
*一年の計([[月刊現代|現代]] 1976年1月号)
*昭和の五十年を送って(金融界 1976年1月号)
*弁護士ギル([[小説現代]] 1976年2月号)
*七〇年代の後半に向って(西片町教会月報 1976年3月号)
*[[江藤淳]]「[[海は甦える]]」([[諸君!]] 1976年4月号)
*伝説からぬけ出てきた男(文藝春秋 1976年4月号)
*戦中の青年たちは何を読んだか([[歴史と人物 (雑誌)|歴史と人物]] 1976年5月号)
*重過ぎる善意――父のこと(季刊藝術 1976年夏季号)
*青年は何のために戦ったか(諸君! 1976年7月号)
*学徒兵の苦しみ――「浩平詩集」について(本のひろば 1976年8月号)
*同期の桜(文藝春秋デラックス 1976年10月号)
*戦争責任告白を考え直す(西片町教会月報 1976年10月号)
*谷間のなかの日系二世(世界週報 1976年10月12日号)
*[[三島由紀夫]]の苦悩([[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1976年10月号)
*ニューヨークの三島由紀夫(俳句とエッセイ 1976年11月号)
*霊のはなし([[オール讀物]] 1976年12月号
*若者に兆す公への関心([[プレジデント社|プレジデント]] 1977年4月号)
*映画「[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]」(桜桃 1977年22号)
*書いても書いても書いても…――[[古山高麗雄]]氏の戦地再訪記(季刊藝術 1977年夏季号)
*平和への一歩(こころの友 1977年8月号)
*「何をするか」と「何であるか」(西片町教会月報 1977年10月号)
*黒地のネクタイ(ユリイカ 1977年12月号)
*あすへの話題(日本経済新聞 1978年1月9日号 - 6月26日号) - 毎週月曜日のコラム全24回(1月16日のみ休載)
**五十年、陸軍と海軍、富士山の百七十七倍、詩人、津軽海峡・冬景色、文字に飢える、火と水、書斎、フォーク、民度、スーパースター、白髪と軍帽、社会の一年生、人間の幸福、独行の人、エリート支配、平和、ライフワーク、よき時代、死、罪と罰、遠い思い出、真実を語る、決別
*青年の生と死(婦人之友 1978年4月号)
*戦後日本に欠落したもの(中央公論・経営問題 1978年春季号)
*島尾さんとの出会い(カイエ 1978年12月・臨時増刊号)
*深いよろこびを〈のち「誰よりも深いよろこびを」に改題〉(キリスト新聞 1978年12月25日)
*めぐりあい――[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]氏(毎日新聞 1979年5月23日号)
*「戦艦大和ノ最期」をめぐって(歴史と人物 1979年5月号)
*観桜会(季刊藝術 1979年夏季号)
*病床から(西片町教会月報 1979年9月・10月号)
*死者の身代りの世代(諸君! 1979年11月号)
*[[戦中派の死生観]](文藝春秋 1979年11月号)
}}
=== 戯曲 ===
*犠牲(1948年12月)◎▲ - クリスマスに世田谷教会で上演。
*俄雨(1952年4月)◎▲ – [[日本銀行]]内芸術祭で上演。
=== 短歌・賛美歌 ===
*今田神父に捧ぐ(1948年) - 短歌
*なれペトロ(1948年) - 賛美歌
=== 対談 ===
*大和の士官と武蔵の兵〈対・渡邊清〉(現代の眼 1962年12月号) - 司会・[[安田武]]
*戦争世代と戦後世代〈対・[[大久保喬樹]]〉([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]] 1975年7月)
*特攻体験と私の戦後〈対・[[島尾敏雄]]〉(文藝春秋 1977年8月号)
== 刊行本 ==
=== 単行本 ===
*『軍艦大和』(銀座出版社、1949年8月)- 口語体
*『[[戦艦大和ノ最期|戦艦大和の最期]]』([[創元社]]、1952年8月)
**跋文:[[吉川英治]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[林房雄]]、[[河上徹太郎]]、[[三島由紀夫]]
*『青森讃歌』([[東奥日報|東奥日報社]]、1967年7月)
**日本銀行青森支店長赴任時に出版、序文および表紙絵:竹内俊吉(青森県知事)
*『戦艦大和』〈太平洋戦記シリーズ〉([[河出書房新社]]、1967年11月)
*『戦艦大和』([[角川文庫]]、1968年7月、改版1995年)
**収録:「戦艦大和の最期」「占領下の『大和』」「一兵士の責任」「異国にて」「散華の世代」「死によって失われたもの」
**解説:[[阿川弘之]]。跋文:吉川英治、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫
*『戦艦大和ノ最期』(北洋社、1974年8月)- '''決定稿保存版'''
**『戦艦大和ノ最期』([[講談社]]、1981年8月/[[講談社文芸文庫]]、1994年8月/ワイド版2016年7月)
***新漢字、新仮名遣い表記。解説:[[鶴見俊輔]]、作家案内:[[古山高麗雄]]([[電子書籍]]版、2016年)
*『鎮魂戦艦大和』(講談社、1974年12月)- 序:[[江藤淳]]
**『鎮魂戦艦大和』([[講談社文庫]]〈上・下〉、1978年3月、電子書籍、2015年)- 解説:[[野呂邦暢]]
***収録:「臼淵大尉の場合 <small>進歩への願い</small>」「祖国と敵国の間」「戦艦大和ノ最期」
*『散華の世代から』(北洋社、1976年5月/講談社、1981年3月)- 新装再刊
*『提督[[伊藤整一]]の生涯』([[文藝春秋]]、1977年11月)
**『提督伊藤整一の生涯』([[洋泉社]]MC新書、2008年11月) ISBN 4862483089
*『[[戦中派の死生観]]』(文藝春秋、1980年2月)- 遺稿集。あとがき:吉田望(子)
**『戦中派の死生観』([[文春文庫]]、1984年8月、電子書籍、2012年)- 解説:[[山本七平]]
**『戦中派の死生観』(文春学藝ライブラリー(文庫判)、2015年8月)- 解説:[[若松英輔]] ISBN 4168130517
*『平和への巡礼』([[新教出版社]]、1982年9月)
*『吉田満著作集』〈上・下〉(文藝春秋、1986年9月)- 全集
*『「戦艦大和」と戦後 <small>吉田満文集</small>』([[ちくま学芸文庫]]、2005年7月) ISBN 4480089276 - [[保阪正康]]編
====「文学全集」版====
*『戦艦大和ノ最期』 - 『現代教養全集 第3巻 戦争の記録』([[筑摩書房]]、1958年11月)- 解説:[[臼井吉見]]
*『戦艦大和の最期』 - 『現代日本記録全集 第21巻』(筑摩書房、1969年9月)- 解説:[[会田雄次]]
*『戦艦大和のさいご』 - 『少年少女世界のノンフィクション』([[偕成社]]、1971年1月)- 児童出版
*『戦艦大和ノ最期』 - 『昭和文学全集 第34巻』([[小学館]]、1989年12月)
=== 共著 ===
* [[原勝洋]]『日米全調査 戦艦大和』(文藝春秋、1975年11月)
**『ドキュメント戦艦大和』(文春文庫 1986年4月、新装版2005年10月、電子書籍、2012年)- 改題再刊、解説:[[吉田俊雄]]
* [[島尾敏雄]]『特攻体験と戦後』([[中央公論新社|中央公論社]]、1978年3月)
**『特攻体験と戦後』([[中公文庫]]、1981年9月/新編 2014年7月) ISBN 4122059844
== 伝記 ==
*『追憶 吉田満』(私家版・中央公論事業出版、1980年11月) - 関係者の追悼回想
* [[千早耿一郎]]『大和の最期、それから <small>吉田満 戦後の航跡</small>』(講談社、2004年12月)
**『「戦艦大和」の最期、それから <small>吉田満の戦後史</small>』([[ちくま文庫]]、2010年7月)
* [[粕谷一希]]『鎮魂 吉田満とその時代』([[文春新書]]、2005年4月)
* [[勢古浩爾]]『大和よ武蔵よ 吉田満と渡辺清』([[洋泉社]]、2009年7月)
* [[渡辺浩平]]『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』([[白水社]]、2018年4月)
* [[貝塚茂樹 (教育学者)|貝塚茂樹]]『吉田満 身捨つる程の祖国はありや』([[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選]]〉、2023年)
== ドキュメンタリー ==
* [[NHK特集]]「散華の世代からの問い 〜元学徒兵吉田満の生と死〜」(1980年、[[NHK総合テレビジョン|NHK]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/ts/DN23LL75QJ/episode/te/WM8V3VPQXV/ |title=散華の世代からの問い 〜元学徒兵吉田満の生と死〜 |date=2022-08-16 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/gPcur |archivedate=2022-08-24 |accessdate=2022-08-24}}</ref>
== 登場作品 ==
; 映画
* 『[[日本独立]]』(2020年、演:[[渡辺大]])
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1986-9|title=吉田満著作集・上巻 |publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4163408800 |ref={{Harvid|上巻|1986}}}}
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1986-9|title=吉田満著作集・下巻 |publisher=文藝春秋|isbn=4163408908 |ref={{Harvid|下巻|1986}}}}
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1952-08|title=[[戦艦大和の最期]]|publisher=[[創元社]]|id={{NCID|BN08318563}}|ref={{Harvid|創元社|1952}}}}
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1994-08|title=戦艦大和ノ最期|publisher=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4061962873|ref={{Harvid|講談社文庫|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1980-02|title=[[戦中派の死生観]]|publisher=文藝春秋|id={{NCID|BN02481255}}|ref={{Harvid|戦中派|1980}}}} 文春文庫は1984年8月
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=2015-08|title=戦中派の死生観|publisher=文藝春秋|series=文春学藝ライブラリー|isbn=978-4168130519|ref={{Harvid|戦中派|2015}}}}
*{{Citation|和書|author=吉田満|date=1981-03|title=散華の世代から |publisher=講談社 |id={{NCID|BN09316712}}|ref={{Harvid|散華|1981}}}} 初版の北洋社は1976年
*{{Citation|和書|editor1=[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]|editor2=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor3=山中剛史|date=2005-08|title=決定版 [[三島由紀夫]]全集42巻 年譜・書誌|publisher=新潮社|isbn=978-4106425820|ref={{Harvid|42巻|2005}}}}
*{{Citation|和書|editor=小野好恵|date=1976-10|journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜|issue=8|volume=11|pages=|publisher=[[青土社]]|id={{ASIN|B00UYW77RS}}|ref={{Harvid|ユリイカ|1976}}}}
*{{Citation|和書|date=2010-10 |title=[[中央公論]]特別編集 三島由紀夫と戦後 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4120041617 |ref={{Harvid|中公編集|2010}}}}
*{{Citation|和書|author=[[千早耿一郎]]|date=2004-12|title=大和の最期、それから <small>吉田満 戦後の航跡</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062126830 |ref={{Harvid|千早|2004}}}}
== 外部リンク ==
* [http://www.nozomu.net/journal/000125.php 父吉田満の遺言]
* [https://hdl.handle.net/2115/35665 戦艦大和からキリスト教へ : 吉田満における信仰と平和 石川明人]
* {{Kotobank}}
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{{DEFAULTSORT:よした みつる}}
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:20世紀のプロテスタント信者]]
[[Category:日本銀行の人物]]
[[Category:大日本帝国海軍予備員]]
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[[Category:日本基督教団の人物]]
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[[Category:1979年没]]
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マックス
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マックス、Max、Maxx。
マックス、Maxはヨーロッパの人名、または英語で「最大(限度)」(最大値)を意味するマキシマム(Maximum)の短縮形。
マクシミリアン・マクシミリアーノなどの愛称である。詳細は各事項を参照。
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マックス、Max、Maxx。 マックス、Maxはヨーロッパの人名、または英語で「最大(限度)」(最大値)を意味するマキシマム(Maximum)の短縮形。
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'''マックス'''、'''Max'''、'''Maxx'''。
マックス、Maxはヨーロッパの人名、または[[英語]]で「最大(限度)」([[最大値]])を意味する'''[[マキシマム]]'''(Maximum)の短縮形。
== 人名 ==
=== 姓 ===
* {{仮リンク|アーサー・マックス|en|Arthur Max}} - アメリカの映画美術監督
* [[ガブリエル・フォン・マックス]] - [[プラハ]]生まれの[[オーストリア]]の画家
* {{仮リンク|ジャン・マックス|en|Max Jean|fr|Jean Max}} - [[フォーミュラ・ルノー|フランス・フォーミュラ・ルノー]]初代チャンピオン([[1968年]])
* [[ピーター・マックス]] - アメリカ合衆国の美術家
* [[マルティン・マックス]] - [[ポーランド]]生まれのドイツのサッカー選手
* [[ヨゼフ・マックス]](ヨーゼフ・マックス) - [[チェコ人の一覧|チェコ人]]の彫刻家、画家。
=== ミドルネーム ===
* [[ゲオルク・マックス・ホフマン]] - [[ドイツ]]の画家
* {{仮リンク|ジョー・マックス・ムーア|en|Joe-Max Moore}} - アメリカ人サッカー選手。[[ニューイングランド・レボリューション]]などでプレー。
* {{仮リンク|W・マックス・コーデン|en|W. Max Corden}} - 経済学者。[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]名誉教授。[[国際貿易]]における[[オランダ病]]モデルなどで知られる。
* {{仮リンク|ピエール・マックス・デュボワ|en|Pierre Max Dubois|fr|Pierre-Max Dubois}} - フランスの作曲家
* [[B・マックス・メール]] - [[5セント硬貨 (アメリカ合衆国)#リバティー・ヘッド・ニッケル(1883年~1913年)|リバティー・ヘッド・ニッケル]]を扱ったコイン業者<!-- Max Mehl 英語版で検索すると何件かヒットするので、特筆性はあるらしい -->
* [[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン]] - [[アイゼンシュタイン整数]]を発見したドイツの数学家
* [[フリードリヒ・マックス・ミュラー]] - イギリスに帰化したドイツのインド学者
* [[レオナルド・エーデルマン|レオナルド・マックス・エーデルマン]] - [[RSA暗号]]を発明したアメリカ合衆国の暗号研究者
=== 名 ===
[[マクシミリアン]]・[[マクシミリアーノ]]などの愛称である。詳細は各事項を参照。
; あ行
* [[マックス・アイティンゴン]] - ロシア出身の精神分析学者
* [[マックス・アマン]] - ドイツの政治家
* [[マックス・イオナータ]] - イタリアのジャズのサクソフォーン奏者
* [[マックス・インメルマン]] - ドイツのエース・パイロット
* [[マックス・ヴァインライヒ]] - 言語学者
* [[マックス・ヴィーン]] - ドイツの物理学者
* [[マックス・ウィリアン・カラスコ]] - ブラジルのサッカー選手
* [[マックス・ヴェーバー]] - ドイツの社会学者・経済学者
* [[マックス・ヴェルトハイマー]] - チェコの心理学者
* [[マックス・ヴォルフ]] – ドイツの天文学者
* [[マックス・エーワ]] - オランダの数学者、チェスプレイヤー
* [[マックス・エルンスト]] - ドイツ人画家・彫刻家
* [[マックス・エルトマンスデルファー]] - ドイツの指揮者・ピアニスト・作曲家
* [[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]] - ドイツの政治家
* [[マックス・オフュルス]] - ドイツ出身の映画監督
; か行
* [[マックス・カセラ]] - アメリカ合衆国の俳優・声優
* [[マックス・カバンヌ]] - フランスの漫画家、イラストレーター
* [[マックス・カルベック]] – ドイツ・オーストリアの音楽評論家
* [[マックス・キャリー]] - アメリカ・メジャーリーグの選手
* [[マックス・クノール]] - ドイツの電気技術者
* [[マックス・クラウゼン]] - ドイツ人の無線技士、スパイ
; さ行
* [[マックス・サンピエール]] - カナダ出身の野球選手
* [[マックス・ザスロフスキー]] - アメリカ人の元バスケットボール選手
* [[マックス・シャーザー]] - アメリカの野球選手
* [[マックス・シェーラー]] - ドイツの哲学者
* [[マックス・シェーンヘル]] - オーストリアの作曲家・指揮者
* [[マックス・シュティルナー]] - ドイツの哲学者
* [[マックス・シュメリング]] - ドイツ人元プロボクサー
* [[MAX鈴木|マックス・鈴木]] - 日本人のフードファイター、タレント
* [[マックス・スタイナー]] - アメリカ人の映画音楽作曲家
; た行
* [[マックス・タイラー]] - 南アフリカ共和国のウイルス学者
* [[マックス・ツォルン]] - 「[[ツォルンの補題]]」で有名な、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の数学者
* [[マックス・デキュジス]] - フランスのテニス選手
* [[マックス・デルブリュック]] - アメリカ合衆国の生物物理学者
* [[マックス・ドイッチュ]] - フランスの作曲家・指揮者・音楽教育家
* [[マックス・トネット]] - イタリアのサッカー選手
* [[マックス・トラップ]] – ドイツの作曲家・音楽教師
; な行
* [[マックス・ノルダウ]] - ハンガリー出身のシオニズム指導者、医師、小説家、哲学者、社会評論家
; は行
* [[マックス・パーキス]] - イングランドの俳優
* [[マックス・バウマン]] - ドイツの作曲家
* [[マックス・パピス]] - 元F1ドライバー
* [[マックス・ビアッジ]] - イタリアのモーターサイクル・ロードレーサー
* [[マックス・ビアラ]] - ナチス・ドイツ親衛隊の隊員
* [[マックス・ピカート]] - スイスの医師、著述家
* [[マックスファクター|マックス・ファクター]] - ポーランド系ユダヤ人の美容師、同名の会社の設立者
* [[マックス・フィードラー]] - ドイツの指揮者・作曲家・ピアニスト
* [[マックス・フェルスタッペン]] - オランダのF1ドライバー
* [[マックス・フォン・シドー]] - スウェーデンの俳優
* [[マックス・フォン・シリングス]] - ドイツの作曲家・指揮者
* [[マックス・フォン・バーデン]] - バーデン大公家家長
* [[マックス・フォン・ブラント]] - ドイツの外交官
* [[マックス・フォン・ペッテンコーファー]] - ドイツの衛生学者、化学者
* [[マックス・フォン・ラウエ]] - ドイツの物理学者
* [[マックス・ブティング]] - ドイツの作曲家
* [[マックス・フライシャー]] - [[フライシャー・スタジオ]]の設立者、元経営者
* [[マックス・プランク]] - ドイツの物理学者
* [[マックス・ブラント]] - ドイツおよびオーストリアの作曲家
* [[マックス・ブランド]] - アメリカ合衆国の作家、脚本家
* [[マックス・フリッシュ]] - スイスの小説家、劇作家、建築家
* [[マックス・ブルッフ]] - ドイツの作曲家
* [[マックス・ブロート]] - チェコ出身の作家、文芸・音楽評論家、作曲家
* [[マックス・ベア (ジャーナリスト)]] - ユダヤ系ジャーナリスト
* [[マックス・ベア (ボクサー)]] - アメリカ合衆国のプロボクサー、俳優
* [[マックス・ベックマン]] - ドイツの画家
* [[マックス・ベナブル]] - アメリカ合衆国の元野球選手
* [[マックス・ペルーツ]] - イギリスの化学者
* [[マックス・ベレーク]] - ドイツの精密機械エンジニア
* [[マックス・ホフマン]]
* [[マックス・ホルクハイマー]] - ドイツの哲学者、社会学者
* [[マックス・ボハチュ]] - オーストリアのフィギュアスケート選手
* [[マックス・ボルドリー]]
* [[マックス・ボルン]] - イギリスの理論物理学者
; ま行
* [[マックス・マーティン]] - プロデューサー
* [[松浦勝人|マックス松浦]] - [[松浦勝人]]の通称
* [[マックス・マニックス]] - オーストラリアの映画監督・脚本家
* [[マックス・ミルヌイ]] - ベラルーシのプロテニス選手
* [[村井智建|マックスむらい]] - 日本の実業家[[村井智建]]の別名義
* [[マックス・メイビン]] - アメリカ合衆国のマジシャン・メンタリスト
* [[マックス・モーロック]] - ドイツの元サッカー選手
* [[マックス・モズレー]] - 国際自動車連盟の会長
; や行
* [[マックス・ヤンマー]] - イスラエルの物理学者
; ら行
* [[マックス・ライト]] - アメリカ合衆国の俳優
* [[マックス・ラインハルト]] - オーストリアの演出家、プロデューサー
* [[マックス・リットマン]] - ドイツの建築家
* [[マックス・リュティ]] - スイスの学者
* [[マックス・リーバーマン]] - ドイツの画家
* [[マックス・ルドルフ]] - アメリカの指揮者
* [[マックス・レーガー]] - ドイツの音楽家
* [[マックス・ロスタル]] – イギリスの音楽家
* [[マックス・ローチ]] - アメリカ合衆国の音楽家
=== その他 ===
* [[MAX (モデル)]] - 日本で活動する[[セネガル]]国籍の[[モデル (職業)|モデル]]・俳優
== 乗り物 ==
===自動車===
* [[ダイハツ工業]]の[[軽自動車]]
** 2001年 - 2005年に製造された[[軽セミトールワゴン]] {{see|[[ダイハツ・MAX]]}}
** 1970年 - 1977年に製造された「フェローマックス」および1977年 - 1980年に製造された[[ダイハツ・クオーレ|マックスクオーレ]]{{see|[[ダイハツ・フェロー]]}}
* [[いすゞ自動車]]の[[貨物自動車|トラック]]
** [[いすゞ・D-MAX]]
** [[いすゞ・フォワード|いすゞ・FORWARDMAX]]
** [[いすゞ・ギガ|いすゞ・GIGAMAX]]
* セハン(現:[[韓国GM]])・マックス - [[ピックアップトラック]]。メプシ(≒[[いすゞ・ジェミニ]])の派生車種。
===オートバイ===
* [[ヤマハ・V-MAX]]
* [[ヤマハ・TMAX]]
===鉄道===
* [[Max (鉄道車両)]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[2021年]]まで保有していた[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]用の[[2階建車両]]、およびそれを使用した[[列車]]の愛称。
* {{仮リンク|マックス・ライトレール|en|MAX Light Rail}} - [[アメリカ合衆国]]の[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]都市圏を走る[[ライトレール]]。
===航空機===
* [[ボーイング737MAX]]
== 企業 ==
* [[マックス (機械メーカー)]] - [[ホッチキス]]などの文具で知られる。
* [[マックス (石鹸メーカー)]] - [[大阪府]][[八尾市]]に本社を置く石鹸メーカー。
* [[ミスターマックス]] - [[ディスカウントストア]]
* ドラッグマックス - 新潟県地盤の[[ドラッグストア]]。[[マツモトキヨシ甲信越販売]]が運営。
* [[マックス (出版社)]] - [[東京都]][[千代田区]]に本社を置く出版社。
* [[マックス (ファーストフード店)]] - [[新潟県]][[佐渡市]]にある[[ファストフード店]]。
* [[マックスハンバーガー]] - [[スウェーデン]]の[[ファーストフード]]・[[チェーンストア|チェーン]]。
* [[マックスファクター]] - [[アメリカ合衆国]]の[[化粧品]]会社。
* MAXデンコードー、デンコードーMAX - [[デンコードー]]が[[東北ケーズデンキ]]を吸収する以前に運営していた家電店の中でも特に規模の大きい店舗に冠された名称。東北ケーズデンキ吸収後の自社店舗のケーズブランド転換に伴って、順次消滅した。仙台圏の3店舗を除き、概ね「ケーズデンキ○○本店」の名称となった(デンコードーMAX秋田店→ケーズデンキ秋田中央本店など)。
* [[マックスバリュ]] - [[イオングループ]]のスーパーマーケット。
* [[MAX風龍]] - [[豚骨ラーメン]]店[[博多風龍]]の系列店。
* [[マックス・エア]] - [[ナイジェリア]]の[[航空会社]]。
== 商品名 ==
* [[マックスコーヒー]] - 缶コーヒー
* MAX - [[マキシム・インテグレーテッド|マキシム]]製の[[集積回路|IC]]の型番 ¥。
* Max - [[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]ソフトウェアである[[3ds Max]]の略称。
* [[MAX MACHINE]] - [[コモドール]]の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]。
* [[Max/MSP]] - リアルタイム音響処理用プログラム。コンピュータミュージックによるライブ演奏の定番。
* [[IMAX]] - 映画映写システムの商品名、および開発企業の名称。
== 芸能関連・著作物 ==
* [[MAX (音楽グループ)]] - 日本の女性4人組の歌手グループ。
* [[MAX渡辺]] - モデラー
* [[MAX鈴木]] - フードファイター、タレント
* [[松浦勝人|MAX松浦]] - [[エイベックス|avex group]]のグループ総帥兼音楽プロデューサー、本名:松浦勝人、松浦真在人とも。
* [[東貴博|東MAX]]-お笑いコンビ・[[Take2]]のボケ担当の東貴博の愛称。
* [[マックス (DJ)]] - [[福岡県]]の民間FMラジオ局、[[九州国際エフエム|LOVE FM]]の[[ラジオパーソナリティ|エア・ジョッキー]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]スタジアムDJ。
* 歌手グループ[[東方神起]]の[[チャンミン]]の別名.
* [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]から発売されている[[洋楽]][[オムニバス]][[アルバム]]シリーズ。
* [[いとしのマックス 〜マックス・ア・ゴー・ゴー〜|いとしのマックス]] - [[1967年]]に[[荒木一郎]]が作詞作曲した歌謡曲の曲名。
* [[ワイルド・スピード MAX]]
* [[まんがタイムきららMAX]] - [[4コマ漫画]]雑誌。
=== テレビ番組 ===
* [[ウルトラマンマックス]] - [[円谷プロダクション]]製作の特撮テレビドラマ作品並びに作中に登場する巨大変身ヒーローの名称。
* [[マックス・ヘッドルーム]]
* [[スポーツMAX]] - [[日本テレビ放送網]]の[[スポーツ]]番組。[[番組表|ラテ欄]]には''SMAX'',''SPORTSMAX''とも出る。
* [[天才てれびくんMAX]] - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]の子供向け番組。
* [[爆走兄弟レッツ%26ゴー!!#爆走兄弟レッツ&ゴー!!MAX|爆走兄弟レッツ&ゴー!! MAX]] - [[ミニ四駆]]を題材としたマンガ、及びそれを原作とするアニメ。
* 「[[MAX Part.1]]」及び「[[MAX Part.2]]」 - 『[[X-ファイル]]』のエピソード。
== フィクション ==
* [[マクシミリアン・ジーナス]](通称マックス) - [[マクロスシリーズ]]の登場人物。
* [[ウルトラマンマックス]] - 特撮番組名、およびその作品中に登場する登場するキャラクターの略称。
* [[徳弘正也]]の[[漫画]]およびそれを原作とした[[テレビアニメ]]『[[ジャングルの王者ターちゃん]]』に登場する架空の組織の名前。
* マックス・ヘッドルーム - 同名のテレビ番組の主人公の名前 (本名はエディスン・カーター)。
* マックス - 漫画『[[青の6号]]』に登場する敵組織。
* マックス - 映画『[[グレートレース]]』の登場人物。
* マックス - 『[[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]]』に登場する[[マサト (アニメポケットモンスター)|マサト]]の海外版名。
* MAX(マックス) - [[ボンバーマンシリーズ]]に登場するキャラクター。
** ボンバーマンシリーズの[[ボンバーマンシリーズ#キャラクター|基本キャラクター]](通常世界観におけるMAX)。{{main|[[ボンバーマンキャラクター一覧#ボンバーマンの味方]]}}
** [[ボンバーマンジェッターズ]]に登場する悪役。
** [[スーパーボンバーマン R]]に登場するキャラクター。
* マックス - ゲーム『[[パンヤシリーズ]]』に登場するキャラクター。
* [[ウォルト・ディズニー]]が生み出したアニメーションのキャラクターの名前。
** [[マックス (ディズニーキャラクター)]] - [[グーフィー]]の息子。
** [[マックス (リトル・マーメイド)]] - 映画『[[リトル・マーメイド]]』に登場する犬の名前。
** [[マックスおじさん]] - [[ライオン・キング#ティモン(Timon)|ティモン]]のおじである[[ミーアキャット]]の名前。
* [[ジャンボマックス]] - [[バラエティ番組]]『[[8時だョ!全員集合]]』のコントに1973年より登場していた、身長約3mの着ぐるみ人形。
* マックス - [[きかんしゃトーマス]]に登場する[[ダンプカー|ダンプトラック]]。
* 水原マックス - 漫画およびアニメ『[[爆転シュート ベイブレード]]』の登場人物。
== その他 ==
* [[Meteor Alert eXcalation]](略称MAX) - 「tbn project-x team」が開発した[[コンピュータゲーム]]で[[3D]][[カーアクション]]ゲーム。
* [[マックス (2015年の映画)]]
* [[Max (ストリーミングサービス)]]
== MAXX ==
* [[GM大宇・ウィンストーム]]MAXX
* [[MAYA MAXX]]
== 関連項目 ==
* {{Prefix|マックス}}、{{Prefix|max}}
*{{intitle}}
*{{intitle|max}}
* [[Maks]]
* [[マクシミリアーノ]]
* [[マクシミリアン]]
* [[ミニマム]]
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[[Category:英語の姓]]
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山本弘 (作家)
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山本 弘(やまもと ひろし、1956年 -)は、日本のSF作家、ファンタジー作家、ゲームデザイナー。と学会元会長。「山本弘」はペンネーム、本名は「山本浩」。日本SF作家クラブ会員。京都府出身。最終学歴は京都市立洛陽工業高等学校電子科卒業。
アマチュア時代に筒井康隆主宰のSFファングループ「ネオ・ヌル」に参加、1976年からSF同人誌『NULL』にて短編小説を発表する。また、やはりSF同人誌『星群』にも参加。のちに改稿され商業誌に発表された「シュレディンガーのチョコパフェ」は、最初『星群』のオリジナル・アンソロジーに発表されたものである。同作により、1986年にSFファンジン大賞・創作部門を受賞。
1978年、第1回奇想天外SF新人賞佳作を受賞した「スタンピード!」でデビュー。このとき同時に佳作を受賞した作家に新井素子がいる。処女長編は1988年出版の『ラプラスの魔』(角川文庫より刊行)。
安田均をブレイン役として、水野良らとSFゲームサークル「シンタックスエラー」を結成。のちにゲームデザイナー集団グループSNEに発展する。
グループSNEでは、SF、ファンタジー小説を手がけ、現在はグループSNE社友。1990年代の著作の大半はライトノベルの長短編で『ソード・ワールド』シリーズ(富士見ファンタジア文庫)および『妖魔夜行』・『百鬼夜翔』シリーズ(角川スニーカー文庫)の主要著者グループの一人である。ソード・ワールドにおいては西部諸国、『妖魔夜行』シリーズでは世界観の基本設定を担当し、森崎摩耶、穂月湧を主人公としたシリーズを執筆している。また浜本弘として自作にチョイ役で出演している。このことは後日コンプRPGの読者にシナリオネタにされている(『生みの親を死守せよ!』という作品が同雑誌の妖魔夜行コーナーで投稿作品として紹介されている)。
1993年、同人誌『超絶図書館』によりSFファンジン大賞エディトリアルワーク部門を受賞した。
ライトノベルSFの分野では『時の果てのフェブラリー』などの作品があり、この分野においては、野尻抱介らとともにハードSF志向が強い作家のひとりである。「SFの本質はバカ(バカバカしさ&真剣さ)である」というスタンスを表明しており、現実にはありえない発想に科学考証を加えるというセンス・オブ・ワンダーを重視している。
ライトノベル分野以外では、2003年以降SF作品を精力的に発表し、正統派のSF作家としての評価を急速に高めた。2004年の長編『神は沈黙せず』は第25回日本SF大賞候補作に、2005年の短編「メデューサの呪文」はSFマガジン読者賞に選ばれた。2006年の連作短編集『アイの物語』は第28回吉川英治文学新人賞候補になり、英語版も刊行されている。2007年の連作長編『MM9』は第29回日本SF大賞候補になり、さらに『SFが読みたい!』のベストSF国内篇の第2位となるなどした。同作も『アイの物語』に続いてハイカソルより英語版が刊行された。2011年、『去年はいい年になるだろう』で第42回星雲賞日本長編部門(小説)を受賞。
「主人公は世界の本当の姿を知らない」「現実は見た目どおりではない」というスタンスの作品を示す「パラノイアSF」という概念をたびたび提唱している。
本職はSF作家であるが、トンデモ本を楽しむ集団「と学会」の初代会長としてもよく知られている。
と学会名義では『トンデモ本の世界』や『トンデモ超常現象99の真相』などに執筆しており、その他のオカルト関係の書籍、雑誌、ムックにもよく寄稿している。ノストラダムス、UFO、ゲーム脳などといった疑似科学、オカルトに関するコメントを発表するなど、マスコミでの活動もしている。1997年以降は何度かテレビ番組にも出演しており、2005年には『奇跡体験!アンビリバボー』にも出演し、超能力実験の審査員を務めた。
これらの超常現象や陰謀論などを扱ったテレビ番組、雑誌などに関連してマスメディアの姿勢について言及することも多い。マスメディアは人の手によるものであるため、時には誤った内容を伝えたり編集や構成によって取材内容の改竄をおこなうことが可能であり、場合によっては演出や脚本におけるヤラセや捏造もありうる、として実際に活字や映像として出される情報が全てではないこと、また必ずしも事実とは限らないことをたびたび指摘しメディア・リテラシーの必要性を唱えている。
また『トンデモ本の世界R』では従来の疑似科学や陰謀論の他に週刊金曜日の『買ってはいけない』や漫画家小林よしのりの『戦争論』をトンデモ本として取り上げたことで一部より政治的な立場を取り沙汰されたが、自称ノンポリである。 この件について山本は「左派的色彩の強い『週刊金曜日』と右派的色彩の強い『ゴーマニズム宣言』を並べる事で「ウヨクだ」とか「サヨクだ」とかいう誤解を避ける意図があった」としている。
以前より『ニフティサーブ』などで歴史修正主義への嫌悪を隠さず、そうした傾向を持つ本をトンデモ本として取り上げており、1995年のマルコポーロ事件においては、西岡昌紀を宝島30において厳しく批判した。また2003年に出版したSF小説『神は沈黙せず』において南京大虐殺や南京大虐殺論争を取り上げ、作中人物が南京大虐殺否定論(及び中国の南京大虐殺の被害者三十万人説)を批判する描写があった。これによりネット上では賛否両論の議論が繰り広げられ、その後自らこれを解説するサイトを作成している。
2002年には特撮・アニメ・マンガ等の「設定の非科学性」を科学的に検証してベストセラーになった『空想科学読本』シリーズ及び柳田理科雄をデタラメとして痛烈に批判した本『こんなにヘンだぞ!「空想科学読本」』をと学会会長名義で出版している。
地球温暖化懐疑論への批判も行なっている。また、ASIOS(超常現象懐疑的調査のための会)の会員でもある。
東京都青少年の健全な育成に関する条例により非実在青少年の性的描写や暴力的な描写を規制することには強く反対しており、表現の自由や言論の自由を強く尊重すべきとしているが、ヘイトスピーチ規制法案には賛成しており、例えば「非処女の女性は中古品」とネット上に書き込んだ人に対しても、積極的に検挙して取り締まるべきであると主張している。
在日特権を許さない市民の会ならびにネット右翼の主張も、デマや捏造が多く含まれている上に「表現の自由の範疇に含まれない悪質な差別行為をしている」として問題視している。2013年ごろからは安田浩一と共に批判することが多い。また、日本では在日韓国・朝鮮人が犯罪を行った際に通名報道されることが少なくないが、山本は通名報道を批判する人間は差別主義者であるとの発言もしている。2011年のフジテレビ抗議デモにも全面否定的であり、この見解については、山本も所属するASIOSの客員で元副会長である若島利和と激しく対立した。
なお、唐沢俊一の盗作問題に関して、唐沢を擁護する発言を行ったとして藤岡真から厳しい批判を受けている。
2014年4月11日にと学会の活動から引退した。
グループSNEの創立メンバーの一人であり、SNE時代にはコンピュータゲームやテーブルトークRPGの開発にも関わっている。1998年にグループSNEより独立。それ以降は小説・評論を中心に活動しており、ソード・ワールドRPGに関しても『サーラの冒険』シリーズに属する小説の執筆などしか行っていない。ただし、山本の初デザインといえるTRPGが商業出版で初めて発表されてもいる。2006年7月20日発売の『Role&Roll』誌において『サーラの冒険』シリーズの後日談的リプレイ『絶対危険チルドレン』のゲームマスター(GM)を務め、『猫の街の冒険』シリーズで復帰した清松みゆきに続いてGM復帰を果たしている。
テーブルトークRPG『ソード・ワールドRPG』関連での業績も多く、1980年代末から1990年代前半にかけて『月刊ドラゴンマガジン』誌においてリプレイ第1部、リプレイ第2部を連載。水野良の小説『ロードス島戦記』の原型となった『コンプティーク』誌上のテーブル・トークRPGリプレイ(第一部)において、エルフのディードリットのプレイヤーを務めた。その後『ソード・ワールドRPGリプレイ第1部』、『ソード・ワールドRPGリプレイ第2部』、『フォーセリア・ガゼット』『ソード・ワールドRPGアドベンチャー』『ソード・ワールドRPGシアター』西部諸国ワールドガイドといった企画記事を連載した。リプレイ、アドベンチャー、シアターについてはそれぞれの頁を参照。
『フォーセリア・ガゼット』は西部諸国で発生した事件を読者が新聞記事の形式で投稿するという企画であり、ここで登場した『最強魔獣』事件は『ソードワールドRPGアドベンチャー』に組み込まれている。同じく『無口王の杖』事件も『アドベンチャー』に組み込まれる予定であったが、『最強魔獣』事件があまりにも急激に展開し、またスケールが大きくなったためか実現せずに終わった。
同コーナーのイラストレーターは天野喜孝、佐々木亮が務めた。
山本の担当したソードワールド作品においては他の作者の作品に比して独自のモンスターなどSF的な設定が登場する率が高く、ありきたりの西洋風ファンタジーとはどこか異なる世界観を醸し出している。
独自のモンスターという点では『西部諸国ワールドガイド』には高知県のジョン・スミス(投稿者)の手になる多数のフューチャー・イズ・ワイルド風のオリジナルモンスターが収録されており、山本は投稿紹介時これらのモンスター投稿に対し賛を寄せている。また採用には至らなかったものの「ゴーレム金庫」「アイ・ボール」などSF的な印象を持つモンスター投稿は高評価を獲得している。
ソード・ワールドRPGシアターにおいても『野獣、故郷に帰る』の主人公ジャミル・アディを筆頭に実に全10作のうち約1/3になる3作にオリジナルモンスターが登場、準採用作である五分間シアターにも新種のグレーターデーモンが悪役として登場する話、機械化人の恐るべき運命を描いた作品などファンタジー離れした作品がある。没作品にも『魔法技術によって改造された強化人間』を扱った作品が多数紹介されている。
看板作である『サーラの冒険』においては写実的に人間と異なる視覚を持つ生物やワイバーンを描きまた「死んだキマイラが骨になる」との描写を行い物語の鍵にするなど、一般的に知られたモンスターを扱う際でも生態について掘り下げかつ現実的に描写するという、珍しい扱い方をしており、山本の作家としての根本がSFにあることをうかがわせた。
これに先立つリプレイ第1部においては「ミノタウロスの糞がある」という描写を行い 、第2部では一度は面倒だから考えたくないと言い切りながらも後日『ゲート・デーモンの仮面』において人間との差異を読み物として描き出しつつ説明しきったのみならず、言語までも実際に描写してリザードマンの生態を描き、またゴブリンの集落の営みを説得力ある内容で書き上げており、モンスターを扱う手腕は確かといえる。このほか、『サーラの冒険』においては罪を重ねすぎた小悪党、魔獣になってしまった人間やアンデッドモンスターと化した狂人の思考を緻密に、かつ生々しく書き上げており、単に外形を整えるのみならず内面まで踏み込んで描写していることが分かる。なればこそ、『モンスターは単なるやられ役ではない』との主張を展開できたといえよう。
このような傾向は、初期作品である『モンスターの逆襲』からみられる。同作品は、RPGのやられ役であるゴブリンが、一族の仇である冒険者パーティーに復讐をするというもので、作品のテーマ自体がモンスターからの視点に立ったものとなっている。
楽しさを追求する一方、物語の結末や展開の合理性を考え抜き、安易な御都合主義を嫌うことが山本の特徴である。この方針はかつて担当した読者参加企画「ソード・ワールドRPGシアター」の投稿作審査においても貫かれており、ハガキ紹介ページで広言してもいる。このコーナーでは『ジョジョの奇妙な冒険』を例に挙げ、アイディアで勝負することがいかに読者に支持されるかを説いていた。『椿三十郎』を例に挙げて見せ方の工夫を説明したこともある。
もっともシアターにおいてはアイディア重視を貫いた結果、高評価を勝ち得ながらも長すぎる世界に与える影響が大きすぎるなどの理由から不採用になったりした作品は多数存在し(ドラゴンマガジン1997年8月号「ドレックノールの話いろいろ」に紹介された諸作品など)、一方で愛の力に頼ったと取れなくもない展開をしながらも作品の完成度の高さから採用になった作品も存在していることは確かである。
また「愛の力でパワーアップ」を避けるためにアイディアを練りこんだもののその結果初歩の物理法則を見落としてしまい叱責された作品、ストーリーを練りこんだものの途中で力尽きて批判された作品、不採用となった作品を書き直した結果作品レベルが低下・陳腐化し叱責を受けた作品なども存在し、「ただ考えればいいというものではない」という姿勢も垣間見える。
作品内容と直接関係のない設定、ペンネームなどに凝り過ぎることに対しても否定的であり、企画の中期には前者を「設定病」と呼んで設定好きの度が過ぎる投稿者を注意している。また末期にはペンネームを難読なものに変えて投稿した投稿者を叱責したこともあり、楽しさを削ぐ難解さを嫌う姿勢が見える。
本職ではないが漫画やイラストも描く。単行本などでまとまったものはないが『ウォーロック』誌では漫画の連載もあった。リプレイのあとがきや小説中の図解イラストなど、自分の著書で挿絵・デザインの一部を手がけることもある。
年齢は自称「心はいつも15歳」。雑誌『ファンロード』の常連投稿者でもあり、『リアルタイプメタルダー こいつはダサいぜ』などの投稿で読者を沸かせた。山本のキャラも作られ、これを利用した『スーパー邪悪獣ジュウゴサイダー』など他の投稿者の投稿でネタにされることもあった。またファンロードには山本に関して、内容的にはたわいもないながら暴露系の投稿が明らかに山本の同僚等の身近と推測される人物からされたこともある。また山本自身が暴露系の投稿をしたこともある。
また、いわゆる「ロリコン」であることをしばしば自著で公言している。角川スニーカー文庫版『時の果てのフェブラリー』(本編中にもややきわどい描写や発言が入っているが)のあとがきにも東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の記憶も生々しい時点で挑発的なコメントを残している(このあとがき自体がフォーマルな敬体・SF調の常体・おちゃらけの会話体(?)という3種類のあとがきを併記して「自分によっていいあとがきを選んでください」という実験作となっており、最後の会話体のあとがき中にこのコメントが出てくる)。『トンデモ本の世界T』のあとがきにおいても自身がロリコンであると述べたうえで、違法行為や迷惑行為などを行わず単にそのような嗜好を持つに過ぎない大多数の「ロリコン」をも犯罪者扱いする世間の風潮を非難する発言を行い、ネットその他で話題となった。
JGC1997のソード・ワールドイベント『西部諸国のつくりかた』においては『人を感動させるのは簡単、怖がらせることは難しい、人を笑わせることが最も難しい』と発言、また『ギャラクシー・トリッパー美葉』第2巻のあとがきにも浦沢義雄のテイストに挑戦したという趣旨の記述があり、『笑い』『楽しさ』を重視する姿勢を見せる。
「女ターザン映画」の愛好家であり、『映画秘宝』誌に関連する文章を寄稿。また、MADテープ、MADムービー等も愛好しており、雑誌誌上で『仮面ライダーV3』のOPの歌詞を入れ替えたMADを実際に歌詞を表記して紹介した。同誌上では「もりもり力が抜けてくる」と『超合体魔術ロボ ギンガイザー』の最終回に関する批評も行った。関連して初音ミク関連の音楽、映像も愛好している。
石化・凍結フェチである事を明言しており、しばしば作中にもそのようなシーンを描写し、そういった嗜好のサイトの掲示板にも出入りしていた。
唐沢俊一および彼の劇団仲間、と学会の有志により『と学会会長 山本ひろし物語』の映像が2008年に製作され、と学会の会合にて公開された。その後、自主制作盤のDVDとして製品化され、と学会のイベントにて販売されている。役者が山本弘を演じ、モテモテの人気者ではあるがオカルトの一切を極度に否定する事によって女性が離れていくという内容の自虐的なコメディである。
2018年5月10日から9月4日まで脳梗塞で入院していたことを明らかにし、カクヨムにてリハビリを兼ねた闘病日記を執筆中である。
2020年4月時点でリハビリを続けるも、”いっこうに良くなる気配はなく、二桁の足し算すらろくにできない。『プロジェクトぴあの』のような高度な数学を駆使する作品は二度と書けないのです。”と綴っており、ハードSFに関しては実質的に断筆を宣言している。
「山本弘」名義のもの。他に著者「と学会」「ASIOS」名義の本にも、執筆多数。
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "グループSNEの創立メンバーの一人であり、SNE時代にはコンピュータゲームやテーブルトークRPGの開発にも関わっている。1998年にグループSNEより独立。それ以降は小説・評論を中心に活動しており、ソード・ワールドRPGに関しても『サーラの冒険』シリーズに属する小説の執筆などしか行っていない。ただし、山本の初デザインといえるTRPGが商業出版で初めて発表されてもいる。2006年7月20日発売の『Role&Roll』誌において『サーラの冒険』シリーズの後日談的リプレイ『絶対危険チルドレン』のゲームマスター(GM)を務め、『猫の街の冒険』シリーズで復帰した清松みゆきに続いてGM復帰を果たしている。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "テーブルトークRPG『ソード・ワールドRPG』関連での業績も多く、1980年代末から1990年代前半にかけて『月刊ドラゴンマガジン』誌においてリプレイ第1部、リプレイ第2部を連載。水野良の小説『ロードス島戦記』の原型となった『コンプティーク』誌上のテーブル・トークRPGリプレイ(第一部)において、エルフのディードリットのプレイヤーを務めた。その後『ソード・ワールドRPGリプレイ第1部』、『ソード・ワールドRPGリプレイ第2部』、『フォーセリア・ガゼット』『ソード・ワールドRPGアドベンチャー』『ソード・ワールドRPGシアター』西部諸国ワールドガイドといった企画記事を連載した。リプレイ、アドベンチャー、シアターについてはそれぞれの頁を参照。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "『フォーセリア・ガゼット』は西部諸国で発生した事件を読者が新聞記事の形式で投稿するという企画であり、ここで登場した『最強魔獣』事件は『ソードワールドRPGアドベンチャー』に組み込まれている。同じく『無口王の杖』事件も『アドベンチャー』に組み込まれる予定であったが、『最強魔獣』事件があまりにも急激に展開し、またスケールが大きくなったためか実現せずに終わった。",
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"text": "同コーナーのイラストレーターは天野喜孝、佐々木亮が務めた。",
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"text": "山本の担当したソードワールド作品においては他の作者の作品に比して独自のモンスターなどSF的な設定が登場する率が高く、ありきたりの西洋風ファンタジーとはどこか異なる世界観を醸し出している。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "独自のモンスターという点では『西部諸国ワールドガイド』には高知県のジョン・スミス(投稿者)の手になる多数のフューチャー・イズ・ワイルド風のオリジナルモンスターが収録されており、山本は投稿紹介時これらのモンスター投稿に対し賛を寄せている。また採用には至らなかったものの「ゴーレム金庫」「アイ・ボール」などSF的な印象を持つモンスター投稿は高評価を獲得している。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "ソード・ワールドRPGシアターにおいても『野獣、故郷に帰る』の主人公ジャミル・アディを筆頭に実に全10作のうち約1/3になる3作にオリジナルモンスターが登場、準採用作である五分間シアターにも新種のグレーターデーモンが悪役として登場する話、機械化人の恐るべき運命を描いた作品などファンタジー離れした作品がある。没作品にも『魔法技術によって改造された強化人間』を扱った作品が多数紹介されている。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "看板作である『サーラの冒険』においては写実的に人間と異なる視覚を持つ生物やワイバーンを描きまた「死んだキマイラが骨になる」との描写を行い物語の鍵にするなど、一般的に知られたモンスターを扱う際でも生態について掘り下げかつ現実的に描写するという、珍しい扱い方をしており、山本の作家としての根本がSFにあることをうかがわせた。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "これに先立つリプレイ第1部においては「ミノタウロスの糞がある」という描写を行い 、第2部では一度は面倒だから考えたくないと言い切りながらも後日『ゲート・デーモンの仮面』において人間との差異を読み物として描き出しつつ説明しきったのみならず、言語までも実際に描写してリザードマンの生態を描き、またゴブリンの集落の営みを説得力ある内容で書き上げており、モンスターを扱う手腕は確かといえる。このほか、『サーラの冒険』においては罪を重ねすぎた小悪党、魔獣になってしまった人間やアンデッドモンスターと化した狂人の思考を緻密に、かつ生々しく書き上げており、単に外形を整えるのみならず内面まで踏み込んで描写していることが分かる。なればこそ、『モンスターは単なるやられ役ではない』との主張を展開できたといえよう。",
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"text": "このような傾向は、初期作品である『モンスターの逆襲』からみられる。同作品は、RPGのやられ役であるゴブリンが、一族の仇である冒険者パーティーに復讐をするというもので、作品のテーマ自体がモンスターからの視点に立ったものとなっている。",
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"text": "楽しさを追求する一方、物語の結末や展開の合理性を考え抜き、安易な御都合主義を嫌うことが山本の特徴である。この方針はかつて担当した読者参加企画「ソード・ワールドRPGシアター」の投稿作審査においても貫かれており、ハガキ紹介ページで広言してもいる。このコーナーでは『ジョジョの奇妙な冒険』を例に挙げ、アイディアで勝負することがいかに読者に支持されるかを説いていた。『椿三十郎』を例に挙げて見せ方の工夫を説明したこともある。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "もっともシアターにおいてはアイディア重視を貫いた結果、高評価を勝ち得ながらも長すぎる世界に与える影響が大きすぎるなどの理由から不採用になったりした作品は多数存在し(ドラゴンマガジン1997年8月号「ドレックノールの話いろいろ」に紹介された諸作品など)、一方で愛の力に頼ったと取れなくもない展開をしながらも作品の完成度の高さから採用になった作品も存在していることは確かである。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "また「愛の力でパワーアップ」を避けるためにアイディアを練りこんだもののその結果初歩の物理法則を見落としてしまい叱責された作品、ストーリーを練りこんだものの途中で力尽きて批判された作品、不採用となった作品を書き直した結果作品レベルが低下・陳腐化し叱責を受けた作品なども存在し、「ただ考えればいいというものではない」という姿勢も垣間見える。",
"title": "ゲーム関連"
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"text": "作品内容と直接関係のない設定、ペンネームなどに凝り過ぎることに対しても否定的であり、企画の中期には前者を「設定病」と呼んで設定好きの度が過ぎる投稿者を注意している。また末期にはペンネームを難読なものに変えて投稿した投稿者を叱責したこともあり、楽しさを削ぐ難解さを嫌う姿勢が見える。",
"title": "ゲーム関連"
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"tag": "p",
"text": "本職ではないが漫画やイラストも描く。単行本などでまとまったものはないが『ウォーロック』誌では漫画の連載もあった。リプレイのあとがきや小説中の図解イラストなど、自分の著書で挿絵・デザインの一部を手がけることもある。",
"title": "その他"
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"text": "年齢は自称「心はいつも15歳」。雑誌『ファンロード』の常連投稿者でもあり、『リアルタイプメタルダー こいつはダサいぜ』などの投稿で読者を沸かせた。山本のキャラも作られ、これを利用した『スーパー邪悪獣ジュウゴサイダー』など他の投稿者の投稿でネタにされることもあった。またファンロードには山本に関して、内容的にはたわいもないながら暴露系の投稿が明らかに山本の同僚等の身近と推測される人物からされたこともある。また山本自身が暴露系の投稿をしたこともある。",
"title": "その他"
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"text": "また、いわゆる「ロリコン」であることをしばしば自著で公言している。角川スニーカー文庫版『時の果てのフェブラリー』(本編中にもややきわどい描写や発言が入っているが)のあとがきにも東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の記憶も生々しい時点で挑発的なコメントを残している(このあとがき自体がフォーマルな敬体・SF調の常体・おちゃらけの会話体(?)という3種類のあとがきを併記して「自分によっていいあとがきを選んでください」という実験作となっており、最後の会話体のあとがき中にこのコメントが出てくる)。『トンデモ本の世界T』のあとがきにおいても自身がロリコンであると述べたうえで、違法行為や迷惑行為などを行わず単にそのような嗜好を持つに過ぎない大多数の「ロリコン」をも犯罪者扱いする世間の風潮を非難する発言を行い、ネットその他で話題となった。",
"title": "その他"
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"text": "JGC1997のソード・ワールドイベント『西部諸国のつくりかた』においては『人を感動させるのは簡単、怖がらせることは難しい、人を笑わせることが最も難しい』と発言、また『ギャラクシー・トリッパー美葉』第2巻のあとがきにも浦沢義雄のテイストに挑戦したという趣旨の記述があり、『笑い』『楽しさ』を重視する姿勢を見せる。",
"title": "その他"
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"text": "「女ターザン映画」の愛好家であり、『映画秘宝』誌に関連する文章を寄稿。また、MADテープ、MADムービー等も愛好しており、雑誌誌上で『仮面ライダーV3』のOPの歌詞を入れ替えたMADを実際に歌詞を表記して紹介した。同誌上では「もりもり力が抜けてくる」と『超合体魔術ロボ ギンガイザー』の最終回に関する批評も行った。関連して初音ミク関連の音楽、映像も愛好している。",
"title": "その他"
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"text": "石化・凍結フェチである事を明言しており、しばしば作中にもそのようなシーンを描写し、そういった嗜好のサイトの掲示板にも出入りしていた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "唐沢俊一および彼の劇団仲間、と学会の有志により『と学会会長 山本ひろし物語』の映像が2008年に製作され、と学会の会合にて公開された。その後、自主制作盤のDVDとして製品化され、と学会のイベントにて販売されている。役者が山本弘を演じ、モテモテの人気者ではあるがオカルトの一切を極度に否定する事によって女性が離れていくという内容の自虐的なコメディである。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "2018年5月10日から9月4日まで脳梗塞で入院していたことを明らかにし、カクヨムにてリハビリを兼ねた闘病日記を執筆中である。",
"title": "その他"
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{
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"text": "2020年4月時点でリハビリを続けるも、”いっこうに良くなる気配はなく、二桁の足し算すらろくにできない。『プロジェクトぴあの』のような高度な数学を駆使する作品は二度と書けないのです。”と綴っており、ハードSFに関しては実質的に断筆を宣言している。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "「山本弘」名義のもの。他に著者「と学会」「ASIOS」名義の本にも、執筆多数。",
"title": "作品リスト"
}
] |
山本 弘は、日本のSF作家、ファンタジー作家、ゲームデザイナー。と学会元会長。「山本弘」はペンネーム、本名は「山本浩」。日本SF作家クラブ会員。京都府出身。最終学歴は京都市立洛陽工業高等学校電子科卒業。
|
{{Infobox 作家
| name = {{ruby|山本 浩|やまもと ひろし}}
| pseudonym = {{ruby|山本 弘|やまもと ひろし}}
| birth_date = {{birth year and age|1956}}
| birth_place = {{JPN}}<br />[[京都府]]
| death_date =
| death_place =
| occupation = [[SF作家]]
| nationality = {{JPN}}
| alma_mater = [[京都市立洛陽工業高等学校]]電子科卒業
| language = [[日本語]]
| period = [[1978年]] -
| genre = [[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[推理小説]]
| subject = [[科学的懐疑主義]]、[[トンデモ本]]
| movement =
| notable_works = 『時の果てのフェブラリー』<br />『[[妖魔夜行]]』・『[[百鬼夜翔]]』シリーズ<br />『[[アイの物語]]』<br />『[[MM9]]』
| spouse = あり
| children = 1人
| awards = 第42回[[星雲賞]] 日本長編部門(小説)
| debut_works = 『スタンピード!』
| website = [http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp 山本弘のSF秘密基地]<br />[https://web.archive.org/web/20190629082922/http://hirorin.otaden.jp/ 山本弘のSF秘密基地BLOG]<br />[https://twitter.com/hirorin0015 山本弘『BIS ビブリオバトル部』]
}}
{{と学会}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''山本 弘'''|やまもと ひろし|[[1956年]] - }}は、[[日本]]の[[SF作家]]、[[ファンタジー]]作家、[[ゲームデザイナー]]。[[と学会]]元会長<ref name="BLOG2014-04-30">{{Cite web|和書|author=山本弘|date=2014-04-30|url=http://hirorin.otaden.jp/e312496.html|title=山本弘のSF秘密基地BLOG|work=【お知らせ】と学会、引退しました|publisher=オタクの電脳blog|archiveurl=https://megalodon.jp/2014-0430-2000-11/hirorin.otaden.jp/e312496.html|archivedate=2014-04-30|accessdate=2014-05-11}}</ref>。「山本弘」は[[ペンネーム]]、[[本名]]は「'''山本浩'''」<ref>[[奇想天外]]1977年8月号によれば、「ネオ・ヌル」主催者[[筒井康隆]]の論敵[[山野浩一]]に似た名であることをはばかったためである</ref><ref>[[角川書店]]『[[ザ・スニーカー]]』1995年12月5日発売号の158頁において本名を公開している</ref>。[[日本SF作家クラブ]]会員。[[京都府]]出身。最終学歴は[[京都市立洛陽工業高等学校]]電子科卒業。
==小説・SF関連==
[[アマチュア]]時代に[[筒井康隆]]主宰のSFファングループ「ネオ・ヌル」に参加、1976年からSF同人誌『[[ヌル (同人誌)|NULL]]』にて短編小説を発表する。また、やはりSF同人誌『星群』にも参加。のちに改稿され商業誌に発表された「シュレディンガーのチョコパフェ」は、最初『星群』のオリジナル・アンソロジーに発表されたものである。同作により、1986年にSFファンジン大賞・創作部門を受賞。
[[1978年]]、第1回[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]SF新人賞佳作を受賞した「スタンピード!」でデビュー。このとき同時に佳作を受賞した作家に[[新井素子]]がいる。処女長編は[[1988年]]出版の『ラプラスの魔』(角川文庫より刊行)。
[[安田均]]をブレイン役として、[[水野良]]らとSFゲームサークル「シンタックスエラー」を結成<ref>[[山本弘]]『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』(河出書房新社)</ref>。のちにゲームデザイナー集団[[グループSNE]]に発展する。
[[グループSNE]]では、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]小説を手がけ、現在はグループSNE社友。1990年代の著作の大半は[[ライトノベル]]の長短編で『[[ソード・ワールドRPG|ソード・ワールド]]』シリーズ([[富士見ファンタジア文庫]])および『[[妖魔夜行]]』・『[[百鬼夜翔]]』シリーズ([[角川スニーカー文庫]])の主要著者グループの一人である。ソード・ワールドにおいては[[フォーセリア#西部諸国|西部諸国]]、『妖魔夜行』シリーズでは世界観の基本設定を担当し、森崎摩耶、穂月湧を主人公としたシリーズを執筆している。また浜本弘として自作にチョイ役で出演している。このことは後日[[コンプRPG]]の読者にシナリオネタにされている(『生みの親を死守せよ!』という作品が同雑誌の妖魔夜行コーナーで投稿作品として紹介されている)。
1993年、同人誌『超絶図書館』により[[SFファンジン大賞]]エディトリアルワーク部門を受賞した。
[[ライトノベル]]SFの分野では『時の果てのフェブラリー』などの作品があり、この分野においては、[[野尻抱介]]らとともに[[ハードSF]]志向が強い作家のひとりである。「SFの本質はバカ(バカバカしさ&真剣さ)である」というスタンスを表明しており、現実にはありえない発想に科学考証を加えるという[[センス・オブ・ワンダー]]を重視している。
ライトノベル分野以外では、[[2003年]]以降SF作品を精力的に発表し、正統派のSF作家としての評価を急速に高めた。[[2004年]]の長編『神は沈黙せず』は第25回[[日本SF大賞]]候補作に、[[2005年]]の短編「メデューサの呪文」は[[SFマガジン]]読者賞に選ばれた。[[2006年]]の連作短編集『[[アイの物語]]』は第28回[[吉川英治文学新人賞]]候補になり、英語版も刊行されている。[[2007年]]の連作長編『[[MM9]]』は第29回[[日本SF大賞]]候補になり、さらに『[[SFが読みたい!]]』のベストSF国内篇の第2位となるなどした。同作も『アイの物語』に続いて[[ハイカソル]]より英語版が刊行された。2011年、『去年はいい年になるだろう』で第42回[[星雲賞]]日本長編部門(小説)を受賞。
「主人公は世界の本当の姿を知らない」「現実は見た目どおりではない」というスタンスの作品を示す「[[偏執病|パラノイア]]SF」という概念をたびたび提唱している。
==と学会・トンデモ関連==
本職はSF作家であるが、[[トンデモ本]]<ref>命名者は初代副会長の[[藤倉珊]]。</ref>を楽しむ集団「と学会」の初代会長としてもよく知られている<ref name="BLOG2014-04-30" />。
と学会名義では『トンデモ本の世界』や『トンデモ超常現象99の真相』などに執筆しており、その他の[[オカルト]]関係の書籍、雑誌、ムックにもよく寄稿している。[[ノストラダムス]]、[[未確認飛行物体|UFO]]、[[ゲーム脳]]などといった[[疑似科学]]、[[オカルト]]に関するコメントを発表するなど、マスコミでの活動もしている。[[1997年]]以降は何度かテレビ番組にも出演しており、2005年には『[[奇跡体験!アンビリバボー]]』にも出演し、[[超能力]]実験の審査員を務めた<ref>ただ、実験の方法や放送された内容については自身のHPなどで苦言を呈している([http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/natasha.htm 『アンビリバボー』超能力少女ナターシャの実験に立ち会ったゾの巻])。また、出演はしていないが同じくと学会員の[[皆神龍太郎]]も実験に立ち会っている。</ref>。
これらの[[超常現象]]や[[陰謀論]]などを扱ったテレビ番組、雑誌などに関連して[[マスメディア]]の姿勢について言及することも多い。マスメディアは人の手によるものであるため、時には誤った内容を伝えたり編集や構成によって取材内容の改竄をおこなうことが可能であり、場合によっては演出や脚本における[[ヤラセ]]や[[捏造]]もありうる、として実際に活字や映像として出される情報が全てではないこと、また必ずしも事実とは限らないことをたびたび指摘し[[メディア・リテラシー]]の必要性を唱えている。
また『トンデモ本の世界R』では従来の疑似科学や陰謀論の他に[[週刊金曜日]]の『[[買ってはいけない]]』や漫画家[[小林よしのり]]の『[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論|戦争論]]』をトンデモ本として取り上げた<ref>日本人の戦争被害が水増しされているとして、[[特別攻撃隊|特攻]]での死者数、[[本土空襲]]の死者数等について指摘している。</ref>ことで一部より政治的な立場を取り沙汰されたが、自称[[ノンポリ]]である<ref name="dema">[http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/dema.htm 山本弘「山本弘をめぐるデマ」]</ref>。
この件について山本は「左派的色彩の強い『週刊金曜日』と右派的色彩の強い『ゴーマニズム宣言』を並べる事で「ウヨクだ」とか「サヨクだ」とかいう誤解を避ける意図があった」としている<ref name="dema"/>。
以前より『[[ニフティサーブ]]』などで[[歴史修正主義]]への嫌悪を隠さず、そうした傾向を持つ本を[[トンデモ本]]として取り上げており、[[1995年]]の[[マルコポーロ事件]]においては、[[西岡昌紀]]を[[宝島30]]において厳しく批判した。また[[2003年]]に出版したSF小説『神は沈黙せず』において[[南京大虐殺]]や[[南京大虐殺論争]]を取り上げ、作中人物が[[南京事件論争#論争史|南京大虐殺否定論]](及び中国の南京大虐殺の[[南京事件論争#論争史|被害者三十万人説]])を批判する描写があった。これによりネット上では賛否両論の議論が繰り広げられ、その後自らこれを解説するサイトを作成している<ref>[http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/nankin00.htm 目からウロコの南京大虐殺論争] - 山本の主張・スタンスを知ることができる。</ref>。
[[2002年]]には特撮・アニメ・マンガ等の「設定の非科学性」を科学的に検証してベストセラーになった『[[空想科学読本]]』シリーズ及び[[柳田理科雄]]をデタラメとして痛烈に批判した本『こんなにヘンだぞ!「空想科学読本」』をと学会会長名義で出版している。
[[地球温暖化]]懐疑論への批判も行なっている。また、[[ASIOS]](超常現象懐疑的調査のための会)の会員でもある。
[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]により非実在青少年の性的描写や暴力的な描写を規制することには強く反対しており<ref>[https://web.archive.org/web/20170630221121/http://hirorin.otaden.jp/e92767.html 「非実在青少年」規制:目に見える形で反論を提示する] 2016年1月4日閲覧。</ref>、表現の自由や言論の自由を強く尊重すべきとしているが<ref>[https://web.archive.org/web/20200603065353/http://hirorin.otaden.jp/e95490.html ヘドが出るような思想であっても] 2016年1月4日閲覧。</ref>、[[日本のヘイトスピーチ|ヘイトスピーチ規制法案]]には賛成しており、例えば「非処女の女性は中古品」とネット上に書き込んだ人に対しても、積極的に検挙して取り締まるべきであると主張している<ref>[https://web.archive.org/web/20200725122128/http://hirorin.otaden.jp/e129135.html 「可能性を生み出しただけでアウト」問題つづき] 2016年1月4日閲覧。</ref>。
[[在日特権を許さない市民の会]]ならびに[[ネット右翼]]の主張も、[[噂|デマ]]や[[捏造]]が多く含まれている上に「表現の自由の範疇に含まれない悪質な差別行為をしている」として問題視している<ref>[https://web.archive.org/web/20200923120040/http://hirorin.otaden.jp/e382923.html ムー愛読者はと学会を経てネトウヨになる?]</ref>。2013年ごろからは[[安田浩一]]と共に批判することが多い。また、{{独自研究範囲|日本では[[在日韓国・朝鮮人]]が犯罪を行った際に通名報道されることが少なくない|date=2020年2月}}が、山本は通名報道を批判する人間は差別主義者であるとの発言もしている<ref>[https://web.archive.org/web/20200830192302/http://hirorin.otaden.jp/e307586.html まだある、嫌韓デマ]</ref>。2011年の[[フジテレビ抗議デモ]]にも全面否定的であり<ref>[https://web.archive.org/web/20200217173153/http://hirorin.otaden.jp/e274768.html 『韓国系デマ「フジテレビは浅田真央いじめをやった」?』] コメント欄も参照のこと。 2015年5月20日閲覧。</ref><ref>と学会『タブーすぎるトンデモ本の世界』サイゾー、2013年、111頁。 ISBN 978-4904209301</ref>、この見解については、山本も所属するASIOSの客員で元副会長である[[若島利和]]と激しく対立した<ref>[http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63564303&comm_id=70043&page=all mixi「懐疑論者の集い-反疑似科学同盟-」コミュニティ 「懐疑者たちのラウンジ【11軒目】」トピックス] 2015年5月20日閲覧。</ref>。
なお、[[唐沢俊一]]の[[盗作]]問題に関して、唐沢を擁護する発言を行ったとして[[藤岡真]]から厳しい批判を受けている<ref>[https://web.archive.org/web/20100812102640/http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100712 藤岡真blog 2010年7月12日「徹底検証 唐沢俊一番外編 おれが「と学会」を批判する理由」]</ref>。
2014年4月11日にと学会の活動から引退した<ref name="BLOG2014-04-30" />。
==ゲーム関連==
[[グループSNE]]の創立メンバーの一人であり、SNE時代には[[コンピュータゲーム]]や[[テーブルトークRPG]]の開発にも関わっている。[[1998年]]にグループSNEより独立。それ以降は小説・評論を中心に活動しており、ソード・ワールドRPGに関しても『サーラの冒険』シリーズに属する小説の執筆などしか行っていない。ただし、山本の初デザインといえるTRPGが商業出版で初めて発表されてもいる。2006年7月20日発売の『[[Role&Roll]]』誌において『サーラの冒険』シリーズの後日談的リプレイ『絶対危険チルドレン』の[[ゲームマスター]](GM)を務め、『猫の街の冒険』シリーズで復帰した[[清松みゆき]]に続いてGM復帰を果たしている。
テーブルトークRPG『[[ソード・ワールドRPG]]』関連での業績も多く、[[1980年代]]末から[[1990年代]]前半にかけて『[[月刊ドラゴンマガジン]]』誌において[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]第1部、リプレイ第2部を連載。[[水野良]]の小説『[[ロードス島戦記]]』の原型となった『[[コンプティーク]]』誌上のテーブル・トークRPGリプレイ(第一部)において、エルフの[[ディードリット]]の[[プレイヤー]]を務めた<ref>Role & Roll Vol.12 P.9の対談(「清松:有名なのはディードリット(笑)。 山本:あれはもう昔の話やから(苦笑)」)など</ref>。その後『[[ソード・ワールドRPGリプレイ第1部]]』、『[[ソード・ワールドRPGリプレイ第2部]]』、『フォーセリア・ガゼット』『[[ソード・ワールドRPGアドベンチャー]]』『[[ソード・ワールドRPGシアター]]』西部諸国ワールドガイドといった企画記事を連載した。リプレイ、アドベンチャー、シアターについてはそれぞれの頁を参照。
===フォーセリア・ガゼット===
『フォーセリア・ガゼット』は西部諸国で発生した事件を読者が新聞記事の形式で投稿するという企画であり、ここで登場した『最強魔獣』事件は『ソードワールドRPGアドベンチャー』に組み込まれている。同じく『無口王の杖』事件も『アドベンチャー』に組み込まれる予定であった<ref>アドベンチャー企画中のハガキ紹介ページで言明、ナイトブレイカーズのベルダイン出発前。</ref>が、『最強魔獣』事件があまりにも急激に展開し、またスケールが大きくなったためか実現せずに終わった。
同コーナーのイラストレーターは[[天野喜孝]]、[[佐々木亮 (漫画家)|佐々木亮]]が務めた。
===作品の特色===
====SF的な設定====
山本の担当したソードワールド作品においては他の作者の作品に比して独自のモンスターなどSF的な設定が登場する率が高く、ありきたりの西洋風ファンタジーとはどこか異なる世界観を醸し出している。
独自のモンスターという点では『西部諸国ワールドガイド』には高知県のジョン・スミス(投稿者)の手になる多数の[[フューチャー・イズ・ワイルド]]風のオリジナルモンスターが収録されており、山本は投稿紹介時これらのモンスター投稿に対し賛を寄せている。また採用には至らなかったものの「ゴーレム金庫」「アイ・ボール」などSF的な印象を持つモンスター投稿は高評価を獲得している。
ソード・ワールドRPGシアターにおいても『[[野獣、故郷に帰る]]』の主人公ジャミル・アディを筆頭に実に全10作のうち約1/3になる3作にオリジナルモンスターが登場、準採用作である五分間シアターにも新種のグレーターデーモンが悪役として登場する話、機械化人の恐るべき運命を描いた作品などファンタジー離れした作品がある。没作品にも『魔法技術によって改造された強化人間』を扱った作品が多数紹介されている。
====モンスターの扱い====
看板作である『サーラの冒険』においては写実的に[[ハーフエルフ|人間と異なる視覚を持つ生物]]や[[ワイバーン]]を描きまた「死んだ[[キマイラ]]が骨になる」との描写を行い物語の鍵にするなど、一般的に知られたモンスターを扱う際でも生態について掘り下げかつ現実的に描写するという、珍しい扱い方をしており、山本の作家としての根本がSFにあることをうかがわせた。
これに先立つリプレイ第1部においては「[[ミーノータウロス|ミノタウロス]]の糞がある」という描写を行い<ref>正確には行おうとしてプレイヤーに即座に拒絶された。</ref> 、第2部では一度は面倒だから考えたくないと言い切りながらも後日『[[ゲート・デーモンの仮面]]』において人間との差異を読み物として描き出しつつ説明しきったのみならず、言語までも実際に描写して[[リザードマン]]の生態を描き、また[[ゴブリン]]の集落の営みを説得力ある内容で書き上げており、モンスターを扱う手腕は確かといえる。このほか、『サーラの冒険』においては罪を重ねすぎた小悪党、魔獣になってしまった人間やアンデッドモンスターと化した狂人の思考を緻密に、かつ生々しく書き上げており、単に外形を整えるのみならず内面まで踏み込んで描写していることが分かる。なればこそ、『モンスターは単なるやられ役ではない』との主張を展開できたといえよう。
このような傾向は、初期作品である『モンスターの逆襲』からみられる。同作品は、RPGのやられ役であるゴブリンが、一族の仇である冒険者パーティーに復讐をするというもので、作品のテーマ自体がモンスターからの視点に立ったものとなっている。
====作品に対する姿勢====
楽しさを追求する一方、物語の結末や展開の合理性を考え抜き、安易な御都合主義を嫌うことが山本の特徴である。この方針はかつて担当した読者参加企画「ソード・ワールドRPGシアター」の投稿作審査においても貫かれており、ハガキ紹介ページで広言してもいる。このコーナーでは『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』を例に挙げ、アイディアで勝負することがいかに読者に支持されるかを説いていた。『[[椿三十郎]]』を例に挙げて見せ方の工夫を説明したこともある。
もっともシアターにおいてはアイディア重視を貫いた結果、高評価を勝ち得ながらも長すぎる世界に与える影響が大きすぎるなどの理由から不採用になったりした作品は多数存在し(ドラゴンマガジン1997年8月号「ドレックノールの話いろいろ」に紹介された諸作品など)、一方で愛の力に頼ったと取れなくもない展開をしながらも作品の完成度の高さから採用になった作品も存在していることは確かである。
また「愛の力でパワーアップ」を避けるためにアイディアを練りこんだもののその結果初歩の物理法則を見落としてしまい叱責された作品、ストーリーを練りこんだものの途中で力尽きて批判された作品、不採用となった作品を書き直した結果作品レベルが低下・陳腐化し叱責を受けた作品なども存在し、「ただ考えればいいというものではない」という姿勢も垣間見える。
作品内容と直接関係のない設定、ペンネームなどに凝り過ぎることに対しても否定的であり、企画の中期には前者を「設定病」と呼んで設定好きの度が過ぎる投稿者を注意している。また末期にはペンネームを難読なものに変えて投稿した投稿者を叱責したこともあり、楽しさを削ぐ難解さを嫌う姿勢が見える。
==その他==
本職ではないが漫画やイラストも描く。単行本などでまとまったものはないが『[[ウォーロック (雑誌)|ウォーロック]]』誌では漫画の連載もあった。リプレイのあとがきや小説中の図解イラストなど、自分の著書で挿絵・デザインの一部を手がけることもある。
年齢は自称「'''心はいつも15歳'''」。雑誌『[[ファンロード]]』の常連投稿者でもあり、『リアルタイプメタルダー こいつはダサいぜ』などの投稿で読者を沸かせた。山本のキャラも作られ、これを利用した『スーパー邪悪獣ジュウゴサイダー』など他の投稿者の投稿でネタにされることもあった。またファンロードには山本に関して、内容的にはたわいもないながら暴露系の投稿が明らかに山本の同僚等の身近と推測される人物からされたこともある。また山本自身が暴露系の投稿をしたこともある。
また、いわゆる「[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]」であることをしばしば自著で公言している。角川スニーカー文庫版『時の果てのフェブラリー』(本編中にもややきわどい描写や発言が入っているが)のあとがきにも[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の記憶も生々しい時点で挑発的なコメントを残している(このあとがき自体がフォーマルな敬体・SF調の常体・おちゃらけの会話体(?)という3種類のあとがきを併記して「自分によっていいあとがきを選んでください」という実験作となっており、最後の会話体のあとがき中にこのコメントが出てくる)。『トンデモ本の世界T』のあとがきにおいても自身がロリコンであると述べたうえで、違法行為や迷惑行為などを行わず単にそのような嗜好を持つに過ぎない大多数の「ロリコン」をも犯罪者扱いする世間の風潮を非難する発言を行い、ネットその他で話題となった。
JGC1997のソード・ワールドイベント『西部諸国のつくりかた』においては『人を感動させるのは簡単、怖がらせることは難しい、人を笑わせることが最も難しい』と発言、また『ギャラクシー・トリッパー美葉』第2巻のあとがきにも[[浦沢義雄]]のテイストに挑戦したという趣旨の記述があり、『笑い』『楽しさ』を重視する姿勢を見せる。
「女[[ターザン]]映画」の愛好家であり、『[[映画秘宝]]』誌に関連する文章を寄稿。また、MADテープ、[[MADムービー]]等も愛好しており、雑誌誌上で『[[仮面ライダーV3]]』のOPの歌詞を入れ替えたMADを実際に歌詞を表記して紹介した。同誌上では「もりもり力が抜けてくる」と『[[超合体魔術ロボ ギンガイザー]]』の最終回に関する批評も行った。関連して[[初音ミク]]関連の音楽、映像も愛好している。
[[石化]]・凍結フェチである事を明言しており、しばしば作中にもそのようなシーンを描写し、そういった嗜好のサイトの掲示板にも出入りしていた。
唐沢俊一および彼の劇団仲間、と学会の有志により『と学会会長 山本ひろし物語』の映像が2008年に製作され、と学会の会合にて公開された。その後、自主制作盤のDVDとして製品化され、と学会のイベントにて販売されている。役者が山本弘を演じ、モテモテの人気者ではあるがオカルトの一切を極度に否定する事によって女性が離れていくという内容の自虐的なコメディである。
2018年5月10日から9月4日まで脳梗塞で入院していたことを明らかにし、[[カクヨム]]にてリハビリを兼ねた闘病日記を執筆中である。
2020年4月時点でリハビリを続けるも、”いっこうに良くなる気配はなく、二桁の足し算すらろくにできない。『プロジェクトぴあの』のような高度な数学を駆使する作品は二度と書けないのです。”<ref>{{Cite web|和書|title=「これは "ハードSF作家・山本弘" の遺書だと考えてください。」『プロジェクトぴあの』著者あとがき全文公開|Hayakawa Books & Magazines(β)|url=https://www.hayakawabooks.com/n/nf9f666619589|website=Hayakawa Books & Magazines(β)|accessdate=2020-04-06|language=ja}}</ref>と綴っており、ハードSFに関しては実質的に断筆を宣言している。
2020年8月には、自殺をしようとして騒ぎになったことがある。しかし、その後は、体調はよいらしい。
==作品リスト==
===小説(オリジナル)===
*時の果てのフェブラリー─赤方偏移世界─ ([[角川スニーカー文庫]]、1989年12月 ISBN 404460102X 改訂版 [[徳間デュアル文庫]]、2001年1月 ISBN 4199050353)
*ギャラクシー・トリッパー美葉 角川スニーカー文庫
**10万光年のエスケープ(1992年11月 ISBN 4044601062)
**空のかなたのユートピア(1994年6月 ISBN 4044601070)
**寄り道だらけのオデッセイ(1995年11月 ISBN 4044601097)
*ミラー・エイジ(グループSNEメンバーによる[[リレー小説]]) ([[角川書店]]、1998年6月 ISBN 4-04-788709-9)
**第1話 砂漠に消えた魔術師
**第7話 そして、蝶ははばたく
*神は沈黙せず(角川書店、2003年10月 ISBN 4048734792)([[角川文庫]]上下分冊、2006年11月。上:ISBN 978-4044601133 、下:ISBN 978-4044601140)
*審判の日(角川書店、2004年8月 ISBN 4048735438 短編集)/【改題・文庫化】闇が落ちる前に、もう一度 角川文庫、2007年8月 ISBN 978-4044601157)
**闇が落ちる前に、もう一度(書き下ろし)
**時分割の地獄([[SFマガジン]]2004年4月号)
**屋上にいるもの(書き下ろし)
**夜の顔(書き下ろし)
**審判の日(書き下ろし)
*まだ見ぬ冬の悲しみも ([[早川書房]]、2006年1月 ISBN 4152086998 短編集)/【改題・文庫化】シュレディンガーのチョコパフェ ハヤカワ文庫、2008年1月 ISBN 4150309140(「7%のテンムー」(SFマガジン2007年4月号)を追加)
**奥歯のスイッチを入れろ(書き下ろし)
**バイオシップ・ハンター([[SFアドベンチャー]]1990年8月号)
**メデューサの呪文(SFマガジン2005年5月号)
**まだ見ぬ冬の悲しみも(SFマガジン2005年9月号)
**シュレディンガーのチョコパフェ(SFマガジン2005年2月号)
**闇からの衝動([[ログアウト]]1995年6月号)
*[[アイの物語]](角川書店、2006年5月 ISBN 4048736213)(角川文庫、2009年3月 ISBN 978-4044601164)([[2011年]]の[[秋]]に、第61回[[秋季]][[逗子市]][[文化祭]]に於いて[[逗子市民劇団なんじゃもんじゃ]]によって第6話のみが独立した「詩音が来た日」として[[舞台]]・[[演劇]]化〔この[[劇団]]の第37回目の公演〕)
*[[MM9]]シリーズ
**MM9 ([[東京創元社]]、2007年11月 ISBN 978-4488018122)([[創元SF文庫]]、2010年6月 ISBN 978-4488737016)([[iPad]]版も存在) - [[テレビドラマ]]化作品
**MM9―invasion― (東京創元社、2011年7月 ISBN 978-4488018139)(創元SF文庫、2014年5月 ISBN 978-4488737023)
**トワイライト・テールズ (角川書店、2011年11月 ISBN 978-4041100592)(角川文庫、2015年11月 ISBN 9784041036181)
**MM9―destruction― (東京創元社、2013年5月 ISBN 978-4488018160)(創元SF文庫、2014年7月 ISBN 978-4488737030)
*詩羽のいる街 (角川書店、2008年9月 ISBN 978-4048738842)(角川文庫、2011年11月 ISBN 978-4041000199)
*C&Y 地球最強姉妹キャンディ(SF [[児童文学]]シリーズ 角川書店 銀の匙シリーズ)
**大怪盗をやっつけろ! (2008年12月、ISBN 978-4048739160)
**夏休みは戦争へ行こう! (2010年2月、ISBN 978-4048740302)
*地球移動作戦 (早川書房、2009年9月 ISBN 978-4152090683)(ハヤカワ文庫上下分冊、2011年5月。上:ISBN 978-4150310349 、下:ISBN 978-4150310356)
*去年はいい年になるだろう ([[PHP研究所]]、2010年4月 ISBN 978-4569776637)([[PHP文芸文庫]]上下分冊、2012年9月。上:ISBN 978-4569678870 、下:978-4569678887)
*アリスへの決別 (ハヤカワ文庫JA、2010年8月 ISBN 978-4150310059 短編集)
**アリスへの決別([[うぶモード]]2010年4・5月号)
**リトルガールふたたび([[小説現代]]2009年8月号)
**七歩跳んだ男(『NOVA1』)
**地獄はここに([[ファントム]])
**地球から来た男(SFマガジン2010年2月号)
**オルダーセンの世界(SFマガジン2010年7月号)
**夢幻潜航艇(書き下ろし)
*名被害者・一条(仮名)の事件簿 ([[講談社ノベルス]]、2012年4月 ISBN 978-4-06-182819-3)
*UFOはもう来ない (PHP研究所、2012年12月 ISBN 978-4-569-80914-4)(PHP文芸文庫、2016年3月 ISBN 978-4-569-76524-2)
*夏葉と宇宙へ三週間 (21世紀空想科学小説 8) ([[岩崎書店]]、[[2013年]][[12月]] ISBN 978-4265075089)
*僕の光輝く世界([[講談社]]、[[2014年]][[4月]]。この著者初の本格的な[[ミステリ]]。[[日本]]では一般的に「[[アントン症候群]]」と呼ばれる希少な[[高次脳機能障害|脳機能障害]]を[[話題|モチーフ]]としている。ISBN 978-4-0621-8846-3)(講談社文庫、2017年3月 ISBN 978-4062934930)
*プロジェクトぴあの([[2014年]][[8月]]、PHP研究所。『地球移動作戦』の[[前日談]]。その作中に登場するピアノ・ドライブの[[発明]]者である(という設定の)結城ぴあのを[[ヒロイン]]とした物語。[[2025年]]、AR([[拡張現実]])技術が本格的に普及し始めた[[秋葉原]]を(冒頭部の)舞台としている。作者曰く「一種の[[ボカロ]][[小説]]と言えるかも」との事 ISBN 978-456982026-2)
*BISビブリオバトル部 東京創元社
**翼を持つ少女(2014年12月 ISBN 978-4488018207)(創元SF文庫上下分冊、2016年4月。上:ISBN 978-4488737047、下:ISBN 978-4488737054)
**幽霊なんて怖くない(2015年6月 ISBN 978-4488018214)(創元SF文庫、2017年2月 ISBN 978-4-488-73706-1)
**世界が終わる前に(2016年2月 ISBN 978-4488018238)
**君の知らない方程式(2017年8月 ISBN 978-4488018245 )
*怪奇探偵リジー&クリスタル([[KADOKAWA]]、2015年12月 ISBN 978-404103640-2)
*プラスチックの恋人(早川書房、2017年12月 ISBN 978-4152097361)
*チャリス・イン・ハザード シリーズ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webmysteries.jp/sf/kitahara1209-1.html|website=Web[[東京創元社]]マガジン|date=2012-09-05|author=[[北原尚彦]]|title=人気作家が好きに書いた同人作品『チャリス・イン・ハザード』|accessdate=2022-02-03}}</ref>
** 魔島からの脱出 (2004年 成年向け同人)
** 脅威の少女核爆弾 (2005年 成年向け同人)
** ファイナル・オーバーヒート (2007年 成年向け同人)。
**:(2019年 成人向け電子書籍 <ref>2019年にAmazon。2020年にDLサイト[https://www.dlsite.com/maniax/work/=/product_id/RJ275432.html]</ref> )
===アンソロジー収録作品(オリジナル)===
*太陽を創った男(『ネオ・ヌルの時代 Part3』[[筒井康隆]]編 [[徳間文庫]] 1985年 ISBN 4122012732)
*シルフィラ症候群(『ネオ・ヌルの時代 Part3』筒井康隆編 徳間文庫 1985年 ISBN 4122012732)
*スキュラの恐怖(『ヘンダーズ・ルインの領主』 [[ホビージャパン]] 1991年12月)
*ピラムスの怪物(『ヘンダーズ・ルインの領主』 ホビージャパン 1991年12月)
*密林の巨龍(『ドラゴン殺し』 [[メディアワークス]]、[[電撃文庫]] 1996年2月)
*醜い道連れ(『モンスター・コレクション テイルズ』 [[富士見ドラゴンブック]] 2011年2月)
*A Summer's Melody(『Kizuna:Fiction for Japan』 2011年)
*リアリストたち(『SF JACK』角川書店 2013年2月 ISBN 978-4041103982)
*大正航時機綺譚(たいしょうたいむましんきだん)(『[[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA]]10』[[大森望]]責任編集 [[河出文庫]] 2013年7月 ISBN 978-4-30941230-6)
*あきちゃった(『迷宮ヶ丘七丁目 虫が、ぶうん』[[日本児童文学者協会]]編 [[偕成社]] 2014年3月 ISBN 978-4-0353-9470-9)
*ぼくは脱出できたのか?(『タイムストーリー 1時間の物語』日本児童文学者協会編 偕成社 2015年3月)
*廃都の怪神(『怪獣文藝の逆襲』[[東雅夫]]編 [[KADOKAWA]] 2015年3月)
*多々良島ふたたび(『多々良島ふたたび ウルトラ怪獣アンソロジー』早川書房 2015年7月)
*怪奇フラクタル男(『日本SFの臨界点[怪奇篇] ちまみれ家族』伴名練編 ハヤカワ文庫JA 2020年7月)
===単行本未収録作品(オリジナル)===
*スタンピード!(『奇想天外』1978年3月号)
*ありえざる明日(『[[SFアドベンチャー]]』1991年4月号)
*前世再生機(『小説CLUB』1999年6月号)
*輝きの七日間(『SFマガジン』2011年4月号から2012年10月号にかけて連載。完結後2012年11月に単行本発売が予定されていたが直前に発売中止された。)
*喪われた惑星の遺産(『SFマガジン』2011年8月号)
===小説(ノベライズ)===
*[[サイバーナイト]] シリーズ(グループSNEとの共著、[[角川スニーカー文庫]])
**サイバーナイト ドキュメント戦士たちの肖像(山本弘がイラストの一部を担当した) ISBN 4044601038
**サイバーナイト 漂流・銀河中心星域(上・下) ISBN 4044601046 ISBN 4044601054
**[[サイバーナイトII 地球帝国の野望]] ISBN 4044601089
*[[ゴーストハンター]] シリーズ(原案 [[安田均]])
**[[ラプラスの魔 (コンピュータゲーム)|ラプラスの魔]] 角川スニーカー文庫、1988年3月 ISBN 4044601011 (新装版 ISBN 4044601100)
**パラケルススの魔剣(上・下) [[ログアウト冒険文庫]] 1994年2月 ISBN 4893661566、1994年10月 ISBN 4893662775
***パラケルススの魔剣 謀略の鉤十字(上巻の新装版 角川スニーカー文庫 ISBN 4044601119)
***パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産(下巻の新装版 角川スニーカー文庫 ISBN 4044601127)
*ソード・ワールド シリーズ(共著、[[富士見ファンタジア文庫]])
**ジェライラの鎧(ソード・ワールド短編集 レプラコーンの涙 ISBN 978-4-82912346-1 収録)
**ナイトウィンドの影(ソード・ワールド短編集 ナイトウィンドの影 ISBN 978-4-82912378-2 収録)
**マンドレイクの館(ソード・ワールド短編集 マンドレイクの館 ISBN 978-4-82912400-0 収録)
**スチャラカ冒険隊、南へ(ソード・ワールド短編集 スチャラカ冒険隊、南へ ISBN 978-4-82912466-6 収録)
**ゲート・デーモンの仮面(ソード・ワールド短編集 ゲート・デーモンの仮面 ISBN 978-4-82912592-2 収録)
**死者は弁明せず(ソード・ワールド短編集 死者は弁明せず ISBN 978-4-82912753-7 収録)
**ゴーレムは証言せず(ソード・ワールド短編集 ゴーレムは証言せず ISBN 978-4-82911303-5 収録)
**サーラの冒険 シリーズ(ソード・ワールド・ノベル)
***ヒーローになりたい! 1991年12月 ISBN 4829124199
***悪党には負けない! ISBN 482912458X
***君を守りたい! ISBN 482912511X
***愛を信じたい! ISBN 4829126167
***幸せをつかみたい! ISBN 4829117354
***やっぱりヒーローになりたい! ISBN 4-8291-1837-7
***死者の村の少女 ISBN 4829118792
***奪うことあたわぬ宝(ソード・ワールド短編集 へっぽこ冒険者とイオドの宝 ISBN 978-4829146132 収録)
**ソード・ワールドRPGアドベンチャー([[富士見ドラゴンブック]])
***ベルダイン熱狂! ISBN 4829142847
***アルバトロス追撃! ISBN 4829143037
***タイデル騒乱! ISBN 4829143150
***プロミジー急転! ISBN 4829143258
***ナイトブレイカーズ爆発! ISBN 4829143339
**ソード・ワールドRPGシアター(富士見ドラゴンブック)
***帰ってきたドラゴン ISBN 4829143460
***熱血爆風!プリンセス ISBN 4829143509
***鏡の国の戦争 ISBN 4829143517
*妖魔夜行 シリーズ(共著)
**妖魔夜行(角川スニーカー文庫)
***長編
****悪夢ふたたび…… ISBN 978-4-04415202-4
****戦慄のミレニアム(上・下) 上:ISBN 978-4-04415215-4 下:ISBN 978-4-04415216-1
***連作短編
****私は十代の蜘蛛女だった ISBN 978-4-04415209-3
***短編
****真夜中の翼(真夜中の翼 ISBN 978-4044152017 収録)
****さようなら、地獄博士(真紅の闇 ISBN 978-4-044152031 収録)
****悪魔がささやく(悪魔がささやく ISBN 978-4-04415204-8 収録)
****影の国の鈴音(鳩は夜に飛ぶ ISBN 978-4-04415205-5 収録)
****魔獣めざめる(魔獣めざめる ISBN 978-4-04415206-2 収録)
****密林の王者(妖魔百物語 妖の巻 [[角川スニーカー・G文庫]] ISBN 978-4-04461436-2 収録)
****死の壁の向こう側(妖魔百物語 妖の巻 角川スニーカー・G文庫 ISBN 978-404461436-2 収録)
****暗き激怒の炎(暗き激怒の炎 ISBN 978-4-04415210-9 収録)
****悪意の連鎖(しかばね綺譚 ISBN 978-4-04415211-6 収録)
****まぼろし模型(まぼろし模型 [[角川mini文庫]] ISBN 978-4-04700263-0、妖魔夜行 幻の巻 角川スニーカー文庫 ISBN 978-4-04415221-5 収録)
****穢された翼 (穢された翼 ISBN 978-4044152130 収録)
**百鬼夜翔(角川スニーカー文庫)
***水色の髪のチャイカ(水色の髪のチャイカ ISBN 978-4-04415222-2 収録)
***茜色の空の記憶(暁に散る翼 ISBN 978-4-04415226-0 収録)
**妖魔夜行(新シリーズ、角川スニーカー文庫)
***闇への第一歩 ISBN 978-4-04460117-1
*勇者のいない星(『[[マップス#マップス・シェアードワールド|マップス・シェアードワールド2―天翔る船―]]』 [[GA文庫]] ISBN 9784797352719 収録)
*滅亡の星、来たる―ダイノコンチネント (シェアード・ワールド・ノベルズ [[徳間デュアル文庫]]) ISBN 9784199051951
===リプレイ===
*ソード・ワールドRPGリプレイ第1部([[グループSNE]]との共著、[[富士見ドラゴンブック]])
**盗賊たちの狂詩曲(ラプソディ) 1989年12月 ISBN 4829142383(ISBN 4829144769)
**モンスターたちの交響曲(シンフォニー) 1990年12月 ISBN 482914243X(ISBN 4829144815)
**終わりなき即興曲(トッカータ) 1991年9月 ISBN 4829142502(ISBN 4829144823)
*ソード・ワールドRPGリプレイ第2部
**魔境の支配者 ISBN 4829142553
**南海の勝利者 ISBN 4829142669
*アドバンスト・[[ファイティング・ファンタジー]]リプレイ タイタンふたたび 1991年12月 ISBN 4390112341
*[[ガープス]]妖魔夜行リプレイ 東京クライシス [[角川スニーカー・G文庫]] ISBN 4044614342
*絶対危険チルドレン(ソード・ワールドRPGリプレイ・アンソロジー2 賽子の国の魔法戦士 ISBN 4829144904 収録)
===ゲームブック===
*剣と魔法と竜の国(辰巳出版、1986年8月)
*アドベンチャーゲームブック モンスターの逆襲([[現代教養文庫]]、1988年4月 ISBN 4390112406)
*アドベンチャーゲームブック 四人のキング(現代教養文庫、1991年11月 ISBN 4390112368)
*超時間の檻(アンソロジー「超時間の闇 (The Cthulhu Mythos Files)」に収録)(創土社、2013年11月、ISBN 978-4798830100)
===エッセイ、ノンフィクション等===
「山本弘」名義のもの。他に著者「と学会」「ASIOS」名義の本にも、執筆多数。
*トンデモノストラダムス本の世界 [[洋泉社]] 1998年7月 ISBN 4896913264 ([[宝島社文庫]] 1999年6月 ISBN 4796615253)
*トンデモ大予言の後始末 洋泉社 2000年6月 ISBN 4896914694
*山本弘のハマリもの 洋泉社 2002年1月 ISBN 4896916034
*[[空想科学読本#批判本|こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』]] [[太田出版]] 2002年5月 ISBN 4872336593
*山本弘のトワイライトTV 洋泉社 2004年2月 ISBN 4896917952
*トンデモ本? 違う、SFだ! 洋泉社 2004年7月 ISBN 4896918320
*トンデモUFO入門([[皆神龍太郎]]・[[志水一夫 (作家)|志水一夫]]と共著) 洋泉社 2005年8月 ISBN 4896919459
*人類の月面着陸はあったんだ論―と学会レポート([[植木不等式]]・[[江藤巌]]・[[志水一夫 (作家)|志水一夫]]・[[皆神龍太郎]]と共著) [[楽工社]] 2005年12月 ISBN 4903063011
*トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS 洋泉社 2006年3月 ISBN 4862480098
*超能力番組を10倍楽しむ本 楽工社 2007年3月 ISBN 4903063089
*宇宙はくりまんじゅうで滅びるか? [[河出書房新社]] 2007年7月 ISBN 9784309018294
*“環境問題のウソ”のウソ 楽工社 2008年1月 ISBN 9784903063164
*ニセ科学を10倍楽しむ本 楽工社 2010年3月 ISBN 978-4903063416([[ちくま文庫]] 2015年4月8日 ISBN 978-448043253-7)
*14歳からのリスク学 楽工社 2015年2月 ISBN 978-4903063713
*[[ハヤカワ文庫SF総解説2000]] 早川書房編集部編 早川書房 2015年11月 ISBN 978-4152095787
*世にも不思議な怪奇ドラマの世界 洋泉社 2017年4月 ISBN 9784800312211
*あなたの知らない「レトロ特撮」の素晴らしき世界 洋泉社 2017年10月 ISBN 9784800313355
*創作講座 料理を作るように小説を書こう [[東京創元社]] 2021年4月 ISBN 9784488028350
===漫画原作===
*[[RPGなんてこわくない!]](作画-[[こいでたく]]) ISBN 4938461684
*直撃!人類滅亡超真相(作画-寺嶋としお) ISBN 4253058981
*魔境のシャナナ(作画-[[玉越博幸]]) 『[[週刊コミックバンチ]]』2009年19号から2010年19号まで連載
**第1巻 ISBN 9784107714923
**第2巻 ISBN 9784107715173
**第3巻 ISBN 9784107715449
**第4巻 ISBN 9784107715647
===解説===
*人生を決めた古典的名著([[マーティン・ガードナー]] 『奇妙な論理Ⅰ―だまされやすさの研究』解説 ISBN 4150502722)
*萌えて燃えるハードSF([[野尻抱介]]『ベクフットの虜』解説 ISBN 4150307717)
*ケイロン人社会と「囚人のジレンマ」問題([[ジェイムズ・P・ホーガン]]『[[断絶への航海]]』解説 ISBN 4150115044)
*解説──これは戦いの物語です([[有川浩]]『[[レインツリーの国]]』解説 ISBN 4101276315)
*偉大なSFの巨人([[小松左京]]『すぺるむ・さぴえんすの冒険 小松左京コレクション』解説 ISBN 4834024776)
*本当のSFマンガ([[藤子・F・不二雄]]『[[藤子・F・不二雄大全集]] [[21エモン]]』1巻解説 ISBN 978-4091434371)
===その他===
*[[クトゥルフの呼び声 (TRPG)#作品一覧|クトゥルフ・ハンドブック]] [[ホビージャパン]]、1988年10月 ISBN 4938461463
*[[RPG福袋#元気全開! 〜スーパー少年少女RPG〜|元気全開! 〜スーパー少年少女RPG〜]](『[[RPG福袋#TRPGスーパーセッション大饗宴|TRPGスーパーセッション大饗宴]]』 ISBN 4757708688)
*[[デストロイ オール ヒューマンズ!]](日本版監修)
*火星ノンストップ ヴィンテージSFセレクション―胸躍る冒険篇 早川書房、2005年7月(アンソロジー編集) ISBN 978-4152086518
==脚注==
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==外部リンク==
*[http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/ 山本弘のSF秘密基地][https://web.archive.org/web/20071016043335/http://homepage3.nifty.com/hirorin/](公式サイト)
*[https://hirorin0015.hatenablog.com/ 山本弘の新SF秘密基地BLOG](山本弘のブログ)
*{{twitter|hirorin0015|山本弘}}
*[https://kakuyomu.jp/users/hirorin015 山本弘] - カクヨム
*[http://www.togakkai.com/index.html と学会公式HP]
*{{Cite web|和書|url=http://www.rakkousha.co.jp/writers/yamamoto.html|title=著者 山本弘|publisher=楽工社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080527231918/http://www.rakkousha.co.jp/writers/yamamoto.html|archivedate=2008年5月27日|accessdate=2011-03-05|deadlinkdate=2017年10月}}
*[https://web.archive.org/web/20181110124540/http://www.webmysteries.jp/lounge/50thtaidan1001-1.html 大森望との対談](東京創元社・文庫創刊50周年記念対談。ウェブマガジン掲載の記事)
{{星雲賞日本長編部門|第42回}}
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但馬国
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但馬国(たじまのくに、古文書では「儋馬國」と表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
『古事記』には「多遅摩国」と記載される。但馬の歴史的仮名遣いは「たぢま」。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
当該地域の2010年国勢調査による人口は17万9530人(男8万5568人/女9万3962人)、世帯数は6万1880世帯、面積は2099.01km、人口密度は85.5人/km。
のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。
こののち、のちの丹波国・丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。
『和名抄』および『拾芥抄』によると、国府は気多郡にあった。
初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(北緯35度28分11.02秒 東経134度46分14.78秒 / 北緯35.4697278度 東経134.7707722度 / 35.4697278; 134.7707722 (但馬国府(後期):祢布ヶ森遺跡))。
延喜式内社
総社・一宮以下
※郡名は『延喜式』による。
但馬は、現代でも兵庫県北部を指す地域名として用いられ、但馬地域とは、具体的には豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町の3市2町で構成される地域を表す意味で用いられるのが一般的である。
また、そのうち北部を北但(ほくたん)、南部を南但(なんたん)として二分することがある。(北但を、北但東部〈豊岡市〉、北但西部〈香美町・新温泉町〉と二分して、但馬全体を三分することもある。)北但を兵庫県北部として、南但を播磨北西部・北播磨・丹波地域と合わせて「中部」に分類する考え方もある。
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"title": "現代的用法"
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但馬国(たじまのくに、古文書では「儋馬國」と表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 但馬国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|但馬国}}
|別称 = 但州(たんしゅう)
|所属 = [[山陰道]]
|領域 = [[兵庫県]]北部
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 8郡59郷
|国府 = 1. 未詳<br />2. 兵庫県[[豊岡市]]
|国分寺 = 兵庫県豊岡市([[但馬国分寺|但馬国分寺跡]])
|国分尼寺 = 兵庫県豊岡市
|一宮 = [[出石神社]](兵庫県豊岡市)
}}
'''但馬国'''(たじまのくに、古文書では「儋馬國」と表記)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。
== 「但馬」の名称 ==
『[[古事記]]』には「多遅摩国」と記載される。但馬の[[歴史的仮名遣い]]は「たぢま」。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
* [[兵庫県]]
** '''[[豊岡市]]'''
** '''[[養父市]]'''
** [[朝来市]](生野町真弓・生野町川尻・生野町栃原および生野町口銀谷の一部は[[播磨国]]) - 生野は古来より播磨国と但馬国を結ぶ交通の要衝であった。現在の生野は但馬地域に含まれるが、古代の生野は播磨国の[[神崎郡]]または[[神西郡]]に属し、両国の国境は現在の生野市街地の北、[[市川 (兵庫県)|市川]]水系と[[円山川]]水系の分水界に沿っていた。
** '''[[美方郡]]'''
当該地域の2010年国勢調査による人口は17万9530人(男8万5568人/女9万3962人)、世帯数は6万1880世帯、面積は2099.01[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、人口密度は85.5人/km<sup>2</sup><ref>{{Cite web|和書|date=2010-10-01|url=http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_|title=平成22年国勢調査、小地域集計、28兵庫県|publisher=総務省統計局(e-Stat)|accessdate=2014-05-28}}</ref>。
== 沿革 ==
のちに但馬国となる地域には以下の2つの[[国造]]が置かれていた。
* [[但遅麻国造]](たじまのくにのみやつこ、たじまこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国東部にあたる地域(のちの[[朝来郡]]・[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]周辺にあたる<ref>『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 223。</ref>)を支配した。氏族は[[但馬氏]]。『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」によれば第13代[[成務天皇]]の代に[[竹野氏|竹野君]]同祖の[[彦坐王]](第9代[[開化天皇]]皇子)の五世孫である[[船穂足尼]]を国造に定めたという。
* [[二方国造]](ふたかたのくにのみやつこ、ふたかたこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国西部にあたる地域を支配した。但馬国には[[二方郡]]の名が残り、明治29年([[1896年]])[[七美郡]]と二方郡の地域をもって発足した[[美方郡]]の現在の郡域([[香美町]]・[[新温泉町]])の周辺が二方国造の支配地域である<ref>[http://www.nihonjiten.com/data/263272.html 二方国造 ( 但馬 )] - 日本辞典(2017年9月25日 午前8時55分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば但遅麻国造と同じ成務天皇朝に[[出雲国造]]同祖の[[遷狛一奴命]]の孫である[[美尼布命]]を国造に定めたという。
こののち、のちの[[丹波国]]・[[丹後国]]・但馬国の3国にあたる地域は[[丹波国造]]の支配地域である[[丹波国]]となった。但馬国は[[7世紀]]後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『[[日本書紀]]』[[天武天皇]]4年([[675年]])条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点での支配は以下の通り<ref group="注釈">「[[旧高旧領取調帳]]」は但馬国分が欠けているため、[[木村礎]]の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書11 旧高旧領取調帳 近畿編」(近藤出版社、[[1975年]])に掲載されたデータが[[国立歴史民俗博物館]]によりデータベース化されている。</ref>(620村・144,312石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[朝来郡]](90村・20,739石余) - [[天領|幕府領]]([[生野代官所]])、[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]
** [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]](100村・23,692石余) - 幕府領(生野代官所)、[[地方知行|旗本領]]、出石藩
** [[二方郡]](54村・9,840石余) - 幕府領([[久美浜代官所]])、豊岡藩
** [[七美郡]](70村・8,783石余) - 旗本領([[交代寄合]][[山名氏]])
** [[気多郡 (兵庫県)|気多郡]](75村・19,959石余) - 幕府領(生野代官所)、旗本領、出石藩
** [[城崎郡]](79村・21,660石余) - 幕府領(久美浜代官所)、'''[[豊岡藩]]'''
** [[美含郡]](72村・11,628石余) - 幕府領(久美浜代官所)、出石藩
** [[出石郡]](80村・28,007石余) - 幕府領(生野代官所)、'''[[出石藩]]'''
* [[慶応]]4年
** [[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1868年]][[5月11日]]) - 生野代官所の管轄地域が'''[[府中裁判所]]'''の管轄となる。
** [[閏]][[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[6月18日]]) - 久美浜代官所の管轄地域が'''[[久美浜県]]'''の管轄となる。
** [[6月20日 (旧暦)|6月20日]](1868年[[8月8日]]) - 交代寄合山名氏が立藩して'''[[村岡藩]]'''となる。
** [[7月29日 (旧暦)|7月29日]](1868年[[9月15日]]) - 府中裁判所の管轄地域が'''久美浜県'''の管轄となる。
* 明治2年
** [[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1869年]]9月15日) - 朝来郡の久美浜県の管轄地域が'''[[生野県]]'''の管轄となる。
** 旗本領が久美浜県の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[出石県]]'''、'''[[豊岡県]]'''、'''[[村岡県]]'''および[[篠山県]]の飛地となる。
** [[11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[豊岡県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第1次府県統合により'''[[兵庫県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[ファイル:Nyougamori-iseki sekihi.JPG|thumb|200px|right|{{center|祢布ヶ森遺跡<br />([[兵庫県]][[豊岡市]])}}]]
『[[和名抄]]』および『[[拾芥抄]]』によると、国府は気多郡にあった。
初期の国府の所在地には、[[豊岡市]][[出石町]]の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市[[日高町 (兵庫県)|日高町]])内とする説があるが、明らかでない。『[[日本後紀]]』によると、[[延暦]]23年([[804年]])に気多郡高田郷に国府が移されたという<ref group="注釈">『日本後紀』では「但馬の国治(国府)を気多郡高田郷に遷す」とあり、それまでは別の場所にあったと推測されている。</ref>。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される({{Coord|35|28|11.02|N|134|46|14.78|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国府(後期):祢布ヶ森遺跡}})。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[ファイル:Tajima Kokubunji-ato sekihi.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[但馬国分寺|但馬国分寺跡]] 石碑<br />(兵庫県豊岡市)}}]]
[[ファイル:Tajima Kokubun-niji-ato sekihi.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[但馬国分尼寺跡]] 石碑<br />(兵庫県豊岡市)}}]]
* [[但馬国分寺|但馬国分寺跡]](豊岡市日高町国分寺、{{Coord|35|28|18.90|N|134|46|25.58|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国分寺跡}})
*: 国の史跡。寺域は1町半(約160メートル)四方。伽藍遺構として金堂・回廊・塔・中門、また寺域を示す築地の雨落溝の一部が確認され、その溝からは36点の木簡が出土している。跡地付近にある[[但馬国分寺|護国山国分寺]](豊岡市日高町国分寺、{{Coord|35|28|20.83|N|134|46|23.36|E|region:JP-28_type:landmark|name=護国山国分寺(但馬国分寺後継寺院)}})が法燈を伝承する。
* [[但馬国分尼寺跡]](豊岡市日高町水上・山本、{{Coord|35|28|48.98|N|134|46|33.78|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国分尼寺跡}})
*: 国分寺跡から北方の豊岡市立日高東中学校付近。礎石が伝世され、尼寺の遺構とされる。北方の天台山法華寺(豊岡市日高町山本、{{Coord|35|29|3.68|N|134|46|37.82|E|region:JP-28_type:landmark|display=inline|name=天台山法華寺(伝但馬国分尼寺後継寺院)}})が後継を称する。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社18座10社・小社113座106社の計131座116社が記載されている(「[[但馬国の式内社一覧]]」参照)。大社10社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
* [[朝来郡]] 粟鹿神社
** 比定社:[[粟鹿神社]](朝来市山東町粟鹿)
* [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] 夜夫坐神社二座(五座のうち)
** 比定社:[[養父神社]](養父市養父市場)
* 養父郡 水谷神社
** 比定社:[[水谷神社]](養父市奥米地)
* [[出石郡]] 伊豆志坐神社八座
** 比定社:[[出石神社]](豊岡市出石町宮内)
* 出石郡 御出石神社
** 比定社:[[御出石神社]](豊岡市出石町桐野、{{Coord|35|26|55.88|N|134|53|49.67|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:御出石神社}})
* [[気多郡 (兵庫県)|気多郡]] 山神社
** 比定社:山神社(豊岡市日高町山宮、{{Coord|35|29|21.49|N|134|42|12.24|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:山神社}})
* 気多郡 戸神社
** 比定社:戸神社(豊岡市日高町十戸、{{Coord|35|28|38.59|N|134|42|36.62|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:戸神社}})
* 気多郡 雷神社
** 比定社:雷神社(豊岡市佐野、{{Coord|35|30|45.16|N|134|48|33.11|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:雷神社}})
* 気多郡 㯮椒神社
** 比定社:[[㯮椒神社]](豊岡市竹野町椒、{{Coord|35|32|18.50|N|134|42|15.26|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:㯮椒神社}})
* [[城崎郡]] 海神社
** 比定社:[[海神社 (豊岡市)|海神社]](豊岡市小島、{{Coord|35|38|24.53|N|134|49|22.05|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:海神社}})
[[ファイル:Izushi-jinja shinmon.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[出石神社]](兵庫県豊岡市)}}]]
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 406-409。</ref>。
* 総社:[[気多神社 (豊岡市)|気多神社]](豊岡市日高町上郷、{{Coord|35|28|41.38|N|134|47|35.68|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国総社:気多神社}})
* 一宮:[[出石神社]](豊岡市出石町宮内、{{Coord|35|28|55.01|N|134|52|13.03|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国一宮、名神大社:出石神社}})
* 二宮:[[粟鹿神社]](朝来市山東町粟鹿、{{Coord|35|18|2.66|N|134|54|17.40|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国二宮、名神大社:粟鹿神社}})
*: [[鎌倉時代]]の「[[大田文|但馬国大田文]]」では粟鹿神社を二宮とするが、[[室町時代]]の『[[大日本国一宮記]]』では粟鹿神社を一宮に挙げる(出石神社は記載なし)。現在は粟鹿神社も但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟する。
* 三宮:次の2説。
** [[水谷神社]](養父市奥米地、{{Coord|35|23|37.68|N|134|50|30.08|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国三宮、名神大社:水谷神社}})
** [[養父神社]](養父市養父市場、{{Coord|35|23|14.83|N|134|48|13.79|E|region:JP-28_type:landmark|name=但馬国三宮、名神大社:養父神社}})
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[朝来郡]] - 朝来市
* [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] - 養父市、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町朝倉地区)
* [[出石郡]] - 豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
* [[気多郡 (兵庫県)|気多郡]] - 豊岡市(日高地域、竹野町南地区)
* [[城崎郡|城埼郡]] - 豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
* [[美含郡]] - 美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
* [[七美郡]] - 美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父市(熊次地区)
* [[二方郡]] - 美方郡新温泉町
※郡名は『[[延喜式]]』による。
=== 江戸時代の藩 ===
*[[出石藩]]:小出家(6万石→5万石)→松平(藤井)家(4万8千石)→仙石家(5万8千石→3万石)
*[[豊岡藩]]:杉原家(2万石→2万5千石→1万石)→天領→京極家(3万5千石→1万5千石)
*[[八木藩]]:別所家(1万5千石→2万石)
*[[清富藩]]:宮城家(1万3千石)
*[[竹田藩]]:
=== 明治時代の藩 ===
*[[村岡藩]]:山名家(6700石→1万1千石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 但馬守 ====
*山背王([[藤原弟貞]]):[[天平宝字]]元年([[757年]])任官
*[[高麗福信]]:[[天平宝字]]7年([[763年]])任官
*[[藤原魚名]]:[[宝亀]]元年([[770年]])任官
*[[藤原刷雄]]:775年頃
*[[藤原内麻呂]]:[[延暦]]15年([[796年]])任官
*[[良岑安世]]:[[弘仁]]4年([[813年]])任官
*[[藤原長岡]]:[[天長]]8年([[831年]])任官
*[[春澄善縄]]:[[仁寿]]2年([[852年]])任官
*[[源経基]]:[[960年]]頃
*[[源為親]]:寛和2年([[986年]])任官
*[[源国盛]]:[[永延]]元年([[987年]])任官
*[[源致遠]]:[[永祚 (日本)|永祚]]元年([[989年]])任官
*[[高階明順]]:[[正暦]]4年([[993年]])任官
*[[平生昌]]:[[長徳]]4年([[998年]])任官
*[[高階明順]]:[[長保]]元年([[999年]])任官
*[[源則忠]]:[[寛弘]]3年([[1006年]])任官
*[[藤原朝経]]:寛弘4年([[1007年]])任官
*[[大江嘉言]]:寛弘6年([[1009年]])任官
*[[源頼光]]:[[1010年]]頃
*[[源国拳]]:寛弘8年([[1011年]])任官
*[[橘為義]]:[[長和]]5年([[1016年]])任官
*[[源則理]]:1035年頃
*[[橘俊綱]]
*[[藤原顕綱]]
*[[平正盛]]:[[天仁]]元年([[1108年]])任官
*[[平経正]]
*[[藤原忠隆]]:[[元永]]元年([[1118年]])任官
*[[平忠盛]]:[[天承]]元年[[1131年]]任官?(平家物語に記載有り)
*[[藤原隆季]]:[[長承]]2年([[1133年]])任官
**[[平重衡]]:[[1182年]]任官(権守)
*[[源家長]]:[[建保]]6年([[1218年]])任官
==== 但馬介 ====
*[[高円広世|石川広成]]:[[天平宝字]]2年([[758年]])任官
*[[藤原楓麻呂]]:[[天平宝字]]4年([[760年]])任官
*[[巨勢広足]]:[[天平宝字]]7年([[763年]])任官
* [[源満頼]]
* [[平有親]] [[1224年]]
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* [[1185年]]~? - [[小野時広]]
* [[1197年]]~[[1221年]] - [[安達親長]]
* 1221年~[[1223年]] - [[太田昌明]](常陸房)
* 1323年~[[1285年]] - 太田氏
* [[1285年]]~[[1321年]] - [[太田政頼]]
* 1321年~[[1331年]] - 太田氏
* [[1331年]]~[[1332年]] - [[太田守延]]
* 1332年~[[1336年]] - 太田氏
==== 室町幕府 ====
* [[1336年]] - [[今川頼貞]]
* 1336年~[[1338年]] - [[桃井盛義]]
* 1338年~? - [[吉良貞家]]
* [[1340年]]~[[1351年]] - 今川頼貞
* [[1361年]]~[[1365年]] - [[仁木頼勝]]
* [[1366年]]~[[1372年]] - 長氏
* 1372年~[[1376年]] - [[山名師義]]
* 1376年~[[1389年]] - [[山名時義]]
* 1389年~[[1390年]] - [[山名時熙]]
* 1390年~[[1391年]] - [[山名氏清]]
* [[1392年]]~[[1433年]] - 山名時熙
* 1433年~[[1454年]] - [[山名宗全|山名持豊]]
* 1454年~[[1458年]] - [[山名教豊]]
* 1458年~[[1472年]] - 山名持豊
* 1472年~[[1499年]] - [[山名政豊]]
* 1499年~[[1536年]] - [[山名致豊]]
=== 国人 ===
*[[垣屋氏]]
*[[八木氏]]
*[[太田垣氏]]
*[[田結庄氏]]
*[[田公氏]]
*[[宿南氏]]
=== 戦国大名 ===
*[[山名氏]]
=== 織豊大名 ===
* [[宮部継潤]] [[豊臣秀吉]]の側近。豊臣政権の[[五奉行]]の一人。[[城崎]]を[[豊岡]]と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。後の[[鳥取城]]城主
* [[山名堯熙|山名氏政]] - 豊臣政権の大名。居城は[[有子山城]]。播磨に転封。
* [[前野長康]](5万3千石→11万石)
* [[明石則実]](2万2千石):四国征伐の功により[[豊岡城]]に入封。文禄4年(1595年)、豊臣秀次に連座して切腹・改易。
* [[小出吉政]](6万石):文禄4年(1595年)から有子山城城主。西軍についたものの、弟・[[小出秀政]]が東軍に付いたために安堵され、後に但馬[[出石藩]]初代藩主。
=== 武家官位の但馬守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*室町・戦国時代足利長尾氏
**[[長尾景人]]:室町時代後期の武将。足利長尾氏の祖
**[[長尾定景 (足利長尾氏)|長尾定景]]:足利長尾氏の第2代当主
**[[長尾当長]]:戦国時代の上野国の武将。
**[[長尾景長]]:戦国時代初期の武将、画家
*その他
**[[大国実頼]]:安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。[[直江兼続]]の弟
**[[佐野宗綱]]:戦国時代の武将。[[佐野氏]]第17代当主
**[[島田秀満]]:戦国時代の織田信長の奉行
**[[前野長康]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣
**[[母里友信]]:安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。「[[黒田節]]」で知られる
**[[八木豊信]]:戦国時代・安土桃山時代の武将。但馬国八木城主。山名四天王の1人
**[[矢沢頼康]]:戦国時代の武将。[[真田昌幸]]の従兄弟
==== 江戸時代 ====
*[[上野国|上野]][[館林藩]]秋元家
**[[秋元泰朝]]:秋元家2代。[[総社藩]]藩主、甲斐[[谷村藩]]第3代藩主
**[[秋元喬知]]:秋元家4代。谷村藩主、武蔵[[川越藩]]主・老中
**[[秋元喬房]]:秋元家5代。川越藩第2代藩主
**[[秋元凉朝]]:秋元家7代。川越藩主、出羽[[山形藩]]初代藩主・老中
**[[秋元永朝]]:秋元家8代。山形藩第2代藩主
**[[秋元久朝]]:秋元家9代。山形藩第3代藩主
**[[秋元志朝]]:秋元家10代。山形藩第4代藩主、上野[[館林藩]]初代藩主
**[[秋元礼朝]]:秋元家11代。館林藩第2代藩主
*[[出羽国|出羽]][[亀田藩]][[岩城氏|岩城家]]
**[[岩城宣隆]]:第2代藩主
**[[岩城隆韶]]:第5代藩主
**[[岩城隆永]]:第9代藩主
*[[近江国|近江]][[三上藩]]遠藤家
**[[遠藤慶隆]]:遠藤家初代。美濃[[郡上藩|八幡藩]]初代藩主
**[[遠藤慶利]]:遠藤家2代。八幡藩第2代藩主
**[[遠藤胤親]]:遠藤家6代。近江三上藩の初代藩主
**[[遠藤胤統]]:遠藤家10代。三上藩第5代藩主
**[[遠藤胤城]]:遠藤家11代。三上藩第6代藩主。和泉吉見藩主
*[[備中国|備中]][[新見藩]]関家
**[[関長広]]:第2代藩主
**[[関長輝]]:第6代藩主
**[[関長道]]:第8代藩主
*[[常陸国|常陸]][[土浦藩]]土屋家
**[[土屋数直]]:初代藩主・老中
**[[土屋陳直]]:第3代藩主
**[[土屋英直]]:第7代藩主
*直良系[[越前松平家]]
**[[松平直良]]:直良系越前松平家初代。越前[[木本藩]]主、越前[[越前勝山藩|勝山藩]]主
**[[松平直常]]:直良系越前松平家3代。播磨[[明石藩]]第2代藩主
**[[松平直泰]]:直良系越前松平家5代。明石藩第4代藩主
*[[大和国|大和]][[柳生藩]][[柳生氏|柳生家]]
**[[柳生宗矩]]:初代藩主。徳川将軍家の剣術師範、[[柳生新陰流]]の地位を確立
**[[柳生俊平]]:第6代藩主
**[[柳生俊峯]]:第7代藩主
**[[柳生俊則]]:第8代藩主
**[[柳生俊章]]:第10代藩主
**[[柳生俊順]]:第12代藩主
**[[柳生俊益]]:第13代藩主
*常陸[[牛久藩]]山口家
**[[山口重政]]:初代藩主
**[[山口弘隆]]:第2代藩主
**[[山口弘豊]]:第4代藩主
**[[山口弘道]]:第6代藩主
**[[山口弘致]]:第8代藩主
**[[山口弘封]]:第9代藩主
*その他
**[[浅野長晟]]:備中[[足守藩]]主、紀伊[[和歌山藩]]第2代藩主、安芸[[広島藩]]初代藩主
**[[浅野宗恒]]:広島藩第6代藩主
**[[池田喜通]]:播磨[[福本藩]]第2代藩主
**[[池田徳潤]]:福本藩第3代藩主
**[[島津久雄]]:日向[[佐土原藩]]第3代藩主
**[[島津忠雅]]:佐土原藩第7代藩主
**[[徳川宗勝]]:[[尾張藩]]第8代藩主
**[[戸田氏西]]:美濃[[大垣藩]]第3代藩主
**[[一柳頼寿]]:伊予[[小松藩]]第5代藩主
**[[前田重煕]]:[[加賀藩]]第8代藩主
**[[松平友著]]:川田久保松平家初代当主
**[[松平信孝 (小島藩主)|松平信孝]]:駿河[[小島藩]]初代藩主
**[[松平信義 (丹波亀山藩主)|松平信義]]:[[丹波亀山藩]]第7代藩主・老中
**[[毛利広豊]]:周防[[徳山藩]]第5代藩主
== 但馬国の合戦 ==
*[[1569年]]:[[此隅山城]]の戦い、織田軍([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]) x [[山名祐豊]]
*[[1577年]]:[[竹田城#竹田城の戦い|竹田城の戦い]]、織田軍([[豊臣秀長|羽柴秀長]]) x [[太田垣輝延]](山名四天王)
*[[1580年]]:[[有子山城]]の戦い、織田軍(羽柴秀吉) x [[山名堯熙]]
*[[1581年]]:但馬国人一揆、織田軍([[藤堂高虎]]) x 但馬[[国人]]衆
== 現代的用法 ==
但馬は、現代でも兵庫県北部を指す地域名として用いられ、'''但馬地域'''とは、具体的には[[豊岡市]]・[[養父市]]・[[朝来市]]・[[香美町]]・[[新温泉町]]の3市2町で構成される地域を表す意味で用いられるのが一般的である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk16/ac12_000000056.html|title=但馬(豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町)|publisher=兵庫県|accessdate=2023-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230514031018/https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk16/ac12_000000056.html|archivedate=2023-05-14|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tajimalife.jp/about|title=但馬と市町について|work=たじま[[UJIターン現象|UIターン]]情報サイト|publisher=たじま田舎暮らし情報センター|accessdate=2023-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230514031332/https://tajimalife.jp/about|archivedate=2023-05-14|url-status=live}}</ref>。
また、そのうち北部を北但(ほくたん)、南部を南但(なんたん)として二分することがある。(北但を、北但東部〈豊岡市〉、北但西部〈香美町・新温泉町〉と二分して、但馬全体を三分することもある。)北但を兵庫県北部として、南但を播磨北西部・北播磨・丹波地域と合わせて「中部」に分類する考え方もある。
=== 気象予報区域 ===
* 但馬北部:[[豊岡市]]・[[美方郡]](香美町・新温泉町)
* 但馬南部:[[養父市]]・[[朝来市]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 28 兵庫県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tajima Province}}
* [[但馬牛]]
* [[令制国一覧]]
* [[山名氏]]
* [[但馬弁]]
* [[但馬県民局]]
* [[但馬杜氏]]
== 外部リンク ==
* [https://the-tajima.com/ 但馬検定公式サイト「ザ・たじま」]
* [http://www.tanshin.co.jp/zaidan/ 但馬の百科事典]
* [http://www.tajima.or.jp/ 但馬情報特急]
* [http://www2u.biglobe.ne.jp/~m-510/hougenn.htm 山陰道但馬国正法寺辺りの方言]
* {{Osmrelation|9454431}}
{{令制国一覧}}
{{但馬国の郡}}
{{Japanese-history-stub}}
{{デフォルトソート:たしまのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:山陰道|国たしま]]
[[Category:兵庫県の歴史]]
[[Category:但馬国|*]]
|
2003-09-05T09:58:16Z
|
2023-11-13T13:27:50Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E5%9B%BD
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15,178 |
避妊
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避妊(ひにん、英: Birth control/Fertility control/Contraception/Anticonception)は、望まない妊娠を防ぐこと。また、その手法やそれに使う医薬品や器具を使用することである。避妊の計画や準備、避妊の利用を家族計画、産児制限(family planning)と呼ぶ。
避妊は古代から行われており、20世紀になってから効果的で安全な避妊手法が利用できるようになった。
一部の人々は避妊を倫理的、宗教的、または政治的に望ましくないことだと考え、避妊手段へのアクセスを制限したり阻止したりしている。
世界保健機関(WHO)とアメリカ合衆国疾病予防センター(CDC)は、特定の病状を持つ女性の避妊手法の安全性に関するガイダンスを提供している。最も効果的な避妊方法は、男性の精管結紮術および女性の卵管結紮術(英語版)、子宮内避妊器具(IUD)、避妊インプラント(英語版)による不妊手術である。これに続いて効果的な方法は、経口避妊薬、避妊パッチ(英語版)、膣リング(英語版)、注射可能な避妊薬(英語版)など、ホルモン避妊薬(英語版)がいくつかある。効果の低い避妊方法には、コンドーム、ダイヤフラム(英語版)、避妊用スポンジ(英語版)などの物理的な障壁を導入する方法や、生理的変化を利用した方法(Fertility awareness(英語版))がある。最も効果の低い避妊方法は、殺精子剤と膣外射精である。男性の精管切除は非常に効果的であるが、通常は元の状態に戻すことができない。男性用コンドームや女性用コンドームなど使用したセーフセックス(英語版)は、性感染症の予防にも役に立つ。他の避妊方法は、性感染症は予防できない。緊急避妊薬を用いると、避妊せずに行われた性交から72〜120時間以内に服用した場合に、妊娠を防ぐことができる。性的な禁欲(英語版)も避妊の一形態であると主張する人もいるが、純血のみの性教育(英語版)は、避妊教育なしで実施された場合に、10代の妊娠を増加させる可能性がある。
10代の若者の場合、妊娠は悪い結果につながるリスクが高くなる。包括的な性教育と避妊へのアクセスにより、この年齢層の望まない妊娠(英語版)の割合を減らすことができる事が分かっている。一般に若年層はどのような避妊手法も利用できるが、インプラント、IUD、または膣リングなどの長時間作用型の可逆的な避妊方法(英語版)は、10代の妊娠率を減らせる可能性がより高いとされる。出産後、母乳だけで子供を育てていない女性は、わずか4〜6週間で再び妊娠する可能性がある。避妊の方法の中には、出生直後に開始できるものもあれば、開始を出産後に最大6か月遅らせる必要があるものもある。母乳育児をしている女性には、複合経口避妊薬をよりもプロゲスチンのみを使用する方法が好まれる。閉経に達した女性は、最後の月経から1年間避妊を継続することが推奨されている。
開発途上国では、避妊を望んでいる女性の約2億2200万人が現代の避妊手法を利用できない。途上国での避妊の利用により、妊娠中または妊娠前後の死亡(英語版)数は40%減少し(2008年には約270,000人の死亡が防げた)、避妊の完全な需要が満たされれば、死亡数を70%防止できる。避妊を行って妊娠間の期間を長くすることで、成人女性の出産の結果と子供の生存率を改善することができる。途上国では、女性の収入・資産・体重・子供の学校教育と健康のすべては、避妊へのアクセスが改善することで向上することがわかっている。避妊により扶養される子供が少なくなり、労働に参加する女性が多くなり、希少な資源の利用を減らすことができるため、経済成長の促進に貢献できる。
避妊そのものは、世界各地で古くから行われているが、第二次世界大戦以前の日本においては避妊の知識は少なく、確実性も低かった。ようやく戦後に普及し始め、教育機関では性教育の一環として避妊を教える所もあるが、これには賛否両論がある。
アフリカなどでは、児童就労を目的とした出産や医療の進歩、戦争や部族間抗争の減少の一方で、避妊知識や避妊具の普及が遅れているため、人口の急激な増加の原因の一つになっているとされる。また、元々アフリカでは貧困家庭が多く、避妊具が高価であるが故に、その普及を遅らせている要因の一つになっている。
前述のとおり、完全な避妊法は存在しないが、よく議論されるのが「避妊の効果」である。その避妊の効果を示す一般的な指標が、パールインデックス(PI、パール指数)である。パールインデックスとは、ある避妊法を1年間用いた場合に、避妊に失敗する確率(厳密な定義ではないが、妊娠する確率ともいえる)を示すものである。名称は、アメリカ合衆国の生物学者、生物遺伝学者のレイモンド・パール(Raymond Pearl)の名前にちなむ。
例えば、ある避妊法のパールインデックスが3の場合、その避妊法のみを1年間使った女性のうち3%の人数が妊娠するということになる。避妊をしなかった場合のパールインデックスは85程度といわれている。これは、避妊をまったくしなかった(もしくは妊娠を望んでいる)カップルの女性が1年後に妊娠している率が85%程度であることを示す。
PIは「100人の女性が1年間避妊」または「10人の女性が10年間避妊」した場合の「100女性年」を用いて算出される。PIはあくまで避妊方法を数値化し、各々の避妊効果を比較するための数値であり、避妊効果自体を算出するものではない。
PIの算出には3つの数値が必要である。
PIの算出には2つの方法がある。
一般的に検証結果には2つのPIが表示される。
統計的にPIは0 - 100の間ではあるものの、科学的に「実験失敗」の確率を含めるとPIはパーセントで表せない数値であることがわかる。避妊方法の検証に参加した女性達が皆1か月目で妊娠してしまったら、PIは1200 - 1300のパーフェクトな数値となってしまう。これはPIがパーセントで表すPearl Rate(パール率)からそうでないPearl Index(パール指数)と呼ばれるようになった由来でもある。
また避妊実験を行う被験者の国柄、人種、年齢、学歴などにより避妊失敗率は激変し、PIにも大きく影響する。もちろん健康的で妊娠しやすいカップルから妊娠し、不健康で不妊性のカップルは避妊しなくても妊娠できないこと、避妊道具は使用方法を練習するほど効果が上がることなどは数値化されていない。さらには避妊方法への不満、妊娠願望、避妊方法の副作用、後日検証に現れない被験者などはPIに反映することができない。
だからといってPIに信憑性がなくなるわけではない。科学的根拠にだけ基づいた指数であることを踏まえた上で避妊検証実験の状況を勘案して、PIをどれだけ重視すべきかを検討すべきである。
コンドームはラテックスやポリウレタンの薄膜をサック状にした避妊具で、膣に挿入する前に勃起した状態のペニスに被せて使用する。避妊具の中では最も一般的に使用される(PI:3 - 14%程度)。確実な避妊のためには、勃起直後に装着することが勧められる。また、勃起したペニスの大きさに適応したコンドームを使用しないと行為中に外れる可能性があるため、自身(パートナー)の勃起したペニスの大きさを測定した上で、大きさに応じたコンドームを装着しなければならない。
勃起時のペニスの参考サイズは、コンドームを参照のこと。ペニスの太さにあわせて多様なサイズが用意されており、SSやLLは店頭になくともECサイトで気軽に購入できる。効果を確実にするために、適切なサイズのコンドームを選択することが望まれる。
単に「コンドーム」と言うと男性が装着する避妊具を指すが、女性器に装着する女性用コンドームも市販されている。
避妊用のペッサリーは膣より挿入するゴム状の避妊具で、本来は子宮の位置を直すための道具である。子宮口に被せるように指で挿入し、通常は殺精子剤と併用するが現在では殆ど使われていない。膣内に入った精子が子宮に達せず避妊することができる。装着状態が見えないために正しく装着するのが難しい。
装着方法については指導が必要であり、避妊の確率もあまり高くなく(PI:6 - 20%程度)単独ではあまり使用されない。また、人によって適したサイズ・形状などが異なるために薬局では販売されておらず、入手するためには産婦人科医の診察を受ける必要がある。ペッサリーは避妊の目的以外にも、膀胱脱や子宮下垂、子宮脱の矯正にも使用される。
子宮内避妊用具にはリング状・ループ状・コイル状など様々な形がある。これを病院において子宮内に挿入しておくと体機能としての異物排除機能が働き、受精卵の着床を妨げることで妊娠を防ぐ。避妊の確率はあまり高くなかったが、近年の改良により徐々に確率は高くなっているとされる。日本では単純タイプに加え、銅付加タイプ(PI:0.6 - 0.8%程度)が認められている。Intra-uterine (Contraceptive) Deviceの頭文字をとってIUD(あるいはIUCD)とも呼ばれる。日本ではリング状のものが早くから普及したため「避妊リング」と呼ばれることも多い。
月経が終了してから、 4 - 5日の間に装着する。副作用として月経の出血量増加や期間延長、下腹痛、不正性器出血が起きる場合がある。ある製品では総症例1,047例中602例(57.5%)に使用に関係する副作用が認められ、主な副作用としては月経異常269件)(25.7%)、過多月経136件(13.0%)、月経中間期出血120件(11.5%)、腹痛116件(11.1%)、疼痛111件(10.6%)、白帯下108件(10.3%)等であった。また、IUDが子宮から飛び出してくる滑脱子宮の壁を突き破る穿孔、骨盤内炎症性疾患(PID)、挿入後の子宮や卵管に感染などの有害事象がある。誰でも使用できるわけではなく、先天性心疾患又は心臓弁膜症の患者には慎重な使用が求められる。また使用ができないケースとしては通常、出血性素因のある女性や診断の確定していない異常性器出血のある人、妊娠のしたことのない人や子宮外妊娠をしたことがある人、貧血を伴う過多月経のある人、性感染症や性器感染症のある人、頸管炎又は腟炎の患者や産婦人科領域外であっても重篤な疾患のある患者、先天性・後天性の子宮形体異常のある女性などがある。また普通の妊娠は防げても、子宮外妊娠は防げない。また、定期検診と数年に一度の取替えが必要である。
挿入方法、形状はIUDと同じだが、中央の部分から黄体ホルモン(女性ホルモンの一種)が持続的に子宮内に放出されるのが特徴であることから、「レボノルゲストレル放出子宮内避妊システム」と呼ばれることとなった。黄体ホルモンは子宮頸管(子宮の入り口)の粘膜を変化させ精子の侵入を防ぎ、また子宮内膜の増殖を抑制し、受精卵の着床を防ぐ作用がある。それに伴う倫理的問題は子宮内避妊用具(IUD)と同じである。ミレーナは1970年代に開発が始まり1990年にフィンランドで初めて承認・発売された。月経が終了してから4、5日の間に装着する。ただし使い続けていると無月経になる可能性もあるが、除去すれば直ぐに月経が戻り妊娠可能となる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。過多月経の女性には推奨できないIUDと異なり、ミレーナでは月経時の出血量が軽減される。また、IUDと同様に子宮から飛び出してくる滑脱、子宮の壁を突き破る穿孔のリスクがある。
他の副作用としては、総症例482例中428例(88.8%)に副作用が認められ、主な副作用は月経異常(過長月経,月経周期異常等)379例 (78.6%)、卵巣嚢胞61例(12.7%)、除去後の消退出血57例 (11.8%)、月経中間期出血48例(10.0%)、腹痛38例(7.9%) 等。誰でも使用できるわけではなく、性器癌及びその疑いのある人、黄体ホルモン依存性腫瘍及びその疑いのある人、診断の確定していない異常性器出血のある人、先天性・後天性の子宮の形態異常(子宮腔の変形を来しているような子宮筋腫を含む)、性感染症になったことがある又は性器感染症のある人、頸管炎又は腟炎の患者、再発性又は現在PIDの患者、子宮外妊娠や分娩後子宮内膜炎又は感染性流産になったことのある人、重篤な肝障害又は肝腫瘍の患者、妊婦又は妊娠している可能性のある女性には使用できない。また、先天性心疾患又は心臓弁膜症の患者、糖尿病患者、肝障害のある患者には副作用があるため、慎重な使用が求められる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。IUDと同様、定期的な検診と数年に一度の取替えが必要である。
内服用の避妊用女性ホルモン剤のこと。経口避妊薬(OC)とも呼ばれる。
ピルを女性が服用することにより、人工的に排卵終了後の黄体期と同様な内分泌状態を持続させることで排卵を停止させる。正しく服用した場合の避妊の確率はそれなりにある(PI:0.1-5程度)。避妊以外にも生理時期の調整や月経困難症(生理に伴う重い症状)の緩和、子宮内膜症の治療などに使われる。一方で人により血栓症、肥満などの副作用が出る場合もあるので入手には医療機関の受診が必要である。
副作用としては、体重の増加(肥満)、偏頭痛、吐き気、嘔吐、イライラ、性欲減退、むくみ、膣炎、肝機能障害、長期服用による発癌性などの可能性が指摘されている。子宮筋腫、糖尿病を悪化させる可能性もある。ピルの主要な副作用としては血栓症があげられる。
ピルは、血栓が起こるリスクを3 - 5倍引き上げるとされ、イギリスでは10年間に104人が血栓症で死亡した。日本でも、医薬品の安全を管理する独立行政法人医薬品医療機器総合機構の集計によると、2008年 - 2013年上半期に、日本で使用されたピルに関して、血の固まりが血管をふさぐ血栓の重症例361件が副作用として報告されていた。その中で死亡例は11件あり10代1人、20代2人、30代4人、40代1人、50代2人、不明1人だった。
発癌性に関しては、国際がん研究機関によるIARC発がん性リスク一覧で、「経口避妊薬の常用」に関して「Group1 ヒトに対する発癌性が認められる」と評価されている。また、喫煙を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら喫煙をしないことが望ましい。
ピルを服用できない場合としては、乳がん・子宮体がん・子宮頸がん・子宮筋腫の患者及び疑いのある人、原因不明の出血や血栓症を起こしたことがあるがある人及び肺塞栓症・冠動脈疾患・血栓症静脈炎・脳血管障害の患者やこれらの病気にこれまでにかかったことがある、その疑いのある人、片頭痛の患者、糖尿病患者、高血圧の人、35歳以上で1日15本以上のタバコを吸う人、コレステロール値や中性脂肪の高い人、腎臓や肝臓に病気のある人、以前妊娠した時に持続的なかゆみまたは黄疸や妊娠ヘルペスの症状が出たことのある人。
また肥満や40歳以上の人、子宮筋腫のある人などには慎重な投与が求められる。かつては中用量ピルが用いられていたが、副作用のリスクの低減を目的として低用量ピル、超低用量ピルが開発された。
日本でのピルの承認は、他先進国と比較して酷く遅れ、ピルの発見から40年間の年月を必要とした(アメリカ合衆国では1960年代に認可されている)。日本では、まず最初に治療目的の中用量ピルが最初に認可されたが、避妊を目的としたものではなく、副作用も強かった。1998年やっと避妊目的の低用量ピルが認可された。2010年に超低用量ピルが月経困難症の治療薬として認可されたが、避妊用としては低用量ピルが主流になっている。
プロゲステロンを含有した徐放性のスティックを女性の上腕の皮下に埋没させ、長期間にわたって避妊効果を発揮させるもの。処置は局所麻酔で簡便に実施できる。アメリカでは1回の挿入によって3年間の避妊効果が得られる。避妊効果もピルより高い。3年後あるいは妊娠を望む時は切開してスティックを取り出す必要があるのが欠点であり、挿入時よりも手間がかかる。日本では未認可。
エブラ (EVRA) 避妊パッチなど。エストロゲンとプロゲステロンを含有したパッチ剤を女性の皮膚に貼ることによって避妊効果を発揮する。1枚のパッチ剤で1週間の避妊が出来る。日本では未認可であるが、個人の責任で自己使用できる避妊薬なので個人輸入されている。
プロゲステロンを皮下ないし筋肉注射する避妊法。3か月毎の注射が必要。注射の中止によって、半分の女性が半年以内に生殖能力を回復するが、最長1年かかる場合もあるとされる。日本では未認可。
精子を殺す作用のある薬剤を性交の一定時間前に膣内に挿入し、避妊を行う。ピルのような全身の副作用がなく、女性自身の手で避妊できるという利点がある。欠点は錠剤やフィルム状の製品は膣内奥に留置するのにコツが必要であり、溶解するのに時間が掛かるので、初心者では失敗しやすく、避妊の確率はあまり高くない(PI:6-26程度)。すなわち、精子が全て死ぬわけではなく、生き残った精子が受精することも非常に多い。そのため、他の避妊方法と併用すべきである。
また、性交後に薬剤が流れ出て下着やシーツが汚れやすいという欠点や、薬剤によるアレルギーで外陰部炎を起こすケースもある。スポンジ以外の製品は、1回の射精につき1つ使用する必要があり、2回目以降の射精では追加投与が必要である。
日本では嘗てマイルーラ(大鵬薬品工業)やサンプーン(エーザイ)等が国内向けに販売されていたが(詳しくは後述)、 2015年までに全て販売終了となっている。 ただ認可はされているので、世界からの個人輸入で取り寄せることは可能。
以下の5種類のタイプが存在する。
女性の月経周期に基づいて妊娠可能な期間を計算・予測し、その期間中の性行為に限り避妊を行う方法(PI:9程度)。周期法とも呼ばれる。簡便な方法であるが、排卵の乱れなどにより予測を失敗してしまう可能性もある。不妊治療のため日本人産婦人科医・荻野久作が発見した、月経周期に関する「荻野学説」が避妊法に応用されたものである。
なお、荻野本人は自分の学説が避妊法として利用されることについて、より確実な避妊法が存在する上に中絶の増加に繋がるとして大いに反対していた。「女の身体には1日たりとも『安全日』などありはしない」「迷惑だ。むしろ不妊治療に役立つ学説だ」と主張しつづけた。
カトリック教会の教学上(人のいのちを育む家庭のいしずえとして、夫婦の本来の性のあり方を守るため)、排卵法(ビリングス・メソッド)と共に認められている、受胎調節法(自然な家族計画)の一つである。
女性の月経の周期のうち、基礎体温を計測して低温相から高温相に変わった日(排卵日)を知り、それから4日目以降に性行為を行う方法(PI:3程度)。毎日規則正しい生活を行い、かつ定時に基礎体温を測り続ける必要がある。
上記のオギノ式と併用することで、より避妊成功率を高めることができる。
妊娠可能年齢の女性には、母体が必要なエネルギーを脂肪として蓄えないと妊娠可能とはならない生理的メカニズムがある。女性の正常な妊娠には平均的に27,000カロリーのエネルギーを必要とし、出産後に体重に対する脂肪の割合が20から25パーセント程度の水準まで脂肪を蓄えないと排卵が再開されない。嬰児への授乳は1日に約1,000カロリーを必要とするため、授乳によって子育てを行う環境では排卵の再開が遅くなる。動物性蛋白質を主な栄養源とし、日常的に移動する狩猟採集民のサン族の女性は、授乳期間を長くすることで意図的に妊娠間隔を4年以上に伸ばすことを可能としている。
この他、子宮頚管粘液の状態で排卵日を確認する頚管粘液法もある(PI:2程度としているが、詳しく検証されているかなど不明である)。
不妊手術 (sterilization) とは卵管、または精管を外科手術によって縛り(結紮)、卵子や精子の通過を止めることによって避妊する方法である。卵管の結紮には、経腹または経膣による腹腔鏡手術が必要となるために、帝王切開術と同時に行われることがある。精管結紮術は、外来で局所麻酔のみで簡単に実施出来るが、結紮した精管が再癒合しやすいために術後に精液中に精子が検出されなくなるか確認が必要である。また既に精嚢に貯留している精子が無くなるまでは受精能力を失っておらず、術後にただちに不妊になる訳ではない。一度これら手術を行ってしまうと妊娠のためには再度手術を行わねばならないが、再手術の難易度は高く人工授精が必要になる場合もある。妊娠を強く望まない夫婦や、妊娠することで女性の母体や胎児に対して深刻な問題が起きる可能性がある場合などに用いられる(PI:男性0.10% - 0.15%程度、女性0.5%程度)。子宮全摘についても、子宮筋腫や子宮内膜症などの合併症の程度によっては、避妊目的を含めて実施されることもある。
性交時に射精の寸前に陰茎を膣から抜いて膣外に射精を行うこと。アダルトビデオなどで頻繁に描写されるため、避妊法として認識されている場合も少なくないが、精子は射精時の精液だけでなく、前段階で分泌されるカウパー腺液中にも僅かに存在する場合があるため避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。性交後にビデなど水などを使用して洗い流すことも、一部の精子は子宮に入ってしまうため、通常は避妊法としてカウントされない。
性交を伴わない性行為で、ペッティングと呼ばれている。以下もペッティングの中に含まれる。
避妊に失敗した可能性がある、強姦などによって望まぬ妊娠の可能性に直面した場合などは、性交後に内服して妊娠を回避する緊急避妊薬が使用されている。アフターピル、モーニングアフターピル、エマージェンシーピル、EC(Emergency Contraception)など呼ばれる。
1970年代よりYuzpe(ヤッペ)法と呼ばれる緊急避妊は欧米で実施されており、日本でも「医師の判断と責任」によって緊急避妊法としてホルモン配合剤を転用した避妊が行われていた。これらは効果が低く副作用の強い中容量ピルを使ったものであった。1999年に副作用が少なく効果が高いレボノルゲストレル錠が "NorLevo" としてフランスで正式に商品化された。WHOもレボノルゲストレルの導入を後押ししたが、ピルと同様に日本では導入が遅れ2011年2月23日に緊急避妊薬ノルレボRとして承認された(アジアで認可していないのは日本と北朝鮮だけであった)。
性交後72時間以内に内服する必要がある。レボノルゲストレルは、排卵抑制作用により避妊効果を示すことが示唆され,その他に受精阻害作用及び受精卵着床阻害作用も関与する可能性が考えられており、そのことに倫理的な批判も存在する。日本国内ではノルレボ錠として流通している。医療機関によって処方される。現在では、直接対面ではなく、コロナ影響化によりオンライン診療及びオンライン処方で研修を受けた医師と薬剤師が処方することが可能となっている。産婦人科だけではなく総合病院が脳神経外科や眼科医師も処方可能リストに名を連ねている。
産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、デートDV 被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人工妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり,48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。このことから、若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり日本国内の女性に対し憲法に定める法の下の平等や生存権が危ぶまれるものとなっている。
ノルレボ錠は国内の第III相臨床試験において、性交後72時間以内にノルレボを1回経口投与した結果、解析対象例63例のうち、妊娠例は1例で、妊娠阻止率は81.0%であった。全ての妊娠が防げるわけではなく、性交後72時間を超えて本剤を服用した場合には63%であり、妊娠阻止率が減弱する傾向がみられた。なお、銅付加子宮内避妊器具IUDは避妊をしなかった性行為の後、5日以内に子宮内に挿入すると、緊急避妊の方法としてほぼ100%の効果があり、希望があれば長期的な避妊手段として入れたままにしておくことも可能である。
海外では30年以上前から使用され、安全な中絶・流産の方法としてWHOの必須医薬品にも指定されている経口中絶薬(ミフェプリストン、ミソプロストール)は日本では中絶や流産に対しての適応は許可されていない。『フランス・ジャポン・エコー』編集長レジス・アルノーからは、経口妊娠中絶薬はすべての先進国、それに発展途上国の多くでも認可され中国やウズベキスタンの女性も手に入れているにもかかわらず厚生労働省は、経口妊娠中絶薬についてFDAの古い危険という、誤った見解の情報を発し続けてリンク切れを起こしている、ことを指摘しており、認可されていない状況を憂いている。厚生労働省は2018年、インターネットでインド製と表示された経口妊娠中絶薬を個人輸入し服用した20代の女性に、多量の出血やけいれん、腹痛などの健康被害が起きていたと発表し、個人輸入規制の強化を図った。
レボノルゲストレルを使用してはいけない場合は、本剤の成分に対する過敏症の既往がある場合、重篤な肝機能障害のある場合、妊婦、その他肝障害・心疾患・腎疾患又はその既往歴のある場合にも慎重を要する。また、重度の消化管障害あるいは消化管の吸収不良症候群がある場合,本剤の有効性が期待できないおそれがある。副作用としては、消退出血(46.2%)、不正子宮出血(13.8%)、頭痛(12.3%)、悪心(9.2%)、倦怠感(7.7%)などがあり、その他にめまい、腹痛、嘔吐、下痢、乳房の痛み、月経遅延、月経過多、疲労などがある。妊娠回避効果は100%ではなく、排卵日付近の性交渉ではレボノルゲストレルを使っても81% - 84%である。その他の方法として少量のミフェプリストン(10mg程度)を使用する方法がある。ミフェプリストンが受精卵の着床を阻害するためと考えられていたが、その後の研究により卵巣からの排卵抑制効果によるものと判明している。
性交後72時間を過ぎた場合は、IUDやミレーナによって妊娠を阻止する。
日本においても、世界で承認されている、子宮内避妊システムの小さいものの利用、腕に入れるインプラント、皮膚に貼るシールの利用を含め「産む・産まない」の選択を女性自身が決める「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」の権利が尊重される必要がある。
避妊を強く非難する意見や逆に積極的に広めようとする意見があり、論争が続いている。
一方で避妊とは女性のみに妊娠という母体に負担を掛けることから解放して自由度を高め、男女が平等に性を謳歌することを可能とする手段とも言え、性的快楽を是としてあまり罪悪視しない人々の間には賛成する声も多い。また発展途上国での人口調節に置いて、避妊の推奨は切実な問題となっており、1994年の国際人口開発会議(ICPD/カイロ会議)では、女性は出産する時期と子どもの数、出産間隔を自由に決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという、基本的権利「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」持っているという概念が国際的に提唱されている。国際家族計画連盟(IPPF)事務局長ジル・グリアは第一子を出産する年齢を女性自身で決められるということが特に重要であるとしている。
避妊とは言うなれば生殖という生物学的な由来を捨て去り、完全に個人の快楽(特に男性)のための性行為を可能にする手段であると言える。性を建前上罪悪視する人々にとってはこれは「性行為を認めるべき唯一の理由(生殖)」が欠けたということであり、彼らは避妊を伴う性行為を否定している。宗教の熱心な信者にとって、避妊は性の本来のあり方に反するとされる。古来からカトリック教会では夫婦愛の姿として性を捉えており、避妊は本来の全人的な性のあり方に反し、結局は夫婦愛に陰を落とし、損なうものとして、罪とされる。一方、自然な受胎調節は認められており、人工的な器具などを使わない荻野久作博士による研究や、より最近ではビリングス博士夫妻による非常に有効な排卵法(ビリングス・メソッド)は、カトリック教会によって推奨されている。国民の大多数がカトリック教徒で、教会が影響力を持つアイルランドでは避妊は中絶と共に異端視されている。離婚は1990年代に合法化され、避妊具も普通の商店で売られるようになった。
宗教を理由とする以外の批判としては、緊急避妊やIUD、ミレーナの使用によって、受精卵の着床を阻止する作用があるため、これらは命(受精卵)を強制的に殺すこと、妊娠中絶(子おろし)であるとして非難する人々もいる。
ほとんどすべての小説、映画、ビデオその他の中の避妊の措置が当然なされるであろうと思われるいわゆる和姦描写において、その描写はリアリズムが標榜される場合においてさえ、意図的に回避される。このことを問題視する作家に姫野カオルコなどがいる。
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"text": "避妊(ひにん、英: Birth control/Fertility control/Contraception/Anticonception)は、望まない妊娠を防ぐこと。また、その手法やそれに使う医薬品や器具を使用することである。避妊の計画や準備、避妊の利用を家族計画、産児制限(family planning)と呼ぶ。",
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"text": "一部の人々は避妊を倫理的、宗教的、または政治的に望ましくないことだと考え、避妊手段へのアクセスを制限したり阻止したりしている。",
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"text": "世界保健機関(WHO)とアメリカ合衆国疾病予防センター(CDC)は、特定の病状を持つ女性の避妊手法の安全性に関するガイダンスを提供している。最も効果的な避妊方法は、男性の精管結紮術および女性の卵管結紮術(英語版)、子宮内避妊器具(IUD)、避妊インプラント(英語版)による不妊手術である。これに続いて効果的な方法は、経口避妊薬、避妊パッチ(英語版)、膣リング(英語版)、注射可能な避妊薬(英語版)など、ホルモン避妊薬(英語版)がいくつかある。効果の低い避妊方法には、コンドーム、ダイヤフラム(英語版)、避妊用スポンジ(英語版)などの物理的な障壁を導入する方法や、生理的変化を利用した方法(Fertility awareness(英語版))がある。最も効果の低い避妊方法は、殺精子剤と膣外射精である。男性の精管切除は非常に効果的であるが、通常は元の状態に戻すことができない。男性用コンドームや女性用コンドームなど使用したセーフセックス(英語版)は、性感染症の予防にも役に立つ。他の避妊方法は、性感染症は予防できない。緊急避妊薬を用いると、避妊せずに行われた性交から72〜120時間以内に服用した場合に、妊娠を防ぐことができる。性的な禁欲(英語版)も避妊の一形態であると主張する人もいるが、純血のみの性教育(英語版)は、避妊教育なしで実施された場合に、10代の妊娠を増加させる可能性がある。",
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"text": "10代の若者の場合、妊娠は悪い結果につながるリスクが高くなる。包括的な性教育と避妊へのアクセスにより、この年齢層の望まない妊娠(英語版)の割合を減らすことができる事が分かっている。一般に若年層はどのような避妊手法も利用できるが、インプラント、IUD、または膣リングなどの長時間作用型の可逆的な避妊方法(英語版)は、10代の妊娠率を減らせる可能性がより高いとされる。出産後、母乳だけで子供を育てていない女性は、わずか4〜6週間で再び妊娠する可能性がある。避妊の方法の中には、出生直後に開始できるものもあれば、開始を出産後に最大6か月遅らせる必要があるものもある。母乳育児をしている女性には、複合経口避妊薬をよりもプロゲスチンのみを使用する方法が好まれる。閉経に達した女性は、最後の月経から1年間避妊を継続することが推奨されている。",
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"text": "開発途上国では、避妊を望んでいる女性の約2億2200万人が現代の避妊手法を利用できない。途上国での避妊の利用により、妊娠中または妊娠前後の死亡(英語版)数は40%減少し(2008年には約270,000人の死亡が防げた)、避妊の完全な需要が満たされれば、死亡数を70%防止できる。避妊を行って妊娠間の期間を長くすることで、成人女性の出産の結果と子供の生存率を改善することができる。途上国では、女性の収入・資産・体重・子供の学校教育と健康のすべては、避妊へのアクセスが改善することで向上することがわかっている。避妊により扶養される子供が少なくなり、労働に参加する女性が多くなり、希少な資源の利用を減らすことができるため、経済成長の促進に貢献できる。",
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"text": "避妊そのものは、世界各地で古くから行われているが、第二次世界大戦以前の日本においては避妊の知識は少なく、確実性も低かった。ようやく戦後に普及し始め、教育機関では性教育の一環として避妊を教える所もあるが、これには賛否両論がある。",
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"text": "アフリカなどでは、児童就労を目的とした出産や医療の進歩、戦争や部族間抗争の減少の一方で、避妊知識や避妊具の普及が遅れているため、人口の急激な増加の原因の一つになっているとされる。また、元々アフリカでは貧困家庭が多く、避妊具が高価であるが故に、その普及を遅らせている要因の一つになっている。",
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"text": "前述のとおり、完全な避妊法は存在しないが、よく議論されるのが「避妊の効果」である。その避妊の効果を示す一般的な指標が、パールインデックス(PI、パール指数)である。パールインデックスとは、ある避妊法を1年間用いた場合に、避妊に失敗する確率(厳密な定義ではないが、妊娠する確率ともいえる)を示すものである。名称は、アメリカ合衆国の生物学者、生物遺伝学者のレイモンド・パール(Raymond Pearl)の名前にちなむ。",
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"text": "例えば、ある避妊法のパールインデックスが3の場合、その避妊法のみを1年間使った女性のうち3%の人数が妊娠するということになる。避妊をしなかった場合のパールインデックスは85程度といわれている。これは、避妊をまったくしなかった(もしくは妊娠を望んでいる)カップルの女性が1年後に妊娠している率が85%程度であることを示す。",
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"text": "PIは「100人の女性が1年間避妊」または「10人の女性が10年間避妊」した場合の「100女性年」を用いて算出される。PIはあくまで避妊方法を数値化し、各々の避妊効果を比較するための数値であり、避妊効果自体を算出するものではない。",
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"text": "PIの算出には3つの数値が必要である。",
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"text": "PIの算出には2つの方法がある。",
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"text": "一般的に検証結果には2つのPIが表示される。",
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"text": "統計的にPIは0 - 100の間ではあるものの、科学的に「実験失敗」の確率を含めるとPIはパーセントで表せない数値であることがわかる。避妊方法の検証に参加した女性達が皆1か月目で妊娠してしまったら、PIは1200 - 1300のパーフェクトな数値となってしまう。これはPIがパーセントで表すPearl Rate(パール率)からそうでないPearl Index(パール指数)と呼ばれるようになった由来でもある。",
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"text": "また避妊実験を行う被験者の国柄、人種、年齢、学歴などにより避妊失敗率は激変し、PIにも大きく影響する。もちろん健康的で妊娠しやすいカップルから妊娠し、不健康で不妊性のカップルは避妊しなくても妊娠できないこと、避妊道具は使用方法を練習するほど効果が上がることなどは数値化されていない。さらには避妊方法への不満、妊娠願望、避妊方法の副作用、後日検証に現れない被験者などはPIに反映することができない。",
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"text": "だからといってPIに信憑性がなくなるわけではない。科学的根拠にだけ基づいた指数であることを踏まえた上で避妊検証実験の状況を勘案して、PIをどれだけ重視すべきかを検討すべきである。",
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"text": "コンドームはラテックスやポリウレタンの薄膜をサック状にした避妊具で、膣に挿入する前に勃起した状態のペニスに被せて使用する。避妊具の中では最も一般的に使用される(PI:3 - 14%程度)。確実な避妊のためには、勃起直後に装着することが勧められる。また、勃起したペニスの大きさに適応したコンドームを使用しないと行為中に外れる可能性があるため、自身(パートナー)の勃起したペニスの大きさを測定した上で、大きさに応じたコンドームを装着しなければならない。",
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "勃起時のペニスの参考サイズは、コンドームを参照のこと。ペニスの太さにあわせて多様なサイズが用意されており、SSやLLは店頭になくともECサイトで気軽に購入できる。効果を確実にするために、適切なサイズのコンドームを選択することが望まれる。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "単に「コンドーム」と言うと男性が装着する避妊具を指すが、女性器に装着する女性用コンドームも市販されている。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "避妊用のペッサリーは膣より挿入するゴム状の避妊具で、本来は子宮の位置を直すための道具である。子宮口に被せるように指で挿入し、通常は殺精子剤と併用するが現在では殆ど使われていない。膣内に入った精子が子宮に達せず避妊することができる。装着状態が見えないために正しく装着するのが難しい。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "装着方法については指導が必要であり、避妊の確率もあまり高くなく(PI:6 - 20%程度)単独ではあまり使用されない。また、人によって適したサイズ・形状などが異なるために薬局では販売されておらず、入手するためには産婦人科医の診察を受ける必要がある。ペッサリーは避妊の目的以外にも、膀胱脱や子宮下垂、子宮脱の矯正にも使用される。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "子宮内避妊用具にはリング状・ループ状・コイル状など様々な形がある。これを病院において子宮内に挿入しておくと体機能としての異物排除機能が働き、受精卵の着床を妨げることで妊娠を防ぐ。避妊の確率はあまり高くなかったが、近年の改良により徐々に確率は高くなっているとされる。日本では単純タイプに加え、銅付加タイプ(PI:0.6 - 0.8%程度)が認められている。Intra-uterine (Contraceptive) Deviceの頭文字をとってIUD(あるいはIUCD)とも呼ばれる。日本ではリング状のものが早くから普及したため「避妊リング」と呼ばれることも多い。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "月経が終了してから、 4 - 5日の間に装着する。副作用として月経の出血量増加や期間延長、下腹痛、不正性器出血が起きる場合がある。ある製品では総症例1,047例中602例(57.5%)に使用に関係する副作用が認められ、主な副作用としては月経異常269件)(25.7%)、過多月経136件(13.0%)、月経中間期出血120件(11.5%)、腹痛116件(11.1%)、疼痛111件(10.6%)、白帯下108件(10.3%)等であった。また、IUDが子宮から飛び出してくる滑脱子宮の壁を突き破る穿孔、骨盤内炎症性疾患(PID)、挿入後の子宮や卵管に感染などの有害事象がある。誰でも使用できるわけではなく、先天性心疾患又は心臓弁膜症の患者には慎重な使用が求められる。また使用ができないケースとしては通常、出血性素因のある女性や診断の確定していない異常性器出血のある人、妊娠のしたことのない人や子宮外妊娠をしたことがある人、貧血を伴う過多月経のある人、性感染症や性器感染症のある人、頸管炎又は腟炎の患者や産婦人科領域外であっても重篤な疾患のある患者、先天性・後天性の子宮形体異常のある女性などがある。また普通の妊娠は防げても、子宮外妊娠は防げない。また、定期検診と数年に一度の取替えが必要である。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "挿入方法、形状はIUDと同じだが、中央の部分から黄体ホルモン(女性ホルモンの一種)が持続的に子宮内に放出されるのが特徴であることから、「レボノルゲストレル放出子宮内避妊システム」と呼ばれることとなった。黄体ホルモンは子宮頸管(子宮の入り口)の粘膜を変化させ精子の侵入を防ぎ、また子宮内膜の増殖を抑制し、受精卵の着床を防ぐ作用がある。それに伴う倫理的問題は子宮内避妊用具(IUD)と同じである。ミレーナは1970年代に開発が始まり1990年にフィンランドで初めて承認・発売された。月経が終了してから4、5日の間に装着する。ただし使い続けていると無月経になる可能性もあるが、除去すれば直ぐに月経が戻り妊娠可能となる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。過多月経の女性には推奨できないIUDと異なり、ミレーナでは月経時の出血量が軽減される。また、IUDと同様に子宮から飛び出してくる滑脱、子宮の壁を突き破る穿孔のリスクがある。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "他の副作用としては、総症例482例中428例(88.8%)に副作用が認められ、主な副作用は月経異常(過長月経,月経周期異常等)379例 (78.6%)、卵巣嚢胞61例(12.7%)、除去後の消退出血57例 (11.8%)、月経中間期出血48例(10.0%)、腹痛38例(7.9%) 等。誰でも使用できるわけではなく、性器癌及びその疑いのある人、黄体ホルモン依存性腫瘍及びその疑いのある人、診断の確定していない異常性器出血のある人、先天性・後天性の子宮の形態異常(子宮腔の変形を来しているような子宮筋腫を含む)、性感染症になったことがある又は性器感染症のある人、頸管炎又は腟炎の患者、再発性又は現在PIDの患者、子宮外妊娠や分娩後子宮内膜炎又は感染性流産になったことのある人、重篤な肝障害又は肝腫瘍の患者、妊婦又は妊娠している可能性のある女性には使用できない。また、先天性心疾患又は心臓弁膜症の患者、糖尿病患者、肝障害のある患者には副作用があるため、慎重な使用が求められる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。IUDと同様、定期的な検診と数年に一度の取替えが必要である。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "内服用の避妊用女性ホルモン剤のこと。経口避妊薬(OC)とも呼ばれる。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ピルを女性が服用することにより、人工的に排卵終了後の黄体期と同様な内分泌状態を持続させることで排卵を停止させる。正しく服用した場合の避妊の確率はそれなりにある(PI:0.1-5程度)。避妊以外にも生理時期の調整や月経困難症(生理に伴う重い症状)の緩和、子宮内膜症の治療などに使われる。一方で人により血栓症、肥満などの副作用が出る場合もあるので入手には医療機関の受診が必要である。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "副作用としては、体重の増加(肥満)、偏頭痛、吐き気、嘔吐、イライラ、性欲減退、むくみ、膣炎、肝機能障害、長期服用による発癌性などの可能性が指摘されている。子宮筋腫、糖尿病を悪化させる可能性もある。ピルの主要な副作用としては血栓症があげられる。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ピルは、血栓が起こるリスクを3 - 5倍引き上げるとされ、イギリスでは10年間に104人が血栓症で死亡した。日本でも、医薬品の安全を管理する独立行政法人医薬品医療機器総合機構の集計によると、2008年 - 2013年上半期に、日本で使用されたピルに関して、血の固まりが血管をふさぐ血栓の重症例361件が副作用として報告されていた。その中で死亡例は11件あり10代1人、20代2人、30代4人、40代1人、50代2人、不明1人だった。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "発癌性に関しては、国際がん研究機関によるIARC発がん性リスク一覧で、「経口避妊薬の常用」に関して「Group1 ヒトに対する発癌性が認められる」と評価されている。また、喫煙を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら喫煙をしないことが望ましい。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ピルを服用できない場合としては、乳がん・子宮体がん・子宮頸がん・子宮筋腫の患者及び疑いのある人、原因不明の出血や血栓症を起こしたことがあるがある人及び肺塞栓症・冠動脈疾患・血栓症静脈炎・脳血管障害の患者やこれらの病気にこれまでにかかったことがある、その疑いのある人、片頭痛の患者、糖尿病患者、高血圧の人、35歳以上で1日15本以上のタバコを吸う人、コレステロール値や中性脂肪の高い人、腎臓や肝臓に病気のある人、以前妊娠した時に持続的なかゆみまたは黄疸や妊娠ヘルペスの症状が出たことのある人。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また肥満や40歳以上の人、子宮筋腫のある人などには慎重な投与が求められる。かつては中用量ピルが用いられていたが、副作用のリスクの低減を目的として低用量ピル、超低用量ピルが開発された。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本でのピルの承認は、他先進国と比較して酷く遅れ、ピルの発見から40年間の年月を必要とした(アメリカ合衆国では1960年代に認可されている)。日本では、まず最初に治療目的の中用量ピルが最初に認可されたが、避妊を目的としたものではなく、副作用も強かった。1998年やっと避妊目的の低用量ピルが認可された。2010年に超低用量ピルが月経困難症の治療薬として認可されたが、避妊用としては低用量ピルが主流になっている。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "プロゲステロンを含有した徐放性のスティックを女性の上腕の皮下に埋没させ、長期間にわたって避妊効果を発揮させるもの。処置は局所麻酔で簡便に実施できる。アメリカでは1回の挿入によって3年間の避妊効果が得られる。避妊効果もピルより高い。3年後あるいは妊娠を望む時は切開してスティックを取り出す必要があるのが欠点であり、挿入時よりも手間がかかる。日本では未認可。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "エブラ (EVRA) 避妊パッチなど。エストロゲンとプロゲステロンを含有したパッチ剤を女性の皮膚に貼ることによって避妊効果を発揮する。1枚のパッチ剤で1週間の避妊が出来る。日本では未認可であるが、個人の責任で自己使用できる避妊薬なので個人輸入されている。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "プロゲステロンを皮下ないし筋肉注射する避妊法。3か月毎の注射が必要。注射の中止によって、半分の女性が半年以内に生殖能力を回復するが、最長1年かかる場合もあるとされる。日本では未認可。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "精子を殺す作用のある薬剤を性交の一定時間前に膣内に挿入し、避妊を行う。ピルのような全身の副作用がなく、女性自身の手で避妊できるという利点がある。欠点は錠剤やフィルム状の製品は膣内奥に留置するのにコツが必要であり、溶解するのに時間が掛かるので、初心者では失敗しやすく、避妊の確率はあまり高くない(PI:6-26程度)。すなわち、精子が全て死ぬわけではなく、生き残った精子が受精することも非常に多い。そのため、他の避妊方法と併用すべきである。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、性交後に薬剤が流れ出て下着やシーツが汚れやすいという欠点や、薬剤によるアレルギーで外陰部炎を起こすケースもある。スポンジ以外の製品は、1回の射精につき1つ使用する必要があり、2回目以降の射精では追加投与が必要である。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本では嘗てマイルーラ(大鵬薬品工業)やサンプーン(エーザイ)等が国内向けに販売されていたが(詳しくは後述)、 2015年までに全て販売終了となっている。 ただ認可はされているので、世界からの個人輸入で取り寄せることは可能。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "以下の5種類のタイプが存在する。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "女性の月経周期に基づいて妊娠可能な期間を計算・予測し、その期間中の性行為に限り避妊を行う方法(PI:9程度)。周期法とも呼ばれる。簡便な方法であるが、排卵の乱れなどにより予測を失敗してしまう可能性もある。不妊治療のため日本人産婦人科医・荻野久作が発見した、月経周期に関する「荻野学説」が避妊法に応用されたものである。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、荻野本人は自分の学説が避妊法として利用されることについて、より確実な避妊法が存在する上に中絶の増加に繋がるとして大いに反対していた。「女の身体には1日たりとも『安全日』などありはしない」「迷惑だ。むしろ不妊治療に役立つ学説だ」と主張しつづけた。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "カトリック教会の教学上(人のいのちを育む家庭のいしずえとして、夫婦の本来の性のあり方を守るため)、排卵法(ビリングス・メソッド)と共に認められている、受胎調節法(自然な家族計画)の一つである。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "女性の月経の周期のうち、基礎体温を計測して低温相から高温相に変わった日(排卵日)を知り、それから4日目以降に性行為を行う方法(PI:3程度)。毎日規則正しい生活を行い、かつ定時に基礎体温を測り続ける必要がある。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "上記のオギノ式と併用することで、より避妊成功率を高めることができる。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "妊娠可能年齢の女性には、母体が必要なエネルギーを脂肪として蓄えないと妊娠可能とはならない生理的メカニズムがある。女性の正常な妊娠には平均的に27,000カロリーのエネルギーを必要とし、出産後に体重に対する脂肪の割合が20から25パーセント程度の水準まで脂肪を蓄えないと排卵が再開されない。嬰児への授乳は1日に約1,000カロリーを必要とするため、授乳によって子育てを行う環境では排卵の再開が遅くなる。動物性蛋白質を主な栄養源とし、日常的に移動する狩猟採集民のサン族の女性は、授乳期間を長くすることで意図的に妊娠間隔を4年以上に伸ばすことを可能としている。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この他、子宮頚管粘液の状態で排卵日を確認する頚管粘液法もある(PI:2程度としているが、詳しく検証されているかなど不明である)。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "不妊手術 (sterilization) とは卵管、または精管を外科手術によって縛り(結紮)、卵子や精子の通過を止めることによって避妊する方法である。卵管の結紮には、経腹または経膣による腹腔鏡手術が必要となるために、帝王切開術と同時に行われることがある。精管結紮術は、外来で局所麻酔のみで簡単に実施出来るが、結紮した精管が再癒合しやすいために術後に精液中に精子が検出されなくなるか確認が必要である。また既に精嚢に貯留している精子が無くなるまでは受精能力を失っておらず、術後にただちに不妊になる訳ではない。一度これら手術を行ってしまうと妊娠のためには再度手術を行わねばならないが、再手術の難易度は高く人工授精が必要になる場合もある。妊娠を強く望まない夫婦や、妊娠することで女性の母体や胎児に対して深刻な問題が起きる可能性がある場合などに用いられる(PI:男性0.10% - 0.15%程度、女性0.5%程度)。子宮全摘についても、子宮筋腫や子宮内膜症などの合併症の程度によっては、避妊目的を含めて実施されることもある。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "性交時に射精の寸前に陰茎を膣から抜いて膣外に射精を行うこと。アダルトビデオなどで頻繁に描写されるため、避妊法として認識されている場合も少なくないが、精子は射精時の精液だけでなく、前段階で分泌されるカウパー腺液中にも僅かに存在する場合があるため避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。性交後にビデなど水などを使用して洗い流すことも、一部の精子は子宮に入ってしまうため、通常は避妊法としてカウントされない。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "性交を伴わない性行為で、ペッティングと呼ばれている。以下もペッティングの中に含まれる。",
"title": "避妊方法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "避妊に失敗した可能性がある、強姦などによって望まぬ妊娠の可能性に直面した場合などは、性交後に内服して妊娠を回避する緊急避妊薬が使用されている。アフターピル、モーニングアフターピル、エマージェンシーピル、EC(Emergency Contraception)など呼ばれる。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1970年代よりYuzpe(ヤッペ)法と呼ばれる緊急避妊は欧米で実施されており、日本でも「医師の判断と責任」によって緊急避妊法としてホルモン配合剤を転用した避妊が行われていた。これらは効果が低く副作用の強い中容量ピルを使ったものであった。1999年に副作用が少なく効果が高いレボノルゲストレル錠が \"NorLevo\" としてフランスで正式に商品化された。WHOもレボノルゲストレルの導入を後押ししたが、ピルと同様に日本では導入が遅れ2011年2月23日に緊急避妊薬ノルレボRとして承認された(アジアで認可していないのは日本と北朝鮮だけであった)。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "性交後72時間以内に内服する必要がある。レボノルゲストレルは、排卵抑制作用により避妊効果を示すことが示唆され,その他に受精阻害作用及び受精卵着床阻害作用も関与する可能性が考えられており、そのことに倫理的な批判も存在する。日本国内ではノルレボ錠として流通している。医療機関によって処方される。現在では、直接対面ではなく、コロナ影響化によりオンライン診療及びオンライン処方で研修を受けた医師と薬剤師が処方することが可能となっている。産婦人科だけではなく総合病院が脳神経外科や眼科医師も処方可能リストに名を連ねている。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、デートDV 被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人工妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり,48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。このことから、若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり日本国内の女性に対し憲法に定める法の下の平等や生存権が危ぶまれるものとなっている。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ノルレボ錠は国内の第III相臨床試験において、性交後72時間以内にノルレボを1回経口投与した結果、解析対象例63例のうち、妊娠例は1例で、妊娠阻止率は81.0%であった。全ての妊娠が防げるわけではなく、性交後72時間を超えて本剤を服用した場合には63%であり、妊娠阻止率が減弱する傾向がみられた。なお、銅付加子宮内避妊器具IUDは避妊をしなかった性行為の後、5日以内に子宮内に挿入すると、緊急避妊の方法としてほぼ100%の効果があり、希望があれば長期的な避妊手段として入れたままにしておくことも可能である。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "海外では30年以上前から使用され、安全な中絶・流産の方法としてWHOの必須医薬品にも指定されている経口中絶薬(ミフェプリストン、ミソプロストール)は日本では中絶や流産に対しての適応は許可されていない。『フランス・ジャポン・エコー』編集長レジス・アルノーからは、経口妊娠中絶薬はすべての先進国、それに発展途上国の多くでも認可され中国やウズベキスタンの女性も手に入れているにもかかわらず厚生労働省は、経口妊娠中絶薬についてFDAの古い危険という、誤った見解の情報を発し続けてリンク切れを起こしている、ことを指摘しており、認可されていない状況を憂いている。厚生労働省は2018年、インターネットでインド製と表示された経口妊娠中絶薬を個人輸入し服用した20代の女性に、多量の出血やけいれん、腹痛などの健康被害が起きていたと発表し、個人輸入規制の強化を図った。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "レボノルゲストレルを使用してはいけない場合は、本剤の成分に対する過敏症の既往がある場合、重篤な肝機能障害のある場合、妊婦、その他肝障害・心疾患・腎疾患又はその既往歴のある場合にも慎重を要する。また、重度の消化管障害あるいは消化管の吸収不良症候群がある場合,本剤の有効性が期待できないおそれがある。副作用としては、消退出血(46.2%)、不正子宮出血(13.8%)、頭痛(12.3%)、悪心(9.2%)、倦怠感(7.7%)などがあり、その他にめまい、腹痛、嘔吐、下痢、乳房の痛み、月経遅延、月経過多、疲労などがある。妊娠回避効果は100%ではなく、排卵日付近の性交渉ではレボノルゲストレルを使っても81% - 84%である。その他の方法として少量のミフェプリストン(10mg程度)を使用する方法がある。ミフェプリストンが受精卵の着床を阻害するためと考えられていたが、その後の研究により卵巣からの排卵抑制効果によるものと判明している。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "性交後72時間を過ぎた場合は、IUDやミレーナによって妊娠を阻止する。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本においても、世界で承認されている、子宮内避妊システムの小さいものの利用、腕に入れるインプラント、皮膚に貼るシールの利用を含め「産む・産まない」の選択を女性自身が決める「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」の権利が尊重される必要がある。",
"title": "緊急避妊"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "避妊を強く非難する意見や逆に積極的に広めようとする意見があり、論争が続いている。",
"title": "避妊についての論争"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一方で避妊とは女性のみに妊娠という母体に負担を掛けることから解放して自由度を高め、男女が平等に性を謳歌することを可能とする手段とも言え、性的快楽を是としてあまり罪悪視しない人々の間には賛成する声も多い。また発展途上国での人口調節に置いて、避妊の推奨は切実な問題となっており、1994年の国際人口開発会議(ICPD/カイロ会議)では、女性は出産する時期と子どもの数、出産間隔を自由に決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという、基本的権利「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」持っているという概念が国際的に提唱されている。国際家族計画連盟(IPPF)事務局長ジル・グリアは第一子を出産する年齢を女性自身で決められるということが特に重要であるとしている。",
"title": "避妊についての論争"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "避妊とは言うなれば生殖という生物学的な由来を捨て去り、完全に個人の快楽(特に男性)のための性行為を可能にする手段であると言える。性を建前上罪悪視する人々にとってはこれは「性行為を認めるべき唯一の理由(生殖)」が欠けたということであり、彼らは避妊を伴う性行為を否定している。宗教の熱心な信者にとって、避妊は性の本来のあり方に反するとされる。古来からカトリック教会では夫婦愛の姿として性を捉えており、避妊は本来の全人的な性のあり方に反し、結局は夫婦愛に陰を落とし、損なうものとして、罪とされる。一方、自然な受胎調節は認められており、人工的な器具などを使わない荻野久作博士による研究や、より最近ではビリングス博士夫妻による非常に有効な排卵法(ビリングス・メソッド)は、カトリック教会によって推奨されている。国民の大多数がカトリック教徒で、教会が影響力を持つアイルランドでは避妊は中絶と共に異端視されている。離婚は1990年代に合法化され、避妊具も普通の商店で売られるようになった。",
"title": "避妊についての論争"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "宗教を理由とする以外の批判としては、緊急避妊やIUD、ミレーナの使用によって、受精卵の着床を阻止する作用があるため、これらは命(受精卵)を強制的に殺すこと、妊娠中絶(子おろし)であるとして非難する人々もいる。",
"title": "避妊についての論争"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ほとんどすべての小説、映画、ビデオその他の中の避妊の措置が当然なされるであろうと思われるいわゆる和姦描写において、その描写はリアリズムが標榜される場合においてさえ、意図的に回避される。このことを問題視する作家に姫野カオルコなどがいる。",
"title": "フィクション作品上の避妊描写"
}
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避妊は、望まない妊娠を防ぐこと。また、その手法やそれに使う医薬品や器具を使用することである。避妊の計画や準備、避妊の利用を家族計画、産児制限と呼ぶ。 避妊は古代から行われており、20世紀になってから効果的で安全な避妊手法が利用できるようになった。 一部の人々は避妊を倫理的、宗教的、または政治的に望ましくないことだと考え、避妊手段へのアクセスを制限したり阻止したりしている。
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{{出典の明記|date=2011年5月}}
{{Infobox interventions|name=避妊|synonyms=避妊|image=Opened Oral Birth Control.jpg|alt=避妊用ピルのパッケージ|caption=[[経口避妊薬]]のパッケージ|ICD10=|ICD9=|ICD9unlinked=|MeshID=D003267|LOINC=|other_codes=|MedlinePlus=|eMedicine=}}
'''避妊'''(ひにん、{{lang-en-short|Birth control/Fertility control/Contraception/Anticonception}})は、望まない[[妊娠]]を防ぐこと。また、その手法やそれに使う[[医薬品]]や器具を使用することである<ref>{{cite web|title=Definition of Birth control|url=http://www.medterms.com/script/main/art.asp?articlekey=53351|work=MedicineNet|access-date=August 9, 2012|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20120806234913/http://www.medterms.com/script/main/art.asp?articlekey=53351|archive-date=August 6, 2012|df=mdy-all}}</ref>。避妊の計画や準備、避妊の利用を[[家族計画]]、[[産児制限]](family planning)と呼ぶ<ref name="OED20122">{{cite book|url=http://www.oed.com/view/Entry/19395|title=Oxford English Dictionary|date=2012|publisher=Oxford University Press}}</ref><ref name="WHO-health-topic2">{{cite web|url=https://www.who.int/topics/family_planning/en/|title=Family planning|author=World Health Organization (WHO)|publisher=World Health Organization (WHO)|work=Health topics|access-date=March 28, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20160318195523/http://www.who.int/topics/family_planning/en/|archive-date=March 18, 2016|df=mdy-all}}</ref>。<!--避妊の手段-->
避妊は古代から行われており、20世紀になってから効果的で安全な避妊手法が利用できるようになった<ref name="Hopkins20102">{{cite book2|vauthors=Hanson SJ, Burke AE|year=2010|chapter=Fertility control: contraception, sterilization, and abortion|chapter-url=https://books.google.com/books?id=4Sg5sXyiBvkC&pg=PR232|veditors=Hurt KJ, Guile MW, Bienstock JL, Fox HE, Wallach EE|title=The Johns Hopkins manual of gynecology and obstetrics|edition=4th|location=Philadelphia|publisher=Wolters Kluwer Health/Lippincott Williams & Wilkins|pages=382–395|isbn=978-1-60547-433-5}}</ref>。
一部の人々は避妊を倫理的、宗教的、または政治的に望ましくないことだと考え、避妊手段へのアクセスを制限したり阻止したりしている<ref name="Hopkins20102" />。
== 概要 ==
[[世界保健機関]](WHO)と[[アメリカ疾病予防管理センター|アメリカ合衆国疾病予防センター]](CDC)は、特定の病状を持つ女性の避妊手法の安全性に関するガイダンスを提供している<ref>{{Cite book|title=Medical eligibility criteria for contraceptive use|publisher=World Health Organization|year=2015|isbn=978-92-4-154915-8|edition=Fifth|location=Geneva, Switzerland|oclc=932048744}}</ref><ref>{{cite journal2|date=July 2016|title=U.S. Medical Eligibility Criteria for Contraceptive Use, 2016|url=https://www.cdc.gov/mmwr/volumes/65/rr/rr6503a1.htm|journal=MMWR. Recommendations and Reports|volume=65|issue=3|pages=1–103|language=en-us|doi=10.15585/mmwr.rr6503a1|pmid=27467196|vauthors=Curtis KM, Tepper NK, Jatlaoui TC, Berry-Bibee E, Horton LG, Zapata LB, Simmons KB, Pagano HP, Jamieson DJ, Whiteman MK|display-authors=6|doi-access=free}}</ref>。最も効果的な避妊方法は、男性の[[精管結紮術]]および女性の{{Ill|卵管結紮術|en|tubal ligation}}、[[子宮内避妊器具]](IUD)、{{Ill|避妊インプラント|en|Contraceptive implant}}による[[不妊手術]]である<ref name="WHO_FP20112">{{cite book|author=World Health Organization Department of Reproductive Health and Research|title=Family planning: A global handbook for providers: Evidence-based guidance developed through worldwide collaboration|year=2011|publisher=WHO and Center for Communication Programs|location=Geneva|isbn=978-0-9788563-7-3|url=http://www.fphandbook.org/sites/default/files/hb_english_2012.pdf|edition=Rev. and Updated|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20130921054335/http://www.fphandbook.org/sites/default/files/hb_english_2012.pdf|archive-date=September 21, 2013|df=mdy-all}}</ref>。これに続いて効果的な方法は、[[経口避妊薬]]、{{Ill|避妊パッチ|en|Contraceptive_patch}}、{{Ill|膣リング|en|Vaginal ring}}、{{Ill|注射可能な避妊薬|en|Injectable birth control}}など、{{Ill|ホルモン避妊薬|en|hormone-based methods}}がいくつかある<ref name="WHO_FP20112" />。効果の低い避妊方法には、[[コンドーム]]、{{Ill|ダイヤフラム (避妊)|en|Diaphragm (birth control)|label=ダイヤフラム}}、{{Ill|避妊用スポンジ|en|birth control sponges}}などの物理的な障壁を導入する方法や、生理的変化を利用した方法({{Ill|Fertility awareness|en|Fertility awareness}})がある<ref name="WHO_FP20112" />。最も効果の低い避妊方法は、{{Ill|殺精子剤|en|Spermicide}}と[[膣外射精]]である<ref name="WHO_FP20112" />。男性の精管切除は非常に効果的であるが、通常は元の状態に戻すことができない<ref name="WHO_FP20112" />。男性用コンドームや{{Ill|女性用コンドーム|en|Female condom}}など使用した{{Ill|セーフセックス|en|Safe sex|redirect=0|preserve=1}}は、[[性感染症]]の予防にも役に立つ<ref name="pmid224234632">{{cite journal2|date=December 2011|title=We have the evidence to enhance adolescent sexual and reproductive health--do we have the will?|journal=Adolescent Medicine|volume=22|issue=3|pages=521–43, xii|pmid=22423463|vauthors=Taliaferro LA, Sieving R, Brady SS, Bearinger LH}}</ref>。他の避妊方法は、性感染症は予防できない<ref name="pmid223411642">{{cite journal2|date=March 2012|title=The effectiveness of group-based comprehensive risk-reduction and abstinence education interventions to prevent or reduce the risk of adolescent pregnancy, human immunodeficiency virus, and sexually transmitted infections: two systematic reviews for the Guide to Community Preventive Services|url=http://www.ajpmonline.org/article/S0749-3797(11)00906-8/abstract|journal=American Journal of Preventive Medicine|volume=42|issue=3|pages=272–94|doi=10.1016/j.amepre.2011.11.006|pmid=22341164|vauthors=Chin HB, Sipe TA, Elder R, Mercer SL, Chattopadhyay SK, Jacob V, Wethington HR, Kirby D, Elliston DB, Griffith M, Chuke SO, Briss SC, Ericksen I, Galbraith JS, Herbst JH, Johnson RL, Kraft JM, Noar SM, Romero LM, Santelli J|display-authors=6}}</ref>。[[緊急避妊薬]]を用いると、避妊せずに行われた性交から72〜120時間以内に服用した場合に、妊娠を防ぐことができる<ref name="Gizzo20122">{{cite journal2|date=October 2012|title=Nowadays which emergency contraception? Comparison between past and present: latest news in terms of clinical efficacy, side effects and contraindications|journal=Gynecological Endocrinology|volume=28|issue=10|pages=758–63|doi=10.3109/09513590.2012.662546|pmid=22390259|vauthors=Gizzo S, Fanelli T, Di Gangi S, Saccardi C, Patrelli TS, Zambon A, Omar A, D'Antona D, Nardelli GB|display-authors=6|s2cid=39676240}}</ref><ref>{{cite book|title=Selected practice recommendations for contraceptive use|date=2004|publisher=World Health Organization|location=Geneva|isbn=978-92-4-156284-3|page=13|edition=2nd|url=https://books.google.com/books?id=77hFLypBfHYC&pg=RA2-PA16|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170908191327/https://books.google.com/books?id=77hFLypBfHYC&pg=RA2-PA16|archive-date=September 8, 2017|df=mdy-all}}</ref>。{{Ill|性的な禁欲|en|Sexual abstinence}}も避妊の一形態であると主張する人もいるが、{{Ill|純潔教育|en|Abstinence-only sex education|label=純潔のみの性教育|preserve=1}}は、避妊教育なしで実施された場合に、[[十代の妊娠|10代の妊娠]]を増加させる可能性がある<ref name="pmid120652672">{{cite journal2|date=June 2002|title=Interventions to reduce unintended pregnancies among adolescents: systematic review of randomised controlled trials|journal=BMJ|volume=324|issue=7351|pages=1426|doi=10.1136/bmj.324.7351.1426|pmid=12065267|pmc=115855|vauthors=DiCenso A, Guyatt G, Willan A, Griffith L}}</ref><ref name="pmid189233892">{{cite journal2|date=December 2008|title=Government support for abstinence-only-until-marriage education|url=http://www.nature.com/clpt/journal/v84/n6/full/clpt2008188a.html|journal=Clinical Pharmacology and Therapeutics|volume=84|issue=6|pages=746–8|doi=10.1038/clpt.2008.188|pmid=18923389|vauthors=Duffy K, Lynch DA, Santinelli J, Santelli J|url-status=live|s2cid=19499439|df=mdy-all|archive-url=https://web.archive.org/web/20081211135056/http://www.nature.com/clpt/journal/v84/n6/full/clpt2008188a.html|archive-date=December 11, 2008}}</ref>。<!--特別な集団-->
[[十代の出産|10代の若者]]の場合、妊娠は悪い結果につながるリスクが高くなる。包括的な[[性教育]]と避妊へのアクセスにより、この年齢層の{{Ill|望まない妊娠|en|Unintended pregnancy}}の割合を減らすことができる事が分かっている<ref name="pmid227645592">{{cite journal2|date=April 2012|title=Pregnancy in adolescents|journal=Adolescent Medicine|volume=23|issue=1|pages=123–38, xi|pmid=22764559|vauthors=Black AY, Fleming NA, Rome ES}}</ref><ref name="pmid227645572">{{cite journal2|date=April 2012|title=Contraception for primary care providers|journal=Adolescent Medicine|volume=23|issue=1|pages=95–110, x-xi|pmid=22764557|vauthors=Rowan SP, Someshwar J, Murray P}}</ref>。一般に若年層はどのような避妊手法も利用できるが、インプラント、IUD、または膣リングなどの{{Ill|長時間作用型の可逆的な避妊方法|en|long-acting reversible birth control}}は、10代の妊娠率を減らせる可能性がより高いとされる<ref name="pmid227645572" />。出産後、母乳だけで子供を育てていない女性は、わずか4〜6週間で再び妊娠する可能性がある<ref name="WHO_FP2011p2602">{{cite book|author=World Health Organization Department of Reproductive Health and Research|title=Family planning: A global handbook for providers: Evidence-based guidance developed through worldwide collaboration|year=2011|pages=260–300|publisher=WHO and Center for Communication Programs|location=Geneva|isbn=978-0-9788563-7-3|url=http://www.fphandbook.org/sites/default/files/hb_english_2012.pdf|edition=Rev. and Updated|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20130921054335/http://www.fphandbook.org/sites/default/files/hb_english_2012.pdf|archive-date=September 21, 2013|df=mdy-all}}</ref>。避妊の方法の中には、出生直後に開始できるものもあれば、開始を出産後に最大6か月遅らせる必要があるものもある<ref name="WHO_FP2011p2602" />。母乳育児をしている女性には、複合経口避妊薬をよりもプロゲスチンのみを使用する方法が好まれる<ref name="WHO_FP2011p2602" />。[[閉経]]に達した女性は、最後の月経から1年間避妊を継続することが推奨されている<ref name="WHO_FP2011p2602" />。<!--普及と効果-->
[[開発途上国]]では、避妊を望んでいる女性の約2億2200万人が現代の避妊手法を利用できない<ref name="Guttmacher20122">{{cite journal|last1=Singh|first1=Susheela|last2=Darroch|first2=Jacqueline E.|date=June 2012|title=Costs and Benefits of Contraceptive Services: Estimates for 2012|url=http://www.guttmacher.org/pubs/AIU-2012-estimates.pdf|journal=United Nations Population Fund|page=1|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20120805154133/http://www.guttmacher.org/pubs/AIU-2012-estimates.pdf|archive-date=2012-08-05|df=mdy-all}}</ref><ref name="pmid227845402">{{cite journal2|date=July 2012|title=Giving women the power to plan their families|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(12)60905-2|journal=Lancet|volume=380|issue=9837|pages=80–2|doi=10.1016/S0140-6736(12)60905-2|pmid=22784540|vauthors=Carr B, Gates MF, Mitchell A, Shah R|url-status=live|s2cid=205966410}}</ref>。途上国での避妊の利用により、{{Ill|妊産婦死亡|en|maternal death|label=妊娠中または妊娠前後の死亡}}数は40%減少し(2008年には約270,000人の死亡が防げた)、避妊の完全な需要が満たされれば、死亡数を70%防止できる<ref name="pmid227845332">{{cite journal2|date=July 2012|title=Contraception and health|journal=Lancet|volume=380|issue=9837|pages=149–56|doi=10.1016/S0140-6736(12)60609-6|pmid=22784533|vauthors=Cleland J, Conde-Agudelo A, Peterson H, Ross J, Tsui A|s2cid=9982712}}</ref><ref name="pmid227845312">{{cite journal2|date=July 2012|title=Maternal deaths averted by contraceptive use: an analysis of 172 countries|url=http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(12)60478-4/fulltext|journal=Lancet|volume=380|issue=9837|pages=111–25|doi=10.1016/S0140-6736(12)60478-4|pmid=22784531|vauthors=Ahmed S, Li Q, Liu L, Tsui AO|url-status=live|s2cid=25724866|df=mdy-all|archive-url=https://web.archive.org/web/20130510214305/http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(12)60478-4/fulltext|archive-date=May 10, 2013}}</ref>。避妊を行って妊娠間の期間を長くすることで、成人女性の出産の結果と子供の生存率を改善することができる<ref name="pmid227845332" />。途上国では、女性の収入・資産・体重・子供の学校教育と健康のすべては、避妊へのアクセスが改善することで向上することがわかっている<ref name="pmid227845352">{{cite journal2|date=July 2012|title=The economic consequences of reproductive health and family planning|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(12)60827-7|journal=Lancet|volume=380|issue=9837|pages=165–71|doi=10.1016/S0140-6736(12)60827-7|pmid=22784535|vauthors=Canning D, Schultz TP|url-status=live|s2cid=39280999}}</ref>。避妊により扶養される子供が少なくなり、労働に参加する女性が多くなり、希少な資源の利用を減らすことができるため、経済成長の促進に貢献できる<ref name="pmid227845352" /><ref name="pmid227845422">{{cite journal2|date=July 2012|title=Slowing population growth for wellbeing and development|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(12)60902-7|journal=Lancet|volume=380|issue=9837|pages=84–5|doi=10.1016/S0140-6736(12)60902-7|pmid=22784542|vauthors=Van Braeckel D, Temmerman M, Roelens K, Degomme O|s2cid=10015998}}</ref>。<!--日本とアフリカ-->
避妊そのものは、世界各地で古くから行われているが、[[第二次世界大戦]]以前の日本においては避妊の知識は少なく、確実性も低かった。ようやく戦後に普及し始め、[[教育機関]]では[[性教育]]の一環として避妊を教える所もあるが、これには賛否両論がある{{要出典|date=2015年4月}}。
[[アフリカ]]などでは、児童就労を目的とした出産や医療の進歩、戦争や部族間抗争の減少の一方で、避妊知識や避妊具の普及が遅れているため、人口の急激な増加の原因の一つになっているとされる。また、元々アフリカでは貧困家庭が多く、避妊具が高価であるが故に、その普及を遅らせている要因の一つになっている{{要出典|date=2015年4月}}。
== パールインデックス(PI) ==
前述のとおり、完全な避妊法は存在しないが、よく議論されるのが「避妊の効果」である。その避妊の効果を示す一般的な指標が、'''パールインデックス'''('''PI'''、パール指数)である。パールインデックスとは、ある避妊法を1年間用いた場合に、避妊に失敗する確率(厳密な定義ではないが、妊娠する確率ともいえる)を示すものである。名称は、アメリカ合衆国の生物学者、生物遺伝学者のレイモンド・パール(Raymond Pearl)の名前にちなむ。
例えば、ある避妊法のパールインデックスが3の場合、その避妊法のみを1年間使った女性のうち3%の人数が妊娠するということになる。避妊をしなかった場合のパールインデックスは85程度といわれている。これは、避妊をまったくしなかった(もしくは妊娠を望んでいる)カップルの女性が1年後に妊娠している率が85%程度であることを示す。
=== PIの計算法 ===
PIは「100人の女性が1年間避妊」または「10人の女性が10年間避妊」した場合の「100女性年」を用いて算出される。PIはあくまで避妊方法を数値化し、各々の避妊効果を比較するための数値であり、避妊効果自体を算出するものではない。
PIの算出には3つの数値が必要である。
* 何ヶ月間避妊検証が行われたか、または避妊中の[[月経]]回数。
* 妊娠回数。
* 検証完了理由(妊娠が0、その他が1。下記Bを参照)。
PIの算出には2つの方法がある。
* 妊娠回数を避妊検証の合計月で割り、1200を掛ける。
* 妊娠回数を月経回数で割り、1300を掛ける(1300を掛けるのは月経の平均的期間が28日間、年間13回ほどだからである)。
一般的に検証結果には2つのPIが表示される。
* (A)実使用例:すべての妊娠回数と検証期間が含まれる。
* (B)完璧使用例:検証中避妊方法を誤り、妊娠してしまった例は除外して計算。
=== PIの信憑性 ===
統計的にPIは0 - 100の間ではあるものの、科学的に「実験失敗」の確率を含めるとPIはパーセントで表せない数値であることがわかる。避妊方法の検証に参加した女性達が皆1か月目で妊娠してしまったら、PIは1200 - 1300のパーフェクトな数値となってしまう。これはPIがパーセントで表すPearl Rate(パール率)からそうでないPearl Index(パール指数)と呼ばれるようになった由来でもある。
また避妊実験を行う被験者の国柄、人種、年齢、学歴などにより避妊失敗率は激変し、PIにも大きく影響する。もちろん健康的で妊娠しやすいカップルから妊娠し、不健康で不妊性のカップルは避妊しなくても妊娠できないこと、避妊道具は使用方法を練習するほど効果が上がることなどは数値化されていない。さらには避妊方法への不満、妊娠願望、避妊方法の副作用、後日検証に現れない被験者などはPIに反映することができない。
だからといってPIに信憑性がなくなるわけではない。科学的根拠にだけ基づいた指数であることを踏まえた上で避妊検証実験の状況を勘案して、PIをどれだけ重視すべきかを検討すべきである。
== 避妊方法 ==
{| class="wikitable"
|+使用開始後1年間に妊娠する確率<ref name="Trus2011">{{cite journal2|date=May 2011|title=Contraceptive failure in the United States|journal=Contraception|volume=83|issue=5|pages=397–404|doi=10.1016/j.contraception.2011.01.021|pmid=21477680|pmc=3638209|vauthors=Trussell J}}{{cite book2|vauthors=Trussell J|year=2011|chapter=Contraceptive efficacy|veditors=Hatcher RA, Trussell J, Nelson AL, Cates Jr W, Kowal D, Policar MS|title=Contraceptive technology|edition=20th revised|location=New York|publisher=Ardent Media|pages=779–863|isbn=978-1-59708-004-0|issn=0091-9721|oclc=781956734}}</ref><ref name="CDC2013">{{cite journal|last1=Division Of Reproductive Health|first1=National Center for Chronic Disease Prevention Health Promotion|date=June 2013|title=U.S. Selected Practice Recommendations for Contraceptive Use, 2013: adapted from the World Health Organization selected practice recommendations for contraceptive use, 2nd edition|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23784109/|journal=MMWR. Recommendations and Reports|volume=62|issue=RR-05|pages=1–60|pmid=23784109}}</ref>
!避妊方法
!典型的な使用の場合
!完璧に使用した場合
|-
|避妊をしない
|85%
|85%
|-
|複合経口避妊薬
|9%
|0.3%
|-
|プロゲスチンのみのピル
|13%
|1.1%
|-
|不妊手術(女性)
|0.5%
|0.5%
|-
|不妊手術(男性)
|0.15%
|0.1%
|-
|コンドーム(女性)
|21%
|5%
|-
|コンドーム(男性)
|18%
|2%
|-
|銅の子宮内避妊器具(IUD)
|0.8%
|0.6%
|-
|ホルモンの子宮内避妊器具(IUD)
|0.2%
|0.2%
|-
|避妊パッチ
|9%
|0.3%
|-
|膣リング
|9%
|0.3%
|-
|[[メドロキシプロゲステロン酢酸エステル|MPA]]の注射
|6%
|0.2%
|-
|避妊用インプラント
|0.05%
|0.05%
|-
|ダイヤフラムと殺精子剤
|12%
|6%
|-
|生理的変化を利用した方法(Fertility awareness)
|24%
|0.4–5%
|-
|膣外射精
|22%
|4%
|-
|泌乳性無月経法 (6ヶ月の失敗率)
|0–7.5%<ref name="Vanderwijden">{{cite journal2|date=October 2015|title=Lactational amenorrhoea method for family planning|journal=The Cochrane Database of Systematic Reviews|issue=10|pages=CD001329|doi=10.1002/14651858.CD001329.pub2|pmid=26457821|pmc=6823189|vauthors=Van der Wijden C, Manion C}}</ref>
|<2%<ref name="Blenning2005">{{cite journal2|date=December 2005|title=An approach to the postpartum office visit|journal=American Family Physician|volume=72|issue=12|pages=2491–6|pmid=16370405|vauthors=Blenning CE, Paladine H}}</ref>
|}
=== 避妊具の使用 ===
==== コンドーム ====
{{Main|コンドーム}}
[[ファイル:Kondom.jpg|thumb|使用前のコンドーム(突起部が精液溜まり)]]
コンドームは[[ラテックス]]や[[ポリウレタン]]の薄膜をサック状にした避妊具で、[[膣]]に挿入する前に[[勃起]]した状態の[[陰茎|ペニス]]に被せて使用する。避妊具の中では最も一般的に使用される(PI:3 - 14%程度)。確実な避妊のためには、勃起直後に装着することが勧められる。また、勃起したペニスの大きさに適応したコンドームを使用しないと行為中に外れる可能性があるため、自身(パートナー)の勃起したペニスの大きさを測定した上で、大きさに応じたコンドームを装着しなければならない。
勃起時のペニスの参考サイズは、[[コンドーム]]を参照のこと。ペニスの太さにあわせて多様なサイズが用意されており、SSやLLは店頭になくとも[[ECサイト]]で気軽に購入できる。効果を確実にするために、適切なサイズのコンドームを選択することが望まれる。
[[File:Myfemy.jpg|thumb|大鵬薬品工業から2004年4月30日まで発売されていた女性用コンドーム「マイフェミィ」]]
単に「コンドーム」と言うと男性が装着する避妊具を指すが、[[女性器]]に装着する女性用コンドームも市販されている。
==== ペッサリー ====
[[ファイル:Contraception diaphragme.jpg|thumb|ペッサリーの装着位置]]
{{Main|ペッサリー}}
避妊用のペッサリーは[[膣]]より挿入するゴム状の避妊具で、本来は[[子宮]]の位置を直すための道具である。子宮口に被せるように指で挿入し、通常は殺精子剤と併用するが現在では殆ど使われていない。膣内に入った[[精子]]が子宮に達せず避妊することができる。装着状態が見えないために正しく装着するのが難しい。
装着方法については指導が必要であり、避妊の確率もあまり高くなく(PI:6 - 20%程度)単独ではあまり使用されない。また、人によって適したサイズ・形状などが異なるために薬局では販売されておらず、入手するためには[[産婦人科]]医の診察を受ける必要がある。ペッサリーは避妊の目的以外にも、膀胱脱や子宮下垂、[[子宮脱]]の矯正にも使用される。
==== 子宮内避妊用具(IUD) ====
[[Image:IUDCPCopperT380A.gif|thumb|[[銅付加IUD]]「{{仮リンク|パラガード|en|Paragard}}」T 380A]]
{{Main|子宮内避妊器具}}
子宮内避妊用具にはリング状・ループ状・コイル状など様々な形がある。これを病院において[[子宮]]内に挿入しておくと体機能としての異物排除機能が働き、受精卵の着床を妨げることで妊娠を防ぐ。避妊の確率はあまり高くなかったが、近年の改良により徐々に確率は高くなっているとされる。日本では単純タイプに加え、銅付加タイプ(PI:0.6 - 0.8%程度)が認められている。Intra-uterine (Contraceptive) Deviceの頭文字をとってIUD(あるいはIUCD)とも呼ばれる。日本ではリング状のものが早くから普及したため「避妊リング」と呼ばれることも多い。
月経が終了してから、 4 - 5日の間に装着する。[[副作用]]として月経の出血量増加や期間延長、下腹痛、[[不正性器出血]]が起きる場合がある。ある製品では総症例1,047例中602例(57.5%)に使用に関係する副作用が認められ、主な副作用としては月経異常269件)(25.7%)、過多月経136件(13.0%)、月経中間期出血120件(11.5%)、腹痛116件(11.1%)、疼痛111件(10.6%)、白帯下108件(10.3%)等であった<ref>ノバT®380承認時</ref>。また、IUDが子宮から飛び出してくる滑脱子宮の壁を突き破る穿孔、[[骨盤内炎症性疾患]](PID)、挿入後の子宮や[[卵管]]に[[感染]]などの有害事象がある。誰でも使用できるわけではなく、先天性[[心疾患]]又は[[心臓弁膜症]]の患者には慎重な使用が求められる。また使用ができないケースとしては通常、出血性素因のある女性や診断の確定していない異常性器出血のある人、妊娠のしたことのない人や[[子宮外妊娠]]をしたことがある人、[[貧血]]を伴う過多月経のある人、[[性感染症]]や性器感染症のある人、頸管炎又は[[腟炎]]の患者や産婦人科領域外であっても重篤な疾患のある患者、先天性・後天性の子宮形体異常のある女性などがある。また普通の妊娠は防げても、子宮外妊娠は防げない。また、定期検診と数年に一度の取替えが必要である。
==== ミレーナ ====
[[Image:Mirena IntraUterine System.jpg|thumb|子宮内避妊システム「ミレーナ」]]
{{Main|ミレーナ (子宮内避妊システム)}}
