id
int64
5
471k
title
stringlengths
1
74
text
stringlengths
0
233k
paragraphs
list
abstract
stringlengths
1
4.6k
wikitext
stringlengths
22
486k
date_created
stringlengths
20
20
date_modified
stringlengths
20
20
is_disambiguation_page
bool
2 classes
is_sexual_page
bool
2 classes
is_violent_page
bool
2 classes
templates
list
url
stringlengths
31
561
15,403
普通乗車券
普通乗車券(ふつうじょうしゃけん)とは、鉄道や高速バスなどの陸上交通機関の発行する乗車券の一種。 交通理論では普通乗車券には複数の意味がある。 なお、すべての鉄道会社・バス会社が「普通乗車券」という名称の乗車券を発行しているわけではない。また、「普通乗車券」という名称の乗車券を発行している場合でも普通乗車券の種類は異なる(JRの普通乗車券には片道乗車券・往復乗車券・連続乗車券、九州の高速バスネットワークの基山トランジットの普通乗車券には片道券・往復券・回数券がある)。 JRでは原則として片道乗車券・往復乗車券・連続乗車券の3種類を指す。 連続した区間を片道1回だけ乗車する場合に発券される普通乗車券。 発券可能な経路は、以下の条件を満たすものであればどんなに長くても発券可能である。 環状線1周を超える経路の片道乗車券の発券を禁止している鉄道事業者においては、片道乗車券で同じ駅を2度通ったり(着駅を除く)、途中で交差(交差地点に駅がない場合は除く)したりしてはならない。この場合、いわゆる「Lの字」「Oの字」「6の字」は発券可能だが、「9の字」「8の字」「α字」などは発券できない。 なお、JRで東京や大阪など特定地区に発着する場合、その基準駅から100キロ、あるいは200キロを超える区間については、特別の計算の規則がある。特定都区市内を参照。 片道乗車券にはいくつかの種類がある。 往路と復路の区間及び経路が同じ区間を往復1回ずつ乗車する場合に発券される普通乗車券。(ただし、行きの乗車券が片道乗車券の成立条件を満たしていても、それが6の字経路であった場合には、帰りの乗車券が9の字経路になってしまうので、往復乗車券としての発券は不可能である。) 往復乗車券の有効期間は、同じ区間・経路の片道乗車券の2倍になるのが一般的だが、近鉄のように、往路は片道乗車券の有効期間と同じで、復路のみ有効期間が2倍になる事業者もある。但し、JR線の新下関駅 - 博多駅に関わる場合は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計である。 JR線において片道の営業キロ数が601キロ以上の場合は、「往復割引乗車券」として、「ゆき」「かえり」ともそれぞれ片道運賃から1割引した金額(10円未満は切り捨て)で発売される。そのため、片道の営業キロ数によっては、目的の駅よりも遠い駅まで余分に買ったほうが割安となる場合もある。 片道乗車券・往復乗車券の発券条件を満たさない連続した2区間をそれぞれ1回乗車する場合に発券される普通乗車券。具体的には、以下のような場合がある。 運賃の計算は、片道乗車券をそれぞれ発券した場合に等しく、計算上は片道2枚と同額である。しかし、切符の有効期限(後述)の日数や、払戻の手数料が1枚分で済む、学割での乗車券を発券する際に証明書が1枚ですむといった利点がある。以前は連続乗車券を往復に変更しても連続乗車券のままだったが、改定で往復乗車券への変更も可能となった 片道乗車券の有効期間は、JR線の場合、営業キロが100キロまでの乗車券または大都市近郊区間内のみの乗車券は発売当日のみ有効となる。101キロ以上の乗車券は2日間有効で201キロ以上400キロ以下の乗車券は3日間有効となり、以下200キロごとに1日を加える。 往復乗車券の有効期間は、JR線の場合、先述の通り片道乗車券の有効期間を2倍する(ただし、博多~新下関間に関わる往復乗車券の有効期間は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計日数)。 連続乗車券の有効期間は、JR線の場合、それぞれの有効期間を足し合わせて計算する(例えば、片道乗車券に分割した場合、2日間有効と計算されるものと3日間有効と計算される連続乗車券の有効期間は2+3で5日間である。そのため、最初の乗車券を3日間使い、2つ目を2日間使うといった事が可能になる)。 なお、乗車中に有効期間を経過した場合でも、途中下車をしない限りは券面に表示された最終駅まで使用が可能である(継続乗車という)。 特別企画乗車券の中には休日おでかけパス、一日散歩きっぷ等のように普通乗車券と券面に記載されている乗車券が存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "普通乗車券(ふつうじょうしゃけん)とは、鉄道や高速バスなどの陸上交通機関の発行する乗車券の一種。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "交通理論では普通乗車券には複数の意味がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、すべての鉄道会社・バス会社が「普通乗車券」という名称の乗車券を発行しているわけではない。また、「普通乗車券」という名称の乗車券を発行している場合でも普通乗車券の種類は異なる(JRの普通乗車券には片道乗車券・往復乗車券・連続乗車券、九州の高速バスネットワークの基山トランジットの普通乗車券には片道券・往復券・回数券がある)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "JRでは原則として片道乗車券・往復乗車券・連続乗車券の3種類を指す。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "連続した区間を片道1回だけ乗車する場合に発券される普通乗車券。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "発券可能な経路は、以下の条件を満たすものであればどんなに長くても発券可能である。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "環状線1周を超える経路の片道乗車券の発券を禁止している鉄道事業者においては、片道乗車券で同じ駅を2度通ったり(着駅を除く)、途中で交差(交差地点に駅がない場合は除く)したりしてはならない。この場合、いわゆる「Lの字」「Oの字」「6の字」は発券可能だが、「9の字」「8の字」「α字」などは発券できない。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、JRで東京や大阪など特定地区に発着する場合、その基準駅から100キロ、あるいは200キロを超える区間については、特別の計算の規則がある。特定都区市内を参照。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "片道乗車券にはいくつかの種類がある。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "往路と復路の区間及び経路が同じ区間を往復1回ずつ乗車する場合に発券される普通乗車券。(ただし、行きの乗車券が片道乗車券の成立条件を満たしていても、それが6の字経路であった場合には、帰りの乗車券が9の字経路になってしまうので、往復乗車券としての発券は不可能である。) 往復乗車券の有効期間は、同じ区間・経路の片道乗車券の2倍になるのが一般的だが、近鉄のように、往路は片道乗車券の有効期間と同じで、復路のみ有効期間が2倍になる事業者もある。但し、JR線の新下関駅 - 博多駅に関わる場合は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計である。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "JR線において片道の営業キロ数が601キロ以上の場合は、「往復割引乗車券」として、「ゆき」「かえり」ともそれぞれ片道運賃から1割引した金額(10円未満は切り捨て)で発売される。そのため、片道の営業キロ数によっては、目的の駅よりも遠い駅まで余分に買ったほうが割安となる場合もある。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "片道乗車券・往復乗車券の発券条件を満たさない連続した2区間をそれぞれ1回乗車する場合に発券される普通乗車券。具体的には、以下のような場合がある。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運賃の計算は、片道乗車券をそれぞれ発券した場合に等しく、計算上は片道2枚と同額である。しかし、切符の有効期限(後述)の日数や、払戻の手数料が1枚分で済む、学割での乗車券を発券する際に証明書が1枚ですむといった利点がある。以前は連続乗車券を往復に変更しても連続乗車券のままだったが、改定で往復乗車券への変更も可能となった", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "片道乗車券の有効期間は、JR線の場合、営業キロが100キロまでの乗車券または大都市近郊区間内のみの乗車券は発売当日のみ有効となる。101キロ以上の乗車券は2日間有効で201キロ以上400キロ以下の乗車券は3日間有効となり、以下200キロごとに1日を加える。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "往復乗車券の有効期間は、JR線の場合、先述の通り片道乗車券の有効期間を2倍する(ただし、博多~新下関間に関わる往復乗車券の有効期間は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計日数)。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "連続乗車券の有効期間は、JR線の場合、それぞれの有効期間を足し合わせて計算する(例えば、片道乗車券に分割した場合、2日間有効と計算されるものと3日間有効と計算される連続乗車券の有効期間は2+3で5日間である。そのため、最初の乗車券を3日間使い、2つ目を2日間使うといった事が可能になる)。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、乗車中に有効期間を経過した場合でも、途中下車をしない限りは券面に表示された最終駅まで使用が可能である(継続乗車という)。", "title": "JRの普通乗車券" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "特別企画乗車券の中には休日おでかけパス、一日散歩きっぷ等のように普通乗車券と券面に記載されている乗車券が存在する。", "title": "JRの普通乗車券" } ]
普通乗車券(ふつうじょうしゃけん)とは、鉄道や高速バスなどの陸上交通機関の発行する乗車券の一種。
[[File:JNR Regular ticket 1966.jpg|thumb|right|300px|国鉄時代の普通乗車券(1966年)]] '''普通乗車券'''(ふつうじょうしゃけん)とは、[[鉄道]]や[[高速バス]]などの陸上交通機関の発行する[[乗車券]]の一種。 == 概要 == 交通理論では普通乗車券には複数の意味がある<ref name="masui163" /><ref name="masui161" />。 * 普通乗車券(Ordinary ticket)とは、標準的な賃率に基づく運賃により発券された乗車券をいう<ref name="masui163">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=163|publisher=千倉書房 }}</ref>。対義語は割引乗車券(Reduced ticket)<ref name="masui163" />。 * 普通乗車券(Local ticket)とは、運送が同一鉄道上の路線のみに限られた乗車券(自線乗車券)をいう<ref name="masui161">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=161|publisher=千倉書房 }}</ref>。対義語は連帯乗車券(通し乗車券、Interline ticket)<ref name="masui163" />。 なお、すべての鉄道会社・バス会社が「普通乗車券」という名称の乗車券を発行しているわけではない。また、「普通乗車券」という名称の乗車券を発行している場合でも普通乗車券の種類は異なる(JRの普通乗車券には片道乗車券・往復乗車券・連続乗車券<ref name="jreast01" />、九州の高速バスネットワークの基山トランジットの普通乗車券には片道券・往復券・回数券がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jterc.or.jp/kenkyusyo/product/tpsr/bn/pdf/no45-04.pdf |title=高速バスのネットワーク戦略 |publisher=運輸総合研究所 |accessdate=2019-02-09}}</ref>)。 == 普通乗車券を設ける企業・運輸連合 == === 日本 === * JR各社(鉄道) === ドイツ === * RMV(バス・地下鉄・路面電車等の運輸連合)<ref>{{Cite web|和書|author=アンドレア・オバーマウア |url=http://www.jterc.or.jp/kenkyusyo/product/tpsr/bn/pdf/no06-03.pdf |title=ドイツにおける地域内公共交通の現在(RMVの例から) |publisher=運輸政策研究機構 |accessdate=2019-02-12}}</ref> == JRの普通乗車券 == {{出典の明記|date=2019年2月|section=1}} JRでは原則として'''片道乗車券'''・'''往復乗車券'''・'''連続乗車券'''の3種類<ref name="jreast01">[http://www.jreast.co.jp/kippu/01.html きっぷの種類] - JR東日本</ref>を指す。 === 片道乗車券 === {{Vertical_images_list |幅= 180px |1=Ticket from Niupu to Bifuka 19850916.jpg |2=一般式片道乗車券 |3=Ticket from Tokyo to Hayakawa 19840411.jpg |4=相互式片道乗車券 |5=Ticket from Shinmachi to 1540yen.jpg |6=地図式片道乗車券 |7=Ticket from Minami-Hashimoto to 140yen.jpg |8=金額式片道乗車券 }} 連続した区間を片道1回だけ乗車する場合に発券される普通乗車券。 発券可能な経路は、以下の条件を満たすものであればどんなに長くても発券可能である。 * 環状線1周を超えないこと(一部の鉄道事業者を除く) * 新幹線と在来線が別線区間になる場合においては、一周する手前の駅で打ち切って計算する。 * 折り返しによって複数回通る区間が無いこと * ただし、市内特例により中心駅からの乗車券のキロ数の計算になる場合はその重複区間も乗車可能である。ただし6の字型乗車券9の字型乗車券は発駅もしくは着駅が強制的に単駅指定になるためそのようなことはできない 環状線1周を超える経路の片道乗車券の発券を禁止している鉄道事業者においては、片道乗車券で同じ[[鉄道駅|駅]]を2度通ったり(着駅を除く)、途中で交差(交差地点に駅がない場合は除く)したりしてはならない。この場合、いわゆる「Lの字」「Oの字」「6の字」は発券可能だが、「9の字」「8の字」「α字」などは発券できない。 <!-- 途中下車の話とか、運賃計算の話とか --> なお、[[JR]]で[[東京]]や[[大阪]]など特定地区に発着する場合、その基準駅から100キロ、あるいは200キロを超える区間については、特別の計算の規則がある。[[特定都区市内]]を参照。 片道乗車券にはいくつかの種類がある。 # 一般式片道乗車券 #: 発駅と着駅の駅名が記載されたもの。[[補充券]]や[[マルス (システム)|マルス]]発行の切符などがこの形式。[[福井県]]の[[えちぜん鉄道]]など、[[ワンマン運転]]を行っている鉄道会社ではこの形式の切符を発行し、降車時における運転士の運賃確認の負担を軽減しているところもある。 # 相互式片道乗車券 #: 2つの駅名が記載され、どちらから乗ってもよい乗車券。 # 地図式片道乗車券 #: 路線図が印刷されていて、その範囲であればどの駅で降りてもよい乗車券。 # 金額式片道乗車券 #: 発駅から記載されている金額の区間であればどこで降りてもよい乗車券。主に近距離乗車券に用いられ、[[自動券売機]]で発売されているもっとも一般的な乗車券である他、マルス等の端末が常備されていない駅窓口において近距離用に準備されている。 #: また、チケットフリー式と呼ばれる乗車券は金額のみ記載されていて、有効期限内であれば購入した駅にかかわらず対象路線のどの駅からも利用可能で、入場した駅から記載されている金額の区間であればどこでも降りてもよい。日本では[[仙台市交通局]]([[仙台市地下鉄]])で導入されている。 {{-}} === 往復乗車券 === {{Vertical_images_list |幅= 180px |1=Two way Ticket Shinmachi and Takasaki.jpg |2=往復乗車券 }} 往路と復路の区間及び経路が同じ区間を往復1回ずつ乗車する場合に発券される普通乗車券。(ただし、行きの乗車券が片道乗車券の成立条件を満たしていても、それが6の字経路であった場合には、帰りの乗車券が9の字経路になってしまうので、往復乗車券としての発券は不可能である。) 往復乗車券の有効期間は、同じ区間・経路の片道乗車券の2倍になるのが一般的だが、[[近畿日本鉄道|近鉄]]のように、往路は片道乗車券の有効期間と同じで、復路のみ有効期間が2倍になる事業者もある。但し、JR線の[[新下関駅]] - [[博多駅]]に関わる場合は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計である<ref>同区間でも新幹線と在来線の営業キロは同一であるが、[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - 博多駅間は在来線のみが[[大都市近郊区間 (JR)|福岡近郊区間]]に指定されており、「近郊区間内の片道乗車券は当日限り有効」の規定があるため、ゆき券とかえり券で有効期限が違うことがありうる。</ref>。 JR線において片道の営業キロ数が601キロ以上の場合は、「往復割引乗車券」として、「ゆき」「かえり」ともそれぞれ片道運賃から1割引した金額(10円未満は切り捨て)で発売される。そのため、片道の営業キロ数によっては、目的の駅よりも遠い駅まで余分に買ったほうが割安となる場合もある<ref>例として、[[新神戸駅]]([[特定都区市内#設定区域一覧|神戸市内]]) - [[博多駅]]([[特定都区市内#設定区域一覧|福岡市内]])を往復で利用する場合、[[新大阪駅]]([[特定都区市内#設定区域一覧|大阪市内]])との往復乗車券を購入する方が運賃が割安となる(大阪市内からだと片道の営業キロ数が601キロを超えるため)。</ref><ref>ただし、団体割引や障がい者割引と併用することはできない。</ref>。 === 連続乗車券 === 片道乗車券・往復乗車券の発券条件を満たさない連続した2区間をそれぞれ1回乗車する場合に発券される普通乗車券。具体的には、以下のような場合がある。 * 往路と復路の経路が一部だけ異なる場合(完全に同じ場合は往復乗車券、完全に異なる場合は環状線1周の片道乗車券にすることができる)。 * 途中で他の路線の駅に寄り道して、また元の路線に戻って先へ進む場合。 * 環状線1周を超える経路の片道乗車券の発券を禁止している鉄道事業者において、経路が環状線1周を超える場合(ちょうど1周の場合は往路と復路の経路が完全に異なる場合と同様)。なお、新幹線と在来線の別線区間において一周乗車券を作成する場合に限り、一周する手前の駅で打ち切り連続乗車券を発行する。 * 連絡運輸範囲外などの理由で乗車券が2枚必要。 例 十日町から豊野経由松本 松本から村井 飯山~長野間で北陸新幹線を利用しない場合、連絡運輸の範囲は松本駅までとなるため片道乗車券の最長の松本駅までで打ち切って2枚目の乗車券を発行するため連続となる 運賃の計算は、片道乗車券をそれぞれ発券した場合に等しく、計算上は片道2枚と同額である。しかし、切符の有効期限(後述)の日数や、払戻の手数料が1枚分で済む、[[学割]]での乗車券を発券する際に証明書が1枚ですむといった利点がある。以前は連続乗車券を往復に変更しても連続乗車券のままだったが、改定で往復乗車券への変更も可能となった === 乗車券の有効期間 === 片道乗車券の有効期間は、JR線の場合、営業キロが100キロまでの乗車券または[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]内のみの乗車券は発売当日のみ有効となる。101キロ以上の乗車券は2日間有効で201キロ以上400キロ以下の乗車券は3日間有効となり、以下200キロごとに1日を加える<ref name="yuuko">[http://www.jreast.co.jp/kippu/04.html 乗車券の有効期間] - JR東日本</ref>。 往復乗車券の有効期間は、JR線の場合、先述の通り片道乗車券の有効期間を2倍する(ただし、博多~新下関間に関わる往復乗車券の有効期間は、「ゆき」「かえり」それぞれの合計日数)<ref name="yuuko" />。 連続乗車券の有効期間は、JR線の場合、それぞれの有効期間を足し合わせて計算する(例えば、片道乗車券に分割した場合、2日間有効と計算されるものと3日間有効と計算される連続乗車券の有効期間は2+3で5日間である。そのため、最初の乗車券を3日間使い、2つ目を2日間使うといった事が可能になる)。 なお、乗車中に有効期間を経過した場合でも、[[途中下車]]をしない限りは券面に表示された最終駅まで使用が可能である(継続乗車という)<ref name="yuuko" />。 === 特別企画乗車券 === [[特別企画乗車券]]の中には[[休日おでかけパス]]、[[一日散歩きっぷ]]等のように普通乗車券と券面に記載されている乗車券が存在する。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[途中下車]] * [[最長片道切符]] * [[補充券]] * [[回数乗車券]] * [[定期乗車券]] * [[事務管理コード]] {{DEFAULTSORT:ふつうしようしやけん}} [[Category:鉄道運賃と切符]]
2003-09-06T10:44:57Z
2023-11-23T18:18:09Z
false
false
false
[ "Template:-", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:出典の明記", "Template:Vertical images list" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E4%B9%97%E8%BB%8A%E5%88%B8
15,404
命名権
命名権(めいめいけん)は、人間や事物、施設、キャラクターなどに対して命名することができる権利である。1990年代後半以降、スポーツ、文化施設等の名称に企業名を付けることがビジネスとして確立した。ネーミング・ライツ(英語:Naming Rights)とも呼ばれる。科学の世界においても、新発見の元素や天体に対して発見者が、生物の学名は記載者が、それぞれ命名権を持つ慣習がある。 狭義としては単体で命名権を購入して行使したものを「命名権」と呼び、不動産などと共に購入した命名権は含まない。 世界の多くの地域では、親または親から委託を受けた者が新生児を命名している。 中世以降、日本ではその人の成長や変化に従い改名・襲名する慣習があり、命名権について本人固有のものとする一般観念があった。その後、明治維新を経て、居住移転の自由や職業選択の自由に伴う社会の流動化と戸籍制度の確立と共に、個人の特定のための氏名の固定化が進み、同時に子に対する命名権が親固有の専権のような理解となっていった。 命名に関する現行制度として、戸籍法第50条第1項の「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。」等の規定はあるが、民法(家族法)には関連する明文規定がなく、命名権が誰にあるか、その法的根拠はどこにあるかは明確ではない。 命名権が誰にあるかの学説・判例については、次のように体系化される。 ただし、上記のいずれの立場を取るとしても、社会通念に照らして明らかに不適切な名や、名の持つ本来の機能を著しく損なう名を命名することは命名権の濫用として、戸籍事務管掌者(市町村長)は出生届の受理を許否することが許されるとされる。 また、棄児については、戸籍法第57条第2項において、市町村長がその棄児に対し氏名を付けなければならないとされている。 元素については、名称が未確定な新元素はIUPACの命名法による元素の系統名で呼ばれる。IUPAC及びIUPAPによって発見が認定されると、発見者に命名権が発生し、IUPACによる承認を経て最終的に名称が確定する(未発見元素の一覧#発見の定義参照)。 天体については、小惑星についてのみ発見者に命名提案権が与えられており、IAUの小天体命名委員会による審査を経て命名される(小惑星#命名規則参照)。準惑星については命名規則は定められていないが、エリスの場合には発見者グループが提案した名称が採用されている。 生物の学名は、記載者が命名権を持つ(学名#命名参照)。 従来から、スポーツ大会などにスポンサーの名称を冠する形での命名権ビジネスは存在していたが、1990年代後半頃から、アメリカにおいてスポーツ施設等の名称に企業名を付けるビジネスが広がった。まず、メジャーリーグでクラシカルな新球場が多く建設されたとき、その名称に企業名が命名され始め、高い費用対効果が認められたことから、他のスポーツ種目やヨーロッパのスポーツ界へと広がっていった。日本においては、2000年代前半から赤字の公共施設の管理運営費を埋め合わせる手段のひとつとして導入され、その範囲はスポーツ施設や文化施設、路面電車の停留所、公園のトイレ、橋梁、桟橋など多方面に及んでいる。ちなみに地方自治法において命名権売却は「公有財産の処分」にあたらないため、各自治体の議会での議決は必要ない。 施設等の管理者にとっては、命名権を販売することにより収入が得られるメリットがあり、命名権を購入する企業にとっては、スポーツ中継やニュースなどで命名した名称が露出する機会を得られ、宣伝効果が見込まれる。 なお、命名権に限らず、一般的にイベント主管団体の規定(オリンピックやFIFAワールドカップ等の大会)により商標が使用できない場合がある。この場合、命名権に商標を導入している施設については施設名に商標の入っていない正式名称を使用することが義務付けられる。正式名称そのものに商標が含まれているケース等では、別称を付けて対応することとなる。 大会やリーグの冠スポンサーと命名権を取得した業者が競合する場合、主催者側では命名権名称を使用せず正式名称で案内することがある。 NHKは放送法第83条により広告放送が禁止されていることを踏まえ、取材・政策の基本姿勢を示した『NHK放送ガイドライン』において企業名の取り扱いについて「本質的に必要なのか、その他の表現に置き換えることは出来ないのか」等の観点から判断しており、(施設)命名権に基づく名称については『施設の名称である以上、放送に使用することはやむをえないが、名前の一部に企業名などが含まれているため、ニュースや番組の中では繰り返しを避けて、抑制的に名称を用いる」とした上で、「企業名などを除いた施設名が定着している場合には、企業名などを除いた名称を使うこともある」としている。独自に名称の差し替えを行っている例としては大相撲中継のケースがあり、本場所の会場で命名権が導入されている大阪府立体育会館(春場所、2013年から)と愛知県体育館(名古屋場所、2018年から)の名称を、主催者(日本相撲協会)が使用(併記)している命名権名称ではなく、従来からの「大阪府立体育会館」「愛知県体育館」の正式名称で表記している。ただし、大相撲以外の他の競技やイベントをNHKがこの2会場から中継する場合(B.LEAGUEにおける大阪エヴェッサおよび名古屋ダイヤモンドドルフィンズのホームゲームや、音楽ライブなど)は、他の命名権導入会場からの同種の競技・イベントの中継と扱いを合わせて「抑制的に名称を用いる」基準で命名権名称を使用する場合もある。 同一の施設でありながら、契約満了または契約変更によって比較的短いスパンで別の名称に変わることを問題視する意見がある。例えばYahoo!BBスタジアム→スカイマークスタジアム→ほっともっとフィールド神戸について、アメリカでの命名権(20年契約などの長期契約が基本)と比較して「球場名に愛着を抱くファン心理への配慮」が足りないことを示唆する批判がある。Yahoo!BBスタジアムの場合は、スポンサーであったヤフーが福岡ダイエーホークス買収後、本拠地福岡ドームに「福岡 Yahoo! JAPANドーム」→「福岡ヤフオク!ドーム」→「福岡PayPayドーム」と類似した名称を付けている。また、西武ドームは球場名が何度も変わっているが、最寄の西武鉄道の駅は一貫して「西武球場前駅」のままである。 税金で建設された公共施設を、一私企業の名称に変更することは公共イメージが損なわれるという意見もある。事実、ナイキジャパンは宮下公園の命名権を取得し「宮下NIKEパーク」と改称する予定だったが、反対運動が相次いだことで命名権行使を撤回した(ただし、命名権使用料の支払いは継続)。また、京都市美術館については、2019年に新館建設などリニューアルを実施するのに合わせ、京都市は2016年9月1日から31日にかけ、費用の獲得と愛称を決める目的で命名権を募集したが、市民団体や有識者などからは、「公共の文化財に一企業の名称が被るのは相応しくない」などの異論が出ている。最終的に京都市美術館は、伏見区に本社を置く京セラに命名権を売却すると発表、再オープン後は「京都市京セラ美術館」の名称となる。 新しい名称がなかなか定着せず、旧称を併記した結果、契約違反に問われることがある(中台運動公園におけるサウンドハウスとの命名権契約解除事例)。 命名した企業に不祥事が発覚した場合、命名権を導入した側に批判が寄せられるケースもあり(オリンパスホール八王子に対する八王子市への批判など)、実際に命名権契約が解除され名称が変わることもある(西武ドームにおけるグッドウィルとの契約解除など)。 また、命名権の契約金の高さから企業の買い手がつかない場合というケースもある。一例として、札幌ドームでは2011年に「5年間5億円、札幌ドームの名称を基本的に使うこと」を条件に募集したが、初回募集の1社とは折り合いがつかず、再募集の時には応募企業がなく、その後契約年数を延ばし実質的値下げにも踏み込んで下交渉を行ったものの見通しが立たないことから2011年内の再々公募を見送った経緯がある。 施設管理者が一方的に命名権の導入を試みた結果、その施設を本拠地として使用しているプロスポーツチーム等の反発を招くことがある。前述の札幌ドームのケースでは北海道日本ハムファイターズが「(札幌市が自分たちへの)連絡なしに命名権を公募することに疑問を感じる」と猛反発しており、結果本拠地を札幌ドームからきたひろしま総合運動公園へ移転させるきっかけともなった(詳細は北海道日本ハムファイターズ#新球場建設構想を参照)。一方で、キンチョウスタジアム・ZOZOマリンスタジアムなどのように、施設命名権の契約にプロスポーツチームが関与した場合、契約料をプロスポーツチームと折半する(施設の命名権による収入が全額施設のものとなると限らない)ケースもある。 都道府県や市町村などの地方自治体が所有している公共施設が命名権を導入する場合、施設の呼称そのものを対象とするケース(横浜市・新潟県など)と、施設の愛称のみを命名権の対象とし、正式名称も従来通り使用するケース(岡山県・香川県など)とがある。特に前者の場合、マスメディアなどで対外的に施設名称を表示する際には、命名権による呼称のみを優先的に使用しなければならない旨について自治体側が規定を設ける場合がある。ただしいずれの場合も、命名権によって制定された呼称を条例上の施設名称にまで及んで改称したケースはほとんどなく、条例上の施設名称は本来のものを継続して使用している。また、石川県の場合、命名権を導入している公共施設は県ならびに各自治体においては一切ない(2020年時点)。 国際サッカー連盟 (FIFA) や国際陸上競技連盟 (IAAF) など国際競技団体の一部は、自らが主催・主管する大会において「(公式スポンサーと競合する)企業名・商標名を冠する競技施設では公式戦を開催できない」と規定している。また大会・興行の公式スポンサー以外の企業名称が使用できない場合や、命名権を取得している企業の同業他社がスポンサーに付くケースもある。これらのケースにおいては施設名には正式名称(旧称)を使用する。また必要に応じて、場内に掲出されている企業名のロゴを覆い隠す措置を執ることもある。FIFAの「クリーンスタジアム規定」やワールドラグビーの「クリーンスタジアム規定」がこれに該当するが、あくまでも「公式スポンサーの保護」が目的であるため(アンブッシュマーケティング参照)、命名権を一律に除外するわけではなく、また命名権名称でなくとも一時名称変更措置が執られることもある。 珍しいケースではあるが、命名権を購入した企業側が「旧名称のままとするのが望ましい」として呼称変更をあえて行わないことがある。鎌倉市の海水浴場3か所の例では、2013年に『鳩サブレー』で知られる菓子店の豊島屋が権利を購入したものの、一般公募の結果呼称変更を行わず旧名称のまま運営を続けている(ただし形式上は「命名権を行使して、旧名称と同じ呼称を名付けた」形である)。 2019年から大之木建設が命名権を取得した呉市二河野球場(命名権名称:鶴岡一人記念球場)のように、企業名ではなく所在地に所縁の人物の名称を命名する例もある。 日本のプロスポーツにおいて、公式戦開催時のみ場内の特定施設(観客席など)に命名権を採用するケースがある。 神戸市御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム→ホームズスタジアム神戸→ノエビアスタジアム神戸)では、Jリーグのヴィッセル神戸の主催ゲーム限定で2005年3月より観客席の名称に命名権を採用しており、メインスタンドを「楽天スタンド」、バックスタンドを「Kawasakiスタンド」と称している。施設全体に企業名を冠する場合とは異なり、スタジアムではなく、興行主のヴィッセル神戸(運営会社クリムゾンFC)に2社から広告料が支払われる。 阪神甲子園球場では、2008年からプロ野球開催日のみ、新設されたフィールドシートに「SMBCシート」(1・3塁側 2012年まで「みずほ銀行シート」)「東芝シート」(バックネット裏)の命名権が、また、2009年からプロ野球開催日のみ、3塁側に新設された掘りこたつタイプのボックスシートに「三ツ矢サイダーボックス」(アサヒ飲料)の命名権が取り付けられた(2012年からは1塁側にも新設・命名)。さらに2013年から1塁側アルプス席の最前列にセブンイレブンジャパンと締結した「セブンイレブンエキサイトシート」(ライトポール側付近)、「セブンイレブンファミリーシート」(アイビーシート側付近)が設置される。球場そのものの命名権は現在予定されていない。 広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、プロ野球開催日のみ、正面及び内野砂かぶり席と2階テラスシート、ライトポール際観客席(びっくりテラス)、ライトスコアボード際観客席(寝ソベリア、2011年シーズン - )に命名権を採用しており、正面砂かぶり席を「東芝シート正面砂かぶり」(2009年シーズン、東芝))→「ビックカメラシート正面砂かぶり」(2010年シーズン - 、ビックカメラ)、内野砂かぶり席を「KIRINシート砂かぶり席」(キリンホールディングス)、2階テラスシートを「コカ・コーラテラスシート」(日本コカ・コーラ/コカ・コーラウェスト)、ライトポール際観客席を「エバラ黄金の味 びっくりテラス」(エバラ食品工業)、ライトスコアボード際観客席を「セブン-イレブンシート寝ソベリア」(セブン-イレブン・ジャパン)と称している。この場合は、同球場の指定管理者の広島東洋カープとともに同球場の共同運営を行う三井物産に3社から広告料が支払われる。 宮城球場(2023年より「楽天モバイルパーク宮城」)では、2009年設置の「グループシート5」に2010年まではローソン、2012年からはセブンアンドアイホールディングス/セブンイレブンジャパン、また「ボックスシート5」にも2012年よりみちのくコカ・コーラボトリングが命名権を取得し、前者は「ローソングループシート5→セブンイレブングループシート5」、後者は「コカコーラボックスシート5」とされている。また、2016年に左中間後方に開設された公園施設は江崎グリコが命名権を取得し、「スマイルグリコパーク」の名称で運営されている。 札幌ドームでは、それまでプロ野球開催日のみ設置していた3階席「スカイビューボックスシート」を、2012年よりローソンと契約を結び「ローソンスカイボックスシート」、三塁側外野席で陽岱鋼の背番号1をかたどった後方一部エリアを2013年シーズンより「ローソン 岱鋼シート」・中田翔の背番号6をかたどった一部エリアを2014年シーズンより「ローソン 中田翔フルスイングシート」、また一塁側内野A指定席一部の女性向け座席「シンデレラシート」をセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び2013年シーズンより「セブン-イレブン シンデレラシート」、2015年よりシンデレラシートエリア下の一部座席を2015年シーズンより「セブン-イレブン ビジョンシート」と命名している。 横浜スタジアムは2013年の内野ファウルゾーンにエキサイティングシートというフィールドシート席が設置されるが、このうちの1塁側の箇所をセブンイレブンジャパンと締結し「セブンイレブンエキサイティングシート」と命名されている。 京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場(西京極スタジアム→2019年施設自体の命名権により「たけびしスタジアム京都」)では、Jリーグの京都サンガF.C.の主催ゲーム限定で2011年3月より入場ゲート(第4ゲート)に命名権を採用しており、「auゲート」(KDDI)と称している。 鈴鹿サーキットでは、最終コーナー直前のシケイン(ターン16・17)に命名権を採用、2014年3月1日に日立オートモティブシステムズとパートナー契約を締結し「日立オートモーティブシステムズシケイン」と命名されている。また、2018年4月12日からは武蔵精密工業と200Rに設置された2輪用シケインのパートナー契約を締結、「MuSASHiシケイン」と命名されることになった。 明治神宮野球場では、2019年設置の立見席「ヒップバーシート」に命名権を採用しPeach Aviationと契約を結び「Peachヒップバーシート」と命名されている。 北海きたえーるでは、B.LEAGUEのレバンガ北海道主催ゲーム限定で2022-23シーズンよりセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び、コートエンド・ホームベンチ側に「セブン-イレブンゆったりシート」を設置した。 施設以外に、組織、作品、イベント、機器等に命名権が導入されるケースがある。 単発の大会やトーナメント戦の冠スポンサーではなく、リーグ戦の命名権者(タイトルパートナー)となった事例。 日本野球機構(NPB)管轄のプロ野球では、現在は命名権に基づくチーム名は存在しない(チーム名に含まれる企業名は基本的にオーナー企業の名称)が、二軍に限定すれば過去には複数の事例がある。独立リーグでは、2014年以降、命名権に基づくリーグ名・チーム名が誕生している。 また、実現しなかったものとして、2004年に計画された大阪近鉄バファローズの命名権導入が挙げられる。親会社の近畿日本鉄道(近鉄)の経営改善強化策の一環によるものだが、他球団からの反対により断念。このことが結果的に2004年のプロ野球再編問題の引き金となった。 このほか1970年代までに以下のようなスポンサー名への球団名変更の事例がある。ただしこれらは「球団自体へのスポンサード(経営に関与しない資金提供のみ)に付随する球団名の変更」であり、球団名のみを売却したわけではない。 なお、広島東洋カープの「東洋」は球団の筆頭株主であるマツダの旧社名(東洋工業)に由来するが、実質的にはマツダの創業家である松田家による同族経営がなされている。 これは、発足以来の市民組織による球団経営への限界から、1957年に東洋工業・広島電鉄・中国新聞社・広島銀行・広島ガス・山陽木材など地場企業10社によるグループオーナー形式に移行していたのが、各社による経営の主導権争いが起きて結果的に空中分解し、1968年に当時は松田家の同族経営だった東洋工業と同社の協力企業による組織である東友会協同組合による経営に一本化した際に 実質的に親会社となったものの、市民球団としての設立経緯を尊重した松田恒次オーナー(当時)の意向により東洋工業の球団運営に対する直接的な関与が抑えられたことに加え、1970年代中頃に第1次オイルショックなどで経営危機に陥った後、通商産業省(現:経済産業省)と住友銀行(現:三井住友銀行)などの介入により経営再建が行われた過程で同族経営が終焉したことで(詳細はマツダ再建の項目を参照)、東洋工業に対する松田家の影響力が薄れ、同時に省庁・銀行側の意向で広島球団に対する東洋工業・東友会協同組合の企業・団体としての経営関与がより弱められると同時に松田家による事実上の独立経営となった経緯によるものであり、「親会社の名称によるチーム名」と「命名権(スポンサード)によるチーム名」の両方に類するとも、あるいはどちらでもないとも言える。 B.LEAGUEではチーム名に企業名を入れることを原則として禁止しているため、今後参入するチームは新たに命名権を取り入れることはできない。 ただし、前身リーグより企業名を入れているクラブについては、クラブ公式文書で使用する正式なチーム名に限り継続して使用することが可能である。B.LEAGUEの前身のひとつであるJBL→NBLでは、以下の通り命名権を取り入れたクラブが存在した(他チームに含まれる企業名は運営企業の名称)。 なお、Jリーグ所属クラブ(準加盟や百年構想クラブも含む)には企業名が禁止されている為、命名権をつけたチームはない。JFLでは可能とされているが、前述したJリーグ準加盟クラブや百年構想クラブなどのプロサッカークラブが大半を占めているということもあり、今まで命名権を採用したクラブは存在しない(運営企業名を名乗っているチームは存在する)。ただし、JFL在籍の鈴鹿ポイントゲッターズはクラブがエムフロとネーミングスポンサー契約を結んだことにより改名に至ったものである。 日本のプロボクシングジムにおいては命名権を売却するケースは非常に多い。代表的な例として、以下のような事例がある。 公共性のある施設に企業名・商標名を冠していても、必ずしも他者からの単体での命名権取得によるものとは限らない。主に施設を所有又は運営している(いた)企業が、自身の命名権により自社の企業名・商標・ブランド名を冠する場合が多い。また三越前駅など、企業名の入った鉄道駅の一部は、設置を要望した(あるいは設置資金を拠出した)企業の名称が用いられることがある(事例多数に付き割愛。請願駅の項目も参照のこと)。 下記は命名権取得ではない施設の例。なお、下記の施設に別途命名権による名称がつけられる場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "命名権(めいめいけん)は、人間や事物、施設、キャラクターなどに対して命名することができる権利である。1990年代後半以降、スポーツ、文化施設等の名称に企業名を付けることがビジネスとして確立した。ネーミング・ライツ(英語:Naming Rights)とも呼ばれる。科学の世界においても、新発見の元素や天体に対して発見者が、生物の学名は記載者が、それぞれ命名権を持つ慣習がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "狭義としては単体で命名権を購入して行使したものを「命名権」と呼び、不動産などと共に購入した命名権は含まない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "世界の多くの地域では、親または親から委託を受けた者が新生児を命名している。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中世以降、日本ではその人の成長や変化に従い改名・襲名する慣習があり、命名権について本人固有のものとする一般観念があった。その後、明治維新を経て、居住移転の自由や職業選択の自由に伴う社会の流動化と戸籍制度の確立と共に、個人の特定のための氏名の固定化が進み、同時に子に対する命名権が親固有の専権のような理解となっていった。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "命名に関する現行制度として、戸籍法第50条第1項の「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。」等の規定はあるが、民法(家族法)には関連する明文規定がなく、命名権が誰にあるか、その法的根拠はどこにあるかは明確ではない。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "命名権が誰にあるかの学説・判例については、次のように体系化される。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただし、上記のいずれの立場を取るとしても、社会通念に照らして明らかに不適切な名や、名の持つ本来の機能を著しく損なう名を命名することは命名権の濫用として、戸籍事務管掌者(市町村長)は出生届の受理を許否することが許されるとされる。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、棄児については、戸籍法第57条第2項において、市町村長がその棄児に対し氏名を付けなければならないとされている。", "title": "人の命名権" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "元素については、名称が未確定な新元素はIUPACの命名法による元素の系統名で呼ばれる。IUPAC及びIUPAPによって発見が認定されると、発見者に命名権が発生し、IUPACによる承認を経て最終的に名称が確定する(未発見元素の一覧#発見の定義参照)。", "title": "科学分野での命名権" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天体については、小惑星についてのみ発見者に命名提案権が与えられており、IAUの小天体命名委員会による審査を経て命名される(小惑星#命名規則参照)。準惑星については命名規則は定められていないが、エリスの場合には発見者グループが提案した名称が採用されている。", "title": "科学分野での命名権" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "生物の学名は、記載者が命名権を持つ(学名#命名参照)。", "title": "科学分野での命名権" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "従来から、スポーツ大会などにスポンサーの名称を冠する形での命名権ビジネスは存在していたが、1990年代後半頃から、アメリカにおいてスポーツ施設等の名称に企業名を付けるビジネスが広がった。まず、メジャーリーグでクラシカルな新球場が多く建設されたとき、その名称に企業名が命名され始め、高い費用対効果が認められたことから、他のスポーツ種目やヨーロッパのスポーツ界へと広がっていった。日本においては、2000年代前半から赤字の公共施設の管理運営費を埋め合わせる手段のひとつとして導入され、その範囲はスポーツ施設や文化施設、路面電車の停留所、公園のトイレ、橋梁、桟橋など多方面に及んでいる。ちなみに地方自治法において命名権売却は「公有財産の処分」にあたらないため、各自治体の議会での議決は必要ない。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "施設等の管理者にとっては、命名権を販売することにより収入が得られるメリットがあり、命名権を購入する企業にとっては、スポーツ中継やニュースなどで命名した名称が露出する機会を得られ、宣伝効果が見込まれる。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、命名権に限らず、一般的にイベント主管団体の規定(オリンピックやFIFAワールドカップ等の大会)により商標が使用できない場合がある。この場合、命名権に商標を導入している施設については施設名に商標の入っていない正式名称を使用することが義務付けられる。正式名称そのものに商標が含まれているケース等では、別称を付けて対応することとなる。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大会やリーグの冠スポンサーと命名権を取得した業者が競合する場合、主催者側では命名権名称を使用せず正式名称で案内することがある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "NHKは放送法第83条により広告放送が禁止されていることを踏まえ、取材・政策の基本姿勢を示した『NHK放送ガイドライン』において企業名の取り扱いについて「本質的に必要なのか、その他の表現に置き換えることは出来ないのか」等の観点から判断しており、(施設)命名権に基づく名称については『施設の名称である以上、放送に使用することはやむをえないが、名前の一部に企業名などが含まれているため、ニュースや番組の中では繰り返しを避けて、抑制的に名称を用いる」とした上で、「企業名などを除いた施設名が定着している場合には、企業名などを除いた名称を使うこともある」としている。独自に名称の差し替えを行っている例としては大相撲中継のケースがあり、本場所の会場で命名権が導入されている大阪府立体育会館(春場所、2013年から)と愛知県体育館(名古屋場所、2018年から)の名称を、主催者(日本相撲協会)が使用(併記)している命名権名称ではなく、従来からの「大阪府立体育会館」「愛知県体育館」の正式名称で表記している。ただし、大相撲以外の他の競技やイベントをNHKがこの2会場から中継する場合(B.LEAGUEにおける大阪エヴェッサおよび名古屋ダイヤモンドドルフィンズのホームゲームや、音楽ライブなど)は、他の命名権導入会場からの同種の競技・イベントの中継と扱いを合わせて「抑制的に名称を用いる」基準で命名権名称を使用する場合もある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同一の施設でありながら、契約満了または契約変更によって比較的短いスパンで別の名称に変わることを問題視する意見がある。例えばYahoo!BBスタジアム→スカイマークスタジアム→ほっともっとフィールド神戸について、アメリカでの命名権(20年契約などの長期契約が基本)と比較して「球場名に愛着を抱くファン心理への配慮」が足りないことを示唆する批判がある。Yahoo!BBスタジアムの場合は、スポンサーであったヤフーが福岡ダイエーホークス買収後、本拠地福岡ドームに「福岡 Yahoo! JAPANドーム」→「福岡ヤフオク!ドーム」→「福岡PayPayドーム」と類似した名称を付けている。また、西武ドームは球場名が何度も変わっているが、最寄の西武鉄道の駅は一貫して「西武球場前駅」のままである。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "税金で建設された公共施設を、一私企業の名称に変更することは公共イメージが損なわれるという意見もある。事実、ナイキジャパンは宮下公園の命名権を取得し「宮下NIKEパーク」と改称する予定だったが、反対運動が相次いだことで命名権行使を撤回した(ただし、命名権使用料の支払いは継続)。また、京都市美術館については、2019年に新館建設などリニューアルを実施するのに合わせ、京都市は2016年9月1日から31日にかけ、費用の獲得と愛称を決める目的で命名権を募集したが、市民団体や有識者などからは、「公共の文化財に一企業の名称が被るのは相応しくない」などの異論が出ている。最終的に京都市美術館は、伏見区に本社を置く京セラに命名権を売却すると発表、再オープン後は「京都市京セラ美術館」の名称となる。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新しい名称がなかなか定着せず、旧称を併記した結果、契約違反に問われることがある(中台運動公園におけるサウンドハウスとの命名権契約解除事例)。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "命名した企業に不祥事が発覚した場合、命名権を導入した側に批判が寄せられるケースもあり(オリンパスホール八王子に対する八王子市への批判など)、実際に命名権契約が解除され名称が変わることもある(西武ドームにおけるグッドウィルとの契約解除など)。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、命名権の契約金の高さから企業の買い手がつかない場合というケースもある。一例として、札幌ドームでは2011年に「5年間5億円、札幌ドームの名称を基本的に使うこと」を条件に募集したが、初回募集の1社とは折り合いがつかず、再募集の時には応募企業がなく、その後契約年数を延ばし実質的値下げにも踏み込んで下交渉を行ったものの見通しが立たないことから2011年内の再々公募を見送った経緯がある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "施設管理者が一方的に命名権の導入を試みた結果、その施設を本拠地として使用しているプロスポーツチーム等の反発を招くことがある。前述の札幌ドームのケースでは北海道日本ハムファイターズが「(札幌市が自分たちへの)連絡なしに命名権を公募することに疑問を感じる」と猛反発しており、結果本拠地を札幌ドームからきたひろしま総合運動公園へ移転させるきっかけともなった(詳細は北海道日本ハムファイターズ#新球場建設構想を参照)。一方で、キンチョウスタジアム・ZOZOマリンスタジアムなどのように、施設命名権の契約にプロスポーツチームが関与した場合、契約料をプロスポーツチームと折半する(施設の命名権による収入が全額施設のものとなると限らない)ケースもある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "都道府県や市町村などの地方自治体が所有している公共施設が命名権を導入する場合、施設の呼称そのものを対象とするケース(横浜市・新潟県など)と、施設の愛称のみを命名権の対象とし、正式名称も従来通り使用するケース(岡山県・香川県など)とがある。特に前者の場合、マスメディアなどで対外的に施設名称を表示する際には、命名権による呼称のみを優先的に使用しなければならない旨について自治体側が規定を設ける場合がある。ただしいずれの場合も、命名権によって制定された呼称を条例上の施設名称にまで及んで改称したケースはほとんどなく、条例上の施設名称は本来のものを継続して使用している。また、石川県の場合、命名権を導入している公共施設は県ならびに各自治体においては一切ない(2020年時点)。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "国際サッカー連盟 (FIFA) や国際陸上競技連盟 (IAAF) など国際競技団体の一部は、自らが主催・主管する大会において「(公式スポンサーと競合する)企業名・商標名を冠する競技施設では公式戦を開催できない」と規定している。また大会・興行の公式スポンサー以外の企業名称が使用できない場合や、命名権を取得している企業の同業他社がスポンサーに付くケースもある。これらのケースにおいては施設名には正式名称(旧称)を使用する。また必要に応じて、場内に掲出されている企業名のロゴを覆い隠す措置を執ることもある。FIFAの「クリーンスタジアム規定」やワールドラグビーの「クリーンスタジアム規定」がこれに該当するが、あくまでも「公式スポンサーの保護」が目的であるため(アンブッシュマーケティング参照)、命名権を一律に除外するわけではなく、また命名権名称でなくとも一時名称変更措置が執られることもある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "珍しいケースではあるが、命名権を購入した企業側が「旧名称のままとするのが望ましい」として呼称変更をあえて行わないことがある。鎌倉市の海水浴場3か所の例では、2013年に『鳩サブレー』で知られる菓子店の豊島屋が権利を購入したものの、一般公募の結果呼称変更を行わず旧名称のまま運営を続けている(ただし形式上は「命名権を行使して、旧名称と同じ呼称を名付けた」形である)。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2019年から大之木建設が命名権を取得した呉市二河野球場(命名権名称:鶴岡一人記念球場)のように、企業名ではなく所在地に所縁の人物の名称を命名する例もある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本のプロスポーツにおいて、公式戦開催時のみ場内の特定施設(観客席など)に命名権を採用するケースがある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "神戸市御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム→ホームズスタジアム神戸→ノエビアスタジアム神戸)では、Jリーグのヴィッセル神戸の主催ゲーム限定で2005年3月より観客席の名称に命名権を採用しており、メインスタンドを「楽天スタンド」、バックスタンドを「Kawasakiスタンド」と称している。施設全体に企業名を冠する場合とは異なり、スタジアムではなく、興行主のヴィッセル神戸(運営会社クリムゾンFC)に2社から広告料が支払われる。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "阪神甲子園球場では、2008年からプロ野球開催日のみ、新設されたフィールドシートに「SMBCシート」(1・3塁側 2012年まで「みずほ銀行シート」)「東芝シート」(バックネット裏)の命名権が、また、2009年からプロ野球開催日のみ、3塁側に新設された掘りこたつタイプのボックスシートに「三ツ矢サイダーボックス」(アサヒ飲料)の命名権が取り付けられた(2012年からは1塁側にも新設・命名)。さらに2013年から1塁側アルプス席の最前列にセブンイレブンジャパンと締結した「セブンイレブンエキサイトシート」(ライトポール側付近)、「セブンイレブンファミリーシート」(アイビーシート側付近)が設置される。球場そのものの命名権は現在予定されていない。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、プロ野球開催日のみ、正面及び内野砂かぶり席と2階テラスシート、ライトポール際観客席(びっくりテラス)、ライトスコアボード際観客席(寝ソベリア、2011年シーズン - )に命名権を採用しており、正面砂かぶり席を「東芝シート正面砂かぶり」(2009年シーズン、東芝))→「ビックカメラシート正面砂かぶり」(2010年シーズン - 、ビックカメラ)、内野砂かぶり席を「KIRINシート砂かぶり席」(キリンホールディングス)、2階テラスシートを「コカ・コーラテラスシート」(日本コカ・コーラ/コカ・コーラウェスト)、ライトポール際観客席を「エバラ黄金の味 びっくりテラス」(エバラ食品工業)、ライトスコアボード際観客席を「セブン-イレブンシート寝ソベリア」(セブン-イレブン・ジャパン)と称している。この場合は、同球場の指定管理者の広島東洋カープとともに同球場の共同運営を行う三井物産に3社から広告料が支払われる。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宮城球場(2023年より「楽天モバイルパーク宮城」)では、2009年設置の「グループシート5」に2010年まではローソン、2012年からはセブンアンドアイホールディングス/セブンイレブンジャパン、また「ボックスシート5」にも2012年よりみちのくコカ・コーラボトリングが命名権を取得し、前者は「ローソングループシート5→セブンイレブングループシート5」、後者は「コカコーラボックスシート5」とされている。また、2016年に左中間後方に開設された公園施設は江崎グリコが命名権を取得し、「スマイルグリコパーク」の名称で運営されている。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "札幌ドームでは、それまでプロ野球開催日のみ設置していた3階席「スカイビューボックスシート」を、2012年よりローソンと契約を結び「ローソンスカイボックスシート」、三塁側外野席で陽岱鋼の背番号1をかたどった後方一部エリアを2013年シーズンより「ローソン 岱鋼シート」・中田翔の背番号6をかたどった一部エリアを2014年シーズンより「ローソン 中田翔フルスイングシート」、また一塁側内野A指定席一部の女性向け座席「シンデレラシート」をセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び2013年シーズンより「セブン-イレブン シンデレラシート」、2015年よりシンデレラシートエリア下の一部座席を2015年シーズンより「セブン-イレブン ビジョンシート」と命名している。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "横浜スタジアムは2013年の内野ファウルゾーンにエキサイティングシートというフィールドシート席が設置されるが、このうちの1塁側の箇所をセブンイレブンジャパンと締結し「セブンイレブンエキサイティングシート」と命名されている。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場(西京極スタジアム→2019年施設自体の命名権により「たけびしスタジアム京都」)では、Jリーグの京都サンガF.C.の主催ゲーム限定で2011年3月より入場ゲート(第4ゲート)に命名権を採用しており、「auゲート」(KDDI)と称している。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "鈴鹿サーキットでは、最終コーナー直前のシケイン(ターン16・17)に命名権を採用、2014年3月1日に日立オートモティブシステムズとパートナー契約を締結し「日立オートモーティブシステムズシケイン」と命名されている。また、2018年4月12日からは武蔵精密工業と200Rに設置された2輪用シケインのパートナー契約を締結、「MuSASHiシケイン」と命名されることになった。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "明治神宮野球場では、2019年設置の立見席「ヒップバーシート」に命名権を採用しPeach Aviationと契約を結び「Peachヒップバーシート」と命名されている。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北海きたえーるでは、B.LEAGUEのレバンガ北海道主催ゲーム限定で2022-23シーズンよりセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び、コートエンド・ホームベンチ側に「セブン-イレブンゆったりシート」を設置した。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "施設以外に、組織、作品、イベント、機器等に命名権が導入されるケースがある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "単発の大会やトーナメント戦の冠スポンサーではなく、リーグ戦の命名権者(タイトルパートナー)となった事例。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本野球機構(NPB)管轄のプロ野球では、現在は命名権に基づくチーム名は存在しない(チーム名に含まれる企業名は基本的にオーナー企業の名称)が、二軍に限定すれば過去には複数の事例がある。独立リーグでは、2014年以降、命名権に基づくリーグ名・チーム名が誕生している。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、実現しなかったものとして、2004年に計画された大阪近鉄バファローズの命名権導入が挙げられる。親会社の近畿日本鉄道(近鉄)の経営改善強化策の一環によるものだが、他球団からの反対により断念。このことが結果的に2004年のプロ野球再編問題の引き金となった。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このほか1970年代までに以下のようなスポンサー名への球団名変更の事例がある。ただしこれらは「球団自体へのスポンサード(経営に関与しない資金提供のみ)に付随する球団名の変更」であり、球団名のみを売却したわけではない。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、広島東洋カープの「東洋」は球団の筆頭株主であるマツダの旧社名(東洋工業)に由来するが、実質的にはマツダの創業家である松田家による同族経営がなされている。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "これは、発足以来の市民組織による球団経営への限界から、1957年に東洋工業・広島電鉄・中国新聞社・広島銀行・広島ガス・山陽木材など地場企業10社によるグループオーナー形式に移行していたのが、各社による経営の主導権争いが起きて結果的に空中分解し、1968年に当時は松田家の同族経営だった東洋工業と同社の協力企業による組織である東友会協同組合による経営に一本化した際に 実質的に親会社となったものの、市民球団としての設立経緯を尊重した松田恒次オーナー(当時)の意向により東洋工業の球団運営に対する直接的な関与が抑えられたことに加え、1970年代中頃に第1次オイルショックなどで経営危機に陥った後、通商産業省(現:経済産業省)と住友銀行(現:三井住友銀行)などの介入により経営再建が行われた過程で同族経営が終焉したことで(詳細はマツダ再建の項目を参照)、東洋工業に対する松田家の影響力が薄れ、同時に省庁・銀行側の意向で広島球団に対する東洋工業・東友会協同組合の企業・団体としての経営関与がより弱められると同時に松田家による事実上の独立経営となった経緯によるものであり、「親会社の名称によるチーム名」と「命名権(スポンサード)によるチーム名」の両方に類するとも、あるいはどちらでもないとも言える。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "B.LEAGUEではチーム名に企業名を入れることを原則として禁止しているため、今後参入するチームは新たに命名権を取り入れることはできない。 ただし、前身リーグより企業名を入れているクラブについては、クラブ公式文書で使用する正式なチーム名に限り継続して使用することが可能である。B.LEAGUEの前身のひとつであるJBL→NBLでは、以下の通り命名権を取り入れたクラブが存在した(他チームに含まれる企業名は運営企業の名称)。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、Jリーグ所属クラブ(準加盟や百年構想クラブも含む)には企業名が禁止されている為、命名権をつけたチームはない。JFLでは可能とされているが、前述したJリーグ準加盟クラブや百年構想クラブなどのプロサッカークラブが大半を占めているということもあり、今まで命名権を採用したクラブは存在しない(運営企業名を名乗っているチームは存在する)。ただし、JFL在籍の鈴鹿ポイントゲッターズはクラブがエムフロとネーミングスポンサー契約を結んだことにより改名に至ったものである。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本のプロボクシングジムにおいては命名権を売却するケースは非常に多い。代表的な例として、以下のような事例がある。", "title": "スポーツ、文化分野での命名権" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "公共性のある施設に企業名・商標名を冠していても、必ずしも他者からの単体での命名権取得によるものとは限らない。主に施設を所有又は運営している(いた)企業が、自身の命名権により自社の企業名・商標・ブランド名を冠する場合が多い。また三越前駅など、企業名の入った鉄道駅の一部は、設置を要望した(あるいは設置資金を拠出した)企業の名称が用いられることがある(事例多数に付き割愛。請願駅の項目も参照のこと)。", "title": "命名権取得ではない施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "下記は命名権取得ではない施設の例。なお、下記の施設に別途命名権による名称がつけられる場合がある。", "title": "命名権取得ではない施設" } ]
命名権(めいめいけん)は、人間や事物、施設、キャラクターなどに対して命名することができる権利である。1990年代後半以降、スポーツ、文化施設等の名称に企業名を付けることがビジネスとして確立した。ネーミング・ライツとも呼ばれる。科学の世界においても、新発見の元素や天体に対して発見者が、生物の学名は記載者が、それぞれ命名権を持つ慣習がある。 狭義としては単体で命名権を購入して行使したものを「命名権」と呼び、不動産などと共に購入した命名権は含まない。
[[ファイル:Ajinomoto Stadium 20101120.JPG|thumb|[[2003年]]に[[日本]]の[[公共施設]]として初めて本格導入した[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]([[味の素]]スタジアム)]] '''命名権'''(めいめいけん)は、[[人間]]や事物、[[施設]]、[[キャラクター]]などに対して[[命名]]することができる[[権利]]である。[[1990年代]]後半以降、[[スポーツ]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]施設等の名称に企業名を付けることがビジネスとして確立した。'''ネーミング・ライツ'''([[英語]]:Naming Rights)とも呼ばれる。[[科学]]の世界においても、新発見の[[元素]]や[[天体]]に対して発見者が、[[生物]]の[[学名]]は記載者が、それぞれ命名権を持つ慣習がある。 狭義としては単体で命名権を購入して行使したものを「命名権」と呼び、不動産などと共に購入した命名権は含まない。 == 人の命名権 == 世界の多くの地域では、[[親]]または親から委託を受けた者が[[新生児]]を[[命名]]している。 === 日本の人名 === {{law|section=1}} [[中世]]以降、日本ではその人の成長や変化に従い[[改名]]・[[襲名]]する慣習があり、命名権について本人固有のものとする一般観念があった{{Sfn|田中|1964|p=13}}。その後、[[明治維新]]を経て、[[居住移転の自由]]や[[職業選択の自由]]に伴う社会の流動化と[[戸籍制度]]の確立と共に、個人の特定のための氏名の固定化が進み、同時に子に対する命名権が親固有の専権のような理解となっていった{{Sfn|田中|1964|pp=13-14}}。 命名に関する現行制度として、[[戸籍法]]第50条第1項の「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。」等の規定はあるが、[[民法 (日本)|民法]]([[家族法]])には関連する明文規定がなく、命名権が誰にあるか、その法的根拠はどこにあるかは明確ではない{{Sfn|大村|2010|p=107}}。 命名権が誰にあるかの[[学説]]・[[判例]]については、次のように体系化される{{Sfn|井戸田|2003|p=150}}。 ; 命名権親権者固有説 : 子(命名される者)の命名権は親権者の[[親権]]の1つ([[親権#監護教育権|身上監護権]])とする立場{{Sfn|井戸田|2003|p=151}}{{Sfn|前田|本山|浦野|2017|p=176}}。多くの学説と判例はこの立場を取る{{Sfn|井戸田|2003|p=151}}。 ; 命名権子固有説(事務管理的代行説) : 子の命名権は子本人の[[人格権]]の1つであるが、子は出生時に権利行使できないので、親権者がその子のために事務管理的に代行するという立場{{Sfn|井戸田|2003|p=152}}。 ; 命名権子固有説(親権者代行説) : 子の命名権は子本人の人格権の1つであるが、子は出生時に権利行使できないので、親権に基づき親権者が代行するという立場{{Sfn|井戸田|2003|p=152}}。 ただし、上記のいずれの立場を取るとしても、[[社会通念]]に照らして明らかに不適切な名や、名の持つ本来の機能を著しく損なう名を命名することは'''命名権の濫用'''として、戸籍事務管掌者([[市町村長]])は[[出生届]]の受理を許否することが許されるとされる{{Sfn|井戸田|2003|pp=155-156}}。 {{See|悪魔ちゃん命名騒動}} また、[[棄児]]については、戸籍法第57条第2項において、市町村長がその棄児に対し氏名を付けなければならないとされている{{Sfn|田中|1964|p=15}}。 == 科学分野での命名権 == 元素については、名称が未確定な新元素は[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]]の命名法による[[元素の系統名]]で呼ばれる。IUPAC及び[[国際純粋・応用物理学連合|IUPAP]]によって発見が認定されると、発見者に命名権が発生し、IUPACによる承認を経て最終的に名称が確定する([[未発見元素の一覧#発見の定義]]参照)。 天体については、[[小惑星]]についてのみ発見者に命名提案権が与えられており、[[国際天文学連合|IAU]]の小天体命名委員会による審査を経て命名される([[小惑星#命名規則]]参照)。[[準惑星]]については命名規則は定められていないが、[[エリス (準惑星)|エリス]]の場合には発見者グループが提案した名称が採用されている。 [[生物]]の[[学名]]は、記載者が命名権を持つ([[学名#命名]]参照)。 == スポーツ、文化分野での命名権 == 従来から、スポーツ大会などに[[スポンサー]]の名称を冠する形での命名権ビジネスは存在していたが、[[1990年代]]後半頃から、[[アメリカ]]においてスポーツ施設等の名称に企業名を付けるビジネスが広がった。まず、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]でクラシカルな新球場が多く建設されたとき、その名称に企業名が命名され始め、高い費用対効果が認められたことから、他のスポーツ種目やヨーロッパのスポーツ界へと広がっていった。日本においては、2000年代前半から赤字の公共施設の管理運営費を埋め合わせる手段のひとつとして導入され、その範囲はスポーツ施設や文化施設、路面電車の停留所、公園のトイレ、橋梁、桟橋など多方面に及んでいる<ref>{{Cite journal|author=水野由多加|date=2023-01-01|title=ネーミングは広告である : ネーミングライツの意義と公共性|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1390576613228520704|journal=都市問題|volume=114|issue=1|pages=54–63|language=ja|doi=10.32286/00027809}}</ref>。ちなみに[[地方自治法]]において命名権売却は「[[公有財産]]の処分」にあたらないため、各自治体の議会での議決は必要ない<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20110208000178 京都会館命名権、ロームに 公募せず売却、市会委紛糾] 2011年2月8日 京都新聞</ref>。 施設等の管理者にとっては、命名権を販売することにより収入が得られるメリットがあり、命名権を購入する企業にとっては、スポーツ中継やニュースなどで命名した名称が露出する機会を得られ、宣伝効果が見込まれる。 なお、命名権に限らず、一般的にイベント主管団体の規定(オリンピックやFIFAワールドカップ等の大会)により商標が使用できない場合がある。この場合、命名権に商標を導入している施設については施設名に商標の入っていない正式名称を使用することが義務付けられる。正式名称そのものに商標が含まれているケース等では、別称を付けて対応することとなる。 大会やリーグの冠スポンサーと命名権を取得した業者が競合する場合、主催者側では命名権名称を使用せず正式名称で案内することがある。 [[日本放送協会|NHK]]は[[放送法]]第83条により広告放送が禁止されていることを踏まえ、取材・政策の基本姿勢を示した『NHK放送ガイドライン』において企業名の取り扱いについて「本質的に必要なのか、その他の表現に置き換えることは出来ないのか」等の観点から判断しており、(施設)命名権に基づく名称については『施設の名称である以上、放送に使用することはやむをえないが、名前の一部に企業名などが含まれているため、ニュースや番組の中では繰り返しを避けて、抑制的に名称を用いる」とした上で、「企業名などを除いた施設名が定着している場合には、企業名などを除いた名称を使うこともある」としている<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150922211816/https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/bc-guideline/pdf/guideline2015.pdf NHK放送ガイドライン2015]}}. 日本放送協会, pp.21-23, 2018年7月24日閲覧。</ref>。独自に名称の差し替えを行っている例としては[[大相撲中継]]のケースがあり、[[本場所]]の会場で命名権が導入されている[[大阪府立体育会館]](春場所、2013年から)と[[愛知県体育館]](名古屋場所、2018年から)の名称を、主催者([[日本相撲協会]])が使用(併記)している命名権名称ではなく、従来からの「大阪府立体育会館」「愛知県体育館」の正式名称で表記している<ref group="注釈">命名権を導入していない[[両国国技館]]や[[福岡国際センター]]と扱いを統一する目的もある。</ref>。ただし、大相撲以外の他の競技やイベントをNHKがこの2会場から中継する場合([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]における[[大阪エヴェッサ]]および[[名古屋ダイヤモンドドルフィンズ]]のホームゲームや、音楽ライブなど)は、他の命名権導入会場からの同種の競技・イベントの中継と扱いを合わせて「抑制的に名称を用いる」基準で命名権名称を使用する場合もある。 === 問題点 === 同一の施設でありながら、契約満了または契約変更によって比較的短いスパンで別の名称に変わることを問題視する意見がある<ref>https://ci.nii.ac.jp/naid/120006368708/ [[水野由多加]](2017)「ネーミングライツ(命名権)についての断章」『関西大学社会学部紀要』49(1), 205-217. https://ci.nii.ac.jp/naid/120006624697  同(2018)「ネーミングライツ(命名権)についての断章(続)」『関西大学社会学部紀要』50(1), 61-74.</ref>。例えば[[神戸総合運動公園野球場|Yahoo!BBスタジアム→スカイマークスタジアム→ほっともっとフィールド神戸]]について、アメリカでの命名権(20年契約などの長期契約が基本)と比較して「球場名に愛着を抱くファン心理への配慮」が足りないことを示唆する批判がある<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/seihei/0003833268.shtml 正平調] - 神戸新聞2011年2月28日</ref>。Yahoo!BBスタジアムの場合は、スポンサーであった[[ヤフー (企業)|ヤフー]]が[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]買収後、本拠地[[福岡ドーム]]に「福岡 Yahoo! JAPANドーム」→「福岡ヤフオク!ドーム」→「福岡PayPayドーム」と類似した名称を付けている。また、[[西武ドーム]]は球場名が何度も変わっているが、最寄の[[西武鉄道]]の駅は一貫して「[[西武球場前駅]]」のままである。 税金で建設された公共施設を、一私企業の名称に変更することは公共イメージが損なわれるという意見もある。事実、[[ナイキ|ナイキジャパン]]は[[宮下公園]]の命名権を取得し「宮下NIKEパーク」と改称する予定だったが、反対運動が相次いだことで命名権行使を撤回した(ただし、命名権使用料の支払いは継続)。また、[[京都市美術館]]については、[[2019年]]に新館建設などリニューアルを実施するのに合わせ、[[京都市]]は[[2016年]]9月1日から31日にかけ、費用の獲得と愛称を決める目的で命名権を募集したが、[[市民団体]]や[[知識人|有識者]]などからは、「公共の[[文化財]]に一企業の名称が被るのは相応しくない」などの異論が出ている<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160906/ddl/k26/010/562000c 京都市美術館 命名権募集 19年度リニューアル開館 50年で50億円 /京都]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} 毎日新聞 2016年9月6日</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20160930/ddf/001/010/002000c 京都市美術館 京都市○○○美術館? 命名権売却先を募集 市、50年50億円希望/「公共の文化財」異論も] 毎日新聞 2016年9月30日</ref>。最終的に京都市美術館は、[[伏見区]]に本社を置く[[京セラ]]に命名権を売却すると発表、再オープン後は「'''京都市京セラ美術館'''」の名称となる<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJB67DD3JB6PLZB01C.html 命名権を売却、「京都市京セラ美術館」に 総額50億円] - 朝日新聞、2016年10月7日</ref>。 新しい名称がなかなか定着せず、旧称を併記した結果、契約違反に問われることがある([[中台運動公園]]における[[サウンドハウス]]との命名権契約解除事例)。 命名した企業に不祥事が発覚した場合、命名権を導入した側に批判が寄せられるケースもあり([[八王子市民会館|オリンパスホール八王子]]に対する[[八王子市]]への批判など<ref>[http://mainichi.jp/select/photo/news/20111117k0000e040030000c.html 八王子市:命名権売却「オリンパスホール」好調だが…] - 毎日新聞2011年11月17日</ref>)、実際に命名権契約が解除され名称が変わることもある([[西武ドーム]]における[[グッドウィル (人材派遣会社)|グッドウィル]]との契約解除など)。 また、命名権の契約金の高さから企業の買い手がつかない場合というケースもある。一例として、[[札幌ドーム]]では[[2011年]]に「5年間5億円、札幌ドームの名称を基本的に使うこと」を条件に募集したが、初回募集の1社とは折り合いがつかず、再募集の時には応募企業がなく、その後契約年数を延ばし実質的値下げにも踏み込んで下交渉を行ったものの見通しが立たないことから2011年内の再々公募を見送った経緯がある<ref name="yomiuri-hokkaido20111222">[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/feature/hokkaido1324519165271_02/news/20111222-OYT8T00628.htm 徹底研究 札幌ドーム<6>] - 読売新聞北海道発2011年12月22日</ref>。 施設管理者が一方的に命名権の導入を試みた結果、その施設を本拠地として使用しているプロスポーツチーム等の反発を招くことがある。前述の札幌ドームのケースでは[[北海道日本ハムファイターズ]]が「(札幌市が自分たちへの)連絡なしに命名権を公募することに疑問を感じる」と猛反発しており<ref name="yomiuri-hokkaido20111222"/>、結果本拠地を札幌ドームから[[きたひろしま総合運動公園]]へ移転させるきっかけともなった(詳細は[[北海道日本ハムファイターズ#新球場建設構想]]を参照)。一方で、キンチョウスタジアム・ZOZOマリンスタジアムなどのように、施設命名権の契約にプロスポーツチームが関与した場合、契約料をプロスポーツチームと折半する(施設の命名権による収入が全額施設のものとなると限らない)ケースもある<ref name="yomiuri-hokkaido20111222"/>。 === 留意事項 === 都道府県や市町村などの地方自治体が所有している公共施設が命名権を導入する場合、施設の呼称そのものを対象とするケース([[横浜市]]・[[新潟県]]など)と、施設の愛称のみを命名権の対象とし、正式名称も従来通り使用するケース([[岡山県]]・[[香川県]]など)とがある。特に前者の場合、マスメディアなどで対外的に施設名称を表示する際には、命名権による呼称のみを優先的に使用しなければならない旨について自治体側が規定を設ける場合がある。ただしいずれの場合も、命名権によって制定された呼称を条例上の施設名称にまで及んで改称したケースはほとんどなく、条例上の施設名称は本来のものを継続して使用している。また、[[石川県]]の場合、命名権を導入している公共施設は県ならびに各自治体においては一切ない(2020年時点)。 [[国際サッカー連盟]] (FIFA) や[[国際陸上競技連盟]] (IAAF) など国際競技団体の一部は、自らが主催・主管する大会において「(公式スポンサーと競合する)企業名・商標名を冠する競技施設では公式戦を開催できない」と規定している。また大会・興行の公式スポンサー以外の企業名称が使用できない場合や、命名権を取得している企業の同業他社がスポンサーに付くケースもある。これらのケースにおいては施設名には正式名称(旧称)を使用する。また必要に応じて、場内に掲出されている企業名のロゴを覆い隠す措置を執ることもある。FIFAの「[[国際サッカー連盟#クリーンスタジアム|クリーンスタジアム]]規定」や[[ワールドラグビー]]の「[[ワールドラグビー#クリーンスタジアム|クリーンスタジアム規定]]」がこれに該当するが、あくまでも「公式スポンサーの保護」が目的であるため([[アンブッシュマーケティング]]参照)、命名権を一律に除外するわけではなく、また命名権名称でなくとも一時名称変更措置が執られることもある。 珍しいケースではあるが、命名権を購入した企業側が「旧名称のままとするのが望ましい」として呼称変更をあえて行わないことがある。[[鎌倉市]]の海水浴場3か所の例では、2013年に『[[鳩サブレー]]』で知られる菓子店の豊島屋が権利を購入したものの、一般公募の結果呼称変更を行わず旧名称のまま運営を続けている(ただし形式上は「命名権を行使して、旧名称と同じ呼称を名付けた」形である)<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2014/05/15/kamakura-toyoshimaya_n_5334297.html 「鳩サブレー海岸」にはしません 豊島屋、命名権購入も名前はそのままに] - ハフィントンポスト・2014年5月15日</ref>。 2019年から[[大之木建設]]が命名権を取得した[[呉市二河野球場]](命名権名称:[[鶴岡一人]]記念球場)のように、企業名ではなく所在地に所縁の人物の名称を命名する例もある<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/04/26/kiji/20190426s00001000352000c.html 呉市に「鶴岡一人記念球場」 呉二河球場の愛称に名将の名] - [[スポニチアネックス]]、2019年4月26日、19時16分配信。</ref>。 === 施設の名称に導入した事例 === {{Main|命名権が導入された施設の一覧|日本の命名権導入施設一覧}} ==== 特定施設の名称に導入した事例 ==== 日本のプロスポーツにおいて、公式戦開催時のみ場内の特定施設(観客席など)に命名権を採用するケースがある。 [[御崎公園球技場|神戸市御崎公園球技場]](神戸ウイングスタジアム→ホームズスタジアム神戸→ノエビアスタジアム神戸)では、Jリーグの[[ヴィッセル神戸]]の主催ゲーム限定で2005年3月より観客席の名称に命名権を採用しており、メインスタンドを「'''楽天スタンド'''」、バックスタンドを「'''Kawasakiスタンド'''」と称している。施設全体に企業名を冠する場合とは異なり、スタジアムではなく、興行主のヴィッセル神戸(運営会社クリムゾンFC)に2社から広告料が支払われる。 [[阪神甲子園球場]]では、[[2008年]]から[[日本プロ野球|プロ野球]]開催日のみ、新設された[[フィールドシート]]に「'''[[三井住友フィナンシャルグループ|SMBC]]シート'''」(1・3塁側 2012年まで「[[みずほ銀行]]シート」)「'''[[東芝]]シート'''」(バックネット裏)の命名権が、また、2009年からプロ野球開催日のみ、3塁側に新設された[[炬燵|掘りこたつ]]タイプのボックスシートに「'''[[三ツ矢サイダー]]ボックス'''」([[アサヒ飲料]])の命名権が取り付けられた(2012年からは1塁側にも新設・命名)。さらに2013年から1塁側アルプス席の最前列に[[セブンイレブン]]ジャパンと締結した「'''セブンイレブンエキサイトシート'''」(ライトポール側付近)、「'''セブンイレブンファミリーシート'''」(アイビーシート側付近)が設置される。球場そのものの命名権は現在予定されていない。 広島市民球場([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])では、プロ野球開催日のみ、正面及び内野砂かぶり席と2階テラスシート、ライトポール際観客席(びっくりテラス)、ライトスコアボード際観客席(寝ソベリア、2011年シーズン - )に命名権を採用しており、正面砂かぶり席を「'''東芝シート正面砂かぶり'''」(2009年シーズン、[[東芝]]))→「'''ビックカメラシート正面砂かぶり'''」(2010年シーズン - 、[[ビックカメラ]])、内野砂かぶり席を「'''KIRINシート砂かぶり席'''」([[キリンホールディングス]])、2階テラスシートを「'''コカ・コーラテラスシート'''」([[日本コカ・コーラ]]/[[コカ・コーラウェスト]])、ライトポール際観客席を「'''エバラ黄金の味 びっくりテラス'''」([[エバラ食品工業]])、ライトスコアボード際観客席を「'''セブン-イレブンシート寝ソベリア'''」([[セブン-イレブン|セブン-イレブン・ジャパン]])と称している。この場合は、同球場の[[指定管理者]]の[[広島東洋カープ]]とともに同球場の共同運営を行う[[三井物産]]に3社から広告料が支払われる。 [[宮城球場]](2023年より「楽天モバイルパーク宮城」)では、[[2009年]]設置の「グループシート5」に[[2010年]]までは[[ローソン]]、[[2012年]]からは[[セブンアンドアイホールディングス]]/[[セブン-イレブン|セブンイレブンジャパン]]、また「ボックスシート5」にも[[2012年]]より[[みちのくコカ・コーラボトリング]]が命名権を取得し、前者は「'''ローソングループシート5'''→'''セブンイレブングループシート5'''」、後者は「'''コカコーラボックスシート5'''」とされている。また、[[2016年]]に左中間後方に開設された公園施設は[[江崎グリコ]]が命名権を取得し、「'''スマイルグリコパーク'''」の名称で運営されている。 [[札幌ドーム]]では、それまでプロ野球開催日のみ設置していた3階席「スカイビューボックスシート」を、2012年よりローソンと契約を結び「'''ローソンスカイボックスシート'''」、三塁側外野席で[[陽岱鋼]]の背番号1をかたどった後方一部エリアを2013年シーズンより「'''ローソン 岱鋼シート'''」・[[中田翔]]の背番号6をかたどった一部エリアを2014年シーズンより「'''ローソン 中田翔フルスイングシート'''」、また一塁側内野A指定席一部の女性向け座席「シンデレラシート」をセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び2013年シーズンより「'''セブン-イレブン シンデレラシート'''」、2015年よりシンデレラシートエリア下の一部座席を2015年シーズンより「'''セブン-イレブン ビジョンシート'''」と命名している。 [[横浜スタジアム]]は[[2013年]]の内野ファウルゾーンにエキサイティングシートというフィールドシート席が設置されるが、このうちの1塁側の箇所をセブンイレブンジャパンと締結し「'''セブンイレブンエキサイティングシート'''」と命名されている。 [[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場]](西京極スタジアム→2019年施設自体の命名権により「たけびしスタジアム京都」)では、Jリーグの[[京都サンガF.C.]]の主催ゲーム限定で2011年3月より入場ゲート(第4ゲート)に命名権を採用しており、「'''[[au (携帯電話)|au]]ゲート'''」([[KDDI]])と称している。 [[鈴鹿サーキット]]では、最終コーナー直前の[[シケイン]](ターン16・17)に命名権を採用、2014年3月1日に[[日立オートモティブシステムズ]]とパートナー契約を締結し「'''日立オートモーティブシステムズシケイン'''」と命名されている<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e9%88%b4%e9%b9%bf%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%82%b1%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%81%8c%e3%83%8d%e3%83%bc%e3%83%9f%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%a7%e5%90%8d%e7%a7%b0%e5%a4%89%e6%9b%b4 鈴鹿のシケインがネーミングライツで名称変更],オートスポーツ,2014年3月1日</ref>。また、2018年4月12日からは[[武蔵精密工業]]と200Rに設置された2輪用シケインのパートナー契約を締結、「'''MuSASHiシケイン'''」と命名されることになった<ref>[http://www.as-web.jp/bike/358529 鈴鹿サーキット、武蔵精密工業と二輪用シケインのネーミングライツ契約を締結],オートスポーツ,2018年4月12日</ref>。 [[明治神宮野球場]]では、2019年設置の立見席「ヒップバーシート」に命名権を採用し[[Peach Aviation]]と契約を結び「'''Peachヒップバーシート'''」と命名されている<ref>[https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/23073 「明治神宮野球場 ヒップバーシート」名称変更のお知らせ] - 東京ヤクルトスワローズ</ref>。 [[北海道立総合体育センター|北海きたえーる]]では、[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]の[[レバンガ北海道]]主催ゲーム限定で2022-23シーズンよりセブン-イレブン・ジャパンと契約を結び、コートエンド・ホームベンチ側に「'''セブン-イレブンゆったりシート'''」を設置した<ref>[https://www.levanga.com/news/detail/id=15658 2022-23シーズンオフィシャルスポンサー新規契約締結のお知らせ] レバンガ北海道 2022年10月25日</ref>。 === 施設以外の名称に導入した事例 === 施設以外に、組織、作品、イベント、機器等に命名権が導入されるケースがある。 * '''[[秘密結社鷹の爪|秘密結社鷹の爪 THE MOVIE]]''' - 第2弾以降で映画タイトルに命名権を導入し、スポンサー企業の商品名を組み込んでいる。映画でははじめての事例。 ** '''秘密結社鷹の爪 THE MOVIE2 〜私を愛した[[黒烏龍茶]]〜''' - 2008年公開。当時黒烏龍茶を発売していた[[サントリー]]が権利を取得。 ** '''秘密結社鷹の爪 THE MOVIE3 〜[[.jp|http://鷹の爪.jp]]は永遠に〜''' - 2010年公開。[[国別コードトップレベルドメイン]]を管理する[[日本レジストリサービス]]が権利を取得。 ** '''秘密結社鷹の爪 THE MOVIE4 〜[[カスペルスキー]]を持つ男〜''' - 2010年公開(正式には「THE MOVIE3」のDVD特典映像)。アンチウイルスソフトを展開する[[カスペルスキー・ラボ]]が権利を取得。 ** '''秘密結社鷹の爪 鷹の爪GO 〜美しき[[エリエール]]消臭プラス〜''' - 2013年公開。「エリエール」ブランドを手がける[[大王製紙]]が権利を取得。 * '''[[メガネの相沢]]プレゼンツ県民ロビーコンサート''' - [[宮城県庁舎]]県民ロビーで1989年から毎月行われている無料コンサートに対して県が命名権を募集し、2009年3月までの6ヶ月分を51万円で売却。 * '''JFEエンジニアリングさがみ''' - 神奈川県が所有する[[ヘリコプター]]「さがみ」([[川崎重工業|川崎]]・[[BK117 (航空機)|BK117B-1]])の命名権を[[JFEエンジニアリング]]が取得。 * '''りんくうの風MAKINO''' - 愛知県[[常滑市]]の[[りんくう緑地]]内にある小型風力発電機の命名権を[[マキノ (企業)|マキノ]]が2012年4月から2年契約で取得。 * '''愛川ソーラーパーク“さんてらすTOBISHIMA”''' - 神奈川県[[愛甲郡]][[愛川町]]のメガソーラー設備(2013年4月完成)の命名権を[[飛島建設]]が取得。契約期間は2018年3月までの5年間。 * '''あしぎんマロニエ県庁コンサート''' - [[栃木県庁舎]]1階ロビーにて年6回行なわれている無料コンサート。[[足利銀行]]が2011年(1年契約、現在2013年まで更新中)から取得している。 * '''中国聯通号''' - [[中華人民共和国の鉄道|中国国鉄]][[南昌鉄路局]]によって命名権が販売され、[[中国聯通]]が落札し福建省内を走る[[中国鉄路高速]]([[中華人民共和国の高速鉄道|中国の高速鉄道列車]])に命名された。<ref>[https://web.archive.org/web/20140714175008/http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014071201001650.html 中国、政権交代で列車名も変更 「和諧」が「聯通」に]</ref> * '''ポッカレモン消防音楽隊''' - 名古屋市によって名古屋市消防音楽隊の命名権が販売され、3年間につき約1000万円の契約で[[ポッカサッポロフード&ビバレッジ]]が購入した。<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160208/ddh/041/020/003000c]</ref> * '''[[EGOZARU]]タイムアウト''' - レバンガ北海道のホームゲームにおける「[[タイムアウト]]ネーミングライツ」を2022年に販売し、EGOZARUブランドを展開するサードシップが購入した<ref>[https://www.levanga.com/news/detail/id=15704 Bリーグ初!レバンガ北海道ホームゲームにおける「タイムアウトネーミングライツ」契約のお知らせ] レバンガ北海道 2022年10月13日</ref> ==== スポーツのリーグ戦に導入した事例 ==== {{See also|冠大会|冠スポンサー}} 単発の大会やトーナメント戦の[[冠スポンサー]]ではなく、リーグ戦の命名権者(タイトルパートナー)となった事例。 * '''ルートインBCリーグ''' - 2014年のシーズンよりオフィシャルスポンサーの1つである[[ホテルルートイン]]グループが[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](BCリーグ)の命名権を取得し、通称を改めた<ref>[http://www.bc-l.jp/modules/bclnews/index.php?page=article&storyid=2571 BCリーグ命名権(ネーミングライツ)について] - BCリーグニュース(2014年2月25日)</ref>。 * '''太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ''' - [[太陽生命保険]]が2014年に開始した[[ウィメンズセブンズシリーズ]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''ターキッシュ エアラインズ bjリーグ(TKbjリーグ)''' - [[ターキッシュ エアラインズ]]が[[日本プロバスケットボールリーグ]](bjリーグ)とネーミングライツおよびオフィシャルパートナー契約を締結し、[[Bjリーグ 2014-15|2014-2015シーズン]]から導入<ref>{{Cite press release|和書|url=http://bjleague.livedoor.biz/archives/51961110.html|title=ターキッシュ エアラインズとネーミングライツパートナー契約|publisher=日本プロバスケットボールリーグ|date=2014-09-25}}</ref>。 * '''明治安田生命Jリーグ''' - [[明治安田生命保険]]が[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)との間で2015年から2018年までの4年間のタイトルパートナー契約を締結<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/article-00006256/|title=明治安田生命保険相互会社とJリーグタイトルパートナー契約を締結|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2014-12-16|accessdate=2016-02-11}}</ref>。3部リーグの[[J3リーグ]]には1年早く2014年からタイトルパートナー契約を締結。 * '''マイナビ ジャパンビーチバレーボールツアー''' - [[マイナビ]]が2017年より[[ジャパンビーチバレーボールツアー]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''[[NBAゲータレード・リーグ]]''' - [[ペプシコ]]社がNBAデベロップメント・リーグとパートナーシップ契約を結び、2017-18シーズンより同社のスポーツドリンクブランドである[[ゲータレード]]をリーグ名に使用している。 * '''JTB バドミントンS/Jリーグ''' - 2018年から[[JTB]]が[[バドミントンS/Jリーグ]]とタイトルパートナー契約を締結。2021シーズンを以て契約満了。 * '''ノジマTリーグ''' - [[ノジマ]]が2018年に開始した[[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''JERA セントラル・リーグ''' - 2020年から[[JERA]]が[[セントラル・リーグ]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''さわかみ関西独立リーグ''' - 2020年シーズンに[[澤上篤人]]が理事長を務めるさわかみ財団が[[関西独立リーグ (2代目)|関西独立リーグ]]とネーミングライツ契約を締結<ref>[https://kandok.jp/archives/5256/ リーグ名変更について] - 関西独立リーグ(2020年5月1日)</ref>。契約更新の発表はないまま、2021年に入ってもウェブサイト等で使用されていたが、同年4月1日に契約更新(期間は明示せず)が発表された<ref>[https://kandok.jp/archives/6693/ 【一般財団法人さわかみ財団様とネーミングライツ契約締結(継続)】] - 関西独立リーグ(2021年4月1日)2021年4月1日閲覧。</ref>。 * '''ヤマエ久野 九州アジアリーグ''' - [[ヤマエ久野]]が2021年9月より[[九州アジアリーグ]]とネーミングライツ契約を締結<ref>[https://bfk.or.jp/ 九州アジアリーグ公式サイト](2021年9月13日閲覧)</ref>。 * '''三菱地所 JCLプロロードレースツアー''' - [[三菱地所]]が2021年に開始した[[ジャパンサイクルリーグ]](JCL)とタイトルパートナー契約を締結。 * '''Yogibo WEリーグ''' - [[ウェブシャーク]]が2021年に開始した[[日本女子プロサッカーリーグ]](WEリーグ)とタイトルパートナー契約を締結。 * '''NTTジャパンラグビーリーグワン''' - [[日本電信電話]]が2022年に開始した[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE|ジャパンラグビーリーグワン]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''ニトリJD.LEAGUE''' - [[ニトリ]]が2022年に開始した[[JDリーグ]]とタイトルパートナー契約を締結。 * '''パーソル パシフィック・リーグ''' - 2023年から[[パーソル]]が[[パシフィック・リーグ]]とタイトルパートナー契約を締結。 ==== スポーツのチーム名に導入した事例 ==== ===== 日本のプロ野球 ===== [[日本野球機構]](NPB)管轄のプロ野球では、現在は命名権に基づくチーム名は存在しない(チーム名に含まれる企業名は基本的にオーナー企業の名称)が、二軍に限定すれば過去には複数の事例がある。[[独立リーグ]]では、2014年以降、命名権に基づくリーグ名・チーム名が誕生している。 ; NPB :* '''サーパス神戸'''(2000年-2006年)→'''サーパス'''(2007年-2008年) - オリックス・ブルーウエーブ→[[オリックス・バファローズ]]の[[オリックス・バファローズ (ファーム)|二軍]]の球団名に導入。[[穴吹工務店]]が命名権を3年契約で取得し、同社のマンションブランド「サーパス」を冠した。2003年から2005年の間は命名権を取得した[[サイバーファーム]]が穴吹工務店の了承を得て同チーム名としていた。穴吹工務店は2006年から再び命名権を取得するが、同社の経営不振に伴い契約を中途解除。 :* '''インボイス'''(2005年-2006年)→'''グッドウィル'''(2007年) - [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|二軍]]の球団名に導入。一軍本拠地である[[西武ドーム]]の命名権と同時に導入され、球場の命名権企業と同じ[[インボイス (企業)|インボイス]]および[[ラディアホールディングス|グッドウィル・グループ]]が命名権を取得した。インボイスとは球場命名権の契約満了(球団が更新を拒否)により、グッドウィルとは同社の不祥事により、それぞれ命名権契約を中途解除。 また、実現しなかったものとして、2004年に計画された[[大阪近鉄バファローズ]]の命名権導入が挙げられる。親会社の[[近畿日本鉄道]](近鉄)の経営改善強化策の一環によるものだが、他球団からの反対により断念。このことが結果的に[[プロ野球再編問題 (2004年)|2004年のプロ野球再編問題]]の引き金となった。 このほか1970年代までに以下のようなスポンサー名への球団名変更の事例がある。ただしこれらは「球団自体へのスポンサード(経営に関与しない資金提供のみ)に付随する球団名の変更」であり、球団名のみを売却したわけではない。 * '''ライオン軍'''(1937年-1940年) - それまでの大東京軍の経営権が[[國民新聞#歴史|國民新聞社]]から[[共同印刷]](の専務の大橋松雄)と[[田村駒治郎]]に移った際、小林商店(現・[[ライオン (企業)|ライオン]])スポンサーとなり(チームの運営には携わっていない)、チーム名に屋号(ライオン歯磨本舗)である「ライオン」の文字を組み込んだ。「[[ライオン]]」が[[敵性語]]と見なされたため、1940年まではこの名称で通すも、1941年に「朝日軍」に改称(小林商店からのスポンサードは継続)。戦後、[[松竹]]が資本参加して[[松竹ロビンス]]となり、大洋ホエールズ(現・[[横浜DeNAベイスターズ]])との合併により事実上消滅。 * '''トンボユニオンズ'''(1955年) - [[トンボ鉛筆]]がリーグの斡旋により[[高橋ユニオンズ]]([[高橋龍太郎]]の個人経営)のスポンサーとなるも1年で撤退。翌々年に大映スターズと合併し[[大映ユニオンズ]]となり、後に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズに。 * '''ロッテオリオンズ'''(1969年-1970年) - 1969年に東京オリオンズ(大毎オリオンズの後身)に[[ロッテ]]がスポンサーとして参加。最初の2年間は東京オリオンズ時代から引き続いて[[大映]]が経営権を持っており、この間は「命名権(スポンサード)によるチーム名」だった。1971年1月にロッテが大映から球団経営権を譲受して、「親会社の名称によるチーム名」に。現在の[[千葉ロッテマリーンズ]]。 * '''太平洋クラブライオンズ'''(1973年-1976年)→'''クラウンライターライオンズ'''(1977年-1978年) - 1973年に設立された[[福岡野球]]([[中村長芳]]が身売りされた西鉄ライオンズを引き受けた個人運営の会社)への、[[太平洋クラブ]]からの資金援助によるもの。1977年には[[クラウンガスライター]]とも提携して(太平洋クラブとの提携も継続)球団名変更。1978年シーズン終了後に[[コクド|国土計画]]([[西武グループ]])に球団が売却され本拠地も移転、西武ライオンズ(現・[[埼玉西武ライオンズ]])に。 なお、[[広島東洋カープ]]の「東洋」は球団の筆頭株主である[[マツダ]]の旧社名(東洋工業)に由来するが、実質的にはマツダの創業家である松田家による[[同族経営]]がなされている。 これは、発足以来の市民組織による球団経営への限界から、1957年に東洋工業・[[広島電鉄]]・[[中国新聞社]]・[[広島銀行]]<ref group="注釈">球団運営法人自体は、広島相互銀行→広島総合銀行→[[もみじ銀行]]をメインバンクとしている。</ref>・[[広島ガス]]・[[山陽木材]]など地場企業10社によるグループオーナー形式に移行していたのが、各社による経営の主導権争いが起きて結果的に空中分解し、1968年に当時は松田家の同族経営だった東洋工業と同社の協力企業による組織である東友会協同組合による経営に一本化した際に<ref>『よみがえれ!ライオンズ 第一部 揺れる球団⑦ 【幻影】“市民球団”カープが証明 船頭多くして崩壊』 - [[西日本スポーツ]]・1978年10月3日。</ref> 実質的に親会社となったものの、市民球団としての設立経緯を尊重した[[松田恒次]]オーナー(当時)の意向により東洋工業の球団運営に対する直接的な関与が抑えられたことに加え、1970年代中頃に[[第1次オイルショック]]などで経営危機に陥った後、[[通商産業省]](現:[[経済産業省]])と[[住友銀行]](現:[[三井住友銀行]])などの介入により経営再建が行われた過程で同族経営が終焉したことで(詳細は[[マツダ再建]]の項目を参照)、東洋工業に対する松田家の影響力が薄れ、同時に省庁・銀行側の意向で広島球団に対する東洋工業・東友会協同組合の企業・団体としての経営関与がより弱められると同時に松田家による事実上の独立経営となった経緯によるものであり、「親会社の名称によるチーム名」と「命名権(スポンサード)によるチーム名」の両方に類するとも、あるいはどちらでもないとも言える。 ; 独立リーグ :* '''[[富山GRNサンダーバーズ]]'''([[日本海オセアンリーグ]]、2015年 - )- GRN([[北陸コカ・コーラボトリング]]の子会社)との契約により、従来の富山サンダーバーズより改称<ref>[http://www.t-thunderbirds.jp/news/2015/02/0226-003497.html 富山GRNサンダーバーズ命名権発表のお知らせ] 富山GRNサンダーバーズ公式サイト 2015年2月26日配信</ref>。 :* '''オセアン滋賀ユナイテッドベースボールクラブ'''(当時BCリーグ、2019年) - オセアンとの契約により、滋賀ユナイテッドベースボールクラブが愛称として使用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bc-l.jp/news_team.php?nowpg=33&keyno=90|title=株式会社滋賀ユナイテッドのネーミングライツパートナー契約締結のお知らせ|website=ベースボール・チャレンジ・リーグ|date=2019-01-15|accessdate=2019-11-02}}</ref>。2019年シーズン終了後の2020年1月に、オセアンは滋賀球団の運営企業を買収して運営会社名が「オセアン滋賀」に変更され、運営企業の名前そのものとなったことから、命名権による愛称ではなくなった(その後、球団名を「オセアン滋賀ブラックス」を経て「[[滋賀GOブラックス]]」に変更)。 ===== 日本のプロバスケットボール ===== [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]ではチーム名に企業名を入れることを原則として禁止しているため、今後参入するチームは新たに命名権を取り入れることはできない。 ただし、前身リーグより企業名を入れているクラブについては、'''クラブ公式文書で使用する正式なチーム名'''に限り継続して使用することが可能である。B.LEAGUEの前身のひとつである[[日本バスケットボールリーグ|JBL]]→[[ナショナル・バスケットボール・リーグ (日本)|NBL]]では、以下の通り命名権を取り入れたクラブが存在した(他チームに含まれる企業名は運営企業の名称)。 * '''リンク栃木ブレックス''' - 経営コンサルティング企業の[[リンクアンドモチベーション]]が2008年からの3年契約で買収。2009年からは運営会社がリンク社の完全子会社化され、「親会社の名称によるチーム名」となっていた。2016年のB.LEAGUE発足に合わせて運営会社がリンク社の資本外に変更されたが、正式なチーム名としてはリンクの名を残した。2019年に[[宇都宮ブレックス]]に改名。 * '''[[茨城ロボッツ|サイバーダインつくばロボッツ→サイバーダイン茨城ロボッツ]]''' - 精密機器メーカーの[[サイバーダイン]]が2015年からチーム名を買収。 ===== 日本のサッカー ===== * '''サンライフFC'''([[四国サッカーリーグ]]) - 香川紫雲FC(現・[[カマタマーレ讃岐]])が消費者金融の[[サンライフ]]と命名権契約を結んでいた。 * '''KOREA FootballClubグラシアス西条'''(四国サッカーリーグ) - フットサルコート経営のグラシアス西条と命名権契約を結んでいる。 * '''ひまわり牛乳南国SC'''(四国サッカーリーグ) - 南国高知FC(現・[[高知ユナイテッドSC]])が地元の乳業会社・[[ひまわり乳業]]と命名権契約を結んでいた。 * '''[[auショップ天神FC柳町]]'''(高知県社会人リーグ) - FC柳町が四国サッカーリーグ時代に高知県の[[auショップ]]天神店と命名権契約を結んでいた。 * '''[[日テレ・ベレーザ]]'''([[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]]) - [[日本テレビ放送網]](日テレ)がチームの命名権を保有。元々日テレも出資者として参加していた(日本テレビフットボールクラブが運営)が、2009年シーズン後に運営が日テレの関与しない組織(東京ヴェルディ1969フットボールクラブ)へ移管。日テレは撤退後もチームの命名権を引き続き保有し、チーム名も日テレ・ベレーザのままとなった。 * '''[[ASエルフェン埼玉|ちふれASエルフェン埼玉]]'''(WEリーグ) - [[ちふれ化粧品]]と命名権契約を結んでいる。 * '''[[スペランツァFC大阪高槻|コノミヤ・スペランツァ大阪高槻]]'''([[日本女子サッカーリーグ]]) - [[コノミヤ]]と命名権契約を結んでいる。 * '''マイナビベガルタ仙台レディース'''(当時日本女子サッカーリーグ)- [[マイナビ]]と命名権契約を結んでいたが、後に同社に経営権譲渡されたことにより[[マイナビ仙台レディース]]に改称。 * '''[[浦和レッドダイヤモンズ・レディース|三菱重工浦和レッズレディース]]'''(WEリーグ) - [[三菱重工業]]と命名権契約を結んでいる。 なお、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]所属クラブ([[Jリーグ準加盟制度|準加盟]]や[[Jリーグ百年構想クラブ|百年構想クラブ]]も含む)には企業名が禁止されている為、命名権をつけたチームはない。[[日本フットボールリーグ|JFL]]では可能とされているが、前述したJリーグ準加盟クラブや百年構想クラブなどのプロサッカークラブが大半を占めているということもあり、今まで命名権を採用したクラブは存在しない(運営企業名を名乗っているチームは存在する)。ただし、JFL在籍の[[鈴鹿ポイントゲッターズ]]はクラブがエムフロとネーミングスポンサー契約を結んだことにより改名に至ったものである。 ===== 日本のプロボクシング ===== 日本の[[ボクシングジム|プロボクシングジム]]においては命名権を売却するケースは非常に多い。代表的な例として、以下のような事例がある。 * '''アルファボクシングジム''' - [[山木ボクシングジム]]が2011年移転時に命名権をスポンサーの[[アルファ・ホームズ]]に売却。2014年3月31日スポンサー契約が切れた後も2018年3月まで引き続き使用していた。 * '''[[協栄ボクシングジム]]''' - 金平ボクシングジムの命名権をスポンサーの[[協栄物産]]に売却。 * '''[[グリーンツダボクシングクラブ]]''' - コム名の「グリーン」はグリーン観光に命名権を売却し、スポンサー契約が切れた後も引き続き使用しているものであり、現在、グリーン部分の命名権を販売している。創設当時は愛寿ボクシングジム。 * '''チャイナクイック渡辺ボクシングジム''' - [[ワタナベボクシングジム]]の命名権を2002年頃にチャイナクイックインキュベイト(後の[[CQエンターテイメント]])に売却していた。 * '''[[トクホン真闘ボクシングジム|トクホン辰東ジム→トクホン真闘ボクシングジム]]''' - 医薬品メーカーの[[トクホン]]が命名権スポンサーとなり、辰東ジムから名称変更。2014年3月31日契約切れにより真闘拳に変更。 ===== 日本の自転車競技 ===== * '''[[リオモ・ベルマーレ・レーシングチーム|湘南ベルマーレロードレーシングチーム→レモネード・ベルマーレ・レーシングチーム→リオモ・ベルマーレ・レーシングチーム]]''' - コムレイドが[[湘南ベルマーレ]]と命名権契約を締結して湘南ベルマーレロードレーシングチーム、2015年にロヂャースレーシングチームと合併に当たり、レモネード社とも契約してレモネード・ベルマーレ・レーシングチーム、同社のリオモへの社名変更により現チーム名に。 * '''[[キナンサイクリングチーム]]''' - 建設機械レンタルの[[キナン]]と命名権契約を締結。 ===== 日本のその他のスポーツ ===== * '''ノジマ相模原ライズ'''(アメリカンフットボール・[[Xリーグ]]所属) - [[相模原ライズ]]が家電量販店の[[ノジマ]]と3年間の命名権契約を締結し、2011年4月1日にチーム名を変更。 * '''[[ブルボンウォーターポロクラブ柏崎]]'''(水球) - 柏崎水球クラブが菓子メーカーの[[ブルボン]]と命名権契約を締結。共に本社・本拠地を[[新潟県]][[柏崎市]]に置いている縁による。 * '''[[ビーチウィンズ|ファイテンビーチウィンズ→レオパレス・ビーチウインズ→レオパレス・ウィンズ]]'''(ビーチバレー) - 2002年から2005年までスポーツ用品メーカーの[[ファイテン]]、2006年から2008年まで不動産業の[[レオパレス21]]と命名権契約。 * '''[[シアタープロレス花鳥風月]]'''([[プロレス]]) - 芸能事務所G-TALENTがプロレスイベント旗揚げ時、北区のラーメン店「オフィシャルラーメンショップ花鳥風月」と命名権契約を締結。2015年夏にラーメン店が閉店した後も使用中。 * '''[[朝日生命体操クラブ]]・体操教室'''(体操) - 当初は[[朝日生命保険]]が社員による企業チームとして運営していたが、その後傘下として設立した「朝日生命体操教室」を通じて、外部から広範な世代の部員を受け入れ、体力作りから競技選手育成までを行う総合的な体操競技団体となった。さらに、不景気による企業スポーツ縮小の影響から、2002年にクラブ・教室の運営・指導の中心人物だった[[塚原光男]]・[[塚原千恵子]]夫妻が設立した「'''塚原体操センター'''」に運営を移管し、朝日生命の名称を引き続き冠して協賛する形式に移行したが、2022年で朝日生命が撤退し、その後は「塚原体操センター」の名称で運営を継続している。 ===== 韓国のプロ野球 ===== * '''ウリ・ヒーローズ'''(2008年)→ネクセン・ヒーローズ(2010年-2018年) →'''[[キウム・ヒーローズ]]'''(2019年-)- 2008年、[[現代ユニコーンズ]]を引き継ぐ形で[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]に参入。投資会社センテニアルインベストメントが、メインスポンサー「ウリ・タバコ」に球団命名権を売却し、2008年から2010年までの3年契約を結んだが、2008年シーズン途中にウリ・タバコが命名権を放棄。その後「ウリ」の冠を外し、2009年までは単に「ヒーローズ」とした。2010年にタイヤメーカーの[[ネクセンタイヤ]]が命名権を取得、2018年のシーズン終了後に[[キウム証券]]が命名権を取得、現在の名称になった。 ===== トルコのプロバスケットボール ===== * '''[[フェネルバフチェ・ユルケル]]'''(2006年 - 2015年)→フェネルバフチェ・ドウシュ(2017年 - 2018年)→フェネルバフチェ・ベコ(2018年 - ) - フェネルバフチェ・エルケク・バスケトボル・タクムが2006年に食品メーカーのユルケルと命名権契約を締結。2015年に契約満了。2010年にドウシュグループが命名権を取得、2018年に家電メーカーのベコが命名権を取得、現在の名称になった。 * '''損保ジャパン・ベシクタシュ'''(2015年 - ) - [[ベシクタシュJK (バスケットボール)|ベシクタシュJK]]が2015年に日本の保険会社である[[損害保険ジャパン]](当時損害保険ジャパン日本興亜)と命名権契約を締結。 ==== 航空機に導入した事例 ==== * '''「黄金の國、いわて。」号''' - [[フジドリームエアラインズ]]が[[岩手県]]と命名権契約を締結し、[[エンブラエル E-Jet|エンブラエル E175]]の1機([[機体記号]] JA09FJ)を運行している。 * '''「[[青天の霹靂 (米)|青天の霹靂]]」号''' - フジドリームエアラインズが[[青森県]]とと命名権契約を締結し、エンブラエル E175の1機([[機体記号]] JA10FJ)を運行している。 == その他の命名権 == *身近な例では、[[横断歩道橋]]の命名権が見られる。都道府県や市町村が管理する横断歩道橋(一部を除く)に期限を設けてスポンサーとなる企業の名前が入る。特に名古屋市においては「歩道橋ネーミングライツパートナー事業」として月25,000円以上・契約期間3年以上の条件を設け2021年6月時点で全国最多の市内102橋に愛称を掲示している<ref>[https://news.biglobe.ne.jp/trend/0613/stk_210613_3761352861.html 「ごまたまご歩道橋」…!? 名古屋に“愛称付き”の歩道橋が一番多い理由とは?] - BIGLOBEニュース2021年6月21日</ref>。 {{-}} [[File:Nishi-Issha footbridge.jpg|thumb|250px|[[愛知県]][[名古屋市]][[名東区]]の[[東山通 (名古屋市)|東山通]]([[愛知県道60号名古屋長久手線|県道60号]])にかかる西一社歩道橋。スポンサー([[中部薬品|V・drug]])の名前が入っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000017771.html|title=歩道橋ネーミングライツパートナー事業について|work=[[名古屋市]]緑政土木局|accessdate=2021-03-17}}</ref>。]] *[[オープンソース]]の[[コンテンツ管理システム]]である[[KinagaCMS]]が、プロジェクトの継続開発費用の獲得を目的として、当該システムに実装された機能の命名権を販売するキャンペーンを期限を定めずに実施している。<ref>{{Cite web|和書|url=https://紀永.がりはり.com/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E5%90%84%E7%A8%AE%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%AE%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%84|title=各種機能のネーミングライツ - KinagaCMS8|publisher=KinagaCMS8|accessdate=2022-06-01 }}</ref> *また、YouTubeでは[[東海オンエア]]の[[てつや (東海オンエア)|てつや]]の個人所有のチャンネル名の命名権のオークションをグループ内で[[2022年]][[1月]]に行い、メンバーの[[虫眼鏡 (YouTuber)|虫眼鏡]]が200万円で落札。チャンネル名を「おまんじゅう」に改称した<ref>{{Citation|title=【衝撃の名前】革命的新ビジネス!!命名権オークション開廷!!!|url=https://www.youtube.com/watch?v=8zI9491VMY0|language=ja-JP|access-date=2022-09-15}}</ref>。また、同年10月には[[ヤフオク!]]にて一般にも対象を拡大し命名権のオークションを再び行い<ref>{{Citation|title=このチャンネルの命名権オークションを開催します。|url=https://www.youtube.com/watch?v=2ndzcwXWEoM|language=ja-JP|access-date=2022-09-15}}</ref>、680万8000円で[[ホスト (接客業)|ホスト]]兼YouTuberの男性が落札した<ref>{{Citation|title=このチャンネルの名前が決定しました。|url=https://www.youtube.com/watch?v=-fu9WpkYdws|language=ja-JP|access-date=2022-10-25}}</ref>。 *極めて珍しい例としては、財政難に陥っていた[[大阪府]][[泉佐野市]]が、財源を確保するために[[2012年]]に'''市名'''の命名権売却を発表したケースがある。しかし、実際に候補者を募集したものの応募者はおらず、売却は実現しなかった。 == 命名権募集中・検討中のもの == {{出典の明記|date=2013年3月|section=1}} === 北海道・東北 === * [[札幌ドーム]] - 2011年に命名権企業を募集したが、折り合いがつかずこの年の改称は行われなかった。再募集のめども現状立っていない。 * [[青森市民室内プール]] === 関東地方 === * [[高萩市営野球場]] * [[高萩市文化会館]] * [[いすみ鉄道]] * [[国立競技場]] * [[明治神宮野球場]] * [[町田市文化交流センター]] * [[城ヶ島大橋]] * [[相模湖漕艇場]] === 中部地方 === * [[長野県伊那文化会館]] * [[長野県動物愛護センター]](ハローアニマル) * [[松本平広域公園|長野県松本平広域公園]](信州スカイパーク) - 公園内にある、[[松本平広域公園総合球技場|総合球技場]](アルウィン)および[[やまびこドーム]]については、個別での応募も可能としている。 * [[伊那スタジアム]]・[[伊那市営野球場]] - 2施設セットでの募集<ref name="ina">[http://www.inacity.jp/shisei/kakushuboshu/H29NamingRightsFull.html 市有施設の命名権者(ネーミングライツスポンサー)を募集について] - 伊那市(2017年9月1日)</ref> * [[伊那市陸上競技場]]<ref name="ina"/> * 伊那市民体育館 * [[浜松球場]] * [[静岡草薙球場]] * [[豊橋市民球場]] * [[未来会館|岐阜県未来会館]] * [[長良川球場]] * [[大垣市北公園野球場]] * [[大垣市民会館]] * [[津球場公園内野球場|津球場]] * [[四日市市営霞ヶ浦第一野球場|四日市霞ヶ浦球場]] * [[三重県総合文化センター]] * [[名古屋大学]] - 文系4学部・6研究科に在席する約4100名の学生が利用する教務課ロビーの愛称を募集することとした。 === 中国・四国地方 === * [[岡山県倉敷スポーツ公園野球場]](マスカットスタジアム) * [[広島県立総合体育館]] * [[さぬき市志度音楽ホール]] === 九州地方 === * [[アクシオン福岡]] * [[福岡県立ももち文化センター]] * [[北九州市民球場]] * [[SAGAサンライズパーク陸上競技場|佐賀県総合運動場]] * [[SAGAサンライズパーク体育館|佐賀県総合体育館]] * [[くま川鉄道]] * [[熊本県民総合運動公園屋内運動広場]](パークドーム熊本) * [[熊本県立総合体育館]] == 命名権取得ではない施設 == 公共性のある施設に企業名・商標名を冠していても、必ずしも他者からの単体での命名権取得によるものとは限らない。主に施設を所有又は運営している(いた)企業が、自身の命名権により自社の企業名・商標・ブランド名を冠する場合が多い。また[[三越前駅]]など、企業名の入った[[鉄道駅]]の一部は、設置を要望した(あるいは設置資金を拠出した)企業の名称が用いられることがある(事例多数に付き割愛。[[請願駅]]の項目も参照のこと)。 下記は命名権取得ではない施設の例。なお、下記の施設に別途命名権による名称がつけられる場合がある。 * [[ゼビオアリーナ仙台]](宮城県仙台市太白区) - [[ゼビオ]]所有の体育館。 * [[東北電力名取スポーツパーク]](宮城県名取市) - [[東北電力]]所有の[[スポーツコンプレックス]]。2012年に閉鎖。 * [[宇都宮市サッカー場|栃木SC宇都宮フィールド]]・[[宇都宮市体育館|ブレックスアリーナ宇都宮]](栃木県宇都宮市) - いずれも宇都宮市営の施設だが、同市が推進する「施設愛称によるプロスポーツ応援事業」として、無償で宇都宮市を本拠地とするプロチーム名([[栃木SC]]・[[宇都宮ブレックス]])を冠した名称としている。 * [[西武ドーム]](埼玉県所沢市) - [[西武鉄道]]が所有し、西武ライオンズ([[埼玉西武ライオンズ]]の運営法人)が運営管理する野球場。後に命名権を行使し、現在は『[[ベルーナ]]ドーム』の名称を用いている。 * [[日立柏サッカー場]](千葉県柏市) - 開館時は[[日立製作所]]所有のサッカー場、後に日立柏レイソル([[柏レイソル]]の運営法人)に施設譲渡。2018年に命名権により『[[三協フロンテア]]柏スタジアム』の名称を用いている。 * [[サントリーホール]](東京都港区) - [[サントリー芸術財団]]が運営([[森ビル]]が所有)する[[サントリー]]のコンサートホール。 * [[明治神宮野球場]](東京都新宿区) - [[明治神宮|宗教法人明治神宮]]所有の[[野球場]]。 * [[アリーナ立川立飛]](東京都立川市) - [[立飛ホールディングス]]が建設に携わった体育館。 * [[ぴあアリーナMM]](神奈川県横浜市西区) - [[ぴあ]]が運営するホール。 * [[本多の森北電ホール]](石川県金沢市) - [[北陸電力]]所有のホール。2009年に[[厚生年金事業振興団]]から取得し、石川[[厚生年金会館]]から北陸電力会館 本多の森ホールに名称を変更。2023年7月1日に本多の森北電ホールに名称を変更した。 * [[ヤマハスタジアム]](静岡県磐田市) - [[ヤマハ発動機]]所有のグラウンド。 * [[名古屋金城ふ頭アリーナ|武田テバオーシャンアリーナ]](旧・大洋薬品オーシャンアリーナ、愛知県名古屋市港区) - [[武田テバファーマ]](旧・大洋薬品→テバ製薬)所有の体育館。 * [[豊田合成記念体育館]](愛知県稲沢市) - [[豊田合成]]が建設した体育館。なお、同社は過去に市内の稲沢市総合体育館の命名権取得し『豊田合成アリーナ(TGアリーナ)』の名称にしていたことがある。 * [[パナソニックアリーナ]]・[[パナソニックベースボールスタジアム]](旧・松下電器体育館、旧・松下球場。大阪府枚方市) - [[パナソニック]]所有の体育館・野球場。 * 近鉄花園ラグビー場(大阪府東大阪市) - [[近畿日本鉄道]](近鉄)が所有していたラグビー場。2015年に[[東大阪市]]に譲渡され「[[東大阪市花園ラグビー場]]」となり、企業名が外れた。 * [[日本生命球場]](日生球場、大阪府大阪市中央区) - [[日本生命保険]](日生)が所有していた野球場。1997年閉鎖。 * [[ワールド記念ホール]](兵庫県神戸市中央区) - 正式名称「神戸ポートアイランドホール」。[[ワールド (企業)|ワールド]]からの寄付金により建設された。 * [[阪神甲子園球場]](兵庫県西宮市) - [[阪神電気鉄道]]所有の野球場。なお「甲子園」の名は、球場完成年の[[1924年]]([[大正]]13年)が、[[干支]]の「[[甲子]]」の年に当たることに由来するもので、企業名でも本来の地名由来でもない。 * マツダ体育館(広島県広島市南区)- [[マツダ]]所有の体育館。 * [[ノーリツアリーナ和歌山]](和歌山県和歌山市) - [[ノーリツ鋼機]]所有の体育館。 * [[大塚ヴェガホール]](徳島県徳島市) - [[大塚製薬]]所有の多目的ホール。 * [[福岡市九電記念体育館]](福岡県福岡市中央区) - 開館時は[[九州電力]]所有の体育館である「九電記念体育館」だったが、2003年に[[福岡市]]に無償譲渡された。2019年閉館。 * [[DMMかりゆし水族館]](沖縄県豊見城市) - [[DMM.com]]グループの[[DMM RESORTS]]が運営する水族館。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書 |author=田中実 |date=1964-10 |title=命名の法理 |journal=[[法学研究]] |volume=37 |issue=10 |pages=1-19 |publisher=慶應義塾大学法学研究会 |naid=120006725388 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-19641015-0001 |ref={{Harvid|田中|1964}}}} * {{Cite book |和書 |author=井戸田博史|authorlink=井戸田博史 |title=氏と名と族称 ――その法史学的研究―― |date=2003-11-20 |publisher=[[法律文化社]] |isbn=9784589027023 |ref={{Harvid|井戸田|2003}}}} * {{Cite book |和書 |author=大村敦志|authorlink=大村敦志 |title=家族法 |edition=第3版 |date=2010-03-25 |publisher=[[有斐閣]] |series=有斐閣法律学叢書 |isbn=9784641135673 |ref={{Harvid|大村|2010}}}} * {{Cite book |和書 |author1=前田陽一 |author2=本山敦 |author3=浦野由紀子 |title=民法Ⅵ 親族・相続 |edition=第4版 |date=2017-03-20 |publisher=有斐閣 |series=LEGAL QUEST |isbn=9784641179318 |ref={{Harvid|前田|本山|浦野|2017}}}} == 関連項目 == * [[バッジネーム]] * [[広告]] * [[スポンサー]] * [[冠大会]] * [[エンロン]] * [[タイアップ]] * [[横断歩道橋]] - 近年「〇〇歩道橋」という名称のものが増えてきている。 == 外部リンク == * {{コトバンク|ネーミングライツ}} {{DEFAULTSORT:めいめんけん}} [[Category:権利]] [[Category:広告]] [[Category:名前]]
2003-09-06T10:47:21Z
2023-12-15T15:33:36Z
false
false
false
[ "Template:Law", "Template:出典の明記", "Template:Notelist", "Template:See", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:リンク切れ", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Cite press release", "Template:Citation", "Template:コトバンク", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:-", "Template:PDFlink", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E5%90%8D%E6%A8%A9
15,405
フィリップ・スタルク
フィリップ・スタルク(Philippe Starck, 1949年1月18日 - )は、フランスのデザイナー。建築・インテリア・家具・食器・出版物・インダストリアルデザイン等さまざまな分野のデザインを総合的に手がける。 日本企業と提携した例では以下の物がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フィリップ・スタルク(Philippe Starck, 1949年1月18日 - )は、フランスのデザイナー。建築・インテリア・家具・食器・出版物・インダストリアルデザイン等さまざまな分野のデザインを総合的に手がける。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本企業と提携した例では以下の物がある。", "title": "作品" } ]
フィリップ・スタルクは、フランスのデザイナー。建築・インテリア・家具・食器・出版物・インダストリアルデザイン等さまざまな分野のデザインを総合的に手がける。
[[File:Philippe Starck crop.jpg|thumb|250px|right|フィリップ・スタルク(2007年)]] '''フィリップ・スタルク'''(Philippe Starck, [[1949年]][[1月18日]] - )は、[[フランス]]の[[デザイナー]]。[[建築]]・[[インテリア]]・[[家具]]・[[食器]]・[[出版]]物・[[インダストリアルデザイン]]等さまざまな分野の[[デザイン]]を総合的に手がける。 == 人物・来歴 == * [[1949年]] [[フランス]]の[[パリ]]に生まれる。 * [[1968年]] パリのカモンド美術学校卒。最初のデザイン事務所を設立。 * [[1969年]] [[ピエール・カルダン]]の会社のアート・ディレクターになる。インテリアデザイン及びプロダクトデザインを担当した。 * [[1973年]] 退社。 * [[1977年]] UBIK社設立。UBIKとは、[[フィリップ・K・ディック]]の小説のタイトルである。 * [[1979年]] アメリカでスタルク・プロダクト社を設立。 * [[1982年]] 当時の[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]] [[フランソワ・ミッテラン]]の目に止まったことにより、一躍脚光を浴び始める。 == 作品 == === 日本国外での建築物・インテリア === * 1989年- [[アランミクリ]]の直営店インテリア(日本国内および海外) * 1996年 モンドリアン・ホテル * 200?年 北京、LAN CLUB 蘭会所 === 日本での建築物・インテリア === [[ファイル:Asahi Breweries Headquarters (derivative image).jpg|thumb|250px|right|アサヒビールスーパードライホール(右)]] * 1987年 東京、神宮前レストラン「マニン」(インテリア) * 1988年 東京、「カフェ・ミスティーク」(インテリア及び[[エクステリア]]) * 1989年 東京、墨田区吾妻橋(浅草の近く)「アサヒビール[[スーパードライホール]]・フラムドール」 * 1989年 東京、白金台「ユーネックス・ナニナニ」 * 1992年 大阪、中央区「バロン・ベール」 日本企業と提携した例では以下の物がある。 * 1998年 [[セブン-イレブン]]向けの各種文房具 * 1999年 フジフィルム(デジタルカメラ試作) * 2003年 ソニー(AV機器組み込み家具試作) == 外部リンク == {{Commons|Category:Philippe Starck}} * [https://www.starck.com STARCK Official Website] *[https://www.instagram.com/starck/ STARCK] (@starck) - [[Instagram]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すたるく ふいりつふ}} [[Category:フランスのインダストリアルデザイナー]] [[Category:フランスのインテリアデザイナー]] [[Category:パリ出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
null
2021-12-11T20:27:12Z
false
false
false
[ "Template:Commons", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%AF
15,406
ユニコ
『ユニコ』は、手塚治虫の児童向け漫画作品、および同作を原作としたアニメ作品、または作品の主人公である一角獣(ユニコーン)の子供の名前。 手塚治虫原作のリリカに掲載されたシナリオを映像化したもの。劇場用のパイロット版作品として製作されたが、劇場公開はされなかった。1979年製作。 ユニコが西風によって置いていかれた町は、工場の出す煙によって環境が悪化して太陽も見えなくなっていた。ユニコは重病を患う少女・チコの為に、青い空を取り戻そうと奮闘する。 オープニング「どこから来たのユニコ」 作曲 - タケカワユキヒデ / 編曲 - ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ 挿入歌 「大空のユニコ」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ 「どんどん」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ 「そして今日も」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ 1981年公開。雑誌連載をベースに、いくつかのストーリーをつないで1つの作品にしたもの。通常12コマ/秒のアニメでなく、ディズニー作品などと同じ劇場用24コマ/秒のフルアニメーションで、動きは通常のアニメよりも非常に滑らかである。なお映画化されたときのキャッチコピーは「ユニコから愛をとらないでください」である。 細かい背景にキティちゃんやリトルツインスターズ(キキとララ)が描かれているシーンがある。 (サンリオ映画配給/90分/カラー、サンリオ/1981年3月14日封切) 白い角と人々を明るく幸せにする力を持つ為に、人々の争いを簡単に解決してしまうことを問題視した神様たちの命令により、西風によって遠い地へと運ばれ忘却の谷に追放されたユニコ。そこでひとりぼっちの悪魔くんや、人間の身勝手さにより捨てられてもなお、人間を信じ、人間の少女になりたがっている猫・チャオと仲良くなるが...。 エンディング 「愛こそすべて」 作詞 - 山川啓介 / 作曲・編曲 - 佐藤充彦 / 歌 - BUZZ、島澄江 挿入歌「ユニコのテーマ」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦 「本当は淋しくて...」 作詞・作曲・歌 - イルカ / 編曲 - 佐藤充彦 「チャオの黒猫の唄」 作詞 - 手塚治虫 / 作曲・編曲 - 佐藤充彦 / 歌 - 杉山佳寿子 「魔女猫チャオ」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦 1983年公開。手塚治虫によるシナリオを、村野守美がアレンジして映像化。シナリオは手塚治虫漫画全集別巻MT386『手塚治虫シナリオ集』に収録されている。人間を人形にする魔法使いのククルックとの戦いを描いた作品。 (サンリオ映画配給/91分/カラー、サンリオ/1983年7月16日封切) 西風によって、とある島に置いていかれたユニコ。この村では、魔法使い・ククルックの弟子・トルビーが、森の動物や村人を生き人形に変えていた。ユニコは皆を元に戻す為、トルビーの妹・チェリーと共に、ククルックが住む、ふいご島に向かう。 エンディング 「ドレミファ・ララバイ」 作詞 - 山川啓介 / 作曲 - 森山良子 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 白鳥英美子 挿入歌 「愛のテーマ」 作詞 - 山川啓介 / 作曲 - 森山良子 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 白鳥英美子 ムービーコミックで描かれる。 2005年12月17日公開の『ブラック・ジャック 二人の黒い医者』併映『ドクターピノコの森の冒険』にユニコ(声:手塚るみ子)が中核をなすキャラクターとして登場。 類似のキャラクターとして、本作以前に『ブルンガ1世』、以降に『青いブリンク』、手塚の没後に手塚プロとして鈴鹿市のマスコットキャラクター「ベルディ」等がある。 ユニコは日本ビーチバレーボール連盟のイメージキャラクターに採用された。日本バレーボール協会は手塚プロダクションとコラボレーション事業を展開してきていた(バレーボール全日本のキャラクターなど)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ユニコ』は、手塚治虫の児童向け漫画作品、および同作を原作としたアニメ作品、または作品の主人公である一角獣(ユニコーン)の子供の名前。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "手塚治虫原作のリリカに掲載されたシナリオを映像化したもの。劇場用のパイロット版作品として製作されたが、劇場公開はされなかった。1979年製作。", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ユニコが西風によって置いていかれた町は、工場の出す煙によって環境が悪化して太陽も見えなくなっていた。ユニコは重病を患う少女・チコの為に、青い空を取り戻そうと奮闘する。", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オープニング「どこから来たのユニコ」 作曲 - タケカワユキヒデ / 編曲 - ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "挿入歌 「大空のユニコ」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「どんどん」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「そして今日も」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ", "title": "短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1981年公開。雑誌連載をベースに、いくつかのストーリーをつないで1つの作品にしたもの。通常12コマ/秒のアニメでなく、ディズニー作品などと同じ劇場用24コマ/秒のフルアニメーションで、動きは通常のアニメよりも非常に滑らかである。なお映画化されたときのキャッチコピーは「ユニコから愛をとらないでください」である。 細かい背景にキティちゃんやリトルツインスターズ(キキとララ)が描かれているシーンがある。 (サンリオ映画配給/90分/カラー、サンリオ/1981年3月14日封切)", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "白い角と人々を明るく幸せにする力を持つ為に、人々の争いを簡単に解決してしまうことを問題視した神様たちの命令により、西風によって遠い地へと運ばれ忘却の谷に追放されたユニコ。そこでひとりぼっちの悪魔くんや、人間の身勝手さにより捨てられてもなお、人間を信じ、人間の少女になりたがっている猫・チャオと仲良くなるが...。", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "エンディング 「愛こそすべて」 作詞 - 山川啓介 / 作曲・編曲 - 佐藤充彦 / 歌 - BUZZ、島澄江", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "挿入歌「ユニコのテーマ」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「本当は淋しくて...」 作詞・作曲・歌 - イルカ / 編曲 - 佐藤充彦", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「チャオの黒猫の唄」 作詞 - 手塚治虫 / 作曲・編曲 - 佐藤充彦 / 歌 - 杉山佳寿子", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「魔女猫チャオ」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦", "title": "映画第一作『ユニコ』" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1983年公開。手塚治虫によるシナリオを、村野守美がアレンジして映像化。シナリオは手塚治虫漫画全集別巻MT386『手塚治虫シナリオ集』に収録されている。人間を人形にする魔法使いのククルックとの戦いを描いた作品。", "title": "映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "(サンリオ映画配給/91分/カラー、サンリオ/1983年7月16日封切)", "title": "映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西風によって、とある島に置いていかれたユニコ。この村では、魔法使い・ククルックの弟子・トルビーが、森の動物や村人を生き人形に変えていた。ユニコは皆を元に戻す為、トルビーの妹・チェリーと共に、ククルックが住む、ふいご島に向かう。", "title": "映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エンディング 「ドレミファ・ララバイ」 作詞 - 山川啓介 / 作曲 - 森山良子 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 白鳥英美子", "title": "映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "挿入歌 「愛のテーマ」 作詞 - 山川啓介 / 作曲 - 森山良子 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 白鳥英美子", "title": "映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ムービーコミックで描かれる。", "title": "Bee TV版" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2005年12月17日公開の『ブラック・ジャック 二人の黒い医者』併映『ドクターピノコの森の冒険』にユニコ(声:手塚るみ子)が中核をなすキャラクターとして登場。", "title": "ドクターピノコの森の冒険" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "類似のキャラクターとして、本作以前に『ブルンガ1世』、以降に『青いブリンク』、手塚の没後に手塚プロとして鈴鹿市のマスコットキャラクター「ベルディ」等がある。", "title": "類似キャラクター" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ユニコは日本ビーチバレーボール連盟のイメージキャラクターに採用された。日本バレーボール協会は手塚プロダクションとコラボレーション事業を展開してきていた(バレーボール全日本のキャラクターなど)。", "title": "関連情報" } ]
『ユニコ』は、手塚治虫の児童向け漫画作品、および同作を原作としたアニメ作品、または作品の主人公である一角獣(ユニコーン)の子供の名前。
{{Otheruses|[[手塚治虫]]の漫画作品|日本のシンガーソングライター|Unico|日本の電子マネー|Uniko}} 『'''ユニコ'''』は、[[手塚治虫]]の児童向け[[漫画]]作品、および同作を原作とした[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品、または作品の主人公である一角獣([[ユニコーン]])の子供の名前。 ==原作== *[[1976年]]から[[1979年]]までの間、[[サンリオ]]が発刊していた雑誌『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』で連載。同誌はオールカラーかつ左開き、横文字組みのため本作もそれに合わせた構成となっている。 *[[小学館]]の学年別児童向け雑誌『[[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]』にて放浪型から家庭定着型キャラクターとした児童向けリメイクが[[1980年]]から[[1984年]]まで連載。 *『[[いちご新聞]]』[[1983年]]8月号(186号)にて映画の宣伝のため、表紙と付録のポスターとなる。 === 単行本 === ;リリカ版 *サンリオ *:B5ワイド判前半フルカラー、後半白黒。 *[[スコラ]] *:A5ワイド判全頁フルカラー。 *[[ソニーマガジンズ]] *:スコラのコミック事業を引き継いだソニーマガジンからの再版、3巻セットで発売。 *[[手塚治虫漫画全集]]([[講談社]]) *:全2巻、白黒。 *[[手塚治虫文庫全集]](講談社) *:全1巻、白黒。 ;小学一年生版 *小学館手塚治虫まんが絵本館 *:全2巻、フルカラー *[[ぴっかぴかコミックス]] *:全3巻、フルカラー *手塚治虫漫画全集(講談社) *:全1巻、白黒。 *手塚治虫文庫全集(講談社)「アトムキャット」内に収録 *:全1巻、白黒。 == 短編映画『ユニコ黒い雲と白い羽』 == 手塚治虫原作のリリカに掲載されたシナリオを映像化したもの。劇場用の[[パイロット版]]作品として製作されたが、劇場公開はされなかった。[[1979年]]製作。 === あらすじ === ユニコが西風によって置いていかれた町は、工場の出す煙によって環境が悪化して太陽も見えなくなっていた。ユニコは重病を患う少女・チコの為に、青い空を取り戻そうと奮闘する。 === 声の出演 === * ユニコ:[[岡浩也]] * 西風の精ゼフィルス:[[岸田今日子]] * チコ:[[松島みのり]] * 黒雲:[[滝口順平]] * ネズミ:[[肝付兼太]] * おじいさん:[[有島一郎]] === スタッフ === * 製作:辻信太郎 * 企画:津川弘 * プロデューサー:明田川進 * 原作・監修:手塚治虫 * 監督:[[平田敏夫]] * 撮影監督:八巻磐 * 美術:阿部行夫 * キーアニメーター:[[山本繁]]、赤堀幹治、[[波多正美]] * アニメーター:半田輝男、多賀深美、[[高橋春男]]、大西治子、[[宮本貞雄]] * 背景:石川山子、金子真澄、門野真理子、吉田陽子、野谷顕次 * 録音:宮本隆 * 音楽:[[タケカワユキヒデ]]、[[ミッキー吉野]] * 主題歌作詞:[[伊藤アキラ]]、[[奈良橋陽子]] * 作曲:タケカワユキヒデ * 編曲:ミッキー吉野 * 歌:加藤かつみ * 演奏:[[ゴダイゴ]]、新室内楽協会 * 効果:柏原満 * 特殊効果:橋爪朋二 * タイトル:熊谷幸雄 * レリーフ製作:飯澤喜七 * 編集:古川雅士、尾形治敏 * 現像:[[IMAGICA Lab.|東洋現像所]] * 製作担当:浅利義美 * 協力:手塚プロダクション === 主題歌 === オープニング「'''どこから来たのユニコ'''」 作曲 - [[タケカワユキヒデ]] / 編曲 - [[ミッキー吉野]] / 演奏 [[ゴダイゴ]]・新室内楽協会 / 歌 - [[加橋かつみ]] 挿入歌 「'''大空のユニコ'''」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ     「'''どんどん'''」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ     「'''そして今日も'''」 作曲 タケカワユキヒデ / 編曲 ミッキー吉野 / 演奏 ゴダイゴ・新 室内楽協会 / 歌 - 加橋かつみ == 映画第一作『ユニコ』 == [[1981年]]公開。雑誌連載をベースに、いくつかのストーリーをつないで1つの作品にしたもの。通常12コマ/秒のアニメでなく、ディズニー作品などと同じ劇場用24コマ/秒のフルアニメーションで、動きは通常のアニメよりも非常に滑らかである。なお映画化されたときの[[キャッチコピー]]は「ユニコから愛をとらないでください」である。 細かい背景に[[ハローキティ|キティちゃん]]や[[リトルツインスターズ]](キキとララ)が描かれているシーンがある。 (サンリオ映画配給/90分/カラー、サンリオ/1981年3月14日封切) === あらすじ === 白い角と人々を明るく幸せにする力を持つ為に、人々の争いを簡単に解決してしまうことを問題視した神様たちの命令により、西風によって遠い地へと運ばれ忘却の谷に追放されたユニコ。そこでひとりぼっちの悪魔くんや、人間の身勝手さにより捨てられてもなお、人間を信じ、人間の少女になりたがっている猫・チャオと仲良くなるが…。 === 声の出演 === * ユニコ:[[三輪勝恵]] : 生まれつき白い角を持つユニコーンの子供。人々を幸せにする不思議な力を持っており、角は取れるようだがないと弱ってしまう。相手も自分も互いに(本当の友達という意味で)愛しあった時に奇跡を起こすことができ、大きく真っ白な角と体と翼をもった神々しいユニコーンへと変身する。また、ユニコ自身が本当に相手の願いを叶えたいと思った時にも不思議な力を発揮する。 : 神々から『誰もが苦労をせず幸せになっては良くないことだ』という理由で眠らさられている間に西風によって過酷な場所へ追放されそうになるが、西風の哀れみから悪魔しか住まないという地の果ての島に置いて行かれる。そこで長い間一人で暮らしていた悪魔くんに出会い、悪魔くんのわがままや意地悪さに付き合わされながらも本当の友達になる。だが、悪魔くんが幸せになり緑あふれる島になってしまったことで神々に居場所と西風の裏切りがばれてしまう。このことで西風は神々に新たに送り込まれた刺客・夜風から守るために悪魔くんと別れ、再びどこか別の場所の森へと移ることになる。そこで人間に捨てられてしまいバスケットで流されていた黒猫チャオと出会う。魔女のところで人間の女の子にしてもらうことが目的らしくそれに一緒に付いて行くことになる。 : 普通のおばあさんを魔女だと思いながらも2匹でそこにしばらく厄介になっていたが、チャオの『人間になりたい』という本当の願いをユニコは叶え人間の姿にさせる。チャオはおばあさんが叶えてくれたのだと思い大はしゃぎするが、ある時チャオが森の奥に住むゴースト男爵に誘われ、姿を消してしまう。その後を追って森へ探しに行き一度はチャオを助けるが再び攫われてしまう。そこで西風の精と連れて来られた悪魔くんに再会。西風の精から夜風の精が来る前にこの場を離れようとやってきたのだがチャオを助けるために少し時間がほしいと再び森の奥へ。そこでは捕縛されているチャオと不気味な笑いを浮かべるゴースト男爵の姿。一度はゴースト男爵を倒しチャオを助けるが、ついにゴースト男爵は本性を表し巨大な体をした悪魔へと変貌。みんなを守るためにユニコは再び立ち向かうが角を折られ倒れてしまう。大泣きしながら駆け寄るチャオと悪魔くん。だが、チャオと悪魔くんのユニコに一度与えられた願いをなくしてでも助かって欲しい、生き返って欲しいという心が奇跡を起こし大きなユニコーンへと変身、正体を表したゴースト男爵を倒す。しかし、「もう時間がほとんどない」という西風の精の言葉にユニコはこの場を離れることを決意。物陰から二人の姿を見納め幸せを願いつつ、西風の精とともに新たな地へと旅立っていく。 * チャオ:[[杉山佳寿子]] : 小川にバスケットごと流されていた黒猫。後ろの逆さに結ばれた赤いリボンがチャームポイント。元は飼い猫だったらしいが捨てられてしまったらしい。魔女にかなり憧れており、魔女の弟子になっていつかは自分も魔女になるのが夢。たまたま出会ったユニコとともに森の奥に住んでいたおばあさんのところにやってきた。 : 思い込みが激しいもののなんだかんだで人を思い遣る心優しい性格で、おばあさんを見捨てられない姿が多い。 * 悪魔くん:[[堀絢子]] : 悪魔だけしか住まないという草木が一切生えない地の果ての島にいる悪魔の子供。本来は『孤独』の悪魔であり、雷を操る力を持つが、本人の力はまだ未熟。長い間を一人で過ごしてきたため『友達』『誰かと遊ぶ』という概念が少しずれており、『助ける』ということは意味すらも知らなかった。ただし『約束は必ず守る』というのだけは父親からしっかり教えてもらっていたようだ。また父親が立派な角を持っていたらしく自身が持っていないことに対してかなりのコンプレックスを持っており、友達になりたがっていたユニコから『一日角を借りる代わりに一日友達になる』という条件でユニコの角を貸してもらい、あまりの嬉しさで羽目をはずしてしまいユニコを海に落としてしまう(意図的に落としたわけではない)。だが、まだ一日が経っていないことや助ける意味が分からないこと、塩水が苦手なことからこれを放置。寝床で一日を表す砂時計で待っていたが結局時計を壊し『一日たったら角を返す』『約束は必ず守る』信念のもと、塩水が苦手な中溺れているユニコを助けに。角を返した後溺れ死にしそうになるが、その行動により『悪魔くんに愛された(友達という意味で)』ユニコーンに変身したユニコに助けてもらい更にその証拠として角を与えられた。それ以降ユニコと本当の友達になるが、神々たちにユニコの居場所を知られてしまい、挨拶もままならず西風によってユニコと引き離されてしまう。同じく悪魔であるため、ゴースト伯爵の本性に気付く。[[水木しげる]]の作品である『[[悪魔くん]]』とは無関係。 * 西風:倍賞千恵子 : ある程度擬人的な姿を持つ風の精霊(映画第二作では西風の精表記)。神様たちの命令により、ユニコの力が及ばない地へと彼を運ぶが、そんな彼への仕打ちを憐れんでおり幸せを願っている言葉を投げかけている。 * ゴースト男爵:[[井上真樹夫]] : 本作の敵役。普段は、長髪の紳士の姿でいるが、本性は巨大な体躯の悪魔。チャオの歌を気に入り、館に招いた。 * おばあさん:[[中西妙子]] : 森の奥の小屋で暮らしていたおばあさん。老齢で足腰が弱い。チャオからは魔法使いと勘違いされた。畑を持っているらしく、芋をよく取ってくる。一人暮らしが長いためか、子猫のチャオやユニコだけでなく人の姿となったチャオも快く受け入れてくれる。 * 夜風:[[来宮良子]] * 神様たち:[[永井一郎]]、[[八奈見乗児]]、[[田の中勇]]、[[矢田耕司]] * ナレーション:[[イルカ (歌手)|イルカ]] === スタッフ === * 製作:[[辻信太郎]] * 原作・監修:手塚治虫 * 設定:[[丸山正雄]]、[[斉藤次郎]] * 監督:[[平田敏夫]] * 脚本:[[辻真先]] * 作画監督:[[杉野昭夫]] * 美術:[[男鹿和雄]] * 設定協力:[[村野守美]]、[[川尻善昭]] * 撮影監督:[[八巻磐]] * 効果:[[柏原満]] * 録音監督:[[宮本隆]] * 音楽ディレクター:[[北山良]] * 作曲:[[佐藤允彦]] * タイトル:[[マキ・プロダクション|マキ・プロ]] * 現像:[[東京現像所]] * 制作協力:[[マッドハウス]] * 制作、著作:株式会社サンリオ === 主題歌 === エンディング 「'''愛こそすべて'''」 作詞 - [[山川啓介]] / 作曲・編曲 - [[佐藤允彦|佐藤充彦]] / 歌 - BUZZ、島澄江 挿入歌「'''ユニコのテーマ'''」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦    「'''本当は淋しくて…'''」 作詞・作曲・歌 - イルカ / 編曲 - 佐藤充彦    「'''チャオの黒猫の唄'''」 作詞 - 手塚治虫 / 作曲・編曲 - 佐藤充彦 / 歌 - 杉山佳寿子    「'''魔女猫チャオ'''」 作詞・歌 - イルカ / 作曲 - 佐藤充彦、イルカ / 編曲 - 佐藤充彦 == 映画第二作『ユニコ 魔法の島へ』 == [[1983年]]公開。手塚治虫によるシナリオを、村野守美がアレンジして映像化。シナリオは手塚治虫漫画全集別巻MT386『手塚治虫シナリオ集』に収録されている。人間を人形にする魔法使いのククルックとの戦いを描いた作品。 (サンリオ映画配給/91分/カラー、サンリオ/1983年7月16日封切) === あらすじ === 西風によって、とある島に置いていかれたユニコ。この村では、魔法使い・ククルックの弟子・トルビーが、森の動物や村人を生き人形に変えていた。ユニコは皆を元に戻す為、トルビーの妹・チェリーと共に、ククルックが住む、ふいご島に向かう。 === 登場人物 === * ユニコ:[[三輪勝恵]] : 小さなユニコーンの男の子。今作ではチェリーと共に生き人形にされた人間を元に戻すため、ふいご島へ向かう。 * チェリー:[[島本須美]] : トルビーと山猫に追われたユニコが流れ着いた街で、傷ついたユニコを看病した女の子。とても心優しく、3年前に家を飛び出した兄・トルビーを心配している。 * トルビー:[[池田秀一]] : チェリーの兄。魔法使いになるため3年前に家出、ククルックに弟子入りする。魔法の力で幸せになれると考えており、そのことで父親と対立している。 * マルス:[[つかせのりこ]] : スフィンクスの息子。ユニコとチェリーがスフィンクスの谷へ向かった際、母スフィンクスは不在だったので彼が応対をしている。お調子者でちょっぴり小心者。 * 山猫:[[永井一郎]] : 森のボス猫。トルビーに威張り散らすも子分の猫が生き人形にされてしまったため、恐れをなしてトルビーの子分になる。耳の小箱に小鳥とカエルを入れウォークマンのように聴いている。 * 山猫の子分A:[[緒方賢一]] * 山猫の子分B:[[峰恵研]] * チェリーの父:[[原田一夫]] * チェリーの母:[[太地琴恵]] : トルビーとチェリーの両親。父親は「人は働いて幸せになる。」と考えており、そのことで対立したトルビーは家出をしてしまった。チェリーの前ではトルビーの話で不機嫌になるも、それもまた彼を心配するが故である。 * 木馬:[[槐柳二]] : 人間によって捨てられた物が集まる'''地の果て'''に住むもの。1000年も前にたどり着いている。ユニコにククルックの倒し方のヒントを与えた。 * 西風の精:[[鈴木弘子]] * ククルック:[[常田富士男]] : トルビーの師で、とても強く恐ろしい魔法使い。その正体は、昔、とある人形劇団で使われていた悪役専門の操り人形。操り糸が絡まって使いものにならなくなり、棄てられて地の果てに流れついた。地の果てで、ほんの少しだけ当たる陽光と、300年の時間が、ククルックに命と心と魔法の力を与える。 : ククルックの魔法は人間への恨みと憎しみが原動力。皮肉にも、その恨みと憎しみの心が消える時が、ククルックが命の無い人形に戻る時であった。しかし人形に戻ったククルックの顔は、昔の、魔女のお婆さんのようなそれではなく、無垢な子供のようであった。 : 木馬曰く「ククルックの倒し方は知らないが、愛と勇気があれば魔法に勝てる」とのこと。 === スタッフ === * 製作:辻信太郎 * 原作、構成:手塚治虫 * 構成、脚本・監督:[[村野守美]] * 画面構成:[[川尻善昭]] * 作画監督:[[富沢和雄]] * 美術監督:[[青木勝志]] * 撮影監督:[[八巻磐]]、[[石川欽一]] * 音響監督:[[浦上靖夫]] * 効果:[[柏原満]] * 音楽監督:[[北山良]] * 作曲:[[青木望]] * 助監督:[[廣川集一|広川和之]] * タイトル:マキ・プロ * 現像:東京現像所 * 製作協力:マッドハウス * 制作、著作:株式会社サンリオ === 主題歌 === エンディング 「'''ドレミファ・ララバイ'''」 作詞 - [[山川啓介]] / 作曲 - [[森山良子]] / 編曲 - 青木望 / 歌 - [[白鳥英美子]] 挿入歌 「'''愛のテーマ'''」 作詞 - 山川啓介 / 作曲 - 森山良子 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 白鳥英美子 ==Bee TV版== *2012年8月1日に全20話で放送され、1話約6分。 ムービーコミックで描かれる。 ===キャスト=== * ユニコ(声 - [[水樹奈々]]) * ビーナス (声 - [[豊口めぐみ]]) * チャオ (声 - [[深町彩里]]) * ティピ (声 - [[宮田幸季]]) * ゼフィルス、ナレーション(声 -[[麻生かほ里]]) ===スタッフ=== *原作 手塚治虫 *企画 柳崎芳夫、高橋利明 *プロデューサー 龍貴大、平木美和 *演出 鳥尾美里 *映像効果 村上愛 *音響効果 田久保貴昭、牧瀬能彦 *協力 手塚プロダクション *制作協力 [[アックス (会社)|アックス]]、TIP TOP *制作 [[東通]] *製作 Bee:TV == ドクターピノコの森の冒険 == [[2005年]][[12月17日]]公開の『[[ブラック・ジャック (テレビアニメ)|ブラック・ジャック 二人の黒い医者]]』併映『ドクターピノコの森の冒険』にユニコ(声:[[手塚るみ子]])が中核をなすキャラクターとして登場。 == 類似キャラクター == 類似のキャラクターとして、本作以前に『ブルンガ1世』、以降に『[[青いブリンク]]』、手塚の没後に手塚プロとして[[鈴鹿市]]のマスコットキャラクター「ベルディ」等がある。 == 関連情報 == ユニコは[[日本ビーチバレーボール連盟]]のイメージキャラクターに採用された。[[日本バレーボール協会]]は手塚プロダクションとコラボレーション事業を展開してきていた([[バレーボール全日本]]のキャラクターなど)<ref>[http://www.jbv.jp/unico/index.html ビーチバレーキャラクター] 日本ビーチバレーボール連盟</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://tezukaosamu.net/jp/manga/511.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(マンガ)] *[https://tezukaosamu.net/jp/anime/14.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(劇場用アニメ)『ユニコ』] *[https://tezukaosamu.net/jp/anime/15.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(劇場用アニメ『ユニコ魔法の島へ』)] * [http://www.city.suzuka.mie.jp/city/profile/gairyaku/index1_3.html ベルディ] *{{Twitter|UNICOclub|(公式)手塚治虫・ユニコ倶楽部}} {{手塚治虫}} {{Manga-stub}} {{Anime-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=ユニコ 魔法の島へ |1-1=1983年のアニメ映画 |1-2=島を舞台としたアニメ映画 |1-3=魔法・呪術を題材としたアニメ映画 |1-4=人形を題材としたアニメ映画 }} {{DEFAULTSORT:ゆにこ}} [[Category:漫画作品 ゆ|にこ]] [[Category:手塚治虫の作品]] [[Category:1976年の漫画]] [[Category:ファンタジー漫画]] [[Category:ユニコーンを題材とした作品]] [[Category:ファンタジーアニメ映画]] [[Category:手塚治虫のアニメ作品]] [[Category:アニメ作品 ゆ|にこ]] [[Category:日本のアニメ映画]] [[Category:1981年のアニメ映画]] [[Category:ネコを題材としたアニメ映画]] [[Category:悪魔を題材としたアニメ作品]] [[Category:サンリオ]] [[Category:手塚治虫の作品のキャラクター]] [[Category:小学館の学年誌の漫画作品]] [[Category:日本のビーチバレー|マスコット]]
null
2023-06-17T08:49:22Z
false
false
false
[ "Template:Twitter", "Template:手塚治虫", "Template:Manga-stub", "Template:Anime-stub", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Otheruses", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%B3
15,408
リボンの騎士
『リボンの騎士』(リボンのきし)は、手塚治虫による少女漫画作品およびそれを原作とする作品群のことを指す。手塚の20代の頃の連載漫画代表作の一つであり、少女向けストーリー漫画の先駆け的な作品。 天使・チンクの悪戯で誕生した、男の心と女の心を持つサファイア王女(王子)をヒロイン兼ヒーローに据えたファンタジー作品。お姫様が「男装の麗人」となって悪人と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容であった。 手塚自身が幼少のころから親しんだ宝塚歌劇団の影響を強く受けており、サファイアのモデルは元宝塚歌劇団娘役の淡島千景である。当時、淡島の大ファンだった手塚が、娘役である淡島がたまたま男役を演じた舞台を観劇して、それをヒントにサファイアを考え出したという。なお、テレビアニメでサファイアの声を担当した太田淑子も宝塚歌劇団出身の元タカラジェンヌである。本作を元にしたミュージカル公演が数回行われている。ただし、宝塚歌劇団に演目として取りあげられたことはない。 少女漫画としては一般に記憶される初の「戦う少女」であり、今で言うところの変身、コスプレ、ツンデレなどの萌え要素を先駆け的に含んでいた。もっとも、西洋ものの仮面をつけた少女剣士の漫画は松本かつぢの「?(なぞ)のクローバー」が20年ほど前に存在している。 手塚自身による漫画には、『少女クラブ』の1953年1月号から1956年1月号に連載された少女クラブ版、『なかよし』の1958年1月号から1959年6月号に連載された少女クラブ版の続編(これは後に単行本化の際に『双子の騎士』と改題された)、同誌の1963年1月号から1966年10月号に連載されたなかよし版、最後に『少女フレンド』の1967年24号から29号に連載された少女フレンド版の計4回の連載がある。掲載誌はいずれも講談社である。 『双子の騎士』(連載時の題は『リボンの騎士』)では、結婚したサファイアとフランツの間に生まれた男女の双子・デージィ王子とビオレッタ姫が主人公。ダリア公爵夫妻の陰謀で兄のデージィが森に捨てられてしまい、妹のビオレッタが王子と姫の二役を務め、二代目・リボンの騎士に変身して悪党に立ち向かう。詳しくは当該記事を参照。 なかよし版は最初は少女クラブ版を踏襲していたが、海賊ブラッドや女神ビーナスなど登場人物が増えて、物語の後半の展開は複雑になっている。 少女フレンド版はSF仕立てで25世紀に生きる発明家のフランツが主人公。先祖のサファイアにタイムマシンで会いに行き、恋が芽生えるという内容であった。手塚はあまり乗り気でなくて原案のみで、作画は当時虫プロに所属していた北野英明が担当した。少女フレンド版はこれまで単行本化や再収録は一度もされていない。 担当声優はテレビアニメ版 / KYOTO手塚治虫ワールド上映のオリジナルアニメ版の順に表記。テレビアニメ版の括弧書きはパイロットフィルムのキャスト。一つしか記載がない場合は、テレビアニメ版でのキャスト。 完全に網羅できていないとおもわれる。発行年も調査して補う必要あり。 以下は完全な網羅ではないだろう。なお単行本等は収録された時期により、連載時のものとの内容の相違の程度に違いがある。 (2020年10月の時点に於いて)これまで雑誌等への再掲載や単行本に収録されたことはない。いわゆる封印状態の作品である。 ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」が1955年の4月4日から9月27日まで放送された。 月〜金曜の17時15分から17時30分までの15分放送で、全114回。 TVアニメ作品は虫プロダクションの製作で、フジテレビ系で1967年4月2日から1968年4月7日にかけて放送された(カラー全52回、音声モノラル)。 本作品は日本のテレビアニメ史上で少女が主人公である第二番目の作品である(第一番目は「魔法使いサリー(東映動画、横山光輝)」)。 TVアニメ化にあたってストーリーが大幅に変更されており、続きものの原作とは異なりおおむね一話完結となっている(22話から25話までおよび26話から29話まではそれぞれ四回連続で完結、また36話と37話および51話と52話は二回連続で完結のエピソード構成となっている)。原作や『双子の騎士』に登場・もしくはちなんだキャラクターが登場することもある。ストーリー後半ではクールランド国の雪の女王率いる軍隊との戦いや、侵略者Xが率いるX帝国連合軍との戦いが中心となっていき、原作漫画とは大きく異なる展開となっている。また、TVアニメではサファイアとフランツ王子(アニメ版ではロック・ホームが扮し、手塚によりデザインされた)、天使チンクの年齢は原作よりも低めに設定されている。 テレビアニメーションの放送に先駆けて1966年11月にパイロット版が虫プロダクションで製作されたが、こちらは後のテレビ本放送版よりも原作漫画に近いストーリー展開で、声優もテレビ版とは異なっていた(これは毎月あるいは隔週で1回1時間枠で手塚治虫の名作漫画をテレビアニメ化する「虫プロランド」の企画として準備がされていたもので、虫プロ版の『ジャングル大帝』の第1話も元々は同様であった。結局「虫プロランド」の構想は経営的に無理があるとして計画は放棄されて、「新宝島」(ただし同題の手塚のデビュー漫画とは異なりロバート・ルイス・スティーヴンソン原作「宝島」の翻案である)1本だけが作られて放送された)。 日本テレビ系列で放送された『鉄腕アトム(第2作)』の第27話「ブラックジャックの大作戦」(1981年4月8日放送、脚本:手塚治虫)として、リボンの騎士をオマージュしたエピソード(少女フレンド版と同様のSFタイムトラベル仕立て)が作られた。 また、TVアニメの放送から30年以上が過ぎた1999年に約8分のショートムービーが製作され、KYOTO手塚治虫ワールド(2011年1月16日までで閉館)で1999年12月4日に「弁慶と牛若丸」(7分)と同時に上映公開された。 その後、2008年の手塚治虫生誕80周年に向けて劇場用アニメーション作品として作る企画が立てられ、短いパイロットフィルム(監督:杉井ギザブロー)が作られたがその企画は実現はしていない。 2013年には、『Peeping Life』と手塚プロ&タツノコプロのコラボレーションアニメ『Peeping Life -手塚プロ・タツノコプロワンダーランド-』が放送された。 また、2009年から2020年まではカートゥーン ネットワークでデジタルリマスターHD版が繰り返し再放送された。また、地上波では岐阜県の岐阜放送で、2011年10月28日から2012年12月21日まで金曜夜6時に放送された。 2019年12月17日から2020年4月7日まで、YouTubeの「手塚プロダクション公式チャンネル」より期間限定無料配信が行われていた。この後同チャンネルで2021年11月 - 2022年1月6日、2022年9月14日 - 同年12月14日まで無料配信が行われ、2023年5月11日から同年7月4日までの予定で無料配信が行われている(第1話は常時配信)。 2021年4月19日より、YouTubeの「アニメログ」より期間限定無料配信が行われた。 最初は一社提供番組であったが、視聴率が予定していた20%台に達しないことを理由として単独スポンサーであったサンスター歯磨(当時)は降板した。そのため、1967年6月25日放送の第13話まで放送して、一旦延期して(打ち切りでは無い)、内容を再検討して同年10月から再スタートするという計画が立てられた。しかし既に虫プロは「『リボンの騎士』は1年間の放送番組である」という条件で文房具業者に本作品のキャラクター使用権を販売する契約を交していたため、放送中止・延期の計画があることを知った業者は契約違反に対する賠償請求を行う動きをみせた(その賠償金額を支払うよりも番組の製作を赤字採算のままでも続けた方がまだましであるという判断がなされた)。このため急遽、虫プロはフジテレビに対して放送継続への支援を申し入れ、結果的に時間枠を繰り上げて複数のスポンサーの相乗り番組とすることで放送を継続した(なお虫プロ社長であった手塚治虫は、国内では制作が赤字でも以前のアトムやジャングル大帝と同様に本作の放映権が海外に売れれば黒字にできると期待してアメリカのテレビ局と交渉を試みた。しかし当時は契約が得られなかった。)。 注:放送日は地方局では異なる場合がある。また外国ではエピソードの順番を変えて放送した場合がある。また1999年の日本テレビでの再放送では視聴率が振るわずに第26話までで打ち切られた。 上記の第22から第25までは四話一つながりの連続形式であり、第26から第29までも四話連続形式、第36と第37は二話連続形式、第51と第52も二話連続形式である。 1967年12月31日は映画『宇宙大戦争』(17:30 - 19:00)のため休止。また1968年3月17日は『1968年第2回万国博デー』(日本万国博覧会関連番組。17:30 - 18:26)と『番組案内』(18:26 - 18:30)のため休止。 また、本放送に先立って(1966年11月?)パイロットフィルム(放送局や潜在的なスポンサーに対しての見本となる作品)が作られた。 2006年8月1日 - 8月27日。新宿コマ劇場。出演:モーニング娘。、美勇伝他。以下に記述。 小川麻琴にとってはモーニング娘。としての事実上の卒業公演に当たり、本作の千秋楽をもってグループを卒業した。 キャスト 第1幕 キャスト 第2幕 スタッフ なかよし60周年記念公演 ミュージカル「リボンの騎士」のタイトルで上演。少女漫画雑誌『なかよし』創刊60周年を記念して製作されたミュージカル作品。 2015年11月12日から11月17日まで赤坂ACTシアター、12月3日から12月6日までシアターBRAVA!で上演(舞台の録画がテレビ放送され、DVD製品も販売された)。 キャスト(舞台・2015年版) ※所属は上演当時のもの。 スタッフ 上記以外にも、フジテレビのテレビアニメ版については、(少なくとも)第一話の上映用貸出16mm映写機フィルム,家庭用8mm映写機用の「あばれ王子(?)」の他に、LDによる収録、VHSテープによる収録もあった。そのほか、輸出されたフィルムから再編集して作られた単発長編で(輸出時の契約条項を無視して)日本国内に持ち込まれたものが、あろうことか日本の大手テレビ局で外国映画作品として紹介され放送される珍事件が起きたこともある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『リボンの騎士』(リボンのきし)は、手塚治虫による少女漫画作品およびそれを原作とする作品群のことを指す。手塚の20代の頃の連載漫画代表作の一つであり、少女向けストーリー漫画の先駆け的な作品。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "天使・チンクの悪戯で誕生した、男の心と女の心を持つサファイア王女(王子)をヒロイン兼ヒーローに据えたファンタジー作品。お姫様が「男装の麗人」となって悪人と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "手塚自身が幼少のころから親しんだ宝塚歌劇団の影響を強く受けており、サファイアのモデルは元宝塚歌劇団娘役の淡島千景である。当時、淡島の大ファンだった手塚が、娘役である淡島がたまたま男役を演じた舞台を観劇して、それをヒントにサファイアを考え出したという。なお、テレビアニメでサファイアの声を担当した太田淑子も宝塚歌劇団出身の元タカラジェンヌである。本作を元にしたミュージカル公演が数回行われている。ただし、宝塚歌劇団に演目として取りあげられたことはない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "少女漫画としては一般に記憶される初の「戦う少女」であり、今で言うところの変身、コスプレ、ツンデレなどの萌え要素を先駆け的に含んでいた。もっとも、西洋ものの仮面をつけた少女剣士の漫画は松本かつぢの「?(なぞ)のクローバー」が20年ほど前に存在している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "手塚自身による漫画には、『少女クラブ』の1953年1月号から1956年1月号に連載された少女クラブ版、『なかよし』の1958年1月号から1959年6月号に連載された少女クラブ版の続編(これは後に単行本化の際に『双子の騎士』と改題された)、同誌の1963年1月号から1966年10月号に連載されたなかよし版、最後に『少女フレンド』の1967年24号から29号に連載された少女フレンド版の計4回の連載がある。掲載誌はいずれも講談社である。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『双子の騎士』(連載時の題は『リボンの騎士』)では、結婚したサファイアとフランツの間に生まれた男女の双子・デージィ王子とビオレッタ姫が主人公。ダリア公爵夫妻の陰謀で兄のデージィが森に捨てられてしまい、妹のビオレッタが王子と姫の二役を務め、二代目・リボンの騎士に変身して悪党に立ち向かう。詳しくは当該記事を参照。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なかよし版は最初は少女クラブ版を踏襲していたが、海賊ブラッドや女神ビーナスなど登場人物が増えて、物語の後半の展開は複雑になっている。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "少女フレンド版はSF仕立てで25世紀に生きる発明家のフランツが主人公。先祖のサファイアにタイムマシンで会いに行き、恋が芽生えるという内容であった。手塚はあまり乗り気でなくて原案のみで、作画は当時虫プロに所属していた北野英明が担当した。少女フレンド版はこれまで単行本化や再収録は一度もされていない。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "担当声優はテレビアニメ版 / KYOTO手塚治虫ワールド上映のオリジナルアニメ版の順に表記。テレビアニメ版の括弧書きはパイロットフィルムのキャスト。一つしか記載がない場合は、テレビアニメ版でのキャスト。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "完全に網羅できていないとおもわれる。発行年も調査して補う必要あり。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以下は完全な網羅ではないだろう。なお単行本等は収録された時期により、連載時のものとの内容の相違の程度に違いがある。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(2020年10月の時点に於いて)これまで雑誌等への再掲載や単行本に収録されたことはない。いわゆる封印状態の作品である。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」が1955年の4月4日から9月27日まで放送された。 月〜金曜の17時15分から17時30分までの15分放送で、全114回。", "title": "ラジオドラマ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "TVアニメ作品は虫プロダクションの製作で、フジテレビ系で1967年4月2日から1968年4月7日にかけて放送された(カラー全52回、音声モノラル)。 本作品は日本のテレビアニメ史上で少女が主人公である第二番目の作品である(第一番目は「魔法使いサリー(東映動画、横山光輝)」)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "TVアニメ化にあたってストーリーが大幅に変更されており、続きものの原作とは異なりおおむね一話完結となっている(22話から25話までおよび26話から29話まではそれぞれ四回連続で完結、また36話と37話および51話と52話は二回連続で完結のエピソード構成となっている)。原作や『双子の騎士』に登場・もしくはちなんだキャラクターが登場することもある。ストーリー後半ではクールランド国の雪の女王率いる軍隊との戦いや、侵略者Xが率いるX帝国連合軍との戦いが中心となっていき、原作漫画とは大きく異なる展開となっている。また、TVアニメではサファイアとフランツ王子(アニメ版ではロック・ホームが扮し、手塚によりデザインされた)、天使チンクの年齢は原作よりも低めに設定されている。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "テレビアニメーションの放送に先駆けて1966年11月にパイロット版が虫プロダクションで製作されたが、こちらは後のテレビ本放送版よりも原作漫画に近いストーリー展開で、声優もテレビ版とは異なっていた(これは毎月あるいは隔週で1回1時間枠で手塚治虫の名作漫画をテレビアニメ化する「虫プロランド」の企画として準備がされていたもので、虫プロ版の『ジャングル大帝』の第1話も元々は同様であった。結局「虫プロランド」の構想は経営的に無理があるとして計画は放棄されて、「新宝島」(ただし同題の手塚のデビュー漫画とは異なりロバート・ルイス・スティーヴンソン原作「宝島」の翻案である)1本だけが作られて放送された)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本テレビ系列で放送された『鉄腕アトム(第2作)』の第27話「ブラックジャックの大作戦」(1981年4月8日放送、脚本:手塚治虫)として、リボンの騎士をオマージュしたエピソード(少女フレンド版と同様のSFタイムトラベル仕立て)が作られた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、TVアニメの放送から30年以上が過ぎた1999年に約8分のショートムービーが製作され、KYOTO手塚治虫ワールド(2011年1月16日までで閉館)で1999年12月4日に「弁慶と牛若丸」(7分)と同時に上映公開された。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、2008年の手塚治虫生誕80周年に向けて劇場用アニメーション作品として作る企画が立てられ、短いパイロットフィルム(監督:杉井ギザブロー)が作られたがその企画は実現はしていない。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2013年には、『Peeping Life』と手塚プロ&タツノコプロのコラボレーションアニメ『Peeping Life -手塚プロ・タツノコプロワンダーランド-』が放送された。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、2009年から2020年まではカートゥーン ネットワークでデジタルリマスターHD版が繰り返し再放送された。また、地上波では岐阜県の岐阜放送で、2011年10月28日から2012年12月21日まで金曜夜6時に放送された。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2019年12月17日から2020年4月7日まで、YouTubeの「手塚プロダクション公式チャンネル」より期間限定無料配信が行われていた。この後同チャンネルで2021年11月 - 2022年1月6日、2022年9月14日 - 同年12月14日まで無料配信が行われ、2023年5月11日から同年7月4日までの予定で無料配信が行われている(第1話は常時配信)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2021年4月19日より、YouTubeの「アニメログ」より期間限定無料配信が行われた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "最初は一社提供番組であったが、視聴率が予定していた20%台に達しないことを理由として単独スポンサーであったサンスター歯磨(当時)は降板した。そのため、1967年6月25日放送の第13話まで放送して、一旦延期して(打ち切りでは無い)、内容を再検討して同年10月から再スタートするという計画が立てられた。しかし既に虫プロは「『リボンの騎士』は1年間の放送番組である」という条件で文房具業者に本作品のキャラクター使用権を販売する契約を交していたため、放送中止・延期の計画があることを知った業者は契約違反に対する賠償請求を行う動きをみせた(その賠償金額を支払うよりも番組の製作を赤字採算のままでも続けた方がまだましであるという判断がなされた)。このため急遽、虫プロはフジテレビに対して放送継続への支援を申し入れ、結果的に時間枠を繰り上げて複数のスポンサーの相乗り番組とすることで放送を継続した(なお虫プロ社長であった手塚治虫は、国内では制作が赤字でも以前のアトムやジャングル大帝と同様に本作の放映権が海外に売れれば黒字にできると期待してアメリカのテレビ局と交渉を試みた。しかし当時は契約が得られなかった。)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "注:放送日は地方局では異なる場合がある。また外国ではエピソードの順番を変えて放送した場合がある。また1999年の日本テレビでの再放送では視聴率が振るわずに第26話までで打ち切られた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上記の第22から第25までは四話一つながりの連続形式であり、第26から第29までも四話連続形式、第36と第37は二話連続形式、第51と第52も二話連続形式である。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1967年12月31日は映画『宇宙大戦争』(17:30 - 19:00)のため休止。また1968年3月17日は『1968年第2回万国博デー』(日本万国博覧会関連番組。17:30 - 18:26)と『番組案内』(18:26 - 18:30)のため休止。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、本放送に先立って(1966年11月?)パイロットフィルム(放送局や潜在的なスポンサーに対しての見本となる作品)が作られた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2006年8月1日 - 8月27日。新宿コマ劇場。出演:モーニング娘。、美勇伝他。以下に記述。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "小川麻琴にとってはモーニング娘。としての事実上の卒業公演に当たり、本作の千秋楽をもってグループを卒業した。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "キャスト 第1幕", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "キャスト 第2幕", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スタッフ", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なかよし60周年記念公演 ミュージカル「リボンの騎士」のタイトルで上演。少女漫画雑誌『なかよし』創刊60周年を記念して製作されたミュージカル作品。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2015年11月12日から11月17日まで赤坂ACTシアター、12月3日から12月6日までシアターBRAVA!で上演(舞台の録画がテレビ放送され、DVD製品も販売された)。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "キャスト(舞台・2015年版) ※所属は上演当時のもの。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スタッフ", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上記以外にも、フジテレビのテレビアニメ版については、(少なくとも)第一話の上映用貸出16mm映写機フィルム,家庭用8mm映写機用の「あばれ王子(?)」の他に、LDによる収録、VHSテープによる収録もあった。そのほか、輸出されたフィルムから再編集して作られた単発長編で(輸出時の契約条項を無視して)日本国内に持ち込まれたものが、あろうことか日本の大手テレビ局で外国映画作品として紹介され放送される珍事件が起きたこともある。", "title": "CD・DVD" } ]
『リボンの騎士』(リボンのきし)は、手塚治虫による少女漫画作品およびそれを原作とする作品群のことを指す。手塚の20代の頃の連載漫画代表作の一つであり、少女向けストーリー漫画の先駆け的な作品。
{{Otheruses|少女漫画およびそれらの原作アニメ|同名の[[サザンオールスターズ]]の楽曲「リボンの騎士」|キラーストリート}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=リボンの騎士 |画像=[[File:Princess Knight logo.png]] |ジャンル=[[少女漫画]]・[[ファンタジー漫画]] }} {{Infobox animanga/manga |タイトル=少女クラブ版 |作者=[[手塚治虫]] |出版社=[[講談社]] |掲載誌=[[少女クラブ]] |開始号=[[1953年]]1月号 |終了号=[[1956年]]1月号 |}} {{Infobox animanga/Manga |タイトル=なかよし版 |作者=手塚治虫 |出版社=[[講談社]] |掲載誌=[[なかよし]] |開始号=[[1963年]]1月号 |終了号=[[1966年]]10月号 }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル=少女フレンド版 |作者=手塚治虫 |作画=[[北野英明]] |出版社=[[講談社]] |掲載誌=[[少女フレンド]] |開始号=[[1967年]]24号 |終了号=29号 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= |原作=手塚治虫 |総監督=手塚治虫 |キャラクターデザイン=手塚治虫 |音楽=[[冨田勲]] |製作=[[虫プロダクション]]、[[フジテレビ]] |放送局=フジテレビ |放送開始=1967年[[4月2日]] |放送終了=[[1968年]][[4月7日]] |話数=全52話 |その他= }} {{Infobox animanga/Other | タイトル = 関連作品 | コンテンツ = * [[双子の騎士]] * [[サファイア リボンの騎士]] }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''リボンの騎士'''』(リボンのきし)は、[[手塚治虫]]による[[少女漫画]]作品およびそれを[[原作]]とする作品群のことを指す。手塚の20代の頃の連載漫画代表作の一つであり、少女向け[[ストーリー漫画]]の先駆け的な作品<ref>雑誌 Pen(ペン)、No.337、2013年6/1号、CCCメディアハウス(発売2013年5月15日)の「特集 これを知らなきゃ、日本文化は語れない 少女マンガ 超入門!」の中の「『リボンの騎士』手塚治虫」、第24項</ref>。 == 概要 == [[天使]]・チンクの悪戯で誕生した、男の心と女の心を持つ[[サファイア (リボンの騎士)|サファイア]]王女(王子)を[[ヒロイン]]兼[[ヒーロー]]に据えたファンタジー作品。お姫様が「[[男装#少女マンガにおける男装|男装]]の麗人」となって悪人と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容であった。 手塚自身が幼少のころから親しんだ[[宝塚歌劇団]]の影響を強く受けており、サファイアのモデルは元宝塚歌劇団[[娘役]]の[[淡島千景]]である<ref>『[[テレビ探偵団]]』第47回、TBS、1988年1月10日放送</ref>。当時、淡島の大ファンだった手塚が、娘役である淡島がたまたま男役を演じた舞台を観劇して、それをヒントにサファイアを考え出したという。なお、テレビアニメでサファイアの声を担当した[[太田淑子]]も宝塚歌劇団出身の元[[タカラジェンヌ]]である。本作を元にしたミュージカル公演が数回行われている。ただし、宝塚歌劇団に演目として取りあげられたことはない。 少女漫画としては一般に記憶される初の「[[戦闘美少女|戦う少女]]」であり、今で言うところの[[変身]]、[[コスプレ]]、[[ツンデレ]]などの萌え要素を先駆け的に含んでいた<ref>雑誌 Pen(ペン)、No.337、2013年6/1号、第28項</ref>。もっとも、西洋ものの仮面をつけた少女剣士の漫画は[[松本かつぢ]]の「?(なぞ)のクローバー」が20年ほど前に存在している<ref>[http://www.tokyoartbeat.com/event/2013/5812 東京アートビート] 松本かつぢ「?(なぞ)のクローバー」『少女の友』昭和9年4月号付録</ref>。 == 漫画 == 手塚自身による漫画には、『[[少女クラブ]]』の[[1953年]]1月号から[[1956年]]1月号に連載された少女クラブ版、『なかよし』の[[1958年]]1月号から[[1959年]]6月号に連載された少女クラブ版の続編(これは後に単行本化の際に『[[双子の騎士]]』と改題された)、同誌の[[1963年]]1月号から[[1966年]]10月号に連載されたなかよし版、最後に『[[少女フレンド]]』の[[1967年]]24号から29号に連載された[[少女フレンド]]版の計4回の連載がある。掲載誌はいずれも[[講談社]]である。 『双子の騎士』(連載時の題は『リボンの騎士』)では、結婚したサファイアとフランツの間に生まれた男女の双子・デージィ王子とビオレッタ姫が主人公。ダリア公爵夫妻の[[陰謀]]で兄のデージィが森に捨てられてしまい、妹のビオレッタが王子と姫の二役を務め、二代目・リボンの騎士に変身して[[悪党]]に立ち向かう。詳しくは当該記事を参照。 なかよし版は最初は少女クラブ版を踏襲していたが、[[海賊]]ブラッドや[[女神]]ビーナスなど登場人物が増えて、物語の後半の展開は複雑になっている<ref name="名前なし-1">雑誌 Pen(ペン)、No.337、2013年6/1号、第27項 </ref>。 少女フレンド版はSF仕立てで25世紀に生きる発明家のフランツが主人公。先祖のサファイアにタイムマシンで会いに行き、恋が芽生えるという内容であった{{R|名前なし-1}}。手塚はあまり乗り気でなくて原案のみで、作画は当時虫プロに所属していた[[北野英明]]が担当した。少女フレンド版はこれまで単行本化や再収録は一度もされていない。 == 登場人物 == 担当[[声優]]はテレビアニメ版 / KYOTO手塚治虫ワールド上映のオリジナルアニメ版の順に表記。テレビアニメ版の括弧書きはパイロットフィルムのキャスト。一つしか記載がない場合は、テレビアニメ版でのキャスト。 === 少女クラブ版初出 === ; [[サファイア (リボンの騎士)|サファイア]] : 声: [[太田淑子]] ([[白石冬美]] )/ [[冬馬由美]] : [[主人公]]兼ヒロイン。版によっては'''サファイヤ'''とも。天使チンクのいたずらで、男と女のふたつの心を持って誕生したシルバーランド(少女クラブ版ではサファイヤ国)の王女。国の法律で男性にしか王位継承権がないため、王子として育てられた。かつらで謎の美少女「'''[[亜麻色]]の髪の乙女'''」に変装して行った舞踏会で隣国ゴールドランドの王子・フランツと恋に落ち、途中からは仮面をつけて「'''リボンの騎士'''」に変装した姿で悪党に正義の剣を振るう。 : 原作では「王子として生きなければならない宿命」と戦う王女として描かれ、フランツから仇敵と誤解されて憎まれてしまい葛藤する。なかよし版ではおしとやかで儚げな性格で、少女クラブ版ではなかよし版よりも活発で溌剌とした性格。 : アニメ版では年齢が原作より低めで、活発と言うよりもやんちゃなお転婆娘。自分は王子らしく生きたいと思っており、女の子扱いされると激怒していたが、フランツに恋をしてからは成長とともに自分が女性である事を受け入れていった。その後にチンクの優しい願いを受け取ったチンクの父である天の神様によって男性の心を決別し解放することになり、無事に女性の心を持つ王女へと戻りフランツと結婚することになった。 ; チンク : 声: [[貴家堂子]] / [[熊谷ニーナ]] : サファイアに男の心を飲ませてしまった天使の子供。父である天の神様に罰としてサファイアから男の心を抜き取る事を命じられ、人間に転生させられ下界に落とされてしまう。以降は、サファイアを助ける小さなナイトとして大活躍。元々は裸で背中に翼が生えた見るからに天使らしい姿だったが、地上に下ろされた後は天使の羽のついた緑の帽子と服を身にまとっている。神の奇跡のような不思議な力を使う。動物と会話ができる。 : 原作ではあくまでもサファイアから男の心を取って天国に帰るために行動しており、特に少女クラブ版ではそれが顕著。しかし、なかよし版では途中で苦悩し、使命よりもサファイアを助ける事を優先するようになる。一方でアニメ版ではサファイアとは姉弟のような関係で、「サファイアのアシスタント」を自称し、彼女のためならどんな苦しい事でもすると誓っている。 ; フランツ・チャーミング : 声: [[喜多道枝]]、[[井上真樹夫]](40・41話のみ) / [[宮田幸季]] : 隣国ゴールドランド(少女クラブ版ではシルバーランド)の王子で、サファイアが変装した「亜麻色の髪の乙女」と恋に落ちる。原作とアニメではほぼ別人。ファーストネームを持つ作中唯一のキャラ。 : 原作では生真面目で品行方正な美青年。陰謀に巻き込まれ、王様を暗殺した容疑をかけられて投獄されてしまう。自分を救ってくれた「亜麻色の髪の乙女」に感謝し愛を深めるが、その正体であるサファイアのことは自分を陥れた怨敵と勘違いして憎んでいる。 : 少女クラブ版ではヘケートと人魚姫、なかよし版ではビーナスから想いを寄せられている。なかよし版では見かねたブラッドに教えてもらうまでサファイアが「亜麻色の髪の乙女」だと気づかなかった。少女クラブ版では数ある版で唯一自力でサファイアが「亜麻色の髪の乙女」だと見破り、理解者として彼女を見守る包容力を見せている。少女フレンド版では25世紀からタイムマシンで来た発明家という設定で、先祖のサファイアが実は女性だったと知り恋に落ちる。 : アニメ版では[[手塚漫画のキャラクター一覧|スター・システム]]により、[[ロック・ホーム]]が遊び人風でそつのないませた少年として演じている。サファイアの性別を探るようジュラルミンに頼まれていたためサファイアが女だと察しており、投獄もされていないのでサファイアとは気の合う悪戯友達だった。サファイアが亜麻色の髪の乙女の正体だと知ると命に代えてもサファイアを守る事を誓い、ともにX連合に立ち向かっていく。サファイアと親しい口ぶりのリボンの騎士に焼き餅を焼いた末、身を引こうとしたことも。 ; 王様 : 声:[[小林恭治]] ([[富田耕生]])/ [[丸山詠二]] : サファイアの父。プラスチックが王位継承者になる事を危ぶみ、生まれたばかりのサファイアを王子に仕立てさせた。 : アニメでは40歳くらいだが、原作では白いひげを生やしていて老人と言っていい年齢。 ; 王妃 : 声:[[新道乃里子]] / [[山田みほ|山田美穂]] : サファイアの母。高貴な品格と心優しさを兼ね備えた美しい貴婦人。 : 王女として生まれながら、王子として生きなければならないサファイアのことを憂いている。 ; ジュラルミン大公 : 声:[[雨森雅司]] ([[熊倉一雄]] )/ [[茶風林]] : 王様のいとこ。熊の耳に似た髪型が特徴。息子のプラスチックに王位を継がせてシルバーランドを我が物にする野望を抱き(ジュラルミン本人には王位継承権はない)、王子とされているサファイアの正体が女である事を暴こうと画策する。 : 少女クラブ版・アニメ版では念願叶って王位奪取を果たした矢先に、ナイロンの裏切りに遭い暗殺されてしまう。なおアニメ版では第40話でナイロン共々、X連合と密かに取引していた。なかよし版では、プラスチックがサファイアと共にナイロンの毒矢を受けて瀕死の重傷を負う事態となってしまい、自分の罪を恥じて自害する。 ; プラスチック : 声:[[北川智繪|北川智恵子]] : ジュラルミンの息子。18歳。父に似ずボンクラで、年齢よりも幼い言動のため側近の手を焼かせる。 : アニメ版ではどこからどう見ても幼児にしか見えず、ジュラルミンの死後はナイロンに放り出されてしまい、崩壊する城もろもと消息不明を遂げた。 : 少女クラブ版・なかよし版では父の望み通り王位を継ぐことになるが、少女クラブ版ではチンクの父の助けによって、なかよし版ではサファイアの男の心を飲み込んでしまい、それぞれ異なる理由で賢君に大変身。サファイアの正義感を受け継いだため皮肉にも父の方針に反対し、サファイアの忠実な騎士となる。 ; ナイロン卿 : 声:[[納谷悟朗]] / [[掛川裕彦]] : ジュラルミンの腹心。悪知恵に長けた陰謀家で、大きな鼻が特徴。様々な策略で、何度もサファイアを追い詰める。 :少女クラブ版・アニメ版ではジュラルミンには出世欲から従っているだけで、ジュラルミンを裏切り殺害してしまう。その後少女クラブ版では王の暮らしに疲れ、罪を懺悔してシルバーランドを去る。アニメ版ではプラスチックを追い払って王位に付き、X連合を迎え入れるが、エックスに使い捨てにされた挙句、ジュラルミンの亡霊の復讐を恐れるあまり錯乱状態となり、崩壊する城もろとも最期を遂げた。なかよし版では隣国の王・ウーロン候と組むも悪事が露見して国を追われた挙句、フランツに「あんなやつほうっとこう」で片付けられてしまう。 : なお、テレビアニメ版で声を担当した納谷は、アニメ版のナレーターも兼任していた。 ; うらなり博士 : 声:[[西桂太]] : シルバーランドに仕える学者で、サファイアの王子としての教育係。口調がズーズー弁でなまっている。サファイアが王子として育てられたきっかけは、うらなり博士が上述した口調のせいで、誕生したサファイアを王女と言ったのを発音の違いから(「王ズ様」)、伝令が王子だと勘違いしたため。 : 少女クラブ版ではばあやと恋仲だが、サファイアをめぐってケンカばかりしていた。最終回ではサファイアとフランツの結婚式の予算の余りで、ばあやとの結婚式を挙げられることが決まったとばあやに話していた。 ; ばあや : 声:[[麻生美代子]] : サファイアの乳母で、サファイアの王女としての教育係。サファイアが王女として生きられない事を常に嘆いている。 ; ガリゴリ : 声:[[池田一臣]]([[近石真介]]) : 王室に仕える小柄な侍従。大型のカメラを使った写真撮影が得意で、マリという一人娘がいる。 ; [[魔王]]メフィスト : 声:[[塩見竜介]](納谷悟朗) : 原作では魔法博士にして大魔王という設定で少女クラブ版にのみ登場。娘・ヘケートの乱暴な性格に困り果て、彼女をおしとやかで女らしい性格にしようとサファイアの女の心を狙う。しかし、娘のことは非常に愛しており、彼女の死に関わったフランツに復讐しようとしたこともある。 : アニメ版では逆におとなしすぎるヘケートを大魔女にしようと、ヘル夫人と夫婦でサファイアの男の心を狙う(人間の男の心には魔力を増幅させる力があるらしい)。最後は大魔王に逆らってX連合からヘケートを守り、大魔王によって山に姿を変えられてしまう。 ; ヘケート : 声:[[荘司美代子]]→白石冬美→[[武藤礼子]]→[[栗葉子]] : 悪魔の娘。少女クラブ版・なかよし版・アニメで設定がまったく異なる。 : 少女クラブ版ではメフィストの実の娘だが、乱暴な性格で父親の頭痛の種。困り果てたメフィストが、もっと女らしい性格にするために、サファイアの女の心を狙うことになる。ネズミの耳のような髪形をしている。 : なかよし版では母・ヘル夫人が「大国の王子と結婚させるために魔法で造った娘」。髪型は[[サイドテール]]で、性格も乱暴というより蓮っ葉。ヘル夫人が「本来の目的のため」にサファイアの女の心を狙うことになる。本人は女らしさを押しつけられることに反発しており、服装も動きやすいパンツルック。 : アニメではメフィスト・ヘル夫婦の一人娘で、原作とは逆に魔女としてはあまりに優しすぎ、おとなしすぎる性格。それが災いしてか、魔法もあまり使えない。「このままでは魔女として一人前になれない」と心配した両親が、もっと強気な性格にするためにサファイアの男の心を狙うことになるが、当の本人はサファイアと友達になってしまう。悪魔の山を攻略しに来たX連合の小隊長・ガーナと恋に落ち、大魔王に永遠の命と魔力を奪われるが、皮肉にもそれによって人間になり、ガーナとの恋の障害はなくなって彼と結ばれた。 : 原作ではいつのまにかフランツを本気で愛してしまい、それゆえに命を落とすことになる。特になかよし版では、母が死ねば自分も死ぬと知りながら母を倒そうとするフランツに手を貸し、醜い姿を見られたくないと一人死んでいく最も悲劇的な役を演じている。少女クラブ版ではフランツを愛したのはサファイアの女の心を飲んだため。なかよし版ではサファイアと関係なしにフランツに好意を抱くが、想いを口にすることはなかった。 ; ガマー : 声:[[森山周一郎]]→[[大塚周夫]](25話のみ) : シルバーランドの牢番。背中にこぶのある小男で、『[[ノートルダムのせむし男]]』の主人公・鐘つき男カジモドがモデル。 : ジュラルミンに投獄されたサファイアと王妃を虐げてこき使う。ジュラルミンから二人の殺害を命じられるが、サファイアを追う途中で階段から転落。サファイアに介抱されたことで改心・和解する。 : [[手塚漫画のキャラクター一覧|スター・システム]]によって、『[[ジャングル大帝]]』等で登場してきた[[手塚漫画のキャラクター一覧#や-わ行|ロンメル]]が演じている。 === なかよし版初出 === ; ヘル夫人 : 声:志摩燎子→[[来宮良子]] : 魔女。原作ではなかよし版にのみ登場。娘・ヘケートを王国の王子に嫁がせて王国の実質的支配者となる野望のために、ヘケートをおしとやかで女らしい性格にしようとサファイアの女の心を狙う。 : アニメ版ではメフィストの妻という設定で後半部から登場。原作とは逆に、おとなしすぎるヘケートを大魔女にしようとサファイアの男の心を狙う。最後は大魔王に逆らってX連合からヘケートを守り、大魔王によって湖に姿を変えられてしまう。 ; ブラッド : 声:[[戸田皓久]]→[[広川太一郎]] : 原作ではなかよし版のみに登場。[[海賊]]の頭領で、ワイルドで豪胆なタフガイ。サファイアに好意を寄せ、大胆にアプローチする。実は貴族出身で本名は「ハインリッヒ」だが、彼を嫌う叔父によってイタリア貴族の屋敷で預けられるもそこで受けた不当な仕打ちに耐えかねて出奔・海賊になった。そして政争で行方不明のゴールドランド第一王子、つまりフランツの実兄である可能性が示唆されている。結局サファイアへの想いは叶わなかったが、最後まで彼女のために奔走した。 : 瀕死のサファイアを救うべく黒真珠島の秘薬を取りに行くが、彼に好意を寄せて島を出るのを止めようとした島の女王・パルパの矢に射られて深手を負ってしまう。それでも「薬はサファイアのものだ」と固辞し、男気に免じたパルパから見逃される。しかし帰還した時にはすでにサファイアは息絶えてしまっており、それでも最後まで自身の傷に秘薬を使うことはせず、「なんと男らしい方」とサファイアの侍女達に評され、そのまま息を引き取る。 : アニメ版ではジュラルミンにお辞儀をしなかった罰で囚人にされていまい、サファイアとフランツに救出された後海賊になった。その後も数回に渡って登場し、サファイアを助ける。原作と異なりフランツとの血縁関係はない。 : 本編ではサファイアと結ばれなかったが、後に『[[ブラック・ジャック]]』の「二つの愛」でサファイアと共に夫婦として登場している。 ; [[ウェヌス|ビーナス]] : 声:武藤礼子 : すべての愛と命を司る天国の女神。絶世の美貌の持ち主だが、非常に気まぐれで嫉妬深い性格。 : なかよし版ではサファイアを救ってもらおうとやって来たフランツに好意を抱く。フランツの願いを叶えた後はサファイアの美しさを妬み、二人の仲を引き裂いてフランツを奪おうとする。 : 最後はサファイアにかけようとした魔法にかかってブタの姿になってしまい、チンクに連れられて天国に帰っていった。 : アニメ版ではフランツとの絡みはなく、母の病気を治してもらいに訪れたサファイアに、願いを叶えるのと引き換えにその美しさを妬んで顔を醜く変える。それでも飽き足らず心の美しさをも消し去ろうとして天のお父様の怒りを買い、制裁としてブタに変えられた。同時にサファイアも元の顔に戻った。 ; [[エロース]] : 声:[[池田昌子]] : ビーナスに仕える[[天馬]]で、彼女の気まぐれに手を焼いている。人のことばを話し、人間の姿に変身することもできる。だが動物には見抜かれてしまうため、フランツの馬に求愛されてしまい、困惑するシーンもあった。 : なかよし版ではビーナスの命令に従順に従っていたが、最後はビーナスに逆らってサファイアを助け、怒ったビーナスによって草花に変えられてしまう。 ; ウーロン候 : なかよし版のみに登場。ばかで愚鈍だと有名な隣国の王様。財宝を手にすり寄って来たナイロンと手を組み、サファイアを投獄する。 : 実は機知に富んだ策略家で、「王さまはかしこすぎるといけないんだ」とわざと愚王のふりをしている。投獄したのもナイロンの動向を見定めるためであり、その企みを見抜いてサファイアを助ける(単行本化された漫画の版によっては短縮のため話がカットされていて登場しない)。 : 明記されていないが、[[手塚漫画のキャラクター一覧|スター・システム]]によって[[手塚漫画のキャラクター一覧|佐々木小次郎]]が演じている。 ; フリーベ : なかよし版のみに登場。隣国の女剣士。ビーナスの魔法で記憶を失くし彷徨うサファイアと出会い、サファイアが女だと知らずに好意を寄せて結婚を迫る(単行本化された漫画の版によっては短縮のために話がカットされていて登場しない)。 : 実はウーロン候の妹。サファイアが女だと知らされて落ち込むが、追っ手からかばって逃がしてくれる。 === アニメ版初出 === ; エックス : 声:[[小林修 (声優)|小林修]] : アニメ版のみに登場。謎の征服軍・X帝国連合軍の冷酷非情なリーダー。鉄の甲冑と兜を身にまとい、素顔を見せない。 : 無数の部下と強力な兵器でシルバーランド周辺の国々を次々と攻め落としており、今度はゴールドランド・シルバーランドを取り込もうと、ジュラルミンおよびナイロンを利用する。X連合は世界中にメンバーが存在するらしく、外部の者との約束は守らない。 : X連合の正体もエックス自身の正体も、とうとう最後まで明らかにはならなかった。その後に崩壊する城もろとも下敷きとなり死亡した。 ;チビ :アニメ第2話から登場した、木こりの家の褐色の少年。父と祖父と3人で暮らしている。ひょんなことからサファイアと知り合い親友になっている。35話では祖父ひき逃げした黒い馬車の男サファイアと共に追いつめるなど活躍もしている。 ; バロン : アニメ第3話「武術大会の巻」に登場した黄金色の鎧をまとった巨漢の騎士でシルバーランドで開催された武術大会に参戦し決勝でサファイアと対戦する。各国のいくつもの武術大会に出場した歴戦の豪傑。その腕を見込んだジェラルミンがサファイアを暗殺させようと企み依頼を引き受けるが、長年の宿敵であったギロチーヌが謀殺されたことをサファイアから聞かされそれがナイロンたちの仕業と勘づき裏切りわざと負ける、その後追手の刺客たちを始末した後再戦を挑んだサファイアを相手にこれを制し「あんたには知恵も勇気もあるもっと修行なさるがよい」と激励を残して去っていく。 ;ギロチーヌ :声加藤精三 :アニメ第3話「武術大会の巻」に登場した銀色鎧をまとった騎士。バロンとは長年の宿敵同士で巨漢の彼と反対に痩せている。過去7度の対決でいづれも勝敗はつかず引き分けているほど互角に渡り合う実力者。顔に横一文字の傷がある。その実力からサファイア暗殺の失敗を危ぶんだナイロンたちの騙し討ちの襲撃で謀殺される、その一部始終を目撃したサファイアが決勝でバロンそのことをバロンに突きつける。このことを知ってバロンはサファイア暗殺依頼をやめナイロンを裏切ることを決意する。 ;バグーン :第6話「コビトと巨人」に登場した小人の少年。巻貝の中に閉じ込められシルバーランドに流されたところをチンクに救われる。元ランプの精の巨人である父親のところにまで送り届けてもらえるよう願いでる。その後サファイアとチンクによって送り届けられた故郷の島で無事父親の巨人と再会する。おこると父親同様額に角が生える。 ;天馬 :アニメ第8話「幻の馬」で登場。 ;眠りの精サンド :声 :[[大山のぶ代]] :アニメ第11話「ねむりの精」に登場する森にすむ眠りの精。プラスチックが夏であるにもかかわらず「冬の苺が食べたい」とごねたためにナイロン兵士に森へ取りに行かせたところ森を荒らしてしまいそのことに怒って襲撃。兵士たちはナイロンから「冬イチゴが食べたいと言ったのはサファイアだ」と嘘を教えられていたためそれを信じて弟エンドと共にサファイアを襲撃。けれどもサファイアは気絶してしまい仕方なく起きていた真犯人のプラスチックを不眠症の呪いにかけてしまう。その後森に単身乗り込んできたサファイアの礼儀を尽くした願いを受けてプラスチックを元に戻す薬を渡す。最後は寝込みを襲おうとしたナイロンを不眠症にしてサファイアを助け彼女からの借りを返す。 ;ジェム :第12話「おんぼろ王子」に登場したサファイアに瓜二つの顔をしたジプシーの孤児の少年。お城の王子にあこがれてサファイアの提案で彼女と服を取り換えてい一日だけ入れ替わる。 ;ブラン公爵 :アニメ第13話「バラの館」にて登場する貴公子。シルバーランド南の谷に住める植物たちとその精を統率する白薔薇の精で自身の一族と仲間たちを守るべくジェラルミン大公が南の谷に建設しようとしている要塞の建設を中止させるためサファイアを自身の居城であるばらの館に招いて協力と助けを懇願する。同時に仲間を見捨て自身だけはジェラルミン大公に取り入って新しい土地を手に入れようする弟ルージュ公爵と対立する。サファイアがルージュ公爵と対決して彼の放ったクマンバチに襲われた時はサファイアに協力し彼女を救う。その後王宮にてサファイアから弟の末路が伝えられる。 ;ルージュ公爵 :ブラン公爵の弟で赤バラの精。仲間を思いやる兄とは違って南の谷を見限って自身はジェラルミン大公に取り入って新しい土地を手に入れようとして兄ブラン公爵と対立。サファイアとも対立するがサファイアの秘密を知っていてそのことを彼女に突きつける。サファイアと対決となった際クマンバチを嗾けてサファイアを追い詰めるもブラン公爵の協力を得た彼女の前に敗れる。その後王宮内にてサファイアとジェラルミン大公の前に現れ大公にサファイアが女であること大勢の前で証言しようとし見返りに自身の分身である赤バラを庭で育ててくれるよう願うが「バカにしているのか」「こんな貧弱な花が植えられるか」と大公を怒らせバラの花を床にたたきつけられるとそのまま倒れあえなく絶命する。 == 単行本 == === 少女クラブ版 === 完全に網羅できていないとおもわれる。発行年も調査して補う必要あり。 * 『リボンの騎士』 全3巻([[講談社]]) * [[手塚治虫漫画全集]]『リボンの騎士 少女クラブ版』 全2巻(講談社) * グランドコレクション『リボンの騎士 少女クラブ版』 全2巻(講談社) * 講談社漫画文庫『リボンの騎士 少女クラブ版』 全1巻(講談社) * 「リボンの騎士[少女クラブ カラー完全版]」(ジェネオンエンタテインメント)、2003年。 * 「完全復刻版 リボンの騎士(少女クラブ版)スペシャルBOX」講談社、ISBN 978-4063647464(2009年1月15日)。 * [[手塚治虫文庫全集]]『リボンの騎士 -少女クラブ版-』 全1巻(講談社)(2011年2月)。 * 「リボンの騎士 [少女クラブ カラー完全版]」([[復刊ドットコム]])、ISBN 978-4835449029(2012年11月22日)※ ジェネオンエンタテインメントから2004年に刊行された書籍の新装復刊。 * 「手塚治虫全集」『リボンの騎士少女クラブ版』全2巻([[丸善ジュンク堂書店]])(2022年1月~2月)。 === なかよし版 === 以下は完全な網羅ではないだろう。なお単行本等は収録された時期により、連載時のものとの内容の相違の程度に違いがある。 * 「なかよし増刊 なかよしコミックス」『リボンの騎士』 全5冊(雑誌スタイル)(講談社)(1964年8月~1966年6月)※(内容未完結)。 * 「別冊少女フレンド増刊」『リボンの騎士』全2冊(雑誌スタイル)(総集編)(講談社)(1967年5月~6月)※(内容未完結)。 * 「小学館 ゴールデンコミックス」手塚治虫全集『リボンの騎士』 全3巻([[小学館]])(1969年3月~5月)。※ 初めての単行本完結。 * 「月刊てづかマガジンれお別冊」『リボンの騎士』全5冊(雑誌スタイル)、(虫プロ商事)(1971年11月~1972年3月)。 * 「ほるぷ版 手塚治虫選集」『リボンの騎士』全2巻([[ほるぷ出版]])(1972年6月)。 * 「文民社 手塚治虫作品集」『リボンの騎士』全1巻(文民社)(1977年6月)。 * 「講談社 手塚治虫漫画全集」『リボンの騎士』全3巻(講談社)(1977年6月~12月)。 * 「手塚治虫作品集」『リボンの騎士』 全1巻(手塚治虫作家生活40周年記念出版刊行会)(1984年1月)。 * 「KCスペシャル」『リボンの騎士』全2巻(講談社)(1987年11月~12月)。 * 「講談社コミックス グランドコレクション」『リボンの騎士』全2巻(講談社)(1994年12月)。 * 「講談社漫画文庫」『リボンの騎士』全2巻(講談社)(1999年10月)。 * 完全復刻版 リボンの騎士(なかよし版) スペシャルBOX、(講談社)、ISBN 978-4063647723(2009年5月28日) * 「講談社 手塚治虫文庫全集」『リボンの騎士』 全2巻(講談社)(2009年10月)。 * 「復刻大全集」『リボンの騎士』(なかよしオリジナル版)全4巻(ただしBox4は後に『双子の騎士』と改題された内容)(復刊ドットコム)(2015年9月~2016年3月)。 * 新装版『リボンの騎士』 上下巻([[リトルモア]])、ISBN 978-4898154830(2018年10月27日)。 *「手塚治虫全集」『リボンの騎士』全3巻([[ジュンク堂書店|丸善ジュンク堂書店]])(2021年4月~6月)。 === 少女フレンド版 === (2020年10月の時点に於いて)これまで雑誌等への再掲載や単行本に収録されたことはない。いわゆる封印状態の作品である。 *[http://h-ongendo1964annex.cocolog-nifty.com/annex/files/Shojofriend1967_2.pdf 「リボンの騎士」少女フレンド版(手塚治虫作/北野英明画)概要] == ラジオドラマ == [[TBSラジオ|ラジオ東京]]で連続ドラマ「リボンの騎士」が[[1955年]]の4月4日から9月27日まで放送された。<!--ラジオドラマ放送のより詳しい情報(録音、台本、配役等)を求む--> 月〜金曜の17時15分から17時30分までの15分放送で、全114回。 === スタッフ === * 原作:[[手塚治虫]] * 脚色:仲沢清太郎 === 声の出演 === * サファイヤ姫:[[高橋和枝]] * その他:[[滝口順平]]、堀内敬子、[[劇団こまどり]]、キング児童合唱団 == アニメ == === 解説 === [[ファイル:Nerima Oizumi-animegate Chronological table Ribon no kishi 1.jpg|thumb|320px|大泉アニメゲートに設置されている「ねりまアニメ年表」の一コマ。]] TVアニメ作品は[[虫プロダクション]]の製作で、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で1967年[[4月2日]]から[[1968年]][[4月7日]]にかけて放送された(カラー全52回、音声モノラル)。 本作品は日本のテレビアニメ史上で少女が主人公である第二番目の作品である(第一番目は「[[魔法使いサリー#アニメ・1966年版|魔法使いサリー]](東映動画、横山光輝)」)。 TVアニメ化にあたってストーリーが大幅に変更されており、続きものの原作とは異なりおおむね一話完結となっている(22話から25話までおよび26話から29話まではそれぞれ四回連続で完結、また36話と37話および51話と52話は二回連続で完結のエピソード構成となっている)。原作や『双子の騎士』に登場・もしくはちなんだキャラクターが登場することもある。ストーリー後半ではクールランド国の雪の女王率いる軍隊との戦いや、侵略者Xが率いるX帝国連合軍との戦いが中心となっていき、原作漫画とは大きく異なる展開となっている。また、TVアニメではサファイアとフランツ王子(アニメ版ではロック・ホームが扮し、手塚によりデザインされた)、天使チンクの年齢は原作よりも低めに設定されている。{{Efn|サファイアは原作漫画では15歳であったが、アニメでは12歳。}} テレビアニメーションの放送に先駆けて[[1966年]]11月にパイロット版が虫プロダクションで製作されたが、こちらは後のテレビ本放送版よりも原作漫画に近いストーリー展開で、[[声優]]もテレビ版とは異なっていた(これは毎月あるいは隔週で1回1時間枠で手塚治虫の名作漫画をテレビアニメ化する「虫プロランド」の企画として準備がされていたもので、虫プロ版の『[[ジャングル大帝]]』の第1話も元々は同様であった。結局「虫プロランド」の構想は経営的に無理があるとして計画は放棄されて、「[[新宝島 (テレビアニメ)|新宝島]]」(ただし同題の手塚のデビュー漫画とは異なり[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]原作「[[宝島]]」の翻案である)1本だけが作られて放送された)。 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放送された『[[鉄腕アトム (アニメ第2作)|鉄腕アトム(第2作)]]』の第27話「ブラックジャックの大作戦」(1981年4月8日放送、脚本:手塚治虫)として、リボンの騎士をオマージュしたエピソード(少女フレンド版と同様のSFタイムトラベル仕立て)が作られた。 また、TVアニメの放送から30年以上が過ぎた[[1999年]]に約8分のショートムービーが製作され、KYOTO手塚治虫ワールド(2011年1月16日までで閉館)で1999年12月4日に「弁慶と牛若丸」(7分)と同時に上映公開された。 その後、2008年の手塚治虫生誕80周年に向けて劇場用アニメーション作品として作る企画が立てられ、短いパイロットフィルム(監督:杉井ギザブロー)が作られたがその企画は実現はしていない。 [[2013年]]には、『[[Peeping Life]]』と[[手塚プロダクション|手塚プロ]]&[[タツノコプロ]]のコラボレーションアニメ『Peeping Life -手塚プロ・タツノコプロワンダーランド-』が放送された。 また、[[2009年]]から[[2020年]]までは[[カートゥーン ネットワーク]]で[[デジタルリマスター]]HD版が繰り返し再放送された。また、地上波では[[岐阜県]]の[[岐阜放送]]で、[[2011年]][[10月28日]]から[[2012年]][[12月21日]]まで金曜夜6時に放送された。 [[2019年]]12月17日から2020年[[4月7日]]まで、[[YouTube]]の「手塚プロダクション公式チャンネル」より期間限定無料配信が行われていた。この後同チャンネルで[[2021年]][[11月]] - [[2022年]][[1月6日]]、[[2022年]][[9月14日]] - 同年[[12月14日]]まで無料配信が行われ、[[2023年]][[5月11日]]から同年[[7月4日]]までの予定で無料配信が行われている(第1話は常時配信)。 [[2021年]]4月19日より、YouTubeの「アニメログ」より期間限定無料配信が行われた。 === 放送概要 === * [[1967年]][[4月2日]] - 同年[[6月25日]](1 - 13話):[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18:30 - 19:00]]([[日本標準時|JST]]) * [[1967年]][[7月2日]] - [[1968年]][[4月7日]](14 - 52話):[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18:00 - 18:30]](JST) 最初は一社提供番組であったが、視聴率が予定していた20%台に達しないことを理由として単独スポンサーであった[[サンスター|サンスター歯磨]](当時)は降板した。そのため、1967年6月25日放送の第13話まで放送して、一旦延期して([[打ち切り]]では無い)、内容を再検討して同年10月から再スタートするという計画が立てられた。しかし既に虫プロは「『リボンの騎士』は1年間の放送番組である」という条件で文房具業者に本作品のキャラクター使用権を販売する契約を交していたため、放送中止・延期の計画があることを知った業者は契約違反に対する賠償請求を行う動きをみせた(その賠償金額を支払うよりも番組の製作を赤字採算のままでも続けた方がまだましであるという判断がなされた)。このため急遽、虫プロはフジテレビに対して放送継続への支援を申し入れ、結果的に時間枠を繰り上げて複数のスポンサーの相乗り番組とすることで放送を継続した<ref>「ダイナミックTVコミックス リボンの騎士・第2巻」([[立風書房]]刊)139 - 141頁 1981年</ref>(なお虫プロ社長であった手塚治虫は、国内では制作が赤字でも以前のアトムやジャングル大帝と同様に本作の放映権が海外に売れれば黒字にできると期待してアメリカのテレビ局と交渉を試みた。しかし当時は契約が得られなかった。)。 === 声の出演 === :* サファイヤ:[[太田淑子]] :* チンク:[[貴家堂子]] :* 王さま:[[小林恭治]] :* お妃さま:[[新道乃里子]] :* ジュラルミン大公:[[雨森雅司]] :* ナイロン卿:[[納谷悟朗]] :* 魔王メフィスト:[[塩見竜介]] :* ヘケート:[[荘司美代子]]→[[白石冬美]]→[[武藤礼子]]→[[栗葉子]] :* フランツ王子:[[喜多道枝]]、[[井上真樹夫]](40・41話代役) :* プラスチック:[[北川智繪|北川智恵子]] :* 海賊ブラッド:戸田皓久→[[広川太一郎]] :* 魔女ヘル夫人 : 志摩燎子→[[来宮良子]] :* うらなり博士 : [[西桂太]] :* ガリゴリ:[[池田一臣]] :* 乳母:[[麻生美代子]] :* X : [[小林修 (声優)|小林修]] :* その他の声の出演 : [[肝付兼太]]、[[青野武]]、[[富山敬]]、[[加藤精三 (声優)|加藤清三]]、[[田村錦人]]、[[野沢那智]]、[[山田康雄]]、[[永井一郎]]、[[丸山裕子]]、[[松島みのり]] 、[[大山のぶ代]]、[[八代駿]]、[[二見忠男]]、[[田の中勇]]、[[辻村真人]]、[[堀絢子]]、[[西尾徳]]、市原晴彦、木村愰、[[島田彰]]、[[鈴木泰明]]、雁坂彰、[[富田千代美]]、[[大塚周夫]]、北条みちる、三上由起、[[北村弘一]]、渡辺知子、[[細井重之]]、冬城五郎、[[森山周一郎]]、石津哲司、[[中曽根雅夫]]、引田耕志、関真知子、北島京子、伊東あつ子、菅野直行、[[筈見純]]、前川成人、牧恭介、[[熊倉一雄]]、[[杉浦宏策]]、[[田中信夫]] === スタッフ === * 総監督:手塚治虫 * チーフディレクター:赤堀幹治、勝井千賀雄 * デザイナーディレクター:[[大貫信夫]] * アニメーションディレクター:上口照人 * レイアウト:藤本四郎 * 作画監督:[[中村和子|穴見和子]]([[中村和子]]){{Efn|穴見和子と中村和子は同一人物である。本作のクレジットタイトルでの表記はすべて穴見和子となっている。パイロット版では[[月岡貞夫]]が中心となっており、放送版で用いたフィルムの一部には、原画、セル等にはパイロット版のものがかなり転用されている。}}、[[宮本貞雄]] * 作画制作:若尾博司、上口照人 * 美術監督:[[西田稔]]、あべこうじ * 美術:[[西田稔]]、槻間八郎、竹内俊英 * 色彩設定:沢井裕之 * 撮影監督:熊谷幌史 * 編集:古川雅土 * 資料:飯塚正夫、岡野憲一 * 音楽:[[冨田勲]] * 指揮:[[横山菁児]] * 演奏:フールサンズ * 音響監督:[[グループ・タック|田代敦巳]]、[[明田川進]] * 効果:虫プロ効果団([[浦上靖夫]]・月岡弘) * 録音:東京スタジオセンター(熊谷良兵衛) * 現像:[[IMAGICA|東洋現像所]] * 設定監督:瀬山よしふみ * 制作担当:小柳朔郎 * 制作事務:浅見民子、林小夜子 * 担当制作:斉藤一郎、[[サンライズ (アニメ制作会社)|渋江靖夫]] * プロデューサー:渡辺忠美、[[黒川慶二郎]] * 制作:[[虫プロダクション]]、フジテレビ(別所孝治) === 主題歌 === ; オープニングテーマ(王子編):「リボンの騎士」([[インストゥルメンタル]]) : 作曲・編曲 - [[冨田勲]] / 演奏 - フール・サンズ : 第1話から数話まではインストゥルメンタル曲を使用。 ; オープニングテーマ(王子編):「リボンの騎士」(歌詞あり) : 作詞 - 能加平 / 作曲・編曲 - 冨田勲 / 歌 - [[前川陽子]]、ルナ・アルモニコ : おそらく第5話{{Efn|正確な開始話数は現在不明。ただし、2022年9月現在Youtube手塚プロダクション公式チャンネルで期間限定配信されているものは、1話から25話までずっとインストゥルメンタル版(しかし、インストゥルメンタルであるにも関わらずしっかり「歌 前川陽子」「作詞 能加平」がクレジットされている)。}}から第25話まで「ぼくの」で始まる歌詞を使用。 ;オープニングテーマ(王女編):「リボンの騎士」(歌詞あり) : 作詞 - 能加平 / 作曲・編曲 - 冨田勲 / 歌 - 前川陽子、ルナ・アルモニコ : 第26話から第52話まで「あたしの」で始まる歌詞を使用。 : いわゆる「王子編」と「王女編」では歌詞だけでなくリズムと音律も異なり、「王女編」のスキャット部分には口笛が入る。前者の冒頭にはサファイヤ([[太田淑子]])のセリフが入っている{{Efn|王子編版は「アニメ60's」(TOCT-11002)などに、王女編版は「懐かしのアニメソング大全 1」(TOCT-8513)、「虫プロ アンソロジー 1963~1971」(MECB-2009)などに収録。また、「21世紀に遺したいアニメソング大全ミレニアムボックス」には、インスト版、王子編版、王女編版の3種類が収録されている。}}。 : レコード用のステレオ音源では「王子編」の歌詞が使われた(セリフなし){{Efn|「テレビまんが主題歌のあゆみ」(COCX-33498 - 9)、「手塚治虫 アニメーションワールド・ベスト・ソング・コレクション」(COCC-13209 - 10)、「前川陽子スーパー・ベスト 〜キューティーハニー/ひょっこりひょうたん島〜」(COCX-33277)などに収録。}}。 ; エンディングテーマ:「リボンのマーチ」 : 作詞 - 能加平 / 作曲・編曲 - [[冨田勲]] / 歌 - [[前川陽子]]、[[ヤング・フレッシュ]] === 各話リスト === 注:放送日は地方局では異なる場合がある。また外国ではエピソードの順番を変えて放送した場合がある。また1999年の日本テレビでの再放送では視聴率が振るわずに第26話までで打ち切られた。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!演出 |- |{{0}}1||'''1967年'''<br />4月2日||王子と天使|| rowspan="7" |能加平||[[手塚治虫]]<br />[[月岡貞夫]] |- |{{0}}2||4月9日||魔王登場の巻||[[大貫信夫]] |- |{{0}}3||4月16日||武術大会の巻|| rowspan="2" |[[富野喜幸]] |- |{{0}}4||4月23日||踊れフランツ |- |{{0}}5||4月30日||怪物の谷||[[坂口尚|坂口尚三]] |- |{{0}}6||5月7日||チンクの大冒険<br />(コビトと巨人)||赤堀幹治 |- |{{0}}7||5月14日||のろいの白鳥||上梨満雄 |- |{{0}}8||5月21日||幻の馬||内山順一郎||瀬山義文 |- |{{0}}9||5月28日||こわされた人形||能加平||富野喜幸 |- |10||6月4日||サファイヤのカーニバル||[[辻真先]]||上口照人 |- |11||6月11日||ねむりの精||能加平||大貫信夫 |- |12||6月18日||おんぼろ王子||辻真先||内田有紀彦 |- |13||6月25日||ばらの館|| rowspan="2" |能加平||正延宏三 |- |14||7月2日||七匹の仔やぎ||上梨満雄 |- |15||7月9日||黄金のキツネ狩り||辻真先||三輪孝輝 |- |16||7月16日||チンクとコレットちゃん||能加平||[[波多正美]] |- |17||7月23日||さよならユーレイさん||辻真先||[[進藤満尾]] |- |18||7月30日||ふしぎなカガミ|| rowspan="3" |能加平||坂口尚三 |- |19||8月6日||魔法のペン||上梨満雄 |- |20||8月13日||怪獣カゲラ||[[北野英明]] |- |21||8月20日||世界一のおやつ||辻真先||富野喜幸 |- |22||8月27日||たいかん式の巻|| rowspan="4" |能加平||手塚治虫 |- |23||9月3日||リボンの騎士現わる||内田有紀彦 |- |24||9月10日||嵐のかんおけ塔||正延宏三 |- |25||9月17日||王様バンザイ!!||坂口尚三 |- |26||9月24日||雪の女王|| rowspan="5" |辻真先||上梨満雄 |- |27||10月1日||急げ!黒雲島の巻||北野英明 |- |28||10月8日||鉄獅子<br />(恐怖の鉄獅子)||内田有紀彦 |- |29||10月15日||雪の女王の最後||坂口尚三 |- |30||10月22日||空とぶ怪盗||北野英明 |- |31||10月29日||チンクと海のお姫さま|| rowspan="3" |能加平||上梨満雄 |- |32||11月5日||サファイヤの宝||[[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]] |- |33||11月12日||ピラミッドの怪人||坂口尚三 |- |34||11月19日||巨鹿ムース||辻真先||内田有紀彦 |- |35||11月26日||飛行船を追え!|| rowspan="5" |能加平||[[西牧秀雄]] |- |36||12月3日||帰ってきた大魔女||高橋良輔 |- |37||12月10日||サファイヤを救え!||上梨満雄 |- |38||12月17日||騎士の掟||内田有紀彦 |- |39||12月24日||ビーナスのねたみ||北野英明 |- |40||'''1968年'''<br />1月7日||恐怖のX帝国|| rowspan="2" |熊井宏之||坂口尚三 |- |41||1月14日||おちゃめなテッピー||瀬山義文 |- |42||1月21日||ねずみ取り大作戦||坂本雄作||西牧秀雄 |- |43||1月28日||ワナにかかったサファイヤ||[[保富康午]]||[[奥田誠治 (アニメーション演出家)|奥田誠治]] |- |44||2月4日||さけぶ白ワシ|| rowspan="2" |辻真先||高橋良輔 |- |45||2月11日||チンクとゆうれい船||赤堀幹治 |- |46||2月18日||ふしぎの森のサファイヤ||[[丸山正雄]]||西牧秀雄 |- |47||2月25日||さまようフランツ||坂本雄作||[[彦根範夫]] |- |48||3月3日||海に消えたサファイヤ||能加平||内田有紀彦 |- |49||3月10日||ヘケートのほほえみ|| rowspan="2" |辻真先||南川博 |- |50||3月24日||バベル城の黒騎士||内田有紀彦 |- |51||3月31日||燃えるシルバーランド|| rowspan="2" |能加平|| rowspan="2" |坂口尚三 |- |52||4月7日||シルバーランド幸せに |} 上記の第22から第25までは四話一つながりの連続形式であり、第26から第29までも四話連続形式、第36と第37は二話連続形式、第51と第52も二話連続形式である。 1967年12月31日は映画『[[宇宙大戦争]]』(17:30 - 19:00)のため休止<ref>{{cite|和書|title=[[毎日新聞]] [[縮刷版]]|publisher=[[毎日新聞社]]|page=|date=1967-12-31}}ラジオ・テレビ欄</ref>。また1968年3月17日は『1968年第2回万国博デー』([[日本万国博覧会]]関連番組。17:30 - 18:26)と『[[番宣番組|番組案内]]』(18:26 - 18:30)のため休止<ref>{{cite|和書|title=毎日新聞 縮刷版|publisher=毎日新聞社|page=|date=1968-03-17}}ラジオ・テレビ欄</ref>。 また、本放送に先立って(1966年11月?)パイロットフィルム(放送局や潜在的なスポンサーに対しての見本となる作品)が作られた。 === 放送局 === {{出典の明記| date = 2019年7月| section = 1}} ==== 同時ネット ==== * フジテレビ * [[関西テレビ放送|関西テレビ]] * [[東海テレビ放送|東海テレビ]] * [[テレビ西日本]]<ref>『北日本新聞』1967年10月1日付朝刊テレビ欄より。</ref> ==== 時差ネット ==== * [[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]:火曜 18:00 - 18:30<ref>『[[北海道新聞]]』(縮刷版) 1967年9月 テレビ欄。</ref> ** [[北海道文化放送]]では、1972年4月の正式開局直後、金曜19:00 - 19:30枠の『[[コートにかける青春]]』(フジテレビ制作・[[江崎グリコ]][[一社提供]])が日本テレビ系フルネット局となった札幌テレビの編成に残ったため、枠の穴埋めかつ実質的な再放送として同時間帯に放送した<ref>『北海道新聞』1972年4月7日。テレビ欄。</ref>。 * [[仙台放送]]:木曜 18:15 - 18:45 → 水曜 18:15 - 18:45(第26話で終了) <ref>『福島民報』1967年4月6日 - 9月27日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福島中央テレビ]]:月曜 - 金曜 7:40 - 8:10、土曜 8:00 - 8:30<ref>『福島民報』1970年10月14日 - 12月11日付朝刊、テレビ欄。</ref><small>※ 1970年に放送。</small> * [[新潟放送]]:日曜 18:00 - 18:30<ref>富山新聞 1968年11月3日付テレビ欄。</ref> * [[北日本放送]]:月曜 17:30 - 18:00(1968年4月1日放送開始)<ref>富山新聞 1968年4月1日、11月4日付テレビ欄より。</ref> * [[広島テレビ放送|広島テレビ]]:水曜 18:15 - 18:45 == 舞台 == ; リボンの騎士 : 1983年7月5日 - 7月17日。[[渋谷パルコ]] スペース・パート3。出演:[[伊藤蘭]]、[[劇団電撃]] ; {{Anchors|リボンの騎士〜鷲尾高校演劇部奮闘記}}リボンの騎士〜鷲尾高校演劇部奮闘記 : 1998年11月6日 - 12月18日。[[ル テアトル銀座 by PARCO|銀座セゾン劇場]]。出演:[[一色紗英]]、[[井ノ原快彦]]、[[鈴木蘭々]]、[[黒田勇樹]]他。脚本:[[横内謙介]]、演出:[[河毛俊作]]。 : 2011年2月26日 - 2月27日。[[神奈川県立青少年センター]]。出演:[[朝倉みかん]]、[[橋本昭博]]、[[今泉舞]]、[[伊藤大征]]、[[渕上彩夏]]他。脚本、演出:[[横内謙介]]。 : 2014年9月11日 - 9月14日。[[六行会#六行会ホール|六行会ホール]]。出演:[[片山陽加]]、[[上木彩矢]]、[[椎名鯛造]]、[[内海啓貴]]他。脚本:横内謙介、演出:宇治川まさなり。 : 2016年3月10日 - 3月13日。六行会ホール。出演:[[鈴木裕乃]]、 [[伊藤優衣]]、佐伯太輔、[[水谷あつし]]他。脚本:横内謙介、演出:宇治川まさなり。<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/175267 |title=手塚治虫「リボンの騎士」を上演する演劇部描いた舞台、主演は鈴木裕乃 |work=コミックナタリー |date=2016-02-06 |accessdate=2016-03-05}}</ref> : 2018年6月16日・17日、厚木市文化会館 / 6月20日 - 7月1日、[[杉並区立杉並芸術会館|座・高円寺]]1。出演:[[新原武]]、[[高木トモユキ]]、[[伴美奈子]]他。脚本・演出:横内謙介。<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/stage/news/276721 |title= 扉座「リボンの騎士」2018年版、横内謙介「処女作を書いた頃の私の実体験」 |newspaper= ステージナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2018-04-05 |accessdate= 2018-04-22 }}</ref> : 本作品は、劇中にリボンの騎士のキャラクターが劇中劇という形で登場する形式が取られている。 ; リボンの騎士〜少女薔薇の英雄伝記〜 : 2001年8月8日 - 8月12日。[[スターキャスト]]製作。[[東京芸術劇場]]中ホール。出演:[[野村恵里]](サファイア)、[[大坂俊介]](フランツ)、[[ROLLY]](ヘル夫人)、[[齋藤彩夏]](チンク)他。脚本・演出:[[星要市]]。 ; リボンの騎士 : 2002年8月30日 - 9月1日。[[ハードランドミュージック]]製作。[[新宿文化センター]]大ホール。出演:[[茨木あゆみ]](サファイア)、[[田中幸太朗]](フランツ)、[[萩原加緒理]](王妃)、[[速水けんたろう]](ヘル夫人)、[[池内奈々美]](チンク)、[[酒井一圭]](ナイロン)、[[古谷暢一]](ブラッド)、[[三谷六九]](ジュラルミン)他。演出・振付:[[浦辺日佐夫]]、脚本・作詞:[[村田さち子]]、音楽:[[青木政憲]]。 : 2003年11月3日 - 11月24日(再演)。[[ハーモニーホール座間]]・[[ティアラこうとう]]。出演:[[冨岡真理央]](サファイア)、[[松風雅也]](フランツ)、[[萩原かおり]](王妃)、速水けんたろう(ヘル夫人)、[[高橋愛子]](チンク)、酒井一圭(ナイロン)、[[野沢聡]](ブラッド)、[[池田紳一]](ジュラルミン)、[[浅倉一男]](プラスチック)他。 ; リボン : 2003年12月5日 - 12月7日。[[一心寺シアター倶楽]]。出演:[[堀朱里]]、[[滝口ミラ]] : 本作品は[[宝塚音楽学校]]に通う生徒の劇中劇として演じられている。 === リボンの騎士 ザ・ミュージカル === 2006年8月1日 - 8月27日。[[新宿コマ劇場]]。出演:[[モーニング娘。]]、[[美勇伝]]他。以下に記述。 [[小川麻琴]]にとってはモーニング娘。としての事実上の卒業公演に当たり、本作の千秋楽をもってグループを卒業した。 '''キャスト 第1幕''' * サファイア:[[高橋愛]] - 実際は1役だが、亜麻色の髪の乙女やリボンの騎士、村娘など何変化も装いを変えて登場した。 * フランツ王子:[[石川梨華]]、[[安倍なつみ]]、[[松浦亜弥]] - トリプルキャスト。公演日によって配役が異なった。 * 大臣:[[吉澤ひとみ]] - 原作のジュラルミンに相当。 * 大臣の息子:[[久住小春]] - 原作のプラスチックに相当。 * 家臣ナイロン:[[小川麻琴]] * 魔女へケート:[[藤本美貴]] * 王・神さま:[[箙かおる]]([[宝塚歌劇団]]専科) * 王妃:[[マルシア]] * 近衛兵:[[三好絵梨香]]・[[岡田唯]] * 淑女:[[新垣里沙]]・[[亀井絵里]]・[[道重さゆみ]]・[[田中れいな]]・[[三好絵梨香]]・[[岡田唯]]・石川梨華 - 石川梨華の淑女役はフランツ王子役以外の時のみ務めた。また[[辻希美]]も淑女役を務める予定であったが、2006年7月のハロー!プロジェクトコンサートで右足を負傷したため、降板した。 '''キャスト 第2幕''' * 牢番ピエール:石川梨華、三好絵梨香、辻希美 - トリプルキャスト。公演日によって配役が異なった。 * 牢番トロワ:三好絵梨香 - この配役は辻希美と石川梨華がピエール役の時のみだった。「トロワ」はフランス語で「三」。 * 牢番コリン:岡田唯 - 「コリン」はフランス語で「岡」。 * 騎士ヌーヴォー:新垣里沙 - 「ヌーヴォー」はフランス語で「新」。 * 騎士トルテュ:亀井絵里 - 「トルテュ」はフランス語で「亀」。 * タレント・スカウト リュー:道重さゆみ - 「リュー」はフランス語で「道」。 * タレント・スカウト リジィエ:田中れいな - 「リジィエ」はフランス語で「田」。 '''スタッフ''' * 監修:[[植田紳爾]] * 脚本・演出:[[木村信司]] * 音楽:[[甲斐正人]] * スーパーバイザー:[[手塚眞]] * 制作:[[コマ・スタジアム|コマ・プロダクション]] === 2015年版 === '''なかよし60周年記念公演 ミュージカル「リボンの騎士」'''のタイトルで上演<ref name="natalie150825">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/158012|title=ミュージカル「リボンの騎士」主演は生田絵梨花、神永圭佑や青木玄徳も出演|publisher=ナターシャ|work=コミックナタリー|date=2015-08-25|accessdate=2015-08-25}}</ref>。少女漫画雑誌『[[なかよし]]』創刊60周年を記念して製作されたミュージカル作品。 2015年11月12日から11月17日まで[[TBS赤坂ACTシアター|赤坂ACTシアター]]、12月3日から12月6日まで[[シアターBRAVA!]]で上演(舞台の録画がテレビ放送され、DVD製品も販売された)。 '''キャスト(舞台・2015年版)''' ※所属は上演当時のもの。 * サファイア - [[生田絵梨花]]([[乃木坂46]]){{R|natalie150825}} * フランツ王子 - [[神永圭佑]] * 海賊ブラッド - [[青木玄徳]] * プラスチック - [[赤澤燈]] * 王妃 - [[池田有希子]] * 王 - [[香取新一]] * 乳母 - [[野口かおる]] * 博士 - [[千代田信一]] * 天使チンク - [[神田愛莉]] * ヘル夫人 - [[はいだしょうこ]] * ナイロン卿 - [[根本正勝]] * ジュラルミン大公 - [[八十田勇一]] * ヘケート - [[桜井玲香]](乃木坂46) '''スタッフ''' * 演出・振付 - [[上島雪夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nelke.co.jp/stage/ribbon-no-kishi/|title=なかよし60周年記念公演 ミュージカル「リボンの騎士」|work=ミュージカル「リボンの騎士」製作委員会2015|publisher=ネルケプラニング|date=2015|accessdate=2016-07-08}}</ref> * 脚本 - [[浅井さやか]] * 音楽 - [[かみむら周平]] == CD・DVD == * 「リボンの騎士」(EPレコード、品番:CK-504)※詳細要調査。 * 「リボンの騎士」(1967年5月1日、朝日ソノラマ、ソノシート、品番:M-87)※OP、EP、収録ドラマ「王子と天使」。 * 「リボンの騎士」(1967年7月5日、日本コロムビア、品番:SCS-30)※OP、EP。 * 「リボンの騎士」(1967年9月2日、朝日ソノラマ、ソノシート、品番:N-3) ※OP、EP、収録ドラマ「悪魔の白鳥」。 * アニメ愛蔵版シリーズ「リボンの騎士」(1978年、日本コロムビア、LPレコード、品番:CS-7083)音楽:冨田勲 ※ドラマ仕立ての豪華アルバム * リボンの騎士(秋田CD文庫)秋田書店、1995年 * 懐かしのミュージッククリップ29「リボンの騎士」(1997年9月26日、東芝EMI、CD、品番:TOCT-9935、収録:41分)音楽:冨田勲。※ミュージッククリップ44との相違は不明。何らかの理由でキャンセルされて44として出し直した可能性。詳細要調査。 * [CDアルバム・ミニアルバム] 懐かしのミュージッククリップ44「リボンの騎士」(1998年8月26日、東芝EMI、CD、品番:TOCT-10404)、音楽:冨田勲(テレビアニメのサントラからのハイライト集) * 「手塚治虫生誕70周年記念特別企画 リボンの騎士 TVオリジナル・サウンドトラック」(1999年8月21日に発売予定であったがキャンセルされた、CD4枚組、バンダイ・ミュージックエンタテインメント)※テレビ放送製作用BGM演奏の残存した音源テープを元に加工し収録したもので、作曲家からの販売差し止め請求により発売中止となり現物は存在しない幻の商品。 * リボンの騎士 Complete BOX[XT-2096/105][DVD10枚組]、コロムビアミュージックエンタテインメント、:2005年9月21日(虫プロ製作のテレビアニメの全エピソード+パイロットフィルム)音楽:冨田勲 * CD『「リボンの騎士 ザ・ミュージカル」ソング・セレクション』 [[アップフロントワークス|zetima]] EPCE-5415(初回生産限定版)/EPCE-5416(通常版)(2006年7月26日) * DVD『リボンの騎士 ザ・ミュージカル DVD』 zetima EPBE-5216 - 8(3枚組)(2006年11月29日)※2006年8月新宿コマ劇場の舞台公演の収録。 * リボンの騎士 Complete BOX[XT-2689/98][DVD10枚組]、コロムビアミュージックエンタテインメント、2008年7月23日(虫プロ製作のテレビアニメの全エピソード+パイロットフィルム)※音楽:冨田勲 * サウンドシアタードラマCD リボンの騎士(発売元:モモグレ、販売元:アルドゥール)品番:MOMO-8008、2011年1月27日 * TV用王子編のOP旋律を王女編の歌詞で初音ミク(ボーカロイド)が歌う曲「リボンの騎士」がCD「イーハトーヴ交響曲」(2013年1月23日、日本コロムビア、COGQ-62)に収録。これは2012年11月23日に東京オペラシティで行われた冨田勲の「イーハトーヴ」交響曲初演コンサートのアンコール演奏の録音。 *「なかよし60周年記念公演 ミュージカル「リボンの騎士」」DVD(1枚)、[[ネルケプランニング]](2016年4月28日)※2015年11月・12月に行われた舞台公演の収録。 上記以外にも、フジテレビのテレビアニメ版については、(少なくとも)第一話の上映用貸出16mm映写機フィルム,家庭用8mm映写機用の「あばれ王子(?)」の他に、LDによる収録、VHSテープによる収録もあった。そのほか、輸出されたフィルムから再編集して作られた単発長編で(輸出時の契約条項を無視して)日本国内に持ち込まれたものが、あろうことか日本の大手テレビ局で外国映画作品として紹介され放送される珍事件が起きたこともある。 == リメイク == * [[サファイア リボンの騎士]](『なかよし』。2008年5月号〜2009年7月号。シナリオ:[[高橋ナツコ]]・作画:[[花森ぴんく]]) - 現代の日本を舞台に子孫の先祖の名前を継いだサファイアを主人公とする物語。 * [[RE:BORN 仮面の男とリボンの騎士]](『[[ぷら@ほ〜む]]』→『[[スピネル (ウェブサイト)|スピネル]]』。[[2013年]]7月配信~連載中。シナリオ:[[神楽坂淳]]・作画:[[フカキショウコ]]) - ジュラルミン大公の息子・プラスチックが主人公、サファイアが準主人公兼ヒロインになっている。また、「サファイアが持つ男の心は本来プラスチックに授けられるはずだった心」「チンクは黒幕の陰謀を阻止するため地上に訪れた天界の使者」など、独自のアレンジが加えられている。 * [[新約・リボンの騎士]](『テヅコミ』。vol.1(創刊号)~vol.18(最終号)。作画:武礼堂([[村正みかど]]・宮本ろば・はまむらとしきり)) * [[ヘケート――女の子ってなんなの!?]](『テヅコミ』。vol.5。作画:エルザ・ブランツ ・翻訳:[[原正人 (バンド・デシネ研究者)|原正人]]。読み切り作品(単行本未収録)) == 関連項目 == * [[宝塚市]][[観光大使]]リボンの騎士「サファイア」 - 手塚の出身地である兵庫県宝塚市観光大使の名称。本作から採用されたものである<ref>{{Cite web |author= |url= https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/kanko/kankoinfo/1051315/1028490/index.html|title= 宝塚市観光大使リボンの騎士「サファイア」|website= 観光|publisher= 兵庫県宝塚市|language= 日本語|date= |accessdate=2023-11-07}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://tezukaosamu.net/jp/ TezukaOsamu.net] * [http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/ 宝塚市立手塚治虫記念館] * [https://www.osamushi.info/ 手塚治虫メーリングリスト] * [http://tezukaosamumagazineclub.com/ 手塚治虫マガジン倶楽部 - 手塚プロダクション公式サイト] * [https://tezukaosamu.net/jp/manga/559.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(マンガ『リボンの騎士(少女クラブ版)』)] * [https://tezukaosamu.net/jp/manga/560.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(マンガ『リボンの騎士(なかよし版)』)] * [https://tezukaosamu.net/jp/anime/35.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(アニメ『リボンの騎士(TVアニメ)』)] * [https://tezukaosamu.net/jp/anime/25.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(アニメ『リボンの騎士(短編アニメ)』)] * [https://tezukaosamu.net/jp/anime/100.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(アニメ『リボンの騎士(パイロット)』)] * [https://columbia.jp/dvd/mushipro/ribbonnokishi/pr.html TVアニメ「リボンの騎士」の番組の企画書について] * [https://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=452 Princess Knight (TV) in ANIME NEWS NETWORK] * [https://hdl.handle.net/10638/4976 中川裕美:「少女マンガの「戦う少女」にみるジェンダー規範 : 『リボンの騎士』から『美少女戦士セーラームーン』まで」、愛知淑徳大学大学院現代社会研究科 現代社会研究科研究報告、6号、127-142頁(2011年3月4日)] * [https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I032830769-00 神戸啓多:"手塚治虫「リボンの騎士」における「戦う少女」の表象", 日本マンガ学会、マンガ研究、Vol.29(2023年3月)、pp.93-118。] # 少女クラブ版に対する論説。 {{前後番組| 放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系| 放送枠=[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18:30枠]](放送開始から1967年[[6月25日]]まで)| 番組名=リボンの騎士| 前番組=[[バットマン (テレビドラマ)|バットマン]]<br />(実写版)| 次番組=[[マッハGoGoGo]]<br />(第1作14話から最終回まで)| 2放送局=フジテレビ系| 2放送枠=[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18:00枠]](1967年[[7月2日]]から最終回まで)| 2番組名=リボンの騎士| 2前番組=バットマン<br />(実写版)| 2次番組=[[三匹の侍]]<br />(再放送、17:30-18:27)<hr />[[ガイド (テレビ放送)|ガイド]]<br />(18:27-18:30)| }} {{手塚治虫}} {{デフォルトソート:りほんのきし}}<!--Category:リボンの騎士が削除確実なので、削除された時元カテゴリが不明にならない様、一時的に二重カテゴリでつけます--> [[Category:手塚治虫の作品]] [[Category:漫画作品 り|ほんのきし]] [[Category:1952年の漫画]] [[Category:児童・幼年雑誌掲載漫画作品]] [[Category:なかよし本誌の漫画作品]] [[Category:二人組を主人公とした漫画作品]] [[Category:ファンタジー漫画]] [[Category:王子を主人公とした漫画作品]] [[Category:王女を主人公とした漫画作品]] [[Category:男装漫画]] [[Category:城を舞台にした作品]] [[Category:TBSラジオのドラマ]] [[Category:アニメ作品 り|ほんのきし]] [[Category:1967年のテレビアニメ]] [[Category:フジテレビ系アニメ]] [[Category:なかよしKCのアニメ作品]] [[Category:ファンタジーアニメ]] [[Category:王子を主人公としたアニメ作品]] [[Category:王女を主人公としたアニメ作品]] [[Category:男装アニメ]] [[Category:変身ヒロインアニメ]] [[Category:二人組を主人公としたアニメ作品]] [[Category:サンスター一社提供番組]]<!--約3ヶ月で打ち切られたとはいえ、最初はサンスターの一社提供であったので、他のサンスター一社提供番組同様これを置く事にした。--> [[Category:楽曲 り|ほんのきし]] [[Category:1967年の楽曲]] [[Category:冨田勲の楽曲]] [[Category:前川陽子の楽曲]] [[Category:朝日ソノラマの楽曲]] [[Category:日本のミュージカル作品]] [[Category:漫画を原作とする舞台作品]] [[Category:モーニング娘。]]
2003-09-06T11:05:30Z
2023-11-07T12:49:12Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Otheruses", "Template:Infobox animanga/Other", "Template:R", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:前後番組", "Template:手塚治虫", "Template:Infobox animanga/Header", "Template:Infobox animanga/TVAnime", "Template:Anchors", "Template:節スタブ", "Template:Infobox animanga/manga", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Efn", "Template:Cite", "Template:Infobox animanga/Manga", "Template:Notelist", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%A8%8E%E5%A3%AB
15,409
エンゼルの丘
『エンゼルの丘』(エンゼルのおか)は、手塚治虫による少女漫画作品。人魚伝説をモチーフにしている。 1960年-1961年に『なかよし』で連載された。人魚族のプリンセスであるルーナの運命を、人間界と絡めて描く。 低年層をターゲットとしているが、ストーリーなどの充実度は高い(単行本化のバージョンによって、登場人物の設定などに変化があることに注意)。しかし、この単行本化は時代に応じて変化し、人によって「ストーリーに整合性が欠ける」(中でも虫プロ版)とも評される。 なおこのルーナは後の作品であるアニメ版の『海のトリトン』のピピの原型キャラクターとなった。 人魚のすむ南海の美しい島エンゼル島。 島の王女ルーナは掟に触れ、海に流されてしまった。 日本人青年・英二に救出されたものの、ルーナの記憶は失われていた...。 連載版は幸せを求めて他人を幸せにしようとするが、後の虫プロ単行本版では、失った過去に対して今を強く生きようとする。 英二の妹のあけみとルーナはそっくりであるとされ、エンゼル島でのルーナの社会的立場、あけみとルーナ、その家族や周辺、あけみの家の立場、それぞれの国の階層の上下とありよう、などいろんなものが対比・入れ替わり・変化しながら展開していく。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『エンゼルの丘』(エンゼルのおか)は、手塚治虫による少女漫画作品。人魚伝説をモチーフにしている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1960年-1961年に『なかよし』で連載された。人魚族のプリンセスであるルーナの運命を、人間界と絡めて描く。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "低年層をターゲットとしているが、ストーリーなどの充実度は高い(単行本化のバージョンによって、登場人物の設定などに変化があることに注意)。しかし、この単行本化は時代に応じて変化し、人によって「ストーリーに整合性が欠ける」(中でも虫プロ版)とも評される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なおこのルーナは後の作品であるアニメ版の『海のトリトン』のピピの原型キャラクターとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人魚のすむ南海の美しい島エンゼル島。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "島の王女ルーナは掟に触れ、海に流されてしまった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本人青年・英二に救出されたものの、ルーナの記憶は失われていた...。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "連載版は幸せを求めて他人を幸せにしようとするが、後の虫プロ単行本版では、失った過去に対して今を強く生きようとする。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "英二の妹のあけみとルーナはそっくりであるとされ、エンゼル島でのルーナの社会的立場、あけみとルーナ、その家族や周辺、あけみの家の立場、それぞれの国の階層の上下とありよう、などいろんなものが対比・入れ替わり・変化しながら展開していく。", "title": "あらすじ" } ]
『エンゼルの丘』(エンゼルのおか)は、手塚治虫による少女漫画作品。人魚伝説をモチーフにしている。
『'''エンゼルの丘'''』(エンゼルのおか)は、[[手塚治虫]]による[[少女漫画]]作品。[[人魚]]伝説をモチーフにしている。 == 概要 == [[1960年]]-[[1961年]]に『[[なかよし]]』で連載された。人魚族のプリンセスであるルーナの運命を、人間界と絡めて描く。 低年層をターゲットとしているが、ストーリーなどの充実度は高い(単行本化のバージョンによって、登場人物の設定などに変化があることに注意)。しかし、この単行本化は時代に応じて変化し、人によって「ストーリーに整合性が欠ける」(中でも虫プロ版)とも評される<ref>「少女マンガの表現機構」(岩下朋世)(博士論文の加筆単行本化)</ref>。 なおこのルーナは後の作品であるアニメ版の『[[海のトリトン]]』のピピの原型キャラクターとなった。 == あらすじ == 人魚のすむ南海の美しい島エンゼル島。 島の王女ルーナは掟に触れ、海に流されてしまった。 日本人青年・英二に救出されたものの、ルーナの記憶は失われていた…。 連載版は幸せを求めて他人を幸せにしようとするが、後の虫プロ単行本版では、失った過去に対して今を強く生きようとする。 英二の妹のあけみとルーナはそっくりであるとされ、エンゼル島でのルーナの社会的立場、あけみとルーナ、その家族や周辺、あけみの家の立場、それぞれの国の階層の上下とありよう、などいろんなものが対比・入れ替わり・変化しながら展開していく。 == 単行本 == * [[手塚治虫漫画選集]]『エンゼルの丘』([[鈴木出版]])全4巻 * [[虫コミックス]] 『エンゼルの丘』([[虫プロ商事]])全2巻 * [[手塚治虫漫画全集]]『エンゼルの丘』([[講談社]])全2巻 * 講談社漫画文庫『エンゼルの丘』(講談社)全1巻 * [[手塚治虫文庫全集]]『エンゼルの丘』(講談社)全1巻 == 関連作品 == *『[[青いトリトン]]』 :本作に登場したポセイドンはこの「青いトリトン」に登場する。 * 海色のANGEL :[[池田美代子]]による、本作品をベースにした[[青い鳥文庫]]での作品。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == *[https://tezukaosamu.net/jp/manga/52.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ] {{手塚治虫}} {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:えんせるのおか}} [[Category:手塚治虫の作品]] [[Category:漫画作品 え|んせるのおか]] [[Category:なかよし本誌の漫画作品]] [[Category:人魚を題材とした漫画作品]] [[Category:王女を主人公とした漫画作品]] [[Category:1960年の漫画]]
null
2021-11-20T03:21:47Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:手塚治虫", "Template:Manga-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%98
15,411
バイナリ転送プロトコル
バイナリ転送プロトコル(バイナリてんそうプロトコル)は、パソコン通信などで利用されるバイナリデータの通信プロトコルである。パソコン通信で送受信できるデータは基本的にテキストデータ(文字情報)のみであり、バイナリデータ(画像など)を送受信するには各種バイナリ転送プロトコルに従ってデータの送受信を行うソフトウェアを使用する必要がある。 代表的なプロトコルにXMODEMがある。バイナリデータを扱えない場合にはish、uuencode、BinHexなどのツールを利用し、テキストデータに変換して送受信することもある。 ※送信側、もしくは受信側の設定により可能。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バイナリ転送プロトコル(バイナリてんそうプロトコル)は、パソコン通信などで利用されるバイナリデータの通信プロトコルである。パソコン通信で送受信できるデータは基本的にテキストデータ(文字情報)のみであり、バイナリデータ(画像など)を送受信するには各種バイナリ転送プロトコルに従ってデータの送受信を行うソフトウェアを使用する必要がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "代表的なプロトコルにXMODEMがある。バイナリデータを扱えない場合にはish、uuencode、BinHexなどのツールを利用し、テキストデータに変換して送受信することもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "※送信側、もしくは受信側の設定により可能。", "title": "各種バイナリ転送プロトコルの比較" } ]
バイナリ転送プロトコル(バイナリてんそうプロトコル)は、パソコン通信などで利用されるバイナリデータの通信プロトコルである。パソコン通信で送受信できるデータは基本的にテキストデータ(文字情報)のみであり、バイナリデータ(画像など)を送受信するには各種バイナリ転送プロトコルに従ってデータの送受信を行うソフトウェアを使用する必要がある。 代表的なプロトコルにXMODEMがある。バイナリデータを扱えない場合にはish、uuencode、BinHexなどのツールを利用し、テキストデータに変換して送受信することもある。
'''バイナリ転送プロトコル'''(バイナリてんそうプロトコル)は、[[パソコン通信]]などで利用される[[バイナリ|バイナリデータ]]の[[通信プロトコル]]である。パソコン通信で送受信できるデータは基本的に[[テキスト|テキストデータ]](文字情報)のみであり、バイナリデータ([[画像]]など)を送受信するには各種バイナリ転送プロトコルに従ってデータの送受信を行う[[ソフトウェア]]を使用する必要がある。 代表的なプロトコルに[[XMODEM]]がある。バイナリデータを扱えない場合には[[ish]]、[[uuencode]]、[[BinHex]]などのツールを利用し、テキストデータに変換して送受信することもある。 == 各種バイナリ転送プロトコルの比較 == {| class="wikitable" ! プロトコル名 ! パケット長(単位:バイト) ! ファイル情報転送 ! 先送り処理 ! エラー検出 ! エラーの回復 ! バッチ転送 ! 制御文字のクォート ! リジューム |- | [[XMODEM]]/SUM | 128 | × | × | 8ビットチェックサム | ○ | × | × | × |- | XMODEM/CRC | 128 | × | × | 16ビットCRC | ○ | × | × | × |- | XMODEM/1k | 1024 or 128 | × | × | 16ビットCRC | ○ | × | × | × |- | Flying-XMODEM | 128 or 1024 | × | ○ | 16ビットCRC | × | × | × | × |- | [[YMODEM]] | 1024 or 128 | ○ | × | 16ビットCRC | ○ | ○ | × | × |- | YMODEM-g | 1024 or 128 | ○ | ○ | 16ビットCRC | × | ○ | × | × |- | [[ZMODEM]] | 最大1024の可変長 | ○ | ○ | 16ビットCRC<br />もしくは<br />32ビットCRC | ○ | ○ | ○ | ○ |- ! プロトコル名 ! パケット長(単位:バイト) ! ファイル情報転送 ! 先送り処理 ! エラー検出 ! エラーの回復 ! バッチ転送 ! 制御文字のクォート ! リジューム |- | [[B Plus (プロトコル)|B Plus]]<ref name = abcBplus /> | 128バイト単位の可変長 | ※ | ※ | 8ビットチェックサム<br />もしくは<br />16ビットCRC | ○ | × | ○ | ※ |- | [[MLINK]] | パケットの形態を取らない | ○ | 連続転送 | × | × | ○ | × | × |- | [[Nmodem]] | 128~4096の可変長 | ○ | ○ | 16ビットCRC | ○ | ○ | × | ○ |- | [[QuickVAN]] | 128 | ○ | ○ | 8ビットチェックサム | ○ | ○ | × | ○ |- | [[TransIt]] | 実効91 or 106 | ○ | ○ | 8ビットチェックサム<br />もしくは<br />16ビットCRC | ○ | ○ | 全てのデータをクォート | × |- ! プロトコル名 ! パケット長(単位:バイト) ! ファイル情報転送 ! 先送り処理 ! エラー検出 ! エラーの回復 ! バッチ転送 ! 制御文字のクォート ! リジューム |} ※送信側、もしくは受信側の設定により可能。 == 脚注 == {{Reflist | refs = <ref name = abcBplus>[[CompuServe]]発祥のプロトコルで、XMODEMの約2倍の転送速度を持つ。日本においては1990年1月に[[ニフティサーブ]]が採用するなどした。{{cite encyclopedia | encyclopedia = 『電脳辞典 1990's パソコン用語のABC』 | title = BPlus | editor = ピクニック企画, 堤大介 | language = 日本語 | date = 1990-03-01 | publisher = ピクニック企画 | isbn = 4-938659-00-X | pages = 281}}</ref> }} == 関連記事 == *[[カーミット (プロトコル)]] *[[Base64]] *[[ish]] *[[uuencode]] *[[BinHex]] *[[Macバイナリ|MacBinary]] {{DEFAULTSORT:はいなりてんそうふろとこる}} [[Category:通信プロトコル]] [[Category:パソコン通信]] [[Category:ファイル転送プロトコル]] {{Computer-stub}}
null
2019-12-03T16:33:57Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Computer-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AA%E8%BB%A2%E9%80%81%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB
15,414
東急8000系電車