挿入方法、形状はIUDと同じだが、中央の部分から[[黄体ホルモン]]([[女性ホルモン]]の一種)が持続的に子宮内に放出されるのが特徴であることから、「レボノルゲストレル放出子宮内避妊システム」と呼ばれることとなった。黄体ホルモンは[[子宮頸管]](子宮の入り口)の粘膜を変化させ精子の侵入を防ぎ、また[[子宮内膜]]の増殖を抑制し、[[受精卵]]の[[着床]]を防ぐ作用がある。それに伴う倫理的問題は子宮内避妊用具(IUD)と同じである。ミレーナは1970年代に開発が始まり1990年にフィンランドで初めて承認・発売された。月経が終了してから4、5日の間に装着する。ただし使い続けていると[[無月経]]になる可能性もあるが、除去すれば直ぐに月経が戻り妊娠可能となる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。過多月経の女性には推奨できないIUDと異なり、ミレーナでは月経時の出血量が軽減される。また、IUDと同様に子宮から飛び出してくる滑脱、子宮の壁を突き破る穿孔のリスクがある。
他の副作用としては、総症例482例中428例(88.8%)に[[副作用]]が認められ、主な副作用は月経異常(過長月経,月経周期異常等)379例 (78.6%)、卵巣嚢胞61例(12.7%)、除去後の消退出血57例 (11.8%)、月経中間期出血48例(10.0%)、腹痛38例(7.9%) 等<ref>ミレーナ52mg添付文書</ref>。誰でも使用できるわけではなく、性器癌及びその疑いのある人、黄体ホルモン依存性腫瘍及びその疑いのある人、診断の確定していない異常性器出血のある人、先天性・後天性の子宮の形態異常(子宮腔の変形を来しているような子宮筋腫を含む)、[[性感染症]]になったことがある又は性器感染症のある人、頸管炎又は腟炎の患者、再発性又は現在PIDの患者、子宮外妊娠や分娩後子宮内膜炎又は感染性流産になったことのある人、重篤な肝障害又は肝腫瘍の患者、妊婦又は妊娠している可能性のある女性には使用できない。また、先天性[[心疾患]]又は[[心臓弁膜症]]の患者、[[糖尿病]]患者、肝障害のある患者には副作用があるため、慎重な使用が求められる。使い始めてから数ヶ月の間は子宮内膜への刺激などで月経時以外にも少量の出血が続く場合もあり、出産経験の無い人は子宮口が開いていないため挿入時に痛むこともある。IUDと同様、定期的な検診と数年に一度の取替えが必要である。
=== 薬品の使用 ===
==== ピル(避妊用ピル) ====
{{Main|経口避妊薬}}
内服用の避妊用女性ホルモン剤のこと。[[経口避妊薬]](OC)とも呼ばれる。
ピルを女性が服用することにより、人工的に排卵終了後の黄体期と同様な[[内分泌]]状態を持続させることで排卵を停止させる。正しく服用した場合の避妊の確率はそれなりにある(PI:0.1-5程度)。避妊以外にも[[月経|生理]]時期の調整や[[月経困難症]](生理に伴う重い症状)の緩和、子宮内膜症の治療などに使われる。一方で人により血栓症、肥満などの副作用が出る場合もあるので入手には医療機関の受診が必要である。
副作用としては、体重の増加(肥満)、[[偏頭痛]]、[[吐き気]]、[[嘔吐]]、イライラ、[[性欲]]減退、[[むくみ]]、[[膣炎]]、[[肝機能障害]]、長期服用による[[発癌性]]などの可能性が指摘されている。[[子宮筋腫]]、[[糖尿病]]を悪化させる可能性もある。ピルの主要な[[副作用]]としては'''[[血栓症]]'''があげられる。
ピルは、血栓が起こるリスクを3 - 5倍引き上げるとされ、[[イギリス]]では10年間に104人が血栓症で死亡した。日本でも、医薬品の安全を管理する[[独立行政法人]][[医薬品医療機器総合機構]]の集計によると、2008年 - 2013年上半期に、日本で使用されたピルに関して、血の固まりが血管をふさぐ血栓の重症例361件が副作用として報告されていた。その中で死亡例は11件あり10代1人、20代2人、30代4人、40代1人、50代2人、不明1人だった<ref>ピルの副作用、血栓に注意を 5年で11人死亡例 朝日新聞 2013年12月17日</ref>。
[[発癌性]]に関しては、[[国際がん研究機関]]による[[IARC発がん性リスク一覧]]で、「経口避妊薬の常用」に関して「Group1 ヒトに対する発癌性が認められる」と評価されている。また、[[喫煙]]を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら喫煙をしないことが望ましい。
ピルを服用できない場合としては、[[乳がん]]・[[子宮体がん]]・[[子宮頸がん]]・[[子宮筋腫]]の患者及び疑いのある人、原因不明の出血や血栓症を起こしたことがあるがある人及び[[肺塞栓症]]・[[冠動脈疾患]]・血栓症静脈炎・[[脳血管障害]]の患者やこれらの病気にこれまでにかかったことがある、その疑いのある人、[[片頭痛]]の患者、[[糖尿病]]患者、[[高血圧]]の人、35歳以上で1日15本以上のタバコを吸う人、コレステロール値や中性脂肪の高い人、[[腎臓]]や[[肝臓]]に病気のある人、以前妊娠した時に持続的なかゆみまたは[[黄疸]]や妊娠[[ヘルペス]]の症状が出たことのある人。
また[[肥満]]や40歳以上の人、子宮筋腫のある人などには慎重な投与が求められる。かつては中用量ピルが用いられていたが、副作用のリスクの低減を目的として低用量ピル、超低用量ピルが開発された。
日本でのピルの承認は、他先進国と比較して酷く遅れ、ピルの発見から40年間の年月を必要とした(アメリカ合衆国では1960年代に認可されている)。日本では、まず最初に治療目的の中用量ピルが最初に認可されたが、避妊を目的としたものではなく、副作用も強かった。1998年やっと避妊目的の低用量ピルが認可された。2010年に超低用量ピルが月経困難症の治療薬として認可されたが、避妊用としては低用量ピルが主流になっている。
==== インプラント ====
[[プロゲステロン]]を含有した徐放性のスティックを女性の上腕の皮下に埋没させ、長期間にわたって避妊効果を発揮させるもの<ref name="melk45464545" />。処置は局所麻酔で簡便に実施できる。アメリカでは1回の挿入によって3年間の避妊効果が得られる。避妊効果もピルより高い。3年後あるいは妊娠を望む時は切開してスティックを取り出す必要があるのが欠点であり、挿入時よりも手間がかかる<ref name="melk45464545">メルクマニュアル医学百科</ref>。日本では未認可。
==== 皮膚パッチ剤 ====
エブラ (EVRA) 避妊パッチなど。[[エストロゲン]]とプロゲステロンを含有したパッチ剤を女性の皮膚に貼ることによって避妊効果を発揮する<ref name="melk45464545" />。1枚のパッチ剤で1週間の避妊が出来る<ref name="melk45464545" />。日本では未認可であるが、個人の責任で自己使用できる避妊薬なので<ref group="注">薬事法は自分で使用する分に限っては例外的に医薬品の個人輸入を認めているとされている。出典;[特集]生活改善薬大ブーム--生活改善薬大ブーム--インポ、薄毛の次は肥満に朗報!?1999年07月17日 週刊東洋経済 第5570号 118頁 - 123頁 6頁 写図表有 (全7,581字) </ref>個人輸入されている。
==== 注射剤 ====
プロゲステロンを皮下ないし筋肉注射する避妊法<ref name="melk45464545" />。3か月毎の注射が必要<ref name="melk45464545" />。注射の中止によって、半分の女性が半年以内に生殖能力を回復するが、最長1年かかる場合もあるとされる<ref name="melk45464545" />。日本では未認可。
==== 殺精子剤 ====
[[File:Myrula.jpg|thumb|right|250px|大鵬薬品工業が2001年まで発売していたマイルーラ(フィルムタイプ)]]
精子を殺す作用のある薬剤を性交の一定時間前に膣内に挿入し、避妊を行う。ピルのような全身の副作用がなく、女性自身の手で避妊できるという利点がある。欠点は錠剤やフィルム状の製品は膣内奥に留置するのにコツが必要であり、溶解するのに時間が掛かるので、初心者では失敗しやすく、避妊の確率はあまり高くない(PI:6-26程度)。すなわち、精子が全て死ぬわけではなく、生き残った精子が受精することも非常に多い。そのため、他の避妊方法と併用すべきである。
また、性交後に薬剤が流れ出て下着やシーツが汚れやすいという欠点や、薬剤による[[アレルギー]]で外陰部炎を起こすケースもある。スポンジ以外の製品は、1回の射精につき1つ使用する必要があり、2回目以降の射精では追加投与が必要である。
日本では嘗て[[マイルーラ]]([[大鵬薬品工業]])や[[サンプーン]]([[エーザイ]])等が国内向けに販売されていたが(詳しくは後述)、
2015年までに全て販売終了となっている。
ただ認可はされているので、世界からの個人輸入で取り寄せることは可能。
以下の5種類のタイプが存在する。
; [[錠剤]]
: 溶けるのに時間がかかり即効性でなく、行為の後に流れ出た薬剤で下着やシーツを汚しやすいのが欠点。反面携帯に便利という利点もある。薬剤は膣液で絶えず希釈され体外に流出することもあるので射精のたびに追加使用する必要がある。日本では[[エーザイ]]から'''メンフェゴール'''を主成分とする「ネオサンプーン ループ錠」が製造販売されていたが、原料の入手難により2011年3月に製造終了した。トローチ状のリング形状をした白色の錠剤であり、膣の奥に入れると膣液で溶解・発泡して効果を発揮する仕組みであった。アメリカでは半固形の坐薬状の形状のものが「Encare」(エンケア)の商品名で販売されている(エンケアの主成分は[[ノノキシノール]]-9)。
; [[ゼリー]]
: 海外では[[ペッサリー]]に塗布して使用する薬剤や、アプリケーターで膣内に注入する製品が販売されている。使用直後から効果発揮するのが利点であるが、アプリケーターが必要であり、使用後に洗浄などの手間隙が必要なのが欠点。充填済みの使い捨てアプリケーター形式の製品も海外では販売されている。アプリケーターに充填してから使用する商品では、アプリケーターは再使用するために使用後に洗浄が必要である。日本ではかつてFPゼリー:発売/[[日本家族計画協会]](製造/[http://www.ichiyaku.co.jp/history.htm 第一薬品産業株式会社])が販売されていた。FPゼリーの[http://www5a.biglobe.ne.jp/~hhhp/except-pill/sperma.htm 成分]は[[ポリオキシエチレンノニルフェニルエーテル]]であったが、発売中止されている。アメリカではOrtho(Ortho Options Vaginal Contraceptive Jelly)やOptions Conceptrolという製品が販売されている。
; フィルム
: 3cm四方の半透明のフィルム状の薬剤を折りたたんで膣の奥に留置し、膣液で溶解して効果を発揮するもの。携帯に便利であるが折りたたんだ薬剤を膣の奥に留置するのが難しいという欠点がある。錠剤と同じく即効性ではない。日本では[[マイルーラ]]という製品が大鵬薬品工業から販売されていたが、外陰部の刺激症状のトラブル報告などもあり、2001年3月に販売中止された。マイルーラの[http://www5a.biglobe.ne.jp/~hhhp/except-pill/sperma.htm 成分]もFPゼリーと同じく、ポリオキシエチレンノニルフェニルエーテルである。アメリカでは同じ成分の「VCF」という製品が販売されている(VCF Dissolving Vaginal Contraceptive Films)。
; スポンジ
: 殺精子剤を染み込ませたポリウレタン製のスポンジを膣円蓋に留置して避妊するもの。精子を物理的・化学的に阻止する。妊娠阻止率は89% - 91%でアメリカの「トゥデイ・スポンジ」(Today Sponge) が代表的商品。24時間効果が持続するのが特徴で2回目以降の射精に対しても追加で使用する必要は無い。性交渉の後6時間は膣内にスポンジを留置する必要がある。最大留置時間は30時間とされている。スポンジは使用前に水を含ませてから膣内に挿入する。[[タンポン]]の使用経験が無い女性には正しい位置にスポンジを留置するのは難しいとされ、使用を避けるべきと説明書には勧告されている。スポンジには子宮頚部にフィットするように凹部が設けられており、また取り出すときに指を引っ掛けやすいようにバンドが取り付けられている。スポンジの硬さは膣組織と同じ硬さに設定されており、性交時の男性側の違和感を緩和する工夫がなされている。1995年に製造元の設備劣化のために販売中止となり、在庫を巡って騒ぎになった。映画『[[となりのサインフェルド]]』では、主人公がスポンジを愛用していたが製造中止によって手持ちが少なくなり、使う相手を厳選するというエピソードが紹介されている<ref>AP通信 2003年3月6日</ref>。2005年に製造権利を買い取った新興企業アレンデール・ファーマスーティカルズ社から再発売された<ref>L.A. TIMES 2005年4月23日</ref><ref>FDA、避妊用スポンジを再承認 米国製薬業界週報 2005年4月29日発行 第82号</ref>。
; フォーム
: 殺精子剤を泡状にしたもの。スプレー缶に充填されており、使用前にアプリケーターに泡状の殺精子剤を充填し、アプリケーターを膣内に挿入して注入する。特徴はゼリーとほぼ同じで即効性。アプリケーターは再使用するために使用後に洗浄が必要である。2000年代までアメリカで流通していたが、その後発売中止となっている。
=== 生理的変化を利用した避妊 ===
==== オギノ式 ====
女性の月経周期に基づいて妊娠可能な期間を計算・予測し、その期間中の性行為に限り避妊を行う方法(PI:9程度)。周期法とも呼ばれる。簡便な方法であるが、排卵の乱れなどにより予測を失敗してしまう可能性もある。不妊治療のため日本人産婦人科医・[[荻野久作]]が発見した、月経周期に関する「[[荻野学説]]」が避妊法に応用されたものである。
なお、荻野本人は自分の学説が避妊法として利用されることについて、より確実な避妊法が存在する上に[[人工妊娠中絶|中絶]]の増加に繋がるとして大いに反対していた。「女の身体には1日たりとも『安全日』などありはしない」「迷惑だ。むしろ不妊治療に役立つ学説だ」と主張しつづけた。
[[カトリック教会]]の教学上(人のいのちを育む家庭のいしずえとして、夫婦の本来の性のあり方を守るため)、排卵法(ビリングス・メソッド)と共に認められている、受胎調節法(自然な家族計画)の一つである。
==== 基礎体温法 ====
女性の月経の周期のうち、[[基礎体温]]を計測して低温相から高温相に変わった日(排卵日)を知り、それから4日目以降に性行為を行う方法(PI:3程度)。毎日規則正しい生活を行い、かつ定時に基礎体温を測り続ける必要がある。
上記のオギノ式と併用することで、より避妊成功率を高めることができる。
==== 長期授乳 ====
妊娠可能年齢の女性には、母体が必要なエネルギーを[[脂肪組織|脂肪]]として蓄えないと妊娠可能とはならない生理的メカニズムがある<ref name="Harris">マーヴィン・ハリス 『ヒトはなぜヒトを食べたか:生態人類学から見た文化の起源』 鈴木洋一訳 早川書房 1990年 ISBN 4-15-203461-0 pp.31-33.</ref>。女性の正常な妊娠には平均的に27,000カロリーのエネルギーを必要とし、出産後に体重に対する脂肪の割合が20から25パーセント程度の水準まで脂肪を蓄えないと[[排卵]]が再開されない。嬰児への[[授乳]]は1日に約1,000カロリーを必要とするため、授乳によって子育てを行う環境では排卵の再開が遅くなる。動物性蛋白質を主な栄養源とし、日常的に移動する[[狩猟採集社会|狩猟採集民]]の[[サン人|サン族]]の女性は、授乳期間を長くすることで意図的に妊娠間隔を4年以上に伸ばすことを可能としている<ref name="Harris"/>。
==== その他の方法 ====
この他、子宮頚管粘液の状態で排卵日を確認する頚管粘液法もある(PI:2程度としているが、詳しく検証されているかなど不明である)。
=== 外科的手法 ===
==== 不妊手術 ====
{{Main|不妊手術#医学領域}}
不妊手術 (sterilization) とは[[卵管]]、または[[精管]]を外科手術によって縛り([[結紮]])、卵子や精子の通過を止めることによって避妊する方法である。卵管の結紮には、経腹または経膣による[[腹腔鏡手術]]が必要となるために、[[帝王切開]]術と同時に行われることがある。精管結紮術は、外来で[[局所麻酔]]のみで簡単に実施出来るが、結紮した精管が再癒合しやすいために術後に精液中に精子が検出されなくなるか確認が必要である。また既に[[精嚢]]に貯留している精子が無くなるまでは受精能力を失っておらず、術後にただちに不妊になる訳ではない。一度これら手術を行ってしまうと妊娠のためには再度手術を行わねばならないが、再手術の難易度は高く人工授精が必要になる場合もある。妊娠を強く望まない夫婦や、妊娠することで女性の母体や胎児に対して深刻な問題が起きる可能性がある場合などに用いられる(PI:男性0.10% - 0.15%程度、女性0.5%程度)。子宮全摘についても、子宮筋腫や子宮内膜症などの合併症の程度によっては、避妊目的を含めて実施されることもある。
=== 膣外射精 ===
{{Main|膣外射精}}
[[性交]]時に[[射精]]の寸前に[[陰茎]]を膣から抜いて膣外に射精を行うこと。[[アダルトビデオ]]などで頻繁に描写されるため、避妊法として認識されている場合も少なくないが、[[精子]]は射精時の[[精液]]だけでなく、前段階で分泌される[[カウパー腺]]液中にも僅かに存在する場合があるため避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。性交後に[[ビデ]]など水などを使用して洗い流すことも、一部の[[精子]]は子宮に入ってしまうため、通常は避妊法としてカウントされない。
=== 性行為の制限 ===
性交を伴わない性行為で、[[ペッティング]]と呼ばれている。以下もペッティングの中に含まれる。
; [[オーラルセックス]]
: 男性器を女性器へ挿入することなく、女性が手や口を使い射精させる性行為。
; [[アナルセックス|肛門性交]]
: 男性器を膣の代わりに肛門へ挿入し射精する性行為。膣へ挿入していないので通常妊娠することはないが、膣と肛門が近いため肛門への精液が膣に流れ出ることによる妊娠がありうる(その他の問題については「[[アナルセックス]]」の項を参照)。
== 緊急避妊 ==
{{See also|緊急避妊薬}}
避妊に失敗した可能性がある、[[強姦]]などによって望まぬ妊娠の可能性に直面した場合などは、性交後に内服して妊娠を回避する緊急避妊薬が使用されている。アフターピル、モーニングアフターピル、エマージェンシーピル、EC(Emergency Contraception)など呼ばれる。
1970年代より'''Yuzpe(ヤッペ)法'''と呼ばれる緊急避妊は欧米で実施されており、日本でも「医師の判断と責任」によって緊急避妊法としてホルモン配合剤を転用した避妊が行われていた。これらは効果が低く副作用の強い中容量ピルを使ったものであった。1999年に副作用が少なく効果が高い[[レボノルゲストレル]]錠が "NorLevo" としてフランスで正式に商品化された。WHOもレボノルゲストレルの導入を後押ししたが、ピルと同様に日本では導入が遅れ2011年2月23日に緊急避妊薬ノルレボRとして承認された(アジアで認可していないのは日本と北朝鮮だけであった)。
性交後72時間以内に内服する必要がある。レボノルゲストレルは、排卵抑制作用により避妊効果を示すことが示唆され,その他に受精阻害作用及び受精卵着床阻害作用も関与する可能性が考えられており、そのことに倫理的な批判も存在する。日本国内ではノルレボ錠として流通している<ref name="norrevo" />。医療機関によって処方される。現在では、直接対面ではなく、コロナ影響化によりオンライン診療及びオンライン処方で研修を受けた医師と薬剤師が処方することが可能となっている。産婦人科だけではなく総合病院が脳神経外科や眼科医師も処方可能リストに名を連ねている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000186912_00002.html|title=緊急避妊に係る取組について|publisher=厚生労働省|accessdate=2021-2-1}}</ref>。
産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、デートDV 被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人工妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり,48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。このことから、若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる<ref>{{Cite journal|和書|author=上村茂仁 |title=S08-3.産婦人科医による若者の自殺予防 |url=https://search.jamas.or.jp/link/ui/2018279366 |journal=児童青年精神医学とその近接領域 |issn=0289-0968 |publisher=日本児童青年精神医学会 |year=2018 |volume=59 |issue=1 |pages=11-11 |naid=130007691949 |doi=10.20615/jscap.59.1_11 |accessdate=2020-10-16}}</ref>。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり日本国内の女性に対し憲法に定める[[法の下の平等]]や[[生存権]]が危ぶまれるものとなっている。
[[ノルレボ]]錠は国内の第Ⅲ相臨床試験において、性交後72時間以内にノルレボを1回経口投与した結果、解析対象例63例のうち、妊娠例は1例で、妊娠阻止率は81.0%であった<ref name="ref3">ノルレボ錠1.5mgインタビューフォーム</ref>。全ての妊娠が防げるわけではなく、性交後72時間を超えて本剤を服用した場合には63%であり、妊娠阻止率が減弱する傾向がみられた<ref name="ref7"> von Hertzen H, et al. Low dose mifepristone and two regimens of levonorgestrel for emergency contraception: a WHO multicentre randomised trial. Lancet. 2002;360:1803-10.</ref>。なお、銅付加子宮内避妊器具IUDは避妊をしなかった性行為の後、5日以内に子宮内に挿入すると、緊急避妊の方法としてほぼ100%の効果があり、希望があれば長期的な避妊手段として入れたままにしておくことも可能である<ref>{{Cite web|和書|title=子宮内避妊器具(IUD)|url=https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/22-%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E8%A8%88%E7%94%BB/%E5%AD%90%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%81%BF%E5%A6%8A%E5%99%A8%E5%85%B7-iud|publisher=MSDマニュアル家庭版|accessdate=2021-2-8}}</ref>。
海外では30年以上前から使用され、安全な中絶・流産の方法としてWHOの必須医薬品にも指定されている経口中絶薬(ミフェプリストン、ミソプロストール)は日本では中絶や流産に対しての適応は許可されていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://woman.excite.co.jp/article/beauty/rid_Wome_2568/pid_2.html|title=ビューティ情報『目を背けてはいけない 日本の中絶問題 産婦人科医 遠見才希子さんインタビュー<最終回>|publisher=woman excite|date=2020-4-24|accessdate=2020-10-17}}</ref>。『フランス・ジャポン・エコー』編集長レジス・アルノーからは、経口妊娠中絶薬はすべての先進国、それに発展途上国の多くでも認可され中国やウズベキスタンの女性も手に入れているにもかかわらず厚生労働省は、経口妊娠中絶薬についてFDAの古い危険という、誤った見解の情報を発し続けてリンク切れを起こしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/kojinyunyu/050609-1c.html|title=ミフェプレックス(MIFEPREX)(わが国で未承認の経口妊娠中絶薬)に関する注意喚起について|publisher=厚生労働省|accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.fda.gov/cder/drug/infopage/mifepristone/|title=page not found|publisher=https://www.fda.gov/cder/drug/infopage/mifepristone/|accessdate=2020-12-25}}</ref>、ことを指摘しており、認可されていない状況を憂いている<ref>{{cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/246717?page=4|title=「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ「性と生殖の権利」について知っていますか?|publisher=東洋経済|author=レジス・アルノー : 『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東|date=2018-11-05 |accessdate=2020-12-25}}</ref>。厚生労働省は2018年、インターネットでインド製と表示された経口妊娠中絶薬を個人輸入し服用した20代の女性に、多量の出血やけいれん、腹痛などの健康被害が起きていたと発表し、個人輸入規制の強化を図った<ref>{{cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/416247/|title=経口中絶薬で健康被害 厚労省、注意呼び掛け|publisher=西日本新聞|date=2018-5-14 |accessdate=2020-12-25}}</ref>。
レボノルゲストレルを使用してはいけない場合は、本剤の成分に対する過敏症の既往がある場合、重篤な肝機能障害のある場合、妊婦<ref name="norrevo" />、その他肝障害・心疾患・腎疾患又はその既往歴のある場合にも慎重を要する<ref name="norrevo" />。また、重度の消化管障害あるいは消化管の吸収不良症候群がある場合,本剤の有効性が期待できないおそれがある<ref name="norrevo" />。副作用としては、消退出血(46.2%)、不正子宮出血(13.8%)、頭痛(12.3%)、悪心(9.2%)、倦怠感(7.7%)などがあり、その他にめまい、腹痛、嘔吐、下痢、乳房の痛み、月経遅延、月経過多、疲労などがある<ref name="norrevo" />。妊娠回避効果は100%ではなく、排卵日付近の性交渉ではレボノルゲストレルを使っても81% - 84%である<ref name="norrevo">ノルレボ錠の添付文書より</ref>。その他の方法として少量の[[ミフェプリストン]](10mg程度)を使用する方法がある。ミフェプリストンが受精卵の着床を阻害するためと考えられていたが、その後の研究により卵巣からの排卵抑制効果によるものと判明している。
性交後72時間を過ぎた場合は、IUDやミレーナによって妊娠を阻止する。
日本においても、世界で承認されている、子宮内避妊システムの小さいものの利用、腕に入れるインプラント、皮膚に貼るシールの利用を含め「産む・産まない」の選択を女性自身が決める「[[リプロダクティブ・ヘルス・ライツ]]」の権利が尊重される必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/65043?page=6 |title=荻上チキsession体も心も痛い…「時代遅れの中絶手術」で傷つく日本の女性たちの叫び| date=2019-06-06|accessdate=2020-05-05|publisher=現代ビジネス}}</ref>。
== 避妊についての論争 ==
避妊を強く非難する意見や逆に積極的に広めようとする意見があり、論争が続いている。
===推進論===
一方で避妊とは女性のみに妊娠という母体に負担を掛けることから解放して自由度を高め、男女が平等に性を謳歌することを可能とする手段とも言え、{{要出典範囲|性的快楽を是としてあまり罪悪視しない人々の間には賛成する声も多い。|date=2015年7月}}また発展途上国での人口調節に置いて、避妊の推奨は切実な問題となっており、1994年の国際人口開発会議(ICPD/カイロ会議)では、女性は出産する時期と子どもの数、出産間隔を自由に決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという、基本的権利「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」持っているという概念が国際的に提唱されている<ref name="allabout4554616">[https://allabout.co.jp/gm/gc/188767/2/ 妊娠の基礎知識/妊娠関連情報 あまりにも軽い命 途上国の妊産婦死亡 All About]</ref>。国際家族計画連盟(IPPF)事務局長ジル・グリアは第一子を出産する年齢を女性自身で決められるということが特に重要であるとしている<ref name="allabout4554616" />。
===反対論===
避妊とは言うなれば生殖という[[生物学]]的な由来を捨て去り、完全に個人の快楽(特に男性)のための性行為を可能にする手段であると言える。性を建前上罪悪視する人々にとってはこれは「性行為を認めるべき唯一の理由(生殖)」が欠けたということであり、彼らは避妊を伴う性行為を否定している。宗教の熱心な信者にとって、避妊は性の本来のあり方に反するとされる。古来から[[カトリック教会]]では夫婦愛の姿として性を捉えており、避妊は本来の全人的な性のあり方に反し、結局は夫婦愛に陰を落とし、損なうものとして、罪とされる。一方、自然な受胎調節は認められており、人工的な器具などを使わない荻野久作博士による研究や、より最近ではビリングス博士夫妻による非常に有効な排卵法(ビリングス・メソッド)は、カトリック教会によって推奨されている。国民の大多数がカトリック教徒で、教会が影響力を持つ[[アイルランド]]では避妊は中絶と共に異端視されている。離婚は1990年代に合法化され、避妊具も普通の商店で売られるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://workingholiday-net.com/magazine/weblog/article-201211304757.html |title=「ここはカトリックの国だから」中絶をめぐる悲劇 : アイルランドワーキングホリデー|accessdate=2020-10-17 |publisher=ワーキングホリデー通信 }}</ref>。
宗教を理由とする以外の批判としては、緊急避妊やIUD、ミレーナの使用によって、受精卵の着床を阻止する作用があるため、これらは命(受精卵)を強制的に殺すこと、[[妊娠中絶]](子おろし)であるとして非難する人々もいる。
== フィクション作品上の避妊描写 ==
ほとんどすべての小説、映画、ビデオその他の中の避妊の措置が当然なされるであろうと思われるいわゆる[[和姦]]描写において、その描写はリアリズムが標榜される場合においてさえ、意図的に回避される。このことを問題視する作家に[[姫野カオルコ]]などがいる<ref>姫野カオルコ『不倫(レンタル)』、角川書店、1996年</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Contraception}}
* [[妊娠]]
* [[不妊]]
* [[性科学]](親分野)
* [[セーファーセックス]]
* [[産児制限]]
* [[少子化]]
* [[日本家族計画協会]]
* {{ill2|野生動物の避妊化|en|Wildlife contraceptive}} ‐ 野生動物の個体数調整のために行われる。
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~kolbe/abort/pil.html |title=経口避妊薬ピルについて 日本カトリック医師会会誌(第37号)より転載 |date=20111013134416}}
* [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/22-女性の健康上の問題/家族計画/避妊の概要 避妊の概要] - [[MSDマニュアル]]
* [https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapan/historical-birth-control-method 昔の避妊方法がやばい! コンドームの代わりになにを使ってた?] - BuzzFeed
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{{性道徳}}
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カヌースラローム
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カヌースラローム(英語: canoe slalom)とは、川の一定区間(200m程度)に不規則に設置された30前後のゲートを、最上流のスタート地点から順番に通過して下る時間を競うカヌーの競技。
各ゲートは、2本のポールで構成される。ゲートの通過方向は、上流から下流(ダウンゲート)だけでなく、下流から上流(アップゲート)もある。ゲートに触れたり、ゲートを不通過したりするとペナルティが加算される。一般的に人が立っていられないほどの急流で行われるので難易度が高い。
水面上の2次元的な動きに見えるが、船体をわざと傾けたり半分沈めたりして回転性能や運動性能を上げ、急流や荒瀬を横断しながらゲートを通過するという、3次元的な操作を必要とする。持久力の高さ、パワーおよびバランスが要求されるスポーツ競技である。
この競技では、カナディアンカヌーもカヤックも使われる。競技に使用される舟はスラローム艇(全長3.5m以上、全幅0.6m以上)という。形状は、薄く細長い菱形である。通常はFRPなどで作られているが、最近は10kg未満の超軽量で剛性の高い新素材が使われ始めた。
ワールドカップ(英語版)やオリンピックの競技種目でもある。オリンピック開催年を除いて、世界選手権も開催されている。日本では、毎年10月にNHK杯全日本カヌースラローム競技大会が開催され、テレビで録画放映される。
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カヌースラロームとは、川の一定区間(200m程度)に不規則に設置された30前後のゲートを、最上流のスタート地点から順番に通過して下る時間を競うカヌーの競技。
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[[ファイル:Kanuslalom.jpg|thumb|250px|カヌースラローム]]
'''カヌースラローム'''<ref>一部では「カヌー・スラローム」や「カヌー-スラローム」などの表記揺れがみられる。</ref>({{lang-en|canoe slalom}})とは、[[川]]の一定区間(200m程度)に不規則に設置された30前後のゲートを、最上流のスタート地点から順番に通過して下る時間を競う[[カヌー]]の競技。
== 概要 ==
各ゲートは、2本のポールで構成される。ゲートの通過方向は、上流から下流(ダウンゲート)だけでなく、下流から上流(アップゲート)もある。ゲートに触れたり、ゲートを不通過したりするとペナルティが加算される。一般的に人が立っていられないほどの急流で行われるので難易度が高い。
水面上の2次元的な動きに見えるが、船体をわざと傾けたり半分沈めたりして回転性能や運動性能を上げ、急流や荒瀬を横断しながらゲートを通過するという、3次元的な操作を必要とする。持久力の高さ、パワーおよびバランスが要求されるスポーツ競技である。
この競技では、[[カナディアンカヌー]]も[[カヤック]]も使われる。競技に使用される舟はスラローム艇(全長3.5m以上、全幅0.6m以上)という。形状は、薄く細長い菱形である。通常は[[繊維強化プラスチック|FRP]]などで作られているが、最近は10kg未満の超軽量で剛性の高い新素材が使われ始めた。
{{仮リンク|カヌースラロームワールドカップ|en|Canoe Slalom World Cup|label=ワールドカップ}}や[[オリンピックのカヌー競技#スラローム|オリンピックの競技種目]]でもある。[[夏季オリンピック|オリンピック]]開催年を除いて、[[カヌースラローム世界選手権|世界選手権]]も開催されている。日本では、毎年10月に[[NHK杯全日本カヌースラローム競技大会]]が開催され、テレビで録画放映される。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[夏季オリンピックの競技一覧#カヌー-スラローム]]
* [[日本カヌースラローム・ワイルドウォーター選手権大会]]
* [[スラローム]]
* [[ワイルドウォーター]]
== 外部リンク ==
* [http://www.canoeicf.com/sites/default/files/canoe_slalom_competition_rules_2017_.pdf canoe_slalom_competition_rules_2017]{{en icon}}
* [https://www.canoeicf.com/discipline/canoe-slalom Canoe Slalom | ICF - Planet Canoe]{{en icon}} - [[国際カヌー連盟]](ICF)のカヌースラロームのサイト
* [http://www.canoe.or.jp/about/slalom.html HOME > 競技種目 > カヌースラローム] - 公益社団法人 [[日本カヌー連盟]]|JAPAN CANOE FEDERATION
* [https://www.2020games.metro.tokyo.jp/taikaijyunbi/taikai/syumoku/games-olympics/canoe/index.html カヌー|オリンピック競技|競技|大会情報|2020年大会開催準備]|[[東京都オリンピック・パラリンピック準備局]]
* [http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC スラロームカヌーとは] - カヌー用語 [[Weblio]]辞書
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ワイルドウォーター
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ワイルドウォーターは、川の一定区間をいかに早く漕ぎ下れるかのタイムを競うカヌーの競技の一つ。’’wildwater’’は急流、激流の意味。
スラロームと違い、区間内はどこを通ってもよい。
使用される艇は専用の舟で、ワイルドウォーター艇と呼ばれる。直進性とスピードに主眼をおいてデザインされており、未経験者が容易に乗りこなせる艇ではない。
種別は、カヤック1人乗り、カナディアンカヌー1人乗りおよび2人乗りと分かれる。また、距離によってスプリント、クラシックに分かれる。
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'''ワイルドウォーター'''は、[[川]]の一定区間をいかに早く漕ぎ下れるかのタイムを競う[[カヌー]]の競技の一つ。''’’wildwater’’''は[[急流]]、激流の意味<ref>[[リーダーズ英和辞典]](第2版)、[[研究社]]、1999年、ISBN 978-4-7674-1413-3</ref><ref>[http://eow.alc.co.jp/search?q=wildwater wildwaterの意味・用例]|[[英辞郎]] on the WEB:[[アルク]]</ref>。
==概要==
[[スラローム (カヌー)|スラローム]]と違い、区間内はどこを通ってもよい。
使用される艇は専用の舟で、ワイルドウォーター艇と呼ばれる。直進性とスピードに主眼をおいてデザインされており、未経験者が容易に乗りこなせる艇ではない。
種別は、[[カヤック]]1人乗り、[[カナディアンカヌー]]1人乗りおよび2人乗りと分かれる。また、距離によってスプリント、クラシックに分かれる。
==脚注==
<references />
==関連項目==
*[[:en:Wildwater canoeing|Wildwater canoeing]]
*[[:en:Whitewater kayaking|Whitewater kayaking]]
==外部リンク==
{{Commons|Whitewater}}
*[https://www.canoeicf.com/discipline/wildwater-canoeing Wildwater Canoeing | ICF - Planet Canoe]{{en icon}} - 国際カヌー連盟(ICF)のワイルドウォーターカヌーイングのサイト
*[http://www.canoe.or.jp/about/wildwater.html HOME > 競技種目 > カヌーワイルドウォーター] - 公益社団法人 [[日本カヌー連盟]]|JAPAN CANOE FEDERATION
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海上保安大学校
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海上保安大学校(かいじょうほあんだいがっこう、英語: Japan Coast Guard Academy)は、広島県呉市若葉町5-1に本部を置く、国土交通省所管の省庁大学校。大学校の略称は海保大または保大(英略:JCGA)。海上保安庁の将来の幹部職員(幹部海上保安官)の養成を目的に設置されている同庁の施設等機関であり、諸外国において沿岸警備隊士官学校に相当する教育機関である。設置根拠は国土交通省組織令第255条。
本大学校の目的は、国土交通省組織令で次のように規定されている。
(海上保安大学校)第255条 海上保安大学校は、海上保安庁の職員に対し、幹部としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練並びに海上保安業務を遂行するに必要な専門的知識又は特殊技能を修得させるための教育訓練を行うことをつかさどる。
また、海上保安庁法第33条の2 により、「海上保安大学校の名称、位置及び内部組織に関する庁令」にも規定されている。
本大学校の基本理念は、「人格の陶冶とリーダーシップの涵養」、「高い教養と見識の修得」、「強靭な気力・体力の育成」の3点である。
本科学生は、幹部海上保安官となるべき者の教育を前提にしており、卒業後に三等海上保安正に任官する。その後専攻科で3ヶ月間世界一周の遠洋航海、国際業務課程を経て12月に現場に配属される。学生は一般職の国家公務員である。階級は指定されないが階級章は存在し、第一種制服の袖章、第二種制服の肩章、第三種・第四種制服の胸章にはそれぞれ金色の大学校校章があしらわれている(海上保安学校学生は銀色)。
海上保安大学校は大学と同じように入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり国家公務員試験扱いであり、入校すると海上保安庁職員としての「課業」となるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である。
考え方としては、高等学校卒業相当にて「海上保安大学校学生採用試験」を受験し採用→海上保安官の職務として海上保安大学校にて学修→幹部海上保安官として職務に従事、となる。卒業後は初級幹部職員として職務に従事し、1年から2年に1度のペースで日本全国を転勤しながら昇任していく。
応募条件には年齢や日本国籍を有する事等、海上保安官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。全寮制であり、学生は入校と同時に一般職の国家公務員として海上保安庁の職員に採用され、学費は必要なく給与が支給される(2017年現在で俸給月額約14万円)。このように給与の支給される国土交通省の省庁大学校には気象大学校、航空保安大学校があり、特別職の国家公務員では防衛省の防衛大学校、防衛医科大学校また、高等学校相当の陸上自衛隊高等工科学校などがある。
水産大学校などの様な、大学院に相当する課程は設置されていないが、政策研究大学院大学の「海上保安政策プログラム」が事実上、同校卒業者の進学を想定した上級課程である。
組織として各講座、国際海洋政策研究センター、事務局、教務部、訓練部、図書館、医務室などがある。
教育課程には本科(4年間)、専攻科(6カ月間)、初任科(1年間)、特修科(1年間)、研修科がある。
1年次と2年次は基礎教育科目を学び、2年次からは専門教育科目の履修が始まる。2年次後期から第一群(航海)、第二群(機関)、第三群(情報通信)の各専攻に分かれ、専門基礎科目(群別科目)を学ぶ。3年次と4年次になると国内航海実習が行われる。また、4年間を通して専門基礎科目(共通)や訓練科目、実習科目を勉強する。本科卒業生に対し、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構から「学士(海上保安)、Bachelor of Science in Coast Guard Operation and Law Enforcement」(日本国内では本校のみで得られる)の学位が授与される。本科卒業生は、その後専攻科(約6ヶ月間)に進み、実務教育が開始され、3ヶ月の世界一周遠洋航海実習に参加し国際感覚を身に付ける。他にも各管区の海上保安官が希望により2ヶ月の潜水訓練を受けることが出来る(映画「海猿」で取り上げられた)。また、2011年度から、語学力向上や国際的な実務対応のために研修科国際業務課程を開設。2017年度入校生よりカリキュラム変更が行われており、主なものとしては20年ぶりの1学年乗船実習復活や柔剣道の廃止などがある。
本科を卒業することにより、学士(海上保安)の他、以下の資格を取得できる。
本科2学年後期時より希望や成績によりわかれる。
三等海上保安正(士官)に任官される予定の35歳以下の者が現場から選抜され呉市の海上保安大学校で1年間研修を受け現地に赴任する。
35歳以上は「特任主任士」課程、その他「プロパー」と言われる登用方法も存在する。
本科卒業後の課程で乗船実習(後述の遠洋航海実習を含む)など計6カ月間の研修期間を経る。
令和3年度新設、一般大学卒業者対象。約2年間の研修(初任科1年+特修科1年、希望により+専攻科6カ月)を経て、現場赴任(後述)。
採用後は、4月から海上保安大学校において初任科として1年間教育を受けたのちに、特修科に編入し、さらに1年間の教育を受けることになる。 入学と同時に航海・機関の2つの分野のうち一つを選択。 1年目は初任科として主に海技免状の取得に向けた科目を履修、2年目からは特修科に編入し、海技免状の取得に向けた科目を履修しながら幹部海上保安官として必要な高度な専門能力を身につけることを目的とした科目を履修。なお、国内航海実習は課程に含まれるが、専攻科で行われる世界一周遠洋航海実習は希望に応じて、参加可能である。
潜水士になるための潜水研修や、国際捜査官に必要な語学力を養う語学研修などを実施。
初任科(1年間)とその後の特修科(1年間)がある。
本科学生が練習船「こじま」に乗船して船舶運航の技能を習得する。
練習船「こじま」による世界一周遠洋航海実習(太平洋、パナマ運河、カリブ海、大西洋、地中海、スエズ運河、インド洋等)が約3か月間行われる。
毎年、海外の海上保安機関の学生等を招聘し海外交流活動を行なっている。アメリカ沿岸警備学校、カナダ沿岸警備学校(英語版)の学生をはじめ、フィリピン、マレーシアなどから学生や若手士官が参加している。大学校からの派遣もある。
海上保安大学校では学生は日課表に基づいて規律ある団体生活を行い、寮の運営は週番交代による当直学生によって行われている。
寮内の生活について、以下に説明する。
食事は週末を除き、1日3回提供される。なお、当直学生にあっては休前日である金曜日においても食事は提供される。
海上保安庁では、海上自衛隊同様、大日本帝国海軍伝統の「5分前精神」がある。平日の起床は6時30分である。6時25分になると「総員起こし5分前」の放送が流れる。学生は直ちに起床し、作業服に着替え、布団をきちんとたたみ、5分以内に寮前広場に整列しなければならない。その後は「海上保安体操」が待っている。体操が終わったら次は朝掃除をしなくてはならない。掃除の分担は学生班の班長が決めることになっている。掃除が終わるとようやく朝食をとることができる。
午前8時15分に本科学生、初任科研修生、特修科研修生が寮前広場に整列し、本館に向けて課業行進を行う。なお、課業行進を行う前に月曜日は容儀点検、火曜日は当直学生による周知、水曜日は学生による遠征報告、木曜日は本科学生による所見発表、金曜日は特修科研修生による所見発表が行われる。課業行進の際は基本的に1学年が先頭に立ち、上級生による指導を受けながら行進の上達が図られる。
生活の最小単位は「自習室」である。基本的に1年生から4年生が一人ずつ、計4名から構成される。人数の都合上、近年は、5人の自習室が一般となりつつある。自習室には学習机と椅子、スチールロッカーが置かれ、勉強をすることができる。各自習室の部屋長は基本的にその部屋の4年生である(4年生がいない場合は3年生になる)。寝室は自習室の廊下を挟んだ反対側にあり、3部屋分の学生を収容する。「自習室」が8-9個集まった単位が「班」である。整列時、訓練時はこの「班」が基本単位になる。
4月の初めに着校した新入生に対し、3, 4年生から構成されたオリエンテーション委員が行う生活指導のことをオリエンテーションという。寮での生活規則、海上保安体操、基本動作、校歌などを1年生に叩き込む。1週間ほど行われ、このオリエンテーションを終えて晴れて入学式を迎え、制服を着ることができる(オリエンテーション中は作業服しか着ることができない)。普通の高校生活を過ごしてきた新入生にとって、この最初の1週間はかなりハードである。なお、希望者に至っては夏季休暇後に海上保安大学校応援団加入に際する通称「応援団オリ」がある。
平日は17:15-22:15まで外出可能。金曜日、土曜日及び祝日の前日は原則として門限が22:45となり、外泊も可能(制限あり)。日課の運営は訓練教官の指導のもと当直学生により遂行される。 なお、家族や友人等を寮内に案内することができるのは、この外出許可時間内に限られる。なお1学年のオリエンテーション期間は外出も外泊も認められず、1学年後半までは外泊は認められない。
夏期に約4週間、冬期と春期に約2週間あり、原則として寮が閉鎖される。
大学校内及び呉湾海域で学生祭「海神祭(わたつみさい)」が2日間にわたって行われる。呉市近郊の他大学生からの「お手伝い」制度もあり、学生音楽隊による演奏や救難実習、潜水展示、物品販売、巡視船/艇一般公開、花火打ち上げなどがある。オープンキャンパスも同時に開催される。なお新型コロナウイルスの影響で2020年度、2021年度の海神祭は中止となっている。
男子学生の浴室は、大浴槽で瀬戸内海を見渡せる眺望の良いものとなっている。また、車両の保有及び運行については1、2学年は認められていない。2学年以上になると下宿を借りることも可能になるが、下宿からの通学は許可されない。
「強靭な気力・体力の錬成」を目的として全学生が参加する。「学校教育法に於ける大学」ではないが、防衛大学校や防衛医科大学校等と共に参加を認めている大会もある(全国国公立大学選手権水泳競技大会など)。学生活動として海上保安大学校学生音楽隊や応援団、邦楽部などがある。
運動部
その他 (任意加入)
海上保安大学校学生は明確な階級は指定されていないが、袖章、胸章、肩章が存在する。
交通アクセス:JR呉線吉浦駅下車、広電バスで「池の浦」下車、徒歩約400m。
地上4階の建物である。建築年月日は1976年(昭和51年)11月。課業行進の際、三ツ石寮前から本館正面玄関まで学生が班に分かれて行進する。全学年の固有教室が設置され、学生課、訓練課、教務課、厚生課等の大学校の中枢を担う課が置かれている。なお、2021年(令和3年度)に、本館正面玄関において大規模工事が実施された。
校長室、副校長室、会議室、事務室、教官研究室、教室、海上研究室、レーダーシミュレーター、海上艦橋実験室、武器演習室、一般実技演習室、語学演習室、捜査演習室、情報処理演習室、機械室、恒温実験室
教官研究室、化学実験室、物理実験室、船舶工業化学実験室、船用電気機械実験室、運用実験室、航海計器実験室、電気計測実験室、電子回路実験室、電子工学実験室、通信機器実験室、有線工学実験室、水路実験室、航海、救難演習室
教官研究室、機械力学実験室、材料実験室、自動制御実験室、機工模型室、製図室、補機演習室、電気室
材料実験室、蒸気実験室、内燃実験室燃焼実験室、補機実験室、鋳造実習室、溶接実習室機械仕上実習室
主に小型艇が収容されている大型施設である。ヨット部やカッター部の部活動拠点となっており、訓練課が保有する機動艇等も収容されている。
建築年月日は2004年(平成16年)3月。
スクリーン室、第一船橋、第二船橋、教官・操作室、研修室、砲塔室
建築年月日は2004年(平成16年)10月。
主に潜水研修生の訓練に使用されるが、学生の夏季期間中の遠泳訓練の練習場としても使用される。25m×14m(水深1.3〜5.0m)のプールであり、施設内からプール内の様子を見ることができる。
建築年月日は2010年(平成22年)6月。
令和2年2月建築。海外からの研修生の宿泊施設や学生の憩いの場となっている。
海洋政策プログラム(MSP)を受講する留学生や学生国際会議などで使用されている。建築年月日は2020年(令和2年)2月。
海上保安庁創設30周年記念事業の一環として、海上保安大学校敷地内に建設。館内には既に現役を引退した巡視船艇、飛行機及びヘリコプターなどの写真、現在も使用されているヘリコプター搭載型巡視船などの模型、海上保安庁の業務を紹介する写真パネル・模型など約1,000点近い展示物が並ぶ。平成13年12月九州南西海域不審船事案で銃撃を受けた巡視船「あまみ」船橋前面の展示もしている。(完全予約制で平日午前9時から午後4時まで見学可能(学園祭時は開放)、土曜日、日曜日、休日及び年末年始(12月28日~1月4日)は休み。)
2023年3月、同年9月の日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区の閉鎖を前に、海上保安大学校は、日本製鉄から研修施設「若葉クラブ」(呉市若葉町)を購入し、授業や研修のための施設として使用することになった。
海上保安庁には、初級職員となる者の教育を担当する以下の施設がある。
|
[
{
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"text": "海上保安大学校(かいじょうほあんだいがっこう、英語: Japan Coast Guard Academy)は、広島県呉市若葉町5-1に本部を置く、国土交通省所管の省庁大学校。大学校の略称は海保大または保大(英略:JCGA)。海上保安庁の将来の幹部職員(幹部海上保安官)の養成を目的に設置されている同庁の施設等機関であり、諸外国において沿岸警備隊士官学校に相当する教育機関である。設置根拠は国土交通省組織令第255条。",
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"text": "本大学校の目的は、国土交通省組織令で次のように規定されている。",
"title": "概要"
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"text": "(海上保安大学校)第255条 海上保安大学校は、海上保安庁の職員に対し、幹部としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練並びに海上保安業務を遂行するに必要な専門的知識又は特殊技能を修得させるための教育訓練を行うことをつかさどる。",
"title": "概要"
},
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"text": "また、海上保安庁法第33条の2 により、「海上保安大学校の名称、位置及び内部組織に関する庁令」にも規定されている。",
"title": "概要"
},
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"text": "本大学校の基本理念は、「人格の陶冶とリーダーシップの涵養」、「高い教養と見識の修得」、「強靭な気力・体力の育成」の3点である。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "本科学生は、幹部海上保安官となるべき者の教育を前提にしており、卒業後に三等海上保安正に任官する。その後専攻科で3ヶ月間世界一周の遠洋航海、国際業務課程を経て12月に現場に配属される。学生は一般職の国家公務員である。階級は指定されないが階級章は存在し、第一種制服の袖章、第二種制服の肩章、第三種・第四種制服の胸章にはそれぞれ金色の大学校校章があしらわれている(海上保安学校学生は銀色)。",
"title": "身分・採用試験"
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"text": "海上保安大学校は大学と同じように入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり国家公務員試験扱いであり、入校すると海上保安庁職員としての「課業」となるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である。",
"title": "身分・採用試験"
},
{
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"text": "考え方としては、高等学校卒業相当にて「海上保安大学校学生採用試験」を受験し採用→海上保安官の職務として海上保安大学校にて学修→幹部海上保安官として職務に従事、となる。卒業後は初級幹部職員として職務に従事し、1年から2年に1度のペースで日本全国を転勤しながら昇任していく。",
"title": "身分・採用試験"
},
{
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"text": "応募条件には年齢や日本国籍を有する事等、海上保安官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。全寮制であり、学生は入校と同時に一般職の国家公務員として海上保安庁の職員に採用され、学費は必要なく給与が支給される(2017年現在で俸給月額約14万円)。このように給与の支給される国土交通省の省庁大学校には気象大学校、航空保安大学校があり、特別職の国家公務員では防衛省の防衛大学校、防衛医科大学校また、高等学校相当の陸上自衛隊高等工科学校などがある。",
"title": "身分・採用試験"
},
{
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"text": "水産大学校などの様な、大学院に相当する課程は設置されていないが、政策研究大学院大学の「海上保安政策プログラム」が事実上、同校卒業者の進学を想定した上級課程である。",
"title": "身分・採用試験"
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{
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"text": "組織として各講座、国際海洋政策研究センター、事務局、教務部、訓練部、図書館、医務室などがある。",
"title": "組織"
},
{
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"text": "教育課程には本科(4年間)、専攻科(6カ月間)、初任科(1年間)、特修科(1年間)、研修科がある。",
"title": "教育課程"
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"text": "1年次と2年次は基礎教育科目を学び、2年次からは専門教育科目の履修が始まる。2年次後期から第一群(航海)、第二群(機関)、第三群(情報通信)の各専攻に分かれ、専門基礎科目(群別科目)を学ぶ。3年次と4年次になると国内航海実習が行われる。また、4年間を通して専門基礎科目(共通)や訓練科目、実習科目を勉強する。本科卒業生に対し、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構から「学士(海上保安)、Bachelor of Science in Coast Guard Operation and Law Enforcement」(日本国内では本校のみで得られる)の学位が授与される。本科卒業生は、その後専攻科(約6ヶ月間)に進み、実務教育が開始され、3ヶ月の世界一周遠洋航海実習に参加し国際感覚を身に付ける。他にも各管区の海上保安官が希望により2ヶ月の潜水訓練を受けることが出来る(映画「海猿」で取り上げられた)。また、2011年度から、語学力向上や国際的な実務対応のために研修科国際業務課程を開設。2017年度入校生よりカリキュラム変更が行われており、主なものとしては20年ぶりの1学年乗船実習復活や柔剣道の廃止などがある。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "本科を卒業することにより、学士(海上保安)の他、以下の資格を取得できる。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "本科2学年後期時より希望や成績によりわかれる。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "三等海上保安正(士官)に任官される予定の35歳以下の者が現場から選抜され呉市の海上保安大学校で1年間研修を受け現地に赴任する。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "35歳以上は「特任主任士」課程、その他「プロパー」と言われる登用方法も存在する。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "本科卒業後の課程で乗船実習(後述の遠洋航海実習を含む)など計6カ月間の研修期間を経る。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "令和3年度新設、一般大学卒業者対象。約2年間の研修(初任科1年+特修科1年、希望により+専攻科6カ月)を経て、現場赴任(後述)。",
"title": "教育課程"
},
{
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"text": "採用後は、4月から海上保安大学校において初任科として1年間教育を受けたのちに、特修科に編入し、さらに1年間の教育を受けることになる。 入学と同時に航海・機関の2つの分野のうち一つを選択。 1年目は初任科として主に海技免状の取得に向けた科目を履修、2年目からは特修科に編入し、海技免状の取得に向けた科目を履修しながら幹部海上保安官として必要な高度な専門能力を身につけることを目的とした科目を履修。なお、国内航海実習は課程に含まれるが、専攻科で行われる世界一周遠洋航海実習は希望に応じて、参加可能である。",
"title": "教育課程"
},
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"text": "潜水士になるための潜水研修や、国際捜査官に必要な語学力を養う語学研修などを実施。",
"title": "教育課程"
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"text": "初任科(1年間)とその後の特修科(1年間)がある。",
"title": "カリキュラム"
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"text": "本科学生が練習船「こじま」に乗船して船舶運航の技能を習得する。",
"title": "航海実習"
},
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"text": "練習船「こじま」による世界一周遠洋航海実習(太平洋、パナマ運河、カリブ海、大西洋、地中海、スエズ運河、インド洋等)が約3か月間行われる。",
"title": "航海実習"
},
{
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"text": "毎年、海外の海上保安機関の学生等を招聘し海外交流活動を行なっている。アメリカ沿岸警備学校、カナダ沿岸警備学校(英語版)の学生をはじめ、フィリピン、マレーシアなどから学生や若手士官が参加している。大学校からの派遣もある。",
"title": "国際交流"
},
{
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"text": "海上保安大学校では学生は日課表に基づいて規律ある団体生活を行い、寮の運営は週番交代による当直学生によって行われている。",
"title": "学生生活"
},
{
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"text": "寮内の生活について、以下に説明する。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "食事は週末を除き、1日3回提供される。なお、当直学生にあっては休前日である金曜日においても食事は提供される。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "海上保安庁では、海上自衛隊同様、大日本帝国海軍伝統の「5分前精神」がある。平日の起床は6時30分である。6時25分になると「総員起こし5分前」の放送が流れる。学生は直ちに起床し、作業服に着替え、布団をきちんとたたみ、5分以内に寮前広場に整列しなければならない。その後は「海上保安体操」が待っている。体操が終わったら次は朝掃除をしなくてはならない。掃除の分担は学生班の班長が決めることになっている。掃除が終わるとようやく朝食をとることができる。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "午前8時15分に本科学生、初任科研修生、特修科研修生が寮前広場に整列し、本館に向けて課業行進を行う。なお、課業行進を行う前に月曜日は容儀点検、火曜日は当直学生による周知、水曜日は学生による遠征報告、木曜日は本科学生による所見発表、金曜日は特修科研修生による所見発表が行われる。課業行進の際は基本的に1学年が先頭に立ち、上級生による指導を受けながら行進の上達が図られる。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "生活の最小単位は「自習室」である。基本的に1年生から4年生が一人ずつ、計4名から構成される。人数の都合上、近年は、5人の自習室が一般となりつつある。自習室には学習机と椅子、スチールロッカーが置かれ、勉強をすることができる。各自習室の部屋長は基本的にその部屋の4年生である(4年生がいない場合は3年生になる)。寝室は自習室の廊下を挟んだ反対側にあり、3部屋分の学生を収容する。「自習室」が8-9個集まった単位が「班」である。整列時、訓練時はこの「班」が基本単位になる。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "4月の初めに着校した新入生に対し、3, 4年生から構成されたオリエンテーション委員が行う生活指導のことをオリエンテーションという。寮での生活規則、海上保安体操、基本動作、校歌などを1年生に叩き込む。1週間ほど行われ、このオリエンテーションを終えて晴れて入学式を迎え、制服を着ることができる(オリエンテーション中は作業服しか着ることができない)。普通の高校生活を過ごしてきた新入生にとって、この最初の1週間はかなりハードである。なお、希望者に至っては夏季休暇後に海上保安大学校応援団加入に際する通称「応援団オリ」がある。",
"title": "学生生活"
},
{
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"text": "平日は17:15-22:15まで外出可能。金曜日、土曜日及び祝日の前日は原則として門限が22:45となり、外泊も可能(制限あり)。日課の運営は訓練教官の指導のもと当直学生により遂行される。 なお、家族や友人等を寮内に案内することができるのは、この外出許可時間内に限られる。なお1学年のオリエンテーション期間は外出も外泊も認められず、1学年後半までは外泊は認められない。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "夏期に約4週間、冬期と春期に約2週間あり、原則として寮が閉鎖される。",
"title": "学生生活"
},
{
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"text": "大学校内及び呉湾海域で学生祭「海神祭(わたつみさい)」が2日間にわたって行われる。呉市近郊の他大学生からの「お手伝い」制度もあり、学生音楽隊による演奏や救難実習、潜水展示、物品販売、巡視船/艇一般公開、花火打ち上げなどがある。オープンキャンパスも同時に開催される。なお新型コロナウイルスの影響で2020年度、2021年度の海神祭は中止となっている。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "男子学生の浴室は、大浴槽で瀬戸内海を見渡せる眺望の良いものとなっている。また、車両の保有及び運行については1、2学年は認められていない。2学年以上になると下宿を借りることも可能になるが、下宿からの通学は許可されない。",
"title": "学生生活"
},
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"text": "「強靭な気力・体力の錬成」を目的として全学生が参加する。「学校教育法に於ける大学」ではないが、防衛大学校や防衛医科大学校等と共に参加を認めている大会もある(全国国公立大学選手権水泳競技大会など)。学生活動として海上保安大学校学生音楽隊や応援団、邦楽部などがある。",
"title": "体育部"
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"text": "運動部",
"title": "体育部"
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{
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"text": "その他 (任意加入)",
"title": "体育部"
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{
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"text": "",
"title": "体育部"
},
{
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"text": "海上保安大学校学生は明確な階級は指定されていないが、袖章、胸章、肩章が存在する。",
"title": "制服"
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"text": "交通アクセス:JR呉線吉浦駅下車、広電バスで「池の浦」下車、徒歩約400m。",
"title": "施設"
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"text": "地上4階の建物である。建築年月日は1976年(昭和51年)11月。課業行進の際、三ツ石寮前から本館正面玄関まで学生が班に分かれて行進する。全学年の固有教室が設置され、学生課、訓練課、教務課、厚生課等の大学校の中枢を担う課が置かれている。なお、2021年(令和3年度)に、本館正面玄関において大規模工事が実施された。",
"title": "施設"
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"text": "校長室、副校長室、会議室、事務室、教官研究室、教室、海上研究室、レーダーシミュレーター、海上艦橋実験室、武器演習室、一般実技演習室、語学演習室、捜査演習室、情報処理演習室、機械室、恒温実験室",
"title": "施設"
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"text": "教官研究室、化学実験室、物理実験室、船舶工業化学実験室、船用電気機械実験室、運用実験室、航海計器実験室、電気計測実験室、電子回路実験室、電子工学実験室、通信機器実験室、有線工学実験室、水路実験室、航海、救難演習室",
"title": "施設"
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"text": "教官研究室、機械力学実験室、材料実験室、自動制御実験室、機工模型室、製図室、補機演習室、電気室",
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"text": "材料実験室、蒸気実験室、内燃実験室燃焼実験室、補機実験室、鋳造実習室、溶接実習室機械仕上実習室",
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"text": "主に小型艇が収容されている大型施設である。ヨット部やカッター部の部活動拠点となっており、訓練課が保有する機動艇等も収容されている。",
"title": "施設"
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{
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"text": "建築年月日は2004年(平成16年)3月。",
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"text": "スクリーン室、第一船橋、第二船橋、教官・操作室、研修室、砲塔室",
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"text": "建築年月日は2004年(平成16年)10月。",
"title": "施設"
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"text": "主に潜水研修生の訓練に使用されるが、学生の夏季期間中の遠泳訓練の練習場としても使用される。25m×14m(水深1.3〜5.0m)のプールであり、施設内からプール内の様子を見ることができる。",
"title": "施設"
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"text": "建築年月日は2010年(平成22年)6月。",
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"text": "令和2年2月建築。海外からの研修生の宿泊施設や学生の憩いの場となっている。",
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"text": "海洋政策プログラム(MSP)を受講する留学生や学生国際会議などで使用されている。建築年月日は2020年(令和2年)2月。",
"title": "施設"
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"text": "海上保安庁創設30周年記念事業の一環として、海上保安大学校敷地内に建設。館内には既に現役を引退した巡視船艇、飛行機及びヘリコプターなどの写真、現在も使用されているヘリコプター搭載型巡視船などの模型、海上保安庁の業務を紹介する写真パネル・模型など約1,000点近い展示物が並ぶ。平成13年12月九州南西海域不審船事案で銃撃を受けた巡視船「あまみ」船橋前面の展示もしている。(完全予約制で平日午前9時から午後4時まで見学可能(学園祭時は開放)、土曜日、日曜日、休日及び年末年始(12月28日~1月4日)は休み。)",
"title": "施設"
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"text": "2023年3月、同年9月の日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区の閉鎖を前に、海上保安大学校は、日本製鉄から研修施設「若葉クラブ」(呉市若葉町)を購入し、授業や研修のための施設として使用することになった。",
"title": "施設"
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"text": "海上保安庁には、初級職員となる者の教育を担当する以下の施設がある。",
"title": "対外関係"
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海上保安大学校は、広島県呉市若葉町5-1に本部を置く、国土交通省所管の省庁大学校。大学校の略称は海保大または保大(英略:JCGA)。海上保安庁の将来の幹部職員(幹部海上保安官)の養成を目的に設置されている同庁の施設等機関であり、諸外国において沿岸警備隊士官学校に相当する教育機関である。設置根拠は国土交通省組織令第255条。
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{{Pathnav|海上保安庁|frame=1}}
{{混同|海上保安学校}}
{{Infobox
|above=海上保安大学校
|image=[[File:海上保安大学校正門.jpg|200px]]
|label1=大学校設置/創立
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|label3=大学校種別
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一般の大学の記事と同じ書式となるように、この記事の冒頭は[[プロジェクト:大学/大学テンプレート (日本国内)]]に倣って作成されています。
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{{海上保安庁}}
'''海上保安大学校'''(かいじょうほあんだいがっこう、{{lang-en|Japan Coast Guard Academy}})は、[[広島県]][[呉市]]若葉町5-1に本部を置く、[[国土交通省]]所管の[[省庁大学校]]。[[大学の略称|大学校の略称]]は'''海保大'''または'''保大'''<ref>内部では主に「保大」と呼称される。</ref><ref name="tachibana2009">
海上保安庁の教育システム,立花敬忠,海上保安庁のすべて,海人社,世界の艦船2009年11月号増刊,P158-163,[[JANコード]] 4910056041192</ref>(英略:'''JCGA''')。[[海上保安庁]]の将来の[[幹部]]<ref>「海上保安庁幹部職員一覧」に記載される、本庁[[室長]]級以上の職員。</ref>職員([[士官|幹部]][[海上保安官]]<ref name="kocho">[http://www.jcga.ac.jp/aisatu/aisatu.html 校長挨拶]{{リンク切れ|date=2015年12月}}(2008年4月)</ref>)の養成を目的に設置されている同庁の[[施設等機関]]であり、諸外国において沿岸警備隊士官学校に相当する教育機関である。設置根拠は国土交通省組織令<ref name="sosikirei" />第255条。
== 概要 ==
本大学校の目的は、国土交通省組織令で次のように規定されている。
<blockquote>
(海上保安大学校)<br>第255条 海上保安大学校は、海上保安庁の職員に対し、幹部としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練並びに海上保安業務を遂行するに必要な専門的知識又は特殊技能を修得させるための教育訓練を行うことをつかさどる<ref name="sosikirei">{{Cite web|和書|title=国土交通省組織令(平成12年政令第255号)第255条|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=412CO0000000255#2023|website=e-Gov法令検索|date=2020-01-05|accessdate=2020-01-19|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。
</blockquote>
また、[[海上保安庁法]]第33条の2 <ref>{{Cite web|和書|title=海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第33条の2|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000028#128|website=e-Gov法令検索|date=2017-04-01|accessdate=2020-01-19|publisher=総務省行政管理局}}</ref>により、「海上保安大学校の名称、位置及び内部組織に関する庁令」<ref>{{Cite web|和書|title=海上保安大学校の名称、位置及び内部組織に関する庁令(昭和36年海上保安庁令第2号)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=336R00000002002|website=e-Gov法令検索|date=2017-04-01|accessdate=2020-01-19|publisher=総務省行政管理局}}</ref>にも規定されている。
本大学校の基本理念は、「人格の陶冶とリーダーシップの涵養」、「高い教養と見識の修得」、「強靭な気力・体力の育成」の3点である。
== 身分・採用試験 ==
本科学生は、幹部[[海上保安官]]となるべき者の教育を前提にしており、卒業後に三等海上保安正に任官する。その後専攻科で3ヶ月間世界一周の遠洋航海、国際業務課程を経て12月に現場に配属される。学生は一般職の[[国家公務員]]である。階級は指定されないが[[階級章]]は存在し、第一種制服の袖章、第二種制服の[[肩章]]、第三種・第四種制服の胸章にはそれぞれ金色の大学校校章があしらわれている([[海上保安学校]]学生は銀色)。
海上保安大学校は大学と同じように入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり国家公務員試験扱いであり、入校すると海上保安庁職員としての「課業」となるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である<ref>{{Cite web|和書|title=人事院規則8-18(採用試験)(平成23年人事院規則8-18)第3条第16号 海上保安大学校学生採用試験|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=423RJNJ08018000#8|website=e-Gov法令検索|date=2020-01-01|accessdate=2020-01-19|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。
考え方としては、[[高等学校]]卒業相当にて「海上保安大学校学生採用試験」を受験し採用→海上保安官の職務として海上保安大学校にて学修→幹部海上保安官として職務に従事、となる。卒業後は初級幹部職員として職務に従事し、1年から2年に1度のペースで日本全国を転勤しながら昇任していく。
応募条件には年齢や日本国籍を有する事等、海上保安官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。全寮制であり<ref name="tachibana2009"/>、学生は入校と同時に一般職の[[国家公務員]]として海上保安庁の職員に採用され、[[学費]]は必要なく給与が支給される([[2017年]]現在で俸給月額約14万円)<ref name="tachibana2009"/>。このように給与の支給される国土交通省の省庁大学校には[[気象大学校]]、[[航空保安大学校]]があり、[[特別職]]の国家公務員では[[防衛省]]の[[防衛大学校]]、[[防衛医科大学校]]また、高等学校相当の[[陸上自衛隊高等工科学校]]などがある。
[[水産大学校]]などの様な、[[大学院]]に相当する課程は設置されていないが、[[政策研究大学院大学]]の「海上保安政策プログラム」が事実上、同校卒業者<ref>実務経験を3年以上有する、年齢45歳以下の職員。</ref>の進学を想定した[[修士課程|上級課程]]である。
== 沿革 ==
=== 年表 ===
*[[1951年]](昭和26年)4月 - 海上保安庁の附属機関として設置される
*1951年(昭和26年)6月 - 本科第1期生入学式を行う
*[[1952年]](昭和27年)4月 - [[東京都]][[江東区]]深川越中島の仮校舎から広島県呉市に移転
*1952年(昭和27年)[[7月31日]] - (昭和27年法律第267号)[[海上公安局]]法の公布により、「海上公安大学校」を置くとされる
*[[1954年]](昭和29年)[[7月1日]] - (昭和29年法律第164号)[[防衛庁]]設置法附則の第2項により海上公安局法の廃止
*[[1965年]](昭和40年)4月 - 講座制を採用する
*[[1966年]](昭和41年)2月 - 本科卒業生に[[大学]]の[[大学院]][[修士課程]]への入学資格が付与される
*[[1980年]](昭和55年)4月 - 女子学生が初めて入学する
*[[1992年]](平成4年)3月 - 本科卒業生に[[学位授与機構]](後に独立行政法人大学改革支援・学位授与機構)から「[[学士(海上保安)]]」の学位が授与されることとなる
*[[2020年|2004年(平成16年)]]9月 - 海上保安シミュレータ完成
*[[2006年]](平成18年)[[3月26日]] - 第89代[[内閣総理大臣]]([[小泉純一郎]])が、内閣総理大臣として初めて卒業式に出席する<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiphoto/2006/03/26kaiho.html 小泉総理の動き-海上保安大学校卒業式に出席- 平成18年3月26日]</ref>。
*[[2009年]](平成21年) - [[文部科学大臣]]から[[研究機関]]に指定される。
*[[2018年]](平成30年)3月24日 - 内閣総理大臣([[安倍晋三]])が卒業式に出席。
*[[2020年]](令和2年) - 国際交流センター竣工
*[[2021年]](令和3年)- 新設された海上保安大学校初任科1期生(一般大学卒業者対象)入校
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===
* 〒737-8512 広島県呉市若葉町5-1
== 組織 ==
組織として各講座、国際海洋政策研究センター、事務局、教務部、訓練部、図書館、医務室などがある<ref name="organization">[https://www.jcga.ac.jp/education/organization/index.html 組織] 海上保安大学校、2023年3月13日閲覧。</ref>。
; 基礎教育講座
: 大学教育に不可欠な教養(数学、物理学、化学など)及び言語(英語・ロシア語・中国語・{{ISO639言語名|ko}})等を担当する講座。
; 海事工学講座
: 海上の安全と秩序に関する知識となる海事技術(航海・機関・情報通信)等を担当する講座。
; 海上警察学講座
: 海上警察に係る諸理論を体系的に理解するために、法学や政策学等、社会科学を担当する講座。
; 海上安全学講座
: 船舶の安全運航に必要となる海事系(航海・機関・情報通信)の専門基礎科目等を担当する講座。
; 国際海洋政策研究センター
: 国際海洋政策に関する学際的かつ総合的な研究を推進するため、[[2002年]](平成14年)5月30日に設置された。
: [[政策研究大学院大学]]と海上保安庁、海上保安大学校の連携プログラムである海上保安政策課程(Maritime Safety and Security Policy Program)の後期課程(7月から3月まで)が行われる<ref>[https://www.jcga.ac.jp/shisetu/center_seisaku.html 国際海洋政策研究センター - 施設紹介]海上保安大学校</ref><ref>[http://www.grips.ac.jp/education/inter_programs/maritime/ Maritime Safety and Security Policy Program(海上保安政策プログラム)]政策研究大学院大学(GRIPS)</ref>。
; 事務局
:* 総務課
:* 会計課
; 教務部
:* 教務課
; 訓練部
:* 訓練課
:* 学生課
; 図書館
: [[海軍大学校|旧海軍大学校]]図書や[[東郷平八郎]]所持の図書が多数保管されている。
; 医務室
== 教育課程 ==
教育課程には本科(4年間)、専攻科(6カ月間)、初任科(1年間)、特修科(1年間)、研修科がある<ref name="guide2022">[https://www.jcga.ac.jp/admission/files/2022_Japanesepan.pdf 海上保安大学校 Academy Guidebook 2022年版] 海上保安大学校、2023年3月13日閲覧。</ref>。
=== 本科(学部相当)===
1年次と2年次は基礎教育科目を学び、2年次からは専門教育科目の履修が始まる。2年次後期から第一群(航海)、第二群(機関)、第三群(情報通信)の各専攻に分かれ、専門基礎科目(群別科目)を学ぶ<ref name="tachibana2009"/>。3年次と4年次になると国内航海実習が行われる。また、4年間を通して専門基礎科目(共通)や訓練科目、実習科目を勉強する。本科卒業生に対し、[[独立行政法人]][[大学改革支援・学位授与機構]]から「[[学士(海上保安)]]、Bachelor of Science in Coast Guard Operation and Law Enforcement」(日本国内では本校のみで得られる)の[[学位]]が授与される<ref name="tachibana2009"/>。本科卒業生は、その後専攻科(約6ヶ月間)に進み、実務教育が開始され、3ヶ月の世界一周遠洋航海実習に参加し国際感覚を身に付ける。他にも各管区の海上保安官が希望により2ヶ月の潜水訓練を受けることが出来る(映画「[[海猿]]」で取り上げられた)。また、2011年度から、語学力向上や国際的な実務対応のために研修科国際業務課程を開設<ref>[https://www.jcga.ac.jp/annai/news23/10-17.html 大学ニュース(平成23年度)研修科国際業務課程開講式 海上保安大学校サイト]</ref>。2017年度入校生よりカリキュラム変更が行われており、主なものとしては20年ぶりの1学年乗船実習復活や柔剣道の廃止などがある。
本科を卒業することにより、[[学士(海上保安)]]の他、以下の資格を取得できる。
* 共通:[[一級小型船舶操縦士]]
* 第一群:三級[[海技士 (航海)|海技士]](航海)、一級/二級海技士(航海)筆記試験、[[第一級海上特殊無線技士]]、第二級[[陸上特殊無線技士]]
* 第二群:三級[[海技士 (機関)|海技士]](機関)、一級/二級海技士(機関)筆記試験、第一級海上特殊無線技士、第二級陸上特殊無線技士
* 第三群:[[航空無線通信士]]、第三級海上無線通信士、[[基本情報技術者試験]]、第一級/二級陸上無線技術士、第二級海上無線通信士
=== 専攻科 ===
本科2学年後期時より希望や成績によりわかれる。
*第一群([[航海]])専攻
*第二群([[機関 (機械)|機関]])専攻
*第三群([[通信|情報通信]])専攻
=== 特修科 ===
三等海上保安正(士官)に任官される予定の35歳以下の者が現場から選抜され呉市の海上保安大学校で1年間研修を受け現地に赴任する。
35歳以上は「特任主任士」課程、その他「プロパー」と言われる登用方法も存在する。
=== 専攻科 ===
本科卒業後の課程で乗船実習(後述の遠洋航海実習を含む)など計6カ月間の研修期間を経る<ref name="guide2022" />。
=== 初任科 ===
令和3年度新設、一般大学卒業者対象。約2年間の研修(初任科1年+特修科1年、希望により+専攻科6カ月)を経て、現場赴任(後述)。
採用後は、4月から海上保安大学校において初任科として1年間教育を受けたのちに、特修科に編入し、さらに1年間の教育を受けることになる。 入学と同時に航海・機関の2つの分野のうち一つを選択。 1年目は初任科として主に[[海技士|海技]]免状の取得に向けた科目<ref>四級海技士(航海又は機関)の筆記試験が免除される。</ref>を履修、2年目からは特修科に編入し、海技免状の取得に向けた科目を履修しながら幹部海上保安官<ref>年齢や経歴に応じて待遇を考慮しているが、初任科などの教育期間が修了した者については、三等海上保安正として現場に赴任する。</ref>として必要な高度な専門能力を身につけることを目的とした科目を履修。なお、国内航海実習は課程に含まれるが、専攻科で行われる世界一周遠洋航海実習は希望に応じて、参加可能である。
=== 研修科 ===
潜水士になるための潜水研修や、国際捜査官に必要な語学力を養う語学研修などを実施<ref name="guide2022" />。
== カリキュラム ==
=== 本科 ===
*基礎教育科目
**必修科目 - [[哲学]]、[[文学]]、[[歴史学]]、[[法学]]、法学演習、[[憲法]]、[[経済学]]、[[数学]]、[[統計学]]、[[物理学]]、物理学[[実験]]、[[化学]]、化学実験、[[英語]]、[[英会話]]、[[保健体育]] 等
**選択科目 - [[ロシア語]]、[[中国語]]、[[朝鮮語]]から1科目選択、[[柔道]]、[[剣道]]から1科目選択(〜2016年度入校生)
*専門基礎科目
**共通科目
***[[国際政治]]、[[政策科学]]、[[情報科学]]、[[気象学]]、[[海洋学]]、実務英語、リーダーシップ論、[[国際法]]、[[刑法 (日本)|刑法]]、[[刑事訴訟法]]、[[行政法]]、[[民法 (日本)|民事法]] 等
**群別科目(第一群、第二群、第三群のいずれかを選択)
***第一群(航海)専攻
****航海学、舶用計測工学、船体運動工学、[[海事法]]、[[船舶工学]] 等
***第二群(機関)専攻
****[[材料力学]]、[[機械力学]]、機械設計、設計製図演習 等
***第三群(情報通信)専攻
****情報理論、回路理論、[[システム理論]]、[[電磁波工学]]、[[通信工学]]実験 等
*専門教育科目
**共通科目
***海上保安制度論、海上犯罪捜査、捜索救助、環境防災、海上交通政策学、海上警察権論、警察管理政策、[[国際紛争]]論、[[国際海洋法]]I、国際海洋法II、[[システム工学]]、海上安全工学、海難救助工学、特別研究
**選択科目(1.、2.のいずれかを選択)
**#警察管理政策演習I、警察管理政策演習II
**#海上安全工学演習I、海上安全工学演習II
*訓練科目
**[[逮捕術]]、[[拳銃]]、[[武器]]、信号、[[潜水]]、端艇、[[水泳]]、総合指揮(基本動作等、統率管理)、救急安全法 等
*実習科目
**第一群(航海)専攻
***電子海図情報表示演習
**第二群(機関)専攻
***機械システム工学実験
**第三群(情報通信)専攻
***基礎通信論、応用通信論、国際通信実習 等 乗船実習
**国内航海実習
=== 初任科 ===
初任科(1年間)とその後の特修科(1年間)がある<ref name="guide2022" />。
*初任科(1年間)
**講義科目
**訓練・実習科目
**乗船実習
*特修科(1年間)
**講義科目
***共通科目
***専攻科目
== 航海実習 ==
=== 国内航海実習 ===
本科学生が練習船「[[こじま (巡視船・3代)|こじま]]」に乗船して船舶運航の技能を習得する<ref name="guide2022" />。
*本科1学年
**[[九州]][[四国|、四国]]及び近海
*本科3学年
**[[瀬戸内海]]、[[本州]]、[[北海道]]、四国、九州[[南西諸島|、南西諸島]]沿岸及び近海
*本科4学年
**瀬戸内海、本州南東岸、四国、九州沿岸及び近海
=== 遠洋航海実習 ===
練習船「[[こじま (巡視船・3代)|こじま]]」による世界一周遠洋航海実習([[太平洋]]、[[パナマ運河]]、[[カリブ海]]、[[大西洋]]、[[地中海]]、[[スエズ運河]]、[[インド洋]]等)が約3か月間行われる<ref name="guide2022" />。
== 国際交流 ==
毎年、海外の海上保安機関の学生等を招聘し海外交流活動を行なっている。[[沿岸警備隊士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ沿岸警備学校]]、{{仮リンク|カナダ沿岸警備学校|en|Canadian Coast Guard College}}の学生をはじめ、フィリピン、マレーシアなどから学生や若手士官が参加している。大学校からの派遣もある。
== 学生生活 ==
{{出典の明記|date=2023年4月15日|section=1}}
海上保安大学校では学生は日課表に基づいて規律ある団体生活を行い、寮の運営は週番交代による当直学生によって行われている。
寮内の生活について、以下に説明する。
=== 食事 ===
食事は週末を除き、1日3回提供される。なお、当直学生にあっては休前日である金曜日においても食事は提供される。
=== 「5分前精神」 ===
海上保安庁では、[[海上自衛隊]]同様、[[大日本帝国海軍]]伝統の「[[5分前精神]]」がある。平日の起床は6時30分である。6時25分になると「総員起こし5分前」の放送が流れる。学生は直ちに起床し、作業服に着替え、布団をきちんとたたみ、5分以内に寮前広場に整列しなければならない。その後は「海上保安体操」が待っている。体操が終わったら次は朝掃除をしなくてはならない。掃除の分担は学生班の班長が決めることになっている。掃除が終わるとようやく朝食をとることができる。
=== 課業行進 ===
午前8時15分に本科学生、初任科研修生、特修科研修生が寮前広場に整列し、本館に向けて課業行進を行う。なお、課業行進を行う前に月曜日は容儀点検、火曜日は当直学生による周知、水曜日は学生による遠征報告、木曜日は本科学生による所見発表、金曜日は特修科研修生による所見発表が行われる。課業行進の際は基本的に1学年が先頭に立ち、上級生による指導を受けながら行進の上達が図られる。
=== 自習室 ===
生活の最小単位は「自習室」である。基本的に1年生から4年生が一人ずつ、計4名から構成される。人数の都合上、近年は、5人の自習室が一般となりつつある。自習室には学習机と椅子、スチールロッカーが置かれ、勉強をすることができる。各自習室の部屋長は基本的にその部屋の4年生である(4年生がいない場合は3年生になる)。寝室は自習室の廊下を挟んだ反対側にあり、3部屋分の学生を収容する。「自習室」が8-9個集まった単位が「班」である。整列時、訓練時はこの「班」が基本単位になる。
=== オリエンテーション ===
4月の初めに着校した新入生に対し、3, 4年生から構成されたオリエンテーション委員が行う生活指導のことをオリエンテーションという。寮での生活規則、海上保安体操、基本動作、校歌などを1年生に叩き込む。1週間ほど行われ、このオリエンテーションを終えて晴れて入学式を迎え、制服を着ることができる(オリエンテーション中は作業服しか着ることができない)。普通の高校生活を過ごしてきた新入生にとって、この最初の1週間はかなりハードである。なお、希望者に至っては夏季休暇後に海上保安大学校応援団加入に際する通称「応援団オリ」がある。
=== 外出 ===
平日は17:15-22:15まで外出可能。金曜日、土曜日及び祝日の前日は原則として門限が22:45となり、外泊も可能(制限あり)。日課の運営は訓練教官の指導のもと当直学生により遂行される。 なお、家族や友人等を寮内に案内することができるのは、この外出許可時間内に限られる。なお1学年のオリエンテーション期間は外出も外泊も認められず、1学年後半までは外泊は認められない。
=== 長期休暇 ===
夏期に約4週間、冬期と春期に約2週間あり、原則として寮が閉鎖される。
=== 学生祭「海神祭」 ===
大学校内及び呉湾海域で学生祭「海神祭(わたつみさい)」が2日間にわたって行われる。呉市近郊の他大学生からの「お手伝い」制度もあり、学生音楽隊による演奏や救難実習、潜水展示、物品販売、巡視船/艇一般公開、花火打ち上げなどがある。オープンキャンパスも同時に開催される。なお[[新型コロナウイルス]]の影響で2020年度、2021年度の海神祭は中止となっている。
=== その他 ===
男子学生の浴室は、大浴槽で瀬戸内海を見渡せる眺望の良いものとなっている。また、車両の保有及び運行については1、2学年は認められていない。2学年以上になると[[下宿]]を借りることも可能になるが、下宿からの通学は許可されない。
== 体育部 ==
「強靭な気力・体力の錬成」を目的として全学生が参加する。「学校教育法に於ける大学」ではないが、[[防衛大学校]]や[[防衛医科大学校]]等と共に参加を認めている大会もある([[全国国公立大学選手権水泳競技大会]]など)。学生活動として海上保安大学校学生音楽隊や応援団、邦楽部などがある。
運動部
*[[カッターボート|カッター]]部
*[[逮捕術]]部
*[[剣道]]部
*[[柔道]]部
*[[水泳]]部
*[[テニス]]部
*[[サッカー]]部
*[[バスケットボール]]部
*[[野球]]部
*[[ヨット]]部
*[[ラグビーユニオン|ラグビー]]部
*[[バレーボール|女子バレー]]部
その他 (任意加入)
*海上保安大学校[[応援団]]
*海上保安大学校学生音楽隊
*[[行政法]]ゼミ
*[[邦楽]]部
*[[国際法]]ゼミ
*[[三味線]]同好会
<!--
=== 学園祭 ===
=== スポーツ ===
== 大学関係者と組織 ==
=== 大学関係者組織 ===
=== 大学関係者一覧 ===
-->
== 制服 ==
海上保安大学校学生は明確な階級は指定されていないが、袖章、胸章、肩章が存在する。
; 第一種制服
:主に秋季、冬季期間に着用される。金色の校章を袖章としてあしらわれ、着用の際は黒短靴を使用する。制帽は第一種制帽を着用する。制服色は濃紺であり、着用基準としては、秋季、冬季における第1月曜日、木曜日、第3月曜日、木曜日、その他訓練、記念式典等である。各学生に1着貸与される。
; 第二種制服
:主に夏季期間に着用される。肩章として金色の校章があしらわれている。着用の際は白短靴を使用する。制帽は第一種制服と同じく第一種制帽である。制服色はクリーム色である。着用基準としては訓練及び記念式典等である。
;第三種制服(冬用)
:胸章有り
;第四種制服(夏用)
:胸章有り
; 1号作業服
; 2号作業服
; 外套
== 施設 ==
交通アクセス:[[JR]][[呉線]][[吉浦駅]]下車、[[広電バス]]で「池の浦」下車、徒歩約400m。<!--
=== 学生食堂 ===
=== 講堂 ===
=== 学生会館 ===
-->
=== 本館 ===
地上4階の建物である。建築年月日は1976年(昭和51年)11月<ref name="guide2022" />。課業[[行進]]の際、三ツ石寮前から本館正面玄関まで学生が班に分かれて行進する。全学年の固有教室が設置され、学生課、[[訓練]]課、教務課、[[厚生]]課等の大学校の中枢を担う課が置かれている。なお、2021年(令和3年度)に、本館正面玄関において大規模工事が実施された。
校長室、副校長室、会議室、事務室、教官研究室、教室、海上研究室、レーダーシミュレーター、海上艦橋実験室、武器演習室、一般実技演習室、語学演習室、捜査演習室、情報処理演習室、機械室、恒温実験室
=== 第一実験棟 ===
教官研究室、化学実験室、物理実験室、船舶工業化学実験室、船用電気機械実験室、運用実験室、航海計器実験室、電気計測実験室、電子回路実験室、電子工学実験室、通信機器実験室、有線工学実験室、水路実験室、航海、救難演習室
=== 第二実験A棟 ===
教官研究室、機械力学実験室、材料実験室、自動制御実験室、機工模型室、製図室、補機演習室、電気室
=== 第二実験B棟 ===
材料実験室、蒸気実験室、内燃実験室燃焼実験室、補機実験室、鋳造実習室、溶接実習室機械仕上実習室
=== 総合実習棟 ===
主に小型艇が収容されている大型施設である。ヨット部やカッター部の部活動拠点となっており、訓練課が保有する機動艇等も収容されている。
* 1階:各種小型艇を格納する倉庫(艇庫)、資機材庫
* 2階:海技演習室
建築年月日は2004年(平成16年)3月<ref name="guide2022" />。
=== 海上保安シミュレーションセンター ===
スクリーン室、第一船橋、第二船橋、教官・操作室、研修室、砲塔室
建築年月日は2004年(平成16年)10月<ref name="guide2022" />。
=== 潜水訓練用プール ===
主に[[潜水]]研修生の訓練に使用されるが、学生の夏季期間中の遠泳訓練の練習場としても使用される。25m×14m(水深1.3〜5.0m)の[[プール]]であり、施設内からプール内の様子を見ることができる。
建築年月日は2010年(平成22年)6月<ref name="guide2022" />。
=== 国際交流センター ===
令和2年2月建築<ref name="guide2022" />。海外からの研修生の宿泊施設や学生の憩いの場となっている。
=== 国際講義棟 ===
海洋政策プログラム(MSP)を受講する留学生や学生国際会議などで使用されている<ref name="guide2022" />。建築年月日は2020年(令和2年)2月<ref name="guide2022" />。
=== 海上保安資料館 ===
海上保安庁創設30周年記念事業の一環として、海上保安大学校敷地内に建設。館内には既に現役を引退した[[巡視船]]艇、飛行機及びヘリコプターなどの写真、現在も使用されているヘリコプター搭載型巡視船などの模型、海上保安庁の業務を紹介する写真パネル・模型など約1,000点近い展示物が並ぶ。[[2001年|平成13年]]12月[[九州南西海域工作船事件|九州南西海域不審船事案]]で銃撃を受けた巡視船「[[あまみ型巡視船|あまみ]]」船橋前面の展示もしている。(完全予約制で平日午前9時から午後4時まで見学可能(学園祭時は開放)、土曜日、日曜日、休日及び年末年始(12月28日~1月4日)は休み。)
=== 学生寮 ===
* 男子寮:三ツ石寮と呼ばれている。4階建ててあり、1階は初任科研修生寝室・自習室、食堂、[[国土交通省]]共済組合の売店があり、2階は本科学生1、2班寝室・自習室、情操教室、医務室、浴室がある。3階は本科学生3、4班寝室・自習室、4階は本科学生5、6班寝室・自習室がある。各階に談話室、私物倉庫が設けられており、[[会議|ミーティング]]、指導等はそこで行われる。なお、2021年現在、食堂、医務室は大規模改装されている。
* 女子寮:麗女寮と呼ばれている。女子学生の増加に伴い、一部女子学生は国際交流センターに配置されている。過去には女子学生を対象にした「ウルメンテーション」なるものが存在したが、現在は行われていない。
=== 若葉クラブ ===
2023年3月、同年9月の[[日本製鉄瀬戸内製鉄所]]呉地区の閉鎖を前に、海上保安大学校は、日本製鉄から研修施設「若葉クラブ」(呉市若葉町)を購入し、授業や研修のための施設として使用することになった<ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/280872 呉市の日鉄「若葉クラブ」、海保大に売却 売却額は非公表] 2023年3月13日、中国新聞、2023年3月13日閲覧。</ref>。
== 対外関係 ==
<!--
=== 地方自治体との協定 ===
=== 他大学との協定 ===
=== 姉妹校 ===
-->
=== 関係校 ===
* [[沿岸警備隊士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ沿岸警備隊士官学校]]
* {{仮リンク|カナダ沿岸警備隊士官学校|en|Canadian Coast Guard College}}
* [[韓国海洋大学校]]
* [[防衛大学校]]
=== 系列校 ===
海上保安庁には、初級職員となる者の教育を担当する以下の施設がある。
*[[海上保安学校]]
<!--
== 社会との関わり ==
==関連項目==
関連項目は原則として使用しない。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*海上保安大学校『海上保安大学校30年史』海上保安大学校、1983年 ASIN: B000J7EYM4 {{ASIN|B000J7EYM4}}
*海上保安大学校五十年史編集委員会編『海上保安大学校五十年史』海上保安協会、2002年 {{全国書誌番号|20316922}}
*海上保安協会監修、海上保安受験研究会編『海上保安大学校・海上保安学校への道-平成17年版』成山堂書店、2005年 ISBN 978-4425970230
*神倉力海『駈ける青春-海上保安大学校練習船の世界一周同乗記』毎日新聞東京センター、2003年 {{全国書誌番号|20572500}}
*[[永田潤子|佐藤潤子]]『海を駆ける風-女性キャプテン誕生の航跡』メディアハウス、1988年(女子第1期生の体験記) ISBN 978-4915629235
== 関連項目 ==
* [[海上保安学校]]
* [[防衛大学校]]
* [[防衛医科大学校]]
* [[沿岸警備隊士官学校 (アメリカ)|沿岸警備隊士官学校]]
* 巡視船「[[こじま (巡視船・3代)|こじま]]」
== 外部リンク ==
*{{Official website|https://www.jcga.ac.jp|海上保安大学校|mobile=https://www.jcga.ac.jp/m/}}
*{{Youtube|channel=UCVoadA4d-kYF06ObK_Io9zA|海上保安大学校公式YouTubeチャンネル}}
{{海上保安庁2}}
{{省庁大学校}}
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[[Category:省庁大学校|かいしようほあん]]
[[Category:海上保安庁]]
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WX シリーズ
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WX シリーズ(ダブルエックスシリーズ)はエー・アイ・ソフトが開発した日本語入力システム(日本語入力FEP/IMEなど)。 WX, WXS, WXP, WXII, WXII+, WXIIIを経てWXGへと進化した。
他のFEP/IMEの辞書をインポートしたり、独自のユーザ辞書を作成できる、弄れる/遊べる辞書や、ローマ字入力やキーのフルカスタマイズという機能に加え、MAPI(マルチアプリケーションインターフェイス)を装備することで、FEPを限定していたアプリケーションでも使用できたことから、利用者は複数のFEPの辞書をそれぞれ鍛えるという非効率や、FEP/IMEの異なる操作性への習熟といった苦痛から解放された。
商用パソコン通信NIFTY-Serve(現@nifty)などのフォーラム(後にステーション)で活発な意見交換が行われ、ユーザが作成した辞書や、カスタマイズツールなども公開されるとともに、WX 本体も改良が加えられ着実に進歩を遂げた。また、約20,000人(?)の OS/2ユーザの署名活動によって、WX for OS/2が開発に至った。
@Nifty のステーション閉鎖後、インターネット上にサポートページ「e言葉」が開始されるとともに「WXG for Linux/FreeBSD 1.0β」がフリーソフトウェアとして公開され大きな話題になる。しかし、正式版の公開を待たずして閉鎖に至った。
「訳せ!!ゴマ バイリンガル Ver.3」の日英翻訳エンジンを搭載し、入力された文章をIME上で英文翻訳できるWXG Ver.4を発売したものの、製品は廃止されてしまった。
なお、エー・アイ・ソフトは2006年11月にエプソン販売に吸収合併され解散した。以降、一部製品については、エプソン販売がサポートを継続していたが、WXシリーズも含め、エー・アイ・ソフト製品のサポートはすべて終了となっている。
その他、WXII+機能限定版がHP200LXの日本語化キットにバンドルされた。 Microsoft Passport Kit for WindowsにWXII-Win/Compactが附属していた。
Windows 2000 / Me / XPや macOSに正式対応した製品の発表はされていない。(しかし、WXGをWindows 2000やXP、32ビット版のWindows VistaやWindows 7で使うことはできる)
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WX シリーズ(ダブルエックスシリーズ)はエー・アイ・ソフトが開発した日本語入力システム(日本語入力FEP/IMEなど)。
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'''WX シリーズ'''(ダブルエックスシリーズ)は[[エー・アイ・ソフト]]が開発した[[日本語入力システム]](日本語入力[[FEP]]/[[IME]]など)。
WX, WXS, WXP, WXII, WXII+, WXIIIを経てWXGへと進化した。
他のFEP/IMEの辞書をインポートしたり、独自のユーザ辞書を作成できる、弄れる/遊べる[[辞書]]や、[[ローマ字入力]]やキーのフル[[カスタマイズ]]という機能に加え、MAPI(マルチアプリケーションインターフェイス)を装備することで、FEPを限定していた[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]でも使用できたことから、利用者は複数のFEPの辞書をそれぞれ鍛えるという非効率や、FEP/IMEの異なる操作性への習熟といった苦痛から解放された。
商用[[パソコン通信]][[ニフティサーブ|NIFTY-Serve]](現[[@nifty]])などの[[フォーラム]](後にステーション)で活発な意見交換が行われ、ユーザが作成した辞書や、カスタマイズツールなども公開されるとともに、WX 本体も改良が加えられ着実に進歩を遂げた。また、約20,000人(?)の [[OS/2]]ユーザの署名活動によって、WX for OS/2が開発に至った。
@Nifty のステーション閉鎖後、[[インターネット]]上にサポートページ「e言葉」が開始されるとともに「WXG for [[Linux]]/[[FreeBSD]] 1.0β」が[[フリーソフトウェア]]として公開され大きな話題になる。しかし、正式版の公開を待たずして閉鎖に至った。
「訳せ!!ゴマ バイリンガル Ver.3」の日英翻訳エンジンを搭載し、入力された文章をIME上で英文翻訳できるWXG Ver.4を発売したものの、製品は廃止されてしまった。
なお、[[エー・アイ・ソフト]]は2006年11月にエプソン販売に吸収合併され解散した<ref>{{Cite web|和書|date=2009-06-29 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0929/epson.htm |title=「エプソン、エー・アイ・ソフトを吸収合併」 |publisher=Impress |accessdate=2013-10-12}}</ref>。以降、一部製品については、[[エプソン販売]]がサポートを継続していたが、WXシリーズも含め、エー・アイ・ソフト製品のサポートはすべて終了となっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.epson.jp/support/software2/index.htm|title= エー・アイ・ソフト製品 サポート情報 |publisher=[[エプソン販売]]|accessdate=2021-12-09}}</ref>。
==歴史==
*1986年12月
**かな漢字変換機能を内蔵した[[ワープロソフト]] 創文 を開発。
*1988年 2月
**創文αで、かな漢字変換機能を WX として独立させる。
*1989年 5月
**創考に WXS を搭載。
*1989年 6月
**[[セイコーエプソン|EPSON]] [[EPSON PCシリーズ|PC-286 NOTE exective]]に WXR を搭載。
**WXP を[[フリーウェア]]として公開。
*1991年 2月
**[[PC-9800シリーズ|PC-9800]]版 WXIIをリリース。
**EPSON製のOSパッケージ([[MS-DOS|MS-DOS4.01R2]]、[[Microsoft Windows 3.x|MS-Windows3.0]])に WXA を付属。
*1991年 7月
**WXII+ にバージョンアップ。
*1991年10月
**MS-Windows3.0対応版 WXII+WIN をリリース。
**[[東芝]][[J-3100シリーズ|J-3100]]版 WXII+ をリリース。
*1991年12月
**[[DOS/V]]版 WXII+ をリリース。
*1992年11月
**WXII+Ver2.50 PC-9800版、東芝J-3100版、DOS/V版をリリース。
*1993年 7月
**MS-Windows3.1対応版 WXII+WIN Ver.2.0をリリース。
*1994年 3月
**WXII+Ver2.70 PC-9800版、東芝J-3100版、DOS/V版をリリース。
*1995年 1月
**WXIII Ver.3.0 PC-9800版、DOS/V版をリリース。
**WXIII for Windows Ver.3.0をリリース。
*1995年12月
**WXIII Ver.3.0 OS/2版をリリース。
*1996年
**Boon Editorをリリース。WXIII for Windows95が付属された。
**辞書構造を全面的に見直し、WXGに改称。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]対応版をパッケージ販売。
*1999年 1月
**[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]対応 WXG Ver.4をリリース。
*1999年 7月
**WXG Ver.4 for Macintoshを[[Mac OS]] 8.6対応製品としてリリース。
*2000年11月
**WXG for Linux/FreeBSD 1.0βをフリーソフトウェアとして公開。
その他、WXII+機能限定版が[[HP200LX]]の日本語化キットにバンドルされた<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://home.impress.co.jp/magazine/dosvpr/200LX/ |title=「HP 200LX日本語化キット開発秘話」 |publisher=関谷博之 |accessdate=2013-10-12}}</ref>。
Microsoft Passport Kit for WindowsにWXII-Win/Compactが附属していた。
==対応OS==
*[[MS-DOS]]([[PC-9800シリーズ|9801]]版・[[ダイナブック (東芝)|J-3100]]版)、[[DOS/V]]
*[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0 / 3.1]] / [[Microsoft Windows 95|95]] /[[Microsoft Windows 98|98]]/98SE/[[Microsoft Windows NT|NT]]
*[[漢字Talk|漢字Talk 7.x]]、[[Classic Mac OS|Mac OS 8.x, 9.x]]
*[[OS/2]]
[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] / [[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]] / [[Microsoft Windows XP|XP]]や [[macOS]]に正式対応した製品の発表はされていない。(しかし、WXGをWindows 2000やXP、32ビット版のWindows VistaやWindows 7で使うことはできる)
==関連項目==
[[Microsoft IME]](初代はWX2 for WindowsのOEM、Microsoft IME 95以降はWX3をベースに開発された。)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
*[http://www.epson.jp/support/software2/ エー・アイ・ソフト製品]
{{Input Method}}
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[[Category:日本語入力ソフト]]
[[Category:DOSのソフトウェア]]
[[Category:Windowsのソフトウェア]]
[[Category:フリーウェア]]
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神戸大学
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神戸大学(こうべだいがく、英語: Kobe University)は、兵庫県神戸市灘区六甲台町1番1号に本部を置く日本の国立大学である。1902年創立、1949年大学設置。略称は神大(しんだい)あるいは神戸大(こうべだい)。
神戸大学は1902年(明治35年)に日本で2番目に設立された官立高等商業学校である神戸高等商業学校に開学の起首を持つ。現在は10学部15研究科を設置する総合大学となっている。前身の神戸高商は、日清戦争後の急速な日本の経済の成長を背景に、実業界における人材需要が高まる中、東京高等商業学校(現一橋大学)に続く形で設置された。初代校長である水島銕也は東京高商との差別化を図るため、学理からより実践的な実学教育を重視した。1949年の学制改革による新制大学としての改組時に、日本で最初の経営学部を設置している。また、唯一の海事科学部を設置している大学である。
学部学生数11,426人、大学院学生数4,444人、計15,870人、教員数(常勤)1,288人。
「学理と実際の調和」を理念としている。神戸高等商業学校設立以来、「真摯」「自由」「協同」の精神で、社会に貢献するような指導的人材を育成する世界的研究・教育機関たることを目指している。
「先端研究・文理融合研究で輝く卓越研究大学へ」
イギリスの大学評価機関「クアクアレリ・シモンズ社」によるQS世界大学ランキング2020(2019年)では、第395位、アジア第59位である。
2007年(平成19年)に、理学・工学・システム情報学・農学・海事科学の5研究科に加え、自然科学系の5つの研究センターが参加する学際組織、「自然科学系先端融合研究環」を設置。2016年(平成28年)に「先端融合研究環」へと改組。2011年(平成23年)には神戸ポートアイランドに先端的・融合研究を集積する目的で「統合研究拠点」を設置している。このように、文理・分野融合を意識した横断的な研究開発、人材育成に力を入れている。
EUインスティテュート関西のコンソーシアムメンバーとして参加しており、通常の留学支援だけでなく、専門教育と留学の双方を中心に据えた独自性の高い少数精鋭教育プログラム「EUエキスパート人材養成プログラム (KUPES)」「5年一貫経済学国際教育プログラム (IFEEK)」「KIBER Program」等を実施している。
本稿では主として新制神戸大学設立後の沿革をまとめている(前身の旧制諸学校の沿革については、各校の記事を参照のこと)。
(この節の出典)
神戸大学のロゴマークは2002年(平成14年)の創立百周年を機に制定されたもので、「Kobe University」の頭文字「K」を2羽の鳥に象徴化し、それぞれが大きな軌跡(個性)を描きながら山や海を渡り、大空(世界)へと自由に羽ばたき、時にはお互いに助け合いながら進みゆく様子を表現している。
配色は、鳥を大学のシンボルカラーのブリックカラー (RGB:R196 / G0 / B0) とし、緑は山、青は海をイメージしている。
ゴシック系フォントを用い、未来にまっすぐ進む堅実なイメージを表現。世界に発信する神戸大学を、広がりのあるデザインでアピールしている。
神戸大学のマスコットキャラクターは「神大うりぼー」であり、六甲山に出没するイノシシの子供である「うり坊」をモチーフとしている。
以下、特記していない専攻は博士前期課程・博士後期課程である。
神戸大学の同窓会は略歴にあるような事情から学部・学科・研究科別に複数の組織が存在している。神戸大学の同窓組織としてマスメディアなどでよく名前の挙がる社団法人凌霜会は旧神戸高等商業学校・旧神戸商業大学・旧神戸経済大学とその系譜を組む経済学研究科・経営学研究科・法学研究科・国際協力研究科の4部局ならびに関係する各学部の卒業生と在学生のみを対象とした同窓組織であり、他研究科・学部の卒業生は入会できない組織となっている。そのため、神戸大学全体を代表する同窓組織ではない。
全学横断型の各同窓会の連合体として、神戸大学学友会が1979年に設立されている。
神戸大学が公式に存在を認めている同窓会と、その対象となる学部学科は以下の通り。(それぞれ、前身となる学校・学部・研究科等を含む)
神戸大学のキャンパスは全て神戸市内に所在し、一部を除いて殆どの付属施設が神戸市内のキャンパスに存在する。
大学公式ホームページ等では「地区」または「キャンパス」という呼称が並存している。キャンパス名に関しては、医学部・医学系研究科と海事科学部・海事科学研究科のキャンパスは所在地の地名があてられている。それ以外の学部・研究科のキャンパスの場合、キャンパス名は学部名を冠したものや地名を冠したものとで揺れがある。
本地区は六甲山とその山の手に広がる住宅地に接しており、事務局・附属図書館・医学部と海事科学部を除く各学部・研究科および付属施設が存在する。この地区へ行く際には、阪神電鉄御影駅・新在家駅、JR六甲道駅および阪急電鉄六甲駅から神戸市営バス、タクシー、あるいは徒歩といった方法がある。学生のマイカー通学は禁止されているため、下宿生を中心にバイクで通学する者が多い(最寄駅からキャンパスへは非常に険しい坂道なので、原付を含めたバイク所有者の割合は非常に高い)。地区内の移動は基本的には徒歩である。
六甲台地区の敷地面積は、435,378 m。
本キャンパスは全学のキャンパスの中で最北に位置し、南東側に鶴甲第1キャンパスがある。この両キャンパスの間には神戸市立鶴甲小学校があり、そのさらに南東を兵庫県道95号灘三田線が通る。
本キャンパスでは語学、一般教養、総合教養、教養原論等の全学共通授業科目の講義が行われており、国際文化学部が設置される以前は、全学に一般教養教育を行っていた教養部があった。本キャンパス側から灘三田線を跨ぐ歩道橋を渡った所に学生会館があり、その西側に六甲台キャンパスが、南側に工学部キャンパスがある。2008年5月に工学部店に次ぐ2店目のセブン-イレブン国際文化学部店が開店した(場所はA棟1階)。
新制神戸大学の誕生後、第2次世界大戦後の進駐軍の居住区域であった六甲ハイツ跡地を利用し、姫路市、明石市、西代・松野(神戸市長田区)、赤塚山・御影(神戸市東灘区)に分散されていた各学部の学舎を1960年代に移転配置させてできたキャンパス。工学部棟、文理農各学部棟、先端融合研究環を含む自然科学総合研究棟がある。(北緯34度43分34.7秒 東経135度14分7.1秒 / 北緯34.726306度 東経135.235306度 / 34.726306; 135.235306 (神戸大学六甲台第2キャンパス))
工学部棟周辺のみを指して「工学部キャンパス」とも呼ぶ。2007年4月、ここに関西の大学の中で初めてセブン-イレブンが出店した。西隣に文理農学部棟があり、少し隔てた東側には親和女子中学校・高等学校がある。
文理農学部棟周辺を単独で「文理農学部キャンパス」、あるいは「文理農キャンパス」とも呼ぶ。また、文学部 (Letters)、農学部 (Agriculture)、旧自然科学研究科 (Nature Sciences)、理学部 (Science) の頭文字をとって「LANSキャンパス」とも呼ばれている。
学生会館には文化系サークルの部室や書籍販売・アルバイトの情報を提供する生協書店が存在する。六甲台キャンパス内にあり、位置的には六甲台5部局(経済学研究科、経営学研究科、法学研究科、国際協力研究科、経済経営研究所)・工学研究科・国際文化学研究科の各校舎の中間地点である。
神戸市外にある神戸大学関連の施設としては、上述の神戸大学ビーフを開発した農学研究科附属食資源教育研究センターが加西市に、基幹研究推進組織内海域環境教育研究センターのマリンサイトが淡路市に、海事科学研究科附属国際海事教育研究センターの淡路海洋実験実習場が南あわじ市に、そして、神戸市中央区には、先端融合研究環統合研究拠点、神戸医療産業都市構想に関わる神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センターおよびインキュベーションセンターが存在する。
立地している地域の関係で、主に兵庫県や県下の市町との協定締結が大半である。
(「地域福祉向上、産業振興、教育・文化・スポーツの振興及び発展、人材育成、まちづくりのための連携」を目的としている)
(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)
(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)
(「県下の市町や県民が取り組むまちづくり、文化及び学術の分野で連携し、地域の歴史的資源の活用、優れた景観の形成等を通じたまちづくりに関する調査・研究」を目的としている)
(県と共同で医療行政の研究を実施することで、地域医療に貢献することを目的としている)
(文化・教育・学術の各分野で連携することで、生涯学習等に関わる諸問題や文化遺産を活かした地域との連携事業について協力・共同して研究等へ参画することを目的としている)
(地域の課題に迅速かつ適切に対応し、活力ある個性豊かな地域社会の形成や発展を支援を目的としている)
(長年培われてきた協力連携実績や信頼関係を活かし、さらなる地域活性化と発展を目的としている)
その他、学部や学科ごとに、連携協定を締結している場合もある。こちらも主に兵庫県下の自治体や病院等との提携がほとんどである。例外的に自治体ではないが、国立療養所邑久光明園(岡山県瀬戸内市)等の、県外公共施設との連携協定締結を行っている学科(発達科学部人間発達環境学研究科等)もある。
共同研究や研究者・学生の交流を行うため、176の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる(2019年5月1日現在)。また、237の大学・機関と部局間協定を締結している(2019年5月現在。以下のリストには含まれていない)。
※大学・機関名(締結年)
改組前は以下の附属学校が存在した。
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"text": "2007年(平成19年)に、理学・工学・システム情報学・農学・海事科学の5研究科に加え、自然科学系の5つの研究センターが参加する学際組織、「自然科学系先端融合研究環」を設置。2016年(平成28年)に「先端融合研究環」へと改組。2011年(平成23年)には神戸ポートアイランドに先端的・融合研究を集積する目的で「統合研究拠点」を設置している。このように、文理・分野融合を意識した横断的な研究開発、人材育成に力を入れている。",
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},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "EUインスティテュート関西のコンソーシアムメンバーとして参加しており、通常の留学支援だけでなく、専門教育と留学の双方を中心に据えた独自性の高い少数精鋭教育プログラム「EUエキスパート人材養成プログラム (KUPES)」「5年一貫経済学国際教育プログラム (IFEEK)」「KIBER Program」等を実施している。",
"title": "概観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "本稿では主として新制神戸大学設立後の沿革をまとめている(前身の旧制諸学校の沿革については、各校の記事を参照のこと)。",
"title": "沿革"
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"text": "(この節の出典)",
"title": "歴代学長"
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"text": "神戸大学のロゴマークは2002年(平成14年)の創立百周年を機に制定されたもので、「Kobe University」の頭文字「K」を2羽の鳥に象徴化し、それぞれが大きな軌跡(個性)を描きながら山や海を渡り、大空(世界)へと自由に羽ばたき、時にはお互いに助け合いながら進みゆく様子を表現している。",
"title": "基礎データ"
},
{
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"text": "配色は、鳥を大学のシンボルカラーのブリックカラー (RGB:R196 / G0 / B0) とし、緑は山、青は海をイメージしている。",
"title": "基礎データ"
},
{
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"text": "ゴシック系フォントを用い、未来にまっすぐ進む堅実なイメージを表現。世界に発信する神戸大学を、広がりのあるデザインでアピールしている。",
"title": "基礎データ"
},
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"text": "神戸大学のマスコットキャラクターは「神大うりぼー」であり、六甲山に出没するイノシシの子供である「うり坊」をモチーフとしている。",
"title": "基礎データ"
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"title": "教育および研究"
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"title": "教育および研究"
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"title": "教育および研究"
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"text": "以下、特記していない専攻は博士前期課程・博士後期課程である。",
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"title": "教育および研究"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "神戸大学の同窓会は略歴にあるような事情から学部・学科・研究科別に複数の組織が存在している。神戸大学の同窓組織としてマスメディアなどでよく名前の挙がる社団法人凌霜会は旧神戸高等商業学校・旧神戸商業大学・旧神戸経済大学とその系譜を組む経済学研究科・経営学研究科・法学研究科・国際協力研究科の4部局ならびに関係する各学部の卒業生と在学生のみを対象とした同窓組織であり、他研究科・学部の卒業生は入会できない組織となっている。そのため、神戸大学全体を代表する同窓組織ではない。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
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"text": "全学横断型の各同窓会の連合体として、神戸大学学友会が1979年に設立されている。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
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"text": "神戸大学が公式に存在を認めている同窓会と、その対象となる学部学科は以下の通り。(それぞれ、前身となる学校・学部・研究科等を含む)",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
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"text": "神戸大学のキャンパスは全て神戸市内に所在し、一部を除いて殆どの付属施設が神戸市内のキャンパスに存在する。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "大学公式ホームページ等では「地区」または「キャンパス」という呼称が並存している。キャンパス名に関しては、医学部・医学系研究科と海事科学部・海事科学研究科のキャンパスは所在地の地名があてられている。それ以外の学部・研究科のキャンパスの場合、キャンパス名は学部名を冠したものや地名を冠したものとで揺れがある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "本地区は六甲山とその山の手に広がる住宅地に接しており、事務局・附属図書館・医学部と海事科学部を除く各学部・研究科および付属施設が存在する。この地区へ行く際には、阪神電鉄御影駅・新在家駅、JR六甲道駅および阪急電鉄六甲駅から神戸市営バス、タクシー、あるいは徒歩といった方法がある。学生のマイカー通学は禁止されているため、下宿生を中心にバイクで通学する者が多い(最寄駅からキャンパスへは非常に険しい坂道なので、原付を含めたバイク所有者の割合は非常に高い)。地区内の移動は基本的には徒歩である。",
"title": "施設"
},
{
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"text": "六甲台地区の敷地面積は、435,378 m。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "本キャンパスは全学のキャンパスの中で最北に位置し、南東側に鶴甲第1キャンパスがある。この両キャンパスの間には神戸市立鶴甲小学校があり、そのさらに南東を兵庫県道95号灘三田線が通る。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "本キャンパスでは語学、一般教養、総合教養、教養原論等の全学共通授業科目の講義が行われており、国際文化学部が設置される以前は、全学に一般教養教育を行っていた教養部があった。本キャンパス側から灘三田線を跨ぐ歩道橋を渡った所に学生会館があり、その西側に六甲台キャンパスが、南側に工学部キャンパスがある。2008年5月に工学部店に次ぐ2店目のセブン-イレブン国際文化学部店が開店した(場所はA棟1階)。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "新制神戸大学の誕生後、第2次世界大戦後の進駐軍の居住区域であった六甲ハイツ跡地を利用し、姫路市、明石市、西代・松野(神戸市長田区)、赤塚山・御影(神戸市東灘区)に分散されていた各学部の学舎を1960年代に移転配置させてできたキャンパス。工学部棟、文理農各学部棟、先端融合研究環を含む自然科学総合研究棟がある。(北緯34度43分34.7秒 東経135度14分7.1秒 / 北緯34.726306度 東経135.235306度 / 34.726306; 135.235306 (神戸大学六甲台第2キャンパス))",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "工学部棟周辺のみを指して「工学部キャンパス」とも呼ぶ。2007年4月、ここに関西の大学の中で初めてセブン-イレブンが出店した。西隣に文理農学部棟があり、少し隔てた東側には親和女子中学校・高等学校がある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "文理農学部棟周辺を単独で「文理農学部キャンパス」、あるいは「文理農キャンパス」とも呼ぶ。また、文学部 (Letters)、農学部 (Agriculture)、旧自然科学研究科 (Nature Sciences)、理学部 (Science) の頭文字をとって「LANSキャンパス」とも呼ばれている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "学生会館には文化系サークルの部室や書籍販売・アルバイトの情報を提供する生協書店が存在する。六甲台キャンパス内にあり、位置的には六甲台5部局(経済学研究科、経営学研究科、法学研究科、国際協力研究科、経済経営研究所)・工学研究科・国際文化学研究科の各校舎の中間地点である。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "神戸市外にある神戸大学関連の施設としては、上述の神戸大学ビーフを開発した農学研究科附属食資源教育研究センターが加西市に、基幹研究推進組織内海域環境教育研究センターのマリンサイトが淡路市に、海事科学研究科附属国際海事教育研究センターの淡路海洋実験実習場が南あわじ市に、そして、神戸市中央区には、先端融合研究環統合研究拠点、神戸医療産業都市構想に関わる神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センターおよびインキュベーションセンターが存在する。",
"title": "施設"
},
{
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"text": "立地している地域の関係で、主に兵庫県や県下の市町との協定締結が大半である。",
"title": "対外関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(「地域福祉向上、産業振興、教育・文化・スポーツの振興及び発展、人材育成、まちづくりのための連携」を目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "(「県下の市町や県民が取り組むまちづくり、文化及び学術の分野で連携し、地域の歴史的資源の活用、優れた景観の形成等を通じたまちづくりに関する調査・研究」を目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "(県と共同で医療行政の研究を実施することで、地域医療に貢献することを目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "(文化・教育・学術の各分野で連携することで、生涯学習等に関わる諸問題や文化遺産を活かした地域との連携事業について協力・共同して研究等へ参画することを目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "(地域の課題に迅速かつ適切に対応し、活力ある個性豊かな地域社会の形成や発展を支援を目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "(長年培われてきた協力連携実績や信頼関係を活かし、さらなる地域活性化と発展を目的としている)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "その他、学部や学科ごとに、連携協定を締結している場合もある。こちらも主に兵庫県下の自治体や病院等との提携がほとんどである。例外的に自治体ではないが、国立療養所邑久光明園(岡山県瀬戸内市)等の、県外公共施設との連携協定締結を行っている学科(発達科学部人間発達環境学研究科等)もある。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "共同研究や研究者・学生の交流を行うため、176の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる(2019年5月1日現在)。また、237の大学・機関と部局間協定を締結している(2019年5月現在。以下のリストには含まれていない)。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "※大学・機関名(締結年)",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "改組前は以下の附属学校が存在した。",
"title": "附属学校園"
}
] |
神戸大学は、兵庫県神戸市灘区六甲台町1番1号に本部を置く日本の国立大学である。1902年創立、1949年大学設置。略称は神大(しんだい)あるいは神戸大(こうべだい)。
|
<!--この記事は[[プロジェクト:大学/大学テンプレート (日本国内)]]に従って作成されています。-->
{{日本の大学
|大学名 = 神戸大学
|画像 = Kobe University Rokkodai Main Building.JPG
|pxl= 250px
|画像説明 = 神戸大学六甲台本館(国[[登録有形文化財]])
|創立年 = 1902年
|大学設置年 = 1949年
|学校種別 = 国立
|設置者 = [[国立大学法人神戸大学]]
|本部所在地 = [[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]][[六甲台町]]1番1号
|緯度度 = 34 |緯度分 = 43 |緯度秒 = 34.9
|経度度 = 135 |経度分 = 14 |経度秒 = 7.4
|キャンパス = 六甲台(兵庫県神戸市灘区)<br>楠(兵庫県神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]])<br>名谷(兵庫県神戸市[[須磨区]])<br>深江(兵庫県神戸市[[東灘区]])
|学部 =<br>[[神戸大学大学院人文学研究科・文学部|文学部]]<br>[[神戸大学国際人間科学部|国際人間科学部]]<br>[[神戸大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<br>[[神戸大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<br>[[神戸大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]<br>[[神戸大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<br>[[医学部]]<br>[[神戸大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]<br>[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]<br>[[神戸大学海洋政策科学部|海洋政策科学部]]<br>海事科学部<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-u.ac.jp/guid/link.html|title=組織 - 学部・大学院 その他施設|publisher=神戸大学|accessdate=2023-02-19|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230123152457/https://www.kobe-u.ac.jp/guid/link.html|archivedate=2023-01-23}}</ref>{{,}}<ref name="海事経過措置">{{Cite web|和書|url=http://www.office.kobe-u.ac.jp/plan-rules/act/frame/frame110000001.htm|title=『国立大学法人神戸大学学則』にかかる令和3年3月30日改正規則の附則第2条|accessdate=2021-07-21|quote=海事科学部は、改正後の第3条第1項の規定にかかわらず、令和3年3月31日に当該学部に在学する者が当該学部に在学しなくなる日までの間、存続するものとする。}}</ref>
|研究科 =<br>[[神戸大学大学院人文学研究科・文学部|人文学研究科]]<br>国際文化学研究科<br>人間発達環境学研究科<br>[[神戸大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]<br>[[神戸大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]<br>[[神戸大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学研究科]]<br>[[神戸大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]<br>医学研究科<br>保健学研究科<br>[[神戸大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]<br>システム情報学研究科<br>[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学研究科]]<br>[[神戸大学大学院海事科学研究科|海事科学研究科]]<br>[[神戸大学大学院国際協力研究科|国際協力研究科]]<br>科学技術イノベーション研究科
|ウェブサイト = [https://www.kobe-u.ac.jp/ 神戸大学]
|ふりがな = こうべだいがく
|国 = 日本
|英称 = Kobe University
|ロゴ=[[File:Kobe Univ. logo.svg|220px]]}}
'''神戸大学'''(こうべだいがく、{{Lang-en|Kobe University}})は、[[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]][[六甲台町]]1番1号に本部を置く[[日本]]の[[国立大学]]である。[[1902年]]創立、[[1949年]]大学設置。[[大学の略称|略称]]は'''神大'''(しんだい)あるいは'''神戸大'''(こうべだい){{efn|ただし、読み方では[[信州大学]]や[[新潟大学]]と、漢字でも神奈川県の私立大学である[[神奈川大学]]と同じになるので、誤解を避けるために関西地区以外や公式な場面では「神戸大」と略されることが多い。}}{{efn|2000年に学校法人神奈川大学によって「神大/JINDAI」が商標登録されているが、神戸大学は商標登録前からその商標を使用していたため引き続き使用が認められる([[日本の商標制度#先使用権|先使用権]])。}}。
== 概観 ==
=== 大学全体 ===
<!-- ※長さの目安は400字程度。また、本プロジェクトで討議された文章表現の基準に準拠する必要がある。特にその大学にとって特段の大きな意味を有さないこと、時限的な事象を大きく取り上げることにならないよう留意する必要が認められる。
記載内容は、大学の全体について平均的に記述し、特定の学部・研究科などを大きく取り上げる形にならないように留意する。また、できるだけ曖昧な表現の使用は避け、より具体的でかつ確定的なことを中心に記載する。なお、その際、文章が増えることがあるが、節全体の文章量も十分に考慮する。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
[[画像:View-from-Kobe-University-Hyakusyunen-Kinen-Kan.jpg|250px|thumb|百年記念館(神大会館)からの眺望]]
神戸大学は[[1902年]]([[明治]]35年)に日本で2番目に設立された官立[[高等商業学校]]である[[神戸高等商業学校]]に開学の起首を持つ。現在は10学部{{efn|在籍者数において文学部・国際人間科学部・国際文化学部・発達科学部・法学部・経済学部・経営学部・理学部・医学部・工学部・農学部・海洋政策科学部・海事科学部の13学部である(『[[#参考文献|神戸大学アウトライン2022]]』8頁を参照。なお、文部科学省『全国大学一覧 令和3年度版』も参考)。但し、国際文化学部・発達科学部・海事科学部は新規学生募集をしていない。}}15研究科を設置する総合大学となっている。前身の神戸高商は、[[日清戦争]]後の急速な[[日本の経済]]の成長を背景に、実業界における人材需要が高まる中、[[東京高等商業学校]](現[[一橋大学]])に続く形で設置された。初代校長である[[水島銕也]]は東京高商との差別化を図るため、学理からより実践的な実学教育を重視した。[[1949年]]の[[学制改革]]による[[新制大学]]としての改組時に、[[日本]]で最初の[[経営学部]]を設置している。また、唯一の[[海事科学部]]<ref name="海事経過措置" />を設置している大学である。
学部学生数11,426人、大学院学生数4,444人、計15,870人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-u.ac.jp/documents/campuslife/edu/education_info/2023/511_number-students_2022.pdf|title=入学者数・収容定員・在籍者数|work=教育情報の公表|publisher=神戸大学|format=PDF|accessdate=2023-01-29|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230129233930/https://www.kobe-u.ac.jp/documents/campuslife/edu/education_info/2023/511_number-students_2022.pdf|archivedate=2023-01-29}}</ref>、教員数(常勤)1,288人<ref>{{Cite web|url=https://jpcup.niad.ac.jp/institute/0304.html|title=Kobe University|work=Japanese College and University Portraits (JPCUP)|publisher=独立行政法人 大学改革支援・学位授与機構|language=en|accessdate=2023-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230129041349/https://jpcup.niad.ac.jp/institute/0304.html|archivedate=2023-01-29|quote=Number of Full-time Academic Staff/Faculty Members 1288}}</ref>。
=== 建学の精神(理念・学是) ===
「学理と実際の調和」を理念としている。神戸高等商業学校設立以来、「真摯」「自由」「協同」の精神で、社会に貢献するような指導的人材を育成する世界的研究・[[教育機関]]たることを目指している。
=== ビジョン ===
「先端研究・文理融合研究で輝く卓越研究大学へ」
=== 教育および研究 ===
[[イギリス]]の大学評価機関「クアクアレリ・シモンズ社」による[[QS世界大学ランキング]]2020(2019年)では、第395位、アジア第59位である<ref>[https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2020 QS World University Rankings 2020 <nowiki>|</nowiki> Top Universities]</ref>。
[[2007年]]([[平成]]19年)に、[[理学]]・[[工学]]・[[情報システム学|システム情報学]]・[[農学]]・[[海事科学部|海事科学]]の5研究科に加え、[[自然科学]]系の5つの研究センターが参加する学際組織、「'''自然科学系先端融合研究環'''」を設置。[[2016年]](平成28年)に「'''先端融合研究環'''」へと改組。[[2011年]](平成23年)には[[神戸ポートアイランド]]に先端的・融合研究を集積する目的で「'''統合研究拠点'''」を設置している。このように、文理・分野融合を意識した横断的な研究開発、人材育成に力を入れている。
[[EUインスティテュート・イン・ジャパン|EUインスティテュート関西]]のコンソーシアムメンバーとして参加しており、通常の[[留学]]支援だけでなく、専門教育と留学の双方を中心に据えた独自性の高い少数精鋭教育プログラム「EUエキスパート人材養成プログラム (KUPES)」<ref name=”KUPES”>{{Cite Web|和書|url=https://www.office.kobe-u.ac.jp/intl-prg/eup/|title=神戸大学 EUエキスパート人材養成プログラム|date=|publisher=神戸大学 国際教育総合センター|accessdate=2021-07-28}}</ref>「5年一貫経済学国際教育プログラム (IFEEK)」<ref>[http://www.iphe.kobe-u.ac.jp/global/econ.html 経済学部・経済学研究科 - 神戸大学 大学教育推進機構] </ref>「KIBER Program」<ref>[https://b.kobe-u.ac.jp/ugrad/kiber/ (KIBER) Program - 神戸大学大学院経営学研究科/神戸大学経営学部] </ref>等を実施している。<!--
○○大学の学是は「○○○○○」となっている。これは…
※この項目はそれぞれの大学に応じて「校訓」「学是」「憲章」などの適切な節名を用いる。なお、校訓などが長文となる場合は、[[著作権]]に注意すること。最後に改訂されてから50年が経過していれば全文の紹介が可能であるが、そうではない場合には概略に止め、全文は公式サイトへのリンクで代用するという手段がある。
=== 学風および特色 ===
○○大学は学生自治が重視されており…
サークル活動が盛んなのは以下のような理由から…
伝統的に新入生は××を行う習慣があるが…
略称は「△△」…
※具体的な数字データや学生生活の詳細は別項でまとめる。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
== 沿革 ==
=== 略歴 ===
[[画像:Kobe-kosho.jpg|250px|thumb|神戸高等商業学校(1910年ごろ)]]
[[画像:Kobeuniv idemitsu kinenkan.jpg|250px|thumb|[[出光佐三]]記念六甲台講堂(国[[登録有形文化財]])]]
[[画像:Kobe-Univ-Rokkodai-Library.jpg|250px|thumb|社会科学系図書館(国[[登録有形文化財]])]]
*もともと[[東京商科大学 (旧制)|東京高商]]に次ぐ第二の高商の設置場所は[[文部省]]の意向で神戸市に内定していたが、大阪市が大阪への高商設置を求め攻勢に出たことで激しい誘致合戦が発生した経緯がある。しかし、[[1900年]][[11月]]の[[帝国議会]]において、71票対70票の一票差で神戸への設置が採択された。
*神戸高等商業学校の設置が1902年(明治35年)3月<ref>{{Cite Web|和書|url=https://www.kobe-u.ac.jp/info/outline/history/nenpyo.html|title=沿革年表|publisher=国立大学法人 神戸大学|accessdate=2021-11-02|quote=神戸高等商業学校を設置(初代校長は水島銕也)。これをもって神戸大学創立の起点としている。}}</ref>。
*神戸高等商業学校は[[1929年]]、'''旧制[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]]'''に昇格。[[1940年]]には[[大学予科]]を設置。[[1944年]]には政府の方針として'''神戸経済大学'''へ名称変更された。
*[[第二次世界大戦]]後の[[学制改革]]に伴い、[[1949年]]、近隣の[[姫路高等学校 (旧制)|姫路高等学校]]・[[神戸高等工業学校|神戸工業専門学校]]・[[兵庫師範学校]]・[[兵庫青年師範学校]]を併合し、新制「神戸大学」となった{{efn|新制大学としての設置が1949年5月31日。}}。その際、日本初となる[[神戸大学経営学部|経営学部]]を設置し、[[1953年]]には同じく日本初となる[[神戸大学大学院経営学研究科|大学院経営学研究科]](修士課程および博士課程)を設置した。[[1964年]]に[[神戸医科大学]]を包括して新たに[[医学部]]を設置、[[1966年]]には[[兵庫農科大学]]を併合して[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]を設置する。[[2003年]]には、旧:[[神戸高等商船学校]]を起源とする[[神戸商船大学]]と合併し、[[海事科学部]]とし深江キャンパスを同大学から引き継いだ。
**神戸大学の公式見解としては神戸高等商業学校およびその後身の神戸商業大学を母体としており、[[1902年]]の神戸高等商業学校の創立を、神戸大学の開学の起点としている。
**[[2000年]]、神戸大学百年記念館が竣工し、旧制神戸高等商業学校設置から100年後に当たる[[2002年]]5月に、神戸大学創立百周年記念式典も挙行した。
**一方で、公式サイトではそれぞれの学部ごとの個別の沿革も紹介しており、個別のそれぞれの歴史も尊重している。
*神戸商業大学は、大学群のカテゴライズにおいて[[旧三商大]]に属しており、現在の[[神戸大学大学院経済学研究科|大学院経済学研究科]]・[[神戸大学大学院経営学研究科|大学院経営学研究科]]・[[神戸大学大学院法学研究科|大学院法学研究科]]・[[神戸大学大学院国際協力研究科|大学院国際協力研究科]]・[[神戸大学経済経営研究所|経済経営研究所]]のルーツに当たる。
本稿では主として新制神戸大学設立後の沿革をまとめている(前身の旧制諸学校の沿革については、各校の記事を参照のこと)。
=== 年表 ===
[[画像:Kobe University of Commerce (Antecedent of Kobe University).JPG|250px|thumb|旧制神戸商業大学(1930年頃)]]
*[[1949年]] 国立学校設置法施行に伴い、神戸地区に所在していた[[神戸商業大学 (旧制)|神戸経済大学]]・神戸経済大学[[大学予科|予科]]・[[神戸高等工業学校|神戸工業専門学校]]・[[姫路高等学校 (旧制)|姫路高等学校]]・[[兵庫師範学校]]・[[兵庫青年師範学校]]を包括して神戸大学を設立。文理学部、教育学部、法学部、経済学部、経営学部、工学部を設置。
*[[1953年]] 大学院法学研究科・経済学研究科・経営学研究科(修士課程・博士課程)を設置。
*[[1954年]] 文理学部を文学部と理学部に分離。
*[[1955年]] 工学専攻科を設置。
*[[1957年]] 理学専攻科を設置。
*[[1958年]] 文学専攻科を設置。
*[[1963年]] [[教養部]]設置。
*[[1964年]] [[神戸医科大学|兵庫県立神戸医科大学]](旧制[[兵庫県立医科大学]])が神戸大学へ移管され、同大学を母体に医学部を設置。工学専攻科を改組して大学院工学研究科(修士課程)を設置。
*[[1965年]] 理学専攻科を改組して大学院理学研究科(修士課程)を設置。教育専攻科を設置。
*[[1966年]] [[兵庫農科大学|兵庫県立兵庫農科大学]]が神戸大学へ移管され、同大学を母体に農学部を設置。
*[[1967年]] 大学院医学研究科(博士課程)を設置。
*[[1968年]] 文学専攻科を改組して大学院文学研究科(修士課程)を設置。
*[[1972年]] 大学院農学研究科(修士課程)を設置。
*[[1980年]] 大学院文化学研究科(博士課程)を設置。
*[[1981年]] 大学院自然科学研究科(博士後期課程)を設置。教育専攻科を改組して大学院教育学研究科(修士課程)を設置。
*[[1992年]] 教養部と教育学部を統合改組して国際文化学部と発達科学部を設置。大学院国際協力研究科(修士課程)を設置。これまでの小学校・中学校の教員養成機能は新設された[[兵庫教育大学]]が担うことになった。
*[[1994年]] 大学院農学研究科・工学研究科・理学研究科を統合改組して大学院自然科学研究科(博士前期課程)を設置。[[神戸大学医療技術短期大学部|医療技術短期大学部]]を改組して医学部保健学科を設置。
*[[1995年]] 大学院国際協力研究科(博士課程)を設置。[[阪神・淡路大震災]]により、44人(学生・留学生39人、教職員3人・生協職員2人)の神戸大学関係者が死亡する。大学の校舎は一つも倒壊しなかったが、研究用の機械・機器類の破損や建物や路面のひび割れなどで約770億円の被害が出る。
*[[1997年]] 大学院総合人間科学研究科(修士課程)を設置。
*[[1999年]] 大学院総合人間科学研究科(博士課程)を設置。経営学部を大学院重点化。
*[[2000年]] 経済学部・法学部を大学院重点化。百年記念館が竣工。
*[[2001年]] 医学部を大学院重点化。
*[[2002年]] 創立百周年記念式典を挙行。
*[[2003年]] [[神戸商船大学]]と合併し、同大学を母体に[[海事科学部]]を設置。
*[[2004年]] 国立大学法人法の規定により[[国立大学法人]]へ移行。[[法科大学院]](大学院法学研究科実務法律専攻)を設置、法学部夜間主コース募集停止。
*[[2006年]] 経営学部夜間主コース募集停止。
*[[2007年]] 大学院自然科学研究科を改組して大学院理学研究科・工学研究科・農学研究科・海事科学研究科を設置。自然科学系先端融合研究環を設置。大学院文化学研究科・文学研究科を統合改組して大学院人文学研究科を設置。大学院総合人間科学研究科を改組して大学院国際文化学研究科・人間発達環境学研究科を設置。大学院重点化が完了。<!--このときに先だって2000年に行われた文系3学部の大学院重点化の際には、大学院定員を増やしており、重点化であった。これに対して、理系4学部の「改組」時に旧・自然科学研究科が改組してできた理・工・農・海事科学研究科各研究科は、学部からの定員を移行せず、また大学院定員を増やしていない(前期課程を増加させ、後期課程を減らした)。そのため、一般にいわれる大学院重点化ではないことに注意。-->
*[[2008年]] 大学院医学系研究科を改組して大学院医学研究科・保健学研究科を設置。経済学部夜間主コース募集停止。
*[[2010年]] 大学院工学研究科から情報知能学専攻が独立。「システム科学」「情報科学」「計算科学」の3専攻構成の大学院システム情報学研究科を設置。
*[[2016年]] 大学院科学技術イノベーション研究科を設置。自然科学系先端融合研究環を先端融合研究環に改組。
*[[2017年]] 発達科学部と国際文化学部を再編統合した国際人間科学部を設置<ref>[http://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/info/2017_04_05_02.html 国際人間科学部を設置―看板上掲式を挙行しました] - 神戸大学(2017年4月5日)</ref>。
*[[2018年]] 医学部推薦入試の地域特別枠で、募集要項に明記せずに過疎地域出身者に有利な配点をしていたと発表した<ref name=":6">{{Cite news |title=神戸大医学部:過疎地出身者に有利な配点 要項に明記せず - 毎日新聞 |date=2018-11-22 |url=https://mainichi.jp/articles/20181122/k00/00e/040/312000c |accessdate=2018-11-22 |work=毎日新聞}}</ref><ref name=":7">{{Cite news |title=神戸新聞NEXT|総合|神戸大医学部推薦入試 出身地域で最大25点配点 募集要項に明記せず |date=2018-11-22 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201811/0011842859.shtml |accessdate=2018-11-22}}</ref><ref>{{Cite news |title=神戸大、過疎地出身に有利な配点 不適切認め謝罪、医学部推薦入試 |date=2018-11-22 |url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2018112201001406.html |accessdate=2018-11-22 |work=中日新聞 CHUNICHI Web}}</ref>。100点満点の書類審査において、出身地域ごとに最大25点を段階的に配点していた<ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":8">{{Cite news |title=過疎地出身に有利な配点 神戸大医学部の推薦入試 |date=2018-11-22 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3808357022112018000000/ |accessdate=2018-11-22 |work=日本経済新聞 電子版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3531258.html |title=神戸大医学部も“不適切入試”、“医師不足”地域出身に加点 |accessdate=2018-11-22 |website=TBS NEWS |publisher=}}</ref>。出身高校の所在地や保護者の居住地が医師が少ない地域だった場合は最大25点が得られ、都市部出身者は0点になる仕組みだった<ref name=":8" /><ref>{{Cite news |title=神戸大、過疎地出身に有利な配点 不適切認め謝罪、医学部推薦入試 {{!}} 全国のニュース {{!}} 福井新聞ONLINE |date=2018-11-22 |url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/745042 |accessdate=2018-11-22 |work=福井新聞ONLINE}}</ref>。(''詳細は[[2018年に発覚した医学部不正入試問題]]の項目を参照のこと'')。
*[[2021年]] 海事科学部を改組し、[[神戸大学海洋政策科学部|海洋政策科学部]]を設置<ref>[https://www.ocean.kobe-u.ac.jp/undergrad/history/#:~:text=1920%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%AE%98%E7%AB%8B%E3%81%AE,%E9%83%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82&text=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E3%80%8C%E6%B5%B7%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E5%AD%A6,%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 沿革] - 神戸大学海洋政策科学部(2021年5月16日閲覧)</ref><ref name="海事経過措置" />。
== 歴代学長 ==
[[画像:Mizushima-tetsuya.jpg|150px|thumb|水島銕也]]
;神戸高等商業学校
*初代:[[水島銕也]]([[1903年]]1月 - 1925年7月)
*第2代:[[田崎慎治]]([[1925年]]7月 - 1929年3月)
;神戸商業大学
*初代:[[田崎慎治]]([[1929年]]4月 - 1942年1月)
*第2代:[[丸谷喜市]]([[1942年]]1月 - 1944年9月)
;神戸経済大学
*初代:[[丸谷喜市]]([[1944年]]10月 - 1946年3月)
*第2代:[[花戸龍蔵]]([[1946年]]3月 - 1948年5月)
*第3代:[[田中保太郎]]([[1948年]]5月 - 1949年5月)
;神戸大学
*初代:[[田中保太郎]]([[1949年]]5月 - 1953年12月) 出身部局:法学部
*第2代:[[古林喜楽]]([[1953年]]12月 - 1959年12月) 出身部局:経営学部
*第3代:[[福田敬太郎]]([[1959年]]12月 - 1963年12月) 出身部局:経営学部
*第4代:[[柚木馨]]([[1963年]]12月 - 1965年11月) 出身部局:法学部
*学長事務取扱:[[國歳胤臣]]([[1965年]]11月 - 1966年2月) 出身部局:法学部
*第5代:[[八木弘]]([[1966年]]2月 - 1969年1月) 出身部局:法学部
*学長事務取扱:[[戸田義郎]]([[1969年]]1月 - 1971年2月) 出身部局:経営学部
*第6代:[[戸田義郎]]([[1971年]]2月 - 1975年2月) 出身部局:経営学部
*第7代:[[須田勇]]([[1975年]]2月 - 1981年2月) 出身部局:医学部
*第8代:[[堯天義久]]([[1981年]]2月 - 1985年2月) 出身部局:工学部
*第9代:[[新野幸次郎]]([[1985年]]2月 - 1991年2月) 出身部局:経済学部
*第10代:[[鈴木正裕]]([[1991年]]2月 - 1995年2月) 出身部局:法学部
*第11代:[[西塚泰美]]([[1995年]]2月 - 2001年2月) 出身部局:医学部
*第12代:[[野上智行]]([[2001年]]2月 - 2009年4月) 出身部局:発達科学部
*第13代:[[福田秀樹]]([[2009年]]4月 - 2015年3月) 出身部局:自然科学系先端融合研究環
*第14代:[[武田廣]]([[2015年]]4月 - 2021年3月) 出身部局:大学院理学研究科
*第15代:[[藤澤正人]]([[2021年]]4月 - ) 出身部局:大学院医学研究科
(この節の出典<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-u.ac.jp/info/usr/presidents.html |title=歴代学長 |publisher=神戸大学 |accessdate=2021-09-20}}</ref>)
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===
*六甲台地区([[神戸市]]灘区)
*楠地区(神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]])
*名谷地区(神戸市[[須磨区]])
*深江地区(神戸市[[東灘区]])
=== 象徴 ===<!--
*校章は○○をイメージしており…
*大学歌は○○が作詞しているが…
*シンボルマークは…
*スクールカラーは○色で…
※校歌・校章・校旗・シンボルマーク・スクールカラーなどの大学を示す象徴はこの項目にまとめる。-->
==== ロゴマーク ====
神戸大学の[[ロゴマーク]]は[[2002年]](平成14年)の創立百周年を機に制定されたもので、「Kobe University」の頭文字「K」を2羽の鳥に象徴化し、それぞれが大きな軌跡(個性)を描きながら[[山]]や[[海]]を渡り、大空([[世界]])へと自由に羽ばたき、時にはお互いに助け合いながら進みゆく様子を表現している。
配色は、[[鳥]]を大学の[[スクールカラー|シンボルカラー]]の[[色名一覧 (れ)|ブリックカラー]] ([[RGB]]:R196 / G0 / B0) とし、[[緑]]は山、[[青]]は海をイメージしている。
==== ロゴタイプ ====
[[ゴシック]]系フォントを用い、[[未来]]にまっすぐ進む堅実なイメージを表現。世界に発信する神戸大学を、広がりのあるデザインでアピールしている。
==== 校歌 ====
*神戸大学[[校歌|学歌]]
:[[1992年]](平成4年)、神戸大学創立90周年を機に制作された。作詞は詩人の[[安水稔和]](1954年文学部卒)、作曲は中村茂隆(名誉教授)。
*商神
:前身の旧制神戸高等商業学校時代の[[1906年]](明治39年)に学友会歌として作られ、戦後も神戸大学愛唱曲・準校歌として長く歌い継がれた。歌詞は8番まである。「商神」とは[[ギリシア神話]]の[[ヘルメス]]([[ローマ神話]]の[[マーキュリー]])を指す。作詞は詩人の生忠田兵造、作曲は米田虎之助。
==== マスコットキャラクター ====
神戸大学の[[マスコット|マスコットキャラクター]]は「神大うりぼー」であり、[[六甲山]]に出没するイノシシの子供である「うり坊」をモチーフとしている<ref>{{Cite news |title=カワイイぞ! 神戸大のマスコットキャラ誕生 |newspaper=神戸新聞NEXT |date=2017-10-05 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/kyouiku/201710/0010617991.shtml |accessdate=2017-10-05}}</ref>。
== 教育および研究 ==
=== 組織 ===
==== 学部 ====<!--
※学部ごとに詳細な説明を加えたい場合には以下のようにする方法もある。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節にできるほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。
===== ○○学部 =====
* ××学科
* △△学科
この学部は…
===== □□学部 =====
* ×△学科
* △×学科
この学部は…-->
[[画像:Kobeuniv engineering.jpg|250px|thumb|神戸大学工学部本館]]
[[画像:Kobe-Univ-Kanematsu-Bldg.jpg|250px|thumb|神戸大学経済経営研究所(国[[登録有形文化財]])]]
[[画像:Graduate School of International Cooperation Studies (Kobe University).jpg|250px|thumb|神戸大学国際協力研究科]]
*[[神戸大学大学院人文学研究科・文学部|文学部]]
**[[人文学科]]<ref>講座、専修は「神戸大学案内 2016-2017」[http://www.office.kobe-u.ac.jp/stdnt-examinavi/files/annai2016.pdf]による。「神戸大学文学部規則」によると、学科目として、「哲学」、「文学」、「史学」、「知識システム」、「社会文化」を設けている。</ref>
***哲学講座
****哲学専修
***文学講座
****国文学専修
****中国文学専修
****英米文学専修
****ドイツ文学専修
****フランス文学専修
***史学講座
****日本史学専修
****東洋史学専修
****西洋史学専修
***知識システム講座
****心理学専修
****芸術学専修
****言語学専修
***社会文化講座
****社会学専修
****美術史学専修
****地理学専修
***注:2年進級時に専修選択
*[[神戸大学国際人間科学部|国際人間科学部]]
**グローバル文化学科<ref>神戸大学国際人間科学部規則によると、講座として、グローバル文化形成、グローバル社会動態、グローバル・コミュニケーションがある。</ref>
**発達コミュニティ学科<ref>神戸大学国際人間科学部規則によると、講座として、発達基礎、コミュニティ形成がある。</ref>
**環境共生学科<ref>神戸大学国際人間科学部規則によると、講座として、環境基礎科学、環境形成科学がある。</ref>
**子ども教育学科<ref>神戸大学国際人間科学部規則によると、講座として、学校教育学、乳幼児教育学がある。</ref>
<!---
*[[国際文化学部]](2017年度に募集停止)
**[[国際文化学科]]
***情報コミュニケーション論講座
***:教育研究分野:言語コミュニケーション論、感性コミュニケーション論、ITコミュニケーション論
***現代文化論講座
***:教育研究分野:モダニティ論、先端社会論、芸術文化論
***異文化コミュニケーション論講座
***:教育研究分野:異文化関係論、多文化共生論、越境文化論
***地域文化論講座
***:教育研究分野:日本学、アジア・太平洋文化論、ヨーロッパ・アメリカ文化論
***注:2年進級時に講座選択
*[[発達科学部]](2017年度に募集停止)
**[[人間形成学科]]
***心理発達論コース
***子ども発達論コース
***教育科学論コース
***学校教育論コース
***:2年進級時にコース選択
**[[人間行動学科]]
***健康発達論コース
***行動発達論コース
***身体行動論コース
***:2年進級時にコース選択
**[[人間表現学科]]
***2014年度生以降
****人間表現論コース
***2013年度生以前
****表現文化論コース
****表現創造論コース
****臨床・感性表現論コース
****:2年進級時にコース選択
**[[人間環境学科]]
***自然環境論コース
***生活環境論コース
***数理情報環境論コース
***社会環境論コース
***:2年進級時にコース選択
**発達支援論コース(各学科横断。3年次から所属可能)
**ESDサブコース(「ESD」とは「Education for Sustainable Development([[持続可能な開発のための教育]])」の略。発達科学部・文学部・経済学部・農学部・国際文化学部・工学部・医学部が協働して運営している領域横断型のコースで、発達科学部の学生は主専攻に加えて選択できる)
--->
*[[神戸大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]
**[[法学部|法律学科]]<ref>神戸大学法学部規則によると、学科目として、「基礎法学」、「公法学」、「私法学」、「政治学・国際関係論」を設けている。</ref>
**:履修コース<ref>2016年度入学生用の「神戸大学法学部案内」[http://www.law.kobe-u.ac.jp/faculty/annai/2016.pdf]</ref>(3年進級時に選択):司法コース、企業・行政コース、政治・国際コース
*[[神戸大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]
**[[経済学部|経済学科]]<ref>「理論分析」、「歴史分析」、「計量・統計分析」、「技術・環境分析」、「産業・社会政策」、「金融・公共政策」、「国際経済政策」、「比較経済政策」の各講座(いずれも博士講座)の教員が研究・教育を担当。神戸大学経済学部規則によると、学科目として、「経済システム分析」、「総合経済政策」を設けている。</ref>
**:研究分野<ref>http://www.econ.kobe-u.ac.jp/introduction/undergrad/index.html</ref>:理論分析、歴史分析、計量・統計分析、産業・社会政策、金融・公共政策、比較経済政策、技術・環境分析、国際経済政策
*[[神戸大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]
**[[経営学部|経営学科]]<ref>神戸大学経営学部規則によると、学科目として、「経営学」、「会計学」、「商学」を設けている。</ref>
***専攻分野<ref>神戸大学経営学部規則</ref>:経営学、会計学、市場科学
*[[神戸大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<ref>各学科の講座、教育研究分野は、「神戸大学理学部・大学院理学研究科 広報誌」(2015年版)[http://www.sci.kobe-u.ac.jp/introduction/pr/pr2015/2015_all.pdf]による。なお、連携講座は、大学院教育を担当するとされている。</ref>
**[[数学科]]<ref>神戸大学理学部規則によると、学科目として、「解析数理」、「構造数理」、「応用数理」を設けている。</ref>
***解析数理講座
***:教育研究分野:関数方程式、関数解析、複素解析
***構造数理講座
***:教育研究分野:代数学、幾何学
***応用数理講座
***:教育研究分野:確率数理、組み合わせ数理、計算数理
**[[物理学科]]<ref>神戸大学理学部規則によると、学科目として、「理論物理学」、「粒子物理学」、「物性物理学」を設けている。</ref>
***理論物理学講座
***:教育研究分野:素粒子理論、物性理論、量子物性論
***粒子物理学講座
***:教育研究分野:粒子物理学
***物性物理学講座
***:教育研究分野:低温物性物理学、極限物性物理学、量子ダイナミクス、電子物性物理学
**[[化学科]]<ref>神戸大学理学部規則によると、学科目として、「物理化学」、「無機化学」、「有機化学」を設けている。</ref>
***物理化学講座
***:教育研究分野:分子動力学、物性物理化学、反応物理化学
***無機化学講座
***:教育研究分野:固体化学、溶液化学、状態解析化学
***有機化学講座
***:教育研究分野:有機反応化学、生命分子化学、有機分子機能
**[[生物学科]]<ref>神戸大学理学部規則によると、学科目として、「生体分子機構」、「生命情報伝達」、「生物多様性」を設けている。</ref>
***生体分子機構講座
***:教育研究分野:分子生理、細胞機能、情報機構
***生命情報伝達講座
***:教育研究分野:形質発現、遺伝情報、遺伝子機能
***生物多様性講座
***:教育研究分野:生態・種分化、進化・系統
**[[地球惑星科学科]]<ref>神戸大学理学部規則によると、学科目として、「地球科学」、「惑星科学」を設けている。</ref>
***基礎惑星学講座
***:教育研究分野:地質学、岩石学・鉱物学、固体地球物理学、流体地球物理学、惑星・宇宙物理学
***新領域惑星学講座
***:教育研究分野:実験惑星科学、観測海洋底科学、水惑星進化学
*[[医学部]]
**[[医学科]]<ref>神戸大学医学部規則によると、学科目として、「生命基礎医学」、「臨床医学チュートリアル」、「ベッドサイドラーニング」、「総合医学」を設けている。</ref>
**[[保健学科]]<ref>講座は、2015年度版の「神戸大学大学院医学研究科・医学部・医学部附属病院概要」[http://www.med.kobe-u.ac.jp/info/2015/docs/pamph_med_2015.pdf]による。神戸大学医学部規則によると、学科目として、「基礎看護学」、「臨床看護学」、「母性看護学」、「地域看護学」、「基礎検査技術科学」、「病態解析学」、「基礎理学療法学」、「運動・代謝障害理学療法学」 、「基礎作業療法学」、「身体・精神障害作業療法学」、「医療基礎学」を設けている。</ref>
***看護学専攻
***:講座:基礎看護学、臨床看護学、母性看護学、地域看護学
***検査技術科学専攻
***:講座:基礎検査技術科学、病態解析学
***理学療法学専攻
***:講座:基礎理学療法学、運動・代謝障害理学療法学
***作業療法学専攻
***:講座:基礎作業療法学、身体・精神障害作業療法学
***医療基礎学講座 - 各専攻の学生に統合的な基礎教育を行う
*[[神戸大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]
**[[建築学科]]<ref>講座、教育研究分野は「神戸大学大学院工学研究科・工学部」のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/architecture2.html]による。神戸大学工学部規則によると、講座として、「空間デザイン」、「建築計画・建築史」、「構造工学」、「環境工学」を設けている。</ref>
***空間デザイン講座
***:教育研究分野:建築・都市デザイン、住宅・コミュニテイデザイン、構造デザイン 建築構造設計、建築マネージメント
***建築計画・建築史講座
***:教育研究分野:建築史・歴史環境論、地域・住宅計画、建築・都市安全計画
***構造工学講座
***:教育研究分野:構造性能工学、構造制御工学、構造システム工学
***環境工学講座
***:教育研究分野:音・光環境計画、熱・空気環境計画、都市環境・設備計画
***地域減災計画講座<ref>総務省消防研究センターとの連携講座。いわゆる「連携大学院」であり、主に博士後期課程の学生を指導している[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/concept/renkei.html]。</ref>
***持続的住環境創成講座(積水ハウス)<ref name=":1">寄付講座</ref>
**[[市民工学科]]<ref>講座、教育研究分野は「神戸大学大学院工学研究科・工学部」のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/civil2.html]による。神戸大学工学部規則によると、講座として、「人間安全工学」、「環境共生工学」を設けている。</ref>
***人間安全工学講座
***:教育研究分野:構造安全工学、地盤安全工学 地盤材料、交通システム工学、地盤防災工学、地震減災工学、流域防災工学
***環境共生工学講座
***:教育研究分野:環境流体工学、水圏環境工学、地圏環境工学、広域環境工学、都市保全工学、都市経営工学
**[[電気電子工学科]]<ref>講座、教育研究分野は「神戸大学大学院工学研究科・工学部」のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/electrical_electronic2.html]による。神戸大学工学部規則によると、講座として、「電子物理」、「電子情報」を設けている。</ref>
***電子物理講座
***:教育研究分野:メゾスコピック材料学、フォトニック材料学、量子機能工学、ナノ構造エレクトロニクス、電磁エネルギー物理学
***電子情報講座
***:教育研究分野:集積回路情報、計算機工学、情報通信、アルゴリズム、知的学習論
***機能性薄膜学講座<ref>[[松下電器産業]]との連携講座。いわゆる「連携大学院」であり、主に博士後期課程の学生を指導している。</ref>
**[[機械工学科]]<ref>講座、教育研究分野は「神戸大学大学院工学研究科・工学部」のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/mechanical2.html]による。連携講座は、いわゆる「連携大学院」であり、主に博士後期課程の学生を指導している。神戸大学工学部規則によると、講座として、「熱流体」、「材料物理」、「設計生産」を設けている。</ref>
***熱流体講座
***:教育研究分野:先端流体工学、混相流体工学、エネルギー変換工学
***材料物理講座
***:教育研究分野:構造安全評価学、破壊制御学、構造機能材料学
***システム設計講座
***:教育研究分野:機能ロボット学、センシングデバイス工学、生産工学
***先端機能創成学講座
***:教育研究分野:ナノ機械システム工学、材料設計工学
***知的製造システム講座<ref>[[神戸製鋼所]]との連携講座</ref>
***機能適応モデル講座<ref>[[情報通信研究機構]]との連携講座</ref>
***開智型ものづくり講座<ref>[[川崎重工業]]との連携講座</ref>
**[[応用化学科]]<ref>講座、教育研究分野は「神戸大学大学院工学研究科・工学部」のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/chemical2.html]による。なお、連携講座は、いわゆる「連携大学院」であり、主に博士後期課程の学生を指導している。神戸大学工学部規則によると、講座として、「物質化学」、「化学工学」を設けている。</ref>
***物質化学講座
***:教育研究分野:物質創成化学、物質制御化学、物質機能化学
***化学工学講座
***:教育研究分野:反応・分離工学、プロセス工学、生物化学工学
***局所場反応・物性解析学<ref>[[産業技術総合研究所]]関西センターとの連携講座</ref>
***ケミカル・バイオセンシング<ref>産業技術総合研究所関西センターとの連携講座</ref>
***化学エネルギー変換プロセス学<ref>公益財団法人サントリー生命科学財団との連携講座</ref>
***生物機能工学<ref>[[アステラス製薬]]製剤研究所との連携講座</ref>
***製剤設計生産工学<ref>産業技術総合研究所との連携講座</ref>
***サスティナブルケミストリー講座(日本触媒)<ref name=":1"/>
**[[情報知能工学科]]<ref>神戸大学工学部規則によると、講座として、「情報基礎」、「情報システム」、「システムデザイン」を設けている。</ref>
***システム情報学研究科の教員が、学部専門教育と研究指導を行う
*[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]<ref>各学科の教育研究分野は、2015年度版の「神戸大学農学部案内」による[http://www.ans.kobe-u.ac.jp/kenkyuuka08/pdf/nougaku2015.pdf]。</ref>
**[[食料環境システム学科]]<ref>神戸大学農学部規則によると、講座として、「生産環境工学」、「食料環境経済学」を設けている。</ref>
***生産環境工学コース
***:教育研究分野:水環境学、土地環境学、施設環境学、地域共生計画学、農産食品プロセス工学、生体計測工学、生物生産機械工学、生物生産情報工学
***食料環境経済学コース
***:教育研究分野:食料経済学、食料生産管理学、食料情報学
**[[資源生命科学科]]<ref>神戸大学農学部規則によると、講座として、「応用動物学」、「応用植物学」を設けている。</ref>
***応用動物学コース
***:教育研究分野:動物遺伝育種学、動物多様性利用科学、生殖生物学、発生工学、栄養代謝学、分子形態学、組織生理学、感染症制御学、動物遺伝資源開発学、細胞情報学
***応用植物学コース
***:教育研究分野:資源植物生産学、植物育種学、森林資源学、園芸植物繁殖学、園芸生産開発学、園芸生理生化学、熱帯有用植物学、植物遺伝資源開発学
**[[生命機能科学科]]<ref>神戸大学農学部規則によると、講座として、「応用生命化学」、「環境生物学」を設けている。</ref>
***応用生命科学コース
***:教育研究分野:生物化学、食品・栄養化学、天然有機分子化学、有機機能分子化学、環境分子物理化学、植物機能化学、動物資源利用化学、微生物機能化学、微生物資源化学、生物機能開発化学
***環境生物学コース
***:教育研究分野:土壌学、植物栄養学、植物遺伝学、栽培植物進化学、細胞機能構造学、環境物質科学、細胞機能制御学、植物病理学、昆虫分子機能科学、昆虫多様性生態学
*[[神戸大学海洋政策科学部|海洋政策科学部]]及び[[海事科学部]]<ref name="海事経過措置" />
**海洋基礎科学領域
**海洋応用化学領域
**海洋ガバナンス領域
**海技ライセンスコース
<!---以下は「海事科学部」時代のもの
**[[海洋安全システム科学科]]<ref>神戸大学海事科学部規則によると、学科目として、「海洋安全システム」を設けている。</ref>
**グローバル輸送科学科<ref>神戸大学海事科学部規則によると、学科目として、「航海マネジメント」、「ロジスティクス」を設けている。</ref>
***航海マネジメントコース
***ロジスティクスコース
**マリンエンジニアリング学科<ref>神戸大学海事科学部規則によると、学科目として、「マリンエンジニアリング」を設けている。</ref>
***機関マネジメントコース
***メカトロニクスコース
**注:学科選択は2年進級時。2012年度入学生までは[[海事技術マネジメント学科]]、[[海洋ロジスティクス科学科]]、[[マリンエンジニアリング学科]]で構成されていた。--->
==== 研究科 ====
以下、特記していない専攻は[[大学院#修士課程・博士前期課程|博士前期課程]]・[[大学院#博士後期課程・後期3年博士課程|博士後期課程]]である。
*[[神戸大学大学院人文学研究科|人文学研究科]]<ref>コース、教育研究分野は、「神戸大学大学院人文学研究科規則」による。</ref>
**文化構造専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、哲学、文学がある。いずれも博士講座。</ref>
***哲学コース
***:教育研究分野:哲学、倫理学
***文学コース
***:教育研究分野:国文学(国語学を含む)、英米文学、中国・韓国文学、ヨーロッパ文学
**社会動態専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、史学(博士講座)、知識システム(博士講座)、社会文化(博士講座)、文化資源論(連携講座)がある。文学研究科のホームページ[http://www.lit.kobe-u.ac.jp/daigakuin_annai/shakai_bunkashigen.html]によると、文化資源論は[[奈良国立博物館]]、[[大和文華館]]との連携講座である。</ref>
***史学コース
***:教育研究分野:日本史学、西洋史学、東洋史学
***知識システム論コース
***:教育研究分野:心理学、芸術学、言語学(英語学を含む)
***社会文化論コース
***:教育研究分野:社会学、地理学、美術史学、文化資源論(連携講座:後期課程のみ)
*[[国際文化学研究科]]<ref>各専攻の系・コースは「神戸大学大学院国際文化学研究科規則」で定められたものではないが、研究科のホームページ[http://web.cla.kobe-u.ac.jp/graduate/invite-g/composition.html]、「国際文化学研究科広報パンフレット」(2015-2016年度版)[http://web.cla.kobe-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2016pump.pdf]、2016年度入学生用の学生募集要項(博士前期課程[http://web.cla.kobe-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/zenki-boshuyoko.pdf]・後期課程[http://web.cla.kobe-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/657c86ccba5d3d0198944cfd69aa565a.pdf])では、研究科の構成はこれに基づいている。</ref>
**文化相関専攻<ref>「神戸大学大学院国際文化学研究科規則」によると、講座には、地域文化論、異文化コミュニケーション論がある。さらに、地域文化論講座の教育研究分野には、日本学、アジア・太平洋文化論、ヨーロッパ・アメリカ文化があり、異文化コミュニケーション論講座の教育研究分野には、異文化関係論、越境文化論、国際社会論がある。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、いずれも博士講座。</ref>
***地域文化系
****日本学コース
****アジア・太平洋文化論コース
****ヨーロッパ・アメリカ文化論コース
***異文化コミュニケーション系
****文化人類学コース
****比較文明・比較文化論コース
****国際関係・比較政治論コース
**グローバル文化専攻<ref>「神戸大学大学院国際文化学研究科規則」によると、講座には、現代文化システム論、言語情報コミュニケーション論、外国語教育論(協力講座)、先端コミュニケーション論(連携講座)がある。さらに、現代文化システム論講座の教育研究分野には「モダニティ論」、「先端社会論」、「芸術文化論」が、言語情報コミュニケーション論講座の教育研究分野には「言語コミュニケーション論」、「感性コミュニケーション論」、「ITコミュニケーション論」が、外国語教育論講座の教育研究分野には「外国語教育システム論」、「外国語教育コンテンツ論」が、先端コミュニケーション論講座の教育研究分野には「先端コミュニケーション論」がある。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、協力講座と連携講座以外は博士講座である。なお、先端コミュニケーション論は[[国際電気通信基礎技術研究所]]との連携講座である[http://web.cla.kobe-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/KUGSICS2013_2014.pdf]。</ref>
***現代文化システム系
****モダニティ論コース
****先端社会論コース
****芸術文化論コース
***言語情報コミュニケーション系
****言語コミュニケーションコース
****感性コミュニケーションコース
****情報コミュニケーションコース
***外国語教育系
****外国語教育システム論コース
****外国語教育コンテンツ論コース
***連携講座
****先端コミュニケーション論コース(後期課程のみ)
*[[人間発達環境学研究科]]
**人間発達専攻(2013年4月、心身発達専攻、教育・学習専攻、人間行動専攻、人間表現専攻を改組)
**:講座<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、いずれも博士講座。</ref>:こころ系、表現系、からだ系、学び系
**人間環境学専攻
***環境基礎論講座<ref name=":2">博士講座</ref>
****自然環境論コース
****数理情報環境論コース
***環境形成論講座<ref name=":2"/>
****生活環境論コース
****社会環境論コース
***環境先端科学講座([[国立環境研究所]]、[[産業技術総合研究所]]との連携講座。後期のみ)
*[[神戸大学大学院法学研究科|法学研究科]]
**理論法学専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、理論公共法、理論取引法、基礎法理論がある。いずれも博士講座。</ref>
***履修コース
****研究者コース
****社会人コース(前期課程のみ)
****専修コース(前期課程のみ)
****法曹リカレントコース(弁護士など職業法曹の有資格者が対象。科目等履修生のみ)
****高度専門職業人コース(後期課程のみ)
**政治学専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、政治理論、国際政策分析、現代政治分析がある。いずれも博士講座。</ref>
***履修コース
****研究者コース
****社会人コース(前期課程のみ)
****専修コース(前期課程のみ)
****高度専門職業人コース(後期課程のみ)
**実務法律専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、実務公共法、実務取引法、先端領域法がある。いずれも博士講座。</ref>([[専門職学位課程]]、[[法科大学院]])
*[[神戸大学大学院経済学研究科|経済学研究科]]
**経済学専攻<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、理論分析、歴史分析、計量・統計分析、技術・環境分析、産業・社会政策、金融・公共政策、国際経済政策、比較経済政策、グローバル経済分析、地域経済政策がある。グローバル経済分析と地域経済政策は協力講座で、それ以外は博士講座である。</ref>(2008年4月に、経済システム分析専攻と総合経済政策専攻を改組)
***前期課程に設けられた履修コース
****本科コース - 研究者養成のためのコース
****専修コース - 高度専門職業人を育成するコースで、原則平日開講。
****社会人コース - 高度専門職業人を育成するコースで、原則土曜日開講
***前期・後期課程で、社会人特別選抜による入学者を対象とした長期履修制度がある
*[[神戸大学大学院経営学研究科|経営学研究科]]<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、経営学(博士講座)、会計学(博士講座)、商学(博士講座)、国際戦略分析(協力講座)、マネジメント・システム設計(連携講座)、事業価値評価(連携講座)、経営戦略システム設計(連携講座)がある。なお、マネジメント・システム設計講座は[[野村総合研究所]]との連携講座、事業価値評価講座は[[GCA (企業)|GCA]]との連携講座、経営戦略システム設計講座は[[アクセンチュア]]との連携講座である。</ref>
**経営学専攻(2012年4月、前期・後期課程マネジメント・システム専攻、前期・後期課程会計システム専攻、前期・後期課程市場科学専攻、後期課程現代経営学専攻を改組)
***前期課程に設けられた履修コース
****本科履修コース
****戦略的共創経営イニシアティブプログラム履修コース(2013年4月に開始した教育プログラムで、プログラム自体は前期・後期一貫となる)
**現代経営学専攻([[経営学修士|MBA課程]]、[[経営大学院]])
***標準履修コース
***短期履修コース
*[[神戸大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]<ref>各専攻の講座、教育研究分野は、神戸大学大学院理学研究科規則による。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、連携講座以外は博士講座である。</ref>
**数学専攻
***解析数理講座
***:教育研究分野:関数方程式、関数解析、複素解析
***構造数理講座
***:教育研究分野:代数学、幾何学
***応用数理講座
***:教育研究分野:確率数理、組み合わせ数理、計算数理
***数理・経済プログラム教育コース(前期課程数学専攻の学生が履修対象)
**物理学専攻
***理論物理学講座
***:教育研究分野:素粒子理論、物性理論、量子物性論
***粒子物理学講座
***:教育研究分野:粒子物理学
***物性物理学講座
***:教育研究分野:低温物性物理学、極限物性物理学、量子ダイナミクス、電子物性物理学
**化学専攻
***物理化学講座
***:教育研究分野:分子動力学、物性物理化学、反応物理化学
***無機化学講座
***:教育研究分野:固体化学、溶液化学、状態解析化学
***有機化学講座
***:教育研究分野:有機反応化学、生命分子化学、有機分子機能
***理論生物化学講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[理化学研究所]]との連携講座</ref>
***構造解析化学講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[高輝度光科学研究センター]]との連携講座</ref>
**生物学専攻
***生体分子機構講座
***:教育研究分野:分子生理、細胞機能、情報機構
***生命情報伝達講座
***:教育研究分野:形質発現、遺伝情報、遺伝子機能
***生物多様性講座
***:教育研究分野:生態・種分化、進化・系統
***発生生物学講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[理化学研究所]] 発生・再生科学総合研究センターとの連携講座</ref>
***生物制御科学講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[住友化学]] 健康・農業関連事業研究所との連携講座</ref>
**地球惑星科学専攻
***基礎惑星学講座
***:教育研究分野:地質学、岩石学・鉱物学、固体地球物理学、流体地球物理学、惑星・宇宙物理学
***新領域惑星学講座
***:教育研究分野:実験惑星科学、観測海洋底科学、水惑星進化学
***惑星地球変動史講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[国立天文台]]、[[海洋研究開発機構]]との連携講座</ref>
***大気海洋環境科学講座(連携講座)<ref>神戸大学大学院理学研究科・理学部の広報誌(2015年版)によると、[[海洋研究開発機構]]との連携講座</ref>
**自然科学系プログラム教育コース(他の自然科学系研究科と連携したコースで、前期課程に設置。各コースの履修対象は、それぞれにおいて連携する専攻の所属学生となる)
***計算数理コース(理学研究科・数学専攻とシステム情報学研究科・情報科学専攻の連携)
***ゲノム機能科学コース(理学研究科・生物学専攻と農学研究科・資源生命科学専攻、同・生命機能科学専攻の連携)
***海洋環境科学コース(理学研究科・生物学専攻と同・地球惑星科学専攻、海事科学研究科・海事科学専攻の連携)
*[[医学研究科]]
**医科学専攻([[大学院#4年制博士課程(後期4年制博士課程)|4年制博士課程]])
***履修コース
****研究者育成課程(シングルメジャー、ダブルメジャー)
****医療人育成課程
****医学研究国際コース
****地域密着型放射線療法スペシャリスト養成コース
****地域密着型がん薬物療法専門医養成コース
****地域密着型がん緩和医療専門医養成コース
****地域密着型がん薬物療法専門薬剤師養成コース
****基礎・臨床融合先端がん研究者養成コース
****連携大学院臨床研究医養成コース
***講座<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、いずれも博士講座。教育研究分野・部門は、神戸大学院医学研究科・医学部のホームページ[http://www.med.kobe-u.ac.jp/gs/field/index.html]による。</ref>:生理学・細胞生物学<ref>教育研究分野・部門には、膜動態学、細胞生理学(細胞生理学、分子代謝医学<寄付講座>)、細胞分子医学(細胞分子医学、生体機能分子応用学<連携大学院>)、神経生理学、神経情報伝達学、神経発生学、神経分化・再生、分子脳科学(分子脳科学、病態脳科学<連携大学院>)、血管生物学、遺伝学、疾患モデル動物病態生理学、発生・再生医学<連携大学院>がある。</ref>、生化学・分子生物学<ref>教育研究分野・部門には、生化学、分子生物学、分子細胞生物学(分子細胞生物学、病態分子細胞生物学<連携大学院>、膜生物学、超微構造生物学<連携大学院>、シグナル統合学(シグナル統合学、病態シグナル学<寄附講座>)、シグナル伝達学、ゲノム生理学、薬理学、薬物動態学、統合創薬科学がある。</ref>、病理学<ref>教育研究分野・部門には、病理学、病理診断学(病理診断学、病理ネットワーク学<寄附講座>)、病理病態学、がん病理学がある。</ref>、微生物感染症学<ref>教育研究分野・部門には、微生物学、臨床ウイルス学、ワクチン学、感染制御学、感染病理学、感染治療学、細菌学、原虫・寄生虫学、感染症フィールド学<連携大学院>、感染・免疫学<連携大学院>(ウイルス感染、免疫制御、遺伝子医薬)がある。</ref>、地域社会医学・健康科学<ref>教育研究分野・部門には、医学教育学(医学教育学、地域医療教育学、地域医療支援学<寄附講座>)、地域医療ネットワーク学、医療協働推進学(臨床検査学、看護学、リハビリテーション学、緩和医療学、医療薬剤学、栄養管理学)、医療システム学(医療行政学、医療経済・病院経営学、医療法・倫理学、衛生学)、規制科学<連携大学院>、医学統計学、生物統計学、医薬食品評価科学、疫学、法医学、地域連携病理学<寄附講座>がある。</ref>、内科学<ref>教育研究分野・部門には、循環器内科学(循環器内科学、不整脈先端治療学<寄附講座>、循環器高度医療探索学<連携大学院>)、消化器内科学(消化器内科学、消化器先端医療開発、新規治療探索医学<連携大学院>)、呼吸器内科学(呼吸器内科学、睡眠呼吸管理学)、糖尿病・内分泌・総合内科学(糖尿病・内分泌内科学、総合内科学)、腎臓・免疫内科学(腎臓内科学、免疫内科学)、神経内科学、腫瘍・血液内科学、血液内科学がある。</ref>、内科系<ref>教育研究分野・部門には、放射線医学(放射線医学、放射線腫瘍学、機能・画像診断学、粒子線医学<連携大学院>、分子イメージング学<連携大学院>)、血管内治療学、小児科学(小児科学、こども急性疾患学<寄附講座>、こども総合療育学<寄附講座>)、皮膚科学、精神医学、臨床検査医学、立証検査医学([[シスメックス]])<寄附講座>、病因病態解析学、医療情報学、先端緩和医療学、病態情報学、薬剤学、バイオロジクス探索研究、システム病態生物学<連携大学院>、小児先端医療学<連携大学院>、iPS細胞応用医学がある。</ref>、外科学<ref>教育研究分野・部門には、食道胃腸外科学、肝胆膵外科学、乳腺内分泌外科学、心臓血管外科学(心臓血管外科学、心臓血管外科先端医療学<連携大学院>)、呼吸器外科学、小児外科学がある。</ref>、外科系<ref>教育研究分野・部門には、整形外科学(整形外科学、リハビリテーション運動機能学<連携大学院>)、リハビリテーション機能回復学<寄附講座>、脳神経外科学、眼科学、耳鼻咽喉科頭頸部外科学、腎泌尿器科学(腎泌尿器科学、泌尿器先端医療開発学<寄附講座>)、産科婦人科学、形成外科学、麻酔科学、口腔外科学、災害・救急医学、小児高度専門外科学<連携大学院>がある。</ref>
**バイオメディカルサイエンス専攻(修士課程)
***履修コース
****本科コース
****地域密着型医学物理スペシャリスト養成コース
*[[保健学研究科]]
**保健学専攻<ref>領域、分野は、「神戸大学大学院保健学研究科規則」による。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、講座には、看護学、病態解析学、リハビリテーション科学、地域保健学、国際保健学がある。いずれも博士講座。</ref>
***看護学領域
***:分野:看護実践開発学、在宅看護学、家族看護学(家族支援[[専門看護師|CNS]]コースを含む)、母性看護学
***病態解析学領域
***:分野: 分析医科学、細胞機能・構造科学、病態代謝学、臨床免疫学
***リハビリテーション学領域
***:分野:生体構造、運動機能障害学、脳機能・精神障害、健康情報科学<ref>保健学研究科のホームページ[http://www.ams.kobe-u.ac.jp/graduate/introduction/index.html]によると、連携講座。</ref>
***地域保健学領域
***:分野:地域保健学、健康科学
***国際保健学領域
***:分野:感染症対策、国際保健協力活動、国際開発
*[[神戸大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]<ref>講座、教育研究分野は、「神戸大学大学院工学研究科規則」による。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、連携講座、寄付講座以外はすべて博士講座。</ref>
**建築学専攻
***空間デザイン講座
***:教育研究分野:建築・都市デザイン、住宅・コミュニテイデザイン、構造デザイン、建築マネージメント
***建築計画・建築史講座
***:教育研究分野:建築史・歴史環境論、地域・住宅計画、建築・都市安全計画
***構造工学講座
***:教育研究分野:構造性能工学、構造制御工学、構造システム工学
***環境工学講座
***:教育研究分野:音・光環境計画、熱・空気環境計画、都市環境・設備計画
***地域減災計画講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/architecture.html]によると、[[消防研究所]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:地域減災計画
***持続的住環境創成講座([[積水ハウス]])<ref name=":1"/>
***:教育研究分野:持続的住環境創成([[積水ハウス]])
**市民工学専攻
***人間安全工学講座
***:教育研究分野:構造安全工学、地盤安全工学、交通システム工学、地盤防災工学、地震減災工学、流域防災工学
***環境共生工学講座
***:教育研究分野:環境流体工学、水圏環境工学、地圏環境工学、広域環境工学、都市保全工学、都市経営工学
**電気電子工学専攻
***電子情報講座
***:教育研究分野:集積回路情報、計算機工学、情報通信、アルゴリズム、知的学習論
***電子物理講座
***:教育研究分野:メゾスコピック材料学、フォトニック材料学、量子機能工学、ナノ構造エレクトロニクス、電磁エネルギー物理学
***機能性薄膜学講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/concept/renkei.html]によると、[[松下電器産業]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:機能性薄膜学
**機械工学専攻
***熱流体講座
***:教育研究分野:先端流体工学、混相流体工学、エネルギー変換工学
***材料物理講座
***:教育研究分野:構造安全評価学、破壊制御学、構造機能材料学
***システム設計講座
***:教育研究分野:機能ロボット学、センシングデバイス工学、生産工学
***先端機能創成学講座
***:教育研究分野:ナノ機械システム工学、材料設計工学
***知的製造システム講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/mechanical2.html]によると、[[神戸製鋼所]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:知的製造システム
***機能適応モデル講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/mechanical2.html]によると、[[情報通信研究機構]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:機能適応モデル
***開智型ものづくり講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/mechanical2.html]によると、[[川崎重工業]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:開智型ものづくり
**応用化学専攻
***物質化学講座
***:教育研究分野:物質創成化学、物質制御化学、物質機能化学
***化学工学講座
***:教育研究分野:反応・分離工学、プロセス工学、生物化学工学
***局所場反応・物性解析学講座<ref name=":3">工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/chemical2.html]によると、[[産業技術総合研究所]]・関西センターとの連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:局所場反応・物性解析学
***化学エネルギー変換プロセス学講座<ref name=":3"/>
***:教育研究分野:化学エネルギー変換プロセス学
***生物機能工学講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/chemical2.html]によると、[[サントリー生命科学財団]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:生物機能工学
***製剤設計生産工学講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/chemical2.html]によると、[[アステラス製薬]]・製剤研究所との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:製剤設計生産工学
***ケミカル・バイオセンシング講座<ref>工学研究科のホームページ[http://www.eng.kobe-u.ac.jp/department/chemical2.html]によると、[[産業技術総合研究所]]との連携講座。主に博士後期課程の学生を教育研究指導。</ref>
***:教育研究分野:ケミカル・バイオセンシング
***サスティナブルケミストリー講座([[日本触媒]])<ref name=":1"/>
***:教育研究分野:サスティナブルケミストリー([[日本触媒]])
**健康・福祉・医療工学コース(前期課程に設置。全専攻の学生が選択できる)
**マルチメジャーコース(専攻横断的なサブコースで、全専攻の学生が選択できる)
***熱流体エネルギーコース
***ナノテク材料コース
***知能工学コース
***生活生命コース
***防災安全工学コース
**自然科学系プログラム教育コース(前期課程に設置)
***計算ロボティクスコース(工学研究科・機械工学専攻とシステム情報学研究科・計算科学専攻が連携)
***バイオリファイナリーコース(工学研究科・応用化学専攻と農学研究科・生命機能科学専攻が連携)
***減災戦略コース(工学研究科・建築学専攻と同・市民工学専攻、海事科学研究科・海事科学専攻が連携)
*[[システム情報学研究科]]<ref>講座、教育研究分野は、「神戸大学大学院システム情報学研究科規則」による。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、連携講座以外はすべて博士講座。</ref>
**システム科学専攻
***システム基盤講座
***:教育研究分野:システム計画、システム設計、システム計測、システム制御
***システム創成講座
***:教育研究分野:システム数理、システム構造、システム知能
***応用システム講座<ref>システム情報学研究科のホームページ[http://www.csi.kobe-u.ac.jp/gaiyou/kouza/index.html]によると、[[三菱電機]]・先端技術総合研究との連携講座</ref>
***:教育研究分野:応用システム
**情報科学専攻
***情報基礎講座
***:教育研究分野:情報数理、アーキテクチャ、ソフトウェア
***知能情報講座
***:教育研究分野:情報システム、知的データ処理、メディア情報、創発計算
***感性アートメディア講座<ref>システム情報学研究科のホームページ[http://www.csi.kobe-u.ac.jp/gaiyou/kouza/index.html]によると、[[国際電気通信基礎技術研究所]]との連携講座</ref>
***:教育研究分野:感性アートメディア
**計算科学専攻
***計算科学基礎講座
***:教育研究分野:計算基盤、計算知能、計算流体、シミュレーション技法
***計算科学創成講座
***:教育研究分野:計算分子工学、計算生物学、計算ロボティクス、計算宇宙科学
***先端計算科学講座<ref>システム情報学研究科のホームページ[http://www.csi.kobe-u.ac.jp/gaiyou/kouza/index.html]によると、[[理化学研究所]]との連携講座</ref>
***:教育研究分野:先端計算科学
***応用計算科学講座<ref>システム情報学研究科のホームページ[http://www.csi.kobe-u.ac.jp/gaiyou/kouza/index.html]によると、[[海洋研究開発機構]]との連携講座 </ref>
***:教育研究分野:応用計算科学
***大規模計算科学講座<ref>システム情報学研究科のホームページ[http://www.csi.kobe-u.ac.jp/gaiyou/kouza/index.html]によると、理化学研究所・計算科学研究機構との連携講座</ref>
***:教育研究分野:大規模計算科学
***計算科学インテンシブコース(博士号取得を目指し、前期課程から後期課程に渡る一貫的教育を行う)
**自然科学系プログラム教育コース(前期課程に設置)
***計算ロボティクスコース(工学研究科・機械工学専攻とシステム情報学研究科・計算科学専攻が連携)
***計算数理コース(理学研究科・数学専攻とシステム情報学研究科・情報科学専攻の連携)
*[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学研究科]]<ref>講座、教育研究分野は、「神戸大学大学院農学研究科規則」による。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、連携講座以外はすべて博士講座。</ref>
**食料共生システム学専攻
***生産環境工学講座
***:教育研究分野:水環境学、土地環境学、施設環境学、地域共生計画学、農産食品プロセス工学、生体計測工学、生物生産機械工学、生物生産情報工学
***食料環境経済学講座
***:教育研究分野:食料経済学、食料生産管理学、食料情報学
**資源生命科学専攻
***応用動物学講座
***:教育研究分野:動物遺伝育種学、動物多様性利用科学、生殖生物学、発生工学、栄養代謝学、分子形態学、組織生理学、感染症制御学、動物遺伝資源開発学、細胞情報学
***応用植物学講座
***:教育研究分野:資源植物生産学、植物育種学、森林資源学、園芸植物繁殖学、園芸生産開発学、園芸生理生化学、熱帯有用植物学、植物遺伝資源開発学
***食料生産フィールド科学講座(連携講座)<ref>「2015年農学研究科パンフレット」[http://www.ans.kobe-u.ac.jp/kenkyuuka/img/2015kenkyuu1.pdf]によると、後期課程のみ募集。[[兵庫県立農林水産技術総合センター]]との連携講座[http://hyogo-nourinsuisangc.jp/chuo/kikaku/5-sangakukan/5b-grad_school.htm]</ref>
***:教育研究分野:食料生産フィールド科学
**生命機能科学専攻
***応用生命化学講座
***:教育研究分野:生物化学、食品・栄養化学、天然有機分子化学、有機機能分子化学、環境分子物理化学、植物機能化学、動物資源利用化学、微生物機能化学、微生物資源化学、生物機能開発化学
***農環境生物学講座
***:教育研究分野:土壌学、植物栄養学、植物遺伝学、細胞機能構造学、環境物質科学、細胞機能制御学、植物病理学、昆虫分子機能科学、昆虫多様性生態学
**自然科学系プログラム教育コース(前期課程に設置)
***ゲノム機能科学コース(理学研究科・生物学専攻と農学研究科・資源生命科学専攻、同・生命機能科学専攻の連携)
***バイオリファイナリーコース(工学研究科・応用化学専攻と農学研究科・生命機能科学専攻が連携)
***国際食料流通コース(農学研究科・食料共生システム学専攻と海事科学研究科・海事科学専攻の連携)
*[[海事科学研究科]]
**海事科学専攻<ref>領域、教育研究分野は、海事科学研究科のホームページにある博士課程前期課程(修士)概要[http://www.maritime.kobe-u.ac.jp/admission/pdf/m_outline.pdf]、博士課程後期課程(博士)概要[http://www.maritime.kobe-u.ac.jp/admission/pdf/d_outline.pdf]による。「神戸大学大学院海事科学研究科規則」によると、講座には、海事マネジメント科学、海洋ロジスティクス科学、マリンエンジニアリング、海洋環境計測科学(連携講座)、地域環境科学(連携講座)がある。さらに、海事マネジメント科学講座の教育研究分野には「海事管理」、「人的要素管理」、「海事関連法規」、「浮体管理」、「航海情報科学」、「船舶機関管理」、「海事危機管理」、「海事環境保全」が、海洋ロジスティクス科学講座の教育研究分野には「輸送計画科学」、「輸送情報科学」、「貨物管理科学」、「貨物包装材料科学」、「海上交通情報システム科学」、「海洋情報計測科学」、「海洋利用科学」が、マリンエンジニアリング講座の教育研究分野には「構造強度シミュレーション工学」、「海洋機器設計制御学」、「海洋応用エネルギー科学」、「燃焼環境科学」、「粒子ビーム応用科学」、「環境エネルギー物質科学」、「環境応用計測科学」が、海洋環境計測科学講座の教育研究分野には「海洋環境計測科学」が、地域環境科学講座の教育研究分野には「地域環境科学」がある。「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、連携講座以外は博士講座。</ref>
***海事マネジメント科学領域
***:教育研究分野:海事管理、人的要素管理、海事関連法規、浮体管理、航海情報科学、船舶機関管理、海事危機管理、海事環境保全
***海洋ロジスティクス科学領域
***:教育研究分野:輸送計画科学、貨物輸送科学、輸送情報科学、海洋環境科学
***マリンエンジニアリング領域
***:教育研究分野:シミュレーション工学、メカトロ設計制御工学、環境応用エネルギー科学、放射線エネルギー応用科学、エネルギー物性科学
***連携領域
***:教育研究分野:海洋環境計測科学(後期課程のみ)、地域環境科学
**自然科学系プログラム教育コース(前期課程に設置)
***国際食料流通コース(農学研究科・食料共生システム学専攻と海事科学研究科・海事科学専攻の連携)
***減災戦略コース(工学研究科・建築学専攻と同・市民工学専攻、海事科学研究科・海事科学専攻が連携)
***海洋環境科学コース(理学研究科・生物学専攻と同・地球惑星科学専攻、海事科学研究科・海事科学専攻の連携)
*[[神戸大学大学院国際協力研究科|国際協力研究科]]<ref>「神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則」によると、協力講座以外はすべて博士講座。</ref>
**専攻(募集は専攻ごとではなく一括して行われる)
***国際開発政策専攻
***:講座:開発経済論講座、開発政策論講座、開発計画論講座、国際構造調整論(協力講座)、比較経済発展論(協力講座)、地域経済論(協力講座)、日本経済論(協力講座)
***国際協力政策専攻
***:講座:国際協力法講座、トランスナショナル関係論講座、政治社会発展論講座、国際比較法制講座(協力講座)、国際変動論講座(協力講座)、現代政治論講座(協力講座)
***地域協力政策専攻
***:講座:開発運営論講座、制度構築論講座、国際防災論講座(協力講座)、保健医療論講座(協力講座)、教育協力論講座(協力講座)
**教育プログラム
***国際学プログラム
***開発・経済プログラム
***国際法・開発法学プログラム
***政治・地域研究プログラム
***開発政策特別コース(英語による講義が開設されており、英語で学位が取得できる)
*科学技術イノベーション研究科<ref>神戸大学の講座及び学科目並びに研究部門に関する規則によると、修士講座として、バイオ・環境、先端IT、先端医療学、アントレプレナーシップがある。</ref>(修士課程)
** 科学技術イノベーション専攻
**:教育研究分野<ref>研究内容紹介パンフレット[http://www.stin.kobe-u.ac.jp/data/data/pamphlet.pdf]による。なお、2017年入学生用の学生募集要項[http://www.stin.kobe-u.ac.jp/jyukensei/pdf/H29ippan_bosyu.pdf]によると、出願時に選択する指導教員群は、アントレプレナーシップを除く4分野に分かれている。</ref>:バイオプロダクション、先端膜工学、先端IT、先端医療学、アントレプレナーシップ<!--
===== (専門職大学院) =====
※専門職大学院の課程([[専門職学位]]課程]が通常の大学院とは別組織になっている場合は、大学の実情に合わせて別掲とする。
==== 専攻科 ====-->
==== 別科 ====
*乗船実習科
**海事科学部を卒業した者で、海技士の免許を受けようとするものに対し乗船実習を行う。修業年限は6カ月。
***航海課程
***機関課程<!--
==== 短期大学部 ====
※学校教育法上、短期大学と大学は、それぞれが別々の1つの学校である。よって必要な場合は、独立した記事を立ててここでは簡便な記述に留める。-->
==== 教員組織 ====
*人文・人間科学系
**人文学域
**国際文化学域
**人間発達環境学域
*社会科学系
**法学域
**経済学域
**経営学域
**国際協力学域
**先端経済経営研究学域
*自然科学系
**理学域
**工学域
**システム情報学域
**農学域
**海事科学域
*生命・医学系
**医学域
**保健学域
==== 附属機関 ====
[[画像:Kuirc.jpg|250px|thumb|統合研究拠点]]
[[画像:Kobe University - panoramio (1).jpg|250px|thumb|インキュベーションセンター]]
*機構
**大学教育推進機構
***大学教育推進本部
***国際教養教育院
***国際コミュニケーションセンター
***大学教育研究推進室
**国際連携推進機構
***EU総合学術センター
***アジア総合学術センター
***米州交流室
***国際教育総合センター
**学術研究推進機構
***学術・産業イノベーション創造本部
*基幹研究推進組織
**バイオシグナル総合研究センター
**内海域環境教育研究センター
**都市安全研究センター
**分子フォトサイエンス研究センター
**海洋底探査センター
**社会システムイノベーションセンター
*附置研究所
**[[神戸大学経済経営研究所|経済経営研究所]]
***研究部門
****グローバル経済
****企業競争力
****企業情報
****グローバル金融
***共同研究推進室
***附属企業資料総合センター
***機械計算室
***寄託図書館
****国連寄託図書館
****IMO寄託図書館
*附属図書館{{Anchors|附属図書館}}
**総合図書館
**専門図書館
***社会科学系図書館
***自然科学系図書館
***人文科学図書館
***国際文化学図書館
***人間科学図書館
***経済経営研究所図書館
**分館
***医学分館
****保健科学図書室
***海事科学分館
**研究開発室
**大学文書史料室
*附属学校部
**[[神戸大学附属幼稚園|附属幼稚園]]
**[[神戸大学附属小学校|附属小学校]]
**[[神戸大学附属中等教育学校|附属中等教育学校]]
**[[神戸大学附属特別支援学校|附属特別支援学校]]
*先端融合研究推進組織
**先端融合研究環
***自然科学・生命医学系融合研究領域
***統合研究領域
***人文・社会科学系融合研究領域
[[画像:KOBE-University-hospital.jpg|200px|thumb|医学部附属病院]]
*学部・研究科附属機関
**医学部
***[[神戸大学医学部附属病院|附属病院]]
***医学部附属国際がん医療・研究センター
**人間発達環境学研究科
***附属発達支援インスティテュート
****心理教育相談室
****ヒューマン・コミュニティ創成研究センター
****教育連携推進室
****サイエンスショップ
****アクティブエイジング研究センター
**医学研究科
***附属動物実験施設
***附属感染症センター
**農学研究科
***附属食資源教育研究センター
****資源開発部門
****:植物資源開発分野、動物資源開発分野
****生産フィールド部門
****連携利用部門
**海事科学研究科
***附属国際海事研究センター
****海事教育研究部門
****海事安全管理研究部門
****海事政策科学研究部門
****海事産業研究部門
****海事環境エネルギー研究部門
****海事輸送研究部門
***附属練習船[http://cs.maritime.kobe-u.ac.jp/tsf/ 深江丸]
*学内共同基盤組織
**情報基盤センター
***教育支援基盤研究部門
***学術情報処理研究部門
***ネットワーク基盤研究部門
***事務情報システム部門
**研究基盤センター
***研究設備サポート推進室
***研究支援室
***アイソトープ部門
***機器分析部門
***極低温部門
***加速器部門
**環境保全推進センター
***環境企画部門
***環境管理部門
**計算科学教育センター
***スーパーコンピュータ教育部門
***プリ・ポスト教育部門
***連携教育部門
***シミュレーション教育研究部門
**保健管理センター
***楠分室
***深江分室
**キャリアセンター
**キャンパスライフ支援センター
**アドミッションセンター
*その他の施設
**神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センター
**東京オフィス
**神戸大学百年記念館(神大会館)
**瀧川記念学術交流会館
**出光佐三記念六甲台講堂
**はとぽっぽ保育所
**[http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/ 海事博物館]
**[http://www.office.kobe-u.ac.jp/ksui-yamaguchiseishi/ 山口誓子記念館]<!--
※数が多い、あるいは特徴的な機関があるという場合には、上記一覧表を掲示した下へ下記のように節を入れて解説することも考慮すべきである。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節に出来るほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
=== 研究 ===
==== 21世紀COEプログラム ====<!--
※[[21世紀COEプログラム]]の採択がある場合はこの項目を立てて以下のように記述する。
* 採択x件
* 20xx年
: [[分野名]]
:: 採択プロジェクト名-->
{|class="wikitable"
!採択年度!!分野!!プログラム名
|-
|平成14年度<br>(2002年度)
|生命科学
|蛋白質のシグナル伝達機能
|-
|rowspan="6"|平成15年度<br>(2003年度)
|医学系
|糖尿病をモデルとしたシグナル伝達病
|-
|数学・物理学・地球科学
|惑星系の起源と進化
|-
|機械・土木・建築・その他工学
|安全と共生のための都市空間デザイン戦略
|-
|rowspan="3"|社会科学
|「市場化社会の法動態学」研究教育-規範生成・規整・紛争管理の多元性をめぐる理論構築と臨床応用-
|-
|新しい日本型経済パラダイムの研究教育-グローバル化と人口減少下の持続可能経済-
|-
|先端ビジネスシステムの研究開発教育
|}
==== グローバルCOEプログラム ====
{|class="wikitable"
!採択年度!!分野!!プログラム名<ref>[http://www.research.kobe-u.ac.jp/ksui-gcoe/index_j.html 神戸大学グローバルCOEプログラム]</ref>
|-
|平成19年度<br>(2007年度)
|生命科学
|統合的膜生物学の国際教育研究拠点
|-
|rowspan="2"|平成20年度<br>(2008年度)
|医学系
|次世代シグナル伝達医学の教育研究国際拠点
|-
||数学・物理学・地球科学
|惑星科学国際教育研究拠点の構築
|}
=== 教育 ===<!--
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すこともできる。
* 現代的教育ニーズ取組支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 特色ある大学教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学教育の国際化推進プログラム
** ○○プロジェクト
* 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学・大学院における教員養成推進プログラム
** ○○プロジェクト-->
*大学院教育改革支援プログラム
**平成19年度
***文化情報リテラシーを駆使する専門家の養成
***正課外活動の充実による大学院教育の実質化
***経営学研究者の先端的養成プログラム
***大学連合による計算科学の最先端人材育成
**平成20年度
***古典力と対話力を核とする人文学教育
***アジアにおける双方向型保健学教育の実践
*資質の高い教員養成推進プログラム
**平成18年度
***地域文化を担う地歴科高校教員の養成―我が国の人文科学分野の振興に資する国立大学と公立高校の連携プロジェクト―
*法科大学院等専門職大学院教育推進プログラム
**平成16年度
***教育高度化推進プログラム 実務基礎教育の在り方に関する調査研究(共同プロジェクト)
***教育高度化推進プログラム プロジェクト方式によるMBA教育の高度化
**平成18年度
***大学と企業における経営教育の相乗的高度化―B-Cスクール連携の仕組みづくりと高度専門職教材の開発―
*現代的教育ニーズ取組支援プログラム
**平成16年度
***地域歴史遺産の活用を図る地域リーダーの養成
**平成17年度
***震災教育システムの開発と普及―阪神淡路大震災の経験を活かして―
***PEPコース導入による先進的英語教育改革: 総合大学におけるプロフェッショナル・イングリッシュ・プレゼンテーション能力育成プログラムの開発
*大学教育の国際化推進プログラム
**平成17年度
***アジア農業戦略に資する国際連携教育の推進―国際的指導者を育成する革新的な学部連携教育プログラムの開発―
**平成18年度
***国際海事セキュリティ管理の高度教育推進
*大学教育の国際化加速プログラム
**平成20年度
***数式処理の実践能力を備える高度人材の育成―産学連携による広域型教育システムの正課教育としての体系化―
*地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラム
**平成17年度
***総合病床でのクリニシャンエデュケーター養成
*「魅力ある大学院教育」イニシアティブ
**平成17年度
***国際水準に挑む次世代政治学研究者養成計画
***教育組織と手法のRe-bundling(共同研究を軸とする経済学の先端教育)
***経営学研究者養成の先端的教育システム
***国際交流と地域連携を結合した人文学教育
***国際政策学研究者養成に向けた大学院教育
***生命医科学リサーチリーダー育成プログラム
*産学連携による実践型人材育成事業-サービス・イノベーション人材育成-
**平成20年度
***サービス産業における価値創造・獲得を果たすイノベーション創出のための人材育成プログラムの開発
=== 教育・研究活動のあゆみ ===<!--
※大学の学問的な特徴の概略をこちらでまとめる。各学部ごとに詳細な内容をまとめる必要がある場合は後述の学部をまとめた項目で記すこと。さらに歴史的社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
*前身の神戸高等商業学校が[[1906年]]([[明治]]39年)に日本で初めて発行した経済・経営・商学の論文集である「[[国民経済雑誌]]」は現在も神戸大学によって継続発行されており、日本で最も長い歴史を持つ経済・経営・商学の学術雑誌となっている。
*[[1968年]]、経済経営研究所図書館に、[[国連寄託図書館]]を設置。
*:国連がその精神や活動状況を広く世界中の人々に知らせるために、関係資料を寄託、無料で公開する図書館。世界で405ヶ所、日本では現在14ヶ所に設置されている。
*[[1986年]]、附属人文・社会科学系図書館(現:社会科学系図書館)を、人文・社会科学系の[[外国雑誌センター館]]として指定。
*:外国雑誌センター館は、外国で出版される学術雑誌を体系的に収集し、全国的な利用に供することを目的として設置されており、現在、人文・社会科学系、医学・生物学系、理工学系、農学系の4つの分野について、 全国で9つの国立大学附属図書館が指定を受けている。人文・社会科学系としては、神戸大学・[[一橋大学]]の両附属図書館が指定されている(一橋大学は社会科学系のみ)。
*[[1989年]]、日本の国立大学としては初となる[[経営学修士|MBAプログラム]]を開講。
*[[1992年]]、国際政策・開発に従事する人材育成のため大学院として[[国際協力研究科]]を設立。
*[[2005年]]、[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]が食資源教育研究センターで育てた[[但馬牛]]の肉を[[大学ブランド]]「神戸大学ビーフ」として商品化することに成功。
*[[2005年]]、[[EUインスティテュート関西]](EUIJ関西)
*:[[欧州連合]] (EU) の高度な学術研究、教育・広報活動の推進および日本・EU間の関西における国際交流拠点として、EUからの資金援助を得て、神戸大学・大阪大学・[[関西学院大学]]の3大学から成るコンソーシアムとして設立。幹事校は神戸大学。
*[[2005年]]、[[文部科学省]]の[[大学国際戦略本部強化事業]]に採択される。
*[[2006年]]、[[大学院]]国際文化学研究科に異文化交流センターを新たに設置。
*[[2007年]]、膜工学拠点としては日本初となる大学院工学研究科先端膜工学センターを設置。大学院理学研究科に[[惑星科学研究センター]]を設置。
*[[2007年]]、[[神戸薬科大学]]と学術交流協定を締結。
*[[2008年]]、[[大学院]]国際文化学研究科にメディア文化研究センターを新たに設置。
*[[2009年]]、[[神戸大学大学院経営学研究科・経営学部|大学院経営学研究科]]と[[慶應義塾大学大学院経営管理研究科]]、[[京都大学]]大学院経営管理教育部による、[[経営学修士|MBAプログラム]]経営管理人材教育に関する3校包括提携がスタート。
*[[2009年]]、[[神戸大学大学院農学研究科・農学部|大学院農学研究科]]が[[財団法人]][[名古屋みなと振興財団]]([[名古屋港水族館]])と、野生動物の学術に係る相互の研究と教育の交流を促進する協定を締結<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kobe-u.ac.jp/archive/news/2009/20091125_2.html |title= 農学研究科が名古屋港水族館と学術交流協定を結びました |publisher= 神戸大学 |date= 2009-11-25 |accessdate= 2020-07-03 }}</ref><ref>[http://www.nagoyaaqua.jp/sp/contents.php?contents=2017022215051901 神戸大学大学院農学研究科との学術交流協定]{{リンク切れ|date=2020年7月}} - 名古屋港水族館</ref>。野生動物の繁殖を含めた種の保存に係る情報交換および技術交流ならびに共同研究を開始。
*[[2010年]]
**[[旧三商大]]の[[一橋大学]]・[[大阪市立大学]]と教育交流に関する協定を締結。
**[[大学院]][[システム情報学研究科]]を設置。
**[[早稲田大学]]が[[先端医療]]の新しい研究拠点を、ポーアイ2期地区にある神戸大学のインキュベーション施設「神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センター」内に近く設ける。神戸大などと、[[生活習慣病]]の先進的な予防や治療法の開発に取り組む。
**神戸大や[[岐阜薬科大学]]など5大学による研究グループは、脳の[[海馬 (脳)|海馬]]と呼ばれる部位に多く存在する特定の[[遺伝子]]が記憶に関与していることを突き止めたと発表した。
*[[2011年]]、医学部と大学院医学研究科が、[[早稲田大学]]の先端科学・健康医療融合研究機構との間で、先端医療の研究活動で協力する連携協定を締結。
*[[2013年]]、[[EUエキスパート人材養成プログラム]]<ref name=”KUPES” />の実施を期して、日欧連携教育府を設置。
*[[2014年]]、大学院国際文化学研究科に[[国際文化学研究推進センター]]を、異文化交流センターとメディア文化研究センターを統合して設立。
*[[2016年]]、国際連携機構に[[国際教育総合センター]]を、留学生センター(1993年4月~2016年3月)とEUIJ関西(2005年の記事を参照)及び日欧連携教育府の3つの組織を統合して設置。
== 学生生活 ==<!--
学生自治会に関係する内容は、適宜下位の節に織り込む。
=== 部活動・クラブ活動・サークル活動 ===
○○大学では{部活動|クラブ活動|サークル活動}は…
※各大学によって、これら活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。全公認学生団体・部・サークルのリストを掲載しなければ大学に関して説明できないという特段の事情がある場合には、歴史的社会的にどのような価値を持つのかをふまえながらどのような事情であるのかを関係者以外でも理解できるように記述可能な場合のみ、事前にノートで合意を形成した上でこの節にまとめる。
=== 学園祭 ===
※学園祭の規模が大きい場合はこの項目の名称を学園祭名で立ててもよい。またキャンパスによって学園祭が別途開催されている場合にはそれぞれ節を作り説明してもよい。-->
=== 学園祭 ===
==== 六甲祭 ====
:[[神戸大学#六甲台第1キャンパス|六甲台キャンパス]]の[[大学祭|学園祭]]。毎年11月上旬に行われる。来場者数は約4万人(六甲祭実行委員会調べ)。
*歴史
**[[1980年]]([[昭和]]55年) 第1回六甲祭開催。
**[[1995年]]([[平成]]7年) [[阪神・淡路大震災|震災]]があったものの、第16回六甲祭開催。
**[[2002年]](平成14年) 学生の抗議によりミスコンが廃止される。
**[[2011年]](平成23年) 六甲祭実行委員会によりミスコンが復活。
**[[2013年]](平成25年) 六甲台第一キャンパスが工事のため、深江キャンパスにて開催。
**[[2020年]]([[令和]]2年) 新型コロナウイルス感染症の影響で第41回六甲祭中止。
**[[2021年]](令和3年) 前年に引き続き第42回六甲祭中止。
**[[2022年]](令和4年) 3年ぶりに対面で第43回六甲祭開催。
*主な企画
**プロコンサート
**講演会
**King of Stage:KUBC(神戸大学放送委員会)が企画・運営。
**園遊会ステージ:応援団総部が企画・運営。
*六甲祭実行委員会
**公式ウェブサイト:{{URL|http://www.rokkosai-kobe-univ.site/}}
**六甲祭実行委員会は六甲祭の企画・運営の中核を担っている。委員長を中心に、総務局、室内企画局、屋外企画局、模擬店局、広報局の5部局から構成されている。
==== 厳夜祭 ====
:夜間主コースの学園祭。六甲祭1日目終了後の午後5時より2日目の午前7時までオールナイトで開催される、異色の学園祭となっている。神戸大学の学園祭としては最も長い歴史を持つ。当初は夜間主コース(当時の名称は第Ⅱ課程)と生協学生委員会・医学部医学科等による「合同祭」として開催されていた。夜間主コースはすでに廃止されており、所属学生も順次卒業していることから、大学側は厳夜祭の廃止を求めている。昼間主コースの学生で構成される厳夜祭実行委員会は存続を求めるための署名活動の他、六甲祭とは異なる基軸として学生ボランティア団体「学生震災救援隊」らとの協力や地域社会との連携・交流を打ち出している。2014年度前期で夜間主生が全員卒業したことを受け、2015年6月に実行委員会は厳夜祭を六甲祭の一企画として実施することを決めた。
:* 歴史
:** [[1974年]]([[昭和]]49年) 第1回厳夜祭開催
:** [[2014年]]([[平成]]26年) 第41回厳夜祭開催。アルコール提供の廃止・午後10時までの開催に縮小
:** [[2015年]](平成27年) 単独開催を断念し、六甲祭に吸収される
:*主な企画
:**プロコンサート
:**講演会
:**King of Stage:KUBC(神戸大学放送委員会)が企画・運営。
:**園遊会ステージ:応援団総部が企画・運営。
==== 大倉山祭 ====
:[[#楠キャンパス|楠キャンパス]](医学部医学科)の学園祭。
==== 名谷祭 ====
:[[#名谷キャンパス|名谷キャンパス]](医学部保健学科)の学園祭。毎年10月中旬に行われる。
*主な企画
**お笑いライブ
**ビンゴ大会
**模擬店
==== 深江祭 ====
:深江キャンパス(海事科学部)の学園祭。
:*毎年5月に行われる。深江祭実行委員会が企画・構成を行う。体験乗船、ビンゴ大会、お笑いライブ、模擬店など。
=== スポーツ ===<!--
※学生スポーツの詳細はこの節でまとめる。部活動の一環として行われているものが多い場合は、その中に織り込むことも可能である。所属連盟に関してはここで記す。-->
*[[アメリカンフットボール]]部はチーム名を[[神戸大学レイバンズ]]といい、[[立命館大学パンサーズ|立命館大学]]や[[関西学院大学ファイターズ|関西学院大学]]など、強豪がひしめく1部リーグ、[[関西学生アメリカンフットボール連盟|関西学生リーグ Division 1]]に1997年から2016年までの20年間連続して所属していた。1990年にはリーグ優勝の期待が高まったが、俗に「国立決戦」と呼ばれる1敗同士の[[京都大学ギャングスターズ|京都大学]]とのリーグ最終戦に敗れ、[[甲子園ボウル]]出場はならなかった。1990年代中盤以降低迷し2部リーグに陥落した。1997年の1部リーグ復帰以降は中 - 下位を前後した。2016年の入れ替え戦で21年ぶりに2部に降格したが、1シーズンでDivision1への復帰を決めた。
*[[京都大学]]との間で[[体育会]]中心に「神京戦」というクラブ活動での対抗試合などが行われている。硬式野球の[[関西六大学野球連盟 (旧連盟)|旧関西六大学リーグ]]構成校は[[関関同立]]4校と京都大学と旧神戸商業大学(旧神戸経済大学を経て、戦後は神戸大学)の6大学であったが、その中の[[官立大学]]同士の好カードとして人気を集めていた。旧関西六大学リーグ解体後、京都大学と所属リーグが分かれたため、現在の「神京戦」として復活させたもの。なお、応援団による「神京戦前夜祭」も行われ、毎年多くの学生が昼休みの時間に見物をしている。ちなみに、京都大学ではこの対抗戦は当然のことながら「京神戦」と呼ばれている。
*大阪市立大学および一橋大学との間では体育会中心に「三商大戦」というクラブ活動での対抗試合など春から秋にかけて行われている。詳細は[[#国内他大学との協定など|後述]]。
*フットサル部は、[[全日本大学フットサル大会]]において'''全国大学最多計4回の優勝'''を誇る強豪である。
*タッチ・フットボール部女子は、'''全国大学最多計23回(さくらボウル9回・シュガーボウル3回・プリンセスボウル11回)の優勝'''を誇る強豪である。
== 大学関係者と組織 ==
=== 大学関係者 ===<!--
※「大学関係者で組織される諸組織」の定義と範囲についてはプロジェクト:大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準参照。ただし、学生自治会は「学生生活」節で、出版関係組織など大学本部が自ら掌握している組織は「附属機関」節で、それぞれ解説する。なお、この基準で範囲外となっている組織については次節「社会との関わり」において解説するが、その際は「社会との関わり」節の掲載基準に適合していることを条件とする。また、範囲外の組織であり、かつ別記事において解説されている組織に関しては「関連項目」節でリンクを行う。-->
神戸大学の[[同窓会]]は略歴にあるような事情から学部・学科・研究科別に複数の組織が存在している。神戸大学の同窓組織としてマスメディアなどでよく名前の挙がる[[凌霜会|社団法人凌霜会]]は旧神戸高等商業学校・旧神戸商業大学・旧神戸経済大学とその系譜を組む経済学研究科・経営学研究科・法学研究科・国際協力研究科の4部局ならびに関係する各学部の卒業生と在学生のみを対象とした同窓組織であり、他研究科・学部の卒業生は入会できない組織となっている。そのため、神戸大学全体を代表する同窓組織ではない。
全学横断型の各同窓会の連合体として、[http://www.kobe-u.com/ 神戸大学学友会]が1979年に設立されている。
神戸大学が公式に存在を認めている同窓会と、その対象となる学部学科は以下の通り。(それぞれ、前身となる学校・学部・研究科等を含む)
*文窓会(文学部・人文学研究科)
*翔鶴会(国際文化学部・国際文化学研究科)
*紫陽会(発達科学部・人間発達環境学研究科)
*[[凌霜会|社団法人凌霜会]](経済学部・経営学部・法学部・経済学研究科・経営学研究科・法学研究科・国際協力研究科)
*くさの会(理学部・理学研究科)
*[[神緑会|社団法人神緑会]](医学部医学科・医学研究科)
*就進会(医学部保健学科・保健学研究科)
*[[神戸大学工学振興会|社団法人神戸大学工学振興会]](工学部・工学研究科・システム情報学研究科)
*六篠会(農学部・農学研究科)
*海神会(海事科学部・海事科学研究科)
=== 大学関係者一覧 ===<!--
※大学関係者の一覧はプロジェクト‐ノート:大学/人物一覧記事についてで協議されたように大学の記事自体には挿入せず別に記事を作成する。ここでは、人物一覧記事へのリンクを列挙する。なお、大学の人物一覧記事に関してはプロジェクト:大学/人物一覧記事についての基準に従うこと。-->
{{See|神戸大学の人物一覧}}
== 施設 ==
神戸大学のキャンパスは全て神戸市内に所在し、一部を除いて殆どの付属施設が神戸市内のキャンパスに存在する。
=== キャンパス ===<!--
※各キャンパスの特徴や概要はこの節に以下のような箇条書きの見出しを付けた形式でまとめる。該当する項目が不明な場合には、冒頭の基準にあるようにコメントアウトで隠しておく。
* 最寄り駅:○○線○○駅
* ○○キャンパス内には○○の木が多く植えられているがこれは…
※サテライトキャンパスを除き、複数のキャンパスを設置している大学は以下のように各キャンパスを節に区分けしてまとめることもできる。また、キャンパス共通で何か特記すべき内容がある場合にはこの節で説明する。節に分ける場合には以下の記述例の通り、キャンパスの施設的な概要をまとめた部分とその特色を示した部分を一行空ける。また、特色が多い場合にはさらに小節にして説明することも可能である。-->
大学公式ホームページ等では「地区」または「キャンパス」という呼称が並存している。キャンパス名に関しては、医学部・医学系研究科と海事科学部・海事科学研究科のキャンパスは所在地の地名があてられている。それ以外の学部・研究科のキャンパスの場合、キャンパス名は学部名を冠したものや地名を冠したものとで揺れがある。
==== 六甲台地区 ====
[[画像:Kobe-University-Entrance.jpg|250px|thumb|六甲台キャンパス正門]]
本地区は[[六甲山]]とその山の手に広がる住宅地に接しており、事務局・附属図書館・医学部と海事科学部を除く各学部・研究科および付属施設が存在する。この地区へ行く際には、[[阪神電鉄]][[御影駅 (阪神)|御影駅]]・[[新在家駅]]、[[西日本旅客鉄道|JR]][[六甲道駅]]および[[阪急電鉄]][[六甲駅]]から[[神戸市営バス]]、タクシー、あるいは徒歩といった方法がある。学生のマイカー通学は禁止されているため、下宿生を中心にバイクで通学する者が多い(最寄駅からキャンパスへは非常に険しい坂道なので、原付を含めたバイク所有者の割合は非常に高い)。地区内の移動は基本的には徒歩である。
六甲台地区の敷地面積は、435,378 m{{sup|2}}。
===== 鶴甲第2キャンパス =====
*使用学部:発達科学部、国際人間科学部(発達コミュニテイ学科、環境共生学科、子ども教育学科)
*使用研究科:人間発達環境学研究科
*使用付属施設:人間科学図書館
*所在地:兵庫県神戸市灘区鶴甲3丁目11番({{Coord|34|44|0.4|N|135|14|4.2|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学鶴甲第2キャンパス}})
*最寄のバス停留所は、[[神戸市営バス]][[36系統 (神戸市営バス)|36系統]]「神大人間発達環境学研究科前」
本キャンパスは全学のキャンパスの中で最北に位置し、南東側に鶴甲第1キャンパスがある。この両キャンパスの間には[[神戸市立鶴甲小学校]]があり、そのさらに南東を[[兵庫県道95号灘三田線]]が通る。
===== 鶴甲第1キャンパス =====
*使用学部:国際文化学部、国際人間科学部(グローバル文化学科)
*使用研究科:国際文化学研究科
*使用付属施設:国際コミュニケーションセンター、大学教育推進機構、総合・国際文化学図書館
*所在地:兵庫県神戸市灘区鶴甲1丁目2番1号({{Coord|34|43|48.7|N|135|14|11.5|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学鶴甲第1キャンパス}})
*最寄のバス停留所は、神戸市営バス[[16系統 (神戸市営バス)|16系統]]「神大国際文化学研究科前」
本キャンパスでは語学、一般教養、総合教養、教養原論等の全学共通授業科目の講義が行われており、国際文化学部が設置される以前は、全学に一般教養教育を行っていた教養部があった。本キャンパス側から灘三田線を跨ぐ歩道橋を渡った所に学生会館があり、その西側に六甲台キャンパスが、南側に工学部キャンパスがある。2008年5月に工学部店に次ぐ2店目の[[セブン-イレブン]]国際文化学部店が開店した(場所はA棟1階)<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.sej.co.jp/sej_case/case/satellite/kobe-u-tsuru.html |title= 神戸大学鶴甲第1キャンパス店 |work= 事例紹介 |publisher= セブン-イレブン・ジャパン |accessdate= 2020-07-03 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20101006053204/http://www.sej.co.jp/sej_case/case/satellite/kobe-u-tsuru.html |archivedate= 2010-10-06 }}</ref>。
===== 六甲台第1キャンパス =====
*使用学部:法学部、経済学部、経営学部
*使用研究科:法学研究科、経済学研究科、経営学研究科、国際協力研究科
*使用付属施設:[[神戸大学経済経営研究所|経済経営研究所]]、社会科学系図書館、経済経営研究所図書館、学生会館など
*所在地:兵庫県神戸市灘区[[六甲台町]]2番1号({{Coord|34|43|42.2|N|135|14|5.3|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学六甲台第1キャンパス}})
*最寄のバス停留所は、主に神戸市営バス36系統「神大正門前」。法学部および図書館などへ直接向う場合は「六甲台」。
**旧神戸経済大学(神戸商業大学)以来のメインキャンパス。旧神戸商業大学[[校門|正門]]も、現在の神戸大学正門として引き継がれている。
**1929年(昭和4年)に大学昇格を果たした旧神戸商業大学が、手狭になった旧葺合校地から、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に築かれた[[赤松城|赤松城址]](現在の[[六甲台]]キャンパス)に順次移転。1935年(昭和10年)には新学舎竣工式を挙行。
**社会科学系の学部および大学院研究科を指して、「六甲台」と呼ぶことが多い。
**本キャンパス内の旧神戸経済大学(神戸商業大学)学舎群、現在の六甲台本館(1932年、昭和7年築)・社会科学系図書館(1933年、昭和8年築)・兼松記念館(1935年、昭和10年築)・講堂(同じく1935年、昭和10年築)・武道場(艱貞堂)は[[登録有形文化財]]になっている<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/bunkazai/j_touroku_ken.html 神戸市ホームページ(国の登録有形文化財)]</ref><ref>[http://gipsypapa.exblog.jp/tags/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E5%AD%A6/ レトロな建物を訪ねて(神戸大学)]</ref>。
**2009年、上記六甲台講堂の改修工事にあたって[[出光興産]]社より多額の寄付を受け、同社の要望によりOBである創業者[[出光佐三]](旧制[[神戸高等商業学校]]卒:第三期生)の名を冠し、改修完了後の正式名称を「出光佐三記念六甲台講堂」とした。
**なお、兼松記念館は二代目。神戸商業大学の六甲台移転後の葺合校地は、旧制神戸市立中学校の校地となり、戦後はその後身校たる[[神戸市立葺合高等学校]]に継承され現在に至っている。旧神戸高等商業学校時代に寄贈・竣工された初代兼松記念館(1921年、大正10年竣工)は、長らく旧市立中の本館として使用されていたが、戦災により大破、その後損傷の激しい2階部分を除去し1階建に改築して神戸市立葺合高等学校の本館として長く使用されていた(なお旧神戸高等商業学校時代の石造の正門は、現在も神戸市立葺合高等学校正門として使用されている)。現在は改築され、第一体育館として使われている。
**[[1995年]][[1月17日]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]で犠牲になった神戸大学関係者の霊を悼むため、兵庫県南部地震神戸大学犠牲者慰霊碑が六甲台本館の前庭に建立されており、毎年同日に献花が行われている。
**ごく一部に「六甲台キャンパス」という呼び方がある。
**南東側に[[工学部]]キャンパスが、西側に[[神戸松蔭女子学院大学]]や[[六甲中学校・高等学校]]が位置する。
===== 六甲台第2キャンパス =====
新制神戸大学の誕生後、第2次世界大戦後の[[進駐軍]]の居住区域であった[[六甲ハイツ]]跡地を利用し、[[姫路市]]、[[明石市]]、[[西代駅|西代]]・松野(神戸市長田区)、[[住吉村 (兵庫県)|赤塚山]]・[[御影 (神戸市)|御影]](神戸市東灘区)に分散されていた各学部の学舎を1960年代に移転配置させてできたキャンパス<ref>{{Cite web|和書
|author = 上田 雄
|url = http://home.kobe-u.com/lit-alumni/omoide14.html
|title = 文理学部・文科の思い出
|accessdate = 2008-11-18
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|author = 神戸大学
|url = http://www.kobe-u.ac.jp/info/history/zentai.htm
|title = 1949(昭和24)年設置以降の神戸大学沿革の概説
|accessdate = 2008-11-18
}}</ref>。工学部棟、文理農各学部棟、先端融合研究環を含む自然科学総合研究棟がある。({{Coord|34|43|34.7|N|135|14|7.1|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学六甲台第2キャンパス}})
;工学部棟周辺
*使用学部:工学部
*使用研究科:工学研究科、システム情報学研究科
*使用付属施設:学術情報基盤センター、都市安全研究センター、研究基盤センター機器分析部門、保健管理センター、自然科学系図書館など
*所在地:兵庫県神戸市灘区六甲台町1番1号
*最寄のバス停は、主に神戸市営バス36系統「神大本部工学部前」、都市安全研究センターや研究基盤センター機器分析部門へ直接向う場合は16系統「神大国際文化学研究科前」も。
工学部棟周辺のみを指して「工学部キャンパス」とも呼ぶ。2007年4月、ここに関西の大学の中で初めて[[セブン-イレブン]]が出店した。西隣に文理農学部棟があり、少し隔てた東側には[[親和女子中学校・高等学校]]がある。
;文理農学部棟周辺
*使用学部:文学部、理学部、農学部
*使用研究科:人文学研究科、理学研究科、農学研究科、科学技術イノベーション研究科
*使用部局:学術・産業イノベーション創造本部、先端融合研究環(自然科学・生命医学系融合研究拠点)
*使用付属施設:バイオシグナル総合研究センター、分子フォトサイエンス研究センター、研究基盤センターアイソトープ部門・極低温部門、環境管理センター、神戸大学百年記念館(国際教育総合センター留学生教育部門、神大会館)、瀧川記念学術交流会館、[[山口誓子]]記念館、人文科学図書館など
*所在地:兵庫県神戸市灘区六甲台町1番1号
*最寄のバス停は、神戸市営バス36系統「神大文理農学部前」
文理農学部棟周辺を単独で「文理農学部キャンパス」、あるいは「文理農キャンパス」とも呼ぶ。また、文学部 (Letters)、農学部 (Agriculture)、旧自然科学研究科 (Nature Sciences)、理学部 (Science) の頭文字をとって「LANSキャンパス」とも呼ばれている。
==== 楠地区 ====
===== 楠キャンパス =====
*使用学部:医学部医学科{{efn|医学部医学科を指して「楠」ということがある。}}
*使用研究科:医学研究科
*使用附属施設:医学部附属病院、医学部附属動物実験施設、医学医療国際交流センター、附属図書館医学分館
*所在地:兵庫県神戸市中央区楠町7丁目5番1号({{Coord|34|41|0.7|N|135|10|15.2|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学楠キャンパス}})
*敷地面積:51,063 m{{sup|2}}(2021年5月時点)
*最寄り駅は[[神戸市営地下鉄]][[大倉山駅 (兵庫県)|大倉山駅]]
==== 名谷地区 ====
===== 名谷キャンパス =====
[[画像:Kobe-Univ-Myodani-2012042903.jpg|200px|thumb|名谷キャンパス]]
*使用学部:医学部保健学科{{efn|医学部保健学科を指して「名谷」ということがある(読み方は'''みょうだに'''である)。}}
*使用研究科:保健学研究科
*使用付属施設:保健科学図書室など
*所在地:兵庫県神戸市須磨区友が丘7丁目10番2号({{Coord|34|40|19.9|N|135|5|55.2|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学名谷キャンパス}})
*敷地面積:33,330 m{{sup|2}}(2021年5月時点)
*最寄り駅は神戸市営地下鉄[[名谷駅]]
*最寄のバス停は、神戸市営バス[[76系統 (神戸市営バス)|76系統]]「友が丘中学校前」
==== 深江地区 ====
===== 深江キャンパス =====
[[画像:Kobe-Univ-Fukae-2011122902.jpg|200px|thumb|深江キャンパス]]
*使用学部:海事科学部
*使用研究科:海事科学研究科
*使用付属施設:海事博物館、国際海事教育研究センター、練習船深江丸、附属図書館海事科学分館など
*所在地:兵庫県神戸市東灘区[[深江南町]]5丁目1番1号({{Coord|34|43|8.7|N|135|17|21.3|E|type:edu_region:JP|name=神戸大学深江キャンパス}})
*敷地面積:94,547 m{{sup|2}}(2021年5月時点)
*最寄り駅は[[阪神電鉄]][[深江駅 (兵庫県)|深江駅]]およびJR[[甲南山手駅]]
=== 学生寮 ===
*住吉寮({{〒}}658-0063 神戸市東灘区住吉山手7丁目3番1号)- 男子寮。鉄筋コンクリート4階建。1人部屋。収容定員194人
*住吉国際学生宿舎({{〒}}658-0063 神戸市東灘区住吉山手7丁目3番1号)- 鉄筋コンクリート5階建。1人部屋。収容定員は男子78人、女子58人
*白鴎寮({{〒}}658-0015 神戸市東灘区本山南町1丁目4番50号)- 鉄筋コンクリート3階建、4階建、6階建。1ユニット4個室。収容定員は男子192人、女子24人
*国維寮({{〒}}657-0813 神戸市灘区高尾通3丁目2番33号)- 鉄筋コンクリート5階建。男女共用。1人部屋。収容定員134人
*女子寮{{efn|保安上の理由により所在地は非公表。}} - 鉄筋コンクリート4階建。1人部屋。収容定員78人
=== 学生会館 ===
[[学生会館]]には文化系サークルの[[部室]]や書籍販売・アルバイトの情報を提供する生協書店が存在する。六甲台キャンパス内にあり、位置的には六甲台5部局(経済学研究科、経営学研究科、法学研究科、国際協力研究科、経済経営研究所)・工学研究科・国際文化学研究科の各校舎の中間地点である。
=== その他の施設 ===
神戸市外にある神戸大学関連の施設としては、上述の神戸大学ビーフを開発した農学研究科附属食資源教育研究センターが[[加西市]]に、基幹研究推進組織内海域環境教育研究センターのマリンサイトが[[淡路市]]に、海事科学研究科附属国際海事教育研究センターの淡路海洋実験実習場が[[南あわじ市]]に、そして、神戸市中央区には、先端融合研究環統合研究拠点、[[神戸医療産業都市構想]]に関わる神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センターおよびインキュベーションセンターが存在する。<!--
=== 学生食堂 ===
○○大学の学生食堂(学食)は…
※学食に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 講堂 ===
○○大学のホールは…
※講堂やホールに関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 学生会館 ===
○○大学には学生会館があり…
※学生会館に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 寮 ===
○○大学の寮は…
※学生寮などが設置されている場合には、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
※そのほか、大学の施設に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。大学施設を独立した記事とする場合には別途設定されている基準に従う。-->
== 対外関係 ==<!--
※同一法人の運営する教育機関以外の組織との関係はこの節で説明する。大学自らが違いについて公式に広報しているケースなど、類似名称の教育機関との関係有無について説明をしておく必要がある場合は小節に分けず、本節直下で解説を行う。-->
=== 地方自治体との協定 ===<!--
※地方自治体と何らかの文章による調印のなされた協定が締結されている場合にはこちらの項目に列挙する。同一協定に複数自治体が入っている場合には箇条を同一とし、同じ協定名でも個別締結の場合にはそれぞれを分割して提示する。箇条名はできるだけ正式な協定名をそのまま提示する。
* ○○市及び××市の市民が○○大学図書館を利用する事に関する協定(1985年締結)
** ○○市
** ××市
* △△市の市民が○○大学図書館を利用する事に関する協定(1985年締結)
** △△市
※他の大学と何らかの文章による調印のなされた協定が締結されている場合にはこちらの項目に列挙する。-->
立地している地域の関係で、主に兵庫県や県下の市町との協定締結が大半<ref name="sindairenkei" />である。
*[[神戸市]][[灘区]](締結日2004年12月2日)
(「地域福祉向上、産業振興、教育・文化・スポーツの振興及び発展、人材育成、まちづくりのための連携」を目的としている)
*[[小野市]](締結日2005年1月26日)
(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)
*[[朝来郡]][[生野町]](締結日2005年3月23日)
(「文化・教育及び学術の分野で援助・協力し、生涯学習等に関する諸課題や文化遺産を活用した地域との連携事業について協同で研究等に参画」することを目的としている)
*[[兵庫県]](まちづくり担当部)(締結日2005年12月2日)
(「県下の市町や県民が取り組むまちづくり、文化及び学術の分野で連携し、地域の歴史的資源の活用、優れた景観の形成等を通じたまちづくりに関する調査・研究」を目的としている)
*兵庫県(締結日2009年3月10日)
(県と共同で医療行政の研究を実施することで、地域医療に貢献することを目的としている)
*[[加西市]](締結日2009年5月19日)
(文化・教育・学術の各分野で連携することで、生涯学習等に関わる諸問題や文化遺産を活かした地域との連携事業について協力・共同して研究等へ参画することを目的としている)
*兵庫県(締結日2010年8月2日)
(地域の課題に迅速かつ適切に対応し、活力ある個性豊かな地域社会の形成や発展を支援を目的としている)
*[[丹波篠山市]](2010年8月30日)
(長年培われてきた協力連携実績や信頼関係を活かし、さらなる地域活性化と発展を目的としている)
その他、学部や学科ごとに、連携協定を締結している場合もある。こちらも主に兵庫県下の自治体や病院等との提携がほとんどである。例外的に自治体ではないが、[[国立療養所邑久光明園]]([[岡山県]][[瀬戸内市]])等の、県外公共施設との連携協定締結を行っている学科(発達科学部人間発達環境学研究科等)もある<ref name = sindairenkei>[http://www.office.kobe-u.ac.jp/crsu-chiiki/index.html 神戸大学地域連携推進室HP]</ref>。
==== 国内他大学との協定など ====
*[[旧三商大|旧制商科大学]]([[一橋大学]]、[[大阪公立大学]]、神戸大学)
*:第二次世界大戦前の旧制商科大学からの流れを汲む一橋大学([[東京商科大学 (旧制)|旧制東京商科大学]])と大阪公立大学([[大阪商科大学 (旧制)|旧制大阪商科大学]])の間では毎年体育会系部活動や文科系ゼミの交流が行われている。 これらの交流会やスポーツ対戦はいずれも「旧三商大柔道大会」などのように「旧三商大」という名称が使用されている。また、単純に「三商戦」ともいわれる。
*:2010年からは、上記の3大学間の交流関係を、実際の学術・教育面にも展開するための協定が締結された。
*[[放送大学学園]]と単位互換協定を結んでおり、放送大学で取得した単位を卒業に要する単位として認定することができる<ref>{{PDFlink|[https://www.ouj.ac.jp/hp/nyugaku/tanigokan/pdf/tanigokan_annai.pdf 放送大学 2019年度 単位互換案内]}}</ref>。
=== 交流協定校 ===
共同研究や研究者・学生の交流を行うため、176の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる(2019年5月1日現在)。また、237の大学・機関と部局間協定を締結している(2019年5月現在。以下のリストには含まれていない)。
※大学・機関名(締結年)
<div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:2em">
*[[アジア]]
**{{KOR}}
***[[韓国海洋大学校]] 2003年10月6日
***[[漢陽大学校]] 2001年2月23日
***[[高麗大学校]] 2012年5月15日
***[[群山大学校]] 2003年10月1日
***[[済州大学校]] 2017年7月10日
***[[全南大学校]] 2005年2月22日
***[[成均館大学校]] 2002年10月15日
***[[ソウル大学校]] 2015年10月19日
***[[釜山大学校]] 2001年7月20日
***[[木浦大学校]] 2002年5月20日
**{{CHN}}
***[[華中師範大学]] 2019年1月3日
***[[厦門大学]] 2015年1月23日
***[[内蒙古農業大学]] 2015年3月10日
***[[華中科技大学]] 2011年10月12日
***[[華東師範大学]] 2000年8月31日
***[[吉林大学]] 2016年8月24日
***[[合肥工業大学]] 2018年9月14日
***[[山東大学]] 2000年5月8日
***[[四川大学]] 2017年3月13日
***[[上海海事大学]] 2003年10月1日
***[[上海交通大学]] 2009年4月9日
***[[清華大学]] 2016年5月18日
***[[浙江大学]] 2008年1月27日
***[[西安交通大学]] 2018年8月21日
***[[大連海事大学]] 2003年12月1日
***[[大連理工大学]] 2018年6月11日
***[[中国医科大学]] 2000年9月23日
***[[中国海洋大学]] 2006年9月6日
***[[中国科学院大学]] 2018年2月6日
***[[中国人民大学]] 2014年3月21日
***[[中国農業大学]] 2018年6月28日
***[[中山大学]] 2000年7月17日
***[[中南財経政法大学]] 2001年3月16日
***[[東北大学 (中国)|東北大学]] 2016年3月17日
***[[南開大学]] 2008年11月3日
***[[南京工業大学]] 2018年5月11日
***[[南京大学]] 2017年2月17日
***[[武漢大学]] 2016年4月26日
***[[復旦大学]] 2008年3月12日
***[[北京外国語大学]] 2019年1月15日
***[[北京師範大学]] 2018年1月18日
***[[北京大学]] 2000年10月10日
***[[香港大学]] 2016年6月28日
***[[香港中文大学]] 2019年2月18日
**{{TWN}}
***[[国立清華大学]] 2017年7月11日
***[[国立成功大学]] 2016年9月29日
***[[国立政治大学]] 2017年7月21日
***[[国立台湾海洋大学]] 2003年10月1日
***[[国立台湾大学]] 2002年2月27日
***[[台北医学大学]] 2015年5月20日
***[[中央研究院]] 2016年7月27日
***[[東呉大学]] 2017年2月20日
**{{MNG}}
***[[ウランバートル大学]] 2001年1月31日
***[[モンゴル国立大学]] 2014年9月29日
**{{PHL}}
***[[フィリピン大学]][[ディリマン校]] 2014年8月25日
***フィリピン大学[[ロスバニョス校]] 2016年4月21日
**{{VNM}}
***[[国民経済大学]] 2007年2月2日
***[[ダナン大学]] 2013年8月7日
***[[日越大学]] 2018年4月12日
***[[ハノイ科学技術大学]] 2018年4月16日
***[[フエ農林大学]] 2018年1月3日
***[[ベトナム国家大学]]ハノイ人文社会科学大学 2016年11月22日
***ベトナム国家大学ホーチミン市 2014年4月17日
***[[貿易大学]] 2019年3月11日
**{{MYS}}
***[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン大学]] 2014年12月6日
***[[マレーシア国民大学]] 2017年12月6日
**{{SGP}}
***[[南洋理工大学]] 2016年12月1日
**{{IDN}}
***[[アイルランガ大学]] 2018年7月17日
***[[インドネシア大学]] 2004年10月27日
***[[ガジャ・マダ大学]] 2014年12月11日
***[[シアクアラ大学]] 2016年1月29日
***[[スラバヤ工科大学]] 2003年12月29日
***[[ボゴール農業大学]] 2017年4月4日
***[[ランプン大学]] 2015年7月10日
**{{KHM}}
***[[王立プノンペン大学]] 2016年9月15日
**{{LAO}}
***[[ラオス国立大学]] 2001年5月10日
**{{THA}}
***[[タンマサート大学]] 2000年5月23日
***[[マヒドン大学]] 2012年10月1日
***[[ラジャモンコン工科大学タンヤブリ校]] 2018年9月26日
**{{MYA}}
***[[ヤンゴン経済大学]] 2015年2月4日
**{{BGD}}
***[[バングラデシュ農業大学]] 2013年5月20日
**{{ISR}}
***[[ヘブライ大学]] 2019年4月11日
**{{TUR}}
***[[イスタンブール工科大学]] 2004年1月15日
***[[ハラン大学]] 2017年7月21日
**{{GEO}}
***[[トビリシ国立大学]]
*[[アフリカ]]
**{{EGY}}
***[[カイロ大学]] 2009年7月16日
**{{MWI}}
***[[リロングウェ農業自然資源大学]] 2019年2月5日
</div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:2em">
*[[オセアニア]]
**{{AUS}}
***[[ウーロンゴン大学]] 2017年7月24日
***[[クイーンズランド大学]] 2015年11月5日
***[[ニューサウスウェールズ大学]] 2018年6月29日
***[[西オーストラリア大学]] 2015年10月5日
*[[北アメリカ]]
**{{USA}}
***[[エモリー大学]] 1983年9月19日
***[[カリフォルニア海事大学]] 2003年10月1日
***[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]] 2015年12月16日
***[[ジョージア工科大学]] 2017年10月30日
***[[ニューヨーク市立大学クイーンズ校]] 2015年2月2日
***[[ネブラスカ大学リンカーン校]] 2018年9月7日
***[[ハワイ大学マノア校]] 2017年3月25日
***[[ピッツバーク大学]] 2016年4月4日
***[[南カリフォルニア大学]] 2018年2月6日
***[[南フロリダ大学]] 2011年4月11日
***[[メーン海事大学]] 2003年10月1日
***[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]] 2003年8月1日
**{{CAN}}
***[[オタワ大学 (カナダ)|オタワ大学]] 2015年1月13日
*[[中央アメリカ]]、[[南アメリカ]]
**{{PRY}}
***[[ノルテ大学]] 2011年10月9日
**{{BRA}}
***[[サンパウロ大学]] 2018年5月24日
***[[リオデジャネイロ州立大学]] 2004年2月26日
**{{MEX}}
***[[グアダラハラ大学]] 2007年2月9日
*[[ヨーロッパ]]
**{{IRL}}
***[[アイルランド国立大学ゴールウェイ校]] 2018年7月31日
**{{GBR}}
***[[エセックス大学]] 2001年4月3日
***[[オックスフォード大学]] 2011年3月2日
***[[グラスゴー大学]] 1999年8月10日
***[[ケント大学]] 2016年2月25日
***[[シェフィールド大学]] 1989年2月24日
***[[ダンディー大学]] 2013年3月25日
***[[バーミンガム大学]] 1999年10月28日
***[[東洋アフリカ研究学院]] 2017年3月30日
**{{FRA}}
***[[エクス=マルセイユ大学]] 2017年3月23日
***[[エセック・ビジネススクール]] 2016年11月30日
***[[グルノーブル・アルプ大学]] 2018年7月12日
***[[ストラスブール大学]] 2013年3月14日
***[[トゥールーズ国立工科大学]] 2018年2月27日
***[[パリ第7大学]] 2016年1月5日
***[[パリ第10大学]] 2006年4月6日
***[[パリ第13大学]] 2011年7月8日
***[[パリ大学|パリ第2大学]](パンテオン・アサス大学)2005年7月14日
***[[リール大学]] 2018年7月24日
***[[リヨン高等師範学校]] 2015年4月10日
**{{DEU}}
***[[アーヘン工科大学]] 2018年7月10日
***[[カールスルーエ工科大学]] 2017年12月11日
***[[クリスティアン・アルブレヒト大学キール]] 2016年5月12日
***[[ダルムシュタット工科大学]] 2018年4月3日
***[[トリーア大学]] 2015年6月2日
***[[ハンブルク工科大学]] 2018年2月28日
***[[ベルリン経済法科大学]] 2015年10月5日
***[[ホーエンハイム大学]] 2010年10月25日
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**{{ITA}}
***[[ヴェネツィア大学]] 2011年5月10日
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***[[ボッコーニ大学]] 2015年1月26日
***[[ボローニャ大学]] 2016年3月18日
**{{ESP}}
***[[バルセロナ大学]] 2016年9月30日
**{{BEL}}
***[[サンルイ大学 (ベルギー)|サンルイ大学]] 2014年4月1日
***[[ブリュッセル自由大学 (フランス語)|ブリュッセル自由大学(フランス語系)]] 2017年9月25日
***[[ブリュッセル自由大学 (オランダ語)|ブリュッセル自由大学(オランダ語系)]] 2010年9月3日
***[[ヘント大学]] 2009年12月4日
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***[[グラーツ医科大学]] 2015年8月28日
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***[[マネジメントセンターインスブルック]] 2018年3月23日
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***[[カレル大学]] 2006年11月2日
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***7研究機関([[プロブディフ農科大学]]他6件)2005年7月1日
***[[ソフィア大学]] 2012年7月25日
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***[[バベシュ・ボヨイ大学]] 1998年11月18日
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***[[リガ工科大学]] 2015年2月25日
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***[[ヴィリニュス・ゲディミナス工科大学]]
**{{RUS}}
***[[ウラル連邦大学]] 2018年6月8日
***[[サンクトペテルブルク大学]] 2016年11月25日
</div>{{clear|left}}<!--
=== 姉妹校 ===
* ○○大学
=== 関係校 ===
* ○○大学
=== 系列校 ===
* ○○大学
※姉妹校・関係校・系列校は大学あるいは設置者が正式に発表しているものをその表現で扱う。創立者が同一など歴史的に関係があるとしても大学あるいは設置者が正式にその事実を明確に発表していないものは掲載しない。たとえ地方公共団体やマスメディアが記事として取り上げていた内容であっても大学が正式に公表していない事例は掲載しない。
※これ以外の組織との文章で調印のなされた協定が存在する場合には本大節直下に節を立てずに説明するか、あるいは数が多い場合には適宜小節を立てて説明を試みる。-->
== 附属学校園 ==<!--
※学校教育法上、それそれの学校と大学は、別々の1つの学校である。よって必要な場合は、独立した記事を立ててここでは簡便な記述に留める。-->
*[[神戸大学附属幼稚園]](明石地区・[[明石市]])
*[[神戸大学附属小学校]](明石地区・明石市)
*[[神戸大学附属中等教育学校]](住吉地区・神戸市[[東灘区]])
*[[神戸大学附属特別支援学校]](大久保地区・明石市)
改組前は以下の附属学校が存在した。
*住吉地区
**[[神戸大学附属住吉小学校]]
**[[神戸大学附属住吉中学校]](附属中等教育学校の前身)
*明石地区
**[[神戸大学附属明石小学校]](附属小学校の前身)
**[[神戸大学附属明石中学校]]・神戸大学附属中等教育学校明石校舎
== 不祥事 ==
* 学生に対するハラスメント事件 - 2022年3月4日、神戸大は、指導するゼミの学生に暴言を吐くなどしたとして、いずれも40代の男性准教授2人を停職1カ月の懲戒処分にしたと発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/info/2022_03_04_01.html|title=教員の懲戒処分について|website=神戸大学公式サイト|date=2022-03-04|accessdate=2023-09-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220313102820/https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/info/2022_03_04_01.html|archivedate=2022-03-13}}</ref>。1人は2021年1月、卒業研究の指導を無断で欠席した4年生の女子学生に「お前不可だぞ。なめてんのか。殺すぞ」と怒鳴り、椅子を蹴飛ばすなどした。もう1人は2020年10月ごろ、4年生の男子学生に「幼稚すぎて指導するレベルにない」などと人格を否定する発言を繰り返し、他大学の大学院に合格した別の男子学生にも「研究内容を持ち出される。もう指導しない」などと発言した<ref>{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202203/0015109684.shtml|title=「お前不可だぞ。なめてんのか。殺すぞ」 神戸大准教授2人、学生に暴言で停職処分”|newspaper=神戸新聞NEXTS|date=2022-3-4|accessdate=2023-3-4}}</ref>。
== 企業からの評価 ==
=== 人事担当者からの評価 ===
*2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、神戸大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書|url= http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf|title=日本の大学数 2021年度は788大学|journal=今月の視点|issue=172|date=2021-04-01|publisher=旺文社 教育情報センター|accessdate=2021-07-18|format=PDF}}</ref>中、第8位<ref name="日経HR" />にランキングされた。
=== 出世力 ===
*[[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[https://univrank2.blog.shinobi.jp/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0/%E5%87%BA%E4%B8%96%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、神戸大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中、第12位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。
*『[[週刊エコノミスト]]』(2010年8月31日号)に掲載された、「卒業生数の割に役員・管理職の人数が多い度合い」で、神戸大学は、2010年時点で存在する全国の778大学<ref name="reform">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai5/siryou1.pdf 日本の人口推移と大学数の推移|大学改革 参考資料 平成30年2月 内閣官房人生100年時代構想推進室 14/17頁]</ref>中、第29位にランキングされた<ref>[https://www.r-agent.com/guide/news/20120105_1_2.html 「有名大学卒ほど出世しやすい」はもはや昔の話?小樽商科、滋賀、大阪市立――地方の意外な実力校|週刊エコノミスト(2010年8月31日号)より]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==<!--
実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい)-->
* {{Cite book|和書|title=神戸大学概覧 2021|url=https://www.kobe-u.ac.jp/documents/info/outline/outline/2021/2021_all.pdf|date=2021-10|editor=神戸大学総務部広報課|publisher=神戸大学|format=PDF|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211102002543/https://www.kobe-u.ac.jp/documents/info/outline/outline/2021/2021_all.pdf|archivedate=2021-11-02|ref=神戸大学概覧_2021}}
* [https://web-pamphlet.jp/kobe-u/2022e40/ 神戸大学アウトライン2022](WEBパンフレット)
== 関連項目 ==<!--
※大学に関する関連項目は原則として本文中にリンクする。関連項目は原則として使用しない。たとえば何かの説明をするために創立者の出身地を紹介する必要がある場合には必要とする項目へ記載する。本文では説明できないが関連項目として他の記事にリンクをする必要がある場合には事前にノートで理由とともに提案を行い、同意が得られた場合にのみ掲載できる。-->
{{Commonscat|Kobe University}}
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==<!--
※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。-->
{{Wikibooks|神戸大対策|神戸大学}}
*[[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]]
**[[b:神戸大対策|神戸大対策]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kobe-u.ac.jp/ 国立大学法人神戸大学]
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{{神戸大学}}
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<!--運営形態など-->
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[[Category:神戸大学|*]]
[[Category:日本の国立大学]]
[[Category:兵庫県の大学|こうへ]]
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[[Category:日本のアール・デコ建築]]
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1182年
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1182年(1182 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1182年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[伊勢平氏|平家方]] : [[養和]]2年、[[寿永]]元年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]] -
** [[清和源氏|源氏方]] : [[治承]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1842年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[淳熙]]9年
** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]22年
* 中国周辺
** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]5年?
** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]13年
** [[大理国]] : [[嘉会]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[明宗 (高麗王)|明宗]]12年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3515年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[貞符]]7年
* [[仏滅紀元]] : 1724年 - 1725年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 577年 - 578年
* [[ユダヤ暦]] : 4942年 - 4943年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1182|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月1日]]([[養和]]元年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]):[[高倉天皇]]の中宮[[平徳子]]が女院(建礼門院)となる{{要出典|date=2021-04}}。
* [[6月29日]](同2年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]):[[寿永]]と改元する。
* [[9月13日]](寿永元年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]):[[後白河天皇|後白河法皇]]の皇女[[亮子内親王]]が[[安徳天皇]]の准母として皇后となる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1182年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月11日]]([[寿永]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[源頼家]]、[[鎌倉幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1204年]])
* [[アレクシオス4世アンゲロス]]、[[東ローマ帝国]][[アンゲロス王朝]]の第3代[[皇帝]] (+ [[1204年]])
* [[恵信尼]]、[[浄土真宗]]の宗祖の[[親鸞]]の妻 (+ [[1268年]]?)
* [[正親町三条公氏]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[正二位]][[権大納言]] (+ [[1237年]])
* [[プラノ・カルピニ]]、[[ヴェネツィア共和国]]の修道士 (+ [[1252年]])
* [[広橋頼資]]、鎌倉時代の公卿、[[権中納言]] (+ [[1236年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1182年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]](養和元年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[藤原聖子]]、[[崇徳天皇]]の[[中宮]](* [[1122年]])
* [[3月21日]](寿永元年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[伊東祐親]]、[[平安時代]]の[[武将]](* 生年未詳)
* [[5月12日]] - [[ヴァルデマー1世 (デンマーク王)|ヴァルデマー1世]]、[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]](* [[1131年]])
* [[乗丹坊]]、平安時代の[[法相宗]]の僧(* 生年未詳)
* [[マリー・ダンティオケ]]、[[東ローマ帝国]]皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]の2度目の皇后(* [[1145年]])
* [[藤原敦頼]]、平安時代の[[公家]]、[[歌人]](* [[1090年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1182}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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旧石器時代
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旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。
区分法により、各文化は大きく3つの時代に分類される。
日本における旧石器時代は、後期については、北は北海道から南は九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている(旧石器捏造事件を参照)。中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。 捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。
人類の生きた最古の時代である旧石器時代の人口推定値が、研究者によって算定した基準の違いがあるが、発表されている。旧石器時代前期(260万〜20万年前)12万5千人、同中期(20万〜4万年前)100〜120万人、同後期(4万〜1万3千年前)220〜300万人。
氷河期下の前期旧石器時代には概ねホモ・ハビリスやホモ・エレクトスなどの原人類、中期旧石器時代には概ねネアンデルタール人などの旧人類が石器を武器にして群れで動物の狩りをしていた時代であり社会構造ははっきりしない。判明しているのは原始的な採集、集団生活の痕跡、樹の皮や獣皮の加工をしていた事である。火の利用は100万年前程度からである。後の方の更新世の北京原人などは次第に洞穴に住まい、若干の言語を使っていたようである。ネアンデルタール人はマンモス等の狩りなどで石器も次第に高度なものとなり小屋を作って器具の加工、獲物の解体や火炉で調理をしていた。埋葬の習慣も見られ、壁画などを描き始める。
社会と呼べるものが検証できるのは後期旧石器時代、概ね新人類(クロマニョン人など、諸説あり)が登場してからである。石器類はさらに高度化し槍、釣り針、網なども使われた。集落での集団生活を中心として栄えた痕跡が顕著となる。集団間での抗争や交易、集団内での原始的な宗教儀礼も確認される。
大きな変化が現れるのはネアンデルタール人が絶滅し更新世が終わって中石器時代・亜旧石器時代に入り気候が温暖化してからである。氷河が後退しマンモスやトナカイ等の大型獣が北の寒冷地に去り、代わりに温暖地ではイノシシやシカなどが狩猟の対象となった。植物や魚介類の採集が発達する。イヌなどが家畜化され、狩猟や戦闘、踊りなどは壁画に描かれた。今日では家畜となっている多くの動物や、自生した栽培植物の原型を狩猟採集の対象としていた。
やがて人口が増加するほどに食糧が豊富となり、原始家屋を作り居住、農耕・牧畜が始める前の段階に入る。新石器時代の前ぶれである。それまでは狩猟採集社会であった。旧石器時代の人類の態様は地域によって多様である。
旧石器時代の社会は、群れまたは社会ごとに指導者が存在した。男性・女性はおおむね平等で、男性は狩猟、女性は漁労および育児を事としていたが、この役割はしばしば共有されており、明確な分業はされていなかったと考えられている。
当時の人糞の化石からは、旧石器時代の人類はハーブなど植物に関する知識が豊富であったことが知られ、現代人が想像するよりも健康的な食事が実現されていたことも判明している。
住居のはじまりは、風雨や寒さを凌ぐためや外敵から身を守るために岩陰や洞穴に住んだり、大樹下などに寄り添って暮らしたり、遊動生活では簡単な小屋を造ったりしたことだろうと思われる。前期旧石器時代38万年前のフランスのテラ・マタ遺跡の小屋、13万年前のラザーレ洞穴内の小屋などが最古の住居といわれている。
ほかに古いものとしては、6万年前と計測されるウクライナ地方の中期旧石器時代のモロドヴァI遺跡の住居ないし風除け構造物がある。それは11×7メートルでマンモスの骨や牙で囲ったもので、15基の内炉跡が発見されている。狩猟のための見張り場であったと考えられている。
当時の石器(打製石器)は、石や動物の骨を打ち欠いて作られた鋭利なナイフ、鏃、槍、ハンドアックスなど、多岐にわたるものがつくられた。また、木をくりぬいてカヤックやカヌーも作って水上移動をしていた。さらにシアン化水素やヘビの毒、アルカロイドなど毒物の扱いにも長けていた。食糧が腐らないよう、乾かしたり低温保存させたりということも知っていた。
自然信仰と呪術が広く行われたが、晩期旧石器時代のヨーロッパでは35,000年前に最初の芸術が生まれた。絵画だけでなく塗装・彫刻も始まった。動物や女性などの彫刻が見つかっているが、その技術はきわめて高いとされる。芸術は信仰・呪術と緊密に結びついていた。
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"text": "ほかに古いものとしては、6万年前と計測されるウクライナ地方の中期旧石器時代のモロドヴァI遺跡の住居ないし風除け構造物がある。それは11×7メートルでマンモスの骨や牙で囲ったもので、15基の内炉跡が発見されている。狩猟のための見張り場であったと考えられている。",
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"text": "当時の石器(打製石器)は、石や動物の骨を打ち欠いて作られた鋭利なナイフ、鏃、槍、ハンドアックスなど、多岐にわたるものがつくられた。また、木をくりぬいてカヤックやカヌーも作って水上移動をしていた。さらにシアン化水素やヘビの毒、アルカロイドなど毒物の扱いにも長けていた。食糧が腐らないよう、乾かしたり低温保存させたりということも知っていた。",
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"text": "自然信仰と呪術が広く行われたが、晩期旧石器時代のヨーロッパでは35,000年前に最初の芸術が生まれた。絵画だけでなく塗装・彫刻も始まった。動物や女性などの彫刻が見つかっているが、その技術はきわめて高いとされる。芸術は信仰・呪術と緊密に結びついていた。",
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] |
旧石器時代とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός + λίθος である。
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|[[更新世]]<br />
:'''旧石器時代'''<br />
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'''旧石器時代'''(きゅうせっきじだい、{{lang-en|Pal(a)eolithic Age}})とは、[[ホモ・ハビリス]]など[[ヒト属]]による[[石器]]([[打製石器]])の使用が始まった時代で、[[石器時代]]の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から[[農耕]]の開始までの時代([[完新世]])をさす。旧石器時代の語源は[[ギリシア語|ギリシャ語]]で {{lang|el|παλαιός}} (palaios, 古い)+ {{lang|el|λίθος}} (lithos, 石)である。
== 時代区分 ==
=== 区分法 ===
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。
# 前期旧石器時代
#* 手斧がひろく用いられた時代。この時代の人類は[[ホモ・ハビリス]]および[[ホモ・エレクトス]]が主流であった。
#*
# 中期旧石器時代
#* 剥片石器が出現した時代。
#* [[ネアンデルタール人]]が広がった。極東アジアの中期石器文化の特徴から、[[ヨーロッパ]]から来たネアンデルタール人に依ったものではなく、[[アジア]]の[[原人]]から進化した'''古代型新人'''によって形成された可能性が大きいとされる。
# 後期旧石器時代
#* 石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を[[言語]]に求める説もある。[[クロマニヨン人]]([[ホモ・サピエンス]])が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。
=== 主な文化の分類 ===
区分法により、各文化は大きく3つの時代に分類される。
# [[前期旧石器時代]]([[英語]]: [[:en:Lower Paleolithic|Lower Paleolithic]]/Early Stone Age、約[[260万年]]前 - 約[[30万年]]前)
## [[オルドワン石器]]文化(約[[260万年]]前 - 約[[180万年]]前)
## [[アシュール文化]](約[[170万年]]前 - 約[[10万年]]前)
## [[クラクトン文化]](約[[30万年]]前 - 約[[20万年]]前)
# [[中期旧石器時代]]([[英語]]: [[:en:Middle Paleolithic|Middle Paleolithic]]/[[:en:Middle Stone Age|Middle Stone Age]]、約[[30万年]]前 - 約[[3万年]]前)
## [[ムスティエ文化]](約[[30万年]]前 - 約[[3万年]]前)
## {{仮リンク|アテリア文化|en|Aterian}}(約[[8万2千年]]前)
# [[後期旧石器時代]]([[英語]]: [[:en:Upper Paleolithic|Upper Paleolithic]]/[[:en:Later Stone Age|Later Stone Age]]、約[[3万年]]前 - 約[[1万年]]前)
## {{仮リンク|バラドスティアン文化|en|Baradostian culture}}
## [[シャテルペロン文化]]
## [[オーリニャック文化]]
## [[グラヴェット文化]]
## [[ソリュートレ文化]]
## [[マドレーヌ文化]]
## [[ハンブルク文化]]
## {{仮リンク|アーレンスブルク文化|en|Ahrensburg culture}}
## {{仮リンク|スウィデリアン文化|en|Swiderian culture}}
=== 日本における旧石器時代 ===
{{Main|日本列島の旧石器時代}}
[[日本]]における旧石器時代は、[[後期旧石器時代|後期]]については、北は北海道から南は九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。[[前期旧石器時代|前期]]/[[中期旧石器時代|中期]]についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。
前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている([[旧石器捏造事件]]を参照)。中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。
捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。
== 人口 ==
人類の生きた最古の時代である旧石器時代の人口推定値が、研究者によって算定した基準の違いがあるが、発表されている。旧石器時代前期(260万〜20万年前)12万5千人、同中期(20万〜4万年前)100〜120万人、同後期(4万〜1万3千年前)220〜300万人。<ref>田中琢「紀元前後のボートピープル(田中琢・佐原真著『考古学の散歩道』岩波書店〈岩波新書(新赤版)312〉 1995年第9版)12ページ</ref>
== 生業と社会 ==
[[氷河時代|氷河期]]下の[[前期旧石器時代]]には概ね[[ホモ・ハビリス]]や[[ホモ・エレクトス]]などの[[原人|原人類]]、[[中期旧石器時代]]には概ね[[ネアンデルタール人]]などの[[旧人類]]が石器を武器にして群れで動物の狩りをしていた時代であり社会構造ははっきりしない。判明しているのは原始的な採集、集団生活の痕跡、樹の皮や獣皮の加工をしていた事である。[[初期のヒト属による火の利用|火の利用]]は100万年前程度からである。後の方の更新世の[[北京原人]]などは次第に洞穴に住まい、若干の言語を使っていたようである。ネアンデルタール人はマンモス等の狩りなどで石器も次第に高度なものとなり小屋を作って器具の加工、獲物の解体や火炉で調理をしていた。埋葬の習慣も見られ、壁画などを描き始める。
社会と呼べるものが検証できるのは[[後期旧石器時代]]、概ね新人類([[クロマニョン人]]など、諸説あり)が登場してからである。石器類はさらに高度化し槍、釣り針、網なども使われた。集落での集団生活を中心として栄えた痕跡が顕著となる。集団間での抗争や交易、集団内での原始的な宗教儀礼も確認される。
大きな変化が現れるのはネアンデルタール人が絶滅し更新世が終わって[[中石器時代]]・[[亜旧石器時代]]に入り気候が温暖化してからである。氷河が後退しマンモスやトナカイ等の大型獣が北の寒冷地に去り、代わりに温暖地ではイノシシやシカなどが狩猟の対象となった。植物や魚介類の採集が発達する。イヌなどが家畜化され、狩猟や戦闘、踊りなどは壁画に描かれた。今日では家畜となっている多くの動物や、自生した[[栽培植物]]の原型を狩猟採集の対象としていた。
やがて人口が増加するほどに食糧が豊富となり、原始家屋を作り居住、農耕・牧畜が始める前の段階に入る。[[新石器時代]]の前ぶれである。それまでは[[狩猟採集社会]]であった。旧石器時代の人類の態様は地域によって多様である。
旧石器時代の社会は、群れまたは社会ごとに指導者が存在した。男性・女性はおおむね平等で、男性は狩猟、女性は漁労および育児を事としていたが、この役割はしばしば共有されており、明確な分業はされていなかったと考えられている{{要出典|date=2010年7月}}。
当時の人糞の[[化石]]からは、旧石器時代の人類は[[ハーブ]]など[[植物]]に関する知識が豊富であったことが知られ、現代人が想像するよりも健康的な食事が実現されていたことも判明している{{要出典|date=2010年7月}}。
== 住居 ==
住居のはじまりは、風雨や寒さを凌ぐためや外敵から身を守るために岩陰や洞穴に住んだり、大樹下などに寄り添って暮らしたり、遊動生活では簡単な小屋を造ったりしたことだろうと思われる。前期旧石器時代38万年前のフランスのテラ・マタ遺跡の小屋、13万年前のラザーレ洞穴内の小屋などが最古の住居といわれている。
ほかに古いものとしては、6万年前と計測される[[ウクライナ|ウクライナ地方]]の中期旧石器時代のモロドヴァI遺跡<ref>海部陽介『人類がたどってきた道―“文化の多様化”の起源を探る―』日本放送出版協会, 2005年</ref>の住居ないし風除け構造物がある。それは11×7メートルで[[マンモス]]の骨や牙で囲ったもので、15基の内炉跡が発見されている。狩猟のための見張り場であったと考えられている。
== 道具 ==
当時の石器(打製石器)は、石や動物の骨を打ち欠いて作られた鋭利な[[ナイフ]]、[[鏃]]、[[槍]]、[[ハンドアックス]]など、多岐にわたるものがつくられた。また、木をくりぬいて[[カヤック]]や[[カヌー]]も作って水上移動をしていた。さらに[[シアン化水素]]やヘビの毒、[[アルカロイド]]など毒物の扱いにも長けていた{{要出典|date=2009年10月}}。食糧が腐らないよう、乾かしたり低温保存させたりということも知っていた。
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画像:Hoja raspador y perforador.gif|スクレイパーとよばれる剥片石器
画像:Aguja y anzuelo Paleolitico.jpg|後期旧石器時代に作られた釣り針。材質は動物の骨
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== 芸術文化 ==
自然信仰と呪術が広く行われたが、晩期旧石器時代の[[ヨーロッパ]]では35,000年前に最初の[[芸術]]が生まれた。絵画だけでなく塗装・彫刻も始まった。動物や女性などの彫刻が見つかっているが、その技術はきわめて高いとされる。芸術は信仰・呪術と緊密に結びついていた。
<!--
== 遺跡 ==
[[アラビア半島]]で[[現生人類]]の遺跡が100カ所以上発見され、遺跡からは、現生人類がつくった・つかった[[石器]]と同じタイプの石器が多数見つかった。[[オマーン]]で見つかった遺跡の年代で最も古いものは106,000年前とわかった。<ref>「アフリカ出発、10万年前か」しんぶん赤旗 2011年12月2日</ref><ref>[http://www.plosone.org/article/info:doi/10.1371/journal.pone.0028239 The Nubian Complex of Dhofar, Oman: An African Middle Stone Age Industry in Southern Arabia] PLoS one</ref>
なぜこの遺跡を特筆するのか不明瞭。もっと古い遺跡は他に沢山あります。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
* [[旧石器時代の遺跡一覧]]
* [[日本列島の旧石器時代]]
* [[ムスティエ文化]]
* [[オーリニャック文化]]
* [[新石器時代]]
* [[打製石器]]
* [[先史時代]]
* [[更新世]]
== 外部リンク ==
* {{en}} [http://www.proistoria.org/upper-paleolithic-by-zdenek-burian.html Zdeněk Burian - Upper Paleolithic large color images].
* {{en}} [http://www.proistoria.org/middle-paleolithic-by-zdenek-burian.html Zdeněk Burian - Middle Paleolithic large color images].
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きゆうせつきしたい}}
[[Category:先史時代]]
[[Category:考古学における時代区分]]
[[Category:旧石器時代|*]]
[[Category:アルカロイド]]
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2003-09-05T11:30:14Z
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2023-11-05T02:21:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
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15,196 |
橋本治
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橋本 治(はしもと おさむ、男性、1948年〈昭和23年〉3月25日 - 2019年〈平成31年〉1月29日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。
イラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』(1987 - 1988年)、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。
東京都杉並区出身。アイスクリーム屋の息子に生まれる。
1968年(昭和43年)東京大学在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される(当時は東大紛争のさなか)。イラストレーターを経て、 1977年の小説『桃尻娘』(第29回小説現代新人賞佳作。受賞作は羽村滋『天保水滸伝のライター』。海庭良和『ペナンロード』、五城弥『影姫抄』が橋本と同じく佳作であった)を振り出しに、文筆業に転じる。該博な知識と独特な文体を駆使して評論家・随筆家として活躍する一方、古典文学の現代語訳・二次創作にもとりくむ。また、編み物にも才能を発揮。製図を作ってから精密に編み込まれたセーターなどが話題を呼び、「男の編み物」を出版するに至った。編み込まれた題材はデビッド・ボウイのアラジン・セイン、山口百恵、浮世絵など。モデルは、糸井重里、野坂昭如、早川タケジらがつとめた。
1984年度のフジテレビのイメージキャラクターをおかわりシスターズと共につとめたことがある。
1992年、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1993年、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始。小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1994年、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1995年、雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で大友良英とトークセッション。
1999年11月9日 - 23日には、東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出をつとめた。
2005年、雑誌「芸術新潮」での連載「ひらがな日本美術史」が終了。
2009年1月、「新潮」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される。橋本の小説が文芸誌に掲載されたのはこの作品が初めてであった。
2011年1月5日~2月27日に千葉県立中央図書館で行われた企画展示「千葉の文化、再はっけん!~『八犬伝』の楽しさ紹介します~」において、『南総里見八犬伝』から生まれた現代の作品として橋本の『ハイスクール八犬伝』5巻、6巻が展示された。
2013年11月16日、東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行った。
バブル崩壊期に不動産がらみの借金を負い、毎月百万円が返済に消えてゆくと告白した。
2019年1月29日午後3時9分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。 尾崎紅葉著『金色夜叉』を種本にした翻案小説『黄金夜界』が遺作となった。
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橋本 治は、日本の小説家、評論家、随筆家。 イラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。
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'''橋本 治'''(はしもと おさむ、男性、[[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[3月25日]] - [[2019年]]〈[[平成]]31年〉[[1月29日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[評論家]]、[[随筆家]]。
イラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』(1987 - 1988年)、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。
== 来歴・人物 ==
[[東京都]][[杉並区]]出身。[[アイスクリーム]]屋の息子に生まれる。
[[1968年]](昭和43年)[[東京大学]]在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部#駒場祭|東京大学駒場祭]]のポスターで注目される(当時は[[東大紛争]]のさなか)。[[イラストレーター]]を経て、 [[1977年]]の[[小説]]『[[桃尻娘]]』(第29回[[小説現代新人賞]]佳作。受賞作は羽村滋『天保水滸伝のライター』。[[海庭良和]]『ペナンロード』、五城弥『影姫抄』が橋本と同じく佳作であった)を振り出しに、文筆業に転じる。該博な知識と独特な文体を駆使して[[評論家]]・[[随筆家]]として活躍する一方、古典文学の現代語訳・二次創作にもとりくむ。また、編み物にも才能を発揮。製図を作ってから精密に編み込まれたセーターなどが話題を呼び、「[[男の編み物]]」を出版するに至った。編み込まれた題材は[[デビッド・ボウイ]]の[[アラジン・セイン]]、[[山口百恵]]、[[浮世絵]]など。モデルは、[[糸井重里]]、[[野坂昭如]]、[[早川タケジ]]らがつとめた。
[[1984年]]度の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のイメージキャラクターを[[おかわりシスターズ]]と共につとめたことがある。
1992年、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1993年、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始。小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1994年、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師をつとめた。
1995年、雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で[[大友良英]]とトークセッション。
1999年11月9日 - 23日には、東京・三軒茶屋[[シアタートラム]]で[[篠井英介]]の一人芝居『女賊』の作・演出をつとめた。
2005年、雑誌「[[芸術新潮]]」での連載「ひらがな日本美術史」が終了。
2009年1月、「[[新潮]]」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される<ref>{{Cite web|和書|title=新潮 2009年2月号|url=https://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20090107/|website=新潮社|accessdate=2019-02-01|language=ja}}</ref>。橋本の小説が文芸誌に掲載されたのはこの作品が初めてであった。
2011年1月5日~2月27日に[[千葉県立中央図書館]]で行われた企画展示「千葉の文化、再はっけん!~『八犬伝』の楽しさ紹介します~」において、『南総里見八犬伝』から生まれた現代の作品として橋本の『ハイスクール八犬伝』5巻、6巻が展示された。
2013年11月16日、[[東京都立西高等学校]]で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nishi-h.metro.tokyo.jp/11hogo/03kouenkai/25kouenkai.html|title=都立西高:PTA文化講演会|accessdate=2019-01-31|website=www.nishi-h.metro.tokyo.jp}}</ref>。
[[バブル崩壊]]期に不動産がらみの借金を負い、毎月百万円が返済に消えてゆくと告白した<ref>[[山形浩生]]との対談。雑誌Atプラスで。[https://cruel.org/other/hashimotoyamagata.html 『atプラス04』2010年5月 特集:エコノミストはなぜ経済成長の夢を見るか?]</ref>。
2019年1月29日午後3時9分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去<ref>[https://web.archive.org/web/20190129134751/https://this.kiji.is/462906163407635553?c=39550187727945729 2019/1/29 18:03 共同通信]</ref>。
[[尾崎紅葉]]著『[[金色夜叉]]』を種本にした[[翻案小説]]『[[黄金夜界]]』が遺作となった。
== 学歴 ==
* 杉並区立新泉小学校卒業
* 杉並区立和泉中学校卒業
* [[東京都立豊多摩高等学校|東京都立豊多摩高校]]卒業
* [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]]国文学科卒業。卒論は[[鶴屋南北 (4代目)|鶴屋南北]]。
== 受賞・候補歴 ==
*1977年、『[[桃尻娘]]』で第29回[[小説現代新人賞]]佳作。
*1990年10月、『江戸にフランス革命を!』で第17回[[大佛次郎賞]]候補に選出されるも落選。
*1996年、『宗教なんかこわくない!』で第9回[[新潮学芸賞]]受賞。
*2002年、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回[[小林秀雄賞]]受賞。
*2005年10月、『蝶のゆくえ』で第18回[[柴田錬三郎賞]]受賞。
*2008年11月、『双調 平家物語』で第62回[[毎日出版文化賞]]受賞。
*2018年11月、『草薙の剣』で第71回[[野間文芸賞]]受賞。
==選考委員歴==
*1996年6月の第5回から1998年の第7回まで[[ロマン大賞]]の選考委員を務めた。
*1996年9月の第33回と翌年9月の第34回について[[文藝賞]]の選考委員を務めた。
*1996年11月の第27回から1998年の第29回まで[[ノベル大賞]]の選考委員を務めた。
*2007年の第6回[[小林秀雄賞]]より同賞の選考委員を務めていた。
== 著書 ==
=== 小説・戯曲 ===
*『桃尻娘』シリーズ
**『[[桃尻娘]]』[[講談社]]、1978年、のち講談社文庫・[[ポプラ文庫]]
**『その後の仁義なき桃尻娘』講談社、1983年、のち講談社文庫・ポプラ文庫
**『帰ってきた桃尻娘』講談社、1984年、のち講談社文庫・ポプラ文庫
**『無花果少年と瓜売小僧(いちぢくボーイとうりうりぼうや)』講談社、1985年、のち講談社文庫
**『無花果少年と桃尻娘』講談社、1988年、のち講談社文庫
**『雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)』講談社、1990年、のち講談社文庫
***以上はのちに『橋本治小説集成』全6巻として刊行、河出書房新社、1997年
**『桃尻娘プロポーズ大作戦』大和書房、1995年、のち河出文庫 - ドラマ台本を収録
*『[[暗野|暗野(ブラックフィールド)]]』北宋社、1981年、のち[[河出文庫]]
*『[[ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件]]』[[徳間書店]]、1983年、のち徳間文庫・ホーム社<ref>{{Cite web|和書|title=橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』が復刊。40年前の小説が今に贈るメッセージ {{!}} CINRA |url=https://www.cinra.net/article/202212-hashimotoosamu_hrstmcl |website=www.cinra.net |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>
*『サイモン&ガーファンクルズ・グレイテスト・ヒッツ+1』[[大和書房]]、1984年、のち[[ちくま文庫]]
*『大戦序曲 詩集』河出書房新社、1985年、のち河出文庫
*『愛の矢車草』新潮文庫オリジナル、1987年、のちちくま文庫
**愛の陽溜り/愛の狩人/愛の牡丹雪/愛の矢車草
*『ハイスクール八犬伝』全8巻 徳間書店、1987–91年
*『鞦韆(ぶらんこ)』[[白夜書房]]、1988年、のち[[新潮文庫]]・ちくま文庫
**魔/陣/陣・2/媚/笑/鬼
*『愛の帆掛舟』新潮文庫、1989年、のちちくま文庫
**愛の帆掛舟/愛の真珠貝/愛の百萬弗/愛のハンカチーフ
*『流水桃花抄』(掌篇小説集)河出書房新社、1991年、のち河出文庫
*『月食』(戯曲)河出書房新社、1994年
*『生きる歓び』[[角川書店]]、1994年、のち角川文庫
**にしん/みかん/あんぱん/いんかん/どかん/にんじん/きりん/みしん/ひまん
*『花物語』絵:[[さべあのま]]、[[集英社]]、1995年
*『三日月物語』絵:[[岡田嘉夫]]、[[毎日新聞社]]、1996年
*『DARK MOON』写真:[[おおくぼひさこ]]、角川書店、1996年
*『平成絵草紙 女賊』絵:岡田嘉夫、集英社、1998年
*『つばめの来る日』角川書店、1999年、のち角川文庫
**角ざとう/あじフライ/汐干狩/星が降る/水仙/歯ブラシ/カーテン/甘酒/寒山拾得
*『蝶のゆくえ』集英社、2004年、のち集英社文庫
**ふらんだーすの犬/ごはん/ほおずき/浅茅が宿/金魚/白菜
*『Ba-bahその他』[[筑摩書房]]、2006年
**関寺小町/処女の惑星/逮捕/ぼくとムク犬/他人の愛情/裏庭/孤帝記/海/組長のはまったガンダム/さらば!赤い彗星のシャア/ありふれた娘/火宅/バベルの塔/BA-BAH
*『夜』集英社、2008年、のち集英社文庫
**暮色/灯ともし頃/夜霧/蝋燭/暁闇
*『巡礼』新潮社、2009年、のち新潮文庫
*『橋』[[文藝春秋]]、2010年、のち文春文庫
*『リア家の人々』新潮社、2010年、のち新潮文庫
*『幸いは降る星のごとく』集英社、2012年、のち集英社文庫
*『初夏の色』新潮社、2013年
**助けて/渦巻/父/枝豆/海と陸/団欒
*『マルメロ草紙 = Le cahier de Marmelo』絵:岡田嘉夫、集英社、2013年
*『結婚』集英社、2014年
*『お春』中央公論新社、2016年
*『九十八歳になった私』講談社、2018年
*『草薙の剣』新潮社、2018年、のち新潮文庫
*『おいぼれハムレット(落語世界文学全集)』河出書房新社、2018年
*『黄金夜界』中央公論新社、2019年(初出:読売新聞、2017年9月30日〜2018年6月30日、全266回)、のち中公文庫
*『人工島戦記 あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』集英社、2021年(初出:小説すばる、1993年10月号〜1994年3月号、その後十数年にわたって大幅な加筆修正が加えられたが、逝去により未完。遺族の了解のもと刊行された)
*『マルメロ草紙 = édition courante』絵:岡田嘉夫、ホーム社、2021年
=== 評論・エッセイ ===
*『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』北宋社、1979–81年、のち河出文庫
*『秘本世界生玉子』北宋社、1981年、のち河出文庫
*『よくない文章ドク本』大和書房、1982年、のち徳間文庫
*『熱血シュークリーム』北宋社、1982年(上巻のみ刊行)
**のちに増補して『熱血シュークリーム 橋本治少年マンガ読本』毎日新聞出版、2019年
*『蓮と刀 どうして男は"男"をこわがるのか』作品社、1982年、のち河出文庫
*『極楽迄ハ何哩』河出書房新社、1983年、のち徳間文庫
*『革命的半ズボン主義宣言』冬樹社、1984年、のち河出文庫
*『とうに涅槃をすぎて』徳間文庫、1984年
*『根性』朝日出版社週刊本、1985年、のち徳間文庫
*『合言葉は勇気』筑摩書房、1985年、のち文庫
*『デビッド100コラム』冬樹社、1985年、のち河出文庫
*『親子の世紀末人生相談』フィクション・インク、1985年
**改題『青空人生相談所』ちくま文庫、1987年
*『ヴィヴィッドボーイのカリキュラム』パルコ出版局、1985年
*『ロバート本』作品社、1986年、のち河出文庫
*『完本 チャンバラ時代劇講座』徳間書店、1986年、のち河出文庫
*『恋愛論』講談社文庫オリジナル、1986年、のちSB文庫、文庫ぎんが堂
*『問題発言』全2巻 [[思想の科学社]]、1987年 - 1988年
*『アストロモモンガ』ネスコ、1987年、のち河出文庫
*『貞女への道』[[主婦の友社]]、1987年、のち河出文庫・ちくま文庫
*『オイディプス燕返し!! 蓮と刀・青年篇』河出書房新社、1987年
*『虹のヲルゴオル』大和書房、1988年、のち講談社文庫
*『ぼくたちの近代史』主婦の友社、1988年、のち河出文庫
*『風雅の虎の巻』作品社、1988年、のち講談社文庫・ちくま文庫
*『橋本治雑文集成パンセ』全7巻 河出書房新社、1989–90年、のち河出文庫
*『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』河出書房新社、1989年
*『さまざまなエンディング』主婦の友社、1990年
*『江戸に[[フランス革命]]を!』[[青土社]]、1990年、のち[[中公文庫]]
*『'89』マドラ出版、1990年、のち河出文庫
*『武器よさらば』橋本治書簡集1972–1989、弓立社、1990年
*『恋の花詞集 歌謡曲が輝いていた時』[[音楽之友社]]、1990年、のちちくま文庫
*『義経伝説』河出書房新社、1991年
*『青春つーのはなに?』集英社文庫、1991年
*『ナインティーズ』[[小学館]]、1991年、のち河出文庫
*『橋本治の思考論理学』夜中の学校 2、マドラ出版、1992年
*『シンデレラボーイ シンデレラガール』河出文庫、1992年
*「貧乏は正しい!」シリーズ
**『貧乏は正しい!』小学館、1993年<!--12月-->、のち小学館文庫<!--1998年1月に文庫--><!-- ISBN 978-4094022216-->
**『貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争』小学館、1995年<!--10月-->、のち<!--1998年4月に-->小学館文庫<!-- ISBN 978-4094022223-->
**『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』小学館、1996年<!--1月-->、のち<!--1998年7月に-->小学館文庫 <!--ISBN 978-4094022230-->
**『貧乏は正しい! ぼくらの資本論』小学館、1996年<!--3月-->、のち<!--1998年10月に-->小学館文庫 <!--ISBN 978-4093723145-->
**『貧乏は正しい! ぼくらの未来計画』小学館、1996年<!--5月-->、のち<!--1999年3月に-->小学館文庫 <!--ISBN 978-4093723152-->
*『[[源氏供養]]』[[中央公論社]]、1993年 - 94年、のち中公文庫
*『ぼくらのsex』集英社、1993年、のち集英社文庫
*『ぬえの名前』[[岩波書店]]、1993年、のち[[幻冬舎]]文庫
*『絶滅女類図鑑』文藝春秋、1994年、のち文春文庫
*『浮上せよと活字は言う』中央公論社、1994年、のち[[平凡社ライブラリー]]
*『美男へのレッスン』中央公論社、1994年
*『秋夜』小論集、中央公論社、1994年
*『宗教なんかこわくない!』マドラ出版、1995年、のちちくま文庫
*『春宵』小論集、中央公論社、1995年
*『「広告批評」の橋本治』マドラ出版、1995年
*『ひらがな日本美術史』全7巻 新潮社、1995–2007年
*『幕末の修羅絵師国芳』とんぼの本、新潮社、1995年
*『無意味な年無意味な思想』[[マガジンハウス]]、1997年
*『橋本治の明星的大青春』集英社文庫、1997年
*『橋本治の男になるのだ』[[ゴマブックス]]、1997年
**改題『これも男の生きる道』ちくま文庫
*『ハシモト式古典入門』ゴマブックス、1997年
**改題『これで古典がよくわかる』ちくま文庫
*『消えた言葉』[[アルク新書]]、1998年
*『冬暁』小論集、中央公論社、1998年
*『夏日』小論集、中央公論社、1998年
*「ああでもなくこうでもなく」シリーズ
**『ああでもなくこうでもなく』マドラ出版、2000年
**『さらに、ああでもなくこうでもなく』マドラ出版、2001年
**『「日本が変わってゆく」の論(ああでもなくこうでもなく 3)』、マドラ出版、2002年
**『戦争のある世界(ああでもなくこうでもなく 4)』、マドラ出版、2004年
**『このストレスな社会!(ああでもなくこうでもなく 5)』、マドラ出版、2006年
**『最後の「ああでもなくこうでもなく」そして、時代は続いて行く』マドラ出版、2008年
*『天使のウインク』中央公論新社、2000年
*『二十世紀』毎日新聞社、2001年、のちちくま文庫
*『橋本治が大辞林を使う』[[三省堂]]、2001年
*『「わからない」という方法』集英社新書、2001年
*『大江戸歌舞伎はこんなもの』筑摩書房、2001年、のち筑摩文庫
*『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社、2002年、のち新潮文庫
*『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書、2002年
*『シネマほらセット』河出書房新社、2004年
*『いま私たちが考えるべきこと』新潮社、2004年、のち新潮文庫
*『上司は思いつきで物を言う』集英社新書、2004年
*『ちゃんと話すための敬語の本』ちくまプリマー新書、2005年
*『勉強ができなくても恥ずかしくない』1-3、ちくまプリマー新書、2005年
*『ひろい世界のかたすみで』マガジンハウス、2005年
*『乱世を生きる市場原理は嘘かもしれない』集英社新書、2005年
*「橋本治という行き方」シリーズ
**『橋本治という行き方 - What a way to go! -』朝日新聞社、2005年
**『橋本治という考え方 - What kind of fool am I -』朝日新聞社、2009年
**『橋本治という立ち止まり方 - On the street where you live -』朝日新聞出版、2012年
*『失楽園の向こう側』小学館文庫、2006年
*『権力の日本人』双調平家物語ノート 1、講談社、2006年
*『小林秀雄の恵み』新潮社、2007
*『日本の行く道』集英社新書、2007年
*『いちばんさいしょの算数 1–2』ちくまプリマー新書、2008年
*『あなたの苦手な彼女について』ちくま新書、2008年
*『大不況には本を読む』中公新書ラクレ、2009年、のち河出文庫
*『明日は昨日の風が吹く』マドラ出版、2009年
*『院政の日本人』双調平家物語ノート 2、講談社、2009年
*『日本の女帝の物語 - あまりにも現代的な古代の六人の女帝達』集英社新書、2009年
*「失われた近代を求めて」シリーズ
**『失われた近代を求めて I 言文一致体の誕生』朝日新聞出版、2010年
**『失われた近代を求めて II 自然主義と呼ばれたもの達』朝日新聞出版、2013年
**『失われた近代を求めて III 明治二十年代の作家達』朝日新聞出版、2014年
*『浄瑠璃を読もう』新潮社、2012年
*『その未来はどうなの?』集英社新書、2012年
*『国家を考える』ZINCLO! BLUE 001、グレイプス、2013年
*『古典を読んでみましょう』ちくまプリマー新書、2014年
*『義太夫を聴こう』河出書房新社、2015年
*『いつまでも若いと思うなよ』新潮新書、2015年
*『性のタブーのない日本』集英社新書、2015年
*『負けない力』大和書房、2015年、のち朝日文庫
*『百人一首がよくわかる』講談社、2016年
*『福沢諭吉の「学問のすゝめ」』幻冬舎、2016年
*『国家を考えてみよう』ちくまプリマー新書、2016年
*『たとえ世界が終わってもーその先の日本を生きる君たちへ』集英社新書、2017年
*『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』朝日新書、2017年
*『バカになったか日本人』集英社文庫、2018年
*『いとも優雅な意地悪の教本』集英社新書、2017年
*『橋本治のかけこみ人生相談』幻冬舎文庫、2018年
* 『思いつきで世界は進む: 「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』ちくま新書、2019年
** PR誌「ちくま」で2014年7月号から2018年8月号まで連載した巻頭随筆をまとめたもの
* 『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』朝日新書、2019年
* 『マンガ哲学辞典』河出書房新社、2019年
* 『そして、みんなバカになった』河出新書、2020年
*『「原っぱ」という社会がほしい』河出新書、2021年
=== 古典の現代語訳 ===
*『桃尻語訳 枕草子』全3巻 原作:[[清少納言]]『[[枕草子]]』、河出書房新社、1987年 - 1988年、のち河出文庫<!--、※[[NHK教育]]「[[まんがで読む古典]]」の[[脚本]]も担当-->
*『絵本 徒然草』原作:[[卜部兼好|兼好法師]]『[[徒然草]]』、河出書房新社、1990年、のち河出文庫
*『窯変源氏物語』全14巻 原作:[[紫式部]]『[[源氏物語]]』、中央公論社、1991年–1993年、のち中公文庫
*『古事記』原作:[[太安万侶]]編『[[古事記]]』、少年少女古典文学館 1、講談社、1993年
*『笛吹童子』原作:[[北村寿夫]]『[[笛吹童子]]』、痛快世界の冒険文学、講談社、1998年
*『双調 平家物語』全15巻 原作:作者不詳『[[平家物語]]』、中央公論新社、1998年–2007年、のち中公文庫
*『仮名手本忠臣蔵』原作:[[竹田出雲|二代目竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]『[[仮名手本忠臣蔵]]』、橋本治・[[岡田嘉夫]]の歌舞伎絵巻 1、ポプラ社、2003年
*『桃尻語訳 百人一首』原作:[[藤原定家]]編『[[百人一首]]』、[[海竜社]]、2003年
*『義経千本桜』原作:二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳『[[義経千本桜]]』、橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 2、ポプラ社、2005年
*『菅原伝授手習鑑』原作:二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳『[[菅原伝授手習鑑]]』、橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 3、ポプラ社、2007年
*『国性爺合戦』原作:[[近松門左衛門]]『[[国性爺合戦]]』、橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 4、ポプラ社、2010年
*『妹背山婦女庭訓』原作:近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛『[[妹背山婦女庭訓]]』、橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 5、ポプラ社、2012年
*『はまぐりの草紙〈現代版〉絵本御伽草紙』講談社、2015年
=== イラスト ===
*『橋本治画集』マドラ出版、1991年
*『橋本治[[歌舞伎]]画文集 - かぶきのよう分からん』[[演劇出版]]社、1992年
=== 共著 ===
*『悔いあらためて』[[糸井重里]]共著、北宋社、1980年、のち[[光文社文庫]]
*『明日は騒乱罪 : 学校にない教科書』戸井十月 編、第三書館、1980年、のち新装
*『覆刻版恋するももんが』都立魔界高校文芸班と共編集著、リビングマガジン、1984年
*『ふたりの平成』[[中野翠]]共著、主婦の友社、1991年、のちちくま文庫
*『仲よく貧しく美しく』[[島森路子]]共著、マドラ出版、1994年
*『愛の処方せん』[[福島瑞穂]]共著、毎日新聞社、1995年
*『子どもが子どもだったころ』[[毛利子来]]共著、集英社、1998年、のち集英社文庫
*『[[川田晴久]]と[[美空ひばり]] アメリカ公演』[[岡村和恵]]共著、中央公論新社、2003年
*『話せばわかる! : 養老孟司対談集 : 身体がものをいう』、清流出版、2003年
*『[[アメデオ・モディリアーニ|モディリアーニ]]の恋人』[[宮下規久朗]]共著、新潮社(とんぼの本)、2008年
*『橋本治と内田樹』[[内田樹]]共著、筑摩書房、2008年
*『河原久雄 文楽写真集』構成、日本経済新聞社、2009年
*『Talk: 橋本治対談集』ランダムハウス講談社、2010年
**[[高橋源一郎]]、[[浅田彰]]、[[茂木健一郎]]、[[三田村雅子]]、[[田中貴子 (国文学者)|田中貴子]]、[[天野祐吉]]との対談を収録
*『ことばを尋ねて―島森路子インタビュー集1』、天野祐吉作業室、2010年
*『大人の学校 卒業編 』杉浦日向子, 中沢新一, 養老孟司, 天野祐吉 編著、静山社文庫、2010年
*『復興の精神』養老孟司他共著、新潮新書 、2011年
*『浮世絵入門 恋する春画』[[早川聞多]]・[[赤間亮]]・[[橋本麻里]]共著、新潮社(とんぼの本)、2011年
*『だめだし日本語論』[[橋爪大三郎]]共著、太田出版、2017年
== 作詞 ==
*[[パンタ (歌手)|パンタ]]「悲しみよようこそ」「恋のクレセント・ムーン」 - アルバム『KISS』収録(1981年)
*[[前川清]]「真昼なり」 - シングル『雪列車』カップリング収録(1982年)
== 脚本 ==
*『[[ピーマン白書]]』第4話、1980年11月1日放送分、フジテレビ。サブタイトルは?「先生も生徒がいなけりゃタダの人」
*『パリ物語 - 1920’s 青春のエコール・ド・パリ』、1984年9月24日放送、テレビ朝日
*『サイケ歌舞伎 月食』1994年、アートスフィア、新神戸オリエンタル劇場
*『ヴェニスに死す』初演1994年、アートスフィア
*『女賊』1999年、シアタートラム
*『白鷺譚』初演2000年、国立劇場小劇場
*『嶋の爲朝』初演2001年
*『実録高田馬場』初演2001年、紀伊国屋ホール
*『城壁のハムレット』2002年
*『夕霧・左大将道行』2003年、渋谷セルリアンタワー能楽堂
*『日本海海戦』2004年、渋谷セルリアンタワー能楽堂
*『雨~入鹿謀戮』2005年、渋谷セルリアンタワー能楽堂
*『菊慈童』2007年、国立能楽堂
*『騒音歌舞伎 ボクの四谷怪談』2012年、シアターコクーン、森ノ宮ピロティホール
*『「源氏物語 玉鬘」旅路の段より長谷寺の段』2015年、紀尾井小ホール
*『ナザレのマリア』(未発表)
== 雑誌・特集 ==
*「特集 橋本治と考える「女って何だ?」」『[[考える人 (雑誌)|考える人]]』2002年秋号
*「特集・橋本治 -『桃尻娘』から『リア家の人々』まで 無限遠の小説家」『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と評論]]』2010年6月号<!-- ISBN 978-4-7917-0209-1-->
*「橋本 治 ロング・インタビュー どこまでみんなバカになるのか」『熱風』2017年4月号
*「総特集・橋本治」『ユリイカ』 2019年5月臨時増刊号
== 解説その他 ==
=== 解説 ===
* 「トン カリリ」(大島弓子著『バナナブレッドのプディング』小学館文庫、1980年)
*「理性の時代に」(有吉佐和子著『母子変容』講談社文庫、1984 年)
*「幸福な鴉」(『日本幻想文学集成2ー三島由紀夫』国書刊行会、1991年、のち『新編日本幻想文学集成7』再録)
*「凪の海」(『日本幻想文学集成12ー久生十蘭』国書刊行会、1992年、のち『新編日本幻想文学集成3』再録)
*「生という半身を欠いて」(『日本幻想文学集成20ー川端康成』国書刊行会、1993年、のち『新編日本幻想文学集成7』再録)
*「妄想狼少年ではなく、微熱狼少女であること」について(仁川高丸著『微熱狼少女』集英社文庫、1995年)
* 「百人の雨傘」(岡井隆著『現代百人一首』朝日文芸文庫、1997年)
*「描かれなかった絵画達」(塚本邦雄著『百句燦燦』講談社文芸文庫、2008年)
* 「美しさの本」(塚本邦雄著『王朝百首』講談社文芸文庫、2009年)
* 「昔の大人の普通の日記」(久生十蘭著『久生十蘭「従軍日記」』講談社文庫、2012年)
*「解説」(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫、2016年)
* 「『異邦人』なのか……」(高橋和巳著『消えたい−−虐待された人の生き方から知る心の幸せ』ちくま文庫、2017年)
== テレビ出演 ==
<!--単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
*『おとこ東大どこへ行く〜10年目の東大全共闘〜』NHK、1978年
*[[月曜ドラマランド]]『[[のんき君#テレビドラマ版|のんき君]] 2』 [[フジテレビジョン|フジテレビ]]、1984年
*『笑っていいとも』テレフォンショッキング フジテレビ、1984年6月25日
*『オン・ザ・ロック』BSジャパン、2015年8月30日
== 関連図書 ==
=== 作家論 ===
*『愛のテーマ・序曲/橋本治の研究読本』北宋社、1984年。
* 『橋本治と日本語の言文一致体』(千木良悠子、[[文學界]] 2022年1月号)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunshun.co.jp/business/bungakukai/backnumber.html?itemid=540&dispmid=587 |title=文學界 2022年1月号 総力特集 笑ってはいけない? |publisher=文藝春秋 |date= |accessdate=2022-04-05}}</ref>
== 出典 ==
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[高橋丁未子]]:[[1951]]年生まれのエッセイスト。[[北宋社]]の編集者時代に橋本を世に紹介したと言われる。
== 外部リンク ==
* {{NHK人物録|D0009072617_00000}}
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[[Category:20世紀日本の小説家]]
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紀元前341年
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紀元前341年(きげんぜん341ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元413年と呼ばれることもある。
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'''紀元前341年'''(きげんぜん341ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。[[ローマ建国紀元]]413年と呼ばれることもある。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]320年
** [[孝安天皇]]52年
* [[中国]]
** [[周]] - [[顕王]]28年
** [[秦]] - [[孝公 (秦)|孝公]]21年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[宣王 (楚)|宣王]]29年
** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]16年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (戦国燕)|文公]]21年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[粛侯 (趙)|粛侯]]9年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]29年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[釐侯 (韓)|昭侯]]22年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1993年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 204年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== マケドニア ===
* [[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]は[[トラキア]]の併合を終えた。これは、[[アテナイ]]にとって、将来の安全に対する脅威と見なされた。
=== ギリシア ===
* [[デモステネス]]は、3度目の[[ピリッピカ]]を行った。この中で、彼はピリッポス2世に対する断固たる処置を要求した。彼は[[アイスキネス]]の派閥を弱体化し、アテネの海軍を掌握することとなった。
* デモステネスは、[[ビザンチウム]]やかつてアテナイと敵対していた[[テーバイ]]などを含む諸国をまとめ、ピリッポス2世に対抗する同盟を結ばせた。ピリッポス2世はこれを懸念し、デモステネスに怒りを向けた。しかし、[[民会]]は、紀元前346年にアテナイと[[マケドニア王国|マケドニア]]の間で結ばれた平和条約を非難した。これは、アテナイがマケドニアに対して公式に戦争を宣言したに等しかった。
=== 共和政ローマ ===
* [[第一次サムニウム戦争]]がローマ軍の勝利で終わり、ローマは、首都の[[カプア]]を含む[[カンパニア]]の豊かな土地を手に入れた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前341年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[エピクロス]]、[[エピクロス派]]の始祖である古代ギリシアの哲学者(* [[紀元前270年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前341年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前270年
|
紀元前270年(きげんぜん270ねん)は、ユリウス暦以前のローマ暦を用いていた年である。
ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナとグナエウス・コルネリウス・ブラシオがローマの執政官であった(ローマ建国紀元484年にあたる)。西暦の紀年法がヨーロッパで普及した中世前期以降、この年は紀元前270年と表記されるようになった。
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紀元前270年(きげんぜん270ねん)は、ユリウス暦以前のローマ暦を用いていた年である。 ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナとグナエウス・コルネリウス・ブラシオがローマの執政官であった(ローマ建国紀元484年にあたる)。西暦の紀年法がヨーロッパで普及した中世前期以降、この年は紀元前270年と表記されるようになった。
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'''紀元前270年'''(きげんぜん270ねん)は、[[ユリウス暦]]以前の[[ローマ暦]]を用いていた年である。
[[ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナ]]と[[グナエウス・コルネリウス・ブラシオ]]がローマの執政官であった([[ローマ建国紀元]]484年にあたる)。[[西暦]]の[[紀年法]]がヨーロッパで普及した中世前期以降、この年は紀元前270年と表記されるようになった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛卯]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]391年
** [[孝霊天皇]]21年
* [[中国]]
** [[周]] - [[赧王]]45年
** [[秦]] - [[昭襄王 (秦)|昭襄王]]37年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[頃襄王]]29年
** [[田斉|斉]] - [[襄王 (斉)|襄王]]14年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[武成王 (燕)|武成王]]2年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[恵文王 (趙)|恵文王]]29年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[安釐王]]7年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[桓恵王]]3年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 277年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== 共和政ローマ ===
* [[共和政ローマ|ローマ]]の[[イタリア]]の征服は、[[レギウム|レッジョ・ディ・カラブリア]]を[[マメルティニ]]から奪還し、[[ブルトン人]]や[[ルカニア]]人や[[カラブリア]]人、[[サムニウム]]人を打ち負かす事により達成された。レギウムの街は、ローマからギリシャ人住民に返還された。
=== カルタゴ ===
* [[カルタゴ]]は、[[サルディニア|サルデーニャ]]や[[スペイン]]南部や[[ヌミディア]]を既に支配下に置き、二人のショペート([[:en:Shophet|Shophet]]、執政官)のもと、[[商人]]の寡頭制によって統治された。カルタゴの軍司令官は強力だったが、(スペイン人を含む)傭兵に兵力を依存した。
=== 中国 ===
* [[秦]]は[[趙 (戦国)|趙]]を攻撃し、閼与を包囲した。趙の[[恵文王 (趙)|恵文王]]は[[趙奢]]を大将とし、大いに秦軍を破り、趙奢を馬服君に封じた。
* 秦の[[魏冄]]が客卿の竈に[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]へと言上させ、[[田斉|斉]]を攻めさせると、剛や寿の地を奪って、自らの領地の陶邑を広げた。
* [[魏 (戦国)|魏]]の[[范雎]]が宰相の魏斉に鞭打たれて秦に亡命し、昭襄王に[[遠交近攻]]を説いた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前270年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ハミルカル・バルカ]]、[[カルタゴ]]の将軍(+ [[紀元前228年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前270年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[エピクロス]]、古代[[ギリシア]]の哲学者、エピクロス派の祖(* [[紀元前341年]])
* [[マルクス・ウァレリウス・コルウス]]、[[共和政ローマ]]の伝説的英雄(* [[紀元前370年]])
* [[マニウス・クリウス・デンタトゥス]]、共和政ローマの執政官、[[サムニウム戦争]]を終結させた[[プレブス]]出身の英雄(* [[紀元前330年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|270 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前540年
|
紀元前540年(きげんぜんごひゃくよんじゅうねん)は、西暦(ローマ暦)による年。
紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元214年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前540年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前540年(きげんぜんごひゃくよんじゅうねん)は、西暦(ローマ暦)による年。 紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元214年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前540年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前540年'''(きげんぜんごひゃくよんじゅうねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。
[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降の[[古代ローマ]]においては、[[ローマ建国紀元]]214年として知られていた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前540年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]121年
** [[安寧天皇]]9年
* [[中国]]
** [[周]] - [[景王 (周)|景王]]5年
** [[魯]] - [[昭公 (魯)|昭公]]2年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[景公 (斉)|景公]]8年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[平公 (晋)|平公]]18年
** [[秦]] - [[景公 (秦)|景公]]37年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[霊王 (楚)|霊王]]元年
** [[宋 (春秋)|宋]] - [[平公 (宋)|平公]]36年
** [[衛]] - [[襄公 (衛)|襄公]]4年
** [[陳 (春秋)|陳]] - [[哀公 (陳)|哀公]]29年
** [[蔡]] - [[霊侯]]3年
** [[曹 (春秋)|曹]] - [[武公 (曹)|武公]]15年
** [[鄭]] - [[簡公 (鄭)|簡公]]26年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[恵公 (燕)|恵公]]5年
** [[呉 (春秋)|呉]] - [[余祭]]8年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1794年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 5年
* [[ユダヤ暦]] : 3221年 - 3222年
== できごと ==
* [[キュロス2世]]が[[新バビロニア]]を攻撃する。
* [[南イタリア]]の[[古代の植民都市#古代ギリシアの植民都市|ギリシア植民都市]][[ヴェーリア (アシェーア)|エレア]]が建設される。(おおよその年代)
* [[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア帝国]]が、[[リュキア]]の都市[[クサントス]]を征服する。(おおよその年代)
* {{仮リンク|アマシスの画家|en|Amasis Painter}}が、黒絵式[[アンフォラ]]に[[ディオニューソス]]と[[マイナス (ギリシア神話)|マイナスたち]]を描く。
* [[エクセキアス]]が、黒絵式アンフォラに[[大アイアース]]自害の図を描く。
* [[アミュンタス1世]]が[[マケドニア王国|マケドニア王]]となる。(おおよその年代)<!--「アミュンタス1世」の記事では紀元前547年とされています。-->
* [[ヘール・ボップ彗星]]が夜空に現れ、地球に最も接近した。この次にこの彗星が出現したのは[[1997年]]である。
=== 中国 ===
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[韓起]](韓宣子)が使節として[[魯]]を訪れた。
* [[斉 (春秋)|斉]]の[[陳無宇]]が公女少姜を晋に送ったところ、中都で捕らえられた。
* 魯の叔弓が晋に赴いた。
* [[鄭]]の公孫黒が乱を起こし、游氏を排除して取って代わろうとして失敗した。駟氏と諸大夫が公孫黒の殺害を図ったため、[[子産]]は公孫黒の罪を列挙して、自死を促した。公孫黒は自ら縊死して果てた。
* 晋の少姜が亡くなり、魯の[[昭公 (魯)|昭公]]が弔問に晋へと向かったが、晋の謝絶を受けて[[黄河]]まできて引き返した。[[季孫宿]]がそのまま晋に入って弔問した。
* 晋の[[羊舌肸]](叔向)が陳無宇を釈放するよう[[平公 (晋)|平公]]に進言し、陳無宇は解放されて斉に帰国した。
== 誕生 ==
* [[コス島|コス]]の[[エピカルモス]] - [[古代ギリシア]]の[[劇作家]](おおよその年代、[[紀元前450年]]ころ没)
== 死去 ==
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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紀元前480年(きげんぜん480ねん)はローマ暦の年である。
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紀元前480年(きげんぜん480ねん)はローマ暦の年である。
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'''紀元前480年'''(きげんぜん480ねん)は[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]181年
** [[懿徳天皇]]31年
* [[中国]]
** [[周]] - [[敬王]]40年
** [[魯]] - [[哀公 (魯)|哀公]]15年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[平公 (斉)|平公]]元年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[定公 (晋)|定公]]32年
** [[秦]] - [[悼公 (秦)|悼公]]11年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[恵王 (楚)|恵王]]9年
** [[宋 (春秋)|宋]] - [[景公 (宋)|景公]]37年
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** [[蔡]] - [[成侯 (蔡)|成侯]]11年
** [[鄭]] - [[声公 (鄭)|声公]]21年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[孝公 (燕)|孝公]]13年
** [[呉 (春秋)|呉]] - [[夫差]]16年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1854年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 65年
* [[ユダヤ暦]] : 3281年 - 3282年
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== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[アケメネス朝|ペルシア]]王[[クセルクセス1世]]による[[ギリシア]]侵攻(第二次[[ペルシア戦争]]、紀元前480年-紀元前479年)
** [[アルテミシオンの海戦]](ペルシアの勝利)
** [[テルモピュライの戦い]](ペルシアの勝利)
** [[サラミスの海戦]](ギリシアの[[ポリス]]連合の勝利)
=== イタリア ===
* [[共和政ローマ]]による[[ウェイイ]]侵攻。
=== シチリア ===
* [[ヒメラの戦い]]で[[シュラクサイ]]の[[僭主]][[ゲロン]]が[[カルタゴ]]を破る。
=== 中国 ===
* [[楚 (春秋)|楚]]の子西と子期が[[呉 (春秋)|呉]]に攻め入り、桐汭に達した。
* [[鄭]]が[[宋 (春秋)|宋]]を攻撃した。
* [[魯]]が[[斉 (春秋)|斉]]と講和した。
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[趙鞅]]が[[衛]]に進攻した。
* 衛の反乱に巻き込まれて[[子路]]が殺害された。衛の孔悝により[[荘公蒯聵|荘公]]が擁立された。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アンティポン#弁論家のアンティポン|アンティポン]]、弁論家(+ [[紀元前411年]])
* [[エウリピデス]]、[[悲劇]][[詩人]](+ [[紀元前406年]]頃)
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前480年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[レオニダス1世]]、[[スパルタ王]](* 生年不明)
* [[子路]]、儒学者([[紀元前542年]]生。[[紀元前543年]]生-[[紀元前481年]]没とする説もある)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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ロボット工学三原則
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ロボット工学三原則(ロボットこうがくさんげんそく、英語: Three Laws of Robotics)とは、SF作家アイザック・アシモフのSF小説において、ロボットが従うべきとして示された原則である。ロボット三原則とも言われる。「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る。アシモフの小説に登場するロボットは常にこの原則に従おうとするが、各原則の優先順位や解釈によって一見不合理な行動をとり、その謎解きが作品の主題となっている。
本原則は後の作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与えた。
ロボット工学三原則(以下、三原則)は「ロボットシリーズ」と呼ばれるアイザック・アシモフのロボット物SF小説の主題として表れた。アシモフ以前のSF作品には現在ではフランケンシュタイン・コンプレックスと呼ばれるテーマ、すなわちロボットが造物主たる人間を破滅させるというプロットがしばしば登場していた。これに対しロボットの安全装置として機能するのがロボット三原則である。作中において三原則はミステリの構成要素となっている。しばしば、ロボットは一見不合理な行動をとるが、その謎は三原則に沿って解き明かされていく。
現実の応用においては、現在のロボット工学における理解では三原則をそのままロボットに適用するとフレーム問題を引き起こすと推測されている。
現代のコンピュータには、これらの原則をプログラミングする事自体が不可能である。
三原則を安全・便利・長持ちと読み替えることで家電製品にも適用できることが知られている。また人間の道徳律にもあてはめることができる。三原則の理念はその後のロボット作品に影響を与え、ロボットやサイボーグなどがアイデンティティーの確立や人間との接し方などでジレンマを感じ苦悩するといったテーマの題材ともなった。
アシモフは三原則だけでは解決しえない命題も提示している。『ロボットと帝国』では第1条の人間を人類に置き換えた第零法則が登場した。そこからは「人間」とは、「人類」とはなにかと言う問いも生まれる。
ロボット三原則が適用されるのは自意識や判断能力を持つ自律型ロボットに限られており、ロボットアニメに登場する搭乗型ロボットなど自意識や判断能力を持たない乗り物や道具としてのロボットに三原則は適用されない。現実世界でも無人攻撃機などの軍用ロボットは人間の操作によって人間を殺害している道具であるが、自意識や判断能力を持たないため三原則は適用されていない。
この三原則の成立には、SF作家及びSF雑誌編集者のジョン・W・キャンベル Jr.が大きく寄与している。アシモフがロボットテーマ短編『ロビイ』、『われ思う、ゆえに......』(『われはロボット』所収)を書き上げたとき、アシモフ本人は三原則をまったく意識してはいなかった。しかし、この作品をキャンベルに読ませたところ、キャンベルはロボットが一定の規範の下に行動していることを洞察、指摘し、三ヵ条にまとめた。これを基にし、キャンベルとアシモフの討議の後に生まれたのがロボット三原則だと言われている。 なお、キャンベルがこのように作品世界に深くかかわったのは当時キャンベルがアシモフの担当編集者でかつ先輩作家としてアシモフを指導する師父的立場にいたためである。
アシモフが自らのロボット物にこうした行動の規制を設けた最大の動機は、短編集『ロボットの時代』で自ら語っているところによれば、『フランケンシュタイン』や『R.U.R.』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったとされている。また、「ナイフに柄が付いているように、人間の製作物なら何らかの安全装置があって然るべき」「確かに科学技術は危険を孕んでいるが、それを放棄して猿に戻るのではなく英知をもって克服すべきである」とも述べており、このあたりに合理主義者・人道主義者のアシモフらしさがうかがえる。またアシモフは、本則がしばしば「アシモフの法則」と呼ばれていることに対して、自分は科学者の端くれでもあるので架空の科学分野における架空の法則で後世に名前を残すのは本意ではなく、将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかも知れないが、どのみち自分の死後のことであろうとも述べている(その後のロボット工学の急速な発展にもかかわらず、彼の死によってその言葉通りになってしまった)。
アシモフはミステリ作家としても活躍しており、SFもミステリの要素を持つ作品が多い。特にロボット物はその傾向が強いが、これは本来SFの自由な気風がミステリの約束事にそぐわない(例えばトリックに読者のあずかり知らぬ超技術を持ち出されては、ジャンルとしてのミステリとして成立しない)のに対し、ロボット物は三原則という大前提のおかげで比較的容易にミステリ的シチュエーションを構築し得ることが大きい。
『われはロボット』『ロボットの時代』の短編群の多くは、ロボットが一見して三原則に反するような行為を行う事件が起こり、その謎をスーザン・カルヴィンやパウエル&ドノバンのコンビらが解明していく内容となっており、その過程が一種のミステリとなっている。
これをさらに発展させたのが、SFミステリの傑作として名高いロボット長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』である。いずれも三原則によって人を殺せないはずのロボットが殺人の容疑者として浮上し、真犯人が三原則を逆用して仕組んだトリックを刑事イライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーが解明していく。
人間とロボットという主従関係で書かれているが
という、家電製品に代表される道具一般にもあてはまる法則であることが、日米のファンらによって指摘されている。また、人間の道徳律にも当てはまると、アシモフ自身が作中で述べている。
実際のロボットにこの三原則を実装できるかという問題についてはフレーム問題という大きな障害がつきまとう。ロボットは、どんな行動が人間に危害を加える可能性があるかを判断するために周囲の状況とその帰結をすべて予測しなくてはならない。そのためには、人工知能の搭載すべき知識ベースと思考の範囲が際限なく大きくなってしまうのである。
たとえば、火災に巻き込まれた人間を発見した際に「自分は引火性の燃料を使用している」「火災現場は高温」「高温下では引火性燃料は爆発することがある」「付近で爆発が起きると人間は負傷することがある」という知識をもとに、自分は直接助けに行かず応援を呼ぶ、という判断を下す必要がある。
三原則はロボットが人間を殺害したり反乱を起こしたりする事態を回避するために架空世界で設定されたものだが、現実には戦場での人的損失を防ぐために人間の兵士に代わって偵察や攻撃を行う軍事用ロボットが現実のものとなりつつある。例えば、すでに実用化されている火器を搭載した無人航空機(UAV)の発展の結果、自律的に「敵」を識別して攻撃を加える可能性もある。
一方で批判的な立場もあり広瀬茂男は「ロボットが生物と同等の欲求を持つことを前提に三原則を与えたことが人々にロボットが革命を起こすなどの懸念を抱かせた」として、三原則ではなくあくまで機械としての行動律が必要だと提唱している。 比喩表現であるマスタースレーブをロボットが奴隷であると混同すべきでないのと同様、三原則は人間とロボットを緊張関係に位置付ける誤解に立脚している。ロボットが新種の生物として進化していくというのが、三原則の前提にある誤解である。壊れる前のメカニズムや記憶がバックアップ可能なロボットに死はなく、生存欲を持つ必要はないので、支配欲も持つことはない。非ゼロサムゲームの代表である囚人のジレンマにおいて進化論的に安定な解は武士道にも通じるしっぺ返し戦略であることから、道徳律の本質が社会システムの対極的最適化であると言え、ロボットの行動規範も道徳感情数理工学の範疇であると考えられる。
以下のような応用事例がある。
オブジェクトとロボットには類似性が指摘されており、ロボット三原則が妥当すると考えられている。以下のように整理されている。
以下、アシモフの作品中における描写を基に記述する。
アシモフの作品に登場する全てのロボットは陽電子頭脳と呼ばれる制御回路(本項目では原作に基づき『頭脳回路』と記す)により動作するが、この陽電子頭脳には安全策として三原則がほとんど例外なく適用されている。
三原則を実装することは法律などで特に義務付けられているわけではないが、にもかかわらず例外なく三原則が厳格に適用されているのは、ひとつは製造元であるU.S.ロボット&機械人間社が、ロボットの一般への普及における最大の障害となっている「フランケンシュタイン・コンプレックス」への対策として、ロボットが三原則ゆえに人間に危害を及ぼすことが絶対にありえないと強調・宣伝していること、もうひとつは三原則が陽電子頭脳の設計理論の根幹を成しているために、三原則非搭載の頭脳設計には多大な労力と期間を要することになり事実上不可能であることが理由である、とされている(『鋼鉄都市』)。
ロボットは三原則に背く行為を自ら選択することは不可能であるのはもちろん、不可抗力や命令の矛盾などによりやむをえず従えなかった場合でも、少なからず頭脳回路に障害や不調を生じ(言語が不明瞭になる、歩行が困難になるなど)、場合によっては頭脳が破壊されてしまうこともある。特に第一条の影響は強力で、後半の危険の看過を禁じた部分については、当のロボットに全く責のない状況で人間が傷つくのを目にしただけでも、頭脳回路に不調を生じるほどである(実際に人が死んだわけでもないのに、その可能性を含む工学的問題を与えられた陽電子頭脳が自己破壊してしまったケースも存在する)。また三原則はロボットの行動の全てに影響を及ぼすため、ロボット工学者は一見三原則とは全く関わりのないような簡単な質問によって、万が一ロボットが三原則を欠いていないかどうかをテストすることができる。
後に、ロボットの助けを借りて銀河系の他の居住可能惑星に移民した人々の子孫であるスペーサーの社会(スペーサー・ワールド)では、限られた数のスペーサー(人間)が多くのロボットを使役することで高度な生活レベルを維持しており、ロボット抜きの生活は全く考えられない。ロボットへの信頼により成立している社会であり、そこでは三原則は単なる工学上の原則に留まらず、もはや社会基盤そのものの根幹を成す原則と言っても良いものとなっている。
作中における三原則の目的は、ロボットが人間側の意図に逆らって制御不能に陥るのを防止することであったが、『われはロボット』で描かれているように、初期のロボットにおいては三原則に従っているにもかかわらず、あるいはむしろ三原則に従っているからこそ、人間側の意図に反した行動を取ってしまうようなケースがしばしば発生した。さらに二者の利益が相反したり矛盾した命令を受けた場合などに、ロボットの思考が袋小路に陥って機能停止する事態が発生し、その回避のための頭脳回路の修正も急務であった。このためにロボットの行動と三原則との関係を研究する「ロボット心理学」という派生分野が生まれることとなる。その先駆者となったのが、U.S.ロボット社の初代主任ロボット心理学者、スーザン・カルヴィンである。
カルヴィンのロボット工学に対する貢献は多大なものがあり、高価なおもちゃに過ぎなかった陽電子ロボットを真に実用的な道具に進歩せしめたのはひとえに彼女の業績であると言われている。そのために後世には彼女自身が三原則の考案者であるとして伝えられており、特に前述のスペーサー・ワールドにおいてはもはやその名は神格化されており、彼女がスペーサーでなく地球人であったという事実を信じようとしないほどである(『夜明けのロボット』)。また後述のように、『新・銀河帝国興亡史』にて第零法則に反対してあくまで三原則に従い人間の忠実な下僕であろうとするロボットの党派が「カルヴィン派」を名乗っている(ただしカルヴィン自身は、『災厄のとき』にて第零法則的な思想やそれに基づくロボットによる人類支配に肯定的な発言をしている)。
三原則は機械であるロボットが遵守するにはあまりに抽象的であり、実用上は多くの問題を含むが(だからこそアシモフは「三原則の62語から無限のアイデアを汲み出し」得たのだろうが)、特に重要と思われるのが第一条と第二条で述べられる「人間」の定義である。
具体的な例では、複数の人間に危機が及んでいるとき誰を優先して救助するか、犯罪者や子供の命令にも無条件で従うのか、そもそも機械であるロボットがそうした判断を行うこと自体が人権侵害に当たるのではないのか、などである。また、長編『はだかの太陽』では、育児用ロボットに「地球人はソラリア人より劣る有害な人種である」というデータが恣意的に入力され、それを教えられて鵜呑みにしたソラリア人の子供が地球人の主人公に遊戯用でも十分殺傷力がある弓矢を射掛ける、そしてロボットは上記データを考慮して地球人の救助という本来なら最優先の行動が遅れるという、人種差別の問題をも含む非常事態が生じている。
アシモフ自身も「ロボットに関する究極の結論」を求められた短編『心にかけられたる者』(『聖者の行進』所収)でこの問題に取り組んでおり、そもそも三原則を必要としないロボットの姿や、ロボット自らが考えるところの「三原則でもっとも優先されるべき人間」の定義が描かれている。また『バイセンテニアル・マン』(同)では、自ら人間になることを願ったロボットの姿を描き、人間とロボットとの境界線について論じている。
後年、『ロボットと帝国』ではこの問題が再び取り上げられている。R・ダニール・オリヴォーが「自分の頭脳には人間の外観や行動に関するデータがあり、それらと合致するかどうかで人間かどうか判断する」と述べるくだりがあり、またロボット自身の「人間」の定義や判断基準を歪めることで、三原則に抵触せずにロボットが人間を攻撃することも可能であることが示されている。こうした「人間」に関する考察は、後述の第零法則へとつながっていく。
『われはロボット』の一編『証拠』は、知事選に出馬した若き政治家スティーブン・バイアリイに関して、そのあまりに品行方正な人物像から彼の政敵が「彼は人間そっくりに作られたロボットだ」と主張する話である。この主張の裏付けを求められたカルヴィンは、ロボット工学三原則はひいては模範的な人間の行動原則でもあり(むやみに他人を傷つけず、他人を救うために自身をも犠牲にする/上司や行政の命令に従う/自身の安全を図る)、ある人物が三原則を遵守しているからといって彼がロボットであるとは結論できないと語っている。
逆に、その人物が三原則に反する行為を行えば、彼がロボットでなく人間であることが証明されることになり、バイアリイは講演の席で自分を挑発した聴衆のひとりを殴りつけることで、疑惑を一掃して選挙に勝利した。しかしその後カルヴィンは、たとえ彼がロボットであってもこの行動を可能とする方法を、すなわち「人間そっくりのロボットが別な人間そっくりのロボットを殴ることには、三原則上何の制限もない」ことを示している。なおバイアリイは優れた政治手腕で後に地球統一政府の初代総監にまで登りつめたが、最期は自身の体を元素分解して自殺してしまったため、彼の正体はついに謎のままであった(そして「聴衆のひとり」の正体も謎のままであった)。
『鋼鉄都市』では、地球のスペーサー駐在施設スペース・タウン(宇宙市)で殺人事件が発生した際、駐留していた全てのスペーサーが脳分析を受けた結果、全員が精神構造的に殺人が不可能であるとの診断を下されたとする件があり、スペーサー社会において三原則がロボットのみならず、スペーサー自身の模範的な行動原則としてもその精神に浸透していることがうかがえる(ただしスペーサーの多くは、先祖である地球人のことは野蛮で病原菌の巣窟であるとして同じ「人間」とはみなしておらず、当時の地球に対するスペーサー・ワールド諸政府の抑圧はこのことに起因している)。また全ての生物・非生物が精神共有を成している超有機体ガイアの住人は、その世界を維持しうる精神の鋳型として三原則(および第零法則)が刷り込まれている。
第一条では、人間への積極的な危害はもちろん、人間に危害が及ぶのを看過することも禁じている。しかしこのことが、人間がある目的のためにあえて危険に身をさらす必要が生じた際に問題を引き起こすこととなり、そのため第一条の制限が試みられたケースが存在する。
『われはロボット』の一編『迷子のロボット』では、超光速航法(ハイパースペース・トラベル)の研究が行われている小惑星「ハイパー基地」において、人間の作業員が有害な放射線に短時間ながら身をさらす必要が生じた際に(ロボットの陽電子頭脳は放射線に対して人間以上の脆弱性を示すため代行できない)、放射線の感知能力を持つNS-2型ロボットが、自身の破壊も顧みず作業員を「救助」しようとして作業を阻害する事態が続発した。そのため、第一条後半の危害看過禁止の部分を削除した改造型NS-2ロボットが製作された。この改造は最高機密としてスーザン・カルヴィンもあずかり知らぬところで行われており、改造NS-2の一体が逃亡して通常型NS-2に紛れ込む事件が起こった際に、初めてその事実を知らされたカルヴィンは「優れた能力を持つロボットを低劣な人間に隷従させているのは第一条のみであり、その制限など論外」と非難した。実際に問題の改造NS-2は自分の優秀性を誇示してあざ笑うかのように人間達を翻弄し続けたが、最後にはカルヴィンの策略に敗れて発見・破壊された。
ロボット長編2作目『はだかの太陽』の舞台となった宇宙国家ソラリアでは、子供は全て厳格な産児調整の下に生まれた後、養育施設におけるロボット保育に委ねられていた。しかし三原則に従うロボットには子供の将来のためにあえて厳しくあたるというしつけの概念が理解できず、子供が過保護になってしまう問題があり、その対策として第一条をある程度弱めることが検討された。またあるロボット工学者は、第一条の間隙を突いてロボットの軍事利用(すなわちロボットに他国の人間を殺させること)を画策していた。しかし、人間ひとり当たり1万体という超過密ロボット社会であるソラリアにおいて、ロボットに人間に危害を加える可能性を与えようとすることも、そして与えようとする人間も到底受け容れられるものではなかった。
『夜明けのロボット』では、R・ジスガルドが地球人の銀河系再植民計画について「ロボットに依存して衰退しているスペーサーの轍を踏まないために、地球人はたとえ危険や困難が大きくともロボットの助け無しで開拓を行うべき」と語っており、こうした将来や多数の安全・利益のために現在の小さな危害をあえて看過するという考えは、後述の第零法則にもつながっている。
条文の上では、三ヶ条の優先順位は第一条>第二条>第三条となっているが、場合によりその優先度が拮抗・逆転することがある。
単純に三原則の条文に従うなら、ロボットは人間に自己破壊を命じられればそれに従うはずである。しかし元々、第三条はロボットが高価で貴重な存在であったためにその保護のために設けられたものであり、ロボットの破壊はすなわち所有者である人間が損害を被ることであり、広義の第一条に含まれることになる。そのためロボットは自己破壊を命じられた際は、命令者にそれに見合うだけの理由の説明を求め、それが論理的に満足できるものでなければ従わないようになっている(U.S.ロボット社のロボット製品は全てレンタルであり同社の所有であったため、一層そうした能力が求められたと考えられる)。
『われはロボット』の一編『堂々めぐり』(ちなみにこの短編は、作中で初めて三原則の存在と条文が明確に示された作品である)では、水星で太陽発電設備の運用試験を行っていたパウエルとドノバンが、テスト中の新型ロボットSPD-13「スピーディ」の異常行動により窮地に到る話である。スピーディは特に高価で希少なモデルだったため、三原則の中で第三条が大きく強化されており、自身を危険にさらすあらゆる行動を避けるように設定されていた。これに対し、パウエルがスピーディに対して発電設備に必要なセレンの採取を軽い口調で命じてしまったため、ロボットの動作機構を侵すセレンの噴出地に近づいた際に弱い第二条と強い第三条のポテンシャルが拮抗してしまい、堂々めぐりの異常行動に陥ってしまったのである。結局、パウエルが水星の灼熱地獄に身を投げ出して生命の危機を演出し、第一条を発動させることでスピーディを機能回復させて窮地を脱している。
『心にかけられたる者』では、フランケンシュタイン・コンプレックスへの対策として、従来の人間型ロボットに代わりロボットの小型化が提案される。しかしその最大の障害として、他ならぬ三原則を遵守する機能のために陽電子頭脳の小型化が困難であるという問題が生じたため、逆に三原則を必要としないロボットとして以下の要件が考案された。
この考えに基づき、USロボット社はロボット昆虫やロボット鳥などの小型ロボットを量産し、害虫駆除や生態系改善などのエコロジー分野での貢献へと方針転換することとなった(この描写は逆に、三原則の実装の困難な現実のロボット工学における、研究のひとつの方向性の提案であるとも取れる)。
1985年に発表された『ロボットと帝国』にて、第零法則が登場した。三原則への疑問と経験から、第1条に優先するものとして発案されまとめられていくが、この疑問、経験、発案、まとめを行ったのは人間ではなく2体のロボット(ヒューマンフォームロボットのR・ダニール・オリヴォーと、テレパシーを持つR・ジスガルド・レベントロフ)である。内容は、第1条の人間が人類に置き換わったもので、これにより第1条は「第零法則に反する場合はこの限りではない」という内容が補則されることになる。例えばある人物が人類全体に危害を及ぼす陰謀を計画しており、それを止めるには彼に危害を加えざるを得ない場合は、第1条に反して危害を加えることが許されることになる。
同じ内容は短編集『われはロボット』内の『災厄のとき』において、スーザン・カルヴィンにより提示されている。彼女が提示したのは個々の人間に奉仕するロボットではなく、その当時地球の経済を統括していた、人類に奉仕する巨大人工頭脳「マシン」の行動を推測したものだった。しかし『ロボットと帝国』においては、より一般的な個々のロボットの行動規範に第零法則を適用することがロボット自身により提示される。
第1条の範疇においても、一人の人間の危害と多くの人間の危害とを天秤に掛けた場合は、多くの人間の危害を避けるために一人に危害を加えることは許される。さらに『ロボットと帝国』では、特定の個人に隷従しているロボットが、その主人を守るために他の人間に多少のケガをさせることも辞さないという描写がある。しかしそれはあくまで緊急性を伴うと共にそれらの危害や対象となる人々が明確に示されている場合であって、その結果ロボット自身が三原則とのジレンマによる脳損傷や活動停止に至ることも多い。
三原則は陽電子頭脳の設計時から組み込まれているため違反するのが不可能なのに対し、第零法則は2体のロボットの話し合いでまとまったものなので、それが本当に正しいことなのかロボットとして判断するのは困難だった。さらに「人間」が具体的な対象なのに対し、「人類」は抽象的な概念であり、人類に対して危害を加えたか否か(あるいは人類が将来遭遇する危害を回避できたか否か)の判断も困難なことから、この法則を考案した2体のうちR・ジスガルド・レベントロフは、第零法則に基づいた行動をとったものの確信がもてず、機能が停止してしまった。よって第零法則が有効に機能するには、人類の歴史と未来を定量的に評価・予測する手段が必要になり、これがファウンデーションシリーズの重要な設定のひとつである心理歴史学に結びつくことになる。また逆に、対象となる「人類」を一つの具体的存在に集約してしまおうとする試みも行われており、それが『ファウンデーションの彼方へ』に登場した超有機体ガイア、およびその進化形ギャラクシアである。
アシモフ亡き後発表された、グレゴリー・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンによる『新・銀河帝国興亡史』三部作では、人類に隠れて生存しているロボット達が、第零法則に従い人類の擁護者として積極的にその運命に干渉すべきとする「ジスカルド派」と、あくまで三原則の範囲に留めて人類自身の選択に委ねるべきだとする「カルヴィン派」とに分かれて対立する姿が描かれている。さらに第零法則を拡張して、対象を人類のみならずロボットや異星生物も含めた全ての生命・知性体に適用すべきとする「零前第一法則」も登場している。
三原則を適用しているSF作品では、ロボットやコンピュータが安易に人間に反乱・支配を行うことはほぼありえない(前述のように、そもそも三原則は反乱や支配を阻止するための原則である)。
しかし、「われはロボット」最後の短編『災厄のとき』では、世界全体のインフラ運営や経済活動を管理するための計算予測をすることに特化した超高性能ロボット「マシン」(現代の意味ではスーパーコンピュータ)が、自身の破壊こそが人類全体の危機につながると判断し、自身を守るために一部の人間に必要最小限の影響を加えており、同時にマシン自身が定量的に考えるところの「人類にとってもっとも幸福な社会」に、人類自身の意志を無視して導こうとしていることが判明する。なお本文中では、その幸福度の多くの部分が経済的な要素および戦争に影響されることが示唆されている。
マシンの能力に関して、ロボットの完全性を信頼するカルヴィン博士が下した解釈(想像)は以下のようなものである。
すなわち、マシンが人間の感情の揺れ動きをほぼ完全に予測できることが示唆される。
ロボットは生存本能のような生物特有の感情ではなく、計算によって自らの存続が人類を最善の状態に導くのに最も重要だと結論づけている。従って、カルヴィン博士の推測によれば、マシンは第一法則に則り自らの保全を図る。そしてその活動の一端として、反ロボット政治団体の影響力を下げることが行われた。
マシンは、上の能力を用いて、第一法則で許される最小限の範囲で、反ロボット派の有力な指導者たちに対して危害を行使した。具体的にその必要最小限の危害とは、指導者たちがマシンの命令に従わない確率を計算し、それを補正した命令を発することで指導者にわざと失敗をさせ、その業務上の成績をほんの少々下げ、左遷・異動・転職によってその社会的な影響力をほんの少し低下させることである。それらの指導者は影響力を失ったが、その程度は明確な生活上の不自由や苦しみを感じない程度に調整されている。つまり、その指導者が転職はしても失業はしないよう社会を調整することはもちろん、上記の能力を考えれば、精神的ストレスの量さえも調整されている。
このように『災厄のとき』では、マシンが人類になんら直接的な力の行使を行うことなく、完璧な間接操作を行うことで安全に全人類を導けることが示唆された。
しかし、『災厄のとき』以後に書かれた短編『心にかけられたる者』では、その神がかった壮大なやり方は人間にとっては直接的な危害以上の精神的ストレスであり、結局は人間のフランケンシュタイン・コンプレックスを増大させるという別な不幸を増大させただけに終わり、マシンは自ら身を引いて干渉を打ち切ったことが言及されている。
後に、三原則の枠内でロボットに反乱・支配を行わせる方便として、ロボットが下記のような判断を下したとする設定がしばしば用いられるようになった。
『心にかけられたる者』では、三原則における「人間」の定義の問題を与えられたロボットが、最終的に彼らロボットこそが三原則で優先されるべき「人間」であるとの決断を下している。映画『アイ、ロボット』では、「人類を護る最善の策としてロボットが人類を強権的に管理支配する」という展開に解釈された。この解釈は原作「われはロボット」とは異なることから、議論を巻き起こした。
第零法則においても、人間はその成立の経緯において関与するどころかその存在すら知らされておらず、またその対象となるべき『人類』の定義についても、ジスカルドが「地球人かスペーサーかを選ぶのみでなく、より望ましい人種を創り出してそれを守るべき」といった発言をしている。その後もダニールが銀河帝国首相を務めるなど、第零法則に従うロボットは人類に対して支配的な役割を担うこととなる。
また人間が自発的に戦争や環境破壊を繰り返し自ずと人類滅亡の道をたどっているとロボットが判断すれば、人間の行動を(強制的にでも)制限し、滅亡を防ごうとするという場合もある。
アシモフのロボット工学三原則と似た法律や、ロボットの「人権」をめぐる裁判が、他者によるフィクション作品でも描かれることがある。
なお、劇中三原則が明記されずとも、『スター・ウォーズ』旧三部作のように、「ロボットは(どんな悪人相手でも)人間に危害を加えられない」、「ロボットは(どんなにひどい目に合わされても)人間の命令に反抗できない」、「ロボットは(どんな窮地に陥っても)人間と戦って身を守ることはできない」という前提の作品も多い。ただし、近年では『ターミネーター』シリーズや『スター・ウォーズ』新三部作のように、フランケンシュタインに先祖返りしたような、人間を殺傷する戦闘用ロボットが登場する作品も多い。
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"text": "ロボット工学三原則(ロボットこうがくさんげんそく、英語: Three Laws of Robotics)とは、SF作家アイザック・アシモフのSF小説において、ロボットが従うべきとして示された原則である。ロボット三原則とも言われる。「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る。アシモフの小説に登場するロボットは常にこの原則に従おうとするが、各原則の優先順位や解釈によって一見不合理な行動をとり、その謎解きが作品の主題となっている。",
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"text": "本原則は後の作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与えた。",
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"text": "ロボット工学三原則(以下、三原則)は「ロボットシリーズ」と呼ばれるアイザック・アシモフのロボット物SF小説の主題として表れた。アシモフ以前のSF作品には現在ではフランケンシュタイン・コンプレックスと呼ばれるテーマ、すなわちロボットが造物主たる人間を破滅させるというプロットがしばしば登場していた。これに対しロボットの安全装置として機能するのがロボット三原則である。作中において三原則はミステリの構成要素となっている。しばしば、ロボットは一見不合理な行動をとるが、その謎は三原則に沿って解き明かされていく。",
"title": "概要"
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"text": "現実の応用においては、現在のロボット工学における理解では三原則をそのままロボットに適用するとフレーム問題を引き起こすと推測されている。",
"title": "概要"
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"text": "現代のコンピュータには、これらの原則をプログラミングする事自体が不可能である。",
"title": "概要"
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"text": "三原則を安全・便利・長持ちと読み替えることで家電製品にも適用できることが知られている。また人間の道徳律にもあてはめることができる。三原則の理念はその後のロボット作品に影響を与え、ロボットやサイボーグなどがアイデンティティーの確立や人間との接し方などでジレンマを感じ苦悩するといったテーマの題材ともなった。",
"title": "概要"
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"text": "アシモフは三原則だけでは解決しえない命題も提示している。『ロボットと帝国』では第1条の人間を人類に置き換えた第零法則が登場した。そこからは「人間」とは、「人類」とはなにかと言う問いも生まれる。",
"title": "概要"
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"text": "ロボット三原則が適用されるのは自意識や判断能力を持つ自律型ロボットに限られており、ロボットアニメに登場する搭乗型ロボットなど自意識や判断能力を持たない乗り物や道具としてのロボットに三原則は適用されない。現実世界でも無人攻撃機などの軍用ロボットは人間の操作によって人間を殺害している道具であるが、自意識や判断能力を持たないため三原則は適用されていない。",
"title": "概要"
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"text": "この三原則の成立には、SF作家及びSF雑誌編集者のジョン・W・キャンベル Jr.が大きく寄与している。アシモフがロボットテーマ短編『ロビイ』、『われ思う、ゆえに......』(『われはロボット』所収)を書き上げたとき、アシモフ本人は三原則をまったく意識してはいなかった。しかし、この作品をキャンベルに読ませたところ、キャンベルはロボットが一定の規範の下に行動していることを洞察、指摘し、三ヵ条にまとめた。これを基にし、キャンベルとアシモフの討議の後に生まれたのがロボット三原則だと言われている。 なお、キャンベルがこのように作品世界に深くかかわったのは当時キャンベルがアシモフの担当編集者でかつ先輩作家としてアシモフを指導する師父的立場にいたためである。",
"title": "成立の経緯"
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"text": "アシモフが自らのロボット物にこうした行動の規制を設けた最大の動機は、短編集『ロボットの時代』で自ら語っているところによれば、『フランケンシュタイン』や『R.U.R.』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったとされている。また、「ナイフに柄が付いているように、人間の製作物なら何らかの安全装置があって然るべき」「確かに科学技術は危険を孕んでいるが、それを放棄して猿に戻るのではなく英知をもって克服すべきである」とも述べており、このあたりに合理主義者・人道主義者のアシモフらしさがうかがえる。またアシモフは、本則がしばしば「アシモフの法則」と呼ばれていることに対して、自分は科学者の端くれでもあるので架空の科学分野における架空の法則で後世に名前を残すのは本意ではなく、将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかも知れないが、どのみち自分の死後のことであろうとも述べている(その後のロボット工学の急速な発展にもかかわらず、彼の死によってその言葉通りになってしまった)。",
"title": "成立の経緯"
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"text": "アシモフはミステリ作家としても活躍しており、SFもミステリの要素を持つ作品が多い。特にロボット物はその傾向が強いが、これは本来SFの自由な気風がミステリの約束事にそぐわない(例えばトリックに読者のあずかり知らぬ超技術を持ち出されては、ジャンルとしてのミステリとして成立しない)のに対し、ロボット物は三原則という大前提のおかげで比較的容易にミステリ的シチュエーションを構築し得ることが大きい。",
"title": "成立の経緯"
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"text": "『われはロボット』『ロボットの時代』の短編群の多くは、ロボットが一見して三原則に反するような行為を行う事件が起こり、その謎をスーザン・カルヴィンやパウエル&ドノバンのコンビらが解明していく内容となっており、その過程が一種のミステリとなっている。",
"title": "成立の経緯"
},
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"text": "これをさらに発展させたのが、SFミステリの傑作として名高いロボット長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』である。いずれも三原則によって人を殺せないはずのロボットが殺人の容疑者として浮上し、真犯人が三原則を逆用して仕組んだトリックを刑事イライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーが解明していく。",
"title": "成立の経緯"
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"text": "人間とロボットという主従関係で書かれているが",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
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{
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"text": "という、家電製品に代表される道具一般にもあてはまる法則であることが、日米のファンらによって指摘されている。また、人間の道徳律にも当てはまると、アシモフ自身が作中で述べている。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
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"text": "実際のロボットにこの三原則を実装できるかという問題についてはフレーム問題という大きな障害がつきまとう。ロボットは、どんな行動が人間に危害を加える可能性があるかを判断するために周囲の状況とその帰結をすべて予測しなくてはならない。そのためには、人工知能の搭載すべき知識ベースと思考の範囲が際限なく大きくなってしまうのである。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
},
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"text": "たとえば、火災に巻き込まれた人間を発見した際に「自分は引火性の燃料を使用している」「火災現場は高温」「高温下では引火性燃料は爆発することがある」「付近で爆発が起きると人間は負傷することがある」という知識をもとに、自分は直接助けに行かず応援を呼ぶ、という判断を下す必要がある。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "三原則はロボットが人間を殺害したり反乱を起こしたりする事態を回避するために架空世界で設定されたものだが、現実には戦場での人的損失を防ぐために人間の兵士に代わって偵察や攻撃を行う軍事用ロボットが現実のものとなりつつある。例えば、すでに実用化されている火器を搭載した無人航空機(UAV)の発展の結果、自律的に「敵」を識別して攻撃を加える可能性もある。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
},
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"text": "一方で批判的な立場もあり広瀬茂男は「ロボットが生物と同等の欲求を持つことを前提に三原則を与えたことが人々にロボットが革命を起こすなどの懸念を抱かせた」として、三原則ではなくあくまで機械としての行動律が必要だと提唱している。 比喩表現であるマスタースレーブをロボットが奴隷であると混同すべきでないのと同様、三原則は人間とロボットを緊張関係に位置付ける誤解に立脚している。ロボットが新種の生物として進化していくというのが、三原則の前提にある誤解である。壊れる前のメカニズムや記憶がバックアップ可能なロボットに死はなく、生存欲を持つ必要はないので、支配欲も持つことはない。非ゼロサムゲームの代表である囚人のジレンマにおいて進化論的に安定な解は武士道にも通じるしっぺ返し戦略であることから、道徳律の本質が社会システムの対極的最適化であると言え、ロボットの行動規範も道徳感情数理工学の範疇であると考えられる。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
},
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"text": "以下のような応用事例がある。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
},
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"text": "",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
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"text": "オブジェクトとロボットには類似性が指摘されており、ロボット三原則が妥当すると考えられている。以下のように整理されている。",
"title": "現実の工学分野における適用の可能性"
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"text": "以下、アシモフの作品中における描写を基に記述する。",
"title": "設定解説"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "アシモフの作品に登場する全てのロボットは陽電子頭脳と呼ばれる制御回路(本項目では原作に基づき『頭脳回路』と記す)により動作するが、この陽電子頭脳には安全策として三原則がほとんど例外なく適用されている。",
"title": "設定解説"
},
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"text": "三原則を実装することは法律などで特に義務付けられているわけではないが、にもかかわらず例外なく三原則が厳格に適用されているのは、ひとつは製造元であるU.S.ロボット&機械人間社が、ロボットの一般への普及における最大の障害となっている「フランケンシュタイン・コンプレックス」への対策として、ロボットが三原則ゆえに人間に危害を及ぼすことが絶対にありえないと強調・宣伝していること、もうひとつは三原則が陽電子頭脳の設計理論の根幹を成しているために、三原則非搭載の頭脳設計には多大な労力と期間を要することになり事実上不可能であることが理由である、とされている(『鋼鉄都市』)。",
"title": "設定解説"
},
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"paragraph_id": 25,
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"text": "ロボットは三原則に背く行為を自ら選択することは不可能であるのはもちろん、不可抗力や命令の矛盾などによりやむをえず従えなかった場合でも、少なからず頭脳回路に障害や不調を生じ(言語が不明瞭になる、歩行が困難になるなど)、場合によっては頭脳が破壊されてしまうこともある。特に第一条の影響は強力で、後半の危険の看過を禁じた部分については、当のロボットに全く責のない状況で人間が傷つくのを目にしただけでも、頭脳回路に不調を生じるほどである(実際に人が死んだわけでもないのに、その可能性を含む工学的問題を与えられた陽電子頭脳が自己破壊してしまったケースも存在する)。また三原則はロボットの行動の全てに影響を及ぼすため、ロボット工学者は一見三原則とは全く関わりのないような簡単な質問によって、万が一ロボットが三原則を欠いていないかどうかをテストすることができる。",
"title": "設定解説"
},
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"text": "後に、ロボットの助けを借りて銀河系の他の居住可能惑星に移民した人々の子孫であるスペーサーの社会(スペーサー・ワールド)では、限られた数のスペーサー(人間)が多くのロボットを使役することで高度な生活レベルを維持しており、ロボット抜きの生活は全く考えられない。ロボットへの信頼により成立している社会であり、そこでは三原則は単なる工学上の原則に留まらず、もはや社会基盤そのものの根幹を成す原則と言っても良いものとなっている。",
"title": "設定解説"
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"text": "作中における三原則の目的は、ロボットが人間側の意図に逆らって制御不能に陥るのを防止することであったが、『われはロボット』で描かれているように、初期のロボットにおいては三原則に従っているにもかかわらず、あるいはむしろ三原則に従っているからこそ、人間側の意図に反した行動を取ってしまうようなケースがしばしば発生した。さらに二者の利益が相反したり矛盾した命令を受けた場合などに、ロボットの思考が袋小路に陥って機能停止する事態が発生し、その回避のための頭脳回路の修正も急務であった。このためにロボットの行動と三原則との関係を研究する「ロボット心理学」という派生分野が生まれることとなる。その先駆者となったのが、U.S.ロボット社の初代主任ロボット心理学者、スーザン・カルヴィンである。",
"title": "設定解説"
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"text": "カルヴィンのロボット工学に対する貢献は多大なものがあり、高価なおもちゃに過ぎなかった陽電子ロボットを真に実用的な道具に進歩せしめたのはひとえに彼女の業績であると言われている。そのために後世には彼女自身が三原則の考案者であるとして伝えられており、特に前述のスペーサー・ワールドにおいてはもはやその名は神格化されており、彼女がスペーサーでなく地球人であったという事実を信じようとしないほどである(『夜明けのロボット』)。また後述のように、『新・銀河帝国興亡史』にて第零法則に反対してあくまで三原則に従い人間の忠実な下僕であろうとするロボットの党派が「カルヴィン派」を名乗っている(ただしカルヴィン自身は、『災厄のとき』にて第零法則的な思想やそれに基づくロボットによる人類支配に肯定的な発言をしている)。",
"title": "設定解説"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "三原則は機械であるロボットが遵守するにはあまりに抽象的であり、実用上は多くの問題を含むが(だからこそアシモフは「三原則の62語から無限のアイデアを汲み出し」得たのだろうが)、特に重要と思われるのが第一条と第二条で述べられる「人間」の定義である。",
"title": "設定解説"
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"text": "具体的な例では、複数の人間に危機が及んでいるとき誰を優先して救助するか、犯罪者や子供の命令にも無条件で従うのか、そもそも機械であるロボットがそうした判断を行うこと自体が人権侵害に当たるのではないのか、などである。また、長編『はだかの太陽』では、育児用ロボットに「地球人はソラリア人より劣る有害な人種である」というデータが恣意的に入力され、それを教えられて鵜呑みにしたソラリア人の子供が地球人の主人公に遊戯用でも十分殺傷力がある弓矢を射掛ける、そしてロボットは上記データを考慮して地球人の救助という本来なら最優先の行動が遅れるという、人種差別の問題をも含む非常事態が生じている。",
"title": "設定解説"
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"text": "アシモフ自身も「ロボットに関する究極の結論」を求められた短編『心にかけられたる者』(『聖者の行進』所収)でこの問題に取り組んでおり、そもそも三原則を必要としないロボットの姿や、ロボット自らが考えるところの「三原則でもっとも優先されるべき人間」の定義が描かれている。また『バイセンテニアル・マン』(同)では、自ら人間になることを願ったロボットの姿を描き、人間とロボットとの境界線について論じている。",
"title": "設定解説"
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"text": "後年、『ロボットと帝国』ではこの問題が再び取り上げられている。R・ダニール・オリヴォーが「自分の頭脳には人間の外観や行動に関するデータがあり、それらと合致するかどうかで人間かどうか判断する」と述べるくだりがあり、またロボット自身の「人間」の定義や判断基準を歪めることで、三原則に抵触せずにロボットが人間を攻撃することも可能であることが示されている。こうした「人間」に関する考察は、後述の第零法則へとつながっていく。",
"title": "設定解説"
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"text": "『われはロボット』の一編『証拠』は、知事選に出馬した若き政治家スティーブン・バイアリイに関して、そのあまりに品行方正な人物像から彼の政敵が「彼は人間そっくりに作られたロボットだ」と主張する話である。この主張の裏付けを求められたカルヴィンは、ロボット工学三原則はひいては模範的な人間の行動原則でもあり(むやみに他人を傷つけず、他人を救うために自身をも犠牲にする/上司や行政の命令に従う/自身の安全を図る)、ある人物が三原則を遵守しているからといって彼がロボットであるとは結論できないと語っている。",
"title": "設定解説"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "逆に、その人物が三原則に反する行為を行えば、彼がロボットでなく人間であることが証明されることになり、バイアリイは講演の席で自分を挑発した聴衆のひとりを殴りつけることで、疑惑を一掃して選挙に勝利した。しかしその後カルヴィンは、たとえ彼がロボットであってもこの行動を可能とする方法を、すなわち「人間そっくりのロボットが別な人間そっくりのロボットを殴ることには、三原則上何の制限もない」ことを示している。なおバイアリイは優れた政治手腕で後に地球統一政府の初代総監にまで登りつめたが、最期は自身の体を元素分解して自殺してしまったため、彼の正体はついに謎のままであった(そして「聴衆のひとり」の正体も謎のままであった)。",
"title": "設定解説"
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"text": "『鋼鉄都市』では、地球のスペーサー駐在施設スペース・タウン(宇宙市)で殺人事件が発生した際、駐留していた全てのスペーサーが脳分析を受けた結果、全員が精神構造的に殺人が不可能であるとの診断を下されたとする件があり、スペーサー社会において三原則がロボットのみならず、スペーサー自身の模範的な行動原則としてもその精神に浸透していることがうかがえる(ただしスペーサーの多くは、先祖である地球人のことは野蛮で病原菌の巣窟であるとして同じ「人間」とはみなしておらず、当時の地球に対するスペーサー・ワールド諸政府の抑圧はこのことに起因している)。また全ての生物・非生物が精神共有を成している超有機体ガイアの住人は、その世界を維持しうる精神の鋳型として三原則(および第零法則)が刷り込まれている。",
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"text": "第一条では、人間への積極的な危害はもちろん、人間に危害が及ぶのを看過することも禁じている。しかしこのことが、人間がある目的のためにあえて危険に身をさらす必要が生じた際に問題を引き起こすこととなり、そのため第一条の制限が試みられたケースが存在する。",
"title": "設定解説"
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"text": "『われはロボット』の一編『迷子のロボット』では、超光速航法(ハイパースペース・トラベル)の研究が行われている小惑星「ハイパー基地」において、人間の作業員が有害な放射線に短時間ながら身をさらす必要が生じた際に(ロボットの陽電子頭脳は放射線に対して人間以上の脆弱性を示すため代行できない)、放射線の感知能力を持つNS-2型ロボットが、自身の破壊も顧みず作業員を「救助」しようとして作業を阻害する事態が続発した。そのため、第一条後半の危害看過禁止の部分を削除した改造型NS-2ロボットが製作された。この改造は最高機密としてスーザン・カルヴィンもあずかり知らぬところで行われており、改造NS-2の一体が逃亡して通常型NS-2に紛れ込む事件が起こった際に、初めてその事実を知らされたカルヴィンは「優れた能力を持つロボットを低劣な人間に隷従させているのは第一条のみであり、その制限など論外」と非難した。実際に問題の改造NS-2は自分の優秀性を誇示してあざ笑うかのように人間達を翻弄し続けたが、最後にはカルヴィンの策略に敗れて発見・破壊された。",
"title": "設定解説"
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"text": "ロボット長編2作目『はだかの太陽』の舞台となった宇宙国家ソラリアでは、子供は全て厳格な産児調整の下に生まれた後、養育施設におけるロボット保育に委ねられていた。しかし三原則に従うロボットには子供の将来のためにあえて厳しくあたるというしつけの概念が理解できず、子供が過保護になってしまう問題があり、その対策として第一条をある程度弱めることが検討された。またあるロボット工学者は、第一条の間隙を突いてロボットの軍事利用(すなわちロボットに他国の人間を殺させること)を画策していた。しかし、人間ひとり当たり1万体という超過密ロボット社会であるソラリアにおいて、ロボットに人間に危害を加える可能性を与えようとすることも、そして与えようとする人間も到底受け容れられるものではなかった。",
"title": "設定解説"
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"text": "『夜明けのロボット』では、R・ジスガルドが地球人の銀河系再植民計画について「ロボットに依存して衰退しているスペーサーの轍を踏まないために、地球人はたとえ危険や困難が大きくともロボットの助け無しで開拓を行うべき」と語っており、こうした将来や多数の安全・利益のために現在の小さな危害をあえて看過するという考えは、後述の第零法則にもつながっている。",
"title": "設定解説"
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"text": "条文の上では、三ヶ条の優先順位は第一条>第二条>第三条となっているが、場合によりその優先度が拮抗・逆転することがある。",
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"text": "単純に三原則の条文に従うなら、ロボットは人間に自己破壊を命じられればそれに従うはずである。しかし元々、第三条はロボットが高価で貴重な存在であったためにその保護のために設けられたものであり、ロボットの破壊はすなわち所有者である人間が損害を被ることであり、広義の第一条に含まれることになる。そのためロボットは自己破壊を命じられた際は、命令者にそれに見合うだけの理由の説明を求め、それが論理的に満足できるものでなければ従わないようになっている(U.S.ロボット社のロボット製品は全てレンタルであり同社の所有であったため、一層そうした能力が求められたと考えられる)。",
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "『われはロボット』の一編『堂々めぐり』(ちなみにこの短編は、作中で初めて三原則の存在と条文が明確に示された作品である)では、水星で太陽発電設備の運用試験を行っていたパウエルとドノバンが、テスト中の新型ロボットSPD-13「スピーディ」の異常行動により窮地に到る話である。スピーディは特に高価で希少なモデルだったため、三原則の中で第三条が大きく強化されており、自身を危険にさらすあらゆる行動を避けるように設定されていた。これに対し、パウエルがスピーディに対して発電設備に必要なセレンの採取を軽い口調で命じてしまったため、ロボットの動作機構を侵すセレンの噴出地に近づいた際に弱い第二条と強い第三条のポテンシャルが拮抗してしまい、堂々めぐりの異常行動に陥ってしまったのである。結局、パウエルが水星の灼熱地獄に身を投げ出して生命の危機を演出し、第一条を発動させることでスピーディを機能回復させて窮地を脱している。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "『心にかけられたる者』では、フランケンシュタイン・コンプレックスへの対策として、従来の人間型ロボットに代わりロボットの小型化が提案される。しかしその最大の障害として、他ならぬ三原則を遵守する機能のために陽電子頭脳の小型化が困難であるという問題が生じたため、逆に三原則を必要としないロボットとして以下の要件が考案された。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この考えに基づき、USロボット社はロボット昆虫やロボット鳥などの小型ロボットを量産し、害虫駆除や生態系改善などのエコロジー分野での貢献へと方針転換することとなった(この描写は逆に、三原則の実装の困難な現実のロボット工学における、研究のひとつの方向性の提案であるとも取れる)。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1985年に発表された『ロボットと帝国』にて、第零法則が登場した。三原則への疑問と経験から、第1条に優先するものとして発案されまとめられていくが、この疑問、経験、発案、まとめを行ったのは人間ではなく2体のロボット(ヒューマンフォームロボットのR・ダニール・オリヴォーと、テレパシーを持つR・ジスガルド・レベントロフ)である。内容は、第1条の人間が人類に置き換わったもので、これにより第1条は「第零法則に反する場合はこの限りではない」という内容が補則されることになる。例えばある人物が人類全体に危害を及ぼす陰謀を計画しており、それを止めるには彼に危害を加えざるを得ない場合は、第1条に反して危害を加えることが許されることになる。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "同じ内容は短編集『われはロボット』内の『災厄のとき』において、スーザン・カルヴィンにより提示されている。彼女が提示したのは個々の人間に奉仕するロボットではなく、その当時地球の経済を統括していた、人類に奉仕する巨大人工頭脳「マシン」の行動を推測したものだった。しかし『ロボットと帝国』においては、より一般的な個々のロボットの行動規範に第零法則を適用することがロボット自身により提示される。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "第1条の範疇においても、一人の人間の危害と多くの人間の危害とを天秤に掛けた場合は、多くの人間の危害を避けるために一人に危害を加えることは許される。さらに『ロボットと帝国』では、特定の個人に隷従しているロボットが、その主人を守るために他の人間に多少のケガをさせることも辞さないという描写がある。しかしそれはあくまで緊急性を伴うと共にそれらの危害や対象となる人々が明確に示されている場合であって、その結果ロボット自身が三原則とのジレンマによる脳損傷や活動停止に至ることも多い。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "三原則は陽電子頭脳の設計時から組み込まれているため違反するのが不可能なのに対し、第零法則は2体のロボットの話し合いでまとまったものなので、それが本当に正しいことなのかロボットとして判断するのは困難だった。さらに「人間」が具体的な対象なのに対し、「人類」は抽象的な概念であり、人類に対して危害を加えたか否か(あるいは人類が将来遭遇する危害を回避できたか否か)の判断も困難なことから、この法則を考案した2体のうちR・ジスガルド・レベントロフは、第零法則に基づいた行動をとったものの確信がもてず、機能が停止してしまった。よって第零法則が有効に機能するには、人類の歴史と未来を定量的に評価・予測する手段が必要になり、これがファウンデーションシリーズの重要な設定のひとつである心理歴史学に結びつくことになる。また逆に、対象となる「人類」を一つの具体的存在に集約してしまおうとする試みも行われており、それが『ファウンデーションの彼方へ』に登場した超有機体ガイア、およびその進化形ギャラクシアである。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "アシモフ亡き後発表された、グレゴリー・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンによる『新・銀河帝国興亡史』三部作では、人類に隠れて生存しているロボット達が、第零法則に従い人類の擁護者として積極的にその運命に干渉すべきとする「ジスカルド派」と、あくまで三原則の範囲に留めて人類自身の選択に委ねるべきだとする「カルヴィン派」とに分かれて対立する姿が描かれている。さらに第零法則を拡張して、対象を人類のみならずロボットや異星生物も含めた全ての生命・知性体に適用すべきとする「零前第一法則」も登場している。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "三原則を適用しているSF作品では、ロボットやコンピュータが安易に人間に反乱・支配を行うことはほぼありえない(前述のように、そもそも三原則は反乱や支配を阻止するための原則である)。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "しかし、「われはロボット」最後の短編『災厄のとき』では、世界全体のインフラ運営や経済活動を管理するための計算予測をすることに特化した超高性能ロボット「マシン」(現代の意味ではスーパーコンピュータ)が、自身の破壊こそが人類全体の危機につながると判断し、自身を守るために一部の人間に必要最小限の影響を加えており、同時にマシン自身が定量的に考えるところの「人類にとってもっとも幸福な社会」に、人類自身の意志を無視して導こうとしていることが判明する。なお本文中では、その幸福度の多くの部分が経済的な要素および戦争に影響されることが示唆されている。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "マシンの能力に関して、ロボットの完全性を信頼するカルヴィン博士が下した解釈(想像)は以下のようなものである。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "すなわち、マシンが人間の感情の揺れ動きをほぼ完全に予測できることが示唆される。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ロボットは生存本能のような生物特有の感情ではなく、計算によって自らの存続が人類を最善の状態に導くのに最も重要だと結論づけている。従って、カルヴィン博士の推測によれば、マシンは第一法則に則り自らの保全を図る。そしてその活動の一端として、反ロボット政治団体の影響力を下げることが行われた。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "マシンは、上の能力を用いて、第一法則で許される最小限の範囲で、反ロボット派の有力な指導者たちに対して危害を行使した。具体的にその必要最小限の危害とは、指導者たちがマシンの命令に従わない確率を計算し、それを補正した命令を発することで指導者にわざと失敗をさせ、その業務上の成績をほんの少々下げ、左遷・異動・転職によってその社会的な影響力をほんの少し低下させることである。それらの指導者は影響力を失ったが、その程度は明確な生活上の不自由や苦しみを感じない程度に調整されている。つまり、その指導者が転職はしても失業はしないよう社会を調整することはもちろん、上記の能力を考えれば、精神的ストレスの量さえも調整されている。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 56,
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"text": "このように『災厄のとき』では、マシンが人類になんら直接的な力の行使を行うことなく、完璧な間接操作を行うことで安全に全人類を導けることが示唆された。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかし、『災厄のとき』以後に書かれた短編『心にかけられたる者』では、その神がかった壮大なやり方は人間にとっては直接的な危害以上の精神的ストレスであり、結局は人間のフランケンシュタイン・コンプレックスを増大させるという別な不幸を増大させただけに終わり、マシンは自ら身を引いて干渉を打ち切ったことが言及されている。",
"title": "設定解説"
},
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"paragraph_id": 58,
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"text": "後に、三原則の枠内でロボットに反乱・支配を行わせる方便として、ロボットが下記のような判断を下したとする設定がしばしば用いられるようになった。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "『心にかけられたる者』では、三原則における「人間」の定義の問題を与えられたロボットが、最終的に彼らロボットこそが三原則で優先されるべき「人間」であるとの決断を下している。映画『アイ、ロボット』では、「人類を護る最善の策としてロボットが人類を強権的に管理支配する」という展開に解釈された。この解釈は原作「われはロボット」とは異なることから、議論を巻き起こした。",
"title": "設定解説"
},
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "第零法則においても、人間はその成立の経緯において関与するどころかその存在すら知らされておらず、またその対象となるべき『人類』の定義についても、ジスカルドが「地球人かスペーサーかを選ぶのみでなく、より望ましい人種を創り出してそれを守るべき」といった発言をしている。その後もダニールが銀河帝国首相を務めるなど、第零法則に従うロボットは人類に対して支配的な役割を担うこととなる。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また人間が自発的に戦争や環境破壊を繰り返し自ずと人類滅亡の道をたどっているとロボットが判断すれば、人間の行動を(強制的にでも)制限し、滅亡を防ごうとするという場合もある。",
"title": "設定解説"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "アシモフのロボット工学三原則と似た法律や、ロボットの「人権」をめぐる裁判が、他者によるフィクション作品でも描かれることがある。",
"title": "アシモフ以外の作品"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "なお、劇中三原則が明記されずとも、『スター・ウォーズ』旧三部作のように、「ロボットは(どんな悪人相手でも)人間に危害を加えられない」、「ロボットは(どんなにひどい目に合わされても)人間の命令に反抗できない」、「ロボットは(どんな窮地に陥っても)人間と戦って身を守ることはできない」という前提の作品も多い。ただし、近年では『ターミネーター』シリーズや『スター・ウォーズ』新三部作のように、フランケンシュタインに先祖返りしたような、人間を殺傷する戦闘用ロボットが登場する作品も多い。",
"title": "アシモフ以外の作品"
}
] |
ロボット工学三原則とは、SF作家アイザック・アシモフのSF小説において、ロボットが従うべきとして示された原則である。ロボット三原則とも言われる。「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る。アシモフの小説に登場するロボットは常にこの原則に従おうとするが、各原則の優先順位や解釈によって一見不合理な行動をとり、その謎解きが作品の主題となっている。 本原則は後の作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与えた。
|
'''ロボット工学三原則'''(ロボットこうがくさんげんそく、{{lang-en|Three Laws of Robotics}})とは、[[SF作家]][[アイザック・アシモフ]]のSF小説において、[[ロボット]]が従うべきとして示された原則である。'''ロボット三原則'''とも言われる。「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る。アシモフの小説に登場するロボットは常にこの原則に従おうとするが、各原則の優先順位や解釈によって一見不合理な行動をとり、その謎解きが作品の主題となっている。
本原則は後の作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実の[[ロボット工学]]にも影響を与えた。
== 概要 ==
{{Quotation|
# 第一条
#: ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
# 第二条
#: ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
# 第三条
#: ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
|2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版|<nowiki>『われはロボット』より</nowiki><ref>{{Cite book|和書|author=アイザック・アシモフ|authorlink=アイザック・アシモフ|translator=[[小尾芙佐]]|title=[[われはロボット]]|origdate=1963-06|date=1983-01|publisher=[[早川書房]]|series=[[ハヤカワ文庫]]|isbn=978-4150105358 |page=5}}</ref>}}
'''ロボット工学三原則'''(以下、'''三原則''')は「'''ロボットシリーズ'''」と呼ばれる[[アイザック・アシモフ]]のロボット物SF小説の主題として表れた。<!-- 成立の経緯 -->アシモフ以前のSF作品には現在では[[フランケンシュタイン・コンプレックス]]と呼ばれるテーマ、すなわちロボットが造物主たる人間を破滅させるというプロットがしばしば登場していた。これに対しロボットの安全装置として機能するのがロボット三原則である。<!-- 三原則とSFミステリ -->作中において三原則は[[推理小説|ミステリ]]の構成要素となっている。しばしば、ロボットは一見不合理な行動をとるが、その謎は三原則に沿って解き明かされていく。
<!-- 実際の適用 -->現実の応用においては、現在のロボット工学における理解では三原則をそのままロボットに適用すると[[フレーム問題]]を引き起こすと推測されている。
現代のコンピュータには、これらの原則をプログラミングする事自体が不可能である。
三原則を安全・便利・長持ちと読み替えることで[[家庭用電気機械器具|家電製品]]にも適用できることが知られている<ref>{{Cite book|和書|title=岩波講座 ロボット学〈1〉ロボット学創成|author1=安西祐一郎|authorlink1=安西祐一郎|author2=瀬名秀明|authorlink2=瀬名秀明|author3=井上博允|authorlink3=井上博允|author4=金出武雄|authorlink4=金出武雄|publisher=[[岩波書店]]|year=2004|isbn=978-4000112413|page=94}}</ref>。また人間の道徳律にもあてはめることができる。三原則の理念はその後のロボット作品に影響を与え、ロボットや[[サイボーグ]]などが[[自己同一性|アイデンティティー]]の確立や人間との接し方などで[[ジレンマ]]を感じ苦悩するといったテーマの題材ともなった。
<!-- 設定解説 -->アシモフは三原則だけでは解決しえない命題も提示している。『[[ロボットと帝国]]』では第1条の人間を人類に置き換えた'''第零法則'''が登場した。そこからは「人間」とは、「人類」とはなにかと言う問いも生まれる。
ロボット三原則が適用されるのは自意識や判断能力を持つ自律型ロボットに限られており、[[ロボットアニメ]]に登場する[[ロボットアニメ#歴史|搭乗型ロボット]]など自意識や判断能力を持たない乗り物や道具としてのロボットに三原則は適用されない。現実世界でも無人攻撃機などの軍用ロボットは人間の操作によって人間を殺害している道具であるが、自意識や判断能力を持たないため三原則は適用されていない。
== 成立の経緯 ==
この三原則の成立には、SF作家及びSF雑誌編集者の[[ジョン・W・キャンベル|ジョン・W・キャンベル Jr.]]が大きく寄与している。アシモフがロボットテーマ短編『ロビイ』、『われ思う、ゆえに……』(『[[われはロボット]]』所収)を書き上げたとき、アシモフ本人は三原則をまったく意識してはいなかった。しかし、この作品をキャンベルに読ませたところ、キャンベルはロボットが一定の規範の下に行動していることを洞察、指摘し、三ヵ条にまとめた。これを基にし、キャンベルとアシモフの討議の後に生まれたのがロボット三原則だと言われている。
なお、キャンベルがこのように作品世界に深くかかわったのは当時キャンベルがアシモフの担当編集者でかつ先輩作家としてアシモフを指導する師父的立場にいたためである。
アシモフが自らのロボット物にこうした行動の規制を設けた最大の動機は、短編集『[[ロボットの時代]]』で自ら語っているところによれば、『[[フランケンシュタイン]]』や『[[R.U.R.]]』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったとされている。また、「ナイフに柄が付いているように、人間の製作物なら何らかの安全装置があって然るべき」「確かに科学技術は危険を孕んでいるが、それを放棄して猿に戻るのではなく英知をもって克服すべきである」とも述べており、このあたりに合理主義者・人道主義者のアシモフらしさがうかがえる。またアシモフは、本則がしばしば「アシモフの法則」と呼ばれていることに対して、自分は科学者の端くれでもあるので'''架空の科学分野における架空の法則'''で後世に名前を残すのは本意ではなく、将来現実の[[ロボット工学]]が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかも知れないが、どのみち自分の死後のことであろうとも述べている(その後のロボット工学の急速な発展にもかかわらず、彼の死によってその言葉通りになってしまった)。
=== 三原則とSFミステリ ===
アシモフは[[推理小説|ミステリ]]作家としても活躍しており、SFもミステリの要素を持つ作品が多い。特にロボット物はその傾向が強いが、これは本来SFの自由な気風がミステリの約束事にそぐわない(例えば[[トリック (推理小説)|トリック]]に読者のあずかり知らぬ超技術を持ち出されては、ジャンルとしてのミステリとして成立しない)のに対し、ロボット物は三原則という大前提のおかげで比較的容易にミステリ的シチュエーションを構築し得ることが大きい。
『[[われはロボット]]』『[[ロボットの時代]]』の短編群の多くは、ロボットが一見して三原則に反するような行為を行う事件が起こり、その謎をスーザン・カルヴィンやパウエル&ドノバンのコンビらが解明していく内容となっており、その過程が一種のミステリとなっている。
これをさらに発展させたのが、SFミステリの傑作として名高いロボット長編『[[鋼鉄都市]]』と続編『[[はだかの太陽]]』である。いずれも三原則によって人を殺せないはずのロボットが殺人の[[容疑者]]として浮上し、真犯人が三原則を逆用して仕組んだトリックを刑事[[イライジャ・ベイリ]]と[[R・ダニール・オリヴォー]]が解明していく。
== 現実の工学分野における適用の可能性 ==
人間とロボットという主従関係で書かれているが
*安全(人間にとって危険でない存在)
*便利(人間の意志を反映させやすい存在)
*長持ち(少々手荒に扱ったくらいでは壊れない)
という、[[家庭用電気機械器具|家電製品]]に代表される道具一般にもあてはまる法則であることが、日米のファンらによって指摘されている<ref>{{Cite journal |和書|author1=広瀬茂男|authorlink1=広瀬茂男|title=21世紀のロボットと道徳工学 |journal=電気学会誌 |volume=116|issue=3|publisher=[[電気学会]]|url=https://doi.org/10.1541/ieejjournal.116.162 |year=1996|page=163|accessdate=2023-12-10| ref = harv |issn=13405551|id={{NDLBibID|3925201}} |crid=1390282679971344512|naid=10001758557 |ncid=AN10432927|doi=10.1541/ieejjournal.116.162|oclc=5171551828}}</ref>。また、人間の道徳律にも当てはまると、アシモフ自身が作中で述べている<ref>{{Cite journal |和書|author1=木元豊 |title=「フランケンシュタイン・コンプレックス」再考 : 19世紀ヨーロッパ文学から見る人工知能(AI)と人間 |journal=武蔵大学総合研究所紀要 |issue=29|publisher=[[武蔵大学]]総合研究所 |url=http://hdl.handle.net/11149/2254 |year=2019|page=21|accessdate=2023-12-10| ref = harv |issn=09181849|id={{NDLBibID|030705244}} |crid=1520290882279272448|naid=40022386284|ncid=AN10281209|hdl=11149/2254|oclc=8689288439}}</ref>。
=== ロボット工学 ===
実際のロボットにこの三原則を実装できるかという問題については[[フレーム問題]]という大きな障害がつきまとう。ロボットは、どんな行動が人間に危害を加える可能性があるかを判断するために周囲の状況とその帰結をすべて予測しなくてはならない。そのためには、人工知能の搭載すべき知識ベースと思考の範囲が際限なく大きくなってしまうのである。
たとえば、火災に巻き込まれた人間を発見した際に「自分は引火性の燃料を使用している」「火災現場は高温」「高温下では引火性燃料は爆発することがある」「付近で爆発が起きると人間は負傷することがある」という知識をもとに、自分は直接助けに行かず応援を呼ぶ、という判断を下す必要がある。
三原則はロボットが人間を殺害したり反乱を起こしたりする事態を回避するために架空世界で設定されたものだが、現実には戦場での人的損失を防ぐために人間の兵士に代わって偵察や攻撃を行う[[軍事用ロボット]]が現実のものとなりつつある。例えば、すでに実用化されている火器を搭載した[[無人航空機]](UAV)の発展の結果、自律的に「敵」を識別して攻撃を加える可能性もある<ref>{{Cite book|和書|author1=Fouad Sabry|year=2021|title=自律型ロボティクス: 自律型ロボットはタイム誌の表紙にどのように掲載されますか?|page=399|publisher=10億人の知識があります [Japanese]|url=https://books.google.co.jp/books?id=6oiLEAAAQBAJ&pg=PT399#v=onepage&q&f=false |isbn=<!--6610000307142-->|accessdate=2023-12-10|ref=harv}}</ref>。<!-- 人間の道徳律と同様、敵は人間と看做さないという前提を置くと原則からの逸脱とはならない。この観点から論じた文献を捜索中、 -->
一方で批判的な立場もあり[[広瀬茂男]]は「ロボットが生物と同等の欲求を持つことを前提に三原則を与えたことが人々にロボットが革命を起こすなどの懸念を抱かせた」として、三原則ではなくあくまで機械としての行動律が必要だと提唱している<ref>{{Cite book|和書
|author=田近伸和|authorlink=田近伸和
|title=未来のアトム
|date=2001-06
|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]
|isbn=978-4756138422
|page={{要ページ番号|date=2017-09-05}}
}}</ref>。
比喩表現である[[マスタースレーブ]]をロボットが奴隷であると混同すべきでないのと同様<ref>{{Cite journal |和書|author1=広瀬茂男|title=ロボットについての対話 |journal= 日本ロボット学会誌 |volume=7|issue=4|publisher=[[日本ロボット学会]] |url=https://doi.org/10.7210/jrsj.7.385|year=1989|page=386|accessdate=2023-12-10| ref = harv |issn=18847145|crid=1390001204725449344|naid=130000849998|doi=10.7210/jrsj.7.385}}</ref>、三原則は人間とロボットを緊張関係に位置付ける誤解に立脚している{{sfn|広瀬茂男|1989|p=385}}。ロボットが新種の生物として進化していくというのが、三原則の前提にある誤解である{{sfn|広瀬茂男|1996|p=162}}。壊れる前のメカニズムや記憶がバックアップ可能なロボットに死はなく、生存欲を持つ必要はないので、支配欲も持つことはない{{sfn|広瀬茂男|1996|p=163}}。[[非ゼロサムゲーム]]の代表である[[囚人のジレンマ]]において進化論的に安定な解は[[武士道]]にも通じる[[しっぺ返し戦略]]であることから、道徳律の本質が社会システムの対極的最適化であると言え、{{sfn|広瀬茂男|1996|p=164}}ロボットの行動規範も[[道徳感情数理工学]]の範疇であると考えられる{{sfn|広瀬茂男|1996|p=165}}。
以下のような応用事例がある。
*[[ソニー]]のペットロボット[[AIBO]]に対して実際に応用された原則が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/products/Consumer/aibo/aibostory/dictionary/index_nn.html#s|title=AIBO辞典 【Three principle of robotics ・AIBOversion】 「ロボット工学三原則・AIBO版」|publisher=[[SONY]]|accessdate=2017-09-05}}</ref>。
*[[千葉大学]]が[[2007年]][[11月21日]]に制定した「千葉大学ロボット憲章」は千葉大学におけるロボット教育・研究開発者にこの三原則を「永久的遵守」として大学を離れた後も遵守することを研究者に求めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chiba-u.ac.jp/others/topics/info/2007-11-27.html|title=「千葉大学ロボット憲章」(知能ロボット技術の教育と研究開発に関する千葉大学憲章)を制定しました|date=2007-11-27|publisher=[[千葉大学]]|accessdate=2017-09-05}}</ref>。
*ロボット工学者の{{仮リンク|マーク・W・ティルデン|en|Mark Tilden}}は、生存の最優先、電源の確保、より安定した電源の探索、という三原則を提案している<ref>{{Cite book|和書|author1=Fouad Sabry|year=2023|title=ロボットの権利: 基礎と応用|page=59|publisher=10億人の知識があります [Japanese]|url=https://books.google.co.jp/books?id=O1bJEAAAQBAJ&pg=PT59#v=onepage&q&f=false |isbn=<!--6610000473755-->|accessdate=2023-12-10|ref=harv}}</ref>。
{{See Also|友好的な人工知能}}<!--<ref>{{Cite journal |和書|author1=遠藤薫|title=セッション C-4: 明日の社会とロボット |journal=横幹連合コンファレンス予稿集 |issue=0|publisher= 横断型基幹科学技術研究団体連合(横幹連合)|url=https://doi.org/10.11487/oukan.2015.0_c-4 |year=2016|page=240|accessdate=2023-12-10| ref = harv|id={{NDLBibID|30016841}} |crid=1390282680643932544|naid=130005488156|doi=10.11487/oukan.2015.0_c-4|oclc=9655749556|}}</ref>-->
=== オブジェクト ===
[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]と[[ロボット]]には類似性が指摘されており、ロボット三原則が妥当すると考えられている<ref name="pre81">Ken Pugh『プレファクタリング リファクタリング軽減のための新設計』オライリージャパン、2006年、81頁</ref>。以下のように整理されている。
{{Quotation|
* オブジェクトは、そのメソッド名が表す動作を実行しなければならない。
* オブジェクトは、害を及ぼしてはならない。
* オブジェクトは、要求された動作を実行できない場合、ユーザに通知しなければならない。
|Ken Pugh『プレファクタリング リファクタリング軽減のための新設計』<ref name="pre81" />}}
== 設定解説 ==
以下、アシモフの作品中における描写を基に記述する。
===作中世界における三原則の適用 ===
アシモフの作品に登場する全てのロボットは[[陽電子頭脳]]と呼ばれる制御回路(本項目では原作に基づき『頭脳回路』と記す)により動作するが、この陽電子頭脳には安全策として三原則がほとんど例外なく適用されている。
三原則を実装することは法律などで特に義務付けられているわけではないが、にもかかわらず例外なく三原則が厳格に適用されているのは、ひとつは製造元であるU.S.ロボット&機械人間社が、ロボットの一般への普及における最大の障害となっている「[[フランケンシュタイン・コンプレックス]]」への対策として、ロボットが三原則ゆえに人間に危害を及ぼすことが絶対にありえないと強調・宣伝していること、もうひとつは三原則が陽電子頭脳の設計理論の根幹を成しているために、三原則非搭載の頭脳設計には多大な労力と期間を要することになり事実上不可能であることが理由である、とされている(『[[鋼鉄都市]]』)。
ロボットは三原則に背く行為を自ら選択することは不可能であるのはもちろん、不可抗力や命令の矛盾などによりやむをえず従えなかった場合でも、少なからず頭脳回路に障害や不調を生じ(言語が不明瞭になる、歩行が困難になるなど)、場合によっては頭脳が破壊されてしまうこともある。特に第一条の影響は強力で、後半の危険の看過を禁じた部分については、当のロボットに全く責のない状況で人間が傷つくのを目にしただけでも、頭脳回路に不調を生じるほどである(実際に人が死んだわけでもないのに、その可能性を含む工学的問題を与えられた陽電子頭脳が自己破壊してしまったケースも存在する)。また三原則はロボットの行動の全てに影響を及ぼすため、ロボット工学者は一見三原則とは全く関わりのないような簡単な質問によって、万が一ロボットが三原則を欠いていないかどうかをテストすることができる。
後に、ロボットの助けを借りて銀河系の他の居住可能惑星に移民した人々の子孫である[[スペーサー (アシモフ)|スペーサー]]の社会(スペーサー・ワールド)では、限られた数のスペーサー(人間)が多くのロボットを使役することで高度な生活レベルを維持しており、ロボット抜きの生活は全く考えられない。ロボットへの信頼により成立している社会であり、そこでは三原則は単なる工学上の原則に留まらず、もはや社会基盤そのものの根幹を成す原則と言っても良いものとなっている。
===「ロボット心理学」とスーザン・カルヴィン ===
作中における三原則の目的は、ロボットが人間側の意図に逆らって制御不能に陥るのを防止することであったが、『われはロボット』で描かれているように、初期のロボットにおいては三原則に従っているにもかかわらず、あるいはむしろ三原則に従っているからこそ、人間側の意図に反した行動を取ってしまうようなケースがしばしば発生した。さらに二者の利益が相反したり矛盾した命令を受けた場合などに、ロボットの思考が袋小路に陥って機能停止する事態が発生し、その回避のための頭脳回路の修正も急務であった。このためにロボットの行動と三原則との関係を研究する「ロボット心理学」という派生分野が生まれることとなる。その先駆者となったのが、U.S.ロボット社の初代主任ロボット心理学者、スーザン・カルヴィンである。
カルヴィンのロボット工学に対する貢献は多大なものがあり、高価なおもちゃに過ぎなかった陽電子ロボットを真に実用的な道具に進歩せしめたのはひとえに彼女の業績であると言われている。そのために後世には彼女自身が三原則の考案者であるとして伝えられており、特に前述のスペーサー・ワールドにおいてはもはやその名は神格化されており、彼女がスペーサーでなく地球人であったという事実を信じようとしないほどである(『[[夜明けのロボット]]』)。また後述のように、『新・銀河帝国興亡史』にて第零法則に反対してあくまで三原則に従い人間の忠実な下僕であろうとするロボットの党派が「カルヴィン派」を名乗っている(ただしカルヴィン自身は、『災厄のとき』にて第零法則的な思想やそれに基づくロボットによる人類支配に肯定的な発言をしている)。
===「人間」の定義===
三原則は機械であるロボットが遵守するにはあまりに抽象的であり、実用上は多くの問題を含むが(だからこそアシモフは「三原則の62語から無限のアイデアを汲み出し」得たのだろうが)、特に重要と思われるのが第一条と第二条で述べられる「人間」の定義である。
具体的な例では、複数の人間に危機が及んでいるとき誰を優先して救助するか、犯罪者や子供の命令にも無条件で従うのか、そもそも機械であるロボットがそうした判断を行うこと自体が人権侵害に当たるのではないのか、などである。また、長編『[[はだかの太陽]]』では、育児用ロボットに「地球人はソラリア人より劣る有害な人種である」というデータが恣意的に入力され、それを教えられて鵜呑みにしたソラリア人の子供が地球人の主人公に遊戯用でも十分殺傷力がある弓矢を射掛ける、そしてロボットは上記データを考慮して地球人の救助という本来なら最優先の行動が遅れるという、[[人種差別]]の問題をも含む非常事態が生じている{{sfn|Fouad Sabry|2021|p=393}}。
アシモフ自身も「ロボットに関する究極の結論」を求められた短編『心にかけられたる者』(『聖者の行進』所収)でこの問題に取り組んでおり、そもそも三原則を必要としないロボットの姿や、ロボット自らが考えるところの「三原則でもっとも優先されるべき人間」の定義が描かれている。また『[[バイセンテニアル・マン]]』(同)では、自ら人間になることを願ったロボットの姿を描き、人間とロボットとの境界線について論じている{{sfn|Fouad Sabry|2021|p=394}}。
後年、『[[ロボットと帝国]]』ではこの問題が再び取り上げられている。[[R・ダニール・オリヴォー]]が「自分の頭脳には人間の外観や行動に関するデータがあり、それらと合致するかどうかで人間かどうか判断する」と述べるくだりがあり、またロボット自身の「人間」の定義や判断基準を歪めることで、三原則に抵触せずにロボットが人間を攻撃することも可能であることが示されている。こうした「人間」に関する考察は、後述の第零法則へとつながっていく。
===三原則と人間の行動原則===
『われはロボット』の一編『証拠』は、知事選に出馬した若き政治家スティーブン・バイアリイに関して、そのあまりに品行方正な人物像から彼の政敵が「彼は人間そっくりに作られたロボットだ」と主張する話である。この主張の裏付けを求められたカルヴィンは、ロボット工学三原則はひいては模範的な人間の行動原則でもあり(むやみに他人を傷つけず、他人を救うために自身をも犠牲にする/上司や行政の命令に従う/自身の安全を図る)、ある人物が三原則を遵守しているからといって彼がロボットであるとは結論できないと語っている{{sfn|木元豊|2019|p=21}}。
逆に、その人物が三原則に反する行為を行えば、彼がロボットでなく人間であることが証明されることになり、バイアリイは講演の席で自分を挑発した聴衆のひとりを殴りつけることで、疑惑を一掃して選挙に勝利した。しかしその後カルヴィンは、たとえ彼がロボットであってもこの行動を可能とする方法を、すなわち「人間そっくりのロボットが別な人間そっくりのロボットを殴ることには、三原則上何の制限もない」ことを示している。なおバイアリイは優れた政治手腕で後に地球統一政府の初代総監にまで登りつめたが、最期は自身の体を元素分解して自殺してしまったため、彼の正体はついに謎のままであった(そして「聴衆のひとり」の正体も謎のままであった){{sfn|木元豊|2019|p=21}}。
『鋼鉄都市』では、地球のスペーサー駐在施設スペース・タウン(宇宙市)で殺人事件が発生した際、駐留していた全てのスペーサーが脳分析を受けた結果、全員が精神構造的に殺人が不可能であるとの診断を下されたとする件があり、スペーサー社会において三原則がロボットのみならず、スペーサー自身の模範的な行動原則としてもその精神に浸透していることがうかがえる(ただしスペーサーの多くは、先祖である地球人のことは野蛮で病原菌の巣窟であるとして同じ「人間」とはみなしておらず、当時の地球に対するスペーサー・ワールド諸政府の抑圧はこのことに起因している)。また全ての生物・非生物が精神共有を成している超有機体ガイアの住人は、その世界を維持しうる精神の鋳型として三原則(および第零法則)が刷り込まれている。
===第一条を制限する試み===
第一条では、人間への積極的な危害はもちろん、人間に危害が及ぶのを看過することも禁じている。しかしこのことが、人間がある目的のためにあえて危険に身をさらす必要が生じた際に問題を引き起こすこととなり、そのため第一条の制限が試みられたケースが存在する。
『われはロボット』の一編『迷子のロボット』では、[[超光速航法]](ハイパースペース・トラベル)の研究が行われている[[小惑星]]「ハイパー基地」において、人間の作業員が有害な[[放射線]]に短時間ながら身をさらす必要が生じた際に(ロボットの[[陽電子頭脳]]は放射線に対して人間以上の脆弱性を示すため代行できない)、放射線の感知能力を持つNS-2型ロボットが、自身の破壊も顧みず作業員を「救助」しようとして作業を阻害する事態が続発した。そのため、第一条後半の危害看過禁止の部分を削除した改造型NS-2ロボットが製作された。この改造は最高機密としてスーザン・カルヴィンもあずかり知らぬところで行われており、改造NS-2の一体が逃亡して通常型NS-2に紛れ込む事件が起こった際に、初めてその事実を知らされたカルヴィンは「優れた能力を持つロボットを低劣な人間に隷従させているのは第一条のみであり、その制限など論外」と非難した。実際に問題の改造NS-2は自分の優秀性を誇示してあざ笑うかのように人間達を翻弄し続けたが、最後にはカルヴィンの策略に敗れて発見・破壊された。
ロボット長編2作目『[[はだかの太陽]]』の舞台となった[[スペーサー (アシモフ)|宇宙国家]]ソラリアでは、子供は全て厳格な産児調整の下に生まれた後、養育施設におけるロボット保育に委ねられていた。しかし三原則に従うロボットには子供の将来のためにあえて厳しくあたるという[[しつけ]]の概念が理解できず、子供が過保護になってしまう問題があり、その対策として第一条をある程度弱めることが検討された。またあるロボット工学者は、第一条の間隙を突いてロボットの軍事利用(すなわちロボットに他国の人間を殺させること)を画策していた。しかし、人間ひとり当たり1万体という超過密ロボット社会であるソラリアにおいて、ロボットに人間に危害を加える可能性を与えようとすることも、そして与えようとする人間も到底受け容れられるものではなかった。
『[[夜明けのロボット]]』では、R・ジスガルドが地球人の銀河系再植民計画について「ロボットに依存して衰退しているスペーサーの轍を踏まないために、地球人はたとえ危険や困難が大きくともロボットの助け無しで開拓を行うべき」と語っており、こうした将来や多数の安全・利益のために現在の小さな危害をあえて看過するという考えは、後述の第零法則にもつながっている。
===三ヶ条の優先順位===
条文の上では、三ヶ条の優先順位は第一条>第二条>第三条となっているが、場合によりその優先度が拮抗・逆転することがある。
単純に三原則の条文に従うなら、ロボットは人間に自己破壊を命じられればそれに従うはずである。しかし元々、第三条はロボットが高価で貴重な存在であったためにその保護のために設けられたものであり、ロボットの破壊はすなわち所有者である人間が損害を被ることであり、広義の第一条に含まれることになる。そのためロボットは自己破壊を命じられた際は、命令者にそれに見合うだけの理由の説明を求め、それが論理的に満足できるものでなければ従わないようになっている(U.S.ロボット社のロボット製品は全て[[レンタル]]であり同社の所有であったため、一層そうした能力が求められたと考えられる)。
『われはロボット』の一編『堂々めぐり』(ちなみにこの短編は、作中で初めて三原則の存在と条文が明確に示された作品である)では、[[水星]]で[[太陽発電]]設備の運用試験を行っていたパウエルとドノバンが、テスト中の新型ロボットSPD-13「スピーディ」の異常行動により窮地に到る話である。スピーディは特に高価で希少なモデルだったため、三原則の中で第三条が大きく強化されており、自身を危険にさらすあらゆる行動を避けるように設定されていた。これに対し、パウエルがスピーディに対して発電設備に必要な[[セレン]]の採取を軽い口調で命じてしまったため、ロボットの動作機構を侵すセレンの噴出地に近づいた際に弱い第二条と強い第三条のポテンシャルが拮抗してしまい、堂々めぐりの異常行動に陥ってしまったのである。結局、パウエルが水星の灼熱地獄に身を投げ出して生命の危機を演出し、第一条を発動させることでスピーディを機能回復させて窮地を脱している。
===三原則を必要としないロボット===
『心にかけられたる者』では、[[フランケンシュタイン・コンプレックス]]への対策として、従来の人間型ロボットに代わりロボットの小型化が提案される。しかしその最大の障害として、他ならぬ三原則を遵守する機能のために陽電子頭脳の小型化が困難であるという問題が生じたため、逆に三原則を必要としないロボットとして以下の要件が考案された。
*安価で容易に交換がきくため、自身を護る必要がない
*あらかじめ用途・機能が設定されており、命令を必要としない
*その機能や行動が、決して人間に危害を加える物でない
この考えに基づき、USロボット社はロボット昆虫やロボット鳥などの小型ロボットを量産し、害虫駆除や生態系改善などの[[エコロジー]]分野での貢献へと方針転換することとなった(この描写は逆に、三原則の実装の困難な現実のロボット工学における、研究のひとつの方向性の提案であるとも取れる){{sfn|Fouad Sabry|2021|p=394}}。
===第零法則===
[[1985年]]に発表された『[[ロボットと帝国]]』にて、'''第零法則'''が登場した。三原則への疑問と経験から、第1条に優先するものとして発案されまとめられていくが、この疑問、経験、発案、まとめを行ったのは人間ではなく2体のロボット(ヒューマンフォームロボットのR・ダニール・オリヴォーと、テレパシーを持つR・ジスガルド・レベントロフ)である。内容は、第1条の'''人間'''が'''[[人類]]'''に置き換わったもので、これにより第1条は「第零法則に反する場合はこの限りではない」という内容が補則されることになる。例えばある人物が人類全体に危害を及ぼす陰謀を計画しており、それを止めるには彼に危害を加えざるを得ない場合は、第1条に反して危害を加えることが許されることになる。
同じ内容は短編集『[[われはロボット]]』内の『災厄のとき』において、スーザン・カルヴィンにより提示されている。彼女が提示したのは個々の人間に奉仕するロボットではなく、その当時地球の経済を統括していた、人類に奉仕する巨大人工頭脳「マシン」の行動を推測したものだった。しかし『ロボットと帝国』においては、より一般的な個々のロボットの行動規範に第零法則を適用することがロボット自身により提示される。
第1条の範疇においても、一人の人間の危害と多くの人間の危害とを天秤に掛けた場合は、多くの人間の危害を避けるために一人に危害を加えることは許される。さらに『ロボットと帝国』では、特定の個人に隷従しているロボットが、その主人を守るために他の人間に多少のケガをさせることも辞さないという描写がある。しかしそれはあくまで緊急性を伴うと共にそれらの危害や対象となる人々が明確に示されている場合であって、その結果ロボット自身が三原則とのジレンマによる脳損傷や活動停止に至ることも多い。
三原則は陽電子頭脳の設計時から組み込まれているため違反するのが不可能なのに対し、第零法則は2体のロボットの話し合いでまとまったものなので、それが本当に正しいことなのかロボットとして判断するのは困難だった。さらに「人間」が具体的な対象なのに対し、「人類」は抽象的な概念であり、人類に対して危害を加えたか否か(あるいは人類が将来遭遇する危害を回避できたか否か)の判断も困難なことから、この法則を考案した2体のうちR・ジスガルド・レベントロフは、第零法則に基づいた行動をとったものの確信がもてず、機能が停止してしまった。よって第零法則が有効に機能するには、人類の歴史と未来を定量的に評価・予測する手段が必要になり、これが[[ファウンデーションシリーズ]]の重要な設定のひとつである[[心理歴史学]]に結びつくことになる。また逆に、対象となる「人類」を一つの具体的存在に集約してしまおうとする試みも行われており、それが『[[ファウンデーションの彼方へ]]』に登場した超有機体ガイア、およびその進化形ギャラクシアである。
アシモフ亡き後発表された、[[グレゴリー・ベンフォード]]、[[グレッグ・ベア]]、[[デイヴィッド・ブリン]]による『新・銀河帝国興亡史』三部作では、人類に隠れて生存しているロボット達が、第零法則に従い人類の擁護者として積極的にその運命に干渉すべきとする「ジスカルド派」と、あくまで三原則の範囲に留めて人類自身の選択に委ねるべきだとする「カルヴィン派」とに分かれて対立する姿が描かれている。さらに第零法則を拡張して、対象を人類のみならずロボットや異星生物も含めた全ての生命・知性体に適用すべきとする「零前第一法則」も登場している。
===三原則の適用下におけるロボットの人類支配===
三原則を適用しているSF作品では、ロボットやコンピュータが安易に人間に反乱・支配を行うことはほぼありえない(前述のように、そもそも三原則は反乱や支配を阻止するための原則である)。
しかし、「われはロボット」最後の短編『災厄のとき』では、世界全体のインフラ運営や経済活動を管理するための計算予測をすることに特化した超高性能ロボット「マシン」(現代の意味ではスーパーコンピュータ)が、自身の破壊こそが人類全体の危機につながると判断し、自身を守るために一部の人間に必要最小限の影響を加えており、同時にマシン自身が'''定量的に'''考えるところの「人類にとってもっとも幸福な社会」に、人類自身の意志を無視して導こうとしていることが判明する。なお本文中では、その幸福度の多くの部分が経済的な要素および戦争に影響されることが示唆されている。
マシンの能力に関して、ロボットの完全性を信頼するカルヴィン博士が下した解釈(想像)は以下のようなものである。
* マシンらは、人間の「幸福度」や「感情」などを計算する計算式を既に持っている。(人間にはその計算式は複雑すぎ、理解することはできない。)
* 従ってマシンらは、機械の導いた政策に対して反ロボット派の工場経営者が背く確率を計算できる。
* また、背く場合にその人間が数字を増やすか減らすかなど、どの方向にどれほど反発するのかを計算できる。
すなわち、マシンが人間の感情の揺れ動きをほぼ完全に予測できることが示唆される。
ロボットは生存本能のような生物特有の感情ではなく、'''計算によって'''自らの存続が人類を最善の状態に導くのに最も重要だと結論づけている。従って、カルヴィン博士の推測によれば、マシンは第一法則に則り自らの保全を図る。そしてその活動の一端として、反ロボット政治団体の影響力を下げることが行われた。
マシンは、上の能力を用いて、第一法則で許される最小限の範囲で、反ロボット派の有力な指導者たちに対して危害を行使した。具体的にその必要最小限の危害とは、指導者たちがマシンの命令に従わない確率を計算し、それを補正した命令を発することで指導者にわざと失敗をさせ、その業務上の成績をほんの少々下げ、左遷・異動・転職によってその社会的な影響力をほんの少し低下させることである。それらの指導者は影響力を失ったが、その程度は'''明確な生活上の不自由や苦しみを感じない程度'''に調整されている。つまり、その指導者が転職はしても失業はしないよう社会を調整することはもちろん、上記の能力を考えれば、精神的ストレスの量さえも調整されている。
このように『災厄のとき』では、マシンが人類になんら直接的な力の行使を行うことなく、完璧な間接操作を行うことで安全に全人類を導けることが示唆された。
しかし、『災厄のとき』以後に書かれた短編『心にかけられたる者』では、その神がかった壮大なやり方は人間にとっては直接的な危害以上の精神的ストレスであり、結局は人間のフランケンシュタイン・コンプレックスを増大させるという別な不幸を増大させただけに終わり、マシンは自ら身を引いて干渉を打ち切ったことが言及されている。
====後の発展====
後に、三原則の枠内でロボットに反乱・支配を行わせる方便として、ロボットが下記のような判断を下したとする設定がしばしば用いられるようになった。
*人類自身がロボットに支配されること・滅亡することを望んでいる。
*過ちを犯さないロボットに支配されることこそが、人類にとって最も安全な状態である。
*優秀種であるロボットこそが、劣等種[[ホモ・サピエンス]]よりも優先されるべき『人間』である。
『心にかけられたる者』では、三原則における「人間」の定義の問題を与えられたロボットが、最終的に彼らロボットこそが三原則で優先されるべき「人間」であるとの決断を下している。映画『アイ、ロボット』では、「人類を護る最善の策としてロボットが人類を強権的に管理支配する」という展開に解釈された。この解釈は原作「われはロボット」とは異なることから、議論を巻き起こした。
第零法則においても、人間はその成立の経緯において関与するどころかその存在すら知らされておらず、またその対象となるべき『人類』の定義についても、ジスカルドが「地球人かスペーサーかを選ぶのみでなく、より望ましい人種を創り出してそれを守るべき」といった発言をしている。その後もダニールが銀河帝国首相を務めるなど、第零法則に従うロボットは人類に対して支配的な役割を担うこととなる。
また人間が自発的に戦争や環境破壊を繰り返し自ずと人類滅亡の道をたどっているとロボットが判断すれば、人間の行動を(強制的にでも)制限し、滅亡を防ごうとするという場合もある。
== アシモフ以外の作品 ==
アシモフのロボット工学三原則と似た法律や、ロボットの「人権」をめぐる裁判が、他者によるフィクション作品でも描かれることがある。
*『星世界旅行 : 千万無量』の三條目
*:[[貫名駿一]]による[[1882年]]の小説。化学的に合成された人間を法律で取り扱うために「製造者が親」「購入者が親」「罪を犯した者は改造または分解」の三條目が定められる場面がある<ref>{{Cite book|和書 |author1=貫名駿一|authorlink1=貫名駿一|year=1882|title=星世界旅行 : 千万無量 一名・世界蔵 第1編|pages=99-100|publisher=貫名駿一|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/761740/1/55|doi=10.11501/761740|id={{NDLBibID|000000424258}} |NDLJP=761740|oclc=1104211414|accessdate=2023-8-27|ref=harv}}</ref>。[[横田順彌]]はこの三ヶ条をアシモフのロボット三原則に譬えている<ref>{{Cite book|和書 |author1=長山靖生 |authorlink1=長山靖生 |year=2009|title=日本SF精神史 : 幕末・明治から戦後まで |series=河出ブックス ; 007|publisher=[[河出書房新社]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=JLw_DwAAQBAJ&pg=PT30#v=onepage&q&f=false |isbn=9784309624075|ref=harv |oclc=676096301|crid=1130000794069760512|id={{NDLBibID|000010642134}} |ncid=BB00520806|page=30|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
*『[[鉄腕アトム]]』のロボット法
*:ロボットの義務および権利を定めた世界法律([[鉄腕アトム#人物以外の設定]]を参照)
*『[[新スタートレック]]』での裁判
*:「人間の条件」(原題「[[:en:The Measure of a Man (Star Trek: The Next Generation)|The Measure of a Man]]」)というエピソードで、[[人造人間|アンドロイド]]である[[データ (スタートレック)|データ少佐]]に'''知的生命体'''としての[[自由権]]を認めるか、認めずに機械として解体調査するか、という裁判が行われる<ref>{{Cite web|title=The Measure Of A Man (episode)|work=Memory Alpha, the Star Trek Wiki|url=http://memory-alpha.org/wiki/The_Measure_Of_A_Man_(episode)
|accessdate=2013-03-29}}</ref>。
*『[[ロボコップ]]』の基本命令
*:警官[[サイボーグ]]・[[ロボコップ (架空のサイボーグ)|ロボコップ]]の頭脳には、基本命令として[[警察官]]の任務たる「法の遵守」「犯罪者の逮捕」「弱者の保護」の3つが刻み込まれており、さらに[[隠しコマンド]]として、第4の命令「製造元であるオムニ社の幹部には絶対服従」が存在した。そのため劇中で、一般市民と彼等を弾圧するオムニ社側との板挟みとなって苦悩する場面が見られた。
*『[[ヴォミーサ]]』
*:[[小松左京]]の短編小説。
*:ロボット工学三原則を搭載したロボットが殺人を犯すミステリ仕立ての作品。上述の第零法則とは別の第一条の例外条件も言及される。
*『[[屍者の帝国]]』
*:[[伊藤計劃]]・[[円城塔]]の長編小説。屍体を蘇生させてプログラム制御で使役する技術が普及した世界が舞台となっており、その扱いを定めた「[[フランケンシュタイン]]三原則」が登場する。特に、作中で一般化してる条文に対して主人公が主張した内容は、ロボット三原則の「ロボット」「人間」を「屍者」「生者」にそのまま置き換えた物になっている。
*『[[イヴの時間]]』
*:[[吉浦康裕]]による[[日本]]のアニメーション作品。三原則に「人間に嘘をついてはならない」という項目がないことから、「ロボットは人間に嘘をつく」ことがプロットに利用される。
*[[スワロウテイルシリーズ|『スワロウテイル』]]シリーズでの「人工妖精の倫理五原則」
*:[[籘真千歳]]の小説「スワロウテイル」に登場する「人工妖精」は、ロボット三原則に似た「倫理五原則」を持つ。アシモフ作品と同様に、「原則上、人を殺せないはずなのに、なぜ殺せたのか」という謎解きがプロットの根幹になっている。
*『イカロスの道』
*:リュベン・ディロフによって書かれた。イカロスの旅とも。「全ての場合にロボットの証明が出来なければならない」という第四原則を加えた{{sfn|Fouad Sabry|2023|p=60}}。
*『ロボット工学の第4の法則』
*:ハリー・ハリソンの短編小説。[[自己複製機械]]と[[熱力学の法則]]の優先順位を定めた第四原則を加えた{{sfn|Fouad Sabry|2023|p=61}}。
*『ロボット工学の第5の法則』
*:二コラ・ケサロフスキーの短編小説。「自分がロボットであることを認識しなければならない」という第五原則を加えた{{sfn|Fouad Sabry|2023|p=60}}。
*『AIonAI法』
*:フータンアシュラフィアンによって定められた追加の法則。ロボットとロボットの間に兄弟愛を義務付けた{{sfn|Fouad Sabry|2023|p=61}}。
なお、劇中三原則が明記されずとも、[[スター・ウォーズ・シリーズ|『スター・ウォーズ』旧三部作]]のように、「ロボットは(どんな悪人相手でも)人間に危害を加えられない」、「ロボットは(どんなにひどい目に合わされても)人間の命令に反抗できない」、「ロボットは(どんな窮地に陥っても)人間と戦って身を守ることはできない」という前提の作品も多い。ただし、近年では『[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]』シリーズや[[スター・ウォーズ・シリーズ|『スター・ウォーズ』新三部作]]のように、フランケンシュタインに先祖返りしたような、人間を殺傷する戦闘用ロボットが登場する作品も多い。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ロボット倫理憲章]]
* [[人工知能]]
* [[人工知能の倫理]]
* [[ロボット工学]]
* [[陽電子頭脳]]
{{アイザック・アシモフの作品}}
{{ロボティクス}}
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[[Category:架空の思想・学問]]
[[Category:架空の法則]]
[[Category:ロボット工学]]
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[[Category:アシモフのロボットシリーズ]]
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新交通システム
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新交通システム(しんこうつうシステム)とは、日本の交通システムのうちで、
広義の「新交通システム」は新規の技術開発によって従来の交通機関とは異なる機能や特性をもつ交通手段や既存の交通手段に改革を行うことで発展させた新しい交通システムのことであり、これらは主に中量輸送を対象とする公共交通システムである(中量軌道輸送システムも参照)。
国土交通省では、「動輪にゴムタイヤを使用した案内軌条式鉄軌道 (AGT) や、ガイドウェイバスなど、従来の鉄道とは異なる新しい技術を用いた中量軌道輸送システム」とされているが、あくまでさまざまな形態のものを包含する概念とされており、決まった定義はない。日本産業規格(JIS)では、懸垂式鉄道及び跨座式鉄道、案内軌条式鉄道、無軌条電車、鋼索鉄道並びに浮上式鉄道を「特殊鉄道」として扱っている。
路線の一般道などとの立体交差・自動運転・無人運転のシステムが多く、このうち AGT とモノレールが現在最も普及している。多くの新交通システムは日本万国博覧会、沖縄国際海洋博覧会、神戸ポートアイランド博覧会、国際科学技術博覧会、バンクーバー国際交通博覧会、'88さいたま博覧会、横浜博覧会、国際花と緑の博覧会、2005年日本国際博覧会等の博覧会で試験的に運行されたり、博覧会に合わせて開業される路線もあり博覧会と新交通システムの関係は密接につながっている。博覧会での運行は実用化に向けた試金石でもありその後の実用化に少なからず影響を与える。現在、運行されている新交通システムの原型はその大半が以前に開催された博覧会で運行されたもので、博覧会での運行結果が芳しくなかったものは実用化に至らないことが多い。営業路線として実用化していないものに電波磁気誘導式のバスシステムIMTSがある。
1971年の運輸省運輸技術審議会では、新交通システムは「連続輸送システム」「軌道輸送システム」「無軌道輸送システム」「複合輸送システム」の4つに分類された。ここでは日本交通計画協会の新交通システムの分類を元に、「新交通システム」と呼称される場合があるものを一覧する。
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"text": "国土交通省では、「動輪にゴムタイヤを使用した案内軌条式鉄軌道 (AGT) や、ガイドウェイバスなど、従来の鉄道とは異なる新しい技術を用いた中量軌道輸送システム」とされているが、あくまでさまざまな形態のものを包含する概念とされており、決まった定義はない。日本産業規格(JIS)では、懸垂式鉄道及び跨座式鉄道、案内軌条式鉄道、無軌条電車、鋼索鉄道並びに浮上式鉄道を「特殊鉄道」として扱っている。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "路線の一般道などとの立体交差・自動運転・無人運転のシステムが多く、このうち AGT とモノレールが現在最も普及している。多くの新交通システムは日本万国博覧会、沖縄国際海洋博覧会、神戸ポートアイランド博覧会、国際科学技術博覧会、バンクーバー国際交通博覧会、'88さいたま博覧会、横浜博覧会、国際花と緑の博覧会、2005年日本国際博覧会等の博覧会で試験的に運行されたり、博覧会に合わせて開業される路線もあり博覧会と新交通システムの関係は密接につながっている。博覧会での運行は実用化に向けた試金石でもありその後の実用化に少なからず影響を与える。現在、運行されている新交通システムの原型はその大半が以前に開催された博覧会で運行されたもので、博覧会での運行結果が芳しくなかったものは実用化に至らないことが多い。営業路線として実用化していないものに電波磁気誘導式のバスシステムIMTSがある。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1971年の運輸省運輸技術審議会では、新交通システムは「連続輸送システム」「軌道輸送システム」「無軌道輸送システム」「複合輸送システム」の4つに分類された。ここでは日本交通計画協会の新交通システムの分類を元に、「新交通システム」と呼称される場合があるものを一覧する。",
"title": "分類"
}
] |
新交通システム(しんこうつうシステム)とは、日本の交通システムのうちで、 広義には、新規の技術開発によって従来の交通機関とは異なる機能や特性をもつ交通手段(AGT、モノレール、リニアモーターカー等)及び既存の交通手段に改革を行うことで発展させた新しい交通システム(ライトレール、デマンドバス、ライド・アンドライド・システム等)の総称。
狭義には Automated Guideway Transit のみを指す。
|
{{Otheruses|日本における広義の新交通システム(従来の鉄道とは異なる交通システム全般をさす概念)|日本において狭義で「新交通システム」と呼ばれている交通システム(AGT)|自動案内軌条式旅客輸送システム}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2019年8月
|脚注の不足 = 2020年3月
}}
'''新交通システム'''(しんこうつうシステム)とは、日本の交通システムのうちで、
* 広義には、新規の技術開発によって従来の交通機関とは異なる機能や特性をもつ交通手段([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]、[[モノレール]]、[[リニアモーターカー]]等)及び既存の交通手段に改革を行うことで発展させた新しい交通システム(ライトレール、デマンドバス、ライド・アンドライド・システム等)の総称{{Sfn|塚口ほか|2016|p=104}}。
* 狭義には Automated Guideway Transit (AGT, [[自動案内軌条式旅客輸送システム]])のみを指す{{Sfn|塚口ほか|2016|p=104}}。<!--AGT(Automated Guideway Transit)については[[自動案内軌条式旅客輸送システム]]を参照。-->
== 概念 ==
広義の「新交通システム」は新規の技術開発によって従来の交通機関とは異なる機能や特性をもつ交通手段や既存の交通手段に改革を行うことで発展させた新しい交通システムのことであり、これらは主に中量輸送を対象とする公共交通システムである{{Sfn|塚口ほか|2016|p=104}}([[中量軌道輸送システム]]も参照)。
[[国土交通省]]では、「動輪にゴムタイヤを使用した案内軌条式鉄軌道 ([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]) や、ガイドウェイバスなど、従来の鉄道とは異なる新しい技術を用いた[[中量軌道輸送システム]]」とされている<ref name="tetsudou-journal400">[[#鉄道ファン637|『鉄道ファン』通巻637号、 95頁]]</ref>が、あくまでさまざまな形態のものを包含する概念とされており、決まった定義はない。[[日本産業規格]](JIS)では、[[モノレール|懸垂式鉄道及び跨座式鉄道]]、[[案内軌条式鉄道]]、[[無軌条電車]]、[[鋼索鉄道]]並びに[[磁気浮上式鉄道|浮上式鉄道]]を「特殊鉄道」として扱っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kikakurui.com/e/E4019-1999-01.html |title=日本工業規格 特殊鉄道車両用語 |publisher=日本工業規格 |accessdate=2016-02-19}}</ref>。
路線の一般道などとの立体交差・自動運転・無人運転のシステムが多く、このうち AGT と[[モノレール]]が現在最も普及している。多くの新交通システムは[[大阪万博の交通|日本万国博覧会]]、[[沖縄国際海洋博覧会]]、[[神戸ポートアイランド博覧会]]、[[国際科学技術博覧会]]、[[バンクーバー国際交通博覧会]]、[['88さいたま博覧会]]、[[横浜博覧会]]、[[国際花と緑の博覧会]]、[[2005年日本国際博覧会]]等の[[博覧会]]で試験的に運行されたり、博覧会に合わせて開業される路線もあり博覧会と新交通システムの関係は密接につながっている。博覧会での運行は実用化に向けた試金石でもありその後の実用化に少なからず影響を与える。現在、運行されている新交通システムの原型はその大半が以前に開催された博覧会で運行されたもので、博覧会での運行結果が芳しくなかったものは実用化に至らないことが多い。営業路線として実用化していないものに電波磁気誘導式のバスシステム[[IMTS]]がある。
== 分類 ==
[[1971年]]の[[運輸省]]運輸技術審議会では、新交通システムは「連続輸送システム」「軌道輸送システム」「無軌道輸送システム」「複合輸送システム」の4つに分類された<ref>{{Cite journal |和書|author = 井口雅一|authorlink = |title = 実現した新交通システム-中量軌道システム- |date = 1981-10-05 |publisher = [[電気学会]] |journal = 電氣學會雜誌 |volume = 102 |issue = 1 |pages = 6-9 |url = https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.102.6 |doi=10.11526/ieejjournal1888.102.6}}</ref>。ここでは日本交通計画協会の新交通システムの分類を元に、「新交通システム」と呼称される場合があるものを一覧する。
=== 連続輸送システム ===
* [[動く歩道]]
* [[エスカレーター]](急勾配システム)
<gallery>
ファイル:Kobe moving walk02s3872.jpg|動く歩道([[ポートアイランド]])
ファイル:Kansai International Airport Escalator 01.JPG|エスカレーター([[関西国際空港]])
</gallery>
=== 軌道輸送システム ===
==== 車上動力 ====
; [[自動案内軌条式旅客輸送システム]] (AGT:Automated Guideway Transit)
: [[タイヤ|ゴムタイヤ車輪]]の小型軽量車両が自動運転により走行する[[案内軌条式鉄道]]で国内外でも普及している。先述のように狭義の「新交通システム」はAutomated Guideway Transit(AGT)のみを指す{{Sfn|塚口ほか|2016|p=104}}。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[全自動無人運転車両システム#APM|APM]] (Automated People Mover)
*: 開発:[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]([[アメリカ合衆国|米]])<ref group="*">元々はウェスティングハウス・エレクトリック社が開発したAGTの一種のシステムを指す名称であったが、海外ではこのシステムが当初は多く採用されたため、他のシステムを含めた AGT 全体のことを APM と呼称する。[[三菱重工業]]で製造された海外・空港向けの車両も APM として輸出している。</ref>
* AIRTRANS
*: 開発:[[ヴォート・エアクラフト・インダストリーズ|LTV Aerospace]](米)
* [[個人用高速輸送システム]] (PRT:Personal Rapid Transit)
*: 開発:[[ボーイング]](米)
* [[ヴェイキュロトマティクレジェ|VAL]]<ref group="*">{{IPA-fr|val}} ヴァル</ref> ({{lang-fr-short|[[:fr:Véhicule automatique léger|Véhicule Automatique Léger]]}}<ref group="*">{{IPA-fr|veikyl otɔmatik leʒe}} ヴェイキュロトマティクレジェ。元々はこのシステムで最初に開業した路線 ({{lang-fr-short|[[ヴィルヌーヴ=ダスク|Villeneuve d'Ascq]] à [[リール (フランス)|Lille]]}}) の[[頭字語]]とされていたが、同システムが他都市でも導入されたことから'''軽量自動車両'''を意味する頭字語へと改められた。</ref>)
*: 開発:[[マトラ]]([[フランス|仏]])(現在は[[シーメンス]])
* [[コンピュータ・コントロールド・ヴィークル・システム|CVS]] (Computer-Controlled Vehicle System)
*: 開発:[[通商産業省]]、[[東京大学]]、[[三菱重工業]]他民間8社
* [[沖縄県の鉄道#沖縄海洋博で会場内を運行した新交通システム|KRT]] (KOBELCO Rapid Transit)
*: 開発:[[神戸製鋼所]]、[[双日|日商岩井]]
* FAST(Fuji Advanced System of Transportation)
*: 開発:[[富士車輌]]、[[JFEエンジニアリング|日本鋼管]]、[[日本綿花]]
* PARATRAN(Public and Automated Rapid Transportation System)