東急8000系電車(とうきゅう8000けいでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄(現・東急電鉄)に在籍していた通勤形電車。 東急での運用終了後は伊豆急行とインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(KRLジャボデタベック)に売却されたが、本記事では後者のみ扱う(伊豆急行への譲渡車は伊豆急行8000系電車の記事を参照のこと)。 東急では、編成呼称の際に渋谷・大井町方先頭車の車両番号を使用している。このため、本記事では渋谷・大井町方先頭車の車両番号を編成名表記(例:8001F、末尾の「F」は編成を意味するFormationの頭文字)として扱う。 東急では初の20 m車で、量産車で日本初となるワンハンドルマスコン、電気指令式ブレーキを採用した車両で、東急の主力車として大量に増備された。輸送力増強および東横線に残存していた旧型吊り掛け駆動車の置き換えも本系列により行われた。機器などがほぼ同じとなる広義の8000系としては677両が製造された。 なお、広義の8000系は、 の3系列も含めるが、ここでは狭義の8000系のみを解説する。 1962年(昭和37年)登場の7000系電車以来の流れを汲むアメリカ・バッド社のライセンスによるオールステンレス車で、機能最優先な直線基調の形態である。輸送力増強と将来の新玉川線での使用を念頭に、東急では初の20 m級・両開き4ドア車体となり、以降の同社の標準となった。 製造当初からしばらくの間、車体はステンレスの地色のままであったが、1988年(昭和63年)の春から夏にかけて先頭車の前面に赤帯が配された。 制御系には回生制動が可能な他励界磁チョッパ制御方式を世界で初めて実用化し、また、運転台操作系には、量産車としては日本初となる、マスコンハンドルとブレーキレバーを一体化した「ワンハンドルマスコン」が採用されている。 ワンハンドルマスコンの操作法については、“押して制動・引いて力行”と言う方法と、馬の御し方に基づいたその逆の2つの案があり、最終的には前者に決定したが、これが“人間工学に基づいたシステム”と評価された。日本の鉄道車両は以降輸入車を除いてこの方式を踏襲している。また、ワンハンドル方式の運転台自体は高松琴平電気鉄道の10000形や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)の6000系試作車などにも試験的に採用されていたが、普及することはなかった。 他にも、応答性に優れ、当時最先端であった電気指令式ブレーキを装備し、補助電源供給には、保守に手間のかかる従来の電動発電機(MG) に代え、静止形インバータ(SIV)を採用するなどの特徴が見られる。 主電動機は複巻電動機のTKM-69形・TKM-80形・TKM-82形の3つで、日立製作所・東洋電機製造・東芝の三社競作である。それぞれのモーターは音に違いがあり、TKM-69形は1979年までに製造されたモーターで高速域で低音を発し、TKM-80は1980年以降のモーターで、高速域が高音となった。TKM-82は1982年以降の製造で1M制御用、4個モーターを直並列制御し、低速域の音が大きく変わっている。高速域はTKM-80とほぼ同じ音を出す。 台車はほぼ7200系のものを踏襲しており、動力台車はTS-807形、付随台車はパイオニアIII系のPIII-708形である。PIII-708形については乗り心地に難があり、1990年から1993年にかけて動力台車に準じた構造のTS-815F形に交換された。 冷房装置については1次車(8001F - 8009F・5両編成5本)は非冷房車で登場した。この時には屋根上にベンチレーター(通風器)が搭載されていた。2次車(8011F - )からは屋根上に冷房装置の外キセ(カバー)のみを装着した「冷房準備車」として登場した。これは冷房車のように見えるが、実は非冷房車であることから、俗に「ニセ冷房車」「空(くう)ラー車」などと呼ばれた。これらの車両は後に本来の設計通り、冷房装置を搭載する改造がされている。なお、2次車最後の8019Fは東急初の冷房装置搭載車として1971年(昭和46年)5月19日より運転に入った。その後は4次車(8031F - 8041F・5両編成6本・冷房準備車)や5・6次車の8200形を除きすべて新製時より冷房装置を搭載している。なお、冷房準備車は1970年代中期に冷房装置が搭載されたのに対し、1次車はこれより遅く1980年代後半に冷房化が実施されたために電源機器が異なる。 搭載機器は下記編成表参照。 本系列の外観は一見、画一的であるが、雨樋・屋根周辺処理・非常口のドア枠・側面行先表示器の横幅の相違で、多様なバリエーションが存在する。 東横線所属編成を対象に行われ、1992年から1997年までに11編成が施工された。 また大井町線には、外観はそのままに早期の廃車を見越して東横線の車両よりも更新内容を簡略化(座席定員が原型のままなど)した簡易的な更新車が4編成(8001F・8003F・8005F・8047F)存在した。 東横線では8090系導入以降、ダイヤが乱れた時以外は基本的に各駅停車運用だったが、2001年3月28日のダイヤ改正で全系列が共通運用になると特急・急行にも多く使用された。なお、特急運行開始直後にはそれを記念してかつての急行表示板を掲出していた所に青地に桜をデザインした「特急」マークを期間限定で掲出していた。 2003年(平成15年)3月19日ダイヤ改正に伴うLED式行先表示器のROM交換では、書体が明朝体から視認性に優れたゴシック体に変更された。字幕式行先表示の車両では方向幕の交換が実施された。 2001年(平成13年)より廃車が開始され、東横線では2006年(平成18年)9月25日のダイヤ改正からは平日ラッシュ時のみの運行となっていた。 大井町線の車両は、こどもの国線の多客時や同線専用の7000系の検査時に臨時で同線の運用に入ることがあった。主に「こどもの国」の行先表示幕を持つ8001F・8003F・8005F・8049F・8051Fが使われ、運用時には先頭車の前面に「こどもの国」のシンボルマークが掲出された。また、着雪防止のためにパンタグラフがシングルアーム式に変更されていた(廃車直前に通常の菱形パンタグラフに戻された車両も存在した)。 前述したが、過去には8500系に組み込まれていた車両も存在した。中間車代用として組み込まれたクハ8000形は、貫通扉と乗務員扉で運転台を締め切り、隣の車両との通り抜けが可能だった。 その他、1987年と1988年の夏に大井町線の8001F - 8005Fと東横線の8011F - 8015Fとで上り方制御車のみ交換されたことがある。このうちクハ8011は1988年夏季にこどもの国線にも入線した。 東横線の8007Fは、2005年6月24日より前面赤帯・側面無帯から伊豆急行譲渡車と同一の伊豆急カラーとなり、臨時急行列車「伊豆のなつ号」として翌7月2日から24日までの土・日曜日(17日は除く)に東横線と乗り入れ先のみなとみらい線で運転された(詳細は伊豆のなつ号を参照)。その後伊豆急行には譲渡されず、インドネシアのPT Kereta Apiに、伊豆急カラーのままで売却された。 さらに同月からは東横線の8039Fが先頭車前面の赤帯を撤去するとともに、前面行先表示器をLED式から先に運用終了した8021Fの発生品である幕式への交換(側面はLED式のまま存置)、優等列車で運用する際の通過標識灯(急行灯)点灯など、登場時に近い形に復元されて運行された。その8039Fも2007年6月22日に定期運用を離脱し、それを記念して同月30日と7月1日にイベント列車「リバイバル急行8000系号」として運転した。このイベント列車のために、先頭車前面左側への「急行」プレートの装着や過去に存在していた「渋谷」「急-渋谷」「元住吉」のほか、過去の運転時には実在しなかった白地に黒字の「元町・中華街」や赤地に白字の「急-元町・中華街」と表記された前面行先表示が用意され、クハ8039の前面窓ガラス支持Hゴムは白に近い色のペイントがなされるとともに、車内には8000系の歩みを振り返るポスターが掲出された。この表示はイベント列車としての運用終了後に「急行」プレートを「8000 Thank You!」と表記された特製プレートに交換して元住吉検車区に入庫した後、通常の表示に戻された(リバイバル急行8000系号(東急電鉄))。その後長津田検車区に回送され、同月11日に鷺沼車両基地に疎開回送され、同年8月12日に再び長津田検車区に回送、そして同月17日に長津田車両工場に回送された後、PT Kereta Apiに売却された。 東横線に残った8019Fについては、2007年12月17日・18日に「さようなら8019F 1971-2007」(クハ8019)・「8019F引退 1971-2007」(クハ8020)と表記されたヘッドマークを掲出して運用に就き、18日をもって営業運転を終了した。その後、27日には長津田車両工場へ回送された。 もう1本の8017Fは、2007年12月以降急行運用に入る際には「急行」プレートを装着して運行された。また、2008年1月1日・2日には新年を記念して土休日ダイヤにおいて運行され、前面には「元旦(1日)・賀正(2日)」(クハ8017)・「謹賀新年」(クハ8018)と表記されたプレートを装着して運転された。これは日中特急指定運用の17運行において運転されたが、両日とも14時台に車両交換により運転を終了している。 そして同年1月13日に、臨時特急としてさよなら運転が実施された。(8000系さよなら運転(東急電鉄))。この際には、先頭車前面の行先表示器はLED式から幕式に交換され、過去に存在しなかった特急運転開始時のデザイン(全体が橙地に白字)の「特急 元町・中華街」表記が用意された。また、通過標識灯が点灯されたほか、「ありがとう8000系」(クハ8017)、「8000系 さようなら 1969-2008」(クハ8018)と表記されたヘッドマークも掲出された。運行番号は「39」であった。車内には8000系の歩みのほか、ヘッドマークの製作状況を記載したポスターが掲出された。そして、同月23日に先頭車前面の行先表示器を幕式からLED式に戻し、長津田車両工場へ回送された。これをもって東横線・みなとみらい線での8000系の旅客営業運転を終了した。 本形式の運用離脱車は、当初売却交渉の難航や廃車体の留置スペース不足から解体されていたが、2004年以降になって一部車両が譲渡・売却されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急8000系電車(とうきゅう8000けいでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄(現・東急電鉄)に在籍していた通勤形電車。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東急での運用終了後は伊豆急行とインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(KRLジャボデタベック)に売却されたが、本記事では後者のみ扱う(伊豆急行への譲渡車は伊豆急行8000系電車の記事を参照のこと)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東急では、編成呼称の際に渋谷・大井町方先頭車の車両番号を使用している。このため、本記事では渋谷・大井町方先頭車の車両番号を編成名表記(例:8001F、末尾の「F」は編成を意味するFormationの頭文字)として扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急では初の20 m車で、量産車で日本初となるワンハンドルマスコン、電気指令式ブレーキを採用した車両で、東急の主力車として大量に増備された。輸送力増強および東横線に残存していた旧型吊り掛け駆動車の置き換えも本系列により行われた。機器などがほぼ同じとなる広義の8000系としては677両が製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、広義の8000系は、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "の3系列も含めるが、ここでは狭義の8000系のみを解説する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)登場の7000系電車以来の流れを汲むアメリカ・バッド社のライセンスによるオールステンレス車で、機能最優先な直線基調の形態である。輸送力増強と将来の新玉川線での使用を念頭に、東急では初の20 m級・両開き4ドア車体となり、以降の同社の標準となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "製造当初からしばらくの間、車体はステンレスの地色のままであったが、1988年(昭和63年)の春から夏にかけて先頭車の前面に赤帯が配された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "制御系には回生制動が可能な他励界磁チョッパ制御方式を世界で初めて実用化し、また、運転台操作系には、量産車としては日本初となる、マスコンハンドルとブレーキレバーを一体化した「ワンハンドルマスコン」が採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ワンハンドルマスコンの操作法については、“押して制動・引いて力行”と言う方法と、馬の御し方に基づいたその逆の2つの案があり、最終的には前者に決定したが、これが“人間工学に基づいたシステム”と評価された。日本の鉄道車両は以降輸入車を除いてこの方式を踏襲している。また、ワンハンドル方式の運転台自体は高松琴平電気鉄道の10000形や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)の6000系試作車などにも試験的に採用されていたが、普及することはなかった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "他にも、応答性に優れ、当時最先端であった電気指令式ブレーキを装備し、補助電源供給には、保守に手間のかかる従来の電動発電機(MG) に代え、静止形インバータ(SIV)を採用するなどの特徴が見られる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "主電動機は複巻電動機のTKM-69形・TKM-80形・TKM-82形の3つで、日立製作所・東洋電機製造・東芝の三社競作である。それぞれのモーターは音に違いがあり、TKM-69形は1979年までに製造されたモーターで高速域で低音を発し、TKM-80は1980年以降のモーターで、高速域が高音となった。TKM-82は1982年以降の製造で1M制御用、4個モーターを直並列制御し、低速域の音が大きく変わっている。高速域はTKM-80とほぼ同じ音を出す。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "台車はほぼ7200系のものを踏襲しており、動力台車はTS-807形、付随台車はパイオニアIII系のPIII-708形である。PIII-708形については乗り心地に難があり、1990年から1993年にかけて動力台車に準じた構造のTS-815F形に交換された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "冷房装置については1次車(8001F - 8009F・5両編成5本)は非冷房車で登場した。この時には屋根上にベンチレーター(通風器)が搭載されていた。2次車(8011F - )からは屋根上に冷房装置の外キセ(カバー)のみを装着した「冷房準備車」として登場した。これは冷房車のように見えるが、実は非冷房車であることから、俗に「ニセ冷房車」「空(くう)ラー車」などと呼ばれた。これらの車両は後に本来の設計通り、冷房装置を搭載する改造がされている。なお、2次車最後の8019Fは東急初の冷房装置搭載車として1971年(昭和46年)5月19日より運転に入った。その後は4次車(8031F - 8041F・5両編成6本・冷房準備車)や5・6次車の8200形を除きすべて新製時より冷房装置を搭載している。なお、冷房準備車は1970年代中期に冷房装置が搭載されたのに対し、1次車はこれより遅く1980年代後半に冷房化が実施されたために電源機器が異なる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "搭載機器は下記編成表参照。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本系列の外観は一見、画一的であるが、雨樋・屋根周辺処理・非常口のドア枠・側面行先表示器の横幅の相違で、多様なバリエーションが存在する。", "title": "増備後の変化" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東横線所属編成を対象に行われ、1992年から1997年までに11編成が施工された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また大井町線には、外観はそのままに早期の廃車を見越して東横線の車両よりも更新内容を簡略化(座席定員が原型のままなど)した簡易的な更新車が4編成(8001F・8003F・8005F・8047F)存在した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東横線では8090系導入以降、ダイヤが乱れた時以外は基本的に各駅停車運用だったが、2001年3月28日のダイヤ改正で全系列が共通運用になると特急・急行にも多く使用された。なお、特急運行開始直後にはそれを記念してかつての急行表示板を掲出していた所に青地に桜をデザインした「特急」マークを期間限定で掲出していた。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)3月19日ダイヤ改正に伴うLED式行先表示器のROM交換では、書体が明朝体から視認性に優れたゴシック体に変更された。字幕式行先表示の車両では方向幕の交換が実施された。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)より廃車が開始され、東横線では2006年(平成18年)9月25日のダイヤ改正からは平日ラッシュ時のみの運行となっていた。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大井町線の車両は、こどもの国線の多客時や同線専用の7000系の検査時に臨時で同線の運用に入ることがあった。主に「こどもの国」の行先表示幕を持つ8001F・8003F・8005F・8049F・8051Fが使われ、運用時には先頭車の前面に「こどもの国」のシンボルマークが掲出された。また、着雪防止のためにパンタグラフがシングルアーム式に変更されていた(廃車直前に通常の菱形パンタグラフに戻された車両も存在した)。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前述したが、過去には8500系に組み込まれていた車両も存在した。中間車代用として組み込まれたクハ8000形は、貫通扉と乗務員扉で運転台を締め切り、隣の車両との通り抜けが可能だった。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その他、1987年と1988年の夏に大井町線の8001F - 8005Fと東横線の8011F - 8015Fとで上り方制御車のみ交換されたことがある。このうちクハ8011は1988年夏季にこどもの国線にも入線した。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "東横線の8007Fは、2005年6月24日より前面赤帯・側面無帯から伊豆急行譲渡車と同一の伊豆急カラーとなり、臨時急行列車「伊豆のなつ号」として翌7月2日から24日までの土・日曜日(17日は除く)に東横線と乗り入れ先のみなとみらい線で運転された(詳細は伊豆のなつ号を参照)。その後伊豆急行には譲渡されず、インドネシアのPT Kereta Apiに、伊豆急カラーのままで売却された。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "さらに同月からは東横線の8039Fが先頭車前面の赤帯を撤去するとともに、前面行先表示器をLED式から先に運用終了した8021Fの発生品である幕式への交換(側面はLED式のまま存置)、優等列車で運用する際の通過標識灯(急行灯)点灯など、登場時に近い形に復元されて運行された。その8039Fも2007年6月22日に定期運用を離脱し、それを記念して同月30日と7月1日にイベント列車「リバイバル急行8000系号」として運転した。このイベント列車のために、先頭車前面左側への「急行」プレートの装着や過去に存在していた「渋谷」「急-渋谷」「元住吉」のほか、過去の運転時には実在しなかった白地に黒字の「元町・中華街」や赤地に白字の「急-元町・中華街」と表記された前面行先表示が用意され、クハ8039の前面窓ガラス支持Hゴムは白に近い色のペイントがなされるとともに、車内には8000系の歩みを振り返るポスターが掲出された。この表示はイベント列車としての運用終了後に「急行」プレートを「8000 Thank You!」と表記された特製プレートに交換して元住吉検車区に入庫した後、通常の表示に戻された(リバイバル急行8000系号(東急電鉄))。その後長津田検車区に回送され、同月11日に鷺沼車両基地に疎開回送され、同年8月12日に再び長津田検車区に回送、そして同月17日に長津田車両工場に回送された後、PT Kereta Apiに売却された。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東横線に残った8019Fについては、2007年12月17日・18日に「さようなら8019F 1971-2007」(クハ8019)・「8019F引退 1971-2007」(クハ8020)と表記されたヘッドマークを掲出して運用に就き、18日をもって営業運転を終了した。その後、27日には長津田車両工場へ回送された。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "もう1本の8017Fは、2007年12月以降急行運用に入る際には「急行」プレートを装着して運行された。また、2008年1月1日・2日には新年を記念して土休日ダイヤにおいて運行され、前面には「元旦(1日)・賀正(2日)」(クハ8017)・「謹賀新年」(クハ8018)と表記されたプレートを装着して運転された。これは日中特急指定運用の17運行において運転されたが、両日とも14時台に車両交換により運転を終了している。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そして同年1月13日に、臨時特急としてさよなら運転が実施された。(8000系さよなら運転(東急電鉄))。この際には、先頭車前面の行先表示器はLED式から幕式に交換され、過去に存在しなかった特急運転開始時のデザイン(全体が橙地に白字)の「特急 元町・中華街」表記が用意された。また、通過標識灯が点灯されたほか、「ありがとう8000系」(クハ8017)、「8000系 さようなら 1969-2008」(クハ8018)と表記されたヘッドマークも掲出された。運行番号は「39」であった。車内には8000系の歩みのほか、ヘッドマークの製作状況を記載したポスターが掲出された。そして、同月23日に先頭車前面の行先表示器を幕式からLED式に戻し、長津田車両工場へ回送された。これをもって東横線・みなとみらい線での8000系の旅客営業運転を終了した。", "title": "運行" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "本形式の運用離脱車は、当初売却交渉の難航や廃車体の留置スペース不足から解体されていたが、2004年以降になって一部車両が譲渡・売却されている。", "title": "他鉄道事業者への譲渡・売却" } ]
東急8000系電車(とうきゅう8000けいでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄(現・東急電鉄)に在籍していた通勤形電車。 東急での運用終了後は伊豆急行とインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(KRLジャボデタベック)に売却されたが、本記事では後者のみ扱う(伊豆急行への譲渡車は伊豆急行8000系電車の記事を参照のこと)。 東急では、編成呼称の際に渋谷・大井町方先頭車の車両番号を使用している。このため、本記事では渋谷・大井町方先頭車の車両番号を編成名表記として扱う。
{{鉄道車両 | 車両名 = 東急8000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu8000 red.jpg | 画像説明 = 赤帯貼付後の8000系未更新車<br />(2004年12月23日 白楽駅) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]]<br />[[KRLコミューターライン]] | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = | 製造数 = | 運用開始 = 1969年11月30日 | 運用終了 = 2008年2月22日 | 運用範囲 = | 編成 = [[東急東横線|東横線]]: 8両編成<br />[[東急大井町線|大井町線]]: 5両編成 | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 V | 最高運転速度 = 110 km/h (東横線・[[東急田園都市線|田園都市線]])<br />75 km/h (大井町線) | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 5両編成 2.9 km/h/s<br />8両編成 3.3 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = | 車両定員 = 136人(座席定員56または48人)(先頭車)<br />144人(座席定員64または54人)(中間車)<!-- 車椅子スペース設置車両は不明 --> | 自重 = 27.0 - 31.8 t ([[制御車]])<br />31.5 - 35.7 t ([[動力車|電動車]]) | 編成重量 = | 編成長 = | 全長 = 20,000 mm | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 4,145 mm<!-- パンタグラフ折りたたみ高さ --> | 車体材質 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = 軸ばね式ダイレクトマウント空気バネ台車<br/>動力台車TS-807形<br/>付随台車PIII-708形 | 主電動機 = | 主電動機出力 = 130 kW | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 85:16(5.31) | 編成出力 = 3,120 kW (東横線)・1,560 kW (大井町線) | 制御方式 = 電動カム軸式[[抵抗制御]]+他励[[界磁チョッパ制御]] | 制御装置 = 日立MMC-HTR-20A/C/D/Fなど(弱め界磁起動1段、直列13段他、並列11段他、弱め界磁無段階) | 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生制動]]併用[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式電磁直通空気制動]](HRD-2形) | 保安装置 = [[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]<br />[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]] | 備考 = マスコンハンドルの力行、制動段数は力行4段、制動常用7段+非常 }} '''東急8000系電車'''(とうきゅう8000けいでんしゃ)は、かつて[[東京急行電鉄]](現・[[東急電鉄]])に在籍していた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。 東急での運用終了後は[[伊豆急行]]と[[インドネシア]]の鉄道会社であるPT. Kereta Api([[KRLジャボデタベック]])に売却されたが、本記事では後者のみ扱う(伊豆急行への譲渡車は[[伊豆急行8000系電車]]の記事を参照のこと)。 東急では、編成呼称の際に渋谷・大井町方先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]を使用している。このため、本記事では渋谷・大井町方先頭車の車両番号を編成名表記(例:8001F、末尾の「F」は編成を意味する''Formation''の頭文字)として扱う。 == 概要 == 東急では初の20 m車で、量産車で日本初となるワンハンドルマスコン、電気指令式ブレーキを採用した車両で、東急の主力車として大量に増備された。輸送力増強および東横線に残存していた旧型吊り掛け駆動車の置き換えも本系列により行われた。機器などがほぼ同じとなる広義の8000系としては677両が製造された。 なお、広義の8000系は、 *[[東急8500系電車|8500系]] *[[東急8090系電車|8090系・8590系]] の3系列も含めるが、ここでは狭義の8000系のみを解説する。 == 車両概説 == === 外観 === [[1962年]](昭和37年)登場の[[東急7000系電車 (初代)|7000系]]電車以来の流れを汲む[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[バッド (車両メーカー)|バッド社]]の[[ライセンス]]によるオール[[ステンレス鋼|ステンレス]]車で、機能最優先な直線基調の形態である。輸送力増強と将来の[[東急田園都市線|新玉川線]]での使用を念頭に、東急では初の20 m級・両開き4ドア車体となり、以降の同社の標準となった。 製造当初からしばらくの間、車体はステンレスの地色のままであったが、[[1988年]](昭和63年)の春から夏にかけて先頭車の前面に赤帯が配された。 === 機器類 === 制御系には[[回生ブレーキ|回生制動]]が可能な他励[[界磁チョッパ制御]]方式を[[世界]]で初めて実用化し、また、[[操縦席|運転台]]操作系には、量産車としては[[日本]]初となる、[[マスター・コントローラー|マスコン]]ハンドルとブレーキレバーを一体化した「ワンハンドルマスコン」が採用されている。 ワンハンドルマスコンの操作法については、“押して[[制動]]・引いて[[力行]]”と言う方法と、[[ウマ|馬]]の御し方に基づいたその逆の2つの案があり、最終的には前者に決定したが<ref name="rf-377">[[土岐實光]]「ある車両技術者の回想3 ワンハンドル運転台のできるまで」『鉄道ファン』1992年9月号(通巻377号)、交友社。</ref>、これが“[[人間工学]]に基づいたシステム”と評価された。日本の鉄道車両は以降輸入車を除いてこの方式を踏襲している。また、ワンハンドル方式の運転台自体は[[高松琴平電気鉄道]]の[[高松琴平電気鉄道10000形電車|10000形]]や[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])の[[東京地下鉄6000系電車|6000系]]試作車などにも試験的に採用されていたが、普及することはなかった。 他にも、応答性に優れ、当時最先端であった[[電気指令式ブレーキ]]を装備し、補助電源供給には、保守に手間のかかる従来の[[電動発電機]](MG) に代え、[[静止形インバータ]](SIV)を採用するなどの特徴が見られる<ref name="rp-20-1-p72">{{Citation | last=斉藤 | first=秀夫 | date=1970年1月1日 | year=1970 | title=8000系車両の概要 | periodical=鉄道ピクトリアル | volume=20 | issue=1 | pages=72-75}}</ref>。 主電動機は[[直巻整流子電動機|複巻電動機]]のTKM-69形・TKM-80形・TKM-82形の3つで、[[日立製作所]]・[[東洋電機製造]]・[[東芝]]の三社競作である<ref>宮田道一「東急8000系ファミリーの記録1」『鉄道ファン』2006年8月号(通巻544号)、交友社。</ref>。それぞれのモーターは音に違いがあり、TKM-69形は1979年までに製造されたモーターで高速域で低音を発し、TKM-80は1980年以降のモーターで、高速域が高音となった。TKM-82は1982年以降の製造で1M制御用、4個モーターを直並列制御し、低速域の音が大きく変わっている。高速域はTKM-80とほぼ同じ音を出す。 [[鉄道車両の台車|台車]]はほぼ7200系のものを踏襲しており、動力台車はTS-807形、付随台車はパイオニアIII系のPIII-708形である<ref>飯島巌「新車ガイド 東京急行・新玉川線用8000系」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1970年2月号(通巻105号)、[[交友社]]。</ref>。PIII-708形については乗り心地に難があり<ref name="rf-377" />、1990年から1993年にかけて動力台車に準じた構造のTS-815F形に交換された<ref name="rp-600">荻原俊夫「私鉄車両めぐり〔151〕東京急行電鉄」『鉄道ピクトリアル』1994年12月臨時増刊号(通巻600号)特集・東京急行電鉄、鉄道図書刊行会。</ref>。 [[ファイル:3450 leaving ebara nakanobu.jpg|thumb|right|250px|8001F非冷房時代<br />(1985年 [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]])]] [[エア・コンディショナー|冷房装置]]については1次車(8001F - 8009F・5両編成5本)は非冷房車で登場した。この時には屋根上に[[ベンチレーター]](通風器)が搭載されていた。2次車(8011F - )からは屋根上に冷房装置の外キセ(カバー)のみを装着した「冷房準備車」として登場した<ref>荻原二郎・荻原俊夫「私鉄車両めぐり〔111〕東京急行電鉄」『鉄道ピクトリアル』1977年6月臨時増刊号(通巻442号)特集・東京急行電鉄、鉄道図書刊行会。</ref>。これは冷房車のように見えるが、実は非冷房車であることから、俗に「ニセ冷房車」「空(くう)ラー車」などと呼ばれた。これらの車両は後に本来の設計通り、冷房装置を搭載する改造がされている。なお、2次車最後の8019Fは東急初の冷房装置搭載車として[[1971年]](昭和46年)5月19日より運転に入った。その後は4次車(8031F - 8041F・5両編成6本・冷房準備車)や5・6次車の8200形を除きすべて新製時より冷房装置を搭載している。なお、冷房準備車は1970年代中期に冷房装置が搭載されたのに対し、1次車はこれより遅く1980年代後半に冷房化が実施されたために電源機器が異なる。 <gallery> ファイル:Izukyu 8000 Series EMU 017.JPG|運転台コンソール<br />(写真は[[伊豆急行8000系電車|伊豆急行クモハ8250形]]) ファイル:Izukyu 8000 Series EMU 011.JPG|左上はバッドとの契約を示すプレート<br />(伊豆急行クハ8000形) ファイル:Izukyu 8000 Series EMU 013.JPG|電照式自動広告装置の撤去跡<br />(伊豆急行クモハ8250形) </gallery> === 形式 === 搭載機器は下記[[東急8000系電車#末期の編成表|編成表]]参照。 ;クハ8000形(Tc1・Tc2) :[[制御車]]。奇数番号車が上り向き(Tc2)、偶数番号車が下り向き(Tc1)に先頭に連結される。奇数・偶数番号車両方にATC・ATS、奇数番号車には140 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力の[[電動発電機|電動発電機(MG)]]を搭載する。ただし、1次車は170 [[キロボルトアンペア|kVA]]の静止形インバータである。 ;デハ8100形(M1) :デハ8200形と[[動力車#ユニット方式|ユニット]]を組む[[動力車|中間電動車]]。パンタグラフと制御装置を搭載する。 ;デハ8200形(M2) :デハ8100形とユニットを組む中間電動車。[[圧縮機|電動空気圧縮機]]・[[二次電池|蓄電池]]・SIV等の補助機器類を搭載する。 ;サハ8300形(T1) :[[付随車]]。東横線の編成を7両編成(4M3T) または8両編成 (5M3T) とするため、[[1980年]] - [[1982年]]に8両が製造された。その後、8両編成の[[MT比]]を6M2Tへ向上させるべく[[1985年]]から[[1986年]]にかけて全車デハ8200形へ改造されたため、短期間で形式消滅した。 ;デハ8400形(初代・M2) :[[1978年]]に製造された軽量ステンレス試作車。後に、機能が同じデハ8200形に編入され形式消滅している(後述)。 ;デハ8400形(2代目・M) :[[1982年]]に製造された単独制御(1M方式)の電動車。ユニットを組まないデハ8100形は、端子電圧の関係上、主電動機が永久[[直列]]接続となり、本来22 [[キロメートル毎時|km/h]] まで作動する[[回生ブレーキ|回生制動]]が45 [[キロメートル毎時|km/h]] で失効するという欠点があり、その解消のために製造された。主電動機をTKM-69もしくはTKM-80(端子電圧375 [[ボルト (単位)|V]]時130 [[キロワット|kW]])からTKM-82(端子電圧750 V時130 kW)に変更し、直並列制御を可能にし、回生制動が22 km/hまで作動するようになった。9両が製造されたが後に7両がデハ8100形へと改造されている。改造により不要となった機器は8090系増備用に再活用された。 == 増備後の変化 == 本系列の外観は一見、画一的であるが、雨樋・屋根周辺処理・非常口のドア枠・[[方向幕|側面行先表示器]]の横幅の相違で、多様なバリエーションが存在する。 *当初の行先表示器は前面が手動式、側面は小形の電照式種別表示器であり、「快速・急行」のどちらかを点灯するもの(各停は消灯)であった<ref>亀田慶之・寺沢新「東急ファンから見たプロフィール8000」『鉄道ピクトリアル』1985年1月号(通巻442号)、鉄道図書刊行会。</ref>。10次車より側面行先表示器が大型化され、その後1980年(昭和55年)より前面・側面ともに電動式の方向幕への改造・使用が開始された。当初は8500系編成から復帰した先頭車を両端に配した編成から実施され、それ以外の編成でも順次改造が進み、1985年(昭和60年)までに全車の電動化が完了した。 *田園都市線用として登場した5次車は(8043F - 8051F)4両編成で落成した。該当編成に組み込まれたデハ8100形8143 - 8147は離線対策として[[集電装置|パンタグラフ]]2基(通常は1基)搭載で製造され<ref>荻原俊夫「東京急行電鉄8000形系車両の近況」『鉄道ピクトリアル』1974年9月号(通巻297号)、鉄道図書刊行会。</ref>、[[抵抗器|主抵抗器]]も通常より容量が大きいものに変更された。5両に増車された後もしばらくは2基のままであったが、後に下り方のパンタグラフが撤去されている。 [[ファイル:Tokyu-8000-lightweight-prototype.jpg|thumb|right|300px|軽量ステンレス車体の試作車<br />(2003年7月12日 多摩川駅)]] *デハ8200形8254・8255号はステンレス軽量車体の試作車である。この2両は、車体側面のコルゲート板がなく、[[ローラー]][[プレス加工|プレス]]によるビードが入り<ref>土岐實光「ある車両技術者の回想10 軽量ステンレス車両開発の苦心談」『鉄道ファン』1993年4月号(通巻384号)、交友社。</ref>、裾に大きな[[半径|アール]]の絞りがある<ref>市村昇一「東京急行電鉄8400形について」『鉄道ピクトリアル』1979年3月号(通巻359号)、鉄道図書刊行会。</ref><ref>荻原俊夫「かるーいステンレスカー 東急デハ8400形」『鉄道ファン』1979年4月号(通巻216号)、交友社。</ref>ことで容易に判別が付いた。新造時には新形式のデハ8400形8401・8402号とされたが、1M車デハ8400形の製造に伴い8281・8282号に改番、さらに[[東急8090系電車|8090系]]の増備に伴い再改番された<ref name="rf-545">荻原俊夫「東急8000系ファミリーの記録2」『鉄道ファン』2006年9月号(通巻545号)、交友社。</ref>。この車両の実績を踏まえた量産車として、8090系が製造された<ref name="rf-545" />。 *8090系の量産以降(12-3次車以降)に製造された車両は、外見はそれほど変わらないものの、軽量ステンレス車となった<ref>荻原俊夫「私鉄車両めぐり〔127〕東京急行電鉄」『鉄道ピクトリアル』1985年1月臨時増刊号(通巻442号)特集・東京急行電鉄、鉄道図書刊行会。</ref>。屋根の断面形状が変更され、肩部にアールが付いたほか、屋根の絶縁材の範囲が狭まり屋根肩の一部がステンレスむき出しになった。しかし編成美の関係から14次車以降は再び屋根肩にも絶縁加工が施された。この時期に先頭車は製造されていないため、このタイプの車両は中間車のみ存在していた。 *一時期、[[東急8500系電車|8500系]]の新造両数を抑制するために田園都市線の同系に組み込まれて運用されていた車両が存在した。中間車の代用として使用された先頭車両(8033 - 8044)には晩年まで貫通幌を取り付けていた[[ボルト (部品)|ボルト]]の跡が残っていた(更新車は撤去された)他、8033 - 8042には[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用の[[列車無線|誘導無線]][[アンテナ]]設置跡があった<ref>高橋英樹「東京急行8000系グループ形態解析1」『鉄道ピクトリアル』2000年11月号(通巻693号)、鉄道図書刊行会。</ref>。これらは後に東横線などの8000系編成に復帰している。逆に8043F - 51Fの5両編成化当初、8500系のデハ8700形がデハ8100形の代わりに組み込まれていた<ref>荻原俊夫「東急8000系 新製から全盛期の思い出」『鉄道ピクトリアル』2022年9月号(通巻1002号)特集・惜別 東急電鉄8000系、株式会社電気車研究会・鉄道図書刊行会。</ref>。 *当初は、扉間の座席を8人掛け、車端部の座席を4人掛けとしたが、[[1980年]]製の車両からはそれぞれ7人掛けと3人掛けに変更され、踊り場スペースと1人あたりの座席幅が拡大されている。 == 改造 == === 更新 === [[ファイル:Tokyu8000 kabuki.JPG|thumb|right|300px|8000系更新車<br />(2007年6月7日 [[自由が丘駅]])]] 東横線所属編成を対象に行われ、[[1992年]]から[[1997年]]までに11編成が施工された。 *更新編成の全車両に実施された改造 **前面の配色を中央が黒・その両隣にL字形の赤帯という独特なものに変更、側面の低い位置に赤帯を追加<ref>荻原俊夫「東京急行電鉄8000系更新工事」『鉄道ピクトリアル』1994年10月臨時増刊号(通巻597号)特集・新車年鑑1994年版、鉄道図書刊行会。</ref>(最初の8021F・8023Fは通常配色で出場し、更新後の1993年に変更。更新車の正面の赤黒配色は[[歌舞伎]]の[[隈取]]〈くまどり〉に似ていることから、「歌舞伎塗装」とも呼ばれる<ref>[http://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol108.html 歌舞伎座写真ギャラリー 電車歌舞伎] - 株式会社歌舞伎座</ref>)。この意匠は後の[[東急7700系電車|7700系]][[東急池上線|池上線]]用ワンマン対応編成や更新後の[[東急7600系電車|7600系]]にも受け継がれたが2018年11月の7700系引退により東急線内の営業編成で歌舞伎塗装を見ることはできなくなった。 **種別・行先表示器の[[発光ダイオード|LED]]化([[1993年]][[8月]]更新の8019Fから) ***[[1992年]]度に更新した8021F・8023Fは字幕式のまま(前面は英文字入りに交換)であったが、8023Fは前面のみLEDへ交換されている<ref>金子智治・焼田健「東京急行電鉄現有車両プロフィール2004」『鉄道ピクトリアル』2004年7月臨時増刊号(通巻749号)特集・東京急行電鉄、鉄道図書刊行会。</ref>。 ***[[1994年]]3月更新の8011F・8017F・8019Fは前面にドットの粗いLEDを使用していたが特急運転が開始される[[2001年]]3月改正を機にドットの細かいものに交換されている。 ***未更新編成も[[1999年]]に実施。 **腰掛けの表地を[[東急2000系電車|2000系]]と同様の花柄に交換(同上) ***汚れが目立つため、[[1995年]]8月更新の8011F・8017F・8019F・8025F・8031Fで終了し<ref>高橋英樹「8000系グループの足跡」『鉄道ピクトリアル』2004年7月臨時増刊号(通巻749号)特集・東京急行電鉄、鉄道図書刊行会。</ref>、交換した車両もその後元のマルーンとオレンジに戻された。 *更新編成中の[[1979年]]以前(10次車以前)に製造された車両に実施された改造 **車体の点検補修 **側窓の[[サッシ]]レス化かつ[[ガラス]]の肉厚化(3 [[ミリメートル|mm]]→5 mm)並びに妻窓の固定化 **室内化粧板の交換 **[[車椅子スペース]]を2・7号車に設置 ***更新対象外だった8043F2号車デハ8252と未更新編成も後に設置 **腰掛を短縮してドア脇スペースを確保(ドア間8→7人掛け、車端部4→3人掛け) **ドア間の腰掛けを仕切り板とポールで3人掛けと4人掛けに分割して定員を明確化 **腰掛け幅を420 mmから440 mmに拡大 また大井町線には、外観はそのままに早期の廃車を見越して東横線の車両よりも更新内容を簡略化(座席定員が原型のままなど)した簡易的な更新車が4編成(8001F・8003F・8005F・8047F)存在した。 *大井町線所属編成に実施された改造 **室内化粧板の交換(乗務員室内は除く) ***化粧板の模様は8500系に施工されたものと同一 **車椅子スペースを4号車に設置 ***未更新編成も後に設置している。 === その他 === *クハ8000形の台車のみ軸バネを省略したパイオニアIIIタイプのPIII-708形台車であったが、乗り心地の向上を目的として[[1990年]] - [[1993年]]に電動車に準じたTS-815F形に交換された。 *東横線用の8000系では1990年代に入り、電源装置の集約化を目的にクハ8000形のMGと6号車のデハ8200形に搭載した170 [[キロボルトアンペア|kVA]]のSIVに統一し、従来の10 kVA SIVはすべて撤去されている。 *8031Fのクハ8031号車は2001年(平成13年)に当時国内最大容量の250 [[キロボルトアンペア|kVA]]の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]] SIVを試験的に搭載した。この結果を元に新5000系において同タイプのSIVが正式に採用された。 == 運行 == === 定期列車 === 東横線では8090系導入以降、ダイヤが乱れた時以外は基本的に[[各駅停車]]運用だったが、[[2001年]][[3月28日]]のダイヤ改正で全系列が共通運用になると[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]にも多く使用された。なお、特急運行開始直後にはそれを記念してかつての急行表示板を掲出していた所に青地に[[サクラ|桜]]をデザインした「特急」マークを期間限定で掲出していた。 [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]ダイヤ改正に伴うLED式行先表示器のROM交換では、[[書体]]が[[明朝体]]から視認性に優れた[[ゴシック体]]に変更された<ref name="RailFan-Tokyu200303">[https://web.archive.org/web/20041119223927/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/cexp.shtml 行先・種別表示の変更について。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref>。字幕式行先表示の車両では方向幕の交換が実施された<ref name="RailFan-Tokyu200303"/>。 [[2001年]](平成13年)より[[廃車 (鉄道)|廃車]]が開始され、東横線では[[2006年]](平成18年)[[9月25日]]の[[ダイヤ改正]]からは平日[[ラッシュ時]]のみの運行となっていた。 大井町線の車両は、[[東急こどもの国線|こどもの国線]]の多客時や同線専用の7000系の検査時に臨時で同線の運用に入ることがあった。主に「こどもの国」の行先表示幕を持つ8001F・8003F・8005F・8049F・8051Fが使われ、運用時には先頭車の前面に「[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]」の[[シンボルマーク]]が掲出された。また、着雪防止のためにパンタグラフがシングルアーム式に変更されていた(廃車直前に通常の菱形パンタグラフに戻された車両も存在した)。 === 特別な運行 === 前述したが、過去には8500系に組み込まれていた車両も存在した。中間車代用として組み込まれたクハ8000形は、貫通扉と乗務員扉で運転台を締め切り、隣の車両との通り抜けが可能だった。 その他、[[1987年]]と[[1988年]]の夏に大井町線の8001F - 8005Fと東横線の8011F - 8015Fとで上り方制御車のみ交換されたことがある。このうちクハ8011は1988年夏季にこどもの国線にも入線した。 東横線の8007Fは、[[2005年]][[6月24日]]より前面赤帯・側面無帯から[[伊豆急行8000系電車|伊豆急行譲渡車]]と同一の伊豆急カラーとなり、臨時急行列車「[[伊豆のなつ号]]」として翌[[7月2日]]から[[7月24日|24日]]までの[[土曜日|土]]・[[日曜日]]([[7月17日|17日]]は除く)に東横線と乗り入れ先の[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]で運転された(詳細は[[伊豆のなつ号]]を参照)。その後伊豆急行には譲渡されず、[[インドネシア]]のPT Kereta Apiに、伊豆急カラーのままで売却された。 さらに同月からは東横線の8039Fが先頭車前面の赤帯を撤去するとともに、前面行先表示器をLED式から先に運用終了した8021Fの発生品である幕式への交換(側面はLED式のまま存置)、[[優等列車]]で運用する際の[[通過標識灯]](急行灯)点灯など、登場時に近い形に復元されて運行された<ref name="RailFan-Tokyu8039F">[https://web.archive.org/web/20050701023006/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics2/2005/05/20102730.shtml 東横線8039Fの仕様を変更いたします(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)。</ref>。その8039Fも[[2007年]][[6月22日]]に定期運用を離脱し、それを記念して同月[[6月30日|30日]]と[[7月1日]]にイベント列車「リバイバル急行8000系号」として運転した。このイベント列車のために、先頭車前面左側への「急行」プレートの装着や過去に存在していた「渋谷」「急-渋谷」「元住吉」のほか、過去の運転時には実在しなかった白地に黒字の「元町・中華街」や赤地に白字の「急-元町・中華街」と表記された前面行先表示が用意され、クハ8039の前面窓ガラス支持Hゴムは白に近い色のペイントがなされるとともに、車内には8000系の歩みを振り返るポスターが掲出された。この表示はイベント列車としての運用終了後に「急行」プレートを「8000 Thank You!」と表記された特製プレートに交換して[[元住吉検車区]]に入庫した後、通常の表示に戻された([http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/mid/oshirase/8000-Lastrun.html リバイバル急行8000系号(東急電鉄)])。その後長津田検車区に回送され、同月[[7月11日|11日]]に[[鷺沼車両基地]]に疎開回送され、同年[[8月12日]]に再び長津田検車区に回送、そして同月[[8月17日|17日]]に長津田車両工場に回送された後、PT Kereta Apiに売却された。 東横線に残った8019Fについては、2007年12月17日・18日に「さようなら8019F 1971-2007」(クハ8019)・「8019F引退 1971-2007」(クハ8020)と表記された[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]を掲出して運用に就き、18日をもって営業運転を終了した。その後、27日には長津田車両工場へ回送された。 もう1本の8017Fは、2007年12月以降急行運用に入る際には「急行」プレートを装着して運行された。また、2008年1月1日・2日には新年を記念して土休日ダイヤにおいて運行され、前面には「元旦(1日)・賀正(2日)」(クハ8017)・「謹賀新年」(クハ8018)と表記されたプレートを装着して運転された。これは日中特急指定運用の17運行において運転されたが、両日とも14時台に車両交換により運転を終了している。 そして同年[[1月13日]]に、臨時特急としてさよなら運転が実施された。([http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/mid/oshirase/071228_1_8000-Lastrun.html 8000系さよなら運転(東急電鉄)])。この際には、先頭車前面の行先表示器はLED式から幕式に交換され、過去に存在しなかった特急運転開始時のデザイン(全体が橙地に白字)の「特急 元町・中華街」表記が用意された。また、通過標識灯が点灯されたほか、「ありがとう8000系」(クハ8017)、「8000系 さようなら 1969-2008」(クハ8018)と表記されたヘッドマークも掲出された。[[列車番号|運行番号]]は「39」であった。車内には8000系の歩みのほか、ヘッドマークの製作状況を記載したポスターが掲出された。そして、同月[[1月23日|23日]]に先頭車前面の行先表示器を幕式からLED式に戻し、長津田車両工場へ回送された。これをもって東横線・みなとみらい線での8000系の旅客営業運転を終了した。 <gallery> ファイル:Tokyu8000NoBand.jpg|前面赤帯無しの8039F<br />2・4・7号車(写真左から)は車体断面の異なる12-3次の軽量構造車 ファイル:Tkk8017f lastrun.jpg|8017Fさよなら運転<br />(渋谷方) ファイル:Tokyu 8000 series EMU 003.JPG|大井町線の8001F</gallery> == 末期の編成表 == === 東横線・みなとみらい線 === {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:80%; margin:1em 0em 1em 3em;" |-style="text-align:center;" | style="background-color:#ccc; width:6em;"|&nbsp; | colspan="8" style="background-color:#fcf;"|{{TrainDirection|渋谷|桜木町・[[元町・中華街駅|元町・中華街]] }} ! rowspan="4" style="background-color:#ddd;"| 運用離脱時期 ! rowspan="4" style="background-color:#ddd;"| 概要・備考 |-style="text-align:center; background-color:#f99;" ! style="background-color:#ddd;"| 号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 |-style="text-align:center; background-color:#f99;" ! style="background-color:#ddd;"| 形式 !クハ8000 !デハ8200 !デハ8100 !デハ8200 !デハ8100 !デハ8200 !デハ8100 !クハ8000 |-style="text-align:center;" ! style="background-color:#ddd;"| 搭載機器 | SIV,ATS/C || CP,[車] || P,CONT || CP || P,CONT || CP,SIV || P,CONT,[車] || ATS/C |- ! rowspan="19"|車号 |style="background-color:#cf9;"|P8007 <small>(1)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8245 <small>(12 - 2)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8107 <small>(1)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8260 <small>(12 - 2)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8137 <small>(4)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8204 <small>(1)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8108 <small>(1)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8008 <small>(1)</small> | 2005年7月24日 | 最終運用は「[[伊豆のなつ号]]」 |- |style="background-color:#e5e5e5;"|X8009 <small>(1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8242 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8109 <small>(1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8257 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8139 <small>(4)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8205 <small>(1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8110 <small>(1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8010 <small>(1)</small> | 2004年4月6日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8011 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8227 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8111 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8220 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8133 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8206 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8112 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8012 <small>(2)</small>''' | 2004年1月30日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8013 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8228 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8113 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8221 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8134 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8207 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8114 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8014 <small>(2)</small>''' | 2006年9月13日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8015 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8229 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8115 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8222 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8135 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8208 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8116 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8016 <small>(2)</small>''' | 2006年8月29日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8017 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8230 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8117 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8235 <small>(6)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8136 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8209 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8118 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8018 <small>(2)</small>''' | 2008年1月13日 <ref group="*">定期運用離脱は同年1月7日</ref> | 東横線さよなら運転編成 |- |style="background-color:#dff;"|'''I8019 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8232 <small>(6)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8119 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8236 <small>(6)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8138 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8210 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8120 <small>(2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8020 <small>(2)</small>''' | 2007年12月18日 | 最終運用時はヘッドマーク取り付け |- |style="background-color:#dff;"|'''I8021 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8233 <small>(6)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8121 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8217 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8140 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8211 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8122 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8022 <small>(3-1)</small>''' | 2005年3月24日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8023 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8234 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8123 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8262 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8141 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8212 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8124 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8024 <small>(3-1)</small>''' | 2005年3月4日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8025 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8237 <small>(10-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8125 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|P8263 <small>(13)</small> |style="background-color:#cf9;"|'''P8142 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|'''P8213 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8126 <small>(3-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8026 <small>(3-1)</small>''' | 2005年5月24日 | &nbsp; |- |style="background-color:#e5e5e5;"|X8027 <small>(3-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|''X8254 <small>(試)</small>'' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8127 <small>(3-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8264 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8143 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8214 <small>(3-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8128 <small>(3-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8028 <small>(3-1)</small> | 2003年3月4日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8029 <small>(3-2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''''X8255 <small>(試)</small>''''' |style="background-color:#dff;"|'''I8129 <small>(3-2)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8219 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8162 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8215 <small>(3-2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8130 <small>(3-2)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8030 <small>(3-2)</small>''' | 2004年1月31日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8031 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8231 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8131 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8256 <small>(16-3)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8169 <small>(18-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8216 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8132 <small>(4)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8032 <small>(4)</small>''' | 2005年2月24日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|I8033 <small>(4)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8243 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8152 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8258 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8165 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8240 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#dff;"|I8153 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#dff;"|I8034 <small>(4)</small> | 2004年1月29日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|I8035 <small>(4)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8250 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8160 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8259 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8163 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8241 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#dff;"|I8155 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8036 <small>(4)</small> | 2004年1月30日 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|I8037 <small>(4)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8246 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8156 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8261 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8166 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8247 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#dff;"|I8157 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8038 <small>(4)</small> | 2004年1月30日 | &nbsp; |- |style="background-color:#cf9;"|P8039 <small>(4)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8248 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8158 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8218 <small>(4)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8164 <small>(13)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8249 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8159 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#cf9;"|P8040 <small>(4)</small> | 2007年7月1日 <ref group="*">定期運用離脱は同年6月22日</ref> | 赤帯撤去編成 |- |style="background-color:#e5e5e5;"|X8041 <small>(4)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8244 <small>(11-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8154 <small>(11-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8238 <small>(10-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8148 <small>(10-1)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8251 <small>(12-2)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8161 <small>(12-3)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8042 <small>(4)</small> | nowrap="nowrap"| 2001年6月 - 7月 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|'''I8043 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8252 <small>(13)</small> |style="background-color:#dff;"|'''I8150 <small>(10-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8239 <small>(10-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8149 <small>(10-1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8253 <small>(13)</small> |style="background-color:#dff;"|'''I8151 <small>(10-1)</small>''' |style="background-color:#dff;"|'''I8044 <small>(5)</small>''' | 2004年4月2日 | &nbsp; |} ::{{reflist|group="*"}} {{-}} === 大井町線・田園都市線 === {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:80%; margin:1em 0em 1em 3em" |-style="text-align:center;" | style="background-color:#ccc; width:6em;"|&nbsp; |colspan="5" style="background-color:#fc6;"|{{TrainDirection|大井町|二子玉川・<small>鷺沼</small>}} !rowspan="4" style="background-color:#ddd;"| 運用離脱時期 !rowspan="4" style="background-color:#ddd;"| 概要 |-style="text-align:center; background-color:#f99;" ! style="background-color:#ddd;"| 号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 |-style="text-align:center; background-color:#f99;" ! style="background-color:#ddd;"| 形式 !クハ8000 !デハ8400<br />デハ8100 !デハ8200 !デハ8100 !クハ8000 |-style="text-align:center;" ! style="background-color:#ddd;"| 搭載機器 | SIV,ATS/C || <small>(8400) P,cont<br />(8100) P,Cont</small> || SIV,CP,CP || P,CONT || ATS/C |- ! rowspan="7"|車号 |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8001 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8409 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8201 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8102 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8002 <small>(1)</small>''' | 2008年2月22日 | &nbsp; |- |style="background-color:#cf9;"|'''P8003 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|'''P8103 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|'''P8202 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|'''P8104 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#cf9;"|'''P8004 <small>(1)</small>''' | 2005年11月1日 | &nbsp; |- |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8005 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8408 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8203 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8106 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8006 <small>(1)</small>''' | 2006年3月11日 | ドア誤作動事故発生編成 |- |style="background-color:#e5e5e5;"|X8045 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8167 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8223 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8144 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8046 <small>(5)</small> | 2003年4月 | &nbsp; |- |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8047 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8168 <small>(13)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8224 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8145 <small>(5)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8048 <small>(5)</small>''' | 2003年2月 | &nbsp; |- |style="background-color:#dff;"|I8049 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8105 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8225 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8146 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8050 <small>(5)</small> | 2003年5月 | &nbsp; |- |style="background-color:#e5e5e5;"|X8051 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|'''X8101 <small>(1)</small>''' |style="background-color:#e5e5e5;"|X8226 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8147 <small>(5)</small> |style="background-color:#e5e5e5;"|X8052 <small>(5)</small> | 2003年2月 | &nbsp; |} {{-}} {|style="margin:0em 0em 2em 5em; font-size:90%;" |- | ;凡例 *一番上の段:形式 *上から2段目:搭載機器など **CONT:1C8M―ユニット式制御器(2両分8個のモーターを制御) **Cont:1C8M―片ユニット式制御器(自車分4個のモーターのみを制御・他車を制御する能力もある) **cont:1C4M―単独制御器(自車分4個のモーターのみを制御・他車を制御する能力はない) **P:[[集電装置|パンタグラフ]] **CP:[[圧縮機|空気圧縮機]] **[車]:[[車椅子スペース|車いすスペース]]設置車 *車両番号のスタイルが'''0123'''の車両:更新車 *車両番号のスタイルが''0123''の車両:軽量試作車 *車両番号後ろカッコ内の数値:製造次数―(その数値)次車。試作車は(試)と表記。 *枠内の色・記号:状態 **水色(I):廃車後伊豆急行へ譲渡 **緑色(P):廃車後PT. Kereta Api(インドネシア鉄道会社)へ売却 **灰色(X):廃車後解体済 |} {{-}} == 他鉄道事業者への譲渡・売却 == <gallery> Izukyu-Series8000-8006F.jpg|伊豆急行へ譲渡された8000系 TKK8007F-izunonatsu.jpg|伊豆急カラーの8007F Jabodetabek 8000 Series - 8003F EMU.jpg|インドネシアへ譲渡された8003F </gallery> 本形式の運用離脱車は、当初売却交渉の難航や廃車体の留置スペース不足から解体されていたが、[[2004年]]以降になって一部車両が譲渡・売却されている。 *[[伊豆急行]] {{main|伊豆急行2100系電車#近年の動向|伊豆急行200系電車#退役へ}} :*2004年度から[[伊豆急行8000系電車|8000系]](系列名はそのままで車両番号を8001 - に振り直し)として譲渡が開始され、[[2009年]]度までに45両が譲渡され、[[伊豆急行200系電車|200系]]全車と[[塩害]]により老朽化した[[伊豆急行2100系電車|2100系(リゾート21)]]の1・2次車を置き換えた。当初は2100系3次車も置き換え対象とされていたので50両が伊豆急行へ譲渡される予定だったが、伊豆急行側が車両の導入計画を変更して2100系3次車の廃車を見合わせたため、5両の8000系が改造を受けることなく長津田工場から解体・搬出された。 :*8049は、[[東急8500系電車|8500系]]の8723と組んで2両編成化の試作車として2004年11月に先行改造されていた。その後地方鉄道会社への展示会に使用された後、翌[[2005年]]7月 - 9月に追加改造が行われた上で伊豆急行へ譲渡された。 *PT. Kereta Api(現.[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]]) **2005年度に8両編成2本が[[インドネシア]]の鉄道会社「PT. Kereta Api」へ売却され、[[首都]][[ジャカルタ]]近郊の通勤電車で使用されている。このうち1本は上記の「伊豆のなつ号」で使用された8007Fをそのままの外装で<ref name="rp-783">斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」『鉄道ピクトリアル』2006年12月号(通巻783号)、鉄道図書刊行会。</ref>、もう1本(8003F)は現地で窓上黄帯・窓下黄帯+赤帯・前面窓下「黄帯の中に細い赤帯」という外装に変更されて、それぞれ使用されている。東急の[[コーポレートアイデンティティ|CI]]マークはPT Kereta Apiのものに貼り替えられたが、車両番号は東急時代と変更がなく、車体に取り付けられた車番表記プレートもそのまま使用されている。なお、現地でもtokyu8000といわれている。 **現地では以前、冷房付きであることから、Ekspres([[急行列車|急行]])やEkonomi AC(エアコン普通)として使用されていたが<ref name="rp-783" />、現在は冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されている。車内はほぼ原形のままだが、外部は障害物対策で前面下部にオレンジ色のスカート([[排障器]])が、投石対策で側面窓ガラスに飛散防止フィルムが、前面窓ガラスに金網が、低床ホームからの乗降対策で側面にドアステップがそれぞれ取り付けられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkyū 8000 series}} *[[伊豆急行8000系電車]] *[[東急8500系電車]] *[[東急8090系電車]] == 外部リンク == * 日立製作所『日立評論』1976年9月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1976/09/1976_09_12.pdf 最近の日立車両用界磁チョッパ制御装置]}}」 {{東急電鉄の車両}} {{DEFAULTSORT:とうきゆう8000けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|8000]] [[Category:インドネシアの電車]] [[Category:1969年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:バッド社]] [[Category:東急8000系電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-06T11:44:02Z
2023-12-24T09:43:24Z
false
false
false
[ "Template:-", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Citation", "Template:PDFlink", "Template:東急電鉄の車両", "Template:TrainDirection", "Template:Reflist", "Template:Main", "Template:Commonscat", "Template:鉄道車両" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A58000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,415
XMODEM
XMODEM(えっくすもでむ)は、バイナリ転送プロトコルの一種である。128バイト単位で非同期通信を行う。開発者の Ward Christensen がパブリックドメイン扱いで仕様を公開したため、パソコン通信で広く使われた。XMODEMを元に考案されたプロトコルも多く、またXMODEM自身にもいくつかのタイプがある。 SOH、STX、EOT、ACK、NAK、CANの6つのコントロールコードと文字 ’C’(43h) を使用して通信制御を行い、後述するデータブロックの単位でデータを転送する。 ブロック番号がおかしい、チェックサムやCRC符号とデータの間に矛盾があるなどのエラーが発生した場合、受信側はACKの代わりにNAK(否定応答)を送出する。NAKを受信した送信側は再度同じデータブロックを送出する。ブロック番号を指定して送信を要求する機能はないため、ブロック番号が連続しない場合やFlying-XMODEMの場合は中断処理(後述)を行うことになる。 一定時間待っても相手側からの応答がない、Flying-XMODEM転送中にエラーが発生したなど、何らかの事情により転送途中に通信を終了させたい場合はCANを送出する。これは受信側・送信側のどちらが送出しても良い。 XMODEMは効率があまり良くないため、これを改良したYMODEM、ZMODEMなどが後に開発された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "XMODEM(えっくすもでむ)は、バイナリ転送プロトコルの一種である。128バイト単位で非同期通信を行う。開発者の Ward Christensen がパブリックドメイン扱いで仕様を公開したため、パソコン通信で広く使われた。XMODEMを元に考案されたプロトコルも多く、またXMODEM自身にもいくつかのタイプがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "SOH、STX、EOT、ACK、NAK、CANの6つのコントロールコードと文字 ’C’(43h) を使用して通信制御を行い、後述するデータブロックの単位でデータを転送する。", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ブロック番号がおかしい、チェックサムやCRC符号とデータの間に矛盾があるなどのエラーが発生した場合、受信側はACKの代わりにNAK(否定応答)を送出する。NAKを受信した送信側は再度同じデータブロックを送出する。ブロック番号を指定して送信を要求する機能はないため、ブロック番号が連続しない場合やFlying-XMODEMの場合は中断処理(後述)を行うことになる。", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一定時間待っても相手側からの応答がない、Flying-XMODEM転送中にエラーが発生したなど、何らかの事情により転送途中に通信を終了させたい場合はCANを送出する。これは受信側・送信側のどちらが送出しても良い。", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "XMODEMは効率があまり良くないため、これを改良したYMODEM、ZMODEMなどが後に開発された。", "title": "発展" } ]
XMODEM(えっくすもでむ)は、バイナリ転送プロトコルの一種である。128バイト単位で非同期通信を行う。開発者の Ward Christensen がパブリックドメイン扱いで仕様を公開したため、パソコン通信で広く使われた。XMODEMを元に考案されたプロトコルも多く、またXMODEM自身にもいくつかのタイプがある。
'''XMODEM'''(えっくすもでむ)は、[[バイナリ転送プロトコル]]の一種である。128[[バイト (情報)|バイト]]単位で[[非同期通信]]を行う。開発者の Ward Christensen が[[パブリックドメイン]]扱いで仕様を公開したため、[[パソコン通信]]で広く使われた。XMODEMを元に考案されたプロトコルも多く、またXMODEM自身にもいくつかのタイプがある。 == 特徴 == *構造が簡単。ただし転送効率が悪い。 *128バイトもしくは1024バイト単位でデータを転送する。 *エラー検出に8ビットの[[チェックサム]]もしくは16ビットの[[巡回冗長検査|CRC]]符号を利用する。 *転送エラーがあった場合、エラーのあったブロックを再送することができる。しかし指定したブロックからやり直す機能はない。 *ファイル名やファイルサイズ、[[タイムスタンプ]]などのファイル情報を転送する機能はない。 *一度に転送できるのは1ファイルのみ(バッチ転送不能)。 *ファイルの末尾がEOF文字(1Ah)であった場合にファイルの破損を招く可能性がある。データブロックのパディングにEOF文字を使用するが、ファイルサイズを転送する機能がないので、それがファイルデータの一部なのか「詰め物」なのか判別できないためである。 *[[ASCII#ASCII制御文字|コントロールコード]]のクォート(置換)処理を行わない。このため、XON/XOFF文字による[[フロー制御]]を行っている場合には不具合をきたす可能性がある。 == XMODEMの種類 == ; XMODEM/SUM: 128バイト単位でデータを転送し、エラー検出に8ビットのチェックサムを使用する。単に "XMODEM" といった場合は XMODEM/SUM を指す場合が多い。 ; XMODEM/CRC: 128バイト単位でデータを転送し、エラー検出に16ビットのCRCを使用することで信頼性の向上を図ったもの。 ; XMODEM/1k: 1024バイト単位でデータを転送し、エラー検出に16ビットのCRCを使用することで転送速度と信頼性の向上を図ったもの。 ; Flying-XMODEM: 本来はデータブロックを全て受け取り、エラーがないことを確認した上で送信側に送る'''ACK'''を、データブロックを受け取り終わる前に先に送ってしまう([[不正スタート|フライング]]する)ことで転送速度の向上を図ったもの。-/SUM、-/CRC、-/1kのいずれに対しても使用される。規約違反であり、性質上エラーがあっても回復することができない。 == 手順 == SOH、STX、EOT、ACK、NAK、CANの6つの[[ASCII#ASCII制御文字|コントロールコード]]と文字 ’C’(43h) を使用して通信制御を行い、後述するデータブロックの単位でデータを転送する。 === 基本的な流れ === {| class="wikitable" ! 受信側 ! ! 送信側 |- | NAK(送信要求) | → | |- | | ← | ブロック1 |- | ACK([[肯定応答]]) | → | |- | | ← | ブロック2 |- | ACK | → | |- | colspan=3 style="text-align: center;" | (中略) |- | | ← | 最終ブロック |- | ACK | → | |- | | ← | EOT(転送終了) |- | ACK | → | |- | colspan=3 style="text-align: center;" | (通信終了) |} #受信側が送信要求として'''NAK'''を送出する。XMODEM/CRCもしくはXMODEM/1kでは'''NAK'''ではなく '''’C’''' を送出する。 #送信側が最初の'''データブロック'''を送出する。 #受信側はブロック番号、チェックサムやCRC符号を確認し、受信したデータにエラーがないことを確認した後に'''ACK'''を送出する。Flying-XMODEMでは'''データブロック'''を受け取り終わる前に'''ACK'''を送出してしまう。 #'''ACK'''を受けた送信側は次の'''データブロック'''を送出する。全てのデータを送出するまでこれを繰り返す。全てのデータを送出し終わった場合は、送信すべきデータが終了したことを示す'''EOT'''を送出する。 #受信側が'''ACK'''を送出し、通信を終了する。 === エラーが発生した場合 === {| class="wikitable" |+ ブロック8でエラーが発生した場合の例 ! 受信側 ! ! 送信側 |- | | ← | ブロック7 |- | ACK | → | |- | | ← | ブロック8 |- | colspan=3 style="text-align: center;" | (ブロック8に何らかのエラーがあった) |- | NAK(再送要求) | → | |- | | ← | ブロック8(再度同じブロックを送出) |- | ACK | → | |- | | ← | ブロック9 |} ブロック番号がおかしい、チェックサムやCRC符号とデータの間に矛盾があるなどのエラーが発生した場合、受信側は'''ACK'''の代わりに'''NAK'''(否定応答)を送出する。'''NAK'''を受信した送信側は再度同じ'''データブロック'''を送出する。ブロック番号を指定して送信を要求する機能はないため、ブロック番号が連続しない場合やFlying-XMODEMの場合は中断処理(後述)を行うことになる。 === 中断処理 === 一定時間待っても相手側からの応答がない、Flying-XMODEM転送中にエラーが発生したなど、何らかの事情により転送途中に通信を終了させたい場合は'''CAN'''を送出する。これは受信側・送信側のどちらが送出しても良い。 === データブロック構成 === {| class="wikitable" |- ! ヘッダ ! データブロック番号 ! データブロック番号の[[補数#例2_-_2進法|1の補数]] ! データ ! チェックサムもしくはCRC符号 |- | 8ビット | 8ビット | 8ビット | 128バイトもしくは1024バイト | 8ビットもしくは16ビット |} ; ヘッダ: データのサイズを表す。128バイトであれば'''SOH'''、1024バイトであれば'''STX'''をセットする。 ; データブロック番号: ブロック番号をセットする。1から開始して1ずつカウントアップし、255の次は0になる。 ; データブロック番号の1の補数: ブロック番号の1の補数(全ビットを反転させたもの)をセットする。 ; データ: 送信するデータを128バイトもしくは1024バイト単位でセットする。送信するデータが128バイトもしくは1024バイトに満たない場合は'''EOF'''でパディングする(空いた部分を埋める)。 ; チェックサムもしくはCRC符号: 8ビットのチェックサム、もしくは16ビットのCRC符号を[[エンディアン|ビッグエンディアン]]でセットする。 == 発展 == XMODEMは効率があまり良くないため、これを改良した[[YMODEM]]、[[ZMODEM]]などが後に開発された。 == 関連項目 == *[[バイナリ転送プロトコル]] *[[YMODEM]] *[[ZMODEM]] *[[B Plus (プロトコル)|B Plus]] *[[QuickVAN]] *[[カーミット (プロトコル)]] *[[バイナリ]] [[Category:パソコン通信|えつくすもてむ]] [[Category:ファイル転送プロトコル]]
null
2019-03-25T23:57:31Z
false
false
false
[]
https://ja.wikipedia.org/wiki/XMODEM
15,416
東急8500系電車
東急8500系電車(とうきゅう8500けいでんしゃ)は、1975年(昭和50年)に登場した東急電鉄の通勤形電車である。 本項ではインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api、PT KAI Commuter Jabodetabekに売却された車両についても記述する。 東急では、1969年(昭和44年)から当時建設していた地下鉄「新玉川線」(現・田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)向け車両として地下線火災対策基準「A - A基準」を満たした8000系を東横線に順次導入した。 その後、渋谷駅から都心方面に直通運転を行う予定の地下鉄半蔵門線への乗り入れにあたって、東急・帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)共通の車両規格が作成された。この規格に合致させるため、路線識別用の赤帯の貼付・機器取り扱いの変更、および電動車比率の向上による先頭車の電動車化などのマイナーチェンジを図った本形式を新玉川線・半蔵門線向けとして1975年から導入することになった。 本系列は8000系のマイナーチェンジ車両であるため、登場時は8000系の一部として扱われていたが、その後増備が進むにつれて8500系と呼ばれるようになった。現在でも広義の8000系と呼ばれるグループに含まれる。1991年までに400両が導入され、東急の系列として最大の両数を占めていた。 1976年(昭和51年)に、東急としては初めて鉄道友の会ローレル賞を受賞した。8630F以前の各編成には、受賞記念プレートが設置されている。 8000系とほぼ同一のオールステンレス車体で、1981年(昭和56年)度分として導入した車両(13次車)からはバッド社の技術を元に東急車輛が独自に開発した軽量ステンレス車体を採用して軽量化を図った。この車両は8631F以降の全車両と8630F以前の一部の中間車にも組み込まれている。 前面は8000系より150 mm高い高運転台構造となり、正面窓が小さくなったほか、行先表示幕の左側に種別表示幕、右側に運行番号表示幕をそれぞれ設置した。また、半蔵門線乗り入れ規格に基づく路線識別帯として、東急のステンレス車では初めて先頭車の前面に東急のシンボルカラーと警戒色を兼ねた赤帯を入れて登場した。この赤帯はそれ以降に登場した同社の新造車両にも普及し、従来車にも1989年(平成元年)以降導入されるようになった。 当初は小田急9000形に似た前面デザインも計画され、模型まで製作された。だが、「切妻以外は考えるな」という東急の方針により、前面が平らな切妻の形状になった。なお、当初は「9000系」が仮の形式称号だった。 デハ8700・8800形は、8799・8899号の次が0700-・0800-と変則的な番号が付与されている。これは東急の車両管理システムでは車両番号を4桁で管理しており、5桁への対応は大規模な改修が必要になるため、それを避けるためこの付番になっている。 8000系の電動車(M)と付随車(T)の構成(MT比)は6両編成時で4M2T(起動加速度3.2 km/h/s)であり、旧新玉川線には対応していたが、半蔵門線の急曲線・急勾配区間において故障した先行列車を救援するには電動車比率を向上させる必要があったため、本系列は5両編成時に4M1T、6両編成時に5M1T、8両編成時に6M2T、10両編成時に8M2Tとされた。 電動車比率向上および半蔵門線で使用される誘導無線(IR)アンテナを設置する中間付随車が必要とされたため、制御車(先頭車)を8000系の付随車(クハ8000形)から本系列では電動車(デハ8500・8600形)に変更し、中間付随車(サハ8900形)を新たに設定した。中間電動車は8000系のデハ8100・8200形にそれぞれ相当するデハ8700・8800形とした。 電動車のうちデハ8500形およびデハ8700形に制御装置を搭載し、対となるように隣接して連結したデハ8600形またはデハ8800形も一緒に制御する。ただし、編成の都合で電動車の両数が奇数となる場合はデハ8500形および8700形が単独で連結された。 その後、1991年度増備車のうち2両はVVVFインバータ制御が採用され、8642Fに組み込まれた。8642Fには界磁チョッパ・試作型のVVVFインバータ・量産型のVVVFインバータと1編成で3つの異なる制御装置を搭載している。なお、2003年から本系列の東武線乗り入れが始まったが、8642Fは東武での乗務員教習の手間を少なくするため東武線へは乗り入れなかった。 電動台車は8000系と同じTS-807形を採用した。また、付随台車は同系列ではパイオニアIII系のTS-708形であったが、ばね下重量の軽減のため、本系列では電動台車をベースとしたTS-815形を採用した。 東武乗り入れ非対応の車両の無線アンテナは2本、乗り入れ対応車両は無線アンテナが3本装着されている。 落成当初は字幕式で日本語表記のみであったが、1990年(平成2年)の半蔵門線水天宮前駅延伸時に水天宮前行のみ英字表記が追加された。また、一部編成で英字併記に変更されている。当時の英字は大文字+小文字で表記された。 1994年(平成6年)より8603Fを皮切りにLED式への改造が施工され、先述の英字併記に交換された編成にも施工された。このフォントは当初は明朝体であったが、2003年3月19日の半蔵門線押上開業と東武線乗り入れに伴い表示器のROMを交換した際にフォントを視認性の良いゴシック体へ変更し、同時期に字幕式で残存していた8606F・8607F・8610Fは英字を大文字表記とした新幕へ変更した。また、側面にも英字表記が入るようになった。 8616Fは行先表示器が2005年(平成17年)3月26日より、その後8634F - 8636F・8638F - 8641Fが従来の3色LEDからフルカラーLEDに変更されている。ただし、8616F・8634F - 8636Fは3色LEDに戻されている(8616F・8634Fの側面表示を除く)。 8606Fは8500系の中では最後まで字幕式行先表示器を装備していた編成。この他に8607F・8610Fが廃車時まで字幕式で残存していた。 8638F - 8641Fは大井町線用であり、前述した半蔵門線延伸などには関係がなく、ROMの交換を行わなかった。したがって3色LED式行先表示器のフォントは明朝体であった。このうち8640Fと8641Fは前面のみ幕式で、側面はLED式であったが、田園都市線直通急行に対応するため、検査入場した際に前面もLED化して出場した。 8000系と同一の客室であり、腰掛は8人掛けでエンジ色、ベージュ系の化粧板・床材、天井は冷房機と扇風機がある。 登場時より冷房装置(冷房能力8,000 kcal/h×4台)を搭載するが、地下鉄新玉川線用に新造された一部の車両は冷房準備車として冷房を搭載せずに登場し(屋根に外キセのみ載せた形態で外観は区別がつかない)、後に冷房化された。8608Fには、米・旧バッド社の協定プレートが取り付けられている。 1981年(昭和56年)の増備車より8090系の改良点を取り入れ、座席を7人掛けに短縮、仕切りパイプの形状を変更、荷棚がパイプ状から網状となった。網棚については従前の車両も後に網状へ改造された。8636Fまではこれらの増備車が必ず含まれる(4・5号車ユニットは1983年以降に竣工)。 1986年(昭和61年)以降に登場した8637F以降の編成単位で導入された車両では、9000系に準じて天井に補助送風機としてスイープファンを設置、冷房装置の能力を10,000 kcal/hに増大、7人掛けの腰掛へ中仕切りを追加、腰掛の2色化(ブラウン・オレンジ)、電動ワイパ・電子ホーンの新設など、仕様が変更されている。 腰掛の2色化は1988年(昭和63年)ごろ従来の車両に対しても行なわれた。従来の車両には中仕切りがないため、マルーン・オレンジとコントラストを抑えた配色が使用された。 8639Fは補助送風機が試験的に改良品に交換され、8642F・9000系9002F以降で本格的に採用された。 備考 所属は全車長津田検車区である。 東急8500系電車/編成表を参照。 1975年に当時の田園都市線(大井町駅 - すずかけ台駅間)に4両×10本(8601F - 8610F)が投入された。この時の編成は3M1Tとなっていた(編成表)。 後に8500系の中間車が増備されると中間に組み込まれていた8000系は東横線などに戻り、1987年(昭和62年)に混成編成は解消した。 翌1976年に増備された編成(8611F - 8616F)は、サハ8900形に代わりM2車であるデハ8800形が連結された全電動車の4両編成となった。これはサハ8900形に搭載する大容量静止形インバータ(SIV)の開発が間に合わず、補器を搭載したデハ8800形を組み込んだためである(編成表)。 その後、同年に実施された田園都市線の5両化に伴い同線で使用された編成は全て5両とされた。この時に増備された一部の中間車は8000系の編成に入っていた(編成表)。 なお、5連化された編成は、編成替えなども含めて1977年開業の新玉川線系統とは別の運用に就いていた。 1979年8月12日以降の半蔵門線・新玉川線(当時)と田園都市線の運行系統一本化により、現在の大井町線区間にあたる大井町駅 - 二子玉川園駅(現・二子玉川駅)間には入らなくなり、新玉川線・田園都市線向けに大半の編成が6・8両化され、一部の編成が東横線に移籍した。 8500系は1978年から1988年頃まで営団半蔵門線に貸し出された。外見上の区別がつかないが、車内のドア上にある路線図が営団のメトロネットワークだったことと、車内広告に営団地下鉄の広告が採用されていた点で区別ができた。 東横線には、先行して新玉川線開業用の車両(6両×2本)が導入された。その後、同線開業用車両はさらに増備され、1977年4月7日の同線開業まで暫定的に東横線で使用されることとなる。 この時に本系列のみでは必要車両数を確保出来なかったため、1976年から8000系に前述の車両規格に対応させる改造を施した。これらを本系列の中間に組み込むことにより必要車両数を確保した。 なお、これらの中には中間車の代用として8000系の先頭車に幌を装着したものが登場した。中間車代用の先頭車については1982年の中頃に解消されているが、8000系の中間車は1988年頃まで使用されていた。 新玉川線開業用以外のもので東横線が新製時配属になっている編成は、以下の編成になる。 東横線系統では、主に急行運用で使用された。ただし、6連で在籍していた車両は、1980年の急行7連化に伴い各停運用が中心となった。1982年の急行8両化以降に在籍していた車両は、8連口は主に急行で使用されたが、各駅停車が8連に増強された後は各駅停車でも運用された。また、1985年に7連で増備された8634Fは各駅停車のみ運用していた。 田園都市線で使用した側面方向幕は、各停運用は未使用、急行運用は「急行」表示しかされておらず行き先は表示されなかった。8500系として最後に製造された8642Fは田園都市線ではなく東横線に新製投入されており、東横線系統の側面方向幕を用意して使用された。 9000系が登場以降は転属が進み、1989年までに8500系は東横線から撤退している。 編成表は東横線に在籍していた編成の編成表を参照。 1977年4月7日の新玉川線開業時に東横線から6連11本が転用された。ほとんど地下区間での運用となることから、大半の編成が冷房準備車だった(編成表)。 1986年に投入された8638F+8639F・8640F+8641Fは、田園都市線と大井町線で予備車を共用できるよう5両編成+5両編成で製造され、しばらくの間大井町線でも使用された。そのため、この4編成の乗務員室ドアは普通の編成と違う仕様になっている。 大井町線運用には主に8640F+8641Fを充当し、大井町線用方向幕、戸越公園駅・九品仏駅の両駅で使用するドア非扱いスイッチを装備している他、田園都市線のATC化後も東急形ATSを存置した。 なお、大井町線運用の他にこどもの国線用7000系ワンマン運転対応車が検査入場した際にもツーマン運転で代走することもあった。 2003年3月19日には半蔵門線水天宮前駅 - 押上駅間延伸および同線と東武伊勢崎線・日光線の相互直通運転が開始された。田園都市線と半蔵門線は従来から相互直通運転を行っているため、田園都市線所属の8500系は田園都市線から半蔵門線・東武伊勢崎線を介して東武日光線の南栗橋駅まで乗り入れるようになった。また、2006年3月18日からは伊勢崎線の久喜駅まで乗り入れるようになった。 この東武線直通に際しては、当初8500系全車に東武線用保安装置の追設で賄う予定だった。しかし、その後バリアフリー対応を推進していく方針となったため、2002年5月2日から2003年2月21日にかけて新型車両の5000系が投入されることとなった。これにより8601F・8602Fが長野電鉄譲渡分を除き廃車、5両+5両の8638F+8639F・8640F+8641Fが5両編成ずつに分割の上で大井町線に転籍した。 大井町線に転籍した8638F+8639F・8640F+8641Fは8000系の8045F - 8051Fを置き換えた。また、同線転籍時には先頭車の貫通幌と営団ATCを撤去した。パンタグラフは当初、菱形(PT43形)のままだったが、後にシングルアーム化された。 田園都市線に引き続き残った車両は、改修費を抑えるため、8603F - 8614FおよびVVVFインバータ制御装置を搭載した8642Fを除いた8615F - 8637Fに東武線直通対応の改修を行い、相互直通運転開始に備えた。その後、5000系6ドア車導入による車両不足を補うため、2004年度には8613Fと8614Fも東武線直通対応とされた。改修対象から外され、東武線直通非対応となった編成は識別のため非常扉に丸囲みの「K」のシールが貼付された。 2006年3月18日のダイヤ改正からは伊勢崎線久喜駅までも乗り入れが行われるようになった。また、このダイヤ改正から東武線非対応編成は平日の朝ラッシュ時のみの運用となり、日中運用は僅かとなった。しかし、精算運転の絡みで土曜・休日の押上行または清澄白河行として東武線対応編成に代わって運用に入ることもある。その機会は昼間より夜間の方が多く、運転本数は1往復程度だったが、2008年3月28日のダイヤ改正から土曜・休日の東武非乗り入れ編成の運用が復活(36K - 38K)し、36K・37Kは朝のみで38Kのみ終日運用が組まれていた。 なお、2009年6月6日のダイヤ改正以降、土休日ダイヤでの東武線非直通運用は朝のA34Kと、夜のP35Kのみとなっており、終日運用の東武線非直通は平日の44Kのみとなった。 大井町線所属の5両編成は、2006年3月18日から土曜・休日の大井町線 - 田園都市線直通急行に使用されるようになった。この直通急行設定に際し、誤乗防止策として、正面の帯色を赤色から赤色→黄色のグラデーションに変更し、同時に貫通扉の帯の下部に大井町線を表す認識ステッカーが貼付された。なお、大井町線内での急行運転は2008年3月28日のダイヤ改正より開始され、大井町線直通急行も全て大井町線の急行用車両である新6000系で運行されるようになった。なお、大井町線所属8500系は8638Fを最後に運用から退いた。 1997年から2001年にかけて車体・車内更新工事が施行されたが、その後は5000系による車両の置き換え計画が発表されたため、全車に施工されることなく工事は中止された。本系列は、8000系のように編成単位での施工ではなく、編成中で軽量構体化される前の12次車までが対象だった(ただし13次車以降でも8841Fのみ更新工事が施工されている)。 一部車両は車体・車内更新を同時に施工したものも存在している。 また、更新工事とは別に、交通バリアフリー法対応の関係で工事を施された編成も存在する。 更新工事施工時期以外には以下の改良が行われた。 その他にも機器の部分的な更新が行われている(更新工事と直接関係ない)。 東武鉄道への直通営業開始を前にして、2002年末期から2005年度にかけて一部の編成を対象に先頭車前面下部に排障器(スカート)の設置工事が施工された。設置工事の施工時期の違いなどにより、後述のような仕様の変更がみられる。 いずれも編成単位で両先頭車同時に施行された。 必ずしも東武線への直通を意図しないものとなった。また、スカートの形状が変更されている。 大井町線用の編成にも装着した。 2007年8月から下り方先頭車のスカートの右上部が切り取られた編成が登場した。これはジャンパ栓の形状が変更されたためであり、8613F以外の全てのスカート装備編成が切り取られた。 2019年頃より、車内の防犯カメラ設置が行われており、本系列では、車内照明と一体型の防犯カメラが採用されている。なお、既存の車内照明は蛍光灯のままだが、防犯カメラ一体型の物のみLED照明である。 5000系の導入や8590系の転属により、本形式は2003年(平成15年)から置き換えが開始された。廃車時期は以下の通り。 5000系は2007年度以降の約3年間で田園都市線に250両を導入する予定であったが、18編成で導入は打ち切られ、本形式は38編成中24編成が引き続き残存することになった。 離脱した編成の経年の浅い車両を他編成に組み込む組成変更が行われた。 なお、☆の3両は更新車と同様に座席の中央にスタンションポール(つかみ棒)が取り付けられた。 2017年(平成29年)3月、東急電鉄は田園都市線に新型車両2020系を導入することを発表した。これに伴い、本形式の残存していた24編成も2022年度までに置き換えられることになり、2019年(平成31年・令和元年)より再度廃車が開始された。運用を離脱した編成と時期は以下の通り。 大井町線で運用されていた編成も、田園都市線への2020系導入に伴う2000系(→9020系)の転属によって、以下の通り廃車された。 なお、廃車された8622Fと8630Fは部品および車両単体での一般販売が行われた。 2022年4月5日、2023年1月までに本形式の定期運行を終了することが発表された。これに先立ち、2022年4月6日より「ありがとうハチゴー」プロジェクトが立ち上げられ、記念ヘッドマークの掲出や各種イベントなどが順次開催された。 2023年1月25日、最後まで残存していた8637Fが長津田車両工場へ回送され、本形式は全編成の運用を終了した。これに伴い、東急電鉄の営業用列車はVVVFインバータ制御車のみの運用となった。 2005年から廃車になった車両の譲渡が行われている。 2005年度に6両(3両編成2本)+部品取り車2両の計8両、2006年度に6両(3両編成2本)、2008年度に6両(3両編成2本)がそれぞれ長野電鉄に譲渡され、同社の8500系として使用されている。譲渡先に合わせて起動加速度は低めに設定されている。なお、譲渡は2011年度まで行われる予定であったが、諸般の事情により中断された。 信濃毎日新聞は2022年2月25日付紙面で、同社で運行する通勤電車を2028年度までに3000系などの省電力車両に置き換え、在籍車両のうち73%を省電力車両にする方針であると報じた。報道の通りであると仮定すると、置き換えられる予定の3500系2連2本、省電力20%を補う新形式の3000系3連3本、特急電車の1000系4連2本、2100系3連2本を除くと、残りの置き換え必要数が18両となることから、8500系3連6本全車両が置き換え対象となっているのではという見方がある。 2005年度に伊豆急行へ1両が譲渡され、同社の8000系として使用されている。同系全45両中唯一の元東急8500系であるが、これは8000系のクハ8049と組んで2両編成化の試作車として2004年11月に先行改造されていたものを2005年に追加改造を施工したものである。 2008年度に秩父鉄道へ8両が譲渡され、このうち6両(3両編成2本)が同社の7000系として使用されている(残り2両は部品取り車)。 2006年度に8両編成3本(8604F・8608F・8611Fのうち8両×3本の24両)、2007年度に8両編成2本(8607F・8610Fのうち8両×2本の16両)、2008年度に8両編成2本(8612F・8618Fのうち8両×2本の16両)、2009年度に8両編成1本(8613Fのうち8両)がインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api、PT Kereta Commuter Indonesia(以降PT KCI)に譲渡された。現在は全編成がPT KCI所属となっている。KCI管内での冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されている。改番は行われていない。2009年に譲渡した8613FのみPT. Kereta Apiの通勤鉄道事業を分社化したPT KCI導入となっており「JALITA」という愛称が付けられている。なお、譲渡後不具合を起こし、長い間休車になっていた8613Fは休車の間に部品取りが進み復旧が困難になったため、2014年9月に廃車となった。現在、老朽化で一部編成が廃車となっている中、現存車は全てKCI所属となっている。また、8612Fは2019年に脱線事故を起こし、損傷した前4両が廃車となり、後4両は他の編成に組み込まれた。 2021年、東急は「車両を適切に保存していただくことが可能と判断できる方」との条件を付けて1両当たり176万円で販売を開始した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東急8500系電車(とうきゅう8500けいでんしゃ)は、1975年(昭和50年)に登場した東急電鉄の通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項ではインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api、PT KAI Commuter Jabodetabekに売却された車両についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急では、1969年(昭和44年)から当時建設していた地下鉄「新玉川線」(現・田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)向け車両として地下線火災対策基準「A - A基準」を満たした8000系を東横線に順次導入した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、渋谷駅から都心方面に直通運転を行う予定の地下鉄半蔵門線への乗り入れにあたって、東急・帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)共通の車両規格が作成された。この規格に合致させるため、路線識別用の赤帯の貼付・機器取り扱いの変更、および電動車比率の向上による先頭車の電動車化などのマイナーチェンジを図った本形式を新玉川線・半蔵門線向けとして1975年から導入することになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本系列は8000系のマイナーチェンジ車両であるため、登場時は8000系の一部として扱われていたが、その後増備が進むにつれて8500系と呼ばれるようになった。現在でも広義の8000系と呼ばれるグループに含まれる。1991年までに400両が導入され、東急の系列として最大の両数を占めていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)に、東急としては初めて鉄道友の会ローレル賞を受賞した。8630F以前の各編成には、受賞記念プレートが設置されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "8000系とほぼ同一のオールステンレス車体で、1981年(昭和56年)度分として導入した車両(13次車)からはバッド社の技術を元に東急車輛が独自に開発した軽量ステンレス車体を採用して軽量化を図った。この車両は8631F以降の全車両と8630F以前の一部の中間車にも組み込まれている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "前面は8000系より150 mm高い高運転台構造となり、正面窓が小さくなったほか、行先表示幕の左側に種別表示幕、右側に運行番号表示幕をそれぞれ設置した。また、半蔵門線乗り入れ規格に基づく路線識別帯として、東急のステンレス車では初めて先頭車の前面に東急のシンボルカラーと警戒色を兼ねた赤帯を入れて登場した。この赤帯はそれ以降に登場した同社の新造車両にも普及し、従来車にも1989年(平成元年)以降導入されるようになった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当初は小田急9000形に似た前面デザインも計画され、模型まで製作された。だが、「切妻以外は考えるな」という東急の方針により、前面が平らな切妻の形状になった。なお、当初は「9000系」が仮の形式称号だった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "デハ8700・8800形は、8799・8899号の次が0700-・0800-と変則的な番号が付与されている。これは東急の車両管理システムでは車両番号を4桁で管理しており、5桁への対応は大規模な改修が必要になるため、それを避けるためこの付番になっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "8000系の電動車(M)と付随車(T)の構成(MT比)は6両編成時で4M2T(起動加速度3.2 km/h/s)であり、旧新玉川線には対応していたが、半蔵門線の急曲線・急勾配区間において故障した先行列車を救援するには電動車比率を向上させる必要があったため、本系列は5両編成時に4M1T、6両編成時に5M1T、8両編成時に6M2T、10両編成時に8M2Tとされた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "電動車比率向上および半蔵門線で使用される誘導無線(IR)アンテナを設置する中間付随車が必要とされたため、制御車(先頭車)を8000系の付随車(クハ8000形)から本系列では電動車(デハ8500・8600形)に変更し、中間付随車(サハ8900形)を新たに設定した。中間電動車は8000系のデハ8100・8200形にそれぞれ相当するデハ8700・8800形とした。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "電動車のうちデハ8500形およびデハ8700形に制御装置を搭載し、対となるように隣接して連結したデハ8600形またはデハ8800形も一緒に制御する。ただし、編成の都合で電動車の両数が奇数となる場合はデハ8500形および8700形が単独で連結された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、1991年度増備車のうち2両はVVVFインバータ制御が採用され、8642Fに組み込まれた。8642Fには界磁チョッパ・試作型のVVVFインバータ・量産型のVVVFインバータと1編成で3つの異なる制御装置を搭載している。なお、2003年から本系列の東武線乗り入れが始まったが、8642Fは東武での乗務員教習の手間を少なくするため東武線へは乗り入れなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "電動台車は8000系と同じTS-807形を採用した。また、付随台車は同系列ではパイオニアIII系のTS-708形であったが、ばね下重量の軽減のため、本系列では電動台車をベースとしたTS-815形を採用した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東武乗り入れ非対応の車両の無線アンテナは2本、乗り入れ対応車両は無線アンテナが3本装着されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "落成当初は字幕式で日本語表記のみであったが、1990年(平成2年)の半蔵門線水天宮前駅延伸時に水天宮前行のみ英字表記が追加された。また、一部編成で英字併記に変更されている。当時の英字は大文字+小文字で表記された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)より8603Fを皮切りにLED式への改造が施工され、先述の英字併記に交換された編成にも施工された。このフォントは当初は明朝体であったが、2003年3月19日の半蔵門線押上開業と東武線乗り入れに伴い表示器のROMを交換した際にフォントを視認性の良いゴシック体へ変更し、同時期に字幕式で残存していた8606F・8607F・8610Fは英字を大文字表記とした新幕へ変更した。また、側面にも英字表記が入るようになった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "8616Fは行先表示器が2005年(平成17年)3月26日より、その後8634F - 8636F・8638F - 8641Fが従来の3色LEDからフルカラーLEDに変更されている。ただし、8616F・8634F - 8636Fは3色LEDに戻されている(8616F・8634Fの側面表示を除く)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "8606Fは8500系の中では最後まで字幕式行先表示器を装備していた編成。この他に8607F・8610Fが廃車時まで字幕式で残存していた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "8638F - 8641Fは大井町線用であり、前述した半蔵門線延伸などには関係がなく、ROMの交換を行わなかった。したがって3色LED式行先表示器のフォントは明朝体であった。このうち8640Fと8641Fは前面のみ幕式で、側面はLED式であったが、田園都市線直通急行に対応するため、検査入場した際に前面もLED化して出場した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "8000系と同一の客室であり、腰掛は8人掛けでエンジ色、ベージュ系の化粧板・床材、天井は冷房機と扇風機がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "登場時より冷房装置(冷房能力8,000 kcal/h×4台)を搭載するが、地下鉄新玉川線用に新造された一部の車両は冷房準備車として冷房を搭載せずに登場し(屋根に外キセのみ載せた形態で外観は区別がつかない)、後に冷房化された。8608Fには、米・旧バッド社の協定プレートが取り付けられている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)の増備車より8090系の改良点を取り入れ、座席を7人掛けに短縮、仕切りパイプの形状を変更、荷棚がパイプ状から網状となった。網棚については従前の車両も後に網状へ改造された。8636Fまではこれらの増備車が必ず含まれる(4・5号車ユニットは1983年以降に竣工)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)以降に登場した8637F以降の編成単位で導入された車両では、9000系に準じて天井に補助送風機としてスイープファンを設置、冷房装置の能力を10,000 kcal/hに増大、7人掛けの腰掛へ中仕切りを追加、腰掛の2色化(ブラウン・オレンジ)、電動ワイパ・電子ホーンの新設など、仕様が変更されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "腰掛の2色化は1988年(昭和63年)ごろ従来の車両に対しても行なわれた。従来の車両には中仕切りがないため、マルーン・オレンジとコントラストを抑えた配色が使用された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "8639Fは補助送風機が試験的に改良品に交換され、8642F・9000系9002F以降で本格的に採用された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "備考", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "所属は全車長津田検車区である。", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "東急8500系電車/編成表を参照。", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1975年に当時の田園都市線(大井町駅 - すずかけ台駅間)に4両×10本(8601F - 8610F)が投入された。この時の編成は3M1Tとなっていた(編成表)。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "後に8500系の中間車が増備されると中間に組み込まれていた8000系は東横線などに戻り、1987年(昭和62年)に混成編成は解消した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "翌1976年に増備された編成(8611F - 8616F)は、サハ8900形に代わりM2車であるデハ8800形が連結された全電動車の4両編成となった。これはサハ8900形に搭載する大容量静止形インバータ(SIV)の開発が間に合わず、補器を搭載したデハ8800形を組み込んだためである(編成表)。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その後、同年に実施された田園都市線の5両化に伴い同線で使用された編成は全て5両とされた。この時に増備された一部の中間車は8000系の編成に入っていた(編成表)。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、5連化された編成は、編成替えなども含めて1977年開業の新玉川線系統とは別の運用に就いていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1979年8月12日以降の半蔵門線・新玉川線(当時)と田園都市線の運行系統一本化により、現在の大井町線区間にあたる大井町駅 - 二子玉川園駅(現・二子玉川駅)間には入らなくなり、新玉川線・田園都市線向けに大半の編成が6・8両化され、一部の編成が東横線に移籍した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "8500系は1978年から1988年頃まで営団半蔵門線に貸し出された。外見上の区別がつかないが、車内のドア上にある路線図が営団のメトロネットワークだったことと、車内広告に営団地下鉄の広告が採用されていた点で区別ができた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東横線には、先行して新玉川線開業用の車両(6両×2本)が導入された。その後、同線開業用車両はさらに増備され、1977年4月7日の同線開業まで暫定的に東横線で使用されることとなる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この時に本系列のみでは必要車両数を確保出来なかったため、1976年から8000系に前述の車両規格に対応させる改造を施した。これらを本系列の中間に組み込むことにより必要車両数を確保した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、これらの中には中間車の代用として8000系の先頭車に幌を装着したものが登場した。中間車代用の先頭車については1982年の中頃に解消されているが、8000系の中間車は1988年頃まで使用されていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "新玉川線開業用以外のもので東横線が新製時配属になっている編成は、以下の編成になる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東横線系統では、主に急行運用で使用された。ただし、6連で在籍していた車両は、1980年の急行7連化に伴い各停運用が中心となった。1982年の急行8両化以降に在籍していた車両は、8連口は主に急行で使用されたが、各駅停車が8連に増強された後は各駅停車でも運用された。また、1985年に7連で増備された8634Fは各駅停車のみ運用していた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "田園都市線で使用した側面方向幕は、各停運用は未使用、急行運用は「急行」表示しかされておらず行き先は表示されなかった。8500系として最後に製造された8642Fは田園都市線ではなく東横線に新製投入されており、東横線系統の側面方向幕を用意して使用された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "9000系が登場以降は転属が進み、1989年までに8500系は東横線から撤退している。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "編成表は東横線に在籍していた編成の編成表を参照。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1977年4月7日の新玉川線開業時に東横線から6連11本が転用された。ほとんど地下区間での運用となることから、大半の編成が冷房準備車だった(編成表)。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1986年に投入された8638F+8639F・8640F+8641Fは、田園都市線と大井町線で予備車を共用できるよう5両編成+5両編成で製造され、しばらくの間大井町線でも使用された。そのため、この4編成の乗務員室ドアは普通の編成と違う仕様になっている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "大井町線運用には主に8640F+8641Fを充当し、大井町線用方向幕、戸越公園駅・九品仏駅の両駅で使用するドア非扱いスイッチを装備している他、田園都市線のATC化後も東急形ATSを存置した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお、大井町線運用の他にこどもの国線用7000系ワンマン運転対応車が検査入場した際にもツーマン運転で代走することもあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2003年3月19日には半蔵門線水天宮前駅 - 押上駅間延伸および同線と東武伊勢崎線・日光線の相互直通運転が開始された。田園都市線と半蔵門線は従来から相互直通運転を行っているため、田園都市線所属の8500系は田園都市線から半蔵門線・東武伊勢崎線を介して東武日光線の南栗橋駅まで乗り入れるようになった。また、2006年3月18日からは伊勢崎線の久喜駅まで乗り入れるようになった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この東武線直通に際しては、当初8500系全車に東武線用保安装置の追設で賄う予定だった。しかし、その後バリアフリー対応を推進していく方針となったため、2002年5月2日から2003年2月21日にかけて新型車両の5000系が投入されることとなった。これにより8601F・8602Fが長野電鉄譲渡分を除き廃車、5両+5両の8638F+8639F・8640F+8641Fが5両編成ずつに分割の上で大井町線に転籍した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "大井町線に転籍した8638F+8639F・8640F+8641Fは8000系の8045F - 8051Fを置き換えた。また、同線転籍時には先頭車の貫通幌と営団ATCを撤去した。パンタグラフは当初、菱形(PT43形)のままだったが、後にシングルアーム化された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "田園都市線に引き続き残った車両は、改修費を抑えるため、8603F - 8614FおよびVVVFインバータ制御装置を搭載した8642Fを除いた8615F - 8637Fに東武線直通対応の改修を行い、相互直通運転開始に備えた。その後、5000系6ドア車導入による車両不足を補うため、2004年度には8613Fと8614Fも東武線直通対応とされた。改修対象から外され、東武線直通非対応となった編成は識別のため非常扉に丸囲みの「K」のシールが貼付された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2006年3月18日のダイヤ改正からは伊勢崎線久喜駅までも乗り入れが行われるようになった。また、このダイヤ改正から東武線非対応編成は平日の朝ラッシュ時のみの運用となり、日中運用は僅かとなった。しかし、精算運転の絡みで土曜・休日の押上行または清澄白河行として東武線対応編成に代わって運用に入ることもある。その機会は昼間より夜間の方が多く、運転本数は1往復程度だったが、2008年3月28日のダイヤ改正から土曜・休日の東武非乗り入れ編成の運用が復活(36K - 38K)し、36K・37Kは朝のみで38Kのみ終日運用が組まれていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、2009年6月6日のダイヤ改正以降、土休日ダイヤでの東武線非直通運用は朝のA34Kと、夜のP35Kのみとなっており、終日運用の東武線非直通は平日の44Kのみとなった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "大井町線所属の5両編成は、2006年3月18日から土曜・休日の大井町線 - 田園都市線直通急行に使用されるようになった。この直通急行設定に際し、誤乗防止策として、正面の帯色を赤色から赤色→黄色のグラデーションに変更し、同時に貫通扉の帯の下部に大井町線を表す認識ステッカーが貼付された。なお、大井町線内での急行運転は2008年3月28日のダイヤ改正より開始され、大井町線直通急行も全て大井町線の急行用車両である新6000系で運行されるようになった。なお、大井町線所属8500系は8638Fを最後に運用から退いた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1997年から2001年にかけて車体・車内更新工事が施行されたが、その後は5000系による車両の置き換え計画が発表されたため、全車に施工されることなく工事は中止された。本系列は、8000系のように編成単位での施工ではなく、編成中で軽量構体化される前の12次車までが対象だった(ただし13次車以降でも8841Fのみ更新工事が施工されている)。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一部車両は車体・車内更新を同時に施工したものも存在している。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、更新工事とは別に、交通バリアフリー法対応の関係で工事を施された編成も存在する。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "更新工事施工時期以外には以下の改良が行われた。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その他にも機器の部分的な更新が行われている(更新工事と直接関係ない)。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "東武鉄道への直通営業開始を前にして、2002年末期から2005年度にかけて一部の編成を対象に先頭車前面下部に排障器(スカート)の設置工事が施工された。設置工事の施工時期の違いなどにより、後述のような仕様の変更がみられる。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "いずれも編成単位で両先頭車同時に施行された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "必ずしも東武線への直通を意図しないものとなった。また、スカートの形状が変更されている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "大井町線用の編成にも装着した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2007年8月から下り方先頭車のスカートの右上部が切り取られた編成が登場した。これはジャンパ栓の形状が変更されたためであり、8613F以外の全てのスカート装備編成が切り取られた。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2019年頃より、車内の防犯カメラ設置が行われており、本系列では、車内照明と一体型の防犯カメラが採用されている。なお、既存の車内照明は蛍光灯のままだが、防犯カメラ一体型の物のみLED照明である。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "5000系の導入や8590系の転属により、本形式は2003年(平成15年)から置き換えが開始された。廃車時期は以下の通り。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "5000系は2007年度以降の約3年間で田園都市線に250両を導入する予定であったが、18編成で導入は打ち切られ、本形式は38編成中24編成が引き続き残存することになった。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "離脱した編成の経年の浅い車両を他編成に組み込む組成変更が行われた。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "なお、☆の3両は更新車と同様に座席の中央にスタンションポール(つかみ棒)が取り付けられた。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)3月、東急電鉄は田園都市線に新型車両2020系を導入することを発表した。これに伴い、本形式の残存していた24編成も2022年度までに置き換えられることになり、2019年(平成31年・令和元年)より再度廃車が開始された。運用を離脱した編成と時期は以下の通り。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "大井町線で運用されていた編成も、田園都市線への2020系導入に伴う2000系(→9020系)の転属によって、以下の通り廃車された。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお、廃車された8622Fと8630Fは部品および車両単体での一般販売が行われた。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2022年4月5日、2023年1月までに本形式の定期運行を終了することが発表された。これに先立ち、2022年4月6日より「ありがとうハチゴー」プロジェクトが立ち上げられ、記念ヘッドマークの掲出や各種イベントなどが順次開催された。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2023年1月25日、最後まで残存していた8637Fが長津田車両工場へ回送され、本形式は全編成の運用を終了した。これに伴い、東急電鉄の営業用列車はVVVFインバータ制御車のみの運用となった。", "title": "置き換えと廃車" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2005年から廃車になった車両の譲渡が行われている。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2005年度に6両(3両編成2本)+部品取り車2両の計8両、2006年度に6両(3両編成2本)、2008年度に6両(3両編成2本)がそれぞれ長野電鉄に譲渡され、同社の8500系として使用されている。譲渡先に合わせて起動加速度は低めに設定されている。なお、譲渡は2011年度まで行われる予定であったが、諸般の事情により中断された。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "信濃毎日新聞は2022年2月25日付紙面で、同社で運行する通勤電車を2028年度までに3000系などの省電力車両に置き換え、在籍車両のうち73%を省電力車両にする方針であると報じた。報道の通りであると仮定すると、置き換えられる予定の3500系2連2本、省電力20%を補う新形式の3000系3連3本、特急電車の1000系4連2本、2100系3連2本を除くと、残りの置き換え必要数が18両となることから、8500系3連6本全車両が置き換え対象となっているのではという見方がある。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2005年度に伊豆急行へ1両が譲渡され、同社の8000系として使用されている。同系全45両中唯一の元東急8500系であるが、これは8000系のクハ8049と組んで2両編成化の試作車として2004年11月に先行改造されていたものを2005年に追加改造を施工したものである。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2008年度に秩父鉄道へ8両が譲渡され、このうち6両(3両編成2本)が同社の7000系として使用されている(残り2両は部品取り車)。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2006年度に8両編成3本(8604F・8608F・8611Fのうち8両×3本の24両)、2007年度に8両編成2本(8607F・8610Fのうち8両×2本の16両)、2008年度に8両編成2本(8612F・8618Fのうち8両×2本の16両)、2009年度に8両編成1本(8613Fのうち8両)がインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api、PT Kereta Commuter Indonesia(以降PT KCI)に譲渡された。現在は全編成がPT KCI所属となっている。KCI管内での冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されている。改番は行われていない。2009年に譲渡した8613FのみPT. Kereta Apiの通勤鉄道事業を分社化したPT KCI導入となっており「JALITA」という愛称が付けられている。なお、譲渡後不具合を起こし、長い間休車になっていた8613Fは休車の間に部品取りが進み復旧が困難になったため、2014年9月に廃車となった。現在、老朽化で一部編成が廃車となっている中、現存車は全てKCI所属となっている。また、8612Fは2019年に脱線事故を起こし、損傷した前4両が廃車となり、後4両は他の編成に組み込まれた。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2021年、東急は「車両を適切に保存していただくことが可能と判断できる方」との条件を付けて1両当たり176万円で販売を開始した。", "title": "譲渡車" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "", "title": "譲渡車" } ]
東急8500系電車(とうきゅう8500けいでんしゃ)は、1975年(昭和50年)に登場した東急電鉄の通勤形電車である。 本項ではインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api、PT KAI Commuter Jabodetabekに売却された車両についても記述する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Pathnav|東急8000系電車|frame=1}} {{鉄道車両 | 車両名 = 東急8500系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu Series8500-8622F.jpg | 画像説明 = 東急8500系電車8622F<br />(2021年10月2日 [[幸手駅]] - [[南栗橋駅]]) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]] →<br />[[東急電鉄]]<br />[[KRLコミューターライン]] | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = 1975年 - 1991年<br>(基本設計は1969年製造の8000系と同等) | 製造数 = 400両 | 運用開始 = | 運用範囲 = | 編成 = 田園都市線用 10両<br />大井町線用 5両 | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 V([[架空電車線]]方式) | 最高運転速度 = 110 km/h | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.3 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = 10両 1,424人<br />5両 704人 | 車両定員 = 先頭車136(座席56 - 48)人<br />中間車144(座席64 - 51)人 | 自重 = [[動力車|電動車]]31.0 - 36.0 t<br />[[付随車]]28.3 - 30.0 t | 編成重量 = | 全長 = 20,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと --> | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 4,100 mm | 車体材質 = | 台車 = 軸ばね式ダイレクトマウント[[空気ばね]]台車<br />TS-807M・A・C TS-815M・A・C形 | 主電動機 = [[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]] 130 kW<br />8642編成の一部は[[かご形三相誘導電動機]] 170 kW | 主電動機出力 = | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 5.31<br />VVVF車うちデハ0718-デハ0818ユニット 6.07<ref name="RP201512SP">「東京急行電鉄現有車両主要諸元表」、『鉄道ピクトリアル』第912号、鉄道図書刊行会、2015年12月。</ref> | 編成出力 = | 制御方式 = [[界磁チョッパ制御]]<br />一部は[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]](ATC連動形) | 制動装置 = | 保安装置 = 田園都市線用:[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武形ATS]](東武線対応車のみ)<br />大井町線用:[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]] | 備考 = | 備考全幅 = {{ローレル賞|16|1976|link=no}} |導入年=1975年 |運用終了=2023年1月25日<ref name="8637F_2023">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/230125_8637F.pdf |title=(お知らせ)8500系8637Fの運用離脱に伴う回送完了について |publisher=東急電鉄 |date=2023-01-25 |accessdate=2023-01-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230125083246/https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/230125_8637F.pdf |archivedate=2023-01-25 |format=PDF}}</ref> }} '''東急8500系電車'''(とうきゅう8500けいでんしゃ)は、[[1975年]]([[昭和]]50年)に登場した[[東急電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本項では[[インドネシア]]の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である[[KRLジャボタベック|PT. Kereta Api、PT KAI Commuter Jabodetabek]]に売却された車両についても記述する。 == 概要 == 東急では、[[1969年]]([[昭和]]44年)から当時建設していた地下鉄「'''新玉川線'''」(現・[[東急田園都市線|田園都市線]][[渋谷駅]] - [[二子玉川駅]]間)向け車両として地下線火災対策基準「'''A - A基準'''」を満たした[[東急8000系電車|8000系]]を[[東急東横線|東横線]]に順次導入した。 その後、[[渋谷駅]]から都心方面に[[直通運転]]を行う予定の地下鉄[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]への乗り入れにあたって、東急・[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])共通の車両規格が作成された。この規格に合致させるため、路線識別用の赤帯の貼付・機器取り扱いの変更、および[[動力車|電動車]]比率の向上による先頭車の電動車化などの[[マイナーチェンジ]]を図った本形式を新玉川線・半蔵門線向けとして1975年から導入することになった。 本系列は8000系のマイナーチェンジ車両であるため、登場時は8000系の一部として扱われていたが、その後増備が進むにつれて8500系と呼ばれるようになった。現在でも広義の8000系と呼ばれるグループに含まれる。1991年までに400両が導入され、東急の系列として最大の両数を占めていた。 [[1976年]](昭和51年)に、東急としては初めて[[鉄道友の会]][[ローレル賞]]を受賞した。8630F以前の各編成には、受賞記念プレートが設置されている。 == 構造 == === 車体 === 8000系とほぼ同一のオール[[ステンレス鋼|ステンレス]]車体で、[[1981年]](昭和56年)度分として導入した車両(13次車)からは[[バッド社]]の技術を元に東急車輛が独自に開発した軽量ステンレス車体を採用して軽量化を図った。この車両は8631F以降の全車両と8630F以前の一部の中間車にも組み込まれている。 前面は[[東急8000系電車|8000系]]より150 [[ミリメートル|mm]]高い高運転台構造となり、正面窓が小さくなったほか、行先表示幕の左側に種別表示幕、右側に運行番号表示幕をそれぞれ設置した。また、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]乗り入れ規格に基づく路線識別帯として、東急のステンレス車では初めて先頭車の前面に東急のシンボルカラーと[[警戒色]]を兼ねた赤帯を入れて登場した。この赤帯はそれ以降に登場した同社の新造車両にも普及し、従来車にも[[1989年]](平成元年)以降導入されるようになった。 当初は[[小田急9000形電車|小田急9000形]]に似た前面デザインも計画され、模型まで製作された。だが、「切妻以外は考えるな」という東急の方針により、前面が平らな切妻の形状になった。なお、当初は「9000系」が仮の形式称号だった<ref name="土岐1992"/>。 デハ8700・8800形は、8799・8899号の次が0700-・0800-と変則的な番号が付与されている。これは東急の車両管理システムでは車両番号を4桁で管理しており、5桁への対応は大規模な改修が必要になるため、それを避けるためこの付番になっている。{{-}} === 主要機器 === 8000系の[[電動車]](M)と[[付随車]](T)の[[構成]]([[MT比]])は6両編成時で4M2T(起動加速度3.2 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]])であり、旧新玉川線には対応していたが、半蔵門線の急曲線・急勾配区間において故障した先行列車を救援するには電動車比率を向上させる必要があったため、本系列は5両編成時に4M1T、6両編成時に5M1T、8両編成時に6M2T、10両編成時に8M2Tとされた。 電動車比率向上および半蔵門線で使用される[[列車無線|誘導無線]](IR)アンテナを設置する中間付随車が必要とされたため、制御車(先頭車)を8000系の付随車(クハ8000形)から本系列では電動車(デハ8500・8600形)に変更し、中間付随車(サハ8900形)を新たに設定した。中間電動車は8000系のデハ8100・8200形にそれぞれ相当するデハ8700・8800形とした。 電動車のうちデハ8500形およびデハ8700形に制御装置を搭載し、対となるように隣接して連結したデハ8600形またはデハ8800形も一緒に制御する。ただし、編成の都合で電動車の両数が奇数となる場合はデハ8500形および8700形が単独で連結された。 その後、1991年度増備車のうち2両はVVVFインバータ制御が採用され、8642Fに組み込まれた。8642Fには界磁チョッパ・試作型のVVVFインバータ・量産型のVVVFインバータと1編成で3つの異なる制御装置を搭載している。なお、2003年から本系列の東武線乗り入れが始まったが、8642Fは東武での乗務員教習の手間を少なくするため東武線へは乗り入れなかった。 電動台車は8000系と同じTS-807形を採用した。また、付随台車は同系列ではパイオニアIII系のTS-708形であったが、ばね下重量の軽減のため、本系列では電動台車をベースとしたTS-815形を採用した。 東武乗り入れ非対応の車両の無線アンテナは2本、乗り入れ対応車両は無線アンテナが3本装着されている。 <gallery> Truck TS-807A.jpg|動力台車(TS-807A形) Truck TS-815C.jpg|付随台車(TS-815C形) </gallery> === 種別・行先表示器 === 落成当初は字幕式で日本語表記のみであったが、[[1990年]](平成2年)の半蔵門線[[水天宮前駅]]延伸時に水天宮前行のみ英字表記が追加された。また、一部編成で英字併記に変更されている。当時の英字は大文字+小文字で表記された。 [[1994年]](平成6年)より8603Fを皮切りに[[発光ダイオード|LED]]式への改造が施工され、先述の英字併記に交換された編成にも施工された。このフォントは当初は[[明朝体]]であったが、2003年3月19日の半蔵門線[[押上駅|押上]]開業と東武線乗り入れに伴い表示器の[[Read Only Memory|ROM]]を交換した際にフォントを視認性の良い[[ゴシック体]]へ変更し<ref>[https://web.archive.org/web/20041119223927/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/cexp.shtmll 行先・種別表示の変更について。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>、同時期に字幕式で残存していた8606F・8607F・8610Fは英字を大文字表記とした新幕へ変更した。また、側面にも英字表記が入るようになった。 8616Fは行先表示器が[[2005年]](平成17年)[[3月26日]]より、その後8634F - 8636F・8638F - 8641Fが従来の3色LEDから[[フルカラー]]LEDに変更されている。ただし、8616F・8634F - 8636Fは3色LEDに戻されている(8616F・8634Fの側面表示を除く)。 8606Fは8500系の中では最後まで字幕式行先表示器を装備していた編成。この他に8607F・8610Fが廃車時まで字幕式で残存していた。 8638F - 8641Fは大井町線用であり、前述した半蔵門線延伸などには関係がなく、ROMの交換を行わなかった。したがって3色LED式行先表示器のフォントは明朝体であった。このうち8640Fと8641Fは前面のみ幕式で、側面はLED式であったが、田園都市線直通急行に対応するため、検査入場した際に前面もLED化して出場した。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu 8500 Series 8606F DT Line 20180601.jpg|落成当初からの幕式表示器(2018年) Tokyu 8500 Series 8632F DT Line 20180611.jpg|3色LEDに改造されたもの(2018年) </gallery> === 内装 === 8000系と同一の客室であり、腰掛は8人掛けでエンジ色、ベージュ系の化粧板・床材、天井は冷房機と[[扇風機]]がある。 登場時より[[エア・コンディショナー|冷房装置]]([[冷凍能力|冷房能力]]8,000 [[冷凍能力|kcal/h]]×4台)を搭載するが、地下鉄新玉川線用に新造された一部の車両は冷房準備車として冷房を搭載せずに登場し(屋根に外キセのみ載せた形態で外観は区別がつかない)、後に冷房化された。8608Fには、[[アメリカ合衆国|米]]・旧バッド社の[[ライセンス|協定]]プレートが取り付けられている。 [[1981年]](昭和56年)の増備車より8090系の改良点を取り入れ、座席を7人掛けに短縮、仕切りパイプの形状を変更、[[網棚|荷棚]]が[[パイプ]]状から網状となった。[[網]]棚については従前の車両も後に網状へ改造された。8636Fまではこれらの増備車が必ず含まれる(4・5号車ユニットは1983年以降に竣工)。 [[1986年]](昭和61年)以降に登場した8637F以降の編成単位で導入された車両では、9000系に準じて天井に補助送風機としてスイープファンを設置、冷房装置の能力を10,000 kcal/hに増大、7人掛けの腰掛へ中仕切りを追加、腰掛の2色化(ブラウン・オレンジ)、電動ワイパ・[[警笛|電子ホーン]]の新設など、仕様が変更されている。 腰掛の2色化は[[1988年]](昭和63年)ごろ従来の車両に対しても行なわれた。従来の車両には中仕切りがないため、マルーン・オレンジとコントラストを抑えた配色が使用された。 8639Fは補助送風機が試験的に改良品に交換され、8642F・9000系9002F以降で本格的に採用された。 * 8,000 kcal/h×4台の車両の一部は、冷房装置を9,000 kcal/hのタイプに交換している。 **なお、その後の2009年末時点の資料<ref name="Train2010-1"/>では1両に9,000 kcal/hタイプを1台、さらなる能力向上形の10,500 kcal/h(RPU-3016形)<ref name="Train2013-5"/>3台とあり<ref name="Train2010-1"/>、1両あたりの能力は40,500 kcal/h(48.09&nbsp;kW)となっている<ref name="Train2010-1"/>。 * 8637F・8642Fの一部の冷房装置は、後年になりさらに大容量(12,500 kcal/h)のものに交換された<ref>[https://web.archive.org/web/20050308120457/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics2/2005/01/27184601.shtml 8500系(8642F)に新型冷房装置を搭載いたしました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。キセ(カバー)もステンレス製となっている。これは9000系にも施行されている。 * 運転室と客室の仕切り部はATC機器設置のために両側は壁となり、中央に窓入りの仕切り扉があった<ref group="注">小田急9000形と類似した構造。</ref>。8635F以降ではATC装置の小型化により車掌台側に窓を新設、在来車もATC機器更新時に車掌台側に窓を新設した。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu-8500-interior-1.jpg|初期車の車内(8919) Tokyu-8500-interior-3.jpg|中期車の車内(8891) Tokyu-8500-interior-2.jpg|更新車の車内(8946) Tokyu-8500-interior-4.jpg|後期車の車内(8973) </gallery> <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu8615.jpg|中間部の貫通扉 Tokyu8715.jpg|貫通扉がない中間部 Tokyu 8521 drivers cabin.JPG|運転室(8521) Tokyu 8521 plates 2.JPG|ローレル賞プレート(8521) </gallery> == 車体装飾 == ; [[TOQ-BOX]]虹色装飾(1980年代 - 2010年?) : 8634Fが施していた。側面にも赤帯が廻り、前面と戸袋の部分に[[虹]]と[[楽器]]・[[音符]]の[[イラストレーション|イラスト]]が描かれていた。2005年12月にドア鴨居部にLED案内表示器を千鳥配置で設置するとともに車外の行先表示器をフルカラーLED式に交換したが、2008年11月には前面のみ3色LEDに戻された。その後、2010年6月頃には赤帯以外のステッカーが全て撤去された。なおこの編成はTOQ-BOXの2代目編成であり、初代編成は8635Fであった。最初から8634FがTOQ-BOX号ではなかったのは、1986年当時東横線で7両編成で暫定運用に入っていたためである。 ; 田園都市線開通20周年記念列車(1986年) : 8635Fが施していた。落成当初は通常の赤帯であったが、イベント開始に合わせて装飾を施した。前面においては、車両番号部分に20周年のイラスト(黄色地に斜め虹が入り、20の0の間から8500系が飛び出している)が描かれ、尾灯下部には「田園都市線 祝 開通20周年」と赤文字が表示されていた。側面はコルゲートに赤と緑の帯が入り、側扉下部に20周年の記念イラストが描かれていた。なお、イベント終了後は初代TOQ-BOX号として運行された。 ; TOQ-BOX青帯装飾(1987年 - 2008年) : 8637Fがこの装飾を施している。落成当初は通常の赤帯であったが、翌年よりこの装飾となった。最大の特徴は帯色が青いことで、それが側面にも廻っており、先頭車には7色の[[シャボン玉]]が描かれていた。途中で帯や装飾を貼り替えているので、貫通扉枠部の帯の有無や装飾の色や位置が変わっている。一時は東急ケーブルテレビジョン(現・[[イッツ・コミュニケーションズ]])の広告電車に、[[2000年]]には[[グランベリーモール]]の広告車としても運用された。この編成は、1991年に8642Fが田園都市線に転用される時に同編成に連結されていた中間車3両(0808・0711・8980、いずれも1987年製)と8637Fに連結されていた0802・8799・8974(いずれも1986年製)が交換された。前述の通り、この編成は扇風機を廃止して補助送風機としてスイープファンを採用し、座席に4:3の仕切りを設置するなど、東横線の9000系に準じた車内仕様となっている。また、後年になってドア鴨居部にLED案内表示器を千鳥配置で設置する改造が行われたが、他の8500系後期車に見られたような車外の行先表示器のフルカラーLED式への交換は施工されていない。2008年[[12月7日]]には先頭車の側面に貼付されていたシャボン玉が全て撤去されたが、青帯はその後も残されている。 ; [[伊豆のなつ号]](2006年 - 2021年) : [[2006年]](平成18年)夏に8614Fが車体広告編成「伊豆のなつ号」に使用され、ハワイアンブルーの帯が巻かれた。「伊豆のなつ号」終了後もハワイアンブルーの帯は存置されている。伊豆急行の8000系を再現。詳細は[[伊豆のなつ号]]を参照。 ; 玉電開通100周年・新玉川線開通30周年記念列車(2007年) : 8615Fは、2007年[[2月26日]]から同年[[9月9日]]まで[[東急玉川線|玉電]]開業100周年および新玉川線開業30周年を記念したステッカー式ヘッドマークを先頭車の前面に貼付するとともに、車体にも玉電および新玉川線建設に関するステッカーが貼付された。なお、2006年11月からしばらくの間[[東急300系電車|300系]]310Fにも同じものが貼付されていた。 ; 新玉川線35周年記念列車(2012年) : [[2012年]](平成24年)[[4月7日]]から[[6月30日]]の間、8616Fに新玉川線開業35周年を記念したステッカー式ヘッドマークを先頭車の前面に貼付して運行された。ヘッドマークには[[渋谷ヒカリエ]]・[[二子玉川ライズ]]のイラストと、旧新玉川線区間途中駅のラインカラーによる虹が描かれている。また、記念入場券の販売や途中駅でのメモリアル写真展開催が併せて企画された。 ; 田園都市線50周年記念列車(2016年) : [[2016年]](平成28年)に田園都市線の溝の口駅 - 長津田駅間の開業から50周年を迎えたため、8606Fに田園都市線50周年を記念したステッカー式ヘッドマークを先頭車の前面に貼り付けて運行されていた。ヘッドマークには5000系を模したイラストの周りに「DENENTOSHI LINE 50th ANNIVERSARY」と書かれており、同様のヘッドマークが[[東急5000系電車 (2代)|5000系]]の5002編成にも貼り付けられていた。 ; Bunkamura号(2018年) : 8637FはTOQ-BOXの装飾除去後も青帯が遺されていたが、[[2018年]](平成30年)3月には扉にカラー(中央林間方から順に青・黄・緑・赤)の装飾が施され、更にその後[[Bunkamura]]のロゴや施設写真が追加され、Bunkamura号となった<ref>[https://railf.jp/news/2018/03/19/175500.html 東急8500系8537編成がカラードアに] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2018年3月19日</ref><ref>[http://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/180420.pdf 4月22日(日)からラッピング列車「Bunkamura号」の運行を開始します] 東急電鉄ニュースリリース 2018年4月20日</ref>。車内は広告をジャックして、施設や公演に関する情報を発信している。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu-8500-8634F-TOQ-BOX.jpg|8634F<br />「TOQ-BOX号」虹色装飾<br />(2007年8月16日 市が尾駅) Tokyu-Series8500 8634F.jpg|8634F<br />「TOQ-BOX号」虹色装飾・ステッカー撤去後<br />(2021年3月14日 つくし野駅 - すずかけ台駅間) Tokyu-8500-8637F.jpg|8637F<br />「TOQ-BOX号」青帯装飾<br />(2007年6月17日 宮崎台駅) 東急8500系8637F「TOQ-BOX」シャボン玉車・ステッカー撤去後.JPG|8637F<br />「TOQ-BOX号」青帯装飾・ステッカー撤去後<br />(2015年4月25日 二子玉川駅) </gallery> <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu-8500-Izunonatsu.jpg|8614F<br />「伊豆のなつ号」装飾<br />(2006年9月24日 あざみ野駅) Tokyu series8500 tamaden100th color.jpg|8615F<br />玉電・新玉川線メモリアル装飾<br /> (2007年3月11日 青葉台駅) Tokyu8616F with the Headmark of Shintama 35th Anniversary.jpg|8616F<br />新玉川線35周年記念装飾<br />(2012年4月9日 二子玉川駅) Tokyu-Series8500-8537 Bunkamura.jpg|8637F<br />「Bunkamura号」装飾<br />(2021年10月14日 幸手駅 - 南栗橋駅間) </gallery> == 編成表 == {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin: 1em 0em 2em 3em;" ! ! colspan="10" |田園都市線(5000系投入前)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=知識の倉 別館-東急電鉄 長津田検車区編成表 |url=http://formation.g1.xrea.com/train/major_pr/tokyu/nagatsuta.html |website=formation.g1.xrea.com |access-date=2022-11-15}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=果て無き車両図鑑{{!}}東急電鉄-8500系 |url=https://krfj.net/hatenaki/tq/8500.html |website=果て無き車両図鑑 |access-date=2022-11-15 |language=ja}}</ref> ! ! |- !編成番号 !デハ8600!!デハ8700!!サハ8900!!デハ8800!!デハ8700!!デハ8800!!デハ8700!!サハ8900!!デハ8800!!デハ8500 !種別・行先 表示 !備考 |- |8601F |8601 |8701 |8901 |'''8895''' |'''8791''' |8823 |'''0704''' |8906 |8801 |8501 |方向幕 |8895・8791は8620F、0704は8617Fへ組み込み |- |8602F |8602 |8702 |8902 |'''8896''' |'''8792''' |8837 |8717 |8907 |8802 |8502 |方向幕 |8896・8792は8620Fへ組み込み |- |8603F |8603 |8703 |8903 |'''8897''' |'''8793''' |8824 |8718 |8908 |8803 |8503 |LED |8897・8793は8628Fへ組み込み |- |8604F |8604 |8704 |8904 |'''8898''' |'''8794''' |8825 |8719 |8909 |8804 |8504 |LED |8898・8794は8627Fへ組み込み |- |8605F |8605 |8705 |8904 |'''8899''' |'''8795''' |8826 |8720 |8910 |8805 |8505 |LED |8899・8795は8615Fへ組み込み |- |8606F |8606 |8706 |'''<u>8947</u>''' |'''8885''' |'''8777''' |8827 |8721 |8923 |8806 |8506 |方向幕 | |- |8607F |8607 |8707 |'''<u>8948</u>''' |'''0810''' |'''0712''' |8828 |8743 |8924 |8807 |8507 |方向幕 | |- |8608F |8608 |8708 |'''<u>8949</u>''' |'''0813''' |'''0713''' |8829 |8744 |8925 |8808 |8508 |LED | |- |8609F |8609 |8709 |'''<u>8950</u>''' |'''0814''' |'''0714''' |8830 |8745 |8926 |8809 |8509 |LED | |- |8610F |8610 |8710 |'''<u>8951</u>''' |'''0815''' |'''0715''' |8831 |8746 |8927 |8810 |8510 |方向幕 | |- |8611F |8611 |8711 |8911 |'''0816''' |'''0716''' |8832 |8735 |8928 |8811 |8511 |LED | |- |8612F |8612 |8712 |8912 |'''0817''' |'''0717''' |8833 |8736 |8929 |8812 |8512 |LED | |- |8613F |8613 |8713 |8913 |'''0800''' |'''8796''' |8834 |8737 |8930 |8813 |8513 |LED | |- |8614F |8614 |8714 |8914 |'''8883''' |'''8775''' |8838 |8738 |8938 |8814 |8514 |LED |「伊豆の夏号」 |- |8615F |8615 |8715 |8915 |'''8864''' |'''8762''' |8836 |8747 |8932 |8815 |8515 |LED |8605Fから捻出した8899・8795により8836・8747を置き換え |- |8616F |8616 |8716 |8916 |'''8853''' |'''8751''' |'''8844''' |8722 |'''8952''' |8816 |8516 |前面LED 側面FC-LED | |- |8617F |8617 |8723 |8934 |'''8854''' |'''8752''' |'''8845''' |'''8779''' |'''8953''' |8817 |8517 |LED |8601Fから捻出した0704により8723を置き換え(伊豆急行へ譲渡) |- |8618F |8618 |8724 |8935 |'''8855''' |'''8753''' |'''8846''' |'''8780''' |'''8954''' |'''0811''' |8518 |LED | |- |8619F |8619 |8725 |8936 |'''8856''' |'''8754''' |'''8847''' |'''8781''' |'''8955''' |8818 |8519 |LED | |- |8620F |8620 |8726 |8937 |'''8857''' |'''8755''' |'''8848''' |'''8782''' |'''8956''' |'''0812''' |8520 |LED |8601Fから捻出した8895・8791、8602Fから捻出した8896・8792により8726・8848・8857・8755を置き換え |- |8621F |8621 |8727 |8941 |'''8858''' |'''8756''' |'''8849''' |'''0705''' |'''8907''' |8819 |8521 |LED | |- |8622F |8622 |8728 |8942 |'''8884''' |'''8776''' |'''8850''' |'''8750''' |'''8958''' |'''8851''' |8522 |LED | |- |8623F |8623 |8729 |8943 |'''8865''' |'''8763''' |'''8866''' |'''0706''' |'''8960''' |'''8867''' |8523 |LED | |- |8624F |8624 |8730 |8944 |'''8859''' |'''8757''' |'''<u>8841</u>''' |'''0707''' |8920 |'''8868''' |8524 |LED | |- |8625F |8625 |8731 |8945 |'''8860''' |'''8758''' |'''<u>8842</u>''' |'''0708''' |8921 |'''8869''' |8525 |LED | |- |8626F |8626 |8732 |8946 |'''8861''' |'''8759''' |'''<u>8843</u>''' |'''0709''' |8922 |'''8870''' |8526 |LED | |- |8627F |8627 |8733 |8917 |'''8871''' |'''8764''' |8838 |8734 |8939 |8820 |8527 |LED |8604Fから捻出した8898・8794により8839・8734を置き換え |- |8628F |8628 |8739 |8918 |'''8862''' |'''8760''' |8840 |8740 |8940 |8821 |8528 |LED |8603Fから捻出した8897・8793により8840・8740を置き換え |- |8629F |8629 |8741 |8919 |'''8863''' |'''8761''' |8835 |8742 |8931 |8822 |8529 |LED | |- |8630F |8630 |8748 |8933 |'''8872''' |'''8765''' |'''8852''' |8749 |'''8959''' |'''8873''' |8530 |LED | |- |8631F |'''8631''' |'''8766''' |'''8961''' |'''8874''' |'''8767''' |'''8875''' |'''8768''' |'''8962''' |'''8876''' |'''8531''' |LED | |- |8632F |'''8632''' |'''8769''' |'''8963''' |'''8877''' |'''8770''' |'''8878''' |'''8771''' |'''8964''' |'''8879''' |'''8532''' |LED | |- |8633F |'''8633''' |'''8772''' |'''8965''' |'''8880''' |'''8773''' |'''8881''' |'''8774''' |'''8966''' |'''8882''' |'''8533''' |LED | |- |8634F |'''8634''' |'''8778''' |'''8967''' |'''8894''' |'''8789''' |'''8886''' |'''8790''' |'''8968''' |'''8887''' |'''8534''' |LED |「TOQ-BOX」 |- |8635F |'''8635''' |'''8783''' |'''8969''' |'''8888''' |'''8784''' |'''8889''' |'''8785''' |'''8970''' |'''8890''' |'''8535''' |LED | |- |8636F |'''8636''' |'''8786''' |'''8971''' |'''8891''' |'''8787''' |'''8892''' |'''8788''' |'''8972''' |'''8893''' |'''8536''' |LED | |- |8637F |'''8637''' |'''8997''' |'''8973''' |'''0801''' |'''8798''' |'''0808''' |'''0711''' |'''8980''' |'''0803''' |'''8537''' |LED |「Bunkamura号」 |- |8642F |'''8642''' |'''0710''' |'''8979''' |'''<small>0818</small>''' |'''<small>0718</small>''' |'''<small>0802</small>''' |'''<small>8799</small>''' |'''8974''' |'''0809''' |'''8542''' |LED |<small>0818・0718・0802・8799(小)</small>はVVVFインバーター制御車 |} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;" ! ! colspan="5" |大井町線<ref name=":0" /><ref name=":1" /> ! ! |- !'''編成番号''' !'''デハ8600'''!!'''デハ8700'''!!'''サハ8900'''!!'''デハ8800'''!!'''デハ8500''' !種別・行先 表示 !備考 |- |8638F |'''8638''' |'''0700''' |'''8975''' |'''0804''' |'''8538''' |FC-LED | |- |8639F |'''8639''' |'''0701''' |'''8976''' |'''0805''' |'''8539''' |FC-LED | |- |8640F |'''8640''' |'''0702''' |'''8977''' |'''0806''' |'''8540''' |FC-LED | |- |8641F |'''8641''' |'''0703''' |'''8978''' |'''0807''' |'''8541''' |FC-LED | |} 備考 * 田園都市線所属の8601~8612編成、8642編成は東武非乗り入れ車。 * 8616編成の側面、大井町線編成の行先・種別表示はフルカラーLED表示。 * '''太字''' 軽量車 * '''太字(<u>下線</u>)''' 初期軽量車 所属は全車長津田検車区である<ref name="2009配置表" />。 === 編成表(詳細) === [[東急8500系電車/編成表]]を参照。 == 運用 == === 田園都市線への投入 === 1975年に当時の[[東急田園都市線|田園都市線]]([[大井町駅]] - [[すずかけ台駅]]間)に4両×10本(8601F - 8610F)が投入された。この時の編成は3M1Tとなっていた([[東急8500系電車/編成表#登場時編成|編成表]])。 後に8500系の中間車が増備されると中間に組み込まれていた8000系は東横線などに戻り、[[1987年]](昭和62年)に混成編成は解消した。 翌1976年に増備された編成(8611F - 8616F)は、サハ8900形に代わりM2車であるデハ8800形が連結された全電動車の4両編成となった。これはサハ8900形に搭載する大容量[[静止形インバータ]](SIV)の開発が間に合わず、補器を搭載したデハ8800形を組み込んだためである([[東急8500系電車/編成表#増備車|編成表]])。 その後、同年に実施された田園都市線の5両化に伴い同線で使用された編成は全て5両とされた。この時に増備された一部の中間車は8000系の編成に入っていた([[東急8500系電車/編成表#5連化後|編成表]])。 なお、5連化された編成は、編成替えなども含めて[[1977年]]開業の新玉川線系統とは別の運用に就いていた<ref group="注">ただし、同年11月から運行された渋谷駅 - 長津田駅間の直通快速には、これら5両編成も運用に就いていた。</ref>。 1979年[[8月12日]]以降の半蔵門線・新玉川線(当時)と田園都市線の運行系統一本化により、現在の大井町線区間にあたる大井町駅 - 二子玉川園駅(現・二子玉川駅)間には入らなくなり、新玉川線・田園都市線向けに大半の編成が6・8両化され、一部の編成が東横線に移籍した。 === 営団地下鉄への貸出 === 8500系は1978年から1988年頃まで[[東京メトロ半蔵門線|営団半蔵門線]]に貸し出された。外見上の区別がつかないが、車内のドア上にある路線図が[[帝都高速度交通営団|営団]]のメトロネットワークだったことと、車内広告に営団地下鉄の広告が採用されていた点で区別ができた<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-450/ 東急電鉄8500系、営団地下鉄に貸し出されたことがある] - マイナビニュース 鉄道トリビア 2018年4月7日</ref>。 === 東横線への投入 === [[ファイル:Tokyu 8500 approaching Tamagawa En.jpg|thumb|東横線で運用されていた8642F。側面方向幕が使用されている。<br />(1988年8月 新丸子駅 - 多摩川園駅間)]] 東横線には、先行して新玉川線開業用の車両(6両×2本)が導入された。その後、同線開業用車両はさらに増備され、1977年[[4月7日]]の同線開業まで暫定的に東横線で使用されることとなる。 この時に本系列のみでは必要車両数を確保出来なかったため、1976年から8000系に前述の車両規格に対応させる改造を施した。これらを本系列の中間に組み込むことにより必要車両数を確保した。 なお、これらの中には中間車の代用として8000系の先頭車に幌を装着したものが登場した<ref group="注">クハ8033 - 8044が該当し、特徴としては幌枠に幌を取り付けたボルトとIRアンテナの撤去跡がある。ただし8043・8044は8601F・8602Fの8両化時に6号車へ組み込まれたためIRアンテナは装備せず、1997年に更新された際に幌枠のボルトも撤去し改修された。</ref>。中間車代用の先頭車については[[1982年]]の中頃に解消されているが、8000系の中間車は[[1988年]]頃まで使用されていた。 新玉川線開業用以外のもので東横線が新製時配属になっている編成は、以下の編成になる。 * 8630F(6連)・8634F(7連)・8642F(8連) 東横線系統では、主に急行運用で使用された。ただし、6連で在籍していた車両は、[[1980年]]の急行7連化に伴い各停運用が中心となった。1982年の急行8両化以降に在籍していた車両は、8連口は主に急行で使用されたが、各駅停車が8連に増強された後は各駅停車でも運用された。また、[[1985年]]に7連で増備された8634Fは各駅停車のみ運用していた。 田園都市線で使用した側面方向幕は、各停運用は未使用、急行運用は「急行」表示しかされておらず行き先は表示されなかった。8500系として最後に製造された8642Fは田園都市線ではなく東横線に新製投入されており、東横線系統の側面方向幕を用意して使用された。 [[東急9000系電車|9000系]]が登場以降は転属が進み、1989年までに8500系は東横線から撤退している。 編成表は[[東急8500系電車/編成表#東横線|東横線に在籍していた編成の編成表]]を参照。 === 新玉川線への投入 === 1977年4月7日の新玉川線開業時に東横線から6連11本が転用された。ほとんど地下区間での運用となることから、大半の編成が冷房準備車だった([[東急8500系電車/編成表#新玉川線開業時(1977年4月)|編成表]])。 === 田園都市線と大井町線の予備車共通運用 === [[1986年]]に投入された8638F+8639F・8640F+8641Fは、田園都市線と大井町線で予備車を共用できるよう5両編成+5両編成で製造され、しばらくの間大井町線でも使用された。そのため、この4編成の乗務員室ドアは普通の編成と違う仕様になっている。 大井町線運用には主に8640F+8641Fを充当し、大井町線用方向幕、[[戸越公園駅]]<ref group="注">2013年2月24日に戸越公園駅でのドアカットは解消されている。</ref>・[[九品仏駅]]の両駅で使用する[[ドアカット|ドア非扱い]]スイッチを装備している他、田園都市線のATC化後も東急形[[自動列車停止装置|ATS]]を存置した。 なお、大井町線運用の他に[[東急こどもの国線|こどもの国線]]用[[東急7000系電車 (初代)|7000系]][[ワンマン運転]]対応車が検査入場した際にもツーマン運転で代走することもあった。 === 東武線直通による廃車開始と大井町線転籍 === 2003年3月19日には半蔵門線[[水天宮前駅]] - 押上駅間延伸および同線と東武伊勢崎線・日光線の相互直通運転が開始された。田園都市線と半蔵門線は従来から相互直通運転を行っているため、田園都市線所属の8500系は田園都市線から半蔵門線・東武伊勢崎線を介して東武日光線の[[南栗橋駅]]まで乗り入れるようになった。また、2006年[[3月18日]]からは伊勢崎線の[[久喜駅]]まで乗り入れるようになった。 この東武線直通に際しては、当初8500系全車に東武線用保安装置の追設で賄う予定だった。しかし、その後[[バリアフリー]]対応を推進していく方針となったため、2002年[[5月2日]]から2003年[[2月21日]]にかけて新型車両の5000系が投入されることとなった。これにより8601F・8602Fが[[長野電鉄]]譲渡分を除き廃車、5両+5両の8638F+8639F・8640F+8641Fが5両編成ずつに分割の上で大井町線に転籍した。 大井町線に転籍した8638F+8639F・8640F+8641Fは8000系の8045F - 8051Fを置き換えた。また、同線転籍時には先頭車の貫通幌と営団ATCを撤去した。[[集電装置|パンタグラフ]]は当初、菱形(PT43形)のままだったが、後にシングルアーム化された。 田園都市線に引き続き残った車両は、改修費を抑えるため、8603F - 8614FおよびVVVFインバータ制御装置を搭載した8642Fを除いた8615F - 8637Fに東武線直通対応の改修を行い、相互直通運転開始に備えた。その後、5000系6ドア車導入による車両不足を補うため、2004年度には8613Fと8614Fも東武線直通対応とされた。改修対象から外され、東武線直通非対応となった編成は識別のため非常扉に丸囲みの「K」のシールが貼付された。 <gallery> Tokyu8500Gradation.jpg|5両編成に組成された大井町線用の8500系<br />(2006年10月 九品仏駅 - 尾山台駅間) Tokyu 8500 series original style 8606F 20170918.jpg|東武乗り入れ不可編成には、前面に「K」のステッカーが貼付された。<br />(2017年9月 田奈駅) </gallery> === 東武線非乗り入れ運用減少と田園都市線 - 大井町線直通急行 === [[ファイル:Tokyu8500oimachi label.jpg|thumb|大井町線所属車両に貼り付けられた<br />誤乗防止用ステッカー]] 2006年3月18日のダイヤ改正からは伊勢崎線久喜駅までも乗り入れが行われるようになった。また、このダイヤ改正から東武線非対応編成は[[平日]]の朝[[ラッシュ時]]のみの運用となり、日中運用は僅かとなった。しかし、精算運転の絡みで[[土曜日|土曜]]・[[休日]]の押上行または[[清澄白河駅|清澄白河]]行として東武線対応編成に代わって運用に入ることもある。その機会は昼間より夜間の方が多く、運転本数は1往復程度だったが、2008年[[3月28日]]のダイヤ改正から土曜・休日の東武非乗り入れ編成の運用が復活(36K - 38K)し、36K・37Kは朝のみで38Kのみ終日運用が組まれていた。 なお、2009年6月6日のダイヤ改正以降、土休日ダイヤでの東武線非直通運用は朝のA34Kと、夜のP35Kのみとなっており、終日運用の東武線非直通は平日の44Kのみとなった。 大井町線所属の5両編成は、2006年3月18日から土曜・休日の大井町線 - 田園都市線直通急行に使用されるようになった。この直通急行設定に際し、誤乗防止策として、正面の帯色を赤色から赤色→黄色のグラデーションに変更し、同時に貫通扉の帯の下部に大井町線を表す認識ステッカーが貼付された。なお、大井町線内での急行運転は2008年3月28日のダイヤ改正より開始され、大井町線直通急行も全て大井町線の急行用車両である[[東急6000系電車 (2代)|新6000系]]で運行されるようになった。なお、大井町線所属8500系は8638Fを最後に運用から退いた。 == 改造 == === 更新工事 === [[1997年]]から2001年にかけて車体・車内更新工事が施行されたが、その後は5000系による車両の置き換え計画が発表されたため、全車に施工されることなく工事は中止された。本系列は、[[東急8000系電車|8000系]]のように編成単位での施工ではなく、編成中で軽量構体化される前の12次車までが対象だった(ただし13次車以降でも8841Fのみ更新工事が施工されている)。 ==== 工事内容 ==== 一部車両は車体・車内更新を同時に施工したものも存在している。 * 車体・車内更新(一部メニューが異なるが、ほぼ同一) ** 車内化粧板の張り替え<ref group="注">[[営団02系電車|東京メトロ02系]](方南町支線用80番台およびB修工事施工済車を除く)と類似したものに交換した。</ref> ** 床材(ロンリウム)の張り替え ** 屋根の再塗装 ** [[車椅子スペース]]の設置<ref group="注">未更新車にも施工されている。</ref> ** 車体老朽化部分の修繕 ** 行先設定器の更新…ダイヤル式からボタン選択式に。東武線乗り入れ改造時に更新(8613F-8637Fのみ施工) ** 行先表示器のLED化…8601F・8602F・8606F・8607F・8610Fを除く。前述した通り、その後劣化・視認性の低下などから8616F・8634F - 8636FがフルカラーLEDに更新されたが、2008年11月には前面と8635F・8636Fの側面が再度3色LEDに戻された。取り外したフルカラーLEDは大井町線用車に取り付けられた。 ** 側面窓サッシの取り替え ** 腰掛けの取り替えと7人掛け化、バケットシート化<ref group="注">8841を除く。</ref>・仕切り部へのスタンションポール(握り棒)の取り付け ** ドア脇の立客スペース設置<ref group="注">既に設けられていた後期車を除く。</ref>[[ファイル:Tokyu8500-Car guidance device.jpg|thumb|LEDの車内案内装置(2006年)]] また、更新工事とは別に、[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]対応の関係で工事を施された編成も存在する。 * 自動放送装置・LED式車内表示器の取り付け(自動放送装置とドア開閉灯は千鳥配置、8634F・8637F、直通先2社にも対応している) 更新工事施工時期以外には以下の改良が行われた。 * 車内冷房カバーを改良 ** 従来からあった吹き出し口の他に、カバーに穴を開けてその直下にも冷風が吹き出すように改良された。パンタグラフ直下では扇風機の区画を廃し、冷風吹き出し口を設けたり、補助送風機をラインデリア化する工事も行われた。 その他にも機器の部分的な更新が行われている(更新工事と直接関係ない)。 * 主電動機の電機子絶縁更新 * 主制御器の駆動部交換 === 前面スカート装着 === 東武鉄道への直通営業開始を前にして、2002年末期から2005年度にかけて一部の編成を対象に先頭車前面下部に[[排障器]](スカート)の設置工事が施工された。設置工事の施工時期の違いなどにより、後述のような仕様の変更がみられる。 ==== 2002年度 ==== * 8623Fの上り方先頭車(デハ8623)で試行され、その後下り方先頭車 (デハ8523) でも正式に採用された。 * 8615F - 8619F ==== 2003年度 ==== いずれも編成単位で両先頭車同時に施行された。 * 8620F ‐ 8622F・8624F - 8627F・8629F・8630F * ★8633F・8634F・8636F…2003年夏期にスカートを装着した。一時期取り外されたが、2004年初頭に復元された。 * ☆8628F・8631F・8632F・8635F・8637F…最後にスカートを装着した。施工時期が★のグループのスカート復元期と重なる。 ==== 2004年度 ==== 必ずしも東武線への直通を意図しないものとなった。また、スカートの形状が変更されている。 * ○8613F・8614F…東武線ATSを設置した。 * ●8609F・8611F・8612F・8642F…東武線ATSは設置されなかった。 ==== 2005年度 ==== 大井町線用の編成にも装着した。 * 8638F ‐ 8641F 2007年8月から下り方先頭車のスカートの右上部が切り取られた編成が登場した。これは[[ジャンパ連結器|ジャンパ栓]]の形状が変更されたためであり、8613F以外の全てのスカート装備編成が切り取られた。 === 防犯カメラ設置工事 === [[ファイル:Tokyu 8500 security camera.jpg|thumb|車内照明一体型の防犯カメラ]] 2019年頃より、車内の防犯カメラ設置が行われており、本系列では、車内照明と一体型の防犯カメラが採用されている。なお、既存の車内照明は蛍光灯のままだが、防犯カメラ一体型の物のみLED照明である<ref>[https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20200727-1.pdf 鉄道業界初!ソフトバンクの4Gデータ通信に対応した LED蛍光灯一体型の防犯カメラを東急電鉄所属の全車両へ導入完了! ] - 東京急行電鉄ニュースリリース 2020年7月27日</ref>。 {{-}} == 置き換えと廃車 == === 5000系による置き換え === 5000系の導入や8590系の転属により、本形式は2003年([[平成]]15年)から置き換えが開始された。[[廃車 (鉄道)|廃車]]時期は以下の通り。 * 2003年度…8601F・8602F * 2005年度…8603F * 2006年度…8604F・8605F・8608F・8611F * 2007年度…8607F・8610F・8613F<ref name="フ-2008"/><ref group="注">8613Fのデハ8834 - 8737号以外の8両は緊急予備車両扱いとなっている。</ref> * 2008年度…8609F・8612F・8618F・8624F 5000系は2007年度以降の約3年間で田園都市線に250両を導入する予定であったが<ref>[https://web.archive.org/web/20080228204324/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/070115.htm 田園都市線の混雑緩和策を積極的に推進します] - 東急電鉄ニュースリリース 2007年1月15日([[インターネットアーカイブ]])</ref>、18編成で導入は打ち切られ、本形式は38編成中24編成が引き続き残存することになった。 === 組み替え === 離脱した編成の経年の浅い車両を他編成に組み込む組成変更が行われた。 * ☆8601Fのデハ0704号…8617Fのデハ8723号を捻出 * 8601Fのデハ8895 - 8791号…8620Fのデハ8726・8848号を捻出 * 8602Fのデハ8896 - 8792号…8620Fのデハ8857 - 8755号を捻出 * ☆8603Fのデハ8897 - 8793号…8628Fのデハ8840 - 8740号を捻出 * 8605Fのデハ8899 - 8795号…8615Fのデハ8836 - 8747号を捻出 * 8604Fのデハ8898 - 8794号…8627Fのデハ8839 - 8734号を捻出 なお、☆の3両は更新車と同様に座席の中央にスタンションポール(つかみ棒)が取り付けられた。 ===2020系による置き換えと全廃=== 2017年(平成29年)3月、東急電鉄は田園都市線に新型車両[[東急2020系電車|2020系]]を導入することを発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/file/170317.pdf 2018年春、田園都市線に新型車両「2020系」を導入します]}} - 東京急行電鉄ニュースリリース 2017年3月17日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/file/160513-1-22.pdf 2016年度の鉄軌道事業設備投資計画 車両新造のほかホームドア設置、駅改良工事に総額489億円]}} - 東京急行電鉄ニュースリリース 2016年5月13日</ref>。これに伴い、本形式の残存していた24編成も2022年度までに置き換えられることになり<ref>{{PDFlink|[https://www.tokyu.co.jp/ir/manage/pdf/midplan180327.pdf 中期3か年経営計画(2018年度-2020年度)]}} - 東京急行電鉄 2018年3月27日</ref>、2019年(平成31年・[[令和]]元年)より再度廃車が開始された。運用を離脱した編成と時期は以下の通り。 *2019年度…8620F・8621F・8623F・8625F・8632F・8633F・8642F *2020年度…8606F<ref group="注">東急で最後まで残った方向幕車。この編成の廃車をもって、東急電鉄から方向幕を装備する車両が消滅した。廃車後は静態保存されている(後述)。</ref>・8614F・8615F・8626F・8627F *2021年度…8616F・8617F・8619F・8622F・8628F・8629F・8634F - 8636F *2022年度…8630F・8631F・8637F<ref name="乗りものニュース20220525">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/118978 |title=東急8500系、残り1本のみに 最後の“赤帯”が引退 「これまでのご愛顧に感謝」 |access-date=2022-07-21 |publisher=乗りものニュース (trafficnews.jp) |archive-url=https://web.archive.org/web/20220628144503/https://trafficnews.jp/post/118978 |archive-date=2022-06-28 |date=2022-05-25}}</ref><ref name="8637F_2023" /> 大井町線で運用されていた編成も、田園都市線への2020系導入に伴う2000系(→9020系)の転属によって、以下の通り廃車された。 *2018年度…8639F - 8641F *2019年度…8638F なお、廃車された8622Fと8630Fは部品および車両単体での一般販売が行われた<ref>[https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/211001_8500.pdf 田園都市線8500系車両の特別販売を行います] - 東急電鉄 2021年10月1日</ref>。 2022年4月5日、2023年1月までに本形式の定期運行を終了することが発表された。これに先立ち、2022年4月6日より「ありがとうハチゴー」プロジェクトが立ち上げられ、記念ヘッドマークの掲出や各種イベントなどが順次開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220405-1-1.pdf |title=2023年1月に田園都市線8500系車両の定期運行を終了します |access-date=2022-07-21 |publisher=東急電鉄株式会社 |date=2022年4月13日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220720051326/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220405-1-1.pdf |archive-date=2022-07-20 |format=PDF}}</ref>。 2023年1月25日、最後まで残存していた8637Fが[[長津田車両工場]]へ回送され、本形式は全編成の運用を終了した<ref name="8637F_2023" />。これに伴い、東急電鉄の営業用列車はVVVFインバータ制御車のみの運用となった。 == 譲渡車 == 2005年から廃車になった車両の譲渡が行われている。 === 長野電鉄 === [[ファイル:Nagano 8500 T6.jpg|thumb|[[長野電鉄長野線|長野線]]を走る8500系、一部の編成は中間車の先頭車化が行われた。<br />(2019年12月10日)]] 2005年度に6両(3両編成2本)+[[部品取り]]車2両の計8両、[[2006年]]度に6両(3両編成2本)、2008年度に6両(3両編成2本)がそれぞれ[[長野電鉄]]に譲渡され、同社の[[長野電鉄8500系電車|8500系]]として使用されている。譲渡先に合わせて起動加速度は低めに設定されている。なお、譲渡は[[2011年]]度まで行われる予定であったが、諸般の事情により中断された。 * デハ8500形:8501 - 8503・8505・8524(8505・8524を8504・8505に改番) * デハ8600形:8601 - 8603・8605・8624(8511 - 8515に改番) * デハ8700形:8718(部品取り車)・8730(先頭車化しデハ8506に改番) * デハ8800形:8824(同上)・8841(先頭車化しデハ8516に改番) * サハ8900形:8903・8905・8908・8910・8920・8944(8551 - 8556に改番) ==== 今後の予定 ==== [[信濃毎日新聞]]は[[2022年]][[2月25日]]付紙面で、同社で運行する[[通勤列車|通勤電車]]を[[2028年]]度までに[[長野電鉄3000系電車|3000系]]などの省電力車両に置き換え、在籍車両のうち73%を省電力車両にする方針であると報じた<ref>{{Cite web|和書|title=長電の普通電車、省電力型に 28年度までに「3000系」などに置き換え方針|信濃毎日新聞デジタル |url=https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022022501011 |website=信濃毎日新聞デジタル |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。報道の通りであると仮定すると、置き換えられる予定の[[長野電鉄3500系電車|3500系]]2連2本、[[節電|省電力]]20%を補う新形式の[[長野電鉄3000系電車|3000系]]3連3本、[[特急電車]]の[[長野電鉄1000系電車|1000系]]4連2本、[[長野電鉄2100系電車|2100系]]3連2本を除くと、残りの置き換え必要数が18両となることから、8500系3連6本全車両が置き換え対象となっているのではという見方がある。{{-}} === 伊豆急行 === 2005年度に[[伊豆急行]]へ1両が譲渡され、同社の[[伊豆急行8000系電車|8000系]]として使用されている。同系全45両中唯一の元東急8500系であるが、これは8000系のクハ8049と組んで2両編成化の試作車として2004年11月に先行改造されていたものを2005年に追加改造を施工したものである。 * デハ8700形:8723(8152に改番) {{-}} === 秩父鉄道 === [[ファイル:Chichibu-railway-7002-20090505.jpg|thumb|秩父鉄道に譲渡された8500系。中間車の先頭車化が行われた編成も存在する。<br />(2009年5月5日)]] 2008年度に[[秩父鉄道]]へ8両が譲渡され、このうち6両(3両編成2本)が同社の[[秩父鉄道7000系電車|7000系]]として使用されている(残り2両は部品取り車)。 * デハ8500形:8509(デハ7001に改番) * デハ8600形:8609(デハ7201に改番) * デハ8700形:8709(先頭車両化しデハ7002に改番)・8745(部品取り車) * デハ8800形:8809(先頭車両化しデハ7202に改番)・8830(部品取り車) * サハ8900形:8926(サハ7102に改番)・8950(サハ7101に改番) {{-}} === インドネシアへの譲渡車 === 2006年度に8両編成3本(8604F・8608F・8611Fのうち8両×3本の24両)、2007年度に8両編成2本(8607F・8610Fのうち8両×2本の16両)、2008年度に8両編成2本(8612F・8618Fのうち8両×2本の16両)、2009年度に8両編成1本(8613Fのうち8両)がインドネシアの鉄道会社である[[KRLコミューターライン|PT. Kereta Api、PT Kereta Commuter Indonesia]](以降PT KCI)に譲渡された。現在は全編成がPT KCI所属となっている。KCI管内での冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されている。改番は行われていない。2009年に譲渡した8613FのみPT. Kereta Apiの通勤鉄道事業を分社化したPT KCI導入となっており「JALITA」という愛称が付けられている。なお、譲渡後不具合を起こし、長い間休車になっていた8613Fは休車の間に部品取りが進み復旧が困難になったため、2014年9月に廃車となった。現在、老朽化で一部編成が廃車となっている中、現存車は全てKCI所属となっている。また、8612Fは2019年に脱線事故を起こし、損傷した前4両が廃車となり、後4両は他の編成に組み込まれた。 === 非鉄道事業者への譲渡 === 2021年、東急は「車両を適切に保存していただくことが可能と判断できる方」との条件を付けて1両当たり176万円で販売を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/312059?page=2 |title=「田園都市線の中古車両」が売り出し中、車両・設置価格いくらかかる? |publisher=DIAMOND online |date=2022-10-31|accessdate=2022-10-31}}</ref>。 <gallery> Jabodetabek 8500 Series - 8607F & 8610F EMU.jpg|PT KAI所属車両 KRL Jabotabek 8513 Gambir.jpg|KCJ所属車両(JALITA編成) File:KAI Commuter Line train depart to Bogor from Tebet station.webm|ボゴール線{{仮リンク|テベット駅|en|Tebet railway station}}を発車する8500系 </gallery> == 保存 == {| class="wikitable" |+ 東急8500系静態保存車一覧 |- !画像 !style="width:12%" |番号 !style="width:30%" |所在地 !備考 |- | |デハ8506<br/>デハ8606 |神奈川県横浜市青葉区恩田町704<br/>[[東急テクノシステム]]長津田工場<ref name="technosystem20201120">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu-techno.co.jp/news/2020/1120/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210328084633/https://www.tokyu-techno.co.jp/news/2020/1120/|title=東急電鉄(株) より8500系車両を譲り受けました|date=2020-11-20|archivedate=2021-03-28|accessdate=2021-03-28|publisher=東急テクノシステム|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref> |元8606Fの両先頭車。 |- | |デハ8530 |[[東京都]][[調布市]][[東つつじケ丘 (調布市)|東つつじケ丘]]2丁目27-1<br/>[[東京さつきホスピタル]] |元8630F。<br/>廃車後に一般販売された車両で、[[クラウドファンディング]]による資金調達を実施<ref>{{Cite web|和書|title=東急8500系を設置して、気楽に行きたくなる楽しい精神科病院へ! - クラウドファンディング|url=https://readyfor.jp/projects/tokyosatsuki_8500|website=readyfor.jp|accessdate=2023-01-26}}</ref>し、2023年10月より一般公開を開始<ref>{{Cite web|和書|title=クラウドファンディング「東京さつきホスピタル(調布市)に東急8500系を設置しよう!!」 結果のお知らせ|url=https://readyfor.jp/projects/tokyosatsuki_8500|website=tokyo-satsuki.jp|accessdate=2023-01-26}}</ref>。 |- | |デハ8616 |東京都目黒区東山2丁目6-19<br/>東急労働会館<br/>'''※前頭部のみ''' |元8616F。 |} == 映像収録 == * テレビドラマ「[[私鉄沿線97分署]]」のオープニングに登場。 * ゲーム「[[Train Simulator+電車でGO! 東京急行編]]」の田園都市線の映像を収録するため8604F(2006年PT. Kereta Apiへ譲渡)が使用された<ref group="注">なお、東横・大井町線の収録は事業用車デヤ7200系を使用した。</ref>。 * [[電車とバスの博物館]]の8090系シミュレータ改修時、田園都市線(上り・中央林間駅 - 二子玉川駅間)の映像を収録するため8639F(大井町線)が使用された。 * インドネシアのPT. Kereta Apiに譲渡された車両(8608F)がインドネシアのホラー映画の撮影に使用された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="土岐1992">[[#土岐1992|土岐實光『ある車両技術者の回想3 ワンハンドル運転台のできるまで』 (1992)]]</ref> <ref name="2009配置表">[[#2009配置表|「大手私鉄 車両ファイル2009」(2009)]]</ref> <ref name="Train2010-1">[[#Train2010-1|「東京急行電鉄」(2010)]]</ref> <ref name="Train2013-5">[[#Train2013-5|MODELERS FILE「秩父鉄道7800系電車」(2013)]]</ref> <ref name="フ-2008">[[#フ-2008|『鉄道ファン』2008年9月号(通巻569号)]]</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=市村昇一 |year=1975 |month=4 |title=東京急行電鉄49年度新造車デハ8000形系の概要 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=305 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = 市村1975}} * {{Cite journal|和書|author=駒村雅裕 |year=1975 |month=5 |title=新車ガイド 東急・地下乗り入れ用8500形 |journal=鉄道ファン |issue=168 |publisher=交友社 |ref = 駒村1975}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫 |year=1979 |month=11 |title=東急8000系グループのすべて |journal=鉄道ファン |issue=223 |publisher=交友社 |ref = 荻原1979}} * 荻原俊夫「東京急行電鉄8000系15次車」、「特集 新車年鑑1984年版」、『鉄道ピクトリアル』第438号、鉄道図書刊行会、1984年10月。 * {{Cite book|和書|author=東京急行電鉄 |year=1980 |title=新玉川線建設史 |pages =865-914 |publisher=東京急行電鉄 |ref = 建設史}} * 川口雄二「東京急行電鉄デハ8799・0802(VVVF改造車)」、「特集 新車年鑑1990年版」、『鉄道ピクトリアル』第534号、鉄道図書刊行会、1990年10月。 * {{Cite journal|和書|author=土岐實光 |year=1992 |month=9 |title=ある車両技術者の回想3 ワンハンドル運転台のできるまで|journal=鉄道ファン |issue=377 |publisher=交友社 |ref = 土岐1992}} * {{Cite journal|和書|author=土岐實光 |year=1993 |month=4 |title=ある車両技術者の回想10 軽量ステンレス車両開発の苦心談|journal=鉄道ファン |issue=384 |publisher=交友社 |ref = 土岐1993}} * {{Cite journal|和書|author=電気車研究会 |year=1994 |month=12 |title=特集 東京急行電鉄 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=600 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = pic2004東急}} * {{Cite journal|和書|author=高橋英樹 |year=2000 |month=11 |title=東京急行8000系グループ形態解析1 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=693 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = 高橋1}} * {{Cite journal|和書|author=高橋英樹 |year=2001 |month=2 |title=東京急行8000系グループ形態解析2 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=697 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = 高橋2}} * {{Cite journal|和書|author=高橋英樹 |year=2001 |month=4 |title=東京急行8000系グループ形態解析3 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=699 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = 高橋3}} * {{Cite journal|和書|author=高橋英樹 |year=2001 |month=12 |title=東京急行8000系グループ形態解析4 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=710 |publisher=鉄道図書刊行会 |ref = 高橋4}} * 神尾純一「車両総説」、「特集 東京急行電鉄」、『鉄道ピクトリアル』第749号、鉄道図書刊行会、2004年7月。 * {{Cite journal|和書|author=宮田道一 |year=2006 |month=8 |title=東急8000系ファミリーの記録1|journal=鉄道ファン |issue=544 |publisher=交友社 |ref = family1}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫 |year=2006 |month=9 |title=東急8000系ファミリーの記録2|journal=鉄道ファン |issue=545 |publisher=交友社 |ref = family2}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫 |year=2006 |month=11 |title=東急8000系ファミリーの記録3|journal=鉄道ファン |issue=547 |publisher=交友社 |ref = family3}} * {{Cite journal|和書|year=2008 |month=9 |journal=鉄道ファン |issue=569 |publisher=交友社 |ref = フ-2008}} * {{Cite journal|和書|year=2009 |month=9 |title=大手私鉄 車両ファイル2009|journal=鉄道ファン |issue=581 |publisher=交友社 |ref = 2009配置表}}、付録。 * {{Cite journal|和書|year=2010 |month=1 |title=特集 東京急行電鉄|journal=とれいん |publisher=エリエイ |ref = Train2010-1}} * {{Cite journal|和書|year=2013 |month=5 |title=MODELERS FILE「秩父鉄道7800系電車」|journal=とれいん |publisher=エリエイ |ref = Train2013-5}} == 外部リンク == * {{Commonscat-inline|Tōkyū 8500 series}} {{東急電鉄の車両}} {{ローレル賞選定車両一覧}} {{DEFAULTSORT:とうきゆう8500けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|8500]] [[Category:インドネシアの電車]] [[Category:1975年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:バッド社]] [[Category:東急8000系電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-06T11:54:17Z
2023-12-16T12:25:25Z
false
false
false
[ "Template:-", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:PDFlink", "Template:Cite book", "Template:Commonscat-inline", "Template:Pathnav", "Template:鉄道車両", "Template:東急電鉄の車両", "Template:ローレル賞選定車両一覧", "Template:Cite journal", "Template:Pp-vandalism", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A58500%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,418
東急9000系電車
東急9000系電車(とうきゅう9000けいでんしゃ)は、1986年(昭和61年)3月9日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。 なお、本項では解説の便宜上、渋谷・大井町方先頭車の車両番号+F(Formation = 編成の略)を編成名として表記する。 老朽化した初代3000系や初代5000系の置き換えおよび営団南北線・都営三田線への乗り入れに対応した車両として、1986年2月に量産先行車にあたる9001Fが落成した。翌1987年度より増備が開始され、1991年(平成3年)3月までに15編成117両が東急車輛製造で製造された。 東急では、1983年(昭和58年)から初代6000系の一部にVVVFインバータ制御装置を搭載して試運転を実施し、翌1984年(昭和59年)には1500 V区間でGTOサイリスタ素子のVVVFインバータ制御装置を搭載した車両では日本初の営業運転での実用試験を行った。また、この時に東急車輛製造製のボルスタレス台車を装架して試験を実施した。本系列はこの結果を踏まえて設計・製造された。 量産先行形の9001Fは制御装置の形式や車内補助送風機・車外車側灯台座形状の違いなど量産形車両と多少の違いがある。また、3次車以降は外板幕板と腰板を溶接構造からプレス加工構造に変更している。 本項では特記のない限り、落成時の仕様について述べる。 本系列は軽量ステンレス鋼製の20 m級4扉車体で、梨地仕上げのステンレス材を使用し、正面・側面には東急のコーポレートカラーである赤帯を巻いている。 前面は従来車と同様の切り妻スタイルであるが、前述の地下鉄直通を考慮して非常用非常扉を装備しているが、助士席側にオフセットさせ、運転士側のスペースと視野の拡大を図っている。車内には非常脱出用のはしごが設けられている。前面のステップ(足掛け)は大型化され、非常用はしごはここに引っ掛けて使用する。前照灯は角形であり、本系列より尾灯はLED化された。なお設計当初はパノラミックウィンドウの使用や、営団01系電車のような角を落とした前面形状も考えられていたが、上層部の強い意向により切妻スタイルとされた。 行先表示器は字幕式で、前面は左から種別表示・行先表示・運行番号表示である。また、急行標識灯が設置されており、急行・特急での運用時には点灯していたが、2002年(平成14年)4月から使用が停止された。側面は種別・行先表示一体形の表示器である。オリジナルは「各停表示なし・ローマ字表記なし」であるが、3次車の9008Fからは前面行先表示のみローマ字入りとされ、その後に初期車でもローマ字入りへの交換を行った。その後大井町線用の9007Fも2008年(平成20年)7月下旬に前面種別表示幕と側面表示が交換され、8090系などと同様に同線での種別表示に対応した。 冷房装置は分散式で、落成当初は東芝製RPU-2214形で、能力11.6 kW(10,000 kcal/h)のものを各車4台搭載していた。装置外観キセ(カバー)はFRP製である。 車内設備においても、乗客へのサービス向上のため様々な点で見直しを行っている。 内装は8090系と同様の「ソリッドパターン」と呼ばれる模様の入ったベージュ色の化粧板を使用し、床材はキーストンプレートの塗り床(茶色)である。席配置はドア間が7人掛け座席、車端部は3人掛けのロングシート座席とクロスシートを設置している。 ロングシート部は、乗客1人分の幅を440 mmに拡大して7人掛けの座席を3人掛けをオレンジ色・4人掛けを茶色に色分けするとともに、座席端に袖仕切りを設け、また座席の中間に新たに仕切り板を設置して着席定員を守りやすくしている。優先席(旧・シルバーシート)は時期によって異なったがその後は青色とものとした。当初のつり革は丸形であり、新たに枕木方向にも増設した。また、優先席部は後年オレンジ色で三角形のものと交換された。 9001Fでは先頭車両のクハ9001・9101の車端部(貫通扉上部)のみに、日本初となるLED式車内案内表示器が搭載された。赤とオレンジの2色表示で「次は○○(駅名)」と表示され、ドットはクハ9001が四角、クハ9101が丸形であったが、ともに2000年8月6日のダイヤ改正で多摩川園駅が多摩川駅に改称され、さらに同駅に急行が停車することになったため対応できなくなり、装置の使用を中止した。その後、この車端部LED表示器は冷房装置などの機器を更新する際に撤去し、他の車両と同様に広告掲示スペースとされた。 また、落成当初から東急の車両で初の音声合成式自動放送装置を搭載し、以後は東急の車両における標準装備品となった。 側窓はサッシュレス構造を採用し、遮光カーテン付としている。連結面は固定式の妻窓があり、貫通路幅は800 mmとし、各車両の渋谷方には吹き抜け防止の貫通扉を設けている。 天井は平天井構造で、冷房装置の吹き出し・リターン口1台と補助送風機2台が交互に配置されている。補助送風機は先頭車に7台、中間車に8台設置している。 メンテナンスがほぼ不要なかご形三相誘導電動機を採用したことや、電動機の結線をワンタッチコネクタ化したことから、床面の主電動機点検蓋は省略された。東急では初代7000系以来である。 乗務員室は乗務員の運転操作性向上を主眼に設計され、線路方向に1,375 mm確保された。室内はアイボリーの配色、運転台はワインレッド調の配色であり、8500系に準じているが、貫通扉が車掌台側に寄ったため配置に余裕がある。計器盤には左から圧力計・ブレーキ指示計、故障表示灯、速度計(中央)・保安表示灯・種別表示の順に並んでいる。表示灯はすべてLED化された。主幹制御器はデッドマン装置付のT字形ワンハンドル式である。運転台上部には故障時のガイダンス処置を表示するモニタディスプレイが設置された。 前面ガラスの日除けは、クハ9101号において従来のアルミ遮光板に代わり、巻き上げ式カーテンを採用した。これは西日などを遮ることで、運転士の前方視認を確実にするもので、安全面に配慮したものである。これは後の量産車以降にも採用されたほか、在来形式車にも取り付けが実施された。 車掌用のマイクは乗務員室扉周りに各1個(両側で2個)、運転台の右に1台(これは送受話器形で、乗務員室間連絡用と車内放送用)の計3個が設置されている。 東急では初めてウインドウオッシャ付きの電動式ワイパーを採用した。また、警笛は空気笛に加えて電子ホーン(電気笛)を採用した。 運転室と客室の仕切り部は前面窓と同じ配置で、仕切り窓が3枚並んでおり、このうち左側2枚の窓には遮光幕が設置されているが、右端の窓にはない。なお、遮光幕はロールカーテン式ではなくアルミ製の下降式遮光板であり、窓下から引き上げて使用する。 東急の量産車で初めてVVVFインバータ制御とかご形三相誘導電動機を採用した。日本国内における直流1,500 V用車両では前述の初代6000系および近畿日本鉄道の1250系(現・1420系)と3200系、新京成電鉄の8800形に続く5例目となる。 GTOサイリスタ素子による日立製作所製制御装置(1次車9001F:VF-HR-107形・2次車9002F以降は改良形:VF-HR-112形)を各電動車に搭載し、1台の制御器で4台の電動機を制御する(1C4M方式)。またVVVFインバータ制御の特性を活用して定速運転機能を付加した。 主電動機(TKM-86形かご形三相誘導電動機)は日立製作所・東洋電機製造製の共通設計品であり、MT比1:1で高い起動加速度(3.1 km/h/s)を確保するため、1時間定格は170 kWと出力は大きい。高速走行時における電動機冷却ファンの風切り音の低減のため、冷却ファンは電動機枠内に収めた。 制動装置は回生ブレーキ付きの電気指令式ブレーキ(HRA・ハイ - レスポンス - アナログ方式)である。回生ブレーキの動作範囲は停止直前 (5 km/h) までと広い。そのため、起動時のみならず減速時も非同期領域の磁励音を主電動機および制御装置から発する。合わせてVVVF制御の特性を生かし、T車遅れ込め制御併用形とした。 冷房装置などサービス機器の電源である静止形インバータは、東芝製の容量120 kVA、出力電圧440 V、GTO素子を使用している。空気圧縮機 (CP) はレシプロ式・低騒音形の新規品で、電動機には保守の容易な交流誘導電動機を採用したHS-20-1形を使用している。 台車は軽量ボルスタレス台車(TS-1004形〈電動車〉・TS-1005形〈付随車〉)を採用した。軸箱支持は8000系と同じ軸箱守(ペデスタル式)としたほか、仕様の見直しなどにより同系列より1台車当たり400kgの軽量化を図った。 基礎ブレーキは電動車が片押し式踏面ブレーキ、付随車がディスクブレーキとしている。なお、1990年度に落成した最終編成9015Fの9015号車では1991年(平成3年)6月まで翌1992年に落成する2000系用の試作台車TS-1009形(円筒積層ゴム式軸箱方式)の走行試験に使用されたが、試験終了後は本系列用の台車に換装した。 集電装置(パンタグラフ)はクーラーキセの大型化に伴い小型化され、さらに折りたたみ高さを低く設計したPT44-S-D-M形とした。これは折りたたみ時に上枠が下枠に収まるようにして小型化したものである。当初より剛体架線に対応した集電舟が使用されている。 保安装置は落成時は東急形ATS装置のみを搭載していた。その後、大井町線用の9007Fは1991年(平成3年)3月の田園都市線ATC化に伴い、入出庫で同線を走行する機会が多いことから、ATC装置を取り付けた。また、後年の2007年(平成19年)2月の大井町線ATC-P化に伴い、ATC-P装置への更新が実施された。 2001年夏ごろに9002F・9012Fの2・4号車において試験的に大容量(14.5 kW・12,500 kcal/hを1両4台)のものに換装した。装置外観キセはステンレス製である。比較の意味もあり、前者は三菱電機製(CU-503形)、後者は東芝製(RPU-4018形)のものをそれぞれ搭載した。その後、この結果を踏まえて2004年(平成16年)より東芝製の大容量タイプへの換装が実施されたが、電源である静止形インバータ(SIV)の給電能力の関係から1編成32台ある冷房装置のうち14台のみとなっている。 2008年(平成20年)現在では9007F・9008F・9010F・9013F以外の編成に施工されている。9002Fの1 - 4号車は同年現在も試験時の装置が搭載されており、うち9302号車は一時的に3種類すべての冷房装置が設置されていた。その後、順次交換されるが、弱冷房車である9200は未交換で、他の車両は全交換車と一部交換車が混在している 東横線用編成は1997年(平成9年)3月の東横線渋谷駅 - 菊名駅間ATC化に伴い、ATC-P装置の取り付けが施工された。 2001年(平成13年)頃には全編成に転落防止幌が設置された。 2000年から2002年にかけて高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)に対応し、東横線用は2号車と7号車、大井町線用は4号車の車端部の3人掛け座席を撤去の上、車椅子スペースを新設した。この際に壁面埋め込み式ヒーターの新設と消火器を収納キセに収めるようにした。 その後、2003年度からドア上部にLED式車内案内表示器を千鳥(左右交互)配置に、ドアチャイムを各ドアの上部にそれぞれ後付けで設置している。案内表示器は3000系などと同じく2段式である。このうち、先行して設置された9014F・9015Fでは案内表示器・ドアチャイム用スピーカーのカバーの色がベージュであったが、その後設置された編成ではアイボリーになっている。大井町線所属の9007Fについても2014年1月に車内案内表示器が設置されている。 2005年から老朽化に伴い車内の更新工事を開始しており、内容は以下の通りである。 2004年12月に、大井町線用9007Fの集電装置がシングルアーム式パンタグラフに換装された。その後ほかの大井町線用車両についても同様に換装されたほか、これ以外の本形式も大井町線転属時に交換を実施している。 2005年(平成17年)1月から東横線編成は前面に補助排障器(スカート)の取り付けが施工された。当初、東横線所属の本系列におけるスカート設置は限られた編成のみ施工される予定であり、公式ホームページ上にもそのように掲載されていたが、結局同路線に所属する全編成に対して施工された。なお、当初から大井町線に所属している9007Fへは取り付けが実施されなかったが、同時期にパンタグラフをシングルアーム式に換装、その後2014年(平成26年)1月にスカートが装備された。 2007年(平成19年)2月から7月にかけて落成当初から設置準備工事のみであった車外放送用スピーカーを、全ての編成に設置した。 2007年7月ごろまでに全編成の車掌スイッチを機械式から5050系や横浜高速鉄道Y500系電車と同様のタイプである間接制御式(リレー式)に交換した。 1986年から1991年にかけて、東横線用の8両編成が14編成(9001F - 9006F、9008F - 9015F)、大井町線用の5両編成が1編成(9007F)導入された。東横線の車両は元住吉検車区、大井町線の車両は長津田検車区が管理している。 新製投入直後は初期故障を中心としたトラブルも多かった。空転の多発や台車の空気ばねの圧力調整不具合から、1986年3月13日朝に9001Fが横浜駅付近のカーブ区間の勾配(カント)に馴染まず脱線事故を起こすなどしているが、これらも徐々に克服していった。なおクハ9001の海側運転台寄りの台枠部には、この事故で生じた摩擦痕が今も残っている。 導入当時の東横線では急行と各駅停車の列車運用が分離されていたが、9000系は急行と各駅停車の双方に運用された。また、大井町線では各駅停車のみの運用であるほか、早朝と深夜には鷺沼車庫への出入庫を兼ねた田園都市線直通電車への充当もある。 大井町線への導入に先立っては、乗務員の習熟訓練を目的として1986年11月の1か月弱ほど、中間3両を抜き取られた9001Fが同線で一時運用された。 1989年8月から1991年3月にかけては、田園都市線の新CS-ATC化に伴い大井町線車両は二子玉川 - 長津田での回送を必要とすることから、ATC搭載工事期間中の編成数の確保を目的として9001Fが再び大井町線で一時運用された。この2度目の9001Fの大井町線での運用期間は約1年7か月と長期にわたったことから、1990年10月から1991年2月まで9001Fから抜き取って留置されていた中間車3両を9008Fの中間車3両と交換し、走行距離を調整した。 1996年には車輪のきしり音対策の試験のため、大井町線用の9007Fが数日間3両化されてこどもの国線で運用された。 2001年3月28日には東横線で特急列車の運転が開始された。同時に種別による列車運用の分離は廃止となり、9000系についても特急から各駅停車まですべての運用に充当された。 2004年2月1日には横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、東横線との相互直通運転が開始された。東横線のほぼ全ての列車がみなとみらい線に直通する形態となり、9000系もみなとみらい線の元町・中華街駅まで運用範囲を広げた。これに伴い、大井町線用の9007Fを除いて非常用梯子が大型のものへ交換されたほか、前面・側面の種別と行先表示を新しいものにに交換している。 みなとみらい線開業に際し、事前に地下化される東横線の区間を含むみなとみらい線内での試運転が実施され、9008Fが2003年10月に一度運用を離脱し、横浜高速鉄道Y500系電車Y516Fとともに使用された。搬入は同年11月に東白楽駅反町寄りの仮設地下搬入線路から行われ、搬入線路へは長津田車両工場からトレーラーで陸送された。 2006年3月18日から、土休日に数往復、大井町線から田園都市線中央林間駅までの直通電車(大井町線内各駅停車・田園都市線内急行運転)が設定された。その後、2008年3月28日からは大井町線で急行運転が開始されたため、田園都市線との誤乗防止目的で施された車体前面のグラデーションカラー化と「大井町線」と書かれたステッカーが貼りつけられた。 大井町線の急行運転開始前に同線の保安装置がATCに変更されることから、大井町線所属車両のATC改修工事に従う車両不足を補う必要が生じた。このため、9001Fが2007年8月25日に5両編成化された上で大井町線に転用し、同年8月27日から2008年3月27日までの7か月間、大井町線で営業運転に就いた。この際、抜き取られた3両(サハ9801 - デハ9301 - サハ9701)は休車とされたが後に8両編成に戻され、2008年5月20日に東横線に復帰している。 なお、行先表示器の字幕は9007Fと同様の「各停表示なし・前面の英字が大文字と小文字の組合わせ・側面は日本語表記のみ」のタイプで、東横線所属編成がみなとみらい線対応幕に交換する前に使用していたものを流用していた。また、9001Fなどパンタグラフのシングルアーム式換装が行われていない編成も存在したが、2014年までにシングルアーム式に統一された。 東横線への5050系増備に伴い、2009年度から本格的に東横線から大井町線への転属が開始された。いずれの場合も東横線から長津田車両工場へ回送され、同工場において8両から5両(余剰となった3両は休車または廃車)に減車した上で、前面デザインのグラデーション化および車体側面に「大井町線」と書かれたステッカーを貼り付け、試運転の後に営業運転に入った。 転属後しばらくの間はドアチャイムのみの稼働(ただし9003Fと9004Fは非稼働)で、LED式車内案内表示器は終始無表示であったが、2012年2月から全編成で案内表示の使用が開始された。非稼働だった9003F・9004Fのドアチャイムも稼働を再開している。なお、ドアカットを実施する九品仏駅と戸越公園駅では、全車両とも開くドアの方向は表示されず、ローマ字の駅表示は2000系同様の大・小文字併記、次駅の英字スクロール表示は1回のみと、東横線時代とは表示パターンがいくつか異なっている。後述の種別・行先表示器のフルカラー・白色LED化に関しては10編成(9001F・9003F - 9006F・9008F - 9011F・9013F)が8090系の廃車発生品を流用しており、側面表示器が種別部がフルカラー式、行先部分が白色式と分かれている(それ以外の新品LEDの編成は種別・行先ともにフルカラー式となっている)。大井町線生え抜きの9007Fについても2014年1月にLED式車内案内表示器を設置の上、先頭車へのスカート装備、種別・行先表示器のフルカラーLED化も実施されている。 なお、この転配に際し余剰となった2編成分の中間車6両は2009年6月15日に廃車となった。 なお、2010年度内に転配した4編成分の中間車12両についても、全車両が廃車・解体となっている。 なお、2011年度内に転配した2編成分の中間車6両についても、全車両が廃車・解体となっている。このほか、同年度内に9003F・9004F・9006Fの行先表示器がフルカラー・白色LED化された。 本系列は目黒線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)南北線および東京都交通局(都営地下鉄)三田線との相互直通運転への対応も想定した設計となっていた。しかし、実際には急勾配の多い南北線では出力不足であったといわれ、それに加えて当初計画のホームセンサー方式(池上線と東急多摩川線で採用)からホームドア方式への計画変更によりモニタ装置を装備させる必要が生じたこと、またこれによる乗務員の安全確認上の問題やコスト面から、地下鉄乗り入れに際しては新系列となる2代目3000系が設計、製造された。 この名残として、目黒線に乗り入れている都営6300形電車および営団9000系電車の初期車には本系列と同様に一部座席にクロスシートを設置するなどの共通点が見受けられ、本系列には車外スピーカーの準備工事がなされていた。さらに、方向幕および指令器には「田園調布」や「目黒」の表示も用意されていたが、後のみなとみらい線開業に向けた対応で消滅した。加えて、運転台のマスコンキーやATC/ATS切り替えスイッチが営団対応のものになっているほか、運転台左側壁面には増設メーター類の準備工事が、サハ9700形の妻面には誘導無線アンテナの取り付け準備工事がなされていた。 また、本系列は副都心線への直通運転に対応させる予定であったが、ブレーキ応答性の問題でATO運転に必要とされる停止精度を満たせない等の理由から対象外となった。 本系列は老朽化に伴い、今後新型車両への置き換えが計画されている。2023年度より、本系列および9020系の置き換えを目的とした車両新造が開始される予定。 また、一部の車両は西武鉄道に「サステナ車両」(西武鉄道が他社から譲受するVVVFインバータ制御車両の呼称)として譲渡され、2025年度以降に多摩川線・多摩湖線・西武秩父線・狭山線に導入し、同線の老朽化した車両を置き換える予定。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急9000系電車(とうきゅう9000けいでんしゃ)は、1986年(昭和61年)3月9日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、本項では解説の便宜上、渋谷・大井町方先頭車の車両番号+F(Formation = 編成の略)を編成名として表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "老朽化した初代3000系や初代5000系の置き換えおよび営団南北線・都営三田線への乗り入れに対応した車両として、1986年2月に量産先行車にあたる9001Fが落成した。翌1987年度より増備が開始され、1991年(平成3年)3月までに15編成117両が東急車輛製造で製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急では、1983年(昭和58年)から初代6000系の一部にVVVFインバータ制御装置を搭載して試運転を実施し、翌1984年(昭和59年)には1500 V区間でGTOサイリスタ素子のVVVFインバータ制御装置を搭載した車両では日本初の営業運転での実用試験を行った。また、この時に東急車輛製造製のボルスタレス台車を装架して試験を実施した。本系列はこの結果を踏まえて設計・製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "量産先行形の9001Fは制御装置の形式や車内補助送風機・車外車側灯台座形状の違いなど量産形車両と多少の違いがある。また、3次車以降は外板幕板と腰板を溶接構造からプレス加工構造に変更している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本項では特記のない限り、落成時の仕様について述べる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本系列は軽量ステンレス鋼製の20 m級4扉車体で、梨地仕上げのステンレス材を使用し、正面・側面には東急のコーポレートカラーである赤帯を巻いている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前面は従来車と同様の切り妻スタイルであるが、前述の地下鉄直通を考慮して非常用非常扉を装備しているが、助士席側にオフセットさせ、運転士側のスペースと視野の拡大を図っている。車内には非常脱出用のはしごが設けられている。前面のステップ(足掛け)は大型化され、非常用はしごはここに引っ掛けて使用する。前照灯は角形であり、本系列より尾灯はLED化された。なお設計当初はパノラミックウィンドウの使用や、営団01系電車のような角を落とした前面形状も考えられていたが、上層部の強い意向により切妻スタイルとされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "行先表示器は字幕式で、前面は左から種別表示・行先表示・運行番号表示である。また、急行標識灯が設置されており、急行・特急での運用時には点灯していたが、2002年(平成14年)4月から使用が停止された。側面は種別・行先表示一体形の表示器である。オリジナルは「各停表示なし・ローマ字表記なし」であるが、3次車の9008Fからは前面行先表示のみローマ字入りとされ、その後に初期車でもローマ字入りへの交換を行った。その後大井町線用の9007Fも2008年(平成20年)7月下旬に前面種別表示幕と側面表示が交換され、8090系などと同様に同線での種別表示に対応した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "冷房装置は分散式で、落成当初は東芝製RPU-2214形で、能力11.6 kW(10,000 kcal/h)のものを各車4台搭載していた。装置外観キセ(カバー)はFRP製である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "車内設備においても、乗客へのサービス向上のため様々な点で見直しを行っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "内装は8090系と同様の「ソリッドパターン」と呼ばれる模様の入ったベージュ色の化粧板を使用し、床材はキーストンプレートの塗り床(茶色)である。席配置はドア間が7人掛け座席、車端部は3人掛けのロングシート座席とクロスシートを設置している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ロングシート部は、乗客1人分の幅を440 mmに拡大して7人掛けの座席を3人掛けをオレンジ色・4人掛けを茶色に色分けするとともに、座席端に袖仕切りを設け、また座席の中間に新たに仕切り板を設置して着席定員を守りやすくしている。優先席(旧・シルバーシート)は時期によって異なったがその後は青色とものとした。当初のつり革は丸形であり、新たに枕木方向にも増設した。また、優先席部は後年オレンジ色で三角形のものと交換された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "9001Fでは先頭車両のクハ9001・9101の車端部(貫通扉上部)のみに、日本初となるLED式車内案内表示器が搭載された。赤とオレンジの2色表示で「次は○○(駅名)」と表示され、ドットはクハ9001が四角、クハ9101が丸形であったが、ともに2000年8月6日のダイヤ改正で多摩川園駅が多摩川駅に改称され、さらに同駅に急行が停車することになったため対応できなくなり、装置の使用を中止した。その後、この車端部LED表示器は冷房装置などの機器を更新する際に撤去し、他の車両と同様に広告掲示スペースとされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、落成当初から東急の車両で初の音声合成式自動放送装置を搭載し、以後は東急の車両における標準装備品となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "側窓はサッシュレス構造を採用し、遮光カーテン付としている。連結面は固定式の妻窓があり、貫通路幅は800 mmとし、各車両の渋谷方には吹き抜け防止の貫通扉を設けている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "天井は平天井構造で、冷房装置の吹き出し・リターン口1台と補助送風機2台が交互に配置されている。補助送風機は先頭車に7台、中間車に8台設置している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "メンテナンスがほぼ不要なかご形三相誘導電動機を採用したことや、電動機の結線をワンタッチコネクタ化したことから、床面の主電動機点検蓋は省略された。東急では初代7000系以来である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "乗務員室は乗務員の運転操作性向上を主眼に設計され、線路方向に1,375 mm確保された。室内はアイボリーの配色、運転台はワインレッド調の配色であり、8500系に準じているが、貫通扉が車掌台側に寄ったため配置に余裕がある。計器盤には左から圧力計・ブレーキ指示計、故障表示灯、速度計(中央)・保安表示灯・種別表示の順に並んでいる。表示灯はすべてLED化された。主幹制御器はデッドマン装置付のT字形ワンハンドル式である。運転台上部には故障時のガイダンス処置を表示するモニタディスプレイが設置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "前面ガラスの日除けは、クハ9101号において従来のアルミ遮光板に代わり、巻き上げ式カーテンを採用した。これは西日などを遮ることで、運転士の前方視認を確実にするもので、安全面に配慮したものである。これは後の量産車以降にも採用されたほか、在来形式車にも取り付けが実施された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "車掌用のマイクは乗務員室扉周りに各1個(両側で2個)、運転台の右に1台(これは送受話器形で、乗務員室間連絡用と車内放送用)の計3個が設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東急では初めてウインドウオッシャ付きの電動式ワイパーを採用した。また、警笛は空気笛に加えて電子ホーン(電気笛)を採用した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "運転室と客室の仕切り部は前面窓と同じ配置で、仕切り窓が3枚並んでおり、このうち左側2枚の窓には遮光幕が設置されているが、右端の窓にはない。なお、遮光幕はロールカーテン式ではなくアルミ製の下降式遮光板であり、窓下から引き上げて使用する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "東急の量産車で初めてVVVFインバータ制御とかご形三相誘導電動機を採用した。日本国内における直流1,500 V用車両では前述の初代6000系および近畿日本鉄道の1250系(現・1420系)と3200系、新京成電鉄の8800形に続く5例目となる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "GTOサイリスタ素子による日立製作所製制御装置(1次車9001F:VF-HR-107形・2次車9002F以降は改良形:VF-HR-112形)を各電動車に搭載し、1台の制御器で4台の電動機を制御する(1C4M方式)。またVVVFインバータ制御の特性を活用して定速運転機能を付加した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "主電動機(TKM-86形かご形三相誘導電動機)は日立製作所・東洋電機製造製の共通設計品であり、MT比1:1で高い起動加速度(3.1 km/h/s)を確保するため、1時間定格は170 kWと出力は大きい。高速走行時における電動機冷却ファンの風切り音の低減のため、冷却ファンは電動機枠内に収めた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "制動装置は回生ブレーキ付きの電気指令式ブレーキ(HRA・ハイ - レスポンス - アナログ方式)である。回生ブレーキの動作範囲は停止直前 (5 km/h) までと広い。そのため、起動時のみならず減速時も非同期領域の磁励音を主電動機および制御装置から発する。合わせてVVVF制御の特性を生かし、T車遅れ込め制御併用形とした。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "冷房装置などサービス機器の電源である静止形インバータは、東芝製の容量120 kVA、出力電圧440 V、GTO素子を使用している。空気圧縮機 (CP) はレシプロ式・低騒音形の新規品で、電動機には保守の容易な交流誘導電動機を採用したHS-20-1形を使用している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "台車は軽量ボルスタレス台車(TS-1004形〈電動車〉・TS-1005形〈付随車〉)を採用した。軸箱支持は8000系と同じ軸箱守(ペデスタル式)としたほか、仕様の見直しなどにより同系列より1台車当たり400kgの軽量化を図った。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "基礎ブレーキは電動車が片押し式踏面ブレーキ、付随車がディスクブレーキとしている。なお、1990年度に落成した最終編成9015Fの9015号車では1991年(平成3年)6月まで翌1992年に落成する2000系用の試作台車TS-1009形(円筒積層ゴム式軸箱方式)の走行試験に使用されたが、試験終了後は本系列用の台車に換装した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "集電装置(パンタグラフ)はクーラーキセの大型化に伴い小型化され、さらに折りたたみ高さを低く設計したPT44-S-D-M形とした。これは折りたたみ時に上枠が下枠に収まるようにして小型化したものである。当初より剛体架線に対応した集電舟が使用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "保安装置は落成時は東急形ATS装置のみを搭載していた。その後、大井町線用の9007Fは1991年(平成3年)3月の田園都市線ATC化に伴い、入出庫で同線を走行する機会が多いことから、ATC装置を取り付けた。また、後年の2007年(平成19年)2月の大井町線ATC-P化に伴い、ATC-P装置への更新が実施された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2001年夏ごろに9002F・9012Fの2・4号車において試験的に大容量(14.5 kW・12,500 kcal/hを1両4台)のものに換装した。装置外観キセはステンレス製である。比較の意味もあり、前者は三菱電機製(CU-503形)、後者は東芝製(RPU-4018形)のものをそれぞれ搭載した。その後、この結果を踏まえて2004年(平成16年)より東芝製の大容量タイプへの換装が実施されたが、電源である静止形インバータ(SIV)の給電能力の関係から1編成32台ある冷房装置のうち14台のみとなっている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)現在では9007F・9008F・9010F・9013F以外の編成に施工されている。9002Fの1 - 4号車は同年現在も試験時の装置が搭載されており、うち9302号車は一時的に3種類すべての冷房装置が設置されていた。その後、順次交換されるが、弱冷房車である9200は未交換で、他の車両は全交換車と一部交換車が混在している", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東横線用編成は1997年(平成9年)3月の東横線渋谷駅 - 菊名駅間ATC化に伴い、ATC-P装置の取り付けが施工された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)頃には全編成に転落防止幌が設置された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2000年から2002年にかけて高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)に対応し、東横線用は2号車と7号車、大井町線用は4号車の車端部の3人掛け座席を撤去の上、車椅子スペースを新設した。この際に壁面埋め込み式ヒーターの新設と消火器を収納キセに収めるようにした。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後、2003年度からドア上部にLED式車内案内表示器を千鳥(左右交互)配置に、ドアチャイムを各ドアの上部にそれぞれ後付けで設置している。案内表示器は3000系などと同じく2段式である。このうち、先行して設置された9014F・9015Fでは案内表示器・ドアチャイム用スピーカーのカバーの色がベージュであったが、その後設置された編成ではアイボリーになっている。大井町線所属の9007Fについても2014年1月に車内案内表示器が設置されている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年から老朽化に伴い車内の更新工事を開始しており、内容は以下の通りである。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2004年12月に、大井町線用9007Fの集電装置がシングルアーム式パンタグラフに換装された。その後ほかの大井町線用車両についても同様に換装されたほか、これ以外の本形式も大井町線転属時に交換を実施している。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)1月から東横線編成は前面に補助排障器(スカート)の取り付けが施工された。当初、東横線所属の本系列におけるスカート設置は限られた編成のみ施工される予定であり、公式ホームページ上にもそのように掲載されていたが、結局同路線に所属する全編成に対して施工された。なお、当初から大井町線に所属している9007Fへは取り付けが実施されなかったが、同時期にパンタグラフをシングルアーム式に換装、その後2014年(平成26年)1月にスカートが装備された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)2月から7月にかけて落成当初から設置準備工事のみであった車外放送用スピーカーを、全ての編成に設置した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2007年7月ごろまでに全編成の車掌スイッチを機械式から5050系や横浜高速鉄道Y500系電車と同様のタイプである間接制御式(リレー式)に交換した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1986年から1991年にかけて、東横線用の8両編成が14編成(9001F - 9006F、9008F - 9015F)、大井町線用の5両編成が1編成(9007F)導入された。東横線の車両は元住吉検車区、大井町線の車両は長津田検車区が管理している。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "新製投入直後は初期故障を中心としたトラブルも多かった。空転の多発や台車の空気ばねの圧力調整不具合から、1986年3月13日朝に9001Fが横浜駅付近のカーブ区間の勾配(カント)に馴染まず脱線事故を起こすなどしているが、これらも徐々に克服していった。なおクハ9001の海側運転台寄りの台枠部には、この事故で生じた摩擦痕が今も残っている。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "導入当時の東横線では急行と各駅停車の列車運用が分離されていたが、9000系は急行と各駅停車の双方に運用された。また、大井町線では各駅停車のみの運用であるほか、早朝と深夜には鷺沼車庫への出入庫を兼ねた田園都市線直通電車への充当もある。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大井町線への導入に先立っては、乗務員の習熟訓練を目的として1986年11月の1か月弱ほど、中間3両を抜き取られた9001Fが同線で一時運用された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1989年8月から1991年3月にかけては、田園都市線の新CS-ATC化に伴い大井町線車両は二子玉川 - 長津田での回送を必要とすることから、ATC搭載工事期間中の編成数の確保を目的として9001Fが再び大井町線で一時運用された。この2度目の9001Fの大井町線での運用期間は約1年7か月と長期にわたったことから、1990年10月から1991年2月まで9001Fから抜き取って留置されていた中間車3両を9008Fの中間車3両と交換し、走行距離を調整した。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1996年には車輪のきしり音対策の試験のため、大井町線用の9007Fが数日間3両化されてこどもの国線で運用された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2001年3月28日には東横線で特急列車の運転が開始された。同時に種別による列車運用の分離は廃止となり、9000系についても特急から各駅停車まですべての運用に充当された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2004年2月1日には横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、東横線との相互直通運転が開始された。東横線のほぼ全ての列車がみなとみらい線に直通する形態となり、9000系もみなとみらい線の元町・中華街駅まで運用範囲を広げた。これに伴い、大井町線用の9007Fを除いて非常用梯子が大型のものへ交換されたほか、前面・側面の種別と行先表示を新しいものにに交換している。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "みなとみらい線開業に際し、事前に地下化される東横線の区間を含むみなとみらい線内での試運転が実施され、9008Fが2003年10月に一度運用を離脱し、横浜高速鉄道Y500系電車Y516Fとともに使用された。搬入は同年11月に東白楽駅反町寄りの仮設地下搬入線路から行われ、搬入線路へは長津田車両工場からトレーラーで陸送された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2006年3月18日から、土休日に数往復、大井町線から田園都市線中央林間駅までの直通電車(大井町線内各駅停車・田園都市線内急行運転)が設定された。その後、2008年3月28日からは大井町線で急行運転が開始されたため、田園都市線との誤乗防止目的で施された車体前面のグラデーションカラー化と「大井町線」と書かれたステッカーが貼りつけられた。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "大井町線の急行運転開始前に同線の保安装置がATCに変更されることから、大井町線所属車両のATC改修工事に従う車両不足を補う必要が生じた。このため、9001Fが2007年8月25日に5両編成化された上で大井町線に転用し、同年8月27日から2008年3月27日までの7か月間、大井町線で営業運転に就いた。この際、抜き取られた3両(サハ9801 - デハ9301 - サハ9701)は休車とされたが後に8両編成に戻され、2008年5月20日に東横線に復帰している。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なお、行先表示器の字幕は9007Fと同様の「各停表示なし・前面の英字が大文字と小文字の組合わせ・側面は日本語表記のみ」のタイプで、東横線所属編成がみなとみらい線対応幕に交換する前に使用していたものを流用していた。また、9001Fなどパンタグラフのシングルアーム式換装が行われていない編成も存在したが、2014年までにシングルアーム式に統一された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東横線への5050系増備に伴い、2009年度から本格的に東横線から大井町線への転属が開始された。いずれの場合も東横線から長津田車両工場へ回送され、同工場において8両から5両(余剰となった3両は休車または廃車)に減車した上で、前面デザインのグラデーション化および車体側面に「大井町線」と書かれたステッカーを貼り付け、試運転の後に営業運転に入った。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "転属後しばらくの間はドアチャイムのみの稼働(ただし9003Fと9004Fは非稼働)で、LED式車内案内表示器は終始無表示であったが、2012年2月から全編成で案内表示の使用が開始された。非稼働だった9003F・9004Fのドアチャイムも稼働を再開している。なお、ドアカットを実施する九品仏駅と戸越公園駅では、全車両とも開くドアの方向は表示されず、ローマ字の駅表示は2000系同様の大・小文字併記、次駅の英字スクロール表示は1回のみと、東横線時代とは表示パターンがいくつか異なっている。後述の種別・行先表示器のフルカラー・白色LED化に関しては10編成(9001F・9003F - 9006F・9008F - 9011F・9013F)が8090系の廃車発生品を流用しており、側面表示器が種別部がフルカラー式、行先部分が白色式と分かれている(それ以外の新品LEDの編成は種別・行先ともにフルカラー式となっている)。大井町線生え抜きの9007Fについても2014年1月にLED式車内案内表示器を設置の上、先頭車へのスカート装備、種別・行先表示器のフルカラーLED化も実施されている。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "なお、この転配に際し余剰となった2編成分の中間車6両は2009年6月15日に廃車となった。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、2010年度内に転配した4編成分の中間車12両についても、全車両が廃車・解体となっている。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、2011年度内に転配した2編成分の中間車6両についても、全車両が廃車・解体となっている。このほか、同年度内に9003F・9004F・9006Fの行先表示器がフルカラー・白色LED化された。", "title": "編成・運用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "本系列は目黒線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)南北線および東京都交通局(都営地下鉄)三田線との相互直通運転への対応も想定した設計となっていた。しかし、実際には急勾配の多い南北線では出力不足であったといわれ、それに加えて当初計画のホームセンサー方式(池上線と東急多摩川線で採用)からホームドア方式への計画変更によりモニタ装置を装備させる必要が生じたこと、またこれによる乗務員の安全確認上の問題やコスト面から、地下鉄乗り入れに際しては新系列となる2代目3000系が設計、製造された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この名残として、目黒線に乗り入れている都営6300形電車および営団9000系電車の初期車には本系列と同様に一部座席にクロスシートを設置するなどの共通点が見受けられ、本系列には車外スピーカーの準備工事がなされていた。さらに、方向幕および指令器には「田園調布」や「目黒」の表示も用意されていたが、後のみなとみらい線開業に向けた対応で消滅した。加えて、運転台のマスコンキーやATC/ATS切り替えスイッチが営団対応のものになっているほか、運転台左側壁面には増設メーター類の準備工事が、サハ9700形の妻面には誘導無線アンテナの取り付け準備工事がなされていた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、本系列は副都心線への直通運転に対応させる予定であったが、ブレーキ応答性の問題でATO運転に必要とされる停止精度を満たせない等の理由から対象外となった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "本系列は老朽化に伴い、今後新型車両への置き換えが計画されている。2023年度より、本系列および9020系の置き換えを目的とした車両新造が開始される予定。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "また、一部の車両は西武鉄道に「サステナ車両」(西武鉄道が他社から譲受するVVVFインバータ制御車両の呼称)として譲渡され、2025年度以降に多摩川線・多摩湖線・西武秩父線・狭山線に導入し、同線の老朽化した車両を置き換える予定。", "title": "今後の予定" } ]
東急9000系電車(とうきゅう9000けいでんしゃ)は、1986年(昭和61年)3月9日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。 なお、本項では解説の便宜上、渋谷・大井町方先頭車の車両番号+Fを編成名として表記する。
{{Otheruses|1986年に登場した通勤形電車|東急9020系電車|東急2000系電車}} {{鉄道車両 | 車両名 = 東急9000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu9000Gradation.jpg | 画像説明 = 大井町線用9000系9007F<!--(前面のグラデーションカラー化後)--><br />(2008年3月28日 / 等々力駅 - 尾山台駅間) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]] →<br />[[東急電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = 1986年 - 1991年 | 製造数 = 117両 | 運用開始 = 1986年3月9日 | 編成 = 5両(大井町線)<br />8両(東横線・運用終了) | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 V([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 110 km/h | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.1 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h | 非常減速度 = 4.5 km/h | 編成定員 = 5両編成: 692(座席263)人<br/>8両編成: 1,124(座席428)人 | 車両定員 = 先頭車130人(座席49)<br/>中間車144(座席56または53)人 | 自重 = 24.3 - 33.8 t | 編成重量 = 235.7 t(8両) | 全長 = 20,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと --> | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 4,050 mm | 車体材質 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = ボルスタレス台車 TS-1004形・TS-1005形 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] | 主電動機出力 = 170 kW × 4 | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 85:14=6.07 | 編成出力 = | 制御方式 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](1C4M) | 制御装置 = | 制動装置 = ATC連動[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]] | 備考 = }} '''東急9000系電車'''(とうきゅう9000けいでんしゃ)は、[[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月9日]]に営業運転を開始した[[東急電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 なお、本項では解説の便宜上、[[渋谷駅|渋谷]]・[[大井町駅|大井町]]方先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]+F(Formation = [[編成 (鉄道)|編成]]の略)を編成名として表記する。 == 概要 == 老朽化した[[東急3000系電車 (初代)|初代3000系]]や[[東急5000系電車 (初代)|初代5000系]]の置き換え<ref group="注">実際には本形式を[[東急東横線|東横線]]へ投入し、同路線で運用していた[[東急8500系電車|8500系]]を[[東急田園都市線|田園都市線・新玉川線]]へ転属させて同路線の増発用に充当した。また、後に[[東急8090系電車|8090系]]の一部編成を組み換えて新製制御電動車(8590系〈デハ8590形・8690形〉)に組み込む中間車30両を残して[[東急大井町線|大井町線]]へ5両化の上で転配させるとともに同線で運用されていた[[東急7000系電車 (初代)|7000系]]と[[東急7200系電車|7200系]]を[[東急目蒲線|目蒲線]]および[[東急池上線|池上線]]に転配させ、両線で運用されていた3000系・5000系を置き換えるという大規模な車両の転配が行われた。</ref>および[[東京メトロ南北線|営団南北線]]・[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]への乗り入れに対応した車両として<ref>『鉄道ファン』 1986年5月号 P.49</ref>、1986年2月に量産先行車にあたる9001Fが落成した。翌1987年度より増備が開始され、[[1991年]](平成3年)3月までに15編成117両が東急車輛製造で製造された。 東急では、[[1983年]](昭和58年)から[[東急6000系電車 (初代)|初代6000系]]の一部に[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]装置を搭載して[[試運転]]を実施し、翌[[1984年]](昭和59年)には1500 [[ボルト (単位)|V]]区間でGTOサイリスタ素子のVVVFインバータ制御装置を搭載した車両では日本初の営業運転での実用試験を行った。また、この時に[[東急車輛製造]]製の[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]を装架して試験を実施した。本系列はこの結果を踏まえて設計・製造された。 === 次車分類 === *1次車(1985年度製)9001F ([[プロトタイプ|量産先行車]]) *2次車(1987年度製)9002F - 9007F *3次車(1988年度製)9008F - 9013F *4次車(1989年度製)9014F *5次車(1990年度製)9015F 量産先行形の9001Fは制御装置の形式や車内補助送風機・車外[[車側表示灯|車側灯]]台座形状の違いなど量産形車両と多少の違いがある。また、3次車以降は外板幕板と腰板を溶接構造からプレス加工構造に変更している。 == 車両概説 == 本項では特記のない限り、落成時の仕様について述べる。 === 車体 === 本系列は軽量[[ステンレス鋼]]製の20 [[メートル|m]]級4扉車体で、梨地仕上げのステンレス材を使用し、正面・側面には東急の[[コーポレートカラー]]である赤帯を巻いている。 前面は従来車と同様の切り妻スタイルであるが、前述の地下鉄直通を考慮して非常用[[非常口|非常扉]]を装備しているが、助士席側にオフセットさせ、[[運転士]]側のスペースと視野の拡大を図っている。車内には非常脱出用の[[梯子|はしご]]が設けられている。前面のステップ(足掛け)は大型化され、非常用はしごはここに引っ掛けて使用する。[[前照灯]]は角形であり、本系列より[[尾灯]]はLED化された。なお設計当初はパノラミックウィンドウの使用や、[[営団01系電車]]のような角を落とした前面形状も考えられていたが、上層部の強い意向により切妻スタイルとされた<ref>『鉄道ダイヤ情報』2011年6月号、pp.18-19</ref>。 [[方向幕|行先表示器]]は字幕式で、前面は左から[[列車種別|種別]]表示・行先表示・[[列車番号|運行番号]]表示である。また、[[通過標識灯|急行標識灯]]が設置されており、急行・特急での運用時には点灯していたが、[[2002年]](平成14年)4月から使用が停止された。側面は種別・行先表示一体形の表示器である。オリジナルは「各停表示なし・[[ローマ字]]表記なし」であるが、3次車の9008Fからは前面行先表示のみローマ字入り<ref group="注">大文字と小文字によるもの。例:「渋谷」は「Shibuya」と表記。</ref>とされ、その後に初期車でもローマ字入りへの交換を行った<ref group="注">9102号など交換されないままの車両も存在していた。</ref>。その後[[東急大井町線|大井町線]]用の9007Fも[[2008年]](平成20年)7月下旬に前面種別表示幕と側面表示が交換され、[[東急8090系電車|8090系]]などと同様に同線での種別表示に対応した<ref group="注">後の[[溝の口駅|溝の口]]延伸時に前面行先表示幕も交換されている。</ref>。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[分散式冷房装置|分散式]]で、落成当初は[[東芝]]製RPU-2214形で、[[冷凍能力|能力]]11.6 [[キロワット|kW]](10,000 [[冷凍能力|kcal/h]])のものを各車4台搭載していた。装置外観キセ(カバー)は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製である。 === 内装 === 車内設備においても、乗客へのサービス向上のため様々な点で見直しを行っている。 内装は8090系と同様の「ソリッドパターン」と呼ばれる模様の入ったベージュ色の化粧板を使用し、床材はキーストンプレートの塗り床(茶色)である。席配置はドア間が7人掛け座席、車端部は3人掛けのロングシート座席と[[鉄道車両の座席|クロスシート]]を設置している<ref group="注">他に車端部にクロスシートを設置している車両には[[東急7000系電車 (2代)|新7000系]]がある。</ref>。 ロングシート部は、乗客1人分の幅を440 [[ミリメートル|mm]]に拡大して7人掛けの座席を3人掛けをオレンジ色・4人掛けを茶色に色分けするとともに、座席端に袖仕切りを設け、また座席の中間に新たに仕切り板を設置して着席定員を守りやすくしている。[[優先席]](旧・シルバーシート)は時期によって異なったがその後は青色とものとした。当初の[[つり革]]は丸形であり、新たに枕木方向にも増設した。また、優先席部は後年オレンジ色で三角形のものと交換された。 9001Fでは先頭車両のクハ9001・9101の車端部(貫通扉上部)のみに、日本初となる[[発光ダイオード|LED]]式[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]が搭載された<ref group="注">この装置が本格採用となったのは1988年の[[営団03系電車]]である。</ref>。赤とオレンジの2色表示で「次は○○(駅名)」と表示され、ドットはクハ9001が四角、クハ9101が丸形であったが、ともに2000年8月6日のダイヤ改正で多摩川園駅が[[多摩川駅]]に改称され、さらに同駅に急行が停車することになったため対応できなくなり、装置の使用を中止した。その後、この車端部LED表示器は冷房装置などの機器を更新する際に撤去し、他の車両と同様に[[広告]]掲示スペースとされた。 また、落成当初から東急の車両で初の音声合成式[[車内放送|自動放送装置]]を搭載し、以後は東急の車両における標準装備品となった。 側窓はサッシュレス構造を採用し、遮光[[カーテン]]付としている。連結面は固定式の妻窓があり、貫通路幅は800 mmとし、各車両の渋谷方には吹き抜け防止の[[貫通扉]]を設けている。 天井は平天井構造で、冷房装置の吹き出し・リターン口1台と補助送風機2台が交互に配置されている。補助送風機は先頭車に7台、中間車に8台設置している。 メンテナンスがほぼ不要な[[かご形三相誘導電動機]]を採用したことや、電動機の結線をワンタッチコネクタ化したことから、床面の主電動機点検蓋は省略された。東急では[[東急7000系電車 (初代)|初代7000系]]以来である。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu-9000-interior.jpg|車内(サハ9704) ファイル:Tokyu 9000 series EMU 002.JPG|車端部の車椅子スペースとボックスシート            (内装更新済み・デハ9203) </gallery> === 乗務員室 === [[ファイル:Tokyu9000cab.jpg|thumb|240px|none|9000系の運転台]] [[操縦席|乗務員室]]は乗務員の運転操作性向上を主眼に設計され、線路方向に1,375 mm確保された。室内はアイボリーの配色、運転台はワインレッド調の配色であり、8500系に準じているが、貫通扉が車掌台側に寄ったため配置に余裕がある。計器盤には左から圧力計・ブレーキ指示計、故障表示灯、[[速度計]](中央)・保安表示灯・種別表示の順に並んでいる。表示灯はすべてLED化された。[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は[[デッドマン装置]]付のT字形ワンハンドル式である<ref group="注">マスコンは力行1 - 4ノッチ・切(惰行)・常用ブレーキ1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]]・抜取。</ref>。運転台上部には故障時のガイダンス処置を表示するモニタディスプレイが設置された。 前面ガラスの日除けは、クハ9101号において従来のアルミ遮光板に代わり、巻き上げ式カーテンを採用した。これは西日などを遮ることで、運転士の前方視認を確実にするもので、安全面に配慮したものである。これは後の量産車以降にも採用されたほか、在来形式車にも取り付けが実施された。 [[車掌]]用のマイクは乗務員室扉周りに各1個(両側で2個)、運転台の右に1台(これは送受話器形で、乗務員室間連絡用と車内放送用)の計3個が設置されている。 東急では初めてウインドウオッシャ付きの電動式[[ワイパー]]を採用した。また、[[警笛]]は空気笛に加えて電子ホーン(電気笛)を採用した。 運転室と客室の仕切り部は前面窓と同じ配置で、仕切り窓が3枚並んでおり、このうち左側2枚の窓には[[遮光幕]]が設置されているが、右端の窓にはない。なお、遮光幕はロールカーテン式ではなくアルミ製の下降式遮光板であり、窓下から引き上げて使用する。 === 主要機器 === 東急の量産車で初めてVVVFインバータ制御とかご形三相誘導電動機を採用した。日本国内における[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]用車両では前述の初代6000系および[[近畿日本鉄道]]の[[近鉄1420系電車|1250系(現・1420系)]]と[[近鉄3200系電車|3200系]]、[[新京成電鉄]]の[[新京成電鉄8800形電車|8800形]]に続く5例目となる。 [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]による[[日立製作所]]製制御装置(1次車9001F:VF-HR-107形・2次車9002F以降は改良形:VF-HR-112形)を各電動車に搭載し、1台の制御器で4台の電動機を制御する(1C4M方式)。またVVVFインバータ制御の特性を活用して[[定速運転]]機能を付加した。 主電動機(TKM-86形[[かご形三相誘導電動機]])は[[日立製作所]]・[[東洋電機製造]]製の共通設計品であり、[[MT比]]1:1で高い[[起動加速度]](3.1 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]])を確保するため、1時間定格は170 [[キロワット|kW]]と出力は大きい。高速走行時における電動機冷却ファンの風切り音の低減のため、冷却ファンは電動機枠内に収めた。 制動装置は[[回生ブレーキ]]付きの[[電気指令式ブレーキ]](HRA・ハイ - レスポンス - アナログ方式)である。回生ブレーキの動作範囲は停止直前 (5 [[キロメートル毎時|km/h]]) までと広い。そのため、起動時のみならず減速時も非同期領域の[[磁励音]]を主電動機および制御装置から発する。合わせてVVVF制御の特性を生かし、T車[[遅れ込め制御]]併用形とした。 冷房装置などサービス機器の電源である静止形インバータは、東芝製の容量120 [[キロボルトアンペア|kVA]]、出力電圧440 V、GTO素子を使用している。[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) はレシプロ式・低騒音形の新規品で、電動機には保守の容易な交流誘導電動機を採用したHS-20-1形を使用している。 [[鉄道車両の台車|台車]]は軽量[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]](TS-1004形〈[[動力車|電動車]]〉・TS-1005形〈[[付随車]]〉)を採用した。軸箱支持は[[東急8000系電車|8000系]]と同じ軸箱守(ペデスタル式)としたほか、仕様の見直しなどにより同系列より1台車当たり400kgの軽量化を図った。 基礎ブレーキは電動車が片押し式[[踏面ブレーキ]]、付随車が[[ディスクブレーキ]]としている。なお、1990年度に落成した最終編成9015Fの9015号車では1991年(平成3年)6月まで翌1992年に落成する[[東急2000系電車|2000系]]用の試作台車TS-1009形(円筒積層ゴム式軸箱方式)の走行試験に使用されたが、試験終了後は本系列用の台車に換装した。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu9000VVVF.jpg|9000系の<br />日立製VVVF主制御器<br />(写真は量産車のVF-HR112形) ファイル:Tokyu9000-TS1004.jpg|TS1004形動力台車。<br />ボルスタレス台車である ファイル:Tokyu9000-TS1005.jpg|TS1005形付随台車。<br />動力台車と同構造である </gallery> [[集電装置]](パンタグラフ)はクーラーキセの大型化に伴い小型化され、さらに折りたたみ高さを低く設計したPT44-S-D-M形とした。これは折りたたみ時に上枠が下枠に収まるようにして小型化したものである。当初より[[剛体架線]]に対応した集電舟が使用されている。 [[ファイル:Tokyu9000ATC.jpg|thumb|240px|none|東横線用9000系のATC-P装置]] 保安装置は落成時は[[自動列車停止装置#私鉄のATS|東急形ATS]]装置のみを搭載していた。その後、大井町線用の9007Fは[[1991年]](平成3年)3月の[[東急田園都市線|田園都市線]]ATC化に伴い、入出庫で同線を走行する機会が多いことから、[[自動列車制御装置#新CS-ATC|ATC]]装置を取り付けた。また、後年の2007年(平成19年)2月の大井町線ATC-P化に伴い、ATC-P装置への更新が実施された。 == 改造 == === 冷房装置の換装 === 2001年夏ごろに9002F・9012Fの2・4号車において試験的に大容量(14.5 kW・12,500 kcal/hを1両4台)のものに換装した<ref name="RailfanTokyu9000">[https://web.archive.org/web/20041120081151/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/cool9000.shtml 9000系の一部編成で冷房装置変更!(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。装置外観キセはステンレス製である。比較の意味もあり、前者は[[三菱電機]]製(CU-503形)、後者は東芝製(RPU-4018形)のものをそれぞれ搭載した<ref name="RailfanTokyu9000" />。その後、この結果を踏まえて2004年(平成16年)より東芝製の大容量タイプへの換装が実施されたが、電源である[[静止形インバータ]](SIV)の給電能力の関係から1編成32台ある冷房装置のうち14台のみとなっている<ref name="RailfanTokyu9000-2">[https://web.archive.org/web/20050924204304/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics2/2005/03/23122252.shtmll 9000系(一部)に新型冷房装置を搭載いたしました(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。 2008年(平成20年)現在では9007F・9008F・9010F・9013F以外の編成に施工されている。9002Fの1 - 4号車は同年現在も試験時の装置が搭載されており、うち9302号車は一時的に3種類すべての冷房装置が設置されていた。その後、順次交換されるが、弱冷房車である9200は未交換で、他の車両は全交換車と一部交換車が混在している === ATC-P取り付け改造 === 東横線用編成は[[1997年]](平成9年)3月の東横線[[渋谷駅]] - [[菊名駅]]間ATC化に伴い、ATC-P装置の取り付けが施工された。 === 転落防止幌設置 === [[2001年]](平成13年)頃には全編成に[[転落防止幌]]が設置された。 === 内装の改造 === [[2000年]]から2002年にかけて[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律]](交通バリアフリー法)に対応し、東横線用は2号車と7号車、大井町線用は4号車の車端部の3人掛け座席を撤去の上、[[車椅子スペース]]を新設した。この際に壁面埋め込み式[[暖房|ヒーター]]の新設と[[消火器]]を収納キセに収めるようにした。 その後、2003年度からドア上部にLED式車内案内表示器を千鳥(左右交互)配置に、[[ドアチャイム]]を各ドアの上部にそれぞれ後付けで設置している。案内表示器は[[東急3000系電車 (2代)|3000系]]などと同じく2段式である。このうち、先行して設置された9014F・9015Fでは案内表示器・ドアチャイム用スピーカーのカバーの色がベージュであったが、その後設置された編成ではアイボリーになっている。大井町線所属の9007Fについても2014年1月に車内案内表示器が設置されている。 <gallery> ファイル:Tokyu series9000 information LED.jpg|LED式車内案内表示器 </gallery> ==== 室内更新工事 ==== 2005年から老朽化に伴い車内の更新工事を開始しており、内容は以下の通りである<ref name="RailfanTokyu9000-RN">[https://web.archive.org/web/20050307053753/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/030826-9000.shtml 9000系室内のリニューアルを開始いたしました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。 * 座席をピンク系の表地に統一して仕切りを廃止し、その代わりとして9001F - 9003F・9005F - 9013Fについては更新時に、9014・9015Fは更新完了後にそれぞれ手すりを新設した。 * 東横線用の9003F・9005F・9006F・9011F - 9013Fと大井町線用の9007Fではさらに化粧板を木目調に、[[つり革]]を三角形のもの<ref group="注">[[優先席]]付近のオレンジ色のつり革への変更とは無関係である。</ref>に、号車・車両[[銘板]]をシールのもの<ref group="注">レイアウトと[[書体]]は5000系タイプ。最初に更新した9003Fは銘板が存置されている。</ref>にそれぞれ変更された。つり革は大井町線用の9007Fが五角形タイプで、3000系や[[東急バス]]の1300番台 - 1800番台車と同じ形状なのに対し、他の編成は三角形に近いが底辺の中心がへこんでいるタイプで<ref group="注">台形をベースとしたエルゴノミクスデザインである。</ref>、他に類のない形状となっている。 * 東横線用の9012F・9013Fについては、この室内更新に加えて先頭車の前面に補助[[排障器]](スカート)を設置する予定だったが、計画の変更で当時同路線に所属していた全編成<ref group="注">未更新の9004Fも含む。</ref>に取り付けられた。 * 9003F及び9006Fについては、2017年に、新型車両と同じ床材への交換、ドアへの黄色いテープの貼り付け、更に、ドア枠の下部に、東急5000系列と同じ警告板が取り付けられた。 <gallery> ファイル:Tokyu-9000-renewal-interior.jpg|更新車の車内(デハ9201) ファイル:Tokyu 9000 series EMU 005.JPG|木目調更新車の車内(クハ9003) </gallery> === シングルアームパンタへの交換 === 2004年12月に、大井町線用9007Fの集電装置がシングルアーム式パンタグラフに換装された。その後ほかの大井町線用車両についても同様に換装されたほか、これ以外の本形式も大井町線転属時と前後して交換を実施している。 === スカートの取り付け === [[2005年]](平成17年)1月から東横線編成は前面に補助[[排障器]](スカート)の取り付けが施工された<ref name="RailfanTokyu9000-S">[https://web.archive.org/web/20050923004600/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics2/2005/01/14134648.shtml 補助排障器(スカート)の取付について(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。当初、東横線所属の本系列におけるスカート設置は限られた編成のみ施工される予定であり、公式ホームページ上にもそのように掲載されていたが<ref name="RailfanTokyu9000-SS">[https://web.archive.org/web/20050921234720/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/040804kaizo.shtml 2004年度車両改造計画について。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>、結局同路線に所属する全編成に対して施工された。なお、当初から大井町線に所属している9007Fへは取り付けが実施されなかったが、同時期にパンタグラフをシングルアーム式に換装、その後2014年(平成26年)1月にスカートが装備された。 === 車外スピーカー設置 === [[2007年]](平成19年)2月から7月にかけて落成当初から設置準備工事のみであった車外放送用[[スピーカー]]を、全ての編成に設置した<ref>鉄道友の会「RAIL FAN」No.660記事「2006年度 東急総決算」ならびにNo.671記事「2007年度 東急総決算」</ref>。 === 車掌スイッチ交換 === 2007年7月ごろまでに全編成の[[車掌スイッチ]]を機械式から[[東急5000系電車 (2代)|5050系]]や[[横浜高速鉄道Y500系電車]]と同様のタイプである間接制御式(リレー式)に交換した<ref>鉄道友の会「RAIL FAN」No.671記事「2007年度 東急総決算」</ref>。 == 編成・運用 == === 東横線・大井町線へ導入 === 1986年から1991年にかけて、東横線用の8両編成が14編成(9001F - 9006F、9008F - 9015F)、大井町線用の5両編成が1編成(9007F)導入された。東横線の車両は[[元住吉検車区]]、大井町線の車両は[[長津田検車区]]が管理している。 新製投入直後は初期故障を中心としたトラブルも多かった。空転の多発や台車の[[空気ばね]]の圧力調整不具合から、1986年[[3月13日]]朝に9001Fが横浜駅付近のカーブ区間の勾配([[カント (路線)|カント]])に馴染まず[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東急東横線横浜駅脱線事故|脱線事故]]を起こすなどしているが、これらも徐々に克服していった。なおクハ9001の海側運転台寄りの台枠部には、この事故で生じた摩擦痕が今も残っている。 導入当時の東横線では急行と各駅停車の列車運用が分離されていたが、9000系は急行と各駅停車の双方に運用された。また、大井町線では各駅停車のみの運用であるほか、早朝と深夜には鷺沼車庫への出入庫を兼ねた[[東急田園都市線|田園都市線]]直通電車への充当もある。 大井町線への導入に先立っては、乗務員の[[習熟運転|習熟訓練]]を目的として1986年11月の1か月弱ほど、中間3両を抜き取られた9001Fが同線で一時運用された。 1989年8月から1991年3月にかけては、田園都市線の新CS-ATC化に伴い大井町線車両は二子玉川 - 長津田での回送を必要とすることから、ATC搭載工事期間中の編成数の確保を目的として9001Fが再び大井町線で一時運用された。この2度目の9001Fの大井町線での運用期間は約1年7か月と長期にわたったことから、1990年10月から1991年2月まで9001Fから抜き取って留置されていた中間車3両を9008Fの中間車3両と交換し、走行距離を調整した。 1996年には車輪のきしり音対策の試験のため、大井町線用の9007Fが数日間3両化されて[[東急こどもの国線|こどもの国線]]で運用された。 === 東横線特急列車への充当・みなとみらい線への直通 === [[ファイル:Tokyu9000.jpg|thumb|240px|right|みなとみらい線へ直通する9003F<br />(2005年12月21日 / [[多摩川駅]])]] 2001年3月28日には東横線で特急列車の運転が開始された。同時に種別による列車運用の分離は廃止となり、9000系についても特急から各駅停車まですべての運用に充当された。 2004年2月1日には[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]が開業し、東横線との相互[[直通運転]]が開始された。東横線のほぼ全ての列車がみなとみらい線に直通する形態となり、9000系もみなとみらい線の[[元町・中華街駅]]まで運用範囲を広げた。これに伴い、大井町線用の9007Fを除いて非常用梯子が大型のものへ交換されたほか、前面・側面の種別と行先表示を新しいものに<ref group="注">各停表示に対応、種別・行先表示に大文字による英字併記タイプ。例:「渋谷」は「SHIBUYA」と表記。</ref>に交換している<ref name="RailfanTokyu9000-MM21">[https://web.archive.org/web/20041119223002/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/0312ikisaki.shtml 行先・種別表示の変更について。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。 みなとみらい線開業に際し、事前に地下化される東横線の区間を含むみなとみらい線内での試運転が実施され、9008Fが[[2003年]]10月に一度運用を離脱し、[[横浜高速鉄道Y500系電車]]Y516Fとともに使用された。搬入は同年11月に[[東白楽駅]]反町寄りの仮設地下搬入線路から行われ、搬入線路へは長津田車両工場から[[牽引自動車|トレーラー]]で陸送された。 === 大井町線車両の塗装変更 === [[ファイル:Tokyu-9000-for-Oimachi-line.jpg|right|サムネイル|240x240ピクセル|赤帯時代の9007F]] 2006年3月18日から、土休日に数往復、大井町線から田園都市線中央林間駅までの直通電車(大井町線内各駅停車・田園都市線内急行運転)が設定された。その後、[[2008年]][[3月28日]]からは大井町線で急行運転が開始されたため、田園都市線との誤乗防止目的で施された車体前面のグラデーションカラー化と「大井町線」と書かれたステッカーが貼りつけられた。 大井町線の急行運転開始前に同線の保安装置がATCに変更されることから、大井町線所属車両のATC改修工事に従う車両不足を補う必要が生じた。このため、9001Fが[[2007年]][[8月25日]]に5両編成化された上で大井町線に転用し、同年[[8月27日]]から2008年[[3月27日]]までの7か月間、大井町線で営業運転に就いた。この際、抜き取られた3両(サハ9801 - デハ9301 - サハ9701)は休車とされたが後に8両編成に戻され、2008年[[5月20日]]に東横線に復帰している。 なお、行先表示器の字幕は9007Fと同様の「各停表示なし・前面の英字が[[大文字]]と[[小文字]]の組合わせ・側面は日本語表記のみ」のタイプで、東横線所属編成がみなとみらい線対応幕に交換する前に使用していたものを流用していた。また、9001Fなどパンタグラフのシングルアーム式換装が行われていない編成も存在したが、2014年までにシングルアーム式に統一された。 === 大井町線への転属 === 東横線への[[東急5000系電車 (2代)|5050系]]増備に伴い、2009年度から本格的に東横線から大井町線への転属が開始された。いずれの場合も東横線から[[長津田車両工場]]へ回送され、同工場において8両から5両(余剰となった3両は休車または廃車)に減車した上で、前面デザインのグラデーション化および車体側面に「大井町線」と書かれたステッカーを貼り付け、[[試運転]]の後に営業運転に入った。 転属後しばらくの間はドアチャイムのみの稼働(ただし9003Fと9004Fは非稼働)で、LED式車内案内表示器は終始無表示であったが、2012年2月から全編成で案内表示の使用が開始された。非稼働だった9003F・9004Fのドアチャイムも稼働を再開している。なお、[[ドアカット]]を実施する九品仏駅と戸越公園駅では、全車両とも開くドアの方向は表示されず、ローマ字の駅表示は2000系同様の大・小文字併記<ref group="注">東横線用は全字大文字で表示される。</ref>、次駅の英字スクロール表示は1回のみと、東横線時代とは表示パターンがいくつか異なっている。後述の種別・行先表示器のフルカラー・白色LED化に関しては10編成(9001F・9003F - 9006F・9008F - 9011F・9013F)が8090系の廃車発生品を流用しており、側面表示器が種別部がフルカラー式、行先部分が白色式と分かれている(それ以外の新品LEDの編成は種別・行先ともにフルカラー式となっている)。大井町線生え抜きの9007Fについても2014年1月にLED式車内案内表示器を設置の上、先頭車へのスカート装備、種別・行先表示器のフルカラーLED化も実施されている。 * 2009年度 ** 4月3日:9002Fが長津田車両工場に回送され、7月8日に試運転を実施し翌9日から営業運転に入った<ref name="RAIL FAN708">鉄道友の会「RAIL FAN」No.708記事「2009年度 東急総決算」</ref> 。 ** 5月22日:9009Fが長津田車両工場に回送され、9月1日に出場し、同月4日に営業運転を開始した<ref name="RAIL FAN708"/>。転属に合わせて種別・行先表示器はフルカラーLED・白色式に変更され、パンタグラフもシングルアーム式にそれぞれ換装された<ref name="RAIL FAN708"/>。なお、運行番号表示器は幕式のままであったが、2010年3月にLED式に変更されている<ref name="RAIL FAN708"/>。 なお、この転配に際し余剰となった2編成分の中間車6両は2009年6月15日に[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった<ref>交通新聞社『鉄道ダイヤ情報』2009年10月号</ref>。 * 2010年度 ** 5月:9003Fが東横線を運用離脱し、6月付けで大井町線に転属した。転属時のパンタグラフは菱形であったが、2011年2月にシングルアーム式に換装されている<ref name="RAIL FAN709">鉄道友の会「RAIL FAN」No.709記事「2010年度 東急総決算」</ref> 。 ** 6月:9004Fが東横線を運用離脱し、7月付けで大井町線に転属した。転属時にパンタグラフがシングルアーム式に換装されている<ref name="RAIL FAN709"/>。 ** 7月:9006Fが東横線を運用離脱し、8月付けで大井町線に転属した。なお、同編成のTOQ-BOX装飾は2010年6月下旬に剥がされていた。同編成は転属時に運行番号表示器のみLED化され、パンタグラフがシングルアーム式に換装されている<ref name="RAIL FAN709"/>。 ** 11月:9008Fが東横線を運用離脱し、2011年1月付けで大井町線に転属した。転属時に行先表示器がフルカラー・白色LED化され、パンタグラフがシングルアーム式に換装されている<ref name="RAIL FAN709"/>。 なお、2010年度内に転配した4編成分の中間車12両についても、全車両が廃車・解体となっている<ref>交通新聞社『鉄道ダイヤ情報』2010年10月号、2011年1月号・4月号・7月号「私鉄車両のうごき」</ref>。 * 2011年度 ** 9月:9011Fが東横線を運用離脱し、10月付けで大井町線に転属した<ref name="RAIL FAN715">鉄道友の会「RAIL FAN」No.715記事「2011年度 東急総決算」</ref> 。転属時に行先表示器がフルカラー・白色LED化された(パンタグラフはひし形のまま<ref name="RAIL FAN715"/>)。 ** 2012年2月:9013Fが東横線を運用離脱し、3月付けで大井町線に転属した<ref name="RAIL FAN715"/>。転属時に行先表示器がフルカラー・白色LED化され、パンタグラフがシングルアーム式に換装されている。 なお、2011年度内に転配した2編成分の中間車6両についても、全車両が廃車・解体となっている<ref name="RM2012-7">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」2012年7月号「2011年度東京急行電鉄車両のうごき」</ref>。このほか、同年度内に9003F・9004F・9006Fの行先表示器がフルカラー・白色LED化された<ref name="RAIL FAN715"/>。 * 2012年度 ** 8月:9015Fが東横線を運用離脱し、9月付けで大井町線に転属した<ref name="RAIL FAN721">鉄道友の会「RAIL FAN」No.721記事「2012年度 東急総決算」</ref> 。転属時にパンタグラフがシングルアーム式に換装された<ref name="RAIL FAN721"/>。 ** 2013年1月:9014Fが東横線を運用離脱し、3月付けで大井町線に転属した<ref name="RAIL FAN721"/>。転属時にパンタグラフがシングルアーム式に換装された<ref name="RAIL FAN721"/>。 ** 2013年3月には、8日に9012Fが東横線を運用離脱し<ref name="RAIL FAN721"/>、長津田車両工場に回送され<ref name="RAIL FAN721"/>、14日に5両化された上で長津田検車区に疎開回送された<ref name="RAIL FAN721"/>。そして、15日に最後まで東横線に残っていた9001F・9005F・9010Fも長津田車両工場・長津田検車区に回送された<ref name="RAIL FAN721"/>。この転配によりデハ9300形・サハ9700・9800形は2013年に形式消滅になるとともに9000系の中間付随車も消滅することになった。とくに9001Fは幾度の大井町線転用を経て正式に大井町線に配属されることとなった。廃車体の一部は[[武蔵小杉東急スクエア]]の展望デッキの壁面に再利用されている。 ** 3月16日改正から大井町線で15編成75両体制となっている。 * 2013年度 ** 2014年1月:大井町線生え抜きの9007Fに対して車内へのLED式案内装置と先頭車へのスカート設置、表示器のフルカラーLED化(新品)が実施され、東横線からの転入編成と基本的な仕様が統一された。なお、ほぼ同時期に幕式のまま残っていた9002F・9012F・9014F・9015Fに関しても種別・行先表示器が新品のフルカラーLEDに交換され(8090系からの流用品のストックが10編成分しかなかったため)、幕式の車両は消滅した。 * 2014年度 ** 年度中に室内灯のLED化と車体側面の連結面端部への黄色テープ貼付が全編成に実施されている。 **順次クーラーの交換。弱冷房車である9200は未交換で、他の車両は全交換した車両もあれば一部交換が混在している。 * 2020年度〜2023年度にかけて ** 2021年2月に、9001Fの運番表示器が3色LED式から白色LED式に交換された。2023年2月から5月にかけては9003F・9004F・9006F・9011F・9013Fに関しても運番表示器の白色LED化が確認され、いずれも8090系からの廃車発生品の表示器を使用していた編成である。 == 編成表 == === 大井町線用(長津田検車区・15編成75両) === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |style="background-color:#ccc; width:6em;"|&nbsp; |colspan="5" style="background-color:#fc6;"|{{TrainDirection|大井町|二子玉川・溝の口<small>・鷺沼</small>}} !rowspan="4"|転入年月 !rowspan="4"|製造<br />次車 !rowspan="4"|更新 !rowspan="4"|つり革 !rowspan="4" colspan="2"|備考 |- !号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 |- !形式・車種 |'''クハ9000'''<br />(Tc2) |'''デハ9200'''<br />(M) |'''デハ9400'''<br />(M) |'''デハ9600'''<br />(M0) |'''クハ9100'''<br />(Tc1) |- !搭載機器 | CP || CONT,SIV || CONT,SIV || CONT || CP |-style="border-top:solid 2px #666;" !rowspan="18"|車号 | 9001 || 9201 || 9401 || 9601 || 9101 || 2013年6月 || 1 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9002 || 9202 || 9402 || 9602 || 9102 || 2009年4月 || 2 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9003 || 9203 || 9403 || 9603 || 9103 || 2010年6月 || 2 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9004 || 9204 || 9404 || 9604 || 9104 || 2010年7月 || 2 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9005 || 9205 || 9405 || 9605 || 9105 || 2013年6月 || 2 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9006 || 9206 || 9406 || 9606 || 9106 || 2010年8月 || 2 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9007 || 9207 || 9407 || 9607 || 9107 || &nbsp; || 2 || ● || ○ |style="text-align:left;"|1988年3月9日入籍時より大井町線で運用 |- | 9008 || 9208 || 9408 || 9608 || 9108 || 2011年1月 || 3 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9009 || 9209 || 9409 || 9609 || 9109 || 2009年5月 || 3 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9010 || 9210 || 9410 || 9610 || 9110 || 2013年5月 || 3 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9011 || 9211 || 9411 || 9611 || 9111 || 2011年10月 || 3 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9012 || 9212 || 9412 || 9612 || 9112 || 2013年5月 || 3 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9013 || 9213 || 9413 || 9613 || 9113 || 2012年3月 || 3 || ● || △ |style="text-align:left;"| |- | 9014 || 9214 || 9414 || 9614 || 9114 || 2013年3月 || 4 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- | 9015 || 9215 || 9415 || 9615 || 9115 || 2012年9月 || 5 || ○ || ○ |style="text-align:left;"| |- |} === 東横線用(元住吉検車区) === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |style="background-color:#ccc; width:6em;"|&nbsp; |colspan="8" style="background-color:#fdd;"|{{TrainDirection| [[渋谷駅|渋谷]] | [[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]] }} !rowspan="4"|入籍 !rowspan="4"|製造<br />次車 !rowspan="4"|更新 !rowspan="4"|つり革 !rowspan="4"|備考 |- !号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 |- !形式・車種 |'''クハ9000'''<br />(Tc2) |'''デハ9200'''<br />(M1) |'''サハ9700'''<br />(T2) |'''デハ9300'''<br />(M2) |'''サハ9800'''<br />(T1) |'''デハ9400'''<br />(M3) |'''デハ9600'''<br />(M0) |'''クハ9100'''<br />(Tc1) |- !搭載機器 | CP || CONT,SIV || &nbsp; || CONT,SIV || CP || CONT,SIV || CONT || CP |-style="border-top:solid 2px #666;" !rowspan="14"|車号 | 9001 || 9201 || 9701 || 9301 || 9801 || 9401 || 9601 || 9101 || 1986年3月8日 || 1 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9002 || 9202 || 9702 || 9302 || 9802 || 9402 || 9602 || 9102 || 1987年11月25日 || 2 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9003 || 9203 || 9703 || 9303 || 9803 || 9403 || 9603 || 9103 || 1987年12月20日 || 2 || ● || △ || &nbsp; |- | 9004 || 9204 || 9704 || 9304 || 9804 || 9404 || 9604 || 9104 || 1988年1月24日 || 2 || × || ○ || &nbsp; |- | 9005 || 9205 || 9705 || 9305 || 9805 || 9405 || 9605 || 9105 || 1988年2月20日 || 2 || ● || △ || &nbsp; |- | 9006 || 9206 || 9706 || 9306 || 9806 || 9406 || 9606 || 9106 || 1988年3月2日 || 2 || ● || △ || 元TOQ-BOX装飾編成 |- | 9008 || 9208 || 9708 || 9308 || 9808 || 9408 || 9608 || 9108 || 1988年8月27日|| 3 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9009 || 9209 || 9709 || 9309 || 9809 || 9409 || 9609 || 9109 || 1988年9月2日 || 3 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9010 || 9210 || 9710 || 9310 || 9810 || 9410 || 9610 || 9110 || 1988年10月19日 || 3 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9011 || 9211 || 9711 || 9311 || 9811 || 9411 || 9611 || 9111 || 1988年10月25日 || 3 || ● || △ || &nbsp; |- | 9012 || 9212 || 9712 || 9312 || 9812 || 9412 || 9612 || 9112 || 1988年11月22日 || 3 || ● || △ || &nbsp; |- | 9013 || 9213 || 9713 || 9313 || 9813 || 9413 || 9613 || 9113 || 1989年3月31日 || 3 || ● || △ || 元シャボン玉装飾編成 |- | 9014 || 9214 || 9714 || 9314 || 9814 || 9414 || 9614 || 9114 || 1989年9月30日 || 4 || ○ || ○ || &nbsp; |- | 9015 || 9215 || 9715 || 9315 || 9815 || 9415 || 9615 || 9115 || 1991年3月26日 || 5 || ○ || ○ || &nbsp; |} ;凡例 :*CONT:主制御器(1C4M) :*SIV:補助電源装置([[静止形インバータ]])120kVA :*CP:[[圧縮機|空気圧縮機]] :*更新欄の×は未更新、○は更新、●は更新(木目) :*大井町線用の転入年月とは、東横線から大井町線に所属が変更となった年月のこと(大井町線での運転開始時期ではない) :*大井町線用は全編成が前面帯グラデーションタイプ、行先表示器フルカラーLED、シングルアームパンタグラフ == その他 == 本系列は[[東急目黒線|目黒線]]と[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ南北線|南北線]]および[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄三田線|三田線]]との相互直通運転への対応も想定した設計となっていた。しかし、実際には急勾配の多い南北線では出力不足であったといわれ、それに加えて当初計画のホームセンサー方式(池上線と東急多摩川線で採用)からホームドア方式への計画変更により[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ装置]]を装備させる必要が生じたこと<ref group="注">[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|都営6000形]]も9000系と同様に乗り入れで使用する計画であったが、同様の理由により乗り入れ運用の対象外とされ、廃車となった。</ref>、またこれによる乗務員の安全確認上の問題やコスト面から、地下鉄乗り入れに際しては新系列となる[[東急3000系電車 (2代)|2代目3000系]]が設計、製造された。 この名残として、目黒線に乗り入れている[[東京都交通局6300形電車|都営6300形電車]]および[[営団9000系電車]]の初期車には本系列と同様に一部座席にクロスシートを設置するなどの共通点が見受けられ、本系列には車外スピーカーの準備工事がなされていた。さらに、[[方向幕]]および指令器には「[[田園調布駅|田園調布]]」や「[[目黒駅|目黒]]」の表示も用意されていたが、後の[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]開業に向けた対応で消滅した。加えて、運転台の[[マスター・コントローラー|マスコン]]キーや[[自動列車制御装置|ATC]]/[[自動列車停止装置|ATS]]切り替えスイッチが営団対応のものになっているほか、運転台左側壁面には増設メーター類の準備工事が、サハ9700形の妻面には[[誘導無線]][[アンテナ]]の取り付け準備工事がなされていた<ref>鉄道ジャーナル 2010年11月号 電鉄車両めぐり 相互直通運転編「東京メトロ南北線」 [[東京工業大学]]鉄道研究部</ref>。 また、本系列は[[東京メトロ副都心線|副都心線]]への直通運転に対応させる予定であったが、ブレーキ応答性の問題でATO運転に必要とされる停止精度を満たせない等の理由から対象外となった<ref>[http://www.tetsushako.or.jp/page_file/20130723114820_7TfbxmXiKG.pdf 東急東横線・東京メトロ副都心線相互直通運転に向けた車両改修ならびに各種確認試験について] - 一般社団法人 日本鉄道車輌工業会 鉄道車両工業 467号 寄稿 2013年7月</ref>。 == 車体装飾 == {{複数の問題 |section = 1 |出典の明記 = 2011年10月 |雑多な内容の箇条書き = 2023年9月 }} * 9006F・9013Fはかつて[[TOQ-BOX]]と呼ばれ、中吊り広告を1社(商品・サービス)のものに統一していた。前者は[[虹]]と[[楽器]]・[[音符]]、後者は[[シャボン玉]]をそれぞれモチーフにした装飾を両端先頭車の前面および側面にそれぞれ施し、1990年代後半にデザインが変更となった。その後、ステッカーの老朽化を理由に9006Fは2008年12月、9013Fは2009年1月に側面の装飾が撤去された。 ** 前面についてはしばらく存続していたが、9006Fは大井町線転属直前となる2010年8月に撤去され、9013Fについても2010年11月11日に前面装飾を撤去された。 * 9013Fは、[[2005年]](平成17年)度の夏期と冬期に開催した[[スタンプラリー]]の[[キャンペーン]]編成となり、夏期は「[[きかんしゃトーマス]]」を、冬期は「[[ふたりはプリキュア|ふたりはプリキュア Max Heart]]」をそれぞれ[[ラッピング車両|ラッピング]]した。また、[[2006年]](平成18年)[[7月15日]]から[[8月31日]]までは9015Fがスタンプラリーのキャンペーン編成となり、「[[ウルトラマン]]トレイン」として運用されていた。 * 2004年1月30日の[[東急東横線|東横線]][[高島町駅]]・[[桜木町駅]]廃止の日には、上りの[[終電|最終列車]](桜木町発各停元住吉行)に9013Fが、下りの最終列車(渋谷発各停桜木町行、後に回送)に9001Fをそれぞれ充当した。このうち前者には惜別の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]][[シール|ステッカー]]「永年のご利用ありがとうございました 桜木町駅・高島町駅」を前後の貫通扉に貼付し、さながら[[路面電車]]の「[[花電車]]」的演出がなされた。また、桜木町駅のホーム撤去後、[[2007年]]10月に駅舎跡地に9001Fを冠したイベントスペース「創造空間9001」が開設されたが、[[2010年]]3月に閉鎖された。 * 2005年11月前後から、東横線に配属した編成の8号車(クハ9100形)に[[TBSテレビ|TBS]]の[[テレビドラマ]]の広告を掲載するようになった。この8号車は2006年[[7月14日]]まで特急・通勤特急・急行に限り[[女性専用車両]]に指定されていた。ただし、前述の9006Fと9013Fでは当該広告を掲載していない。 * 9005Fは、2006年5月7日に[[臨時列車]]「ハッピーアイスクリーム号」に運用した。なお、同年4月26日から5月6日にかけても東横線内の定期運用に使用した。2007年の同時期にも9011Fが「ハッピーアイスクリーム号」の定期運用(臨時列車としての運用は同年5月13日)に使用している。 * 2006年10月には、[[自由が丘駅]]開業77周年を記念して、9002Fが同年10月3日から10月26日まで、9007Fは同年10月2日から10月25日まで特製ステッカーを車体に貼付していた。 * みなとみらい線沿線にあった特設劇場で開催されていた[[マッスルミュージカル]]本公演の前後には、ラッピングを施した編成を運行していた。ただし、ラッピング施工編成は開催時期により異なっていた。 * 2007年には、2009年(平成21年)の[[横浜港]]開港150周年を記念して、9009Fに[[国際信号旗]]などのステッカーが貼付された。 * 2008年12月ごろから、[[開国博Y150]]の開催を記念して、9010Fに「[[開国博Y150#たねまる|たねまる]]」のステッカーが貼付されている。この編成を使用して、2009年[[9月21日]]から同月[[9月23日|23日]]まで臨時急行列車「Y150たねまる号」が運転された。 * 2007年8月7日ごろからは大井町線[[大岡山駅]] - [[大井町駅]]間開業80周年を記念して、9007Fの前面に特製のステッカーが貼付された。2008年3月28日の大井町線急行運転開始を前に、この記念ステッカーを貼付したまま同線所属の各停用車両と同様のグラデーションカラーに変更されるとともに側面のみ大井町線を表す誤乗防止のためのステッカーが貼付された。その後、記念ステッカーは同年8月中旬に撤去され、その跡に大井町線を表す誤乗防止用のステッカーが貼付された。 * 東横線では2013年3月15日をもって[[東京メトロ副都心線|副都心線]]乗り入れ対応改造工事を施工していない9000系の運用を終了したため、同年2月9日より3月14日まで、9001Fの両先頭車にヘッドマークを装着して運転された<ref>[http://railf.jp/news/2013/02/10/074500.html 東急9000系9001編成に、さよならマーク] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2013年2月10日</ref>。なお、クハ9101側とクハ9001側ではデザインが違っていた。装着当日は渋谷駅 - 武蔵小杉駅 - 元住吉検車区間で1往復の『[[タモリ倶楽部]]』による団体臨時列車に使用され、翌2月10日から3月14日まで通常の定期列車に充てられた。さらに、特急・通勤特急・急行で運転される際には、急行標識灯が点灯された。 * 2019年12月から2020年2月まで、大井町線全線開業90周年を記念して、9007Fの両先頭車にヘッドマークが掲出された。また、90周年記念列車として大井町駅では同編成の出発式が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=みなさまに愛されて大井町線が90周年を迎えました。感謝を込めて大井町線90周年記念企画を開催します。|お知らせ|東急電鉄株式会社 |url=https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_256.html |website=www.tokyu.co.jp |access-date=2022-05-06}}</ref>。 * 2022年4月から2023年4月まで、東急グループ創立100周年を記念して、9007Fが大井町線の「東急グループ100周年トレイン」として運行された。同編成の両先頭車にヘッドマークが掲出されたほか、各車両の側面には車体ラッピングが施された<ref>{{Cite web|和書|title=特別企画列車「東急グループ100周年トレイン」を運行します。~ 2022年4月10日(日)から東急線7路線で順次運行開始 ~|ニュースリリース|東急株式会社 |url=https://www.tokyu.co.jp/company/news/list/Pid=post_400.html |website=www.tokyu.co.jp |access-date=2022-05-06}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu9000TOQ-BOX.jpg|TOQ-BOX号<br />(2004年11月3日 / 多摩川駅) ファイル:Tokyu-9000-bubble.jpg|シャボン玉装飾<br />(2005年7月2日 / [[自由が丘駅]] - [[田園調布駅]]間) ファイル:Tokyu9000 Pretty Cure Train.JPG|東横線用9013F<br />プリキュアトレイン<br />(2005年12月25日 / [[代官山駅]]) ファイル:Tōkyū Tōyoko Line 9000 kei final run.JPG|2013年3月15日をもって、東横線での運用を終了するため、9001Fの渋谷方の先頭車クハ9001には、それを表示した丸型のヘッドマークが取付けられた。(2013年2月11日 / [[白楽駅]] - [[妙蓮寺駅]]間) ファイル:Tokyu9000 9101 final run.jpg|2013年3月15日をもって、東横線での運用を終了するため、9001Fの元町・中華街方の先頭車クハ9101には、それを表示したステッカーによる角型のヘッドマークが取付けられた。<br/>急行標識灯が点灯しているところにも注目。(2013年2月23日 / [[多摩川駅]]) </gallery> ==今後の予定== 本系列は老朽化に伴い、今後新型車両への置き換えが計画されている。2023年度より、本系列および[[東急2000系電車#9020系|9020系]]の置き換えを目的とした車両新造が開始される予定<ref name="press20220107">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220107-1-all.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220107064741/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220107-1-all.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月の実施に向けて鉄軌道旅客運賃の改定を申請 〜安全・安心にご利用いただける鉄道事業を継続し、公共交通としての社会的責任を果たしていきます〜|publisher=東急電鉄|page=13・28|date=2022-01-07|accessdate=2022-01-09|archivedate=2022-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/news/2886/ |title=大井町線9000系・9020系の置き換え車両新造へ、東急の2023年度設備投資計画 |website=[[鉄道コム]] |publisher=[[朝日インタラクティブ]] |date=2023-05-11 |accessdate=2023-05-12}}</ref>。 また、一部の車両は[[西武鉄道]]に「[[サステナ車両]]」(西武鉄道が他社から譲受するVVVFインバータ制御車両の呼称)として譲渡され、2025年度以降に[[西武多摩川線|多摩川線]]・[[西武多摩湖線|多摩湖線]]・[[西武秩父線]]・[[西武狭山線|狭山線]]に導入し、同線の老朽化した車両を置き換える予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20230926_sasutenatrain.pdf |title=西武鉄道と東急電鉄・小田急電鉄 「サステナ車両(※)」を授受 各社連携して、SDGsへの貢献を加速してまいります |access-date=2023-9-26 |publisher=西武鉄道}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 山口雄二 「東京急行電鉄9000系」『[[鉄道ピクトリアル]]』1986年5月号(通巻463号)、鉄道図書刊行会。 * 小澤保治 「東京急行電鉄9000系の概要」『電気車の科学』1986年4月号(通巻456号)、電気車研究会。 * 荻原俊夫 「9000系デビュー」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1986年5月号(通巻301号)、交友社。 * 宮田道一 「VVVFインバータ電車 登場の頃から現在まで」『[[鉄道ダイヤ情報]]』2011年6月号(通巻326号)、交通新聞社 == 外部リンク == * 日立製作所『日立評論』1986年10月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1986/10/1986_10_15.pdf DC1,500V電車駆動用VVVFインバータ制御装置の開発]}}」(本系列のVVVFインバータ装置について書かれている) == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkyū 9000 series}} * [[営団9000系電車]] * [[東京都交通局6300形電車]] * [[東急1000系電車]] * [[東急2000系電車]] * [[桜木町駅#その他|創造空間9001]] - 桜木町駅の最終日の最終電車に充当された9001Fの先頭車の番号である「9001」に由来する。 {{東急電鉄の車両}} {{DEFAULTSORT:とうきゆう9000けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|9000]] [[Category:1986年製の鉄道車両|とうきゆう電9000]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-06T12:00:11Z
2023-12-27T13:41:08Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:TrainDirection", "Template:複数の問題", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:Otheruses", "Template:鉄道車両", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:東急電鉄の車両" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A59000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,419
東急1000系電車
東急1000系電車(とうきゅう1000けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)12月26日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。 本項では、1000系からの派生形式である1000系1500番台(1000けい1500ばんだい)についても記述する。また、編成表記は渋谷・五反田方の先頭車両番号で代表する(例:1013F、末尾の「F」は編成を意味するFormationの頭文字)。 東横線における営団日比谷線への乗り入れ車両として運用されていた初代7000系および池上線における7200系の代替を目的として1988年(昭和63年)から1992年(平成4年)にかけ、東横線向けに8両編成8本(64両)、東横線・目蒲線兼用車として4両編成4本(16両)・池上線向けに3両編成11本(33両)の計113両が東急車輛製造で製造された。 9000系の設計を基本にして開発され、車体構造や機器類などは同系と共通化されており、予備部品数の削減や、乗務員の運転取扱い性、検修の作業性向上などを図っている。 9000系と同様にステンレス製の軽量車体を有するが、日比谷線との相互乗り入れ協定の際、東急が車体の長さを18m級としたことから、窓配置は7000系(初代)・7200系と同様に先頭車がdD3D3D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、中間車が1D3D3D1である。前面形状は9000系同様に非常口を前面向かって左側へオフセットした左右非対称構造としており、非常口の車内側には地下区間における非常用梯子が設置されている。この梯子は、東横線用について後年に大形のものへ交換した。前面は9000系と同一だが、区別のために種別・行先表示器周りは黒色に塗装された。 東横線用編成では4号車(デハ1351 - 1358およびデハ1310・1312とサハ1051)の外妻面と床下に日比谷線内で使用する誘導無線用のアンテナが設置されているほか、7号車(デハ1400形およびデハ1361・1363)の下り方妻面には当初日比谷線内で使用する列車運行番号表示用レスポンスブロックが設置されていた。レスポンスブロック本体は後年日比谷線内の運行管理システム更新により不要となったため撤去されたものの、その名残で前述デハ1400形およびデハ1361・1363の下り方妻面山側の窓は二段式の開閉可能構造となっている。なお、東横線用は後年、全車を対象に車両間転落防止幌の設置が実施された。 主電動機は1C4M車・1C8M車の区別なく全車とも日立製作所もしくは東洋電機製のTKM-88(端子電圧1100V、電流92A、周波数47.5Hz、定格出力130kW、定格回転数1,382rpm)で、歯車比は85:14 (6.07) である。補助電源装置(静止形インバータ・写真1)は9000系と同一の、容量は120kVA、出力は三相交流440Vのものを搭載する。 台車も9000系と同様のボルスタレス台車であるが、床面高さを45mm低くするために設計変更が行われたTS-1006(電動車)と用TS-1007(付随車・写真1)となっている。軸箱支持方式は従来からの軸箱守(ペデスタル)+軸バネ方式を踏襲している。パンタグラフは9000系と同形の折りたたみ高さを低くした剛体架線対応形のPT44-S-D-M形である。 空気圧縮機 (CP) は8両編成では9000系と同形で、補助電源装置(SIV)からの三相交流440Vを電源とするHS-20-1形を搭載する。4両編成となる1000N系グループでは、4両編成時における補助電源装置(SIV)は編成で1台となるため、SIVからの給電ではなく、架線直接給電方式(直流1,500V駆動)のHS-20G形としており、SIVの負荷を減らしている。また、1000N'系グループでは1000N系同様の架線直接給電方式だが、容量を縮小(吐出量2,000L/minから1,000L/minへ)した新規品のHS-10形を使用している。 冷房装置は東芝製のインバータ制御による能力可変式を採用し、除湿運転も可能であり最大能力は10,000kcal/hである。床下にインバータ制御装置(空調制御箱)が1両あたり1台、屋根上に集約分散式の冷房装置本体が1両あたり3台搭載されている。装置は1005Fまではレシプロ式圧縮機を使用したRPU-2214B形であるが、1006F以降では低騒音形のスクロール式圧縮機を使用したRPU-2214C形を使用している。本系列の車内冷房拡散方式は冷房ダクトを介した方式を採用し、車体全長にわたり冷風ダクト・吹出口と補助送風機であるラインデリアが収納された整風板がある。このラインデリアは先頭車8台・中間車は9台設置されている。 東横線投入分は、旧営団との乗り入れ協定における性能を満たすために編成中の中間車は全て電動車とされ、MT比は6M2Tと高く、制御装置は1基で2両分8個の主電動機を制御する1C8M制御方式とされた。1C4M制御方式を採用した9000系と比較すると編成中の電動車比率(MT比)は高いものの、逆に制御器の台数は減少しており、その分のコストダウンが図られている。 一方、池上線投入分は2M1Tの3両編成で新製され、冗長性確保目的で各電動車に制御装置を搭載する1C4M仕様とされた。制御装置については、デハ1200形では素子に逆導通GTOサイリスタ(素子耐圧4,500V - 2,000A)を使用し、1C4M制御専用設計としたATR-H4130-RG636A形が新たに採用され、デハ1310形は将来の4両編成化を考慮して他車同様にATR-H8130-RG621Aを搭載し1C4M相当で使用する。デハ1200形で新規に設計した制御装置は、3両編成時における床下機器の小型化を目的としたもので、逆導通サイリスタと抵抗レス小形ゲートアンプ、新型フィルタコンデンサの採用により、装置筐体は約30%の小型軽量化が図られている。1014F - 1024Fの本グループは1000N'系とも称され、編成内の電動車全車が制御装置を搭載することから、車種記号(M・Tc等)において制御装置の有無を表す数字は付されていない。 主回路は9000系と同様のVVVFインバータ制御で、電動車のうち「M1車」にGTOサイリスタ素子を用いた東洋電機製造製のATR-H8130-RG621A形(素子耐圧4,500V - 3,000A)が搭載されている。この制御装置は世界初のヒートパイプ冷却式8個モータ一括制御VVVFインバータであり、後に日本各地の電車へと普及していった。 保安装置は東横線用は落成当初は日比谷線用のWS-ATC装置と東急ATS装置が搭載されていた。その後、1997年(平成9年)3月までに東急東横線の新ATC対応工事が実施されたほか、2003年10月までには日比谷線の新CS-ATC対応が施工されている。 池上線・東急多摩川線用は東急形ATSとTASCを搭載し、CS-ATC装置は搭載していない。1012Fと1500番台は池上線・東急多摩川線への転属改造時にCS-ATC装置が撤去されている。 池上線投入分は、2005年(平成17年)3月より、東横線投入分は2006年(平成18年)12月より、先頭車に補助排障器(スカート)の設置を開始し全編成に施工された。事故などでの床下機器の破損を予防するためである。 池上線・東急多摩川線の編成はパンタグラフが菱形からシングルアーム式に順次換装され、2013年12月までに全編成が完了した。 内張りは9000系と同一のソリッドパターン模様の化粧板を使用し、床材は茶色でキーストンプレートの塗り床である。主電動機の三相交流化により車内床の主電動機点検蓋(トラップドア)は設置していない。座席は9000系で採用された車端部のクロスシートは設置されず、すべてロングシートとされた。18m3扉車の車体構造上、客用ドア間の座席は9人掛けとなり、車端部は4人掛けとなっている。座席の定員着席を促すため、9000系同様に9人掛け座席間には仕切板を入れ、3-3-3人掛けに分割している。座席モケットもオレンジ・ブラウンに色分けされたものとされた。網棚についてはドア部の端まで延長し、物を載せやすくした。 1992年度に新製された池上線用の1000N'系(1019F以降)では、新製時より座席仕切部にスタンションポール(握り棒)を2本設置、ワンマン運転化を想定して自動放送にメニュー(異常時や交通安全・携帯電話について等のマナー放送)を追加、運転台にサービス機器の操作スイッチを新設したほか、各車3台対話式非常通報器が設置された。また、3両編成で落成した1024Fは当初より車椅子スペースが設置され、試験的にドア上部に戸挟み検知センサーが設置された。先に落成していた1014F - 1018Fも後にワンマン化改造が施工された。 池上線用1000N'系では2000年(平成12年)までにデハ1200形の一部座席を撤去して車椅子スペースを設置した。東横線所属車についても2004年(平成16年)までに2・7号車に車椅子スペースが設置された。このうち、一部の車両では壁面埋込形ヒーターの設置も行われた。2006年(平成18年)頃より優先席部のつり革はオレンジ色で三角形のものへの交換が実施されている。 運転台は9000系とほぼ同じ配置で、配色は車内がアイボリー、計器盤はワインレッド調または茶色である。主幹制御器はデッドマン装置付きのT字型ワンハンドル式で、左側に空間波無線の送・受話器を設置している。東横線用はこのほか、日比谷線走行時に使用する誘導無線の送受話器も設置している。また速度計や表示灯の周囲を緑色に着色し、9000系と区別しているほか、右側に乗務員連絡用の受話器を設置している。 池上線用ではワンマン運転用にドア開閉ボタン、車内・車外放送用マイク、サービス機器操作用の手元スイッチや車上ITV装置(ホーム監視用モニター)などが追加された。さらに運客室仕切扉には電磁鎖錠を取り付けて、反対側乗務員室扉の鎖錠、解錠ができる機能がある。この池上線・東急多摩川線用グループでは運転台の速度計、表示灯周囲の緑色シートは施されていない。 本系列のうち、中央貫通構造となる1000N系グループでは運転台の横幅は狭く、コンソール面の配置や乗務員室周りの基本的な設計は同様な貫通構造を持つ8590系に準じた設計としている。 車掌スイッチは落成当初全車とも機械式であったが、池上線用ではワンマン運転実施時に横押しボタン式(開扉は2ボタン・閉扉は1ボタン)に変更された。その後、東横線用では2007年(平成19年)より間接制御式(リレー式)への変更が実施された。 運転台と客室の仕切り部には前面窓と同じ配置で仕切り窓が3枚あり、仕切り窓の運転台背面大窓・仕切り扉窓には遮光幕の代わりに下降式遮光板が設置されている。なお、池上線・東急多摩川線用の車両は左側2枚のガラスには遮光ガラスが使用されている。 車内放送は、9000系に続いて自動放送装置が設置された。当初は日比谷線内の自動放送には対応しておらず、同線内は車掌による放送のみであったが、後年になって一部の編成が対応している。2004年(平成16年)秋頃より9000系とほぼ同型のLED式の車内案内表示器が1両あたり4か所、客用扉上部の鴨居部に左右2箇所ずつ、中央ドアのみ左右両方に設置された。 9000系では落成当初準備工事のみとされていた車外スピーカーであるが、本系列では落成時から設置されており、乗降促進放送などを流すことが可能である。 以下、特記事項を有する編成を記す。 同編成は1989年1月1日から7日までの7日間しか存在しなかった昭和64年中に落成したため、銘板表記は東急が保有する車両では唯一「東急車輛 昭和64年」となっている。 2012年(平成24年)に運用を離脱。2013年(平成25年)1月に総合車両製作所に甲種輸送されている。 2006年からスカートの設置が行われた同系列だが、東横線所属の1005Fのみスカート未設置のままで残っていた。1500番台への改造時に設置されている。 日比谷線乗り入れ運用の減少に伴い、2009年(平成21年)3月に運用から離脱した。その後、2010年(平成22年)3月にデハ1256とデハ1456は廃車・解体され、同年11月にクハ1006・デハ1206が、デハ1406・クハ1106が2011年(平成23年)2月にそれぞれ伊賀鉄道へ譲渡された。2012年1月には1006Fのうち最後まで残ったデハ1306とデハ1356が伊賀鉄道へ譲渡された。 1990年(平成2年)に製造された。東横線ならびに目蒲線との共通予備編成として4両編成で新製され、東横線においては1010F+1011Fおよび1012F+1013Fの組み合わせで運用されることとなった。これは従来、目蒲線と池上線は18m3扉車という共通規格の車両が使用され、両路線で予備車の共通にすることも可能となっていた。しかし、1989年(平成元年)3月から目蒲線車両は4両編成で運用されることとなり、池上線との共通予備車の確保ができなくなった。このため、東横線で運用されている日比谷線直通用の本系列の一部を目蒲線との共通予備車としたものである。この経緯から、落成当初は編成前後の先頭車の前面形状が異なる異端編成であった。 同4編成は8両編成時における8両貫通編成とのMT比統一目的で3M1T編成とされたため、一部の車両の制御装置は1C4M相当で使用するとともに、各編成の下り方先頭車が制御電動車(デハ1310形)に変更された。また、8両編成での運用時において中間に組み込まれる先頭車4両(クハ1011・1013およびデハ1310・1312)は、連結時に貫通幌を繋げて貫通可能とするため前面貫通扉(非常口)が中央に配置されたことから他車とは外観が異なるほか、運転台の左右寸法が狭くなっている。なお、同4編成は1000N系とも称される。普段は東横線での運用に就いていたが、何らかの事情で目蒲線において車両不足が生じた際などは、4両編成に分割して同線の運用に就いていた。2000年8月6日からは目蒲線が目黒線と東急多摩川線に分離・再編されたことに伴い、編成組み換えなどが実施され、4両編成を2本連結したこのような編成は現存しない(後述)。 その後、日比谷線直通列車減便に伴い、2000年(平成12年)1月に1012F+1013Fを分割して目蒲線に転用した。その際、両編成の下り方先頭車(デハ1312・1313)を入れ替え、1012Fが標準的な前面形状を有する先頭車、1013Fが前面中央部に貫通扉を有する先頭車でそれぞれ統一された。これは中央貫通構造と非対称貫通構造の先頭車では乗務員室の機器配置が異なるため、両先頭車の種類を統一することで運転士の操作ミス等を防止するための目的である。 その後1012Fは同年4月から6月に、1013Fは同年2月から6月にかけて、目蒲線運転系統分離後の池上・東急多摩川両線における運用に備えてそれぞれ3両編成に短縮の上、ワンマン運転対応改造が施工された。これにより余剰となった中間車2両(デハ1362・1363)は休車となった。編成はデハ1350形が抜かれたため、クハ1000形に同車に搭載していた分の補助電源装置と空気圧縮機を1台追加(クハ1000形は元々1台搭載のため、2台へ)搭載した。 なお、3両編成も目蒲線運転系統分離前の一時期には目黒駅への乗り入れ運用が存在した。 2003年(平成15年)7月から8月にかけ、1010F+1011Fを8両固定編成に組み替えた。編成替えは1010F+1011Fの中間に位置していた両編成の先頭車(クハ1011・デハ1310)を前述休車中のデハ1362・1363と交換する形で行われたが、デハ1363については電装解除が施工されサハ1050形1051と新規形式区分に改称・改番されている。同車は4号車に組み込まれたため、同時に誘導無線アンテナの新設も施工された。この編成替えに伴い、編成間で補助電源装置や空気圧縮機の移設等も実施された(4両編成分割を前提とした機器配置から、8両固定用の機器配置へ)。編成から外れたクハ1011・デハ1310は休車となった。 その後、クハ1011・デハ1310は約6年間長期休車され、2009年(平成21年)中に廃車となり、伊賀鉄道へ譲渡された。 1010Fも更なる日比谷線直通列車減便に伴い、2008年(平成20年)9月下旬に運用から離脱し、2009年(平成21年)中に廃車となった。中間車6両は解体処分されたが、クハ1010・デハ1311はクハ1011・デハ1310同様に伊賀鉄道へ譲渡された(詳細は後述)。 同5編成は池上線用として1991年(平成3年)に新製されたものであったが、池上線の車両限界拡幅工事が未了であったことから暫定的に4両編成で落成し、旧目蒲線で運用された。1000N'とも称される。 翌1992年(平成4年)に同工事が完了したことを受け、同5編成は中間車1両を減車して3両編成化の上、予定通り池上線に転用した。編成から外された中間車(デハ1219 - 1223)には両先頭車(クハ1019 - 1023・デハ1319 - 1323)を新製して3両編成化の上、同様に池上線へ配属した。池上線では、他路線で使用した中古の車両ばかりが使用されてきており、同線に直接新車を導入するのは池上電気鉄道時代の1930年(昭和5年)6月に導入したモハ200系以来、実に63年ぶりとなるものであった 。 その後、新7000系の投入により2008年(平成20年)1月までに1015F・1018Fが、同年7月には1014F・1016Fがそれぞれ運用から離脱した。同4編成は2両編成化の上、2008年(平成20年)8月から2009年(平成21年)2月にかけて、いずれも上田電鉄へ譲渡されている。なお、譲渡対象から外れた中間車(デハ1214 - 1216・1218)は全車解体処分された。 凡例 行先などの表示は字幕式であったが、2015年12月に1020Fと1021Fが、2016年3月に1017F(同時に室内の更新を施工)が、2016年9月から10月にかけて1012Fと1013F・1019F・1022F・1023Fが、1500番台と同様の白色LED(日本語とローマ字を交互表示)に交換され、1000系の字幕式車両(幕車)は消滅した。ただし、1500番台とは異なり、路線名の表示はない。 東横線と日比谷線との相互直通運転を終了した編成は、各種改造工事を受けて7700系などの在来車の置き換えを目的として池上線・東急多摩川線に転用された 。編成はクハ1000形(Tc2)・デハ1200形(M1)・クハ1100形(Tc1)を改造し、デハ1500形(Mc)・デハ1600形(M)・クハ1700形(Tc)の3両編成とした。クハ1000形はデハ1250形の台車等を流用して電動車に改造している。2014年(平成26年)5月10日から営業運転を開始した。 改造後は車体カラー帯を7000系に準じた濃いグリーン、リーフグリーンにゴールドを加えた3色としたほか、戸袋部には三日月のマークをアクセントとして加えている。改造前は前面帯にあった車両番号表記は、種別表示器のあった場所に移設されている。行先表示器は字幕式からフルカラーLED式に取り替えられており、7000系同様日本語とローマ字を交互に行先を表示し、前面は併せて路線名も表示され、池上線・東急多摩川線間を直通する列車は「◯◯線直通」と表示する。 車内は7000系に準じた木目調化粧板、墨色の床敷物に一新され、座席表地は緑色系に取り替えられて座席間にはスタンションポール(縦握り棒)が新設された。デハ1600形には車椅子スペースが新設されている。また、車内照明は蛍光灯からLED照明に交換されたほか、非常通報器は警報式から対話式の非常通報装置3台を新設している。運転台は運転士戸閉手元スイッチなどワンマン運転機器が追加されたほか、車上ITV(ホーム監視用モニター)が設置されている。 制御装置は7000系と同等の東芝製補助電源装置一体形のVVVFインバータ装置(SVF091-B0形・デュアルモード)と交換され、中間車のデハ1600形(M)に設置。合わせて同車に設置されたパンタグラフはひし形1基からシングルアーム式2基に変更されている。主電動機は130kW出力のTKM-88形が流用されている。保安装置はATC-P装置が撤去され、従来からの東急ATSに加えて定位置停止支援装置(TASC)が設置された。 2020年4月現在、3両編成9本(27両)が雪が谷検車区に在籍する。改造種車の番号を踏襲しているため、他社に譲渡された1006F(6番編成)は欠番となる。 2004年(平成16年)8月16日から9月10日まで東横線と日比谷線との直通運転開始40周年を記念して1001Fと1002Fに記念ステッカーが貼り付けされた 。その後、2007年(平成19年)8月から約1年間、池上線全線開通80周年を記念して1012Fと1023Fに記念ステッカーを貼り付けした 。 2016年(平成28年)3月18日には、1017Fがデハ3450形の旧東急標準ツートンカラーになって出場し、側面の東急マークが剥がされ、「T.K.K.」が貼り付けられた。この編成は、戸越銀座駅の木になる駅プロジェクトの一環により同時につり革の木製化と行先・運番表示がフルカラーLED化され、室内灯も電球色LEDを使用している。 2019年(令和元年)11月25日には、2017年度より実施中の「池上線活性化プロジェクト」の一環として1013Fが初代3000系風の「緑の電車」ラッピングになって営業運転を開始した。 3両編成9本(27両)が雪が谷検車区に在籍する。7700系や新7000系との運用上の区別はない。 東横線用の8両編成7本(56両)は元住吉検車区に在籍し、専ら日比谷線への直通運転に使用されていた。走行距離の調整で、北千住駅 - 中目黒駅間の日比谷線内のみの運用や、南千住駅終着として同駅に隣接する日比谷線千住検車区へ入庫する運用も存在したが、乗り入れ協定や装備の関係で東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)には入線することができなかった。 また、以下の場合は定期列車において入線することのない渋谷駅 - 中目黒駅間および菊名駅 - 元町・中華街駅間を走行することがあった。 かつては車両不足時において、渋谷駅 - 桜木町駅・元町・中華街間を走る本線系統の運用に充当したこともある。 種別表示は、東横線から日比谷線への運用時は「日比谷線直通」と表示し、逆に日比谷線から東横線への運用時は、原則として日比谷線内は無表示で行先のみ、中目黒駅において乗務員交代を行う際に東急の車掌の操作により「各停」と表示させる。 2013年(平成25年)3月16日の東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い、東横線と日比谷線の相互直通運転が終了し、東横線での運用が終了した。 本形式は廃車後、多数の車両が他の鉄道事業者へ譲渡されている。鉄道ライターの杉山淳一は「(大手私鉄の多くが20m級大型車への置き換えを完了した現在では)数少ない中型中古電車として人気が高い」と述べている。各社からの引き合いが多かったことから、一畑電車のように必要数を確保できず、車両の新造に至った事業者も出ている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東急1000系電車(とうきゅう1000けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)12月26日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項では、1000系からの派生形式である1000系1500番台(1000けい1500ばんだい)についても記述する。また、編成表記は渋谷・五反田方の先頭車両番号で代表する(例:1013F、末尾の「F」は編成を意味するFormationの頭文字)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東横線における営団日比谷線への乗り入れ車両として運用されていた初代7000系および池上線における7200系の代替を目的として1988年(昭和63年)から1992年(平成4年)にかけ、東横線向けに8両編成8本(64両)、東横線・目蒲線兼用車として4両編成4本(16両)・池上線向けに3両編成11本(33両)の計113両が東急車輛製造で製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "9000系の設計を基本にして開発され、車体構造や機器類などは同系と共通化されており、予備部品数の削減や、乗務員の運転取扱い性、検修の作業性向上などを図っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "9000系と同様にステンレス製の軽量車体を有するが、日比谷線との相互乗り入れ協定の際、東急が車体の長さを18m級としたことから、窓配置は7000系(初代)・7200系と同様に先頭車がdD3D3D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、中間車が1D3D3D1である。前面形状は9000系同様に非常口を前面向かって左側へオフセットした左右非対称構造としており、非常口の車内側には地下区間における非常用梯子が設置されている。この梯子は、東横線用について後年に大形のものへ交換した。前面は9000系と同一だが、区別のために種別・行先表示器周りは黒色に塗装された。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東横線用編成では4号車(デハ1351 - 1358およびデハ1310・1312とサハ1051)の外妻面と床下に日比谷線内で使用する誘導無線用のアンテナが設置されているほか、7号車(デハ1400形およびデハ1361・1363)の下り方妻面には当初日比谷線内で使用する列車運行番号表示用レスポンスブロックが設置されていた。レスポンスブロック本体は後年日比谷線内の運行管理システム更新により不要となったため撤去されたものの、その名残で前述デハ1400形およびデハ1361・1363の下り方妻面山側の窓は二段式の開閉可能構造となっている。なお、東横線用は後年、全車を対象に車両間転落防止幌の設置が実施された。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "主電動機は1C4M車・1C8M車の区別なく全車とも日立製作所もしくは東洋電機製のTKM-88(端子電圧1100V、電流92A、周波数47.5Hz、定格出力130kW、定格回転数1,382rpm)で、歯車比は85:14 (6.07) である。補助電源装置(静止形インバータ・写真1)は9000系と同一の、容量は120kVA、出力は三相交流440Vのものを搭載する。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "台車も9000系と同様のボルスタレス台車であるが、床面高さを45mm低くするために設計変更が行われたTS-1006(電動車)と用TS-1007(付随車・写真1)となっている。軸箱支持方式は従来からの軸箱守(ペデスタル)+軸バネ方式を踏襲している。パンタグラフは9000系と同形の折りたたみ高さを低くした剛体架線対応形のPT44-S-D-M形である。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "空気圧縮機 (CP) は8両編成では9000系と同形で、補助電源装置(SIV)からの三相交流440Vを電源とするHS-20-1形を搭載する。4両編成となる1000N系グループでは、4両編成時における補助電源装置(SIV)は編成で1台となるため、SIVからの給電ではなく、架線直接給電方式(直流1,500V駆動)のHS-20G形としており、SIVの負荷を減らしている。また、1000N'系グループでは1000N系同様の架線直接給電方式だが、容量を縮小(吐出量2,000L/minから1,000L/minへ)した新規品のHS-10形を使用している。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "冷房装置は東芝製のインバータ制御による能力可変式を採用し、除湿運転も可能であり最大能力は10,000kcal/hである。床下にインバータ制御装置(空調制御箱)が1両あたり1台、屋根上に集約分散式の冷房装置本体が1両あたり3台搭載されている。装置は1005Fまではレシプロ式圧縮機を使用したRPU-2214B形であるが、1006F以降では低騒音形のスクロール式圧縮機を使用したRPU-2214C形を使用している。本系列の車内冷房拡散方式は冷房ダクトを介した方式を採用し、車体全長にわたり冷風ダクト・吹出口と補助送風機であるラインデリアが収納された整風板がある。このラインデリアは先頭車8台・中間車は9台設置されている。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東横線投入分は、旧営団との乗り入れ協定における性能を満たすために編成中の中間車は全て電動車とされ、MT比は6M2Tと高く、制御装置は1基で2両分8個の主電動機を制御する1C8M制御方式とされた。1C4M制御方式を採用した9000系と比較すると編成中の電動車比率(MT比)は高いものの、逆に制御器の台数は減少しており、その分のコストダウンが図られている。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、池上線投入分は2M1Tの3両編成で新製され、冗長性確保目的で各電動車に制御装置を搭載する1C4M仕様とされた。制御装置については、デハ1200形では素子に逆導通GTOサイリスタ(素子耐圧4,500V - 2,000A)を使用し、1C4M制御専用設計としたATR-H4130-RG636A形が新たに採用され、デハ1310形は将来の4両編成化を考慮して他車同様にATR-H8130-RG621Aを搭載し1C4M相当で使用する。デハ1200形で新規に設計した制御装置は、3両編成時における床下機器の小型化を目的としたもので、逆導通サイリスタと抵抗レス小形ゲートアンプ、新型フィルタコンデンサの採用により、装置筐体は約30%の小型軽量化が図られている。1014F - 1024Fの本グループは1000N'系とも称され、編成内の電動車全車が制御装置を搭載することから、車種記号(M・Tc等)において制御装置の有無を表す数字は付されていない。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "主回路は9000系と同様のVVVFインバータ制御で、電動車のうち「M1車」にGTOサイリスタ素子を用いた東洋電機製造製のATR-H8130-RG621A形(素子耐圧4,500V - 3,000A)が搭載されている。この制御装置は世界初のヒートパイプ冷却式8個モータ一括制御VVVFインバータであり、後に日本各地の電車へと普及していった。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "保安装置は東横線用は落成当初は日比谷線用のWS-ATC装置と東急ATS装置が搭載されていた。その後、1997年(平成9年)3月までに東急東横線の新ATC対応工事が実施されたほか、2003年10月までには日比谷線の新CS-ATC対応が施工されている。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "池上線・東急多摩川線用は東急形ATSとTASCを搭載し、CS-ATC装置は搭載していない。1012Fと1500番台は池上線・東急多摩川線への転属改造時にCS-ATC装置が撤去されている。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "池上線投入分は、2005年(平成17年)3月より、東横線投入分は2006年(平成18年)12月より、先頭車に補助排障器(スカート)の設置を開始し全編成に施工された。事故などでの床下機器の破損を予防するためである。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "池上線・東急多摩川線の編成はパンタグラフが菱形からシングルアーム式に順次換装され、2013年12月までに全編成が完了した。", "title": "主要機器" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "内張りは9000系と同一のソリッドパターン模様の化粧板を使用し、床材は茶色でキーストンプレートの塗り床である。主電動機の三相交流化により車内床の主電動機点検蓋(トラップドア)は設置していない。座席は9000系で採用された車端部のクロスシートは設置されず、すべてロングシートとされた。18m3扉車の車体構造上、客用ドア間の座席は9人掛けとなり、車端部は4人掛けとなっている。座席の定員着席を促すため、9000系同様に9人掛け座席間には仕切板を入れ、3-3-3人掛けに分割している。座席モケットもオレンジ・ブラウンに色分けされたものとされた。網棚についてはドア部の端まで延長し、物を載せやすくした。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1992年度に新製された池上線用の1000N'系(1019F以降)では、新製時より座席仕切部にスタンションポール(握り棒)を2本設置、ワンマン運転化を想定して自動放送にメニュー(異常時や交通安全・携帯電話について等のマナー放送)を追加、運転台にサービス機器の操作スイッチを新設したほか、各車3台対話式非常通報器が設置された。また、3両編成で落成した1024Fは当初より車椅子スペースが設置され、試験的にドア上部に戸挟み検知センサーが設置された。先に落成していた1014F - 1018Fも後にワンマン化改造が施工された。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "池上線用1000N'系では2000年(平成12年)までにデハ1200形の一部座席を撤去して車椅子スペースを設置した。東横線所属車についても2004年(平成16年)までに2・7号車に車椅子スペースが設置された。このうち、一部の車両では壁面埋込形ヒーターの設置も行われた。2006年(平成18年)頃より優先席部のつり革はオレンジ色で三角形のものへの交換が実施されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "運転台は9000系とほぼ同じ配置で、配色は車内がアイボリー、計器盤はワインレッド調または茶色である。主幹制御器はデッドマン装置付きのT字型ワンハンドル式で、左側に空間波無線の送・受話器を設置している。東横線用はこのほか、日比谷線走行時に使用する誘導無線の送受話器も設置している。また速度計や表示灯の周囲を緑色に着色し、9000系と区別しているほか、右側に乗務員連絡用の受話器を設置している。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "池上線用ではワンマン運転用にドア開閉ボタン、車内・車外放送用マイク、サービス機器操作用の手元スイッチや車上ITV装置(ホーム監視用モニター)などが追加された。さらに運客室仕切扉には電磁鎖錠を取り付けて、反対側乗務員室扉の鎖錠、解錠ができる機能がある。この池上線・東急多摩川線用グループでは運転台の速度計、表示灯周囲の緑色シートは施されていない。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "本系列のうち、中央貫通構造となる1000N系グループでは運転台の横幅は狭く、コンソール面の配置や乗務員室周りの基本的な設計は同様な貫通構造を持つ8590系に準じた設計としている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "車掌スイッチは落成当初全車とも機械式であったが、池上線用ではワンマン運転実施時に横押しボタン式(開扉は2ボタン・閉扉は1ボタン)に変更された。その後、東横線用では2007年(平成19年)より間接制御式(リレー式)への変更が実施された。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "運転台と客室の仕切り部には前面窓と同じ配置で仕切り窓が3枚あり、仕切り窓の運転台背面大窓・仕切り扉窓には遮光幕の代わりに下降式遮光板が設置されている。なお、池上線・東急多摩川線用の車両は左側2枚のガラスには遮光ガラスが使用されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "車内放送は、9000系に続いて自動放送装置が設置された。当初は日比谷線内の自動放送には対応しておらず、同線内は車掌による放送のみであったが、後年になって一部の編成が対応している。2004年(平成16年)秋頃より9000系とほぼ同型のLED式の車内案内表示器が1両あたり4か所、客用扉上部の鴨居部に左右2箇所ずつ、中央ドアのみ左右両方に設置された。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "9000系では落成当初準備工事のみとされていた車外スピーカーであるが、本系列では落成時から設置されており、乗降促進放送などを流すことが可能である。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下、特記事項を有する編成を記す。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同編成は1989年1月1日から7日までの7日間しか存在しなかった昭和64年中に落成したため、銘板表記は東急が保有する車両では唯一「東急車輛 昭和64年」となっている。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)に運用を離脱。2013年(平成25年)1月に総合車両製作所に甲種輸送されている。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2006年からスカートの設置が行われた同系列だが、東横線所属の1005Fのみスカート未設置のままで残っていた。1500番台への改造時に設置されている。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日比谷線乗り入れ運用の減少に伴い、2009年(平成21年)3月に運用から離脱した。その後、2010年(平成22年)3月にデハ1256とデハ1456は廃車・解体され、同年11月にクハ1006・デハ1206が、デハ1406・クハ1106が2011年(平成23年)2月にそれぞれ伊賀鉄道へ譲渡された。2012年1月には1006Fのうち最後まで残ったデハ1306とデハ1356が伊賀鉄道へ譲渡された。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)に製造された。東横線ならびに目蒲線との共通予備編成として4両編成で新製され、東横線においては1010F+1011Fおよび1012F+1013Fの組み合わせで運用されることとなった。これは従来、目蒲線と池上線は18m3扉車という共通規格の車両が使用され、両路線で予備車の共通にすることも可能となっていた。しかし、1989年(平成元年)3月から目蒲線車両は4両編成で運用されることとなり、池上線との共通予備車の確保ができなくなった。このため、東横線で運用されている日比谷線直通用の本系列の一部を目蒲線との共通予備車としたものである。この経緯から、落成当初は編成前後の先頭車の前面形状が異なる異端編成であった。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同4編成は8両編成時における8両貫通編成とのMT比統一目的で3M1T編成とされたため、一部の車両の制御装置は1C4M相当で使用するとともに、各編成の下り方先頭車が制御電動車(デハ1310形)に変更された。また、8両編成での運用時において中間に組み込まれる先頭車4両(クハ1011・1013およびデハ1310・1312)は、連結時に貫通幌を繋げて貫通可能とするため前面貫通扉(非常口)が中央に配置されたことから他車とは外観が異なるほか、運転台の左右寸法が狭くなっている。なお、同4編成は1000N系とも称される。普段は東横線での運用に就いていたが、何らかの事情で目蒲線において車両不足が生じた際などは、4両編成に分割して同線の運用に就いていた。2000年8月6日からは目蒲線が目黒線と東急多摩川線に分離・再編されたことに伴い、編成組み換えなどが実施され、4両編成を2本連結したこのような編成は現存しない(後述)。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その後、日比谷線直通列車減便に伴い、2000年(平成12年)1月に1012F+1013Fを分割して目蒲線に転用した。その際、両編成の下り方先頭車(デハ1312・1313)を入れ替え、1012Fが標準的な前面形状を有する先頭車、1013Fが前面中央部に貫通扉を有する先頭車でそれぞれ統一された。これは中央貫通構造と非対称貫通構造の先頭車では乗務員室の機器配置が異なるため、両先頭車の種類を統一することで運転士の操作ミス等を防止するための目的である。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後1012Fは同年4月から6月に、1013Fは同年2月から6月にかけて、目蒲線運転系統分離後の池上・東急多摩川両線における運用に備えてそれぞれ3両編成に短縮の上、ワンマン運転対応改造が施工された。これにより余剰となった中間車2両(デハ1362・1363)は休車となった。編成はデハ1350形が抜かれたため、クハ1000形に同車に搭載していた分の補助電源装置と空気圧縮機を1台追加(クハ1000形は元々1台搭載のため、2台へ)搭載した。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、3両編成も目蒲線運転系統分離前の一時期には目黒駅への乗り入れ運用が存在した。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)7月から8月にかけ、1010F+1011Fを8両固定編成に組み替えた。編成替えは1010F+1011Fの中間に位置していた両編成の先頭車(クハ1011・デハ1310)を前述休車中のデハ1362・1363と交換する形で行われたが、デハ1363については電装解除が施工されサハ1050形1051と新規形式区分に改称・改番されている。同車は4号車に組み込まれたため、同時に誘導無線アンテナの新設も施工された。この編成替えに伴い、編成間で補助電源装置や空気圧縮機の移設等も実施された(4両編成分割を前提とした機器配置から、8両固定用の機器配置へ)。編成から外れたクハ1011・デハ1310は休車となった。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、クハ1011・デハ1310は約6年間長期休車され、2009年(平成21年)中に廃車となり、伊賀鉄道へ譲渡された。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1010Fも更なる日比谷線直通列車減便に伴い、2008年(平成20年)9月下旬に運用から離脱し、2009年(平成21年)中に廃車となった。中間車6両は解体処分されたが、クハ1010・デハ1311はクハ1011・デハ1310同様に伊賀鉄道へ譲渡された(詳細は後述)。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同5編成は池上線用として1991年(平成3年)に新製されたものであったが、池上線の車両限界拡幅工事が未了であったことから暫定的に4両編成で落成し、旧目蒲線で運用された。1000N'とも称される。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "翌1992年(平成4年)に同工事が完了したことを受け、同5編成は中間車1両を減車して3両編成化の上、予定通り池上線に転用した。編成から外された中間車(デハ1219 - 1223)には両先頭車(クハ1019 - 1023・デハ1319 - 1323)を新製して3両編成化の上、同様に池上線へ配属した。池上線では、他路線で使用した中古の車両ばかりが使用されてきており、同線に直接新車を導入するのは池上電気鉄道時代の1930年(昭和5年)6月に導入したモハ200系以来、実に63年ぶりとなるものであった 。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その後、新7000系の投入により2008年(平成20年)1月までに1015F・1018Fが、同年7月には1014F・1016Fがそれぞれ運用から離脱した。同4編成は2両編成化の上、2008年(平成20年)8月から2009年(平成21年)2月にかけて、いずれも上田電鉄へ譲渡されている。なお、譲渡対象から外れた中間車(デハ1214 - 1216・1218)は全車解体処分された。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "凡例", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "行先などの表示は字幕式であったが、2015年12月に1020Fと1021Fが、2016年3月に1017F(同時に室内の更新を施工)が、2016年9月から10月にかけて1012Fと1013F・1019F・1022F・1023Fが、1500番台と同様の白色LED(日本語とローマ字を交互表示)に交換され、1000系の字幕式車両(幕車)は消滅した。ただし、1500番台とは異なり、路線名の表示はない。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "東横線と日比谷線との相互直通運転を終了した編成は、各種改造工事を受けて7700系などの在来車の置き換えを目的として池上線・東急多摩川線に転用された 。編成はクハ1000形(Tc2)・デハ1200形(M1)・クハ1100形(Tc1)を改造し、デハ1500形(Mc)・デハ1600形(M)・クハ1700形(Tc)の3両編成とした。クハ1000形はデハ1250形の台車等を流用して電動車に改造している。2014年(平成26年)5月10日から営業運転を開始した。", "title": "1000系1500番台" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "改造後は車体カラー帯を7000系に準じた濃いグリーン、リーフグリーンにゴールドを加えた3色としたほか、戸袋部には三日月のマークをアクセントとして加えている。改造前は前面帯にあった車両番号表記は、種別表示器のあった場所に移設されている。行先表示器は字幕式からフルカラーLED式に取り替えられており、7000系同様日本語とローマ字を交互に行先を表示し、前面は併せて路線名も表示され、池上線・東急多摩川線間を直通する列車は「◯◯線直通」と表示する。", "title": "1000系1500番台" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "車内は7000系に準じた木目調化粧板、墨色の床敷物に一新され、座席表地は緑色系に取り替えられて座席間にはスタンションポール(縦握り棒)が新設された。デハ1600形には車椅子スペースが新設されている。また、車内照明は蛍光灯からLED照明に交換されたほか、非常通報器は警報式から対話式の非常通報装置3台を新設している。運転台は運転士戸閉手元スイッチなどワンマン運転機器が追加されたほか、車上ITV(ホーム監視用モニター)が設置されている。", "title": "1000系1500番台" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "制御装置は7000系と同等の東芝製補助電源装置一体形のVVVFインバータ装置(SVF091-B0形・デュアルモード)と交換され、中間車のデハ1600形(M)に設置。合わせて同車に設置されたパンタグラフはひし形1基からシングルアーム式2基に変更されている。主電動機は130kW出力のTKM-88形が流用されている。保安装置はATC-P装置が撤去され、従来からの東急ATSに加えて定位置停止支援装置(TASC)が設置された。", "title": "1000系1500番台" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2020年4月現在、3両編成9本(27両)が雪が谷検車区に在籍する。改造種車の番号を踏襲しているため、他社に譲渡された1006F(6番編成)は欠番となる。", "title": "1000系1500番台" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)8月16日から9月10日まで東横線と日比谷線との直通運転開始40周年を記念して1001Fと1002Fに記念ステッカーが貼り付けされた 。その後、2007年(平成19年)8月から約1年間、池上線全線開通80周年を記念して1012Fと1023Fに記念ステッカーを貼り付けした 。", "title": "車体装飾" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)3月18日には、1017Fがデハ3450形の旧東急標準ツートンカラーになって出場し、側面の東急マークが剥がされ、「T.K.K.」が貼り付けられた。この編成は、戸越銀座駅の木になる駅プロジェクトの一環により同時につり革の木製化と行先・運番表示がフルカラーLED化され、室内灯も電球色LEDを使用している。", "title": "車体装飾" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)11月25日には、2017年度より実施中の「池上線活性化プロジェクト」の一環として1013Fが初代3000系風の「緑の電車」ラッピングになって営業運転を開始した。", "title": "車体装飾" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "3両編成9本(27両)が雪が谷検車区に在籍する。7700系や新7000系との運用上の区別はない。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東横線用の8両編成7本(56両)は元住吉検車区に在籍し、専ら日比谷線への直通運転に使用されていた。走行距離の調整で、北千住駅 - 中目黒駅間の日比谷線内のみの運用や、南千住駅終着として同駅に隣接する日比谷線千住検車区へ入庫する運用も存在したが、乗り入れ協定や装備の関係で東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)には入線することができなかった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、以下の場合は定期列車において入線することのない渋谷駅 - 中目黒駅間および菊名駅 - 元町・中華街駅間を走行することがあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "かつては車両不足時において、渋谷駅 - 桜木町駅・元町・中華街間を走る本線系統の運用に充当したこともある。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "種別表示は、東横線から日比谷線への運用時は「日比谷線直通」と表示し、逆に日比谷線から東横線への運用時は、原則として日比谷線内は無表示で行先のみ、中目黒駅において乗務員交代を行う際に東急の車掌の操作により「各停」と表示させる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)3月16日の東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い、東横線と日比谷線の相互直通運転が終了し、東横線での運用が終了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "本形式は廃車後、多数の車両が他の鉄道事業者へ譲渡されている。鉄道ライターの杉山淳一は「(大手私鉄の多くが20m級大型車への置き換えを完了した現在では)数少ない中型中古電車として人気が高い」と述べている。各社からの引き合いが多かったことから、一畑電車のように必要数を確保できず、車両の新造に至った事業者も出ている。", "title": "他社への譲渡" } ]
東急1000系電車(とうきゅう1000けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)12月26日に営業運転を開始した東急電鉄の通勤形電車である。 本項では、1000系からの派生形式である1000系1500番台(1000けい1500ばんだい)についても記述する。また、編成表記は渋谷・五反田方の先頭車両番号で代表する。
{{半保護}} {{鉄道車両 | 車両名 = 東急1000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu 1000 Series.jpg | 画像説明 = 東急多摩川線を走行する1000系<br />(2012年2月26日) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]] →<br />[[東急電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = 1988年 - 1992年 | 製造数 = 113両 | 運用開始 = 1988年12月26日<ref name="PIC1989-4">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1989年4月号「読者短信」pp.111 - 112。</ref> | 編成 = 3両(池上線・東急多摩川線用)<br />8両(東横線・日比谷線直通用共に運用終了) | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 85 km/h(池上線)<br />80 km/h(東急多摩川線)<br />110 km/h(東横線)<br />80 km/h(日比谷線) | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.5 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h/s(東急線内)<br />4.0 km/h/s(日比谷線内)<ref name="Kagaku1989-1">電気車研究会「電気車の科学」1989年1月号「東京急行電鉄1000系の概要」</ref> | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = 3両編成 385(座席136)人<br />8両編成 1,060(座席392)人 | 車両定員 = 先頭車 125(座席44)人<br />中間車 135(座席52または48)人 | 自重 = ・東横線用: 制御車 25.7 t<br />電動車32.7t<br />・1000N'系:クハ1000形 29.5 t<br />デハ1200形 32.5 t<br />デハ1310形 33.8t<br />※1000N系編成車は異なる | 編成重量 = 247.6 t(東横線用)<br/>95.8 t(1000N'系) | 全長 = 18,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと --> | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 3,990 mm<br/>4,000 mm(パンタグラフ付車両) | 車体材質 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = ボルスタレス台車 TS-1006・TS-1007 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />TKM-88 | 主電動機出力 = 130 kW | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 85:14 (6.07) | 編成出力 = | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = ([[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]) <br />ATR-H8130-RG621A(1C8M/4M兼用)<br />ATR-H4130-RG636A(1C4M専用) | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#東急型ATS|東急形ATS]]・[[定位置停止装置|TASC]](池上線・東急多摩川線用)<br />[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・東急形ATS(東横線用) | 備考 = 1500番台については後述 }} '''東急1000系電車'''(とうきゅう1000けいでんしゃ)は、[[1988年]]([[昭和]]63年)[[12月26日]]に営業運転を開始した<ref name="PIC1989-4"/>[[東急電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本項では、1000系からの派生形式である'''1000系1500番台'''(1000けい1500ばんだい)についても記述する。また、編成表記は渋谷・五反田方の先頭車両番号で代表する(例:1013F、末尾の「F」は編成を意味する''Formation''の頭文字)。 == 概要 == [[File:Tokyu1000 8cars.jpg|thumb|190px|東横線在籍時の1000系<br />(2007年2月7日 [[新丸子駅]])]] [[東急東横線|東横線]]における[[東京メトロ日比谷線|営団日比谷線]]への[[地下鉄等旅客車|乗り入れ車両]]として運用されていた[[東急7000系電車 (初代)|初代7000系]]および[[東急池上線|池上線]]における[[東急7200系電車|7200系]]の代替を目的として1988年(昭和63年)から[[1992年]](平成4年)にかけ、東横線向けに8両編成8本(64両)、東横線・[[東急目蒲線|目蒲線]]兼用車として4両編成4本(16両)・池上線向けに3両編成11本(33両)の計113両が[[東急車輛製造]]で製造された。 [[東急9000系電車|9000系]]の設計を基本にして開発され、車体構造や機器類などは同系と共通化されており、予備部品数の削減や、[[乗務員]]の運転取扱い性、検修の作業性向上などを図っている。 == 車体 == {{出典の明記|date=2014年11月|section=1}} 9000系と同様にステンレス製の軽量車体を有するが、日比谷線との相互乗り入れ協定の際、東急が車体の長さを18m級としたことから、窓配置は7000系(初代)・7200系と同様に先頭車がdD3D3D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、中間車が1D3D3D1である。前面形状は9000系同様に[[非常口]]を前面向かって左側へオフセットした左右非対称構造としており、非常口の車内側には地下区間における非常用[[梯子]]が設置されている。この梯子は、東横線用について後年に大形のものへ交換した。前面は9000系と同一だが、区別のために[[方向幕|種別・行先表示器]]周りは黒色に塗装された。 東横線用編成では4号車(デハ1351 - 1358およびデハ1310・1312とサハ1051)の外妻面と床下に日比谷線内で使用する[[誘導無線]]用の[[列車無線アンテナ|アンテナ]]が設置されているほか、7号車(デハ1400形およびデハ1361・1363)の下り方妻面には当初日比谷線内で使用する[[列車番号|列車運行番号]]表示用レスポンスブロックが設置されていた。レスポンスブロック本体は後年日比谷線内の運行管理システム更新により不要となったため撤去されたものの、その名残で前述デハ1400形およびデハ1361・1363の下り方妻面山側の窓は二段式の開閉可能構造となっている。なお、東横線用は後年、全車を対象に車両間[[転落防止幌]]の設置が実施された。 <gallery style="font-size:90%;" widths="270"> ファイル:Tokyu Electric Railway 1000-1316.jpg|1000N'系デハ1316<br />(2008年7月 [[石川台駅]] - [[雪が谷大塚駅]]間) ファイル:Tokyu Electric Railway 1000-1312.jpg|貫通扉が中央に設置されている1000N系デハ1312<br />(2008年7月 石川台駅 - 雪が谷大塚駅間) </gallery> == 主要機器 == 主電動機は1C4M車・1C8M車の区別なく全車とも[[日立製作所]]もしくは東洋電機製のTKM-88(端子電圧1100V、電流92A、周波数47.5Hz、定格出力130kW、定格回転数1,382rpm)で、歯車比は85:14 (6.07) である。補助電源装置([[静止形インバータ]]・写真1)は9000系と同一の、容量は120kVA、出力は[[三相交流]]440Vのものを搭載する。 [[鉄道車両の台車|台車]]も9000系と同様の[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]であるが、床面高さを45mm低くするために設計変更が行われたTS-1006(電動車)と用TS-1007([[付随車]]・写真1)となっている。軸箱支持方式は従来からの軸箱守(ペデスタル)+軸バネ方式を踏襲している。[[集電装置|パンタグラフ]]は9000系と同形の折りたたみ高さを低くした[[剛体架線]]対応形のPT44-S-D-M形である。 [[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) は8両編成では9000系と同形で、補助電源装置(SIV)からの三相交流440Vを電源とするHS-20-1形を搭載する。4両編成となる1000N系グループでは、4両編成時における補助電源装置(SIV)は編成で1台となるため、SIVからの給電ではなく、架線直接給電方式(直流1,500V駆動)のHS-20G形としており、SIVの負荷を減らしている。また、1000N'系グループでは1000N系同様の架線直接給電方式だが、容量を縮小(吐出量2,000L/minから1,000L/minへ)した新規品のHS-10形を使用している。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[東芝]]製のインバータ制御による能力可変式を採用し、除湿運転も可能であり最大能力は10,000kcal/hである。床下にインバータ制御装置(空調制御箱)が1両あたり1台、屋根上に[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]の冷房装置本体が1両あたり3台搭載されている。装置は1005Fまではレシプロ式圧縮機を使用したRPU-2214B形であるが、1006F以降では低騒音形のスクロール式圧縮機を使用したRPU-2214C形を使用している。本系列の車内冷房拡散方式は冷房ダクトを介した方式を採用し、車体全長にわたり冷風ダクト・吹出口と補助送風機であるラインデリアが収納された整風板がある。このラインデリアは先頭車8台・中間車は9台設置されている。 東横線投入分は、旧営団との乗り入れ協定における性能を満たすために編成中の中間車は全て[[動力車|電動車]]とされ、[[MT比]]は6M2Tと高く、制御装置は1基で2両分8個の[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]を制御する1C8M制御方式とされた。1C4M制御方式を採用した9000系と比較すると編成中の電動車比率(MT比)は高いものの、逆に制御器の台数は減少しており、その分のコストダウンが図られている。 一方、池上線投入分は2M1Tの3両編成で新製され<ref group="注">1014F - 1018Fについては暫定的に4両編成で落成し、目蒲線で使用され、その後正規の3両編成に組み替えられている(詳細は[[東急1000系電車#1014F - 1018F|後述]])。</ref>、[[冗長化|冗長性]]確保目的で各電動車に制御装置を搭載する1C4M仕様とされた<ref name="ToyoDenkiTechnology85">東洋電機製造『東洋電機技報』第85号(1993年1月)「東京急行電鉄(株)納1000N'編成用VVVFインバータ制御装置」pp.10 - 14。</ref>。制御装置については、デハ1200形では素子に逆導通GTOサイリスタ(素子耐圧4,500V - 2,000A)を使用し、1C4M制御専用設計としたATR-H4130-RG636A形が新たに採用され、デハ1310形は将来の4両編成化を考慮して他車同様にATR-H8130-RG621Aを搭載し1C4M相当で使用する<ref name="ToyoDenkiTechnology85"/>。デハ1200形で新規に設計した制御装置は、3両編成時における床下機器の小型化を目的としたもので、逆導通サイリスタと抵抗レス小形ゲートアンプ、新型フィルタコンデンサの採用により、装置筐体は約30%の小型軽量化が図られている<ref name="ToyoDenkiTechnology85"/>。1014F - 1024Fの本グループは'''1000N'系'''とも称され<ref name="ToyoDenkiTechnology85"/><ref name="Hoikusha1997">保育社カラーブックス 日本の私鉄「東 急」(1997年発行)</ref>、編成内の電動車全車が制御装置を搭載することから、車種記号(M・Tc等)において制御装置の有無を表す数字は付されていない。 主回路は9000系と同様の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]で、[[動力車|電動車]]のうち「M1車」に[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]を用いた[[東洋電機製造]]製のATR-H8130-RG621A形(素子耐圧4,500V - 3,000A)が搭載されている。この制御装置は世界初の[[ヒートパイプ]]冷却式8個モータ一括制御VVVFインバータであり、後に日本各地の電車へと普及していった。 <gallery style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu1000VVVF.jpg|VVVF主制御器<br />(ATR-H8130-RG621A) ファイル:Tokyu SIV INV-020-A1.jpg|INV-020-A1補助電源装置 ファイル:Truck_TS-1007.jpg|TS-1007付随台車 </gallery> === 保安装置 === 保安装置は東横線用は落成当初は日比谷線用の[[自動列車制御装置|WS-ATC装置]]と[[自動列車停止装置|東急ATS装置]]が搭載されていた。その後、[[1997年]](平成9年)3月までに東急東横線の新ATC対応工事が実施されたほか、2003年10月までには日比谷線の新CS-ATC対応が施工されている。 池上線・東急多摩川線用は東急形ATSと[[定位置停止装置|TASC]]を搭載し、CS-ATC装置は搭載していない。1012Fと1500番台は池上線・東急多摩川線への転属改造時にCS-ATC装置が撤去されている。 === 排障器・パンタグラフ === 池上線投入分は、[[2005年]](平成17年)3月より、東横線投入分は[[2006年]](平成18年)12月より、先頭車に補助[[排障器]](スカート)の設置を開始し全編成に施工された。事故などでの床下機器の破損を予防するためである。 池上線・東急多摩川線の編成は[[集電装置|パンタグラフ]]が菱形からシングルアーム式に順次換装され、2013年12月までに全編成が完了した。 <gallery style="font-size:90%;" widths="240"> ファイル:Tokyu1000ATC.jpg|東横線用のATC-P装置<br />(東急・メトロ共通) ファイル:東急1000系.jpg|デハ1200形<br />シングルアームパンタグラフ装備車<br />(2007年8月15日 旗の台駅) </gallery> == 車内 == 内張りは9000系と同一のソリッドパターン模様の化粧板を使用し、床材は茶色でキーストンプレートの塗り床である。主電動機の三相交流化により車内床の主電動機点検蓋(トラップドア)は設置していない。[[鉄道車両の座席|座席]]は9000系で採用された車端部のクロスシートは設置されず、すべてロングシートとされた。18m3扉車の車体構造上、客用ドア間の座席は9人掛けとなり、車端部は4人掛けとなっている。座席の定員着席を促すため、9000系同様に9人掛け座席間には仕切板を入れ、3-3-3人掛けに分割している。座席モケットもオレンジ・ブラウンに色分けされたものとされた。[[網棚]]についてはドア部の端まで延長し、物を載せやすくした。 1992年度に新製された池上線用の1000N'系(1019F以降)では、新製時より座席仕切部にスタンションポール(握り棒)を2本設置、[[ワンマン運転]]化を想定して自動放送にメニュー(異常時や交通安全・携帯電話について等のマナー放送)を追加、[[操縦席|運転台]]にサービス機器の操作スイッチ<ref group="注">室内灯、空調スイッチ、仕切扉の操作スイッチなど。</ref>を新設したほか、各車3台[[車内非常通報装置|対話式非常通報器]]が設置された。また、3両編成で落成した1024Fは当初より[[車椅子スペース]]が設置され、試験的にドア上部に戸挟み検知センサーが設置された<ref group="注">外側ドア上部にセンサーを設置し、戸挟み検知をした場合にドアを自動で再開閉する装置であるが、他編成には普及しなかった。</ref>。先に落成していた1014F - 1018Fも後にワンマン化改造が施工された。 <gallery> ファイル:Inside-TKK1017-01.jpg|1000系の車内(4次車の1017F) ファイル:Inside-TKK1017-02.jpg|9人掛け座席部(4次車の1017F) ファイル:Inside-TKK1024-01.jpg|1000系の車内(5次車の1024F) ファイル:Inside-TKK1024-02.jpg|9人掛け座席部(5次車の1024F)。5次車は座席間にスタンションポール(握り棒)が備わる ファイル:Inside-TKK1017-03.jpg|1017F1217号車の車いすスペース(改造で設置)。同車は壁面ヒーター付き、妻面に消火器箱がある ファイル:Inside-TKK1024-03.jpg|1024F1224号車の車いすスペース(新製当初から設置)。壁面ヒーターは未設置 ファイル:TKK1024-DoorSendsor.JPG|1024F(1324号車)の戸挟み検知センサー。ドア上部の赤矢印部である ファイル:20080801bsF62.JPG|車内全景<br />(上田電鉄に護渡された車両) </gallery> 池上線用1000N'系では[[2000年]](平成12年)までにデハ1200形の一部座席を撤去して車椅子スペースを設置した。東横線所属車についても[[2004年]](平成16年)までに2・7号車に車椅子スペースが設置された。このうち、一部の車両では壁面埋込形ヒーターの設置も行われた。2006年(平成18年)頃より[[優先席]]部のつり革はオレンジ色で三角形のものへの交換が実施されている。 === 運転台 === 運転台は9000系とほぼ同じ配置で、配色は車内がアイボリー、計器盤はワインレッド調または茶色である。[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は[[デッドマン装置]]付きのT字型ワンハンドル式で、左側に空間波無線の送・受話器を設置している。東横線用はこのほか、日比谷線走行時に使用する[[誘導無線]]の送受話器も設置している。また[[速度計]]や表示灯の周囲を緑色に着色し{{refnest|group="注"|東横線用の編成は2007年に運転台左壁と運転台上部に緑色のシートを貼り付けしている<ref name=tokyu2007>鉄道友の会「RAIL FAN」No.671記事「2007年度 東急総決算」</ref>。また、非常用梯子にも「1000系」と大きく書かれている。}}、9000系と区別しているほか、右側に乗務員連絡用の受話器を設置している。 池上線用ではワンマン運転用にドア開閉ボタン、車内・車外放送用[[マイクロフォン|マイク]]、サービス機器操作用の手元スイッチや車上ITV装置([[プラットホーム|ホーム]]監視用モニター)などが追加された。さらに運客室仕切扉には[[オートロック|電磁鎖錠]]を取り付けて、反対側乗務員室扉の鎖錠、解錠ができる機能がある。この池上線・東急多摩川線用グループでは運転台の速度計、表示灯周囲の緑色シートは施されていない。 本系列のうち、中央貫通構造となる1000N系グループでは運転台の横幅は狭く、コンソール面の配置や乗務員室周りの基本的な設計は同様な貫通構造を持つ[[東急8090系電車|8590系]]に準じた設計としている。 [[車掌スイッチ]]は落成当初全車とも機械式であったが、池上線用ではワンマン運転実施時に横[[押しボタン]]式(開扉は2ボタン・閉扉は1ボタン)に変更された。その後、東横線用では[[2007年]](平成19年)より間接制御式(リレー式)への変更が実施された<ref name=tokyu2007/>。 運転台と客室の仕切り部には前面窓と同じ配置で仕切り窓が3枚あり、仕切り窓の運転台背面大窓・仕切り扉窓には[[遮光幕]]の代わりに下降式遮光板が設置されている。なお、池上線・東急多摩川線用の車両は左側2枚のガラスには遮光ガラスが使用されている。 <gallery style="font-size:90%;" widths="200"> ファイル:Tokyu1000cab.jpg|東横線用1000系の運転台。<br />計器の周囲が緑色 ファイル:Tokyu1000cab-2.jpg|ワンマン運転に対応した<br />池上線用の運転台 ファイル:Inside-TKK1017-10.jpg|乗務員室背面仕切壁(4次車の1017F)。池上線・東急多摩川線用は左側2枚のガラスは遮光ガラス </gallery> === 案内機器など === [[車内放送]]は、9000系に続いて自動放送装置が設置された。当初は日比谷線内の自動放送には対応しておらず、同線内は車掌による放送のみであったが、後年になって一部の編成が対応している。2004年(平成16年)秋頃より9000系とほぼ同型の[[発光ダイオード|LED]]式の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]が1両あたり4か所、客用扉上部の鴨居部に左右2箇所ずつ、中央ドアのみ左右両方に設置された<ref>キャンDVDブックス『東急おもしろ運転徹底探見』([[JTBパブリッシング]])</ref>。 9000系では落成当初準備工事のみとされていた車外[[スピーカー]]であるが、本系列では落成時から設置されており、乗降促進放送などを流すことが可能である。 == 編成 == ;製造次車<ref>鉄道ピクトリアル1994年12月臨時号</ref> *1次車([[1988年]]度製)1001F・1002F *2次車([[1989年]]度製)1003F - 1007F・1010F + 1011F *3次車([[1990年]]度製)1008F・1012F + 1013F *4次車([[1991年]]度製)1014F - 1018F 目蒲線用1000N'系4両編成5本 *5次車([[1992年]]度製)1019F - 1023Fの先頭車・1024F 池上線用1000N'系13両 以下、特記事項を有する編成を記す。 === 1002F === [[ファイル:S64tokyu1352.PNG|thumb|240px|1002Fの銘板<br />(2007年3月9日、デハ1352車内)]] 同編成は[[1989年]][[1月1日]]から[[1月7日|7日]]までの7日間しか存在しなかった昭和64年中に落成したため、[[銘板]]表記は東急が保有する車両では唯一「東急車輛 昭和64年」となっている。 === 1003F === 2012年(平成24年)に運用を離脱。2013年(平成25年)1月に総合車両製作所に甲種輸送されている<ref name="1003f">[http://railf.jp/news/2013/01/26/143500.html 東急1000系1003編成が総合車両製作所へ] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2013年1月26日</ref>。 === 1005F === [[2006年]]からスカートの設置が行われた同系列だが、東横線所属の1005Fのみスカート未設置のままで残っていた。1500番台への改造時に設置されている。 === 1006F === 日比谷線乗り入れ運用の減少に伴い、2009年(平成21年)3月に運用から離脱した。その後、[[2010年]](平成22年)3月にデハ1256とデハ1456は廃車・解体され、同年11月にクハ1006・デハ1206が<ref name="1006-1206">[http://railf.jp/news/2010/11/29/173700.html 東急クハ1006−デハ1206,伊賀鉄道へ] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年11月29日</ref>、デハ1406・クハ1106が[[2011年]](平成23年)2月にそれぞれ[[伊賀鉄道]]へ譲渡された<ref name="1406-1106">[http://railf.jp/news/2011/02/10/145000.html 東急1000系クハ1106+デハ1406が伊賀鉄道へ] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2011年2月10日</ref>。[[2012年]]1月には1006Fのうち最後まで残ったデハ1306とデハ1356が伊賀鉄道へ譲渡された。 === 1010F - 1013F === [[1990年]](平成2年)に製造された。東横線ならびに目蒲線との共通予備編成として4両編成で新製され、東横線においては1010F+1011Fおよび1012F+1013Fの組み合わせで運用されることとなった。これは従来、目蒲線と池上線は18m3扉車という共通規格の車両が使用され、両路線で予備車の共通にすることも可能となっていた。しかし、1989年(平成元年)3月から目蒲線車両は4両編成で運用されることとなり、池上線との共通予備車の確保ができなくなった。このため、東横線で運用されている日比谷線直通用の本系列の一部を目蒲線との共通予備車としたものである<ref name="1994-12">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1994年12月臨時増刊号「東京急行電鉄特集」</ref>。この経緯から、落成当初は編成前後の先頭車の前面形状が異なる異端編成であった。 同4編成は8両編成時における8両貫通編成とのMT比統一目的で3M1T編成とされたため、一部の車両の制御装置は1C4M相当で使用するとともに<ref group="注">1010F・1012Fのデハ1200形(デハ1210・1212)ならびに1011F・1013Fのデハ1310形(デハ1311・1313)。</ref><ref name="ToyoDenkiTechnology85"/>、各編成の下り方先頭車が制御電動車(デハ1310形)に変更された。また、8両編成での運用時において中間に組み込まれる先頭車4両(クハ1011・1013およびデハ1310・1312)は、連結時に[[幌#貫通幌|貫通幌]]を繋げて貫通可能とするため前面[[貫通扉]](非常口)が中央に配置されたことから他車とは外観が異なるほか、運転台の左右寸法が狭くなっている。なお、同4編成は'''1000N系'''とも称される<ref name="ToyoDenkiTechnology85"/><ref name="Hoikusha1997" />。普段は東横線での運用に就いていたが、何らかの事情で目蒲線において車両不足が生じた際などは、4両編成に分割して同線の運用に就いていた。[[2000年]][[8月6日]]からは目蒲線が[[東急目黒線|目黒線]]と[[東急多摩川線]]に分離・再編されたことに伴い、編成組み換えなどが実施され、4両編成を2本連結したこのような編成は現存しない(後述)。 ;1000N系の編成形態 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="8" |{{TrainDirection|渋谷・北千住・目黒|桜木町・蒲田<!-- 走行当時の区間です -->}} |- style="border-top:solid 4px #f66;" !形式 |'''クハ1000'''<br />(Tc2) |'''デハ1200'''<br />(M) |'''デハ1350'''<br />(M2) |'''デハ1310'''<br />(Mc3) | style="border-left:solid 4px #999;" |'''クハ1000'''<br />(Tc4) |'''デハ1200'''<br />(M) |'''デハ1350'''<br />(M2) |'''デハ1310'''<br />(Mc1) |- !搭載機器 | CP || CONT || SIV,CP || CONT | style="border-left:solid 4px #999;" |CP | CONT || SIV,CP || CONT |- !車両番号 |1010伊<br />1012 |1210×<br />1212 |1360×<br />1362× |1310伊<br />1312 | style="border-left:solid 4px #999;" |1011伊<br />1013 |1211×<br />1213 |1361×<br />1363× |1311伊<br />1313 |} その後、日比谷線直通列車減便に伴い、2000年(平成12年)1月に1012F+1013Fを分割して目蒲線に転用した。その際、両編成の下り方先頭車(デハ1312・1313)を入れ替え、1012Fが標準的な前面形状を有する先頭車、1013Fが前面中央部に貫通扉を有する先頭車でそれぞれ統一された。これは中央貫通構造と非対称貫通構造の先頭車では乗務員室の機器配置が異なるため、両先頭車の種類を統一することで[[運転士]]の操作ミス等を防止するための目的である<ref name="2004-7">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2004年7月臨時増刊号</ref>。 その後1012Fは同年4月から6月に、1013Fは同年2月から6月にかけて、目蒲線運転系統分離後の池上・東急多摩川両線における運用に備えてそれぞれ3両編成に短縮の上、ワンマン運転対応改造が施工された。これにより余剰となった中間車2両(デハ1362・1363)は休車となった。編成はデハ1350形が抜かれたため、クハ1000形に同車に搭載していた分の補助電源装置と空気圧縮機を1台追加(クハ1000形は元々1台搭載のため、2台へ)搭載した。 なお、3両編成も目蒲線運転系統分離前の一時期には[[目黒駅]]への乗り入れ運用が存在した。 [[2003年]](平成15年)7月から8月にかけ、1010F+1011Fを8両固定編成に組み替えた<ref name="RailfanTokyu-1010">[https://web.archive.org/web/20041119222959/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/2003-1010f.shtml 1000系(1010F)の編成替えおよび改造について。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。編成替えは1010F+1011Fの中間に位置していた両編成の先頭車(クハ1011・デハ1310)を前述休車中のデハ1362・1363と交換する形で行われたが、デハ1363については電装解除が施工され'''サハ1050形'''1051と新規形式区分に改称・改番されている<ref name="RailfanTokyu-1010" />。同車は4号車に組み込まれたため、同時に誘導無線アンテナの新設も施工された。この編成替えに伴い、編成間で補助電源装置や空気圧縮機の移設等も実施された(4両編成分割を前提とした機器配置から、8両固定用の機器配置へ)。編成から外れたクハ1011・デハ1310は休車となった<ref name="RailfanTokyu-1010" />。 ;8両貫通編成化後の東横線用1000N系 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="8" |{{TrainDirection| 北千住・中目黒 | 菊名 }} |- style="border-top:solid 4px #f66;" ! 号車 | 1 || 2 || ◇3 || 4 || 5 || ◇6 || 7 || ◇8 |- ! 形式 | '''クハ1000'''<br />(Tc2) | '''デハ1350'''<br />(M2) | '''デハ1200'''<br />(M1) | '''サハ1050'''<br />(T) | '''デハ1350'''<br />(M2) | '''デハ1200'''<br />(M1) | '''デハ1350'''<br />(M2) | '''デハ1310'''<br />(Mc1) |- ! 搭載機器 | &nbsp; || SIV,CP || CONT || CP || &nbsp; || CONT || SIV,CP || CONT |- ! 車両番号 | 1010伊 || 1360× || 1210× || 1051× || 1362× || 1211× || 1361× || 1311伊 |} その後、クハ1011・デハ1310は約6年間長期休車され、2009年(平成21年)中に[[廃車 (鉄道)|廃車]]となり、伊賀鉄道へ譲渡された。 1010Fも更なる日比谷線直通列車減便に伴い、[[2008年]](平成20年)9月下旬に運用から離脱し、2009年(平成21年)中に廃車となった。中間車6両は解体処分されたが<ref>[[交通新聞社]]『[[鉄道ダイヤ情報]]』2009年4月号</ref>、クハ1010・デハ1311はクハ1011・デハ1310同様に伊賀鉄道へ譲渡された(詳細は[[#7000系導入による置き換え・車両譲渡|後述]])。 === 1014F - 1018F === 同5編成は池上線用として1991年(平成3年)に新製されたものであったが、池上線の車両限界拡幅工事が未了であったことから暫定的に4両編成で落成し、旧目蒲線で運用された。'''1000N<nowiki>'</nowiki>'''とも称される。 ;目蒲線投入当初の1000N'系 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="4" |{{TrainDirection|目黒|蒲田}} |- style="border-top:solid 4px #f66;" !形式 |'''クハ1000'''<br />(Tc) |'''デハ1200'''<br />(M) |'''デハ1200'''<br />(M) |'''デハ1310'''<br />(Mc) |- !搭載機器 | SIV,CP || CP,cont || CP,cont || CONT |- !車両番号 |1014上<br />1015上<br />1016上<br />1017<br />1018上 |1214×<br />1215×<br />1216×<br />1217<br />1218× |1219<br />1220<br />1221<br />1222<br />1223 |1314上<br />1315上<br />1316上<br />1317<br />1318上 |} 翌1992年(平成4年)に同工事が完了したことを受け、同5編成は中間車1両を減車して3両編成化の上、予定通り池上線に転用した。編成から外された中間車(デハ1219 - 1223)には両先頭車(クハ1019 - 1023・デハ1319 - 1323)を新製して3両編成化の上、同様に池上線へ配属した。池上線では、他路線で使用した中古の車両ばかりが使用されてきており、同線に直接新車を導入するのは[[池上電気鉄道]]時代の[[1930年]](昭和5年)6月に導入した[[池上電気鉄道の電車|モハ200系]]以来、実に63年ぶりとなるものであった<ref name="2004-7" /> 。 その後、新7000系の投入により2008年(平成20年)1月までに1015F・1018Fが、同年7月には1014F・1016Fがそれぞれ運用から離脱した。同4編成は2両編成化の上、2008年(平成20年)8月から2009年(平成21年)2月にかけて、いずれも[[上田電鉄]]へ譲渡されている。なお、譲渡対象から外れた中間車(デハ1214 - 1216・1218)は全車解体処分された。 ===東横線・日比谷線直通用(元住吉検車区)=== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="8" |{{TrainDirection| [[北千住駅|北千住]]・[[中目黒駅|中目黒]] | [[菊名駅|菊名]] }} ! rowspan="4" style="width:5em;" |製造年 |- ! 号車 | 1 || 2 || ◇3 || 4 || ◇5 || 6 || ◇7 || 8 |- ! 形式 | '''クハ1000'''<br />(Tc2) | '''デハ1250'''<br />(M2) | '''デハ1200'''<br />(M1) | '''デハ1350'''<br />(M2) | '''デハ1300'''<br />(M1) | '''デハ1450'''<br />(M2) | '''デハ1400'''<br />(M1) | '''クハ1100'''<br />(Tc1) |- ! 搭載機器 | &nbsp; || SIV,CP || CONT || SIV,CP || CONT || SIV,CP || CONT || &nbsp; |- style="border-top:solid 4px #f66;" ! rowspan="3" |車両番号 | '''1001<br />1002''' || 1251福<br />1252福 || '''1201<br />1202''' || 1351×<br />1352× | 1301福<br />1302福 || 1451×<br />1452× || 1401×<br />1402福 || '''1101<br />1102''' | 1988年<br />1989年 |- | '''1003<br />1004<br />1005'''<br />1006伊<br />'''1007''' || 1253福<br />1254福<br />1255上<br />1256×<br />1257福 ||'''1203<br />1204<br />1205'''<br />1206伊<br />'''1207''' || 1353×<br />1354×<br />1355×<br />1356伊<br />1357× | 1303福<br />1304福<br />1305上<br />1306伊<br />1307福 || 1453一<br />1454福<br />1455一<br />1456×<br />1457一 || 1403一<br />1404×<br />1405一<br />1406伊<br />1407一 || '''1103'''<br />'''1104'''<br />'''1105'''<br />1106伊<br />'''1107''' | 1989年 |- | '''1008'''|| 1258福 || '''1208'''|| 1358× || 1308福 || 1458× || 1408福 || '''1108''' || 1990年 |} :* 1003Fは2012年に運用を離脱し、2013年に総合車両製作所に甲種輸送されている<ref name="1003f" />。 :* 1006Fは緊急予備車両となった後、デハ1256とデハ1456は廃車・解体され、残りの6両のうち中間車はすべて先頭車化され、伊賀鉄道へと譲渡された。 ;池上線・東急多摩川線用(雪が谷検車区) {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="3" |{{TrainDirection| {{color|#de65b0|■}}[[五反田駅|五反田]]/{{color|#a3016e|■}}[[多摩川駅|多摩川]] | [[蒲田駅|蒲田]] }} ! rowspan="4" style="width:5em;" |製造年 |- ! 号車 | 1 ||< 2 ||< 3 |- ! 形式 |'''クハ1000'''<br />(Tc) |'''デハ1200'''<br />(M) |'''デハ1310'''<br />(Mc) |- ! 搭載機器 | SIV、CP || cont,CP || CONT |- style="border-top:solid 4px #f66;" ! rowspan="4" |車両番号 | 1012<br />緑1013|| 1212<br />緑1213|| 1313<br />緑1312|| 1990年 |- |1014上<br />1015上<br />1016上<br />木1017<br />1018上 |1214×<br />1215×<br />1216×<br />木1217<br />1218× |1314上<br />1315上<br />1316上<br />木1317<br />1318上 | 1991年 |- | 1019<br />1020<br />1021<br />1022<br />'''1023''' | 1219<br />1220<br />1221<br />1222<br />'''1223''' | 1319<br />1320<br />1321<br />1322<br />'''1323''' | 1991年<br />(中間車)<br />1992年<br />(先頭車) |- |'''1024'''||'''1224'''||'''1324'''|| 1992年 |} '''凡例''' * CONT - 主制御器 (ATR-H8130-RG621A) * cont - 主制御器 (ATR-H4130-RG636A) * SIV - 補助電源装置([[静止形インバータ]])120kVA * CP - [[圧縮機|空気圧縮機]] *上:上田電鉄譲渡 *木:木になる車両(旧目蒲線塗装) *緑:草色の車両 *×:廃車解体車両 *一:一畑電車譲渡 *伊:伊賀鉄道譲渡 *福:福島交通譲渡 *太字:1500番代に改造リニューアル **注 - 1012F・1013Fではデハ1212・デハ1213にCPは搭載せず、クハ1012・クハ1013に2台搭載、デハ1212・デハ1213ATR-H4130-RG636AではなくATR-H8130-RG621Aを搭載する。 行先などの表示は字幕式であったが、2015年12月に1020Fと1021Fが、2016年3月に1017F(同時に室内の更新を施工)が、2016年9月から10月にかけて1012Fと1013F・1019F・1022F・1023Fが、1500番台と同様の白色LED(日本語とローマ字を交互表示)に交換され、1000系の字幕式車両(幕車)は消滅した。ただし、1500番台とは異なり、路線名の表示はない。{{-}} == 1000系1500番台 == {{鉄道車両 | 車両名 = 東急1000系電車<br>(1500番台) | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu-Series1000-1504F.jpg | 画像説明 = 1000系1504F(元1004F)<br>(2021年3月 石川台駅 - 雪が谷大塚駅間) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]] →<br />[[東急電鉄]] | 改造所 = [[総合車両製作所]]横浜事業所<br />[[東急テクノシステム]]長津田工場 | 改造年 = 2014年 - 2016年 | 製造数 = 27両 | 運用開始 = 2014年5月10日 | 編成 = 3両(池上線・東急多摩川線用) | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 85 km/h(池上線)<br />80 km/h(東急多摩川線) | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.5 km/h | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = 385(座席136)人 | 車両定員 = 先頭車 125(座席44)人<br />中間車 135(座席48)人 | 自重 = 34.7 t - 28.9 t | 編成重量 = 97.0 t | 全長 = 18,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと --> | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 3,990 mm<br/>4,000 mm(パンタグラフ付車両) | 台車 = ボルスタレス台車 TS-1006・TS-1007 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />TKM-88 | 主電動機出力 = 130 kW | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 85:14 (6.07) | 編成出力 = | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]([[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]) | 制御装置 = 東芝製(形式:SVF091-B0) | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#東急型ATS|東急形ATS]]・[[定位置停止装置|TASC]] | 備考 = }} 東横線と日比谷線との相互直通運転を終了した編成は、各種改造工事を受けて7700系などの在来車の置き換えを目的<ref name="ikaros2014">イカロス出版「私鉄車両年鑑2014」「東急電鉄1000系1500番代」</ref>として池上線・東急多摩川線に転用された<ref name="Fan2014-7">交友社「鉄道ファン」2014年7月号CAR INFO「東京急行電鉄1000系1500番台」</ref><ref name="RM2014-7">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」2014年7月号「東急電鉄1000系1500番代」</ref> 。編成はクハ1000形(Tc2)・デハ1200形(M1)・クハ1100形(Tc1)を改造し、デハ1500形(Mc)・デハ1600形(M)・クハ1700形(Tc)の3両編成とした<ref name="RM2014-7" />。クハ1000形はデハ1250形の台車等を流用して電動車に改造している<ref name="Fan2014-7" />。2014年(平成26年)5月10日から営業運転を開始した<ref name="Fan2014-7" />。 改造後は車体カラー帯を[[東急7000系電車 (2代) |7000系]]に準じた濃いグリーン、リーフグリーンにゴールドを加えた3色とした<ref name="Fan2014-7" />ほか、戸袋部には三日月のマークをアクセントとして加えている<ref name="ikaros2014" />。改造前は前面帯にあった車両番号表記は、種別表示器のあった場所に移設されている<ref name="Fan2014-7" />。[[方向幕|行先表示器]]は字幕式からフルカラーLED式に取り替えられており<ref name="ikaros2014" />、7000系同様日本語とローマ字を交互に行先を表示し、前面は併せて路線名も表示され、池上線・東急多摩川線間を直通する列車は「◯◯線直通」と表示する。 車内は7000系に準じた木目調化粧板、墨色の床敷物に一新され、座席表地は緑色系に取り替えられて座席間にはスタンションポール(縦握り棒)が新設された<ref name="Fan2014-7" /><ref name="RM2014-7" />。デハ1600形には車椅子スペースが新設されている<ref name="RM2014-7" />。また、車内照明は[[蛍光灯]]から[[LED照明]]に交換<ref name="ikaros2014" />されたほか、[[車内非常通報装置|非常通報器]]は警報式から対話式の非常通報装置3台を新設している<ref name="ikaros2014" />。運転台は運転士戸閉手元スイッチなどワンマン運転機器が追加されたほか、車上ITV(ホーム監視用モニター)が設置されている<ref name="Fan2014-7" /><ref name="ikaros2014" />。 制御装置は7000系と同等の東芝製補助電源装置一体形のVVVFインバータ装置(SVF091-B0形・デュアルモード)と交換され、中間車のデハ1600形(M)に設置<ref name="RM2014-7" />。合わせて同車に設置されたパンタグラフはひし形1基からシングルアーム式2基に変更されている<ref name="RM2014-7" />。主電動機は130kW出力のTKM-88形が流用されている<ref name="Fan2014-7" />。保安装置はATC-P装置が撤去され、従来からの東急ATSに加えて定位置停止支援装置(TASC)が設置された<ref name="Fan2014-7" />。 2020年4月現在、3両編成9本(27両)が雪が谷検車区に在籍する。改造種車の番号を踏襲しているため、他社に譲渡された1006F(6番編成)は欠番となる<ref name="RM2014-7" />。 {{-}} ;編成表(雪が谷検車区) {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="3" |{{TrainDirection| {{color|#de65b0|■}}[[五反田駅|五反田]]/{{color|#a3016e|■}}[[多摩川駅|多摩川]] | [[蒲田駅|蒲田]] }} ! rowspan="4" style="width:5em;" |改造, 運用開始 ! rowspan="4" style="width:5em;" |種車 |- ! 号車 | 1 ||< 2 >|| 3 |- ! 形式 |'''デハ1500'''<br />(Mc) |'''デハ1600'''<br />(M) |'''クハ1700'''<br />(Tc) |- ! 搭載機器 | CP || INV || CP |- style="border-top:solid 4px #f66;" ! rowspan="7" |車両番号 | 1501 || 1601 || 1701 || 2014年 || 1001F |- | 1502 || 1602 || 1702 || 2015年 || 1002F |- | 1503 || 1603 || 1703 || 2014年 || 1003F |- | 1504 || 1604 || 1704 || 2014年 || 1004F |- | 1505 || 1605 || 1705 || 2015年 || 1005F |- | 1507 || 1607 || 1707 || 2015年 || 1007F |- | 1508 || 1608 || 1708 || 2015年 || 1008F |-<!-- 1024Fは電動車位置が違う --> |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="3" |{{TrainDirection| {{color|#de65b0|■}}[[五反田駅|五反田]]/{{color|#a3016e|■}}[[多摩川駅|多摩川]] | [[蒲田駅|蒲田]] }} ! rowspan="4" style="width:5em;" |改造, 運用開始 ! rowspan="4" style="width:5em;" |種車 |- ! 号車 | 1 ||< 2 ||< 3 |- ! 形式 |'''クハ1500'''<br />(Tc) |'''デハ1600'''<br />(M) |'''デハ1700'''<br />(Mc) |- ! 搭載機器 | CP, CP || INV|| |- style="border-top:solid 4px #f66;" ! rowspan="7" |車両番号 | 1523 || 1623 || 1723 || 2020年 || 1023F |- |- |1524 |1624 |1724 |2016年 |1024F |} :;凡例  :*INV:インバータ装置(VVVF主制御器(1C4M2群)・SIV補助電源一体型) :*CP:空気圧縮機 == 車体装飾 == [[File:Tokyu 1000 series T.K.K. style 1017F 20160901.jpg|thumb|230px|東急1000系(きになる電車)<br />(2016年9月1日/石川台 - 雪が谷大塚間)]] [[ファイル:1000 -tokyu-(revival3000Ⅰ)(1).jpg|サムネイル|東急1000系(緑の電車)<br />(2020年6月13日/荏原中延 - 旗の台間)]] 2004年(平成16年)8月16日から9月10日まで東横線と日比谷線との直通運転開始40周年を記念して1001Fと1002Fに記念ステッカーが貼り付けされた<ref name="RAIL FAN633">鉄道友の会「RAIL FAN」No.633記事「2004年度 東急総決算」</ref> 。その後、2007年(平成19年)8月から約1年間、池上線全線開通80周年を記念して1012Fと1023Fに記念ステッカーを貼り付けした<ref name="RAIL FAN691">鉄道友の会「RAIL FAN」No.691記事「2008年度 東急総決算」</ref> 。 2016年(平成28年)3月18日には、1017Fが[[東急デハ3450形電車|デハ3450形]]の旧東急標準ツートンカラーになって出場し、側面の東急マークが剥がされ、「T.K.K.」が貼り付けられた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-19|url=http://railf.jp/news/2016/03/19/204500.html|title=東急1000系1017編成がツートンカラーに|publisher=鉄道ファン(交友社)|accessdate=2020-06-28}}</ref>。この編成は、戸越銀座駅の木になる駅プロジェクトの一環により同時につり革の木製化と行先・運番表示がフルカラーLED化され、室内灯も電球色LEDを使用している<ref>[http://ii.tokyu.co.jp/train/82/ 「きになる電車」|いい街 いい電車 プロジェクト] - 東急電鉄</ref>。 2019年(令和元年)11月25日には、2017年度より実施中の「池上線活性化プロジェクト」の一環として1013Fが[[東急3000系電車 (初代)|初代3000系]]風の「緑の電車」ラッピングになって営業運転を開始した<ref>[https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_247.html 旧3000系「緑の電車」ラッピング電車 運行のお知らせ] - 東急電鉄</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-23|url=https://railf.jp/news/2019/11/23/201500.html|title=東急1000系1013Fが「緑の電車」に|publisher=鉄道ファン(交友社)|accessdate=2020-06-28}}</ref>。 {{-}} == 運用 == === 池上線・東急多摩川線 === 3両編成9本(27両)が[[雪が谷検車区]]に在籍する。7700系や[[東急7000系電車 (2代)|新7000系]]との運用上の区別はない。 === 東横線・日比谷線(運用終了) === [[File:Tokyu1000-Hibiya.JPG|thumb|190px|種別幕に「日比谷線直通」を表示 (日比谷線直通 南千住行)]] [[File:Destination sign of Tokyu 1000 series "Direct Hibiya Line bound for Kitasenju".jpg|thumb|190px|側面方向幕にも「日比谷線直通」を表示 (日比谷線直通 北千住行)]] [[File:Tokyu1000-none.JPG|thumb|190px|種別幕に何も表示しない (日比谷線 中目黒行)]] [[File:Destination sign of Tokyu 1000 series "bound for Kikuna".jpg|thumb|190px|側面方向幕も日比谷線内では行先のみを表示 (東横線直通 菊名行)]] [[File:Tokyu1000-Local.JPG|thumb|190px|種別幕に「各停」を表示 (東横線直通 菊名行)]] 東横線用の8両編成7本(56両)は[[元住吉検車区]]に在籍し、専ら日比谷線への直通運転に使用されていた。走行距離の調整で、[[北千住駅]] - [[中目黒駅]]間の日比谷線内のみの運用や、[[南千住駅]]終着として同駅に隣接する日比谷線[[千住検車区]]へ入庫する運用も存在したが、乗り入れ協定や装備の関係で[[東武伊勢崎線|東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]]には入線することができなかった<ref group="注">東横線 - 日比谷線 - 伊勢崎線の3社間の相互直通運転自体が存在しなかった。</ref>。 また、以下の場合は定期列車において入線することのない[[渋谷駅]] - 中目黒駅間および[[菊名駅]] - [[元町・中華街駅]]間を走行することがあった<ref group="注">東京メトロ[[営団03系電車|03系]]とは異なり、本系列の方向幕表示は9000系と共通であるため、東横線の全列車種別・全行先の表示が可能であるほか、自動放送などについても全ての東横線定期列車に対応している。</ref>。 * 事故などの不測の事態によりダイヤ乱れが発生し、東横線と日比谷線との相互直通運転が中止された場合は「渋谷行」として運行する。 * 大型連休など[[横浜市]]中心部への多客輸送が見込まれる際にかつて運行していた[[臨時列車]]「[[みなとみらい号]]」の運用に本系列を充当し、北千住駅から元町・中華街駅まで乗り入れていた。 かつては車両不足時において、渋谷駅 - [[桜木町駅]]・元町・中華街間を走る本線系統の運用に充当したこともある。 種別表示は、東横線から日比谷線への運用時は「日比谷線直通」と表示し<ref group="注">日比谷線内のみの運用時(中目黒↔︎北千住)においても同様である。</ref>、逆に日比谷線から東横線への運用時は、原則として日比谷線内は無表示で行先のみ、中目黒駅において乗務員交代を行う際に東急の車掌の操作により「各停」と表示させる<ref group="注">かつては日比谷線→東横線の運用においては全区間行先のみの表示であったが、みなとみらい線開業までに全てこの方式で行われている。また、車掌によっては日比谷線内においても「各停」を表示して運用したり、東横線内は運行番号末尾の「K」を省略する場合もある。</ref>。 2013年(平成25年)[[3月16日]]の東横線と[[東京メトロ副都心線]]との相互直通運転開始に伴い、東横線と日比谷線の相互直通運転が終了し、東横線での運用が終了した。 == 他社への譲渡 == [[File:Tokyu 1000-Iga Railway 200 series transport 2011-02-08.jpg|thumb|right|伊賀鉄道に輸送される1000系電車、2011年2月撮影]] 本形式は廃車後、多数の車両が他の鉄道事業者へ譲渡されている。鉄道ライターの杉山淳一は「(大手私鉄の多くが20m級大型車への置き換えを完了した現在では)数少ない中型中古電車として人気が高い」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1502/27/news047.html|title=熊本電鉄が地下鉄電車を走らせる理由|author=杉山淳一|work=[[ITmedia]] ビジネスオンライン|date=2015-02-27|accessdate=2015-04-11}}</ref>。各社からの引き合いが多かったことから、[[一畑電車]]のように必要数を確保できず、車両の[[一畑電車7000系電車|新造]]に至った事業者も出ている。 ; [[上田電鉄1000系電車]] : 新7000系の導入で捻出された1015F・1018Fの2編成の先頭車を2両編成2本に組み替えて譲渡、2008年8月1日より営業運転を開始、譲渡対象から外れた中間車は解体処分された<ref>交友社『鉄道ファン』2008年9月号(通巻569号)付録「大手私鉄車両ファイル 車両データバンク」</ref>。同年12月には同様に捻出された1014F・1016Fの2編成の先頭車を2両編成2本に組み替えて譲渡<ref>交通新聞社『鉄道ダイヤ情報』2009年1月号ならびに同年4月号</ref>。 ; 上田電鉄6000系 : 2014年度に1005Fの中間車2両が先頭車改造されて2両編成1本として譲渡。中間車改造のため別形式となった。 ; [[伊賀鉄道200系電車]] : 1010Fの先頭車2両が譲渡([[比土駅]]に陸送)<ref>[http://railf.jp/news/2009/10/31/214400.html 東急1000系が伊賀鉄道へ] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2009年10月31日<!-- 注)リンク先の資料はデハ1310とクハ1011になってますが、正しくはクハ1010とデハ1311です。--></ref>され、一部クロスシート化改造を受け<ref>「CAR INFO 東急電鉄1000系が伊賀鉄道に入線」 『鉄道ファン』2010年1月号 66p</ref>、[[松本零士]]デザインによる[[忍者列車]][[ラッピング車両|ラッピング]]を施した上で、2009年12月24日から営業運転を開始<ref>『松本零士さんデザイン伊賀鉄道の新車両、車体側面にも忍者の眼』 2009年10月27日付 毎日新聞伊賀版</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20091212232410/http://www.igatetsu.co.jp/cgi-bin/whatsnew/whats_display.cgi?id:topics+rec:20091123132136631+mid:topics 新忍者電車200系12月下旬デビューします!] - 伊賀鉄道 2009年11月24日([[インターネットアーカイブ]])</ref>。その後、1000N系の8両固定化に伴い余剰・休車となっていた中間制御車2両も同様に輸送された後に整備され、2010年(平成22年)2月28日に撮影会と試乗会を行っている<ref>[http://railf.jp/news/2010/03/01/151500.html 伊賀鉄道200系第2編成の撮影会と試乗会を実施] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年3月1日</ref>。 : 2010年度には1006Fのうち6両が譲渡され<ref name="1006-1206" /><ref name="1406-1106" />、中間車4両は先頭車改造されて2両編成3編成に組み替えて運用を開始。 ; [[一畑電車1000系電車]] : 2014年度に1003F・1005Fの中間車4両が譲渡され<ref name="pref-shimane">{{PDFlink|[http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/region/access/tetudo/ichibata.data/minaoshisukejyuru.pdf 車両更新スケジュール(H25〜H32)]}} - 島根県</ref>、2015年2月より営業運転を開始<ref name="ichibata20141001">[https://web.archive.org/web/20141006073455/http://www.ichibata.co.jp/railway/newsrelease/2014/10/newdesign.html 一畑電車1000系のデザイン投票を10月1日(水)〜31日まで行ないます。] - 一畑電車ニュースリリース 2014年10月1日(インターネットアーカイブ)</ref>。デザイン投票の結果、[[一畑電気鉄道デハニ50形電車|デハニ50形]]を模したカラーが採用された。 : 2015年度に追加で1007Fの中間車2両が譲渡され、「ご縁電車しまねっこ号Ⅱ」として2015年12月より営業運転を開始した<ref>{{PDFlink|[http://www.ichibata.co.jp/railway/newsrelease/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9.pdf プレスリリース 一畑電車1000系ラッピング しまねっこ号Ⅱについて]}} - 一畑電車ニュースリリース 2015年11月4日</ref>。 ; [[福島交通1000系電車]] : 2016年10月に2編成5両、2017年秋に2編成5両、2018年秋に2編成4両を導入し、2019年春までに従来車([[福島交通7000系電車|7000系]])をすべて置き換えた<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/detail.php?update_id=1126&t=&f=2|title=福島交通飯坂線に新車両が導入されます。|publisher=福島交通|date=2016-07-29|accessdate=2016-08-06}}</ref>。2017年4月1日より営業運転を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.minyu-net.com/news/news/FM20170402-161227.php |title=飯坂線・新型「いい電」発車 福島交通が26年ぶりに導入 |date= 2017-04-02| publisher=[[福島民友新聞]] |accessdate= 2017-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170425025501/http://www.minyu-net.com/news/news/FM20170402-161227.php|archivedate=2017-04-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://news.mynavi.jp/column/localnews/010/|title=鉄道ニュース・ローカル (10) 福島交通1000系デビュー、2018年度までに7000系置換え|publisher=マイナビニュース|date=2017-04-16|accessdate=2017-04-28}}</ref>。7000系を置き換えたことにより飯坂線の営業列車は冷房付き車両となった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] ** 川口雄二 「東京急行電鉄1000系」 1989年1月号(通巻506号) ** 川口雄二 「東京急行電鉄1000系」 1989年5月臨時増刊号(通巻512号) 特集・新車年鑑1989年版 ** 川口雄二 「東京急行電鉄1000系増備車(4両対応、1000N系)」 1990年10月臨時増刊号(通巻534号) ** 尾崎正明 「東京急行電鉄1000系池上線用増備車」 1993年10月臨時増刊号(通巻582号) 特集・新車年鑑1993年版 ** 荻原俊夫 「私鉄車両めぐり151 東京急行電鉄」 1994年12月臨時増刊号(通巻600号) ** 金子智治・焼田健 「東京急行電鉄 現有車両プロファイル2004」 2004年7月臨時増刊号(通巻749号) * 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 [[交友社]] ** 尾崎正明 「新車ガイド 東急1000系デビュー」 1989年1月号(通巻333号) ** 交友社編集部 「CAR INFO 東急1000系4+4連車」『鉄道ファン』1990年6月号(通巻350号) ** 交友社編集部 「CAR INFO 東急 池上線用1000系」『鉄道ファン』1993年5月号(通巻385号) * 『電気車の科学』 電気車研究会 ** 東京急行電鉄(株)車両部車両課 「東京急行電鉄1000系の概要」1989年1月号(通巻489号) * 東洋電機製造『東洋電機技報』第85号(1993年1月)「東京急行電鉄(株)納1000N'編成用VVVFインバータ制御装置」(小泉 真也) *交友社「鉄道ファン」2014年7月号CAR INFO「東京急行電鉄1000系1500番台」(資料提供・取材協力:東京急行電鉄) *[[ネコ・パブリッシング]]「[[レイルマガジン]]」2014年7月号「東急電鉄1000系1500番代」(取材協力・資料提供:東京急行電鉄) == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkyū 1000 series}} {{東急電鉄の車両}} {{福島交通の車両}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=福島交通1000系電車 |1-1= 福島交通の鉄道車両 |1-2= 東急電鉄から譲渡された鉄道車両 }} {{DEFAULTSORT:とうきゆう1000けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|1000]] [[Category:1988年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-06T12:04:43Z
2023-11-24T18:26:20Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:PDFlink", "Template:東急電鉄の車両", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:福島交通の車両", "Template:Cite press release", "Template:半保護", "Template:鉄道車両", "Template:出典の明記", "Template:Refnest", "Template:TrainDirection", "Template:-" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A51000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,420
計算尺
計算尺(けいさんじゃく)とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具である。棒状や円盤状のものがある。 ほとんどのものが乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算用に用いられる。加減算を行えるものは非常に稀である。そろばんのようなデジタル(離散的)な計算機と異なり、計算尺で得られる値は概数である。目盛りの読み方によって桁の多い数や、小数点のある数の計算も可能で、物理定数などは記印されているものも多い。 特定の目的の計算に特化した計算尺も数多く作られている。航空エンジニア向けの航空機の燃料計算、家電セールスマン向けの電球の寿命計算、写真撮影用の計算尺式露出計、操縦士・航空士が航法計算に用いる「フライトコンピューター」など、さまざまな分野で特化型の計算尺が作られ、現在も様々な計算尺が製造されている。 1970年代頃まで理工学系設計計算や測量などの用途に利用されていたが、1972年に世界初の「ポケットに入る関数電卓」HP-35の登場で市場が徐々になくなり、1980年頃には多くのメーカーで生産が中止された。かつては無線や電気関係の資格試験において持ち込みが認められていたが、2000年代前半ごろから禁止されるようになった。 計算尺は固定尺、滑尺、カーソルの3部品からできている。 固定尺とは基尺(きしゃく)ともいい、計算尺において相対的に動かないと考える部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における白色の部分である。滑尺を挟んで上下に位置しているがこれら2つの部分は固定されており、お互いに動かせない。 滑尺(すべりしゃく、かっしゃく)、または中尺(ちゅうしゃく)とは、上下の固定尺の間に位置しており、左右に動かせる部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における水色の部分である。 カーソルとは固定尺と滑尺をまたいで計算尺の左右に動く部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における透明版の部分である。尺をまたいで値を比較する際に用いるカーソル線が1本または複数本刻まれている。カーソル線は毛線(もうせん)と言うこともある。 計算尺の主要な尺の名称と用途を挙げる。 以下の写真が掛け算2×7を行なう計算例である。 6÷3の計算の例である。 計算尺は様々な関数の値の対数を計算し、その比率を目盛として固定尺や滑尺に配置したものである。対数は1614年にスコットランドのジョン・ネイピアが発表した。その6年後にイギリスのガンターが対数尺を考案した。これは数の対数や三角関数sin, tanの対数などを幾何的に配置したものであり、コンパスを利用して2つの目盛の長さの加減をしていた。現在の形式の計算尺、つまり複数の尺をずらして計算をするという形の計算尺を発明したのはオートレッドであり1632年のことである。主流となった直線型の計算尺と円形型の計算尺の両者ともオートレッドの発明である。その後様々な計算尺が考案され、電卓(電子式卓上計算機)が普及する1980年代頃まで広く使われた。 マンハッタン計画を記録したニュース映画では科学者が実験結果を検証するために白衣の胸ポケットから小型計算尺を取り出し計算する場面がしばしば映し出された。このように計算尺は電卓が登場するまで科学者や技術者をイメージされるアイテムとしてしばしば表象された。 円盤状の計算尺はコンサイス (旧株式会社コンサイス、現TTC株式会社コンサイス事業本部) が製造している。またパイロット向けのフライトコンピューターは試験でも利用され、航空大学校をはじめ国内外のフライトスクールで広く使用されている。 棒状計算尺については、ヘンミ計算尺製品は特殊計算尺のみ販売されており、通常の棒状計算尺は既に製造されておらず在庫もない終息商品となっているため、ネットオークション程度でしか入手できない。 ヘンミ計算尺での生産停止以降、計算尺を主題に添える書籍の商業出版はほぼ途絶えており、歴史や製品目録などがネット上の記事や私費出版で散見される程度である。書籍ではないが英国のオートレッド・ソサエティが1991年以降30年以上にわたって、定期的に学術誌を刊行している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "計算尺(けいさんじゃく)とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具である。棒状や円盤状のものがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ほとんどのものが乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算用に用いられる。加減算を行えるものは非常に稀である。そろばんのようなデジタル(離散的)な計算機と異なり、計算尺で得られる値は概数である。目盛りの読み方によって桁の多い数や、小数点のある数の計算も可能で、物理定数などは記印されているものも多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特定の目的の計算に特化した計算尺も数多く作られている。航空エンジニア向けの航空機の燃料計算、家電セールスマン向けの電球の寿命計算、写真撮影用の計算尺式露出計、操縦士・航空士が航法計算に用いる「フライトコンピューター」など、さまざまな分野で特化型の計算尺が作られ、現在も様々な計算尺が製造されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1970年代頃まで理工学系設計計算や測量などの用途に利用されていたが、1972年に世界初の「ポケットに入る関数電卓」HP-35の登場で市場が徐々になくなり、1980年頃には多くのメーカーで生産が中止された。かつては無線や電気関係の資格試験において持ち込みが認められていたが、2000年代前半ごろから禁止されるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "計算尺は固定尺、滑尺、カーソルの3部品からできている。", "title": "計算尺の構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "固定尺とは基尺(きしゃく)ともいい、計算尺において相対的に動かないと考える部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における白色の部分である。滑尺を挟んで上下に位置しているがこれら2つの部分は固定されており、お互いに動かせない。", "title": "計算尺の構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "滑尺(すべりしゃく、かっしゃく)、または中尺(ちゅうしゃく)とは、上下の固定尺の間に位置しており、左右に動かせる部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における水色の部分である。", "title": "計算尺の構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "カーソルとは固定尺と滑尺をまたいで計算尺の左右に動く部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における透明版の部分である。尺をまたいで値を比較する際に用いるカーソル線が1本または複数本刻まれている。カーソル線は毛線(もうせん)と言うこともある。", "title": "計算尺の構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "計算尺の主要な尺の名称と用途を挙げる。", "title": "尺の名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以下の写真が掛け算2×7を行なう計算例である。", "title": "計算方法" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "6÷3の計算の例である。", "title": "計算方法" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "計算尺は様々な関数の値の対数を計算し、その比率を目盛として固定尺や滑尺に配置したものである。対数は1614年にスコットランドのジョン・ネイピアが発表した。その6年後にイギリスのガンターが対数尺を考案した。これは数の対数や三角関数sin, tanの対数などを幾何的に配置したものであり、コンパスを利用して2つの目盛の長さの加減をしていた。現在の形式の計算尺、つまり複数の尺をずらして計算をするという形の計算尺を発明したのはオートレッドであり1632年のことである。主流となった直線型の計算尺と円形型の計算尺の両者ともオートレッドの発明である。その後様々な計算尺が考案され、電卓(電子式卓上計算機)が普及する1980年代頃まで広く使われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "マンハッタン計画を記録したニュース映画では科学者が実験結果を検証するために白衣の胸ポケットから小型計算尺を取り出し計算する場面がしばしば映し出された。このように計算尺は電卓が登場するまで科学者や技術者をイメージされるアイテムとしてしばしば表象された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "円盤状の計算尺はコンサイス (旧株式会社コンサイス、現TTC株式会社コンサイス事業本部) が製造している。またパイロット向けのフライトコンピューターは試験でも利用され、航空大学校をはじめ国内外のフライトスクールで広く使用されている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "棒状計算尺については、ヘンミ計算尺製品は特殊計算尺のみ販売されており、通常の棒状計算尺は既に製造されておらず在庫もない終息商品となっているため、ネットオークション程度でしか入手できない。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ヘンミ計算尺での生産停止以降、計算尺を主題に添える書籍の商業出版はほぼ途絶えており、歴史や製品目録などがネット上の記事や私費出版で散見される程度である。書籍ではないが英国のオートレッド・ソサエティが1991年以降30年以上にわたって、定期的に学術誌を刊行している。", "title": "書籍" } ]
計算尺(けいさんじゃく)とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具である。棒状や円盤状のものがある。 ほとんどのものが乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算用に用いられる。加減算を行えるものは非常に稀である。そろばんのようなデジタル(離散的)な計算機と異なり、計算尺で得られる値は概数である。目盛りの読み方によって桁の多い数や、小数点のある数の計算も可能で、物理定数などは記印されているものも多い。 特定の目的の計算に特化した計算尺も数多く作られている。航空エンジニア向けの航空機の燃料計算、家電セールスマン向けの電球の寿命計算、写真撮影用の計算尺式露出計、操縦士・航空士が航法計算に用いる「フライトコンピューター」など、さまざまな分野で特化型の計算尺が作られ、現在も様々な計算尺が製造されている。 1970年代頃まで理工学系設計計算や測量などの用途に利用されていたが、1972年に世界初の「ポケットに入る関数電卓」HP-35の登場で市場が徐々になくなり、1980年頃には多くのメーカーで生産が中止された。かつては無線や電気関係の資格試験において持ち込みが認められていたが、2000年代前半ごろから禁止されるようになった。
{{出典の明記|date=2014年2月13日 (木) 00:54 (UTC)}} [[ファイル:Keisanjaku_1.jpg|thumb|250px|計算尺(ヘンミ P45S)]] [[ファイル:Csl.JPG|thumb|250px|円形計算尺(コンサイス NO.28)]] '''計算尺'''(けいさんじゃく)とは[[対数]]の原理を利用した[[アナログ]]式の[[計算]]用具である。棒状や円盤状のものがある。 ほとんどのものが乗除算および[[三角関数]]、対数、[[平方根]]、[[立方根]]などの計算用に用いられる。加減算を行えるものは非常に稀である。[[そろばん]]のような[[デジタル]](離散的)な計算機と異なり、計算尺で得られる値は[[概数]]である。目盛りの読み方によって桁の多い数や、小数点のある数の計算も可能で、物理定数などは記印されているものも多い。 特定の目的の計算に特化した計算尺も数多く作られている。航空エンジニア向けの航空機の燃料計算、家電セールスマン向けの電球の寿命計算、写真撮影用の[[計算尺式露出計]]、[[パイロット (航空)|操縦士]]・[[航空士]]が航法計算に用いる「[[フライトコンピューター]]」など、さまざまな分野で特化型の計算尺が作られ、現在も様々な計算尺が製造されている。 [[1970年代]]頃まで理工学系設計計算や[[測量]]などの用途に利用されていたが、1972年に世界初の「ポケットに入る関数電卓」[[HP-35]]の登場で市場が徐々になくなり、[[1980年]]頃には多くのメーカーで生産が中止された。かつては無線や電気関係の資格試験において持ち込みが認められていたが、[[2000年代]]前半ごろから禁止されるようになった。 == 計算尺の構造 == 計算尺は固定尺、滑尺、カーソルの3部品からできている。 固定尺とは基尺(きしゃく)ともいい、計算尺において相対的に動かないと考える部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における白色の部分である。滑尺を挟んで上下に位置しているがこれら2つの部分は固定されており、お互いに動かせない。 滑尺(すべりしゃく、かっしゃく)、または中尺(ちゅうしゃく)とは、上下の固定尺の間に位置しており、左右に動かせる部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における水色の部分である。 カーソルとは固定尺と滑尺をまたいで計算尺の左右に動く部分である。下記の「計算方法の例」の図で示されている計算尺における透明版の部分である。尺をまたいで値を比較する際に用いるカーソル線が1本または複数本刻まれている。カーソル線は毛線(もうせん)と言うこともある。 == 尺の名称 == 計算尺の主要な尺の名称と用途を挙げる。 ; C尺、D尺 : D尺は下側の固定尺に位置している尺、C尺は滑尺に位置している尺であり存在する位置が違うだけで目盛りの振り方は同じである。これらの尺はかけ算、割り算をはじめ、ほぼ全ての計算において利用される。 ; A尺、B尺 : A尺は上側の固定尺に位置している尺、B尺は滑尺に位置している尺であり存在する位置が違うだけで目盛りの振り方は同じである。これらはD尺を半分の長さにして、2本並べたものである。これらの尺は2乗、平方根の計算に利用される。 ; K尺 : K尺は通常上側の固定尺に位置している尺である。これはD尺を3分の1の長さにして、3本並べたものである。この尺は3乗、立方根の計算に利用される。 ; CI尺 : CI尺は滑尺にあり、C尺を逆方向に目盛りを振ったものである。この尺はかけ算、割り算をはじめ、ほぼ全ての計算において利用される。 ; DF尺、CF尺、CIF尺 : DF尺は固定尺、CF尺は滑尺にありそれぞれD尺、C尺を<math>\sqrt{10}</math>あるいは<math>\pi</math>だけずらしたものである。CIF尺は滑尺にあり、基線がCF尺と一致するようにCI尺をずらしたものである。これらの尺はそれぞれD尺、C尺、CI尺の代わりに用いられるもので計算時間の短縮に利用される。 ; L尺 : L尺は10を底とする指数、対数の計算に利用される尺である。 ; S尺、T尺、ST尺、SI尺、TI尺等 : S尺は三角関数<math>\sin</math>の計算に利用される尺であり、T尺は三角関数<math>\tan</math>の計算に利用される尺である。ST尺は約<math>0.6^\circ</math>から約<math>6^\circ</math>の三角関数<math>\sin</math>および<math>\tan</math>の計算に利用される尺である。SI尺はS尺を逆方向に目盛りを振ったものであり、TI尺はT尺を逆方向に目盛りを振ったものである。これらの尺の名称および尺の種類は計算尺によって異なることがある。 ; LL1、LL02、LL/3等 : これらは任意の底に対する指数、対数を計算する際に利用される。これらの尺の名称および尺の種類は計算尺によって異なることがある。 == 計算方法 == === 掛け算 === 以下の写真が掛け算2×7を行なう計算例である。 #まずD尺(固定尺の下から2番目の目盛り)の「2」に、カーソル線を合わせる。 #次にCI尺の「7」を、カーソル線に合わせる(下記画像)。 #その状態のまま、カーソルだけをずらし、カーソル線をCI尺の「10」に合わせる。 #カーソル線はD尺では「1.4」に合っている。位取りを換算し、答え14を得る。 ; 計算方法の例 : [[ファイル:Keisanjaku_2.jpg]] === 割り算 === 6÷3の計算の例である。 #D尺の「6」にカーソル線をあわせる。 #C尺の「3」をカーソル線にあわせる。 #C尺の「1」に対応するD尺の目盛りは答えの2を指している。 == 歴史 == [[ファイル:Slideruleinuse.wpafb.chap2-2.jpg|250px|thumb|計算尺を用いた技術計算の様子。<BR /><SUB>背後の机の上に[[機械式計算機]]がある。</SUB>]] * [[1614年]] - [[スコットランド]]の[[ジョン・ネイピア]]が[[対数]]を発見。 * [[1617年]] - [[イギリス]]の[[ヘンリー・ブリッグス]]が[[常用対数]]表を作成。 * [[1620年]] - イギリスの[[エドマンド・ガンター]]が対数尺を発明。 * [[1632年]] - [[ウィリアム・オートレッド]]が計算尺を発明。 計算尺は様々な関数の値の対数を計算し、その比率を目盛として固定尺や滑尺に配置したものである。対数は1614年にスコットランドのジョン・ネイピアが発表した。その6年後にイギリスのガンターが対数尺を考案した。これは数の対数や三角関数sin, tanの対数などを幾何的に配置したものであり、コンパスを利用して2つの目盛の長さの加減をしていた。現在の形式の計算尺、つまり複数の尺をずらして計算をするという形の計算尺を発明したのはオートレッドであり1632年のことである。主流となった直線型の計算尺と円形型の計算尺の両者ともオートレッドの発明である。その後様々な計算尺が考案され、電卓(電子式卓上計算機)が普及する1980年代頃まで広く使われた。 [[マンハッタン計画]]を記録したニュース映画では科学者が実験結果を検証するために白衣の胸ポケットから小型計算尺を取り出し計算する場面がしばしば映し出された。このように計算尺は[[電卓]]が登場するまで[[科学者]]や[[技術者]]をイメージされるアイテムとしてしばしば表象された。 == 日本での歴史 == * [[1894年]] - [[フランス]]のマンハイム(マネーム、[[:en:Amédée_Mannheim|en]])計算尺を[[廣田理太郎]]と[[内務省 (日本)|内務省]][[官僚]]・[[近藤虎五郎]]が欧米視察の[[土産]]として持ち帰ってきたのが始祖とされる。 * [[1895年]] - [[逸見治郎]]、独自の計算尺完成。 * [[1909年]] - 逸見、[[特許庁]]に出願(特許第22129號)。 * [[1933年]] - 逸見、逸見製作所(現・[[ヘンミ計算尺]])を設立。 * [[1947年]] - [[唐沢英雄]]、「計算尺の新使用法と其の活用」(矢島書房)を発刊。富士計算尺株式会社と共同で計算尺を設計開始。 * [[1959年]] - 唐沢、富士計算尺を通じD尺、C尺を従来のπではなく<math>\sqrt{10}</math>で対尺を対向させた改良型[[対数尺]]を発売。同時に「計算尺・使用法の基本体系」([[矢島書房]])を発刊。 * [[1965年]] - 唐沢、「計算尺の理論」([[博文社]])を発刊。日本の[[工業高等学校]]校長会で採用決定。 : ※ この後[[1970年代]]まで[[理工学系]]分野で計算尺が盛んに利用された。[[中学校]]及び[[高等学校]]の[[数学]]の[[カリキュラム]]の一部にも組み込まれた。[[課外活動]]として「計算尺クラブ」が多くの学校に存在し、全国レベルでの競技大会や検定試験も開催されていた。 * [[1980年]]頃 - [[関数電卓]]の普及により大部分のメーカーで計算尺の生産中止。在庫品や特殊用途用の受注品のみの販売となる。 * [[1980年]] - [[電気主任技術者]]の試験において計算尺の使用が禁止された。 * [[2005年]] - 日本の有志がヘンミ計算尺の協力を得て棒状計算尺の復刻を試みる(すでに在庫払底)。 * [[2011年]]4月以降 - [[無線従事者]]国家試験への計算尺持ち込みが禁止される。 === 現在の入手方法 === [[円盤]]状の計算尺はコンサイス (旧株式会社コンサイス、現TTC株式会社コンサイス事業本部) が製造している。またパイロット向けの[[E6Bフライトコンピューター|フライトコンピューター]]は試験でも利用され、[[航空大学校]]をはじめ国内外のフライトスクールで広く使用されている。 棒状計算尺については、ヘンミ計算尺製品は特殊計算尺のみ販売されており、通常の棒状計算尺は既に製造されておらず在庫もない終息商品となっているため、ネットオークション程度でしか入手できない。 == エピソード == * 高性能の関数電卓が普及するまで計算尺は数理系の研究者にとって必須のアイテムであり、[[マンハッタン計画]]や[[アポロ計画]]の記録映像などにおいても科学者が現場で用いていた。映画の『[[アポロ13]]』でも司令船の航法コンピュータの電源を切る前に、軌道計算を検算する場面で登場している。また、映画の『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』でも航空機の設計の場面で登場している。 * [[シカゴ・パイル1号|史上初の原子炉]]の主要人物である[[エンリコ・フェルミ]]は、計算尺の達人であったという。また米ソのロケット開発の元祖である[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]や[[セルゲイ・コロリョフ]]らも常時携帯しており、日常のちょっとした科学的概算に使用していたという。 * [[そろばん]]同様、学校のクラブ活動や大会も存在した。[[樋口可南子]]は中学生時代「計算尺クラブ」に入り、中学三年時に計算の速さを競う大会で優勝している(『[[あさイチ]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])[[2011年]][[6月10日]]放送分より{{出典無効|date=2020年6月|title=事実確認の機能を欠く情報源}})。 * そろばんが普及していた日本では計算尺が使われる頻度は欧米に比べれば低いものの、日本製の計算尺は[[竹]]製<ref>竹は線維が硬質なため温度変化による伸縮が木と比較して少ない。</ref>で狂いが少ないと高く評価され、[[第一次世界大戦]]期にドイツが輸出を停止した事もあいまって、[[第二次世界大戦]]までは日本製の計算尺が盛んに輸出され、世界シェアの80%を占めた頃もあった。 == 書籍 == ヘンミ計算尺での生産停止以降、計算尺を主題に添える書籍の商業出版はほぼ途絶えており、歴史や製品目録などがネット上の記事や私費出版で散見される程度である。書籍ではないが英国の[https://www.oughtred.org オートレッド・ソサエティ]が1991年以降30年以上にわたって、定期的に学術誌を刊行している。 * [[アイザック・アシモフ]]著、石川洋之介訳、[https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01695377 やさしい計算尺入門] (共立出版、1970年) 通常の定規で加減算ができることと計算尺による乗除算の類似性から始まり、乗除算と冪乗を解説する。絶版だが全国の大学や高専などに蔵書がある。 * Issac Asimov、[https://archive.org/details/easyintroduction00isaa/page/n7/mode/2up An Easy Introduction to the Slide Rule] (Fawcett World Library、1965年) 上記の原著であり、右のリンク先で全文を読むことができる。 * ニュートン式 超図解 最強に面白い!! 対数 (ニュートンプレス、2019年) 計算尺を簡潔に説明するコラムがある。 * 富永大介、[https://sliderule.booth.pm/items/1039214 新世紀の計算尺入門] (個人出版、2020年) 原理、設計製作法、歴史など。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[計算機]] * [[電卓]] * [[そろばん]]、[[アバカス]] * [[アナログ]] * [[デジタル]] * [[ミクロの決死圏]] - 科学者が計算尺を用いて計算するシーンが登場。 == 外部リンク == {{Commonscat|Slide rules}} *[http://www.hemmi-inc.co.jp/index.html ヘンミ計算尺株式会社] *[http://www.concise.co.jp/ 株式会社コンサイス] **[http://www.concise.co.jp/products/list.php?category_id=31 一般円形計算尺] *[http://www.pi-sliderule.net/Default.aspx 計算尺推進委員会] *[http://www35.tok2.com/home/sliderule/index.html 計算尺図書館] **[http://www35.tok2.com/home/sliderule/Kids/index.html 計算尺 for きっず] *[http://matome-note.com/modules/keisanjyaku/index1.html 計算尺と二進数そろばんの作り方] - 自由研究・家庭学習教材 - はなまるまとめのおと *[https://u-lab.my-pharm.ac.jp/~tominaga/sliderule/rectilinear/index.html 計算尺ペーパークラフト] **[https://u-lab.my-pharm.ac.jp/~tominaga/sliderule/index.html 円筒計算尺を作ろう] *[http://www.giovannipastore.it/ISTRUZIONI.htm Giovanni Pastore - ANTIKYTHERA E I REGOLI CALCOLATORI]([[アンティキティラ島の機械]]に関する解説) <!--*[http://homepage3.nifty.com/hiraya/slide.htm デジタル計算尺・スライドD]:リンク切れ--> {{Tech-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいさんしやく}} [[Category:対数]] [[Category:計算用具]] [[Category:コンピュータ史]] [[Category:歴史上の機器]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:アナログ計算機]]
2003-09-06T12:12:34Z
2023-11-13T06:30:03Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:Tech-stub", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:出典無効", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E5%B0%BA
15,421
東急2000系電車
東急2000系電車(とうきゅう2000けいでんしゃ)は、1992年(平成4年)に導入した東急電鉄の通勤形電車である。 本項では2000系電車のほか、同系列を改造した9020系電車についても記述する。 本項では個別の編成を示す際には渋谷・押上・大井町方先頭車の車両番号で代表する(例:2001F)。 2000系は田園都市線の輸送力増強のため導入され、1992年(平成4年)3月に営業運転を開始した。東急車輛製造で10両3編成が製造されている。なおこのうち2003Fは8両編成で落成し、一時的に東横線で運用されていた。後に5両編成となり大井町線へ転用、また9020系へと改造されている。 1986年(昭和61年)に登場した9000系をベースに設計され、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)半蔵門線乗り入れへの対応、客室内の改良、乗り心地の向上などが図られた。また、設計に当たっては「より良い居住性」「運転操作性の向上」「省エネルギー化」「保守性の改善」などの9000系からの基本理念に加え「人にやさしい車両」を目指している。 当時の東急電鉄では車両寿命を40年から50年程度とする方針の下で車両の更新を行っていたため、東急における旅客営業用電車の製造は本形式導入後、1999年(平成11年)に登場した3000系まで途絶えることになった。 9000系と同一のステンレス鋼製20m4扉車体を採用した。これは車両設計費の低減や構体・扉・窓などの部材を共通化することで予備品の低減、さらに運転操作や検修時の取り扱いの統一・標準化を図ることが目的である 。前面と側面には東急のコーポレートカラーである赤色のラインカラーを巻く。 前面も9000系と同一の非常口貫通式としており、非常用の梯子が設置してある。当初は小形であったが、後年に大形のものへと交換した。2005年(平成17年)1月に3編成すべてに補助排障器(スカート)を装着した。 行先表示器は字幕式であったが、2003Fは営業運転開始前後に3色LED式に交換された。その後2004年度に2003F、2006年度に残る2編成が5000系列等のようにフルカラーと白色の表示器に交換された。このとき交換された2003Fの種別表示器は8500系と同じ小型のものであったが、2001F・2002Fの交換後にこれらと同じものへ再度交換されている。 この前面の表示器の横には急行灯があり、優等列車として運転される際に点灯していたが、2002年(平成14年)4月より使用が停止され、前述の表示器フルカラー化に際して撤去された。 冷房装置は1000系1006F以降と同一の東芝製集約分散式で、11.6 kW (10,000 kcal/h) 容量のRPU-2214Cを搭載する。1両につき4台である点は従来車と同じだが、本系列では車体全長にダクトを配することで装置の配置が変更されている。2台を寄せ1群として連続したカバーに収めたものを、車体中央に寄せて2群配置したものとなり、これまでパンタグラフ搭載車のみ異なっていた配置が全車種で共通化された。冷房制御方式は1000系で実績のあるインバータによる能力可変制御を採用し、快適性の向上を図っている。 このほか雑多なものとして、車体側面には車外スピーカーを搭載、3号車にあたるデハ2200形の妻面と床下には半蔵門線用の誘導無線アンテナと無線送受信機本体を搭載している。また後年の改造で連結部への転落防止幌の設置や黄色テープの貼付、前照灯のLED化などが行われた。 基本的には9000系に準じた仕様となっているが、冷房ダクトを用いた冷風拡散方式や、網棚の端を延長して物を載せやすくした形状などは1000系に準拠したものとなっている。また、従来客室壁に取り付けていた消火器は収納カバーに収めるように変更した。客室はすべてロングシート(1人の掛け幅は440 mm)配置である。各車上り方(上り方先頭車は下り方)に優先席がある。天井補助送風機を設置しているが、田園都市線の混雑に配慮して先頭車に9台、中間車に10台と9000系よりも台数が多くなっている。 なお、一部車両において、「快適な空間づくり」を目指して在来各系列では見られなかったアイデアを試験的に施している。これは今後の通勤電車の内装のモデルケースとしての意味合いもある。 2001F・2002Fのうち3・9号車(デハ2201・2202・2401・2402号)で試験採用され、後の2003Fでは一部改良の上で全面的に採用された。 なお、モケットとカーテンは、後に従来車と同じ無地のものへ交換された。また本系列の製造と同時期に更新工事を実施していた7600系や8000系では本系列の意匠が取り入れられている。 落成時から自動放送装置を搭載しており、田園都市線のみならず乗り入れ先の半蔵門線でも自動放送を実施している。また前述の車外スピーカーにおいては車掌の操作で当時の営団と同じ仕様の「扉が閉まります。ご注意ください」という乗降促進放送を流すことができる。 2003年(平成15年)8月から2004年(平成16年)3月にかけて、側引戸の鴨居部にLED式2段表示の車内案内表示器とドア開閉を予告する表示灯を千鳥配置で設置した。ともにドアチャイム用のスピーカーを内蔵している。また、優先席のつり革は後年にオレンジ色で三角形のものに交換されている。 乗務員室についても乗務員が取り扱う機器を統一するため、9000系と基本的に大きな変更はない。本系列では左側の壁に半蔵門線用の誘導無線の送受話器がある。乗務員室内アイボリー色、運転台計器盤はつや消し茶色のカラースキームを採用している。主幹制御器の操作部はT字形ワンハンドルマスコンとし、デッドマン装置を備える。フロントガラスの日除けにはロール式のカーテンが設置してある。また、後年に非常扉部にもカーテンが追加された。 乗務員室仕切りは前面窓と同じ配置で仕切窓が3枚あり、そのうち客室から見て左側2枚の窓には遮光幕を設置するが、遮光幕は一般的なロールアップ式ではなくアルミ製・板状のものである。 車掌スイッチは当初は機械式であったが、2007年(平成19年)に間接制御式(リレー式)に交換された。 GTO素子を用いた日立製作所製VVVFインバータ制御装置(VFG-HR1820D)を採用、1台の制御器で2両分8個のモーターを制御する1C8M制御方式である。 主電動機はTKM-92形かご形三相誘導電動機(出力170 kW、端子電圧1,100 V、電流115 A、周波数64 Hz、回転数1,860 rpm)である。 ブレーキ装置は回生ブレーキを併用したアナログ指令式の全電気指令式空気ブレーキで、ATCの連動式である。また、ブレーキ制御には遅れ込め制御を併用している。 空気圧縮機 (CP) はレシプロ式低騒音形のHS20-1形を編成で4台搭載している。補助電源装置は東芝製GTO素子を使用した170 kVA出力静止形インバータ (SIV) であり、編成で3台搭載している。集電装置は剛体架線に対応した菱形パンタグラフ(PT44S-D-M形)であり、9000系と同一品である。 現在の保安装置はいずれも東急線・東京メトロ用のATC装置を搭載している。 台車は9000系から採用しているボルスタレス台車を基本としているが、円筒形積層ゴム式軸箱支持装置の採用などにより、高速時の乗り心地を向上させた。形式はTS-1010・TS-1011形である。基礎ブレーキは電動車が片押し式踏面ブレーキ、付随車はディスクブレーキとしている。本系列での採用を前に9000系クハ9015号において1991年(平成3年)3月から6月にTS-1009台車として実車試験を実施して、採用に問題がないことを確認した。 2003Fのうち付随車を除く8両に対して2017年5月から2018年3月にかけて、長津田車両工場にて機器更新、内装リニューアル工事を施工した。 また後述の2編成を含め、改造された15両については事前に室内灯のLED化が行われていた。 出場した2003Fは試運転のみ実施したのち2018年5月に再び長津田車両工場へ入場し、9月に5両編成の大井町線仕様となって出場。改造を施工した8両のうち上り方先頭車と下り方4両を用いており、後述の9020系とは2号車の搭載機器が異なる。 同編成は11月16日より大井町線で営業運転を開始したが、2019年2月1日を最後に運用を終了、同日に長津田車両工場へ入場し9020系へと改造された。 大井町線向けに2000系を改造・編成組替えを行い誕生した形式で、2019年(平成31年)2月11日に9022Fが営業運転を開始した。 前述の2003Fのうち8両のほか、2001Fのうち2両、2002Fのうち5両にそれぞれ2003Fと同様の改造を施工、これらを用いて組替えが行われた。全車両が改番され、中間車のみ5000系以降に準じた付番方式となった。中間車は2号車(M)が元2002FのM1、3号車(M2)・4号車(M1)が元2003FのM2・M1で揃えられている。 最初に入場した2002Fは先頭車とM1に改造を施工し、M1は3両とも単独デハ(M)に変更された。ここから2302・2402を抜取り、バラの2253・2203を組込んで9022Fへ。最初に出場。 二番目に入場した2001Fは先頭車のみ改造を施工。前述の2402とバラの2353、後述の2303を組み込んで9021Fへ。最後に出場。 改造済の2003Fも2号車の搭載機器が異なることから再度入場、2303を抜取り、前述の2302を組み込んで9023Fへ。二番目に出場。 なお、改造対象から外れた15両は2018年夏から秋にかけて廃車となり、年内に全て陸送・解体された。 本系列の形式名は東急電鉄公式サイト内「安全報告書2019」においては「9020系」の表記が見られる。また2020年(令和2年)11月に発行された「東急電鉄完全ガイド」(ネコ・パブリッシング)のコーナー「現行車両14形式全方位ガイド」のP48-52では「9020系」と表記されている。 10両編成(田園都市線・運用終了) 長津田検車区に配置され、1992年(平成4年)3月(日付は諸説あり)に営業運転を開始、田園都市線から東京メトロ半蔵門線への直通運用に使用されていた。当初は8500系、また後に登場した5000系などと共通運用であった。2003年3月から田園都市線では東武線への直通運転が開始され、多くの車両は東武線への乗り入れに対応することとなったが、8500系や5000系と比べ本数が極端に少ない本系列は乗務員教習等の手間により東武線乗り入れ編成から除外された。このため、識別するために前面非常扉の窓に「K」のマークを貼付しており、また営業運転区間は最大でも中央林間駅から半蔵門線押上駅までであった。2020系の導入により、2018年10月3日の2002Fを最後に運用を終了した。 8両編成(東横線・運用終了) 2003Fのみ8両編成で落成し、1993年(平成5年)2月3日より東横線に暫定投入された。同年11月1日を最後に東横線での運用を終了し同日中に長津田検車区へ回送され、翌日付で田園都市線に転属している。その後中間車2両を組み込んで10両編成化し、以後は他の編成と同じく田園都市線での運用となった。 5両編成(大井町線) 2018年度に大井町線への転用が行われた。同線では各停運用に使用されている。2018年11月16日から翌年2月1日まで、改造・編成短縮済の2003Fが営業運転を行った。またこれと並行して残る2編成にもほぼ同様の改造を実施、その後全3編成で編成組替えを実施し、9020系(9021F - 9023F)に改められた。同系列は2月11日の9022Fを皮切りに3月末までに全編成が営業運転を開始している。余剰となった中間車15両はいずれも廃車・解体された。 本系列は9000系とともに、新造車両による置き換えと西武鉄道への譲渡が公表されている。置き換えについては2023年度より車両新造に着手しており、また西武鉄道への譲渡後については同社で「サステナ車両」として支線系に導入するものとされている。西武での形式は未定。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急2000系電車(とうきゅう2000けいでんしゃ)は、1992年(平成4年)に導入した東急電鉄の通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では2000系電車のほか、同系列を改造した9020系電車についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項では個別の編成を示す際には渋谷・押上・大井町方先頭車の車両番号で代表する(例:2001F)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2000系は田園都市線の輸送力増強のため導入され、1992年(平成4年)3月に営業運転を開始した。東急車輛製造で10両3編成が製造されている。なおこのうち2003Fは8両編成で落成し、一時的に東横線で運用されていた。後に5両編成となり大井町線へ転用、また9020系へと改造されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)に登場した9000系をベースに設計され、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)半蔵門線乗り入れへの対応、客室内の改良、乗り心地の向上などが図られた。また、設計に当たっては「より良い居住性」「運転操作性の向上」「省エネルギー化」「保守性の改善」などの9000系からの基本理念に加え「人にやさしい車両」を目指している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当時の東急電鉄では車両寿命を40年から50年程度とする方針の下で車両の更新を行っていたため、東急における旅客営業用電車の製造は本形式導入後、1999年(平成11年)に登場した3000系まで途絶えることになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "9000系と同一のステンレス鋼製20m4扉車体を採用した。これは車両設計費の低減や構体・扉・窓などの部材を共通化することで予備品の低減、さらに運転操作や検修時の取り扱いの統一・標準化を図ることが目的である 。前面と側面には東急のコーポレートカラーである赤色のラインカラーを巻く。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前面も9000系と同一の非常口貫通式としており、非常用の梯子が設置してある。当初は小形であったが、後年に大形のものへと交換した。2005年(平成17年)1月に3編成すべてに補助排障器(スカート)を装着した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "行先表示器は字幕式であったが、2003Fは営業運転開始前後に3色LED式に交換された。その後2004年度に2003F、2006年度に残る2編成が5000系列等のようにフルカラーと白色の表示器に交換された。このとき交換された2003Fの種別表示器は8500系と同じ小型のものであったが、2001F・2002Fの交換後にこれらと同じものへ再度交換されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この前面の表示器の横には急行灯があり、優等列車として運転される際に点灯していたが、2002年(平成14年)4月より使用が停止され、前述の表示器フルカラー化に際して撤去された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "冷房装置は1000系1006F以降と同一の東芝製集約分散式で、11.6 kW (10,000 kcal/h) 容量のRPU-2214Cを搭載する。1両につき4台である点は従来車と同じだが、本系列では車体全長にダクトを配することで装置の配置が変更されている。2台を寄せ1群として連続したカバーに収めたものを、車体中央に寄せて2群配置したものとなり、これまでパンタグラフ搭載車のみ異なっていた配置が全車種で共通化された。冷房制御方式は1000系で実績のあるインバータによる能力可変制御を採用し、快適性の向上を図っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このほか雑多なものとして、車体側面には車外スピーカーを搭載、3号車にあたるデハ2200形の妻面と床下には半蔵門線用の誘導無線アンテナと無線送受信機本体を搭載している。また後年の改造で連結部への転落防止幌の設置や黄色テープの貼付、前照灯のLED化などが行われた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "基本的には9000系に準じた仕様となっているが、冷房ダクトを用いた冷風拡散方式や、網棚の端を延長して物を載せやすくした形状などは1000系に準拠したものとなっている。また、従来客室壁に取り付けていた消火器は収納カバーに収めるように変更した。客室はすべてロングシート(1人の掛け幅は440 mm)配置である。各車上り方(上り方先頭車は下り方)に優先席がある。天井補助送風機を設置しているが、田園都市線の混雑に配慮して先頭車に9台、中間車に10台と9000系よりも台数が多くなっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、一部車両において、「快適な空間づくり」を目指して在来各系列では見られなかったアイデアを試験的に施している。これは今後の通勤電車の内装のモデルケースとしての意味合いもある。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2001F・2002Fのうち3・9号車(デハ2201・2202・2401・2402号)で試験採用され、後の2003Fでは一部改良の上で全面的に採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、モケットとカーテンは、後に従来車と同じ無地のものへ交換された。また本系列の製造と同時期に更新工事を実施していた7600系や8000系では本系列の意匠が取り入れられている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "落成時から自動放送装置を搭載しており、田園都市線のみならず乗り入れ先の半蔵門線でも自動放送を実施している。また前述の車外スピーカーにおいては車掌の操作で当時の営団と同じ仕様の「扉が閉まります。ご注意ください」という乗降促進放送を流すことができる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)8月から2004年(平成16年)3月にかけて、側引戸の鴨居部にLED式2段表示の車内案内表示器とドア開閉を予告する表示灯を千鳥配置で設置した。ともにドアチャイム用のスピーカーを内蔵している。また、優先席のつり革は後年にオレンジ色で三角形のものに交換されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "乗務員室についても乗務員が取り扱う機器を統一するため、9000系と基本的に大きな変更はない。本系列では左側の壁に半蔵門線用の誘導無線の送受話器がある。乗務員室内アイボリー色、運転台計器盤はつや消し茶色のカラースキームを採用している。主幹制御器の操作部はT字形ワンハンドルマスコンとし、デッドマン装置を備える。フロントガラスの日除けにはロール式のカーテンが設置してある。また、後年に非常扉部にもカーテンが追加された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "乗務員室仕切りは前面窓と同じ配置で仕切窓が3枚あり、そのうち客室から見て左側2枚の窓には遮光幕を設置するが、遮光幕は一般的なロールアップ式ではなくアルミ製・板状のものである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "車掌スイッチは当初は機械式であったが、2007年(平成19年)に間接制御式(リレー式)に交換された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "GTO素子を用いた日立製作所製VVVFインバータ制御装置(VFG-HR1820D)を採用、1台の制御器で2両分8個のモーターを制御する1C8M制御方式である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "主電動機はTKM-92形かご形三相誘導電動機(出力170 kW、端子電圧1,100 V、電流115 A、周波数64 Hz、回転数1,860 rpm)である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ブレーキ装置は回生ブレーキを併用したアナログ指令式の全電気指令式空気ブレーキで、ATCの連動式である。また、ブレーキ制御には遅れ込め制御を併用している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "空気圧縮機 (CP) はレシプロ式低騒音形のHS20-1形を編成で4台搭載している。補助電源装置は東芝製GTO素子を使用した170 kVA出力静止形インバータ (SIV) であり、編成で3台搭載している。集電装置は剛体架線に対応した菱形パンタグラフ(PT44S-D-M形)であり、9000系と同一品である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現在の保安装置はいずれも東急線・東京メトロ用のATC装置を搭載している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "台車は9000系から採用しているボルスタレス台車を基本としているが、円筒形積層ゴム式軸箱支持装置の採用などにより、高速時の乗り心地を向上させた。形式はTS-1010・TS-1011形である。基礎ブレーキは電動車が片押し式踏面ブレーキ、付随車はディスクブレーキとしている。本系列での採用を前に9000系クハ9015号において1991年(平成3年)3月から6月にTS-1009台車として実車試験を実施して、採用に問題がないことを確認した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2003Fのうち付随車を除く8両に対して2017年5月から2018年3月にかけて、長津田車両工場にて機器更新、内装リニューアル工事を施工した。", "title": "大井町線への転属" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また後述の2編成を含め、改造された15両については事前に室内灯のLED化が行われていた。", "title": "大井町線への転属" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "出場した2003Fは試運転のみ実施したのち2018年5月に再び長津田車両工場へ入場し、9月に5両編成の大井町線仕様となって出場。改造を施工した8両のうち上り方先頭車と下り方4両を用いており、後述の9020系とは2号車の搭載機器が異なる。", "title": "大井町線への転属" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同編成は11月16日より大井町線で営業運転を開始したが、2019年2月1日を最後に運用を終了、同日に長津田車両工場へ入場し9020系へと改造された。", "title": "大井町線への転属" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大井町線向けに2000系を改造・編成組替えを行い誕生した形式で、2019年(平成31年)2月11日に9022Fが営業運転を開始した。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前述の2003Fのうち8両のほか、2001Fのうち2両、2002Fのうち5両にそれぞれ2003Fと同様の改造を施工、これらを用いて組替えが行われた。全車両が改番され、中間車のみ5000系以降に準じた付番方式となった。中間車は2号車(M)が元2002FのM1、3号車(M2)・4号車(M1)が元2003FのM2・M1で揃えられている。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最初に入場した2002Fは先頭車とM1に改造を施工し、M1は3両とも単独デハ(M)に変更された。ここから2302・2402を抜取り、バラの2253・2203を組込んで9022Fへ。最初に出場。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "二番目に入場した2001Fは先頭車のみ改造を施工。前述の2402とバラの2353、後述の2303を組み込んで9021Fへ。最後に出場。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "改造済の2003Fも2号車の搭載機器が異なることから再度入場、2303を抜取り、前述の2302を組み込んで9023Fへ。二番目に出場。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお、改造対象から外れた15両は2018年夏から秋にかけて廃車となり、年内に全て陸送・解体された。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "本系列の形式名は東急電鉄公式サイト内「安全報告書2019」においては「9020系」の表記が見られる。また2020年(令和2年)11月に発行された「東急電鉄完全ガイド」(ネコ・パブリッシング)のコーナー「現行車両14形式全方位ガイド」のP48-52では「9020系」と表記されている。", "title": "9020系" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "10両編成(田園都市線・運用終了)", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "長津田検車区に配置され、1992年(平成4年)3月(日付は諸説あり)に営業運転を開始、田園都市線から東京メトロ半蔵門線への直通運用に使用されていた。当初は8500系、また後に登場した5000系などと共通運用であった。2003年3月から田園都市線では東武線への直通運転が開始され、多くの車両は東武線への乗り入れに対応することとなったが、8500系や5000系と比べ本数が極端に少ない本系列は乗務員教習等の手間により東武線乗り入れ編成から除外された。このため、識別するために前面非常扉の窓に「K」のマークを貼付しており、また営業運転区間は最大でも中央林間駅から半蔵門線押上駅までであった。2020系の導入により、2018年10月3日の2002Fを最後に運用を終了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "8両編成(東横線・運用終了)", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2003Fのみ8両編成で落成し、1993年(平成5年)2月3日より東横線に暫定投入された。同年11月1日を最後に東横線での運用を終了し同日中に長津田検車区へ回送され、翌日付で田園都市線に転属している。その後中間車2両を組み込んで10両編成化し、以後は他の編成と同じく田園都市線での運用となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "5両編成(大井町線)", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年度に大井町線への転用が行われた。同線では各停運用に使用されている。2018年11月16日から翌年2月1日まで、改造・編成短縮済の2003Fが営業運転を行った。またこれと並行して残る2編成にもほぼ同様の改造を実施、その後全3編成で編成組替えを実施し、9020系(9021F - 9023F)に改められた。同系列は2月11日の9022Fを皮切りに3月末までに全編成が営業運転を開始している。余剰となった中間車15両はいずれも廃車・解体された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "本系列は9000系とともに、新造車両による置き換えと西武鉄道への譲渡が公表されている。置き換えについては2023年度より車両新造に着手しており、また西武鉄道への譲渡後については同社で「サステナ車両」として支線系に導入するものとされている。西武での形式は未定。", "title": "今後の予定" } ]
東急2000系電車(とうきゅう2000けいでんしゃ)は、1992年(平成4年)に導入した東急電鉄の通勤形電車である。 本項では2000系電車のほか、同系列を改造した9020系電車についても記述する。 本項では個別の編成を示す際には渋谷・押上・大井町方先頭車の車両番号で代表する。
{{鉄道車両 | 車両名 = 東急2000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = 東急電鉄2000系電車.jpg | 画像説明 = 2000系2001F<br>(2019年7月14日 [[たまプラーザ駅]]) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]]<!-- →<br />[[東急電鉄]]へ分社前に消滅--> | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = 1992年 - 1993年 | 製造数 = 3編成30両 | 運用開始 = 1992年3月(田園都市線)<br>1993年2月3日(東横線)<br>2018年11月16日(大井町線) | 消滅 = 1993年11月(8両編成)<br>2018年10月3日(10両編成)<br>2019年2月1日(5両編成) | 編成 = 10両編成(田園都市線)<br>8両編成(東横線)<br>5両編成(大井町線) | 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]](東急線内)<br />80 km/h(半蔵門線内) | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.3 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]] | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = 1,412(座席522)人 | 車両定員 = 先頭車130(座席48)人<br />中間車144(座席54または51)人 | 自重 = 26.2 - 34.7 t | 編成重量 = 312.4 t | 全長 = 20,000 mm | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 4,035 mm<br/>4,050 mm(パンタ付車両) | 車体材質 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = ボルスタレス台車 TS-1010・TS-1011 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] | 主電動機出力 = 170 kW(更新前)<br>175 kW(更新後) | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 99:14(7.07) | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]素子・1C8M(更新前)<br>[[炭化ケイ素|SiC]]-[[MOSFET]]素子・1C4M(更新後) | 制動装置 = ATC連動[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]] | 備考 = 2000系のデータ }} '''東急2000系電車'''(とうきゅう2000けいでんしゃ)は、[[1992年]]([[平成]]4年)に導入した[[東急電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本項では2000系電車のほか、同系列を改造した[[#9020系|9020系電車]]についても記述する。 本項では個別の編成を示す際には渋谷・押上・大井町方先頭車の車両番号で代表する(例:2001F)。 == 概要 == 2000系は田園都市線の輸送力増強のため導入され、1992年(平成4年)3月に営業運転を開始した<ref name="PIC1992-9">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1992年9月号p.89「東京急行電鉄の話題 2000系営業運転開始」によれば、同年3月29日から営業運転を始めたと記載されている。</ref>。[[東急車輛製造]]で10両3編成が製造されている。なおこのうち2003Fは8両編成で落成し、一時的に東横線で運用されていた。後に5両編成となり大井町線へ転用、また9020系へと改造されている。 [[1986年]]([[昭和]]61年)に登場した[[東急9000系電車|9000系]]をベースに設計され、[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]乗り入れへの対応、客室内の改良、乗り心地の向上などが図られた。また、設計に当たっては「より良い居住性」「運転操作性の向上」「[[省エネルギー]]化」「保守性の改善」などの9000系からの基本理念に加え「人にやさしい車両」を目指している。 {{独自研究範囲|date=2023年9月|当時の東急電鉄では車両[[寿命]]を40年から50年程度とする方針の下で車両の更新を行っていたため}}{{要出典|date=2023年9月}}、東急における[[旅客]][[営業]]用電車の製造は本形式導入後、[[1999年]](平成11年)に登場した[[東急3000系電車 (2代)|3000系]]まで途絶えることになった。 == 車両概説 == === 車体 === [[ファイル:Tokyu2000 tama50.jpg|thumb|220x220px|スカート設置前の2000系2002F<br/>(2003年11月22日 [[つきみ野駅]])]] 9000系と同一の[[オールステンレス車両|ステンレス鋼]]製20[[メートル|m]]4扉車体を採用した。これは車両設計費の低減や構体・扉・窓などの部材を共通化することで予備品の低減、さらに運転操作や検修時の取り扱いの統一・標準化を図ることが目的である<ref name="RM1992-5">「レイルマガジン」1992年5月号</ref> 。前面と側面には東急の[[コーポレートカラー]]である赤色のラインカラーを巻く。 前面も9000系と同一の[[非常口]]貫通式としており、非常用の[[梯子]]が設置してある。当初は小形であったが、後年に大形のものへと交換した。[[2005年]](平成17年)[[1月]]に3編成すべてに補助[[排障器]](スカート)を装着した<ref>『鉄道ファン』2005年9月号(通巻533号)付録「大手私鉄車両ファイル」</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20050308115407/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics2/2005/01/27152126.shtml 2000系に補助排障器(スカート)を設置いたしました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。 [[方向幕|行先表示器]]は字幕式であったが、2003Fは営業運転開始前後に3色[[発光ダイオード|LED]]式に交換された。その後2004年度に2003F、2006年度に残る2編成が5000系列等のようにフルカラーと白色の表示器に交換された<ref>『鉄道ピクトリアル』2015年12月臨時増刊号(通巻912号)「東京急行電鉄 現有車両プロフィール」年度別車両動向 pp.237 - 249</ref><ref>鉄道友の会「RAIL FAN」No.661記事「2006年度 東急総決算」</ref>。このとき交換された2003Fの種別表示器は8500系と同じ小型のものであったが、2001F・2002Fの交換後にこれらと同じものへ再度交換されている。 この前面の表示器の横には[[通過標識灯|急行灯]]があり、[[優等列車]]として運転される際に点灯していたが、2002年(平成14年)4月より使用が停止され、前述の表示器フルカラー化に際して撤去された。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[東急1000系電車|1000系]]1006F以降と同一の[[東芝]]製[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]で、11.6 kW (10,000 [[冷凍能力|kcal/h]]) 容量のRPU-2214Cを搭載する。1両につき4台である点は従来車と同じだが、本系列では車体全長にダクトを配することで装置の配置が変更されている。2台を寄せ1群として連続したカバーに収めたものを、車体中央に寄せて2群配置したものとなり、これまでパンタグラフ搭載車のみ異なっていた配置が全車種で共通化された。冷房制御方式は1000系で実績のあるインバータによる能力可変制御を採用し、快適性の向上を図っている。 このほか雑多なものとして、車体側面には車外[[スピーカー]]を搭載、3号車にあたるデハ2200形の妻面と床下には半蔵門線用の[[列車無線アンテナ|誘導無線アンテナ]]と無線送受信機本体を搭載している。また後年の改造で連結部への[[転落防止幌]]の設置や黄色テープの貼付、前照灯のLED化などが行われた。 === 内装 === 基本的には9000系に準じた仕様となっているが、冷房ダクトを用いた冷風拡散方式や、[[網棚]]の端を延長して物を載せやすくした形状などは[[東急1000系電車|1000系]]に準拠したものとなっている。また、従来客室壁に取り付けていた[[消火器]]は収納カバーに収めるように変更した。客室はすべて[[鉄道車両の座席|ロングシート]](1人の掛け幅は440 [[ミリメートル|mm]])配置である。各車上り方(上り方先頭車は下り方)に[[優先席]]がある。天井補助送風機を設置しているが、田園都市線の混雑に配慮して先頭車に9台、中間車に10台と9000系よりも台数が多くなっている。 なお、一部車両において、「快適な空間づくり」を目指して在来各系列では見られなかったアイデアを試験的に施している。これは今後の通勤電車の内装のモデルケースとしての意味合いもある<ref name="RM1992-5" />。 2001F・2002Fのうち3・9号車(デハ2201・2202・2401・2402号)で試験採用され、後の2003Fでは一部改良の上で全面的に採用された。 * 3・9号車(8両編成時には3・7号車)の車端部(上り方・山側)に[[車椅子スペース]]を設置。 * 7人掛け[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]の仕切部に[[スタンションポール]](縦握り棒)を新設。1次車では2種類の形状で比較試験が行われ、3号車は仕切の上に、9号車は仕切の前に立つ形態とされた。 ** 2003Fでは後者を採用。 * 7人掛けロングシート下部の蹴込み板を後退させ、足下のスペースを拡大(車端部は大形のまま)。 * 座席に柄付き[[モケット]]を採用。赤と黄色ベースにそれぞれ2種類のデザインが採用され、1次車では3号車がストライプ、9号車が花柄とされた。 ** 2003F(8両編成)では[[奇数]]号車が花柄、[[偶数]]号車がストライプとされた。後に4号車(ストライプ)・7号車(花柄)を増結し10両化しており、モケットの順番が不規則となった。 * [[カーテン]]に東急沿線の[[名所]]である[[横浜ベイブリッジ]]・[[109 (商業施設)#109本体|渋谷109]]・旧[[田園調布駅]]舎をデザイン。 * 貫通扉窓の形状を変更(三角形の窓を点対称に2枚配置)。 * 禁煙表示と[[消火器]]表示などの車内表示を[[ピクトグラム]]化。 なお、モケットとカーテンは、後に従来車と同じ無地のものへ交換された。また本系列の製造と同時期に更新工事を実施していた[[東急7600系電車|7600系]]や[[東急8000系電車|8000系]]では本系列の意匠が取り入れられている。 落成時から[[車内放送|自動放送装置]]を搭載しており、田園都市線のみならず乗り入れ先の半蔵門線でも自動放送を実施している。また前述の車外スピーカーにおいては[[車掌]]の操作で当時の営団と同じ仕様の「扉が閉まります。ご注意ください」という[[発車メロディ|乗降促進放送]]を流すことができる。 [[2003年]](平成15年)8月から[[2004年]](平成16年)3月にかけて、側引戸の鴨居部にLED式2段表示の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]とドア開閉を予告する表示灯を千鳥配置で設置した。ともに[[ドアチャイム]]用のスピーカーを内蔵している<ref>『鉄道ファン』2004年9月号(通巻521号)付録「大手私鉄車両ファイル」</ref>。また、優先席の[[つり革]]は後年にオレンジ色で三角形のものに交換されている。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> ファイル:Inside-Tokyu2000-1.jpg|1次車の車内(デハ2251)<br>9000系と類似 ファイル:Inside-Tokyu2000-2.jpg|2003Fの車内 ファイル:Inside-Tokyu2000-3.jpg|3号車の上り方車端部(デハ2201) 写真左側に車椅子スペースを備える。 ファイル:Inside-Tokyu2000-4.jpg|1次車・3号車の座席(デハ2201) 縦握り棒は仕切の真上に立つ。 ファイル:Inside-Tokyu2000-5.jpg|2003Fの座席 縦握り棒は仕切りの前に立つ。1次車の9号車も同形状。 </gallery> <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 画像:Tokyu2000info1.jpg|車内案内表示器。停車中で駅名を1段表示中 画像:Tokyu2000info2.jpg|車内案内表示器。写真では2段で案内を表示している 画像:Tokyu2000info3.jpg|案内表示器の反対側のドア上部。左側の黒い箱状のものがドア開閉予告表示灯である </gallery> === 乗務員室 === [[操縦席|乗務員室]]についても乗務員が取り扱う機器を統一するため、9000系と基本的に大きな変更はない。本系列では左側の壁に半蔵門線用の[[列車無線|誘導無線]]の送受話器がある。乗務員室内アイボリー色、運転台計器盤はつや消し茶色の[[配色|カラースキーム]]を採用している。[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]の操作部はT字形ワンハンドルマスコンとし、[[デッドマン装置]]を備える。フロントガラスの日除けにはロール式の[[カーテン]]が設置してある。また、後年に非常扉部にもカーテンが追加された。 乗務員室仕切りは前面窓と同じ配置で仕切窓が3枚あり、そのうち客室から見て左側2枚の窓には[[遮光幕]]を設置するが、遮光幕は一般的なロールアップ式ではなくアルミ製・板状のものである。 [[車掌スイッチ]]は当初は機械式であったが、[[2007年]](平成19年)に間接制御式([[継電器|リレー]]式)に交換された。<gallery widths="150" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu2000back1.jpg|乗務員室背面仕切部 ファイル:Tokyu2000back2.jpg|仕切窓の下降式遮光板 下から引き出して使用する。 </gallery> === 走行機器 === [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体|素子]]を用いた[[日立製作所]]製[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]装置(VFG-HR1820D)<!-- VF-HR132は誤り -->を採用、1台の制御器で2両分8個のモーターを制御する1C8M制御方式である。 主電動機はTKM-92形[[かご形三相誘導電動機]](出力170 [[キロワット|kW]]、端子電圧1,100 [[ボルト (単位)|V]]、電流115 [[アンペア|A]]、周波数64 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、回転数1,860 [[rpm (単位)|rpm]])である。 ブレーキ装置は[[回生ブレーキ]]を併用したアナログ指令式の[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式空気ブレーキ]]で、ATCの連動式である。また、ブレーキ制御には[[遅れ込め制御]]を併用している。 [[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) はレシプロ式低騒音形のHS20-1形を編成で4台搭載している。補助電源装置は[[東芝]]製GTO素子を使用した170 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力[[静止形インバータ]] (SIV) であり、編成で3台搭載している。[[集電装置]]は[[剛体架線]]に対応した菱形パンタグラフ(PT44S-D-M形)であり、9000系と同一品である。 現在の保安装置はいずれも東急線・東京メトロ用の[[自動列車制御装置|ATC]]装置を搭載している。 台車は9000系から採用している[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]を基本としているが、円筒形積層ゴム式軸箱支持装置の採用などにより、高速時の乗り心地を向上させた。形式はTS-1010・TS-1011形である。基礎ブレーキは[[動力車|電動車]]が片押し式[[踏面ブレーキ]]、[[付随車]]は[[ディスクブレーキ]]としている。本系列での採用を前に9000系クハ9015号において[[1991年]](平成3年)3月から6月にTS-1009台車として実車試験を実施して、採用に問題がないことを確認した。 === 編成表 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:4em;" |&nbsp; | colspan="10" style="background-color:#9f9;" |{{TrainDirection|押上・渋谷|中央林間}} ! rowspan="6" |区分<ref name=":0">JTBパブリッシング「東急ステンレスカーのあゆみ」</ref> ! rowspan="6" |製造年<ref name=":0" /> |- ! 号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 |- ! パンタ | || || ◇   || || || ◇   || || || ◇   || |- ! 形式 | '''クハ2000'''<br />(Tc2) | '''デハ2250'''<br />(M2) | '''デハ2200'''<br />(M1) | '''サハ2700'''<br />(T2) | '''デハ2350'''<br />(M2) | '''デハ2300'''<br />(M1) | '''サハ2800'''<br />(T1) | '''デハ2450'''<br />(M2) | '''デハ2400'''<br />(M1) | '''クハ2100'''<br />(Tc1) |- !車椅子 | | |●   | | | | | |●   | |- ! 搭載機器 | &nbsp; || SIV,CP || VVVF2 || &nbsp; || SIV,CP || VVVF2 || CP || SIV,CP || VVVF2 || &nbsp; |- style="border-top:solid 2px #666;" ! rowspan="2" |車号 |2001<br />2002 |2251<br />2252 |2201<br />2202 |2701<br />2702 |2351<br />2352 |2301<br />2302 |2801<br />2802 |2451<br />2452 |2401<br />2402 |2101<br />2102 |1次車 |1992.03.26 |- | 2003 || 2253 || 2203 || <u>2703</u> || 2353 || 2303 || <u>2803</u> || 2453 || 2403 || 2103 |2次車<br />3次車 (<u>下線</u>) |1993.02.03<br />1993.11.17 (<u>下線</u>) |} ;凡例 :VVVF2:主制御器(1C8M)、SIV:補助電源装置(静止形インバータ)、CP:[[圧縮機|空気圧縮機]]、◇:菱形パンタグラフ == 大井町線への転属 == 2003Fのうち付随車を除く8両に対して2017年5月から2018年3月にかけて、長津田車両工場にて機器更新、内装リニューアル工事を施工した<ref>交友社「鉄道ファン」2018年6月号</ref>。 * VVVFインバータ制御装置を[[炭化ケイ素|SiC]]-[[MOSFET]]素子を用いた三菱電機製に換装。1C8M制御から1C4M2群制御に変更。 * 主電動機を出力175 kW全閉形の三相誘導電動機に換装。 * 補助電源装置を東芝製の待機2重系260 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力 [[静止形インバータ]] (SIV) に換装。 * M1車の[[パンタグラフ]]をシングルアーム化、下り方に増設。 * 空調装置の換装。 * 車外[[スピーカー]]の換装。 * 火災対策実施。 * 腰掛モケット・カーテン・床敷物・化粧板の交換。 * 各号車に車椅子スペースを設置。 * ブレーキ受量器の改修。 * 19芯ジャンパ栓設置。 また後述の2編成を含め、改造された15両については事前に室内灯のLED化が行われていた。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:4em;" |&nbsp; | colspan="10" style="background-color:#9f9;" |{{TrainDirection|押上・渋谷|中央林間}} ! rowspan="6" |入場 ! rowspan="6" |出場 |- ! 号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 |- ! パンタ | || || {{left|<}}{{right|>}} || || || {{left|<}}{{right|>}} || || || {{left|<}}{{right|>}} || |- ! 形式 | '''クハ2000'''<br />(Tc2) | '''デハ2250'''<br />(M2) | '''デハ2200'''<br />(M1) | '''サハ2700'''<br />(T2) | '''デハ2350'''<br />(M2) | '''デハ2300'''<br />(M1) | '''サハ2800'''<br />(T1) | '''デハ2450'''<br />(M2) | '''デハ2400'''<br />(M1) | '''クハ2100'''<br />(Tc1) |- !車椅子 |   ● |   ● |●    | |   ● |●    | |   ● |●    |●    |- ! 搭載機器 | &nbsp; || SIV,CP || VVVF2 || &nbsp; || SIV,CP || VVVF2 || CP || SIV,CP || VVVF2 || &nbsp; |- style="border-top:solid 2px #666;" !車号 | '''2003''' || '''2253''' || '''2203''' || 2703 || '''2353''' || '''2303''' || 2803 || '''2453''' || '''2403''' || '''2103''' |2017.05.10 |2018.03.17 |} 出場した2003Fは試運転のみ実施したのち2018年5月に再び長津田車両工場へ入場し、9月に5両編成の[[東急大井町線|大井町線]]仕様となって出場<ref>[https://railf.jp/news/2018/09/30/203000.html 東急2000系2103編成が大井町線仕様に] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2018年9月30日</ref>。改造を施工した8両のうち上り方先頭車と下り方4両を用いており、後述の9020系とは2号車の搭載機器が異なる。[[ファイル:Tokyu 2000 series Ōimachi Line 20181230.jpg|thumb|250px|大井町線に転属した2000系2003F<br />(2018年12月30日 [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]])]]同編成は11月16日より大井町線で営業運転を開始したが、2019年2月1日を最後に運用を終了、同日に長津田車両工場へ入場し9020系へと改造された。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="5" style="background-color:#fc6;" |{{TrainDirection|大井町|二子玉川・溝の口<small>・鷺沼</small>}} ! rowspan="6" |入場 ! rowspan="6" |竣工・<br />転属<ref name=":1">『鉄道ファン』2019年8月号(通巻700号)付録「大手私鉄車両ファイル」</ref> |- !号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 |- !パンタ | || {{left|<}}{{right|>}} || || {{left|<}}{{right|>}} || |- !形式・車種 |'''クハ2000'''<br />(Tc2) |'''デハ2300'''<br />(M) |'''デハ2450'''<br />(M2) |'''デハ2400'''<br />(M1) |'''クハ2100'''<br />(Tc1) |- !車椅子 |   ● |●    |   ● |●    |●    |- !搭載機器 | CP || VVVF2 || SIV,CP || VVVF2 || CP |- style="border-top:solid 2px #666;" ! rowspan="17" |車号 | 2003 || 2303 || 2453 || 2403 || 2103 |2018.05.24 |2018.09.21 |} ;凡例 :VVVF2:主制御器(1C4M2群)、SIV:補助電源装置(静止形インバータ)、CP:[[圧縮機|空気圧縮機]]、<>:シングルアームパンタグラフ == 9020系 == {{鉄道車両 | 車両名 = 東急9020系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu-Oimachi-Line Series9020-9021.jpg | 画像説明 = 9020系9021F<br>(2021年12月18日 [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]) | 種車 = 2000系 | 運用者 = 東京急行電鉄 →<br />[[東急電鉄]] | 運用開始 = 2019年2月11日 | 消滅 = | 編成 = 5両編成 | 最高運転速度 =110 km/h | 編成定員 = | 車両定員 = 先頭車130(座席45)人<br />中間車144(座席51)人 | 自重 = | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] | 主電動機出力 = 175 kW | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 99:14(7.07) | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = [[炭化ケイ素|SiC]]-[[MOSFET]]素子・1C4M | 制動装置 = ATC連動[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = | 備考 =2000系との相違点等のみ記載 | 改造数 = 3編成15両 | 投入先 = 大井町線 }} 大井町線向けに2000系を改造・編成組替えを行い誕生した形式で、2019年(平成31年)2月11日に9022Fが営業運転を開始した<ref>[https://railf.jp/news/2019/02/18/170000.html 東急2000系改め,9020系が登場] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2019年2月18日</ref>。 前述の2003Fのうち8両のほか、2001Fのうち2両、2002Fのうち5両にそれぞれ2003Fと同様の改造を施工、これらを用いて組替えが行われた。全車両が改番され、中間車のみ5000系以降に準じた付番方式となった。中間車は2号車(M)が元2002FのM1、3号車(M2)・4号車(M1)が元2003FのM2・M1で揃えられている。 最初に入場した2002Fは先頭車とM1に改造を施工し、M1は3両とも単独デハ(M)に変更された。ここから2302・2402を抜取り、バラの2253・2203を組込んで9022Fへ。最初に出場。 二番目に入場した2001Fは先頭車のみ改造を施工。前述の2402とバラの2353、後述の2303を組み込んで9021Fへ。最後に出場。 改造済の2003Fも2号車の搭載機器が異なることから再度入場、2303を抜取り、前述の2302を組み込んで9023Fへ。二番目に出場。 なお、改造対象から外れた15両は2018年夏から秋にかけて[[廃車 (鉄道)|廃車]]となり<ref name=":1" />、年内に全て陸送・解体された。 本系列の形式名は東急電鉄公式サイト内「安全報告書2019」においては「9020系」の表記が見られる<ref>https://www.tokyu.co.jp/railway/service/activity/safety/webcate_list.html</ref>。また2020年([[令和]]2年)11月に発行された「東急電鉄完全ガイド」(ネコ・パブリッシング)のコーナー「現行車両14形式全方位ガイド」のP48-52では「9020系」と表記されている。 === 編成表 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc; width:6em;" |&nbsp; | colspan="5" style="background-color:#fc6;" |{{TrainDirection|大井町|二子玉川・溝の口<small>・鷺沼</small>}} ! rowspan="6" |入場 ! rowspan="6" |竣工<ref name=":1" /><br>(車号変更) ! rowspan="6" |備考 |- !号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 |- !パンタ | || {{left|<}}{{right|>}} || || {{left|<}}{{right|>}} || |- !形式 |'''クハ9020'''<br />(Tc2) |'''デハ9220'''<br />(M) |'''デハ9320'''<br />(M2) |'''デハ9420'''<br />(M1) |'''クハ9120'''<br />(Tc1) |- !車椅子 |   ● |●    |   ● |●    |●    |- !搭載機器 | CP || VVVF1 || SIV,CP || VVVF2 || CP |- style="border-top:solid 2px #666;" ! rowspan="17" |車号 | 9021<br />(2001) || 9221<br />(2402) || 9321<br />(2353) || 9421<br />(2303) || 9121<br />(2101) |2018.10.03|| 2019.03.22 | style="text-align:left;" |4号車の(元)デハ2303は、2003Fの2号車としての大井町線運用実績あり。 |- | 9022<br />(2002) || 9222<br />(2202) || 9322<br />(2253) || 9422<br />(2203) || 9122<br />(2102) |2018.07.13|| 2019.02.10 | style="text-align:left;" | |- | 9023<br />(2003) || 9223<br />(2302) || 9323<br />(2453) || 9423<br />(2403) || 9123<br />(2103) |2019.02.01|| 2019.02.14 | style="text-align:left;" |2003Fとしての5両編成では2号車がデハ2303であったが、9020系化に際して(元)デハ2302に差し替えられた。 |} ;凡例 :VVVF2:主制御器(1C4M2群)、VVVF1:主制御器(1C4M)、SIV:補助電源装置(静止形インバータ)、CP:[[圧縮機|空気圧縮機]]、<>:シングルアームパンタグラフ {{-}} == 運用 == '''10両編成(田園都市線・運用終了)''' [[長津田検車区]]に配置され、1992年(平成4年)3月(日付は諸説あり)に営業運転を開始、田園都市線から東京メトロ半蔵門線への直通運用に使用されていた。当初は[[東急8500系電車|8500系]]、また後に登場した[[東急5000系電車 (2代)|5000系]]などと共通運用であった。[[2003年]]3月から田園都市線では[[東武伊勢崎線|東武線]]への[[直通運転]]が開始され、多くの車両は東武線への乗り入れに対応することとなったが、8500系や5000系と比べ本数が極端に少ない本系列は[[乗務員]][[教習所|教習]]等の手間により東武線乗り入れ編成から除外された。このため、識別するために前面[[貫通扉|非常扉]]の窓に「K」のマークを貼付しており、また営業運転区間は最大でも[[中央林間駅]]から半蔵門線[[押上駅]]までであった。[[東急2020系電車|2020系]]の導入により、2018年10月3日の2002Fを最後に運用を終了した。 '''8両編成(東横線・運用終了)''' 2003Fのみ8両編成で落成し、[[1993年]](平成5年)[[2月3日]]より[[東急東横線|東横線]]に暫定投入された<ref name="PIC-1993-73">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1993年7月号「東京急行電鉄における車両の配置転換」pp.62 - 64。</ref>。同年[[11月1日]]を最後に東横線での運用を終了し同日中に[[長津田検車区]]へ回送され<ref name="PIC-1994-33">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1994年3月号「読者短信」p.118。</ref>、翌日付で田園都市線に転属している。その後中間車2両を組み込んで10両編成化し<ref name="PIC-1994-33" />、以後は他の編成と同じく田園都市線での運用となった。 '''5両編成(大井町線)''' 2018年度に[[大井町線]]への転用が行われた。同線では各停運用に使用されている。2018年11月16日から翌年2月1日まで、改造・編成短縮済の2003Fが営業運転を行った。またこれと並行して残る2編成にもほぼ同様の改造を実施、その後全3編成で編成組替えを実施し、'''9020系'''(9021F - 9023F)に改められた。同系列は2月11日の9022Fを皮切りに3月末までに全編成が営業運転を開始している。余剰となった中間車15両はいずれも廃車・解体された。 == 今後の予定 == 本系列は[[東急9000系電車|9000系]]とともに、新造車両による置き換えと[[西武鉄道]]への譲渡が公表されている。置き換えについては2023年度より車両新造に着手しており<ref>{{Cite web|和書|title=大井町線9000系・9020系の置き換え車両新造へ、東急の2023年度設備投資計画 |url=https://www.tetsudo.com/news/2886/ |website=鉄道コム |date=2023-05-11 |access-date=2023-06-23 |language=ja |last=https://www.facebook.com/tetsudocom}}</ref><ref>[https://www.tokyu.co.jp/company/news/list/Pid=post_495.html 2023年度の設備投資計画 さらに安全・安心な鉄道サービスを追求し、時代に即した社会的価値提供のため 総額431億円を投資] - 東急電鉄株式会社ニュースリリース 2023年5月11日発表</ref><ref name="toyo">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/705159 |title=西武が小田急・東急の「中古車両」を導入する狙い |page=2 |website=東洋経済オンライン |date=2023-10-01 |accessdate=2023-10-04}}</ref>、また西武鉄道への譲渡後については同社で「[[サステナ車両]]」として支線系に導入するものとされている<ref>[https://www.tetsudo.com/column/643/ 西武が導入する「サステナ車両」、発表にない「第3の形式」も? 譲受車両の運用、既存車両の今後の動向を聞く] - 鉄道コム 2023年9月30日掲載</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/128399 西武の「サステナ車両」実は3車種!? 東急9000系そっくり元・田園都市線「9020系」のゆくえ] - 乗りものニュース 2023年9月30日掲載</ref><ref>[https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20230926_sasutenatrain/ 西武鉄道と東急電鉄・小田急電鉄「サステナ車両」を授受 各社連携して、SDGsへの貢献を加速してまいります] - 西武鉄道ニュースリリース 2023年9月26日発表</ref>。西武での形式は未定。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 渡辺峰男「新車ガイド 東急2000系」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1992年5月号(通巻373号)、[[交友社]]。 * 尾崎正明「東京急行電鉄2000系」『[[鉄道ピクトリアル]]新車年鑑1992年版』1992年10月臨時増刊号(通巻566号)、[[鉄道図書刊行会]]。 * 川口雄二「東京急行電鉄2000系電車」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号(通巻559号)、鉄道図書刊行会。 * 渡辺峰男「東京急行電鉄 2000系」『電気車の科学』1992年4月号(通巻528号)、電気車研究会。 * 川口雄二「東京急行電鉄2000系について」『[[レイルマガジン]]』1992年5月号、[[ネコ・パブリッシング]]。 * 金子智治「東京急行電鉄 現有車両プロフィール 2015」『鉄道ピクトリアル』2015年12月臨時増刊号(通巻912号)、電気車研究会。 * 荻原俊夫「東急ステンレスカーのあゆみ」JTBパブリッシング == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkyū 2000 series}} {{東急電鉄の車両}} {{DEFAULTSORT:とうきゆう2000けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|2000]] [[Category:1992年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-06T12:13:51Z
2023-11-24T18:26:30Z
false
false
false
[ "Template:Left", "Template:Right", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:東急電鉄の車両", "Template:独自研究範囲", "Template:要出典", "Template:TrainDirection", "Template:-", "Template:鉄道車両" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A52000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,422
所沢駅