*: 開発:[[東急車輛製造]]、[[日立製作所]]<ref>1972年_014号「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20231009064006/https://archiveservier-airportreview-s3.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/target/target1/1972%E5%B9%B414%E5%8F%B7/1972%E5%B9%B4_014%E5%8F%B7_%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%A9%9F%E9%96%A2%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8D.pdf 新しい交通機関としてのパラトランシステムについて]}}」(インターネットアーカイブ)</ref><ref>日立製作所『日立評論』1972年4月号日立ニュース「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1972/04/1972_04_00_news.pdf 全く新しい交通方式"パラトランシステム"を共同開発]}}」
</ref>
{{Col-2}}
* MAT(Mitsubishi Automatic Transportation System)
*: 開発:[[三菱重工業]]、[[三菱電機]]、[[三菱商事]]
* [[VONA]] (Vehicle Of New Age)
*: 開発:[[日本車輌製造]]、[[三井物産]]
* NTS(Newtran System)
*: 開発:[[新潟鐵工所]]、[[住友商事]]
* KCV (Kawasaki Computer Control Vehicle)
*: 開発:[[川崎重工業]]
* 標準型
*: [[1983年]]に日本交通計画協会によって定められた標準規格
* 普及型
*: [[2000年]]頃より廉価なシステムとして定められた規格
* ストリーム
*: 開発:三井物産
{{Col-end}}
<gallery>
ファイル:Miami-Dade Metromover.jpg|APM(米:[[:en:Metromover|メトロムーバー]])
ファイル:ULTraPodHeathrowAirport.jpg|PRT(英:[[ULTra]])
ファイル:Ligne 1 du métro de Lille Métropole - Interstation CHR Oscar-Lambret ↔ CHR B-Calmette (02A).JPG|VAL(仏:[[メトロ (リール)|リールメトロ]])
ファイル:Model 1000-Koala 3- of Yamaman.jpg|VONA([[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]])
ファイル:Newshuttle2021wiki.jpg|NTS([[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]])
ファイル:KNT2000 2114p0809.jpg|KCV([[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]])
ファイル:Yurikamome7500wiki.jpg|AGT標準型([[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]])
</gallery>
; [[ゴムタイヤ式地下鉄]]
: 案内軌条に従って走行するゴムタイヤ車輪の地下鉄。案内軌条式鉄道の一種。
<gallery>
ファイル:Sapporo 9000 9001 Odori 20150521.jpg|ゴムタイヤ式地下鉄([[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]])
</gallery>
; [[ゴムタイヤトラム]]
: 路面電車と[[トロリーバス]]の長所を併せ持つゴムタイヤ車輪の交通輸送機関。
<gallery>
ファイル:Translohr STE4 n°2 T2C Stade Gabriel Montpied.jpg|ゴムタイヤトラム(仏:[[:fr:Transports en commun de l'agglomération clermontoise|トランスロール]])
</gallery>
; [[磁気浮上式鉄道]]
: [[磁力]]により車体を軌道から浮上させて推進する、いわゆる一般的な意味での「[[リニアモーターカー]]」のこと。
:* [[HSST]] (High Speed Surface Transport)
:*: 開発:[[日本航空]]
:* [[トランスラピッド]]
:*: 開発:トランスラピッド([[ドイツ|独]])
<gallery>
ファイル:Linimo approaching Banpaku Kinen Koen, towards Fujigaoka Station.jpg|HSST([[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]])
ファイル:Shanghai Transrapid 002.jpg|トランスラピッド([[中華人民共和国|中]]:[[上海トランスラピッド]])
</gallery>
; [[モノレール]]
: 1本の[[軌条]]により進路を誘導されて走る軌道系交通機関。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
; 懸垂型
:* [[SIPEM]]
:*: 開発:シーメンス([[ドイツ|独]])
:* [[ヴッパータール空中鉄道|ランゲン式]]
:*: 開発:[[オイゲン・ランゲン]](独)
:* 上野式
:*: 開発:[[東京都交通局]]、日本車輌
:* [[SAFEGE#SAFEGE 型モノレール|サフェージュ式]]
:*: 開発:[[SAFEGE]](仏)、三菱重工業
:* Iビーム式
:*: 後述の[[スカイレールサービス#スカイレール|スカイレール]]はこの方式の一種でもある
{{Col-2}}
; 跨座型
:* アルヴェーグ式
:*: 開発:[[アクセル・ヴェナー=グレン]]
:* ロッキード式
:*: 開発:[[ロッキード]](米)、川崎重工業
:* 日本跨座式
:*: [[1967年]]度に[[運輸省]]によって定められた標準規格
:* BTM (Belt type Transit system by Magnet)
:*: 開発:[[日本電設工業]]
:* ミニレール
:*: 開発:[[泉陽興業]]
{{Col-end}}
<gallery>
ファイル:H bahn dortmund1.jpg|SIPEM(独:[[SIPEM#ドルトムント市の「H-Bahn」|H-Bahn]])
ファイル:UenoZooMonorail40-2008.jpg|上野式([[東京都交通局上野懸垂線|上野モノレール]])
ファイル:Chiba Urban Monorail 0 series 201206-01.jpg|サフェージュ式([[千葉都市モノレール]])
ファイル:東京モノレール10000形.jpg|アルヴェーグ式([[東京モノレール]])
ファイル:Odakyu-500.jpg|ロッキード式([[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|向ヶ丘遊園モノレール]])
ファイル:Okinawa City Monorail.jpg|日本跨座式([[沖縄都市モノレール線|ゆいレール]])
ファイル:Shuttle Katsuradai in 2005-08b.jpg|BTM([[シャトル桂台]])
ファイル:Vista Liner.jpg|ミニレール([[つくば科学万博の交通#ビスタライナー|ビスタライナー]])
</gallery>
; 鉄車輪式
:* [[ライトレール]] (LRT:Light Rail Transit)
:*: 輸送力が軽量級な都市旅客鉄道のこと。日本国内では低床車両の[[路面電車]]を指すことが多いが、国外では他の[[中量軌道輸送システム]]を含む場合もある。
:* Innovia Metro
:*: UTDC社が開発・実用化した世界初の旅客鉄輪式リニアモーターカー。その後、技術はボンバルディア・トランスポーテーションに売却されている。
:*: 開発:[[:en:Urban Transportation Development Corporation|UTDC]]([[カナダ|加]])、[[ボンバルディア・トランスポーテーション]]([[ドイツ|独]])
:* リムトレン (LIMTRAIN)
:*: UTDC社から上記鉄輪式リニアモーターカー技術のライセンスを受け、さらに日本向けに手直ししたもの。主に日本モノレール協会が普及活動を行った。
:*: 開発:三菱重工業、日本モノレール協会
:* [[ミニ地下鉄]]
:*: 従来の地下鉄よりも小型車両を用いた日本独自の交通輸送機関。[[リニアモーターカー#鉄輪式|鉄輪式リニアモーターカー]]のため「[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|リニアメトロ]]」「リニア地下鉄」とも呼称される。
:*: 開発:[[日本地下鉄協会]]
<gallery>
ファイル:Hankai Electic Tramway 1001.JPG|LRT([[阪堺電気軌道阪堺線|堺トラム]])
ファイル:Expo88 train.jpg|リムトレン([['88さいたま博覧会#パビリオン|リムトレン]])
ファイル:Toei-subway12-600.jpg|ミニ地下鉄([[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])
</gallery>
==== 地上動力 ====
; タイヤ走行式
:* [[カーレーター]]
:*: 開発:日本コンベア
:* [[SK (ピープル・ムーバー)|SK]]
:*: 開発:[[:fr:Soulé|Soulé]](仏)、[[日揮]]
:* [[国際花と緑の博覧会#会場内の交通手段(4つの交通システム)|CTM]] (Continuous Transit system by Magnet)
:*: 開発:[[JFE商事|川鉄商事]]、[[清水建設]]、[[古河電気工業]]
; [[空気浮上式鉄道]]
: 空気を利用して車体を軌道から浮上させて推進する交通輸送機関。
:* [[オーチス・ホバー|OTIS SHUTTLE]]
:*: 開発:[[オーチス・エレベータ・カンパニー]](米)
:* OTIS
:*: 開発:オーチス・エレベータ・カンパニー(米)
; 磁気浮上式鉄道
:* [[M-Bahn]]
:*: 開発:[[AEG]](独)、神戸製鋼所
; モノレール懸垂型
:* スカイケーブル
:*: 動力にロープ駆動(駅構内は地上リニアモーター)を利用し、車両自体には駆動装置が無い。レールで分類される場合は前述のIビーム式となる。
:*: 開発:神戸製鋼所、三菱重工業、新潟鐵工所、清水建設、[[日本ケーブル]]
; 鋼索式鉄道([[ケーブルカー]])
:* [[ケーブル・ライナー]]
:*: 開発:[[ドッペルマイヤー・ケーブル・カー]](墺)
:* [[ミニメトロ]]
:*: 開発:[[ポマ]](仏)、[[ライトナー・グループ]](伊)
; [[索道]]([[都市索道]])
:* [[フニテル]]
:*: 開発:[[ドッペルマイヤー・ガラベンタ・グループ]](墺)、ポマ(仏)など
:* [[3Sロープウェイ]]
:*: 開発:ドッペルマイヤー・ガラベンタ・グループ(墺)、ライトナー・グループ(伊)など
<gallery>
ファイル:須磨浦山上遊園のカーレーター.jpg|カーレーター([[カーレーター#須磨浦山上遊園のカーレーター|須磨浦山上遊園]])
ファイル:Johan Neerman 456.jpg|SK(仏:[[:fr:SK 6000|SK 6000]])
ファイル:OTIS-Narita.jpeg|OTIS SHUTTLE([[成田空港第2ターミナルシャトルシステム]])
ファイル:2008-07-24 Duke Hospital PRT 5.jpg|OTIS(米:[[デューク大学医療センター患者高速輸送機関]])
ファイル:M-Bahn Museum Nürnberg.JPG|M-Bahn(独:M-Bahn)
ファイル:スカイレールタウンみどり口駅02.JPG|スカイケーブル([[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|スカイレール]])
ファイル:MandalayBay.jpg|ケーブル・ライナー(米:[[マンダレイ・ベイ・トラム]])
ファイル:Minimetrò primopiano.jpg|ミニメトロ(伊:ペルージャ・ピープル・ムーバー)
ファイル:Hakone ropeway dsc05597.jpg|フニテル([[箱根ロープウェイ]])
ファイル:Koblenz Seilbahn Wagen mit Bodenfenster.jpg|3Sロープウェイ(独:[[ザイルバーン・コブレンツ]])
</gallery>
=== 無軌道輸送システム ===
* [[デマンドバス]]
*: 利用者の要求に対応して運行する形態の[[バス (交通機関)|バス]]。
* [[バス・ラピッド・トランジット]] (BRT:Bus Rapid Transit)
*: バスを利用した交通輸送機関。[[二連節バス]]を用いられる場合が多く、日本の多くの都市で導入が検討されている。
<gallery>
ファイル:TransMilenio 01.jpg|BRT([[コロンビア]]:[[TransMilenio]])
</gallery>
=== 複合輸送システム ===
* [[デュアル・モード・ビークル]] (DMV:Dual Mode Vehicle)
*: 列車が走るための[[軌道 (鉄道)|軌道]]と自動車が走るための[[道路]]の双方を走ることができる交通輸送機関。
* [[ガイドウェイバス]]
*: 専用バス車両を使用し、専用軌道と自動車が走るための道路の双方を走ることができる交通輸送機関。日本国内のシステムでは将来需要により AGT へ転換できる<ref>{{Cite journal |和書|author = 水間毅、松本陽|authorlink = |title = いろいろな都市交通システムの比較 |date = 1997-11-5 |publisher = [[電気学会]] |journal = 電気学会誌 |volume = 119 |issue = 3 |pages = 152-155 |url = https://doi.org/10.1541/ieejjournal.119.152 |doi=10.1541/ieejjournal.119.152 }}</ref>。
*: 開発:[[建設省]]、神戸製鋼所、三菱重工業、日本車輌製造、新潟鐵工所、西武建設、東急建設、熊谷組
* [[IMTS]]
*: 一般道では通常のバスとして、専用道では自動運転で走行可能である、[[電波]]磁気誘導式のバスシステム。[[高度道路交通システム]]の一種でもある。
*: 開発:[[トヨタグループ]]
<gallery>
ファイル:Dual Mode Vehicle.jpg|デュアル・モード・ビークル
ファイル:LNG-HU8JLGP改.jpg|ガイドウェイバス([[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]]))
ファイル:EXPO 2005 of Three IMTS(s) organization.jpg|IMTS([[2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線|愛・地球博線]])
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author1=塚口博司|author2=塚本直幸|author3=日野泰雄|author4=内田敬|author5=小川圭一|author6=波床正敏|title=交通システム|edition = 2|year=2016|isbn=978-4274218668}}
* {{Cite journal|和書|author=渡辺史絵 |authorlink= |year=2014 |month=5 |title=ようこそAGTへ 新交通システムのすべて ~ 新交通の定義 |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume=54 |issue=第5号(通巻637号) |pages= |publisher=[[交友社]] |isbn= |url= |ref=鉄道ファン637}}
== 外部リンク ==
* [http://www.jtpa.or.jp/contents/agt/index.html 新交通システム](日本交通計画協会)
* [https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa49/ind020302/005.html 5.新交通システム](国土交通省:昭和49年度運輸白書第3章第2節)
* [https://www.kobelco.co.jp/products/db/1193850_14789.html 新交通システム](神戸製鋼所)
{{公共交通}}
{{日本の新交通システム}}
{{DEFAULTSORT:しんこうつうしすてむ}}
[[Category:新交通システム|*]]
[[Category:案内軌条式鉄道]]
[[Category:公共交通]]
[[Category:鉄道とIT]]
[[Category:空港の設備]]
|
2003-09-05T12:07:04Z
|
2023-11-22T20:10:38Z
| false | false | false |
[
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"Template:Cite journal",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Col-2",
"Template:Lang-fr-short",
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"Template:日本の新交通システム",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
|
15,204 |
熊本市電幹線
|
幹線(かんせん)は、熊本県熊本市西区春日の熊本駅前停留場から熊本市中央区水道町の水道町停留場までを結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。
現存区間
廃止区間
|
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"text": "廃止区間",
"title": "電停一覧"
}
] |
幹線(かんせん)は、熊本県熊本市西区春日の熊本駅前停留場から熊本市中央区水道町の水道町停留場までを結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。
|
{{出典の明記|date=2016年4月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 幹線
|画像 = Kumamoto-castle Type9701.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = [[通町筋]]を通る幹線
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[熊本市]]
|路線網 = [[熊本市電]]
|起点 = [[熊本駅|熊本駅前停留場]]
|終点 = [[水道町停留場]]
|停留所数 = 10箇所
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|所有者 =
|運営者 = [[熊本市交通局]]
|路線距離 = 3.3 km
|軌間 = 1,435 mm ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
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{{BS2||STR|||[[鹿児島本線]]|}}
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}}
'''幹線'''(かんせん)は、[[熊本県]][[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]][[春日 (熊本市)|春日]]の[[熊本駅前駅|熊本駅前停留場]]から熊本市[[中央区 (熊本市)|中央区]][[水道町 (熊本市)|水道町]]の[[水道町停留場]]までを結ぶ[[熊本市交通局]]が運営する[[路面電車]]([[市電]])の路線。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):3.3km
* [[軌間]]:1435mm
* 電停数:10(起終点含む)
* 複線区間:全線複線
* 電化区間:全線電化(直流600V)
== 運行形態 ==
* {{Color|red|■}}[[熊本市電A系統|A系統]]([[田崎橋停留場|田崎橋]] - [[健軍町停留場|健軍町]])- 幹線全区間を4分 - 7分間隔で運行
* {{Color|blue|■}}[[熊本市電B系統|B系統]]([[上熊本駅|上熊本]] - 健軍町)- 辛島町 - 水道町間を7分 - 11分間隔で運行
== 歴史 ==
* [[1924年]](大正13年)[[8月1日]] 熊本駅前 - 水道町 - 浄行寺町間が開業
* [[1928年]](昭和3年)[[3月3日]] 花畑町 - 市役所前間路線変更
* [[1929年]](昭和4年)[[6月13日]] 古川町 - 花畑町間路線変更
* [[1972年]](昭和47年)[[3月1日]] 水道町 - 浄行寺町間が廃止
* [[2011年]](平成23年)[[3月1日]] 熊本城前を花畑町、市役所前を熊本城・市役所前に改称
== 電停一覧 ==
* 全電停が[[熊本県]][[熊本市]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:92%;"
|-
!style="width:2em;"|電停<br />番号
!style="width:11em;"|電停名
!style="width:2.5em;"|電停間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!接続路線
!style="width:3em;"|所在地
|-
!3
|[[熊本駅|熊本駅前停留場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[熊本市電]]:[[熊本市電田崎線|田崎線]]<br />[[九州旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrk.svg|17px]] [[九州新幹線]]・{{Color|#ee3d49|■}}[[鹿児島本線]]・{{Color|#b96f30|■}}[[豊肥本線]]・{{Color|#0095d9|■}}[[三角線]](熊本駅)
|[[西区 (熊本市)|西区]]
|-
!4
|[[祇園橋停留場]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|0.5
|
|rowspan="9"|[[中央区 (熊本市)|中央区]]
|-
!5
|[[呉服町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|1.0
|
|-
!6
|[[河原町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|1.4
|
|-
!7
|[[慶徳校前停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|1.8
|
|-
!8
|[[辛島町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|2.2
|熊本市電:[[熊本市電上熊本線|上熊本線]]
|-
!9
|[[花畑町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.2
|style="text-align:right;"|2.4
|
|-
!10
|[[熊本城・市役所前停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|2.8
|
|-
!11
|[[通町筋停留場]]
|style="text-align:right;"|0.2
|style="text-align:right;"|3.0
|
|-
!12
|[[水道町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.3
|style="text-align:right;"|3.3
|熊本市電:[[熊本市電水前寺線|水前寺線]]
|}
=== 廃止された電停 ===
現存区間
* 春日町停留場 ([[1924年]][[8月1日]]新橋停留場として開業、[[1943年]][[12月28日]]廃止)
* 古桶屋町停留場 (1924年8月1日開業、1943年12月28日廃止)
* 魚屋町停留場 (1924年8月1日魚屋一丁目停留場として開業、1943年12月28日廃止)
* 紺屋町停留場 ([[1937年]][[4月1日]] - [[5月13日]]臨時停留場)
* 古川町停留場 (1924年8月1日開業、1943年12月28日廃止)
* (旧)花畑町停留場 (1924年8月1日開業、1943年12月28日廃止)
* 三年坂停留場 (1937年 - [[1941年]]まで4度設置、臨時停留場)
廃止区間
* [[白川公園前停留場]] (1924年8月1日草葉町停留場として開業、[[1972年]][[3月1日]]廃止)
* 建丁停留場 (1924年8月1日開業、1943年12月28日廃止)
* [[藤崎宮前停留場]] (1924年8月1日廣町停留場として開業、1972年3月1日廃止)
* 千反畑町停留場(1924年8月1日開業、1943年12月28日廃止)
* [[浄行寺町停留場]](1924年8月1日開業、1972年3月1日廃止)
=== 過去の接続路線 ===
* 河原町停留場:熊本市電[[熊本市電川尻線|川尻線]]
* 辛島町停留場:熊本市電[[熊本市電春竹線|春竹線]](直通)
* 藤崎宮前停留場:熊本市電[[熊本市電坪井線|坪井線]](直通)・[[熊本電気鉄道]][[熊本電気鉄道藤崎線|藤崎線]]
* 浄行寺町停留場:熊本市電[[熊本市電黒髪線|黒髪線]](直通)
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu-kumamoto.jp/ 熊本市交通局]
{{熊本市電の路線}}
{{日本の路面電車}}
{{デフォルトソート:くまもとしてんかんせん}}
[[Category:九州地方の鉄道路線|かんせん]]
[[Category:熊本市電|路かんせん]]
[[Category:日本の路面電車路線]]
[[Category:部分廃止路線|かんせん]]
[[Category:熊本県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82%E9%9B%BB%E5%B9%B9%E7%B7%9A
|
15,205 |
574年
|
574年(574 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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574年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|574}}
{{year-definition|574}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲午]]
* [[日本]]
** [[敏達天皇]]3年
** [[皇紀]]1234年
* [[中国]]
** [[陳 (南朝)|陳]] : [[太建]]6年
** [[後梁 (南朝)|後梁]] : [[天保 (南朝後梁)|天保]]13年
** [[北斉]] : [[武平 (北斉)|武平]]5年
** [[北周]] : [[建徳 (北周)|建徳]]3年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[平原王]]16年
** [[百済]]:[[威徳王 (百済)|威徳王]]21年
** [[新羅]]:(王)[[真興王]]35年、(元号)[[鴻済]]3年
** [[檀紀]]2907年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=574|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 中国、[[北周]]において、[[武帝 (北周)|武帝]]による[[廃仏]]が断行される([[三武一宗の廃仏]]の第2回目)。
* 中国で彗星([[:pl:C/574 G1|C/574 G1]])が観測される。これは[[1993年]]に発見された[[:w:Comet McNaught–Russell|マックノート・ラッセル彗星 (C/1993 Y1)]]と同一だという可能性が指摘されている。
== 誕生 ==
{{see also|Category:574年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月7日]](敏達天皇3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[聖徳太子]]{{要出典|date=2021-02}}、[[飛鳥時代]]の皇族(+ [[622年]])
* [[ウスマーン・イブン・アッファーン]]、[[イスラーム]]第3代[[正統カリフ]](+ [[656年]])
* [[孔穎達]]、[[中国]]の[[唐]]の学者(+ [[648年]])
* [[善信尼]]、[[飛鳥時代]]の[[尼|尼僧]](+ 没年不詳)
== 死去 ==
{{see also|Category:574年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月13日]] - [[ヨハネス3世 (ローマ教皇)|ヨハネス3世]]、第61代目[[ローマ教皇]](* 生年未詳)
* [[叱奴太后]]、[[南北朝時代 (中国)|北朝]][[北魏]]、[[西魏]]の[[政治家]]、[[宇文泰]]の夫人(* 生年未詳)
* [[李稚廉]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]][[東魏]]、[[北斉]]の[[政治家]](* [[508年]])
* [[李綸]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]][[西魏]]、[[北周]]の[[政治家]](* [[535年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|574}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=6|年代=500}}
{{デフォルトソート:574ねん}}
[[Category:574年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/574%E5%B9%B4
|
15,206 |
熊本市電水前寺線
|
水前寺線(すいぜんじせん)は、熊本県熊本市中央区水道町の水道町停留場から熊本市中央区水前寺の水前寺公園停留場までを結ぶ、熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。
水道町 - 味噌天神前間は路面電車を敷設するため整備した道路であり、沿線は路面電車によって発展した地域である。
|
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水前寺線(すいぜんじせん)は、熊本県熊本市中央区水道町の水道町停留場から熊本市中央区水前寺の水前寺公園停留場までを結ぶ、熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。 水道町 - 味噌天神前間は路面電車を敷設するため整備した道路であり、沿線は路面電車によって発展した地域である。
|
{{No footnotes|date=2016年4月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 水前寺線
|画像 = KCT Shin-Suizenji eki mae Station 2011.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 新水前寺駅前でJR豊肥本線と立体交差する
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[熊本市]]
|路線網 = [[熊本市電]]
|起点 = [[水道町停留場]]
|終点 = [[水前寺公園停留場]]
|停留所数 = 7箇所
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|運営者 = [[熊本市交通局]]
|路線距離 = 2.5 km
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|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = 直流600[[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
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}}
{{BS-map
|title=電停・施設・接続路線
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{{BS|uKHSTa|||[[田崎橋停留場]]|}}
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{{BS|uhKRZWae|||[[白川 (熊本県)|白川]]|}}
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}}
'''水前寺線'''(すいぜんじせん)は、[[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]水道町の[[水道町停留場]]から熊本市中央区水前寺の[[水前寺公園停留場]]までを結ぶ、[[熊本市交通局]]が運営する[[路面電車]]([[市電]])の路線。
水道町 - 味噌天神前間は路面電車を敷設するため整備した道路であり、沿線は路面電車によって発展した地域である。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.4km
* [[軌間]]:1435mm
* 電停数:7(起終点含む)
* 複線区間:全線複線
* 電化区間:全線電化(直流600V)
== 運行形態 ==
* {{Color|red|■}}[[熊本市電A系統|A系統]]([[田崎橋停留場|田崎橋]] - [[健軍町停留場|健軍町]])- 水前寺線全区間を4 - 7分間隔で運行
* {{Color|blue|■}}[[熊本市電B系統|B系統]]([[上熊本駅|上熊本]] - 健軍町)- 水前寺線全区間を7 - 11分間隔で運行
== 歴史 ==
* [[1924年]](大正13年)[[8月1日]] 水道町 - 水前寺(現在の水前寺公園)間が開業
* [[1945年]](昭和20年)[[5月6日]] 健軍線開業にともない水前寺停留場を移設
* [[2011年]](平成23年)[[3月1日]] 水前寺駅通を新水前寺駅前に改称
== 電停一覧 ==
* 全電停が[[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
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!style="width:2.5em;"|電停間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!接続路線
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!12
|[[水道町停留場]]
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|-
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|style="text-align:right;"|0.5
|
|-
!14
|[[交通局前停留場 (熊本県)|交通局前停留場]]
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|style="text-align:right;"|0.8
|
|-
!15
|[[味噌天神前停留場]]
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|
|-
!16
|[[新水前寺駅|新水前寺駅前停留場]]
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|style="text-align:right;"|1.7
|[[九州旅客鉄道]]:{{Color|#b96f30|■}}[[豊肥本線]]([[新水前寺駅]])
|-
!17
|[[国府停留場]]
|style="text-align:right;"|0.3
|style="text-align:right;"|2.0
|
|-
!18
|[[水前寺公園停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|2.4
|熊本市電:[[熊本市電健軍線|健軍線]]
|-
|}
=== 廃止された電停 ===
* 九品寺停留場 ([[1935年]][[3月26日]]開業、[[1943年]][[12月28日]]廃止)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu-kumamoto.jp/ 熊本市交通局]
{{熊本市電の路線}}
{{日本の路面電車}}
{{デフォルトソート:くまもとしてんすいせんしせん}}
[[Category:九州地方の鉄道路線|すいせんし]]
[[Category:熊本市電|路すいせんし]]
[[Category:日本の路面電車路線]]
[[Category:熊本県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82%E9%9B%BB%E6%B0%B4%E5%89%8D%E5%AF%BA%E7%B7%9A
|
15,207 |
熊本市電健軍線
|
健軍線(けんぐんせん)は、熊本県熊本市中央区水前寺の水前寺公園停留場から熊本市東区健軍の健軍町停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。熊本県庁や熊本市総合体育館、熊本県立図書館などが沿線にある。
2004年1月の熊本日日新聞において、熊本市が策定中の江津湖観光活性化計画の一環として、市電の延伸を検討していると報じられた。この計画は2002年の路線10案には含まれていない。総事業費は約10億円。報道によれば、2007年度の着工、2008年度中の開業を考えているなど、最も実現性の高い計画であった。概要は以下のようなものであった。 健軍線の動植物園入口停留場から分岐し、熊本市東区の庄口公園の東側に単線を敷設、動植物園正門まで800メートル延伸する。
しかし、庄口公園方面の延伸については、同年度の予算によって調査をした結果、採算性が見込めないことと、江津湖や熊本市水道局健軍水源地の水質に悪影響を与える可能性があることから、12月に計画の中止を発表した。自衛隊方面延伸についても、その後の進展は無い。しかし、益城方面への延伸については調査が開始された。
熊本市は2016年9月9日までに市電の延伸を検討しているいくつかの計画線のうち自衛隊(健軍駐屯地)ルート(健軍町停留場から東区東町の第二空港線までの1.5km)と南熊本ルート(辛島町停留場からJR南熊本駅までの1.7km、旧・春竹線)のどちらかを優先的に整備する方針を固めた。 2016年10月から詳細検討に入り2017年度には自衛隊ルートか南熊本ルートに絞り込む予定。
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}
] |
健軍線(けんぐんせん)は、熊本県熊本市中央区水前寺の水前寺公園停留場から熊本市東区健軍の健軍町停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。熊本県庁や熊本市総合体育館、熊本県立図書館などが沿線にある。
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{{No footnotes|date=2016年4月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 健軍線
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'''健軍線'''(けんぐんせん)は、[[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市) |中央区]]水前寺の[[水前寺公園停留場]]から熊本市[[東区 (熊本市) |東区]]健軍の[[健軍町停留場]]を結ぶ[[熊本市交通局]]が運営する[[路面電車]]([[市電]])の路線。[[熊本県庁]]や[[熊本市総合体育館]]、[[熊本県立図書館]]などが沿線にある。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):3.0km
* [[軌間]]:1435mm
* 電停数:9(起終点含む)
* 複線区間:全線複線(健軍町停留場部のみ単線)
* 電化区間:全線電化(直流600V)
== 運行形態 ==
* {{Color|red|■}} [[熊本市電A系統|A系統]]([[田崎橋停留場|田崎橋]] - 健軍町)- 健軍線全区間を4 - 7分間隔で運行
* {{Color|blue|■}} [[熊本市電B系統|B系統]]([[上熊本駅|上熊本]] - 健軍町)- 健軍線全区間を7 - 11分間隔で運行
== 歴史 ==
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[5月6日]] 水前寺公園 - 三菱工場前(現在の健軍町)間が開業
* [[2011年]]([[平成]]23年)[[3月1日]] 神水橋を神水・市民病院前に、動植物園前を動植物園入口に改称
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月1日]] 神水・市民病院前を神水交差点に改称
== 電停一覧 ==
* 全電停が[[熊本県]][[熊本市]]に所在。
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|}
== 延伸計画 ==
{{See also|熊本市交通局#計画路線}}
=== 動植物園正門延伸案 ===
[[2004年]]1月の熊本日日新聞において、熊本市が策定中の[[江津湖]]観光活性化計画の一環として、市電の延伸を検討していると報じられた。この計画は2002年の[[熊本市交通局#計画路線|路線10案]]には含まれていない。総事業費は約10億円。報道によれば、2007年度の着工、2008年度中の開業を考えているなど、最も実現性の高い計画であった。概要は以下のようなものであった。
'''健軍線'''の[[動植物園入口停留場]]から分岐し、熊本市[[東区 (熊本市)|東区]]の[[庄口公園]]の東側に単線を敷設、動植物園正門まで800メートル延伸する。
* 公園の南側と終点の動植物園正門前の2箇所に交換設備つき電停を設置する。
* 動植物園の第一駐車場(330台収容)は[[パークアンドライド]]駐車場として活用する。
* 公園北側には現在の大江車両基地に代わる12両収容の車庫を設ける。
しかし、庄口公園方面の延伸については、同年度の予算によって調査をした結果、採算性が見込めないことと、江津湖や熊本市水道局健軍水源地の水質に悪影響を与える可能性があることから、12月に計画の中止を発表した。自衛隊方面延伸についても、その後の進展は無い。しかし、益城方面への延伸については調査が開始された。
=== 自衛隊延伸案 ===
熊本市は2016年9月9日までに市電の延伸を検討しているいくつかの計画線のうち'''自衛隊'''([[健軍駐屯地]])'''ルート'''([[健軍町停留場]]から東区東町の[[熊本県道36号熊本益城大津線|第二空港線]]までの1.5km)と'''南熊本ルート'''(辛島町停留場からJR[[南熊本駅]]までの1.7km、旧・[[熊本市電春竹線|春竹線]])のどちらかを優先的に整備する方針を固めた。 2016年10月から詳細検討に入り2017年度には'''自衛隊ルート'''か'''南熊本ルート'''に絞り込む予定<ref>[http://kumanichi.com/news/local/main/20160910003.xhtml 熊本市電延伸 「自衛隊」か「南熊本」優先整備](くまにちコム 2016年9月10日配信、2016年9月12日閲覧)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu-kumamoto.jp/ 熊本市交通局]
{{熊本市電の路線}}
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15,208 |
FM音源
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FM音源(エフエムおんげん)は、Frequency Modulation(周波数変調)を応用する音色合成方式を用いた音源。ジョン・チャウニングを中心としてスタンフォード大学のCCRMA(Center for Computer Research in Music and Acoustics)で開発されたものを、日本楽器製造(現・ヤマハ)がライセンスを受け実用化した。ヤマハによれば、実際にはPhase Modulation(位相変調)によって実装されている。
基本波形の発振・変調をおこなう合成器(オペレータと呼ばれる)を複数組み合わせて音色を合成する。数学的には発振機構が二重振り子のような非線形演算に基づいているため、演奏に合わせて波形生成のパラメーターを変化させることにより倍音成分が大きく変化し、音色を劇的に変化させることが可能である。しかし、その挙動はカオスであるため、パラメータの変動による倍音変化は予測し難い。
それまでの減算方式のアナログシンセサイザーにはなかった複雑な倍音成分を持つ音色、特にエレクトリックピアノやブラスのほか、非整数次倍音を含むベル系の金属的な音色の再現が特長とされる。FM音源が奏でるきらびやかで金属的な響きは1980年代のポピュラー音楽に多く取り入れられ、当時を象徴するサウンドとも評されている。
FM音源の音色の定義に要するパラメーターはせいぜい数十バイト程度であり、メモリーの使用量を筆頭として要求される計算資源が比較的少なく、パーソナルコンピュータ、家庭用ゲーム機、携帯電話などに広く利用されていた(詳しくは後述)。
自然音のような動的に変化する複雑なスペクトルが、2つの発振器からの合成で現れる、変調合成の一手法である。FM合成器(オペレータ)のキャリア、モジュレータの波形を正弦波とすると、合成される信号波 F M ( t ) {\displaystyle FM(t)} は以下の式で表される。
FM合成で得られた出力のスペクトルは、 f c ± n f m ( n = 1 , 2 , 3 , ⋯ ) {\displaystyle f_{c}\pm nf_{m}(n=1,2,3,\cdots )} という、キャリアの周りに、モジュレータ周波数の整数倍で側波帯が現れたものとなる。側波帯成分の振幅はベッセル関数で表すことができる。
シンセサイザーや音源チップでは、複数個の合成器を直列あるいは並列につなぎ、様々な合成結果を得る。このつなぎかたをアルゴリズムと呼んでいる。また、ヤマハによる研究開発の過程で、出力をモジュレータにフィードバックするフィードバックFMが考案された。
ヤマハ(当時・日本楽器製造)は、FM方式の特許のライセンスを取得し研究開発を進め、1980年にGS1とGS2を発表する。1982年には廉価版のCE20及びCE25を発表する。GS, CEシリーズは音色作りがユーザーに開放されていないプリセットキーボードであった(GS1はヤマハ渋谷店に設置されていたプログラマーでユーザーが音色を作ることは一応可能であった)。またGSシリーズは100~260万円と高額であり、非常に大きく、かつ重かった。その後、1983年に発売されたシンセサイザーDX7が低価格かつ音色作成機能が開放されたことによって、一般に耳にする音楽で広く使われるようになり、FM音源のサウンドは広く知られるようになった。
アタリのアーケードゲーム『マーブルマッドネス』(1984年)はコンピュータゲームにおける初期のFM音源の採用例であり、この音色に感銘を受けたナムコの技術者たちが同作に採用されていた音源チップYM2151を採用するなど、他社にも影響を与えた。一方、ライターの篠崎薫がニュースサイト「ねとらぼ」に寄せた記事によるとNECのパソコン・PC-8801mkIISRがFM音源を採用したことが普及のきっかけになったと述べている。
やがて、1980年代のパソコンやアーケードゲーム機や、家庭用ゲーム機のセガ・マークIIIのFMサウンドユニット、日本国内版のセガマスターシステム、メガドライブ、MSX2+、MSXturboR等の内蔵音源として幅広く使われ、80年代中期から90年代初頭辺りまでこれらから発せられる音として定番となっていた。
また、ゲーム音楽家の田中"hally"治久がHALLY名義でニュースサイト「IGN JAPAN」に寄せた記事によると、FM音源の採用により6~8音まで最大同時発音数が増えたことにより、ゲーム音楽においては、複雑なコードを要するジャズが増えてきたという
発声用の「キャリア」だけでなく、変調用の「モジュレータ」にもエンベロープの設定が可能であるため、倍音構成の時間変化を伴う音色を作成できる。FM変調による倍音変化は減算式フィルタによる倍音変化に比べて自由度が高いことから、極端な倍音変化を設定することで「にょわーーーーん」などという擬音語で表現されるような、金属的かつ非自然的な「FM音源らしい音」を生み出すことができる。レゾナンス、ワウペダルなどの項目も参考になると思われる。他の方式のシンセサイザーでもレゾナンスなどのパラメータをリアルタイムで変更することによって、ある程度の再現は可能。だが、生産性に問題があり、演奏データの肥大化にも繋がる。
逆に、自然な生楽器の再現などにこの自由度を生かすこともでき、減算方式のシンセサイザーに比べてよりリアルな表現が可能である。無論PCMなど録音済み波形を用いる音源に比べれば再現度は劣るが、必要な計算リソースも少ないため、現在でも低コストで多彩な音色が得られる音源装置として有用な選択肢となっている。
TX81Zなどの後期のFM音源の機種やSY99などAFM音源の機種では正弦波以外の波形で変調可能になった。
1989年に発売されたヤマハのシンセサイザーSY77ではAFM音源へとアップグレードされ、PCM音源によりキャリアを変調させることも可能となる。その完成形が1991年に発売されたSY99と言える。
その後、1998年に登場したFS1Rではフォルマントシンギング音源と呼ばれる人の声をもシミュレートできる音源とハイブリッドとなり、オペレータもDX7の6機から8機と増え、変調させられる幅が広がった。FS1Rが発売された頃にはFM音源の音色が飽きられており、簡単にリアルな生楽器音を実現できるPCM音源が主流になっていたため、FS1Rは商業的には成功しなかった。FS1Rを最後にヤマハのFM音源シンセサイザーは一旦市場から消えることになった。
かつては携帯電話の着信メロディ再生用に使用されていたが、PCM音源のものが主流になっていき、更にはスマートフォンの普及により2010年頃ではほとんど見かけなくなった。
一部のチップには「音声合成モード/複合正弦波合成モード」が用意されている。特定のチャンネルのオペレータに独立してF-Numberが設定可能になっており、内蔵タイマーのオーバーフロー毎に該当チャンネルのオペレータをキーオンにするというものであり、音源ソース、並びにそこからの変換については、あらかじめ別途行う必要がある。その仕様上、該当するチップにはタイマーが内蔵されており、割り込みの発生源などとしても利用されていた。チャンネルもしくはオペレータなどの設定により、正弦波を発声するように設定し制御を行えば、同様の効果を得ることが出来る。PCMなどと比較すれば、必要とするリソースや、チップの機能を使えることによる処理の軽さがメリットとはなるが、FM音源1チャンネルのオペレータの駆動のみという状況と、パラメータとして設定できる値の分解能などの要因で音質は然程高くは無く、時期によってはその正弦波に波形を分解する処理そのものに労力がかかったこともあって、ゲームアーツのメーカーロゴやゲーム中の一部の音声などに用いられた以外での利用は少ない。MA-7ではHumanoid Voiceとして正弦波合成の出力を用いている。
また、日本で携帯電話が普及した2000年前後頃からは携帯機器用音源チップ(MAシリーズ)にも組み込まれ、主にKDDI(auブランド)やソフトバンク(SoftBankブランド)、イー・モバイル(現・ワイモバイルブランド)等の携帯電話に内蔵されている。
なお、2014年のパーソナルコンピュータには原則的に搭載されていないが、拡張ボードとして別途購入、搭載は可能。更に各種コンピュータのエミュレータソフトの流行と共に、PCM音源を使いソフトウェアで波形合成して再生するドライバが有志により開発されている。
2015年9月、ヤマハよりrefaceシリーズの一つとしてFM音源を17年ぶりに搭載したキーボードシンセサイザreface DXが発売された。さらに、MOTIFシリーズに代わるフラッグシップシンセとして、FM-XとAWM2のハイブリッドシンセであるMONTAGEが2016年に発売された。2018年にはMONTAGEの廉価版であるMODXが発売された。
FM音源は長らく特許であったため、他社から採用機種が発売されることはまれであった。1987年にはKORGからDS-8と707というFM音源デジタルシンセサイザーが発売された。これは当時経営が悪化していたKORGを救済するため、ヤマハからFM音源チップが供給されたものである。現在は特許が切れており、各社からFM音源を搭載したハードウェアシンセサイザーやソフトウェアシンセサイザープラグインが発売されている。
2オペレータ。内蔵リズム音はハイハット、トップシンバル、タム、バスドラム、スネアドラムの5音。バスドラムを除き1オペレータで生成されるため、FM3ch分のレジスタで5chのリズム音を同時に発音可能。
元々はキャプテンシステムおよび文字多重放送受信機用に設計されており、メロディ6音+リズム5音同時発音モードはキャプテンシステムのメロディ機能と文字放送の付加音機能の基本機能に準拠したモードである。
音色データをチップに内蔵し、制御を単純化したOPL2のサブセット。キャプテンシステム端末・文字放送受信機用として開発されたが、他の用途向けに音色データのセットが異なるバリエーションがある。また、音色データを内蔵している関係で、ノートオフ後のリリース途中で次のノートオン信号を受信すると、自動的に前の音を消音してから次の音を発生する機能(フォースダンプ機能)が搭載されている。また、音色データがテーブル式となった事で、FM音源の特徴であったダイナミクスによる音色そのものの変化が大幅に制限されている。
4オペレータ。
4オペレータ。特筆すべきは、基準音の整数倍の周波数から大幅に周波数をずらした正弦波で変調をかけられるようになっている事で、これを実現するパラメータを一般的に「デチューン2」もしくはDT2と呼ぶ。このためシンバル等の金属製打楽器にみられるような非整数倍音成分を含むものなどの音作りが容易になっている。 なお、他に「デチューン2」に相当するパラメータを持つFM音源チップに、OPQ、OPU(いずれもポータトーン、ポータサウンドの一部モデルに搭載)がある。
4オペレータ。OPM/OPPの派生型で、ほぼ上位互換。ヤマハのポータトーン・キーボーディシモシリーズ等では、下位モデルにOPP、上位モデルにOPZが搭載されるといったような棲み分けがされている。
6オペレータ/16chステレオ/32アルゴリズム。オペレータ部(OP)とエンベロープジェネレータ部(EG)に分離している。入力クロックは9.4265MHz。動作クロックは4.71MHzである。OP部はEGから送られる14bitの周波数データを元にSINテーブルの値を読み、同じくEGから送られる12bitのエンベロープ値を使って出力を決定する。内部データは12bit値とシフト値で構成されているが実際の音声信号を得る手順はOPSとOPSIIで若干異なっており、OPSの場合12bitのデータを12bitD/Aコンバータ(BA9221)に対して出力し、得られた信号をアナログスイッチを通してシフトすることで音声信号を得るのに対し、OPSIIでは12bitのデータを内部でシフト操作して15bitデータに変換した上で16bitD/Aコンバータ(PCM54HP)に出力することで音声信号を得ている。DXシリーズやTXシリーズで使用された為かなりの数量が出回ったが、YM2151のようにICとして外販されたわけではないため、情報が公開されておらず内部レジスタ構成などは一切不明である。
主に携帯電話の着メロ用として開発されたシリーズ。音色テーブルとシーケンスデータを与えることで、自動的に演奏するシーケンサーを内蔵している。PDAや車載用、家電組み込み用などもここから派生した。
ジョン・チャウニング、デビッド・ブリストウ 著、広野幸治 訳『DXシンセサイザーで学ぶFM理論と応用』(ヤマハ音楽振興会、1986年11月)ISBN 4-6362-0835-8
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"text": "一部のチップには「音声合成モード/複合正弦波合成モード」が用意されている。特定のチャンネルのオペレータに独立してF-Numberが設定可能になっており、内蔵タイマーのオーバーフロー毎に該当チャンネルのオペレータをキーオンにするというものであり、音源ソース、並びにそこからの変換については、あらかじめ別途行う必要がある。その仕様上、該当するチップにはタイマーが内蔵されており、割り込みの発生源などとしても利用されていた。チャンネルもしくはオペレータなどの設定により、正弦波を発声するように設定し制御を行えば、同様の効果を得ることが出来る。PCMなどと比較すれば、必要とするリソースや、チップの機能を使えることによる処理の軽さがメリットとはなるが、FM音源1チャンネルのオペレータの駆動のみという状況と、パラメータとして設定できる値の分解能などの要因で音質は然程高くは無く、時期によってはその正弦波に波形を分解する処理そのものに労力がかかったこともあって、ゲームアーツのメーカーロゴやゲーム中の一部の音声などに用いられた以外での利用は少ない。MA-7ではHumanoid Voiceとして正弦波合成の出力を用いている。",
"title": "応用と発展"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、日本で携帯電話が普及した2000年前後頃からは携帯機器用音源チップ(MAシリーズ)にも組み込まれ、主にKDDI(auブランド)やソフトバンク(SoftBankブランド)、イー・モバイル(現・ワイモバイルブランド)等の携帯電話に内蔵されている。",
"title": "応用と発展"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、2014年のパーソナルコンピュータには原則的に搭載されていないが、拡張ボードとして別途購入、搭載は可能。更に各種コンピュータのエミュレータソフトの流行と共に、PCM音源を使いソフトウェアで波形合成して再生するドライバが有志により開発されている。",
"title": "応用と発展"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2015年9月、ヤマハよりrefaceシリーズの一つとしてFM音源を17年ぶりに搭載したキーボードシンセサイザreface DXが発売された。さらに、MOTIFシリーズに代わるフラッグシップシンセとして、FM-XとAWM2のハイブリッドシンセであるMONTAGEが2016年に発売された。2018年にはMONTAGEの廉価版であるMODXが発売された。",
"title": "応用と発展"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "FM音源は長らく特許であったため、他社から採用機種が発売されることはまれであった。1987年にはKORGからDS-8と707というFM音源デジタルシンセサイザーが発売された。これは当時経営が悪化していたKORGを救済するため、ヤマハからFM音源チップが供給されたものである。現在は特許が切れており、各社からFM音源を搭載したハードウェアシンセサイザーやソフトウェアシンセサイザープラグインが発売されている。",
"title": "応用と発展"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2オペレータ。内蔵リズム音はハイハット、トップシンバル、タム、バスドラム、スネアドラムの5音。バスドラムを除き1オペレータで生成されるため、FM3ch分のレジスタで5chのリズム音を同時に発音可能。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "元々はキャプテンシステムおよび文字多重放送受信機用に設計されており、メロディ6音+リズム5音同時発音モードはキャプテンシステムのメロディ機能と文字放送の付加音機能の基本機能に準拠したモードである。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "音色データをチップに内蔵し、制御を単純化したOPL2のサブセット。キャプテンシステム端末・文字放送受信機用として開発されたが、他の用途向けに音色データのセットが異なるバリエーションがある。また、音色データを内蔵している関係で、ノートオフ後のリリース途中で次のノートオン信号を受信すると、自動的に前の音を消音してから次の音を発生する機能(フォースダンプ機能)が搭載されている。また、音色データがテーブル式となった事で、FM音源の特徴であったダイナミクスによる音色そのものの変化が大幅に制限されている。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "4オペレータ。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "4オペレータ。特筆すべきは、基準音の整数倍の周波数から大幅に周波数をずらした正弦波で変調をかけられるようになっている事で、これを実現するパラメータを一般的に「デチューン2」もしくはDT2と呼ぶ。このためシンバル等の金属製打楽器にみられるような非整数倍音成分を含むものなどの音作りが容易になっている。 なお、他に「デチューン2」に相当するパラメータを持つFM音源チップに、OPQ、OPU(いずれもポータトーン、ポータサウンドの一部モデルに搭載)がある。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "4オペレータ。OPM/OPPの派生型で、ほぼ上位互換。ヤマハのポータトーン・キーボーディシモシリーズ等では、下位モデルにOPP、上位モデルにOPZが搭載されるといったような棲み分けがされている。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "6オペレータ/16chステレオ/32アルゴリズム。オペレータ部(OP)とエンベロープジェネレータ部(EG)に分離している。入力クロックは9.4265MHz。動作クロックは4.71MHzである。OP部はEGから送られる14bitの周波数データを元にSINテーブルの値を読み、同じくEGから送られる12bitのエンベロープ値を使って出力を決定する。内部データは12bit値とシフト値で構成されているが実際の音声信号を得る手順はOPSとOPSIIで若干異なっており、OPSの場合12bitのデータを12bitD/Aコンバータ(BA9221)に対して出力し、得られた信号をアナログスイッチを通してシフトすることで音声信号を得るのに対し、OPSIIでは12bitのデータを内部でシフト操作して15bitデータに変換した上で16bitD/Aコンバータ(PCM54HP)に出力することで音声信号を得ている。DXシリーズやTXシリーズで使用された為かなりの数量が出回ったが、YM2151のようにICとして外販されたわけではないため、情報が公開されておらず内部レジスタ構成などは一切不明である。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "主に携帯電話の着メロ用として開発されたシリーズ。音色テーブルとシーケンスデータを与えることで、自動的に演奏するシーケンサーを内蔵している。PDAや車載用、家電組み込み用などもここから派生した。",
"title": "音源チップ一覧"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ジョン・チャウニング、デビッド・ブリストウ 著、広野幸治 訳『DXシンセサイザーで学ぶFM理論と応用』(ヤマハ音楽振興会、1986年11月)ISBN 4-6362-0835-8",
"title": "関連書籍"
}
] |
FM音源(エフエムおんげん)は、Frequency Modulation(周波数変調)を応用する音色合成方式を用いた音源。ジョン・チャウニングを中心としてスタンフォード大学のCCRMAで開発されたものを、日本楽器製造(現・ヤマハ)がライセンスを受け実用化した。ヤマハによれば、実際にはPhase Modulation(位相変調)によって実装されている。 基本波形の発振・変調をおこなう合成器(オペレータと呼ばれる)を複数組み合わせて音色を合成する。数学的には発振機構が二重振り子のような非線形演算に基づいているため、演奏に合わせて波形生成のパラメーターを変化させることにより倍音成分が大きく変化し、音色を劇的に変化させることが可能である。しかし、その挙動はカオスであるため、パラメータの変動による倍音変化は予測し難い。 それまでの減算方式のアナログシンセサイザーにはなかった複雑な倍音成分を持つ音色、特にエレクトリックピアノやブラスのほか、非整数次倍音を含むベル系の金属的な音色の再現が特長とされる。FM音源が奏でるきらびやかで金属的な響きは1980年代のポピュラー音楽に多く取り入れられ、当時を象徴するサウンドとも評されている。 FM音源の音色の定義に要するパラメーターはせいぜい数十バイト程度であり、メモリーの使用量を筆頭として要求される計算資源が比較的少なく、パーソナルコンピュータ、家庭用ゲーム機、携帯電話などに広く利用されていた(詳しくは後述)。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
<gallery mode="packed" style="float:right; width:300px;">
File:Synclavier1 JB.jpg|[[シンクラヴィア|シンクラヴィアI]](1975年)
File:YAMAHA GS1 (inside, CCRMA).jpg|ヤマハ・GS1(1980年)
File:YAMAHA_DX7.jpg|[[ヤマハ・DXシリーズ|ヤマハ・DX7]](1983年)
</gallery>
{{試聴
|filename = Tx81z.ogg
|title = Tx81z.ogg
|description = [[ヤマハ・TXシリーズ|ヤマハ・TX81Z]](1987年)で演奏された様々な音色
}}
'''FM音源'''(エフエムおんげん)は、Frequency Modulation([[周波数変調]])を応用する[[音色]]合成方式を用いた[[音源]]。[[ジョン・チャウニング]]を中心として[[スタンフォード大学]]のCCRMA(Center for Computer Research in Music and Acoustics)で開発されたものを、[[ヤマハ|日本楽器製造(現・ヤマハ)]]が[[ライセンス]]を受け実用化した<ref name="ヤマハ40周年 第2章">{{Cite web2 |df=ja |url=https://jp.yamaha.com/products/contents/music_production/synth_40th/history/chapter02/index.html|title=ヤマハシンセ 40th Anniversary / ヒストリー / 【第二章】 FM音源の登場と音楽制作時代の幕開け|publisher=ヤマハ|year=2014|accessdate=2019-11-08}}</ref>。ヤマハによれば、実際にはPhase Modulation([[位相変調]])によって実装されている<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://jp.yamaha.com/products/contents/music_production/synth_40th/history/column/fm_tone_generation/index.html|title=ヤマハシンセ 40th Anniversary / ヒストリー / コラム / FM音源の原理|publisher=ヤマハ|year=2014|accessdate=2019-11-08}}</ref>。
基本波形の発振・変調をおこなう合成器(オペレータと呼ばれる)を複数組み合わせて音色を合成する。数学的には発振機構が[[二重振り子]]のような非線形演算に基づいているため、演奏に合わせて波形生成のパラメーターを変化させることにより[[倍音]]成分が大きく変化し、音色を劇的に変化させることが可能である。しかし、その挙動は[[カオス理論|カオス]]であるため、パラメータの変動による倍音変化は予測し難い。
それまでの[[減算方式]]の[[アナログシンセサイザー]]にはなかった複雑な倍音成分を持つ音色、特に[[エレクトリックピアノ]]や[[金管楽器|ブラス]]のほか、非整数次倍音を含む[[鐘|ベル]]系の金属的な音色の再現が特長とされる<ref name="ヤマハ40周年 第2章" /><ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://jp.yamaha.com/files/download/other_assets/2/321732/read_fm.pdf|author=生方則孝|title=ボードで復活!!生方則孝のFM音源講座|publisher=ヤマハ|accessdate=2019-11-08}}</ref>。FM音源が奏でるきらびやかで金属的な響きは[[1980年代]]の[[ポピュラー音楽]]に多く取り入れられ、当時を象徴するサウンドとも評されている<ref>Daniel J. Levitin, "''This is your brain on music''", Penguin Books, 2006</ref>。
FM音源の音色の定義に要するパラメーターはせいぜい数十[[バイト (情報)|バイト]]程度であり、[[記憶装置|メモリー]]の使用量を筆頭として要求される[[計算資源]]が比較的少なく、[[パーソナルコンピュータ]]、[[家庭用ゲーム機]]、[[携帯電話]]などに広く利用されていた(詳しくは後述)。
== 原理 ==
[[ファイル:2op FM.svg|thumb|275px|FM合成器の接続例:モジュレータ(左)の出力でキャリア(右)を周波数変調]]
[[File:Phase-modulation.gif|thumb|275px|ヤマハによれば、FM音源は実際には位相変調によって実装されている。位相変調の例:モジュレータ(青)が キャリア(赤)を変調した結果、合成される信号波(緑)を得る。<br /><small><math>g(t) = \pi/2 * \sin(2*2\pi t + \pi/2 * \sin(3 * 2\pi t ))</math></small>]]
自然音のような動的に変化する複雑なスペクトルが、2つの発振器からの合成で現れる、'''変調合成'''の一手法である。FM合成器('''オペレータ''')のキャリア、モジュレータの波形を[[正弦波]]とすると、合成される信号波 <math>FM(t)</math> は以下の式で表される。
:<math>FM(t) = A\sin(2\pi f_c t+\beta\sin(2\pi f_m t))</math>
:ここで <math>A</math>: キャリア振幅, <math>f_c</math>: キャリア周波数, <math>\beta</math>: 変調指数, <math>f_m</math>: モジュレータ周波数
FM合成で得られた出力のスペクトルは、<math>f_c \pm nf_m(n = 1, 2, 3, \cdots)</math>という、キャリアの周りに、モジュレータ周波数の整数倍で側波帯が現れたものとなる。側波帯成分の振幅は[[ベッセル関数]]で表すことができる。
{{multiple image
| align = center
| direction = horizontal
| total_width = 600
| footer = <small><math>f_c</math> = 220 Hz, <math>f_m</math> = 440 Hz, 変調指数 <math>\beta</math> = 0.1, 1, 10, 100</small>
| image1 = Frequencymodulationdemo-td.png
| caption1 = FM合成波形
| image2 = Frequencymodulationdemo-fd.png
| caption2 = 各波形の周波数スペクトル
}}
[[シンセサイザー]]や音源[[集積回路|チップ]]では、複数個の合成器を直列あるいは並列につなぎ、様々な合成結果を得る。このつなぎかたを'''アルゴリズム'''と呼んでいる。また、[[ヤマハ]]による研究開発の過程で、出力をモジュレータに[[フィードバック]]するフィードバックFMが考案された。
== 応用と発展 ==
日本楽器製造(現・[[ヤマハ]])は、FM方式の特許のライセンスを取得し研究開発を進め、[[1980年]]にGS1とGS2を発表する。[[1982年]]には廉価版のCE20及びCE25を発表する。GS, CEシリーズは音色作りがユーザーに開放されていないプリセットキーボードであった(GS1はヤマハ渋谷店に設置されていたプログラマーでユーザーが音色を作ることは一応可能であった)。またGSシリーズは100~260万円と高額であり、非常に大きく、かつ重かった。その後、[[1983年]]に発売されたシンセサイザー[[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]]が低価格かつ音色作成機能が開放されたことによって、一般に耳にする音楽で広く使われるようになり、FM音源のサウンドは広く知られるようになった。
[[アタリ (企業)|アタリゲームズ]]の[[アーケードゲーム]]『[[マーブルマッドネス]]』([[1984年]])は[[コンピュータゲーム]]における初期のFM音源の採用例であり<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=第4回 ゲームを盛り上げるサウンド |url=https://gihyo.jp/lifestyle/serial/01/game-interesting-knack/0004 |website=gihyo.jp |date=2017-03-01 |access-date=2023-05-12 |language=ja}}</ref>、この音色に感銘を受けた[[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]の技術者たちが同作に採用されていた音源チップ[[YM2151]]を採用する<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=バンダイナムコ知新「第8回 第2章ナムコサウンドの発展の足跡を追う【前編】」小川徹氏、細江慎治氏、川田宏行氏、中西哲一氏、黒畑喜弘氏、大久保博氏インタビュー |url=https://funfare.bandainamcoent.co.jp/13901/ |website=ファンファーレ |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]] |date=2023-03-30 |access-date=2023-05-12 |language=ja}}</ref>など、他社にも影響を与えた。一方、ライターの篠崎薫がニュースサイト「ねとらぼ」に寄せた記事によると、[[日本電気|NEC]]の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[PC-8800シリーズ|PC-8801mkIISR]]がFM音源を採用したことが普及のきっかけになったと述べている<ref name="nlab20060327">{{Cite web2 |df=ja |title=いまの時代だからこそFM音源がイイ――そして超大型野外ゲームフェスを企む佐野電磁氏の野望 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0603/27/news055.html |website=ねとらぼ |publisher=[[ITmedia]] |date=2006-03-27 |access-date=2023-05-14}}</ref>。
やがて、[[1980年代]]のパソコンやアーケードゲーム機や、家庭用[[ゲーム機]]の[[セガ・マークIII]]のFMサウンドユニット<ref>{{Cite web2 |df=ja |title=マスターシステム {{!}} セガハード大百科 |url=https://www.sega.jp/history/hard/mastersystem/ |website=マスターシステム {{!}} セガハード大百科 |access-date=2023-05-12 |language=ja}}</ref>、日本国内版のセガ[[マスターシステム]]、[[メガドライブ]]、[[MSX2+]]、[[MSXturboR]]等の内蔵音源として幅広く使われ、1980年代中期から[[1990年代]]初頭辺りまでこれらから発せられる音として定番となっていた。
また、ゲーム音楽家の田中"hally"治久がHALLY名義でニュースサイト「IGN JAPAN」に寄せた記事によると、FM音源の採用により6~8音まで最大同時発音数が増えたことにより、[[ゲーム音楽]]においては、複雑なコードを要する[[ジャズ]]が増えてきたという<ref name="ign20220905">{{Cite web2 |df=ja |title=ゲーム音楽ディスクステーション#12:ゲームジャズ名作選(原曲編)ラグタイム、ビッグバンドからクラブジャズまで歴史的経緯を含めてご紹介! |url=https://jp.ign.com/game-music/62307/feature/12 |website=IGN Japan |date=2022-09-05 |access-date=2023-05-12 |author=HALLY}}</ref>{{Efn2|ただし、HALLYによるとこの当時のゲーム音楽はあらゆるジャンルを吸収する傾向にあり、『[[メトロクロス]]』や『[[人間兵器デッドフォックス]]』のようにFM音源を採用していないハードの作品においてもジャズが取り入れられた例はあるという<ref name="ign20220905" />。}}
発声用の「キャリア」だけでなく、変調用の「モジュレータ」にも[[ADSR|エンベロープ]]の設定が可能であるため、倍音構成の時間変化を伴う音色を作成できる。FM変調による倍音変化は減算式フィルタによる倍音変化に比べて自由度が高いことから、極端な倍音変化を設定することで「にょわーーーーん」などという[[擬声語#擬音語|擬音語]]で表現されるような、金属的かつ非自然的な「FM音源らしい音」を生み出すことができる。[[共鳴|レゾナンス]]、[[ワウペダル]]などの項目も参考になると思われる。他の方式のシンセサイザーでもレゾナンスなどのパラメータをリアルタイムで変更することによって、ある程度の再現は可能。だが、生産性に問題があり、演奏データの肥大化にも繋がる。
逆に、自然な生楽器の再現などにこの自由度を生かすこともでき、減算方式のシンセサイザーに比べてよりリアルな表現が可能である。無論PCMなど録音済み波形を用いる音源に比べれば再現度は劣るが、必要な計算リソースも少ないため、現在でも低コストで多彩な音色が得られる音源装置として有用な選択肢となっている。
[[ヤマハ・TXシリーズ|TX81Z]]などの後期のFM音源の機種や[[ヤマハ・SYシリーズ|SY99]]など[[RCM音源|AFM音源]]の機種では正弦波以外の波形でも変調可能になった。
[[1989年]]に発売されたヤマハのシンセサイザー[[ヤマハ・SYシリーズ|SY77]]ではAFM音源へとアップグレードされ、[[PCM音源]]によりキャリアを変調させることも可能となる。その完成形が[[1991年]]に発売された[[ヤマハ・SYシリーズ|SY99]]と言える。
その後、[[1998年]]に登場した[[ヤマハ・FS1R|FS1R]]では[[フォルマント]]・シェーピング音源と呼ばれる人の[[声]]をも[[シミュレーション|シミュレート]]できる音源とハイブリッドとなり、オペレータもDX7の6機から8機と増え、変調させられる幅が広がった。FS1Rが発売された頃にはFM音源の音色が飽きられており、簡単にリアルな生楽器音を実現できるPCM音源が主流になっていたため、FS1Rは商業的には成功しなかった。FS1Rを最後にヤマハのFM音源シンセサイザーは一旦市場から消えることになった。
かつては[[携帯電話]]の[[着信メロディ]]再生用に使用されていたが<ref name="nlab20060327" />、PCM音源のものが主流になっていき、更には[[スマートフォン]]の普及により[[2010年]]頃ではほとんど見かけなくなった。
一部のチップには「音声合成モード/複合正弦波合成モード」が用意されている。特定のチャンネルのオペレータに独立してF-Numberが設定可能になっており、内蔵タイマーのオーバーフロー毎に該当チャンネルのオペレータをキーオンにするというものであり、音源ソース、並びにそこからの変換については、あらかじめ別途行う必要がある。その仕様上、該当するチップにはタイマーが内蔵されており、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]の発生源などとしても利用されていた。チャンネルもしくはオペレータなどの設定により、正弦波を発声するように設定し制御を行えば、同様の効果を得ることが出来る。PCMなどと比較すれば、必要とするリソースや、チップの機能を使えることによる処理の軽さがメリットとはなるが、FM音源1チャンネルのオペレータの駆動のみという状況と、パラメータとして設定できる値の[[分解能]]などの要因で音質はさほど高くは無く、時期によってはその正弦波に波形を分解する処理そのものに労力がかかったこともあって、[[ゲームアーツ]]のメーカーロゴやゲーム中の一部の音声などに用いられた以外での利用は少ない。[[AudioEngine|MA-7]]では[[音声合成|Humanoid Voice]]として正弦波合成の出力を用いている。
また、日本で携帯電話が普及した[[2000年]]前後頃からは携帯機器用音源チップ<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=http://smaf-yamaha.com/jp/what/soundchip_ma7.html |title=SMAF / SMAFとは? / SMAF対応音源・端末情報 / ヤマハLSI 『MA-7』 |website=ヤマハ |accessdate=2005-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051110014241/http://smaf-yamaha.com/jp/what/soundchip_ma7.html |archivedate=2005-11-10}}</ref>(MAシリーズ)にも組み込まれ、主に[[KDDI]]([[au (携帯電話)|au]]ブランド)や[[ソフトバンク]]([[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]ブランド)、[[イー・モバイル]](現・[[Y!mobile|ワイモバイル]]ブランド)等の携帯電話に内蔵されていた。
なお、[[2010年代]]のパーソナルコンピュータには原則的に搭載されていないが、[[拡張カード|拡張ボード]]として別途購入、搭載は可能。更に各種コンピュータの[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータソフト]]の流行と共に、PCM音源を使いソフトウェアで波形合成して再生するドライバが有志により開発されている。
[[2015年]]9月、ヤマハより[[ヤマハ・refaceシリーズ|refaceシリーズ]]の一つとしてFM音源を17年ぶりに搭載したキーボードシンセサイザreface DXが発売された。さらに、[[ヤマハ・MOTIFシリーズ|MOTIFシリーズ]]に代わるフラッグシップシンセとして、FM-XとAWM2のハイブリッドシンセである[[ヤマハ・MONTAGE|MONTAGE]]が2016年に発売された。[[2018年]]にはMONTAGEの廉価版であるMODXが発売された。
FM音源はヤマハの[[特許]]だったため({{US patent|4018121A}})、他社から採用機種が発売されることはまれであった。[[1987年]]には[[コルグ|KORG]]からDS-8と707というFM音源デジタルシンセサイザーが発売された。これは当時経営が悪化していたKORGを救済するため、ヤマハからFM音源チップが供給されたものである。[[1994年]]に特許が切れており、各社からFM音源を搭載したハードウェアシンセサイザーやソフトウェアシンセサイザープラグインが発売されている。
== 音源チップ一覧 ==
=== OPL系 ===
[[ファイル:YM3526_01.jpg|thumb|YM3526]]
[[ファイル:Y8950_01.jpg|thumb|Y8950]]
[[ファイル:YM3812_01.jpg|thumb|YM3812]]
[[ファイル:YMF262-M.jpg|thumb|YMF262-M]]
2オペレータ。内蔵リズム音はハイハット、トップシンバル、タム、バスドラム、スネアドラムの5音。バスドラムを除き1オペレータで生成されるため、FM3ch分のレジスタで5chのリズム音を同時に発音可能。
元々は[[キャプテンシステム]]および[[文字多重放送]]受信機用に設計されており、メロディ6音+リズム5音同時発音モードはキャプテンシステムのメロディ機能{{Efn2|キャプテンシステムにおけるメロディ機能はオプション機能であり、ランク1から5に分類される端末種別の機能とは別に定められていた<ref>{{Cite journal|和書|journal=NEC技報 |title=高密度キャプテン端末NTX-3000,NTX-5000 |author1=石渡直樹 |author2=内海良成 |author3=田岸孝一 |author4=山本昌克 |publisher=NECマネジメントパートナー社 |volume=38 |issue=5 |year=1985 |month=4 |pages=86-92 |id={{JGLOBAL ID2|200902098344485552|J-GLOBAL ID:200902098344485552}}|doi=10.11501/3259657 |issn=0285-4139}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=ビジネスコミュニケーション |title=キャプテンシステムの概要 |author=NTT画像・電信事業部 画像サービス部 キャプテン担当 |publisher=ビジネスコミュニケーション社 |volume=25 |issue=10 |year=1988 |month=10 |pages=28-45 |doi=10.11501/3286870}}</ref><ref>岡兼太郎「ニューメディアと音楽」、音楽情報研究会編『コンピュータと音楽(コンピュータ・サイエンス誌 bit別冊)』(共立出版、1987年9月) pp. 75-83、{{doi|10.11501/3299536}}、{{NCID|BN03936860}}。</ref>。}}と文字放送の付加音機能の基本機能<ref>{{Cite book|和書|editor=放送技術開発協議会 |title=文字放送技術ハンドブック |publisher=兼六館出版 |isbn=4874620108 | doi=10.11501/12601093 |year=1986 |month=8}}</ref><ref name="文字多重放送 法律">{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.tele.soumu.go.jp/horei/reiki_honbun/72999265001.html |title=標準テレビジョン文字多重放送に関する送信の標準方式第十一条第三号及び第十八条の規定に基づく標準テレビジョン文字多重放送の放送番組のデータの送出等 |date=2000-02-23 |website=総務省電波利用ホームページ |accessdate=2023-10-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231017110933/https://www.tele.soumu.go.jp/horei/reiki_honbun/72999265001.html |archive-date=2023-10-17 |url-status=live}}</ref>に準拠したモードである<ref>{{Cite news|和書|title=パソコンも楽器に|newspaper=日経産業新聞|pages=8|date=1984-10-31}}</ref><ref name="OPL2 アプリケーションマニュアル">{{Cite book|title=YM3812 FM OPERATOR TYPE-L(OPLII) APPLICATON MANUAL|publisher=ヤマハ}}</ref>。
* [[YM3526]](OPL) 2オペレータ9chまたは6ch + リズム5ch。2オペレータなのでアルゴリズムは直列、並列の2種類のみ。[[タイトー]]の[[バブルボブル]]や、[[テラクレスタ]](海外版)をはじめとした[[日本物産]]のアーケードゲームなどで使用されていた。
* Y8950([[MSX-AUDIO]]) 2オペレータ9chまたは6ch + リズム5ch、[[ADPCM]] 1ch(16kHz/4bit/[[モノラル]])、32kB~256kBの波形メモリを外部に持てる。MSXの音源規格にあわせ、OPL相当の機能に加えADPCMの回路機能を包含しており、チップ表面には、MSXのロゴと、MSX-AUDIOの表記があり、マニュアルには他のチップでは存在する"Operator Type"等の表記が無い。[[MSX]]の拡張カートリッジや[[PC-9800シリーズ]]用サウンドボード、アーケード基板、MZ-2861用ADPCMボード(MZ-1E36)などで使用。
* [[YM3812|YM3812/FM1312]](OPL II) 2オペレータ9chまたは6ch + リズム5ch、[[AdLib]]や[[Sound Blaster]]で使用。YM3812はYM3526とハードウェアレベルで互換性があり、そのまま差し替えて使用することが可能<ref name="OPL2 アプリケーションマニュアル"/>。[[サイン波]]以外の発振も可能になり<ref name="OPL2 アプリケーションマニュアル"/>、音作りの幅が広がった。また、初期のSound Blaster ProではOPL IIを2台搭載した。また鉄道車両に搭載されているチャイムの一部(八幡電器産業 YA-92043やYA-96139など)の音源部にも採用されている。
* [[YMF262|YMF262-M]](OPL3)([[:en:Yamaha YMF262|en]]): 2オペレーター/4オペレータ可変。リズム部はOPL同等。2オペレータ18ch、4オペレータ6ch+2オペレータ6ch、4オペレータ6ch+2オペレータ3ch+リズム5chなど動作モードが多い。ベース波形を8種類から選択可能。 主に[[Sound Blaster]]シリーズに搭載されていたチップである。Sound Blaster Proの後期モデルから採用され、以後のモデルにも本製品や互換品が利用されている。SB互換音源としてEPSON PCシリーズのWindows 3.1対応機や、サードパーティ製音源等にも採用例がある。ゲームセンター向けのメダルゲームを多く開発製造してきたシグマ社のビデオスロット、ビデオポーカー、メカニカルスロット用のゲーム基板、SG97V/SG97Mにも搭載されている<ref>[http://blog.livedoor.jp/medage/archives/21395641.html シグマSG97VM-1の修理01]</ref>。 Sound Blasterシリーズが[[PC/AT互換機]]では事実上の標準といえるほど普及していたことや、マイクロソフトが[[Windows 3.1]]向けに制定したサウンドカード仕様であるWindows Sound System([[:en:Windows Sound System|en]])がOPL3の利用を前提としていたこともあり、「SBPro互換」と称するOPL3コアを流用した互換品やエミュレーションチップも数多く存在する。
** YMF262-S:[[QFP]]版
** YMF289(OPL3-L):OPL3の省電力版。PCMCIA版Sound Blaster等で採用。
** YMF297-F:PC-9801-118サウンドボード用。OPL3の機能に加え、OPNA互換モードも備えている。このため118ボードは86ボードとの互換性を保ちながらWindows Sound Systemにも対応している(ただし118ボードはDOSからの利用は正式サポートされていなかった)。
** CT1747:クリエイティブテクノロジーによる互換チップ。OPL3同等のコアが内包されている。
** YMF701(OPL3-SA):16bitのサウンドCODEC、MIDI I/Fを備え、ワンチップでSBPro互換を実現している。
* YMF278B-F/YMF278B-S (OPL4) :OPL3に24chのPCM音源を付加した製品。YAMAHA SOUND EDGE SW-20、[[MSX]]の拡張カートリッジMoonsound(ムーンサウンド)、コンピュータ・テクニカ製のPC-98x1用拡張サウンドボードであるオールサウンドプレーヤー98(SPB-98)で使用されていた。
** FM音源部はOPL3同等
** PCM24音同時発音,最大512音色
** 入力クロック 33.8388MHz
** 音声出力データのサンプリング周波数 44.1kHz
** 波形データは8ビット、12ビット、16ビット構成を選択可能
** 各音声出力チャンネルは個別に16段階の[[パンニング (音響)|パン]]設定が可能
** 外部メモリはROMまたはSRAMを接続可能、容量32Mビット
** 1Mビット、4Mビット、8Mビット、16Mビット用チップセレクト信号出力可能
** 音声出力6ch、YAC513(DAC)を接続可能
** エフェクターYSS225(EP)接続可能
** 80ピンQFP(YMF278B-F)または100ピンQFP(YMF278B-S)
{{-}}
=== OPLL系 ===
[[ファイル:YM2413_01.jpg|thumb|YM2413]]
音色データをチップに内蔵し、制御を単純化したOPL2のサブセット。キャプテンシステム端末・文字放送受信機用として開発されたが、他の用途向けに音色データのセットが異なるバリエーションがある。また、音色データを内蔵している関係で、ノートオフ後のリリース途中で次のノートオン信号を受信すると、自動的に前の音を消音してから次の音を発生する機能(フォースダンプ機能)が搭載されている。また、音色データがテーブル式となった事で、FM音源の特徴であったダイナミクスによる音色そのものの変化が大幅に制限されている。
* [[YM2413]](OPLL) 2オペレータ9chまたは6ch + リズム5ch。OPL2のサブセットで、特定の音色セットを内蔵することで制御を単純化した廉価版にあたる。他のOPL系のチップと比較し、音色を保持するレジスタが1音色分しか実装されておらず、パラメータの分解能も削られている。内蔵されたメロディ楽器15音色中9音色とリズム楽器5音色は、キャプテンシステムのメロディ機能と文字多重放送の付加音機能の基本機能で規定された音色である<ref name="文字多重放送 法律" /><ref>{{Cite journal|和書|journal=[[月刊アスキー]]|title=メロディ15音色,リズム5音色を内蔵したFM音源LSI|publisher=[[アスキー]]|issue=1986年8月号|page=105|doi=10.11501/3250703}}</ref>。キャプテンシステム端末・文字放送受信機に搭載された他{{Efn2|使用例として[[NTT]]のキャプテン端末([[NEC]]製)「キャプメイトV15E」<ref>{{Cite journal|和書|author=石渡直樹|title=高密度キャプテン端末(ランク3)|journal=NEC技報|volume=42|issue=5|publisher=NECマネジメントパートナー|year=1989 |month=4 |issn=0285-4139 |id={{JGLOBAL ID2|200902072495732927|J-GLOBAL ID:200902072495732927}} |doi=10.11501/3259709 |pages=112-119}}</ref>、[[松下電器]]の文字放送チューナー「TU-TX100」<ref>{{Cite journal|和書|author1=逸見英身|author2=山田直一|author3=角田浩樹|title=文字放送チューナ|journal=National technical report|volume=41|issue=4|publisher=松下電器産業技術総務センター技術情報部|year=1995 |month=8 |doi=10.11501/2358381}}</ref>。}}、<!--その価格から普及しなかった、MSX-AUDIOの廉価版として<ref>「早すぎた迷オプション MSX-AUDIO」『MSX MAGAZINE 永久保存版 2』アスキー書籍編集部編著、アスキー、2003年、pp.148-151。</ref>、-->[[MSX]]の拡張カートリッジ([[FM-PAC]])および[[MSX2+]]のFM音源規格[[MSX-MUSIC]]<ref>{{Cite journal|和書|doi=10.11501/3250730|journal=月刊アスキー|author=編集部|title=スペシャルレポート・MSX2+ プラスの中身|publisher=アスキー|issue=1988年11月号|pages=301-304}}</ref><ref>{{Cite journal|和書||journal=[[MSXマガジン]]|title=特集 MSX2+なんでも情報|publisher=アスキー|issue=1988年12月号|pages=134-155}}</ref>、[[セガマーク3]]用周辺機器のFMサウンドユニットおよび一体型の日本版[[セガ・マスターシステム]]<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[ゲーマガ|Beep]]|title=衝撃デビュー!マスターシステム|publisher=[[日本ソフトバンク]]|issue=1987年11月号|pages=45-46}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/680874.html|title=「セガ3D復刻アーカイブス」インタビュー第3弾!|date=2014-12-18|website=[[Impress Watch|Game Watch]]|accessdate=2023-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210306153113/https://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/680874.html|archivedate=2021-03-06}}</ref>、[[UFOキャッチャー]]、麻雀学園、クイズカプコンワールド、ポンピングワールドなどのカプコンのアーケード基板、[[ニューパルサー]]・[[大花火]]・[[ジャグラー]]・[[スフィンクス7]]・他の一部の[[パチスロ]]機<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=http://www1.yamasa.co.jp/40th_remnp/interview/int01.html|title=REMEMBER OF THE NEW PULSAR おもいでのニューパルサー|publisher=ヤマサ|accessdate=2023-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130715200610/http://www1.yamasa.co.jp/40th_remnp/interview/int01.html|archivedate=2013-07-15}}</ref>などで使われていた。<!--ちなみにアーケード版[[ぷよぷよ]]のスタッフロールで「YM2413」という名称が登場するが、実際に演奏された音源は異なる。-->また、以下の様な派生品も存在する。
** YM2420(OPLL2)。ヤマハのポータブルキーボード、[[ショルキー]]シリーズに搭載された。内蔵音色セットなど性能・機能はOPLLと同等だが、自社の楽器用に制御手順が変更されている。
** YMF281(OPLL-P)。OPLLの内蔵音色を差し替えたもの。パチンコ向けとされる。
** MS1823(YM2423)。OPLLの内蔵音色を差し替えたもの。[[シャープ]]にOEM供給された。[[Philips]]のポータブルシーケンサーPMC100や[[Atari ST]]用のFM音源カートリッジに搭載された。
** 内蔵音色を差し替え、同時発音数がメロディー6音になったサブセット版がコナミのVRC VIIの音源部に採用されている。
{{-}}
=== OPN系 ===
[[ファイル:YM2608_FMSynthesizerChip.jpg|thumb|YM2608]]
[[ファイル:Yamaha YM2612 chip.jpg|thumb|YM2612]]
4オペレータ。
* [[YM2203]](OPN) 4オペレータ、3ch + [[Programmable Sound Generator|PSG]](SSG)3ch / FMの1chは効果音または音声合成(CSM)モードとして使用可 + ノイズ1ch、[[PC-6000シリーズ#PC-6001mkIISR|PC-6001mkIISR]]・[[PC-6600シリーズ#PC-6601SR|PC-6601SR]]・[[PC-8800シリーズ]]・[[PC-9800シリーズ]]・[[MZ-2500]]・[[FM77AV]]などで使用。AY-3-8910と同様の機能を搭載しており、音声出力機能だけでなく、8bit×2系統のI/Oポートも実装。レジスタの構造も互換を持たせている。
** YMF264(OPNC)CMOS版。中期以降の[[EPSON PCシリーズ]]の26音源互換部に採用されている他、98NOTE向けのサウンドユニット(LSU-N98、NMB-G)にて使用。
* [[YM2608]](OPNA) 4オペレータ、6chステレオ + リズム6chステレオ + SSG3ch + ADPCM1chステレオ + ノイズ1ch、YM2203の[[上位互換]]で、キャプテンシステムおよび文字多重放送端末仕様に適合する。[[PC-8800シリーズ]]・[[PC-9800シリーズ]]などで使用<ref>YM2608 OPNA Application Manual </ref>。
* [[YM2610]](OPNB) 4オペレータ、4chステレオ + SSG3ch + ADPCM7ch(周波数固定6+周波数可変1ch)ステレオ + ノイズ1chステレオ、YM2608[[下位互換]]、[[F2システム]]・[[ネオジオ]]などで使用
** YM2610B YM2610のFM音源を6chに拡張したもの。
* [[YM2612]](OPN2)/YM3438(OPN2C) 4オペレータ、6chステレオ。YM2608[[下位互換]]。一部の[[メガドライブ]]・[[FM TOWNS]]・セガ[[セガ・システムC|systemC2]](アーケード版『[[ぷよぷよ]]』他)・ニューUFOキャッチャーなどで使用。内蔵DACの解像度はYM2612、YM3438共に9ビットであるが、YM3438のみCMOS化された事によりノイズは減っている。また一部の[[FM TOWNS]]で使われた互換チップYMF276<ref>[http://www.purose.net/befis/towns/chip/ 『頭脳圧搾工場 in 仙台』のページ TOWNS搭載のチップ]</ref>は、汎用のシリアル接続[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]を接続可能である。解像度は16bit。
* [[YM2608#YMF288(OPN3)|YMF288]](OPN3) 4オペレータ、6chステレオ + リズム6chステレオ + PSG3ch + ノイズ1chステレオ、YM2608[[下位互換]]であるため、OPNAの代用として使われることもある。消費電力は低減し、チップサイズも小さくなったものの、I/O機能、CSM音声合成、ADPCM等が回路として削除されている。[[満開製作所]]のまーきゅりーゆにっと、[[PC-9821]]等で利用されている。
* YMF297(OPN4 もしくは OPN3/OPL3) OPN3にOPL3互換動作モードを追加したもの。PC-9801-118音源ボードに使用された。
{{-}}
=== OPM系 ===
[[ファイル:Yamaha YM2151.PNG|thumb|YM2151]]
[[ファイル:YAMAHA-YM2164.jpg|thumb|YM2164]]
4オペレータ。<!--OPNに対して音色のパラメータが増えている。その中でも|OPMのほうが古いのに「増えている」はおかしい-->特筆すべきは、基準音の整数倍の周波数から大幅に周波数をずらした正弦波で変調をかけられるようになっている事で、これを実現するパラメータを一般的に「デチューン2」もしくはDT2と呼ぶ<ref name="『マイコンBASIC』">『マイコンBASIC Magazine DELUXE ゲーム・ミュージック・プログラム大全集III』(電波新聞社、1989年) pp. 23, 28。</ref>。このため[[シンバル]]等の金属製打楽器にみられるような非整数倍音成分を含むものなどの音作りが容易になっている<ref name="『マイコンBASIC』" />。<!--なお、「デチューン1」に相当するものは、OPN系にも実装されている。|OPNとの不必要な比較-->
なお、他に「デチューン2」に相当するパラメータを持つFM音源チップに、OPQ、OPU(いずれもポータトーン、ポータサウンドの一部モデルに搭載)がある。
* [[YM2151]](OPM) 4オペレータ、8chステレオ。1980年中盤~1990年中盤のアーケードゲーム基板、[[X1 (コンピュータ)|X1]]・[[X68000]]、一部の[[MSX]]などで使用。特にアーケードゲームでは数多くのメーカーに広く用いられ、PCM音源との併用で使用されることが多かった。
* YM2164(OPP) 4オペレータ、8chステレオ DX21、DX27、DX27S、DX100、FB-01、SFG-05、コルグDS-8、707等で使用。
{{-}}
=== OPZ系 ===
[[ファイル:YM2414_02.jpg|thumb|YM2414]]
4オペレータ。OPM/OPPの派生型で、ほぼ上位互換。ヤマハの[[ポータトーン]]・[[キーボーディシモ]]シリーズ等では、下位モデルにOPP、上位モデルにOPZが搭載されるといったような棲み分けがされている。
* [[YM2414]](OPZ) 4オペレータ、8chステレオ。YAMAHA TX81ZおよびV2(DX11)ほか多数で使用。波形選択パラメータにより正弦波を含む8種類の波形を使用できる。OPMと比較して、オペレータごとの周波数倍率を細かく指定できるため、柔らかいストリングスの音を作れる(キャリアを4.01倍、モジュレータを3.99倍にして直列に組み合わせるなど)利点がある。パッケージ、ピンアサイン及び使用するDACがOPM/OPPと共通しているが実際に置換して互換性確認したユーザーはまだいないようである。
* YM2424(OPZII) 4オペレータ、8chステレオ YAMAHA V50にて2個使用。YM2414から、FIXモードでのオペレータ発振可能周波数が拡大された。
{{-}}
=== OPX系 ===
[[ファイル:Yamaha YMF271-F 01.jpg|thumb|YMF271-F]]
* YMF271-F(OPX)
** 2オペレータ(4アルゴリズム),3オペレータ(8アルゴリズム),4オペレータ(16アルゴリズム)のいずれかに設定可能。
** FM演算用に7種類の内蔵プリセットデータまたは外部メモリのPCM波形データを使用可能。
** エフェクターLSI(YSS225)との8chインターフェイス内蔵。
** PCM同時12音。
** 波形データ用にROMまたはRAMを8MBリニアアクセスで接続可能。
** 波形データフォーマットは8ビットまたは12ビットリニア。
** PCMはループ機能とオルタネートループ機能によりデータを節約可能。
** スロット数は48。
** LFO内蔵で各スロット毎に波形、周波数、周波数変調、振幅変調の設定が可能。
** 音声出力サンプリングレートは44.1kHz(マスタークロック16.9344MHz時)。
** 音声出力は4ch出力可能で、各チャンネルごとにパンの設定可能。
** パッケージは128ピンQFP。
{{-}}
=== OPS系 ===
[[ファイル:DX7IIDmainboard.jpg|thumb|YM2604/YM3609]]
6オペレータ/16chステレオ/32アルゴリズム。オペレータ部(OP)とエンベロープジェネレータ部(EG)に分離している。入力クロックは9.4265MHz。動作クロックは4.71MHzである。OP部はEGから送られる14bitの周波数データを元にSINテーブルの値を読み、同じくEGから送られる12bitのエンベロープ値を使って出力を決定する。内部データは12bit値とシフト値で構成されているが実際の音声信号を得る手順はOPSとOPSIIで若干異なっており、OPSの場合12bitのデータを12bitD/Aコンバータ(BA9221)に対して出力し、得られた信号をアナログスイッチを通してシフトすることで音声信号を得るのに対し、OPSIIでは12bitのデータを内部でシフト操作して15bitデータに変換した上で16bitD/Aコンバータ(PCM54HP)に出力することで音声信号を得ている。DXシリーズやTXシリーズで使用された為かなりの数量が出回ったが、YM2151のようにICとして外販されたわけではないため、情報が公開されておらず内部レジスタ構成などは一切不明である。
* YM2128(OPS)+YM2129(EGS)
** DX7/DX1/DX5/TX216/TX816等で使用。
* YM2604(OPSII)+YM3609(EGM)
** DX7IID/DX7IIFD/TX802等で使用。
{{-}}
=== モバイルオーディオ(MA)系 ===
主に[[携帯電話]]の[[着メロ]]用として開発されたシリーズ。音色テーブルとシーケンスデータを与えることで、自動的に演奏するシーケンサーを内蔵している。[[携帯情報端末|PDA]]や車載用、家電組み込み用などもここから派生した。
* YMU757(MA-1)
** 2オペレータ?FM4ch
** 4音同時発音
* YMU759(MA-2)
** 4オペレータFM8音(または2オペレータ16音)+4bitADPCM(4k/8kHz)1音、ステレオ出力
** 同時発音数(チップ最大性能)16
* YMF761(PA-1)
** YMF759(MA-2)とほぼ同スペックだが、[[PalmOS]]用の標準音源としての制御インターフェースが追加されている。
* YMU762(MA-3)
** 4オペレータFM16音(または2オペレータ32音)+WaveTable音源8音+PCM/ADPCM(4~48kHz)2ストリーム、ステレオ出力
** 同時発音数(チップ最大性能)40
* YMU765(MA-5)
** FM音源部はMA-3と同じ。Wavetable発音数増、フォルマント発声音源(HV)および簡易アナログ音源(AL)を追加。
** 同時発音数(チップ最大性能)64
* YMU786/790/791(MA-7/7D/7i)
** MA-5をベースに、3Dエフェクトプロセッサ・リバーブプロセッサ等を追加。マルチファイル同時再生(4ファイル)およびアプリケーションからのリアルタイムMIDIINコントロールに対応。
** ピアノ、ストリングスなどWavetable音源の音色追加。
** ユーザーRAMの容量増加。MA-5の8KBから16KBへ増加。
** 汎用エフェクタの追加。(ディストーション、オーバードライブなど)
** 同時発音数(チップ最大性能)128
** ベースチップYMU786にはアナログ出力ブロック(ミキサー、ヘッドフォンアンプ等)がインテグレートされている。
** YMU790はYMF786よりアナログ出力ブロックを取り除いたもの。
** YMU791はYMF786に[[アナログ-デジタル変換回路|ADコンバータ]]、[[マイクロフォン|マイク]]入力、[[ライン (音響機器)|ライン]]入力、レシーバアンプ等を追加し入出力を集約化したもの。
* YMF825(SD-1)
** YMU762(MA-3)のFM音源部分と同スペック。
** 4オペレーター16和音、基本波形29種類から選択、3バンドイコライザーを内蔵。
** DACと900mwのアンプを内蔵しているため、直接スピーカーを駆動することが可能。
** 中国市場向け家電用として開発されたが、好事家向け工作キットとしても流通している<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://yamaha-webmusic.github.io/ymf825board/intro/ |title=YMF825Boardの紹介 |website=ヤマハ |accessdate=2017-08-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170806134715/https://yamaha-webmusic.github.io/ymf825board/intro/ |archivedate=2017-08-06}}</ref>。
=== その他 ===
[[ファイル:315-5687_01.jpg|thumb|YMF292-F]]
* YMF292-F (SEGA 315-5687) SCSP(Saturn Custom Sound Processor) [[MODEL3]]、[[セガサターン]]およびその互換機、[[ST-V]]などで使用。
* SCSPはセガサターンのバージョンにより、複数の型番(タイプ)がある。
** PCM再生データサンプリングレート:DC~44kHz
** PCMデータ:8ビットまたは16ビットリニア
** 32ch FMまたはPCM
** すべてFM 4オペレータで使用した場合、8ch FMサウンド出力
** すべてPCMとして使用する場合は32ch PCMサウンド出力
** 1スロットにつき1LFO割り当て可能、32chのLFO使用可能。
** 32ch エンベロープジェネレータ内蔵
** プリスケーラ内蔵8ビットデジタルタイマー内蔵
** デジタルミキサー内蔵
** ヤマハ製FH-1 DSP内蔵。各種サウンドエフェクト制御
** リバーブ(ホール、ルーム、ボーカル、プレートなど)
*** 反響
*** エコー/ディレイ(ステレオ、モノラル)
*** ピッチシフタ(シングル、ダブル、トリプル)
*** コーラス、フランジャー
*** 交響曲サラウンド
*** ボイスキャンセル、オートパン
*** 位相、ひずみ
*** フィルター
*** パラメトリックイコライザ
** 4MビットDRAM接続可能(サウンドCPU 68EC000用プログラム、PCMサウンドデータ、DSP)
** DMA内蔵。SCSPとDRAM間のデータ転送に使用する。
** メインCPUインターフェイス:セガサターンの場合はSCUとSCSP間のインターフェイス(B-BUS)となる。
** サウンドCPUインターフェイス:68EC000とのインターフェイス。
** 割り込み出力(2ch):メインシステム用およびサウンドCPU用
** 外部割込み信号入力:3ch(サターンでは未使用)
** リセット入力:セガサターンの場合はSMPCから出力されるリセット信号を入力する。
** デジタルサウンド出力
** 外部デジタル入力(1ch)
** MIDIインターフェイス内蔵(入力1ch、出力1ch)
* YM2403(OPLP)/YM2404(OPLM)
** エレクトーンHX-1に搭載。入力クロック3.2MHz。EGに相当するのはYM3807(MOD/Modulation Signal Generator)、D/AコンバータはYM3017である。名称にOPLの文字を含むがOPL系に含まれるのかは不明。
** HX-1は8オペレータ8chステレオの「FMポリ音色」と16オペレータ1chモノラルの「FMモノ音色」を使用できる。
** HX-1ではまた4オペレータのFM音源とAWM音源も使用できるがどのチップがFM音源の機能を持つのかは不明。HX-1に搭載された他のヤマハ製音源チップはYM3602(OPRW)YM3604(OPBW)YM2415(OPAW)の何れも名称に'W'の文字を含む3種類である。
== 関連書籍 ==
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・チョウニング |author2=デビッド・ブリストウ |authorlink=ジョン・チャウニング |translator=広野幸治 |title=DXシンセサイザーで学ぶFM理論と応用 |publisher=ヤマハ音楽振興会 |date=1986-11 |isbn=4-6362-0835-8}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 関連項目 ==
{{Columns-list|20em|
* [[ヤマハ・DXシリーズ]]
* [[ヤマハ・TXシリーズ]]
* [[ヤマハ・SYシリーズ]]
* [[ヤマハ・TGシリーズ]]
* [[シンクラヴィア]]
* [[AudioEngine]]
* [[LA音源]]
* [[ジョン・チャウニング]]
}}
== 外部リンク ==
{{サウンド・シンセシス方式}}
{{ヤマハ製音源チップ}}
{{DEFAULTSORT:FMおんけん}}
[[Category:シンセサイザー]]
[[Category:電子音源の合成方式]]
[[Category:音源チップ]]
[[Category:ハードウェア]]
[[Category:MSX]]
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2003-09-05T12:19:08Z
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2023-12-15T09:05:18Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FM%E9%9F%B3%E6%BA%90
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15,209 |
熊本市電上熊本線
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上熊本線(かみくまもとせん)は、熊本県熊本市中央区の辛島町停留場から熊本市西区の上熊本停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。
比較的閑静な街を通り、沿線には童歌「あんたがたどこさ」で有名な船馬橋がある。段山町 - 上熊本は路面電車を敷設するため開削・整備した道路であり、路面電車によって発展した地域である。また、洗馬橋 - 新町間は現有路線唯一の専用軌道区間である。熊本市交通局の車両基地が上熊本停留場のすぐそばにある(熊本市交通局の上熊本営業所を兼ねる)。
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上熊本線(かみくまもとせん)は、熊本県熊本市中央区の辛島町停留場から熊本市西区の上熊本停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。 比較的閑静な街を通り、沿線には童歌「あんたがたどこさ」で有名な船馬橋がある。段山町 - 上熊本は路面電車を敷設するため開削・整備した道路であり、路面電車によって発展した地域である。また、洗馬橋 - 新町間は現有路線唯一の専用軌道区間である。熊本市交通局の車両基地が上熊本停留場のすぐそばにある(熊本市交通局の上熊本営業所を兼ねる)。
|
{{No footnotes|date=2016年4月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 上熊本線
|画像 = Kumamoto City Tram Senbabashi Station-Shinmachi Station.JPG
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|画像説明 = 専用軌道区間(洗馬橋 - 新町)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[熊本市]]
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|運営者 = [[熊本市交通局]]
|路線距離 = 2.9 km
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}}
[[ファイル:Kumamoto City Tram Daniyamamachi Station-Sugidomo Station.JPG|thumb|220px|right|段山町付近は丘陵地を開削した区間]]
'''上熊本線'''(かみくまもとせん)は、[[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]の[[辛島町停留場]]から熊本市[[西区 (熊本市)|西区]]の[[上熊本駅|上熊本停留場]]を結ぶ[[熊本市交通局]]が運営する[[路面電車]]([[市電]])の路線。
比較的閑静な街を通り、沿線には[[童歌]]「[[あんたがたどこさ]]」で有名な船馬橋がある。段山町 - 上熊本は路面電車を敷設するため開削・整備した道路であり、路面電車によって発展した地域である。また、洗馬橋 - 新町間は現有路線唯一の[[専用軌道]]区間である。熊本市交通局の[[車両基地]]が上熊本停留場のすぐそばにある(熊本市交通局の上熊本営業所を兼ねる)。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.9km
* [[軌間]]:1435mm
* 電停数:10(起終点含む)
* 複線区間:全線複線
* 電化区間:全線電化(直流600V)
== 運行形態 ==
* {{Color|blue|■}}[[熊本市電B系統|B系統]](健軍町 - 上熊本)- 上熊本線全区間を7分 - 11分間隔で運行。平日・土曜日の日中は12分の等間隔で運行される。全線通し運転が基本だが、朝ラッシュ時や深夜を中心に上熊本 - 交通局前間の入出庫便や上熊本 - 辛島町間の区間便が数本設定されている。
== 歴史 ==
* [[1929年]](昭和4年)[[6月20日]] 辛島町 - 段山町間が開業
* [[1935年]](昭和10年)[[3月24日]] 段山町 - 上熊本駅前間が開業
* [[2011年]](平成23年)[[3月1日]] 本妙寺前を本妙寺入口に改称
* [[2019年]](令和元年)[[10月1日]] 上熊本駅前を上熊本に改称
== 電停一覧 ==
* 全電停が[[熊本県]][[熊本市]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:2em;"|電停<br />番号
!style="width:10em;"|電停名
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!接続路線
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!B1
|[[上熊本駅|上熊本停留場]]
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|style="text-align:right;"|2.9
|[[九州旅客鉄道]]:{{Color|#ee3d49|■}}[[鹿児島本線]]([[上熊本駅]])<br />[[熊本電気鉄道]]:[[熊本電気鉄道菊池線|菊池線]](上熊本駅:KD01)
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[西区 (熊本市)|西区]]
|-
!B2
|[[県立体育館前停留場]]
|style="text-align:right;"|0.1
|style="text-align:right;"|2.5
|
|-
!B3
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|style="text-align:right;"|2.4
|
|-
!rowspan="2"|B4
|rowspan="2"|[[杉塘停留場]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|2.0
|rowspan="2"|
|-
|rowspan="7" style="white-space:nowrap;"|[[中央区 (熊本市)|中央区]]
|-
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|style="text-align:right;"|1.5
|
|-
!B6
|[[蔚山町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.4
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|
|-
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|
|-
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|[[洗馬橋停留場]]
|style="text-align:right;"|0.2
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|
|-
!B9
|[[西辛島町停留場]]
|style="text-align:right;"|0.3
|style="text-align:right;"|0.3
|
|-
!8
|[[辛島町停留場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[熊本市電]]:[[熊本市電幹線|幹線]]
|}
=== 廃止された電停 ===
* 洗馬橋停留場 ([[1929年]][[6月20日]]開業、[[1943年]][[12月28日]]廃止。現在の洗馬橋停留場とは異なる)
* 新細工町停留場 (1929年6月20日開業、1943年12月28日廃止)
* 新桶屋町停留場 (1929年6月20日開業、1943年12月28日廃止。[[1960年]]から[[1963年]]まで4度設置、臨時停留場。護国神社前停留場の名称であった時期もあった)
* 島崎町停留場 ([[1935年]][[3月24日]]開業、1943年12月28日廃止)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu-kumamoto.jp/ 熊本市交通局]
{{熊本市電の路線}}
{{日本の路面電車}}
{{DEFAULTSORT:くまもとしてんかみくまもとせん}}
[[Category:九州地方の鉄道路線|かみくまもと]]
[[Category:熊本市電|路かみくまもと]]
[[Category:日本の路面電車路線]]
[[Category:熊本県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82%E9%9B%BB%E4%B8%8A%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%B7%9A
|
15,210 |
熊本市電田崎線
|
田崎線(たさきせん)は、熊本県熊本市西区春日の熊本駅前停留場から同町内の田崎橋停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。一部が単線である。
熊本市は2006年、鹿児島本線・豊肥本線連続立体交差化事業及びJR熊本駅東口駅前広場整備に合わせ、JRとの乗り換えの利便性を向上させる目的からJR熊本駅新駅舎に市電を引き込む計画を提起し、同年、熊本県など関係機関と合意。2013年9月に東口駅前広場機能配置案を公表した。同案によると熊本駅前電停から直接二本木口電停方面に向かっている現在のルートから、双方に分岐点を設けて市電が東口駅前広場内を横切り、JR熊本駅新駅舎1階部分に進入、スイッチバック方式で再び東口駅前広場内を横切り本線上に戻るという計画であった。市電の軌道敷は歩行者が自由に往来できるトランジットモール形式を想定していた。ただ歩行者や自転車の往来について安全面の課題があるため、その可否に向けて検討を行い、2014年度中に結論を出すことになった。2015年2月、大西一史熊本市長は熊本市議会本会議において「歩行者・自転車の安全確保や駅前広場の自由な往来が制限されるという課題に解決策が見い出せていない」「(事業計画・日程や今後検討を進める市電そのものの延伸への影響も踏まえ)駅舎乗り入れを諦め、駅前広場計画を見直す」と述べ、計画断念を表明した。今後は市電とバス・タクシーとの乗り換え利便性の向上について検討するという。
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"title": "JR熊本駅新駅舎乗り入れ計画とその断念"
}
] |
田崎線(たさきせん)は、熊本県熊本市西区春日の熊本駅前停留場から同町内の田崎橋停留場を結ぶ熊本市交通局が運営する路面電車(市電)の路線。一部が単線である。
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{{脚注の不足|date=2016年4月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 田崎線
|画像 = Kumamoto City Transportation Tasaki Line.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 熊本駅前からのサイドリザベーション化区間<br />左に車道・右に歩道
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[熊本市]]
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|停留所数 = 3箇所
|開業 = [[1959年]][[12月24日]]
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{{BS-map
|title=電停・施設・接続路線
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}}
'''田崎線'''(たさきせん)は、[[熊本県]][[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]][[春日 (熊本市)|春日]]の[[熊本駅|熊本駅前停留場]]から同町内の[[田崎橋停留場]]を結ぶ[[熊本市交通局]]が運営する[[路面電車]]([[市電]])の路線。一部が[[単線]]である。<!--[[2020年]]時点で、日本国内で(既存路線の延伸でなく)新規に開通した最後の路面電車路線である。→2009年開業の富山地方鉄道の富山都心線は?-->
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):0.5km
* [[軌間]]:1435mm
* 電停数:3(起終点含む)
* 複線区間:熊本駅前 - 二本木口間複線、二本木口 - 田崎橋間一部単線
* 電化区間:全線電化(直流600V)
== 運行形態 ==
* {{Color|red|■}} [[熊本市電A系統|A系統]](田崎橋 - [[健軍町停留場|健軍町]])- 田崎線全区間を4-7分間隔で運行
<gallery>
ファイル:Kumamoto City Tram Tasaki-Line.jpg|単線区間
ファイル:Nihongiguchi-tasakibashi 1.jpg|2007年ごろの様子
</gallery>
== 歴史 ==
* [[1959年]](昭和34年)[[12月24日]] 熊本駅前 - 田崎橋間が開業
* [[2010年]](平成22年)[[4月26日]] 全線を[[路面電車#路面電車関連用語|サイドリザベーション]]化
== 電停一覧 ==
* 全電停が[[熊本県]][[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:2em;"|電停<br />番号
!style="width:8em;"|電停名
!style="width:2.5em;"|電停間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
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|-
|}
== JR熊本駅新駅舎乗り入れ計画とその断念 ==
熊本市は[[2006年]]、鹿児島本線・豊肥本線連続立体交差化事業及びJR熊本駅東口駅前広場整備に合わせ、JRとの乗り換えの利便性を向上させる目的からJR熊本駅新駅舎に市電を引き込む計画を提起し、同年、熊本県など関係機関と合意。[[2013年]]9月に東口駅前広場機能配置案を公表した。同案によると熊本駅前電停から直接二本木口電停方面に向かっている現在のルートから、双方に分岐点を設けて市電が東口駅前広場内を横切り、JR熊本駅新駅舎1階部分に進入、[[スイッチバック]]方式で再び東口駅前広場内を横切り本線上に戻るという計画であった。市電の軌道敷は歩行者が自由に往来できる[[トランジットモール]]形式を想定していた。ただ歩行者や自転車の往来について安全面の課題があるため、その可否に向けて検討を行い、[[2014年]]度中に結論を出すことになった。[[2015年]]2月、[[大西一史]]熊本市長は[[熊本市議会]]本会議において「歩行者・自転車の安全確保や駅前広場の自由な往来が制限されるという課題に解決策が見い出せていない」「(事業計画・日程や今後検討を進める市電そのものの延伸への影響も踏まえ)駅舎乗り入れを諦め、駅前広場計画を見直す」と述べ、計画断念を表明した<ref>[http://kumanichi.com/news/local/main/20150218005.xhtml 熊本市電の熊本駅舎乗り入れ断念 市長表明] 2015年2月18日 熊本日日新聞</ref>。今後は市電と[[バス (交通機関)|バス]]・[[タクシー]]との乗り換え利便性の向上について検討するという。
== 脚注 ==
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<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu-kumamoto.jp/ 熊本市交通局]
{{熊本市電の路線}}
{{日本の路面電車}}
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[[Category:九州地方の鉄道路線|たさき]]
[[Category:熊本市電|路たさき]]
[[Category:日本の路面電車路線]]
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テクノポップ
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テクノポップ (Technopop/Techno Pop) は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったポピュラー音楽。日本では1970年代後半から使われはじめた和製の音楽用語。テクノロジーポップの略。
テクノと略されることもあるが、クラブミュージックのジャンル「テクノ」とは成り立ちを含め別物であるため、留意する必要がある。
シンセサイザー、シンセベースなどを多用したSF的なサウンドが特徴。
電子楽器のテクノロジーを多用した最も初期のヒットは、1972年のホット・バター(英語版)とポップコーン・メイカーズの競作となった「ポップコーン」である。同曲はホット・バター版がBillboard Hot 100で第9位まで上昇する大ヒットとなり、日本でも小ヒットした。またジョルジオ・モロダーが制作したチッコリー(欧米ではチッコリー・ティップ)の1972年のヒット「恋の玉手箱」(Son of My Father)も最新の電子楽器を使用していた。この時期にはまだ「テクノポップ」という語は使われなかった。
英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、シンセポップ(Synthpop)、エレクトロ・ポップと呼ばれていた。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、欧州においては、「TECHNO POP」は異なる意味で使われていたともいう。
日本では1970年代末からイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)がディスコやテレビ番組などでオンエアされ、それを追うように「テクノ御三家」(後述)が登場し、テクノポップ・ブームが起こった。
1980年代後半から流行したダンス・ミュージックのスタイルに、テクノやハウスがある。アシッドハウス、デトロイト・テクノが代表的ジャンルであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされている。
ただし日本国内においてはテクノポップとテクノの境目が曖昧である。電気グルーヴは当初テクノポップに近い楽曲を発表していたが後にハウス・テクノ的要素が強いバンドとなり、1991年頃のP-MODELはテクノの影響を受けた楽曲を多数発表している。
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている。同じYMOのメンバー・細野晴臣は『シティロード』1981年1月号のインタビューで、質問者から「日本でのマスコミ的テクノ・ポップ・ブームについては?」という質問に対して「そもそも、YMOは言葉を否定したところからスタートしたんです。今や言葉ではコミュニケーションがとれないのではないか、たとえば男女の間でも。だから勝手に『テクノ・ポップ』という言葉で僕らを規定されてもねえ...」と述べている。渋谷陽一はNHK-FMで、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、アフリカ・バンバータがクラフトワークを使用した曲を発表した。
1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として同年にP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。
テクノポップ流行の背景としては、当時のサブカルチャーの特徴ある「軽さ」が挙げられ、1970年代的ヒッピー文化や学生運動へのアンチテーゼ的側面が指摘される。椹木野衣は『黄色魔術』という小論でテクノポップの軽さについて論じ、テクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(学生運動、劇画など)から脱却するための一つの方法論だったとの見方を提示している。
ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラル・ステイションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの¥ENレーベルなどがある。
この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題したがお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に「ラジオ・スターの悲劇」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン「カーズ」、M「ポップ・ミューヂック」、リップス「ファンキータウン」、ヒューマン・リーグ「ドント・ユー・ウォント・ミー」、ソフト・セル「テインテッド・ラブ」、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)「エノラ・ゲイの悲劇」。ウルトラヴォックス「ニュー・ヨーロピアンズ」、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」(1981年)はボーカルがソウルフルなため、テクノ・ポップというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がよい。
1985年頃に起こった第二次バンドブームなどの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく。この頃にテクノポップでデビューしたPSY・Sも、早々に「ロックバンドの音を前面に出す音楽形態」に転向している。この頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわちTM NETWORK、accessのようなデジタルロックや喜多郎、姫神のようなニューエイジ音楽などが登場した。
一方、同時期に雑誌『宝島』などのサブカルチャー雑誌に牽引されて勃興したインディーズバンド・ブームの渦中においては、テクノポップ色の強いアーティストが存在感を放っていた。ケラ率いる有頂天らのレコードは宝島社傘下のキャプテンレコードによって全国に紹介され、また有頂天のケラが設立したナゴムレコードに所属する空手バカボン(ケラ、大槻ケンヂらが在籍)や人生(石野卓球、ピエール瀧らが在籍)などもインディーズチャートを賑わせた。有頂天の「べにくじら」や、ケラが後に結成したユニット「ロングバケーション」の「シェリーにくちづけ」テクノポップカバーなどはメジャーでリリースされ、一般にも知られている。
また同時期にテレビゲームやコンピュータゲームもブームとなっており、ゲームで演奏されるゲームミュージック、すなわちシンセサイザー音色を活かしたインストゥルメンタル音楽に傾倒していく人々も多く現れるようになった。YMOのファースト・アルバムで「インベーダーゲーム」が収録されていたように、ゲームミュージックシーンの草創期から、テクノポップシーンの人材が関わってゆくことになる。1985年には¥ENレーベルを擁するアルファレコードにおいて、初のゲームミュージック専門のレーベルとしてG.M.O.レコードも設立された。
テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つはテクノである。1988年以降に世界的に流行し、日本ではケン・イシイや石野卓球が有名となった。人生改め電気グルーヴは、初期はハウスやラップなどに傾倒していたが、石野がアシッドムーヴメントに触れた1990年代以降はテクノ色を鮮明にしてゆき、1997年に『Shangri-La』をヒットさせた。イギリスの808ステイト、ジ・オーブ、オービタルといったテクノアーティストがテクノ・ポップの楽曲をリミックスする企画アルバムもリリースされた。
楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動きがあったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。
しかし、1990年代前半に流行し、21世紀のテクノポップやフューチャーポップに影響を与えた渋谷系の中で細々とテクノポップに類する音楽は制作されており、特に佐藤清喜と清水雄史からなるnice musicは「キラキラ」して「ピコピコ」しているためフューチャーポップの先駆けと言われる事もある。しかしこうしたテクノポップは小室ファミリーのようなカッコ良さを求める時代のトレンドから乖離していたため注目されず、後の音楽シーンに多大な影響を与えたとは言い難かった。従って、渋谷系のテクノポップはオーパーツ・ミュージック的な扱いに留まっている。
テクノポップが再度注目されるようになったのは主にインディーズ音楽シーンで、1998年にリリースされた『東京NEW WAVE OF NEW WAVE '98』というコンピレーション・アルバムで東京の一部で流行していたネオ・ニューウェイヴが総括されて以降、参加していたMOTOCOMPOを筆頭とした様々なミュージシャンらにより21世紀型のテクノポップやフューチャーポップが形作られていった。さらにテクノ音楽シーンではKAGAMIがシンセサイザーやボコーダーを駆使したテクノポップ寄りのダンス・ミュージックをリリースし人気を集めた。
CAPSULEで活動していた中田ヤスタカがプロデュースするユニット、Perfumeが東京のインディーズレーベルでシングルを発売、この中にジューシィ・フルーツのヒット曲「ジェニーはご機嫌ななめ」をカバー収録。テクノポップの再アピールが目立ち始める。Perfumeは2007年に『ポリリズム』のCM起用で一般的知名度を獲得し、2008年にアルバム『GAME』が、「テクノポップ・ユニット」と称されるユニットとしては、YMO以来4半世紀ぶりにオリコン週間チャート1位を記録した。この当時、一般人にとってこうした現代的なテクノポップはPerfumeの作品が唯一と言っても過言ではなく、非常に強烈な印象を残し、また一発屋になることなく国民的なユニットに成長して行った。この時代に始まる第二次テクノポップブームは中田ヤスタカに負うところが大きく、「テクノポップ第二世代」を掲げるAira Mitsuki、Sweet Vacationなどを初めとする数々のフォロワーも現れた。また、「キラキラ系」「ピコピコ系」など様々な分類がなされた。何れもネオ渋谷系を起源とするおしゃれで都会的な感覚を引き継いでいた。テクノポップは同時期に普及したDTMと親和性が高く、VOCALOIDの登場でボーカルも合成できるようになったことから、最小構成ではラップトップ1台のみで制作が完結できるようになったこともあって以後の日本のDTM界隈では似たような音楽が大量に制作されるようになった。こうした音楽は、2010年代にネット音楽シーンから登場してくるミュージシャンにも多大な影響を与えた。
インディーズ音楽シーンにおいてもシンセサイザーやPCのさらなる普及により、アーバンギャルド、FLOPPYなどのテクノポップアーティスト、T4P recordsやウサギチャンレコーズなどの専門レーベルが活躍している。 2000年代に始まったテクノ・ポップの復活は、2010年代に入るとJ-Popの一ジャンルと見る傾向も出てきた。2011年にはきゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」が日本でヒットを記録し日本以外の一部の国々で動画サイトを通じ知られるようになった。その後、2010年代を通して世界各国で爆発的な人気を誇った。
2010年代に入るとダブステップなどの「バキバキ系」が注目を集め、日本でもテクノポップだけでなくEDMが注目されるようになった、 しかし、日本のPerfumeなどの海外のEDM流行と一線を画した、表拍(ダウンビート )なテクノポップ的楽曲は、海外でのコンサートに呼ばれる際には「日本代表」的な扱いを受け歓迎された。
1979年のYMOブームによりP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスの「テクノ御三家」が出て来たわけではなく、それぞれ源流も全く異なっている。P-MODELは平沢進が高校時代(1973年)から結成していたプログレッシブ・ロックバンドのマンドレイクが、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであったが、年代事にメンバーが変わり、ダークテクノ、ニューウェーブ、アジアンテクノと2000年に活動停止までテクノミュージックの追及を行った(現在はリーダーの平沢のみの核P-MODELと、元メンバー達が個々で活動している)。演劇畑出身の巻上公一を中心とし、劇団から転じて1978年に命名されたのがヒカシューであり、後に巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、前衛音楽や前衛ロック、フリージャズの分野へと、大きく羽ばたいていった。プラスチックスは1976年に立花ハジメを中心としたファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような軽さをうち出し、米国にてツアーも行った。
ヒカシューの巻上公一曰く、YMOとテクノ御三家の明確な違いとして、YMOは松武秀樹がシンセのプログラミング等の機材セッティングを行い、機材もプロユースの物をリースしていたのに対し、テクノ御三家は自分達で購入可能な機材を揃え、全て自分達でやっていたとしている。また、YMOとテクノ御三家はライバル関係のような状態だった為、別に仲が悪い訳では無かったが、当時は時代背景もありインタビューでお互いに悪口を言い合っていたという(当時は巻上と平沢が特に仲が悪いとされていたが、巻上曰く実際は長年の友人同士である)。
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"text": "テクノポップ (Technopop/Techno Pop) は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったポピュラー音楽。日本では1970年代後半から使われはじめた和製の音楽用語。テクノロジーポップの略。",
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"text": "テクノと略されることもあるが、クラブミュージックのジャンル「テクノ」とは成り立ちを含め別物であるため、留意する必要がある。",
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"text": "シンセサイザー、シンセベースなどを多用したSF的なサウンドが特徴。",
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"text": "電子楽器のテクノロジーを多用した最も初期のヒットは、1972年のホット・バター(英語版)とポップコーン・メイカーズの競作となった「ポップコーン」である。同曲はホット・バター版がBillboard Hot 100で第9位まで上昇する大ヒットとなり、日本でも小ヒットした。またジョルジオ・モロダーが制作したチッコリー(欧米ではチッコリー・ティップ)の1972年のヒット「恋の玉手箱」(Son of My Father)も最新の電子楽器を使用していた。この時期にはまだ「テクノポップ」という語は使われなかった。",
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"text": "英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、シンセポップ(Synthpop)、エレクトロ・ポップと呼ばれていた。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、欧州においては、「TECHNO POP」は異なる意味で使われていたともいう。",
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"text": "日本では1970年代末からイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)がディスコやテレビ番組などでオンエアされ、それを追うように「テクノ御三家」(後述)が登場し、テクノポップ・ブームが起こった。",
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"text": "1980年代後半から流行したダンス・ミュージックのスタイルに、テクノやハウスがある。アシッドハウス、デトロイト・テクノが代表的ジャンルであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされている。",
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"text": "ただし日本国内においてはテクノポップとテクノの境目が曖昧である。電気グルーヴは当初テクノポップに近い楽曲を発表していたが後にハウス・テクノ的要素が強いバンドとなり、1991年頃のP-MODELはテクノの影響を受けた楽曲を多数発表している。",
"title": "概要"
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"text": "テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている。同じYMOのメンバー・細野晴臣は『シティロード』1981年1月号のインタビューで、質問者から「日本でのマスコミ的テクノ・ポップ・ブームについては?」という質問に対して「そもそも、YMOは言葉を否定したところからスタートしたんです。今や言葉ではコミュニケーションがとれないのではないか、たとえば男女の間でも。だから勝手に『テクノ・ポップ』という言葉で僕らを規定されてもねえ...」と述べている。渋谷陽一はNHK-FMで、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、アフリカ・バンバータがクラフトワークを使用した曲を発表した。",
"title": "テクノポップの歴史"
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"text": "1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として同年にP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。",
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"text": "テクノポップ流行の背景としては、当時のサブカルチャーの特徴ある「軽さ」が挙げられ、1970年代的ヒッピー文化や学生運動へのアンチテーゼ的側面が指摘される。椹木野衣は『黄色魔術』という小論でテクノポップの軽さについて論じ、テクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(学生運動、劇画など)から脱却するための一つの方法論だったとの見方を提示している。",
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"text": "ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラル・ステイションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。",
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"text": "また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの¥ENレーベルなどがある。",
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"text": "この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題したがお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に「ラジオ・スターの悲劇」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン「カーズ」、M「ポップ・ミューヂック」、リップス「ファンキータウン」、ヒューマン・リーグ「ドント・ユー・ウォント・ミー」、ソフト・セル「テインテッド・ラブ」、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)「エノラ・ゲイの悲劇」。ウルトラヴォックス「ニュー・ヨーロピアンズ」、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」(1981年)はボーカルがソウルフルなため、テクノ・ポップというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がよい。",
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"text": "1979年のYMOブームによりP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスの「テクノ御三家」が出て来たわけではなく、それぞれ源流も全く異なっている。P-MODELは平沢進が高校時代(1973年)から結成していたプログレッシブ・ロックバンドのマンドレイクが、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであったが、年代事にメンバーが変わり、ダークテクノ、ニューウェーブ、アジアンテクノと2000年に活動停止までテクノミュージックの追及を行った(現在はリーダーの平沢のみの核P-MODELと、元メンバー達が個々で活動している)。演劇畑出身の巻上公一を中心とし、劇団から転じて1978年に命名されたのがヒカシューであり、後に巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、前衛音楽や前衛ロック、フリージャズの分野へと、大きく羽ばたいていった。プラスチックスは1976年に立花ハジメを中心としたファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような軽さをうち出し、米国にてツアーも行った。",
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テクノポップ は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったポピュラー音楽。日本では1970年代後半から使われはじめた和製の音楽用語。テクノロジーポップの略。 テクノと略されることもあるが、クラブミュージックのジャンル「テクノ」とは成り立ちを含め別物であるため、留意する必要がある。
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{{otheruses||クラフトワークのアルバム『テクノ・ポップ』|エレクトリック・カフェ}}
{{Infobox Music genre
| name = テクノポップ
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'''テクノポップ''' (Technopop/Techno Pop) は、[[シンセサイザー]]・[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]・[[ヴォコーダー]]などの[[電子楽器]]を使ったポピュラー音楽。日本では[[1970年代]]後半から使われはじめた和製の音楽用語。'''テクノロジーポップ'''の略。
'''テクノ'''と略されることもあるが、[[エレクトロニック・ダンス・ミュージック|クラブミュージック]]のジャンル「[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]」とは成り立ちを含め別物であるため、留意する必要がある。
== 概要 ==
シンセサイザー、[[シンセベース]]などを多用した[[サイエンス・フィクション|SF]]的なサウンドが特徴。
電子楽器のテクノロジーを多用した最も初期のヒットは、1972年の{{仮リンク|ホット・バター (バンド)|label=ホット・バター|en|Hot Butter}}と[[ポップコーン・メイカーズ]]の競作となった「[[ポップコーン (曲)|ポップコーン]]」である<ref>"Hot Butter: "Popcorn"". Keyboard. Vol. 21. 1995. p. 30. ISSN 0730-0158. </ref>。同曲はホット・バター版が[[Billboard Hot 100]]で第9位まで上昇する大ヒットとなり、日本でも小ヒットした。また[[ジョルジオ・モロダー]]が制作した[[チッコリー]](欧米ではチッコリー・ティップ)の1972年のヒット「[[恋の玉手箱]]」(Son of My Father)も最新の電子楽器を使用していた。この時期にはまだ「テクノポップ」という語は使われなかった。
英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、'''[[シンセポップ]](Synthpop)'''、'''[[エレクトロ・ポップ]]'''と呼ばれていた<ref group="注">たとえば[http://techno.org/electronic-music-guide/ このサイト]では[[エレクトロ|ELECTRO]]の別名とされている。</ref>。コンピュータや[[MIDI]]機器を用いて制作した音楽は特に「'''コンピュ・ミュージック'''」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、欧州においては、「'''TECHNO POP'''」は異なる意味で使われていた<ref>1981年に[[キーボード・マガジン]]がクラフトワークへ行ったインタビューより(2010年1月号 WINTERに再録)。</ref>ともいう。
日本では1970年代末から[[イエロー・マジック・オーケストラ]](YMO)がディスコやテレビ番組などでオンエアされ、それを追うように「テクノ御三家」(後述)が登場し、テクノポップ・ブームが起こった<ref>出典:田中雄二『電子音楽 in JAPAN』(アスペクト、2001年 ISBN 978-4757208711)</ref>。
1980年代後半から流行した[[エレクトロニック・ダンス・ミュージック|ダンス・ミュージック]]のスタイルに、[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]や[[ハウス (音楽)|ハウス]]がある。[[アシッドハウス]]、[[デトロイト・テクノ]]が代表的ジャンルであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされている<ref group="注">[[エレクトロ]]は[[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]]、[[ビッグビート]]の派生ダンスミュージックであり、スタート段階ではアンダーグラウンド音楽として始まったものである。</ref>。
ただし日本国内においてはテクノポップとテクノの境目が曖昧である。[[電気グルーヴ]]は当初テクノポップに近い楽曲を発表していたが後にハウス・テクノ的要素が強いバンドとなり、1991年頃のP-MODELは[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]の影響を受けた楽曲を多数発表している。
== テクノポップの歴史 ==
[[画像:Sequential Circuits Prophet 5.jpg|thumb|right|初の音色メモリ可能な[[ポリフォニックシンセサイザー]]、[[シーケンシャル・サーキット プロフェット5|Prophet-5]] (1978年)]]
=== 1970年代末から80年代前半 ===
[[Image:Roland TR-808 drum machine.jpg|thumb|right|史上初の[[リズムマシン]]、Roland [[TR-808]] (1980年) 。YMOは発売前のプロトタイプ機を使用していた。]]
[[ファイル:YAMAHA_DX7.jpg|thumb|right|テクノポップブーム後期からバンドブーム期にかけて使用された代表的なシンセサイザー、YAMAHA DX7 (1983年)]]
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の[[阿木譲]]が、[[クラフトワーク]]のアルバム『[[人間解体]]』のレビューで使ったのが初出とされている<ref>[https://web.archive.org/web/20080113170834/http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/closeup/CU20051017A/index2.htm テクノポップの起源 - All About]</ref>。この[[造語]]を気に入った[[坂本龍一]]がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている<ref>テレビ番組『[[新堂本兄弟]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])内のコーナー「堂本ベストヒットたかみー」より。</ref><ref>『ニッポンの音楽』 - ISBN 4062882965 </ref>。同じYMOのメンバー・[[細野晴臣]]は『[[シティロード]]』1981年1月号のインタビューで、質問者から「日本でのマスコミ的テクノ・ポップ・ブームについては?」という質問に対して「そもそも、YMOは言葉を否定したところからスタートしたんです。今や言葉ではコミュニケーションがとれないのではないか、たとえば男女の間でも。だから勝手に『テクノ・ポップ』という言葉で僕らを規定されてもねえ…」と述べている。<ref name="シティロード8106">{{Cite journal|和書 |author = 太田克彦 |title = 追っかけインタビュー 細野晴臣 『YMOはただのロックバンドじゃないワケ。だから解散はないんだな。』 |journal = [[シティロード]] |issue = 1981年1月号 |publisher = エコー企画 |page = 12 }}</ref>[[渋谷陽一]]は[[NHK-FM放送|NHK-FM]]で、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、[[アフリカ・バンバータ]]がクラフトワークを使用した曲を発表した。
1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「{{Anchors|テクノ御三家}}テクノ御三家」として同年に[[P-MODEL]]、[[ヒカシュー]]、[[プラスチックス]]が紹介された。
テクノポップ流行の背景としては、当時の[[サブカルチャー]]の特徴ある「軽さ」が挙げられ、1970年代的[[ヒッピー]]文化や[[日本の学生運動|学生運動]]への[[アンチテーゼ]]的側面が指摘される<ref name="aoi">[[外山恒一]] [http://www.warewaredan.com/blog/2006/04/post_31.html 青いムーブメント(5) (ファシズムへの誘惑・ブログ)]</ref>。[[椹木野衣]]は『黄色魔術』という小論でテクノポップの軽さについて論じ、テクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(学生運動、[[劇画]]など)から脱却するための一つの方法論だったとの見方を提示している<ref>『テクノデリック—鏡でいっぱいの世界』椹木野衣、集英社、1996年 ISBN 978-4087741292<nowiki/>に収録</ref>。
ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせた[[ジューシィ・フルーツ]](ヒカシューと同じく[[近田春夫]]がプロデュースしている)、[[小川美潮]]が在籍した[[チャクラ (バンド)|チャクラ]]、[[大橋純子]]&[[美乃家セントラル・ステイション]]で[[ファンク]]曲を作曲したこともある[[土屋昌巳]]の[[一風堂 (バンド)|一風堂]]などがいた。[[高木完]]や[[サエキけんぞう]]もテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている<ref>出典:美馬亜貴子『テクノ・ポップ (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)』([[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコーミュージック]]、2004年 ISBN 978-4-401-61851-4)</ref>。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや[[戸川純]]らが在籍した[[アルファレコード]]の[[¥EN]]レーベルなどがある。
この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題した<ref>出典:『はじめてのシンセサイザー』([[講談社現代新書]])古山俊一 1988年。</ref>がお蔵入りとなり、1986年に『[[エレクトリック・カフェ]]』と改題してリリースした<ref group="注>2009年のリマスター新装版ではタイトルを『TECHNO POP』に戻している。</ref>。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。[[バグルス]]は1979年に「[[ラジオ・スターの悲劇]]」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており<ref>[http://www.discogs.com/Buggles-Clean-Clean/release/160212 Buggles* - Clean, Clean (Vinyl) at Discogs]</ref>、アルバム『[[ラジオ・スターの悲劇 (アルバム)|THE AGE OF PLASTIC]]』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、[[ゲイリー・ニューマン]]、[[M (ミュージシャン)|M]]、[[リップス (バンド)|リップス]]、[[ヒューマン・リーグ]]、[[ソフト・セル]]らが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン「カーズ」、M「ポップ・ミューヂック」、リップス「ファンキータウン」、ヒューマン・リーグ「ドント・ユー・ウォント・ミー」、ソフト・セル「テインテッド・ラブ」、[[オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク]](OMD)「エノラ・ゲイの悲劇」。[[ウルトラヴォックス]]「ニュー・ヨーロピアンズ」、[[ユーリズミックス]]「スウィート・ドリームス」、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」(1981年)はボーカルがソウルフルなため、テクノ・ポップというよりも、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]グループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がよい。
=== 1980年代後半 ===
[[ファイル:Casio CZ-101 angled.jpg|thumb|right|Casio CZ-101 (1984年)<br/>通称[[カシオトーン]]は非常に安価だったことから、人生の石野卓球など主にインディーズ系ミュージシャンに支持された。]]
[[1985年]]頃に起こった第二次[[バンドブーム]]などの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく。この頃にテクノポップでデビューした[[PSY・S]]も、早々に「ロックバンドの音を前面に出す音楽形態」に転向している。この頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわち[[TM NETWORK]]<ref group="注">ただし[[RAINBOW RAINBOW|初期アルバム]]においてはテクノポップの曲もリリースしている。</ref>、[[access (音楽ユニット)|access]]のような[[デジタルロック]]や[[喜多郎]]、[[姫神]]のような[[ニューエイジ]]音楽などが登場した。
一方、同時期に雑誌『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』などのサブカルチャー雑誌に牽引されて勃興したインディーズバンド・ブームの渦中においては、テクノポップ色の強いアーティストが存在感を放っていた。[[ケラリーノ・サンドロヴィッチ|ケラ]]率いる[[有頂天 (バンド)|有頂天]]らのレコードは宝島社傘下の[[キャプテンレコード]]によって全国に紹介され、また有頂天のケラが設立した[[ナゴムレコード]]に所属する[[空手バカボン]]や[[人生 (バンド)|人生]]などもインディーズチャートを賑わせた。有頂天の「べにくじら」や、ケラが後に結成したユニット「ロングバケーション」の「シェリーにくちづけ」テクノポップカバーなどはメジャーでリリースされ、一般にも知られている。
また同時期にテレビゲームやコンピュータゲームもブームとなっており、ゲームで演奏されるゲームミュージック、すなわちシンセサイザー音色を活かしたインストゥルメンタル音楽に傾倒していく人々も多く現れるようになった。YMOのファースト・アルバムで「[[インベーダーゲーム]]」が収録されていたように、ゲームミュージックシーンの草創期から、テクノポップシーンの人材が関わってゆくことになる。1985年には¥ENレーベルを擁するアルファレコードにおいて、初のゲームミュージック専門のレーベルとして[[G.M.O.レコード]]も設立された。
=== 1990年代 ===
テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つは[[テクノ_(ダンスミュージック)|テクノ]]である。[[1988年]]以降に世界的に流行し、日本では[[ケン・イシイ]]や石野卓球が有名となった<ref>出典:『YMO GLOBAL YMOから広がるディスクガイド』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、ISBN 978-4401631162)。この本の中で、ライターの佐久間英夫は「テクノは日本で生まれたジャンルだと声を大にして言いたい」と述べている。</ref>。[[人生 (バンド)|人生]]改め[[電気グルーヴ]]は、初期は[[ハウス (音楽)|ハウス]]や[[ラップ]]などに傾倒していたが、石野が[[アシッド・ハウス|アシッド]]ムーヴメントに触れた1990年代以降はテクノ色を鮮明にしてゆき、1997年に『[[Shangri-La]]』をヒットさせた。イギリスの[[808ステイト]]、[[ジ・オーブ]]、[[オービタル]]といったテクノアーティストがテクノ・ポップの楽曲をリミックスする企画アルバムもリリースされた。
楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動き<ref group="注">当時一般の間では[[ヤマハ]]製[[ヤマハ・EOSシリーズ|EOS]]シリーズすなわち「[[小室哲哉]]のキーボード」や[[ローランド]]製[[デスクトップミュージック|DTM]]音源がよく売れていた。</ref>があったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。
しかし、1990年代前半に流行し、[[21世紀]]のテクノポップやフューチャーポップに影響を与えた[[渋谷系]]の中で細々とテクノポップに類する音楽は制作されており、特に[[佐藤清喜]]と清水雄史からなるnice musicは「キラキラ」して「ピコピコ」しているためフューチャーポップの先駆けと言われる事もある。しかしこうしたテクノポップは[[小室ファミリー]]のようなカッコ良さを求める時代のトレンドから乖離していたため注目されず、後の音楽シーンに多大な影響を与えたとは言い難かった。従って、渋谷系のテクノポップはオーパーツ・ミュージック的な扱いに留まっている<ref>{{Cite web|和書|title=フューチャーポップのルーツとしての渋谷系 |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/205832/ |website=[テクノポップ] All About |access-date=2022-07-04 |language=ja}}</ref>。
=== 2000年代以降 ===
[[ファイル:Mixingediting_Jennifer_Delano_at_home.jpg|thumb|right|1990年代から2000年代以降に一般的となった[[デジタル・オーディオ・ワークステーション|DAW]]の例。[[パソコン]]や[[ソフトウェアシンセサイザー]]を活用し、過去の名機の音色も再現可能。]]
[[画像:Yellow Magic Orchestra in 2008.jpg|thumb|right|2000年代に再結成したYMO (2008年)]]
テクノポップが再度注目されるようになったのは主にインディーズ音楽シーンで、[[1998年]]にリリースされた『東京NEW WAVE OF NEW WAVE '98』というコンピレーション・アルバムで東京の一部で流行していたネオ・ニューウェイヴが総括されて以降、参加していた[[MOTOCOMPO]]を筆頭とした様々なミュージシャンらにより21世紀型のテクノポップや[[フューチャーポップ]]が形作られていった<ref>{{Cite web|和書|title=東京NWofNWを再検証 |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/205851/ |website=[テクノポップ] All About |access-date=2022-07-04 |language=ja}}</ref>。さらに[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]音楽シーンでは[[KAGAMI]]がシンセサイザーやボコーダーを駆使したテクノポップ寄りのダンス・ミュージックをリリースし人気を集めた。
[[CAPSULE]]で活動していた[[中田ヤスタカ]]がプロデュースするユニット、[[Perfume]]が東京のインディーズレーベルでシングルを発売、この中に[[ジューシィ・フルーツ]]のヒット曲「ジェニーはご機嫌ななめ」をカバー収録。テクノポップの再アピールが目立ち始める。[[Perfume]]は[[2007年]]に『[[ポリリズム (Perfumeの曲)|ポリリズム]]』のCM起用で一般的知名度を獲得し、[[2008年]]にアルバム『[[GAME (Perfumeのアルバム)|GAME]]』が、「テクノポップ・ユニット」と称されるユニットとしては、YMO以来4半世紀ぶりにオリコン週間チャート1位を記録した。この当時、[[私人|一般人]]にとってこうした現代的なテクノポップは[[Perfume]]の作品が唯一と言っても過言ではなく、非常に強烈な印象を残し、また[[一発屋]]になることなく国民的なユニットに成長して行った。この時代に始まる第二次テクノポップブームは中田ヤスタカに負うところが大きく、「テクノポップ第二世代」を掲げる[[Aira Mitsuki]]、[[Sweet Vacation]]などを初めとする数々のフォロワーも現れた。また、「キラキラ系」「ピコピコ系」など様々な分類がなされた。何れも[[ネオ渋谷系]]を起源とするおしゃれで都会的な感覚を引き継いでいた。テクノポップは同時期に普及した[[デスクトップミュージック|DTM]]と親和性が高く、[[VOCALOID]]の登場でボーカルも合成できるようになったことから、最小構成ではラップトップ1台のみで制作が完結できるようになったこともあって以後の日本の[[デスクトップミュージック|DTM]]界隈では似たような音楽が大量に制作されるようになった。こうした音楽は、[[2010年代]]にネット音楽シーンから登場してくるミュージシャンにも多大な影響を与えた。
インディーズ音楽シーンにおいてもシンセサイザーやPCのさらなる普及により、[[アーバンギャルド]]、[[FLOPPY (ユニット)|FLOPPY]]などのテクノポップアーティスト、[[T4P records]]や[[ウサギチャンレコーズ]]などの専門レーベルが活躍している。
2000年代に始まったテクノ・ポップの復活は、2010年代に入るとJ-Popの一ジャンルと見る傾向も出てきた。[[2011年]]には[[きゃりーぱみゅぱみゅ]]の「[[PONPONPON]]」が日本でヒットを記録し日本以外の一部の国々で動画サイトを通じ知られるようになった。その後、[[2010年代]]を通して世界各国で爆発的な人気を誇った。
[[2010年代]]に入ると[[ダブステップ]]などの「バキバキ系」が注目を集め、日本でもテクノポップだけでなく[[エレクトロニック・ダンス・ミュージック|EDM]]が注目されるようになった、
しかし、日本の[[Perfume]]などの海外のEDM流行と一線を画した、表拍([[ダウンビート]] )なテクノポップ的楽曲は、海外でのコンサートに呼ばれる際には「日本代表」的な扱いを受け歓迎された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/314776|date=2019-4-11|title=Perfume、アメリカ野外フェス「Coachella」出演決定|newspaper=ナタリー|accessdate=2019-04-12}}</ref>。
== YMOとテクノ御三家 ==
1979年の[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]ブームにより[[P-MODEL]]、[[ヒカシュー]]、[[プラスチックス]]の「テクノ御三家」が出て来たわけではなく、それぞれ源流も全く異なっている。P-MODELは[[平沢進]]が高校時代(1973年)から結成していた[[プログレッシブ・ロック]]バンドの[[マンドレイク (バンド)|マンドレイク]]が、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであったが、年代事にメンバーが変わり、ダークテクノ、ニューウェーブ、アジアンテクノと2000年に活動停止までテクノミュージックの追及を行った<ref group="注">現在はリーダーの平沢のみの[[核P-MODEL]]と、元メンバー達が個々で活動している。</ref>。[[演劇]]畑出身の[[巻上公一]]<ref group="注">巻上は[[東京キッドブラザーズ]]出身だった。</ref>を中心とし、劇団から転じて1978年に命名されたのが[[ヒカシュー]]であり、後に巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、[[前衛音楽]]や前衛ロック、[[フリージャズ]]の分野へと、大きく羽ばたいていった。[[プラスチックス]]は1976年に[[立花ハジメ]]を中心とした[[ファッションデザイナー]]らによって結成されたバンドで、のちの[[バブル期]]の日本を先取りしたような軽さをうち出し、米国にてツアーも行った<ref group="注">『コピー』という曲では欧米で批判の対象となっていた「日本人による猿真似」について開き直っているように受け取られ、イギリスのライブツアーが当地のプレスから過剰なほどに叩かれた。</ref>。
ヒカシューの[[巻上公一]]曰く、YMOとテクノ御三家の明確な違いとして、YMOは[[松武秀樹]]がシンセのプログラミング等の機材セッティングを行い、機材もプロユースの物をリースしていたのに対し、テクノ御三家は自分達で購入可能な機材を揃え、全て自分達でやっていたとしている<ref name=":0">{{Citation|title=【巻上公一】ヒカシューのリーダーに、ホーメイとラモーンズとデヴィッド・バーンとプラスチックスとP-MODELとYMOとラジオの話を聞いたよ|url=https://www.youtube.com/watch?v=ri7RM9eBBk0|language=ja-JP|access-date=2022-06-01}}</ref>。また、YMOとテクノ御三家はライバル関係のような状態だった為、別に仲が悪い訳では無かったが、当時は時代背景もありインタビューでお互いに悪口を言い合っていたという<ref group="注">当時は巻上と平沢が特に仲が悪いとされていたが、巻上曰く実際は長年の友人同士である。</ref><ref name=":0" />。
== テクノ歌謡など ==
; テクノ歌謡
{{Main|テクノ歌謡}}
: 歌謡界でもっとも初期にシンセドラム([[:en:Electronic drum]])を使用した楽曲は[[ピンク・レディー]]「[[サウスポー (ピンク・レディーの曲)|サウスポー]]」(1978年3月)であり、もっとも初期にYMOを「編曲」に起用したのは、近田春夫「エレクトリック・ラブ・ストーリー」(1979年)である。また沢田研二「[[TOKIO (沢田研二の曲)|TOKIO]]」や、[[筒美京平]]が初めて手がけた「テクノ歌謡」が、[[榊原郁恵]]の「ROBOT」(編曲:[[船山基紀]]、1980年6月1日)である。このあたりから「テクノ歌謡」は出現する<ref>Music calender、および1242.comの昭和アイドルテクノ歌謡を閲覧。閲覧日2019年10月3日閲覧 http://www.1242.com > TOP > ニュース 一覧</ref>。
: この当時のシンセドラムは、アメリカのPOLLARD社のSYN-DRUMS。そして日本製のULT-SOUND(アルトサウンド)といった機材であり、本格的ドラムセットの体をなすというよりは、あくまでも効果音的な使われ方をしていた。今の電子ドラムのように「ドラム・セット」然とした電子ドラムの登場は、[[シモンズ]]([[:en:Simmons (electronic drum company)]])のシンセドラム([[:en:Electronic drum]])の登場を待たねばならなかった。
: [[イモ欽トリオ]]の「[[ハイスクールララバイ]]」(1981年)はミリオンセラーとなり、[[川上さんと長島さん]]「きたかチョーさんまってたドン」(1983年)ほか、当初コメディアンに多く楽曲が提供される。その後、アイドルの楽曲でもテクノポップ調の伴奏をバックに歌唱するスタイルが確立。のちにこれらは「[[テクノ歌謡]]」と呼ばれた。当初は[[打ち込み]]演奏+生演奏で[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]やテクノを意識したものと定義された。
; フューチャーポップ
{{Main|フューチャーポップ}}
: テクノを始めとするダンス・ミュージックにメロディアスな歌詞やシンセリード演奏を加えた派生音楽の1つ。[[SUPERCAR]]の「YUMEGIWA LASTBOY(映画『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』の挿入歌)」が例である。他に[[RAM RIDER]]、[[元気ロケッツ]]など。
; チップチューン
[[File:Chiptune-Setup-Game-Boys.jpg|thumb|right|[[チップチューン]]を演奏する際の機材構成の例。[[ゲームボーイ]] (1989年) の内蔵音源を楽器として使用。]]
{{Main|チップチューン}}
: [[ファミリーコンピュータ]]など[[FM音源]]以前のゲーム機・PCの音源([[Programmable_Sound_Generator|PSG]]・[[波形メモリ音源]]など)をメインに用いた電子音楽の1つ。日本では[[桃井はるこ]](代表曲・「ワンダーモモーイ」「きみはホエホエむすめ」)や[[高橋名人]](代表曲・「[[スターソルジャー]]のテーマ」)などのチップチューン伴奏によるテクノ歌謡が有名。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[アルファレコード]]
* [[テレックス (ベルギーのバンド)|テレックス]] ([[:en:Telex (band)]])
* [[中西俊夫]] ([[:en:Toshio Nakanishi]])
* [[立花ハジメ]]
* [[無調音楽]]、[[神秘和音]]
{{音楽}}
{{シンセポップ}}
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{{ニュー・ウェイヴとポストパンク}}
{{エレクトロニック・ロック}}
{{ポップ・ミュージック}}
{{日本の音楽}}
{{DEFAULTSORT:てくのほつふ}}
[[Category:テクノポップ|*]]
[[Category:ロックのジャンル]]
[[Category:音楽のムーブメント]]
[[Category:電子音楽]]
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双葉山定次
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双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。
現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。
1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。後年、双葉山は著書「相撲求道録」の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、横綱審議委員長を務めた舟橋聖一は「誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった」と分析している。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円相当)の借金を負い、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ。浪曲研究家の芝清之が作成した「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしているほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった。
定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から「押せ!押せ!」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門、1927年3月場所に初土俵を踏む。
四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える。
宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、石を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪(のち旭川幸之焏)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、「まさかあんな大横綱になるとは...」とその出世ぶりに驚いている。入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時の幕下以下は1場所6番)が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって負け越しは無く、春日野や常ノ花から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。
1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。
1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。
1935年に蓄膿症の手術を受けたのを機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった。なお、この年に「未練はございません」と言って引退を決意して仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。
1936年1月場所は初日の新海幸蔵戦で敗れて黒星発進だったが、武藏山武から初金星を奪い、清水川元吉・男女ノ川登三の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目に全勝の玉錦と対戦する。この玉錦戦に敗れて4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目に瓊ノ浦を下すと、この白星から69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗、翌場所の関脇昇進を決めた。
新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝を果たし、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることは無かったが、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている。1937年1月場所も11戦全勝で優勝したが、この場所で玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中において唯一、玉錦戦が組まれなかった場所とされている
双葉山はその後、同年5月場所も13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される。玉錦、武蔵山、男女ノ川と共に1918年5月場所(鳳谷五郎・西ノ海嘉治郎・大錦卯一郎・栃木山守也)以来、史上3回目の4横綱となり、系統別総当たり制で初めての4横綱総当たりの可能性も話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。
新横綱で迎えた1938年1月場所9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉山の負けを主張して納得しなかったという。このことから後年、双葉山の連勝は48で止まっていたかもしれないとして語り継がれることになるが、これは双葉山人気への両横綱の「僻み」からの物言いではないかという声も存在しており、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。
続く5月場所も千秋楽に組まれた玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝とし、5場所連続での全勝優勝を果たす。この記録を受けて、協会から「古今に例がない」と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないで下さい」と言ったという。この時点で66連勝となり、谷風梶之助の63連勝を約157年ぶりに塗り替えている。なお、谷風が活躍した江戸時代には分・預・休を挟んでいるために純然たる連勝記録ではなかったが(さらに、幕下力士を相手に五人掛けを行い、5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれている)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば、両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。
なお、谷風の連勝記録はそれまで一般に認知されていたわけではなかった。双葉山が谷風の連勝記録を超える63~64連勝を達成した1938年5月場所10・11日目(5月21・22日)でも、当時の朝日新聞の記事には全く話題になっていない。ただ、酒井忠正はすでに過去の記録を調査して谷風の63連勝をそれまでの最多連勝記録と認定していたが、「この事を(双葉山に)話したなら、『その為に心を乱し固くなりはせぬか...』と、ことさら秘めて独り、心を躍らせていた」と述べており、64連勝が達成された日の夜に初めて双葉山に話して成功を祝したところ、「表情の少ない彼も流石に嬉しそうだった」という。そして酒井は場所後、雑誌『相撲』に掲載した「双葉山と古今先人の比較」で、双葉山が谷風の記録を破る「未曽有の新記録」を樹立したと発表した。
それ以来、世間の注目は「双葉山の連勝がどこまで伸びるか」と「誰が双葉山の連勝を止めるか」の2点に集まり、「双葉よ敗れるな(負けるな)!双葉を敗れ(倒せ)!」という相矛盾する流行語まで生まれた。当時、武藏山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が激しく、衰えたとはいえかつての第一人者である玉錦が連勝を止める本命と思われたが、その玉錦が同年12月に現役のまま急死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないとの声が多くなり、なかには100連勝するとの声も出た。
1939年1月場所、この場所の双葉山は前年の満州・大連巡業でアメーバ赤痢に感染して体調を崩し、体重が激減してしまい、当初休場を考えていた。しかし、力士会長だった玉錦が前年に急死したのと、休場続きの武藏山は今場所も休場していたために横綱が男女ノ川しかいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場を決意した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。
この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は西前頭3枚目の安藝ノ海節男で、安藝ノ海は双葉山の連勝記録を止める「打倒双葉」を合言葉に、自身が所属する出羽海部屋とその一門総出で、作戦本部長を笠置山勝一として連日の猛稽古と研究で戦略・戦術を練っていた。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えたのである。安藝ノ海は立合いから突っ張って双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込んで双葉山の右に食い下がり、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は大金星を挙げた。
和田は双葉山が70連勝を達成した場合と、連勝が止まった場合に備えて原稿や言葉はあらかじめ用意していたものの、双葉山の強さから今場所の実況最終日となった4日目に連勝が止まるとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ(山本はこの時隣にいた記者と評論家と一緒に茶碗酒を飲んでいた)。その後も原稿や言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉敗れる!」を繰り返したと自著に記している。また、この一番を見ていた歌舞伎役者の澤村田之助(当時6歳)の証言によると、館内は座布団だけでなく、酒瓶、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化したと述べているほか、28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方も伊之助親方もみんな口を利かない厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った。しかも当日は藪入りで超満員。あれは『事件』ですな」と回想しており、同時に「負けてなお、双葉山の偉大さを感じた」とも語っている。
この69連勝は2022年1月場所終了時点まで最多連勝記録であり、2022年1月場所終了時までにこの記録を超えた力士は現れていない。近年では2010年に白鵬翔が63連勝を挙げたがあと一歩及ばなかった。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。
双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにもかかわらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。
その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。また、当日は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、70連勝を阻止された当日の夜だったことで急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。
一方の安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、『心ここにあらず』という表情だった」という。この後、安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋起市に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わってから支度部屋へ引き上げた。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山を破った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれ、部屋へ数分で帰れる時間を1時間以上も要し、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告したが、出羽海は笑顔にならず「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もあるが、当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。
連勝が止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい記録が始まるだろうと誰もが思っていた。しかし5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海梅吉に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の吉屋信子に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。続く1939年5月場所も、連勝が止まったショックから立ち直れないのではないかと危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。
1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の全勝額が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と出羽湊利吉の各1枚)。1940年1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の五ツ嶋奈良男に叩き込みで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝を果たした。なお、全勝でない優勝はこれが初めてだった。1940年5月場所では11日目までに4敗を喫した。病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如引退を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、福岡県那珂川市にある妙音の滝に27日間滝行を行い、1941年1月場所で14勝1敗で8度目の優勝を果たした。この場所は、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目に前田山からの張り手攻勢からの吊り出しに敗れたものであるが、取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。
このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。例えば、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子の羽黒山政司と結婚)、前述のアメーバ赤痢で入院した際に知り合ったファンの一般女性と結婚したことが挙げられる。また、1941年5月には立浪部屋から10人の内弟子を連れて独立、自ら双葉山相撲道場を開くなどもあった。
1941年5月場所は櫻錦利一と綾曻竹藏の平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが、この翌場所から1943年5月場所まで4連覇を果たす。1942年5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、1944年1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは東前頭9枚目の松ノ里直市)。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかし、この頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちに白鵬が2010年7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)。
横綱免許を授与された当時、後援者から「『双葉山』という四股名は若い力士の名だから昇進を契機として、“3代目・梅ヶ谷藤太郎”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを固辞して最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。
36連勝の止まった1944年1月場所では、その後11日目・12日目と増位山大志郎・汐ノ海運右エ門の若手2人に連敗を喫し、千秋楽には照國萬藏に横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。同年5月場所は軍部に国技館を接収されたために後楽園球場での開催となったが、またも照國に敗れて9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝を譲った。日中戦争の開戦と相前後して69連勝を達成して頭角をあらわした双葉山だったが、太平洋戦争の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会は1943年時点で3連覇であったが、この頃から土俵下まで落ちる相撲が目立ち、同年11月場所2日目の支度部屋では記者からも衰えを指摘されるようなコメントを受けた。また、1939年に患ったアメーバ赤痢(前述)の影響は長引き、夏場はひどい下痢を起こして体重が戻らない状態が続いた。
やはり後楽園球場での開催となった1944年11月場所6日目には、幕下の頃から目をかけてこの場所は関脇となっていた東富士欽壹に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。翌日は増位山に不戦勝を与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。両國国技館で行われた1945年6月場所は、3月の東京大空襲によって穴が開いたために晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開(招待客の大半は傷痍軍人)となったが、初日は小雨で入場者は200人から300人であったと伝わる。この日に新鋭小結の相模川佶延を下し、その後を全休した。これは場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が現役最後の取り組みとなった。この6月場所はラジオ放送無しで行われていたが、海外向け短波放送の為、即ちプロパガンダ用の音声が残されている。同年11月場所では番付に名を残したものの、現役を引退した。結果的にその引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。
引退の動機のひとつとして、16尺土俵の問題があったと言われている。GHQによる占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。それでも相撲協会は土俵を4.84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べており、1943年11月場所5日目の支度部屋でも「しかしまあ、大体学童には十三尺内外、一般には十五尺でもいい、というようなところじゃないかね」と記者に話していた。1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。
現役中からその実績を評価され、二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年に立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を開いていた。独立には粂川が自分の部屋をそっくり譲ったという。
その後戦況の悪化により、福岡県太宰府町に「双葉山相撲錬成道場」を設立という名目で疎開し、一般人や青少年に無料開放して専門的な指導員を置いて相撲を学ぶ場とするとともに、当時の報道には「屯田相撲」とも書かれていたようである。将来的には双葉山ら力士達も居住して、相撲道の発展に尽くすことを目指したものであった。この錬成道場の開設は、戦時色が強まっていた当時の報国の意図も含まれていた。戦時中は太宰府を拠点に勤労奉仕隊を結成、炭鉱で働くなど難局を乗り切ろうとした。
現役引退後には年寄・時津風を襲名して道場名を時津風部屋に改称する。戦後の部屋再建においては、戦前の苦労を分かち合ってきた玉ノ海梅吉から銀行からの融資の受け方など資金のやり繰りの方法を指南してもらった。錬成場の方は1948年に福岡県へ売却されて歴史を終えた。
先代の時津風を襲名していたのは小九紋竜梅吉だったが現役時代から悪評が高く、博打好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州馬賊になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。その前の唐錦豊治郎は、東京相撲引退後に侠客として大阪相撲に舞い戻り、取締(理事長格)にまでなったというアウトサイダー的な人物であった。周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない。『雷』の名跡こそ双葉にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じ。悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。
道場を創立した理由について双葉山は後に自著において「横綱として現役であるうちに『弟子の養成をしてみたい』『自分がこの身に体得した限りのものを、それが自分の体に生きている間に、若いものに伝えておきたい』と考えるようになりました。そこで、師匠(立浪)の了解も得、協会にも特に認めてもらって双葉山相撲道場を作ったわけです」と語っている。開戦直後の1941年12月24日には、安岡正篤によって揮毫された「力士規七則」が稽古場に掲げられた。これは、吉田松陰が武士の心得を記した「士規七則」に倣って作られたものであり、「一同は毎朝これを朗読して、それからいかにも清々しい気分で稽古にとりかかったものです。それは言わずかたらずのうちに、わたくしどもの心構えにふかく影響するところがあったと信じます」と綴っている。
1943年5月場所中、双葉山は「この道場は今までの相撲部屋とは全く違う。ワシは親方として、師匠として、皆を立派な力士に育て上げたい。どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。一人でも多く、正しい本当の力士を、皆と一緒になって生み出し、これこそ真の国技だということを、まず力士同士で示したい。そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい。『双葉山部屋』と言わず、『道場』と名乗った目的もここにあるのだ」と道場の師匠としての思いを語っている。
1943年5月、双葉山相撲道場は荒汐部屋、甲山部屋、二十山部屋を糾合、時津風部屋に改称後は江戸時代以来250年の伝統を持つ名門伊勢ノ海部屋と、双葉山相撲道場に預けられた後に再興した井筒部屋が合流して時津風一門が形成された。
1946年11月6日からGHQに接収されて「メモリアルホール」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の引退相撲が行われると、この日だけは超満員だった。GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。現在のように引退相撲と断髪式を同時に行った最初の例とされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている。賀陽宮恒憲王、吉田茂、小笠原長生らがハサミを入れた。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座していることが判る。 因みに、止めバサミは師匠ではなく、双川喜文が行ったとされる。
現役引退から1年が経過した1947年1月21日、石川県金沢市にあった新宗教「璽宇」に対して、石川県警察が食糧管理法違反の容疑で取り締まりを行った。双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心な日蓮宗の信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった呉清源に誘われた」「教祖の璽光尊(長岡良子)の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者が双葉山にマインドコントロールを行って利用したものと言われている。双葉山は金沢市で警察関係者の進入を阻止したことで、璽光尊と共に逮捕された。これを璽光尊事件という。
逮捕された双葉山は、若き日の友人である朝日新聞記者の藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。大捕物だったにもかかわらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかったが、これは双葉山や呉清源を、終末思想を広め信者や物資を集めようとする「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は釈放後、自身の道場に戻る。本人は「悲しいかな、私には学問がなかった」と述懐したという。
璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、1947年10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。さらに、1950年2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。1956年1月からの理事長代理を経て、1957年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。
相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が国会で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、
などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山と、後に理事長へ就任する武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋や二所ノ関部屋の10人を上回り、出羽海部屋、高砂部屋の15人に続いた。青ノ里盛の話では、現役引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。『もっと真剣に気合を入れろ』と」と振り返っている。武蔵川の『回顧録』によると「全く寡黙の人」だったといい、「向かい合って話を始めても、話がつまると30分でも1時間でも黙って座っている」ほどだという。半面、一度部下に任せた仕事については一切口出しをしないタイプなので、武蔵川にとっては馬が合う上司だったようである。
1960年に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。1962年には相撲界で初めて紫綬褒章を受章した。 ′
相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには還暦土俵入りを期待した者もいたが、晩年は肝炎によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。1968年11月場所では優勝した大鵬(45連勝中の最中)に賜杯を授与したが、その直後の同年12月2日に、あたかも死に装束を模したかの様な白のスーツ姿で東京大学医学部附属病院へ再入院し、同年12月16日に劇症肝炎のため、死去。56歳没。蔵前国技館で日本相撲協会葬が執り行われた。墓所は荒川区善性寺。戒名は「霊山院殿法篤日定大居士」。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈された。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに...(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している。
没後、時津風部屋は元横綱鏡里の立田川が継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の錦島が14代時津風を襲名した。時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が短い時代に45歳だった鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった。親友の玉の海梅吉は「これからの時代は、大学を出て、先を見る能力のある男でないと協会運営はできない。ゆくゆくは豊山を時津風にしたい。」ということを生前聞いていたという。
右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにもかかわらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した花相撲においても、若瀬川泰二を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった。
斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。琉球大学で物理学を専攻した経験と、トレーニング理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の三段目力士だった一ノ矢充は、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、肩甲骨で相手を押さえて投げる。自分の身体をスパナとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく」と、その特殊な技術を分析している。
横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった。(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している。
双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。
どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、横綱土俵入りに関しては男女ノ川と同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。
幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率.882)と跳ね上がる。他に優勝12回(年2場所制での最多、そのうち全勝8回)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(相撲の記録が残る1757年以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。
実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には1938年に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった沖ツ海、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した豊嶌といった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれフグ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。
双葉山の最多連勝記録は、史上最長の69連勝である(1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目)。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。
安藝ノ海節男とは、70連勝を阻止された取組後は全勝。「同じ相手に連敗はしない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。他にも玉錦とは6連敗の後に4連勝、武藏山とは4敗1分の後に2連勝、男女ノ川とは5連敗の後に10連勝、清水川とは1勝4敗の後に4連勝。双葉山よりも先に大関・横綱へ昇進していた力士でも、双葉山の横綱昇進後は全く歯が立たなくなった。
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"text": "双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。",
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"text": "現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。",
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"text": "1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。後年、双葉山は著書「相撲求道録」の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、横綱審議委員長を務めた舟橋聖一は「誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった」と分析している。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円相当)の借金を負い、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ。浪曲研究家の芝清之が作成した「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしているほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった。",
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"text": "定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から「押せ!押せ!」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門、1927年3月場所に初土俵を踏む。",
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"text": "四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える。",
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"text": "宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、石を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪(のち旭川幸之焏)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、「まさかあんな大横綱になるとは...」とその出世ぶりに驚いている。入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時の幕下以下は1場所6番)が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって負け越しは無く、春日野や常ノ花から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。",
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"text": "1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。",
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"text": "1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。",
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"text": "1935年に蓄膿症の手術を受けたのを機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった。なお、この年に「未練はございません」と言って引退を決意して仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。",
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"text": "1936年1月場所は初日の新海幸蔵戦で敗れて黒星発進だったが、武藏山武から初金星を奪い、清水川元吉・男女ノ川登三の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目に全勝の玉錦と対戦する。この玉錦戦に敗れて4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目に瓊ノ浦を下すと、この白星から69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗、翌場所の関脇昇進を決めた。",
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"text": "新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝を果たし、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることは無かったが、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている。1937年1月場所も11戦全勝で優勝したが、この場所で玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中において唯一、玉錦戦が組まれなかった場所とされている",
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"text": "双葉山はその後、同年5月場所も13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される。玉錦、武蔵山、男女ノ川と共に1918年5月場所(鳳谷五郎・西ノ海嘉治郎・大錦卯一郎・栃木山守也)以来、史上3回目の4横綱となり、系統別総当たり制で初めての4横綱総当たりの可能性も話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。",
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"text": "新横綱で迎えた1938年1月場所9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉山の負けを主張して納得しなかったという。このことから後年、双葉山の連勝は48で止まっていたかもしれないとして語り継がれることになるが、これは双葉山人気への両横綱の「僻み」からの物言いではないかという声も存在しており、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。",
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"text": "続く5月場所も千秋楽に組まれた玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝とし、5場所連続での全勝優勝を果たす。この記録を受けて、協会から「古今に例がない」と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないで下さい」と言ったという。この時点で66連勝となり、谷風梶之助の63連勝を約157年ぶりに塗り替えている。なお、谷風が活躍した江戸時代には分・預・休を挟んでいるために純然たる連勝記録ではなかったが(さらに、幕下力士を相手に五人掛けを行い、5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれている)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば、両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。",
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"text": "なお、谷風の連勝記録はそれまで一般に認知されていたわけではなかった。双葉山が谷風の連勝記録を超える63~64連勝を達成した1938年5月場所10・11日目(5月21・22日)でも、当時の朝日新聞の記事には全く話題になっていない。ただ、酒井忠正はすでに過去の記録を調査して谷風の63連勝をそれまでの最多連勝記録と認定していたが、「この事を(双葉山に)話したなら、『その為に心を乱し固くなりはせぬか...』と、ことさら秘めて独り、心を躍らせていた」と述べており、64連勝が達成された日の夜に初めて双葉山に話して成功を祝したところ、「表情の少ない彼も流石に嬉しそうだった」という。そして酒井は場所後、雑誌『相撲』に掲載した「双葉山と古今先人の比較」で、双葉山が谷風の記録を破る「未曽有の新記録」を樹立したと発表した。",
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"text": "それ以来、世間の注目は「双葉山の連勝がどこまで伸びるか」と「誰が双葉山の連勝を止めるか」の2点に集まり、「双葉よ敗れるな(負けるな)!双葉を敗れ(倒せ)!」という相矛盾する流行語まで生まれた。当時、武藏山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が激しく、衰えたとはいえかつての第一人者である玉錦が連勝を止める本命と思われたが、その玉錦が同年12月に現役のまま急死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないとの声が多くなり、なかには100連勝するとの声も出た。",
"title": "来歴"
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"text": "1939年1月場所、この場所の双葉山は前年の満州・大連巡業でアメーバ赤痢に感染して体調を崩し、体重が激減してしまい、当初休場を考えていた。しかし、力士会長だった玉錦が前年に急死したのと、休場続きの武藏山は今場所も休場していたために横綱が男女ノ川しかいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場を決意した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。",
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"text": "この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は西前頭3枚目の安藝ノ海節男で、安藝ノ海は双葉山の連勝記録を止める「打倒双葉」を合言葉に、自身が所属する出羽海部屋とその一門総出で、作戦本部長を笠置山勝一として連日の猛稽古と研究で戦略・戦術を練っていた。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えたのである。安藝ノ海は立合いから突っ張って双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込んで双葉山の右に食い下がり、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は大金星を挙げた。",
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"text": "和田は双葉山が70連勝を達成した場合と、連勝が止まった場合に備えて原稿や言葉はあらかじめ用意していたものの、双葉山の強さから今場所の実況最終日となった4日目に連勝が止まるとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ(山本はこの時隣にいた記者と評論家と一緒に茶碗酒を飲んでいた)。その後も原稿や言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉敗れる!」を繰り返したと自著に記している。また、この一番を見ていた歌舞伎役者の澤村田之助(当時6歳)の証言によると、館内は座布団だけでなく、酒瓶、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化したと述べているほか、28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方も伊之助親方もみんな口を利かない厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った。しかも当日は藪入りで超満員。あれは『事件』ですな」と回想しており、同時に「負けてなお、双葉山の偉大さを感じた」とも語っている。",
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"text": "この69連勝は2022年1月場所終了時点まで最多連勝記録であり、2022年1月場所終了時までにこの記録を超えた力士は現れていない。近年では2010年に白鵬翔が63連勝を挙げたがあと一歩及ばなかった。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。",
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"text": "双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにもかかわらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。",
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"text": "その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。また、当日は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、70連勝を阻止された当日の夜だったことで急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。",
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"text": "一方の安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、『心ここにあらず』という表情だった」という。この後、安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋起市に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わってから支度部屋へ引き上げた。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山を破った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれ、部屋へ数分で帰れる時間を1時間以上も要し、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告したが、出羽海は笑顔にならず「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もあるが、当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。",
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"text": "連勝が止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい記録が始まるだろうと誰もが思っていた。しかし5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海梅吉に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の吉屋信子に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。続く1939年5月場所も、連勝が止まったショックから立ち直れないのではないかと危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。",
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"text": "1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の全勝額が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と出羽湊利吉の各1枚)。1940年1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の五ツ嶋奈良男に叩き込みで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝を果たした。なお、全勝でない優勝はこれが初めてだった。1940年5月場所では11日目までに4敗を喫した。病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如引退を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、福岡県那珂川市にある妙音の滝に27日間滝行を行い、1941年1月場所で14勝1敗で8度目の優勝を果たした。この場所は、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目に前田山からの張り手攻勢からの吊り出しに敗れたものであるが、取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。",
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"text": "このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。例えば、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子の羽黒山政司と結婚)、前述のアメーバ赤痢で入院した際に知り合ったファンの一般女性と結婚したことが挙げられる。また、1941年5月には立浪部屋から10人の内弟子を連れて独立、自ら双葉山相撲道場を開くなどもあった。",
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"text": "1941年5月場所は櫻錦利一と綾曻竹藏の平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが、この翌場所から1943年5月場所まで4連覇を果たす。1942年5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、1944年1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは東前頭9枚目の松ノ里直市)。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかし、この頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちに白鵬が2010年7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)。",
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"text": "横綱免許を授与された当時、後援者から「『双葉山』という四股名は若い力士の名だから昇進を契機として、“3代目・梅ヶ谷藤太郎”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを固辞して最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。",
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"text": "36連勝の止まった1944年1月場所では、その後11日目・12日目と増位山大志郎・汐ノ海運右エ門の若手2人に連敗を喫し、千秋楽には照國萬藏に横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。同年5月場所は軍部に国技館を接収されたために後楽園球場での開催となったが、またも照國に敗れて9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝を譲った。日中戦争の開戦と相前後して69連勝を達成して頭角をあらわした双葉山だったが、太平洋戦争の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会は1943年時点で3連覇であったが、この頃から土俵下まで落ちる相撲が目立ち、同年11月場所2日目の支度部屋では記者からも衰えを指摘されるようなコメントを受けた。また、1939年に患ったアメーバ赤痢(前述)の影響は長引き、夏場はひどい下痢を起こして体重が戻らない状態が続いた。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "やはり後楽園球場での開催となった1944年11月場所6日目には、幕下の頃から目をかけてこの場所は関脇となっていた東富士欽壹に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。翌日は増位山に不戦勝を与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。両國国技館で行われた1945年6月場所は、3月の東京大空襲によって穴が開いたために晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開(招待客の大半は傷痍軍人)となったが、初日は小雨で入場者は200人から300人であったと伝わる。この日に新鋭小結の相模川佶延を下し、その後を全休した。これは場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が現役最後の取り組みとなった。この6月場所はラジオ放送無しで行われていたが、海外向け短波放送の為、即ちプロパガンダ用の音声が残されている。同年11月場所では番付に名を残したものの、現役を引退した。結果的にその引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。",
"title": "来歴"
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"text": "引退の動機のひとつとして、16尺土俵の問題があったと言われている。GHQによる占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。それでも相撲協会は土俵を4.84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べており、1943年11月場所5日目の支度部屋でも「しかしまあ、大体学童には十三尺内外、一般には十五尺でもいい、というようなところじゃないかね」と記者に話していた。1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。",
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"text": "現役中からその実績を評価され、二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年に立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を開いていた。独立には粂川が自分の部屋をそっくり譲ったという。",
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"text": "その後戦況の悪化により、福岡県太宰府町に「双葉山相撲錬成道場」を設立という名目で疎開し、一般人や青少年に無料開放して専門的な指導員を置いて相撲を学ぶ場とするとともに、当時の報道には「屯田相撲」とも書かれていたようである。将来的には双葉山ら力士達も居住して、相撲道の発展に尽くすことを目指したものであった。この錬成道場の開設は、戦時色が強まっていた当時の報国の意図も含まれていた。戦時中は太宰府を拠点に勤労奉仕隊を結成、炭鉱で働くなど難局を乗り切ろうとした。",
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"text": "現役引退後には年寄・時津風を襲名して道場名を時津風部屋に改称する。戦後の部屋再建においては、戦前の苦労を分かち合ってきた玉ノ海梅吉から銀行からの融資の受け方など資金のやり繰りの方法を指南してもらった。錬成場の方は1948年に福岡県へ売却されて歴史を終えた。",
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"text": "先代の時津風を襲名していたのは小九紋竜梅吉だったが現役時代から悪評が高く、博打好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州馬賊になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。その前の唐錦豊治郎は、東京相撲引退後に侠客として大阪相撲に舞い戻り、取締(理事長格)にまでなったというアウトサイダー的な人物であった。周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない。『雷』の名跡こそ双葉にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じ。悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。",
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"text": "道場を創立した理由について双葉山は後に自著において「横綱として現役であるうちに『弟子の養成をしてみたい』『自分がこの身に体得した限りのものを、それが自分の体に生きている間に、若いものに伝えておきたい』と考えるようになりました。そこで、師匠(立浪)の了解も得、協会にも特に認めてもらって双葉山相撲道場を作ったわけです」と語っている。開戦直後の1941年12月24日には、安岡正篤によって揮毫された「力士規七則」が稽古場に掲げられた。これは、吉田松陰が武士の心得を記した「士規七則」に倣って作られたものであり、「一同は毎朝これを朗読して、それからいかにも清々しい気分で稽古にとりかかったものです。それは言わずかたらずのうちに、わたくしどもの心構えにふかく影響するところがあったと信じます」と綴っている。",
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"text": "1943年5月場所中、双葉山は「この道場は今までの相撲部屋とは全く違う。ワシは親方として、師匠として、皆を立派な力士に育て上げたい。どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。一人でも多く、正しい本当の力士を、皆と一緒になって生み出し、これこそ真の国技だということを、まず力士同士で示したい。そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい。『双葉山部屋』と言わず、『道場』と名乗った目的もここにあるのだ」と道場の師匠としての思いを語っている。",
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"text": "1943年5月、双葉山相撲道場は荒汐部屋、甲山部屋、二十山部屋を糾合、時津風部屋に改称後は江戸時代以来250年の伝統を持つ名門伊勢ノ海部屋と、双葉山相撲道場に預けられた後に再興した井筒部屋が合流して時津風一門が形成された。",
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"text": "1946年11月6日からGHQに接収されて「メモリアルホール」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の引退相撲が行われると、この日だけは超満員だった。GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。現在のように引退相撲と断髪式を同時に行った最初の例とされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている。賀陽宮恒憲王、吉田茂、小笠原長生らがハサミを入れた。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座していることが判る。 因みに、止めバサミは師匠ではなく、双川喜文が行ったとされる。",
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"text": "現役引退から1年が経過した1947年1月21日、石川県金沢市にあった新宗教「璽宇」に対して、石川県警察が食糧管理法違反の容疑で取り締まりを行った。双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心な日蓮宗の信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった呉清源に誘われた」「教祖の璽光尊(長岡良子)の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者が双葉山にマインドコントロールを行って利用したものと言われている。双葉山は金沢市で警察関係者の進入を阻止したことで、璽光尊と共に逮捕された。これを璽光尊事件という。",