所沢駅(ところざわえき)は、埼玉県所沢市くすのき台一丁目にある、西武鉄道の駅である。 管区長配置駅であり、「所沢駅管区」として池袋線の当駅 - 狭山ヶ丘駅間の各駅と狭山線の全駅を管理している。 西武鉄道の主要路線である池袋線と新宿線が乗り入れ、郊外の拠点駅・ジャンクションとなっている。池袋線特急「ちちぶ・むさし」、新宿線特急「小江戸」などの全ての営業列車が停車する。また、両路線を直通する列車も一部設定されている。埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い駅である。 駅周辺、特に西口はプロぺ通り商店街や大型商業施設が立地する所沢市の中心市街地であり、駅ビルの「Grand Emio(グランエミオ)所沢」や西武鉄道本社ビルなど西武グループの重要施設が集積している。豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまでは親会社の西武ホールディングスの本社も所在していた。他にも旧セゾングループ(かつての西武流通グループ)の西武百貨店(西武所沢S.C.)や西友の店舗も所在している。 西武鉄道の2大幹線である新宿線(駅番号:SS22)と池袋線(駅番号:SI17)が乗り入れ、両路線の乗換駅として機能している。歴史的な経緯から、西武鉄道の案内図では新宿線の方が優先され、『新宿線所沢駅』としていることが多い。後から乗り入れた池袋線は所沢駅付近で大きくカーブをしている。 このほか、池袋線当駅 - 秋津間の秋津寄りにJR武蔵野線新秋津駅への連絡線が分岐している。武蔵野線の開業後に、この連絡線を使って貨物列車の受け渡しが行われたが、貨物列車の廃止後は新型車両の搬入や他社へ譲渡する中古車の搬出用(車両輸送)に使われている。なお、孤立路線である多摩川線の車両の出入りもこの連絡線を通じて行われている。 新宿線・池袋線共に全定期旅客営業列車が停車する。 単式ホーム1面1線、島式ホーム2面4線、計3面5線を有する地上駅。西武二大幹線が交わるジャンクションであり、名実ともに相互乗換駅として機能している。 大規模な橋上駅舎となっている。中央部に2本の改札外自由通路があり、その2つを結ぶ改札外広場を挟んで、北側に中央改札、南側に南改札が設けられている。駅事務室は中央改札脇にある。中央改札側の改札内コンコースには駅ナカ店舗が出店しており、その屋上に「とこてらす」と名付けられたオープンスペースが存在する。また東口側駅ビルと直結したIC専用のグランエミオ改札がある。一方で南改札側の改札内コンコースには、授乳室やおむつ替えコーナーを備えた待合スペース「とことこひろば」があるほか、線路上から眺望できる屋外デッキがある。 出店店舗の詳細は西武プロパティーズ公式サイト「所沢駅の店舗情報」を参照。 ※ 狭山そば以外の店舗はグランエミオ所沢扱いだったが、2020年9月2日のII期開業後は通常の駅ナカ店舗扱いとなっている。 2010年代に大規模橋上駅舎化を軸とする段階的な駅舎改良工事が行われた。それ以前は旧来からの西口地上駅舎と、東西自由通路を兼ねた南側橋上駅舎とに分かれており、さらに東口には平屋の商業施設があるのみだった。 21世紀に入り、西武鉄道創立100周年の節目であり、池袋線が東京メトロ副都心線を通じて東急東横線との相互直通運転を開始する2012年度の完成を目指し、駅舎改良工事に着手することが2009年12月に決定し、その後完成した。 改良工事の主なポイントは である。2012年11月27日に完成し、旅客用トイレの橋上駅舎への移設・キッズトイレ設置などが行なわれ、これに伴い南側のきっぷうりば・改札口は新橋上駅舎への移設と廃止、また南側の乗換え用跨線橋も廃止された(南側の自由通路は継続使用されたのち、橋上駅舎の拡張工事のため廃止)。 これらの改良点が評価され、所沢駅は一般社団法人鉄道建築協会が主催する「第58回鉄道建築協会賞」の作品部門において、「停車場建築賞」を受賞している。 2018年3月以降、II期工事が開始され、橋上駅舎内にあった店舗の大半と南側自由通路が廃止・撤去となり、南口改札の新設とホームの東村山・西所沢方(駅南側)へ階段等の設置・I期工事で完成した部分の橋上駅舎と接続しスペース拡大・西武百貨店および旧南口から続くペデストリアンデッキの延長接続とそれに伴うバスターミナルの改良などが行われ、2020年9月2日に営業開始した。南口改札内には、授乳室やパウダールーム等を備えた待合スペース「とことこひろば」や、駅南側を一望できる「展望デッキ」が新設された。 全ホームでホームドアが稼働している。 (出典:西武鉄道:駅構内図) 各ホームは3ヶ所で連絡している。ホームの北端(本川越・池袋方)には跨線橋があり、これは乗り換え専用でいずれの改札にもアクセスできない。残り2ヶ所は橋上駅舎による連絡で、ホーム中央部には中央改札、ホーム南端(西武新宿・吾野方)には南改札からアクセスできる。 先に建設された新宿線が一直線に当駅へ進入しているのに対し、新宿線に合わせるような形で建設された池袋線は急カーブで駅構内に進入する形になっている。 新宿線と池袋線で上下線が逆向きに進入しているため、一見して方向がわかりにくい反面、通勤需要の多い東京方面行きが同一ホーム(2・3番線)で乗り換え可能になるメリットをもたらした。実際に「本川越方面からの西武新宿方面行き」と「飯能方面からの池袋方面行き」の列車接続待ちがしばしば行われる。 それ以外にも様々な柔軟な運行が可能な配線となっている。 南側(西武新宿・吾野方)には池袋線と新宿線に挟まれた位置に2本の留置線があり、これを用いて池袋線の4番ホーム到着列車を折り返し、3番ホームに入線させて池袋方面の列車として運行している。この留置線は、夜間に8両編成と10両編成を留置し、翌日のラッシュ時に設定されている清瀬・保谷始発の列車に対応する。なお2022年6月より、留置線付近の下を通るアンダーパスの工事進捗に伴い、2線のうち池袋線上り本線に近い1線が使用停止となり、該当の夜間留置は小手指車両基地へ回送させ、翌朝は小手指車両基地から出庫させる措置をとっている。 当初は他駅と同様に西武鉄道オリジナルの汎用発車メロディを使用していたが、2020年11月3日に、所沢市が舞台とされているアニメーション映画『となりのトトロ』の関連楽曲をアレンジしたものに変更している。これは同市が市制施行70周年を記念するために企画したもので、監督の宮崎駿、音楽を手掛けた久石譲、制作したスタジオジブリの協力を得て実現した。メロディはスイッチの制作で、編曲は福嶋尚哉が手掛けた。 2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は95,294人で、西武鉄道全92駅中第7位である。この値は、新宿線・池袋線間の乗換客を含まない。新宿線内では高田馬場駅、西武新宿駅に次ぐ第3位、池袋線内では池袋駅、練馬駅に次ぐ第3位である。 埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い。 新宿線の乗降人員は4万人程度で横ばいであるが、池袋線の乗降人員は増加傾向が続いている。新宿線と池袋線の乗換客は約12万人で横ばいであり、乗換客を含めた1日平均乗降人員は約22万人である。 近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。 近年の路線別乗降人員の推移は以下の通り。 当駅周辺は所沢市の中心部であり、駅を中心に市街地が広がっている。西口の駅前には、プロペ通り商店街をはじめ、西武百貨店(西武所沢S.C.)、西友、駅直結のグランエミオ所沢など、大型商業施設が進出している。また、複数の高層マンション(タワーマンション)が林立している。東口の駅前には、駅直結のグランエミオ所沢の他、西武鉄道本社ビル、日本光電工業総合技術開発センタなど、オフィスビルがある。なお、所沢市役所は隣の航空公園駅が最寄り駅となっている。当駅の東村山寄りからは西武鉄道の車両工場(西武所沢車両工場)への線路が分岐していたが、工場の廃止とともに線路も撤去され、引込線の敷地は転用された(かつて踏切だった道路を跨ぐ部分はレール撤去の上整地)。西口からは、ペデストリアンデッキで西武所沢S.C.、シティタワー所沢クラッシィに直接つながっている。また、2023年には、シティタワー所沢クラッシィに隣接する大型商業施設が開業予定である。 東口は1983年になって開設されたため、西口に比べて閑静な街並みとなっているが、西武鉄道の本社ビルが所在しているほか、2019年に豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまで西武ホールディングスの本社も位置していた。成田空港・羽田空港へのリムジンバスや多くの一般路線バスが発着する。西口にも路線バスが発着しているが、西口発着の路線は付近の道路渋滞による影響もあり、多くが東口発着や他駅発着に変更され、松が丘方面など路線だけに縮小している。 南側にある東村山7号踏切は、国土交通省から開かずの踏切並びに歩行者ボトルネック踏切に指定されている。この状況を解消すべく、所沢市が主体で単独立体交差事業(当該踏切のさらに南側で新設道路アンダーパス工事)を実施している。2028年度に完了する予定。所沢市が作成した総合計画実施計画書(2020 - 2023)では、2025年度の予定だった。 ※所沢市役所・所沢警察署・所沢郵便局は航空公園駅が最寄り。 路線バスとコミュニティバスは西武バス所沢営業所により運行されている。空港連絡バスと高速バスは西武バスと他社の共同運行となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "所沢駅(ところざわえき)は、埼玉県所沢市くすのき台一丁目にある、西武鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "管区長配置駅であり、「所沢駅管区」として池袋線の当駅 - 狭山ヶ丘駅間の各駅と狭山線の全駅を管理している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "西武鉄道の主要路線である池袋線と新宿線が乗り入れ、郊外の拠点駅・ジャンクションとなっている。池袋線特急「ちちぶ・むさし」、新宿線特急「小江戸」などの全ての営業列車が停車する。また、両路線を直通する列車も一部設定されている。埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅周辺、特に西口はプロぺ通り商店街や大型商業施設が立地する所沢市の中心市街地であり、駅ビルの「Grand Emio(グランエミオ)所沢」や西武鉄道本社ビルなど西武グループの重要施設が集積している。豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまでは親会社の西武ホールディングスの本社も所在していた。他にも旧セゾングループ(かつての西武流通グループ)の西武百貨店(西武所沢S.C.)や西友の店舗も所在している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "西武鉄道の2大幹線である新宿線(駅番号:SS22)と池袋線(駅番号:SI17)が乗り入れ、両路線の乗換駅として機能している。歴史的な経緯から、西武鉄道の案内図では新宿線の方が優先され、『新宿線所沢駅』としていることが多い。後から乗り入れた池袋線は所沢駅付近で大きくカーブをしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このほか、池袋線当駅 - 秋津間の秋津寄りにJR武蔵野線新秋津駅への連絡線が分岐している。武蔵野線の開業後に、この連絡線を使って貨物列車の受け渡しが行われたが、貨物列車の廃止後は新型車両の搬入や他社へ譲渡する中古車の搬出用(車両輸送)に使われている。なお、孤立路線である多摩川線の車両の出入りもこの連絡線を通じて行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新宿線・池袋線共に全定期旅客営業列車が停車する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "単式ホーム1面1線、島式ホーム2面4線、計3面5線を有する地上駅。西武二大幹線が交わるジャンクションであり、名実ともに相互乗換駅として機能している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大規模な橋上駅舎となっている。中央部に2本の改札外自由通路があり、その2つを結ぶ改札外広場を挟んで、北側に中央改札、南側に南改札が設けられている。駅事務室は中央改札脇にある。中央改札側の改札内コンコースには駅ナカ店舗が出店しており、その屋上に「とこてらす」と名付けられたオープンスペースが存在する。また東口側駅ビルと直結したIC専用のグランエミオ改札がある。一方で南改札側の改札内コンコースには、授乳室やおむつ替えコーナーを備えた待合スペース「とことこひろば」があるほか、線路上から眺望できる屋外デッキがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "出店店舗の詳細は西武プロパティーズ公式サイト「所沢駅の店舗情報」を参照。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "※ 狭山そば以外の店舗はグランエミオ所沢扱いだったが、2020年9月2日のII期開業後は通常の駅ナカ店舗扱いとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2010年代に大規模橋上駅舎化を軸とする段階的な駅舎改良工事が行われた。それ以前は旧来からの西口地上駅舎と、東西自由通路を兼ねた南側橋上駅舎とに分かれており、さらに東口には平屋の商業施設があるのみだった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "21世紀に入り、西武鉄道創立100周年の節目であり、池袋線が東京メトロ副都心線を通じて東急東横線との相互直通運転を開始する2012年度の完成を目指し、駅舎改良工事に着手することが2009年12月に決定し、その後完成した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "改良工事の主なポイントは", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "である。2012年11月27日に完成し、旅客用トイレの橋上駅舎への移設・キッズトイレ設置などが行なわれ、これに伴い南側のきっぷうりば・改札口は新橋上駅舎への移設と廃止、また南側の乗換え用跨線橋も廃止された(南側の自由通路は継続使用されたのち、橋上駅舎の拡張工事のため廃止)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これらの改良点が評価され、所沢駅は一般社団法人鉄道建築協会が主催する「第58回鉄道建築協会賞」の作品部門において、「停車場建築賞」を受賞している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2018年3月以降、II期工事が開始され、橋上駅舎内にあった店舗の大半と南側自由通路が廃止・撤去となり、南口改札の新設とホームの東村山・西所沢方(駅南側)へ階段等の設置・I期工事で完成した部分の橋上駅舎と接続しスペース拡大・西武百貨店および旧南口から続くペデストリアンデッキの延長接続とそれに伴うバスターミナルの改良などが行われ、2020年9月2日に営業開始した。南口改札内には、授乳室やパウダールーム等を備えた待合スペース「とことこひろば」や、駅南側を一望できる「展望デッキ」が新設された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "全ホームでホームドアが稼働している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "(出典:西武鉄道:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "各ホームは3ヶ所で連絡している。ホームの北端(本川越・池袋方)には跨線橋があり、これは乗り換え専用でいずれの改札にもアクセスできない。残り2ヶ所は橋上駅舎による連絡で、ホーム中央部には中央改札、ホーム南端(西武新宿・吾野方)には南改札からアクセスできる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "先に建設された新宿線が一直線に当駅へ進入しているのに対し、新宿線に合わせるような形で建設された池袋線は急カーブで駅構内に進入する形になっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "新宿線と池袋線で上下線が逆向きに進入しているため、一見して方向がわかりにくい反面、通勤需要の多い東京方面行きが同一ホーム(2・3番線)で乗り換え可能になるメリットをもたらした。実際に「本川越方面からの西武新宿方面行き」と「飯能方面からの池袋方面行き」の列車接続待ちがしばしば行われる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "それ以外にも様々な柔軟な運行が可能な配線となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "南側(西武新宿・吾野方)には池袋線と新宿線に挟まれた位置に2本の留置線があり、これを用いて池袋線の4番ホーム到着列車を折り返し、3番ホームに入線させて池袋方面の列車として運行している。この留置線は、夜間に8両編成と10両編成を留置し、翌日のラッシュ時に設定されている清瀬・保谷始発の列車に対応する。なお2022年6月より、留置線付近の下を通るアンダーパスの工事進捗に伴い、2線のうち池袋線上り本線に近い1線が使用停止となり、該当の夜間留置は小手指車両基地へ回送させ、翌朝は小手指車両基地から出庫させる措置をとっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "当初は他駅と同様に西武鉄道オリジナルの汎用発車メロディを使用していたが、2020年11月3日に、所沢市が舞台とされているアニメーション映画『となりのトトロ』の関連楽曲をアレンジしたものに変更している。これは同市が市制施行70周年を記念するために企画したもので、監督の宮崎駿、音楽を手掛けた久石譲、制作したスタジオジブリの協力を得て実現した。メロディはスイッチの制作で、編曲は福嶋尚哉が手掛けた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は95,294人で、西武鉄道全92駅中第7位である。この値は、新宿線・池袋線間の乗換客を含まない。新宿線内では高田馬場駅、西武新宿駅に次ぐ第3位、池袋線内では池袋駅、練馬駅に次ぐ第3位である。 埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新宿線の乗降人員は4万人程度で横ばいであるが、池袋線の乗降人員は増加傾向が続いている。新宿線と池袋線の乗換客は約12万人で横ばいであり、乗換客を含めた1日平均乗降人員は約22万人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "近年の路線別乗降人員の推移は以下の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "当駅周辺は所沢市の中心部であり、駅を中心に市街地が広がっている。西口の駅前には、プロペ通り商店街をはじめ、西武百貨店(西武所沢S.C.)、西友、駅直結のグランエミオ所沢など、大型商業施設が進出している。また、複数の高層マンション(タワーマンション)が林立している。東口の駅前には、駅直結のグランエミオ所沢の他、西武鉄道本社ビル、日本光電工業総合技術開発センタなど、オフィスビルがある。なお、所沢市役所は隣の航空公園駅が最寄り駅となっている。当駅の東村山寄りからは西武鉄道の車両工場(西武所沢車両工場)への線路が分岐していたが、工場の廃止とともに線路も撤去され、引込線の敷地は転用された(かつて踏切だった道路を跨ぐ部分はレール撤去の上整地)。西口からは、ペデストリアンデッキで西武所沢S.C.、シティタワー所沢クラッシィに直接つながっている。また、2023年には、シティタワー所沢クラッシィに隣接する大型商業施設が開業予定である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東口は1983年になって開設されたため、西口に比べて閑静な街並みとなっているが、西武鉄道の本社ビルが所在しているほか、2019年に豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまで西武ホールディングスの本社も位置していた。成田空港・羽田空港へのリムジンバスや多くの一般路線バスが発着する。西口にも路線バスが発着しているが、西口発着の路線は付近の道路渋滞による影響もあり、多くが東口発着や他駅発着に変更され、松が丘方面など路線だけに縮小している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南側にある東村山7号踏切は、国土交通省から開かずの踏切並びに歩行者ボトルネック踏切に指定されている。この状況を解消すべく、所沢市が主体で単独立体交差事業(当該踏切のさらに南側で新設道路アンダーパス工事)を実施している。2028年度に完了する予定。所沢市が作成した総合計画実施計画書(2020 - 2023)では、2025年度の予定だった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "※所沢市役所・所沢警察署・所沢郵便局は航空公園駅が最寄り。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "路線バスとコミュニティバスは西武バス所沢営業所により運行されている。空港連絡バスと高速バスは西武バスと他社の共同運行となっている。", "title": "バス路線" } ]
所沢駅(ところざわえき)は、埼玉県所沢市くすのき台一丁目にある、西武鉄道の駅である。 管区長配置駅であり、「所沢駅管区」として池袋線の当駅 - 狭山ヶ丘駅間の各駅と狭山線の全駅を管理している。
{{駅情報 |社色= #36C |文字色= |駅名= 所沢駅 |画像= Tokorozawa Station.2020-09-02.jpg |pxl= 300px |画像説明= 東口(2020年9月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|type=point|frame-width=300|marker=rail|coord={{coord|35|47|12|N|139|28|24|E}}}}<!--地図が表示されないバグを防止するため、暫定的に座標を挿入しています。--> |よみがな= ところざわ |ローマ字= Tokorozawa |電報略号= |所属事業者= [[西武鉄道]] |所在地= [[埼玉県]][[所沢市]][[くすのき台]]一丁目14-5 |緯度度=35|緯度分=47|緯度秒=12 |経度度=139|経度分=28|経度秒=24 |地図国コード= JP |座標右上表示= Yes |開業年月日= [[1895年]]([[明治]]28年)[[3月21日]] |駅構造= [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム= 3面5線 |廃止年月日= |乗車人員= |乗降人員= <ref group="西武" name="seibu2022" />95,294 |統計年度= 2022年<!--リンク不要--> |乗入路線数= 2 |所属路線1= {{color|#09c|■}}[[西武新宿線|新宿線]] |前の駅1= SS21 [[東村山駅|東村山]] |駅間A1= 2.9 |駅間B1= 1.6 |次の駅1= [[航空公園駅|航空公園]] SS23 |駅番号1= {{駅番号r|SS|22|#0099cc|2}} |キロ程1= 28.9 |起点駅1= [[西武新宿駅|西武新宿]] |所属路線2= {{color|#f60|■}}[[西武池袋線|池袋線]] |前の駅2= SI16 [[秋津駅|秋津]] |駅間A2= 3.0 |駅間B2= 2.4 |次の駅2= [[西所沢駅|西所沢]] SI18 |駅番号2= {{駅番号r|SI|17|#ff6600|2}} |キロ程2= 24.8&nbsp;km([[池袋駅|池袋]]起点)<br/>[[小竹向原駅|小竹向原]]から21.4 |起点駅2= |備考= [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP884" /> }} [[ファイル:Tokorozawa-STA West.jpg|thumb|西口(2022年8月)]] '''所沢駅'''(ところざわえき)は、[[埼玉県]][[所沢市]][[くすのき台]]一丁目にある、[[西武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 [[区長|管区長]]配置駅であり、「所沢駅管区」として池袋線の当駅 - [[狭山ヶ丘駅]]間の各駅と[[西武狭山線|狭山線]]の全駅を管理している<ref name="RP884">{{Cite journal|和書|author=田中孝憲(西武鉄道鉄道本部運輸部管理課)|title=駅・乗務所のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2013-12-10|volume=63|issue=第12号(通巻884号)|page=50|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 == 概要 == 西武鉄道の主要路線である[[西武池袋線|池袋線]]と[[西武新宿線|新宿線]]が乗り入れ、[[郊外]]の拠点駅・[[ジャンクション (鉄道)|ジャンクション]]となっている。池袋線特急「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ・むさし]]」、新宿線特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」などの全ての営業列車が停車する。また、両路線を直通する列車も一部設定されている。埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い駅である。 駅周辺、特に西口はプロぺ通り商店街や大型商業施設が立地する所沢市の[[中心市街地]]であり、[[駅ビル]]の「[[Emio|Grand Emio]](グランエミオ)所沢」や西武鉄道本社ビルなど[[西武グループ]]の重要施設が集積している。[[豊島区]]の[[ダイヤゲート池袋]]に移転するまでは親会社の[[西武ホールディングス]]の本社も所在していた。他にも旧[[セゾングループ]](かつての西武流通グループ)の[[西武百貨店]]([[ワルツ所沢|西武所沢S.C.]])や[[西友]]の店舗も所在している。 === 利用可能な鉄道路線 === 西武鉄道の2大幹線である[[西武新宿線|新宿線]](駅番号:'''SS22''')と[[西武池袋線|池袋線]](駅番号:'''SI17''')が乗り入れ、両路線の乗換駅として機能している。<!--JRと違い、私鉄は所属線という概念はないが、-->歴史的な経緯から、西武鉄道の案内図では新宿線の方が優先され、『'''新宿線所沢駅'''』としていることが多い<!--あたかも新宿線が所属線である様な感じになっている-->。後から乗り入れた池袋線は所沢駅付近で大きくカーブをしている。 このほか、池袋線当駅 - [[秋津駅|秋津]]間の秋津寄りにJR[[武蔵野線]][[新秋津駅]]への[[連絡線]]が分岐している。武蔵野線の開業後に、この連絡線を使って[[貨物列車]]の受け渡しが行われたが、貨物列車の廃止後は新型車両の搬入や他社へ譲渡する中古車の搬出用([[車両輸送]])に使われている。なお、孤立路線である[[西武多摩川線|多摩川線]]の車両の出入りもこの連絡線を通じて行われている。 新宿線・池袋線共に全定期旅客営業列車が停車する{{Refnest|group="注釈"|[[拝島ライナー]]は当駅を経由しない。}}。<!-- 秩父サイクルトレインなど一部の臨時列車は当駅を通過する。 --> == 歴史 == * [[1895年]]([[明治]]28年)[[3月21日]] - [[西武鉄道#西武鉄道(旧)|川越鉄道]](新宿線の前身、後の旧・西武鉄道)の駅として開業。 * [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月15日]] - [[西武鉄道#武蔵野鉄道|武蔵野鉄道]](池袋線の前身)開業。共用開始に伴い川越鉄道が駅業務担当。 * [[1940年]]([[昭和]]15年)[[1月2日]] - 当駅近くで[[日本の鉄道事故_(1949年以前)|武蔵野鉄道線列車正面衝突事故]]発生<ref>年始客乗せた電車が貨物電車と正面衝突『東京日日新聞』(昭和15年1月4日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p749 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1958年]](昭和33年)[[12月19日]] - 新宿線柳瀬信号所 - 所沢間[[複線]]運転開始。 * [[1960年]](昭和35年)[[5月25日]] - 池袋線秋津 - 所沢間複線運転開始。 * [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]] - 池袋線池袋 - 所沢間で日本私鉄初の10両編成運転開始。 * [[1965年]](昭和40年)[[11月5日]] - 池袋線所沢 - 西所沢間複線運転開始。 * [[1967年]](昭和42年)[[10月27日]] - 新宿線所沢 - 新所沢間複線運転開始。 * [[1983年]](昭和58年)[[4月5日]] - 東口仮駅舎と跨線橋使用開始。東口が開設される。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** [[9月11日]] - 駅構内の大幅な改良工事が実施される。 ** [[11月25日]] - 所沢ステーションビル・西武総合案内所開設。 * [[1990年]](平成2年)[[8月1日]] - 北側(本川越・池袋寄り)乗り換え跨線橋使用開始。 * [[1991年]](平成3年)[[1月27日]] - 東口改札口移設、自由通路使用開始<ref>『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100-103頁</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[12月22日]] - 南口改札(西武口)と東口改札を統合し、新改札口を開設(現南口)。 * [[2010年]](平成22年) ** 3月 - 新駅舎改築工事着工<ref name="newsta">[http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/order/index.html 所沢駅改良工事のご案内 工事の順序] - 西武鉄道</ref>。 ** [[7月31日]] - 新駅舎工事の進展に伴い西口改札の使用を停止させ、所沢ステーションビル1階に仮西口改札を開設<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/1192572_2679.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101231145010/http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/1192572_2679.html|language=日本語|title=7月31日(土)初電車より、西口改札の位置が変わります。|publisher=西武鉄道|date=2010-07-27|accessdate=2020-07-03|archivedate=2010-12-31}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[3月8日]] - 新橋上駅舎の一部(西口と改札口)を供用開始。これに伴い、仮西口改札とホーム中央部の跨線橋が廃止される<ref name="press120216">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/16/20120216tokorozawaopen.pdf 3月8日(木)、所沢駅新橋上駅舎の一部を供用開始します]}} - 西武鉄道ニュースリリース 2012年2月16日</ref>。改札口脇に駅ナカコンビニ[[TOMONY]]オープン。 ** [[6月12日]] - [[Emio]]所沢(I期、改札外)オープン<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibupros.jp/news/20120301.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171025155709/http://www.seibupros.jp/news/20120301.pdf|language=日本語|title=西武鉄道駅ナカ・駅チカ商業施設「Emio(エミオ)」 お客さまに選ばれる沿線を目指して積極展開を図ります 〜「通過する駅から人が集う駅へ」 2012年、Emio所沢、Emio練馬高野台、Emio保谷(増床)が開業いたします〜|publisher=西武プロパティーズ|date=2012-03-01|accessdate=2020-07-03|archivedate=2017-10-25}}</ref>。 ** [[11月27日]] - 東口から新駅舎までの通路、新駅舎トイレの供用開始<ref name="pr20121016">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/__icsFiles/afieldfile/2012/11/08/20121016tokorozawa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130626020110/http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/__icsFiles/afieldfile/2012/11/08/20121016tokorozawa.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅が広場になる。街になる。11月27日(火)、所沢駅新橋上駅舎がますます便利になります!|publisher=西武鉄道|date=2012-10-16|accessdate=2020-07-03|archivedate=2013-06-26}}</ref>。Emio所沢(II期、改札内)オープン<ref name="pr20121016"/>。これに伴い南口改札廃止。 * [[2013年]](平成25年) **[[4月26日]] - 屋上庭園と南口自由通路から新駅舎までの連絡通路が完成<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/04/24/20130424tokorozawa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140328232417/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/04/24/20130424tokorozawa.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月26日(金)当社初! 所沢駅に屋上庭園が誕生、連絡通路を使用開始します!|publisher=西武鉄道|date=2013-04-24|accessdate=2020-07-03|archivedate=2014-03-28}}</ref>。 ** [[6月]] - 駅改良工事完了<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/1200695_2679.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130727060725/http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/tokorozawa_kairyo/thismonth/1200695_2679.html|language=日本語|title=2013年6月末にすべての所沢駅改良工事が完了しました。|publisher=西武鉄道|date=2013-07-01|accessdate=2020-07-03|archivedate=2013-07-27}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月2日]] - 東口駅ビル「Grand Emio(グランエミオ)所沢」が、77店舗でオープン<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sumitomocorp.com/ja/jp/news/release/2018/group/20180115|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200807132938/https://www.sumitomocorp.com/ja/jp/news/release/2018/group/20180115|language=日本語|title=所沢駅の新たなランドマークとなる商業施設『グランエミオ所沢』 開業日が2018年3月2日(金)に決定 ~所沢エリア初出店店舗を含む77店舗が出店~|publisher=住友商事/住商アーバン開発|date=2018-01-15|accessdate=2020-08-07|archivedate=2020-08-07}}</ref><ref name="pr20200907"/>。それに伴い、Emio、所沢駅ステーションビルは2018年2月25日までに全店閉店。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[9月2日]] - Grand Emio所沢第II期開業<ref name="pr20200702"/>。同時に南口改札の供用開始<ref name="pr20200702">{{Cite press release|和書|url=https://www.seibupros.jp/pdf/news/link/20200702hp.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200703085216/https://www.seibupros.jp/pdf/news/link/20200702hp.pdf|format=PDF|language=日本語|title=所沢駅東口駅ビル計画「グランエミオ所沢」第II期 48店舗の出店が決定 新改札等の新たな駅設備の供用開始と共に、9月2日(水)に開業|publisher=西武ホールディングス|date=2020-07-02|accessdate=2020-07-03|archivedate=2020-07-03}}</ref><ref name="pr20200907">{{Cite press release|和書|url=https://ssl4.eir-parts.net/doc/9024/tdnet/1880424/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200907141936/https://ssl4.eir-parts.net/doc/9024/tdnet/1880424/00.pdf|format=PDF|language=日本語|title=所沢駅東口駅ビル計画完成「グランエミオ所沢」第II期 本日9月2日(水)開業 所沢駅 新改札等の新たな駅設備の供用開始|publisher=西武ホールディングス|date=2020-09-02|accessdate=2020-09-07|archivedate=2020-09-07}}</ref>。 ** [[11月3日]] - [[発車メロディ]]を『[[となりのトトロ]]』関連の楽曲に変更<ref name="pr20200917">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200917_tokorozawa_melody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200917155833/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200917_tokorozawa_melody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=所沢市制施行70周年を記念して2020年11月3日(火・祝)初電車から所沢駅の発車メロディを「となりのトトロ」および「さんぽ」に変更します!|publisher=西武鉄道/所沢市|date=2020-09-17|accessdate=2020-09-17|archivedate=2020-09-17}}</ref><ref name="news20200918">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN9K72L2N9KUTNB00R.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200918072841/https://www.asahi.com/articles/ASN9K72L2N9KUTNB00R.html|title=所沢駅の発車曲「トトロ」に ジブリが使用許可、全国初|newspaper=朝日新聞|date=2020-09-18|accessdate=2020-09-18|archivedate=2020-09-18}}</ref><ref name="tokyo20200922"/>。 **[[11月4日]] - 東口ロータリーに『となりのトトロ』のキャラクターの[[モニュメント]]を設置<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/tokoronews/press/r2/10/totorojomaku.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101035313/https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/tokoronews/press/r2/10/totorojomaku.html|title=所沢駅ロータリーに『となりのトトロ』のモニュメントを設置|date=2020-10-27|archivedate=2020-11-01|accessdate=2020-11-06|publisher=所沢市|language=日本語}}</ref><ref name="tokyo20201105">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/amp/article/66408|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106032327/https://www.tokyo-np.co.jp/amp/article/66408|title=所沢に「トトロ」お目見え 駅前ロータリーで除幕式 市内在住の宮崎監督、ジブリ公認|newspaper=東京新聞|date=2020-11-05|accessdate=2020-11-06|archivedate=2020-11-06}}</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Tokorozawastation-1952.jpg|1952年の所沢駅 Tokorozawa-Sta-W.JPG|西口(2008年10月) 所沢駅東口(2014-02-02撮影) 2014-02-07 00-32.jpg|東口(2014年2月) Tokorozawa-STA West Grand-Emio.jpg|新駅ビルと「Grand Emio所沢」(2022年8月) </gallery> == 駅構造 == [[単式ホーム]]1面1線、[[島式ホーム]]2面4線、計3面5線を有する[[地上駅]]。西武二大幹線が交わるジャンクションであり、名実ともに相互乗換駅として機能している。 === 駅舎 === 大規模な[[橋上駅舎]]となっている。中央部に2本の改札外自由通路があり、その2つを結ぶ改札外広場を挟んで、北側に中央改札、南側に南改札が設けられている。駅事務室は中央改札脇にある。中央改札側の改札内コンコースには[[駅ナカ]]店舗が出店しており、その屋上に「とこてらす」と名付けられたオープンスペースが存在する。また東口側駅ビルと直結したIC専用のグランエミオ改札がある。一方で南改札側の改札内コンコースには、授乳室やおむつ替えコーナーを備えた待合スペース「とことこひろば」があるほか、線路上から眺望できる屋外デッキがある。 ==== 駅ナカ店舗 ==== 出店店舗の詳細は[[西武プロパティーズ]]公式サイト「[http://www.seibu-shop.jp/floorguide/station.php?fcd=17 所沢駅の店舗情報]」を参照。 * [[Tomony]](改札内・外) * [[タリーズコーヒー]] * つけめんTETSU * [[日比谷花壇|Hibiya-Kadan Style]] * [[狭山そば]] ※ 狭山そば以外の店舗はグランエミオ所沢扱いだったが、2020年9月2日のⅡ期開業後は通常の駅ナカ店舗扱いとなっている。 ==== 駅舎改良工事 ==== 2010年代に大規模橋上駅舎化を軸とする段階的な駅舎改良工事が行われた。それ以前は旧来からの西口地上駅舎と、東西自由通路を兼ねた南側橋上駅舎とに分かれており<ref name="map2009">{{Cite web|和書|title=所沢駅|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/unyu/ekimap/1122.html|archivedate=2009-08-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090830175023/http://www.seibu-group.co.jp/railways/unyu/ekimap/1122.html|work=西武らくらく駅マップ|publisher=西武鉄道|accessdate=2022-03-27}}</ref>、さらに東口には平屋の商業施設があるのみだった。 21世紀に入り、西武鉄道創立100周年の節目であり、池袋線が[[東京メトロ副都心線]]を通じて[[東急東横線]]との[[相互直通運転]]を開始する2012年度の完成を目指し、駅舎改良工事に着手することが2009年12月に決定し<ref name="press091217">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2009/12/17/20091217.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110315191636/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2009/12/17/20091217.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜当社100周年の歴史の節目に 将来の駅周辺開発の核となるような駅を目指します〜 所沢駅 駅舎改良工事に着手 エキとライフサポートの新たな融合が始まります!|publisher=西武鉄道|date=2009-12-17|accessdate=2020-07-03|archivedate=2011-03-15}}</ref>、その後完成した。 改良工事の主なポイントは * 西武鉄道のフラッグシップとなる駅舎 * ホーム中央の線路上空に新規に橋上駅舎を建設し、現在の西口・南口改札を統合 * 西武鉄道としては初の授乳室・[[液晶ディスプレイ|LCD]]式列車案内表示器・屋上庭園の設置 である<ref name="press091217"/>。2012年11月27日に完成し<ref name="pr20121016"/>、旅客用トイレの橋上駅舎への移設・キッズトイレ設置などが行なわれ、これに伴い南側のきっぷうりば・改札口は新橋上駅舎への移設と廃止、また南側の乗換え用跨線橋も廃止された(南側の自由通路は継続使用されたのち、橋上駅舎の拡張工事のため廃止)。 これらの改良点が評価され、所沢駅は一般社団法人鉄道建築協会が主催する「第58回鉄道建築協会賞」の作品部門において、「停車場建築賞」を受賞している<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/10/30/20131030tokorozawa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131117060035/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/10/30/20131030tokorozawa.pdf|format=PDF|language=日本語|title=所沢駅が「停車場建築賞」を受賞しました! <当社初となる授乳室・キッズトイレの整備、商業施設との融合などが評価されました!> 〜今後も沿線価値の向上に努めてまいります〜|publisher=西武鉄道|date=2013-10-30|accessdate=2020-07-03|archivedate=2013-11-17}}</ref>。 2018年3月以降、II期工事が開始され、橋上駅舎内にあった店舗の大半と南側自由通路が廃止・撤去となり、南口改札の新設とホームの東村山・西所沢方(駅南側)へ階段等の設置・I期工事で完成した部分の橋上駅舎と接続しスペース拡大・西武百貨店および旧南口から続くペデストリアンデッキの延長接続とそれに伴うバスターミナルの改良などが行われ、2020年9月2日に営業開始した。南口改札内には、授乳室やパウダールーム等を備えた待合スペース「とことこひろば」や、駅南側を一望できる「展望デッキ」が新設された。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Tokorozawa-STA Central-Gate.jpg|中央改札(2022年8月) Tokorozawa-STA South-Gate.jpg|南改札(2022年8月) Tokorozawa Station Grand Emio gate.jpg|グランエミオ改札(2018年3月) 所沢駅トコニワ(2014-02-02撮影) 2014-02-07 00-36.JPG|屋上緑化施設「トコニワ」(2014年2月、リニューアル前) </gallery> === のりば === 全ホームでホームドアが稼働している。 <!--方面表記は、西武鉄道の「駅構内図」の記載に準拠---> {| class="wikitable" !ホーム!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 |style="text-align:center;"|下り |[[航空公園駅|航空公園]]・[[狭山市駅|狭山市]]・[[本川越駅|本川越]]方面 |- !2 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |[[東村山駅|東村山]]・[[高田馬場駅|高田馬場]]・[[西武新宿駅|西武新宿]]・[[国分寺駅|国分寺]]方面 |- !3 |rowspan="3"|[[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|18px|SI]] 池袋線 |[[秋津駅|秋津]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新木場駅|新木場]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]方面 |- !4 |rowspan="2" style="text-align:center;"|下り |rowspan="2"|[[西武球場前駅|西武球場前]]・[[飯能駅|飯能]]・[[西武秩父駅|西武秩父]]方面 |- !5 |} (出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/station/tokorozawa/ 西武鉄道:駅構内図]) * 1番ホームは新宿線下り列車が使用する単式ホーム<ref name="tokorozawamap" />。かつては西口地上駅舎と直結し各種設備があったが、現在は待合室や[[立ち食いそば・うどん店#駅そば|駅そば]](狭山そば)があるのみである。 * 2番・3番ホームは上り列車が使用する島式ホームで、新宿線と池袋線との間で同一ホームでの乗り換えが可能である。同じ上りでも新宿線と池袋線は逆方向に進行し、見かけ上右側通行になる<ref name="tokorozawamap" />。以前は1番ホームと2番ホームの間に中線が存在していたが、旧2番ホームの線路上にホームを拡張したため、この中線が2番ホームとなった<ref>西武池袋線 街と駅の1世紀([[彩流社]] 2014年)42 - 43頁</ref>。 * 4番・5番ホームは池袋線下り列車が使用する島式ホーム。運用上は5番が本線に相当し、4番は当駅止まり・[[臨時列車]]・交互発着・[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]時などに使用される[[停車場#本線|副本線]]である。ただし[[レッドアロー|特急列車]]は原則的に4番ホームを使用する。 各ホームは3ヶ所で連絡している。ホームの北端(本川越・池袋方)には[[跨線橋]]があり、これは乗り換え専用でいずれの改札にもアクセスできない。残り2ヶ所は橋上駅舎による連絡で、ホーム中央部には中央改札、ホーム南端(西武新宿・吾野方)には南改札からアクセスできる<ref name="tokorozawamap">[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/ekimap/tokorozawa/index.html 所沢駅 駅構内マップ] - 西武鉄道</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Tokorozawa-STA Platform1.jpg|1番ホーム(2022年7月) Tokorozawa-STA Platform2-3.jpg|2・3番ホーム(2022年7月) Tokorozawa-STA Platform4-5.jpg|4・5番ホーム(2022年7月) </gallery> ==== 配線 ==== {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_Seibu_Tokorozawa_Station.svg |title=[[西武鉄道]] 所沢駅 鉄道配線略図 |width=400px |up=[[吾野駅|吾野]]|up-align=left |left=[[西武新宿駅|西武新宿]] |left-valign=middle |right=[[本川越駅|本川越]] |right-valign=middle |down=[[池袋駅|池袋]] |down-align=right |source=* 以下を参考に作成。<br />** [[電気車研究会]]、『[[鉄道ピクトリアル]]』、第52巻第4号 通巻第716号「【特集】西武鉄道」、<br />2002年4月 臨時増刊号、巻末折込「西武鉄道 配線略図 (2001年12月15日現在)」、<br />および、小松丘、「西武鉄道 沿線観察」、図-6「所沢の配線と進入・発車可能番線」、137頁。<br />** [https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/tokorozawa/ 西武鉄道公式ホームページ 所沢駅 駅構内マップ] |note=}} 先に建設された新宿線が一直線に当駅へ進入しているのに対し、新宿線に合わせるような形で建設された池袋線は急カーブで駅構内に進入する形になっている。 新宿線と池袋線で上下線が逆向きに進入しているため、一見して方向がわかりにくい反面、通勤需要の多い東京方面行きが同一ホーム(2・3番線)で乗り換え可能になるメリットをもたらした。実際に「本川越方面からの西武新宿方面行き」と「飯能方面からの池袋方面行き」の列車接続待ちがしばしば行われる。 それ以外にも様々な柔軟な運行が可能な配線となっている。 * 西武新宿発西武球場前行の臨時列車は、新宿線下りホームの手前にある連絡線を通り、新宿線・池袋線の両上り線を横断して4番ホームに進入し、折り返して発車する。 * 本川越駅発西武球場前行の臨時列車は、新宿線上りホームの手前にある連絡線を通り、池袋線の上り線を横断して4番ホームに進入し、そのまま発車する。 * 池袋線の本駅以東で運行に支障がある場合には、池袋線上り列車を4番ホームに直接進入させ埼玉県内で折り返し運転を行うことが可能である。 南側(西武新宿・吾野方)には池袋線と新宿線に挟まれた位置に2本の[[留置線]]があり、これを用いて池袋線の4番ホーム到着列車を折り返し、3番ホームに入線させて池袋方面の列車として運行している。この留置線は、夜間に8両編成と10両編成を留置し、翌日のラッシュ時に設定されている[[清瀬駅|清瀬]]・[[保谷駅|保谷]]始発の列車に対応する。なお2022年6月より、留置線付近の下を通るアンダーパスの工事進捗に伴い、2線のうち池袋線上り本線に近い1線が使用停止となり、該当の夜間留置は小手指車両基地へ回送させ、翌朝は小手指車両基地から出庫させる措置をとっている。 ==== 備考 ==== * 新宿線の特急「小江戸」号は、東村山駅に新規停車を開始するまでは、2番ホームで[[乗務員交代|乗務員の交代]]を行う場合があった。これは、乗務員施設が2駅先の[[新所沢駅]]にあるが、新所沢駅に特急が停車しないことによる。現在、乗務員の交代は隣の東村山駅に変更になった。 * 池袋線で運転している有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は、[[石神井公園駅]]とともに平日ダイヤ・土休日ダイヤの上下列車全てが停車し、このうち平日ダイヤは朝の上り2本、土休日ダイヤは夜の下り1本が当駅発着となる。なお平日ダイヤは、'''当駅から西武線内のみの乗車はできない'''<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211204927/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2020-07-03|archivedate=2018-12-11}}</ref>。平日ダイヤは、2020年3月14日ダイヤ改正以降、'''下りのみ小手指駅'''まで運転される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200229124800/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します|publisher=西武鉄道|date=2020-01-29|accessdate=2020-07-03|archivedate=2020-02-29}}</ref>。 * 池袋線特急「ちちぶ」号・「むさし」号の上りの次の停車駅は終点の池袋駅であり、[[西武有楽町線]]との分岐駅である[[練馬駅]]を通過する。このため、小竹向原駅経由で[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]方面に向かう際は当駅での乗り換えが必要となる。 ==== 発車メロディ ==== 当初は他駅と同様に西武鉄道オリジナルの汎用発車メロディを使用していたが、2020年11月3日に、所沢市が舞台とされている[[アニメーション映画]]『となりのトトロ』の関連楽曲をアレンジしたものに変更している<ref name="pr20200917" />。これは同市が市制施行70周年を記念するために企画したもので、監督の[[宮崎駿]]、音楽を手掛けた[[久石譲]]、制作した[[スタジオジブリ]]の協力を得て実現した{{Refnest|group="注釈"|同市は発車メロディを変更する数年前から駅における楽曲の使用と関連[[モニュメント]]の設置をスタジオジブリに提案していた。その後、2019年7月にジブリ側が受諾。翌年の8月に西武の了解を得ることとなった。}}<ref name="pr20200917" /><ref name="tokyo20200922">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/56997|title=「トトロ」で出発進行 所沢駅の発車メロディーに 11月3日から ジブリ映画初|accessdate=2020-11-03|date=2020-09-22|newspaper=東京新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200922050021/https://www.tokyo-np.co.jp/article/56997|archivedate=2020-09-22}}</ref>。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[福嶋尚哉]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=西武鉄道所沢駅の発車メロディー制作|url=http://www.switching.co.jp/news/531|website=スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-11-03|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、市のプレスリリースには「発車メロディの音源は、所沢市が作成しました」との記載がある<ref name="pr20200917"/>。}}。 {| class="wikitable" !ホーム !路線 !曲名 |- !1 | rowspan="2" | [[ファイル:SeibuShinjuku.svg|18x18ピクセル]]新宿線 |[[となりのトトロ (曲)|さんぽ]] verB |- !2 |さんぽ verA |- !3 | rowspan="3" | [[ファイル:SeibuIkebukuro.svg|18x18ピクセル]]池袋線 |[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]] verB |- !4 |となりのトトロ verA |- !5 |となりのトトロ verC |} == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''95,294人'''で、西武鉄道全92駅中第7位<ref group="西武" name="seibu2022" />である。この値は、新宿線・池袋線間の乗換客を含まない。新宿線内では高田馬場駅、西武新宿駅に次ぐ第3位、池袋線内では池袋駅、[[練馬駅]]に次ぐ第3位である。 埼玉県内の西武鉄道の駅の中では最も利用者数が多い。 新宿線の乗降人員は4万人程度で横ばいであるが、池袋線の乗降人員は増加傾向が続いている。新宿線と池袋線の乗換客は約12万人で横ばいであり、乗換客を含めた1日平均乗降人員は約22万人である。 近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。 <!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります--> {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/data/tokei/index.html 所沢市統計書] - 所沢市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref> !出典 |- |1989年(平成元年) | 90,668 || 45,599<!--16,643,554÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成2年) - 148ページ</ref>--> |- |1990年(平成{{0}}2年) | 92,503 || 46,652<!--17,027,967÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 150ページ</ref>--> |- |1991年(平成{{0}}3年) | 93,449 || 47,176<!--17,266,449÷366--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 150ページ</ref>--> |- |1992年(平成{{0}}4年) | 92,687 || 46,726<!--17,054,972÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 158ページ</ref>--> |- |1993年(平成{{0}}5年) | 90,933 || 45,679<!--16,672,884÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 164ページ</ref>--> |- |1994年(平成{{0}}6年) | 90,147 || 45,263<!--16,521,167÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 164ページ</ref>--> |- |1995年(平成{{0}}7年) | 89,970 || 45,016<!--16,475,750÷366--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 170ページ</ref>--> |- |1996年(平成{{0}}8年) | 89,414 || 44,826<!--16,361,607÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 170ページ</ref>--> |- |1997年(平成{{0}}9年) | 89,211 || 44,814<!--16,357,046÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 176ページ</ref>--> |- |1998年(平成10年) | 87,570 || 44,143<!--16,112,224÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 184ページ</ref>--> |- |1999年(平成11年) | 87,081 || 43,937<!--16,081,060÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) | 87,558 || 44,092<!--16,093,441÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | 89,552 || 44,799<!--16,351,535÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | <ref name="seibu2002-2006">{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121101063612/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|title= 「駅別乗降人員(一日平均)の推移」No.1 2002年度〜2006年度・池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線・山口線|archivedate=2012-11-01|accessdate=2021-07-30|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>90,993 || 45,545<!--16,623,988÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) | <ref name="seibu2002-2006" />91,860 || 46,118<!--16,879,361÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) | <ref name="seibu2002-2006" />91,309 || 45,819<!--16,723,939÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) | <ref name="seibu2002-2006" />91,815 || 46,054<!--16,809,528÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) | <ref name="seibu2002-2006" />92,735 || 46,505<!--16,974,474÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) | 94,709 || 47,223<!--17,283,644÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) | 96,321 || 48,120<!--17,563,785÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) | 96,156 || 48,016<!--17,526,013÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) | 94,827 || 47,172<!--17,217,839÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) | 93,399 || 46,675<!--17,082,992÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) | 95,309 || 47,562<!--17,360,010÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) | 96,485 || 48,107<!--17,559,115÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) | 95,772 || 47,779<!--17,439,390÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) | 97,662 || 48,760<!--17,846,125÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) | 99,994 || 49,941<!--18,228,572÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) | 102,732 || 51,327<!--18,734,400÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) | 104,984 || 52,429<!--19,136,610÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) | 102,368 || 51,088<!--18,698,324÷366--> |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) | <ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月18日閲覧</ref>78,002 || 38,887<!--14,193,640÷365--> |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) | <ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月18日閲覧</ref>86,613 || | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>95,294 | | |} 近年の路線別乗降人員の推移は以下の通り。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別1日平均路線別乗降人員・乗換人員<ref name="train-media" /> !年度 !新宿線!!池袋線!!乗換人員 |- |2003年(平成15年) | 40,632 || 51,228 || 118,778 |- |2004年(平成16年) | 40,136 || 51,173 || 118,496 |- |2005年(平成17年) | 40,087 || 51,728 || 118,218 |- |2006年(平成18年) | 40,200 || 52,535 || 118,868 |- |2007年(平成19年) | 40,883 || 53,726 || 118,882 |- |2008年(平成20年) | 41,513 || 54,808 || 120,003 |- |2009年(平成21年) | 41,127 || 55,029 || 118,541 |- |2010年(平成22年) | 40,453 || 54,374 || 116,170 |- |2011年(平成23年) | 39,830 || 53,569 || 116,559 |- |2012年(平成24年) | 40,115 || 55,194 || 116,602 |- |2013年(平成25年) | 39,872 || 56,613 || 118,026 |- |2014年(平成26年) | 39,238 || 56,534 || 116,717 |- |2015年(平成27年) | 39,728 || 57,934 || 118,170 |- |2016年(平成28年) | 40,573 || 59,421 || 118,177 |- |2017年(平成29年) | 41,513 || 61,219 || 118,078 |- |2018年(平成30年) | 42,434 || 62,550 || 118,007 |} == 駅周辺 == {{See also|くすのき台|日吉町 (所沢市)|寿町 (所沢市)|東町 (所沢市)|旭町 (所沢市)|久米 (所沢市)}} 当駅周辺は所沢市の中心部であり、駅を中心に市街地が広がっている。西口の駅前には、プロペ通り商店街をはじめ、[[西武の店舗一覧#関東|西武百貨店]](西武所沢S.C.)、[[西友]]、駅直結の[[Emio|グランエミオ所沢]]など、大型[[商業施設]]が進出している。また、複数の高層マンション(タワーマンション)が林立している。東口の駅前には、駅直結のグランエミオ所沢の他、西武鉄道本社ビル、[[日本光電工業]]総合技術開発センタなど、オフィスビルがある。なお、所沢市役所は隣の[[航空公園駅]]が最寄り駅となっている。当駅の東村山寄りからは西武鉄道の車両工場([[西武所沢車両工場]])への線路が分岐していたが、工場の廃止とともに線路も撤去され、引込線の敷地は転用された(かつて[[踏切]]だった道路を跨ぐ部分はレール撤去の上整地)。西口からは、ペデストリアンデッキで西武所沢S.C.、シティタワー所沢クラッシィに直接つながっている。また、2023年には、シティタワー所沢クラッシィに隣接する大型商業施設が開業予定である。 東口は1983年になって開設されたため、西口に比べて閑静な街並みとなっているが、[[西武鉄道]]の本社ビルが所在しているほか、2019年に[[豊島区]]の[[ダイヤゲート池袋]]に移転するまで[[西武ホールディングス]]の本社も位置していた。[[成田国際空港|成田空港]]・[[東京国際空港|羽田空港]]への[[リムジンバス]]や多くの一般[[路線バス]]が発着する。西口にも路線バスが発着しているが、西口発着の路線は付近の道路[[渋滞]]による影響もあり、多くが東口発着や他駅発着に変更され、[[松が丘 (所沢市)|松が丘]]方面など路線だけに縮小している。 南側にある東村山7号[[踏切]]は、国土交通省から[[開かずの踏切]]並びに歩行者ボトルネック踏切に指定されている<ref name="カルテ">{{PDFlink|[https://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/fumikiri/karte/11saitama/074.pdf 踏切道安全通行カルテ 東村山第7号]}} - 国土交通省関東地方整備局、2021年12月18日閲覧。</ref>。この状況を解消すべく、所沢市が主体で単独立体交差事業(当該踏切のさらに南側で新設道路アンダーパス工事)を実施している<ref name="カルテ" /><ref>{{Cite conference |title=所沢駅周辺まちづくり連絡協議会 |url=https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/shingikai/kaigiroku/ekisyuuhenmatidukuri.html |conference=第9回所沢駅周辺まちづくり連絡協議会 |conferenceurl=https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/shingikai/kaigiroku/ekisyuuhenmatidukuri.files/20210721_tokorozawaeki.pdf#page=5 |author=所沢市街づくり計画部 市街地整備課 |publisher=所沢市市民部 市民相談課 |format=PDF |page=5 |date=2021-7-21 |accessdate=2021-12-18}}</ref>。2028年度に完了する予定<ref>{{PDFlink|1=[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/keikaku/sogokeikakujisshikeikaku/seisak20220422191732864.files/R411.pdf#page=5 総合計画実施計画書(2022 ‐ 2025)]}} - 所沢市経営企画部 経営企画課 p.110、2022年6月30日閲覧。</ref>。所沢市が作成した総合計画実施計画書(2020 - 2023)では、2025年度の予定だった<ref>{{PDFlink|1=[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/keikaku/sogokeikakujisshikeikaku/seisak20200331151049623.files/R211.pdf#page=4 総合計画実施計画書(2020 ‐ 2023)]}} - 所沢市経営企画部 経営企画課 p.107、2022年6月30日閲覧。</ref>。 === 東口 === <!--以下、駅ナカ施設を除きチェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店やATMのみ設置の銀行無人店舗、学習塾などは記載しない--> *「Grand Emio所沢」(東口駅ビル) ** 所沢市役所所沢駅サービスコーナー・パスポートセンター * 西武鉄道本社 * [[西武ハイヤー]]・[[西武建設]]・[[西武プロパティーズ]]本社 (西武鉄道所沢第二ビル・くすのきホール) * [[西武バス]]本社(旧所沢営業所跡地) * [[日本光電]]所沢事業所・総合技術開発センタ * 所沢駅東口[[郵便局]] * 所沢中央病院 ** 所沢駅東口市民ギャラリー * [[パナソニック ホームズ]]埼玉西 本社 * [[埼玉りそな銀行]] 所沢東口支店 * [[足利銀行]] 所沢支店 * [[飯能信用金庫]] 所沢東支店 * [[中央労働金庫]] 所沢支店 * 所沢市立北秋津小学校 === 西口 === *[[ワルツ所沢]] ** [[西武の店舗一覧#所沢S.C.|西武 所沢S.C.]] * [[西友]] 所沢駅前店 * [[TOCOTOCO SQUARE]] ** [[ヤマダデンキ]]・[[アニメイト]]・[[seria]]・[[ニトリ]]・[[坂善商事|サカゼン]]・[[メガネトップ|眼鏡市場]]・[[オーケー|オーケーストア]]・スーパー[[セカンドストリート]] *「プロペ通り商店街」 - [[プロペラ]]に因んだもので、所沢には[[所沢陸軍飛行場]](現在の[[所沢航空記念公園]])が建設され、日本の航空の発祥地であることに由来する。 ** [[所沢警察署]] 所沢駅前交番 ** 所沢サンプラザ * ファルマン通り商店街 ** 所沢市男女共同参画推進センター ふらっと * 所沢ハーティア ** 所沢市役所 所沢まちづくりセンター ** 所沢市中央公民館 ** [[所沢市立図書館#所沢分館|所沢市立図書館 所沢分館]] ** 所沢[[商工会議所]] ** 一般社団法人所沢法人会 * [[ピックルスコーポレーション]] 本社 * [[所沢市立所沢小学校]] * [http://www2.ttcn.ne.jp/~seibu/ 東京西武学館]([[日本航空高等学校]][[技能連携校]]) * 所沢日吉郵便局 * 所沢駅西口郵便局 * [[埼玉県道337号久米所沢線]] * [[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線]] * [[みずほ銀行]] 所沢支店 * [[三井住友銀行]] 所沢支店・新所沢支店(同一店舗での営業) * [[三菱UFJ銀行]] 所沢支店・所沢中央支店・狭山支店・入間支店・久米川支店(同一店舗での営業) * 飯能信用金庫 所沢支店 * 埼玉りそな銀行 所沢支店 * [[群馬銀行]] 所沢支店 * [[三井住友信託銀行]] 所沢支店・所沢駅前支店(同一店舗での営業) * [[八十二銀行]] 所沢支店 * [[武蔵野銀行]] 所沢支店・所沢駅前支店(同一店舗での営業) * [[いるま野農業協同組合]] 吾妻支店 * 所沢パークホテル ※所沢市役所・所沢警察署・[[所沢郵便局]]は[[航空公園駅]]が最寄り。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Tokorozawa-STA West-Rotary.jpg|西口ロータリー(2022年8月) Seibu department store tokorozawa.jpg|西武所沢S.C.(2008年5月) Seiyu Tokorozawa Ekimae & Tokorozawa Station West Entrance-2.jpg|西友所沢駅前店(2018年7月) AEON Tokorozawa 02.jpg|TOCOTOCOSQUARE(旧イオン所沢店)(2018年7月) </gallery> == バス路線 == {{Anchors|バス}} 路線バスと[[コミュニティバス]]は[[西武バス所沢営業所]]により運行されている。[[リムジンバス|空港連絡バス]]と高速バスは西武バスと他社の共同運行となっている。 === 東口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|[[西武バス]]・[[東京空港交通]] |[[西武バス所沢営業所#空港連絡線|'''空港連絡バス''']]:[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|西武バス・[[京成バス]] |'''空港連絡バス''':[[成田国際空港|成田空港]] |&nbsp; |- !2 |rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 中里 - 清瀬駅北口方面|'''清66''']]:[[清瀬駅]]北口<br />[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 東所沢駅 - 跡見女子大 - 志木駅方面|'''所52''']]:[[志木駅]]南口<br />'''所52-1''':[[跡見女子大学|跡見女子大]]<br />'''所55''':[[東所沢駅]] |- !3 |[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 航空公園駅 - エステシティ所沢方面|'''所56''']]:[[航空公園駅]]<br />'''所57''':[[中富南|エステシティ所沢]]<br />[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 上福岡駅 - 大宮駅方面|'''大34''']]:[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]西口<br />'''所58-1''':[[上福岡駅]]西口<br />[[西武バス所沢営業所#所沢駅東口 - 全生園 - 清瀬駅南口方面|'''久11-1''']]:[[久米川駅]]北口<br />'''所46''':[[清瀬駅]]南口<br />'''所61''':西武バス所沢営業所 |style="text-align:left;"|「大34」は平日1本のみ |} === 西口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス所沢営業所#所沢駅西口 - 航空公園駅 - 並木通り団地方面|'''所20-1''']]:並木通り団地 |&nbsp; |- !2 |[[西武バス所沢営業所#所沢駅西口 - 松が丘中央 - 西武園駅方面|'''所18''']]:[[西武園駅]]<br />[[西武バス所沢営業所#所沢駅西口 - 松が丘中央 - 西武園駅方面|'''所18-1''']]:[[西武園ゆうえんち]]{{Refnest|group="注釈"|西武園ゆうえんち停留所はかつて中央口に接続していた[[多摩湖駅]]近くの臨時駐車場Aに所在しており、遊園地のメインゲート([[西武園ゆうえんち駅]])から1.5kmほど離れている。臨時駐車場Aからは多摩湖駅まで移動して西武園ゆうえんち駅まで[[西武山口線]]を利用するか、連絡シャトルバス利用もしくは徒歩(約20分)となる。2021年夏からは当駅発の西武園ゆうえんち直行バスを運行する計画<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibu-leisure.co.jp/amusementpark/access/index.html | title=交通アクセス(西武園ゆうえんち) | publisher=株式会社西武園ゆうえんち | date=2021-05-14 | accessdate=2021-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibubus.co.jp/news/52218-1.html | title=5月22日(土)~ 所18-1系統「西武園ゆうえんち」行き運行再開について | publisher=西武バス | date=2021-05-14 | accessdate=2021-05-17}}</ref>。}} |style="text-align:left;"|「所18-1」は土休日のみ |- !3 |style="text-align:center;"|[[所沢市内循環バス|市内循環バス「ところバス」]] |'''南路線吾妻循環''':保健センター<br />'''南路線山口循環''':航空公園駅 |&nbsp; |} == 隣の駅 == ; 西武鉄道<!--有料特急の隣駅は記載しない--> : [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 :* {{Color|#f33|■}}特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」停車駅 :: {{color|#c69|■}}快速急行(下りのみ運転)・ {{Color|#fc0|■}}通勤急行(上りのみ運転) ::: [[東村山駅]] (SS21) - '''所沢駅 (SS22)''' - [[新所沢駅]] (SS24) :: {{Color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急・{{Color|#999|■}}各駅停車 ::: 東村山駅 (SS21) - '''所沢駅 (SS22)''' - [[航空公園駅]] (SS23) : [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|18px|SI]] 池袋線 :* {{Color|#f33|■}}特急[[ちちぶ (列車)|「ちちぶ」「むさし」]]・{{Color|red|■}}臨時特急[[ちちぶ (列車)|「ドーム」]]・{{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]停車駅(平日上りは当駅始発、平日下りは降車のみの扱い) :: {{Color|#c69|■}}快速急行 ::: [[ひばりヶ丘駅]] (SI13) - '''所沢駅 (SI17)''' - [[小手指駅]] (SI19) :: {{Color|#f60|■}}急行(西所沢側は当駅から各駅に停車) ::: ひばりヶ丘駅 (SI13) - '''所沢駅 (SI17)''' - [[西所沢駅]] (SI18) :: {{Color|#fc0|■}}通勤急行(上りのみ運転、当駅までは各駅に停車) ::: [[東久留米駅]] (SI14) ← '''所沢駅 (SI17)''' ← 西所沢駅 (SI18) :: {{Color|#0cf|■}}快速・{{Color|#06c|■}}通勤準急・{{Color|#0c9|■}}準急・{{Color|#999|■}}各駅停車(通勤準急は上りのみ運転) ::: [[秋津駅]] (SI16) - '''所沢駅 (SI17)''' - 西所沢駅 (SI18) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} ;埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="西武"|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tokorozawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[所沢車両管理所]] == 外部リンク == * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=tokorozawa}} * [https://www.seiburailway.jp/safety/tokorozawa_develop/index.html 西武鉄道 所沢駅東口駅ビル計画のご案内] - 改良工事の概要などの専用ページ {{西武新宿線}} {{西武池袋線}} {{デフォルトソート:ところさわ}} [[Category:所沢市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 と|ころさわ]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]] [[Category:川越鉄道]] [[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]] [[Category:1895年開業の鉄道駅]]
2003-09-06T12:36:30Z
2023-11-22T11:33:37Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Wayback", "Template:外部リンク/西武鉄道駅", "Template:西武新宿線", "Template:駅情報", "Template:0", "Template:Color", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:PDFlink", "Template:Cite web", "Template:Refnest", "Template:駅配線図", "Template:Anchors", "Template:Cite news", "Template:西武池袋線", "Template:See also", "Template:Cite press release", "Template:Cite conference", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E6%B2%A2%E9%A7%85
15,423
長崎放送
長崎放送株式会社(ながさきほうそう、英: Nagasaki Broadcasting Co.,Ltd.、略: NBC)は、長崎県と佐賀県を放送対象地域とする中波放送(AM放送)事業と、長崎県を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。 ラジオ長崎としての創業時より、筆頭株主のマルハ(現・マルハニチロ)との関係が深い。 長崎県内唯一の、ラジオ放送・テレビ放送兼営の民間放送局。民放としては九州で福岡のRKB毎日放送に続いて2番目に開局した老舗の放送局である。社屋は県庁の近くにあり、長崎駅にも近い。また、2021年(令和3年)3月まで、長年の間企業ロゴデザインが変更されなかった。 ラジオのコールサインはJOUR(長崎 1233 kHz)で、テレビのコールサインはJOUR-DTV(長崎 14ch)。テレビはJNN系列で、ラジオはJRN/NRN系列のクロスネットである。 長崎国際テレビ開局までは、テレビ長崎がフジテレビ系列と日本テレビ系列のクロスネット局(後にフジテレビ系列のフルネット局となる)であったものの、スポンサー等の関係でNBCも一部のフジテレビ系と日本テレビ系の番組を放送し、朝日新聞資本の関係で長崎文化放送開局までテレビ朝日系の番組も相当数放送していた。 上記のように、「テレビは1県1波、ラジオは2県1波」という全国的にも特殊な放送体系を採っている。とは言っても、2011年(平成23年)7月24日までのアナログテレビ放送において、佐賀県内の複数のケーブルテレビ局がRKBテレビと共にNBCテレビの再送信も実施していた。デジタル完全移行後の佐賀県では、JNN系列の再送信についてはRKBに事実上一本化したため、長崎県外のケーブルテレビ局によるNBCの再送信は行われなくなった。一方、中波の民放ラジオ局がない佐賀県向けに、一部独自の番組が放送されていた。ただし新社屋・局舎建設など(後述)により、現在は大幅に独自制作の規模を縮小している。 ラジオ佐賀については、子会社のNBCソシアが業務全般を行っており、現在佐賀に在籍する本社社員は、局長ら一部管理職・技術責任者(電波法令に基づく)のみとなっている。 NBCラジオ佐賀の電波は、筑後地域まで届いており、福岡県の民放ラジオ局の電波が入りにくい所ではよく聴取されている。そのため、筑後地域向けの広報番組を過去に放送したことがあった。また、NBC本局の中継局が島原にあり、有明海を隔てて熊本県や、鹿児島県の一部地域でも聴取できるため、エリア地域の人口は九州一であると推定されている。 長崎と言う土地柄、原爆、反核に関する報道について、敏感である。過去においても、原爆に関するドキュメンタリー番組を数多く制作し発信し続けた。また、受賞歴も多い。なお、長崎特有のお盆に精霊船が練り歩く精霊流しの特別番組を組む場合がある。長崎県の民放各社では、長崎くんちの開催期間には特別中継番組が組まれ、NBCもネット番組を中止して中継を行う(他局に比べて放送時間は長い)。 ラジオ番組に関しては、放送免許そのものは長崎放送本社が持っているが、2006年(平成18年)にラジオ制作部門を、長崎本社は「NBCラジオ」(2010年(平成22年)に「NBC興産」と統合し「NBCソシア」となる)に、ラジオ佐賀は「NBC P&S」から社名変更した「株式会社NBCラジオ佐賀」に移譲。さらに2013年(平成25年)4月に「NBCソシア」と吸収合併させたうえで、長崎本社とラジオ佐賀のラジオ事業を「NBCソシア」の1つの部門として運営することになった。 テレビ番組の自社制作は2004年(平成16年)スタートの『あっぷる』が中心だったが2020年(令和2年)4月から『あっぷる』に代わり『pint』を始めた。番組制作は関連会社に任せており、『あっぷる』や『pint』もその1つである。テレビ番組は「プロダクションナップ」が、ラジオ番組は2006年(平成18年)に発足した「NBCラジオ」社が、これに該当する。 1982年(昭和57年)7月23日に発生した長崎大水害においては、NBCラジオは20時15分に第一報を放送したあと、20時30分より全面的に災害放送へ移行し、ニッポン放送『オールナイトニッポン』のネットをはじめ通常番組を中止して、安否情報を流し続けた。 北京オリンピック大会初日である2008年(平成20年)8月9日はJNN系列で北京オリンピック特番「北京オリンピック2008」を11:00から17:30まで中継していたが、当日は長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の模様を中継する特別番組を毎年編成しているため、NBCのみ13:00からの飛び乗り放送となった。 現在、ラジオでは2023年4月より平日午後(13時台~15時台)に自社制作番組の生ワイド番組を放送せずTBSラジオ制作の生ワイド番組を放送している。このような編成を行っている地方局は他にはない。テレビでも水曜19時台のローカルセールス枠に放送されていた『げなパネ!』が2021年3月に終了して以降九州地方のTBS系(JNN加盟局)では唯一同時間帯の自社制作番組を放送しない局となった。 ほか 1962年(昭和37年)9月12日に運用開始された長崎市上町の旧社屋は、運用開始から60年以上が立ち老朽化が進んだほか、放送設備の大規模な更新を控えていることから、長崎市尾上町の長崎駅の西側に新社屋を建設し、移転することを決めた。 規模は地上11階建。設計・監理はフジタ九州支店。2020年(令和2年)1月に着工し、2021年(令和3年)7月に竣工。2021年(令和3年)11月に運用開始した。ラジオは11月1日に運用開始。テレビは当初、ラジオと同日に運用開始予定だったが、前日の10月31日に第49回衆議院議員総選挙が行われたため、一週遅れて11月8日に運用開始。ちなみに上町の旧社屋からの最後のラジオ番組は、当総選挙の開票特別番組だった。 新社屋内部には、テレビ・ラジオのスタジオのほか、1階にエントランスホールでテレビ・ラジオ番組の収録やイベントで使用するほか、新社屋と面している歩行者専用道路で開催しているイベントなど活用され、長崎の様々な魅力・文化・平和などの情報発信拠点となり、地域の賑わい・活力を生み出していく。さらに放送局の機能をフルに活用し、地域の放送局の発信拠点の新社屋とする。また新社屋には長崎放送のグループ各社も入居。 新社屋移転と創立70周年に先立ち、2021年(令和3年)4月1日にCIとロゴマークを更新し、一新すると共にシンボルマークと新たなスローガンを導入した。九州地方のTBS系列局でシンボルマークを制定するのは南日本放送(1983年(昭和58年)制定)に次いで2例目となる。 また新社屋移転と創立70周年を機に、2022年(令和4年)1月12日に新しい同局のマスコットキャラクターとして「テレビンとれでぃお」を制定した。 なお、長崎市上町の旧社屋は、新社屋運用開始後に解体され、跡地には隣接する長崎市社会福祉会館の敷地を一体的に活用するため、同市と共同開発に向けた協議を始めるとしている。 長崎県内にラジオ佐世保開局構想が出されると、他県同様「1県1波」という郵政省(当時)の指導が入ることになるが、他県の事例とは異なり、ラジオ佐世保に独自の免許およびコールサイン(JOMF)が出され、開局したあとに合併することとなった。1954年(昭和29年)4月1日のラジオ佐世保の開局により、一時的に同一県内に2局のラジオ局が存在する状態となった。そして半年後の1954年(昭和29年)10月にラジオ長崎とラジオ佐世保は合併した。ラジオ佐世保は長崎放送佐世保放送局となったが、ラジオ佐世保のコールサイン(JOMF)はラジオ放送においては現在も使用している。 佐世保市浜田町には、かつてテレビ・ラジオのスタジオを備えた3階建ての局舎があり、ニュース取材においても、ニュース番組では佐世保局独自のニュースを放送するコーナーが存在した。また、NBCの親局としても中継局の設置の手間がかからず、経費面でプラスに作用していた。CMにおいても長崎圏・佐世保圏の企業のバランスが良かった。しかし、2000年代後半になって全社的な経営の見直しや放送設備の老朽化により、佐世保放送局は佐世保支社に改組された。浜田町にあった局舎は閉鎖され、松浦町のオフィスビルに移転した。局舎跡地は他社に売却されたようである。 一方、佐賀に放送局があるのは、かつて佐賀県に演奏所をもつ民放ラジオ局が無かったためである。佐賀県は福岡や熊本の民間放送局の電波が届くため、あえて民放を設立しなくとも良いと考えられていた 。NBCは長崎県と佐賀県が同じ肥前国であることに着目して中継局の設置を申請、1958年(昭和33年)のNBCラジオ佐賀の開局となった。佐賀県内のニュース取材と民間放送教育協会の部門区分は、ラジオは長崎放送(NBCラジオ佐賀)が、テレビはRKB毎日放送がそれぞれ担当する。 長崎新聞社の出資比率は1.11 %と少ないが、長崎放送は長崎新聞社の大株主(731,000株、10.44 %)であり、一般的な新聞社・放送局と親子逆転の関係にある。 出典: 企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典: 1950年(昭和25年)2月27日、鶴川武が「社団法人・長崎平和放送協会」設立を申請した。この頃は「電波3法」が国会審議中だったため、一時保留となった。 鶴川武は1915年(大正4年)2月4日熊本県生まれ、中野高等無線電信学校等で学び、戦前は中国に渡り上海ラジオビーコン局等に勤務、敗戦と同時に上海から引き上げた。戦後は長崎に住み、1950年(昭和25年)に東邦通信機株式会社を設立した。 もう1つの流れは長崎商工会議所を中心とした「ラジオ長崎」のグループである。商工会議所会頭・脇山勘助(長崎電気軌道社長)や事務局長・菅野一郎、浅野金兵衛(長崎高等商業学校教授、現在の長崎大学経済学部)が中心となり、地元実業界有力者の10数人が発起人に名を連ねた。しかし、同年3月11日に長崎商工会議所が全焼する火災が発生、関係書類が消失したため一時中断となった。その後、「電波3法」の民放設立の条件であった「東京2局、他地区は1局」の方針により、1本化に向け話し合いを開始した。 同年10月15日、長崎市の精洋亭ホテル(銅座町・長崎グランドホテルの前身)で合同発起人会を開き「株式会社長崎平和放送協会」を発足させた。代表に脇山勘助を選び、資本金3,500万円、出力3kW放送局を設立することを決めた。しかし後に、NHK長崎放送局と同じ500Wが望ましいと電波監理委員会からの勧告を受けたが、500Wでは県内全域をカバー出来ないとの理由により、結局1kWに減力して申請変更を行った。1951年(昭和26年)2月に西岡竹次郎(この年6月に長崎県知事に就任)も諫早で免許申請を行う。 すぐに当時の政界有力者の斡旋で話し合いを持ち、西岡竹次郎は長崎平和放送協会に合流することで了解し、発起人に加わった。当時、放送局設置において新聞社を母体に資金や人的援助を仰いで、法人を立ち上げるのが常だったが、長崎の場合は朝日新聞社・毎日新聞社間の考えの違いで設立支援が具体化せず、地元経済界を中心とした自主的経営でのスタートとなり、ほかの民放と比べて苦難の道を歩むことになった。 開局に向けて準備を始めるも、極端な資金不足により資本金が目標額1,250万の半分の500万にも満たず、中部悦良と大洋漁業が不足分を立て替えた。 ラジオ長崎が開局したとはいえ、申請時の500Wが影響し、佐世保を始め県北一帯には電波が届かず、佐世保市民は民放の設立を望んでいた。 1951年(昭和26年)6月2日、佐世保市内の有力者が集まり「ラジオ佐世保設立発起人会」を結成。中心となったのは九州時事新聞社(1968年(昭和43年)に長崎新聞社と合併)社長であった辻一三であった。10月19日「ラジオ佐世保」の設立総会をレストラン玉屋で開いた。初代社長に山中辰四郎(佐世保庶民信用金庫理事長・その後1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)まで佐世保市長)が就任。佐世保地区は「ラジオ長崎」「ラジオ佐世保」の競願となった。地方民放は1県1局が原則、九州電波監理局が斡旋に乗り出した。最初の話し合いが雲仙で行われ、両者が各自の立場を強調したに留まったが、次第に合併の機運が生まれる。11月28日九州電波管理局による調停案が提示される。年が明け1954年(昭和29年)1月12日、田川務長崎市長・中田正輔佐世保市長の連名による合併斡旋勧告が出された。 3月6日ラジオ長崎・ラジオ佐世保で臨時株主総会を開催し合併を承認、社名を「長崎放送株式会社」と決定した。結果的にはいったん、ラジオ佐世保に免許が降ろされた上で4月1日に開局、半年後の10月18日に合併した。 長崎放送では、以下の7冊を発行している(2023年3月時点)。 佐賀県内の中継局はNBCラジオ佐賀の当該項目を参照。日曜日付け放送終了時、および月曜日付け放送開始時は全放送局をアナウンスするが、通常の起点である他の曜日の5時の段階では、長崎・佐世保・佐賀の周波数のみをアナウンスする。 2023年10月時点。詳細は、公式サイトのラジオ番組表を参照。24時間放送で、月曜日4時開始(他の曜日は5時基点)、日曜日は月曜1時終了。ただし日曜日放送終了のアナウンスは月曜0時59分に行われる。放送終了時に、少なくとも1980年代ごろまで「では皆さん、しばらくお休みをさせていただきます」とのアナウンスがあった。 NBCラジオ佐賀含め自社制作番組は太字。NBCラジオ佐賀制作で長崎県内も同時放送の番組は◇、長崎・佐賀共同制作は〇。 ★はラジオ佐賀制作 平日朝 平日昼前 平日昼過ぎ 平日夜 金曜日 土曜日午前 土曜日午後 日曜日 1953年度から2005年度までに終了したもの 2006年度から2007年度までに終了したもの 2008年4月から2012年3月までに終了したもの 2012年4月から2014年3月までに終了したもの 2014年4月から2015年3月までに終了したもの 2015年4月から2015年9月までに終了したもの 2015年10月から2016年3月までに終了したもの 2016年4月から2016年9月までに終了したもの 2016年10月から2017年3月までに終了したもの 2017年4月から2017年6月までに終了したもの 2017年7月から2018年3月までに終了したもの 2018年4月から2018年11月までに終了したもの 2018年12月だけに終了したもの 2018年12月から2019年3月までに終了したもの 2019年4月から2019年9月までに終了したもの 2019年10月から2020年3月までに終了したもの 2020年4月から2021年3月までに終了したもの 2021年4月以降に終了したもの ほか ここではテレビ長崎(KTN)の開局(1969年4月)から長崎文化放送(NCC)の開局(1990年4月)までの約20年間の主にゴールデン・プライム枠の編成状況について列挙する。TBSテレビ系列局としては珍しく、報道関係の番組を除いては日本テレビ系列・NET→テレビ朝日系列の番組も交えた実質的なクロスネット編成がとられていた。 2011年7月24日停波時点 この他にも、県内に約130の中継局がある(長崎県は山地・離島などの複雑な地形により県内の世帯をカバーするためにも他の都道府県より多くの中継局を設けなければならない事情もある)。 24時間放送は実施せず。開始・終了の時刻はその時々に応じて変更。 2023年4月現在は平日(月〜金曜)は午前3:50、土曜・日曜は午前4:00である。編成の関係で変更の場合あり。 太字は同時ネット e-JNN(九州・沖縄)向けの番組としてRKB毎日放送を幹事社とする共同制作、およびNBCが制作協力している番組を掲載。その他の番組はRKB毎日放送#番組を参照。 太字は同時ネット。 ほか ほか ほか ほか ほか フリー、専属含む。主にNBCラジオ佐賀にて活動中のパーソナリティはNBCラジオ佐賀参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "長崎放送株式会社(ながさきほうそう、英: Nagasaki Broadcasting Co.,Ltd.、略: NBC)は、長崎県と佐賀県を放送対象地域とする中波放送(AM放送)事業と、長崎県を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ラジオ長崎としての創業時より、筆頭株主のマルハ(現・マルハニチロ)との関係が深い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "長崎県内唯一の、ラジオ放送・テレビ放送兼営の民間放送局。民放としては九州で福岡のRKB毎日放送に続いて2番目に開局した老舗の放送局である。社屋は県庁の近くにあり、長崎駅にも近い。また、2021年(令和3年)3月まで、長年の間企業ロゴデザインが変更されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ラジオのコールサインはJOUR(長崎 1233 kHz)で、テレビのコールサインはJOUR-DTV(長崎 14ch)。テレビはJNN系列で、ラジオはJRN/NRN系列のクロスネットである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "長崎国際テレビ開局までは、テレビ長崎がフジテレビ系列と日本テレビ系列のクロスネット局(後にフジテレビ系列のフルネット局となる)であったものの、スポンサー等の関係でNBCも一部のフジテレビ系と日本テレビ系の番組を放送し、朝日新聞資本の関係で長崎文化放送開局までテレビ朝日系の番組も相当数放送していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記のように、「テレビは1県1波、ラジオは2県1波」という全国的にも特殊な放送体系を採っている。とは言っても、2011年(平成23年)7月24日までのアナログテレビ放送において、佐賀県内の複数のケーブルテレビ局がRKBテレビと共にNBCテレビの再送信も実施していた。デジタル完全移行後の佐賀県では、JNN系列の再送信についてはRKBに事実上一本化したため、長崎県外のケーブルテレビ局によるNBCの再送信は行われなくなった。一方、中波の民放ラジオ局がない佐賀県向けに、一部独自の番組が放送されていた。ただし新社屋・局舎建設など(後述)により、現在は大幅に独自制作の規模を縮小している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ラジオ佐賀については、子会社のNBCソシアが業務全般を行っており、現在佐賀に在籍する本社社員は、局長ら一部管理職・技術責任者(電波法令に基づく)のみとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "NBCラジオ佐賀の電波は、筑後地域まで届いており、福岡県の民放ラジオ局の電波が入りにくい所ではよく聴取されている。そのため、筑後地域向けの広報番組を過去に放送したことがあった。また、NBC本局の中継局が島原にあり、有明海を隔てて熊本県や、鹿児島県の一部地域でも聴取できるため、エリア地域の人口は九州一であると推定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "長崎と言う土地柄、原爆、反核に関する報道について、敏感である。過去においても、原爆に関するドキュメンタリー番組を数多く制作し発信し続けた。また、受賞歴も多い。なお、長崎特有のお盆に精霊船が練り歩く精霊流しの特別番組を組む場合がある。長崎県の民放各社では、長崎くんちの開催期間には特別中継番組が組まれ、NBCもネット番組を中止して中継を行う(他局に比べて放送時間は長い)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ラジオ番組に関しては、放送免許そのものは長崎放送本社が持っているが、2006年(平成18年)にラジオ制作部門を、長崎本社は「NBCラジオ」(2010年(平成22年)に「NBC興産」と統合し「NBCソシア」となる)に、ラジオ佐賀は「NBC P&S」から社名変更した「株式会社NBCラジオ佐賀」に移譲。さらに2013年(平成25年)4月に「NBCソシア」と吸収合併させたうえで、長崎本社とラジオ佐賀のラジオ事業を「NBCソシア」の1つの部門として運営することになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "テレビ番組の自社制作は2004年(平成16年)スタートの『あっぷる』が中心だったが2020年(令和2年)4月から『あっぷる』に代わり『pint』を始めた。番組制作は関連会社に任せており、『あっぷる』や『pint』もその1つである。テレビ番組は「プロダクションナップ」が、ラジオ番組は2006年(平成18年)に発足した「NBCラジオ」社が、これに該当する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)7月23日に発生した長崎大水害においては、NBCラジオは20時15分に第一報を放送したあと、20時30分より全面的に災害放送へ移行し、ニッポン放送『オールナイトニッポン』のネットをはじめ通常番組を中止して、安否情報を流し続けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "北京オリンピック大会初日である2008年(平成20年)8月9日はJNN系列で北京オリンピック特番「北京オリンピック2008」を11:00から17:30まで中継していたが、当日は長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の模様を中継する特別番組を毎年編成しているため、NBCのみ13:00からの飛び乗り放送となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現在、ラジオでは2023年4月より平日午後(13時台~15時台)に自社制作番組の生ワイド番組を放送せずTBSラジオ制作の生ワイド番組を放送している。このような編成を行っている地方局は他にはない。テレビでも水曜19時台のローカルセールス枠に放送されていた『げなパネ!』が2021年3月に終了して以降九州地方のTBS系(JNN加盟局)では唯一同時間帯の自社制作番組を放送しない局となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)9月12日に運用開始された長崎市上町の旧社屋は、運用開始から60年以上が立ち老朽化が進んだほか、放送設備の大規模な更新を控えていることから、長崎市尾上町の長崎駅の西側に新社屋を建設し、移転することを決めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "規模は地上11階建。設計・監理はフジタ九州支店。2020年(令和2年)1月に着工し、2021年(令和3年)7月に竣工。2021年(令和3年)11月に運用開始した。ラジオは11月1日に運用開始。テレビは当初、ラジオと同日に運用開始予定だったが、前日の10月31日に第49回衆議院議員総選挙が行われたため、一週遅れて11月8日に運用開始。ちなみに上町の旧社屋からの最後のラジオ番組は、当総選挙の開票特別番組だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新社屋内部には、テレビ・ラジオのスタジオのほか、1階にエントランスホールでテレビ・ラジオ番組の収録やイベントで使用するほか、新社屋と面している歩行者専用道路で開催しているイベントなど活用され、長崎の様々な魅力・文化・平和などの情報発信拠点となり、地域の賑わい・活力を生み出していく。さらに放送局の機能をフルに活用し、地域の放送局の発信拠点の新社屋とする。また新社屋には長崎放送のグループ各社も入居。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新社屋移転と創立70周年に先立ち、2021年(令和3年)4月1日にCIとロゴマークを更新し、一新すると共にシンボルマークと新たなスローガンを導入した。九州地方のTBS系列局でシンボルマークを制定するのは南日本放送(1983年(昭和58年)制定)に次いで2例目となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また新社屋移転と創立70周年を機に、2022年(令和4年)1月12日に新しい同局のマスコットキャラクターとして「テレビンとれでぃお」を制定した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、長崎市上町の旧社屋は、新社屋運用開始後に解体され、跡地には隣接する長崎市社会福祉会館の敷地を一体的に活用するため、同市と共同開発に向けた協議を始めるとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "長崎県内にラジオ佐世保開局構想が出されると、他県同様「1県1波」という郵政省(当時)の指導が入ることになるが、他県の事例とは異なり、ラジオ佐世保に独自の免許およびコールサイン(JOMF)が出され、開局したあとに合併することとなった。1954年(昭和29年)4月1日のラジオ佐世保の開局により、一時的に同一県内に2局のラジオ局が存在する状態となった。そして半年後の1954年(昭和29年)10月にラジオ長崎とラジオ佐世保は合併した。ラジオ佐世保は長崎放送佐世保放送局となったが、ラジオ佐世保のコールサイン(JOMF)はラジオ放送においては現在も使用している。", "title": "本社・支社・放送局所在地" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "佐世保市浜田町には、かつてテレビ・ラジオのスタジオを備えた3階建ての局舎があり、ニュース取材においても、ニュース番組では佐世保局独自のニュースを放送するコーナーが存在した。また、NBCの親局としても中継局の設置の手間がかからず、経費面でプラスに作用していた。CMにおいても長崎圏・佐世保圏の企業のバランスが良かった。しかし、2000年代後半になって全社的な経営の見直しや放送設備の老朽化により、佐世保放送局は佐世保支社に改組された。浜田町にあった局舎は閉鎖され、松浦町のオフィスビルに移転した。局舎跡地は他社に売却されたようである。", "title": "本社・支社・放送局所在地" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一方、佐賀に放送局があるのは、かつて佐賀県に演奏所をもつ民放ラジオ局が無かったためである。佐賀県は福岡や熊本の民間放送局の電波が届くため、あえて民放を設立しなくとも良いと考えられていた 。NBCは長崎県と佐賀県が同じ肥前国であることに着目して中継局の設置を申請、1958年(昭和33年)のNBCラジオ佐賀の開局となった。佐賀県内のニュース取材と民間放送教育協会の部門区分は、ラジオは長崎放送(NBCラジオ佐賀)が、テレビはRKB毎日放送がそれぞれ担当する。", "title": "本社・支社・放送局所在地" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "長崎新聞社の出資比率は1.11 %と少ないが、長崎放送は長崎新聞社の大株主(731,000株、10.44 %)であり、一般的な新聞社・放送局と親子逆転の関係にある。", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典:", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)2月27日、鶴川武が「社団法人・長崎平和放送協会」設立を申請した。この頃は「電波3法」が国会審議中だったため、一時保留となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "鶴川武は1915年(大正4年)2月4日熊本県生まれ、中野高等無線電信学校等で学び、戦前は中国に渡り上海ラジオビーコン局等に勤務、敗戦と同時に上海から引き上げた。戦後は長崎に住み、1950年(昭和25年)に東邦通信機株式会社を設立した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "もう1つの流れは長崎商工会議所を中心とした「ラジオ長崎」のグループである。商工会議所会頭・脇山勘助(長崎電気軌道社長)や事務局長・菅野一郎、浅野金兵衛(長崎高等商業学校教授、現在の長崎大学経済学部)が中心となり、地元実業界有力者の10数人が発起人に名を連ねた。しかし、同年3月11日に長崎商工会議所が全焼する火災が発生、関係書類が消失したため一時中断となった。その後、「電波3法」の民放設立の条件であった「東京2局、他地区は1局」の方針により、1本化に向け話し合いを開始した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同年10月15日、長崎市の精洋亭ホテル(銅座町・長崎グランドホテルの前身)で合同発起人会を開き「株式会社長崎平和放送協会」を発足させた。代表に脇山勘助を選び、資本金3,500万円、出力3kW放送局を設立することを決めた。しかし後に、NHK長崎放送局と同じ500Wが望ましいと電波監理委員会からの勧告を受けたが、500Wでは県内全域をカバー出来ないとの理由により、結局1kWに減力して申請変更を行った。1951年(昭和26年)2月に西岡竹次郎(この年6月に長崎県知事に就任)も諫早で免許申請を行う。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "すぐに当時の政界有力者の斡旋で話し合いを持ち、西岡竹次郎は長崎平和放送協会に合流することで了解し、発起人に加わった。当時、放送局設置において新聞社を母体に資金や人的援助を仰いで、法人を立ち上げるのが常だったが、長崎の場合は朝日新聞社・毎日新聞社間の考えの違いで設立支援が具体化せず、地元経済界を中心とした自主的経営でのスタートとなり、ほかの民放と比べて苦難の道を歩むことになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "開局に向けて準備を始めるも、極端な資金不足により資本金が目標額1,250万の半分の500万にも満たず、中部悦良と大洋漁業が不足分を立て替えた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ラジオ長崎が開局したとはいえ、申請時の500Wが影響し、佐世保を始め県北一帯には電波が届かず、佐世保市民は民放の設立を望んでいた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)6月2日、佐世保市内の有力者が集まり「ラジオ佐世保設立発起人会」を結成。中心となったのは九州時事新聞社(1968年(昭和43年)に長崎新聞社と合併)社長であった辻一三であった。10月19日「ラジオ佐世保」の設立総会をレストラン玉屋で開いた。初代社長に山中辰四郎(佐世保庶民信用金庫理事長・その後1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)まで佐世保市長)が就任。佐世保地区は「ラジオ長崎」「ラジオ佐世保」の競願となった。地方民放は1県1局が原則、九州電波監理局が斡旋に乗り出した。最初の話し合いが雲仙で行われ、両者が各自の立場を強調したに留まったが、次第に合併の機運が生まれる。11月28日九州電波管理局による調停案が提示される。年が明け1954年(昭和29年)1月12日、田川務長崎市長・中田正輔佐世保市長の連名による合併斡旋勧告が出された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "3月6日ラジオ長崎・ラジオ佐世保で臨時株主総会を開催し合併を承認、社名を「長崎放送株式会社」と決定した。結果的にはいったん、ラジオ佐世保に免許が降ろされた上で4月1日に開局、半年後の10月18日に合併した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "長崎放送では、以下の7冊を発行している(2023年3月時点)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "佐賀県内の中継局はNBCラジオ佐賀の当該項目を参照。日曜日付け放送終了時、および月曜日付け放送開始時は全放送局をアナウンスするが、通常の起点である他の曜日の5時の段階では、長崎・佐世保・佐賀の周波数のみをアナウンスする。", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2023年10月時点。詳細は、公式サイトのラジオ番組表を参照。24時間放送で、月曜日4時開始(他の曜日は5時基点)、日曜日は月曜1時終了。ただし日曜日放送終了のアナウンスは月曜0時59分に行われる。放送終了時に、少なくとも1980年代ごろまで「では皆さん、しばらくお休みをさせていただきます」とのアナウンスがあった。", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "NBCラジオ佐賀含め自社制作番組は太字。NBCラジオ佐賀制作で長崎県内も同時放送の番組は◇、長崎・佐賀共同制作は〇。", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "★はラジオ佐賀制作", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "平日朝", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "平日昼前", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "平日昼過ぎ", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "平日夜", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "金曜日", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "土曜日午前", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "土曜日午後", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日曜日", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1953年度から2005年度までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2006年度から2007年度までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2008年4月から2012年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2012年4月から2014年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2014年4月から2015年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2015年4月から2015年9月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2015年10月から2016年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2016年4月から2016年9月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2016年10月から2017年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2017年4月から2017年6月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2017年7月から2018年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2018年4月から2018年11月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2018年12月だけに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2018年12月から2019年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年4月から2019年9月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2019年10月から2020年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2020年4月から2021年3月までに終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2021年4月以降に終了したもの", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "ラジオ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ここではテレビ長崎(KTN)の開局(1969年4月)から長崎文化放送(NCC)の開局(1990年4月)までの約20年間の主にゴールデン・プライム枠の編成状況について列挙する。TBSテレビ系列局としては珍しく、報道関係の番組を除いては日本テレビ系列・NET→テレビ朝日系列の番組も交えた実質的なクロスネット編成がとられていた。", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2011年7月24日停波時点", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この他にも、県内に約130の中継局がある(長崎県は山地・離島などの複雑な地形により県内の世帯をカバーするためにも他の都道府県より多くの中継局を設けなければならない事情もある)。", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "24時間放送は実施せず。開始・終了の時刻はその時々に応じて変更。 2023年4月現在は平日(月〜金曜)は午前3:50、土曜・日曜は午前4:00である。編成の関係で変更の場合あり。", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "太字は同時ネット", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "e-JNN(九州・沖縄)向けの番組としてRKB毎日放送を幹事社とする共同制作、およびNBCが制作協力している番組を掲載。その他の番組はRKB毎日放送#番組を参照。", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "太字は同時ネット。", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "テレビ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "フリー、専属含む。主にNBCラジオ佐賀にて活動中のパーソナリティはNBCラジオ佐賀参照", "title": "アナウンサー" } ]
長崎放送株式会社は、長崎県と佐賀県を放送対象地域とする中波放送(AM放送)事業と、長崎県を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。 ラジオ長崎としての創業時より、筆頭株主のマルハ(現・マルハニチロ)との関係が深い。
{{Redirect|JOUR|[[双葉社]]発行の女性向け[[漫画雑誌]]|JOUR (雑誌)}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 長崎放送株式会社 | 英文社名 = Nagasaki Broadcasting Co.,Ltd. | ロゴ = [[File:NBC Nagasaki Broadcasting logo 2019.svg|250px]] | 画像 = [[File:Nagasaki Broadcasting 20221021.jpg|250px]] | 画像説明 = NBC長崎放送本社ビル | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = | 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> | 略称 = NBC<ref name="company">[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/company/ 会社案内] - NBC長崎放送</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 850-8650<ref name="company"/> | 本社所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]尾上町5番6号<ref name="company"/> | 本社緯度度 = 32|本社緯度分 = 45|本社緯度秒 = 14.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 129|本社経度分 = 52|本社経度秒 = 2.5|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 設立 = [[1952年]]([[昭和]]27年)[[9月12日]]<ref name="company"/> | 業種 = 5250 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 放送法に基づくラジオ放送、テレビ放送 他 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 東晋<ref name="ASR">{{Cite report |和書 |author=長崎放送株式会社 |date=2022-06-24 |title=第76期(令和3年4月1日 - 令和4年3月31日)有価証券報告書}}</ref> | 資本金 = 4億5000万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = 90万株(2022年3月31日現在)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = 連結: 80億7243万3000円<br />単独: 42億5521万4000円<br />(2022年3月期)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 連結: 1億8066万7000円<br />単独: △3351万8000円<br />(2022年3月期)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 連結: 2億8529万9000円<br />単独: 2億1276万1000円<br />(2022年3月期)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 連結: △5億9055万1000円<br />単独: △5億8957万6000円<br />(2022年3月期)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 連結: 39億1021万1000円<br />単独: 16億8530万1000円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 連結: 160億2710万9000円<br />単独: 122億4645万0000円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 302人<br />単独: 83人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 支店舗数 = | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = 上野圭介<ref name="ASR"/> | 主要株主 = [[#資本構成]]参照 | 主要部門 = | 主要子会社 = [[NBC情報システム]]株式会社 90.0%<br />株式会社[[NBCソシア]] 100.0%<br />株式会社[[九州広告]] 50.0%<ref name="ASR"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 関係する人物 = [[二谷英明]] | 外部リンク = https://www.nbc-nagasaki.co.jp/ | 特記事項 = }} {{日本のラテ兼営局 |英名=Nagasaki Broadcasting Co.,Ltd.<ref name="cn" /> |英項名=Nagasaki Broadcasting |略=NBC<ref name="company"/> |郵便番号=850-8650<ref name="company"/> |都道府県=[[長崎県]] |本社=[[長崎市]]尾上町5番6号<ref name="company"/> |演奏所=本社と同じ |リンク=https://www.nbc-nagasaki.co.jp/ |ラジオ地域=長崎県・[[佐賀県]] |ラジオ系列=[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]] |ラジオ愛称=NBCラジオ |ラジオコールサイン=UR |ラジオ年=1953年 |ラジオ月日=3月1日 |ラジオ都市名=長崎 |kHz=1233 |出力=5 |ラジ中継局=佐世保 (JOMF) 1098kHz 他<br /><ref name="company"/> |テレビ地域=[[長崎県]] |テレビ系列=[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]] |番組=TBSネットワーク |テレビ愛称=NBC<br />NBC長崎放送 |コールサイン=UR |テレビ呼出名称=NBCながさきデジタルテレビジョン |年=1959年 |月日=1月1日 |都市名=長崎([[稲佐山]]) |ch1=5 |ch2=5 |id=3<ref name="company"/> |dch=14 |中継局= * 佐世保 10ch * 諫早 49ch → 62ch * 島原 62ch * 五島 6ch * 対馬 9ch * 他 |デジ中継局=佐世保 22ch<br />諫早・島原 23ch<br />南串山・南有馬・大瀬戸 14ch<br />平戸 39ch<br />福江 24ch<br />松浦 31ch<br />有川 45ch<br />郷ノ浦 41ch<br />厳原 28ch |特記事項=ラジオの佐賀放送局は「[[NBCラジオ佐賀]]」の愛称で、かつては午前・午後の番組のほとんどを佐賀県向けの番組に差し替えていた。<br />テレビの地上デジタル放送は2006年12月1日に開始。 }} '''長崎放送株式会社'''<ref>長崎放送株式会社 定款 第1章第1条</ref>(ながさきほうそう、{{Lang-en-short|Nagasaki Broadcasting Co.,Ltd.}}<ref name="cn">{{Cite report |和書 |author=長崎放送株式会社 |date=2022-06-24 |title=第76期(令和3年4月1日 - 令和4年3月31日)有価証券報告書 英訳名}}</ref>、略: '''NBC''')は、[[長崎県]]と[[佐賀県]]を[[放送対象地域]]とする[[中波放送]](AM放送)事業と、長崎県を放送対象地域とする[[テレビジョン放送]]事業を行っている[[特定地上基幹放送事業者]]である。 ラジオ長崎としての創業時より、筆頭株主の[[マルハ]](現・[[マルハニチロ]])との関係が深い。 == 概要 == {{独自研究|section=1|date=2020年9月23日 (水) 19:20 (UTC)}} 長崎県内唯一の、[[ラテ兼営|ラジオ放送・テレビ放送兼営]]の[[民間放送]]局。民放としては九州で福岡の[[RKB毎日放送]]に続いて2番目に開局した老舗の放送局である。社屋は県庁の近くにあり、[[長崎駅]]にも近い。また、[[2021年]]([[令和]]3年)3月まで、長年の間企業ロゴデザインが変更されなかった。 ラジオの[[日本の放送局所の呼出符号#JO*R|コールサイン]]は'''JOUR'''(長崎 1233&nbsp;[[キロヘルツ|kHz]])で、テレビのコールサインは'''JOUR-DTV'''(長崎 14ch)。テレビは[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列で、ラジオは[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]/[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系列のクロスネットである。 [[長崎国際テレビ]]開局までは、[[テレビ長崎]]が[[フジテレビ系列]]と[[日本テレビ系列]]のクロスネット局(後にフジテレビ系列のフルネット局となる)であったものの、スポンサー等の関係でNBCも一部のフジテレビ系と日本テレビ系の番組を放送し、[[朝日新聞]]資本の関係で[[長崎文化放送]]開局まで[[テレビ朝日]]系の番組も相当数放送していた。 上記のように、「テレビは1県1波、ラジオは2県1波」という全国的にも特殊な放送体系を採っている<ref group="注釈">同様の放送体系は、テレビを[[京都府]]、ラジオを京都府・[[滋賀県]]としている[[京都放送]](KBS京都・[[KBS滋賀]])のみ。テレビとラジオで放送エリアが違うという意味では[[RSK山陽放送]]([[RSKラジオ|ラジオ]]:[[岡山県]])と[[西日本放送]]([[西日本放送ラジオ|ラジオ]]:[[香川県]])も該当([[電波相互乗り入れ]]により、両局ともテレビ:[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]])。</ref>。とは言っても、[[2011年]]([[平成]]23年)7月24日までのアナログテレビ放送において、佐賀県内の複数のケーブルテレビ局がRKBテレビと共にNBCテレビの再送信も実施していた。デジタル完全移行後の佐賀県では、JNN系列の再送信についてはRKBに事実上一本化したため、長崎県外のケーブルテレビ局によるNBCの再送信は行われなくなった。一方、中波の民放ラジオ局がない[[佐賀県]]向けに、一部独自の番組が放送されていた。ただし新社屋・局舎建設など(後述)により、現在は大幅に独自制作の規模を縮小している。 {{main|NBCラジオ佐賀}} ラジオ佐賀については、子会社のNBCソシアが業務全般を行っており、現在佐賀に在籍する本社社員は、局長ら一部管理職・技術責任者(電波法令に基づく)のみとなっている。 [[NBCラジオ佐賀]]の電波は、筑後地域まで届いており、福岡県の民放ラジオ局の電波が入りにくい所ではよく聴取されている。そのため、筑後地域向けの広報番組を過去に放送したことがあった。また、NBC本局の中継局が島原にあり、有明海を隔てて熊本県や、鹿児島県の一部地域でも聴取できるため、エリア地域の人口は九州一であると推定されている。 長崎と言う土地柄、原爆、反核に関する報道について、敏感である。過去においても、原爆に関する[[ドキュメンタリー]]番組を数多く制作し発信し続けた。また、受賞歴も多い。なお、長崎特有のお盆に精霊船が練り歩く[[精霊流し]]の特別番組を組む場合がある。長崎県の民放各社では、[[長崎くんち]]の開催期間には特別中継番組が組まれ、NBCもネット番組を中止して中継を行う(他局に比べて放送時間は長い)<ref>{{Cite journal |和書|url=https://hdl.handle.net/10561/683 |title=テレビ番組のコンテンツとしての平和式典と長崎くんち |journal= 研究紀要|publisher=長崎県立大学 |author=森田均 |issue=11 |accessdate=2018-08-22}}</ref>。 ラジオ番組に関しては、放送免許そのものは長崎放送本社が持っているが、[[2006年]](平成18年)にラジオ制作部門を、長崎本社は「NBCラジオ」([[2010年]](平成22年)に「NBC興産」と統合し「NBCソシア」となる)に、ラジオ佐賀は「NBC P&S」から社名変更した「株式会社NBCラジオ佐賀」に移譲。さらに[[2013年]](平成25年)4月に「NBCソシア」と吸収合併させたうえで、長崎本社とラジオ佐賀のラジオ事業を「NBCソシア」の1つの部門として運営することになった。 テレビ番組の自社制作は[[2004年]](平成16年)スタートの『[[あっぷる]]』が中心だったが[[2020年]](令和2年)4月から『あっぷる』に代わり『[[pint]]』を始めた。番組制作は関連会社に任せており、『あっぷる』や『pint』もその1つである。テレビ番組は「プロダクションナップ」が、ラジオ番組は2006年(平成18年)に発足した「NBCラジオ」社が、これに該当する。 [[1982年]]([[昭和]]57年)7月23日に発生した[[長崎大水害]]においては、NBCラジオは20時15分に第一報を放送したあと、20時30分より全面的に災害放送へ移行し、[[ニッポン放送]]『[[オールナイトニッポン]]』のネットをはじめ通常番組を中止して、安否情報を流し続けた{{要出典|date=2014年10月}}。 [[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]大会初日である[[2008年]](平成20年)8月9日はJNN系列で北京オリンピック特番「北京オリンピック2008」を11:00から17:30まで中継していたが、当日は[[長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典]]の模様を中継する特別番組を毎年編成しているため、NBCのみ13:00からの飛び乗り放送となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://timetable.yanbe.net/html/42/2008/08/09_1.html?42|title=2008年08月09日のテレビ番組表(長崎・地上波1)|publisher=yanbe.net|accessdate=2018-08-22}}</ref>。 現在、ラジオでは2023年4月より平日午後(13時台~15時台)に自社制作番組の生ワイド番組を放送せず[[TBSラジオ]]制作の生ワイド番組を放送している。このような編成を行っている地方局は他にはない。テレビでも水曜19時台のローカルセールス枠に放送されていた『[[げなパネ!]]』が2021年3月に終了して以降九州地方の[[TBS系列|TBS系]]([[JNN]]加盟局)では唯一同時間帯の自社制作番組を放送しない局となった。 === 主な受賞歴 === *『夢とアブラ』で2023年[[日本民間放送連盟賞]]番組部門テレビ報道番組優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=2023年日本民間放送連盟賞 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://j-ba.or.jp/award2023/ |website=j-ba.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref> *『げなパネ! 自転車女子旅立ちのスペシャル』で2018年同賞特別表彰部門放送と青少年優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://j-ba.or.jp/category/aboutus/jba102659#seisyounen |website=j-ba.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref> *『中倉さんちの食べ物絵ごよみ』で2015年同賞番組部門テレビエンターテインメント番組優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://www.j-ba.or.jp/category/aboutus/jba101573#TVenta |website=www.j-ba.or.jp |access-date=2023-11-06}}</ref> *『人間神様』で2014年同賞番組部門テレビエンターティンメント番組最優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://www.j-ba.or.jp/category/aboutus/jba101390#TVenta |website=www.j-ba.or.jp |access-date=2023-11-06}}</ref> *『天まで上げろ~212年目のコッコデショ~』で2013年同賞番組部門テレビエンターテインメント番組優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://j-ba.or.jp/category/aboutus/jba100939#v4e931a3 |website=j-ba.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref> *『へトマト』で2010年同賞番組部門テレビエンターテイメント番組優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://j-ba.or.jp/category/aboutus/jba100937#wa9dd364 |website=j-ba.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref> *『いつも心にジャグリング』で2008年同賞番組部門テレビエンターテインメント番組最優秀賞<ref>{{Cite web|和書|title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://j-ba.or.jp/category/aboutus/jba100935#c4f1d7ca |website=j-ba.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref> ほか === 新社屋移転 === [[1962年]](昭和37年)[[9月12日]]に運用開始された[[長崎市]][[上町 (長崎市)|上町]]の旧社屋は、運用開始から60年以上が立ち老朽化が進んだほか、放送設備の大規模な更新を控えていることから、長崎市[[尾上町 (長崎市)|尾上町]]の[[長崎駅]]の西側に新社屋を建設し、移転することを決めた。 規模は地上11階建。設計・監理は[[フジタ]]九州支店。[[2020年]](令和2年)[[1月]]に着工し、[[2021年]](令和3年)[[7月]]に竣工。2021年(令和3年)[[11月]]に運用開始した<ref>{{cite news|url=https://www.nbc-nagasaki.co.jp/pressrelease/20211101-nbc-building-open/|title=2021年11月1日 長崎放送本社移転「NBCビル」オープン|accessdate=2021年10月31日|publisher=長崎放送}}</ref>。ラジオは[[11月1日]]に運用開始。テレビは当初、ラジオと同日に運用開始予定だったが、前日の[[10月31日]]に[[第49回衆議院議員総選挙]]が行われたため、一週遅れて[[11月8日]]に運用開始。ちなみに上町の旧社屋からの最後のラジオ番組は、当総選挙の開票特別番組だった。 新社屋内部には、テレビ・ラジオのスタジオのほか、1階にエントランスホールでテレビ・ラジオ番組の収録やイベントで使用するほか、新社屋と面している歩行者専用道路で開催しているイベントなど活用され、長崎の様々な魅力・文化・平和などの情報発信拠点となり、地域の賑わい・活力を生み出していく。さらに放送局の機能をフルに活用し、地域の放送局の発信拠点の新社屋とする。また新社屋には長崎放送のグループ各社も入居。 新社屋移転と創立70周年に先立ち、2021年(令和3年)[[4月1日]]に[[コーポレート・アイデンティティ|CI]]とロゴマークを更新し、一新すると共にシンボルマークと新たなスローガンを導入した<ref name=":0" />。九州地方のTBS系列局でシンボルマークを制定するのは[[南日本放送]]([[1983年]](昭和58年)制定)に次いで2例目となる。 また新社屋移転と創立70周年を機に、[[2022年]](令和4年)[[1月12日]]に新しい同局のマスコットキャラクターとして「テレビンとれでぃお」を制定した<ref name=":1" />。 なお、長崎市上町の旧社屋は、新社屋運用開始後に解体され、跡地には隣接する長崎市社会福祉会館の敷地を一体的に活用するため、同市と共同開発に向けた協議を始めるとしている。 == 本社・支社・放送局所在地 == [[File:COMBOX Saga-eki-mae 2021-10.jpg|thumb|250px|right|NBCラジオ佐賀の事務所とスタジオが入居する「コムボックス佐賀駅前」<br>(佐賀市駅前中央1丁目)]] ; 本社 : [[長崎県]][[長崎市]][[尾上町 (長崎市)|尾上町]]5番6号([[電話番号]]095-824-3111) ::[[九州旅客鉄道|JR]][[長崎駅]]より徒歩10分 ; 佐世保支社 : 長崎県[[佐世保市]][[松浦町]]2番21号([[電話番号]]0956-24-2251)[[九十九島ビル]]4階<ref>[https://itp.ne.jp/info/427037579400000899/ 長崎放送株式会社佐世保支社(佐世保市松浦町/放送業・放送局)(電話番号:0956-24-2251)] - [[iタウンページ]]</ref> ;佐賀放送局([[NBCラジオ佐賀]]) : [[佐賀県]][[佐賀市]][[駅前中央]]1丁目4番17号 [[コムボックス佐賀駅前]]1階([[日本の郵便番号|郵便番号]]840-0801) ; 東京支社 : [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]8丁目9番16号 [[長崎センタービル]]内<ref>[https://map.yahoo.co.jp/place?ac=13102&az=NS44LjkuMTY&lat=35.66806&lon=139.76184&zoom=19&maptype=basic 東京都中央区銀座8丁目9-16の地図] - [[Yahoo!ロコ#地図|Yahoo!地図]]</ref> ; 大阪支社 : [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[北新地|曽根崎新地]]2丁目6番23号 [[桜橋MFビル]]7階 ; 福岡支社 : [[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[天神 (福岡市)|天神]]4丁目1番18号 [[サンビル]]内<ref>[https://map.yahoo.co.jp/place?ac=34209&az=NDEuMS4yLjQz&lat=34.80376&lon=132.85753&zoom=20&maptype=basic 福岡県福岡市中央区天神4丁目1-18の地図] - Yahoo!地図</ref> ; 出典<ref name="company"/> === 佐世保支社と佐賀放送局 === 長崎県内に[[ラジオ佐世保]]開局構想が出されると、他県同様「1県1波」という[[郵政省]](当時)の指導が入ることになるが、他県の事例とは異なり、ラジオ佐世保に独自の免許およびコールサイン([[日本の放送局所の呼出符号#JO*F|JOMF]])が出され、開局したあとに合併することとなった。[[1954年]](昭和29年)[[4月1日]]のラジオ佐世保の開局により、一時的に同一県内に2局のラジオ局が存在する状態となった。そして半年後の1954年(昭和29年)10月にラジオ長崎とラジオ佐世保は合併した。ラジオ佐世保は長崎放送佐世保放送局となったが、ラジオ佐世保のコールサイン(JOMF)はラジオ放送においては現在も使用している<ref group="注釈">テレビジョンは1990年代ごろに返上。</ref>。 佐世保市[[浜田町 (佐世保市)|浜田町]]には、かつてテレビ・ラジオのスタジオを備えた3階建ての局舎があり、ニュース取材においても、ニュース番組では佐世保局独自のニュースを放送するコーナーが存在した。また、NBCの親局としても中継局の設置の手間がかからず、経費面でプラスに作用していた。CMにおいても長崎圏・佐世保圏の企業のバランスが良かった。しかし、2000年代後半になって全社的な経営の見直しや放送設備の老朽化により、佐世保放送局は佐世保支社に改組された。浜田町にあった局舎は閉鎖され、松浦町のオフィスビルに移転した。局舎跡地は他社に売却されたようである。 一方、佐賀に放送局があるのは、かつて佐賀県に演奏所をもつ民放ラジオ局が無かったためである<ref group="注釈">佐賀県にも1954年1月から1956年の11月まで九州朝日放送が佐賀県三養基郡(のち[[鳥栖市]])に送信所があり([[九州朝日放送#沿革]]を参照、)、[[域外中継局|域外送信所]]の類ではあるが、約2年間九州7県全てに民放ラジオ局の送信所が存在したことになる。</ref>。佐賀県は福岡や熊本の民間放送局の電波が届くため、あえて民放を設立しなくとも良いと考えられていた<ref group="注釈">同県初の民間放送局[[サガテレビ]]は1969年開局であり、ラジオに限れば純粋なる佐賀県域局として[[エフエム佐賀]]が開局するのは1992年。</ref> 。NBCは長崎県と佐賀県が同じ[[肥前国]]であることに着目して中継局の設置を申請、[[1958年]](昭和33年)のNBCラジオ佐賀の開局となった。佐賀県内のニュース取材と[[民間放送教育協会]]の部門区分は、ラジオは長崎放送(NBCラジオ佐賀)が、テレビは[[RKB毎日放送]]がそれぞれ担当する。 == 資本構成 == === 概要 === [[長崎新聞|長崎新聞社]]の出資比率は1.11&nbsp;[[パーセント|%]]と少ないが、長崎放送は長崎新聞社の大株主(731,000株、10.44&nbsp;%)であり、一般的な新聞社・放送局と親子逆転の関係にある。 === 2022年3月31日 === 出典: <ref>{{Cite report |和書 |author=長崎放送株式会社 |date=2022-06-24 |title=第76期(令和3年4月1日 - 令和4年3月31日)有価証券報告書 大株主の状況}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |4億5000万円||900,000株||284 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[マルハニチロ]]||139,500株||15.50% |- |[[長崎県]]||{{0}}60,007株||{{0}}6.67% |- |[[長崎ケーブルメディア]]||{{0}}51,832株||{{0}}5.76% |- |[[十八親和銀行]]||{{0}}43,357株||{{0}}4.82% |- |[[長崎市]]||{{0}}40,005株||{{0}}4.45% |- |[[長崎魚市]]||{{0}}32,017株||{{0}}3.56% |- |東晋 <ref group="注釈">長崎放送 代表取締役社長</ref>||{{0}}28,430株||{{0}}3.16% |- |中部省三 <ref group="注釈" name="相談">長崎放送 相談役取締役</ref>||{{0}}25,000株||{{0}}2.78% |- |[[朝日新聞社]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |[[林兼産業]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |} === 過去の資本構成 === 企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典:<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.uforeader.com/v1/ec/E04390.html|title=有報リーダー|publisher=Lafla|accessdate=2017-06-08}}{{リンク切れ|date=2020年10月}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1978-12|title=日本放送年鑑'78|publisher=洋文社|page=317}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1992-11|title=日本民間放送年鑑'92|publisher=コーケン出版|page=429}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=2003-11|title=日本民間放送年鑑2003|publisher=コーケン出版|page=461}}</ref> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1978年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !資本金!!授権資本!!1株!!発行済株式総数 |- |4億5000万円||18億円||500円||900,000株 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[マルハ|大洋漁業]]||90,000株||10.00% |- |長崎県||60,007株||{{0}}6.66% |- |長崎市||40,005株||{{0}}4.44% |- |中央ビル||35,715株||{{0}}3.96% |- |十八銀行||34,457株||{{0}}3.82% |- |親和銀行||34,457株||{{0}}3.82% |- |林兼造船||31,500株||{{0}}3.50% |- |長崎魚市||30,015株||{{0}}3.33% |- |中部長次郎 <ref group="注釈" name="会長"/>||20,003株||{{0}}2.22% |- |林兼産業||18,000株||{{0}}2.00% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1992年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!授権資本!!1株!!発行済株式総数!!株主数 |- |4億5000万円||18億円||500円||900,000株||440 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |大洋漁業||121,500株||13.50% |- |長崎県||{{0}}60,007株||{{0}}6.66% |- |長崎市||{{0}}40,005株||{{0}}4.44% |- |中央ビル||{{0}}35,715株||{{0}}3.96% |- |十八銀行||{{0}}34,457株||{{0}}3.82% |- |親和銀行||{{0}}34,457株||{{0}}3.82% |- |長崎魚市||{{0}}32,015株||{{0}}3.55% |- |中部長次郎 <ref group="注釈" name="会長">長崎放送 代表取締役会長</ref>||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |朝日新聞社||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |林兼産業||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2003年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |4億5000万円||900,000株||405 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |マルハ||121,500株||13.50% |- |長崎県||{{0}}60,007株||{{0}}6.66% |- |長崎市||{{0}}40,005株||{{0}}4.44% |- |中央ビル||{{0}}35,715株||{{0}}3.96% |- |十八銀行||{{0}}34,457株||{{0}}3.82% |- |親和銀行||{{0}}34,457株||{{0}}3.82% |- |長崎魚市||{{0}}32,017株||{{0}}3.55% |- |鈴木彌生||{{0}}21,667株||{{0}}2.40% |- |藤樹憲二 <ref group="注釈" name="相談"/>||{{0}}18,450株||{{0}}2.05% |- |中部長次郎||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |朝日新聞社||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |林兼産業||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2015年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |4億5000万円||900,000株||358 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[マルハニチロ]]||139,500株||15.50% |- |[[長崎県]]||{{0}}60,007株||{{0}}6.66% |- |[[十八銀行]]||{{0}}43,357株||{{0}}4.82% |- |[[親和銀行]]||{{0}}43,357株||{{0}}4.82% |- |[[長崎市]]||{{0}}40,005株||{{0}}4.44% |- |長崎魚市||{{0}}32,017株||{{0}}3.55% |- |上田良樹 <ref group="注釈" name="会長"/>||{{0}}31,960株||{{0}}3.55% |- |中部省三 <ref group="注釈" name="相談"/>||{{0}}20,000株||{{0}}2.22% |- |[[朝日新聞社]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |[[林兼産業]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |[[長崎新聞|長崎新聞社]]||{{0}}10,007株||{{0}}1.11% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2016年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |4億5000万円||900,000株||355 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[マルハニチロ]]||139,500株||15.50% |- |[[長崎県]]||{{0}}60,007株||{{0}}6.66% |- |[[十八銀行]]||{{0}}43,357株||{{0}}4.82% |- |[[親和銀行]]||{{0}}43,357株||{{0}}4.82% |- |[[長崎市]]||{{0}}40,005株||{{0}}4.44% |- |長崎魚市||{{0}}32,017株||{{0}}3.55% |- |上田良樹 <ref group="注釈" name="会長">長崎放送 代表取締役会長</ref>||{{0}}31,960株||{{0}}3.55% |- |中部憲一郎||{{0}}24,215株||{{0}}2.69% |- |中部省三 <ref group="注釈" name="相談">長崎放送 相談役取締役</ref>||{{0}}20,000株||{{0}}2.22% |- |[[朝日新聞社]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |[[林兼産業]]||{{0}}18,000株||{{0}}2.00% |- |[[長崎新聞|長崎新聞社]]||{{0}}10,007株||{{0}}1.11% |} </div></div> == 沿革 == [[File:Nagasaki Broadcasting Company head office 1.jpg|thumb|移転前の長崎放送旧本社(手前)とNBCソシア(奥)]] {{RADIOLISTEN|date=2015年9月5日 (土) 10:41 (UTC)|section=1}} * [[1950年]]([[昭和]]25年) ** [[2月]] - 「[[社団法人]](現・[[一般社団法人]])長崎平和放送協会」[[東邦通信機]]の[[鶴川武]]社長が申請。 ** [[10月15日]] - 長崎平和放送、ラジオ長崎合同発起人会。 * [[1951年]](昭和26年)[[12月]] - ラジオ[[予備免許]]交付。 * [[1952年]](昭和27年) ** [[9月12日]] - '''長崎平和放送株式会社'''設立。 ** [[12月8日]] - '''株式会社ラジオ長崎'''に商号変更。 * [[1953年]](昭和28年) ** [[2月1日]] - ラジオ試験電波発射。 ** [[2月23日]] - ラジオ本免許交付。 ** [[2月24日]] - ラジオのサービス放送開始。 ** [[3月1日]] - 全国19番目の民間放送局としてラジオ長崎(JOUR)開局(1320[[キロヘルツ|kc]] 500[[ワット|W]])。 九州では福岡のラジオ九州([[RKBラジオ]])に次ぐ2番目。 * [[1954年]](昭和29年) ** [[4月1日]] - ラジオ佐世保(JOMF)開局。 ** [[5月1日]] - ラジオ九州(RKBラジオ)、ラジオ長崎、ラジオ佐世保でKNS協定発足。 [[File:Nagasaki Nbc logo.svg|thumb|150px|2021年3月まで使用されていた局ロゴ。]] ** [[10月18日]] - ラジオ佐世保と合併、'''長崎放送株式会社'''(NBC)に社名変更。 * [[1956年]](昭和31年)[[1月25日]] - テレビ放送局免許申請。 * [[1957年]](昭和32年)[[10月22日]] - テレビ予備免許交付。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[8月1日]] - [[鍋島ラジオ放送所|佐賀ラジオ放送局]]([[日本の放送局所の呼出符号#JO*O|JOUO]]、[[NBCラジオ佐賀]])開局。 ** [[12月17日]] - テレビ試験電波発射。 ** [[12月24日]] - テレビのサービス放送開始。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[1月1日]] - 長崎テレビ放送局開局・テレビ放送開始([[稲佐山]]) 九州の民放ではラジオ九州(現RKB毎日放送)、[[テレビ西日本]](TNC)に次ぐ3番目。 *** 放送会館完成までの間は、稲佐山送信所に設置されたマスター室・スタジオからテレビ放送を行っていた。 ** [[2月20日]] - 佐世保テレビ放送局開局。 * [[1961年]](昭和36年)3月1日 - [[平戸中継局|平戸ラジオ中継局]]開局。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[9月12日]] - NBC放送会館完成。 ** [[10月1日]] - 島原ラジオ中継局開局。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月11日]] - NBC労働組合が午後1時15分から30分間、初めてのストライキに入った。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[4月1日]] - NBC初の関連会社「NBC音楽放送協会」発足。 ** [[11月12日]] - 米海軍原潜シードラゴンが佐世保に寄港の様子を全国に向けて生中継に成功。当日は[[日本放送協会|NHK]]が中継回線を独占していたため、自営マイクロ7段中継を[[熊本放送]](RKK)の協力により成功する。放送はRKKにより、JNN系列14局に送り出された。内外から絶賛される。 ** [[12月10日]] - 有限会社「[[NBCサービスセンター]]」を発足。 * [[1965年]](昭和40年)[[6月1日]] - 関連会社「[[九州広告]]」を佐世保に創立。 * [[1966年]](昭和41年)[[12月21日]] - [[カラーテレビ|カラー放送]]開始。 * [[1967年]](昭和42年)[[9月7日]] - [[TBSホールディングス|東京放送]](TBS)と業務協定締結。 * [[1968年]](昭和43年)[[5月12日]] - 佐世保市浜田町に地下1階、地上3階の佐世保局舎完成。 * [[1969年]](昭和43年)[[3月16日]] - 長崎市[[浜町 (長崎市)|浜町]]の[[稲田時計店]]にサテライトスタジオ誕生。 * [[1970年]](昭和45年)[[9月18日]] - 東京銀座8丁目に地下2階、地上9階の「長崎センタービル」完成<ref group="注釈">長崎センタービルにはNBC東京支社の他、長崎新聞社や[[埼玉県]]の独立局[[テレビ埼玉]]の東京支社も入居している。</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[2月29日]] - NBC本社隣りにNBC別館完成([[1988年]](昭和63年)に「NBCソシアビル」に名称変更)。別館ビルに「[[NBCビデオホール]]」が開設される。 * [[1973年]](昭和48年)[[4月5日]] - 当時の準キー局の[[朝日放送テレビ]](ABC)制作のテレビドラマ[[日本の嫁シリーズ#嫁チャンポン|『日本の嫁シリーズ』の第3作『嫁チャンポン』]](主演:[[山本陽子]])の放送が開始され、制作協力として参加。 * [[1974年]](昭和49年)[[3月31日]] - [[唐津ラジオ中継局]]開局。 * [[1978年]](昭和53年)[[2月6日]] - ラジオマスター、[[2月13日]]にはテレビマスター(NEC製)を更新。[[自動番組制御装置|APS]]導入。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[12月13日]] - [[諫早ラジオ中継局]]開局。 ** [[12月26日]] - [[福江中継局|福江ラジオ中継局]]開局。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[2月21日]] - NBC第3ビル(地下1階、地上9階)が竣工。 ** [[3月21日]] - [[音声多重放送#日本のテレビ放送|テレビ音声多重放送]]開始。 ** [[4月1日]] - コマーシャルを1本化して放送する「[[CMバンクシステム]]」を導入。 ** [[8月1日]] - [[伊万里ラジオ中継局]]開局。 * [[1983年]](昭和58年)[[11月10日]] - [[TBSテレビ]]の人気番組『[[ザ・ベストテン]]』の放送300回とNBC開局30周年を記念して、長崎市松山町[[平和公園]]にある[[長崎市営ラグビー・サッカー場]](市営球技場)から公開生放送を実施<ref group="注釈">当番組第1回目の公開生放送。以後岡山、静岡、松本、仙台、鹿児島、と放送終了まで続いた。</ref>。NBCからは[[川瀬隆史]]が参加した。8日の午前10時から入場整理券をNBC本社で配布。この際、10,000近くのファンが早朝からNBCを取り囲んだ。小学生や中学生が学校を休んで並んだり徹夜までする騒ぎとなり、結局、32人の児童生徒が補導されマスコミに大きく報じられた。当日はファン1万5千人が集まり、主催者側整備員約600人を動員、警官約160人が出動。東京地区の視聴率は29.9%だった。 * [[1985年]](昭和60年)[[4月17日]] - ラジオ佐賀と長崎局でそれぞれ地域別のCM放送開始。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** [[3月6日]] - ラジオマスター更新。 ** [[6月22日]] - テレビマスター更新(NEC製)。また時刻が左上に表示されるようになる。 * [[1990年]](平成2年)[[4月4日]] - NBC本社を全面改装。ソシアビルと同色に統一。 * [[1991年]](平成3年)[[7月23日]] - NBCラジオ佐賀局舎改装。 * [[1996年]](平成8年) ** [[3月19日]] - [[NBC有田ラジオ中継局|有田ラジオ中継局]]開局。 ** [[10月28日]] - NBCラジオ長崎局と諫早局周波数共通化(1449&nbsp;kHz→1233kHzへ)。 * [[1999年]](平成11年)頃 - NBCラジオ佐賀局と唐津局周波数共通化(1485&nbsp;kHz→1458kHzへ)。 * [[2001年]](平成13年)[[10月29日]] - NBCラジオ長崎局と島原局周波数共通化(1098&nbsp;kHz→1233kHzへ)。 * [[2006年]](平成18年) ** [[5月22日]] - [[NTSC#日本における実装 (NTSC-J)|アナログ]]・[[日本の地上デジタルテレビ放送|デジタル]]統合マスターへ更新(NEC製)。 ** [[12月1日]] - 地上デジタル放送開始。 * [[2008年]](平成20年)3月1日 - [[長崎ケーブルメディア]]の[[セットトップボックス|デジタルSTB]]でNBCラジオの放送開始(アナログ波の再送信・モノラル放送)。 * [[2010年]](平成22年)4月1日 - 子会社のエヌビーシー興産株式会社が株式会社NBCラジオを吸収合併し株式会社NBCソシアと改称。 * [[2011年]](平成23年) ** [[1月24日]] - [[対馬市]]内の[[厳原中継局#対馬市内アナログテレビ中継局|アナログテレビ中継局]]のうち、[[厳原中継局]]を除く4局(南厳原(みなみいづはら)、佐須奈(さすな)、対馬伊奈(つしまいな)、志多留(したる))が先行廃止(NHK長崎・KTNも同様)。 ** [[7月24日]] - 正午(午後0時)アナログテレビ放送が終了、翌日([[7月25日]])の午前0時までにアナログテレビ放送は完全停波しデジタルテレビ放送に完全移行。 * [[2012年]](平成24年) ** [[1月30日]] - インターネットのIPサイマルラジオ「[[radiko|radiko.jp]]」でNBCラジオ(長崎本局)の同時配信を開始([[エフエム長崎]]も同様、配信エリアは長崎県内のみ対象)。 ** 9月12日 - 創立60周年。 ** [[9月15日]] - 創立60周年記念番組『NBCラジフェス60時間ラジオ』を放送、深夜にはテレビ・ラジオで同時放送などを行ったが、[[平成24年台風第16号]]の接近により、[[伊王島]]でのライブイベントが中止。 * [[2013年]](平成25年)4月1日 - 子会社の株式会社NBCソシアが株式会社NBCラジオ佐賀を吸収合併。長崎・佐賀のラジオ事業子会社を統合。 * [[2015年]](平成27年) ** [[6月30日]] - [[FM補完中継局]]の予備免許を受ける<ref name="MICKBT">[https://www.soumu.go.jp/soutsu/kyushu/press/150630-1-0.html 長崎放送中波ラジオ難聴地域の一部解消に向けて -中波ラジオ放送のFM方式による補完中継局に、長崎県初の予備免許を付与-] - 総務省九州総合通信局・報道資料(2015年6月30日)</ref><ref>[http://www.nbc-nagasaki.co.jp/radio/amfm.php 長崎放送AMラジオ放送の難聴が一部解消されます。](2015年6月30日){{リンク切れ|date=2020年10月}}</ref>。 ** 10月1日 - NBC長崎FM局本放送開始<ref name="JOURFM">[http://www.nbc-nagasaki.co.jp/radio/wide_fm/ ワイドFM~NBCラジオの番組がFMラジオでも聞ける!]{{リンク切れ|date=2020年10月}}</ref>。 ** 12月1日 - NBC諌早FM局本放送開始<ref name="JOURFM" />。 * [[2017年]](平成29年)[[2月1日]] - ** NBC佐世保FM局本放送開始。 ** NBC佐賀FM局本放送開始。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** 1月 - 長崎市[[尾上町 (長崎市)|尾上町]]の新社屋を建設し着工。 ** 6月15日 - NBCラジオ佐賀局舎を[[佐賀駅]]前の商業施設「コムボックス佐賀駅前」内に移転。 * [[2021年]](令和3年) ** 4月1日 - 新社屋移転と創立70周年に先立ち、[[コーポレート・アイデンティティ|CI]]を導入。ロゴマークを一新すると共にシンボルマークを導入<ref name=":0">{{PDFlink|[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/nbc-corporate-identity_20210224.pdf NBC、新たにCI(コーポレート・アイデンティティ)を制定。 ミッション、 スローガンの制定、コーポレートロゴも刷新。] 長崎放送株式会社 2021年2月24日}}</ref>。これに伴い、当日の放送開始よりテレビのチャンネルアイコンとウォーターマークが新しいコーポレートロゴに変更されている。また新たなスローガンとして、「'''テレビの外へ!'''」と「'''ラジオの先へ!'''」を制定した。 ** 7月 - 長崎市尾上町の新社屋を竣工。 ** 10月1日 - radikoの通常配信エリアを佐賀県に拡大。合わせて2021年秋の改編でNBCラジオ佐賀とNBCラジオの番組編成を統合。この件に関してNBCは「NBCラジオの新たな挑戦」と位置づけ、長崎・佐賀両局を拠点とした地域密着の番組制作・取材活動の更なる充実と防災・減災報道にも力を尽くしつつ'''“<u>西九州</u>”に訴求するラジオ局'''を目指すとしている<ref>[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/wp-content/uploads/2021/09/nbc_radio-hensei_20210929-01.pdf NBC ラジオ 10 月から長崎局・佐賀局を同一編成に nbc NEWS RELEASE]</ref>。 ** 11月1日 - 長崎市尾上町の新社屋に移転、新社屋からラジオ放送を開始。 ** 11月8日 - 新社屋からテレビ放送を開始。 * [[2022年]](令和4年) ** 1月12日 - 新しい同局のマスコットキャラクターとして「テレビンとれでぃお」を制定<ref name=":1" />。 ** 3月30日 - 前日と当日に行われた「さようならNBCビデオホール〜[[さだまさし]]コンサート」をもって、同ホールが設置されていたソシアビル含む旧社屋の稼働終了<ref>{{Cite news |url= https://www.oricon.co.jp/news/2230079/full/ |title=「ありがとうビデオホール!」さだまさし、故郷長崎での“100円”特別コンサートを無事完遂 |publisher=ORICON NEWS |work=ORICON MUSIC |date=2022-04-01 |accessdate=2022-04-16}}</ref>。今後旧社屋は、解体され隣接する長崎市所有の建物と共に再開発する予定。 ** 9月12日 - 創立70周年。 === ラジオ長崎開局までの経緯 === [[1950年]]([[昭和]]25年)2月27日、鶴川武が「社団法人・長崎平和放送協会」設立を申請した。この頃は「[[電波三法|電波3法]]」が国会審議中だったため、一時保留となった。 鶴川武は[[1915年]]([[大正]]4年)2月4日[[熊本県]]生まれ、[[国際短期大学|中野高等無線電信学校]]等で学び、戦前は中国に渡り上海ラジオビーコン局等に勤務、敗戦と同時に上海から引き上げた。戦後は長崎に住み、1950年(昭和25年)に東邦通信機株式会社を設立した。 もう1つの流れは[[長崎商工会議所]]を中心とした「ラジオ長崎」のグループである。商工会議所会頭・[[脇山勘助]]([[長崎電気軌道]]社長)や事務局長・[[菅野一郎]]、[[浅野金兵衛]]([[長崎高等商業学校]]教授、現在の[[長崎大学]]経済学部)が中心となり、地元実業界有力者の10数人が発起人に名を連ねた。しかし、同年3月11日に長崎商工会議所が全焼する火災が発生、関係書類が消失したため一時中断となった。その後、「電波3法」の民放設立の条件であった「東京2局、他地区は1局」の方針により、1本化に向け話し合いを開始した。 同年10月15日、長崎市の精洋亭ホテル([[銅座町]]・[[長崎グランドホテル]]の前身)で合同発起人会を開き「株式会社長崎平和放送協会」を発足させた。代表に脇山勘助を選び、資本金3,500万円、出力3[[キロ|k]]W放送局を設立することを決めた。しかし後に、[[NHK長崎放送局]]と同じ500Wが望ましいと電波監理委員会からの勧告を受けたが、500Wでは県内全域をカバー出来ないとの理由により、結局1kWに減力して申請変更を行った。[[1951年]](昭和26年)2月に[[西岡竹次郎]](この年6月に[[長崎県知事]]に就任)も諫早で免許申請を行う。 すぐに当時の政界有力者の斡旋で話し合いを持ち、西岡竹次郎は長崎平和放送協会に合流することで了解し、発起人に加わった。当時、放送局設置において新聞社を母体に資金や人的援助を仰いで、法人を立ち上げるのが常だったが、長崎の場合は[[朝日新聞社]]・[[毎日新聞社]]間の考えの違いで設立支援が具体化せず、地元経済界を中心とした自主的経営でのスタートとなり、ほかの民放と比べて苦難の道を歩むことになった。 *同年4月21日 我が国初めて民間放送への予備免許が16社に下ろされたが、申請内容の不備を理由に長崎平和放送協会は保留となった。 *11月 ラジオ長崎の初代社長となる[[中部悦良]]が追放解除によって経済界に復帰し、長崎商工会議所会頭に再び就任した。 *12月27日 予備免許が交付される。結局、出力は500Wに減力となった。 開局に向けて準備を始めるも、極端な資金不足により資本金が目標額1,250万の半分の500万にも満たず、中部悦良と[[マルハ|大洋漁業]]が不足分を立て替えた。 *[[1953年]](昭和28年) **2月1日-大浦放送所で「火入れ式」が行われ午前9時30分、試験電波が発射される。 **2月15日 スタジオ完成 **2月23日 「ラジオ長崎」の本免許が下ろされた。 **2月24日 サービス放送開始 **2月27日 初の街頭録音番組『ラジオ長崎に何を望むか』を放送 **2月28日 三菱会館で「ラジオ長崎開局前夜祭」が県民3000人を招いて開催 **3月1日 午前9時30分アンゼラスの鐘のメロディーと共に放送開始 === 佐世保地区の競願、そしてラジオ佐世保・ラジオ長崎の合併へ === ラジオ長崎が開局したとはいえ、申請時の500Wが影響し、佐世保を始め県北一帯には電波が届かず、[[佐世保市]]民は民放の設立を望んでいた。 [[1951年]](昭和26年)6月2日、佐世保市内の有力者が集まり「ラジオ佐世保設立発起人会」を結成。中心となったのは[[九州時事新聞社]]([[1968年]](昭和43年)に[[長崎新聞|長崎新聞社]]と合併)社長であった[[辻一三]]であった。10月19日「ラジオ佐世保」の設立総会を[[佐世保玉屋|レストラン玉屋]]で開いた。初代社長に[[山中辰四郎]]([[佐世保庶民信用金庫]]理事長・その後[[1955年]](昭和30年)から[[1963年]](昭和38年)まで佐世保市長)が就任。佐世保地区は「ラジオ長崎」「ラジオ佐世保」の競願となった。地方民放は1県1局が原則、[[九州電波監理局]]が斡旋に乗り出した。最初の話し合いが[[雲仙]]で行われ、両者が各自の立場を強調したに留まったが、次第に合併の機運が生まれる。11月28日九州電波管理局による調停案が提示される。年が明け[[1954年]](昭和29年)1月12日、[[田川務]][[長崎市長]]・[[中田正輔]]佐世保市長の連名による合併斡旋勧告が出された。 3月6日ラジオ長崎・ラジオ佐世保で臨時株主総会を開催し合併を承認、社名を「長崎放送株式会社」と決定した。結果的にはいったん、ラジオ佐世保に免許が降ろされた上で4月1日に開局、半年後の10月18日に合併した。 === テレビ放送開始までの経緯 === * [[1956年]](昭和31年)1月25日 長崎・佐世保両テレビジョンの免許申請 * [[1957年]](昭和32年) ** 6月 第1次チャンネルプランにもとづいて、長崎地区に2と5、佐世保地区に8と10が割り当てられ、長崎は5チャンネル・佐世保は10チャンネルとなった。 *: [[稲佐山]]山頂と[[烏帽子岳]]でテレビ放送設備の建設が始まる。当時烏帽子岳山腹は道路整備がされておらず、建設にあたってまず道路の開拓からかかった。稲佐山には鉄筋コンクリート2階建ての局舎を建設。 * 10月22日に予備免許が降りる。当初の計画では[[1958年]](昭和33年)[[4月1日]]に長崎・佐世保の同時開局を目標としていた。 ;長崎テレビジョン局(JOUR-TV・5チャンネル) * [[1958年]](昭和33年) **12月17日午前7時55分 初の試験電波を発射。 **12月24日午後6時 サービス放送を開始。最初の番組は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]からの[[轟先生#テレビドラマ|ドラマ『轟先生』]]、この番組のスポンサーが「[[松隈電気]]」で、NBCテレビのローカルスポンサー第1号となった。中央スポンサーは[[加美乃素本舗]]、[[ヤシカ]]、[[田辺三菱製薬|田辺製薬]]の3社。初のテレビ中継となった[[大浦天主堂]]からのクリスマスミサ中継は[[浜屋百貨店|浜屋デパート]]提供だった。 **12月25日、記念番組『テレビ誕生』を生放送。 * [[1959年]](昭和34年) **1月1日午前6時30分本放送を開始。午前7時より日本テレビ『日本の正月』放送。 **1月4日午後9時、初のローカルニュース『さようなら昭和33年おめでとう昭和34年』を放送 ;佐世保テレビジョン局(JOMF-TV・10チャンネル) *[[1958年]](昭和33年)10月末、[[天神山]]の演奏所、[[烏帽子岳]]の送信所が完成。 *[[1959年]](昭和34年)2月20日開局。 *[[1959年]](昭和34年)4月7日 [[長崎原爆資料館#前身の施設(長崎国際文化会館)|長崎国際文化会館]]で開局式。 === 社史・記念誌 === 長崎放送では、以下の7冊を発行している(2023年3月時点)。 * '''長崎放送十年史'''(長崎放送 編) [[1962年]]([[昭和]]37年)[[10月]]発行、227ページ<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2504949|長崎放送十年史}}</ref><ref>[https://www.google.com/books/edition/_/ImQ_AQAAIAAJ 長崎放送十年史 - Google Books]</ref> * '''長崎放送社史 昭和三十七年から昭和四十二年まで'''(長崎放送社史編さん係 編) [[1968年]](昭和43年)[[6月]]発行、236ページ ** 長崎放送十年史の続編として発行。 * '''長崎放送編年史 25周年'''(長崎放送 編) [[1977年]](昭和52年)[[9月]]発行、135ページ * '''長崎放送編年史 40周年'''(長崎放送 編) [[1992年]]([[平成]]4年)[[12月]]発行、277ページ * '''長崎放送50年史'''(長崎放送 編集) [[2002年]](平成14年)[[9月]]発行、632ページ * '''長崎放送60年史'''(長崎放送 編集) [[2013年]](平成25年)[[3月]]発行、429ページ * '''NBC長崎放送70年史'''(長崎放送 編集)[[2023年]](令和3年)[[2月]]発行、291ページ == ラジオ == === ラジオ周波数 === 佐賀県内の中継局は[[NBCラジオ佐賀#周波数|NBCラジオ佐賀の当該項目]]を参照。日曜日付け放送終了時、および月曜日付け放送開始時は全放送局をアナウンスするが、通常の起点である他の曜日の5時の段階では、長崎・佐世保・佐賀の周波数のみをアナウンスする。 {|class="wikitable" border="1" !colspan="5"|AM放送<ref name="company"/> |- ![[親局]] ![[日本の放送局所の呼出符号|コールサイン]] ![[周波数]] ![[空中線電力|出力]] !備考 |- |[[長崎ラジオ放送所|長崎]] |'''[[日本の放送局所の呼出符号#JO*R|JOUR]]''' |1233&nbsp;[[キロヘルツ|kHz]] |5&nbsp;[[キロ|k]][[ワット|W]] |<ref>[https://www.tele.soumu.go.jp/musen/SearchServlet?pageID=4&IT=H&DFCD=0000014621&DD=1&styleNumber=01 長崎放送ラジオ放送所・無線局免許状] - [[総務省]]</ref> |- ![[中継局]] !コールサイン !周波数 !出力 !備考 |- |[[佐世保ラジオ放送所|佐世保]] |'''[[日本の放送局所の呼出符号#JO*F|JOMF]]'''<ref group="注釈">ラジオ佐世保時代からのコールサインを継続。</ref> |1098&nbsp;kHz |1&nbsp;kW |- |[[諫早ラジオ中継局|諫早]]<!--<ref>親局と同期放送実施。長崎局で基準信号を作りこれを2局に分配する従属方式か、3局で独自に基準信号を作る独立方式かは不明。</ref>--> | |rowspan="2"|1233&nbsp;kHz |rowspan="3"|100W |- |[[島原中継局|島原]] | |- |[[平戸中継局|平戸]] |[[日本の放送局所の呼出符号#JO*E|JOUE]](廃止) |1062&nbsp;kHz |- |[[福江中継局|福江]] | |1431&nbsp;kHz |1&nbsp;kW |- !colspan="5"|[[FM補完中継局|FM補完局]]<ref name="JOURFM"/><ref name="company"/> |- !中継局 !コールサイン !周波数 !出力 !備考 |- |[[稲佐山#テレビ・FM放送所等の通信施設|NBC長崎FM]] | |92.6&nbsp;[[メガヘルツ|MHz]] |1&nbsp;kW |2015年6月30日予備免許交付<ref name="MICKBT"/>、<br>同年10月1日開局<ref group="注釈">2020年春時点で平戸・壱岐・対馬地区の中継局設置は未定。一方総務省に申請した「[https://www.soumu.go.jp/main_content/000364976.pdf 放送区域概略図]」によると、五島列島では海上伝搬により長崎局で一部受信可能とされている。</ref>。 |- |[[佐世保市内テレビ・FM中継局|NBC佐世保FM]] | |90.6&nbsp;MHz |300W |2016年9月6日予備免許交付<ref>[https://www.soumu.go.jp/soutsu/kyushu/press/160906-1-0.html 総務省|九州総合通信局|長崎県及び佐賀県内における中波ラジオ難聴地域の一部解消に向けて -中波ラジオ放送のFM方式による補完中継局に、予備免許を付与-]</ref>、<br/>2017年2月1日開局。 |- |[[五家原岳|NBC諌早FM]] | |91.8&nbsp;MHz |30W |2015年6月30日予備免許交付、<br>同年12月1日開局。 |- |} === 現在放送中の番組 === 2023年10月時点。詳細は、公式サイトの[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/radio/program/ ラジオ番組表]を参照。24時間放送で、月曜日4時開始(他の曜日は5時基点)、日曜日は月曜1時終了。ただし日曜日放送終了のアナウンスは月曜0時59分に行われる。放送終了時に、少なくとも[[1980年代]]ごろまで「では皆さん、しばらくお休みをさせていただきます」<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=jIIo76KYad8&t=264s 放送音源]</ref>とのアナウンスがあった。 [[NBCラジオ佐賀]]含め自社制作番組は'''太字'''。NBCラジオ佐賀制作で長崎県内も同時放送の番組は◇、長崎・佐賀共同制作は〇。 ==== 随時放送 ==== *'''[[NBCニュース (長崎放送)|NBC50ニュース]]''' *'''交通情報'''・'''道路混雑情報''' *'''天気予報''' **各ワイド番組内で放送。 ==== 平日 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" width="100%" |- !rowspan="1" colspan="1"|時 !rowspan="1" colspan="1"|月曜日 !rowspan="1" colspan="1"|火曜日 !rowspan="1" colspan="1"|水曜日 !rowspan="1" colspan="1"|木曜日 !rowspan="1" colspan="1"|金曜日 |- !rowspan="5" colspan="1"|5 |rowspan="1" colspan="5"|5:00 健康情報救急箱 |- |rowspan="1" colspan="5"|5:05 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="1" colspan="1"|5:10 [[松原健之]]・[[Bitter & Sweet (音楽ユニット)|Bitter&Sweet]]の音茶メロらじお |rowspan="1" colspan="1"|5:10 洋楽処POPS倶楽部 |rowspan="1" colspan="1"|5:10 まいどあり~。 |rowspan="1" colspan="1"|5:10 ベストミュージックコレクション・ジャパン |rowspan="1" colspan="1"|5:10 Buy Now |- |rowspan="1" colspan="5"|5:25 [[心のともしび#ラジオ版『心のともしび』|心のともしび]] |- |rowspan="2" colspan="5"|5:30 [[生島ヒロシのおはよう一直線]]([[TBSラジオ]]) |- !rowspan="4" colspan="1"|6 |- |rowspan="1" colspan="1"|6:30 '''NBCミューズハーツNEO''' |rowspan="1" colspan="1"|6:30 気象予報士・伊藤香 季節の足音([[かしわプロダクション]]) |rowspan="1" colspan="1"|6:30 お悩みカイホウショッピング |rowspan="1" colspan="1"|6:30 健やかインフォメーション |rowspan="1" colspan="1"|6:30 健やかナビゲーション |- |rowspan="1" colspan="1"|6:35 [[五島朋幸|ドクターごとう]]の熱血訪問クリニック([[マール (ラジオ番組制作会社)|マール]]) |- |rowspan="1" colspan="5"|6:45 洋楽処POPS倶楽部 |- !rowspan="1" colspan="1"|7 |rowspan="2" colspan="5"|7:00 '''[[あさかラ#早版 あさかラ|早版 あさかラ]]'''<br />▽7:10 [[お早うネットワーク#Aパターン|お早う!ニュースネットワーク]](ニッポン放送)<br />▽7:35 '''[[おなかがグーは、しあわせのグー。]]'''(九州・沖縄地方[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN系]][[企画ネット]]番組)<br />▽8:00 [[話題のアンテナ 日本全国8時です]](TBSラジオ)<br />▽8:15 '''県庁タイムス'''<br />▽8:20 [[SUZUKIハッピーモーニング・いってらっしゃいシリーズ|SUZUKIハッピーモーニング・羽田美智子のいってらっしゃい]](ニッポン放送) |- !rowspan="3" colspan="1"|8 |- |rowspan="1" colspan="5"|8:40 [[武田鉄矢・今朝の三枚おろし]]([[文化放送]]) |- |rowspan="1" colspan="5"|8:50 '''NBC50ニュース''' |- !rowspan="1" colspan="1"|9 |rowspan="4" colspan="5"|9:00 '''[[あさかラ#あさかラ|あさかラ]]''' |- !rowspan="1" colspan="1"|10 |- !rowspan="1" colspan="1"|11 |- !rowspan="2" colspan="1"|12 |- |rowspan="1" colspan="5"|12:50 '''NBC50ニュース''' |- !rowspan="1" colspan="1"|13 |rowspan="1" colspan="4"|13:00 [[ジェーン・スー 生活は踊る]](TBSラジオ) |rowspan="1" colspan="1"|13:00 [[金曜ボイスログ]](TBSラジオ) |- !rowspan="1" colspan="1"|14 |rowspan="2" colspan="4"|14:00 [[こねくと]](TBSラジオ) |rowspan="2" colspan="1"|14:00 [[金曜ワイドラジオTOKYO えんがわ]](TBSラジオ) |- !rowspan="2" colspan="1"|15 |- |rowspan="1" colspan="5"|15:50 '''NBC50ニュース''' |- !rowspan="9" colspan="1"|16 |rowspan="1" colspan="5"|16:00 '''[[お誕生日おめでとう (長崎放送)|お誕生日おめでとう]]''' |- |rowspan="1" colspan="1"|16:10 ◇'''SAGA"C"WAVE''' |rowspan="3" colspan="1"|16:10 今旬!インフォメーション |rowspan="3" colspan="1"|16:10 健康生活インフォメーション |rowspan="2" colspan="1"|16:10 いいものテンミニッツ |rowspan="3" colspan="1"|16:10 健康生活インフォメーション |- |rowspan="2" colspan="1"|16:15 パックンマックンの笑って覚える英会話! |- |rowspan="1" colspan="1"|16:20 [[かきくけこじせいご]]<br />(かしわプロダクション) |- |rowspan="1" colspan="5"|16:25 [[おたよりください!|伊集院光のおたよりください!]](TBSラジオ) |- |rowspan="1" colspan="5"|16:30 [[あなたにハッピー・メロディ]](ニッポン放送) |- |rowspan="1" colspan="1"|16:40 北さんの歌きた道中 |rowspan="1" colspan="1"|16:40 [[ドラマってムジカ]](かしわプロダクション) |rowspan="1" colspan="1"|16:40 [[銀シャリのおむすびラジオ]] |rowspan="1" colspan="1"|16:40 '''[[V・ファーレン長崎|Vファ]]×ラジ''' |rowspan="1" colspan="1"|16:40 [[三井ダイレクト損保 presents 強くてやさしい金曜日|三井ダイレクト損保 presents 『強くてやさしい金曜日』]](TBSラジオ) |- |rowspan="1" colspan="5"|16:50 '''NBC50ニュース''' |- |rowspan="1" colspan="1"|16:55 '''修ちゃんのあさかラ!エッセイ''' |rowspan="1" colspan="1"|16:55 ◇'''フレモニ佐賀''' |rowspan="1" colspan="1"|16:55 '''NBCミューズハーツNEO''' |rowspan="1" colspan="1"|16:55 ◇'''フレモニ佐賀''' |rowspan="1" colspan="1"|16:55 ◇'''[[佐賀競馬場|さがけいば]]ほっと情報''' |- !rowspan="2" colspan="1"|17 |rowspan="1" colspan="5"|17:00 [[ニュース・パレード]](文化放送) |- |rowspan="2" colspan="5"|17:15 〇'''[[ONOUE BASE]]'''<br />▽17:30 [[ネットワークトゥデイ]](TBSラジオ) |- !rowspan="4" colspan="1"|18 |- |rowspan="1" colspan="5"|18:20 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="1" colspan="1"|18:28 旬!SHUN!ピックアップ |rowspan="1" colspan="1"|18:28 Buy Now |rowspan="1" colspan="1"|18:28 おとなレクリエーション |rowspan="1" colspan="1"|18:28 わくわくお届け便 |rowspan="1" colspan="1"|18:28 耳より健康便り |- |rowspan="1" colspan="5"|18:45 [[ココロのオンガク 〜music for you〜]](文化放送) |- !rowspan="2" colspan="1"|19 |rowspan="1" colspan="1"|19:00 '''[[あの人この歌ああ人生]]''' |rowspan="3" colspan="1"|19:00 [[古家正亨 K TRACKS]](ニッポン放送) |rowspan="3" colspan="3"|19:00 [[鶴光・美和子噂のゴールデンリクエスト|鶴光の噂のゴールデンリクエスト]](ニッポン放送) |- |rowspan="1" colspan="1"|19:30 (第3週以外)'''MUSIC KNOCK!'''<br />(第3週)'''〜ハウジングロビー・プレゼンツ〜龍ちゃんの個性があるから面白い!''' |- !rowspan="4" colspan="1"|20 |rowspan="1" colspan="1"|20:00 '''nostalgic music cafe'''<ref group="注釈">2020年4月 - 2022年9月に放送された「星光プレゼンツ ホシノヒカリ」の後継番組</ref>''' |- |rowspan="1" colspan="1"|20:30 [[下町ロケット#ラジオドラマ(2020年)|ラジオ劇場 下町ロケット]]([[KBCラジオ]]) |rowspan="3" colspan="1"|20:40 鈴木伸之 NOBU BAR(ニッポン放送) |rowspan="3" colspan="1"|20:30 [[ゲッターズ飯田 ラジオで占いまSHOW|モヤモヤ解決!ゲッターズ飯田ラジオで占いまSHOW]] (ニッポン放送) |rowspan="3" colspan="1"|20:40 中川翔子 アニメサークル(ニッポン放送) |- |rowspan="1" colspan="1"|20:45 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="3" colspan="1"|20:50 [[東山彰良 イッツ・オンリー・ロックンロール]]([[RKBラジオ]]) |- !rowspan="5" colspan="1"|21 |rowspan="3" colspan="1"|21:00 '''[[MUSIC WOLF]]''' |rowspan="5" colspan="1"|21:00 [[1時の鬼の魔酔い]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) |rowspan="3" colspan="1"|21:00 '''金太郎のがまだせ!ラジオ''' |rowspan="1" colspan="1"|21:00 ◇'''冨永ボンドのRADIOボンドバ'''<ref>2023年3月までは金曜21:00-21:15、2023年9月までは月曜18:28-18:45で放送</ref> |- |rowspan="2" colspan="1"|21:15 '''ラジオ DE ビブリオバトル'''<ref>2023年3月までは金曜21:15-21:30、2023年9月までは火曜18:28-18:45で放送</ref> |- |rowspan="2" colspan="1"|21:20 '''[[佐田玲子のレイコランドカフェ]]''' |- |rowspan="2" colspan="1"|21:30 癒しのサプリ([[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]]) |rowspan="2" colspan="1"|21:30 '''Happy Go Lucky!''' |rowspan="2" colspan="1"|21:30 ◇'''[[80年代専門番組ときめき!レコード室 どきっ]]''' |- |rowspan="1" colspan="1"|21:50 アナログタロウ 痛快!アナログヒッパレ~ |- !rowspan="1" colspan="1"|22 |rowspan="2" colspan="4"|22:00 [[オールナイトニッポン MUSIC10]](ニッポン放送) |rowspan="2" colspan="1"|22:00 [[オールナイトニッポンGOLD]](ニッポン放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|23 |- !rowspan="1" colspan="1"|0 |rowspan="1" colspan="4"|0:00 [[レコメン!]](文化放送) |rowspan="1" colspan="1"|0:00 [[嵐・相葉雅紀のレコメン!アラシリミックス]](文化放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|1 |rowspan="1" colspan="5" style="border-bottom:none"|1:00 [[オールナイトニッポン]](ニッポン放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|2 |style="border-top:none"|[[Adoのオールナイトニッポン]] |style="border-top:none"|[[星野源のオールナイトニッポン]] |style="border-top:none"|[[乃木坂46のオールナイトニッポン]] |style="border-top:none"|[[ナインティナインのオールナイトニッポン]] |style="border-top:none"|[[霜降り明星のオールナイトニッポンシリーズ|霜降り明星のオールナイトニッポン]] |- !rowspan="1" colspan="1"|3 |rowspan="1" colspan="5" style="border-bottom:none"|3:00 [[オールナイトニッポン0(ZERO)]](ニッポン放送) |- !rowspan="2" colspan="1"|4 |style="border-top:none"|[[フワちゃんのオールナイトニッポンシリーズ|フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)]] |style="border-top:none"|[[あののオールナイトニッポン0(ZERO)]] |style="border-top:none"|[[佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)]] |style="border-top:none"|[[マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)]] | rowspan="2" style="border-top:none"|[[三四郎のオールナイトニッポンシリーズ|三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO)]] |- |rowspan="1" colspan="4"|4:30 [[上柳昌彦 あさぼらけ]](ニッポン放送) |- |} ==== 週末 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" width="100%" |- !rowspan="1" colspan="1"|時 !rowspan="1" colspan="1"|土曜日 !rowspan="1" colspan="1"|日曜日 |- !rowspan="4" colspan="1"|5 |rowspan="1" colspan="1"|5:00 今旬!インフォメーション |rowspan="1" colspan="1"|5:00 お悩みカイホウショッピング |- |rowspan="1" colspan="1"|5:15 [[田川寿美]] 「一期一会」([[スバルプランニング]]) |rowspan="2" colspan="1"|5:15 [[岩本公水]] 星の語りべ |- |rowspan="2" colspan="1"|5:30 [[水森英夫のチップイン歌謡曲]]([[地方民間放送共同制作協議会|火曜会]]) |- |rowspan="1" colspan="1"|5:45 元気スイッチ |- !rowspan="7" colspan="1"|6 |rowspan="2" colspan="1"|6:00 [[土曜朝6時 木梨の会。]](TBSラジオ) |rowspan="1" colspan="1"|6:00 '''冨永ボンドのRADIOボンドバ'''(再放送) |- |rowspan="1" colspan="1"|6:15 わくわくお届け便 |- |rowspan="1" colspan="1"|6:30 '''[[平岡千佳|平岡チカ]]のおはようMUSIC!''' |rowspan="2" colspan="1"|6:30 [[録音風物誌]](火曜会) |- |rowspan="1" colspan="1"|6:35 心のともしび |- |rowspan="1" colspan="1"|6:40 '''長崎は証言する''' |rowspan="2" colspan="1"|6:40 [[世の光#世の光 いきいきタイム|世の光 いきいきタイム]] |- |rowspan="2" colspan="1"|6:45 Buy Now |- |rowspan="1" colspan="1"|6:55 井上祐見のスウィートモーニング |- !rowspan="9" colspan="1"|7 |rowspan="1" colspan="1"|7:00 [[週刊 なるほど!ニッポン]](ニッポン放送) |rowspan="1" colspan="1"|7:00 [[たんぽぽ (お笑いコンビ)|たんぽぽ]]の綿毛time♪ |- |rowspan="1" colspan="1"|7:10 わくわくお届け便 |rowspan="1" colspan="1"|7:10 '''ラジオ DE ビブリオバトル'''(再放送) |- |rowspan="2" colspan="1"|7:25 [[おはよう!ニッポン全国消防団]](ニッポン放送) |rowspan="1" colspan="1"|7:25 くるまのことラジオ |- |rowspan="1" colspan="1"|7:30 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="1" colspan="1"|7:35 '''お知らせ''' |rowspan="3" colspan="1"|7:35 今旬!インフォメーション |- |rowspan="1" colspan="1"|7:40 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="1" colspan="1"|7:45 '''道路混雑情報''' |- |rowspan="2" colspan="1"|7:50 '''NBC50ニュース''' |rowspan="1" colspan="1"|7:50 '''お知らせ''' |- |rowspan="1" colspan="1"|7:55 '''[[NBCニュース (長崎放送)|ニュース]]''' |- !rowspan="5" colspan="1"|8 |rowspan="1" colspan="1"|8:00 話題のアンテナ 日本全国8時です(TBSラジオ) |rowspan="6" colspan="1"|8:00 [[地方創生プログラム ONE-J]](TBSラジオ)<br>▽8:55 '''レースガイド・長崎ケーブルメディア今日のプロ野球情報''' |- |rowspan="1" colspan="1"|8:15 ◇'''[[大串博志|大串ひろし]]のよかとこ佐賀''' |- |rowspan="1" colspan="1"|8:30 '''レースガイド''' |- |rowspan="1" colspan="1"|8:35 まいどあり〜。 |- |rowspan="1" colspan="1"|8:50 '''NBC50ニュース''' |- !rowspan="1" colspan="1"|9 |rowspan="9" colspan="1"|9:00 ◇'''[[NBC R50]]''' |- !rowspan="4" colspan="1"|10 |rowspan="1" colspan="1"|10:00 ◇'''[[80年代専門番組ときめき!レコード室 どきっ]]'''(再放送) |- |rowspan="1" colspan="1"|10:30 10分インフォメーション |- |rowspan="1" colspan="1"|10:40 [[岡村孝子 あの頃ミュージック]](かしわプロダクション) |- |rowspan="1" colspan="1"|10:50 '''ニュースと天気予報''' |- !rowspan="1" colspan="1"|11 |rowspan="1" colspan="1"|11:00 '''[[グッドグッド]]''' |- !rowspan="4" colspan="1"|12 |rowspan="1" colspan="1"|12:00 [[亀渕昭信のお宝POPS]](火曜会) |- |rowspan="1" colspan="1"|12:30 '''NBCミューズハーツNEO''' |- |rowspan="1" colspan="1"|12:35 旬!SHUN!ピックアップ |- |rowspan="1" colspan="1"|12:50 '''NBC50ニュース''' |rowspan="1" colspan="1"|12:50 '''ニュース''' |- !rowspan="1" colspan="1"|13 |rowspan="2" colspan="1"|13:00 [[サンドウィッチマン ザ・ラジオショーサタデー|サンドウィッチマン ザ・ラジオショー サタデー]](ニッポン放送) |rowspan="1" colspan="1"|13:00 [[三宅裕司のサンデーヒットパラダイス]](ニッポン放送) |- !rowspan="2" colspan="1"|14 |rowspan="2" colspan="1"|14:00 [[ゴリけんの九州・沖縄ぐるぐるマップ]](RKBラジオ) |- |rowspan="1" colspan="1"|14:55 '''NBCミューズハーツNEO''' |- !rowspan="1" colspan="1"|15 |rowspan="1" colspan="2"|15:00 [[NBCサタデー・サンデー競馬中継]]([[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]) |- !rowspan="5" colspan="1"|16 |rowspan="2" colspan="1"|16:00 ◇'''[[木原慶吾]]のHot Hits Again''' |rowspan="1" colspan="1"|16:00 [[ukkaり娘の浮かれでぃお]] |- |rowspan="1" colspan="1"|16:15 納得健康15分 |- |rowspan="1" colspan="1"|16:30 旬!SHUN!ピックアップ |rowspan="3" colspan="1"|16:30 歌めぐり風だより |- |rowspan="1" colspan="1"|16:45 '''道路混雑情報''' |- |rowspan="1" colspan="1"|16:50 '''NBC50ニュース''' |- !rowspan="5" colspan="1"|17 |rowspan="2" colspan="1"|17:00 '''川瀬隆史の勝手気ままラジオ!''' |rowspan="1" colspan="1"|17:00 耳より健康だより |- |rowspan="1" colspan="1"|17:15 [[純烈 スーパー銭湯!!|純烈・スーパー銭湯!!]](かしわプロダクション) |- |rowspan="1" colspan="1"|17:30 健やかインフォメーション |rowspan="3" colspan="1"|17:30 ◇'''ひげドクターと原ちゃんのチョイ悪クリニック''' |- |rowspan="1" colspan="1"|17:45 [[ウィークエンドネットワーク]](TBSラジオ) |- |rowspan="1" colspan="1"|17:50 ◇'''[[さらば青春の光の『青春デストロイヤー』]]''' |- !rowspan="4" colspan="1"|18 |rowspan="3" colspan="1"|18:00 オキシジェンのラジオスープレックス([[山陰放送]]) |rowspan="1" colspan="1"|18:00 まいどあり〜。 |- |rowspan="1" colspan="1"|18:15 '''晶子の癒しの音色''' |- |rowspan="1" colspan="1"|18:20 '''ニュースと天気予報''' |- |rowspan="1" colspan="1"|18:30 [[桑原由気と本渡楓のパリパリパーリィ☆]]([[ラジオ関西]])  |rowspan="1" colspan="1"|18:30 [[志の輔&雷鳥のなんでか?ニッポン]]([[北日本放送]]) |- !rowspan="2" colspan="1"|19 |rowspan="1" colspan="1"|19:00 [[藤田ニコルのあしたはにちようび]](TBSラジオ) |rowspan="2" colspan="1"|19:00 [[ハライチのターン!]](TBSラジオ) |- |rowspan="1" colspan="1"|19:30 [[かが屋の鶴の間]]([[中国放送]]) |- !rowspan="2" colspan="1"|20 |rowspan="1" colspan="1"|20:00 [[芸人お試しラジオ「デドコロ」]](火曜会) |rowspan="2" colspan="1"|20:00 [[アルコ&ピース D.C.GARAGE]](TBSラジオ) |- |rowspan="1" colspan="1"|20:30 [[今晩は 吉永小百合です]](TBSラジオ) |- !rowspan="1" colspan="1"|21 |rowspan="1" colspan="1"|21:00 '''[[Sweets×Pop すっぴんNAGASAKI]]''' |rowspan="1" colspan="1"|21:00 [[ほら!ここがオズワルドさんち!]](TBSラジオ) |- !rowspan="1" colspan="1"|22 |rowspan="2" colspan="1"|22:00 [[福山雅治と荘口彰久の「地底人ラジオ」]]([[渋谷のラジオ]]) |rowspan="1" colspan="1"|22:00 [[松山千春のON THE RADIO]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]]) |- !rowspan="2" colspan="1"|23 |rowspan="1" colspan="1"|23:00 [[さらば青春の光がTaダ、Baカ、Saワギ]](TBSラジオ) |- |rowspan="2" colspan="1"|23:30 [[SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル]](ニッポン放送) |rowspan="1" colspan="1"|23:30 [[Snow Manの素のまんま]](文化放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|0 |rowspan="1" colspan="1"|0:00 [[なにわ男子の初心ラジ!]](ニッポン放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|1 |rowspan="2" colspan="1"|1:00 [[オードリーのオールナイトニッポン]](ニッポン放送) |rowspan="3" colspan="1" style="background:#ccc;" |(1:00 - 4:00 放送休止) |- !rowspan="1" colspan="1"|2 |- !rowspan="1" colspan="1"|3 |rowspan="2" colspan="1"|3:00 オールナイトニッポン0(ZERO)(ニッポン放送) |- !rowspan="1" colspan="1"|4 |rowspan="1" colspan="1"|4:00 [[MUSIX (TBSラジオ)|MUSIX]](TBSラジオ) |- |} *[[NBCゴールデンナイトゲーム]](火:RKBラジオ・JRN系列局) (水:KBCラジオ/ニッポン放送・NRN系列局) (木・金:ニッポン放送・NRN系列局) *'''[[サガン鳥栖]]'''・'''[[V・ファーレン長崎]]実況中継'''(不定期) *[[東京箱根間往復大学駅伝競走#文化放送制作|箱根駅伝実況中継]](文化放送より毎年1月2日・3日にネット) *[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会#ラジオ中継|天皇盃 全国男子駅伝実況中継]]([[中国放送]]より毎年1月第3日曜 12:15にネット) *[[ボートレースラジオ実況中継]](文化放送よりSG競走優勝戦開催日にネット) === 過去に放送された番組 === ==== 自社制作番組 ==== ★はラジオ佐賀制作 '''平日朝''' *通勤ラジオNBC(月曜 - 金曜 7:30- 8:50) *加地良光の感度リョーコー!630(1996年4月 - 、月曜 - 金曜 6:30 - 8:50) *ラジオ朝いち!(月曜 - 金曜 6:30 - 8:50) *今日も朝からNBC!(月曜 - 金曜 6:30 - 8:30) *朝からダッシュNBC!(月曜 - 金曜 6:30 - 8:15) *[[ラジオ朝刊 おはようラジオ!]](2009年3月30日 - 2017年3月31日、月曜 - 金曜 6:40 - 8:40) *[[歌のない歌謡曲]]([[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN系]][[企画ネット]]番組) '''平日昼前''' *おまかせワイド(月曜 - 金曜 9:00 - 10:50、土曜 9:00 - 11:35) *のり子のおまかせワイド(9:00 - 11:30) *峰ちゃんのどんなモーニング(月曜 - 木曜 9:00 - 11:25) *熊ちゃんのちわーす出前ラジオです(月曜 - 木曜 9:00 - 11:25) *ごきげんワイド(月曜 - 金曜 9:00 - 11:20、月曜 - 木曜 ヒロさんのきいてモーニング、金曜 よしこの聞いてモーニング) *ごきげんワイド 竹内淳のラジオです(木曜 - 金曜 9:00 - 11:20) *早田紀子のキラッとモーニング(月曜 - 火曜 9:00 - 11:30) *寄川淑仔のほわっとモーニング(水曜 - 木曜 9:00 - 11:30) *モーニング・サプリ( - 2017年3月31日、月曜 - 金曜 9:00 - 11:30) '''平日昼過ぎ''' *ときめきワイド *ときめきワイドLスタからこんにちは(1988年4月 - 、12:00 - 15:25) *ときめきワイド気ままにアーブ(月曜 - 金曜 12:00 - 14:50) *午後はいただき(1996年4月 - 、月曜 - 金曜 12:00 - 16:45) *午後が大好き!もぎたてラジオ(月曜 - 金曜 12:00 - 16:15) *ここが真ん中 音楽弁当(月曜 - 金曜 12:00 - 12:50) *[[満腹ワイド ラジDONぶり]](月曜 - 金曜 12:00 - 15:50) *[[情報コンビニ 午後ですよ]](2012年4月 - 2014年3月28日、月曜 - 金曜 12:00 - 15:50) *[[情報コンビニ 午後ゴGO!!]](2014年3月31日 - 2017年3月31日、月曜 - 金曜 12:00 - 15:50) *[[こっとん]](2017年4月3日 - 2018年3月30日、月曜 - 金曜 13:00 - 15:50) *NBCラジオ夕刊(月曜 - 金曜 16:00 - 16:45、ラジオ佐賀と同時放送) *[[NBCラジオ ザ・チャージ!]](2020年3月30日 - 2023年9月29日) '''平日夜''' *夜はこれから ヒロさんのグイっとイブニング(月曜 - 木曜 18:30 - 21:00) *オトナとコドモのなぜなぜ研究所(月曜 - 金曜 18:00 - 18:10) *月曜電リク 竹ちゃんの月夜寿司(月曜 18:30 - 21:00) *NBCミュージックライブラリー(月曜 - 金曜 NBCゴールデンナイトゲーム終了後 - 22:00) *うまか情報局 → うまか学園 *[[シュワッチうるとらレスキュー隊|シュワッチうるとらレスキュー帯 → シュワッチうるとらレスキュー隊 → ハイスクールレスキュー隊]] **(1990年4月 - 1993年4月、月曜 - 金曜 22:10 - 22:20 → 22:00 - 22:20 → 22:10 - 22:30) **(平日帯番組になる前は、1988年4月 - 1990年3月の間、土曜 21:00 - 23:30で放送) *村山君のミトコンドリア(月曜 - 金曜 22:10 - 22:35) *植本君のミトコンドリア(月曜 - 金曜 22:10 - 22:25) *野田ゼミ 熱血ラジオ受験塾 → 野田ゼミナール受験ジャーナル(月曜 - 金曜 22:35 - 22:50) *わがままナイトHAPPY10(1996年4月 - 、月曜 - 金曜 22:00 - 22:50) *快刀乱麻本気塾(1997年4月 - 、月曜 - 木曜 21:00 - 22:50 金曜 21:00 - 21:30) *バリうま!ラジオチップス(1998年4月 - 、月曜 - 木曜 21:00 - 22:50) *金太郎のひまじん倶楽部(火曜 22:00 - 23:00) *MUSIC BAAAN!(水曜 - 木曜 22:00 - 23:00) '''金曜日''' *熊ちゃんのどんなモーニング(金曜 9:00 - 11:25、土曜 9:00 - 11:45) *林田君の向こう三軒両隣(金曜 9:00 - 11:25、土曜 9:00 - 11:50) *よしこさん家の万商店 ただいま営業中(金曜 9:00 - 11:30、土曜 9:00 - 11:39) *ありさのビタミンラジオ(金曜 9:00 - 11:30) *塚田恵子のシャキッとモーニング(金曜 9:00 - 11:30) *梅さんの音楽時代屋(金曜 18:30 - 21:00) '''土曜日午前''' *おはようサタデー(1996年4月 - 、土曜 7:00 - 8:50) *よくばりサタデー ありさのビタミンラジオ(土曜 7:00 - 11:39) *竹内・阿部のどんどん土曜日(土曜 9:00 - 11:50) *まちこさんと酒井くんの土曜はギューッと(土曜 9:00 - 11:30) *[[まちこさんと岡本くんの土曜はギューッと]]( - 2020年3月28日、土曜 9:00 - 11:35) '''土曜日午後''' *わいわいわいどNBC(土曜 13:00 - 16:00) *お昼の歌謡ステーション(土曜 12:00 - 14:50) *アッシー・ロコの土曜はBANGBANG!NBC歌謡トップ30(土曜 14:00 - 15:50) *恵子のサウンドマガジン NBCベスト30(土曜 15:00 - 17:20) *サタデー歌謡ゼミナール 何でもアリサ!(1996年4月 - 、土曜 12:00 - 16:50) *お騒がせ夫婦熊ちゃんゆっこの引っ越しラジオ 昼から270分(土曜 12:00 - 16:30、日曜 12:00 - 16:20) *ラジDONサタデー 奥様と村山のドラマチックな昼下がり(土曜 12:00 - 14:50) *いっちゃんのMUSIC BAAAN LAVISH(土曜 15:00 - 16:30) *まち子さんと午後もギューッと(土曜 12:00 - 13:50) *集まれ!飛び出せ!団塊フレンズ(土曜 12:00 - 13:50) *[[きかせられないラジオ]](2009年4月11日 - 2014年3月、土曜 16:00 - 16:30) *[[Campus Wave (ラジオ番組)|Campus Wave]](土曜 17:00 - 17:20) *ひろみの生でイキますっ!(土曜 18:30 - 21:00) *サウンズ・ウイズ・コーク *STUDIO C2 SQUARE(土曜 23:30 - 24:30) *Coke on time 熊切秀昭のちゃんぽんHot Wave → Coke Teens Club 中村繁のちゃんぽんハイスクール(土曜 23:30 - 24:00) '''日曜日''' *川瀬隆史のそれいけ!電リクマン(日曜 14:00 - 17:00) *誠四郎電リク170分 *サンデーありさのHOT電リク(1989年4月 - 1990年3月) *電リクランド恵子のサンデーコースター(日曜 13:00 - 15:30) *林田君のRing!Deng!電リクリリンのリン!(日曜 13:00 - 15:30) *村山仁志のファイヤー!電リク(日曜 13:00 - 15:00) *中島三博の電リクぴぃちくぱぁちぃ(日曜 13:00 - 15:00) *ぐゎんばる電リク!花木・植本のサンデーリクエスト(日曜 13:00 - 14:30) *参上!電リク怪獣ウエモー!(日曜 13:00 - 14:30 、15:00 - 16:50) *サンデーリクエスト 中村繁のパワフルハイタイム(日曜 12:00 - 14:30) *リクエスト天国スーパーカウントダウン(日曜 12:00 - 16:50) *NBCポップストップ30(日曜 15:30 - 16:30) *SUNDAY KISS みどりのPOPS TOP30(日曜 15:00 - 16:50) *花木・植本のNBC POPS BEST30(日曜 15:00 - 16:50) *NBCスーパーヒッツグルーヴ(日曜 15:00 - 16:50) *日曜電リク 希望音楽会(日曜 12:00 - 14:55) *ラジオ番付ミミソコ(日曜 12:00 - 14:55) *プレゼントアワー(日曜 23:15 - 24:15、放送時間は変更あり) '''1953年度から2005年度までに終了したもの''' *絵のない映画館 *希望音楽会 *午後の歌謡アルバム *長崎ものしり手帳(1953年3月 - 1986年) *スイッチオン ヤングジャーナル *只今お昼歌謡曲 *気分はリズム ありさのホット・ヒット・ランク(1986年 - 1988年3月) *ありさん・クマさんの土曜はBANG BANG(1988年4月 - 1989年3月) *全力疾速2345 *マイク&ユー *さだまさしの好奇心倶楽部 *大村ボート情報 → 大村競艇情報 *福島長治のジャズ倶楽部 → 福島長治の倶楽部J&P *絵のない音楽館 *いっちゃんのHi!それマンディよ *サンデージャーニー *由紀ちゃんの「かのか」で乾杯 *放送批評NBC *私の忘れ難き人 *被爆者手帳 *誠四郎のしっとっと *グッドフィッシング *青春真っ只中 *ジャズラウンドミッドナイト *元気いちばん '''2006年度から2007年度までに終了したもの''' *月の音色(月曜 19:30 - 21:00) *ちょいと懐かし歌謡曲(土曜 8:15 - 8:30) *Talking under the tree (土曜 18:30 - 19:00) *日曜アナらじ(日曜 12:00 - 13:00) *COCO de Music(日曜 16:00 - 17:00)*週刊キッズニュース(日曜 18:00 - 18:20) *スイッチ・オン!団塊ラジオ(日曜 18:30 - 19:00) '''2008年4月から2012年3月までに終了したもの''' *ヒロさん・圭のきいてモーニング(月曜 - 水曜 9:00 - 11:30) *ローラとあずみのパジャマのままで聞かなきゃsongsong!(日曜 12:00 - 14:55) '''2012年4月から2014年3月までに終了したもの''' *ざっつカステライヴ(土曜 21:00 - 22:00) *up×3(あっぷあっぷあっぷ)(土曜 22:00 - 23:30) '''2014年4月から2015年3月までに終了したもの''' *おいしい南島原(土曜 16:00 - 16:30) '''2015年4月から2015年9月までに終了したもの''' *ながさき情報宅配便(月曜 18:30 - 19:00) *たんこぶちんのがば語るばい!!(土曜 23:00 - 23:15) '''2015年10月から2016年3月までに終了したもの''' *音楽喫茶店ハマヤン(日曜 16:00 - 16:30) '''2016年4月から2016年9月までに終了したもの''' *午後のえんかBOX(月曜 - 金曜 16:00 - 16:10) *ヒロさんの人生やっぱり演歌だぜ(日曜 18:30 - 19:00) '''2016年10月から2017年3月までに終了したもの''' *★ふるさと民謡集(土曜 11:40 - 11:50) *集まれ!飛び出せ!団塊フレンズ(土曜 12:00 - 13:50) *NBCカウントダウンサタデー(土曜 22:00 - 23:00) *「あした、映画いきませんか?」(土曜 23:15 - 23:30) *さくら町ステーション(日曜 12:00 - 12:55) '''2017年4月から2017年6月までに終了したもの''' *★[[カノエラナの「カノエによかごて語らして。」]](月曜 18:20 - 18:30) '''2017年7月から2018年3月までに終了したもの''' *[[あさかラ#平松誠四郎のあさかラ!|平松誠四郎のあさかラ!]] (金曜 7:00 - 11:50)※木曜までのあさかラ!に吸収。平松も枠を変更し続投。 '''2018年4月から2018年11月までに終了したもの''' *★週刊サガン鳥栖(月曜 19:30 - 20:00) '''2018年12月だけに終了したもの''' *MUSIC KNOCK!(月曜 19:30 - 20:00)※2015年9月まで放送していたが、2018年12月3日から31日まで期間限定で放送。 '''2018年12月から2019年3月までに終了したもの''' *MachikoのおしゃべりCafe(月曜 20:00 - 20:30) *Playtimerock ナガサキ音遊び(金曜 21:00 - 21:30) *ながさき文学散歩(土曜 7:40 - 7:45) *じげらナイト キャンラジ(土曜 20:30 - 21:00)※月曜 19:30 - 20:50より枠移動 '''2019年4月から2019年9月までに終了したもの''' *JASMAC presents マゴノテの長崎ミッケ(月曜 21:50 - 21:55) '''2019年10月から2020年3月までに終了したもの''' *NBC Lスタチャージ!(月曜 - 金曜 17:44 - 18:20) *浩子クレメニアの聴いてクレメニア!!(月曜 20:00 - 20:30) *SKP radio Box(木曜 21:30 - 22:00) *★ヒーマン&ひげドクターのチョイ悪ラジオ(日曜 17:30 - 18:00) *想い出の花束 〜あの日、あの時、あのメロディー〜(月曜 - 金曜 16:20 - 16:30)※月曜 - 金曜 18:00 - 18:10より枠移動 '''2020年4月から2021年3月までに終了したもの''' *ラジオcodeキャン(? - 2021年3月26日、金曜 21:30 - 22:00) *★メガモッツ 池内裕介のトモダチ100人できるかな?!(? - 2021年3月27日、土曜 20:00 - 20:30) '''2021年4月以降に終了したもの''' *[[バカロック・ラヂオ]] *[[栗原優美の耳より情報館]](? - 2021年9月) *[[週刊さくら町書房]](? - 2021年9月) *[[TOKU dream radio]](? - 2021年9月) *[[TATSUMAKIの「僕は思う」]](? - 2021年9月) *[[マチコでNightね!]](? - 2021年9月) *★[[radio FREAK]](2017年7月3日 - 2021年9月) *癒しのピアニスト 中村弥生のゆったりサンデー(? - 2022年3月) *[[ツル亀らじお]](? - 2022年3月) *[[RADIO KING.]](2020年4月4日 - 2023年3月25日、土曜9:00-11:35) ほか ==== ラジオ佐賀制作自社制作番組 ==== {{main|NBCラジオ佐賀#過去}} == テレビ == === テレビネットワークの移り変わり === * [[1959年]](昭和34年)[[1月1日]] - [[長崎県]]でテレビ([[超短波|VHF]])放送開始(この時点では、地形的な制約から[[佐賀県]]でのテレビ免許の交付は受けず、[[極超短波|UHF波]]使用解禁後もエリアを拡大しないまま今日に至っている)。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)]]とネットを組む。 * [[1959年]](昭和34年)[[3月1日]] - [[テレビ朝日|日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)]]・この日開局の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ともネットを組む。 * [[1959年]](昭和34年)[[8月1日]] - ニュースネットワーク[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]に加盟。ニュースはラジオ東京テレビフルネット、以外はフリーネットと定める。 * [[1967年]](昭和42年)[[6月]] - [[民間放送教育協会]]に加盟。 * [[1969年]](昭和44年)[[4月1日]] - [[UHF局|UHF親局]]の[[テレビ長崎]](KTN)が開局。日本テレビ・フジテレビの番組の大半および、ごく一部のNETの番組が移行され、同局と共有することとなる。 * [[1975年]](昭和50年)[[3月31日]] - [[ネットチェンジ]]により、JNN・TBSテレビ系列の大阪発の番組が[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]から[[毎日放送]]に変更(いわゆる腸捻転解消)。ただし、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET→テレビ朝日系]]に変更した朝日放送の大半の番組は、引き続き長崎放送で放送される。 ** 全国的に、該当する一地域内の複数のテレビ局の間で番組交換が行われたが、NBCとKTNとの間で番組交換はごく少数にとどまった。これはKTNがANN系列に加盟していなかったことに加え、元々ANN系列の番組の大半がNBCで放送され、KTNで放送された番組が少なかったためである。 * [[1984年]](昭和59年)[[4月1日]] - この日をもって日本テレビ系列番組の[[ゴールデンタイム]]での放送を取りやめ、同時間帯の番組編成は一部のローカル枠以外、JNN・TBSテレビ系列にほぼ統一(これまで放送されてきた日本テレビ系列のゴールデンタイムの番組のネットはKTNに移行している<ref group="注釈">金曜日・土曜日のゴールデンタイムに同時ネットで放送されてきた『[[カックラキン大放送!!]]』、『[[太陽にほえろ!]]』などがKTNに移行した(『[[土曜トップスペシャル]]』は移行しないまま打ち切り)。なお、『[[土曜グランド劇場]]』は1年早く[[1983年]](昭和58年)[[4月]]にKTNへと移行している。</ref>)。 * [[1990年]](平成2年)[[4月1日]] - [[長崎文化放送]](NCC)の開局によりテレビ朝日系列の番組(民教協制作分を除く)がNCCへ移行。 * [[1991年]](平成3年)[[4月1日]] - [[長崎国際テレビ]](NIB)の開局により日本テレビの番組(民教協制作分を日本テレビ系列局が担当したものを除く)がNIBへ移行<ref group="注釈">ただし、『[[全国高等学校サッカー選手権大会#地上波での放送|全国高校サッカー選手権大会]]』のみ1992年(平成4年)まで放送協力した。これはNIBが開局後準備できなかったための特別措置とされている。1993年以降はNIBに完全移行。</ref>。 ==== 1970・80年代 (長崎県民放2局時代) の編成状況 ==== ここではテレビ長崎(KTN)の開局(1969年4月)から長崎文化放送(NCC)の開局(1990年4月)までの21年間の主にゴールデン・プライム枠の編成状況について列挙する。TBSテレビ系列局としては珍しく、報道関係の番組を除いては日本テレビ系列・NET→テレビ朝日系列の番組も交えた実質的な[[クロスネット局|クロスネット]]編成がとられていた<ref group="注釈">ただし、あくまで名目上は一般番組供給ネットワークについても一貫してTBSテレビネットワーク(ニュース系列と同組織のJNNネットワーク協議会)単独加盟であり、日本テレビ系列([[日本テレビネットワーク協議会|NNS]])およびNET→テレビ朝日系列([[オールニッポン・ニュースネットワーク|NETラインネットワーク→テレビ朝日ネットワーク]])との正式なネット保障契約は締結していなかった。</ref>。 ;月曜日・水曜日 : TBSテレビ系の番組を同時ネット。 ; 火曜日 : 1979年3月位まで、'''火曜日19時台後半'''は『[[全日本歌謡選手権]]』や『[[宇宙戦艦ヤマト2]]』『[[巨人の星 (アニメ)#新・巨人の星|新・巨人の星]]』などの[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作土曜19時台前半枠を遅れネットで放送していた(『[[宇宙戦艦ヤマト2]]』は最終回を除き日曜日18時から放送し、『ヤマト2』の最終回と1979年4月から1984年3月までは土曜日19時から日本テレビ系列と同時ネット)。これは1975年秋までTBSテレビ系列ではローカルセールス枠としていたためである。木曜日19時台前半との交換で全国ネット枠になった後もしばらく読売テレビのアニメを放送していたため、『[[ぴったし カン・カン]]』については当初日曜日18時からの遅れネットだった。その後、1979年4月から『ぴったし カン・カン』を同時ネットした。今度は1987年10月から'''19時台全体'''がローカルセールス枠となり、前半は[[朝日放送テレビ]]制作(テレビ朝日系列)の番組を2日遅れで放送し(『[[地球大好き!大冒険!]]』の途中から『[[地球キャッチミー]]』の途中まで)、後半は[[テレビ東京]]制作の番組を放送していた(『[[ミスター味っ子]]』など)。NCC開局以降はTBSの『[[そこが知りたい]]』をネットするようになった。 : また、'''火曜日22時台'''は1987年秋まで長年TBSテレビ系列ではローカルセールス枠だったため、NET→テレビ朝日系列の番組を放送していた。具体的には『[[特別機動捜査隊]]』→[[テレビ朝日火曜9時枠の連続ドラマ]]を1時間遅れ(1983年春頃まで)→[[テレビ朝日日曜8時連続ドラマ]]を2日遅れでそれぞれ放送していた(1983年春頃から1987年9月まで)。その後1987年10月よりTBSテレビ系列で『[[JNNニュース22プライムタイム]]』(月曜 - 金曜放送)放送開始したために全国ネット枠となった。 ;木曜日 : 1975年春から1984年秋までは、'''TBSテレビ系列の木曜日19時台前半'''はローカルセールス枠であったので、NET→テレビ朝日の『[[クイズタイムショック]]』を同時スポンサードネットしていた。『[[JNNニュースコープ]]』が放送時間が拡大した1984年秋から最終回までは時差ネット(日曜日の17時からの放送)となったが、スポンサードネットは継続していた。 : 23時台は『[[特別機動捜査隊]]』(1965年頃)『[[ナショナルゴールデン劇場]]』(1972年頃)を時差ネットしていた。 ; 金曜日 : 1984年春まで'''金曜日の19時から19時30分'''はTBS系の『[[クイズダービー]]』を遅れネットで放送していた(1976年4月 - 1984年3月まで、1976年1月の放送開始 - 1976年3月と1984年4月 - 最終回までは土曜日19時30分の同時ネット)。'''19時30分から21時まで'''は、かつて同時間帯に放送されていたプロレス中継との関係で日本テレビ系列番組の放送を行い、その流れで『[[カックラキン大放送!!]]』や『[[太陽にほえろ!]]』なども放送した(1984年4月よりKTNへ移行し、両番組とも最終回まで放送)。そのためTBSテレビ系で1979年(昭和54年)から20時から放送された『[[3年B組金八先生]]』の第1シリーズは、3年後の1982年4月、土曜日の22時から放送された。同第2シリーズも第1シリーズ終了の翌週から続けて開始し、合わせて約1年間放送した。『[[1年B組新八先生]]』と『[[3年B組貫八先生]]』は未放送。『[[2年B組仙八先生]]』は1983年4月頃から土曜日16:00位に1年間放送していた。さらに、[[長渕剛]]主演の『[[家族ゲーム (テレビドラマ)#長渕剛版|家族ゲーム]]』もパート2のみの放送となった。なお、[[田村正和]]主演の『[[うちの子にかぎって]]』は1・2とも同時ネットしている。 : 当時の金曜日の19時30分から21時までの編成内容は他に[[信越放送]]、[[北陸放送]]、[[宮崎放送]]、[[南日本放送]]や[[熊本県民テレビ]]が開局する1982年4月以前の[[熊本放送]]も同じ内容であった(20時から21時までは[[琉球放送]]も同様)。ちなみに信越放送と熊本放送は水曜・金曜・日曜、北陸放送は水曜・金曜の19時30分から21時までは日本テレビ系列番組を同時ネットしていた。1970年代から1984年3月までは、上記以外(当時民放2局地区のTBSテレビ系列)でも19時30分から21時までの時間帯はTBSテレビ系列ではなく日本テレビ系を同時ネットしていた局が多かった。 : 1977年9月2日(昭和52年)は金曜日であり、当初19時30分から21時までは日テレ系列のナイター生中継予定は無かったが(中継録画で、『[[11PM]]』(KTNがネット)で放送予定)、その当時[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]の[[王貞治]]選手(のちに[[福岡ソフトバンクホークス]]の監督を務める)のホームラン世界記録(756号)達成秒読み段階になっていたため、急遽ナイターを生中継することになった。当然NBCも自動的にネットした。しかし、新記録のホームランはなかなか出ないまま試合は長引き、日テレはニュースを挟み21時以降も中継することを決断した。NBCでは21時からは、TBSテレビ系列のドラマ「[[赤いシリーズ]]」の5作目『[[赤い激流]]』をネットしていたため、完全中継はできなかった。長崎地区で21時から日テレ系列の番組をネットする放送局は、もうひとつの民放のKTN(1977年当時フジと日テレのクロスネットだった)であり、同日20時55分のニュースを挟み中継を行った。おそらく、同一番組をライバル民放でリレー中継を行ったことは、全国的に見ても初めてで珍しい例だったのではないだろうか。結局、新記録は翌日のナイター中継の前に出ている(現在([[1991年]]以降)では[[Dramatic Game 1844|日テレ系列のナイター中継]]はNIBで放送、詳細は[[プロ野球トップ&リレー中継#過去の異例なリレー中継]]を参照)。 ;土曜日 : 土曜日に関しても同様で、一時期'''最大19時から22時まで'''は日本テレビ系の放送枠であった。 :『 [[土曜トップスペシャル]]』で放送していた『[[欽ちゃんの全日本仮装大賞]]』は1984年3月まで当局で出場者募集を行っていた。 : TBS系で19時から放送の『[[まんが日本昔ばなし]]』は、1979年4月 - 1984年3月の間、日テレのプロ野球中継や特別番組との兼ね合いで、日曜日の夕方(18時 → 17時)から放送していた。19時30分からの『クイズダービー』も1976年3月 - 1984年3月の間金曜日19時からの時差ネットだった(前記以外の期間については両番組ともに同時ネット)。 : 高視聴率番組だった『[[8時だョ!全員集合]]』は1984年3月まで放送されていなかった。 : 1984年4月から土曜日ゴールデンタイムがTBS系番組に統一された理由は、ナイター中継の延長に対応するため(信越放送・北陸放送も同様)。 : 21時台では、日テレの『[[土曜ドラマ (日本テレビ)|グランド劇場]]』を同時ネットしていたため、TBSテレビ系列で同時間帯に放送されていた『[[Gメン'75]]』などは半年から1年後に土曜日の夕方から放送された(ただし、『Gメン'75』は編成上の都合で途中で打ち切っており、最終回スペシャルを除き、残りの未放送部分については、2021年8月1日現在に至るまで放送されていない)。1983年4月になってTBSテレビの『[[ザ・サスペンス]]』のネットに踏み切り、それまで放送されていた日テレのドラマ『[[あんちゃん]]』を途中で打ち切り、残り分はKTNで後日放送され、1984年の改編から『グランド劇場』の番組自体が正式にKTNへと移動した。 :KTNでのグランド劇場の放送は基本的に時差ネットで、1983年(昭和58年)4月から『[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]』が移動してくる1985年(昭和60年)9月まで火曜22時に放送。以降は不明。なお、同番組の同様の時差ネットは、同じ九州地区の[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ(KTS)]]でも行われていた。 : 『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』の第1回 - 第4回、および第6回については、土曜日分をNBCが、日曜日分をKTNが担当し、全国で唯一リレー放送をしていた<ref group="注釈">第5回(1982年)は[[長崎大水害]]発生の影響を受けてNBCが参加を自粛し、KTNのみが参加したが、この時もKTNは前半部分はネットせず、後半のみの放送であった。</ref>(第7回よりKTNのみネットするようになり、KTNがNNN系列を脱退した翌年の1991年から現在までは長崎県でのNNN/NNS系列であるNIBがネットしている)。 ;日曜日 : 1990年のNCC開局までテレビ朝日の『[[土曜ワイド劇場]]』を『'''NBCワイド劇場'''』と改題した上で、『[[すばらしき仲間]]』のあと'''日曜日の22時30分から遅れネット'''で放送していた。そのあと24時25分ごろから『[[歌う天気予報]]』を放送して、そのあと静止画4枚(ブルーバック2枚とイラスト2枚)にアナウンスを流し一日の放送が終了していた。この態勢だったため、[[1985年]][[3月31日]]まで日曜日の『[[JNNニュースデスク]]』([[1988年]][[10月2日]]以降は『[[JNNニュース]]』)はネットされなかった。[[1985年]][[4月7日]]より『NBCワイド劇場』の後の24時20分から録画放送されるようになり、[[1988年]][[4月3日]]より『[[JNNスポーツチャンネル]]』もネットするため、24時50分からの放送となった<ref group="注釈">[[長崎新聞]][[1985年]][[3月31日]]、[[4月7日]]、[[1988年]][[3月27日]]、[[4月3日]]付朝刊[[番組表|ラ・テ欄]]で確認。</ref>(NCC開局後は『JNNスポーツチャンネル』、『JNNニュース』いずれもNBCでも[[同時ネット]]となった<ref group="注釈">『土曜ワイド劇場』はNCC([[1990年]][[4月1日]]開局)に移行([[1990年]][[4月7日]]放送分から)[[長崎新聞]][[1990年]][[3月25日]]、[[4月1日]]、[[4月7日]]付朝刊[[番組表|ラ・テ欄]]で確認。</ref>)。 === テレビチャンネル === ==== デジタル放送 ==== * [[日本の放送局所の呼出符号#JO*R|コールサイン]]:'''JOUR-DTV''' * [[識別信号#民間放送|コールネーム]]:NBCながさきデジタルテレビジョン * [[日本のリモコンキーID#地上波系統について|リモコンキーID]]:'''[[3]]'''[[File:JNNID.png|thumb|right|220px|JNN系列のリモコンキーID地図]] ** JNN系のリモコンキーIDは原則、TBSテレビのアナログ親局と同じ「'''6'''」であるが、NBCはそれだと自身のアナログ親局の「'''5'''」より大きいこともあり当初は「'''1'''」を希望していた。しかし、アナログ親局1chの[[北海道放送]] (HBC)・[[東北放送]] (TBC)・[[南日本放送]] (MBC)と異なり「'''1'''」が使用できず、次に希望したのはアナログ親局4chの[[毎日放送|MBS毎日放送]](大阪)・[[RKB毎日放送]](福岡)両局と同じ「'''4'''」だったが、「'''4'''」は後発のNIB[[長崎国際テレビ]]が獲得したことから、老舗局ということでNIBに勝つべく「'''3'''」となった<ref group="注釈">同じくリモコンキーID「1」を希望していた[[熊本放送]] (RKK、アナログ親局11ch)も同様の理由で「3」となった。</ref>。[[長崎県]]では他系列を含め「'''6'''」をアナログ親局やリモコンIDに使用される局は存在しない。在崎6波で唯一標準のリモコンキーIDを使わない。本局がアナログ親局で使われていた「'''5'''」は在崎民放では[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系列の[[長崎文化放送]] (NCC) がリモコンキーIDに使用している<ref group="注釈">JNN系列のアナログ親局に5chを使用する放送局はNBCの他、[[CBCテレビ]]、[[新潟放送]] (BSN)、[[大分放送]] (OBS)があるが、デジタル放送のリモコンキーIDで「5」を使用しているのはCBCテレビのみで、BSNはTBSテレビと同じだが自局のアナログ親局より大きい「6」(アナログ中継局は6chが多かった)を、OBSはNBCと同じ「3」をそれぞれ使用している。</ref>。 ** JNN系でリモコンキーID「'''3'''」は、本局の他、[[中国放送]] (RCC) 、[[テレビ山口]] (tys) 、熊本放送 (RKK) 、[[大分放送]] (OBS)、[[琉球放送]] (RBC) でも使用される。 * 長崎 14ch 1kW 送信機は[[日本電気|NEC]]製(稲佐山、NCC・NIBのアナログ送信所にKTN・NCC・NIBと共同で設置)<ref>[https://www.tele.soumu.go.jp/musen/SearchServlet?pageID=4&IT=H&DFCD=0001022740&DD=1&styleNumber=01 長崎放送長崎テレビジョン送信所・無線局免許状] - 総務省</ref> * 佐世保 22ch 1kW 送信機はNEC製(烏帽子岳、NCC・NIBのアナログ送信所に・NCC・NIBと共同で設置) * 諫早 23ch 10W (五家原岳) * 南串山 14ch 3W (彦山) * 島原 23ch 3W (眉山) * 南有馬 14ch 3W (上ノ原) * 平戸 39ch 3W (鞍掛山) * 福江 24ch 10W (八本木山) * 松浦 37ch 3W (城山)※当初は31chであったが、2012年10月2日から12月18日の間にチャンネル変更が行われたのに伴い、混信対策局として設置された松浦西中継局のチャンネルに統合された。 * 大瀬戸 35ch 3W (遠見山)※2013年1月8日から2月19日の間に14chから変更された。 * 有川 45ch 1W (矢倉岳) * 郷ノ浦 41ch 30W (岳ノ辻)※2012年1月16日から2月20日の間に61chから変更された。 * 厳原 28ch 30W (権現山) * 東長崎 31ch 1W (高城山) * 飯盛 23ch 0.3W (飯盛山) * 矢上 23ch 0.3W (普賢岳) * 外海 14ch 0.1W (城山北方) * 長与 14ch 1W (丸田岳) * 畝刈 30ch 0.3W (飯盛岳) * 松浦西 37ch 1W (城山 ※松浦中継局と同じ)※当初は松浦中継局の混信対策局として設置された。先述のチャンネル変更に伴い、同中継局へ統合された。 * 吉井 24ch 0.3W (牧の岳山) * 佐々 22ch 0.1W (城辻山) * 雲仙 41ch 0.05W (絹笠山) * 相浦 22ch 0.3W (愛宕山) * 世知原 22ch 0.3W (東八天岳) * 江迎鹿町 24ch 0.3W (江迎鹿町駅西方高地) * 長崎滑石 14ch 0.3W (水道山) * 波佐見 32ch 0.3W (波佐見町折敷瀬郷) * 松浦南 24ch 0.3W (高法知岳) * 平戸中 24ch 1W (鯛の鼻) * 平戸南 24ch 0.3W (屏風岳) * 野母崎 43ch 0.1W (長崎市脇岬町) * 奈摩 45ch 0.3W (高熨斗山) * 松浦福島 15ch 0.3W (城ノ越) * 宇久 51ch 0.3W (城ヶ岳)※2017年1月16日から2月10日の間に23chから変更された。 * 三井楽 45ch 0.3W (三井楽町内) * 早岐 22ch 0.3W (飯盛山) * 長崎北 14ch 0.5W (間山) * 長崎西山 14ch 0.3W (風頭山中腹) * 佐世保大野 21ch 1W (石盛山) * 佐世保日野 22ch 0.1W (鹿子前北方) * 佐世保赤崎 22ch 1W (赤崎岳) * 為石 23ch 0.05W (為石町南方高地) * 長崎南 14ch 0.3W (小ヶ倉町南方高地) * 戸町 14ch 0.3W (戸町南東高地) * 蚊焼 26ch 0.3W (蚊焼小学校西方高地) * 阿翁 26ch 0.01W (白山姫神社境内) * 西彼大島 32ch 0.01W (竜崎西方高地) * 野母高浜 43ch 0.01W (弁天山) * 長崎平山 41ch 0.05W (平山台) * 富江 45ch 0.3W (只狩山) * 島原北 23ch 0.3W (島原市宇土町) * 松浦鷹島 15ch 0.3W (鷹島町原免) * 北有馬 35ch 0.1W (白木野小学校北東) * 北有馬西 35ch 0.1W (若宮神社南方高地) * 崎戸東 45ch 0.01W (西海市崎戸支所北方高地) * 崎戸西 45ch 0.01W (大島小学校北西高地) * 大島徳万 45ch 0.01W (徳万公民館裏) * 奈良尾 33ch 0.1W (金山) * 佐世保日宇 44ch 0.3W (日宇西方高地) * 南鹿町 14ch 0.01W (鹿町町船ノ村) * 有川北 37ch 0.05W (有川港西方高地) * 御館山 44ch 0.05W (御館山) * 長崎茂木 23ch 0.01W (茂木小学校南方高地) * 松浦東 15ch 0.3W (大田溜池南方高地) * 小値賀 51ch 0.3W (愛宕山)※2017年1月16日から2月10日の間に23chから変更された。 * 崎山 39ch 0.1W (箕岳) * 小佐々楠泊 14ch 0.01W (光福寺南東) * 鬼木中尾 14ch 0.05W (波佐見町鬼木郷) * 佐世保柚木 28ch 0.1W (高花岳) ==== アナログ放送 ==== 2011年7月24日停波時点 * [[長崎市|長崎]] JOUR-TV '''5ch'''([[稲佐山]]) * [[佐世保市|佐世保]] 10ch([[烏帽子岳 (佐世保市)|烏帽子岳]]) **かつてJOMF-TVのコールサインが与えられていたが廃止。 * [[諫早市|諫早]] 49ch → 62ch([[五家原岳]]、アナ→アナ変換によるチャンネル変更) * [[島原中継局|島原]] 62ch * [[平戸中継局|平戸]] 4ch * [[福江中継局|五島]] 6ch * [[厳原中継局|対馬]] 9ch この他にも、県内に約130の中継局がある(長崎県は山地・離島などの複雑な地形により県内の世帯をカバーするためにも他の都道府県より多くの中継局を設けなければならない事情もある)。 === 放送時間 === 24時間放送は実施せず。開始・終了の時刻はその時々に応じて変更。 2023年4月現在は平日(月〜金曜)は午前3:50、土曜・日曜は午前4:00である。編成の関係で変更の場合あり<ref>[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/tv/program/ テレビ番組表] - NBC長崎放送</ref>。 === 現在放送中の番組 === ==== 自社制作番組 ==== * [[Pint]](月曜 16:50 - 18:55、火曜 - 金曜 16:50 - 19:00)<ref group="注釈">17:50 - 18:15は『[[Nスタ]]』全国ネット枠をネット。</ref> * [[MUSIC WOLF TV]](月曜 1:50 - 2:00〈日曜深夜〉) * ピース! V・ファーレン(毎月最終月曜 22:57 - 23:00) * 生中継!ワッツ8プン(金曜 9:55 - 10:05) * [[情報☆ピカッぷ]](金曜 10:05 - 10:25) * いろどりプラス(金曜 22:54 - 23:00) * [[NBCニュース (長崎放送)|NBCニュース]](土曜 0:43 - 0:46〈金曜深夜〉) * [[ふるさと再発見 長崎ばーどアイ]](土曜 18:50 - 18:55) ==== RKB毎日放送制作番組 ==== '''太字は同時ネット''' [[e-JNN]](九州・沖縄)向けの番組としてRKB毎日放送を幹事社とする共同制作、およびNBCが制作協力している番組を掲載。その他の番組は[[RKB毎日放送#番組]]を参照。 * [[城島健司のJ的な釣りテレビ]](月曜 0:50 - 1:20〈日曜深夜〉) * [[JNN九州・沖縄ドキュメント ムーブ]](月曜 1:20 - 1:50〈日曜深夜〉) * '''[[和田明日香のア・レシピ]]'''(土曜 17:00 - 17:30) * '''[[窓をあけて九州|新 窓をあけて九州]]'''(日曜 10:00 - 10:15) * '''[[世界一の九州が始まる!]]'''(日曜 10:15 - 10:30) === ネット番組 === ==== TBS系ローカルセールス ==== '''太字は同時ネット。''' ==== TBSテレビ制作番組 ==== :* '''[[Nスタ|Nスタ・第0部]]'''(月曜 - 金曜 15:49 - 16:50)<ref group="注釈" name="takahiro">編成の都合で放送されない場合あり。</ref><ref group="注釈">17:50 - 18:15は全国ネット。</ref> :* '''[[東大王]]'''(水曜 19:00 - 20:00)<ref group="注釈" name="takahiro"/><ref group="注釈">2021年3月31日までは不定期放送。</ref> :* '''[[世界くらべてみたら]]'''(水曜 20:00 - 21:00)<ref group="注釈" name="takahiro"/> :* '''[[ワールド極限ミステリー]]'''(水曜 21:00 - 21:57)<ref group="注釈" name="takahiro"/> :* [[TBSスター育成プロジェクト 私が女優になる日_]](木曜 0:55 - 1:25〈水曜深夜〉)<ref group="注釈">2023年3月までは日曜 0:58 - 1:28〈土曜深夜〉。</ref> :* '''[[モクバラナイト]]'''(木曜 23:56 - 翌0:55) :* [[DEEPな店の常連さんに密着 イキスギさんについてった]](金曜 0:55 - 1:55〈木曜深夜〉) :* '''[[ラヴィット!|夜明けのラヴィット!]]'''(土曜 5:45 - 7:30)<ref group="注釈" name="takahiro"/> :* '''[[王様のブランチ]]'''(土曜 9:30 - 11:45)<ref group="注釈" name="takahiro"/> ==== 毎日放送制作番組 ==== :* [[かまいたちの知らんけど]](月曜 23:56 - 翌0:55) :* [[よしもと新喜劇]](日曜 0:58 - 1:58〈土曜深夜〉)<ref group="注釈">2023年3月までは火曜 0:55 - 1:55〈月曜深夜〉。</ref> :* [[皇室アルバム]](日曜 6:30 - 6:45)<ref group="注釈">制作局と同時刻だが遅れネット。</ref> :* [[住人十色]](日曜 16:30 - 17:00)<ref group="注釈" name="takahiro"/> ==== CBCテレビ制作番組 ==== :* '''[[ゴゴスマ -GO GO!Smile!-]]'''(月曜 - 金曜 13:55 - 15:49)<ref group="注釈" name="takahiro"/> ==== 北海道放送制作番組 ==== :* [[ジンギス談!]](水曜 0:55 - 1:25〈火曜深夜〉) ==== 他系列番組 ==== ==== テレビ東京系列 ==== :* [[家、ついて行ってイイですか?]](水曜 23:56 - 翌0:55) :* [[ワカコ酒|ワカコ酒 season6]](土曜 0:48 - 1:23〈金曜深夜〉) :* [[YOUは何しに日本へ?]](土曜 11:59 - 13:24)<ref group="注釈">2021年4月から2022年9月までは土曜 0:20 - 1:19〈金曜深夜〉。</ref> :* [[ヤギと大悟]](土曜 13:24 - 13:54) :* [[タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって!]](土曜 16:00 - 16:54) :* [[パウ・パトロール]](日曜 11:00 - 11:30) :* [[弁護士ソドム]](日曜 13:00 - 13:54) ==== 民間放送教育協会共同制作 ==== :* [[日本のチカラ]](日曜 6:00 - 6:30) ==== その他 ==== :* [[Music B.B.]](月曜 1:20 - 1:50〈日曜深夜〉、アークミュージック制作)<ref group="注釈">『[[JNN九州・沖縄ドキュメント ムーブ]]』放送時は休止。</ref> :* [[S.W.A.T. (テレビドラマ)|S.W.A.T. Season3]](火曜 0:55 - 1:55〈月曜深夜〉) :* [[なんでんカフェ]](木曜 10:25 - 10:50、[[長崎ケーブルメディア]]制作) :* [[ゴールデンカムイ]](日曜 0:28 - 0:58〈土曜深夜〉) === 過去に放送した番組 === ==== 自社制作番組 ==== * [[NBCニュース6]](1976年4月5日 - 1990年3月30日) * [[報道センターNBC]](1990年4月2日 - 2016年4月2日) * [[Nスタ プラス長崎]](2016年4月4日 - 2020年3月27日) * させぼシネマガイド * 佐賀県だより * ばってんチャンネルえぷろん * えぷろん930(1982年 - ) * NBCほっとポテト<ref group="注釈">[[1990年]][[3月30日]]までは9:30放送開始、[[1990年]][[4月2日]]以降は9:55 - 10:50に放送。[[長崎新聞]][[1990年]][[3月29日]]、[[3月30日]]、[[4月2日]]付朝刊[[番組表|ラ・テ欄]]で確認。</ref> * UPるトゥディ(1996年 - 2004年) * [[あっぷる|あっ!ぷる → あっぷる]](2004年4月5日 - 2020年3月20日) * [[長崎歌謡祭]]([[本田美奈子.]]らを輩出) * NBC住宅情報 * ながさき花紀行 * みんなのチャンネル * NBC劇場 * NBCお茶の間劇場 * テアトルNBC * NBC特選名品館 * NBC金曜コレクション → ウィークエンドセレクション * 万屋テレビ * 音キューブ * トクトクタイム * おもしろウォッチング島原半島 * 情報360度 * ながさき味な出会い * あじさいニュース * ろまん街道旅日記 * 大きくなあれ * 県民のひろば * 週刊ブーメラン * とっとっとテレビ * きゃっちゅ * テレビニュータウン * ダントツ潮流 * NEWS HEADLINES NBC * ミッドナイトNBC * 金曜日のりんごたち * 話題のクロスロード * [[NBCニュース&天気]] * 週刊ボートですよ! * [[ときめきバザール]] * [[あっぷる先出し中継8分1本勝負!]] * [[コクラヤテレビギャラリー]] * [[げなパネ!]] * 明日の長崎アシナガさん! * [[バリヤゼDEEPナイト]] * [[こちら県庁広報2課]] ほか ==== ネット番組 ==== ===== テレビ東京系列 ===== :* [[女子プロレス中継 世界選手権シリーズ]](金曜 23:00 - 23:30) :* [[超スーパーカー ガッタイガー]](月曜 16:50 - 17:20) :* [[三波伸介の凸凹大学校]](土曜昼に放送) :* [[タモリの音楽は世界だ]](日曜深夜に放送) :* [[ヒカルの碁 (アニメ)|ヒカルの碁]] :* [[炎の闘球児 ドッジ弾平#テレビアニメ|炎の闘球児 ドッジ弾平]] :* [[愛の貧乏脱出大作戦]] → [[ジカダンパン!責任者出て来い!]](土曜昼に放送) :* [[鬼神童子ZENKI#テレビアニメ|鬼神童子ZENKI]] :* [[神経質バラエティー 心配さん]] :* [[たけしの誰でもピカソ]] :* [[決戦!クイズの帝王]] :* [[ロンブーの怪傑!トリックスター]] :* [[BLUE DRAGON (アニメ)|BLUE DRAGON]](第1期のみ放送) :* [[怒りオヤジ3]] :* [[田舎に泊まろう!]] :* [[ドラマ24]]の作品 :** 『[[モテキ#テレビドラマ|モテキ]]』・『[[湯けむりスナイパー#テレビドラマ|湯けむりスナイパー]]』→『[[嬢王#嬢王3 〜Special Edition〜|嬢王3 〜Special Edition〜]]』→『[[トラブルマン]]』→『[[勇者ヨシヒコと魔王の城]]』→『[[勇者ヨシヒコと悪霊の鍵]]』→『[[まほろ駅前多田便利軒#テレビドラマ|まほろ駅前番外地]]』→『[[みんな!エスパーだよ!#テレビドラマ|みんな!エスパーだよ!]]』→『[[リバースエッジ 大川端探偵社#テレビドラマ|リバースエッジ 大川端探偵社]]』→『[[初森ベマーズ]]』→『[[不便な便利屋]]』→『[[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ season5]]』→『[[東京センチメンタル]]』→『[[ナイトヒーロー NAOTO]]』→『[[勇者ヨシヒコと導かれし七人]]』→『[[バイプレイヤーズ]] 〜もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら〜』→『[[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ season6]]』→『[[孤独のグルメ|孤独のグルメ Season7]]』→『[[Iターン (小説)#テレビドラマ|Iターン]]』→『[[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ8]]』→『[[浦安鉄筋家族#テレビドラマ|浦安鉄筋家族]]』→『[[あのコの夢を見たんです。#テレビドラマ|あのコの夢を見たんです。]]』 :* [[ポケモンサンデー]]([[ポケットモンスター (アニメ)|アニメ版]]はNIBで放送) :* [[レディス4]] → [[L4 YOU!]](同時ネット、2016年3月打ち切り) :* [[KOZY'S NIGHT 負け犬勝ち犬]] :* [[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ → 孤独のグルメ season2 → 孤独のグルメ season3 → 孤独のグルメ season4]] :* [[出没!アド街ック天国]](一時期のみ) :* [[テレビあっとランダム]](土曜夕方に放送) :* [[週刊真木よう子]] :* [[イナズマイレブンGO#テレビアニメ|イナズマイレブンGO → イナズマイレブンGO クロノ・ストーン → イナズマイレブンGO ギャラクシー]] :* [[金曜8時のドラマ]] :** 『[[刑事吉永誠一]]』 →『[[三匹のおっさん#テレビドラマ|三匹のおっさん]]』→『[[三匹のおっさん#テレビドラマ|三匹のおっさん2]]』→『[[僕らプレイボーイズ 熟年探偵社]]』→『[[釣りバカ日誌#テレビドラマ|釣りバカ日誌〜新入社員 浜崎伝助〜]]』→『[[警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜]]』→『[[ドクター調査班〜医療事故の闇を暴け〜]]』→『[[ヤッさん#テレビドラマ|ヤッさん〜築地発!おいしい事件簿〜]]』→『[[石川五右衛門 (テレビドラマ)|石川五右衛門]]』→『[[三匹のおっさん#テレビドラマ|三匹のおっさん3]]』→『[[釣りバカ日誌#テレビドラマ|釣りバカ日誌 Season2〜新米社員 浜崎伝助〜]]』→『[[警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜|警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜SECOND SEASON]]』→ 『[[ユニバーサル広告社シリーズ#テレビドラマ|ユニバーサル広告社〜あなたの人生、売り込みます!〜]]』→ 『[[特命刑事 カクホの女]]』→『[[執事 西園寺の名推理]]』→『[[警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜|警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜THIRD SEASON]]』→『[[駐在刑事#テレビドラマ|駐在刑事season2]]』→『[[記憶捜査〜新宿東署事件ファイル〜|記憶捜査2〜新宿東署事件ファイル〜]]』 :* [[ファッション通信]] :* [[サブちゃんと歌仲間]] :* [[岡本綾子のNECスーパーゴルフ]](KTNでも放送) :* [[太鼓持ちの達人〜正しい××のほめ方〜]] :* [[LOVE理論#2015年版|LOVE理論]] :* [[世界の料理ショー]] :* [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!#爆走兄弟レッツ&ゴー!!|爆走兄弟レッツ&ゴー!!]] :* [[まんが 水戸黄門]] :* [[ウレロ☆シリーズ]] :** [[ウレロ☆シリーズ#ウレロ☆未完成少女|ウレロ☆未完成少女]] → [[ウレロ☆シリーズ#ウレロ☆未体験少女|ウレロ☆未体験少女]] → [[ウレロ☆シリーズ#ウレロ☆無限大少女|ウレロ☆無限大少女]]<ref group="注釈">『[[ウレロ☆シリーズ#ウレロ☆未確認少女|ウレロ☆未確認少女]]』はKTNで放送された。</ref> :* [[ココリコミリオン家族]]<ref group="注釈">30分時間のみ。1時間枠時代はnccで放送された。</ref> → [[タカトシの空飛ぶチェリーパイ]] :* [[昼めし旅 〜あなたのご飯見せてください!〜]](途中打ち切り、番組自体は継続中) :* [[チマタの噺]](途中打ち切り) :* [[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]](途中打ち切り、『[[アイカツスターズ!]]』以降は県内未放送) :* [[ワンパンマン#テレビアニメ|ワンパンマン]] :* [[コレ考えた人、天才じゃね!? 〜今すぐ役立つ生活の知恵、集めました〜]] :* [[おそ松さん]] :* [[イラっとくる韓国語講座]] :* [[マスカットナイト]] :* [[バイプレイヤーズ]]〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜 :* [[NEO決戦バラエティ キングちゃん]] :* [[けものフレンズ (アニメ)|けものフレンズ]] :* [[弱虫ペダル#テレビアニメ|弱虫ペダル GLORY LINE]] :* [[スナックワールド#テレビアニメ|スナックワールド]] :* [[深夜!天才バカボン]] :* [[六三四の剣#テレビアニメ|六三四の剣]](月曜 17:20 - 17:50<ref name="Animedia 1986.09 p.83" />) :* [[たけしのニッポンのミカタ!]]<ref group="注釈">テレビ長崎から移行。</ref> :* [[太川蛭子の旅バラ]] :* [[先生、、、どこにいるんですか? 〜会って、どうしても感謝の言葉を伝えたい。〜]] :* [[きょうの猫村さん#テレビドラマ|きょうの猫村さん]] :* [[病院の治しかた〜ドクター有原の挑戦〜]] :* [[デカ盛りハンター]](途中打ち切り、番組自体は継続中) :* [[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]] → [[妖怪ウォッチ シャドウサイド]] → [[妖怪ウォッチ!]] → [[妖怪学園Y 〜Nとの遭遇〜|妖怪ウォッチJam 妖怪学園Y 〜Nとの遭遇〜]] → [[妖怪ウォッチ♪]](途中打ち切り、番組自体は継続中) :* [[30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい#テレビドラマ|30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい]] :* [[ガールズ×戦士シリーズ]](『[[魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!]]』以前の作品および『[[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]]』は県内未放送) :** [[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]]→[[ポリス×戦士 ラブパトリーナ!]] :* [[みつばちマーヤの冒険#第2作『新みつばちマーヤの冒険』|新みつばちマーヤの冒険]]([[テレビ大阪]]制作) :* [[綾小路きみまろの人生ひまつぶし]](テレビ大阪制作) :* [[きらきらアフロ|きらきらアフロ → きらきらアフロTM]](途中打ち切り、テレビ大阪制作) :* [[わざわざ言うテレビ]](途中打ち切り、テレビ大阪制作) :* [[和風総本家]](テレビ大阪制作) :* [[フューチャーカード バディファイト|フューチャーカード バディファイト → フューチャーカード バディファイト100 → フューチャーカード バディファイトDDD]]([[テレビ愛知]]制作) :* [[ワーキングデッド〜働くゾンビたち〜]]([[BSテレビ東京|BSテレ東]]制作) :* [[ワカコ酒#テレビドラマ|ワカコ酒 → ワカコ酒2]](BSテレ東制作、第1シリーズは系列局の中国放送も制作に参加) :* [[インテリワードBAR 見えざるピンクのユニコーン]](BSテレ東制作) :* [[絶メシロード]]→絶メシRoad2 :* [[超かわいい映像連発!どうぶつピース!!]] :* [[新幹線変形ロボ シンカリオン|新幹線変形ロボ シンカリオンZ]](本放送終了後に放送、第1期はTBS系番組として同時ネット) :* [[SPY×FAMILY]](第1期) :* [[チェンソーマン]] ほか ===== 日本テレビ系列 ===== :* [[轟先生#テレビドラマ|轟先生]] :* [[レ・ガールズ (テレビ番組)|レ・ガールズ]] → [[ハッチャキ!!マチャアキ]] → [[コント55号のなんでそうなるの?]] → [[カックラキン大放送!!]] :* [[三菱ダイヤモンド・アワー]] → [[太陽にほえろ!]] :**(『カックラキン』と『太陽にほえろ!』は1984年4月に同時ネットのままKTNへ移行) :* [[シャープクライマックス 人生はドラマだ]] :* [[全日本プロレス中継]](同時ネット→火曜深夜、1984年頃にKTNへ移行) :* [[日産スター劇場]] → [[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]](1983年4月にKTNへ移行) :* [[笑点]](初期のみ、KTN開局に伴い移行) :* [[踊って歌って大合戦]] :* [[土曜トップスペシャル]](1984年3月まで) :* [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]] :**(第1回 - 6回、土曜日の夜から日曜日の早朝まで放送。第5回は不参加。ちなみに日曜日の早朝から夜のエンディングまではKTNにリレー放送した。これは番組スポンサーの都合によるものと、土曜日夜のKTNの編成が主としてフジテレビ系中心だったことへの配慮と考えられる) :* [[全国高等学校サッカー選手権大会#地上波での放送|全国高等学校サッカー選手権大会]](NIB開局後の1年間はネット) :* [[ごちそうさま (テレビ番組)|ごちそうさま]](14:15から時差放送。『[[午後は○○おもいッきりテレビ|おもいッきりテレビ]]』に内包された後(14:00から)も1年間続いたが打ち切り。1991年4月に開局したNIBで長崎県へのネットが復活し最終回まで放送) :* [[おしゃれ]] → [[三枝成章の気まぐれ]](14:00から時差放送。『[[オシャレ30・30]]』からKTNへ移行。『おもいッきりテレビ』の1コーナー『[[昼下がりのカルチャー]]』(14:15から)も1年間放送) :* [[あなたのワイドショー]] → [[ミセス&ミセス]] → [[ルックルックこんにちは]](3番組とも9:30から時差放送。1982年に自社制作番組(『えぷろん930』)開始に伴いルックルックを打ち切り。1991年4月に開局したNIBで長崎県へのネットが復活し最終回まで放送<ref group="注釈">ただし、NIBは開局から1993年12月までは8:55 - 10:25に遅れネット</ref>。) :* [[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行]](初期のみ、KTN開局に伴い移行) :* [[健康増進時代]]([[日本医師会]]提供。初期のみ、1970年4月にKTNへ移行) :* [[日本テレビ火曜8時枠時代劇]] :* [[快傑ハリマオ]] :* [[エースをねらえ!#新・エースをねらえ! (テレビアニメ版第2作)|新・エースをねらえ!]] :* [[二十世紀 (テレビ番組)|二十世紀]] :* [[新春スポーツスペシャル箱根駅伝]](KTNが編成上放送できない年のみ放送) :* [[東芝アラカルトクッキング・しあわせの味]] :* [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー]] → [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー2010]] → [[トランスフォーマー ザ☆ヘッドマスターズ]] → [[トランスフォーマー 超神マスターフォース]] → [[戦え!超ロボット生命体 トランスフォーマーV]] :* [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]] :* [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]制作土曜19時台前半枠 :** [[黄金バット#テレビアニメ|黄金バット]] → [[巨人の星 (アニメ)#巨人の星|巨人の星]] → [[天才バカボン (アニメ)|天才バカボン]](第1作のみ放映、1975年度の『元祖-』と1990年度の『平成-』はKTNにて放映。1999年度の『レレレの-』は県内の放送局では未放映) :** [[おんぶおばけ#テレビアニメ『隆一まんが劇場 おんぶおばけ』|隆一まんが劇場 おんぶおばけ]]→[[冒険コロボックル]] :** [[全日本歌謡選手権]] → [[そっくりショー]](第4期)→ [[巨人の星 (アニメ)#新・巨人の星|新・巨人の星]] → [[宇宙戦艦ヤマト2]]<ref group="注釈">前作(1974年度版)はKTNにて放映。</ref> → [[巨人の星 (アニメ)#新・巨人の星II|新・巨人の星II]] → [[宇宙空母ブルーノア]] → [[お笑いエース登場]] → [[宇宙戦艦ヤマトIII]]→[[世界ウルトラショー]] → [[一発逆転!!げんてんクイズ]] → げんてんクイズ → [[恋ピューター|三枝の恋ピューター]] → [[一ッ星家のウルトラ婆さん]]<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1983年1月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国放映リスト |page=85}}</ref> :* [[タイガーマスク#アニメ|タイガーマスク]](よみうりテレビ制作) :* [[ムーの白鯨]](よみうりテレビ制作、日曜 18:00 - 18:30<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメージュ |issue=1980年8月号 |publisher=徳間書店 |title=全国放映リスト |page=95}}</ref>) :* [[お笑いマンガ道場]]([[中京テレビ放送|中京テレビ]]制作、初期のみ、1980年代後半にKTNへ移行) ほか ===== テレビ朝日系列 ===== :※の番組はnccへ移行。 :* [[モーニングショー]](第1期のみ)※ :* 平日正午の枠(1968年ネット開始。15時 → 14時から時差ネット)※ :** [[アフタヌーンショー]] → [[なうNOWスタジオ]] → [[新・アフタヌーンショー]] → [[布施明のグッDAY]] → [[欽ちゃんのどこまで笑うの?!]] → [[お昼のマイテレビ]] :* [[象印歌のタイトルマッチ]] → [[象印スターものまね大合戦]] → [[象印クイズ ヒントでピント]](日曜日10時 → 10時30分 → 17時から放送)※ :* [[クイズタイムショック]] 金曜日19時 → 木曜日19時(同時ネット) → 日曜日17時から放送。(「『…21』は※) :* [[日曜洋画劇場]](ただし『ゴールデン映画劇場』として土曜夜に放送)※ :* [[徹子の部屋]]※(平日朝に放送) :* [[新時代の中小企業]]→[[明日の経営戦略]] :* [[欽ちゃんのどこまでやるの!?]] (土曜日12時30分から遅れネット) :* [[ビートたけしのスポーツ大将]](土曜日16時に遅れネットで放送)※ :* [[ポーラ名作劇場]] :* [[ナショナルゴールデン劇場]] :* [[テレビ朝日火曜9時枠の連続ドラマ]](22時から時差ネット) :** [[大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]]→ [[荒野の素浪人]] → [[破れ傘刀舟悪人狩り]] → [[破れ奉行]] → [[江戸の鷹 御用部屋犯科帖]] → [[破れ新九郎]] → [[半七捕物帳]]([[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]主演版) → [[江戸の牙]] → [[鬼平犯科帳 (萬屋錦之介)|鬼平犯科帳(萬屋錦之介主演版)]]/[[柳生あばれ旅]] → [[文吾捕物帳]] → [[柳生十兵衛あばれ旅]] :* [[テレビ朝日水曜夜9時枠時代劇]] :** [[日本剣客伝]] → [[新・日本剣客伝]] → [[日本任侠伝]] → [[燃えよ剣]] → [[宮本武蔵]] → [[軍兵衛目安箱]] → [[半七捕物帳#テレビドラマ|半七捕物帳(平幹二朗主演版)]] → [[さすらいの狼]] → [[長谷川伸シリーズ]] → [[新書太閤記#1973年版|新書太閤記]] → [[女・その愛のシリーズ]] → [[右門捕物帖 (1974年のテレビドラマ)|右門捕物帖]] → [[鬼平犯科帳 (丹波哲郎)|鬼平犯科帳(丹波哲郎主演版)]] → [[徳川三国志 (テレビドラマ)|徳川三国志]] → [[人魚亭異聞 無法街の素浪人]] :* [[土曜映画劇場]]→ [[土曜ワイド劇場]](ただし、『NBCワイド劇場』として放送)※左記の番組は日曜22:30に放送<ref group="注釈">ただし、テレビ朝日[[1990年]][[3月31日]]放送分(『[[考古学者シリーズ|美人秘書殺し]]』)は[[1990年]][[3月31日]]12:30 - 14:20の[[先行ネット]]となり、翌[[4月1日]]からは『[[Ryu's Bar 気ままにいい夜]]』、『[[紳助・ケントの世界がお呼びです!]]』、『JNNスポーツチャンネル』、『JNNニュース』の[[同時ネット]]に移行している。[[長崎新聞]][[1990年]][[3月31日]]、[[4月1日]]付朝刊[[番組表|ラ・テ欄]]で確認。</ref> :* [[非情のライセンス]]などの木曜22時枠(土曜22時に放送。『[[JNN報道特集]]』開始に伴い、ネット打ち切り) :* [[特別機動捜査隊]] → [[特捜最前線]](月曜深夜に異時ネット。『[[特捜最前線#特捜最前線2013〜7頭の警察犬|…特捜最前線2013]]』は※) :* [[西部警察]](ただしPART1&2は深夜に、PART3は火曜夜10時に異時ネット。『[[西部警察 SPECIAL|…2004]]』と再放送は※) :* [[はぐれ刑事純情派]]※ :* [[さすらい刑事旅情編]]※ :* [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]] ※(土曜朝7時 → 月曜夕方16時50分ごろから遅れネット。[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|日本テレビ版]] はKTNで放送) :* [[暴れん坊将軍]]※ :* [[遠山の金さん捕物帳]] :* [[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]] :* [[遠山の金さん (テレビ朝日)|遠山の金さん(杉良太郎)]] :* [[遠山の金さん (高橋英樹)]] :* [[名奉行 遠山の金さん]]※ :* [[素浪人 月影兵庫]]([[近衛十四郎]]主演) :* [[素浪人 花山大吉]] :* [[ワールドプロレスリング]]※(日曜昼→土曜夕方に遅れネット) :* [[スーパー戦隊シリーズ]] ※(金曜夕方17時20分頃に遅れネット) :** [[バトルフィーバーJ]](途中打ち切り) → [[電子戦隊デンジマン]] → [[太陽戦隊サンバルカン]] → [[大戦隊ゴーグルファイブ]] → [[科学戦隊ダイナマン]] → [[超電子バイオマン]] → [[電撃戦隊チェンジマン]] → [[超新星フラッシュマン]] → [[光戦隊マスクマン]] → [[超獣戦隊ライブマン]] → [[高速戦隊ターボレンジャー]] :***(『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』と『[[ジャッカー電撃隊]]』は未放送) :* [[メタルヒーローシリーズ]] ※ :** [[世界忍者戦ジライヤ]] → [[超人機メタルダー]](ジライヤと逆の順番で放送) :***(初期の[[宇宙刑事シリーズ]]ならびに『[[巨獣特捜ジャスピオン]]』と『[[時空戦士スピルバン]]』、『[[機動刑事ジバン]]』は未放送) :* [[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]](『[[聖闘士星矢Ω|…Ω]]』は※) :* [[がんばれ!!ロボコン]](リメイク版の『[[燃えろ!!ロボコン]]』は※) :* [[イナズマン]] :* [[愛の戦士レインボーマン]] :* [[ダイヤモンド・アイ]] :* [[アパッチ野球軍#アニメ|アパッチ野球軍]] :* [[デビルマン#テレビアニメ版|デビルマン]] :* [[超電磁ロボ コン・バトラーV]] :* [[テレビ朝日系列月曜夜7時台枠のアニメ|月曜19時台前半アニメ枠]] :** [[海賊王子]] → [[魔法使いサリー#アニメ・1966年版|魔法使いサリー]]([[魔法使いサリー#アニメ・1989年版|2代目]]は※) → [[ひみつのアッコちゃん#第1作|ひみつのアッコちゃん(第1シリーズ)]] → [[魔法のマコちゃん]] → [[さるとびエッちゃん#アニメ|さるとびエッちゃん]] → [[魔法使いチャッピー]] → [[バビル2世#1973年版|バビル2世]] → [[ミラクル少女リミットちゃん]] → [[魔女っ子メグちゃん]]→[[アンデス少年ペペロの冒険]] :* [[朝日新聞ニュース]] → [[朝日フラッシュニュース]] :* [[あばれはっちゃく#テレビドラマ|あばれはっちゃく]]シリーズ(水曜 17:20 - 17:50) :* [[空手バカ一代#テレビアニメ|空手バカ一代]] :* [[ナショナルキッド]] :* [[狼少年ケン]] :* [[キャンディ♡キャンディ#テレビアニメ|キャンディ♡キャンディ]] :* [[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]] :* [[エスパー魔美#TV|エスパー魔美]](アニメ単独枠、月曜 17:30 - 18:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1989年10月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=テレビ局ネットワーク |page=92}}</ref>) :* [[川崎敬三の料理ジョッキー]] :* [[パンポロリン]] :* [[つるピカハゲ丸#テレビアニメ|つるピカハゲ丸くん]](金曜 16:55 - 17:25<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1989年8月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=91}}</ref>) :* [[オバケのQ太郎 (アニメ)#第3作|オバケのQ太郎]](第3作、30分版のみ水曜 17:20 - 17:50に放送<ref name="Animedia 1986.09 p.83">{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1986年9月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットーワーク |page=83}}</ref>。途中で打ち切り)<!---『アニメディア』の1987年の3月号では「テレビ局ネットワーク」に長崎放送の放送日時は未記載---> :* [[新婚さんいらっしゃい!]] (朝日放送テレビ制作、腸捻転解消前から。解消後は土曜日正午からの放送)※ :* [[必殺シリーズ]](朝日放送テレビ制作、腸捻転解消前から。ただし解消前から半年遅れの深夜に異時ネット)※ :* [[おはようワイド・土曜の朝に]](朝日放送テレビ制作、1980年9月で打ち切り) :* [[ザ・ハングマン]](朝日放送テレビ制作) :* [[超合体魔術ロボ ギンガイザー]](朝日放送テレビ制作) :* [[はいからさんが通る#テレビアニメ|はいからさんが通る]] → [[おはよう!スパンク#アニメ|おはよう!スパンク]] → [[ジョージィ!#アニメ版|レディジョージィ]](朝日放送テレビ制作) :* [[メイプルタウン物語]] → [[新メイプルタウン物語 パームタウン編]] → [[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン]] → [[新ビックリマン]]※(朝日放送テレビ制作) :* [[夫婦善哉 (トーク番組)|夫婦善哉]](朝日放送テレビ制作、NETネット時代 日曜 18:00 - 当番組終了後は『ぴったし カン・カン』を1979年3月まで放送) :* [[地球大好き!大冒険!]] → [[地球は僕らの宝島]](朝日放送テレビ制作) :* [[八木治郎ショー]](毎日放送制作、腸捻転解消前) :* [[仮面ライダーシリーズ]](毎日放送制作、腸捻転解消後も放送【ここではNET(現・テレビ朝日)系で放送していた時代を表記する】) :**[[仮面ライダー]] → [[仮面ライダーV3]] → [[仮面ライダーX]] :***(『[[仮面ライダーアマゾン]]』は未放送、後年NCCで放送された。『[[仮面ライダーストロンガー]]』からの毎日放送制作分は全作ネット。テレビ朝日製作の平成・令和シリーズは※) :* [[ジャングル黒べえ#アニメ版|ジャングル黒べえ]] (月曜17:00 - 17:30、毎日放送制作、腸捻転解消前) :* [[がっちり買いまショウ]](NETネット時代 日曜 11:30 - )毎日放送制作 :* [[ガンダムシリーズ]] ※ :** [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]制作の『[[機動戦士ガンダム]]』『[[機動戦士Ζガンダム]]』『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』は平日17:00台に放送。平成初期に『機動戦士Ζガンダム』と『機動戦士ガンダムΖΖ』が土曜日の昼間に再放送あり。『[[機動戦士ガンダムSEED]]』以降のガンダムシリーズは毎日放送制作で同時ネット。 ほか ===== フジテレビ系列 ===== :* [[スター千一夜]](初期のみ、途中KTNに移行) :* [[世界名作劇場]](一時期のみ、1975年春にKTNに移行) :* [[ズバリ!当てましょう]](一時期のみ、途中KTNに移行) :* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]([[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]主演) :* [[三匹の侍#三匹の侍|三匹の侍]] :* [[ザ・ヒットパレード (テレビ番組)|ザ・ヒットパレード]] :* [[忍者部隊月光]] :* [[鉄腕アトム (アニメ第1作)]] :* [[ゴールデン洋画劇場]](一時期のみ、途中KTNに移行) :* [[赤白パネルマッチ]] :* [[日清ちびっこのどじまん]] :* [[ライオン奥様劇場]] :* [[服部半蔵 影の軍団#服部半蔵 影の軍団|服部半蔵 影の軍団]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作、1990年代初めに平日昼に集中放送) ほか ===== その他 ===== :* [[AKB0048]] :* [[まじもじるるも#アニメ|まじもじるるも]] :* [[演歌百撰]] :* [[ナイツの丼なもんでしょう!]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]制作) :* [[白鳥麗子でございます!#2016年版|白鳥麗子でございます!(河北麻友子版)]]<ref group="注釈">[[ドラマ23]]内の[[白鳥麗子でございます!#TBS版|鈴木保奈美版]]も当局で放送、[[白鳥麗子でございます!#フジテレビ版|松雪泰子版]]はKTNで放送。</ref> :* [[弱虫ペダル#テレビドラマ|弱虫ペダル(テレビドラマ)]] :* [[アンゴルモア 元寇合戦記#テレビアニメ|アンゴルモア 元寇合戦記]] :* [[はたらく細胞#テレビアニメ|はたらく細胞]] :* [[Sexy Zoneの進化論]]([[スカパーJSAT|スカパー!]]制作) :* [[ゾンビランドサガ|ゾンビランドサガ リベンジ]] :* [[「艦これ」いつかあの海で]] :* [[サマータイムレンダ]] == アナウンサー == === 男性 === * 1991年 [[林田繁和]](アナウンス部部長) * 2017年 [[岸竜之介]] * 2019年 [[住吉光]] === 女性 === * 2003年 [[友成由紀]]、[[早田紀子]] * 2008年 [[豊﨑なつき]] * 2021年 [[久富美海]] ; 出典<ref>[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/ana/ キャスト] - NBC長崎放送</ref> === リポーター・パーソナリティ(長崎本社関連)=== ; テレビ番組『Pint』に出演 * 佐々木良子 * 樋口友紀 ; テレビ番組で活躍 * 定島由加子 * 中村梓乃 * [[甲斐田貴之]] * [[平地真菜]] * 藤川和 * 平家達史 ; ラジオ番組で活躍 * 田中宏之 * [[平松誠四郎]] * [[吉田眞知子]] * 大久保圭 * 栗原優美 * 得丸典子 * [[佐々野宏美]] - 2000年代後半は関東地区で活動 * [[菊野紗史]] * [[谷口亜純]] * 古田沙織 * [[斉藤絹子]] - 元[[RKB毎日放送]] ; ラジオカー「[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/skippy/ スキッピー]」担当 * 後田仁(じん) - 小中学生時代に「こどもスキッピー」として出演していた。(2021年4月デビュー) * 篠田阿子(あこ) - (2021年10月デビュー) フリー、専属含む。主にNBCラジオ佐賀にて活動中のパーソナリティは[[NBCラジオ佐賀]]参照 === 過去のアナウンサー === ==== 他部署への異動者 ==== * 植本浩之(1993年入社、現在:不明) * 木山孝則 * 熊切秀昭(1988年入社、現在:大阪支社勤務) * 久保田みどり(1988年入社、現在:事業部勤務) * [[塚田恵子]](1986年入社、現在:報道制作局長) * 中村繁(1995年入社、現在:営業部勤務) * [[平松誠四郎]](1976年入社、現在:報道局勤務) * [[大倉聡]](2005年、[[瀬戸内海放送]]から移籍。2012年から2年間報道部記者、営業部配属後退社 現在:長崎県議会議員) * [[村山仁志]](1992年、ラジオ局→2023年よりラジオ佐賀局長) ==== 退職者 男性 ==== * [[二谷英明]](1954年 - 1956年在籍) - 1954年[[ラジオ佐世保]]開局当時、放送記者として入社。間もなくアナウンサーに転じたが、1956年に退社し[[日活]]に入社。局アナが俳優となったはしりであるが、NBC始末書第1号という不名誉な記録も作ったことがある。なお、二谷の死去後、キー局・TBSのワイドショー番組で「ラジオ佐世保」在籍時の音声が流れた。 * [[伊藤明彦]] - [[原子爆弾]][[被爆]]証言取材の第一人者 * [[植草結樹]] - 現[[テレビ大阪]]アナウンサー。元[[朝日放送テレビ|朝日放送]]アナウンサー・[[植草貞夫]]の長男で、その関係でNBC入社時の保証人は元[[阪神タイガース]]のエース・[[村山実]]だった。弟の[[植草朋樹]]は([[RKB毎日放送]] → )[[テレビ東京]]のアナウンサーである。兄弟ともにJNN系列の局から[[TXNネットワーク|TXN]]系列の局にそれぞれ移籍して活躍している。 * [[加地良光]](1988年 - 1998年) - その後[[TVQ九州放送]]アナウンサーを経て、現在は福岡県[[小郡市]]長。 * 川瀬隆史 - 現[[長崎ケーブルメディア]]取締役会長 * 河野英雄 * 園田庄一(テレビニュータウンMC、ラジオ佐賀報道制作部長) * 古賀勲(1960年 - 1998年在籍) * [[酒井俊幸 (アナウンサー)|酒井俊幸]](1998年 - 2007年、[[NBCラジオ佐賀]]採用) - 退社後[[サガテレビ]]契約アナウンサー→[[福岡放送]](FBS)記者を経て現在は薬剤師。[[大村市]]の実家の薬局を継いでいる。 * 鈴木裕士(1998年 - 2003年在籍) - 退社後、[[東日本放送]]に入社。ディレクターとして在籍。[[RSK山陽放送]]→[[東北放送]]元アナウンサーの[[鈴木俊光]]は実父。 * 井上章史 * [[竹内淳 (アナウンサー)|竹内淳]](1983年 - 2007年在籍) * 田中宏之(1965年 - 2003年在籍) - 定年退職後はフリーアナウンサー。NBCラジオ朝ワイドの「生みの親」とされ、退職後も2012年3月まで『ヒロさん・圭の聞いてモーニング』のパーソナリティを務めた。 * 永松英信(2014年まで在籍) - 本来は2008年に定年を迎えていた * 山畑敏 * 新原昭治 - 米国核戦略研究の権威 * 待鳥健次 * 峰利克 - 現・[[長崎ケーブルメディア]]代表取締役社長 * 山口耕輔 * 市原隆靖(マルチタレント。一時長崎放送の専属状態にあった。ただし社員ではない) 詳しくはオフィシャルウェブサイトwww.1chan.comを参照。 * [[安井成行]](2007年 - 2015年) - [[さくらんぼテレビジョン]]から移籍。現在は[[圭三プロダクション]]所属のフリーアナウンサー。 * [[國枝政晃]](2009年 - ) - 営業局を勤務後に退社。 * [[大門雅明]](2013年 - 2017年) - [[エフエム群馬]]から移籍、現在はフリーのスポーツアナウンサーとして活躍。 ==== 退職者 女性 ==== * [[佐藤利恵]](1997年 - 2007年在籍) - 現在はフリーアナウンサー。 * 高月晶子(1993年 - 1999年在籍) - 現在は[[長崎ケーブルメディア]] * 田中花木 - 在籍時はアナウンサー・ディレクター * [[長井ありさ]](旧姓・田川/1980年 - 2004年在籍) - 退社後アロマテラピー講師として活躍 * 橋口奈緒(旧姓・宮脇/1999年 - ?) * 平野妙子(1974年 - ?) * [[望月桜]](元『[[報道センターNBC]]』お天気キャスター。ただし社員ではない) * 田中公子 * 古川貴美子 * 酒井明美 * 辻脇京子 * 赤嶺恭子 * 城谷佳代子 * 釜田薫(旧姓・元井) * 大屋千都子 * 梶谷ひとみ * 杉山恵 * [[山崎菜緒]](2019年 - 2021年9月在籍) - [[広島ホームテレビ]]へ移籍 * [[染矢すみれ]](2012年 - 2021年12月在籍) ;出典 - [[NHKウイークリーステラ]] 1998年6月19日号/1999年6月25日号の各別冊 * [[寄川淑仔]](1988年 - 2022年3月在籍) == マスコットキャラクター == * テレビンとれでぃお(創立70周年を機に制定)<ref name=":1">[https://www.nbc-nagasaki.co.jp/pressrelease/terebin-radio-sanchu/ テレビンとれでぃおがNBCの新キャラクターに就任!]</ref> === 以前のキャラクター === * 南蛮君(ナンナン、バンバン、ジンジンの3人) * キキドキちゃん、ごーまる(NBCラジオ)佐賀のオリジナルマスコット。[[326 (イラストレーター)|326]]が製作) {{JNN-character}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.nbc-nagasaki.co.jp/ NBC長崎放送] * {{YouTube|user=NBCnagasaki|NBC長崎放送}} === テレビ === * {{Twitter| nbc_tv_nagasaki | 【公式】NBCテレビ(長崎放送) }} * {{Facebook | nbc.tv.nagasaki | NBC テレビ}} === ラジオ === * {{Twitter|nbc_radio|NBCラジオ}} * {{Facebook | nbcrd | NBCラジオ公式(長崎放送) }} * [https://www.nbc-saga.jp/ NBCラジオ佐賀] * [http://www.production-nap.com/ 株式会社プロダクションナップ] * [http://www.nbc-socia.co.jp/ 株式会社NBCソシア] * {{Commonscat-inline}} {{Navboxes |list= {{JNN}} {{JRN}} {{NRN}} {{火曜会}} {{民間放送教育協会}} {{Radio-Kyusyuoki}} {{Tv-kyushuoki}} {{Radiko}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかさきほうそう}} [[Category:長崎放送|*]] [[Category:日本民間放送連盟会員|42なかさきほうそう]] [[Category:日本ラジオ広告推進機構加盟局|87なかさきほうそう]] [[Category:九州・沖縄地方のテレビ局]] [[Category:日本のAMラジオ局]] [[Category:九州・沖縄地方のラジオ局]] [[Category:長崎県のマスメディア]] [[Category:マルハニチログループ]] [[Category:長崎市の企業]] [[Category:1952年設立の企業]]
2003-09-06T12:54:08Z
2023-12-06T13:31:20Z
false
false
false
[ "Template:リンク切れ", "Template:Commonscat-inline", "Template:Notelist", "Template:YouTube", "Template:Normdaten", "Template:Twitter", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite report", "Template:Cite web", "Template:JNN-character", "Template:Cite journal", "Template:国立国会図書館のデジタル化資料", "Template:日本のラテ兼営局", "Template:RADIOLISTEN", "Template:Lang-en-short", "Template:Main", "Template:PDFlink", "Template:基礎情報 会社", "Template:独自研究", "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:Facebook", "Template:Navboxes", "Template:Redirect", "Template:Reflist", "Template:要出典", "Template:0" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%94%BE%E9%80%81
15,424
テレビ長崎
株式会社テレビ長崎(テレビながさき、Television Nagasaki Co., Ltd.)は、長崎県を放送対象地域としたテレビジョン放送事業を行っている、特定地上基幹放送事業者である。 略称はKTN(K.K. Television Nagasaki)。コールサインはJOWH-DTV。 フジテレビ系列(FNN・FNS)。 1969年(昭和44年)4月1日開局。 企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典: 開局までの経緯 1967年(昭和42年)9月、郵政省は長崎を含む全国17地区にUHFによる親局設置の方針を決定。長崎県で民放テレビ複数局の動きが始まったのは1962年(昭和37年)4月に遡る。 当時、衆議院議員だった金子岩三によって設立された「株式会社 テレビ長崎」が、VHF仕様で郵政省に開設申請書を提出している。その後、新たにUHF親局の認可の方針が見えはじめた、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの間に6社が申請し競願となっていった。 郵政省の勧告により競願6社は1967年(昭和42年)11月、「株式会社 テレビ長崎」に一本化したが、資本構成は西日本・関西テレビ・金子グループ系と読売新聞・長崎新聞・農協系に二分されていた。 テレビ長崎では、以下3冊の発行をしている(2020年3月時点)。 ★→時差ネット リモコンキーIDは「8」 ☆=クロスネット から外れた後も半年間放送(1991年3月までのNIB開局直前まで)。 太字は2022年現在放送中の番組。 ほか多数 太字は2022年現在も放送中。 ほか テレビ長崎には「アナウンス室」があり、「マルっと!」放送開始以前までは、報道部在籍者はニュース班、制作部在籍者はヨジマル!班 と完全に分業させていた。なお前者はアナウンスと記者・ニュースデスク活動を兼業。後者には契約アナウンサー(系列子会社「KTNソサエティ」からの派遣出向)も含まれる。 退社したアナウンサーも含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社テレビ長崎(テレビながさき、Television Nagasaki Co., Ltd.)は、長崎県を放送対象地域としたテレビジョン放送事業を行っている、特定地上基幹放送事業者である。 略称はKTN(K.K. Television Nagasaki)。コールサインはJOWH-DTV。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フジテレビ系列(FNN・FNS)。 1969年(昭和44年)4月1日開局。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典:", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開局までの経緯", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)9月、郵政省は長崎を含む全国17地区にUHFによる親局設置の方針を決定。長崎県で民放テレビ複数局の動きが始まったのは1962年(昭和37年)4月に遡る。 当時、衆議院議員だった金子岩三によって設立された「株式会社 テレビ長崎」が、VHF仕様で郵政省に開設申請書を提出している。その後、新たにUHF親局の認可の方針が見えはじめた、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの間に6社が申請し競願となっていった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "郵政省の勧告により競願6社は1967年(昭和42年)11月、「株式会社 テレビ長崎」に一本化したが、資本構成は西日本・関西テレビ・金子グループ系と読売新聞・長崎新聞・農協系に二分されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "テレビ長崎では、以下3冊の発行をしている(2020年3月時点)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "★→時差ネット", "title": "ネットワークの移り変わり" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リモコンキーIDは「8」", "title": "チャンネル" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "☆=クロスネット から外れた後も半年間放送(1991年3月までのNIB開局直前まで)。 太字は2022年現在放送中の番組。", "title": "終了した番組" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ほか多数", "title": "終了した番組" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "太字は2022年現在も放送中。", "title": "終了した番組" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "終了した番組" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "テレビ長崎には「アナウンス室」があり、「マルっと!」放送開始以前までは、報道部在籍者はニュース班、制作部在籍者はヨジマル!班 と完全に分業させていた。なお前者はアナウンスと記者・ニュースデスク活動を兼業。後者には契約アナウンサー(系列子会社「KTNソサエティ」からの派遣出向)も含まれる。", "title": "アナウンサー・リポーター" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "退社したアナウンサーも含む。", "title": "アナウンサー・リポーター" } ]
株式会社テレビ長崎は、長崎県を放送対象地域としたテレビジョン放送事業を行っている、特定地上基幹放送事業者である。 略称はKTN。コールサインはJOWH-DTV。 フジテレビ系列(FNN・FNS)。 1969年(昭和44年)4月1日開局。
{{基礎情報 会社 |社名= 株式会社テレビ長崎 |英文社名= Television Nagasaki Co., Ltd. |ロゴ=[[File:Ktn logo.svg|200px]] |画像= [[ファイル:KTNテレビ長崎本社.JPG|280px]] |画像説明 = テレビ長崎本社本館 |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報= |略称= |国籍= {{JPN}} |本社郵便番号 = 850-8688 |本社所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]金屋町1番7号 |設立= [[1968年]][[3月12日]] |業種= 情報・通信業 |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= [[放送法]]によるテレビジョン放送 |代表者= 大澤徹也(代表取締役社長) |資本金=3億円 | 売上高 = 38億7645万4682円(2022年3月期)<ref name="jba">{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=2022-11-30|title=日本民間放送年鑑2022|publisher=コーケン出版|page=469}}</ref> | 営業利益 = 1億3097万7009円(2022年3月期)<ref name="jba"/> | 経常利益 = 2億4660万9708円(2022年3月期)<ref name="jba"/> | 純利益 = 8181万8430円(2022年3月期)<ref name="jba"/> | 純資産 = 61億4665万1420円(2022年3月期)<ref name="jba"/> |総資産= 78億1889万9796円(2022年3月期)<ref name="jba"/> |従業員数= 120人 |決算期= |会計監査人= |所有者 = |主要株主= [[読売新聞グループ本社]] 19.8%<br/>東洋漁業 18%<br/>[[関西テレビ放送]] 16.3%<br/>[[西日本新聞社]] 15%<br/>(2020年7月1日時点)<ref>[https://www.tele.soumu.go.jp/j/sys/media/index/chizyou.htm 基幹放送事業者の議決権保有状況等 地上系放送事業者] - 総務省電波利用ホームページ</ref> |主要部門 = |主要子会社= 株式会社[[KTNソサエティ]]<br/>株式会社SAIKOH<br/>公益財団法人KTNスポーツ・文化振興財団 |関係する人物 = [[金子岩三]]、金子源吉 |外部リンク= https://www.ktn.co.jp/ |特記事項= }} {{日本のテレビ局 |局名=テレビ長崎 |画像=[[画像:TV Nagasaki 20221021-1.jpg|200px]] |画像説明=テレビ長崎本社別館 |英名=Television Nagasaki Co., Ltd. |英項名=Television Nagasaki Broadcasting |地域=[[長崎県]]|系列=FNN |番組=[[フジネットワーク|FNS]] |キー局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]] |略=KTN |愛称=KTN |コールサイン=WH |呼出名称=テレビながさきデジタルテレビジョン |年=1969年 |月日=4月1日 |郵便番号=850-8688 |都道府県=長崎県 |本社=長崎市金屋町1番7号<ref group="注">[[平坂製薬]]本社の南西側。</ref> |演奏所=本社と同じ |都市名=長崎([[稲佐山]]) |ch1=※37 |ch2=※37 |id=8|dch=20 |中継局=※ * [[佐世保市|佐世保]] 35ch * [[島原市|島原]] 39ch * [[諫早市|諫早]] 42ch→39ch * [[平戸市|平戸]] 60ch * [[五島市|五島]] 22ch * [[壱岐市|壱岐]] 42ch * [[対馬市|対馬]] 22ch(垂直偏波) ほか |デジ中継局=佐世保・福江・松浦 34ch<br /> 諫早・南串山・島原・南有馬・平戸・大瀬戸・郷ノ浦・厳原20ch<br />有川 29ch |リンク=https://www.ktn.co.jp/ |特記事項=1990年9月30日までは、<br /> [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<ref group="注">正式には[[日本ニュースネットワーク|NNN]]のみ加盟([[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]は非加盟)。</ref> とフジテレビのクロスネット局だった。<br /> 2006年12月1日に地上デジタル放送を開始。<br />アナログ放送は2011年7月24日停波時点の情報 [[ファイル:FNNID.png|thumb|right|200px|フジテレビ系列のリモコンキーID地図]] }} '''株式会社テレビ長崎'''(テレビながさき、''Television Nagasaki Co., Ltd.'')は、[[長崎県]]を[[放送対象地域]]とした[[テレビジョン放送]]事業を行っている、[[特定地上基幹放送事業者]]である。 略称は'''KTN'''('''K'''.K. '''T'''elevision '''N'''agasaki)。[[識別信号|コールサイン]]はJOWH-DTV。 [[フジテレビ系列]]([[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]])。 [[1969年]]([[昭和]]44年)[[4月1日]]開局。 == 概要 == * [[国道34号]]線と[[国道202号]]線を結ぶ道路の沿線に社屋がある。かつて[[後藤象二郎]]の邸宅があった場所に建てられており、邸宅跡を示す石碑が建っている。 * 開局当時は社屋が2階建てで、スタジオがなかった。後に3階以上の部分が増築され、2つのスタジオが設置された。 * 開局当時のロゴマークは大文字で、一般公募で寄せられた優秀作に当時の美術担当者が手を加えたものであった。佐世保中継局の看板はロゴマーク変更後も旧ロゴのままであったが、現在は現行のロゴマークになっている。 * 西日本新聞グループ([[テレビ熊本|TKU]]、[[テレビ西日本|TNC]])とはもとより、クロスネット時代の名残から読売新聞グループ([[福岡放送|FBS]])も[[2020年]]([[令和]]2年)7月も現在KTNの筆頭株主であるなど、依然として親密である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=基幹放送事業者の議決権保有状況等(地上系放送事業者) |url=https://www.tele.soumu.go.jp/j/sys/media/index/chizyou.htm |website=総務省 |accessdate=2022-02-27 |date=2020-07-01}}</ref>。 ** 読売新聞長崎県版([[読売新聞西部本社|西部本社]]発行)の[[番組表|テレビ欄]]では、民放の2番目(NIBの次)に配列されている。なお、長崎と同じ理由で読売新聞鹿児島県版の[[鹿児島テレビ放送|KTS]]も[[鹿児島讀賣テレビ|KYT]]の次に配列している。 ** その一方で[[フジテレビジョン|フジテレビ]]([[フジ・メディア・ホールディングス]])はKTNの上位株主にはなっておらず、代わりに同じ長崎県の民放テレビ局である[[長崎国際テレビ]](NIB・[[日本テレビ系列]])の上位株主になっている<ref name=":0" />。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[6月3日]]、[[雲仙岳|雲仙普賢岳]][[火砕流|大火砕流災害]]があり、その災害を取材したカメラマンら3人の社員が[[殉職]]する惨事があった。テレビ長崎ではこの普賢岳火砕流被災の経験を風化させず、後世に伝えるという目的で、それ以後毎年6月3日にこの普賢岳に新入社員(契約アナを含む)を招いての研修会を行っている<ref>[http://job13.mynavi.jp/13/pc/search/corp86913/employment.html マイナビ2013](槌田禎子報道部長のインタビューあり)</ref>。 * 関連会社に「[[KTNソサエティ]]」があり、ヨジマル!班の女性アナウンサーを中心とした契約アナウンサーの[[派遣社員|派遣業務]]や放送業務(番組制作、自治体や企業広報ビデオ制作他)、ビルメンテナンス、一般企業への社員派遣などの業務を行う。 * [[ウォーターマーク]]は通常、KTNのロゴのみが表示されているが、12月24日・25日と1月1日 - 3日はクリスマスや正月に合わせた特別仕様のウォーターマークが表示される。 * 長年に渡り、在日朝鮮人・中国人に向けた放送と位置付け、夕方のニュース番組において、火曜日に[[韓国語]]、水曜日に[[中国語]]の同時通訳が放送されていたが、[[2010年]](平成22年)3月10日放送分をもって終了しており、現行の『[[マルっと!]]』では放送されていない。 * また、長崎特有のお盆に精霊船が練り歩く[[精霊流し]]の特別番組を組む場合がある(ただし、録画放送で深夜帯に放送)。 * 主な受賞歴に[[日本民間放送連盟賞]]では、『コッコデショ~平成最後の宝船~』で2019年番組部門テレビエンターテインメント番組優秀賞を<ref>{{Cite web |title=令和5年度日本民間放送連盟賞 ラジオ・教養番組部門 で最優秀賞を受賞! |url=https://www.rokinawa.co.jp/all/17039 |website=ROK ラジオ沖縄 公式ホームページ |date=2023-09-21 |access-date=2023-11-09 |language=ja |first=投稿者 |last=Sada-Chinaski}}</ref>『村の記憶~むかし医師ありけり~』で2009年テレビ教養番組優秀賞<ref>{{Cite web |title=表彰番組・事績 {{!}} 一般社団法人 日本民間放送連盟 |url=https://www.j-ba.or.jp/category/aboutus/jba100936#l6aed8df |website=www.j-ba.or.jp |access-date=2023-11-09}}</ref>などを[[FNSドキュメンタリー大賞]]では、『潜れ~潜れ~対馬の海女さん物語』で2016年大賞<ref>{{Cite web |title=第25回FNSドキュメンタリー大賞 - フジテレビ |url=https://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/25th/16-455.html |website=www.fujitv.co.jp |access-date=2023-11-09}}</ref>、『五島のトラさん~父親と家族の22年』で2015年大賞<ref>{{Cite web |title=第25回FNSドキュメンタリー大賞 - フジテレビ |url=https://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/25th/16-455.html |website=www.fujitv.co.jp |access-date=2023-11-09}}</ref>などをそれぞれ受賞した<ref>{{Cite web |title=FNSドキュメンタリー大賞 |url=http://www.fujitv.co.jp/fnsaward/index.html |website=フジテレビ |access-date=2023-11-09 |language=ja}}</ref>。 == 本社・支社所在地 == ; 本社 : [[長崎県]][[長崎市]]金屋町1番7号 ; 佐世保支社 : 長崎県[[佐世保市]][[松浦町]]2番21号 [[九十九島ビル]]8階 ;東京支社 : [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]3丁目15番10号 JRE銀座三丁目ビル7階 ; 大阪支社 : [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[北新地|曽根崎新地]]1丁目1番49号 梅田滋賀ビル10階 ; 福岡支社 : [[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[天神 (福岡市)|天神]]1丁目13番2号 [[日本興業銀行|興銀]]ビル6階 == 資本構成 == 企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典:<ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=2021-12-10|title=日本民間放送年鑑2021|publisher=コーケン出版|page=460}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1978-12|title=日本放送年鑑'78|publisher=洋文社|page=319}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1992-11|title=日本民間放送年鑑'92|publisher=コーケン出版|page=430}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=2003-11|title=日本民間放送年鑑2003|publisher=コーケン出版|page=463}}</ref> === 2021年3月31日 === {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |3億円||60,000株||16 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[読売新聞グループ本社]]||11,900株||19.83% |- |[[東洋漁業]]||10,800株||18.00% |- |[[関西テレビ放送]]||{{0}}9,800株||16.33% |- |[[西日本新聞社]]||{{0}}9,000株||15.00% |- |[[全国共済農業協同組合連合会]]||{{0}}4,600株||{{0}}7.66% |} === 過去の資本構成 === <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1978年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!授権資本!!1株!!発行済株式総数 |- |3億円||12億円||5000円||60,000株 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[金子岩三]]||6,000株||10.00% |- |田中丸善三郎||4,800株||{{0}}8.00% |- |[[全国共済農業協同組合連合会|長崎県共済農業協同組合連合会]]||4,600株||{{0}}7.66% |- |[[西日本新聞社]]||4,200株||{{0}}7.00% |- |藤木喜平 <ref group="注" name="非取"/><ref group="注">[[浜屋百貨店]] 創業者</ref>||3,600株||{{0}}6.00% |- |[[播上英次郎]]||3,600株||{{0}}6.00% |- |前田富夫||3,200株||{{0}}5.33% |- |松井護 <ref group="注" name="常務"/>||3,000株||{{0}}5.00% |- |木谷郁博 <ref group="注">テレビ長崎 監査役</ref>||3,000株||{{0}}5.00% |- |金子源吉 <ref group="注" name="非取"/>||2,400株||{{0}}4.00% |- |原富一郎||2,400株||{{0}}4.00% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1992年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!授権資本!!1株!!発行済株式総数!!株主数 |- |3億円||12億円||5000円||60,000株||26 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |金子源吉 <ref group="注" name="社長"/>||9,000株||15.00% |- |[[読売新聞大阪本社|大阪読売新聞社]]||5,000株||{{0}}8.33% |- |田中丸善三郎||4,800株||{{0}}8.00% |- |[[全国共済農業協同組合連合会|長崎県共済農業協同組合連合会]]||4,600株||{{0}}7.66% |- |[[西日本新聞社]]||4,200株||{{0}}7.00% |- |田中宏 <ref group="注" name="常務">テレビ長崎 常務取締役</ref>||4,200株||{{0}}7.00% |- |田中巌||3,600株||{{0}}6.00% |- |[[村上七郎]]||3,600株||{{0}}6.00% |- |土井共成 <ref group="注" name="非取"/>||3,000株||{{0}}5.00% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2003年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |3億円||60,000株||21 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[関西テレビ放送]]||9,800株||16.33% |- |金子源吉 <ref group="注" name="社長">テレビ長崎 代表取締役社長</ref>||9,000株||15.00% |- |[[読売新聞大阪本社]]||8,900株||14.83% |- |[[西日本新聞社]]||6,000株||10.00% |- |[[全国共済農業協同組合連合会]]||4,600株||{{0}}7.66% |- |土井共成 <ref group="注" name="非取">テレビ長崎 非常勤取締役</ref>||3,000株||{{0}}5.00% |- |清水晃||3,000株||{{0}}5.00% |- |金子岩久||3,000株||{{0}}5.00% |} </div></div> == 沿革 == '''開局までの経緯''' [[1967年]]([[昭和]]42年)9月、[[郵政省]]は長崎を含む全国17地区にUHFによる親局設置の方針を決定。長崎県で民放テレビ複数局の動きが始まったのは[[1962年]](昭和37年)4月に遡る。 当時、[[衆議院議員]]だった[[金子岩三]]によって設立された「株式会社 テレビ長崎」が、VHF仕様で郵政省に開設申請書を提出している。その後、新たにUHF親局の認可の方針が見えはじめた、[[1963年]](昭和38年)から[[1965年]](昭和40年)までの間に6社が申請し競願となっていった。 {| class="wikitable" |+ 申請した6社の詳細 ! 社名 !! 系統 !! 申請者 |- | 株式会社テレビ長崎|| [[西日本新聞]] || [[金子岩三]]・野口義夫(西日本新聞社長) |- | テレビ長崎株式会社||[[関西テレビ放送]]||[[松原与三松]][[日立造船]]会長・肥塚喜久雄(丁字屋釀造社長) |- | 西海テレビ株式会社||[[毎日新聞]]・地元有志||小林知一(毎日新聞出身、北松江迎製塩社長)・木谷勝次(県医師会会長) |- | 長崎読売テレビ放送株式会社||[[読売新聞]]||[[務臺光雄|務台光雄]](読売新聞社長)・小山晴彦(弁護士) |- | 株式会社西海テレビ||農協||眞崎今一郎(長崎県農協中央会長)・才津新造(五島商船会長) |- | 西九州テレビ放送株式会社||地元財界||一ノ瀬秀人(長崎県副知事)・清島省三([[十八銀行]]頭取)・坂田重保([[親和銀行]]頭取) |} 郵政省の勧告により競願6社は1967年(昭和42年)11月、「株式会社 テレビ長崎」に一本化したが、資本構成は西日本・関西テレビ・金子グループ系と読売新聞・長崎新聞・農協系に二分されていた。 * [[1967年]]([[昭和]]42年) ** [[11月14日]] - [[予備免許]]交付。 ** 12月 - 初の発起人世話人会が開かられるが、役員問題で難航する。 * [[1968年]](昭和43年) ** 3月 - 発起人会を開き取締役12名、監査役2名を決定。 ** 3月10日 - ホテルニュー長崎で設立総会。31人の株主全員が出席。代表取締役に真崎今一郎(長崎県農協中央会長)らが選出<ref>テレビ長崎の創立総会『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月11日朝刊 12版 14面</ref>。 ** 3月12日 長崎法務局で会社設立の登記を完了し「株式会社 テレビ長崎」が発足した。 * [[1969年]](昭和44年)[[4月1日]] - 本放送を開始する。この時点では、[[日本ニュースネットワーク|NNN]]・FNNの[[クロスネット局]]となっていた。 * [[1981年]](昭和56年)[[3月21日]] - テレビ音声多重放送を開始する。 * [[1986年]](昭和61年)[[7月14日]] - 主調整室(マスター)を更新する。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月12日]] - [[コーポレートアイデンティティ|CI]]を導入しロゴマークと和文ロゴを変更する(和文ロゴでは、「{{Color|green|'''''T'''''}}」の「{{Color|green|'''''|'''''}}」の部分が「{{Color|red|'''●'''}}」の円形となった)。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月1日]] - NNN<ref group="注">[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]は[[1990年]](平成2年)[[9月30日]]以前から加盟していなかった。</ref> を離脱し、FNNの単独ネット局となる<ref group="注">一般番組供給協定は[[フジネットワーク|FNS]]単独のまま。</ref>。 : [[長崎国際テレビ]]の開局予定が当初より半年ずれたため、長崎県は半年間NNN空白域となる。なお、その間のNNNの取材は[[福岡放送]]が[[福岡放送長崎支局|長崎支局]]を開設して行っていた。なお、『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』や『[[それいけ!アンパンマン]]』、『[[キユーピー3分クッキング]]』など一部の番組は[[1991年]](平成3年)[[3月31日]]までネット受けにより放送を継続した。 * [[2006年]](平成18年) **[[9月4日]] - 地上デジタル放送対応の主調整室(マスター)に更新(東芝製)。 **[[12月1日]] - [[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]を開始する。 * [[2009年]](平成21年) **[[1月5日]] - 地上デジタル放送で[[ウォーターマーク]]の表示を開始(当初は[[ワンセグ]]では非表示だった。なお、表示サイズはのちに縮小されている)。 **[[2月]] - [[NTSC|地上アナログ放送]]で「アナログ」のウォーターマークの随時表示を開始する(以前は番組冒頭のみ若干濃いめの表示だった)。 **[[11月30日]] - ワンセグでのウォーターマークの表示を開始する。 * [[2011年]](平成23年) **[[1月24日]] - [[対馬市]]内のアナログテレビ中継局のうち、[[厳原中継局]]を除く4局(南厳原(みなみいづはら)、佐須奈(さすな)、対馬伊奈(つしまいな)、志多留(したる))が、[[NHK長崎放送局|NHK長崎]]・[[長崎放送|NBC]]とともに先行廃止される。 **[[7月24日]] - 先行廃局となった対馬市内4局を除いた全アナログ送信所・中継局が廃局。 === 社史・記念誌 === テレビ長崎では、以下3冊の発行をしている(2020年3月時点)。 * '''我より古をなす テレビ長崎25年史'''(テレビ長崎・編) 1994年(平成6年)3月発行、142ページ * '''我より古をなす2 KTNテレビ長崎開局40年史'''(テレビ長崎・編) 2009年(平成21年)4月発行、294ページ * '''我より古をなす3 KTNテレビ長崎開局50年史'''(テレビ長崎・編) 2019年(平成31年)4月発行 == ネットワークの移り変わり == * [[1969年]](昭和44年) **[[4月1日]] - この日開局し、テレビ放送を開始。当時は、日本テレビとフジテレビとのクロスネット局だった。 **[[10月1日]] - この日発足した[[フジネットワーク|FNS]]に加盟(ただし[[1972年]](昭和47年)6月14日に発足する[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]にはNNN脱退まで非加盟<ref group="注">このため、一般番組においては正式な[[クロスネット局|クロスネット]]ではない(一般番組供給協定はこのときも[[フジネットワーク|FNS]]単独。)。</ref>)。 :([[1990年]](平成2年)[[9月]]末までは、『[[NNNニュース]]』は朝・昼・夜、『[[FNNニュース]]』は午後の[[FNN奥さまニュース|奥様ニュース]]枠・夕方をネット) * [[1975年]](昭和50年)[[3月31日]] - 東京・大阪間の[[ネットチェンジ]]が実施されたものの、元々テレビ長崎で放送されていた[[テレビ朝日|NETテレビ→テレビ朝日]]系列の番組が少なかったため(NETテレビ・毎日放送制作分ともに朝日新聞との資本関係が強い長崎放送での放送が大半だった)、番組編成面に大きな影響はなく、[[毎日放送]]制作の番組数本が長崎放送に移行した一方、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NETテレビ→テレビ朝日系列]]に変更した[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作の番組のネットは、『[[プロポーズ大作戦 (バラエティ番組)|プロポーズ大作戦]]』などの数本にとどまった。 * [[1990年]](平成2年) **4月1日 - [[長崎文化放送]]の開局により、一部番販ネットしていたテレビ朝日系の番組が同局へ移行する。 **10月1日 - NNNを脱退し、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]フルネット局<ref group="注">一般番組供給協定においては引き続き[[フジネットワーク|FNS]]単独。</ref> となる。ただし、[[長崎国際テレビ]]の開局が延期となったため、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系のごく一部の番組のネットを継続する。 * [[1991年]](平成3年)[[4月1日]] - 長崎国際テレビの開局により、最後まで残っていた日本テレビ系の番組が同局に移行する。 === 平日帯番組(午前中) === * NNNとのクロスネット<ref group="注">一般番組供給協定は[[フジネットワーク|FNS]]単独([[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟)のため、正式なクロスネットではなかった。</ref> 時代は、『[[ズームイン!!朝!]]』・『[[お昼のワイドショー]]』 → 『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』・『[[NNNきょうの出来事]]』などに代表されるよう、日本テレビ系列の番組と優先的にネットを結んでいた(開局から1990年9月までの放送時間総比率日テレ系6:フジ系4)。 * [[1979年]](昭和54年)[[2月]]までの7時台後半は『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』、1980年代前半までの8時台前半は『[[ひらけ!ポンキッキ]]』などのフジ系列を同時ネットしていたが、先述の『ズームイン!!朝!』のネットに踏み切った<ref group="注">[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟ながらネットしていた。尚、[[日本テレビ系列朝の情報番組枠|当枠]]([[ズームイン!!朝!]]以降)は、[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]は[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]加盟当時もネットしなかった(現在は[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]脱退。)。</ref> 影響で、『ママとあそぼう!ピンポンパン』は[[1982年]](昭和57年)3月に放送を終了するまで、平日16:30 - 17:00の時間帯に移動し遅れネットで放送された。『ひらけ!ポンキッキ』は一時打ち切られ、NNN脱退<ref group="注">一般番組供給協定は引き続き[[フジネットワーク|FNS]]単独。</ref> 後の[[1990年]](平成2年)[[10月]]より放送を再開し、[[最終回]]まで同時ネットした。 * 一方、フジ系列の番組では、開局当初から『[[小川宏ショー]]』からの朝のワイドショー(現在の『[[めざまし8]]』の枠)を同時ネットしていた。 === 平日帯番組(12〜16時台) === * 『[[お昼のワイドショー]]』 → 『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』は、当時九州地区の日テレ・フジクロスネット局の中で、KTN<ref group="注" name="crossnet">当時、[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟のため、一般番組供給部門では正式なクロスネットではない。</ref> のみが唯一同時ネットしていた(但し、『おもいッきりテレビ』の放送は12時台の1時間のみ)<ref group="注">[[日本テレビ系列平日昼の情報番組枠|同枠]]ネット局の中でKTNは唯一の[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟局であった([[福島テレビ]]は[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]未発足時代のみ[[日本テレビ系列平日昼の情報番組枠|同枠]]をネットしていた。)。なお、[[日本テレビ系列平日昼の情報番組枠|同枠]]は[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]・[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]も[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]加盟当時から未放送(現在は両局とも、[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]を脱退)。[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]現加盟局の[[テレビ大分]]も放送していない。(但し、以上、「暮らしのヒント」「[[ごちそうさま (テレビ番組)|ごちそうさま]]、[[昼下がりのカルチャー]]のみのネットを除く。)</ref>。 ** 因みに、『おもいッきりテレビ』の13時台内包コーナー『[[ごちそうさま (テレビ番組)|ごちそうさま]]』は、当時長崎県内もう一つの民放テレビ局でもあるTBS系列の[[長崎放送]](NBC)が1988年9月30日まで、約1時間遅れで時差ネットしていた。 * 一方、フジ系列では、開局当初から『[[ライオン奥様劇場]]』 → 『[[ライオンのいただきます]]』・『[[東海テレビ制作昼の帯ドラマ]]』・『[[3時のあなた]]』 → 『[[タイム3]]』の13時・15時台各番組を同時ネット。KTNクロスネット期間中の平日12〜15時台は、日テレ系(12時台)とフジ系(13時・15時台)の混合編成が組まれていた。 ** かつて、クロスネットを組んでいたフジ系列局はKTNの他に[[秋田テレビ]](AKT)・[[福島テレビ]](FTV)・[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](NST)・[[テレビ熊本]](TKU)・[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)があるが、FTV・NSTはKTN同様にクロスネット解消の直前まで、KTSはクロスネット解消の1年半前まで、平日午後(12〜15時台)の時間帯は他系列との混合編成を継続していた<ref group="注">[[福島テレビ]](FTV)は平日12時台にTBS系 『[[スーパーダイスQ]]』 + 『[[悪友親友]]』 + 『[[ポーラテレビ小説]]』(1983年9月30日まで)を、[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](NST)は同時間帯にテレ朝系 『[[アフタヌーンショー]]』(1983年9月30日まで)をそれぞれクロスネット解消の直前までネット。[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)は平日13時台にテレ朝系 『[[シャボン玉プレゼント]]』 + 『[[徹子の部屋]]』(1982年9月30日まで) → 日テレ系 『[[ごちそうさま (テレビ番組)|ごちそうさま]]』 + 『[[おしゃれ]]』 + 『[[三枝の爆笑夫婦]]』 → 『[[今日もワクワク]]』 → 『[[SAKAIです〜デザートーク〜]]』(1982年10月1日から1987年10月2日まで) → 平日14時台に日テレ系 『[[ごちそうさま (テレビ番組)|ごちそうさま]]』(KTS未放送『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』内包後の単独時差ネットを1982年10月5日から1992年9月25日まで)をネットし、いずれも平日午後はフジ系列と他系列の混合編成が組まれていた(因みに、FTV・NSTの平日13時と15時台、KTSの平日12時と15時台はクロスネット期間中からフジ系番組を同時ネット。KTSの平日13時台も1987年10月改編からフジ系同時ネット化)。</ref>。なお、AKTとTKUの同時間帯は開局当初からフジ系に統一されている<ref group="注">[[秋田テレビ]](AKT)は開局から1987年3月31日までテレビ朝日系列、[[テレビ熊本]](TKU)は開局から1982年3月31日まで日本テレビ系列、1989年9月30日までテレビ朝日系列にも加盟していた。</ref>。 * クロスネット期間中の1990年9月<ref group="注" name="crossnet" />まで、平日12時台は日テレ系『お昼のワイドショー』 → 『おもいッきりテレビ』同時ネット<ref group="注">一般番組のため、KTNは[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟ながらネット。</ref> という編成上、フジ系列の平日12時台番組『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』は、夕方(16時台 → 17時台)に時差ネットしていた。フジフルネットになった1990年10月1日からは同時ネットへと移行し、現在に至っている。なお、『笑っていいとも!』の放送開始は1983年7月11日(第200回)<ref>{{Cite journal|last=|author=|first=|year=|date=1983年7月11日付けテレビ欄|title=長崎新聞|url=|journal=|volume=|issue=|page=}}</ref>からで、最初の9ヶ月間は長崎県では未放送。(ただし、平日版『笑っていいとも!』放送開始前の『[[笑っていいとも!特大号|笑っていいとも!新春版]]』(1983年1月3日・12:00〜13:55)を13時飛び乗りで同時ネットした。 ** クロスネット期間中の『笑っていいとも!』は、祝日や振替休日の午後にフジテレビ系でスポーツ中継の特番が行われる場合、その他午後のフジ系番組と同様に放送を休止していた。 ** 『[[笑ってる場合ですよ!]]』以前のフジ系月~金曜12時台番組はKTNでの放送履歴が一度もない。 === 平日帯番組(17時台) === * 前項にて説明の通り、『笑っていいとも!』を時差ネット<ref group="注">当時、『[[お昼のワイドショー]]』を放送していた影響で。</ref> している編成上、当時フジテレビで17時台に生放送の『[[夕やけニャンニャン]]』は一度も放送されなかった。他の九州地区のクロスネット局を含め、フジ系列局は番組開始の頃は放送されていない系列局もあったが、同番組放送開始1年後の[[1986年]](昭和61年)春頃から順次ネット開始に踏み切った。その中で、KTNと[[秋田テレビ]](AKT)、[[石川テレビ放送|石川テレビ]](ITC)が最後まで未放送(後者2局は地元商店街等の提供でアニメ再放送・遅れ放送やドラマ再放送などを編成)<ref group="注">『[[お昼のワイドショー]]』は[[秋田県]]では[[秋田放送]]がネット、また[[石川県]]では『[[お昼のワイドショー]]』放送当時は[[テレビ金沢]]([[日本テレビ系列平日昼の情報番組枠|当枠]]ネット局)が未開局であった。</ref>。 * この件に関して、NBCの[[村山仁志]]アナはNBCラジオの番組内で「金屋町にある某テレビ局が放送していないから、長崎での[[おニャン子クラブ]]の知名度は低かった」と発言した事がある<ref group="注">尚、[[長崎放送|NBC]]も[[L4 YOU!]]([[2012年]][[9月28日]]迄は[[レディス4]]、いずれも[[TXNネットワーク|TXN系]]、ただし[[長崎放送|NBC]]もTXN非加盟)の放送の影響で、『[[スーパーワイド]]』『[[わいわいティータイム]]』、『[[情報!もぎたてサラダ]]』(以上、14時台)『[[ジャスト (情報番組)|ジャスト]]』(15時台)、『[[イブニング・ファイブ]]』、『[[サカスさん]]』(以上、17時台)、『[[イブニングワイド]]』(17:50迄のパート)、『[[Nスタ]]』([[2013年]][[9月27日]]迄は17時台、[[2013年]][[9月30日]]以降は16時台、17時台とも)が放送されていない。(その一方で、KTNでは『[[FNNスーパーニュース|スーパーニュース]]』17時台を、[[2007年]][[4月2日]]よりネット開始(それ以前([[2007年]][[3月30日]]迄)は17時台ローカルワイドが組まれていた。また[[2009年]][[10月2日]]から[[2010年]][[9月24日]]の間、[[2011年]][[4月12日]]から[[2013年]][[3月22日]]の間は[[Gopan|ローカルワイド]]編成上の都合により時期、曜日により非ネットまたは部分ネット)。また[[長崎文化放送|NCC]]では『[[スーパーJチャンネル]]』17時台を、[[長崎国際テレビ|NIB]]では『[[NNN Newsリアルタイム|Newsリアルタイム]]』、『[[news every.]]』17時台をネットしている。また[[NHK長崎放送局|NHK長崎]][[NHK総合テレビジョン|総合]]も『[[ゆうどき]]』を[[2007年|2007年度]]よりネットしている。)『[[L4 YOU!]]』(旧『[[レディス4]]』)は[[秋田県]]では未ネット、[[石川県]]では[[北陸放送]]がネットしていたが旧『[[レディス4]]』時代([[2008年]][[9月26日]])に[[打ち切り|打ち切っている]]([[長崎放送]]と違い、『[[レディス4]]』ネット期間中も[[イブニング・ファイブ]]17時台が放送されない等の影響は出ていない。)。尚、『[[L4 YOU!]]』(旧『[[レディス4]]』)は、[[青森県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[福島県]]、[[富山県]]、[[福井県]]、[[岐阜県]]、[[三重県]]、[[京都府]]、[[兵庫県]]、[[鳥取県]]、[[島根県]]、[[広島県]]、[[山口県]]、[[徳島県]]、[[高知県]]、[[佐賀県]]、[[沖縄県]]では『[[レディス4]]』時代から放送されておらず(スペシャル版のみのネットを除く)、また、[[IBC岩手放送]]、[[東北放送]]、[[テレビ山梨]]、[[静岡第一テレビ]]、[[北陸放送]]、[[南海放送]]、[[熊本放送]]は『[[レディス4]]』時代に、南日本放送は『[[L4 YOU!]]』時代([[2014年]][[10月3日]])に[[打ち切り|打ち切られた]]。</ref>。 ===プライムタイムほか曜日別レギュラー番組=== *開局当初である[[1969年]](昭和44年)[[4月]]のプライムタイムの番組編成は下記のとおり。 {{節スタブ}} * 1969年4月開局当時のプライムタイムの番組表。 * 開局当時は水曜19:00もフジ系の番組を同時ネットしていた。 * 日曜21:30に関西テレビ制作のフジ同時ネット枠もあった。 * 火曜・木曜・土曜は当時からフジ同時ネット率は高かった。 ★→時差ネット {| class="wikitable" style="text-align:center" | ! 月曜日 !! 火曜日 !! 水曜日 !! 木曜日 !! 金曜日 !! 土曜日 !! 日曜日 |- ! 19:00 | 日テレ★<br><small>''[[ショック!!|ショック]]!!'' | フジ<br><small>''[[ザ・ヒットパレード (テレビ番組)|ザ・ヒットパレード]]'' | フジ<br><small>''[[紅三四郎]]'' | フジ<br><small>''[[象印スター対抗大乱戦]]'' | YTV<br><small>''[[スターなんでも大会]]'' | フジ<br><small>''[[日清ちびっこのどじまん|ちびっこのどじまん]]'' | rowspan="2" | YTV<br><small>''{{要出典範囲|[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]|date=2021年8月}}<!---該当時期の該当時間は「スターと飛び出せ歌合戦」なのでは?--->'' |- ! 19:30 | colspan="6" |フジ<br><small>''[[スター千一夜|スター千一夜・お茶の間寄席]]'' |- !20:00 | フジ★<br><small>''[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]] '' | フジ<br><small>''[[東京コンバット]]'' | 日テレ<br><small>''[[お笑いカラー寄席]]'' | rowspan="2" | フジ<br><small>''[[花のお江戸のすごい奴]]'' | フジ<br><small>''[[今週のヒット速報]]'' | フジ<br><small>''[[コント55号の世界は笑う|コント55号の「世界は笑う」]] '' | 日テレ<br><small>''[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!|コント55号の裏番組をぶっとばせ!]]'' |- ! 21:00 | rowspan="2" | フジ<br><small>''[[スパイ大作戦]]'' |フジ <small>''[[ドンキーのナンセンス劇場]]'' | 日テレ<br><small>''[[あっぱれ!親バカ|あっぱれ!親バカ]]'' | rowspan="2" | 日テレ<br><small>''[[東京バイパス指令]]'' | KTV★<br><small>''[[阪急ドラマシリーズ|黒い髪の智子]]'' | 日テレ<br><small>''[[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行|すばらしい世界旅行]]'' |- ! 21:30 | rowspan="3" | 日テレ<br><small>''[[嫁ゆかば]]'' | rowspan="3" |YTV <small>''[[ややととさん]]'' |フジ <small>''[[暖春 (テレビドラマ)|暖春]]'' | rowspan="3" |フジ <small>''[[土曜劇場|ハトに豆鉄砲]]'' | rowspan="2" |KTV<br><small>''[[男じゃないか]]'' |- ! 22:00 | rowspan="3" | KTV★<br><small>''[[わが母は聖母なりき]]'' | rowspan="4" | フジ<br><small>''[[ブラックチェンバー]]'' | rowspan="2" | 日テレ★<br><small>''[[空手風雲児]]'' |- !22:15 | rowspan="3" |日テレ★ <small>''[[上方武士道]]'' |- ! 22:30 | rowspan="2" |フジ★ <small>''[[フジテレビ水曜9時枠の連続ドラマ|お嫁さん]]'' | rowspan="2" |日テレ★ <small>''[[ノンフィクション劇場]]'' |フジ★ <small>ミュージックスポット</small> | rowspan="2" |KTV(22:30〜23:30枠) <small>''[[あゝ忠臣蔵]]'' |- !22:45 |日テレ★ <small>そこが聞きたい</small> |日テレ★ <small>報知スターダイアル</small> |} * [[1981年]](昭和56年)[[9月]]のプライムタイムの番組編成は下記のとおり。 * ★ → 時差ネット * ☆ → 30分前倒し {| class="wikitable" style="text-align:center" | ! 月曜日 !! 火曜日 !! 水曜日 !! 木曜日 !! 金曜日 !! 土曜日 !! 日曜日 |- ! 19:00 | 日テレ<br><small>''[[新・ど根性ガエル]]'' | 日テレ<br><small>''[[世界のこれがNo'1]]'' | フジ☆<br><small>''[[逆転クイズジャック]]・[[スター千一夜]]'' | フジ<br><small>''[[新竹取物語 1000年女王]]'' | 日テレ<br><small>''[[歌まね振りまね 新・スターに挑戦!!]]'' | フジ<br><small>''[[ズバリ!当てましょう]]'' | YTV<br><small>''[[びっくり日本新記録]]'' |- ! 19:30 | colspan="2" |フジ<br><small>''[[逆転クイズジャック]]・[[スター千一夜]]'' | 日テレ<br><small>''[[ヨッちゃん・ぼんちのアイドル大集合!]]'' | colspan="2" |フジ<br><small>''[[逆転クイズジャック]]・[[スター千一夜]]'' | rowspan="2" | フジ 単発番組 | 日テレ<br><small>''[[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行|すばらしい世界旅行]]'' |- !20:00 | フジ<br><small>''[[うちの嫁さんあっちむいてプイ!]]'' |rowspan="2" | フジ<br><small>''[[火曜ワイドスペシャル]]'' | 日テレ<br><small>''[[俺はおまわり君]]'' | フジ<br><small>''[[愛のホットライン]]'' | フジ★<br><small>''[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]'' | 日テレ<br><small>''[[日曜お笑い劇場]]'' |- ! 21:00 |rowspan="2" | フジ<br><small>''[[欽ドン!|欽ドン!良い子悪い子普通の子]]'' |rowspan="4" | 日テレ<br><small>''[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]'' |rowspan="2" | フジ<br><small>''[[江戸の用心棒]]'' |rowspan="2" | 日テレ<br><small>''[[金曜劇場 (日本テレビ)|金曜劇場]]'' |rowspan="4" | フジ<br><small>''[[ゴールデン洋画劇場]]'' |rowspan="2" | 日テレ<br><small>''[[桃太郎侍]]'' |- ! 21:30 | CTV★<br><small>''[[お笑いマンガ道場]]'' |- ! 22:00 |rowspan="2" | フジ<br><small>''[[夜のヒットスタジオ]]'' |rowspan="2" | 日テレ<br><small>''[[火曜劇場]]'' |rowspan="2" | フジ★<br><small>''[[闇を斬れ]]'' |rowspan="2" | ABC★<br><small>''[[プロポーズ大作戦 (バラエティ番組)|プロポーズ大作戦]]'' | 日テレ<br><small>''[[トヨタ日曜ドキュメンタリー 知られざる世界|知られざる世界]]'' |- ! 22:30 | フジ★ [[花王名人劇場|名人劇場]] |} * KTNでは『[[クイズグランプリ]]』や『[[スター千一夜]]』を始め、[[1981年]](昭和56年)[[9月]]まで放送されていたフジ系列の19時台後半の帯番組を全曜日ネットしていた<ref group="注">但し、毎週水曜日のみ『[[クイズグランプリ]]』・『[[スター千一夜]]』ともに、30分前倒しネット。九州地区のクロスネット局では、[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)も同様の編成を組んでいた。</ref>。このため、先述の期間まで月曜、火曜、水曜、金曜の19時台は「日テレ系列の30分番組+フジ系列の帯番組群」という組み合わせだった。『スター千一夜』が終了した1981年10月以降、フジ・日テレが編成するプロ野球及び特番枠の動向によって、KTNのゴールデン・プライムタイム編成は1990年9月まで、度々ネット改編が行われた。 * フジ系の水曜19時後半枠を1974年4月から1981年9月まで『[[クイズグランプリ]]』→『[[クイズ漫才グランプリ]]』→『[[逆転クイズジャック]]』と『[[スター千一夜]]』、1981年10月から1988年3月までアニメ(『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』 → 『[[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]]』 → 『[[F (漫画)|F]]』)をそれぞれ30分前倒しして放送していた(当時の水曜19時30分からは日テレ系([[東芝ファミリーホール特ダネ登場!?]]等)を同時ネットしていたため)。この編成内容は他にKTSが同様に放送していた。<ref group="注">ちなみに当時のTOSは上記のアニメ番組は時差ネット(当時はテレ朝系列の『[[水曜スペシャル]]』を同時ネット)TKU、UMKはフジテレビ系列で同時ネット。</ref> * [[1984年]](昭和59年)春の改編までに、NBCがゴールデン番組を[[TBSテレビ|TBS]]系列([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]])にほぼ一本化し、同局で放送されてきたいくつかの日テレ系列の番組(金曜日・土曜日のゴールデンタイムで同時ネットしていた番組(『[[カックラキン大放送!!]]』・『[[太陽にほえろ!]]』・『[[土曜グランド劇場]]』等)が移行。NNNを脱退する1990年9月までは、帯番組を含めたネット比率もフジテレビ系列(FNN/FNS)よりも日テレ系列の方が上回る状況だった。 * [[1990年]](平成2年)[[9月]]のNNN脱退直前の18時台から翌日0時台までの番組編成は下記の通り。日テレ・フジ両系列とも、日替わりでバランスのいい編成を保っていた。 * なお、クロスネットの頃の[[鹿児島テレビ放送|KTS]]も平日は下記と似たような編成を組んでいた。但し、NNSに関しては、KTNは非加盟、KTSは加盟。このため、KTNクロスネット当時のプライムタイムを含む一般番組内で編成されていたクロスネットにおいては正式なものではない。なお、FNSは両局ともクロスネット期間中から加盟している。 * ★ → 時差ネット {| class="wikitable" style="text-align:center" | ! 月曜日 !! 火曜日 !! 水曜日 !! 木曜日 !! 金曜日 !! 土曜日 !! 日曜日 |- ! 18:00 | colspan="5" rowspan="2" | フジ<br><small>''[[KTNスーパータイム|FNNスーパータイム]]'' | フジ<br><small>''[[KTNスーパータイム|FNNスーパータイム]]'' | フジ★<br><small>''([[世界名作劇場]])<br>[[私のあしながおじさん]]'' |- ! 18:30 | フジ<br><small>''[[平成天才バカボン]]'' | フジ<br><small>''[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]'' |- ! 19:00 | フジ<ref group="注" name="monday-nightgame">プロ野球シーズン中、月曜19時台のフジ系時差ネット枠はナイター中継時のみ、日テレ系同時ネット枠に差し替えられていた。</ref><br><small>''[[あっぱれさんま大先生]]'' | フジ<br><small>''[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん (再放送版)]]'' | KTV★<br><small>''[[さんまのまんま]]'' | rowspan="2" | フジ<br><small>''[[今夜は好奇心!]]'' | 日テレ<br><small>''[[追跡 (情報番組)|追跡]]'' | フジ<br><small>''[[所さんのただものではない!]]'' | YTV<br><small>''[[丹波・山瀬のパニックTV]]'' |- ! 19:30 | フジ★<ref group="注" name="monday-nightgame" /><br><small>''[[クイズ!早くイッてよ]]'' | rowspan="2" | フジ<br><small>''[[火曜ワイドスペシャル]]'' | 日テレ<br><small>''[[どちら様も!!笑ってヨロシク]]'' | 日テレ<br><small>''[[面白スタジアム]]'' | フジ<br><small>''[[ドラゴンクエスト (アニメ)|ドラゴンクエスト]]'' | 日テレ<br><small>''[[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行|すばらしい世界旅行]]'' |- ! 20:00 | 日テレ<br><small>''[[世界まる見え!テレビ特捜部]]'' | 日テレ<br><small>''[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]'' | フジ<br><small>''[[世にも奇妙な物語]]'' | 日テレ<br><small>''[[刑事貴族]]'' | フジ<br><small>''[[いたずらウォッチング!!|ザ・ウォッチング!!]]'' | 日テレ<br><small>''[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]'' |- ! 21:00 | フジ<br><small>''([[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|フジテレビ制作月9ドラマ]])<br>[[キモチいい恋したい!]]'' | フジ<br><small>''[[なるほど!ザ・ワールド]]'' | rowspan="3" | 日テレ<br><small>''[[水曜グランドロマン]]'' | フジ<br><small>''[[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]]'' | rowspan="3" | 日テレ<br><small>''[[金曜ロードショー]]'' | rowspan="3" | フジ<br><small>''[[ゴールデン洋画劇場]]'' | 日テレ<br><small>''[[知ってるつもり?!]]'' |- ! 22:00 | rowspan="2" | KTV<br><small>''[[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|関西テレビ制作月10ドラマ]]'' | rowspan="2" | KTV<br><small>''[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]'' | rowspan="2" | フジ<br><small>''([[木曜劇場]])<br>[[パパ!かっこつかないゼ]] | 日テレ<br><small>''[[オシャレ30・30]]'' |- ! 22:30 | rowspan="2" | KTV★<br><small>''[[花王ファミリースペシャル]]'' |- ! 23:00 | colspan="4" rowspan="2" |日テレ<br><small> ''[[NNNきょうの出来事]]'' | 日テレ<br><small>''[[TVムック・謎学の旅]]'' | KTV★<br><small>''[[たけしのここだけの話]]'' |- ! 23:30 | colspan="3" |日テレ<br><small>''[[NNNきょうの出来事]]'' |- ! 翌日0:00 | colspan="6" rowspan="2" |フジ<br><small> ''[[プロ野球ニュース]]'' (23:55~) | rowspan="2" |フジ<br><small>''[[プロ野球ニュース]]'' |- ! 翌日0:30 |} * 『[[欽ドン!|欽ドン!良い子悪い子普通の子]]』→『[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]』や『[[なるほど!ザ・ワールド]]』、『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』→『[[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]]』など、フジ系列月曜・火曜・木曜21時台の番組は、クロスネット時代から同時ネットされている。 * その一方で、NNN系列脱退後(1990年10月から1991年3月までの半年間)の長崎県での日テレ系列空白期間も、ドラマ『[[刑事貴族]]』、『元気が出るテレビ!!』、『オシャレ30・30』など一部の番組を土曜・日曜の昼間に時差ネットしていた。 * クロスネット時、日本テレビ系列の[[ナイター中継]]は週4日(月曜開催時を含む水・金・日)と、当時九州地区の日テレ・フジクロスネット局(KTN・TOS・UMK・KTS)の中では、KTS(週5日)の次に多く、KTS同様に20時台はかなり日テレ色の濃さを強調していた局でもある(但し、KTSは月曜日と日曜日は21時以降がフジ系列同時ネット枠のため、20時54分で飛び降り終了。)。 * 月曜のナイター中継飛び降り終了時も、放送が遅れる『[[NNNきょうの出来事]]』は同時ネットしなければならないため、番組開始までの時間を『[[巨人戦ハイライト]]』で穴埋めしていた。 * フジテレビ系列のナイター中継を行う火曜・木曜・土曜も、23時(土曜は23時30分)が『[[NNNきょうの出来事]]』同時ネット枠のため、20時54分で飛び降り終了。この際、21時以降のフジテレビ系同時ネット番組はキー局よりも先行放送を行っていた。 * このため、ナイター中継飛び降り終了時のみ、20時54分のニュースは通常の『[[NNNニューススポット]]』(月)・『[[FNNニュース]]』(火・木・土)から、[[自社制作]]版のモノに差し替えて放送されていた(この自社制作版差し替え編成はクロスネット時代のKTSも同様)。 * 日テレ系列『[[火曜サスペンス劇場]]』(NNN系で火曜日21:00~22:54放送)は、放送開始当時は火曜日と日曜日にそれぞれ前・後編を2週に分けて放送していた。例を挙げると第1週放送分は火曜日に22:00から1時間で前・後編を、第2週放送分は日曜日に14:00位から1時間で前・後編をそれぞれ放送していた(当時火曜日21時台はフジ系列の『[[なるほど!ザ・ワールド]]』を同時ネットで放送していたため)。[[1983年]](昭和58年)[[4月]]から[[1991年]](平成3年)[[3月]]までは土曜日の昼の2時間枠に移行し、'''『土曜サスペンス劇場』'''として時差ネットで放送された。なお、1991年4月に[[長崎国際テレビ]](NIB)が開局してからは、最終回までNIBで同時ネットで放送された。 * KTNは開局当初から[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]には加盟していなかったため、1970年・80年代前半まで[[テレビ朝日|テレ朝]]系列水曜日の21時台の『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』、同じく22時台の『[[特別機動捜査隊]]』→『[[特捜最前線]]』、木曜日19時台の『[[クイズタイムショック]]』はTOS・UMK・KTSではそれぞれ同時ネットされていたが、KTNにおいては全く放送されず、長崎県での放送はいずれの番組ともNBCが異時ネット(『タイムショック』は1984年9月まで同時ネット、それ以降は最終回まで異時ネット)で放送していた<ref group="注">ちなみにKTSは1982年9月まで、翌10月からは新規に開局した[[鹿児島放送]](KKB)に移行。また熊本県の『欽どこ』はTBS系列の[[熊本放送]](RKK)が異時ネット。『タイムショック』はTKUが一時期、同時ネットだったが、フジテレビの番組を同時ネットに移行したため末期は異時ネットしていた。またUMKも一時期は異時ネットしていたが、初期と末期は同時ネットしていた。</ref>。 * [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]の[[昭和天皇]][[崩御]]関連の放送は、昭和最後の日をフジ系列で全日ネットし、翌([[平成]]元年)[[1月8日]]の平成最初の日は日テレ系列で全日ネットを行った。これは、当時の夜間のクロスネット編成の都合もあった<ref group="注">土曜日は主としてフジ系列、日曜日は主として日テレ系列編成だった。</ref>。 == チャンネル == リモコンキーIDは「8」 {{Div col}} *長崎 20ch 1kW *佐世保 34ch 1kW *諫早 20ch 10W *南串山 20ch 3W *島原 20ch 3W *南有馬 20ch 3W *福江 34ch 10W *平戸 20ch 3W *松浦 35ch 3W ※2012年10月2日から12月18日の間に34chから変更された。 *有川 29ch 1W *大瀬戸 20ch 3W *東長崎 47ch 1W *飯盛 47ch 0.3W *矢上 47ch 0.3W *厳原 20ch 30W *郷ノ浦 20ch 30W *長与 20ch 1W *畝刈 33ch 0.3W *吉井 26ch 0.3W *佐々 34ch 0.1W *雲仙 47ch 0.05W *相浦 20ch 0.3W ※2020年9月28日から11月20日の間に34chから変更された。 *世知原 34ch 0.3W *江迎鹿町 26ch 0.3W *長崎滑石 20ch 0.3W *波佐見 41ch 0.3W *松浦南 26ch 0.3W *平戸中 48ch 1W *平戸南 39ch 0.3W *野母崎 32ch 0.1W *奈摩 29ch 0.3W *松浦福島 38ch 0.3W *宇久 35ch 0.3W ※2013年1月25日から2月28日の間に24chから変更された。 *三井楽 23ch 0.3W *早岐 34ch 0.3W *長崎北 20ch 0.5W *長崎西山 20ch 0.3W *佐世保日野 34ch 0.1W *佐世保大野 32ch 1W *佐世保赤崎 34ch 1W *為石 45ch 0.05W *長崎南 20ch 0.3W *戸町 20ch 0.3W *蚊焼 28ch 0.3W *阿翁 27ch 0.01W *西彼大島 33ch 0.01W *野母高浜 47ch 0.01W *長崎平山 34ch 0.05W *富江 36ch 0.3W *島原北 20ch 0.3W *松浦鷹島 38ch 0.3W *北有馬東 37ch 0.1W *北有馬南 37ch 0.1W *崎戸東 29ch 0.01W *崎戸西 29ch 0.01W *大島徳万 29ch 0.01W *奈良尾 36ch 0.1W *佐世保日宇 33ch 0.3W *南鹿町 25ch 0.01W *有川北 20ch 0.05W *御館山 29ch 0.05W *長崎茂木 26ch 0.01W *松浦東 47ch 0.3W *小値賀 35ch 0.3W ※2013年1月25日から2月28日の間に24chから変更された。 *小佐々楠泊 20ch 0.01W *鬼木中尾 20ch 0.05W *崎山 32ch 0.1W *佐世保柚木 26ch 0.1W {{Div col end}} == 主な番組 == === 自社制作番組 === * [[プチまる!]](平日 11:20 - 11:25) * [[マルっと!]](平日 16:50 - 19:00) * [[KTNニュース]](月曜・水曜 22:54 - 23:00、 火曜・木曜・金曜 20:54 - 21:00、日曜 6:00 - 6:15) * [[FNN Live News days|KTN Live News days]](平日 11:30 - 11:45、週末 11:50 - 12:00) * [[KTN Live News イット!]](週末 17:30 - 18:00) * 長崎フォトリップ(火曜 21:54 - 22:00) * [[冒険県 冒険する長崎プロジェクト]](水曜 20:54 - 21:00) * [[葭葉ルミと森末慎二の らく・ごる]](土曜 10:25 - 10:55、月1回放送) * トク盛り(土曜 10:55 - 11:20、月1回放送) * DUNK!DUNK![[長崎ヴェルカ|ヴェルカ]](土曜 13:55 - 14:05) * KTNリポート(日曜 5:45 - 6:00、月1回放送) === フジテレビ系時差ネット番組 === * ドキュメント九州(月曜 15:15 - 15:45、FNS九州・沖縄各局制作) * [[キスマイBUSAIKU!?|キスマイ超BUSAIKU!?]](火曜 0:30 - 1:03〈月曜深夜〉) * [[ゴリパラ見聞録]](火曜 1:03 - 1:35〈月曜深夜〉、[[テレビ西日本]]制作) * [[かまいたちの机上の空論城]](水曜 0:30 - 1:03〈火曜深夜〉、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作) * [[うる星やつら (アニメ)#テレビアニメ(2022年版)|うる星やつら]](金曜 1:03 - 1:35〈木曜深夜〉) * [[ちまたのジョーシキちゃん]](土曜 1:00 - 2:00〈金曜深夜〉、関西テレビ制作) * ミライへの1minute(土曜 16:25 - 16:30、テレビ西日本制作) * [[おかべろ]](土曜 18:30 - 19:00、関西テレビ制作) * [[KinKi Kidsのブンブブーン]](日曜 1:15 - 2:00〈土曜深夜〉) * [[釣りごろつられごろ]](日曜 6:15 - 6:30、[[テレビ新広島]]制作) * [[逃走中 グレートミッション]](日曜 6:30 - 7:00) * [[西村キャンプ場]](日曜 8:55 - 9:25、テレビ新広島制作) * [[千原ジュニアの座王]](不定期放送、関西テレビ制作)<ref group="注">2019年3月までは定期放送されていた。</ref> === テレビ東京系列番組 === * [[ニンジャラ]](水曜 1:03 - 1:35〈火曜深夜〉)<ref group="注">『葭葉ルミと森末慎二の らく・ごる』再放送時は休止。</ref> * [[ゴッドタン]](金曜 0:30 - 1:03〈木曜深夜〉) * [[モヤモヤさまぁ〜ず2]](土曜 10:25 - 11:15)<ref group="注" name="KTN_TX">編成の都合で放送されない場合あり。</ref> * [[開運!なんでも鑑定団]](土曜 12:00 - 13:00)<ref group="注" name="KTN_TX" /> * [[世界!ニッポン行きたい人応援団]](土曜 13:00 - 13:55)<ref group="注" name="KTN_TX" /> * [[有吉の世界同時中継 〜今、そっちってどうなってますか?〜]](土曜 16:30 - 17:25)<ref group="注" name="KTN_TX" /> * [[所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!]](日曜 13:00 - 13:55)<ref group="注" name="KTN_TX" /> * [[ナゼそこ?]](日曜 13:55 - 14:55)<ref group="注" name="KTN_TX" /> * [[緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦]](不定期放送) === その他 === * [[井上裕介 (お笑い芸人)|NON STYLE井上]]のバズらせJAPAN(土曜 3:05 - 3:35〈金曜深夜〉) * [[69号室の住人]](日曜 2:00 - 2:30〈土曜深夜〉、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]制作) * [[テクノロイド|テクノロイド オーバーマインド]](日曜 2:30 - 3:00〈土曜深夜〉) === 再放送枠 === * [[セブンルール]](火曜 15:15 - 15:45、関西テレビ制作) * 葭葉ルミと森末慎二の らく・ごる(水曜 1:03 - 1:35〈火曜深夜〉、月1回放送) * 開運!なんでも鑑定団(日曜 12:00 - 13:00)<ref group="注" name="KTN_TX" /> == 終了した番組 == === 自社制作番組 === * 夕方のニュース枠 ** [[KTNニュース6:30]] ** [[ニュースワイドKTN]] ** [[KTNスーパータイム]] ** [[KTNザ・ヒューマン]] ** [[KTNスーパーニュース|KTNスーパーニュースGopan]] ** [[KTNスーパーニュース|KTNスーパーニュース FNN/FNN KTNスーパーニュースWEEKEND]] ** [[KTN みんなのニュース]] ** [[KTNプライムニュース]] ** [[こんにちは!長崎]] ** [[モーニングスマイル (テレビ長崎)|モーニングスマイル]] ** [[アダム&イブニング]] ** [[KTN虹劇場]](ドラマ再放送、遅れネット枠) ** [[わが町バンザイ (テレビ番組)|わが町バンザイ]] ** [[いい旅みっけ!県央百選の旅]] ** [[夕方ヤッホー]] ** [[テレビみゅ〜で]] ** [[Gopan]] ** [[ヨジマル!]] ** [[なんでんかんでんよかよか]] ** [[KTNニュース最終版]] ** [[ミテ☆コレ]] ** [[城島健司と金谷多一郎のモア☆ゴル]] ** [[クロちゃんのパシれ!メロス|パシれ!メロス→クロちゃんのパシれ!メロス]] === 日本テレビ系 === ☆=クロスネット<ref group="注">正式には[[ニュース系列]]のみ</ref> から外れた後も半年間放送(1991年3月までのNIB開局直前まで)。 '''太字'''は2022年現在放送中の番組<ref group="注">番組名が変更したのも含む</ref>。 * [[NNN朝のニュース]] * [[NNN昼のニュース]] * [[NNN日曜夕刊]](開局時から1977年3月まで) * [[読売新聞ニュース]](土曜日夕刊のみ一時期) * [[NNNきょうの出来事]] * [[おはよう!こどもショー]] * [[カリキュラマシーン]] * [[ロンパールーム]](開局時にNBCから移行) * [[ズームイン!!朝!]] * [[お昼のワイドショー]]→[[午後は○○おもいッきりテレビ]](13:00で飛び降り) * [[追跡 (情報番組)|追跡]](ただし、ネットは毎週水・金のみ) * [[11PM]](1982年3月26日放送打ち切り) * [[スター誕生!]] * [[TVジョッキー]]→[[スーパージョッキー]](NNN脱退に伴い1990年9月30日放送打ち切り) * '''[[笑点]]'''(開局時にNBCから移行) * 日曜18時台後半枠(開局時から1977年3月まで同時ネット。4月から[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]を同時ネット。) ** [[シャボン玉ホリデー]]→[[ぎんぎら!ボンボン!]]→[[ファイヤーマン]]→[[ナブ号の世界動物探検]]→[[プラチナゴールデンショー]](第2期)→[[NOWヒットパレード]]→[[冒険者たち]]→[[あまから家族|蝶々・談志のあまから家族]]→[[あまから家族]]→[[あまから家族|蝶々のあまから家族]]→[[円盤戦争バンキッド]] ** [[家なき子 (アニメ)|家なき子]](1977年度のアニメ版を放映)→[[宝島 (テレビアニメ)|宝島]] * 日曜19時台前半枠 ** [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)]] ※[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)]] はNBC→NCCで放送 ** [[びっくり日本新記録]]→[[ザッツ!好奇心]]→[[どっちDOTCH!]]→[[クイズ・マネーイズマネー]]→[[こんな学園みたことない!]]→[[スター生たまご・邦子のいまドキ芸能界]]→[[邦子のスター生たまご]]→[[鈴木健二の人間テレビ]]→[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター3]]→[[丹波・山瀬のパニックTV]] * [[日曜日だョ!ドリフターズ!!]] * [[シャープ・スターアクション]] * [[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]→[[超人バロム・1]]→[[マドモアゼル通り]]→[[買ッテ来ルゾト勇マシク]]→[[侍ジャイアンツ]]→[[宇宙戦艦ヤマト]](第一作のみ放映、『[[宇宙戦艦ヤマト2|2]]』以降はNBCへ移行) * [[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行]](開局時にNBCからネットを移行) * [[全日本プロレス中継]](1984年4月よりNBCからネット移行) * 日曜20時台枠 ** [[日曜スペシャル (日本テレビ)|日曜スペシャル]](末期から)→[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!]]→[[おれは男だ!]]→[[飛び出せ!青春]]→[[われら青春!]]→[[水もれ甲介]]→[[俺たちの旅]]→[[俺たちの朝]]→[[俺たちの祭]]→[[青春ド真中!]]→[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]]→[[俺たちは天使だ!]]→[[西遊記II]]→[[猿飛佐助 (1980年のテレビドラマ)|猿飛佐助]]→[[黄土の嵐]]→[[宇宙空母ギャラクティカ]]→[[日曜お笑い劇場]]→[[日曜8時!ドパンチ放送!!]]→[[俺はご先祖さま]]→[[陽あたり良好!]](1982年度のドラマ版{{refnest|group="注"|1987年度のアニメ版は水曜 16:30 - 17:00に遅れネットで放送<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1988年3月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=テレビ局ネットワーク |page=81}}</ref>。}})→[[久米宏のTVスクランブル]]→[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]☆ * 日曜21時台枠 ** 日曜時代劇([[子連れ狼 (萬屋錦之介版)|子連れ狼]]、[[桃太郎侍]]、etc. それまでは日曜昼に2週遅れで放送していたが、桃太郎侍の途中(1977年4月)から同時ネット それ以前は銭形平次を異時ネットしていた)→[[サンデースポーツ9]]→[[日曜9時は遊び座です]]→[[刑事物語'85]]→[[誇りの報酬]]→[[あぶない刑事]]→[[巨泉のこんなモノいらない!?]]→[[知ってるつもり?!]] * 日曜22時台前半枠 ** [[トヨタ日曜ドキュメンタリー 知られざる世界]]→[[トヨタ日曜ドキュメンタリー 知られざる世界|TOYOTA・知られざる世界]]→[[オシャレ30・30]]☆ * 月曜19時台前半枠 ** [[流星人間ゾーン]] ** [[ガンバの冒険]]→[[元祖天才バカボン]]→[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]→[[あしたのジョー2]]→[[ど根性ガエル#1981年版|新・ど根性ガエル]]<ref group="注">1972年度のアニメ版はNBCで、2015年度のドラマ版はNIBでそれぞれ放送。</ref>→[[ゲームセンターあらし]]→[[忍者マン一平]]→[[キャプテン (漫画)|キャプテン]]→[[キャッツ・アイ]]→[[ガラスの仮面]](1984年度のアニメ版<ref group="注">1997年度と1998年度のドラマ版はNCCで放送。2005年度のアニメ版は県内の放送局では未放送。</ref>)→[[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]] ** [[ロボタン]](第2作)<ref name="Animedia 1986.09 p.83">{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1986年9月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=83}}</ref>→[[ボスコアドベンチャー]]→[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]] * [[きまぐれオレンジ☆ロード]] * [[燃える!お兄さん]](火曜 16:30 - 17:00<ref name="Animedia 1988.10 p.81">{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1988年10月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=81}}</ref>) * [[美味しんぼ]](途中で放映打ち切り) * 月曜20時台枠 ** [[ザ・トップテン]](日テレでのスタートから半年後(1981年10月)にネット開始<ref group="注">なお、KTNでの初回となった1981年10月5日放送分では、当日この番組に出演する予定だった[[河合奈保子]]が、オンエアの数時間前に[[腰椎|第一腰椎]][[圧迫骨折]]の重傷を負った(当日の番組内で、当該事故の第一報が伝えられた)影響で出演をキャンセルするというハプニングが発生した</ref>)→[[歌のトップテン]]→[[所さんのまっかなテレビ]]→'''[[世界まる見え!テレビ特捜部]]'''(第1シリーズ) *[[火曜劇場]]→ [[火曜サスペンス劇場]](KTNでは土曜サスペンス劇場として遅れネット) * 水曜19時台後半枠 **[[東芝ファミリーホール特ダネ登場!?|特ダネ登場!?]]→[[謎のカーテン!?]]→[[逆転クイズ スーパービンゴ]]→[[ヨッちゃん・ぼんちのアイドル大集合!]]→[[おてんば宇宙人]]→[[テレビに出たいやつみんな来い!!]]→[[わっ!!ツービートだ]]→[[がんばれ!キッカーズ]]→[[恋はハイホー!]](19:00 - 19:54)→[[太陽の犬]](19:00 - 19:54)→[[動物スクランブル]]→[[猫、ふんじゃッた!]]→[[ツヨシしっかりしなさい]](ドラマ版<ref group="注">アニメ版はKTNで同時ネット。</ref>)→[[どちら様も!!笑ってヨロシク]] * 水曜20時台枠 ** [[おひかえあそばせ]]→[[気になる嫁さん]]→[[パパと呼ばないで]]→[[雑居時代]]→[[天下のおやじ]]→[[マチャアキのガンバレ9時まで!!]]→[[俺たちの勲章]]→[[山盛り食堂]]→[[泣かせるあいつ]]→[[気まぐれ天使]]→[[気まぐれ本格派]]→[[ゆうひが丘の総理大臣]]→[[あさひが丘の大統領]]→[[痛快!ピッカピカ社員]]→[[俺はおまわり君]]→[[先生は一年生]]→[[女かじき特急便]]→[[歌のワイド90分!]](19:30 - 20:54)→[[所さんの勝ったも同然!!|所さんの勝ったも同然!!→イイ!!かもしんない]]→[[水曜バラエティ]](19:30-20:54)→[[あきれた刑事]]→[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]] * [[日本テレビ水曜9時枠連続ドラマ]]→[[ビッグ・ウエンズデー]]→[[美味しいテレビ9トゥ10]]→[[日本テレビ水曜9時枠連続ドラマ]]→[[ビートたけしの全日本お笑い研究所]]→[[番組の途中ですが…再びたけしです]] * '''[[水曜ドラマ (日本テレビ)|日テレ水10ドラマ]]'''(第1期) * [[水曜グランドロマン]] * [[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]→'''[[金曜ロードショー]]'''☆(開始から1990年9月までは同時ネット, 1990年10月から1991年3月までは遅れネット) * 金曜19時台前半枠 ** [[歌まね振りまねスターに挑戦!!|スターに挑戦!!シリーズ]]→[[青春アニメ全集]]<ref name="Animedia 1986.09 p.83" />→[[人気スターチーム対抗歌合戦]]→[[ベストカップル歌合戦]]→[[ニッポン快汗マップ ガムシャラ十勇士!!]] * 金曜19時台後半枠 ** [[カックラキン大放送!!]]→[[志村けんの失礼しまぁーす!]]→[[Wパパにオマケの子?!]]→[[こちら夢スタジアム]]→[[面白スタジアム]] * 金曜20時台枠 ** [[太陽にほえろ!]]→[[ジャングル (テレビドラマ)|ジャングル]]シリーズ→[[あぶない刑事|もっとあぶない刑事]]→[[ハロー!グッバイ]]→[[勝手にしやがれヘイ!ブラザー]]→[[刑事貴族]]☆ ** (『カックラキン』と『太陽にほえろ!』は1984年4月に同時ネットのままNBCから移行) * [[金曜劇場 (日本テレビ)|金曜劇場]] ** [[東京バイパス指令]]→[[ゴールドアイ]]→[[花は花よめ]]→[[前略おふくろ様]]→[[祭ばやしが聞こえる]]→[[消えた巨人軍]]→[[熱中時代]](教師編パート1) * '''[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]]'''(1984年4月よりNBCから移行、1987年3月放送打ち切り) * [[全国高等学校クイズ選手権]] * [[お笑いマンガ道場]](1981年10月-1990年3月のNCC開局直前まで) * [[日本テレビ火曜9時枠連続ドラマ]](日曜日の昼に5日遅れで放送) * [[細うで繁盛記]] * [[月曜スター劇場]] * [[新・底ぬけ脱線ゲーム]]→[[ハテナ?ドンぴしゃ!]]→[[NTVザ・ヒット! ピンク百発百中]] * [[うわさのチャンネル]] * [[ビッグイベントゴルフ]] * [[それは秘密です!!]] * [[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]](第1期のみ、月曜 16:30 - 17:00に放送<ref name="Animedia 1986.09 p.83" />) * [[クイズEXPO'70]] * [[太陽の使者 鉄人28号]] * '''[[新春スポーツスペシャル箱根駅伝]]'''(編成の都合上NBCで放送された年もあり) * たのしい園芸 * [[心のともしび]] * [[魔法の妖精ペルシャ]](火曜 16:30 - 17:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1986年2月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=88}}</ref>) * [[剛Q超児イッキマン]](火曜 16:30 - 17:00<ref name="Animedia 1986.09 p.83" />) * [[Bugってハニー]](火曜 16:30 - 17:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1987年10月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=81}}</ref>) * [[ドテラマン]](金曜 16:30 - 17:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1987年3月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=81}}</ref>) * [[闘将!!拉麺男|闘将!!拉麵男]](月曜 16:30 - 17:00<ref name="Animedia 1988.10 p.81" />) * '''[[それいけ!アンパンマン]]'''☆(火曜 16:30 - 17:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=アニメディア |issue=1991年1月号 |publisher=学研 |title=テレビ局ネットワーク |page=91}}</ref>) * [[あすの世界と日本]] * [[月が導く異世界道中]] (日テレ系離脱後の2021年に放送) ほか多数 === テレビ東京系 === 太字は2022年現在も放送中。 * [[プロレスアワー|国際プロレスアワー]](末期のみ。ネットの実現に関しては、地元出身である[[阿修羅・原]]の後援会が尽力したという<!-- プロレス雑誌「deluxeプロレス」に当時、その旨の報道あり -->) * [[大江戸捜査網]] * [[超星神シリーズ]] ** [[超星神グランセイザー]]→[[幻星神ジャスティライザー]]→[[超星艦隊セイザーX]] * [[ASAYAN]](日曜の昼に放送) * [[ハロー!モーニング。]](途中打ち切り) * [[ザ・スターボウリング]](一時期のみ) * [[所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝]] * [[おまかせ!山田商会]](土曜の昼に放送) * [[岡本綾子のNECスーパーゴルフ]](NBCでも放送) * [[小松原三夫のゴルフ道場]] * [[クイズ地球まるかじり]] * [[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]] * [[ロックマンエグゼ (アニメ)|ロックマンエグゼ]](第1シリーズのみ、第2シリーズ以降はNIBへ移行) * '''[[日経スペシャル カンブリア宮殿]]'''(途中打ち切り、NIBへ移行) * [[ザ・逆流リサーチャーズ]]→[[逆流!シラベルトラベル]](途中打ち切り) * [[たけしのニッポンのミカタ!]](途中打ち切り、NBCへ移行) * [[この日本人がスゴイらしい。Brand New Japan]] * [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]](342話で放映打ち切り) * [[ギルガメッシュないと|ギルガメッシュLIGHT]]([[BSテレビ東京|BSジャパン]]制作、途中打ち切り) * '''[[日経スペシャル ガイアの夜明け]]'''(一時期休止していた、2012年6月11日に打ち切り) * [[仰天クイズ! 珍ルールSHOW]] * '''[[男子ごはん]]'''(途中打ち切り、NIBへ移行) * [[ざっくりハイタッチ]](2013年10月31日で打ち切り) * [[海外行くならこーでね〜と!]] * '''[[主治医が見つかる診療所]]''' * [[うちの3姉妹|うちの3姉妹おかわりぱれたい]](途中打ち切り) * [[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]](2014年10月から半年間のみ放送) * 各駅停車世界の旅 * [[いい旅夢気分]]→[[にっぽん!いい旅]] * [[そうだ旅(どっか)に行こう。]] * [[永遠の0]] * [[ポンコツ&さまぁ〜ず]] * [[突撃!しあわせ買取隊]] * [[一茂&良純の自由すぎるTV]] * '''[[二軒目どうする?〜ツマミのハナシ〜]]''' * [[ソクラテスのため息〜滝沢カレンのわかるまで教えてください〜]] * [[おでかけ発見バラエティ かがくdeムチャミタス!]]([[テレビ大阪]]制作) * [[23時の密着テレビ「レベチな人、見つけた」|レべチな人、見つけた]] * '''[[じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜]]''' ほか === テレビ朝日系 === * [[ワイドショー・プラスα]]([[朝日放送テレビ|ABC]]制作、1975年10月 - 1976年3月。ただし『[[FNN奥さまニュース]]』を放送するため14:45で飛び降り) * [[プロポーズ大作戦 (バラエティ番組)|プロポーズ大作戦]](ABC制作) * [[三枝の国盗りゲーム]](ABC制作) * [[藤山寛美3600秒]](ABC制作) * [[わたしは旅をする]](ABC制作) * [[人造人間キカイダー]]→[[キカイダー01]] (月曜 18:00 - 18:30) * [[遠山の金さん]](ただし再放送扱い) === その他 === * [[CD NEWS]]([[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]制作) * [[二重マル健康テレビ]]([[アサヒ緑健]]提供、長崎県内では民放全局で放送) * [[アーノルド坊やは人気者]](米[[CBS]]→[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]、[[CBCテレビ|中部日本放送]]制作、週末の夕方に放送されていた) * [[91Days]]([[毎日放送]]制作) * [[乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…]](毎日放送制作、第1期のみ、第2期はNBCで放送) * [[ニュース女子]]([[DHCシアター]]、[[ボーイズ (テレビ制作会社)|BOY'S TV DIRECTION COMPANY]]共同制作) * [[理系が恋に落ちたので証明してみた。]] * [[邪神ちゃんドロップキック|邪神ちゃんドロップキックX]]<ref group="注">当局は、'''制作参加'''扱い。以前のシリーズはnccで放送。</ref> * [[てっぺんっ!!!#テレビアニメ|てっぺんっ!!!!!!!!!!!!!!!]] == マスコットキャラクター == * [[け〜たん]] - [[2001年]]([[平成]]13年)から[[2019年]](平成31年)3月まで くわしくは当該項目を参照。 * [[はっちゃKもの]] - 2019年(平成31年)4月から == アナウンサー・リポーター == テレビ長崎には「アナウンス室」があり、「[[マルっと!]]」放送開始以前までは、報道部在籍者はニュース班、制作部在籍者は[[ヨジマル!]]班<ref group="注">夕方の情報番組の題名にちなむ。2013年度までは「[[Gopan]]班」</ref> と完全に分業させていた。なお前者はアナウンスと記者・ニュースデスク活動を兼業。後者には契約アナウンサー(系列子会社「KTNソサエティ」からの派遣出向)も含まれる。 <!-->「アナウンサーBLOG」 http://www.ktn.co.jp/anno/ に載っている人のみ<--> === 現役アナウンサー・リポーター === ==== 男性 ==== *[[吉井誠]] (2001年入社。入社時から1年間と、2008年10月~2011年3月、2011年10月~2013年3月までニュース班、2002年4月~2008年9月、2011年4月~9月まで制作部) *[[磯部翔]] (2009年10月~2011年3月までは制作部に所属していたが、2011年4月からニュース班 報道記者兼任) *[[平仙浩教]] (2014年入社、2018年4月~2020年4月まで佐世保支局勤務だった 報道記者兼任) *[[烏山拓巳]] (2017年入社) *[[山口史泰]] (2021年入社) *[[宮崎太智]] 【契約社員】(2023年入社) ==== 女性 ==== *[[本田舞]] (2010年入社。2011年10月~2012年9月までは制作部に所属していたが、2012年10月からニュース班 報道記者兼務) *[[中村葉月]] (2020年入社)<ref name="reporter"/><ref>[http://www.ktn.co.jp/anno/h_nakamura/20200612310548/ KTNアナウンサーズ・中村葉月ブログ「はじめまして」](2020年6月1日)2020年6月21日閲覧。</ref> *[[枦山南美]] 【契約社員】(2023年入社)<ref name="reporter"/> 放送上では結婚名の松下奈美名義で出演 *[[松崎玲奈]] 【契約社員】(2023年入社)<ref name="reporter"/> *[[小田久美子]] 【契約社員】(2011年 - 2021年1月、2023年4月 - <ref>{{Cite web|和書|author=[[小田久美子]]|date=2020-01-03 |url=http://www.ktn.co.jp/anno/oda/20210103332670/|title=有難うございました!!|publisher=KTNアナウンサーズ|accessdate=2021-01-04}}</ref>、[[2019年]][[9月30日]]<ref>[http://www.ktn.co.jp/anno/oda/20190927272364/ KTNアナウンサーズ・小田久美子ブログ「ご報告」](2019年9月27日)2019年11月15日閲覧。</ref>を持って育休) ===過去のアナウンサー=== 退社したアナウンサーも含む。 ==== 男性 ==== *橋口泰介(1971年入社。在職中は『[[ズームイン!!朝!]]』に初代の長崎担当キャスターとして出演。2011年に死去) *小間貴士(→KTNスポーツ振興財団) *浦里和弘(1978年入社<ref name="stella">NHKウィークリーステラ全国アナウンサー名鑑</ref>。→KTN佐世保支局長) *[[松永友幸]](1982年 - 2003年。→KTNソサエティ取締役) *[[山本耕一 (アナウンサー)|山本耕一]](1989年 - 2003年。[[九州朝日放送]](KBC)の[[気象予報士]]→現在[[福岡県議会議員]]。愛称・やまもん) *[[山本圭介 (アナウンサー)|山本圭介]](1997年 - 2005年。現在[[TVQ九州放送]]アナウンサー) *[[河波貴大]](2009年 - 2011年3月、現在[[福井放送]]お天気キャスター) *[[伊賀透浩]] (2005年10月 - 2014年3月、[[テレビ山口]](1995年入社)から移籍。当初はニュース班に所属していたが、2011年4月から制作部(当時は[[Gopan]]班 以下同)に異動。なお、番組内でのテロップでは「伊賀ゆきひろ」と名がひらがな表記となる。2013年4月の改編により再びニュース班復帰。現在は地元・宮崎に帰郷し、[[宮崎放送]]に移籍。当初は[[ニュースキャスター|報道部員]]であったが、2015年にアナウンス部に異動となった。2018年より報道部長。) *[[松本祐明]] (1991年入社) *[[後藤綾太]] (2017年4月入社。入社時は[[KTNニュース|ニュース班(報道部)]]所属は主にリポーターや中継を中心に活動し、2019年4月から制作部に移動、2021年佐世保支社記者兼務、2022年福岡支社) ==== 女性 ==== *[[長岡千夏]](旧姓・森) (1997年入社。2011年4月 - 2012年9月までニュース班にいたが、2012年10月よりディレクターとして制作部に) *[[中村愛 (テレビ長崎)|中村愛]] 【契約社員】(2012年より) *立川峰子 *東島真奈美(現在フリーアナウンサー) - 娘の[[東島衣里]]は現在[[ニッポン放送]]のアナウンサーである。 *[[峰下和子]](現在フリーアナウンサー) *[[本田千穂]](1988年<ref name="stella"></ref> - 。[[福岡放送]]契約アナウンサー→[[テレビ熊本]]アナウンサー) *[[箕浦聖弓]](1993年 - 1998年。現在ビートワン所属のタレント) *手塚美紀子 *藤井敬子(現在東京を中心にティーインストラクター、 SankeiBizなどでフリーアナとしても活動) *西野みゆき *根来彰子 *江崎雅子 *[[中崎奈美子]](2000年 - 2005年12月。現在オフィス・ミラソール所属のタレント) *黒木香(旧姓・弘中)(後に[[テレビ西日本]]契約アナウンサー) *鈴谷優(現在フリーアナウンサー) *[[増田さと子]] 2004年4月-2007年3月→琉球放送(アナウンサー)2008年4月-2010年3月。現在、フリーアナウンサー、俳優。 *神野友美 - 2005年4月入社。最初はGopan班所属のリポーターだったが、2007年からニュース班所属のアナウンサーとして活動し、2010年4月からは報道記者に。 *谷友紀子 *[[笠井由香里]] - 2007年入社、Gopan班アナウンサーを2年担当ののち[[鹿児島県]]へ。[[NHK鹿児島放送局]]契約キャスター2年担当後、2012年に[[鹿児島テレビ放送]]専属のフリーアナウンサーとなる *[[春山恵理]] - 2007年11月、[[NHK岐阜放送局]]から移籍。当初はニュース班所属のアナウンサーだったが、2010年8月にGopan班へ異動。2011年3月の番組卒業と同時に退職後、一時アナウンサー業を休止して、[[日本フットボールリーグ]]のクラブチーム[[V・ファーレン長崎]]に広報社員として活動。2012年、[[テレビ西日本]]報道契約記者。2013年フリー。 *[[石山千華]] - 2011年4月 - 2012年2月。元[[NHK山形放送局]]契約キャスター。KTN在籍時はGopan班に所属。退社後[[NHK千葉放送局]]契約キャスターを経て、北海道でフリーアナウンサー *[[円田智子]] - 2008年、[[NHK長崎放送局]](2003年入社)から移籍(契約社員) *[[槌田禎子]] - 当初はアナウンス部→後に事業部→佐世保支局報道記者→現報道部長 *[[琴岡美紅]] (2012年 - 2021年3月、当初は報道記者、2013年よりアナウンスを兼務) *[[榎由里絵]] 【契約社員】(2014年より、2020年3月22日<ref>[http://www.ktn.co.jp/anno/enoki/20200322301134/ KTNアナウンサーズ・榎由里絵ブログ「産休に入ります。」](2020年3月22日)2020年11月16日閲覧。</ref>を持って育休中<ref>[http://www.ktn.co.jp/anno/enoki/20200603309650/ KTNアナウンサーズ・榎由里絵ブログ「出産のご報告」](2020年6月3日)2020年11月16日閲覧。</ref>) *[[森真奈美]] 【契約社員】(2019年10月 - 2022年3月 小田久美子アナが産休に入ったため)<ref name="reporter">放送では「リポーター」の肩書で出演。</ref> *[[川波美幸]] (2003年 - 2022年7月、2003年4月 - 2022年6月までニュース班 報道記者兼任にいたが、2022年7月よりメディア推進局) *[[大村咲子]] 【契約社員】(2009年より。2014年3月までは制作部に所属していたが、同4月にニュース班 報道記者兼任)<ref name="reporter"/> *[[高森順子]] 【契約社員】(2018年4月 - 2023年3月) *[[城井静梨]] 【契約社員】(2020年4月 - 2022年3月) *[[黒田麻梨奈]] 【契約社員】(2020年4月 - 2023年3月) *[[楊奈都美]] 【契約社員】(2021年4月 - 2023年3月) *[[竹井りさ]] 【契約社員】(2022年4月 - 2023年3月) == イベント主催・後援、その他 == ;イベント * Love fes(ラブフェス、長崎市・水辺の森公園一帯、[[エフエム長崎]]と共同で[[2011年]]([[平成]]23年)より毎年10月開催) : 以前は同じ場所で毎年5月中旬に「KTNの日」が行われていた。 ;その他 * KTNギャラリー(美術展などを開催) * KTNハウジングギャラリー([[住宅展示場]]、[[諫早市]][[多良見町]]) * KTNソサエティ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|45em}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.ktn.co.jp/ KTNテレビ長崎] * {{Twitter|ktn_tvnagasaki|KTNテレビ長崎}} * {{YouTube|user=ktntvnagasaki|KTNテレビ長崎}} * {{Commonscat-inline}} {{FNN・FNS}} {{西日本新聞社}} {{Tv-kyushuoki}} {{NNN・NNS}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てれひなかさき}} [[Category:テレビ長崎|*]] [[Category:日本民間放送連盟会員|42てれひなかさき]] [[Category:九州・沖縄地方のテレビ局]] [[Category:長崎県のマスメディア]] [[Category:長崎市の企業]] [[Category:1968年設立のテレビ局]]
2003-09-06T13:02:26Z
2023-12-07T00:21:08Z
false
false
false
[ "Template:西日本新聞社", "Template:Normdaten", "Template:日本のテレビ局", "Template:脚注ヘルプ", "Template:節スタブ", "Template:Notelist2", "Template:NNN・NNS", "Template:0", "Template:Color", "Template:Cite book", "Template:YouTube", "Template:Commonscat-inline", "Template:FNN・FNS", "Template:Tv-kyushuoki", "Template:基礎情報 会社", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite journal", "Template:Twitter", "Template:要出典範囲", "Template:Refnest" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E9%95%B7%E5%B4%8E
15,425
59
59(五十九、ごじゅうきゅう、いそここの、いそじあまりここのつ)は自然数、また整数において、58の次で60の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "59(五十九、ごじゅうきゅう、いそここの、いそじあまりここのつ)は自然数、また整数において、58の次で60の前の数である。", "title": null } ]
59(五十九、ごじゅうきゅう、いそここの、いそじあまりここのつ)は自然数、また整数において、58の次で60の前の数である。
{{整数|Decomposition=([[素数]])}} '''59'''('''五十九'''、ごじゅうきゅう、いそここの、いそじあまりここのつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[58]]の次で[[60]]の前の数である。 == 性質 == * 59 は17番目の[[素数]]である。1つ前は[[53]]、次は[[61]]。 **[[約数]]の和は[[60]]。 * 59 = 59 + 0 × ''ω'' (''ω''は1の虚立方根) ** a + 0 × ''ω'' (a > 0) で表される10番目の[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]である。1つ前は53、次は[[71]]。 * 59 = 59 + 0 × ''i'' (''i''は[[虚数単位]]) ** a + 0 × ''i'' (a > 0) で表される9番目の[[ガウス整数#ガウス素数|ガウス素数]]である。1つ前は[[47]]、次は67。 ** ガウス素数かつアイゼンシュタイン素数である4番目の素数。1つ前は47、次は71。 *6番目の[[安全素数]]である。1つ前は[[47]]、次は[[83]]。 *59 と [[61]] は7番目の[[双子素数]]である。1つ前は([[41]], [[43]])、次は([[71]], [[73]])。 *7番目の[[スーパー素数]]である。1つ前は[[41]]、次は[[67]]。 *5番目の 8''n'' + 3 型の素数であり、この類の素数は ''x''{{sup|2}} + 2''y''{{sup|2}} と表せるが、59 = 3{{sup|2}} + 2 × 5{{sup|2}} である。1つ前は[[43]]、次は[[67]]。 *2番目の[[非正則素数]]である。1つ前は[[37]]、次は[[67]]。 * 5 と 9 を使った最小の素数である。次は[[599]]。ただし単独使用を可とするなら1つ前は[[5]]で最初。({{OEIS|A020468}}) ** 59…9 の形の最小の素数である。次は[[599]]。({{OEIS|A093946}}) ** 5…59 の形の最小の素数である。次は55555559。({{OEIS|A093403}}) *{{sfrac|1|59}} = 0.{{underline|0169491525423728813559322033898305084745762711864406779661}}… (下線部は[[循環節]]で長さは58) **循環節が ''n'' &minus; 1 (全ての余りを巡回する) である[[巡回数]]を作る7番目の[[素数]]である。1つ前は[[47]]、次は[[61]]。 ***[[双子素数]]のうち2番目の組み合わせとなる。[[1000]]以下でこのような双子素数は他に ([[17]], [[19]]), ([[179]], [[181]]), ([[821]], [[823]]) である。 **循環節58の半分の 29 も循環節が ''n'' &minus; 1 (循環節 28) になる2番目の素数である。1つ前は[[47]]、次は[[263]]。 **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が58になる最小の数である。次は[[118]]。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の57は21319、次の59は2559647034361。({{OEIS|A003060}}) *[[星型多面体|正二十面体の星型]]には全部で59種類の形がある。(→[[正二十面体の星型一覧]]) *3連続素数の和で表すことのできる7番目の数である。1つ前は[[49]]、次は[[71]]。<br>59 = [[17]] + [[19]] + [[23]] **3連続素数の和が素数になる4番目の数である。1つ前は[[41]]、次は[[71]]。 *3×3の最小の列の和の素数魔方陣において中央の数は59である。 :{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ 3×3の素数魔方陣 |- |style="padding:10px 15px"|17 |style="padding:10px 15px"|89 |style="padding:10px 15px"|71 |- |style="padding:10px 15px"|113 |style="padding:10px 15px"|59 |style="padding:10px 15px"|5 |- |style="padding:10px 15px"|47 |style="padding:10px 15px"|29 |style="padding:10px 15px"|101 |} *59 = (5 + 9) + (5 × 9) **[[各位の和]]と各位の積を加えてできる5番目の数である。1つ前は[[49]]、次は[[69]]。({{OEIS|A038364}}) *[[各位の和]]が[[14]]になる最小の数である。次は[[68]]。 **各位の和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の13は[[49]]、次の15は[[69]]。({{OEIS|A051885}}) **各位の和が14になる数で[[素数]]になる最小の数である。次は[[149]]。({{OEIS|A106756}}) *各位の[[平方和]]が106になる最小の数である。次は[[95]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の105は[[458]]、次の107は[[159]]。({{OEIS|A055016}}) *59 = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる7番目の数である。1つ前は[[57]]、次は[[62]]。({{OEIS|A025322}}) **59 = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 7{{sup|2}} *** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる17番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[61]]。({{OEIS|A025339}}) *** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[371]]。({{OEIS|A074509}}) * ''n'' = 6 のとき ''n'' 以下の自然数で割った余りが ''n'' &minus; 1 になる最小の数である。1つ前は[[11]]、次は[[419]]。({{OEIS|A070198}}) * 59 = 4{{sup|3}} &minus; 4 &minus; 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} &minus; ''n'' &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[23]]、次は[[119]]。({{OEIS|A126420}}) *** ''n''{{sup|3}} &minus; ''n'' &minus; 1 の形の3番目の素数である。1つ前は[[23]]、次は[[503]]。({{OEIS|A116581}}) == その他 59 に関すること == *[[原子番号]] 59 の元素は[[プラセオジム]] (Pr)。 *第59代[[天皇]]は[[宇多天皇]]である。 *[[日本]]の第59代[[内閣総理大臣]]は[[池田勇人]]である。 *[[大相撲]]の第59代[[横綱]]は[[隆の里俊英]]である。 *第59代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ウィギリウス (ローマ教皇)|ウィギリウス]](在位:[[537年]][[3月29日]]~[[555年]])である。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第59番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#渙|風水渙]]。 *[[クルアーン]]における第59番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[集合 (クルアーン)|集合]]である。 *年始([[1月1日]])から59日目は[[2月28日]]。 *[[59番目のプロポーズ]] *[[59 (アルバム)]] - [[PUFFY]]のミニ・アルバム。 == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和59年]]}} * [[5月9日]] {{自然数}}
2003-09-06T13:13:49Z
2023-11-16T13:28:24Z
false
false
false
[ "Template:整数", "Template:Sup", "Template:OEIS", "Template:Sfrac", "Template:Underline", "Template:数字2桁", "Template:自然数" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/59
15,426
日本のテレビ番組一覧
日本のテレビ番組一覧(にっぽんのテレビばんぐみいちらん)は、ウィキペディア日本語版に項目のある日本のテレビ番組を、ジャンル別一覧にしたものである。 ・対象となる放送局は全国放送のNHK、日本テレビ、テレビ朝日、フジテレビ、TBSの5つである。 ・地上デジタル放送のみとする。 番組名は、ニュース番組およびCategory:ニュース・報道番組を参照。 番組名は、ワイドショー一覧を参照。 ※スポーツニュース番組はスポーツニュース番組一覧参照 番組名は、ドキュメンタリー番組およびCategory:ドキュメンタリー番組を参照。 Category:紀行・旅番組も参照。 NHK高校講座(2003年4月〜 NHK教育) 高校講座ベーシック国語 高校講座現代の国語 高校講座国語総合 高校講座国語表現 高校講座現代文 高校講座古典 高校講座書道I 高校講座ベーシック英語 高校講座コミュニケーション英語I 高校講座コミュニケーション英語II 高校講座コミュニケーション英語III 高校講座英語表現 高校講座ベーシック数学 高校講座数学I 高校講座数学II 高校講座数学A 高校講座日本史 高校講座日本史探求 番組名は教育番組およびCategory:教育番組の項参照。 番組名は、日本のバラエティ番組一覧およびCategory:バラエティ番組を参照。 番組名は、日本のクイズ番組一覧およびCategory:クイズ番組を参照。 番組名は、音楽番組およびCategory:音楽番組を参照。 番組名は、トーク番組およびCategory:トーク番組を参照。 番組名は、料理番組およびcategory:料理番組を参照。 番組名は、「日本のテレビドラマ一覧」、「日本のテレビドラマ一覧 (年代別)」を参照。 など。 番組名は、テレビドラマの一覧を参照。 番組名は、時代劇を参照。 番組名は、アニメ作品一覧を参照。 番組名は、特撮テレビ番組一覧を参照。 現行 過去 代表的なもののみ列挙。Category:深夜テレビ番組、各局深夜番組カテゴリも参照。なお、ドラマについてはCategory:深夜ドラマ、アニメについてはCategory:深夜アニメをそれぞれ参照。 フジテレビの深夜番組についてはJOCX-TV2も参照。 代表的なもののみ。BSについてはCategory:日本のBSテレビ番組を、CSについてはCategory:日本のCSテレビ番組も参照。 通信販売番組についてはテレビショッピングの項を参照されたい。 番組名は、ミニ番組を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本のテレビ番組一覧(にっぽんのテレビばんぐみいちらん)は、ウィキペディア日本語版に項目のある日本のテレビ番組を、ジャンル別一覧にしたものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "・対象となる放送局は全国放送のNHK、日本テレビ、テレビ朝日、フジテレビ、TBSの5つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "・地上デジタル放送のみとする。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "番組名は、ニュース番組およびCategory:ニュース・報道番組を参照。", "title": "報道番組" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "番組名は、ワイドショー一覧を参照。", "title": "ワイドショー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "※スポーツニュース番組はスポーツニュース番組一覧参照", "title": "スポーツ番組" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "番組名は、ドキュメンタリー番組およびCategory:ドキュメンタリー番組を参照。", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Category:紀行・旅番組も参照。", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "NHK高校講座(2003年4月〜 NHK教育)", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "高校講座ベーシック国語", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高校講座現代の国語", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "高校講座国語総合", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "高校講座国語表現", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "高校講座現代文", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "高校講座古典", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "高校講座書道I", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "高校講座ベーシック英語", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "高校講座コミュニケーション英語I", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "高校講座コミュニケーション英語II", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "高校講座コミュニケーション英語III", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "高校講座英語表現", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高校講座ベーシック数学", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "高校講座数学I", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "高校講座数学II", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "高校講座数学A", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "高校講座日本史", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "高校講座日本史探求", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "番組名は教育番組およびCategory:教育番組の項参照。", "title": "教養・教育番組" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "番組名は、日本のバラエティ番組一覧およびCategory:バラエティ番組を参照。", "title": "娯楽番組" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "番組名は、日本のクイズ番組一覧およびCategory:クイズ番組を参照。", "title": "娯楽番組" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "番組名は、音楽番組およびCategory:音楽番組を参照。", "title": "娯楽番組" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "番組名は、トーク番組およびCategory:トーク番組を参照。", "title": "娯楽番組" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "番組名は、料理番組およびcategory:料理番組を参照。", "title": "娯楽番組" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "番組名は、「日本のテレビドラマ一覧」、「日本のテレビドラマ一覧 (年代別)」を参照。", "title": "ドラマ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "など。", "title": "ドラマ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "番組名は、テレビドラマの一覧を参照。", "title": "ドラマ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "番組名は、時代劇を参照。", "title": "時代劇" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "番組名は、アニメ作品一覧を参照。", "title": "アニメ番組" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "番組名は、特撮テレビ番組一覧を参照。", "title": "特撮番組" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現行", "title": "映画番組" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "過去", "title": "映画番組" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "代表的なもののみ列挙。Category:深夜テレビ番組、各局深夜番組カテゴリも参照。なお、ドラマについてはCategory:深夜ドラマ、アニメについてはCategory:深夜アニメをそれぞれ参照。", "title": "深夜番組" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "フジテレビの深夜番組についてはJOCX-TV2も参照。", "title": "深夜番組" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "代表的なもののみ。BSについてはCategory:日本のBSテレビ番組を、CSについてはCategory:日本のCSテレビ番組も参照。", "title": "その他のカテゴリ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "その他のカテゴリ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "通信販売番組についてはテレビショッピングの項を参照されたい。", "title": "その他のカテゴリ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "番組名は、ミニ番組を参照。", "title": "ミニ番組" } ]
日本のテレビ番組一覧(にっぽんのテレビばんぐみいちらん)は、ウィキペディア日本語版に項目のある日本のテレビ番組を、ジャンル別一覧にしたものである。 ・対象となる放送局は全国放送のNHK、日本テレビ、テレビ朝日、フジテレビ、TBSの5つである。 ・地上デジタル放送のみとする。
'''日本のテレビ番組一覧'''(にっぽんのテレビばんぐみいちらん)は、[[ウィキペディア日本語版]]に項目のある[[日本]]の[[テレビ番組]]を、ジャンル別一覧にしたものである。 ・対象となる放送局は全国放送の[[日本放送協会|NHK]]、[[日本テレビ]]、[[テレビ朝日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[TBSテレビ|TBS]]の5つである。 ・地上デジタル放送のみとする。 == 報道番組 == === ニュース === 番組名は、[[報道番組|ニュース番組]]および[[:Category:ニュース・報道番組]]を参照。 ==== NHK ==== * [[NHKニュース7]] * [[NHKおはよう日本]] * [[ニュースウォッチ9]] * [[国会中継]] * [[国際報道2014|国際報道]] * [[英語ニュース]] * [[中国語ニュース]] * [[タイ語ニュース]] * [[ロシア語ニュース]] * [[スペイン語ニュース]] ==== 日本テレビ ==== * [[Oha!4 NEWS LIVE|Oha!4]] * [[ZIP!]] * [[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]] * [[DayDay.|DayDay]] * [[every]] * [[news zero]] * [[シューイチ]] * [[ズームイン!!サタデー|ズームインサタデー]] * [[深層NEWS]] * [[真相報道 バンキシャ!|バンキシャ]] * [[NNNドキュメント]] * [[NNNニュースサンデー]] * [[NNNニュースサタデー]] * [[NNNストレイトニュース|NNNストレートニュース]] * [[情報ライブ ミヤネ屋|ミヤネ屋]] ==== フジテレビ ==== * [[めざましテレビ]] * [[めざましどようび]] * [[めざまし8]] * [[ノンストップ!|ノンストップ]] * [[FNNニュース]] * [[FNNニュースαシリーズ|FNNニュースα]] * [[FNNスピーク]] * [[FNNスーパータイム]] * [[FNNレインボー発]] * [[ユアタイム]] * [[とくダネ]] * [[Live News イット!|Live news イット!]] * [[プライムニュース]] ==== テレビ朝日 ==== * [[ANNニュース]] * [[報道ステーション]] * [[週刊ニュースリーダー]] * [[スーパーJチャンネル]] * [[キャスト (テレビ番組)|キャスト]] * [[EYEステーション]] * [[サンデーステーション]] * [[グッドモーニング (バラエティ番組)|グッドモーニング]] * [[ABCニュース (朝日放送テレビ)|ABCニュース]] * [[ニュースステーション]] * [[モーニングショー]] * [[朝日新聞ニュース]] * [[日曜スクープ]] * [[サンデーLIVE!!|サンデーLIVE]] ==== TBS ==== * [[サンデーモーニング]] * [[Nスタ]] * [[ひるおび]] * [[THE TIME,|TEH TIME]] * [[リアルタイム]] * [[あさチャン!|あさチャン]] * [[news23]] * [[JNNニュースデスク]] * [[JNNフラッシュニュース]] * [[TBSニュース]] * [[報道特集 (TBS)|報道特集]] === こども向け報道番組 === ==== NHK ==== *[[こどもニュース]] * [[600こちら情報部]] * [[週間手話ニュース]] * [[週刊こどもニュース]] == ワイドショー == 番組名は、[[ワイドショー一覧]]を参照。 == スポーツ番組 == ※スポーツニュース番組は[[スポーツニュース番組一覧]]参照 === 野球 === * [[NHKプロ野球]](NHK) * [[DRAMATIC BASEBALL]](日本テレビ) * [[S☆1 BASEBALL]] (TBS) * [[野球道 (フジテレビ系列)|感謝を、感動を、野球道]](フジテレビ) * [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]](テレビ朝日) === サッカー === * [[Jリーグ中継 (NHK)|Jリーグ中継]](NHK) * [[ダイナミックサッカー]](テレビ東京) * [[スーパーサッカー (TBSのサッカー番組)|スーパーサッカー]](TBS) * [[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜]](テレビ朝日) === 相撲 === * [[大相撲中継]](NHK) * [[大相撲・幕内の全取組]](NHK) === 競馬中継 === * [[ウイニング競馬]](テレビ東京) * [[みんなのKEIBA]](フジテレビ) == 教養・教育番組 == === ドキュメンタリー/ノンフィクション === 番組名は、[[ドキュメンタリー番組]]および[[:Category:ドキュメンタリー番組]]を参照。 === 一般教養番組 === * [[THE世界遺産|世界遺産→THE世界遺産]] - TBS系。 * [[探検ロマン世界遺産]] (NHK) ==== 人文科学系 ==== * [[その時歴史が動いた|その時、歴史が動いた。]]→[[歴史秘話ヒストリア]] (NHK) * [[歴史への招待]] (NHK) * [[ライバル日本史]] * [[堂々日本史]] ==== 自然科学・生活科学系 ==== * [[ウルトラアイ]]→[[トライ&トライ]]→[[ためしてガッテン]]→[[ガッテン!]] (NHK) * 四つの目→レンズはさぐる * [[みんなの科学]] * [[大科学実験]] === 紀行番組 === [[:Category:紀行・旅番組]]も参照。 * [[新日本紀行]] 、[[新日本紀行ふたたび]] (NHK) * [[世界ふれあい街歩き]] (NHK) * [[鶴瓶の家族に乾杯]] (NHK) * [[すばらしい世界旅行]](日本テレビ) * [[ぶらり途中下車の旅]](日本テレビ) * [[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) * [[兼高かおる世界の旅]](TBS) * [[いい旅・日本]](TBS) * [[世界の車窓から]](テレビ朝日)  * [[旅の香り|旅の香り 時の遊び→旅の香り→旅の香り〜四季の名宿めぐり〜]](テレビ朝日) * [[朝だ!生です旅サラダ]](朝日放送) * [[にっぽん!いい旅]](テレビ東京) === 学校向け番組 === ==== 小学校向け番組 ==== * [[マテマティカ]] * [[たんけんぼくのまち]] * [[このまちだいすき]] * [[まちかどドレミ]] * [[ふえはうたう]] * [[虹色定期便]] * [[さわやか3組]] ==== 中学校向け番組 ==== * [[おもいっきり中学時代]](NHK教育) ====高校向け番組==== '''[[NHK高校講座]]'''(2003年4月〜 NHK教育) * [[高校講座国語]]  [[高校講座ベーシック国語]]  [[高校講座現代の国語]]  [[高校講座国語総合]]  [[高校講座国語表現]]  [[高校講座現代文]]  [[高校講座古典]]  [[高校講座書道Ⅰ]] * [[高校講座英語]]  [[高校講座ベーシック英語]]  [[高校講座コミュニケーション英語Ⅰ]]  [[高校講座コミュニケーション英語Ⅱ]]  [[高校講座コミュニケーション英語Ⅲ]]  [[高校講座英語表現]] * [[高校講座数学]]  [[高校講座ベーシック数学]]  [[高校講座数学Ⅰ]]  [[高校講座数学Ⅱ]]  [[高校講座数学A]] * [[NHK高校講座情報|高校講座情報]] * [[高校講座生物]] * [[高校講座物理]] * [[高校講座地理]] * [[高校講座化学]] * [[高校講座家庭総合]] * [[高校講座世界史]] * [[高校講座日本史]]  [[高校講座日本史]]  [[高校講座日本史探求]] ==== 幼児向け番組 ==== ==== 日本国内製作 ==== ==== NHK ==== * [[いないいないばあっ!]]  * [[うたのえほん]] * [[おかあさんといっしょ]] * [[おとうさんといっしょ]]  * [[みいつけた!|みいつけた]] * [[ピタゴラスイッチ]] * [[コレナンデ商会]] * [[にほんごであそぼ]] * [[えいごであそぼ]] * [[むしまるQ]] * [[はなかっぱ]] * [[クックルン]] * [[おじゃる丸]] * [[オトッペ]] * [[シャキーン!|シャキーン]] * [[あおきいろ]] * [[ミミクリーズ]] * [[おさるのジョージ (テレビアニメ)|おさるのジョージ]] * [[おはよーいドン]] * [[夜もおはよーいドン]] * [[でこぼこポン]] * [[エルエル]] ==== 日本テレビ ==== * [[ロンパールーム]] * [[おはよう!こどもショー]] * [[カリキュラマシーン]] * [[ウゴウゴルーガ]] * [[ママとあそぼう!ピンポンパン]] * [[のりスタ!]] * [[ポンキッキ]] ==== フジテレビ ==== * [[ちびまる子ちゃん]] * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] ::* [[ひらけ!ポンキッキ]] ::* [[ポンキッキーズ]] ::* [[ポンキッキーズ21]]  ==== 日本国外製作 ==== * [[セサミストリート]]  * [[テレタビーズ]] === その他児童・生徒向け番組 === * ものしり教室  * [[みんなの科学]] * [[ひとりでできるもん!]] * [[ハッチポッチステーション]] * 課外授業ようこそ先輩 * ストレッチマン * [[みんなのうた]] * [[ティンティンTOWN!]] * [[おはスタ]] * [[ばりすご!ボイガー7]] ([[TVQ九州放送]]) * [[クインテット (テレビ番組)|クインテット]] * [[モグモグGOMBO]] * [[天才てれびくん]] * [[英語であそぼ]] * [[にほんごであそぼ]] * [[からだであそぼ]] * [[つくってあそぼ]] * [[できるかな]] === 中高生向け番組 === * [[若い広場]] * YOU! * ファイト * [[真剣10代しゃべり場]] * [[金曜かきこみTV]] * [[部活応援プロジェクト しゃかりき]] === 音楽教養番組 === * [[題名のない音楽会]](テレビ朝日) * [[ミュージックフェア|MUSIC FAIR21]](フジテレビ) * [[僕らの音楽3]](フジテレビ) ==== NHK ==== * [[SONGS (テレビ番組)|SONGS]] * [[MUSIC JAPAN]] * [[NHK歌謡コンサート]] * [[N響アワー]] * [[音楽ファンタジー・ゆめ]] === 教育番組 === 番組名は[[教育番組]]および[[:Category:教育番組]]の項参照。 === 釣り番組 === ;現行 * [[THE フィッシング]](テレビ大阪) * [[The Hit]]([[サンテレビジョン|サンテレビ]]) * [[ビッグフィッシング]](サンテレビ) * [[ニッポンを釣りたい!]](フジテレビ・特番) * [[釣りごろつられごろ]]([[テレビ新広島]]) ;過去 * [[釣り・ロマンを求めて]](テレビ東京) * [[千夜釣行]](テレビ東京) * [[とび出せ!釣り仲間]](テレビ東京) * [[われら釣り天狗]](東京12チャンネル→テレビ東京) * [[みんなの釣り天国]](テレビ朝日) * [[フィッシング・ナウ|フィッシングNOW]]([[テレビ埼玉]]) * [[にっぽん釣りの旅]]([[NHK BSプレミアム]]) == 娯楽番組 == === バラエティ番組 === 番組名は、[[日本のバラエティ番組一覧]]および[[:Category:バラエティ番組]]を参照。 === クイズ番組 === 番組名は、[[日本のクイズ番組一覧]]および[[:Category:クイズ番組]]を参照。 === 音楽番組 === 番組名は、[[音楽番組]]および[[:Category:音楽番組]]を参照。 === トーク番組 === 番組名は、[[トーク番組]]および[[:Category:トーク番組]]を参照。 === 料理番組 === * [[キユーピー3分クッキング|キューピー3分クッキング]] 番組名は、[[料理番組]]および[[:category:料理番組]]を参照。 == ドラマ == 番組名は、「[[日本のテレビドラマ一覧]]」、「[[日本のテレビドラマ一覧 (年代別)]]」を参照。 === 青春ドラマ === * [[青春とはなんだ]] * [[俺たちの旅]] * [[ゆうひが丘の総理大臣]] * [[あすなろ白書]] * [[スクール☆ウォーズ]] * [[少年ドラマシリーズ]](NHK) === 刑事・警察ドラマ === ==== 日本テレビ ==== * [[太陽にほえろ!|太陽にほえろ!]] * [[あぶない刑事]] * [[あきれた刑事]] * [[刑事貴族]] * [[ハコヅメ〜交番女子の逆襲〜|ハコヅメ]] ==== フジテレビ ==== * [[踊る大捜査線]] * [[スケバン刑事#実写化作品|スケバン刑事]] * [[あいつがトラブル]] * [[ショカツ]] * [[ダブルスコア]] * [[ルーキー!|ルーキー!]] * [[走れ公務員!|走れ公務員!]] ==== テレビ朝日 ==== * [[特捜最前線]] * [[はぐれ刑事純情派]] * [[さすらい刑事旅情編]] * [[ベイシティ刑事]] * [[はみだし刑事情熱系]] * [[相棒]] * [[逮捕しちゃうぞ]] * [[ララバイ刑事'91]] * [[富豪刑事 (テレビドラマ)|富豪刑事]] * [[西部警察]] * [[ゴリラ・警視庁捜査第8班]] ====TBS==== * [[Gメン'75]] * [[Gメン'82]] * [[ママチャリ刑事]] * [[刑事☆イチロー]] * [[こちら本池上署]] * [[ケイゾク]] === 消防ドラマ === * [[はやぶさ消防団]] * [[炎の消防隊]] * [[裸の消防士]] * [[青炎の突撃]] * [[シカゴ・ファイア|シカゴ・ファイヤ]] * [[火災調査官・紅蓮次郎]] * [[レスキュー・ミー NYの英雄たち|レスキュー・ミーNYの英雄たち]] * [[暗闇の中で輝く瞳]] * [[火神の涙]] * [[ステーション19]] * [[サード・ウォッチ]] * [[HEAT]] * [[RESCUE〜特別高度救助隊]] * [[Fireworks of My Heart]] === 裁判ドラマ === * [[うちの弁護士は手がかかる]] * [[イチケイのカラス]] * [[勝利の法廷式]] * [[リーガル・ハイ|リガール・ハイ]] * [[悪魔判事]] * [[指定弁護士]] * [[弁護士ソドム]] * [[7人の女弁護士]] * [[正義は勝つ]] * [[沈黙法廷]] * [[未成年裁判]] * [[99.9-刑事専門弁護士-|99.9−刑事専門弁護士−]] * [[離婚弁護士]] * [[負け組法律事務所]] * [[ハンムラビ法廷〜初恋はツンデレ判事!?〜|ハンムラビ法廷]] * [[魔女裁判]] * [[弁護士イーライのふしぎな日常|弁護士イーライの不思議な日常]] * [[ボクらを見る目]] * [[ボストン・リーガル]] * [[HERO]] * [[なぜ君は絶望と闘えたのか]] * [[グッド・ワイフ]] * [[運命の12人]] * [[裁判長っ!おなか空きました!|裁判長っ!おなか空きました!]] * [[都会の森]] * [[昔話法廷]] * [[殺人を無罪にする方法]] * [[事件]] * [[ビギナー (テレビドラマ)|ビキナー]] * [[ドラマ 東京裁判]] * [[罪人の嘘]] * [[ハイエナ ー弁護士たちの生存ゲームー]] * [[ドクター弁護士]] * [[親愛なる判事様]] * [[弁護士のクズ]] === 航空ドラマ === === 税関ドラマ === === 二時間ドラマ === ; 現在 * [[日曜ワイド]](テレビ朝日) * [[月曜ドラマスペシャル]]→[[月曜ミステリー劇場]]→[[月曜ゴールデン]]→[[月曜名作劇場]] (TBS) * [[金曜女のドラマスペシャル]]→ザ・ドラマチックナイト→男と女のミステリー→金曜ドラマシアター→[[金曜エンタテイメント]]→[[金曜プレステージ]]→[[赤と黒のゲキジョー]]→[[金曜プレミアム]](フジテレビ、金曜プレステージ以降はドラマでない場合もある) ; 過去 * [[火曜サスペンス劇場]]→[[DRAMA COMPLEX|DRAMA COMPLEX-ドラマ・コンプレックス-]]→[[火曜ドラマゴールド]](日本テレビ) * [[木曜ゴールデンドラマ]]→[[ドラマシティ (2時間ドラマ番組)|ドラマシティ]](読売テレビ) * [[女と愛とミステリー]]→[[水曜ミステリー9]](第1期)→[[水曜シアター9]]→水曜ミステリー9(第2期)→[[水曜エンタ]](テレビ東京・BSジャパン) * [[土曜ワイド劇場]](テレビ朝日/朝日放送と系列局) など。 === 海外ドラマ === 番組名は、[[テレビドラマの一覧]]を参照。 * それゆけスマート * ビーバーちゃん * 三馬鹿大将 * ちびっこ大将 * [[わんぱくフリッパー]] * [[名犬ラッシー]] * [[ナイトライダー]] * [[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女]] * [[かわいい魔女ジニー]] * [[アーノルド坊やは人気者]] * [[コンバット]] * [[逃亡者 (1963年のテレビドラマ)|逃亡者]] * [[フルハウス (1987年のテレビドラマ)|フルハウス]] * [[チャーリーズ・エンジェル|地上最強の美女たちチャーリーズ・エンジェル]] * [[スパイ大作戦]] * [[ビバリーヒルズ高校白書]] * [[ER緊急救命室]] * [[24 -TWENTY FOUR-]] == 時代劇 == 番組名は、[[時代劇]]を参照。 == ショッピング == * [[ジャパネットたかた]] * [[テレホンショッピング]] == 懸賞番組 == * [[懸賞伝説]] * [[BS懸賞]] == アニメ番組 == 番組名は、[[アニメ作品一覧]]を参照。 * == 特撮番組 == 番組名は、[[特撮テレビ番組一覧]]を参照。 * [[ウルトラシリーズ]](各放送局制作) * [[仮面ライダーシリーズ]](テレビ朝日系) * [[スーパー戦隊シリーズ]](テレビ朝日系) * [[メタルヒーローシリーズ]](テレビ朝日系) * [[東映不思議コメディーシリーズ]](フジテレビ系) * [[超星神シリーズ]](テレビ東京系) * [[スーパーヒーロータイム]](テレビ朝日系) - スーパー戦隊シリーズと仮面ライダーシリーズを連続して放送する放送枠。 == 人形劇番組 == * NHKの夕方に放映していた子供向け人形劇シリーズ ** [[チロリン村とくるみの木]] ** [[ひょっこりひょうたん島]] ** [[空中都市008]] ** ネコジャラ市の11人 ** [[新八犬伝]] ** [[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]] ** [[笛吹童子]] ** [[紅孔雀]] ** [[プリンプリン物語]] * ウルトラマンM730 ウルトラマンランド * [[インターナショナル・テレビジョン・コーポレーション|ITC]]制作 ** [[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]] ** [[キャプテン・スカーレット]] == 映画番組 == ;[[映画]]そのものを放送する番組 現行 * [[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]→[[金曜ロードショー|金曜ロードショー→金曜ロードSHOW!→金曜ロードショー]](日本テレビ系) * [[ゴールデン洋画劇場|ゴールデン洋画劇場→ゴールデンシアター]]→[[土曜プレミアム|プレミアムステージ→土曜プレミアム]](フジテレビ系) - 映画以外の番組もある * [[午後のロードショー]](テレビ東京 [[関東ローカル]]) * 水曜映画→火曜映画→月曜映画→[[映画天国]](日本テレビ) * [[バリ・シネ]]→一時中断→[[サタ☆シネ]](テレビ東京) * [[ミッドナイト・アート・シアター|ミッドナイトアートシアター]](フジテレビ) * <!-- チャンネルNECOと同盟 -->[[ミッドナイトシアター (フジテレビ)|ミッドナイトシアター]](フジテレビ) * [[シネマスタジアム]]([[サンテレビジョン|サンテレビ]]) * [[衛星映画劇場]]→BSシネマ→[[プレミアムシネマ]]([[NHK BSプレミアム]]) * [[土曜7時の洋画館]]([[BS日本|BS日テレ]]) * [[金曜ロードショー|日曜ロードショー]](BS日テレ) * [[シネマクラッシュ]]([[BSテレビ東京|BSテレ東]]) * [[シネマジャパン]](BSテレ東) * [[土曜洋画劇場 (BS12)|土曜洋画劇場]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12 トゥエルビ]]) * [[日曜アニメ劇場]](BS12) * [[231オーディトリアム]]([[放送大学 (基幹放送)|放送大学テレビ]]) * [[よる8銀座シネマ]]([[BS松竹東急]]) * [[ミッドナイトシネマ]](BS松竹東急) * [[短編映画劇場]](BS松竹東急) * [[日曜ゴールデンシアター]](BS松竹東急) * [[よしもとMOVIES]]([[BSよしもと]]) 過去 * [[月曜ロードショー|土曜ロードショー→金曜ロードショー→月曜ロードショー→ザ・ロードショー→火曜ロードショー→火曜ビッグシアター]]→[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー]](TBS系) * [[水曜プレミア]](TBS系) - 映画以外の番組もある * [[水曜プレミアシネマ]](TBS系)- 水曜ロードショー以来18年半ぶりの映画専門枠 * [[シネマエクスプレス]](テレビ朝日) * [[ダイヤモンドシアター]](TBS) * [[木曜洋画劇場]]→[[水曜シアター9]](テレビ東京系) * [[映画楽園 〜シネパラ〜]]→映画天国 チネ★パラ(日本テレビ) * 日本映画名作劇場(東京12チャンネル→テレビ東京) * [[日曜洋画劇場|土曜洋画劇場→日曜洋画劇場]](テレビ朝日系) * サタデーシアター([[BS朝日]]) * 水曜デラックス([[BS-TBS]]) * シネマクラッシュ 〜映画大好き〜([[BSテレビ東京|BSジャパン]]) * [[火曜洋画劇場]]([[サンテレビジョン|サンテレビ]]) * 日本映画ノーカット劇場([[テレビ大阪]]) * [[映画へようこそ!]]([[毎日放送]]) * 中島貞夫の邦画指定席([[京都放送|KBS京都]]) * [[エキスプレス ザ・ムービー]](KBS京都) * 水曜映画館(BSテレ東) == 特別番組 == === 現在 === ;[[長時間特別番組]] *[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]](日本テレビ) *[[FNSの日|FNS27時間テレビ]](フジテレビ) ;[[音楽番組#現行の音楽番組一覧|大型音楽番組]] *[[NHK紅白歌合戦]](NHK) *[[FNS歌謡祭]](フジテレビ) *[[FNSうたの夏まつり]](フジテレビ) *[[FNSうたの春まつり]](フジテレビ) *[[日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト]](日本テレビ) *[[THE MUSIC DAY]](日本テレビ) *[[音楽の日]](TBS) <!-- * 日本音楽著作権歌謡祭(TBS) --> <!-- * [[火曜ワイドスペシャル]]→[[カスペ!]](フジテレビ) --> === 過去 === *[[プレミアム10]] (NHK) * [[土曜特集]](NHK) * [[木曜スペシャル]](日本テレビ) * [[スーパースペシャル]]→[[THEスペシャル!]](日本テレビ) * [[モクスペ]](日本テレビ) * [[金曜スーパープライム]](日本テレビ) * [[水曜スペシャル|水曜スペシャル→スイスペ!]](テレビ朝日) * [[ドスペ!]](テレビ朝日) * [[サタスペ!]](テレビ朝日) * [[金曜テレビの星!]]→[[スーパーフライデー]]→[[金スペ!]]→[[水トク!|水トク!(第1期)→水曜スペシャル]]→[[水トク!|水トク(第2期)]] (TBS) * [[水曜エンタ!]](TBS) * [[スパモク!!]](TBS) == 深夜番組 == 代表的なもののみ列挙。[[:Category:深夜テレビ番組]]、各局深夜番組カテゴリも参照。なお、ドラマについては[[:Category:深夜ドラマ]]、アニメについては[[:Category:深夜アニメ]]をそれぞれ参照。 * [[ミッドナイトチャンネル]](NHK総合) * [[ETVライブラリー]](NHK教育) * [[学校放送ライブラリー]](NHK教育) * [[11PM]]→[[EXテレビ]]→[[どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS|どんまい!!/TVじゃん!!]](日本テレビ・読売テレビとの共同製作)→[[ZZZ (テレビ放送枠)|ZZZ]](日本テレビ系列各局制作) * [[プラチナイト]](日本テレビ) * [[ランク王国]](TBS) * [[むちゃぶり!]](TBS) * [[SUPER WEEKEND LIVE 土曜深夜族]]→[[平成名物TV]]→[[星期六我家的電視]](TBS) フジテレビの深夜番組については[[JOCX-TV2]]も参照。 * [[オールナイトフジ]](フジテレビ) * [[カノッサの屈辱 (テレビ番組)|カノッサの屈辱]](フジテレビ) * [[虎の門]](テレビ朝日) * [[タモリ倶楽部]](テレビ朝日) * [[トゥナイト (テレビ番組)|トゥナイト]]→[[トゥナイト2]](テレビ朝日) * [[朝まで生テレビ!]](テレビ朝日) * [[ナイトinナイト]](朝日放送) == その他のカテゴリ == === BS・CS番組 === 代表的なもののみ。BSについては[[:Category:日本のBSテレビ番組]]を、CSについては[[:Category:日本のCSテレビ番組]]も参照。 * [[サンデーヤングミュージック]]([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK衛星第2]]) * [[BSマンガ夜話]](NHK衛星第2) * [[囲碁・将棋ジャーナル]](NHK衛星第2) * [[週刊ブックレビュー]](NHK BSプレミアム) * [[熱中時間 忙中"趣味"あり]] (NHK衛星第2・ハイビジョン) * [[TV☆Lab]]([[BSフジ]]) * [[日本いにしえの旅]](BSフジ) * [[BS懸賞]]([[BS日本|BS日テレ]]) * [[温泉へ行こう! (BS・CS番組)|温泉へ行こう!]](BSフジ・フジテレビ739) * [[ゲームセンターCX]]([[フジテレビTWO]]) * [[アイドリング!!!]]([[フジテレビONE]]) === その他の番組 === * [[CM INDEX]] * [[鈴木タイムラー]] * [[二重マル健康テレビ]] * [[ヤン坊マー坊天気予報]] 通信販売番組については[[テレビショッピング]]の項を参照されたい。 == ミニ番組 == 番組名は、[[ミニ番組]]を参照。 * [[0655]] * [[2355]] == 関連項目 == * [[SFテレビ番組]] * [[テレビジョン放送局]] * [[リアルタイム字幕放送]] * [[解説放送]] * [[番組表]] {{Tv-stub}} {{デフォルトソート:にほんのてれひはんくみいちらん}} [[Category:日本のテレビ番組一覧|*]] [[Category:日本のテレビ番組|*]] [[Category:テレビ番組一覧|*]] [[Category:日本の放送関連一覧|てれひはんくみ]]
2003-09-06T13:15:58Z
2023-11-23T14:54:19Z
false
false
false
[ "Template:Tv-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E7%95%AA%E7%B5%84%E4%B8%80%E8%A6%A7
15,427
60
60(六十、ろくじゅう、むそ、むそじ)は自然数、また整数において、59の次で61の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "60(六十、ろくじゅう、むそ、むそじ)は自然数、また整数において、59の次で61の前の数である。", "title": null } ]
60(六十、ろくじゅう、むそ、むそじ)は自然数、また整数において、59の次で61の前の数である。
{{整数|Decomposition=2{{sup|2}} × 3 × 5}} '''60'''('''六十'''、ろくじゅう、むそ、むそじ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[59]]の次で[[61]]の前の数である。 == 性質 == *60は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は[[1]], [[2]], [[3]], [[4]], [[5]], [[6]], [[10]], [[12]], [[15]], [[20]], [[30]], 60である。 **[[約数の和]]は[[168]]。 **12番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[56]]、次は[[66]]。 *約数を12個もつ最小の数である。次は[[72]]。 **[[約数]]を ''n'' 個もつ最小の数とみたとき。1つ前の11個は[[1024]]、次の13個は[[4096]]。({{OEIS|A005179}}) *9番目の[[高度合成数]]である。1つ前は[[48]]、次は[[120]]。 **60以上の高度合成数は、全て60の倍数である。 *自分自身のすべての約数の積が自分自身の6乗になる最小の数である。1つ前の5乗は48、次の7乗は[[192]]。({{OEIS|A003680}}) *約数の和の[[平均]]が整数になる3番目の数である。1つ前は56、次は[[96]]。 *約数の積は46656000000。 **約数の積の値がそれ以前の数を上回る15番目の数である。1つ前は48、次は72。({{OEIS|A034287}}) * 1から6までの[[自然数]]の[[最小公倍数]]である。1つ前の5までも60、2つ前の4までは12、次の7までは[[420]]。({{OEIS|A003418}}) *60 = 2{{sup|2}} × 3 × 5 **3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる最小の数である。次は[[84]]。({{OEIS|A085987}}) *60 = 3 × 4 × 5 **3連続整数の積で表せる数である。1つ前は[[24]]、次は120。 * 60 = 2{{sup|2}} × (2{{sup|4}} &minus; 1) **''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}}(2{{sup|''n''+2}} &minus; 1) の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[248]]。({{OEIS|A171499}}) * 60 = 4{{sup|1}} × (4{{sup|2}} &minus; 1) = 4{{sup|3}} &minus; 4{{sup|1}} **''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''&minus;1}}×(4{{sup|''n''}} &minus; 1) の値とみたとき1つ前は3、次は[[1008]]。({{OEIS|A115490}}) * 60 = 15 × 2{{sup|2}} ** ''n'' = 2 のときの 15 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は30、次は120。({{OEIS|A110286}}) *[[四つ子素数]]の和で表せる2番目の数である。1つ前は[[36]]、次は420。<br>60 = [[11]] + [[13]] + [[17]] + [[19]] *{{sfrac|1|60}} = 0.01{{underline|6}}… (下線部は循環節で長さは1) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる12番目の数である。1つ前は48、次は72。({{OEIS|A070021}}) *25番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[54]]、次は[[63]]。 **6を基とする4番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[42]]、次は[[114]]。 * 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で23番目の数である。1つ前は48、次は[[67]]。 *各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる17番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[68]]。({{OEIS|A175396}}) *異なる2つの[[素数]]の和6通りで表せる最小の数である。次は66。({{OEIS|A080862}})<br>60 = [[7]] + [[53]] = 13 + [[47]] = [[17]] + [[43]] = 19 + [[41]] = [[23]] + [[37]] = [[29]] + [[31]] **異なる2つの素数の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の5通りは48、次の7通りは[[78]]。({{OEIS|A087747}}) **2つの素数の和6通りで表せる最小の数である。次は66。({{OEIS|A066722}}) ***2つの素数の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の5通りは48、次の7通りは78。({{OEIS|A023036}}) * 60 = [[360]] ÷ 6 ** [[角度]]の[[1/6]]周は60[[度 (角度)|°]]である。また、正[[六角形]]の外角と中心角も60°である。 ** [[正三角形]]の内角は60°である。 ** [[正多角形|正 ''n'' 角形]]において[[内角]]が[[度数法]]で整数になる最小の角度である。次は[[90]]°。({{OEIS|A110546}}) *約数の和が60になる数は3個ある。(24, [[38]], [[59]]) 約数の和3個で表せる4番目の数である。1つ前は48、次は84。 * [[各位の和]]が6になる7番目の数である。1つ前は[[51]]、次は[[105]]。 * 連続してある数に対して約数の和を求めていった場合14個の数が60になる。60より小さい数で14個ある数はない。1つ前は24(10個)、次は120(15個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=60~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が14個あるということである。(ただし σ は約数関数)(参照{{OEIS|A241954}}) == その他 60 に関連すること == *'''60 × 単位''' **[[時間]]の単位で、1[[時間 (単位)|時間]] = 60[[分]]、1分 = 60[[秒]]である。また角度の単位でも、1[[度 (角度)|度]] (°) = 60分 (′)、1分 = 60秒 (″) である。このように 60 を1単位として数えるものは自然界に数多く存在し、'''[[六十進法]]'''とも呼ばれる。 **60[[度 (角度)|°]] = {{sfrac|[[円周率|{{π}}]]|3}}([[ラジアン]])。これは {{sfrac|1|6}} 周であり、すなわち[[正六角形]]の[[中心角]]であり、すなわちその[[外角]]である。また、[[正三角形]]の[[内角]]である。 **60年祭を、英語で“diamond jubilee”という。また、結婚60周年の祝いを[[結婚記念日|ダイヤモンド婚式]]といい、特に[[西洋]]では、[[ダイヤモンド]]が60周年の記念品や形容詞とされることが多い。 [[日本]]では、60歳は干支の一周として、盛大に祝賀される。葬祭でも、死後60周年の[[命日|法要]](60周忌 = 61回忌)を行う例がある。 **[[日本国憲法第59条]]4項では「[[参議院]]が、[[衆議院]]の可決した[[法律]]案を受け取った後、[[国会 (日本)|国会]]休会中の期間を除いて60日以内に、議決しない時は、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。」と規定している([[みなし否決]])。 **[[60メートル競走|60メートル走]]は[[陸上競技]]種目の一つ。 *'''60番目のもの''' **[[年始]]から数えて60日目は[[3月1日]]、ただし[[閏年]]の場合は[[2月29日]]。 **[[原子番号]] 60 の[[元素]]は[[ネオジム]] (Nd)。 **第60代[[天皇]]は[[醍醐天皇]]である。 **[[日本]]の第60代[[内閣総理大臣]]は[[池田勇人]]である。 **[[大相撲]]の第60代[[横綱]]は[[双羽黒光司]]である。 **第60代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ペラギウス1世 (ローマ教皇)|ペラギウス1世]](在位:[[556年]]~[[561年]][[3月4日]])である。 **[[易占]]の[[六十四卦]]で第60番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#節|水沢節]]。 **[[クルアーン]]における第60番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[試問される女 (クルアーン)|試問される女]]である。 **[[M60 (天体)|M60]] は系外[[銀河]]である。 *'''60あるもの''' **六十[[干支]]: 干支は[[十干]]と[[十二支]]の組み合わせで、60回で一周する。即ち、年毎では約2世代(60年)、月毎では5年(60ヶ月)、日毎では約2ヶ月(60日)で1周する。 *'''言葉''' **60 の[[接頭辞]]:sexaginti([[ラテン語|拉]])、hexaconta, hexeconta([[ギリシャ語|希]]) **[[ラテン語]]では sexaginta(セクサーギンター)。 **60歳の別名:六十路(むそじ)、[[還暦]]、耳順([[論語]]に由来)、下寿。<!--本来は「むそじ(むそぢ)」が60という数、或いは「60個」という意味を表した。この場合の「-じ(ぢ)」という[[接尾辞]]は、「はたち:20」の「-ち」や9以下の「-つ」という接尾辞と同根である。後に専ら「60歳」という意味で用いられるようになり、「路」という字が当てられるようになった。--><!--60とは関係ない--> *[[六十進法]]は、[[バビロニア]]で作り出された。(1[[時間 (単位)|時間]] = 60[[分]]、1分 = 60[[秒]]) *六十は、[[十二進法]]では 50 、[[二十進法]]では 30 と表記される。このため、六十を「六倍の十」ではなく、「五倍の十二」や「三倍の二十」という言い方をする語彙がある。例として、英語における"five [[ダース|dozen]]"(五倍の十二)や"three [[スコア|score]]"(三倍の二十)など。 *[[フラーレン|カーボン60]] (C{{sub|60}}) *[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[阪和線]]の[[鉄道駅|駅]]に、[[六十谷駅]](むそたえき)という駅がある。 *「60」の形式を持つ[[日本国有鉄道]]の鉄道車両。 **[[国鉄ED60形電気機関車]] **[[国鉄EF60形電気機関車]] **[[国鉄キハ60系気動車]] *[[サンシャイン60]]:[[池袋駅]]東側にある大型ビル。展望台や水族館等がある。 == 関連項目 == {{Wiktionarypar|六十}} {{数字2桁|6| - [[昭和60年]]}} {{自然数}}
null
2023-04-05T15:00:18Z
false
false
false
[ "Template:Sup", "Template:Sfrac", "Template:Wiktionarypar", "Template:自然数", "Template:OEIS", "Template:Underline", "Template:Sub", "Template:数字2桁", "Template:整数" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/60
15,428
豊橋創造大学
豊橋創造大学(とよはしそうぞうだいがく、英語: Toyohashi Sozo University)は、日本の私立大学である。愛知県豊橋市に本部を置く。 1983年(昭和58年)創立の豊橋短期大学(現・豊橋創造大学短期大学部)を運営している学校法人藤ノ花学園が1996年(平成8年)に設立した4年制大学で、経営情報学部経営情報学科の単科大学として開学した。現在は2学部・3学科・2研究科をもつ総合大学になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "豊橋創造大学(とよはしそうぞうだいがく、英語: Toyohashi Sozo University)は、日本の私立大学である。愛知県豊橋市に本部を置く。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)創立の豊橋短期大学(現・豊橋創造大学短期大学部)を運営している学校法人藤ノ花学園が1996年(平成8年)に設立した4年制大学で、経営情報学部経営情報学科の単科大学として開学した。現在は2学部・3学科・2研究科をもつ総合大学になっている。", "title": "大学全体" } ]
豊橋創造大学は、日本の私立大学である。愛知県豊橋市に本部を置く。
{{日本の大学 | 国 = 日本 | 大学名 = 豊橋創造大学 | ふりがな = とよはしそうぞうだいがく | 英称 = Toyohashi SOZO University | 大学の略称 = | 画像 = Toyohashi Sozo University.jpg | pxl = 250px | 画像説明 = 豊橋創造大学 | 大学設置年 = 1996年 | 創立年 = 1996年 | 学校種別 = 私立 | 設置者 = [[学校法人藤ノ花学園]] | 本部所在地 = [[愛知県]][[豊橋市]]牛川町松下20-1 | 緯度度 = 34|緯度分 = 46|緯度秒 = 36.34 | 経度度 = 137|経度分 = 24|経度秒 = 34.34 | キャンパス = 豊橋(愛知県豊橋市) | 学部 = 経営学部<br />保健医療学部 | 研究科 = 健康科学研究科 | ウェブサイト = https://www.sozo.ac.jp/ }} '''豊橋創造大学'''(とよはしそうぞうだいがく、{{Lang-en|Toyohashi SOZO University}})は、[[日本]]の[[私立大学]]である。[[愛知県]][[豊橋市]]に本部を置く。 == 大学全体 == [[1983年]](昭和58年)創立の豊橋短期大学(現・豊橋創造大学短期大学部)を運営している[[学校法人藤ノ花学園]]が[[1996年]](平成8年)に設立した4年制大学で、経営情報学部経営情報学科の単科大学として開学した。<br>2023年現在、は2学部・3学科・1研究科をもつ総合大学になっている。 === 沿革 === *[[1902年]](明治35年)4月8日 - [[伊藤卯一]]、渥美郡豊橋町大字中八町(現・豊橋市八町通り3丁目)に豊橋裁縫女学校を設立 *[[1927年]](昭和2年)10月 - 文部大臣より財団法人として認可 *[[1931年]](昭和6年)9月4日 - 豊橋高等裁縫女学校と改称 *[[1932年]](昭和7年)9月1日 - 現在の豊橋市老松町に移転 *[[1935年]](昭和10年)11月5日 - 豊橋高等家政女学校と改称(旧・実業学校令による認可) *[[1946年]](昭和21年)3月28日 - 豊橋藤花高等女学校と改称(旧・高等女学校令による認可) *[[1948年]](昭和23年)3月31日 - 学制改革により、豊橋藤花高等女学校を[[藤ノ花女子高等学校]]に改組 *[[1951年]](昭和26年)2月 - 学校法人として組織変更認可 *[[1983年]](昭和58年)4月1日 - 豊橋市牛川町に[[豊橋短期大学]]開学 *[[1995年]](平成7年)12月22日 - 豊橋創造大学設置認可 *[[1996年]](平成8年)4月1日 - ** '''豊橋創造大学'''開学。経営情報学部経営情報学科を設置 ** 豊橋短期大学を豊橋創造大学短期大学部に名称変更 *[[2000年]](平成12年)4月1日 - 豊橋創造大学大学院開設。経営情報学研究科起業・経営情報専攻修士課程を設置 *[[2002年]](平成14年)4月1日 - 経営情報学部にメディア・ネットワーク学科を増設 *[[2006年]](平成18年)4月1日 -経営情報学部経営情報学科、メディア・ネットワーク学科を募集停止し、情報ビジネス学部キャリアデザイン学科に改組。リハビリテーション学部理学療法学科を開設 *[[2009年]](平成21年)4月1日 - リハビリテーション学部を保健医療学部に名称変更。保健医療学部に看護学科を開設 *[[2010年]](平成22年)4月1日 - 大学院健康科学研究科健康科学専攻修士課程を開設 *[[2011年]](平成23年)3月31日 - 経営情報学部(経営情報学科、メディア・ネットワーク学科)を廃止 *[[2012年]](平成24年)4月1日 - 情報ビジネス学部キャリアデザイン学科は学生募集停止.経営学部経営学科を設置 *[[2018年]](平成30年)4月1日 - 情報ビジネス学部(キャリアデザイン学科)を廃止 *[[2022年]](令和4年)3月31日 - 大学院経営情報学研究科起業・経営情報学専攻修士課程を廃止 == 学部 == *[[経営学部]] **[[経営学科]] *[[保健医療学部]] **理学療法学科 **[[看護学科]] == 大学院 == *[[健康科学研究科]] **健康科学専攻(修士課程) == アクセス == *[[豊橋駅]]より[[豊鉄バス]][[豊鉄バス新城営業所#豊橋和田辻線|豊橋和田辻線]]「豊橋創造大学正門」または「創造大東」バス停 (曜日、時間帯によりいずれかに停車) 下車徒歩1分。 == 関連項目 == * [[藤ノ花女子高等学校]] * [[豊橋創造大学短期大学部]] == 外部リンク == * [http://www.sozo.ac.jp/ 豊橋創造大学] {{全国保健師教育機関協議会}} {{全国助産師教育協議会}} {{Normdaten}} {{univ-stub}} {{DEFAULTSORT:とよはしそうそうたいかく}} [[Category:愛知県の私立大学]] [[Category:学校記事]]
2003-09-06T13:28:43Z
2023-10-26T03:54:25Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en", "Template:全国保健師教育機関協議会", "Template:全国助産師教育協議会", "Template:Normdaten", "Template:Univ-stub", "Template:日本の大学" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E5%89%B5%E9%80%A0%E5%A4%A7%E5%AD%A6
15,429
東小金井駅
東小金井駅(ひがしこがねいえき)は、東京都小金井市梶野町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 14。 当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。 下り方面が単式ホーム1面1線、上り方面が島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する高架駅である。 地上時代は橋上駅舎で、相対式ホーム2面2線を有していた。かつて当駅西側に改札を新設するよう請願もあったものの実現しないまま高架化に至ったが、2014年1月27日にnonowa東小金井およびnonowa口改札開業に伴い、実現された。ただし、nonowa口はSuica等のICカード乗車券専用改札で、改札口付近には千円紙幣のみ利用可能なチャージ機が設置されている。 開業した頃は、武蔵境寄りに自動車を積み下ろしするための設備が設けられていた。 JR中央線コミュニティデザインによる業務委託駅で、三鷹営業統括センターが当駅を管理している。指定席券売機・自動券売機・自動改札機が設置されている。みどりの窓口は2018年6月30日をもって営業を終了した。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2番線は両方向の進入・出発に対応している。そのため、実際の案内標には路線名しか記載されていない。上りの一部に、当駅で通勤特快(※平日朝のみ)・特急列車の通過待ちを行う列車が設定されている。また、2012年3月17日ダイヤ改正より朝の上り列車が1番線・2番線ホームから交互に発車しているほか、平日11時02分快速東京行き(通過待ちがあるかは不明)、平日夕方の18時11分発は通過待ちを行わないが2番線に発着している。(通常は通過待ちをしないが、臨時列車ダイヤが設定されている為、2番線に発着している。) なお、2番線については2022年現在は12両化工事の影響で、下り方面に信号機がないため、下り電車の待避や高尾方面への折り返し運転はできなくなっている。 1・2番線からの電車は深夜の三鷹行き2本以外全て快速電車である。 JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建てグリーン車を2両連結し12両編成運転を行う。そのため、当駅はホームの12両編成対応への改築工事などが実施される。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は27,605人である。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 2003年9月に線路を切り替えた際、上り線のみ北に移動させたため駅西側を通る東大通り(都道247号)の東町踏切では横断距離も遮断時間も長くなり、駅構内を自転車で通過する高校生が増えるなど、開かずの踏切として社会問題となった。また、橋上駅舎の自転車通行に対応するため、エレベーターは南口・北口ともに2基ずつ、合計で4基並べて設置されていた。その後、踏切の横断距離は元に戻り、南口閉鎖と地下通路新設により駅舎内の自転車通行は減少したが、駅構内の「自転車は降りて引いてください」の掲示はそのまま残されている。また、地下通路用のエレベーターが南口・北口に各1基ずつ設置されていた。 南口には小規模な商店街が形成されている。北口は中央線高架化工事終了後を見据えた土地区画整理事業および駅前整備事業が進められている。 中央線高架化工事の進行に伴い、2006年3月13日より南口が閉鎖されたため、駅の南側へ行くには北口から新設の地下通路を通る必要があり、歩く時間が長くなった。 2007年6月30日から7月1日にかけて下り線で高架切り替え工事が実施された。この切り替えにより橋上駅舎の改札口が廃止され、上下線で別々の改札口を持つ形態となった(前述の北口2連エレベーターは使用停止となった)。下り線は本設となる高架下改札口を使用し、上り線はホーム脇に設置される地平の仮設改札口を使用するが、下り線は南口・上り線は北口にしか接続しないため、南北相互の連絡は改札外の地下通路か東町踏切に頼ることとなった。 東町踏切は以前は南北往来が歩行者・自転車のみ可能で、自動車およびオートバイは北方面から南方面にのみの一方通行になっていたが、2012年に工事が終了し自動車およびオートバイの南北往来が可能になった。 上下線分離となることから、上り線用の仮設駅舎にも一通りの設備を設ける必要があるが、トイレは橋上駅舎のものを引き続き使用した。このため、改札もホームも地平にありながらトイレだけが2階にあり、アクセス用に階段・エレベーター各1本が残る形となった。 2008年12月以降、北口では高架化工事終了後を見据えた整備事業の一つである、東大通りの道路拡張工事のための土地接収および居住住民の退去などが少しずつ進んでいる。 2009年12月5日から6日にかけて、上り線の高架切り替え工事が行われ、上下線とも高架化を完了した。 2011年2月、引き続き上り線側壁工事や旧南北地下自由通路埋め戻し工事などが行われ、完了した。 2014年1月27日、この事業に伴い生まれた高架下空間を活用する中央ラインモール構想に基づき、西口改札(nonowa口)工事およびnonowa東小金井が開業した。JR東日本グループの株式会社JR中央ラインモールが運営を行っている。同年7月17日には、nonowa東小金井の別館として、HIGAKO marcheが開業した。 2017年3月16日に北口の駅前広場交通ロータリーが開業した。 駅周辺の南北往来は東大通り(全て可)、駅改札通路(歩行者)、駅改札通路外南北通路(歩行者・自転車)で可能である。 駅周辺に大型の商業施設が無く、周辺の他駅と比べてかなり閑散としている。駅のロータリーから50mほどの場所には畑があるなど、空き地も目立っている。武蔵野市や国立市と併せて、油そばの発祥の地と呼ばれるエリアの一つである。大学のキャンパスが多く点在しており、閑静な住宅街と学生街との二面性を併せ持つ街である。駅南口にある日本歯科大学グラウンドでは毎年盆踊り大会が開催される。東京都立小金井公園や同園内にある江戸東京たてもの園まではコミュニティバスで10分程である。 高架対応実施前は、当駅北側に高架複々線工事早期着工を請願する「多摩の福福」とキャッチコピーが表記された招き猫の看板が存在した。 2014年年11月1日には当駅周辺の高架下で「ののみちヒガコ東・西」のまちびらきが行われ、武蔵境駅 - 当駅間の高架下空間が一体となった。なお、武蔵境駅の高架下を活用した「ののみち サカイ西」は、2014年4月より順次店舗や施設の開業が行われた。 地元では、当駅名ならびに駅周辺地域を「ヒガコ」と称すことがある。 2020年2月から駅前のロータリーに屋根が設置された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東小金井駅(ひがしこがねいえき)は、東京都小金井市梶野町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 14。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "下り方面が単式ホーム1面1線、上り方面が島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する高架駅である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地上時代は橋上駅舎で、相対式ホーム2面2線を有していた。かつて当駅西側に改札を新設するよう請願もあったものの実現しないまま高架化に至ったが、2014年1月27日にnonowa東小金井およびnonowa口改札開業に伴い、実現された。ただし、nonowa口はSuica等のICカード乗車券専用改札で、改札口付近には千円紙幣のみ利用可能なチャージ機が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "開業した頃は、武蔵境寄りに自動車を積み下ろしするための設備が設けられていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR中央線コミュニティデザインによる業務委託駅で、三鷹営業統括センターが当駅を管理している。指定席券売機・自動券売機・自動改札機が設置されている。みどりの窓口は2018年6月30日をもって営業を終了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2番線は両方向の進入・出発に対応している。そのため、実際の案内標には路線名しか記載されていない。上りの一部に、当駅で通勤特快(※平日朝のみ)・特急列車の通過待ちを行う列車が設定されている。また、2012年3月17日ダイヤ改正より朝の上り列車が1番線・2番線ホームから交互に発車しているほか、平日11時02分快速東京行き(通過待ちがあるかは不明)、平日夕方の18時11分発は通過待ちを行わないが2番線に発着している。(通常は通過待ちをしないが、臨時列車ダイヤが設定されている為、2番線に発着している。) なお、2番線については2022年現在は12両化工事の影響で、下り方面に信号機がないため、下り電車の待避や高尾方面への折り返し運転はできなくなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1・2番線からの電車は深夜の三鷹行き2本以外全て快速電車である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建てグリーン車を2両連結し12両編成運転を行う。そのため、当駅はホームの12両編成対応への改築工事などが実施される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は27,605人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2003年9月に線路を切り替えた際、上り線のみ北に移動させたため駅西側を通る東大通り(都道247号)の東町踏切では横断距離も遮断時間も長くなり、駅構内を自転車で通過する高校生が増えるなど、開かずの踏切として社会問題となった。また、橋上駅舎の自転車通行に対応するため、エレベーターは南口・北口ともに2基ずつ、合計で4基並べて設置されていた。その後、踏切の横断距離は元に戻り、南口閉鎖と地下通路新設により駅舎内の自転車通行は減少したが、駅構内の「自転車は降りて引いてください」の掲示はそのまま残されている。また、地下通路用のエレベーターが南口・北口に各1基ずつ設置されていた。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "南口には小規模な商店街が形成されている。北口は中央線高架化工事終了後を見据えた土地区画整理事業および駅前整備事業が進められている。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "中央線高架化工事の進行に伴い、2006年3月13日より南口が閉鎖されたため、駅の南側へ行くには北口から新設の地下通路を通る必要があり、歩く時間が長くなった。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2007年6月30日から7月1日にかけて下り線で高架切り替え工事が実施された。この切り替えにより橋上駅舎の改札口が廃止され、上下線で別々の改札口を持つ形態となった(前述の北口2連エレベーターは使用停止となった)。下り線は本設となる高架下改札口を使用し、上り線はホーム脇に設置される地平の仮設改札口を使用するが、下り線は南口・上り線は北口にしか接続しないため、南北相互の連絡は改札外の地下通路か東町踏切に頼ることとなった。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東町踏切は以前は南北往来が歩行者・自転車のみ可能で、自動車およびオートバイは北方面から南方面にのみの一方通行になっていたが、2012年に工事が終了し自動車およびオートバイの南北往来が可能になった。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "上下線分離となることから、上り線用の仮設駅舎にも一通りの設備を設ける必要があるが、トイレは橋上駅舎のものを引き続き使用した。このため、改札もホームも地平にありながらトイレだけが2階にあり、アクセス用に階段・エレベーター各1本が残る形となった。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2008年12月以降、北口では高架化工事終了後を見据えた整備事業の一つである、東大通りの道路拡張工事のための土地接収および居住住民の退去などが少しずつ進んでいる。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2009年12月5日から6日にかけて、上り線の高架切り替え工事が行われ、上下線とも高架化を完了した。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2011年2月、引き続き上り線側壁工事や旧南北地下自由通路埋め戻し工事などが行われ、完了した。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2014年1月27日、この事業に伴い生まれた高架下空間を活用する中央ラインモール構想に基づき、西口改札(nonowa口)工事およびnonowa東小金井が開業した。JR東日本グループの株式会社JR中央ラインモールが運営を行っている。同年7月17日には、nonowa東小金井の別館として、HIGAKO marcheが開業した。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2017年3月16日に北口の駅前広場交通ロータリーが開業した。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "駅周辺の南北往来は東大通り(全て可)、駅改札通路(歩行者)、駅改札通路外南北通路(歩行者・自転車)で可能である。", "title": "高架化工事に伴う線路切り替えについて" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "駅周辺に大型の商業施設が無く、周辺の他駅と比べてかなり閑散としている。駅のロータリーから50mほどの場所には畑があるなど、空き地も目立っている。武蔵野市や国立市と併せて、油そばの発祥の地と呼ばれるエリアの一つである。大学のキャンパスが多く点在しており、閑静な住宅街と学生街との二面性を併せ持つ街である。駅南口にある日本歯科大学グラウンドでは毎年盆踊り大会が開催される。東京都立小金井公園や同園内にある江戸東京たてもの園まではコミュニティバスで10分程である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "高架対応実施前は、当駅北側に高架複々線工事早期着工を請願する「多摩の福福」とキャッチコピーが表記された招き猫の看板が存在した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2014年年11月1日には当駅周辺の高架下で「ののみちヒガコ東・西」のまちびらきが行われ、武蔵境駅 - 当駅間の高架下空間が一体となった。なお、武蔵境駅の高架下を活用した「ののみち サカイ西」は、2014年4月より順次店舗や施設の開業が行われた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "地元では、当駅名ならびに駅周辺地域を「ヒガコ」と称すことがある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2020年2月から駅前のロータリーに屋根が設置された。", "title": "駅周辺" } ]
東小金井駅(ひがしこがねいえき)は、東京都小金井市梶野町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 14。 当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。
{{複数の問題 |ソートキー = 駅 |出典の明記 = 2015年1月 |独自研究 = 2015年1月 }} {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 東小金井駅 |画像 = Higashikoganei-Sta-S.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2016年2月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|42|6.3|N|139|31|29.4|E}}}} |よみがな = ひがしこがねい |ローマ字 = Higashi-Koganei |前の駅 = JC 13 [[武蔵境駅|武蔵境]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 1.7 |次の駅 = [[武蔵小金井駅|武蔵小金井]] JC 15 |電報略号 = ネイ |駅番号 = {{駅番号r|JC|14|#f15a22|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#f15a22|■}}[[中央本線]]([[中央線快速|中央線]]) |キロ程 = 17.1&nbsp;km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から27.4 |所在地 = [[東京都]][[小金井市]][[梶野町]]五丁目1-1 |座標 = {{coord|35|42|6.3|N|139|31|29.4|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面3線 |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[9月10日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 27,605 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|中央改札に導入<ref name="StationCd=1280_231206" />。}}<ref name="StationCd=1280_231206" />}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[File:Higashi-Koganei Station 20180617 north.jpg|thumb|北口(2018年6月)]] '''東小金井駅'''(ひがしこがねいえき)は、[[東京都]][[小金井市]][[梶野町]]五丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JC 14'''。 当駅を含む区間は、運行系統上は「[[中央線快速|中央線]]」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。 == 歴史 == * [[1964年]]([[昭和]]39年)[[9月10日]]:[[日本国有鉄道]]の駅として開業。旅客営業のみ。全額地元住民負担の日本初(狭義上)の[[請願駅]]として誕生した<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASG2K6FTDG2KUTIL05W.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200517173102/https://www.asahi.com/articles/ASG2K6FTDG2KUTIL05W.html|title=(各駅停話)東小金井駅 日本初の請願駅|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2014-02-21|accessdate=2020-05-17|archivedate=2020-05-17}}</ref>。 * [[1965年]](昭和40年)[[4月5日]]:貨物の取扱を開始。 * [[1984年]](昭和59年)[[12月1日]]:貨物の取扱を廃止。[[国鉄ク5000形貨車|ク5000形貨車]]を用いた自動車輸送の拠点駅だった。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |page=27 }}</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[7月31日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用を開始する<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[7月1日]]:下り線高架化<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/070418/press02.pdf|title=中央線高架化工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2007-04-18|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827064128/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/070418/press02.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[12月6日]]:上り線高架化<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090918/chuousen_koji.pdf|title=中央線高架化工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2009-09-18|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827064033/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090918/chuousen_koji.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>、一連の高架化工事が完了。 * [[2014年]](平成26年) ** [[1月27日]]:「[[nonowa]]東小金井」が開業<ref group="報道" name="pr20131114">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20131114/20131114_info_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160427090723/http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20131114/20131114_info_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央ラインモールプロジェクト 「nonowa東小金井」開業!|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR中央ラインモール|date=2013-11-14|accessdate=2020-04-21|archivedate=2016-04-27}}</ref>。西口改札(nonowa口)の供用開始<ref group="報道" name="pr20131114" /><ref group="新聞" name="tokyo-np-2013-11-15-1h">福岡範行(2013年11月15日). “JR東小金井駅 高架下に商業施設 来年1月オープン”. [[東京新聞]] (中日新聞社)</ref>。 ** [[7月17日]]:「nonowa東小金井」の別館として、「HIGAKO marche」が開業<ref group="報道" name="20140625_newsrelease_nonowahigashikoganei_higakomarche_open">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/20140625_newsrelease_nonowahigashikoganei_higakomarche_open.pdf|title=nonowa東小金井 生鮮食料品館 『HIGAKO marche(ヒガコマルシェ)』 7月17日(木)10時開業!|format=PDF|publisher=JR中央ラインモール|date=2014-06-25|accessdate=2020-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613161300/http://www.nonowa.co.jp/company/release/20140625_newsrelease_nonowahigashikoganei_higakomarche_open.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[2月1日]]:早朝無人化。 ** [[4月1日]]:業務委託化。委託先は株式会社JR中央ラインモール<ref group="報道" name="press/20150316_info03">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20150316/20150316_info03.pdf|title=「nonowa国立」第1期 2015年4月18日(土)開業|format=PDF|page=2|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR中央ラインモール|date=2015-03-16|accessdate=2020-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412070830/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20150316/20150316_info03.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[6月30日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="close-window">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=1280|title=駅の情報(東小金井駅):JR東日本|accessdate=2018-06-01|publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://archive.li/xGSrP|archivedate=2018-06-01}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[7月30日]]:nonowa東小金井westの第一期リニューアルがオープン<ref>{{Cite web|和書|title=nonowa東小金井WESTが生まれ変わります!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000049.000005566.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-01-20}}</ref>。 == 駅構造 == 下り方面が[[単式ホーム]]1面1線、上り方面が[[島式ホーム]]1面2線、計2面3線のホームを有する[[高架駅]]である。 地上時代は[[橋上駅|橋上駅舎]]で、[[相対式ホーム]]2面2線を有していた。かつて当駅西側に改札を新設するよう請願もあったものの実現しないまま高架化に至ったが、2014年1月27日に[[nonowa]]東小金井およびnonowa口改札開業<ref group="報道" name="pr20131114" />に伴い、実現された。ただし、nonowa口は[[Suica]]等のICカード乗車券専用改札<ref group="報道" name="pr20131114" />で、改札口付近には[[千円紙幣]]のみ利用可能なチャージ機が設置されている。 開業した頃は、武蔵境寄りに自動車を積み下ろしするための設備が設けられていた。 [[JR中央線コミュニティデザイン]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で、[[三鷹駅|三鷹営業統括センター]]が当駅を管理している。[[自動券売機]]・多機能券売機・[[指定席券売機]]・[[自動改札機]]が設置されている。[[みどりの窓口]]は[[2018年]][[6月30日]]をもって営業を終了した<ref name="close-window" />。また、中央改札には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=1280_231206">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1280|title=駅の情報(東小金井駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231206114453/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1280|archivedate=2023-12-06}}</ref>。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=3|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 |style="text-align:center"|上り |[[三鷹駅|三鷹]]・[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !2 |style="text-align:center"| | |- !3 |style="text-align:center"|下り |[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面 |} (出典:JR東日本:駅構内図<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1280.html|title=JR東日本:駅構内図(東小金井駅)|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|accessdate=2021-12-29}}</ref>) 2番線は両方向の進入・出発に対応している。そのため、実際の案内標には路線名しか記載されていない。上りの一部に、当駅で通勤特快(※平日朝のみ)・特急列車の通過待ちを行う列車が設定されている。また、2012年3月17日ダイヤ改正より朝の上り列車が1番線・2番線ホームから交互に発車しているほか、平日11時02分快速東京行き(通過待ちがあるかは不明)、平日夕方の18時11分発は通過待ちを行わないが2番線に発着している。(通常は通過待ちをしないが、臨時列車ダイヤが設定されている為、2番線に発着している。) なお、2番線については2022年現在は12両化工事の影響で、下り方面に信号機がないため、下り電車の待避や高尾方面への折り返し運転はできなくなっている。 1・2番線からの電車は深夜の三鷹行き2本以外全て快速電車である。 JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建てグリーン車を2両連結し12両編成運転を行う。そのため、当駅はホームの12両編成対応への改築工事などが実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。 <gallery> JR Chuo-Main-Line Higashi-Koganei Station Central Gates.jpg|中央改札(2019年9月) JR Chuo-Main-Line Higashi-Koganei Station nonowa Gates.jpg|nonowa口改札(2019年9月) JR Chuo-Main-Line Higashi-Koganei Station Platform.jpg|ホーム(2019年9月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''27,605人'''である。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.koganei.lg.jp/shisei/461/520/koganeinotoukei/index.html 市勢統計書「こがねいのとうけい」] - 小金井市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |21,953 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |22,680 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |24,682 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |25,016 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |24,748 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |24,839 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |25,411 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |25,278 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |25,318 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |25,932 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>26,710 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] -JR東日本</ref>26,962 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>27,323 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>27,807 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>27,934 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>28,130 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>28,108 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>28,676 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>28,337 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>27,893 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>27,821 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>27,535 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>27,974 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>28,908 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>29,088 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>30,039 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>30,502 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>31,093 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>31,553 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>31,758 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>21,768 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>24,186 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>27,605 | |} == 高架化工事に伴う線路切り替えについて == 2003年9月に線路を切り替えた際、上り線のみ北に移動させたため駅西側を通る東大通り([[東京都道247号府中小金井線|都道247号]])の東町[[踏切]]では横断距離も遮断時間も長くなり、駅構内を[[自転車]]で通過する高校生が増えるなど、[[開かずの踏切]]として[[社会問題]]となった。また、橋上駅舎の自転車通行に対応するため、[[エレベーター]]は南口・北口ともに2基ずつ、合計で4基並べて設置されていた。その後、踏切の横断距離は元に戻り、南口閉鎖と地下通路新設により駅舎内の自転車通行は減少したが、駅構内の「自転車は降りて引いてください」の掲示はそのまま残されている。また、地下通路用のエレベーターが南口・北口に各1基ずつ設置されていた。 南口には小規模な[[商店街]]が形成されている。北口は中央線高架化工事終了後を見据えた[[土地区画整理事業]]および駅前整備事業が進められている。 中央線高架化工事の進行に伴い、2006年3月13日より南口が閉鎖されたため、駅の南側へ行くには北口から新設の地下通路を通る必要があり、歩く時間が長くなった。 2007年6月30日から7月1日にかけて下り線で高架切り替え工事が実施された。この切り替えにより橋上駅舎の[[改札]]口が廃止され、上下線で別々の改札口を持つ形態となった(前述の北口2連エレベーターは使用停止となった)。下り線は本設となる高架下改札口を使用し、上り線はホーム脇に設置される地平の仮設改札口を使用するが、下り線は南口・上り線は北口にしか接続しないため、南北相互の連絡は改札外の地下通路か東町踏切に頼ることとなった。 東町踏切は以前は南北往来が歩行者・自転車のみ可能で、[[自動車]]および[[オートバイ]]は北方面から南方面にのみの一方通行になっていたが、2012年に工事が終了し[[自動車]]および[[オートバイ]]の南北往来が可能になった。 上下線分離となることから、上り線用の仮設駅舎にも一通りの設備を設ける必要があるが、[[便所|トイレ]]は橋上駅舎のものを引き続き使用した。このため、改札もホームも地平にありながらトイレだけが2階にあり、アクセス用に階段・エレベーター各1本が残る形となった。 2008年12月以降、北口では高架化工事終了後を見据えた整備事業の一つである、東大通りの道路拡張工事のための土地接収および居住住民の退去などが少しずつ進んでいる。 2009年12月5日から6日にかけて、上り線の高架切り替え工事が行われ、上下線とも高架化を完了した。 2011年2月、引き続き上り線側壁工事や旧南北地下自由通路埋め戻し工事などが行われ、完了した。 2014年1月27日、この事業に伴い生まれた高架下空間を活用する中央ラインモール構想に基づき、西口改札(nonowa口)工事およびnonowa東小金井が開業した<ref group="報道" name="pr20131114" />。JR東日本グループの株式会社JR中央ラインモールが運営を行っている<ref group="報道" name="pr20131114" />。同年7月17日には、nonowa東小金井の別館として、HIGAKO marcheが開業した<ref group="報道" name="20140625_newsrelease_nonowahigashikoganei_higakomarche_open" />。 2017年3月16日に北口の駅前広場交通ロータリーが開業した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.koganei.lg.jp/smph/shisei/seisakukeikaku/machitoshi/eki/higashikoganeikita/D0607010.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170317054427/http://www.city.koganei.lg.jp/smph/shisei/seisakukeikaku/machitoshi/eki/higashikoganeikita/D0607010.html|title=東小金井駅北口駅前交通広場ロータリーの供用開始について|archivedate=2017-03-17|date=2017-03-15|accessdate=2020-06-14|publisher=小金井市|language=日本語}}</ref>。 駅周辺の南北往来は東大通り(全て可)、駅改札通路(歩行者)、駅改札通路外南北通路(歩行者・自転車)で可能である。 <gallery widths="180" heights="120"> Higashikoganei-Station-2008-12-24north.JPG|2009年12月5日まで使用された上り線用の仮設駅舎(北口) Higashikoganei-Station-2008-11-17northPlatform.JPG|上り用の仮設ホーム Higashikoganei-Station-2007-7-2platformNo.2.JPG|高架化直後の下りホーム </gallery> == 駅周辺 == {{See also|梶野町|東町 (小金井市)|中町 (小金井市)|緑町 (小金井市)}} 駅周辺に大型の商業施設が無く、周辺の他駅と比べてかなり閑散としている。駅のロータリーから50mほどの場所には畑があるなど、空き地も目立っている。[[武蔵野市]]や[[国立市]]と併せて、[[油そば]]の発祥の地と呼ばれるエリアの一つである。[[大学]]の[[キャンパス]]が多く点在しており、閑静な住宅街と学生街との二面性を併せ持つ街である。駅南口にある[[日本歯科大学]]グラウンドでは毎年[[盆踊り]]大会が開催される。東京都立小金井公園や同園内にある江戸東京たてもの園までは[[コミュニティバス]]で10分程である。 高架対応実施前は、当駅北側に高架[[複々線]]工事早期着工を請願する「多摩の福福」と[[キャッチコピー]]が表記された[[招き猫]]の看板が存在した。 2014年年11月1日には当駅周辺の高架下で「ののみちヒガコ東・西」のまちびらきが行われ、武蔵境駅 - 当駅間の高架下空間が一体となった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20141017/20141017_info_02.pdf|title=緑×人×街 つながる 中央ラインモールプロジェクト 駅と駅がつながります ~武蔵境・東小金井駅間 高架下空間「ののみち」まちびらき~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR中央ラインモール|date=2014-10-17|accessdate=2020-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613154432/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20141017/20141017_info_02.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。なお、武蔵境駅の高架下を活用した「ののみち サカイ西」は、2014年4月より順次店舗や施設の開業が行われた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/20140318_newsrelease_sakaiwest_open.pdf|title=武蔵境駅西側高架下街区「ののみち サカイ西」2014年4月より順次開業 ~約1kmの高架下がつながります~|format=PDF|publisher=JR中央ラインモール|date=2014-03-18|accessdate=2020-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613154319/http://www.nonowa.co.jp/company/release/20140318_newsrelease_sakaiwest_open.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。 地元では、当駅名ならびに駅周辺地域を「'''ヒガコ'''」と称すことがある<ref>[http://koganenosato.org/detail/evt/evt0119.html 2012年 ヒガコ サマーフエスティバル] 小金井産業振興ホームページ</ref>。 === 北口 === 2020年2月から駅前のロータリーに屋根が設置された<ref>{{Cite web|和書|title=東小金井駅北口のロータリー屋根、完成形が見えてきました。|url=https://kogaomo.com/2020/02/25/%E6%9D%B1%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E9%A7%85%E5%8C%97%E5%8F%A3%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B1%8B%E6%A0%B9%E3%80%81%E5%AE%8C%E6%88%90%E5%BD%A2%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%88/|website=小金井をおもしろくする会|accessdate=2020-04-05|language=ja}}</ref>。 <!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店、ATM設置のみの銀行無人店舗、交番などの小規模な公的施設、ゲーセン、パチンコ屋は記載しない--> {{columns-list|2| * 東日本旅客鉄道 武蔵境交流[[変電所]] * [[東京都水道局]] 梶野浄水所 * 小金井市婦人会館 * [[法政大学#小金井キャンパス|法政大学 小金井キャンパス]] * [[亜細亜大学]] * [[東京電機大学中学・高等学校]] * [[東京都立小金井北高等学校]] * [[学校法人武蔵野東学園|武蔵野東中学校]] * [[小金井市立小金井第三小学校]] * [[小金井市立緑小学校]] * [[小金井市立緑中学校]] * 小金井市立けやき保育園 * [[小金井公園|東京都立小金井公園]] ** [[江戸東京たてもの園]] * 浴恩館公園(小金井市文化財センター) * 梶野公園 * [[小金井カントリークラブ]] * [[スタジオジブリ]]([[アニメ制作会社]]) * [[イーゼル芸術工房]](東京オフィス&ギャラリー) * [[マルエツ]] 東小金井駅北口店 * [[トモズ]] 東小金井店 * [[西松屋]] 小金井緑町店 * パピスプラザ ** [[ゼクシズ]](アニメ制作会社) ** [[フィール (アニメ制作会社)|フィール]](アニメ制作会社) ** Assez Finaud Fabric.(アニメ制作会社) |}} === 南口 === {{columns-list|2| * マロンホール(東小金井駅開設記念会館)- 南口から徒歩5分の場所にある。当駅を創設した小金井市民が、その歴史を後世に伝えようと建設した民間施設だったが、管理上の問題で土地建物が市に移管され、2005年(平成17年)10月1日に「マロンホール」の愛称を付してリニューアルオープンした。「マロン」の名は、当地の旧字名「栗山」に因む。 * [[東京農工大学]] 小金井キャンパス * [[国際基督教大学]] * [[ルーテル学院大学]] * [[東京神学大学]] * [[社会医学技術学院]] * [[国際基督教大学高等学校]] * [[小金井市立東小学校]] ** 小金井市教職員研修センター * [[小金井市立東中学校]] * 小金井市立くりのみ保育園 * [[武蔵野公園|東京都立武蔵野公園]] * [[野川公園|東京都立野川公園]] * 栗山公園 ** 栗山公園健康運動センター * 日本歯科大学付属口腔リハビリテーション 多摩クリニック * 武蔵野中央病院 * 東小金井駅前郵便局 * [[昭和信用金庫]] 東小金井支店 * [[多磨霊園]] * [[府中運転免許試験場]] - 試験場へのバスは隣の武蔵小金井駅、[[三鷹駅]]に発着。 * [[新小金井駅]]([[西武多摩川線]]) - 連絡駅ではないが、事故時には[[振替輸送]]が行われることがある。 * [[ピーコックストア]] 東小金井店 ** [[セリア (100円ショップ)|セリア]] 東小金井店 * 商店街シェアスペースひがこ日和(旧小金井タウンショップ黄金や) |}} == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!停留所名!!系統・行先 |- !colspan="3"|北口 |- |style="text-align:center;"|[[京王電鉄バス]] |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''東小金井駅''' |{{Unbulleted list|[[京王電鉄バス小金井営業所#関野橋線|'''武02''']]:[[本町 (小金井市)|本町]]五丁目|'''東01''':関野橋循環|[[京王電鉄バス小金井営業所#井口線|'''境82''']]:[[武蔵境駅]]南口}} |- |style="text-align:center;"|[[CoCoバス]] |[[CoCoバス#北東部循環(1号線)|'''北東部循環''']]:[[武蔵小金井駅]]北口 |- |style="text-align:center;"|[[ムーバス]] |style="text-align:center;"|'''東小金井駅北口''' |[[ムーバス#境・東小金井線|'''境・東小金井線''']]:[[武蔵境駅]]北口 |- !colspan="3"|南口 |- |style="text-align:center;"|CoCoバス |style="text-align:center;"|'''東小金井駅南口''' |[[CoCoバス#東町循環(3号線)|'''東町循環''']]:東小金井駅南口 |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 ::{{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速 ::: '''通過''' ::{{Color|#f15a22|■}}快速(三鷹発着の「各駅停車」を含む) ::: [[武蔵境駅]] (JC 13) - '''東小金井駅 (JC 14)''' - [[武蔵小金井駅]] (JC 15) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Higashi-Koganei Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[請願駅]] * [[おちこぼれフルーツタルト]] - 東小金井駅周辺を主な舞台としており、劇中にも当駅が登場する。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1280|name=東小金井}} * [https://www.jrccd.co.jp/nonowa/higashikoganei/ nonowa 東小金井|TOP] {{中央快速線}} {{DEFAULTSORT:ひかしこかねいえき}} [[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしこかねい]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅|ひかしこかねい]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅|ひかしこかねい]] [[Category:中央線快速]] [[Category:東京都の鉄道駅|ひかしこかねい]] [[Category:1964年開業の鉄道駅|ひかしこかねい]] [[Category:小金井市の交通]]
2003-09-06T13:29:34Z
2023-12-06T11:49:41Z
false
false
false
[ "Template:駅情報", "Template:Cite press release", "Template:PDFlink", "Template:Commonscat", "Template:See also", "Template:Columns-list", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:複数の問題", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:中央快速線", "Template:Unbulleted list", "Template:Color", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E9%A7%85
15,431
武蔵小金井駅
武蔵小金井駅(むさしこがねいえき)は、東京都小金井市本町六丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 15。 当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。 駅周辺の地名から。ただし、小金井駅は既に栃木県下野市の現・東北本線(宇都宮線の愛称区間)にあり、新小金井駅も既に市内の現・西武多摩川線にあったため、「小金井」に旧国名「武蔵(国)」を冠して駅名とした。地元では「ムサコ」と略されることがあり、「nonowa武蔵小金井・ムサコガーデン」 や駅北口にある商店街「ムサコ一番街」といった施設の名称にも採用されている。 島式ホーム2面4線を持つ高架駅である。改札は2箇所ある。なおnonowa口改札は、交通系ICカードであるSuica、PASMOその他提携カードのみ利用できる。出口は北口と南口があり、自由通路により北口と南口を行き来することができる。また、主本線は外側2線(1・4番線)である。 三鷹営業統括センター管内の直営駅であり、駅長を配置している。 (出典:JR東日本:駅構内図) 新宿・東京方面の電車のうち、直接折り返す電車などの一部列車は2番線を使用する。3番線は2012年6月17日より使用が開始された。 当駅に停車する列車はすべて快速電車である。2020年3月13日までは、総武線に直通する各駅停車や、東京駅発着の各駅停車が運行されていた。 下りの快速は中野駅(土曜・休日ダイヤは吉祥寺駅)から各駅に停車しているため、「各駅停車」と案内されることが多いが、行先のみで案内されることもある。平日早朝の当駅始発の下り列車や当駅止まりの上り列車は各駅に停車するが、時刻表では「快速」と案内されている。 駅の西側に豊田車両センター武蔵小金井派出所がある。このため当駅始発・終点の列車が設定されている。以前は「武蔵小金井電車区」として車両配置もあったが、2004年に豊田電車区(当時)に統合され、車両はすべて移管された。 JR中央線は、2020年代の前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため当駅や車両基地となっている豊田車両センター武蔵小金井派出所は、ホームの12両編成対応への改築および、構内配線の変更・留置線の12両編成対応化工事などが実施される。 導入当初は日本電音、1995年9月28日からは五感工房制作の発車メロディを使用していたが、駅開業80周年となった2006年4月1日に、「さくらさくら」をアレンジしたメロディに変更している。これは江戸時代に玉川上水沿いに植えられた名勝「小金井桜」や小金井公園の桜にちなんだものである。メロディはサウンドフォーラムの制作で、編曲は牧野奈津子が手掛けた。当初は2007年1月14日までの期間限定での使用を予定していたが、その後も継続して使用している。また、同年1月15日には各バージョンの使用番線が入れ替えられた(詳細は下表参照)ほか、3番線には小金井市内に住む障害を持つ子供とその家族らで結成されたハンドベルグループ「トライアングル」が演奏したものを収録した新規のバージョンを採用した。 なお、2020年9月1日には「輸送品質の向上」を目的として、上り線ホーム(3・4番線)のメロディをスイッチ制作の汎用のものに変更している。 2003年から2013年まで施工されていた中央線高架化工事の影響で、駅構造はしばしば変化している。2007年6月30日と7月1日に下り線、2009年12月5日・6日に上り線で、それぞれ高架切り替え工事が行われた。その後2012年5月19日・20日に上り線増設工事が行われ、2面4線の高架駅となった。 工事開始以前は2面3線(下り方面が単式)の地上駅だったが、北口が橋上駅舎化された後、2003年9月28日から暫定的に4面4線となり、翌2004年7月19日から2007年6月30日までは2面3線(上り方面が単式)、2007年7月1日から2009年12月5日までは3面4線(上り方面が地上で相対式、下り方面が高架上で島式)、2009年12月6日から2012年5月19日までは2面3線(上り線が単式)、現在は2面4線(両方とも島式)のホームを有する駅となった。 2009年1月25日に出入口が高架下に移り、1・2番線へはその先の階段・エスカレーター・エレベーターを使い、地上の3番線へは高架下の入口からスロープを使いホームへ向かうことになっていた。4番線へは、全線高架化された後に3・4番線ホームとなる部分が通路として使われていて、北口へ向かう。 かつて南口には当駅が停車場に昇格して以来の緑色の三角屋根が特徴の駅舎があったが、高架化工事に伴い2009年1月24日限りで使用が中止され、解体された。 当駅のホームの変化を示すと、以下のようになる(のりばの番号は南側から数えられている)。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は53,342人で、JR東日本管内の駅の中では長津田駅に次いで第71位。なお、この数は中央快速線東京 - 高尾間で乗り換え路線がない駅の中では三鷹駅に次いで多く、中央快速線内24駅中14位である。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 駅前には中規模の商店街がある。駅の東側は南北に小金井街道が走っており、中央線の高架化以前は踏切で線路と直交していた。 北口はバスターミナルとなっており、多摩地区の各地と結ばれている。バスターミナルに面してドン・キホーテがある。 このバスターミナルから小金井街道までの道が都道135号線であり、バスターミナルから西に伸びる道路は都道136号線である。 南口は小金井街道に面する広場があり、イトーヨーカドーなどの店舗や、中規模の市民ホールである小金井 宮地楽器ホール(小金井市民交流センター)などの公共施設が再開発によって完成した。 南方向には商店街が伸びている。中央線の高架化工事と同時に商店街付近も再開発が進行中で、商店の入れ替わりや建て替えにより2000年代から急激に様変わりしている。南側に少し離れて連雀通りが東西に走る。この道に面して小金井市役所がある。また、元はこの通りに面した市役所分庁舎の前に南口バスターミナルがあった。 西には豊田車両センター武蔵小金井派出所がある。その下を新小金井街道がくぐって線路と直交する。この道は、線路の南北で連雀通り、都道136号と直交する。連雀通りはその西で線路を横切り、都道136号を合流する。 従来、駅東側の小金井街道踏切は「開かずの踏切」だった。また、西の旧小金井市公会堂側の踏切も歩道橋はあるものの同様に「開かずの踏切」だった。特に2003年9月の切り替え直後は横断距離も遮断時間も長くなったことで社会問題になった。その後応急措置として歩道橋を設置した他、翌年の切り替えで横断距離・遮断時間とも切り替え前の水準に戻り、さらに2007年7月の下り線高架でさらに短くなった。そして、2009年12月の上り線高架化により踏切は撤廃され、南北の往来がスムーズとなった。 南口再開発の一環で小金井市公会堂が2006年4月に解体され、同年11月にプラウドタワー武蔵小金井が起工した。 この「武蔵小金井駅南口第1地区再開発ビル」は、イトーヨーカドーを核店舗とするアクウェルモール武蔵小金井が2009年3月19日に開業し、公共施設やマンションも併設された。 2009年9月17日には、バスロータリー南側にライフサポートショッピングセンター「セレオ武蔵小金井」(現nonowa武蔵小金井SOUTH、。)がオープンした。 また、2015年2月19日に高架下に商業施設「nonowa武蔵小金井」→「nonowa武蔵小金井EAST」が、同年12月12日に商業施設「nonowa武蔵小金井WEST」がそれぞれ開業した。 2018年4月14日には、高架下西側に「nonowa武蔵小金井『ムサコガーデン』」が開業し、「nonowa武蔵小金井」全体のリニューアルが完了した。 2020年春には東小金井駅 - 武蔵小金井駅の高架下に、食事付き学生向け賃貸住宅「中央ラインハウス 小金井」が開業した。また、同年6月30日には武蔵小金井駅南口第2地区第一種市街地再開発事業の一環でツインタワー「武蔵小金井シティクロス」とショッピングセンター「ソコラ武蔵小金井クロス」が開業した。 ※ 上記11施設は徒歩移動では少々難があり、バスによる移動が便利である。 小田急バス・京王バス・CoCoバス・東京空港交通が運行する路線が発着する。2009年3月19日より、駅前ロータリーに乗り入れを開始した。 関東バス・京王バス・CoCoバス・西武バスが運行する路線バスが発着する。 その他、降車専用として深夜急行バス 新宿駅発 国立駅行のバスも停車する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "武蔵小金井駅(むさしこがねいえき)は、東京都小金井市本町六丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 15。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅周辺の地名から。ただし、小金井駅は既に栃木県下野市の現・東北本線(宇都宮線の愛称区間)にあり、新小金井駅も既に市内の現・西武多摩川線にあったため、「小金井」に旧国名「武蔵(国)」を冠して駅名とした。地元では「ムサコ」と略されることがあり、「nonowa武蔵小金井・ムサコガーデン」 や駅北口にある商店街「ムサコ一番街」といった施設の名称にも採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を持つ高架駅である。改札は2箇所ある。なおnonowa口改札は、交通系ICカードであるSuica、PASMOその他提携カードのみ利用できる。出口は北口と南口があり、自由通路により北口と南口を行き来することができる。また、主本線は外側2線(1・4番線)である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "三鷹営業統括センター管内の直営駅であり、駅長を配置している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新宿・東京方面の電車のうち、直接折り返す電車などの一部列車は2番線を使用する。3番線は2012年6月17日より使用が開始された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当駅に停車する列車はすべて快速電車である。2020年3月13日までは、総武線に直通する各駅停車や、東京駅発着の各駅停車が運行されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "下りの快速は中野駅(土曜・休日ダイヤは吉祥寺駅)から各駅に停車しているため、「各駅停車」と案内されることが多いが、行先のみで案内されることもある。平日早朝の当駅始発の下り列車や当駅止まりの上り列車は各駅に停車するが、時刻表では「快速」と案内されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅の西側に豊田車両センター武蔵小金井派出所がある。このため当駅始発・終点の列車が設定されている。以前は「武蔵小金井電車区」として車両配置もあったが、2004年に豊田電車区(当時)に統合され、車両はすべて移管された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "JR中央線は、2020年代の前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため当駅や車両基地となっている豊田車両センター武蔵小金井派出所は、ホームの12両編成対応への改築および、構内配線の変更・留置線の12両編成対応化工事などが実施される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "導入当初は日本電音、1995年9月28日からは五感工房制作の発車メロディを使用していたが、駅開業80周年となった2006年4月1日に、「さくらさくら」をアレンジしたメロディに変更している。これは江戸時代に玉川上水沿いに植えられた名勝「小金井桜」や小金井公園の桜にちなんだものである。メロディはサウンドフォーラムの制作で、編曲は牧野奈津子が手掛けた。当初は2007年1月14日までの期間限定での使用を予定していたが、その後も継続して使用している。また、同年1月15日には各バージョンの使用番線が入れ替えられた(詳細は下表参照)ほか、3番線には小金井市内に住む障害を持つ子供とその家族らで結成されたハンドベルグループ「トライアングル」が演奏したものを収録した新規のバージョンを採用した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、2020年9月1日には「輸送品質の向上」を目的として、上り線ホーム(3・4番線)のメロディをスイッチ制作の汎用のものに変更している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2003年から2013年まで施工されていた中央線高架化工事の影響で、駅構造はしばしば変化している。2007年6月30日と7月1日に下り線、2009年12月5日・6日に上り線で、それぞれ高架切り替え工事が行われた。その後2012年5月19日・20日に上り線増設工事が行われ、2面4線の高架駅となった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "工事開始以前は2面3線(下り方面が単式)の地上駅だったが、北口が橋上駅舎化された後、2003年9月28日から暫定的に4面4線となり、翌2004年7月19日から2007年6月30日までは2面3線(上り方面が単式)、2007年7月1日から2009年12月5日までは3面4線(上り方面が地上で相対式、下り方面が高架上で島式)、2009年12月6日から2012年5月19日までは2面3線(上り線が単式)、現在は2面4線(両方とも島式)のホームを有する駅となった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2009年1月25日に出入口が高架下に移り、1・2番線へはその先の階段・エスカレーター・エレベーターを使い、地上の3番線へは高架下の入口からスロープを使いホームへ向かうことになっていた。4番線へは、全線高架化された後に3・4番線ホームとなる部分が通路として使われていて、北口へ向かう。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "かつて南口には当駅が停車場に昇格して以来の緑色の三角屋根が特徴の駅舎があったが、高架化工事に伴い2009年1月24日限りで使用が中止され、解体された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当駅のホームの変化を示すと、以下のようになる(のりばの番号は南側から数えられている)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は53,342人で、JR東日本管内の駅の中では長津田駅に次いで第71位。なお、この数は中央快速線東京 - 高尾間で乗り換え路線がない駅の中では三鷹駅に次いで多く、中央快速線内24駅中14位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "駅前には中規模の商店街がある。駅の東側は南北に小金井街道が走っており、中央線の高架化以前は踏切で線路と直交していた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "北口はバスターミナルとなっており、多摩地区の各地と結ばれている。バスターミナルに面してドン・キホーテがある。 このバスターミナルから小金井街道までの道が都道135号線であり、バスターミナルから西に伸びる道路は都道136号線である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "南口は小金井街道に面する広場があり、イトーヨーカドーなどの店舗や、中規模の市民ホールである小金井 宮地楽器ホール(小金井市民交流センター)などの公共施設が再開発によって完成した。 南方向には商店街が伸びている。中央線の高架化工事と同時に商店街付近も再開発が進行中で、商店の入れ替わりや建て替えにより2000年代から急激に様変わりしている。南側に少し離れて連雀通りが東西に走る。この道に面して小金井市役所がある。また、元はこの通りに面した市役所分庁舎の前に南口バスターミナルがあった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "西には豊田車両センター武蔵小金井派出所がある。その下を新小金井街道がくぐって線路と直交する。この道は、線路の南北で連雀通り、都道136号と直交する。連雀通りはその西で線路を横切り、都道136号を合流する。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "従来、駅東側の小金井街道踏切は「開かずの踏切」だった。また、西の旧小金井市公会堂側の踏切も歩道橋はあるものの同様に「開かずの踏切」だった。特に2003年9月の切り替え直後は横断距離も遮断時間も長くなったことで社会問題になった。その後応急措置として歩道橋を設置した他、翌年の切り替えで横断距離・遮断時間とも切り替え前の水準に戻り、さらに2007年7月の下り線高架でさらに短くなった。そして、2009年12月の上り線高架化により踏切は撤廃され、南北の往来がスムーズとなった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "南口再開発の一環で小金井市公会堂が2006年4月に解体され、同年11月にプラウドタワー武蔵小金井が起工した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この「武蔵小金井駅南口第1地区再開発ビル」は、イトーヨーカドーを核店舗とするアクウェルモール武蔵小金井が2009年3月19日に開業し、公共施設やマンションも併設された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年9月17日には、バスロータリー南側にライフサポートショッピングセンター「セレオ武蔵小金井」(現nonowa武蔵小金井SOUTH、。)がオープンした。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、2015年2月19日に高架下に商業施設「nonowa武蔵小金井」→「nonowa武蔵小金井EAST」が、同年12月12日に商業施設「nonowa武蔵小金井WEST」がそれぞれ開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2018年4月14日には、高架下西側に「nonowa武蔵小金井『ムサコガーデン』」が開業し、「nonowa武蔵小金井」全体のリニューアルが完了した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2020年春には東小金井駅 - 武蔵小金井駅の高架下に、食事付き学生向け賃貸住宅「中央ラインハウス 小金井」が開業した。また、同年6月30日には武蔵小金井駅南口第2地区第一種市街地再開発事業の一環でツインタワー「武蔵小金井シティクロス」とショッピングセンター「ソコラ武蔵小金井クロス」が開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "※ 上記11施設は徒歩移動では少々難があり、バスによる移動が便利である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "小田急バス・京王バス・CoCoバス・東京空港交通が運行する路線が発着する。2009年3月19日より、駅前ロータリーに乗り入れを開始した。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "関東バス・京王バス・CoCoバス・西武バスが運行する路線バスが発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その他、降車専用として深夜急行バス 新宿駅発 国立駅行のバスも停車する。", "title": "バス路線" } ]
武蔵小金井駅(むさしこがねいえき)は、東京都小金井市本町六丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJC 15。 当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。