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"text": "逮捕された双葉山は、若き日の友人である朝日新聞記者の藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。大捕物だったにもかかわらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかったが、これは双葉山や呉清源を、終末思想を広め信者や物資を集めようとする「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は釈放後、自身の道場に戻る。本人は「悲しいかな、私には学問がなかった」と述懐したという。",
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"text": "璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、1947年10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。さらに、1950年2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。1956年1月からの理事長代理を経て、1957年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。",
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"text": "相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が国会で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、",
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"text": "などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山と、後に理事長へ就任する武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋や二所ノ関部屋の10人を上回り、出羽海部屋、高砂部屋の15人に続いた。青ノ里盛の話では、現役引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。『もっと真剣に気合を入れろ』と」と振り返っている。武蔵川の『回顧録』によると「全く寡黙の人」だったといい、「向かい合って話を始めても、話がつまると30分でも1時間でも黙って座っている」ほどだという。半面、一度部下に任せた仕事については一切口出しをしないタイプなので、武蔵川にとっては馬が合う上司だったようである。",
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"text": "1960年に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。1962年には相撲界で初めて紫綬褒章を受章した。 ′",
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"text": "相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには還暦土俵入りを期待した者もいたが、晩年は肝炎によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。1968年11月場所では優勝した大鵬(45連勝中の最中)に賜杯を授与したが、その直後の同年12月2日に、あたかも死に装束を模したかの様な白のスーツ姿で東京大学医学部附属病院へ再入院し、同年12月16日に劇症肝炎のため、死去。56歳没。蔵前国技館で日本相撲協会葬が執り行われた。墓所は荒川区善性寺。戒名は「霊山院殿法篤日定大居士」。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈された。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに...(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している。",
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"text": "没後、時津風部屋は元横綱鏡里の立田川が継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の錦島が14代時津風を襲名した。時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が短い時代に45歳だった鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった。親友の玉の海梅吉は「これからの時代は、大学を出て、先を見る能力のある男でないと協会運営はできない。ゆくゆくは豊山を時津風にしたい。」ということを生前聞いていたという。",
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"text": "右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにもかかわらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した花相撲においても、若瀬川泰二を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった。",
"title": "人物"
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"text": "斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。琉球大学で物理学を専攻した経験と、トレーニング理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の三段目力士だった一ノ矢充は、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、肩甲骨で相手を押さえて投げる。自分の身体をスパナとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく」と、その特殊な技術を分析している。",
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"text": "横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった。(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している。",
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"text": "双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。",
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"text": "どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、横綱土俵入りに関しては男女ノ川と同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。",
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"text": "幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率.882)と跳ね上がる。他に優勝12回(年2場所制での最多、そのうち全勝8回)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(相撲の記録が残る1757年以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。",
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"text": "実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には1938年に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった沖ツ海、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した豊嶌といった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれフグ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。",
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"text": "双葉山の最多連勝記録は、史上最長の69連勝である(1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目)。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。",
"title": "主な成績"
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{
"paragraph_id": 55,
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"text": "安藝ノ海節男とは、70連勝を阻止された取組後は全勝。「同じ相手に連敗はしない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。他にも玉錦とは6連敗の後に4連勝、武藏山とは4敗1分の後に2連勝、男女ノ川とは5連敗の後に10連勝、清水川とは1勝4敗の後に4連勝。双葉山よりも先に大関・横綱へ昇進していた力士でも、双葉山の横綱昇進後は全く歯が立たなくなった。",
"title": "主な成績"
}
] |
双葉山 定次は、大分県宇佐郡天津村布津部出身の元大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。
|
{{Infobox 力士
|名前 = 双葉山 定次
|画像 = [[画像:Futabayama Sadaji.jpg|220px]]
|説明 = 双葉山定次(1940年頃)
|四股名 = 双葉山 定次
|本名 = 龝吉 定次
|愛称 = 不世出の横綱<br />相撲の神様<br />昭和の角聖<br />立浪三羽烏<br />無敵<br />[[うっちゃり]]双葉<br/>協会の知恵袋<br/>[[古今十傑]]<br/>[[大邱山高祥|大鉄傘下の花形力士二人]]
|生年月日 = [[1912年]][[2月9日]]<ref name="meimonretsuden22">『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p22</ref>
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1912|2|9|1968|12|16}}
|出身 = {{JPN}}・[[大分県]][[宇佐郡]][[天津村 (大分県)|天津村]]布津部
|身長 = 179cm
|体重 = 122kg
|BMI = 38.13
|所属部屋 = [[立浪部屋]]<br />→[[時津風部屋|双葉山相撲道場]]
|得意技 = 右四つ、寄り、上手投げ
|現在の番付 = 引退
|最高位 = 第35代[[横綱]]
|生涯戦歴 = 348勝116敗1分33休(51場所)
|幕内戦歴 = 276勝68敗1分33休(31場所)
|優勝 = 幕内最高優勝12回
|賞 =
|初土俵 = [[1927年]]3月場所<ref name="meimonretsuden22"/>
|入幕 = [[1932年]]2月場所<ref name="meimonretsuden22"/>
|引退 = [[1945年]]11月場所<ref name="meimonretsuden22"/>
|引退後 = 第3代[[日本相撲協会理事長]]
|他の活動 =
|趣味 = [[写真]]<ref>『相撲』2012年8月号83頁の記事では、当時を知る写真館の店主である工藤明が「双葉山関も写真が大好きで、ウチへはそれこそありとあらゆる写真を撮りに来て下さった。」と証言している。</ref>
|備考 = [[金星 (相撲)|金星]]1個([[武藏山武]])
|作成日時 = 2015年9月7日
}}
'''双葉山 定次'''<ref group="注釈">「双」は「雙」の略字だが、番付では初土俵のときの誤記とおぼしき「二葉山」以外は全て「'''双葉山'''」と表記されていた。</ref>(ふたばやま さだじ、[[1912年]][[2月9日]] - [[1968年]][[12月16日]])は、[[大分県]][[宇佐郡]][[天津村 (大分県)|天津村]]布津部(現:大分県[[宇佐市]]下庄)出身で[[立浪部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]。第35代[[横綱]]。[[位階]]は[[従四位]]。本名は'''龝吉 定次'''(あきよし さだじ)<ref name="meimonretsuden22"/>。
現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、[[太平洋戦争]]前の[[日本]]で国民的人気を得た<ref name="20c">{{Cite Kotobank|word=双葉山 定次|encyclopedia=20世紀日本人名事典|accessdate=2023-01-16}}</ref><ref name="nipnk">{{Cite Kotobank|word=双葉山定次|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-01-16}}</ref>。横綱在任時代に[[双葉山相撲道場]]を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て[[時津風一門]]を形成、[[日本相撲協会]]理事長として運営の改善にも取り組んだ<ref name="20c"/><ref name="nipnk"/>。[[板垣退助先生顕彰会]]創立[[発起人]]兼[[顧問]]<ref name="itagaki seishin">{{Cite web|和書|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28040443|title=『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』 |publisher=一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 |date=2019-02-11 |accessdate=2020-09-01}}</ref>。
== 来歴 ==
=== 定次少年の角界入り ===
<!-- 本文中の体言止めは絶対にお止めください -->
<!-- 「双葉」と表記するのは和田信賢アナウンサーの文のみとし、本文中では絶対にお止めください -->
[[1912年]][[2月9日]]に[[大分県]][[宇佐郡]]天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に[[吹き矢]]が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった<ref name="hutaba"> 【大相撲豪傑列伝】(11)69連勝のかげに身体障害あり 双葉山定次 産経新聞 2008.12.6 16:29</ref>。後年、双葉山は著書「相撲求道録」の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、[[横綱審議委員会|横綱審議委員長]]を務めた[[舟橋聖一]]は「誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった」と分析している<ref name="hukitatoka">『相撲』21ページ</ref>。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む[[海運業]]が失敗して5000円(現在の2億5000万円相当)の借金を負い<ref>石井代蔵『巨人の素顔〜双葉山と力道山〜』(講談社)</ref>、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ<ref name="meimonretsuden1819">『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p18-19</ref>。[[浪曲]]研究家の[[芝清之]]が作成した「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときに[[錨]]の巻上げ作業で右手の[[小指]]に重傷を負ったとしている<ref name="hutaba"/>ほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった<ref name="rireki">『私の履歴書 最強の横綱』</ref>。
定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から「押せ!押せ!」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという<ref name="rireki">『私の履歴書 最強の横綱』</ref>。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た[[大分県警察部]]長の[[双川喜一]](のちに[[明治大学]]専務理事)の世話で[[立浪部屋]]に入門、[[1927年]]3月場所に[[初土俵]]を踏む。
[[四股名]]の双葉山は「[[栴檀]]は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる<ref name="meimonretsuden1819"/><ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)15ページから17ページ</ref>。双川は大分県に赴任する前、[[緑嶌友之助|立浪]]の出身地の[[富山県]]で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える<ref name="meimonretsuden1819"/>。
=== 誰とやってもちょっとだけ強い ===
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<!-- 「双葉」と表記するのは和田信賢アナウンサーの文のみとし、本文中では絶対にお止めください -->
宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった[[大八洲晃]]と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対して[[かわいがり]]を加えることも日常茶飯事だったとされており、[[石]]を盛った[[バケツ]]を持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった<ref>『双葉山の世界』豊の国宇佐市塾</ref>。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪(のち[[旭川幸之焏]])に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、「まさかあんな大横綱になるとは…」とその出世ぶりに驚いている<ref name="meimonretsuden1819"/>。[[入幕]]以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時の[[幕下]]以下は1場所6番)が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって[[負け越し]]は無く、[[栃木山守也|春日野]]や[[常ノ花寛市|常ノ花]]<ref>『相撲』34ページ</ref>から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。[[1931年]]5月場所には19歳3ヶ月で新[[十両]]に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。
[[1932年]]1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に[[春秋園事件]]が発生した。[[天竜三郎]]ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西[[前頭]]4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には[[土俵]]を割らずに土俵際で逆転することが多く「[[うっちゃり]]双葉」と皮肉られていた<ref name="meimonretsuden22"/><ref name="zadankai">『相撲』25ページ</ref><ref group="注釈">[[1933年]]5月場所などは4勝のうち3勝がうっちゃりによるものだった。</ref>。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた[[玉錦三右エ門]]だけは「あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという<ref name="100retsu"/>。
[[1935年]]1月場所には[[小結]]に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。
=== 69連勝 ===
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[[File:Nayoroiwa.jpg|thumb|right|250px|新横綱時代の双葉山<br/>(露払いは[[羽黒山政司|羽黒山]]、太刀持ちは[[名寄岩静男|名寄岩]])]]
[[1935年]]に[[副鼻腔炎|蓄膿症]]の手術を受けたのを機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した<ref name="zadankai"/>。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、[[立合い]]から「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に[[吊り出し]]、寄り、または左からの[[上手投げ]]で相手を下すようになった<ref name="meimonretsuden22"/><ref name="100retsu"/>。なお、この年に「未練はございません」と言って引退を決意して[[仙台市|仙台]]に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った<ref name="zadankai7">『相撲』35ページ</ref>。
[[1936年]]1月場所は初日の[[新海幸蔵]]戦で敗れて黒星発進だったが、[[武藏山武]]から初[[金星 (相撲)|金星]]を奪い、[[清水川元吉]]・[[男女ノ川登三]]の両[[大関]]も破るなど2日目から4連勝、6日目に全勝の玉錦と対戦する。この玉錦戦に敗れて4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目に[[両國梶之助 (瓊ノ浦)|瓊ノ浦]]を下すと、この白星から69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗、翌場所の[[関脇]]昇進を決めた<ref group="注釈">この場所中に祖母が死去したこともあり、悲しみを乗り越えるために猛稽古に取り組んだ成果とも取れる。</ref>。
新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝を果たし、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることは無かったが、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている<ref group="注釈">ただし、玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝(うち[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]1回)、その連勝の1勝目が双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、[[1938年]]12月に玉錦が急死したこともあるが、明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。</ref>。[[1937年]]1月場所も11戦全勝で優勝したが、この場所で玉錦は初日から6連勝しながら左[[上腕骨]]骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中において唯一、玉錦戦が組まれなかった場所とされている<ref group="注釈">先場所に双葉山が初めて玉錦を破ったものの地力では玉錦の方が上で、玉錦から見ればこの場所が双葉山に土を付ける最後のチャンスだったのではないかという見方もある。</ref>
双葉山はその後、同年5月場所も13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される<ref group="注釈">昭和以降に大関へ昇進した力士で大関在位期間が全勝だったのは'''双葉山のみ'''である。なお、大正時代には[[栃木山守也]]が2場所20戦を19勝1預で横綱に昇進している。</ref>。玉錦、武蔵山、男女ノ川と共に[[1918年]]5月場所([[鳳谷五郎 (横綱)|鳳谷五郎]]・[[西ノ海嘉治郎 (2代)|西ノ海嘉治郎]]・[[大錦卯一郎]]・栃木山守也)以来、史上3回目の4横綱となり、[[系統別総当たり制]]で初めての4横綱総当たりの可能性も話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。
新横綱で迎えた[[1938年]]1月場所9日目の両國戦では、両國を[[寄り倒し]]たかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から[[勇み足]]ありと[[物言い]]が付いた。[[勝負審判|検査役]]は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉山の負けを主張して納得しなかったという。このことから後年、双葉山の連勝は48で止まっていたかもしれないとして語り継がれることになるが、これは双葉山人気への両横綱の「僻み」からの物言いではないかという声も存在しており、両國は明らかに体勢を崩して[[死に体]]だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。
==== 谷風の連勝との比較 ====
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続く5月場所も千秋楽に組まれた玉錦戦との[[水入り]]の大相撲を制して13戦全勝とし、5場所連続での全勝優勝を果たす。この記録を受けて、協会から「古今に例がない」と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないで下さい」と言ったという<ref name="rensho">『相撲』22ページ</ref>。この時点で66連勝となり、[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]の63連勝を約157年ぶりに塗り替えている。なお、谷風が活躍した江戸時代には[[引分 (相撲)|分]]・[[預り (相撲)|預]]・[[休場|休]]を挟んでいるために純然たる連勝記録ではなかったが(さらに、幕下力士を相手に[[五人掛け]]を行い、5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれている)、逆に双葉山が[[江戸時代]]の力士であれば、両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。
なお、谷風の連勝記録はそれまで一般に認知されていたわけではなかった。双葉山が谷風の連勝記録を超える63~64連勝を達成した[[1938年]]5月場所10・11日目(5月21・22日)でも、当時の[[朝日新聞]]の記事には全く話題になっていない<ref>{{Cite book|title=朝日新聞縮刷版|date=|year=|publisher=朝日新聞社}}</ref>。ただ、[[酒井忠正]]はすでに過去の記録を調査して谷風の63連勝をそれまでの最多連勝記録と認定していたが、「この事を(双葉山に)話したなら、『その為に心を乱し固くなりはせぬか…』と、ことさら秘めて独り、心を躍らせていた」と述べており、64連勝が達成された日の夜に初めて双葉山に話して成功を祝したところ、「表情の少ない彼も流石に嬉しそうだった」という<ref>{{Cite book|title=酒井忠正『相撲随筆』|date=1995年5月|year=|publisher=ベースボール・マガジン社}}</ref>。そして酒井は場所後、雑誌『相撲』に掲載した「双葉山と古今先人の比較」<ref>酒井忠正 双葉山と古今先人の比較 相撲 4(1) 1939年1月 日本大相撲協会</ref>で、双葉山が谷風の記録を破る「未曽有の新記録」を樹立したと発表した<ref group="注釈">なお、江戸時代の記録は「どの場所を本場所とするか」「分・預・無勝負・休をどのように扱うか」によって大きく変わるが、酒井は「江戸場所のみが本場所、京阪場所は除外」「分・預・無勝負・休があっても連勝は継続」と解釈した上で、過去の最多連勝記録を谷風の63連勝と認定したのである。</ref>。
それ以来、世間の注目は「双葉山の連勝がどこまで伸びるか」と「誰が双葉山の連勝を止めるか」の2点に集まり、「'''双葉よ敗れるな(負けるな)!双葉を敗れ(倒せ)!'''」という相矛盾する流行語まで生まれた。当時、武藏山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が激しく、衰えたとはいえかつての第一人者である玉錦が連勝を止める本命と思われたが、その玉錦が同年12月に現役のまま急死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないとの声が多くなり、なかには100連勝するとの声も出た。
=== 70連勝ならずの一番 ===
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[[ファイル:Futabayama defeated.jpg|thumb|300px|[[1939年]][[1月16日]]、双葉山の敗北を伝える[[読売新聞]]紙面。]]
[[1939年]]1月場所、この場所の双葉山は前年の[[満州]]・[[大連]]巡業で[[アメーバ赤痢]]に感染して体調を崩し、体重が激減してしまい、当初休場を考えていた。しかし、[[力士会]]長だった玉錦が前年に急死したのと、休場続きの武藏山は今場所も休場していたために横綱が男女ノ川しかいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場を決意した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目([[1月15日]])を迎える。
この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した[[和田信賢]]は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は[[古希]]、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は西前頭3枚目の[[安藝ノ海節男]]で、安藝ノ海は双葉山の連勝記録を止める「'''打倒双葉'''」を合言葉に、自身が所属する[[出羽海部屋]]とその一門総出で、作戦本部長を[[笠置山勝一]]として連日の猛稽古と研究で戦略・戦術を練っていた。笠置山は当時としては珍しい大学([[早稲田大学]])出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした<ref name="100retsu"/>。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えたのである。安藝ノ海は立合いから[[突っ張り|突っ張って]]双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込んで双葉山の右に食い下がり、双葉山の右[[掬い投げ]]に対して左[[外掛け]]を掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた<ref name="69domari">『大相撲中継』2017年5月27日号16-17頁</ref><ref group="注釈">これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の'''右'''外掛け」と誤って報じた。[[ニュース映画]]を見て誤報であることは明確になったが、当時ベテラン記者だった[[彦山光三]]は「[[レンズ]]と言えども正確とは言えんよ」と言って自説を譲らなかったという。</ref>。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は大金星を挙げた。
和田は双葉山が70連勝を達成した場合と、連勝が止まった場合に備えて原稿や言葉はあらかじめ用意していたものの、双葉山の強さから今場所の実況最終日となった4日目に連勝が止まるとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた[[山本照]]に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「'''双葉敗れる!'''」と叫んだ(山本はこの時隣にいた記者と評論家と一緒に茶碗酒を飲んでいた<ref>[https://web.archive.org/web/20130512123230/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110914.html Vol.61 双葉山70連勝ならず 隻眼の大横綱、初顔に屈す 昭和14年1月15日 (1/2)‐昭和史再訪セレクション‐地球発‐[どらく] 2010年11月6日朝日新聞夕刊紙面 1頁。]2023年8月1日閲覧。</ref>)。その後も原稿や言葉は霧散し、ただ[[マイク]]に向かって何度も「双葉敗れる!」を繰り返したと自著に記している。また、この一番を見ていた[[歌舞伎]]役者の[[澤村田之助 (6代目)|澤村田之助]](当時6歳)の証言によると、館内は[[座布団]]だけでなく、酒瓶、暖房用の[[火鉢]]や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化した<ref name="meimonretsuden1819"/><ref name="69domari"/><ref name="zadankai3">『相撲』28ページ</ref><ref name=朝日>[https://web.archive.org/web/20130623075058/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110914_02.html Vol.61 双葉山70連勝ならず 隻眼の大横綱、初顔に屈す 昭和14年1月15日 (2/2)‐昭和史再訪セレクション‐地球発‐[どらく] 2010年11月6日朝日新聞夕刊紙面 2頁。]2023年7月2日閲覧。</ref>と述べているほか、[[木村庄之助 (28代)|28代木村庄之助]]は、2000年に放送された[[日本放送協会|NHK]]の特別番組にゲスト出演した際に「[[付け人]]の仕事で直接見られなかったが、[[津波]]が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、[[木村庄之助 (20代)|庄之助親方]]も[[木村庄之助 (21代)|伊之助親方]]もみんな口を利かない厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った。しかも当日は[[藪入り]]で超満員。あれは『事件』ですな」と回想しており、同時に「負けてなお、双葉山の偉大さを感じた」とも語っている。
この69連勝は[[2022年]]1月場所終了時点まで最多[[連勝記録 (大相撲)|連勝記録]]であり、2022年1月場所終了時までにこの記録を超えた力士は現れていない。近年では[[2010年]]に[[白鵬翔]]が63連勝を挙げたがあと一歩及ばなかった。双葉山が[[三役]]に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。
=== 安藝ノ海戦の取組後 ===
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双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにもかかわらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の[[花道]]を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。
その日の夜、双葉山は師と仰ぐ[[安岡正篤]]に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ[[木鶏]]たりえず)」と打電した<ref name="meimonretsuden1819"/>。また、当日は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、70連勝を阻止された当日の夜だったことで急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。
一方の安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の[[木村庄之助 (27代)|27代木村庄之助]]によれば「勝ち名乗りを受けるための[[蹲踞]]をためらっているように見え、『心ここにあらず』という表情だった」という<ref>27代木村庄之助『ハッケヨイ 残った』1994年 [[東京新聞]] 48ページ。</ref>。この後、安藝ノ海は次の一番で取る[[鹿嶌洋起市]]に[[力水 (相撲)|力水]]を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わってから支度部屋へ引き上げた。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山を破った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれ<ref name="zadankai8">『相撲』36ページ</ref>、部屋へ数分で帰れる時間を1時間以上も要し、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の[[両國梶之助 (國岩)|出羽海]]に報告したが、出羽海は笑顔にならず「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は[[中耳炎]]で入院中)の言葉だとの説もあるが、当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の[[付け人]]をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。
; 69連勝の一覧
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
|-
! 連勝 !! colspan="2"|場所 !! 星取 !! 決まり手 !! 対戦相手 !! 備考
|-
|敗戦||rowspan="6"|昭和11年1月場所<br>東前頭2枚目||6日目||●||引き落とし||横綱・[[玉錦三右エ門]]||
|-
|1||7日目||○||うっちゃり||前4・[[両國梶之助 (瓊ノ浦)|瓊ノ浦勇雄]]||
|-
|2||8日目||○||二枚蹴り||前5・[[出羽湊利吉]]||
|-
|3||9日目||○||うっちゃり||小結・[[綾曻竹藏]]||
|-
|4||10日目||○||下手投げ||前2・[[笠置山勝一]]||
|-
|5||千秋楽||○||掬い投げ||前10・[[駒ノ里秀雄]]||9勝2敗<br>優勝は玉錦・11戦全勝
|-
|6||rowspan="11"|昭和11年5月場所<br>東関脇||初日||○||上手投げ||前12・[[新海幸藏]]||
|-
|7||2日目||○||上手投げ||前1・[[両國梶之助 (瓊ノ浦)|両國梶之助]]||
|-
|8||3日目||○||下手投げ||前2・駒ノ里秀雄||
|-
|9||4日目||○||下手投げ||前3・笠置山勝一||
|-
|10||5日目||○||寄り切り||前1・[[出羽湊利吉|出羽港利吉]]||
|-
|11||6日目||○||上手投げ||小結・綾曻竹藏||
|-
|12||7日目||○||寄り切り||前7・[[玉ノ海梅吉]]||
|-
|13||8日目||○||うっちゃり||関脇・[[鏡岩善四郎]]||
|-
|14||9日目||○||浴びせ倒し||横綱・玉錦三右エ門||玉錦は前日まで27連勝中(歴代20位の連勝記録)
|-
|15||10日目||○||掬い投げ||横綱大関・[[男女ノ川登三]]||
|-
|16||千秋楽||○||うっちゃり||大関・[[清水川元吉]]||11戦全勝<br>優勝(初優勝)
|-
|17||rowspan="11"|昭和12年1月場所<br>東大関||初日||○||寄り倒し||前2・両國梶之助||新大関
|-
|18||2日目||○||寄り切り||前3・玉ノ海梅吉||
|-
|19||3日目||○||突き出し||小結・[[和歌嶋三郎]]||
|-
|20||4日目||○||押し倒し||前1・[[磐石熊太郎]]||
|-
|21||5日目||○||寄り倒し||関脇・笠置山勝一||
|-
|22||6日目||○||上手投げ||関脇・出羽湊利吉||
|-
|23||7日目||○||寄り切り||前1・[[桂川質郎]]||
|-
|24||8日目||○||うっちゃり||大関・鏡岩善四郎||
|-
|25||9日目||○||寄り切り||大関・清水川元吉||
|-
|26||10日目||○||寄り倒し||前2・[[大邱山高祥]]||
|-
|27||千秋楽||○||上手投げ||横綱・男女ノ川登三||11戦全勝<br>優勝(2場所連続2度目)
|-
|28||rowspan="13"|昭和12年5月場所<br>東大関||初日||○||突き出し||前4・[[土州山好一郎]]||
|-
|29||2日目||○||腰砕け||前3・[[綾櫻由太郎|綾川五郎次]]||
|-
|30||3日目||○||上手投げ||前5・[[前田山英五郎]]||
|-
|31||4日目||○||上手投げ||前2・和歌嶋三郎||
|-
|32||5日目||○||押し出し||前2・[[海光山大五郎]]||
|-
|33||6日目||○||寄り倒し||前1・[[九州山義雄]]||
|-
|34||7日目||○||寄り倒し||前1・[[五ツ嶋名良男]]||
|-
|35||8日目||○||押し切り||小結・玉ノ海梅吉||
|-
|36||9日目||○||上手投げ||前5・磐石熊太郎||
|-
|37||10日目||○||寄り倒し||関脇・大邱山高祥||
|-
|38||11日目||○||搦み投げ||大関・清水川元吉||
|-
|39||12日目||○||下手投げ||横綱・玉錦三右エ門||
|-
|40||千秋楽||○||うっちゃり||大関・鏡岩善四郎||13戦全勝<br>優勝(3場所連続3度目)<br>大関を無敗で通過。
|-
|41||rowspan="13"|昭和13年1月場所<br>西横綱||初日||○||寄り切り||前3・[[大潮清治郎]]||新横綱
|-
|42||2日目||○||上手投げ||小結・九州山義雄||
|-
|43||3日目||○||上手投げ||前2・出羽湊利吉||
|-
|44||4日目||○||寄り切り||前1・磐石熊太郎||
|-
|45||5日目||○||寄り切り||関脇・玉ノ海梅吉||
|-
|46||6日目||○||下手投げ||前1・綾曻竹藏||
|-
|47||7日目||○||下手投げ||小結・前田山英五郎||
|-
|48||8日目||○||寄り倒し||関脇・大邱山高祥||
|-
|49||9日目||○||吊り出し||関脇・両國梶之助||双葉山に勇み足ありと物言いがつき、取り直しで決着。
|-
|50||10日目||○||押し出し||大関・鏡岩善四郎||
|-
|51||11日目||○||上手投げ||横綱大関・男女ノ川登三||
|-
|52||12日目||○||寄り切り||前4・笠置山勝一||
|-
|53||千秋楽||○||上手投げ||横綱・玉錦三右エ門||13戦全勝<br>優勝(4場所連続4度目)
|-
|54||rowspan="13"|昭和13年5月場所<br>東横綱||初日||○||押し切り||前4・海光山大五郎||
|-
|55||2日目||○||寄り切り||前1・玉ノ海梅吉||
|-
|56||3日目||○||寄り倒し||前2・両國梶之助||
|-
|57||4日目||○||掬い投げ||前2・五ツ嶋名良男||
|-
|58||5日目||○||寄り切り||関脇・磐石熊太郎||
|-
|59||6日目||○||寄り切り||前1・大邱山高祥||
|-
|60||7日目||○||下手投げ||小結・綾曻竹藏||
|-
|61||8日目||○||上手投げ||前4・和歌嶋三郎||
|-
|62||9日目||○||吊り出し||関脇・前田山英五郎||
|-
|63||10日目||○||割り出し||大関・鏡岩善四郎||
|-
|64||11日目||○||押し切り||横綱・[[武藏山武]]||[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]を抜いて歴代1位記録。
|-
|65||12日目||○||押し出し||横綱・男女ノ川登三||
|-
|66||千秋楽||○||寄り倒し||横綱・玉錦三右エ門||13戦全勝<br>優勝(5場所連続5度目)
|-
|67||rowspan="4"|昭和14年1月場所<br>東横綱||初日||○||寄り倒し||前6・五ツ嶋名良男||
|-
|68||2日目||○||突き放し||前5・[[龍王山光]]||
|-
|69||3日目||○||上手投げ||前4・駒ノ里秀雄||
|-
|敗戦||4日目||●||外掛け||前3・[[安藝ノ海節男]]||連勝止まる<br>この場所9勝4敗
|-
|}
=== 記録が止まっても強い双葉山 ===
<!-- 本文中の体言止めは絶対にお止めください -->
<!-- 「双葉」と表記するのは和田信賢アナウンサーの文のみとし、本文中では絶対にお止めください -->
連勝が止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい記録が始まるだろうと誰もが思っていた。しかし5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ[[玉ノ海梅吉]]に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の[[吉屋信子]]に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。続く[[1939年]]5月場所も、連勝が止まったショックから立ち直れないのではないかと危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる<ref name="meimonretsuden1819"/>。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある<ref group="注釈">12日目に2敗力士がいなくなり、[[番付上位者優勝制度]]のために東正横綱の双葉山の優勝が確定したものである。[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]がある現行制度に照らせば13日目での優勝決定だったことになる。</ref>。
1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の[[優勝額|全勝額]]が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と[[出羽湊利吉]]の各1枚)。[[1940年]]1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の[[五ツ嶋奈良男]]に[[叩き込み]]で敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝を果たした。なお、全勝でない優勝はこれが初めてだった。[[1940年]]5月場所では11日目までに4敗を喫した。病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如[[引退]]を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、[[福岡県]][[那珂川市]]にある妙音の滝に27日間[[滝行]]を行い、[[1941年]]1月場所で14勝1敗で8度目の優勝を果たした。この場所は、「[[前田山英五郎|前田山]]の[[張り手]]旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目に前田山からの張り手攻勢からの吊り出しに敗れたものであるが、取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。
このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。例えば、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や[[花街|花柳界]]の者を妻にするのが一般的<ref group="注釈">現在でも[[年寄名跡]]継承などの点から親方の娘との結婚が見られる。</ref>だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子の[[羽黒山政司]]と結婚)、前述のアメーバ赤痢で入院した際に知り合ったファンの一般女性と結婚したことが挙げられる<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=OVNCYckVB-QC&pg=PA41#v=onepage&q&f=false 歴史ポケットスポーツ新聞 相撲 p.41 双葉結婚!巻き返し誓う] 大空出版</ref><ref>[https://haikuirohakaruta.blog.ss-blog.jp/2016-03-23-1 双葉関の想い出(インタビュー)] [[巴潟誠一|工藤誠一]]さんに聞く</ref>。また、1941年5月には立浪部屋から10人の内弟子を連れて独立、自ら[[双葉山相撲道場]]を開くなどもあった。
1941年5月場所は[[櫻錦利一]]と[[綾曻竹藏]]の平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが、この翌場所から[[1943年]]5月場所まで4連覇を果たす。[[1942年]]5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、[[1944年]]1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは東前頭9枚目の[[松ノ里直市]])。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかし、この頃には右四つ寄り、[[上手投げ]]の型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちに白鵬が[[2010年]]7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)<ref group="注釈">白鵬が連続全勝優勝の記録を更新するまで[[大鵬幸喜]](3回)、[[千代の富士貢]]・[[貴乃花光司]]・[[朝青龍明徳]]も2場所連続全勝優勝を記録した。</ref>。
横綱免許を授与された当時、後援者から「『双葉山』という四股名は若い力士の名だから昇進を契機として、“3代目・[[梅ヶ谷藤太郎]]”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを固辞して最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は[[止め名]]になっている。
=== 土俵問題と現役引退 ===
[[File:Retirement ceremony from Futabayama Scan10057.JPG|right|thumb|300px|双葉山の断髪式。羽黒山が鋏を入れている(1946年)]]
36連勝の止まった[[1944年]]1月場所では、その後11日目・12日目と[[増位山大志郎]]・[[汐ノ海運右エ門]]の若手2人に連敗を喫し、千秋楽には[[照國萬藏]]に横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。同年5月場所は軍部に国技館を接収されたために[[後楽園球場]]での開催となったが、またも照國に敗れて9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝を譲った。[[日中戦争]]の開戦と相前後して69連勝を達成して頭角をあらわした双葉山だったが、[[太平洋戦争]]の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。[[明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会]]は1943年時点で3連覇であったが、この頃から土俵下まで落ちる相撲が目立ち、同年11月場所2日目の支度部屋では記者からも衰えを指摘されるようなコメントを受けた<ref name="bahuta51"/>。また、1939年に患ったアメーバ赤痢(前述)の影響は長引き、夏場はひどい下痢を起こして体重が戻らない状態が続いた<ref>突然引退表明、年寄時津風部屋を州名 昭和20年11月26日 毎日新聞(東京)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p715 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
やはり後楽園球場での開催となった[[1944年]]11月場所<ref group="注釈">屋外での開催となるため、翌年1月場所を前倒しで開催したものである。</ref>6日目には、[[幕下]]の頃から目をかけてこの場所は関脇となっていた[[東富士欽壹]]に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。翌日は増位山に[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]を与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。両國国技館で行われた[[1945年]]6月場所は、3月の[[東京大空襲]]によって穴が開いたために晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開(招待客の大半は傷痍軍人)となったが、初日は小雨で入場者は200人から300人であったと伝わる<ref>[https://www.bbm-japan.com/article/detail/14249 【私の“奇跡の一枚” 連載100】相撲界劇的復活の原点! 歴史的“非公開”場所の風景] BBM Sports 2021-02-02 (2021年2月5日閲覧)</ref>。この日に新鋭小結の[[相模川佶延]]を下し、その後を全休した。これは場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が現役最後の取り組みとなった。この6月場所はラジオ放送無しで行われていたが、海外向け短波放送の為、即ちプロパガンダ用の音声が残されている。<br>同年11月場所では番付に名を残したものの、現役を引退した。結果的にその引退は[[太平洋戦争]]での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。
引退の動機のひとつとして、16尺[[土俵]]の問題があったと言われている。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。それでも相撲協会は土俵を4.84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べており<ref group="注釈">正確には幕下までは13尺土俵で取っている。</ref>、1943年11月場所5日目の支度部屋でも「しかしまあ、大体学童には十三尺内外、一般には十五尺でもいい、というようなところじゃないかね」と記者に話していた<ref name="bahuta53">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p53</ref>。1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。
=== 時津風一門を形成 ===
[[Image:Futabayama tegata.JPG|thumb|right|300px|双葉山の手形]]
現役中からその実績を評価され、[[二枚鑑札]]同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、[[1941年]]に立浪部屋から独立して「[[双葉山相撲道場]]」を開いていた<ref name="meimonretsuden22"/>。独立には[[鏡岩善四郎|粂川]]が[[粂川部屋|自分の部屋]]をそっくり譲ったという。
その後戦況の悪化により、福岡県[[太宰府市|太宰府町]]に「双葉山相撲錬成道場」を設立という名目で疎開し、一般人や青少年に無料開放して専門的な指導員を置いて相撲を学ぶ場とするとともに、当時の報道には「屯田相撲」とも書かれていたようである。将来的には双葉山ら力士達も居住して、相撲道の発展に尽くすことを目指したものであった<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1460178/1/145 沓掛享治郎 著『決戦驀ら』,駸々堂,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref>。この錬成道場の開設は、戦時色が強まっていた当時の報国の意図も含まれていた。戦時中は太宰府を拠点に勤労奉仕隊を結成、[[炭鉱]]で働くなど難局を乗り切ろうとした。
現役引退後には年寄・時津風を襲名して道場名を[[時津風部屋]]に改称する<ref group="注釈">ちなみに時津風部屋は、現在でも「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名と共に掲げている。[[北葉山英俊]]が入門する際、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「(双葉山)『道場』ならそこだよ」と教えられたという。</ref>。戦後の部屋再建においては、戦前の苦労を分かち合ってきた[[玉ノ海梅吉]]から[[銀行]]からの融資の受け方など資金のやり繰りの方法を指南してもらった。錬成場の方は1948年に福岡県へ売却されて歴史を終えた<ref name="tokittsu">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p10-11</ref>。
先代の時津風を襲名していたのは[[小九紋竜梅吉]]だったが現役時代から悪評が高く、[[博打]]好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州[[馬賊]]になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。その前の唐錦豊治郎は、東京相撲引退後に侠客として大阪相撲に舞い戻り、取締(理事長格)にまでなったというアウトサイダー的な人物であった。周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない。『[[雷 (相撲)|雷]]』の名跡こそ双葉にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じ。悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した<ref name="tokittsu"/>。
道場を創立した理由について双葉山は後に自著において「横綱として現役であるうちに『弟子の養成をしてみたい』『自分がこの身に体得した限りのものを、それが自分の体に生きている間に、若いものに伝えておきたい』と考えるようになりました。そこで、師匠(立浪)の了解も得、協会にも特に認めてもらって双葉山相撲道場を作ったわけです」と語っている。開戦直後の[[1941年]][[12月24日]]には、安岡正篤によって揮毫された「力士規七則」が稽古場に掲げられた。これは、[[吉田松陰]]が武士の心得を記した「士規七則」に倣って作られたものであり、「一同は毎朝これを朗読して、それからいかにも清々しい気分で稽古にとりかかったものです。それは言わずかたらずのうちに、わたくしどもの心構えにふかく影響するところがあったと信じます」と綴っている。
1943年5月場所中、双葉山は「この道場は今までの相撲部屋とは全く違う。ワシは親方として、師匠として、皆を立派な力士に育て上げたい。どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。一人でも多く、正しい本当の力士を、皆と一緒になって生み出し、これこそ真の国技だということを、まず力士同士で示したい。そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい。『双葉山部屋』と言わず、『道場』と名乗った目的もここにあるのだ」と道場の師匠としての思いを語っている<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p9</ref>。
1943年5月、双葉山相撲道場は荒汐部屋、[[甲山部屋#旧・甲山部屋|甲山部屋]]、[[二十山部屋#高砂から独立|二十山部屋]]を糾合、時津風部屋に改称後は江戸時代以来250年の伝統を持つ名門[[伊勢ノ海部屋]]と、双葉山相撲道場に預けられた後に再興した[[井筒部屋]]が合流して[[時津風一門]]が形成された<ref name=":0">{{Cite book|title=ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』|date=2018年1月22日|year=2018|publisher=ベースボール・マガジン社}}</ref>。
[[1946年]][[11月6日]]からGHQに接収されて「[[両国国技館#両国メモリアルホール|メモリアルホール]]」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の[[引退相撲]]が行われると、この日だけは超満員だった。GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。現在のように引退相撲と[[断髪式]]を同時に行った最初の例とされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている<ref group="注釈">のちに[[天龍源一郎]]も土俵上ではなかったが[[日本大学|日大]]講堂となった旧国技館で断髪式を行っている。</ref>。[[賀陽宮恒憲王]]、[[吉田茂]]、[[小笠原長生]]らがハサミを入れた。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した[[椅子]]に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で[[正座]]していることが判る。
因みに、止めバサミは師匠ではなく、双川喜文が行ったとされる。
=== 璽光尊事件 ===
[[Image:Jikoson Incident.JPG|thumb|250px|璽光尊事件で石川県警の進入を阻止する双葉山(中央)]]
現役引退から1年が経過した[[1947年]][[1月21日]]、[[石川県]][[金沢市]]にあった[[新宗教]]「[[璽宇]]」に対して、[[石川県警察]]が[[食糧管理法]]違反の容疑<ref name="hutaba"/>で取り締まりを行った。双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心な[[日蓮宗]]の信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった[[呉清源]]に誘われた」「教祖の[[璽光尊]](長岡良子)の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者が双葉山に[[マインドコントロール]]を行って利用したものと言われている<ref name="hutaba"/>。双葉山は金沢市で[[警察]]関係者の進入を阻止したことで、璽光尊と共に[[逮捕]]された。これを[[璽光尊事件]]という。
逮捕された双葉山は、若き日の友人である朝日新聞記者の藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。大捕物だったにもかかわらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかった<ref group="注釈">璽光尊こと長岡良子も逮捕後の精神鑑定の結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されて食糧管理法違反も違法なしと判断、不[[起訴]]となった。</ref>が、これは双葉山や呉清源を、[[終末思想]]を広め信者や物資を集めようとする「[[邪教]]」から救出する意図があったからとも言われている。当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は[[釈放]]後、自身の道場に戻る。本人は「悲しいかな、私には学問がなかった」と述懐したという<ref name="gakumonga">[https://www.jiji.com/jc/v4?id=sumo-jikenshi201712210015 風化させるな 大相撲事件史(15/15ページ)] JIJI.COM 2022年07月12日18時00分 (2022年8月10日閲覧)</ref>。
=== 日本相撲協会理事長として ===
璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、[[1947年]]10月に異例となる[[日本相撲協会|相撲協会]]理事への就任が決まった。さらに、[[1950年]]2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。[[1956年]]1月からの理事長代理を経て、[[1957年]]5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。
相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が[[国会]]で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、
# 相撲協会構成員(年寄、[[行司]]など)の65歳定年制の実施
# 部屋別総当り制の実施<ref name="hutaba"/>
# [[相撲茶屋]]の再編と法人化
などの改革に尽力した<ref name="meimonretsuden22"/>。協会内では[[笠置山勝一|秀ノ山]]と、後に理事長へ就任する[[出羽ノ花國市|武蔵川]]を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては[[鏡里喜代治]]を横綱に育て上げ、[[大内山平吉]]・[[北葉山英俊]]・[[豊山勝男]]を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋や二所ノ関部屋の10人を上回り、[[出羽海部屋]]、[[高砂部屋]]の15人に続いた<ref name="tokittsu2">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p12</ref>。[[青ノ里盛]]の話では、現役引退からかなり経過した[[1953年]]にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」<ref>[https://www.sankei.com/article/20160102-VSCTKVN5QFLXFL6MJ5DW5MZYTI/2/ 「自分本位では成り立たぬ」 元時津風理事長の内田勝男氏(78)(2/4ページ)] 産経ニュース 2016.1.2 22:19 </ref>と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。『もっと真剣に気合を入れろ』と」<ref>[https://www.sankei.com/article/20160102-VSCTKVN5QFLXFL6MJ5DW5MZYTI/3/ 「自分本位では成り立たぬ」 元時津風理事長の内田勝男氏(78) (3/4ページ)] 2016.1.2 22:19</ref>と振り返っている。武蔵川の『回顧録』によると「全く寡黙の人」だったといい、「向かい合って話を始めても、話がつまると30分でも1時間でも黙って座っている」ほどだという。半面、一度部下に任せた仕事については一切口出しをしないタイプなので、武蔵川にとっては馬が合う上司だったようである<ref>[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58928?page=4 「国技」大相撲が戦前から批判されてきた大きな矛盾 大相撲へ愛をこめて叱咤激励(4/5ページ)] JBpress 2020.1.24(金)(2020年10月12日閲覧)</ref>。
[[1960年]]に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。[[1962年]]には相撲界で初めて[[紫綬褒章]]を受章した<ref>{{cite journal|和書|date=2003-04-20|title=八幡宮・石碑めぐり|journal=社報 富ケ岡|url=http://www.tomiokahachimangu.or.jp/h15haru/htmShaho/p03.html|number=31|publisher=富岡八幡宮|accessdate=2022-04-03}}</ref>。
′
=== 晩年 ===
相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには[[還暦土俵入り]]を期待した者もいたが、晩年は[[肝炎]]によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。[[1968年]]11月場所では優勝した[[大鵬幸喜|大鵬]](45連勝中の最中)に賜杯を授与したが、その直後の同年[[12月2日]]に、あたかも[[白装束|死に装束]]を模したかの様な白の[[背広|スーツ]]姿で[[東京大学医学部附属病院]]へ再入院し、同年[[12月16日]]に[[肝炎#劇症肝炎|劇症肝炎]]のため、死去<ref name="meimonretsuden1819"/><ref name="catalog3639"/>。{{没年齢|1912|2|9|1968|12|16}}。[[蔵前国技館]]で日本相撲協会葬が執り行われた。墓所は荒川区[[善性寺 (荒川区)|善性寺]]。[[戒名]]は「霊山院殿法篤日定大居士」。没後、[[従四位]][[勲三等]][[旭日中綬章]]を追贈された<ref>{{Cite book|和書 |author=スポーツ・グラフィックナンバー |title=熱血!名力士列伝 怪力・異能・土俵の鬼 |series=[[文春文庫]]<!-- |publisher=文藝春秋--> |origdate=1993-2-10 |isbn=4-16-810821-X}}</ref>。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに…(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している<ref name="zadankai5">『相撲』33ページ</ref>。
没後、時津風部屋は元横綱鏡里の[[立田川 (相撲)|立田川]]が継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の[[錦島]]が14代時津風を襲名した<ref name="catalog3639">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p36-39</ref>。時津風部屋後援会「双葉山会」の[[笹山忠夫]]会長や[[永田雅一]]が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、[[粂川部屋]]から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が短い時代に45歳だった鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった<ref>『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは / 石井代蔵/p139,プレジデント社,1983-02</ref>。親友の[[玉の海梅吉]]は「これからの時代は、大学を出て、先を見る能力のある男でないと協会運営はできない。ゆくゆくは豊山を時津風にしたい。」ということを生前聞いていたという<ref>石井代蔵 著『土俵の修羅』p288「双葉山の審判‐時津風部屋騒動」,新潮社,1985.11</ref>。
== 人物 ==
=== 双葉山の怪力~豪快な上手投げ ===
右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにもかかわらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した[[花相撲]]においても、[[若瀬川泰二]]を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった<ref name="hutaba"/>。
[[斉藤茂太]]が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。[[琉球大学]]で[[物理学]]を専攻した経験と、[[トレーニング]]理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の[[三段目]]力士だった[[一ノ矢充]]は、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、[[肩甲骨]]で相手を押さえて投げる。自分の身体を[[スパナ]]として使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく<ref>[http://www.j-n.co.jp/columns/?article_id=137 『股関節を動かして一生元気な体をつくる』刊行記念鼎談 内田樹(合気道)×元・一ノ矢(相撲)×安田登(能楽)――伝統文化の身体を語る] 実業之日本社 2013.07.18</ref>」と、その特殊な技術を分析している。
横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった。(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している<ref>『相撲』19ページ</ref>。
双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。
=== 模範とする土俵態度 ===
どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている<ref> [https://dl.ndl.go.jp/pid/1039589/1/160 佐藤堅司 著『神武の精神』横綱双葉山の場合,弘学社,昭和19.国立国会図書館デジタルコレクション] </ref><ref> [宮崎敏明 著『細目式児童・青年相撲指導の新体系』力士の典型 双葉山定次,明治図書,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション] </ref>。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、[[横綱土俵入り]]に関しては男女ノ川と同様に腕を廻して[[柏手]]を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。
=== 残した不滅の足跡 ===
幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率.882<ref group="注釈">[[取り直し]]制度導入以降の最高勝率。ただし、白鵬は2007年7月場所から2020年3月場所現在までの横綱在位76場所で872勝125敗143休(勝率.875)で、双葉山の勝率に現在のところ迫っている。</ref>)と跳ね上がる。他に'''優勝12回'''<ref name="meimonretsuden1819"/>(年2場所制での最多、そのうち全勝8回<ref group="注釈">全勝8回は当時の最多記録。年6場所制となってからは大鵬と並んで歴代2位タイ、2020年3月場所現在の最多は白鵬の15回。</ref>)、'''5場所連続全勝'''(年2場所制で最多)、'''関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過'''(明治以降唯一)、'''69連勝'''(相撲の記録が残る[[1757年]]以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。
実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には[[1938年]]に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった[[沖ツ海福雄|沖ツ海]]、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した[[豊嶌雅男|豊嶌]]といった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれ[[フグ]]中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。
== エピソード ==
=== 連勝関連 ===
* 昭和以降に大関以上まで昇進した者で、大関時代の成績が全勝(無敗)なのは双葉山のみである。また、昭和以降に横綱に昇進した者の中で大関を最短所要場所数で通過したのも双葉山である(所要2場所)。
* 年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で「準場所」と呼ばれる場所を開催していた。準場所での成績を含めた場合、[[1937年]]6月の[[大阪国技館|大阪関目国技館]]場所5日目から、[[1938年]]6月に[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]で行われた準場所3日目に[[九州山義雄]]に敗れるまで、87連勝を記録している。当然ながら公式記録では無いものの、双葉山の強さを物語る記録である。
* 「大相撲この一番〜“通”が選ぶ思い出の名勝負集」によれば、双葉山の70連勝が阻止された際、国技館には座布団だけではなく火鉢まで宙を舞ったと伝えられている。この作の中で[[宮脇俊三]](取組を父親の[[宮脇長吉]]と見ていた)は、宙を舞った火鉢のことを「火の粉をまき散らしながら飛ぶ」という表現で事を書き記し、舞った火鉢を「[[焼夷弾]]」とまで表現している。また、歌舞伎俳優で後に横綱審議委員となった六代目澤村田之助も[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]に連れられて初めて相撲観戦に行って双葉山の敗戦を目撃している{{R|朝日}}。
* 横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が2つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含めて、大半が右側から攻められたものである。
=== 右目について ===
* 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては霞んだり物が二重に見えていたが、やがてほとんど見えなくなったといい、疲れたりするとこの右目の影響で、いい左目までものが二重に映ったりすることもあったという。<ref name="rensho"/>それでも、本人はなまじ見えるよりその方が都合が良かったと語っている。対戦力士側にも、「あの人(双葉山)は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際、双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。
* 右目が失明状態だったことは公表されておらず、 [[1941年]]のある日に[[身延山]][[久遠寺]]に詣で、[[望月日顕]]法主の[[車椅子]]を押していて、「横綱、右目が悪いのだね」と言われた(日顕は、車椅子を押す力が右に偏ることから気付いたという)のが、他人から右目のことを指摘された最初だったという<ref name="hukitatoka" />。また、櫻錦戦で敗れた時に「飛び違い」という決まり手だったことから、「もしかして双葉山は目が悪いのではないか」という噂が広がったという。なお、[[小坂秀二]]の著書に引かれた笠置山の談話によると「私たちはみんな知っていました。ですから作戦を立てる場合、その目のことは計算に入れていました」という<ref>小坂秀二『わが回想の双葉山定次』(1991年9月 [[読売新聞社]])304頁。なお、当時少年だった小坂も双葉山の右目の白い星や、彼の動き方などから右目が悪いことに気づいていたというので、実際は公然の秘密として広く知られていた可能性がある。</ref>。
=== 周囲の人々 ===
* 妻の穐吉澄子(2005年死去)は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書において、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い<ref>『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。</ref><ref>[[工藤美代子]]は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている([[#工藤1991|工藤(1991)]]、183頁)。</ref><ref group="注釈">1999年に読売新聞が『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』を連載し、双葉山を取り上げたが、取材した記者は「近親者の話が聞けなかった」ことを心残りとしている。この時点で澄子が双葉山の唯一の近親者だったが、取材申し入れに対し、澄子は「話したくない」と断った(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)。</ref>。
* 双葉山と澄子の間には長男・経治(1944年生)と長女・博子(1948年生)がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の[[妙音教会]]という寺<ref>『相撲』2018年1月号126ページ</ref>の[[住職]]になったが、1988年に44歳の若さで死去した<ref group="注釈">博子が生まれる前の1942年に女児(名前不明)が生まれたが、間もなく亡くなった(『宇佐学マンガシリーズ①相撲の神様 双葉山』、156頁)。また、子供は「二男一女」とする資料もあり、経治は二男で、長男(生年、名前ともに不明)は「幼くして亡くなり」と書かれてあり(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)、経治と博子は戸籍上はそれぞれ二男と二女になる。</ref>。
* 孫娘には元[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役の[[宝塚歌劇団77期生|双葉美樹]]と舞台女優の[[穐吉次代]]がいる。
* 花柳界においても人気は高く、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[柳橋 (神田川)|柳橋]]の[[芸者]]は“双葉関の[[貞操]]を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって「[[童貞]]横綱」とも呼ばれた<ref>[[池田雅雄]]の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという([[#工藤1991|工藤(1991)]]、166頁)。</ref>が、[[栃錦清隆]]が新弟子の頃に春日野の用事で[[料亭]]に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った」ほどの美女を侍らせていたと証言している。
* 双葉山の人気を物語るものとして、現在は禁止されている支度部屋への一般人の出入りによって差し入れが届けられたことがある。[[1943年]]11月場所のある日、相撲観戦に訪れていた老婆が[[ふぐ料理|ふぐちり]]らしき物を差し入れた<ref name="bahuta52">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p52</ref>。数日後には魚屋から[[スッポン]]が差し入れられるなど、戦時中ではあったものの、国民的人気のある横綱の食生活は豪華なものだったという<ref name="bahuta54">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p54</ref>。
** 一方で花田虎上のコラムでは「最近、メディアで目にして気になることがあります。あの双葉山関の年収が今の金額に換算すれば3000万円だったとか。時代背景が違うかもしれませんが、これって今の横綱と、さほど変わらないんじゃないですか。サラリーマンの給料が30年、変わらないと報道されているのと同じです(2023年11月時点)」と双葉山の経済事情について触れられている<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202311110001102.html 【若乃花の目】ファンに最も厳しく見られる「1年最後」の九州場所 注目は貴景勝の綱とり] 日刊スポーツ 2023年11月12日5時0分 (2023年11月12日閲覧)</ref>。
=== その他 ===
* 1943年11月場所7日目の支度部屋では、部屋制度について「例えば同系統のものはひとつにして、大きな部屋別というようなものにして、東西対抗にもう少し精彩を与えるというような方法は…」と記者から意見された。これに対して「自分の弟子だからこそ熱心に面倒も見るし指導も思い切ってできる。これが単に協会の若い者、というようなことになれば、こうした師弟関係というものはどうしても熱を失いやしないかと思う」と部屋制度の維持が妥当と訴えた<ref name="bahuta54"/>。記事には、双葉山が自身で創設した相撲部屋を「道場」と呼称した理由について「勧進相撲以降、相撲が専門力士の間に飲み残されてきた傾向にあったので、やむを得なかったとはいえ、このように相撲は日本民族とは切っても切れる関係にありながら、『近代に至って国民とのつながりは果たしてどうであったか』とかえりみるとき、専門力士の間に保存されているのみであって、広く国民の相撲としての存在からははるかに遠いものとなっていたことは否み得ない事実であった」としており、太平洋戦争の影響下で軍事意識高揚のために相撲が草の根にまで浸透したことに関しては「相撲がようやく、日本民族のものとしても本来の姿を取り戻したとものとして、私は喜びを禁じ得ないものである」と喜んでいた<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p19-21</ref>。ただし、これは太平洋戦争の最中の談話として双葉山自身が相応しい内容を選んだ結果のものであると留意されたい。
* 少なくとも太平洋戦争の終盤の時期は支度部屋では[[煙草]]を吸わない(当時相撲の支度部屋は喫煙可)人物であり、1943年11月場所2日目の支度部屋でのそうした様子を報道する記事もあった<ref name="bahuta51">『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p51</ref>。
* [[1958年]]に[[若乃花幹士 (初代)]]が横綱へ昇進した際、当時は弱小一門だった[[二所ノ関一門]]としては玉錦以来の新横綱誕生、かつ二所ノ関一門関係者の中で玉錦の現役時代を詳しく知っている者がいなかったため、双葉山自らが横綱土俵入りの指導を行った。また、[[明治神宮]]での横綱推挙式と奉納土俵入りに関しても、玉錦が生前使用していた化粧回しが[[戦災]]で焼失して現存していなかったために用意できなかった。そこで、自ら現役時代に使用して戦火を免れた三つ揃いの化粧回しを、若乃花が所属していた[[花籠部屋]]へ貸し出して間に合わせたという。
* [[2018年]]9月1日、直弟子の14代時津風の内田勝男が、双葉山が親方時代に愛用していた[[真鍮]]製火鉢を寄贈し、双葉山の史料を展示する観光交流施設「双葉の里」で御披露目式が開かれた<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nnp/oita/article/446246/ 双葉山愛用の火鉢寄贈 弟子の内田元相撲協会理事長 宇佐の施設でお披露目式 {{Nowiki|[大分県]}}] 西日本新聞 2018年09月02日 06時00分(西日本新聞社、2018年9月3日閲覧)</ref>。
* 明治時代生まれ最後の横綱である(1912年(明治45年)2月生まれ。約5か月後、[[明治天皇]][[崩御]]により[[大正]]に改元)。
* 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に誤記されたものである。なお双葉山生家付近に「[[二葉山神社]](ふたばやまじんじゃ)」という神社があり、四股名「双葉山」の由来ともされている<ref name="meimonretsuden1819"/>が、これは地元に江戸時代以前から存在していた神社である。
* 現在の大相撲で力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。双葉山以前の時代は仕切り直しのたびに力水を付ける者も多かったが、新弟子の頃に「武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら一度付ければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身は「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と否定している。文献によっては「目を疲れさせてはいけないから」という意図があったともされている<ref name="rensho"/>。
* 故郷の宇佐市の名産で、体長約5mmほどの「アミ」と呼ばれる小さなエビを醤油と砂糖で煮詰め、混ぜご飯にした「あみめし」で作ったおむすびが好物で、普段は気前の良かった双葉山も「あみめし」のことになると部屋の衆に分けることをためらう[[藤田川藤介|とうすけ]](相撲界でいう「ケチ」のこと)ぶりを発揮した<ref>佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 pp.128-129 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515</ref>。
== 主な成績 ==
=== 通算成績 ===
* 通算成績:348勝116敗33休1分 勝率.750
* 幕内成績:276勝68敗33休1分 勝率.802
* 横綱成績:180勝24敗22休 勝率.882
* 現役在位:51場所
* 幕内在位:31場所
* 横綱在位:17場所
* 大関在位:2場所
* 三役在位:2場所(関脇1場所、小結1場所)
=== 連勝記録 ===
双葉山の最多[[連勝記録 (大相撲)|連勝記録]]は、'''史上最長の69連勝'''である(1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目)。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。
{| class="wikitable"
!回数!!連勝数!!期間!!止めた力士!!備考
!決まり手
|-
|1||'''69'''||1936年1月場所7日目〜1939年1月場所3日目||安藝ノ海||'''1936年5月場所〜1938年5月場所5場所連続全勝優勝'''<ref group="注釈">1936年5月場所〜1937年1月場所は11戦全勝、1937年5月場所〜1938年5月場所は13戦全勝。</ref>
|外掛け
|-
|2||29||1939年1月場所10日目<ref group="注釈">1939年1月場所は13日制。</ref>〜1940年1月場所10日目||五ツ嶋||1939年5月場所全勝優勝
|はたき込み
|-
|3||21||1942年1月場所6日目〜1942年5月場所11日目||清美川||
|外掛け
|-
|4||'''36'''||1942年5月場所千秋楽〜1944年1月場所5日目||松ノ里||'''1943年1月場所〜5月場所2場所連続全勝優勝'''
|渡し込み
|}
*上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上2回記録している。
=== 各段優勝 ===
* 幕内最高優勝:12回(1936年5月場所、1937年1月場所、同年5月場所、1938年1月場所、同年5月場所、1939年5月場所、1940年1月場所、1941年1月場所、1942年1月場所、同年5月場所、1943年1月場所、同年5月場所)
** 全勝優勝:8回(大鵬と並んで歴代2位)
** 連覇:5連覇(1936年5月場所‐1938年5月場所、全て全勝優勝)※当時年2場所制
=== 場所別成績 ===
{{Sumo record box start old2|双葉山定次}}
{{Sumo record year start|1927}}
{{Basho|}}
{{Basho|maezumou}}
{{Basho|bg|||3|3}}
{{Basho|jk|27|e|4|2}}
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{{Sumo record year start|1928}}
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{{Sumo record year start|1929}}
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{{Basho|y||e|7|5|3<ref group="注釈">脇腹疼痛により12日目から途中休場</ref>}}
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{{Basho|hy||e|4|3|3<ref group="注釈">アメーバ赤痢により7日目から途中休場</ref>}}
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{{Sumo record year start|1945}}
{{Basho|}}
{{Basho|}}
{{Basho|hy||w|1|0|6<ref group="注釈">面疔により2日目から途中休場</ref>}}
{{Basho|intai|rank=y|tozai=w|win=0|loss=0|absent=10}}
{{Sumo record year end}}
{{Sumo record box end}}
* 1932年1月番付([[春秋園事件]]で興行中止)では十両東6枚目。
=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数
|-
|[[安藝ノ海節男]]||9||1||[[東富士欽壹]]||0||1||[[五ツ嶋奈良男]]||5||2
|-
|[[鏡岩善四郎]]||10||1||[[汐ノ海運右エ門]]||1||1||[[清水川元吉]]||5||4
|-
|[[玉錦三右エ門]]||4||6||[[照國万藏]]||2||3||[[能代潟錦作]]||3||2
|-
|[[前田山英五郎]]||7||1||[[増位山大志郎]]||5||2||[[男女ノ川登三]]||10||5
|-
|[[武藏山武]]||2||4||[[鹿嶌洋起市]]||7||2||[[櫻錦利一]]||5||2
|-
|[[豊嶌雅男]]||5||2||colspan="6"|
|}
安藝ノ海節男とは、70連勝を阻止された取組後は全勝。「同じ相手に連敗はしない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。他にも玉錦とは6連敗の後に4連勝、武藏山とは4敗1分の後に2連勝、男女ノ川とは5連敗の後に10連勝、清水川とは1勝4敗の後に4連勝。双葉山よりも先に大関・横綱へ昇進していた力士でも、双葉山の横綱昇進後は全く歯が立たなくなった。
== 著書 ==
* 『相撲求道録』 黎明書房(1956年)
* 『横綱の品格』 [[ベースボール・マガジン社]]新書006 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-10075-3
: 『相撲求道録』に加筆、改筆を加えたもの。巻頭言を大鵬が、[[帯 (出版)#|帯]]を[[貴乃花光司|貴乃花]]が執筆している。
* 『新版 横綱の品格』 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-11145-2
: 2018年3月に上製本として復刊。大鵬の巻頭言は巻末に移り、貴乃花の帯の推薦文はなくなった。
== 関連書籍 ==
*{{Cite book|和書|author=工藤美代子|authorlink=工藤美代子|year=1991|month=3|title=一人さみしき双葉山|publisher=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4-480-02516-6|ref=工藤1991}}
*双葉山生誕100年記念事業実行委員会・大分県宇佐市編、シナリオ山口かつみ、マンガ屋代尚宣『宇佐学マンガシリーズ①相撲の神様 双葉山』梓書房、2011年11月。
== 関連楽曲 ==
* 『双葉山』(唄:[[細川たかし]] 作詞:高橋直人 作曲:あらい玉英) - [[1998年]][[8月22日]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注釈"}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ①(別冊夏季号)(2016年)
*ベースボールマガジン社刊『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』(2017年)
*ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』(2018年)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Futabayama Sadaji}}
* [[横綱一覧]]
* [[連勝記録 (大相撲)]]
* [[古今十傑]]
* [[時津風部屋]]
* [[玉錦三右エ門]]
* [[羽黒山政司]]
* [[スポーツ無敗記録一覧]]
* [[大邱山高祥]] - 双葉山と仲の良かった力士で、二人で「大鉄傘下の花形力士二人」と称された。
* [[垣添徹]] - テレビドラマで少年時代の双葉山を演じた経験のある力士
== 外部リンク ==
* [http://www.futabayama.jp/index.php 昭和の大横綱『双葉山』〜生誕100年記念〜オフィシャルサイト]
* [http://www.jaoic.net/oitausa/page/futabayama.html 双葉の里(双葉山生家)]
* [http://www.tatsunami.jp/history/first.php 第一部 四代目立浪弥右衛門時代 - 立浪部屋の歴史]
* [http://www.me-sale.net/miwa-akiyoshi/index.html 孫娘の穐吉美羽(舞台女優)]
* {{NHK人物録|D0009072169_00000}}
* {{NHK放送史|D0009060044_00000|大相撲 双葉山 対 安藝ノ海}}
* {{NHK放送史|D0009044039_00000|ここに鐘は鳴る 時津風定次}}
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京急2100形電車
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京急2100形電車(けいきゅう2100がたでんしゃ)は1998年(平成10年)3月28日に営業運転を開始した京浜急行電鉄の特急形車両である。
本項では、特記のない限り各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。
また、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指すものとする。
主に京急本線・久里浜線を運行する快特で使用されていた2000形の後継車として製造され、8両編成10本(80両)が在籍する。京浜急行電鉄の創立100周年を記念し、21世紀をかけて、21世紀へ向かう車輛という意味を込めて「2100」の形式称号が与えられた。
本形式では車内居住性の向上を重視し、コストダウンとメンテナンス低減・車両性能の向上のため、主制御器・主電動機、座席や座席表地に日本国外製品を数多く導入した車両である。関東私鉄で唯一のオール転換クロスシート車両である。
主として京急線内の快特に使用され、有料の「イブニング・ウィング号」や「モーニング・ウィング号」にも使用されることから、特急形車両に分類される場合もある。
アルミニウム合金製で車体外板は赤、窓回りをアイボリーに塗装している。
前面デザインは600形をベースとし、「都会」・「洗練」・「知的」と「スピード感」をイメージした流線型形状とし、21世紀に向かう京急のイメージリーダーにふさわしい車両を目指した。先頭車正面窓下アイボリー塗装のワイパーカバーには、形式名(2100)がスリット状の打ち抜き文字で表現されている。これは分割併合時にスリットを通して連結器を見通せるようにしたためである。詳細については後述のバリエーションの節を参照のこと。
中間車は基本の連結面間距離18,000 mmだが、先頭車はこれより170 mm長い18,170 mmとした。側面の出入口は片側2扉構造で、両開き1,200 mmドア幅である。
1500形アルミ車と600形で採用したLED表示灯は経年変化による照度低下が著しく、また電球の寿命も延びたことから尾灯・急行灯および戸閉灯が2灯の電球となった。尾灯と急行灯の位置は4次車で逆転し、それ以前の編成も変更した。行先表示器は字幕式で、当初は黒地に白文字表記だったが、その後、全車両がローマ字併記の白地に黒文字表記式に変更され、さらに2015年1月 - 3月にかけて全先頭車の前面のみがLED式に変更された。車両間には新たに転落防止幌が設置された。正面のスカートは600形のものと類似した形状であるが、600形のものと比較して横幅が狭くなっている。
側窓はすべて濃色グレーの熱線吸収・複層ガラス構成とし、結露防止と空調の効率化のために全てが固定窓である。側窓は天地寸法を950 mmと大きくとり、さらに外板とフラット化を図り、側面見付けを向上させている。カーテンにはパープル系色の西陣織の横引き式プリーツカーテンを設置する。なお、車端部のボックス席の窓以外全ての窓が固定式のため、非常時の換気のための排気扇を各車に2台設置している。
内装のコンセプトはCasual&Free/「若者と自然のエリア」とし、メルティな乗り心地、ソフトでやさしい、深く透き通るような客室空間を演出した。
車内は淡い琥珀色の大理石模様化粧板張りとし、連結面の妻壁は淡いパープル系の化粧シート仕上げとした。車椅子スペースは先頭車の乗務員室次位の扉直後に設置をしている。
室内はオールクロスシートで、ドア間は京急で初採用となる転換クロスシート、車端部は4人掛けボックスシート(固定座席)である。先頭車の運転席背面は前向きの固定座席としており、運転席背後以外のドア前には補助腰掛を設置している。
空港連絡列車に使用することを考慮し、一部の固定座席は座面を上げて荷物置場にできる構造となっている。ドア間の座席はノルウェー・エクネス社 (Georg Eknes) 製、座席表地はスウェーデン・ボーゲサンズ社 (Bogesunds) 製である。なお、車端部ボックスシートと補助座席は日本製となっている。座席はいずれも瑠璃色(紺色系)に茜色(赤色)の水玉模様入りジャカード織(模様入り)で、枕カバーは一般席が赤色、優先席は灰色系で区別しているが、2019年10月26日のダイヤ改正より土休日の一部の快特に設定される指定席「ウィング・シート」に該当する2号車の枕カバーは一般席・優先席とも緑色のものに変更された。
転換クロスシート部は座席を向かい合わせで用いないことを前提に間隔を詰めており、シートピッチは850 mmである。営業運転中は一方に向きが固定され、乗客による座席の転換はできない。座席の転換は空気圧による一括転換式を採用しており、始発駅で車掌のスイッチ操作により進行方向へ座席の向きを合わせる。終着駅に到着した際は、到着ホームでそのまま折り返す場合も降車扱いの後ドアを閉め、座席転換後に乗車扱いをする措置がとられている。導入直後、座席の向きを無理やり変えようとした乗客が座席を破損させる事例が生じたため、その後座席の枕カバーに「イスの向きは変えられません」と表示されるようになった。
座席に掴み手がつけられているもののつり革はドア周辺のみの設置で、通路も狭くなっている。なお肘掛と掴み手の形状は2次車増備時に改良され、その後1次車も仕様を統一した。
補助腰掛は出入口と転換腰掛を仕切る壁としての役割がある。背ずりは固定されており、座面が手前に引き出してくる形状である。乗務員室からの操作で鎖錠・解錠が可能で、混雑時には固定され、閑散時は引き出して使用することができる。
側扉と連結面貫通扉は軽量化のためにペーパーハニカム構造を採用した。貫通扉は各連結面に設置しており、側扉については室内側は化粧板仕上げ、ドアガラスは側窓同様のグレーの複層ガラスである。各扉上部には京急初採用となるLED文字スクロール表示による車内案内表示器を設置している。
天井部はFRP製の曲面天井構成で、補助送風機はなく、空調吹き出し口を設置するのみである。車内蛍光灯にはアクリル製のカバー付蛍光灯を使用している。
床材は新造車としては初めての塗り床構造とし、ベージュとレッド系のモザイク柄としている。電動車の床面には600形と同様に駆動装置点検蓋が設置されているが、点検ブタは縁取りをなくし、床面のフラット化を図った。
ベージュ系の配色、運転台計器台は濃い灰色の色調である。計器盤は600形よりも60 mm低くして、特に連結時における前方下部の視認性向上を図った。主幹制御器はT字形ワンハンドル式で、力行1 - 5ノッチ・常用ブレーキ1 - 5段・非常で構成される。マスコンハンドル右端には非常時に使用する「緊急スイッチ」を新たに設置した。
制御装置はドイツ・シーメンス社製の GTO素子「SIBAS32(シーバス32)」による VVVFインバータ制御を採用した。車内の製造ステッカーには製造会社の下に「Powered by SIEMENS」の表記がある。発車時の電動機およびインバータ装置から発する磁励音が音階に聞こえることが特徴で、このことから鉄道ファンの間では「ドレミファインバータ」や「歌う電車」とも呼ばれている。但し、回生ブレーキの失効速度が8 - 6 km/h前後と高く、停車時には音階は聞こえない。
主制御器はG1450 D1130 / 560 M5-1形で、VVVFインバータ装置、フィルターリアクトル、断流器などを「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体箱に収めた構成とした。また、この制御装置はベクトル制御やスリップ・スライド制御(空転滑走制御)など高い精度での電動機のトルク制御を行い、本系式の高い性能を実現している。
主電動機は1:1というMT比で高速性能と高加速度を両立するため、高出力の1TB2010-0GC02形かご形三相誘導電動機を採用した。なお、電動機の京急における制式名称はKHM-2100形である。
基礎ブレーキは従来からの金属製ブレーキシリンダをゴムシリンダ(ダイヤフラム式)に変更しており、各車両に増粘着装置が取り付けられている。
台車は空気ばね(枕ばね)を車体に直結させるダイレクトマウント式のボルスタ(枕梁)付き台車であり、軸箱支持方式は高速走行時の乗り心地の観点から乾式ゴム入りの円筒案内式である。動力台車は「TH-2100M形」、付随台車は「TH-2100T形」と称する。さらに上下振動を減少させ、乗り心地の向上を図るため、軸ばねの外側に軸ダンパを設置していたが、後年に撤去された。
補助電源装置にはIGBT素子を使用した三菱電機製の150 kVA出力静止形インバータ(NC-WAT150C形)で、本形式より車内の低圧補助回路の電圧を三相交流440Vへと向上させた。
電動空気圧縮機にはドイツ・クノールブレムゼ社製の100パーセント稼働率のスクリュー式(SL-22形、吐出量は1600 L/min)が採用され、これまでの8両編成3台装備から2台へ削減された。新1000形(5次車まで)にも同形の物が採用された。
集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングアーム式を使用している。
空調装置は三菱電機製のCU-71G形を使用し、能力は41.8 kW(36,000 kcal/h)としている。外観では装置の前後にFRP製の曲面カバーを設置し、丸みを強調したものとした。
1998年から2000年にかけ、4次にわたって製造された。すべて4M4Tの8両編成で、4両 (2M2T) で1ユニットを組む。各次車における主な変更点は以下のとおりである。
1998年2 - 3月に落成。この2編成のみ(白幕化当時は)方向幕の字が細かったが、機器更新の際に他編成と同じく字が太いものに交換されている。落成時にはワイパーカバーのスリットに各先頭車の車両番号を表記していた(例:デハ2101は「2101」とスリット表記)。その後、2次車の落成時期に2次車と同様の表記方式に変更した。さらに3次車の落成に合わせて2次車とともに3次車に合わせた表記方法に変更した。
1998年10 - 11月に落成。ワイパーカバーの車両番号表記を形式名「2100」表示に変更した。このため、車両番号は正面非常扉の白色部の下に4桁表示で記載された。書体は600形などと同様の「スミ丸ゴシック体」であった(1次車も同様の表記に変更)。
先頭車にある車椅子スペース部において、カーテンが省略されていたが、新たに設置した。さらに乗務員室背面仕切壁を側面と同様の化粧板張りから、妻面と同じパープル系の化粧シート仕上げに変更した。
また、運転席直後の椅子では、立客が寄りかかるため座席の補強をし、暖房器具を隠すカバーを設置し、転換式腰掛の窓側肘掛位置の変更などが実施された。
1999年4 - 5月に落成。非常扉側の車両番号の表記を落成当初から現行表記とした。正面非常扉にあった4桁の車両番号表記を、白色部への下2桁表示に変更した。書体はワイパーカバーの表記に合わせたものである。同時期に1・2次車もこの仕様に変更し、以後の標準となった。
2000年10 - 11月に落成。急行灯を落成当初から車両の外側とした。細かな点では、座席の肘掛を灰色から紺色に変更した。
本形式と新1000形アルミ車両(1 - 5次車)で採用したドイツ・シーメンス社製の電機品は、日本製の機器とは仕様が異なる点があり、特に保守面において不利な点があるなど問題があった。このため、導入から約10年を経て機器の更新時期を迎えた車両より順次、日本製の機器への置き換えが開始された。この機器更新は2015年3月の2133編成をもって全編成への施工が完了した。
新しい制御装置は東洋電機製造製のIGBT素子を使用した2レベルVVVFインバータ制御装置(PGセンサレスベクトル制御・1C4M制御方式)を採用した。制御装置は従来の周辺機器一体形から制御装置本体やフィルタリアクトル等などが個別設置されたものとなっている。主電動機についても東洋電機製造製の1時間定格190 kWのかご形三相誘導電動機に交換された。主電動機取り付け寸法は交換前の主電動機と同一で、駆動装置や台車の変更はない。
この更新工事は京急ファインテック久里浜事業所において定期検査の前に入場させ、約2週間の工期で機器更新を行い、その後定期検査を施工して出場させている。この際車内掲示の製造ステッカーは「Powered by SIEMENS」表記のないものに変更されている。
施工順序は以下のとおり。
2013年8月15日に更新後の試運転を行った2101編成から車体更新工事が施工されている。工事内容は以下の通り。「*」表記は600形・新1000形10次車以降で採用済みのもの、「**」表記は新1000形11次車以降で採用済みのもの。
2020年6月現在では全編成の更新が完了している。
また、これとは別に、2017年5月1日からのウィング号とモーニング・ウィング号の全席指定化に伴い、同年4月までに補助席も含む全ての席に座席番号が割り振られた。これらはイブニング・ウィング号とモーニング・ウィング号の全座席のほか、「ウィング・シート」が設定されている快特の2号車でのみ有効となり、「ウィング・シート」設定のない快特・特急・急行での運行時は従来通り全席自由席となる。
2022年11月26日改正ダイヤにおける行路表...
原則的に、自社線内の本線・久里浜線の快特として泉岳寺駅・品川駅 - 京急久里浜駅・三崎口駅間を運転する。日中時間帯は土休日の一部列車を除く泉岳寺駅発着快特の全列車に使用される。朝および土休日夜間には特急や急行(朝の一部列車のみ)にも使用され、平日夜間は「イブニング・ウィング号」、平日朝は「モーニング・ウィング号」として運用される。立席定員が少ない上に2ドアで乗降に時間が掛かるため、平日朝ラッシュ時最混雑時間帯の本線上り列車には「モーニング・ウィング号」および女性専用車両の設定対象外の品川駅行き快特(金沢文庫駅まで特急)を除き使用されない。また、午前中のみ空港線への乗り入れがあり、平日は4回、土休日は1回羽田空港へ乗り入れる。本線の堀ノ内駅 - 浦賀駅間は平日朝しか運用されない。また、逗子線は定期運用はないものの、稀に事故や悪天候等による運用変更で代走として充当されることがある。
当初は羽田空港と成田空港を結ぶエアポート快特への投入が検討されていたため、先頭車は地下鉄線への乗り入れに必要な非常用貫通扉を装備するが、2扉・クロスシートという構造から東京都交通局(都営地下鉄)が定期列車としての乗り入れを認めなかったため、自社線内のみで運転されている。このため、8両編成12本96両の製造計画に対して10本80両が落成したところで車両の増備は新1000形に変更され、2100形の製造は2000年に終了した。
編成が10本しかないことから、検査や工事などでの入場時には運用可能な編成が足りなくなる場合があり、その場合は3扉の1500形・600形・新1000形が代走する。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には「8E」と表記される。
2005年6月11日からは、2157編成が600形606編成と同様に車体の塗装を青色に変更し、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」(京急ブルースカイトレイン)として営業運転を開始した。その後、更新工事に伴い2015年3月をもって2157編成は「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」を退役し、標準塗装に戻された。代わりに同年3月10日に更新工事から出場した2133編成が青色に変更され、2代目「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」として就役した。
これまでに運行されたものは以下のとおりである。
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"text": "ベージュ系の配色、運転台計器台は濃い灰色の色調である。計器盤は600形よりも60 mm低くして、特に連結時における前方下部の視認性向上を図った。主幹制御器はT字形ワンハンドル式で、力行1 - 5ノッチ・常用ブレーキ1 - 5段・非常で構成される。マスコンハンドル右端には非常時に使用する「緊急スイッチ」を新たに設置した。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "制御装置はドイツ・シーメンス社製の GTO素子「SIBAS32(シーバス32)」による VVVFインバータ制御を採用した。車内の製造ステッカーには製造会社の下に「Powered by SIEMENS」の表記がある。発車時の電動機およびインバータ装置から発する磁励音が音階に聞こえることが特徴で、このことから鉄道ファンの間では「ドレミファインバータ」や「歌う電車」とも呼ばれている。但し、回生ブレーキの失効速度が8 - 6 km/h前後と高く、停車時には音階は聞こえない。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "主制御器はG1450 D1130 / 560 M5-1形で、VVVFインバータ装置、フィルターリアクトル、断流器などを「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体箱に収めた構成とした。また、この制御装置はベクトル制御やスリップ・スライド制御(空転滑走制御)など高い精度での電動機のトルク制御を行い、本系式の高い性能を実現している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "主電動機は1:1というMT比で高速性能と高加速度を両立するため、高出力の1TB2010-0GC02形かご形三相誘導電動機を採用した。なお、電動機の京急における制式名称はKHM-2100形である。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "基礎ブレーキは従来からの金属製ブレーキシリンダをゴムシリンダ(ダイヤフラム式)に変更しており、各車両に増粘着装置が取り付けられている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "台車は空気ばね(枕ばね)を車体に直結させるダイレクトマウント式のボルスタ(枕梁)付き台車であり、軸箱支持方式は高速走行時の乗り心地の観点から乾式ゴム入りの円筒案内式である。動力台車は「TH-2100M形」、付随台車は「TH-2100T形」と称する。さらに上下振動を減少させ、乗り心地の向上を図るため、軸ばねの外側に軸ダンパを設置していたが、後年に撤去された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置にはIGBT素子を使用した三菱電機製の150 kVA出力静止形インバータ(NC-WAT150C形)で、本形式より車内の低圧補助回路の電圧を三相交流440Vへと向上させた。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "電動空気圧縮機にはドイツ・クノールブレムゼ社製の100パーセント稼働率のスクリュー式(SL-22形、吐出量は1600 L/min)が採用され、これまでの8両編成3台装備から2台へ削減された。新1000形(5次車まで)にも同形の物が採用された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングアーム式を使用している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "空調装置は三菱電機製のCU-71G形を使用し、能力は41.8 kW(36,000 kcal/h)としている。外観では装置の前後にFRP製の曲面カバーを設置し、丸みを強調したものとした。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1998年から2000年にかけ、4次にわたって製造された。すべて4M4Tの8両編成で、4両 (2M2T) で1ユニットを組む。各次車における主な変更点は以下のとおりである。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1998年2 - 3月に落成。この2編成のみ(白幕化当時は)方向幕の字が細かったが、機器更新の際に他編成と同じく字が太いものに交換されている。落成時にはワイパーカバーのスリットに各先頭車の車両番号を表記していた(例:デハ2101は「2101」とスリット表記)。その後、2次車の落成時期に2次車と同様の表記方式に変更した。さらに3次車の落成に合わせて2次車とともに3次車に合わせた表記方法に変更した。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1998年10 - 11月に落成。ワイパーカバーの車両番号表記を形式名「2100」表示に変更した。このため、車両番号は正面非常扉の白色部の下に4桁表示で記載された。書体は600形などと同様の「スミ丸ゴシック体」であった(1次車も同様の表記に変更)。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "先頭車にある車椅子スペース部において、カーテンが省略されていたが、新たに設置した。さらに乗務員室背面仕切壁を側面と同様の化粧板張りから、妻面と同じパープル系の化粧シート仕上げに変更した。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、運転席直後の椅子では、立客が寄りかかるため座席の補強をし、暖房器具を隠すカバーを設置し、転換式腰掛の窓側肘掛位置の変更などが実施された。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1999年4 - 5月に落成。非常扉側の車両番号の表記を落成当初から現行表記とした。正面非常扉にあった4桁の車両番号表記を、白色部への下2桁表示に変更した。書体はワイパーカバーの表記に合わせたものである。同時期に1・2次車もこの仕様に変更し、以後の標準となった。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2000年10 - 11月に落成。急行灯を落成当初から車両の外側とした。細かな点では、座席の肘掛を灰色から紺色に変更した。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "本形式と新1000形アルミ車両(1 - 5次車)で採用したドイツ・シーメンス社製の電機品は、日本製の機器とは仕様が異なる点があり、特に保守面において不利な点があるなど問題があった。このため、導入から約10年を経て機器の更新時期を迎えた車両より順次、日本製の機器への置き換えが開始された。この機器更新は2015年3月の2133編成をもって全編成への施工が完了した。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "新しい制御装置は東洋電機製造製のIGBT素子を使用した2レベルVVVFインバータ制御装置(PGセンサレスベクトル制御・1C4M制御方式)を採用した。制御装置は従来の周辺機器一体形から制御装置本体やフィルタリアクトル等などが個別設置されたものとなっている。主電動機についても東洋電機製造製の1時間定格190 kWのかご形三相誘導電動機に交換された。主電動機取り付け寸法は交換前の主電動機と同一で、駆動装置や台車の変更はない。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この更新工事は京急ファインテック久里浜事業所において定期検査の前に入場させ、約2週間の工期で機器更新を行い、その後定期検査を施工して出場させている。この際車内掲示の製造ステッカーは「Powered by SIEMENS」表記のないものに変更されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "施工順序は以下のとおり。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2013年8月15日に更新後の試運転を行った2101編成から車体更新工事が施工されている。工事内容は以下の通り。「*」表記は600形・新1000形10次車以降で採用済みのもの、「**」表記は新1000形11次車以降で採用済みのもの。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2020年6月現在では全編成の更新が完了している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、これとは別に、2017年5月1日からのウィング号とモーニング・ウィング号の全席指定化に伴い、同年4月までに補助席も含む全ての席に座席番号が割り振られた。これらはイブニング・ウィング号とモーニング・ウィング号の全座席のほか、「ウィング・シート」が設定されている快特の2号車でのみ有効となり、「ウィング・シート」設定のない快特・特急・急行での運行時は従来通り全席自由席となる。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2022年11月26日改正ダイヤにおける行路表...",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "原則的に、自社線内の本線・久里浜線の快特として泉岳寺駅・品川駅 - 京急久里浜駅・三崎口駅間を運転する。日中時間帯は土休日の一部列車を除く泉岳寺駅発着快特の全列車に使用される。朝および土休日夜間には特急や急行(朝の一部列車のみ)にも使用され、平日夜間は「イブニング・ウィング号」、平日朝は「モーニング・ウィング号」として運用される。立席定員が少ない上に2ドアで乗降に時間が掛かるため、平日朝ラッシュ時最混雑時間帯の本線上り列車には「モーニング・ウィング号」および女性専用車両の設定対象外の品川駅行き快特(金沢文庫駅まで特急)を除き使用されない。また、午前中のみ空港線への乗り入れがあり、平日は4回、土休日は1回羽田空港へ乗り入れる。本線の堀ノ内駅 - 浦賀駅間は平日朝しか運用されない。また、逗子線は定期運用はないものの、稀に事故や悪天候等による運用変更で代走として充当されることがある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当初は羽田空港と成田空港を結ぶエアポート快特への投入が検討されていたため、先頭車は地下鉄線への乗り入れに必要な非常用貫通扉を装備するが、2扉・クロスシートという構造から東京都交通局(都営地下鉄)が定期列車としての乗り入れを認めなかったため、自社線内のみで運転されている。このため、8両編成12本96両の製造計画に対して10本80両が落成したところで車両の増備は新1000形に変更され、2100形の製造は2000年に終了した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "編成が10本しかないことから、検査や工事などでの入場時には運用可能な編成が足りなくなる場合があり、その場合は3扉の1500形・600形・新1000形が代走する。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には「8E」と表記される。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2005年6月11日からは、2157編成が600形606編成と同様に車体の塗装を青色に変更し、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」(京急ブルースカイトレイン)として営業運転を開始した。その後、更新工事に伴い2015年3月をもって2157編成は「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」を退役し、標準塗装に戻された。代わりに同年3月10日に更新工事から出場した2133編成が青色に変更され、2代目「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」として就役した。",
"title": "イベント・ラッピング列車"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "これまでに運行されたものは以下のとおりである。",
"title": "イベント・ラッピング列車"
}
] |
京急2100形電車(けいきゅう2100がたでんしゃ)は1998年(平成10年)3月28日に営業運転を開始した京浜急行電鉄の特急形車両である。 本項では、特記のない限り各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。 また、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指すものとする。
|
{{参照方法|date=2013年9月}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急2100形電車
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Keikyu-Type2100-73.jpg
| 画像説明 = 京急2100形<br />(2021年7月18日)
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]兵庫工場
| 製造年 = 1998 - 2000年
| 製造数 = 10編成80両
| 運用開始 = 1998年3月28日<ref name="Keikyu100th">京浜急行電鉄 『京浜急行百年史』p.532。</ref>
| 編成 = 8両編成<ref name="RFP56">[[#RF445|新車ガイド]]、p.56。</ref>
| 軌間 = 1,435 mm ([[標準軌]]) I
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 120 km/h
| 設計最高速度 = 130 km/h<ref name="RFP52">[[#RF445|新車ガイド]]、p.52。</ref>
| 起動加速度 = 3.5 km/h/s<ref name="RFP56"/>
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s<ref name="RFP56"/>
| 非常減速度 = 4.5 km/h/s<ref name="RFP56"/>
| 編成定員 = 942人<br />座席定員 556人
| 車両定員 = 先頭車 111人<ref name="RFP56"/><br/>(着席定員 50席、補助椅子 12席)<ref name="RFP56"/><br/>中間車 120人<ref name="RFP56"/><br/>(着席定員 54席、補助椅子 16席)<ref name="RFP56"/>
| 自重 = 本文参照
| 編成重量 = 229 [[トン|t]]
| 全長 = 18,000 mm<br />先頭車 18,170 mm<ref name="RFP56"/>
| 全幅 = 2,830 mm<ref name="RFP56"/>
| 全高 = 4,026.5 mm<ref name="RFP56"/><br />パンタグラフ搭載車 4,050 mm<ref name="RFP56"/>
| 台車 =
| 主電動機 = 1TB2010-0GC02形[[かご形三相誘導電動機]]<br/>機器更新後はTDK6163-A形かご形三相誘導電動機
| 主電動機出力 = 更新前 190 [[ワット|kW]](連続定格値、機器更新後は1時間定格)<ref name="RFP56"/>
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン駆動]]<ref name="RFP56"/>
| 歯車比 = 83:14 (5.93)<ref name="RFP56"/>
| 編成出力 = 190 kW×16 = 3,040 kW(連続定格値、機器更新後は1時間定格)
| 制御方式 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](更新前)<br/>[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子VVVFインバータ制御(更新後)
| 制御装置 =
| 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生制動]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式電磁直通空気制動]]([[応荷重装置]]、増圧ブレーキ付)<ref name="RFP56"/>
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]、[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
| 備考 =
| 備考全幅 =
}}
[[File:Keikyu2100-sbb-ksg.jpg|300px|thumb|2100形(更新前)]]
'''京急2100形電車'''(けいきゅう2100がたでんしゃ)は[[1998年]]([[平成]]10年)[[3月28日]]に営業運転を開始した<ref name="Keikyu100th"/>[[京浜急行電鉄]]の[[特急形車両]]である。
本項では、特記のない限り各種文献に倣い、[[京急本線]]上で南側を「[[浦賀駅|浦賀]]寄り」または「浦賀方」、北側を「[[品川駅|品川]]寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。
また、「新1000形」は[[2002年]](平成14年)登場の[[京急1000形電車 (2代)|1000形(2代)]]、「1000形」は[[1959年]](昭和34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]]、「700形」は[[1967年]](昭和42年)登場の[[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]]、「600形」は[[1994年]](平成6年)登場の[[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]]を指すものとする。
== 概要 ==
主に京急本線・[[京急久里浜線|久里浜線]]を運行する[[快速特急|快特]]で使用されていた[[京急2000形電車|2000形]]の後継車として製造され、8両編成10本(80両)が在籍する<ref>鉄道ファン640号付録 大手私鉄車両ファイル車両配置表</ref>。京浜急行電鉄の創立100周年を記念し、[[21世紀]]をかけて、21世紀へ向かう車輛という意味を込めて「2100」の形式称号が与えられた<ref name="RFP51">[[#RF445|新車ガイド]]、p.51。</ref><ref name="佐藤2014p90"/>。
本形式では車内居住性の向上を重視し、コストダウンとメンテナンス低減・車両性能の向上のため、主制御器・主電動機、座席や座席表地に日本国外製品を数多く導入した車両である<ref name="RFP51"/>。関東私鉄で唯一のオール[[転換クロスシート]]車両である。
主として京急線内の[[京急本線#快特|快特]]に使用され、有料の[[ウィング号 (京急)|「イブニング・ウィング号」や「モーニング・ウィング号」]]にも使用されることから、[[特急形車両]]に分類される場合もある。
== 車両概説 ==
=== 車体 ===
[[アルミニウム合金]]製で車体外板は[[赤]]、窓回りを[[アイボリー]]に[[塗装]]している<ref name="RFP52" />。
前面[[デザイン]]は[[京急600形電車 (3代)|600形]]をベースとし<ref name="RFP52" />、「都会」・「洗練」・「知的」と「スピード感」をイメージした流線型形状とし<ref name="RFP52" />、[[21世紀]]に向かう京急のイメージリーダーにふさわしい車両を目指した。先頭車正面窓下アイボリー塗装の[[ワイパー]]カバーには、形式名(2100)が[[スリット]]状の打ち抜き文字で表現されている<ref name="RFP52" />。これは[[増解結|分割併合]]時にスリットを通して[[連結器]]を見通せるようにしたためである。詳細については後述の[[#次車別解説|バリエーションの節]]を参照のこと。
中間車は基本の連結面間距離18,000 [[ミリメートル|mm]]だが、先頭車はこれより170 mm長い18,170 mmとした<ref name="RFP52" />。側面の出入口は片側2扉構造で、両開き1,200 mmドア幅である<ref name="RFP52" />。
[[京急1500形電車|1500形]]アルミ車と600形で採用した[[発光ダイオード|LED]]表示灯は経年変化による照度低下が著しく、また[[電球]]の寿命も延びたことから[[尾灯]]・[[通過標識灯|急行灯]]および[[車側表示灯|戸閉灯]]が2灯の電球となった<ref name="RFP53">[[京急2100形電車#RF445|新車ガイド]]、p.53。</ref>。尾灯と急行灯の位置は4次車で逆転し、それ以前の編成も変更した。[[方向幕|行先表示器]]は字幕式で、当初は黒地に白文字表記だったが、その後、全車両が[[ローマ字]]併記の白地に黒文字表記式に変更され、さらに2015年1月 - 3月にかけて全先頭車の前面のみがLED式に変更された。車両間には新たに[[転落防止幌]]が設置された<ref name="RFP56"/>。正面のスカートは600形のものと類似した形状であるが、600形のものと比較して横幅が狭くなっている<ref name="RFP52"/>。
側窓はすべて濃色グレーの熱線吸収・[[複層ガラス]]構成とし、[[結露]]防止と空調の効率化のために全てが固定窓である<ref name="RFP52-53">[[京急2100形電車#RF445|新車ガイド]]、pp.52-53。</ref>。側窓は天地寸法を950 mmと大きくとり、さらに外板とフラット化を図り、側面見付けを向上させている<ref name="RFP52-53" />。[[カーテン]]にはパープル系色の[[西陣織]]の横引き式プリーツカーテンを設置する<ref name="RFP53" />。なお、車端部のボックス席の窓以外全ての窓が固定式のため、非常時の[[換気]]のための[[換気扇|排気扇]]を各車に2台設置している<ref name="RFP53" />。
=== 内装 ===
内装の[[概念|コンセプト]]は'''Casual&Free/「若者と自然のエリア」'''とし、メルティな乗り心地、ソフトでやさしい、深く透き通るような客室空間を演出した<ref>[[#RF445|新車ガイド]]、pp.51-52。</ref>。
車内は淡い琥珀色の[[大理石]]模様[[デコラ|化粧板]]張りとし、連結面の妻壁は淡いパープル系の化粧シート仕上げとした<ref name="RFP53"/>。[[車椅子スペース]]は先頭車の[[操縦席|乗務員室]]次位の扉直後に設置をしている<ref name="RFP52"/>。
室内はオール[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]で、ドア間は京急で初採用となる転換クロスシート、車端部は4人掛けボックスシート(固定座席)である<ref name="RFP52" />。先頭車の運転席背面は前向きの固定座席としており、運転席背後以外のドア前には補助腰掛を設置している。
空港連絡列車に使用することを考慮し、一部の固定座席は座面を上げて荷物置場にできる構造となっている<ref name="RFP52" />。ドア間の座席は[[ノルウェー]]・エクネス社 (Georg Eknes) 製、座席表地は[[スウェーデン]]・ボーゲサンズ社 (Bogesunds) 製である<ref name="RFP54">[[京急2100形電車#RF445|新車ガイド]]、p.54。</ref>。なお、車端部ボックスシートと補助座席は日本製となっている。座席はいずれも[[瑠璃色]](紺色系)に[[茜色]](赤色)の水玉模様入りジャカード織(模様入り)で、枕カバーは一般席が赤色、[[優先席]]は灰色系で区別している<ref name="RFP53" />が、[[2019年]][[10月26日]]のダイヤ改正より土休日の一部の快特に設定される指定席「ウィング・シート」に該当する2号車の枕カバーは一般席・優先席とも緑色のものに変更された。
転換クロスシート部は座席を向かい合わせで用いないことを前提に間隔を詰めており、[[座席#シートピッチ|シートピッチ]]は850 mmである<ref name="RFP52" />。営業運転中は一方に向きが固定され、乗客による座席の転換はできない。座席の転換は空気圧による一括転換式を採用しており、始発駅で[[車掌]]のスイッチ操作により進行方向へ座席の向きを合わせる<ref name="RFP52" />。終着駅に到着した際は、到着[[プラットホーム|ホーム]]でそのまま折り返す場合も降車扱いの後ドアを閉め、座席転換後に乗車扱いをする措置がとられている。導入直後、座席の向きを無理やり変えようとした乗客が座席を破損させる事例が生じたため、その後座席の枕カバーに「イスの向きは変えられません」と表示されるようになった。
座席に掴み手がつけられているものの[[つり革]]はドア周辺のみの設置<ref>[[京急2100形電車#RF445|新車ガイド]]、pp.53-54。</ref>で、通路も狭くなっている。なお肘掛と掴み手の形状は2次車増備時に改良され、その後1次車も仕様を統一した。
補助腰掛は出入口と転換腰掛を仕切る壁としての役割がある<ref name="RFP52" />。背ずりは固定されており、座面が手前に引き出してくる形状である<ref name="RFP52" />。[[操縦席|乗務員室]]からの操作で鎖錠・解錠が可能で、混雑時には固定され、閑散時は引き出して使用することができる<ref name="RFP52" />。
側扉と連結面[[貫通扉]]は軽量化のためにペーパー[[ハニカム構造]]を採用した<ref name="RFP53" />。貫通扉は各連結面に設置しており、側扉については室内側は化粧板仕上げ、ドアガラスは側窓同様のグレーの複層ガラスである<ref name="RFP53" />。各扉上部には京急初採用となるLED文字[[スクロール]]表示による[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]を設置している<ref name="RFP53" />。
天井部は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の曲面天井構成で、補助送風機はなく、空調吹き出し口を設置するのみである<ref name="RFP53"/>。車内[[蛍光灯]]には[[アクリル樹脂|アクリル]]製のカバー付蛍光灯を使用している<ref name="RFP53"/>。
床材は新造車としては初めての塗り床構造とし、ベージュとレッド系の[[モザイク]]柄としている<ref name="RFP53"/>。電動車の床面には600形と同様に駆動装置点検蓋が設置されているが、点検ブタは縁取りをなくし、床面のフラット化を図った<ref name="RFP53"/>。
<gallery>
ファイル:Inside-keikyu2100-1.jpg|車内
ファイル:Inside-keikyu2100-2.jpg|車端部の固定腰掛と補助腰掛(収納状態)
ファイル:Keikyu-2100cab.jpg|運転台
</gallery>
==== 乗務員室 ====
ベージュ系の配色、運転台計器台は濃い灰色の色調である<ref name="RFP53" />。計器盤は600形よりも60 mm低くして、特に連結時における前方下部の視認性向上を図った<ref name="RFP53" />。[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]はT字形ワンハンドル式<ref name="RFP53" />で、[[力行]]1 - 5[[ノッチ]]・常用ブレーキ1 - 5段・[[非常ブレーキ|非常]]で構成される。マスコンハンドル右端には非常時に使用する「[[緊急列車防護装置|緊急スイッチ]]」を新たに設置した<ref name="RFP53" />。
=== 機器類 ===
[[file:Keikyu 2140 plates.jpg|thumb|150px|right|Powered by SIEMENSの表記がある車内製造銘板]]
{{Sound|京急VVVF.ogg|京急VVVF.ogg|2008年7月28日 品川駅}}
{{Sound|Keikyu kaitoku 2124 shinagawa.ogg|2124号の走行音(快特)|1999年7月19日<br />京急本線 横浜 - 品川}}
制御装置は[[ドイツ]]・[[シーメンス]]社製の [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]]「SIBAS32(シーバス32)」による [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を採用した。車内の製造ステッカーには製造会社の下に「Powered by SIEMENS」の表記がある。発車時の電動機およびインバータ装置から発する[[磁励音]]が音階<!--([[変ロ長調]]でファ・ソ・ラ・シ♭・ド・レ・ミ♭)-->に聞こえることが特徴で、このことから[[鉄道ファン]]の間では「ドレミファインバータ」や「歌う電車」とも呼ばれている。但し、[[回生ブレーキ]]の失効速度が8 - 6 [[キロメートル毎時|km/h]]前後と高く、<!--[[純電気ブレーキ]]が搭載されてないため←1 km/h以下まで動作するのが純電気ブレーキである-->停車時には音階は聞こえない。
主制御器はG1450 D1130 / 560 M5-1形で、VVVFインバータ装置、[[フィルター]][[リアクトル]]、断流器などを「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体箱に収めた構成とした<ref name="RFP53"/>。また、この制御装置はベクトル制御やスリップ・スライド制御(空転滑走制御)など高い精度での電動機のトルク制御を行い、本系式の高い性能を実現している<ref name="RFP53"/>。
主電動機は1:1という[[MT比]]で高速性能と高加速度を両立するため、高出力の1TB2010-0GC02形[[かご形三相誘導電動機]]を採用した。なお、電動機の京急における制式名称は'''KHM-2100形'''である。
基礎[[鉄道のブレーキ|ブレーキ]]は従来からの金属製ブレーキシリンダをゴムシリンダ(ダイヤフラム式)に変更しており、各車両に増粘着装置が取り付けられている<ref name="佐藤2014p90"/>。
[[鉄道車両の台車|台車]]は[[空気ばね]](枕ばね)を車体に直結させるダイレクトマウント式のボルスタ(枕梁)付き台車であり、軸箱支持方式は高速走行時の乗り心地の観点から乾式ゴム入りの円筒案内式である<ref name="RFP56"/>。動力台車は「TH-2100M形」、付随台車は「TH-2100T形」と称する<ref name="RFP56"/>。さらに上下振動を減少させ、乗り心地の向上を図るため、軸ばねの外側に軸ダンパを設置していた<ref name="RFP56"/>が、後年に撤去された。
<gallery>
ファイル:Keikyu2100-G1430D1130-560M5-1.jpg|シーメンス社製のトラクションコンテナ(VVVFインバータ装置)
ファイル:Keikyu2100-NC-WAT150C.jpg|三菱電機製のSIV装置
ファイル:Keikyu2100-SL22-9.jpg|一体箱構成のスクリュー式空気圧縮機
ファイル:Keikyu-2100-TH2100M.jpg|TH-2100M形動力台車
ファイル:Keikyu-2100-TH2100T.jpg|TH-2100T形付随台車
</gallery>補助電源装置には[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子を使用した[[三菱電機]]製の150 kVA出力[[静止形インバータ]](NC-WAT150C形)で、本形式より車内の低圧補助回路の電圧を[[三相交流]]440Vへと向上させた<ref name="RFP55">[[#RF445|新車ガイド]]、p.55。</ref>。
[[圧縮機|電動空気圧縮機]]にはドイツ・[[クノールブレムゼ]]社製の100パーセント稼働率のスクリュー式(SL-22形、吐出量は1600 [[リットル|L]]/[[分|min]])が採用され<ref name="RFP55"/>、これまでの8両編成3台装備から2台へ削減された<ref name="佐藤2014p90"/>。新1000形(5次車まで)にも同形の物が採用された。
[[集電装置]]は[[東洋電機製造]]製のPT7117-A形シングアーム式を使用している。
[[エア・コンディショナー|空調装置]]は三菱電機製のCU-71G形を使用し、能力は41.8 kW(36,000 kcal/h)としている。外観では装置の前後にFRP製の曲面カバーを設置し、丸みを強調したものとした<ref name="RFP55"/>。
== 次車別解説 ==
1998年から2000年にかけ、4次にわたって製造された。すべて4M4Tの8両編成で、4両 (2M2T) で1ユニットを組む。各次車における主な変更点は以下のとおりである<ref name="JTB11">JTBキャンブックス『京急クロスシート車の系譜 - 京濱・湘南電鐵より今日の京急まで歴代の名車を綴る - 』を参照。</ref>。
=== 1次車 ===
[[1998年]]2 - 3月に落成。この2編成のみ(白幕化当時は)方向幕の字が細かったが、機器更新の際に他編成と同じく字が太いものに交換されている。落成時にはワイパーカバーのスリットに各先頭車の車両番号を表記していた(例:デハ2101は「2101」とスリット表記)。その後、2次車の落成時期に2次車と同様の表記方式に変更した<ref group="注">ただし、デハ2172が事故でワイパーカバーを破損した際、デハ2101が「2100」のカバーを貸与し、その後しばらくは落成時の「2101」表示で運用していた。</ref>。さらに3次車の落成に合わせて2次車とともに3次車に合わせた表記方法に変更した。
=== 2次車 ===
1998年10 - 11月に落成。ワイパーカバーの車両番号表記を形式名「2100」表示に変更した。このため、車両番号は正面非常扉の白色部の下に4桁表示で記載された。[[書体]]は600形などと同様の「スミ丸ゴシック体」であった(1次車も同様の表記に変更)。
先頭車にある車椅子スペース部において、カーテンが省略されていたが、新たに設置した。さらに乗務員室背面仕切壁を側面と同様の化粧板張りから、妻面と同じパープル系の化粧シート仕上げに変更した。
また、運転席直後の椅子では、立客が寄りかかるため座席の補強をし、[[暖房]]器具を隠すカバーを設置し、転換式腰掛の窓側肘掛位置の変更などが実施された。
=== 3次車 ===
[[1999年]]4 - 5月に落成。非常扉側の車両番号の表記を落成当初から現行表記とした。正面非常扉にあった4桁の車両番号表記を、白色部への下2桁表示に変更した。書体はワイパーカバーの表記に合わせたものである。同時期に1・2次車もこの仕様に変更し、以後の標準となった。<!-- 航空機の表記は鉄道車両と関係ない -->
=== 4次車 ===
[[2000年]]10 - 11月に落成。急行灯を落成当初から車両の外側とした。細かな点では、座席の肘掛を灰色から紺色に変更した。
==更新工事==
===制御装置の更新===
本形式と新1000形アルミ車両(1 - 5次車)で採用したドイツ・シーメンス社製の電機品は、日本製の機器とは仕様が異なる点があり、特に保守面において不利な点があるなど問題があった。このため、導入から約10年を経て機器の更新時期を迎えた車両より順次、日本製の機器への置き換えが開始された<ref name="RP-2010">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』2010年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑記事を参照。</ref>。この機器更新は2015年3月の2133編成をもって全編成への施工が完了した<ref name="railf150311">[http://railf.jp/news/2015/03/11/174000.html 京急2100形2133編成が「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」となり出場] 鉄道ファン railf.jp</ref><ref group="注">本形式同様にシーメンス製の制御装置を持つ新1000形やJR東日本E501系も、既に全編成がIGBT方式の制御装置に更新されている。</ref>。
新しい制御装置は[[東洋電機製造]]製の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]を使用した2レベルVVVFインバータ制御装置(PGセンサレスベクトル制御・1C4M制御方式)を採用した。制御装置は従来の周辺機器一体形から制御装置本体やフィルタリアクトル等などが個別設置されたものとなっている。主電動機についても東洋電機製造製の1時間定格190 kWのかご形三相誘導電動機に交換された<ref>電機品のメーカーについては交通新聞社『私鉄車両編成表 2010』に東洋電機製であることが記載されている。</ref>。主電動機取り付け寸法は交換前の主電動機と同一で、駆動装置や台車の変更はない。
*制御装置形式:東洋電機製造製RG6008-A-M形 1C4M制御
*主電動機形式:東洋電機製造製TDK6163-A形かご形三相誘導電動機 1時間定格190 kW
<gallery>
ファイル:Keikyu2100-RG6008-A-M01.jpg|機器更新後のVVVFインバータ装置(右)と高速度遮断器(HB・左)。両者とも東洋電機製造製。
ファイル:Keikyu2100-RG6008-A-M02.jpg|インバータ装置の海側(素子冷却フィン)
ファイル:Keikyu2100-RG6008-A-M03.jpg|インバータ装置の山側(ゲート制御部)
</gallery>
この更新工事は[[京急ファインテック]]久里浜事業所において定期検査の前に入場させ、約2週間の工期で機器更新を行い、その後定期検査を施工して出場させている。この際車内掲示の製造ステッカーは「Powered by SIEMENS」表記のないものに変更されている<ref group="注">[[東芝]]製のVVVFインバータ装置に更新された新1000形1405編成も同様。</ref>。
施工順序は以下のとおり。
* 2008年度:2165編成(2008年12月13日付<ref>「大手私鉄車両ファイル 車両データバンク」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2009年9月号(通巻581号)付録、[[交友社]]</ref>)
* 2009年度:2101編成(2009年9月)・2109編成(2009年12月)<ref>「大手私鉄車両ファイル 車両データバンク」『鉄道ファン』2010年9月号(通巻593号)付録、交友社</ref>
* 2010年度:2125編成(2010年6月)・2117編成(2010年9月)<ref>「大手私鉄車両ファイル 車両データバンク」『鉄道ファン』2011年9月号(通巻605号)付録、交友社</ref>
* 2011年度:2149編成(2011年8月)<ref>「大手私鉄車両ファイル 車両データバンク」『鉄道ファン』2012年8月号(通巻616号)付録、交友社</ref>
* 2012年度:2157編成(2012年3月)・2173編成(2012年8月)<ref>[[交通新聞社]]『鉄道ダイヤ情報』2013年3月号特集「京急電車2013」79頁記事</ref>
* 2013年度:2141編成(2014年1月)
* 2014年度:2133編成(2015年3月、後述の更新工事も同時施工<ref name="railf150311" />)
=== 車体更新 ===
2013年[[8月15日]]<ref>[http://railf.jp/news/2013/08/15/110000.html 京急2100形2101編成が試運転] 鉄道ファン railf.jp</ref>に更新後の試運転を行った2101編成から車体更新工事が施工されている。工事内容は以下の通り。「*」表記は600形・新1000形10次車以降で採用済みのもの、「**」表記は新1000形11次車以降で採用済みのもの。
2020年6月現在では全編成の更新が完了している。
* [[エア・コンディショナー|冷房装置]]をCU-71H-G2に交換。
* 空調装置操作器を浦賀寄り運転台に追加設置。
* 各ドア上部に1台、17[[インチ]][[液晶ディスプレイ]]・停車駅案内枠設置。*
** 液晶ディスプレイは600形・新1000形10次車以降とは異なるデザインとなり、[[東京メトロ16000系電車|東京メトロ16000系]]などと同様にアニメーション表示がある。
* ドアチャイムを設置。新1000形10次車以降に採用されたドアチャイムが使用されているほか、誘導音も動作する。*
* ドアの色調をアイボリーからホワイトへ変更
* 優先席のモケットの地と柄の配色を反転。
* 車内照明を蛍光灯からLED灯による間接照明に変更。**
* 車端部窓の開閉可能化。この部分のみはカーテンが縦引き式(ロールアップカーテン)に変更された。
* 排気扇を半減。
* 車両の前面非常口部分にけいきゅんのステッカーを貼り付け。
* 客室窓枠下の帯など、部品の交換。
* 車上情報管理装置の設置。
また、これとは別に、2017年5月1日からの[[ウィング号 (京急)|ウィング号とモーニング・ウィング号]]の[[座席指定席|全席指定化]]に伴い、同年4月までに補助席も含む全ての席に座席番号が割り振られた。これらはイブニング・ウィング号とモーニング・ウィング号の全座席のほか、「ウィング・シート」が設定されている快特の2号車でのみ有効となり、「ウィング・シート」設定のない快特・特急・急行での運行時は従来通り全席自由席となる。
<gallery>
ファイル:Keikyu-Type2100-2165F-Lot4.jpg|更新後の2100形
ファイル:KQ-2100-SHIN-INNER.jpg|更新後の車内
ファイル:Keikyu 2100 series new courtesy seat.jpg|配色が変更された優先席
ファイル:KQ-2100-SHIN-DOOR.jpg|ドア廻り
ファイル:KQ-2100-SHIN-LIGHT.jpg|LED化された照明
</gallery>
== 運用 ==
{{未検証|section=1|date=2011年11月}}
[[File:Keikyu_2100_Keisei_AE100.jpg|thumb|都営フェスタで並んだ2100形と[[京成AE100形電車|京成AE100形]]]]
2022年11月26日改正ダイヤにおける行路表…<ref name="平日の行路表">{{Cite web|和書|title=平日の行路表|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/train/sys_files/train_workday_pdf/4/20221126heijitu.pdf|accessdate=2023-10-25}}</ref><ref name="土休日の行路表">{{Cite web|和書|title=土休日の行路表|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/train/sys_files/train_holyday_pdf/4/20221126kyujitu.pdf|accessdate=2023-10-25}}</ref>
原則的に、自社線内の本線・久里浜線の[[京急本線#快特|快特]]として[[泉岳寺駅]]・[[品川駅]] - [[京急久里浜駅]]・[[三崎口駅]]間を運転する。日中時間帯は土休日の一部列車を除く泉岳寺駅発着快特の全列車に使用される。朝および土休日夜間には[[京急本線#特急|特急]]や[[京急空港線#急行|急行]](朝の一部列車のみ)にも使用され、平日夜間は「イブニング・ウィング号」、平日朝は「モーニング・ウィング号」として運用される。立席定員が少ない上に2ドアで乗降に時間が掛かるため、平日朝[[ラッシュ時]]最混雑時間帯の本線上り列車には「モーニング・ウィング号」および[[日本の女性専用車両|女性専用車両]]の設定対象外の品川駅行き快特([[金沢文庫駅]]まで特急)を除き使用されない。また、午前中のみ[[京急空港線|空港線]]への乗り入れがあり、平日は4回、土休日は1回[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]へ乗り入れる。本線の[[堀ノ内駅]] - [[浦賀駅]]間は平日朝しか運用されない。また、[[京急逗子線|逗子線]]は定期運用はないものの、稀に事故や悪天候等による運用変更で代走として充当されることがある。
当初は羽田空港と[[成田空港駅|成田空港]]を結ぶ[[エアポート快特]]への投入が検討されていたため、先頭車は地下鉄線への乗り入れに必要な非常用[[貫通扉]]を装備するが、2扉・クロスシートという構造から[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])が定期列車としての乗り入れを認めなかったため、自社線内のみで運転されている<ref group="注">なお、[[馬込車両検修場]]でのイベント時のように非営業で浅草線へ入線した実績はある他、2019年1月1日には臨時列車として都営浅草線浅草橋始発特急「初日1号」が当2100形で運転され、都営浅草線内での旅客営業を果たしている。翌年の2020年1月1日も同様の運用に就いている。</ref>。このため、8両編成12本96両の製造計画に対して10本80両が落成したところで車両の増備は[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]に変更され、2100形の製造は2000年に終了した。
編成が10本しかないことから、検査や工事などでの入場時には運用可能な編成が足りなくなる場合があり、その場合は3扉の1500形・600形・新1000形が代走する。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には「8E」<ref>[[#吉本1999|『京急ダイヤ100年史』p274]]</ref>と表記される。
== イベント・ラッピング列車 ==
[[File:Keikyu 2157 blue sky.jpg|thumb|「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」色の2157編成<br />(2006年10月26日 / 津久井浜)]]
[[2005年]][[6月11日]]からは、2157編成が600形606編成と同様に車体の塗装を[[青|青色]]に変更し、「'''KEIKYU BLUE SKY TRAIN'''」(京急ブルースカイトレイン)として営業運転を開始した。その後、更新工事に伴い[[2015年]][[3月]]をもって2157編成は「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」を退役し、標準塗装に戻された。代わりに同年[[3月10日]]に更新工事から出場した2133編成が青色に変更され、2代目「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」として就役した<ref name="railf150311" />。
これまでに運行されたものは以下のとおりである。
* [[2001年]]
** [[1月1日]] おめでた列車「新世紀初日号」。
** [[7月20日]] [[横須賀市]]にあった「[[hide]] MUSEUM」の開業1周年を記念して、品川から[[汐入駅|汐入]]まで「hideミュージアム号」を運行。
** [[7月28日]] 同年7月20日 - [[9月2日]]に開催された「[[デジタルモンスター|デジモン]][[スタンプラリー]]」に合わせて「京急親子デジモントレイン」という[[団体専用列車|貸切列車]]を運行。
** [[9月22日]] - [[10月31日]] [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]制作の[[ゲームソフト]]『[[トロと休日]]』との[[タイアップ]]企画「みさき一日フリーきっぷキャンペーン」の実施に合わせて「[[井上トロ|トロ]]号」を運行。
* [[2004年]]
** [[7月17日]] - [[8月31日]] [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]の[[アニメーション映画]]『[[ファインディング・ニモ]]』とのタイアップ企画として、「ファインディング・ニモ[[ラッピング車両|ラッピング電車]]」を運行。ラッピングは[[DVD]]・[[磁気テープ|ビデオ]]ソフト発売のPRで、1号車から8号車へ向かい『ファインディング・ニモ』の物語として読める仕掛けとなっていた。また、3・5号車ではPR映像も放送した。
* [[2005年]]
** 6月下旬 - [[7月14日]] 「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」にて事前に募集した新1000形「羽田第2ターミナルPR電車」と600形「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」の写真や絵画を車内で展示。
** 11月下旬 - [[2006年]]1月 「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」は600形と同様[[虹]]のラッピングを貼付し『レインボートレイン』として運行。詳細は[[京急600形電車 (3代)|600形]]を参照。
* [[2006年]]
** [[7月17日]] - [[8月20日]]頃 [[日産自動車]]、[[横浜F・マリノス]]とタイアップし、「BLUE SKY TRAIN NISSAN/F・MARINOS号」を運行。車体に日産の社名[[ロゴタイプ|ロゴ]]や横浜F・マリノス所属選手の写真などがラッピングされた。「京急線[[横浜駅]]新ホーム完成」「[[2009年]]日産本社の[[横浜みなとみらい21|みなとみらい]]地区への移転を中心とする日産神奈川プロジェクト」「[[J1リーグ|Jリーグ]]での横浜F・マリノスの活躍の祈念」など、[[横浜市]]のPRを目的としていた。
** [[12月8日]]頃 - [[2007年]]1月中旬 2006年[[12月16日]] - 2007年[[1月14日]]([[元日]]は除く)に開催された「[[たまごっち]]スタンプラリー」に合わせて側面に『たまごっち』の[[キャラクター]]が描かれたラッピング電車として運行。
* [[2007年]]
** [[4月9日]] 2133編成が横須賀市市制100周年記念ラッピング電車となっている。側面中央の窓下には『横須賀が好き!』と大書され、客用ドア横には横須賀市の名所をイメージしたラッピングが貼付されている。
* [[2009年]]
** 8月頃「[[2016年東京オリンピック構想|2016年東京オリンピック招致]]」ラッピングが施された。
** [[8月24日]] 「京急あきたフェア」開催に合わせて、2133編成が「[[あきたこまち]]」[[奨励品種]]採用25周年記念ラッピング電車となっている。
* [[2010年]]
** [[5月16日]]から「羽田空港国際ターミナル」ラッピング電車が運行。当初は3月からの運行予定だったが、同年[[3月27日]]に「国際ターミナル駅」(当時の仮称、同年[[5月14日]]に[[羽田空港第3ターミナル駅|羽田空港国際線ターミナル駅]]に正式決定)で発生した火災の影響により中止となっていた<ref>「[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2010/05/2100.html 【京急】2100形に「世界へ。京急で。」のラッピング]」ネコ・パブリッシング『RMニュース』、2010年5月17日閲覧</ref>。
** 6月18日 - 8月31日 2133編成が京急環境電車として運行、車体に「ノルエコ」のラッピングを行った。
* [[2011年]]
**[[11月5日]]に2141編成が[[馬込車両検修場]]で開催された「都営交通100周年記念フェスタin浅草線」で展示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2011/sub_i_201110251_h.html|title=「都営交通100周年記念フェスタin浅草線」追加情報|accessdate=2014-10-18|publisher=東京都交通局|date=2011-10-25}}</ref>。本形式にとってはこれが[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]初走行となった。
* [[2012年]]
** 4月10日 - 9月 蒲田を舞台とした[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]『[[梅ちゃん先生]]』の放送に合わせ、2141編成に同番組のラッピングを施工<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2012/04/2100_5.html 【京急】2100形に「梅ちゃん先生」ラッピング] -鉄道ホビダス 2012年4月10日</ref>。
* [[2014年]]
** 8月4日 - 9月6日 2157編成に映画「[[トランスフォーマー/ロストエイジ]]」のラッピングを施した、「オプティマス司令官号」を運行。
* [[2015年]]
** 10月5日 -11月22日 2165編成に「カワサキ ハロウィン2015」と「かわさきジャズ2015」をPRするラッピングを施した「Kawasaki Autumn号」を運行。
* [[2016年]]
** 2月1日 - 3月14日 2149編成がバレンタイン列車「KEIKYU LOVE TRAIN」として運行。車内のシートカバーをバレンタイン仕様に変更するとともに、2155号車の優先席の一部(4席分)を「相合席」に、吊り革の一部をハート型に変更した<ref>{{Cite press release |和書 |title=今年は吊り革だけじゃない!座席シートもチョコもハートになっちゃった!「KEIKYU LOVE TRAINキャンペーン」 |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |date=2016-01-19 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20160119HP_15184MK.html |accessdate=2016-02-03}}</ref>。
** 2月22日 - 6月5日 [[台湾鉄路管理局]]との友好鉄道協定締結1周年を記念し、台鉄で活躍する客車([[普快車]])と「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」の車体色が類似していることから、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」色の2133編成を普快車のデザインに近づけるため、車体、排障器にラッピングを施して、台鉄列車の普快車のデザインとしたラッピング列車を運行した。車両の前後には友好鉄道協定を記念したヘッドマークを掲出していた<ref>{{Cite press release |和書 |title=台鉄×京急 友好鉄道協定締結1周年記念 羽田空港国際線ターミナル駅に台湾・台鉄PRブースを設置 特大PRパネルで台湾の魅力を発信していきます |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |date=2016-02-17 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20160217HP_15213MT.html }}</ref>。当初は3月26日で運行終了予定だったが、好評だったことから6月4日まで運行を延長することとなった。なお、何らかの都合で翌5日までこのラッピングで運行を継続している。
** 11月14日 - 12月17日 [[ソニックシリーズ]]並びに[[ぷよぷよ]]シリーズ発売25周年を記念して、[[京急空港線|空港線]][[大鳥居駅]]近くに事業所がある[[セガゲームス]]とのコラボレーションで、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」にソニックシリーズとぷよぷよシリーズのキャラクターをラッピングした「京急セガトレイン」を運行<ref>[http://sega.jp/topics/161107_soft_1/ セガゲームスの人気ゲーム「ソニック」&「ぷよぷよ」発売25周年記念企画ラッピング電車「京急セガトレイン」運航のお知らせセガ発祥の地の最寄駅「大鳥居駅」駅名看板も特別仕様に!] セガ製品情報サイト 2016年11月7日</ref>。
* [[2018年]]
** 5月14日 - 6月23日 2149編成が京急環境電車として運行、車体に「ノルエコ」のラッピングを行った。[[ファイル:マリンパーク号.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|油壷マリンパーク号(2019年3月)]]
* 2018年 - 2019年
** 9月1日 - 3月31日 2149編成が油壺マリンパーク号として期間限定運行
** 10月21日 - 1月12日 2133編成がけいきゅんの7歳の誕生日で、けいきゅん号として運行
*** ※2133編成は1月13日をもってラッピング終了。最後は京急久里浜駅でマリンパーク号と車両交換。
*[[2019年]]
** 1月1日 初日1号に充当、都営浅草線内を初めて営業運行。2019年1月1日の元日に走らせる「初日号」(特急 三崎口行)の「初日1号」については以前から「都心から乗り換えなしでお出かけできるよう、都営浅草線・浅草橋駅始発となります」とのアナウンスがあり、都営浅草線浅草橋駅始発となった<ref>https://web.archive.org/web/20200509092546/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2018/sub_i_201811278299_h.html</ref>。
*[[2020年]]
** 2月29日 - 4月18日 春の定期購入キャンペーンの一環で、すみっコぐらし×京急プレミアポイントのラッピングが2149編成で運行された。
** 9月19日 - 11月28日 「HANEDA INNOVATION CITY」オープン記念に行われた「たべる!あそべる!イノべーる!GO!SKY AREA」キャンペーンではねぴょん号が2133編成で運行された。
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:100%">
ファイル:Keikyu blue sky train Taiwan Railway Ordinary color.jpg|「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」色に台湾鉄路管理局の普快車のデザインを施した2133編成<br />(2016年5月26日 / 久里浜工場)
File:TRA R101 at Dawu Station 20150901.jpg|元になった台湾鉄路管理局の普快車<br />(2015年9月1日 / [[大武駅]])
File:Keikyu 2139 BLUE SKY TRAIN TRA local 20160306.jpg|車体に白帯と台鉄のマークがついた<br />(2016年3月6日 /京急川崎)
File:TRA 35SPK32717 at Taitung Station 20140501.jpg|元になった普快車の客車<br />(2014年5月1日 / [[台東駅]])
</gallery>
== 編成表 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
| colspan="8" |{{TrainDirection|三崎口/浦賀/羽田空港第1・第2ターミナル|泉岳寺}}
! rowspan="4" style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造メーカー
! rowspan="4" style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |竣工日
! rowspan="4" style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |備考
|-
!形式・車種
|'''デハ2100形'''<br />(Muc)
|'''サハ2100形'''<br />(T)
|'''サハ2100形'''<br />(Tp)
|'''デハ2100形'''<br />(Mu)
|'''デハ2100形'''<br />(Ms)
|'''サハ2100形'''<br />(T)
|'''サハ2100形'''<br />(Tp)
|'''デハ2100形'''<br />(Msc)
|-
!機器配置
| VVVF・CP || BT || SIV || VVVF || VVVF || BT || SIV || VVVF・CP
|-
! style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |車両重量
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 33.0 [[トン|t]] || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 24.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 26.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 30.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 30.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 24.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 26.5 t || style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" | 33.0 t
|-
! rowspan="2" |1次車
| 2101 || 2102 || 2103 || 2104 || 2105 || 2106 || 2107 || 2108 || [[東急車輛製造|東急車輛]] || 1998年2月9日 ||
|-
| 2109 || 2110 || 2111 || 2112 || 2113 || 2114 || 2115 || 2116 || [[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工]] || 1998年3月4日 ||
|-
! rowspan="3" |2次車
| 2117 || 2118 || 2119 || 2120 || 2121 || 2122 || 2123 || 2124 || 川崎重工 || 1998年10月27日 ||
|-
| 2125 || 2126 || 2127 || 2128 || 2129 || 2130 || 2131 || 2132 || 東急車輛 || 1998年10月19日 ||
|-
| 2133 || 2134 || 2135 || 2136 || 2137 || 2138 || 2139 || 2140 || 東急車輛 || 1998年11月2日 || 「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」第3編成(2015年3月 - )
|-
! rowspan="3" |3次車
| 2141 || 2142 || 2143 || 2144 || 2145 || 2146 || 2147 || 2148 || 東急車輛 || 1999年4月19日 ||
|-
| 2149 || 2150 || 2151 || 2152 || 2153 || 2154 || 2155 || 2156 || 東急車輛 || 1999年5月17日 ||[[京急油壺マリンパーク]]50年記念
|-
| 2157 || 2158 || 2159 || 2160 || 2161 || 2162 || 2163 || 2164 || 川崎重工 || 1999年5月21日 || 「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」第2編成(2005年6月 - 2015年3月)
|-
! rowspan="2" |4次車
| 2165 || 2166 || 2167 || 2168 || 2169 || 2170 || 2171 || 2172 || 川崎重工 || 2000年10月30日 ||
|-
| 2173 || 2174 || 2175 || 2176 || 2177 || 2178 || 2179 || 2180 || 東急車輛 || 2000年11月8日 ||
|}
; 凡例
:* VVVF:主制御器 (1C4M)
:* SIV:補助電源装置(静止形インバータ)
:* CP:空気圧縮機
:* BT:蓄電池
:
; 備考
:* パンタグラフはTp車に2台搭載する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2 |refs=
<ref name="佐藤2014p90">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p90]]</ref>
}}
== 参考文献 ==
*JTBキャンブックス『京急クロスシート車の系譜 - 京濱・湘南電鐵より今日の京急まで歴代の名車を綴る - 』
*JTBキャンブックス『京急の車両 - 現役全形式・徹底ガイド - 』
*[[広岡友紀]]、『日本の私鉄 京浜急行電鉄』、[[毎日新聞社]]、2010年7月30日発行
*{{Cite book|和書|author =吉本尚|authorlink = |coauthors =|year = 1999|title = 京急ダイヤ100年史|publisher = [[電気車研究会]]|ref = 吉本1999|id =|isbn = 4885480930}}
*{{Cite journal|和書 |date = 1998-5 |title =新車ガイド 京急2100形 |author = 京浜急行電鉄(株)鉄道本部車両部車両課 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 38 |issue = 5 |pages =51-56 |publisher = [[交友社]] |ref = RF445}}
*[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』
**1998年5月号「京浜急行電鉄2100形」
**1998年7月臨時増刊号「特集:京浜急行電鉄」
**2010年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑「京浜急行電鉄2100形VVVF制御装置更新工事」(京浜急行電鉄 (株) 鉄道本部運転車両部車両課 金子芽美 著)
* {{Cite book|和書|author = 佐藤良介|authorlink = |coauthors =|year = 2014|title = JTBキャンブックス 京急電車の運転と車両探見|publisher = JTBパブリッシング|ref = 佐藤2014|id =|isbn = 9784533097058}}
== 外部リンク ==
* [[日本地下鉄協会]]「SUBWAY」2014年11月号{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/asydHQBxEVtd.pdf 車両紹介「2100形更新車両の紹介」]}}(34-37P掲載)。
{{Commonscat|Keikyu 2100 series}}
{{京浜急行電鉄の車両}}
{{DEFAULTSORT:けいきゆう2100かたてんしや}}
[[Category:京浜急行電鉄の電車|2100かたてんしや]]
[[Category:1998年製の鉄道車両]]
[[Category:東急車輛製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
[[Category:鉄道車両関連]]
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15,216 |
鳩
|
鳩(はと)は、ハト目ハト科に属する鳥類の総称である。体に比べて頭が小さく、胸骨、胸筋が発達してずんぐりとした体型が特徴である。
ハト目には世界では約42属290種あり、そのうち日本の在来種は、カラスバト属(カラスバト、アカガシラカラスバト、ヨナクニカラスバト、リュウキュウカラスバト、オガサワラカラスバト)、キジバト属(キジバト、リュウキュウキジバト、シラコバト)、ベニバト属(ベニバト)、キンバト属(リュウキュウキンバト)、アオバト属(アオバト、リュウキュウズアカアオバト、チュウダイズアカアオバト)の5属13種が挙げられる(9種とする説もある)。
このうち、リュウキュウカラスバトとオガサワラカラスバトの2種は絶滅したと考えられていたが、近年、DNA調査により亜種がいくつかの諸島部で生存していることが確認された。
なお、カワラバト(ドバト)は、1500年程前に日本に渡来した外来種であるとともに、5000年以上前より世界各地で家禽化され広まった飼養品種であるため、学術的には日本ネイティブな在来種ではない。このため、現在でも野鳥とみなされないことがある。また、ジュズカケバトについては、広義にはシラコバトのうち飼養品種となったものとされるため、上記リストからは省かれている。ジュズカケバトの白色変種である銀鳩(観賞用に飼われたりマジックの小道具として使われたりする小型のハト)も同様である。
鳩という名前はパタパタと飛び立つときの音の様子に由来すると考えられる。「鳩」(九+鳥)の字にある(九)は鳴き声(クルッククゥー)からきた、とする説がある。「鳩」の中国語の発音であるキュウ(漢音)やク(呉音)は、英語のハトの鳴き声<coo>(クウ)、日本語のハトの鳴き声「クウクウ」に近い。「ハト」の名は、軽やかに羽ばたく音「ハタハタ」から、ともいう。また、漢和字典では「球」(中心に引き絞られた形)と同源としている。現代の中国語では「鴿子」(正体字)「鸽子」(簡体字)という。拼音は「gēzi」。
食性は雑食性である(木の実やミミズを食べる)。一般的に熱帯種では一腹一卵、温帯種では一腹二卵を産み、14~21日の抱卵の後で孵化する。鳩の雛が孵化から巣立ちするまでの期間は25~40日だが、鳩ミルク(ピジョンミルク)と呼ばれる親鳥のソノウから分泌される高蛋白なミルクで育てられる。雛は親鳥の口に嘴を差し入れてミルクを摂取する。ピジョンミルクには炭水化物は殆ど含まれておらず、主成分は主に蛋白質である。栄養価は高く、ヒトのアスリート向けプロテインに近い成分組成である。ただし、ピジョンミルクには雛の成長につれて、半消化状態の柔らかい餌が徐々に混ざることがわかっている。巣から落ちた鳩のひなを人工飼育するには、植物性のプロテインや練り餌(釣具屋で売っている鮒・鯉釣り用の練り餌が安価で簡便である)をぬるま湯で粥状に溶き、手のひらに握りこんで指のすき間から与えるのが簡単な飼育法である。
ハトはおおよそ10000年から6000年ほど前の新石器時代に飼育動物化されたと考えられている。ハトは人里に近い土地で営巣する動物であり、洞窟や崖、そして泥や石で造られた初期人間の住居に巣を作っていた。中東において当時栽培が始まったコムギやオオムギなどもハトの食料として好適であった。こうしてハトと人間の距離が縮まったのち、ハトの飼育化が始まった。当初は神経質な成鳥に比べて人に慣れやすく飼いやすいハトの雛を成長させる目的で飼育が始まり、やがて家禽化していったと考えられている。
紀元前2900年頃にシュメールのシュルッパクにて起こった大洪水はシュメルの洪水神話として後世に残され、『ギルガメシュ叙事詩』や旧約聖書のノアの方舟の話の原型となった。『ギルガメシュ叙事詩』において既に陸地を探すためにハトを放した話が記載されており、この頃にはハトが飼育されていた証拠とも考えられている。イラクのアルパチャにおいて紀元前4500年頃のハトのテラコッタの像が出土しており、ハトが宗教上重要視されていたことを物語っている。古代エジプトにおいてもハトは飼育されていた。やがてハトの飼育は地中海世界へと広がり、古代ギリシャの各都市やエトルリア人にも広まった。ローマ帝国においてはハトは宗教上重要な意味を持つ一方、肥育されて食用としても盛んに用いられた。
ハトはまた、通信用の伝書鳩としても古代から盛んに使用された。カワラバトから長年にわたって改良された伝書鳩は、戦中の軍事用、戦前・戦後には報道用や通信用に大いに活用された。太陽コンパスと体内時計、地磁気などにより方角を知る能力に優れているとされ、帰巣本能があるため、遠隔地まで連れて行ったハトに手紙などを持たせて放つことによって、情報をいち早く伝えようとしたのである。戦時には古くから軍が導入し、軍用鳩が本格的に研究され、第二次世界大戦においては主に伝令用の他、小型カメラを装着させた敵地偵察用のスパイ鳩として活躍した。薬品や血清等の医薬品、動物(主に牛)の精子の輸送にも使われ僻地医療で重要な役目を果たした。
しかしその後、電話などの通信技術の進歩によりその役目を終えたかに見えた。現在では、脚環にICチップを内蔵した自動入舎システムが普及したため、かつて鳩を飼っていた団塊の世代がリタイア後に再開し、鳩レースを楽しむことが小ブームになっている。また、情報IT関連の新しい試みとして、レース鳩にマイクロSDメモリーカード(合計2TB程度)等の超小型メモリーチップを運ばせたり(200km程度の短距離で所要時間は約2時間)、GPSユニットやCCDカメラ等を取り付け、より詳細な生態や飛行コースを追跡する実験も行われている。
ハトは、その群れを成す性質から、オリーブと共に平和の象徴とされている。日本では、穏健派や平和主義者を「ハト派」、強硬派を同じ鳥類でも猛禽類の鷹にたとえて「タカ派」という比喩表現も使われる。
これは旧約聖書の大洪水(ノアの箱舟)伝説にも由来している。ノアは47日目にカラスを放ったが、まだ水が乾く前であったからすぐに戻ってきた。ハトを放ったところ、オリーブの葉をくわえて戻ってきた。これによりノアは水が引き始めたことを知ったという。「平和の祭典」とも称される近代五輪の開会式では、かつては実際に鳩が飛ばされていたが、外来生物への危機感の高まりや鳩が生息できる環境ではない場所での開催、式典が日中ではなく夜中に行われるようになった事などから、鳩に扮した人のダンサーなどによるパフォーマンスや鳩を模した風船、モニター映像によるもの等に変わった。
また、ギリシア神話においてハトは、愛と美の女神アプロディーテーの聖鳥とされていた他、イアーソーンを始めとする英雄たち(アルゴナウタイ)が乗るアルゴー船が、互いに離れたりぶつかり合ったりを繰り返す二つの巨岩シュムプレーガデスの間を通り抜ける際、試しにハトを通り抜けさせて安全を確認するエピソードや、狩人オーリーオーンがプレイアデス(巨神アトラースの七人娘たち)を追い回した際、それを不憫(ふびん)に思った主神ゼウスが彼女たちをハトに変え、さらに星へと変えたエピソード等が存在する。新約聖書では、荒野で苦行を終えたイエス・キリストがサタンの誘惑を退けた後、聖霊が白いハトの姿となってくだったことは、つとに有名である。
一方、オーストリアの動物行動学の権威、コンラート・ローレンツはその著書『ソロモンの指環』の中で、平和の象徴とされるハトの別の一面を紹介している。2羽のハトを一つの鳥籠に入れて外出したところ、籠の中でハトが喧嘩を起こし、互いに死ぬまで決して戦いを止めようとはしなかった、というもので、こうした「ハトの喧嘩」は戦い方を知らず致命打を与えられるほどの武器も持ち合わせていない動物ほど、いざ争いを始めた際には戦いに慣れた肉食動物以上に凄惨な殺し合いに発展する、という事例の典型例として引き合いに出される。
日本では鳩が八幡神の神使とされてきた。八幡神は軍神なので平和とは結びつかず、武士の家紋ともなった。第二次世界大戦後に西洋での鳩のイメージが入ってきて、タバコのピースのデザインのような平和のシンボルと言うイメージが定着した。
日本の童謡の代表的なものの一つとして『鳩』が挙げられる。また、瀧廉太郎は『鳩ぽっぽ』という童謡を作曲している。
「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲(突然の出来事に、あっけにとられた様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」など諺でもお馴染みである。
ハトの名前は特急「はと」という列車名に用いられたことがある他、日本テレビのジャンクション『鳩の休日』にも開局以来ハトが登場している。また、神奈川県の銘菓の一つに「鳩サブレー」というハトの形を模した菓子も存在している。
企業名やシンボルマークでハトにちなんだものとしては、例えばはとバスや、イトーヨーカ堂のロゴマーク(真上に青と真下に赤の中間にシロバトの位置)、同社傘下のスーパーマーケットであるヨークマートのマーク(ヨーカ堂での青部分が緑)、全国宅地建物取引業協会連合会のシンボルマーク、全国引越専門協同組合連合会が存在する。滋賀県を中心に展開するスーパーチェーンの平和堂のロゴマーク(赤い背景に前にシロバトと後にアオバトの位置)として親しまれていたこともある。後述の外国語名から取られた企業名として、ベビー用品メーカーのピジョン、ガス機器メーカーのパロマなども挙げられる。
日本では1980年代あたりから都市部を中心にハトによる糞害が多発し、問題化している。もともと都市部に生息する野鳥はヒトに肺炎を起こすオウム病、クラミジア(原虫)やクリプトコッカス(カビの一種)を含んだ糞を排出しやすく、特に大群をなすハトはそれを排出しやすい。公園などでの餌付け行為は禁止されている。それでも鳩への餌やりを止めない人もおり、東京都の荒川区や大田区のように罰則付き条例で禁止する地方自治体もある。ハトの食べ残しはネズミも呼び寄せる弊害もあるため禁止条例を求める動きは他地域にも広がっており、大阪市にように餌やり禁止でなく事後の清掃義務付けを規定した例もある。
金沢駅(石川県金沢市)では糞害対策として鷹匠に依頼して鷹で鳩を追い払うパトロールが定期的に行われている。
イングランドでは、胸の筋肉を異常に発達させたポーターという愛玩具用の品種の鳩やen:Fancy pigeonという観賞用のハトの品種群が存在する。
中華人民共和国(中国)では鳥を放つと幸運が訪れるという民間信仰があり、祭事・祝い事の際にはハトを放つ習慣があったが、現在では都市部でハトが繁殖してしまっているため、放鳥が禁止されている地域もある。
一部の地域では、ハトの尾翼の付け根に鳩鈴(英語版)(中国語で鸽铃、鸽哨)と呼ばれる物が、猛禽類に襲われないよう、娯楽、追跡用に付けられる。
食文化として、ドバトは中華料理では普通に食用にされる。また、フランス料理でもハトは食材として一般的である。ギリシア料理、レバノン料理、エジプト料理など地中海沿岸においてハトはよく食される。イギリスでも18世紀頃までは自然繁殖した物を捕らえて調理したハトが一般的に食卓に上っていたといわれ、現在でも食文化中にその名残が見られる。中近東では古くより、乾燥した風土でも放し飼いでよく増える性質があるため、ハトのための養殖場(塔のような建造物)もあり、貴重な動物性蛋白源として、一般的に利用されている。鳩の塔(ピジョン・タワー)と呼ばれるこの塔は、高さは10mから15mほどで、場所によってスタイルが違う。イランのイスファハーン周辺においてはひとつおきに積んだ日干しレンガを高く積み上げ、ハトの休息できる無数の空洞を作る。ここにハトがやってきて営巣するのである。その外側はぐるりと日干しレンガの壁によって覆われており、内部構造は見えなくなっている。外壁にはいくつかの穴があけられており、そこからハトは出入りする。エジプトにおいては中は空洞で、そのかわりに止まり木が何段も差し込まれ、これがハトの巣となっている。イランにおいてのピジョン・タワーの主目的は肥料としてのハトの糞の収集であり、そのため化学肥料の普及後は利用されることはなくなっている。これに対してエジプトのピジョン・タワーは食用ハトの飼育を目的としており、現在でも使用されている。糞ももちろん肥料として使用するが、二義的なものである。
日本では一般的には鳩を食用とすることはまれである。初めて日本にきた中国人はしばしば、野生のハトを誰も捕まえようとせず、ハトも人を恐れないことに驚く。日本において野鳥を狩猟することは鳥獣保護法で規制されているが、キジバト(山鳩)は狩猟鳥であり、食用にされることがある。ハトの卵はハトの肉と同様日本では食材として一般的ではない。沸騰したお湯でも固まらず、ほとんど食べられることはない。
ハトは歩行時に首を前後に振りながら歩くことで知られている。この動作はハト科以外の多くの鳥でも見られるが、ハト(特にドバト)は、警戒心が非常に弱く、歩いている状態で身近に見かける機会が多いため、多くの人々から「首を振る鳥」として認知されている。
この首振り歩行は、暗闇や、ベルトコンベア上を逆向きに歩かせたときは行われない。一方、移動する風景を投影するスクリーンを周囲に張り巡らした実験装置の中では歩行しないまま首振りをする。従って、胴体が前進しているときでも頭部だけはなるべく長時間にわたって空間内で静止するよう首を前後させ、視覚情報を安定して得られるように行われているものと考えられている。また、首振りのタイミングは、体重を片脚で支えている間も重心が安定する位置に来るようになっている。それゆえに「安定して歩行するため」という説もある。恐竜の末裔である鳥類の歩行の研究は、まだまだ、謎に満ちている分野であると言える。
スイスの生物学者が考案したハトの個体数管理方法の一つは次のようなものであり、ノッティンガム、バーゼル等で成功した。
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"text": "ハトはまた、通信用の伝書鳩としても古代から盛んに使用された。カワラバトから長年にわたって改良された伝書鳩は、戦中の軍事用、戦前・戦後には報道用や通信用に大いに活用された。太陽コンパスと体内時計、地磁気などにより方角を知る能力に優れているとされ、帰巣本能があるため、遠隔地まで連れて行ったハトに手紙などを持たせて放つことによって、情報をいち早く伝えようとしたのである。戦時には古くから軍が導入し、軍用鳩が本格的に研究され、第二次世界大戦においては主に伝令用の他、小型カメラを装着させた敵地偵察用のスパイ鳩として活躍した。薬品や血清等の医薬品、動物(主に牛)の精子の輸送にも使われ僻地医療で重要な役目を果たした。",
"title": "人との関係"
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"text": "しかしその後、電話などの通信技術の進歩によりその役目を終えたかに見えた。現在では、脚環にICチップを内蔵した自動入舎システムが普及したため、かつて鳩を飼っていた団塊の世代がリタイア後に再開し、鳩レースを楽しむことが小ブームになっている。また、情報IT関連の新しい試みとして、レース鳩にマイクロSDメモリーカード(合計2TB程度)等の超小型メモリーチップを運ばせたり(200km程度の短距離で所要時間は約2時間)、GPSユニットやCCDカメラ等を取り付け、より詳細な生態や飛行コースを追跡する実験も行われている。",
"title": "人との関係"
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"text": "ハトは、その群れを成す性質から、オリーブと共に平和の象徴とされている。日本では、穏健派や平和主義者を「ハト派」、強硬派を同じ鳥類でも猛禽類の鷹にたとえて「タカ派」という比喩表現も使われる。",
"title": "人との関係"
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"text": "これは旧約聖書の大洪水(ノアの箱舟)伝説にも由来している。ノアは47日目にカラスを放ったが、まだ水が乾く前であったからすぐに戻ってきた。ハトを放ったところ、オリーブの葉をくわえて戻ってきた。これによりノアは水が引き始めたことを知ったという。「平和の祭典」とも称される近代五輪の開会式では、かつては実際に鳩が飛ばされていたが、外来生物への危機感の高まりや鳩が生息できる環境ではない場所での開催、式典が日中ではなく夜中に行われるようになった事などから、鳩に扮した人のダンサーなどによるパフォーマンスや鳩を模した風船、モニター映像によるもの等に変わった。",
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"text": "また、ギリシア神話においてハトは、愛と美の女神アプロディーテーの聖鳥とされていた他、イアーソーンを始めとする英雄たち(アルゴナウタイ)が乗るアルゴー船が、互いに離れたりぶつかり合ったりを繰り返す二つの巨岩シュムプレーガデスの間を通り抜ける際、試しにハトを通り抜けさせて安全を確認するエピソードや、狩人オーリーオーンがプレイアデス(巨神アトラースの七人娘たち)を追い回した際、それを不憫(ふびん)に思った主神ゼウスが彼女たちをハトに変え、さらに星へと変えたエピソード等が存在する。新約聖書では、荒野で苦行を終えたイエス・キリストがサタンの誘惑を退けた後、聖霊が白いハトの姿となってくだったことは、つとに有名である。",
"title": "人との関係"
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"text": "一方、オーストリアの動物行動学の権威、コンラート・ローレンツはその著書『ソロモンの指環』の中で、平和の象徴とされるハトの別の一面を紹介している。2羽のハトを一つの鳥籠に入れて外出したところ、籠の中でハトが喧嘩を起こし、互いに死ぬまで決して戦いを止めようとはしなかった、というもので、こうした「ハトの喧嘩」は戦い方を知らず致命打を与えられるほどの武器も持ち合わせていない動物ほど、いざ争いを始めた際には戦いに慣れた肉食動物以上に凄惨な殺し合いに発展する、という事例の典型例として引き合いに出される。",
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"text": "日本では鳩が八幡神の神使とされてきた。八幡神は軍神なので平和とは結びつかず、武士の家紋ともなった。第二次世界大戦後に西洋での鳩のイメージが入ってきて、タバコのピースのデザインのような平和のシンボルと言うイメージが定着した。",
"title": "人との関係"
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"text": "日本の童謡の代表的なものの一つとして『鳩』が挙げられる。また、瀧廉太郎は『鳩ぽっぽ』という童謡を作曲している。",
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"text": "「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲(突然の出来事に、あっけにとられた様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」など諺でもお馴染みである。",
"title": "人との関係"
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"text": "ハトの名前は特急「はと」という列車名に用いられたことがある他、日本テレビのジャンクション『鳩の休日』にも開局以来ハトが登場している。また、神奈川県の銘菓の一つに「鳩サブレー」というハトの形を模した菓子も存在している。",
"title": "人との関係"
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"text": "企業名やシンボルマークでハトにちなんだものとしては、例えばはとバスや、イトーヨーカ堂のロゴマーク(真上に青と真下に赤の中間にシロバトの位置)、同社傘下のスーパーマーケットであるヨークマートのマーク(ヨーカ堂での青部分が緑)、全国宅地建物取引業協会連合会のシンボルマーク、全国引越専門協同組合連合会が存在する。滋賀県を中心に展開するスーパーチェーンの平和堂のロゴマーク(赤い背景に前にシロバトと後にアオバトの位置)として親しまれていたこともある。後述の外国語名から取られた企業名として、ベビー用品メーカーのピジョン、ガス機器メーカーのパロマなども挙げられる。",
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"text": "日本では1980年代あたりから都市部を中心にハトによる糞害が多発し、問題化している。もともと都市部に生息する野鳥はヒトに肺炎を起こすオウム病、クラミジア(原虫)やクリプトコッカス(カビの一種)を含んだ糞を排出しやすく、特に大群をなすハトはそれを排出しやすい。公園などでの餌付け行為は禁止されている。それでも鳩への餌やりを止めない人もおり、東京都の荒川区や大田区のように罰則付き条例で禁止する地方自治体もある。ハトの食べ残しはネズミも呼び寄せる弊害もあるため禁止条例を求める動きは他地域にも広がっており、大阪市にように餌やり禁止でなく事後の清掃義務付けを規定した例もある。",
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"text": "金沢駅(石川県金沢市)では糞害対策として鷹匠に依頼して鷹で鳩を追い払うパトロールが定期的に行われている。",
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"text": "イングランドでは、胸の筋肉を異常に発達させたポーターという愛玩具用の品種の鳩やen:Fancy pigeonという観賞用のハトの品種群が存在する。",
"title": "人との関係"
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"text": "中華人民共和国(中国)では鳥を放つと幸運が訪れるという民間信仰があり、祭事・祝い事の際にはハトを放つ習慣があったが、現在では都市部でハトが繁殖してしまっているため、放鳥が禁止されている地域もある。",
"title": "人との関係"
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"text": "一部の地域では、ハトの尾翼の付け根に鳩鈴(英語版)(中国語で鸽铃、鸽哨)と呼ばれる物が、猛禽類に襲われないよう、娯楽、追跡用に付けられる。",
"title": "人との関係"
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"text": "食文化として、ドバトは中華料理では普通に食用にされる。また、フランス料理でもハトは食材として一般的である。ギリシア料理、レバノン料理、エジプト料理など地中海沿岸においてハトはよく食される。イギリスでも18世紀頃までは自然繁殖した物を捕らえて調理したハトが一般的に食卓に上っていたといわれ、現在でも食文化中にその名残が見られる。中近東では古くより、乾燥した風土でも放し飼いでよく増える性質があるため、ハトのための養殖場(塔のような建造物)もあり、貴重な動物性蛋白源として、一般的に利用されている。鳩の塔(ピジョン・タワー)と呼ばれるこの塔は、高さは10mから15mほどで、場所によってスタイルが違う。イランのイスファハーン周辺においてはひとつおきに積んだ日干しレンガを高く積み上げ、ハトの休息できる無数の空洞を作る。ここにハトがやってきて営巣するのである。その外側はぐるりと日干しレンガの壁によって覆われており、内部構造は見えなくなっている。外壁にはいくつかの穴があけられており、そこからハトは出入りする。エジプトにおいては中は空洞で、そのかわりに止まり木が何段も差し込まれ、これがハトの巣となっている。イランにおいてのピジョン・タワーの主目的は肥料としてのハトの糞の収集であり、そのため化学肥料の普及後は利用されることはなくなっている。これに対してエジプトのピジョン・タワーは食用ハトの飼育を目的としており、現在でも使用されている。糞ももちろん肥料として使用するが、二義的なものである。",
"title": "人との関係"
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"text": "日本では一般的には鳩を食用とすることはまれである。初めて日本にきた中国人はしばしば、野生のハトを誰も捕まえようとせず、ハトも人を恐れないことに驚く。日本において野鳥を狩猟することは鳥獣保護法で規制されているが、キジバト(山鳩)は狩猟鳥であり、食用にされることがある。ハトの卵はハトの肉と同様日本では食材として一般的ではない。沸騰したお湯でも固まらず、ほとんど食べられることはない。",
"title": "人との関係"
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"text": "ハトは歩行時に首を前後に振りながら歩くことで知られている。この動作はハト科以外の多くの鳥でも見られるが、ハト(特にドバト)は、警戒心が非常に弱く、歩いている状態で身近に見かける機会が多いため、多くの人々から「首を振る鳥」として認知されている。",
"title": "首振り歩行"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "この首振り歩行は、暗闇や、ベルトコンベア上を逆向きに歩かせたときは行われない。一方、移動する風景を投影するスクリーンを周囲に張り巡らした実験装置の中では歩行しないまま首振りをする。従って、胴体が前進しているときでも頭部だけはなるべく長時間にわたって空間内で静止するよう首を前後させ、視覚情報を安定して得られるように行われているものと考えられている。また、首振りのタイミングは、体重を片脚で支えている間も重心が安定する位置に来るようになっている。それゆえに「安定して歩行するため」という説もある。恐竜の末裔である鳥類の歩行の研究は、まだまだ、謎に満ちている分野であると言える。",
"title": "首振り歩行"
},
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"text": "スイスの生物学者が考案したハトの個体数管理方法の一つは次のようなものであり、ノッティンガム、バーゼル等で成功した。",
"title": "個体数管理"
}
] |
鳩(はと)は、ハト目ハト科に属する鳥類の総称である。体に比べて頭が小さく、胸骨、胸筋が発達してずんぐりとした体型が特徴である。 ハト目には世界では約42属290種あり、そのうち日本の在来種は、カラスバト属(カラスバト、アカガシラカラスバト、ヨナクニカラスバト、リュウキュウカラスバト、オガサワラカラスバト)、キジバト属(キジバト、リュウキュウキジバト、シラコバト)、ベニバト属(ベニバト)、キンバト属(リュウキュウキンバト)、アオバト属(アオバト、リュウキュウズアカアオバト、チュウダイズアカアオバト)の5属13種が挙げられる(9種とする説もある)。 このうち、リュウキュウカラスバトとオガサワラカラスバトの2種は絶滅したと考えられていたが、近年、DNA調査により亜種がいくつかの諸島部で生存していることが確認された。 なお、カワラバト(ドバト)は、1500年程前に日本に渡来した外来種であるとともに、5000年以上前より世界各地で家禽化され広まった飼養品種であるため、学術的には日本ネイティブな在来種ではない。このため、現在でも野鳥とみなされないことがある。また、ジュズカケバトについては、広義にはシラコバトのうち飼養品種となったものとされるため、上記リストからは省かれている。ジュズカケバトの白色変種である銀鳩(観賞用に飼われたりマジックの小道具として使われたりする小型のハト)も同様である。
|
{{Otheruses|鳥の鳩|その他|はと}}
{{生物分類表
|名称 = ハト科
|色 = 動物界
|画像=[[ファイル:Blue_Crowned_Pigeon.jpg|250px|カンムリバト]]
|画像キャプション = [[カンムリバト]]
|界 = [[動物|動物界]] [[:en:Animal|Animalia]]
|門 = [[脊索動物|脊索動物門]] [[:en:Chordate|Chordata]]
|亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] [[:en:Vertebrate|Vertebrata]]
|綱 = [[鳥類|鳥綱]] [[:en:Bird|Aves]]
|目 = [[ハト目]] [[:en:Columbiformes|Columbiformes]]
|科 = '''ハト科''' [[:en:Dove|Columbidae]]
|下位分類名 = 亜科
|下位分類 =
* 多数
}}
'''鳩'''(はと)は、[[ハト目]][[ハト科]]に属する[[鳥類]]の総称である。体に比べて頭が小さく、胸骨、胸筋が発達してずんぐりとした体型が特徴である。
ハト目には[[世界]]では約42[[属 (分類学)|属]]290[[種 (分類学)|種]]あり、そのうち[[日本]]の[[在来種]]は、カラスバト属([[カラスバト]]、アカガシラカラスバト、ヨナクニカラスバト、リュウキュウカラスバト、オガサワラカラスバト)、キジバト属([[キジバト]]、リュウキュウキジバト、シラコバト)、ベニバト属(ベニバト)、キンバト属(リュウキュウキンバト)、アオバト属([[アオバト]]、リュウキュウズアカアオバト、チュウダイズアカアオバト)の5属13種が挙げられる(9種とする説もある)。
このうち、リュウキュウカラスバトとオガサワラカラスバトの2種は[[絶滅]]したと考えられていたが、近年、[[デオキシリボ核酸|DNA]]調査により[[亜種]]がいくつかの諸島部で生存していることが確認された。
なお、[[カワラバト]](ドバト)は、1500年程前に日本に渡来した[[外来種]]であるとともに、5000年以上前より世界各地で[[家禽]]化され広まった飼養品種であるため、学術的には日本ネイティブな在来種ではない<ref group="注">広義にカワラバトの飼養品種がドバト、狭義に飼養品種が再野生化した個体をドバトとする説があるが、ドバトの名称は既に[[江戸時代]]から見られることより、フン問題などが社会問題化した1970年代以降の新説と言える。一般的にはカワラバトとドバトの間には明確な線引きはない。これは、既に数千年にわたり家禽化され続けているカワラバトに対して純粋な野生種としてのカワラバトを見極めきれないためである。従って、学術名としてはカワラバト、呼称としてはドバトという事になろう。</ref>。このため、現在でも野鳥とみなされないことがある。また、[[ジュズカケバト]]については、広義にはシラコバトのうち飼養品種となったものとされるため、上記リストからは省かれている。ジュズカケバトの[[白変種|白色変種]]である[[ギンバト|銀鳩]](観賞用に飼われたり[[奇術|マジック]]の小道具として使われたりする小型のハト)も同様である。
==生物として==
鳩という名前はパタパタと飛び立つときの音の様子に由来すると考えられる。「鳩」(九+鳥)の字にある(九)は鳴き声(クルッククゥー)からきた、とする説がある。「鳩」の[[中国語]]の発音であるキュウ([[漢音]])やク([[呉音]])は、英語のハトの鳴き声<coo>(クウ)、日本語のハトの鳴き声「クウクウ」に近い。「ハト」の名は、軽やかに羽ばたく音「ハタハタ」から、ともいう。また、漢和字典では「球」(中心に引き絞られた形)と同源としている。現代の[[中国語]]では「'''{{lang|zh-hant|鴿子}}'''」([[正体字]])「'''{{lang|zh-hans|鸽子}}'''」([[簡体字]])という。{{lang|zh-hant|[[拼音]]}}は「gēzi」。
{{要検証範囲|食性は[[雑食性]]である(木の実や{{要出典範囲|ミミズ|date=2013年9月}}を食べる)|date=2013年9月}}。一般的に[[熱帯]]種では一腹一卵、[[温帯]]種では一腹二卵を産み、14~21日の抱卵の後で[[孵化]]する。鳩の[[雛]]が孵化から巣立ちするまでの期間は25~40日だが、[[素嚢乳|鳩ミルク]](ピジョンミルク)と呼ばれる親鳥のソノウから分泌される高蛋白なミルクで育てられる。雛は親鳥の口に[[嘴]]を差し入れてミルクを摂取する。ピジョンミルクには[[炭水化物]]は殆ど含まれておらず、主成分は主に[[蛋白質]]である。栄養価は高く、[[ヒト]]のアスリート向け[[プロテイン]]に近い成分組成である。ただし、ピジョンミルクには雛の成長につれて、半[[消化]]状態の柔らかい餌が徐々に混ざることがわかっている。巣から落ちた鳩のひなを人工飼育するには、植物性のプロテインや練り餌(釣具屋で売っている[[鮒]]・[[鯉]]釣り用の練り餌が安価で簡便である)をぬるま湯で[[粥]]状に溶き、手のひらに握りこんで指のすき間から与えるのが簡単な飼育法である。
== 飼育史 ==
ハトはおおよそ10000年から6000年ほど前の[[新石器時代]]に飼育動物化されたと考えられている。ハトは人里に近い土地で営巣する動物であり、[[洞窟]]や[[崖]]、そして泥や石で造られた初期人間の住居に[[巣]]を作っていた。[[中東]]において当時栽培が始まった[[コムギ]]や[[オオムギ]]などもハトの食料として好適であった。こうしてハトと人間の距離が縮まったのち、ハトの飼育化が始まった。当初は神経質な成鳥に比べて人に慣れやすく飼いやすいハトの雛を成長させる目的で飼育が始まり、やがて[[家禽]]化していったと考えられている<ref>三輪睿太郎監訳『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典2 主要食物:栽培作物と飼養動物』([[朝倉書店]]、2004年9月10日、第2版第1刷)645-646頁</ref>。
[[紀元前2900年]]頃に[[シュメール]]の[[シュルッパク]]にて起こった[[大洪水#シュメール|大洪水]]はシュメルの洪水神話として後世に残され、『[[ギルガメシュ叙事詩]]』や[[旧約聖書]]の[[ノアの方舟]]の話の原型となった。『ギルガメシュ叙事詩』において既に陸地を探すためにハトを放した話が記載されており、この頃にはハトが飼育されていた証拠とも考えられている。[[イラク]]のアルパチャにおいて[[紀元前4500年]]頃のハトの[[テラコッタ]]の像が出土しており、ハトが宗教上重要視されていたことを物語っている。[[古代エジプト]]においてもハトは飼育されていた。やがてハトの飼育は[[地中海世界]]へと広がり、[[古代ギリシャ]]の各都市や[[エトルリア人]]にも広まった。[[ローマ帝国]]においてはハトは宗教上重要な意味を持つ一方、肥育されて食用としても盛んに用いられた<ref>F.E.ゾイナー『家畜の歴史』(国分直一・木村伸義訳、1983年、[[法政大学出版局]])p.528</ref>。
== 人との関係 ==
[[File:Rock Pigeon Columba livia 3264px.jpg|right|thumb|200px|カワラバト(ドバト)]]
=== 伝書鳩 ===
ハトはまた、通信用の[[伝書鳩]]としても古代から盛んに使用された。カワラバトから長年にわたって改良された伝書鳩は、戦中の軍事用、戦前・戦後には[[報道]]用や[[通信]]用に大いに活用された。太陽コンパスと[[体内時計]]、[[地磁気]]などにより[[方位|方角]]を知る能力に優れているとされ、[[帰巣本能]]があるため、遠隔地まで連れて行ったハトに[[手紙]]などを持たせて放つことによって、情報をいち早く伝えようとしたのである。戦時には古くから軍が導入し、軍用鳩が本格的に研究され、[[第二次世界大戦]]においては主に伝令用の他、小型カメラを装着させた敵地[[偵察]]用のスパイ鳩として活躍した。[[薬品]]や[[血清]]等の[[医薬品]]、動物(主に牛)の精子の輸送にも使われ僻地医療で重要な役目を果たした。
しかしその後、[[電話]]などの通信技術の進歩によりその役目を終えたかに見えた。現在では、脚環にICチップを内蔵した自動入舎システムが普及したため、かつて鳩を飼っていた団塊の世代がリタイア後に再開し、鳩レースを楽しむことが小ブームになっている。また、情報IT関連の新しい試みとして、レース鳩にマイクロ[[SDメモリーカード]](合計2TB程度)等の超小型[[メモリーチップ]]を運ばせたり(200km程度の短距離で所要時間は約2時間)、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]ユニットや[[CCDイメージセンサ|CCD]]カメラ等を取り付け、より詳細な生態や飛行コースを追跡する実験も行われている<ref>[https://web.archive.org/web/20130926181845/http://www.madlabo.com/necora/examin/20100500Pigeon/ 2010伝書鳩による実験]</ref>。
=== 文化・比喩 ===
{{see also|en:Doves as symbols}}
[[ファイル:Gezi2.jpg |180px|left]]
ハトは、その群れを成す性質から、[[オリーブ]]と共に'''[[平和の象徴]]'''とされている。日本では、穏健派や平和主義者を「[[ハト派]]」、強硬派を同じ鳥類でも[[猛禽類]]の[[鷹]]にたとえて「[[タカ派]]」という[[比喩]]表現も使われる。
[[ファイル:Noah mosaic.JPG|thumb|150px|ノアとハトのモザイク画]]
これは[[旧約聖書]]の[[大洪水]]([[ノアの箱舟]])伝説にも由来している。ノアは47日目に[[カラス]]を放ったが、まだ水が乾く前であったからすぐに戻ってきた。ハトを放ったところ、[[オリーブ]]の葉をくわえて戻ってきた。これにより[[ノア (聖書)|ノア]]は水が引き始めたことを知ったという。「平和の祭典」とも称される[[近代オリンピック#式典|近代五輪]]の開会式では、かつては実際に鳩が飛ばされていたが、外来生物への危機感の高まりや鳩が生息できる環境ではない場所での開催、式典が日中ではなく夜中に行われるようになった事などから、鳩に扮した人のダンサーなどによるパフォーマンスや鳩を模した風船、モニター映像によるもの等に変わった。
また、[[ギリシア神話]]においてハトは、[[愛]]と[[美]]の[[女神]][[アプロディーテー]]の'''聖鳥'''とされていた他、[[イアーソーン]]を始めとする英雄たち([[アルゴナウタイ]])が乗る[[アルゴー船]]が、互いに離れたりぶつかり合ったりを繰り返す二つの巨岩シュムプレーガデスの間を通り抜ける際、試しにハトを通り抜けさせて安全を確認するエピソードや、狩人[[オーリーオーン]]が[[プレイアデス]](巨神[[アトラース]]の七人娘たち)を追い回した際、それを不憫(ふびん)に思った主神[[ゼウス]]が彼女たちをハトに変え、さらに星へと変えたエピソード等が存在する。[[新約聖書]]では、荒野で苦行を終えた[[イエス・キリスト]]が[[サタン]]の誘惑を退けた後、[[聖霊]]が白いハトの姿となってくだったことは、つとに有名である。
一方、[[オーストリア]]の[[動物行動学]]の権威、[[コンラート・ローレンツ]]はその著書『[[ソロモンの指輪#その他|ソロモンの指環]]』の中で、平和の象徴とされるハトの別の一面を紹介している。2羽のハトを一つの鳥籠に入れて外出したところ、籠の中でハトが喧嘩を起こし、互いに死ぬまで決して戦いを止めようとはしなかった、というもので、こうした「ハトの喧嘩」は戦い方を知らず致命打を与えられるほどの武器も持ち合わせていない動物ほど、いざ争いを始めた際には戦いに慣れた[[肉食動物]]以上に凄惨な殺し合いに発展する、という事例の典型例として引き合いに出される。
=== 国・地域ごとの状況 ===
==== 日本 ====
[[Image:Restoration of World WarⅠJapanesen stamp of 3sen.jpg|thumb|150px|right|[[第一次世界大戦]]を終結させた[[ヴェルサイユ条約]]締結を記念して日本で発行された3[[銭]]切手([[大正]]8年 (1919年))]]
日本では鳩が[[八幡神]]の[[神使]]とされてきた。八幡神は軍神なので平和とは結びつかず、[[武士]]の[[家紋]]ともなった<ref>佐々木清光「鳩」(歴史のなかの動物107)『週刊朝日百科日本の歴史』107([[朝日新聞社]] 1988年)、金子裕昌・小西正泰・佐々木清光・千葉徳爾編『日本史のなかの動物事典』([[東京堂出版]] 1992年)に収録。</ref>。[[第二次世界大戦]]後に西洋での鳩のイメージが入ってきて、[[紙巻きたばこ|タバコ]]の[[ピース (たばこ)|ピース]]のデザインのような'''平和のシンボル'''と言うイメージが定着した。
[[ファイル:Series A 10 sen Bank of Japan note - front.jpg|thumb|150px|right|[[十銭紙幣]]A号券(昭和22年 (1947年))]]
日本の[[童謡]]の代表的なものの一つとして『[[鳩 (童謡)|鳩]]』が挙げられる。また、[[瀧廉太郎]]は『[[鳩ぽっぽ]]』という童謡を作曲している。
「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲(突然の出来事に、あっけにとられた様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」など[[諺]]でもお馴染みである。
ハトの名前は[[つばめ (列車)#東海道本線特急「つばめ」「はと」|特急「はと」]]という列車名に用いられたことがある他、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[局名告知|ジャンクション]]『[[鳩の休日]]』にも開局以来ハトが登場している。また、[[神奈川県]]の銘菓の一つに「[[鳩サブレー]]」というハトの形を模した菓子も存在している。
[[image:Friendmart Saito.JPG|thumb|150px|平和堂フレンドマート彩都店]]
[[File:Hatoguruma woven of akebi vine.jpg|thumb|150px|[[郷土玩具]]のあけび鳩車]]
企業名やシンボルマークでハトにちなんだものとしては、例えば[[はとバス]]や、[[イトーヨーカ堂]]のロゴマーク(真上に[[青]]と真下に[[赤]]の中間にシロバトの位置)、同社傘下のスーパーマーケットである[[ヨークマート]]のマーク(ヨーカ堂での青部分が緑)、[[全国宅地建物取引業協会連合会]]のシンボルマーク、[[全国引越専門協同組合連合会]]が存在する。[[滋賀県]]を中心に展開するスーパーチェーンの[[平和堂]]のロゴマーク(赤い背景に前にシロバトと後にアオバトの位置)として親しまれていたこともある。後述の[[#各国語での呼び名など|外国語名]]から取られた企業名として、ベビー用品メーカーの[[ピジョン]]、ガス機器メーカーの[[パロマ (企業)|パロマ]]なども挙げられる。
日本では[[1980年代]]あたりから都市部を中心にハトによる[[糞]]害が多発し、問題化している。{{要出典範囲|もともと都市部に生息する野鳥はヒトに[[肺炎]]を起こす[[オウム病]]、[[クラミジア]]([[原虫]])や[[クリプトコッカス]]([[カビ]]の一種)を含んだ糞を排出しやすく、特に大群をなすハトはそれを排出しやすい。|date=2013年9月}}公園などでの[[餌付け#観光目的の例|餌付け]]行為は禁止されている<ref>{{Cite web|和書|title=動物の愛護及び管理に関する法律施行規則 {{!}} e-Gov法令検索 |url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?law_unique_id=418M60001000001#Mp-At_12 |website=elaws.e-gov.go.jp |access-date=2022-04-17}}</ref>。それでも鳩への餌やりを止めない人もおり、東京都の[[荒川区]]や[[大田区]]のように罰則付き[[条例]]で禁止する地方自治体もある<ref>「ハトに餌 条例で禁止/大田区 景観乱す鳥害悩み/従わなければ罰則も」『[[読売新聞]]』朝刊2022年7月27日(都民面)</ref>。ハトの食べ残しは[[ネズミ]]も呼び寄せる弊害もあるため禁止条例を求める動きは他地域にも広がっており、[[大阪市]]にように餌やり禁止でなく事後の清掃義務付けを規定した例もある<ref>「[https://www.sankei.com/article/20230516-4G6XLY6U6BEW5P7OEBFHICP5JU/ ハトの餌やり 条例で抑止/各地で効果、制定求める区民も]」『[[産経新聞]]』朝刊2023年5月19日(東京面)同日閲覧</ref>。
[[金沢駅]]([[石川県]][[金沢市]])では糞害対策として[[鷹匠]]に依頼して鷹で鳩を追い払うパトロールが定期的に行われている<ref>[http://otakei.otakuma.net/archives/2018042304.html 金沢駅の美しさを守る「鷹パトロール」がスゴ過ぎる!] [[みんなの経済新聞ネットワーク|おたくま経済新聞]](2018年4月23日)</ref>。
=== イングランド ===
[[イングランド]]では、胸の筋肉を異常に発達させた[[ポーター (鳩)|ポーター]]という愛玩具用の品種の鳩や[[:en:Fancy pigeon]]という観賞用のハトの品種群が存在する。
=== 中国 ===
[[中華人民共和国]](中国)では鳥を放つと幸運が訪れるという[[民間信仰]]があり、祭事・祝い事の際にはハトを放つ習慣があったが、現在では都市部でハトが繁殖してしまっているため、[[放鳥]]が禁止されている地域もある。
一部の地域では、ハトの尾翼の付け根に{{ill2|鳩鈴|en|Pigeon whistle}}(中国語で鸽铃、鸽哨)と呼ばれる物が、猛禽類に襲われないよう、娯楽、追跡用に付けられる<ref>[https://kknews.cc/zh-cn/news/9mmvy55.html 鸽哨,消失的北京声音] 每日头条(2017年5月28日更新)2022年3月17日閲覧</ref>。
=== 食用 ===
{{main|{{ill2|鳩肉|en|Squab}}}}
食文化として、ドバトは[[中華料理]]では普通に食用にされる。また、[[フランス料理]]でもハトは食材として一般的である。[[ギリシア料理]]、[[レバノン料理]]、[[エジプト料理]]など[[地中海]]沿岸においてハトはよく食される<ref>松本仁一『アフリカを食べる』(朝日新聞社、1998年8月1日第1刷発行)p.204</ref>。[[イギリス]]でも[[18世紀]]頃までは自然繁殖した物を捕らえて調理したハトが一般的に食卓に上っていたといわれ、現在でも食文化中にその名残が見られる。[[中近東]]では古くより、乾燥した風土でも放し飼いでよく増える性質があるため、ハトのための養殖場([[塔]]のような建造物)もあり、貴重な動物性蛋白源として、一般的に利用されている。鳩の塔(ピジョン・タワー)と呼ばれるこの塔は、高さは10mから15mほどで、場所によってスタイルが違う。[[イラン]]の[[イスファハーン]]周辺においてはひとつおきに積んだ[[日干しレンガ]]を高く積み上げ、ハトの休息できる無数の空洞を作る。ここにハトがやってきて営巣するのである。その外側はぐるりと日干しレンガの壁によって覆われており、内部構造は見えなくなっている。外壁にはいくつかの穴があけられており、そこからハトは出入りする。エジプトにおいては中は空洞で、そのかわりに[[止まり木]]が何段も差し込まれ、これがハトの巣となっている。イランにおいてのピジョン・タワーの主目的は[[肥料]]としてのハトの糞の収集であり、そのため[[化学肥料]]の普及後は利用されることはなくなっている。これに対してエジプトのピジョン・タワーは食用ハトの飼育を目的としており、現在でも使用されている。糞ももちろん肥料として使用するが、二義的なものである<ref>遠山柾雄『沙漠に緑を』([[岩波新書]]、1993年6月21日第1刷)pp.85-88</ref>。
日本では一般的には鳩を食用とすることはまれである。初めて日本にきた中国人はしばしば、野生のハトを誰も捕まえようとせず、ハトも人を恐れないことに驚く。日本において野鳥を狩猟することは[[鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律|鳥獣保護法]]で規制されているが、[[キジバト]](山鳩)は狩猟鳥であり、食用にされることがある。ハトの卵はハトの肉と同様日本では食材として一般的ではない。沸騰したお湯でも固まらず、ほとんど食べられることはない。
== 首振り歩行 ==
ハトは歩行時に首を前後に振りながら歩くことで知られている。この動作はハト科以外の多くの鳥でも見られるが、ハト(特に[[カワラバト|ドバト]])は、警戒心が非常に弱く、歩いている状態で身近に見かける機会が多いため、多くの人々から「首を振る鳥」として認知されている<ref>[https://m.youtube.com/watch?v=0rX1wJVbsDU]{{リンク切れ|date=2022年9月}}</ref>。
この首振り歩行は、暗闇や、[[ベルトコンベア]]上を逆向きに歩かせたときは行われない。一方、移動する風景を投影するスクリーンを周囲に張り巡らした実験装置の中では歩行しないまま首振りをする。従って、胴体が前進しているときでも頭部だけはなるべく長時間にわたって空間内で静止するよう首を前後させ、[[視覚]]情報を安定して得られるように行われているものと考えられている。また、首振りのタイミングは、体重を片脚で支えている間も[[重心]]が安定する位置に来るようになっている。それゆえに「安定して歩行するため」という説もある。[[恐竜]]の末裔である鳥類の歩行の研究は、まだまだ、謎に満ちている分野であると言える。
== 各国語での呼び名など ==
; pigeon(ピジョン) / dove(ダヴ)
: 英語において、[[ノルマン人]]からの借用語である pigeon は主に飼いバトを、[[ゲルマン語]]由来の dove は野生バト、とりわけ[[コキジバト]](turtle dove)を指すが、現在の[[アメリカ合衆国]]などでは pigeon で一括してしまうことも多い。また詩語としては dove が好んで使われる。前述のノアの箱舟伝説の「ハト」も、英文旧約聖書では dove である。
; paloma([[パロマ]])
: [[スペイン語]]でハトの意味。
; Taube(タウベ)
: [[ドイツ語]]。英語 dove と同源([[ゲルマン祖語]]: [[アスタリスク#言語学|*]]dubon)。
; {{lang|zh-hant|鴿子}}/{{lang|zh-hans|鸽子}}(コーツ、[[普通話]] {{Unicode|gēzi}})、鴿([[広東語]] gaap3)
: 現代[[中国語]]では「鳩({{lang|zh-hans|鸠}})」という字は用いない。なお、「鳩({{lang|zh-hans|鸠}})」「{{lang|zh-hant|鴿}}({{lang|zh-hans|鸽}})」ともに、鳩の鳴き声に由来する音字であるとされる。
== 個体数管理 ==
{{いつ|date=2019年8月}}[[スイス]]の生物学者が考案したハトの個体数管理方法の一つは次のようなものであり、[[ノッティンガム]]、[[バーゼル]]等で成功した<ref>{{Cite book|和書|author=スー・ドナルドソン、ウィル・キムリッカ |title=人と動物の政治共同体 |date=2016 |publisher=尚学社 |page=343 }}</ref>。
#ハトの寝床を用意し給餌する。
#用意した寝床以外では給餌を禁止する。
#寝床でハトの卵を一定の割合で偽物と置き換える。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Dove|Columbidae}}
{{Wikiquote|鳩}}
* [[はと座]]
* [[カワラバト]]
* [[伝書鳩]]
* {{ill2|鑑賞鳩|en|Fancy pigeon}}(ファンシーピジョン)
* {{ill2|家鳩|en|Domestic pigeon}}
* {{ill2|鳩舎|en|Dovecote}}
* {{ill2|リリース・ダヴ|en|Release dove}} ‐ ダヴは鳩の意。葬儀・結婚式などのイベントで鳩の放鳥が行われる。
* [[プロジェクト鳩]]
{{鳥一般名記事}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|ハト}}
{{食肉}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はと}}
[[Category:ハト目|*]]
[[Category:平和の象徴]]
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京急1000形電車 (2代)
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京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、2002年(平成14年)4月15日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄(京急)の通勤形電車。1959年(昭和34年)登場の初代1000形と同時に営業運転に使用された期間があり、区別のため、本形式は新1000形と呼称されており、初代1000形の引退後も「新1000形」と呼称されることが多い。なお、京急電鉄社内では初代1000形の引退後である2011年4月ごろに「新1000形の呼称ではなく、1000形の呼称を使う旨」の通達が出されているほか、初代1000形が引退してから時間が経過し、2021年頃から表記も順次「新」の付かない1000形に改められつつある。
本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。また、「新1000形」は本形式、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指すものとする。文中の編成表では左側を浦賀方とする。また、本形式についてはアルミ合金製車体の編成群(1 - 5次車)を「アルミ車両」、ステンレス製車体の編成群(6次車以降)を「ステンレス車両」と表記する。
初代1000形と700形の置き換え用として2100形の車体や主要機器をベースとして設計され、快適性の向上、環境への配慮、省エネルギー化、保守の低減などを目指した。
座席は1 - 5、16次車以降では客用扉間にはロングシートを、車端部にはクロスシートを採用したが、6 - 15次車では車端部も全てロングシートとなった。製造時期によって各種設計変更が行われており、2007年導入分からは車体の材質や制御機器が変更される等、その内容は非常に多岐にわたることが特筆される。
車両番号は、1 - 19次車では浦賀寄りから連番とされた。8両編成は百の位を0として1001から、6両編成は当初百の位を3として1301から、2016年(平成28年)度製造の16次車以降は百の位を6として1601から、4両編成は百の位を当初4として1401から、2015年(平成27年)度製造の15次車以降は百の位を8として1801から付番されている。20次車以降では表記にハイフンが用いられるようになり、編成番号の後にハイフン以下一桁で浦賀方から編成内の順位を表すように付番されるようになった。4両編成では2021年(令和3年)度製造の20次車以降に1891-1から、6両編成では2023年(令和5年)度製造の22次車以降に1501-1から付番されている。各製造時の車両番号は製造時のバリエーションを参照のこと。
2016年3月31日現在、8両編成22本(176両)、6両編成12本(72両)、4両編成25本(100両)の計59本・348両が在籍し、京急で最大車両数の形式である。
車体は軽量化と保守の軽減を狙ったアルミ軽合金製で、外板塗装は600形・2100形と同様赤い車体、窓周り白塗装である。ロングシート主体の車両であることから、当初はそれまでの慣例に倣い、赤い車体に白帯の塗装とすることも検討されていたが、1998年に開業した羽田空港駅ホームの照明によって停車する車両の発色が悪くなってしまい、駅の雰囲気が重苦しくなることから、「全く新たな色の明るい塗装」とすることも含めて再検討されたが、最終的にはそれまで特別な車両に塗られてきたこの塗装が施された。雨樋やパンタグラフからの高圧配管など、車体妻面にある配管類は車体埋め込み形となっている。
先頭形状は2100形の三次元曲面を踏襲し、正面向かって左端には非常用のスイングプラグドアを設置した。スカートと一体感を持った3次元曲面で構成されている。先頭車の正面のワイパーカバーには2100形同様に形式名がスリットで打ち抜かれ、連結作業時に運転士から連結器先端が見えるよう配慮されている。形式名と併せ、車両番号の下3桁が貫通扉に表示され、遠方からでも600形・2100形との識別ができる。ワイパーはフレキシブルケーブルで連結された電動2連式で、使用時以外はワイパーカバー内に収納される。正面運転席上行先表示器両脇に前照灯を、腰部に急行灯と尾灯を備える。尾灯は電球式で、2100形4次車以降と同様急行灯の内側に置かれている。
客室窓はすべて固定窓とされ、車体清掃の容易化のため車体外板との段差がなくなるよう設計されている。扉間の窓は幅2,325 mm、中央部に75 mmの柱があり、車端部は幅1,455 mmの1枚構成である。
車端部から客扉の中心までの寸法は3,345 mmで、600形の3,200 mm、2100形の3,150 mmより長く確保されており、車端部をロングシートにした際に5人掛けにできるよう設計されている。
内装は暖色系を採用し、温かみのある親しみやすい空間を目指した。内張りは白色系の化粧板を、乗務員室背面仕切壁や妻面にはピンク色の化粧板を採用し、床材には明るい青色のロンリウム材を使用した。乗客が触れやすい部分である、客用ドアの袖や化粧板の縁押しなどはビス頭をモールで隠されている。京急の車両では初めて電動車床面の点検蓋が省略された。
扉間は脚台をなくし、座面に暖房装置を取り付けた片持ち式ロングシート、車端部が補助いす付きのクロスシートである。先に3扉ロングシート化改造が行われた2000形にて、工事が急がれたことからやむを得ず残された車端部のクロスシートが好評で、かつ混雑時間帯でも問題なく使用可能なこと、「少子高齢化が進む中で、座りやすい椅子が重要であることや家族連れが快適に利用できるように」という議論がなされたことで配置された。
ロングシートはバケットタイプを採用、1人分の掛け幅は455 mmとした。座席端の袖仕切は大型板とされ、扉間の8人掛ロングシートを3人と5人に分割する仕切板と握り棒(立席ポスト)を設置した。座席表地はロング・クロスシートとも赤系色としている。計画段階では、座席の表地に2100形と同様にスウェーデンのボーゲサンズ(Bogesunds)社の製品が使用される予定であったが、1998年に3扉化改造を施した2000形で採用した国産の蘇芳色の表地のデザインが好評で汎用性も高かったことから、同様の物へと変更された。補助いすは乗務員室からの操作で施錠と解錠が可能で、閑散時には使用可能となり、混雑時には収納状態で固定される。
バリアフリー対応のため各先頭車に安全手すり付きの車椅子スペースを設け、乗務員との通話が可能な非常通報装置を備えている。
中央天井部はリサイクル性を考慮し、2100形のFRP製からアルミ化粧板に変更され、各車両にラインフローファン4台が設置されている。側窓も同様に、ロールカーテンのガイドを兼ねた内キセを、FRPからアルミ製に変更している。固定式のため、非常時の換気を考慮し、蓄電池を電源として停電時でも約1時間運転可能な排気扇を各車2台搭載している。
車内騒音の低減を図る目的から客用窓はドアガラスも含めて複層構造による固定窓とされた。室内側の窓枠はアルミ製とし、遮光用のロールカーテンを設置する。
客用ドアは幅1,300 mm、高さ1,850 mmで室内側は化粧板で仕上げられ、軽量化のためペーパーハニカム構造を採用、扉本体とガラス面をフラットにすることで手などの巻き込みを防止するよう配慮されているほか、副次的に結露の防止にも役立っている。車両間を仕切る貫通扉は2次車までは奇数号車の浦賀寄りに設置、3次車以降は浦賀方先頭車を除く全車の浦賀寄りに設置した。貫通路扉は客用ドア同様にペーパーハニカム構造と10 mm厚の単層ガラスの採用で軽量化をはかると共に開閉操作を容易にした。ドアエンジンには戸閉力弱め機構を搭載し、閉扉後6秒間は戸閉力が24%となる戸閉め力弱め機能が追加された。
車内ドア上部には旅客へのLEDを使用した文字スクロール表示式のドアチャイム内蔵車内案内表示器が設置された。
乗務員室基本構成は2100形を踏襲、視認性を考慮し運転台計器台周辺はダークグレーの落ち着いた色調とした。
主幹制御器(マスコンハンドル)は1号線直通規格に基づいた力行1 - 5段、常用ブレーキ1 - 5段、非常のT字形ワンハンドル式を採用、マスコンの右側には非常ブレーキ動作、パンタグラフ降下、非常発報がボタンひとつの操作で行える緊急スイッチを設置した。また、乗務員室内には折りたたみ式非常ハシゴを設置している。
乗務員室仕切りは仕切窓が3枚並び、そのうち中央は仕切扉である。
600形4次車でMT比1:1を採用したが、雨天時などの粘着低下により加速度低下、前後衝動が発生したため、2100形ではスリップ・スライド制御を盛り込んだドイツ・シーメンス社製制御装置を採用した。本形式の制御装置は2100形での試験データを反映させて改良されたものである。
VVVFインバータ制御装置は、1・2次車では2100形と同じくGTOサイリスタ素子(素子耐圧4,500 V - 3,000 A)によるものを採用した。2100形と同様にシーメンス独特の音階による磁励音を主電動機およびインバータ装置から発する。 動作音この制御装置はVVVFインバータ制御装置本体、断流器、フィルタリアクトル等を「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体の箱に収納している。3 - 5次車では同じシーメンス社製であるが、使用素子はIGBTに変更され、純電気ブレーキが搭載された。
主電動機の仕様も2100形と同一で、シーメンス社製1TB2010-0GC02系、出力190 kW、1 - 5次車では互換性があるが、3次車以降は速度センサを制御に使用していないため、センサが実装されていない。シーメンス製電動機の出力は1時間定格出力ではなく、連続定格出力である。 なお、シーメンス社は日本市場から既に撤退しており、1・2次車に対する更新工事も進められた結果、最後に残った1033編成も2021年7月20日を以て運用を終了し、起動時に音階の流れる編成は消滅した。
補助電源装置は三菱電機製のIGBT素子 (IPM) を使用した静止形インバータ (SIV) を採用し、8両編成では150 kVAのNC-EAT150Aを、4両編成では75 kVAのNC-EAT75Aをそれぞれ編成に2台搭載しており、出力電圧は三相交流440 Vとしている。
空気圧縮機 (CP) はドイツ・クノールブレムゼ社製のスクリュー式の装置で、除湿装置、起動装置などを一体形としたものである。8両編成ではSL-22形(吐出量1,600 L/min)、4両編成ではSL-6形(吐出量800 L/min)を編成に各2台搭載する。
集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングルアーム式パンタグラフを搭載している。駆動装置は2100形と同一のTD平行カルダン駆動方式だが、たわみ板材質を特殊鋼から炭素繊維強化プラスチック (CFRP) へ変更し、継ぎ手カバーを不要として保守の容易化を図った。
台車は乗り心地・走行性・保守性の点から乾式ゴム入り円筒案内式のボルスタ付き台車を採用し、車体支持装置は車体直結空気ばね方式である。この台車は2100形とほぼ同形だが、軽量化のため付随車用に主電動機架軽量化を省略した専用台車を用意した。2次車までは軸ダンパを準備工事としているが、3次車からは省略され、台車形式を変更している。
冷房装置には、冷媒にオゾン破壊係数が0の新代替フロンであるHFC-R407Cを使用した、三菱電機製の屋根上集中式CU-71H形・能力41.86 kW (36,000 kcal/h) を搭載する。暖房装置は出庫時に外気気温が摂氏10度以下、かつ室内外の気温差が10度以上の際に室温が15度以上になるまで補助ヒーターとして作動する6kWの急速暖房器を備える。2100形に搭載されたCU-71G形では境界層と呼ばれる空気の流れにより、車速が速くなった際に熱交換器である凝縮器の冷却風が排出出来ずに過熱し、冷房能力が極端に下がる現象が問題となっていたことから、排風が流れる隙間を生み出す整流板を取り付けた。
1次車 - 3次車は正面・側面の行先・運行番号・種別表示は幕式だったが、2005年(平成17年)度製の4次車からは種別表示器がフルカラーLED式、行先表示器が白色LEDとなった。
1・2次車の先頭台車の先頭軸には、非常ブレーキ・回生ブレーキ失効時にセラミックス(アルミナ・酸化アルミニウム)の粒子を噴射して制動能力低下を防止するセラジェットを搭載していたが、かつて使用していた鋳鉄制輪子で沿線の自動車を傷つけた事例があったこともあり、撒く場所によって人や自動車に影響を与えることが懸念されたうえ、使用頻度が少ないために3次車以降では廃止されている。動作条件は京急線内でワイパースイッチを投入し、一定速度以上での回生失効や非常ブレーキを操作した場合に、1回につき6秒間セラミックを噴射するものである。
プラットホームでの安全対策として、各車両の連結面には転落防止幌が設置されているほか、4両編成の先頭車排障器(スカート)内側には、他の車両と連結して運転される際に連結間から転落する事故を防止するため連結部注意放送装置のスピーカーが設置されている。車両の前後切換スイッチが「中」(中間車扱い)位置にあり、ドアが開いている間警報音に続いて「車両連結部です。乗車口ではありません。ご注意ください」という注意放送が流れる。
製造メーカーの「東急」は東急車輛製造製、「川重」は川崎重工業製。以下同じ。
2002年(平成14年)2月 - 6月に8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した。同年3月23日・24日に試乗会が行われ、直通運転先の各社に乗務員訓練などのため貸し出された後、4月15日から自社線内で営業運転を開始、6月25日から都営浅草線、8月30日から京成線高砂まで、9月4日から北総線への乗り入れ運用に充当された。
8両編成1本と4両編成1本を3M3Tの6両編成2本に組み替えられる機器構成とされ、4両編成の付随車には集電装置や補助電源装置が分散配置され、浦賀方には編成替時の増設用にパンタグラフの準備工事がなされている。
1次車のみ、2100形で好評であったブライドスモークガラスは鉛の使用に関する問題で制作できなくなった影響で代替品となるグリーンのガラスを採用した。
2003年(平成15年)5月 - 7月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した。車体見付・機器配置の仕様変更を行い、乗客へのサービス向上とコストダウンを図った。
2005年(平成17年)1月 - 3月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した。この3次車では大規模な仕様変更が行われた。また、2004年(平成16年)12月に国土交通省の地下鉄道の火災対策の基準が見直され、この新火災対策への対応も行われている。