{{pp-move-vd|small=y}} {{Otheruseslist|東京都[[小金井市]]にあるJR東日本の駅<!--|'''栃木県[[下野市]]'''にあるJR東日本の駅|小金井駅|-->|東京都小金井市にある'''[[西武鉄道]]'''の駅|新小金井駅|'''東京都[[小平市]]'''にある西武鉄道の駅|花小金井駅|「小金井」が付く駅名のまとめ|小金井#鉄道}} {{出典の明記 |ソートキー = 駅むさしこかねい |date = 2015年2月25日 (水) 04:33 (UTC) }} {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 武蔵小金井駅 |画像 = Musasikoganei-Sta-S.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2013年8月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|42|4.8|N|139|30|23.2|E}}}} |よみがな = むさしこがねい |ローマ字 = Musashi-Koganei |前の駅 = JC 14 [[東小金井駅|東小金井]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 2.3 |次の駅 = [[国分寺駅|国分寺]] JC 16 |電報略号 = ムコ{{Refnest|group="注釈"|[[京都府]][[向日市]]にある[[東海道本線]]([[JR京都線]])の[[向日町駅]]も電報略号は同じ『ムコ』で重複している。同駅に隣接して[[吹田総合車両所]]京都支所(旧[[京都総合運転所]])があり、同所がかつては向日町運転所と称したことから車両基地の略号も旧[[武蔵小金井電車区]](国鉄時代は東ムコ→西ムコ、JR東日本移行後は東ムコ→八ムコ)と同じ「ムコ」(国鉄時代は大ムコ。JR西日本に移行後は近ムコ→本ムコ→京ムコ、さらに京キト→近キトと変化)だった。}} |駅番号 = {{駅番号r|JC|15|#f15a22|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#f15a22|■}}[[中央本線]]([[中央線快速|中央線]]) |キロ程 = 18.8&nbsp;km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から29.1 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[小金井市]]本町六丁目14-29 |座標 = {{coord|35|42|4.8|N|139|30|23.2|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[1月15日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=178}}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 53,342 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=1526"/>}} }} [[File:Musasikoganei-Sta-N.JPG|thumb|北口(2016年2月)]] '''武蔵小金井駅'''(むさしこがねいえき)は、[[東京都]][[小金井市]]本町六丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JC 15'''。 当駅を含む区間は、運行系統上は「[[中央線快速|中央線]]」と案内される。運転形態の詳細については該当記事を参照のこと。 == 歴史 == * [[1924年]]([[大正]]13年)[[4月4日]]:観桜のため、[[鉄道省]]の'''武蔵小金井[[仮乗降場]]'''として開業{{R|停車場}}。 * [[1926年]](大正15年)[[1月15日]]:停車場に昇格、'''武蔵小金井駅'''となる{{R|停車場}}。旅客営業のみ{{R|停車場}}。 * [[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[9月1日]]:構内に武蔵小金井電車区が完成。 * [[1977年]](昭和52年)[[7月10日]]:[[みどりの窓口]]を設置<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=武蔵小金井駅にみどりの窓口 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1977-07-08 |page=1 }}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1994年]]([[平成]]4年)[[8月7日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[9月28日]]:[[発車メロディ]]を変更。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[10月17日]]:<!--高架化終了まで-->暫定的に車いす利用者、高齢者、妊娠中の女性に限り入場券なしで構内を通過する措置を実施<ref group="新聞">{{Cite news |title=構内自由通行OK/武蔵小金井駅踏切安全対策/車いす利用者ら |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |page=31(朝刊・東京<都心>) |date=2003.10.18 }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[4月1日]]:発車メロディを「[[さくらさくら]]」に変更<ref group="報道" name="press/koganei">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/koganei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427073052/https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/koganei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=武蔵小金井駅開業80周年記念イベント及びオープニングセレモニーの実施について|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2006-03-23|accessdate=2020-04-27|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年) ** [[7月1日]]:下り線高架化<ref group="報道" name="press/070418">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/070418/press02.pdf|title=中央線高架化工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2007-04-18|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827064128/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/070418/press02.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>。 ** [[11月25日]]:構内の武蔵小金井電車区が豊田車両センター武蔵小金井派出所に改称。 * [[2009年]](平成21年)[[12月6日]]:上り線高架化<ref group="報道" name="press/chuousen_koji">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090918/chuousen_koji.pdf|title=中央線高架化工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2009-09-18|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827064033/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090918/chuousen_koji.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[5月20日]]:上り線4番線ホームが新設<ref group="報道" name="press/20120223_info01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20120223/20120223_info01.pdf|title=中央線武蔵小金井駅切換工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2012-02-23|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827063905/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20120223/20120223_info01.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[2月19日]]:高架下に商業施設「nonowa武蔵小金井」(現:nonowa武蔵小金井EAST)が開業<ref group="報道" name="press/20150115_info02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20150115/20150115_info02.pdf|title=「nonowa 武蔵小金井」第1期 2015年2月19日(木)開業|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR中央ラインモール|date=2015-01-15|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411163812/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20150115/20150115_info02.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref><ref group="新聞" name="mainichi-np-2015-2-21">森下功(2015年2月21日). “商業施設:「nonowa」オープン 武蔵小金井駅”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。 ** [[12月12日]]:高架下に商業施設「nonowa武蔵小金井WEST」が開業。nonowa口改札(交通系ICカード専用改札)を開設<ref group="報道" name="press/20151008_info02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20151008/20151008_info02.pdf|title=2015年12月12日(土)nonowa 武蔵小金井 WEST 開業!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR中央ラインモール|date=2015-10-08|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411163857/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20151008/20151008_info02.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref><ref group="報道" name="press/20151119_newsrelease_nonowamusashikoganeiwest_open">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/20151119_newsrelease_nonowamusashikoganeiwest_open.pdf|title=~“ムサコ”の街がもっと便利に ~2015年12月12日(土)10時 nonowa武蔵小金井WEST いよいよオープン!|format=PDF|publisher=JR中央ラインモール|date=2015-11-19|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612165245/http://www.nonowa.co.jp/company/release/20151119_newsrelease_nonowamusashikoganeiwest_open.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[9月1日]]:上り線ホーム(3・4番線)の[[発車メロディ]]を変更。 * [[2022年]](令和4年) ** [[9月16日]]:みどりの窓口の営業を終了<ref name="StationCd=1526">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1526|title=駅の情報(武蔵小金井駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220809133717/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1526|archivedate=2022-08-09}}</ref><ref name="jtsu-20220530">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_7e0417f1fa55437a8f6216fae19517ad.pdf|title=「2022年度営業関係施策」提案を受ける!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組八王子地本|date=2022-05-30|accessdate=2022-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220530123520/https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_7e0417f1fa55437a8f6216fae19517ad.pdf|archivedate=2022-05-30}}</ref>。 ** [[9月17日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd=1526" /><ref name="jtsu-20220530" />。 === 駅名の由来 === 駅周辺の地名から。ただし、[[小金井駅]]は既に[[栃木県]][[下野市]]{{Refnest|group="注釈"|[[2006年]](平成18年)[[1月10日]]までは、旧・[[下都賀郡]][[国分寺町 (栃木県)|国分寺町]]}}の現・[[東北本線]]([[宇都宮線]]の愛称区間)にあり、[[新小金井駅]]も既に市内の現・[[西武多摩川線]]にあったため、「小金井」に旧国名「[[武蔵国|武蔵(国)]]」を冠して駅名とした。地元では「[[ムサコ]]」と略されることがあり、「nonowa武蔵小金井・ムサコガーデン」<ref>{{Cite web|和書| url = https://trafficnews.jp/post/80241 | title = 「ムサコ」ってどこ? 武蔵小金井、武蔵小杉、武蔵小山… 地元ではどう呼ばれるのか (1/3) |website=乗りものニュース | date = 2018-04-19 | accessdate = 2020-02-03 }}</ref> や{{要出典範囲|date=2020年2月3日 (月) 14:52 (UTC)|駅北口にある商店街「ムサコ一番街」}}といった施設の名称にも採用されている。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線を持つ[[高架駅]]である。改札は2箇所ある。なおnonowa口改札は、交通系ICカードであるSuica、PASMOその他提携カードのみ利用できる。出口は北口と南口があり、自由通路により北口と南口を行き来することができる。また、主本線は外側2線(1・4番線)である。 三鷹営業統括センター管内の直営駅であり、駅長を配置している。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |rowspan="2"|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 |style="text-align:center"|下り |[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面<ref name="stations/1526">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1526.html|title=駅構内図(武蔵小金井駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-03}}</ref> | |- !3・4 |style="text-align:center"|上り |[[三鷹駅|三鷹]]・[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面<ref name="stations/1526" /> |一部列車は2番線 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1526.html JR東日本:駅構内図]) 新宿・東京方面の電車のうち、直接折り返す電車などの一部列車は2番線を使用する。3番線は2012年6月17日より使用が開始された。 当駅に停車する列車はすべて快速電車である。2020年3月13日までは、[[中央・総武緩行線|総武線]]に直通する各駅停車や、東京駅発着の各駅停車が運行されていた。 下りの快速は[[中野駅 (東京都)|中野駅]](土曜・休日ダイヤは[[吉祥寺駅]])から各駅に停車しているため、「[[各駅停車]]」と案内されることが多いが、行先のみで案内されることもある。平日早朝の当駅始発の下り列車や当駅止まりの上り列車は各駅に停車するが、時刻表では「快速」と案内されている。 駅の西側に[[豊田車両センター#武蔵小金井派出|豊田車両センター武蔵小金井派出所]]がある。このため当駅始発・終点の列車が設定されている。以前は「武蔵小金井電車区」として車両配置もあったが、2004年に豊田電車区(当時)に統合され、車両はすべて移管された。 JR中央線は、[[2020年代]]の前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため当駅や車両基地となっている豊田車両センター武蔵小金井派出所は、ホームの12両編成対応への改築および、構内配線の変更・留置線の12両編成対応化工事などが実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-27|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Musashi-koganei station free passage.jpg|自由通路(改札口・北口を望む)<br />『日本の「とき」標準時刻が生まれるまち』と書かれた時計が設置されている。<br />(2015年12月) JR East Musashi-Koganei Station Central Gate.jpg|中央改札(2022年9月) JR East Musashi-Koganei Station nonowa Gate.jpg|nonowa口改札(2022年9月) JR East Musashi-Koganei Station Ticket Counter.jpg|切符売り場(2022年9月) JR East Musashi-Koganei Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2022年10月) JR East Musashi-Koganei Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2022年10月) </gallery> === 発車メロディ === 導入当初は[[日本電音]]、1995年9月28日からは[[五感工房]]制作の発車メロディを使用していたが、駅開業80周年となった2006年4月1日に、「[[さくらさくら]]」をアレンジしたメロディに変更している<ref name="press/koganei" group="報道" />。これは[[江戸時代]]に[[玉川上水]]沿いに植えられた名勝「小金井桜」や[[小金井公園]]の[[サクラ|桜]]にちなんだものである。メロディはサウンドフォーラムの制作で、編曲は牧野奈津子が手掛けた。当初は2007年1月14日までの期間限定での使用を予定していたが、その後も継続して使用している。また、同年1月15日には各バージョンの使用番線が入れ替えられた(詳細は下表参照)ほか、3番線には小金井市内に住む障害を持つ子供とその家族らで結成された[[ハンドベル]]グループ「トライアングル」が演奏したものを収録した新規のバージョン{{Refnest|グループのメンバーだったJRの社員が当駅の駅長に使用を申し入れたことから採用された。このバージョンも当初は1年間の期間限定での使用を予定していたが、好評であったことから期間が延長され、2020年に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作のメロディに変更されるまで長らく使用された。|group=注釈}}を採用した。 なお、2020年9月1日には「輸送品質の向上」を目的として、上り線ホーム(3・4番線)のメロディを[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の汎用のものに変更している。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" |+'''現在の発車メロディ''' !1 |さくらさくら verA |- !2 |さくらさくら verB |- !3 |ムーンストーン |- !4 |木もれ陽の散歩道 |} {| class="wikitable" |+発車メロディ「さくらさくら」の変遷 !使用期間 !1番線 !2番線 !3番線 !4番線 |- !2006年4月1日 - |verB |verC |verA |rowspan="2" | |- !2007年1月15日 - | rowspan="6" |verA | rowspan="6" |verB |verD |- !2007年7月1日 - | rowspan="2" |verC |verD |- !2009年12月6日 - | rowspan="3" | |- !2009年12月25日 - |verD |- !2012年5月20日 - | rowspan="2" |verC |- !2012年6月17日 - 2020年8月31日 |verD |} === 高架化工事に伴う変化 === 2003年から2013年まで施工されていた[[中央線快速#連続立体交差事業|中央線高架化工事]]の影響で、駅構造はしばしば変化している。2007年6月30日と7月1日に下り線<ref group="報道" name="press/070418" />、2009年12月5日・6日に上り線<ref group="報道" name="press/chuousen_koji" />で、それぞれ高架切り替え工事が行われた。その後2012年5月19日・20日に上り線増設工事が行われ<ref group="報道" name="press/20120223_info01" />、2面4線の[[高架駅]]となった。 工事開始以前は2面3線(下り方面が単式)の[[地上駅]]だったが、北口が[[橋上駅|橋上駅舎]]化された後、2003年9月28日から暫定的に4面4線となり、翌2004年7月19日から2007年6月30日までは2面3線(上り方面が単式)、2007年7月1日から2009年12月5日までは3面4線(上り方面が地上で相対式、下り方面が高架上で島式)、2009年12月6日から2012年5月19日までは2面3線(上り線が単式)、現在は2面4線(両方とも島式)のホームを有する駅となった。 2009年1月25日に出入口が高架下に移り、1・2番線へはその先の[[階段]]・[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]を使い、地上の3番線へは高架下の入口から[[斜路|スロープ]]を使いホームへ向かうことになっていた。4番線へは、全線高架化された後に3・4番線ホームとなる部分が通路として使われていて、北口へ向かう。 かつて南口には当駅が停車場に昇格して以来の緑色の三角屋根が特徴の駅舎があったが、高架化工事に伴い2009年1月24日限りで使用が中止され、解体された。 当駅のホームの変化を示すと、以下のようになる(のりばの番号は南側から数えられている)。 * - 2003年9月27日:2面3線の地上駅。2・3番線が同じ面であった。 {| class="wikitable" |+ !番線 !路線 !方向 !行先 !備考 |- !1 | rowspan="4" |{{Color|#f15a22|■}}中央線 | rowspan="2" |下り | rowspan="2" |[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面 | |- ! rowspan="2" |2 | rowspan="2" |通過列車の待避列車が、上下の区別無く入線,発車と、折り返しの当駅始発上り列車 |- | rowspan="2" |上り | rowspan="2" |[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !3 | |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Musashi-koganei.sta.jpg|高架化以前の南口駅舎<br />2004年4月12日 MusashikoganeiStationPlatform-2007-6-30.JPG|2007年6月30日 Chuoline musashikoganeista construction2008.jpg|2008年4月6日 </gallery> * 2003年9月28日 - 2004年7月18日:既存のホームの北側に相対式の3・4番線を新設、旧3番線を廃止。4面4線になった。 {| class="wikitable" |+ !番線 !路線 !方向 !行先 !備考 |- !1 | rowspan="4" |{{Color|#f15a22|■}}中央線 | rowspan="2" |下り | rowspan="2" |立川・八王子・高尾方面 | |- !2 |待避線 |- !3 | rowspan="2" |上り | rowspan="2" |新宿・東京方面 |新設ホーム 主に始発電車が使用 |- !4 |新設ホーム |} * 2004年7月19日 - 2007年6月30日:3番線と同じ面に線路を新設(新1番線)。旧1・2番線を廃止。番線を1つずつ繰り下げ。1・2番線が同じ面の2面3線に戻る。 {| class="wikitable" |+ !番線 !路線 !方向 !行先 !備考 |- !1 | rowspan="3" |{{Color|#f15a22|■}}中央線 |下り |立川・八王子・高尾方面 |新設ホーム |- !2 | rowspan="2" |上り | rowspan="2" |新宿・東京方面 |旧3番線 |- !3 |旧4番線 |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> MusashikoganeiStationPlatform 3 4-2008-8-29.JPG|1・2番線(2008年8月29日) MusashikoganeiStationPlatform 1 2-2008-8-29.JPG|3・4番線(2008年8月29日) </gallery> * 2007年7月1日 - 2009年12月5日:下り線を高架上の新ホームに切り替え。旧1番線を廃止。番線を1つずつ繰り上げ。下り(1・2番線)は島式1面2線の高架ホーム、上り(3・4番線)は相対式2面2線の地上ホームとなる。 {| class="wikitable" |+ !番線 !路線 !方向 !行先 !備考 |- !1・2 | rowspan="3" |{{Color|#f15a22|■}}中央線 |下り |立川・八王子・高尾方面 |新設ホーム |- !3 | rowspan="2" |上り | rowspan="2" |新宿・東京方面 |旧2番線 |- !4 |旧3番線 |} * 2009年12月6日 - 2012年5月19日:上り線を高架上の新ホームに切り替え。旧3・4番線を廃止。2面3線に戻る。 {| class="wikitable" |+ !番線 !路線 !方向 !行先 !備考 |- !1 | rowspan="4" |{{Color|#f15a22|■}}中央線 | rowspan="2" |下り | rowspan="2" |立川・八王子・高尾方面 | |- ! rowspan="2" |2 | rowspan="2" |主に始発・列車待機で使用 |- | rowspan="2" |上り | rowspan="2" |新宿・東京方面 |- !3 |新設ホーム |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> MusashikoganeiStationPlatform 1-2 3.jpg|ホーム(2009年12月20日) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''53,342人'''で、JR東日本管内の駅の中では[[長津田駅]]に次いで第71位。なお、この数は中央快速線東京 - 高尾間で乗り換え路線がない駅の中では[[三鷹駅]]に次いで多く、中央快速線内24駅中14位である。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.koganei.lg.jp/shisei/461/520/koganeinotoukei/index.html 市勢統計書「こがねいのとうけい」] - 小金井市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |58,189 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |60,361 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |60,326 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |60,049 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |59,132 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |58,224 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |57,786 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |56,690 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |55,312 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>54,831 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>54,579 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>55,216 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>55,330 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>55,281 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>54,641 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>54,798 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>55,225 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>55,509 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>55,413 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>55,742 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>56,544 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>56,677 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>57,906 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>59,504 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>59,386 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>60,465 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>61,035 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>61,858 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>62,578 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>62,565 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>47,371 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>49,734 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>53,342 | |} == 駅周辺 == 駅前には中規模の[[商店街]]がある。駅の東側は南北に[[東京都道15号府中清瀬線|小金井街道]]が走っており、中央線の高架化以前は[[踏切]]で線路と直交していた。 北口は[[バスターミナル]]となっており、[[多摩地域|多摩地区]]の各地と結ばれている。バスターミナルに面して[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]<ref name="japan-comerce-yearbook-1972">『日本商業年鑑 1972年版』 [[商業界]]、1972年。</ref>がある。 このバスターミナルから小金井街道までの道が[[東京都道135号武蔵小金井停車場線|都道135号線]]であり、バスターミナルから西に伸びる道路は[[東京都道136号武蔵小金井停車場貫井線|都道136号線]]である。 南口は小金井街道に面する広場があり、[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]などの店舗や、中規模の市民ホールである'''小金井 宮地楽器ホール'''(小金井市民交流センター)などの公共施設が再開発によって完成した。 南方向には商店街が伸びている。中央線の高架化工事と同時に商店街付近も再開発が進行中で、商店の入れ替わりや建て替えにより[[2000年代]]から急激に様変わりしている。南側に少し離れて[[東京都道134号恋ヶ窪新田三鷹線|連雀通り]]が東西に走る。この道に面して小金井市役所がある。また、元はこの通りに面した市役所分庁舎の前に南口バスターミナルがあった。 西には豊田車両センター武蔵小金井派出所がある。その下を[[東京都道248号府中小平線|新小金井街道]]がくぐって線路と直交する。この道は、線路の南北で連雀通り、都道136号と直交する。連雀通りはその西で線路を横切り、都道136号を合流する。 従来、駅東側の小金井街道踏切は「[[開かずの踏切]]」だった<ref>{{Cite journal|和書|author=東京都建設局道路建設部鉄道関連事業課|url=http://www.jtpa.or.jp/contents/pdf/toshi86.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210805124448/http://www.jtpa.or.jp/contents/pdf/toshi86.pdf |archivedate=2021-08-05|title=踏切対策の事例紹介 JR中央本線(三鷹駅〜立川駅間)他連続立体交差事業による効果|journal=都市と交通|volume=通巻86号|publisher=日本交通計画協会|format=PDF|date=2011-07-31|pages=6 - 7}}</ref>。また、西の旧小金井市公会堂側の踏切も歩道橋はあるものの同様に「開かずの踏切」だった。特に2003年9月の切り替え直後は横断距離も遮断時間も長くなったことで社会問題になった。その後応急措置として歩道橋を設置した他、翌年の切り替えで横断距離・遮断時間とも切り替え前の水準に戻り、さらに2007年7月の下り線高架でさらに短くなった。そして、2009年12月の上り線高架化により踏切は撤廃され、南北の往来がスムーズとなった。 南口再開発の一環で小金井市公会堂が2006年4月に解体され、同年11月に[[プラウドタワー武蔵小金井]]が起工した。 この「武蔵小金井駅南口第1地区再開発ビル」は<ref group="新聞" name="taihan-news-2006-5-15-2">“イトーヨーカ堂 武蔵小金井駅南口第1地区再開発ビル 平成20年5月1日オープンめざす 東京都小金井市”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2006年5月15日)</ref>、イトーヨーカドーを核店舗とするアクウェルモール武蔵小金井が2009年3月19日に開業し<ref group="新聞" name="taihan-news-2009-3-23-6">“JR武蔵小金井駅南口の再開発地 イトーヨーカドー武蔵小金井店 東京都小金井市”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2009年3月23日)</ref>、[[施設#公共施設|公共施設]]や[[マンション]]も併設された。 2009年9月17日には、バスロータリー南側にライフサポートショッピングセンター「セレオ武蔵小金井<ref group="報道" name="press/20160712">{{Cite press release|和書|url=https://www.celeo.co.jp/admin/newsrelease/pdf/nrp1160712140001.pdf|title=「セレオ武蔵小金井」の運営会社変更について|format=PDF|publisher=JR東京西駅ビル開発/JR中央ラインモール|date=2016-07-12|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612160053/https://www.celeo.co.jp/admin/newsrelease/pdf/nrp1160712140001.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>」(現nonowa武蔵小金井SOUTH{{Refnest|group="注釈"|2016年12月1日に、運営会社の移管と共にリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/0_20161110_nonowamsk_press.pdf|title=~新たに9ショップが仲間入りして、nonowa がますます便利に~ nonowa武蔵小金井SOUTH誕生キャンペーンを開催します|format=PDF|publisher=JR中央ラインモール|date=2016-11-10|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612161433/http://www.nonowa.co.jp/company/release/0_20161110_nonowamsk_press.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。}}、<ref group="報道" name="press/20160712" />。)がオープンした<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090903/musashikoganei_press.pdf|title=2009年9月17日 武蔵小金井駅南口駅前にライフサポートショッピングセンターをオープンします!!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2009-09-03|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612151102/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090903/musashikoganei_press.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。 また、2015年2月19日に高架下に商業施設「nonowa武蔵小金井」→「nonowa武蔵小金井EAST」が<ref group="報道" name="press/20150115_info02" /><ref group="新聞" name="mainichi-np-2015-2-21" />、同年12月12日に商業施設「nonowa武蔵小金井WEST」がそれぞれ開業した<ref group="報道" name="press/20151008_info02" /><ref group="報道" name="press/20151119_newsrelease_nonowamusashikoganeiwest_open" />。 2018年4月14日には、高架下西側に「nonowa武蔵小金井『ムサコガーデン』」が開業し、「nonowa武蔵小金井」全体のリニューアルが完了した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/20180319_newsrelease_musakogarden_grandopen.pdf|title=~GRAND OPEN~ 2018年4月14日(土)10時 nonowa武蔵小金井『ムサコガーデン』グランドオープン!|format=PDF|publisher=JR中央ラインモール|date=2018-03-19|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612164731/http://www.nonowa.co.jp/company/release/20180319_newsrelease_musakogarden_grandopen.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。 2020年春には東小金井駅 - 武蔵小金井駅の高架下に、食事付き学生向け賃貸住宅「中央ラインハウス 小金井」が開業した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190911_ho01.pdf|title=高架下(東小金井駅~武蔵小金井駅駅間)に学生向け賃貸住宅を新設します ~学生どうしのコミュニティ形成と地域との交流を通じ、中央線沿線での豊かなくらしを提供します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/JR中央ラインモール|date=2019-09-11|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200318165249/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190911_ho01.pdf|archivedate=2020-03-18}}</ref>。また、同年6月30日には武蔵小金井駅南口第2地区第一種市街地再開発事業の一環でツインタワー「武蔵小金井シティクロス」とショッピングセンター「ソコラ武蔵小金井クロス」が開業した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://socola-sc.jp/assets/pdf/musashikoganei01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201231125744/https://socola-sc.jp/assets/pdf/musashikoganei01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=武蔵小金井駅南口第2地区第一種市街地再開発事業 住宅・商業複合再開発 2020年6月19日(金) まちびらき決定 商業施設 「SOCOLA(ソコラ)武蔵小金井クロス」グランドオープンのお知らせ 〜多機能かつ高い利便性を有する都市型コンパクトタウン〜|publisher=野村不動産/武蔵小金井駅南口第2地区市街地再開発組合|date=2020-03-23|accessdate=2021-08-13|archivedate=2020-12-31}}</ref>。 {{columns-list|2| * 東京都立[[小金井公園]] ** [[江戸東京たてもの園]] * [[東京学芸大学]] - [[国分寺駅]]の方がより近い。ただし、附属小・中学校については当駅から東門側に出た方が至近であり、バス停(京王バス「学芸大東門」)もある。 * [[情報通信研究機構]]本部 - 駅構内に『日本の「とき」標準時刻が生まれるまち』と書かれた時計が<!--吊られるかたちで-->設けられている。<!--[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/14/346926/060100266/ 18年ぶり平日実施の「うるう秒」、8時59分60秒がITに及ぼす影響] - 日経BP ITPro(2015年6月3日)2ページ目前半にその旨を記載。※日経電子版IDを利用して登録後、全文閲覧可。--> * [[きたまちセンター]] * [[プラウドタワー武蔵小金井]] * [[多磨霊園]] * [[府中運転免許試験場]] * [[中央大学附属中学校・高等学校]] * [[桜町病院]] ** 聖ヨハネ[[ホスピス]] |}} ※ 上記11施設は徒歩移動では少々難があり、バスによる移動が便利である。 {{columns-list|2| * 小金井市役所 * [[小金井警察署|警視庁小金井警察署]] * 東京消防庁小金井消防署 * [[小金井郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]]小金井店 ** [[かんぽ生命保険|かんぽ生命]]小金井支店 * [[東京都立多摩科学技術高等学校]] * 小金井前原三郵便局 * [[京王電鉄バス小金井営業所]] ** [[京王電鉄バス小金井営業所|京王バス府中営業所小金井支所]] |}} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Musashikoganei.koganei.tokyo 07.jpg|南口 Musashikoganei.koganei.tokyo 10.jpg|北口 </gallery> == バス路線 == === 南口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[小田急バス]]・[[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]]・[[CoCoバス]]<ref group="注釈" name="coco-bus">運行は京王バスやつくば観光交通が受託している。</ref>・[[東京空港交通]]が運行する路線が発着する。2009年3月19日より、駅前ロータリーに乗り入れを開始した。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !0 |style="text-align:center;"|CoCoバス |[[CoCoバス#中町循環(4号線)|'''中町循環''']]・[[CoCoバス#野川・七軒家循環(5号線)|'''野川・七軒家循環''']]・[[CoCoバス#貫井前原循環(2号線)|'''貫井・前原循環''']]:武蔵小金井駅南口(循環) |&nbsp; |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|京王バス |{{Unbulleted list|[[京王バス府中営業所#小金井線|'''武66''']]:[[京王バス府中営業所|府中営業所]]|'''武71'''・'''武73''':[[府中駅 (東京都)|府中駅]]}} |&nbsp; |- !2 |降車専用 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |{{Unbulleted list|[[京王電鉄バス小金井営業所#西之久保循環線|'''武51''']]:武蔵小金井駅南口(西之久保循環)|[[京王電鉄バス小金井営業所#井口線|'''境81''']]:[[武蔵境駅]]南口}} |「境81」は朝のみ |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京王バス|東京空港交通}} |[[京王バス府中営業所#空港連絡バス|'''小金井羽田線''']]:[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- !rowspan="2"|5 |style="text-align:center;"|小田急バス |[[小田急バス武蔵境営業所#境・境南線|'''境96''']]:武蔵境駅南口 |&nbsp; |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|京王バス |[[京王バス府中営業所#東府中線|'''府75''']]:[[東府中駅]] |&nbsp; |- !6 |{{Unbulleted list|'''武56''':武蔵小金井駅南口(貫井南町一丁目循環)|[[京王バス府中営業所#試験場線|'''武84'''・'''武94''']]:多磨町|'''武85'''・'''武95''':[[多磨霊園駅]]|[[京王バス調布営業所#大沢線|'''武91'''・'''武93''']]:[[調布駅]]北口}} |&nbsp; |} === 北口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[関東バス]]・京王バス・CoCoバス<ref group="注釈" name="coco-bus" />・[[西武バス]]が運行する路線バスが発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !0 |style="text-align:center;"|CoCoバス |[[CoCoバス#北東部循環(1号線)|'''北東部循環''']]:武蔵小金井駅北口(循環) |&nbsp; |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|西武バス |{{Unbulleted list|[[西武バス小平営業所#武蔵小金井駅 - 花小金井駅 - 昭和病院 - 小平駅方面|'''花12''']]:[[花小金井駅]]南口|'''武17'''・[[西武バス小平営業所#武蔵小金井駅 - 小平団地 - 小平駅方面|'''武20''']]:[[小平駅]]南口|'''武19''':[[西武バス小平営業所|小平営業所]]|'''武20-1''':[[日立国際電気]]}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[西武バス滝山営業所#久留米線|'''武12''']]:[[東久留米駅]]西口|[[西武バス小平営業所#武蔵小金井駅 - 花小金井駅 - 清瀬駅・滝山団地方面|'''武13''']]:[[清瀬駅]]南口}} |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|'''武15''':[[西武バス滝山営業所|滝山営業所]]|[[西武バス滝山営業所#久留米錦城小金井線|'''武21''']]:東久留米駅西口|久留米西団地}} |&nbsp; |- !4 |style="text-align:center;"|関東バス |{{Unbulleted list|[[関東バス武蔵野営業所#柳橋線|'''鷹33''']]:[[三鷹駅]]北口|[[関東バス武蔵野営業所|武蔵野営業所]]}} |&nbsp; |- !5 |rowspan="3" style="text-align:center;"|京王バス |{{Unbulleted list|[[京王電鉄バス小金井営業所#下之原線|'''武41''']]:小平団地|'''武42''':[[国分寺駅]]北口}} |&nbsp; |- !6 |[[京王電鉄バス小金井営業所#中大循環線|'''武31''']]:武蔵小金井駅北口(中大循環)/ 中大付属高校 |&nbsp; |- !7 |[[京王電鉄バス小金井営業所#関野橋線|'''武02''']]:[[東小金井駅]] |&nbsp; |} その他、降車専用として深夜急行バス [[新宿駅のバス乗り場|新宿駅]]発 国立駅行のバスも停車する。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速 :::; 通過 :: {{Color|#f15a22|■}}快速(三鷹ならびに当駅発着の「各駅停車」を含む) ::: [[東小金井駅]] (JC 14) - '''武蔵小金井駅 (JC 15)''' - [[国分寺駅]] (JC 16) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Musashi-Koganei Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[魍魎の匣]] - [[京極夏彦]]のミステリー小説で、作中に武蔵小金井駅が登場する。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1526|name=武蔵小金井}} * [http://www.nonowa.co.jp/musashikoganei/ nonowa武蔵小金井] {{中央線快速}} {{DEFAULTSORT:むさしこかねい}} [[Category:日本の鉄道駅 む|さしこかねい]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央線快速]] [[Category:東京都の鉄道駅]] [[Category:1926年開業の鉄道駅]] [[Category:小金井市の交通]]
2003-09-06T13:38:28Z
2023-11-26T07:26:23Z
false
false
false
[ "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:PDFlink", "Template:Pp-move-vd", "Template:出典の明記", "Template:R", "Template:Color", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Otheruseslist", "Template:駅情報", "Template:Columns-list", "Template:Unbulleted list", "Template:Commonscat", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:中央線快速", "Template:Refnest", "Template:要出典範囲", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E9%A7%85
15,433
ウイングマン
『ウイングマン』(WING-MAN)は、桂正和によるSF漫画、およびそれを原作としたテレビアニメ、ゲーム。また、作中に登場する変身ヒーローの名前でもある。 第19回手塚賞佳作受賞作「ツバサ」等を元に『週刊少年ジャンプ』(集英社)誌上において1983年5・6合併号から1985年39号まで連載された、桂の連載デビュー作であり、代表作の一つ。単行本はジャンプ・コミックスで全13巻。1992年には愛蔵版、1998年には文庫版が共に全7巻で販売されている。 変身ヒーローに憧れる中学生がその夢を叶え、ヒーローとして活躍・成長していく様を描く。1984年には『夢戦士ウイングマン』(ゆめせんしウイングマン)としてテレビアニメ化もされた。「夢戦士」というタイトルは、「前番組の愛してナイトが女子をターゲットとした番組だったため、少年誌が原作のアニメになることによる、視聴者離れを少しでも減らすためにつけられた」と当時のアニメージュにて語られている。 「ツバサ」が大元とはなっているが、「学園部隊3パロかん」、「すずみシリーズ」といった、その他の初期読切り作品のアイデアも多く取り入れており、当時の桂にとっての集大成として出来上がった作品といえる。桂の初期の作品群に多く見られるように、本作も特撮ヒーローの影響を色濃く受けており、特に「宇宙刑事シリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」の影響が強く見られる。 また、この作品の読者世代が後に「平成ウルトラマン」や「平成ライダーシリーズ」のスタッフとなり当作品のオマージュ的要素を加えている影響もある。 担当鳥嶋和彦の意向によりラブコメの要素を取り入れ、独自の色を出すことに成功。ジャンプコミックスの巻末読者ページには女性読者の投稿も多く、後半のお色気描写の増強に苦言が呈された事もあった。ヒロインとして描かれたアオイや美紅といった魅力的な美少女キャラクターは画力の高さや女の子らしい表現もあって作品に華を添え、本作が大きなヒットを収める要因ともなった。 1984年にはパソコン向けアドベンチャーゲームもエニックスから発売され、その後続編も2作制作されている。 作者は約100万円かけて、ウイングマンのコスチュームを作成し着用している(桂正和の項目参照)。またそれ以外にも、ジャンプ・コミックスの単行本のおまけのページの中で、「超銅金ウイングマン」が「ホヒー」より発売されるというウソ広告を作ったところ、後に本当にポピー(バンダイ)から超合金トイが商品化され、その広告及びパッケージ裏ではウソ広告の構図とキャッチコピーがそのまま再現された。桂もこれには流石に驚いたという。 変身ヒーローに憧れる中学生(関東地方の某県私立の仲額(ちゅうがく)中学校)の広野健太は、学校からの帰宅途中、頭上に突如現れた異空間から落ちてきた、謎の美少女とノートを連れ帰ってしまう。そしてそのノートに自作のヒーロー「ウイングマン」を書き込んでしまう。しかしそのノートこそ、書き記されたことを現実にすることのできる「ドリムノート」だった。本物の変身ヒーローになる能力を身につけてしまった健太は、ドリムノートと共に現れた、異次元世界「ポドリムス」から来たというこの美少女・あおいと共に、三次元人(地球人)の奴隷化とドリムノートの強奪を企むポドリムスの独裁者・リメルの差し向けた怪人、シードマンやゾウジンゲン達と戦っていくことになる。 広野健太が夢想していたヒーローを、あおいが持っていたドリムノートにいたずら書きのように書き込んだことで出現したヒーロー。「チェイング! (チェンジとウィングの造語)」の掛け声で変身する。第1話で健太が着用していた自作スーツのように、彼は体色を赤地に白のツートーンで思い描いていたが、ドリムノートにウイングマンのイラストを描く際、付属のドリムペンで体を塗り潰したせいか体色は黒地に青となった(後に、後述の変身時間のリミットを知らせ、また新必殺技「デルタエンド」に対応するため青→黄→赤と変化するように改良している)。 三次元世界では10分間の変身タイムリミットがある(ポドリムスでは変身時間が無制限)。これは劇中であおいが「ドリムノートの力は三次元では効力の限界があるため」と推測している(しかしウィングガールズの変身時間やウイナアなどのサポートメカに時間制限はない)。ドクターアンバランスが開発した、ドリムペンの筆跡を消せる「ドリムイレイザー」をシャフトが使ったことにより一度消去されたが、ラークの助力で復活する。 健太が最初にドリムノートにウイングマンを書いた際、(いたずら書きだったせいもあり)変身の掛け声がチェイングであるとだけしか書かなかったので、チェイングと叫べば誰でも変身できてしまった。そのことを敵に知られ変身されてしまうが、後にドリムノートがパワーアップした際に、健太だけが変身できるように改めて記載した。さらに後、ライエルとの最終決戦のさい、正義の心を持つ者なら誰でもウイングマンに変身出来るように健太が書き改めている。 その名にふさわしく、背中には自分の意思で出現させることのできる翼を持ち飛行が可能。また時速500キロで疾走することもできる。ただし、あくまでドリムノートの力で外形だけを強化しているだけなので、ある程度肉体を鍛えていなければ、肉体が能力に追いつかず、力をコントロール出来なかったり、変身解除後に肉体がダメージを受けたりする。健太もウイングマンになったばかりのころは、力をコントロール出来なかったが、自身を鍛えることによって、コントロールできるようになった。 ベルトバックルの「ドリムカセット」にドリムノートを縮小収納しているが、一度奪われた為に、以後取り出せるのは健太だけと設定した。 キータクラーとの最後の戦いに際して、ドクターラークが新しいドリムイレイサーを健太に渡した。本来は余白もなくなったドリムノートを有効活用するため(古い武器や技を消して新しいものを描きこむ)だったが、アオイを蘇生させるために使用された。 ドリムノートに書けばそれが実現する、という設定のため、健太は劇中思いつきで様々な技をドリムノートに書き込んでいく。しかしその技を使った後の自分への肉体的負担や、周囲へのダメージなどは考えていなかったため、思わぬ事態になるというのが作劇上1つのパターンとなっている。 この他にも、対スノープラス戦のヒートウォッシャーや対ガルダン戦のフラッシャービームなど状況にあわせてドリムノートに書き足している。 1984年2月7日から1985年2月26日までテレビ朝日系列にて『夢戦士ウイングマン』のタイトルで放映。全47話。ヒーローアクションよりも学園ラブコメディーとしての比重が高く、松岡先生やクラスメイトの出番が原作よりも多かった。またファミリー路線を意識して隣の家に住む小学生・戸鳴正和というオリジナルキャラが登場(のちに原作にもアニメ未登場の姉と共に登場)したり、変身後に前口上を述べたりしている。主人公健太役の堀川亮(現・堀川りょう)は本作で主演での声優デビューを果たしている。 アニメでは原作とは異なる展開でリメルを倒し、その後アニメオリジナルの「ゴーストリメル編」で完結、ライエル編は制作されず、ドラマLP『FINAL〜不滅のヒーローソング〜』にて補完される。 なお、本作の終了で『狼少年ケン』から絶える間もなく放送されていたテレビ朝日制作の東映動画作品が初めて途絶え、1985年6月に制作された『コンポラキッド』まで約3カ月のブランクがある。 ※各登場人物の詳細は#登場人物を参照。 4月3日は春のアニメスペシャル『クラッシャージョウ』(19:30〜21:48)のため休止。 ※放送系列は放送当時、放送日時は個別に出典が掲示してあるものを除き、1985年2月終了時点のものとする。 1984年にLSIゲーム『必殺デルタエンド』がバンダイより発売された。液晶画面は「マジックパネル」により疑似カラー液晶化されている。 1984年11月に1作目となる『ウイングマン』、続編として1986年4月に『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』、1987年12月に『ウイングマンスペシャル -さらば夢戦士-』の3本がパソコン向けアドベンチャーゲームとして発売された。発売はエニックス(現・スクウェア・エニックス)。開発チームは「TAMTAM」。 「AUTOMATON」の2017年の記事によると、『少年ジャンプ』で集英社とエニックスが共同でアドベンチャーゲームのシナリオコンテストを企画したときに、読者からシナリオが送られてきたことが『ウイングマン』の開発のきっかけになったとされている。 また、『ウイングマン』では、前年に発売された『ポートピア連続殺人事件』と同様に、地の文を主人公の相棒のセリフに置き換える手法が用いられた。 『ウイングマン2』の作曲は、『森田和郎の将棋』のアンケートでエニックスの音楽担当者と知り合ったすぎやまこういちに依頼された。これがすぎやまが初めてゲーム音楽の作曲を担当した作品である。 著者は全て桂正和。発行は注記のない限り全て集英社。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ウイングマン』(WING-MAN)は、桂正和によるSF漫画、およびそれを原作としたテレビアニメ、ゲーム。また、作中に登場する変身ヒーローの名前でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第19回手塚賞佳作受賞作「ツバサ」等を元に『週刊少年ジャンプ』(集英社)誌上において1983年5・6合併号から1985年39号まで連載された、桂の連載デビュー作であり、代表作の一つ。単行本はジャンプ・コミックスで全13巻。1992年には愛蔵版、1998年には文庫版が共に全7巻で販売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "変身ヒーローに憧れる中学生がその夢を叶え、ヒーローとして活躍・成長していく様を描く。1984年には『夢戦士ウイングマン』(ゆめせんしウイングマン)としてテレビアニメ化もされた。「夢戦士」というタイトルは、「前番組の愛してナイトが女子をターゲットとした番組だったため、少年誌が原作のアニメになることによる、視聴者離れを少しでも減らすためにつけられた」と当時のアニメージュにて語られている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「ツバサ」が大元とはなっているが、「学園部隊3パロかん」、「すずみシリーズ」といった、その他の初期読切り作品のアイデアも多く取り入れており、当時の桂にとっての集大成として出来上がった作品といえる。桂の初期の作品群に多く見られるように、本作も特撮ヒーローの影響を色濃く受けており、特に「宇宙刑事シリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」の影響が強く見られる。 また、この作品の読者世代が後に「平成ウルトラマン」や「平成ライダーシリーズ」のスタッフとなり当作品のオマージュ的要素を加えている影響もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "担当鳥嶋和彦の意向によりラブコメの要素を取り入れ、独自の色を出すことに成功。ジャンプコミックスの巻末読者ページには女性読者の投稿も多く、後半のお色気描写の増強に苦言が呈された事もあった。ヒロインとして描かれたアオイや美紅といった魅力的な美少女キャラクターは画力の高さや女の子らしい表現もあって作品に華を添え、本作が大きなヒットを収める要因ともなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1984年にはパソコン向けアドベンチャーゲームもエニックスから発売され、その後続編も2作制作されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "作者は約100万円かけて、ウイングマンのコスチュームを作成し着用している(桂正和の項目参照)。またそれ以外にも、ジャンプ・コミックスの単行本のおまけのページの中で、「超銅金ウイングマン」が「ホヒー」より発売されるというウソ広告を作ったところ、後に本当にポピー(バンダイ)から超合金トイが商品化され、その広告及びパッケージ裏ではウソ広告の構図とキャッチコピーがそのまま再現された。桂もこれには流石に驚いたという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "変身ヒーローに憧れる中学生(関東地方の某県私立の仲額(ちゅうがく)中学校)の広野健太は、学校からの帰宅途中、頭上に突如現れた異空間から落ちてきた、謎の美少女とノートを連れ帰ってしまう。そしてそのノートに自作のヒーロー「ウイングマン」を書き込んでしまう。しかしそのノートこそ、書き記されたことを現実にすることのできる「ドリムノート」だった。本物の変身ヒーローになる能力を身につけてしまった健太は、ドリムノートと共に現れた、異次元世界「ポドリムス」から来たというこの美少女・あおいと共に、三次元人(地球人)の奴隷化とドリムノートの強奪を企むポドリムスの独裁者・リメルの差し向けた怪人、シードマンやゾウジンゲン達と戦っていくことになる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "広野健太が夢想していたヒーローを、あおいが持っていたドリムノートにいたずら書きのように書き込んだことで出現したヒーロー。「チェイング! (チェンジとウィングの造語)」の掛け声で変身する。第1話で健太が着用していた自作スーツのように、彼は体色を赤地に白のツートーンで思い描いていたが、ドリムノートにウイングマンのイラストを描く際、付属のドリムペンで体を塗り潰したせいか体色は黒地に青となった(後に、後述の変身時間のリミットを知らせ、また新必殺技「デルタエンド」に対応するため青→黄→赤と変化するように改良している)。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "三次元世界では10分間の変身タイムリミットがある(ポドリムスでは変身時間が無制限)。これは劇中であおいが「ドリムノートの力は三次元では効力の限界があるため」と推測している(しかしウィングガールズの変身時間やウイナアなどのサポートメカに時間制限はない)。ドクターアンバランスが開発した、ドリムペンの筆跡を消せる「ドリムイレイザー」をシャフトが使ったことにより一度消去されたが、ラークの助力で復活する。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "健太が最初にドリムノートにウイングマンを書いた際、(いたずら書きだったせいもあり)変身の掛け声がチェイングであるとだけしか書かなかったので、チェイングと叫べば誰でも変身できてしまった。そのことを敵に知られ変身されてしまうが、後にドリムノートがパワーアップした際に、健太だけが変身できるように改めて記載した。さらに後、ライエルとの最終決戦のさい、正義の心を持つ者なら誰でもウイングマンに変身出来るように健太が書き改めている。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その名にふさわしく、背中には自分の意思で出現させることのできる翼を持ち飛行が可能。また時速500キロで疾走することもできる。ただし、あくまでドリムノートの力で外形だけを強化しているだけなので、ある程度肉体を鍛えていなければ、肉体が能力に追いつかず、力をコントロール出来なかったり、変身解除後に肉体がダメージを受けたりする。健太もウイングマンになったばかりのころは、力をコントロール出来なかったが、自身を鍛えることによって、コントロールできるようになった。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ベルトバックルの「ドリムカセット」にドリムノートを縮小収納しているが、一度奪われた為に、以後取り出せるのは健太だけと設定した。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "キータクラーとの最後の戦いに際して、ドクターラークが新しいドリムイレイサーを健太に渡した。本来は余白もなくなったドリムノートを有効活用するため(古い武器や技を消して新しいものを描きこむ)だったが、アオイを蘇生させるために使用された。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ドリムノートに書けばそれが実現する、という設定のため、健太は劇中思いつきで様々な技をドリムノートに書き込んでいく。しかしその技を使った後の自分への肉体的負担や、周囲へのダメージなどは考えていなかったため、思わぬ事態になるというのが作劇上1つのパターンとなっている。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この他にも、対スノープラス戦のヒートウォッシャーや対ガルダン戦のフラッシャービームなど状況にあわせてドリムノートに書き足している。", "title": "ウイングマン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1984年2月7日から1985年2月26日までテレビ朝日系列にて『夢戦士ウイングマン』のタイトルで放映。全47話。ヒーローアクションよりも学園ラブコメディーとしての比重が高く、松岡先生やクラスメイトの出番が原作よりも多かった。またファミリー路線を意識して隣の家に住む小学生・戸鳴正和というオリジナルキャラが登場(のちに原作にもアニメ未登場の姉と共に登場)したり、変身後に前口上を述べたりしている。主人公健太役の堀川亮(現・堀川りょう)は本作で主演での声優デビューを果たしている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "アニメでは原作とは異なる展開でリメルを倒し、その後アニメオリジナルの「ゴーストリメル編」で完結、ライエル編は制作されず、ドラマLP『FINAL〜不滅のヒーローソング〜』にて補完される。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、本作の終了で『狼少年ケン』から絶える間もなく放送されていたテレビ朝日制作の東映動画作品が初めて途絶え、1985年6月に制作された『コンポラキッド』まで約3カ月のブランクがある。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "※各登場人物の詳細は#登場人物を参照。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "4月3日は春のアニメスペシャル『クラッシャージョウ』(19:30〜21:48)のため休止。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "※放送系列は放送当時、放送日時は個別に出典が掲示してあるものを除き、1985年2月終了時点のものとする。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1984年にLSIゲーム『必殺デルタエンド』がバンダイより発売された。液晶画面は「マジックパネル」により疑似カラー液晶化されている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1984年11月に1作目となる『ウイングマン』、続編として1986年4月に『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』、1987年12月に『ウイングマンスペシャル -さらば夢戦士-』の3本がパソコン向けアドベンチャーゲームとして発売された。発売はエニックス(現・スクウェア・エニックス)。開発チームは「TAMTAM」。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「AUTOMATON」の2017年の記事によると、『少年ジャンプ』で集英社とエニックスが共同でアドベンチャーゲームのシナリオコンテストを企画したときに、読者からシナリオが送られてきたことが『ウイングマン』の開発のきっかけになったとされている。 また、『ウイングマン』では、前年に発売された『ポートピア連続殺人事件』と同様に、地の文を主人公の相棒のセリフに置き換える手法が用いられた。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『ウイングマン2』の作曲は、『森田和郎の将棋』のアンケートでエニックスの音楽担当者と知り合ったすぎやまこういちに依頼された。これがすぎやまが初めてゲーム音楽の作曲を担当した作品である。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "著者は全て桂正和。発行は注記のない限り全て集英社。", "title": "書誌情報" } ]
『ウイングマン』(WING-MAN)は、桂正和によるSF漫画、およびそれを原作としたテレビアニメ、ゲーム。また、作中に登場する変身ヒーローの名前でもある。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{otheruses|漫画作品|その他|ウィングマン (曖昧さ回避)}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=ウイングマン |ジャンル=[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[少年漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者=[[桂正和]] |出版社=[[集英社]] |他出版社=[[ホーム社]](愛蔵版) |掲載誌=[[週刊少年ジャンプ]] |レーベル=[[ジャンプ・コミックス]] (JC)<br />集英社文庫(文庫) |開始=[[1983年]]5・6合併号 |終了=[[1985年]]39号 |巻数=全13巻 (JC) <br />全7巻(愛蔵版・文庫版) }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル=夢戦士ウイングマン |シリーズディレクター=[[勝間田具治]] |キャラクターデザイン=[[兼森義則]] |音楽=[[奥慶一]] |アニメーション制作=[[東映アニメーション|東映動画]] |製作=[[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]] |放送局=テレビ朝日系列 |放送開始=[[1984年]][[2月7日]] |放送終了=[[1985年]][[2月26日]] |話数=全47話 |その他= }} {{Infobox animanga/Game |タイトル= |ゲームジャンル=[[アドベンチャーゲーム]] |対応機種=[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[FM-7]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[PC-6000シリーズ|PC-6001]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[MSX]] |必要環境= |推奨環境= |ゲームエンジン= |修正パッチ= |開発元=TAMTAM |発売元=[[エニックス]] |プロデューサー= |監督= |キャラクターデザイン= |メディア=[[フロッピーディスク]]<br />'''MSX:'''テープメディア |プレイ人数=1人 |発売日=[[1984年]] |売上本数= }} {{Infobox animanga/Game |タイトル=ウイングマン2 -キータクラーの復活- |ゲームジャンル=[[アドベンチャーゲーム]] |対応機種=[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[MSX]]<br />[[FM-7]] |必要環境= |推奨環境= |ゲームエンジン= |修正パッチ= |開発元=TAMTAM |発売元=[[エニックス]] |プロデューサー= |監督= |キャラクターデザイン= |メディア=[[フロッピーディスク]]<br />'''MSX:'''[[ロムカセット]]<br />(X1, FM-7についてはテープ版も発売) |プレイ人数=1人 |発売日=[[1986年]]4月10日 |音楽=すぎやまこういち |売上本数= }} {{Infobox animanga/Game |タイトル=ウイングマンスペシャル -さらば夢戦士- |ゲームジャンル=[[アドベンチャーゲーム]] |対応機種=[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[MSX|MSX2]] |必要環境= |推奨環境= |ゲームエンジン= |修正パッチ= |開発元=TAMTAM |発売元=[[エニックス]] |プロデューサー= |監督= |キャラクターデザイン= |メディア=[[フロッピーディスク]] |プレイ人数=1人 |発売日=[[1987年]] |売上本数= }} {{Infobox animanga/Footer}} 『'''ウイングマン'''』(WING-MAN)は、[[桂正和]]による[[サイエンス・フィクション|SF]][[漫画]]、およびそれを原作とした[[テレビアニメ]]、[[テレビゲーム|ゲーム]]。また、作中に登場する変身[[ヒーロー]]の名前でもある。 == 概要 == 第19回[[手塚賞]]佳作受賞作「'''[[桂正和コレクション#ツバサ |ツバサ]]'''」等を元に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])誌上において[[1983年]]5・6合併号から[[1985年]]39号まで連載された、桂の連載デビュー作であり、代表作の一つ。単行本は[[ジャンプ・コミックス]]で全13巻。[[1992年]]には愛蔵版、[[1998年]]には文庫版が共に全7巻で販売されている。 [[変身 (ヒーロー)|変身ヒーロー]]に憧れる中学生がその夢を叶え、ヒーローとして活躍・成長していく様を描く。[[1984年]]には『'''夢戦士ウイングマン'''』(ゆめせんしウイングマン)としてテレビアニメ化もされた。「夢戦士」というタイトルは、「前番組の[[愛してナイト]]が女子をターゲットとした番組だったため、少年誌が原作のアニメになることによる、視聴者離れを少しでも減らすためにつけられた」と当時のアニメージュ{{Full citation needed|date=2021年7月}}にて語られている。 「ツバサ」が大元とはなっているが、「[[桂正和コレクション#学園部隊3パロかん|学園部隊3パロかん]]」、「[[桂正和コレクション#すずみシリーズ|すずみシリーズ]]」といった、その他の初期読切り作品のアイデアも多く取り入れており、当時の桂にとっての集大成として出来上がった作品といえる<ref>{{Cite book|和書|author=桂正和 |title=桂正和コレクション |volume=VOL.1 |publisher=創美社 |series=ジャンプ スーパー エース |date=1989年4月15日 |isbn=4420137177 |page=204}}</ref><ref> {{Cite book|和書|author=桂正和 |chapter=あとがき |title=桂正和コレクション |volume=VOL.2 |publisher=創美社 |series=ジャンプ スーパー エース |date=1989年4月15日 |isbn=4420137185 |page=235}}</ref>。桂の初期の作品群に多く見られるように、本作も[[特撮]]ヒーローの影響を色濃く受けており、特に「[[宇宙刑事シリーズ]]」や「[[スーパー戦隊シリーズ]]」の影響が強く見られる。 また、この作品の読者世代が後に「平成ウルトラマン」や「平成ライダーシリーズ」のスタッフとなり当作品のオマージュ的要素を加えている影響もある。 担当[[鳥嶋和彦]]の意向により[[ラブコメ]]の要素を取り入れ<ref>{{Cite book|和書|author=桂正和 |chapter=桂正和インタビュー |title=4C R-side <{{Small|HE}}R{{Small|OES}}-side> Katsura Masakazu Illustrations 2 |publisher=集英社 |date=1998年8月9日 |isbn=4087827623 |page=71}}</ref>、独自の色を出すことに成功。ジャンプコミックスの巻末読者ページには女性読者の投稿も多く、後半のお色気描写の増強に苦言が呈された事もあった<ref>「ポドリムス通信」第11巻、集英社、1986年</ref>。ヒロインとして描かれたアオイや美紅といった魅力的な[[美少女]]キャラクターは画力の高さや女の子らしい表現もあって作品に華を添え、本作が大きなヒットを収める要因ともなった{{要出典|date=2021年7月}}。 [[1984年]]には[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]向け[[アドベンチャーゲーム]]も[[エニックス]]から発売され、その後続編も2作制作されている。 作者は約100万円かけて、ウイングマンのコスチュームを作成し着用している([[桂正和]]の項目参照)。またそれ以外にも、ジャンプ・コミックスの単行本のおまけのページの中で、「超銅金ウイングマン」が「ホヒー」より発売されるというウソ広告を作ったところ、後に本当に[[ポピー (玩具メーカー)#旧ポピー合併後のバンダイ|ポピー]]([[バンダイ]])から[[超合金 (玩具)|超合金トイ]]が商品化され<ref>[https://ekizo.mandarake.co.jp/auction/item/itemInfoJa.html?index=650019 バンダイ 超合金 ウイングマン]、[[まんだらけ]] - 2023年7月26日閲覧。</ref><ref>[https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1168435332 バンダイ 超合金/ウイングマン ウイングマン]、[[まんだらけ]] - 2023年7月26日閲覧。</ref>、その広告及びパッケージ裏ではウソ広告の構図とキャッチコピーがそのまま再現された。桂もこれには流石に驚いたという。 == あらすじ == 変身ヒーローに憧れる[[中学生]]([[関東地方]]の某県[[私立学校|私立]]の仲額(ちゅうがく)中学校)の広野健太は、学校からの帰宅途中、頭上に突如現れた異空間から落ちてきた、謎の[[美少女]]とノートを連れ帰ってしまう。そしてそのノートに自作のヒーロー「ウイングマン」を書き込んでしまう。しかしそのノートこそ、書き記されたことを現実にすることのできる「ドリムノート」だった。本物の変身ヒーローになる能力を身につけてしまった健太は、ドリムノートと共に現れた、[[異次元|異次元世界]]「ポドリムス」から来たというこの美少女・あおいと共に、[[3次元|三次元人]](地球人)の奴隷化とドリムノートの強奪を企むポドリムスの[[独裁者]]・リメルの差し向けた怪人、シードマンやゾウジンゲン達と戦っていくことになる。<!--“ドリーム”にあらず、“ドリム”です--> == 登場人物 == === ウイングマンと仲間達 === ; 広野 健太(ひろの けんた) : 声 - [[堀川りょう|堀川亮(現・堀川りょう)]]<ref group="注">次回予告ナレーションも兼任。</ref> : 本作の主人公。8月3日生まれ、AB型。「チェイング」の掛け声でウイングマンに変身する。変身できるようになった当初は全くヒーローとして活躍できなかったが<ref group="注">単に変身するだけで、身に着ける超能力や武器について全く考えていなかったため。</ref>、新体操部に入部してその動きをマスターしたり、筋肉トレーニングをしていくことなどによりヒーローらしく戦えるようになっていく。後にヒーローアクション部に引きずり込まれ、ヒーローアクション部のオリジナルヒーロー、セイギマンのリーダー、セイギレッドも務めるようになる。名前については、元々「健太」という名前を使うことを決めていたものの苗字が決まらず、悩んでいるうちに安易に“ヒーローの健太”を捻った、というのが作者の弁である。 : 性格は直情直行で、思い込みが激しいタイプ。恋愛に鈍い朴念仁で、知らぬうちに女を泣かせるタイプでもある<ref group="注">美紅の想いも告白されて気づいた。</ref>。物語後半では、好きな女の子に自分の気持ちを正直に伝えられない、思春期の少年ならではの苦悩を見せる一面もあった。絵が上手く、たまたま彼の絵を見た北倉先生にも、「アイツ、漫画家になったほうがいいんじゃないのか?」と呆れながら感心されるほど。 : 原作の最終話ではライエルに殺されたアオイを生き返らせるためにドリムノートに書かれたウイングマンに関する全てを消し、「あおいさんは生き返る」と埋め尽くした。その甲斐あってかアオイは生き返るものの、それはウイングマンとしての記憶・歴史・時間の全てを引き換えに得た物であり、代償としてアオイに関する記憶も失うこととなった。 ; アオイ / 夢 あおい(ゆめ あおい) : 声 - [[川浪葉子]] : 異次元世界ポドリムスからやってきた少女。16歳。ドリムノートを作った科学者ラークの娘。当初、健太と同じ仲額中学校にいとこの夢あおいとして編入するが、後に仲額高校に編入する。登場する姿は三次元<ref group="注">ポドリムス人は我々の世界をこう呼ぶ。</ref>人に変身した姿である。ディメンションパワーを使い健太と共に戦う。後に結成されるウイングガールズのメンバー。 : 普段は気が強く口うるさい感情的な女の子ながら、好きな人に素直な感情をうまく伝えられない奥ゆかしい一面を見せる。物語後半では「年上のお姉さん」へと成長する。 : ポドリムスではナァスと恋人同士でプロポーズまでされていたが、そのナァスがリメルの手下として三次元に潜入していたことを知り、元恋人と健太との戦いに板挟みになったアオイは苦悩する。 : 原作の最終話ではライエルによって命を落とすが、「ウイングマンの全て」と引き換えに生き返ることとなる。そして健太の前に現れ一方的にキスをして別れを告げ<ref group="注">一方の健太はアオイに関する記憶を失っていたため、パニックになっていた。</ref>健太との全てを胸に独りポドリムスへと帰って行った。 : アニメ版ではライエルが登場しない関係で死ぬ描写はなかったが、全てが終わってポドリムスに帰らなければならない身である以上、自分の存在を覚えていて欲しくないという悲壮なる決意から、彼女自らドリムノートに書かれた全てを白紙にする<ref group="注">白紙にする前、感謝を込めた健太の別れの挨拶がドリムノートの最後のページに書かれていた。</ref>。そして、健太たちの記憶から自分に関する全ての記憶を消し、健太への想いを胸にポドリムスへと帰った。 ; 小川 美紅(おがわ みく) : 声 - [[渡辺菜生子]] : 広野健太のガールフレンド。A型。新体操部所属。第一話で先生に叩かれて気を失った健太を、保健委員として看病したことがきっかけで仲良くなった。当初は健太を「ただのヒーロー好き」としか見ていなかったが、後に彼がウイングマンに変身して、三次元世界の征服を狙う一味と本当に戦っていることを知り、密かに健太に想いを寄せていたことから戦いに参加する。後に結成されるウイングガールズのメンバー。作中で幾度かドリムノートの記述が消えた際にもドクターラークによってディメンジョンスーツを身に付けて戦っている。 : 性格は[[ぶりっ子]]で、至って内気。思ったことをはっきり言えない性格だが大胆な一面もあり、物語中盤から芯の強い女性へと成長していく。アニメ版の口癖は「○○するの、良くないと思う」。 ; 森本 桃子(もりもと ももこ) : 声 - [[山本百合子]] : ヒーローが大好きな女の子。6月26日生まれ、O型。ヒーローアクション部のオリジナルヒーロー、セイギマンのセイギピンクとして登場するが、健太が本物の敵と戦っていることを知り、自らも戦いに参加する。初期は寡黙だったが、物語が進行する上で朗らかな性格となる。実は健太とは小学校時代の事件をきっかけに一途に想っている健気な娘。後に結成されるウイングガールズのメンバー。当初はアオイからスティックを借りていたが、布沢の加入を契機に変身アイテムであるバッジを使ってディメンション・スーツへ変身するが、後述の和正によって描かれたスーツはセイギマンのものとあまり変化はなかった。そばかすが特徴だが、女子メンバーの中ではスタイルも良く、アオイと並んでお色気シーンも多い。 : 小学校時代に健太と会うまではヒーローものに興味がなかったような言い方をしていたが、当時愛犬に「あいしー」と名付ける当たり、それは嘘だと思われる。 ; 布沢 久美子(ふざわ くみこ) : 声 - [[中野聖子]] : 新聞部所属。2月8日生まれ、AB型。人呼んで「仲額中の[[梨元勝|ナシモト]]」。特ダネを求めて健太を追いかけているうちに、本当にヒーローに変身できることを知る。それをネタに自らも変身できるようにしてもらい、ウイングガールズ結成を提唱した。視力が悪く眼鏡を着用していることがコンプレックスで、変身できるようにしてもらう際には「変身すると視力がよくなる」との一文を挿入させている<ref group="注">アニメでは、戦闘で眼鏡が邪魔になるだろうと懸念した健太が、デザイン完成の際に追記してくれた。</ref>。彼女と桃子の変身コスチュームは、原作では健太のクラスメートで絵の得意な和正が、彼女の絶望的なまでに絵心の無いデザインを見かねて一から描き直した物であり、露出が大きいものとなっている<ref group="注">アニメ版では久美子の絵を基に、健太がデザインを直している。</ref>。 : 性格は、自己中心的で周りを巻き込む迷惑なタイプ。トラブルメイカー。ちゃっかり者で、思い込みが強い。物語後半では一途に想い続ける女の子らしさを見せた。 ; 美森 くるみ(みもり くるみ) : 声 - [[堀江美都子]] : 人気ナンバー1のトップ[[アイドル]]。大人びた落ち着きと、好奇心旺盛な性格を併せ持つ。あるきっかけから、健太がウイングマンに変身し自分達を守ってくれていることを知り、応援する。取材でウイングマンの素顔を問われたこともあるが「彼に危険が及ぶので」とノーコメントを通した。歌番組の中で「WING LOVE」<ref group="注">アニメ版は「いけない三角関係(トライアングル)」。</ref>を歌うシーンも。登場する機会は少ないが、大人びた女性のかわいらしい一面も描かれている。趣味は[[七宝]]。 ; リロ / 桜瀬 りろ(おうせ りろ) : 声 - 石澤美華 : リメルの配下であるドクターアンバランスが造り出したゾウジンゲン(人造人間)。歌声で人を意のままに操る能力を持つ。声を衝撃波に変え攻撃したり、物を壊すこともできる。仲額中学校<ref group="注">健太達の1年下。</ref>に編入して三次元征服計画に従事するが、リメルを裏切ってウイングマンの味方につく。アニメにおいては、ゾウジンゲンではなくポドリムス人で、あおいとは全く違うディメンションパワーを持っているという設定にされている。 : 自己中心的で好き嫌いが激しくわがままな性格だが、あおいのことは慕っている。健太には反抗的だが結局協力してしまう。「〜ですわ」「〜ですのよ」といったしゃべり方をする。 ; ドクターラーク : 声 - [[はせさん治]] : アオイの父。ドリムノートを開発し、ゾウジンゲンの原型を生み出したポドリムスきっての優秀な科学者。原作第5話でキータクラーにアオイと引き離され、そのまま独房に監禁されるが、ドリムノートを通じて健太を支援したりもする。リメルが倒れたのも束の間、ライエルの襲来で制圧されたポドリムスを脱出し三次元でアオイと共に暮らすようになる。三次元人の姿を取る際は苦みばしったダンディーな容姿を持つ<ref group="注">容姿自体は三次元に来た際に遭遇した青年がモデル。</ref>。ディメンションパワーで警官の身分を得て健太の行動をフォローしたり、テレビ局から盗んだ特撮ヒーローの着ぐるみを着て健太のピンチを救うこともある。あくまで気分的な問題だが、ずっと三次元人に変身しているのは疲れるらしく、自宅内では元の姿に戻っていることもある。明朗でお茶目な性格の持ち主。全てが終わった後、アオイと共にポドリムスへと帰った。 === 仲額中学校 === ; 楠冨 青三(くすとみ せいぞう) : 声 - [[目黒光祐]] : ヒーローアクション部のメンバーで、セイギブルーを名乗る。学年テストで常に首位。顔立ちの割りにテンションが高く、やや空回りしている。 ; 北島 みどり(きたじま みどり) : 声 - ? : ヒーローアクション部のメンバーで、セイギグリーンを名乗る。学級委員長を務めたことがある。「いい人」で片付けられてしまうタイプ。桃子とは旧知の仲で、彼女の健太への想いを陰ながら応援していた。 ; 渡辺 広黄(わたなべ ひろき) : 声 - [[橋本晃一]] : ヒーローアクション部のメンバーで、セイギイエローを名乗る。一見無口そうだが、思った事を口にする毒舌家。リロいわく、「あなた暗そうだからベースが弾けそう」とのこと。 ; 松岡 ケイ子(まつおか ケイこ) : 声 - [[島本須美]] : 健太たちの担任教師。26歳。彼らのヒーローごっこを蛇蝎のごとく嫌う一方、職員会議で健太の処分が問われた際には彼を庇うなど、生徒思いの一面もある。現実主義に見せかけて、美男子には目が無い分かりやすい性格で結婚願望が強い。武器は出席簿と説教。ケイ子という名前はアニメのみで、原作では公表されていない。 ; 福本(ふくもと) : 声 - [[小林通孝]] : 角眼鏡を掛け、丸刈りとタラコ唇が特徴の男子生徒。健太の小学校以来の親友で、ヒーローへの憧れも温かく見守っており、新入生歓迎の舞台では怪人役を引き受けている。 === ウイングマンの敵 === ; リメル : 声 - [[田中康郎]] : ポドリムスを支配する悪の帝王。本来は普通のポドリムス人であるが、支配下に置いたポドリムス人からディメンションパワーを奪い、強大な力を持っている。ゆえに彼に奴隷化されたポドリムス人はディメンションパワーが使えず、肉体労働を余儀なくされている。 : 三次元人の奴隷化とドリムノートを狙っている。ポドリムスの決戦で、描写はされないが新必殺技ヒートショックでウイングマンに倒されたかに思われた。しかし、死んだと思わせておいてドクターラークに化け、さらには健太に取り付き、彼を操ってあおいを殺そうとする。だが、健太の正義の心の前に敗れ、本当の最期を迎える。 : アニメ版ではライエルの代わりにゴーストリメルとなって蘇り、ポドリムスのみならず三次元界の支配をも企んだ。霊体ゆえにデルタエンドが通じなかったが、最終回でデプスゾーンを二重にしたダブルデルタエンドによって遂に滅ぼされた。 ; キータクラー(北倉俊一) : 声 - [[富山敬]] : リメルの片腕とも言える一の部下で、健太が初めて対決した敵。人間型だが、手は鋭い爪の付いた3本指(親指他2本)。シードマンを率いる。ポドリムス人ともシードマンとも異なるようだが、何者なのかは結局明らかにならなかった。健太に近づくため三次元人に変身し、北倉俊一の名前で教師として仲額中学校に赴任、ヒーローアクション部の顧問になる。リメルを倒し、自らがポドリムスの支配者になる野心を持ち、テレビ局から特撮ヒーローの着ぐるみを盗み、それを念力で操り健太にリメルを倒させる手助けをしている(そのため、後にドクターラークが着ぐるみを着て登場した際、皆がキータクラーだと思い込んでいた)。後に北村先生という似た容姿のキャラクターが登場するが、キータクラーとの関連性は漫画版では不明。 : リメルが倒された後、ポドリムスを売り渡してライエルの元に身を寄せる。ウイングマン=健太をライバルとして認め、名実ともにヒーローとなった彼との決着をつけるために最終回一話前で再び健太と戦うが敗れる。しかしその後のライエル戦では健太に勝機を作るためライエルに組み付いて動きを封じ、健太の救助を拒んでヒートショックでライエルとともに散っていった。ライエルを封じたのは「自身のプライド」からだったが、自分は悪だと断じ敵に情けを掛けがちな健太に「[[正義の味方]]としての決断」を示した。 ; シャフト : 声 - [[塩沢兼人]] : リメルの部下でキータクラーと並ぶ幹部。正体は滅多に誕生しない高等シードマン。健太に近づくため仲額中生徒・黒津に憑依、ヒーローアクション部に入部する(セイギマンではブラックを担当させられた)。キータクラーとは敵対しており、彼の手柄を横取りしてまで戦果を挙げようとした。最終決戦で正体を現して健太に最後の戦いを挑み敗れる。原作とアニメ版では設定が異なり、アニメ版の黒津はシャフトが三次元人に変身した姿として描かれており、原作とは別の正体<ref group="注">原作のみ登場したシャフトの配下「ディシードマン・バルドン」からの流用。彼に該当する設定もそのまま怪物化したシャフトに流用されたため、アニメ版はバルドンが登場しなかった。</ref>を持っている。 ; ドクター・アンバランス : 声 - [[大竹宏]] : リメルの部下でゾウジンゲンやシードマンを作り出した[[科学者]]。実はラークが自分の助手として作ったゾウジンゲン第1号である。アニメでは直接戦闘能力が無いのに対し、原作では戦闘能力も高いようだが、物語中、実際の戦闘は一度しかしていない。 ; シードマン : リメル編における怪人的存在。原作内での記述によると(ゾウジンゲンと違って)人工生命体ではなく、ポドリムスに元からいた生物を品種改良ないし遺伝子改造したものらしい。その名の通り地中に種を埋め込むと、途端に成長して人間大サイズの怪人となる。キータクラーやシャフトに率いられてウイングマンと戦う。会話・変身能力を持つ強化シードマン「'''ディシードマン'''」(アニメ版はデ'''イ'''シードマンと呼称)も登場した。シャフト戦死後は出番が無くなり、原作漫画では登場回数が少ないが、アニメ版においてはほぼ1話1体のペースで登場する(アニメ版では特に設定は語られずメカシードマン・ズバーグなる異形の巨大ロボットも登場した)。 ; [[戦闘員]] : 1回目は黒のスーツにサングラス、2回目は同じく黒いツナギの戦闘服、サングラス、ベレー帽姿で登場する。武器は手のひらから出現するナイフ。三次元人の姿をしているが詳細は不明。アニメ版ではリメル配下のポドリムス人兵士が、三次元において三次元人の姿に変身したという設定になっている。 ; ナァス(斉藤辰夫) : 声 - [[島田敏]] : アオイの元、恋人。本編ではリメルの手下として登場する。野望のためにアオイを言葉巧みに誘惑し、ドリムノートを奪おうとしたが失敗し、最期はウイングマンのデルタエンドを逆利用するが辛くも倒される。アニメ版はアオイが自らの手で倒した。 ; 帝王ライエル : リメル亡き後、地球を侵略してくる。気に入った惑星を封じ込めた惑星宝石収集が趣味。地球の美しさの邪魔となる地球人を除去するために手下を送り込んでくる。地球人を種々の方法で操り人形化させようとした。健太に手下をやられて東京に総攻撃を仕掛け、巨大化したウイングマンと戦い敗れるが、実はそれは仮の姿(自身に似せて作られた搭乗型巨大ロボット)だった。最終回でのキータクラー対ウイングマンの戦いの後に真の姿を現し、あおいの命を奪うが、キータクラーによって動きを封じ込められ、ウイングマンのヒートショックによって敗れる。 : アニメ版ではゴーストリメルに変わったため、登場しない。 ; ドクター・ヴィム : ライエルの腹心。男嫌いの美女であり、科学者。しかし、度重なる失敗とバクプラスが暴走した際にウイングマンに命を救われたことから、その地位を追われる。戦いの中で健太に人としての魅力を見出し、総攻撃のさなかライエルを裏切り、ウイングマンのために自ら散る。 : 本人が固い性格な割に、部下である怪人(プラス獣)はスケベが多い。 ; バルダ : ライエルの部下の女戦士。ヴィムを「物づくりしか出来ない」と馬鹿にする。美人だが性格は残忍・傲慢かつ、ヴィムに対して仕置きを与えるほどのサディストでもある。美紅を捕らえ、ガルダンに罪のない女生徒や機動隊員を死に追いやらせた事が健太を怒らせ、容赦ないヒートショックで葬られた。 ; バルド : ライエルの部下の戦士で、バルダの弟。二枚目。ヴィムに言い寄ったりして姉に手厳しく接されたりする優男だが、三次元人の姿となって布沢を篭絡した挙げ句に手にかけた悪党でもある。ドクターラークに救われた布沢の復讐を受け、乗じてウイングマンがとどめを刺した。 ; プラス獣 : ライエル編における怪人的存在。生物や化学物質を合成して造ったことからこの名がついた。元からいたものとドクター・ヴィムが造ったものがあるようである。4体のみの登場。 ; ガルダン : バルダの片腕とも言うべき戦闘用ロボット。大きさは人間大だが、戦車を捻り潰すほどの怪力と強大な火力を持ち、なおかつ、頭部以外を破壊してもダメージを受けず破壊した部分が武装パーツとなり強化してしまう。コアとなる頭部はデルタエンドの直撃でも破壊されない頑強さ。健太を苦戦させるが、土壇場で弱点を見抜かれ、電子頭脳が損傷して暴走し自滅する。 == ウイングマン == 広野健太が夢想していたヒーローを、あおいが持っていたドリムノートにいたずら書きのように書き込んだことで出現したヒーロー。「チェイング! (チェンジとウィングの造語)」の掛け声で変身する。第1話で健太が着用していた自作スーツのように、彼は体色を赤地に白のツートーンで思い描いていたが、ドリムノートにウイングマンのイラストを描く際、付属のドリムペンで体を塗り潰したせいか体色は黒地に青となった(後に、後述の変身時間のリミットを知らせ、また新必殺技「デルタエンド」に対応するため青→黄→赤と変化するように改良している)。 三次元世界では10分間の変身タイムリミットがある(ポドリムスでは変身時間が無制限)。これは劇中であおいが「ドリムノートの力は三次元では効力の限界があるため」と推測している(しかしウィングガールズの変身時間やウイナアなどのサポートメカに時間制限はない)。ドクターアンバランスが開発した、ドリムペンの筆跡を消せる「ドリムイレイザー」をシャフトが使ったことにより一度消去されたが、ラークの助力で復活する。 健太が最初にドリムノートにウイングマンを書いた際、(いたずら書きだったせいもあり)変身の掛け声がチェイングであるとだけしか書かなかったので、チェイングと叫べば誰でも変身できてしまった。そのことを敵に知られ変身されてしまうが、後にドリムノートがパワーアップした際に、健太だけが変身できるように改めて記載した。さらに後、ライエルとの最終決戦のさい、正義の心を持つ者なら誰でもウイングマンに変身出来るように健太が書き改めている。 その名にふさわしく、背中には自分の意思で出現させることのできる翼を持ち飛行が可能。また時速500キロで疾走することもできる。ただし、あくまでドリムノートの力で外形だけを強化しているだけなので、ある程度肉体を鍛えていなければ、肉体が能力に追いつかず、力をコントロール出来なかったり、変身解除後に肉体がダメージを受けたりする。健太もウイングマンになったばかりのころは、力をコントロール出来なかったが、自身を鍛えることによって、コントロールできるようになった。 ベルトバックルの「ドリムカセット」にドリムノートを縮小収納しているが、一度奪われた為に、以後取り出せるのは健太だけと設定した。 キータクラーとの最後の戦いに際して、ドクターラークが新しいドリムイレイサーを健太に渡した。本来は余白もなくなったドリムノートを有効活用するため(古い武器や技を消して新しいものを描きこむ)だったが、アオイを蘇生させるために使用された。 === 必殺技、およびサポートメカ === ドリムノートに書けばそれが実現する、という設定のため、健太は劇中思いつきで様々な技をドリムノートに書き込んでいく。しかしその技を使った後の自分への肉体的負担や、周囲へのダメージなどは考えていなかったため、思わぬ事態になるというのが作劇上1つのパターンとなっている。 ; ウイナア / ウイナルド : ポドリムスへの帰還方法を忘れてしまったあおいのために、健太が変身以外で最初にドリムノートに書きこんだ万能エア[[オートバイ|バイク]](車輪はない)。「ウイナア」の掛け声で出現する。攻撃能力は無いが、陸上はもちろん海中・水中でも行動が可能、さらに異次元(ポドリムスしか行かないが)への出入りも可能。「ウイナア、ウイナルド シルエット」の掛け声でロボット形態ウイナルドに変形する(変形の際にバイク時には無かったパーツが出現する)<ref group="注">逆は「ウイナア」の掛け声でバイク形態に戻る。</ref>。武装はビームサイザーとウイザービーム。神谷三兄弟との戦闘以降、この形態で登場すると破壊されることが多くなる。 : アニメ版は第3・19・47話のわずか3回しか登場しなかった。またウイナルドへの変形はせず、移動手段として使われたのみである。 ; ウイナアII世(ツー) / ウイナルドII世 : アニメオリジナルメカ。健太が強化策の一つとして新たにドリムノートに書き足して誕生させた2号バイク。現実のフルカウルバイクに近い形状とウイナアにはない車輪を持っているのが特徴であり、ウイナア同様、空中や異次元への移動も可能。「ウイナルドII世(ツー)」の掛け声でロボット形態のウイナルドII世に変形する(余剰パーツが無く単体で変形可能)。戦闘時はウイナルドII世の背中に乗って戦い、主武器のドリムレーザーを発する腕には敵の攻撃を反射するミラーも展開可能。なお、敵メカのテスト用として赤色のイミテーションが登場したこともある。 ; クロムレイバー : ウイングマンが最初に使用した武器で、腰の飾りを変形させた長[[剣]]。渾身の勢いでキータクラーを殴りつけたまではよかったが、その石頭のせいで折れてしまう。本来は棍棒や[[サーベル]]のような物だったらしい。途中から、ビームの刃を付けて斬れるようにした'''バリアレイバー'''が登場し、クロムレイバー自体も後述のクロムロープとして使えるよう機能強化される。 ; コンティニパンチ : 1秒間に数十発のパンチを繰り出す必殺技。しかし肩への反動も大きく、試用した際に土管を砕くパワーを見せ付けたが、かなりの痛さに悶える羽目になる。 ; ウイングル・クラッシュ : つま先が尖り、どんなに硬い岩でも貫くキック技。だが初使用時は床に突き刺さったままなかなか抜けず、足も痺れていた。 ; スパイラル・カット : [[ウルトラセブン]]の如く頭の飾りを飛ばすと、それが回転しながら敵を斬る[[ブーメラン]]と化す。初期は戻って来たはいいが上下逆に着いてしまうことが多かった。のちに、戻って来たところを交差させた手で受け止め正立に直すスタイルになる。 ; ドライバーレイド : 短剣状態のクロムレイバーを両手に持ち、高速回転しながら敵に体当たりする必殺技。地面に潜る為に使うことも多かった。 ; ファイナルビーム : 初期のとどめ用の必殺技、胸から両腕に伸びる模様、およびスパイラルカットから発射する必殺[[光線]]。だが威力が高すぎるため、場所を選ばないと建物などに被害が出る恐れがある。また、使用にあたって健太への負担も大きく、疲れているときには気絶したりして行動が不能になってしまう。 ; ガーダー : 負傷箇所などを保護するためのプロテクター。「ウイングマン ガーダー シルエット(アニメ版ではウイングガーダー。原作から一部パーツを省略)」と唱えれば装着される。これを装着していれば動きが鈍くなる代わりに、受ける衝撃を分散、また2倍のパワーを引き出せるようになる。だが初使用を含めて使用回数は3回しかなく、2、3回目は敵の攻撃ですぐに破壊されるようになってしまった。 : 変身していない状態でも使え、健太は変身前に左手を守るために使用したことがある。 : アニメ版では右腕部分が開いて偵察機レーダーバードが発進し、敵のデータを分析出来る(その結果は、ドリムカセットから穿孔テープの状態で出てくる)。 ; スプリクトフラッシュ: まっすぐ伸ばした平手から放つ光線、腕をクロスさせて両腕で放つこともある。 ; クロスバーン : 腕をクロスさせ、そこから同時に打撃を与える必殺技、一見弱そうだが結構威力はあるようだ。 ; デルタエンド : ファイナルビームに代わるものとして考案された一撃必殺技。変身時間のタイムリミットが残り3分になって、それまでの途中経過における身体の色(青のタイム4分→黄のタイム3分→赤)が揃った時に初めて使える。 : まず「ブランチ(分身)」を行い、5秒で2体の分身を完成させる。次に「デルタ―エンド」の掛け声と共に3人揃って敵を空高く持ち上げ、2本のクロムレイバーでバリアーエッジ(表記によってはバリアエッヂ)を展開、四面体状の“デプスゾーン”を完成させて地上に降り立つ、そして「ショック!」と共に起爆する。爆風などは一切デプスゾーンから出ないようになっている(アニメ版最終回では、爆破エネルギーをはね返すゴーストリメルに対し、デプスゾーンを2重に張る“ダブル・デルタエンド”で対抗、勝利を収めた)。 : 弱点は、デルタエンドをしかけた相手につかまってしまうと、デプスゾーンから抜けられなくなり、自らも技にかかってしまうこと。一度その弱点を突かれ、健太は敵とともにデルタエンドを浴びることになったが、健太の精神力によってビームが敵にそれ巻き添えを免れた。また、時間が経過しないポドリムスでは体の色が変わらない(=分身できない)為、使用不可能に陥る。これをきっかけに、後に後述の「ヒートショック」が生み出される。 : この「ショック!」(前に伸ばした右手の拳から親指を立て、下に向けて叫ぶ)は他局のはずの『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』でも堂々とパロディにされるなど、ウイングマンを代表する必殺技となった。 ; クロムロープ : クロムレイバーのグリップと先端をリボン状のロープで繋いだもの、主に敵を引き寄せる時に使う。 ; ソーラーガーダー : リメルとの最終決戦時に初使用した新型ガーダーで、のちにライエル編での主力装備となる。「ウイングマン ソーラーガーダーシルエット」の掛け声で装着する。太陽光を吸収して高エネルギーに変換、とんでもない明るさの光や高熱を放出したり、ソーラーガーダー専用の各種武器に使用する。また解毒機能も備わっている。 ; ヒートショック : ソーラーガーダーにある程度の[[太陽]][[エネルギー]]が溜まり、胸部に付いているフュエルシグナルが全て点灯した時に使用できる一撃必殺技。胸部を開き<デスボール>と呼ばれる光弾を発射、これを命中させ敵の動きを封じ、「ヒートショック!」と共にクロムレイバーを変形させた'''ヒートレイバー'''で敵を斬り起爆。デルタエンドと同じく、爆風などはデスボール内から外には一切出ない。 : なお、デスボールは「最初に当たったものを封じる」という弱点があり、キータクラー戦では近くにあったイスをぶつけるという手段で破られている(キータクラー曰く「この程度で破れる」)。 この他にも、対スノープラス戦の'''ヒートウォッシャー'''や対ガルダン戦の'''フラッシャービーム'''など状況にあわせてドリムノートに書き足している。 ; マッハチェイング : アニメオリジナル形態。頭部および身体の各部に赤い模様が現れるスピード形態。短距離のテレポート移動が可能になる。 ; パワーチェイング : アニメオリジナル形態。目および身体の各部に黄色い模様が現れるパワー形態。瞬間的な力の増強が可能になる。 == テレビアニメ == [[1984年]][[2月7日]]から[[1985年]][[2月26日]]まで[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]にて『'''夢戦士ウイングマン'''』のタイトルで放映。全47話。ヒーローアクションよりも学園ラブコメディーとしての比重が高く、松岡先生やクラスメイトの出番が原作よりも多かった。またファミリー路線を意識して隣の家に住む小学生・戸鳴正和というオリジナルキャラが登場(のちに原作にもアニメ未登場の姉と共に登場)したり、変身後に前口上を述べたりしている。主人公健太役の堀川亮(現・堀川りょう)は本作で主演での声優デビューを果たしている。 アニメでは原作とは異なる展開でリメルを倒し、その後アニメオリジナルの「ゴーストリメル編」で完結、ライエル編は制作されず、ドラマLP『FINAL〜不滅のヒーローソング〜』にて補完される。 なお、本作の終了で『[[狼少年ケン]]』から絶える間もなく放送されていたテレビ朝日制作の東映動画作品が初めて途絶え、1985年6月に制作された『[[コンポラキッド]]』まで約3カ月のブランクがある<ref group="注">ただしABC制作の[[朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ|日曜8:30枠]]は継続して放映されていた(こちらは、2021年2月現在も継続中)。</ref>。 === 声の出演 === ※各登場人物の詳細は[[#登場人物]]を参照。 ; ウイングマンと仲間達 :*広野健太(ウイングマン) - [[堀川りょう|堀川亮]] :*小川美紅 - [[渡辺菜生子]] :*アオイ(夢アオイ・アニメでは三次元名もカタカナ表記) - [[川浪葉子]] :*森本桃子(セイギピンク) - [[山本百合子]] :*布沢久美子 - [[中野聖子]] :*美森くるみ - [[堀江美都子]] :*桜瀬りろ - 石澤美華 :*ドクターラーク - [[はせさん治]] : ; 仲額中学校 :*楠冨青三(セイギブルー) - [[目黒光祐]] :*渡辺広黄(セイギイエロー) - [[橋本晃一]] :*松岡ケイ子先生 - [[島本須美]] :*校長 - [[青野武]] :*教頭 - [[八奈見乗児]] :*福本 - [[小林通孝]] :*東洋カンジ先生 - はせさん治 : ; ウイングマンの敵 :*リメル - [[田中康郎]] :*キータクラー(北倉俊一先生) - [[富山敬]] :*シャフト(黒津) - 塩屋浩三(7話のみ)、[[塩沢兼人]] :*ドクターアンバランス - [[大竹宏]] :*ザ・シーバ(水野麗) - [[横尾まり]] :*ナァス(斉藤辰夫) - [[島田敏]] :*神矢麗一 - [[田中亮一]] :*神矢麗人 - [[田中和実]] :*神矢麗奈 - [[鶴ひろみ]] :*リメル/ゴーストリメル - [[蟹江栄司]] : ; その他 :*健太の父 - [[矢田耕司]] :*健太の母 - [[向井真理子]] :*戸鳴正和 - [[安田あきえ]] :*ゆかり - [[江森浩子]] :*謎の戦士 / 北村先生 - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]] :*奥野真 - [[堀秀行]] === スタッフ === *企画 - 勝田稔男、横山和夫(東映動画) *製作担当 - 武田寛 *原作 - [[桂正和]](集英社「[[週刊少年ジャンプ]]」) *音楽 - [[奥慶一]] *キャラクター・デザイン - [[兼森義則]] *美術デザイナー - 辻忠直 *シリーズ・ディレクター - [[勝間田具治]] *プロデューサー - 加藤守啓(テレビ朝日)、富田泰弘(東映エージエンシー) *特殊効果 - 中島正之、榊原豊彦、鈴城るみ子、山田一郎 *撮影 - 佐野和広、池上元秋、菅谷英夫、佐藤隆郎、鳥越一志([[スタジオコスモス]]) *編集 - 吉川泰弘(タバック) *録音 - 波多野勲([[タバック]]) *効果 - 今野康之([[スワラ・プロ]]) *選曲 - 白井多美雄(1話 - 11話) → 宮下滋([[ビモス・プランニング|ビモス]]、12話 - 47話) *演出助手 - [[渡部英雄]]、[[角銅博之]] *製作進行 - [[樋口宗久]]、山口克巳、類家暁子、安部正次郎、今成英司 *美術進行 - 御園博 *仕上進行 - 伊藤登美子 *記録 - 原芳子 *現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]] *アニメーション制作 - [[東映アニメーション|東映動画]] *制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]] === 主題歌 === ; オープニングテーマ - 「異次元ストーリー」 : 歌 - [[ポプラ (歌手)|ポプラ]] / 作詞 - [[竜真知子]] / 作曲 - [[林哲司]] / 編曲 - 奥慶一 ; エンディングテーマ - 「WING LOVE」 : 歌 - 山中のりまさ / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - 奥慶一 === 挿入歌 === ; 「Bad Dreamin'」 : 歌 - ポプラ / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「Blue Sensation」 : 歌 - ポプラ / 作詞 - [[吉田健美]] / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「私のPretty Boy」 : 歌 - ポプラ / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「Afternoon Samba」 : 歌 - 山中のりまさ / 作詞 - 吉田健美 / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - 奥慶一 ; 「風の冒険者」 : 歌 - 山中のりまさ / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「いけない三角関係(トライアングル)」 : 歌 - [[山野さと子]] / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - 奥慶一 ; 「恋のミラクル・ビーム」 : 歌 - [[橋本潮]]、[[こおろぎ'73]] / 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「悪!裂!ウイングマン」 : 歌 - [[宮内タカユキ]] / 作詞 - 吉田健美 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「ショック!ウイングマン」 : 歌 - 宮内タカユキ / 作詞 - 吉田健美 / 作曲 - 奥慶一 / 編曲 - 奥慶一 ; 「Desire(欲望)」 : 歌 - 宮内タカユキ / 作詞 - 吉田健美 / 作曲 - [[樫原伸彦]] === 各話リスト === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!(絵コンテ)<br />演出!!作画監督!!美術!!登場シードマン |- |第1話||'''1984年'''<br />2月7日||空からどっきりビキニの娘||rowspan="2"|[[酒井あきよし]]||[[勝間田具治]]||落合正宗||rowspan="2"|辻忠直||rowspan="4"|- |- |第2話||2月14日||ヒップにシッカとつかまって||[[芹川有吾]]||永木龍博 |- |第3話||2月21日||ごっくんアオイと秘密の冒険||[[富田祐弘]]||[[明比正行]]||新田敏夫||[[東潤一]] |- |第4話||2月28日||ステキな美紅のレオタード||酒井あきよし||渡部英雄||河村信道||伊藤英治 |- |第5話||3月6日||バスルームで消えたアオイ||富田祐弘||[[腰繁男]]||新田敏夫||東潤一||メレム |- |第6話||3月13日||大人の恋はドリムのピンチ||酒井あきよし||勝間田具治||[[兼森義則]]||[[池田祐二]]||- |- |第7話||3月20日||制服ぬいだらキケンな予感||富田祐弘||(芹川有吾)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||バルメル |- |第8話||3月27日||二年になって大好き宣言||rowspan="2"|[[柳川茂]]||明比正行||永木龍博||辻忠直||ロヒド |- |第9話||4月10日||燃えてみせます男の新体操||[[正延宏三]]||笠原彰||東潤一||シドルゲ |- |第10話||4月17日||テストばっちり 美紅ちゃんと||富田祐弘||芹川有吾||落合正宗||辻忠直||- |- |第11話||4月24日||恋が芽ばえるテレポート||柳川茂||腰繁男||新田敏夫||東潤一||シノビンバ |- |第12話||5月8日||わっ! 美紅ちゃんと初キッス||富田祐弘||勝間田具治||兼森義則||辻忠直||ディシードマン・ティール |- |第13話||5月15日||美少女からめば友情ぐらり||柳川茂||(渡部英雄)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||- |- |第14話||5月22日||失恋しちゃった松岡先生||富田祐弘||明比正行||[[二宮常雄]]||池田祐二||ディゲロ |- |第15話||6月5日||正義の味方がシットめらめら||柳川茂||(芹川有吾)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||マリモング |- |第16話||6月12日||見られちゃった二人の秘密||酒井あきよし||勝間田具治||永木龍博||池田祐二<br />辻忠直||- |- |第17話||6月19日||似すぎてタマげた!? 僕とボク||柳川茂||腰繁男||新田敏夫||東潤一||モドキーラー<br />スカラ |- |第18話||6月26日||奪われた ドリムノート||富田祐弘||芹川有吾||兼森義則||池田祐二||スパーダ |- |第19話||7月10日||ちびっとトラブル恋模様||柳川茂||明比正行||新田敏夫||東潤一||- |- |第20話||7月17日||涙の中に美紅がいた!||富田祐弘||勝間田具治||二宮常雄||rowspan="2"|池田祐二||シャフト鳥獣態 |- |第21話||7月24日||クイズばっくん! はいポーズ||柳川茂||芹川有吾||永木龍博||rowspan="3"|ザ・シーバ |- |第22話||7月31日||美紅を襲った正義のヒーロー||富田祐弘||腰繁男||みまなねり||東潤一 |- |第23話||8月7日||夕焼け空にアオイのため息||柳川茂||明比正行||兼森義則||池田祐二 |- |第24話||8月21日||ずぶ濡れヨコハマ 夢みてラブ||酒井あきよし||(渡部英雄)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||ジョーザー |- |第25話||8月28日||涙のグッバイ・キッス||富田祐弘||勝間田具治||永木龍博||辻忠直||ラッピング |- |第26話||9月4日||ちぐはぐハートに愛が揺れ||rowspan="2"|柳川茂||芹川有吾||新田敏夫||東潤一||rowspan="2"|- |- |第27話||9月11日||裏切りハートに愛が散る||明比正行||二宮常雄||辻忠直  |- |第28話||9月18日||わッ! 美紅ちゃんが変身した||富田祐弘||腰繁男||新田敏夫||東潤一||バトルシードマン第1号 |- |第29話||9月25日||誘惑ひろがる危険なメロディ||rowspan="3"|柳川茂||勝間田具治||兼森義則||池田祐二||- |- |第30話||10月9日||りろちゃんパニック!||(芹川有吾)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||ラガール |- |第31話||10月23日||桃子ちゃんの初恋プレゼント||(明比正行)<br />渡部英雄||永木龍博||池田祐二<br />下川忠海||rowspan="2"|ザ・デルヴィー |- |第32話||11月6日||夜中にドッキリ修学旅行||富田祐弘||腰繁男||新田敏夫||東潤一 |- |第33話||11月13日||可愛く変身ウイングガールズ||rowspan="2"|柳川茂||勝間田具治||二宮常雄||下川忠海<br />池田祐二||幻影のシードマン |- |第34話||11月20日||アオイさんに思い出あげたい||(渡部英雄)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一||rowspan="2"|キャパ |- |第35話||11月27日||お待たせ! 噂のデルタエンド||富田祐弘||芹川有吾||永木龍博||池田祐二<br />高田茂祝 |- |第36話||12月4日||美紅にサヨナラのメッセージ||酒井あきよし||腰繁男||新田敏夫||東潤一||rowspan="2"|麗一<br />麗人<br />麗奈 |- |第37話||12月11日||キッスはおあずけデスマッチ||rowspan="2"|柳川茂||芹川有吾||兼森義則||高田茂祝<br />池田祐二 |- |第38話||12月18日||アオイの超能力が消える日!||腰繁男||新田敏夫||東潤一||- |- |第39話||12月25日||涙にお別れ友情スクラム||富田祐弘||芹川有吾||永木龍博||池田祐二||メカシードマン・ズバーグ |- |第40話||'''1985年'''<br />1月8日||お助け人りろちゃん走りすぎ||rowspan="2"|柳川茂||腰繁男||新田敏夫||東潤一||メカシードマン・ズバーグ改 |- |第41話||1月15日||敵か味方か!? ナゾの戦士||芹川有吾||兼森義則||池田祐二||rowspan="3"|- |- |第42話||1月22日||ポドリムスで最後の変身!||酒井あきよし||(渡部英雄)<br />腰繁男||新田敏夫||東潤一 |- |第43話||1月29日||リメルを倒したドリムの秘密||柳川茂||芹川有吾||永木龍博||池田祐二<br />高田茂祝 |- |第44話||2月5日||美紅とアオイとあらたな決意||富田祐弘||(勝間田具治)<br />[[角銅博之]]||落合正宗||池田祐二<br />土井則良||ポドリムスモンスター1号 |- |第45話||2月12日||衝撃! キータクラーの正体?||柳川茂||芹川有吾||石之博和||池田祐二||rowspan="3"|- |- |第46話||2月19日||お別れ美紅と初体験||富田祐弘||松浦錠平||兼森義則||加藤清 |- |第47話||2月26日||さよならアオイまた会う日まで||柳川茂||芹川有吾||永木龍博||池田祐二<br />高田茂祝 |} 4月3日は春のアニメスペシャル『[[クラッシャージョウ]]』(19:30〜21:48)のため休止。 === 放送局 === ※放送系列は放送当時、放送日時は個別に出典が掲示してあるものを除き、1985年2月終了時点のものとする<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1985年3月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国放映リスト |pages=126 - 127}}</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !放送地域!!放送局!!放送系列!!放送日時!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ朝日]]||rowspan="12"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||rowspan="13"|火曜 19:30 - 20:00||'''制作局''' |- |[[北海道]]||[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]|| |- |[[宮城県]]||[[東日本放送]]|| |- |[[福島県]]||[[福島放送]]|| |- |[[新潟県]]||[[新潟テレビ21]]|| |- |[[静岡県]]||[[静岡朝日テレビ|静岡けんみんテレビ]]||現・静岡朝日テレビ。 |- |中京広域圏||[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]|| |- |近畿広域圏||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]||現・朝日放送テレビ。 |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]|| |- |[[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]]||[[瀬戸内海放送]]|| |- |[[福岡県]]||[[九州朝日放送]]|| |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島放送]]|| |- |[[長野県]]||[[テレビ信州]]||テレビ朝日系列<br />[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]|| |- |[[秋田県]]||[[秋田放送]]||日本テレビ系列||木曜 17:00 - 17:30|| |- |[[山形県]]||[[山形放送]]||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列||水曜 16:30 - 17:00|| |- |[[山梨県]]||[[テレビ山梨]]||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||日曜 6:00 - 6:30|| |- |[[富山県]]||[[北日本放送]]||日本テレビ系列||金曜 17:00 - 17:30<ref group="注">1985年10月5日以降の放送時間は土曜 7:00 - 7:30(『北日本新聞』1985年10月5日付朝刊テレビ欄より)</ref>||放送期間は1985年2月1日から1986年1月18日まで<ref>『北日本新聞』1985年2月1日付 - 1986年1月18日付朝刊テレビ欄より。</ref>。 |- |[[石川県]]||[[北陸朝日放送]]||テレビ朝日系列||月曜 - 金曜 17:00 - 17:30<ref>北國新聞 1992年9月1日 - 9月7日付朝刊テレビ欄より。</ref>||本放送終了後の1992年に放送。 |- |[[鳥取県]]・[[島根県]]||[[山陰放送]]||TBS系列||火曜 17:30 - 18:00|| |- |[[山口県]]||[[山口放送]]||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列||水曜 17:15 - 17:45||本放送終了後の1986年に放送<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1986年11月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国縦断放映リスト |pages=116}}</ref>。 |- |[[高知県]]||[[テレビ高知]]||rowspan="4"|TBS系列||水曜 16:00 - 16:30<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1986年1月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=テレビ局ネットワーク |pages=80}}</ref>|| |- |[[長崎県]]||[[長崎放送]]||金曜 16:00 - 16:30|| |- |[[熊本県]]||[[熊本放送]]||火曜 17:30 - 18:00|| |- |[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]||木曜 17:25 - 17:55|| |} {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]] |放送枠=火曜19:30 - 20:00 |番組名=夢戦士ウイングマン<br />(1984年2月7日 - 1985年2月26日) |前番組=[[愛してナイト]]<br />(1983年3月1日 - 1984年1月24日) |次番組=[[オヨネコぶーにゃん]](第2期)<br />(1985年3月5日 - 1985年3月19日) }} == ゲーム == === 電子ゲーム === [[1984年]]に[[電子ゲーム|LSIゲーム]]『'''必殺デルタエンド'''』が[[バンダイ]]より発売された。[[液晶]]画面は「マジックパネル」により疑似カラー液晶化されている。 === PCゲーム === [[1984年]]11月に1作目となる『'''ウイングマン'''』、続編として[[1986年]]4月に『'''ウイングマン2 -キータクラーの復活-'''』、[[1987年]]12月に『'''ウイングマンスペシャル -さらば夢戦士-'''』の3本が[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]向け[[アドベンチャーゲーム]]として発売された。発売は[[エニックス]](現・[[スクウェア・エニックス]])。開発チームは「TAMTAM」。 「AUTOMATON」の2017年の記事によると、『[[少年ジャンプ]]』で集英社とエニックスが共同でアドベンチャーゲームのシナリオコンテストを企画したときに、読者からシナリオが送られてきたことが『ウイングマン』の開発のきっかけになったとされている<ref name="AUTOMATON20171220">{{Cite web|和書|title=「堀井雄二」調査団: アドベンチャーゲームは如何に日本のストーリーゲームを発展させていったか? (前編) |url=https://automaton-media.com/articles/interviewsjp/20171215-59185/ |website=AUTOMATON |date=2017-12-20 |access-date=2023-04-21 |language=ja |first=Koji |last=Fukuyama}}</ref>。 また、『ウイングマン』では、前年に発売された『[[ポートピア連続殺人事件]]』と同様に、地の文を主人公の相棒のセリフに置き換える手法が用いられた{{R|AUTOMATON20171220}}。 『ウイングマン2』の作曲は、『[[森田将棋|森田和郎の将棋]]』のアンケートでエニックスの音楽担当者と知り合った[[すぎやまこういち]]に依頼された<ref name=":0">{{Cite web|和書|date=2009-07-03|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/ydqj/vol1/index2.html|title=社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』 「アンケートはがきがキッカケで」|publisher=[[任天堂]]|accessdate=2015-10-31}}</ref>。これがすぎやまが初めてゲーム音楽の作曲を担当した作品である<ref name=":0" />。 <!-- 「2」 アイテムは19種類。武器は16種類 (AVG&RPGII) --> == 書誌情報 == 著者は全て桂正和。発行は注記のない限り全て集英社。 ;新書版〈[[ジャンプ・コミックス]]〉 :#「変身''!!''の巻」 1983年8月15日初版発行(8月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851371851371315501 |title=ウイングマン 1/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851371-1}} :#「刺客の巻」 1983年10月15日初版発行(10月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851372851371315501 |title=ウイングマン 2/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851372-X}} :#「イミテイションの巻」 1983年12月15日初版発行(12月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851373851371315501 |title=ウイングマン 3/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851373-8}} :#「一粒の涙の巻」 1984年4月15日初版発行(4月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851374851371315501 |title=ウイングマン 4/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851374-6}} :#「味方か敵かの巻」 1984年7月15日初版発行(7月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851375851371315501 |title=ウイングマン 5/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851375-4}} :#「秋が暮れるの巻」 1984年10月15日初版発行(10月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851376851371315501 |title=ウイングマン 6/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851376-2}} :#「ハッピーベルの巻」 1985年1月15日初版発行(1月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851377851371315501 |title=ウイングマン 7/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851377-0}} :#「さよならなんて言わないでの巻」 1985年5月15日初版発行(5月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851378851371315501 |title=ウイングマン 8/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851378-9}} :#「別れて会っての巻」 1985年9月15日初版発行(9月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851379851371315501 |title=ウイングマン 9/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851379-7}} :#「バレンタイン大作戦の巻」 1985年12月15日初版発行(12月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851380851371315501 |title=ウイングマン 10/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851380-0}} :#「喰べられた夢の巻」 1986年3月15日初版発行(3月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851383851371315501 |title=ウイングマン 11/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851383-5}} :#「大攻撃の巻」 1986年6月15日初版発行(6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851384851371315501 |title=ウイングマン 12/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851384-3}} :#「正義の味方の巻」 1986年9月15日初版発行(9月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08851385851371315501 |title=ウイングマン 13/桂正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社の本 |publisher=集英社}}</ref>)、{{ISBN2|4-08-851385-1}} ;愛蔵版(発行:ホーム社・発売:集英社) :# 1992年10月 {{ISBN2|4-8342-8101-9}} :# 1992年11月 {{ISBN2|4-8342-8102-7}} :# 1992年12月 {{ISBN2|4-8342-8103-5}} :# 1993年1月 {{ISBN2|4-8342-8104-3}} :# 1993年2月 {{ISBN2|4-8342-8105-1}} :# 1993年3月 {{ISBN2|4-8342-8106-X}} :# 1993年4月 {{ISBN2|4-8342-8107-8}} ;文庫版〈[[集英社文庫]]〉 :# 1998年1月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617347-6 |title=ウイングマン 1/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617347-6}} :# 1998年1月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617348-4 |title=ウイングマン 2/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617348-4}} :# 1998年3月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617349-2 |title=ウイングマン 3/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617349-2}} :# 1998年3月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617350-6 |title=ウイングマン 4/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617350-6}} :# 1998年4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617351-4 |title=ウイングマン 5/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617351-4}} :# 1998年4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617352-2 |title=ウイングマン 6/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617352-2}} :# 1998年4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-manga.net/items/contents.html?isbn=4-08-617353-0 |title=ウイングマン 7/桂 正和 |accessdate=2021-08-28 |website=集英社コミック公式 S-MANGA |publisher=集英社}}</ref>、{{ISBN2|4-08-617353-0}} == パチンコ・パチスロ == *'''パチンコ''':CRウイングマン([[2008年]]、[[サンセイアールアンドディ|Sansei R&D]]) *'''パチスロ''':ウイングマン([[2011年]]、[[オリンピア (パチスロ)|オリンピア]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年7月|section=1}} * {{Cite book ja-jp | author = [[山下章]] | title = チャレンジ!!パソコン AVG & RPG II | year = 1987 | publisher = 電波新聞社 | edition = 1987年10月20日の改装小型版(オリジナルは1987年1月) | pages = 83-116}} - PCゲーム版「2」の諸元について == 関連項目 == *[[超機動員ヴァンダー]] - 次の連載作品。 *[[桂正和コレクション]] - 同時期の短篇を収録。 *[[SHADOW LADY]] *[[D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜]] *[[ZETMAN]] *[[電子鳥人Uバード]] - 背中に翼を持つ鳥人が主人公として活躍するハンナ・バーベラ制作のTVアニメ。OPの旋律に「異次元ストーリー」との共通点があり、作曲した林哲司が影響を受けていたと推測される{{誰2|date=2021年7月}}。 == 外部リンク == * [https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/wingman/ 夢戦士ウイングマン] - 東映アニメーションによる作品紹介ページ {{東映アニメーション}} {{勝間田具治監督作品}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1=夢戦士ウイングマン |1-1=アニメ作品 ゆ |1-2=1984年のテレビアニメ |1-3=テレビ朝日系アニメ |1-4=東映アニメーションのアニメ作品 |1-5=ジャンプ コミックスのアニメ作品 |1-6=中学校を舞台としたアニメ作品 |1-7=変身ヒーローを題材としたアニメ |1-8=アクションアニメ }} {{デフォルトソート:ういんくまん}} [[Category:桂正和の漫画作品]] [[Category:漫画作品 う|いんくまん]] [[Category:1983年の漫画]] [[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:中学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:変身ヒーローを題材とした漫画作品]] [[Category:アクション漫画]] [[Category:スクウェア・エニックスのゲームソフト]] [[Category:アドベンチャーゲーム]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:PC-6000/6600用ゲームソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:1984年のパソコンゲーム]]
2003-09-06T13:59:47Z
2023-11-01T09:25:12Z
false
false
false
[ "Template:Infobox animanga/Game", "Template:要出典", "Template:前後番組", "Template:Cite web", "Template:参照方法", "Template:誰2", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Otheruses", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Full citation needed", "Template:Cite journal", "Template:Cite book ja-jp", "Template:東映アニメーション", "Template:Infobox animanga/Manga", "Template:Infobox animanga/Header", "Template:R", "Template:ISBN2", "Template:Reflist", "Template:Pp-vandalism", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:勝間田具治監督作品", "Template:Infobox animanga/TVAnime" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3
15,434
変圧器
変圧器(へんあつき)は、交流電力の電圧の高さを電磁誘導を利用して変換する電力機器・電子部品である。変成器(へんせいき)、トランスとも呼ぶ。電圧だけでなく電流も変化する。変圧器は静的な(可動部がない)機械であり、周波数を変えずに電力をある電気回路から別の電気回路に転送する 。 交流電圧の変換(変圧)、インピーダンス整合、平衡系-不平衡系の変換に利用する。 変圧器は、磁気的に結合した(相互誘導)複数のコイルからなる。コイル内外に磁気回路をともなうものもある。コイルに使用する導線を巻線という。 特に2個のコイルから成るものにおいて、入力側のコイルを一次コイル、出力側のコイルを二次コイルという。一次コイルに交流電流を流し、変動磁場を発生させ、それを相互インダクタンスで結合された二次コイルに伝え、再び電流に変換し、出力する。 変圧器によって電圧を変更することを変圧(へんあつ)といい、電圧を上昇させることを昇圧(しょうあつ)、逆に下降させることを降圧(こうあつ)という。 一次側に入力されるエネルギと二次側から出力されるエネルギーは同じである。そのため、昇圧させれば電流は減る。 変圧器の特有の現象ではないが、エネルギー保存則の影響を受けるため、一次側に入力したエネルギは二次側から出力されるエネルギと熱、音、漏洩した磁束と等しくなる。そのため実際には変換の際に損失があるため二次側でエネルギーが減少する。 一次コイルの電圧V1、巻数N1、電流I1をそれぞれ一次電圧、一次巻数、一次電流という。同様に二次コイルの電圧V2、巻数N2、電流I2をそれぞれ二次電圧、二次巻数、二次電流という。 またそれらの比V1/V2、N1/N2、I1/I2をそれぞれ変圧比(へんあつひ)、巻数比(まきすうひ)、変流比(へんりゅうひ)という。巻数比は変成比(へんせいひ)とも呼ばれる。 理想的な変圧器では巻数比と変圧比は等しく、さらに変圧比は変流比の逆数と等しい。すなわち、以下が成り立つ: 前者の等号が成り立つ条件は、1次コイルと鎖交する磁束が全て2次コイルと鎖交することである。より一般に1次コイルと鎖交する磁束のうち割合k が2次コイルと鎖交する場合は、 が成立する。この値k のことを1次コイルと2次コイルの結合係数という。従って (a) の第一の等号が成り立つ条件は結合係数が1になることであると言い換えられる。 一方 (a) の第二の等号が成り立つ条件は、変圧器で電気的なエネルギーが保存されることである。実際エネルギー保存が成り立てば I 1 V 1 = I 2 V 2 {\displaystyle I_{1}V_{1}=I_{2}V_{2}} であるので、第二の等号が成り立つ。なお回路中に1つでも抵抗があればそこからエネルギーが熱として逃げてしまうので、電気的なエネルギーは保存せず、第二の等号が言えない。しかしこうした熱が十分小さければ第二の等号は近似的に成立する。 鉄心に主磁束を形成する電流が励磁電流(れいじでんりゅう)である。理想的な変圧器では、励磁電流の位相は一次電圧よりも90°遅れる。実際には鉄心の磁気飽和やヒステリシスにより励磁電流の波形は主に奇数次の高調波ひずみを含む。 電源周波数を高くすると励磁電流は減少する。 変圧比と巻数比の前述した関係式 をマクスウェル方程式から導出する。 1次コイルに交流電流を流すと、電圧 V 1 {\displaystyle V_{1}} の変化に応じて1次コイル内の電場 E 1 {\displaystyle {\boldsymbol {E}}_{1}} が変化する。電磁誘導の法則により E 1 {\displaystyle {\boldsymbol {E}}_{1}} の変化は磁束 Φ 1 {\displaystyle \Phi _{1}} を生じさせ、磁束 Φ 1 {\displaystyle \Phi _{1}} は変圧器の芯を通って2次コイルへと到達し、一部の磁束は漏れ経路を通りながら2次コイルへと到達せずに一次コイルに戻る。1次コイルから発生する全磁束 Φ t {\displaystyle \Phi _{t}} のうちの有効磁束 Φ g {\displaystyle \Phi _{g}} が2次コイルに到達する。有効磁束の割合は漏れ係数 σ {\displaystyle \sigma } として表される。すなわち、 として、 が成立する。磁束 Φ 2 {\displaystyle \Phi _{2}} は1次コイルの場合と逆の過程をたどることにより、2次コイル内の電場 E 2 {\displaystyle {\boldsymbol {E}}_{2}} と電圧 V 2 {\displaystyle V_{2}} とを変化させる。 1次コイル、2次コイルの断面をそれぞれ S 1 {\displaystyle S_{1}} 、 S 2 {\displaystyle S_{2}} とし、さらに1次コイル、2次コイル内の磁束密度をそれぞれ B 1 {\displaystyle {\boldsymbol {B}}_{1}} 、 B 2 {\displaystyle {\boldsymbol {B}}_{2}} とすると、i=1,2に対し、 ここで (2)、(3)、(4) はそれぞれ磁束の定義 Φ i = ∫ S i B i ⋅ d S {\displaystyle \Phi _{i}=\int _{S_{i}}{\boldsymbol {B}}_{i}\cdot \mathrm {d} {\boldsymbol {S}}} 、ファラデー=マクスウェル方程式 ∇ × E i = − ∂ B i ∂ t {\displaystyle \nabla \times {\boldsymbol {E}}_{i}=-{\frac {\partial {\boldsymbol {B}}_{i}}{\partial t}}} 、ストークスの定理から従う。また (5) は以下の理由により成り立つ:電圧の定義より、(5) の左辺はコイル一周分の積分から得られる電圧である。それに対しコイル全体に生じる電圧 V i {\displaystyle V_{i}} は、コイルの周りを巻数 N i {\displaystyle N_{i}} だけ積分して得られるので、 V i ≒ − N i ∫ ∂ S i E i ⋅ d s {\displaystyle V_{i}\fallingdotseq -N_{i}\int _{\partial S_{i}}{\boldsymbol {E}}_{i}\cdot \mathrm {d} {\boldsymbol {s}}} となる。 求めるべき式は (1) と (6) から従う。 機器に対して製造者が保証する使用限度およびその際の指定条件。 一次回路と二次回路を相互インダクタンスで結合する磁気回路として、通常は鉄心が用いられる。高周波用には鉄心を有しないものもある。 変圧器の鉄心には鉄損が少なく、飽和磁束密度・透磁率の大きい材料が適しており、ケイ素鋼板が多く用いられ、特定の方向に磁化し易い方向性鋼板が採用されることも多い。また、特に損失の低減を図る目的でアモルファス磁性材料が用いられることもある。 渦電流損を低減させるため、表面を絶縁処理した薄い鋼板を積層したものや、帯状に圧延した鋼板を巻いた巻鉄心などがある。 巻線には絶縁被覆を有する軟銅線が用いられる。断面形状は一般的なものでは丸形だが、大型用は導体断面積を大きくできる角形となっている。一般には一次巻線を巻いた上に二次巻線を重ねる積層巻が行われるが、特に、信号用・高周波用変成器のように一次・二次の密な結合が必要な場合は、一次・二次の巻線を1本ずつ交互に配置するバイファイラ巻なども行われる。 また、複数の二次電圧が必要な場合や電圧の調整が必要な場合は、巻線の途中からタップと呼ばれる端子が取り出される。 鉄心と巻線の配置は以下の2種類ある。 単相交流を入出力とするものである。 三相交流を入出力とするものである。 容量が異なる2台の変圧器をV-V結線し、三相負荷と単相負荷を同時に取り出す変圧器の結線方式。配電用柱上変圧器では、単相(電灯)と三相(動力)の需要家が混在する地点でよく使用される。小容量側の変圧器でV結線の三相負荷の一相へ、大容量側の変圧器でV結線のもう一相と単相負荷を兼用する。前者を専用変圧器、後者を共用相変圧器と呼ぶ。同じ目的に、単相変圧器と三相変圧器を1台にまとめた灯動共用変圧器を使うこともある。 三相交流から単相交流に変換する変圧器で、電気鉄道で交流電気車への電力供給や、三相交流電源を用いて単相電気炉や単相電動機を運転する場合などに採用される。 三相交流から90度の位相差の2組の単相交流を出力するもので、2つの巻線を持つ。 出力電圧を揃えるため、1つの巻線の巻数比をもう一方の巻線の巻数比の 3 2 {\displaystyle {\frac {\sqrt {3}}{2}}} 倍としている。 鉄道の交流饋電用変電所などに用いられる。 2次側巻線が2組あり、単相交流が2組出るタイプが一般的である。効率が悪くなるが、2つの出力を直列にして両端で単相1組とすることもできる。注意点として、2つの出力の位相が90度異なるため、電圧が2倍ではなく1.4倍になることが挙げられる。例えば、各々200Vで10kVAの容量があるスコット結線変圧器では、単相1回路結線した場合、280V・14kVAの容量しか得られないため体積効率が悪くなる。また、各巻線の電圧と電流の位相がずれるため力率も悪くなる。そのため非常用発電回路など小規模な設備に限って使われる。 なお、2つの巻線の負荷にアンバランスがあると一次側が不平衡となり逆相電流が発生するため、負荷を均等化することが望ましい。これは次項のウッドブリッジ結線にも共通する留意事項である。 一次側はY巻線とし、二次側は2つのΔ巻線を背中合わせに接続した変圧器で、スコット結線と同様に三相交流から90度の位相差の2組の単相交流が得られるが、電圧を揃えるため一方の二次回路に付加巻線が設けられる。また、この付加巻線を外付けの単巻変圧器としたものを変形ウッドブリッジ結線という。スコット結線に比べ、二次側の負荷が不平衡となっても接地した一次中性点に電流が流れない特徴がある(参照:電気工学ハンドブック)。 多量の電力を扱う新幹線の交流饋電用変電所では220kV系以上の超高圧送電線から受電しているが、保安上、一次回路の中性点接地が必要なため、変形ウッドブリッジ結線変圧器が用いられている。 一次巻線はY結線であり、二次巻線は2つの相の巻線を直列に接続したA座と、Δ結線でA座との位相差が90度のB座から構成される。 変形ウッドブリッジ結線と同様に、一次側の中性点接地が可能であるため187kV以上の系統から受電する新幹線などの変電所に採用されるが、変形ウッドブリッジ結線と異なり二次側のA座とB座が電気的に独立している。従って、国内の交流電化の主流であるAT饋電方式では単巻変圧器の巻数比を1:1より大きくでき、その場合、饋電線の電圧はトロリ線の電圧よりも高くなると同時に饋電線の電流が減少する。その結果、饋電線の電圧降下を低減でき、AT間隔を広げることが可能である。 変形ウッドブリッジ結線に比べ、ルーフ・デルタ結線は設置スペースや効率などが優れているが、一般的な電力用変圧器と異なる構造であることから岡山開業以降の新幹線では変形ウッドブリッジ結線が採用されてきた。その後、鉄道総研を中心にルーフ・デルタ結線の諸課題について検討が行われた結果、実用化の見通しが得られたため、このほど、東北新幹線新七戸変電所に採用され、今後も新設や既設置換えでの採用が進む見込みである。 参考資料(鉄道総研による) 巻線の一部を一次と二次側とで共用するものである。オートトランス、またはオートトランスフォーマー(en:autotransformer)、オートフォーマーともよばれている。共通部分を分路巻線(ぶんろまきせん)、そうでない部分を直列巻線(ちょくれつまきせん)という。 一次・二次電圧のうち高い方をVH・低い方をVLとした場合、一次・二次巻線を有する通常の変圧器に比べ、単巻変圧器は (VH-VL)/VH倍の容量で足りることとなり、メリットは変圧比 (VH/VL) が1に近いほど顕著となる。 このような特徴から、単巻変圧器は長距離配電線の電圧降下補償などに用いられている。なお、三相交流の場合、Δ - Δ接続の単巻変圧器は一次・二次間に位相差が生じるので注意が必要である。 単層絶縁巻線の露出面の一部の絶縁膜を剥がし、可動式摺動子を接触させ、単巻変圧器を可変電圧出力式とした製品があり、日本ではスライダックが古くから著名な商標であったためその名で呼ばれることも多い。最近は、重量や価格の点で半導体による電圧調整装置が用いられることも多いが、出力電圧が波形ひずみを殆ど含まないことは、単巻変圧器の大きな特長である。 磁気漏れ変圧器は一次・二次巻線を別々の区画に離して巻き、これに漏れ磁束のための磁気回路を設けたものである。負荷電流が増加しようとすると漏れ磁束の増加で電圧が低下し、負荷が変動しても電流が一定に保たれる。定電流変圧器とも呼ばれる。漏れインダクタンス(短絡インダクタンス)の値が大きいトランスである。蛍光灯用磁気安定器・ネオン管用変圧器・アーク溶接用変圧器・電子レンジ(マグネトロン)安定用変圧器などに用いられる。 共振変圧器は磁気漏れ変圧器の一種であり、二次巻線に並列に共振コンデンサを接続するかまたは二次巻線の分布容量によって、共振を起こさせるトランスである。磁気漏れ変圧器の二次側短絡インダクタンスと二次側共振容量とが直列共振回路を形成し、二次側の直列共振周波数(1')で一次側から駆動することにより、一次巻線で発生する磁束の位相と二次巻線で発生する磁束の位相が同期する磁界調相結合が起きて昇圧する。二次巻線の短絡インダクタンスをLscとし、二次側の共振容量をCsとすると、共振周波数ω2は、 である。 変圧比(昇圧比)が一定せず、負荷によって変圧比(昇圧比)が変動し、負荷に対して定電流性を持つ。この性質を利用して電子式蛍光灯安定器(蛍光灯インバータ)・電子式ネオン管安定器・冷陰極管用インバータ・テスラコイル(放電用)などに用いられる。磁界共振方式のワイヤレス給電の原理も共振変圧器の結合係数を小さくしたモデルとして説明することができる。 負荷に供給したい電力が1台の変圧器の容量で不足する場合、複数台の変圧器の一次側および二次側を並列接続して運転することがある。これを並行運転と呼ぶ。並行運転を行うためには、電圧の極性をそろえること、巻数比が等しいことが必要である。さらに、負荷が複数台の変圧器の容量に応じて分配されるために、各変圧器のパーセントインピーダンスが等しいことが必要となる。 1831年にマイケル・ファラデーは変圧器の基本となる原理であるファラデーの電磁誘導の法則を発見し、コイル間の電磁誘導に関する実証を行なったが、将来それが起電力を操作する役割を持つという認識は無かった。1836年にアイルランドのメイヌース大学 (St Patrick's College, Maynooth) のニコラス・カラン牧師 (Nicholas Callan) が誘導コイルを発明し、これが変圧器として広く用いられる初めてのものとなった。彼は、一次巻線に対して二次巻線の巻数を増やすほど大きな起電力が発生するということに気づいた初期の研究者の1人であった。誘導コイルは、電池からより高い電圧を取り出そうとする科学者や発明家の努力によって発展した。電池は交流ではなく直流の電源であることから、電磁誘導に必要な磁束の変化を生み出すために一次側でコネクタを振動させて定期的に電流を遮断することによって誘導コイルが働くようになっていた。1830年代から1870年代にかけて、よりよい誘導コイルを、ほとんどは試行錯誤によって作り出そうとする試みにより、ゆっくりと変圧器の基本原理が明らかとなっていった。効率的で実用的な設計は1880年代まで発明されなかったが、それから10年の間に電流戦争において交流が直流に対して勝利を収め、それ以来支配的な地位を確保し続けているために変圧器が助けとなった。 1876年にロシアの技術者であるパーヴェル・ヤブロチコフは、一次側巻線が交流電源に接続され、二次側巻線を彼の設計した複数の「電気ろうそく」(アーク灯)に接続できる誘導コイルの組み合わせに基づいた照明システムを発明した。このコイルはシステムの中で原始的な変圧器のように用いられた。この発明に関する特許では、このシステムは「単一の電源からいくつかの照明装置にそれぞれ異なる輝度で電力を供給する」としている。 1878年、ハンガリーのガンツ社の技術者がオーストリア=ハンガリー帝国での電灯装置製造のために大きな技術的な貢献をし、1883年までに50を超える装置を製作した。ガンツはアーク灯・電球・発電機・その他の備品からなる全般的なシステムを提供した。 ルシアン・ゴーラールとジョン・ディクソン・ギブスは1882年にロンドンで「二次発電機」(secondary generator) と称する鉄心に空間の空いた装置を初めて公開し、このアイデアをアメリカ合衆国のジョージ・ウェスティングハウスの会社に売却した。また彼らはこの発明を1884年にイタリアのトリノでも公開し、そこで電灯システムとして採用されることになった。 1880年頃まで高圧の電源から低圧の負荷に交流電力を送る方法は、電源に対して直列に負荷をつなぐものであった。直列につなぐことで各負荷に掛かる電圧は下がったが、その代わりに個々の負荷の電源を切ると全体の電源が切れてしまう。このことから、巻数比が1対1の変圧器が使われた。高圧側の電源に直列に変圧器の一次巻線を接続し、二次巻線で低圧の電灯に接続して、二次側で電源を入り切りすることで、全体の電源を切らずに個別の電灯の電源を切ることができるようにしていた。この方法の本質的な問題は、それでもなお1つの電灯を入り切りするだけで他の回路全体に影響を与えてしまうことで、この直列回路の問題のある特性に対応するために多くの調整可能なコイルの設計がなされた。そのために鉄心を調整し、あるいはコイルの周りを迂回して磁束を流すなどの電圧を調整するための多くの方法が開発された。しかし、磁気回路に空間の空いた誘導コイルは電力を変換する効率が悪かった。 1884年から1885年にかけて、ブダペストのガンツ社の技術者、ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリの3人が効率的な"ZBD"式の閉じた鉄心モデルを開発した。これはゴーラールとギブスが開発した設計に一見似ていたが、ゴーラールとギブスはあくまで鉄心に空間のあるものを設計している。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは、それ以前の鉄心が無い、あるいは鉄心の磁気回路が閉じていない装置は電圧を調整できず、実用的でないことを発見した。彼らが合同で出願した特許では鉄心に極が無い、鉄心が環状になっているものと、鉄心が覆いのようになっているものの2つの構成が記載されていた。 環状鉄心モデルでは、鉄心は環状に構成され、その周りに2つのコイルが同様に巻かれていた。覆い方式のモデルでは、銅製の誘導ケーブルが鉄心の中を通されていた。どちらの設計でも、一次と二次のコイルを結ぶ磁束はほぼ全て鉄心の中をとおり、意図的に空中を通る経路は無い。鉄心は鉄の線あるいは板で作られていた。この発明によって、産業と家庭に経済的に電力を供給することが可能となった。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは変圧器の巻数比と電圧比の関係する数式も発見した。この数式により、変圧器は計算して設計できるようになった。彼らの特許の出願の中で、ブラーティが造語した"transformer"という言葉が初めて使われた。 ジョージ・ウェスティングハウスはゴーラールとギブス、そしてZBD式の両方の特許を1885年に購入した。ウェスティングハウスはZBD式の変圧器を商用化する設計をウィリアム・スタンリーに任せた。スタンリーは、鉄心を組み合わせられたE字形の鉄のプレートから作成した。この設計は1886年に初めて商用に用いられた。ロシアの技術者ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキー (Mikhail Dolivo-Dobrovolsky) は、1889年に初めて三相の変圧器を開発した。1891年にニコラ・テスラは高電圧を高周波数で発生させる空芯コアで共鳴を利用したテスラコイルを発明した。可聴周波数の変圧器は、電話の開発に際して初期の研究者に利用された。 1950年代にスイッチング電源が登場し高効率化・小型化が進むと一般向けの電源では主流となった。トランス式と比較して高周波ノイズが多いことから、医療機器や高級オーディオなどノイズを嫌う分野ではトランス式が利用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "変圧器(へんあつき)は、交流電力の電圧の高さを電磁誘導を利用して変換する電力機器・電子部品である。変成器(へんせいき)、トランスとも呼ぶ。電圧だけでなく電流も変化する。変圧器は静的な(可動部がない)機械であり、周波数を変えずに電力をある電気回路から別の電気回路に転送する 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "交流電圧の変換(変圧)、インピーダンス整合、平衡系-不平衡系の変換に利用する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "変圧器は、磁気的に結合した(相互誘導)複数のコイルからなる。コイル内外に磁気回路をともなうものもある。コイルに使用する導線を巻線という。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "特に2個のコイルから成るものにおいて、入力側のコイルを一次コイル、出力側のコイルを二次コイルという。一次コイルに交流電流を流し、変動磁場を発生させ、それを相互インダクタンスで結合された二次コイルに伝え、再び電流に変換し、出力する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "変圧器によって電圧を変更することを変圧(へんあつ)といい、電圧を上昇させることを昇圧(しょうあつ)、逆に下降させることを降圧(こうあつ)という。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一次側に入力されるエネルギと二次側から出力されるエネルギーは同じである。そのため、昇圧させれば電流は減る。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "変圧器の特有の現象ではないが、エネルギー保存則の影響を受けるため、一次側に入力したエネルギは二次側から出力されるエネルギと熱、音、漏洩した磁束と等しくなる。そのため実際には変換の際に損失があるため二次側でエネルギーが減少する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一次コイルの電圧V1、巻数N1、電流I1をそれぞれ一次電圧、一次巻数、一次電流という。同様に二次コイルの電圧V2、巻数N2、電流I2をそれぞれ二次電圧、二次巻数、二次電流という。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "またそれらの比V1/V2、N1/N2、I1/I2をそれぞれ変圧比(へんあつひ)、巻数比(まきすうひ)、変流比(へんりゅうひ)という。巻数比は変成比(へんせいひ)とも呼ばれる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "理想的な変圧器では巻数比と変圧比は等しく、さらに変圧比は変流比の逆数と等しい。すなわち、以下が成り立つ:", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "前者の等号が成り立つ条件は、1次コイルと鎖交する磁束が全て2次コイルと鎖交することである。より一般に1次コイルと鎖交する磁束のうち割合k が2次コイルと鎖交する場合は、", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "が成立する。この値k のことを1次コイルと2次コイルの結合係数という。従って (a) の第一の等号が成り立つ条件は結合係数が1になることであると言い換えられる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方 (a) の第二の等号が成り立つ条件は、変圧器で電気的なエネルギーが保存されることである。実際エネルギー保存が成り立てば I 1 V 1 = I 2 V 2 {\\displaystyle I_{1}V_{1}=I_{2}V_{2}} であるので、第二の等号が成り立つ。なお回路中に1つでも抵抗があればそこからエネルギーが熱として逃げてしまうので、電気的なエネルギーは保存せず、第二の等号が言えない。しかしこうした熱が十分小さければ第二の等号は近似的に成立する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "鉄心に主磁束を形成する電流が励磁電流(れいじでんりゅう)である。理想的な変圧器では、励磁電流の位相は一次電圧よりも90°遅れる。実際には鉄心の磁気飽和やヒステリシスにより励磁電流の波形は主に奇数次の高調波ひずみを含む。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "電源周波数を高くすると励磁電流は減少する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "変圧比と巻数比の前述した関係式", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "をマクスウェル方程式から導出する。", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1次コイルに交流電流を流すと、電圧 V 1 {\\displaystyle V_{1}} の変化に応じて1次コイル内の電場 E 1 {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}_{1}} が変化する。電磁誘導の法則により E 1 {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}_{1}} の変化は磁束 Φ 1 {\\displaystyle \\Phi _{1}} を生じさせ、磁束 Φ 1 {\\displaystyle \\Phi _{1}} は変圧器の芯を通って2次コイルへと到達し、一部の磁束は漏れ経路を通りながら2次コイルへと到達せずに一次コイルに戻る。1次コイルから発生する全磁束 Φ t {\\displaystyle \\Phi _{t}} のうちの有効磁束 Φ g {\\displaystyle \\Phi _{g}} が2次コイルに到達する。有効磁束の割合は漏れ係数 σ {\\displaystyle \\sigma } として表される。すなわち、", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "として、", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "が成立する。磁束 Φ 2 {\\displaystyle \\Phi _{2}} は1次コイルの場合と逆の過程をたどることにより、2次コイル内の電場 E 2 {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}_{2}} と電圧 V 2 {\\displaystyle V_{2}} とを変化させる。", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1次コイル、2次コイルの断面をそれぞれ S 1 {\\displaystyle S_{1}} 、 S 2 {\\displaystyle S_{2}} とし、さらに1次コイル、2次コイル内の磁束密度をそれぞれ B 1 {\\displaystyle {\\boldsymbol {B}}_{1}} 、 B 2 {\\displaystyle {\\boldsymbol {B}}_{2}} とすると、i=1,2に対し、", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ここで (2)、(3)、(4) はそれぞれ磁束の定義 Φ i = ∫ S i B i ⋅ d S {\\displaystyle \\Phi _{i}=\\int _{S_{i}}{\\boldsymbol {B}}_{i}\\cdot \\mathrm {d} {\\boldsymbol {S}}} 、ファラデー=マクスウェル方程式 ∇ × E i = − ∂ B i ∂ t {\\displaystyle \\nabla \\times {\\boldsymbol {E}}_{i}=-{\\frac {\\partial {\\boldsymbol {B}}_{i}}{\\partial t}}} 、ストークスの定理から従う。また (5) は以下の理由により成り立つ:電圧の定義より、(5) の左辺はコイル一周分の積分から得られる電圧である。それに対しコイル全体に生じる電圧 V i {\\displaystyle V_{i}} は、コイルの周りを巻数 N i {\\displaystyle N_{i}} だけ積分して得られるので、 V i ≒ − N i ∫ ∂ S i E i ⋅ d s {\\displaystyle V_{i}\\fallingdotseq -N_{i}\\int _{\\partial S_{i}}{\\boldsymbol {E}}_{i}\\cdot \\mathrm {d} {\\boldsymbol {s}}} となる。", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "求めるべき式は (1) と (6) から従う。", "title": "変圧比と巻数比の関係の導出" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "機器に対して製造者が保証する使用限度およびその際の指定条件。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一次回路と二次回路を相互インダクタンスで結合する磁気回路として、通常は鉄心が用いられる。高周波用には鉄心を有しないものもある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "変圧器の鉄心には鉄損が少なく、飽和磁束密度・透磁率の大きい材料が適しており、ケイ素鋼板が多く用いられ、特定の方向に磁化し易い方向性鋼板が採用されることも多い。また、特に損失の低減を図る目的でアモルファス磁性材料が用いられることもある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "渦電流損を低減させるため、表面を絶縁処理した薄い鋼板を積層したものや、帯状に圧延した鋼板を巻いた巻鉄心などがある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "巻線には絶縁被覆を有する軟銅線が用いられる。断面形状は一般的なものでは丸形だが、大型用は導体断面積を大きくできる角形となっている。一般には一次巻線を巻いた上に二次巻線を重ねる積層巻が行われるが、特に、信号用・高周波用変成器のように一次・二次の密な結合が必要な場合は、一次・二次の巻線を1本ずつ交互に配置するバイファイラ巻なども行われる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、複数の二次電圧が必要な場合や電圧の調整が必要な場合は、巻線の途中からタップと呼ばれる端子が取り出される。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "鉄心と巻線の配置は以下の2種類ある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "単相交流を入出力とするものである。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "三相交流を入出力とするものである。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "容量が異なる2台の変圧器をV-V結線し、三相負荷と単相負荷を同時に取り出す変圧器の結線方式。配電用柱上変圧器では、単相(電灯)と三相(動力)の需要家が混在する地点でよく使用される。小容量側の変圧器でV結線の三相負荷の一相へ、大容量側の変圧器でV結線のもう一相と単相負荷を兼用する。前者を専用変圧器、後者を共用相変圧器と呼ぶ。同じ目的に、単相変圧器と三相変圧器を1台にまとめた灯動共用変圧器を使うこともある。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "三相交流から単相交流に変換する変圧器で、電気鉄道で交流電気車への電力供給や、三相交流電源を用いて単相電気炉や単相電動機を運転する場合などに採用される。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "三相交流から90度の位相差の2組の単相交流を出力するもので、2つの巻線を持つ。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "出力電圧を揃えるため、1つの巻線の巻数比をもう一方の巻線の巻数比の 3 2 {\\displaystyle {\\frac {\\sqrt {3}}{2}}} 倍としている。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "鉄道の交流饋電用変電所などに用いられる。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2次側巻線が2組あり、単相交流が2組出るタイプが一般的である。効率が悪くなるが、2つの出力を直列にして両端で単相1組とすることもできる。注意点として、2つの出力の位相が90度異なるため、電圧が2倍ではなく1.4倍になることが挙げられる。例えば、各々200Vで10kVAの容量があるスコット結線変圧器では、単相1回路結線した場合、280V・14kVAの容量しか得られないため体積効率が悪くなる。また、各巻線の電圧と電流の位相がずれるため力率も悪くなる。そのため非常用発電回路など小規模な設備に限って使われる。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、2つの巻線の負荷にアンバランスがあると一次側が不平衡となり逆相電流が発生するため、負荷を均等化することが望ましい。これは次項のウッドブリッジ結線にも共通する留意事項である。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一次側はY巻線とし、二次側は2つのΔ巻線を背中合わせに接続した変圧器で、スコット結線と同様に三相交流から90度の位相差の2組の単相交流が得られるが、電圧を揃えるため一方の二次回路に付加巻線が設けられる。また、この付加巻線を外付けの単巻変圧器としたものを変形ウッドブリッジ結線という。スコット結線に比べ、二次側の負荷が不平衡となっても接地した一次中性点に電流が流れない特徴がある(参照:電気工学ハンドブック)。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "多量の電力を扱う新幹線の交流饋電用変電所では220kV系以上の超高圧送電線から受電しているが、保安上、一次回路の中性点接地が必要なため、変形ウッドブリッジ結線変圧器が用いられている。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "一次巻線はY結線であり、二次巻線は2つの相の巻線を直列に接続したA座と、Δ結線でA座との位相差が90度のB座から構成される。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "変形ウッドブリッジ結線と同様に、一次側の中性点接地が可能であるため187kV以上の系統から受電する新幹線などの変電所に採用されるが、変形ウッドブリッジ結線と異なり二次側のA座とB座が電気的に独立している。従って、国内の交流電化の主流であるAT饋電方式では単巻変圧器の巻数比を1:1より大きくでき、その場合、饋電線の電圧はトロリ線の電圧よりも高くなると同時に饋電線の電流が減少する。その結果、饋電線の電圧降下を低減でき、AT間隔を広げることが可能である。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "変形ウッドブリッジ結線に比べ、ルーフ・デルタ結線は設置スペースや効率などが優れているが、一般的な電力用変圧器と異なる構造であることから岡山開業以降の新幹線では変形ウッドブリッジ結線が採用されてきた。その後、鉄道総研を中心にルーフ・デルタ結線の諸課題について検討が行われた結果、実用化の見通しが得られたため、このほど、東北新幹線新七戸変電所に採用され、今後も新設や既設置換えでの採用が進む見込みである。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "参考資料(鉄道総研による)", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "巻線の一部を一次と二次側とで共用するものである。オートトランス、またはオートトランスフォーマー(en:autotransformer)、オートフォーマーともよばれている。共通部分を分路巻線(ぶんろまきせん)、そうでない部分を直列巻線(ちょくれつまきせん)という。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一次・二次電圧のうち高い方をVH・低い方をVLとした場合、一次・二次巻線を有する通常の変圧器に比べ、単巻変圧器は (VH-VL)/VH倍の容量で足りることとなり、メリットは変圧比 (VH/VL) が1に近いほど顕著となる。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "このような特徴から、単巻変圧器は長距離配電線の電圧降下補償などに用いられている。なお、三相交流の場合、Δ - Δ接続の単巻変圧器は一次・二次間に位相差が生じるので注意が必要である。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "単層絶縁巻線の露出面の一部の絶縁膜を剥がし、可動式摺動子を接触させ、単巻変圧器を可変電圧出力式とした製品があり、日本ではスライダックが古くから著名な商標であったためその名で呼ばれることも多い。最近は、重量や価格の点で半導体による電圧調整装置が用いられることも多いが、出力電圧が波形ひずみを殆ど含まないことは、単巻変圧器の大きな特長である。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "磁気漏れ変圧器は一次・二次巻線を別々の区画に離して巻き、これに漏れ磁束のための磁気回路を設けたものである。負荷電流が増加しようとすると漏れ磁束の増加で電圧が低下し、負荷が変動しても電流が一定に保たれる。定電流変圧器とも呼ばれる。漏れインダクタンス(短絡インダクタンス)の値が大きいトランスである。蛍光灯用磁気安定器・ネオン管用変圧器・アーク溶接用変圧器・電子レンジ(マグネトロン)安定用変圧器などに用いられる。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "共振変圧器は磁気漏れ変圧器の一種であり、二次巻線に並列に共振コンデンサを接続するかまたは二次巻線の分布容量によって、共振を起こさせるトランスである。磁気漏れ変圧器の二次側短絡インダクタンスと二次側共振容量とが直列共振回路を形成し、二次側の直列共振周波数(1')で一次側から駆動することにより、一次巻線で発生する磁束の位相と二次巻線で発生する磁束の位相が同期する磁界調相結合が起きて昇圧する。二次巻線の短絡インダクタンスをLscとし、二次側の共振容量をCsとすると、共振周波数ω2は、", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "である。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "変圧比(昇圧比)が一定せず、負荷によって変圧比(昇圧比)が変動し、負荷に対して定電流性を持つ。この性質を利用して電子式蛍光灯安定器(蛍光灯インバータ)・電子式ネオン管安定器・冷陰極管用インバータ・テスラコイル(放電用)などに用いられる。磁界共振方式のワイヤレス給電の原理も共振変圧器の結合係数を小さくしたモデルとして説明することができる。", "title": "変圧器の結線と種類" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "負荷に供給したい電力が1台の変圧器の容量で不足する場合、複数台の変圧器の一次側および二次側を並列接続して運転することがある。これを並行運転と呼ぶ。並行運転を行うためには、電圧の極性をそろえること、巻数比が等しいことが必要である。さらに、負荷が複数台の変圧器の容量に応じて分配されるために、各変圧器のパーセントインピーダンスが等しいことが必要となる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1831年にマイケル・ファラデーは変圧器の基本となる原理であるファラデーの電磁誘導の法則を発見し、コイル間の電磁誘導に関する実証を行なったが、将来それが起電力を操作する役割を持つという認識は無かった。1836年にアイルランドのメイヌース大学 (St Patrick's College, Maynooth) のニコラス・カラン牧師 (Nicholas Callan) が誘導コイルを発明し、これが変圧器として広く用いられる初めてのものとなった。彼は、一次巻線に対して二次巻線の巻数を増やすほど大きな起電力が発生するということに気づいた初期の研究者の1人であった。誘導コイルは、電池からより高い電圧を取り出そうとする科学者や発明家の努力によって発展した。電池は交流ではなく直流の電源であることから、電磁誘導に必要な磁束の変化を生み出すために一次側でコネクタを振動させて定期的に電流を遮断することによって誘導コイルが働くようになっていた。1830年代から1870年代にかけて、よりよい誘導コイルを、ほとんどは試行錯誤によって作り出そうとする試みにより、ゆっくりと変圧器の基本原理が明らかとなっていった。効率的で実用的な設計は1880年代まで発明されなかったが、それから10年の間に電流戦争において交流が直流に対して勝利を収め、それ以来支配的な地位を確保し続けているために変圧器が助けとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1876年にロシアの技術者であるパーヴェル・ヤブロチコフは、一次側巻線が交流電源に接続され、二次側巻線を彼の設計した複数の「電気ろうそく」(アーク灯)に接続できる誘導コイルの組み合わせに基づいた照明システムを発明した。このコイルはシステムの中で原始的な変圧器のように用いられた。この発明に関する特許では、このシステムは「単一の電源からいくつかの照明装置にそれぞれ異なる輝度で電力を供給する」としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1878年、ハンガリーのガンツ社の技術者がオーストリア=ハンガリー帝国での電灯装置製造のために大きな技術的な貢献をし、1883年までに50を超える装置を製作した。ガンツはアーク灯・電球・発電機・その他の備品からなる全般的なシステムを提供した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ルシアン・ゴーラールとジョン・ディクソン・ギブスは1882年にロンドンで「二次発電機」(secondary generator) と称する鉄心に空間の空いた装置を初めて公開し、このアイデアをアメリカ合衆国のジョージ・ウェスティングハウスの会社に売却した。また彼らはこの発明を1884年にイタリアのトリノでも公開し、そこで電灯システムとして採用されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1880年頃まで高圧の電源から低圧の負荷に交流電力を送る方法は、電源に対して直列に負荷をつなぐものであった。直列につなぐことで各負荷に掛かる電圧は下がったが、その代わりに個々の負荷の電源を切ると全体の電源が切れてしまう。このことから、巻数比が1対1の変圧器が使われた。高圧側の電源に直列に変圧器の一次巻線を接続し、二次巻線で低圧の電灯に接続して、二次側で電源を入り切りすることで、全体の電源を切らずに個別の電灯の電源を切ることができるようにしていた。この方法の本質的な問題は、それでもなお1つの電灯を入り切りするだけで他の回路全体に影響を与えてしまうことで、この直列回路の問題のある特性に対応するために多くの調整可能なコイルの設計がなされた。そのために鉄心を調整し、あるいはコイルの周りを迂回して磁束を流すなどの電圧を調整するための多くの方法が開発された。しかし、磁気回路に空間の空いた誘導コイルは電力を変換する効率が悪かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1884年から1885年にかけて、ブダペストのガンツ社の技術者、ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリの3人が効率的な\"ZBD\"式の閉じた鉄心モデルを開発した。これはゴーラールとギブスが開発した設計に一見似ていたが、ゴーラールとギブスはあくまで鉄心に空間のあるものを設計している。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは、それ以前の鉄心が無い、あるいは鉄心の磁気回路が閉じていない装置は電圧を調整できず、実用的でないことを発見した。彼らが合同で出願した特許では鉄心に極が無い、鉄心が環状になっているものと、鉄心が覆いのようになっているものの2つの構成が記載されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "環状鉄心モデルでは、鉄心は環状に構成され、その周りに2つのコイルが同様に巻かれていた。覆い方式のモデルでは、銅製の誘導ケーブルが鉄心の中を通されていた。どちらの設計でも、一次と二次のコイルを結ぶ磁束はほぼ全て鉄心の中をとおり、意図的に空中を通る経路は無い。鉄心は鉄の線あるいは板で作られていた。この発明によって、産業と家庭に経済的に電力を供給することが可能となった。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは変圧器の巻数比と電圧比の関係する数式も発見した。この数式により、変圧器は計算して設計できるようになった。彼らの特許の出願の中で、ブラーティが造語した\"transformer\"という言葉が初めて使われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ジョージ・ウェスティングハウスはゴーラールとギブス、そしてZBD式の両方の特許を1885年に購入した。ウェスティングハウスはZBD式の変圧器を商用化する設計をウィリアム・スタンリーに任せた。スタンリーは、鉄心を組み合わせられたE字形の鉄のプレートから作成した。この設計は1886年に初めて商用に用いられた。ロシアの技術者ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキー (Mikhail Dolivo-Dobrovolsky) は、1889年に初めて三相の変圧器を開発した。1891年にニコラ・テスラは高電圧を高周波数で発生させる空芯コアで共鳴を利用したテスラコイルを発明した。可聴周波数の変圧器は、電話の開発に際して初期の研究者に利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1950年代にスイッチング電源が登場し高効率化・小型化が進むと一般向けの電源では主流となった。トランス式と比較して高周波ノイズが多いことから、医療機器や高級オーディオなどノイズを嫌う分野ではトランス式が利用されている。", "title": "歴史" } ]
変圧器(へんあつき)は、交流電力の電圧の高さを電磁誘導を利用して変換する電力機器・電子部品である。変成器(へんせいき)、トランスとも呼ぶ。電圧だけでなく電流も変化する。変圧器は静的な(可動部がない)機械であり、周波数を変えずに電力をある電気回路から別の電気回路に転送する。 交流電圧の変換(変圧)、インピーダンス整合、平衡系-不平衡系の変換に利用する。
[[ファイル:WeldingTransformer-1.63.png|代替文=|右|フレームなし|207x207ピクセル]] [[ファイル:Transformer 110kV.jpg|thumb|350px|発・変電所の大型変圧器]] [[ファイル:Polemount-singlephase-closeup.jpg|サムネイル|[[電柱]]に取り付けられた変圧器]] '''変圧器'''(へんあつき)は、[[交流]][[電力]]の[[電圧]]の高さを[[電磁誘導]]を利用して変換する[[電力機器]]・[[電子部品]]である<ref>{{Cite web|和書|title=トランスについて|北川電機 |url=https://www.kitagawa-denki.co.jp/products/about/ |website=www.kitagawa-denki.co.jp |accessdate=2022-03-11}}</ref>。'''[[変成器]]'''(へんせいき)、'''[[トランス]]'''とも呼ぶ。電圧だけでなく電流も変化する。変圧器は静的な(可動部がない)機械であり、周波数を変えずに電力をある電気回路から別の電気回路に転送する<ref name="device">[https://www.electricaldeck.com/2020/07/what-is-transformer-definition-working-principle-of-transformer.html What is a Electrical Transformer ?] - www.electricaldeck.com</ref> 。 [[交流]][[電圧]]の変換(変圧)、[[インピーダンス整合]]、[[平衡系]]-[[不平衡系]]の変換に利用する。 == 理論 == === 原理 === [[ファイル:Transformer Flux.svg|thumb|変圧の基本原理]] 変圧器は、磁気的に結合した([[相互誘導]])複数の[[コイル]]からなる。コイル内外に磁気回路をともなうものもある。コイルに使用する導線を[[巻線]]という。 特に2個のコイルから成るものにおいて、入力側のコイルを'''一次コイル'''、出力側のコイルを'''二次コイル'''という。一次コイルに[[交流]][[電流]]を流し、変動[[磁場]]を発生させ、それを相互[[インダクタンス]]で結合された二次コイルに伝え、再び電流に変換し、出力する。 変圧器によって電圧を変更することを'''変圧'''(へんあつ)といい、電圧を上昇させることを'''昇圧'''(しょうあつ)、逆に下降させることを'''降圧'''(こうあつ)という。 一次側に入力されるエネルギと二次側から出力されるエネルギーは同じである。そのため、昇圧させれば電流は減る。 変圧器の特有の現象ではないが、エネルギー保存則の影響を受けるため、一次側に入力したエネルギは二次側から出力されるエネルギと熱、音、漏洩した磁束と等しくなる。そのため実際には変換の際に損失があるため二次側でエネルギーが減少する。 === 変圧、巻数、変流の関係 === 一次コイルの電圧''V<sub>1</sub>''、巻数''N<sub>1</sub>''、電流''I<sub>1</sub>''をそれぞれ一次電圧、一次巻数、一次電流という。同様に二次コイルの電圧''V<sub>2</sub>''、巻数''N<sub>2</sub>''、電流''I<sub>2</sub>''をそれぞれ二次電圧、二次巻数、二次電流という。 またそれらの比''V<sub>1</sub>/V<sub>2</sub>''、''N<sub>1</sub>/N<sub>2</sub>''、''I<sub>1</sub>/I<sub>2</sub>''をそれぞれ'''変圧比'''(へんあつひ)、'''巻数比'''(まきすうひ)、'''変流比'''(へんりゅうひ)という。巻数比は'''変成比'''(へんせいひ)とも呼ばれる。 理想的な変圧器では巻数比と変圧比は等しく、さらに変圧比は変流比の逆数と等しい。すなわち、以下が成り立つ: : <math>\frac{N_1}{N_2} = \frac{V_1}{V_2} = \frac{I_2}{I_1}</math> ... (a) 前者の等号が成り立つ条件は、1次コイルと鎖交する磁束が全て2次コイルと鎖交することである。より一般に1次コイルと鎖交する磁束のうち割合''k'' が2次コイルと鎖交する場合は、 : <math>\frac{N_1}{N_2} = k \frac{V_1}{V_2}</math> が成立する。この値''k'' のことを1次コイルと2次コイルの'''[[結合係数]]'''という。従って (a) の第一の等号が成り立つ条件は結合係数が1になることであると言い換えられる。 一方 (a) の第二の等号が成り立つ条件は、変圧器で電気的なエネルギーが保存されることである。実際エネルギー保存が成り立てば<math>I_1V_1=I_2V_2</math>であるので、第二の等号が成り立つ。なお回路中に1つでも抵抗があればそこからエネルギーが熱として逃げてしまうので、電気的なエネルギーは保存せず、第二の等号が言えない。しかしこうした熱が十分小さければ第二の等号は近似的に成立する。 === 励磁電流 === 鉄心に[[漏れ磁束#変圧器の磁束|主磁束]]を形成する電流が'''励磁電流'''(れいじでんりゅう)である。理想的な変圧器では、励磁電流の位相は一次電圧よりも90&deg;遅れる。実際には鉄心の磁気飽和や[[ヒステリシス]]により励磁電流の波形は主に奇数次の高調波ひずみを含む。 電源周波数を高くすると励磁電流は減少する<ref>電気主任技術者国家試験問題平成16年度第3種</ref>。 === 損失 === ; [[無負荷損]]([[鉄損]]) : 通電(励磁)している場合、[[負荷]]の大きさに関係なく生じる損失。 ; [[負荷損]] : 負荷電流の2乗にほぼ比例する損失である。 :; [[銅損]]: 巻線による[[電気伝導体]]の[[電気抵抗]]による[[ジュール損]]。 :; 漂遊負荷損: [[漏れ磁束]]による変圧器各部に生ずる[[鉄損#渦電流損|渦電流損]]。 == 変圧比と巻数比の関係の導出 == 変圧比と巻数比の前述した関係式 : <math>\frac{N_1}{N_2} = k \frac{V_1}{V_2}</math> を[[マクスウェル方程式]]から導出する。 1次コイルに交流電流を流すと、電圧<math>V_1</math>の変化に応じて1次コイル内の電場<math>\boldsymbol{E}_1</math>が変化する。電磁誘導の法則により<math>\boldsymbol{E}_1</math>の変化は磁束<math>\Phi_1</math>を生じさせ、磁束<math>\Phi_1</math>は変圧器の芯を通って2次コイルへと到達し、一部の磁束は漏れ経路を通りながら2次コイルへと到達せずに一次コイルに戻る。1次コイルから発生する全磁束<math>\Phi_t</math>のうちの有効磁束<math>\Phi_g</math>が2次コイルに到達する。有効磁束の割合は漏れ係数<math>\sigma</math>として表される。すなわち、 :<math>\sigma=\frac{\Phi_t}{\Phi_g}</math> として、 :<math>\Phi_2=\sigma^{-1}\Phi_1</math> ...(1) が成立する。磁束<math>\Phi_2</math>は1次コイルの場合と逆の過程をたどることにより、2次コイル内の電場<math>\boldsymbol{E}_2</math>と電圧<math>V_2</math>とを変化させる。 1次コイル、2次コイルの断面をそれぞれ<math>S_1</math>、<math>S_2</math>とし、さらに1次コイル、2次コイル内の磁束密度をそれぞれ<math>\boldsymbol{B}_1</math>、<math>\boldsymbol{B}_2</math>とすると、i=1,2に対し、 : <math> \frac{\mathrm{d}\Phi_i}{\mathrm{d} t} \underset{(2)}{=}\frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d} t}\int_{S_i}\boldsymbol{B}_i\cdot \mathrm{d}\boldsymbol{S} \underset{(3)}{=} -\int_{S_i} \nabla \times \boldsymbol{E}_i \cdot \mathrm{d} \boldsymbol{S} \underset{(4)}{=} -\int_{\partial S_i} \boldsymbol{E}_i \cdot \mathrm{d} \boldsymbol{s} \underset{(5)}{\fallingdotseq} \frac{V_i}{N_i} </math> ... (6) ここで (2)、(3)、(4) はそれぞれ磁束の定義<math>\Phi_i=\int_{S_i}\boldsymbol{B}_i\cdot \mathrm{d}\boldsymbol{S}</math>、[[マクスウェル方程式|ファラデー=マクスウェル方程式]]<math>\nabla \times \boldsymbol{E}_i = - \frac{\partial\boldsymbol{B}_i} {\partial t}</math>、[[ストークスの定理]]から従う。また (5) は以下の理由により成り立つ:電圧の定義より、(5) の左辺はコイル一周分の積分から得られる電圧である。それに対しコイル全体に生じる電圧<math>V_i</math>は、コイルの周りを巻数<math>N_i</math>だけ積分して得られるので、<math>V_i \fallingdotseq -N_i\int_{\partial S_i} \boldsymbol{E}_i \cdot \mathrm{d} \boldsymbol{s}</math>となる。 求めるべき式は (1) と (6) から従う。 == 設計 == === 定格 === 機器に対して製造者が保証する使用限度およびその際の指定条件<ref>電気用語辞典、コロナ社、1997</ref>。 {| | * 定格周波数 * [[定格容量]] * 定格一次電圧 * 定格二次電圧 | * タップ電圧 * 定格一次電流 * 定格二次電流 * 角変位 | * [[インピーダンス電圧]] * [[電圧変動率]] * [[絶縁階級]] |} ; 定格周波数 : その周波数において使用されるよう変圧器が設計された周波数<ref>電気学会規格調査会標準規格 「変圧器」JEC-2200-1995</ref>。 ; 定格容量 : 定格二次電圧、定格周波数および定格力率において、定められた温度上昇限度を超えることなく二次端子間に得られる皮相電力。VAまたはkVAで表し、銘板に記される<ref>{{Cite jis|C|4304|1999|name=配電用6kV油入り変圧器}}</ref>。 ; 定格電圧 : 一次巻線あるいは二次巻線の端子間に、印加するため指定した電圧または無負荷時に発生する電圧。実効値で表す。定格電圧をある巻線に印加したとき、無負荷時には、すべての巻線に定格電圧が発生する。 ; タップ電圧 : 任意のタップについて巻線の線路端子間に、無負荷時に発生または印加される指定電圧。 ; 定格電流 : 定格容量を、定格電圧と相数で決まる係数(単相では1、三相では<math>\sqrt{3}</math>)で除した線路電流実効値。 ; 位相変位 : 中性点と二つの巻線の対応する端子間の位相電圧ベクトルの角度差 ; 短絡インピーダンス : 一方の巻線を短絡し、定格周波数において、他方の巻線端子間で測定されたインピーダンス。 : 多相の場合は等価的な星形結線に置き換えた1相分の値とする。通常、基準インピーダンスに対する百分率 (%) で表す。 :: 基準インピーダンス= (定格電圧)<sup>2</sup> ÷ 定格容量 : 他方の巻線を短絡し、定格電流を流すために印加する電圧を'''インピーダンス電圧'''という。百分率で表した短絡インピーダンスは、インピーダンス電圧の定格電圧に対する比の百分率に等しい。 ; 電圧変動率 : 一方の巻線に定格電圧を印加されたとき、指定された負荷及び力率において、他の巻線端子に発生する電圧と無負荷電圧との算術差を、定格電圧で除した比で百分率 (%) で表す。 ; [[絶縁体#耐熱クラス|耐熱クラス]] : 変圧器を構成する絶縁材料の耐熱特性による分類。 : 105 (A) ・120 (E) ・130 (B) ・155 (F) ・180 (H) ・200・220・250の種類がある。それぞれ105 - 250℃が許容最高温度である。絶縁材料は、許容最高温度を長時間連続持続して超えてはならない。 === 鉄心・巻線 === [[ファイル:Drehstromtransformater im Schnitt Hochspannung.jpg|thumb|変圧器の内部]] 一次回路と二次回路を相互インダクタンスで結合する磁気回路として、通常は鉄心が用いられる。高周波用には鉄心を有しないものもある。<!--り原理的には変圧器と同じであるが、一般に[[コイル]]と呼ばれる。--><!--高周波トランス(RFT)と、普通に呼びますけども--> 変圧器の鉄心には鉄損が少なく、飽和磁束密度・透磁率の大きい材料が適しており、[[ケイ素鋼|ケイ素鋼板]]が多く用いられ、特定の方向に磁化し易い[[電磁鋼|方向性鋼板]]が採用されることも多い。また、特に損失の低減を図る目的で[[アモルファス]][[磁性材料]]が用いられることもある。 渦電流損を低減させるため、表面を絶縁処理した薄い鋼板を積層したものや、帯状に圧延した鋼板を巻いた巻鉄心などがある。 <!--EIコアとカットコアをここに入れるか?--> 巻線には絶縁被覆を有する軟銅線が用いられる。断面形状は一般的なものでは丸形だが、大型用は導体断面積を大きくできる角形となっている。一般には一次巻線を巻いた上に二次巻線を重ねる積層巻が行われるが、特に、信号用・高周波用変成器のように一次・二次の密な結合が必要な場合は、一次・二次の巻線を1本ずつ交互に配置するバイファイラ巻なども行われる。 また、複数の二次電圧が必要な場合や電圧の調整が必要な場合は、巻線の途中からタップと呼ばれる端子が取り出される。 鉄心と巻線の配置は以下の2種類ある。 ; 内鉄形 :* 鉄心の周りに低圧巻線、その周りに高圧巻線を配置する、同心円配置が多い。 :* 鉄心より巻線が多くなり、銅機械となる。 :* 絶縁のため高電圧に用いられる。 : ; 外鉄形 :* 巻線の周りに鉄心を配置したものである。 :* 鉄心の周りに低圧巻線・高圧巻線を交互に配置する、交互配置が多い。 :* 巻線より鉄心が多くなり、鉄機械となる。 === 絶縁物の種類 === * 油入変圧器 : シリコーン油・鉱油 * モールド変圧器 : 合成樹脂モールド ** [[絶縁体#耐熱クラス|耐熱クラス]] H(H種)乾式変圧器 : [[空気]] * ガス変圧器 : [[六フッ化硫黄]] (SF<sub>6</sub>) ガス === 保安装置 === * 機械的保護 ** ブッフホルツ継電器 ** 衝撃油圧継電器 ** 温度継電器 * 電気的保護 ** [[比率差動継電器]] ** [[地絡継電器]] ** [[過電流継電器]] == 変圧器の結線と種類 == === 単相変圧器 === 単相交流を入出力とするものである。 === 三相変圧器 === [[三相交流]]を入出力とするものである。 {| class="wikitable" |+ 三相変圧器の結線 |- !style="width:5em;"|結線 !style="width:8em;"|線間電圧/相電圧 !style="width:8em;"|線電流/相電流 !style="width:10em;"|[[中性点接地方式|中性点接地]] !style="width:3em;"|角変位 !特徴・用途 |- |style="text-align:center;"|&Delta; - &Delta; |1 |&radic;3倍 |不可 |style="text-align:center;"|無 |低電圧の回路で用いられる。 |- |style="text-align:center;"|Y - Y |&radic;3倍 |1 |一次、二次とも可能 |style="text-align:center;"|無 |鉄芯の磁気飽和による高調波電圧により誘導起電力が歪むため、Y - Y - &Delta;結線が用いられることが多い。 |- |style="text-align:center;"|Y - Y - &Delta; |&radic;3倍 |1 |一次、二次とも可能 |style="text-align:center;"|無 |&Delta;結線の三次巻線に第三調波を流し誘導起電力を正弦波とする。<br />三次巻線が調相や計測用に用いられることもある。 |- |style="text-align:center;"|Y - &Delta; |一次:&radic;3倍<br />二次:1 |一次:1<br />二次:&radic;3倍 |一次のみ可能 |style="text-align:center;"|有 |降圧に適しているため受電端に用いられる。 |- |style="text-align:center;"|&Delta; - Y |一次:1<br />二次:&radic;3倍 |一次:&radic;3倍<br />二次:1 |二次のみ可能 |style="text-align:center;"|有 |昇圧に適しており、二次側の中性点接地が可能なため送電端に用いられる。 |- |style="text-align:center;"|V - V |1 |&radic;3倍 |不可 |style="text-align:center;"|無 |配電用柱上変圧器など。利用率が小さい。<br />&Delta; - &Delta;結線で1相が故障した場合の応急用にも用いられることがある。 |} ==== 異容量V結線 ==== 容量が異なる2台の変圧器をV-V結線し、三相負荷と単相負荷を同時に取り出す変圧器の結線方式。配電用柱上変圧器では、単相(電灯)と三相(動力)の需要家が混在する地点でよく使用される。小容量側の変圧器でV結線の三相負荷の一相へ、大容量側の変圧器でV結線のもう一相と単相負荷を兼用する。前者を専用変圧器、後者を共用相変圧器と呼ぶ。同じ目的に、単相変圧器と三相変圧器を1台にまとめた[[灯動共用変圧器]]を使うこともある。 === 相変換変圧器 === 三相交流から単相交流に変換する変圧器で、電気鉄道で交流電気車への電力供給や、三相交流電源を用いて単相電気炉や単相電動機を運転する場合などに採用される。 ==== スコット結線変圧器 ==== 三相交流から90度の位相差の2組の単相交流を出力するもので、2つの巻線を持つ。 出力電圧を揃えるため、1つの巻線の巻数比をもう一方の巻線の巻数比の<math>\frac{\sqrt{3}}{2}</math>倍としている。 鉄道の交流饋電用[[変電所]]などに用いられる。 2次側巻線が2組あり、単相交流が2組出るタイプが一般的である。効率が悪くなるが、2つの出力を直列にして両端で単相1組とすることもできる。注意点として、2つの出力の位相が90度異なるため、電圧が2倍ではなく1.4倍になることが挙げられる。例えば、各々200Vで10kVAの容量があるスコット結線変圧器では、単相1回路結線した場合、280V・14kVAの容量しか得られないため体積効率が悪くなる。また、各巻線の電圧と電流の位相がずれるため力率も悪くなる。そのため非常用発電回路など小規模な設備に限って使われる。 なお、2つの巻線の負荷にアンバランスがあると一次側が不平衡となり逆相電流が発生するため、負荷を均等化することが望ましい。これは次項のウッドブリッジ結線にも共通する留意事項である。 ==== ウッドブリッジ結線変圧器 ==== 一次側はY巻線とし、二次側は2つの&Delta;巻線を背中合わせに接続した変圧器で、スコット結線と同様に三相交流から90度の位相差の2組の単相交流が得られるが、電圧を揃えるため一方の二次回路に付加巻線が設けられる。また、この付加巻線を外付けの単巻変圧器としたものを変形ウッドブリッジ結線という。スコット結線に比べ、二次側の負荷が不平衡となっても接地した一次中性点に電流が流れない特徴がある(参照:電気工学ハンドブック)。 多量の電力を扱う新幹線の交流饋電用変電所では220kV系以上の超高圧送電線から受電しているが、保安上、一次回路の中性点接地が必要なため、変形ウッドブリッジ結線変圧器が用いられている。<!--結線図検討中:特にウッドブリッジは図があった方が分かり易いので--> ==== ルーフ・デルタ結線変圧器 ==== 一次巻線はY結線であり、二次巻線は2つの相の巻線を直列に接続したA座と、&Delta;結線でA座との位相差が90度のB座から構成される<ref group="※">ルーフ・デルタ結線変圧器 [http://www.rtri.or.jp/rd/division/rd44/rd4410/rd44100104.html]</ref>。<!--これも結線図検討中--> 変形ウッドブリッジ結線と同様に、一次側の中性点接地が可能であるため187kV以上の系統から受電する新幹線などの変電所に採用されるが、変形ウッドブリッジ結線と異なり二次側のA座とB座が電気的に独立している。従って、国内の交流電化の主流であるAT饋電方式では単巻変圧器の巻数比を1:1より大きくでき、その場合、饋電線の電圧はトロリ線の電圧よりも高くなると同時に饋電線の電流が減少する。その結果、饋電線の電圧降下を低減でき、AT間隔を広げることが可能である<ref group="※">久水泰司『電圧降下を小さくする交流き電システム』鉄道総研パテントシリーズ114 {{PDFlink|[http://bunken.rtri.or.jp/PDF/cdroms1/0004/2009/0004005104.pdf]}} * 特許385661号『ATき電システム』 (2006.7.7)</ref>。 変形ウッドブリッジ結線に比べ、ルーフ・デルタ結線は設置スペースや効率などが優れているが、一般的な電力用変圧器と異なる構造であることから岡山開業以降の新幹線では変形ウッドブリッジ結線が採用されてきた。その後、鉄道総研を中心にルーフ・デルタ結線の諸課題について検討が行われた結果、実用化の見通しが得られたため、このほど、東北新幹線新七戸変電所に採用され、今後も新設や既設置換えでの採用が進む見込みである<ref group="※">新型(ルーフ・デルタ)結線変圧器 {{PDFlink|[http://bunken.rtri.or.jp/PDF/cdroms1/0004/2008/0004004777.pdf]}}</ref>。 参考資料(鉄道総研による) {{Reflist|group=※}} === 単巻変圧器 === [[ファイル:Transformer-220.jpg|thumb|可変単巻変圧器]] 巻線の一部を一次と二次側とで共用するものである。'''オートトランス'''、または'''オートトランスフォーマー'''([[:en:autotransformer]])、'''オートフォーマー'''ともよばれている。共通部分を'''分路巻線'''(ぶんろまきせん)、そうでない部分を'''直列巻線'''(ちょくれつまきせん)という。 一次・二次電圧のうち高い方をV<sub>H</sub>・低い方をV<sub>L</sub>とした場合、一次・二次巻線を有する通常の変圧器に比べ、単巻変圧器は (V<sub>H</sub>-V<sub>L</sub>)/V<sub>H</sub>倍の容量で足りることとなり、メリットは変圧比 (V<sub>H</sub>/V<sub>L</sub>) が1に近いほど顕著となる。 * 分路巻線に流れる電流は、一次側と二次側の差となるので巻数比が小さいほど細くできる。 * 分路巻線は漏れ磁束が無く、漏れリアクタンスが小さく、電圧変動率も小さくなる。 * 入力電圧と出力電圧との差の少ない用途に適する。 * 一次側と二次側を電気的に絶縁できない。回路構築上、接地極に注意する必要がある。 このような特徴から、単巻変圧器は長距離配電線の電圧降下補償などに用いられている。なお、三相交流の場合、&Delta; - &Delta;接続の単巻変圧器は一次・二次間に位相差が生じるので注意が必要である。 ==== 可変単巻変圧器 ==== 単層絶縁巻線の露出面の一部の絶縁膜を剥がし、可動式摺動子を接触させ、単巻変圧器を可変電圧出力式とした製品があり、日本では'''スライダック'''が古く<ref group="注釈">日本国商標第299989号で、登録されたのは1938年(昭和13年)である。</ref>から著名な商標であったためその名で呼ばれることも多い<ref group="注釈">スライダック (SLIDAC) は[[東芝]]の[[登録商標]](商標第299989号)であったが、現在の商標権者は東光東芝メーターシステムズ株式会社である。なお東芝はスライダックの生産を終了しており、2016年時点のところ、山菱電機の「ボルトスライダー」(同社名のYAMABISHIは同業他社)や東京理工舎の「リコースライドトランス」などがある。</ref>。最近は、重量や価格の点で半導体による電圧調整装置が用いられることも多いが、出力電圧が波形ひずみを殆ど含まないことは、単巻変圧器の大きな特長である。 === 磁気漏れ変圧器 === [[ファイル:Kvglr.jpg|thumb|磁気漏れ変圧器]] [[磁気漏れ変圧器]]は一次・二次巻線を別々の区画に離して巻き、これに漏れ磁束のための磁気回路を設けたものである。負荷電流が増加しようとすると漏れ磁束の増加で電圧が低下し、負荷が変動しても電流が一定に保たれる。定電流変圧器とも呼ばれる<ref>鳳誠三郎監修・青木正喜著『電気工学概論』[[実教出版]]、2002年、93頁</ref>。[[漏れインダクタンス]]([[短絡インダクタンス]])の値が大きいトランスである。[[蛍光灯]]用磁気安定器・[[ネオン管]]用変圧器・[[アーク溶接]]用変圧器・[[電子レンジ]]([[マグネトロン]])安定用変圧器などに用いられる。 === 共振変圧器 === [[File:Tesla distribute.png|thumb|right|テスラコイルの一次巻線側から観測した二次巻線上に発生する共振の様子(多数の共振が存在する)]] 共振変圧器は磁気漏れ変圧器の一種であり、二次巻線に並列に共振コンデンサを接続するかまたは二次巻線の分布容量によって、共振を起こさせるトランスである。磁気漏れ変圧器の二次側[[短絡インダクタンス]]と二次側共振容量とが直列[[共振回路]]を形成し、二次側の直列共振周波数(1')で一次側から駆動することにより、一次巻線で発生する磁束の位相と二次巻線で発生する磁束の位相が同期する[[磁界調相結合]]が起きて昇圧する。二次巻線の短絡インダクタンスをL<sub>sc</sub>とし、二次側の共振容量をC<sub>s</sub>とすると、共振周波数ω<sub>2</sub>は、 :<math>\omega_2=\frac{1}{\sqrt{L_{sc} C_r}}=\frac{1}{\sqrt{(1-k^2)L_2 C_r}}</math> である。 変圧比(昇圧比)が一定せず、負荷によって変圧比(昇圧比)が変動し、負荷に対して定電流性を持つ。この性質を利用して電子式蛍光灯安定器(蛍光灯[[インバータ]])・電子式ネオン管安定器・[[冷陰極管インバーター|冷陰極管用インバータ]]・[[テスラコイル]](放電用)などに用いられる。磁界共振方式の[[ワイヤレス給電]]の原理も共振変圧器の[[結合係数]]を小さくしたモデルとして説明することができる。 == 運用 == === 変圧器の並行運転 === 負荷に供給したい電力が1台の変圧器の容量で不足する場合、複数台の変圧器の一次側および二次側を並列接続して運転することがある。これを並行運転と呼ぶ。並行運転を行うためには、電圧の極性をそろえること、巻数比が等しいことが必要である。さらに、負荷が複数台の変圧器の容量に応じて分配されるために、各変圧器のパーセントインピーダンスが等しいことが必要となる。 == 歴史 == === 誘導コイルの実験 === 1831年に[[マイケル・ファラデー]]は変圧器の基本となる原理である[[ファラデーの電磁誘導の法則]]を発見し、コイル間の[[電磁誘導]]に関する実証を行なったが、将来それが[[起電力]]を操作する役割を持つという認識は無かった。1836年に[[アイルランド]]のメイヌース大学 ([[:en:St Patrick's College, Maynooth|St Patrick's College, Maynooth]]) のニコラス・カラン牧師 ([[:en:Nicholas Callan|Nicholas Callan]]) が誘導コイルを発明し、これが変圧器として広く用いられる初めてのものとなった。彼は、一次巻線に対して二次巻線の巻数を増やすほど大きな起電力が発生するということに気づいた初期の研究者の1人であった。誘導コイルは、[[電池]]からより高い電圧を取り出そうとする科学者や発明家の努力によって発展した。電池は交流ではなく直流の電源であることから、電磁誘導に必要な磁束の変化を生み出すために一次側でコネクタを振動させて定期的に電流を遮断することによって誘導コイルが働くようになっていた。1830年代から1870年代にかけて、よりよい誘導コイルを、ほとんどは試行錯誤によって作り出そうとする試みにより、ゆっくりと変圧器の基本原理が明らかとなっていった。効率的で実用的な設計は1880年代まで発明されなかったが<ref name="Coltman">{{Citation | last = Coltman | first = J. W. | title = The Transformer | newspaper = Scientific American | pages = 86–95 | year = 1988 | id = OSTI:http://www.osti.gov/energycitations/product.biblio.jsp?osti_id=6851152 | date=January 1988}}</ref>、それから10年の間に[[電流戦争]]において交流が直流に対して勝利を収め、それ以来支配的な地位を確保し続けているために変圧器が助けとなった<ref name="Coltman"/>。 1876年に[[ロシア]]の技術者である[[パーヴェル・ヤブロチコフ]]は、一次側巻線が交流電源に接続され、二次側巻線を彼の設計した複数の「電気ろうそく」(アーク灯)に接続できる誘導コイルの組み合わせに基づいた照明システムを発明した<ref name=maglab>{{citation |url=http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/museum/stanleytransformer.html|title=Stanley Transformer|publisher=[[ロスアラモス国立研究所]];[[フロリダ大学]]|accessdate=2009-01-09}}</ref><ref name=fonveille>{{cite journal|url=https://books.google.co.jp/books?id=ksa-S7C8dT8C&pg=RA2-PA283&redir_esc=y&hl=ja|page=283|journal=[[Nature (journal)|Nature]]|number=534|volume=21|title=Gas and Electricity in Paris|date=1880-1-22|author=W. De Fonveille|accessdate=2009-01-09}}</ref>。このコイルはシステムの中で原始的な変圧器のように用いられた<ref name=maglab />。この発明に関する特許では、このシステムは「単一の電源からいくつかの照明装置にそれぞれ異なる輝度で電力を供給する」としている。 1878年、[[ハンガリー]]の[[ガンツ (企業)|ガンツ]]社の技術者が[[オーストリア=ハンガリー帝国]]での電灯装置製造のために大きな技術的な貢献をし、1883年までに50を超える装置を製作した。ガンツはアーク灯・[[電球]]・発電機・その他の備品からなる全般的なシステムを提供した<ref>Hughes, Thomas P, ''Networks of Power: Electrification in Western Society, 1880-1930'', The Johns Hopkins University Press, Baltimore and London, 1993. ISBN 0-8018-4614-5, 9780801846144.</ref>。 [[ルシアン・ゴーラール]]と[[ジョン・ディクソン・ギブス]]は1882年に[[ロンドン]]で「二次発電機」(secondary generator) と称する鉄心に空間の空いた装置を初めて公開し、このアイデアを[[アメリカ合衆国]]の[[ジョージ・ウェスティングハウス]]の会社に売却した<ref name="allan">{{Citation | last = Allan | first=D.J.| contribution = Power transformers – the second century | title = Power Engineering Journal}}</ref>。また彼らはこの発明を1884年に[[イタリア]]の[[トリノ]]でも公開し、そこで電灯システムとして採用されることになった。 1880年頃まで高圧の電源から低圧の負荷に交流電力を送る方法は、電源に対して直列に負荷をつなぐものであった。直列につなぐことで各負荷に掛かる電圧は下がったが、その代わりに個々の負荷の電源を切ると全体の電源が切れてしまう。このことから、巻数比が1対1の変圧器が使われた。高圧側の電源に直列に変圧器の一次巻線を接続し、二次巻線で低圧の電灯に接続して、二次側で電源を入り切りすることで、全体の電源を切らずに個別の電灯の電源を切ることができるようにしていた。この方法の本質的な問題は、それでもなお1つの電灯を入り切りするだけで他の回路全体に影響を与えてしまうことで、この直列回路の問題のある特性に対応するために多くの調整可能なコイルの設計がなされた。そのために鉄心を調整し、あるいはコイルの周りを迂回して磁束を流すなどの電圧を調整するための多くの方法が開発された。しかし、磁気回路に空間の空いた誘導コイルは電力を変換する効率が悪かった<ref>[https://archive.org/details/historyoftransfo00upperich Uppenborn, F. J., ''History of the Transformer''], E. & F. N. Spon, London, 1889.</ref>。 === 最初の変圧器の発明 === 1884年から1885年にかけて、[[ブダペスト]]のガンツ社の技術者、ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリの3人が効率的な"ZBD"式の閉じた鉄心モデルを開発した<ref>{{US patent|352105}}</ref>。これはゴーラールとギブスが開発した設計に一見似ていたが、ゴーラールとギブスはあくまで鉄心に空間のあるものを設計している。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは、それ以前の鉄心が無い、あるいは鉄心の磁気回路が閉じていない装置は電圧を調整できず、実用的でないことを発見した。彼らが合同で出願した特許では鉄心に極が無い、鉄心が環状になっているものと、鉄心が覆いのようになっているものの2つの構成が記載されていた<ref>{{cite web|url=http://energyhistory.energosolar.com/en_19th_century_electric_history.htm|title=Hungarian Inventors and their Inventions in the Field of Heavy-Current Engineering|publisher=energosolar.com|accessdate=26 December 2008}}</ref>。 環状鉄心モデルでは、鉄心は環状に構成され、その周りに2つのコイルが同様に巻かれていた。覆い方式のモデルでは、銅製の誘導ケーブルが鉄心の中を通されていた。どちらの設計でも、一次と二次のコイルを結ぶ磁束はほぼ全て鉄心の中をとおり、意図的に空中を通る経路は無い。鉄心は鉄の線あるいは板で作られていた。この発明によって、産業と家庭に経済的に電力を供給することが可能となった<ref>[http://www.hpo.hu/English/feltalalok/blathy.html HPO - OTTÓ TITUSZ BLÁTHY (1860 - 1939)<!-- Bot generated title -->]</ref>。ジペルノウスキー、ブラーティ、デーリは変圧器の巻数比と電圧比の関係する数式も発見した。この数式により、変圧器は計算して設計できるようになった。彼らの特許の出願の中で、ブラーティが造語した"transformer"という言葉が初めて使われた<ref>{{cite web|url=http://www.hpo.hu/English/feltalalok/blathy.html|title=Ottó Titusz Bláthy|publisher=Hungarian Patent Office|accessdate=26 December 2008}}</ref>。 ジョージ・ウェスティングハウスはゴーラールとギブス、そしてZBD式の両方の特許を1885年に購入した。ウェスティングハウスはZBD式の変圧器を商用化する設計を[[ウィリアム・スタンリー]]に任せた<ref name="Skrabec">{{cite book|last=Skrabec|first=Quentin R.|title=George Westinghouse: Gentle Genius|publisher=Algora Publishing|date=2007|page=102|isbn=978-0875865089|url=https://books.google.co.uk/books?id=C3GYdiFM41oC&pg=PA102&hl=en}}</ref>。スタンリーは、鉄心を組み合わせられたE字形の鉄のプレートから作成した。この設計は1886年に初めて商用に用いられた<ref>{{cite book | last = International Electrotechnical Commission | title = Otto Blathy, Miksa Déri, Károly Zipernowsky | work = IEC History | url = http://www.iec.ch/cgi-bin/tl_to_htm.pl?section=technology&item=144 | accessdate = 2007-05-17 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20101206042832/http://www.iec.ch/cgi-bin/tl_to_htm.pl?section=technology&item=144 | archivedate = 2010年12月6日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。ロシアの技術者ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキー ([[:en:Mikhail Dolivo-Dobrovolsky|Mikhail Dolivo-Dobrovolsky]]) は、1889年に初めて[[三相交流|三相]]の変圧器を開発した。1891年に[[ニコラ・テスラ]]は高電圧を高周波数で発生させる空芯コアで共鳴を利用した[[テスラコイル]]を発明した。可聴周波数の変圧器は、[[電話]]の開発に際して初期の研究者に利用された。 === スイッチング電源 === 1950年代に[[スイッチング電源]]が登場し高効率化・小型化が進むと一般向けの電源では主流となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tdk.com/ja/tech-mag/power/004 |title=スイッチング電源を誕生させたパワーエレクトロニクスの技術史 |access-date=2022/04/24 |publisher=[[TDK]]}}</ref>。トランス式と比較して高周波ノイズが多いことから、医療機器や高級オーディオなどノイズを嫌う分野ではトランス式が利用されている<ref>{{Cite web|和書|title=今さら聞けないトランスの基本Vol.9 トランス式ACアダプタ編 {{!}} 過去メルマガ一覧 {{!}} 加美電子工業株式会社 |url=https://www.kamidenshi.co.jp/magazine/1395/ |website=www.kamidenshi.co.jp |access-date=2022-04-24}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Transformers|変圧器}} * [[バラン (電子工学)]] * [[磁性体]] * [[変電]] * [[保護継電器]] * [[柱上変圧器]] * [[計器用変成器]] * [[電気機器の冷却方式]] * [[ポリ塩化ビフェニル]] (PCB) * [[大物車]] * [[結合係数]] * [[漏れインダクタンス]] * [[インバータ]] * [[電源回路]] * [[スイッチング電源]] * [[商用電源周波数]] * [[配線用差込接続器]] * [[灯動共用変圧器]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * [https://www.kitagawa-denki.co.jp/products/about/ トランスについて] - 北川電機 {{Electronic components|state=collapsed}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へんあつき}} [[Category:変圧器|*]] [[Category:電力機器]] [[Category:電子部品]] [[Category:電力インフラ]] [[Category:電力変換|*]]
2003-09-06T14:56:58Z
2023-11-17T06:22:28Z
false
false
false
[ "Template:PDFlink", "Template:US patent", "Template:Commons", "Template:電力供給", "Template:Cite web", "Template:Kotobank", "Template:Electronic components", "Template:Notelist", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite jis", "Template:Citation" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E5%9C%A7%E5%99%A8
15,437
押上駅
押上駅(おしあげえき)は、東京都墨田区押上一丁目にある、京成電鉄・東京都交通局(都営地下鉄)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道の駅である。 全社局共通の副駅名として「スカイツリー前」が導入され、特に東京メトロ・東武鉄道の駅では「押上〈スカイツリー前〉駅」と案内される。 当駅は京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道の共同使用駅である。東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)のとうきょうスカイツリー駅と隣接している。とうきょうスカイツリー駅とともに東京のランドマークである東京スカイツリーの最寄駅として機能しており、両駅は施設と直結している。 2012年3月17日に東武鉄道が駅番号を導入したことで、当駅を通る4事業者の路線はすべて駅番号が付与されることになった。それぞれの駅番号は、京成電鉄がKS45、都営地下鉄がA 20、東京メトロがZ 14、東武鉄道がTS 03である。 京成押上線と都営地下鉄浅草線が乗り入れている。押上線の起点かつ浅草線の終点で両方向折り返し可能な構造であるが、両路線の大半の列車が当駅を介して相互直通運転を行っている。 東京メトロ半蔵門線と東武伊勢崎線が乗り入れている。半蔵門線の終点かつ伊勢崎線の起点の一つであるが、半蔵門線側の一部の列車を除いて、当駅を介して相互直通運転を行っている。また伊勢崎線のうち、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間は「東武スカイツリーライン」という愛称が付けられており、旅客案内でも「東武スカイツリーライン」の呼び名が優先的に使われている。伊勢崎線の当駅から曳舟駅までは支線のような形になっているが、正式には曳舟駅からとうきょうスカイツリー駅(運賃計算上当駅とは同一駅扱い)までの区間の線増という扱いとなっている。 京成電気軌道の創始期には、繁華街浅草に近い東京側のターミナル駅としての位置付けだった。当初は東京市電(後の都電)との接続駅で当駅からの乗り入れも想定していたため、京成電軌の当初の軌間は1,372 mmで敷設された。 後には押上より浅草への路線建設を出願し、さらに上野・秋葉原まで高架線を建設する構想も立てられたが、東武鉄道との競願となったことに会社上層部が焦り、京成電車疑獄事件(京成疑獄)を引き起こしてしまい、浅草乗り入れ計画は頓挫、町屋経由での上野乗り入れ後は、長らく中途半端な“都会の盲腸線”となっていた。 1960年(昭和35年)に都営地下鉄との相互直通運転開始により、直接浅草・都心方面への乗り入れの接続駅となる。その後も地上駅舎は使用されたが、後に完全地下化され、地上駅跡地にはそれまで上野にあった京成電鉄本社が移転した(その後、2013年に千葉県市川市の京成八幡駅前に移転した)。 至近に位置する東武伊勢崎線の業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)と長らく連絡運輸していたが、2003年(平成15年)に、東武伊勢崎線と営団地下鉄(現・東京メトロ)半蔵門線の相互直通運転開始に伴い、両線の駅が開業。4線が乗り入れする駅となった。 島式ホーム2面4線を有する地下駅。PASMO・Suicaでの履歴印字表記は「押上」となっている。 京成電鉄が駅を管轄しており、駅名標・発車標・案内表示も京成電鉄の仕様である。なお、当駅を発着する列車種別には京成線・京急線双方に「快特・快速特急」があるが、京成線青砥・成田空港方面は京成の呼称に従い「快速特急」と案内されているのに対し、京急線品川方面は京急の呼称に従い「快特」と案内されている。 地下化前の構造は行き止まり式の島式ホーム2面4線だった。 地下化当初はホームの両端の下に改札口があったが、2003年(平成15年)3月19日に半蔵門線・東武線の駅が開業してからは、駅中央直下に両線の駅へ通じる改札口を新設し、京成曳舟寄りの改札口を閉鎖した。その後はホーム間の連絡通路としてのみ供用されていたが、2020年(令和2年)4月1日に東口設置という形で改札が復活した。なお、東口の営業時間は6時30分から22時00分までとなっている。 都営浅草線から続く地下トンネル出口付近に位置しており、乗務員交代が行われる。ただし一部列車を除いて停車時間は長くなく、他の都営浅草線の駅と同程度となっている。NTTBPの公衆無線LAN設備が設置されており、docomo Wi-Fiが利用できる。またUQコミュニケーションズの公衆無線LAN設備が設置されており、Wi2の公衆無線LANサービスが利用できる。 かつては1番線のホーム中央付近から京成曳舟方に保線用の側線が分岐していて砂利受け取り用のホッパーが存在した。現在、側線の分岐跡は壁で塞がれ(分岐跡の壁の形状が異なっているのはこのため)、ホッパーの跡は駅冷房用の換気ダクトに転用されている。 押上管区として、京成曳舟駅・八広駅を管理下に置いている。 ホームドアは京成電鉄の仕様であり、2024年(令和6年)2月の全面稼働開始により、都営地下鉄全106駅でのホームドア整備が完了することとなる。 (出典:都営地下鉄:駅構内図) 島式ホーム2面4線を有する地下駅。京成・都営の駅より南側に位置しており、コンコースは地下2階、ホームは地下3階にあり、地下1階は将来の浅草通りのアンダーパス計画(都市計画段階であり未事業化)を考慮し空けている。東京メトロの管理駅であり、案内表示などは東京メトロの標準様式のものを設置しているが、ホーム中央に東京メトロと東武の財産境界標識が設置されており、両社の折半所有となっている。また、東武の駅としては唯一の地下駅でもある。 東武の駅としてはとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いとなっている。一方、両駅は改札内では繋がっておらず、行き来には地上もしくは東京スカイツリータウン内を経由する必要がある。なおとうきょうスカイツリー駅と異なり、当駅では東武の特急券の購入はできない。 東京メトロ半蔵門線(渋谷方面)は終日にわたって当駅で折り返す列車があり、3番線での折り返しが中心だが、朝・夜間には2番線での折り返し列車も設定される。直通列車の発着は1・4番線に限られる。1番線と4番線では折り返しができないため、当駅始発の東武線(久喜・南栗橋方面)列車は設定されていない。一方、平日の東武線からの最終列車は当駅止まりとなっている。 ダイヤ乱れ等で東武線と東京メトロ半蔵門線との直通運転が中止となった場合、直通予定の列車は東武側では北千住駅での折り返し運転となるため、他の系統が走らない当駅 - 曳舟駅間が不通となる場合がある。2013年度になり、曳舟駅構内に新規の分岐器を設置する形で東武線の折り返し運転設備が整備されることとなり、整備は2013年10月末に完了したものの、実際に使用されたことはない。 PASMO・Suicaでの履歴印字表記は「地 押上」「東武押上」となっている。 2・3番線は亀有・松戸方面へ延伸可能な構造になっている(詳細は「東京直結鉄道」を参照)が、事業主体を含め具体的な整備計画は決まっていない。 改札外コンコースには、半蔵門線が水天宮前から当駅まで開業する直前に開催されたトンネルウォークに参加した子供たちの手形が飾られている。 (出典:東京メトロ:構内図) 2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 各年度の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 駅周辺北方は古くからの住宅街であり、駅東側には押上通り商店街が広がっている。 駅の西側の業平橋駅貨物ヤード跡地およびセメント工場跡地などの再開発事業として東京スカイツリーを中心とする東京スカイツリータウンがある。2012年5月の開業以前よりすでに東京の一大観光スポットになっており、開業後は当駅から東京スカイツリータウン内へ直結している。 駅の北側には東武伊勢崎線の留置線と伊勢崎線第2号踏切がある。東京スカイツリーの開業後に道路の交通量が増加することが予想されているため、墨田区ではこの踏切の廃止・高架化を求めていた。2012年1月に事業化が決定、2017年に工事着手し、2022年度末の完成を目指している。 当駅は2009年に実施の本社移転により、東武鉄道本社の最寄り駅となった。また2013年までは京成電鉄本社の最寄り駅でもあった。どちらも墨田区押上一丁目に所在していた(当時東武は一丁目1-2、京成は同10-3)。 東武鉄道本社は、かつては業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)の南側付近に位置していたが、東京スカイツリー建設に伴い、2009年に当駅北方に位置していた、押上二丁目18-12の同社社宅跡地(当駅A3出口付近)に新築移転しており、旧本社所在地へは徒歩5分程度である。本社移転により、東武公式の本社最寄り駅は業平橋駅から押上駅に変更された。 京成電鉄本社は2013年に千葉県市川市八幡の京成八幡駅前に移転、跡地にはホテルと商業店舗がテナントとして入居する「京成押上ビル」が建設され、2015年12月に開業した。 東武鉄道旧本社と京成電鉄旧本社の近くには、それぞれ「東武橋」「京成橋」という名の北十間川に架かる橋がある。 最寄りのバス停留所は、B3出入口付近のロータリーにある「押上駅前」と、四ツ目通りと浅草通りの交差点付近にある「押上」の2か所となる。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局と京成バスにより運行されている。 2012年4月1日までは路上(都営バスは旧押上駅前交番付近、墨田区内循環バスは書店付近)にあったが、駅前ロータリーの供用開始とともにすべての路線の停留所が駅前ロータリーに移された。 四ツ目通りと浅草通りの交差点にある。B2またはA2出入口が至近である。 東武鉄道においては運賃計算上、当駅はとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いになっている。東武鉄道各駅からとうきょうスカイツリー駅まで有効な乗車券または定期券を所持していれば、当駅でも乗降可能である。 東武・営団の押上駅が開業する以前は、京成押上線・都営浅草線押上駅の西口(A2出入口側)に業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)頭端式ホームとの乗り換え改札通路が設置されていたが、半蔵門線の開通を機に2003年3月18日をもって業平橋駅の頭端式ホームが廃止され、通路も閉鎖となった。現在、連絡通路跡は壁で塞がれている。 当駅の東武鉄道の運賃表にはとうきょうスカイツリー駅までの運賃は記載されていない。 京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道はそれぞれで相互直通運転を行っている。ただし、種別については当駅を境に当該事業者のものに変更となるものが多いため、各事業者ごとに個別に記載する。 2016年4月に国土交通省による「交通政策審議会答申第198号」において、当駅に関連する路線が整備対象として挙げられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "押上駅(おしあげえき)は、東京都墨田区押上一丁目にある、京成電鉄・東京都交通局(都営地下鉄)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "全社局共通の副駅名として「スカイツリー前」が導入され、特に東京メトロ・東武鉄道の駅では「押上〈スカイツリー前〉駅」と案内される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅は京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道の共同使用駅である。東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)のとうきょうスカイツリー駅と隣接している。とうきょうスカイツリー駅とともに東京のランドマークである東京スカイツリーの最寄駅として機能しており、両駅は施設と直結している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2012年3月17日に東武鉄道が駅番号を導入したことで、当駅を通る4事業者の路線はすべて駅番号が付与されることになった。それぞれの駅番号は、京成電鉄がKS45、都営地下鉄がA 20、東京メトロがZ 14、東武鉄道がTS 03である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "京成押上線と都営地下鉄浅草線が乗り入れている。押上線の起点かつ浅草線の終点で両方向折り返し可能な構造であるが、両路線の大半の列車が当駅を介して相互直通運転を行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "東京メトロ半蔵門線と東武伊勢崎線が乗り入れている。半蔵門線の終点かつ伊勢崎線の起点の一つであるが、半蔵門線側の一部の列車を除いて、当駅を介して相互直通運転を行っている。また伊勢崎線のうち、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間は「東武スカイツリーライン」という愛称が付けられており、旅客案内でも「東武スカイツリーライン」の呼び名が優先的に使われている。伊勢崎線の当駅から曳舟駅までは支線のような形になっているが、正式には曳舟駅からとうきょうスカイツリー駅(運賃計算上当駅とは同一駅扱い)までの区間の線増という扱いとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "京成電気軌道の創始期には、繁華街浅草に近い東京側のターミナル駅としての位置付けだった。当初は東京市電(後の都電)との接続駅で当駅からの乗り入れも想定していたため、京成電軌の当初の軌間は1,372 mmで敷設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "後には押上より浅草への路線建設を出願し、さらに上野・秋葉原まで高架線を建設する構想も立てられたが、東武鉄道との競願となったことに会社上層部が焦り、京成電車疑獄事件(京成疑獄)を引き起こしてしまい、浅草乗り入れ計画は頓挫、町屋経由での上野乗り入れ後は、長らく中途半端な“都会の盲腸線”となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)に都営地下鉄との相互直通運転開始により、直接浅草・都心方面への乗り入れの接続駅となる。その後も地上駅舎は使用されたが、後に完全地下化され、地上駅跡地にはそれまで上野にあった京成電鉄本社が移転した(その後、2013年に千葉県市川市の京成八幡駅前に移転した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "至近に位置する東武伊勢崎線の業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)と長らく連絡運輸していたが、2003年(平成15年)に、東武伊勢崎線と営団地下鉄(現・東京メトロ)半蔵門線の相互直通運転開始に伴い、両線の駅が開業。4線が乗り入れする駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する地下駅。PASMO・Suicaでの履歴印字表記は「押上」となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "京成電鉄が駅を管轄しており、駅名標・発車標・案内表示も京成電鉄の仕様である。なお、当駅を発着する列車種別には京成線・京急線双方に「快特・快速特急」があるが、京成線青砥・成田空港方面は京成の呼称に従い「快速特急」と案内されているのに対し、京急線品川方面は京急の呼称に従い「快特」と案内されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "地下化前の構造は行き止まり式の島式ホーム2面4線だった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "地下化当初はホームの両端の下に改札口があったが、2003年(平成15年)3月19日に半蔵門線・東武線の駅が開業してからは、駅中央直下に両線の駅へ通じる改札口を新設し、京成曳舟寄りの改札口を閉鎖した。その後はホーム間の連絡通路としてのみ供用されていたが、2020年(令和2年)4月1日に東口設置という形で改札が復活した。なお、東口の営業時間は6時30分から22時00分までとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "都営浅草線から続く地下トンネル出口付近に位置しており、乗務員交代が行われる。ただし一部列車を除いて停車時間は長くなく、他の都営浅草線の駅と同程度となっている。NTTBPの公衆無線LAN設備が設置されており、docomo Wi-Fiが利用できる。またUQコミュニケーションズの公衆無線LAN設備が設置されており、Wi2の公衆無線LANサービスが利用できる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かつては1番線のホーム中央付近から京成曳舟方に保線用の側線が分岐していて砂利受け取り用のホッパーが存在した。現在、側線の分岐跡は壁で塞がれ(分岐跡の壁の形状が異なっているのはこのため)、ホッパーの跡は駅冷房用の換気ダクトに転用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "押上管区として、京成曳舟駅・八広駅を管理下に置いている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ホームドアは京成電鉄の仕様であり、2024年(令和6年)2月の全面稼働開始により、都営地下鉄全106駅でのホームドア整備が完了することとなる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "(出典:都営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する地下駅。京成・都営の駅より南側に位置しており、コンコースは地下2階、ホームは地下3階にあり、地下1階は将来の浅草通りのアンダーパス計画(都市計画段階であり未事業化)を考慮し空けている。東京メトロの管理駅であり、案内表示などは東京メトロの標準様式のものを設置しているが、ホーム中央に東京メトロと東武の財産境界標識が設置されており、両社の折半所有となっている。また、東武の駅としては唯一の地下駅でもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "東武の駅としてはとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いとなっている。一方、両駅は改札内では繋がっておらず、行き来には地上もしくは東京スカイツリータウン内を経由する必要がある。なおとうきょうスカイツリー駅と異なり、当駅では東武の特急券の購入はできない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東京メトロ半蔵門線(渋谷方面)は終日にわたって当駅で折り返す列車があり、3番線での折り返しが中心だが、朝・夜間には2番線での折り返し列車も設定される。直通列車の発着は1・4番線に限られる。1番線と4番線では折り返しができないため、当駅始発の東武線(久喜・南栗橋方面)列車は設定されていない。一方、平日の東武線からの最終列車は当駅止まりとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ダイヤ乱れ等で東武線と東京メトロ半蔵門線との直通運転が中止となった場合、直通予定の列車は東武側では北千住駅での折り返し運転となるため、他の系統が走らない当駅 - 曳舟駅間が不通となる場合がある。2013年度になり、曳舟駅構内に新規の分岐器を設置する形で東武線の折り返し運転設備が整備されることとなり、整備は2013年10月末に完了したものの、実際に使用されたことはない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "PASMO・Suicaでの履歴印字表記は「地 押上」「東武押上」となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2・3番線は亀有・松戸方面へ延伸可能な構造になっている(詳細は「東京直結鉄道」を参照)が、事業主体を含め具体的な整備計画は決まっていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "改札外コンコースには、半蔵門線が水天宮前から当駅まで開業する直前に開催されたトンネルウォークに参加した子供たちの手形が飾られている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "駅周辺北方は古くからの住宅街であり、駅東側には押上通り商店街が広がっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "駅の西側の業平橋駅貨物ヤード跡地およびセメント工場跡地などの再開発事業として東京スカイツリーを中心とする東京スカイツリータウンがある。2012年5月の開業以前よりすでに東京の一大観光スポットになっており、開業後は当駅から東京スカイツリータウン内へ直結している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "駅の北側には東武伊勢崎線の留置線と伊勢崎線第2号踏切がある。東京スカイツリーの開業後に道路の交通量が増加することが予想されているため、墨田区ではこの踏切の廃止・高架化を求めていた。2012年1月に事業化が決定、2017年に工事着手し、2022年度末の完成を目指している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "当駅は2009年に実施の本社移転により、東武鉄道本社の最寄り駅となった。また2013年までは京成電鉄本社の最寄り駅でもあった。どちらも墨田区押上一丁目に所在していた(当時東武は一丁目1-2、京成は同10-3)。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東武鉄道本社は、かつては業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)の南側付近に位置していたが、東京スカイツリー建設に伴い、2009年に当駅北方に位置していた、押上二丁目18-12の同社社宅跡地(当駅A3出口付近)に新築移転しており、旧本社所在地へは徒歩5分程度である。本社移転により、東武公式の本社最寄り駅は業平橋駅から押上駅に変更された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "京成電鉄本社は2013年に千葉県市川市八幡の京成八幡駅前に移転、跡地にはホテルと商業店舗がテナントとして入居する「京成押上ビル」が建設され、2015年12月に開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "東武鉄道旧本社と京成電鉄旧本社の近くには、それぞれ「東武橋」「京成橋」という名の北十間川に架かる橋がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最寄りのバス停留所は、B3出入口付近のロータリーにある「押上駅前」と、四ツ目通りと浅草通りの交差点付近にある「押上」の2か所となる。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局と京成バスにより運行されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2012年4月1日までは路上(都営バスは旧押上駅前交番付近、墨田区内循環バスは書店付近)にあったが、駅前ロータリーの供用開始とともにすべての路線の停留所が駅前ロータリーに移された。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "四ツ目通りと浅草通りの交差点にある。B2またはA2出入口が至近である。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東武鉄道においては運賃計算上、当駅はとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いになっている。東武鉄道各駅からとうきょうスカイツリー駅まで有効な乗車券または定期券を所持していれば、当駅でも乗降可能である。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東武・営団の押上駅が開業する以前は、京成押上線・都営浅草線押上駅の西口(A2出入口側)に業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)頭端式ホームとの乗り換え改札通路が設置されていたが、半蔵門線の開通を機に2003年3月18日をもって業平橋駅の頭端式ホームが廃止され、通路も閉鎖となった。現在、連絡通路跡は壁で塞がれている。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "当駅の東武鉄道の運賃表にはとうきょうスカイツリー駅までの運賃は記載されていない。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道はそれぞれで相互直通運転を行っている。ただし、種別については当駅を境に当該事業者のものに変更となるものが多いため、各事業者ごとに個別に記載する。", "title": "隣の駅" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2016年4月に国土交通省による「交通政策審議会答申第198号」において、当駅に関連する路線が整備対象として挙げられている。", "title": "将来の計画" } ]
押上駅(おしあげえき)は、東京都墨田区押上一丁目にある、京成電鉄・東京都交通局(都営地下鉄)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道の駅である。 全社局共通の副駅名として「スカイツリー前」が導入され、特に東京メトロ・東武鉄道の駅では「押上〈スカイツリー前〉駅」と案内される。