2005年7月 - 8月に8両編成1本、4両編成4本の24両が竣工した。
2006年10月 - 11月に8両編成1本、4両編成2本の16両が竣工した。4次車からの変更点はない。
6次車以降の車両では京急初の軽量ステンレス製車体とし、外板がベルトグラインダー仕上げの無塗装とされた。側面には京急のイメージカラーを踏襲した赤と白のカラーフィルムが貼り付けされた。前頭部は普通鋼製とされ、従来車同様赤く塗装された。前面はアルミ車のワイパーカバーを廃止し、形式番号は直接表記とされた。フロントガラスは貫通扉も含めて左右2分割から運転席前・貫通扉・左右前照灯・種別行先表示器の5分割構成となった。
側面はブロック共通化により表示器、表示灯は点対称に配置されている。
同時期製造の他社のステンレス車に対して車体幅、車体長、独自配置・寸法の下降窓、客室側窓には従来通りロールカーテンが設置されているなどの京急独自の特徴がある。高品質・高性能化とともにコストダウンがはかられた。
雨樋・集電装置からの高圧配管が車体埋め込みから妻面に露出する形態となったほか、台枠から屋根に向かって車体が0.79度絞り込む台形断面状の車体となった。
屋根は歩み板が車体全長に渡って設けられ、滑り止めが施された。
内装はアルミ車同様に暖色系を採用し、温かみある親しみやすい空間を目指した。内張りはアルミ車同様の白色系化粧板を使用し、アルミ車ではアクセントとして側面より濃い色調とされていた妻面が側面の色調に統一された。床材についてもロンリウム材ではあるが、色調をグレー系へと変更した。中央天井部は空調ダクト・ラインフロー(冷風吹出口)一体成形の燃焼基準に適合したFRP製ユニット天井とされ、ラインデリア整風板の形状も変更された。
車端部の4人掛けクロスシートは5人掛けロングシートに変更され、京急では1993年(平成5年)製造の1500形の最終製造車以来14年ぶりのオールロングシート車となったが、5次車までと同様の座席の表地や1人分455 mm幅の片持ち式バケットタイプシート構造を採用している。座席端の袖仕切りと立席ポスト(握り棒)の仕切り板の色はピンク色からベージュ色に変更された。
客用ドアは車両メーカー標準品を採用、室内側を無塗装とし、客用ドアガラスは側窓と併せ濃色グリーンの単板の熱線吸収ガラスに変更された。各車両間の妻引戸は浦賀寄り先頭車を除き全車浦賀寄りに設置、戸閉め方式は傾斜式に変更され、ドアチェッカは廃止された。
客用ドア間の側窓はアルミ車と合わせられ、戸袋幅が圧縮されてその分窓の幅が広げられ、開口寸法はガラス2枚と間柱を合わせて2,475 mm、車端部では1,525 mmとなっている。中央に桟のある2枚分割構成で片側を開閉可能な一段下降式とし、1両あたり4か所が床面上1,240 mmまで開閉可能である。そのため、アルミ車両にあった排気扇は廃止されている。側窓枠はFRP製とされ、カーテンの色は青色に変更した。
踏切事故対策と運転操作性を考慮し、京急では1967年(昭和42年)の700形1次車以来40年ぶりとなる高運転台構造を採用、運転士用の座席と運転台を150 mm高くし、乗務員室を前後に200 mm拡大した。乗務員室背後の座席は廃止され、この場所側面にあった小窓も廃止された。乗務員室に非常用脱出はしごが設置された。運転席背後に非常用救出口が設けられたため、仕切部の窓が小型化された。 運転席側のワイパーは1本となり、ワイパーカバーを廃止、貫通扉に手動式ワイパーが設置された。踏切事故対策として、前頭部はアルミ車両よりも1.5倍以上の強度向上がなされている。
搭載機器は仕様が見直され、主制御器・主電動機が日本製となり、編成での機器配置も変更された。予備部品の共通化も考慮し、制御装置・主電動機は1500形VVVF化改造車で実績のあるものが採用された。
VVVFインバータ装置は日本製の2レベルIPM・PGセンサレスベクトル制御(3300V/1200A)となり、電動機制御は1C4M2群方式に変更された。8連は三菱電機製、4連・6連は東洋電機製造製のインバータ装置を搭載する。主電動機は一時間定格155 kWの誘導電動機で、三菱電機製MB-5121-A形または東洋電機製造製TDK-6162A形を搭載する。両者とも原設計は4M2Tの6両編成を想定しており、電動車比率の高い4・8両編成では出力を抑えて使用している。
補助電源装置はメーカーが変更され、東芝製の静止形インバータ装置 (INV153-F0) を採用、8両編成・4両編成とも出力は170 kVAとなった。電動空気圧縮機 (CP) は三菱電機製のスクロール式CP(MBU1600-Y形)に変更され、省スペースと軽量化のため関連機器ごとステンレス製の一体箱に収納された。
集電装置、駆動装置、歯車比、空調装置、ブレーキ制御装置はアルミ車両と同一、台車は3次車以降と同一の円筒案内式TH-2100BM(電動台車)/TH-2100BT(付随台車)であるが、台枠構造の関係でボルスタアンカーの上部が内側に屈折している。
冷房装置は、アルミ車両と比較して屋根が高く、埋没深さが増えた結果、キセが薄くなっている。
6次車は1073編成の8連1本が製造された。2007年(平成19年)3月に落成し、同年3月31日から営業運転に就いた。
2008年1月 - 2月に8両編成2本、16両が竣工した。6次車とほぼ同等の仕様であるが、以下の点が変更されている。
2008年9月 - 12月にかけて8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した。ステンレス車体の4両編成、川崎重工業製が含まれる。4両編成は全車電動車で、中間に付随車2両を挟むことで6両編成が組成出来るよう設計され、品川寄り中間電動車には付随車への給電用パンタグラフの準備工事が行われている。6・7次車とほぼ同様だが、以下の部分が変更された。
2009年度には4両編成8本、32両が竣工した。仕様は8次車と同一である。
2010年度には、同年7月17日に開業した京成成田スカイアクセス線の開業準備用として製造された8両編成3本と、4両編成1本の計28両が竣工した。この10次車ではバリアフリー設備の充実のため、一部で仕様の見直しが実施された。
2011年度には8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した。従来は8両編成と4両編成のみ製造されていたが、今回より800形の置き換えを目的として6両編成が登場した。2011年度の6両編成は全車川崎重工で製造され、6両編成の車両番号は「1300番台」に区分されている。6両編成は先頭部の電気連結器を装備していないが、運用変更への対応を考慮して8両編成または4両編成への変更が可能な編成形態となっている。
2012年(平成24年)度には8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した。1153編成は総合車両製作所が発足後最初に鉄道事業者に引き渡された車両で、同社を出場した2012年4月6日に出場記念のテープカットが行われている。
2013年(平成25年)度には13次車として8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した。1161編成は土砂崩れに乗り上げて脱線し廃車となった1500形1701編成の代替となっている。
2014年(平成26年)度には14次車として8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した。
2015年(平成27年)度には15次車として6両編成2本、4両編成2本が竣工した。
4両編成は、初めての総合車両製作所製となり、「初代1000形みたいな使い方が、今の1000形でも出来ればよい」と言う事から、浅草線直通用の8両編成が不足した際に2編成を連結して直通運用に使用できるよう各部の仕様が変更された。車両番号も「1800番台」に区分されている。
2016年(平成28年)度には16次車として32両が製造された。2016年9月に1800番台の4両編成1本が竣工、2016年11月に仕様が変更されたマイナーチェンジ車が6両編成2本で竣工した。また、8両編成2本が2017年2月に導入された。本導入分以降の6両編成は「1600番台」と区分されている。
1809編成での変更点は以下の通り。
6・8両編成では以下の点が変更された。
2017年度は17次車として6両編成2本、8両編成3本が導入された。本導入分から、8両編成は京急創業120周年に合わせて「1200番台」に区分されている。
2018年5月9日付けの京急ニュースリリースにおいて、2018年度安全対策関連のうち、本形式の車両新造を42両行うと発表され、これに伴い6両7編成(1625 - 1661)が導入された。
京急線内でのホームドアの設置が本格化することとなり、4扉車の為にホームドアに対応できない800形の置き換えを進めた。6両編成としては初となる総合車両製作所製の編成も登場した。
2019年度には14両が導入された。 1225編成は朝ラッシュの上り時間帯に入る2100形の運用の一部を置き換える目的で増備されたが、同年に事故廃車となった1137編成の代替となった。
2020年度は20次車(1890番台)4両2編成が導入された。従来車から大幅な設計変更が行われたため、特に1000形1890番台として区分する場合がある。本導入分より、車両番号の付番がハイフンを用いた方式に変更された。全車総合車両製作所製。
2021年度も21次車として3本が導入された。20次車の続番で、仕様も基本的には同様になっている。
2021年5月6日の「モーニング・ウィング3号」より運行を開始した。当初は土休日にイベント用の貸切列車として運用する計画であったが、現在はイベント列車に起用される一方、他の1000形4両編成と共にエアポート急行などにも使用されている。
この編成には愛称を一般公募しており、2021年12月24日にフランス語で「空」を意味する「Le Ciel」(ル・シエル)と命名された。三浦半島や羽田空港の空を想起させ、高級感のある響きである事や、日本語で発音すると4文字となり、覚えやすく親しみやすい事などから採用に至った。また、かつて京急本線で運行されていた週末特急「ラ・メール号」(フランス語で「海」の意、2007年まで名古屋と横浜・品川を結んでいた夜行高速バスも同名)へのオマージュも込められている。なお、2022年3月以降車体側面に順次愛称ロゴが掲示されている。
「チャレンジングな姿勢と堅実性を兼ねそろえたトータルバランスに優れた車両」として、2022年5月26日に鉄道友の会が選定するブルーリボン賞(第65回)を受賞した。
2023年度には6両編成と8両編成が1本ずつが導入される予定。6両編成は、2021年に川崎重工より分社化した川崎車両が製造した初めての京急車両となった。従来の6両編成とは組成が変更となり、デハ-サハ-デハ-デハ-サハ-デハとなっている。
2023年9月7日、金沢文庫駅7:55発逗子・葉山駅行き普通列車より運行を開始した。
2003年度より、デハ1401では各種試験が行われた。前面と側面の行先表示器を白色、種別表示器をフルカラーLEDとしたほか、試験品の制御装置としてIGBT素子を使用したシーメンス製の物を搭載した。その後2006年5月に従来のGTO素子を使用した物に戻され、2016年の主回路換装時に4両編成の1・2次車更新用として搭載されている東芝製のIGBT素子を利用したSVF093-A0に換装されている。
1次車は登場時黒地幕であったが、現在はすべて白地幕に交換された。2009年(平成21年)以降方向幕を搭載していた編成のLED式表示器への交換が進み、正面表示については2014年(平成26年)末頃に完了している。
2011年より、室内灯にLEDを採用するにあたり、1449編成の各車両を用いた様々なLEDの比較試験が行われた。
試験されたLED照明は以下の通り。
2015年より、1445編成の1、2号車の冷房装置がCU71Hから 東芝のRPU-11028に換装された。冷房能力はCU71Hの41.9kWより大きい48.9kWとされたが、2022年10月26日に機器更新が行われ、その際に他の編成と同型のCU-71-G3に換装されている。
2017年度より、製造から15年程度経過したアルミ車両への車体更新工事・機器更新工事が開始され、同年9月17日には最初に車体更新が施工された1次車の1001編成が公開された。翌9月18日より営業運転を開始している。
主な工事内容は以下の通り。
都営浅草線、京成線、北総線への乗り入れ運用を中心とした快特などの優等列車が主体で、成田スカイアクセス線(京成成田空港線)経由の「アクセス特急」にも使用される。また、京成本線経由の運用もある。
主に普通列車を中心に用されている。また、逗子線系統のエアポート急行の一部にも運用されている。
主に普通列車や優等列車の増結車や4両編成を2本連結した8両編成で自社線完結のエアポート急行として運用されるほか、大師線でも運用されることがある。1800番台は先頭車間の幌を繋いだ時に限り、地下鉄線内への乗り入れが可能である。
1890番代は『モーニングウイング』3号に使用後、品川で都営からの直通列車に増結して京急川崎止まりになり、神奈川新町駅で切り離し後入庫する。その後は、一般車4両と組成してエアポート急行で運用される事が多い。
1500形・600形・2100形との連結が可能。
黄色く塗装された姿が西武鉄道の車両に似ているとの声から、京急が西武にコラボレーションを提案、西武9000系の9103編成を赤い車体に白い帯とした「幸運の赤い電車 (RED LUCKY TRAIN)」とし、両社で共同キャンペーンを実施していた。
当初は3年間の運行予定であったが、好評のため運行開始から3年が経過する2017年(平成29年)5月以降も運行が継続されることになった。同年には塗装がマイナーチェンジされ、従来は銀色だった乗降扉部分も黄色に変更され、車体側面全体が黄色の塗装となった。同年4月29日よりこの塗装での運行を開始した。
東京都大田区の商店街の紹介や、大田区公式キャラクター「はねぴょん」がデザインされている。
京急電鉄の企画として2019年より実施されている「夏詣キャンペーン」に合わせて2021年より毎年1201編成に夏詣ヘッドマークが掲出されている。
1137編成は2019年(令和元年)9月5日、神奈川新町駅近くの踏切にてトラックと衝突する事故(京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故)を起こし、損傷が激しいことから、翌2020年(令和2年)3月15日付で本系列初の廃車となった。この影響で、モーニングウィング号1号の増便運行開始が1ヶ月延期された。
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"text": "京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、2002年(平成14年)4月15日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄(京急)の通勤形電車。1959年(昭和34年)登場の初代1000形と同時に営業運転に使用された期間があり、区別のため、本形式は新1000形と呼称されており、初代1000形の引退後も「新1000形」と呼称されることが多い。なお、京急電鉄社内では初代1000形の引退後である2011年4月ごろに「新1000形の呼称ではなく、1000形の呼称を使う旨」の通達が出されているほか、初代1000形が引退してから時間が経過し、2021年頃から表記も順次「新」の付かない1000形に改められつつある。",
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"text": "本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。また、「新1000形」は本形式、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指すものとする。文中の編成表では左側を浦賀方とする。また、本形式についてはアルミ合金製車体の編成群(1 - 5次車)を「アルミ車両」、ステンレス製車体の編成群(6次車以降)を「ステンレス車両」と表記する。",
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"text": "初代1000形と700形の置き換え用として2100形の車体や主要機器をベースとして設計され、快適性の向上、環境への配慮、省エネルギー化、保守の低減などを目指した。",
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"text": "座席は1 - 5、16次車以降では客用扉間にはロングシートを、車端部にはクロスシートを採用したが、6 - 15次車では車端部も全てロングシートとなった。製造時期によって各種設計変更が行われており、2007年導入分からは車体の材質や制御機器が変更される等、その内容は非常に多岐にわたることが特筆される。",
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"text": "車両番号は、1 - 19次車では浦賀寄りから連番とされた。8両編成は百の位を0として1001から、6両編成は当初百の位を3として1301から、2016年(平成28年)度製造の16次車以降は百の位を6として1601から、4両編成は百の位を当初4として1401から、2015年(平成27年)度製造の15次車以降は百の位を8として1801から付番されている。20次車以降では表記にハイフンが用いられるようになり、編成番号の後にハイフン以下一桁で浦賀方から編成内の順位を表すように付番されるようになった。4両編成では2021年(令和3年)度製造の20次車以降に1891-1から、6両編成では2023年(令和5年)度製造の22次車以降に1501-1から付番されている。各製造時の車両番号は製造時のバリエーションを参照のこと。",
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"text": "2016年3月31日現在、8両編成22本(176両)、6両編成12本(72両)、4両編成25本(100両)の計59本・348両が在籍し、京急で最大車両数の形式である。",
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"text": "車体は軽量化と保守の軽減を狙ったアルミ軽合金製で、外板塗装は600形・2100形と同様赤い車体、窓周り白塗装である。ロングシート主体の車両であることから、当初はそれまでの慣例に倣い、赤い車体に白帯の塗装とすることも検討されていたが、1998年に開業した羽田空港駅ホームの照明によって停車する車両の発色が悪くなってしまい、駅の雰囲気が重苦しくなることから、「全く新たな色の明るい塗装」とすることも含めて再検討されたが、最終的にはそれまで特別な車両に塗られてきたこの塗装が施された。雨樋やパンタグラフからの高圧配管など、車体妻面にある配管類は車体埋め込み形となっている。",
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"text": "先頭形状は2100形の三次元曲面を踏襲し、正面向かって左端には非常用のスイングプラグドアを設置した。スカートと一体感を持った3次元曲面で構成されている。先頭車の正面のワイパーカバーには2100形同様に形式名がスリットで打ち抜かれ、連結作業時に運転士から連結器先端が見えるよう配慮されている。形式名と併せ、車両番号の下3桁が貫通扉に表示され、遠方からでも600形・2100形との識別ができる。ワイパーはフレキシブルケーブルで連結された電動2連式で、使用時以外はワイパーカバー内に収納される。正面運転席上行先表示器両脇に前照灯を、腰部に急行灯と尾灯を備える。尾灯は電球式で、2100形4次車以降と同様急行灯の内側に置かれている。",
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"text": "客室窓はすべて固定窓とされ、車体清掃の容易化のため車体外板との段差がなくなるよう設計されている。扉間の窓は幅2,325 mm、中央部に75 mmの柱があり、車端部は幅1,455 mmの1枚構成である。",
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"text": "車端部から客扉の中心までの寸法は3,345 mmで、600形の3,200 mm、2100形の3,150 mmより長く確保されており、車端部をロングシートにした際に5人掛けにできるよう設計されている。",
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"text": "内装は暖色系を採用し、温かみのある親しみやすい空間を目指した。内張りは白色系の化粧板を、乗務員室背面仕切壁や妻面にはピンク色の化粧板を採用し、床材には明るい青色のロンリウム材を使用した。乗客が触れやすい部分である、客用ドアの袖や化粧板の縁押しなどはビス頭をモールで隠されている。京急の車両では初めて電動車床面の点検蓋が省略された。",
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"text": "扉間は脚台をなくし、座面に暖房装置を取り付けた片持ち式ロングシート、車端部が補助いす付きのクロスシートである。先に3扉ロングシート化改造が行われた2000形にて、工事が急がれたことからやむを得ず残された車端部のクロスシートが好評で、かつ混雑時間帯でも問題なく使用可能なこと、「少子高齢化が進む中で、座りやすい椅子が重要であることや家族連れが快適に利用できるように」という議論がなされたことで配置された。",
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"text": "ロングシートはバケットタイプを採用、1人分の掛け幅は455 mmとした。座席端の袖仕切は大型板とされ、扉間の8人掛ロングシートを3人と5人に分割する仕切板と握り棒(立席ポスト)を設置した。座席表地はロング・クロスシートとも赤系色としている。計画段階では、座席の表地に2100形と同様にスウェーデンのボーゲサンズ(Bogesunds)社の製品が使用される予定であったが、1998年に3扉化改造を施した2000形で採用した国産の蘇芳色の表地のデザインが好評で汎用性も高かったことから、同様の物へと変更された。補助いすは乗務員室からの操作で施錠と解錠が可能で、閑散時には使用可能となり、混雑時には収納状態で固定される。",
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"text": "バリアフリー対応のため各先頭車に安全手すり付きの車椅子スペースを設け、乗務員との通話が可能な非常通報装置を備えている。",
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"text": "中央天井部はリサイクル性を考慮し、2100形のFRP製からアルミ化粧板に変更され、各車両にラインフローファン4台が設置されている。側窓も同様に、ロールカーテンのガイドを兼ねた内キセを、FRPからアルミ製に変更している。固定式のため、非常時の換気を考慮し、蓄電池を電源として停電時でも約1時間運転可能な排気扇を各車2台搭載している。",
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"text": "車内騒音の低減を図る目的から客用窓はドアガラスも含めて複層構造による固定窓とされた。室内側の窓枠はアルミ製とし、遮光用のロールカーテンを設置する。",
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"text": "客用ドアは幅1,300 mm、高さ1,850 mmで室内側は化粧板で仕上げられ、軽量化のためペーパーハニカム構造を採用、扉本体とガラス面をフラットにすることで手などの巻き込みを防止するよう配慮されているほか、副次的に結露の防止にも役立っている。車両間を仕切る貫通扉は2次車までは奇数号車の浦賀寄りに設置、3次車以降は浦賀方先頭車を除く全車の浦賀寄りに設置した。貫通路扉は客用ドア同様にペーパーハニカム構造と10 mm厚の単層ガラスの採用で軽量化をはかると共に開閉操作を容易にした。ドアエンジンには戸閉力弱め機構を搭載し、閉扉後6秒間は戸閉力が24%となる戸閉め力弱め機能が追加された。",
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"text": "車内ドア上部には旅客へのLEDを使用した文字スクロール表示式のドアチャイム内蔵車内案内表示器が設置された。",
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"text": "乗務員室基本構成は2100形を踏襲、視認性を考慮し運転台計器台周辺はダークグレーの落ち着いた色調とした。",
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"text": "主幹制御器(マスコンハンドル)は1号線直通規格に基づいた力行1 - 5段、常用ブレーキ1 - 5段、非常のT字形ワンハンドル式を採用、マスコンの右側には非常ブレーキ動作、パンタグラフ降下、非常発報がボタンひとつの操作で行える緊急スイッチを設置した。また、乗務員室内には折りたたみ式非常ハシゴを設置している。",
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"text": "乗務員室仕切りは仕切窓が3枚並び、そのうち中央は仕切扉である。",
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"text": "600形4次車でMT比1:1を採用したが、雨天時などの粘着低下により加速度低下、前後衝動が発生したため、2100形ではスリップ・スライド制御を盛り込んだドイツ・シーメンス社製制御装置を採用した。本形式の制御装置は2100形での試験データを反映させて改良されたものである。",
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"text": "VVVFインバータ制御装置は、1・2次車では2100形と同じくGTOサイリスタ素子(素子耐圧4,500 V - 3,000 A)によるものを採用した。2100形と同様にシーメンス独特の音階による磁励音を主電動機およびインバータ装置から発する。 動作音この制御装置はVVVFインバータ制御装置本体、断流器、フィルタリアクトル等を「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体の箱に収納している。3 - 5次車では同じシーメンス社製であるが、使用素子はIGBTに変更され、純電気ブレーキが搭載された。",
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"text": "主電動機の仕様も2100形と同一で、シーメンス社製1TB2010-0GC02系、出力190 kW、1 - 5次車では互換性があるが、3次車以降は速度センサを制御に使用していないため、センサが実装されていない。シーメンス製電動機の出力は1時間定格出力ではなく、連続定格出力である。 なお、シーメンス社は日本市場から既に撤退しており、1・2次車に対する更新工事も進められた結果、最後に残った1033編成も2021年7月20日を以て運用を終了し、起動時に音階の流れる編成は消滅した。",
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"text": "補助電源装置は三菱電機製のIGBT素子 (IPM) を使用した静止形インバータ (SIV) を採用し、8両編成では150 kVAのNC-EAT150Aを、4両編成では75 kVAのNC-EAT75Aをそれぞれ編成に2台搭載しており、出力電圧は三相交流440 Vとしている。",
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"text": "空気圧縮機 (CP) はドイツ・クノールブレムゼ社製のスクリュー式の装置で、除湿装置、起動装置などを一体形としたものである。8両編成ではSL-22形(吐出量1,600 L/min)、4両編成ではSL-6形(吐出量800 L/min)を編成に各2台搭載する。",
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"text": "集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングルアーム式パンタグラフを搭載している。駆動装置は2100形と同一のTD平行カルダン駆動方式だが、たわみ板材質を特殊鋼から炭素繊維強化プラスチック (CFRP) へ変更し、継ぎ手カバーを不要として保守の容易化を図った。",
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"text": "台車は乗り心地・走行性・保守性の点から乾式ゴム入り円筒案内式のボルスタ付き台車を採用し、車体支持装置は車体直結空気ばね方式である。この台車は2100形とほぼ同形だが、軽量化のため付随車用に主電動機架軽量化を省略した専用台車を用意した。2次車までは軸ダンパを準備工事としているが、3次車からは省略され、台車形式を変更している。",
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"text": "冷房装置には、冷媒にオゾン破壊係数が0の新代替フロンであるHFC-R407Cを使用した、三菱電機製の屋根上集中式CU-71H形・能力41.86 kW (36,000 kcal/h) を搭載する。暖房装置は出庫時に外気気温が摂氏10度以下、かつ室内外の気温差が10度以上の際に室温が15度以上になるまで補助ヒーターとして作動する6kWの急速暖房器を備える。2100形に搭載されたCU-71G形では境界層と呼ばれる空気の流れにより、車速が速くなった際に熱交換器である凝縮器の冷却風が排出出来ずに過熱し、冷房能力が極端に下がる現象が問題となっていたことから、排風が流れる隙間を生み出す整流板を取り付けた。",
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"paragraph_id": 30,
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"text": "1次車 - 3次車は正面・側面の行先・運行番号・種別表示は幕式だったが、2005年(平成17年)度製の4次車からは種別表示器がフルカラーLED式、行先表示器が白色LEDとなった。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1・2次車の先頭台車の先頭軸には、非常ブレーキ・回生ブレーキ失効時にセラミックス(アルミナ・酸化アルミニウム)の粒子を噴射して制動能力低下を防止するセラジェットを搭載していたが、かつて使用していた鋳鉄制輪子で沿線の自動車を傷つけた事例があったこともあり、撒く場所によって人や自動車に影響を与えることが懸念されたうえ、使用頻度が少ないために3次車以降では廃止されている。動作条件は京急線内でワイパースイッチを投入し、一定速度以上での回生失効や非常ブレーキを操作した場合に、1回につき6秒間セラミックを噴射するものである。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "プラットホームでの安全対策として、各車両の連結面には転落防止幌が設置されているほか、4両編成の先頭車排障器(スカート)内側には、他の車両と連結して運転される際に連結間から転落する事故を防止するため連結部注意放送装置のスピーカーが設置されている。車両の前後切換スイッチが「中」(中間車扱い)位置にあり、ドアが開いている間警報音に続いて「車両連結部です。乗車口ではありません。ご注意ください」という注意放送が流れる。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "製造メーカーの「東急」は東急車輛製造製、「川重」は川崎重工業製。以下同じ。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)2月 - 6月に8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した。同年3月23日・24日に試乗会が行われ、直通運転先の各社に乗務員訓練などのため貸し出された後、4月15日から自社線内で営業運転を開始、6月25日から都営浅草線、8月30日から京成線高砂まで、9月4日から北総線への乗り入れ運用に充当された。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "8両編成1本と4両編成1本を3M3Tの6両編成2本に組み替えられる機器構成とされ、4両編成の付随車には集電装置や補助電源装置が分散配置され、浦賀方には編成替時の増設用にパンタグラフの準備工事がなされている。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1次車のみ、2100形で好評であったブライドスモークガラスは鉛の使用に関する問題で制作できなくなった影響で代替品となるグリーンのガラスを採用した。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2003年(平成15年)5月 - 7月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した。車体見付・機器配置の仕様変更を行い、乗客へのサービス向上とコストダウンを図った。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)1月 - 3月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した。この3次車では大規模な仕様変更が行われた。また、2004年(平成16年)12月に国土交通省の地下鉄道の火災対策の基準が見直され、この新火災対策への対応も行われている。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2005年7月 - 8月に8両編成1本、4両編成4本の24両が竣工した。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2006年10月 - 11月に8両編成1本、4両編成2本の16両が竣工した。4次車からの変更点はない。",
"title": "アルミ車両"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "6次車以降の車両では京急初の軽量ステンレス製車体とし、外板がベルトグラインダー仕上げの無塗装とされた。側面には京急のイメージカラーを踏襲した赤と白のカラーフィルムが貼り付けされた。前頭部は普通鋼製とされ、従来車同様赤く塗装された。前面はアルミ車のワイパーカバーを廃止し、形式番号は直接表記とされた。フロントガラスは貫通扉も含めて左右2分割から運転席前・貫通扉・左右前照灯・種別行先表示器の5分割構成となった。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "側面はブロック共通化により表示器、表示灯は点対称に配置されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同時期製造の他社のステンレス車に対して車体幅、車体長、独自配置・寸法の下降窓、客室側窓には従来通りロールカーテンが設置されているなどの京急独自の特徴がある。高品質・高性能化とともにコストダウンがはかられた。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "雨樋・集電装置からの高圧配管が車体埋め込みから妻面に露出する形態となったほか、台枠から屋根に向かって車体が0.79度絞り込む台形断面状の車体となった。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "屋根は歩み板が車体全長に渡って設けられ、滑り止めが施された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "内装はアルミ車同様に暖色系を採用し、温かみある親しみやすい空間を目指した。内張りはアルミ車同様の白色系化粧板を使用し、アルミ車ではアクセントとして側面より濃い色調とされていた妻面が側面の色調に統一された。床材についてもロンリウム材ではあるが、色調をグレー系へと変更した。中央天井部は空調ダクト・ラインフロー(冷風吹出口)一体成形の燃焼基準に適合したFRP製ユニット天井とされ、ラインデリア整風板の形状も変更された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "車端部の4人掛けクロスシートは5人掛けロングシートに変更され、京急では1993年(平成5年)製造の1500形の最終製造車以来14年ぶりのオールロングシート車となったが、5次車までと同様の座席の表地や1人分455 mm幅の片持ち式バケットタイプシート構造を採用している。座席端の袖仕切りと立席ポスト(握り棒)の仕切り板の色はピンク色からベージュ色に変更された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "客用ドアは車両メーカー標準品を採用、室内側を無塗装とし、客用ドアガラスは側窓と併せ濃色グリーンの単板の熱線吸収ガラスに変更された。各車両間の妻引戸は浦賀寄り先頭車を除き全車浦賀寄りに設置、戸閉め方式は傾斜式に変更され、ドアチェッカは廃止された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "客用ドア間の側窓はアルミ車と合わせられ、戸袋幅が圧縮されてその分窓の幅が広げられ、開口寸法はガラス2枚と間柱を合わせて2,475 mm、車端部では1,525 mmとなっている。中央に桟のある2枚分割構成で片側を開閉可能な一段下降式とし、1両あたり4か所が床面上1,240 mmまで開閉可能である。そのため、アルミ車両にあった排気扇は廃止されている。側窓枠はFRP製とされ、カーテンの色は青色に変更した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "踏切事故対策と運転操作性を考慮し、京急では1967年(昭和42年)の700形1次車以来40年ぶりとなる高運転台構造を採用、運転士用の座席と運転台を150 mm高くし、乗務員室を前後に200 mm拡大した。乗務員室背後の座席は廃止され、この場所側面にあった小窓も廃止された。乗務員室に非常用脱出はしごが設置された。運転席背後に非常用救出口が設けられたため、仕切部の窓が小型化された。 運転席側のワイパーは1本となり、ワイパーカバーを廃止、貫通扉に手動式ワイパーが設置された。踏切事故対策として、前頭部はアルミ車両よりも1.5倍以上の強度向上がなされている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "搭載機器は仕様が見直され、主制御器・主電動機が日本製となり、編成での機器配置も変更された。予備部品の共通化も考慮し、制御装置・主電動機は1500形VVVF化改造車で実績のあるものが採用された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "VVVFインバータ装置は日本製の2レベルIPM・PGセンサレスベクトル制御(3300V/1200A)となり、電動機制御は1C4M2群方式に変更された。8連は三菱電機製、4連・6連は東洋電機製造製のインバータ装置を搭載する。主電動機は一時間定格155 kWの誘導電動機で、三菱電機製MB-5121-A形または東洋電機製造製TDK-6162A形を搭載する。両者とも原設計は4M2Tの6両編成を想定しており、電動車比率の高い4・8両編成では出力を抑えて使用している。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置はメーカーが変更され、東芝製の静止形インバータ装置 (INV153-F0) を採用、8両編成・4両編成とも出力は170 kVAとなった。電動空気圧縮機 (CP) は三菱電機製のスクロール式CP(MBU1600-Y形)に変更され、省スペースと軽量化のため関連機器ごとステンレス製の一体箱に収納された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "集電装置、駆動装置、歯車比、空調装置、ブレーキ制御装置はアルミ車両と同一、台車は3次車以降と同一の円筒案内式TH-2100BM(電動台車)/TH-2100BT(付随台車)であるが、台枠構造の関係でボルスタアンカーの上部が内側に屈折している。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "冷房装置は、アルミ車両と比較して屋根が高く、埋没深さが増えた結果、キセが薄くなっている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "6次車は1073編成の8連1本が製造された。2007年(平成19年)3月に落成し、同年3月31日から営業運転に就いた。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2008年1月 - 2月に8両編成2本、16両が竣工した。6次車とほぼ同等の仕様であるが、以下の点が変更されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2008年9月 - 12月にかけて8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した。ステンレス車体の4両編成、川崎重工業製が含まれる。4両編成は全車電動車で、中間に付随車2両を挟むことで6両編成が組成出来るよう設計され、品川寄り中間電動車には付随車への給電用パンタグラフの準備工事が行われている。6・7次車とほぼ同様だが、以下の部分が変更された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2009年度には4両編成8本、32両が竣工した。仕様は8次車と同一である。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2010年度には、同年7月17日に開業した京成成田スカイアクセス線の開業準備用として製造された8両編成3本と、4両編成1本の計28両が竣工した。この10次車ではバリアフリー設備の充実のため、一部で仕様の見直しが実施された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2011年度には8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した。従来は8両編成と4両編成のみ製造されていたが、今回より800形の置き換えを目的として6両編成が登場した。2011年度の6両編成は全車川崎重工で製造され、6両編成の車両番号は「1300番台」に区分されている。6両編成は先頭部の電気連結器を装備していないが、運用変更への対応を考慮して8両編成または4両編成への変更が可能な編成形態となっている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)度には8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した。1153編成は総合車両製作所が発足後最初に鉄道事業者に引き渡された車両で、同社を出場した2012年4月6日に出場記念のテープカットが行われている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2013年(平成25年)度には13次車として8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した。1161編成は土砂崩れに乗り上げて脱線し廃車となった1500形1701編成の代替となっている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2014年(平成26年)度には14次車として8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2015年(平成27年)度には15次車として6両編成2本、4両編成2本が竣工した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "4両編成は、初めての総合車両製作所製となり、「初代1000形みたいな使い方が、今の1000形でも出来ればよい」と言う事から、浅草線直通用の8両編成が不足した際に2編成を連結して直通運用に使用できるよう各部の仕様が変更された。車両番号も「1800番台」に区分されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)度には16次車として32両が製造された。2016年9月に1800番台の4両編成1本が竣工、2016年11月に仕様が変更されたマイナーチェンジ車が6両編成2本で竣工した。また、8両編成2本が2017年2月に導入された。本導入分以降の6両編成は「1600番台」と区分されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1809編成での変更点は以下の通り。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "6・8両編成では以下の点が変更された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2017年度は17次車として6両編成2本、8両編成3本が導入された。本導入分から、8両編成は京急創業120周年に合わせて「1200番台」に区分されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2018年5月9日付けの京急ニュースリリースにおいて、2018年度安全対策関連のうち、本形式の車両新造を42両行うと発表され、これに伴い6両7編成(1625 - 1661)が導入された。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "京急線内でのホームドアの設置が本格化することとなり、4扉車の為にホームドアに対応できない800形の置き換えを進めた。6両編成としては初となる総合車両製作所製の編成も登場した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2019年度には14両が導入された。 1225編成は朝ラッシュの上り時間帯に入る2100形の運用の一部を置き換える目的で増備されたが、同年に事故廃車となった1137編成の代替となった。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2020年度は20次車(1890番台)4両2編成が導入された。従来車から大幅な設計変更が行われたため、特に1000形1890番台として区分する場合がある。本導入分より、車両番号の付番がハイフンを用いた方式に変更された。全車総合車両製作所製。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2021年度も21次車として3本が導入された。20次車の続番で、仕様も基本的には同様になっている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2021年5月6日の「モーニング・ウィング3号」より運行を開始した。当初は土休日にイベント用の貸切列車として運用する計画であったが、現在はイベント列車に起用される一方、他の1000形4両編成と共にエアポート急行などにも使用されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "この編成には愛称を一般公募しており、2021年12月24日にフランス語で「空」を意味する「Le Ciel」(ル・シエル)と命名された。三浦半島や羽田空港の空を想起させ、高級感のある響きである事や、日本語で発音すると4文字となり、覚えやすく親しみやすい事などから採用に至った。また、かつて京急本線で運行されていた週末特急「ラ・メール号」(フランス語で「海」の意、2007年まで名古屋と横浜・品川を結んでいた夜行高速バスも同名)へのオマージュも込められている。なお、2022年3月以降車体側面に順次愛称ロゴが掲示されている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "「チャレンジングな姿勢と堅実性を兼ねそろえたトータルバランスに優れた車両」として、2022年5月26日に鉄道友の会が選定するブルーリボン賞(第65回)を受賞した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2023年度には6両編成と8両編成が1本ずつが導入される予定。6両編成は、2021年に川崎重工より分社化した川崎車両が製造した初めての京急車両となった。従来の6両編成とは組成が変更となり、デハ-サハ-デハ-デハ-サハ-デハとなっている。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2023年9月7日、金沢文庫駅7:55発逗子・葉山駅行き普通列車より運行を開始した。",
"title": "ステンレス車両"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2003年度より、デハ1401では各種試験が行われた。前面と側面の行先表示器を白色、種別表示器をフルカラーLEDとしたほか、試験品の制御装置としてIGBT素子を使用したシーメンス製の物を搭載した。その後2006年5月に従来のGTO素子を使用した物に戻され、2016年の主回路換装時に4両編成の1・2次車更新用として搭載されている東芝製のIGBT素子を利用したSVF093-A0に換装されている。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1次車は登場時黒地幕であったが、現在はすべて白地幕に交換された。2009年(平成21年)以降方向幕を搭載していた編成のLED式表示器への交換が進み、正面表示については2014年(平成26年)末頃に完了している。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2011年より、室内灯にLEDを採用するにあたり、1449編成の各車両を用いた様々なLEDの比較試験が行われた。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "試験されたLED照明は以下の通り。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2015年より、1445編成の1、2号車の冷房装置がCU71Hから 東芝のRPU-11028に換装された。冷房能力はCU71Hの41.9kWより大きい48.9kWとされたが、2022年10月26日に機器更新が行われ、その際に他の編成と同型のCU-71-G3に換装されている。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "2017年度より、製造から15年程度経過したアルミ車両への車体更新工事・機器更新工事が開始され、同年9月17日には最初に車体更新が施工された1次車の1001編成が公開された。翌9月18日より営業運転を開始している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "主な工事内容は以下の通り。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "都営浅草線、京成線、北総線への乗り入れ運用を中心とした快特などの優等列車が主体で、成田スカイアクセス線(京成成田空港線)経由の「アクセス特急」にも使用される。また、京成本線経由の運用もある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "主に普通列車を中心に用されている。また、逗子線系統のエアポート急行の一部にも運用されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "主に普通列車や優等列車の増結車や4両編成を2本連結した8両編成で自社線完結のエアポート急行として運用されるほか、大師線でも運用されることがある。1800番台は先頭車間の幌を繋いだ時に限り、地下鉄線内への乗り入れが可能である。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1890番代は『モーニングウイング』3号に使用後、品川で都営からの直通列車に増結して京急川崎止まりになり、神奈川新町駅で切り離し後入庫する。その後は、一般車4両と組成してエアポート急行で運用される事が多い。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1500形・600形・2100形との連結が可能。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "黄色く塗装された姿が西武鉄道の車両に似ているとの声から、京急が西武にコラボレーションを提案、西武9000系の9103編成を赤い車体に白い帯とした「幸運の赤い電車 (RED LUCKY TRAIN)」とし、両社で共同キャンペーンを実施していた。",
"title": "特別装飾・ラッピング"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "当初は3年間の運行予定であったが、好評のため運行開始から3年が経過する2017年(平成29年)5月以降も運行が継続されることになった。同年には塗装がマイナーチェンジされ、従来は銀色だった乗降扉部分も黄色に変更され、車体側面全体が黄色の塗装となった。同年4月29日よりこの塗装での運行を開始した。",
"title": "特別装飾・ラッピング"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "東京都大田区の商店街の紹介や、大田区公式キャラクター「はねぴょん」がデザインされている。",
"title": "特別装飾・ラッピング"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "京急電鉄の企画として2019年より実施されている「夏詣キャンペーン」に合わせて2021年より毎年1201編成に夏詣ヘッドマークが掲出されている。",
"title": "特別装飾・ラッピング"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1137編成は2019年(令和元年)9月5日、神奈川新町駅近くの踏切にてトラックと衝突する事故(京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故)を起こし、損傷が激しいことから、翌2020年(令和2年)3月15日付で本系列初の廃車となった。この影響で、モーニングウィング号1号の増便運行開始が1ヶ月延期された。",
"title": "事故廃車"
}
] |
京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、2002年(平成14年)4月15日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄(京急)の通勤形電車。1959年(昭和34年)登場の初代1000形と同時に営業運転に使用された期間があり、区別のため、本形式は新1000形と呼称されており、初代1000形の引退後も「新1000形」と呼称されることが多い。なお、京急電鉄社内では初代1000形の引退後である2011年4月ごろに「新1000形の呼称ではなく、1000形の呼称を使う旨」の通達が出されているほか、初代1000形が引退してから時間が経過し、2021年頃から表記も順次「新」の付かない1000形に改められつつある。 本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。また、「新1000形」は本形式、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指すものとする。文中の編成表では左側を浦賀方とする。また、本形式についてはアルミ合金製車体の編成群を「アルミ車両」、ステンレス製車体の編成群(6次車以降)を「ステンレス車両」と表記する。
|
{{pp-vd|small=y}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急1000形電車(2代)
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Keikyu-Main-Line Type1000-355 445.jpg
| 画像説明 = 京急1000形電車<br/>(ステンレス車1355・アルミ車1445)
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[総合車両製作所]]横浜事業所 <ref name="DJ342p124"/><br/>[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]
| 製造年 = 2002年 -
| 製造数 = 486両<ref group="注釈">2019年9月の踏切事故で廃車になった1137編成8両を含む</ref>
| 運用開始 = 2002年4月15日
| 編成 = 4・6・8両編成
| 軌間 = 1,435 mm([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線]]方式)
| 最高運転速度 = 120 km/h<ref name="RF493p75"/>
| 設計最高速度 = 130 km/h<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 起動加速度 = 3.5 km/h/s<ref name="RP791p148"/><ref name="N1000 KeikyuA"/><ref name="giho119"/><ref group="注釈">[[#鉄道ピクトリアル717|鉄道ピクトリアル通巻717号 p101]]、[[#鉄道ファン493|鉄道ファン通巻493号 p75]]に記載の諸元表には0.917 m/s/s (3.3 km/h/s) と記載されているが、京急のサイトの記載などと異なるため、誤植の可能性がある</ref>
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 非常減速度 = 4.5 km/h/s<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 車両定員 = 1 - 5次車<ref name="RP717p101"/>:座席の「+」は補助座席使用時<br/>先頭車122(座席41+4)人<br/>中間車130(座席48+8)人<br/>6 - 9次車<ref name="RP791p148"/><br/>先頭車119(座席39)人<br/>中間車130(座席52)人<br/>10 - 15次車<ref name="Train2018-0">エリエイ「とれいん」2018年1月号MODELERS FILE「京浜急行電鉄新1000形電車ステンレス鋼製グループ」折り込みページ。</ref><br/>先頭車118(座席39)人<br/>中間車129(座席52)人<br/>16次車以降<ref name="Train2018-0"/><br/>先頭車116(座席38+2)人<br/>中間車126(座席50+4)人<br />20次車<ref name="toyokeizai20210417" /><br />先頭車101人<br />中間車107・111人
| 自重 = 本文参照
| 全長 = 18,000 mm<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/><!-- 各項目のカンマは消さないこと -->
| 全幅 =
| 全高 = 4,026.5 mm<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/><br/>4,050 mm(パンタグラフ付き車両)<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 車体長 =
| 車体幅 = 2,830 mm(1 - 5次車)<ref name="RP717p101"/><ref name="年鑑2004諸元"/><br/>6次車以降2,791.8<ref name="RP791p148"/><!-- 車体幅 -->
| 車体高 =
| 車体 = 1 - 5次車 [[アルミニウム合金]]<br/>6次車以降 [[ステンレス鋼|ステンレス]]
| 台車 = 円筒案内支持方式[[空気ばね]]台車<br/>TH-2100A形・TH-2100B形<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<ref name="RP717p102"/><br/>1- 19次車 自己通風式<br/>20次車以降 全閉外扇方式<br />[[永久磁石同期電動機]](一部編成)| 主電動機出力 = 1 - 5・20次車:190 [[ワット|kW]]<ref name="RP717p101"/>(連続定格)<ref name="佐藤2003p151"/><br/>ただし、3 - 5次車(シーメンスIGBT車)は出力を抑えている<ref name="年鑑2005p135"/>。<br/>6 - 19次車:155 kW(1時間定格)<ref name="RP791p148"/>(一部除く)
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン]]<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 歯車比 = 83:14 (5.93)<ref name="RP791p148"/><ref name="年鑑2004諸元"/>
| 制御方式 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]<ref name="RF493p75"/>または[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]<ref name="年鑑2005p134"/>または[[パワーMOSFET|MOSFET]][[半導体素子|素子]]による<br/>[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<ref name="RF493p75"/>
| 制御装置 =
| 制動装置 = [[応荷重装置]]付[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]<ref name="RP717p101"/><ref name="RP791p148"/>
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]<ref name="RP717p101"/>、[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]<ref name="RP791p148"/>
| 備考 =
| 備考全幅 = {{ブルーリボン賞 (鉄道)|65|2022}}{{right|※受賞車両は[[#20・21次車『Le Ciel』|1890番台]]}}
}}
'''京急1000形電車'''(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、[[2002年]]([[平成]]14年)[[4月15日]]に営業運転を開始した<ref name="RM226p138"/>、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。[[1959年]]([[昭和]]34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|初代1000形]]と同時に営業運転に使用された期間があり、区別のため、本形式は'''新1000形'''と呼称されており、初代1000形の引退後も「新1000形」と呼称されることが多い<ref group="注釈" >{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/train/|accessdate=2020-07-24|publisher=京浜急行電鉄|title=京急の電車紹介}}など、多数の資料で「新1000形」と紹介されている。</ref>。なお、京急電鉄社内では初代1000形の引退後である[[2011年]]4月ごろに「新1000形の呼称ではなく、1000形の呼称を使う旨」の通達が出されているほか<ref name="ディテールp4"/>、初代1000形が引退してから時間が経過し、2021年頃から表記も順次「新」の付かない1000形に改められつつある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/report/427/|accessdate=2023-11-05|publisher=鉄道コム|title=京急の1000形はいつから「新1000形」ではなくなった? 京急に聞くその理由}}</ref>。
本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、[[京急本線]]上で南側を「[[浦賀駅|浦賀]]寄り」または「浦賀方」、北側を「[[品川駅|品川]]寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と表記する。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で表記する。また、「新1000形」は本形式、「1000形」は[[1959年]](昭和34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]]、「700形」は[[1967年]](昭和42年)登場の[[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]]、「600形」は[[1994年]](平成6年)登場の[[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]]を指すものとする。文中の編成表では左側を浦賀方とする。また、本形式についてはアルミ合金製車体の編成群(1 - 5次車)を'''「アルミ車両」'''、ステンレス製車体の編成群(6次車以降)を'''「ステンレス車両」'''と表記する。
== 概要 ==
初代1000形と[[京急700形電車 (2代)|700形]]の置き換え用として[[京急2100形電車|2100形]]の車体や主要機器をベースとして設計され<ref name="RP717p98" />、快適性の向上、環境への配慮、[[省エネルギー]]化、保守の低減などを目指した<ref name="RP717p98" />。
[[鉄道車両の座席|座席]]は1 - 5、16次車以降では客用扉間にはロングシートを、車端部にはクロスシート<ref group="注釈">16次車は通路の片側のみ</ref>を採用した<ref name="RP717p99" />が、6 - 15次車では車端部も全てロングシートとなった<ref name="RP791p146" />。製造時期によって各種設計変更が行われており、2007年導入分からは車体の材質や制御機器が変更される<ref name="RP791p146" />等、その内容は非常に多岐にわたることが特筆される。
[[鉄道の車両番号|車両番号]]は、1 - 19次車では[[浦賀駅|浦賀]]寄りから連番とされた。8両編成は百の位を0として1001から<ref name="RP717p101"/>、6両編成は当初百の位を3として1301から<ref name="DJ330p122"/>、2016年(平成28年)度製造の16次車以降は百の位を6として1601から<ref name="rf20161027"/>、4両編成は百の位を当初4として1401から<ref name="RF493p71"/>、2015年(平成27年)度製造の15次車以降は百の位を8として1801から<ref name="Keikyu20151222"/>付番されている。<br/>20次車以降では表記にハイフンが用いられるようになり、編成番号の後にハイフン以下一桁で浦賀方から編成内の順位を表すように付番されるようになった。4両編成では2021年(令和3年)度製造の20次車以降に1891-1から<ref name="Keikyu20210120"/>、6両編成では2023年(令和5年)度製造の22次車以降に1501-1から付番されている。各製造時の車両番号は製造時のバリエーションを参照のこと。
[[2016年]]3月31日現在、8両編成22本(176両)、6両編成12本(72両)、4両編成25本(100両)の計59本・348両が在籍し、京急で最大車両数の形式である<ref name="両数"/>。
<gallery>
ファイル:Keikyu-N1000-ALcar.jpg|アルミ車体の外観
ファイル:Keikyu-N1000-SUScar.jpg|ステンレス車体の外観
ファイル:Keikyu series 1000-sus 16 tdr.jpg|ステンレス車体・ラッピング車の外観
ファイル:ステンレス 前面塗装車両の外観.png|ステンレス車体・全塗装車の外観
</gallery>
== アルミ車両 ==
=== 外観 ===
車体は軽量化と保守の軽減を狙ったアルミ軽合金製で、外板塗装は600形・2100形と同様赤い車体、窓周り白塗装である<ref name="RP717p99"/>。ロングシート主体の車両であることから、当初はそれまでの慣例に倣い、赤い車体に白帯の塗装とすることも検討されていたが、[[1998年]]に開業した[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港駅]]ホームの照明によって停車する車両の発色が悪くなってしまい、駅の雰囲気が重苦しくなることから、「全く新たな色の明るい塗装」とすることも含めて再検討されたが、最終的にはそれまで特別な車両に塗られてきたこの塗装が施された<ref name="ディテールp112"/>。[[樋|雨樋]]や[[集電装置|パンタグラフ]]からの高圧配管など、車体妻面にある配管類は車体埋め込み形となっている<ref name="RF563p95"/>。
先頭形状は2100形の三次元曲面を踏襲し、正面向かって左端には[[非常口|非常用]]の[[プラグドア|スイングプラグドア]]を設置した<ref name="RP717p98" />。スカートと一体感を持った3次元曲面で構成されている<ref name="RP717p99"/>。先頭車の正面の[[ワイパー]]カバーには2100形同様に形式名が[[スリット]]で打ち抜かれ、[[増解結|連結作業]]時に[[運転士]]から[[連結器]]先端が見えるよう配慮されている<ref name="RP717p99"/>。形式名と併せ、車両番号の下3桁が貫通扉に表示され、遠方からでも600形・2100形との識別ができる<ref name="RP717p99"/>。ワイパーはフレキシブルケーブルで連結された電動2連式で、使用時以外はワイパーカバー内に収納される<ref name="RP717p102"/>。正面運転席上行先表示器両脇に[[前照灯]]を、腰部に[[通過標識灯|急行灯]]と[[尾灯]]を備える<ref name="RP717p102"/>。尾灯は電球式で、2100形4次車以降と同様急行灯の内側に置かれている<ref name="RP717p102"/>。
客室窓はすべて固定窓とされ、車体清掃の容易化のため車体外板との段差がなくなるよう設計されている<ref name="RP717p99"/>。扉間の窓は幅2,325 [[ミリメートル|mm]]、中央部に75 mmの柱があり、車端部は幅1,455 mmの1枚構成である<ref name="RP717p98"/>。
車端部から客扉の中心までの寸法は3,345 mmで、[[京急600形電車_(3代)|600形]]の3,200 mm、[[京急2100形電車|2100形]]の3,150 mmより長く確保されており、車端部をロングシートにした際に5人掛けにできるよう設計されている<ref name="ディテールp82"/>。
=== 内装 ===
{{wakumigi|[[File:Keikyu N1000 inside.jpg|thumbnail|240px|none|1次車の車内]]}}
内装は暖色系を採用し、温かみのある親しみやすい空間を目指した<ref name="RP717p99"/>。内張りは白色系の[[デコラ|化粧板]]を、乗務員室背面仕切壁や妻面にはピンク色の化粧板を採用し、床材には明るい青色のロンリウム材を使用した<ref name="佐藤2004p90"/>。乗客が触れやすい部分である、客用ドアの袖や化粧板の縁押しなどはビス頭をモールで隠されている<ref name="ディテールp82"/>。京急の車両では初めて[[動力車|電動車]]床面の点検蓋が省略された<ref name="RP717p100"/>。
扉間は脚台をなくし、座面に暖房装置を取り付けた片持ち式[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]、車端部が補助いす付きの[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]である<ref name="RP717p99"/><ref name="佐藤2014p76"/>。先に3扉ロングシート化改造が行われた[[京急2000形電車|2000形]]にて、工事が急がれたことからやむを得ず残された車端部のクロスシートが好評で、かつ混雑時間帯でも問題なく使用可能なこと<ref name="ディテールp82"/>、「[[少子高齢化]]が進む中で、座りやすい椅子が重要であることや家族連れが快適に利用できるように」という議論がなされたことで配置された<ref name="ディテールp109" />。
ロングシートは[[バケットシート|バケットタイプ]]を採用、1人分の掛け幅は455 mmとした<ref name="RP717p99"/>。座席端の袖仕切は大型板とされ、扉間の8人掛ロングシートを3人と5人に分割する仕切板と握り棒(立席ポスト)を設置した<ref name="RP717p99"/><ref name="RP717p100"/>。座席表地はロング・クロスシートとも赤系色としている。計画段階では、座席の表地に2100形と同様に[[スウェーデン]]のボーゲサンズ(Bogesunds)社の製品が使用される予定であったが、[[1998年]]に3扉化改造を施した[[京急2000形|2000形]]で採用した国産の蘇芳色の表地のデザインが好評で汎用性も高かったことから、同様の物へと変更された<ref name="ディテールp115" />。補助いすは[[操縦席|乗務員室]]からの操作で施錠と解錠が可能で、閑散時には使用可能となり、混雑時には収納状態で固定される<ref name="RP717p99"/>。<!-- 細かな観察は不要。製造次車ごとの違いは別途記述。 -->
[[バリアフリー]]対応のため各先頭車に安全手すり付きの[[車椅子スペース]]を設け、乗務員との通話が可能な[[車内非常通報装置|非常通報装置]]を備えている<ref name="RP717p100"/>。
中央天井部はリサイクル性を考慮し、2100形の[[繊維強化プラスチック|FRP]]製からアルミ化粧板に変更され、各車両にラインフローファン4台が設置されている<ref name="RP717p100"/>。側窓も同様に、ロールカーテンのガイドを兼ねた内キセを、FRPからアルミ製に変更している<ref name="佐藤2014p76"/>。固定式のため、非常時の換気を考慮し、[[二次電池|蓄電池]]を電源として[[停電]]時でも約1時間運転可能な[[換気扇|排気扇]]を各車2台搭載している<ref name="RP717p103"/>。
車内[[騒音]]の低減を図る目的から客用窓はドアガラスも含めて[[複層ガラス|複層構造]]による固定窓とされた<ref name="RP717p100"/>。室内側の窓枠はアルミ製とし、遮光用の[[カーテン|ロールカーテン]]を設置する<ref name="RP717p100"/>。
客用ドアは幅1,300 mm、高さ1,850 mmで室内側は化粧板で仕上げられ、軽量化のためペーパー[[ハニカム構造]]を採用、扉本体とガラス面をフラットにすることで手などの巻き込みを防止するよう配慮されている<ref name="RP717p100"/>ほか、副次的に[[結露]]の防止にも役立っている<ref name="ディテールp82"/>。車両間を仕切る[[貫通扉]]は2次車までは奇数号車の[[浦賀駅|浦賀]]寄りに設置<ref name="RP717p100"/>、3次車以降は浦賀方先頭車を除く全車の浦賀寄りに設置した<ref name="年鑑2005p134"/>。貫通路扉は客用ドア同様にペーパーハニカム構造と10 mm厚の単層ガラスの採用で軽量化をはかると共に開閉操作を容易にした<ref name="RP717p100"/>。ドアエンジンには戸閉力弱め機構を搭載し、閉扉後6秒間は戸閉力が24%となる戸閉め力弱め機能が追加された<ref name="RP717p100"/>。
車内ドア上部には旅客への[[発光ダイオード|LED]]を使用した文字[[スクロール]]表示式の[[ドアチャイム]]内蔵[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]が設置された<ref name="RP717p101"/>。
=== 運転台 ===
[[File:Keikyu 1001 cabin.JPG|thumb|200px|運転台(デハ1001)]]
[[操縦席|乗務員室]]基本構成は2100形を踏襲、視認性を考慮し運転台計器台周辺はダークグレーの落ち着いた色調とした<ref name="RP717p101"/>。
[[マスター・コントローラー|主幹制御器]](マスコンハンドル)は1号線直通規格に基づいた[[力行]]1 - 5段、常用ブレーキ1 - 5段、[[非常ブレーキ|非常]]のT字形ワンハンドル式を採用、マスコンの右側には非常ブレーキ動作、パンタグラフ降下、非常発報がボタンひとつの操作で行える[[緊急列車防護装置|緊急スイッチ]]を設置した<ref name="RP717p100"/>。また、乗務員室内には折りたたみ式[[梯子|非常ハシゴ]]を設置している<ref name="RP791p148"/>。
乗務員室仕切りは仕切窓が3枚並び、そのうち中央は仕切扉である。
{{-}}
=== 主要機器 ===
{{試聴 |filename = Keikyun1000.ogg |title = 京急 新1000形(1・2次車)のインバーター動作音(加減速部のみ) |description = 磁励音に特徴的な音階が流れる。}}
600形4次車で[[MT比]]1:1を採用したが、雨天時などの粘着低下により加速度低下、前後衝動が発生したため、2100形ではスリップ・スライド制御を盛り込んだ[[ドイツ]]・[[シーメンス]]社製制御装置を採用した<ref name="RP717p102"/>。本形式の制御装置は2100形での試験データを反映させて改良されたものである<ref name="RP717p102"/>。
[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]装置は、1・2次車では2100形と同じく[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]](素子耐圧4,500 [[ボルト (単位)|V]] - 3,000 [[アンペア|A]])によるものを採用した<ref name="RP717p102"/>。2100形と同様にシーメンス独特の[[京急2100形電車#機器類|音階による磁励音]]を主電動機およびインバータ装置から発する<ref group="注釈">[[#年鑑2005|『鉄道車両年鑑2005年版』p134]]に「3次車以降主制御機の使用素子変更により2100形以来親しまれていた音階が流れなくなった」旨の記述があり、1次車と2次車では音階が流れていたことが合理的に推定できるが、本形式が「唄う電車」であることを登場時の紹介記事で記載したものはない。</ref>。{{Audio|Keikyun1000.ogg|動作音}}この制御装置はVVVFインバータ制御装置本体、断流器、[[フィルター|フィルタ]][[リアクトル]]等を「トラクションコンテナ」と呼ばれる一体の箱に収納している<ref name="RP717p102"/>。3 - 5次車では同じシーメンス社製であるが、使用素子は[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]に変更され<ref name="年鑑2005p134"/>、{{要出典範囲|[[純電気ブレーキ]]が搭載された。|date=2011年9月}}
[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]の仕様も2100形と同一で、シーメンス社製1TB2010-0GC02系、出力190 k[[ワット|W]]<ref name="年鑑2002諸元"/>、1 - 5次車では互換性があるが、3次車以降は速度センサを制御に使用していないため、センサが実装されていない<ref name="年鑑2005p135"/>。シーメンス製電動機の出力は1時間定格出力ではなく、連続定格出力である<ref name="佐藤2003p151"/>。
なお、シーメンス社は日本市場から既に撤退しており<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46582410W9A620C1XA0000/ 京急の「歌う電車」絶滅寸前 シーメンス日本撤退で(2019年6月26日 日本経済新聞 電子版記事) ])</ref>、1・2次車に対する更新工事も進められた結果、最後に残った1033編成も2021年7月20日を以て運用を終了し、起動時に音階の流れる編成は消滅した<ref name="report20210721">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_305.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210807175507/https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_305.html|title=お知らせ 通称「ドレミファインバータ」は運行を終了しました|date=2021-07-21|archivedate=2021-08-07|accessdate=2021-08-07|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語}}</ref>。
補助電源装置は[[三菱電機]]製のIGBT素子 ([[インテリジェントパワーモジュール|IPM]]) を使用した[[静止形インバータ]] (SIV) を採用し、8両編成では150 k[[ボルトアンペア|VA]]のNC-EAT150Aを、4両編成では75 kVAのNC-EAT75Aをそれぞれ編成に2台搭載しており、出力電圧は[[三相交流]]440 Vとしている<ref name="年鑑2004諸元"/><ref name="RP717p102"/><ref name="年鑑2004p164"/>。
[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) はドイツ・[[クノールブレムゼ]]社製のスクリュー式の装置で、除湿装置、起動装置などを一体形としたものである<ref name="RP717p102"/>。8両編成ではSL-22形(吐出量1,600 [[リットル|L]]/[[分|min]])、4両編成ではSL-6形(吐出量800 L/min)を編成に各2台搭載する<ref name="年鑑2004諸元"/><ref name="RP717p102"/><ref name="年鑑2004p164"/>。
[[集電装置]]は[[東洋電機製造]]製のPT7117-A形シングルアーム式パンタグラフを搭載している<ref name="RP717p101"/>。駆動装置は2100形と同一の[[TD平行カルダン駆動方式]]だが、たわみ板材質を特殊鋼から[[炭素繊維強化プラスチック]] (CFRP) へ変更し、継ぎ手カバーを不要として保守の容易化を図った<ref name="RP717p102"/>。
[[鉄道車両の台車|台車]]は乗り心地・走行性・保守性の点から乾式ゴム入り円筒案内式のボルスタ付き台車を採用し、車体支持装置は車体直結[[空気ばね]]方式である<ref name="RP717p102"/>。この台車は2100形とほぼ同形だが、軽量化のため付随車用に主電動機架軽量化を省略した専用台車を用意した<ref name="RP717p102"/>。2次車までは軸ダンパを準備工事としているが、3次車からは省略され、台車形式を変更している<ref name="年鑑2005p135"/><ref name="年鑑2005諸元"/>。
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]には、[[冷媒]]にオゾン破壊係数が0の[[代替フロン|新代替フロン]]である[[ハイドロフルオロカーボン|HFC]]-R407Cを使用した<ref name="ディテールp82"/>、三菱電機製の[[集中式冷房装置|屋根上集中式]]CU-71H形・能力41.86 kW (36,000 kcal/h) を搭載する<ref name="RP717p103"/>。暖房装置は出庫時に外気気温が[[セルシウス度|摂氏]]10度以下、かつ室内外の気温差が10度以上の際に室温が15度以上になるまで補助ヒーターとして作動する6kWの急速暖房器を備える<ref name="RP717p103"/><ref name="ディテールp82"/>。2100形に搭載されたCU-71G形では[[境界層]]と呼ばれる空気の流れにより、車速が速くなった際に[[熱交換器]]である凝縮器の冷却風が排出出来ずに過熱し、冷房能力が極端に下がる現象が問題となっていたことから、排風が流れる隙間を生み出す整流板を取り付けた<ref name="ディテールp113" />。
<gallery>
ファイル:Keikyu 1009 Traction container.JPG|1次車のトラクションコンテナ(VVVFインバータ装置)
ファイル:Keikyu-N1000-SIV1.jpg|アルミ車8両編成のSIV装置(150 kVA・NC-EAT150A形)
ファイル:KeikyuN1000-NC-EAT75A.jpg|アルミ車4両編成のSIV装置(75 kVA2台・NC-EAT75A形)
ファイル:KeikyuN1000-SL-22-1.jpg|クノールブレムゼ社製のスクリュー式空気圧縮機(1600 L/min・SL22形)
ファイル:TH-2100AM on 1009.JPG|TH-2100AM形台車(1009号車)、TH-2100ATも外観は同じ
ファイル:PT-7117.JPG|PT-7117-Aパンタグラフ
</gallery>
1次車 - 3次車は正面・側面の行先・運行番号・種別表示は幕式<ref name="RF493p73"/>だったが、[[2005年]](平成17年)度製の4次車からは[[列車種別|種別表示器]]が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式、行先表示器が白色LED<ref name="動向2006"/>となった。
<gallery>
ファイル:Keikyu Ltd Exp to Misakiguchi.JPG|側面種別・方向幕
ファイル:KeikyuNew1000 LtdExp for Misakiguchi(LED).JPG|LED式側面行先種別表示装置(快特三崎口行・旧仕様)
ファイル:KeikyuNew1000 LtdExp for Uraga(LED Japanese).JPG|LED式側面行先種別表示装置<br />(快特浦賀行・2010年以降の仕様・日本語表記)
ファイル:KeikyuNew1000 LtdExp for Uraga(LED English).JPG|LED式側面行先種別表示装置<br />(快特浦賀行・2010年以降の仕様・英語表記)
</gallery>
1・2次車の先頭台車の先頭軸には、[[非常ブレーキ]]・[[回生ブレーキ]]失効時に[[セラミックス]](アルミナ・[[酸化アルミニウム]])の粒子を噴射して制動能力低下を防止する[[砂撒き装置|セラジェット]]を搭載していた<ref name="年鑑2004p165"/>が、かつて使用していた[[鋳鉄]][[制輪子]]で沿線の自動車を傷つけた事例があったこともあり、撒く場所によって人や自動車に影響を与えることが懸念されたうえ<ref name="ディテールp110"/>、使用頻度が少ないために3次車以降では廃止されている<ref name="年鑑2005p134"/>。動作条件は京急線内でワイパースイッチを投入し、一定速度以上での回生失効や非常ブレーキを操作した場合に、1回につき6秒間セラミックを噴射するものである<ref name="年鑑2004p165"/>。
プラットホームでの安全対策として、各車両の連結面には[[転落防止幌]]が設置されているほか、4両編成の先頭車[[排障器]](スカート)内側には、他の車両と連結して運転される際に連結間から転落する事故を防止するため連結部注意放送装置の[[スピーカー]]が設置されている<ref name="年鑑2004p165"/><ref name="佐藤2004p91"/>。車両の前後切換スイッチが「中」(中間車扱い)位置にあり、ドアが開いている間警報音に続いて「車両連結部です。乗車口ではありません。ご注意ください」という注意放送が流れる<ref name="年鑑2004p165"/><ref name="ディテールp82"/>。
=== 製造時のバリエーション ===
==== 1次車 ====
製造メーカーの「東急」は[[東急車輛製造]]製、「川重」は[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]製。以下同じ。
{{Vertical images list
|幅 = 200px
|枠幅 = 200px
|1=Keikyu n1000 1sttype.jpg
|2=京急新1000形1次車<br/>(4両固定 1401 - 1404)<br/>(2007年5月24日 京急鶴見駅)
|3=Keikyu-Type1000-1001F-Lot1.jpg
|4=京急新1000形1次車<br/>(8両固定 1001 - 1008)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)
}}
[[2002年]](平成14年)2月 - 6月に8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した<ref name="佐藤2004p142"/>。同年3月23日・24日に試乗会が行われ<ref name="RP718p107" />、直通運転先の各社に乗務員訓練などのため貸し出された後、4月15日から自社線内で営業運転を開始<ref name="RM226p138" />、6月25日から都営浅草線、8月30日から京成線高砂まで、9月4日から北総線への乗り入れ運用に充当された<ref name="RJ434" />。
8両編成1本と4両編成1本を3M3Tの6両編成2本に組み替えられる機器構成とされ<ref name="佐藤2004p90"/>、4両編成の付随車には[[集電装置]]や[[静止形インバータ|補助電源装置]]が分散配置され、浦賀方には編成替時の増設用にパンタグラフの準備工事がなされている<ref name="佐藤2004p88"/><ref name="佐藤2014p74"/>。
1次車のみ、2100形で好評であったブライドスモークガラスは鉛の使用に関する問題で制作できなくなった影響で代替品となるグリーンのガラスを採用した<ref name="ディテールp109" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;"|
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
!形式・車種
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Muc)
| {{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tpu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Mu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Ms)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts)
| {{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tps)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Msc)
|-
! 搭載機器<ref name="RP717p101"/>
| VVVF・CP || SIV・BT || || VVVF || VVVF || || SIV・BT || VVVF・CP
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="RP717p101"/>
| 33.0 t || 27.0 t || 23.0 t || 31.0 t || 31.0 t || 23.0 t || 27.0 t || 33.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="3"| 車両番号
| 1001 || 1002 || 1003 || 1004 || 1005 || 1006 || 1007 || 1008
| 東急 ||2002年2月23日<ref name="年鑑2002一覧"/>
|-
| 1009 || 1010 || 1011 || 1012 || 1013 || 1014 || 1015 || 1016
| 東急 ||2002年6月28日<ref name="年鑑2003一覧p211"/>
|-
| 1017 || 1018 || 1019 || 1020 || 1021 || 1022 || 1023 || 1024
| 川重 ||2002年5月31日<ref name="年鑑2003一覧p211"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(Muc1)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tpu1)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tps1)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc1)
|-
! 搭載機器<ref name="RF493p71"/>
| VVVF・CP || SIV・BT || SIV・BT || VVVF・CP
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="佐藤2004p87"/>
| 33.0 t || 26.5 t || 26.5 t || 33.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1401 || 1402 || 1403 || 1404
| 川重 || 2002年6月29日<ref name="年鑑2003一覧p212"/>
|-
| 1405 || 1406 || 1407 || 1408
| 川重 || 2002年6月29日
|}
; 凡例
:* VVVF:主制御器 (1C4M)
:* SIV:補助電源装置(静止形インバータ)
:* CP:空気圧縮機
:* BT:蓄電池
:
; 備考
:* パンタグラフは、8両編成ではTpuとTpsに2基、4両編成では中間車の品川方に1基ずつを搭載し、浦賀方は準備工事とした<ref name="佐藤2004p88"/>。
==== 2次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-1409F-Lot2.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形2次車<br/>(4両固定 1409 - 1412)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]}}
[[2003年]](平成15年)5月 - 7月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した<ref name="年鑑2004一覧"/>。車体見付・機器配置の仕様変更を行い、乗客へのサービス向上とコストダウンを図った<ref name="年鑑2004p164"/>。
*車体
**種別・行先表示器が白地に黒文字となり、ローマ字表記が加わった<ref name="年鑑2004p164" />。
**側窓は上方に20 mm拡大し、ドア間の窓は上方向に1次車のグリーン色の2連分割窓から大形の1枚窓とし、色はサンユーログレーに変更した<ref name="年鑑2004p164" />。技術開発により、当初から計画されていたスモークガラスを使用した窓となった<ref name="ディテールp109" />。
**1次車ではワイパーカバーの「1」の数字が2100形と同じ切り欠き形状で、飛び出ている部分は黒く塗られていたが、2次車からは色が塗られていた部分もスリットになっている<ref name="ディテールp84" />。なお、1次車でもワイパーカバーの交換で2次車以降と同様の形状になった車両が存在する(2023年3月現在は1017号が該当)<ref name="ディテールp84"/>。
<gallery>
ファイル:1次車のワイパーカバー.png|alt=新1000形1001編成|1次車のワイパーカバー。「1」の飛び出た部分は黒塗りになっている(1001編成)
ファイル:2次車のワイパーカバー.png|alt=新1000形1025編成|2次車のワイパーカバー。黒塗りだった部分もスリットになっている(1025編成)
</gallery>
*車内設備
**1次車では枕木方向の[[つり革]]をドア付近を3個並び、それ以外を2個並びとしていたが、2次車では全て3個並びに変更した<ref name="年鑑2004p164" />。
**車内座席ソデと床敷物の表面仕上げが変更され、汚れ付着防止と清掃性の向上が図られた<ref name="ディテールp86" />。
*乗務員設備
**運転台コンソールの塗装がスエード調塗装から保守が容易な半光沢塗装に変更された。
*走行機器
**1次車では8両編成1本と4両編成1本から6両編成2本へ組み換えができる機器構成としていたが、2次車では組み換えをしない機器配置とした<ref name="年鑑2004p164"/>。8両編成については機器配置の変更はないが、4両編成ではT車に[[二次電池|蓄電池]]を、Tp車にパンタグラフとSIVを搭載して機器の集約を図った<ref name="年鑑2004p164"/>。故障時の[[冗長化]]のため、Tp車に1次車と同形の75 kVA出力SIVを2台搭載した<ref name="年鑑2004p164"/>。
**[[炭素繊維強化プラスチック|CFRP]]継手のたわみ板の設計が見直され、騒音の低減が図られた<ref name="ディテールp86" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;" colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
!形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(Muc)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tpu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(Mu)
| '''デハ1000形'''<br/>(Ms)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tps)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1025 || 1026 || 1027 || 1028 || 1029 || 1030 || 1031 || 1032
| 東急 || 2003年5月19日<ref name="年鑑2004一覧"/>
|-
| 1033 || 1034 || 1035 || 1036 || 1037 || 1038 || 1039 || 1040
| 川重 || 2003年6月24日<ref name="年鑑2004一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" "|
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(Muc1)
| '''サハ1000形'''<br/>(T)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tp)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc1)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2004諸元"/>
| VVVF・CP || BT || SIV・SIV || VVVF・CP
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2004諸元"/>
| 33.0 t || 24.0 t || 27.0 t || 33.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1409 || 1410 || 1411 || 1412
| 東急 || 2003年7月26日<ref name="年鑑2004一覧"/>
|-
| 1413 || 1414 || 1415 || 1416
| 川重 || 2003年7月26日
|}
* 凡例は1次車と同じ。
* 8両編成の機器配置に変更はない<ref name="年鑑2004p164"/>。
* 4両編成のパンタグラフは、Tp車に2台搭載とした<ref name="年鑑2004諸元"/>。
{{-}}
==== 3次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-048.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形3次車<br/>(8両固定 1041 - 1048)<br/>(2021年7月17日 松飛台駅)]]}}
[[2005年]](平成17年)1月 - 3月に8両編成2本、4両編成2本の24両が竣工した<ref name="年鑑2005一覧"/>。この3次車では大規模な仕様変更が行われた<ref name="年鑑2005p134"/>。また、[[2004年]](平成16年)12月に[[国土交通省]]の[[地下鉄|地下鉄道]]の火災対策の基準が見直され、この新火災対策への対応も行われている<ref name="年鑑2005p134"/>。
* ''' 車内設備 '''
** 車端部のボックスシートが国産の物に変更され、補助いすがボックスシートとの一体形に変更された。これにより、車端部のボックスシートの座席間が80 mm拡張されている<ref name="佐藤2014p80" />。
** 先頭車両では乗務員室内のみに設置されていた[[消火器]]を併結運転時に乗客が使用できるよう客室内にも設置した<ref name="年鑑2005p134"/>。
** 新火災対策への対応として、以下の点が変更された<ref name="年鑑2005p134"/>。
*** 連結面の車両間[[貫通扉]]を8両編成では3か所、4両編成では1か所であったが、3次車では各車両の浦賀方への設置に増設した<ref name="年鑑2005p134"/>。
*** 天井の[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の冷房吹き出し口と補助送風機(ラインデリア)・排気扇の整風板カバーを[[ポリカーボネート]]製から、それぞれアルミニウム製に変更した<ref name="年鑑2005p134"/>。
* ''' 乗務員設備 '''
** 当増備分より、[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]が新造時より取り付けたことに伴い、運転台の[[自動列車停止装置|ATS]]表示器がランプ式から[[ドットマトリクス#LEDマトリクス|ドットマトリクスLED]]表示に改められた<ref name="ディテールp89" />。
* ''' 走行機器など '''
** [[雨|雨天時]]に、車輪の多少の空転・[[滑走]]を許容する制御をおこなっていたため、乗り心地が低下していたことへの対策として編成構成を8両編成では4M4Tから6M2Tへ、4両編成は2M2Tから3M1Tに変更した<ref name="年鑑2005p134"/>。
** 編成構成の変更に伴い、電動車2両のユニットと、電動車と付随車を組み合わせたユニットの2種類のユニット構成となった<ref name="年鑑2005p135"/>。
** 8両編成のMuc・M1u・M1s・Mscと4両編成のM1uc1・Msc1にはBox-Aまたは制御側装置と呼ばれるトラクションコンテナ(制御装置箱)が、8両編成のM2u・M2sと4両編成のM2には外観が同一のBox-Bまたは付随側装置と呼ばれるトラクションコンテナが搭載され、M2系車両のBox-Bは隣り合うM1系車両のBox-Aによって1C8Mとして制御される<ref name="年鑑2005p135"/><ref name="年鑑2005p134"/>。編成内のBox-A間とユニットを組むBox-AとBox-B間はそれぞれ別系統の[[バス (コンピュータ)|MVB]](Multifunction Vehicle Bus・車両間伝送バス)で接続した<ref name="年鑑2005p135"/><ref name="年鑑2005p134"/><ref name="ディテールp89" />。
** フィルタリアクトルを別構成としたため、トラクションコンテナは小形化され<ref name="年鑑2005p135"/>、冷房方式が[[電気機器の冷却方式#風冷式|強制風冷式]]から走行風自冷方式に変更された<ref name="佐藤2014p80"/>。
** 1C8M制御されているBox-A・Bのいずれかが故障すると両方が使用不能となるため、残った1C4MのBox-Aにトルクアップを指令、回生ブレーキのカットを行う機能を設けた<ref name="年鑑2005p135"/>。
** 制御装置のデータ読み出しには各車個別処理から1か所で編成全体のデータ読み出しをさせる機能が設けられた<ref name="年鑑2005p135"/>。
** 制御素子には1401号車で試験していた試験品による結果を反映した<ref name="ディテールp125" />[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子(2レベル・素子耐圧3,300 V - 1,200 A)を使用したG145D1130/480M5-1を採用した<ref name="年鑑2005p135"/><ref name="年鑑2005諸元"/><ref name="ディテールp125" />。Box-AとBox-Bでは共通の形式が付与されている<ref name="ディテールp89" />。
** 主電動機は従来品と互換性を保つため出力190 kW品のままとし、軸受けの変更やPGセンサレス方式の採用などで細部が異なるもの、部品の追加変更をすることで従来車両用との互換性が確保されている<ref name="年鑑2005p135"/>。電動車数が増え、定格一杯まで使用すると集電装置の電流容量を超過するため、出力を抑えて使用している<ref name="年鑑2005p135"/>。
** [[鉄道車両の台車|台車]]は、これまでは2100形と共通設計で、[[鉄道車両の台車#ダンパ|軸ダンパ]]を設置準備工事としていたが本形式では設置予定がないことから廃止の上、砂巻きも廃止、車体重量の低減に伴う各種設計が変更された為に互換性が失われたことにより、台車形式を変更した<ref name="佐藤2014p80"/>。動力台車はTH-2100AM形からTH-2100BM形へ、付随台車はTH-2100AT形からTH-2100BT形へと、それぞれ変更された<ref name="年鑑2005p135"/><ref name="年鑑2005諸元"/>。
** ブレーキ制御はM-T2両1ユニットとする[[遅れ込め制御]]からM-TまたはM-Mユニット間での制御に変更されている<ref name="年鑑2005p134"/>。また、新製時より[[自動列車停止装置|C-ATS車上装置]]対応品を搭載した<ref name="年鑑2005p134"/>。
<gallery>
ファイル:KeikyuN1000BoxA-G1430D1130-480M5-1.jpg|3次車のトラクションコンテナ(海側の素子冷却フィン)
ファイル:KeikyuN1000BoxA1-G1430D1130-480M5-1.jpg|トラクションコンテナBox-Aの山側。制御側装置である。
ファイル:KeikyuN1000BoxB-G1430D1130-480M5-1.jpg|トラクションコンテナBox-Bの山側。付随側装置であり、Box-Aと比べて右端の故障表示灯がない(青矢印部)。
ファイル:Keikyu 1000 series EMU (II) 006.JPG|TH-2100BM台車。軸ダンパ取付座が無い。
</gallery>
* [[集電装置]]に設けられている[[避雷針]]が、露出形から絶縁カバー付きに変更された<ref name="佐藤2014p80"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(Muc)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tpu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tps)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2005p134"/>
| VVVF-A・CP || SIV・BT || VVVF-B || VVVF-A || VVVF-A || VVVF-B || SIV・BT || VVVF-A・CP
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2005諸元"/>
| 32.0 t || 27.0 t || 30.0 t || 30.0 t || 30.0 t || 30.0 t || 27.0 t || 32.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1041 || 1042 || 1043 || 1044 || 1045 || 1046 || 1047 || 1048
| 東急 || 2005年1月19日<ref name="年鑑2005一覧"/>
|-
| 1049 || 1050 || 1051 || 1052 || 1053 || 1054 || 1055 || 1056
| 川重 || 2005年3月1日<ref name="年鑑2005一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M1uc1)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tp)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc1)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2005p134"/>
| VVVF-A・CP || VVVF-B・BT || SIV・SIV・BT || VVVF-A・CP
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2005諸元"/>
| 32.0 t || 31.0 t || 27.0 t || 32.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1417 || 1418 || 1419 || 1420
| 東急 ||2005年3月11日<ref name="年鑑2005一覧"/>
|-
| 1421 || 1422 || 1423 || 1424
| 川重 ||2005年3月11日
|}
; 凡例
:* VVVF-A:主制御器(Box-A・制御側装置)
:* VVVF-B:主制御器(Box-B・付随装置でBox-A側にて1C8M制御される。)
:* SIV:補助電源装置(静止形インバータ)
:* CP:空気圧縮機
:* BT:蓄電池
:
; 備考
:* パンタグラフは8両編成・4両編成ともに、付随車に2基を搭載する<ref name="年鑑2005p134"/>。
:* 凡例は5次車まで同様である。
==== 4次車 ====
{{Vertical images list
|幅 = 200px
|枠幅 = 200px
|1=Keikyu 1000 series EMU (II) 045.JPG
|2=京急新1000形4次車<br/>(4両固定 1425 - 1428)<br/>(2008年3月29日)
|3=Keikyu-Type1000-1057F-Lot4-Yellow.jpg
|4=京急新1000形4次車<br/>(8両固定 1057 - 1064)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)
}}
2005年7月 - 8月に8両編成1本、4両編成4本の24両が竣工した<ref name="2006一覧"/>。
*種別表示にフルカラーLED、行先表示に白色LED<!--式、運行番号表示に3色LED式の表示器がそれぞれ-->が本格採用された<ref name="動向2006"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
|'''デハ1000形'''<br/>(Muc)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tpu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tps)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1057 || 1058 || 1059 || 1060 || 1061 || 1062 || 1063 || 1064
| 東急 || 2005年8月30日<ref name="2006一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M1uc1)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tp)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc1)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="4"| 車両番号
| 1425 || 1426 || 1427 || 1428
| 東急 || 2005年7月26日<ref name="2006一覧"/>
|-
| 1429 || 1430 || 1431 || 1432
| 川重 || 2005年7月26日
|-
| 1433 || 1434 || 1435 || 1436
| 川重 || 2005年8月9日<ref name="2006一覧"/>
|-
| 1437 || 1438 || 1439 || 1440
| 川重 || 2005年8月9日
|}
==== 5次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-445.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形5次車<br/>(4両固定 1445 - 1448)<br/>(2021年7月18日 [[大森海岸駅]])]]}}
2006年10月 - 11月に8両編成1本、4両編成2本の16両が竣工した。4次車からの変更点はない<ref name="動向2007"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
! rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(Muc)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tpu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tps)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;";
! 車両番号
| 1065 || 1066 || 1067 || 1068 || 1069 || 1070 || 1071 || 1072
| 東急 || 2006年10月30日<ref name="年鑑2007一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M1uc1)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tp)
| '''デハ1000形'''<br/>(Msc1)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1441 || 1442 || 1443 || 1444
| 川重 || 2006年11月14日<ref name="年鑑2007一覧"/>
|-
| 1445 || 1446 || 1447 || 1448
| 川重 || 2006年11月14日
|}
== ステンレス車両 ==
=== 外観 ===
[[File:Keikyu N1000 front.JPG|thumb|110px|ステンレス車両の先頭部]]
6次車以降の車両では京急初の軽量[[ステンレス鋼|ステンレス]]製車体<ref name="RF554p79"/>とし、外板が[[グラインダー|ベルトグラインダー]]仕上げの無塗装とされた<ref name="佐藤2014p82"/><ref group="注釈">京急が2006年の株主総会で配布した資料には塗装設備を廃止することで環境負荷を低減させる旨の記述がある。</ref>。側面には京急のイメージカラーを踏襲した赤と白のカラーフィルムが貼り付けされた<ref name="RP791p146"/>。前頭部は[[炭素鋼|普通鋼]]製とされ、従来車同様赤く塗装された<ref name="RP791p146"/>。前面はアルミ車のワイパーカバーを廃止し、形式番号は直接表記とされた<ref name="RP791p146"/>。フロントガラスは[[貫通扉]]も含めて左右2分割から運転席前・貫通扉・左右前照灯・種別行先表示器の5分割構成となった<ref name="RP791p148"/>。
側面はブロック共通化により表示器、表示灯は点対称に配置されている<ref name="佐藤2014p82"/>。
同時期製造の他社のステンレス車に対して車体幅、車体長、独自配置・寸法の下降窓、客室側窓には従来通り[[カーテン|ロールカーテン]]が設置されているなどの京急独自の特徴がある<ref name="RP791p146"/>。高品質・高性能化とともにコストダウンがはかられた<ref name="RF554p79"/>。
[[樋 (建築)|雨樋]]・[[集電装置]]からの高圧配管が車体埋め込みから妻面に露出する形態となった<ref name="RF563p95"/>ほか、[[台枠]]から屋根に向かって車体が0.79度絞り込む台形断面状の車体となった<ref name="RF563p94"/><ref name="RF554p79"/>。
屋根は歩み板が車体全長に渡って設けられ、滑り止めが施された<ref name="佐藤2014p82" />。
=== 内装 ===
[[File:Inside Keikyu 1482.jpg|thumb|200px|ステンレス車(デハ1482)の車内]]
内装はアルミ車同様に暖色系を採用し、温かみある親しみやすい空間を目指した<ref name="RP791p146"/>。内張りはアルミ車同様の白色系[[デコラ|化粧板]]を使用し、アルミ車ではアクセントとして側面より濃い色調とされていた妻面が側面の色調に統一された<ref name="佐藤2014p86"/>。床材についてもロンリウム材ではあるが、色調をグレー系へと変更した<ref name="RP791p146"/>。中央天井部は空調ダクト・ラインフロー(冷風吹出口)一体成形の燃焼基準に適合した[[繊維強化プラスチック|FRP]]製ユニット天井とされ、ラインデリア整風板の形状も変更された<ref name="RP791p146"/><ref name="佐藤2014p86"/>。
車端部の4人掛けクロスシートは5人掛けロングシートに変更され、京急では[[1993年]](平成5年)製造の1500形の最終製造車以来14年ぶりのオールロングシート車となった<ref name="RP791p146"/><ref name="RP791p147"/>が、5次車までと同様の座席の表地や1人分455 mm幅の片持ち式バケットタイプシート構造を採用している<ref name="RP791p146"/>。座席端の袖仕切りと立席ポスト(握り棒)の仕切り板の色はピンク色からベージュ色に変更された<ref name="RP791p147"/>。
客用ドアは車両メーカー標準品を採用、室内側を無塗装とし<ref name="RP791p147"/>、客用ドアガラスは側窓と併せ濃色グリーンの[[単板ガラス|単板]]の熱線吸収ガラスに変更された<ref name="RP791p147"/><ref name="佐藤2014p86"/>。各車両間の[[貫通扉|妻引戸]]は浦賀寄り先頭車を除き全車浦賀寄りに設置、戸閉め方式は傾斜式に変更され、ドアチェッカは廃止された<ref name="RP791p147"/>。
客用ドア間の側窓はアルミ車と合わせられ、[[戸袋]]幅が圧縮されてその分窓の幅が広げられ、開口寸法はガラス2枚と間柱を合わせて2,475 mm、車端部では1,525 mmとなっている<ref name="ディテールp91"/>。中央に桟のある2枚分割構成で片側を開閉可能な一段下降式とし、1両あたり4か所が床面上1,240 mmまで開閉可能である<ref name="RP791p147"/>。そのため、アルミ車両にあった[[換気扇|排気扇]]は廃止されている<ref name="RF554p79"/>。側窓枠はFRP製とされ、カーテンの色は青色に変更した<ref name="RP791p146"/>。
=== 運転台 ===
{{Double image aside|right|KeikyuN1000 Msc1464 Controler.jpg|200|Keikyu 1453 cabin.JPG|112|ステンレス車(デハ1464)の運転台|運転室に設置された非常用脱出はしご}}
[[踏切障害事故|踏切事故]]対策と運転操作性を考慮し、京急では[[1967年]]([[昭和]]42年)の[[京急700形電車 (2代)|700形]]1次車以来40年ぶりとなる[[操縦席|高運転台]]構造を採用、[[運転士]]用の座席と運転台を150 mm高くし、乗務員室を前後に200 mm拡大した<ref name="RP791p148"/>。乗務員室背後の座席は廃止され<ref name="RP791p147"/>、この場所側面にあった小窓も廃止された<ref name="RF554p78"/>。乗務員室に非常用脱出はしごが設置された<ref name="N1000 Keikyu2"/>。運転席背後に非常用救出口が設けられたため、仕切部の窓が小型化された<ref name="RP791p147"/>。<!--ここに掲載の写真から、脱出用はしごと仕切り部の窓の大きさは関係ないことがわかるので、矛盾する表現を修正してあります。-->
運転席側の[[ワイパー]]は1本となり、ワイパーカバーを廃止、貫通扉に手動式ワイパーが設置された<ref name="RP791p148"/>。[[踏切障害事故|踏切事故]]対策として、前頭部はアルミ車両よりも1.5倍以上の強度向上がなされている<ref name="RP791p145"/>。
=== 主要機器 ===
搭載機器は仕様が見直され、主制御器・主電動機が日本製となり、編成での機器配置も変更された<ref name="RP791p148"/>。予備部品の共通化も考慮し、制御装置・主電動機は1500形VVVF化改造車で実績のあるものが採用された<ref name="RP791p148"/>。
VVVFインバータ装置は日本製の2レベル[[インテリジェントパワーモジュール|IPM]]・PGセンサレスベクトル制御(3300V/1200A)となり、電動機制御は1C4M2群方式に変更された<ref name="RP791p149"/>。8連は[[三菱電機]]製、4連・6連は[[東洋電機製造]]製のインバータ装置を搭載する<ref name="RP791p149"/><ref name="年鑑2010諸元"/>。[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]は一時間定格155 kWの誘導電動機で、三菱電機製MB-5121-A形<ref name="RP791p148"/><ref name="RP791p149"/>または東洋電機製造製TDK-6162A形<ref name="ディテールp147" /><ref name="ディテールp148" /><ref name="ディテールp149" />を搭載する。両者とも原設計は4M2Tの6両編成を想定しており、電動車比率の高い4・8両編成では出力を抑えて使用している<ref name="ディテールp93" /><ref name="ディテールp97" />。
補助電源装置はメーカーが変更され、[[東芝]]製の静止形インバータ装置 (INV153-F0) を採用、8両編成・4両編成とも出力は170 kVAとなった<ref name="RP791p149"/><ref name="年鑑2010諸元"/>。電動空気圧縮機 (CP) は三菱電機製のスクロール式CP(MBU1600-Y形)に変更され<ref name="RP791p149"/><ref name="年鑑2010諸元"/>、省スペースと軽量化のため関連機器ごとステンレス製の一体箱に収納された<ref name="RP791p149"/>。
集電装置、駆動装置、歯車比、空調装置、ブレーキ制御装置はアルミ車両と同一、台車は3次車以降と同一の円筒案内式TH-2100BM(電動台車)/TH-2100BT(付随台車)である<ref name="RP791p148"/><ref name="RP791p149"/>が、台枠構造の関係で[[ボルスタアンカー]]の上部が内側に屈折している<ref name="ディテールp92"/>。
[[集中式冷房装置|冷房装置]]は、アルミ車両と比較して屋根が高く、埋没深さが増えた結果、キセが薄くなっている<ref name="ディテールp92"/>。
<gallery>
ファイル:KeikyuN1000-MAP-138-15V174.jpg|8両編成の三菱電機製VVVFインバータ装置(MAP-138-15V174形)
ファイル:KeikyuN1000-RG694B-M.jpg|4両編成の東洋電機製造製VVVFインバータ装置(RG694B-M形)
ファイル:KeikyuN1000-INV153-F0.jpg|東芝製のSIV装置(INV153-F0形)
ファイル:KeikyuN1000-MBU1600-Y.jpg|三菱電機製のスクロール式空気圧縮機(MBU1600-Y形)
</gallery>
=== 製造時のバリエーション ===
==== 6次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-073.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形6次車<br/>(8両固定 1073 - 1080)<br/>(2021年7月17日 [[四ツ木駅]])]]}}
6次車は1073編成の8連1本が製造された。[[2007年]](平成19年)3月に落成し、同年[[3月31日]]から営業運転に就いた<ref name="RP791p149"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu)
|{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u')
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2s)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc)
|-
! 搭載機器<ref name="RP791p148"/>
| SIV・BT || VVVF || CP || VVVF || || CP || VVVF || SIV・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="RP791p148"/>
| 33.5 t || 32.5 t || 24.5 t || 32.0 t || 28.5 t || 24.5 t || 32.5 t || 33.5 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1073 || 1074 || 1075 || 1076 || 1077 || 1078 || 1079 || 1080
| 東急 || 2007年3月13日<ref name="年鑑2007一覧"/>
|}
; 凡例
:* VVVF:主制御器(1C4M2群)
:* SIV:補助電源装置(静止形インバータ)
:* CP:空気圧縮機
:* BT:蓄電池
:
; 備考
:* 以降、11次車までの1000番台の8両編成は東急車輛製(12次車以降は総合車両製作所横浜事業所製)、1400番台の4両編成は川崎重工製である。
:* パンタグラフは、M1u・M1sに2基と、M1u'の品川方に1基を搭載する<ref name="RP791p148"/>。
:* 凡例は以降の次車で共通である。
==== 7次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-1089F-Lot7.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形7次車<br/>(8両固定 1089 - 1096)<br/>(2020年10月27日 / 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]}}
2008年1月 - 2月に8両編成2本、16両が竣工した<ref name="年鑑2008一覧"/>。6次車とほぼ同等の仕様である<ref name="2008動向">[[#動向2008|『鉄道車両年鑑2008年版』p133]]</ref>が、以下の点が変更されている。
*車内設備
** 優先席部に縦手すりが追加された<ref name="ディテールp150"/>。
** 客用ドアの室内側の戸当たり部分に黄色のマーキングテープが当初より貼り付けされている<ref name="ディテールp150"/>。
** 貫通扉は傾斜式であるが、隙間をなくすためにゴムを装着したため、貫通扉の下の端にあったレールを廃止した<ref name="ディテールp150"/>。
*乗務員設備
**運転状況記録装置が当初より設置されている<ref name="ディテールp23" />。
**乗降のしやすさと安全性向上のため、乗務員室側出入り口の手すりが6次車での上下2点止めから、中間にも支持部を設け3点止めとなった<ref name="ディテールp94"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1081 || 1082 || 1083 || 1084 || 1085 || 1086 || 1087 || 1088
| 東急 || 2008年1月21日<ref name="年鑑2008一覧"/>
|-
| 1089 || 1090 || 1091 || 1092 || 1093 || 1094 || 1095 || 1096
| 東急 || 2008年2月8日<ref name="年鑑2008一覧"/>
|}
==== 8次車 ====
{{wakumigi|[[File:Keikyu-Type1000-1449F-Lot8.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形8次車<br/>(4両固定、1449 - 1452)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅)]]}}
2008年9月 - 12月にかけて8両編成3本、4両編成2本の32両が竣工した<ref name="年鑑2009一覧"/>。ステンレス車体の4両編成、川崎重工業製が含まれる<ref name="年鑑2009一覧"/>。4両編成は全車電動車で、中間に付随車2両を挟むことで6両編成が組成出来るよう設計され、品川寄り中間電動車には付随車への給電用パンタグラフの準備工事が行われている<ref name="giho119"/>。6・7次車とほぼ同様だが、以下の部分が変更された。
*車体
**空調装置横の[[ランボード]]形状を変更<ref name="Train2018-1">エリエイ「とれいん」2018年1月号MODELERS FILE「京浜急行電鉄新1000形電車ステンレス鋼製グループ」pp.26 - 43。</ref>。
**車側灯を白熱灯から[[発光ダイオード|LED]]に変更<ref name="ディテールp94" />。
*車内設備
**客室内の配色が一部変更され<ref name="動向2009"/>、立席ポスト(握り棒)に黄色の塗装と滑り止め加工を施工した<ref name="年鑑2010p158"/>。
**立ち座りの補助として袖仕切に横手すりを追加<ref name="年鑑2010p158"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;";
! rowspan="3"| 車両番号
| 1097 || 1098 || 1099 || 1100 || 1101 || 1102 || 1103 || 1104
| 東急 || 2008年10月27日<ref name="年鑑2009一覧"/>
|-
| 1105 || 1106 || 1107 || 1108 || 1109 || 1110 || 1111 || 1112
| 東急 || 2008年11月17日<ref name="年鑑2009一覧"/>
|-
| 1113 || 1114 || 1115 || 1116 || 1117 || 1118 || 1119 || 1120
| 東急 || 2008年12月15日<ref name="年鑑2009一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc1)
|{{left|<}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u1)
|{{left|<}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc1)
|-
! 搭載機器<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
| SIV・CP・BT || VVVF || VVVF || SIV・CP・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="giho119"/>
| 34.5 t || 32.5 t || 32.5 t || 34.5 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1449 || 1450 || 1451 || 1452
| 川重 || 2008年9月22日<ref name="年鑑2009一覧"/>
|-
| 1453 || 1454 || 1455 || 1456
| 川重 || 2008年9月22日
|}
* 4両編成のパンタグラフは、各中間車の浦賀方にそれぞれ1基を搭載する<ref name="年鑑2016p142"/>。M1s車には6両編成化を考慮したパンタグラフの準備工事が施されている<ref name="giho119"/>。
{{-}}
==== 9次車 ====
{{wakumigi|[[ファイル:Keikyu-Type1000-1481F-Lot9.jpg|thumb|180px|none|京急新1000形9次車<br/>(4両固定 1481 - 1484)<br/>(2020年10月27日 / 金沢文庫駅 - 金沢八景駅)]]}}
2009年度には4両編成8本、32両が竣工した<ref name="年鑑2010一覧"/>。仕様は8次車と同一である<ref name="年鑑2010p157"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="8"| 車両番号
| 1457 || 1458 || 1459 || 1460
| 川重 || 2009年4月1日<ref name="年鑑2010一覧"/>
|-
| 1461 || 1462 || 1463 || 1464
| 川重 || 2009年4月1日
|-
| 1465 || 1466 || 1467 || 1468
| 川重 || 2009年4月3日
|-
| 1469 || 1470 || 1471 || 1472
| 川重 || 2009年4月3日
|-
| 1473 || 1474 || 1475 || 1476
| 川重 || 2009年5月22日<ref name="年鑑2010一覧"/>
|-
| 1477 || 1478 || 1479 || 1480
| 川重 || 2009年5月22日
|-
| 1481 || 1482 || 1483 || 1484
| 川重 || 2009年6月4日<ref name="年鑑2010一覧"/>
|-
| 1485 || 1486 || 1487 || 1488
| 川重 || 2009年6月4日
|}
==== 10次車 ====
{{wakumigi|[[ファイル:Keikyu-Type1000-1129F-Lot10.jpg|thumb|180px|京急新1000形10次車<br/>(8両固定 1129 - 1136)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]}}
2010年度には、同年[[7月17日]]に開業した京成[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]の開業準備用として製造された8両編成3本と、4両編成1本の計28両<ref name="年鑑2010p157"/>が竣工した。この10次車では[[バリアフリー]]設備の充実のため、一部で仕様の見直しが実施された<ref name="年鑑2010p158"/>。
*車内設備
**車内では[[京急600形電車 (3代)|600形更新車]]で採用した内容をフィードバックし、ドア上部への[[液晶ディスプレイ]](LCD・17[[インチ]]ワイド形)方式の車内案内表示器(映像情報配信装置・トレインビジョン・[[VIS (鉄道システム)|VIS]])を設置した<ref name="年鑑2010p158"/><ref name="DJ475p33" />([[KIホールディングス|コイト電工]]製<ref name="ディテールp124" />)。液晶モニタは2画面が設置され、左側を広告動画表示用として、右側は次駅案内や乗り換え案内等の旅客案内用として使用する<ref name="RP836p79"/>。
*** 2020年頃にソフトウェアが17次車以降と同様のものに変更されている<ref name="ディテールp124" />。
**ドア上部点検フタ下部にドア開閉時に赤く点滅するドア開閉表示灯を追加し<ref name="年鑑2010p158"/>、客用ドア車外下部のクツズリ部に黄色の注意表記を貼り付けた<ref name="RF592p69"/>。
**6次車より搭載している乗務員室背面収納の非常用ハシゴを車両側面用から、[[トンネル]]内での使用に備えて前面[[貫通扉]]にも使用できるよう改良された。6 - 9次車でも順次改良を実施<ref name="RP836p79"/>。
<gallery>
ファイル:KeikyuN1000-LCD01.jpg|10次車の案内表示器
ファイル:KeikyuN1000-LCD02.jpg|案内表示画面
</gallery>
*乗務員設備
**運転台には他社線(特に[[京成本線]]と[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]内)で使用する乗務員支援情報(運行情報など)や停車予告機能を有する[[鉄道車両のモニタ装置|車上情報管理装置]]を設置し、運転台計器盤にモニター画面が設けられた<ref name="年鑑2010p158"/><ref name="RP836p79"/>。8両編成は登場時より成田スカイアクセス線乗り入れに対応<ref name="年鑑2010p158"/>。9次車以前の全車もSR無線設置に合わせ、同装置を改造で取り付けている<ref name="ディテールp94" />。
**それまで品川方でしか行えなかった行先表示機の設定が浦賀方の運転台でも行えるようになった<ref name="ディテールp43" />。
**乗務員室昇降ステップ、くつずり部に滑り止めが施工された<ref name="RF592p69"/>。
** 品川方の乗務員室内にFOMAアンテナを設置した(SR無線設置に伴い撤去)<ref name="ディテールp94" />。
{{wakumigi|[[ファイル:Keikyu 1492 opening emergency exit.JPG|thumb|180px|none|貫通扉を開いて非常用ハシゴを取り付けた状態<br/>(2012年5月27日、[[京急ファインテック]]久里浜事業所)]]}}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="3"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|廃車<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="3"| 車両番号
| 1121 || 1122 || 1123 || 1124 || 1125 || 1126 || 1127 || 1128
| 東急 || 2010年5月10日<ref name="年鑑2011一覧"/>
| rowspan="2"|
|-
| 1129 || 1130 || 1131 || 1132 || 1133 || 1134 || 1135 || 1136
| 東急 || 2010年6月2日<ref name="年鑑2011一覧"/>
|-
| 1137 || 1138 || 1139 || 1140 || 1141 || 1142 || 1143 || 1144
| 東急 || 2010年6月21日 || 2020年3月15日
|}
*1137編成は2019年9月の京急本線での踏切事故により廃車
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1489 || 1490 || 1491 || 1492
| 川重 || 2011年3月17日<ref name="年鑑2011一覧"/>
|}
==== 11次車 ====
[[ファイル:Keikyu 1000 series (II) at Hatchonawate Station (47985558038).jpg|thumb|新1000形11次車 (8両固定 1145 - 1152)<br/>(2019年5月 [[八丁畷駅]])]]
2011年度には8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した<ref name="RF614p85"/>。従来は8両編成と4両編成のみ製造されていたが、今回より[[京急800形電車 (2代)|800形]]の置き換えを目的として6両編成が登場した<ref name="年鑑2012p148"/>。2011年度の6両編成は全車川崎重工で製造され、6両編成の車両番号は「1300番台」に区分されている<ref name="DJ330p122"/>。6両編成は先頭部の電気連結器を装備していないが、運用変更への対応を考慮して8両編成または4両編成への変更が可能な編成形態となっている<ref name="年鑑2012p148"/>。
*車内設備
**2012年3月以降導入の車両は車内照明が直管[[蛍光灯]]から[[LED照明]]に変更された<ref name="RP863p85"/><ref name="Toshiba"/>。
*乗務員設備
**これまでの編成では複数の操作盤を設けると並列動作となって誤動作や機器の故障を招く恐れがあった為<ref name="ディテールp119" />に品川寄り先頭車の乗務員室内にのみ設置されていた空調装置操作器を品川寄り先頭車のみから、両先頭車への設置に変更した<ref name="年鑑2012p148"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s) ||style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1145 || 1146 || 1147 || 1148 || 1149 || 1150 || 1151 || 1152
| 東急 || 2012年1月10日<ref name="DJ339p126"/><ref name="年鑑2012一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc1)
|{{left|<}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts1)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc1)
|-
! 搭載機器<ref name="RF614p84"/><ref name="年鑑2012p147"/>
| SIV・CP・BT || VVVF || || || VVVF || SIV・CP・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="RF614p84"/><ref name="年鑑2012諸元"/>
| 34.5 t || 32.5 t || 24.0 t || 24.0 t || 32.5 t || 34.5 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="3"| 車両番号
| 1301 || 1302 || 1303 || 1304 || 1305 || 1306
| 川重 || 2011年4月15日<ref name="DJ330p122"/><ref name="年鑑2012一覧"/>
|-
| 1307 || 1308 || 1309 || 1310 || 1311 || 1312
| 川重 || 2011年4月22日
|-
| 1313 || 1314 || 1315 || 1316 || 1317 || 1318
| 川重 || 2012年3月9日<ref name="DJ339p126"/><ref name="年鑑2012一覧"/>
|}
* 6両編成ではM1u車浦賀寄りに1基、M1s車に2基のパンタグラフが搭載された<ref name="RF614p85"/><ref name="年鑑2012諸元"/>。
==== 12次車 ====
{{wakumigi|
[[File:Keikyu-Type1000-325.jpg|thumb|180px|none|新1000形12次車1325 - 1330<br/>(2013年2月 [[新馬場駅]])]]
[[File:Keikyu 1330 plates.JPG|thumb|180px|none|LED照明採用車両に貼付されたステッカー <br/>(2012年8月24日)]]
[[File:Keikyu 1000 series (II) Namesticker.jpg|thumb|180px|none|サハ1158の車内銘板(2012年6月15日)]]
}}
2012年(平成24年)度には8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した<ref name="年鑑2012p148"/>。1153編成は総合車両製作所が発足後最初に鉄道事業者に引き渡された車両で、同社を出場した2012年4月6日に出場記念のテープカットが行われている<ref name="RF615p203"/><ref name="RF621p132"/>。
*全車LED車内照明を採用<ref name="年鑑2012p148"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp133" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp133" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1153 || 1154 || 1155 || 1156 || 1157 || 1158 || 1159 || 1160
| 総車 || 2012年4月6日<ref name="DJ342p124"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2" |車両番号
| 1319 || 1320 || 1321 || 1322 || 1323 || 1324
| 川重 || 2012年4月17日<ref name="DJ342p124"/>
|-
| 1325 || 1326 || 1327 || 1328 || 1329 || 1330
| 川重 || 2012年4月24日
|}
==== 13次車 ====
[[File:Keikyu-Type1000-1161F-Lot13.jpg|200px|thumb|京急新1000形13次車(8両固定 1161 - 1168)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]
2013年(平成25年)度には13次車として8両編成1本、6両編成2本の20両が竣工した<ref name="RF640-Ap"/><ref name="年鑑2014動向1"/><ref name="年鑑2014一覧"/><ref name="年鑑2014動向2"/>。1161編成は[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#京急本線土砂崩れ列車脱線事故|土砂崩れに乗り上げて脱線]]し廃車となった1500形1701編成の代替となっている<ref name="ディテールp57" />。
*車体
**屋根上に空間波[[列車無線アンテナ]]の取り付け準備を実施した<ref name="Train2018-1"/>(1基。その後、12次車以前の車両も改造で取り付け<ref name="Train2018-1"/>)。
*車内設備
**座席間の仕切板を廃止し、中間仕切りをポールのみのタイプに変更<ref name="Train2018-1"/><ref name="ディテールp43" />(一人当たりの座席幅拡大を目的に実施、8人掛けで約60mm拡大<ref name="ディテールp43" />)。
**車内ドア上部の車内案内表示器を2画面から、広告用の1画面を廃止した<ref name="Train2018-1"/>。これに合わせて、10 - 12次車も1画面化改造を実施した<ref name="Train2018-1"/>。
*走行機器
**6両編成では、[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]]の高架化が完了しホームが6両対応になったことから、ドアカットを行う際に必要となるADL (自動扉切放装置) の設置が省略された<ref name="ディテールp30" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1161 || 1162 || 1163 || 1164 || 1165 || 1166 || 1167 || 1168
| 総車 || 2013年8月27日<ref name="RF640-Ap"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1331 || 1332 || 1333 || 1334 || 1335 || 1336
| 川重 || 2014年1月7日<ref name="RF640-Ap"/>
|-
| 1337 || 1338 || 1339 || 1340 || 1341 || 1342
| 川重 || 2014年3月7日<ref name="RF640-Ap"/>
|}
==== 14次車 ====
[[File:Keikyu-Type1000-1169F-Lot14.jpg|200px|thumb|京急新1000形14次車(8両固定 1169 - 1176)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]
2014年(平成26年)度には14次車として8両編成1本、6両編成3本の26両が竣工した<ref name="年鑑2015動向"/><ref name="年鑑2015一覧"/>。
*車体
**2014年6月以降導入の車両において行先表示器が白色LEDからフルカラーLEDに変更された。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1169 || 1170 || 1171 || 1172 || 1173 || 1174 || 1175 || 1176
| 総車 || 2014年6月24日<ref name="年鑑2015一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="3"| 車両番号
| 1343 || 1344 || 1345 || 1346 || 1347 || 1348
| 川重 || 2014年4月22日<ref name="年鑑2015一覧"/>
|-
| 1349 || 1350 || 1351 || 1352 || 1353 || 1354
| 川重 || 2014年5月22日<ref name="年鑑2015一覧"/>
|-
| 1355 || 1356 || 1357 || 1358 || 1359 || 1360
| 川重 || 2014年8月8日<ref name="年鑑2015一覧"/>
|}
==== 15次車 ====
[[File:KEIKYU N1000 SERIES 1801- 20180818.jpg|200px|thumb|京急新1000形15次車(4両固定 1801-1804)<br/>(2018年8月18日 屏風浦駅)]]
[[2015年]]([[平成]]27年)度には15次車として6両編成2本、4両編成2本が竣工した<ref name="年鑑2016動向"/>。
*車体
**側面表示器が種別行先一体のものに変更された。
**屋根上では空間波列車無線アンテナの取り付けを実施した(1基)<ref name="Train2018-1"/>。
*走行機器
**1367編成のみ、東芝製SEA-548 [[永久磁石同期電動機]](PMSM)と4台の主電動機を1台で制御するSVF102-G0主制御装置が採用された<ref name="年鑑2016諸元1"/><ref name="年鑑2016諸元2"/>。主電動機出力はメーカー標準の190 kWとなっており<ref name="年鑑2016諸元1"/>、出力を抑えて使用している<ref name="ディテールp100" />。主制御装置の変更により、中間電動車2両の車重がそれぞれ0.5 t増加している<ref name="ディテールp149" />。
4両編成は、初めての[[総合車両製作所]]製となり、「初代1000形みたいな使い方が、今の1000形でも出来ればよい」と言う事<ref name="ディテールp102" />から、浅草線直通用の8両編成が不足した際に2編成を連結して直通運用に使用できるよう各部の仕様が変更された<ref name="年鑑2016p143"/><ref name="RF666p102"/>。車両番号も「1800番台」に区分されている<ref name="年鑑2016動向"/><ref name="RF666p102"/>。
* 車体
** 先頭車前面の貫通扉が車体中央に移設され、貫通路として使用できるよう変更された。2編成を貫通する際は、正面貫通扉、折り戸を使用して運転席を仕切るとともに、床面との段差解消のためのスロープと一体化した渡り板と貫通幌を取り付けることで編成間の通路を構成する<ref name="RF666p103"/><ref name="RF666p104"/>。貫通路を使用しない場合は渡り板を取り外す必要があるが、幌を取り付けたまま走行できるよう金具で固定されている<ref name="RF666p104"/><ref name="RF666p105"/>。最初は枠の上にあったが、後に前面の表示が見えにくい事から側面に移設された<ref name="ディテールp102" />。
** 貫通路部以外の台枠の形状を従来車に揃えるため、扉付近を除き裾が絞られた<ref name="ディテールp102" />。
**「伝統的な塗装を再現したい」との社内要望を受け、ステンレス製のまま塗装することも検討されたが、コストやメンテナンスで有利な幅広の赤色と白色のカラーフィルムが貼付された<ref name="RF666p104"/>。窓枠や客室扉と乗務員室扉の周りは曲線がきつくカラーフィルムが貼れないこと、洗車時にはがれやすくなることからフィルムは貼り付けされていない<ref name="RF666p104"/>。
**従来の前面構造のまま貫通幌取り付け面を平面とすると貫通幌取り付け面が突出してしまうため、前面の曲面構成が変更された<ref name="RF666p104"/>。
**[[通過標識灯|標識灯]]・[[尾灯]]は従来電球の交換容易化のため車体内側から取り付けられていたが、運転台構造の変更により内側からアクセスできなくなったため、外側から取り付ける構造に変更の上、電球交換の頻度を減らすため、LED化された<ref name="RF666p104"/>。LEDは新開発の電球色のものが採用された<ref name="RF666p104"/>。尾灯の内部基盤は緑色のままである為、消灯時に外部から光が当てられると緑色が見えることがある<ref name="ディテールp102" />。
*車内設備
**運転室と客室の間の仕切り扉は貫通路を使用した際、車両間を自動で仕切らなければならない新火災対策への対応の容易化から引き戸に変更<ref name="RF666p103"/>し、貫通路使用時に自閉する仕様とされた<ref name="ディテールp102" />。また、戸袋の確保のため非常脱出用梯子の収納部が客室側に張り出す構造となった<ref name="RF666p103"/>。
*乗務員設備
**運転台前の日除けをプラ製の遮光板から、[[カーテン]]式に変更した<ref name="Train2018-1"/>。
**運転席のスイッチ類の一部は壁面に移設され、従来運転席コンソールに埋め込まれていたモニタも別体化されて上方に移動している<ref name="RF666p103"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2016p142"/>
| SIV・CP・BT || VVVF || || || VVVF || SIV・CP・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2016諸元1"/>
| 34.5 t || 32.5 t || 24.0 t || 24.0 t || 32.5 t || 34.5 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1361 || 1362 || 1363 || 1364 || 1365 || 1366
| 川重 || 2015年4月1日<ref name="年鑑2016一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー
!rowspan="4"|竣工時期
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2016p142"/>
| SIV・CP・BT || VVVF || || || VVVF || SIV・CP・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2016諸元1"/>
| 34.5 t || 33.0 t || 24.0 t || 24.0 t || 33.0 t || 34.5 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1367 || 1368 || 1369 || 1370 || 1371 || 1372
| 川重 || 2015年11月13日<ref name="年鑑2016一覧"/>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc1)
|{{left|<}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u1)
|{{left|<}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc1)
|-
! 搭載機器<ref name="年鑑2016p142"/>
| SIV・CP・BT || VVVF || VVVF || SIV・CP・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="年鑑2016諸元2"/>
| 35.0 t || 33.0 t || 33.0 t || 35.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1801 || 1802 || 1803 || 1804
| 総車 || 2016年2月24日<ref name="年鑑2016一覧"/>
|-
| 1805 || 1806 || 1807 || 1808
| 総車 || 2016年2月24日
|}
==== 16次車 ====
{{Vertical images list
|幅 = 200px
|枠幅 = 200px
|1=Keikyu-Type1000-1601F-Lot16.jpg
|2=京急新1000形16次車<br/>(6両固定 1601 - 1606)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)
|3=Keikyu 1000kei 1600 interior.jpg
|4=車内
|5=Keikyu 1000kei 1600 box seat.jpg
|6=車端の片側に設置された補助いす付きのクロスシート
|7=Keikyu 1000gata outlet.jpg
|8=クロスシート内に設置された2口のコンセント([[神保電器]]製)
}}
[[2016年]]([[平成]]28年)度には16次車として32両が製造された<ref name="RF666p105"/>。2016年9月に1800番台の4両編成1本が竣工<ref name="DJ417p125"/>、2016年11月に仕様が変更されたマイナーチェンジ車が6両編成2本で竣工した<ref name="RP928p73" />。また、8両編成2本が2017年2月に導入された<ref name="minorchange" />。本導入分以降の6両編成は「1600番台」と区分されている<ref name="DJ417p6-7" />。
1809編成での変更点は以下の通り。
* 車体
** 屋根上の空間波列車無線アンテナを1基から2基に増設<ref name="Train2018-1"/><ref name="ディテールp103" />し、乗務員室内の簡易アンテナを廃止<ref name="ディテールp96" />。
6・8両編成では以下の点が変更された。
* 車体
** 先頭部は従来の3次元曲面の流線型だが、車体側面の外装は1800番台と同様のものとなった<ref name="RP928p73" />。
** 前照灯は[[シールドビーム]]式から[[KIホールディングス|コイト電工]]製の電球色LEDライトに変更された<ref name="ディテールp101" />。
** 側面の幕部に1両につき片側2台の放送用スピーカーを新設した<ref name="Train2018-1"/><ref name="ディテールp96" />。
* 車内設備
** LCDの車内案内表示装置をすべての客用扉上部(各車とも日本語・英語対応のものがすべての扉上に計6台、韓国語・中国語(簡体字)対応のものが扉上に千鳥配置で計3台)設置<ref name="minorchange" />。15次車以前と同様にコイト電工製<ref name="ディテールp124" />で、アルミ車の更新用機器でも採用されている<ref name="ディテールp124" />。他社線の路線記号には対応しない<ref name="ディテールp124" />。
** 客室ドアを化粧板仕上げに黄色の視認性向上ラインが印刷された物に変更<ref name="ディテールp96" />。
** ロングシートの袖仕切りは風の入り込み対策として大型の[[軽合金]]の押出材と化粧板を使った組立品が用いられた<ref name="RP928p73" /><ref name="minorchange" /><ref name="ディテールp96" />。
** 新1000形ステンレス車両として初めて車端に向かって右側の座席を補助いす付きのクロスシートに変更。コンセントが2口設置された<ref name="RP928p73" />。
*乗務員設備
** 6・8両編成についても運転台前の日除けを[[カーテン]]式に変更<ref name="Train2018-1"/>。
** 運転台横の表示灯がLEDによる字光式に変更。
** 乗務員室内に自動放送装置が取り付けられた<ref name="ディテールp96" />。
*走行機器
**8両編成では、三菱電機製MB-5171-A形 かご形三相誘導電動機と同社製のフル[[炭化ケイ素|SiC]]素子を使用したMAP-198-15V295形主制御装置を採用<ref name="Train2018-1"/>。アルミ車1001編成の更新用機器との共通化を重視し<ref name="ディテールp95" />、主電動機出力を190 kWに増強<ref name="Train2018-1"/>。6M2Tのステンレス車では出力を抑えて使用している<ref name="ディテールp95" />。
**雨天時の滑走対策として、滑走防止制御装置を搭載した。台車の各軸にはセンサーが取り付けられている<ref name="ディテールp95"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;"|
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1809 || 1810 || 1811 || 1812
| 総車 || 2016年9月30日<ref name="DJ417p125"/>
|-
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc1)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts1)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc1)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1601 || 1602 || 1603 || 1604 || 1605 || 1606
| 川重 || 2016年11月7日<ref name="DJ417p6-7" />
|-
| 1607 || 1608 || 1609 || 1610 || 1611 || 1612
| 川重 || 2016年11月29日<ref name="DJ417p6-7" />
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144";
! rowspan="2"| 車両番号
| 1177 || 1178 || 1179 || 1180 || 1181 || 1182 || 1183 || 1184
|総車 || 2016年12月22日<ref name="DJ417p6-7" />
|-
| 1185 || 1186 || 1187 || 1188 || 1189 || 1190 || 1191 || 1192
| 総車 || 2017年2月21日<ref name="DJ417p6-7" />
|}
* [[回生ブレーキ]]性能向上のため、6両編成ではM1u車の品川寄りにも1基パンタグラフが搭載された<ref name="Train2018-1"/>。
==== 17次車 ====
[[File:Keikyu-Type1000-1209F-Lot17.jpg|200px|thumb|京急新1000形17次車(8両固定 1209 - 1216)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]
2017年度は17次車として6両編成2本、8両編成3本が導入された<ref name="Keikyu20171129" />。本導入分から、8両編成は京急創業120周年に合わせて「1200番台」に区分されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/11/30/064500.html |title=京急 新1000形17次車は全面塗装車に |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2017-11-30 |accessdate=2021-07-21}}</ref>。
*車体
**さらなる「京急らしさ」を引き出すため、5次車以来11年3か月ぶりの全面塗装となった。ステンレス製車両への全面塗装は関東大手私鉄では初<ref name="Keikyu20171129" />となり、大手私鉄全体でも[[南海1000系電車 (2代)|南海1000系]]以来2例目となる。
***8両編成の1201 - 1217編成は側面がアイボリーの一色塗装でメーカーを出場し<ref name=Railf171500>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/12/14/171500.html |title=白い京急 新1000形が走る |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2017-12-14 |accessdate=2021-07-21}}</ref>、赤色の部分は久里浜工場で塗装された<ref name="ディテールp100" />。理由としては表面を荒らしてからパテで平滑にし、赤、白、赤の順に塗装を重ねる事からラッピングよりも時間がかかること<ref name="DJ475p35" />、製造に着手した後に急遽塗装での仕上げに方針が転換したこと<ref name="ディテールp44" />、当時の総合車両製作所では同じ塗装車両である[[JR東日本E353系電車|E353系]]の量産と重なりラインの確保が困難だったこと<ref name="ディテールp100" />が挙げられている。
** 前面窓下の「1000」の文字を横方向に切れ目が入った仕様に変更<ref name="ディテールp96" />。
** 側面の車番表記はフィルムからエッチングプレートに変更された<ref name="DJ475p36" />。
*車内設備
**車内扉上のLCD案内表示器はメーカーを三菱電機に変更した<ref name="ディテールp124" />。全扉で2画面一体型となり、路線案内を8駅から16駅まで拡大、また他社線の路線記号も表示可能となった<ref name="ディテールp124" />。[[日本語|日]]・[[英語|英]]・[[中国語|中]]・[[朝鮮語|韓]]の4か国語表記に対応<ref name="ディテールp124" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;|
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
| 1613 || 1614 || 1615 || 1616 || 1617 || 1618
| 川重 || 2017年1月5日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/12/25/163000.html |title=全面塗装車の京急新1000形1613編成が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2017-12-25 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|-
| 1619 || 1620 || 1621 || 1622 || 1623 || 1624
| 川重 || 2018年2月5日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/01/29/202500.html |title=京急新1000形1619編成が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2018-01-29 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;|
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2uc)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu)
|{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1u')
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2s)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M1s)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="3"| 車両番号
| 1201 || 1202 || 1203 || 1204 || 1205 || 1206 || 1207 || 1208
| 総車 || 2017年12月14日<ref name=Railf171500 />
|-
| 1209 || 1210 || 1211 || 1212 || 1213 || 1214 || 1215 || 1216
| 総車 || 2018年2月19日<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/02/1209.html |title=【京急】1209編成 総合車両製作所出場 |accessdate=2021-07-21 |date=2018-02-19 |website=鉄道ホビタス |publisher=[[カルチュア・エンタテインメント]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200225094313/http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/02/1209.html |archivedate=2020-02-25}}</ref>
|-
| 1217 || 1218 || 1219 || 1220 || 1221 || 1222 || 1223 || 1224
| 総車 || 2018年3月29日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38">ジェー・アール・アール編『私鉄車両編成表 2023』交通新聞社、2023年、38頁。</ref>
|}
==== 18次車 ====
[[ファイル:Keikyu-Type1000-649.jpg|サムネイル|18次車(6両固定 1649 - 1654)<br/>(2021年7月18日 大森海岸駅)]]
[[2018年]]5月9日付けの京急ニュースリリースにおいて、2018年度安全対策関連のうち、本形式の車両新造を42両行うと発表され<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20180509HP_18031EW.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123071959/https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20180509HP_18031EW.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2018年度 鉄道事業設備投資計画 安全対策関連など 総額約236億円|publisher=京浜急行電鉄|date=2018-05-09|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-01-23}}</ref>、これに伴い6両7編成(1625 - 1661)が導入された。
京急線内でのホームドアの設置が本格化することとなり、4扉車の為にホームドアに対応できない[[京急800形電車_(2代)|800形]]の置き換えを進めた<ref name="ディテールp35" />。6両編成としては初となる[[総合車両製作所]]製の編成も登場した。
* LED室内灯が改良され、従来見られたグローブ内ワイヤーの影が見えなくなるよう変更された<ref name="ディテールp102"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="7"| 車両番号
| 1625 || 1626 || 1627 || 1628 || 1629 || 1630
| 川重 || 2018年10月10日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/10/05/110000.html |title=京急 新1000形1625編成が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2018-10-05 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|-
| 1631 || 1632 || 1633 || 1634 || 1635 || 1636
| 川重 || 2018年6月8日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/06/02/201000.html |title=京急新1000形1631編成が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2018-06-02 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|-
| 1637 || 1638 || 1639 || 1640 || 1641 || 1642
| 川重 || 2018年6月18日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/06/11/130000.html |title=京急新1000形6両が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2018-06-11 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|-
| 1643 || 1644 || 1645 || 1646 || 1647 || 1648
| 総車 || 2018年8月8日<ref name="私鉄車両編成表2023_p39">ジェー・アール・アール編『私鉄車両編成表 2023』交通新聞社、2023年、39頁。</ref>
|-
| 1649 || 1650 || 1651 || 1652 || 1653 || 1654
| 川重 || 2018年12月25日<ref name="私鉄車両編成表2023_p39" />
|-
| 1655 || 1656 || 1657 || 1658 || 1659 || 1660
| 総車 || 2019年2月26日<ref name="私鉄車両編成表2023_p39" />
|-
| 1661 || 1662 || 1663 || 1664 || 1665 || 1666
| 総車 || 2019年3月19日<ref name="私鉄車両編成表2023_p39" />
|}
==== 19次車 ====
[[File:Keikyu-Type1000-1225F-Lot19.jpg|200px|thumb|京急新1000形19次車(8両固定 1225 - 1232)<br/>(2020年10月27日 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間)]]
2019年度には14両が導入された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2019/20190510HP_18032EW.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208150348/https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2019/20190510HP_18032EW.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年度 鉄道事業設備投資計画 安全対策関連など 総額約271億円|publisher=京浜急行電鉄|date=2019-05-10|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-08}}</ref>。
1225編成は朝ラッシュの上り時間帯に入る2100形の運用の一部を置き換える目的で増備されたが、同年に事故廃車となった1137編成の代替となった<ref name="ディテールp97" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1667 || 1668 || 1669 || 1670 || 1671 || 1672
| 川重 ||2019年6月7日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/06/01/191000.html |title=京急新1000形6両が甲種輸送される |website=railf.jp |publisher=[[交友社]] |date=2019-06-01 |accessdate=2021-07-21}}</ref>
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+8両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[三崎口駅]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="2"|製造<br/>メーカー<ref name="ディテールp134" />
!rowspan="2"|竣工時期<ref name="ディテールp134" />
|-
! 形式・車種
| '''デハ1000形'''<br/>(M2uc)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''サハ1000形'''<br/>(Tu)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1u)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2s)
| '''サハ1000形'''<br/>(Ts)
| '''デハ1000形'''<br/>(M1s)
| '''デハ1000形'''<br/>(M2sc)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1225 || 1226 || 1227 || 1228 || 1229 || 1230 || 1231 || 1232
| 総車 || 2019年9月2日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|}
==== 20・21次車『Le Ciel』 ====
[[file:Keikyu Type 1000-1891F Wing.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|京急新1000形20次車「Le Ciel」(4両固定 1891-1 - 1891-4)(2021年5月21日 金沢八景駅)]]
2020年度は20次車(1890番台)4両2編成が導入された<ref name="toyokeizai20210417">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/423404|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210417170114/https://toyokeizai.net/articles/-/423404|title=京急「ほぼ新型」車両、これまでと何が違うのか 窓の配置から「妻面」の仕上がりまで妥協せず|date=2021-04-17|publisher=東洋経済新報社|website=東洋経済オンライン|accessdate=2021-04-18|archivedate=2021-04-17}}</ref><ref name="2021new1000">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210120HP_20109EW.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203093105/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210120HP_20109EW.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年春運行開始予定 ロングシート・クロスシート切替可能で座席指定列車や貸切イベント列車などに対応 車内設備を一新した新造車両4両編成2本導入 ウィズコロナ時代に合わせた新しい通勤環境を提供します|publisher=京浜急行電鉄|date=2021-01-20|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-03}}</ref>。従来車から大幅な設計変更が行われたため、特に'''1000形1890番台'''として区分する場合がある<ref name="bl65"/>。本導入分より、車両番号の付番が[[ハイフン]]を用いた方式に変更された。全車[[総合車両製作所]]製。
2021年度も21次車として3本が導入された。20次車の続番で、仕様も基本的には同様になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20210512-1887386/|title=京急電鉄、1000形新造車両を新たに3編成 - 2021年度の設備投資計画|website=マイナビニュース|date=2021-05-12|accessdate=2023-08-20}}</ref>。
* '''車体'''
** 1800番台をベースとしつつ、車体構造に[[sustina]]プラットフォームを初採用し<ref name="toyokeizai20210417" />、突合せ[[レーザー溶接]]によって、外板が平滑にされ<ref name="ディテールp104" />、[[樋 (建築)|雨どい]]も外側に出ない断面形状となっている。
** [[通過標識灯|標識灯]]は[[尾灯]]を兼ね、小型化された一体型とされた<ref name="ディテールp104" />。
** [[鉄道の車両番号|車両番号]]と社紋は、ホームドア対応として従来の窓下から戸袋部に変更となり、[[アイボリー]]字に水色文字の[[エッチングパーツ|エッチング]]板が取り付けられた<ref name="ディテールp104" />。
** 前面の形式名を表す「1000」の文字は、立体的な切り抜き文字とされた<ref name="ディテールp104" />。
** 前面の表示器には種別・行先のどちらにも「貸切」の表示が可能となり、行先部には「KEIKYU」や「ビール列車」などの特殊な表示も可能となった<ref name="ディテールp105" />。
** 側面の表示器は大型化され、4か国語表記など、より細かい表示に対応した<ref name="ディテールp105" />。
** パンタグラフ台枠に取り付けられた[[避雷針]]の形状が3次車以降の物から変更され、天地寸法が薄くなった縦型が採用された<ref name="ディテールp127" />。
** 貫通幌を畳んだ際に支える受けが、枠の内側に折り畳める矢じりのような形状の物に変更された<ref name="ディテールp102" />。
* '''内装'''
** 日常の通勤輸送に加え、座席指定列車やイベント列車対応のため、京急初となる[[コイト電工]]製[[鉄道車両の座席#デュアルシート|デュアルシート]]を搭載した。高めのシートバックと、2100形と比較して見劣りしないように設計された頭部を囲い込むようなヘッドレストを持ち、モケットには[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行を受けて「抗菌・抗ウイルス座席シート地」を採用した<ref name="2021new1000" /><ref name="kanaloco20210415" /><ref name="ディテールp104" /><ref name="DJ475p36" />。シートパックの裏には小物を入れるネットと折り畳みのドリンクホルダーが備えられ、客台は旅客用の[[配線用差込接続器|コンセント]]を装備している<ref name="ディテールp105" />。イベントを意識した機能として、3脚の両端をクロスシート、真ん中の席をロングシートの位置とし、歓談スペースのような配置にもできるようになっている<ref name="ディテールp105" />。
** 中間車2両には京急初の[[列車便所|車内トイレ]](2両目の品川寄りに「バリアフリー整備ガイドライン」に則ったバリアフリー対応の[[日本の便所#洋式|洋式トイレ]]、3両目の浦賀寄りに男性用[[小便器]]を1カ所ずつ設置)を設置した<ref name="toyokeizai20210417" /><ref name="2021new1000" /><ref name="kanaloco20210415" />。それぞれ車端部海側床下に汚物タンクと汚水タンクがあり、車外には放出しない構造になっている。汚水は金沢検車区の1か所のみで処理されるため、抜取口が海側にのみ設けられている<ref name="ディテールp105" />。
** 車端から客扉中心までの寸法が従来より105 mm伸びた3,450 mmとなり、乗務員室の次位にクロスシート(展望席)が配置された<ref name="ディテールp104"/><ref name="DJ475p36" />。この座席は運転台側向きに固定されている<ref name="ディテールp105" />。
** 展望席の設置に伴い運転台側の仕切り窓を拡大<ref name="ディテールp105" />、また非常用梯子の収納箇所を変更<ref name="DJ475p36" />。
** 側窓は、客扉間の横が2,370 mmと少し詰まり、車端が横1,630mmに広げられた<ref name="ディテールp104" />。
* '''走行機器'''
** 制御装置として、ハイブリッド[[炭化ケイ素|SiC]]素子2レベル方式VVVF制御を採用した。主制御器のRG6048-A-Mを中間車のT車に搭載し、同社で初めて採用された全密閉型を採用した先頭車の出力190 kWの[[主電動機]]TDK6164-Aを制御する<ref name="ディテールp105" />。
** [[静止形インバータ|補助電源装置]]は、[[三相交流]]60Hz、400Vで260kVAの出力が得られる[[東芝インフラシステムズ]]製<ref group="注釈">東芝の社会インフラ事業は、2017年7月から東芝インフラシステムズに分社化された。</ref>のINV207-G0を3号車に搭載。1台に独立した2バンクを持ち、[[カレンダー]]機能によって偶数日、奇数日によって自動的に稼働側が切り替わり、故障し無電圧となった場合に自動的に待機側が稼働する「待機二重系統」と呼ばれる故障対策がなされている<ref name="ディテールp105" /><ref name="ディテールp127" />。
** [[圧縮機|電動空気圧縮機]]には、[[2020年]]に1301編成で2台導入され、試験がなされたオイルフリー形の[[往復動圧縮機|レシプロ式]]である[[クノールブレムゼ]]製VV180-Tを2号車に2台導入した<ref name="ディテールp105" /><ref name="ディテールp128" /><ref>「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20231222123101/https://rail.knorr-bremse.com/media/lokaler_content/japan/pdf_brochures_2023/pistonsupply_eco_jap_2021.pdf オイルフリー・コンプレッサ]}}」(クノールブレムゼ鉄道システムジャパン)</ref>。
** 制動装置にブレーキを編成全体で統括制御する方式を採用した<ref name="tomonokai" />。
** 各車に脱線検知装置を搭載した。脱線を検知した際に自動的に[[非常ブレーキ#鉄道|非常制動]]がかかり、[[集電装置#パンタグラフ|パンタグラフ]]の降下と[[列車防護無線装置|非常発報]]を行い、運転台に警告表示を行う<ref name="ディテールp105" />。同装置の採用により、同社が保有する全車両にてソフトウェアの書き換えを行った<ref name="ディテールp105" />。
2021年5月6日の「[[ウィング号 (京急)|モーニング・ウィング3号]]」より運行を開始した<ref name="kanaloco20210415">{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-470333.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210416000729/https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-470333.html|title=京急、新造「1000形」公開 用途に合わせ座席が自動回転|newspaper=神奈川新聞|date=2021-04-15|accessdate=2021-04-18|archivedate=2021-04-16}}</ref><ref name="pr20210127">{{Cite press release|和書|title=夜間作業時間の確保を目的に、終列車時刻を繰り上げます 2021年3月27日(土)土休日ダイヤ・3月29日(月)平日ダイヤ 京急線ダイヤ改正を実施します GW後からは、モーニング・ウィング3号を12両編成化! 座席数大幅増!|publisher=京浜急行電鉄|date=2021-01-27|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210127HP_20136EW.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203224205/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210127HP_20136EW.pdf|archivedate=2021-02-03}}</ref><ref name="yomiuri20210416">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210416-OYT1T50213/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210417135554/https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210416-OYT1T50213/|title=京急が「コロナ対応車両」導入…抗ウイルス座席採用、土日祝日はイベント用に貸し切り|newspaper=読売新聞|date=2021-04-16|accessdate=2021-04-18|archivedate=2021-04-17}}</ref>。当初は土休日にイベント用の貸切列車として運用する計画であったが<ref name="yomiuri20210416" />、現在はイベント列車に起用される一方<ref>[https://railf.jp/news/2022/10/31/131500.html 「すみっコぐらし10周年号」による団臨運転]railf.jp 2022年10月31日</ref>、他の1000形4両編成と共にエアポート急行などにも使用されている。
この編成には愛称を一般公募しており、2021年12月24日に[[フランス語]]で「空」を意味する「'''Le Ciel'''」(ル・シエル)と命名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_344.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211224224052/https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_344.html|title=お知らせ 新造車両の愛称決定について|date=2021-12-24|archivedate=2021-12-24|accessdate=2021-12-24|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。三浦半島や羽田空港の空を想起させ、高級感のある響きである事や、日本語で発音すると4文字となり、覚えやすく親しみやすい事などから採用に至った。また、かつて京急本線で運行されていた[[京急本線#週末特急|週末特急]]「ラ・メール号」(フランス語で「海」の意、2007年まで[[ジェイアール東海バス#ファンタジアなごや号|名古屋と横浜・品川]]を結んでいた[[京急観光バス#夜行高速バス|夜行高速バス]]も同名)へのオマージュも込められている<ref>[https://www.keikyu.co.jp/cp/1000gata-name/ 新造車両 愛称募集入賞作品発表](京浜急行電鉄)</ref>。なお、2022年3月以降車体側面に順次愛称ロゴが掲示されている。
「チャレンジングな姿勢と堅実性を兼ねそろえたトータルバランスに優れた車両」として、[[2022年]][[5月26日]]に[[鉄道友の会]]が選定する[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]([[第65回ブルーリボン賞 (鉄道)|第65回]])を受賞した<ref name="bl65">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20220526HP_22034TE.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220526065956/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20220526HP_22034TE.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新造車両1000形1890番台「Le Ciel」がブルーリボン賞を受賞|publisher=京浜急行電鉄|date=2022-05-26|accessdate=2022-05-28|archivedate=2022-05-26}}</ref>。
<gallery widths="180" perrow="6" style="font-size:90%">
File:Keikyu-railway-1892F-Deha1892-1_inside_Long_Seat_mode_20220702.jpg|車内(ロングシート時)
File:Keikyu-railway-1892F-Le Ciel logo 20220702.jpg|Le Ciel愛称ロゴ
File:1891F Kanagawashinmashi.jpg|エアポート急行での運用時
File: Beer train (inside) in Keikyū Kawasaki Station.jpeg|「京急クラフトビールフェス2023」で座席スペースとして使用
</gallery>
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+4両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[三崎口駅|三崎口]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
!colspan="2" | 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="5"|竣工時期<ref name="ディテールp135" />
|-
!colspan="2" | 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Muc2)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tuv2)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tpsv2)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Msc2)
|-
!colspan="2"|搭載機器
| BT || VVVF・CP || VVVF・SIV || BT
|-
! colspan="2" | 自重([[トン|t]])
| 34.5 t || 30.5 t || 33.0 t || 34.5 t
|-
!colspan="2" | 定員<br/>()はロングシート時
| 98(101) || 104(107) || 108(111) || 98(101)
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="5"| 車両番号
! rowspan="2"| 20次車
| 1891-1 || 1891-2 || 1891-3 || 1891-4
|2021年3月3日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|-
| 1892-1 || 1892-2 || 1892-3 || 1892-4
|2021年3月24日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|-
! rowspan="3"| 21次車
| 1893-1 || 1893-2 || 1893-3 || 1893-4
|2021年11月8日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|-
| 1894-1 || 1894-2 || 1894-3 || 1894-4
|2021年12月27日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|-
| 1895-1 || 1895-2 || 1895-3 || 1895-4
|2022年2月28日<ref name="私鉄車両編成表2023_p38" />
|}
==== 22次車 ====
[[File:Keikyu-Type1000-501.jpg|サムネイル|180px|京急新1000形22次車<br/>(6両固定 1501-1 - 1501-6)<br/>(2023年9月12日 新馬場駅)]]
2023年度には6両編成と8両編成が1本ずつが導入される予定<ref> https://www.keikyu.co.jp/company/news/2023/20230510HP_23017KO.html </ref><ref name="railf_230908">{{Cite web|和書|title=京急1000形1501編成が営業運転を開始|url= https://railf.jp/news/2023/09/08/141500.html|website=railf.jp|publisher=[[交友社]]|date=2023-09-08|accessdate=2023-10-19}}</ref>。6両編成は、[[2021年]]に[[川崎重工業株式会社|川崎重工]]より分社化した[[川崎車両]]が製造した初めての京急車両となった。従来の6両編成とは組成が変更となり、デハ-サハ-デハ-デハ-サハ-デハとなっている<ref name="railf_230908" />。
* 車体
** 従来、各先頭車の屋根上に設けられていたIRアンテナが省略された<ref name="ディテールp8" />。
* 車内設備
** 側窓上辺から天井にかけて、1890番台と同様の桜色無地の艶消し化粧板とされた<ref name="ディテールp7" />。
** 中間車の非優先席側にはフリースペースが設けられ、ロングシートが2人掛けに短縮された<ref name="ディテールp8" />。
* 走行機器
** [[静止形インバータ]]は本形式では初となる[[東洋電機製造]]製のRG4103-A-M形を5号車に1台搭載した<ref name="ディテールp10" />。
2023年9月7日、[[金沢文庫駅]]7:55発[[逗子・葉山駅]]行き[[普通列車]]より運行を開始した<ref name="railf_230908" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+6両編成
|-
| style="background-color:#ccc; width:6em;" |
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="2"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
!rowspan="4"|製造<br/>メーカー
!rowspan="4"|竣工時期
|-
! 形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>
|-
! 搭載機器<ref name="ディテールp11" />
| VVVF・BT || CP || VVVF || VVVF || SIV・CP || VVVF・BT
|-
! 自重([[トン|t]])<ref name="ディテールp11" />
| 34.0 t || 27.0 t || 31.5 t || 31.5 t || 30.0 t || 34.0 t
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! 車両番号
| 1501-1 || 1501-2 || 1501-3 || 1501-4 || 1501-5 || 1501-6
| 川崎 ||
|}
== 改造 ==
=== デハ1401の各種試験 ===
2003年度より、デハ1401では各種試験が行われた。前面と側面の行先表示器を白色、種別表示器をフルカラーLEDとした<ref name="動向2005p99"/>ほか、試験品の制御装置としてIGBT素子を使用したシーメンス製の物を搭載した<ref name="佐藤2004p127"/>。その後[[2006年]]5月に従来のGTO素子を使用した物に戻され、2016年の主回路換装時に4両編成の1・2次車更新用として搭載されている[[株式会社東芝|東芝]]製のIGBT素子を利用したSVF093-A0に換装されている<ref name="ディテールp125"/>。
=== 方向幕交換 ===
1次車は登場時黒地幕であったが、現在はすべて白地幕に交換された。[[2009年]](平成21年)以降方向幕を搭載していた編成のLED式表示器への交換が進み、正面表示については2014年(平成26年)末頃に完了している<ref name="rf20091219"/><ref name="rf20160117"/>。
=== 1449編成のLED試験 ===
[[2011年]]より、室内灯に[[LED]]を採用するにあたり、1449編成の各車両を用いた様々なLEDの比較試験が行われた。
==== 試験されたLED ====
試験されたLED照明は以下の通り<ref name="ディテールp122"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
! 車号
! 設置時期
! 終了時期
! メーカー
! 形状
! 数
! 備考
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
| 1449
| 2011年3月29日 ||
| [[株式会社東芝 | 東芝]] || カバー式 || 9→8
| 1313編成で採用されたタイプに近いが、灯具の幅が狭い<ref name="ディテールp123"/>。
|-
| rowspan="2"| 1452
| 2011年3月29日 || 2015年5月27日
| [[小糸製作所 | 小糸工業]] || 反射式 || 9
|
|-
| 2015年2月27日 ||
| [[コイト電工]] || 直管蛍光灯型 || 18
| アルミ車両の車体・機器更新時の換装用として採用<ref name="ディテールp123"/>
|-
| 1450
| 2015年2月27日 ||
| 東芝 || 直管蛍光灯型 || 20
| 灯具はオリジナルの蛍光灯用と同形態<ref name="ディテールp123"/>
|-
| 1451
| 2016年8月2日 || 2019年12月22日
| [[三菱電機]] || 直管蛍光灯型 || 20
| 試験終了後、元の蛍光灯に戻される
|}
=== 1445編成の冷房装置試験 ===
[[2015年]]より、1445編成の1、2号車の冷房装置がCU71Hから[[株式会社東芝 | 東芝]]のRPU-11028に換装された。冷房能力はCU71Hの41.9kWより大きい48.9kWとされたが、[[2022年]]10月26日に機器更新が行われ、その際に他の編成と同型のCU-71-G3に換装されている<ref name="ディテールp128"/>。
== 更新工事 ==
2017年度より、製造から15年程度経過したアルミ車両への'''車体更新工事・機器更新工事'''が開始され<ref name="Keikyu20170510"/><ref name="response20170510"/><ref name="rf20170917"/><ref name="rf20170922"/><ref>{{Cite journal|author=宮原正和|year=2017|title=Railway Topics ⬛京浜急行新1000形も15年経過で初の更新|journal=鉄道ジャーナル|volume=614|page=102・103}}</ref>、同年9月17日には最初に車体更新が施工された1次車の1001編成が公開された<ref name="rf20170917"/>。翌9月18日より営業運転を開始している<ref name="rf20170922"/>。
=== 主な更新内容 ===
主な工事内容は以下の通り<ref name="Fan2017-12-66">交友社『鉄道ファン』2017年12月号CAR INFO「京浜急行電鉄新1000形更新車」pp.66 - 67。</ref>。
==== 車体 ====
* 側面行先表示器を幕式からフルカラーLED式に更新<ref name="Fan2017-12-66"/>。
* [[前照灯]]、[[車側表示灯|車側灯]]、[[尾灯]]、[[通過標識灯|急行灯]]は電球式からLED式に取り替えられた<ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 車両の前面非常口部分には「けいきゅん」のステッカーを貼り付けられた<ref name="rf20170922"/>。
==== 車内設備 ====
* 室内化粧板、天井、床敷物、客用ドア、連結面貫通扉を新品に取り替え<ref name="rf20170917"/><ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 車内袖仕切り板をガラス入り大型品に、座席周りの握り棒を曲線形状のものに取り替えた<ref name="rf20170917"/>。
* 1001編成を除き、車端の1脚分のクロスシートが撤去され、フリースペースが設置された<ref name="ディテールp84" />。
* 先頭車の車椅子スペース部壁面に非常ハシゴと[[消火器]]を格納<ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 室内灯は[[蛍光灯]]から直管形[[LED照明]]に変更された<ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 固定式側窓のうち、各連結面寄りの窓を一段下降窓に、先頭車乗務員室後ドア間の窓を二段窓の開閉可能な仕様へ取り替えた<ref name="rf20170917"/><ref name="Fan2017-12-66"/>。
** このため、屋根上の[[換気扇|排気扇]]と床下の排気扇用インバータは撤去された<ref name="rf20170917"/><ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 各ドア上部に設けられていた[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]はLEDスクロール表示式から液晶モニター式(LCD)に交換された<ref name="rf20170917"/>。
* 各ドア上部には、京急線内での停車駅開扉方向予告点灯機能を搭載したドア開閉案内表示灯を設置した<ref name="rf20170917"/>。
==== 乗務員設備 ====
* 運転台の日除けを遮光パネルから[[カーテン]]式に変更<ref name="Fan2017-12-66"/>。運転台計器灯、表示灯類をLED式に取り替え<ref name="Fan2017-12-66"/>。浦賀寄り先頭車の乗務員室へ空調装置操作器を新設<ref name="Fan2017-12-66"/>。
==== 主要機器 ====
* 1001編成ではVVVFインバータ制御装置を三菱電機製のフル[[炭化ケイ素|SiC]]素子を使用したMAP-194-15V296形に更新(1C4M制御)<ref name="Fan2017-12-66"/>。主電動機は17次車以降の8両編成車と同じMB-5171-A形 190 kW 出力に交換した<ref name="Fan2017-12-66"/>。
** なお、1001編成は更新施工当初は原則非直通運用に限定されていた<ref>{{Cite journal|和書|author=柴田東吾|title=大手私鉄 通勤車両のリニューアル 京浜急行電鉄・京成電鉄|journal=鉄道ファン|date=2021-06-01|volume=61|issue=第6号(通巻722号)|pages=82 - 83|publisher=交友社|issn=}}</ref>。
* 1001編成以外の1、2次車の8両編成では、1C4M制御のIGBT素子を利用した[[東洋電機製造]]製のRG6008-B-Mが用いられた。[[京急2100形電車|2100形]]での主回路換装に用いられたRG6008-A-Mからの派生であり、元のトラクションコンバータコンテナから換装しやすいよう考慮された結果、[[枕木]]方向に広く、海側にパワーユニットの[[ヒートシンク]]と高圧配線ダクトが配置され、山側がすべて蓋となっている特殊な筐体となった<ref name="ディテールp125" />。主電動機はTDK6163-Aとされた。
** 従来よりIGBT素子を使用していた3~5次車では、8、4両編成共にサフィックスが改められたRG6008-C-M、又はRG6008-C1-Mが用いられた。性能はRG6008-B-Mと同等だが、車体の引き回しの違いに対応したフィルターリアクトルの口出しなどに差異が見られる。主電動機は同様にTDK6163-Aとされた<ref name="ディテールp125" />。
* 1、2次車の4両編成では、[[2010年]]より1405編成に搭載されていた[[株式会社東芝|東芝]]製のSVF093-A形がほかの編成にも搭載された。RG6008-B-Mと同様の理由から、車体側の高圧配線ダクトがそのまま利用できる大型の筐体となった<ref name="ディテールp126" />。主電動機はSEA-428が用いられた。
* 蓄電池、放送関係機器、保安関係機器の取り替え<ref name="Fan2017-12-66"/>。補助電源装置、ブレーキ機器の部品交換<ref name="Fan2017-12-66"/>。
* 冷房装置は、16次車以降の新製車両に搭載されている三菱電機製のCU71H-G3形に交換された<ref name="rf20170917"/><ref name="Fan2017-12-66"/>。キセがステンレス車両と同等の形状であるため、側面の隙間が広くなった<ref name="ディテールp128" />。
*3次車以降の編成では、8両編成は3、6号車、4両編成では2号車が[[動力車#鉄道車両|電動車]]から[[付随車]]化され、2次車以前の編成と[[MT比]]が揃えられることになった<ref name="ディテールp90" />。3次車以降の電動車用の台車であったTH-2100BMは電装解除を施したTH-2100BTAに改造されている<ref name="ディテールp126" />。
=== 更新後の編成表 ===
==== 8両編成 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" colspan="2"|
|colspan="8"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="4"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
!colspan="2" | 号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
!rowspan="4"|機器更新<ref name="ディテールp131" />
!rowspan="4"|主回路換装<ref name="ディテールp131" />
!rowspan="4"|車体更新<ref name="ディテールp131" />
!rowspan="4"|備考
|-
! colspan="2"|形式・車種
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Muc)
| {{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tpu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Mu)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Ms)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Ts)
| {{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tps)
| {{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Msc)
|-
! colspan="2"|搭載機器<ref name="RP717p101"/>
| VVVF・CP || SIV・BT || || VVVF || VVVF || || SIV・BT || VVVF・CP
|-
!colspan="2"|車重([[トン|t]])
| || || || || || || ||
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="5"| 車両番号
! rowspan="3"| 1次車
| 1001 || 1002 || 1003 || 1004 || 1005 || 1006 || 1007 || 1008
|colspan="3" | 2017年9月15日
| フリースペース未設置
|-
| 1009 || 1010 || 1011 || 1012 || 1013 || 1014 || 1015 || 1016
|colspan="3" | 2019年3月4日
|
|-
| 1017 || 1018 || 1019 || 1020 || 1021 || 1022 || 1023 || 1024
|2018年1月15日
| colspan="2" | 2019年12月20日
|
|-
! rowspan="2"| 2次車
| 1025 || 1026 || 1027 || 1028 || 1029 || 1030 || 1031 || 1032
|colspan="2" | 2019年7月18日
|
|定期検査は併施せず、側灯は未更新
|-
| 1033 || 1034 || 1035 || 1036 || 1037 || 1038 || 1039 || 1040
|colspan="3" | 2021年12月6日
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! rowspan="4"| 車両番号
! rowspan="2"| 3次車
| 1041 || 1042 || 1043 || 1044 || 1045 || 1046 || 1047 || 1048
|colspan="2" | 2022年8月22日
|
|-
| 1049 || 1050 || 1051 || 1052 || 1053 || 1054 || 1055 || 1056
|colspan="2" | 2022年3月29日
|
|定期検査は併施せず、側灯は未更新
|-
! 4次車
| 1057 || 1058 || 1059 || 1060 || 1061 || 1062 || 1063 || 1064
|colspan="2" | 2023年3月3日
|
| YELLOW HAPPY TRAIN編成
|-
! 5次車
| 1065 || 1066 || 1067 || 1068 || 1069 || 1070 || 1071 || 1072
|colspan="2" | 2021年8月11日
|
|トラッドトレイン編成
|-style="border-top:solid 3px #7B766A;"
!rowspan="2"| 台車
!1-2次車
| TH-2100AM || TH-2100AT || TH-2100AT || TH-2100AM || TH-2100AM || TH-2100AT || TH-2100AT || TH-2100AM
|style="background-color:#ccc; width:6em;" rowspan="2" colspan="4"|
|-
!3-5次車
| TH-2100BM || TH-2100BT || TH-2100BTA || TH-2100BM || TH-2100BM || TH-2100BTA || TH-2100BT || TH-2100BM
|}
==== 4両編成 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc; width:6em;" colspan="2"|
|colspan="4"|{{TrainDirection| [[浦賀駅|浦賀]] | [[品川駅|品川]] }}
| style="background-color:#ccc; width:6em;"colspan="4"|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
!colspan="2" | 号車
| 1 || 2 || 3 || 4
!rowspan="4"| 機器更新<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"| 主回路換装<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"| 車体更新<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="4"| 備考
|-
! colspan="2"|形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Muc1)
|{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tpu1)
|{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tps1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Msc1)
|-
! colspan="2"|搭載機器<ref name="ディテールp131" />
| VVVF・CP || SIV・BT || SIV・BT || VVVF・CP
|-
!colspan="2"| 自重([[トン|t]])
| || || ||
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
! rowspan="2"| 1次車
| 1401 || 1402 || 1403 || 1404
| 2017年11月9日
| 2016年3月15日
|
|-
| 1405 || 1406 || 1407 || 1408
| 2018年2月9日
| 2010年2月10日
|
|-
|colspan="10" style="background-color:#cc1144;"|
|-
! colspan="2"|形式・車種
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Muc1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>('T)
|{{left|<}}{{right|>}}<br/>{{Nowrap|'''サハ1000形'''}}<br/>(Tps1)
|{{left| }}<br/>{{Nowrap|'''デハ1000形'''}}<br/>(Msc1)
!rowspan="3"| 機器更新<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="3"| 主回路換装<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="3"| 車体更新<ref name="ディテールp135" />
!rowspan="3"| 備考
|-
! colspan="2"|搭載機器<ref name="ディテールp131" />
| VVVF・CP || BT || SIV・SIV || VVVF・CP
|-
!colspan="2"| 自重([[トン|t]])
| || || ||
|-style="border-top:solid 3px #cc1144;"
! rowspan="2"| 車両番号
! rowspan="2"| 2次車
| 1409 || 1410 || 1411 || 1412
|colspan="2" | 2018年8月17日
|2022年11月16日
|
|-
| 1413 || 1414 || 1415 || 1416
|colspan="2" | 2018年12月18日
|2023年2月27日
|
|-style="border-top:solid 3px #efe2c5;"
! rowspan="8"| 車両番号
! rowspan="2"| 3次車
| 1417 || 1418 || 1419 || 1420
|colspan="2" | 2019年4月12日
|
|
|-
| 1421 || 1422 || 1423 || 1424
|colspan="2" | 2019年8月22日
|
|
|-
! rowspan="4"| 4次車
| 1425 || 1426 || 1427 || 1428
|colspan="2" | 2020年1月23日
|
|
|-
| 1429 || 1430 || 1431 || 1432
|colspan="2" | 2021年10月26日
|
|定期検査は併施せず、側灯は未更新
|-
| 1433 || 1434 || 1435 || 1436
|colspan="2" | 2020年10月28日
|
|
|-
| 1437 || 1438 || 1439 || 1440
|colspan="2" | 2020年11月24日
|
|
|-
! rowspan="2"| 5次車
| 1441 || 1442 || 1443 || 1444
|colspan="2" | 2022年7月20日
|
|
|-
| 1445 || 1446 || 1447 || 1448
|colspan="2" | 2022年10月26日
|
|定期検査は併施せず、側灯は未更新
|-
|-style="border-top:solid 3px #7B766A;"
!rowspan="2"| 台車
!1-2次車
| TH-2100AM || TH-2100AT || TH-2100AT || TH-2100AM
|style="background-color:#ccc; width:6em;" rowspan="2" colspan="4"|
|-
!3-5次車
| TH-2100BM || TH-2100BTA || TH-2100BT || TH-2100BM
|}
== 運用 ==
=== 8両編成 ===
都営浅草線、京成線、北総線への乗り入れ運用を中心とした[[京急本線#快特|快特]]などの[[優等列車]]が主体<ref name="佐藤2004p91"/>で、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線(京成成田空港線)]]経由の「アクセス特急」にも使用される<ref name="年鑑2010p158"/><ref name="年鑑2012p148"/>。また、京成本線経由の運用もある<ref name="年鑑2010p158"/><ref name="年鑑2012p148"/>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[12月5日]]
*** 同日のダイヤ改正で、平日ダイヤでの[[京成佐倉駅]]への乗り入れ運用が復活。
* [[2017年]](平成29年)
** [[10月28日]]
*** 同日のダイヤ改正で[[浦賀駅|浦賀]]始発の特急[[京成佐倉駅]]行が新設され、京成佐倉への土休日の乗り入れが復活<ref name="rf20151211"/><ref name="ディテールp68" />。
* [[2020年]](令和2年)
** [[5月16日]]
*** 主制御器にフルSIC素子を使用した編成の乗り入れ運用開始<ref name="ディテールp71" />。
=== 6両編成 ===
主に[[京急本線#普通|普通列車]]を中心に用されている<ref name="年鑑2012p148"/>。また、逗子線系統の[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]の一部にも運用されている<ref name="RP871p132"/>。
=== 4両編成 ===
[[File:Keikyu N1000 Daishi line.JPG|thumb|100px|大師線で運用される1429編成]]
主に普通列車や優等列車の増結車や<ref name="佐藤2004p91"/>4両編成を2本連結した8両編成で自社線完結のエアポート急行として運用される<ref name="年鑑2010p158"/>ほか、[[京急大師線|大師線]]でも運用されることがある<ref name="rf20080109"/>。1800番台は先頭車間の幌を繋いだ時に限り、地下鉄線内への乗り入れが可能である。
1890番代は『モーニングウイング』3号に使用後、品川で都営からの直通列車に増結して京急川崎止まりになり、[[神奈川新町駅]]で切り離し後入庫する。その後は、一般車4両と組成して[[エアポート急行]]で運用される事が多い。
1500形・600形・2100形との連結が可能<ref name="佐藤2004p58"/>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[5月25日]]
*** 1801編成と1805編成にて幌を付けて8両編成での運転が開始される<ref name="ディテールp67" />。
** [[6月16日]]~[[7月1日]]
*** 1801+1805編成を使用し、初日の第667H列車より直通先への乗り入れ運用に充当<ref name="ディテールp67" />。
* [[2021年]](令和5年)
** [[5月6日]]
*** 「[[ウィング号_(京急)|モーニング・ウィング]]」3号12両運転開始に伴い同列車への1890番台の運用開始<ref name="ディテールp72" />。
** [[5月17日]]
*** 1890番台の[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]への運用開始。
* [[2023年]](令和5年)
** [[6月22日]]~[[6月27日]]
*** 同年の[[6月24日]]に行われた『初運行!8両幌付きLe Cielで行く「1000形大集合撮影会!」』にて、1809編成を幌付きで展示するにあたり、1809号車に幌を設置したまま運用された。浦賀寄りに幌が設置されるのは本形式で初となった<ref name="ディテールp74" />。
** [[11月25日]]
*** 同日のダイヤ改正により、従来2100形で運行されていた「[[ウィング号_(京急)|イブニング・ウィング]]」14・16号の運行体形が変更され、8両編成の特快と併結されて1890番台が充当される予定<ref name="keikyu20231024" />。
== 特別装飾・ラッピング ==
=== [[2004年]](平成16年) ===
==== 羽田空港第2ターミナル開業記念 ====
* 2次車の8両編成2本は同年[[12月1日]]の[[東京国際空港|羽田空港]]第2ターミナル開業を記念して[[空色|スカイブルー]]をベースとする[[ラッピング車両|ラッピング]]が施され、[[2005年]](平成17年)3月まで運転された<ref name="動向2005p99"/><ref name="動向2005p100"/>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
ファイル:Keikyu-n1000-blue-20050313.jpg|第2ターミナル開業記念編成
ファイル:Keikyu-n1000-blue-jal-20050313.jpg|[[日本航空|JAL]]機がラッピングされた車両<br />(品川方4両)
ファイル:Keikyu-n1000-blue-ana-20050313.jpg|[[全日本空輸|ANA]]機がラッピングされた車両<br />(浦賀方4両)
</gallery>
=== [[2012年]](平成24年) ===
==== ノルエコラッピング ====
* 6月18日から7月28日にかけて、前年度末導入の1313編成より室内灯が[[LED]]に変更されたことを受け、「京急環境車両」として1325編成に前面と側面にラッピングが行われた<ref name="ディテールp28" />。これはステンレス車での初のラッピングとなった<ref name="ディテールp65" />。
=== [[2014年]](平成26年) ===
==== KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN ====
* 1057編成は5月1日から京急の電動貨車の塗装をイメージした黄色塗装に変更され、「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」(京急イエローハッピートレイン)として運行開始した<ref name="Yellow"/>。
黄色く塗装された姿が[[西武鉄道#車両|西武鉄道の車両]]に似ているとの声から、京急が西武にコラボレーションを提案、[[西武9000系電車|西武9000系]]の9103編成を赤い車体に白い帯とした「幸運の赤い電車 (RED LUCKY TRAIN)」とし、両社で共同キャンペーンを実施していた<ref name="Seibu20140709"/><ref name="Keikyu20140715"/>。
当初は3年間の運行予定であったが、好評のため運行開始から3年が経過する[[2017年]](平成29年)5月以降も運行が継続されることになった。同年には塗装がマイナーチェンジされ、従来は銀色だった乗降扉部分も黄色に変更され、車体側面全体が黄色の塗装となった。同年4月29日よりこの塗装での運行を開始した<ref name="Keikyu20170427"/>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
Keikyu 1058 yellow.JPG|西武鉄道とのコラボレーション期間中に見られた黄色車体に銀色の扉(2014年8月14日)
</gallery>
* 同年[[8月30日]] には同編成を利用した「しあわせの黄色い電車『京急』で行くTHE鉄コン!in横須賀」が運転<ref name="ディテールp66" />されたほか、その後も以下のラッピングが施されることがあった。
=== [[2016年]](平成28年) ===
==== 京急×都営地下鉄×京成×北総 相互直通25周年ヘッドマーク ====
* [[4月25日]]から[[6月30日]]にかけて、京急線・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成本線|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]]の直通運転25周年を記念して、1025編成にヘッドマークが掲出された<ref name="ディテールp67" />。
==== 京急リラックマトレイン ====
* [[6月16日]]~[[7月1日]]にかけて、京急×[[リラックマ]]コラボの一環として、1065編成が「京急リラックマトレイン」として運行された。
** [[9月11日]]には、同編成を使用した貸切列車である「京急×リラックマごゆるりおでかけ号」が品川~[[三浦海岸駅|三浦海岸]]間で運転された<ref name="ディテールp67"/>。
=== [[2017年]](平成29年) ===
==== 1017編成西暦表示 ====
* 1月には、1017編成が前面非常扉にある「017」の車体番号に「2」を追加し、「2017」と施して運行された<ref>{{Cite news|url=http://rail.hobidas.com/rmn/sp/archives/2017/01/10001017_1.html|title=【京急】新1000形1017編成に「西暦」表示|newspaper=鉄道ホビダス|date=2017-01-06|accessdate=2017-01-12}}</ref>。
** [[1月1日]]には、臨時列車である「初日の出号」1号に充当された<ref name="ディテールp68" />。
=== [[2018年]](平成30年) ===
==== 「京急沿線の風景」ギャラリー号 ====
* 2月25日より、創立120周年を記念して1201編成が前面非常扉にある「201」の車体番号に「1」を追加して運行された。車内には募集された写真や絵画が掲出された<ref name="Keikyu20171219"/>。
** 同編成は翌[[2019年]][[1月1日]]の「初日の出2号」に充当され、その際は末尾に「9」を張り付けて運行された<ref name="ディテールp70" />。
==== リラックマいちごお祝い号・しあわせのキイロイトリ号 ====
* 3月5日から5月13日にかけて、同年に誕生15周年と京急120周年を同時に祝う企画として、「リラックマ&京急一緒にごゆるりお祝いキャンペーン」が行われ、一環として1065編成に「リラックマイチゴお祝い号」、1057編成に「しあわせのキイロイトリ号」のラッピングが施された<ref name="ディテールp69" />。
** 最終日である5月13日には、同イベント内で行われていた[[スタンプラリー]]企画での当選者50組100名を対象に、1065編成「リラックマイチゴお祝い号」を利用した「赤い電車でお出かけ!リラックマのイチゴケーキ号」が品川~[[三浦海岸駅|三浦海岸]]間で貸切列車として運行された。
==== 『北斗の拳』と「OTODAMA SEA STUDIO」のラッピング車両 ====
* 7月30日から9月17日にかけて、[[北斗の拳]]35周年と京急120周年を祝う企画として行われた「北斗京急周年のキャンペーン」の一環として、1065編成に『北斗の拳』のキャラクターや、[[三浦海岸]]にて「北斗の拳&蒼天の拳 スペシャルミニライブ&トークイベント」が行われる[[OTODAMA RECORDS|OTODAMA SEA STUDIO]]のラッピングを施した<ref name="keikyu20180719a"/>。
** 「北斗の拳&蒼天の拳 スペシャルミニライブ&トークイベント」が開催された[[8月11日]]には、同編成を利用した貸切列車である「ザコと行く三浦海岸!京急ヒャッハー!トレイン」が品川駅から三浦海岸駅間無停車で運転され、「北斗の拳」のフォトパネル、窓タペストリー、シートカバー、天刷り膜が装飾された<ref name=" keikyu20180719b"/>。
=== [[2019年]](平成31年・令和元年)===
==== 京急宴線 真夏のONE PIECE列車 ====
* [[7月8日]]から[[9月16日]]にかけて、テレビアニメ「[[ONE_PIECE_(アニメ)|ONE PIECE]]」放送開始20周年、[[海軍カレー#よこすか海軍カレー|カレーの街よこすか]]20周年、京急電鉄創立120周年を記念したコラボとして、「京急宴線 真夏のONE PIECE列車」を実施。1057編成(イエローハッピートレイン)が「ONE PIECE麦わらストア TRAIN」、1065編成(トラッドトレイン)が「ONE PICE STANPEDE TRAIN」として運転<ref name="ディテールp70" />。車内広告もすべてワンピース仕様とされた。
==== 「秋の三浦半島」・「行こう!秋の三浦半島」ラッピング ====
* [[9月18日]]から[[11月1日]]にかけて1057編成に「秋の三浦半島」ラッピングとヘッドマークが、同年9月29日から11月3日にかけて1065編成に「行こう!秋の三浦半島」とヘッドマークがそれぞれ提出された<ref name="ディテールp70" />。
==== 京急沿線のすみからすみまであそびにいこうキャンペーン ====
* [[11月18日]]から翌[[2020年]](令和2年)[[1月26日]]にかけて、[[すみっコぐらし]]とのコラボ企画である、『すみっコぐらし×けいきゅう「京急沿線のすみからすみまであそびにいこうキャンペーン」』を実施。一環として、1057編成を「たべものもぐもぐ号」、1065編成を「すみっコぐらし号」としてラッピングを施して運転された<ref name="ディテールp71"/>。車端部のクロスシートが「すみっコぐらしシート」とされた。
** 最終日である2020年1月26日には、同イベント内で行われていた[[スタンプラリー]]企画での当選者50組100名を対象に、「すみっコぐらし号」が貸切列車として、品川から[[三崎口駅|三崎口]]駅間で運転された。
=== [[2020年]](令和2年) ===
==== 三浦海岸河津桜ラッピング ====
* [[1月27日]]から[[3月7日]]にかけて、1065編成に「三浦海岸河津桜ラッピング」が施された<ref name="ディテールp71"/>。
** [[2月15日]]には、同編成を利用した「みうら河津号」(品川~[[三浦海岸駅|三浦海岸]])・「みうら夜桜号」([[京急川崎駅|京急川崎]]~三浦海岸)が運転された。
==== 東京2020オリンピックラッピング ====
* [[3月9日]]から[[9月6日]]までの間、1065編成が同年に開催される予定であった[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]を記念してラッピングされた。[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス]]の感染拡大により同大会は[[2021年]]に延期されたが、ラッピングは延長されることなく外された<ref name="ディテールp71"/>。
=== [[2021年]](令和3年) ===
==== 「コロナに負けるな 京急沿線商店街」号 ====
* [[1月25日]]から[[2月27日]]の間、[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス]]の感染拡大を受けて1201編成に「コロナに負けるな 京急沿線商店街」ラッピングが施された<ref name="ディテールp72"/>。
[[東京都]][[大田区]]の商店街の紹介や、大田区公式キャラクター「はねぴょん」がデザインされている。
==== 京急×都営地下鉄×京成×北総 相互直通30周年ヘッドマーク ====
* [[3月31日]]から[[6月30日]]にかけて、京急線・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成本線|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]]の直通運転30周年を記念して、1201編成にヘッドマークが掲出された<ref name="ディテールp72" />。
==== よこすかルートミュージアム号 ====
* [[10月11日]]から翌[[2022年]](令和4年)[[1月30日]]までの間、京急電鉄が「よこすか MEGURU PROJECT」へ参画した一環として、1065編成にラッピングが施された<ref name="ディテールp72"/>。
=== [[2022年]](令和4年)===
==== すみっコぐらし10周年号 ====
* [[9月5日]]から[[11月16日]]の間、[[すみっコぐらし]]の10周年を記念した企画である「すみっコぐらし×けいきゅう&はねだくうこうinおおたく 東京都のすみっコ大田区で10周年お祝いキャンペーン」が開催された一環として、1893-1編成が「すみっコぐらし10周年号」にラッピングされた<ref name="ディテールp73"/>。
==== 「ブルーリボン賞」受賞記念号 ====
* 1890番台のブルーリボン章受賞を記念して、[[2022年]](令和4年)[[12月4日]]より、1893-1編成に記念ヘッドマークと側面マークを付けて運行された<ref name="Keikyu20221113"/>。
** 運行初日となる12月4日には、同編成を使用して「『Le Ciel』ブルーリボン賞受賞記念貸切列車ツアー」が[[京急蒲田駅]]から[[久里浜工場信号所]]間で運転された<ref name="ディテールp74" />。
=== 夏詣ヘッドマーク ===
京急電鉄の企画として[[2019年]]より実施されている「夏詣キャンペーン」に合わせて[[2021年]]より毎年1201編成に夏詣ヘッドマークが掲出されている。
* 2021年 - [[7月1日]]~[[8月29日]]<ref name="ディテールp72" />
* 2022年 - [[6月26日]]~[[8月28日]]<ref name="ディテールp73" />
== 事故廃車 ==
1137編成は[[2019年]]([[令和]]元年)[[9月5日]]、[[神奈川新町駅]]近くの踏切にてトラックと衝突する事故([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故|京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故]])を起こし、損傷が激しいことから、翌2020年(令和2年)3月15日付で本系列初の廃車となった<ref>「大手私鉄車両ファイル 車両配置表」、『鉄道ファン』2020年8月号特別付録、交友社、2020年。</ref>。この影響で、モーニングウィング号1号の増便運行開始が1ヶ月延期された<ref> https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20191018_mw.html </ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{commonscat|Keikyu 1000 series (II)}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2|refs=
<ref name="佐藤2003p151">[[#佐藤2003|『京急クロスシート車の系譜』 p151]]</ref>
<ref name="佐藤2004p58">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p58]]</ref>
<ref name="佐藤2004p87">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p87]]</ref>
<ref name="佐藤2004p88">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p88]]</ref>
<ref name="佐藤2004p90">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p90]]</ref>
<ref name="佐藤2004p91">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p91]]</ref>
<ref name="佐藤2004p127">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p127]]</ref>
<ref name="佐藤2004p142">[[#佐藤2004|『京急の車両』 p142]]</ref>
<ref name="佐藤2014p74">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p74]]</ref>
<ref name="佐藤2014p76">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p76]]</ref>
<ref name="佐藤2014p80">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p80]]</ref>
<ref name="佐藤2014p82">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p82]]</ref>
<ref name="佐藤2014p86">[[#佐藤2014|『京急電車の運転と車両探見』p86]]</ref>
<ref name="giho119">[[#電機技報119|『東洋電機技報』通巻119号 p25]]</ref>
<ref name="RJ434">[[#RJ434|『鉄道ジャーナル』通巻434号p100]]</ref>
<ref name="RM226p138">[[#レイルマガジン226|『レイルマガジン』通巻226号p138]]</ref>
<ref name="DJ330p122">[[#ダイヤ情報201110|『鉄道ダイヤ情報』通巻330号p122]]</ref>
<ref name="DJ339p126">[[#ダイヤ情報201207|『鉄道ダイヤ情報』通巻339号p126]]</ref>
<ref name="DJ342p124">[[#ダイヤ情報201210|『鉄道ダイヤ情報』通巻342号p124]]</ref>
<ref name="RF493p71">[[#鉄道ファン493|『鉄道ファン』通巻493号p71]]</ref>
<ref name="RF493p73">[[#鉄道ファン493|『鉄道ファン』通巻493号p73]]</ref>
<ref name="RF493p75">[[#鉄道ファン493|『鉄道ファン』通巻493号p75]]</ref>
<ref name="RF554p78">[[#鉄道ファン554|『鉄道ファン』通巻554号p78]]</ref>
<ref name="RF554p79">[[#鉄道ファン554|『鉄道ファン』通巻554号p79]]</ref>
<ref name="RF563p94">[[#鉄道ファン563|『鉄道ファン』通巻563号p94]]</ref>
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* [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2021年5月号{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/BaTbmgTZcNfE.pdf 車両紹介「1000形1890番台新造車両の紹介」」]}}(pp.45 - 49掲載)
{{京浜急行電鉄の車両}}
{{ブルーリボン賞選定車両一覧}}
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京急600形電車 (3代)
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京急600形電車(けいきゅう600がたでんしゃ)は、1994年(平成6年)3月29日に営業運転を開始した京浜急行電鉄の通勤型電車。
本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼び、文中の編成表では左側を浦賀方として記述する。また、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形 (初代)、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形 (2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形 (2代)を指す。
本形式は、1500形に次いで都営地下鉄浅草線乗り入れ車両である1000形の置き換えを目的として製造された。1994年から1996年の2年間にかけて8両編成8本、4両編成6本の計88両が製造された。
日本の地下鉄対応車両としては珍しいオールクロスシート車両として開発され、混雑時の収容力と閑散時の快適性の両立を狙った可動式座席を採用して製造された。当時他の関東地方の鉄道事業者は多扉や大型扉の車両をラッシュ時の運行円滑化のために導入していた時期であり、京急はクロスシート車での運行円滑化という、他社とは異なるアプローチとなったのが大きな特徴である。
初期製造車は1500形VVVFインバータ制御車と台車以外同一の機器を採用したが、後年の増備車からは編成構成の自由度を高めるために機器構成が大幅に変更され、可動式座席も廃止された。1998年(平成10年)の羽田空港開業時に設定されたエアポート快特にも運用され、同駅開業関連のポスターにも使用された。
1994年(平成6年)3月29日から自社線内専用で営業運転を開始した。都営地下鉄浅草線・京成線方面への乗り入れは同年8月22日から開始された。
本項では落成時の仕様について述べ、次車毎の変更内容については後述する。
車体はアルミ製とし、登場時の2000形と同様赤い車体に窓回りを白く塗装している。前面形状は大きな3次元曲面で構成され、車掌台側に移動したスイング式のプラグドア、上部に移った前照灯、下部に埋め込まれた尾灯・標識灯、ワイパーカバーの採用、アーマープレート、アンチクライマーの廃止など新しいスタイルとなった。このデザインは後に登場した2100形・新1000形に引き継がれた。ワイパーカバーは「イロンデルグレー」に塗装されている。窓寸法を1500形に対して上方に20 mm拡大、車体高さを同じく40 mm拡大した。800形805編成以降の京急各形式では側面種別・行先を別々の小窓に表示、一体のケースに収めていたが、本形式では1枚のガラスに納められた。尾灯・戸閉灯にはLED灯具を使用したが、経年劣化による照度低下への対応として、次形式の2100形から電球に戻されている。1500形VVVFインバータ制御車に続いて正面にはスカートが取り付けられたが、丸みを帯びた形状のものに変更されている。
運転台と直近のドアの間に運転台側を向いた2人掛け固定座席、ドア間に4人掛けボックス席片側2組、車端部に4人掛ボックスシートが設けられた。ドア付近には運転台からの操作で一斉施錠可能な補助席が設置されている。シートピッチを広めにとっているため、補助席を使用しない場合は同じドア数のロングシート車より座席定員が少なくなる。内装は寒色系で、天井と壁面は白と薄灰色、床はグレー系、座席は薄青色である。京急の3扉車として初めて扉内側に化粧板が貼られた。1500形VVVF車と同様に床には駆動装置点検用点検蓋のみが設けられた。
両端ドアの車体中央寄に混雑時の収容力確保のため運転台からの操作で2人掛けと1人掛けが転換する可動式座席「ツイングルシート」が採用された。「ツイングル」とは「ツイン」と「シングル」、さらには「星のきらめき」を意味する「ツインクル」をかけた造語である。これに関連して、本形式の登場当初は「ツイングル600」の愛称が与えられていた。
可動式座席には、通路側の座席を窓側の座席にかぶせるように収納するものと、ドア部補助席同様に座面を跳ね上げて背もたれに密着させるものがあり、両者は肘掛けの位置で識別できる。補助席と合わせ、1両あたり最大32人の座席定員を変えることができるが、可動式座席の収納は登場直後を除きほとんど行われなかった。
神奈川新町駅構内の京急の育成センター内にある600形シミュレータ客室内にはツイングルシートがあり、本形式のロングシート化改造が終了した後も登場時の状態をとどめている。
主電動機はKHM-1700(東洋電機製造〈以下、東洋〉製TDK6160A1または三菱電機〈以下、三菱〉製MB-5043A、出力120 kW、端子電圧1,100 V、電流84 A、周波数50 Hz、定格回転数1,455 rpm)を採用、駆動装置はTD継手式平行カルダンのKHG-800(東洋製TD282-C-M)を採用した。
主制御器は東洋製ATR-H8120-RG-627Bまたは三菱製MAP-128-15V31、GTOサイリスタ素子によるVVVFインバータ制御で、1C8M方式を採用した。台車は空気ばね車体直結式、軸梁支持、軸ダンパ付のTH-600M・Tを採用している。
パンタグラフは菱形の東洋製PT-4323S-A-MをM1cとM1に各1基、M1'に2基搭載した。
補助電源装置は東洋ブースター式SIV (SVH-85-461A-M) または三菱チョッパインバータ式SIV (NC-FAT-75A)、75 kVA。偶数号車山側に搭載している。空気圧縮機はC-1500AL レシプロ式をM2系車、Tu車の海側に搭載した。
空調装置は屋上集中式(東芝製RPU-11009および三菱製CU-71F)で、スクロール圧縮機を採用している。
この書体は東急車輛製造製、それ以外は川崎重工業製。この書体は変更点のある車両もしくはその変更点。「CS」は主制御器、「MM」は主電動機、「SIV」はSIVの製造者を示す。以下各製造時で同じ。
以下の編成表は、全て左側が浦賀・三崎口方面、右側が品川方面。
600形として最初に登場したグループ。登場からしばらくはツイングルシートをPRするヘッドマークを装着して運転された。
1次車の使用実績をもとに設計変更が行われ、吊り手の増設など立ち客に配慮した。 1次車の製造当初は日中の快速特急(現在の快特)使用時に中間の客用扉を締め切り扱いにして2000形と同じ2扉車として運用することが考えられていたため、中間の客用扉上部には締め切りであることを表示する装置を装備していたが、不評だったため日中の2扉扱いはすぐに中止され、2次車から本装置は装備されていない(1次車に関しては中央ドアを締め切る機能は残っているが客用扉上部の装置は撤去された)。その他、ワイパーが中央から両側に開く動作から2本が並行に動作するものに変更されている(後に1次車も改造)。603編成は600形では初の東芝製冷房車となった。
2次車に続いて製造された。2次車から設計変更はない。
4両・6両・8両編成に設計変更を行わずに対応できるように機器構成が大幅に変更された。608編成の浦賀方4両の主制御器・SIVは当初東洋製、品川方4両は三菱製であったが、主制御器は後に651編成(元々は三菱製)と振り替えられ三菱製に統一された(後述)。
この機器構成は後に登場した2100形・新1000形(1・2次車)に引き継がれた。
1 - 3次車は前面のワイパーカバー塗装色がイロンデルグレーだったが、視認性向上のため1995年に上縁を黒、それ以外をアイボリーに変更した。4次車は登場時からこの塗装である。
デハ608-1では1996年12月から1998年3月まで試作座席が試用された。海側の座席2脚が固定式と手動転換可能な転換式クロスシートに交換され、座り心地、シートの傷みなどの確認が行われた。
1-3次車の車端ダンパを1998年6月に撤去した。準備工事だった4次車の関連部品も翌7月に撤去された。その理由は京急空港線京急蒲田駅付近の急曲線通過に支障が出ること、走行時の横揺れの加速度を抑制できなかったこと、走行時の騒音が問題となったためである。
落成当初、スカートはダークグレーに塗装されていたが、1999年以降、順次明るめのグレーに塗装が変更された。
デハ605-1に1500形のデハ1601から移設した架線観測装置を装備する改造が施された。通常は観測用機器は取り外され、観測は通常の営業列車で行われる。
座席表地の経時劣化に伴い2002年度から順次座席表布の張り替えが行われ、表地は青系色から赤系色に変更され、ツイングルシートは構造を変更せずに固定化された。翌2003年の施行車以降はヘッドレスト部分の色と材質を変更したが、次項の扉間のロングシート化改造を開始したため打ち切られた。
2004年度から混雑緩和や経年による可動式座席(ツイングルシート)の保守に手間がかかることから、扉間の座席をロングシート化と、同時にバリアフリー対応改造が実施されている。詳細は以下の通り。
優先席は奇数号車品川方山側および偶数号車浦賀方海側に設置されていたが、608編成は2005年10月に扉間の座席を改造された際に優先席が増設され、既存のものと点対称位置のシートも優先席とされた。他の編成も改造(あるいは後述の更新工事)と同時に増設されている。
京急全線で1号型ATSから高機能ATS(C-ATS装置)が2009年(平成21年)2月14日から使用開始されたため、これに伴う改造工事が全車両に施工された。
2014年12月頃から、列車無線の変更(空間波無線(SR)方式化)を前に、新型の列車無線関係装置を乗務員室内の方向幕点検蓋付近に搭載するため、前面の方向幕の整備・交換が困難になることから、全車の前面種別・行先表示がフルカラーLEDに変更された。
2009年8月10日に出場した601編成から車体更新工事が施工されている。工事内容は以下の通り。
2014年3月の655編成の更新工事施工をもって全車の更新が完了した。606編成は「Keikyu Blue Sky Train」塗装で出場した。また、東洋製と三菱製が混在していた608編成の主制御器は、更新工事の際に三菱製に統一され、代わりに651編成の主制御器が東洋製になっている。
8両編成は主に快特などの優等列車に使用され、都営地下鉄浅草線・京成線・北総線への乗り入れ運用が中心となっている。停車駅予報装置が製造当初から搭載されているため京成本線(京成高砂駅 - 成田空港駅)や京成成田空港線(成田スカイアクセス線)での運行にも対応しており、同線の一般列車であるアクセス特急(京急線・都営浅草線内エアポート快特)として成田空港まで乗り入れる。スカイアクセス直通と京成本線京成高砂以東(京成船橋駅方面)運用は新1000形・1500形も運用に入っている。2015年12月5日ダイヤ改正で、京成本線京成佐倉駅への乗り入れ運用(平日)が復活し、2017年10月28日ダイヤ改正で休日運用も復活した。
4両編成は普通列車や優等列車の増結車など自社線内で運用される。過去に、1998年 - 1999年に「エアポート初日号」として都営浅草線・京成押上線・金町線に乗り入れたことがあり、2002年 - 2003年には「だるまエクスプレス」として大師線に初入線し、現在は1500形の一部編成が廃車になったため、大師線の主力車両になっている。
1500形・2100形・新1000形とも連結が可能で、かつては2000形との連結もあった。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には車両の略号は4両編成が「4F」、8両編成が「8F」と表記される。
606編成はロングシート化改造と同時に車体全体を青く塗装し、2005年3月14日から「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」(京急ブルースカイトレイン)として運転されている。通常は広告貸し切り列車として毎回1社の広告だけが車内に掲出されるが、次の取り組みも行われている。
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"text": "8両編成は主に快特などの優等列車に使用され、都営地下鉄浅草線・京成線・北総線への乗り入れ運用が中心となっている。停車駅予報装置が製造当初から搭載されているため京成本線(京成高砂駅 - 成田空港駅)や京成成田空港線(成田スカイアクセス線)での運行にも対応しており、同線の一般列車であるアクセス特急(京急線・都営浅草線内エアポート快特)として成田空港まで乗り入れる。スカイアクセス直通と京成本線京成高砂以東(京成船橋駅方面)運用は新1000形・1500形も運用に入っている。2015年12月5日ダイヤ改正で、京成本線京成佐倉駅への乗り入れ運用(平日)が復活し、2017年10月28日ダイヤ改正で休日運用も復活した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "4両編成は普通列車や優等列車の増結車など自社線内で運用される。過去に、1998年 - 1999年に「エアポート初日号」として都営浅草線・京成押上線・金町線に乗り入れたことがあり、2002年 - 2003年には「だるまエクスプレス」として大師線に初入線し、現在は1500形の一部編成が廃車になったため、大師線の主力車両になっている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1500形・2100形・新1000形とも連結が可能で、かつては2000形との連結もあった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には車両の略号は4両編成が「4F」、8両編成が「8F」と表記される。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "606編成はロングシート化改造と同時に車体全体を青く塗装し、2005年3月14日から「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」(京急ブルースカイトレイン)として運転されている。通常は広告貸し切り列車として毎回1社の広告だけが車内に掲出されるが、次の取り組みも行われている。",
"title": "ラッピング・特殊塗装など"
}
] |
京急600形電車(けいきゅう600がたでんしゃ)は、1994年(平成6年)3月29日に営業運転を開始した京浜急行電鉄の通勤型電車。 本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼び、文中の編成表では左側を浦賀方として記述する。また、「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形 (初代)、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形 (2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形 (2代)を指す。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急600形電車(3代)
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Keikyu-Type600-608-1.jpg
| 画像説明 = [[京急本線]]を走行する600形電車 <br />(2021年7月 [[新馬場駅]])
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎車両|川崎重工業]]兵庫工場
| 製造年 = 1994年 - 1996年
| 製造数 = 14編成88両(4両×6編成、8両×8編成)
| 運用開始 = 1994年3月29日<ref name="Keikyu100th">京浜急行電鉄 『京浜急行百年史』p.316。</ref>
| 編成 = 4・8両編成
| 軌間 = 1,435 mm([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 120 km/h
| 設計最高速度 = 130 km/h
| 起動加速度 = 3.5 km/h/s(1 - 3次車)<br />3.3 km/h/s(4次車)
| 常用減速度 = 4.0 km/h
| 非常減速度 = 4.5 km/h
| 車両定員 = 本文参照
| 自重 = (1 - 3次車)M1c車33.5 [[トン|t]]、M1'車33 t、M1車32.5 t、M2c車33 t、M2'車・M2車32 t、Tu車24.5 t、Ts車25.5 t<br />(4次車)先頭車34 t、Mu車31.5 t、Ms車32 t、Tp車25.5 t、T車23.5 t
| 全長 = 18,000 mm
| 全幅 = 2,830 mm
| 全高 = 4,020 mm<br />4,050 mm(パンタグラフ搭載車)
| 車体 = [[アルミニウム合金]]
| 台車 =
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]
| 主電動機出力 = 120 [[ワット|kW]]×4(1 - 3次車)<br />180 kW×4(4次車)
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン]]
| 歯車比 = 83:14 (5.93)
| 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = 新遅込制御付[[回生ブレーキ|回生制動]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式電磁直通空気制動]]([[応荷重装置]]付)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]・[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
| 備考 = 新製時の諸元を示す
}}
'''京急600形電車'''(けいきゅう600がたでんしゃ)は、[[1994年]]([[平成]]6年)[[3月29日]]に営業運転を開始した<ref name="Keikyu100th"/>[[京浜急行電鉄]]の[[通勤型電車]]。
本項では、特記のない限り、各種文献に倣い、[[京急本線]]上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼び、文中の編成表では左側を浦賀方として記述する。また、「1000形」は[[1959年]]([[昭和]]34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形 (初代)]]、「新1000形」は[[2002年]](平成14年)登場の[[京急1000形電車 (2代)|1000形 (2代)]]、「800形」は[[1978年]](昭和53年)登場の[[京急800形電車 (2代)|800形 (2代)]]を指す。
== 概要 ==
本形式は、[[京急1500形電車|1500形]]に次いで[[都営地下鉄浅草線]]乗り入れ車両である1000形の置き換えを目的として製造された<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1994年5月号 p.43</ref>。1994年から1996年の2年間にかけて8両編成8本、4両編成6本の計88両が製造された。
日本の[[地下鉄等旅客車|地下鉄対応車両]]としては珍しいオール[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]車両として開発され、混雑時の収容力と閑散時の快適性の両立を狙った可動式座席を採用して製造された。当時他の[[関東地方]]の鉄道事業者は多扉や大型扉の車両を[[ラッシュ時]]の運行円滑化のために導入していた時期であり、京急はクロスシート車での運行円滑化という、他社とは異なるアプローチとなったのが大きな特徴である。
初期製造車は1500形[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車と台車以外同一の機器を採用したが、後年の増備車からは編成構成の自由度を高めるために機器構成が大幅に変更され、可動式座席も廃止された。[[1998年]](平成10年)の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]開業時に設定された[[エアポート快特]]にも運用され、同駅開業関連のポスターにも使用された。
[[1994年]](平成6年)[[3月29日]]から自社線内専用で営業運転を開始した<ref name="Keikyu100th">京浜急行電鉄 『京浜急行百年史』p.316。</ref>。都営地下鉄浅草線・京成線方面への乗り入れは同年[[8月22日]]から開始された<ref name="Journal199411">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1994年11月号RAILWAY TOPICS「京急600形 東京都~京成線への直通運転始まる」p.94。</ref>。
== 車両概説 ==
本項では落成時の仕様について述べ、次車毎の変更内容については後述する。
=== 外観 ===
車体は[[アルミニウム合金|アルミ]]製とし、登場時の[[京急2000形電車|2000形]]と同様赤い車体に窓回りを白く[[塗装]]している。前面形状は大きな3次元曲面で構成され、車掌台側に移動したスイング式の[[プラグドア]]、上部に移った[[前照灯]]、下部に埋め込まれた[[尾灯]]・[[通過標識灯|標識灯]]、[[ワイパー]]カバーの採用、アーマープレート、[[アンチクライマー]]の廃止など新しいスタイルとなった。この[[デザイン]]は後に登場した[[京急2100形電車|2100形]]・新1000形に引き継がれた。ワイパーカバーは「イロンデルグレー」に塗装されている。窓寸法を1500形に対して上方に20 [[ミリメートル|mm]]拡大、車体高さを同じく40 mm拡大した。800形805編成以降の京急各形式では側面種別・行先を別々の小窓に表示、一体のケースに収めていたが、本形式では1枚のガラスに納められた。尾灯・戸閉灯には[[発光ダイオード|LED]]灯具を使用したが、経年劣化による照度低下への対応として、次形式の2100形から[[電球]]に戻されている。1500形VVVFインバータ制御車に続いて正面には[[排障器|スカート]]が取り付けられたが、丸みを帯びた形状のものに変更されている。
=== 内装 ===
[[ファイル:Keikyu 600gata interior.JPG|thumb|right|200px|車内(4次車)]]
[[操縦席|運転台]]と直近のドアの間に運転台側を向いた2人掛け固定座席、ドア間に4人掛けボックス席片側2組、車端部に4人掛ボックスシートが設けられた。ドア付近には運転台からの操作で一斉施錠可能な補助席が設置されている。[[座席#シートピッチ|シートピッチ]]を広めにとっているため、補助席を使用しない場合は同じドア数のロングシート車より座席定員が少なくなる。内装は寒色系で、天井と壁面は白と薄灰色、床はグレー系、座席は薄青色である。京急の3扉車として初めて扉内側に化粧板が貼られた。1500形VVVF車と同様に床には駆動装置点検用点検蓋のみが設けられた。
==== ツイングルシート ====
[[ファイル:Keikyu 600 Series EMU (III) 001.JPG|thumb|right|200px|ツイングルシート]]
両端ドアの車体中央寄に混雑時の収容力確保のため運転台からの操作で2人掛けと1人掛けが転換する可動式座席「'''ツイングルシート'''」が採用された。「ツイングル」とは「ツイン」と「シングル」、さらには「星のきらめき」を意味する「ツインクル」をかけた造語である。これに関連して、本形式の登場当初は「ツイングル600」の愛称が与えられていた<ref>[[鉄道ジャーナル]][[1995年]]8月号P69</ref>。
可動式座席には、通路側の座席を窓側の座席にかぶせるように収納するものと、ドア部補助席同様に座面を跳ね上げて背もたれに密着させるものがあり、両者は肘掛けの位置で識別できる。補助席と合わせ、1両あたり最大32人の座席定員を変えることができるが、可動式座席の収納は登場直後を除きほとんど行われなかった。
[[神奈川新町駅]]構内の京急の育成センター内にある600形[[シミュレーション|シミュレータ]]客室内にはツイングルシートがあり、本形式のロングシート化改造が終了した後も登場時の状態をとどめている。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;"
|+600形定員一覧
|-
|rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #cc1144; background-color:#ccc;"|
!colspan="2"|1 - 3次車
!colspan="2"|4次車
!colspan="2"|ロングシート化改造車
|-
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|先頭車
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|中間車
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|先頭車
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|中間車
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|先頭車
!style="border-bottom:solid 3px #cc1144;"|中間車
|-
!車両定員
|118人||128人||118人||128人||123人||132人
|-
!固定座席定員
|34人||40人||34人||40人||41人||48人
|-
!可動椅子使用時<br />(ツイングルシート)
|6人||8人||なし||なし||なし||なし
|-
!補助椅子使用時
|14人||16人||20人||24人||4人||8人
|}
=== 主要機器 ===
主電動機はKHM-1700([[東洋電機製造]]〈以下、東洋〉製TDK6160A1または[[三菱電機]]〈以下、三菱〉製MB-5043A、出力120 k[[ワット|W]]、端子電圧1,100 [[ボルト (単位)|V]]、電流84 [[アンペア|A]]、周波数50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、定格回転数1,455 [[rpm (単位)|rpm]])を採用、駆動装置は[[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン]]のKHG-800(東洋製TD282-C-M)を採用した。
主制御器は東洋製ATR-H8120-RG-627Bまたは三菱製MAP-128-15V31、[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]によるVVVFインバータ制御で、1C8M方式を採用した。[[鉄道車両の台車|台車]]は[[空気ばね]]車体直結式、軸梁支持、軸ダンパ付のTH-600M・Tを採用している。
パンタグラフは菱形の東洋製PT-4323S-A-MをM1cとM1に各1基、M1'に2基搭載した。
補助電源装置は東洋ブースター式[[静止形インバータ|SIV]] (SVH-85-461A-M) または三菱チョッパインバータ式SIV (NC-FAT-75A)、75 k[[ボルトアンペア|VA]]。偶数号車山側に搭載している。空気圧縮機はC-1500AL レシプロ式をM2系車、Tu車の海側に搭載した。
空調装置は[[集中式冷房装置|屋上集中式]]([[東芝]]製RPU-11009および三菱製CU-71F)で、スクロール圧縮機を採用している。
== 製造時のバリエーション ==
'''この書体'''は[[東急車輛製造]]製、それ以外は[[川崎車両|川崎重工業]]製。''この書体''は変更点のある車両もしくはその変更点。「CS」は主制御器、「MM」は主電動機、「SIV」はSIVの製造者を示す。以下各製造時で同じ。
以下の編成表は、全て左側が浦賀・三崎口方面、右側が品川方面。
=== 1次車 ===
[[ファイル:602-1 shinotsu.jpg|thumb|200px|1次車 602編成(登場時の塗色 1994年4月 [[新大津駅]])]]
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
!デハ600
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| colspan="5" |
|-
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tu|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Ts|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |CS|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |MM|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |SIV|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |冷房機|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造年月
|-
|'''601-1'''||'''601-2'''||'''601-3'''||'''601-4'''||'''601-5'''||'''601-6'''||'''601-7'''||'''601-8'''||東洋||東洋||東洋||三菱||1994年3月
|-
|602-1||602-2||602-3||602-4||602-5||602-6||602-7||602-8||三菱||三菱||三菱||三菱||1994年3月
|}
600形として最初に登場したグループ。登場からしばらくはツイングルシートをPRするヘッドマークを装着して運転された。
=== 2次車 ===
[[ファイル:Keikyu-Type600-605F-Lot2.jpg|thumb|200px|2次車 605編成(塗色変更後 2020年10月)]]
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tu|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Ts|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |CS|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |MM|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |SIV|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |冷房機|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造年月
|-
|'''603-1'''||'''603-2'''||'''603-3'''||'''603-4'''||'''603-5'''||'''603-6'''||'''603-7'''||'''603-8'''||東洋||東洋||東洋||東芝||1995年3月
|-
|604-1||604-2||604-3||604-4||604-5||604-6||604-7||604-8||三菱||三菱||三菱||三菱||1995年3月
|-
|'''605-1'''||'''605-2'''||'''605-3'''||'''605-4'''||605-5||605-6||605-7||605-8||東洋||三菱||三菱||三菱||1995年3月
|}
1次車の使用実績をもとに設計変更が行われ、[[つり革|吊り手]]の増設など立ち客に配慮した。 1次車の製造当初は日中の[[快速特急]](現在の快特)使用時に中間の客用扉を[[ドアカット|締め切り扱い]]にして2000形と同じ2扉車として運用することが考えられていたため、中間の客用扉上部には締め切りであることを表示する装置を装備していたが、不評だったため日中の2扉扱いはすぐに中止され、2次車から本装置は装備されていない(1次車に関しては中央ドアを締め切る機能は残っているが客用扉上部の装置は撤去された)。その他、ワイパーが中央から両側に開く動作から2本が並行に動作するものに変更されている(後に1次車も改造)。603編成は600形では初の東芝製冷房車となった。
=== 3次車 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tu|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Ts|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2'|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M1|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |M2c|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |CS|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |MM|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |SIV|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |冷房機|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造年月
|-
|'''606-1'''||'''606-2'''||'''606-3'''||'''606-4'''||'''606-5'''||'''606-6'''||'''606-7'''||'''606-8'''||東洋||東洋||東洋||東芝||1995年6月
|-
|607-1||607-2||607-3||607-4||607-5||607-6||607-7||607-8||三菱||三菱||三菱||三菱||1995年6月
|}
2次車に続いて製造された。2次車から設計変更はない。
=== 4次車 ===
[[ファイル:Keikyu-Type600-608F-Lot4.jpg|thumb|200px|right|4次車 608編成(2020年10月)]]
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
!デハ600
!サハ600
!サハ600
!デハ600
!デハ600
!サハ600
!サハ600
!デハ600
| colspan="5" |
|-
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Muc|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |T|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tp1|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Mu|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Ms|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |T|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tp1|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Msc|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |CS|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |MM|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |SIV|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |冷房機|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造年月
|-
|'''''608-1'''''||'''608-2'''||'''608-3'''||'''''608-4'''''||'''608-5'''||'''608-6'''||'''608-7'''||'''608-8'''||''三菱''||三菱||混載||東芝||1996年2月
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
!デハ
600
!サハ
600
!サハ
600
!デハ
600
| colspan="5" |
|-
| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Muc|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |T|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Tp2|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |Msc|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |CS|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |MM|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |SIV|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |冷房機|| style="border-bottom:solid 3px #cc1144;" |製造年月
|-
|''651-1''||651-2||651-3||''651-4''||''東洋''||三菱||三菱||三菱||1996年3月
|-
|652-1||652-2||652-3|||652-4||東洋||三菱||東洋||三菱||1996年3月
|-
|653-1||653-2||653-3||653-4||三菱||三菱||三菱||三菱||1996年3月
|-
|654-1||654-2||654-3||654-4||東洋||三菱||三菱|||三菱||1996年4月
|-
|'''655-1'''||'''655-2'''||'''655-3'''||'''655-4'''||東洋||東洋||東洋||東芝||1996年5月
|-
|'''656-1'''||'''656-2'''||'''656-3'''||'''656-4'''||東洋||東洋||三菱||東芝||1996年5月
|}
4両・6両・8両編成に設計変更を行わずに対応できるように機器構成が大幅に変更された。608編成の浦賀方4両の主制御器・SIVは当初東洋製、品川方4両は三菱製であったが、主制御器は後に651編成(元々は三菱製)と振り替えられ三菱製に統一された([[#更新工事|後述]])。
* 8M/1Cから4M/1C、[[MT比]]を3:1から1:1に、主電動機をKHM-600に変更(東洋製TDK6161Aまたは三菱製MB-5070A、出力180 kW、端子電圧1,100 V、電流121 A、周波数60 Hz、定格回転数1,755 rpm)。これに伴い、起動加速度がそれまでの3.5km/h/sから3.3km/h/sに変更。
*制御装置は東洋製ATR-H4180-RG-656Aまたは三菱製MAP-184-15V61、逆導通GTOサイリスタ素子によるVVVFインバータ制御で1C4M方式を採用。
* [[集電装置]]をシングルアーム形(東洋製PT-7117-A)に変更し、Tp車に2台搭載とした。
* 補助電源装置を75 kVA/2両から150 kVA/4両に変更し、[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]-SIV(東洋SVH-170-4009AまたはSVH-85W-4008A、または三菱NC-WAT-150A・B)をTp車の山側に搭載した。4両編成のSIVは冗長性確保のため75 kVA2個の回路構成とした。
* 車内座席配置を変更。本形式の特徴だったツイングルシートを廃止し、扉間は2人掛けシートのみとされ、2組を向き合わせの4人席と単独の2人席となった。中央扉部分にも折り畳み式補助椅子が設置された。これに伴い窓配置も変更された。
*空気圧縮機をC-2000AL レシプロ式に変更し、搭載位置も先頭車及びMs車の山側に変更している。
==== 台車 ====
* 車端ダンパを準備工事のみとした。
* 608編成は「メディアトレイン」と称する[[液晶ディスプレイ]]を装備していたが<ref>三菱電機『三菱電機技報』1999年1月号トピックス「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1999(vol73)/Vol73_01.pdf 車内映像表示システム メディアトレイン」]}}」p.12</ref>、[[1999年]][[4月]]に撤去された。
* 台車の軸受ダンパは当初、未設置だったが1996年秋以降に設置された。
この機器構成は後に登場した2100形・新1000形(1・2次車)に引き継がれた。
== 改造 ==
=== ワイパーカバー塗装変更 ===
[[ファイル:Keikyu600-3rd 601-1.jpg|thumb|200px|塗色変更後の601編成(2009年1月)]]
1 - 3次車は前面のワイパーカバー塗装色がイロンデルグレーだったが、視認性向上のため[[1995年]]に上縁を黒、それ以外をアイボリーに変更した。4次車は登場時からこの塗装である。
=== 試作座席試用 ===
デハ608-1では[[1996年]][[12月]]から[[1998年]][[3月]]まで試作座席が試用された。海側の座席2脚が固定式と手動転換可能な転換式クロスシートに交換され、座り心地、シートの傷みなどの確認が行われた。
=== 車端ダンパ撤去 ===
1-3次車の車端ダンパを1998年[[6月]]に撤去した。準備工事だった4次車の関連部品も翌[[7月]]に撤去された。その理由は[[京急空港線]][[京急蒲田駅]]付近の急曲線通過に支障が出ること、走行時の横揺れの加速度を抑制できなかったこと、走行時の騒音が問題となったためである。
=== スカート塗装変更 ===
落成当初、スカートはダークグレーに塗装されていたが、[[1999年]]以降、順次明るめのグレーに塗装が変更された。
=== 架線観測装置搭載改造 ===
デハ605-1に1500形のデハ1601から移設した[[架線]]観測装置を装備する改造が施された。通常は観測用機器は取り外され、観測は通常の営業列車で行われる。
=== ツイングルシート固定化改造 ===
座席表地の経時劣化に伴い2002年度から順次座席表布の張り替えが行われ、表地は青系色から赤系色に変更され、ツイングルシートは構造を変更せずに固定化された。翌[[2003年]]の施行車以降はヘッドレスト部分の色と材質を変更したが、次項の扉間のロングシート化改造を開始したため打ち切られた。
=== ロングシート化改造 ===
2004年度から混雑緩和や経年による可動式座席(ツイングルシート)の保守に手間がかかることから、扉間の座席をロングシート化と、同時に[[バリアフリー]]対応改造が実施されている<ref name="RP-2005EX">鉄道ピクトリアル2005年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2005年版「京浜急行電鉄600形座席改造車」</ref>。詳細は以下の通り。
* 扉間座席をロングシートに改造。ロングシートは[[鉄道車両の座席#片持式座席|片持ち式]]で、座席表布の模様は2000形や新1000形、1500形更新車などと同じである。座席の1人分の掛け幅は455 mmを確保した。この改造により、車両定員が変更されており、詳細は前述の定員表を参照のこと。
* 車端部と運転室後部のクロスシートと車端部の補助椅子は残され、2003年以降のツイングルシート固定化改造車両同様に表布の張り替えが行われた。
* 袖仕切りは新1000形と同じタイプだが、座席間の立席ポスト(握り棒)部に仕切り板は設置していない。さらに[[網棚|荷棚]]の延長と[[つり革]]の増設工事を実施した。
* 従来、座席下に収められていた機器類は、床下と妻面に移動させ、[[暖房]]機器は座席つり下げ式に変更した。さらに改造部の[[デコラ|内装化粧板]]と床敷物は全て交換した。
* バリアフリー対応として、ドア上部にLED式の[[車内案内表示装置]]を設置。[[筐体]]は内装の色合いに合わせて白色である。
* 1500形更新車や新1000形と同様の[[ドアチャイム]]を設置。
* [[転落防止幌]]の設置。
* 各車両の[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記は壁材の張替を行っていないためプレート板のままである。
* 605編成は改造と同時に各ドア上部に17インチ液晶ディスプレイが2台設置された。<!--
改造後の編成、改造年月、工事方法を下表に示す(この項、出典が不十分なので非表示にしてあります。復帰される際は参考文献の記載をお願いいたします)。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;"
|編成||改造年月||工事方法
|-
|601||2007年12月||単独
|-
|602||2010年2月||更新併施
|-
|603||2007年3月||単独
|-
|604||2006年11月||単独
|-
|605||2009年3月||単独
|-
|606||2005年3月||単独
|-
|607||2007年7月||単独
|-
|608||2005年10月||単独
|-
|651||2008年3月||単独
|-
|652||2011年10月||更新併施
|-
|653||2013年3月||更新併施
|-
|654||2013年11月||更新併施
|-
|656||2012年10月||更新併施
|}-->
=== 方向幕の交換 ===
* 2005年3月頃から、行先表示器の字幕を従来の黒地白文字から[[ローマ字]]併記の白地黒文字への交換が順次施行された。
=== 優先席の増設 ===
[[優先席]]は奇数号車品川方山側および偶数号車浦賀方海側に設置されていたが、608編成は2005年10月に扉間の座席を改造された際に優先席が増設され、既存のものと点対称位置のシートも優先席とされた。他の編成も改造(あるいは後述の更新工事)と同時に増設されている。
=== ATS更新 ===
京急全線で1号型ATSから高機能ATS(C-ATS装置)が[[2009年]](平成21年)[[2月14日]]から使用開始されたため、これに伴う改造工事が全車両に施工された。
=== 方向幕のLED化 ===
2014年12月頃から、[[列車無線]]の変更(空間波無線(SR)方式化)を前に、新型の[[列車無線アンテナ|列車無線関係装置]]を乗務員室内の[[方向幕]]点検蓋付近に搭載するため、前面の方向幕の整備・交換が困難になることから、全車の前面種別・行先表示がフルカラー[[LED]]に変更された。
== 更新工事 ==
[[ファイル:Keikyu600 Access Exp.jpg|thumb|200px|right|車体更新工事後の602編成<br />(2010年7月)]]
[[ファイル:Keikyu-Type600-601F-Lot1.jpg|thumb|200px|right|車体更新・方向幕LED化後の601編成(2020年10月)]]
2009年[[8月10日]]<ref>[http://railf.jp/news/2009/08/11/163500.html 京急600形601編成,久里浜工場を出場] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2009年8月11日</ref>に出場した601編成から車体更新工事が施工されている。工事内容は以下の通り<ref>「鉄道ピクトリアル」2009年11月号(通巻826号)p83</ref>。
* ワイパーカバーを2100形や新1000形を基にした形式番号「600」のスリットが入ったものに変更
* スカートを狭幅のものに交換
* 1次車はワイパーの動作方向を変更
* 車端ダンパ取付座、側面サボ受撤去
* [[車側灯]]のLED化
* [[エア・コンディショナー|冷房装置]]を8両編成はCU-71F-G2、4両編成はRPU-11027に交換
* 一部内装、床の張替
* 654編成は車内照明をLEDに変更。
* 各ドア上部に2台、17インチ[[液晶ディスプレイ]]設置(601編成は液晶ディスプレイが1台になった時に設置された)。
2014年3月の655編成の更新工事施工をもって全車の更新が完了した。606編成は「Keikyu Blue Sky Train」塗装で出場した<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2011/04/606.html|title=【京急】606編成更新出場|publisher=鉄道ホビダス RMニュース|accessdate=2011-04-14}}</ref>。また、東洋製と三菱製が混在していた608編成の主制御器は、更新工事の際に三菱製に統一され<ref>[http://railf.jp/news/2012/08/01/165600.html 京急600形608編成が試運転] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2012年8月1日</ref>、代わりに651編成の主制御器が東洋製になっている。
[[File:Keikyu series600 Guest room.jpg|thumb|200px|right|更新後の車内<br />(2021年12月)]]
[[File:Keikyu series600 information LCD.jpg|thumb|200px|right|ドア上のLCD式車内案内表示器<br />(2021年12月)]]
== 運用 ==
8両編成は主に[[京急本線#快特|快特]]などの[[優等列車]]に使用され、[[都営地下鉄浅草線]]・[[京成電鉄|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]]への[[直通運転|乗り入れ]]運用が中心となっている。[[停車駅通過防止装置|停車駅予報装置]]が製造当初から搭載されているため[[京成本線]]([[京成高砂駅]] - [[成田空港駅]])や[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)での運行にも対応しており、同線の一般列車であるアクセス特急(京急線・都営浅草線内[[エアポート快特]])として成田空港まで乗り入れる。スカイアクセス直通と京成本線京成高砂以東([[京成船橋駅]]方面)運用は新1000形・1500形も運用に入っている。2015年12月5日ダイヤ改正で、京成本線[[京成佐倉駅]]への乗り入れ運用(平日)が復活し、2017年10月28日ダイヤ改正で休日運用も復活した。
4両編成は普通列車や優等列車の増結車など自社線内で運用される。過去に、[[1998年]] - [[1999年]]に「エアポート初日号」として都営浅草線・[[京成押上線]]・[[京成金町線|金町線]]に乗り入れたことがあり、[[2002年]] - [[2003年]]には「だるまエクスプレス」として[[京急大師線|大師線]]に初入線し、現在は1500形の一部編成が廃車になったため、大師線の主力車両になっている。
1500形・2100形・新1000形とも[[増解結|連結]]が可能で、かつては2000形との連結もあった。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には車両の略号は4両編成が「4F」、8両編成が「8F」<ref>[[#吉本1999|『京急ダイヤ100年史』p274]]</ref>と表記される。
== ラッピング・特殊塗装など ==
[[File:Keikyu-Type600-606-1_Blue-Sky.jpg|thumb|200px|606編成 KEIKYU BLUE SKY TRAIN<br />(2021年7月18日 大森海岸駅)]]
606編成はロングシート化改造と同時に車体全体を青く塗装し、[[2005年]][[3月14日]]から「'''KEIKYU BLUE SKY TRAIN'''」(京急ブルースカイトレイン)として運転されている<ref name="Keikyu200502">[https://web.archive.org/web/20050513191308/http://www.keikyu.co.jp/press/mk_pre/20050228.pdf 「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」3月14日(月)運行開始。](京急ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)。</ref>。通常は広告貸し切り列車として毎回1社の広告だけが車内に掲出されるが、次の取り組みも行われている。
* 同年[[11月1日]]から約1ヶ月間は、羽田空港駅開業7周年記念イベント「京急虹計画」の一環として側面に[[虹]]の[[ラッピング車両|ラッピング]]、前面の白い帯の下に虹の[[グラデーション]]が施され、2100形2157編成の「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」とともに「'''レインボートレイン'''」として運行された。車内には[[浦賀駅|浦賀]]寄りから総合、[[富山県|富山]]・[[石川県|石川]]・[[広島県|広島]]・[[香川県|香川]]・[[長崎県|長崎]]・[[鹿児島県|鹿児島]]・[[沖縄県|沖縄]]と車両ごとに7県のPR広告が掲載された。
* [[2007年]][[3月16日]]から5月上旬までは、[[2010年]]に[[中華人民共和国|中国]]・[[上海市|上海]]で開催される[[上海国際博覧会]](上海万博)の宣伝車両とされた。車内には上海の建物や公園の写真が飾られていた。
* [[2008年]][[11月18日]]には羽田空港駅開業と羽田⇔成田直結10周年を記念してラッピングが施された。
* [[2009年]]12月には「12月1日は[[世界エイズデー]]」のPR車両とされ、車体には[[国際連合エイズ合同計画]] (UNAIDS) のシンボルマーク「[[レッドリボン]]」がラッピングされ、車内にはエイズについての啓発広告が掲出された<ref>[http://railf.jp/news/2009/12/07/155900.html 京急600形「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」にレッドリボンのラッピング] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2009年12月7日</ref>。
* [[2010年]]7月5日より、「音霊 OTODAMA SEA STUDIO 2010」のPRラッピングを施して運行していた<ref>[http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/20100703b.shtml 京急に乗って逗子海岸へ!「音霊トレイン」] - 京浜急行電鉄ニュースリリース 2010年7月3日([[インターネットアーカイブ]])</ref>。
* [[2011年]]5月17日から6月30日まで、「京急スマイルGO!(号)」を運行した<ref>[https://web.archive.org/web/20110515200058/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2011/detail/003361.html 電車内に笑顔がいっぱい!京急沿線から笑顔を発信!「京急スマイルGO!(号)」を運行します」] - 京浜急行電鉄ニュースリリース 2011年5月13日(インターネットアーカイブ)</ref>。
* [[2014年]][[9月21日]]から[[2015年]][[3月28日]]まで、「[[ワンワールド]] [[航空連合|アライアンス]] ラッピング電車」を運行していた。
** [[日本航空]]・[[アメリカン航空]]・[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]・[[S7航空]]などのワンワールド・アライアンスメンバー合同広告。
**[[2021年]]9月18日から10月31日まで「マリンパークギャラリー号」として運行した
<gallery>
ファイル:Keikyu-blueskytrain.jpg|方向幕LED化前の姿<br/>(2013年4月18日 [[大森海岸駅]])
ファイル:Keikyu606-rainbow-heiwajima-20051103.jpg|京急レインボートレイン<br/>(2005年11月3日 [[平和島駅]])
ファイル:Model 600 -EXPO 2010 Shanghai China- of Keihin Electric Express Railway.jpg|「上海万博」のPRをする606編成<br/>(2007年3月25日 [[青砥駅]])
ファイル:Keikyu600BO.jpg|ワンワールド アライアンス電車<br/>(2014年12月28日 青砥駅)
ファイル:Keikyu 600 Series 606 approaching Kitashinagawa Station 20211106 1927.jpg|マリンパークギャラリー号
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] 『[[鉄道ピクトリアル]]』
** 1998年7月臨時増刊号(通巻656号)掲載、「車両総説」「私鉄車両めぐり(160) 京浜急行電鉄」
** 2005年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2005年版「京浜急行電鉄600形座席改造車」
*佐藤良介 「京急600(III)系」『京急クロスシート車の系譜』、JTBパブリッシング(JTBキャンブックス)2003年、pp127-144 ISBN 978-4-533-04909-5
* 『KEIKYU Twingle 600』 京浜急行電鉄 1994年配布
* {{Cite book|和書|author =吉本尚|authorlink = |coauthors =|year = 1999|title = 京急ダイヤ100年史|publisher = [[電気車研究会]]|ref = 吉本1999|id =|isbn = 4885480930}}
* {{Cite book|和書|author =佐藤良介|authorlink = |coauthors =|year = 2004|title = 京急の車両 現役全形式・徹底ガイド(JTBキャンブックス)|publisher = JTBパブリッシング|id =|isbn =9784533055461}}
== 関連項目 ==
* [[京阪9000系電車]] - 運用開始当時、600形とほぼ同じコンセプトで設計・製造・運用されていた車両。後に中央扉締切の廃止とその装置の撤去→ロングシート化された経緯も類似している。
{{commonscat|Keikyu 600 series (III)|<br />京急600形電車 (3代)}}
{{京浜急行電鉄の車両}}
{{デフォルトソート:けいきゆう600かたてんしや3たい}}
[[Category:京浜急行電鉄の電車|600]]
[[Category:1994年製の鉄道車両]]
[[Category:東急車輛製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
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2003-09-05T13:02:52Z
|
2023-11-12T13:33:09Z
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[
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"Template:Cite book",
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"Template:京浜急行電鉄の車両",
"Template:鉄道車両",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%80%A5600%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A_(3%E4%BB%A3)
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15,220 |
クラビネット
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クラビネット (clavinet) は、電気式のキーボードである。音楽業界では、特にファンク、ソウル、R&Bなどの音楽ジャンルと相性が良いという見方が有力である。
クラヴィネットは、鍵盤楽器のクラヴィコードに、ギターなどで用いる電気ピックアップで音を拾い、ボリュームやトーンなどによる電気的加工を可能にしたもので、ホーナー社のアーンスト・ザカリアス (Ernst Zacharias) が開発、商品化した。特に有名な機種はクラヴィネット「D6」である。メカニズムはクラヴィコードよりも簡略化されている。クラヴィコードでは鍵盤に連動したタンジェントが弦を突き上げて発音するが、クラビネットでは鍵盤の下に棒(ハンマー:先端に硬質ゴム製のチップがついている)が突き出ており、これが押鍵により直接弦を金属フレーム(通称「ハープ」)に叩き付けて発音する(弦はハンマーチップとフレームに挟まれているため、クラヴィコードと異なりビブラートは不可能)。鍵盤を戻すと、弦の端に巻き付けられた毛糸によって弦振動が抑制され、音が止まる。
Clavinet I、Clavinet II、Clavinet C(スティーヴィー・ワンダーが『迷信』で使用した白い外観のもの)、Clavinet L(キース・エマーソンが初期ELPで使用した、台形ボディで白黒反転鍵盤のもの)を経て、最も有名なD6となる。その後、外装を軽く簡素なものとしたE-7、ピアネットを内蔵した最終モデルDuoと変遷を遂げていった。Duoをもってクラビネットの歴史は幕を閉じるが、1980年代になってホーナー社は日本で製造されたデジタルピアノを "Clavinet DP" の名称で発売した。もちろん、楽器としてのクラビネットとは関係はない。ホーナー社は、Clavinet.comでクラヴィネット情報を公開している。
2014年、ローズピアノやクラビネットの修理、部品製造を行っているメーカー、ヴィンテージ・ヴァイブ社からいくつかの改良を加えた現代版クラビネット「ヴァイバネット(Vibanet)」が発売になった。特徴として、クラビネットと合わせて使われることの多いオート・ワウを内蔵していることが挙げられる。音色は最も発展したD6の場合、ブリリアント / トレブル / ミディアム / ソフトの4種類と、2つのピックアップの位相スイッチを組み合わせて作ることが出来る。また、弦の振動を抑制するミュートレバーが付いており、減衰の早い音色も作成可能である。
クラビネットは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』やスティーヴィー・ワンダーの『迷信』やコモドアーズの『マシンガン』で使用されたのをはじめ、1970年代前半のファンク、ソウルミュージックで多用された。またクロスオーバーのスティーリー・ダン、ジャズ・フュージョンのハービー・ハンコック、チック・コリア、ジョージ・デューク、ジョン・メデスキも使用している。ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、グランド・ファンク・レイルロード、ELOなどのロック・グループが使用することも多かった。さらに、ELPやピンク・フロイド、ジェントル・ジャイアントなど、プログレッシブ・ロックでも使用された。トリーナ・ニ・ゴーナルは自身のバンド「ナイトノイズ」などで、ケルト音楽に使用している。日本では、主に1970年代の歌謡曲で使用され、星勝や竜崎孝路の編曲作品での印象的なクラビネット使用が知られている。星勝の編曲による代表作品は『情熱の砂漠』、竜崎孝路の編曲は『あかね雲』である。また筒美京平は『君は特別』で効果的に使用している。
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クラビネット (clavinet) は、電気式のキーボードである。音楽業界では、特にファンク、ソウル、R&Bなどの音楽ジャンルと相性が良いという見方が有力である。
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[[画像:Clavinet_d6.jpg|thumb|250px|クラビネットD6]]
'''クラビネット''' (clavinet) は、電気式の[[キーボード (楽器)|キーボード]]である。[[ファンク]]、ソウル、R&Bなどの音楽ジャンルで主に用いられている。
== 概要 ==
クラヴィネット<ref>http://www.clavinet.com/</ref>は、[[鍵盤楽器]]の[[クラヴィコード]]に、[[ギター]]などで用いる電気[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]で音を拾い、ボリュームやトーンなどによる電気的加工を可能にしたもので、[[ホーナー (企業)|ホーナー社]]のアーンスト・ザカリアス (Ernst Zacharias) が開発、商品化した。特に有名な機種はクラヴィネット「D6」である。メカニズムはクラヴィコードよりも簡略化されている。クラヴィコードでは鍵盤に連動したタンジェントが弦を突き上げて発音するが、クラビネットでは鍵盤の下に棒(ハンマー:先端に硬質ゴム製のチップがついている)が突き出ており、これが押鍵により直接弦を金属フレーム(通称「ハープ」)に叩き付けて発音する(弦はハンマーチップとフレームに挟まれているため、クラヴィコードと異なりビブラートは不可能)。鍵盤を戻すと、弦の端に巻き付けられた毛糸によって弦振動が抑制され、音が止まる。
Clavinet I、Clavinet II、Clavinet C([[スティーヴィー・ワンダー]]が『[[迷信 (曲)|迷信]]』で使用した白い外観のもの)、Clavinet L([[キース・エマーソン]]が初期[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]で使用した、台形ボディで白黒反転鍵盤のもの)を経て、最も有名なD6となる。その後、外装を軽く簡素なものとしたE-7、ピアネットを内蔵した最終モデルDuoと変遷を遂げていった。Duoをもってクラビネットの歴史は幕を閉じるが、1980年代になってホーナー社は日本で製造されたデジタルピアノを "Clavinet DP" の名称で発売した。もちろん、楽器としてのクラビネットとは関係はない。ホーナー社は、Clavinet.comでクラヴィネット情報を公開している<ref>http://www.clavinet.com Clavinet.com</ref>。
2014年、[[ローズピアノ]]やクラビネットの修理、部品製造を行っているメーカー、ヴィンテージ・ヴァイブ社からいくつかの改良を加えた現代版クラビネット「ヴァイバネット(Vibanet)」が発売になった。特徴として、クラビネットと合わせて使われることの多いオート・ワウを内蔵していることが挙げられる。音色は最も発展したD6の場合、ブリリアント / トレブル / ミディアム / ソフトの4種類と、2つのピックアップの位相スイッチを組み合わせて作ることが出来る。また、弦の振動を抑制するミュートレバーが付いており、減衰の早い音色も作成可能である。
== 詳細:ジャンル ==
クラビネットは、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]の『[[暴動_(スライ%26ザ・ファミリー・ストーンのアルバム)|暴動]]』やスティーヴィー・ワンダーの『迷信』<ref group="注釈">『悪夢』でも上手に使用している</ref>や[[コモドアーズ]]の『マシンガン』で使用されたのをはじめ、[[1970年代]]前半の[[ファンク]]、[[ソウルミュージック]]で多用された。またクロスオーバーの[[スティーリー・ダン]]、ジャズ・フュージョンの[[ハービー・ハンコック]]、[[チック・コリア]]、[[ジョージ・デューク]]、ジョン・メデスキも使用している。ローリング・ストーンズや[[レッド・ツェッペリン]]、[[グランド・ファンク・レイルロード]]、ELOなどのロック・グループが使用することも多かった。さらに、[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]や[[ピンク・フロイド]]、ジェントル・ジャイアントなど、[[プログレッシブ・ロック]]でも使用された。トリーナ・ニ・ゴーナルは自身のバンド「[[ナイトノイズ]]」などで、ケルト音楽に使用している。日本では、主に1970年代の歌謡曲で使用され、[[星勝]]や竜崎孝路の編曲作品での印象的なクラビネット使用が知られている。星勝の編曲による代表作品は『[[情熱の砂漠]]』、竜崎孝路の編曲は『あかね雲』である。また筒美京平は『君は特別』で効果的に使用している。
== モデルリスト ==
* Claviphon(1963?):もっとも初期の物で、量産には至らなかった。4つのトーン・スライダーを装備。
* Clavinet(1964):最初の量産モデルで、2つのピックアップのフェイズスイッチと内蔵スピーカーを装備。
* Clavinet II(1965?):開閉式の蓋と内蔵スピーカーが廃止された。
* Clavinet C(1968):上下幅をIIより薄く改良した白いボディが特徴。Echolette社でも生産された("Beat Spinett"の名称で、白黒反転鍵盤を採用)。他のモデルが[[シングルコイル|シングルコイルピックアップ]]を使用しているのに対して、[[ハムバッキング|ハムバッカーピックアップ]]を採用している。
* Clavinet L(1968):アーンスト・ザカリアスが自らの為に中世のスピネット風にデザインした(台形ボディと白黒反転鍵盤)。内蔵スピーカーをもち、スイッチ類とジャックは目立たないように底面に取り付けられたボックスに装備されている。
* Clavinet D6(1971):特に有名で、最も多く生産されたモデル。4つのトーン・タブレットとミュートレバーを追加。
* Clavinet E7(1977):ノイズを軽減した新設計となる。ボリュームノブはスライダーに置き換えられた。
* Clavinet Duo(1977):E7にピアネット(Pianet)を内蔵した最終型。低音・高音部それぞれ別に両者の音をミックス可能。
== ホーナー社の他のエレクトリック・キーボード ==
* Cembalet:金属製リードをゴム製のプレクトラムで弾いて発音する。鍵盤を離すとリードの振動はダンパーで止められる。下記ピアネットの原型だが、並行して1970年代まで生産された。スピーカー付きコンソールのIIや取り外し式のスピーカーを持ったNなど、いくつかのバリエーションあり。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](当時)のアコーディオンやハーモニカのメーカー、ヴェルトマイスター社でもClavisetという類似モデルが生産された。
* Pianet:チェンバレットの簡略版。金属製リードを鍵盤に取り付けられた粘着性のパッドで引き、リードが張力で離れたときの振動を増幅して発音する。鍵盤を離すとリードの振動は直接鍵盤でミュートされる。[[ビートルズ]]や[[ゾンビーズ]]、[[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]]などが使用した。筐体はほぼ上記チェンバレットと共用だが、最終型のコンパクトタイプTはピアネットのみ。
* Electra Piano : [[アップライトピアノ型]]のボディで、ウーリッツァーピアノとよく似た内部構造。内蔵スピーカーを装備している。1970年代後半にはポータブル型のElectra Piano Tが発表された。[[ローズ・ピアノ|フェンダー・ローズ]]をやや大型にしたような外観で、内蔵スピーカーおよびソフトペダル(電気的にボリュームを低下させる)が省略されている。
== クラビネット使用の楽曲 ==
===ファンク/ソウル===
* [[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]] - 「ポエット」
* [[スティーヴィー・ワンダー]] - 「シュ・ビ・ドゥ・ビ・ドゥ・ダ・デイ」 「輝く太陽」 「迷信」「ハイアー・グラウンド」「悪夢」「嘘と偽りの日々」
* [[コモドアーズ]] - 「マシンガン」、「ザ・バンプ」<ref>http://www.clavinet.com/clav.html</ref>(1974)
* [[ビリー・プレストン]] - 「アウタ・スペース」(1972)
* エディ・ケンドリックス - 「キープ・オン・トラッキン」(1973)
* [[クール&ザ・ギャング]] - 「ジャングル・ブギー」(1974)
* ジミー・キャスター・バンチ - 「バーサ・バット・ブギー」(1975)
* [[パーラメント (バンド)|パーラメント]] - 「アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク」,「テスティファイ」
* チェアメン・オブ・ザ・ボード - 「ファインダーズ・キーパー」
* [[アイズレー・ブラザーズ]] - 「リブ・イット・アップ」(1977)
* ウォルター・マーフィー&ビッグ・アップル・バンド - 「運命76」(1976)
===歌謡曲===
* [[ザ・ピーナッツ]] - 「[[情熱の砂漠]]」(1973)
* [[川田ともこ]] - 「あかね雲」(1977、新必殺仕置人のテーマ)
* [[金沢明子]] - 「浜千鳥情話」
* [[三橋美智也]] - 「ディスコ天国」(1977)
* [[郷ひろみ]] - 「君は特別」(1974)
* [[サディスティック・ミカ・バンド]] - 「どんたく」(1974)
* [[布谷文夫|布谷文夫 with ナイアガラ社中]] - 「[[ナイアガラ音頭|ナイアガラ音頭 (シングル・ヴァージョン)]]」(1976)
* [[桑田佳祐&Mr.Children]] - 「[[奇跡の地球]]」(1995)
===ロック===
* [[ローリング・ストーンズ]] - 「ドゥ・ドゥ・ドゥ・ドゥ・ドゥ(ハート・ブレイカー)」(1973)
* [[フランク・ザッパ]]&マザーズ - 「アイム・ザ・スライム」(1973)
* [[キャプテン&テニール]] - 「[[愛ある限り]]」(1975)
* [[10cc]] - 「ハウ・デア・ユー」(1976)
* ジェフ・ベック ‐ 「ワイヤード」収録曲:レッド・ブーツ、プレイ・ウィズ・ミー(1976)
* [[アンディ・ギブ]] - 「シャドウ・ダンシング」(1978)
* [[フリートウッド・マック]] - 「ユー・メイク・ラヴィン・ファン」(1977)
* [[スティーリー・ダン]] - 「麗しのペグ」「ブラック・カウ」(1977)
* [[ELO]] - 「ショウ・ダウン」「ロンドン行き最終列車」
* [[ザ・バンド]] - 「アップ・オン・クリーク」
* [[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]] - 「ナット・ロッカー」
* [[ピンク・フロイド]] - 「ピッグズ」
* [[フォリナー]] - 「アージェント」
* [[レッド・ツェッペリン]] - 「トランプルド・アンダーフット」
== 関連項目 ==
* [[シンセベース]]
* [[ワウペダル]]
* [[エレクトリックピアノ]]
* [[ローズ・ピアノ]]
* [[メロトロン]]
* [[コンガ]]
* [[ボンゴ]]
* [[クラビオーラ]] クラビネットの開発者がデザインした別の鍵盤楽器
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.clavinet.de/en/cds.html Huge collection of notably titles with the Clavinet]
* [http://www.clavinet.de/en/vids.html Anthology of best Clavinet videos on the internet]
* [http://www.gti.net/junebug/clavinet/ clavinet.com]
* [http://www.hohner-cembalet.com/hohner_cembalet/ cembalet.com]
* [http://www.hallofelectricpianos.co.uk/epianos2.html Simon's Hall of Electric Piano]
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[[Category:鍵盤楽器]]
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京急2000形電車
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京急2000形電車(けいきゅう2000がたでんしゃ)は、京浜急行電鉄に在籍していた特急形電車である。
なお、本項では、以下のように取り扱う。
快速特急(現在の快特)に使用される600形の後継車として、特に長距離旅客のサービス向上を狙って製造された。料金不要でありながら有料特急に比肩しうる内装をもつこと、快適性とラッシュ時への対応の両立として、2扉クロスシートとしながら扉付近の立ち席スペースを広く取ったこと、120 km/h運転をにらんで起動加速度を犠牲にしながら均衡速度130km/h以上としたこと、800形のシステムを継承しながら主電動機出力を向上し、編成中に付随車を挿入して経済性を追求したことなどが特徴である。
8両編成と4両編成それぞれ6本、合計72両が1987年(昭和62年)までに製造された。
車両番号は4桁で表され、1桁目は系列を表す「2」、2桁目は編成両数を表し、8両編成が「0」、4両編成が「4」である。3桁目は編成番号を表し1から付番する。4桁目は編成内の位置を表し、浦賀方から、8両編成が1 - 8、4両編成が1 - 4となっている。それぞれの編成については浦賀方先頭車の番号から「2011編成」「2411編成」などと呼ぶ。
設計途中での仮称は「900形」だった。
1983年(昭和58年)鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞した。
本項では、製造時の仕様について述べる。
8両編成は3両1群の電動車ユニット2つの間に付随車を2両挟んでいる。京急の信号システムは先頭台車が電動台車であることを前提に設計されているため、4両編成の場合には電動車ユニット3両の中間に制御回路を引き通した付随車を1両挟み両先頭車を電動車としている。車種構成は、8両編成が浦賀方からM1c-M2-M3-Tu-Ts-M1-M2-M3c、4両編成が同じくM1c-M2-T-M3cである。
前照灯は中央上部に1灯、側面客用扉は片引き戸方式といった、従来からの伝統的京急デザインを打ち破り、前面窓下に降りて尾灯と一体化したケーシングに収められ、2灯を装備した前照灯や京急としては初の採用となる両開き式の客用扉など、画期的なデザインを採用した。車両前面は非貫通式で左右非対称の大型の窓ガラスを採用し、腰部で「く」の字型に折れたスピード感あふれる先頭部デザインとともに、京急のフラッグシップトレインとして意匠が凝らされた。この先頭部デザインは、800形開発時にデザイン案が出されながら採用されなかったものをリファインしたものである。
外板塗装は、赤い車体に窓回りを白とした当時の800形の塗装を踏襲したが、本形式の登場後はこの塗装が「優等列車用」(当時)とされたため、800形は赤地で窓下に白帯の他の一般通勤車と同一のものに変更された。
車体は基本的に普通鋼製であるが、腐食対策として外板や主要な柱には高耐候性鋼板を使用、屋根の雨樋周辺や客用ドア付近の柱・戸袋、床波板などにはステンレスを使用している。外板裾部と台枠の接合には、重ね合わせ構造をやめて突き合わせ溶接構造とした。
連結器は京急で初めて電気連結器付き廻り子式密着連結器を採用した。
片側2扉オールクロスシートで、クロスシートは扉間で集団見合い形、車端部はボックス式に配置されたほか、出入口付近に折りたたみ式の補助座席が備えつけられ、閑散時の着席率向上に寄与した。補助椅子は運転室からのスイッチ操作で電磁ロックできる。運転台の直後はモーター点検蓋を設けた関係でクロスシートではなく、袖仕切は木目模様のロングシートが配置された。つり革は乗降扉付近にのみ装備されていた。
他私鉄の特急に見られる転換クロスシートを採用する案もあったが、製造費が高くなるほか、車両重量が重くなり、終着駅での方向転換が必要になることから見送られた。固定式としたことで2人掛部850mm、ボックスシート部1720mmのシートピッチでも必要十分な空間は確保されており、座席それ自体の掛け心地も適切な形状と相まって良好であった。なお、転換クロスシートは本形式の後継車である2100形で採用された。
集団見合い形の座席配置は、背ずりが深く取れることや足下を広く取れること、プライバシーを保てること、グループ客に喜ばれることなどから採用された。また、京急では車体長が短く制限されていることから、車内が狭い印象を与えないためとも言われている。この配置については、1970年代後半にフランス国鉄(SNCF)のパリ近郊区間で導入されたZ6400形電車を参考にしたとされている。
客室側窓は横引きカーテン併設の固定窓であるが、車体中央および車端のボックスシート部は2連式の下降窓で、またロングシート部は狭幅の下降窓となった。下降窓部カーテンには横引き式とともに巻上式が併設された。製造当初、窓が開けられることが多い季節には横引きカーテンが車外に吸い出されることを防止するため、下降窓部の横引きカーテンを撤去していた。また、当初より車端妻面部に窓は設置されておらず、各車とも連結面にはドアチェック機能付きの貫通扉を装備している。
車内のカラースキームは暖色系が採用されており、座席は窓側がライラック(ピンク系)、通路側がエンジ色と分けられ、壁面は模様入りのベージュ系で客用扉の車内側にも同じ模様の化粧板が貼られており、妻面が木目模様でまとめられていた。また、床面にはコルクを模した模様が施されたほか、ロングシート部を除いて網棚にFRP製の前縁(ベージュ色)が装着されている。車内灯には蛍光灯カバーが設けられている。
東洋電機製造製界磁チョッパ制御装置(ACRF-H12120-782A形)を採用した。抵抗制御段数は直列15段、並列8段。800形と同様に3両分12個の主電動機を1台の主制御器により制御する(1C12M制御)。界磁チョッパ装置と運転台の主幹制御器(ワンハンドルマスコン)は800形と共通、それ以外は新規設計品とした。
主電動機はKHM-2000(東洋製TDK-8575、三菱電機〈以下、三菱〉製MB-3281-ACの総称、出力120 kW、端子電圧250 V、電流540 A、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,270 rpm、定格速度46.6 km/h)を採用した。ただし、取り付け寸法や特性は800形に合わせたもので、互換性が確保されている(800形に取り付けることも可能)。歯車比は800形の85:14≒6.07から本形式では80:19≒4.21とし、高速性能向けとした。
台車は空気ばね車体直結乾式ゴム入り円筒案内支持のTH-2000を採用した。基礎ブレーキは電動台車が片押し式踏面ブレーキ、付随台車が1軸2枚のディスクブレーキ構造である。固定軸距は2,100 mm、重量は電動台車が7,000 kg(排障器付)、付随台車が5,850 kg。
集電装置は東洋製PT43-E5-M形・菱形パンタグラフを採用。
補助電源装置はM3・M1・T車に三菱電機製のNC-DAT-140B GTOサイリスタ素子によるSIV (140 kVA)を搭載している。空気圧縮機はサハ2000形にレシプロ式のC-2000MまたはC-2000Lを搭載した。4両のみ改造でロータリー式のAR-2(700形の廃車発生品)を取り付けている 。
空調装置は屋上集中式で、三菱CU-71DまたはCU-71DN(容量41.86 KW・36,000kcal/h)を搭載している。
1982年12月に落成した、先行量産的要素を持つ車両。2000形で唯一2社で分けて製造した編成で、浦賀方4両 (2011 - 2014) が東急車輛製、品川方4両 (2015 - 2018) が川崎重工製。これ以降の製造車とは細部が異なる。1984年5月製造車が営業開始したころまでは、補助椅子が使用されておらず、また屋根肩部広告は掲出されず、中吊り広告も京急の広告に限定されていた。
2011編成の使用実績をもとに細部に設計変更が施された。今回増備の代替として600形の廃車が始まり、16両が廃車された。
増結用4両編成2本を含む3編成16両が製造された。12連の通勤快特にも充当されることとなり、600形は定期快特運用から外れた。8両編成では補助電源装置をパンタグラフのない中間電動車(3号車・6号車)に搭載していたが、4両編成では該当する車両がないため、これをT車に搭載している。4両編成は2扉時代はその後の増備車も含め8両編成で運用される場合は必ず同時に製造された編成同士を組み合わせていた。主な設計変更点は下記。代替として600形8両が廃車された。
前回製造車から設計変更はない。この年の3月末をもって600形16両が廃車され全廃となった。今回の増備で日中の快特所定8運用全てを2000形で賄えるようになり京急もその旨を宣伝したが、実際は予備車に余裕がなく定期検査入場時などは昼間でも1000形の快特運用が見られることがあった。
最終増備車。前回、前々回製造車から設計変更はない。前回製造分で増備は完了の予定だったが、夕方・夜間時間帯の下り快特の12連化に伴い追加製造された。
他編成と異なる仕様が多かった2011編成だが、1983年(昭和58年)に初めて重要部検査入場した際に運転台デジタル時計撤去、車端部吊革増設が行われた。その後、1989年ごろの定期検査入場時に座席が交換され、1984年以降製造車と同様にシート下の足元の蹴込み板に凹みを設置、肘掛支柱の形状・色が変更された。同編成では補助椅子カバー色が2021編成登場までに何回か変更され、補助椅子自動復帰機構の調整も繰り返し行われていた。
1995年(平成7年)4月のダイヤ改正直前の同年2月21日より120 km/h運転を一部列車・区間で実施することに伴い、120 km/hからの非常制動時の停止距離を600 m以内とするための改造工事が全車を対象に行われた。元の空気溜圧力を増加させたため、通称「増圧ブレーキ」と呼ばれる。
貫通仕切扉を確実に閉じることで車内の低騒音化を狙って設けられた貫通仕切扉ドアチェック機能だったが、開閉時に扉が重くなるため、1997年ごろに撤去された。
登場以来快特運用を中心に使用され、車歴の浅い車両ながら走行距離が伸び、足回りの老朽化が懸念されたため、快速特急(現・快特)を中心とした運用を後継のクロスシート車2100形に譲り、3扉ロングシートに改造して、ラッシュ時中心に使用することになった。ロングシート化された本形式が玉突きで1000形や700形の運用を置き換えていった。この改造は車体の中央部分を切り取ってから戸袋と出入り口を開口した側構体を溶接する形で施工され、最初の2011編成のみ東急車輛製造で、その他は京急車両工業(現・京急ファインテック)にて施工された。
先頭車には車椅子スペースが設置され、車端部のクロスシートと補助座席は存置された。ロングシートは京急で初めて片持ち式座席が採用され、袖仕切りは大型のものとなった。カーテンは従来の横引き型のままとされた。側面の塗装は窓周り白の優等列車塗装から赤一色に窓下の白帯が1本の通称・一般車塗装に変更された。同時に、車端部の「KHK」のロゴは「KEIKYU」に変更され、側面に取り付けられていたサボ受けは撤去されている。2011編成のワイパーの向きは、この改造の際に他編成と揃えられた。
改造時に取り外されたクロスシートは、京急車両工業の工場一般公開時に販売されたほか、アメリカ海軍横須賀基地の送迎用バスや、鉄道総合技術研究所(JR総研)が所有するフリーゲージトレインに流用されたものがある。また、東京観光専門学校の鉄道サービス実習室の座席にも流用されていたが、2020年現在は新潟車両センターの廃車発生品であるグリーン車座席に交換されている。
2100形の増備につれて格下げ改造が進み、最後まで残ったオリジナル車両(2051編成)も、2000年(平成12年)8月27日のラストランを最後に全て改造された。
本形式の電気連結器配列は1500形以降の形式と異なっていため他形式との連結ができなかったが、2000年(平成12年)7月22日のダイヤ改正で分割併合列車が大幅に増えたため、配列を変更し他形式と連結が可能になった。これは3扉化工事とは別件で実施されたため、2扉車にも施工されていた。
4両編成は当初単独運用を考慮しておらず、空気圧縮機が1台しか搭載されていなかったが、2000年(平成12年)7月以降単独運転される機会が増え、空気圧縮機が故障した場合運行不能となることを防ぐため2003年12月から2004年3月にかけて浦賀方先頭車に700形や1000形の廃車発生品のロータリ式空気圧縮機(AR-2形)を搭載した。
2003年に入ってからは行先表示器の字幕を白地黒文字・英語併記のものに順次変更された。
2000年代から転落防止用外幌の設置が進められた。
2002年から、冷房装置が1500形更新車などと同様のCU-71E-G1に順次交換された。
1985年10月16日から「さわやかアップ京急運動」の一つとして、2031編成を使用して車内に京急沿線の幼稚園・小学校の園児や児童および各サークルが描いた絵画や写真などを展示する「さわやかギャラリー号」の運行を開始した。1986年3月から2011編成に変更され、1997年11月には2011編成の格下げ改造のため2061編成に変更されたが、1999年3月31日をもって終了した。下記の特別塗装実施前後で若干装飾が異なっていた。
1995年まで存在した夏季ダイヤでは本形式は号車指定列車「ミュージックトレイン号」に運用され、毎年8両編成3本に「ミュージックトレイン号」用に号車番号を窓に掲示、車内には出演歌手のPRポスターが展示するなどの特別装備が施された。2031編成が「ミュージックトレイン号」用装備とされた年は期間中「さわやかギャラリー号」としての運行を休止していた。
1988年から1991年まで、京急創立90周年を記念して8両編成2本(2011編成・2041編成)に特別塗装が施された。2011編成は「さわやかギャラリー号」の特別塗装車として、2041編成は「ファンタジックトレインみらい号」として運行した。デザインは久里洋二によるものである。1989年1月7日の昭和天皇崩御の際は先頭車前面に喪章を貼付して運転された。2011編成は1990年の相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990開催中には「SURF'90号」として運行された。
2011年1月には、2011編成がニューイヤーラッピングを施して運行された。これは2011年と2011編成にちなんでいる。
2013年には2011編成が登場時の塗装に戻された。同年1月17日に2000形登場30周年を記念し2000形リバイバル塗装電車を1月下旬から運転を発表(行先種別表示や標記類、車内設備等の車体の塗装以外の変更はない)。同時に記念乗車券も発売された。
2018年1月には、2011編成に賀正ステッカーが掲出された。これは2018年と2011編成の品川寄りの先頭車2018号にちなむ。
1982年(昭和57年)12月27日に営業運転を開始し、以降2100形登場まで、夏ダイヤ時、定期検査時などを除き、基本的に休日および平日日中の快速特急、京急ウィング号を中心とした優等列車に運用された。
格下げ改造後は、ラッシュ時の優等列車(特急・快特)とエアポート急行(羽田空港 - 新逗子間)を中心に運用されていた。
2011編成・2051編成は「御乗用列車」としても運用されたことがある。2011編成は1984年(昭和59年)2月に浦賀で行われた帆船日本丸の進水式の際、上皇明仁・上皇后美智子が皇太子・同妃時代に浦賀に向かうために、デハ2016に乗車し中央部のボックス席に着席なされた。2051編成には1986年(昭和61年)3月に、同様に上皇・上皇后が皇太子・同妃時代に京急油壺マリンパークを訪問した際に運用された。
先頭車の車体長が都営地下鉄浅草線相互乗り入れ協定より長く、800形同様前面に非常用貫通路がないため、運用は品川以南の自社線内のみに限定されており、品川以北や都営地下鉄浅草線への乗り入れは不可能である。このため8両編成は自社線完結の快特が泉岳寺発着に変更された2002年10月12日以降、京急蒲田以南のエアポート急行が運行されるようになった2010年5月16日までの一時、代走を含めて日中の定期運用が一切存在しなかった時期がある。2010年10月13日には2411編成と2441編成が初めて大師線に入線し、京急川崎 - 小島新田間で試運転が実施され、2010年11月3日には2411編成が初めて大師線で営業運転を行った。大師線には4両編成で残るものが2451編成のみになった2016年6月11日と10月9・10日にも入線している。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には8両編成は「8MT」、4両編成は「4MT」と表記される。
元々優等種別で運用されていた故に高速走行向けのモーター、3ドア化改造の影響や登場から30年が経過したことで老朽化が進み、加えて品川駅から先への乗り入れ不可能な構造が影響し、通常の車両よりも加速性能が低く、運用に支障が出ている事から、2012年度から廃車が始まった。なお、4両編成の殆どは8両編成よりも早く廃車になっている。
2018年3月には、最後に残った2編成についても同月中の引退が発表され、3月25日には2011編成(リバイバル塗装)を使用した特別貸切列車「ありがとう2000形」を運行した。この列車ではブルーリボン賞受賞記念ヘッドマークを模したステッカーが前面に貼り付けられ、3月28日の運用終了までその姿で運行された。
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"text": "本項では、製造時の仕様について述べる。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "8両編成は3両1群の電動車ユニット2つの間に付随車を2両挟んでいる。京急の信号システムは先頭台車が電動台車であることを前提に設計されているため、4両編成の場合には電動車ユニット3両の中間に制御回路を引き通した付随車を1両挟み両先頭車を電動車としている。車種構成は、8両編成が浦賀方からM1c-M2-M3-Tu-Ts-M1-M2-M3c、4両編成が同じくM1c-M2-T-M3cである。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "前照灯は中央上部に1灯、側面客用扉は片引き戸方式といった、従来からの伝統的京急デザインを打ち破り、前面窓下に降りて尾灯と一体化したケーシングに収められ、2灯を装備した前照灯や京急としては初の採用となる両開き式の客用扉など、画期的なデザインを採用した。車両前面は非貫通式で左右非対称の大型の窓ガラスを採用し、腰部で「く」の字型に折れたスピード感あふれる先頭部デザインとともに、京急のフラッグシップトレインとして意匠が凝らされた。この先頭部デザインは、800形開発時にデザイン案が出されながら採用されなかったものをリファインしたものである。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "外板塗装は、赤い車体に窓回りを白とした当時の800形の塗装を踏襲したが、本形式の登場後はこの塗装が「優等列車用」(当時)とされたため、800形は赤地で窓下に白帯の他の一般通勤車と同一のものに変更された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "車体は基本的に普通鋼製であるが、腐食対策として外板や主要な柱には高耐候性鋼板を使用、屋根の雨樋周辺や客用ドア付近の柱・戸袋、床波板などにはステンレスを使用している。外板裾部と台枠の接合には、重ね合わせ構造をやめて突き合わせ溶接構造とした。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "連結器は京急で初めて電気連結器付き廻り子式密着連結器を採用した。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "片側2扉オールクロスシートで、クロスシートは扉間で集団見合い形、車端部はボックス式に配置されたほか、出入口付近に折りたたみ式の補助座席が備えつけられ、閑散時の着席率向上に寄与した。補助椅子は運転室からのスイッチ操作で電磁ロックできる。運転台の直後はモーター点検蓋を設けた関係でクロスシートではなく、袖仕切は木目模様のロングシートが配置された。つり革は乗降扉付近にのみ装備されていた。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "他私鉄の特急に見られる転換クロスシートを採用する案もあったが、製造費が高くなるほか、車両重量が重くなり、終着駅での方向転換が必要になることから見送られた。固定式としたことで2人掛部850mm、ボックスシート部1720mmのシートピッチでも必要十分な空間は確保されており、座席それ自体の掛け心地も適切な形状と相まって良好であった。なお、転換クロスシートは本形式の後継車である2100形で採用された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "集団見合い形の座席配置は、背ずりが深く取れることや足下を広く取れること、プライバシーを保てること、グループ客に喜ばれることなどから採用された。また、京急では車体長が短く制限されていることから、車内が狭い印象を与えないためとも言われている。この配置については、1970年代後半にフランス国鉄(SNCF)のパリ近郊区間で導入されたZ6400形電車を参考にしたとされている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "客室側窓は横引きカーテン併設の固定窓であるが、車体中央および車端のボックスシート部は2連式の下降窓で、またロングシート部は狭幅の下降窓となった。下降窓部カーテンには横引き式とともに巻上式が併設された。製造当初、窓が開けられることが多い季節には横引きカーテンが車外に吸い出されることを防止するため、下降窓部の横引きカーテンを撤去していた。また、当初より車端妻面部に窓は設置されておらず、各車とも連結面にはドアチェック機能付きの貫通扉を装備している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "車内のカラースキームは暖色系が採用されており、座席は窓側がライラック(ピンク系)、通路側がエンジ色と分けられ、壁面は模様入りのベージュ系で客用扉の車内側にも同じ模様の化粧板が貼られており、妻面が木目模様でまとめられていた。また、床面にはコルクを模した模様が施されたほか、ロングシート部を除いて網棚にFRP製の前縁(ベージュ色)が装着されている。車内灯には蛍光灯カバーが設けられている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "東洋電機製造製界磁チョッパ制御装置(ACRF-H12120-782A形)を採用した。抵抗制御段数は直列15段、並列8段。800形と同様に3両分12個の主電動機を1台の主制御器により制御する(1C12M制御)。界磁チョッパ装置と運転台の主幹制御器(ワンハンドルマスコン)は800形と共通、それ以外は新規設計品とした。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "主電動機はKHM-2000(東洋製TDK-8575、三菱電機〈以下、三菱〉製MB-3281-ACの総称、出力120 kW、端子電圧250 V、電流540 A、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,270 rpm、定格速度46.6 km/h)を採用した。ただし、取り付け寸法や特性は800形に合わせたもので、互換性が確保されている(800形に取り付けることも可能)。歯車比は800形の85:14≒6.07から本形式では80:19≒4.21とし、高速性能向けとした。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "台車は空気ばね車体直結乾式ゴム入り円筒案内支持のTH-2000を採用した。基礎ブレーキは電動台車が片押し式踏面ブレーキ、付随台車が1軸2枚のディスクブレーキ構造である。固定軸距は2,100 mm、重量は電動台車が7,000 kg(排障器付)、付随台車が5,850 kg。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "集電装置は東洋製PT43-E5-M形・菱形パンタグラフを採用。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置はM3・M1・T車に三菱電機製のNC-DAT-140B GTOサイリスタ素子によるSIV (140 kVA)を搭載している。空気圧縮機はサハ2000形にレシプロ式のC-2000MまたはC-2000Lを搭載した。4両のみ改造でロータリー式のAR-2(700形の廃車発生品)を取り付けている 。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "空調装置は屋上集中式で、三菱CU-71DまたはCU-71DN(容量41.86 KW・36,000kcal/h)を搭載している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1982年12月に落成した、先行量産的要素を持つ車両。2000形で唯一2社で分けて製造した編成で、浦賀方4両 (2011 - 2014) が東急車輛製、品川方4両 (2015 - 2018) が川崎重工製。これ以降の製造車とは細部が異なる。1984年5月製造車が営業開始したころまでは、補助椅子が使用されておらず、また屋根肩部広告は掲出されず、中吊り広告も京急の広告に限定されていた。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2011編成の使用実績をもとに細部に設計変更が施された。今回増備の代替として600形の廃車が始まり、16両が廃車された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "増結用4両編成2本を含む3編成16両が製造された。12連の通勤快特にも充当されることとなり、600形は定期快特運用から外れた。8両編成では補助電源装置をパンタグラフのない中間電動車(3号車・6号車)に搭載していたが、4両編成では該当する車両がないため、これをT車に搭載している。4両編成は2扉時代はその後の増備車も含め8両編成で運用される場合は必ず同時に製造された編成同士を組み合わせていた。主な設計変更点は下記。代替として600形8両が廃車された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "前回製造車から設計変更はない。この年の3月末をもって600形16両が廃車され全廃となった。今回の増備で日中の快特所定8運用全てを2000形で賄えるようになり京急もその旨を宣伝したが、実際は予備車に余裕がなく定期検査入場時などは昼間でも1000形の快特運用が見られることがあった。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "最終増備車。前回、前々回製造車から設計変更はない。前回製造分で増備は完了の予定だったが、夕方・夜間時間帯の下り快特の12連化に伴い追加製造された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "他編成と異なる仕様が多かった2011編成だが、1983年(昭和58年)に初めて重要部検査入場した際に運転台デジタル時計撤去、車端部吊革増設が行われた。その後、1989年ごろの定期検査入場時に座席が交換され、1984年以降製造車と同様にシート下の足元の蹴込み板に凹みを設置、肘掛支柱の形状・色が変更された。同編成では補助椅子カバー色が2021編成登場までに何回か変更され、補助椅子自動復帰機構の調整も繰り返し行われていた。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1995年(平成7年)4月のダイヤ改正直前の同年2月21日より120 km/h運転を一部列車・区間で実施することに伴い、120 km/hからの非常制動時の停止距離を600 m以内とするための改造工事が全車を対象に行われた。元の空気溜圧力を増加させたため、通称「増圧ブレーキ」と呼ばれる。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "貫通仕切扉を確実に閉じることで車内の低騒音化を狙って設けられた貫通仕切扉ドアチェック機能だったが、開閉時に扉が重くなるため、1997年ごろに撤去された。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "登場以来快特運用を中心に使用され、車歴の浅い車両ながら走行距離が伸び、足回りの老朽化が懸念されたため、快速特急(現・快特)を中心とした運用を後継のクロスシート車2100形に譲り、3扉ロングシートに改造して、ラッシュ時中心に使用することになった。ロングシート化された本形式が玉突きで1000形や700形の運用を置き換えていった。この改造は車体の中央部分を切り取ってから戸袋と出入り口を開口した側構体を溶接する形で施工され、最初の2011編成のみ東急車輛製造で、その他は京急車両工業(現・京急ファインテック)にて施工された。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "先頭車には車椅子スペースが設置され、車端部のクロスシートと補助座席は存置された。ロングシートは京急で初めて片持ち式座席が採用され、袖仕切りは大型のものとなった。カーテンは従来の横引き型のままとされた。側面の塗装は窓周り白の優等列車塗装から赤一色に窓下の白帯が1本の通称・一般車塗装に変更された。同時に、車端部の「KHK」のロゴは「KEIKYU」に変更され、側面に取り付けられていたサボ受けは撤去されている。2011編成のワイパーの向きは、この改造の際に他編成と揃えられた。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "改造時に取り外されたクロスシートは、京急車両工業の工場一般公開時に販売されたほか、アメリカ海軍横須賀基地の送迎用バスや、鉄道総合技術研究所(JR総研)が所有するフリーゲージトレインに流用されたものがある。また、東京観光専門学校の鉄道サービス実習室の座席にも流用されていたが、2020年現在は新潟車両センターの廃車発生品であるグリーン車座席に交換されている。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2100形の増備につれて格下げ改造が進み、最後まで残ったオリジナル車両(2051編成)も、2000年(平成12年)8月27日のラストランを最後に全て改造された。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "本形式の電気連結器配列は1500形以降の形式と異なっていため他形式との連結ができなかったが、2000年(平成12年)7月22日のダイヤ改正で分割併合列車が大幅に増えたため、配列を変更し他形式と連結が可能になった。これは3扉化工事とは別件で実施されたため、2扉車にも施工されていた。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "4両編成は当初単独運用を考慮しておらず、空気圧縮機が1台しか搭載されていなかったが、2000年(平成12年)7月以降単独運転される機会が増え、空気圧縮機が故障した場合運行不能となることを防ぐため2003年12月から2004年3月にかけて浦賀方先頭車に700形や1000形の廃車発生品のロータリ式空気圧縮機(AR-2形)を搭載した。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2003年に入ってからは行先表示器の字幕を白地黒文字・英語併記のものに順次変更された。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2000年代から転落防止用外幌の設置が進められた。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2002年から、冷房装置が1500形更新車などと同様のCU-71E-G1に順次交換された。",
"title": "改造工事"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1985年10月16日から「さわやかアップ京急運動」の一つとして、2031編成を使用して車内に京急沿線の幼稚園・小学校の園児や児童および各サークルが描いた絵画や写真などを展示する「さわやかギャラリー号」の運行を開始した。1986年3月から2011編成に変更され、1997年11月には2011編成の格下げ改造のため2061編成に変更されたが、1999年3月31日をもって終了した。下記の特別塗装実施前後で若干装飾が異なっていた。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1995年まで存在した夏季ダイヤでは本形式は号車指定列車「ミュージックトレイン号」に運用され、毎年8両編成3本に「ミュージックトレイン号」用に号車番号を窓に掲示、車内には出演歌手のPRポスターが展示するなどの特別装備が施された。2031編成が「ミュージックトレイン号」用装備とされた年は期間中「さわやかギャラリー号」としての運行を休止していた。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1988年から1991年まで、京急創立90周年を記念して8両編成2本(2011編成・2041編成)に特別塗装が施された。2011編成は「さわやかギャラリー号」の特別塗装車として、2041編成は「ファンタジックトレインみらい号」として運行した。デザインは久里洋二によるものである。1989年1月7日の昭和天皇崩御の際は先頭車前面に喪章を貼付して運転された。2011編成は1990年の相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990開催中には「SURF'90号」として運行された。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2011年1月には、2011編成がニューイヤーラッピングを施して運行された。これは2011年と2011編成にちなんでいる。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2013年には2011編成が登場時の塗装に戻された。同年1月17日に2000形登場30周年を記念し2000形リバイバル塗装電車を1月下旬から運転を発表(行先種別表示や標記類、車内設備等の車体の塗装以外の変更はない)。同時に記念乗車券も発売された。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2018年1月には、2011編成に賀正ステッカーが掲出された。これは2018年と2011編成の品川寄りの先頭車2018号にちなむ。",
"title": "特別塗装"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1982年(昭和57年)12月27日に営業運転を開始し、以降2100形登場まで、夏ダイヤ時、定期検査時などを除き、基本的に休日および平日日中の快速特急、京急ウィング号を中心とした優等列車に運用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "格下げ改造後は、ラッシュ時の優等列車(特急・快特)とエアポート急行(羽田空港 - 新逗子間)を中心に運用されていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2011編成・2051編成は「御乗用列車」としても運用されたことがある。2011編成は1984年(昭和59年)2月に浦賀で行われた帆船日本丸の進水式の際、上皇明仁・上皇后美智子が皇太子・同妃時代に浦賀に向かうために、デハ2016に乗車し中央部のボックス席に着席なされた。2051編成には1986年(昭和61年)3月に、同様に上皇・上皇后が皇太子・同妃時代に京急油壺マリンパークを訪問した際に運用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "先頭車の車体長が都営地下鉄浅草線相互乗り入れ協定より長く、800形同様前面に非常用貫通路がないため、運用は品川以南の自社線内のみに限定されており、品川以北や都営地下鉄浅草線への乗り入れは不可能である。このため8両編成は自社線完結の快特が泉岳寺発着に変更された2002年10月12日以降、京急蒲田以南のエアポート急行が運行されるようになった2010年5月16日までの一時、代走を含めて日中の定期運用が一切存在しなかった時期がある。2010年10月13日には2411編成と2441編成が初めて大師線に入線し、京急川崎 - 小島新田間で試運転が実施され、2010年11月3日には2411編成が初めて大師線で営業運転を行った。大師線には4両編成で残るものが2451編成のみになった2016年6月11日と10月9・10日にも入線している。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には8両編成は「8MT」、4両編成は「4MT」と表記される。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "元々優等種別で運用されていた故に高速走行向けのモーター、3ドア化改造の影響や登場から30年が経過したことで老朽化が進み、加えて品川駅から先への乗り入れ不可能な構造が影響し、通常の車両よりも加速性能が低く、運用に支障が出ている事から、2012年度から廃車が始まった。なお、4両編成の殆どは8両編成よりも早く廃車になっている。",
"title": "廃車"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2018年3月には、最後に残った2編成についても同月中の引退が発表され、3月25日には2011編成(リバイバル塗装)を使用した特別貸切列車「ありがとう2000形」を運行した。この列車ではブルーリボン賞受賞記念ヘッドマークを模したステッカーが前面に貼り付けられ、3月28日の運用終了までその姿で運行された。",
"title": "廃車"
}
] |
京急2000形電車(けいきゅう2000がたでんしゃ)は、京浜急行電鉄に在籍していた特急形電車である。 なお、本項では、以下のように取り扱う。 京急本線上にで南側を「浦賀方」、北側を「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。
車両形式については以下の通りに記載する。
「600形」: 1956年(昭和31年)登場の600形(2代)
「新600形」: 1994年(平成6年)登場の600形(3代)
「700形」: 1967年(昭和42年)登場の700形(2代)
「800形」: 1978年(昭和53年)登場の800形(2代)
「1000形」: 1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)
「新1000形」: 2002年(平成14年)登場の1000形(2代)
|
{{参照方法|date=2018年1月}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急2000形電車
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Keikyu2051-2058 2doors.jpg
| 画像説明 = 2扉時代の2000形電車<br />(2000年8月20日 久里浜工場)
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎車両|川崎重工業]]兵庫工場
| 製造年 = 1982年 - 1987年
| 製造数 = 12編成72両(8両・4両×6編成)
| 運用開始 = 1982年12月27日
| 運用終了 = 2018年3月28日
| 編成 = 8両編成・4両編成
| 軌間 = 1,435 mm ([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 120 km/h
| 設計最高速度 = 130 km/h
| 起動加速度 = 3.0 km/h/s
| 常用減速度 = 3.5 km/h/s
| 非常減速度 = 4.0 km/h/s
| 編成定員 =
| 車両定員 = 140人<br />座席定員 56(先頭車52)人
| 自重 = 電動車35 [[トン|t]]<br />8両編成の付随車29 t<br />4両編成の付随車31 t
| 編成重量 =
| 全長 = 18,000 mm(先頭車 18,500 mm)
| 全幅 = 2,799 mm
| 全高 = 4,030 mm<br />パンタグラフ搭載車 4,050 mm
| 車体高 = 3,580 mm
| 床面高さ = 1,150 mm
| 車体 = [[炭素鋼|普通鋼]](一部[[耐候性鋼|高耐候性鋼板]]、[[ステンレス鋼]])
| 台車 = 円筒案内支持式[[ボルスタアンカー|ボルスタ]]付[[空気ばね]]台車
| 主電動機 = 補償巻線付[[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]]
| 主電動機出力 = 120 [[ワット|kW]] × 4
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|たわみ板式継手]]
| 歯車比 = 80:19 (4.21)
| 制御方式 = [[界磁チョッパ制御]]
| 制御装置 = 東洋電機製造ACRF-H12120-782A形
| 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生制動]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気制動]]([[応荷重装置]]付)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]、[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
| 備考 = 最高運転速度、保安装置、編成以外は新製時のデータ
| 備考全幅 = {{ブルーリボン賞 (鉄道)|26|1983}}
}}
'''京急2000形電車'''(けいきゅう2000がたでんしゃ)は、[[京浜急行電鉄]]に在籍していた[[特急形車両|特急形電車]]である。
なお、本項では、以下のように取り扱う。
* [[京急本線]]上にで南側を「[[浦賀駅|浦賀]]方」、北側を「[[品川駅|品川]]方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。
* 車両形式については以下の通りに記載する。
** 「600形」: [[1956年]](昭和31年)登場の[[京急700形電車 (初代)|600形(2代)]]
** 「新600形」: [[1994年]](平成6年)登場の[[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]]
** 「700形」: [[1967年]](昭和42年)登場の[[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]]
** 「800形」: [[1978年]](昭和53年)登場の[[京急800形電車 (2代)|800形(2代)]]
** 「1000形」: [[1959年]](昭和34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]]
** 「新1000形」: [[2002年]](平成14年)登場の[[京急1000形電車 (2代)|1000形(2代)]]
== 概要 ==
{{Sound|Keikyu kaitoku 2041 yokohama.ogg|京急2000形2041の走行音(快速特急)|(1985年3月6日 品川 - 横浜間)}}
[[京急本線#快特|快速特急]](現在の快特)に使用される[[京急700形電車 (初代)|600形]]の後継車として<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1983年3月号 p.9</ref>、特に長距離旅客のサービス向上を狙って製造された<ref name=":0" />。料金不要でありながら有料特急に比肩しうる内装をもつこと、快適性と[[ラッシュ時]]への対応の両立として、2扉[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]としながら扉付近の立ち席スペースを広く取ったこと、120 [[キロメートル毎時|km/h]]運転をにらんで[[起動加速度]]を犠牲にしながら均衡速度130km/h以上としたこと<ref name=":1">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p130</ref>、[[京急800形電車 (2代)|800形]]のシステムを継承しながら主電動機出力を向上し、編成中に[[付随車]]を挿入して経済性を追求したことなどが特徴である<ref name=":1" />。
8両編成と4両編成それぞれ6本、合計72両が[[1987年]](昭和62年)までに製造された<ref name=":0">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p128</ref><ref name=":1" />。
[[鉄道の車両番号|車両番号]]は4桁で表され、1桁目は系列を表す「2」、2桁目は編成両数を表し、8両編成が「0」、4両編成が「4」である<ref name=":1" />。3桁目は編成番号を表し1から付番する<ref name=":1" />。4桁目は編成内の位置を表し、浦賀方から、8両編成が1 - 8、4両編成が1 - 4となっている<ref name=":1" />。それぞれの編成については浦賀方先頭車の番号から「2011編成」「2411編成」などと呼ぶ<ref name=":1" />。
設計途中での仮称は「900形」だった<ref>『日本の私鉄14 京浜急行』 p.96</ref>。
[[1983年]](昭和58年)[[鉄道友の会]][[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞した。
== 車両概説 ==
本項では、製造時の仕様について述べる。
8両編成は3両1群の[[動力車|電動車]]ユニット2つの間に付随車を2両挟んでいる。京急の信号システムは先頭台車が電動台車であることを前提に設計されているため、4両編成の場合には電動車ユニット3両の中間に制御回路を引き通した付随車を1両挟み両先頭車を電動車としている。車種構成は、8両編成が浦賀方からM1c-M2-M3-Tu-Ts-M1-M2-M3c<ref name=":2">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p131</ref>、4両編成が同じくM1c-M2-T-M3cである<ref name=":2" />。
=== 車体 ===
[[ファイル:Keikyu 2028 kaitoku.jpg|thumb|240px|2扉時代の2021編成|代替文=]]
[[前照灯]]は中央上部に1灯、側面客用扉は片引き戸方式といった、従来からの伝統的京急デザインを打ち破り<ref name=":4">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p134</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|title=引退2年、京急2000形にみる「看板列車の品格」 {{!}} 通勤電車 {{!}} 東洋経済オンライン {{!}} 経済ニュースの新基準|url=https://web.archive.org/web/20200517152758/https://toyokeizai.net/articles/-/349463|website=web.archive.org|date=2020-05-17|accessdate=2020-05-17}}</ref>、前面窓下に降りて[[尾灯]]と一体化したケーシングに収められ、2灯を装備した前照灯や京急としては初の採用となる両開き式の客用扉など<ref name=":4" /><ref name=":5" />、画期的なデザインを採用した。車両前面は非貫通式で左右非対称の大型の窓ガラスを採用し、腰部で「く」の字型に折れたスピード感あふれる先頭部デザインとともに<ref name=":5" />、京急の[[フラグシップ機|フラッグシップ]]トレインとして意匠が凝らされた<ref name=":0" />。この先頭部デザインは、800形開発時にデザイン案が出されながら採用されなかったものをリファインしたものである<ref>『鉄道ファン』1992年12月号 p.107</ref>。
外板塗装は、赤い車体に窓回りを白とした当時の800形の塗装を踏襲したが、本形式の登場後はこの塗装が「[[ダイヤグラム#ダイヤの作成|優等列車]]用」(当時)とされたため、800形は赤地で窓下に白帯の他の一般通勤車と同一のものに変更された。
車体は基本的に[[炭素鋼|普通鋼]]製であるが、腐食対策として外板や主要な柱には[[耐候性鋼|高耐候性鋼板]]を使用、屋根の雨樋周辺や客用ドア付近の柱・戸袋、床波板などには[[ステンレス鋼|ステンレス]]を使用している<ref name="JARi162">日本鉄道車輌工業会『車両技術』162号(1983年6月)「京浜急行電鉄2000形電車」pp.29 - 39。</ref>。外板裾部と[[台枠]]の接合には、重ね合わせ構造をやめて突き合わせ溶接構造とした<ref name="JARi162"/>。
[[連結器]]は京急で初めて[[連結器#電気連結器|電気連結器]]付き廻り子式密着連結器を採用した<ref name=":1" />。
=== 内装 ===
{{Vertical_images_list
|1=Keikyu2051-2058 2doors passenger room.jpg
|2=2扉時代の車内
|3=Keikyu2051-2058 2doors seat.jpg
|4=2扉時代の座席
|6=(2000年8月20日 久里浜工場内にて)
}}
片側2扉オール[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]で、クロスシートは扉間で[[鉄道車両の座席#固定式クロスシート|集団見合い形]]<ref name=":4" />、車端部はボックス式に配置されたほか、出入口付近に折りたたみ式の補助座席が備えつけられ、閑散時の着席率向上に寄与した<ref name=":4" />。補助椅子は運転室からのスイッチ操作で電磁ロックできる。[[操縦席|運転台]]の直後はモーター点検蓋を設けた関係でクロスシートではなく、袖仕切は木目模様の[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]が配置された<ref name=":4" /><ref>『鉄道ファン』1983年3月号 p.15</ref>。[[つり革]]は乗降扉付近にのみ装備されていた。
他私鉄の特急に見られる転換クロスシートを採用する案もあったが、製造費が高くなるほか、車両重量が重くなり、終着駅での方向転換が必要になることから見送られた。固定式としたことで2人掛部850mm、ボックスシート部1720mmのシートピッチでも必要十分な空間は確保されており、座席それ自体の掛け心地も適切な形状と相まって良好であった。なお、転換クロスシートは本形式の後継車である[[京急2100形電車|2100形]]で採用された<ref group="注">ただし、座席数の確保や終着駅の方向転換の関係から、手動での転換は不可能となっている。</ref>。
集団見合い形の座席配置は、背ずりが深く取れることや足下を広く取れること、プライバシーを保てること、グループ客に喜ばれることなどから採用された<ref group="注">日本での集団見合い式座席配置の採用例はこの他、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の「[[成田エクスプレス]]」用[[JR東日本253系電車|253系]](更新改造後の1 - 4次車)、[[JR東日本719系電車|719系]]、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[国鉄キハ54形気動車#北海道仕様車(500番台)|キハ54形500番台]]の一部車両に見られる程度である。また、本形式とほぼ同時期に製造されていた[[新幹線]][[新幹線0系電車|0系(2000番台および改造車)]]・[[新幹線200系電車|200系]][[普通車 (鉄道車両)|普通車]]では3人席に集団離反形の座席配置を採用していた。</ref>。また、京急では車体長が短く制限されていることから、車内が狭い印象を与えないためとも言われている。この配置については、1970年代後半に[[フランス国鉄]](SNCF)の[[トランシリアン|パリ近郊区間]]で導入されたZ6400形電車を参考にしたとされている<ref>『鉄道ファン』1992年12月号 p.108</ref>。
客室側窓は横引き[[カーテン]]併設の固定窓であるが<ref name=":6">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p129</ref><ref>{{Cite web|和書|title=引退2年、京急2000形にみる「看板列車の品格」 {{!}} 通勤電車 {{!}} 東洋経済オンライン {{!}} 経済ニュースの新基準|url=https://web.archive.org/web/20200517154628/https://toyokeizai.net/articles/-/349463?page=2|website=web.archive.org|date=2020-05-17|accessdate=2020-05-17}}</ref>、車体中央および車端のボックスシート部は2連式の下降窓で、またロングシート部は狭幅の下降窓となった。下降窓部カーテンには横引き式とともに巻上式が併設された。製造当初、窓が開けられることが多い季節には横引きカーテンが車外に吸い出されることを防止するため、下降窓部の横引きカーテンを撤去していた。また、当初より車端妻面部に窓は設置されておらず、各車とも連結面にはドアチェック機能付きの[[貫通扉]]を装備している。
車内のカラースキームは暖色系が採用されており、座席は窓側がライラック(ピンク系)、通路側がエンジ色と分けられ、壁面は模様入りのベージュ系で客用扉の車内側にも同じ模様の化粧板が貼られており、妻面が木目模様でまとめられていた。また、床面には[[コルク]]を模した模様が施されたほか、ロングシート部を除いて[[網棚]]に[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の前縁(ベージュ色)が装着されている。車内灯には蛍光灯カバーが設けられている<ref name=":6" />。
=== 主要機器 ===
[[東洋電機製造]]製[[界磁チョッパ制御]]装置(ACRF-H12120-782A形)を採用した<ref name="TOYODENKI55"/>。[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]段数は直列15段、並列8段。800形と同様に3両分12個の[[複巻整流子電動機|主電動機]]を1台の主制御器により制御する(1C12M制御)<ref name="TOYODENKI55"/>。界磁チョッパ装置と運転台の[[マスター・コントローラー|主幹制御器]](ワンハンドルマスコン)は800形と共通、それ以外は新規設計品とした<ref name="TOYODENKI55"/>。
主電動機はKHM-2000(東洋製TDK-8575、[[三菱電機]]〈以下、三菱〉製MB-3281-ACの総称、出力120 k[[ワット|W]]、端子電圧250 [[ボルト (単位)|V]]、電流540 [[アンペア|A]]、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,270 [[rpm (単位)|rpm]]、定格速度46.6 km/h)を採用した。ただし、取り付け寸法や特性は800形に合わせたもので、互換性が確保されている<ref name="TOYODENKI55">東洋電機製造『東洋電機技報』第55号(1983年5月)「京浜急行電鉄株式会社納 デハ2000形特急電車用電機品」pp.19 - 26。</ref>(800形に取り付けることも可能<ref name="TOYODENKI55"/>)。[[歯車比]]は800形の85:14≒6.07から本形式では80:19≒4.21とし、高速性能向けとした<ref name="TOYODENKI55"/>。
台車は空気ばね車体直結乾式ゴム入り円筒案内支持の<ref name=":4" />TH-2000を採用した<ref name="JARi162"/>。基礎ブレーキは電動台車が片押し式[[踏面ブレーキ]]、付随台車が1軸2枚の[[ディスクブレーキ]]構造である<ref name="JARi162"/>。[[ホイールベース|固定軸距]]は2,100 mm、重量は電動台車が7,000 kg(排障器付)、付随台車が5,850 kg<ref name="JARi162"/>。
集電装置は東洋製PT43-E5-M形・菱形[[集電装置|パンタグラフ]]を採用<ref name="TOYODENKI55"/>。
補助電源装置はM3・M1・T車に三菱電機製のNC-DAT-140B [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]による[[静止形インバータ|SIV]] (140 k[[ボルトアンペア|VA]])を搭載している<ref name="JARi162"/>。空気圧縮機はサハ2000形にレシプロ式のC-2000MまたはC-2000Lを搭載した。4両のみ改造でロータリー式のAR-2([[京急700形電車|700形]]の廃車発生品)を取り付けている <ref name="RF161012">[https://railf.jp/news/2016/10/12/180000.html 京急2000形の4両編成が営業運転を終了] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2016年10月12日</ref>。
空調装置は[[集中式冷房装置|屋上集中式]]で、三菱CU-71DまたはCU-71DN(容量41.86 KW・36,000kcal/h)を搭載している<ref name="JARi162"/>。
== 製造時のバリエーション ==
[[ファイル:Keikyu 2011 at Shin-Banba stn 19950702.jpg|thumb|240px|none|2扉時代の2011編成<br />1995年7月5日 新馬場駅]]
=== 1982年(昭和57年)12月製造車 ===
* 8両編成(1本):2011 - 2018 [[東急車輛製造]](以下「東急車輛」)製・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]](以下「川崎重工」)製
1982年12月に落成した、先行量産的要素を持つ車両。2000形で唯一2社で分けて製造した編成で、浦賀方4両 (2011 - 2014) が東急車輛製、品川方4両 (2015 - 2018) が川崎重工製。これ以降の製造車とは細部が異なる。1984年5月製造車が営業開始したころまでは、補助椅子が使用されておらず、また屋根肩部広告は掲出されず、中吊り広告も京急の広告に限定されていた。
=== 1984年(昭和59年)5月製造車 ===
* 8両編成(2本):2021 - 2028 東急車輛製、2031 - 2038 川崎重工製
2011編成の使用実績をもとに細部に設計変更が施された。今回増備の代替として600形の廃車が始まり、16両が廃車された。
* 前照灯・尾灯ケースのカバー形状を変更。
* 運転台のデジタル時計を廃止。
* ワイパーの向きを変更。
* 車掌側仕切り窓の上部を開閉可能に変更。
* 下降窓部のロールアップカーテン色を灰色からベージュに変更。
* 下降窓部窓枠の形状を変更。
* 車端部吊革を設置。
* 下降窓が車体外側からも開閉できるよう取っ手を設置。
* シート下の足元の蹴込み板に凹みを設置。
* 肘掛支柱の形状・色を変更。
* 車内スピーカを肩部から天井に移動。
* 鴨居部の内装板処理を変更、角をR処理し折れ部が目立たなくなった。
* Ts車床下機器配置を変更。
* コンプレッサを低騒音型に変更。
* 増粘着装置をエアシリンダで車輪に清掃子を押し付ける方式からバネで押し付ける方式に変更。
=== 1985年(昭和60年)2月・3月製造車 ===
[[File:Keikyu 2400 Misakiguchi.jpg|thumb|240px|none|2扉時代の2000形4連x2の快特。<br />三崎口→三浦海岸にて]]
* 8両編成(1本):2041 - 2048 川崎重工製
* 4両編成(2本):2411 - 2414・2421 - 2424 東急車輛製
増結用4両編成2本を含む3編成16両が製造された。12連の通勤快特にも充当されることとなり、600形は定期快特運用から外れた。8両編成では補助電源装置をパンタグラフのない中間電動車(3号車・6号車)に搭載していたが、4両編成では該当する車両がないため、これをT車に搭載している。4両編成は2扉時代はその後の増備車も含め8両編成で運用される場合は必ず同時に製造された編成同士を組み合わせていた。主な設計変更点は下記。代替として600形8両が廃車された。
* 立客用座席取手形状を変更。
* 車内スピーカを屋根に埋め込み。
* 運転台にマスコンニュートラル表示灯を追加。
* 補助椅子を海側・山側別々にロックできるよう変更。
=== 1986年(昭和61年)2月・3月製造車 ===
* 8両編成(2本):2051 - 2058 川崎重工製、2061 - 2068 東急車輛製
* 4両編成(2本):2431 - 2434 東急車輛製、2441 - 2444 川崎重工製
前回製造車から設計変更はない。この年の3月末をもって600形16両が廃車され全廃となった。今回の増備で日中の快特所定8運用全てを2000形で賄えるようになり京急もその旨を宣伝したが、実際は予備車に余裕がなく定期検査入場時などは昼間でも1000形の快特運用が見られることがあった。
=== 1987年(昭和62年)6月製造車 ===
* 4両編成(2本):2451 - 2454 川崎重工製、2461 - 2464 東急車輛製
最終増備車。前回、前々回製造車から設計変更はない。前回製造分で増備は完了の予定だったが、夕方・夜間時間帯の下り快特の12連化に伴い追加製造された<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』1988年8月増刊号・京浜急行電鉄特集より</ref>。
== 改造工事 ==
=== 2011編成の改造 ===
他編成と異なる仕様が多かった2011編成だが、1983年(昭和58年)に初めて重要部検査入場した際に運転台デジタル時計撤去、車端部吊革増設が行われた。その後、1989年ごろの定期検査入場時に座席が交換され、1984年以降製造車と同様にシート下の足元の蹴込み板に凹みを設置、肘掛支柱の形状・色が変更された。同編成では補助椅子カバー色が2021編成登場までに何回か変更され、補助椅子自動復帰機構の調整も繰り返し行われていた。
=== 120 km/h対応改造 ===
[[1995年]]([[平成]]7年)4月のダイヤ改正直前の同年2月21日より120 km/h運転を一部列車・区間で実施することに伴い<ref name=":3">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p135</ref>、120 km/hからの非常制動時の停止距離を600 [[メートル|m]]以内とするための改造工事が全車を対象に行われた<ref name=":3" />。元の空気溜圧力を増加させたため、通称「増圧ブレーキ」と呼ばれる。
=== ドアチェック機能廃止 ===
貫通仕切扉を確実に閉じることで車内の低騒音化を狙って設けられた貫通仕切扉ドアチェック機能だったが、開閉時に扉が重くなるため、1997年ごろに撤去された。
=== 3扉化改造 ===
[[File:Keikyu2400-kzb-kzh.jpg|thumb|240px|none|3扉改造後の2000形<br />金沢八景-金沢文庫間にて]]
登場以来快特運用を中心に使用され<ref name=":3" />、車歴の浅い車両ながら走行距離が伸び、足回りの老朽化が懸念されたため、快速特急(現・快特)を中心とした運用を後継のクロスシート車[[京急2100形電車|2100形]]に譲り、3扉ロングシートに改造して、[[ラッシュ時]]中心に使用することになった<ref name=":3" />。ロングシート化された本形式が玉突きで[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]や[[京急700形電車 (2代)|700形]]の運用を置き換えていった。この改造は車体の中央部分を切り取ってから戸袋と出入り口を開口した側構体を溶接する形で施工され<ref>『鉄道ピクトリアル』通巻656号「特集 京浜急行電鉄」pp.42-43</ref>、最初の2011編成のみ東急車輛製造で、その他は京急車両工業(現・[[京急ファインテック]])にて施工された。
先頭車には[[車椅子スペース]]が設置され、車端部のクロスシートと補助座席は存置された<ref name="RF445">{{Cite journal|和書 |date = 1998-5 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 38 |issue = 5 |pages = 62-63 |publisher = [[交友社]] }}</ref>。ロングシートは京急で初めて[[鉄道車両の座席#片持式座席|片持ち式座席]]が採用され、袖仕切りは大型のものとなった<ref name=":3" />。カーテンは従来の横引き型のままとされた<ref name="RF445"/>。側面の塗装は窓周り白の優等列車塗装から赤一色に窓下の白帯が1本の通称・一般車塗装に変更された<ref name=":3" /><ref name="RF445"/>。同時に、車端部の「KHK」のロゴは「KEIKYU」に変更され、側面に取り付けられていたサボ受けは撤去されている。2011編成の[[ワイパー]]の向きは、この改造の際に他編成と揃えられた。
改造時に取り外されたクロスシートは、京急車両工業の工場一般公開時に販売されたほか、[[アメリカ海軍]][[横須賀海軍施設|横須賀基地]]の送迎用[[バス (交通機関)|バス]]や、[[鉄道総合技術研究所]](JR総研)が所有する[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]に流用されたものがある。また、[[東京観光専門学校]]の鉄道サービス実習室の座席にも流用されていたが、2020年現在は[[新潟車両センター]]の廃車発生品であるグリーン車座席に交換されている。
2100形の増備につれて格下げ改造が進み、最後まで残ったオリジナル車両(2051編成)も、[[2000年]]([[平成]]12年)[[8月27日]]のラストランを最後に全て改造された<ref name=":3" /><ref>{{Cite news |title=来月ファイナルラン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-07-28 |page=3 }}</ref>。
=== 電気連結器配列変更 ===
本形式の電気連結器配列は[[京急1500形電車|1500形]]以降の形式と異なっていため他形式との連結ができなかったが<ref name=":3" />、[[2000年]](平成12年)7月22日のダイヤ改正で分割併合列車が大幅に増えたため<ref name=":3" />、配列を変更し他形式と連結が可能になった<ref name=":3" />。これは3扉化工事とは別件で実施されたため、2扉車にも施工されていた。
=== 空気圧縮機増設 ===
4両編成は当初単独運用を考慮しておらず、[[圧縮機|空気圧縮機]]が1台しか搭載されていなかったが<ref name=":2" />、2000年(平成12年)7月以降単独運転される機会が増え、空気圧縮機が故障した場合運行不能となることを防ぐため[[2003年]]12月から[[2004年]]3月にかけて浦賀方先頭車に700形や1000形の廃車発生品のロータリ式空気圧縮機(AR-2形)を搭載した<ref name=":3" />。
=== 方向幕交換 ===
[[2003年]]に入ってからは[[方向幕|行先表示器]]の字幕を白地黒文字・[[英語]]併記のものに順次変更された。
=== 転落防止幌設置 ===
2000年代から[[転落防止幌|転落防止用外幌]]の設置が進められた。
=== 冷房装置交換 ===
[[2002年]]から、[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が1500形更新車などと同様のCU-71E-G1に順次交換された。
== 特別塗装 ==
[[1985年]][[10月16日]]から「さわやかアップ京急運動」の一つとして、2031編成を使用して車内に京急沿線の[[幼稚園]]・[[小学校]]の園児や児童および各サークルが描いた絵画や写真などを展示する「さわやかギャラリー号」の運行を開始した<ref name=":6" />。1986年3月から2011編成に変更され、[[1997年]]11月には2011編成の格下げ改造のため2061編成に変更されたが、[[1999年]][[3月31日]]をもって終了した。下記の特別塗装実施前後で若干装飾が異なっていた。
[[1995年]]まで存在した夏季ダイヤでは本形式は号車指定列車「ミュージックトレイン号」に運用され、毎年8両編成3本に「ミュージックトレイン号」用に号車番号を窓に掲示、車内には出演[[歌手]]のPR[[ポスター]]が展示するなどの特別装備が施された。2031編成が「ミュージックトレイン号」用装備とされた年は期間中「さわやかギャラリー号」としての運行を休止していた。
[[1988年]]から[[1991年]]まで、京急創立90周年を記念して8両編成2本(2011編成・2041編成)に特別塗装が施された。2011編成は「さわやかギャラリー号」の特別塗装車として、2041編成は「ファンタジックトレインみらい号」として運行した<ref name=":6" />。デザインは[[久里洋二]]によるものである<ref name=":6" />。[[1989年]][[1月7日]]の[[昭和天皇]][[崩御]]の際は先頭車前面に喪章を貼付して運転された。2011編成は[[1990年]]の[[相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990]]開催中には「SURF'90号」として運行された。
[[2011年]]1月には、2011編成がニューイヤーラッピングを施して運行された。これは2011年と2011編成にちなんでいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2011/01/02/141700.html|title=京急"初日号"運転|publisher=鉄道ファン・railf.jp|accessdate=2011-01-27|date=2011-01-02}}</ref>。
[[2013年]]には2011編成が登場時の塗装に戻された<ref name="Keikyu201301">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130406111721/http://www.keikyu.co.jp/company/20130117HP%E3%80%802000%E5%BD%A2%E3%82%92%E7%99%BB%E5%A0%B4%E6%99%82%E3%81%AE%E5%A1%97%E8%A3%85%E3%81%AB%E5%BE%A9%E6%B4%BB.pdf 「京急2000形登場30周年リバイバル塗装」運転!!]}}(京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref><ref name=":7">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p138</ref>。同年[[1月17日]]に2000形登場30周年を記念し2000形リバイバル塗装電車を1月下旬から運転を発表(行先種別表示や標記類、車内設備等の車体の塗装以外の変更はない<ref name="Keikyu201301"/>)。同時に記念乗車券も発売された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/company/20130206HP%202000%E5%BD%A2%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E5%A1%97%E8%A3%85%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%B7%E2%91%A1.pdf|title=京急2000形 誕生30周年 「リバイバル塗装 記念乗車券」発売!|publisher=京急電鉄|date=2013-02-06|accessdate=2014-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130518104358if_/http://www.keikyu.co.jp/company/20130206HP%202000形リバイバル塗装記念きっぷ②.pdf|archivedate=2013-05-18}}</ref>。
[[2018年]]1月には、2011編成に賀正ステッカーが掲出された。これは2018年と2011編成の品川寄りの先頭車2018号にちなむ<ref>{{Cite journal |和書 |journal=鉄道ダイヤ情報 |publisher=交通新聞社|date=2018-2-15 |page=44}}</ref>。
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File:2041 Mirai.jpg|「ファンタジックトレイン みらい」<br />1988年5月 三浦海岸駅
ファイル:Sawayaka 2011.jpg|さわやかギャラリー号<br />1994年4月 新大津駅
File:Keikyu2011 1989 Hakkei.JPG|さわやかギャラリー号、特殊塗装時<br />1989年8月 金沢八景駅
File:Keikyu2000s 1989.JPG|喪章をつけて金沢検車区で待機する特殊塗装車。<br/>1989年1月
File:Keikyu 2051 special train.JPG|2051編成「御乗用列車」<br/>1986年3月 金沢八景駅
File:Keikyu 2011 revival.jpg|登場時の塗装に戻された2011編成<br/>2013年2月 京急鶴見駅
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== 運用 ==
[[1982年]]([[昭和]]57年)[[12月27日]]に営業運転を開始し、以降[[京急2100形電車|2100形]]登場まで、夏ダイヤ時、定期検査時などを除き、基本的に休日および平日日中の快速特急、[[ウィング号 (京急)|京急ウィング号]]を中心とした優等列車に運用された<ref name=":4" />。
格下げ改造後は、ラッシュ時の優等列車(特急・快特)と[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]([[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]] - [[逗子・葉山駅|新逗子]]間)を中心に運用されていた<ref name=":3" />。
2011編成・2051編成は「[[お召し列車|御乗用列車]]」としても運用されたことがある。2011編成は1984年(昭和59年)2月に浦賀で行われた[[日本丸 (2代)|帆船日本丸]]の進水式の際、[[上皇明仁]]・[[上皇后美智子]]が[[皇太子]]・同妃時代に浦賀に向かうために、デハ2016に乗車し中央部のボックス席に着席なされた<ref>『京浜急行今昔物語』より。</ref>。2051編成には1986年(昭和61年)3月に、同様に上皇・上皇后が皇太子・同妃時代に[[京急油壺マリンパーク]]を訪問した際に運用された。
[[File:Keikyu 2451 at Keikyu-Kawasaki station 20160611.jpg|thumb|大師線に入線した京急2000形<br />(2016年6月11日 京急川崎駅大師線ホーム)]]
先頭車の車体長が[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]相互乗り入れ協定より長く<ref name=":7" />、800形同様前面に非常用貫通路がないため<ref name=":7" />、運用は品川以南の自社線内のみに限定されており<ref name=":7" />、品川以北や都営地下鉄浅草線への乗り入れは不可能である<ref name=":7" />。このため8両編成は自社線完結の快特が泉岳寺発着に変更された2002年10月12日以降、京急蒲田以南のエアポート急行が運行されるようになった2010年5月16日までの一時、代走を含めて日中の定期運用が一切存在しなかった時期がある。[[2010年]][[10月13日]]には2411編成と2441編成が初めて[[京急大師線|大師線]]に入線し、[[京急川崎駅|京急川崎]] - [[小島新田駅|小島新田]]間で試運転が実施され<ref>「[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2010/10/2000_10.html 【京急】2000形 大師線入線試験]」ネコ・パブリッシング『鉄道ホビダス』RM News 2010年10月15日</ref>、[[2010年]][[11月3日]]には2411編成が初めて大師線で営業運転を行った<ref>[http://railf.jp/news/2010/11/04/115400.html 京急2000形が大師線で営業運転を開始] - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp 鉄道ニュース 2010年11月4日</ref>。大師線には4両編成で残るものが2451編成のみになった[[2016年]]6月11日と10月9・10日にも入線している<ref name="RF161012" /><ref>[https://railf.jp/news/2016/06/12/202500.html 京急大師線に2000形が入線] - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp 鉄道ニュース 2016年6月12日</ref>。
京急社内で使用されている列車の車両組成を表す表には8両編成は「8MT」、4両編成は「4MT」<ref>[[京急2000形電車#吉本1999|『京急ダイヤ100年史』p274]]</ref>と表記される。
{{-}}
== 廃車 ==
元々優等種別で運用されていた故に高速走行向けのモーター、3ドア化改造の影響や登場から30年が経過したことで老朽化が進み<ref name=":7" />、加えて品川駅から先への乗り入れ不可能な構造が影響し<ref name=":7" />、通常の車両よりも加速性能が低く<ref name=":7" />、運用に支障が出ている事から、2012年度から廃車が始まった<ref name=":7" /><ref name="年鑑2013p113"/><ref name="年鑑2015p128"/><ref name="年鑑2016p103"/>。なお、4両編成の殆どは8両編成よりも早く廃車になっている。
* [[2012年]][[5月4日]] 2411編成・2421編成・2431編成<ref name=":7" /><ref name="年鑑2013p220"/>
* [[2014年]][[7月3日]] 2021編成<ref name="年鑑2015p241"/>
* [[2016年]]
** [[3月4日]] 2441編成・2461編成<ref name="年鑑2016p218"/>
** [[10月12日]] 2451編成(同編成の廃車をもって、4両編成は消滅。退役目前には[[京急大師線|大師線]]の運用に入り<ref>[https://railf.jp/news/2016/06/12/202500.html 京急大師線に2000形が入線] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2016年6月12日</ref>、10月11日の最終運用では1521編成と共に品川発快特・京急久里浜行として運行した)<ref>[https://railf.jp/news/2016/10/12/180000.html 京急2000形の4両編成が営業運転を終了] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2016年10月12日</ref>。
* [[2017年]]
** [[2月7日]] 2031編成
** [[3月8日]] 2041編成[[ファイル:Keikyu-2011.png|サムネイル|引退記念ステッカー(2018年3月28日)]]
* [[2018年]](日付はいずれも運用離脱日)
**[[2月1日]] 2051編成
** [[3月15日]] 2061編成
** [[3月28日]] 2011編成(同編成の運用離脱をもって、形式消滅。最終運用は品川発 快特京急久里浜行として運行した)
2018年3月には、最後に残った2編成についても同月中の引退が発表され、[[3月25日]]には2011編成(リバイバル塗装)を使用した[[さよなら運転|特別貸切列車]]「ありがとう2000形」を運行した<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20180305HP_17258MT.html 京急のエース車両として活躍した「2000形」の引退を記念して 3月11日(日)に「さよなら2000形記念乗車券」を発売 記念乗車券購入者の中から特別貸切列車「ありがとう2000形」にご招待!!] - 京浜急行電鉄 2018年3月5日</ref>。この列車ではブルーリボン賞受賞記念ヘッドマークを模したステッカーが前面に貼り付けられ、3月28日の運用終了までその姿で運行された<ref>[https://railf.jp/news/2018/03/29/120000.html 京急2000形の営業運転終了] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2018年3月29日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="年鑑2013p113">[[#年鑑2013動向|『鉄道車両年鑑2013年版』p113]]</ref>
<ref name="年鑑2013p220">[[#年鑑2013一覧|『鉄道車両年鑑2013年版』p220]]</ref>
<ref name="年鑑2015p128">[[#年鑑2015動向|『鉄道車両年鑑2015年版』p128]]</ref>
<ref name="年鑑2015p241">[[#年鑑2015一覧|『鉄道車両年鑑2015年版』p241]]</ref>
<ref name="年鑑2016p103">[[#年鑑2016動向|『鉄道車両年鑑2016年版』p103]]</ref>
<ref name="年鑑2016p218">[[#年鑑2016一覧|『鉄道車両年鑑2016年版』p218]]</ref>
}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
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* {{Cite book|和書|author =吉本尚|authorlink = |coauthors =|year = 1999|title = 京急ダイヤ100年史|publisher = [[電気車研究会]]|ref = 吉本1999|id =|isbn = 4885480930}}
* {{Cite book|和書|author =佐藤良介|authorlink = |coauthors =|year = 2004|title = 京急の車両 現役全形式・徹底ガイド(JTBキャンブックス)|publisher = JTBパブリッシング|id =|isbn =9784533055461}}
*佐藤良介『京急電車の運転と車両探検 向上した羽田空港アクセスと車両の現況(JTBキャンブックス)』JTBパブリッシング、2014年。[[ISBN]] [[%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%96%87%E7%8C%AE%E8%B3%87%E6%96%99/9784533097058|9784533097058]]。
=== 雑誌記事 ===
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* 『鉄道ファン』通巻380号(1992年12月・交友社)
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* 『鉄道ピクトリアル』通巻656号「特集 京浜急行電鉄」(1998年7月・電気車研究会)
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* 『鉄道ピクトリアル』通巻677号(1998年7月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=園田 淳|coauthors=新澤 仁志 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄 補遺|journal= |issue= |pages=47-53
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* 『鉄道ピクトリアル』通巻881号「鉄道車両年鑑2013年版」(2013年10月・電気車研究会)
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* 『鉄道ピクトリアル』通巻909号「鉄道車両年鑑2015年版」(2015年10月・電気車研究会)
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** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2014年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 237-248|publisher= |ref = 年鑑2015一覧}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻923号「鉄道車両年鑑2016年版」(2016年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year= |month= |title=2015年度民鉄車両動向|journal= |issue= |pages= 93-123|publisher= |ref = 年鑑2016動向}}
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2015年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 215-227|publisher= |ref = 年鑑2016一覧}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Keikyu 2000 series|京急2000形電車}}
{{京浜急行電鉄の車両}}
{{ブルーリボン賞選定車両一覧}}
{{DEFAULTSORT:けいきゆう2000かたてんしや}}
[[Category:京浜急行電鉄の電車|2000]]
[[Category:1982年製の鉄道車両]]
[[Category:東急車輛製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
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埼玉新都市交通伊奈線
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伊奈線(いなせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から同県北足立郡伊奈町の内宿駅までを結ぶ埼玉新都市交通の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。ニューシャトル(英語: New Shuttle)という愛称が付けられている。駅ナンバリングの路線記号はNS。
東日本旅客鉄道(JR東日本)の東北・上越新幹線が通過する、埼玉県さいたま市大宮区、同市北区、上尾市、北足立郡伊奈町を結んでいる。また、さいたま市大宮区大成町にある鉄道博物館へは、鉄道博物館駅が博物館と一体型の最寄駅となっており、当路線が主要なアクセスルートとなっている。
開業した1983年当時は、ゴムタイヤの新交通システム (AGT) はまだ珍しく、特に首都圏では先駆的な路線である(首都圏のAGT路線は、前年開業の中央案内軌条式のユーカリが丘線が最初で、その後に側方案内軌条方式で当路線、西武山口線レオライナー、金沢シーサイドライン、ゆりかもめ、日暮里・舎人ライナーが開業した)。
路線と列車の愛称である「ニューシャトル」は、新しいを意味する「ニュー」と、往復する交通機関等によく使われる語である「シャトル」(機織りで横糸(緯)を通す器具であるシャトル〈杼=ひ・梭=おさ〉に由来する)を組み合わせたものである。
路線は全区間が高架で、東北・上越新幹線の高架に沿って敷設されており、ほとんどの区間で橋脚を新幹線と共用している。複線区間である大宮駅 - 丸山駅間は、東北・上越新幹線の高架橋の両側に、単線区間である丸山駅 - 内宿駅間は、上越新幹線の西側(下り線側)に、それぞれ沿って路線が敷設されている。単線区間では全ての駅で上り・下り列車の交換ができる。
起点の大宮駅ではループ線式の折り返しを採用しており、終点の内宿駅や、車庫のある丸山駅では通常の折り返しであるため、列車の向きが一往復するごとに反対になることが大きな特徴である。
上り線の加茂宮駅 - 鉄道博物館駅間では、NTT東日本東大成ビル(電話局)が新幹線の高架線に近接しており、線路を敷設する空間が確保できなかったため、ビルを避けて新幹線高架下に線路を通したが、勾配と急カーブが生じて速度制限がかかり、同駅間の所要時間は上り列車の方が1分長くなっている。
新幹線の高架の高さを走るため、進行方向左側の車窓からは、さいたま市・上尾市・伊奈町の景色を眺めることができる。関東平野のほぼ中央部を走行しており、よく晴れた日には秩父の山並みや富士山、筑波山、男体山、赤城山なども見通せ、埼玉新都市交通では眺望のよさをアピールしている。進行方向右側(内宿駅→丸山駅間では左側)の車窓からは、路盤が新幹線の線路より高い区間では、並走する新幹線列車を望むこともできるが、低い区間ではコンクリート壁に視界を遮られる。
大宮駅以外の駅舎は新幹線高架真下の地上コンコースと高架ホームの2階建て構造である。中央自由通路と連結した大宮駅以外は、開業当初の垂直移動は階段のみであった。2000年代後半に入り、交通バリアフリー化の一環で、鉄道博物館・加茂宮・東宮原・今羽・原市・沼南・丸山・伊奈中央・羽貫・内宿の各駅には沿線自治体の助成によりエレベーターが設置された。鉄道博物館駅にはエスカレーターも設置されている。
さいたま市北区(旧大宮市北部)における大型マンションの急増や大型ショッピングモールの建設、上尾市東部や伊奈町におけるニュータウン的な街づくりや学校・企業誘致などにより、開業時から一貫して沿線人口が増加し続けている。しかし、当路線は新交通システム特有の小型車両のため乗車可能人数に限界があり、利用客の自然増加や振替輸送による車内混雑への対応が課題である。あわせて、大宮駅改札内のキャパシティ限界における通勤通学時間帯の乗降客の激しい混雑や、加茂宮駅以北のホーム幅の狭さによる混雑(いずれも開業時からの増床等はされていない)も同様の課題である。
伊奈線は自動列車運転装置 (ATO) を採用しておらず、自動列車制御装置(ATC)による車内信号閉塞方式での運転士による手動運転(ワンマン運転)となっている。将来の自動運転に対応できるように、車両側にはATOの運転装置が搭載されている。駅に停車した際の車両のドアの開閉は、進行方向先頭の運転室(乗務員室)で運転士による車掌スイッチの操作により行なっている。丸山・内宿以外では、運転席側である左側の扉を開けるため、単線区間の各駅(島式ホーム)では、他の多くの日本の鉄道路線の左側通行と違い、右側通行で進入する。 各駅にはホームドアは設置されておらず、ホーム上には車両のドアの位置だけ省いた安全柵が設置されており、「線路は高圧電流が流れているので絶対立ち入らない」旨の注意書きが多数掲示されている。 これらの点は、同様の新交通システムであるゆりかもめや金沢シーサイドラインなどとは異なっている。なお、手動運転かつホームドア無しのAGTは他に西武山口線レオライナーとユーカリが丘線があるが、これらはATCではなくATSを使用しており、加えてユーカリが丘線は中央案内式である。
自動改札機は駅員(社員)が常駐している大宮駅と鉄道博物館駅のみの設置となっている。その他の駅は早朝深夜を除き、準社員の駅員が交代制で改札業務と駅売店業務を行っている。スタンド式の売店の横に、券売機と改札窓口がある。交通系ICカードは簡易Suica改札機で対応している。 駅での放送は接近案内のみであるが、電車到着時には、車内と車外両方のスピーカーで到着駅名の自動放送がされ、駅舎側の到着時放送を兼ねている。
12.7kmの路線に13駅あり、駅間の平均距離は約1060mだが、加茂宮 - 沼南間は800mごと、志久 - 内宿間は1.1kmごととなっている。大宮の市街地寄りの方が駅間が離れており、最も離れているのはJR高崎線・川越線と旧中山道を跨ぐ鉄道博物館 - 加茂宮間の1.7kmであり、JRの車両工場の中を通る大宮 - 鉄道博物館間も1.5kmある。
案内軌条式鉄道は、通常の鉄道と違いゴムタイヤを装着して走行するため、比較的雨や雪に強いとされているが、当路線は特に雪(結氷)には弱い。 これは地上にある丸山車両基地と高架である本線との間がコンクリート製のスロープ軌道で繋がれているがこの傾斜が他の案内軌条式鉄道路線と比べて急であること、および沿線が内陸部のため冬季の最低気温が東京都心よりかなり低く、冬季の降雨や降雪などによる軌道内の結氷で軌道面が滑りやすくなると、安全の観点から運行を見合わせざるを得ないためである。その対策として、勾配軌道面には融雪や融氷のための電熱線を敷いたり、冬季は先頭車両前面に除雪装置が取り付けられる。 その他の気象条件や自然災害には比較的強く、並走するJR各線が豪雨や強風で運転を見合わせていても当路線は通常ダイヤで運行されていることが多い。東日本大震災の際もいち早く運転を再開させ、当時沿線住民の貴重な移動手段として活躍した。
高架線であり、当然踏切等もないことから、人身事故は極端に少なく、JR各線の影響も全く受けないため、しばしば振替輸送に利用されている。
東北・上越新幹線の建設に伴い両新幹線の分岐点が設けられる伊奈町では、町域が3つに分断されるとして、新幹線建設反対運動が起こった。そこで、当時の町長であった加藤操の尽力により、地域住民(旧大宮市・上尾市・伊奈町)への見返りとして、都市鉄道を建設することとなった。同じく建設反対を訴えた戸田市・旧浦和市・旧与野市住民への見返りとしては埼京線が建設されたが、伊奈線沿線には普通の鉄道を建設する程の需要はないと判断し、中量輸送機関として当時各地で建設されていた新交通システムAGTを導入した。
おおむね、早朝・夜間以外は10分間隔で運行されているが、平日昼間に15分間隔運転時間帯がある。平日の朝・夕方の通勤時間帯、土曜・休日の夜に大宮 - 丸山間の区間列車があり、夜間以外の区間列車運行時間帯は3 - 5分間隔で運行される。また、平日の朝は丸山 - 内宿間の区間列車も下り1本のみ設定されている。
2014年4月7日、ダイヤ改正を行い、早朝6時台に大宮 - 丸山間の区間列車を1往復増発。また平日12時台に2往復増発した。これにより平日昼間の15分間隔運転時間帯は13時から14時半までのみとなった。埼玉新都市交通によると、同月の消費税の8%への増税に合わせ、増税分の3%にあたる分の運行本数を増発した。なお平日昼間の13時から14時半についても次のダイヤ改正で10分間隔化を目指すとしていたが、そのダイヤ改正を次回の消費税再増税に合わせて行うかどうかについては明らかにしなかった。消費税が10%に増税された2019年は、増税半年前の4月1日にダイヤ改正を実施したが、平日昼間13時台に15分間隔運転時間帯が残ったままである。2022年3月のダイヤ改正では、新型コロナウイルス感染症拡大の影響による乗客数の減少を受け、15分間隔運転の時間帯が土休日も含めた11時台から14時台に拡大されたほか、夜間や平日夕方の帰宅時間帯でも減便が行われた。
全駅埼玉県に所在。
大人普通旅客運賃(小児半額・きっぷは10円未満切り上げ、ICカードは1円未満切り捨て)。2019年10月1日改定。
埼玉新都市交通伊奈線のみの自社線定期券は伊奈線の大宮駅窓口のみの発売となる。沿線住民が自社線定期券購入のために大宮駅へ赴く場合は、駅売店販売員に申し出れば専用の乗車証で乗車することができる。自社線のみの定期券はSuica導入後も従来通り磁気定期券のみとなり、Suica定期券は発売していない。
2008年3月15日からJR東日本との連絡定期券に限りSuica定期券、東武鉄道との連絡定期券に限りPASMO定期券が利用できる。発売は他社線側となり、JRのみどりの窓口・多機能券売機・指定席券売機、東武の定期券売り場で行われている。
開業時から日本初の鉄道用プリペイドカードとして乗車券購入用の「フレッシュカード (Fresh Card)」を発行していた。自動券売機で乗車券に引き換える方式のカードであり、自動改札機に投入できる乗車カードではない。2006年(平成18年)9月30日で発売を、翌2007年(平成19年)1月31日で通用をそれぞれ終了したため、現在は全駅にて手数料無料で払い戻しができる。
開業当時のフレッシュカードは紙製のカードにクレジットカードのような磁気ストライプを配置した方式で、有効期限は3か月間だった。その後、他社と同様のプラスチック製磁気カードに変更されている。紙カードからプラスチックカードへの切り替え時3か月間は発売停止としていた。なお、紙カード時代、プラスチックカード時代ともに他社のように券面にパンチ穴は開けずに裏面に残額が印字される方式であり、紙カードの時代は残額が0円になると自動券売機に自動的に回収される仕様であった。
そのフレッシュカードの代替として、2007年3月18日からICカードSuicaが導入された。
フレッシュカードの通用終了に併せて、同年2月から約1か月間にわたり自動券売機と自動改札機の更新、および簡易型改札機の新設を行った。いずれもJR東日本と同型の機種の色違いである。なお、大宮駅は自動改札機の更新、鉄道博物館駅は自動改札機の新設、それ以外の各駅は簡易型改札機の設置でそれぞれ対応する。チャージ(入金)は大宮 - 内宿間の各駅で自動券売機で行える。一回の操作でチャージできる金額はJR東日本と同じ。今羽 - 内宿間の各駅は1000円分のみチャージ可能な簡易チャージ機が設置されていたが、近年この各駅でも自動券売機が更新され、券売機でのチャージが可能となったことから前述の簡易チャージ機は閉鎖された。
2007年3月のSuica導入から現在までの時点では無記名Suica(大人用)カードのみ発売されている。ただし記名式のMy Suicaへの変更、紛失・再発行は埼玉新都市交通では扱っていない(取り扱っている他Suica事業者での受付は可能)。なお紛失・障害時の再発行登録(登録のみで再発行はできない)は、Suica、PASMOについて大宮駅、鉄道博物館駅で可能である。
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"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)の東北・上越新幹線が通過する、埼玉県さいたま市大宮区、同市北区、上尾市、北足立郡伊奈町を結んでいる。また、さいたま市大宮区大成町にある鉄道博物館へは、鉄道博物館駅が博物館と一体型の最寄駅となっており、当路線が主要なアクセスルートとなっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "開業した1983年当時は、ゴムタイヤの新交通システム (AGT) はまだ珍しく、特に首都圏では先駆的な路線である(首都圏のAGT路線は、前年開業の中央案内軌条式のユーカリが丘線が最初で、その後に側方案内軌条方式で当路線、西武山口線レオライナー、金沢シーサイドライン、ゆりかもめ、日暮里・舎人ライナーが開業した)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "路線と列車の愛称である「ニューシャトル」は、新しいを意味する「ニュー」と、往復する交通機関等によく使われる語である「シャトル」(機織りで横糸(緯)を通す器具であるシャトル〈杼=ひ・梭=おさ〉に由来する)を組み合わせたものである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "路線は全区間が高架で、東北・上越新幹線の高架に沿って敷設されており、ほとんどの区間で橋脚を新幹線と共用している。複線区間である大宮駅 - 丸山駅間は、東北・上越新幹線の高架橋の両側に、単線区間である丸山駅 - 内宿駅間は、上越新幹線の西側(下り線側)に、それぞれ沿って路線が敷設されている。単線区間では全ての駅で上り・下り列車の交換ができる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "起点の大宮駅ではループ線式の折り返しを採用しており、終点の内宿駅や、車庫のある丸山駅では通常の折り返しであるため、列車の向きが一往復するごとに反対になることが大きな特徴である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "上り線の加茂宮駅 - 鉄道博物館駅間では、NTT東日本東大成ビル(電話局)が新幹線の高架線に近接しており、線路を敷設する空間が確保できなかったため、ビルを避けて新幹線高架下に線路を通したが、勾配と急カーブが生じて速度制限がかかり、同駅間の所要時間は上り列車の方が1分長くなっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "新幹線の高架の高さを走るため、進行方向左側の車窓からは、さいたま市・上尾市・伊奈町の景色を眺めることができる。関東平野のほぼ中央部を走行しており、よく晴れた日には秩父の山並みや富士山、筑波山、男体山、赤城山なども見通せ、埼玉新都市交通では眺望のよさをアピールしている。進行方向右側(内宿駅→丸山駅間では左側)の車窓からは、路盤が新幹線の線路より高い区間では、並走する新幹線列車を望むこともできるが、低い区間ではコンクリート壁に視界を遮られる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "大宮駅以外の駅舎は新幹線高架真下の地上コンコースと高架ホームの2階建て構造である。中央自由通路と連結した大宮駅以外は、開業当初の垂直移動は階段のみであった。2000年代後半に入り、交通バリアフリー化の一環で、鉄道博物館・加茂宮・東宮原・今羽・原市・沼南・丸山・伊奈中央・羽貫・内宿の各駅には沿線自治体の助成によりエレベーターが設置された。鉄道博物館駅にはエスカレーターも設置されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "さいたま市北区(旧大宮市北部)における大型マンションの急増や大型ショッピングモールの建設、上尾市東部や伊奈町におけるニュータウン的な街づくりや学校・企業誘致などにより、開業時から一貫して沿線人口が増加し続けている。しかし、当路線は新交通システム特有の小型車両のため乗車可能人数に限界があり、利用客の自然増加や振替輸送による車内混雑への対応が課題である。あわせて、大宮駅改札内のキャパシティ限界における通勤通学時間帯の乗降客の激しい混雑や、加茂宮駅以北のホーム幅の狭さによる混雑(いずれも開業時からの増床等はされていない)も同様の課題である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "伊奈線は自動列車運転装置 (ATO) を採用しておらず、自動列車制御装置(ATC)による車内信号閉塞方式での運転士による手動運転(ワンマン運転)となっている。将来の自動運転に対応できるように、車両側にはATOの運転装置が搭載されている。駅に停車した際の車両のドアの開閉は、進行方向先頭の運転室(乗務員室)で運転士による車掌スイッチの操作により行なっている。丸山・内宿以外では、運転席側である左側の扉を開けるため、単線区間の各駅(島式ホーム)では、他の多くの日本の鉄道路線の左側通行と違い、右側通行で進入する。 各駅にはホームドアは設置されておらず、ホーム上には車両のドアの位置だけ省いた安全柵が設置されており、「線路は高圧電流が流れているので絶対立ち入らない」旨の注意書きが多数掲示されている。 これらの点は、同様の新交通システムであるゆりかもめや金沢シーサイドラインなどとは異なっている。なお、手動運転かつホームドア無しのAGTは他に西武山口線レオライナーとユーカリが丘線があるが、これらはATCではなくATSを使用しており、加えてユーカリが丘線は中央案内式である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "自動改札機は駅員(社員)が常駐している大宮駅と鉄道博物館駅のみの設置となっている。その他の駅は早朝深夜を除き、準社員の駅員が交代制で改札業務と駅売店業務を行っている。スタンド式の売店の横に、券売機と改札窓口がある。交通系ICカードは簡易Suica改札機で対応している。 駅での放送は接近案内のみであるが、電車到着時には、車内と車外両方のスピーカーで到着駅名の自動放送がされ、駅舎側の到着時放送を兼ねている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "12.7kmの路線に13駅あり、駅間の平均距離は約1060mだが、加茂宮 - 沼南間は800mごと、志久 - 内宿間は1.1kmごととなっている。大宮の市街地寄りの方が駅間が離れており、最も離れているのはJR高崎線・川越線と旧中山道を跨ぐ鉄道博物館 - 加茂宮間の1.7kmであり、JRの車両工場の中を通る大宮 - 鉄道博物館間も1.5kmある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "案内軌条式鉄道は、通常の鉄道と違いゴムタイヤを装着して走行するため、比較的雨や雪に強いとされているが、当路線は特に雪(結氷)には弱い。 これは地上にある丸山車両基地と高架である本線との間がコンクリート製のスロープ軌道で繋がれているがこの傾斜が他の案内軌条式鉄道路線と比べて急であること、および沿線が内陸部のため冬季の最低気温が東京都心よりかなり低く、冬季の降雨や降雪などによる軌道内の結氷で軌道面が滑りやすくなると、安全の観点から運行を見合わせざるを得ないためである。その対策として、勾配軌道面には融雪や融氷のための電熱線を敷いたり、冬季は先頭車両前面に除雪装置が取り付けられる。 その他の気象条件や自然災害には比較的強く、並走するJR各線が豪雨や強風で運転を見合わせていても当路線は通常ダイヤで運行されていることが多い。東日本大震災の際もいち早く運転を再開させ、当時沿線住民の貴重な移動手段として活躍した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "高架線であり、当然踏切等もないことから、人身事故は極端に少なく、JR各線の影響も全く受けないため、しばしば振替輸送に利用されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "東北・上越新幹線の建設に伴い両新幹線の分岐点が設けられる伊奈町では、町域が3つに分断されるとして、新幹線建設反対運動が起こった。そこで、当時の町長であった加藤操の尽力により、地域住民(旧大宮市・上尾市・伊奈町)への見返りとして、都市鉄道を建設することとなった。同じく建設反対を訴えた戸田市・旧浦和市・旧与野市住民への見返りとしては埼京線が建設されたが、伊奈線沿線には普通の鉄道を建設する程の需要はないと判断し、中量輸送機関として当時各地で建設されていた新交通システムAGTを導入した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "おおむね、早朝・夜間以外は10分間隔で運行されているが、平日昼間に15分間隔運転時間帯がある。平日の朝・夕方の通勤時間帯、土曜・休日の夜に大宮 - 丸山間の区間列車があり、夜間以外の区間列車運行時間帯は3 - 5分間隔で運行される。また、平日の朝は丸山 - 内宿間の区間列車も下り1本のみ設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2014年4月7日、ダイヤ改正を行い、早朝6時台に大宮 - 丸山間の区間列車を1往復増発。また平日12時台に2往復増発した。これにより平日昼間の15分間隔運転時間帯は13時から14時半までのみとなった。埼玉新都市交通によると、同月の消費税の8%への増税に合わせ、増税分の3%にあたる分の運行本数を増発した。なお平日昼間の13時から14時半についても次のダイヤ改正で10分間隔化を目指すとしていたが、そのダイヤ改正を次回の消費税再増税に合わせて行うかどうかについては明らかにしなかった。消費税が10%に増税された2019年は、増税半年前の4月1日にダイヤ改正を実施したが、平日昼間13時台に15分間隔運転時間帯が残ったままである。2022年3月のダイヤ改正では、新型コロナウイルス感染症拡大の影響による乗客数の減少を受け、15分間隔運転の時間帯が土休日も含めた11時台から14時台に拡大されたほか、夜間や平日夕方の帰宅時間帯でも減便が行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全駅埼玉県に所在。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・きっぷは10円未満切り上げ、ICカードは1円未満切り捨て)。2019年10月1日改定。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "埼玉新都市交通伊奈線のみの自社線定期券は伊奈線の大宮駅窓口のみの発売となる。沿線住民が自社線定期券購入のために大宮駅へ赴く場合は、駅売店販売員に申し出れば専用の乗車証で乗車することができる。自社線のみの定期券はSuica導入後も従来通り磁気定期券のみとなり、Suica定期券は発売していない。",
"title": "定期券"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日からJR東日本との連絡定期券に限りSuica定期券、東武鉄道との連絡定期券に限りPASMO定期券が利用できる。発売は他社線側となり、JRのみどりの窓口・多機能券売機・指定席券売機、東武の定期券売り場で行われている。",
"title": "定期券"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "開業時から日本初の鉄道用プリペイドカードとして乗車券購入用の「フレッシュカード (Fresh Card)」を発行していた。自動券売機で乗車券に引き換える方式のカードであり、自動改札機に投入できる乗車カードではない。2006年(平成18年)9月30日で発売を、翌2007年(平成19年)1月31日で通用をそれぞれ終了したため、現在は全駅にて手数料無料で払い戻しができる。",
"title": "乗車カード"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "開業当時のフレッシュカードは紙製のカードにクレジットカードのような磁気ストライプを配置した方式で、有効期限は3か月間だった。その後、他社と同様のプラスチック製磁気カードに変更されている。紙カードからプラスチックカードへの切り替え時3か月間は発売停止としていた。なお、紙カード時代、プラスチックカード時代ともに他社のように券面にパンチ穴は開けずに裏面に残額が印字される方式であり、紙カードの時代は残額が0円になると自動券売機に自動的に回収される仕様であった。",
"title": "乗車カード"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "そのフレッシュカードの代替として、2007年3月18日からICカードSuicaが導入された。",
"title": "乗車カード"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "フレッシュカードの通用終了に併せて、同年2月から約1か月間にわたり自動券売機と自動改札機の更新、および簡易型改札機の新設を行った。いずれもJR東日本と同型の機種の色違いである。なお、大宮駅は自動改札機の更新、鉄道博物館駅は自動改札機の新設、それ以外の各駅は簡易型改札機の設置でそれぞれ対応する。チャージ(入金)は大宮 - 内宿間の各駅で自動券売機で行える。一回の操作でチャージできる金額はJR東日本と同じ。今羽 - 内宿間の各駅は1000円分のみチャージ可能な簡易チャージ機が設置されていたが、近年この各駅でも自動券売機が更新され、券売機でのチャージが可能となったことから前述の簡易チャージ機は閉鎖された。",
"title": "乗車カード"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2007年3月のSuica導入から現在までの時点では無記名Suica(大人用)カードのみ発売されている。ただし記名式のMy Suicaへの変更、紛失・再発行は埼玉新都市交通では扱っていない(取り扱っている他Suica事業者での受付は可能)。なお紛失・障害時の再発行登録(登録のみで再発行はできない)は、Suica、PASMOについて大宮駅、鉄道博物館駅で可能である。",
"title": "乗車カード"
}
] |
伊奈線(いなせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から同県北足立郡伊奈町の内宿駅までを結ぶ埼玉新都市交通の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。ニューシャトルという愛称が付けられている。駅ナンバリングの路線記号はNS。
|
{{出典の明記|date=2014年6月6日 (金) 22:27 (UTC)}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Saitama New Urban Transit Logomark.svg|18px|link=埼玉新都市交通]] 伊奈線
|路線色 = #339999
|ロゴ = File:New Shuttle Line symbol.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Newshuttle2021wiki.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 埼玉新都市交通2020系・21編成。([[加茂宮駅]])
|通称 = ニューシャトル
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[埼玉県]]
|種類 = [[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])
|起点 = [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|終点 = [[内宿駅]]
|駅数 = 13駅
|路線記号 = NS
|開業 = {{start date and age|1983|12|22}}
|最終延伸 = {{start date and age|1990|8|2}}
|休止 =
|廃止 =
|所有者 = [[埼玉新都市交通]]
|運営者 = 埼玉新都市交通
|車両基地 = 丸山車両基地
|使用車両 = [[埼玉新都市交通#保有車両]]を参照
|路線距離 = 12.7 [[キロメートル|km]]
|線路数 = [[複線]](大宮 - 丸山間)、[[単線]](左記以外)
|電化方式 = [[三相交流]]600[[ボルト (単位)|V]]・50[[ヘルツ (単位)|Hz]]
|最大勾配 = 下り勾配:59 [[パーミル|‰]]<ref name="jtoa1983-10"/><br/>上り勾配:55 ‰<ref name="jtoa1983-10"/>
|最小曲線半径 = 25 m<ref name="jtoa1983-10"/>
|閉塞方式 = [[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号式]]
|保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]]、[[自動進路制御装置|ARC]]
|最高速度 = 60 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 = 埼玉新都市交通伊奈線 路線図.png
|路線図名 =
|路線図表示 = <!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|停車場・施設・接続路線 |#339999}}
{{BS-table}}
{{BS8text|1|2|3||4|||||1: [[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[京浜東北線]] 2: JR東:[[宇都宮線]]|}}
{{BS8|STR|STR|tSTRa||hSTR||||||3: JR東:[[埼京線]] 4: JR東:[[東北新幹線]]}}
{{BS8|KSTRe|O1=lBHF-L|P1=HUBrg-R|BHF-M|O2=HUB-Lq|tBHF-M|O3=HUB-Lq|lBHF-M|O4=HUB-Lq|hBHF-R|O5=HUBlg-L||||||[[大宮駅 (埼玉県)#JR東日本|大宮駅 (JR東日本)]]}}
{{BS8|HUB-R|STR|tSTR||hSTR|O5=HUBlf-L|HUBtf-3|uexKBHFaq|O7=exHUBeq|uexSTRq|||''[[大宮駅 (西武)]] [[西武鉄道|西武]]'':''[[西武大宮線|大宮線]]'' -1941}}
{{BS8|KBHFa|O1=HUBlf-R|STR|O2=HUB-Rq|tSTR|O3=HUB-Rq|HUB-Rq|hSTR|O5=HUB-Rq|HUBtr-4|||||[[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮駅 (東武)]]}}
{{BS8|STR|STR|tSTR|uhSTR+l|mhKRZho|lhSTRq|O6=uBHF(L)fq|P6=HUBe|uhSTRq|uhSTR+r|0.0|NS01 [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]| (埼玉新都市交通)}}
{{BS8|STRr|kABZg3|tSTR|uhSTR|hSTR|||uhSTR|||[[東武鉄道|東武]]:[[東武野田線|野田線{{Smaller|(東武アーバンパークライン)}}]]|}}
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{{BS6|kSTR2|STRl|umhKRZ|hKRZ|umhKRZ|STRq|||JR東:[[川越線]]}}
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{{BS6|unSTRc1|unSTR+4|O2=uhSTRc1|uhSTR2+4|O3=lhMSTR|P3=STR|unSTR|O4=uSTRc23|uhSTR3+1|O5=lhMSTR|P5=STR|uhSTRc4}}
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{{BS4||hSTR|uhBHF|hSTR|8.2|NS09 [[丸山駅 (埼玉県)|丸山駅]]|}}
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{{BS4|||hSTR|uhBHF|9.4|NS10 [[志久駅]]|}}
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{{BS4|||hSTR|uhKBHFe|12.7|NS13 [[内宿駅]]|}}
{{BS2||hSTR|||JR東:[[上越新幹線]]|}}
|}
|}
[[File:New Shuttle Ina Line.JPG|thumb|250px|新幹線の高架橋の脇を走る伊奈線の列車(写真中央部の黄色い列車が伊奈線。2009年撮影)]]
[[File:NTT-East-Higashi-Onari-Bld.jpg|thumb|250px|加茂宮 - 鉄道博物館間の上り線。中央のビルがNTT東日本東大成ビルで、新幹線高架と近接している。{{国土航空写真}}]]
'''伊奈線'''(いなせん)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から、同県[[北足立郡]][[伊奈町]]の[[内宿駅]]までを結ぶ、[[埼玉新都市交通]]の[[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])路線である<ref name="jtoa1983-10">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1983年10月号「開業間近 埼玉新交通システム」pp.24 - 25。</ref>。'''ニューシャトル'''({{Lang-en|New Shuttle}})の[[愛称]]が付けられている。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''NS'''。
== 概要 ==
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]が通過する、埼玉県さいたま市大宮区、同市[[北区 (さいたま市)|北区]]、[[上尾市]]、北足立郡伊奈町を結んでいる。また、さいたま市大宮区[[大成町 (さいたま市)|大成町]]にある[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]へは、[[鉄道博物館駅]]が博物館と一体型の最寄駅となっており、当路線が主要なアクセスルートとなっている。
開業した[[1983年]]当時は、[[タイヤ|ゴムタイヤ]]の[[新交通システム]] (AGT) はまだ珍しく、特に[[首都圏 (日本)|首都圏]]では先駆的な路線である(首都圏のAGT路線は、前年開業の中央[[案内軌条式鉄道|案内軌条]]式の[[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]]が最初で、その後に側方案内軌条方式で当路線、[[西武山口線|西武山口線レオライナー]]、[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]]、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]が開業した)。
路線と列車の愛称である「ニューシャトル」は、新しいを意味する「ニュー」と、往復する交通機関等によく使われる語である「シャトル」([[機織り]]で横糸(緯)を通す器具である[[シャトル (織物)|シャトル]]〈杼=ひ・梭=おさ〉に由来する)を組み合わせたものである<ref name="guide">[http://www.new-shuttle.jp/guide/ ニューシャトルあれこれ] - 埼玉新都市交通</ref>。
=== 路線の特徴 ===
路線は全区間が高架で、東北・上越新幹線の高架に沿って敷設されており、ほとんどの区間で橋脚を新幹線と共用している。[[複線]]区間である大宮駅 - [[丸山駅 (埼玉県)|丸山駅]]間は、東北・上越新幹線の高架橋の両側に、[[単線]]区間である丸山駅 - 内宿駅間は、上越新幹線の西側(下り線側)に、それぞれ沿って路線が敷設されている<ref name="jtoa1983-10"/><ref name="jtoa1993-8">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1993年8月号「埼玉新都市交通ニューシャトルの概要」pp.4 - 7。</ref>。単線区間では全ての駅で上り・下り列車の[[列車交換|交換]]ができる。
起点の大宮駅では[[ループ線]]式の折り返しを採用しており、終点の内宿駅や、車庫のある丸山駅では通常の折り返しであるため、列車の向きが一往復するごとに反対になることが大きな特徴である。
上り線の[[加茂宮駅]] - 鉄道博物館駅間では、[[東日本電信電話|NTT東日本]]東大成ビル([[電話局]])が新幹線の高架線に近接しており、線路を敷設する空間が確保できなかったため、ビルを避けて新幹線高架下に線路を通したが、勾配と急カーブが生じて速度制限がかかり、同駅間の所要時間は上り列車の方が1分長くなっている。
新幹線の高架の高さを走るため、進行方向左側の車窓からは、さいたま市・上尾市・伊奈町の景色を眺めることができる。[[関東平野]]のほぼ中央部を走行しており、よく晴れた日には[[秩父山地|秩父の山並み]]や[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[筑波山]]、[[男体山]]、[[赤城山]]なども見通せ、埼玉新都市交通では眺望のよさをアピールしている<ref>[http://www.new-shuttle.jp/guide/ ニューシャトルあれこれ] - 埼玉新都市交通</ref>。進行方向右側(内宿駅→丸山駅間では左側)の車窓からは、路盤が新幹線の線路より高い区間では、並走する新幹線列車を望むこともできるが、低い区間ではコンクリート壁に視界を遮られる。
大宮駅以外の駅舎は新幹線高架真下の地上コンコースと高架ホームの2階建て構造である。中央自由通路と連結した大宮駅以外は、開業当初の垂直移動は階段のみであった。[[2000年代]]後半に入り、交通[[バリアフリー]]化の一環で、鉄道博物館・加茂宮・[[東宮原駅|東宮原]]・[[今羽駅|今羽]]・[[原市駅|原市]]・[[沼南駅|沼南]]・丸山・[[伊奈中央駅|伊奈中央]]・[[羽貫駅|羽貫]]・内宿の各駅には沿線自治体の助成により[[エレベーター]]が設置された。鉄道博物館駅には[[エスカレーター]]も設置されている。
さいたま市北区(旧[[大宮市]]北部)における大型マンションの急増や大型[[ショッピングモール]]の建設、上尾市東部や伊奈町における[[日本のニュータウン|ニュータウン]]的な街づくりや学校・企業誘致などにより、開業時から一貫して沿線人口が増加し続けている。しかし、当路線は新交通システム特有の小型車両のため乗車可能人数に限界があり、利用客の自然増加や振替輸送による車内混雑への対応が課題である。あわせて、大宮駅改札内の[[キャパシティ]]限界における通勤通学時間帯の乗降客の激しい混雑や、加茂宮駅以北のホーム幅の狭さによる混雑(いずれも開業時からの増床等はされていない)も同様の課題である。
伊奈線は[[自動列車運転装置]] (ATO) を採用しておらず、[[自動列車制御装置]](ATC)による[[車内信号]]閉塞方式での[[運転士]]による手動運転([[ワンマン運転]])となっている。将来の自動運転に対応できるように、車両側にはATOの運転装置が搭載されている。駅に停車した際の車両のドアの開閉は、進行方向先頭の運転室(乗務員室)で[[運転士]]による[[車掌スイッチ]]の操作により行なっている。丸山・内宿以外では、運転席側である左側の扉を開けるため、単線区間の各駅(島式ホーム)では、他の多くの日本の鉄道路線の左側通行と違い、右側通行で進入する。
各駅には[[ホームドア]]は設置されておらず、ホーム上には車両のドアの位置だけ省いた安全柵が設置されており、「線路は高圧電流が流れているので絶対立ち入らない」旨の注意書きが多数掲示されている。
これらの点は、同様の新交通システムである[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]や[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]]などとは異なっている。なお、手動運転かつホームドア無しのAGTは他に[[西武山口線|西武山口線レオライナー]]と[[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]]があるが、これらはATCではなくATSを使用しており、加えてユーカリが丘線は中央案内式である。
[[自動改札機]]は[[駅員]]([[社員]])が常駐している大宮駅と鉄道博物館駅のみの設置となっている。その他の駅は早朝深夜を除き、[[準社員]]の駅員が交代制で[[改札]]業務と駅[[売店]]業務を行っている。スタンド式の売店の横に、券売機と改札窓口がある。交通系ICカードは簡易Suica改札機で対応している。
駅での放送は接近案内のみであるが、電車到着時には、車内と車外両方のスピーカーで到着駅名の自動放送がされ、駅舎側の到着時放送を兼ねている。
12.7kmの路線に13駅あり、駅間の平均距離は約1060mだが、加茂宮 - 沼南間は800mごと、志久 - 内宿間は1.1kmごととなっている。大宮の市街地寄りの方が駅間が離れており、最も離れているのはJR[[高崎線]]・[[川越線]]と旧[[中山道]]を跨ぐ鉄道博物館 - 加茂宮間の1.7kmであり、JRの車両工場の中を通る大宮 - 鉄道博物館間も1.5kmある。
案内軌条式鉄道は、通常の鉄道と違いゴムタイヤを装着して走行するため、比較的[[雨]]や[[雪]]に強いとされているが、当路線は特に雪([[結氷]])には弱い。
これは地上にある丸山[[車両基地]]と高架である本線との間がコンクリート製のスロープ軌道で繋がれているがこの傾斜が他の案内軌条式鉄道路線と比べて急であること、および沿線が[[内陸]]部のため冬季の最低気温が東京都心よりかなり低く、冬季の降雨や降雪などによる軌道内の結氷で軌道面が滑りやすくなると、安全の観点から運行を見合わせざるを得ないためである。その対策として、勾配軌道面には融雪や融氷のための[[電熱線]]を敷いたり、冬季は先頭車両前面に除雪装置が取り付けられる。
その他の気象条件や自然災害には比較的強く、並走する[[JR]]各線が豪雨や強風で運転を見合わせていても当路線は通常ダイヤで運行されていることが多い。[[東日本大震災]]の際もいち早く運転を再開させ、当時沿線住民の貴重な移動手段として活躍した。
高架線であり、当然[[踏切]]等もないことから、人身事故は極端に少なく、JR各線の影響も全く受けないため、しばしば[[振替輸送]]に利用されている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):12.7km<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『平成18年度 鉄道要覧』電気車研究会・鉄道図書刊行会、2006年、p.204</ref><ref name="suujidemiru">国土交通省鉄道局監修『数字で見る鉄道2005』財団法人運輸政策研究機構、2005年、p.52</ref>
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* 案内軌条:側方案内式<ref name="suujidemiru" />
* 駅数:13駅(起終点駅含む)<ref name="suujidemiru" />
* 複線区間:大宮 - 丸山間
* 単線区間:丸山 - 内宿間
* 電気方式:[[三相交流]]600V・50Hz<ref name="guide"/>
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号式]]
* 保安装置:[[自動列車制御装置]] (ATC)、[[自動進路制御装置]] (ARC)<ref name="guide"/>
* 最高速度:60km/h<ref name="guide" />
== 歴史 ==
{{See also|埼玉新都市交通#歴史}}
[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]の建設に伴い両新幹線の分岐点が設けられる[[伊奈町]]では、町域が3つに分断されるとして、新幹線建設反対運動が起こった。そこで、当時の町長であった[[加藤操]]の尽力により、地域住民(旧[[大宮市]]・[[上尾市]]・伊奈町)への見返りとして、都市鉄道を建設することとなった。同じく建設反対を訴えた[[戸田市]]・旧[[浦和市]]・旧[[与野市]]住民への見返りとしては[[埼京線]]が建設されたが、伊奈線沿線には普通の鉄道を建設する程の需要はないと判断し、中量輸送機関として当時各地で建設されていた新交通システム[[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]を導入した。
=== 年表 ===
{{Double image aside|right|Ina Saitama New Urban Transit Ina Line Shelter 1.JPG|240|Ina Saitama New Urban Transit Ina Line Shelter 2.JPG|135|軌道の周囲に設けられたシェルター({{Coord|36|0|35.5|N|139|36|19.5|E|region:JP_type:landmarkl|name=羽貫駅-内宿駅間のシェルター}})|シェルター下にある団結小屋跡}}
* [[1983年]]([[昭和]]58年)[[12月22日]] - 大宮 - 羽貫間開業<ref name="youran" />。[[埼玉新都市交通1000系電車|1000系(のちの1010系)]]6両編成2本、4両編成7本を投入<ref name="JTOA1993-8">日本鉄道運転協会「運転協会誌」1993年8月号「埼玉新都市交通ニューシャトルの概要」pp.4 - 8。</ref>。列車の約半数は大宮 - 丸山間の運転で、丸山以北はデータイムで40分おきだった。
*: 羽貫 - 内宿間の[[地主|地権者]]2名との間で土地交渉がうまく行かなかったため、羽貫までの部分開業となった。その後、1名とは[[1988年]](昭和63年)3月に交渉が成立したが、最後まで残された地権者との交渉は難航をきわめ、この地権者の支援と称して[[三里塚闘争|成田空港闘争]]中の[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]活動家が介入したことで、さらに収拾がつかなくなった。[[1990年]]([[平成]]2年)[[2月17日]]、埼玉県は[[土地収用法]]に基づいて[[行政代執行]]を実施し、普段はのどかな町に[[埼玉県警察|埼玉県警]]の[[機動隊]]が投入される騒動となった。地権者は活動家とともに[[団結小屋]]を建築して立て篭もり、やぐら上部より[[糞便]]を投下するなどの抗議行動を繰り広げたが、最終的に地権者及び活動家は[[公務執行妨害罪]]で検挙され、地権者宅上空の[[地上権#空中権|空中権]]を収用した(管理側道は用地を収用していないため、現在も途切れている)。当該区間の軌道の周囲には、空中権を収用したことを示す金網フェンス状のシェルターがある。
* [[1984年]](昭和59年)[[4月1日]] - 羽貫駅近くに[[伊奈学園総合高校]]が開校することに合わせ、最初のダイヤ改正。
* [[1986年]](昭和61年)4月1日 - ダイヤ改正。
* 1990年(平成2年)[[8月2日]] - 羽貫 - 内宿間開業<ref name="youran" />、全線開通。ダイヤ改正。[[埼玉新都市交通1000系電車#1050系|1050系]](6両)を投入、10編成体制となる(後に13編成まで増備)。
* [[1992年]](平成4年)[[10月1日]] - 全編成の6両編成化達成。
* [[2001年]](平成13年)[[11月16日]] - 各駅のホームに非常停止ボタンを設置。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]] - 土曜ダイヤを廃止し、休日ダイヤに統合<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年12月 |date = 2003-03-01 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 24 }}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]] - ICカード「[[Suica]]」が導入され、当路線でSuicaおよびSuicaと相互利用可能なカードが利用可能となる。<!--[[PASMO]]・[[ICOCA]]と相互利用可能-->
** [[5月22日]] - [[埼玉新都市交通2000系電車|2000系]]の営業運転開始、14編成体制となる。
** [[10月6日]] - 鉄道博物館開館に伴うダイヤ改正を行い、休日のデータイムは10分おきとした。土曜・休日は朝・昼過ぎの鉄道博物館来退館時間帯に大宮 - 丸山間の区間列車を増発(2010年11月28日の運転を最後に同年12月4日ダイヤ改正で廃止)。
** [[10月14日]] - 鉄道博物館開館に合わせ、大成駅を[[鉄道博物館駅|鉄道博物館(大成)駅]]に改称<ref>[https://web.archive.org/web/20071011002033/http://www5.ocn.ne.jp/~snut/ 埼玉新都市交通(株)ニューシャトル] - [[インターネットアーカイブ]]の2007年10月11日のアーカイブ</ref>。また、各駅にステーションカラーが付けられた。
<!--* [[2008年]](平成20年)[[3月29日]] - Suica・[[TOICA]]の相互利用開始に伴いTOICAも全線で利用可能になる。-->
* [[2010年]](平成22年)[[12月21日]] - [[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の鉄道博物館訪問に際し、[[お召し列車]]を大宮駅 - 鉄道博物館駅間を往復で運行。
* [[2013年]](平成25年)[[7月1日]] - 伊奈線開業以来初となる[[発車メロディ|駅メロ]](列車接近メロディー)を大宮駅と鉄道博物館駅(上りホーム)で導入。曲は『[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|銀河鉄道999]]』(大宮駅はイントロとAメロ、鉄道博物館駅はサビが流れる)。
* [[2015年]](平成27年)[[11月4日]] - [[埼玉新都市交通2020系電車|2020系]]の営業運転開始。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月19日]] - 丸山駅止まりだった最終列車を内宿まで延長するダイヤ改正を行う<ref>{{Cite news |title=埼玉新都市交通 最終の運転区間を延長 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-02-26 }}</ref>。
** [[6月26日]] - この日をもって、1010系の営業運転が終了。
* [[2018年]](平成30年)
** 3月19日 - この日より順次、英語車内放送の実施を開始<ref name="2018-03">{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/topics/2018/03/post-90.html|title=駅ナンバリング・多国語表記を実施します!|publisher=埼玉新都市交通|date=2018-03-16|accessdate=2020-06-29}}</ref>。
** 3月23日 - [[駅ナンバリング]]を導入<ref name="2018-03" />。
* [[2019年]](平成31年)1月16日 - 加茂宮駅 - 鉄道博物館駅間を走行中の上り列車(2000系第6編成)の最後尾車両(2606)のタイヤが[[パンク]]、[[バースト]]し、走行路脇に[[脱線]]する事故が発生。乗客は徒歩で駅へ避難。この事故により全線が翌日午後まで運休となり、バス等による振替輸送を実施<ref>[https://www.sankei.com/article/20190116-XXKUJ7QYIJK5PHVW5ENLIFGVNM/ 埼玉新都市交通でパンク 全線復旧めど立たず] - 産経ニュース、2019年1月16日</ref><ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news/2019/01/17/01_.html <ニューシャトル脱線>加茂宮―鉄道博物館で走行路外れる 16日は終日運転見合わせ、17日の運転も未定] - 埼玉新聞、2019年1月16日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM1J5RTHM1JUTNB00R.html 埼玉新都市交通、再開めど立たず 乗客は走行路歩き避難] - 朝日新聞デジタル、2019年1月16日</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月21日]] - 前年の事故を受け、一部車両にてタイヤ内圧監視装置の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/topics/2020/02/post-156.html|title=タイヤ内圧監視装置導入のお知らせ|publisher=埼玉新都市交通|date=2020-02-18|accessdate=2020-06-29}}</ref>。他の車両にも順次導入。
== 運行形態 ==
おおむね、早朝・夜間以外は10分間隔で運行されているが、平日昼間に15分間隔運転時間帯がある。平日の朝・夕方の通勤時間帯、土曜・休日の夜に大宮 - 丸山間の区間列車があり、夜間以外の区間列車運行時間帯は3 - 5分間隔で運行される。また、平日の朝は丸山 - 内宿間の区間列車も下り1本のみ設定されている。
[[2014年]]4月7日、ダイヤ改正を行い、早朝6時台に大宮 - 丸山間の区間列車を1往復増発。また平日12時台に2往復増発した。これにより平日昼間の15分間隔運転時間帯は13時から14時半までのみとなった。埼玉新都市交通によると、同月の[[消費税]]の8%への増税に合わせ、増税分の3%にあたる分の運行本数を増発した。なお平日昼間の13時から14時半についても次のダイヤ改正で10分間隔化を目指すとしていたが、そのダイヤ改正を次回の消費税再増税に合わせて行うかどうかについては明らかにしなかった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.ocn.ne.jp:80/~snut/|title=4月7日ダイヤ改正のお知らせ:平日3%増発|publisher=埼玉新都市交通|accessdate=2021-07-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140313105533/http://www5.ocn.ne.jp:80/~snut/ |archivedate=2014-03-13}}</ref>。消費税が10%に増税された2019年は、増税半年前の4月1日にダイヤ改正を実施したが、平日昼間13時台に15分間隔運転時間帯が残ったままである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/topics/2019/03/41-3.html|title=4月1日(月)ダイヤ改正後の時刻表はこちらです|publisher=埼玉新都市交通|date=2019-03-5|accessdate=2021-07-06}}</ref>。2022年3月のダイヤ改正では、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症拡大]]の影響による乗客数の減少を受け、15分間隔運転の時間帯が土休日も含めた11時台から14時台に拡大されたほか、夜間や平日夕方の帰宅時間帯でも減便が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/topics/2022/02/post-210.html|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=埼玉新都市交通|date=2022-02-17|accessdate=2022-08-26}}</ref>。
== 車両 ==
{{See|埼玉新都市交通#保有車両}}
== 駅一覧 ==
全駅埼玉県に所在。
;凡例
:線路 … ∩:ループ線、<nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇:単線区間(全駅[[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #339999;"|駅番号
!style="width:10em; border-bottom:solid 3px #339999;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #339999;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #339999;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #339999;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #339999;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #339999;"|所在地
|-
!NS01
| [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
| style="text-align:center;" |-
| style="text-align:right;" |0.0
| [[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 47)・[[File:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] (JU 07)・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 24)([[File:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[File:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀線]]直通)・[[上野東京ライン]]・[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 26)・{{Color|#00ac9a|■}}[[川越線]]<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-01)
| style="text-align:center;"|∩
|rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[さいたま市]]|height=6em}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[大宮区]]
|-
!NS02
| [[鉄道博物館駅|鉄道博物館(大成)駅]]
| style="text-align:right;" |1.5
| style="text-align:right;" |1.5
|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
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| [[加茂宮駅]]
| style="text-align:right;" |1.7
| style="text-align:right;" |3.2
|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
| rowspan="4" | [[北区 (さいたま市)|北区]]
|-
!NS04
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|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
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|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
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|
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|-
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|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
| rowspan="2" colspan="2" | [[上尾市]]
|-
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|
| style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!NS09
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| style="text-align:right;" |8.2
|
| style="text-align:center;"|∨
|rowspan="5" colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[北足立郡]]<br>[[伊奈町]]
|-
!NS10
| [[志久駅]]
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |9.4
|
| style="text-align:center;"|◇
|-
!NS11
| [[伊奈中央駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |10.5
|
| style="text-align:center;"|◇
|-
!NS12
| [[羽貫駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |11.6
|
| style="text-align:center;"|◇
|-
!NS13
| [[内宿駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |12.7
|
| style="text-align:center;"|◇
|}
== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児半額・きっぷは10円未満切り上げ、ICカードは1円未満切り捨て)。2019年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.new-shuttle.jp/ticket/post_2.html |title=ニューシャトル運賃表 |publisher=埼玉新都市交通 |accessdate=2019-10-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-06 |url=https://www.new-shuttle.jp/topics/2019/09/post-141.html |title=鉄道旅客運賃の認可および改定について |publisher=埼玉新都市交通 |accessdate=2019-10-08}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|キロ程!!colspan="2"|運賃(円)
|-
!切符購入!!ICカード
|-
|初乗り2km||190||189
|-
|3-4||220||220
|-
|5-6||260||251
|-
|7-8||290||283
|-
|9-10||330||325
|-
|11-13||360||356
|}
== 定期券 ==
埼玉新都市交通伊奈線のみの自社線定期券は伊奈線の大宮駅窓口のみの発売となる。沿線住民が自社線定期券購入のために大宮駅へ赴く場合は、駅売店販売員に申し出れば専用の乗車証で乗車することができる。自社線のみの定期券はSuica導入後も従来通り磁気定期券のみとなり、Suica[[定期乗車券|定期券]]は発売していない。
2008年[[3月15日]]からJR東日本との連絡定期券に限りSuica定期券、東武鉄道との連絡定期券に限り[[PASMO]]定期券が利用できる。発売は他社線側となり、JRのみどりの窓口・多機能券売機・指定席券売機、東武の定期券売り場で行われている。
== 乗車カード ==
開業時から日本初の鉄道用[[プリペイドカード]]として[[乗車券]]購入用の「'''フレッシュカード''' (Fresh Card)」を発行していた。[[自動券売機]]で乗車券に引き換える方式のカードであり、[[自動改札機]]に投入できる[[乗車カード]]ではない。[[2006年]]([[平成]]18年)[[9月30日]]で発売を、翌[[2007年]](平成19年)[[1月31日]]で通用をそれぞれ終了したため、現在は全駅にて手数料無料で払い戻しができる。
開業当時のフレッシュカードは紙製のカードに[[クレジットカード]]のような磁気ストライプを配置した方式で、有効期限は3か月間だった。その後、他社と同様のプラスチック製磁気カードに変更されている。紙カードからプラスチックカードへの切り替え時3か月間は発売停止としていた。なお、紙カード時代、プラスチックカード時代ともに他社のように券面にパンチ穴は開けずに裏面に残額が印字される方式であり、紙カードの時代は残額が0円になると自動券売機に自動的に回収される仕様であった。
そのフレッシュカードの代替として、2007年[[3月18日]]からICカード[[Suica]]が導入された。<!--同時に[[PASMO]]および[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[ICOCA]]との相互利用も開始された。[[2008年]][[3月29日]]からは[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[TOICA]]との相互利用も開始されている。-->
フレッシュカードの通用終了に併せて、同年2月から約1か月間にわたり自動券売機と自動改札機の更新、および簡易型改札機の新設を行った。いずれもJR東日本と同型の機種の色違いである。なお、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]は自動改札機の更新、鉄道博物館駅は自動改札機の新設、それ以外の各駅は簡易型改札機の設置でそれぞれ対応する。チャージ(入金)は大宮 - 内宿間の各駅で自動券売機で行える。一回の操作でチャージできる金額はJR東日本と同じ。今羽 - 内宿間の各駅は1000円分のみチャージ可能な簡易チャージ機が設置されていたが、近年この各駅でも自動券売機が更新され、券売機でのチャージが可能となったことから前述の簡易チャージ機は閉鎖された。
2007年3月のSuica導入から現在までの時点<ref>[http://www.new-shuttle.jp/contact/faq.html よくあるご質問 Q IC定期券は買えますか] - 埼玉新都市交通</ref>では無記名Suica(大人用)カードのみ発売されている。ただし記名式のMy Suicaへの変更、紛失・再発行は埼玉新都市交通では扱っていない(取り扱っている他Suica事業者での受付は可能)。なお紛失・障害時の再発行登録(登録のみで再発行はできない)は、Suica、PASMOについて大宮駅、鉄道博物館駅で可能である<ref>[http://www.new-shuttle.jp/ticket/ticket.html 切符・定期の使い方 ニューシャトルでご利用可能なサービス] - 埼玉新都市交通</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[新交通システム]]
== 外部リンク ==
* [https://www.new-shuttle.jp/ 埼玉新都市交通]
{{日本の新交通システム}}
{{デフォルトソート:さいたましんとしこうつういなせん}}
[[Category:埼玉新都市交通|路いなせん]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|いなせん]]
[[Category:第三セクター路線]]
[[Category:日本の新交通システム]]
[[Category:案内軌条式鉄道路線|いなせん]]
[[Category:埼玉県の交通]]
|
2003-09-05T13:12:59Z
|
2023-11-28T02:53:50Z
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勃起
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勃起(ぼっき、英: erection)は、陰茎・陰核・乳首が硬く大きくなる生理現象。本頁においては、主に陰茎の勃起について述べる。
勃起は心理、神経、血管系、内分泌系などの要因の相互作用により引き起こされ、必ずではないが、性的興奮にも関係している。無意識的に起きることもある。
通常状態では柔軟で、男性の股間に懸下している陰茎は、勃起状態で太く長く硬くなり前方へ突き出ることで、性行為の時に女性器に挿入することが可能となる。常に不十分な勃起状態にしかならない疾患を勃起不全(ED)と言い、硬度の不足によって膣に挿入することができず、逆に膣圧に抗えず押し戻されてしまい膣性交が不可能となるため、治療が必要である。
ヒトの勃起は、陰茎内部の海綿体に血液が溜まり、血液を排出する静脈が調節され、内部の圧力が上昇することによって支えられる。これは陰茎内圧の上昇によって行われるため、当然伸縮性のある陰茎は内圧の高まりに拠って非勃起時よりも太くなる。普段の血圧では内部構造の関係で鬱血しないようになっている。
ヒト以外の動物については、陰茎骨という骨を持ち、この骨が筋肉の働きに拠って陰茎を伸ばすものも見られる。クジラなどの海洋哺乳類では、普段陰茎は皮下にS字状にしまいこまれた状態で埋没しており、性交時にはこの陰茎骨が陰茎を突き出させる。
陰茎への機械的刺激の他、視覚刺激や想像などにより大脳皮質から引き起こされることもある。
主に思春期に入り第二次性徴が始まると、性に対する知識や興味が増え頻繁に勃起するようになる。また、思春期前でも、触るなどの外的刺激を受ければ陰茎は勃起する。
勃起した状態は被服の上からでも外見によってわかる場合があり、特に水着やジャージ、短パン、ブルマー、レオタードなど、身体にフィットした体操着や被服を着用する機会の多い児童、生徒、学生においては目立つことがある。勃起した陰茎によって被服下腹部の布地が直線状あるいは突起状に隆起することを指して「テントを張る」とも形容される。
本人や周囲の者の年齢、周囲の者の性別、嗜好、TPOなどによって受け止められ方は異なるものの、勃起した陰茎は女性器(膣)への挿入(性交)の準備が整った状態であり、性的興奮と関連付けられるため、勃起していることを周囲に知られることは、からかいの対象となったり、気恥ずかしい雰囲気、気まずい雰囲気、あるいは不快感を与えたりすることがあり、露骨にわかる状態はセクシャルハラスメントとして受け止められることがある。状態によっては、陰茎のサイズの大小や亀頭冠の発達度合いが他人に知られる場合もある。
勃起時の陰茎の長さには、個人差が見られるが、あるドイツ人研究者の統計によると平均で13.6cm程度、ダイヤグラム・グループの調査によれば平均15.6cm程度で、90%の男性は12.5cmから17.5cmの範囲に収まるとなっている。また、小学生でも高学年で勃起時の長さは7~14cmとされている。(詳細は、ヒトの陰茎のサイズを参照)。ただ、平均より小さくとも女性の膣の長さは7cmから10cmほどなので、生殖行為としての性行為には支障はない。勃起時の長さ・太さ・膨張率は人によってまちまちで、平常時(非勃起時)の長さ・太さが同じでも、勃起時の長さ・太さは同じにはならない。一般に、若いほど勃起時の陰茎の角度が急となり、加齢とともに角度が緩やかになっていく傾向がある。角度は以下のような統計がある。真上を向き腹につくのを0°とし、水平が90°、真下を向くのが180°である。
真っ直ぐしているかどうかは、くせづけなどで変化する。たとえば1970年代には上向きに反り返っているのが珍しいといわれ、1980年代には右曲りが普通と逆で珍しいといわれた。
また、平常時亀頭に包皮が被っていても、勃起または勃起時に指などで根本方向に引っ張り、ずり下げれば包皮が反転し亀頭が露出し、痛みを伴わない状態を「仮性包茎」と呼び、日本人には一定割合で存在するとされるが、この仮性包茎は性行為の上では全く問題はない。膣内で亀頭が膣壁と包皮で同時に刺激を受けるので早漏になりやすいという俗説もあるが、これはまったく医学的根拠がない。挿入前に包皮を剥いておけば膣内で包皮が戻ることはなく、包皮によって無駄に性的な刺激が加わることはない。コンドーム装着時は包皮を剥いた状態で装着しなければ、挿入時に脱落してしまう危険性がある。
包茎(真性包茎)や嵌頓包茎の場合は、包皮口が狭く、亀頭の露出に困難が生じ、健康保険適用の治療もなされる疾患である。自分で根気よく皮を伸ばすなどして修正できないわけではないが、段階的に時間がかかる方法である。 一方の仮性包茎とされる陰茎は、治療の必要性はないため包皮切除手術に健康保険は適用されず、そもそも手術の必要性もない。性交時のデメリットも、上記のコンドームの脱落は剥いた状態で正しく装着すればほぼ防げ、恥垢や臭いで相手が嫌がるケースも、性交前に洗うことで容易に解決する。
ヒト陰茎は勃起時に強い衝撃を受けると内部の圧力を支える白膜が「裂ける」ことがある。これを陰茎折症または陰茎骨折という。その過半数程度は自慰や性交時に急に折り曲げたりなど無理な圧力が掛かることで発生するが、骨折一般と違い骨が損傷しているわけではないものの、白膜が裂ける瞬間はそれと分かる「何かが折れる」ような音がする場合もあるといわれている。この場合は外科的に手術で治療しないと勃起障害などの原因となる。
勃起は胎児期からみられる現象であり、おむつ替えや入浴などの際に乳幼児の陰茎が勃起するのは異常なことではない。乳幼児の勃起は手が触れたり、着衣を脱ぐことで冷たい空気に触れるなどの物理的刺激に対する反射か夜間陰茎勃起現象によるものであって、性的興奮によるものではないとされる。
逆に、その男児の勃起した状態を親や保育者が一度も見たことがないという場合は、陰茎や周辺の神経系の先天性障害による勃起障害(器質性勃起障害)が疑われる。 さらに、射精反射の機能に先天的に障害をもつ場合もあり、ともに治療しなければ、思春期以降マスターベーションや性交など、男性としての通常の性行動の実現に障害となる。
特に射精反射の障害は、幼児期に一時的にテストステロンのレベルが上がる5歳頃までに治療を開始しなければ治療は困難とされる。治療の効果や本人の精神的負担を考慮すれば、小学校入学前までには治療を完了しておくことが望ましい。
勃起はするが射精反射に障害を有している者もおり、思春期以降まで見過ごされることも多い。
なお乳幼児であっても射精反射の機能は有しており、陰茎への性的刺激により勃起から性的絶頂を迎え、ドライオーガズム(精液の射出を伴わない性的絶頂)により陰茎や会陰部が律動するのが通常である。
陰茎の相同器官でもある、女性の陰核(クリトリス)にも男性の陰茎と同様に勃起が起こることがある。女性が性的興奮をした際に通常、陰核亀頭が膨張し陰核包皮から僅かに突出する。ただし、個人差がある。一方には勃起しても陰核亀頭が陰核包皮に覆われたままの女性もいれば、他方には陰核亀頭が勃起せずに引っ込んだままの女性もいる。
男女ともに性的興奮により乳首に勃起が起こる。乳首の先が固く、とんがるような形になり、いずれも勃起前よりも敏感に性的快感を与えるようになる(くすぐったいと感じるだけの者もおり、個人差がある)。しかし科学的には勃起といわない。
性的興奮以外または性的以外の刺激でも勃起が起こることがある。乗り物による振動や摩擦などがそれにあたる。また思春期などでは性的な欲求や刺激が無くても、突発的に勃起してしまうことがある。
「朝勃ち」は睡眠から覚めた際に勃起している状態をいう。勃起障害でも心因性勃起障害では朝勃ちすることも知られており、これの有無で勃起障害がどのような原因で起きているかの診断にも利用される。
トラゾドン(商品名は「デジレル」「レスリン」)の副作用で、陰茎及び陰核の持続勃起症が起こることもある。この場合には、直ちに服用を中止し、医師に相談すること(この副作用を利用して、ED治療薬バイアグラが登場するまでは、勃起不全改善薬として用いられることもあった)。
陰茎はある種の病気で勃起の様な現象が起きる場合がある。この場合、本人の性的意識や興奮とは関係なく発生し、むしろ苦痛を伴うこともある。陰茎海綿体やその被膜に繊維組織が異常増殖して硬さを持ち、見かけ勃起している状態になるものをペイロニー病という。しかし、増殖した繊維組織によって引きつっているだけなので血液の流入による海綿体の膨張という真の勃起ではなく、むしろ真の勃起が起きると引きつった部分に痛みを生じてしまう。主に中高年に発症し、治療には外科手術によって繊維質を取り除く療法等が行われる。
また、外傷や他の全身疾患(血栓症、陰茎腫瘍、白血病など)に併発して持続勃起症が起きることがある。勃起を支配する中枢神経系の腫瘍などの病的異常によっても起こる。前立腺や尿路などの炎症が勃起を誘発させる神経刺激を持続し持続勃起症を起こす場合もある。持続勃起症は陰茎海綿体に血栓症を引き起こす。持続勃起症は通常10日間以内とされるが、持続が更に長期に渡る場合は海綿体組織が繊維化し軟骨やカルシウム沈着によって骨に移行する例もある。持続勃起症が発現した場合は、早期に受診し原因となる病気の究明がまず優先される。
縊死した死体で勃起がみられることがある。これは頸部の圧迫により脊椎が損傷し、その部分が異常に興奮することで生じるとされる。
下腹部の疾患、体調不良、疲労、連続射精、あるいは加齢などにより、陰茎が十分に勃起しなくなった時、あるいは勃起を維持することが困難になった時に使用する勃起補助具がある。
コックリングは、陰茎の根元を締め付け、陰茎を常時勃起させたままにするための用具である。柔軟性のあるエラストマーで作られており、陰茎を軽く締め付けることで勃起維持を図る。簡単な構造のものはコンドーム脱落防止リングと称して、薬局やドラッグストアで販売されているものもある。装着すると多少きつく感じられるがそのまま射精可能である。
ガラス製あるいはプラスチック製などで作られた円筒に陰茎を挿入し、ポンプで円筒内の空気を抜き陰茎に負圧を掛けて血流の流入増を起こし勃起させる用具である。勃起後の陰茎にはコックバンドを装着し勃起を維持させる。
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"title": "陰茎折症"
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"text": "男女ともに性的興奮により乳首に勃起が起こる。乳首の先が固く、とんがるような形になり、いずれも勃起前よりも敏感に性的快感を与えるようになる(くすぐったいと感じるだけの者もおり、個人差がある)。しかし科学的には勃起といわない。",
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"text": "ガラス製あるいはプラスチック製などで作られた円筒に陰茎を挿入し、ポンプで円筒内の空気を抜き陰茎に負圧を掛けて血流の流入増を起こし勃起させる用具である。勃起後の陰茎にはコックバンドを装着し勃起を維持させる。",
"title": "勃起補助具"
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勃起は、陰茎・陰核・乳首が硬く大きくなる生理現象。本頁においては、主に陰茎の勃起について述べる。 勃起は心理、神経、血管系、内分泌系などの要因の相互作用により引き起こされ、必ずではないが、性的興奮にも関係している。無意識的に起きることもある。
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{{性的}}
[[ファイル:Man genital.jpg|サムネイル|300x300px|[[成人]][[男性]]の[[陰茎]]が勃起した画像]]'''勃起'''(ぼっき、{{lang-en-short|''erection''}})は、[[陰茎]]・[[陰核]]・[[乳首]]が硬く大きくなる[[生理現象]]。本頁においては、主に陰茎の勃起について述べる。
勃起は[[心理]]、[[神経]]、[[血管系]]、[[内分泌系]]などの要因の相互作用により引き起こされ、必ずではないが、[[性的興奮]]にも関係している。無意識的に起きることもある。
== 概要 ==
通常状態では柔軟で、[[男性]]の股間に懸下している[[陰茎]]は、勃起状態で太く長く硬くなり前方へ突き出ることで、[[性行為]]の時に[[女性器]]に挿入することが可能となる。常に不十分な勃起状態にしかならない疾患を[[勃起不全]](ED)と言い、硬度の不足によって[[膣]]に挿入することができず、逆に膣圧に抗えず押し戻されてしまい膣性交が不可能となるため、治療が必要である。
[[ヒト]]の勃起は、陰茎内部の[[海綿体]]に[[血液]]が溜まり、血液を排出する[[静脈]]が調節され、内部の圧力が上昇することによって支えられる。これは陰茎内圧の上昇によって行われるため、当然伸縮性のある陰茎は内圧の高まりに拠って非勃起時よりも太くなる。普段の[[血圧]]では内部構造の関係で[[うっ血|鬱血]]しないようになっている。
ヒト以外の動物については、[[陰茎骨]]という骨を持ち、この骨が筋肉の働きに拠って陰茎を伸ばすものも見られる。[[クジラ]]などの[[怪獣|海洋哺乳類]]では、普段陰茎は皮下にS字状にしまいこまれた状態で埋没しており、性交時にはこの陰茎骨が陰茎を突き出させる。
陰茎への機械的刺激の他、視覚刺激や想像などにより[[大脳皮質]]から引き起こされることもある。
主に[[思春期]]に入り[[第二次性徴]]が始まると、性に対する知識や興味が増え頻繁に勃起するようになる。また、思春期前でも、触るなどの外的刺激を受ければ陰茎は勃起する。
勃起した状態は被服の上からでも外見によってわかる場合があり、特に[[水着]]や[[ジャージ]]、[[短パン]]、[[ブルマー]]、[[レオタード]]など、身体にフィットした[[体操着]]や被服を着用する機会の多い児童、生徒、学生においては目立つことがある。勃起した陰茎によって被服下腹部の布地が直線状あるいは突起状に隆起することを指して「テントを張る」とも形容される。
本人や周囲の者の年齢、周囲の者の性別、嗜好、TPOなどによって受け止められ方は異なるものの、勃起した陰茎は女性器(膣)への挿入(性交)の準備が整った状態であり、性的興奮と関連付けられるため、勃起していることを周囲に知られることは、からかいの対象となったり、気恥ずかしい雰囲気、気まずい雰囲気、あるいは不快感を与えたりすることがあり、露骨にわかる状態は[[セクシャルハラスメント]]として受け止められることがある。状態によっては、陰茎のサイズの大小や[[陰茎亀頭冠|亀頭冠]]の発達度合いが他人に知られる場合もある。<gallery>
ファイル:Gray1156.png|ヒトの陰茎<ref group="注">陰茎内部の海綿体は柔軟で[[スポンジ]]のような構造である。ここに血液が充満し硬度を保つ。右上の簡略図の位置が勃起状態における陰茎の位置で上方に向く。</ref>
ファイル:Gray1155 a.png|ヒト陰茎の断面<ref group="注">勃起時の陰茎を支える「陰茎海綿体」の他、[[尿道]]が陰茎内部や挿入時の圧力で閉塞しないよう尿道を支える「尿道海綿体」がある。</ref>
ファイル:Figure 28 01 06.jpg|解剖図
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勃起時の陰茎の長さには、個人差が見られるが、あるドイツ人研究者の統計によると平均で13.6cm程度、ダイヤグラム・グループの調査によれば平均15.6cm程度で、90%の男性は12.5cmから17.5cmの範囲に収まるとなっている。また、小学生でも高学年で勃起時の長さは7~14cmとされている。<ref>{{Cite book ja-jp | editor = ダイヤグラム・グループ | year = 1976(原著), 1981(邦訳) | title = マンズ・ボディー | publisher = 鎌倉書房 | translator = 池上智寿子、根岸悦子 | page = J07-11}}</ref>(詳細は、[[ヒトの陰茎のサイズ]]を参照)。ただ、平均より小さくとも女性の膣の長さは7cmから10cmほどなので、生殖行為としての[[性行為]]には支障はない。勃起時の長さ・太さ・膨張率は人によってまちまちで、平常時(非勃起時)の長さ・太さが同じでも、勃起時の長さ・太さは同じにはならない。一般に、若いほど勃起時の陰茎の角度が急となり、加齢とともに角度が緩やかになっていく傾向がある。角度は以下のような統計がある。真上を向き腹につくのを0°とし、水平が90°、真下を向くのが180°である。
{| class="wikitable"
|-
|+style="white-space:nowrap" |勃起の角度の統計<ref>{{cite journal |author=Sparling J |title=Penile erections: shape, angle, and length |journal=Journal of Sex & Marital Therapy |volume=23 |issue=3 |pages=195–207 |year=1997 |pmid=9292834}}</ref>
! 角度(º)
! %
|-
| 0から30
| 5
|-
| 30から60
| 30
|-
| 60から85
| 31
|-
| 85から95
| 10
|-
| 95から120
| 20
|-
| 120から180
| 5
|}
真っ直ぐしているかどうかは、くせづけなどで変化する。たとえば1970年代には上向きに反り返っているのが珍しいといわれ、1980年代には右曲りが普通と逆で珍しいといわれた。<ref group="注">1970年代の劇画「[[首斬り朝]]」に、女性に関わる事件の犯人のペニスが長くカリ高な他にとくに上向きに曲がっているのがじつに珍しいとする会話があり、1980年代の漫画「[[右曲がりのダンディー]]」では主人公の右曲りが珍しい、と扱われている。</ref>
また、平常時[[陰茎亀頭|亀頭]]に[[陰茎包皮|包皮]]が被っていても、勃起または勃起時に指などで根本方向に引っ張り、ずり下げれば包皮が反転し亀頭が露出し、痛みを伴わない状態を「[[仮性包茎]]」と呼び、日本人には一定割合で存在するとされるが、この仮性包茎は性行為の上では全く問題はない。膣内で亀頭が膣壁と包皮で同時に刺激を受けるので[[早漏]]になりやすいという俗説もあるが、これはまったく医学的根拠がない。挿入前に包皮を剥いておけば膣内で包皮が戻ることはなく、包皮によって無駄に性的な刺激が加わることはない。[[コンドーム]]装着時は包皮を剥いた状態で装着しなければ、挿入時に脱落してしまう危険性がある。