{{告知|議論|page=プロジェクト‐ノート:鉄道/駅/東京メトロの副駅名の表記ついて}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 押上駅 |画像 = File:Oshiage Sta.jpg |pxl = 300 |画像説明 = B3番出入口(2023年2月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail-metro|marker2=rail-metro|marker3=rail |coord={{coord|35|42|38.7|N|139|48|46.4|E}}|marker-color=1155cc|title=京成・都営地下鉄 押上駅 |coord2={{coord|35|42|36.5|N|139|48|48.2|E}}|marker-color2=109ed4|title2=東京メトロ・東武 押上駅 |coord3={{coord|35|42|37.3|N|139|48|32.5|E}}|marker-color3=0f6cc3|title3=とうきょうスカイツリー駅 |frame-latitude=35.710555|frame-longitude=139.813138 }}左は東武鉄道において[[#付記|同一駅扱い]]の[[とうきょうスカイツリー駅]] |よみがな = おしあげ |ローマ字 = Oshiage |副駅名 =スカイツリー前 |所属事業者 = [[京成電鉄]]([[#京成電鉄・東京都交通局|駅詳細]])<br />[[東京都交通局]](都営地下鉄・[[#京成電鉄・東京都交通局|駅詳細]])<br />[[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ・東武鉄道|駅詳細]])<br />[[東武鉄道]]([[#東京メトロ・東武鉄道|駅詳細]]) |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[押上]]一丁目 }} [[画像:Oshiage-eki-2005 03 29 2.jpg|thumb|200px|right|B2出入口(2005年3月)]] '''押上駅'''(おしあげえき)は、[[東京都]][[墨田区]][[押上]]一丁目にある、[[京成電鉄]]・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 全社局共通の副駅名として「'''[[東京スカイツリー|スカイツリー]]前'''」が導入され<ref name="pr20120522">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyo-skytree.jp/press/upload/120522.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130055956/https://www.tokyo-skytree.jp/press/upload/120522.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 東京スカイツリータウン®がグランドオープンしました 5月22日(火)、東京スカイツリー、商業施設「東京ソラマチ」、水族館、プラネタリウムが開業 お客様を「安全・安心」にお迎えします|publisher=東武鉄道/東武タワースカイツリー|date=2012-05-22|accessdate=2021-01-30|archivedate=2021-01-30}}</ref><ref name="pr20120209">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120209_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190619053331/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120209_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京スカイツリータウン®へお出かけの際は、ぜひ電車をご利用ください 押上駅に副駅名「スカイツリー前」を導入します!|publisher=東武鉄道/東京メトロ/京成電鉄/東京都交通局|date=2012-02-09|accessdate=2020-04-08|archivedate=2019-06-19}}</ref>、特に東京メトロ・東武鉄道の駅では「'''押上〈スカイツリー前〉駅'''」と案内される。 == 概要 == 当駅は京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道の[[共同使用駅]]である。[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)の[[とうきょうスカイツリー駅]]と隣接している。とうきょうスカイツリー駅とともに東京の[[ランドマーク]]である[[東京スカイツリー]]の最寄駅として機能しており、両駅は施設と直結している。 [[2012年]][[3月17日]]に東武鉄道が[[駅ナンバリング|駅番号]]を導入したことで、当駅を通る4事業者の路線はすべて駅番号が付与されることになった。それぞれの駅番号は、京成電鉄が'''KS45'''、都営地下鉄が'''A 20'''{{Efn|京成電鉄では、原則として他社との共同使用駅を含め駅番号の二重付番を行わない方針を採っているが、当駅は[[新京成電鉄]]が駅番号を導入するまでは唯一の例外で、都営地下鉄の駅番号も付与されている。これは、都営地下鉄の方が京成電鉄よりも先に駅番号を導入したことによるものである。なお、その新京成電鉄は[[新鎌ヶ谷駅]]と[[京成津田沼駅]]でそれぞれ北総鉄道や京成電鉄とは別の駅番号を付与した。}}、東京メトロが'''Z 14'''、東武鉄道が'''TS 03'''<!--ハイフン入りのため現状空白を入れている両地下鉄・ゆりかもめに準ず-->である。 === 京成電鉄押上線・東京都交通局浅草線 === [[京成押上線]]と[[都営地下鉄浅草線]]が乗り入れている。押上線の起点かつ浅草線の終点で両方向折り返し可能な構造であるが、両路線の大半の列車が当駅を介して[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。 === 東京地下鉄半蔵門線・東武鉄道伊勢崎線 === [[東京メトロ半蔵門線]]と[[東武伊勢崎線]]が乗り入れている。半蔵門線の終点かつ伊勢崎線の起点の一つであるが、半蔵門線側の一部の列車を除いて、当駅を介して相互直通運転を行っている。また伊勢崎線のうち、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間は「東武スカイツリーライン」という愛称が付けられており、旅客案内でも「東武スカイツリーライン」の呼び名が優先的に使われている。伊勢崎線の当駅から[[曳舟駅]]までは支線のような形になっているが、正式には曳舟駅から[[とうきょうスカイツリー駅]](運賃計算上当駅とは同一駅扱い)までの区間の線増という扱いとなっている。 == 歴史 == [[File:Oshiage Station.19750120.jpg|thumb|right|300px|押上駅周辺の空中写真(1975年1月20日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[画像:Keisei Oshiage sta 002.jpg|thumb|スカイツリー建設前の押上駅前交差点付近から駅方面を見る。左の建物は京成電鉄旧本社。]] 京成電気軌道の創始期には、繁華街[[浅草]]に近い東京側の[[ターミナル駅]]としての位置付けだった。当初は東京市電(後の[[東京都電車|都電]])との接続駅で当駅からの乗り入れも想定していたため、京成電軌の当初の[[軌間]]は1,372&nbsp;[[ミリメートル|mm]]で敷設された。 [[ファイル:Oshiage Station circa 1955.jpg|サムネイル|1955年頃の押上駅]] 後には押上より浅草への路線建設を出願し、さらに[[上野]]・[[秋葉原]]まで高架線を建設する構想も立てられたが、東武鉄道との競願となったことに会社上層部が焦り、[[京成電車疑獄事件]](京成疑獄)を引き起こしてしまい、浅草乗り入れ計画は頓挫、[[町屋 (荒川区)|町屋]]経由での[[京成上野駅|上野]]乗り入れ後は、長らく中途半端な“都会の[[盲腸線]]”となっていた。 [[1960年]](昭和35年)に都営地下鉄との相互直通運転開始により、直接浅草・都心方面への乗り入れの接続駅となる<ref name="aramashi2020"/><ref name="keisei-history3" />。その後も地上駅舎は使用されたが、後に完全地下化され、地上駅跡地にはそれまで上野にあった京成電鉄本社が移転した(その後、2013年に[[千葉県]][[市川市]]の[[京成八幡駅]]前に移転した)。 至近に位置する東武伊勢崎線の業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])と長らく連絡運輸していたが、[[2003年]](平成15年)に、東武伊勢崎線と営団地下鉄(現・東京メトロ)半蔵門線の相互直通運転開始に伴い、両線の駅が開業<ref name="pr20020829" />。4線が乗り入れする駅となった。 === 年表 === * [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]]:京成電気軌道のターミナル駅として開業<ref name="RP787_10-13">{{Cite book|和書|author=青木良憲|title=[[鉄道ピクトリアル]]|chapter=総説:京成電鉄|volume=57|issue=3|pages=10-13|publisher=[[電気車研究会]]|date=2007-03-10|issn=0040-4047}}</ref><ref name="keisei-line-jtb">{{Cite book|和書|author=石本祐吉|chapter=京成の駅 今昔・昭和の面影 100年の歴史を支えた全駅を紹介|publisher=[[JTBパブリッシング]]|pages=133-134|date=2014-02-01|isbn=9784533095535}}</ref>。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[3月10日]]:[[東京大空襲]]により駅舎が焼失<ref name="keisei-history2">{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index2.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201219134234/https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index2.html|title=京成電鉄の歩み > 1927〜1945 全線開通・戦時統制|archivedate=2020-12-19|accessdate=2021-05-01|publisher=京成電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[1960年]](昭和35年) ** [[11月28日]]:京成線の地下駅舎が竣工<ref name="keisei-history3">{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index3.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210501094424/https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index3.html|title=京成電鉄の歩み > 1945〜1970 戦後復興と地下鉄乗り入れ|archivedate=2021-05-01|accessdate=2021-05-01|publisher=京成電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 ** [[11月29日]]:京成線の駅が地下化される<ref name="keisei-line-jtb" />。 ** [[12月4日]]:都営地下鉄1号線開業<ref name="aramashi2020">{{Cite journal|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|title=都営交通のあゆみ|date=2020-09|publisher=東京都交通局|journal=都営交通のあらまし2020|format=PDF|page=35|accessdate=2020-11-09|archivedate=2020-11-09}}</ref><ref name="keisei-history3" />。 * [[1978年]](昭和53年)[[7月1日]]:都営1号線を浅草線に改称<ref name="aramashi2020"/>。 * [[1989年]]([[平成]]元年):東武伊勢崎線業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])と地下連絡通路で結ばれる。 * [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]:東武伊勢崎線と営団地下鉄半蔵門線との相互直通運転開始に伴い、東武鉄道・営団地下鉄の押上駅が開業<ref name="pr20020829">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040204014324/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|language=日本語|title=首都圏の地下鉄ネットワークがますます便利に! 半蔵門線 水天宮前・押上間 平成15年3月19日(水)開業(予定) 東武伊勢崎線・日光線南栗橋まで相互直通運転開始!|publisher=営団地下鉄|date=2002-08-29|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-04}}</ref><ref name="tobu20030212">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/news/2003/02/030212.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030216062513/http://www.tobu.co.jp/news/2003/02/030212.html|language=日本語|title=3月19日(水)、東武伊勢崎線曳舟~押上間が開業 東武伊勢崎線・日光線、営団半蔵門線、東急田園都市線で相互直通運転を開始(南栗橋~押上~渋谷~中央林間)渋谷方面から日光・鬼怒川、両毛地区などへのお出掛けが大変便利に。特急・急行券は、2月19日(水)前売り開始。料金を大幅値下げ!!|publisher=東武鉄道|date=2003-02-12|accessdate=2022-05-15|archivedate=2003-02-16}}</ref>。伊勢崎線の業平橋駅発着列車(10両編成)が、当駅経由半蔵門線・[[東急田園都市線]]直通に置き換えられる。業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)との連絡通路を閉鎖<ref name="keisei-line-jtb" />。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、半蔵門線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[5月22日]]:東京スカイツリータウン開業にあわせて<ref name="pr20120522" />、新たに副駅名「スカイツリー前」を導入<ref name="pr20120209"/>。同時にコンコースから東京スカイツリータウン(東京スカイツリーイーストタワー地下2階)に直結する。 * [[2018年]](平成30年)[[9月13日]]:半蔵門線・東武線のホームに[[発車メロディ]]を導入<ref name="pr20180906">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913150400/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|format=PDF|language=日本語|title=半蔵門線に初めて発車メロディを導入します 半蔵門駅、三越前駅にはその駅にゆかりのある曲を採用|publisher=東京地下鉄|date=2018-09-06|accessdate=2020-07-11|archivedate=2018-09-13}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)4月1日:都営浅草線・京成線の改札口として東口を開設<ref name="pr20200327">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200327_140253294786.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200503201952/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200327_140253294786.pdf|format=PDF|language=日本語|title=お客様の利便性向上のために 押上駅に改札口を増設します 4月1日(水)供用開始|publisher=京成電鉄/東京都交通局|date=2020-03-27|accessdate=2020-05-03|archivedate=2020-05-03}}</ref>。既存の改札口に中央口・西口の名称が設定される<ref name="pr20200327"/>。 === かつて存在した駅 === * [[請地駅]] * [[京成請地駅]] == 駅構造 == === 京成電鉄・東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #1155cc<!-- 京成管轄のためこの色(#1155cc)を使用いたします。 --> |文字色 = |駅名 = 押上(スカイツリー前)駅 |画像 = Oshiage Station1.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 中央口(2008年4月) |よみがな = おしあげ(すかいつりーまえ) |ローマ字 = Oshiage (SKYTREE) |副駅名 = |電報略号 = 押(東京都交通局、駅名略称)<br />(京成では電報略号は非採用) |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[押上]]一丁目10-2 |座標 = {{coord|35|42|38.7|N|139|48|46.4|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=京成・都営地下鉄 押上駅}} |所属事業者 = [[京成電鉄]](京成)<br/>[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |開業年月日 = [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]]<ref name="RP787_10-13" /> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面4線 |廃止年月日 = |乗降人員 = {{Small|(京成電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="京成" name="keisei2022" />188,833<ref group="*" name="KS-A"/>人/日<hr />{{Small|(東京都交通局)-2022年-}}<br /><ref group="都交" name="toei2022" />187,689<ref group="*" name="KS-A">直通連絡人員を含む。</ref> |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#005aaa|●}}[[京成押上線]]<ref group="*" name="KS-A-2">両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。</ref> |前の駅1 = |駅間A1 = |駅間B1 = 1.1 |次の駅1 = [[京成曳舟駅|京成曳舟]] KS46 |駅番号1 = {{駅番号r|KS|45|#005aaa|4||#005aaa}} |キロ程1 = 0.0 |起点駅1 = 押上 |所属路線2 = {{color|#ec6e65|●}}[[都営地下鉄浅草線]]<ref group="*" name="KS-A-2"/> |前の駅2 = A 19 [[本所吾妻橋駅|本所吾妻橋]] |駅間A2 = 0.8 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = {{駅番号r|A|20|#ec6e65|4}} |キロ程2 = 18.3 |起点駅2 = [[西馬込駅|西馬込]] |備考 = [[共同使用駅]](京成電鉄の管轄駅) |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]]2面4線を有する[[地下駅]]<ref name="keisei-line-jtb" />。[[PASMO]]・[[Suica]]での履歴印字表記は「押上」となっている。 京成電鉄が駅を管轄しており、駅名標・発車標・案内表示も京成電鉄の仕様である。なお、当駅を発着する列車種別には京成線・京急線双方に「快特・快速特急」があるが、京成線青砥・成田空港方面は京成の呼称に従い'''「[[快速特急]]」'''と案内されているのに対し、京急線[[品川駅|品川]]方面は[[京浜急行電鉄|京急]]の呼称に従い'''「快特」'''と案内されている。 地下化前の構造は行き止まり式の島式ホーム2面4線だった<ref>京成電鉄、新京成電鉄、北総鉄道 昭和~平成の記録(アルファベータブックス、2023年5月5日第一版)118-119頁</ref>。 地下化当初はホームの両端の下に[[改札|改札口]]があったが、[[2003年]](平成15年)[[3月19日]]に半蔵門線・東武線の駅が開業してからは、駅中央直下に両線の駅へ通じる改札口を新設し、京成曳舟寄りの改札口を閉鎖した<ref name="ToeiKotsu200303">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/community/news/new/topics01-258.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030608071627/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/community/news/new/topics01-258.htm|title=都営浅草線押上駅改札口変更のお知らせ|archivedate=2003-06-08|accessdate=2022-05-01|publisher=東京都交通局|language=日本語|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>。その後はホーム間の連絡通路としてのみ供用されていたが、[[2020年]](令和2年)[[4月1日]]に東口設置という形で改札が復活した<ref name="pr20200327"/>。なお、東口の営業時間は6時30分から22時00分までとなっている<ref name="pr20200327"/>。 都営浅草線から続く地下[[トンネル]]出口付近に位置しており、乗務員交代が行われる。ただし一部列車を除いて停車時間は長くなく、他の都営浅草線の駅と同程度となっている。[[NTTBP]]の公衆無線LAN設備が設置されており、[[docomo Wi-Fi]]が利用できる。また[[UQコミュニケーションズ]]の公衆無線LAN設備が設置されており、[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス|Wi2]]の公衆無線LANサービスが利用できる。 かつては1番線のホーム中央付近から京成曳舟方に保線用の[[停車場#側線|側線]]が分岐していて[[砂利]]受け取り用の[[ホッパー (鉱業)|ホッパー]]が存在した<ref name="keisei-line-jtb" />。現在、側線の分岐跡は壁で塞がれ(分岐跡の壁の形状が異なっているのはこのため)<ref name="keisei-line-jtb" />、ホッパーの跡は駅冷房用の[[換気]]ダクトに転用されている。 押上管区として、[[京成曳舟駅]]・[[八広駅]]を管理下に置いている。 [[ホームドア]]は京成電鉄の仕様であり、2024年(令和6年)2月の全面稼働開始により、都営地下鉄全106駅でのホームドア整備が完了することとなる<ref>{{Cite web|和書|title=ホームドア整備に新手法 QRコード活用で転落事故防ぐ 都営地下鉄 |url=https://mainichi.jp/articles/20231118/k00/00m/040/061000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-11-20 |author=一宮俊介 |date=2023-11-18}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!行先!!備考 |- ! 1・2 |東京都交通局 |[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 |[[西馬込駅|西馬込]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|京急線]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A20SD.html |title=押上 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-05}}</ref> |一部始発は3番線 |- ! 3・4 |京成電鉄 |[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 押上線 |[[青砥駅|青砥]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]{{small|(成田スカイアクセス線直通・ 京成本線直通)}}・[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]方面 |一部始発は2番線 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/oshiage.html 都営地下鉄:駅構内図]) * 通常は、1番線(西馬込・羽田空港方面)・4番線(青砥・成田空港方面)から発着している。 * 京成押上線普通列車あるいは都営浅草線内各駅停車の列車が、[[エアポート快特]]や京成線の優等列車と[[緩急接続]]する場合は、普通列車が1・4番線を使用し、優等列車などが2・3番線に停車して先発する。 * 配線上、2・3番線のみ折り返しが可能であり、当駅折り返し列車は双方から発着している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A20SD.html|title=押上 平日:西馬込・羽田空港・京急線方面|publisher=東京都交通局|accessdate=2022-12-30}}</ref>。 ** 都営浅草線方面は、平日は朝に4本・夕方に1本、土休日は夜間に1本設定。このうち平日朝3本は3番線発着である。 ** 京成押上線方面は、平日は早朝に4本・夕方に1本・夜間に6本、土休日は早朝に4本・夜間に2本設定。このうち平日早朝3本、平日夜間2本、土休日早朝1本は2番線発着である。 <gallery> 押上駅(京成・都営)中央口.png|中央改札口(2021年4月) Keisei-oshiage-platform.jpg|ホーム(2005年3月) Toei-Keisei-Oshiage-sta-signboard-2020.jpg|駅名標(2020年3月) </gallery> {{-}} === 東京メトロ・東武鉄道 === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ・東武<br />押上〈スカイツリー前〉駅<ref group="*">各種案内に用いられている表記で、正式駅名は「'''押上駅'''」。</ref> |画像 = Oshiage Station3.JPG |pxl = 300 |画像説明 = コンコース(2008年4月) |よみがな = おしあげ〈すかいつりーまえ〉 |ローマ字 = Oshiage‘SKYTREE’ |副駅名 = |電報略号 = オシ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)<br />[[東武鉄道]](東武) |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[押上]]一丁目1-65 |座標 = {{coord|35|42|36.5|N|139|48|48.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ・東武 押上駅}} |開業年月日 = [[2003年]]([[平成]]15年)[[3月19日]]<ref name="pr20020829"/><ref name="tobu20030212"/> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面4線 |廃止年月日 = |乗降人員 = {{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="metro2022" />160,493<ref group="*">東武鉄道との直通連絡人員を含む。</ref>人/日<hr />{{Small|(東武鉄道)-2022年-}}<br /><ref group="東武" name="tobu2022" />93,151<ref group="*">東京メトロとの直通連絡人員を含む。</ref> |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#8f76d6|●}}[[東京メトロ半蔵門線]]<ref group="*" name=Z-TS">両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。</ref> |隣の駅1 = |前の駅1 = Z 13 [[錦糸町駅|錦糸町]] |駅間A1 = 1.4 |駅間B1 = |次の駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|Z|14|#8f76d6|4}} |キロ程1 = 16.7 |起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]] |所属路線2 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武伊勢崎線]]<br />(東武スカイツリーライン)<ref group="*" name=Z-TS"/> |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.3 |次の駅2 = [[曳舟駅|曳舟]] TS 04 |駅番号2 = {{駅番号r|TS|03|#0f6cc3|1}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 押上 |備考 = [[共同使用駅]](東京メトロの管轄駅) |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 島式ホーム2面4線を有する地下駅。京成・都営の駅より南側に位置しており、コンコースは地下2階、ホームは地下3階にあり、地下1階は将来の浅草通りのアンダーパス計画([[都市計画]]段階であり未事業化)を考慮し空けている<ref name="1995-09" />。東京メトロの管理駅であり、案内表示などは東京メトロの標準様式のものを設置しているが、ホーム中央に東京メトロと東武の財産境界標識が設置されており、両社の折半所有となっている。また、東武の駅としては唯一の地下駅でもある。 東武の駅としてはとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いとなっている。一方、両駅は改札内では繋がっておらず、行き来には地上もしくは東京スカイツリータウン内を経由する必要がある。なおとうきょうスカイツリー駅と異なり、当駅では東武の特急券の購入はできない<ref>{{Cite web|和書|title=購入・予約方法|publisher=東武鉄道|url=https://www.tobu.co.jp/railway/special_express/purchase/|accessdate=2023-07-18}}</ref>。 東京メトロ半蔵門線(渋谷方面)は終日にわたって当駅で折り返す列車があり、3番線での折り返しが中心だが、朝・夜間には2番線での折り返し列車も設定される。直通列車の発着は1・4番線に限られる。1番線と4番線では折り返しができないため、当駅始発の東武線(久喜・南栗橋方面)列車は設定されていない。一方、平日の東武線からの最終列車は当駅止まりとなっている。 ダイヤ乱れ等で東武線と東京メトロ半蔵門線との直通運転が中止となった場合、直通予定の列車は東武側では[[北千住駅]]での折り返し運転となるため、他の系統が走らない当駅 - [[曳舟駅]]間が不通となる場合がある。2013年度になり、曳舟駅構内に新規の分岐器を設置する形で東武線の折り返し運転設備が整備されることとなり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2013.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303213635/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2013.pdf|title=東京メトロプラン2015 〜さらなる安心・成長・挑戦〜|page=17|archivedate=2016-03-03|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b07de8283c551755913c68d100bdb2a0/130425_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130627054800/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b07de8283c551755913c68d100bdb2a0/130425_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2013年度の鉄道事業設備投資計画 設備投資計画は総額288億円 〜安全・安定輸送対策工事として可動式ホーム柵整備に着手します〜|publisher=東武鉄道|date=2013-04-25|accessdate=2020-12-14|archivedate=2013-06-27}}</ref>、整備は2013年10月末に完了したものの、実際に使用されたことはない<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1103G_R11C13A2000000/?page=2|title=直通運転の功罪 複雑なダイヤ、遅れ解消のワザ|page=2|date=2013-12-13|publisher=日経BP社|work=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-06-18|archivedate=2019-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190513214805/https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1103G_R11C13A2000000/?page=2}}</ref>。 PASMO・Suicaでの履歴印字表記は「地 押上」「東武押上」となっている。 2・3番線は[[亀有駅|亀有]]・[[松戸駅|松戸]]方面へ延伸可能な構造になっている(詳細は「[[東京直結鉄道]]」を参照)が<ref name="1995-09">{{Cite journal|和書|author1=藤沢一夫|author2=千葉貞雄|title=トンネルと地下|chapter=水天宮前・押上間の実施計画 営団地下鉄半蔵門線の延伸|pages=37-43|publisher=日本トンネル技術協会|date=1995-09}}</ref>、事業主体を含め具体的な整備計画は決まっていない。 改札外コンコースには、半蔵門線が水天宮前から当駅まで開業する直前に開催されたトンネルウォークに参加した子供たちの手形が飾られている。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan="3"|東京メトロ |rowspan="3"|[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線 |rowspan="3" style="text-align:center"|- |rowspan="3"|[[渋谷駅|渋谷]]・[[長津田駅|長津田]]・[[中央林間駅|中央林間]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/oshiage/timetable/hanzomon/b/index.html |title=押上〈スカイツリー前〉駅時刻表 渋谷・長津田・中央林間方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |東武線からの直通 |- !2 |朝・夜の当駅折返し |- !3 |当駅折返し |- !4 |東武鉄道 |[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン |style="text-align:center"|下り |[[北千住駅|北千住]]・[[越谷駅|越谷]]・[[久喜駅|久喜]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面 | |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/oshiage/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery> TokyoMetro-Z14-Oshiage-station-platform-1-2-20200315-085855.jpg|1・2番線ホーム(2020年3月) TokyoMetro-Z14-Oshiage-station-sign-20200810-184851.jpg|駅名標(2020年8月) Oshiage Station property boundaries sign (Tokyo Metro-TOBU RAILWAY).jpg|ホーム中央に設置されている東京地下鉄と東武鉄道の財産境界標識(2010年12月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== [[2018年]]([[平成]]30年)[[9月13日]]から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref name="pr20180906"/><ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ半蔵門線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/361|date=2018-09-10|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2021-03-29|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 {|class="wikitable" !番線 !曲名 !作曲者 |- !1 |紫電 | rowspan="4" |[[福嶋尚哉]] |- !2 |ライブラリー |- !3 |見上げる空に |- !4 |スタートアップ |} {{-}} ==== 配線図 ==== * 2013年3月16日ダイヤ改正で曳舟駅の浅草寄りの配線が変更された。ここに示す配線図はそのダイヤ改正前のものである。なお押上駅 - 曳舟駅は届け出上支線ではなく線増扱い([[複々線]]化)である。 <div class="NavFrame" style="border:none;text-align:left;font-size:100%"> <div class="NavHead" style="background:transparent;text-align:left;font-weight:normal"> :{{small|※ 押上駅・曳舟駅周辺の鉄道配線略図(注意:巨大画像表示巾500px)を表示するには、右の [表示] をクリックしてください。}} </div><div class="NavContent"> {{駅配線図 |image = Rail Tracks map between Tokyo Metro Oshiage and Tobu Hikifune Station.svg |title = 押上駅・曳舟駅周辺の鉄道配線略図 |width = 500px |up = |up-align = |left = [[渋谷駅|渋谷]] |left-valign = top |right = [[伊勢崎駅|伊勢崎]] |right-valign = middle |down = [[亀戸駅|亀戸]] |down-align = center |source = <br />* 以下を参考に作成。<br />** [[電気車研究会]]、「東武鉄道線路配線略図」、『[[鉄道ピクトリアル]]』、第58巻第1号 通巻第799号「【特集】 東武鉄道」、<br /> 2008年1月 臨時増刊号、巻末折込。<br />** 羽生峰夫・池田直人(東武鉄道)、「東武鉄道11号線直通化工事と直通運転の概要」、鉄道ジャーナル社、<br /> 『[[鉄道ジャーナル]]』 第37巻4号(通巻第438号) 2003年4月号、49頁、図2および図3。<br />** [http://www.tokyometro.jp/station/oshiage/yardmap/index.html 東京メトロ公式ホームページ 押上駅構内図]<br />** [http://www.tobu.co.jp/station/inside_map/1104.html 東武鉄道公式ホームページ 曳舟駅構内マップ] |note = {{small|※ 本図の入線方向は通常営業運転の方向であり、直通運転中止時や回送列車の入線方向を含まない。<br />※ [[浅草駅|浅草]]方面は割愛した}} }} </div></div> == 利用状況 == {{See also|とうきょうスカイツリー駅#利用状況}} *'''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''188,833人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。 *: 京成電鉄の駅では第1位であるが、都営浅草線との1日平均直通連絡人員の'''163,268人'''を含んだ値であり、都営線を使わず京成線のみを利用する乗客は約2.6万人程度となっている<ref group="京成" name="keisei2022" />。 *'''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''187,689人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:95,342人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:92,347人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 都営地下鉄の駅では[[都営地下鉄新宿線|新宿線]][[新宿駅]]に次ぐ第2位で、浅草線の駅では第1位。京成線との直通連絡人員を含む。 *'''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''160,493人'''である<ref group="メトロ" name="metro2022" />。 *: 東京メトロの他社直通連絡駅では[[中目黒駅]]に次ぐ第7位である。開業前の予想乗降人員は73,000人としていたが、開業以来その数字を上回り、順調に増加している。 *'''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''93,151人'''である<ref group="東武" name="tobu2022" />。 *: 伊勢崎線の駅では北千住駅、[[新越谷駅]]に次ぐ第3位。ただし、この数値は東京メトロ線との直通連絡人員を含む。<!--(2018年度)同一駅扱いのとうきょうスカイツリー駅(旧・業平橋駅)を含んだ場合の1日平均'''乗降'''人員は'''124,343人'''である。--> === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|京成電鉄 !rowspan="2"|京成線<br />浅草線<br />乗換人員 !colspan=2|都営地下鉄 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|東武鉄道<ref group="備考">東京メトロ線との直通連絡人員を含む。同一駅扱いのとうきょうスカイツリー駅(旧・業平橋駅)を含まない値。</ref> |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |2000年(平成12年) | || | |179,084|| |style="text-align:center" rowspan="2" colspan="4"|未開業 |- |2001年(平成13年) | || | |182,433||1.9% |- |2002年(平成14年) | || | |182,849||0.2% |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>26,508||<ref group="備考" name="metro-remarks" /> | || |- |2003年(平成15年) |168,235|| | |171,182||&minus;6.4% |<ref name="RJ759_31" />61,508||132.0% |37,760|| |- |2004年(平成16年) |171,105||1.7% | |167,620||&minus;2.1% |72,877||18.5% |45,818||21.3% |- |2005年(平成17年) |172,946||1.1% | |167,740||0.1% |78,744||8.1% |48,179||5.2% |- |2006年(平成18年) |177,029||2.4% |136,772 |171,556||2.3% |90,291||14.6% |57,206||18.7% |- |2007年(平成19年) |183,897||3.9% |146,713 |182,278||6.2% |105,799||17.2% |64,241||12.3% |- |2008年(平成20年) |187,241||1.8% |160,966 |183,776||0.8% |110,916||4.8% |71,614||11.5% |- |2009年(平成21年) |186,224|| &minus;0.5% |163,496 |183,098|| &minus;0.4% |115,203||3.9% |73,690||2.9% |- |2010年(平成22年) |186,230||0.0% |163,895 |184,002||0.5% |120,091||4.2% |76,053||3.2% |- |2011年(平成23年) |181,171||&minus;2.7% |159,745 |177,963||&minus;3.3% |120,324||0.2% |72,923||&minus;4.1% |- |2012年(平成24年) |187,712||3.6% |161,340 |194,657||9.4% |141,125||17.5% |79,705||9.3% |- |2013年(平成25年) |192,877||2.8% |166,297 |200,129||2.8% |147,642||4.6% |85,133||6.8% |- |2014年(平成26年) |195,147||1.2% |169,059 |200,913||0.4% |153,857||4.2% |88,527||4.0% |- |2015年(平成27年) |202,596||3.8% |175,491 |206,863||3.0% |162,910||5.9% |92,819||4.8% |- |2016年(平成28年) |209,531||3.4% |181,777 |212,426||2.7% |170,182||4.5% |98,110||5.7% |- |2017年(平成29年) |216,517||3.3% |188,195 |219,904||3.5% |177,297||4.2% |103,102||5.1% |- |2018年(平成30年) |223,535||3.2% |195,421 |226,868||3.2% |183,987||3.8% |107,146||3.9% |- |2019年(令和元年) |225,293||0.8% |198,033 |228,418||0.7% |186,555||1.4% |110,723||3.3% |- |2020年(令和{{0}}2年) |160,956||&minus;28.6% |140,848 |<ref group="都交" name="toei2020" />159,170||&minus;30.3% |126,120||&minus;32.4% |78,021||&minus;29.5% |- |2021年(令和{{0}}3年) |164,265||2.1% |142,200 |<ref group="都交" name="toei2021" />163,122||2.5% |137,245||8.8% |83,859||7.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite report |url=https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_02.pdf |title=京成グループ要覧2023 |website= |publisher=京成電鉄 |page=22 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>188,833 |15.0% |<ref group="京成" name="keisei2022" />163,268 |<ref group="都交" name="toei2022" />187,689||15.1% |<ref group="メトロ" name="metro2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html |title=各駅の乗降人員ランキング|東京メトロ |website= |publisher=東京地下鉄 |page= |format= |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>160,493||16.9% |<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト |website= |publisher=東武鉄道 |page= |format= |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>93,151||11.1% |} === 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) === 各年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="tokyo-toukei">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !年度!!京成電鉄!!都営地下鉄!!出典 |- |1956年(昭和31年) |13,792 |rowspan="4" style="text-align:center"|未<br />開<br />業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 18ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |14,552 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 18ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |15,023 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 18ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |14,982 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |15,376||<ref group="備考">1960年12月4日開業。開業日から翌年3月31日までの計118日間を集計したデータ。</ref>6,714 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |19,882||10,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |23,928||15,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |34,156||29,120 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |44,458||41,677 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |50,325||47,198 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |55,225||52,635 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |59,572||58,392 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |65,954||66,291 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |70,479||71,475 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |72,978||75,470 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |71,560||75,164 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |70,795||74,975 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |67,014||71,685 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |65,304||69,658 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |63,213||67,724 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |61,227||66,110 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |59,318||65,989 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |57,167||62,863 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |55,311||61,230 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |56,285||62,866 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |56,449||62,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |55,789||62,060 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |55,781||61,691 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |56,652||63,466 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |57,222||62,532 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |60,411||66,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |62,631||69,921 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |65,510||72,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |67,318||75,595 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |68,923||<ref group="備考">1990年9月25日押上迂回乗車制度導入。</ref>78,285 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |77,997||91,645 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |80,992||95,949<!--東京都交通局100年史、p.717より記載--> |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |81,638||97,301 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |82,841||98,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |83,888||96,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |82,836||<ref group="備考">1997年3月31日押上迂回乗車制度廃止。</ref>96,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |83,726||96,479 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |81,811||94,877 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |80,648||92,962 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |79,805||92,293 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="tokyo-toukei" /> !年度!!京成電鉄!!都営地下鉄!!営団 /<br />東京メトロ!!東武鉄道<ref group="備考">東京メトロ線との直通連絡人員を含む。同一駅扱いのとうきょうスカイツリー駅(旧・業平橋駅)を含む値。</ref>!!出典 |- |2001年(平成13年) |81,118||93,703 |style="text-align:center" colspan="2"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |80,808||93,953 |<ref group="備考" name="metro-remarks">2003年3月19日開業。開業日から同年3月31日までの計13日間を集計したデータ。</ref>17,000 |<ref group="備考">2003年3月19日開業。業平橋駅の1年間の乗降人員と当駅の13日間の乗降人員を365で除したデータ。</ref>6,156 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |83,902||87,773||30,721||21,213 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |84,953||86,006||36,923||25,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |85,956||85,948||39,951||26,088 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |88,011||87,744||45,649||30,638 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |91,383||91,922||53,230||34,467 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |93,332||92,747||56,079||38,433 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |92,280||92,336||57,660||39,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |92,814||92,984||60,666||42,416 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |90,227||89,811||60,413||40,842 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |93,638||99,518||72,482||54,616 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |96,249||102,139||75,516||54,739 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |97,378||102,024||78,008||54,876 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |100,929||105,063||82,530||56,708 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |104,301||107,833||86,085||58,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |107,724||111,584||89,510||60,732 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |111,197||114,988||92,888||62,441 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |112,104||115,679||94,194||63,596 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |79,863||<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>80,292|||| | |- |2021年(令和{{0}}3年) |81,389||<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>82,461|||| | |- |2022年(令和{{0}}4年) |93,466||<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>95,342|||| | |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|押上|業平|横川 (墨田区)}} 駅周辺北方は古くからの住宅街であり、駅東側には押上通り商店街が広がっている。 駅の西側の業平橋駅貨物ヤード跡地およびセメント工場跡地などの再開発事業として[[東京スカイツリー]]を中心とする[[東京スカイツリータウン]]がある。2012年5月の開業以前よりすでに東京の一大観光スポットになっており、開業後は当駅から東京スカイツリータウン内へ直結している。 駅の北側には東武伊勢崎線の留置線と伊勢崎線第2号踏切がある。東京スカイツリーの開業後に道路の交通量が増加することが予想されているため、墨田区ではこの踏切の廃止・高架化を求めていた。2012年1月に事業化が決定、2017年に工事着手し<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/c2c4d3691c750b20feb8b6c19e93eb81/170707.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201229111059/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/c2c4d3691c750b20feb8b6c19e93eb81/170707.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー駅」付近の連続立体交差事業(高架化)に着手します |publisher=東武鉄道|date=2017-07-07|accessdate=2021-01-30|archivedate=2020-12-29}}</ref>、2022年度末の完成を目指している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sumida.lg.jp/kakuka/rittaikasuisinta/rittaikasuisinta/info/270615.files/soannoaramashi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150620070538/https://www.city.sumida.lg.jp/kakuka/rittaikasuisinta/rittaikasuisinta/info/270615.files/soannoaramashi.pdf|title=東武鉄道伊勢崎線 鉄道・道路・地区計画に関する都市計画素案のあらまし|archivedate=2015-06-20|accessdate=2021-01-30|publisher=東京都/墨田区/東武鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン) [[とうきょうスカイツリー駅]] - 同一駅扱いとなっている([[#付記|後述]]) * 東武鉄道本社 * [[東京スカイツリータウン]]([[東京スカイツリーイーストタワー]]地下3階にコンコース階で直結) ** [[東京スカイツリー]] ** 東京スカイツリーイーストタワー ** [[東京ソラマチ]] ** [[千葉工業大学]]東京スカイツリータウンキャンパス * 京成押上ビル ** [[リッチモンドホテルズ|リッチモンドホテル]]プレミア東京スコーレ ** [[ライフコーポレーション|ライフ]]セントラルスクエア押上駅前店 ** [[ニトリ]]押上駅前店 * 京成押上第2ビル ** 京成リッチモンドホテル東京押上 * [[東京都立本所高等学校]] * [[墨田区役所]]横川出張所 * 墨田区横川コミュニティ会館 * 墨田区勤労者福祉サービスセンター ** すみだ消費者センター・すみだ女性センター * すみだ福祉保健センター * 本所税務署 * 東京都墨田都税事務所 * 業四市場 * 押上駅前郵便局 * [[三菱UFJ銀行]]押上支店 * [[みずほ銀行]]押上支店 * [[横十間川]] * [[DANGAN|reason押上ジム]] === 東武の本社最寄り駅 === [[画像:Keisei Oshiage Building 20160221-001.jpg|thumb|right|250px| 京成電鉄本社跡に建設された京成押上ビル]] 当駅は2009年に実施の本社移転により、東武鉄道本社の最寄り駅となった。また2013年までは京成電鉄本社の最寄り駅でもあった。どちらも墨田区押上一丁目に所在していた(当時東武は一丁目1-2、京成は同10-3)。 東武鉄道本社は、かつては業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)の南側付近に位置していたが、東京スカイツリー建設に伴い、2009年に当駅北方に位置していた、押上二丁目18-12の同社社宅跡地(当駅A3出口付近)に新築移転しており、旧本社所在地へは徒歩5分程度である。本社移転により、東武公式の本社最寄り駅は業平橋駅から押上駅に変更された。 京成電鉄本社は2013年に[[千葉県]][[市川市]][[八幡 (市川市)|八幡]]の[[京成八幡駅]]前に移転、跡地にはホテルと商業店舗がテナントとして入居する「京成押上ビル」が建設され、2015年12月に開業した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/151126_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607094539/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/151126_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=押上旧本社跡地開発 ホテル「リッチモンドホテルプレミア東京押上」 スーパーマーケット ライフ「セントラルスクエア押上駅前店」12月5日オープン!|publisher=京成電鉄|date=2015-11-26|accessdate=2020-06-16|archivedate=2020-06-07}}</ref>。 東武鉄道旧本社と京成電鉄旧本社の近くには、それぞれ「東武橋」「京成橋」という名の北十間川に架かる橋がある<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2016062095711.html |title=とうきょうスカイツリー駅 開発前の東武、京成の痕跡をたどる - グッとくる鉄道・東京散歩 |author=鈴木伸子 |newspaper=朝日新聞デジタル&M |date=2016-06-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160620230259/http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2016062095711.html |archivedate=2016-06-20}}</ref>。 == バス路線 == [[画像:Oshiage Bus Terminal.svg|thumb|right|240px|駅周辺乗り場]] 最寄りの[[バス停留所]]は、B3出入口付近のロータリーにある'''「押上駅前」'''と、四ツ目通りと[[浅草通り]]の交差点付近にある'''「押上」'''の2か所となる。以下の路線が乗り入れ、[[都営バス|東京都交通局]]と[[京成バス]]により運行されている。 ; 押上駅前 2012年4月1日までは路上(都営バスは旧押上駅前交番付近、墨田区内循環バスは書店付近)にあったが、駅前ロータリーの供用開始とともにすべての路線の停留所が駅前ロータリーに移された。 {|class="wikitable" !colspan="2"|乗り場!!colspan="2"|系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!所管 |- |colspan="2" rowspan="3"|押上駅||rowspan="3"|[[京成バス奥戸営業所#墨田区「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」|墨田区内循環バス]]||北西部ルート||[[鐘ヶ淵駅]]・地蔵坂||rowspan="3"|押上駅(循環)||rowspan="3"|[[京成バス]]||rowspan="3"|[[京成バス奥戸営業所|奥戸]] |- |北東部ルート||[[東あずま駅]]・[[八広駅|八広]] |- |南部ルート||[[錦糸町駅]]北口・墨田区役所 |- |rowspan="2"|押上駅前||1||colspan="2"|[[都営バス青戸支所#錦37系統|錦37]]||大平三丁目||錦糸町駅||rowspan="2"|[[都営バス]]||rowspan="2"|[[都営バス青戸支所|青戸]] |- |2||colspan="2"|錦37||十間橋通り・中居堀・八広||青戸車庫前<br />新四ツ木橋 |} ; 押上 四ツ目通りと浅草通りの交差点にある。'''B2'''または'''A2'''出入口が至近である。 * [[都営バス南千住営業所#都08系統(グリーンリバー)|都08(T08)系統]]:錦糸町駅行 / [[リバーピア吾妻橋]]・東武浅草駅・奥浅草・千束経由 [[日暮里駅]]行 * [[都営バス南千住営業所#錦40系統|錦40系統]]:錦糸町駅行 / [[とうきょうスカイツリー駅]]・[[向島百花園|百花園]]・[[白鬚橋]]・南千住汐入経由 [[南千住駅|南千住駅東口]]行 * [[都営バス青戸支所#上23系統|上23系統]]:[[墨田区役所]]・浅草雷門経由 上野松坂屋行 / 十間橋経由 平井駅行 * [[都営バス青戸支所#上26系統|上26系統]]:とうきょうスカイツリー駅・奥浅草・下谷二丁目([[鶯谷駅]]入口)・[[根津駅]]経由 [[上野恩賜公園|上野公園]]行 / 亀戸天神経由 [[亀戸駅]]行 * [[都営バス江東営業所#門33系統|門33系統]]:十間橋・柳島経由 亀戸駅行 / [[森下駅 (東京都)|森下駅]]・[[門前仲町駅|門前仲町]]・[[月島駅]]・[[勝どき駅]]経由 [[豊海町 (東京都中央区)|豊海]]水産埠頭行 == 付記 == 東武鉄道においては[[運賃]]計算上、当駅はとうきょうスカイツリー駅と同一駅扱いになっている。東武鉄道各駅からとうきょうスカイツリー駅まで有効な[[乗車券]]または[[定期乗車券|定期券]]を所持していれば、当駅でも乗降可能である。 東武・営団の押上駅が開業する以前は、京成押上線・都営浅草線押上駅の西口(A2出入口側)に業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)[[頭端式ホーム]]との乗り換え改札通路が設置されていたが、半蔵門線の開通を機に2003年3月18日をもって業平橋駅の頭端式ホームが廃止され、通路も閉鎖となった。現在、連絡通路跡は壁で塞がれている。 当駅の東武鉄道の運賃表にはとうきょうスカイツリー駅までの運賃は記載されていない。 == 隣の駅 == 京成電鉄と東京都交通局、東京メトロと東武鉄道はそれぞれで[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。ただし、種別については当駅を境に当該事業者のものに変更となるものが多いため、各事業者ごとに個別に記載する。 ; 京成電鉄 : [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 押上線 :: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速 ::: (都営浅草線) - '''押上駅 (KS45)''' - [[青砥駅]] (KS09) :: {{Color|#595757|■}}普通 ::: (都営浅草線) - '''押上駅 (KS45)''' - [[京成曳舟駅]] (KS46) * かつては京成曳舟駅との間に[[京成請地駅]]が存在した。 ; 東京都交通局 : [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 :: {{Color|#ef7a00|■}}エアポート快特 ::: [[浅草駅]] (A 18) - '''押上駅 (A 20)''' - (京成押上線) :: {{Color|#ef454a|■}}エアポート快特以外の[[列車種別]] ::: [[本所吾妻橋駅]] (A 19) - '''押上駅 (A 20)''' - (京成押上線) ; 東京地下鉄 : [[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線(線内は全列車が各駅に停車) ::: [[錦糸町駅]] (Z 13) - '''押上駅 (Z 14)''' - (東武スカイツリーライン) ; 東武鉄道 : [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン :: {{Color|#cc0066|■}}急行・{{color|#009900|■}}準急 ::: (半蔵門線) - '''押上駅 (TS 03)''' - [[曳舟駅]] (TS 04) :: ※通常は当駅に乗り入れる普通列車の設定はない。 == 将来の計画 == 2016年4月に[[国土交通省]]による「[[交通政策審議会答申第198号]]」において、当駅に関連する路線が整備対象として挙げられている。 * 東京8号線([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]分岐線)延伸([[豊洲駅]] - [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]]、当駅 - [[野田市駅]])、東京11号線(半蔵門線)延伸(当駅 - [[松戸駅]]) ** 当駅を含む住吉駅 - 四ツ木<!--地点名であり、計画ルート上も京成線四ツ木駅と位置が異なるため、リンクしない-->間は共用区間。前述の通り、東京メトロ・東武鉄道の当駅2・3番線は延伸に備えた構造である。 * [[都心直結線]](当駅 - [[新東京駅]] - [[泉岳寺駅]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ;京成電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京成"|3}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ;東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ;東武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東武"|3}} ;私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[日本の共同使用駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/oshiage.php 押上駅|電車と駅の情報|京成電鉄] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/oshiage.html 押上駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] * [https://www.tokyometro.jp/station/oshiage/index.html 押上〈スカイツリー前〉駅/Z14 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=1120}} {{鉄道路線ヘッダー}} {{京成押上線}} {{京成成田空港線}} {{都営地下鉄浅草線}} {{東京メトロ半蔵門線}} {{東武伊勢崎線|mode=1}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:おしあけえき}} [[Category:墨田区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|しあけ]] [[Category:1912年開業の鉄道駅]] [[Category:東京スカイツリータウン]] [[Category:京成電鉄の鉄道駅|おしあけ]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅|おしあけ]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅|おしあけ]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅|おしあけ]] [[Category:業平・押上]]
2003-09-06T15:19:35Z
2023-12-30T05:10:37Z
false
false
false
[ "Template:Cite news", "Template:外部リンク/東武鉄道駅", "Template:Small", "Template:Cite book", "Template:Efn", "Template:駅配線図", "Template:Color", "Template:京成押上線", "Template:駅情報", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:京成成田空港線", "Template:東京メトロ半蔵門線", "Template:-", "Template:Reflist", "Template:都営地下鉄浅草線", "Template:鉄道路線フッター", "Template:Cite report", "Template:鉄道路線ヘッダー", "Template:See also", "Template:Cite press release", "Template:Cite journal", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:Commonscat", "Template:東武伊勢崎線", "Template:告知", "Template:国土航空写真" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E4%B8%8A%E9%A7%85
15,439
朝鮮の歴史
朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。 朝鮮半島における最初の人類の痕跡は平壌直轄市力浦区域の洞窟で発見された「力浦人」を始め、朝鮮半島北部・中部に多数存在する石灰岩の洞窟で発見されている。「力浦人」は原人に近い特徴を持つ旧人とされており、同じく平壌市周辺の洞窟から動物の化石と共に新人の化石が発見されている。 朝鮮半島の旧石器時代で最も古い遺跡の1つは、京畿道漣川郡の全谷里遺跡である。この遺跡から発見された石器が、典型的なアシュール文化のハンドアックス(手斧)の特徴を持っていることが世界的に注目を集め、その年代は12万5千年前-3万5000年前まで幅広い仮説が提出されている。 最終氷期には世界的に現在よりも海面水準が105-130メートルほど低下していたため東シナ海の大部分は陸地であったが、13,000年前頃にヴィルム氷期が終了し、気候が温暖化するとともに海面は上昇した。今から8000年前頃には日本海に対馬海流が本格的に流入しはじめ、朝鮮半島の気候は現在に近いものとなった。 この頃に朝鮮半島で初めて土器が登場する。最古の土器の1つは済州島の高山里遺跡で発見された平底鉢と土器片であり、出土層の上層から鬼界アカホヤ火山灰(6300年前の鬼界カルデラの噴火火山灰)が発見されていることから、その年代はおおよそ6300年前以前と見られる。朝鮮半島における新石器時代は未だ明確な姿が描かれておらず、旧石器時代から新石器時代への移行について詳細な説明は与えられていない。『朝鮮史研究入門』においては土器および打製石鏃の出現をもって画期とし、青銅器時代の土器である無文土器の出現までの時間的範囲を便宜上新石器時代として設定している。新石器時代の土器は幾何学模様が線で描かれ、北ヨーロッパからシベリア、北アメリカにかけて分布する類型の土器と同系統と考えられる。ドイツ語でこの種の土器を「Kamm Keramik」とよばれると呼ぶことから、1930年代にその和訳である「櫛目文土器」と呼ばれるようになった。ただし現在でも多様な名称が用いられ、また粘土紐や押印文による装飾が行われたものも存在する。 紀元前1000年頃から無文土器が出現し、これによって櫛目文土器時代と区別されている。この時代は同時に青銅器の使用、磨製石器の登場、稲作の開始によって特徴づけられ、無文土器時代と呼ばれている。無文土器は紀元前300年頃を境にして大きく前期と後期に分けられている。無文土器時代には中国東北部(満州)の青銅器文化が朝鮮半島に流入し、大きな文化的痕跡を残した。朝鮮半島の青銅器文化は銅剣の種類によって時期区分が行われており、その区分と無文土器による前期・後期の区分はほぼ対応する。前期のものは遼寧式銅剣と呼ばれ、中国の遼寧省を中心に分布する「遼寧青銅器文化を代表する遺物である」(早乙女)。後期のものは「韓国式銅剣」とも呼ばれ、遼寧式銅剣から派生した。遼寧式銅剣が朝鮮半島に伝わった上限年代は紀元前8世紀頃、下限は紀元前7/6世紀頃であり、一部の刀剣類は西周時代(紀元前10-9世紀頃)に遡る。無文土器時代前期末頃には朝鮮半島で青銅器の鋳造生産が始まったことが出土した鋳型によってわかっている。朝鮮半島では既にアワやヒエの栽培が陸路で伝わり始まっていたが、コメの生産はこの時代に海路で中国から伝わり始まったと見られる。無文土器時代のもう一つの大きな特徴として、支石墓が多数建造されるようになることがある。これもまた青銅器文化とともに中国東北地方から流入したものであり、朝鮮半島では2000以上の遺跡が見つかっている。全羅南道が分布の中心であり、全体の約半数が集中している。 朝鮮半島南部では日本列島と密接な人的交流があったものと見られ、勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している。 朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は前195年頃に燕人の衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国したという。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間支配されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。 4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には百済、南東部には新羅が割拠した。 高句麗は4世紀の広開土王の代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。 百済は漢城(漢山城、現:ソウル松坡区)を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、熊津に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。南端部には諸小国の雑居する伽耶(加羅、任那)があり、その勢力争いには倭国も影響を及ぼした(旧説では「支配下」にあったとする)。釜山市近郊の金海礼安里古墳群は4世紀から7世紀に築かれた伽耶人の庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方の弥生人や古墳人に近いという結果が得られた。 伽耶では特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったと言われているが、全域を統合する勢力は構築されなかった。後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。 朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』等に記載された伝説的な4代目の王(脱解王)が倭国の北東 の伝説的な国に系譜をもつとされる王であるなど、周辺諸地域との密接な関わりがあった。 7世紀に新羅は中国大陸の唐と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして統一新羅国家として朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。 唐を朝鮮半島から撤退させた時、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。 10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。 高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。 朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蔣英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。 16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。 1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には 重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斉家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。 19世紀半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。 なお、李氏朝鮮末期から日本統治期、米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。 考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。 考古学的考証のない事項はここに記す。 朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。秦代は遼東郡の保護下にあった。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した。 高句麗・百済・新羅の三国が並立。唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。 5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。 新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。 新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。 連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "朝鮮半島における最初の人類の痕跡は平壌直轄市力浦区域の洞窟で発見された「力浦人」を始め、朝鮮半島北部・中部に多数存在する石灰岩の洞窟で発見されている。「力浦人」は原人に近い特徴を持つ旧人とされており、同じく平壌市周辺の洞窟から動物の化石と共に新人の化石が発見されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "朝鮮半島の旧石器時代で最も古い遺跡の1つは、京畿道漣川郡の全谷里遺跡である。この遺跡から発見された石器が、典型的なアシュール文化のハンドアックス(手斧)の特徴を持っていることが世界的に注目を集め、その年代は12万5千年前-3万5000年前まで幅広い仮説が提出されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "最終氷期には世界的に現在よりも海面水準が105-130メートルほど低下していたため東シナ海の大部分は陸地であったが、13,000年前頃にヴィルム氷期が終了し、気候が温暖化するとともに海面は上昇した。今から8000年前頃には日本海に対馬海流が本格的に流入しはじめ、朝鮮半島の気候は現在に近いものとなった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この頃に朝鮮半島で初めて土器が登場する。最古の土器の1つは済州島の高山里遺跡で発見された平底鉢と土器片であり、出土層の上層から鬼界アカホヤ火山灰(6300年前の鬼界カルデラの噴火火山灰)が発見されていることから、その年代はおおよそ6300年前以前と見られる。朝鮮半島における新石器時代は未だ明確な姿が描かれておらず、旧石器時代から新石器時代への移行について詳細な説明は与えられていない。『朝鮮史研究入門』においては土器および打製石鏃の出現をもって画期とし、青銅器時代の土器である無文土器の出現までの時間的範囲を便宜上新石器時代として設定している。新石器時代の土器は幾何学模様が線で描かれ、北ヨーロッパからシベリア、北アメリカにかけて分布する類型の土器と同系統と考えられる。ドイツ語でこの種の土器を「Kamm Keramik」とよばれると呼ぶことから、1930年代にその和訳である「櫛目文土器」と呼ばれるようになった。ただし現在でも多様な名称が用いられ、また粘土紐や押印文による装飾が行われたものも存在する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "紀元前1000年頃から無文土器が出現し、これによって櫛目文土器時代と区別されている。この時代は同時に青銅器の使用、磨製石器の登場、稲作の開始によって特徴づけられ、無文土器時代と呼ばれている。無文土器は紀元前300年頃を境にして大きく前期と後期に分けられている。無文土器時代には中国東北部(満州)の青銅器文化が朝鮮半島に流入し、大きな文化的痕跡を残した。朝鮮半島の青銅器文化は銅剣の種類によって時期区分が行われており、その区分と無文土器による前期・後期の区分はほぼ対応する。前期のものは遼寧式銅剣と呼ばれ、中国の遼寧省を中心に分布する「遼寧青銅器文化を代表する遺物である」(早乙女)。後期のものは「韓国式銅剣」とも呼ばれ、遼寧式銅剣から派生した。遼寧式銅剣が朝鮮半島に伝わった上限年代は紀元前8世紀頃、下限は紀元前7/6世紀頃であり、一部の刀剣類は西周時代(紀元前10-9世紀頃)に遡る。無文土器時代前期末頃には朝鮮半島で青銅器の鋳造生産が始まったことが出土した鋳型によってわかっている。朝鮮半島では既にアワやヒエの栽培が陸路で伝わり始まっていたが、コメの生産はこの時代に海路で中国から伝わり始まったと見られる。無文土器時代のもう一つの大きな特徴として、支石墓が多数建造されるようになることがある。これもまた青銅器文化とともに中国東北地方から流入したものであり、朝鮮半島では2000以上の遺跡が見つかっている。全羅南道が分布の中心であり、全体の約半数が集中している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "朝鮮半島南部では日本列島と密接な人的交流があったものと見られ、勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は前195年頃に燕人の衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国したという。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間支配されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には百済、南東部には新羅が割拠した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "高句麗は4世紀の広開土王の代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "百済は漢城(漢山城、現:ソウル松坡区)を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、熊津に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。南端部には諸小国の雑居する伽耶(加羅、任那)があり、その勢力争いには倭国も影響を及ぼした(旧説では「支配下」にあったとする)。釜山市近郊の金海礼安里古墳群は4世紀から7世紀に築かれた伽耶人の庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方の弥生人や古墳人に近いという結果が得られた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "伽耶では特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったと言われているが、全域を統合する勢力は構築されなかった。後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』等に記載された伝説的な4代目の王(脱解王)が倭国の北東 の伝説的な国に系譜をもつとされる王であるなど、周辺諸地域との密接な関わりがあった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "7世紀に新羅は中国大陸の唐と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして統一新羅国家として朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "唐を朝鮮半島から撤退させた時、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蔣英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斉家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "19世紀半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、李氏朝鮮末期から日本統治期、米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。", "title": "先史時代・古朝鮮時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "考古学的考証のない事項はここに記す。", "title": "先史時代・古朝鮮時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。秦代は遼東郡の保護下にあった。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した。", "title": "古代の朝鮮半島" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "高句麗・百済・新羅の三国が並立。唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。", "title": "古代の朝鮮半島" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。", "title": "古代の朝鮮半島" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。", "title": "古代の朝鮮半島" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。", "title": "古代の朝鮮半島" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。", "title": "現代" } ]
朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。
{{redirect|朝鮮史|朝鮮総督府が編纂した歴史書|朝鮮史 (歴史書)}} {{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}} {{朝鮮の歴史}} '''朝鮮の歴史'''(ちょうせんのれきし)では、[[朝鮮]]および[[朝鮮半島]]における[[歴史]]を述べる。 == 概説 == [[朝鮮半島]]における最初の[[人類]]の痕跡は[[平壌直轄市]][[力浦区域]]の洞窟で発見された「[[力浦人]]」を始め、朝鮮半島北部・中部に多数存在する[[石灰岩]]の洞窟で発見されている<ref name="早乙女2000pp3_4">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], pp. 3-4</ref>。「力浦人」は[[原人]]に近い特徴を持つ[[旧人]]とされており、同じく平壌市周辺の洞窟から動物の化石と共に[[ホモ・サピエンス|新人]]の化石が発見されている<ref name="早乙女2000pp3_4"/>。 朝鮮半島の[[旧石器時代]]で最も古い遺跡の1つは、[[京畿道]][[漣川郡]]の[[全谷里遺跡]]である<ref name="早乙女2000p7">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 7</ref>。この遺跡から発見された石器が、典型的な[[アシュール文化]]のハンドアックス(手斧)の特徴を持っていることが世界的に注目を集め、その年代は12万5千年前-3万5000年前まで幅広い仮説が提出されている<ref name="早乙女2000p7">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 7</ref><ref name="朝鮮史研究入門p14">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 14</ref>。 [[最終氷期]]には世界的に現在よりも海面水準が105-130メートルほど低下していたため[[東シナ海]]の大部分は陸地であったが<ref>松井裕之, 多田隆治, 大場忠道、「[https://doi.org/10.4116/jaqua.37.221 最終氷期の海水準変動に対する日本海の応答 塩分収支モデルによる陸橋成立の可能性の検証]」 『第四紀研究』 1998年 37巻 3号 p.221-233, {{doi|10.4116/jaqua.37.221}}</ref>、13,000年前頃に[[ヴィルム氷期]]が終了し<ref name="朝鮮史研究入門p14"/>、気候が温暖化するとともに海面は上昇した。今から8000年前頃には[[日本海]]に[[対馬海流]]が本格的に流入しはじめ、朝鮮半島の気候は現在に近いものとなった<ref name="早乙女2000p17">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 17</ref>。 この頃に朝鮮半島で初めて[[土器]]が登場する<ref name="早乙女2000p17"/>。最古の土器の1つは[[済州島]]の[[高山里遺跡]]で発見された平底鉢と土器片であり、出土層の上層から[[鬼界カルデラ|鬼界アカホヤ火山灰]](6300年前の鬼界カルデラの噴火火山灰)が発見されていることから、その年代はおおよそ6300年前以前と見られる<ref name="早乙女2000p18">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 18</ref>。朝鮮半島における[[新石器時代]]は未だ明確な姿が描かれておらず、旧石器時代から新石器時代への移行について詳細な説明は与えられていない<ref name="朝鮮史研究入門p19">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 19</ref>。『朝鮮史研究入門』においては土器および打製[[石鏃]]の出現をもって画期とし、[[青銅器時代]]の土器である[[無文土器]]の出現までの時間的範囲を便宜上新石器時代として設定している<ref name="朝鮮史研究入門p19"/>。新石器時代の土器は幾何学模様が線で描かれ、北[[ヨーロッパ]]から[[シベリア]]、[[北アメリカ]]にかけて分布する類型の土器と同系統と考えられる。ドイツ語でこの種の土器を「Kamm Keramik」とよばれると呼ぶことから、1930年代にその和訳である「[[櫛目文土器]]」と呼ばれるようになった<ref name="朝鮮史研究入門p19"/><ref name="早乙女2000pp20_21">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], pp. 20-21</ref>。ただし現在でも多様な名称が用いられ、また粘土紐や押印文による装飾が行われたものも存在する<ref name="朝鮮史研究入門p19"/>。 紀元前1000年頃から[[無文土器]]が出現し、これによって櫛目文土器時代と区別されている<ref name="早乙女2000p45">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 45</ref>。この時代は同時に[[青銅器]]の使用、[[磨製石器]]の登場、[[稲作]]の開始によって特徴づけられ、無文土器時代と呼ばれている<ref name="早乙女2000p45"/>。無文土器は紀元前300年頃を境にして大きく前期と後期に分けられている。無文土器時代には[[中国東北部]]([[満州]])の青銅器文化が朝鮮半島に流入し、大きな文化的痕跡を残した<ref name="早乙女2000p51">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 51</ref>。朝鮮半島の青銅器文化は[[銅剣]]の種類によって時期区分が行われており、その区分と無文土器による前期・後期の区分はほぼ対応する<ref name="早乙女2000p51"/>。前期のものは[[遼寧式銅剣]]と呼ばれ、中国の[[遼寧省]]を中心に分布する「遼寧青銅器文化を代表する遺物である」(早乙女<ref name="早乙女2000p51"/>)。後期のものは「[[韓国式銅剣]]」とも呼ばれ、遼寧式銅剣から派生した。遼寧式銅剣が朝鮮半島に伝わった上限年代は紀元前8世紀頃、下限は紀元前7/6世紀頃であり<ref name="早乙女2000p54">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 54</ref>、一部の刀剣類は[[西周]]時代(紀元前10-9世紀頃)に遡る<ref name="早乙女2000p57">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 57</ref>。無文土器時代前期末頃には朝鮮半島で青銅器の鋳造生産が始まったことが出土した鋳型によってわかっている<ref name="早乙女2000p57"/>。朝鮮半島では既に[[アワ]]や[[ヒエ]]の栽培が陸路で伝わり始まっていたが、[[コメ]]の生産はこの時代に海路で中国から伝わり始まったと見られる<ref name="早乙女2000p64">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 64</ref>。無文土器時代のもう一つの大きな特徴として、[[支石墓]]が多数建造されるようになることがある。これもまた青銅器文化とともに中国東北地方から流入したものであり、朝鮮半島では2000以上の遺跡が見つかっている。[[全羅南道]]が分布の中心であり、全体の約半数が集中している<ref name="早乙女2000p72">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 72</ref>。 朝鮮半島南部では日本列島と密接な人的交流があったものと見られ、[[勒島]]から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、[[甕棺]]墓や北部九州の[[弥生土器]]の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している<ref name="ReferenceA">小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 (18), 1-8, 1998</ref>。 朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な[[箕子朝鮮]]であり、その後[[衛氏朝鮮]]が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は[[紀元前195年|前195年]]頃に[[燕 (春秋)|燕]]人の[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]の王・[[準王]]を追い出して建国したという<ref>『[[三国志]]』</ref>。衛氏朝鮮は三代[[衛右渠]]の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は[[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]として400年間支配されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った<ref name="朝鮮史研究入門p45">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 45</ref>。 [[4世紀]]中頃に、[[満州]]の[[鴨緑江]]付近で興った[[高句麗]]が南下して楽浪郡北部を征服、[[百済]]も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には[[百済]]、南東部には[[新羅]]が割拠した。 高句麗は4世紀の[[好太王|広開土王]]の代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある([[高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題]])。 百済は漢城(漢山城、現:[[ソウル特別市|ソウル]][[松坡区]])を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、[[熊津]]に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。南端部には諸小国の雑居する[[伽耶]](加羅、[[任那]])があり、その勢力争いには[[倭国]]も影響を及ぼした<ref name=yoshida>{{Cite book|和書|author=吉田孝|authorlink=吉田孝|year=1997|month=6|title=日本の誕生|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430510-1}} pp.74-78.</ref>(旧説では「支配下」にあったとする<ref>『任那興亡史』31P-200P</ref>)。[[釜山市]]近郊の[[金海礼安里古墳]]群は[[4世紀]]から[[7世紀]]に築かれた[[伽耶人]]の庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方の[[弥生人]]や[[古墳人]]に近いという結果が得られた<ref name="ReferenceA"/>。 伽耶では特定の国([[金官伽耶]]・[[高霊伽耶]]など)が主導する形になったと言われているが、全域を統合する勢力は構築されなかった。後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。 朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、「[[陳勝]]などの蜂起、天下の叛秦、[[燕 (春秋)|燕]]・[[田斉|斉]]・[[趙 (戦国)|趙]]の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「[[辰韓]]は[[馬韓]]の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が[[秦]]を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『[[三国史記]]』等に記載された伝説的な4代目の王([[脱解王]])が倭国の北東<ref group="注釈">[[日本列島]]内に所在すると見る説もあり、[[丹波国]](→上垣外2003 p.70)、[[但馬国]]、[[肥後国]]玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾闥婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。</ref> の伝説的な国に系譜をもつとされる王であるなど、周辺諸地域との密接な関わりがあった。 [[7世紀]]に新羅は[[中国大陸]]の[[唐]]と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして[[統一新羅]]国家として朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。 唐を朝鮮半島から撤退させた時、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。 10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。 高麗は[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、[[14世紀]]に元が北へ逃げると親[[明]]を掲げる[[女真族]]ともいわれる[[李成桂]]が建国した[[李氏朝鮮]](朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、[[女真]]族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた[[建州女真]]の大酋[[李満住]]が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。 朝鮮は[[15世紀]]4代国王、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時、黄金期を迎える。世宗は[[訓民正音]]([[ハングル]]:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、[[女真]]との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。[[蔣英実]]などを重用し、天文観測機構の設置や、機器([[渾天儀]]、[[簡儀]])の製作、時間を表す[[仰釜日晷]]、[[自撃漏]]などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。 [[16世紀]]に[[豊臣秀吉]]の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と[[李舜臣]]の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。[[17世紀]]には[[女真]]族が建てた[[清]]の侵攻を受け、衆寡敵せず[[大清皇帝功徳碑]]を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。 [[1776年]]に22代国王の[[正祖]]が即位する。正祖は即位初期には 重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は[[老論]]という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、[[蕩平策]]を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、[[正祖]]の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、[[水原市|水原]][[華城 (世界遺産)|華城]](世界遺産)の設計や建築に関わった[[丁若鏞]]や[[朴斉家]]、[[洪大容]]、[[柳得恭]]などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、[[北学派]]や[[実学派]]を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、[[1800年]]、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。<ref>『朝鮮史』武田幸男編184頁</ref> [[19世紀]]半ばから欧米列強が来訪、[[開国#朝鮮|開国]]を要求、そして[[大日本帝国|日本]]、[[清]]、[[ロシア帝国|ロシア]]が朝鮮半島の権益をめぐって対立、[[日清戦争]]後に結ばれた[[下関条約]]締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、[[1897年]]に[[大韓帝国]](朝鮮から国号を変更)として独立するも、[[伊藤博文]]を[[安重根]]が暗殺し、[[1910年]]に全土が[[大日本帝国|日本]]に[[韓国併合|併合]]された。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦に伴い、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]によって朝鮮半島のほぼ中央を走る[[緯度|北緯]][[38度線]]を境に南北に[[分割統治]]され、その後に各々独立、南に[[大韓民国|韓国]]、これに反抗する済州島は[[済州島四・三事件]]で鎮圧がなされ、北には[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が建国された。[[1950年]]に北側から[[赤化統一]]を目指して[[朝鮮戦争]]が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、[[朝鮮統一問題|南北統一]]を如何に果たすかが両国間の課題となっている。 なお、李氏朝鮮末期から[[日本統治時代の朝鮮|日本統治期]]、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|米ソ占領期]]、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清([[中国]])、[[ロシア帝国|ロシア]](後に[[ソビエト連邦|ソ連]])、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。 == 先史時代・古朝鮮時代 == [[File:Korea-Ganghwado-Dolmen-02.jpg|250px|thumb|[[高敞、和順、江華の支石墓群]]]] === 先史時代 === [[考古学]]的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。 {{main|朝鮮の先史時代}} * [[旧石器時代]]{{see also|ko:한국의 구석기 시대}} ** [[公州石壮里遺跡]] * [[新石器時代]]([[櫛目文土器時代]]/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年 ** 早期 BC5000-4000 ** 前期 BC4000-3000 ** 中期 BC3000-2000 ** 晩期 BC2000-1000 *** BC1500年ごろ、[[中国]]より[[農耕]]伝わる。 * [[無文土器時代]](BC1000年頃 - BC100年) ** 前期 BC1000-700 ** 中期 BC700-300 *** BC700年ごろ、[[青銅器]]伝わる。 ** 後期 BC300-100(初期鉄器時代) *** BC300年ごろ、[[鉄器]]伝わる。 === 古朝鮮時代 === [[File:Ping Sien Si - 072 Ji Zi (16137921534).jpg|220px|thumbnail|left|箕子]] [[File:Han Dynasty.jpg|thumb|220px|紀元前数世紀ころの朝鮮半島]] 考古学的考証のない事項はここに記す。 ; ;[[檀君朝鮮]]([[檀君]]神話) :[[檀君]]は[[神話]]上の人物。『[[三国遺事]]』に、『[[魏書]]』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、[[中国]]の[[堯]]帝時代に[[白頭山]]に降臨した天神の子・桓雄と[[クマ|熊]]女の間に生まれた檀君が[[平壌直轄市|平壌城]]で建国したと記されている。[[大韓民国]](韓国)では<!--『[[桓檀古記]]』([[偽書]]とされる)に含まれる「檀君世紀」により--><!--檀君紀元の記事参照-->檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「[[檀君紀元]]」(檀紀)という[[紀元]]も存在する。近年[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)では、[[コンクリート]]製の[[檀君陵]]を復元しているが、その[[考古学]]的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。しかしながら、そもそも神という概念すら無かった事を鑑みれば、『魏書』に記述が存在していない事も頷ける。長い歴史があったかのように近代になって創作したものと思われる。 ;[[箕子朝鮮]](きしちょうせん、? - [[紀元前194年]]):[[中国]]の[[殷]]を出自<ref group="注釈">箕子朝鮮の建国者である箕子については、『[[史記]]』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。</ref> とする[[中国人]]の[[箕子]]が建国したとされる[[朝鮮]]の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の[[平壌直轄市|平壌]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志書、『[[魏略]]』[[逸文]]などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『[[魏略]]』および『[[後漢書]]<ref group="注釈">『[[後漢書]]』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]を滅ぼした際に[[箕子朝鮮]]の最後の王、[[準王]]は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。</ref>』には、[[前漢]]建国当時の朝鮮は[[箕子]]の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、[[箕準]]の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の[[馬韓]]の地を攻略し、そこで韓王となったという。 ;[[辰国]] :{{節スタブ}} == 古代の朝鮮半島 == === 衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代 === [[File:Map of The east barbarian 0.png|thumb|300px|[[紀元前1世紀]]頃の東正アジア諸国と[[漢四郡]]]] [[朝鮮半島]]では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42</ref>。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、[[燕 (戦国)|燕]]は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて[[官吏]]を駐在させ、中国商人の権益を保護していた<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22</ref>。[[秦]]代は[[遼東郡]]の保護下にあった<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23</ref>。秦末[[漢]]初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部([[清川江]]以南)から撤退させた。紀元前197年、[[漢朝]]は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の[[衛満]]が[[清川江]]を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、[[衛氏朝鮮]]が成立した<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27</ref>。 * [[衛氏朝鮮]](えいしちょうせん [[紀元前195年]]? - [[紀元前108年]]) : [[考古学]]的に証明できる[[朝鮮]]の最初の[[国家]]。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。[[中国]]の[[燕 (春秋)|燕]]を出自<ref group="注釈">衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『[[史記]]』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。</ref> とする[[中国人]]亡命者である[[衛満]]が[[朝鮮半島]]北部に建国した。[[衛氏朝鮮]]は三代[[衛右渠]]の時の[[紀元前108年]]に[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]に滅ぼされた。その故地には[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。 * [[原三国時代]](BC108 - 2世紀中葉) * [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]]) *[[遼東郡]]東部都尉([[平安北道]]) *[[楽浪郡]]([[平安南道]]・[[黄海北道]]) *[[帯方郡]]([[黄海南道]]。ただし、[[京畿道]]まで含むとする説もある。) *[[東沃沮|北沃沮]]([[咸鏡北道]]) *[[東沃沮]]([[咸鏡南道]]) *[[濊]](ワイ)([[江原特別自治道]]) *[[馬韓]](京畿道・[[忠清北道]]・[[忠清南道]]・[[全羅北道]]・[[全羅南道]]。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。) *[[辰韓]]([[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]) ** [[秦]]からの[[移民]]とする説もある。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[始皇帝|秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という{{refnest|group="注釈"|name="Qin"|『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[始皇帝|秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『[[北史]]』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある<ref>[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8C%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7094&variant=zh-cn#.E6.96.B0.E7.BE.85 『北史』新羅伝]</ref>。[[水谷千秋]]は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に[[中国]]からの[[移民]]と考えて間違いない、と述べている<ref>『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁</ref>。中国政府の[[シンクタンク]]である[[中国社会科学院]]は、公式研究書で新羅に対して、「中国の[[秦]]の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している<ref>[https://megalodon.jp/2008-1114-1116-55/www.chosunonline.com/article/20070604000018 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院 『朝鮮日報』2007年6月4日]</ref>。}}。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。 * [[弁韓]](全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。) * [[州胡]]([[済州特別自治道]]) === 三国時代 === [[File:Three Kingdoms of Korea Map ja.png|250px|thumb|三国時代の朝鮮半島]] [[File:King and Queen.jpg|thumb|250px|新羅の冠]] [[File:Goguryeo-Relations.jpg|thumb|320px|高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の[[満州族]]の母体)に分割されている。]] {{main|三国時代 (朝鮮半島)}} *433年 [[羅済同盟]] *612年 [[隋の高句麗遠征]] *642年 [[麗済同盟]] *644年 [[唐の高句麗出兵]] *660年 唐が百済を滅ぼす *668年 唐が高句麗を滅ぼす *670年 [[唐・新羅戦争]] [[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の三国が並立。[[唐]]は[[660年]]に百済を滅ぼし、[[668年]]には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に[[安東都護府]]を設置、百済の故地に[[熊津都督府]]を設置する。さらに、新羅を[[鶏林州都督府]]として半島全域を藩属国から[[羈縻州]]としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から[[冊封]]を許された。 * [[伽耶|伽耶諸国]]( - [[562年]]) : 伽耶諸国は、1世紀から6世紀中頃にかけて[[朝鮮半島]]の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国連盟を指す。伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、[[好太王碑|広開土王碑]]文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては[[任那]]という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている<ref>鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』&#x3C;増補改訂版&#x3E;、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)</ref>。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書<ref>『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝</ref> や碑文<ref>[[好太王碑|広開土王碑]]</ref> の記録から日本([[ヤマト王権]])の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は[[伽耶]]・[[任那]]を参照。<ref group="注釈">[[日本書紀]]によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。</ref> * [[耽羅]]([[済州島]])( - [[938年]]) : 耽羅は[[498年]]に[[百済]]に服属し、百済が滅びた後は[[新羅]]に服属した。[[938年]]に高麗に服属した。[[1105年]]に「耽羅郡」で、[[1108年]]「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。 * [[于山島|于山国]]([[鬱陵島]])( - [[512年]]) : 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。 * [[鶏林州都督府]] : [[唐|唐朝]]が[[新羅]]を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。 * [[安東都護府]] : [[唐|唐朝]]が設置し現在の[[朝鮮半島]]北部から[[満洲|中国東北部]]に相当する[[高句麗]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 * [[熊津都督府]] : [[唐|唐朝]]が設置し、現在の[[忠清南道]]に相当する[[百済]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 [[5世紀]]後半から[[6世紀]]半ばに、[[日本]]のものと同じ[[朝鮮半島南部の前方後円形墳|前方後円墳]]が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。[[全羅南道]]では、日本にしかない原石からつくられた[[勾玉]]をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している<ref>[[拳骨拓史]]『日中韓2000年の真実』扶桑社新書</ref>。 === 統一新羅時代、或いは南北国時代 === {{main|南北国時代}} 新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする[[1975年]]以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが<ref group="注釈">北朝鮮も渤海を朝鮮の歴史の一部とみなしているが、「南北国時代」なる用語は使わず「渤海及び後期新羅時期」と表記している。</ref>、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「[[統一新羅時代]]([[w:zh:统一新罗|中国語版記事]])」と称される。 * [[新羅]] ([[676年]]-[[935年]]) * [[渤海 (国)|渤海]]([[698年]]-[[926年]]) === 後三国時代 === {{main|後三国時代}} 新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。 * [[新羅]] * [[後高句麗]]([[901年]]-[[918年]]) * [[後百済]] ([[892年]]-[[936年]]) == 中世の朝鮮半島 == [[画像:Korea - Seoul - National Museum - Incense Burner 0252-06a.jpg|thumb|210px|高麗青磁(香炉)]] [[File:Goryeo Pagoda.jpg|thumb|200px|敬天寺十層石塔]] === 高麗 === {{main|高麗}} ** [[918年]] [[太祖 (高麗王)|王建]]が高麗を建国。 ** [[933年]] [[後唐]]の[[冊封]]を受ける。 ** [[935年]] [[新羅]]の[[敬順王]]、高麗に国を譲渡し、滅亡。 ** [[936年]] [[後百済]]を滅ぼし朝鮮半島統一。 ** [[976年]] [[田柴科制]]の創設。 ** [[1010年]] [[契丹]]の侵入を撃退。 ** [[1018年]] [[契丹]]の再侵入。[[姜邯賛]]の活躍により契丹軍を殲滅([[亀州大捷]])。 ** [[1033年]] [[千里長城]]の建設開始。 ** [[1126年]] [[李資謙の乱]]({{lang|ko|[[:ko:이자겸]]}})。[[金 (王朝)|金]]に服属。 ** [[1135年]] [[妙清の乱]]({{lang|ko|[[:ko:묘청]]}})。 ** [[1170年]] [[庚寅の乱]]。以後[[武臣政権|武人政権]]が続く。 ** [[1196年]] [[崔忠献]]によるクーデター。[[崔氏政権]]の始まり。 ** [[1232年]] [[モンゴル帝国]]の侵略始まる(→[[モンゴルの高麗侵攻]])。 ** [[1259年]] 高麗の[[太子]](のちの[[元宗 (高麗王)|元宗王]])が[[クビライ]]に降り、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の属国化。 ** [[1260年]] [[忠烈王]]は、カアンに即位したクビライの[[娘婿]]となる。これ以来、代々の[[高麗王]]の[[世子]](世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。4代の高麗王は[[元 (王朝)|元]]皇族の[[娘婿]]となる。 ** [[1270年]]-[[1273年]] 武人派の軍隊[[三別抄]]のモンゴルに対する反乱。日本に対し軍事的援助を要請。 ** [[1274年]]・[[1281年]] [[忠烈王]]の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻([[元寇]][[文永の役]]、[[弘安の役]])への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける<ref name="kourai">『高麗史』一百四 列伝 巻十七 [[金方慶]]伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」</ref><ref name="gen">『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 [[至元 (元世祖)|至元]]十九年七月壬戌([[1282年]]8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」</ref>。 ** [[1289年]] 元の[[征東行省]]が常設され、元朝の領土化。 ** [[1294年]] 元の直轄領となっていた[[済州島]]が返還される。 ** [[1350年]] この頃より[[倭寇]]に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。 ** [[1351年]] [[恭愍王]]即位(〜1374年)。 ** [[1354年]] 恭愍王による[[反元運動]]が始まる。 ** [[1356年]] 元軍が高麗から撤退([[双城総管府]]を回復)。 ** [[1365年]] [[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]による改革政治(〜71)。 ** [[1374年]] 恭愍王が暗殺される。[[禑王|{{lang|ko|禑王}}]]が即位(〜88)。 ** [[1388年]] 親明派の武将[[李成桂]]がクーデターを起こし実権者になる([[威化島回軍]])。 ** [[1391年]] [[科田法]]の制定。 ** [[1392年]] [[鄭夢周]]が暗殺される。 *[[征東等処行中書省]](征東行省) *: [[元 (王朝)|元]]が[[高麗]]を服属させた後に設置、当初は政治と軍事を統括する臨時の機関で、[[行中書省]]の一つ。[[元寇|日本攻略]]の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。後に常設され、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関となった。 * [[東寧府]] *: [[1270年]]に[[元 (王朝)|元]]が朝鮮半島北西部を支配するため設置した統治機構。[[慈悲嶺]]以北を管轄し、高麗支配の拠点とされた。[[1290年]]に高麗に返還。 * [[双城総管府]] *: [[1258年]]に元が[[咸鏡南道]]和州(現在の[[金野郡]]近く)に設置した統治機構。[[1356年]]に奪還。 == 近世の朝鮮半島 == [[ファイル:Seoul Gyeongbokgung Throne.jpg|thumb|250px|景福宮の玉座と[[日月五峰図]]]] [[File:Sejong tomb 1.jpg|thumb|right|250px|[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[朝鮮王陵|王陵]]]] [[ファイル:Yeongeunmun Gate.JPG|thumb|right|250px|[[大清帝国]]の使者を迎えるための[[迎恩門]]]] [[ファイル:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|right|250px|[[アメリカ軍]]による朝鮮征伐[[辛未洋擾]]により破壊された朝鮮の要塞]] [[ファイル:Imo Incident Flight of Japanese Legation from Korea by Utagawa Kunimatsu 1882.png|thumb|right|250px|[[壬午事変]]における[[軍事]][[クーデター]]により王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)]] === 李氏朝鮮 === {{main|李氏朝鮮}} **[[1392年]] [[李成桂]]([[女真族]]ともいわれる)が高麗の[[恭譲王]]から王位を[[簒奪]]し、高麗王に即位。[[明]]より[[権知高麗国事]]として認められる。 ** [[1393年]] 李成桂が[[権知朝鮮国事]]に冊され、国号が朝鮮となる。明の皇帝から、新たな国号を「[[朝鮮]]」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。 ** [[1398年]] [[第一次王子の乱]] ** [[1400年]] [[第二次王子の乱]] ** [[1404年]] [[室町幕府]]と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 ** [[1418年]] [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]が譲位して、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が即位(〜1450)。 ** [[1419年]] 倭寇征伐を理由として[[対馬]]に遠征する([[応永の外寇]])。 ** [[1420年]] [[集賢殿]]設置。 ** [[1432年]] [[四郡]][[六鎮]]設置。 ** [[1443年]] [[訓民正音]]の制定([[1446年]]公布)。 ** [[1453年]] [[癸酉靖難]]。首陽大君(のちの第7代国王・[[世祖 (朝鮮王)|世祖]])による政権奪取。 ** [[1456年]] [[丙子冤獄]](死六臣が処刑される)。 ** [[1466年]] [[職田法]]の制定。 ** [[1467年]] [[李施愛の乱]] ** [[1468年]] 世祖が崩御し[[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]即位([[1469年]]に崩御)。[[南怡の謀叛事件]]が起こる。 ** [[1474年]] [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の治世に『[[経国大典]]』頒布([[1485年]]に施行)。 ** [[1498年]] [[士林派]]に対する弾圧が始まる([[戊午士禍]])。 ** [[1504年]] [[甲子士禍]]が起こる。 ** [[1506年]] [[燕山君]]がクーデターにより失脚し、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が即位([[中宗反正]])。 ** [[1510年]] [[在朝日本人]]の[[貿易]]活動等を統制したため、3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる([[三浦の乱]])。 ** [[1519年]] [[己卯士禍]]が起こる([[趙光祖]]の改革政治が挫折)。 ** [[1545年]] [[仁宗 (朝鮮王)|仁宗]]崩御(在位[[1544年]]-1545年)。[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]即位。[[乙巳士禍]]が起こる。 ** [[1555年]] 己卯倭変(全羅道)。謀[[備辺司]]設置。 ** [[1559年]]-[[1562年]] [[林巨正の乱]]({{lang|ko|[[:ko:임꺽정]]}})。 ** 1565年 文定王后死去。尹元衡、鄭蘭貞が自決。 ** [[1567年]] [[宣祖]]即位。[[勲旧派]]の終焉。以後、士林派同士の対立が続く。 ** [[1575年]] 東人・西人の党争の始まり([[乙亥党論]])。[[陶山書院]]建立。 ** [[1589年]] [[鄭汝立の乱]]({{lang|ko|[[:ko:정여립]]}})。 ** [[1592年]]-[[1598年]] [[文禄・慶長の役]]。 ** [[1593年]]-[[グレゴリオ・デ・セスペデス|イエズス会宣教師]]来朝。 ** [[1607年]] 朝鮮より回答兼刷還使が来日(→[[朝鮮通信使]]を参照のこと)。 ** [[1608年]] 京畿道で[[大同法]]を実施。以後、約100年をかけて全国に拡大。 ** [[1609年]] 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で[[己酉約条]](慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される。 ** [[1613年]] [[庶孽党#七庶獄事|七庶の獄]]。 ** [[1619年]] [[サルフの戦い]]。 ** [[1623年]] [[仁祖反正]] ** [[1624年]] [[李适の乱]]([[:ko:이괄의 난]])。 ** [[1627年]] [[丁卯胡乱]]。[[ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー|オランダ水夫]]により紅夷砲製造伝わる。 ** [[1636年]] [[清]]の[[ホンタイジ]]が朝鮮に親征([[丙子胡乱]])。朝鮮国王[[仁祖]]、[[南漢山城]]に篭城。 ** [[1637年]] 仁祖降伏([[三田渡の降伏]])。明に替わり、清の皇帝を認める([[大清皇帝功徳碑]])。 ** [[1654年]]、[[1658年]] [[羅禅征伐]]([[:ko:나선정벌]])。 ** [[1660年]] [[礼訟#第1次礼訟(己亥礼訟)|己亥礼訟]]。 ** [[1668年]] [[ヘンドリック・ハメル]]の『朝鮮幽囚記』により西洋世界に存在が知られる。 ** [[1674年]] [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]即位(在〜1720年)[[礼訟#第2次礼訟(甲寅礼訟)|甲寅礼訟]]により、南人が政権を握る。 ** [[1680年]] [[庚申換局]]。 ** [[1689年]] [[己巳換局]]。 ** [[1694年]] [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の治世に[[甲戌換局]]起こる。 ** [[1701年]] {{仮リンク|巫蠱の獄事|ko|무고의 옥|label=辛巳獄事}}([[禧嬪張氏|張禧嬪]]が賜死)。 ** [[1712年]] 白頭山に[[定界碑]]を建立。 ** [[1716年]] [[丙申処分]]。 ** [[1721年]]-[[1722年]] [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]の治世に、壬寅の獄起こる([[辛壬士禍]]、[[:ko:신임옥사]])。 ** [[1724年]] [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]即位(在〜1776)。 ** [[1728年]] [[李麟佐の乱]]({{lang|ko|[[:ko:이인좌의 난]]}})。 ** [[1750年]] [[均役法]]を実施。 ** [[1762年]] [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]の治世に老論に対立していた[[荘献世子]]が政界の陰謀(デマ)により、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。 ** [[1776年]] [[正祖]]即位(〜1800)。[[奎章閣]]設置。 ** [[1784年]] [[李承薫]]が[[カトリック教会|天主教]]の書籍を持ち込む。 ** [[1791年]] [[辛亥邪獄]]。 ** [[1796年]] [[正祖]]による[[水原市|水原]][[華城 (世界遺産)|華城]](世界遺産)建設。朝鮮後半の全盛期。 ** [[1801年]] [[辛酉邪獄]](カトリック弾圧)。 ** [[1804年]] [[純祖]]の治世、[[安東金氏]]による権勢政治( - [[1863年]])。士林派の終焉。 ** [[1811年]] [[洪景来の乱]](地方差別に反発した一揆)。 ** [[1816年]] [[イギリス]]軍艦が立ち寄り、翌年から乗務員の[[バジル・ホール]]らが朝鮮航海記を相次いで出版。 ** [[1862年]] [[壬戌民乱]] ** [[1863年]] [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]崩御。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]即位。[[興宣大院君|大院君]]政権の成立(-[[1873年]])。 ** [[1866年]] 1月にロシア船現れ通商求める。3月にフランス人司教などキリスト教徒大量虐殺([[丙寅教獄]])。8月にアメリカとの間に[[ジェネラル・シャーマン号事件]]。10月に[[フランス第二帝政|フランス]]軍により江華島の一部占拠([[丙寅洋擾]])。 ** [[1868年]] [[オッペルト事件]](ドイツ商人による大院君恐喝未遂事件)。 ** [[1871年]] [[辛未洋擾]]。G.シャーマン号事件の賠償と門戸開放を求めて来朝した軍艦5隻のアメリカ大遠征軍と交戦し、江華島が占領される。 ** [[1872年]] 朝鮮大飢饉<ref>[{{NDLDC|1920323/282}} 朝鮮大飢饉]新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940</ref>。 ** [[1873年]] 高宗が成人し親政を宣言、大院君を退ける。 ** [[1875年]] [[江華島事件]]。日本の軍艦[[雲陽]]に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬合戦となった事件。 ** [[1876年]] 明治新政府と[[日朝修好条規]]を結ぶ。 ** [[1882年]] [[米朝修好通商条約]]。大院君扇動による壬午軍乱([[壬午事変]])が失敗し、清政府と[[中朝商民水陸貿易章程]]を締結。 ** [[1883年]]゜米朝の友好関係構築のためアメリカへ初の朝鮮政府訪問団を送り、朝鮮には初のアメリカ公使[[ルーシャス・ハーウッド・フット|フット]]が駐在する。 ** [[1884年]] [[甲申政変]](甲申事変)、[[開化派]]のクーデターは失敗に終わり、[[事大派]]の勝利となる。 ** [[1885年]] [[巨文島|巨文島事件]]。[[露朝密約事件]](第一次)。 ** [[1886年]] [[露朝密約事件]](第二次)。 ** [[1888年]] [[露朝陸路通商条約]]。 ** [[1894年]] [[甲午農民戦争]](東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。[[日清戦争]]で陸上戦闘の主戦場となる。[[甲午改革]](〜[[1896年]])。 ** [[1895年]] [[下関条約]]成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が暗殺される([[乙未事変]])。 ** [[1896年]] [[露館播遷]]。高宗が自主的にロシア大使館に軟禁され施政を行う(〜[[1897年]][[2月20日]])。 == 近代 == [[ファイル:Yi Un & Yi Bangja 1923.jpg|thumb|250px|[[李王家]]に嫁いだ[[梨本宮]][[李方子|方子女王]]]] [[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|250px|[[中国軍]]の支援を受けた[[抗日パルチザン]]と[[赤軍]]の攻撃により焼け落ちた[[ニコラエフスク]][[在外公館|日本領事館]]([[尼港事件]]。1920年)]] [[ファイル:Sohn Kee-chung 1936b.jpg|thumb|250px|[[1936年ベルリンオリンピック|1936年ベルリン五輪]]に日本代表として出場した[[孫基禎]]]] [[ファイル:COMFORT Ad.gif|thumb|250px|[[慰安婦]]募集の新聞広告。]] === 大韓帝国 === {{main|大韓帝国}} ** [[1897年]] [[日清戦争]]の[[清]]の敗北を受けて締結された[[下関条約]]により、朝鮮は清の[[冊封体制]]から離脱し、朝鮮国から[[大韓帝国]]と国号を改める。この時[[冊封国]]から独立国となるが、韓国は歴史上中国の冊封国であったことを認めていない。 ** [[1904年]][[8月23日]] [[第一次日韓協約]]を結ぶ。 ** [[1905年]][[7月29日]] [[桂・タフト協定]]。韓国には日本が、[[フィリピン]]には[[アメリカ合衆国]]が影響力を持つと、相互に認め合う。 ** 1905年[[11月17日]] [[第二次日韓協約]]を結ぶ。外交権を失い、日本の[[保護国]]となる。 ** [[1906年]] [[韓国統監府]]設置。 ** [[1907年]] [[国債報償運動]]。[[ハーグ密使事件]]。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が退位し[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が即位。[[第三次日韓協約]]。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。 ** [[1909年]] 韓国統監府初代統監[[伊藤博文]]が[[ハルビン]]駅にて[[安重根]]により[[伊藤博文暗殺事件|暗殺]]される。朝鮮と清の国境が定まる([[間島#間島協約|間島協約]])。 === 日本統治時代 === {{main|日本統治時代の朝鮮}} **[[1910年]] [[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]を結び、[[日本]]に[[併合]]される([[韓国併合]])。韓国から朝鮮に国号を戻し、京城に[[朝鮮総督府]]が設置される<ref>国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス</ref>。 ** 1919年 [[三・一独立運動]]。[[李承晩]]・[[呂運亨]]・[[金九]]らが[[中華民国]]の[[上海市]]で[[大韓民国臨時政府]]を設立。 ** 1920年 朝鮮を日本の食料供給地とする[[産米増殖計画]]が始まる。 ** 1920年 [[シベリア]]東部の[[ニコラエフスク]]で[[共産革命]]が激化し、[[赤軍パルチザン]]が日露住民を虐殺する[[尼港事件]]に[[抗日パルチザン|朝鮮パルチザン]]が協力する。 ** 1920年 [[梨本宮]][[李方子|方子女王]]が[[李王家]]に嫁ぐ。 ** 1920年 [[満州]]東部の[[間島]]に朝鮮人亡命者が集まり、中国人の馬賊と結んで[[間島事件]]、[[青山里戦闘]]が起こすが、翌年[[自由市惨変]]で壊滅。 ** 1929年 [[光州学生事件]]。[[朝鮮博覧会]]。 ** 1931年 [[万宝山事件]]で朝鮮人の[[反中感情]]が高まり、朝鮮華僑の虐殺事件([[朝鮮排華事件]])が勃発する。 ** 1933年 [[朝鮮語学会]]が[[ハングル綴字法統一案]]を発表する。 ** 1934年 [[朝鮮農地令]]施行。 ** 1936年 [[日章旗抹消事件]]。 ** 1937年 [[白白教事件]]。 ** 1937年[[10月2日]] [[皇国臣民ノ誓詞]]が発布される。 ** 1938年 [[国家総動員法]]施行。 ** 1940年 2月から8月にかけて[[創氏改名]]が行われる。 ** 1941年[[12月8日]] 日本が[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]に宣戦布告。([[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])勃発) ** 1942年 [[朝鮮語学会事件]]。 ** 1944年 [[朝鮮徴兵令]]施行。 ** 1945年[[8月8日]] [[ソ連対日宣戦布告]]にともない、[[ソビエト連邦軍]]が[[ソ連対日参戦#北朝鮮の状況|朝鮮半島東北部に侵攻]]。 ** 1945年[[8月14日]] [[北緯38度線]]で朝鮮を分割し、[[日本軍]]を分割武装解除することを内容とする「一般命令第一号」を、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]がソビエト連邦に通告。ソビエト連邦も命令内容に同意した。 * [[大韓民国臨時政府]] ** [[1919年]] [[三・一独立運動]]後に[[上海市|上海]]で設立される。 ** [[1940年]] [[重慶市|重慶]]に移転し、[[韓国光復軍]]を創設。 == 現代 == {{Multiple image |direction = vertical |width = 200 |image1 = Syngman Rhee.jpg |caption1 = [[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]将軍と[[李承晩]] |image2 = Anti-Trusteeship Campaign.jpg |caption2 = 連合軍による軍政に反抗して蜂起した朝鮮人(1945年) |image3 = DMZ_seen_from_the_north,_2005.jpg |caption3 = 軍事境界線(板門店) |image4 = Syngman Rhee, 1951-May-1.jpg |caption4 = 初代大統領[[李承晩]] |image5 = Dokdo 080628.jpg |caption5 = 韓国に占拠された[[竹島 (島根県)|竹島]] |image6 = Seizure of the Japanese ships by Korean Coast Guard.JPG |caption6 = [[李承晩ライン]]に進入した日本人の抑留 |image7 = Registration of comfort women.jpg |caption7 = [[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]に提供される[[慰安婦]]の登録実施(1961年) |image8 = 080606 ROK Protest Against US Beef Agreement 04.jpg |caption8 = [[アメリカ合衆国]]との韓米貿易協定に抗議する数十万人の市民([[2008年韓国蝋燭デモ]]) }} === 連合軍軍政期 === [[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。 *[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]] ** [[1945年]][[8月15日]] [[大日本帝国]]が[[ポツダム宣言]]の受諾([[第二次世界大戦]]の[[日本の降伏|日本敗北]])を表明([[玉音放送]])し、朝鮮半島での日本の統治終了が決定。 ** [[1945年]][[9月2日]] 大日本帝国が[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印し、第二次世界大戦が終結。朝鮮が正式に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の管轄下に入る(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。 ** [[1945年]][[9月6日]] [[京城府]]で[[呂運亨]]らによって結成された「[[朝鮮建国準備委員会]]」、「[[朝鮮人民共和国]]」樹立を宣言。 ** [[1945年]][[9月8日]] [[ジョン・リード・ホッジ|ホッジ]]米陸軍中将の米第24軍団第一陣、[[仁川広域市|仁川]]に上陸。9日、[[朝鮮総督府]]が降伏文書に調印。 ** [[1945年]][[9月11日]] アメリカ合衆国が南朝鮮で[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]を宣布。 ** [[1945年]]10月 アメリカ合衆国が「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。 ** [[1945年]]10月 北朝鮮で北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。 ** [[1945年]]12月 [[モスクワ三国外相会議]]。朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。30日、韓国民主党党首の宋鎮禹が金九系の民族主義者により暗殺される。 ** [[1946年]][[2月3日]] [[満洲]]で[[朝鮮義勇軍]]も加わった[[通化事件]]が発生。 ** [[1946年]][[2月3日]] 北朝鮮で北朝鮮臨時人民委員会樹立。 ** [[1946年]][[10月1日]] 南朝鮮で[[大邱10月事件]]勃発。 ** [[1947年]][[2月20日]] 北朝鮮で[[北朝鮮人民委員会]]樹立。 ** [[1948年]][[4月3日]] 南朝鮮で[[済州島四・三事件]]勃発。 ** [[1948年]][[10月19日]] 南朝鮮で[[麗水・順天事件]]勃発。 ** [[1948年]] 米ソ両国が、南北にそれぞれ自国の[[傀儡政権]]を樹立する([[8月15日]]に南側で[[李承晩]]初代大統領率いる「大韓民国」(以下、韓国)、[[9月9日]]に北側で[[金日成]]首相率いる「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。<!-- [[ノート:朝鮮民主主義人民共和国/呼称問題についての暫定合意|呼称問題についての暫定合意]]を参照のこと。-->) === 朝鮮戦争 === * [[朝鮮戦争]](韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる。) ** [[1950年]][[6月25日]] 北朝鮮の[[朝鮮人民軍]]が[[北緯38度線]]を南侵することで勃発。 ** [[1950年]]6月〜 [[保導連盟事件]]。米軍を中心に結成された[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]が参戦。 ** [[1950年]]7月 [[老斤里事件]]。 ** 1950年9月15日 [[仁川上陸作戦]] ** [[1950年]]10月 [[中華人民共和国|中国]][[中国共産党|共産党]]の[[中国人民志願軍|義勇軍]]が戦闘に参加。 ** [[1951年]] [[国民防衛軍事件]]。 ** [[1951年]]2月 [[居昌良民虐殺事件]]。 ** [[1951年]]7月〜 停戦会談を実施。 ** [[1953年]][[7月27日]] [[板門店]]で[[朝鮮戦争休戦協定|休戦協定]]が調印、[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]](DMZ)確定。 === 大韓民国(韓国) === {{Main|韓国の歴史年表}} * [[第一共和国 (大韓民国)|第一共和国]] ** [[李承晩]]政権…初代 - 第三代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]([[1948年]] - [[1960年]]) *** [[1948年]][[4月3日]]から[[済州島四・三事件]]。 *** [[1948年]][[8月15日]] '''[[大韓民国]]'''政府樹立を宣言<ref>[http://japan.hani.co.kr/arti/politics/22447.html 国定教科書の「1948年建国」は抗日・臨時政府の否定]([[ハンギョレ]]2015年11月9日付記事)]</ref>。李承晩、初代大統領就任。 *** [[1948年]][[10月19日]] [[麗水・順天事件]]。 *** [[1949年]][[1月7日]] [[対馬]]領有宣言。日本に返還を要求<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML 今日の歴史(1月7日)] [[聯合ニュース]] 2009/01/07</ref>。 *** [[1949年]][[12月24日]] [[聞慶虐殺事件]]。 *** [[1950年]][[6月25日]] 北朝鮮の[[朝鮮人民軍]]が[[北緯38度線]]を南侵、韓国への先制攻撃を発端に[[朝鮮戦争]]勃発。 *** [[1950年]] 夏から[[保導連盟事件]]。 *** [[1952年]] [[李承晩ライン]]の宣言(参考:[[対馬]]、[[竹島問題]])。 *** [[1952年]][[2月4日]] [[第一大邦丸事件]]。 *** [[1953年]][[7月27日]] [[板門店]]で[[朝鮮戦争休戦協定]]が調印、北朝鮮との[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]](DMZ)確定。 *** [[1953年]] [[竹島 (島根県)|竹島]]占拠。 *** [[1959年]] [[新潟日赤センター爆破未遂事件]]。 *** [[1960年]] [[四月革命 (韓国)|四月革命]]で政権崩壊。 * [[第二共和国 (大韓民国)|第二共和国]] ** [[尹潽善]]政権…第四代大統領(1960年 - [[1963年]]) *** この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の[[張勉]]にあった。 * [[国家再建最高会議]]([[軍政]])、[[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]、[[第四共和国 (大韓民国)|第四共和国]] ** [[朴正煕]]政権…第五代 - 九代大統領([[1963年]] - [[1979年]]) *** [[1961年]] [[5・16軍事クーデター|クーデター]]により政権を奪取。 *** 1963年 [[大統領]]の座に就く(第三共和国)。 *** [[1965年]] [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]を締結する。 *** 1965年 [[ベトナム戦争]]に参戦。 *** 1965年 [[人民革命党事件]](第一次)が発生。 *** [[1968年]][[1月21日]] [[青瓦台襲撃未遂事件]]。 *** [[1968年]][[2月12日]] [[フォンニィ・フォンニャットの虐殺]]。 *** [[1971年]][[8月23日]] [[実尾島事件]]。 ***[[1971年]][[12月6日]] 国家非常事態を宣布<ref name=rengo20081206>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2008/12/06/0200000000AJP20081118003200882.HTML 今日の歴史(12月6日)] 聨合ニュース 2008/12/06</ref>。 *** [[1972年]][[7月4日]] 北朝鮮と同時に[[南北共同声明]](七・四共同声明)を発表。 *** 1972年[[10月17日]] [[維新体制]]を構築(第四共和国)。 *** [[1974年]][[8月15日]] [[文世光事件]]。 *** [[1974年]] [[民青学連事件]]が発生。 *** [[1979年]] 朴正煕大統領が側近に暗殺される([[朴正煕暗殺事件]])。 ** [[崔圭夏]]政権…第十代大統領([[1979年]] - [[1980年]]) *** [[1979年]][[12月12日]] [[粛軍クーデター]]。 * [[第五共和国 (大韓民国)|第五共和国]] ** [[全斗煥]]政権…第十一代・十二代大統領([[1980年]] - [[1988年]]) *** [[1980年]][[5月18日]] [[光州事件]]。 *** [[1987年]] [[六月抗争]]。 *** 1987年[[6月29日]] [[民主化宣言|六・二九民主化宣言]]。 * [[第六共和国 (大韓民国)|第六共和国]] ** [[盧泰愚]]政権…第十三代大統領([[1988年]] - [[1993年]]) *** [[1988年]]9月‐10月 [[1988年ソウルオリンピック|ソウル五輪]]開催。 *** [[1991年]][[9月17日]] [[国際連合]]加盟。北朝鮮と同時加盟。 ** [[金泳三]]政権(文民政府)…第十四代大統領(1993年 - [[1998年]]) *** [[1994年]] [[北朝鮮核問題|核危機]]が発生。米国の対北戦争を水際で回避。 *** [[1995年]] 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追。 *** [[1997年]] [[アジア通貨危機]]。 ** [[金大中]]政権(国民の政府)…第十五代大統領(1998年 - [[2003年]]) *** [[太陽政策]](北朝鮮宥和政策)を開始。[[金正日]]との初の[[南北首脳会談]]を実施(2000年6月)。 *** 日本大衆文化開放を開始。 *** [[2002年]] [[2002 FIFAワールドカップ|日韓共催サッカーワールドカップ]]。 ** [[盧武鉉]]政権(参与政府)…第十六代大統領(2003年 - [[2008年]]) *** [[2004年]][[3月12日]] 国会が[[盧武鉉韓国大統領弾劾訴追|盧武鉉大統領に対する弾劾訴追]]を可決。[[高建]]が大統領職務を代行。 *** [[2004年]][[4月15日]] 第17代国会議員総選挙で[[ウリ党]]圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す。 *** 2004年[[5月14日]] 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰。 *** [[2007年]][[10月2日]]‐[[10月4日]] 第二次南北首脳会談 ** [[李明博]]政権…第十七代大統領(2008年 - [[2013年]]) *** [[2009年]][[11月22日]] 四江([[漢江]]、[[洛東江]]、[[錦江 (韓国)|錦江]]、[[栄山江]])整備事業を始めた。 *** [[2010年]][[11月11日]] 首都・[[ソウル特別市|ソウル]]で[[G20]]首脳会議が開催された。 ** [[朴槿恵]]政権…第十八代大統領(2013年 - [[2017年]]) *** [[2013年]] [[MIKTA]]加盟。 *** [[2016年]][[12月9日]] 国会で[[朴槿恵韓国大統領弾劾訴追|朴槿恵大統領に対する弾劾訴追議案]]が可決、[[黄教安]]が大統領職務を代行。 ** [[文在寅]]政権…第十九代大統領(2017年 - [[2022年]]) *** [[2018年]]2月 [[2018年平昌オリンピック|平昌五輪]]開催。 *** 2018年[[4月27日]] 北朝鮮の[[金正恩]][[朝鮮民主主義人民共和国国務委員会#国務委員会委員長|国務委員会委員長]]と[[2018年南北首脳会談|第三次南北首脳会談]]を実施<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-04-19|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W01TRL4VUHBI04B.html|title= 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>。 ** [[尹錫悦]]政権…第二十代大統領(2022年 - 現在) *** [[2023年]][[8月19日]] 日米韓首脳会談を実施。<ref>{{Cite web|和書|title=日米韓首脳会談 日本時間の19日未明から【各国のねらい解説】 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230818/k10014165971000.html |website=NHKニュース |date=2023-08-18 |access-date=2023-09-08 |last=日本放送協会}}</ref> === 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) === {{Main|朝鮮民主主義人民共和国の歴史}} [[ファイル:Abductee families of North Korean abductions.jpg|thumb|[[瀋陽総領事館事件|日本総領事館脱北者駆け込み事件]]で日本総領事館に駆け込んだ少女と[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]で拉致された[[横田めぐみ]]さんの家族と会見する当時の[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領]](2006年4月28日、[[ホワイトハウス]])]] [[ファイル:Mansudae Grand Monument 08.JPG|thumb|[[平壌直轄市|平壌]]で[[万寿台創作社]]が制作した[[金日成]]と[[金正日]]の父子の立像]] [[ファイル:2018 inter-Korean summit 01 (cropped).jpg|thumb|[[2018年南北首脳会談|第3回南北首脳会談]]に臨む韓国の[[文在寅]]大統領と北朝鮮の[[金正恩]]朝鮮労働党委員長(2018年4月27日)]] * [[金日成]]体制([[1945年]] - [[1994年]]) ** [[1948年]][[9月9日]] [[金日成]]首相率いる'''[[朝鮮民主主義人民共和国]]'''建国宣言。 ** [[1949年]] 南北朝鮮の主要政党団体の集結により、「[[祖国統一民主主義戦線]]」が結成される。 ** 1949年6月 [[朝鮮労働党]]成立。金日成が中央委員長に就任。 ** [[1950年]][[6月25日]] [[朝鮮人民軍]](北朝鮮軍)が[[北緯38度線]]を南侵、韓国への先制攻撃を発端に[[朝鮮戦争]]勃発。 ** [[1953年]][[7月27日]] [[板門店]]で[[朝鮮戦争休戦協定]]が調印、韓国との[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]](DMZ)確定。 ** [[朝鮮戦争]]休戦後、金日成が[[朴憲永]]などを粛清。 ** [[1956年]]4月 [[朝鮮労働党]]第3回大会開催。 ** 1956年[[8月29日]] [[8月宗派事件]]、[[ソ連派]]の[[朴昌玉]]、[[延安派]]の[[崔昌益]]などが金日成に粛清される。 ** [[1958年]]8月 [[社会主義]]制度が確立される。 ** [[1961年]]9月 朝鮮労働党第4回大会開催。 ** [[1965年]] [[CONEFO]]加盟。 ** [[1968年]][[1月23日]] [[プエブロ号事件]]。 ** [[1970年]]11月 朝鮮労働党第5回大会開催。 ** [[1972年]][[7月4日]] 大韓民国と同時に[[南北共同声明]](七・四共同声明)を発表。 ** 1972年 金日成の反対勢力への粛清が完了。[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]が制定され、新設ポストの[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]に金日成が就任。 ** [[1973年]] 金日成の後継者問題が浮上。 ** [[1977年]] 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、「[[マルクス・レーニン主義]]」から「[[主体思想]]」に変更される。 ** [[1980年]]10月 朝鮮労働党第6回大会開催。 ** [[1987年]]1月 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手。([[1993年]]に未完遂で終わる。) ** [[1989年]]7月 首都・平壌で[[第13回世界青年学生祭典]]が開催される。 ** [[1991年]][[9月17日]] [[国際連合]]加盟(大韓民国と同時加盟) ** [[1994年]][[7月8日]] {{仮リンク|金日成の死|en|Death and state funeral of Kim Il-sung|label=金日成死去}}、実子・長男の[[金正日]]への世襲による権力継承。 * [[金正日]]体制([[1994年]] - [[2011年]]) ** [[2000年]] 韓国の[[金大中]]大統領との初めての[[南北首脳会談]]を実施。「[[6.15南北共同宣言]]」を発表。 ** [[2002年]] [[日朝首脳会談]]、[[日朝平壌宣言]] ** [[2004年]][[12月9日]] 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。 ** [[2005年]][[2月11日]] [[核兵器]]製造・保有を公式に認める。 ** [[2006年]][[7月15日]] [[国際連合安全保障理事会]]が決議第1695号を採択。 ** [[2006年]][[10月9日]] 核実験実施を発表。 ** [[2006年]][[10月15日]] [[国際連合安全保障理事会]]が決議第1718号を採択。 ** [[2007年]][[10月2日]]‐[[10月4日]] 韓国の[[盧武鉉]]大統領と第二次南北首脳会談を実施。 ** [[2011年]][[12月17日]] [[金正日の死|金正日死去]]、実子・三男の[[金正恩]]への世襲による権力継承。 * [[金正恩]]体制([[2011年]] - 現在) ** [[2016年]]5月 祖父で初代最高指導者[[金日成]]体制下の[[1980年]]以来、36年ぶりの[[朝鮮労働党第7次大会|朝鮮労働党大会]](第7回)を開催。 ** [[2018年]][[4月27日]] 金正恩が北朝鮮の最高指導者として史上初めて[[板門店]]の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]を超えて[[大韓民国|韓国]]を訪問し<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-04-27|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W01TRL4VUHBI04B.html|title= 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>、[[文在寅]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]と[[2018年南北首脳会談|第三次南北首脳会談]]を実施し、「[[板門店宣言]]」を発表<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-04-27|url= https://www.asahi.com/articles/ASL4W5VB7L4WUHBI05L.html|title= 「完全非核化」目標、年内に終戦 南北首脳が板門店宣言 |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-05-01}}</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3172871 「朝鮮半島の非核化に尽力」、南北首脳が共同声明] AFP BB NEWS Japan 2018年4月27日</ref><ref>{{Cite news |date=2018-04-27 |url= https://www.huffingtonpost.jp/entry/panmunjeonm-koreasummit_jp_5c5b7bdbe4b0faa1cb67fee4 |title=「板門店宣言」の全文を、取り急ぎ日本語に訳してみました|publisher= [[ハフポスト]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>。 ** [[2018年]][[6月12日]] 金正恩が[[ドナルド・トランプ]]アメリカ合衆国大統領と、[[シンガポール]]にて[[2018年米朝首脳会談|米朝首脳会談]]を実施し、共同声明を発表する。アメリカの現職大統領と北朝鮮の最高指導者が直接対面し会談を行うのは史上初。 ** [[2023年]]9月 [[ロシア]]との[[首脳会談]]を実施<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアと北朝鮮 2回目の首脳会談へ “ロシア極東開催で調整” {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230907/k10014186161000.html |website=NHKニュース |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-08 |last=日本放送協会}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=早乙女雅博|authorlink=早乙女雅博|title=朝鮮半島の考古学 |series=世界の考古学10 |date=2000-7 |publisher=[[同成社]]|isbn=978-4-88621-196-5 |ref=早乙女 2000 }} * {{Cite book|和書|author=朝鮮史研究会編|title=朝鮮史研究入門 |date=2011-6 |publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4-634-54682-0 |ref=朝鮮史研究入門 2011 }} *{{Cite book|和書|author=吉田孝|authorlink=吉田孝|year=1997|month=6|title=日本の誕生|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430510-1}} *{{Cite book|和書|author=井上秀雄|authorlink=井上秀雄|year=1972|title=古代朝鮮|publisher=日本放送出版協会|series=NHKブックス172|isbn=4-14-001172-6|ref=井上1972}} **{{Cite book|和書|author=井上秀雄|authorlink=井上秀雄|year=2004|month=10|title=古代朝鮮|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|isbn=4-06-159678-0|ref=井上2004}} *{{Cite book|和書|author=水野俊平|authorlink=水野俊平|others=[[李景珉]]監修|year=2007|month=9|title=韓国の歴史|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4-309-22471-8}} == 関連項目 == {{commons category|History of Korea}} {{ウィキポータルリンク|朝鮮|[[画像:P Korea2.svg|34px|Portal:朝鮮]]}} * [[百済考古遺跡]] * [[朝鮮教育史]] * [[朝鮮の歴史観]] * [[日朝関係史]]・[[一進会]]・[[日鮮同祖論]] * [[モンゴル国と大韓民国の関係]] {{朝鮮}} {{デフォルトソート:ちようせんのれきし}} [[Category:朝鮮の歴史|*]] [[de:Korea#Geschichte]]
2003-09-06T15:34:31Z
2023-12-23T06:47:24Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:See also", "Template:節スタブ", "Template:Lang", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:仮リンク", "Template:Doi", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:朝鮮", "Template:Multiple image", "Template:Commons category", "Template:Redirect", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:朝鮮の歴史", "Template:Main", "Template:Refnest" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
15,440
北千住駅
北千住駅(きたせんじゅえき)は、東京都足立区千住旭町および千住二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道・首都圏新都市鉄道の駅である。 足立区の南西部に位置する千住地区中央部にあるターミナル駅。4社5路線が乗り入れており、JR常磐線の特急以外の全ての旅客列車が停車する。各線相互間の乗換客が多く、1日あたりの乗降客数(2018年度)は約160万人と世界6位の利用者数を誇り、JRグループにおいて、特急列車が停車しない駅では日本最多と、当駅は足立区のみならず日本有数のターミナル駅である。 千住宿は江戸時代から日光街道の宿場町として発展した。「北千住」という名称は、千住のうち隅田川北側に位置する北組・中組を捉えた呼び名であり、行政地名としては存在しない。駅周辺は足立区屈指の繁華街であり、百貨店はないものの丸井やルミネなどの大型商業施設や、下町情緒が残る商店街が多数集積している。2000年以降は駅周辺の再開発が進み、大型商業施設と東口には東京電機大学などの大学が駅徒歩圏内に新設され、駅前広場も整備された。また、その交通利便性の高さから超高層ビルや高層マンション、大型分譲マンションなどが建設されている。 東京メトロは日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れている。日比谷線は当駅を経由して東武スカイツリーラインと直通運転を行っており、千代田線は常磐線(各駅停車)と小田急線との3社直通運転を行っている。また東武スカイツリーラインは日比谷線以外にも、押上駅・渋谷駅を経由し、東京メトロ半蔵門線および東急田園都市線との直通運転も行っている。 当駅は1896年(明治29年)12月25日に、日本鉄道土浦線の駅として開業した。3年後の1899年(明治32年)8月27日に、東武鉄道初の路線となる伊勢崎線が当駅 - 久喜駅間で開業し、乗換駅となった。日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)に常磐線に改称された。 この後、接続路線は60年以上に渡ってこの2路線であり、双方とも1面2線の島式ホームを有し、常磐線と東武伊勢崎線の間に貨物ヤードが広がっていた。それぞれのホームは北側の跨線橋と南側の地下道で連絡し、地下道の両端に駅舎が設けられていた。常磐線のターミナル駅は上野駅、東武伊勢崎線のターミナル駅は浅草駅であり、当駅の乗車人員はこれらの駅よりも少ない状態が続いていた。 当駅は駅舎を挟んで東西に街が分断されている状態だったが、1960年代になって当駅は大きな転換期を迎える。日比谷線との相互直通運転に向けて施工ヤードを確保するために、1960年(昭和35年)から東武線の貨物ヤードを中千住信号所に移転した。1962年(昭和37年)1月15日に常磐線と東武線の駅がそれぞれが橋上駅舎になり、それまで使用していた地下道は足立区に移管された。同年5月31日に営団地下鉄日比谷線の駅が開業し、当駅を介して東武伊勢崎線との直通運転を開始した。日比谷線の開業当初、東武伊勢崎線との共用ホームは幅員7.8 mの島式ホームを並列に設けた構造であり、外側2線を東武伊勢崎線、内側2線を日比谷線が使用することで同一方面の対面乗り換えを可能とした。これにより東武伊勢崎線の乗車人員が大幅に増加し、伊勢崎線のターミナル駅としての座を不動のものにした。さらに、1969年(昭和44年)12月20日に営団地下鉄千代田線の駅が開業し、当駅は4路線が乗り入れる駅となった。 地下鉄2路線が乗り入れたことによって都心部への利便性が大幅に向上した反面、乗車人員が急増して山手線の主要駅と肩を並べる規模になり、ラッシュ時は乗換客でホームがあふれかえるようになった。特に東武伊勢崎線と営団地下鉄日比谷線のホームは、日比谷線の始発待機列と乗換客で動線が干渉し、ホーム上で身動きが取れなくなるほど混雑することもあった。1971年(昭和46年)5月31日から日比谷線の全列車が8両編成に統一されたが、輸送人員の増加により1975年度以降は日比谷線の混雑率が220%台で高止まりとなった。日比谷線のバイパス路線として建設された千代田線も、直通先の常磐緩行線が東葛地域の通勤輸送を一手に引き受け、1979年度に混雑率が230%を超えた。 日比谷線は1980年度のダイヤ改正で朝ラッシュ時に毎時27本が運転されるダイヤになったが、当時はこれ以上の輸送力増強が不可能な状態であり、ホームを拡幅するだけでは乗換客を捌けないほどの状況になった。当時は営団地下鉄千代田線との連絡通路も北側の1箇所のみであり、多大な乗換客に対してハード面が整備されていなかったことも混雑に拍車をかけた。このような状況下でも乗車人員の増加に歯止めがかからず、運輸大臣が朝ラッシュ時の視察に訪れるほど深刻な混雑に見舞われた。 東武鉄道は日比谷線との乗換客を減らす苦肉の策として、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度を、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度を導入した。ハード面でも抜本的な混雑緩和を図るために、1992年(平成4年)から総工事費約510億円をかけて大規模改良工事が施工された。1996年(平成8年)7月23日から浅草方面系統のホームと日比谷線系統のホームが階層で分離され、営団地下鉄千代田線との連絡通路も南側に新設された。さらに2003年(平成15年)に営団地下鉄半蔵門線との直通運転を開始し、それまで浅草駅発着だった東武伊勢崎線の優等列車が初めて都心に直結するようになった。 一方で、当駅周辺は密集市街地が形成されており、土地の高度利用が課題となっていた。都市機能の更新を図るべく、1987年(昭和62年)になって西口に市街地再開発事業が都市計画決定され、2004年(平成16年)2月に千住ミルディスが開業した。西口駅前交通広場にはペデストリアンデッキが設置され、駅前広場が拡張されたことにより、交通結節点としての機能性が高まった。また、2005年(平成17年)8月24日に首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の駅が開業したことにより、当駅は5路線が乗り入れる駅となった。 2008年(平成20年)になって、それまで開発が取り残されていた東口に地区計画が都市計画決定され、2012年(平成24年)に東京電機大学東京千住キャンパスが開校した。これに合わせ、当駅の東口に副名称として電大口を導入した。2013年(平成25年)に東口駅前交通広場が完成し、バス路線も開通している。 JR東日本・東京メトロ・東武鉄道の改札口は各社別にあるが、地下を通じて改札内でつながっている。首都圏新都市鉄道の改札口のみ他社線とつながっていない。 自動改札機での乗車券の対応が異なっており、東京メトロ千代田線乗り場を掲げる地下乗り場改札口は東京メトロ・JR・東武のいずれにも対応しているが、JRはJRのみ、東武は東武・東京メトロに対応している。なお、ICカードはどの改札口でも対応している。例として東武線内でPASMOで入り、JR改札口をタッチで出ることは可能。また、そのままJR線に乗車した場合でも、北千住乗り換えの運賃が下車駅で自動精算される(経路や下車駅により異なる場合もある)。 同一事業者線が複数の部分に分かれている関係上、地上乗り場(JR・東武・東京メトロ)と地下乗り場の間に中間改札はない。かつては中間改札窓口があり、有人の中間改札口も設置されていた。その後詰め所は閉鎖され、JR線運賃の精算・Suicaの対応や乗車券を購入する際は、正面の東京メトロ線改札そばの係員が対応している。窓口が閉鎖された後も中間改札の設備は残存していたが、2014年3月に設備が撤去された。また、地下乗り場と東武線・東京メトロ日比谷線との連絡通路の間にも有人の中間改札があったが、こちらも無人となり、設備が撤去された。 北改札口からは西口・東口(電大口)と称する出入口が、2005年8月に新設された南改札口からは仲町出口と称する出入口がそれぞれある。仲町出口側には、地上階・千代田線改札階行きのエレベーターも設置されている。なお、北改札口のコンコースは東側は東武、西側はJRの駅舎で、各出入り口の駅の社章(ロゴ)はそれぞれのものしか掲出されていないが、コンコース間はそのままつながっており通り抜けられる。つくばエクスプレス線の改札口は、JR・東武線の間に割って入るように存在している。 東武・東京メトロの階層を基準にすると、B2階は千代田線(JR常磐緩行線)のホーム、B1階は千代田線(JR常磐緩行線)の改札・コンコース階、1階はJR常磐快速線と東武伊勢崎線ホーム、2階はJR・つくばエクスプレス・東武・日比谷線の改札・コンコース階、3階は東武伊勢崎線(各駅停車)・日比谷線のホームとなる。JR・首都圏新都市鉄道の階層基準は並立するルミネと同じで、2階はJR常磐快速線のホーム、3階は改札・コンコース、4階はつくばエクスプレスのホームとなる。 東京メトロ千代田線のみホーム・改札口が地下にある。なお、ホームの番号は連続しておらず、管理社ごとに1番線から振っている。 このような駅の構造上、ICカードを利用して大手町駅や表参道駅まで乗車する場合に千代田線経由か東武線・半蔵門線経由か区別できないという現象が生じている。この場合、運賃は前者のものとみなされて計算される。また、同様にして当駅から中野駅以遠まで乗る場合に東西線経由かJR線経由か区別できなくなっている。この場合、入場駅・出場駅がいずれも共用駅(改札内を共有する駅、綾瀬・北千住・中野)でないJR線の駅の場合は後者、いずれか一方でも共用駅の場合は前者とみなされる。また、西船橋駅以遠のJR線まで乗車する場合でも、東西線経由の運賃が適用される場合がある。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅で橋上駅舎を有している。上下線の間に上下共用の待避線を1本設けており、1番線が単式ホームで2・3番線が島式ホームとなっている。このタイプは、東京都区内のJR駅では同駅が唯一の例である(その他の地域では君津駅や相模湖駅など多数の例が存在する)。原則として下り列車は1番線、上り列車は3番線に停車するが、当駅で通過列車を待ち合わせる場合は上下とも2番線を使用する。朝ラッシュ時間帯は東京方面では通過待ちがない場合でも一部の電車は2番線に停車する。 地上のJR改札口の自動券売機では綾瀬駅までの乗車券を発売しておらず(JR東日本では当駅から綾瀬駅までの乗車券を発売しない)、千代田線乗り場で購入するよう案内されている。ただし、便宜上150円区間の乗車券(南千住までの運賃が同額)を使用することは可能である。 発券が全面自動化される前は、国鉄→JR東日本の窓口でも、営団地下鉄発行の綾瀬駅までの硬券の乗車券が委託扱いで販売されていた。券面には「交通営団」または「帝都高速度交通営団」の社名に加え、委託販売であることから国鉄時代は東京北鉄道管理局を示す丸囲みの「北」が、民営化後はJR東日本を示す四角囲みの「東」の記号も入っていた。 ホームの上野寄りには千代田線地下ホーム2番線への連絡階段が設置されているが、JR東日本は旅客案内上、当駅 - 綾瀬駅間を「常磐線(各駅停車)」の一部としても位置付けていることから、連絡階段前には「常磐線(各駅停車)」と書かれた案内看板が設置されている。常磐線(快速)ホームから千代田線ホームへは改札を通らずに直接行き来できる が、この際地下ホームおよび綾瀬駅までを東京メトロの施設を利用することになるため、さまざまな案内放送・表示がある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅。つくばエクスプレスが開業するまでは足立区唯一の地下駅であった。JR常磐線の緩急接続駅(快速、特別快速と各駅停車)としての機能も有している。このため、首都圏ICカード相互利用サービス開始前から、改札機でのSuicaおよび西日本旅客鉄道(JR西日本)が発行するICOCAの利用が可能だった他、PASMO導入後も、ICカード10種相互利用開始前からSuicaと相互利用しているICカードで当駅・綾瀬駅間を乗車することが可能である。この例外は、東京メトロの駅では、当駅と綾瀬駅のみ取り扱いであった。ただし、運賃計算上の規定により、相互利用に対応していないPASMO事業者では使えないICカードが使用できる状態にある区間は他にも存在していた。 前述の通り、JR・東武ともつながってるため、各改札口はこの2社の改札としての利用も可能であるが、自動精算機が設置されていない場所や券売機の設置状況・乗車券の発売等に制限がある場合がある。 当駅 - 綾瀬駅間のみを乗車する場合は特殊区間として、運賃は東京メトロの初乗り運賃(乗車券180円・ICカード178円)でなく、JR東日本の電車特定区間の初乗り運賃と同額の乗車券150円・ICカード146円が適用される。この区間のみの乗車券は東京メトロのみで発売するため、乗車券は東京メトロの券売機で発売しており、JRの切符売り場でも綾瀬までの乗車券は東京メトロ千代田線切符売り場で購入するように案内している。また、ICカードによる入場時の必要残額も同様の理由で146円となっている。 一方、亀有・金町方面は当駅 - 綾瀬駅間もJR線として計算するほか、日暮里・三河島方面から北綾瀬駅まで乗車した場合も旅行開始駅 - 綾瀬駅間をJR線として運賃計算する(綾瀬駅までの運賃+綾瀬・北綾瀬間の東京メトロ180円(ICカードは178円)の運賃になる)。 ただし、運転上当駅 - 綾瀬駅間は東京メトロ線であり、大手町方面・日比谷線から当駅を乗り越して北綾瀬駅に向かう場合は全区間を東京メトロ線として運賃計算する。 首都圏新都市鉄道への乗り換えのみいったん改札を出る必要がある。定期券売り場のそばに通路が新設され、仲町口の出入り口を経由して南口改札につながっている。地上階・南口改札階行きのエレベーターがある。また、JR線経由の場合は、連絡通路を通って地上のJR南口改札を利用することもできる。 平日朝ラッシュ時の1番線ホームはかなり混雑する。特に我孫子方面から直通する列車は大量の積み残しが出る。ただし、数本存在する手前の綾瀬始発の列車は比較的空いているため、これを待つ乗客もいる。駅のアナウンスでも次の列車が綾瀬発の場合はその列車に乗車するよう勧める案内をするほか、この時間帯に限り、1番線ホームの発車案内表示器の種別表示の箇所横に「綾瀬始発」と表示される(始発列車の場合のものと同様)。時刻表にも綾瀬始発の表記(三角)がされている(時刻表は全時間帯で記載)。なお、当駅と次駅の町屋駅では、平日朝ラッシュ時の最混雑時間帯は、発車ブザー終了後にすぐにドアを閉める。 東京メトロの駅務管区所在駅であり、北千住駅務管区として北千住地域・南千住地域・新御茶ノ水地域を管理する。 (出典:東京メトロ:駅構内図) 東武鉄道は1899年(明治32年)に当駅より久喜駅まで開業したため、当駅に0キロポストが設置されている。当駅からの下り列車の本数は、東京メトロ日比谷線からの直通列車が加わるため浅草発の本数に比べて2倍近くに増え、東武伊勢崎線の都心側拠点駅(ターミナル駅)となっている。 当駅は東京メトロ日比谷線の起点でもあり、東武スカイツリーラインと東京メトロ日比谷線は、当駅を境に相互直通運転を行っている。 駅の管理は東武が行っており、駅名標もすべて東武のフォーマットに準拠している。別に設置されている東京メトロの券売機で東京メトロの乗車券(片道乗車券・回数券・連絡乗車券・一日券)も発売しているが、ICカードのチャージには非対応で綾瀬駅までの乗車券(150円)は発売していない。押上経由地下鉄半蔵門線方面の乗車券は東武の券売機での発売となる。前述の通り、改札内が東京メトロ千代田線(JR常磐緩行線)のりばとつながっているため、ICカードによる入場時の必要残額(最低)は146円となっている。 1・2番線(1階東武スカイツリーライン下り)の小菅方には特急列車の乗車専用ホームを備える。特急ホーム手前には中間改札と特急券売り場が設けられている。 特急券売り場にはPASMO・Suica対応の特急券券売機以外に、有人窓口がある。また、この窓口に限りICカードには対応していない。 1階ホームと3階ホームとの乗り換えには2分程度の時間を要する。2階は改札口およびコンコースになっており、飲食店・書店などの店舗・売店が出店している。 発車メロディは、2010年12月1日より1階全ホームと3階ホーム5番線で導入された(6・7番線は、導入後も東京メトロ仕様の発車ブザーを使用)。東武スカイツリーライン内の中間駅で導入されたのは、西新井駅、曳舟駅に次いで3駅目である。なお、特急ホームでは浅草駅と同じ「PASSENGER」のフェードアウトバージョンを使用している。 2017年12月14日より東武鉄道管轄コンコースでBGM試験放送が開始し、2018年4月17日には1階ホームへも範囲を拡大した。同年11月30日には新河岸駅と共に本放送として開始した。 東武北千住駅管区として、伊勢崎線の当駅 - 新田駅間の各駅と大師線の大師前駅を統括管理している。 (出典:東武鉄道:構内マップ) 1996年7月23日まで、当駅のホームは1階のみにあった。日比谷線との直通運転を開始してからは、2面4線のホームの内側が営団地下鉄日比谷線、外側が東武伊勢崎線という一般的な直通駅の形態をとっていて、相互の乗り換えの利便が図られていた。 この他、伊勢崎線上り・下りホームの浅草寄りに切欠状の待避ホーム(通称:予備ホーム)があり、実質的には2面6線の配線であった。下り列車の場合、当駅で通過・接続待ちを行う列車はまず待避ホームに入線して降車客を降ろし、特急・快速列車(優等列車)の待ち合わせた後に前方の一般ホームに移動して乗車客を乗せるという形態であった。なお上り列車の場合は駅発車後に待避ホームに入線し、ドア扱いはせず特急・快速列車の待ち合わせ後にそのまま発車する形態となっていた。この待避ホームにも番号が付けられており、上りは8番線、下りは7番線であった。このような構造は2014年現在でも京急蒲田駅で見られる。 なお、待避ホームは改良工事が進捗する際に廃止された。その後改良工事が竣工するまでは、牛田駅 - 当駅間の千住分岐点付近(現在の引上げ線付近)にあった線路類を利用し待避線を設け、そこで特急・快速列車を待避していた。 発車案内表示器は、東武動物公園駅と同じ反転フラップ式案内表示機を使用していた。また接近表示器も設置されており列車が接近すると「電車がきます」と赤文字で点滅していた。この接近表示器は竹ノ塚、北越谷(下り線のみ)、大袋、東武動物公園の各駅に移植されたが、このうち竹ノ塚駅、北越谷駅は高架化に伴い、また大袋駅は橋上駅化により共に撤去された。 当時ののりばは以下の通りである。番線は常磐線ホームの続番(当時、3番線はなかった)であった。 かつては、主な駅弁として下記を販売していた。 島式ホーム1面2線を有する高架駅で、ホームドアが設置されている。なお、首都圏新都市鉄道において東京都内唯一の地上駅となっている。3階にコンコースがあり、ホームは4階にある。改札は北改札・南改札の2か所である。北千住駅は他の各社は全て同一改札内であるが、つくばエクスプレスのみ独立の改札を持つ。 青井方に保線基地があり、その先に両渡り線がある。この両渡り線は2016年10月15日実施のダイヤ改正で当駅始発普通八潮行きが終電車1本前に設定されたため、これに充当する送り込みの列車が使用していたが、2021年3月13日のダイヤ改正をもって同列車は廃止となった。 駅務管理所所在駅で、北千住駅務管理所として当駅 - 南流山駅間の各駅を管理している。 ホームになっている場所はかつての貨物用地で、東武伊勢崎線と常磐線の連絡線があった。 2018年度の各社合計の乗降人員は約160万人であり、年間乗降人員は約5億8400万人。これは新宿駅、渋谷駅、池袋駅、大阪・梅田駅、横浜駅に次いで世界6位の規模である。東京都内においては山手線の駅以外では最も利用者数が多い。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロのみ)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 各年度の1日平均乗換人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のみ)。 2012年に東口に隣接して東京電機大学が開設され、駅周辺は学生街として賑わう。この他にも、西口は帝京科学大学が、東口は東京未来大学が、仲町口は東京芸術大学がそれぞれ徒歩圏内に立地している。 当駅の開業時から設けられた出入口である。当駅と日光街道を結ぶ駅前通りはアーケードが整備されており、商店街となっている。2001年から2004年にかけて北千住駅西口地区第一種市街地再開発事業が実施され、ペデストリアンデッキとバスターミナルが整備されている。駅前ロータリー北側は再開発ビルとして千住ミルディスが立地しており、2004年2月に核テナントとして北千住マルイが開業している。 テレビドラマ「3年B組金八先生」や「親子ゲーム」で登場する荒川の堤防は、JR線ではこの北千住駅東口が最寄り駅である。当駅周辺も撮影現場として登場している。堤防にはサッカー場や野球場が複数面造られており、堤防沿いにサイクリングコースが設定されている。夏には花火大会が開催される。 2008年から日本たばこ産業社宅跡地に千住旭町地区地区計画が策定され、2012年4月に東京電機大学東京千住キャンパスが開設された。2013年2月に交通広場が整備され、同年3月からバス路線が乗り入れるようになった。 2005年のつくばエクスプレス開業時に供用を開始した出入口であり、西口の南側に位置する。 東口(電大口)のりばに発着する柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への京成バス以外の路線バスと高速バス、深夜急行バスは、西口バスターミナル発着である。主に端44・王45・北47(都営バス)、東武バスセントラル、新日本観光自動車の路線が発着している。 1番 - 4番乗場はバスターミナル内、5番乗場は千住ミルディス(マルイ)脇、6番乗場はバスターミナル向かい側千代田線2番出口前となる。なお、5番乗場は隣接する2箇所に分かれているため、便宜上"a" "b"で区別した。 現在の形態になる前は、2番 - 4番のりばが駅前通り(きたロード1010)の南側歩道上から発車していた。また、同じく駅前通り(きたロード1010)の北側歩道上には降車専用の看板が設けられていた。 東口(電大口)には2013年3月25日より、柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への京成バスが乗り入れている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北千住駅(きたせんじゅえき)は、東京都足立区千住旭町および千住二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道・首都圏新都市鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "足立区の南西部に位置する千住地区中央部にあるターミナル駅。4社5路線が乗り入れており、JR常磐線の特急以外の全ての旅客列車が停車する。各線相互間の乗換客が多く、1日あたりの乗降客数(2018年度)は約160万人と世界6位の利用者数を誇り、JRグループにおいて、特急列車が停車しない駅では日本最多と、当駅は足立区のみならず日本有数のターミナル駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "千住宿は江戸時代から日光街道の宿場町として発展した。「北千住」という名称は、千住のうち隅田川北側に位置する北組・中組を捉えた呼び名であり、行政地名としては存在しない。駅周辺は足立区屈指の繁華街であり、百貨店はないものの丸井やルミネなどの大型商業施設や、下町情緒が残る商店街が多数集積している。2000年以降は駅周辺の再開発が進み、大型商業施設と東口には東京電機大学などの大学が駅徒歩圏内に新設され、駅前広場も整備された。また、その交通利便性の高さから超高層ビルや高層マンション、大型分譲マンションなどが建設されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京メトロは日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れている。日比谷線は当駅を経由して東武スカイツリーラインと直通運転を行っており、千代田線は常磐線(各駅停車)と小田急線との3社直通運転を行っている。また東武スカイツリーラインは日比谷線以外にも、押上駅・渋谷駅を経由し、東京メトロ半蔵門線および東急田園都市線との直通運転も行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当駅は1896年(明治29年)12月25日に、日本鉄道土浦線の駅として開業した。3年後の1899年(明治32年)8月27日に、東武鉄道初の路線となる伊勢崎線が当駅 - 久喜駅間で開業し、乗換駅となった。日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)に常磐線に改称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この後、接続路線は60年以上に渡ってこの2路線であり、双方とも1面2線の島式ホームを有し、常磐線と東武伊勢崎線の間に貨物ヤードが広がっていた。それぞれのホームは北側の跨線橋と南側の地下道で連絡し、地下道の両端に駅舎が設けられていた。常磐線のターミナル駅は上野駅、東武伊勢崎線のターミナル駅は浅草駅であり、当駅の乗車人員はこれらの駅よりも少ない状態が続いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅は駅舎を挟んで東西に街が分断されている状態だったが、1960年代になって当駅は大きな転換期を迎える。日比谷線との相互直通運転に向けて施工ヤードを確保するために、1960年(昭和35年)から東武線の貨物ヤードを中千住信号所に移転した。1962年(昭和37年)1月15日に常磐線と東武線の駅がそれぞれが橋上駅舎になり、それまで使用していた地下道は足立区に移管された。同年5月31日に営団地下鉄日比谷線の駅が開業し、当駅を介して東武伊勢崎線との直通運転を開始した。日比谷線の開業当初、東武伊勢崎線との共用ホームは幅員7.8 mの島式ホームを並列に設けた構造であり、外側2線を東武伊勢崎線、内側2線を日比谷線が使用することで同一方面の対面乗り換えを可能とした。これにより東武伊勢崎線の乗車人員が大幅に増加し、伊勢崎線のターミナル駅としての座を不動のものにした。さらに、1969年(昭和44年)12月20日に営団地下鉄千代田線の駅が開業し、当駅は4路線が乗り入れる駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地下鉄2路線が乗り入れたことによって都心部への利便性が大幅に向上した反面、乗車人員が急増して山手線の主要駅と肩を並べる規模になり、ラッシュ時は乗換客でホームがあふれかえるようになった。特に東武伊勢崎線と営団地下鉄日比谷線のホームは、日比谷線の始発待機列と乗換客で動線が干渉し、ホーム上で身動きが取れなくなるほど混雑することもあった。1971年(昭和46年)5月31日から日比谷線の全列車が8両編成に統一されたが、輸送人員の増加により1975年度以降は日比谷線の混雑率が220%台で高止まりとなった。日比谷線のバイパス路線として建設された千代田線も、直通先の常磐緩行線が東葛地域の通勤輸送を一手に引き受け、1979年度に混雑率が230%を超えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日比谷線は1980年度のダイヤ改正で朝ラッシュ時に毎時27本が運転されるダイヤになったが、当時はこれ以上の輸送力増強が不可能な状態であり、ホームを拡幅するだけでは乗換客を捌けないほどの状況になった。当時は営団地下鉄千代田線との連絡通路も北側の1箇所のみであり、多大な乗換客に対してハード面が整備されていなかったことも混雑に拍車をかけた。このような状況下でも乗車人員の増加に歯止めがかからず、運輸大臣が朝ラッシュ時の視察に訪れるほど深刻な混雑に見舞われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "東武鉄道は日比谷線との乗換客を減らす苦肉の策として、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度を、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度を導入した。ハード面でも抜本的な混雑緩和を図るために、1992年(平成4年)から総工事費約510億円をかけて大規模改良工事が施工された。1996年(平成8年)7月23日から浅草方面系統のホームと日比谷線系統のホームが階層で分離され、営団地下鉄千代田線との連絡通路も南側に新設された。さらに2003年(平成15年)に営団地下鉄半蔵門線との直通運転を開始し、それまで浅草駅発着だった東武伊勢崎線の優等列車が初めて都心に直結するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方で、当駅周辺は密集市街地が形成されており、土地の高度利用が課題となっていた。都市機能の更新を図るべく、1987年(昭和62年)になって西口に市街地再開発事業が都市計画決定され、2004年(平成16年)2月に千住ミルディスが開業した。西口駅前交通広場にはペデストリアンデッキが設置され、駅前広場が拡張されたことにより、交通結節点としての機能性が高まった。また、2005年(平成17年)8月24日に首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の駅が開業したことにより、当駅は5路線が乗り入れる駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)になって、それまで開発が取り残されていた東口に地区計画が都市計画決定され、2012年(平成24年)に東京電機大学東京千住キャンパスが開校した。これに合わせ、当駅の東口に副名称として電大口を導入した。2013年(平成25年)に東口駅前交通広場が完成し、バス路線も開通している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "JR東日本・東京メトロ・東武鉄道の改札口は各社別にあるが、地下を通じて改札内でつながっている。首都圏新都市鉄道の改札口のみ他社線とつながっていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "自動改札機での乗車券の対応が異なっており、東京メトロ千代田線乗り場を掲げる地下乗り場改札口は東京メトロ・JR・東武のいずれにも対応しているが、JRはJRのみ、東武は東武・東京メトロに対応している。なお、ICカードはどの改札口でも対応している。例として東武線内でPASMOで入り、JR改札口をタッチで出ることは可能。また、そのままJR線に乗車した場合でも、北千住乗り換えの運賃が下車駅で自動精算される(経路や下車駅により異なる場合もある)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同一事業者線が複数の部分に分かれている関係上、地上乗り場(JR・東武・東京メトロ)と地下乗り場の間に中間改札はない。かつては中間改札窓口があり、有人の中間改札口も設置されていた。その後詰め所は閉鎖され、JR線運賃の精算・Suicaの対応や乗車券を購入する際は、正面の東京メトロ線改札そばの係員が対応している。窓口が閉鎖された後も中間改札の設備は残存していたが、2014年3月に設備が撤去された。また、地下乗り場と東武線・東京メトロ日比谷線との連絡通路の間にも有人の中間改札があったが、こちらも無人となり、設備が撤去された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "北改札口からは西口・東口(電大口)と称する出入口が、2005年8月に新設された南改札口からは仲町出口と称する出入口がそれぞれある。仲町出口側には、地上階・千代田線改札階行きのエレベーターも設置されている。なお、北改札口のコンコースは東側は東武、西側はJRの駅舎で、各出入り口の駅の社章(ロゴ)はそれぞれのものしか掲出されていないが、コンコース間はそのままつながっており通り抜けられる。つくばエクスプレス線の改札口は、JR・東武線の間に割って入るように存在している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東武・東京メトロの階層を基準にすると、B2階は千代田線(JR常磐緩行線)のホーム、B1階は千代田線(JR常磐緩行線)の改札・コンコース階、1階はJR常磐快速線と東武伊勢崎線ホーム、2階はJR・つくばエクスプレス・東武・日比谷線の改札・コンコース階、3階は東武伊勢崎線(各駅停車)・日比谷線のホームとなる。JR・首都圏新都市鉄道の階層基準は並立するルミネと同じで、2階はJR常磐快速線のホーム、3階は改札・コンコース、4階はつくばエクスプレスのホームとなる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東京メトロ千代田線のみホーム・改札口が地下にある。なお、ホームの番号は連続しておらず、管理社ごとに1番線から振っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このような駅の構造上、ICカードを利用して大手町駅や表参道駅まで乗車する場合に千代田線経由か東武線・半蔵門線経由か区別できないという現象が生じている。この場合、運賃は前者のものとみなされて計算される。また、同様にして当駅から中野駅以遠まで乗る場合に東西線経由かJR線経由か区別できなくなっている。この場合、入場駅・出場駅がいずれも共用駅(改札内を共有する駅、綾瀬・北千住・中野)でないJR線の駅の場合は後者、いずれか一方でも共用駅の場合は前者とみなされる。また、西船橋駅以遠のJR線まで乗車する場合でも、東西線経由の運賃が適用される場合がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅で橋上駅舎を有している。上下線の間に上下共用の待避線を1本設けており、1番線が単式ホームで2・3番線が島式ホームとなっている。このタイプは、東京都区内のJR駅では同駅が唯一の例である(その他の地域では君津駅や相模湖駅など多数の例が存在する)。原則として下り列車は1番線、上り列車は3番線に停車するが、当駅で通過列車を待ち合わせる場合は上下とも2番線を使用する。朝ラッシュ時間帯は東京方面では通過待ちがない場合でも一部の電車は2番線に停車する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "地上のJR改札口の自動券売機では綾瀬駅までの乗車券を発売しておらず(JR東日本では当駅から綾瀬駅までの乗車券を発売しない)、千代田線乗り場で購入するよう案内されている。ただし、便宜上150円区間の乗車券(南千住までの運賃が同額)を使用することは可能である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "発券が全面自動化される前は、国鉄→JR東日本の窓口でも、営団地下鉄発行の綾瀬駅までの硬券の乗車券が委託扱いで販売されていた。券面には「交通営団」または「帝都高速度交通営団」の社名に加え、委託販売であることから国鉄時代は東京北鉄道管理局を示す丸囲みの「北」が、民営化後はJR東日本を示す四角囲みの「東」の記号も入っていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ホームの上野寄りには千代田線地下ホーム2番線への連絡階段が設置されているが、JR東日本は旅客案内上、当駅 - 綾瀬駅間を「常磐線(各駅停車)」の一部としても位置付けていることから、連絡階段前には「常磐線(各駅停車)」と書かれた案内看板が設置されている。常磐線(快速)ホームから千代田線ホームへは改札を通らずに直接行き来できる が、この際地下ホームおよび綾瀬駅までを東京メトロの施設を利用することになるため、さまざまな案内放送・表示がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅。つくばエクスプレスが開業するまでは足立区唯一の地下駅であった。JR常磐線の緩急接続駅(快速、特別快速と各駅停車)としての機能も有している。このため、首都圏ICカード相互利用サービス開始前から、改札機でのSuicaおよび西日本旅客鉄道(JR西日本)が発行するICOCAの利用が可能だった他、PASMO導入後も、ICカード10種相互利用開始前からSuicaと相互利用しているICカードで当駅・綾瀬駅間を乗車することが可能である。この例外は、東京メトロの駅では、当駅と綾瀬駅のみ取り扱いであった。ただし、運賃計算上の規定により、相互利用に対応していないPASMO事業者では使えないICカードが使用できる状態にある区間は他にも存在していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "前述の通り、JR・東武ともつながってるため、各改札口はこの2社の改札としての利用も可能であるが、自動精算機が設置されていない場所や券売機の設置状況・乗車券の発売等に制限がある場合がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "当駅 - 綾瀬駅間のみを乗車する場合は特殊区間として、運賃は東京メトロの初乗り運賃(乗車券180円・ICカード178円)でなく、JR東日本の電車特定区間の初乗り運賃と同額の乗車券150円・ICカード146円が適用される。この区間のみの乗車券は東京メトロのみで発売するため、乗車券は東京メトロの券売機で発売しており、JRの切符売り場でも綾瀬までの乗車券は東京メトロ千代田線切符売り場で購入するように案内している。また、ICカードによる入場時の必要残額も同様の理由で146円となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方、亀有・金町方面は当駅 - 綾瀬駅間もJR線として計算するほか、日暮里・三河島方面から北綾瀬駅まで乗車した場合も旅行開始駅 - 綾瀬駅間をJR線として運賃計算する(綾瀬駅までの運賃+綾瀬・北綾瀬間の東京メトロ180円(ICカードは178円)の運賃になる)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただし、運転上当駅 - 綾瀬駅間は東京メトロ線であり、大手町方面・日比谷線から当駅を乗り越して北綾瀬駅に向かう場合は全区間を東京メトロ線として運賃計算する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "首都圏新都市鉄道への乗り換えのみいったん改札を出る必要がある。定期券売り場のそばに通路が新設され、仲町口の出入り口を経由して南口改札につながっている。地上階・南口改札階行きのエレベーターがある。また、JR線経由の場合は、連絡通路を通って地上のJR南口改札を利用することもできる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "平日朝ラッシュ時の1番線ホームはかなり混雑する。特に我孫子方面から直通する列車は大量の積み残しが出る。ただし、数本存在する手前の綾瀬始発の列車は比較的空いているため、これを待つ乗客もいる。駅のアナウンスでも次の列車が綾瀬発の場合はその列車に乗車するよう勧める案内をするほか、この時間帯に限り、1番線ホームの発車案内表示器の種別表示の箇所横に「綾瀬始発」と表示される(始発列車の場合のものと同様)。時刻表にも綾瀬始発の表記(三角)がされている(時刻表は全時間帯で記載)。なお、当駅と次駅の町屋駅では、平日朝ラッシュ時の最混雑時間帯は、発車ブザー終了後にすぐにドアを閉める。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東京メトロの駅務管区所在駅であり、北千住駅務管区として北千住地域・南千住地域・新御茶ノ水地域を管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "東武鉄道は1899年(明治32年)に当駅より久喜駅まで開業したため、当駅に0キロポストが設置されている。当駅からの下り列車の本数は、東京メトロ日比谷線からの直通列車が加わるため浅草発の本数に比べて2倍近くに増え、東武伊勢崎線の都心側拠点駅(ターミナル駅)となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "当駅は東京メトロ日比谷線の起点でもあり、東武スカイツリーラインと東京メトロ日比谷線は、当駅を境に相互直通運転を行っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "駅の管理は東武が行っており、駅名標もすべて東武のフォーマットに準拠している。別に設置されている東京メトロの券売機で東京メトロの乗車券(片道乗車券・回数券・連絡乗車券・一日券)も発売しているが、ICカードのチャージには非対応で綾瀬駅までの乗車券(150円)は発売していない。押上経由地下鉄半蔵門線方面の乗車券は東武の券売機での発売となる。前述の通り、改札内が東京メトロ千代田線(JR常磐緩行線)のりばとつながっているため、ICカードによる入場時の必要残額(最低)は146円となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1・2番線(1階東武スカイツリーライン下り)の小菅方には特急列車の乗車専用ホームを備える。特急ホーム手前には中間改札と特急券売り場が設けられている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "特急券売り場にはPASMO・Suica対応の特急券券売機以外に、有人窓口がある。また、この窓口に限りICカードには対応していない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1階ホームと3階ホームとの乗り換えには2分程度の時間を要する。2階は改札口およびコンコースになっており、飲食店・書店などの店舗・売店が出店している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "発車メロディは、2010年12月1日より1階全ホームと3階ホーム5番線で導入された(6・7番線は、導入後も東京メトロ仕様の発車ブザーを使用)。東武スカイツリーライン内の中間駅で導入されたのは、西新井駅、曳舟駅に次いで3駅目である。なお、特急ホームでは浅草駅と同じ「PASSENGER」のフェードアウトバージョンを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2017年12月14日より東武鉄道管轄コンコースでBGM試験放送が開始し、2018年4月17日には1階ホームへも範囲を拡大した。同年11月30日には新河岸駅と共に本放送として開始した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東武北千住駅管区として、伊勢崎線の当駅 - 新田駅間の各駅と大師線の大師前駅を統括管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(出典:東武鉄道:構内マップ)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1996年7月23日まで、当駅のホームは1階のみにあった。日比谷線との直通運転を開始してからは、2面4線のホームの内側が営団地下鉄日比谷線、外側が東武伊勢崎線という一般的な直通駅の形態をとっていて、相互の乗り換えの利便が図られていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この他、伊勢崎線上り・下りホームの浅草寄りに切欠状の待避ホーム(通称:予備ホーム)があり、実質的には2面6線の配線であった。下り列車の場合、当駅で通過・接続待ちを行う列車はまず待避ホームに入線して降車客を降ろし、特急・快速列車(優等列車)の待ち合わせた後に前方の一般ホームに移動して乗車客を乗せるという形態であった。なお上り列車の場合は駅発車後に待避ホームに入線し、ドア扱いはせず特急・快速列車の待ち合わせ後にそのまま発車する形態となっていた。この待避ホームにも番号が付けられており、上りは8番線、下りは7番線であった。このような構造は2014年現在でも京急蒲田駅で見られる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、待避ホームは改良工事が進捗する際に廃止された。その後改良工事が竣工するまでは、牛田駅 - 当駅間の千住分岐点付近(現在の引上げ線付近)にあった線路類を利用し待避線を設け、そこで特急・快速列車を待避していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "発車案内表示器は、東武動物公園駅と同じ反転フラップ式案内表示機を使用していた。また接近表示器も設置されており列車が接近すると「電車がきます」と赤文字で点滅していた。この接近表示器は竹ノ塚、北越谷(下り線のみ)、大袋、東武動物公園の各駅に移植されたが、このうち竹ノ塚駅、北越谷駅は高架化に伴い、また大袋駅は橋上駅化により共に撤去された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "当時ののりばは以下の通りである。番線は常磐線ホームの続番(当時、3番線はなかった)であった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつては、主な駅弁として下記を販売していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅で、ホームドアが設置されている。なお、首都圏新都市鉄道において東京都内唯一の地上駅となっている。3階にコンコースがあり、ホームは4階にある。改札は北改札・南改札の2か所である。北千住駅は他の各社は全て同一改札内であるが、つくばエクスプレスのみ独立の改札を持つ。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "青井方に保線基地があり、その先に両渡り線がある。この両渡り線は2016年10月15日実施のダイヤ改正で当駅始発普通八潮行きが終電車1本前に設定されたため、これに充当する送り込みの列車が使用していたが、2021年3月13日のダイヤ改正をもって同列車は廃止となった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "駅務管理所所在駅で、北千住駅務管理所として当駅 - 南流山駅間の各駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ホームになっている場所はかつての貨物用地で、東武伊勢崎線と常磐線の連絡線があった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2018年度の各社合計の乗降人員は約160万人であり、年間乗降人員は約5億8400万人。これは新宿駅、渋谷駅、池袋駅、大阪・梅田駅、横浜駅に次いで世界6位の規模である。東京都内においては山手線の駅以外では最も利用者数が多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロのみ)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗換人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のみ)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2012年に東口に隣接して東京電機大学が開設され、駅周辺は学生街として賑わう。この他にも、西口は帝京科学大学が、東口は東京未来大学が、仲町口は東京芸術大学がそれぞれ徒歩圏内に立地している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "当駅の開業時から設けられた出入口である。当駅と日光街道を結ぶ駅前通りはアーケードが整備されており、商店街となっている。2001年から2004年にかけて北千住駅西口地区第一種市街地再開発事業が実施され、ペデストリアンデッキとバスターミナルが整備されている。駅前ロータリー北側は再開発ビルとして千住ミルディスが立地しており、2004年2月に核テナントとして北千住マルイが開業している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "テレビドラマ「3年B組金八先生」や「親子ゲーム」で登場する荒川の堤防は、JR線ではこの北千住駅東口が最寄り駅である。当駅周辺も撮影現場として登場している。堤防にはサッカー場や野球場が複数面造られており、堤防沿いにサイクリングコースが設定されている。夏には花火大会が開催される。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2008年から日本たばこ産業社宅跡地に千住旭町地区地区計画が策定され、2012年4月に東京電機大学東京千住キャンパスが開設された。2013年2月に交通広場が整備され、同年3月からバス路線が乗り入れるようになった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2005年のつくばエクスプレス開業時に供用を開始した出入口であり、西口の南側に位置する。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東口(電大口)のりばに発着する柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への京成バス以外の路線バスと高速バス、深夜急行バスは、西口バスターミナル発着である。主に端44・王45・北47(都営バス)、東武バスセントラル、新日本観光自動車の路線が発着している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1番 - 4番乗場はバスターミナル内、5番乗場は千住ミルディス(マルイ)脇、6番乗場はバスターミナル向かい側千代田線2番出口前となる。なお、5番乗場は隣接する2箇所に分かれているため、便宜上\"a\" \"b\"で区別した。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "現在の形態になる前は、2番 - 4番のりばが駅前通り(きたロード1010)の南側歩道上から発車していた。また、同じく駅前通り(きたロード1010)の北側歩道上には降車専用の看板が設けられていた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "東口(電大口)には2013年3月25日より、柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への京成バスが乗り入れている。", "title": "バス路線" } ]
北千住駅(きたせんじゅえき)は、東京都足立区千住旭町および千住二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東武鉄道・首都圏新都市鉄道の駅である。
{{出典の明記|date=2018年4月}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 北千住駅 |画像 = 北千住駅西口.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2016年8月) |地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|type4=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail|marker4=rail |coord={{coord|35|44|58.26|N|139|48|17.38|E}}|title=JR 北千住駅 |coord2={{coord|35|44|58.35|N|139|48|16.21|E}}|title2=東京メトロ 北千住駅(千代田線) |coord3={{coord|35|44|57.66|N|139|48|19.39|E}}|title3=東武・東京メトロ 北千住駅(伊勢崎線・日比谷線) |coord4={{coord|35|44|57.49|N|139|48|18.27|E}}|title4=首都圏新都市鉄道 北千住駅 |marker-color=008000|marker-color2=109ed4|marker-color3=0f6cc3|marker-color4=ff0000}} |よみがな = きたせんじゅ |ローマ字 = Kita-Senju |電報略号 = |所属事業者= {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[東京地下鉄]](東京メトロ) * [[東武鉄道]] * [[首都圏新都市鉄道]]}} |所在地 = [[東京都]][[足立区]] }} [[ファイル:北千住駅東口.jpg|thumb|東口(2016年8月)]] '''北千住駅'''(きたせんじゅえき)は、[[東京都]][[足立区]][[千住旭町]]および[[千住]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東武鉄道]]・[[首都圏新都市鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == [[足立区]]の南西部に位置する[[千住]]地区中央部にある[[ターミナル駅]]。4社5路線が乗り入れており、JR常磐線の特急以外の全ての旅客列車が停車する。各線相互間の乗換客が多く、1日あたりの乗降客数(2018年度)は約160万人と世界6位の利用者数を誇り、JRグループにおいて、特急列車が停車しない駅では日本最多と、当駅は足立区のみならず日本有数のターミナル駅である。 [[千住宿]]は[[江戸時代]]から[[日光街道]]の[[宿場町]]として発展した。「北千住」という名称は、千住のうち[[隅田川]]北側に位置する北組・中組を捉えた呼び名であり、行政地名としては存在しない。駅周辺は足立区屈指の[[繁華街]]であり、[[百貨店]]はないものの[[丸井]]や[[ルミネ]]などの大型商業施設や、[[下町]]情緒が残る商店街が多数集積している。[[2000年]]以降は駅周辺の再開発が進み、大型商業施設と東口には[[東京電機大学]]などの大学が駅徒歩圏内に新設され、駅前広場も整備された。また、その交通利便性の高さから超高層ビルや高層マンション、大型分譲マンションなどが建設されている。 === 乗り入れ路線 === * JR東日本:[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])({{color|blue|■}}[[中距離電車|中距離列車]]も含む) - 駅番号「'''JJ 05'''」。[[事務管理コード|事務管コード]]は▲441103<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref><ref group="備考">一部では▲451103の事務管コードを使った補充券等も見られる</ref>。「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。[[2015年]]3月14日より、[[上野東京ライン]]の開通に伴い、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の[[品川駅]]まで乗り入れるようになった。 * 東京メトロ ** [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] - 駅番号「'''H 22'''」<ref group="注釈">[[2020年]][[6月6日]]の[[虎ノ門ヒルズ駅]]開業に伴い、駅番号を「'''H 21'''」から「'''H 22'''」へ変更。</ref> **[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] - 駅番号「'''C 18'''」。当駅 - [[綾瀬駅]]間は、運賃計算上の特例により[[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]と扱われることがある。 * 東武鉄道:[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] - 駅番号「'''TS 09'''」。「東武スカイツリーライン」の愛称で案内される。伊勢崎線(東武スカイツリーライン)は起点である[[浅草駅]]のターミナル機能が弱く、当駅が実質的な[[ターミナル駅]]として機能している。当駅は伊勢崎線のみならず、本線系統の駅で最も利用者数が多い。 * 首都圏新都市鉄道:[[File:Tsukuba Express symbol.svg|15px|TX]] [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] - 駅番号「'''TX05'''」 東京メトロは日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れている。日比谷線は当駅を経由して東武スカイツリーラインと直通運転を行っており、千代田線は[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]と[[小田急小田原線|小田急線]]との3社直通運転を行っている。また東武スカイツリーラインは日比谷線以外にも、[[押上駅]]・[[渋谷駅]]を経由し、[[東京メトロ半蔵門線]]および[[東急田園都市線]]との直通運転も行っている。 == 歴史 == [[画像:Kita-Senju Station Funeral.jpg|thumb|北千住駅前における、北千住駅の駅弁店の葬列(1932年6月)]] [[File:Kita-Senju Station.19630626.jpg|thumb|北千住駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] 当駅は1896年(明治29年)12月25日に、日本鉄道土浦線の駅として開業した。3年後の1899年(明治32年)8月27日に、東武鉄道初の路線となる伊勢崎線が当駅 - 久喜駅間で開業し、[[乗換駅]]となった。日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)に常磐線に改称された。 この後、接続路線は60年以上に渡ってこの2路線であり、双方とも1面2線の島式ホームを有し、常磐線と東武伊勢崎線の間に貨物ヤードが広がっていた。それぞれのホームは北側の跨線橋と南側の地下道で連絡し、地下道の両端に駅舎が設けられていた<ref name="hibiya_kensetsu266">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.266。</ref>。常磐線の[[ターミナル駅]]は[[上野駅]]、東武伊勢崎線のターミナル駅は[[浅草駅]]であり、当駅の乗車人員はこれらの駅よりも少ない状態が続いていた。 当駅は駅舎を挟んで東西に街が分断されている状態だったが、1960年代になって当駅は大きな転換期を迎える。日比谷線との相互直通運転に向けて施工ヤードを確保するために、1960年(昭和35年)から東武線の貨物ヤードを[[中千住駅|中千住信号所]]に移転した。1962年(昭和37年)1月15日に常磐線と東武線の駅がそれぞれが橋上駅舎になり、それまで使用していた地下道は足立区に移管された。同年5月31日に営団地下鉄日比谷線の駅が開業し、当駅を介して東武伊勢崎線との[[直通運転]]を開始した。日比谷線の開業当初、東武伊勢崎線との共用ホームは幅員7.8&nbsp;mの島式ホームを並列に設けた構造であり、外側2線を東武伊勢崎線、内側2線を日比谷線が使用することで同一方面の[[対面乗り換え]]を可能とした<ref name="hibiya_kensetsu305">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.305。</ref>。これにより東武伊勢崎線の乗車人員が大幅に増加し、伊勢崎線のターミナル駅としての座を不動のものにした。さらに、1969年(昭和44年)12月20日に営団地下鉄千代田線の駅が開業し、当駅は4路線が乗り入れる駅となった。 地下鉄2路線が乗り入れたことによって都心部への利便性が大幅に向上した反面、乗車人員が急増して[[山手線]]の主要駅と肩を並べる規模になり、ラッシュ時は乗換客でホームがあふれかえるようになった。特に東武伊勢崎線と営団地下鉄日比谷線のホームは、日比谷線の[[始発]]待機列と乗換客で[[動線]]が干渉し、ホーム上で身動きが取れなくなるほど混雑することもあった。1971年(昭和46年)5月31日から日比谷線の全列車が8両編成に統一されたが、輸送人員の増加により1975年度以降は日比谷線の混雑率が220%台で高止まりとなった。日比谷線のバイパス路線として建設された千代田線も、直通先の常磐緩行線が東葛地域の通勤輸送を一手に引き受け、1979年度に混雑率が230%を超えた。 日比谷線は1980年度のダイヤ改正で朝ラッシュ時に毎時27本が運転されるダイヤになったが、当時はこれ以上の輸送力増強が不可能な状態であり、ホームを拡幅するだけでは乗換客を捌けないほどの状況になった。当時は営団地下鉄千代田線との連絡通路も北側の1箇所のみであり、多大な乗換客に対してハード面が整備されていなかったことも混雑に拍車をかけた。このような状況下でも乗車人員の増加に歯止めがかからず、運輸大臣が朝ラッシュ時の視察に訪れるほど深刻な混雑に見舞われた。 東武鉄道は日比谷線との乗換客を減らす苦肉の策として、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度を、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度を導入した。ハード面でも抜本的な混雑緩和を図るために、1992年(平成4年)から総工事費約510億円をかけて大規模改良工事が施工された<ref group="報道" name="pr19961128" />。1996年(平成8年)7月23日から浅草方面系統のホームと日比谷線系統のホームが階層で分離され、営団地下鉄千代田線との連絡通路も南側に新設された<ref name="eidan237">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.237。</ref><ref name="eidan616" />。さらに2003年(平成15年)に営団地下鉄半蔵門線との直通運転を開始し、それまで浅草駅発着だった東武伊勢崎線の優等列車が初めて都心に直結するようになった。 一方で、当駅周辺は密集市街地が形成されており、土地の高度利用が課題となっていた。都市機能の更新を図るべく、1987年(昭和62年)になって西口に市街地再開発事業が都市計画決定され、2004年(平成16年)2月に[[千住ミルディス]]が開業した。西口駅前交通広場には[[ペデストリアンデッキ]]が設置され、駅前広場が拡張されたことにより、[[交通結節点]]としての機能性が高まった。また、2005年(平成17年)8月24日に首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の駅が開業したことにより、当駅は5路線が乗り入れる駅となった。 2008年(平成20年)になって、それまで開発が取り残されていた東口に[[地区計画]]が都市計画決定され、2012年(平成24年)に[[東京電機大学]]東京千住キャンパスが開校した。これに合わせ、当駅の東口に副名称として'''電大口'''を導入した。2013年(平成25年)に東口駅前交通広場が完成し、バス路線も開通している。 === 年表 === * [[1896年]]([[明治]]29年)[[12月25日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=425}}</ref>。 * [[1899年]](明治32年)[[8月27日]]:東武鉄道の駅が開業<ref name="tobu100thd_326">[[#tobu100th-document|東武鉄道百年史[資料編]]]、p.326。</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]される{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により常磐線の所属となる。 * [[1936年]]([[昭和]]11年)12月11日:日暮里 - 松戸間直流電化に伴い、近距離列車が電車化(上野 - 松戸間)。近距離電車以外の上り朝の3本を除く全列車が通過となる。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[1月15日]]:橋上駅舎が供用開始<ref name="tobu100thd_376">[[#tobu100th-document|東武鉄道百年史[資料編]]]、p.376。</ref>。 ** [[3月30日]]:東武北千住駅が2面6線化。 ** [[5月31日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線の駅が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[1965年]](昭和40年)[[7月21日]]:東武鉄道の同駅構内にて貨物列車と普通列車の[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武鉄道北千住駅列車衝突事故|衝突事故]]が発生する。 * [[1969年]](昭和44年)[[12月20日]]:営団地下鉄千代田線の駅が開業<ref name="eidan589">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.589。</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:営団地下鉄千代田線と常磐線各駅停車の直通運転開始<ref name="eidan590">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.590。</ref>。地下鉄直通の各駅停車と快速に分離。国鉄駅は快速のみの駅となる。 * [[1972年]](昭和47年)[[2月2日]]:国鉄の駅に旅行センター開設<ref group="新聞">{{Cite news |title=北千住駅に旅行センター |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-01-28 |page=2 }}</ref>。 * [[1977年]](昭和52年)[[12月1日]]:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線と営団地下鉄千代田線の連絡通路を北側に新設<ref name="eidan596">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.596。</ref><ref name="chiyoda_kensetsu">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、p.438。</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)[[12月15日]]:東武線と千代田線の連絡階段を増設<ref name="tobu100thd_408">[[#tobu100th-document|東武鉄道百年史[資料編]]]、p.408。</ref>。 * [[1981年]](昭和56年)[[4月8日]]:国鉄線の貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:[[1985年3月14日国鉄ダイヤ改正|国鉄ダイヤ改正]]、全普通列車が停車。[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 ** [[3月28日]]:駅ビル「北千住ウイズ」(現・ルミネ北千住)開業<ref group="新聞">{{Cite news |title=「WIZ」がオープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1985-03-28 |page=4 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月23日]]:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線のホームを拡幅<ref name="tobu100thd_430">[[#tobu100th-document|東武鉄道百年史[資料編]]]、p.430。</ref>。上りホームが幅員14&nbsp;m、下りホームが幅員10&nbsp;mとなる<ref name="tobu100thd_430"/>。 * [[1992年]](平成4年)4月:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線の駅改良工事が着工<ref group="報道" name="pr19961128" />。 * [[1993年]](平成5年)[[8月28日]]:JR東日本の駅に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年) ** [[2月29日]]:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線の浅草寄りに2階コンコースと改札口およびホームとを結ぶエスカレーター3基を新設し、供用開始<ref name="tobu100thd_444">[[#tobu100th-document|東武鉄道百年史[資料編]]]、p.444。</ref><ref group="新聞" name="交通960308">{{cite news|title=進む北千住駅改良工事 東武営団 2階部分を一部使用開始 |newspaper=交通新聞 |date=1996-03-08 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。従来の2階コンコースと階段を閉鎖<ref group="新聞" name="交通960308" />。 ** [[7月23日]]:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線の3階ホームが暫定2面2線で使用開始<ref name="eidan237"/><ref name="eidan616">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.616。</ref>。営団地下鉄千代田線との連絡通路を南側に新設<ref name="tobu100thd_444" />。 ** [[10月1日]]:東武伊勢崎線1階上りホーム・下りホームから2階コンコースにエスカレーターを各1基、東武伊勢崎線1階下りホームから営団地下鉄千代田線地下通路へエスカレーターを1基設置<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970802234028/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu.html|language=日本語|title=着々と進む北千住駅大改良工事 エスカレーター3基を使用開始 10月1日(火)から|publisher=東武鉄道/営団地下鉄|date=1996-10-01|accessdate=2021-01-29|archivedate=1997-08-02}}</ref>。 ** [[12月11日]]:東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線の3階ホームが2面3線となる<ref group="報道" name="pr19961128">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu2.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970802233924/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu2.html|language=日本語|title=着々と進む北千住駅大改良工事 12月11日(水)から日比谷線・東武日比谷線相互直通ホームが2面3線に 都心方向への発車ホームは6・7番線を使用|publisher=東武鉄道/営団地下鉄|date=1996-11-28|accessdate=2021-01-29|archivedate=1997-08-02}}</ref>。2階コンコースから3階下りホームへのエスカレーターを1基設置。 * [[1997年]](平成9年)[[3月25日]] ** 東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線の駅改良工事が竣工<ref group="報道" name="pr19970318">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/senjyu.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970802233742/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/senjyu.html|language=日本語|title=3月25日(火)に北千住駅改良工事が完成 より一層のサービス向上をめざし同日からダイヤ改正も実施|publisher=東武鉄道/営団地下鉄|date=1997-03-18|accessdate=2021-01-29|archivedate=1997-08-02}}</ref><ref name="eidan237"/><ref name="eidan617">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.617。</ref>。1階ホームが2面4線となる<ref group="報道" name="pr19970318" />。 ** 東武伊勢崎線の1階下りホームに特急専用ホームを新設<ref group="報道" name="pr19970318" />。有料特急・急行が全列車停車するようになる<ref group="報道" name="pr19970318" />。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、日比谷線・千代田線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[8月24日]] ** 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅が開業<ref group="新聞" name="news20050823">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051227171646/http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|title=つくばエクスプレス24日開業 モバイルもOK|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-23|accessdate=2020-11-28|archivedate=2005-12-27}}</ref><ref group="新聞" name="news20050824">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060106144928/http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|title=TX開業で沿線の暮らしに変化 住宅開発・生徒取り込み|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-24|accessdate=2020-11-28|archivedate=2006-01-06}}</ref>。 ** JR・東武が南改札を、同2社と東京メトロ(千代田線)が仲町方面出口を供用開始。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:東武鉄道のダイヤ改正に伴い、当駅 - [[浅草駅]]間の区間列車が設定される<ref group="報道" name="pr20051216">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051229174153/http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf|format=PDF|language=日本語|title=“より便利に” “より快適に” 3月18日 伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施|publisher=東武鉄道|date=2005-12-16|accessdate=2020-07-25|archivedate=2005-12-29}}</ref>。これに伴い[[小菅駅|小菅]]寄りに引き上げ線が新たに造られた。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東武鉄道・東京メトロ・首都圏新都市鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:[[小田急ロマンスカー]]の千代田線への直通運転が開始される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-m23.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512200438/http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-m23.html|language=日本語|title=2008年3月15日(土)からロマンスカー・MSEによる東京メトロ線への直通運転を開始します|publisher=東京地下鉄|date=2007-12-20|accessdate=2020-05-02|archivedate=2012-05-12}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[12月1日]]:東武鉄道の駅に[[発車メロディ]]を導入。 * [[2012年]](平成24年)4月:東口に副名称として'''電大口'''を導入。 * [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:[[上野東京ライン]]の開業に伴うJR東日本のダイヤ改正により、常磐線特別快速の停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200203125122/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2015年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|page=6|date=2014-12-19|accessdate=2020-07-25|archivedate=2020-02-03}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[12月14日]]:駅ナカ商業施設「EQUiA北千住」がオープン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/248127d806f8b41507f0b57121e0869a/171023.pdf?date=20171023164249|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180107225632/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/248127d806f8b41507f0b57121e0869a/171023.pdf?date=20171023164249|format=PDF|language=日本語|title=駅ナカ商業施設「EQUiA(エキア)北千住」が12月14日(木)グランドオープン! 〜2020年までに沿線に「EQUiA」20施設の展開を目指し、お客さまの利便性向上を図ります〜|publisher=東武鉄道|date=2017-10-23|accessdate=2020-07-23|archivedate=2018-01-07}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[3月31日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=571|title=駅の情報(北千住駅):JR東日本|accessdate=2020-02-01|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://archive.ph/hM4Lu|archivedate=2020-02-01}}</ref>。 ** [[10月29日]]:JR東日本の南改札外に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 新橋/大崎/赤羽/北千住の4駅にSTATION BOOTHが開業!|publisher=STATION WORK|date=2020-10-28|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118062545/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2020-11-18}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[3月14日]]:東武鉄道の5 - 7番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道" name="pr202012124">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/202012241304295clbXYVgls5VhfTUIXWH1w.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201224095547/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/202012241304295clbXYVgls5VhfTUIXWH1w.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武スカイツリーライン 北千住駅(3Fホーム)・新越谷駅・東上線 志木駅(1・2番ホーム)にてホームドアの使用を開始します!|publisher=東武鉄道|date=2020-12-24|accessdate=2020-12-24|archivedate=2020-12-24}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[2月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd_571">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=571|title=駅の情報(北千住駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-01-19|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220118150422/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=571|archivedate=2022-01-18}}</ref><ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211028150954/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_2f55c1cbc89b49a19c251756274ebc20.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その2)」について提案を受ける!!|date=2021-10-26|archivedate=2021-10-28|accessdate=2021-10-28|publisher=輸送サービス労組 東京地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。[[みどりの窓口]]が臨時窓口化<ref name="StationCd_571" /><ref name="outsourcing" />。 == 駅構造 == JR東日本・東京メトロ・東武鉄道の改札口は各社別にあるが、地下を通じて改札内でつながっている。首都圏新都市鉄道の改札口のみ他社線とつながっていない。 [[自動改札機]]での[[乗車券]]の対応が異なっており、東京メトロ千代田線乗り場を掲げる地下乗り場改札口は東京メトロ・JR・東武のいずれにも対応しているが、JRはJRのみ、東武は東武・東京メトロに対応している。なお、[[ICカード]]はどの改札口でも対応している。例として東武線内でPASMOで入り、JR改札口をタッチで出ることは可能。また、そのままJR線に乗車した場合でも、北千住乗り換えの運賃が下車駅で自動精算される(経路や下車駅により異なる場合もある)。 {|class="wikitable" !場所!!事業者!!改札内!!備考 |- |西側高架 |首都圏新都市鉄道 |専用 | |- |西側地平 |JR東日本(常磐快速線) |rowspan="3"|事実上共通 | |- |地下 |東京メトロ(千代田線) |運賃計算上JR(常磐緩行線)を兼ねる |- |東側地平・高架 |東武・東京メトロ(日比谷線) | |} 同一事業者線が複数の部分に分かれている関係上、地上乗り場(JR・東武・東京メトロ)と地下乗り場の間に[[中間改札]]はない。かつては中間改札窓口があり、有人の中間改札口も設置されていた。その後詰め所は閉鎖され、JR線運賃の精算・Suicaの対応や乗車券を購入する際は、正面の東京メトロ線改札そばの係員が対応している。窓口が閉鎖された後も中間改札の設備は残存していたが、2014年3月に設備が撤去された。また、地下乗り場と東武線・東京メトロ日比谷線との連絡通路の間にも有人の中間改札があったが、こちらも無人となり、設備が撤去された。 {|class="wikitable" !改札口名称!!券売事業者線 |- |千住警察署方面 |rowspan="3"|JR・東京メトロ・東武 |- |西口駅前広場方面 |- |千住ミルディス方面 |- |(JR)北 |rowspan="3"|JR(綾瀬駅までを除く) |- |駅ビル(ルミネ)方面 |- |(JR)南 |- |(東武)北 |rowspan="3"|東武・東京メトロ |- |(東武)中央 |- |(東武)南 |} 北改札口からは西口・東口(電大口)と称する出入口が、2005年8月に新設された南改札口からは仲町出口と称する出入口がそれぞれある。仲町出口側には、地上階・千代田線改札階行きの[[エレベーター]]も設置されている。なお、北改札口の[[コンコース]]は東側は東武、西側はJRの駅舎で、各出入り口の駅の社章([[ロゴタイプ|ロゴ]])はそれぞれのものしか掲出されていないが、コンコース間はそのままつながっており通り抜けられる。つくばエクスプレス線の改札口は、JR・東武線の間に割って入るように存在している。 東武・東京メトロの階層を基準にすると、B2階は千代田線(JR常磐緩行線)のホーム、B1階は千代田線(JR常磐緩行線)の改札・コンコース階、1階はJR常磐快速線と東武伊勢崎線ホーム、2階はJR・つくばエクスプレス・東武・日比谷線の改札・コンコース階、3階は東武伊勢崎線(各駅停車)・日比谷線のホームとなる。JR・首都圏新都市鉄道の階層基準は並立する[[ルミネ]]と同じで、2階はJR常磐快速線のホーム、3階は改札・コンコース、4階はつくばエクスプレスのホームとなる。 東京メトロ千代田線のみホーム・改札口が地下にある。なお、ホームの番号は連続しておらず、管理社ごとに1番線から振っている。 このような駅の構造上、ICカードを利用して[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]や[[表参道駅]]まで乗車する場合に千代田線経由か東武線・[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]経由か区別できないという現象が生じている。この場合、[[運賃]]は前者のものとみなされて計算される。また、同様にして当駅から[[中野駅 (東京都)|中野駅]]以遠まで乗る場合に[[東京メトロ東西線|東西線]]経由かJR線経由か区別できなくなっている。この場合、入場駅・出場駅がいずれも共用駅(改札内を共有する駅、[[綾瀬駅|綾瀬]]・北千住・中野)でないJR線の駅の場合は後者、いずれか一方でも共用駅の場合は前者とみなされる。また、[[西船橋駅]]以遠のJR線まで乗車する場合でも、東西線経由の運賃が適用される場合がある。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 北千住駅 |画像 = JR Joban-Line Kita-Senju Station North Gates.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北改札(2021年5月) |よみがな = きたせんじゅ |ローマ字 = Kita-Senju |電報略号 = キセ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |開業年月日 = [[1896年]]([[明治]]29年)[[12月25日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面3線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =26 }}</ref> |所在地 = [[東京都]][[足立区]][[千住旭町]]42-2 |座標 = {{coord|35|44|58.26|N|139|48|17.38|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 北千住駅}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 183,824 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |所属路線 = {{color|#00b261|■}}{{color|#3333ff|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]] |前の駅 = JJ 04 [[南千住駅|南千住]] |駅間A = 1.8 |駅間B = 10.5 |次の駅 = [[松戸駅|松戸]] JJ 06 |駅番号 = {{駅番号r|JJ|05|#00b261|1}} |キロ程 = 5.2&nbsp;km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[上野駅|上野]]から7.4 |起点駅 = |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]] * [[みどりの窓口]] 有(臨時窓口)<ref name="StationCd=571_230914">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=571|title=駅の情報(北千住駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230914115009/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=571|archivedate=2023-09-14}}</ref> * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|南改札口に導入<ref name="StationCd=571_230914" />。}}<ref name="StationCd=571_230914" /> * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=571_230914" /> * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[単式ホーム]]1面1線と[[島式ホーム]]1面2線、計2面3線のホームを有する{{R|zeneki05}}[[地上駅]]で[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。上下線の間に上下共用の待避線を1本設けており、1番線が単式ホームで2・3番線が島式ホームとなっている。このタイプは、東京都区内のJR駅では同駅が唯一の例である(その他の地域では[[君津駅]]や[[相模湖駅]]など多数の例が存在する)<!--{{要出典範囲|date=2020年12月|「国鉄式」}}-->。原則として下り列車は1番線、上り列車は3番線に停車するが、当駅で通過列車を待ち合わせる場合は上下とも2番線を使用する。朝ラッシュ時間帯は東京方面では通過待ちがない場合でも一部の電車は2番線に停車する。 地上のJR改札口の[[自動券売機]]では綾瀬駅までの乗車券を発売しておらず(JR東日本では当駅から綾瀬駅までの乗車券を発売しない<ref name="JR-ayase">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/01_syo/01_setsu/03.html|title=旅客営業規則 第2編 旅客営業 - 第1章 通則|website=東日本旅客鉄道公式サイト|accessdate=2020-12-12}} 旅客営業規則第16条の5に「常磐線北千住・綾瀬間相互発着となる旅客に対しては、乗車券類の発売を行わないものとする」との規定あり。</ref>)、千代田線乗り場で購入するよう案内されている。ただし、便宜上150円区間の乗車券(南千住までの運賃が同額)を使用することは可能である。 発券が全面自動化される前は、国鉄→JR東日本の窓口でも、'''営団地下鉄発行'''の綾瀬駅までの硬券の乗車券が委託扱いで販売されていた。券面には「'''交通営団'''」または「'''帝都高速度交通営団'''」の社名に加え、委託販売であることから国鉄時代は東京北[[鉄道管理局]]を示す丸囲みの「北」が、民営化後はJR東日本を示す四角囲みの「東」の記号も入っていた。 ホームの上野寄りには千代田線地下ホーム2番線への連絡階段が設置されているが、JR東日本は旅客案内上、当駅 - 綾瀬駅間を「常磐線(各駅停車)」の一部としても位置付けていることから、連絡階段前には「常磐線(各駅停車)」と書かれた案内看板が設置されている。常磐線(快速)ホームから千代田線ホームへは改札を通らずに直接行き来できる<ref group="注釈">かつては無人状態の有人改札口が残っていた。</ref> が、この際地下ホームおよび綾瀬駅までを東京メトロの施設を利用することになるため、{{要出典範囲|date=2020年12月|さまざまな案内放送・表示がある}}。 ==== のりば ==== <!--方面表記および路線表記は、JR東日本の「駅構内図」記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 | rowspan="2" |[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速) | rowspan="2" style="text-align:center;" |下り | rowspan="2" |[[松戸駅|松戸]]・[[柏駅|柏]]・[[成田駅|成田]]・[[取手駅|取手]]・[[土浦駅|土浦]]・[[水戸駅|水戸]]方面 | |- ! rowspan="2" |2 | rowspan="2" |待避線 |- | rowspan="2" |[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)<br>{{Color|purple|■}} [[上野東京ライン]] | rowspan="2" style="text-align:center;" |上り | rowspan="2" |[[日暮里駅|日暮里]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面 |- !3 | |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/571.html JR東日本:駅構内図]) * 1980年代後半から1990年代前半にかけて、特急[[ひたち (列車)|「ひたち」・「スーパーひたち」]]が最多で1日5往復停車していた時期がある(現在は「ひたち」・「ときわ」ともに全列車通過。ただし例外として、2013年秋頃に[[日暮里駅]]でホーム拡幅工事を行った際には、当駅発着の特急「スーパーひたち」・「フレッシュひたち」が運転された)。停車する特急は、2015年3月21日から2021年2月28日まで運行された[[臨時列車|臨時]]「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」のみであった。 * 平成になってからJRでホーム増設をしたために、3番線は東武と重複して存在するようになったが、その後東武でも番号を振り直し、1・2番線が付与された。 <gallery> JR Joban-Line Kita-Senju Station South Gates.jpg|南改札(2021年5月) JR Joban-Line Kita-Senju Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月) </gallery> {{clear}} === 東京メトロ千代田線 === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 北千住駅 |画像 = Tokyo Metro Chiyoda-Line Kita-Senju Station West Station Square Gates.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口駅前広場方面改札口(2021年5月) |よみがな = きたせんじゅ |ローマ字 = Kita-senju |電報略号 = キセ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |開業年月日 = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月20日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |所在地 = [[東京都]][[足立区]][[千住]]二丁目63 |座標 = {{coord|35|44|58.35|N|139|48|16.21|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 北千住駅(千代田線)}} |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />215,800 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |所属路線 = {{color|#00bb85|●}}[[東京メトロ千代田線|千代田線]] |駅番号 = {{駅番号r|C|18|#00bb85|4}} |前の駅 = C 17 [[町屋駅|町屋]] |駅間A = 2.6 |駅間B = 2.6{{Refnest|group="**"|当駅 - 綾瀬駅間をJR線として扱う場合、キロ程は2.5&nbsp;km。なお、東京メトロ線として扱う場合も、運賃計算上は2.5&nbsp;km。}} |次の駅 = [[綾瀬駅|綾瀬]] C 19 |キロ程 = 2.6&nbsp;km([[綾瀬駅|綾瀬]]起点)<br />[[北綾瀬駅|北綾瀬]]から4.7 |起点駅 = |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP926" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="**"}} }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]。つくばエクスプレスが開業するまでは足立区唯一の地下駅であった。JR常磐線の緩急接続駅(快速、特別快速と各駅停車)としての機能も有している<ref name="metro-ayase">{{Cite web|和書|title=千代田線 綾瀬・北千住間の運賃 {{!}} PASMO・定期・乗車券 {{!}} 東京メトロ|url=https://www.tokyometro.jp/ticket/particularcase/ayase_kitasenju/index.html|website=www.tokyometro.jp|accessdate=2020-05-30}}</ref>。このため、[[首都圏ICカード相互利用サービス]]開始前から、改札機でのSuicaおよび[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が発行する[[ICOCA]]の利用が可能だった他、PASMO導入後も、ICカード10種相互利用開始前からSuicaと相互利用しているICカードで当駅・綾瀬駅間を乗車することが可能である。この例外は、東京メトロの駅では、当駅と綾瀬駅のみ取り扱いであった。ただし、運賃計算上の規定により、相互利用に対応していないPASMO事業者では使えないICカードが使用できる状態にある区間は他にも存在していた。 前述の通り、JR・東武ともつながってるため、各改札口はこの2社の改札としての利用も可能であるが、自動精算機が設置されていない場所や券売機の設置状況・乗車券の発売等に制限がある場合がある。 当駅 - 綾瀬駅間のみを乗車する場合は特殊区間として、運賃は東京メトロの初乗り運賃(乗車券180円・ICカード178円)でなく、JR東日本の[[電車特定区間]]の初乗り運賃と同額の乗車券150円・ICカード146円が適用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/ticket/terms/pdf/ryokyaku_eigyo_200606.pdf|format=PDF|title=旅客営業規程|page=15|website=東京メトロ公式サイト|accessdate=2020-12-12}} 旅客営業規程第52条に規定あり</ref>。この区間のみの乗車券は東京メトロのみで発売する{{R|JR-ayase}}ため、乗車券は東京メトロの券売機で発売しており、JRの切符売り場でも綾瀬までの乗車券は東京メトロ千代田線切符売り場で購入するように案内している。また、ICカードによる入場時の必要残額も同様の理由で146円となっている。 一方、亀有・金町方面は当駅 - 綾瀬駅間もJR線として計算するほか、日暮里・三河島方面から北綾瀬駅まで乗車した場合も旅行開始駅 - 綾瀬駅間をJR線として運賃計算する(綾瀬駅までの運賃+綾瀬・北綾瀬間の東京メトロ180円(ICカードは178円)の運賃になる)。 ただし、運転上当駅 - 綾瀬駅間は東京メトロ線であり{{Efn|このため、東京メトロ千代田線が運休になるとJR常磐緩行線は綾瀬駅で運行が打ち切られ、当駅まで乗り入れない。[[常磐緩行線#複々線化の沿革と問題]]も参照。}}、大手町方面・日比谷線から当駅を乗り越して北綾瀬駅に向かう場合は全区間を東京メトロ線として運賃計算する{{R|metro-ayase}}。 首都圏新都市鉄道への乗り換えのみいったん改札を出る必要がある。{{要出典範囲|date=2020年12月|定期券売り場のそばに通路が新設され、仲町口の出入り口を経由して南口改札につながっている}}。地上階・南口改札階行きのエレベーターがある。また、JR線経由の場合は、連絡通路を通って地上のJR南口改札を利用することもできる。 {{要出典範囲|date=2020年12月|平日朝[[ラッシュ時]]の1番線ホームはかなり混雑する。特に我孫子方面から直通する列車は大量の積み残しが出る}}。ただし、数本存在する手前の綾瀬始発の列車は比較的空いているため、これを待つ乗客もいる。駅のアナウンスでも次の列車が綾瀬発の場合はその列車に乗車するよう勧める案内をするほか、この時間帯に限り、1番線ホームの発車案内表示器の種別表示の箇所横に「綾瀬始発」と表示される(始発列車の場合のものと同様)。時刻表にも綾瀬始発の表記(三角)がされている(時刻表は全時間帯で記載)。{{独自研究範囲|date=2020年12月|なお、当駅と次駅の[[町屋駅]]では、平日朝ラッシュ時の最混雑時間帯は、発車ブザー終了後にすぐにドアを閉める}}。 東京メトロの駅務管区所在駅であり、北千住駅務管区として北千住地域・[[南千住駅|南千住]]地域・[[新御茶ノ水駅|新御茶ノ水]]地域を管理する<ref name="RP926">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 |[[代々木上原駅|代々木上原]]・[[本厚木駅|本厚木]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/timetable/chiyoda/a/index.html |title=北千住駅時刻表 代々木上原・伊勢原・唐木田方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[綾瀬駅|綾瀬]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/timetable/chiyoda/b/index.html |title=北千住駅時刻表 綾瀬・我孫子・取手方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/yardmap/index.html 東京メトロ:駅構内図]) * 始発・最終列車とも、A線(代々木上原方面)は当駅止まり、B線(綾瀬方面)は当駅始発である。元々第一期開業区間の起点だったことから町屋方に渡り線があり<ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、この渡り線を使ってA線からB線に折り返している。 * B線の列車には、時間調整や常磐快速線との終電接続の関係で数分停車するものがある。 * [[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]は、一部が当駅始発・当駅止まりとなる。いずれも当駅 - 綾瀬駅 - 綾瀬検車区間の出・入庫を経るが、当駅から綾瀬駅間では営業運転は行わない。当駅のホームには特急券売機が設置されている。 <gallery> 東京メトロ北千住駅地上出口.jpg|東京メトロ北千住駅地上出口(2016年8月) 東京地下鉄北千住駅運賃表.jpg|東京地下鉄北千住駅運賃表(2018年2月、綾瀬駅の運賃がJR基準の運賃が適用されている。) Kitasenju-renrakukaisatsu.jpg|東京メトロとJRとの中間改札(2011年7月、現在は撤去済) Tokyo Metro Chiyoda-Line Kita-Senju Station Senju Police Station Gates.jpg|千住警察署方面改札(2021年5月) Tokyo Metro Chiyoda-Line Kita-Senju Station Senju Mildix Gates.jpg|千住ミルディス改札(2021年5月) JR・Tokyo Metro Kita-Senju Station Station Bidg. (LUMINE) Gates.jpg|駅ビル(ルミネ)方面改札(2021年5月) Tokyo Metro Chiyoda-Line Kita-Senju Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月) </gallery> === 東武鉄道・東京メトロ日比谷線 === {{独自研究|date=2018年4月|section=1}} {{駅情報 |社色 = #0f6cc3<!-- 東武鉄道管轄のためこの色を使用いたします。 --> |文字色 = |駅名 = 東武・東京メトロ 北千住駅<br />(伊勢崎線・日比谷線) |画像 = 東武北千住駅中央改札口.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東武スカイツリーライン・日比谷線中央改札口 |よみがな = きたせんじゅ |ローマ字 = Kita-senju |電報略号 = キセ |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東武鉄道]](東武) * [[東京地下鉄]](東京メトロ)}} |開業年月日 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[8月27日]] |駅構造 = [[地上駅]]・[[高架駅]] |ホーム = {{Plainlist| * 2面4線(地上) * 2面3線(高架/日比谷線直通)}} |所在地 = [[東京都]][[足立区]][[千住旭町]]42-1 |座標 = {{coord|35|44|57.66|N|139|48|19.39|E|region:JP_type:railwaystation|name=東武・東京メトロ 北千住駅(伊勢崎線・日比谷線)}} |廃止年月日 = |乗降人員 = {{Smaller|(東武鉄道)-2022年-}}<br />382,081{{Refnest|group="***"|name="personnel"|直通による通過人員含む。}}人/日<hr />{{Smaller|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />251,503<ref group="***" name="personnel" /> |統計年度 = |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武伊勢崎線]]{{Refnest|group="***"|name="direct"|両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。}}<br />(東武スカイツリーライン) |前の駅1 = TS 08 [[牛田駅 (東京都)|牛田]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = 1.1 |次の駅1 = [[小菅駅|小菅]] TS 10 |駅番号1 = {{駅番号r|TS|09|#0f6cc3|1}} |キロ程1 = 7.1 |起点駅1 = [[浅草駅|浅草]] |所属路線2 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ日比谷線]]<ref group="***" name="direct" /> |前の駅2 = H 21 [[南千住駅|南千住]] |駅間A2 = 2.1 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = {{駅番号r|H|22|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 北千住<!--駅番号の付番と逆--> |備考 = [[共同使用駅]](東武鉄道の管轄駅)<ref name="RP949_44-45" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="***"}} }} [[ファイル:Kitasenju Station South Gate (Tobu Line).jpg|thumb|南改札口(2020年11月)]] [[ファイル:東武北千住駅南改札口.jpg|thumb|リニューアル前の南改札口(2016年8月)]] [[File:0km Post at Tobu Isesaki Line in Kita-senju station on home.jpg|thumb|ホーム床面に埋め込まれた0キロポストと東武鉄道の社紋(2011年5月)]] 東武鉄道は[[1899年]]([[明治]]32年)に当駅より[[久喜駅]]まで開業したため、当駅に[[距離標|0キロポスト]]が設置されている。当駅からの下り列車の本数は、東京メトロ日比谷線からの直通列車が加わるため[[浅草駅|浅草]]発の本数に比べて2倍近くに増え、東武伊勢崎線の都心側拠点駅(ターミナル駅)となっている。 当駅は東京メトロ日比谷線の起点でもあり、東武スカイツリーラインと東京メトロ日比谷線は、当駅を境に[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。 駅の管理は東武が行っており、[[駅名標]]もすべて東武のフォーマットに準拠している。別に設置されている東京メトロの券売機で東京メトロの乗車券(片道乗車券・回数券・連絡乗車券・一日券)も発売しているが、ICカードのチャージには非対応で綾瀬駅までの乗車券(150円)は発売していない。押上経由地下鉄半蔵門線方面の乗車券は東武の券売機での発売となる。前述の通り、改札内が東京メトロ千代田線(JR常磐緩行線)のりばとつながっているため、ICカードによる入場時の必要残額(最低)は146円となっている。 1・2番線(1階東武スカイツリーライン下り)の小菅方には特急列車の乗車専用ホームを備える。特急ホーム手前には中間改札と特急券売り場が設けられている。 特急券売り場にはPASMO・Suica対応の特急券券売機以外に、有人窓口がある。また、この窓口に限りICカードには対応していない。 1階ホームと3階ホームとの乗り換えには2分程度の時間を要する。2階は改札口およびコンコースになっており、[[飲食店]]・[[書店]]などの店舗・[[売店]]が出店している。 [[発車メロディ]]は、2010年12月1日より1階全ホームと3階ホーム5番線で導入された(6・7番線は、導入後も東京メトロ仕様の発車ブザーを使用)。東武スカイツリーライン内の中間駅で導入されたのは、西新井駅、曳舟駅に次いで3駅目である。なお、特急ホームでは[[浅草駅]]と同じ「PASSENGER」のフェードアウトバージョンを使用している。 2017年12月14日より東武鉄道管轄コンコースでBGM試験放送が開始し、2018年4月17日には1階ホームへも範囲を拡大した<ref name="tobu_newsletter_180417" group="報道">{{Cite press release|和書|title=東上線 新河岸駅構内でBGMの試験放送を開始します 〜東武スカイツリーライン北千住駅に続いて2駅目の実施〜|publisher=東武鉄道|date=2018-04-17|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/ef4824ba0cd2b710a397f899877907e1/newsletter_180417.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-07-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180418102352/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/ef4824ba0cd2b710a397f899877907e1/newsletter_180417.pdf|archivedate=2018-04-18}}</ref>。同年11月30日には[[新河岸駅]]と共に本放送として開始した<ref group="報道" name="tobu_newsletter_181130">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/806f110120bb97be08ad3ffea6aeebe4/newsletter_181130.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181201135125/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/806f110120bb97be08ad3ffea6aeebe4/newsletter_181130.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武北千住駅、新河岸駅構内でBGM本放送を開始します 〜今後季節に応じたBGMラインナップの変更も行います〜|publisher=東武鉄道|date=2018-11-30|accessdate=2020-07-23|archivedate=2018-12-01}}</ref>。 東武北千住駅管区として、伊勢崎線の当駅 - [[新田駅 (埼玉県)|新田駅]]間の各駅と[[東武大師線|大師線]]の[[大師前駅]]を統括管理している<ref name="RP949_44-45">{{Cite journal|和書|author=東武鉄道営業部・運輸部・鉄道乗務員養成所|title=駅・乗務管区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=44 - 45頁|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== ;1階ホーム(1 - 4番線、特急専用ホーム) * 1階(1 - 4番線)は東武スカイツリーライン専用で、島式2面4線の地上ホーム。上下線とも当駅止まりの列車が設定されているため、20&nbsp;m車の10両編成が対応できる留置線が牛田方に3本、小菅方に1本設けられている。上り列車は当駅での乗り換え利用客が多いので車内が空き、逆に下り列車は当駅から混雑する。 ** 本線および急行線は下りが1番線、上りが4番線である。待避線および緩行線は下りが2番線、上りが3番線であり、当駅始発・当駅止まりの列車も原則として2・3番線を使用する。3番線は浅草寄りの待避線が長めに取られているため、当駅で特急列車などの速達列車の待ち合わせを行う普通列車は4番線の列車が発車直後に発車し、当駅 - 牛田駅間を徐行しながら先行列車との間隔を空けることが可能である。上りの当駅始発列車は、[[南栗橋車両管区|南栗橋車両管区春日部支所]]などから送り込まれた[[回送|回送列車]]が急行線を走行して4番線に到着し、発車する列車もある。[[駅名標]]は全ホーム普通列車が発着できる構造なので隣の駅(小菅駅および牛田駅)の表記となっている。 * 2013年3月15日まで、平日朝に10両編成の区間急行浅草行きが設定されていたが、浅草駅に10両編成が入線できないため、当駅で後ろ4両を切り離していた。 * 当駅から浅草方面へ向かう区間急行・区間準急は各駅に停車する。 *[[東武70000系電車|70000系]]による当駅 - 東武動物公園駅間において早朝の当駅始発、夜間の当駅止まりの普通列車が設定されている。 * 特急ホームの駅名標は上り方の駅名表記がなく、下り方は春日部駅と東武動物公園駅の2駅表記されており、さらに特急列車のステッカーが貼られている。かつてはこの逆で下り方の駅名表記がなく<ref group="注釈">下りの特急・急行列車が全列車停車となった[[1997年]](平成9年)当時、下り方面の次停車駅が「[[けごん|スペーシア]]」は[[新栃木駅]]と[[下今市駅]]、「[[りょうもう]]」は[[加須駅]]と[[館林駅]]、[[東武300系電車|300系・350系]]の急行(「[[しもつけ (列車)|しもつけ]]」・「[[きりふり|南会津]]」など)は春日部駅と計5駅あり、列車により停車駅がまちまちだった。</ref> 上り方に浅草駅の表記があり、一時期上り・下りの両方が表記されていたが、特急の一部列車がとうきょうスカイツリー駅に停車するようになったため後に上り方は消去された。 * 3・4番線の中ほどには[[ファミリーマート]]がある。 * 事故などで日比谷線への直通運転が中止されると、3階ホームでは構造上の理由で折返し運転ができないため、1階ホームに入線する。 * 事故などで半蔵門線・東急田園都市線への直通運転が中止されると、当駅での折返し運転を行うため、直通運転が再開されるまで曳舟駅 - 押上駅間が不通になる。これは、2003年3月19日に直通運転が開始された時には構造上の理由で押上駅での折り返しができなかったことによる。 ** 日比谷線・半蔵門線への直通運転が同時に中止されると1階の留置線が混雑することがあり、その場合には一部列車を曳舟駅まで回送させて対応する場合がある。 ;3階ホーム(5 - 7番線) * 3階(5 - 7番線)は東京メトロ日比谷線および日比谷線から直通する東武スカイツリーラインの普通(各駅停車)乗り場で、島式ホーム2面3線を有する[[高架駅]]。5番線と7番線は東武スカイツリーラインの緩行線につながっている。 * 中央の6番線は主に日比谷線の当駅始発列車が使用する。5番線ホーム側には柵が設けられているため7番線側からしか乗降できない。3階ホームが完成した当初は暫定的に2面2線で運用されており、当駅止まりの列車と東武伊勢崎線直通列車は6番線に到着していたので7番線ホーム側には柵が取り付けられていた。その名残として現在も5番線ホームの柵の下には白線が残っている。また夜間留置が設定されており、車両が留置されている早朝・深夜の一部時間帯は、当駅始発列車も含めて全て7番線発着となる。 * 小菅方に日比谷線内折り返し列車用の留置線が2本ある。当駅で折り返す列車は5番線に到着後、留置線に一度引き上げてから改めて中目黒方面行きとして6番線(早朝・深夜の一部時間帯は7番線)に入線する。 * 6・7番線の[[駅名標]]および接近案内表示器は東武仕様のものだが、[[発車標]]や入線・到着および発車時の自動放送は東京メトロ仕様のものである。発車時も東京メトロ仕様の発車ブザー(通称:営団ブザー)が鳴動する。かつては自動放送や発車標も東武仕様だった。6・7番線のみ接近案内表示器でも次の列車の発車順序と行先、「直通」「始発」の別を表示している。 * 5番線の駅名標は東武スカイツリーラインのラインカラーである[[オレンジ色|オレンジ]]({{Color|orange|■}})と青となっており、6・7番線は日比谷線のラインカラーである[[銀|シルバー]]({{Color|silver|■}})となっている。両ホームとも両社の駅番号「TS 09」「H 22」が併記されている。 * 1階・2階の両端から地下に下りることができ(3階からは直接下りられない)、東京メトロ千代田線(JR常磐緩行線)ホームへの連絡通路につながっている(連絡改札はない)。地下階にも売店・書店などが出店している。 * 地上からホームまでの高さは14.4&nbsp;mであり、日比谷線のみならず東京メトロ全体を通しても地面からは最も高い駅である(ただし、標高では同線内の[[六本木駅]]より低い)<ref name="地図帳5-6-7">{{cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]]|volume=5 東京|year=2008|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-790023-4|pages=6-7}}</ref>。 * [[2020年]][[6月6日]]より運転を開始した「[[THライナー]]」は、上下列車とも乗務員交代と保安装置切り替えのために運転停車する(乗降不可)。また同日以降、浅草駅から区間準急の通過駅を通る普通列車が消滅したため、浅草駅から区間準急の通過駅を行き来するには必ず当駅で乗り継ぐ必要がある<ref group="報道" name="pr20200511">{{Cite press release|和書|title=2020年6月6日(土)ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【一般列車に関するお知らせ】|publisher=東武鉄道|date=2020-05-11|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/040328fbeb13f8e8d03628489a26122b/200511.pdf?date=20200511162158|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200516053303/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/040328fbeb13f8e8d03628489a26122b/200511.pdf?date=20200511162158|archivedate=2020-05-16}}</ref>。 <!--方面表記は、東武鉄道の「構内マップ」の記載に準拠(東武鉄道管轄のため)--> {| class="wikitable" rules="rows" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |-style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''1階ホーム''' |- !特急 |rowspan="3"|[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン |rowspan="2" style="text-align:center;"|下り |rowspan="2"|[[東武動物公園駅|東武動物公園]]方面 | rowspan="3" |2線ずつを共用 |- !1・2 |- !3・4 |style="text-align:center;"|上り |[[浅草駅|浅草]]方面 |-style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''3階ホーム''' |- !5 |[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン |style="text-align:center;"|下り |東武動物公園方面 |日比谷線から直通の普通(各駅停車) |- !6・7 |[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 |style="text-align:center;"|- |[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/timetable/hibiya/a/index.html |title=北千住駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |&nbsp; |} (出典:[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/1204.html 東武鉄道:構内マップ]) * 上記の路線名は旅客案内上の名称(「東武スカイツリーライン」は愛称)で表記している。 ==== 東武北千住駅(伊勢崎線・日比谷線) 配線図 ==== <div class="NavFrame" style="border:none;text-align:left;font-size:100%"> <div class="NavHead" style="background:transparent;text-align:left;font-weight:normal"> :{{small|※東武スカイツリーライン(伊勢崎線)と日比谷線の配線略図('''注意 巨大画像500px'''、表示巾720px)を表示するには、右の[表示]をクリックして下さい。→}} </div><div class="NavContent">{{駅配線図 |image = Rail Tracks map Tobu and Metro Kita-Senju Station ja.svg |title = 東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ) 北千住駅 鉄道配線略図 |width = 500px |up = [[上野駅|上野]]・[[銀座駅|銀座]]・[[中目黒駅|中目黒]] 方面 |up-align = center |left = [[浅草駅|浅草]]・[[押上駅|押上]]・<br />[[中央林間駅|中央林間]] 方面 |left-valign = bottom |right = [[東武動物公園駅|東武動物公園]]<br />・[[東武日光駅|日光]]・[[鬼怒川温泉駅|鬼怒川]]・<br />[[久喜駅|久喜]] 方面 |right-valign = bottom |down|down-align = |source = * 以下を参考に作成。<br />** [[電気車研究会]]、「東武鉄道線路配線略図」、『[[鉄道ピクトリアル]]』、第58巻第1号 通巻第799号「【特集】 東武鉄道」、<br />2008年1月 臨時増刊号、巻末折込。<br />** 池田直人(東武鉄道)、「東武鉄道-伊勢崎線の複々線と急行運転」、電気車研究会、『鉄道ピクトリアル』 第51巻12号<br />(通巻第710号) 2001年12月号、24頁、図-3 「浅草-東武動物公園間配線略図」。<br />** [http://www.tobu.co.jp/station/inside_map/1204.html 東武鉄道公式ホームページ 北千住駅構内マップ]<br />** [http://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/yardmap/index.html 東京メトロ公式ホームページ 北千住駅構内図] |note = {{small| ※図中、{{Color|#9caeb7|'''▲'''}}は当駅以南で日比谷線を走行する列車の、{{Color|red|'''▲'''}}は伊勢崎線および半蔵門線を走行する列車の、入線方向を表す。}}}} </div> </div> ===== 構内配線・信号設備等 ===== {|class="wikitable" !運転番線!!営業番線!!ホーム!!急行線伊勢崎方面着発!!緩行線南栗橋方面着発!!浅草方面着発!!日比谷線中目黒方面着発!!備考 |- |style="text-align:center"|1||style="text-align:center"|特急||style="text-align:right"|6両分||rowspan="3"|出発可||rowspan="3"|出発可||rowspan="3"|到着可||rowspan="5"|不可||rowspan="2"|伊勢崎線下り主本線 |- |style="text-align:center"|1||style="text-align:center"|1||style="text-align:right" rowspan="4"|10両分 |- |style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2||伊勢崎線下り副本線 |- |style="text-align:center"|3||style="text-align:center"|3||rowspan="2"|到着可||rowspan="2"|到着可||rowspan="2"|出発可||伊勢崎線上り副本線 |- |style="text-align:center"|4||style="text-align:center"|4||伊勢崎線上り主本線 |- |style="text-align:center"|5||style="text-align:center"|5||style="text-align:right" rowspan="3"|20m×7両分|| 梅島付近の渡り線を介して出発可||出発可||rowspan="3"|不可||到着可||style="text-align:left"|伊勢崎線下り緩行線 |- |style="text-align:center"|6||style="text-align:center"|6|| rowspan="2" |梅島付近の渡り線を介して到着可||rowspan="2"|到着可||rowspan="2"|出発可||style="text-align:left" rowspan="2"|日比谷線 |- |style="text-align:center"|7||style="text-align:center"|7 |} ==== 改良工事以前 ==== 1996年7月23日まで、当駅のホームは1階のみにあった。