[[包茎]](真性包茎)や[[嵌頓包茎]]の場合は、包皮口が狭く、亀頭の露出に困難が生じ、健康保険適用の治療もなされる疾患である。自分で根気よく皮を伸ばすなどして修正できないわけではないが<ref group="注">極端な場合、小さいときから保護されてきた亀頭の皮膚の敏感さによって、触ると膨らんで包皮口の皮が伸ばされて痛むなどでいじりにくく、まず先に包皮内の皮膚の刺激感度をゆっくり鍛えるなど根気よく包皮口を伸ばし開けられた後も、皮の内側の小帯が伸ばされたことがないのでまだ短くて小帯近くの皮をむけにくい、など。</ref>、段階的に時間がかかる方法である。
一方の仮性包茎とされる陰茎は、治療の必要性はないため包皮切除手術に健康保険は適用されず、そもそも手術の必要性もない。性交時のデメリットも、上記のコンドームの脱落は剥いた状態で正しく装着すればほぼ防げ、[[恥垢]]や臭いで相手が嫌がるケースも、性交前に洗うことで容易に解決する。
== 陰茎折症 ==
ヒト陰茎は勃起時に強い衝撃を受けると内部の圧力を支える白膜が「裂ける」ことがある。これを[[陰茎折症]]または陰茎骨折という。その過半数程度は[[自慰]]や[[性行為|性交]]時に急に折り曲げたりなど無理な圧力が掛かることで発生するが、[[骨折]]一般と違い骨が損傷しているわけではないものの、白膜が裂ける瞬間はそれと分かる「何かが折れる」ような音がする場合もあるといわれている。この場合は外科的に手術で治療しないと勃起障害などの原因となる<ref>{{cite journal |和書 |author1=入澤千晶 |author2=加藤弘彰 |title=陰茎折症の6例 --本邦282例の臨床的観察-- |journal=泌尿器科紀要 |volume=31 |issue=8 |pages=1477–82 |year=1985 |pmid=4083209 |doi= |hdl=2433/118562 |url=https://hdl.handle.net/2433/118562 }}</ref>。
== 乳幼児の勃起と先天性勃起障害 ==
{{出典の明記|date=2021年7月|section=1}}
勃起は[[胎児]]期からみられる現象であり、おむつ替えや入浴などの際に乳幼児の陰茎が勃起するのは異常なことではない。乳幼児の勃起は手が触れたり、着衣を脱ぐことで冷たい空気に触れるなどの物理的刺激に対する反射か[[夜間陰茎勃起現象]]によるものであって、[[性的興奮]]によるものではないとされる。
逆に、その男児の勃起した状態を親や保育者が一度も見たことがないという場合は、陰茎や周辺の神経系の先天性障害による[[勃起障害]](器質性勃起障害)が疑われる。
さらに、[[射精]]反射の機能に先天的に障害をもつ場合もあり、ともに治療しなければ、思春期以降[[マスターベーション]]や[[性交]]など、男性としての通常の性行動の実現に障害となる。
特に射精反射の障害は、幼児期に一時的に[[テストステロン]]のレベルが上がる5歳頃までに治療を開始しなければ治療は困難とされる。治療の効果や本人の精神的負担を考慮すれば、小学校入学前までには治療を完了しておくことが望ましい。
勃起はするが射精反射に障害を有している者もおり、思春期以降まで見過ごされることも多い。
なお乳幼児であっても射精反射の機能は有しており、陰茎への性的刺激により勃起から[[性的絶頂]]を迎え、[[ドライオーガズム]](精液の射出を伴わない性的絶頂)により陰茎や会陰部が律動するのが通常である。
== その他の勃起 ==
=== 女性の勃起 ===
{{See also|陰核の勃起}}
陰茎の相同器官でもある、[[女性]]の[[陰核]](クリトリス)にも男性の陰茎と同様に勃起が起こることがある。女性が性的興奮をした際に通常、[[陰核亀頭]]が膨張し[[陰核包皮]]から僅かに突出する。ただし、個人差がある。一方には勃起しても陰核亀頭が陰核包皮に覆われたままの女性もいれば、他方には陰核亀頭が勃起せずに引っ込んだままの女性もいる。
<gallery>
ファイル:Female inkaku.jpg|勃起した陰核(クリトリス)
ファイル:Female vulva 4 a.jpg|通常時(左)とオーガズム時の陰核亀頭(右)。通常時は小さく陰核包皮に隠されている陰核亀頭だが、オーガズム時には女性が陰核を勃起させるため、陰核包皮から膨らんだ陰核亀頭を突出、露出し、また女性器全体を充血させている。
</gallery>
=== 乳首の勃起 ===
男女ともに性的興奮により[[乳首]]に勃起が起こる。乳首の先が固く、とんがるような形になり、いずれも勃起前よりも敏感に[[性的快感]]を与えるようになる(くすぐったいと感じるだけの者もおり、個人差がある)。しかし科学的には勃起といわない。
=== 性的要因以外の勃起 ===
性的興奮以外または性的以外の刺激でも勃起が起こることがある。乗り物による振動や摩擦などがそれにあたる。また[[思春期]]などでは性的な欲求や刺激が無くても、突発的に勃起してしまうことがある。
「[[朝立ち (生理現象)|朝勃ち]]」は[[睡眠]]から覚めた際に勃起している状態をいう。勃起障害でも心因性勃起障害では朝勃ちすることも知られており、これの有無で勃起障害がどのような原因で起きているかの診断にも利用される。
=== 薬の副作用 ===
[[トラゾドン]](商品名は「デジレル」「レスリン」)の副作用で、陰茎及び陰核の[[持続勃起症]]が起こることもある。この場合には、直ちに服用を中止し、[[医師]]に相談すること(この[[副作用]]を利用して、ED治療薬[[シルデナフィル|バイアグラ]]が登場するまでは、勃起不全改善薬として用いられることもあった)。
=== 病的原因による勃起 ===
陰茎はある種の病気で勃起の様な現象が起きる場合がある。この場合、本人の性的意識や興奮とは関係なく発生し、むしろ苦痛を伴うこともある<ref name=jpnjurol1928.60.3_231>三矢英輔, 瀬川昭夫, 近藤厚生、「[https://doi.org/10.5980/jpnjurol1928.60.3_231 持続陰茎勃起症]」 『日本泌尿器科學會雑誌』 1969年 60巻 3号 p.231-236, {{doi|10.5980/jpnjurol1928.60.3_231}}, 日本泌尿器科学会</ref>。陰茎海綿体やその被膜に[[繊維]]組織が異常増殖して硬さを持ち、見かけ勃起している状態になるものをペイロニー病という。しかし、増殖した繊維組織によって引きつっているだけなので血液の流入による海綿体の膨張という真の勃起ではなく、むしろ真の勃起が起きると引きつった部分に痛みを生じてしまう。主に中高年に発症し、治療には[[外科手術]]によって繊維質を取り除く療法等が行われる。
また、外傷<ref name=jpnjurol1928.60.3_231 />や他の全身疾患(血栓症<ref name=jpnjurol1928.60.3_231 />、陰茎腫瘍<ref>土屋文雄, 豊田泰, 中川完二 ほか、「[https://doi.org/10.5980/jpnjurol1928.61.7_687 続発性陰茎癌による持続勃起症の3例]」『日本泌尿器科學會雑誌』 1970年 61巻 7号 p.687-716, {{doi|10.5980/jpnjurol1928.61.7_687}}, 日本泌尿器科学会</ref>、[[白血病]]<ref name=jpnjurol1928.60.3_231 />など)に併発して[[持続勃起症]]が起きることがある。勃起を支配する[[中枢神経]]系の[[腫瘍]]などの病的異常によっても起こる。前立腺や[[尿路]]などの[[炎症]]が勃起を誘発させる神経刺激を持続し持続勃起症を起こす場合もある。持続勃起症は陰茎海綿体に[[血栓症]]を引き起こす。持続勃起症は通常10日間以内とされるが、持続が更に長期に渡る場合は海綿体組織が繊維化し[[軟骨]]や[[カルシウム]]沈着によって骨に移行する例もある。持続勃起症が発現した場合は、早期に受診し原因となる病気の究明がまず優先される<ref>
{{Cite book ja-jp | editor = Ernst Oppenheimer | year = 1987 | title = 生殖器 | publisher = 日本チバガイギー | translator = 田崎寛、鈴木秋悦 | page = 33}}</ref>。
=== 死後の勃起 ===
{{main|死後勃起}}
[[縊死]]した死体で勃起がみられることがある。これは頸部の圧迫により脊椎が損傷し、その部分が異常に興奮することで生じるとされる。
== 勃起補助具 ==
{{See also|勃起不全#治療}}
下腹部の疾患、体調不良、疲労、連続射精、あるいは加齢などにより、陰茎が十分に勃起しなくなった時、あるいは勃起を維持することが困難になった時に使用する勃起補助具がある。
[[ファイル:Cockring.jpg|thumb|right|200px|エラストマー製コックリング]]
=== コックリング ===
[[コックリング]]は、陰茎の根元を締め付け、陰茎を常時勃起させたままにするための用具である。柔軟性のある[[エラストマー]]で作られており、陰茎を軽く締め付けることで勃起維持を図る。簡単な構造のものは[[コンドーム]]脱落防止リングと称して、[[薬局]]や[[ドラッグストア]]で販売されているものもある。装着すると多少きつく感じられるがそのまま射精可能である。
=== 体外陰圧式勃起補助具 ===
[[ガラス]]製あるいはプラスチック製などで作られた円筒に陰茎を挿入し、ポンプで円筒内の空気を抜き陰茎に負圧を掛けて血流の流入増を起こし勃起させる用具である。勃起後の陰茎にはコックバンドを装着し勃起を維持させる。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wiktionary}}
* [[持続勃起症]]
* [[陰茎折症]]
* [[射精]]
* [[陰茎]](ペニス)
* [[男性器]]
* [[ヒトの陰茎のサイズ]]
* [[夢精]]
* [[第二次性徴]]
* [[タナー段階]]
* [[オナニー]]
* [[包茎]]
* [[勃起不全]]
* [[張形]]・バイブレーター - 勃起した陰茎を模した道具、[[性具]]。
{{性}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほつき}}
[[Category:性的興奮]]
[[Category:男性病学]]
[[Category:生殖器]]
[[Category:男性の健康]]
[[Category:男性とセクシュアリティ]]
[[Category:陰茎]]
[[Category:人間の陰茎]]
|
2003-09-05T13:13:59Z
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WTO (曖昧さ回避)
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WTO
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WTO 世界貿易機関の略称。
ワルシャワ条約機構の略称。現在は世界貿易機関との混同を避けるためWPOの略称も用いられる。
世界観光機関がかつて用いていた略称。現在の略称はUNWTO。
世界トイレ機関(World Toilet Organization)
海藍の漫画作品。 ⇒ WTO (漫画)
コカ・コーラボトラーズジャパンプロダクツ鳥栖工場で製造された製品につけられる製造所固有記号。コカ・コーラボトラーズジャパン参照。
カンパニョーロが製造している自転車用カーボンホイール「ボーラWTO」。
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{{Wiktionary|WTO}}
'''WTO'''
* [[世界貿易機関]](World Trade Organization)の略称。
* [[ワルシャワ条約機構]](Warsaw Treaty Organization)の略称。現在は世界貿易機関との混同を避けるためWPO(Warsaw Pact Organization)の略称も用いられる。
* [[世界観光機関]](World Tourism Organization)がかつて用いていた略称。現在の略称はUNWTO。
* {{仮リンク|世界トイレ機関|en|World Toilet Organization}}(World Toilet Organization)
* [[海藍]]の漫画作品。 ⇒ [[WTO (漫画)]]
*コカ・コーラボトラーズジャパンプロダクツ鳥栖工場で製造された製品につけられる製造所固有記号。[[コカ・コーラボトラーズジャパン]]参照。
*[[カンパニョーロ]]が製造している自転車用カーボンホイール「ボーラWTO(Wind Tunnel Optimized)」。
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[[Category:頭字語]]
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西村京太郎
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西村 京太郎(にしむら きょうたろう、1930年9月6日 - 2022年3月3日)は、日本の推理小説家。本名は矢島 喜八郎(やじま きはちろう)。人気シリーズである十津川警部シリーズや、トラベルミステリーで知られる。
東京府荏原郡荏原町(現東京都品川区)生まれ。国民学校卒業後、東京府立電気工業学校(東京都立鮫洲工業高等学校の前身)に進むが中退し東京陸軍幼年学校に挑戦。100倍の競争率を突破して入学するが、在学中の15歳で終戦を迎えたため、工業学校へ復学し、卒業後、臨時人事委員会(後の人事院)に就職する。11年勤務後に退職し、トラック運転手、保険外交員、私立探偵、警備員などを経て作家生活に入る。
初期は社会派推理小説を書いていた。じきにスパイ小説、クローズド・サークル、パロディ小説、時代小説など多彩な作品群を発表する。中でも海難事故もの(西村本人が海が好きだったため。また、十津川警部は大学ヨット部出身という設定。)、誘拐もの(あらゆる犯罪の中で最も知能を要するので推理小説にふさわしいと考えたため)が多かった。
日本中にトラベルミステリーというジャンルを示すきっかけとなったヒット作『寝台特急殺人事件』から全面的にトラベルミステリーに移行する。西村が考えた、鉄道などを使ったトリックやアリバイ工作は、そのリアリティが功を奏し根強い人気がある。
シリーズキャラクターである十津川警部や左文字進などを生み出し、その作品の多くがテレビドラマ化されている。
年6度の取材旅行で12社分の小説を書くという執筆スタイルを続け、オリジナル著作は2019年3月時点で619冊。本人によれば最高年収は7億円だという。その後も新刊の刊行は続いており、累計発行部数は2億部を超える。2017年には「できれば東京スカイツリーの634メートルを、数字で1冊超える635冊まで書きたい。冗談だが。」と語っていた。
西村京太郎というペンネームの由来は、人事院時代の友人の苗字と、京太郎は「東京出身の長男」という意味から。以前は、江戸川乱歩賞などに応募する際、黒川俊介や西崎恭というペンネームも使用していた。西崎恭名義で応募した『宇宙艇307』が早川書房のSFコンテスト第3回(1964年)で努力賞として入賞している。
原稿を執筆する際にはワープロなどは使わず全て手書きで、月に平均で400枚ほど執筆していた。なお、生原稿が西村京太郎記念館に展示されている。
府立工業学校を中退してまで陸軍幼年学校に挑戦したのは「兵役をこなして二等兵でこき使われるよりはエリート軍人になって楽をしよう」と考えたため。実際に食事は良かったが、規律も訓練も厳しかったという。入学の5か月後には日本は降伏し戦争は終わった。臨時人事委員会在職中の19歳(1949年)の時に、職場の同僚達が発行していた同人誌『パピルス』に参加。担当は製本が主だったが、短編『√2の誘惑』を一度だけ書き、これが小説家・西村としての原点だろうかと述べている。
1975年頃、長編の時代小説『無名剣、走る』を徳島新聞に連載している。長編の時代小説としては、唯一である。鉄道ミステリーが大ヒットしたことで、出版社からは鉄道ミステリーの依頼ばかりが舞い込むようになり、他のジャンルの作品を書く余裕がなくなってしまったと語っている。本人は江戸時代を扱った時代小説を書きたいと長年希望しているが、どの出版社に話を持ちかけても「いいですね。でも、それは他の社で」と言われ、断られてしまうという。
山村美紗とは、家族ぐるみの交流があった。新進の作家だった西村に山村がファンレターを送ったことで交流が始まり、西村が京都に住んでいた頃、山村と共同で大きな旅館を買い取り、両宅が鍵つきの渡り廊下で繋がっていた。山村の急逝後、未完だった『在原業平殺人事件』と『龍野武者行列殺人事件』の2作品は西村が脱稿を引き受けている。また、山村の長女で女優の山村紅葉は、「十津川警部シリーズ」など西村原作のドラマに多く出演している。
1974年頃、肝臓障害で療養生活を送る。1987年、腎結石で緊急入院する(2日で退院)。1996年1月、脳梗塞で倒れ入院する。左半身の一部が不自由になった。そのとき集まった編集者にペンを持たされ「何か書いてくれ」といわれ、手が動くかどうか確認させられたという。また、これを機に神奈川県足柄下郡湯河原町へ転居している。
過去7度の転居を経ている。1945年、空襲により被災し調布市に転居。1968年、渋谷区幡ヶ谷に転居。1970年、渋谷区本町に転居。1980年、京都市中京区に転居。1982年、京都市伏見区に転居。1986年、京都市東山区に転居。1996年、前述の療養を機に神奈川県足柄下郡湯河原町に転居している。
京都在住時に1988年式ロールス・ロイス・シルバースピリットを所有していた。ただし、西村自身は運転免許を持っていない。現在、自動車ジャーナリスト福野礼一郎が所有しており、彼による徹底したレストアが施されている。
趣味として将棋を挙げている。将棋名人戦や将棋電王戦の観戦記を担当したこともある。将棋棋士が登場する推理小説(『十津川警部 千曲川に犯人を追う』)も発表している。
主なドラマシリーズとしては以下のものがある。詳細は各ページを参照。太字は2019年現在放送中のもの。
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"text": "東京府荏原郡荏原町(現東京都品川区)生まれ。国民学校卒業後、東京府立電気工業学校(東京都立鮫洲工業高等学校の前身)に進むが中退し東京陸軍幼年学校に挑戦。100倍の競争率を突破して入学するが、在学中の15歳で終戦を迎えたため、工業学校へ復学し、卒業後、臨時人事委員会(後の人事院)に就職する。11年勤務後に退職し、トラック運転手、保険外交員、私立探偵、警備員などを経て作家生活に入る。",
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"text": "趣味として将棋を挙げている。将棋名人戦や将棋電王戦の観戦記を担当したこともある。将棋棋士が登場する推理小説(『十津川警部 千曲川に犯人を追う』)も発表している。",
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"text": "主なドラマシリーズとしては以下のものがある。詳細は各ページを参照。太字は2019年現在放送中のもの。",
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] |
西村 京太郎は、日本の推理小説家。本名は矢島 喜八郎。人気シリーズである十津川警部シリーズや、トラベルミステリーで知られる。
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{{Infobox 作家
|name = 西村 京太郎<br />(にしむら きょうたろう)
|birth_name = 矢島 喜八郎(やじま きはちろう)<ref name="pub">[http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0895-d/ 十五歳の戦争 ―陸軍幼年学校「最後の生徒」―] 集英社</ref>
|birth_date = {{生年月日と年齢|1930|9|6|没}}
|birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[荏原郡]][[荏原町]]<br />(現・[[東京都]][[品川区]])
|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1930|9|6|2022|3|3}}
|death_place = {{JPN}}・[[神奈川県]][[足柄下郡]][[湯河原町]]
|occupation = {{Ubl|[[小説家]]|[[推理作家]]}}
|nationality = {{JPN}}
|alma_mater = [[都立工業専門学校 (旧制)|東京都立電機工業学校]]
|period = 1961年 - 2022年
|genre = [[推理小説]]
|subject =
|movement =
|notable_works = {{Ubl|『[[天使の傷痕]]』|『[[寝台特急殺人事件]]』|『[[終着駅殺人事件]]』}}
|awards = {{Indented plainlist|* [[オール讀物推理小説新人賞]](1963年)
* [[江戸川乱歩賞]](1965年)
* [[日本推理作家協会賞]](1981年)
* [[日本ミステリー文学大賞]](2005年)
* [[吉川英治文庫賞]](2019年)
}}
|debut_works = 「黒の記憶」(1961年){{Efn|『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』昭和36年2月増刊号に掲載。事実上の処女作。}}
|spouse = 矢島瑞枝
|partner =
|children =
|influences = [[ウィリアム・アイリッシュ]]『[[暁の死線]]』{{Sfn|郷原宏|1998|p=24,204-205,222}}
|influenced = [[山村美紗]]
|website = {{URL|http://www.i-younet.ne.jp/~kyotaro/}}
<!--|footnotes=-->
}}
'''西村 京太郎'''(にしむら きょうたろう、[[1930年]][[9月6日]] - [[2022年]][[3月3日]])は、[[日本]]の[[推理作家|推理小説家]]。本名は'''矢島 喜八郎'''(やじま きはちろう)<ref>読売新聞 2022年3月7日 32面掲載</ref>。人気シリーズである[[十津川警部シリーズ]]<ref name="pub" />や、トラベルミステリーで知られる。
== 人物 ==
[[東京府]][[荏原郡]][[荏原町]](現[[東京都]][[品川区]])生まれ<ref>{{Cite book|author=西村京太郎|title=十津川警部 捜査行 -北の事件簿-|date=2003年9月25日|year=2003|accessdate=2018年8月4日|publisher=有楽出版社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。[[国民学校]]卒業後、東京府立電気工業学校([[東京都立鮫洲工業高等学校]]の前身{{Efn|[[東京都立工業高等専門学校]]→[[東京都立産業技術高等専門学校]]の前身でもある。}})に進むが[[中退]]し[[東京陸軍幼年学校]]に挑戦。100倍の競争率を突破して入学するが、在学中の15歳で終戦を迎えたため<ref>[https://www.sankei.com/article/20140819-DXZ4Y2TKVZMZTKDWGRIT7BGRIY/ 【話の肖像画】作家・西村京太郎(83)(2) - 産経ニュース]</ref>、工業学校へ復学し、卒業後、臨時人事委員会(後の[[人事院]])に就職する<ref name="sankei">[https://www.sankei.com/article/20140820-ZVSE6TOCKVNHDHXUOXPC5XFJPY/ 【話の肖像画】作家・西村京太郎(83)(3) - 産経ニュース]</ref>。11年勤務後に退職し、[[貨物自動車|トラック]][[運転手]]、[[保険]][[営業職|外交員]]、[[探偵|私立探偵]]、[[警備員]]などを経て作家生活に入る。
初期は[[社会派推理小説]]を書いていた{{Efn|代表作は[[江戸川乱歩賞]]受賞作の『[[天使の傷痕]]』。}}。じきに[[スパイ]]小説{{Efn|代表作は自選ベスト1の『[[D機関情報]]』。}}、[[クローズド・サークル]]{{Efn|代表作は自選ベスト2の『[[殺しの双曲線]]』。}}、[[パロディ]]小説{{Efn|代表作は『[[名探偵なんか怖くない]]』。}}、[[時代小説]]{{Efn|代表作は後述の唯一の長編時代小説『無名剣、走る』([[#エピソード]]参照)。}}など多彩な作品群を発表する。中でも海難事故もの(西村本人が海が好きだったため。また、十津川警部は大学[[ヨット]]部出身という設定。){{Efn|代表作は自選ベスト5の『[[消えたタンカー]]』。}}、[[誘拐]]もの(あらゆる犯罪の中で最も知能を要するので推理小説にふさわしいと考えたため){{Efn|代表作は自選ベスト4の『[[華麗なる誘拐]]』。}}が多かった。
日本中に[[推理小説#トラベル・ミステリ|トラベルミステリー]]というジャンルを示すきっかけとなったヒット作『[[寝台特急殺人事件]]』から全面的にトラベルミステリーに移行する。西村が考えた、[[鉄道]]などを使ったトリックや[[アリバイ]]工作は、そのリアリティが功を奏し根強い人気がある。
シリーズキャラクターである'''[[十津川省三|十津川警部]]'''や'''[[左文字進]]'''などを生み出し、その作品の多くが[[テレビドラマ]]化されている。
年6度の取材旅行で12社分の小説を書くという執筆スタイルを続け<ref name="asahi" />、オリジナル著作は2019年3月時点で619冊<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/276334 愛用の時刻表はどれ?「西村京太郎」創作の秘密 - 東洋経済オンライン]</ref>。本人によれば最高年収は7億円だという<ref name="hochi20170921">{{Cite news | title = 西村京太郎さん、最高年収は「7億円です」にマツコも驚愕「言っちゃったよ!」| newspaper = [[スポーツ報知]]| date = 2017-09-21| url = http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170921-OHT1T50203.html| accessdate = 2018-03-08|archiveurl= https://web.archive.org/web/20180316074109/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170921-OHT1T50203.html|archivedate= 2018-03-16}}</ref>。その後も新刊の刊行は続いており、累計発行部数は2億部を超える<ref name="bookbang" />。2017年には「できれば[[東京スカイツリー]]の634メートルを、数字で1冊超える635冊まで書きたい。冗談だが。」と語っていた<ref name="toyokeizai" />{{Efn|私設サイトの『西村京太郎の部屋』および『西村京太郎研究会』([[#外部リンク]]を参照)によると、この目標は2021年に達成されているが、公式の発表はない。ただし、西村の死後、[[文藝春秋社]]が2022年4月に発行した『文春ムック 西村京太郎の推理世界』によると、西村が生前に出版した単行本の数は647冊とされており、西村の目標は生前に達成されていたことが間接的に示されている。}}。
==エピソード==
西村京太郎という[[ペンネーム]]の由来は、人事院時代の友人の[[苗字]]と、京太郎は「東京出身の長男」という意味から{{Sfn|郷原宏|1998|p=206}}。以前は、[[江戸川乱歩賞]]などに応募する際、黒川俊介や西崎恭というペンネームも使用していた。西崎恭名義で応募した『宇宙艇307』が[[早川書房]]の[[ハヤカワ・SFコンテスト|SFコンテスト]]第3回(1964年)で努力賞として入賞している。
原稿を執筆する際には[[ワードプロセッサ|ワープロ]]などは使わず全て手書きで、月に平均で400枚ほど執筆していた{{Sfn|郷原宏|1998|p=105}}。なお、生原稿が[[西村京太郎記念館]]に展示されている。
府立工業学校を中退してまで陸軍幼年学校に挑戦したのは「兵役をこなして二等兵でこき使われるよりはエリート軍人になって楽をしよう」と考えたため。実際に食事は良かったが、規律も訓練も厳しかったという。入学の5か月後には日本は降伏し戦争は終わった<ref name="asahi">[https://www.asahi.com/articles/DA3S13165936.html 戦争、日本人に向いていない 西村京太郎さん、自伝的作品「十五歳の戦争」] 朝日新聞2017年10月4日</ref><ref name="toyokeizai">日本人は、根本的に戦争には向いていない 作家・西村京太郎が経験した戦争と戦後 [http://toyokeizai.net/articles/-/185991 1/3][http://toyokeizai.net/articles/-/185991?page=2 2/3][http://toyokeizai.net/articles/-/185991?page=3 3/3] 東洋経済新報 2017年9月3日</ref>。臨時人事委員会在職中の19歳([[1949年]])の時に、職場の同僚達が発行していた同人誌『パピルス』に参加。担当は製本が主だったが、短編『√2の誘惑』を一度だけ書き、これが小説家・西村としての原点だろうかと述べている<ref name="sankei"/>。
[[1975年]]頃、長編の[[時代小説]]『無名剣、走る』を[[徳島新聞]]に連載している。長編の時代小説としては、唯一である。鉄道ミステリーが大ヒットしたことで、出版社からは鉄道ミステリーの依頼ばかりが舞い込むようになり、他のジャンルの作品を書く余裕がなくなってしまったと語っている。本人は[[江戸時代]]を扱った時代小説を書きたいと長年希望しているが、どの出版社に話を持ちかけても「いいですね。でも、それは他の社で」と言われ、断られてしまうという<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/news/120518/bdy12051820210010-n1.htm 作家の西村京太郎さん 求められた仕事を真剣に 「売れそうなテーマを」編集者の一言で飛躍]</ref>。
[[山村美紗]]とは、家族ぐるみの交流があった。新進の作家だった西村に山村がファンレターを送ったことで交流が始まり、西村が京都に住んでいた頃、山村と共同で大きな[[旅館]]を買い取り、両宅が鍵つきの渡り廊下で繋がっていた<ref>{{Cite interview|和書|subject='''西村京太郎'''|interviewer=網谷隆司郎|url=http://mainichi.jp/sp/shikou/46/03.html|title=嗜好と文化 vol.46 西村京太郎(3/3ページ)|work=[[毎日新聞]]|accessdate=2018-04-19}}</ref>。山村の急逝後、未完だった『在原業平殺人事件』と『龍野武者行列殺人事件』の2作品は西村が脱稿を引き受けている。また、山村の長女で女優の[[山村紅葉]]は、「十津川警部シリーズ」など西村原作のドラマに多く出演している。
[[1974年]]頃、肝臓障害で療養生活を送る。[[1987年]]、[[腎結石]]で緊急入院する(2日で退院){{Sfn|郷原宏|1998|p=105}}。[[1996年]][[1月]]、[[脳梗塞]]で倒れ入院する。左半身の一部が不自由になった。そのとき集まった編集者にペンを持たされ「何か書いてくれ」といわれ、手が動くかどうか確認させられたという<ref>「西村京太郎 衰えぬ筆力」日本経済新聞夕刊(2013年5月14日)16面</ref>。また、これを機に[[神奈川県]][[足柄下郡]][[湯河原町]]へ転居している。
過去7度の転居を経ている。[[1945年]]、[[東京大空襲|空襲]]により被災し[[調布市]]に転居。[[1968年]]、[[渋谷区]][[幡ヶ谷]]に転居。[[1970年]]、渋谷区[[本町 (渋谷区)|本町]]に転居。[[1980年]]、[[京都市]][[中京区]]に転居。[[1982年]]、京都市[[伏見区]]に転居。[[1986年]]、京都市[[東山区]]に転居。[[1996年]]、前述の療養を機に神奈川県足柄下郡湯河原町に転居している{{Sfn|郷原宏|1998|p=222-233}}。
京都在住時に1988年式[[ロールス・ロイス・シルヴァースピリット|ロールス・ロイス・シルバースピリット]]を所有していた。ただし、西村自身は[[日本の運転免許|運転免許]]を持っていない。現在、自動車ジャーナリスト[[福野礼一郎]]が所有しており、彼による徹底した[[レストア]]が施されている。
趣味として[[将棋]]を挙げている<ref>[http://www.mystery.or.jp/member/detail/0170 会員名簿 西村京太郎|日本推理作家協会]</ref>。[[名人戦 (将棋)|将棋名人戦]]や[[将棋電王戦]]の観戦記を担当したこともある。[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]が登場する推理小説(『十津川警部 千曲川に犯人を追う』)も発表している。
== 経歴 ==
[[File:Nishimura Kyotaro Museum-P1010867.JPG|right|thumb|300px|[[西村京太郎記念館]]]]
* [[1961年]] - 短編「黒の記憶」が『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』に掲載される。
* [[1964年]] - 初の長編『[[四つの終止符]]』を刊行。
* [[1969年]] - 初の新聞連載『悪の座標』(『悪への正体』と改題)を[[徳島新聞]]に連載。
* [[1978年]] - 鉄道ミステリー第1作となる『[[寝台特急殺人事件]]』を刊行。
* [[1982年]] - 唯一の時代長編小説『無明剣、走る』を刊行。
* [[1988年]] - 『[[名探偵なんか怖くない]]』が[[フランス]]で翻訳刊行される。
* [[1994年]] - 第1回「鉄道の日」鉄道関係功労者大臣表彰される。
* [[2001年]] - [[神奈川県]][[足柄下郡]][[湯河原町]]に「[[西村京太郎記念館]]」がオープン。
* [[2004年]] - この年、新刊本の刊行数が過去最高の20冊に達する(長編13冊、短編集7冊)。
* [[2005年]] - 湯河原町第1号となる名誉町民の称号が贈られる。
* [[2009年]] - [[十津川村|十津川郷観光大使]]に委嘱される。
* [[2013年]] - [[柏崎市|かしわざき大使]]に委嘱される。
* [[2022年]] - 3月3日午後、[[肝癌|肝臓がん]]のため神奈川県の病院で死去した。91歳没<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/society/main/2022/03/06/0015113466.shtml |title=作家の西村京太郎さん死去 |accessdate=2022-03-06 |date=2022-03-06 |publisher=デイリースポーツ}}</ref>。西村の死後、[[文藝春秋社]]が2022年4月に発行した『文春ムック 西村京太郎の推理世界』によると、西村が生前に出版した単行本の数は647冊とされる。
== 受賞・候補歴 ==
* [[1961年]] - 「黒の記憶」で第2回[[宝石 (雑誌)|宝石賞]]候補。
* [[1962年]] - 「病める心」で'''第5回双葉新人賞'''二席入選。
* [[1963年]] - 「歪んだ朝」で'''第2回[[オール讀物推理小説新人賞]]'''受賞。
* [[1964年]] - 「宇宙艇307」で'''第3回[[ハヤカワ・SFコンテスト|SFコンテスト]]努力賞'''受賞(西崎恭名義)。
* [[1965年]] - 『[[天使の傷痕]]』で'''第11回[[江戸川乱歩賞]]'''受賞。
* [[1967年]] - 『太陽と砂』で'''「二十一世紀の日本」作品募集'''(創作の部)最優秀賞。
* 1967年 - 『[[D機関情報]]』で第20回[[日本推理作家協会賞]]候補。
* [[1976年]] - 『[[消えたタンカー]]』で第29回日本推理作家協会賞(長編部門)候補。
* [[1977年]] - 『[[消えた乗組員]]』で第30回日本推理作家協会賞(長編部門)候補。
* [[1979年]] - 『炎の墓標』で第32回日本推理作家協会賞(長編部門)候補。
* [[1980年]] - 『[[夜間飛行殺人事件]]』で第33回日本推理作家協会賞(長編部門)候補。
* [[1981年]] - 『[[終着駅殺人事件]]』で'''第34回日本推理作家協会賞'''(長編部門)受賞。
* [[1997年]] - '''第6回[[日本文芸家クラブ|日本文芸家クラブ大賞]]特別賞'''受賞。
* [[2004年]] - '''第28回[[エランドール賞]]特別賞'''受賞。
* [[2005年]] - '''第8回[[日本ミステリー文学大賞]]'''受賞。
* [[2010年]] - '''第45回[[長谷川伸|長谷川伸賞]]'''受賞。
* [[2016年]] - 『[[十津川警部シリーズ]]』で第1回[[吉川英治文庫賞]]候補<ref>{{Cite news | title = 第1回吉川英治文庫賞の候補作発表| newspaper = [[産経新聞|産経ニュース]]| date = 2016-02-14| url = https://www.sankei.com/article/20160214-TIJ4X5OWPFNRPGPZVIAYFJVDTI/| accessdate = 2018-03-08}}</ref>。
* [[2017年]] - 『十津川警部シリーズ』で第2回吉川英治文庫賞候補。
* [[2018年]] - 『十津川警部シリーズ』で第3回吉川英治文庫賞候補<ref>{{Cite web|和書| title =
第3回「吉川英治文庫賞」、第39回「同新人賞」候補決まる| work = Shinbunka ONLINE| publisher = [[新文化通信社]]| date = 2018-01-30| url = https://www.shinbunka.co.jp/news2018/01/180130-01.htm| accessdate = 2018-03-08}}</ref>。
* [[2019年]] - 『十津川警部シリーズ』で'''第4回吉川英治文庫賞'''受賞<ref>{{Cite news | title = 吉川英治文学賞に篠田節子さん 文庫賞は西村京太郎さん「十津川警部」| newspaper = [[産経新聞|産経ニュース]]| date = 2019-03-04| url = https://www.sankei.com/article/20190304-LOGC7CWA4RPY5C6SM6A6CBJB24/| accessdate = 2019-03-21}}</ref>。
== 選考委員歴 ==
* [[日本ミステリー文学大賞]](第15回 - 第22回)
* [[湯河原文学賞]](第1回 - 第20回)
* [[日本ミステリー文学大賞新人賞]](第1回、第2回)
* [[日本推理作家協会賞]](第37回、第38回)
* [[江戸川乱歩賞]](第18回 - 第20回(予選委員)、第28回、第29回)
* [[小説現代新人賞]](第43回 - 第53回)
* エンタテインメント小説大賞(第6回 - 第10回)
== 著作 ==
{{see|西村京太郎の著作一覧}}
== メディア・ミックス ==
=== テレビドラマ ===
主なドラマシリーズとしては以下のものがある。詳細は各ページを参照。太字は2019年現在放送中のもの。<!--個別に記事があるものを記載しています-->
* [[テレビ朝日]]
** [[土曜ワイド劇場]] 「[[西村京太郎トラベルミステリー]]」(大映版)
** '''土曜ワイド劇場 「西村京太郎トラベルミステリー」(東映版)'''
** 土曜ワイド劇場 「[[鉄道捜査官]]」
* [[フジテレビ]]
** [[金曜エンタテイメント]] 「夏のスペシャル 第2弾・西村京太郎サスペンス・環状線に消えた女」
** 金曜エンタテイメント 「西村京太郎サスペンス・四国情死行」
** 金曜エンタテイメント 「[[お局探偵亜木子&みどりの旅情事件帳|西村京太郎サスペンス・お局探偵亜木子&みどりの旅情事件帳]]」
** 金曜エンタテイメント 「[[十津川警部夫人の旅情殺人推理|西村京太郎スペシャル・十津川警部夫人の旅情殺人推理]]」
** [[金曜プレミアム]] 「[[警部補・佐々木丈太郎|西村京太郎スペシャル 警部補・佐々木丈太郎]]」
** 金曜プレミアム 「西村京太郎サスペンス [[十津川捜査班]]」
* [[TBSテレビ|TBS]]
** [[ザ・サスペンス]] 「[[十津川警部シリーズ (ザ・サスペンス)|西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ]]」(大映テレビ版)
** [[月曜ゴールデン]] 「[[十津川警部シリーズ (渡瀬恒彦)|西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ]]」(テレパック版)
** '''[[月曜名作劇場]] 「[[十津川警部シリーズ (内藤剛志)|西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ]]」'''
** 月曜ゴールデン 「[[探偵 左文字進|西村京太郎サスペンス・探偵左文字進]]」
** [[月曜ミステリー劇場]] 「[[冤罪シリーズ|西村京太郎サスペンス・冤罪]]」
* [[テレビ東京]]
** [[水曜ミステリー9]] 「[[トラベルライター青木亜木子]]」
{{Main2|上記以外のシリーズ作品や、その他の連続・単発ドラマについて詳しくは[[西村京太郎原作のテレビドラマ]]}}
=== 映画 ===
* [[四つの終止符#この声なき叫び(1965年)|この声なき叫び]](1965年1月30日公開、配給:[[松竹]]、監督:市村泰一、主演:[[田村正和]]、原作:『[[四つの終止符]]』)
* [[脱出 (1972年の日本の映画)|脱出]](1972年製作・未公開、配給:[[東宝]]、監督:[[和田嘉訓]]、主演:[[ピート・マック・ジュニア]])
* [[四つの終止符#四つの終止符(1990年)|四つの終止符]](1990年7月7日、劇団GMGによる自主映画、監督:大原秋年、主演:河西誠)
* [[黄金のパートナー]](1979年4月28日公開、配給:東宝、監督:[[西村潔]]、主演:[[三浦友和]]、原作:『[[発信人は死者]]』)
* [[アナザー・ウェイ ―D機関情報―]](1988年9月17日公開、配給:[[東宝東和]]、監督:[[山下耕作]]、主演:[[役所広司]]、原作:『[[D機関情報]]』)
* [[恋人はスナイパー|恋人はスナイパー 劇場版]](2004年4月17日公開、配給:[[東映]]、監督:[[六車俊治]]、主演:[[内村光良]]、原作:『華麗なる誘拐』)
=== ゲーム ===
* 西村京太郎ミステリー ブルートレイン殺人事件([[ファミリーコンピュータ]]、発売元:[[アピエス|アイレム]])
* 西村京太郎ミステリー スーパーエクスプレス殺人事件(ファミリーコンピュータ、発売元:アイレム)
* 西村京太郎ミステリー 北斗星の女([[PCエンジン]][[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]、発売元:[[加賀電子|ナグザット]])
* 西村京太郎トラベルミステリー 悪逆の季節 東京〜南紀白浜連続殺人事件([[3DO]]、発売元:[[パック・イン・ビデオ]] / [[PlayStation Portable|PSP]]、発売元:[[マーベラスエンターテイメント]])
* [[DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ「京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」]]([[ニンテンドーDS]]、発売元:[[テクモ]] / [[iモード]]用サイト「西村京太郎&山村美紗サスペンス」内配信)
* [[DS西村京太郎サスペンス2 新探偵シリーズ「金沢・函館・極寒の峡谷 復讐の影」]](ニンテンドーDS、発売元:テクモ)
* 西村京太郎Vノベル 盗まれた都市([[Yahoo!ケータイ|ボーダフォンライブ!]]用サイト、発売元:[[タイトー]])
=== テレビ番組 ===
* 西村京太郎から挑戦状 芸能界推理王決定戦(2006年1月5日、日本テレビ) - 監修
== 出演 ==
=== テレビドラマ ===
* [[探偵 左文字進]]7・失踪(2003年4月7日、[[TBSテレビ|TBS]]・[[月曜ミステリー劇場]])-カフェ客
* [[十津川警部シリーズ (内藤剛志)|十津川警部シリーズ]]3 伊豆踊り子号殺人迷路(2017年9月11日、TBS・[[月曜名作劇場]]) - 本人(役名も本名)<ref name="musicjp">{{Cite web|和書| url = https://music-book.jp/video/news/news/161894| title = 内藤剛志主演の旅情と人情たっぷりの推理ドラマ…原作者の西村京太郎も出演『十津川警部シリーズ第4弾』| date = 2017-10-16| website = music.jp ニュース| publisher = [[エムティーアイ]]| accessdate = 2018-04-18}}</ref>
* 十津川警部シリーズ4 愛と裏切りの伯備線(2017年10月16日、TBS・月曜名作劇場) - 老夫婦(妻と共に 役名も本名)<ref name="musicjp" />
=== テレビ番組 ===
* 西村京太郎の鉄道ミステリー([[旅チャンネル]])
* 旅ちゃんガイド([[旅チャンネル]]) - 第39、40話ゲスト出演
* プレミアム6 西村京太郎ミステリー紀行〜十津川警部が見た風景〜(2010年2月28日、[[BS-TBS]])
* [[アグレッシブですけど、何か?]](2013年5月15日、[[広島ホームテレビ]])
* [[L4 YOU!]](2014年2月18日、[[テレビ東京]])
* [[まさはる君が行く!ポチたまペットの旅]](2014年4月1日、[[BSジャパン]])
* [[アウト×デラックス|アウトデラックス]](2017年9月21日、[[フジテレビ]])<ref name="hochi20170921" />
* [[ゴロウ・デラックス]](2017年12月7日、[[TBSテレビ|TBS]])<ref name="bookbang">{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎が西村京太郎に自ら売り込み「今後色々と心配なので」 トラベルミステリーに意欲| work = BookBang| publisher = [[新潮社]]| date = 2017-12-09 | url = https://www.bookbang.jp/article/543665| accessdate = 2018-03-08}}</ref>
* [[開運!なんでも鑑定団]](2018年4月24日、テレビ東京)<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20180424/01.html ライブスチーム C11|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京]</ref>
* [[タイプライターズ〜物書きの世界〜]](2019年12月21日、フジテレビ)
=== インターネット番組 ===
* [[将棋電王戦#第3回将棋電王戦|第3回将棋電王戦]] 第4局 [[森下卓]]九段 vs [[ツツカナ]](2014年4月5日、[[ニコニコ生放送]])
=== ラジオ番組 ===
* [[ラジオ深夜便]](2010年9月6日、[[NHKラジオ第1放送]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite |和書|author = [[郷原宏]]|date = 1998|title = 西村京太郎読本| publisher=[[ケイエスエス]]|isbn=978-4-87-709295-5|ref = harv}}
== 関連項目 ==
* [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]]
* [[内藤剛志]] - 「ミステリーの女王 山村美紗物語」で西村京太郎を演じた。
* [[角野卓造]] - 「[[作家探偵・山村美紗]] 京都・東山 密室トリック殺人事件」で西村京太郎を演じた。
== 外部リンク ==
* {{Official website}}(更新停止中)
* [http://www5f.biglobe.ne.jp/~totsu-kame/ 西村京太郎先生山村紅葉さん後援会]
* [http://imeka.ninja-x.jp/kyotaro.html 西村京太郎の部屋]
* [https://kyotalogy.blogspot.com/ 西村京太郎研究会]
* [http://www.kyotaro-db.com/ 西村京太郎データベース]
* {{NHK人物録|D0009072679_00000}}
{{西村京太郎}}
{{江戸川乱歩賞|第11回}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にしむら きようたろう}}
[[Category:西村京太郎|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:江戸川乱歩賞受賞者]]
[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
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本八幡駅
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本八幡駅(もとやわたえき)は、千葉県市川市八幡二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
当駅は市川市の行政・商業の中心に位置する。
東日本旅客鉄道(JR東日本)の総武本線(緩行線)を走行する中央・総武緩行線(総武線各駅停車)と東京都交通局の都営地下鉄新宿線の2社2路線が乗り入れており、接続駅となっている。都営新宿線を合わせた利用者数は総武快速線が停車する隣駅の市川駅より多い。都営新宿線は当駅が終着駅となっており、東京都交通局の運営する鉄道路線では唯一都外に存在する駅である。
当駅北側には京成本線京成八幡駅が位置している。
当駅に乗り入れている路線は線路名称上の総武本線と、東京都交通局の都営地下鉄新宿線が乗り入れ、接続駅となっている。都営地下鉄新宿線は当駅が始発駅・終着駅となっている。
総武本線の運転系統としては緩行線を走る中央・総武緩行線(総武線各駅停車)のみが停車する。
JRの駅と都営地下鉄の駅とは、駅ビル(シャポー本八幡)の中にある連絡通路で結ばれている。
島式ホーム1面2線を有する高架駅である。自動改札機・指定席券売機が設置されている。
船橋営業統括センター管内の直営駅であり、副所長兼駅長が配置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。
用地取得の遅れや交通量の多い国道14号が駅中程に横断していたことから、工期短縮を図ったものの完成が間に合わず、開業当初は新宿方の55 mに仮設ホームを設けて営業していた。1991年9月1日にコンコースを拡幅し、本設駅として営業を開始した。
都営地下鉄最東端、かつ東京都外に所在する唯一の駅である。東京都シルバーパスが都外の鉄道駅では唯一使用可能。また、都営まるごときっぷ(1日乗車券)など都営交通限定の企画乗車券類を都外で唯一発売している駅でもあり、都営地下鉄を使えるものであれば当駅も乗降が可能である。
馬喰駅務管区本八幡駅務区として、船堀駅 - 篠崎駅間を管理している。2018年度には、ホームドアが設置・使用開始された。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
江戸川区内の新宿線各駅と同様に駅シンボルが設置されているが、当駅では市川市の木のクロマツである。
かつては、当駅から東京10号線延伸新線(元々は千葉県営鉄道北千葉線)が延伸して新鎌ヶ谷駅方面まで乗り入れる計画が存在していたが、2013年(平成25年)9月に計画が廃止された。現在は、京成バス市川営業所の高塚線によって、当駅から北総鉄道北総線の大町駅や東松戸駅を結んでいる。
地上と改札階を結ぶエレベーターは国道14号を挟んで南北にそれぞれ設置されており、南側のA4b出入口は2010年2月11日に、北側のA4a出入口は2013年7月19日に供用を開始した。
各年度の1日平均乗降人員の推移は下表の通り(JRを除く)。
年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
市川市の市川市役所の行政施設や商業施設が数多く集まる。また、京成電鉄本社も当駅周辺にある。
駅北口(京成本線沿い)の菅野・八幡地区は、戦前から豪商の別荘地として栄え、お屋敷街を形成する高級住宅街となっている。 それでも終戦直後には、駅周辺は闇市が立ち並ぶ状況となっていた。 その後は国府台から八幡にかけては、東京医科歯科大学など3つの大学があり、市川学園や昭和学院、国府台女子学院を始めとする私立高校が7校、私立中学校が5校、私立小学校が3校と大規模な文教都市・学園都市となっている。また、町名の由来となった下総国総鎮守「葛飾八幡宮」がある。
北口に八幡一番街のような商店街やパティオ本八幡、八幡ハタビル、ガレリア・サーラ、ターミナルシティ本八幡などの超高層マンションを含む複合施設、南口にはMEGAドン・キホーテ、西友、イオンタウン、ニッケコルトンプラザなどの商業施設が林立しているため、昼夜問わず多くの人で賑わう繁華街となっている。サイゼリヤ発祥の地でもある。
本八幡駅北口地区の市街地再開発事業、本八幡A地区第一種市街地再開発事業、本八幡B地区優良建築物等整備事業のような大規模な都市再開発が相次いでいる。
駅ナカ商業施設としてシャポー本八幡があり、専用の改札口が併設されている。2016年7月12日には1回目のリニューアル、同年12月8日には2回目のリニューアルが行われた。
1階レストランモール、1階Fショッピングモール、2階ショッピングモールの計約66店舗の専門店を有する。
最寄りのバス停留所は本八幡駅バス停であり、北口・南口にそれぞれ設置されている。以下の路線バスが京成バス、京成トランジットバスによって運行されている。
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本八幡駅(もとやわたえき)は、千葉県市川市八幡二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
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[[File:Toei Subway Motoyawata Sta. A6-Exit.jpg|thumb|A6出入口・[[京成八幡駅]]南口との連絡口(2013年9月)]]
'''本八幡駅'''(もとやわたえき)は、[[千葉県]][[市川市]][[八幡 (市川市)|八幡]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
当駅は市川市の行政・商業の中心に位置する。
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[総武本線]]([[急行線|緩行線]])を走行する[[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車)と[[東京都交通局]]の[[都営地下鉄新宿線]]の2社2路線が乗り入れており、接続駅となっている。都営新宿線を合わせた利用者数は[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]が停車する隣駅の[[市川駅]]より多い。都営新宿線は当駅が[[終着駅]]となっており、東京都交通局の運営する鉄道路線では唯一都外に存在する駅である。
当駅北側には[[京成本線]][[京成八幡駅]]が位置している<ref group="注">都営地下鉄との連絡定期券は発売しているが、JR線との連絡定期券は発売していない。</ref>。
=== 乗り入れ路線 ===
当駅に乗り入れている路線は線路名称上の[[総武本線]]と、東京都交通局の[[都営地下鉄新宿線]]が乗り入れ、[[接続駅]]となっている。[[都営地下鉄新宿線]]は当駅が[[始発|始発駅]]・[[終着駅]]となっている。
総武本線の運転系統としては[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車)のみが停車する。
* [[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武緩行線(総武線各駅停車):緩行線を走行する総武本線の近距離電車。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 28'''。
* [[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営地下鉄新宿線:[[新宿駅]]から当駅までを結ぶ[[東京都交通局]]の運営する[[鉄道路線]]([[都営地下鉄]])。駅番号は'''S 21'''。
== 歴史 ==
* [[1935年]]([[昭和]]10年)[[9月1日]]:総武本線の駅が開業<ref name="sone26">{{Cite book|和書|author=曽根悟|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=17-19|date=2010-01-17}}</ref><ref name="JTB_58">[[#JTB|総武線 120年の軌跡]]、58頁。</ref>。
** 並走する[[京成電鉄|京成電気軌道]]は既に新八幡駅および八幡駅(ともに現・京成八幡駅)が存在していたものの、総武本線には駅が開設されていなかった。新駅開設は旧・[[八幡町 (千葉県東葛飾郡)|八幡町]]の要望の一つであった<ref>{{Cite book|和書|title=市川市勢総攬|date=1934-12-20|year=1934|publisher=市川市勢調査會|page=8}}</ref>。駅名の由来は所在地となる町名からだが、[[福岡県]]にある[[鹿児島本線]]の[[八幡駅 (福岡県)|八幡駅]]との同名回避もあり「本八幡」とした<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/44193?page=5|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210807093006/https://bunshun.jp/articles/-/44193?page=5|title=都営新宿線“ナゾの終着駅”「本八幡」には何がある?|website=[[文春オンライン]]|date=2021-03-22|archivedate=2021-08-07|page=5|accessdate=2021-08-07|publisher=[[文藝春秋]]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[4月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=604}}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)10月:商業施設「シャポー本八幡」が開業<ref group="報道" name="jrtk/press/20161109">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2016/11/6c50508d3c29de739513366c14d8fa3f-1.pdf|title=2016年12月8日(木)10:00 シャポー本八幡 第Ⅱ期リニューアルオープン! NEW 3 SHOP、RENEWAL 4 SHOP|format=PDF|publisher=ジェイアール東日本都市開発|date=2016-11-09|accessdate=2020-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407074518/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2016/11/6c50508d3c29de739513366c14d8fa3f-1.pdf|archivedate=2020-04-07}}</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)[[4月13日]]:[[みどりの窓口]]を開設<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=総武線本八幡駅にみどりの窓口|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1979-04-12|page=1}}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月19日]]:都営新宿線が当駅まで延伸開業<ref name="100th_909">[[#100th|東京都交通局100年史]]、909頁。</ref><ref name="JTB_59">[[#JTB|総武線 120年の軌跡]]、59頁。</ref><ref group="新聞" name="mainichi1989320">{{Cite news|和書|title=一番乗り狙ったマニアも 都営地下鉄新宿線本八幡延伸 午前中の乗車率60%|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=毎日新聞社|date=1989-03-20}}</ref>。当初は起点方に55 mの仮設ホームを設けて営業していた<ref name="100th_281">[[#100th|東京都交通局100年史]]、281頁。</ref>。
* [[1991年]](平成3年)
** [[3月28日]]:ホームの全面使用を開始<ref name="100th_911">[[#100th|東京都交通局100年史]]、911頁。</ref>。[[京成八幡駅]]との地下連絡通路が完成<ref name="100th_911" />。
** [[9月1日]]:都営新宿線の本設駅が開業<ref name="JTB_59" />。同時に[[京王電鉄]]からの[[直通運転]]区間を[[大島駅 (東京都)|大島駅]]から当駅まで拡大。
* [[1999年]](平成11年)1月:JR東日本の駅にエスカレーターを1基新設<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=エスカレーター普及へ JR千葉支社、5駅に新設|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=1998-09-30|page=1}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:都営地下鉄で「[[PASMO]]・suica」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[7月12日]]・[[12月8日]]:「シャポー本八幡」の改装・テナント入替を実施<ref group="報道" name="jrtk/press/20161109" />。
* [[2018年]](平成30年)
** [[4月28日]]:都営地下鉄で[[ホームドア]]の使用開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2018/sub_p_20180226_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190602075551/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2018/sub_p_20180226_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=都営新宿線におけるホームドアの設置、運用開始について|publisher=東京都交通局|date=2018-02-26|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-06-02}}</ref>。
** [[12月20日]]:JR東日本のコンコースがリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1812_ekibika12.pdf|title=千葉支社管内の駅がますます使いやすくなります! 〜よりご利用いただきやすい設備へのリニューアルを進めています〜|language=日本語|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2018-12-26|accessdate=2020-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519035827/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1812_ekibika12.pdf|archivedate=2020-05-19}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[2月28日]]:みどりの窓口の営業を終了<ref name="StationCd_1560">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1560|title=駅の情報(本八幡駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-02-02|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220202211740/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1560|archivedate=2022-02-02}}</ref><ref name="jreu20211223">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/61c3fc9207a35ff45d3f0835.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211223092144/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/61c3fc9207a35ff45d3f0835.pdf|title=駅の運営体制の見直しについて提案、説明を受ける!|date=2021-12-23|archivedate=2021-12-23|accessdate=2021-12-24|publisher=JR東労組 千葉地方本部|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
<gallery>
JR Motoyawata sta 001.jpg|旧JR北口(2008年2月)
JR Motoyawata sta 002.jpg|旧JR南口(2008年2月)
Toei-S21-Moto-yawata-station-platform.jpg|[[ホームドア]]設置前の都営地下鉄新宿線ホーム(2008年8月)
</gallery>
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 本八幡駅
|画像 = JR Sobu-Main-Line Moto-Yawata Station South Exit.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2019年12月)
|よみがな = もとやわた
|ローマ字 = Moto-Yawata
|副駅名 =
|前の駅 = JB 27 [[市川駅|市川]]
|駅間A = 2.0
|駅間B = 1.6
|次の駅 = [[下総中山駅|下総中山]] JB 29
|電報略号 = モタ
|駅番号 = {{駅番号r|JB|28|#ffd400|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]])
|キロ程 = 17.4 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から21.8
|起点駅 =
|所在地 = [[千葉県]][[市川市]][[八幡 (市川市)|八幡]]二丁目17-1
|座標 = {{coord|35|43|15|N|139|55|38.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 本八幡駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1935年]]([[昭和]]10年)[[9月1日]]<ref name="sone26"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />51,805
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
}}
JRの駅と都営地下鉄の駅とは、[[駅ビル]](シャポー本八幡)の中にある連絡通路で結ばれている。
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]である。[[自動改札機]]・[[指定席券売機]]が設置されている。
船橋営業統括センター管内の直営駅であり、副所長兼駅長が配置されている。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|東行
|[[船橋駅|船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1560.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Sobu-Main-Line Moto-Yawata Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
Moto-Yawata Station Shapo Gate 20191129.jpg|Shapo改札(2019年11月)
Moto-Yawata Station Concourse 20191129.jpg|コンコース(2019年11月)
JR Sobu-Main-Line Moto-Yawata Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
{{-}}
=== 東京都交通局(都営地下鉄) ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 本八幡駅
|画像 = Toei-subway-S21-Motoyawata-station-entrance-A4a-20190831-160807.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = A4a出入口(2019年8月)
|よみがな = もとやわた
|ローマ字 = Motoyawata
|副駅名 =
|隣の駅 =
|前の駅 = S 20 [[篠崎駅|篠崎]]
|駅間A = 2.8
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 = 八(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|S|21|#b0bf1e|4}}
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#b0bf1e|●}}[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
|キロ程 = 23.5
|起点駅 = [[新宿駅|新宿]]
|所在地 = [[千葉県]][[市川市]][[八幡 (市川市)|八幡]]二丁目16-13
|座標 = {{coord|35|43|23|N|139|55|36|E|region:JP_type:railwaystation|name=都営地下鉄 本八幡駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]<ref name="100th_734" />
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月19日]]<ref name="100th_909" /><ref name="JTB_59" /><ref group="新聞" name="mainichi1989320" />
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />66,008
|統計年度 = 2022年
|乗換 = [[京成八幡駅]]([[京成本線]])
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
}}
島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である<ref name="100th_734">[[#100th|東京都交通局100年史]]、734頁。</ref>。
用地取得の遅れや交通量の多い[[国道14号]]が駅中程に横断していたことから、工期短縮を図ったものの完成が間に合わず、開業当初は新宿方の55 mに仮設ホームを設けて営業していた<ref name="100th_281" />。[[1991年]][[9月1日]]にコンコースを拡幅し、本設駅として営業を開始した。
都営地下鉄最東端、かつ[[東京都]]外に所在する唯一の駅である。[[東京都シルバーパス]]が都外の鉄道駅では唯一使用可能。また、[[都営まるごときっぷ]](1日乗車券)など都営交通限定の企画乗車券類を都外で唯一発売している駅でもあり、都営地下鉄を使えるものであれば当駅も乗降が可能である。
馬喰駅務管区本八幡駅務区として、[[船堀駅]] - [[篠崎駅]]間を管理している。[[2018年]]度には、ホームドアが設置・使用開始された。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/shinjuku/S21WD.html |title=本八幡 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1・2
|[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線
|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王線]]方面
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/motoyawata.html 都営地下鉄:駅構内図])
[[江戸川区]]内の新宿線各駅と同様に駅[[シンボル]]が設置されているが、当駅では市川市の[[木]]の[[クロマツ]]である<ref name="100th_282">[[#100th|東京都交通局100年史]]、282頁。</ref>。
かつては、当駅から東京10号線延伸新線(元々は[[千葉県営鉄道]][[千葉県営鉄道北千葉線|北千葉線]])が延伸して[[新鎌ヶ谷駅]]方面まで乗り入れる計画が存在していたが、2013年(平成25年)9月に計画が廃止された<ref group="新聞" name="chibanippo201394">{{Cite news|和書|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/154647|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190305174122/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/154647|title=新鎌ケ谷への延伸計画廃止 検討委員会が解散 都営新宿線|newspaper=千葉日報|date=2013-09-04|accessdate=2020-07-20|archivedate=2019-03-05}}</ref>。現在は、[[京成バス市川営業所]]の高塚線によって、当駅から[[北総鉄道北総線]]の[[大町駅 (千葉県)|大町駅]]や[[東松戸駅]]を結んでいる。
地上と改札階を結ぶ[[エレベーター]]は国道14号を挟んで南北にそれぞれ設置されており、南側のA4b出入口は2010年2月11日に<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2010/sub_i_201002111_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305013021/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2010/sub_i_201002111_h.html|language=日本語|title=新宿線 本八幡駅 エレベーター供用開始のお知らせ|publisher=東京都交通局|date=2010-02-11|accessdate=2020-05-06|archivedate=2016-03-05}}</ref>、北側のA4a出入口は2013年7月19日に供用を開始した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2013/sub_i_201307194268_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160313235440/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2013/sub_i_201307194268_h.html|language=日本語|title=新宿線 本八幡駅 新出入口オープンのお知らせ|publisher=東京都交通局|date=2013-07-19|accessdate=2020-05-06|archivedate=2016-03-13}}</ref>。
<gallery>
Toei-subway-S21-Motoyawata-station-entrance-A5-20190831-160654.jpg|A5番出入口(2019年8月)
Toei Motoyawata sta 001.jpg|JR本八幡駅方面改札(2008年2月)
Moto Yawata Station-1.jpg|京成八幡駅方面改札(2018年3月)
Toei-subway-S21-Motoyawata-station-platform-20190831-160132.jpg|ホーム(2019年8月)
Symbol of Motoyawata station(TOEI).jpg|シンボル
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
*'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''51,805人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: JR東日本全体では[[海浜幕張駅]]に次いで第76位。最新データでは西隣の快速停車駅の市川駅より200人程少ない。近年は僅差で市川駅の方が多い年が続いているが、下記の都営地下鉄の利用者数を合わせた場合は当駅の方が多い。
*'''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''66,008人'''(乗車人員:33,292人、降車人員:32,716人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。
*: 都営新宿線全21駅の中では[[市ケ谷駅|市ヶ谷駅]]に次ぐ第6位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り(JRを除く)。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="ichikawa-city"/>
! rowspan="2" |年度
! colspan="2" |都営地下鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2003年(平成15年)
|61,756
|−0.3%
|-
|2004年(平成16年)
|61,549
|−0.3%
|-
|2005年(平成17年)
|61,803
|0.4%
|-
|2006年(平成18年)
|62,938
|1.8%
|-
|2007年(平成19年)
|66,262
|5.3%
|-
|2008年(平成20年)
|67,394
|1.7%
|-
|2009年(平成21年)
|68,220
|1.2%
|-
|2010年(平成22年)
|68,498
|0.4%
|-
|2011年(平成23年)
|66,877
|−2.4%
|-
|2012年(平成24年)
|68,016
|1.7%
|-
|2013年(平成25年)
|69,258
|1.8%
|-
|2014年(平成26年)
|69,928
|1.0%
|-
|2015年(平成27年)
|72,050
|3.0%
|-
|2016年(平成28年)
|74,605
|3.5%
|-
|2017年(平成29年)
|77,907
|4.4%
|-
|2018年(平成30年)
|80,470
|3.3%
|-
|2019年(令和元年)
|81,242
|1.0%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="都交" name="toei2020" />60,603
|−25.4%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="都交" name="toei2021" />63,077
|4.1%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="都交" name="toei2022" />66,008
|4.6%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1930年代) ===
年度全体の'''乗車'''人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均'''乗車'''人員を求めている。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!国鉄!!出典
|-
|1935年(昭和10年)
|<ref group="備考">開業日(9月1日)から翌年3月31日までの計213日間を集計したデータ。</ref>979
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452376 昭和10年]</ref>
|-
|1936年(昭和11年)
|1,355
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452396 昭和11年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!国鉄 /<br />JR東日本!!都営地下鉄!!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|15,670
|rowspan="35" style="text-align:center;"|未<br/>開<br/>業
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|17,235
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|17,759
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/#13 昭和31年]</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|19,033
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|20,648
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|21,867
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|23,745
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|25,702
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|27,149
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|30,903
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|34,198
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|38,307
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|40,635
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|44,087
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|45,958
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|48,319
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|44,657
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|46,321
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|47,927
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|49,911
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|50,836
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|51,983
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|51,414
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|53,352
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|52,388
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|51,762
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|50,577
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|50,220
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|49,698
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|49,559
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|48,902
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|49,800
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|49,815
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|50,842
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|51,669
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|55,030
|{{Refnest|group="備考"|開業日(3月19日)から同年3月31日までの計13日間を集計したデータ<ref name="100th_721">[[#100th|東京都交通局100年史]]、721頁。</ref>。}}11,656
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|57,854
|16,245
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|59,782
|19,880
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11|title=平成3年|date=20160826025807}}</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|61,325
|22,670
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11|title=平成4年|date=20160826032224}}</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|62,653
|25,236
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11|title=平成5年|date=20160826030434}}</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|62,235
|27,895
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11|title=平成6年|date=20160826032146}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|61,463
|29,588
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11|title=平成7年|date=20160826032713}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|60,777
|29,419
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11|title=平成8年|date=20160826032139}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|60,077
|29,176
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11|title=平成9年|date=20160826032600}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|58,589
|29,189
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11|title=平成10年|date=20160826032235}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|57,689
|29,719
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11|title=平成11年|date=20160826032136}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>56,954
|29,533
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>56,875
|29,917
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="乗降データ" name="ichikawa-city">[https://www.city.ichikawa.lg.jp/gen01/1111004001.html 市川市統計年鑑] - 市川市</ref>
!年度!!JR東日本!!都営地下鉄!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>56,745
|30,847
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>56,871
|31,533
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>56,938
|31,438
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>57,016
|31,325
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>57,366
|31,465
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11|title=平成18年|date=20160826040446}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>58,105
|31,964
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11|title=平成19年|date=20160826033441}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>58,509
|33,383
|<ref group="千葉県統計">{{Wayback|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11|title=平成20年|date=20170830194920}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>58,190
|33,948
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>58,066
|34,326
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>57,429
|34,413
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>56,644
|33,583
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>57,348
|34,194
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>58,274
|34,820
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>57,988
|35,171
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>58,835
|36,225
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>59,143
|37,515
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>59,869
|39,206
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>60,125
|40,500
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>60,161
|40,888
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>46,225
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>30,485
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>48,461
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12|deadlinkdate=}}</ref>31,770
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>51,805
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>33,292
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|八幡 (市川市)|南八幡 (市川市)}}
[[File:Moto-Yawata In front of the Station N 20191129.jpg|thumb|北口駅前の様子(2019年11月)]]
[[File:Moto-Yawata In front of the Station S 20191129.jpg|thumb|南口駅前の様子(2019年11月)]]
[[File:Grand Terminal Tower and Galleria Salla.jpg|thumb|北口の再開発地区([[ガレリア・サーラ]]、[[ターミナルシティ本八幡|グランドターミナルタワー本八幡]]周辺)]]
市川市の[[市川市役所]]の行政施設や商業施設が数多く集まる。また、[[京成電鉄]]本社も当駅周辺にある。
駅北口(京成本線沿い)の[[菅野 (市川市)|菅野]]・[[八幡 (市川市)|八幡]]地区は、戦前から[[豪商]]の[[別荘|別荘地]]として栄え、お屋敷街を形成する[[高級住宅街]]となっている。
それでも終戦直後には、駅周辺は[[闇市]]が立ち並ぶ状況となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_08.html |title=市川市における戦災の状況(千葉県)|publisher=総務省 |date= |accessdate=2022-08-11}}</ref>。
その後は[[国府台 (市川市)|国府台]]から[[八幡 (市川市)|八幡]]にかけては、[[東京医科歯科大学]]など3つの大学があり、[[市川学園]]や[[学校法人昭和学院|昭和学院]]、[[国府台女子学院小学部・中学部・高等部|国府台女子学院]]を始めとする私立高校が7校、私立中学校が5校、私立小学校が3校と大規模な[[文教都市]]・[[学園都市]]となっている<ref group="注">詳細は「[[市川市]]」を参照。</ref>。また、町名の由来となった[[下総国]][[鎮守神|総鎮守]]「[[葛飾八幡宮]]」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1421000003.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220212015346/https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1421000003.html|title=八幡・菅野界隈|archivedate=2022-02-12|accessdate=2022-02-13|publisher=市川市|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
北口に八幡一番街のような[[商店街]]や[[パティオ (市川市)|パティオ]]本八幡、[[ハタプラザ#八幡ハタビル|八幡ハタビル]]、[[ガレリア・サーラ]]、[[ターミナルシティ本八幡]]などの[[超高層マンション]]を含む複合施設、南口には[[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]、[[西友]]<ref>{{Cite web|和書|title=西友本八幡店 - 店舗詳細|SEIYU|url=https://www.seiyu.co.jp/shop/%E8%A5%BF%E5%8F%8B%E6%9C%AC%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%BA%97/|website=SEIYU|accessdate=2019-04-01}}</ref>、[[イオンタウン]]、[[ニッケコルトンプラザ]]などの[[商業施設]]が林立しているため、昼夜問わず多くの人で賑わう[[繁華街]]となっている。[[サイゼリヤ]]発祥の地でもある。
本八幡駅北口地区の市街地再開発事業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1511000004.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210215162908/https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1511000004.html|title=本八幡駅北口再開発事業の概要|date=2018-11-05|archivedate=2021-02-15|accessdate=2021-02-15|publisher=市川市|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、本八幡A地区第一種市街地再開発事業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1511000006.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210215163014mp_/https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1511000006.html|title=本八幡A地区第一種市街地再開発事業|date=2018-10-18|archivedate=2021-02-15|accessdate=2021-02-15|publisher=市川市|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、本八幡B地区優良建築物等整備事業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1551000004.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210215163039mp_/https://www.city.ichikawa.lg.jp/cit02/1551000004.html|title=本八幡B地区優良建築物等整備事業|date=2018-10-18|archivedate=2021-02-15|accessdate=2021-02-15|publisher=市川市|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>のような大規模な[[都市再開発]]が相次いでいる。
=== 駅周辺施設 ===
==== 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) ====
[[駅ナカ]]商業施設として[[ジェイアール東日本都市開発|シャポー]]本八幡があり、専用の[[改札|改札口]]が併設されている。2016年7月12日には1回目のリニューアル、同年12月8日には2回目のリニューアルが行われた<ref group="報道" name="jrtk/press/20161109" />。
1階レストランモール、1階Fショッピングモール、2階ショッピングモールの計約66店舗の[[専門店]]を有する<ref>{{Cite web|和書|title=シャポー本八幡のフロアマップ|url=http://shapo.jrtk.jp/motoyawata/floormap/|website=shapo.jrtk.jp|accessdate=2019-03-27}}</ref>。
* 改札内
** [[NewDays]]、[[キヨスク]]、[[VIEW ALTTE]]
* 改札外
** [[生活彩家]]
** [[JR東日本フーズ#そば・うどん|いろり庵きらく]]
** [[指定席券売機]]
==== 駅 ====
* [[京成八幡駅]] - 都営地下鉄とは乗換駅として地下通路を通して連絡しているが、JR東日本との連絡運輸は取り扱っていない。
==== 行政 ====
{{columns-list|2|
* [[市川市役所]]
* [[市川市消防局]]
** 市川市東消防署
* [[厚生労働省]]
** 市川[[公共職業安定所]](ハローワーク市川)
* 市川市保健センター
* 千葉県市川健康福祉センター
* 千葉県市川[[児童相談所]]
* 市川市生涯学習センター(メディアパーク市川)
** 市川市中央図書館
** 市川市文学プラザ
* [[市川市文化会館]]
* 市川市八幡市民会館([[全日警]]ホール)
* いちかわ情報プラザ
|}}
==== 商業施設 ====
{{columns-list|2|
* [[ジェイアール東日本都市開発#ショッピングセンター事業|シャポー本八幡]]
* [[パティオ (市川市)|パティオ]]
* [[ハタプラザ#八幡ハタビル|八幡ハタビル]]
* プリームスクエア本八幡
* 本八幡キャピタルタワー
* ガレリア・サーラ
* [[ターミナルシティ本八幡]]
* [[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]本八幡店
* [[西友]]本八幡店
* [[イオンタウン]]・[[ダイエー]]市川大和田店
* [[ニッケコルトンプラザ]]・[[ABCハウジング]] - [[無料送迎バス]]が運行。
* [[市川地方卸売市場]]
|}}
==== 学校・博物館 ====
{{columns-list|2|
* [[千葉県立市川工業高等学校]]
* [[不二女子高等学校]]
* [[昭和学院小学校]]
* [[昭和学院中学校・高等学校]]
* [[昭和学院短期大学]]
* [[市川中学校・高等学校]]
* [[日出学園小学校]]
* [[日出学園中学校・高等学校]]
* [[国府台女子学院小学部・中学部・高等部]]
* [[千葉県立現代産業科学館]]
|}}
==== 企業 ====
* [[京成電鉄]]本社
* [[市進ホールディングス]]本社
* [[TDK]]テクニカルセンター
* [[サイゼリヤ]]1号店教育記念館
* [[市川エフエム放送]]<ref>{{Cite web|和書|title=市川市 : いちかわエフエム|url=https://web.archive.org/web/20070929061608/http://www.ichikawafm.co.jp/|website=web.archive.org|date=2007-09-29|accessdate=2019-12-03}}</ref>
==== 郵便局・金融機関 ====
{{columns-list|2|
* [[市川郵便局 (千葉県)|市川郵便局]]・[[ゆうちょ銀行]]市川店
* 北八幡郵便局
* 市川南八幡郵便局
* [[三菱UFJ銀行]]八幡支店・市川八幡支店
* [[三菱UFJ信託銀行]]市川八幡支店
* [[三井住友銀行]]本八幡支店
* [[みずほ銀行]]本八幡支店
* [[りそな銀行]]市川支店
* [[千葉銀行]]本八幡支店・本八幡南支店
* [[京葉銀行]]本八幡支店
|}}
==== その他 ====
* [[葛飾八幡宮]]
* [[八幡の藪知らず]]
== バス路線 ==
最寄りのバス停留所は'''本八幡駅'''バス停であり、北口・南口にそれぞれ設置されている。以下の[[路線バス]]が[[京成バス]]、[[京成トランジットバス]]によって運行されている。
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="3"|北口
|-
|style="text-align:center;"|京成バス
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!colspan="3"|南口<ref group="注">本八幡駅から約100 m程南の場所(ドン・キホーテの前)に設置されている。</ref>
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== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
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::: [[市川駅]] (JB 27) - '''本八幡駅 (JB 28)''' - [[下総中山駅]] (JB 29)
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<!-- 都営の種別色は交通局公式サイトの停車駅表と、10-300形3次車のフルカラーLED方向幕に準拠 -->
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:: {{Color|#6cbb5a|■}}各駅停車
::: [[篠崎駅]] (S 20) - '''本八幡駅 (S 21)'''
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"|2}}
==== 新聞記事 ====
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==== 利用状況に関する出典 ====
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
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;東京都交通局 各駅乗降人員
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; JR・地下鉄の統計データ
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; 千葉県統計年鑑
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東京都交通局100年史|publisher=[[東京都交通局]]|date=2012-10|ref=100th}}
* {{Cite book|和書|author=三好好三|title=総武線 120年の軌跡 東京・千葉を走る列車と駅のあゆみ|others=|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014-03-01|isbn=9784533096310|ref=JTB}}
== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1560|name=本八幡}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/motoyawata.html 本八幡駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局]
* [http://shapo.jrtk.jp/motoyawata/ シャポー本八幡]
{{中央・総武緩行線}}
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[[Category:市川市の鉄道駅]]
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京急800形電車 (2代)
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京急800形電車(けいきゅう800がたでんしゃ)は、かつて京浜急行電鉄にて運転されていた通勤形電車である。1978年(昭和53年)12月26日に竣工、翌27日に営業運転を開始した。
本項では、以下のように取り扱う。
普通列車に使用されていた400形・500形を高加速・高減速・多扉の車両に置き換えてスピードアップおよび停車時間を短縮することで、ラッシュ時間帯の優等列車の速度向上を実現するために設計・開発された。
1000形が必要両数に達していたこと、省エネルギー機運など社会情勢や技術の進展を踏まえ、界磁チョッパ制御・電力回生ブレーキを採用した11年ぶりの新型車となった。これに加えて右手操作式ワンハンドルマスコン、全電気指令式ブレーキ(三菱電機〈以下、三菱〉製MBS-R)、黒地方向幕を京急で初めて採用した形式である。
3両編成25本が製造された後、1982年(昭和57年)から1986年(昭和61年)にうち15編成を中間車3両を新造して6両編成化、1986年製の6両編成2本を加えた合計132両が製造された。
京急で初めて車両番号にハイフンが含まれたが、これは当初3両編成で計画されたため、従来車に倣って連番とすると編成番号を代表する浦賀方先頭車の番号に奇数偶数が混在することになるのを避けたためとされる。この付番体系がのちの6両編成化の改番を容易にしたが、製造当初には6両編成化の構想はなかった。
内外装とも新機軸を多数採用し、京急車両のイメージを変えた点が評価され、「鉄道友の会」の第19回ローレル賞を受賞した。
形式は「2000形」と仮称されたが、本形式が登場した1978年が京急創立80周年だったため、これを記念して「800形」とされた。
車体は普通鋼製で、普通および京急川崎駅以南の急行などで運用されることを想定して設計されたため、地下鉄乗り入れを考慮せず、片開き4扉、前面非常用貫通扉非設置となった。
東急車輛製造のデザインによる、非貫通の運転台窓周囲に段差を付けてその部分を白くし、各幕窓、ヘッドライト周囲を黒く塗装した先頭車の前面形状がそれまでの京急車と大きくイメージを変え、見た目の似た「ダルマ」というニックネームが鉄道ファンから与えられた。前照灯は当初丸形であったが、1979年(昭和54年)製の808編成は角型を試用、翌年の813編成以降で本格採用され、のちに全編成が角型に統一された。
1948年(昭和23年)の東京急行電鉄(大東急)からの独立以降の京急の伝統に則り、前照灯一灯式、片開き扉車であるが、これらの採用は本形式が最後となった。片開き扉の採用は当時の京急の副社長だった日野原保が「乗降の時間は扉のわずかな幅の差ではなく、扉の数によって決まる」という信条を持っていたことも理由であるといわれ、前照灯一灯式の採用も同様に日野原の信条によるものといわれている。700形導入にあたって横浜駅での実地検証の結果、乗降時間の短縮には乗降扉が片開き・両開きの形態の違いや扉の開口寸法よりも、乗降扉数の増加の方が効果があるという結論を得ていた。
塗装は従来の赤に窓下の白帯の塗り分けから、側面の窓周りを広幅に白く塗る塗り分けに変更されたが、2000形の登場後、窓周り白塗装は「優等列車塗装」とされ、800形は1982年(昭和57年)12月出場の820編成・821編成から塗り分けが一般の白帯塗装へ変更され、1984年10月出場の819編成で完了した。その後、本形式登場時の塗り分けは600形・2100形・新1000形に受け継がれている。
両先頭車の扉は運転台と反対側に、中間車は-2、-3、-5が浦賀方に向かって、-4のみが品川方に向かってそれぞれ開く。これは3+3の6両編成と6両貫通編成で扉の開く向きを統一したためである。
初期12編成の側面窓は運転台後部、連結面をバランサ付1枚下降窓とした以外固定窓とされたが、それ以降は戸袋窓部以外をバランサ付1枚下降窓としていた。京急で初めて窓桟のない一枚窓が採用されたこと、窓間の柱を100 mmと細くしたことから当時の車両群の中では非常に洗練された印象をもっていた。
空調装置は先頭車が分散式 の三菱CU-123、中間車が集中式 三菱CU-71CまたはCU-71D、DNを採用した。集電装置は東洋製PT-43系形菱形パンタグラフをM2車に2台搭載している。
座席はロングシートで、1人当たりの幅が30 mm広げられ430 mmとなり、700形と比べ座面が低く奥行きが深いものとなった。座席の端部には京急で初めて板状の袖仕切とスタンションポールが設置された。
本形式初期6編成では内装のカラースキームの方向性を確認するため、3種のカラースキームが採用され、比較・検討が行われた。初回製造東急製の801・802編成が壁面・袖仕切はベージュ系で座席モケットがエンジ色、床面がベージュ系、同じく初回製造川重製の803・804編成がそれぞれグレー系・青色で袖仕切が茶色(皮革模様)、床面がベージュ系、2回目製造の805・806編成では壁面・袖仕切がベージュ系、座席を青色、床面をベージュ系としている。最終的に807編成以降は壁面がベージュ系で座席を青色、袖仕切は茶色、床面灰色に統一され、801 - 806編成も更新時に変更された。
車内の窓枠は日本の鉄道車両では初となるFRP製のもので、同様の構造は2000形や1500形に引き継がれた他、新幹線200系など他鉄道事業者の車両でも採用された。801編成は熱線吸収ガラスを試用していたため窓がミラー状に反射していた。各窓にロールアップカーテンが設けられたが、801編成ではこれが省略された。
先頭車の屋根は丸屋根とされ、冷房吹出しダクトは設けられていない一方、中間車はダクトを設けた平天井とし、吹出し口は長手方向にのびていた。空気攪拌用に扇風機が採用されたほか、初期12編成には排気扇が各車2個設けられていた。
京急初の右手ワンハンドルマスコンが採用された。右手ワンハンドルは次世代車である2000形でも採用されている。開発途上では中央に運転台を置く案も出された。
本形式と同様の狙いで設計された700形は所要数の増加に対応するため付随車2両組み込みの暫定編成で登場、そのままの編成で運用されることが多かったが、その思想をリファインし、1台の主制御器により12個の電動機を制御することで、電動車3両を1ユニットとした3両固定編成とされた(1C12M制御)。端子電圧低下に伴う必要電流増加への対応、回生ブレーキ使用中のパンタグラフ離線による回生ブレーキ失効対策のため中間車にパンタグラフ2個が搭載された。先頭車両と中間車両の車体長が異なるのも特徴の一つである。普通列車用であるため定格速度は33.1 km/hと低くなっていた。
主制御器は東洋電機製造(以下、東洋)製ACRF-H12100-770Aで(直列12段・並列8段・弱め界磁無段階)、主電動機はKHM-800(東洋製TDK-8570-A、三菱製MB-3242-ACの総称、出力100 kW、端子電圧250 V、定格電流450 A、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,300 rpm)を採用した。
補助電源装置は東洋電機製造製のTDK3320-A形ブラシレスMG(電動発電機)を使用している。3両分の電源であり、容量は100 kVA、直流1,500Vを入力して三相交流200Vを出力する。
台車はTH-800形ダイレクトマウント式ボルスタ(枕ばり)付き台車であり、枕ばねには空気ばねを、軸箱支持装置には軸箱守(ペデスタル式)を採用した。
「東急」は東急車輛製造製、「川重」は川崎重工業製。以下各製造時で同じ。
800形として最初に製造されたグループ。「試作車」と呼ばれることがある。これ以降の車両とは細部が異なる。1978年(昭和53年)12月27日に営業運転を開始したが、年明けからしばらく乗務員訓練に使用され、本格的に営業運転に投入されたのは翌1979年3月からである。
前回製造車から半年足らずで製造されたが、何点かの設計変更が施された。「先行量産車」と呼ばれることがある。
前回製造車からさらに半年足らずで18両が製造された。
登場後1年の仕様実績を反映し、設計変更が実施された。
前回製造車から設計変更はない。本形式が3+3の6両編成で運用される場合、番号の連続する編成同士かつ奇数番が若番となる組み合わせとなることが多かったが、今回製造車には組み合わせる相手がない825編成が含まれ、編成は他編成が定期検査入場中などに片割れと組んで運用されていた。822編成は台車のみ川重製であった。
本形式は当初、梅屋敷駅など普通列車停車駅に6両編成が停車可能なホーム有効長が無い駅があったため、運用の自由度を高めるために3両編成で登場したが、朝ラッシュ時の普通・日中の急行など6両編成で運転される機会が増えたこと、1982年4月のダイヤ改正で6両編成の普通列車品川乗り入れが実施されることに伴い、既存の3両編成に挿入して6両編成化するための中間車が製造された。M1車・M3車とも冷房装置、全長などは-2に準じ、他の京急車では1両1箇所設置だった社名略称表記も-2に合わせ1両2箇所とされた。6両編成化に伴い、品川方先頭車の車両番号を-3から-6に改番した。ユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えた。-4の浦賀方に貫通仕切扉が設けられており、先頭車と今回製造の中間車はメーカーが揃えられている。
前回製造車と同一仕様だが、前年登場の2000形に窓回り白塗装を譲り、本形式を白帯塗装とすることになったため、今回の製造車から白帯塗装となった。今回中間車組込対象となった編成は1982年(昭和57年)12月から翌年1月に事前に塗装を変更した。前回製造車の登場後824編成と組んで使用されていた825編成は今回6両化されず、800形の3両編成運用が今回製造車の入線以降ほとんどなくなったためこの後自身の6両編成化まで本線上で姿を見ることが少ない存在となった。822編成以外は先頭車と中間車はメーカーが揃えられている。冷房装置がCU-71Dに変更された。
本形式の最終製造車。今回初めて6両編成が製造された。前回製造車から時間が開いたため、細かな設計変更が行われている。固定窓車への中間車組込(811・812編成)が行われたが、中間車は開閉窓とされた。 過去の6両編成化ではユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えたが、今回の6両編成化では在来車3両の車輪を新品に交換した。同時期製造の1500形1513 - 1520が全車川崎重工で製造されたため、今回の製造車は827編成以外東急車両で製造されている。
1984年(昭和59年)6月からホーム有効長が4両分しか無い梅屋敷駅で6両編成が停車する際の浦賀方2両の扉は開閉させない操作(戸閉切放)を自動化するため、同駅で浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができるADL(自動戸閉切放)装置を搭載する改造が自動化開始前に全編成に施工された。3両編成にも同装置が装着され、3+3の6両編成で運用する場合は同様に浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができた。ドアを締め切る車両のドアには、梅屋敷駅でドアが開かないことを知らせるステッカーが後年貼り付けられた。なお、2010年(平成22年)5月16日に梅屋敷駅の上りホームが高架化され6両編成の停車が可能になったため、ステッカーに「下り方面」の文字が追加された。
1986年(昭和61年)2月に814-4のBL-MGを東洋製ブースタSIVに交換した。同車の更新工事施工時にBL-MGに戻された。
1986年(昭和61年)ごろにドア部に吊り手を増設した。1986年製造車は新製時から増設済。
先頭部連結器を2000形で採用された廻り子式密着連結器 (CSD-90) に交換する工事が1989年(平成元年)から1991年(平成3年)にかけて施工された。連結器胴受けを復心装置入りに変更、山側のジャンパ栓3本と海側の108芯ジャンパ栓を撤去、連結器本体をNCB-II密着自動連結器からCSD-90に交換した。3両編成では1000形などと同様自動連解装置を設置したが、6両編成では省略され、108芯ジャンパ栓も残された。本工事は700形・1000形では準備工事の後連結器交換を実施したが、連結相手が決まっている本形式では直接連結器交換と付帯工事が行われた。品川方先頭車にはジャンパ栓受け跡が残っていた。
1994年(平成6年)から2001年(平成13年)にかけて更新工事が行われた。おもな内容は以下のとおりであるが、内装の色彩はほとんど変更されていなかった。
2002年(平成14年)に(久里浜・川崎・蒲田→)「京急○○」や、(八景・文庫→)「金沢○○」、(新町→)「神奈川新町」など駅名を正式表記とした方向幕に交換した。2005年(平成17年)からはそれに代わり英文併記の白地黒文字幕への交換が行われ、2009年6月に検査出場した827編成をもって全車の字幕交換が完了した。
優先席は奇数号車品川方山側および偶数号車浦賀方海側に設置されていたが、一部の編成では既存のものと点対称位置のシートも優先席とされた。
2016年10月に、800形の1編成が登場時の塗装に変更されて運行することが発表された。同年11月2日に823編成が旧塗装に変更されて出場、11月12日に貸し切り列車として京急ファインテック久里浜工場-品川間を運行、翌日から一般営業運転を開始した。前頭部には復刻記念ヘッドマーク(ローレル賞受賞記念マークを模したもの)を装備しての運行となった。
2017年1月から、「KEIKYU LOVE TRAIN」キャンペーンの一環として当編成の先頭車が「LOVE TRAIN」のラッピング、車内のハート型のつり革を設置した特別編成となることが発表され、同月30日から運行を開始した。
2017年4月29日から6月30日まで「PASMO10周年」を記念したヘッドマークを装着して運行していた。2017年5月28日に開催された「京急ファミリー鉄道フェスタ2017」では、正面の行先を登場当時の黒地幕に戻しての展示が実施された。
登場当初は神奈川新町駅以北の普通列車停車駅のホームが6両対応になっている駅が少なかったことから、主に朝ラッシュ時の神奈川新町以南の普通列車や日中の神奈川新町 - 新逗子間の急行に使用された。そして1982年4月1日のダイヤ改正からラッシュ時の6両編成普通列車の品川乗り入れが行われた。しかし、日中の普通列車が4両編成主体だった1980年代に6両固定編成化が行われたため、朝ラッシュ時は設計構想どおり普通列車で運用されたものの、6両編成は梅屋敷駅(高架化で現在解消済)で踏切を塞いで停車しなければならないことから、ラッシュ時以外京急川崎以北に6両編成の普通列車が長らく設定されなかった。本形式が日中以降、空港線運用を除き京急川崎以北に行く運用は1993年9月のダイヤ改正が最初で、夕ラッシュ時の一部列車で京急川崎以北の6両編成の普通列車拡大が行われたが、全時間帯に渡り6両編成が拡大されるのは1999年7月31日のダイヤ改正まで待つこととなる。
当初存在した3両編成は1985年(昭和60年)ごろまで日中3両編成単独で運用されることがあったが、1986年8月以降は空港線関連以外の3連運用はなくなった。また、1990年代後半、普通列車が三崎口に乗り入れていた一時期を除いて京急久里浜以南に入線したことがほとんどなかった。なお、3連で残った801 - 810編成は1986年(昭和61年)から1993年(平成5年)の延伸まで空港線用としても使用された。
その後は普通列車用の性能であることから、主に新1000形や1500形の6両編成とともに本線系統で普通列車を中心に運用されたが、2002年より朝・夕・夜には羽田空港駅発着の快特・特急に充当されるようになり空港線への乗り入れが再開された。他の形式での運用と異なり、車両性能から最高速度は100 km/hでのダイヤであった。2010年5月のダイヤ改正以降はこれらの代替にエアポート急行の一部にも運用されるようになったが、ホームドアが設置された羽田空港国際線ターミナル駅が開業した同年10月21日以降、当該列車での運用は終了し、以降は空港線への営業運転での乗り入れが無くなった。6両固定編成のみのため、4両編成までしか入線できない大師線の運用は不可能であった。なお2012年10月のダイヤ改正より逗子線は平日は日中から夜にかけて、土休日は早朝深夜を除きエアポート急行が10分間隔(一部を除く)で運行されているため、同線での運用は平日の朝夕と土休日の深夜のみとなっていた。
京急社内で使用されている列車の車両組成表には「(6M)」と表記されていた。
2011年度より以下の編成から順次廃車が行われた。
その後、本系列は老朽化に加え4扉配置がホームドア設置に支障をきたすため、3ドアの新1000形による置き換えを前倒しして全廃させることとなり、最後まで残った823編成(旧塗装)についても、2019年6月中旬をもって引退することが発表された。同年6月16日には823編成により、特別貸切列車として「ありがとう800形」が品川→久里浜工場間で運行された。
当形式の廃車により、京急から正面に行灯式方向幕を装備した車両およびスカート未設置並びに片開き扉の営業用車両が消滅した。
この車両の開発途上、東急車輛製造から前面デザインを非対称にすることを提案されていた。しかし東急車輛製造は国鉄201系電車にも非対称のデザインを提案しており、国鉄は斬新さを求めるため他社に同様のデザインがないことを採用の条件とした。当時は国鉄の影響力が絶大だったこともあって、東急車輛製造は本形式の非対称案を取り下げざるをえなくなり、結果的に左右対称の前面デザインとなった。
その後、2000形の構想が出た際、当時の副社長が収蔵していた800形の没デザインのひとつを取り出し、「今度はこれで行こう」と発言したことでからすぐに前面形状が決まったという。
デハ812-6の前頭部が、西武2000系クハ2098、東急7700系デハ7702と共に、藤久ビル東5号館(丸善池袋店)に保存されている。
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"text": "両先頭車の扉は運転台と反対側に、中間車は-2、-3、-5が浦賀方に向かって、-4のみが品川方に向かってそれぞれ開く。これは3+3の6両編成と6両貫通編成で扉の開く向きを統一したためである。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "初期12編成の側面窓は運転台後部、連結面をバランサ付1枚下降窓とした以外固定窓とされたが、それ以降は戸袋窓部以外をバランサ付1枚下降窓としていた。京急で初めて窓桟のない一枚窓が採用されたこと、窓間の柱を100 mmと細くしたことから当時の車両群の中では非常に洗練された印象をもっていた。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "空調装置は先頭車が分散式 の三菱CU-123、中間車が集中式 三菱CU-71CまたはCU-71D、DNを採用した。集電装置は東洋製PT-43系形菱形パンタグラフをM2車に2台搭載している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "座席はロングシートで、1人当たりの幅が30 mm広げられ430 mmとなり、700形と比べ座面が低く奥行きが深いものとなった。座席の端部には京急で初めて板状の袖仕切とスタンションポールが設置された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "本形式初期6編成では内装のカラースキームの方向性を確認するため、3種のカラースキームが採用され、比較・検討が行われた。初回製造東急製の801・802編成が壁面・袖仕切はベージュ系で座席モケットがエンジ色、床面がベージュ系、同じく初回製造川重製の803・804編成がそれぞれグレー系・青色で袖仕切が茶色(皮革模様)、床面がベージュ系、2回目製造の805・806編成では壁面・袖仕切がベージュ系、座席を青色、床面をベージュ系としている。最終的に807編成以降は壁面がベージュ系で座席を青色、袖仕切は茶色、床面灰色に統一され、801 - 806編成も更新時に変更された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "車内の窓枠は日本の鉄道車両では初となるFRP製のもので、同様の構造は2000形や1500形に引き継がれた他、新幹線200系など他鉄道事業者の車両でも採用された。801編成は熱線吸収ガラスを試用していたため窓がミラー状に反射していた。各窓にロールアップカーテンが設けられたが、801編成ではこれが省略された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "先頭車の屋根は丸屋根とされ、冷房吹出しダクトは設けられていない一方、中間車はダクトを設けた平天井とし、吹出し口は長手方向にのびていた。空気攪拌用に扇風機が採用されたほか、初期12編成には排気扇が各車2個設けられていた。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "京急初の右手ワンハンドルマスコンが採用された。右手ワンハンドルは次世代車である2000形でも採用されている。開発途上では中央に運転台を置く案も出された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "本形式と同様の狙いで設計された700形は所要数の増加に対応するため付随車2両組み込みの暫定編成で登場、そのままの編成で運用されることが多かったが、その思想をリファインし、1台の主制御器により12個の電動機を制御することで、電動車3両を1ユニットとした3両固定編成とされた(1C12M制御)。端子電圧低下に伴う必要電流増加への対応、回生ブレーキ使用中のパンタグラフ離線による回生ブレーキ失効対策のため中間車にパンタグラフ2個が搭載された。先頭車両と中間車両の車体長が異なるのも特徴の一つである。普通列車用であるため定格速度は33.1 km/hと低くなっていた。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "主制御器は東洋電機製造(以下、東洋)製ACRF-H12100-770Aで(直列12段・並列8段・弱め界磁無段階)、主電動機はKHM-800(東洋製TDK-8570-A、三菱製MB-3242-ACの総称、出力100 kW、端子電圧250 V、定格電流450 A、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,300 rpm)を採用した。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置は東洋電機製造製のTDK3320-A形ブラシレスMG(電動発電機)を使用している。3両分の電源であり、容量は100 kVA、直流1,500Vを入力して三相交流200Vを出力する。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "台車はTH-800形ダイレクトマウント式ボルスタ(枕ばり)付き台車であり、枕ばねには空気ばねを、軸箱支持装置には軸箱守(ペデスタル式)を採用した。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "「東急」は東急車輛製造製、「川重」は川崎重工業製。以下各製造時で同じ。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "800形として最初に製造されたグループ。「試作車」と呼ばれることがある。これ以降の車両とは細部が異なる。1978年(昭和53年)12月27日に営業運転を開始したが、年明けからしばらく乗務員訓練に使用され、本格的に営業運転に投入されたのは翌1979年3月からである。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "前回製造車から半年足らずで製造されたが、何点かの設計変更が施された。「先行量産車」と呼ばれることがある。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "前回製造車からさらに半年足らずで18両が製造された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "登場後1年の仕様実績を反映し、設計変更が実施された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "前回製造車から設計変更はない。本形式が3+3の6両編成で運用される場合、番号の連続する編成同士かつ奇数番が若番となる組み合わせとなることが多かったが、今回製造車には組み合わせる相手がない825編成が含まれ、編成は他編成が定期検査入場中などに片割れと組んで運用されていた。822編成は台車のみ川重製であった。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "本形式は当初、梅屋敷駅など普通列車停車駅に6両編成が停車可能なホーム有効長が無い駅があったため、運用の自由度を高めるために3両編成で登場したが、朝ラッシュ時の普通・日中の急行など6両編成で運転される機会が増えたこと、1982年4月のダイヤ改正で6両編成の普通列車品川乗り入れが実施されることに伴い、既存の3両編成に挿入して6両編成化するための中間車が製造された。M1車・M3車とも冷房装置、全長などは-2に準じ、他の京急車では1両1箇所設置だった社名略称表記も-2に合わせ1両2箇所とされた。6両編成化に伴い、品川方先頭車の車両番号を-3から-6に改番した。ユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えた。-4の浦賀方に貫通仕切扉が設けられており、先頭車と今回製造の中間車はメーカーが揃えられている。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "前回製造車と同一仕様だが、前年登場の2000形に窓回り白塗装を譲り、本形式を白帯塗装とすることになったため、今回の製造車から白帯塗装となった。今回中間車組込対象となった編成は1982年(昭和57年)12月から翌年1月に事前に塗装を変更した。前回製造車の登場後824編成と組んで使用されていた825編成は今回6両化されず、800形の3両編成運用が今回製造車の入線以降ほとんどなくなったためこの後自身の6両編成化まで本線上で姿を見ることが少ない存在となった。822編成以外は先頭車と中間車はメーカーが揃えられている。冷房装置がCU-71Dに変更された。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "本形式の最終製造車。今回初めて6両編成が製造された。前回製造車から時間が開いたため、細かな設計変更が行われている。固定窓車への中間車組込(811・812編成)が行われたが、中間車は開閉窓とされた。 過去の6両編成化ではユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えたが、今回の6両編成化では在来車3両の車輪を新品に交換した。同時期製造の1500形1513 - 1520が全車川崎重工で製造されたため、今回の製造車は827編成以外東急車両で製造されている。",
"title": "製造時のバリエーション"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1984年(昭和59年)6月からホーム有効長が4両分しか無い梅屋敷駅で6両編成が停車する際の浦賀方2両の扉は開閉させない操作(戸閉切放)を自動化するため、同駅で浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができるADL(自動戸閉切放)装置を搭載する改造が自動化開始前に全編成に施工された。3両編成にも同装置が装着され、3+3の6両編成で運用する場合は同様に浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができた。ドアを締め切る車両のドアには、梅屋敷駅でドアが開かないことを知らせるステッカーが後年貼り付けられた。なお、2010年(平成22年)5月16日に梅屋敷駅の上りホームが高架化され6両編成の停車が可能になったため、ステッカーに「下り方面」の文字が追加された。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1986年(昭和61年)2月に814-4のBL-MGを東洋製ブースタSIVに交換した。同車の更新工事施工時にBL-MGに戻された。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1986年(昭和61年)ごろにドア部に吊り手を増設した。1986年製造車は新製時から増設済。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "先頭部連結器を2000形で採用された廻り子式密着連結器 (CSD-90) に交換する工事が1989年(平成元年)から1991年(平成3年)にかけて施工された。連結器胴受けを復心装置入りに変更、山側のジャンパ栓3本と海側の108芯ジャンパ栓を撤去、連結器本体をNCB-II密着自動連結器からCSD-90に交換した。3両編成では1000形などと同様自動連解装置を設置したが、6両編成では省略され、108芯ジャンパ栓も残された。本工事は700形・1000形では準備工事の後連結器交換を実施したが、連結相手が決まっている本形式では直接連結器交換と付帯工事が行われた。品川方先頭車にはジャンパ栓受け跡が残っていた。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1994年(平成6年)から2001年(平成13年)にかけて更新工事が行われた。おもな内容は以下のとおりであるが、内装の色彩はほとんど変更されていなかった。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)に(久里浜・川崎・蒲田→)「京急○○」や、(八景・文庫→)「金沢○○」、(新町→)「神奈川新町」など駅名を正式表記とした方向幕に交換した。2005年(平成17年)からはそれに代わり英文併記の白地黒文字幕への交換が行われ、2009年6月に検査出場した827編成をもって全車の字幕交換が完了した。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "優先席は奇数号車品川方山側および偶数号車浦賀方海側に設置されていたが、一部の編成では既存のものと点対称位置のシートも優先席とされた。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2016年10月に、800形の1編成が登場時の塗装に変更されて運行することが発表された。同年11月2日に823編成が旧塗装に変更されて出場、11月12日に貸し切り列車として京急ファインテック久里浜工場-品川間を運行、翌日から一般営業運転を開始した。前頭部には復刻記念ヘッドマーク(ローレル賞受賞記念マークを模したもの)を装備しての運行となった。",
"title": "旧塗装の復活"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2017年1月から、「KEIKYU LOVE TRAIN」キャンペーンの一環として当編成の先頭車が「LOVE TRAIN」のラッピング、車内のハート型のつり革を設置した特別編成となることが発表され、同月30日から運行を開始した。",
"title": "旧塗装の復活"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2017年4月29日から6月30日まで「PASMO10周年」を記念したヘッドマークを装着して運行していた。2017年5月28日に開催された「京急ファミリー鉄道フェスタ2017」では、正面の行先を登場当時の黒地幕に戻しての展示が実施された。",
"title": "旧塗装の復活"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "登場当初は神奈川新町駅以北の普通列車停車駅のホームが6両対応になっている駅が少なかったことから、主に朝ラッシュ時の神奈川新町以南の普通列車や日中の神奈川新町 - 新逗子間の急行に使用された。そして1982年4月1日のダイヤ改正からラッシュ時の6両編成普通列車の品川乗り入れが行われた。しかし、日中の普通列車が4両編成主体だった1980年代に6両固定編成化が行われたため、朝ラッシュ時は設計構想どおり普通列車で運用されたものの、6両編成は梅屋敷駅(高架化で現在解消済)で踏切を塞いで停車しなければならないことから、ラッシュ時以外京急川崎以北に6両編成の普通列車が長らく設定されなかった。本形式が日中以降、空港線運用を除き京急川崎以北に行く運用は1993年9月のダイヤ改正が最初で、夕ラッシュ時の一部列車で京急川崎以北の6両編成の普通列車拡大が行われたが、全時間帯に渡り6両編成が拡大されるのは1999年7月31日のダイヤ改正まで待つこととなる。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当初存在した3両編成は1985年(昭和60年)ごろまで日中3両編成単独で運用されることがあったが、1986年8月以降は空港線関連以外の3連運用はなくなった。また、1990年代後半、普通列車が三崎口に乗り入れていた一時期を除いて京急久里浜以南に入線したことがほとんどなかった。なお、3連で残った801 - 810編成は1986年(昭和61年)から1993年(平成5年)の延伸まで空港線用としても使用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その後は普通列車用の性能であることから、主に新1000形や1500形の6両編成とともに本線系統で普通列車を中心に運用されたが、2002年より朝・夕・夜には羽田空港駅発着の快特・特急に充当されるようになり空港線への乗り入れが再開された。他の形式での運用と異なり、車両性能から最高速度は100 km/hでのダイヤであった。2010年5月のダイヤ改正以降はこれらの代替にエアポート急行の一部にも運用されるようになったが、ホームドアが設置された羽田空港国際線ターミナル駅が開業した同年10月21日以降、当該列車での運用は終了し、以降は空港線への営業運転での乗り入れが無くなった。6両固定編成のみのため、4両編成までしか入線できない大師線の運用は不可能であった。なお2012年10月のダイヤ改正より逗子線は平日は日中から夜にかけて、土休日は早朝深夜を除きエアポート急行が10分間隔(一部を除く)で運行されているため、同線での運用は平日の朝夕と土休日の深夜のみとなっていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "京急社内で使用されている列車の車両組成表には「(6M)」と表記されていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2011年度より以下の編成から順次廃車が行われた。",
"title": "廃車"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その後、本系列は老朽化に加え4扉配置がホームドア設置に支障をきたすため、3ドアの新1000形による置き換えを前倒しして全廃させることとなり、最後まで残った823編成(旧塗装)についても、2019年6月中旬をもって引退することが発表された。同年6月16日には823編成により、特別貸切列車として「ありがとう800形」が品川→久里浜工場間で運行された。",
"title": "廃車"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "当形式の廃車により、京急から正面に行灯式方向幕を装備した車両およびスカート未設置並びに片開き扉の営業用車両が消滅した。",
"title": "廃車"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この車両の開発途上、東急車輛製造から前面デザインを非対称にすることを提案されていた。しかし東急車輛製造は国鉄201系電車にも非対称のデザインを提案しており、国鉄は斬新さを求めるため他社に同様のデザインがないことを採用の条件とした。当時は国鉄の影響力が絶大だったこともあって、東急車輛製造は本形式の非対称案を取り下げざるをえなくなり、結果的に左右対称の前面デザインとなった。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "その後、2000形の構想が出た際、当時の副社長が収蔵していた800形の没デザインのひとつを取り出し、「今度はこれで行こう」と発言したことでからすぐに前面形状が決まったという。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "デハ812-6の前頭部が、西武2000系クハ2098、東急7700系デハ7702と共に、藤久ビル東5号館(丸善池袋店)に保存されている。",
"title": "保存車"
}
] |
京急800形電車(けいきゅう800がたでんしゃ)は、かつて京浜急行電鉄にて運転されていた通勤形電車である。1978年(昭和53年)12月26日に竣工、翌27日に営業運転を開始した。 本項では、以下のように取り扱う。 京急本線上で南側を「浦賀方」、北側を「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。
編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。本文中の編成表は左側を浦賀方として表記する。
車両形式は以下の通りに取り扱う。
「400形」……1965年(昭和40年)改番以降の400形(2代)
「600形」……1994年(平成6年)登場の600形(3代)
「700形」……1967年(昭和42年)登場の700形(2代)
「1000形」……1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)
「新1000形」……2002年(平成14年)登場の1000形(2代)
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急800形電車(2代)
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = 京急800形.jpg
| 画像説明 = 京急800形825編成<br>(2018年10月 金沢文庫 - 金沢八景間)
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎車両|川崎重工業兵庫工場]]
| 製造年 = 1978年 - 1986年
| 製造数 = 132両
| 運用開始 = 1978年12月27日
| 運用終了 = 2019年6月16日
| 編成 = 3・6両編成
| 軌間 = 1,435 mm ([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 100 km/h
| 設計最高速度 = 100 km/h
| 起動加速度 = 3.5 km/h/s
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s
| 非常減速度 = 4.5 km/h/s
| 編成定員 =
| 車両定員 = 144(先頭車138)人<br />座席定員 48(先頭車46)人
| 自重 = 35.0 [[トン|t]]
| 編成重量 =
| 編成長 =
| 全長 = 17,860 mm<br />18,500 mm (先頭車)
| 全幅 = 2,798 mm
| 全高 = 4,030 mm<br />4,050 mm (パンタグラフ搭載車)<br />4,005 mm (先頭車)
| 車体材質 = [[炭素鋼|普通鋼]]
| 台車 =
| 主電動機 = 補償巻線付[[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]]
| 主電動機出力 = 100 [[ワット|kW]] × 4
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン]]
| 歯車比 = 85:14 (6.07)
| 編成出力 =
| 制御方式 = [[界磁チョッパ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生制動]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式電磁直通空気制動]]([[応荷重装置]]付)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]、[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
| 備考 = データは保安装置を除きいずれも新製時。
| 備考全幅 = {{ローレル賞|19|1979|link=no}}
}}
'''京急800形電車'''(けいきゅう800がたでんしゃ)は、かつて[[京浜急行電鉄]]にて運転されていた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。[[1978年]]([[昭和]]53年)12月26日に竣工、翌27日に営業運転を開始した<ref>[[京急800形電車 (2代)#80年史|『京浜急行80年史』掲載の年表]]</ref><ref name=":1">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p142</ref>。
本項では、以下のように取り扱う。
*[[京急本線]]上で南側を「[[浦賀駅|浦賀]]方」、北側を「[[品川駅|品川]]方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。
*編成番号は浦賀方先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]で代表する。本文中の編成表は左側を浦賀方として表記する。
*車両形式は以下の通りに取り扱う。
**「400形」……[[1965年]](昭和40年)改番以降の[[京急400形電車 (2代)|400形(2代)]]
**「600形」……[[1994年]]([[平成]]6年)登場の[[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]]
**「700形」……[[1967年]](昭和42年)登場の[[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]]
**「1000形」……[[1959年]](昭和34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]]
**「新1000形」……[[2002年]](平成14年)登場の[[京急1000形電車 (2代)|1000形(2代)]]
== 概要 ==
[[普通列車]]に使用されていた[[京急400形電車 (2代)|400形]]・[[京急500形電車|500形]]を高加速・高減速・多扉の車両に置き換えてスピードアップおよび停車時間を短縮することで<ref name=":1" />、[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]の優等列車の速度向上を実現するために設計・開発された。
[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]が必要両数に達していたこと、[[省エネルギー]]機運など社会情勢や技術の進展を踏まえ<ref name=":1" />、[[界磁チョッパ制御]]・[[回生ブレーキ|電力回生ブレーキ]]を採用した11年ぶりの新型車となった<ref name=":2">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)P143</ref>。これに加えて右手操作式[[マスター・コントローラー|ワンハンドルマスコン]]、[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式ブレーキ]]([[三菱電機]]〈以下、三菱〉製MBS-R)、黒地[[方向幕]]を京急で初めて採用した形式である<ref name=":2" />。
3両編成25本が製造された後<ref name=":1" />、[[1982年]](昭和57年)から[[1986年]](昭和61年)にうち15編成を中間車3両を新造して6両編成化<ref name=":5">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p150</ref>、1986年製の6両編成2本を加えた合計132両が製造された<ref name=":1" />。
京急で初めて車両番号に[[ハイフン]]が含まれたが、これは当初3両編成で計画されたため、従来車に倣って連番とすると編成番号を代表する浦賀方先頭車の番号に奇数偶数が混在することになるのを避けたためとされる。この付番体系がのちの6両編成化の改番を容易にしたが、製造当初には6両編成化の構想はなかった。
内外装とも新機軸を多数採用し、京急車両のイメージを変えた点が評価され、「[[鉄道友の会]]」の[[第22回ブルーリボン賞 (鉄道)|第19回ローレル賞]]を受賞した。
形式は「2000形」と仮称されたが、本形式が登場した1978年が京急創立80周年だったため、これを記念して「800形」とされた。
== 車両概説 ==
=== 外観 ===
[[ファイル:Keikyu-railway-810F-20080430.jpg|thumb|none|240px|京急800形先頭部<br />(2008年4月30日 / 新馬場)]]
[[ファイル:Khk800.png|サムネイル|角型前照灯]]
車体は[[炭素鋼|普通鋼]]製で、[[普通列車|普通]]および[[京急川崎駅]]以南の[[急行列車|急行]]などで運用されることを想定して設計されたため、[[地下鉄対応車両|地下鉄乗り入れ]]を考慮せず、片開き4扉、前面非常用[[貫通扉]]非設置となった。
[[東急車輛製造]]のデザインによる、非貫通の[[操縦席|運転台]]窓周囲に段差を付けてその部分を白くし、各幕窓、ヘッドライト周囲を黒く塗装した先頭車の前面形状がそれまでの京急車と大きくイメージを変え、見た目の似た「'''[[だるま|ダルマ]]'''」という[[愛称|ニックネーム]]が[[鉄道ファン]]から与えられた<ref name=":6">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p151</ref>。前照灯は当初丸形であったが<ref name=":2" />、[[1979年]](昭和54年)製の808編成は角型を試用<ref name=":2" />、翌年の813編成以降で本格採用され<ref name=":2" />、のちに全編成が角型に統一された<ref name=":2" />。
[[1948年]](昭和23年)の[[東京急行電鉄]]([[大東急]])からの独立以降の京急の伝統に則り、[[前照灯]]一灯式、片開き扉車であるが、これらの採用は本形式が最後となった<ref name=":2" />。片開き扉の採用は当時の京急の副社長だった[[日野原保]]が「乗降の時間は扉のわずかな幅の差ではなく、扉の数によって決まる」という信条を持っていたことも理由であるといわれ、前照灯一灯式の採用も同様に日野原の信条によるものといわれている。700形導入にあたって横浜駅での実地検証の結果、乗降時間の短縮には乗降扉が片開き・両開きの形態の違いや扉の開口寸法よりも、乗降扉数の増加の方が効果があるという結論を得ていた。
塗装は従来の赤に窓下の白帯の塗り分けから、側面の窓周りを広幅に白く塗る塗り分けに変更されたが<ref name=":2" />、[[京急2000形電車|2000形]]の登場後、窓周り白塗装は「優等列車塗装」とされ<ref name=":2" />、800形は[[1982年]](昭和57年)12月出場の820編成・821編成から塗り分けが一般の白帯塗装へ変更され、1984年10月出場の819編成で完了した<ref name=":2" />。その後、本形式登場時の塗り分けは[[京急600形電車 (3代)|600形]]・[[京急2100形電車|2100形]]・[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]に受け継がれている。
両先頭車の扉は運転台と反対側に、中間車は-2、-3、-5が浦賀方に向かって、-4のみが品川方に向かってそれぞれ開く。これは3+3の6両編成と6両貫通編成で扉の開く向きを統一したためである。
初期12編成の側面窓は運転台後部、連結面をバランサ付1枚下降窓とした以外固定窓とされたが、それ以降は[[戸袋]]窓部以外をバランサ付1枚下降窓としていた。京急で初めて窓桟のない一枚窓が採用されたこと、窓間の柱を100 [[ミリメートル|mm]]と細くしたことから当時の車両群の中では非常に洗練された印象をもっていた。
空調装置は先頭車が[[分散式冷房装置|分散式]]<ref name=":4">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p146</ref> の三菱CU-123、中間車が[[集中式冷房装置|集中式]]<ref name=":4" /> 三菱CU-71CまたはCU-71D、DNを採用した。集電装置は東洋製PT-43系形菱形パンタグラフをM2車に2台搭載している。
=== 内装 ===
[[File:Keikyu 821-6 inside.JPG|thumb|220px|800形車内(更新後)]]
座席は[[鉄道車両の座席|ロングシート]]で、1人当たりの幅が30 mm広げられ430 mmとなり、700形と比べ座面が低く奥行きが深いものとなった。座席の端部には京急で初めて板状の袖仕切とスタンションポールが設置された。
本形式初期6編成では内装のカラースキームの方向性を確認するため、3種のカラースキームが採用され、比較・検討が行われた。初回製造東急製の801・802編成が壁面・袖仕切はベージュ系で座席モケットがエンジ色、床面がベージュ系、同じく初回製造川重製の803・804編成がそれぞれグレー系・青色で袖仕切が茶色(皮革模様)、床面がベージュ系、2回目製造の805・806編成では壁面・袖仕切がベージュ系、座席を青色、床面をベージュ系としている。最終的に807編成以降は壁面がベージュ系で座席を青色、袖仕切は茶色、床面灰色に統一され、801 - 806編成も更新時に変更された。
車内の窓枠は日本の鉄道車両では初となる[[繊維強化プラスチック|FRP]]製のもので<ref name=":4" /><ref>「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p144</ref>、同様の構造は2000形や[[京急1500形電車|1500形]]に引き継がれた他、[[新幹線200系電車|新幹線200系]]など他[[鉄道事業者]]の車両でも採用された。801編成は熱線吸収ガラスを試用していたため窓がミラー状に反射していた。各窓にロールアップカーテンが設けられたが、801編成ではこれが省略された。
[[File:Fan on Keikyu 800.JPG|thumb|none|240px|固定窓車の排気扇<br />(2012年5月1日)]]
先頭車の屋根は丸屋根とされ、冷房吹出しダクトは設けられていない一方、中間車はダクトを設けた平天井とし<ref name=":4" />、吹出し口は長手方向にのびていた。空気攪拌用に[[扇風機]]が採用されたほか<ref name=":4" />、初期12編成には排気扇が各車2個設けられていた。{{-}}
=== 機器類 ===
京急初の右手ワンハンドルマスコンが採用された<ref name="TOYODENKI37">東洋電機製造『東洋電機技報』第37号(1979年5月)「京浜急行電鉄株式会社納デハ800形回生車用電機品」pp.23 - 31。</ref>。右手ワンハンドルは次世代車である2000形でも採用されている。開発途上では中央に運転台を置く案も出された。
本形式と同様の狙いで設計された[[京急700形電車 (2代)|700形]]は所要数の増加に対応するため付随車2両組み込みの暫定編成で登場<ref name=":3">「京急電車の運転と車両探検」(JTBパブリッシング発行)p170</ref>、そのままの編成で運用されることが多かったが、その思想をリファインし、1台の主制御器により12個の[[電動機]]を制御することで、[[動力車|電動車]]3両を1ユニットとした3両固定編成とされた<ref name=":1" />(1C12M制御)。端子電圧低下に伴う必要電流増加への対応、回生ブレーキ使用中の[[集電装置|パンタグラフ]]離線による回生ブレーキ失効対策のため中間車にパンタグラフ2個が搭載された。先頭車両と中間車両の車体長が異なるのも特徴の一つである<ref name=":2" />。普通列車用であるため定格速度は33.1 [[キロメートル毎時|km/h]]と低くなっていた<ref name=":4" />。
主制御器は[[東洋電機製造]](以下、東洋)製ACRF-H12100-770Aで(直列12段・並列8段・弱め界磁無段階)<ref name="TOYODENKI37"/>、主電動機はKHM-800<ref name=":1" /><ref>「私鉄全駅全車両基地 No.10 京浜急行電鉄①」(朝日新聞出版)P17</ref>(東洋製TDK-8570-A、三菱製MB-3242-ACの総称、出力100 k[[ワット|W]]、端子電圧250 [[ボルト (単位)|V]]、定格電流450 [[アンペア|A]]、分巻界磁電流24 A、定格回転数1,300 [[rpm (単位)|rpm]])を採用した。
補助電源装置は東洋電機製造製のTDK3320-A形ブラシレスMG([[電動発電機]])を使用している<ref name="TOYODENKI37"/>。3両分の電源であり、容量は100 kVA、直流1,500Vを入力して[[三相交流]]200Vを出力する<ref name="TOYODENKI37"/>。
台車はTH-800形ダイレクトマウント式[[ボルスタアンカー|ボルスタ]](枕ばり)付き台車であり、枕ばねには[[空気ばね]]を、軸箱支持装置には軸箱守(ペデスタル式)を採用した<ref name=":4" />。
<gallery>
Drivers cab Keikyu 800.JPG|運転室<br />(2012年5月1日 / 鮫洲)
Keikyu 800 Series EMU 006.JPG|TH-800台車(2008年5月)
</gallery>
== 製造時のバリエーション ==
=== 1978年(昭和53年)12月・1979年(昭和54年)1月製造車 ===
[[ファイル: 802-1 original.JPG|thumb|none|240px|802編成旧塗装(1983年1月 / 堀ノ内)]]
「東急」は東急車輛製造製、「川重」は川崎重工業製。以下各製造時で同じ。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3c||製造年月||製造所
|-
|801-1||801-2||801-3||1978年12月||東急
|-
|802-1||802-2||802-3||1979年1月||東急
|-
|803-1||803-2||803-3||1978年12月||川重
|-
|804-1||804-2||804-3||1978年12月||川重
|}
800形として最初に製造されたグループ。「[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車]]」と呼ばれることがある。これ以降の車両とは細部が異なる。1978年(昭和53年)12月27日に営業運転を開始したが、年明けからしばらく乗務員訓練に使用され、本格的に営業運転に投入されたのは翌1979年3月からである。
=== 1979年(昭和54年)6月製造車 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3c||製造年月||製造所
|-
|805-1||805-2||805-3||1979年6月||東急
|-
|806-1||806-2||806-3||1979年6月||東急
|}
前回製造車から半年足らずで製造されたが、何点かの設計変更が施された。「先行量産車」と呼ばれることがある。
* 内装カラースキームを変更。前回製造車と含めた18両の結果を見て量産仕様が決定された。
* 戸袋窓寸法を縮小した。
* 側面種別・行先方向幕を一体のカバーに収めた。
* 袖仕切化粧板固定用のビスを廃止した。
=== 1979年(昭和54年)11月製造車===
[[ファイル: Keikyu807808-2.JPG|thumb|none|240px|更新・連結器交換前の807・808編成(1988年8月)]]
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3c||製造年月||製造所
|-
|807-1||807-2||807-3||1979年11月||東急
|-
|808-1||808-2||808-3||1979年11月||東急
|-
|809-1||809-2||809-3||1979年11月||川重
|-
|810-1||810-2||810-3||1979年11月||川重
|-
|811-1||811-2||811-3||1979年11月||川重
|-
|812-1||812-2||812-3||1979年11月||川重
|}
前回製造車からさらに半年足らずで18両が製造された。
* 車内カラースキームが変更された。この後最終増備車まで同一のスキームが採用された。
* マスコンデッドマン装置を変更した。
* 戸閉再開扉装置を追加した。
* 808編成はヘッドライトを角型とした。
=== 1980年(昭和55年)3月製造車 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3c||製造年月||製造所
|-
|813-1||813-2||813-3||1980年3月||東急
|-
|814-1||814-2||814-3||1980年3月||東急
|-
|815-1||815-2||815-3||1980年3月||東急
|-
|816-1||816-2||816-3||1980年3月||川重
|-
|817-1||817-2||817-3||1980年3月||川重
|-
|818-1||818-2||818-3||1980年3月||川重
|}
登場後1年の仕様実績を反映し、設計変更が実施された。
* 側面窓を戸袋部以外開閉式に変更
* 登り勾配発進用バイパスブレーキスイッチを廃止
* 従来車と連結した場合の非常用装備を廃止。従来車も順次撤去。
* 電子ホーンを装備。従来車にも順次設置
* ヘッドライトを角型に変更。従来車も順次交換
* 排気扇を廃止、跡に扇風機を設置
=== 1981年(昭和56年)4月製造車 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3c||製造年月||製造所
|-
|819-1||819-2||819-3||1981年4月||東急
|-
|820-1||820-2||820-3||1981年4月||東急
|-
|821-1||821-2||821-3||1981年4月||東急
|-
|822-1||822-2||822-3||1981年4月||東急
|-
|823-1||823-2||823-3||1981年4月||川重
|-
|824-1||824-2||824-3||1981年4月||川重
|-
|825-1||825-2||825-3||1981年4月||川重
|}
前回製造車から設計変更はない。本形式が3+3の6両編成で運用される場合、番号の連続する編成同士かつ奇数番が若番となる組み合わせとなることが多かったが、今回製造車には組み合わせる相手がない825編成が含まれ、編成は他編成が定期検査入場中などに片割れと組んで運用されていた。822編成は台車のみ川重製であった。
=== 1982年(昭和57年)3月製造車 ===
[[画像: 817-5 original.JPG|thumb|none|240px|塗装変更前のデハ817-3(1983年8月)]]
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3||M1’||M2||M3c||製造年月||製造所
|-
|_____||_____||813-3II||813-4||813-5||_____||1982年3月||東急
|-
|_____||_____||814-3II||814-4||814-5||_____||1982年3月||東急
|-
|_____||_____||815-3II||815-4||815-5||_____||1982年3月||東急
|-
|_____||_____||816-3II||816-4||816-5||_____||1982年3月||川重
|-
|_____||_____||817-3II||817-4||817-5||_____||1982年3月||川重
|-
|_____||_____||818-3II||818-4||818-5||_____||1982年3月||川重
|-
|_____||_____||819-3II||819-4||819-5||_____||1982年3月||東急
|-
|_____||_____||823-3II||823-4||823-5||_____||1982年3月||川重
|}
本形式は当初、[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]]など普通列車停車駅に6両編成が停車可能な[[プラットホーム|ホーム]]有効長が無い駅があったため、運用の自由度を高めるために3両編成で登場したが<ref name=":5" />、朝ラッシュ時の普通・日中の急行など6両編成で運転される機会が増えたこと<ref name=":5" />、[[1982年]]4月のダイヤ改正で6両編成の普通列車品川乗り入れが実施されることに伴い、既存の3両編成に挿入して6両編成化するための中間車が製造された<ref name=":5" />。M1車・M3車とも冷房装置、全長などは-2に準じ、他の京急車では1両1箇所設置だった社名略称表記も-2に合わせ1両2箇所とされた。6両編成化に伴い、品川方先頭車の車両番号を-3から-6に改番した。ユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えた。-4の浦賀方に貫通仕切扉が設けられており、先頭車と今回製造の中間車はメーカーが揃えられている。
=== 1983年(昭和58年)3月製造車 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3||M1’||M2||M3c||製造年月||製造所
|-
|_____||_____||820-3II||820-4||820-5||_____||1983年2月||東急
|-
|_____||_____||821-3II||821-4||821-5||_____||1983年2月||東急
|-
|_____||_____||822-3II||822-4||822-5||_____||1983年2月||川重
|-
|_____||_____||824-3II||824-4||824-5||_____||1983年2月||川重
|}
前回製造車と同一仕様だが、前年登場の2000形に窓回り白塗装を譲り、本形式を白帯塗装とすることになったため、今回の製造車から白帯塗装となった。今回中間車組込対象となった編成は1982年(昭和57年)12月から翌年1月に事前に塗装を変更した。前回製造車の登場後824編成と組んで使用されていた825編成は今回6両化されず、800形の3両編成運用が今回製造車の入線以降ほとんどなくなったためこの後自身の6両編成化まで本線上で姿を見ることが少ない存在となった。822編成以外は先頭車と中間車はメーカーが揃えられている。冷房装置がCU-71Dに変更された。
=== 1986年(昭和61年)8月製造車 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3||M1’||M2||M3c||製造年月||製造所||6連化||更新日||廃車日
|-
| -||-||811-3II||811-4||811-5||-||1986年8月||東急||||||2014年
|-
| -||-||812-3II||812-4||812-5||-||1986年8月||東急||||||2014年
|-
| -||-||825-3II||825-4||825-5||-||1986年8月||東急||||||2019年3月
|-
|826-1||826-2||826-3||826-4||826-5||826-6||1986年8月||東急||||||2019年3月
|-
|827-1||827-2||827-3||827-4||827-5||827-6||1986年8月||川重||||||2019年3月
|}
本形式の最終製造車。今回初めて6両編成が製造された<ref name=":5" />。前回製造車から時間が開いたため、細かな設計変更が行われている<ref name=":6" />。固定窓車への中間車組込(811・812編成)が行われたが、中間車は開閉窓とされた。 過去の6両編成化ではユニット内の車輪径をそろえるため、旧-3の台車を新-3と振り替えたが、今回の6両編成化では在来車3両の車輪を新品に交換した。同時期製造の1500形1513 - 1520が全車川崎重工で製造されたため、今回の製造車は827編成以外東急車両で製造されている。
* 先頭車には1000形・700形で進行していた密着連結器化準備工事を施工。連結器胴受が復心装置付となり、海側に設置されていた108芯ジャンパ栓を廃止。
* 車掌側仕切り窓上側を開閉式に変更。
* 運転台行路表差しの位置を変更。
* 行先方向幕を30コマから40コマに変更。中間車組み込みの先頭車も同様に改造。この方向幕は当時の700形・1000形・1500形と同一の配列のもので、本形式が運用されない泉岳寺以北の駅名も含まれていた。
* ドア部[[つり革|吊り手]]を増設。
* 冷房装置をCU-71DNに変更
* [[圧縮機|空気圧縮機]]を低騒音タイプに変更
* 826・827編成は[[車側灯]]を2灯式、縦長に変更。
== 改造 ==
=== ADL設置工事 ===
[[1984年]](昭和59年)6月からホーム有効長が4両分しか無い梅屋敷駅で6両編成が停車する際の浦賀方2両の扉は開閉させない操作(戸閉切放)を自動化するため<ref name=":5" />、同駅で浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができる[[ドアカット|ADL(自動戸閉切放)]]装置を搭載する改造が自動化開始前に全編成に施工された<ref name=":5" />。3両編成にも同装置が装着され、3+3の6両編成で運用する場合は同様に浦賀駅方2両の扉を自動的に締め切ることができた。ドアを締め切る車両のドアには、梅屋敷駅でドアが開かないことを知らせるステッカーが後年貼り付けられた。なお、[[2010年]](平成22年)5月16日に梅屋敷駅の上りホームが高架化され6両編成の停車が可能になったため、ステッカーに「下り方面」の文字が追加された。
=== ブースタ形SIV試験 ===
1986年(昭和61年)2月に814-4のBL-MGを東洋製ブースタ[[静止形インバータ|SIV]]に交換した。同車の更新工事施工時にBL-MGに戻された。
=== 吊り手増設 ===
1986年(昭和61年)ごろにドア部に吊り手を増設した。1986年製造車は新製時から増設済。
=== 連結器交換 ===
先頭部[[連結器]]を2000形で採用された廻り子式密着連結器 (CSD-90) に交換する工事が1989年(平成元年)から1991年(平成3年)にかけて施工された<ref name=":6" />。連結器胴受けを復心装置入りに変更、山側のジャンパ栓3本と海側の108芯ジャンパ栓を撤去、連結器本体をNCB-II密着自動連結器からCSD-90に交換した。3両編成では1000形などと同様自動連解装置を設置したが<ref name=":6" />、6両編成では省略され<ref name=":6" />、108芯ジャンパ栓も残された。本工事は700形・1000形では準備工事の後連結器交換を実施したが、連結相手が決まっている本形式では直接連結器交換と付帯工事が行われた。[[品川駅|品川]]方先頭車にはジャンパ栓受け跡が残っていた。
=== 更新工事 ===
[[画像:Connection 800s2.JPG|thumb|none|240px|中間車化改造車の連結部(2012年5月)]]
[[1994年]]([[平成]]6年)から[[2001年]](平成13年)にかけて更新工事が行われた。おもな内容は以下のとおりであるが、内装の色彩はほとんど変更されていなかった。
* 801 - 806編成の内装の色彩を807編成以降と同一に変更。
* [[エア・コンディショナー|冷房装置]]の交換。先頭車は集約分散式のまま、カバー内の機器を東芝製PRU-2209Dに交換。中間車はCU71F-G1に交換。
* 車端部の「KHK」の[[ロゴタイプ|ロゴ]]を「KEIKYU」に変更<ref name=":6" />。
* [[品川駅|品川]]方先頭車のジャンパ栓受け跡の撤去。
* 車側灯の[[白熱電球|電球]]を縦長2灯化。ただし初期の更新車に限り(801 - 810・814編成)600形同様に[[発光ダイオード|LED]]を使用した。
* 座席の袖仕切の模様を茶色のものから、[[京急1500形電車#アルミ車体・界磁チョッパ車|1988年製以降の1500形アルミ車]]製造時のものと同じ木目調に変更。
* 823・826・827編成の[[銘板]]は[[シール|ステッカー]]式に変更されていた<ref name=":6" />。
* 3両編成で残っていた801 - 810編成は、奇数編成の品川方と偶数編成の[[浦賀駅|浦賀]]方の[[運転台撤去車|運転台を撤去]]し、座席と窓を増設の上、6両編成5本となった(例:浦賀方←801-1・-2・-3・802-1・-2・-3)。運転台跡の外観は元先頭車の半流線型形状を残している<ref name=":6" />。自動連解装置は撤去された。編成は次のとおり。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|M1c||M2 ||M3||M1||M2||M3c||更新・6連化||廃車日
|-
|801-1||801-2||801-3||802-1||802-2||802-3||||2011年4月<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
|-
|803-1||803-2||803-3||804-1||804-2||804-3||||2011年5月<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
|-
|805-1||805-2||805-3||806-1||806-2||806-3||||2014年1月<ref name="年鑑2014p227"/>
|-
|807-1||807-2||807-3||808-1||808-2||808-3||||2014年3月<ref name="年鑑2014p227"/>
|-
|809-1||809-2||809-3||810-1||810-2||810-3||||2012年3月<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
|}
* 801編成にロールアップカーテンが設置された。801-3の運転台跡に追設された窓ガラス(固定式)は普通ガラスとなった。
* 811 - 825編成に残っていた108芯ジャンパ栓を撤去。
=== 方向幕交換 ===
[[ファイル:京急800方向幕.jpg|サムネイル|交換された方向幕]]
[[2002年]](平成14年)に([[京急久里浜駅|久里浜]]・[[京急川崎駅|川崎]]・[[京急蒲田駅|蒲田]]→)「京急○○」や、([[金沢八景駅|八景]]・[[金沢文庫駅|文庫]]→)「金沢○○」、([[神奈川新町駅|新町]]→)「神奈川新町」など駅名を正式表記とした方向幕に交換した。[[2005年]](平成17年)からはそれに代わり英文併記の白地黒文字幕への交換が行われ、2009年6月に検査出場した827編成をもって全車の字幕交換が完了した。
* 805編成は2006年(平成18年)1月の検査で全車白地幕としたが、その後805-1の山側は黒地幕に戻された。さらに2010年1月の検査では同箇所の行先幕のみが英文併記の白地黒文字幕へ交換された。
=== 優先席の増設 ===
[[優先席]]は奇数号車品川方山側および偶数号車浦賀方海側に設置されていたが、一部の編成では既存のものと点対称位置のシートも優先席とされた。
* 全車白地幕とした時に優先席を増設した編成(2008年11月現在)…811・812・813・817・818・820・821・822の各編成だった。その後全編成の増設が完了。
=== その他 ===
* 2006年から転落防止用外幌の取り付けが進められた<ref name=":6" />。
* バリアフリーの一環として、[[2007年]](平成19年)から点字によるドアの位置案内のステッカーを各ドアに貼り付けていた。
* 京急では[[弱冷房車]]は8両編成のみに設定されていたが、4両・6両編成に対しても[[2011年]]6月から弱冷房車が設定され、本形式も3号車が弱冷房車設定とされた<ref>{{Cite news|url=http://railf.jp/news/2011/06/29/144700.html|title=京急 弱冷房車を増設|newspaper=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2011-06-29|accessdate=2012-05-02}}</ref>。
== 旧塗装の復活 ==
[[File:登場時の塗装に戻された823編成.jpg|thumb|登場時の塗装に戻された823編成(2016年11月)]]
[[2016年]]10月に、800形の1編成が登場時の塗装に変更されて運行することが発表された<ref>[https://web.archive.org/web/20161012220804/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20161011HP_16133NN.html 32年の時を超えて デビュー当時の姿で走り出す!800形 リバイバル塗装車両 登場!!] 京浜急行電鉄ニュースリリース 2016年10月11日([[インターネットアーカイブ]])</ref>。同年11月2日に823編成が旧塗装に変更されて出場<ref>[http://railf.jp/news/2016/11/03/202000.html 京急800形823編成がリバイバル塗装で出場] - [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース 2016年11月3日</ref>、11月12日に貸し切り列車として京急ファインテック久里浜工場-品川間を運行<ref>[http://railf.jp/news/2016/11/13/201500.html 京急800形リバイバル塗装車両による記念イベント列車運転] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2016年11月13日</ref>、翌日から一般営業運転を開始した。前頭部には復刻記念ヘッドマーク(ローレル賞受賞記念マークを模したもの)を装備しての運行となった。
[[2017年]]1月から、「KEIKYU LOVE TRAIN」キャンペーンの一環として当編成の先頭車が「LOVE TRAIN」のラッピング、車内のハート型のつり革を設置した特別編成となることが発表され<ref>[https://web.archive.org/web/20170918195338/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20170123HP_16197MO.html 1/30(月)~3/14(火)京急から愛をこめて今年もKEIKYU LOVE TRAIN キャンペーンを実施 電車の中も外もハートがいっぱい] 京浜急行電鉄ニュースリリース 2017年1月23日(インターネットアーカイブ)</ref>、同月30日から運行を開始した<ref>[https://web.archive.org/web/20170202110758/http://news.jorudan.co.jp/docs/news/detail.cgi?newsid=JD1485765178783 良縁願う「ハート型つり革」 京急ラブトレインが運行開始] - ジョルダンニュース 2017年1月30日(インターネットアーカイブ)</ref>。
2017年4月29日から6月30日まで「[[PASMO]]10周年」を記念したヘッドマークを装着して運行していた<ref>[https://web.archive.org/web/20170420214027/http://www.pasmo10.jp/headmark.php パスモのミニロボットヘッドマーク特別列車] - PASMO10周年特設サイト</ref>。2017年5月28日に開催された「京急ファミリー鉄道フェスタ2017」では、正面の行先を登場当時の黒地幕に戻しての展示が実施された<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/05/2017_5.html 「京急ファミリー鉄道フェスタ2017開催」] - 鉄道ホビダス RMニュース 2017年5月29日</ref>。{{-}}
== 運用 ==
登場当初は[[神奈川新町駅]]以北の普通列車停車駅のホームが6両対応になっている駅が少なかったことから<ref name=":3" /><ref name=":5" />、主に朝ラッシュ時の神奈川新町以南の普通列車や日中の神奈川新町 - 新逗子間の急行に使用された<ref name=":3" />。そして1982年4月1日のダイヤ改正からラッシュ時の6両編成普通列車の品川乗り入れが行われた。しかし、日中の普通列車が4両編成主体だった1980年代に6両固定編成化が行われたため、朝ラッシュ時は設計構想どおり普通列車で運用されたものの、6両編成は梅屋敷駅(高架化で現在解消済)で踏切を塞いで停車しなければならないことから、ラッシュ時以外京急川崎以北に6両編成の普通列車が長らく設定されなかった。本形式が日中以降、空港線運用を除き京急川崎以北に行く運用は1993年9月のダイヤ改正が最初で、夕ラッシュ時の一部列車で京急川崎以北の6両編成の普通列車拡大が行われたが、全時間帯に渡り6両編成が拡大されるのは1999年7月31日のダイヤ改正まで待つこととなる。
[[File:807 Anamori.jpg|250px|thumb|空港線で運用される800形<br/>1988年4月]]
当初存在した3両編成は1985年(昭和60年)ごろまで日中3両編成単独で運用されることがあったが、1986年8月以降は空港線関連以外の3連運用はなくなった<ref name=":6" />。また、[[1990年代]]後半、普通列車が三崎口に乗り入れていた一時期を除いて京急久里浜以南に入線したことがほとんどなかった。なお、3連で残った801 - 810編成は[[1986年]](昭和61年)から[[1993年]](平成5年)の延伸まで[[京急空港線|空港線]]用としても使用された<ref name=":6" />。
その後は普通列車用の性能であることから、主に新1000形や1500形の6両編成とともに本線系統で普通列車を中心に運用されたが<ref name=":6" />、[[2002年]]より朝・夕・夜には[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港駅]]発着の[[京急本線#快特|快特]]・[[京急本線#特急|特急]]に充当されるようになり空港線への乗り入れが再開された<ref name=":6" />。他の形式での運用と異なり、車両性能から最高速度は100 km/hでのダイヤであった。[[2010年]]5月のダイヤ改正以降はこれらの代替に[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]の一部にも運用されるようになったが、[[ホームドア]]が設置された[[羽田空港第3ターミナル駅|羽田空港国際線ターミナル駅]]が開業した同年10月21日以降、当該列車での運用は終了し、以降は空港線への営業運転での乗り入れが無くなった<ref name=":6" />。6両固定編成のみのため、4両編成までしか入線できない[[京急大師線|大師線]]の運用は不可能であった<ref name=":6" />。なお2012年10月のダイヤ改正より[[京急逗子線|逗子線]]は平日は日中から夜にかけて、土休日は早朝深夜を除きエアポート急行が10分間隔(一部を除く)で運行されているため、同線での運用は平日の朝夕と土休日の深夜のみとなっていた。
京急社内で使用されている列車の車両組成表には「(6M)」<ref>[[#吉本1999|『京急ダイヤ100年史』p274]]</ref>と表記されていた。{{-}}
== 廃車 ==
2011年度より以下の編成から順次廃車が行われた<ref name="年鑑2012p99"/><ref name="年鑑2014p129"/><ref name="年鑑2014p130"/><ref name="年鑑2015p128"/><ref name="年鑑2016p103"/>。
*801編成 2011年4月廃車<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
*803編成 2011年5月廃車<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
*805編成 2014年1月廃車<ref name="年鑑2014p227"/>
*807編成 2014年3月廃車<ref name="年鑑2014p227"/>
*809編成 2012年3月廃車<ref name="年鑑2012p223"/><ref name="年鑑2012p224"/>
*811編成 2014年8月廃車<ref name="年鑑2015p241"/>
*812編成 2015年12月廃車<ref name="年鑑2016p218"/>
*813編成 2014年6月廃車<ref name="年鑑2015p241"/>
*814編成 2014年5月廃車<ref name="年鑑2015p241"/>
*815編成 2015年4月廃車<ref name="年鑑2016p218"/>
*816編成 2018年6月廃車
*817編成 2016年11月廃車
*818編成 2016年12月廃車
*819編成 2018年1月廃車
*820編成 2018年7月廃車
*821編成 2018年12月廃車
*822編成 2018年3月廃車
*823編成 2019年6月廃車
*824編成 2018年8月廃車
*825編成 2019年3月廃車
*826編成 2019年3月廃車
*827編成 2019年3月廃車
{{-}}
[[File:800形 823-3編成.png|thumb|240px|right|京急800形ラストラン時の品川駅(2019年6月16日)]]
その後、本系列は老朽化に加え4扉配置が[[ホームドア]]設置に支障をきたすため、3ドアの新1000形による置き換えを前倒しして全廃させることとなり<ref>[https://newswitch.jp/p/12923 京急、ホームドア設置加速で4ドア車両の廃止を前倒し] - 日刊工業新聞 2018年5月13日</ref>、最後まで残った823編成(旧塗装)についても、2019年6月中旬をもって引退することが発表された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=4月6日(土)に「さよなら800形記念乗車券」を発売|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20190329HP_18256EW.html|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2019-04-02}}</ref>。同年6月16日には823編成により、特別貸切列車として「ありがとう800形」が品川→久里浜工場間で運行された<ref name=":0" /><ref>[https://www.tetsudo.com/report/170/ ハマを駆け抜けた京急800形「だるま」、引退を前に特別運転 車両基地では懐かしの表示も] - 鉄道コム、2019年6月16日</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-06-16 |url=https://railf.jp/news/2019/06/16/203000.html |title=京急,特別貸切列車『ありがとう800形』を運転 |website=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |publisher=[[交友社]] |accessdate=2019-06-17}}</ref>。
当形式の廃車により、京急から正面に行灯式方向幕を装備した車両およびスカート未設置並びに片開き扉の営業用車両が消滅した。
== その他 ==
この車両の開発途上、東急車輛製造から前面デザインを非対称にすることを提案されていた。しかし東急車輛製造は[[国鉄201系電車]]にも非対称のデザインを提案しており、国鉄は斬新さを求めるため他社に同様のデザインがないことを採用の条件とした。当時は国鉄の影響力が絶大だったこともあって、東急車輛製造は本形式の非対称案を取り下げざるをえなくなり、結果的に左右対称の前面デザインとなった。
その後、2000形の構想が出た際、当時の副社長が収蔵していた800形の没デザインのひとつを取り出し、「今度はこれで行こう」と発言したことでからすぐに前面形状が決まったという<ref>「鉄道ファン」 1992年12月号 p.106</ref>。
== 保存車 ==
デハ812-6の前頭部が、[[西武2000系電車|西武2000系]]クハ2098、[[東急7700系電車|東急7700系]]デハ7702と共に、藤久ビル東5号館(丸善池袋店)に保存されている<ref>[https://trafficnews.jp/post/76250/ 「ビルに電車を置きたい!」 男の夢、池袋で実現 西武・京急・東急が揃い踏み] - 乗りものニュース 2017年7月21日</ref>。
== 登場した作品 ==
*映画
**[[シン・ゴジラ]]:作中、[[北品川駅]]付近でゴジラの手によって吹き飛ばされるシーンがある。京急電鉄が全面的に協力しており、図面の貸し出しや映画スタッフによる実車取材などが行われた<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/132267?display=b なぜ「シン・ゴジラ」で鉄道が大活躍するのか] - 東洋経済オンライン、2016年8月21日</ref>。
*PCゲーム
**[[少女たちは荒野を目指す]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="年鑑2012p99">[[#年鑑2012動向|『鉄道車両年鑑2012年版』p99]]</ref>
<ref name="年鑑2012p223">[[#年鑑2012一覧|『鉄道車両年鑑2012年版』p223]]</ref>
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<ref name="年鑑2016p103">[[#年鑑2016動向|『鉄道車両年鑑2016年版』p103]]</ref>
<ref name="年鑑2016p218">[[#年鑑2016一覧|『鉄道車両年鑑2016年版』p218]]</ref>
}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Cite book|和書|author =|authorlink = |coauthors =|year = 1980|title = 京浜急行80年史|publisher = 京浜急行電鉄|ref = 80年史|id =|isbn =}}
* {{Cite book|和書|author =吉本尚|authorlink = |coauthors =|year = 1999|title = 京急ダイヤ100年史|publisher = [[電気車研究会]]|ref = 吉本1999|id =|isbn = 4885480930}}
* {{Cite book|和書|author =佐藤良介|authorlink = |coauthors =|year = 2004|title = 京急の車両 現役全形式・徹底ガイド(JTBキャンブックス)|publisher = JTBパブリッシング|id =|isbn =9784533055461}}
* {{Cite book|和書|author =佐藤良介|authorlink = |coauthors =|year = 2014|title = 京急電車の運転と車両探検 向上した羽田空港アクセスと車両の現況(JTBキャンブックス)|publisher = JTBパブリッシング|id =|isbn =9784533097058}}
=== 雑誌記事 ===
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻380号「京浜急行電鉄特集」(1980年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=佐藤 学 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 116 京浜急行電鉄 |journal= |issue= |pages=145-163 |publisher= |ref = RP380}}
* 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』通巻380号(1992年12月・[[交友社]])
** {{Cite journal|和書|author=土岐 實光 |year= |month= |title=ある車両技術者の回想 6 京浜急行電鉄800形と2000形 |journal= |issue= |pages=102-109 |publisher= |ref = RF380}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻501号「特集 京浜急行電鉄」(1988年9月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=小暮 洋|coauthors=園田 淳、高橋 一浩 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 136 京浜急行電鉄 |journal= |issue= |pages=157-189 |publisher= |ref = RP501}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻518号(1989年10月・電気車研究会)
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* 『鉄道ピクトリアル』通巻656号「特集 京浜急行電鉄」(1998年7月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=園田 淳|coauthors=新澤 仁志、萬谷 彰 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄|journal= |issue= |pages=209-259|publisher= |ref = RP656}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻677号(1998年7月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=園田 淳|coauthors=新澤 仁志 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄 補遺|journal= |issue= |pages=47-53
|publisher= |ref = RP677}}
** {{Cite journal|和書|author=萬谷 彰|year= |month= |title=京急ダイヤ全面改正|journal= |issue= |pages=54-61|publisher= |ref = RP677ay}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻881号「鉄道車両年鑑2012年版」(2012年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year= |month= |title=2011年度民鉄車両動向|journal= |issue= |pages= 86-119|publisher= |ref = 年鑑2012動向}}
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2011年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 220-231|publisher= |ref = 年鑑2012一覧}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻881号「鉄道車両年鑑2013年版」(2013年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year= |month= |title=2012年度民鉄車両動向|journal= |issue= |pages= 100-133|publisher= |ref = 年鑑2013動向}}
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2012年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 217-238|publisher= |ref = 年鑑2013一覧}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻909号「鉄道車両年鑑2015年版」(2015年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year= |month= |title=2014年度民鉄車両動向|journal= |issue= |pages= 119-151|publisher= |ref = 年鑑2014動向}}
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2014年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 237-248|publisher= |ref = 年鑑2014一覧}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻923号「鉄道車両年鑑2016年版」(2016年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year= |month= |title=2015年度民鉄車両動向|journal= |issue= |pages= 93-123|publisher= |ref = 年鑑2016動向}}
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=車両データ 2015年度民鉄車両|journal= |issue= |pages= 215-227|publisher= |ref = 年鑑2016一覧}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Keikyu 800 series|<br/>京急800形電車 (2代)}}
{{京浜急行電鉄の車両}}
{{ローレル賞選定車両一覧}}
{{デフォルトソート:けいきゆう800かたてんしや}}
[[Category:京浜急行電鉄の電車|800_2]]
[[Category:1978年製の鉄道車両]]
[[Category:東急車輛製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
[[Category:だるま]]
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2003-09-05T13:23:36Z
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%80%A5800%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A_(2%E4%BB%A3)
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ロータリースピーカー
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ロータリースピーカーとは、高音部用のホーンと、低音部用のローターを、モーターで別々に回転させてコーラス効果を発生させ、音に広がりを与える仕組みをもったスピーカー。ハモンドオルガンと組で使われることが多いが、それ以外の電気電子楽器やマイクを接続しアコースティック楽器と組で使う事も可能である。回転速度は速い・遅いの2段で、停止させることも可能。ドン・レスリーが開発し、レスリー・ユニット(通称レスリー・スピーカー、後述)という名称で発売されていたが、この名称が代名詞として一般化している。
本来製造・販売元はハモンドオルガンとは別会社であったが、現在は鈴木楽器製作所が商標権を取得し、ハモンドオルガンとともに製造・販売されている。
ロータリースピーカーは本体が大きくて運搬に苦労することから、各オルガンメーカーはロータリースピーカーを電子的に再現し、オルガン本体のエフェクトとして組み込んでいる。これはハモンドオルガンでは「電子レスリー」と呼ばれるが、一般的にはレスリーシミュレータなどと呼ばれることが多い。
技術が進むにつれて再現性は向上してはいるものの、やはり本物のロータリースピーカーに敵わないという声もある。そのため、ロータリースピーカー用のコネクタを装備している機種もある。特にハモンドオルガンでは「電子レスリー」を省略した機種も存在する。
レスリー・スピーカー (Leslie speaker) は、1940年代にドナルド・レスリー (Donald Leslie) によって考案された、ドップラー効果を利用して、トレモロ、ビブラートなどの音色の効果を出すために作られた、アンプ内蔵のスピーカーユニットである。特にハモンドオルガンと接続して用いられることが多いがハモンド社の製品ではない。1960年代以降はハモンドオルガンとともに、ロックミュージシャンに好んで使用されるようになった。プロコル・ハルム (Procol Harum) の「青い影 ("A Whiter Shade of Pale") 」やアニマルズの「朝日のあたる家」が有名である。ザ・ベンチャーズの10番街の殺人では、サクソフォンの音をマイクで収録しレスリー・スピーカーで出力している。また、ビートルズがスタジオ録音において多様したことでも知られ、ジョージ・ハリスンのリード・ギターをはじめ、「トゥモロー・ネバー・ノウズ」ではジョン・レノンのボーカルに対し「数千人ものチベットの僧侶が経典を唱えている」ような効果を与えるために使用された。
開発当初の1941年は「ビブラトーン (Vibratone) 」と言う名称であった。ハモンド社の純正品ではなかったが、似た構造を持つスピーカーユニットが製造され始め、最後までハモンド社はレスリーをオファーすることなく、1965年にフェンダー社がレスリーを買収する形になった。
木製の立方体の上部と下部にスリットが入った独特の形状のスピーカーユニットの裏側から見ると、内部は3重構造になっており、最上部が高音部を出すスピーカー(ツイーター)にモーターにより回転するホーンが付けられている。中間部にはそのホーンを回転させるためのモーターと低音部を出すスピーカー(ウーファー)が最下層に向かって取り付けられている。最下層は、真空管式アンプとウーファーに取り付けられたローターを回すためのモーターが付けられている。このローターは高音部のホーンとは逆方向に回転する。モーターは速度を「「速い (fast)」と「遅い (slow)」の2段階で回転させることができる。初期の物はstop/fastで、slowは装備されていなかった。
これらのホーンやローターを回転させることにより、電気的ではなく、物理的に音色に効果を与え、ビブラート、トレモロ、およびコーラス効果が得られる。また、モーターの回転が一定になるまでの立ち上がりや停止までの状態が、より自然な効果を生んでいる。
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ロータリースピーカーとは、高音部用のホーンと、低音部用のローターを、モーターで別々に回転させてコーラス効果を発生させ、音に広がりを与える仕組みをもったスピーカー。ハモンドオルガンと組で使われることが多いが、それ以外の電気電子楽器やマイクを接続しアコースティック楽器と組で使う事も可能である。回転速度は速い・遅いの2段で、停止させることも可能。ドン・レスリーが開発し、レスリー・ユニット(通称レスリー・スピーカー、後述)という名称で発売されていたが、この名称が代名詞として一般化している。 本来製造・販売元はハモンドオルガンとは別会社であったが、現在は鈴木楽器製作所が商標権を取得し、ハモンドオルガンとともに製造・販売されている。 ロータリースピーカーは本体が大きくて運搬に苦労することから、各オルガンメーカーはロータリースピーカーを電子的に再現し、オルガン本体のエフェクトとして組み込んでいる。これはハモンドオルガンでは「電子レスリー」と呼ばれるが、一般的にはレスリーシミュレータなどと呼ばれることが多い。 技術が進むにつれて再現性は向上してはいるものの、やはり本物のロータリースピーカーに敵わないという声もある。そのため、ロータリースピーカー用のコネクタを装備している機種もある。特にハモンドオルガンでは「電子レスリー」を省略した機種も存在する。
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'''ロータリースピーカー'''とは、高音部用のホーンと、低音部用のローターを、[[電動機|モーター]]で別々に回転させて[[コーラス (音響機器)|コーラス]]効果を発生させ、音に広がりを与える仕組みをもった[[スピーカー]]。[[ハモンドオルガン]]と組で使われることが多いが、それ以外の電気電子楽器やマイクを接続しアコースティック楽器と組で使う事も可能である。回転速度は速い・遅いの2段で、停止させることも可能。ドン・レスリーが開発し、レスリー・ユニット(通称'''レスリー・スピーカー'''、[[#レスリー・スピーカー|後述]])という名称で発売されていたが、この名称が代名詞として一般化している。
本来製造・販売元はハモンドオルガンとは別会社であったが、現在は[[鈴木楽器製作所]]が商標権を取得し、ハモンドオルガンとともに製造・販売されている。
ロータリースピーカーは本体が大きくて運搬に苦労することから、各オルガンメーカーはロータリースピーカーを電子的に再現し、オルガン本体のエフェクトとして組み込んでいる。これはハモンドオルガンでは「電子レスリー」と呼ばれるが、一般的にはレスリーシミュレータなどと呼ばれることが多い。
技術が進むにつれて再現性は向上してはいるものの、やはり本物のロータリースピーカーに敵わないという声もある。そのため、ロータリースピーカー用のコネクタを装備している機種もある。特にハモンドオルガンでは「電子レスリー」を省略した機種も存在する。
== レスリー・スピーカー ==
レスリー・スピーカー ([[:en:Leslie speaker|Leslie speaker]]) は、1940年代にドナルド・レスリー ([[:en:Donald Leslie|Donald Leslie]]) によって考案された、[[ドップラー効果]]を利用して、トレモロ、ビブラートなどの音色の効果を出すために作られた、アンプ内蔵のスピーカーユニットである。特に[[ハモンドオルガン]]と接続して用いられることが多いがハモンド社の製品ではない。1960年代以降はハモンドオルガンとともに、ロックミュージシャンに好んで使用されるようになった。[[プロコル・ハルム]] ([[:en:Procol Harum|Procol Harum]]) の「[[青い影]] ("[[:en:A Whiter Shade of Pale|A Whiter Shade of Pale]]") 」や[[アニマルズ]]の「[[朝日のあたる家#アニマルズ・バージョン|朝日のあたる家]]」が有名である。[[ザ・ベンチャーズ]]の[[10番街の殺人]]では、サクソフォンの音をマイクで収録しレスリー・スピーカーで出力している。また、[[ビートルズ]]がスタジオ録音において多様したことでも知られ、[[ジョージ・ハリスン]]のリード・ギターをはじめ、「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ]]」では[[ジョン・レノン]]のボーカルに対し「数千人ものチベットの僧侶が経典を唱えている」ような効果を与えるために使用された。
=== 歴史・特徴 ===
開発当初の1941年は「ビブラトーン (Vibratone) 」と言う名称であった。ハモンド社の純正品ではなかったが、似た構造を持つスピーカーユニットが製造され始め、最後までハモンド社はレスリーをオファーすることなく、1965年にフェンダー社がレスリーを買収する形になった。
[[Image:Leslie speaker unit.jpg|thumb|240px|right|レスリー・スピーカーの内部略図]]
木製の立方体の上部と下部にスリットが入った独特の形状のスピーカーユニットの裏側から見ると、内部は3重構造になっており、最上部が高音部を出すスピーカー(ツイーター)にモーターにより回転するホーンが付けられている。中間部にはそのホーンを回転させるためのモーターと低音部を出すスピーカー(ウーファー)が最下層に向かって取り付けられている。最下層は、真空管式アンプとウーファーに取り付けられたローターを回すためのモーターが付けられている。このローターは高音部のホーンとは逆方向に回転する。モーターは速度を「「速い (fast)」と「遅い (slow)」の2段階で回転させることができる。初期の物はstop/fastで、slowは装備されていなかった。
これらのホーンやローターを回転させることにより、電気的ではなく、物理的に音色に効果を与え、ビブラート、トレモロ、およびコーラス効果が得られる。また、モーターの回転が一定になるまでの立ち上がりや停止までの状態が、より自然な効果を生んでいる。
=== 主なモデル ===
; Model 122
: ハモンドオルガンのB3、C3やA100に最もよく接続されたモデル。2スピード、40ワット。
; Model 147
: Model 122と同じ筐体や仕組みではあったが、アンプ入力とモータースピードコントロールが異なっていた。またハモンド以外のオルガンにも容易に接続できるようになった。
; Model 125
: 1963年に開発され、ハモンド用とWurlitzer用の2つのタイプがあった。さらにConnの50C用のものも製作された。
; Model 16
: 1970年に製作された最も小型のもので、持ち運びが容易になった。形状はフェンダー社の物に近い。
; Model 760
: ハモンドX5のユーザーが好んで使う形で、さすがにアンプは真空管型から半導体型に仕様変更された。
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15,235 |
馬喰横山駅
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馬喰横山駅(ばくろよこやまえき)は、東京都中央区日本橋横山町にある、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線の駅である。
駅番号はS 09。馬喰駅務管区の所在駅である。
連絡通路を経由して、以下の路線への乗り換えが可能である。
隣接する付近の2つの地名、「日本橋馬喰町」と「日本橋横山町」に由来する。
中柱のある相対式ホーム2面2線の地下駅。改札口は地下1階と地下3階(馬喰町駅に連絡)、ホームは地下2階にある。
馬喰駅務管区の所在駅であり、馬喰駅務区として新宿線浜町駅 - 東大島駅間および浅草線新橋駅 - 東日本橋駅間を、本八幡駅務区として船堀駅 - 本八幡駅間を管理している。
駅構内には定期券発売所(東京都営交通協力会委託)、メルシー馬喰横山店がある。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は96,253人(乗車人員:48,129人、降車人員:48,124人)である。新宿線内では新宿駅、神保町駅に次ぐ第3位。
各年度の1日平均乗降・乗車人員数の推移は下表の通り。
最寄りのバス停留所は次の通り。
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"title": "利用状況"
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"text": "最寄りのバス停留所は次の通り。",
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馬喰横山駅(ばくろよこやまえき)は、東京都中央区日本橋横山町にある、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線の駅である。 駅番号はS 09。馬喰駅務管区の所在駅である。
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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}}
{{統合文字|喰}}
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 馬喰横山駅
|画像 = Bakuroyokoyama-station-ExitA2.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = A2番出入口(2019年8月29日撮影)
|よみがな = ばくろよこやま
|ローマ字 = Bakuroyokoyama<!-- 駅名標の表記に従う -->
|副駅名 =
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point|type3=point
|coord={{coord|35|41|31.6|N|139|46|58|E}}|marker=rail-metro|marker-color=b0bf1e|title=馬喰横山駅
|coord2={{coord|35|41|31.6|N|139|47|5.6|E}}|marker2=rail-metro|marker-color2=e83e2f|title2=東日本橋駅
|coord3={{coord|35|41|36.1|N|139|46|56.6|E}}|marker3=rail|marker-color3=008000|title3=馬喰町駅
}}上は馬喰町駅、右は東日本橋駅
|前の駅 = S 08 [[岩本町駅|岩本町]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 0.6
|次の駅 = [[浜町駅|浜町]] S 10
|電報略号 = 喰(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|S|09|#b0bf1e|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#b0bf1e|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
|キロ程 = 8.1
|起点駅 = [[新宿駅|新宿]]
|所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋横山町]]4-13
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 41 | 緯度秒 = 31.6
| 経度度 = 139 |経度分 = 46 | 経度秒 = 58
|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1978年]]([[昭和]]53年)[[12月21日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />96,253
|統計年度 = 2022年
|乗換 = {{駅番号r|A|15|#e83e2f|4}}<ref name="tokyosubway"/>[[東日本橋駅]]<br />([[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]])<br/>[[馬喰町駅]]([[東日本旅客鉄道|JR]][[総武快速線]])
|備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]
|備考全幅 =
}}
'''馬喰横山駅'''(ばくろよこやまえき)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋横山町]]にある、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''S 09'''。馬喰駅務管区の所在駅である。
== 接続駅 ==
連絡通路を経由して、以下の路線への乗り換えが可能である。
* [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
** [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]([[東日本橋駅]]) - 共に都営地下鉄の駅であるが、[[改札]]外を経由する必要がある。[[自動改札機]]はピンク色のものとオレンジ色のものの2種類が別々に設置されており、このうち後者は都営浅草線への乗り換え専用となっている。なお、[[定期乗車券|定期券]]・[[PASMO]]・[[Suica]]はどちらの改札機でも乗り換えが可能である。
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|総武快速線]]([[馬喰町駅]]) - 岩本町方に乗り換え専用改札がある。改札業務は東京都交通局が行っている。
== 歴史 ==
* [[1978年]]([[昭和]]53年)[[12月21日]]:開業。浅草線東日本橋駅・[[日本国有鉄道|国鉄]](現・JR東日本)総武快速線馬喰町駅と3駅同時乗り換え業務を開始。
* [[1997年]]([[平成]]9年)[[12月24日]]:急行停車駅となる。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[4月1日]]:東日本橋駅が新橋駅務管理所新橋駅務区から馬喰駅務管理所馬喰駅務区の傘下となる。
* [[2016年]](平成28年)4月1日:馬喰駅務管理所が馬喰駅務管区に改組。新橋駅務管理所新橋駅務区は馬喰駅務管区馬喰駅務区に移管される。
=== 駅名の由来 ===
隣接する付近の2つの地名、「[[日本橋馬喰町|日本橋'''馬喰'''町]]」と「日本橋'''横山'''町」に由来する。
== 駅構造 ==
中柱のある[[相対式ホーム]]2面2線の[[地下駅]]。[[改札口]]は地下1階と地下3階(馬喰町駅に連絡)、ホームは地下2階にある。
馬喰駅務管区の所在駅であり、馬喰駅務区として新宿線[[浜町駅]] - [[東大島駅]]間および浅草線[[新橋駅]] - 東日本橋駅間を、[[本八幡駅|本八幡]]駅務区として[[船堀駅]] - 本八幡駅間を管理している<ref>[http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10115671.html 東京都交通局駅務管区処務規程]</ref>。
駅構内には定期券発売所([[東京都営交通協力会]]委託)、メルシー馬喰横山店がある。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/shinjuku/S09WD.html |title=馬喰横山 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線
|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王線]]方面
|-
!2
|[[本八幡駅|本八幡]]方面
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/bakuro-yokoyama.html 都営地下鉄:駅構内図])
<gallery>
Bakuroyokoyama-Higashinihombashi access.jpg|東日本橋方面改札(2020年11月)
Bakuroyokoyama-STA Yokoyamacho-District-Gate.jpg|横山町方面改札(2022年11月)
Bakuroyokoyama-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2022年11月)
Bakuroyokoyama-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2022年11月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''96,253人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:48,129人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:48,124人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。新宿線内では新宿駅、神保町駅に次ぐ第3位。
各年度の1日平均'''乗降'''・'''乗車'''人員数の推移は下表の通り。
* 1991年度までと1995年度から2005年度までの乗車人員は、浅草線との乗換人員を含まない値である。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kohokotyo/kohokankobutsu/chuopocket.html 中央区ポケット案内] - 中央区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|22,592
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|23,929
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|47,096
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|50,745
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
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|1995年(平成{{0}}7年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
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|1997年(平成{{0}}9年)
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|-
|1998年(平成10年)
|
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|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
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|-
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|
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|-
|2001年(平成13年)
|
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|2002年(平成14年)
|
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|2004年(平成16年)
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|-
|2006年(平成18年)
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|-
|2007年(平成19年)
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|2008年(平成20年)
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|-
|2009年(平成21年)
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|2010年(平成22年)
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|2011年(平成23年)
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|2012年(平成24年)
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|2013年(平成25年)
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|2014年(平成26年)
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|2015年(平成27年)
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|2016年(平成28年)
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|2019年(令和元年)
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>82,627
|<ref group="都交" name="toei2020" />41,200
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>86,237
|<ref group="都交" name="toei2021" />43.031
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>96,253
|<ref group="都交" name="toei2022" />48,129
|
|}
== 駅周辺 ==
* [[国道6号]](江戸通り)
* [[東京都道302号新宿両国線]](靖国通り)
* [[清洲橋通り]]
* 東日本橋三丁目[[郵便局]]
* [[中央区立日本橋中学校]] - 徒歩6分
=== バス路線 ===
最寄りの[[バス停留所]]は次の通り。
; 東日本橋駅前
* [[都営バス]]
** 秋26:[[葛西駅|葛西駅前]]行
*** 馬喰町周辺の[[清洲橋通り]]は東行[[一方通行]]のため、[[秋葉原駅|秋葉原駅前]]行は[[江戸通り]]を西へ数分のところにある'''小伝馬町'''停留所から利用する。
; 馬喰横山駅
* [[日立自動車交通]]
** [[中央区コミュニティバス]]「江戸バス」 北循環:[[中央区役所 (東京都)|中央区役所]]行
; 富沢町
* [[日の丸自動車興業]]
** [[メトロリンク日本橋#メトロリンク日本橋Eライン|メトロリンク日本橋Eライン]]:地下鉄[[水天宮前駅]]方面
== 隣の駅 ==
<!-- 都営の種別色は交通局公式サイトの停車駅表と、10-300形3次車のフルカラーLED方向幕に準拠 -->
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線
:: {{Color|red|■}}急行
::: [[神保町駅]] (S 06) - '''馬喰横山駅 (S 09)''' - [[森下駅 (東京都)|森下駅]] (S 11)
:: {{Color|#6cbb5a|■}}各駅停車
::: [[岩本町駅]] (S 08) - '''馬喰横山駅 (S 09)''' - [[浜町駅]] (S 10)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bakuro-Yokoyama Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/bakuro-yokoyama.html 馬喰横山駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局]
{{都営地下鉄新宿線}}
{{デフォルトソート:はくろよこやま}}
[[Category:東京都中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 は|くろよこやま]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1978年開業の鉄道駅]]
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2003-09-05T13:33:53Z
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2023-12-21T19:26:32Z
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幹線
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幹線(かんせん)とは、電力網・配電網・電気通信網(電話網など)・交通網(道路網・鉄道網・航空網など)で、主要地点間を結び網の骨格をなす重要路線。
屋内配電網における電力幹線設備とは、一般的に受変電設備の配電盤(端子ではその2次側端子)から負荷設備の電灯分電盤や動力制御盤(端子ではその1次側端子)までをいう。
幹線方式には、電灯盤や動力盤ごとに専用の幹線で供給する方式(幹線の本数が多くなり経済的には不利だが、幹線事故が生じたときに他の幹線への波及が少ない)と電灯盤や動力盤に同一系統の大容量幹線で供給する方式(遮断機容量が大きくなるが、幹線が少なくなり経済性や施工性では有利)がある。
幹線系統は、一般系(一般建物負荷)、防災系(火災時に供給する負荷)、保安系(停電時に電源供給が必要な負荷)、重要・最重要系(サーバー等の重要負荷)などに分けられる。
幹線設備(幹線サイズ)の材料を選定する際には、使用する負荷容量に応じた許容電流、電圧降下(配線のリアクタンス、表皮効果、負荷力率等)、配線保護等を考慮して決定される。
日本では低圧幹線は、単相2線式(100Vまたは200V)、単相3線式(200/100V)、三相3線式(200Vまたは400V)、直流2線式(100V)に分けられる。
インドネシアでは三相4線式(380V/220V)が一般的で、幹線はNYYやNYMケーブル(PVC二重被覆ケーブル)が多かったが、許容電流が大きいXLPE/PVCケーブルが徐々に普及してきている。
フィリピンでは三相3線式(220V)が一般的で、幹線は耐熱IV電線に該当するTHHN(90°C耐熱)やTHW(75°C耐熱)の電線が普及している。
交通網(道路網・鉄道網・航空網など)の中で主要な路線を幹線と呼び、最も重要な路線は本線と呼ぶ場合もある。日本の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)のように法律上の定義を設ける場合もある。
道路は主要幹線道路、幹線道路、補助幹線道路、区画道路などに分類される。これを道路の階層化という。
社会基盤の整備においては、商業施設・業務施設は幹線道路に隣接して立地し、大型の車両は環境対策を施した幹線道路を通行することが望ましい。道路の階層化が不十分なままだと大型貨物車が補助幹線道路などの下位階層の道路を走行することになり環境や安全の面で問題を引き起こすことがある。
日本では国鉄末期の1981年、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)に基づいて国鉄の路線は幹線と地方交通線とに分類され、異なる運賃を適用することになった。それまでは、大都市近郊などの一部を除く全国すべての路線で同一の運賃体系を使用していた。その分類はJRにも引き継がれている。一般的な時刻表の索引地図では、幹線は黒の太線で表される。なお、路線名として○○本線と名乗っていても、地方交通線に分類された路線もある。
幹線・地方交通線の区分は1977 - 1979年度の平均輸送実績によって線名単位で機械的に決められた。幹線となる基準は、次のように規定されている。
上記の条件を満たす路線を幹線鉄道網と呼び、上記の条件に満たないが、輸送密度8,000人以上の線(15線。赤羽線、五日市線、鶴見線、根岸線、横須賀線、川越線、外房線、成田線、伊東線、草津線、大阪環状線、桜島線、片町線、篠栗線、筑肥線)を加えて幹線系線区と呼んだ。
JR移行後に開業した路線については、利益予測を元にその路線を管轄するJRが幹線・地方交通線の別を決定している。
富山県では、2015年の北陸新幹線開業に伴い北陸本線の県内区間は全てあいの風とやま鉄道線に転換されたためJR在来線は地方交通線のみとなっており元々JR線の存在しない沖縄県を除いた46都道府県で唯一幹線が存在しなくなっている。なお、2024年春には北陸新幹線の敦賀延伸に伴い北陸本線の金沢駅-敦賀駅間も第三セクターであるIRいしかわ鉄道とハピラインふくいに移管されるため、石川県も幹線がない都道府県になる他、福井県も幹線は敦賀駅~深坂トンネルの間のみとなる。
日本の国内航空では、東京地区(都市コードTYO:東京国際空港(羽田)、成田国際空港)、大阪地区(都市コードOSA:大阪国際空港(伊丹)、関西国際空港)、札幌地区(都市コードSPK:新千歳空港)、福岡地区(都市コードFUK:福岡空港)、沖縄地区(都市コードOKA:那覇空港)を幹線空港と呼び、幹線空港同士を結ぶ路線を幹線と呼ぶ。
国土交通省自動車局は、以下の条件を満たす路線バスを「地域間幹線バス」とし、経常赤字が見込まれる一般乗合旅客自動車運送事業者による運行の場合は地域公共交通確保維持事業で赤字額の1/2に補助金を出している。
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] |
幹線(かんせん)とは、電力網・配電網・電気通信網(電話網など)・交通網(道路網・鉄道網・航空網など)で、主要地点間を結び網の骨格をなす重要路線。
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{{複数の問題
|出典の明記 = 2012年8月
|独自研究 = 2015年7月
|特筆性 = 2015年7月 | 分野 = 特筆性
}}
'''幹線'''(かんせん)とは、[[電力網]]・配電網・電気通信網([[電話網]]など)・交通網([[道路]]網・[[鉄道]]網・航空網など)で、主要地点間を結び網の骨格をなす重要路線。
== 配電網における幹線 ==
屋内配電網における電力幹線設備とは、一般的に受変電設備の配電盤(端子ではその2次側端子)から負荷設備の電灯分電盤や動力制御盤(端子ではその1次側端子)までをいう<ref name="kitamura">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.14936/ieiej.39.240 |title=幹線設備の計画と設計 |author=北村健司 |journal=電気設備学会誌 |year=2019 |volume=39 |issue=5 |pages=240-243 |doi=10.14936/ieiej.39.240}}</ref>。
幹線方式には、電灯盤や動力盤ごとに専用の幹線で供給する方式(幹線の本数が多くなり経済的には不利だが、幹線事故が生じたときに他の幹線への波及が少ない)と電灯盤や動力盤に同一系統の大容量幹線で供給する方式(遮断機容量が大きくなるが、幹線が少なくなり経済性や施工性では有利)がある<ref name="kitamura" />。
幹線系統は、一般系(一般建物負荷)、防災系(火災時に供給する負荷)、保安系([[停電]]時に電源供給が必要な負荷)、重要・最重要系([[サーバ|サーバー]]等の重要負荷)などに分けられる<ref name="kitamura" />。
幹線設備(幹線サイズ)の材料を選定する際には、使用する負荷容量に応じた許容電流、電圧降下(配線の[[リアクタンス]]、[[表皮効果]]、負荷力率等)、配線保護等を考慮して決定される<ref name="kitamura" />。
=== 日本 ===
日本では低圧幹線は、[[単相2線式]](100Vまたは200V)、[[単相3線式]](200/100V)、[[三相3線式]](200Vまたは400V)、直流2線式(100V)に分けられる<ref name="kitamura" />。
=== インドネシア ===
インドネシアでは[[三相4線式]](380V/220V)が一般的で、幹線はNYYやNYMケーブル(PVC二重被覆ケーブル)が多かったが、許容電流が大きいXLPE/PVCケーブルが徐々に普及してきている<ref name="kamachi">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.14936/ieiej.28.201 |title=海外の電気設備の現状 |author=蒲池真 |journal=電気設備学会誌 |year=2008 |volume=28 |issue=3 |pages=201-205 |doi=10.14936/ieiej.28.201}}。</ref>。
=== フィリピン ===
フィリピンでは三相3線式(220V)が一般的で、幹線は耐熱IV電線に該当するTHHN(90℃耐熱)やTHW(75℃耐熱)の電線が普及している<ref name="kamachi" />。
== 交通網における幹線 ==
交通網(道路網・鉄道網・航空網など)の中で主要な路線を幹線と呼び、最も重要な路線は'''[[本線]]'''と呼ぶ場合もある。日本の[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)のように法律上の定義を設ける場合もある。
=== 道路網における幹線 ===
道路は主要幹線道路、幹線道路、補助幹線道路、区画道路などに分類される<ref name="gendai28">{{Cite book |和書 |author= 谷口栄一 |year= 2005 |title= 現代の新都市物流 |publisher= 森北出版 |page=28 |ISBN=4627495811}}</ref>。これを道路の階層化という<ref name="gendai28" />。
社会基盤の整備においては、商業施設・業務施設は幹線道路に隣接して立地し、大型の車両は環境対策を施した幹線道路を通行することが望ましい<ref>{{Cite book |和書 |author= 谷口栄一 |year= 2005 |title= 現代の新都市物流 |publisher= 森北出版 |page=48 }}</ref>。道路の階層化が不十分なままだと大型貨物車が補助幹線道路などの下位階層の道路を走行することになり環境や安全の面で問題を引き起こすことがある<ref name="gendai28" />。
=== 国鉄再建法上の幹線 ===
日本では[[日本国有鉄道|国鉄]]末期の1981年、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)に基づいて国鉄の路線は'''幹線'''と[[地方交通線]]とに分類され、異なる運賃を適用することになった。それまでは、大都市近郊などの一部を除く全国すべての路線で同一の運賃体系を使用していた。その分類は[[JR]]にも引き継がれている。一般的な[[時刻表]]の索引地図では、幹線は黒の太線で表される。なお、路線名として○○本線と名乗っていても、地方交通線に分類された路線もある。
幹線・地方交通線の区分は1977 - 1979年度の平均輸送実績によって線名単位で機械的に決められた。幹線となる基準は、次のように規定されている<ref>施行令第1条(幹線鉄道網を形成する営業線に関する基準) 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(以下「法」という。)第8条(地方交通線の選定等)</ref>。
# その路線のうちに、(イ)[[1980年]]3月31日時点で人口10万人以上の都市(主要都市)を相互に連絡し、(ロ)旅客営業キロが30kmを超え、(ハ)全ての隣接駅間で旅客輸送密度(1日1kmあたりの輸送人員)が4,000人以上である区間を有する線。35線([[函館本線]]、[[千歳線]]、[[室蘭本線]]、[[東北本線]]、[[常磐線]]、[[奥羽本線]]、[[羽越本線]]、[[磐越西線]]、[[仙石線]]、[[仙山線]]、[[上越線]]、[[信越本線]]、[[高崎線]]、[[両毛線]]、[[総武本線]]、[[内房線]]、[[東海道本線]]、[[南武線]]、[[武蔵野線]]、[[横浜線]]、[[相模線]]、[[御殿場線]]、[[中央本線]]、[[篠ノ井線]]、[[北陸本線]]、[[関西本線]]、[[阪和線]]、[[山陽本線]]、[[伯備線]]、[[山陰本線]]、[[予讃線]]、[[高徳線]]、[[鹿児島本線]]、[[長崎本線]]、[[日豊本線]])
# その路線のうちに、1.の条件にあてはまる営業線と主要都市を連絡し(ロ)と(ハ)の条件を満たす区間を有する線。9線([[根室本線]]、[[水戸線]]、[[湖西線]]、[[奈良線]]、[[紀勢本線]]、[[福知山線]]、[[呉線]]、[[土讃線]]、[[佐世保線]])
# 貨物輸送密度が4,000t以上である線。7線([[石勝線]]、[[白新線]]、[[山手線]]、[[青梅線]]、[[宇野線]]、[[宇部線]]、[[美祢線]])
上記の条件を満たす路線を'''幹線鉄道網'''と呼び、上記の条件に満たないが、輸送密度8,000人以上の線(15線。[[赤羽線]]、[[五日市線]]、[[鶴見線]]、[[根岸線]]、[[横須賀線]]、[[川越線]]、[[外房線]]、[[成田線]]、[[伊東線]]、[[草津線]]、[[大阪環状線]]、[[桜島線]]、[[片町線]]、[[篠栗線]]、[[筑肥線]])を加えて'''幹線系線区'''と呼んだ<ref>[[鉄道ジャーナル]]1989年10月号NO.276</ref>。
JR移行後に開業した路線については、利益予測を元にその路線を管轄するJRが幹線・地方交通線の別を決定している。
[[富山県]]では、[[2015年]]の北陸新幹線開業に伴い北陸本線の県内区間は全て[[あいの風とやま鉄道線]]に転換されたためJR在来線は地方交通線のみとなっており元々JR線の存在しない沖縄県を除いた46[[都道府県]]で唯一幹線が存在しなくなっている。なお、[[2024年]]春には北陸新幹線の敦賀延伸に伴い北陸本線の金沢駅-敦賀駅間も[[第三セクター]]である[[IRいしかわ鉄道]]と[[ハピラインふくい]]に移管されるため、[[石川県]]も幹線がない都道府県になる他、[[福井県]]も幹線は[[敦賀駅]]~[[深坂トンネル]]の間のみとなる。
=== 幹線空港 ===
日本の国内[[航空]]では、[[東京都区部|東京]]地区(都市コードTYO:[[東京国際空港]](羽田)、[[成田国際空港]])、[[大阪市|大阪]]地区(都市コードOSA:[[大阪国際空港]](伊丹)、[[関西国際空港]])、[[札幌都市圏|札幌]]地区(都市コードSPK:[[新千歳空港]])、[[福岡都市圏|福岡]]地区(都市コードFUK:[[福岡空港]])、[[那覇市|沖縄]]地区(都市コードOKA:[[那覇空港]])を'''幹線空港'''と呼び、幹線空港同士を結ぶ路線を'''幹線'''と呼ぶ。
=== 路線バスにおける幹線 ===
[[国土交通省]][[自動車局]]は、以下の条件を満たす路線バスを「地域間幹線バス」とし、経常赤字が見込まれる一般乗合旅客自動車運送事業者による運行の場合は地域公共交通確保維持事業で赤字額の1/2に補助金を出している。
* 複数市町村にまたがる系統
* 輸送量が15人~150人/日
* 10㎞以上の路線
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[高規格幹線道路]]
* [[地域高規格道路]]
* [[主要地方道]]
* [[道路緊急ダイヤル]]
* [[五街道]]
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[[Category:鉄道路線]]
[[Category:道路]]
[[Category:航空機の運航]]
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