日比谷線との直通運転を開始してからは、2面4線のホームの内側が営団地下鉄日比谷線、外側が東武伊勢崎線という一般的な直通駅の形態をとっていて、相互の乗り換えの利便が図られていた。 この他、伊勢崎線上り・下りホームの浅草寄りに切欠状の待避ホーム(通称:予備ホーム)があり、実質的には2面6線の配線であった。下り列車の場合、当駅で通過・接続待ちを行う列車はまず待避ホームに入線して降車客を降ろし、特急・快速列車(優等列車)の待ち合わせた後に前方の一般ホームに移動して乗車客を乗せるという形態であった。なお上り列車の場合は駅発車後に待避ホームに入線し、ドア扱いはせず特急・快速列車の待ち合わせ後にそのまま発車する形態となっていた。この待避ホームにも番号が付けられており、上りは8番線、下りは7番線であった。このような構造は2014年現在でも[[京急蒲田駅]]で見られる。 なお、待避ホームは改良工事が進捗する際に廃止された。その後改良工事が竣工するまでは、[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]] - 当駅間の[[中千住駅|千住分岐点]]付近(現在の引上げ線付近)にあった線路類を利用し待避線を設け、そこで特急・快速列車を待避していた。 発車案内表示器は、[[東武動物公園駅]]と同じ[[反転フラップ式案内表示機]]を使用していた。また接近表示器も設置されており列車が接近すると「電車がきます」と赤文字で点滅していた。この接近表示器は竹ノ塚、北越谷(下り線のみ)、大袋、東武動物公園の各駅に移植されたが、このうち竹ノ塚駅、北越谷駅は高架化に伴い、また大袋駅は橋上駅化により共に撤去された。 当時ののりばは以下の通りである。番線は常磐線ホームの続番(当時、3番線はなかった)であった。 {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !3 |rowspan=2|{{Color|#ce3446|■}}東武伊勢崎線 |rowspan=2 style="text-align:center"|下り |rowspan=2|春日部方面 |浅草からの列車 |- !4 |地下鉄日比谷線からの列車 |- !5 |{{Color|#b5b5ac|●}} 地下鉄日比谷線 |style="text-align:center"| - |中目黒・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]<ref group="注釈">東急東横線との相互直通運転は2013年3月15日をもって終了した。</ref> 方面 |当時路線記号はない |- !6 |rowspan=3|{{Color|#ce3446|■}}東武伊勢崎線 |style="text-align:center"|上り |浅草方面 | |- !7 |style="text-align:center"|下り |春日部方面 |rowspan=2|予備ホーム |- !8 |style="text-align:center"|上り |浅草方面 |} <gallery> Kitasenju-Tobu-1F-Platform.JPG|1階ホーム(2016年6月) Kitasenju-Sta-Tobu-3F-Platform.JPG|3階ホーム(2016年6月) </gallery> ==== 駅弁 ==== かつては、主な[[駅弁]]として下記を販売していた<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2020 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |journal=JTB時刻表 |issue=2020年3月号 |page=612}}</ref>。 * 春らんまん御膳(行楽シーズン限定販売) === 首都圏新都市鉄道 === {{駅情報 |社色 = red |文字色 = |駅名 = 首都圏新都市鉄道 北千住駅 |画像 = Kita-senjyu Sta.Tsukuba South.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南改札口(2021年5月) |よみがな = きたせんじゅ |ローマ字 = Kita-Senju |電報略号 = |所属事業者 = [[首都圏新都市鉄道]] |開業年月日 = [[2005年]]([[平成]]17年)[[8月24日]]<ref group="新聞" name="news20050823"/><ref group="新聞" name="news20050824"/> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |廃止年月日= |乗車人員 = <ref group="TX" name="TX2022" />46,489 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |所在地 = [[東京都]][[足立区]][[千住旭町]]42-3 |座標 = {{coord|35|44|57.49|N|139|48|18.27|E|region:JP_type:railwaystation|name=首都圏新都市鉄道 北千住駅}} |所属路線 = [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] |前の駅 = TX04 [[南千住駅|南千住]] |駅間A = 1.9 |駅間B = 3.1 |次の駅 = [[青井駅|青井]] TX06 |駅番号 = '''TX05''' |キロ程 = 7.5 |起点駅 = [[秋葉原駅|秋葉原]] |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管理所所在駅]] }} 島式ホーム1面2線を有する[[高架駅]]で、[[ホームドア]]が設置されている。なお、首都圏新都市鉄道において東京都内唯一の地上駅となっている。3階に[[コンコース]]があり、ホームは4階にある。改札は北改札・南改札の2か所である。北千住駅は他の各社は全て同一改札内であるが、つくばエクスプレスのみ独立の改札を持つ。 青井方に保線基地があり、その先に両渡り線がある。この両渡り線は2016年10月15日実施のダイヤ改正で当駅始発普通八潮行きが終電車1本前に設定されたため、これに充当する送り込みの列車が使用していたが、2021年3月13日のダイヤ改正をもって同列車は廃止となった。 駅務管理所所在駅で、北千住駅務管理所として当駅 - [[南流山駅]]間の各駅を管理している。 ホームになっている場所はかつての貨物用地で、東武伊勢崎線と常磐線の連絡線があった。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、つくばエクスプレスの「駅全体図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Tsukuba Express symbol.svg|15px|TX]] つくばエクスプレス |style="text-align:center;"|下り |[[つくば駅|つくば]]方面<ref name="timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/route_map/kita-senju/|title=<nowiki>北千住駅|駅情報・路線図</nowiki> |website=つくばエクスプレス |publisher=首都圏新都市鉄道 |accessdate=2021-05-04}}</ref> |- !2 |style="text-align:center;"|上り |[[秋葉原駅|秋葉原]]方面<ref name="timetable" /> |} * 当駅から秋葉原方面へ向かう電車はすべて各駅に停車する。 <gallery> TX北千住駅中央改札口.jpg|北改札口(2016年8月) Tsukuba-express-05-Kita-senju-station-platform.jpg|ホーム(2008年1月) </gallery> {{-}} == 利用状況 == 2018年度の各社合計の乗降人員は約160万人であり、年間乗降人員は約5億8400万人。これは[[新宿駅]]、[[渋谷駅]]、[[池袋駅]]、[[梅田地区の鉄道駅|大阪・梅田駅]]、[[横浜駅]]に次いで世界6位の規模である。東京都内においては[[山手線]]の駅以外では最も利用者数が多い。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''183,824人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 綾瀬駅までの乗車人員を含まない値である。JR東日本の駅では[[秋葉原駅]]に次ぐ第10位で、東京都内における山手線外の駅としては最も乗車人員が多い駅である。2006年度以降は乗車人員が[[上野駅]]よりも多くなり、常磐線の駅として最も乗車人員が多い駅でもある。1日平均乗車人員は1992年度をピークに減少傾向にあったが、2007年度以降は19万人台で横ばい傾向になり、2013年度は開業以降で初めて20万人を上回った。2015年3月14日の[[上野東京ライン]]開業により[[東京駅|東京]]・[[新橋駅|新橋]]・[[品川駅|品川]]駅方面へ直結し、東武スカイツリーライン・つくばエクスプレス方面などからの乗り換え客が増えたことなども手伝い、2014年度以降も増加傾向にある。 *: 全乗車人員に対する定期利用客の割合が極めて高く、全体の7割強を占める。1日平均定期利用客は12万人を上回っており、これは渋谷駅や品川駅に匹敵する。一方で1日平均定期外利用客は5万人を下回っており、上野駅よりも少ない。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の東京メトロ線内の1日平均乗換人員は'''16,221人'''である<ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>。<!--関東交通広告協議会の出典は、東京メトロ線内の乗換人員を含む値である。したがって、東京メトロ線内の乗換人員を含まない東京メトロの出典とは、乗換人員分の差が生じる。--> ** '''千代田線''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''215,800人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 **: 綾瀬駅までの乗降人員を含む値である。東京メトロ全130駅の中では[[池袋駅]]、[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]に次ぐ第3位であるが、同社の地下鉄単一路線の駅としては乗降人員が最も多い<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。日本全体でも[[Osaka Metro御堂筋線]][[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]に次ぐ第2位である。2006年度までは1日平均乗降人員が32万人を越えていたが、つくばエクスプレス線の開業以降は常磐快速線からの乗換人員が減少しており、乗降人員も減少傾向にある。 ** '''日比谷線''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''251,503人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 **: 東武伊勢崎線との直通人員・[[通過人員]]が含まれた値である。東京メトロの他社直通連絡駅では[[渋谷駅]]、[[綾瀬駅]]に次ぐ第3位である。ピーク時は1日平均乗降人員が40万人近くまで増加したものの、輸送人員の減少や半蔵門線直通列車へのシフトが進んだことにより、近年は[[1970年代]]前半程度の乗降人員まで落ち込んでいる。 * '''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''382,081人'''である<ref group="利用客数">[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。 *: 東武鉄道の駅では池袋駅に次ぐ第2位(ただし、日比谷線との直通人員・通過人員が含まれた値である)。起点の[[浅草駅]]に代わって伊勢崎線([[東武本線]]系統)内での実質的な[[ターミナル駅]]として機能している。1962年に日比谷線と直通運転を開始するまでは、当駅よりも浅草駅のほうが乗降人員が多かった<ref name="toukei1957">交通東武昭和34年6月10日号</ref>。しかし、日比谷線と直通運転を開始してからは当駅の利用者数が急増し、1961年から1968年までの8年間で1日平均乗車人員が10万人以上増加した。1992年度にピークを迎えた後は緩やかな減少傾向が続いていたものの、1999年度以降は1日平均乗車人員が約22万人で横ばい傾向にあり、伊勢崎線のターミナル駅としての地位は揺るがないものになっている。 * '''首都圏新都市鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗車'''人員は'''46,489人'''である<ref group="TX" name="TX2022" />。 *: つくばエクスプレス線の駅では起点の[[秋葉原駅]]に次ぐ第2位である。開業以降、乗車人員は増加傾向が続いている。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロのみ)。 * 千代田線・日比谷線の値には、東京メトロ線内の乗換人員を含まない。 * 東武鉄道・東京メトロ日比谷線の値には、相互直通人員を含む。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="train-media"/><ref group="乗降データ" name="adachi">[http://www.city.adachi.tokyo.jp/kuse/ku/aramashi/toke-suji.html 数字で見る足立] - 足立区</ref> !rowspan=3|年度 !colspan=2 rowspan=2|東武鉄道 !colspan=5|営団 / 東京メトロ |- !colspan=2|日比谷線 !rowspan=2|日比谷線<br />千代田線<br />乗換人員 !colspan=2|千代田線 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1998年(平成10年) |476,989|| | || | | || |- |1999年(平成11年) | || | || | |356,178|| |- |2000年(平成12年) |466,279|| |340,218|| | |351,230||&minus;1.4% |- |2001年(平成13年) |468,120||0.4% |344,417||1.2% | |341,182||&minus;2.9% |- |2002年(平成14年) |461,009||&minus;1.5% |339,084||&minus;1.5% | |335,293||&minus;1.7% |- |2003年(平成15年) |447,032||&minus;3.0% |321,572||&minus;5.2% |20,467 |326,896||&minus;2.5% |- |2004年(平成16年) |444,972||&minus;0.5% |313,959||&minus;2.4% |21,038 |333,650||2.1% |- |2005年(平成17年) |441,157||&minus;0.9% |311,599||&minus;0.8% |20,452 |333,876||0.1% |- |2006年(平成18年) |437,498||&minus;0.8% |311,275||&minus;0.1% |19,392 |327,919||&minus;1.8% |- |2007年(平成19年) |452,249||3.4% |314,997||1.2% |20,317 |317,816||&minus;3.1% |- |2008年(平成20年) |446,474||&minus;1.3% |304,567||&minus;3.3% |20,556 |306,865||&minus;3.4% |- |2009年(平成21年) |437,906||&minus;1.9% |296,938||&minus;2.5% |20,033 |299,196||&minus;2.5% |- |2010年(平成22年) |434,524||&minus;0.8% |292,545||&minus;1.5% |19,903 |293,307||&minus;2.0% |- |2011年(平成23年) |425,309||&minus;2.1% |287,488||&minus;1.7% |19,393 |281,192||&minus;4.1% |- |2012年(平成24年) |435,017||2.3% |289,324||0.6% |19,162 |287,433||2.2% |- |2013年(平成25年) |440,711||1.3% |291,466||0.7% |19,357 |283,962||&minus;1.2% |- |2014年(平成26年) |437,156||&minus;0.8% |288,610||&minus;1.0% |19,149 |285,742||0.6% |- |2015年(平成27年) |443,950||1.0% |290,330||0.6% |19,437 |289,001||1.1% |- |2016年(平成28年) |450,046||1.0% |293,231||1.0% |19,619 |291,464||0.9% |- |2017年(平成29年) |454,781||1.1% |299,219||2.0% |19,725 |291,919||0.2% |- |2018年(平成30年) |459,113||1.0% |304,635||1.8% |19,850 |292,684||0.3% |- |2019年(令和元年) |455,250||&minus;0.8% |305,071||0.1% |20,126 |292,053||&minus;0.2% |- |2020年(令和{{0}}2年) |334,111||&minus;26.6% |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>224,670||&minus;26.4% |15,587 |<ref group="メトロ" name="me2020" />209,601||&minus;28.2% |- |2021年(令和{{0}}3年) |351,035||5.1% |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>227,379||1.2% |15,182 |<ref group="メトロ" name="me2021" />198,741||&minus;5.2% |- |2022年(令和{{0}}4年) |382,081||8.8% |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>251,503||10.6% |16,221 |<ref group="メトロ" name="me2022" />215,800||8.6% |} === 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="東京府統計">東京府統計書 - 国立国会図書館(デジタル化資料)</ref> !年度 !日本鉄道 /<br/>国鉄 !東武鉄道 !出典 |- |1896年(明治29年) |<ref group="備考">1896年12月25日開業。開業日から1897年3月31日までの計96日間を集計したデータ。</ref>7 |rowspan="3" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |155 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |221 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |256 |<ref group="備考">1899年8月27日開業。開業日から1900年3月31日までの計217日間を集計したデータ。</ref>189 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |301 |571 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |328 |588 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |317 |524 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |288 |385 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |265 |391 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |262 |404 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |777 |353 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |718 |381 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |670 |364 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |660 |308 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |652 |296 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |664 |318 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |691 |158 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |715 |344 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |799 |448 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |1,472 |572 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |1,570 |933 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |2,147 | |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |2,886 |1,205 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |3,190 |1,774 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |3,455 |1,680 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |4,476 |1,987 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |5,152 |1,943 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |5,839 |2,169 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |6,142 |2,253 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |5,803 |1,874 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |5,096 |1,691 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |4,381 |1,426 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |2,833 |1,425 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |2,989 |1,356 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |3,159 |1,265 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="adachi" /> !rowspan=2|年度 !rowspan=2|国鉄 /<br />JR東日本 !rowspan=2|東武鉄道 !colspan=2|営団 !rowspan=2|出典 |- !日比谷線 !千代田線 |- |1953年(昭和28年) |17,225 | |rowspan="9" style="text-align:center"|未開業 |rowspan="16" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |28,257 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |19,454 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |30,242 |24,798 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref> |- |1957年(昭和32年) |33,169 |27,106 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref> |- |1958年(昭和33年) |35,508 |28,824 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref> |- |1959年(昭和34年) |38,499 |30,832 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |41,562 |34,561 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |44,455 |38,397 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |54,040 |<ref group="備考">1962年5月31日、日比谷線との直通運転開始。同年度以降はデータに直通人員が含まれる。</ref>53,126 |<ref group="備考">1962年5月31日、人形町駅まで部分開業。開業日から翌年3月31日までを集計したデータ。</ref>23,786 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |61,587 |70,778 |44,047 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |68,356 |89,554 |66,261 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |70,804 |105,846 |84,652 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |75,892 |117,953 |96,564 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |78,647 |132,672 |114,342 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |82,281 |144,367 |129,348 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |80,128 |152,295 |141,685 |<ref group="備考">1969年12月20日、大手町駅まで部分開業。開業日から翌年3月31日までを集計したデータ。</ref>19,796 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |78,619 |159,784 |146,392 |26,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |114,954 |164,519 |147,139 |<ref group="備考">1971年4月20日、綾瀬駅まで延伸開業。常磐緩行線との直通運転を開始。</ref>84,298 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |136,893 |173,866 |150,208 |83,214 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |133,148 |181,937 |148,707 |87,945 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |140,044 |188,378 |154,512 |98,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |143,563 |193,197 |159,937 |96,527 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |153,457 |196,093 |162,800 |101,162 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |159,293 |228,800 |167,097 |104,400 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |159,873 |198,275 |161,953 |104,567 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |162,838 |201,109 |158,907 |114,738 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |163,164 |203,928 |162,419 |116,447 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |164,486 |206,963 |166,542 |121,890 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |165,613 |208,890 |168,616 |129,658 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |165,444 |212,162 |169,806 |134,612 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |170,595 |216,363 |172,918 |141,298 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |168,257 |220,281 |173,507 |142,454 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |172,181 |224,785 |176,479 |147,854 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |179,948 |230,109 |180,995 |148,716 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |191,124 |237,816 |187,408 |158,849 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |193,896 |240,601 |190,526 |170,842 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |197,776 |244,331 |193,227 |178,004 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |198,533 |246,655 |193,481 |185,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |199,645 |248,109 |194,258 |188,040 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |197,863 |245,494 |192,554 |191,446 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |195,940 |240,797 |189,471 |193,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |194,093 |241,648 |186,681 |186,380 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |194,053 |232,830 |182,430 |186,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |190,201 |229,113 |178,508 |185,113 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |188,589 |226,782 |176,128 |182,577 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>186,462 |222,269 |170,509 |178,543 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>183,611 |222,642 |170,504 |175,618 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="adachi" /> !rowspan=2|年度 !rowspan=2|JR東日本 !rowspan=2|東武鉄道 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !rowspan=2|首都圏<br />新都市鉄道 !rowspan=2|出典 |- !日比谷線 !千代田線 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>183,963 |224,847 |171,791 |170,446 |rowspan="4" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>179,583 |221,994 |169,709 |167,369 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>179,339 |216,527 |160,870 |164,072 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>180,656 |216,559 |156,780 |167,196 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>177,104 |215,220 |155,737 |166,961 |<ref group="備考">2005年8月24日開業。開業日から翌年3月31日までを集計したデータ。</ref>19,196 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>175,656 |213,982 |155,195 |163,747 |25,157 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>191,015 |221,594 |158,189 |158,067 |30,302 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>194,724 |219,969 |152,163 |155,509 |33,467 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>193,976 |216,114 |147,868 |150,883 |35,146 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>195,260 |214,677 |145,805 |148,696 |36,821 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>194,136 |211,602 |143,719 |142,718 |37,306 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>198,624 |216,215 |144,726 |145,410 |39,741 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>203,428 |219,110 |145,876 |143,796 |41,760 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>202,415 |217,412 |144,315 |145,167 |41,866 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>209,994 |220,740 |145,233 |146,829 |44,600 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>214,322 |223,210 |146,587 |148,180 |46,556 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>217,838 |225,784 |149,510 |148,392 |48,741 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>220,903 |228,060 |152,099 |148,871 |50,643 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>221,634 |226,265 |152,904 |147,956 |51,540 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>161,271 |166,221 |112,790 |106,094 |<ref group="TX" name="TX2020">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220315013924/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2022-03-15|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>36,739 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>168,566 |174,607 |114,336 |100,965 |<ref group="TX" name="TX2021">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230410073316/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2023-04-10|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>40,822 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>183,824 |190,010 |126,585 |109,988 |<ref group="TX" name="TX2022">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230630233726/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2023-06-30|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>46,489 | |} === 年度別1日平均乗換人員 === 各年度の1日平均乗換人員は下表の通り(東武鉄道・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のみ)。 * 定期利用の乗換人員は、すべて集計されている。 * 定期外利用の乗換人員は、改札内乗り換えをした場合、または連絡乗車券を購入した場合に限り集計されている。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗換人員<ref group="乗降データ" name="adachi /> !rowspan=3|年度 !colspan=3|東武鉄道 !colspan=6|営団 / 東京メトロ !colspan=3|首都圏新都市鉄道 |- !colspan=3|伊勢崎線への乗換人員 !colspan=3|日比谷線への乗換人員 !colspan=3|千代田線への乗換人員 !colspan=3|つくばエクスプレス線への乗換人員 |- !JR!!地下鉄!!TX !JR!!東武!!TX !JR!!東武!!TX !JR!!東武!!地下鉄 |- |1989年(平成元年) |16,815||178,118||rowspan=17 style="text-align:center"|未開業 | || ||rowspan=17 style="text-align:center"|未開業 | || ||rowspan=17 style="text-align:center"|未開業 |rowspan=17 colspan=3 style="text-align:center"|未開業 |- |1990年(平成{{0}}2年) |17,168||181,222 | || | || |- |1991年(平成{{0}}3年) |17,366||182,143 | || | || |- |1992年(平成{{0}}4年) |17,942||183,020 | || | || |- |1993年(平成{{0}}5年) |17,827||181,351 |7,764||157,668 |90,827||49,068 |- |1994年(平成{{0}}6年) |17,593||177,708 |7,328||154,917 |92,140||48,926 |- |1995年(平成{{0}}7年) |18,129||177,996 |7,420||152,273 |89,277||47,609 |- |1996年(平成{{0}}8年) |17,944||168,256 |7,919||148,146 |91,641||46,078 |- |1997年(平成{{0}}9年) |18,110||163,617 |8,055||144,009 |92,358||45,758 |- |1998年(平成10年) |18,314||160,736 |7,957||141,670 |90,750||45,668 |- |1999年(平成11年) |18,405||155,729 |8,382||136,159 |90,396||44,384 |- |2000年(平成12年) |18,706||155,345 |9,047||135,654 |89,628||43,990 |- |2001年(平成13年) |18,663||157,321 |9,634||135,800 |87,467||44,019 |- |2002年(平成14年) |17,095||155,319 |9,197||133,961 |87,025||43,426 |- |2003年(平成15年) |16,366||148,912 |8,867||125,373 |86,939||41,547 |- |2004年(平成16年) |15,855||145,866 |9,042||120,336 |88,124||43,144 |- |2005年(平成17年) |15,067||143,444 |8,693||117,058 |85,190||42,933 |- |2006年(平成18年) |14,426||141,863||1,397 |8,405||114,575||2,312 |79,595||41,750||2,850 |1,333||1,416||5,316 |- |2007年(平成19年) |20,104||147,990||1,987 |8,892||115,974||3,302 |68,075||44,187||3,868 |2,377||2,014||7,058 |- |2008年(平成20年) |20,733||150,869||2,421 |9,146||112,248||4,035 |65,394||46,248||4,827 |2,989||2,503||9,043 |- |2009年(平成21年) |21,107||148,821||2,612 |9,003||109,186||4,582 |61,716||46,236||5,325 |3,500||2,717||10,117 |- |2010年(平成22年) |22,324||147,037||2,977 |9,022||107,048||5,041 |59,923||45,924||5,926 |3,908||3,098||11,190 |- |2011年(平成23年) |22,616||144,895||3,142 |8,877||105,391||5,300 |55,492||44,548||6,208 |3,977||3,279||11,778 |- |2012年(平成24年) |24,454||144,933||3,439 |8,746||105,368||5,666 |56,399||44,388||6,441 |4,263||3,580||12,353 |- |2013年(平成25年) |25,360||146,556||3,817 |8,818||106,038||5,896 |53,259||44,344||7,115 |4,543||3,957||13,228 |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|千住|日ノ出町 (足立区)|柳原 (足立区)}} 2012年に東口に隣接して[[東京電機大学]]が開設され、駅周辺は学生街として賑わう。この他にも、西口は[[帝京科学大学]]が、東口は[[東京未来大学]]が、仲町口は[[東京芸術大学]]がそれぞれ徒歩圏内に立地している。 === 西口 === 当駅の開業時から設けられた出入口である。当駅と[[日光街道]]を結ぶ駅前通りはアーケードが整備されており、商店街となっている。2001年から2004年にかけて北千住駅西口地区第一種市街地[[都市再開発|再開発]]事業が実施され、[[ペデストリアンデッキ]]と[[バスターミナル]]が整備されている。駅前ロータリー北側は再開発ビルとして[[千住ミルディス]]が立地しており、2004年2月に核テナントとして北千住[[丸井|マルイ]]が開業している。 {{columns-list|2| * [[ルミネ]]北千住店 ** [[ブックファースト]] * [[千住ミルディス]] ** 北千住[[丸井|マルイ]] *** [[ノジマ]]・[[ハンズ (小売業)|ハンズ]] ** シアター1010 ** [[アトラスタワー北千住]] ** [[足立区役所]]千住区民事務所 * カノン千住 ** 千住ザ・タワー ** [[東武ストア]] * [[ヨーク (小売業)|ヨークフーズ]]千住店 - [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]発祥の地 * [[帝京科学大学]] * [[潤徳女子高等学校]] * 学びピア21 ** [[足立区立中央図書館]] ** [[放送大学]]東京足立学習センター ** 足立区生涯学習センター ** 荒川ビジターセンター * 旧[[日光街道]] * 北千住郵便局 * 足立中居郵便局 * ホテル ココグラン北千住 |}} <gallery> Kitasenju Station (West Exit).jpg|西口(2009年9月) Kitasenju_Station_West_Exit_02.jpg|西口のペデストリアンデッキ(2008年3月) Tokyo University of the Arts Senju Campus.JPG|東京芸術大学 千住キャンパス </gallery> === 東口(電大口)=== [[File:Tokyo Denki University.jpg|thumb|東京電機大学 東京千住キャンパス]] [[テレビドラマ]]「[[3年B組金八先生]]」や「[[親子ゲーム]]」で登場する荒川の[[堤防]]は、JR線ではこの北千住駅東口が最寄り駅である。当駅周辺も撮影現場として登場している。堤防にはサッカー場や野球場が複数面造られており、堤防沿いにサイクリングコースが設定されている。夏には[[花火]]大会が開催される。 2008年から[[日本たばこ産業]]社宅跡地に千住旭町地区地区計画が策定され、2012年4月に[[東京電機大学]]東京千住キャンパスが開設された。2013年2月に交通広場が整備され、同年3月からバス路線が乗り入れるようになった。 {{columns-list|2| * [[東京電機大学]]東京千住キャンパス * [[足立学園中学校・高等学校]] * [[足立区立千寿常東小学校]] * [[足立区立千寿桜堤中学校]] * 足立税務署 * 足立旭町郵便局 |}} === 仲町口 === 2005年のつくばエクスプレス開業時に供用を開始した出入口であり、西口の南側に位置する。 {{columns-list|2| * [[千住警察署]] * 足立仲町郵便局 * [[東京消防庁第六消防方面本部#管轄消防署|千住消防署]] * [[東京藝術大学]]千住キャンパス(アートリエゾンセンター) * 足立区 千住保健総合センター * あだち産業芸術プラザ ** あだち産業センター ** 東京芸術センター *** 足立[[公共職業安定所]](ハローワーク) *** 天空劇場 |}} == バス路線 == '''東口(電大口)のりば'''に発着する柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への京成バス以外の路線バスと高速バス、深夜急行バスは、'''西口バスターミナル'''発着である。主に端44・王45・北47([[都営バス]])、[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]、[[新日本観光自動車]]の路線が発着している。 1番 - 4番乗場はバスターミナル内、5番乗場は千住ミルディス(マルイ)脇、6番乗場はバスターミナル向かい側千代田線2番出口前となる。なお、5番乗場は隣接する2箇所に分かれているため、便宜上"a" "b"で区別した。 現在の形態になる前は、2番 - 4番のりばが駅前通り(きたロード1010)の南側歩道上から発車していた。また、同じく駅前通り(きたロード1010)の北側歩道上には降車専用の看板が設けられていた。 東口(電大口)には2013年3月25日より、柳原病院・東京未来大学、南千住駅東口方面への[[京成バス]]が乗り入れている。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!停留所!!系統・行先!!備考 |- !colspan="5"|西口バスターミナル |- !1 |style="text-align:center;"|都営バス |style="text-align:center;"|'''北千住駅前''' |[[都営バス千住営業所#北47系統|'''北47''']]:[[竹ノ塚駅|竹の塚駅前]]・足立清掃工場前・足立区役所・千住車庫前 |&nbsp; |- !2 |style="text-align:center;"|東武バスセントラル |style="text-align:center;"|'''北千住駅''' |[[東武バスセントラル西新井営業所#本木新道線|'''北01''']]:[[總持寺 (足立区)|西新井大師]] |&nbsp; |- !3 |style="text-align:center;"|都営バス |style="text-align:center;"|'''北千住駅前''' |{{Unbulleted list|[[都営バス千住営業所#端44系統|'''端44''']]:[[東京都立駒込病院|駒込病院前]]|[[都営バス北営業所#王41・王45系統|'''王45''']]:[[王子駅|王子駅前]]}} |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |style="text-align:center;"|東武バスセントラル |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''北千住駅''' |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル西新井営業所#西新井線・100号大師線|'''北02''']]・'''北03''':西新井大師|'''北04''':西新井駅|[[東武バスセントラル西新井営業所#江北線|'''北05''']]:東京女子医大足立医療センター|[[東武バスセントラル花畑営業所#北千住駅 - 四ツ家町 - 花畑車庫線|'''北11''']]:文教大学(東京あだちキャンパス)|'''北12''':六町駅}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東武バスセントラル|[[京浜急行バス]]}} |'''[[リムジンバス]]''':[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- !5a |rowspan="3" style="text-align:center;"|新日本観光自動車 |rowspan="3" style="text-align:center;"|'''北千住駅西口''' |[[新日本観光自動車#北千住駅西側地域循環線(はるかぜ5号)|'''はるかぜ5号(千01)''']]:北千住駅西口循環 |&nbsp; |- !5b |{{Unbulleted list|[[新日本観光自動車#北千住駅〜小台・宮城循環線(はるかぜ8号)|'''はるかぜ8号(宮03)''']]:[[宮城 (足立区)|宮城]]・[[小台 (足立区)|小台]]循環|[[新日本観光自動車#北千住駅〜堀之内・椿循環線(はるかぜ11号)|'''はるかぜ11号(椿04)''']]:[[堀之内 (足立区)|堀之内]]・[[椿 (足立区)|椿]]循環 / 博慈会記念総合病院}} |&nbsp; |- !6 |[[新日本観光自動車#北千住駅〜鹿浜五丁目団地線(はるかぜ6号)|'''はるかぜ5号(鹿02)''']]:[[鹿浜]]五丁目団地 |&nbsp; |- !colspan="5"|東口(電大口)のりば |- !- |style="text-align:center;"|[[京成バス]] |style="text-align:center;"|'''北千住駅東口(電大口)''' |[[京成バス金町営業所#北千住線|'''北千01'''・'''北千02''']]:[[南千住駅|南千住駅東口]] |「北千01」は平日のみ運行 |} == その他 == * 2015年7月、千代田線ホームの駅名標を交換した際、製作側のミスで駅名を「北'''干'''住」と誤表記するミスがあった。 東京メトロは応急的に「千」のシールを該当部分に貼って対応、翌月中に正しい表記のものに更新されている<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150729-OYT1T50158.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150731222010/http://www.yomiuri.co.jp/national/20150729-OYT1T50158.html|title=「北千住」を「北干住」…千代田線ホーム誤表示|newspaper=読売新聞|date=2015-07-30|accessdate=2020-07-23|archivedate=2015-07-31}}</ref>。 * 駅の南側にJR常磐線の北千住一丁目踏切<ref group="注釈">'''北'''千住一丁目という住所はない。北千住一丁目踏切の住所は東京都足立区千住旭町である。</ref> と東武伊勢崎線の第22番踏切が並んでいる。これらの踏切はいわゆる[[開かずの踏切]]となっており、あわせて大踏切と呼ばれることがある{{refnest|group="注釈"|異なる事業者・路線の2つの踏切が隣接しているだけであり、大踏切という名称の1つの踏切ではない。2つの踏切を通る道路に大踏切通りの名称がある。JR常磐線を渡る歩道橋がある。本線以外に常磐線については待避線、伊勢崎線については引き上げ線も通っている。付近を他線の高架線・地下線・下水道が通っており、現時点で踏切立体化(道路あるいは鉄道の高架化あるいは地下化)の予定はない<ref>[http://www.gikai-adachi.jp/iinkai/shidai/kensetsu/pdf/20181212chinjo1.pdf 建設委員会要求資料 - 足立区議会]</ref>。}}。 * [[あいみょん]]の楽曲「[[ハルノヒ]]」の歌い出しに「北千住駅のプラットホーム」という歌詞がある。これは、タイアップしている『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』の登場人物である[[野原ひろし]]がプロポーズをした場所のため。 == 隣の駅 == ;東日本旅客鉄道(JR東日本) :[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速) ::{{Color|#f06|■}}特別快速 :::[[日暮里駅]] (JJ 02) - '''北千住駅 (JJ 05)''' - [[松戸駅]] (JJ 06) ::{{Color|#33f|■}}{{Color|#3d2|■}}快速 :::[[南千住駅]] (JJ 04) - '''北千住駅 (JJ 05)''' - 松戸駅 (JJ 06) :※線路名称上の常磐線としての当駅の隣の駅は南千住駅と綾瀬駅であるが、双方の駅に停車する列車は存在しない。 ;東京地下鉄(東京メトロ) :[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 :*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー「[[はこね (列車)|メトロはこね]]」「[[えのしま (列車)|メトロえのしま]]」発着駅、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|メトロモーニングウェイ]]」終着駅、「メトロホームウェイ」始発駅 ::{{Color|#00bc86|■}}ロマンスカー以外の[[列車種別]](千代田線内は各駅に停車) :::[[町屋駅]] (C 17) - '''北千住駅 (C 18)''' - [[綾瀬駅]] (C 19・JL 19) :[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 :::南千住駅 (H 21) - '''北千住駅 (H 22・TS 09)''' - [[小菅駅]](東武スカイツリーライン・TS 10) :※[[THライナー]]は乗務員交代のため運転停車を行う。 ;東武鉄道 :[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン(伊勢崎線) :*■特急「[[けごん|スペーシアX]]」・{{Color|#ff9900|■}}特急[[けごん|「けごん」「きぬ」]]・{{Color|#ff6633|■}}特急「[[りょうもう]]」・{{Color|#006633|■}}特急[[けごん|「リバティけごん」「リバティきぬ」「リバティ会津」]]「[[りょうもう|リバティりょうもう]]」・{{Color|#0099cc|■}}特急[[アーバンパークライナー|「スカイツリーライナー」「アーバンパークライナー」]]停車駅 ::{{color|#cc0066|■}}急行・{{Color|#009900|■}}準急 :::[[曳舟駅]] (TS 04) - '''北千住駅 (TS 09)''' - [[西新井駅]] (TS 13) ::{{color|#ff99cc|■}}区間急行・{{color|#66cc66|■}}区間準急(牛田側は当駅から各駅に停車) :::[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]] (TS 08) - '''北千住駅 (TS 09)''' - 西新井駅 (TS 13) ::{{color|#999999|■}}普通(以下の2通り) ::* 牛田駅 (TS 08) - '''北千住駅 (TS 09)''' ::* (東京メトロ日比谷線) - '''北千住駅 (TS 09)''' - [[小菅駅]] (TS 10) ;首都圏新都市鉄道 :[[File:Tsukuba Express symbol.svg|15px|TX]] つくばエクスプレス(全種別とも秋葉原方面は当駅からは各駅に停車) ::{{Color|red|■}}快速 ::: 南千住駅 (TX04) - '''北千住駅 (TX05)''' - [[南流山駅]] (TX10) ::{{Color|#000084|■}}区間快速(平日朝ラッシュ時間帯の上り以外の列車) :::南千住駅 (TX04) - '''北千住駅 (TX05)''' - [[八潮駅]] (TX08) ::{{Color|#000084|■}}区間快速(平日朝ラッシュ時間帯の上り列車)・{{Color|orange|■}}通勤快速(平日下りのみ運転) :::南千住駅 (TX04) - '''北千住駅 (TX05)''' - [[六町駅]] (TX07) ::{{Color|gray|■}}普通 :::南千住駅 (TX04) - '''北千住駅 (TX05)''' - [[青井駅]] (TX06) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Notelist}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ;JR・私鉄・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ;JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 首都圏新都市鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="TX"|22em}} ;JR・私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ;東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}} * {{Cite book|和書|title=東武鉄道百年史[資料編]|publisher=東武鉄道|date=1998-09-30|ref=tobu100th-document}} == 関連項目 == {{Commonscat|Kita-Senju Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=571|name=北千住}} * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=1204}} * [https://www.tokyometro.jp/station/kita-senju/index.html 北千住駅/H22/C18 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.mir.co.jp/route_map/kita-senju/ 北千住駅 | 駅情報・路線図 | つくばエクスプレス] {{鉄道路線ヘッダー}} {{常磐線|mode=1}} {{常磐緩行線}} {{東京メトロ千代田線}} {{東京メトロ日比谷線}} {{東武伊勢崎線|mode=1}} {{首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:きたせんしゆ}} [[Category:日本の鉄道駅 き|たせんしゆ]] [[Category:足立区の鉄道駅]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:首都圏新都市鉄道の鉄道駅]] [[Category:常磐線]] [[Category:常磐緩行線]] [[Category:千住]] [[Category:1896年開業の鉄道駅]]
2003-09-06T15:41:47Z
2023-12-27T18:02:09Z
false
false
false
[ "Template:駅配線図", "Template:脚注ヘルプ", "Template:常磐緩行線", "Template:独自研究範囲", "Template:-", "Template:鉄道路線ヘッダー", "Template:国土航空写真", "Template:0", "Template:Commonscat", "Template:東京メトロ日比谷線", "Template:Columns-list", "Template:Refnest", "Template:Cite book", "Template:常磐線", "Template:東武伊勢崎線", "Template:出典の明記", "Template:Color", "Template:Clear", "Template:Efn", "Template:独自研究", "Template:Notelist", "Template:See also", "Template:Cite web", "Template:Cite press release", "Template:Cite news", "Template:PDFlink", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:鉄道路線フッター", "Template:Small", "Template:Reflist", "Template:Unbulleted list", "Template:Cite journal", "Template:外部リンク/東武鉄道駅", "Template:首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線", "Template:駅情報", "Template:R", "Template:要出典範囲", "Template:東京メトロ千代田線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8D%83%E4%BD%8F%E9%A7%85
15,442
八王子駅
八王子駅(はちおうじえき)は、東京都八王子市旭町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。 東京都唯一の中核市であり、多摩地域最大の人口を擁する八王子市の中心駅であり多摩地域にあるターミナル駅の一つ。JR東日本八王子支社が置かれている。中央線で多摩地域東部や新宿駅や東京駅といった東京都区部や甲信地方等と、横浜線で神奈川県内と、八高線経由で多摩地域北西部や埼玉県西部等と結ばれている。「かいじ」「あずさ」「富士回遊」「はちおうじ」などの特急列車も全て停車する。また、京王電鉄の京王八王子駅が徒歩5分ほどの距離にあり、定期券での連絡運輸が設定されている。 中央線にはJC 22、横浜線にはJH 32の駅番号が設定されている。 島式ホーム3面6線を有する地上駅。横浜線乗り場のみ南側に離れている。橋上駅舎を持ち、北側の北口駅ビルにつながっているほか、南側にも自由通路の跨線橋が伸び、南口駅ビルとつながっている。 直営駅であり、八王子営業統括センター所在駅。みどりの窓口および指定席券売機、VIEW ALTTEが設置されている。また八王子営業統括センターとして、中央線の日野駅 - 藤野駅間の各駅、八高線の北八王子駅、小宮駅と横浜線の片倉駅、八王子みなみ野駅、相原駅を管理している。 駅敷地内にはJR東日本八王子支社がある。駅構内にはかつてJR貨物八王子総合鉄道部(旧・八王子機関区)があり、後に新鶴見機関区八王子派出に組織変更されたが、2008年には新鶴見機関区甲府派出と統合され、廃止された。機関区時代の名残りで多数の側線や機関車留置線が存在していたが、それらは2011年12月までにほぼ撤去されている。 八王子総合鉄道部には、八高線が開業した1931年3月に完成し、かつて高尾駅以西の中央線山岳地帯に向かうために平坦線区の機関車と山登りの機関車を頻繁に付け替えていたことの名残りである転車台が残されていたが、こちらも2013年2月に解体され消滅した。また、駅構内東側、中央本線に沿った場所には保線基地がある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 貨物列車等の待避・機回し・入換に使用するため、1番線の脇と4番線と5番線の間、6番線の脇には、それぞれ側線がある。また、「あずさ」や「かいじ」、「富士回遊」、「はちおうじ」、「成田エクスプレス」の全特急列車が当駅に停車し、このうち「はちおうじ」と「成田エクスプレス」号については、当駅が始発・終点となる。 中央本線では当駅始発の大月・甲府方面行きが数本設定されているものの、1つ隣の豊田駅に隣接する豊田車両センターから回送され、当駅から営業運転に入る列車がある。逆に甲府方面からの当駅止まりの列車は設定されておらず、大半が高尾駅止まりでごく少数立川駅まで運転されるのもある。 3番線は行き先未記入となっており、定期列車では、中央線上りの当駅始発・終着列車や「むさしの号」が使用する。また、始発列車がない時間帯は主に上り方面の貨物列車の待避・機回し・入換にも使用される。 横浜線ホームの5・6番線の線路は行き止まりとなっている。そのため、かつて存在した臨時特急「はまかいじ」は3番線を介して横浜方面へ、松本行きは4番線から直通していた。 八高線のホームである1番線は2番線(中央線上りホーム)の東側前方(高麗川・東京寄り)であり、このため1番線の西側後方には柵が設置されている。また、4両編成が停車できる留置線がある。 JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)を目途に東京駅 - 大月駅間のオレンジ帯(E233系)で運行する列車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う予定だが、特急停車駅のため 2 - 4番線は既に12両編成の列車の停車に対応している。そのため、信号設備改良やグリーン車Suicaシステム設置に伴う券売機設置工事などが行われる。 それに先立ち、2022年5月16日より、2 - 4番線の中央線快速電車の乗車位置が、東京よりに約10 - 26 m(ホームごとに異なる)移動した。 2005年12月25日から全ホームの発車メロディが八王子市内出身の中村雨紅作詞の『夕焼小焼』となった。メロディの制作はサウンドフォーラムで、編曲は牧野奈津子が手掛けた。ホームごとにアレンジが異なる。コンコースにはこの歌をイメージした壁画と歌碑が屋根の段差部分に取り付けられている。なお、2022年3月11日までは八高線の1番線ホームでも使用されていたが、ワンマン化のため現在は使用されていない。 JR貨物の駅は、コンテナ貨物(12 ftコンテナのみ)と車扱貨物の取扱駅となっている。車扱貨物を輸送するための貨物列車は設定されているが、コンテナ輸送はすでにトラック代行化されている。駅の業務は神奈川臨海鉄道が受託している。 駅構内東側で、八高線から分岐し中央本線に沿って東進、途中で保線基地線を分岐させ、浅川西岸にある日本オイルターミナル八王子営業所(油槽所)へ至る側線がある。この線路は油槽所への石油搬入に使用されており、末端に石油荷役線2線と留置線1線がある。 この油槽所へ石油を輸送するため、根岸駅や千葉貨物駅から石油輸送用貨物列車が運行されている。 八王子オフレールステーション(略称:八王子ORS・北緯35度39分15.9秒 東経139度20分58.4秒)は、JR貨物の施設の通称。旅客駅の中央本線に沿った東側、八王子市北野町600にある。2023年時点ではコンテナ集配基地として機能しており、貨物列車の発着はない。列車代替のトラック便が、1日3往復、横浜羽沢駅との間で運行されている。 かつては貨物列車の発着があり、コンテナは列車で輸送されていたが、1998年10月よりトラック代行になり、自動車代行駅となった。また、2006年3月の貨物駅の名称整理の際に、「オフレールステーション」の通称の使用を開始している。 2012年時点ではコンテナヤードが置かれているのみだが、列車の発着があった時期は1面2線のコンテナホームを有していた。すでに荷役線は撤去され、山田川を渡る橋のみ残っている。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は72,101人であり、JR東日本の駅では大森駅に次いで第51位。中央快速線内は12位、横浜線内は町田駅に続き2位である。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 2011年度は、コンテナ貨物の取扱量が発送19,996トン、到着64,405トン、車扱貨物の取扱量が発送37,849トン、到着394,361トンだった。近年の年間発着トン数は下表の通り。 以前は八王子駅(高尾駅)に玉川亭という業者が駅弁を販売していたが、既に撤退している。現在は、日本レストランエンタプライズ (NRE) の駅弁(新宿駅・大宮駅・水戸駅・いわき駅と全く同じ)が「駅弁屋」で販売されている。その後、2階コンコースのギフトプラザ売店にて崎陽軒の弁当の取り扱いが開始されたが、現在はセレオ八王子内に移転した。 2023年2月12日に駅弁屋は閉店されたが、駅構内外のNewDaysで売られている。 ※現在全ての駅弁が売られているかは不明。 駅周辺は八王子市の中心市街地である。吉祥寺・立川・町田などと並び多摩地域を代表する商業地域の1つであり、北口を中心に繁華街が広がっている。特に西放射線通り商店街(通称:ユーロード)は歩行者専用道路で飲食店などが集積しているため、人通りも多く特に賑わっている。かつては多摩地域最大の繁華街として栄えていたが、市郊外に三井アウトレットパーク 多摩南大沢を始めとする複数の大型商業施設の出店や、周辺の立川駅や町田駅の発展、市の基幹産業である繊維産業(絹織物)の衰退により、多摩地区における繁華街としての相対的な地位は低下している。以前は北口に百貨店が複数存在したが、現在では全て撤退している。かつて「織物の街」として栄えた名残で全盛期から大幅に規模を縮小したものの、中町には多摩地域で唯一の花街である「黒塀通り」が今なお残っている。商業面のみならず、東京地方裁判所や東京地方検察庁といった公的機関も立川市に移転した。 北口、南口にそれぞれある駅前広場は歩行者及び路線バス、タクシーの発着用である。自家用自動車等は北口では駅からやや離れた場所か、地下駐車場を利用する。南口では2018年11月22日、新たに開業した「八王子オーパ」1階東側に一般車両の乗降場が設けられた。ただし認められているのは一時的な停車だけで、出迎えのためなどの駐車やマイクロバスなど大型車両の進入は禁止されている。 北口周辺から甲州街道(国道20号)沿いの八幡町・八日町・横山町にかけては、江戸時代の宿場町を基礎とする商店街と、百貨店など大型商業施設を中心とした商業地域が栄えた。かつてはまるき百貨店やイノウエ百貨店といった地元百貨店があり、また大型店として丸井八王子店、西武百貨店八王子店、八王子大丸、伊勢丹八王子店、長崎屋八王子店、八王子発祥のスーパーマーケット忠実屋1号店の八幡町店などがあった。 1983年に八王子駅の駅ビル「八王子ターミナルビル」が建設され、核店舗として八王子そごうと専門店街「八王子ナウ」が開業した。他の百貨店は出店時に周辺商店街からの反対運動により店舗規模を縮小せざるを得なかったため、そごう進出により丸井以外の百貨店が撤退した。1987年には大丸が撤退した跡地に忠実屋がファッションビル「FAM」を開店した。 またこの頃、八王子駅周辺では初となる家電量販店のヨドバシカメラ八王子店が開業した。ヨドバシカメラとしては新宿・横浜・上野に次ぐ出店であり初の郊外のターミナル駅前立地型店舗となった。 1994年には、忠実屋がダイエーに吸収合併されたことによりファッションビル「FAM」が閉店し、地下化された京王八王子駅の地上部に駅ビルの京王八王子ショッピングセンター(旧称「KEIO21=ケイオウ ツーワン」)が同年オープンした。1997年には八王子駅北口再開発事業が竣工し八王子東急スクエア(現・八王子オクトーレ)がオープンした。 2004年には当時経営不振に陥っていた丸井が撤退した。2011年には長崎屋八王子店が閉店し、ドン・キホーテ八王子駅前店としてリニューアルオープンした。 2012年1月31日、八王子市内に唯一残った百貨店の八王子そごうが閉店し、同年10月25日にJR東日本最大級の駅ビルセレオ八王子北館としてリニューアルオープンした。これにより八王子市内の百貨店は全て撤退し、また東京都内からそごうの店舗が消滅した。 2015年にはダイエー八王子店が建物老朽化に伴い閉店した。店舗解体後の跡地に高層マンションが建設され、ダイエーは2019年3月28日、イオンフードスタイル八王子店としてマンション1階に再出店した。 八王子駅と京王八王子駅の中間地である旭町・明神町地区で再開発計画があり、先行して明神町地区の都合同庁舎及び多摩地区最大となる展示ホールが2018年度に着工予定、2022年度の竣工予定である。 北口周辺を中心とした中心市街地では、1995年以降一貫して人口が増加している。近年においてもマンション建築が盛んであり、市総人口に対する中心市街地シェアも徐々に高まっている。 1960年に「八王子織物産地買継商業組合」により「織物の八王子」モニュメントが設置され、1962年に同組合から八王子市に寄贈された。「織物タワー」と呼ばれており、上部には八王子市の市章を掲げ、その下に「織物の八王子」と大きな字で記されていた。1995年に八王子駅北口再開発事業による北口地下駐車場整備のため解体撤去されるまで、「織物タワー」は八王子のシンボルとして市民に長年親しまれていた。なお「織物タワー」は正式名称でなく市民からの愛称である。 1999年にはペデストリアンデッキ「マルベリーブリッジ」(マルベリーは「桑」の意)が完成した。駅ビル・駅舎内の自由通路により南口側とも連絡している。また「マルベリーブリッジ」中央部にはかつての「織物タワー」の代わりに、新たなモニュメント「絹の舞」が設置された。絹織物をイメージした虹色の板が「八」の字を描いて架かるデザインとなっている。 ペデストリアンデッキの整備と同時に、バスターミナル・タクシー乗り場も整備され、北口駅前ロータリーは一般車進入禁止とされたことにより、駅前の道路混雑が緩和された。 その後も「マルベリーブリッジ」の延伸工事は進められ、2012年秋には京王八王子駅方向の東放射線「アイロード」方面への延伸工事が開始、2014年3月30日に延伸部131.7 mが開通した。続いて西放射線通り商店街「ユーロード」方面への延伸と八王子東急スクエア(現・八王子オクトーレ)への接続も計画され、2018年度に着工し2019年度の完成を予定して工事を進め、2020年4月5日に完成した。 八王子駅南口では、1991年から再開発計画はあったものの長らく着工には至らず、バスロータリーと小規模商店や空地などが点在する状態が続いた。 2008年に「八王子駅南口地区市街地再開発事業」が着工、同年1月から41階建ての再開発ビル「サザンスカイタワー八王子」の建設および駅前広場の整備を行い、2010年11月に竣工、同年12月1日に開業した。再開発ビルには、市民会館「J:COMホール八王子」(4 - 10階・上野町のものを移転。元「オリンパスホール八王子」)や八王子駅南口総合事務所(4階)などの公共施設や、商業施設(1 - 3階)、業務施設(5 - 7階)、住宅(9 - 41階・390戸)、地下駐車場が入居する。2階に地元スーパーのスーパーアルプスが入居したほか、カフェやドラッグストア、3階には飲食店等のテナントが入居している。 再開発ビルの下に整備された駅前広場には「とちの木デッキ」という名称のペデストリアンデッキが新設され、バスロータリーには八王子みなみ野駅から発着している近隣大学の通学バス専用発着場も整備された。2010年11月20日より「とちの木デッキ」およびバスロータリーの完全供用開始に伴い、北口発着分を含めたバス路線の整理が行われた。 また、駅自由通路東側にはJR東日本がビックカメラ、保育所、飲食店等が入居する地上6階・地下2階建ての駅ビル(商業施設)「セレオ八王子南館」を建設し、2010年11月11日に開業した。さらに、駅自由通路西側ではJR貨物による地上5階建て6層の立体駐車場「駐太郎」が開業した。 2016年、駅自由通路西側にJR貨物と住友不動産の共同開発で地上26階建て、地下1階建て住宅商業の複合ビルが着工した。地上6階建ての商業施設部分にはオーパが出店を決定。2018年11月29日に八王子オーパが開業した。 「JR八王子駅北口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。 「八王子駅南口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "八王子駅(はちおうじえき)は、東京都八王子市旭町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都唯一の中核市であり、多摩地域最大の人口を擁する八王子市の中心駅であり多摩地域にあるターミナル駅の一つ。JR東日本八王子支社が置かれている。中央線で多摩地域東部や新宿駅や東京駅といった東京都区部や甲信地方等と、横浜線で神奈川県内と、八高線経由で多摩地域北西部や埼玉県西部等と結ばれている。「かいじ」「あずさ」「富士回遊」「はちおうじ」などの特急列車も全て停車する。また、京王電鉄の京王八王子駅が徒歩5分ほどの距離にあり、定期券での連絡運輸が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中央線にはJC 22、横浜線にはJH 32の駅番号が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "島式ホーム3面6線を有する地上駅。横浜線乗り場のみ南側に離れている。橋上駅舎を持ち、北側の北口駅ビルにつながっているほか、南側にも自由通路の跨線橋が伸び、南口駅ビルとつながっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "直営駅であり、八王子営業統括センター所在駅。みどりの窓口および指定席券売機、VIEW ALTTEが設置されている。また八王子営業統括センターとして、中央線の日野駅 - 藤野駅間の各駅、八高線の北八王子駅、小宮駅と横浜線の片倉駅、八王子みなみ野駅、相原駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅敷地内にはJR東日本八王子支社がある。駅構内にはかつてJR貨物八王子総合鉄道部(旧・八王子機関区)があり、後に新鶴見機関区八王子派出に組織変更されたが、2008年には新鶴見機関区甲府派出と統合され、廃止された。機関区時代の名残りで多数の側線や機関車留置線が存在していたが、それらは2011年12月までにほぼ撤去されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "八王子総合鉄道部には、八高線が開業した1931年3月に完成し、かつて高尾駅以西の中央線山岳地帯に向かうために平坦線区の機関車と山登りの機関車を頻繁に付け替えていたことの名残りである転車台が残されていたが、こちらも2013年2月に解体され消滅した。また、駅構内東側、中央本線に沿った場所には保線基地がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "貨物列車等の待避・機回し・入換に使用するため、1番線の脇と4番線と5番線の間、6番線の脇には、それぞれ側線がある。また、「あずさ」や「かいじ」、「富士回遊」、「はちおうじ」、「成田エクスプレス」の全特急列車が当駅に停車し、このうち「はちおうじ」と「成田エクスプレス」号については、当駅が始発・終点となる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "中央本線では当駅始発の大月・甲府方面行きが数本設定されているものの、1つ隣の豊田駅に隣接する豊田車両センターから回送され、当駅から営業運転に入る列車がある。逆に甲府方面からの当駅止まりの列車は設定されておらず、大半が高尾駅止まりでごく少数立川駅まで運転されるのもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "3番線は行き先未記入となっており、定期列車では、中央線上りの当駅始発・終着列車や「むさしの号」が使用する。また、始発列車がない時間帯は主に上り方面の貨物列車の待避・機回し・入換にも使用される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "横浜線ホームの5・6番線の線路は行き止まりとなっている。そのため、かつて存在した臨時特急「はまかいじ」は3番線を介して横浜方面へ、松本行きは4番線から直通していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "八高線のホームである1番線は2番線(中央線上りホーム)の東側前方(高麗川・東京寄り)であり、このため1番線の西側後方には柵が設置されている。また、4両編成が停車できる留置線がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)を目途に東京駅 - 大月駅間のオレンジ帯(E233系)で運行する列車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う予定だが、特急停車駅のため 2 - 4番線は既に12両編成の列車の停車に対応している。そのため、信号設備改良やグリーン車Suicaシステム設置に伴う券売機設置工事などが行われる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "それに先立ち、2022年5月16日より、2 - 4番線の中央線快速電車の乗車位置が、東京よりに約10 - 26 m(ホームごとに異なる)移動した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年12月25日から全ホームの発車メロディが八王子市内出身の中村雨紅作詞の『夕焼小焼』となった。メロディの制作はサウンドフォーラムで、編曲は牧野奈津子が手掛けた。ホームごとにアレンジが異なる。コンコースにはこの歌をイメージした壁画と歌碑が屋根の段差部分に取り付けられている。なお、2022年3月11日までは八高線の1番線ホームでも使用されていたが、ワンマン化のため現在は使用されていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "JR貨物の駅は、コンテナ貨物(12 ftコンテナのみ)と車扱貨物の取扱駅となっている。車扱貨物を輸送するための貨物列車は設定されているが、コンテナ輸送はすでにトラック代行化されている。駅の業務は神奈川臨海鉄道が受託している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅構内東側で、八高線から分岐し中央本線に沿って東進、途中で保線基地線を分岐させ、浅川西岸にある日本オイルターミナル八王子営業所(油槽所)へ至る側線がある。この線路は油槽所への石油搬入に使用されており、末端に石油荷役線2線と留置線1線がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この油槽所へ石油を輸送するため、根岸駅や千葉貨物駅から石油輸送用貨物列車が運行されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "八王子オフレールステーション(略称:八王子ORS・北緯35度39分15.9秒 東経139度20分58.4秒)は、JR貨物の施設の通称。旅客駅の中央本線に沿った東側、八王子市北野町600にある。2023年時点ではコンテナ集配基地として機能しており、貨物列車の発着はない。列車代替のトラック便が、1日3往復、横浜羽沢駅との間で運行されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては貨物列車の発着があり、コンテナは列車で輸送されていたが、1998年10月よりトラック代行になり、自動車代行駅となった。また、2006年3月の貨物駅の名称整理の際に、「オフレールステーション」の通称の使用を開始している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2012年時点ではコンテナヤードが置かれているのみだが、列車の発着があった時期は1面2線のコンテナホームを有していた。すでに荷役線は撤去され、山田川を渡る橋のみ残っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は72,101人であり、JR東日本の駅では大森駅に次いで第51位。中央快速線内は12位、横浜線内は町田駅に続き2位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2011年度は、コンテナ貨物の取扱量が発送19,996トン、到着64,405トン、車扱貨物の取扱量が発送37,849トン、到着394,361トンだった。近年の年間発着トン数は下表の通り。", "title": "貨物取扱" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以前は八王子駅(高尾駅)に玉川亭という業者が駅弁を販売していたが、既に撤退している。現在は、日本レストランエンタプライズ (NRE) の駅弁(新宿駅・大宮駅・水戸駅・いわき駅と全く同じ)が「駅弁屋」で販売されている。その後、2階コンコースのギフトプラザ売店にて崎陽軒の弁当の取り扱いが開始されたが、現在はセレオ八王子内に移転した。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2023年2月12日に駅弁屋は閉店されたが、駅構内外のNewDaysで売られている。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "※現在全ての駅弁が売られているかは不明。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "駅周辺は八王子市の中心市街地である。吉祥寺・立川・町田などと並び多摩地域を代表する商業地域の1つであり、北口を中心に繁華街が広がっている。特に西放射線通り商店街(通称:ユーロード)は歩行者専用道路で飲食店などが集積しているため、人通りも多く特に賑わっている。かつては多摩地域最大の繁華街として栄えていたが、市郊外に三井アウトレットパーク 多摩南大沢を始めとする複数の大型商業施設の出店や、周辺の立川駅や町田駅の発展、市の基幹産業である繊維産業(絹織物)の衰退により、多摩地区における繁華街としての相対的な地位は低下している。以前は北口に百貨店が複数存在したが、現在では全て撤退している。かつて「織物の街」として栄えた名残で全盛期から大幅に規模を縮小したものの、中町には多摩地域で唯一の花街である「黒塀通り」が今なお残っている。商業面のみならず、東京地方裁判所や東京地方検察庁といった公的機関も立川市に移転した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "北口、南口にそれぞれある駅前広場は歩行者及び路線バス、タクシーの発着用である。自家用自動車等は北口では駅からやや離れた場所か、地下駐車場を利用する。南口では2018年11月22日、新たに開業した「八王子オーパ」1階東側に一般車両の乗降場が設けられた。ただし認められているのは一時的な停車だけで、出迎えのためなどの駐車やマイクロバスなど大型車両の進入は禁止されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北口周辺から甲州街道(国道20号)沿いの八幡町・八日町・横山町にかけては、江戸時代の宿場町を基礎とする商店街と、百貨店など大型商業施設を中心とした商業地域が栄えた。かつてはまるき百貨店やイノウエ百貨店といった地元百貨店があり、また大型店として丸井八王子店、西武百貨店八王子店、八王子大丸、伊勢丹八王子店、長崎屋八王子店、八王子発祥のスーパーマーケット忠実屋1号店の八幡町店などがあった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1983年に八王子駅の駅ビル「八王子ターミナルビル」が建設され、核店舗として八王子そごうと専門店街「八王子ナウ」が開業した。他の百貨店は出店時に周辺商店街からの反対運動により店舗規模を縮小せざるを得なかったため、そごう進出により丸井以外の百貨店が撤退した。1987年には大丸が撤退した跡地に忠実屋がファッションビル「FAM」を開店した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "またこの頃、八王子駅周辺では初となる家電量販店のヨドバシカメラ八王子店が開業した。ヨドバシカメラとしては新宿・横浜・上野に次ぐ出店であり初の郊外のターミナル駅前立地型店舗となった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1994年には、忠実屋がダイエーに吸収合併されたことによりファッションビル「FAM」が閉店し、地下化された京王八王子駅の地上部に駅ビルの京王八王子ショッピングセンター(旧称「KEIO21=ケイオウ ツーワン」)が同年オープンした。1997年には八王子駅北口再開発事業が竣工し八王子東急スクエア(現・八王子オクトーレ)がオープンした。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2004年には当時経営不振に陥っていた丸井が撤退した。2011年には長崎屋八王子店が閉店し、ドン・キホーテ八王子駅前店としてリニューアルオープンした。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年1月31日、八王子市内に唯一残った百貨店の八王子そごうが閉店し、同年10月25日にJR東日本最大級の駅ビルセレオ八王子北館としてリニューアルオープンした。これにより八王子市内の百貨店は全て撤退し、また東京都内からそごうの店舗が消滅した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2015年にはダイエー八王子店が建物老朽化に伴い閉店した。店舗解体後の跡地に高層マンションが建設され、ダイエーは2019年3月28日、イオンフードスタイル八王子店としてマンション1階に再出店した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "八王子駅と京王八王子駅の中間地である旭町・明神町地区で再開発計画があり、先行して明神町地区の都合同庁舎及び多摩地区最大となる展示ホールが2018年度に着工予定、2022年度の竣工予定である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "北口周辺を中心とした中心市街地では、1995年以降一貫して人口が増加している。近年においてもマンション建築が盛んであり、市総人口に対する中心市街地シェアも徐々に高まっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1960年に「八王子織物産地買継商業組合」により「織物の八王子」モニュメントが設置され、1962年に同組合から八王子市に寄贈された。「織物タワー」と呼ばれており、上部には八王子市の市章を掲げ、その下に「織物の八王子」と大きな字で記されていた。1995年に八王子駅北口再開発事業による北口地下駐車場整備のため解体撤去されるまで、「織物タワー」は八王子のシンボルとして市民に長年親しまれていた。なお「織物タワー」は正式名称でなく市民からの愛称である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1999年にはペデストリアンデッキ「マルベリーブリッジ」(マルベリーは「桑」の意)が完成した。駅ビル・駅舎内の自由通路により南口側とも連絡している。また「マルベリーブリッジ」中央部にはかつての「織物タワー」の代わりに、新たなモニュメント「絹の舞」が設置された。絹織物をイメージした虹色の板が「八」の字を描いて架かるデザインとなっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ペデストリアンデッキの整備と同時に、バスターミナル・タクシー乗り場も整備され、北口駅前ロータリーは一般車進入禁止とされたことにより、駅前の道路混雑が緩和された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その後も「マルベリーブリッジ」の延伸工事は進められ、2012年秋には京王八王子駅方向の東放射線「アイロード」方面への延伸工事が開始、2014年3月30日に延伸部131.7 mが開通した。続いて西放射線通り商店街「ユーロード」方面への延伸と八王子東急スクエア(現・八王子オクトーレ)への接続も計画され、2018年度に着工し2019年度の完成を予定して工事を進め、2020年4月5日に完成した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "八王子駅南口では、1991年から再開発計画はあったものの長らく着工には至らず、バスロータリーと小規模商店や空地などが点在する状態が続いた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2008年に「八王子駅南口地区市街地再開発事業」が着工、同年1月から41階建ての再開発ビル「サザンスカイタワー八王子」の建設および駅前広場の整備を行い、2010年11月に竣工、同年12月1日に開業した。再開発ビルには、市民会館「J:COMホール八王子」(4 - 10階・上野町のものを移転。元「オリンパスホール八王子」)や八王子駅南口総合事務所(4階)などの公共施設や、商業施設(1 - 3階)、業務施設(5 - 7階)、住宅(9 - 41階・390戸)、地下駐車場が入居する。2階に地元スーパーのスーパーアルプスが入居したほか、カフェやドラッグストア、3階には飲食店等のテナントが入居している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "再開発ビルの下に整備された駅前広場には「とちの木デッキ」という名称のペデストリアンデッキが新設され、バスロータリーには八王子みなみ野駅から発着している近隣大学の通学バス専用発着場も整備された。2010年11月20日より「とちの木デッキ」およびバスロータリーの完全供用開始に伴い、北口発着分を含めたバス路線の整理が行われた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、駅自由通路東側にはJR東日本がビックカメラ、保育所、飲食店等が入居する地上6階・地下2階建ての駅ビル(商業施設)「セレオ八王子南館」を建設し、2010年11月11日に開業した。さらに、駅自由通路西側ではJR貨物による地上5階建て6層の立体駐車場「駐太郎」が開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2016年、駅自由通路西側にJR貨物と住友不動産の共同開発で地上26階建て、地下1階建て住宅商業の複合ビルが着工した。地上6階建ての商業施設部分にはオーパが出店を決定。2018年11月29日に八王子オーパが開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "「JR八王子駅北口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「八王子駅南口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。", "title": "バス路線" } ]
八王子駅(はちおうじえき)は、東京都八王子市旭町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
{{Otheruseslist|東京都八王子市にある[[JR]]の八王子駅|近隣の[[京王電鉄]]の駅|京王八王子駅|三重県にかつてあった駅|伊勢八王子駅}} {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 八王子駅 |画像 = Hachioji Station North 2014.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口駅ビル「セレオ八王子 北館」<br />(2014年4月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|35|39|20|N|139|20|20|E}}|title=八王子駅 |coord2={{coord|35|39|28.3|N|139|20|35.3|E}}|title2=京王八王子駅 |marker-color=008000|marker-color2=dd0077 }}右上は京王八王子駅 |よみがな = はちおうじ |ローマ字 = Hachi&#333;ji |電報略号 = ハチ |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[日本貨物鉄道]](JR貨物)}} |所在地 = [[東京都]][[八王子市]][[旭町 (八王子市)|旭町]]1-1 |座標 = {{coord|35|39|20|N|139|20|20|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = {{Nowrap|[[1889年]]([[明治]]22年)[[8月11日]]}}<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page =26 }}</ref> |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 3面6線{{R|zeneki46}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 72,101 |統計年度 = [[2022年]] |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|#0074be|■}}{{Color|#f15a22|■}}[[中央本線]]([[中央線快速|中央線]]) |隣の駅1 = |前の駅1 = JC 21 [[豊田駅|豊田]] |駅間A1 = 4.3 |駅間B1 = 2.4 |次の駅1 = [[西八王子駅|西八王子]] JC 23 |駅番号1 = {{駅番号r|JC|22|#f15a22|1}}<ref group="報道" name="Numbering">[https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf 首都圏エリアへ 「駅ナンバリング」を導入します](PDF) [[東日本旅客鉄道株式会社]]</ref> |キロ程1 = 37.1&nbsp;km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から47.4 |所属路線2 = {{color|#7fc342|■}}[[横浜線]] |前の駅2 = JH 31 [[片倉駅|片倉]] |駅間A2 = 2.6 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = {{駅番号r|JH|32|#7fc342|1}}<ref group="報道" name="Numbering" /> |キロ程2 = 42.6 |起点駅2 = [[東神奈川駅|東神奈川]] |所属路線3 = {{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]] |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 3.1 |次の駅3 = [[北八王子駅|北八王子]] |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 八王子 |乗換 = {{駅番号r|KO|34|#dd0077|5}} [[京王八王子駅]]([[京王線]]) |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} }} [[File:CELEO Hachioji.jpg|thumb|南口駅ビル「セレオ八王子 南館」<br />(2010年11月)]] '''八王子駅'''(はちおうじえき)は、[[東京都]][[八王子市]][[旭町 (八王子市)|旭町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki46}}。 == 概要 == [[東京都]]唯一の[[中核市]]であり、[[多摩地域]]最大の人口を擁する[[八王子市]]の中心駅であり[[多摩地域]]にある[[ターミナル駅]]の一つ。[[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]が置かれている。[[中央本線|中央線]]で[[多摩地域]]東部や[[新宿駅]]や[[東京駅]]といった[[東京都区部]]や[[甲信地方]]等と、[[横浜線]]で[[神奈川県]]内と、[[八高線]]経由で多摩地域北西部や[[埼玉県]]西部等と結ばれている<ref>[https://www.jreast-timetable.jp/timetable/list1227.html 時刻表/八王子駅]東日本旅客鉄道(2019年1月17日閲覧)。</ref>。「[[かいじ (列車)|かいじ]]」「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[富士回遊]]」「[[はちおうじ・おうめ|はちおうじ]]」などの[[特別急行列車|特急列車]]も全て停車する。また、[[京王電鉄]]の[[京王八王子駅]]が徒歩5分ほどの距離にあり、[[定期乗車券|定期券]]での[[連絡運輸]]が設定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408015123/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-04-08|accessdate=2020-04-08|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 [[中央線快速|中央線]]には'''JC 22'''<ref group="報道" name="Numbering" />、横浜線には'''JH 32'''の[[駅ナンバリング|駅番号]]が設定されている<ref group="報道" name="Numbering" />。 == 歴史 == [[File:Hachiōji Station.1974.12.jpg|thumb|八王子駅周辺の空中写真(1974年12月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] === 年表 === * [[1889年]]([[明治]]22年)[[8月11日]]:[[甲武鉄道]][[立川駅]] - 八王子駅間開通と同時に開業{{R|zeneki46}}。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。 ** 当時は現在の場所より北東、八王子合同庁舎付近の位置にあった。 * [[1901年]](明治34年)[[8月1日]]:[[鉄道省|官設鉄道]]が[[上野原駅]]まで開通<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、22頁</ref>。それに伴い、現在の場所より西へおよそ150 m先の地点へ移動。 **現在の[[アップルパーク]]八王子駅前第1及び第2の位置。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1908年]](明治41年)[[9月23日]]:横浜鉄道線が[[東神奈川駅]]から開通。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により[[中央本線|中央東線]]の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1910年]](明治43年)[[4月1日]]:[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]が横浜鉄道線を借り上げ。鉄道院八濱線(はっぴんせん)となる。 * [[1911年]](明治44年)[[5月1日]]:中央西線[[宮ノ越駅]] - [[木曽福島駅]]間延伸開業に伴い、中央東線は中央本線となる{{R|sone05-23}}。 * [[1917年]]([[大正]]6年)10月1日:横浜鉄道線が国有化、鉄道院[[横浜線]]となる。 * [[1930年]](昭和5年)[[12月20日]]:中央本線の立川駅 - 浅川駅(現・[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]])間が[[鉄道の電化|電化]]される。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月10日]]:八高線開業。 * [[1938年]](昭和13年)[[8月4日]]:中央本線の[[複線化]]に伴い駅舎を改築。 * [[1941年]](昭和16年)[[4月5日]]:横浜線の[[町田駅|原町田駅]] - 八王子駅間が電化される。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[8月2日]]:[[太平洋戦争]]下の[[八王子空襲]]にて焼失<ref name="総説">{{Cite book|和書|author=|year=1985|title=八王子の空襲と戦災の記録(総説)|publisher=八王子市教育委員会|isbn=}}</ref>。 ** [[8月3日]]:運転再開<ref name="総説"/>。8月5日に全面開通<ref name="総説"/>。 ** [[10月6日]]:仮駅舎が竣成<ref name="総説"/>。 * [[1949年]](昭和24年) **4月1日:八王子駅南口開通。 **[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1952年]](昭和27年)[[4月15日]]:現在地に新駅舎を竣成<ref name="総説"/>。 * [[1969年]](昭和44年)[[4月21日]]:横浜線と中央本線の東京寄りに乗り換え専用跨線橋を設置<ref>{{Cite news |title=混雑緩和で駅設備改良 高尾、八王子両駅工事完成 |newspaper=[[交通新聞]] |date=1969-04-22 |publisher=交通協力会 |page=2 }}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[12月23日]]:日本オイルターミナル八王子営業所が開所。 * [[1973年]](昭和48年)[[4月10日]]:旅行センターの営業を開始<ref>{{Cite news |title=八王子駅に旅セン 東京西局、10日オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1973-04-08 |page=3 }}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)4月:橋上駅舎化工事に着手{{R|交通8309}}。 * [[1981年]](昭和56年) ** 5月:仮駅舎に移転{{R|交通8309}}。 ** 10月:八高線ホーム拡幅{{R|交通8309}}。 * [[1983年]](昭和58年) **[[9月16日]]:南北自由通路開通<ref name="交通8309">{{Cite news |title=橋上駅舎など使用開始 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1983-09-17 |page=2 }}</ref>。 **[[11月1日]]:5代目の駅舎となる[[駅ビル]]「[[JR東京西駅ビル開発#八王子ナウ|八王子ナウ]]」が竣工し、核テナントとして「八王子[[そごう]]」がオープン。 * [[1986年]](昭和61年)11月1日:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)頃:横浜線ホーム島式化。6番線を増設。 ** [[3月16日]]:[[相模線]]電化に伴い、相模線の朝夕八王子乗り入れ開始。 * [[1993年]](平成5年)[[9月21日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)3月16日:八高線当駅 - [[高麗川駅]]間が電化される。 * [[1997年]](平成9年) [[3月14日]]<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=八王子東急スクエア|url=http://www.tokyu-tmd.co.jp/|website=株式会社 東急モールズデベロップメント|accessdate=2020-03-28|language=ja|publisher=}}</ref>:八王子駅北口再開発ビル「[[八王子オクトーレ|八王子東急スクエア]]」が開業<ref name=":3" />。 * [[1998年]](平成10年)[[10月3日]]:コンテナ輸送自動車代行化。 * [[1999年]](平成11年):八王子駅北口地下駐車場が完成。 ** [[11月21日]]:中央線上りホームを3番線から2番線へ変更。 *** 従来は朝夕ラッシュ時に2番線を使用。これは中央線上下線が同一ホームで発着するための混雑緩和であったが、これにより終日分離となった。当初は3番線が本線のまま運用されていたが、下記改良工事後は2番線が本線となっている。 *** 改良工事後の3番線は八王子起・終点の列車、また貨物列車の留置に使用されている。 *** この頃、中央線上り本線を2番線へ変更する[[分岐器]]等の改良工事実施。 *** この頃、旧乗換専用通路と出口を結ぶ通路が新設され、新たな乗換専用通路も新設。 * [[2000年]](平成12年):八王子駅北口歩行者用デッキが開通。桑都・八王子に因んで「マルベリーブリッジ」と名付けられる。 * [[2001年]](平成13年) ** 5月:みどりの窓口・びゅうプラザ・併設店舗をリニューアル。 ** [[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[12月25日]]:[[発車メロディ]]に『[[夕焼小焼]]』を導入。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:オフレールステーションの名称使用開始。 * [[2007年]](平成19年)3月:再び、みどりの窓口・びゅうプラザ・併設店舗をリニューアル。 * [[2009年]](平成21年)8月11日:開業120周年。記念式典が行われ、八王子市長が1日駅長を務めた。また記念入場券などが発売された。 * [[2010年]](平成22年)[[11月11日]]:2つ目の駅ビル「[[セレオ八王子]]」が南口にオープン<ref group="報道" name="press/20100924_info02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20100924/20100924_info02.pdf|title=2010年11月11日 八王子駅南口に ライフスタイル提案型駅ビル「CELEO(セレオ)八王子」がグランドオープンします。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2010-09-24|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612151544/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20100924/20100924_info02.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[1月31日]]:「八王子ナウ」に入居していた「そごう八王子店(旧・八王子そごう)」が閉店。 ** [[10月25日]]:「八王子ナウ」が「[[セレオ八王子]]北館」としてリニューアルオープン(従来の「[[セレオ八王子]]」は「[[セレオ八王子]]南館」となる)<ref group="報道" name="celeo/press/20120920">{{Cite press release|和書|url=https://www.celeo.co.jp/admin/newsrelease/pdf/0_20120920press.pdf|title=多摩地区最大級の食品売場と充実したファッションエリア JR八王子駅ビル「CELEO(セレオ)八王子 北館」 2012年10月25日(木)オープンのご案内 ~世代を超えて楽しめる商業施設「Hachioji Life Style Station」~|format=PDF|publisher=JR東京西駅ビル開発|date=2012-09-20|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412043750/https://www.celeo.co.jp/admin/newsrelease/pdf/0_20120920press.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年):マルベリーブリッジを京王八王子駅方面の東放射線「アイロード」へ延伸<ref group="新聞" name=":4">{{Cite web|和書|title=八王子・マルベリーブリッジ、ユーロード側へ延伸 4月5日11時に、式典はなし|url=https://hachioji.keizai.biz/headline/2965/|website=八王子経済新聞|accessdate=2020-03-29|publisher=|date=2020-03-25}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[5月12日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]の営業が終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://jreu-h.jp/relays/download/35/98/444/589/?file=/files/libs/589//201902071805141984.pdf|format=PDF|language=日本語|title=びゅうプラザ立川移管とびゅうプラザ八王子・国分寺廃止の提案される|publisher=JR東労組八王子地本|date=2019-02-07|accessdate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128163343/http://jreu-h.jp/relays/download/35/98/444/589/?file=/files/libs/589//201902071805141984.pdf|archivedate=2020-01-28}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[4月5日]]:マルベリーブリッジを西放射線通り商店街「ユーロード」へ延伸<ref group="新聞" name=":4" />。 * [[2022年]](令和4年)[[3月11日]]:翌日のダイヤ改正により、相模線の朝夕八王子乗り入れを終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064059/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。八高線(1番線)ホームからの発車メロディ「夕焼け小焼けB」がワンマン化によって消滅。 * [[2023年]](令和5年)度:横浜線(5・6番線)ホームにて[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始(予定)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230413_ho05.pdf|title=2023年度のホームドア整備計画について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2023-04-13|accessdate=2023-04-13}}</ref>。 * [[2024年]](令和5年)[[3月16日]] ダイヤ改正により八王子駅発着の[[成田エクスプレス]]は、運転取りやめ予定。<ref>{{Cite web |url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/chiba/20231215_c01.pdf |title=『2024年3月ダイヤ改正について』(PDF)(プレスリリース)東日本旅客鉄道千葉支社、2023年12月15日。 |access-date=2023年12月15日}}</ref> == 駅構造 == [[島式ホーム]]3面6線を有する[[地上駅]]{{R|zeneki46}}。横浜線乗り場のみ南側に離れている。[[橋上駅|橋上駅舎]]を持ち、北側の北口[[セレオ八王子|駅ビル]]につながっているほか、南側にも自由通路の[[跨線橋]]が伸び、南口[[セレオ八王子|駅ビル]]とつながっている。 [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、八王子営業統括センター所在駅。[[みどりの窓口]]および[[指定席券売機]]、[[VIEW ALTTE]]が設置されている。また八王子営業統括センターとして、中央線の[[日野駅 (東京都)|日野駅]] - [[藤野駅]]間の各駅、[[八高線]]の[[北八王子駅]]、[[小宮駅]]と[[横浜線]]の[[片倉駅]]、[[八王子みなみ野駅]]、[[相原駅]]を管理している。<!--[[自動改札機]]は[[2006年]][[8月3日]]に[[Suica]]読み取り部がオートチャージ対応となる新タイプのものに交換された(オートチャージは10月以降開始)。--> 駅敷地内には[[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]がある。駅構内にはかつてJR貨物[[八王子総合鉄道部]](旧・八王子機関区)があり、後に新鶴見機関区八王子派出に組織変更されたが、[[2008年]]には新鶴見機関区甲府派出と統合され、廃止された。機関区時代の名残りで多数の[[停車場#側線|側線]]や[[機関車]]留置線が存在していたが、それらは[[2011年]]12月までにほぼ撤去されている。 八王子総合鉄道部には、八高線が開業した1931年3月に完成し、かつて[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]以西の中央線山岳地帯に向かうために平坦線区の機関車と山登りの機関車を頻繁に付け替えていたことの名残りである[[転車台]]が残されていたが、こちらも2013年2月に解体され消滅した<ref group="新聞">[http://hachioji.keizai.biz/headline/1324/ 八王子駅の「転車台」解体工事進む-約80年の歴史に幕]八王子経済新聞2013年2月21日</ref>。また、駅構内東側、中央本線に沿った場所には保線基地がある。 === のりば === <!--方面表記および路線表記はJR東日本の「駅構内図」の記載に準拠(3番線は方面表記未記載)--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |{{color|#b4aa96|■}}八高線・川越線 |style="text-align:center;"|下り |[[拝島駅|拝島]]・[[高麗川駅|高麗川]]・[[高崎駅|高崎]]・[[川越駅|川越]]方面 |- !2 |rowspan="3"|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 |style="text-align:center;"|上り |[[立川駅|立川]]・[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !3 |style="text-align:center;"|- |(行き先表記無し) |- !4 |style="text-align:center;"|下り |[[高尾駅 (東京都)|高尾]]・[[甲府駅|甲府]]・[[松本駅|松本]]方面 |- !5・6 |[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]・[[町田駅|町田]]・[[東神奈川駅|東神奈川]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1227.html JR東日本:駅構内図]) [[貨物列車]]等の待避・機回し・入換に使用するため、1番線の脇と4番線と5番線の間、6番線の脇には、それぞれ側線がある。また、「[[あずさ (列車)|あずさ]]」や「[[かいじ (列車)|かいじ]]」、「[[富士回遊]]」、「[[はちおうじ]]」、「[[成田エクスプレス]]」の全特急列車が当駅に停車し、このうち「はちおうじ」と「成田エクスプレス」号については、当駅が始発・終点となる<ref group="注釈">「成田エクスプレス」は2021年3月13日ダイヤ改正以前、2つ先の高尾駅が始発・終点となっていた。なお使用するE259系車両は、1つ隣の豊田車両センターへ回送され、夜間はここで一泊し、翌朝に同センターを出庫し当駅まで回送してから営業運転に入る。「はちおうじ」号に使用するE353系ついても同様である。</ref>。 中央本線では当駅始発の大月・甲府方面行きが数本設定されているものの、1つ隣の豊田駅に隣接する豊田車両センターから回送され、当駅から営業運転に入る列車がある。逆に甲府方面からの当駅止まりの列車は設定されておらず、大半が高尾駅止まりでごく少数立川駅まで運転されるのもある。 3番線は行き先未記入となっており、定期列車では、中央線上りの当駅始発・終着列車や「[[むさしの号]]」が使用する。また、始発列車がない時間帯は主に上り方面の貨物列車の待避・[[機回し]]・入換にも使用される。 横浜線ホームの5・6番線の線路は行き止まりとなっている。そのため、かつて存在した臨時特急「[[はまかいじ]]」は3番線を介して横浜方面へ、松本行きは4番線から直通していた。 八高線のホームである1番線は2番線(中央線上りホーム)の東側前方(高麗川・東京寄り)であり、このため1番線の西側後方には柵が設置されている。また、4両編成が停車できる留置線がある。 JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)を目途に東京駅 - [[大月駅]]間のオレンジ帯([[JR東日本E233系電車|E233系]])で運行する列車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う予定だが、特急停車駅のため 2 - 4番線は既に12両編成の列車の停車に対応している。そのため、信号設備改良やグリーン車Suicaシステム設置に伴う券売機設置工事などが行われる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。 それに先立ち、2022年5月16日より、2 - 4番線の中央線快速電車の乗車位置が、東京よりに約10 - 26 m(ホームごとに異なる)移動した。 <gallery> JR Hachioji Station Gates.jpg|改札口(2021年4月) JR Hachioji Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2021年4月) JR Hachioji Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2021年4月) JR Hachioji Station Platform 5・6.jpg|5・6番線ホーム(2021年4月) </gallery> === 発車メロディ === [[2005年]][[12月25日]]から全ホームの[[発車メロディ]]が八王子市内出身の[[中村雨紅]]作詞の『[[夕焼小焼]]』となった。メロディの制作はサウンドフォーラムで、編曲は牧野奈津子が手掛けた。ホームごとにアレンジが異なる。コンコースにはこの歌をイメージした[[壁画]]と歌碑が屋根の段差部分に取り付けられている。なお、[[2022年]][[3月11日]]までは八高線の1番線ホームでも使用されていたが、ワンマン化のため現在は使用されていない。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |{{color|#b4aa96|■}} |夕焼け小焼けB(現在不使用) |- !2 |[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] |夕焼け小焼けA |- !3 |[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] |夕焼け小焼けC |- !4 |[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] |夕焼け小焼けD |- !5 |[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] |夕焼け小焼けE |- !6 |[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] |夕焼け小焼けF |} === 駅構内設備 === [[File:通路.jpg|thumb|自由通路(2021年1月)]] {{columns-list|2| * [[エレベーター]]及び[[エスカレーター]]は全ホームに設置。 * [[便所|トイレ]]([[車椅子]]対応)は改札口付近に設置(2017年2月より改修工事が行われ、2017年6月30日に使用開始された)。 * [[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]は南北自由通路の途中に設置。 * [[駅レンタカー]]は南口入口付近に設置。 * [[キヨスク|KIOSK]](売店、全ホーム) * 駅弁屋(売店、2階コンコース) * 証明写真機Ki-Re-i(2階コンコース。2台) * [[立ち食いそば・うどん店#駅そば|駅そば]] あじさい茶屋([[蕎麦|そば]]・[[うどん]]店、5・6番線ホーム)、いろり庵きらく(旧:いちょう庵)(同、2階コンコース) * メープルハウス(八王子中央店、2階コンコース) * [[BECK'S COFFEE SHOP]] ([[喫茶店|コーヒーショップ]]、2階コンコース) * [[NewDays]](コンビニ、2階コンコース) * 桔梗屋 東治郎(2階コンコース) * Rond.(ロン)(洋菓子。2階コンコース) * やまたまや([[山梨県]]・[[多摩地域]]の地産品ショップ。2階コンコース) * [[みずほ銀行]](八王子駅出張所ATM。2階コンコース。なお、NEWDAYS内にも設置されている。) * [[ビューカード]](改札内連絡通路ATM、改札口横ATM) |}} === 貨物取扱 === [[日本貨物鉄道|JR貨物]]の駅は、[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ貨物]](12 [[フィート|ft]]コンテナのみ)と[[車扱貨物]]の取扱駅となっている。車扱貨物を輸送するための[[貨物列車]]は設定されているが、コンテナ輸送はすでに[[貨物自動車|トラック]]代行化されている。駅の業務は[[神奈川臨海鉄道]]が受託している。 ==== 貨物側線 ==== 駅構内東側で、八高線から分岐し中央本線に沿って東進、途中で保線基地線を分岐させ、[[浅川 (東京都)|浅川]]西岸にある[[日本オイルターミナル]]八王子営業所([[油槽所]])へ至る側線がある。この線路は油槽所への[[石油]]搬入に使用されており、末端に石油荷役線2線と留置線1線がある。 この油槽所へ石油を輸送するため、[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]や[[千葉貨物駅]]から石油輸送用貨物列車が運行されている。 ==== 八王子オフレールステーション ==== '''八王子[[オフレールステーション]]'''(略称:八王子ORS・{{ウィキ座標|35|39|15.9|N|139|20|58.4|E|region:JP_type:landmark|地図|name=八王子オフレールステーション}})は、JR貨物の施設の通称。[[旅客駅]]の中央本線に沿った東側、八王子市北野町600にある。2023年時点では[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]集配基地として機能しており、貨物列車の発着はない。列車代替のトラック便が、1日3往復、[[横浜羽沢駅]]との間で運行されている。<ref>{{Cite press release|title=コンテナ時刻表 2023.3.18 ダイヤ改正|publisher=日本貨物鉄道株式会社|date=2023-03-18|url=https://www.jrfreight.co.jp/library/service/book/index.html#target/page_no=123|和書|accessdate=2023-11-03}}</ref> かつては貨物列車の発着があり、コンテナは列車で輸送されていたが、[[1998年]]10月よりトラック代行になり、[[自動車]]代行駅となった。また、[[2006年]]3月の[[貨物駅]]の名称整理の際に、「オフレールステーション」の通称の使用を開始している。 2012年時点では[[コンテナヤード]]が置かれているのみだが、列車の発着があった時期は1面2線のコンテナホームを有していた。すでに荷役線は撤去され、[[山田川 (東京都)|山田川]]を渡る橋のみ残っている。 == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''72,101人'''であり、JR東日本の駅では[[大森駅 (東京都)|大森駅]]に次いで第51位。中央快速線内は12位、横浜線内は[[町田駅]]に続き2位である。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/002/006/tokehachihkakunen/index.html 統計八王子] - 八王子市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1989年(平成元年) |72,717 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qa0091.pdf 東京都統計年鑑(平成元年)]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |76,208 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qa0091.pdf 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |81,019 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qa0091.pdf 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |82,427 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |83,614 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |83,723 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |83,648 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |84,978 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |83,647 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |82,652 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>82,192 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>80,697 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>80,843 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>81,204 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>81,273 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>80,325 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>80,755 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>81,403 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>82,032 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>82,395 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>80,273 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>80,219 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>81,474 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>82,521 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>85,191 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>84,739 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>86,178 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>85,093 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>85,302 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>85,003 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>83,565 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>58,760 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>65,571 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>72,101 | |} == 貨物取扱 == 2011年度は、コンテナ貨物の取扱量が発送19,996トン、到着64,405トン、車扱貨物の取扱量が発送37,849トン、到着394,361トンだった。近年の年間発着トン数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !rowspan=2|年度 !colspan=2|総数 !colspan=2|車扱貨物 !colspan=2|コンテナ貨物 !rowspan=2|出典 |- ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 |- |1990年(平成{{0}}2年) |95,912 |494,866 |60,593 |394,820 |35,319 |100,046 |<ref group="貨物">第42回東京都統計年鑑 222ページ</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |91,964 |485,467 |57,641 |403,750 |34,323 |81,717 |<ref group="貨物">第43回東京都統計年鑑 228ページ</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |92,636 |415,540 |55,802 |378,706 |36,834 |36,834 |<ref group="貨物">第44回東京都統計年鑑 222ページ</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |67,450 |401,304 |33,583 |317,773 |33,867 |83,531 |<ref>第45回東京都統計年鑑 232ページ</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |64,707 |403,226 |32,728 |319,083 |31,979 |84,143 |<ref group="貨物">第46回東京都統計年鑑 218ページ</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |69,945 |390,958 |36,437 |316,238 |33,508 |74,720 |<ref group="貨物">第47回東京都統計年鑑 236ページ</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |64,779 |390,382 |31,583 |309,121 |33,196 |81,261 |<ref group="貨物">第48回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |62,317 |372,827 |29,343 |289,327 |32,974 |83,500 |<ref group="貨物">第49回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |1998年(平成10年) |52,278 |263,191 |19,465 |193,061 |32,813 |70,130 |<ref group="貨物">第50回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |1999年(平成11年) |62,312 |388,387 |31,190 |314,796 |31,122 |73,591 |<ref group="貨物">第51回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2000年(平成12年) |76,976 |451,794 |38,856 |379,037 |38,120 |72,757 |<ref group="貨物">第52回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2001年(平成13年) |77,613 |432,963 |33,736 |355,016 |43,877 |76,747 |<ref group="貨物">第53回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |84,632 |497,604 |42,580 |423,808 |42,052 |73,796 |<ref group="貨物">第54回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |90,643 |498,070 |42,788 |406,782 |47,855 |91,288 |<ref group="貨物">第55回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |83,878 |541,730 |45,704 |452,825 |38,174 |88,905 |<ref group="貨物">第56回東京都統計年鑑 248ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |88,426 |545,413 |45,778 |467,313 |42,648 |78,100 |<ref group="貨物">第57回東京都統計年鑑 266ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |79,027 |527,053 |42,927 |442,358 |36,100 |84,695 |<ref group="貨物">第58回東京都統計年鑑 253ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |77,474 |522,163 |42,812 |441,056 |34,662 |81,107 |<ref group="貨物">第59回東京都統計年鑑 252ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |75,268 |470,328 |42,812 |381,218 |32,456 |89,110 |<ref group="貨物">第60回東京都統計年鑑 257ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |63,355 |465,074 |37,804 |387,034 |25,551 |78,040 |<ref group="貨物">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |59,811 |463,064 |38,430 |389,889 |21,381 |73,175 |<ref group="貨物">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |57,845 |458,776 |37,849 |394,361 |19,996 |64,405 |<ref group="貨物">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |} == 駅弁 == 以前は八王子駅(高尾駅)に[[玉川亭]]という業者が駅弁を販売していたが、既に撤退している。現在は、[[日本レストランエンタプライズ]] (NRE) の駅弁([[新宿駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[水戸駅]]・[[いわき駅]]と全く同じ)が「駅弁屋」で販売されている。その後、2階コンコースのギフトプラザ売店にて[[崎陽軒]]の弁当の取り扱いが開始されたが、現在はセレオ八王子内に移転した。 2023年2月12日に駅弁屋は閉店されたが、駅構内外の[[NewDays]]で売られている。 === 八王子で売られていた駅弁一覧 === * [[第二次世界大戦]]前 ** 御寿司 * 第二次世界大戦後 ** 特製御弁当、特製お好み弁当、サンドウィッチ、ちらし寿し、うなぎ弁当、高尾の里、松姫御膳、牛ずし、特製幕の内夕やけ弁当、陣場の栗めし === 主な駅弁一覧 === ※現在全ての駅弁が売られているかは不明。 {{columns-list|2| * 鳥めし弁当 * [[深川めし]] * チキン弁当 * 30品目のバランス弁当 * たれ[[カツ重]] * さば蒲焼き風弁当 * 海苔のりべん * 五目わっぱめし * 鯵鯖よくばり寿司 * こだわりのとんかつ弁当 * 幕の内弁当 * 秋露のささやき * 特上鯵の押寿し * 季節の吹き寄せ弁当 * 釜めし弁当 * 幸福べんとう * 大漁市場(旅情編) * うなぎ弁当 * 北海味メッセ * 懐石弁当大人の休日 |}} == 駅周辺 == 駅周辺は八王子市の[[中心市街地]]である<ref>[https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/sangyo/003/hatioujichuusinn/p022972.html 八王子市中心市街地活性化基本計画(認定)]八王子市ホームページ(2019年1月17日閲覧)。</ref>。[[吉祥寺]]・[[立川駅|立川]]・[[町田駅|町田]]などと並び[[多摩地域]]を代表する商業地域の1つであり、北口を中心に[[繁華街]]が広がっている。特に西放射線通り商店街(通称:ユーロード)は歩行者専用道路で飲食店などが集積しているため、人通りも多く特に賑わっている。かつては多摩地域最大の繁華街として栄えていたが、市郊外に[[三井アウトレットパーク 多摩南大沢]]を始めとする複数の大型商業施設の出店や、周辺の[[立川駅]]や[[町田駅]]の発展、市の基幹産業である[[アパレル産業|繊維産業]]([[絹織物]])の衰退により、多摩地区における繁華街としての相対的な地位は低下している。以前は北口に[[百貨店]]が複数存在したが、現在では全て撤退している。かつて「織物の街」として栄えた名残で全盛期から大幅に規模を縮小したものの、[[中町 (八王子市)|中町]]には多摩地域で唯一の[[花街]]である「[[八王子 (花街)|黒塀通り]]」が今なお残っている。商業面のみならず、[[東京地方裁判所]]や[[東京地方検察庁]]といった公的機関も[[立川市]]に移転した<ref>{{Cite web|和書|title=東京地方裁判所の紹介 {{!}} 裁判所|url=https://www.courts.go.jp/tokyo/about/syokai/index.html|website=www.courts.go.jp|accessdate=2021-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東京地方検察庁の沿革:東京地方検察庁|url=https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/tokyo/page1000036.html|website=www.kensatsu.go.jp|accessdate=2021-11-16}}</ref>。 北口、南口にそれぞれある駅前広場は歩行者及び[[路線バス]]、[[タクシー]]の発着用である。[[自家用自動車]]等は北口では駅からやや離れた場所か、地下駐車場を利用する。南口では2018年11月22日、新たに開業した「八王子[[OPA|オーパ]]」1階東側に一般車両の乗降場が設けられた<ref group="新聞">[https://mainichi.jp/articles/20181118/ddl/k13/040/004000c 八王子駅南口に一般車両乗降場22日から利用開始」]『[[毎日新聞]]』朝刊2018年11月18日(東京面)2019年1月17日閲覧。</ref>。ただし認められているのは一時的な[[停車]]だけで、出迎えのためなどの[[駐車]]や[[マイクロバス]]など大型車両の進入は禁止されている<ref group="報道">[https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/001/006/001/003/p014499.html 八王子駅南口一般車乗降場の開設について]八王子市ホームページ(2019年1月17日閲覧)。</ref>。 {{-}} === 駅周辺の歴史 === ==== 北口の商業施設 ==== [[File:HachiojiStkita.jpg|thumb|そごう入居時代の北口駅ビル(2005年11月撮影)]] 北口周辺から[[甲州街道]]([[国道20号]])沿いの[[八幡町 (八王子市)|八幡町]]・[[八日町 (八王子市)|八日町]]・[[横山町 (八王子市)|横山町]]にかけては、[[江戸時代]]の[[宿場町]]を基礎とする[[商店街]]と、[[百貨店]]など大型商業施設を中心とした商業地域が栄えた。かつては[[まるき百貨店]]や[[イノウエ百貨店]]といった地元百貨店があり、また大型店として[[丸井#過去に存在した丸井の店舗|丸井八王子店]]、[[西武の店舗一覧#過去に存在した店舗|西武百貨店八王子店]]、[[大丸#過去に存在した店舗|八王子大丸]]、[[伊勢丹#過去に存在した店舗|伊勢丹八王子店]]、[[過去に存在した長崎屋の店舗#東京都|長崎屋八王子店]]、八王子発祥の[[スーパーマーケット]][[忠実屋]]1号店の八幡町店などがあった。 [[1983年]]に八王子駅の[[駅ビル]]「[[JR東京西駅ビル開発|八王子ターミナルビル]]」が建設され、[[核店舗]]として[[そごう八王子店|八王子そごう]]と専門店街「[[八王子ナウ]]」が開業した。他の百貨店は出店時に周辺商店街からの反対運動により店舗規模を縮小せざるを得なかったため、そごう進出により丸井以外の百貨店が撤退した。[[1987年]]には大丸が撤退した跡地に忠実屋が[[ファッションビル]]「FAM」を開店した。 またこの頃、八王子駅周辺では初となる[[家電量販店]]の[[ヨドバシカメラ]]八王子店が<!--{{要出典範囲|[[1991年]]|date=2020年3月}}※公式サイトにも記載なし-->開業した。ヨドバシカメラとしては[[新宿駅|新宿]]・[[横浜駅|横浜]]・[[上野駅|上野]]に次ぐ出店であり初の[[郊外]]のターミナル駅前立地型店舗となった<ref>{{Cite web|和書|title=沿革:ヨドバシカメラ会社情報|url=http://www.yodobashi.co.jp/company/profile/history/index.html|website=ヨドバシカメラ|accessdate=2020-04-02|publisher=}}</ref>。 [[1994年]]には、[[忠実屋]]が[[ダイエー]]に吸収合併されたことによりファッションビル「FAM」が<!--忠実屋本店と同時に-->閉店し、地下化された[[京王八王子駅]]の地上部に駅ビルの[[京王八王子ショッピングセンター]](旧称「KEIO21=ケイオウ ツーワン」)が同年オープンした。[[1997年]]には八王子駅北口再開発事業が竣工し[[八王子オクトーレ|八王子東急スクエア]](現・八王子オクトーレ)がオープンした。 [[2004年]]には当時経営不振に陥っていた[[丸井]]が撤退した。[[2011年]]には長崎屋八王子店が閉店し、[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]八王子駅前店としてリニューアルオープンした。 [[2012年]]1月31日、八王子市内に唯一残った百貨店の八王子そごうが閉店し<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.sogo-seibu.co.jp/pdf/20110223_01.pdf そごう八王子店営業終了について(2011年2月23日付株式会社そごう・西武プレスリリース)]}}</ref>、同年10月25日にJR東日本最大級の駅ビル[[セレオ八王子]]北館としてリニューアルオープンした<ref group="報道" name="celeo/press/20120920" />。これにより八王子市内の百貨店は全て撤退し、また東京都内からそごうの店舗が消滅した。 [[2015年]]には[[ダイエー八王子店]]が建物老朽化に伴い閉店した。店舗解体後の跡地に高層マンションが建設され、[[ダイエー]]は[[2019年]]3月28日、[[ダイエー (店舗ブランド)|イオンフードスタイル]]八王子店としてマンション1階に再出店した。 八王子駅と京王八王子駅の中間地である旭町・明神町地区で[[都市再開発|再開発]]計画があり、先行して明神町地区の都合同庁舎及び[[多摩地域|多摩地区]]最大となる展示ホールが2018年度に着工予定、2022年度の竣工予定である<ref group="新聞">{{Cite news|title=八王子の都産業交流拠点計画 展示ホール2500平方メートル|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO21139230U7A910C1L92000/|accessdate=2018-04-26|language=ja-JP|work=日本経済新聞 電子版}}</ref>。 北口周辺を中心とした[[中心市街地]]では、[[1995年]]以降一貫して人口が増加している。近年においてもマンション建築が盛んであり、市総人口に対する中心市街地シェアも徐々に高まっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/sangyo/003/hatioujichuusinn/p022972.html|title=八王子市中心市街地活性化基本計画(認定)|八王子市公式ホームページ|accessdate=2018-04-26|website=www.city.hachioji.tokyo.jp|language=ja-JP}}</ref>。 ==== マルベリーブリッジ・織物タワー ==== {{Double image aside|right|Hachioji Mulberry Bridge 1.jpg|200|Hachioji Mulberry Bridge 2.jpg|200|マルベリーブリッジ(左:1990年代開通部、右:2014年延伸開通部)}} [[File:Monument of Hachioji Station.jpg|thumb|北口駅前に設置されたモニュメント「絹の舞」]] [[1960年]]に「八王子織物産地買継商業組合」により「織物の八王子」[[モニュメント]]が設置され<ref>{{Cite web|和書|title=八王子の地域文化を再発見 村松英二さんのコレクションで 『絵葉書でみる八王子市の100年』発刊|url=http://asacoco.jp/topnews/hachioji-100th/|accessdate=2020-03-29|language=ja|publisher=|website=多摩地域のタウン紙 asacoco(アサココ )|date=2018年4月19日}}</ref>、[[1962年]]に同組合から八王子市に寄贈された。「'''織物タワー'''」と呼ばれており、上部には八王子市の[[市町村章|市章]]を掲げ、その下に「織物の八王子」と大きな字で記されていた。[[1995年]]に八王子駅北口再開発事業による北口地下駐車場整備のため解体撤去されるまで、「織物タワー」は八王子のシンボルとして市民に長年親しまれていた。なお「織物タワー」は正式名称でなく市民からの愛称である。 [[1999年]]には[[ペデストリアンデッキ]]「マルベリーブリッジ」(マルベリーは「[[クワ|桑]]」の意)が完成した。駅ビル・駅舎内の自由通路により南口側とも連絡している。また「マルベリーブリッジ」中央部にはかつての「織物タワー」の代わりに、新たなモニュメント「絹の舞」が設置された。[[絹織物]]をイメージした虹色の板が「八」の字を描いて架かるデザインとなっている。 ペデストリアンデッキの整備と同時に、[[バスターミナル]]・[[タクシー]]乗り場も整備され、北口駅前[[ロータリー交差点|ロータリー]]は一般車進入禁止とされたことにより、駅前の道路混雑が緩和された。 その後も「マルベリーブリッジ」の延伸工事は進められ、[[2012年]]秋には京王八王子駅方向の東放射線「アイロード」方面への延伸工事が開始<ref group="新聞" name=":0" />、[[2014年]][[3月30日]]に延伸部131.7 mが開通した<ref group="新聞" name=":1" />。続いて西放射線通り商店街「ユーロード」方面への延伸と[[八王子オクトーレ|八王子東急スクエア]](現・八王子オクトーレ)への接続も計画され、[[2018年]]度に着工し[[2019年]]度の完成を予定して工事を進め<ref group="新聞" name=":2" />、[[2020年]]4月5日に完成した<ref group="新聞" name=":4" />。<!--なお、織物タワーの写真は「八王子商工会議所」のHPの「100年の歩み」にある。--> {{-}} ==== 南口の商業施設・再開発 ==== 八王子駅南口では、[[1991年]]から再開発計画はあったものの長らく着工には至らず、バスロータリーと小規模商店や空地などが点在する状態が続いた。 [[2008年]]に「{{Visible anchor|八王子駅南口地区市街地再開発事業}}」が着工、同年1月から41階建ての再開発ビル「[[サザンスカイタワー八王子]]」の建設および駅前広場の整備を行い、[[2010年]]11月に竣工、同年12月1日に開業した。再開発ビルには、市民会館「[[八王子市民会館|J:COMホール八王子]]」(4 - 10階・上野町のものを移転。元「オリンパスホール八王子」)や八王子駅南口総合事務所(4階)などの公共施設や、商業施設(1 - 3階)、業務施設(5 - 7階)、住宅(9 - 41階・390戸)、地下駐車場が入居する。2階に地元スーパーの[[スーパーアルプス]]が入居したほか、カフェやドラッグストア、3階には飲食店等のテナントが入居している。 再開発ビルの下に整備された駅前広場には「とちの木デッキ」という名称の[[ペデストリアンデッキ]]が新設され、バスロータリーには[[八王子みなみ野駅]]から発着している近隣大学の通学バス専用発着場も整備された。[[2010年]]11月20日より「とちの木デッキ」およびバスロータリーの完全供用開始に伴い、北口発着分を含めたバス路線の整理が行われた。 また、駅自由通路東側には[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[ビックカメラ]]、保育所、飲食店等が入居する地上6階・地下2階建ての駅ビル(商業施設)「[[セレオ八王子]]南館」を建設し、[[2010年]]11月11日に開業した<ref group="報道" name="press/20100924_info02" />。さらに、駅自由通路西側では[[日本貨物鉄道|JR貨物]]による地上5階建て6層の立体駐車場「駐太郎」が開業した。 [[2016年]]、駅自由通路西側にJR貨物と[[住友不動産]]の共同開発で地上26階建て、地下1階建て住宅商業の複合ビルが着工した。地上6階建ての商業施設部分には[[OPA|オーパ]]が出店を決定。[[2018年]]11月29日に[[OPA|八王子オーパ]]が開業した<ref group="新聞">{{Cite news|title=「八王子オーパ」がグランドオープン 1階も店開き、地元・梅干し専門店など出店|url=https://hachioji.keizai.biz/headline/2667/=2018-11-29|language=ja-JP|work=八王子経済新聞}}</ref><ref>[https://www.opa-club.com/hachioji 八王子オーパ公式サイト](2019年1月17日閲覧)。</ref>。 {{-}} <gallery> hachioji_sta_south.jpg|再開発前の南口 八王子駅南口再開発中.JPG|再開発事業中の南口 </gallery> === 北口 === ==== 公共施設 ==== {{columns-list|2| * [[八王子市夢美術館]] * 八王子市生涯学習センター(クリエイトホール) ** 八王子市消費者センター ** 八王子市生涯学習センター図書館 * [[八王子市芸術文化会館 いちょうホール]] * [[八王子市こども科学館]]([[コニカミノルタ]] サイエンスドーム) * [[東京地方裁判所#管轄する簡易裁判所|八王子簡易裁判所]] * [[八王子区検察庁]] * 八王子[[税務署]](2019年11月25日、南口より新庁舎に移転) * 八王子市[[保健所]] * 東京都八王子合同庁舎 * [[東京法務局]]八王子支局 * 八王子[[労働基準監督署]] * [[日本年金機構]]八王子年金事務所 * [[警視庁]]第九方面合同庁舎 * [[八王子警察署|警視庁八王子警察署]] * [[八王子消防署|東京消防庁八王子消防署]] |}} ==== 主な商業施設 ==== ; ショッピングセンター {{columns-list|2| * [[セレオ八王子]]北館(旧:[[そごう八王子店]]・[[八王子ナウ]]) ** [[京王百貨店]]セレオ八王子店 **イセタンミラーセレオ八王子店(ナチュラル派ブランドを併設し「イセタン コスメティクス」として展開) ** [[成城石井]]セレオ八王子北館店 ** [[良品計画|無印良品]]セレオ八王子(「Cafe&MealMUJIセレオ八王子」併設) ** 八王子[[ロフト (雑貨店)|ロフト]] ** [[赤ちゃん本舗|アカチャンホンポ]]セレオ八王子店 ** [[ゼビオ|Victoria]]セレオ八王子店(アウトドア専門店「L-Breath」併設) ** [[ボーネルンド|あそびのせかい]]セレオ八王子店 ** [[有隣堂]]セレオ八王子店 ** [[読売文化センターユニオン|よみうりカルチャー]]八王子 ** [[いなげや|bloomingbloomy]]セレオ八王子店 * [[八王子オクトーレ]](旧・八王子東急スクエア) ** 八王子市学園都市センター ** [[八王子駅前郵便局]] *** [[ゆうちょ銀行]]八王子店 *** [[かんぽ生命保険|かんぽ生命]]八王子支店 * [[京王八王子ショッピングセンター]] |}} ; 量販店 * [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]八王子駅前店(旧:[[過去に存在した長崎屋の店舗#東京都|長崎屋八王子店]]) * [[ヨドバシカメラ]]八王子店 ; その他 {{columns-list|2| * グランド東京ビル(旧:[[西武の店舗一覧#八王子店|八王子西武百貨店]]) ** 八王子温泉やすらぎの湯(ホテルグランスパ併設) * 八王子ツインタワー A館・B館(旧:[[丸井#東京都|丸井八王子店 A館・B館]]) ** [[ゴールドジム]]八王子 * [[セントラルスポーツ|セントラルフィットネスクラブ]](八王子) * [[メガロス]]24(京王八王子駅前店。24時間営業スポーツクラブ) * エニタイムフィットネス八王子元横山町店(24時間年中無休フィットネスクラブ) * [[八王子エルシィ]](旧:[[まるき百貨店]]→[[岡島百貨店#八王子岡島|八王子岡島百貨店]]) * ビュータワー八王子 ** [[スギ薬局]]八日町店 |}} ; 現存しない店舗 {{columns-list|2| * [[伊勢丹#過去に存在した店舗|伊勢丹八王子店]]→閉店後に解体 * [[イノウエ百貨店]]→[[忠実屋]]八日町店→[[カラオケ]]店→ミッドプレイス八王子(15階建て高層マンション) * [[大丸#過去に存在した店舗|八王子大丸]]→[[忠実屋#かつて存在した忠実屋店舗|FAM(ファム)]]→[[ダイエー]]への合併後に解体→マクシスタワーズアーバンデュオ(20階建て高層マンション) * [[ダイエー八王子店]]→解体後にブリリアタワー八王子(17階建て高層マンション)、1階に[[ダイエー (店舗ブランド)|イオンフードスタイル]]八王子店として再出店 |}} ==== 主な宿泊施設 ==== {{columns-list|2| * [[京王プラザホテル]]八王子<ref group="注釈">かつては、京王線がここまで乗り入れる構想があった。乗り入れ断念後は1992年まで京王帝都電鉄自動車事業部(現・[[京王電鉄バス]])[[京王電鉄バス八王子営業所|八王子営業所]]が所在していた。</ref> * [[イシン・ホテルズ・グループ|ザ・ビー 八王子]] * [[R&Bホテル]]八王子 * [[東横イン]]東京八王子駅北口 * 八王子ホテルニューグランド * マロウドイン八王子 * 八王子スカイホテル * [[アパグループ|アパホテル]]八王子駅北(元・「シーズイン八王子」) * 三恵シティホテル八王子 * 千代田ホテル * ホテルグランスパ八王子 |}} ==== 医療機関 ==== * 仁和会総合病院 ==== 主な文教施設 ==== * [[東京都立南多摩中等教育学校]] * 八王子中央自動車学校 * [[駿台予備学校]]八王子校 * [[四谷学院]]八王子駅前教室 === 南口 === ==== 名勝・旧跡 ==== * [[信松院]] * [[富士森公園]] ==== 公的施設 ==== {{columns-list|2| * 八王子市 八王子駅南口総合事務所(サザンスカイタワー八王子内) * [[八王子市民会館]]「[[ジェイコム東京|J:COM]]ホール八王子、元[[オリンパス]]ホール八王子」(同上) * 八王子市郷土資料館 * 八王子[[公共職業安定所]](ハローワーク八王子) * 八王子子安郵便局 * JR東日本八王子支社 * [[東京電力パワーグリッド]]多摩支店 |}} ==== 主な商業施設 ==== {{columns-list|2| * [[サザンスカイタワー八王子]] ** [[スーパーアルプス]] 八王子駅南口店 ** [[多摩信用金庫]]八王子駅前支店 *** 他飲食、物販店舗等 * [[セレオ八王子]]南館 ** [[ビックカメラ]]JR八王子駅店 *** 他飲食物販店舗、保育園・学童施設等 * [[OPA|八王子オーパ]] ** アルズフーズマーケット(八王子店) ** [[キャメル珈琲|カルディコーヒーファーム]](八王子オーパ店) ** オレンジセオリーフィットネス八王子 ** ゼンゴルフレンジ(八王子店) * [[クリエイトSDホールディングス|クリエイト]](八王子万町。元・「[[丸正チェーン商事|丸正]]八王子店」) * [[セイムス]](子安町店) * [[マツモトキヨシ]](八王子万町店) * [[メガロス]]八王子 * エニタイムフィットネスセンター八王子店(24時間営業のフィットネスジム) * キャスティング八王子店(釣用品の販売。元・[[コジマ]] New八王子店) |}} ==== 主な宿泊施設 ==== {{columns-list|2| * ホテルリブマックス八王子駅前 * サンホテル八王子 * 八王子アーバンホテル * [[アパグループ|アパホテル]]八王子駅西(上野町、元セントラルホテル八王子) |}} ==== 医療機関 ==== {{columns-list|2| * 八王子消化器病院 * 南八王子病院(元・「聖八王子病院」) * 清智会記念病院 * 八王子脊椎外科クリニック |}} ==== 主な文教施設 ==== {{columns-list|2| * アポロ美容理容専門学校 * 国際電子会計専門学校 * [[八王子実践中学校・高等学校]] * [[東京都立八王子特別支援学校]] * ランビエンテ修復芸術学院 |}} <gallery> Southern Sky Tower Hachioji 1.jpg|サザンスカイタワー八王子 </gallery> == バス路線 == === 北口 === <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[File:Hachioji Station North Bus Terminal.JPG|thumb|北口バスターミナル]] 「JR八王子駅北口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[西東京バス]] |{{Unbulleted list|[[西東京バス楢原営業所#八王子駅 - 宇津木台・石川方面|'''大02''']]:宇津木台|'''大03''':[[東海大学医学部付属八王子病院|東海大学八王子病院]]|'''大11''':[[日野駅 (東京都)|日野駅]]}} |&nbsp; |- !2 |'''バ01''':宇津木台 |&nbsp; |- !3 |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[京王電鉄バス]] |{{Unbulleted list|[[京王電鉄バス八王子営業所#日野八線|'''日50''']]・[[京王電鉄バス八王子営業所#八王子工業団地線|'''八58''']]:日野駅|'''八59''':八王子工業団地}} |&nbsp; |- !4 |[[京王電鉄バス八王子営業所#豊八線|'''豊56''']]:[[豊田駅]]北口 |&nbsp; |- !rowspan="2"|5 |[[京王電鉄バス八王子営業所|八王子車庫]]([[京王電鉄バス八王子営業所#出入庫系統|出入庫]]) |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|神奈川中央交通西 |[[神奈川中央交通西・津久井営業所#相模湖駅 - 高尾山口駅 - 八王子駅方面|'''八07''']]:[[相模湖駅]] |平日2本・土休日3本のみ運行 |- !6 |rowspan="5" style="text-align:center;"|西東京バス |{{Unbulleted list|[[西東京バス楢原営業所#八王子駅 - 工学院大学方面|'''工01''']]:[[西東京バス楢原営業所|楢原町]]|'''直通''':[[工学院大学]]|[[西東京バス五日市営業所#八王子駅 - 楢原町 - 秋川駅・イオンモール日の出方面|'''秋61''']]:[[秋川駅]]|'''秋62''':[[イオンモール日の出]]|[[西東京バス楢原営業所#八王子市中心市街地循環バス|'''市街地循環''']]:八王子駅}} |{{Unbulleted list|工学院大学直通便の平日・土曜の12時29分までの出発便は、15番のりばから発車|「秋62」は土休日のみ運行}} |- !7 |{{Unbulleted list|'''秋01''':楢原町|'''秋02''':川口小学校|[[西東京バス楢原営業所#八王子駅 - 楢原町 - 上川霊園方面|'''秋03''']]:[[西東京バス#八王子上川霊園|上川霊園]]|'''秋04''':[[武蔵五日市駅]]}} |&nbsp; |- !8 |{{Unbulleted list|'''市12''':横川町住宅|[[西東京バス恩方営業所#高尾駅 - ホーメストタウン・恩方営業所・八王子駅方面|'''元八04''']]:[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]南口}} |&nbsp; |- !9 |{{Unbulleted list|[[西東京バス恩方営業所#八王子駅 - 四谷 - 宝生寺団地・恩方営業所方面|'''陣01''']]:宝生寺団地|'''陣02''':[[西東京バス恩方営業所|恩方営業所]]・恩方ターミナル|'''陣04''':恩方ターミナル|'''陣05''':大久保|'''陣11''':松枝住宅|'''元八03''':高尾駅北口・高尾駅南口}} |&nbsp; |- !rowspan="2"|10 |[[西東京バス恩方営業所#八王子駅・西八王子駅 - 城山手方面|'''長81''']]:城山手 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[京王バス]] |{{Unbulleted list|[[京王バス高尾営業所#館ヶ丘線|'''八04'''・'''八06''']]:館ヶ丘団地|[[京王バス高尾営業所#小仏線|'''山01''']]:[[高尾山口駅]]}} |&nbsp; |- !11 |rowspan="3" style="text-align:center;"|西東京バス |{{Unbulleted list|[[西東京バス楢原営業所#国道16号・国道20号経由|'''16号04'''・'''左03''']]:戸吹|'''16号11'''・'''い11''':みつい台|'''左01''':[[東京純心大学|純心女子学園]]|'''16号06''':[[創価大学]]循環}} |{{Unbulleted list|「い11」は1日1本のみ運行|「16号04」は22時以降に運行|「16号06」の平日・土曜の12時29分までの出発便は、14番のりばから発車}} |- !12 |{{Unbulleted list|[[西東京バス楢原営業所#八王子駅 - 中野団地方面|'''暁21''']]:中野団地|[[西東京バス楢原営業所#ひよどり山トンネル経由|'''ひ01''']]:戸吹|'''ひ02''':[[創価大学|創価大]]正門・[[東京富士美術館]]|'''ひ03''':[[東京サマーランド|サマーランド]]|'''ひ04''':創価大学循環|'''ひ06''':[[拝島駅]]|'''ひ07''':秋川駅|'''ひ08''':戸吹スポーツ公園入口}} |{{Unbulleted list|「ひ02」「ひ04」の平日・土曜の12時29分までの出発便は、14番のりばから発車|「ひ06」は朝のみ運行}} |- !rowspan="4"|13 |{{Unbulleted list|'''空港連絡バス''':[[東京国際空港|羽田空港]] / [[成田国際空港|成田空港]]|高速バス'''「通勤ライナー」''':[[新宿駅|新宿駅西口]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西東京バス|[[関越交通]]}} |[[西東京バス#高崎・伊香保・四万温泉号八王子線|'''高速バス''']]:[[四万温泉]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西東京バス|[[松本電鉄バス#東京支社(旧アルピコ交通東京)|アルピコ交通]]}} |夜行高速バス「[[西東京バス#金沢線|'''八王子・渋谷 - 金沢・加賀線''']]」:[[加賀温泉駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西東京バス|[[近鉄バス八尾営業所|近鉄バス]]}} |夜行高速バス「[[西東京バス#新宿 - 大阪線|'''ツィンクル号''']]」:[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば|あべの橋]] |&nbsp; |- !14 |style="text-align:center;"|西東京バス |{{Unbulleted list|'''直通''':創価大学正門・東京富士美術館|'''急行''':創価大学栄光門}} |&nbsp; |- !15 |style="text-align:center;"|西東京バス |{{Unbulleted list|'''直通''':工学院大学}} |&nbsp; |} === 南口 === <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[File:Hachioji Station South Bus Terminal.jpg|thumb|南口バスターミナル]] 「八王子駅南口」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|京王バス |{{Unbulleted list|[[京王バス南大沢営業所#由木八線|'''八60''']]・[[京王バス南大沢営業所#中山線|'''八61''']]:[[南大沢駅]]|'''八63''':由木折返場}} |{{Unbulleted list|「八60」は深夜バスの運行あり|「八63」は平日日中の数本のみ運行}} |- !2 |{{Unbulleted list|[[京王バス南大沢営業所#東急片倉台線|'''八65''']]:片倉台|[[京王バス南大沢営業所#東急みなみ野線|'''八69''']]:[[八王子みなみ野駅]]}} |{{Unbulleted list|「八65」の平日ダイヤでは朝と夕方以降、土休日ダイヤでは夕方以降のみ運行|「八69」の平日ダイヤでは9時台以降運行、土休日ダイヤでは終日運行}} |- !rowspan="4"|3 |colspan="3"|スクールバス |- |style="text-align:center;"|[[東京富士交通]] |夜行高速バス「'''ナイトライナー'''」:[[京都駅]]・大阪梅田・天王寺 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|軽井沢バス |夜行高速バス「'''流星号'''」:京都駅・天王寺・なんば・[[神戸三宮駅|神戸三宮]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|グレース観光バス |夜行高速バス「'''グレースライナー'''」:名古屋 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |colspan="3"|スクールバス |- |style="text-align:center;"|ニュープリンス高速バス |夜行高速バス「'''[[WILLER EXPRESS]]'''」:京都駅・大阪梅田 |&nbsp; |- !5 |rowspan="3" style="text-align:center;"|京王バス |[[京王バス南大沢営業所#八南多摩美線|'''八70''']]:(急行)[[多摩美術大学]] |&nbsp; |- !6 |{{Unbulleted list|[[京王バス高尾営業所#和田線|'''八81''']]:[[めじろ台駅]]}} | |- !rowspan="3"|7 |{{Unbulleted list|[[京王バス高尾営業所#上大船線|'''八67''']]:[[東京家政学院大学|東京家政学院]]|'''八90''':めじろ台駅|'''八97''':[[法政大学]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京王バス|京王電鉄バス}} |{{Unbulleted list|'''八96''':法政大学|'''八98''':[[グリーンヒル寺田]]|'''八94'''・'''八99''':[[西八王子駅]]南口}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通]] |[[神奈川中央交通多摩営業所#八王子駅 - 片倉台 - 橋本駅方面|'''八77''']]:[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅北口]] |&nbsp; |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 :* 特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|かいじ]]」「[[富士回遊]]」停車駅、特急「[[はちおうじ]]」「[[成田エクスプレス]]」発着駅 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤特快(平日上りのみ) ::: [[立川駅]] (JC 19) ← '''八王子駅 (JC 22)''' ← [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]] (JC 24) :: {{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速・{{Color|#0074be|■}}普通 ::: [[豊田駅]] (JC 21) - '''八王子駅 (JC 22)''' - [[西八王子駅]] (JC 23) :: {{Color|#6666ff|■}}[[むさしの号]] ::: 豊田駅 (JC 21) - '''八王子駅 (JC 22)''' : [[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#7fc342|■}}各駅停車 ::: [[片倉駅]] (JH 31) - '''八王子駅 (JH 32)''' : {{Color|#b4aa96|■}}八高線 ::: '''八王子駅''' - [[北八王子駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"|refs= <ref name=":0">{{cite news |title=八王子・マルベリーブリッジが延伸-約130メートル、今秋着工へ |author= |newspaper=八王子経済新聞 |date=2012-02-23 |url=http://hachioji.keizai.biz/headline/1063/ |accessdate=2014-04-03}}</ref> <ref name=":1">{{cite news |title=八王子・マルベリーブリッジ、延伸部が開通-通り初めにご当地キャラ登場 |author= |newspaper=八王子経済新聞 |date=2014-03-31 |url=http://hachioji.keizai.biz/headline/1596/ |accessdate=2014-04-03}}</ref> <ref name=":2">{{Cite news|title=八王子・マルベリーブリッジ、延伸工事着工へ 2019年度末の完成目指す|url=https://hachioji.keizai.biz/headline/2414/|accessdate=2018-04-26|language=ja-JP|work=八王子経済新聞}}</ref> }} === 利用状況 === ==== JR東日本 ==== {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ==== JR貨物 ==== {{Reflist|group="貨物"|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Hachiōji Station}} {{wikinews|八王子駅前で市民参加型七夕イベント開催}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[京王八王子駅]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1227|name=八王子}} {{鉄道路線ヘッダー}} {{中央線快速・中央東線}} {{横浜線}} {{川越線・八高線}} {{武蔵野線・京葉線|freight=1}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:はちおうし}} [[Category:八王子駅|*]] [[Category:八王子市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 は|ちおうし]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本貨物鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央線快速]] [[Category:横浜線]] [[Category:八高線]] [[Category:横浜鉄道]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:オフレールステーション]] [[Category:1889年開業の鉄道駅]]
2003-09-06T15:51:03Z
2023-12-29T04:21:19Z
false
false
false
[ "Template:駅情報", "Template:R", "Template:Cite press release", "Template:武蔵野線・京葉線", "Template:脚注ヘルプ", "Template:PDFlink", "Template:川越線・八高線", "Template:Double image aside", "Template:Unbulleted list", "Template:中央線快速・中央東線", "Template:Otheruseslist", "Template:Color", "Template:ウィキ座標", "Template:-", "Template:Cite journal", "Template:Wikinews", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:国土航空写真", "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:Columns-list", "Template:鉄道路線ヘッダー", "Template:0", "Template:Visible anchor", "Template:Cite web", "Template:鉄道路線フッター", "Template:Reflist", "Template:横浜線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E9%A7%85
15,443
国府津駅
国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JRの境界駅の一つ。 東海道本線と御殿場線が乗り入れている。JR東日本横浜支社がホーム・駅舎の管理および駅業務を行っている。 1987年4月の国鉄分割民営化までは東海道本線、御殿場線ともに日本国有鉄道(国鉄)の路線であったが、この分割民営化によって東海道本線東京 - 熱海間はJR東日本、御殿場線はJR東海に分割して移管された。 東海道本線にはJT 14、御殿場線にはCB00の駅番号が設定されている。 1887年、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅は開業した。その2年後の1889年には当駅から御殿場駅・沼津駅を経て静岡駅までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。1888年には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道も発着するようになったが、後に小田原電気鉄道と社名を改め、1900年には日本で4番目の電気鉄道(路面電車)となった。1925年には、横浜駅から当駅までが電化され、電気機関車と蒸気機関車を付け替える駅としての役割も担うようになる。 しかし、御殿場回りのルートは勾配がきついため、速度向上のネックとなっており、また、トンネル掘削技術が向上したことにより、熱海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まった。まず、1920年に熱海線として当駅から小田原駅までが開業。これに伴い並行する小田原電気鉄道は起点を小田原駅に変更する形で廃止された。熱海線はその後、1922年には真鶴駅まで、1924年には湯河原駅まで、1925年には熱海駅までと次々に延伸が重ねられた。1934年12月になると丹那トンネルが完成し熱海 - 沼津間が開通、これを機に新線と熱海線が東海道本線に編入され、東海道本線は御殿場駅経由から熱海駅経由に変更された。 国府津 - 沼津間全通までは、「燕」や「櫻」といった当時最速とされた列車でさえも機関車連結のために停車していたが、東海道本線のルートが熱海経由になったことにより当駅は本線の後押し機関車の連結駅としての役割を終え、また新ルートは当初から電化されていたため機関車を付け替える駅としての役割をも終えることとなった。 国府津 - 御殿場 - 沼津のルートはこの時に御殿場線として分離され、1943年には戦時中の金属供出により単線となった。以後、国府津駅は東海道本線から御殿場線の分岐する小さな接続駅としての役割のみを持つ駅となった。また、1968年の御殿場線無煙化により、国府津機関区は車両無配置となった。 1979年には、下曽我駅寄りに開設されていた国府津機関区電車基地に湘南電車が配属されることになった。また、1987年の国鉄分割民営化により、東海道本線の東京駅から熱海駅までがJR東日本の管轄、御殿場線がJR東海の管轄となり、当駅は両者間の分界駅ともなった。 1900年5月10日に第1集東海道篇が発表された『鉄道唱歌』(大和田建樹作詞、多梅稚作曲)では、12番に、国府津が小田原電気鉄道との乗換駅(当時)であったことから、「国府津おるれば電車あり 酒匂小田原とおからず...」と歌われているが、初版では歌い始めが「国府津おるれば馬車ありて」となっていた。これは、発表がちょうど小田原電気鉄道が馬車鉄道から電気鉄道へ動力を改めた時期に一致したため、急遽書き直されたものである。 単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームを持つ地上駅。単式ホームに隣り合って設置された駅舎はコンクリート造り4階建てとなっている。ホーム間は地下道及び跨線橋で結ばれており、原則として1・2・4・5番線をJR東日本の東海道線、3番線をJR東海の御殿場線が使用している。3番線の下曽我方に御殿場線の0キロポストがある。 構内はJR東日本が所有・管理しているが、1番線の事務室付近にJR東海沼津運輸区の国府津詰所がある。両社の財産上の境界(財産境界)は下曽我方にある第一場内信号機(最も外側の信号機、小田原厚木道路の北)に設定されている。 JR東海御殿場線の線路は下曽我方でJR東日本東海道線の上り線を高架橋でまたぎ、御殿場方面につながる。JR東海御殿場線は当駅と下曽我駅の中間までJR東日本国府津車両センター出入区線(出入庫線)が並行するため、ここまでの間は複線のように見える。車両センターへの出入りのため、一部列車は当駅が始発・終点となっている。出入区線には社員輸送車も運行されている。 また、これとは別に御殿場線の線路から駅構内で東海道貨物線へ接続する貨物線もあるが、これは高架橋ができる前の御殿場線のルートを流用している。御殿場線の定期貨物列車がない今では東海道貨物線経由列車の出入庫に使用されている。 JR東日本としては小田原・伊豆統括センター管理の直営駅であり、鴨宮駅における営業時間外のインターホン対応を行う。指定席券売機と交通系ICカード対応自動改札機・自動券売機とJR東海のロゴが入ったTOICA出場用簡易改札機が設置されている。 交通系ICカードは熱海・東京方面がSuicaエリア、松田・御殿場方面がTOICAエリアである。IC定期券を除いて両カードエリアを跨いでのSF乗車(東京・熱海方面 - 当駅経由 - 松田・御殿場方面)はできない。 ICカード入場は改札機で両エリアに対応するが、TOICAエリアの内、松田駅・御殿場駅を含む下曽我駅・大岡駅間17駅からの出場に限って有人通路横にあるTOICA簡易改札機で対応する。対応駅が指定されているのはSF通し乗車が不可の熱海経由沼津方面(熱海駅は当駅と同様にTOICA・Suicaエリアの境界)の経路を「TOICAエリア完結」として誤精算しないようにするためである。 駅舎は鉄筋コンクリート4階建てだが、旅客用のスペースは1階の一部のみである。当駅の東京方にあった機関庫は、鉄道関係のものとしては日本で最初の鉄筋コンクリート建造物とも言われる歴史的に貴重なものであったが、解体され現存しない。 (出典:JR東日本:駅構内図) 長らく東洋メディアリンクス制作の汎用の発車メロディを使用していたが、2022年5月2日に、童謡「みかんの花咲く丘」をアレンジしたものに変更している。これは地域活性化の取り組みとして国府津商工振興会が企画したもので、同曲が当駅付近を走る列車の車窓から見えたみかん畑の景色にインスピレーションを受けて作曲されたものであることにちなんでいる。同振興会副会長の佐藤基は「地元ゆかりのメロディーに変更することで、駅の利用者や市民、観光客に愛着を深めてほしい」としている。 編曲は作曲家の高木文世が手掛けた。アレンジは番線ごとに異なっており、奇数番線は曲の前半部分、偶数番線は後半部分を採用している。高木は変更前日に当駅で行われた記念式典で「『上りホームは明るく、下りは落ち着く感じで、御殿場線はウキウキというイメージで』と提案があり、オルガンをベースにトータルでひとつの曲になるようにした」と解説している。 1888年7月に足柄下郡国府津村で旅館業を営んでいた飯沼ヒデが、国府津停車場構内で販売した「竹の皮に包んだ握り飯に沢庵を添えたもの」が東海道本線最初の駅弁とされる。以後、明治時代には次のような駅弁が売られたという。 1923年(大正12年)4月20日に、守山乳業が製造した「珈琲牛乳」を扱い始める。これは瓶入りのコーヒー牛乳を店頭で販売した初めての例であるという。 1933年(昭和8年)には個人営業から法人組織へ移行し、飯沼ヒデは、現在小田原駅などで駅弁を販売するこの「東華軒」(神奈川県小田原市)初代経営者とされる。 東華軒は2・3番線ホームの売店で構内営業を行っていたが、2007年に廃止された。JR時刻表の駅弁情報最終掲載号には国府津駅の項に駅弁取扱のマークが付いていたが、売店があるのは改札外(駅前広場向かい)だけとなっている。主な駅弁は下記の通り。 ただし、JTB時刻表 2023年3月号には国府津駅の駅弁の掲載は無い。 JR東日本の2022年(令和4年)度1日平均乗車人員は4,797人である。快速停車駅だが、小田原以東の東海道線内の駅では最も少ない。 近年の推移は下記の通り。 当駅は小田原駅付近から延々と続く市街地の東端に位置している。南側には国道1号線や西湘バイパスが走る。国道1号線沿いの駅前商店街には、洋館や看板建築、「出桁(だしげた)造り」の建物が多く見られたが、商店の衰退とともに姿を消しつつある。駅裏手から御殿場線方面に沿って伸びる丘陵は、みかん栽培が盛んであった。当駅と下曽我駅の中間にはJR東日本の国府津車両センターが広がっている。 国府津という地名は、昔大磯町西部(国府本郷・国府新宿付近:異説もあり)に相模国国府があって、それに近い港ということで付けられたといわれる。戦前は湘南避暑避寒の地として海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。文人達もよく訪れたといた。 「国府津駅」停留所にて、以下の路線バスが発着する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JRの境界駅の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東海道本線と御殿場線が乗り入れている。JR東日本横浜支社がホーム・駅舎の管理および駅業務を行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1987年4月の国鉄分割民営化までは東海道本線、御殿場線ともに日本国有鉄道(国鉄)の路線であったが、この分割民営化によって東海道本線東京 - 熱海間はJR東日本、御殿場線はJR東海に分割して移管された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東海道本線にはJT 14、御殿場線にはCB00の駅番号が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1887年、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅は開業した。その2年後の1889年には当駅から御殿場駅・沼津駅を経て静岡駅までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。1888年には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道も発着するようになったが、後に小田原電気鉄道と社名を改め、1900年には日本で4番目の電気鉄道(路面電車)となった。1925年には、横浜駅から当駅までが電化され、電気機関車と蒸気機関車を付け替える駅としての役割も担うようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし、御殿場回りのルートは勾配がきついため、速度向上のネックとなっており、また、トンネル掘削技術が向上したことにより、熱海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まった。まず、1920年に熱海線として当駅から小田原駅までが開業。これに伴い並行する小田原電気鉄道は起点を小田原駅に変更する形で廃止された。熱海線はその後、1922年には真鶴駅まで、1924年には湯河原駅まで、1925年には熱海駅までと次々に延伸が重ねられた。1934年12月になると丹那トンネルが完成し熱海 - 沼津間が開通、これを機に新線と熱海線が東海道本線に編入され、東海道本線は御殿場駅経由から熱海駅経由に変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国府津 - 沼津間全通までは、「燕」や「櫻」といった当時最速とされた列車でさえも機関車連結のために停車していたが、東海道本線のルートが熱海経由になったことにより当駅は本線の後押し機関車の連結駅としての役割を終え、また新ルートは当初から電化されていたため機関車を付け替える駅としての役割をも終えることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国府津 - 御殿場 - 沼津のルートはこの時に御殿場線として分離され、1943年には戦時中の金属供出により単線となった。以後、国府津駅は東海道本線から御殿場線の分岐する小さな接続駅としての役割のみを持つ駅となった。また、1968年の御殿場線無煙化により、国府津機関区は車両無配置となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1979年には、下曽我駅寄りに開設されていた国府津機関区電車基地に湘南電車が配属されることになった。また、1987年の国鉄分割民営化により、東海道本線の東京駅から熱海駅までがJR東日本の管轄、御殿場線がJR東海の管轄となり、当駅は両者間の分界駅ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1900年5月10日に第1集東海道篇が発表された『鉄道唱歌』(大和田建樹作詞、多梅稚作曲)では、12番に、国府津が小田原電気鉄道との乗換駅(当時)であったことから、「国府津おるれば電車あり 酒匂小田原とおからず...」と歌われているが、初版では歌い始めが「国府津おるれば馬車ありて」となっていた。これは、発表がちょうど小田原電気鉄道が馬車鉄道から電気鉄道へ動力を改めた時期に一致したため、急遽書き直されたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームを持つ地上駅。単式ホームに隣り合って設置された駅舎はコンクリート造り4階建てとなっている。ホーム間は地下道及び跨線橋で結ばれており、原則として1・2・4・5番線をJR東日本の東海道線、3番線をJR東海の御殿場線が使用している。3番線の下曽我方に御殿場線の0キロポストがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "構内はJR東日本が所有・管理しているが、1番線の事務室付近にJR東海沼津運輸区の国府津詰所がある。両社の財産上の境界(財産境界)は下曽我方にある第一場内信号機(最も外側の信号機、小田原厚木道路の北)に設定されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "JR東海御殿場線の線路は下曽我方でJR東日本東海道線の上り線を高架橋でまたぎ、御殿場方面につながる。JR東海御殿場線は当駅と下曽我駅の中間までJR東日本国府津車両センター出入区線(出入庫線)が並行するため、ここまでの間は複線のように見える。車両センターへの出入りのため、一部列車は当駅が始発・終点となっている。出入区線には社員輸送車も運行されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、これとは別に御殿場線の線路から駅構内で東海道貨物線へ接続する貨物線もあるが、これは高架橋ができる前の御殿場線のルートを流用している。御殿場線の定期貨物列車がない今では東海道貨物線経由列車の出入庫に使用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "JR東日本としては小田原・伊豆統括センター管理の直営駅であり、鴨宮駅における営業時間外のインターホン対応を行う。指定席券売機と交通系ICカード対応自動改札機・自動券売機とJR東海のロゴが入ったTOICA出場用簡易改札機が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "交通系ICカードは熱海・東京方面がSuicaエリア、松田・御殿場方面がTOICAエリアである。IC定期券を除いて両カードエリアを跨いでのSF乗車(東京・熱海方面 - 当駅経由 - 松田・御殿場方面)はできない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ICカード入場は改札機で両エリアに対応するが、TOICAエリアの内、松田駅・御殿場駅を含む下曽我駅・大岡駅間17駅からの出場に限って有人通路横にあるTOICA簡易改札機で対応する。対応駅が指定されているのはSF通し乗車が不可の熱海経由沼津方面(熱海駅は当駅と同様にTOICA・Suicaエリアの境界)の経路を「TOICAエリア完結」として誤精算しないようにするためである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅舎は鉄筋コンクリート4階建てだが、旅客用のスペースは1階の一部のみである。当駅の東京方にあった機関庫は、鉄道関係のものとしては日本で最初の鉄筋コンクリート建造物とも言われる歴史的に貴重なものであったが、解体され現存しない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "長らく東洋メディアリンクス制作の汎用の発車メロディを使用していたが、2022年5月2日に、童謡「みかんの花咲く丘」をアレンジしたものに変更している。これは地域活性化の取り組みとして国府津商工振興会が企画したもので、同曲が当駅付近を走る列車の車窓から見えたみかん畑の景色にインスピレーションを受けて作曲されたものであることにちなんでいる。同振興会副会長の佐藤基は「地元ゆかりのメロディーに変更することで、駅の利用者や市民、観光客に愛着を深めてほしい」としている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "編曲は作曲家の高木文世が手掛けた。アレンジは番線ごとに異なっており、奇数番線は曲の前半部分、偶数番線は後半部分を採用している。高木は変更前日に当駅で行われた記念式典で「『上りホームは明るく、下りは落ち着く感じで、御殿場線はウキウキというイメージで』と提案があり、オルガンをベースにトータルでひとつの曲になるようにした」と解説している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1888年7月に足柄下郡国府津村で旅館業を営んでいた飯沼ヒデが、国府津停車場構内で販売した「竹の皮に包んだ握り飯に沢庵を添えたもの」が東海道本線最初の駅弁とされる。以後、明治時代には次のような駅弁が売られたという。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)4月20日に、守山乳業が製造した「珈琲牛乳」を扱い始める。これは瓶入りのコーヒー牛乳を店頭で販売した初めての例であるという。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1933年(昭和8年)には個人営業から法人組織へ移行し、飯沼ヒデは、現在小田原駅などで駅弁を販売するこの「東華軒」(神奈川県小田原市)初代経営者とされる。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "東華軒は2・3番線ホームの売店で構内営業を行っていたが、2007年に廃止された。JR時刻表の駅弁情報最終掲載号には国府津駅の項に駅弁取扱のマークが付いていたが、売店があるのは改札外(駅前広場向かい)だけとなっている。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ただし、JTB時刻表 2023年3月号には国府津駅の駅弁の掲載は無い。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "JR東日本の2022年(令和4年)度1日平均乗車人員は4,797人である。快速停車駅だが、小田原以東の東海道線内の駅では最も少ない。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "近年の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "当駅は小田原駅付近から延々と続く市街地の東端に位置している。南側には国道1号線や西湘バイパスが走る。国道1号線沿いの駅前商店街には、洋館や看板建築、「出桁(だしげた)造り」の建物が多く見られたが、商店の衰退とともに姿を消しつつある。駅裏手から御殿場線方面に沿って伸びる丘陵は、みかん栽培が盛んであった。当駅と下曽我駅の中間にはJR東日本の国府津車両センターが広がっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "国府津という地名は、昔大磯町西部(国府本郷・国府新宿付近:異説もあり)に相模国国府があって、それに近い港ということで付けられたといわれる。戦前は湘南避暑避寒の地として海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。文人達もよく訪れたといた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「国府津駅」停留所にて、以下の路線バスが発着する。", "title": "バス路線" } ]
国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JRの境界駅の一つ。
{{otheruses|[[神奈川県]][[小田原市]]の駅|[[大阪府]][[交野市]]の駅|郡津駅}} {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 国府津駅 |画像 = JRE Kozu-STA Entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2022年4月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|16|51.0|N|139|12|46.5|E}}}} |よみがな = こうづ |ローマ字 = K&#333;zu |電報略号 = コツ |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本){{Refnest|group="*"|会社[[境界駅]](JR東日本の管轄駅)。}} * [[東海旅客鉄道]](JR東海)}} |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{Color|#f68b1e|■}}[[東海道本線]](JR東日本) |駅番号1 = {{駅番号r|JT|14|#f68b1e|1}} |キロ程1 = 77.7 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |前の駅1 = JT 13 [[二宮駅|二宮]] |駅間A1 = 4.6 |駅間B1 = 3.1 |次の駅1 = [[鴨宮駅|鴨宮]] JT 15 |所属路線2 = {{JR海駅番号|CB}} [[御殿場線]](JR東海) |駅番号2 = {{JR海駅番号|CB|00}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 国府津 |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 3.8 |次の駅2 = [[下曽我駅|下曽我]] CB01 |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]][[国府津]]四丁目1-1 |座標 = {{coord|35|16|51.0|N|139|12|46.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面5線 |開業年月日 = [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 4,797 |統計年度 = 2022年 |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} '''国府津駅'''(こうづえき)は、[[神奈川県]][[小田原市]][[国府津]]四丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[鉄道駅|駅]]である。[[JR]]の[[境界駅]]の一つ。 == 概要 == [[東海道本線]]と[[御殿場線]]が乗り入れている。[[東日本旅客鉄道横浜支社|JR東日本横浜支社]]がホーム・駅舎の管理および駅業務を行っている。 [[1987年]]4月の[[国鉄分割民営化]]までは[[東海道本線]]、[[御殿場線]]ともに[[日本国有鉄道]](国鉄)の路線であったが、この分割民営化によって東海道本線東京 - 熱海間はJR東日本、御殿場線はJR東海に分割して移管された。 東海道本線には'''JT 14'''、御殿場線には'''CB00'''の[[駅ナンバリング|駅番号]]が設定されている。 == 歴史 == [[1887年]]、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅は開業した。その2年後の[[1889年]]には当駅から[[御殿場駅]]・[[沼津駅]]を経て[[静岡駅]]までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。[[1888年]]には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原馬車鉄道]]も発着するようになったが、後に小田原電気鉄道と社名を改め、[[1900年]]には日本で4番目の電気鉄道([[路面電車]])となった。[[1925年]]には、[[横浜駅]]から当駅までが電化され、[[電気機関車]]と[[蒸気機関車]]を付け替える駅としての役割も担うようになる。 しかし、御殿場回りのルートは勾配がきついため、速度向上のネックとなっており、また、トンネル掘削技術が向上したことにより、熱海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まった。まず、[[1920年]]に熱海線として当駅から[[小田原駅]]までが開業。これに伴い並行する小田原電気鉄道は起点を小田原駅に変更する形で[[廃線|廃止]]された。熱海線はその後、[[1922年]]には[[真鶴駅]]まで、[[1924年]]には[[湯河原駅]]まで、[[1925年]]には[[熱海駅]]までと次々に延伸が重ねられた。[[1934年]]12月になると[[丹那トンネル]]が完成し熱海 - 沼津間が開通、これを機に新線と熱海線が東海道本線に編入され、東海道本線は御殿場駅経由から熱海駅経由に変更された。 国府津 - 沼津間全通までは、「[[つばめ (列車)|燕]]」や「[[さくら_(列車)|櫻]]」といった当時最速とされた列車でさえも機関車連結のために停車していたが、東海道本線のルートが熱海経由になったことにより当駅は本線の後押し機関車の連結駅としての役割を終え、また新ルートは当初から電化されていたため機関車を付け替える駅としての役割をも終えることとなった。 国府津 - 御殿場 - 沼津のルートはこの時に御殿場線として分離され、[[1943年]]には戦時中の金属供出により単線となった。以後、国府津駅は東海道本線から御殿場線の分岐する小さな接続駅としての役割のみを持つ駅となった。また、[[1968年]]の御殿場線無煙化により、国府津機関区は車両無配置となった。 [[1979年]]には、下曽我駅寄りに開設されていた国府津機関区電車基地に[[湘南電車]]が配属されることになった。また、[[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]により、東海道本線の[[東京駅]]から熱海駅までがJR東日本の管轄、御殿場線がJR東海の管轄となり、当駅は両者間の分界駅ともなった。 === 年表 === [[File:Kozu Station 1909.jpg|thumb|国府津駅(1909年)]] * [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]]:[[桜木町駅|旧・横浜駅]] - 当駅間開通と同時に開業。1日3往復<ref>[{{NDLDC|2944442/6}} 「汽車発着時間及賃金」『官報』1887年7月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。 * [[1888年]](明治21年)[[7月1日]]:構内で[[駅弁]]販売開始(東海道本線初の駅弁とされる)。 * [[1889年]](明治22年)[[2月1日]]:当駅 - 御殿場駅 - 静岡駅間が東海道本線の一部として開業。 * [[1920年]]([[大正]]9年)[[10月21日]]:熱海線 当駅 - 小田原駅間が開通。 * [[1925年]](大正14年)[[12月13日]]:横浜駅 - 当駅間が電化され、電化・非電化の境となる。 * [[1926年]](大正15年)頃:全国的に駅名表示が見直される中、発音通りに「こうず」と表記される([[1929年]](昭和4年)に「こうづ」に戻る<ref>駅名表示を旧仮名遣いに戻す、鉄相厳命『東京朝日新聞』昭和4年4月10日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p444-445 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>)。 * [[1934年]]([[昭和]]9年)[[12月1日]]:丹那トンネルの完成により熱海駅から沼津駅までが電化複線で開業し、従来の熱海線と併せて東海道本線とされ、御殿場経由のルートは御殿場線となる。 * [[1970年]](昭和45年) ** [[5月20日]]:新設の[[西湘貨物駅]]に貨物取扱業務を移管、当駅での貨物取扱が廃止。 ** 12月:現在の駅舎に改築。 * [[1980年]](昭和55年):国府津運転所が発足。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱いを廃止。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本・JR東海の分界駅(JR東日本管理)となる。 * [[1997年]]([[平成]]9年)[[3月8日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」供用開始。 * [[2004年]](平成16年):組織改編により国府津電車区が国府津車両センターに改称。 * [[2007年]](平成19年):駅前広場整備工事開始。これに伴い、移動自転車置き場があった所に駐輪所を移転。 * [[2012年]](平成24年)[[3月16日]]:東海道線東京方面から当駅をまたいで御殿場線へ直通する列車が廃止。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月13日]]:JR東海のICカード「[[TOICA]]」のエリアに編入される<ref name="press20210119">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119050250/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について 〜2021年3月13日(土)からサービスを開始します!〜|publisher=東日本旅客鉄道/東海旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2021-01-19|accessdate=2021-01-19|archivedate=2021-01-19}}</ref><ref name="2019-09-20">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190920_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について|publisher=東日本旅客鉄道/東海旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2019-09-20|accessdate=2019-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190921130006/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190920_ho01.pdf|archivedate=2019-09-21}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[5月2日]]:[[発車メロディ]]を「[[みかんの花咲く丘]]」に変更<ref name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/yokohama/20220425_y01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220425093620/https://www.jreast.co.jp/press/2022/yokohama/20220425_y01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=国府津駅の発車メロディが「みかんの花咲く丘」に変わります|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2022-04-25|accessdate=2022-04-25|archivedate=2022-04-25}}</ref><ref>{{cite news|date=2022-05-02|newspaper=朝日新聞 朝刊 湘南版|page=13|title=みかんの花咲く丘♪聞いて出発 小田原の国府津駅発車メロディーに 車窓の風景から曲誕生 住民歌い継ぐ|author=村野英一|ref="朝日20220502"}}</ref>。 ** [[8月25日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd=665">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=665|title=駅の情報(国府津駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-07-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220720101820/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=665|archivedate=2022-07-20}}</ref><ref name="jre20220502_No198">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/627085be157bfc2d6a17e191.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220503120816/http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/627085be157bfc2d6a17e191.pdf|title= 「2022年度駅業務執行体制の再構築について」提案を受ける! ①|date=2022-05-02|archivedate=2022-05-03|accessdate=2022-05-03|publisher=JR東労組横浜地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 === 鉄道唱歌での登場 === [[1900年]][[5月10日]]に第1集東海道篇が発表された『[[鉄道唱歌]]』([[大和田建樹]]作詞、[[多梅稚]]作曲)では、12番に、国府津が[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原電気鉄道]]との[[乗換駅]](当時)であったことから、「国府津おるれば電車あり 酒匂小田原とおからず…」と歌われているが、初版では歌い始めが「国府津おるれば馬車ありて」となっていた。これは、発表がちょうど小田原電気鉄道が[[馬車鉄道]]から[[電気鉄道]]へ動力を改めた時期に一致したため、急遽書き直されたものである<ref>{{Cite book|和書 |author=交通博物館・交通科学館編 |year=1983 |title=鉄道唱歌の旅 |edition=第4版 |publisher=交通文化振興財団 |pages=p. 25}}</ref>。 == 駅構造 == [[ファイル:Kozu-Sta-Overview.jpg|thumb|駅全景(2007年)]] [[単式ホーム]]1面1線と[[島式ホーム]]2面4線、合計3面5線のホームを持つ[[地上駅]]。単式ホームに隣り合って設置された駅舎はコンクリート造り4階建てとなっている。ホーム間は地下道及び[[跨線橋]]で結ばれており、原則として1・2・4・5番線をJR東日本の東海道線、3番線をJR東海の御殿場線が使用している。3番線の下曽我方に御殿場線の0[[キロポスト]]がある。 構内はJR東日本が所有・管理しているが、1番線の事務室付近に[[東海旅客鉄道静岡支社#沼津運輸区|JR東海沼津運輸区]]の国府津詰所がある。両社の財産上の境界(財産境界)は下曽我方にある[[鉄道信号機|第一場内信号機]](最も外側の信号機、[[小田原厚木道路]]の北)に設定されている。 JR東海御殿場線の線路は下曽我方でJR東日本東海道線の上り線を[[高架橋]]でまたぎ、[[御殿場駅|御殿場]]方面につながる。JR東海御殿場線は当駅と[[下曽我駅]]の中間まで[[国府津車両センター|JR東日本国府津車両センター]]出入区線(出入庫線)が並行するため、ここまでの間は[[複線]]のように見える。車両センターへの出入りのため、一部列車は当駅が始発・終点となっている。出入区線には社員輸送車も運行されている。 また、これとは別に御殿場線の線路から駅構内で[[東海道貨物線]]へ接続する貨物線もあるが、これは高架橋ができる前の御殿場線のルートを流用している。御殿場線の定期[[貨物列車]]がない今では東海道貨物線経由列車の出入庫に使用されている。 JR東日本としては小田原・伊豆統括センター管理の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、鴨宮駅における営業時間外のインターホン対応を行う<ref>{{Cite news |date=2015-12-6 |url=http://jrtu-east.org/pdf/yokohama-j124.pdf |title=東日本ユニオンNo.124号 |format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合横浜地方本部 |accessdate=2016-03-13}}</ref>。[[指定席券売機]]と交通系ICカード対応[[自動改札機]]・[[自動券売機]]とJR東海のロゴが入ったTOICA出場用簡易改札機が設置されている。 交通系ICカードは熱海・東京方面が[[Suica]]エリア、松田・御殿場方面がTOICAエリアである。IC定期券を除いて両カードエリアを跨いでのSF乗車(東京・熱海方面 - 当駅経由 - 松田・御殿場方面)はできない<ref name="press20210119" /><ref name="2019-09-20" />。 ICカード入場は改札機で両エリアに対応するが、TOICAエリアの内、松田駅・御殿場駅を含む下曽我駅・大岡駅間17駅からの出場に限って有人通路横にあるTOICA簡易改札機で対応する。対応駅が指定されているのはSF通し乗車が不可の熱海経由沼津方面(熱海駅は当駅と同様にTOICA・Suicaエリアの境界)の経路を「TOICAエリア完結」として誤精算しないようにするためである。 駅舎は鉄筋コンクリート4階建てだが、旅客用のスペースは1階の一部のみである。当駅の東京方にあった機関庫は、鉄道関係のものとしては日本で最初の鉄筋コンクリート建造物とも言われる歴史的に貴重なものであったが、解体され現存しない。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 1・2 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 |style="text-align:center"|下り |[[小田原駅|小田原]]・[[熱海駅|熱海]]・[[伊東駅|伊東]]・[[沼津駅|沼津]]方面 | |- ! 3 |[[File:JR Central Gotemba Line.svg|15px|CB]] 御殿場線 |style="text-align:center"| - |[[松田駅|松田]]・[[御殿場駅|御殿場]]方面 |一部は4番線発着 |- ! rowspan="3" | 4・5 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 | rowspan="3" style="text-align:center" |上り |[[横浜駅|横浜]]・[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]方面 | rowspan="3" | |- | [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[上野東京ライン]] |横浜・品川・東京・[[上野駅|上野]]方面 |- | [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[湘南新宿ライン]] |横浜・[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/665.html JR東日本:駅構内図]) * 2012年3月のダイヤ改正以前は、2番線からも御殿場線への列車(日中の当駅始発と夜の東京発の直通列車)が発車していた。 * 当駅で[[増解結|車両の連結・切り離し]]や特急を待避する列車が存在する。 * 東海道線下り列車の一部は待避がなくても2番線に入線し、同一ホームで御殿場線列車と乗り換えができる形になっている。 <gallery> JRE Kozu-STA Gate.jpg|改札口(2022年3月) JRE Kozu-Station platform 1 20220407 093157.jpg|1番線ホーム(2022年3月) JRE Kozu-Station platform 2-3 20220407 093640.jpg|2・3番線ホーム(2022年3月) JRE Kozu-Station platform 4-5 20220407 093349.jpg|4・5番線ホーム(2022年3月) </gallery> === 発車メロディ === 長らく[[東洋メディアリンクス]]制作の汎用の[[発車メロディ]]を使用していたが、2022年5月2日に、[[童謡]]「[[みかんの花咲く丘]]」をアレンジしたものに変更している<ref name=":0" />。これは地域活性化の取り組みとして国府津商工振興会が企画した{{Refnest|group=注釈|同会は2015年から「みかんの花咲く丘ファミリーコンサート」として同曲の演奏会を行ったり、既に同曲を発車メロディとして採用している[[伊東駅]]と[[宇佐美駅]]を有する[[伊東市]]とのつながりを作るなど、実現に向けた機運醸成を行ってきた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0607/2022/04/30/623362.html |title=JR国府津駅 『みかんの花〜』で出発進行 発車メロ、5月2日変更 |access-date=2022-05-03 |publisher=タウンニュース |archive-url=https://web.archive.org/web/20220430221824/https://www.townnews.co.jp/0607/2022/04/30/623362.html |archive-date=2022-04-30}}</ref>。}}もので、同曲が当駅付近を走る列車の車窓から見えた[[ウンシュウミカン|みかん]]畑の景色にインスピレーションを受けて作曲されたものであることにちなんでいる。同振興会副会長の佐藤基は「地元ゆかりのメロディーに変更することで、駅の利用者や市民、観光客に愛着を深めてほしい」としている<ref>{{Cite web|和書|title=曲の着想はこの風景からだった…国府津駅の発車メロディー「みかんの花咲く丘」に変更へ : 社会 : ニュース |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220426-OYT1T50189/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-04-30 |access-date=2022-05-03 |language=ja |publisher=読売新聞 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220429210731/https://www.yomiuri.co.jp/national/20220426-OYT1T50189/ |archive-date=2022-04-29}}</ref>。 編曲は[[作曲家]]の高木文世が手掛けた。アレンジは番線ごとに異なっており、奇数番線は曲の前半部分、偶数番線は後半部分を採用している<ref name=":0" />。高木は変更前日に当駅で行われた記念式典で「『上りホームは明るく、下りは落ち着く感じで、御殿場線はウキウキというイメージで』と提案があり、[[オルガン]]をベースにトータルでひとつの曲になるようにした」と解説している<ref>{{Cite web|和書|title=JR国府津駅、ゆかりの童謡が発車メロディーに ホームごとに違う歌 |url=https://mainichi.jp/articles/20220501/k00/00m/040/142000c |website= |access-date=2022-05-03 |language=ja |publisher=毎日新聞 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220501083319/https://mainichi.jp/articles/20220501/k00/00m/040/142000c |archive-date=2022-05-01}}</ref>。 == 駅弁 == [[1888年]]7月に[[足柄下郡]][[国府津町|国府津村]]で旅館業を営んでいた飯沼ヒデが、国府津停車場構内で販売した「竹の皮に包んだ握り飯に沢庵を添えたもの」が東海道本線最初の駅弁とされる。以後、[[明治]]時代には次のような駅弁が売られたという。<!--播摩晃一『小田原カランドリエ』(タウンニュース社、[[1993年]])による--> * 上等御弁当 - 献立:玉子焼、魚類、蒲鉾、鳥肉、香ノ物三種、ご飯 * 御弁当(並) - 献立:玉子焼、魚類、蒲鉾、黒豆、白タキ、椎茸、香ノ物、ご飯 * サンドウィッチ * 小鯵おし寿し * 御鯛飯 * 洋食御弁当 - 献立:魚フライ、冷やし牛肉、ボイルド・ハム、バター、ポテトチップ、生野菜、ソース、パン 1923年(大正12年)4月20日に、[[守山乳業]]が製造した「珈琲牛乳」を扱い始める。これは瓶入りの[[コーヒー牛乳]]を店頭で販売した初めての例であるという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fujimilk.co.jp/company/story.html |title=はじめて物語 |publisher=守山乳業株式会社 |accessdate=2018-10-25}}</ref>。 1933年(昭和8年)には個人営業から法人組織へ移行し、飯沼ヒデは、現在[[小田原駅]]などで駅弁を販売するこの「[[東華軒]]」(神奈川県小田原市)初代経営者とされる<ref>『小田原市史ダイジェスト版 おだわらの歴史』小田原市立図書館、2007年、p.151</ref>。 東華軒は2・3番線ホームの売店で構内営業を行っていたが、[[2007年]]に廃止された。JR時刻表の駅弁情報最終掲載号には国府津駅の項に駅弁取扱のマークが付いていたが、売店があるのは改札外(駅前広場向かい)だけとなっている。主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書 |author= |title= |year=2019 |publisher=[[交通新聞社]] |journal=JR時刻表 |issue=2019年9月号 |number= |page=138}}</ref>。 {{Div col||20em}} * こゆるぎ茶めし * 鯛めし * デラックスこゆるぎ弁当 * 小鰺押寿司 * 金目鯛炙り寿司 {{Div col end}} ただし、JTB時刻表 2023年3月号には国府津駅の駅弁の掲載は無い。 == 利用状況 == JR東日本の2022年(令和4年)度1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''4,797人'''である。快速停車駅だが、小田原以東の東海道線内の駅では最も少ない。 近年の推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref>[http://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/statistics/ 統計] - 小田原市</ref><ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県県勢要覧]</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) |7,576 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 17ページ</ref> |- |1998年(平成10年) |7,500 |<ref group="*">神奈川県県勢要覧(平成12年度)- 220ページ</ref> |- |1999年(平成11年) |7,298 |<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 222ページ</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>6,998 |<ref group="*" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>6,820 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}} - 220ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>6,702 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}} - 220ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>6,527 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}} - 220ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>6,492 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}} - 222ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>6,464 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}} - 222ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>6,571 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>6,634 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>6,575 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}} - 238ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>6,489 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]}} - 236ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>6,441 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]}} - 236ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>6,364 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]}} - 232ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_03.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>6,289 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]}} - 234ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_03.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>6,370 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}} - 236ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_03.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>6,283 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821900.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]}} - 236ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_03.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>6,322 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]}} - 244ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_03.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>6,067 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}} - 236ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>5,998 | |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>6,000 | |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>5,845 | |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_03.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>4,492 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_03.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>4,604 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>4,797 | |} == 駅周辺 == 当駅は[[小田原駅]]付近から延々と続く市街地の東端に位置している。南側には[[国道1号|国道1号線]]や[[西湘バイパス]]が走る。国道1号線沿いの駅前[[商店街]]には、[[西洋館|洋館]]や[[看板建築]]、「出桁(だしげた)造り」の建物が多く見られたが、商店の衰退とともに姿を消しつつある。駅裏手から御殿場線方面に沿って伸びる丘陵は、[[ウンシュウミカン|みかん]]栽培が盛んであった。当駅と[[下曽我駅]]の中間にはJR東日本の[[国府津車両センター]]が広がっている。 国府津という地名は、昔[[大磯町]]西部(国府本郷・国府新宿付近:異説もあり)に[[相模国]][[国府]]があって、それに近い港ということで付けられたといわれる。戦前は[[湘南]]避暑避寒の地として海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。文人達もよく訪れたといた。 {{columns-list|2| * 小田原国府津郵便局 * [[小田原市立国府津小学校]] * 国府津保育園 * [[山近記念総合病院]] * [[西湘バイパス]][[国府津インターチェンジ]] * [[国道1号]] * [[神奈川県道72号]] * [[神奈川県道717号]] * 真楽寺 * 光明寺 * 安楽院 * 法秀寺 * 常念寺 * 長泉寺 * 菅原神社 |}} == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> 「国府津駅」停留所にて、以下の路線バスが発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[箱根登山バス]] |{{Unbulleted list|[[小田原駅]]|城東車庫前}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|小田原駅|[[鴨宮駅]]|城東車庫前|[[ダイナシティ (ショッピングセンター)|ダイナシティ]]}} |&nbsp; |- !3 |style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通|神奈川中央交通西]] |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通西・秦野営業所#国府津駅 - 橘団地方面|'''国04'''・'''国05''']]:橘団地|'''国06''':国府津駅(西湘テクノパーク循環)|[[神奈川中央交通西・平塚営業所#平塚駅北口 -(国道1号)- 二宮駅方面|'''平44''']]:小田原駅|'''平45''':[[平塚駅]]北口}} |「平44」「平45」は土曜1本のみ運行 |- !4 |style="text-align:center;"|[[富士急湘南バス]] |{{Unbulleted list|[[富士急湘南バス#松田から下曽我方面・小田原駅・国府津駅発着系統|'''国02''']]:[[下曽我駅]]|'''国07''':[[新松田駅]]|'''イエティライナー''':[[イエティ]]・[[ぐりんぱ]]}} |} ; 備考 * 駅前には、箱根登山タクシー、報徳ハイヤーが停泊している。 * 小田原市は[[2007年]]度に国府津駅前広場の整備工事を行った。東側にバス専用の進入路を新設して、バスと[[タクシー]]・一般車を分離した。しかし、国府津駅前交差点を先頭に起きる[[渋滞]]が多発しており、小田原市は、2020年度から混雑緩和対策を開始した<ref>[https://www.townnews.co.jp/0607/2020/02/15/517879.html 国府津駅周辺 混雑緩和へ今秋整備] タウンニュース</ref>。2022年8月23日に完成した<ref>[https://www.townnews.co.jp/0607/2022/08/27/639486.html 国府津駅 西側ロータリーが開通]</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 :* 特急「[[湘南 (列車)|湘南]]」一部停車駅(下りは全列車停車) :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速(湘南新宿ライン経由) ::: [[平塚駅]] (JT 11) - '''国府津駅 (JT 14)''' - [[小田原駅]] (JT 16) :: {{Color|#18a629|■}}普通(東京方面発着)・{{Color|#f68b1e|■}}快速(湘南新宿ライン経由、下り列車は戸塚駅から「普通」扱い) ::: [[二宮駅]] (JT 13) - '''国府津駅 (JT 14)''' - [[鴨宮駅]] (JT 15) : 東海道貨物線 ::: [[相模貨物駅]] - '''国府津駅''' - [[西湘貨物駅]] : ※ 当駅 - 鴨宮駅間の貨物線上に西湘貨物駅が位置している。 ; 東海旅客鉄道(JR東海) : [[File:JR Central Gotemba Line.svg|15px|CB]] 御殿場線 ::: '''国府津駅 (CB00)''' - [[下曽我駅]] (CB01) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} === 利用状況 === ;JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|3}} ;神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="*"|3}} == 関連項目 == {{commonscat|Kōzu Station (Kanagawa)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇]] - 当駅にて新撮映像のロケが行われた。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=665|name=国府津}} {{東海道本線 (JR東日本)}} {{東海道貨物線}} {{御殿場線}} {{DEFAULTSORT:こうつ}} [[Category:小田原市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 こ|うつ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東海道線 (JR東日本)]] [[Category:御殿場線]] [[Category:1887年開業の鉄道駅]] [[Category:1880年代日本の設立]]
2003-09-06T15:58:18Z
2023-11-16T21:46:25Z
false
false
false
[ "Template:御殿場線", "Template:Unbulleted list", "Template:Cite press release", "Template:Cite news", "Template:東海道貨物線", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:駅情報", "Template:Div col end", "Template:Columns-list", "Template:Color", "Template:Otheruses", "Template:Div col", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:東海道本線 (JR東日本)", "Template:Refnest", "Template:0", "Template:Reflist", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E6%B4%A5%E9%A7%85
15,445
綾瀬駅
綾瀬駅(あやせえき)は、東京都足立区綾瀬三丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。駅番号は東京メトロがC 19、JR東日本がJL 19。足立区と葛飾区の境に位置し、南側は葛飾区小菅四丁目である。 東京メトロの千代田線とJR東日本の常磐線が乗り入れる。常磐線の列車は緩行線で運行される常磐線各駅停車のみが停車する。千代田線と常磐線は当駅を介して相互直通運転を行っている。 当駅は千代田線の正式な起点であり、当駅 - 北綾瀬駅間は支線である。当駅 - 亀有駅間にある北綾瀬駅への分岐を過ぎた所に、東京メトロとJR東日本の会社境界標がある。また、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。 東京メトロとJR東日本の共同使用駅で駅自体は東京メトロが管轄しているため、当駅はJRの駅数には計上されていなかったが、現在のJR東日本の公称駅数は、当駅も含んだ数である。1971年4月19日までは日本国有鉄道(国鉄)の管轄駅で、翌4月20日に駅業務は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に移管され、1987年の国鉄分割民営化、2004年の営団地下鉄民営化により現在の形となった。このため、初電は5:00の規定がある東京メトロで最も早い初電車が発車する駅でもある。 当駅に関連するJR・東京メトロの乗車券の取り扱いについては後述。 なお、駅建設当初の所在地表記は葛飾区上千葉町であったが、1968年4月1日に葛飾区と足立区の間で区境界変更が実施されたため、現在の所在地表記は足立区綾瀬である。 高架駅で、島式ホーム2面3線に加え、南側(1・2番線)ホームの亀有寄りに切欠きホームが1線あり、合計で2面4線である。中線は島式ホームに挟まれており、基本的には当駅折り返し列車が使用する。切欠きホームは当駅 - 北綾瀬駅間の3両編成の区間列車(ワンマン運転)が使用する。 東口・西口改札内コンコースとホームを連絡するエスカレーターと、東口改札内コンコースと0・1・2番線ホームを連絡するエレベーターが設置されている。3・4番線ホームにはエレベーターが設置されていなかったが、2012年秋から設置工事が開始され、翌2013年9月14日より使用開始となった。多機能トイレは東口改札内コンコースにある。 相互直通運転を行っているため、JR東日本・東京メトロともに同一のホームを使用する。島式ホームは南側から1番線・2番線...と振られており、切欠きホームは「0番線」(ゼロ番線)と呼ばれる。0番線が新設される1985年までは中線の2・3番線から北綾瀬行きの区間列車が発着していた。北綾瀬駅開業以前は当駅発着列車が使用し、2番線が乗車ホーム、3番線が降車ホームだった。 当駅の北綾瀬寄りの高架下には、千代田線の車掌・運転士が所属する綾瀬車掌事務室、綾瀬運転事務室(ほかに代々木上原駅に代々木車掌事務室・代々木運転事務室がある)が配置されている。 また、常磐線と千代田線との分岐点付近にはJR東日本綾瀬運輸区と東京地下鉄綾瀬変電所がある。綾瀬変電所には2017年(平成29年)3月、千代田線当駅 - 北千住間にある荒川橋梁における停電時の車両移動用として、非常用バッテリーを設置した。 (出典:東京メトロ:構内図) 2018年10月27日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 中線の2・3番線はラッシュ時を除き、折り返し・始発ホームとして機能している。平日朝ラッシュ時、7・8時台の当駅始発代々木上原方面への列車は混雑緩和のために3番線からの優先乗車を行っている。 日中の2・3番線での代々木上原方面折り返し電車は、到着後3番線側、2番線側の順に両側の扉が開き、両側の扉が閉まった後、一旦北綾瀬方に引き上げる。また、朝には我孫子方面への当駅始発列車がある。 また、北千住発着の特急ロマンスカーとして運用される60000形(MSE)は、綾瀬車両基地への出入庫を除き、当駅の先まで回送され折り返している。 2019年3月16日ダイヤ改正以降、北綾瀬駅のホームが10両化されたことにより、3・4番線発の北綾瀬行き電車が設定された。4番線からの発車が主であるが、当駅始発など一部は3番線から発車する。 当駅は東京メトロの管轄駅のため、みどりの窓口がなく、指定席券売機類も設置されていない。このため、JR線の乗車券の発売には制限がある。 駅窓口(東口改札口前、東京メトロがJR東日本より委託され運営)では、「みどりの窓口」扱いではなかったものの、取り扱いを制限する形でマルス端末が設置され、長距離のJR線乗車券・特急券や普通回数券(当駅発着のみ)を取り扱っていたが、2018年3月31日をもって取り扱いを終了した。 JR線定期券については隣接する定期券うりばで発売している。なお、定期券は東京メトロ仕様の磁気券のみの取り扱いとなる。なお、定期券うりばの窓口で発売するJR線定期券は当駅発着のものと北綾瀬発着の連絡定期券のみ取り扱う。定期券発行対応の自動券売機が設置されたことにより、東京メトロ線内発着の定期券(当駅・北千住駅発着で前後のJR線に跨るものを除く。ただし、他の東京メトロ線と連絡するものは可)については発着駅に関わらず発行できるようになっている。なお、クレジットカードについては当駅での東京メトロ線の定期券の購入に限り使用できる(VISA・Master・JCBおよびTokyo Metro To Me CARD)。 当駅が営団管理となる際に、当時の日本国有鉄道首都圏本部長と帝都高速度交通営団総裁との間で、1971年4月19日に締結された「綾瀬駅共同使用契約書」の第16条第1号で入場料金は国鉄が取得する旨の協定が結ばれ、窓口で国鉄→JR東日本様式(発行駅名に丸囲みの「社」表記あり)の硬券の入場券が販売されていたが、硬券の廃止後は代替の軟券の設備や、JRの券売機への入場券の口座の追加が行われなかったため、入場券が発売されていない。 JR東日本の自動券売機では、東口と西口の2台ずつ、計4台で通常の乗車券類に加え国鉄時代から継承されている「都区内パス」を発売しているが、JRの特別企画乗車券である「休日おでかけパス」は発売されていないほか、ICカードは乗車券購入に使用できるのみで、チャージなどには対応していない(東京メトロの券売機でのチャージは可能)。また、JR線から連絡する他社線への連絡乗車券の取り扱いもない。北千住乗り換え東武線への連絡乗車券は東京メトロの券売機で発売している。なお東京フリーきっぷは東京メトロの券売機で発売されている。 自動改札機は東京メトロ仕様であるが、JR東日本の駅としてマルス券(一部の特別企画乗車券を除く)および2013年3月23日の交通系ICカード10種相互利用開始以前からPASMO・SuicaおよびSuicaと相互利用できるICOCAなどのICカードがすべて使用できた。 JRの運賃表は特殊なもので、西日暮里接続の連絡乗車券発売区間は北千住乗り換えと西日暮里乗り換えの両方が表記されており、発券している券売機も異なっている(前者はJR、後者は東京メトロ)。 近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 JR貨物の駅は車扱貨物の臨時取り扱い駅である。定期貨物列車の発着はないが、東京メトロ千代田線・有楽町線・南北線・副都心線・埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線で使用される車両を搬入する甲種輸送列車が発着する。車両は当駅でJR貨物から東京メトロに引き渡され、北綾瀬駅の先の綾瀬検車区まで回送(千代田線車両の牽引による)される。また、常磐線内は松戸駅で快速線から緩行線に転線する。 運行される場合、常磐緩行線の保安装置の関係から、終電後の深夜(一例では午前2時台)に線路閉鎖を行った上で実施されるため、一般には見ることができない。ただし、1996年3月26日の南北線四ツ谷駅 - 駒込駅間開業で所要となる車両の搬入は日中の時間帯にも実施された。 2008年度の車扱貨物の取扱量は、発送なし、到着が3,600トンである。発送は有楽町線07系の東西線転用時などで実績がある。近年の年間発着トン数は下表の通り。 2019年4月11日、当駅西口側に東京地下鉄とスペースマーケットの提携により、シェアリングスペース「むすべやメトロ綾瀬」が開設された。内装にかつて使用された鉄道部品を設置しており、採用した経緯は関係者によると「イメージイラストを見て、社員が照明をつり革と勘違いしたのがきっかけです」と言及している。(公式サイト) 高架下にバスターミナルがある。 かつて都営バスが乗り入れていた2番乗り場は欠番になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "綾瀬駅(あやせえき)は、東京都足立区綾瀬三丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。駅番号は東京メトロがC 19、JR東日本がJL 19。足立区と葛飾区の境に位置し、南側は葛飾区小菅四丁目である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京メトロの千代田線とJR東日本の常磐線が乗り入れる。常磐線の列車は緩行線で運行される常磐線各駅停車のみが停車する。千代田線と常磐線は当駅を介して相互直通運転を行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅は千代田線の正式な起点であり、当駅 - 北綾瀬駅間は支線である。当駅 - 亀有駅間にある北綾瀬駅への分岐を過ぎた所に、東京メトロとJR東日本の会社境界標がある。また、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京メトロとJR東日本の共同使用駅で駅自体は東京メトロが管轄しているため、当駅はJRの駅数には計上されていなかったが、現在のJR東日本の公称駅数は、当駅も含んだ数である。1971年4月19日までは日本国有鉄道(国鉄)の管轄駅で、翌4月20日に駅業務は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に移管され、1987年の国鉄分割民営化、2004年の営団地下鉄民営化により現在の形となった。このため、初電は5:00の規定がある東京メトロで最も早い初電車が発車する駅でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当駅に関連するJR・東京メトロの乗車券の取り扱いについては後述。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、駅建設当初の所在地表記は葛飾区上千葉町であったが、1968年4月1日に葛飾区と足立区の間で区境界変更が実施されたため、現在の所在地表記は足立区綾瀬である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "高架駅で、島式ホーム2面3線に加え、南側(1・2番線)ホームの亀有寄りに切欠きホームが1線あり、合計で2面4線である。中線は島式ホームに挟まれており、基本的には当駅折り返し列車が使用する。切欠きホームは当駅 - 北綾瀬駅間の3両編成の区間列車(ワンマン運転)が使用する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東口・西口改札内コンコースとホームを連絡するエスカレーターと、東口改札内コンコースと0・1・2番線ホームを連絡するエレベーターが設置されている。3・4番線ホームにはエレベーターが設置されていなかったが、2012年秋から設置工事が開始され、翌2013年9月14日より使用開始となった。多機能トイレは東口改札内コンコースにある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "相互直通運転を行っているため、JR東日本・東京メトロともに同一のホームを使用する。島式ホームは南側から1番線・2番線...と振られており、切欠きホームは「0番線」(ゼロ番線)と呼ばれる。0番線が新設される1985年までは中線の2・3番線から北綾瀬行きの区間列車が発着していた。北綾瀬駅開業以前は当駅発着列車が使用し、2番線が乗車ホーム、3番線が降車ホームだった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当駅の北綾瀬寄りの高架下には、千代田線の車掌・運転士が所属する綾瀬車掌事務室、綾瀬運転事務室(ほかに代々木上原駅に代々木車掌事務室・代々木運転事務室がある)が配置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、常磐線と千代田線との分岐点付近にはJR東日本綾瀬運輸区と東京地下鉄綾瀬変電所がある。綾瀬変電所には2017年(平成29年)3月、千代田線当駅 - 北千住間にある荒川橋梁における停電時の車両移動用として、非常用バッテリーを設置した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2018年10月27日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中線の2・3番線はラッシュ時を除き、折り返し・始発ホームとして機能している。平日朝ラッシュ時、7・8時台の当駅始発代々木上原方面への列車は混雑緩和のために3番線からの優先乗車を行っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日中の2・3番線での代々木上原方面折り返し電車は、到着後3番線側、2番線側の順に両側の扉が開き、両側の扉が閉まった後、一旦北綾瀬方に引き上げる。また、朝には我孫子方面への当駅始発列車がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、北千住発着の特急ロマンスカーとして運用される60000形(MSE)は、綾瀬車両基地への出入庫を除き、当駅の先まで回送され折り返している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2019年3月16日ダイヤ改正以降、北綾瀬駅のホームが10両化されたことにより、3・4番線発の北綾瀬行き電車が設定された。4番線からの発車が主であるが、当駅始発など一部は3番線から発車する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当駅は東京メトロの管轄駅のため、みどりの窓口がなく、指定席券売機類も設置されていない。このため、JR線の乗車券の発売には制限がある。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "駅窓口(東口改札口前、東京メトロがJR東日本より委託され運営)では、「みどりの窓口」扱いではなかったものの、取り扱いを制限する形でマルス端末が設置され、長距離のJR線乗車券・特急券や普通回数券(当駅発着のみ)を取り扱っていたが、2018年3月31日をもって取り扱いを終了した。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "JR線定期券については隣接する定期券うりばで発売している。なお、定期券は東京メトロ仕様の磁気券のみの取り扱いとなる。なお、定期券うりばの窓口で発売するJR線定期券は当駅発着のものと北綾瀬発着の連絡定期券のみ取り扱う。定期券発行対応の自動券売機が設置されたことにより、東京メトロ線内発着の定期券(当駅・北千住駅発着で前後のJR線に跨るものを除く。ただし、他の東京メトロ線と連絡するものは可)については発着駅に関わらず発行できるようになっている。なお、クレジットカードについては当駅での東京メトロ線の定期券の購入に限り使用できる(VISA・Master・JCBおよびTokyo Metro To Me CARD)。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当駅が営団管理となる際に、当時の日本国有鉄道首都圏本部長と帝都高速度交通営団総裁との間で、1971年4月19日に締結された「綾瀬駅共同使用契約書」の第16条第1号で入場料金は国鉄が取得する旨の協定が結ばれ、窓口で国鉄→JR東日本様式(発行駅名に丸囲みの「社」表記あり)の硬券の入場券が販売されていたが、硬券の廃止後は代替の軟券の設備や、JRの券売機への入場券の口座の追加が行われなかったため、入場券が発売されていない。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "JR東日本の自動券売機では、東口と西口の2台ずつ、計4台で通常の乗車券類に加え国鉄時代から継承されている「都区内パス」を発売しているが、JRの特別企画乗車券である「休日おでかけパス」は発売されていないほか、ICカードは乗車券購入に使用できるのみで、チャージなどには対応していない(東京メトロの券売機でのチャージは可能)。また、JR線から連絡する他社線への連絡乗車券の取り扱いもない。北千住乗り換え東武線への連絡乗車券は東京メトロの券売機で発売している。なお東京フリーきっぷは東京メトロの券売機で発売されている。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "自動改札機は東京メトロ仕様であるが、JR東日本の駅としてマルス券(一部の特別企画乗車券を除く)および2013年3月23日の交通系ICカード10種相互利用開始以前からPASMO・SuicaおよびSuicaと相互利用できるICOCAなどのICカードがすべて使用できた。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "JRの運賃表は特殊なもので、西日暮里接続の連絡乗車券発売区間は北千住乗り換えと西日暮里乗り換えの両方が表記されており、発券している券売機も異なっている(前者はJR、後者は東京メトロ)。", "title": "乗車券の取り扱いについて" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "JR貨物の駅は車扱貨物の臨時取り扱い駅である。定期貨物列車の発着はないが、東京メトロ千代田線・有楽町線・南北線・副都心線・埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線で使用される車両を搬入する甲種輸送列車が発着する。車両は当駅でJR貨物から東京メトロに引き渡され、北綾瀬駅の先の綾瀬検車区まで回送(千代田線車両の牽引による)される。また、常磐線内は松戸駅で快速線から緩行線に転線する。", "title": "貨物取扱" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "運行される場合、常磐緩行線の保安装置の関係から、終電後の深夜(一例では午前2時台)に線路閉鎖を行った上で実施されるため、一般には見ることができない。ただし、1996年3月26日の南北線四ツ谷駅 - 駒込駅間開業で所要となる車両の搬入は日中の時間帯にも実施された。", "title": "貨物取扱" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2008年度の車扱貨物の取扱量は、発送なし、到着が3,600トンである。発送は有楽町線07系の東西線転用時などで実績がある。近年の年間発着トン数は下表の通り。", "title": "貨物取扱" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年4月11日、当駅西口側に東京地下鉄とスペースマーケットの提携により、シェアリングスペース「むすべやメトロ綾瀬」が開設された。内装にかつて使用された鉄道部品を設置しており、採用した経緯は関係者によると「イメージイラストを見て、社員が照明をつり革と勘違いしたのがきっかけです」と言及している。(公式サイト)", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "高架下にバスターミナルがある。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "かつて都営バスが乗り入れていた2番乗り場は欠番になっている。", "title": "バス路線" } ]
綾瀬駅(あやせえき)は、東京都足立区綾瀬三丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。駅番号は東京メトロがC 19、JR東日本がJL 19。足立区と葛飾区の境に位置し、南側は葛飾区小菅四丁目である。
{{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 綾瀬駅 |画像 = Ayase-Sta-W.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2016年6月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro<!--東京メトロ管轄のため-->|coord={{coord|35|45|43.8|N|139|49|30|E}}}} |よみがな = あやせ |ローマ字 = Ayase |所属事業者= {{Plainlist| * [[東京地下鉄]](東京メトロ) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[日本貨物鉄道]](JR貨物)}} |所在地 = [[東京都]][[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]三丁目1-1 |座標 = {{coord|35|45|43.8|N|139|49|30|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |電報略号 = ヤセ |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#00bb85|●}}[[東京メトロ千代田線]]{{Refnest|group="*"|name="kitaayase"|両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。}}{{Refnest|group="*"|name="joban"|両線で相互直通運転実施。}} |前の駅1 = C 18 [[北千住駅|北千住]] |駅間A1 = 2.6{{Refnest|group="*"|name="kilo"|当駅 - 北千住駅間をJR線として扱う場合、キロ程は2.5&nbsp;km。なお、東京メトロ線として扱う場合も、運賃計算上は2.5&nbsp;km。}} |駅間B1 = |次の駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|C|19|#00bb85|4}} |キロ程1 = 0.0 |起点駅1 = 綾瀬 |所属路線2 = {{color|#00bb85|●}}東京メトロ千代田線(支線)<ref group="*" name="kitaayase" /> |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 2.1 |次の駅2 = [[北綾瀬駅|北綾瀬]] C 20 |駅番号2 = {{駅番号r|C|19|#00bb85|4}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 綾瀬 |所属路線3 = {{color|#808080|■}}[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]](JR東日本)<ref group="*" name="joban" /><br />(線路名称上は[[常磐線]]) |前の駅3 = C 18 北千住 |駅間A3 = 2.5<ref group="*" name="kilo" /> |駅間B3 = 2.2 |次の駅3 = [[亀有駅|亀有]] JL 20 |駅番号3 = {{駅番号r|JL|19|#808080|1}} |キロ程3 = 7.7&nbsp;km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[北千住駅|北千住]]から2.5 |起点駅3 = |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書|title=週刊 JR全駅・全車両基地|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅|date=2012-09-09|page=26}}</ref> |開業年月日 = [[1943年]]([[昭和]]18年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = {{Smaller|(JR東日本)-2022年-}}<br />12,270{{Refnest|group="*"|直通連絡人員を含まない値。}} |乗降人員 = {{Smaller|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />349,331{{Refnest|group="*"|直通連絡人員を含む値。}} |統計年度 = |備考 = {{Plainlist| * [[共同使用駅]](東京メトロの管轄駅)<ref name="jobansenknow20210330" /> * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅(JR東日本)}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[File:AyaseStation-NorthExit-night-2013-11-15.jpg|thumb|北口(2013年11月)]] '''綾瀬駅'''(あやせえき)は、[[東京都]][[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]三丁目<!-- 正式な所在地 -->にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は東京メトロが'''C 19'''、JR東日本が'''JL 19'''。足立区と[[葛飾区]]の境に位置し、南側は葛飾区[[小菅 (葛飾区)|小菅]]四丁目である。 == 概要 == 東京メトロの[[東京メトロ千代田線|千代田線]]とJR東日本の[[常磐線]]が乗り入れる。常磐線の列車は[[急行線|緩行線]]で運行される[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]のみが停車する。千代田線と常磐線は当駅を介して[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。 当駅は千代田線の正式な起点であり、当駅 - [[北綾瀬駅]]間は[[支線]]である<ref name="jsce">{{Cite web|和書|url=http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2015/70-06/70-06-0431.pdf|date=2015-09|archiveurl= https://web.archive.org/web/20210121135201/http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2015/70-06/70-06-0431.pdf|title=輸送改善対策と出入口、バリアフリー整備に伴う駅改良工事 ー東京メトロ千代田線北綾瀬駅改良土木工事ー|archivedate=2021-01-21|accessdate=2022-03-19|publisher=[[土木学会]]|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="RP759_34-35">{{Cite book|和書|author=瀬ノ上清二|chapter=輸送と運転 近年の動向|title=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=3|pages=32 - 35|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。当駅 - [[亀有駅]]間にある北綾瀬駅への分岐を過ぎた所に、東京メトロとJR東日本の会社境界標がある。また、JRの[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属している。 東京メトロとJR東日本の[[共同使用駅]]で駅自体は東京メトロが管轄しているため<ref name="jobansenknow20210330">{{Cite web|和書|url=https://jobansenknow.jp/399/|title=常磐線史上の大革命! ~50年前の複々線化と地下鉄との直通でガラリと変わった~|publisher=東日本旅客鉄道|work=常磐線の___! 知らない、だからおもしろい|date=2021-03-30|accessdate=2021-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210923113553/https://jobansenknow.jp/399/|archivedate=2021-09-23}}</ref>、当駅はJRの駅数には計上されていなかったが、現在のJR東日本の公称駅数は、当駅も含んだ数である<ref group="注">同様のケースとして、[[紀勢本線]][[和歌山市駅]]・[[予土線]][[若井駅]]・[[筑肥線]][[姪浜駅]]および[[鹿児島交通枕崎線]]が接続していた時代の[[指宿枕崎線]][[枕崎駅]]があり、若井駅は現在も同様の措置である。</ref>。[[1971年]][[4月19日]]までは[[日本国有鉄道]](国鉄)の管轄駅で、翌4月20日に駅業務は[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に移管され、[[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]、[[2004年]]の営団地下鉄民営化により現在の形となった。このため、初電は5:00の規定がある東京メトロで最も早い初電車が発車する駅でもある<ref group="注">当駅4:38発の北千住行きで、北千住駅で4:45発の快速・上野行き初電車に接続する。</ref>。 {{See also|常磐緩行線#複々線化の沿革と問題}} 当駅に関連するJR・東京メトロの乗車券の取り扱いについては[[#乗車券の取り扱いについて|後述]]。 == 歴史 == [[File:Ayase Station.19750114.jpg|thumb|綾瀬駅周辺の空中写真(1975年1月14日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1943年]]([[昭和]]18年)[[4月1日]]:[[鉄道省]]常磐線の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|editor=石野哲|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=425}}</ref>。当時は旅客営業のみ{{R|停車場}}。 ** 開業時の駅の位置は、現在の位置とは異なり、北千住寄りの現在の綾瀬一丁目37番にあった。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。 * [[1968年]](昭和43年)[[2月1日]]:駅位置を亀有寄りに約250&nbsp;m移転<ref name="Chiyoda-Con669">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、p.669。</ref>。駅施設自体は帝都高速度交通営団が建設したが、この時点ではのちの緩行線・営団千代田線となる施設を一時的に常磐線全列車が使用し、従来の線路跡を高架化して快速線とするための工事を行ったため、国鉄が借り受けて一時的に国鉄管理駅として営業し<ref name="Chiyoda-Con512-514">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.512 - 514。</ref>、駅名標や案内表示も全て国鉄様式だった<ref>{{Cite journal|和書|author=[[岩成政和]]|title= エメラルドグリーンのラビリンス 常磐線国電区間歴史メモ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-10-01|volume=66|issue=第10号(通巻932号)|page=14|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年) ** 4月1日:旅客関係業務が[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に移管される<ref name=交通1971-0331>{{Cite news |title=綾瀬駅の業務、営団に移管 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-03-31 |page=1 }}</ref>。 ** [[4月20日]]:営団地下鉄千代田線の駅が開業<ref name="Chiyoda-Con162-163">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.162 - 163。</ref><ref name="eidan590">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.590。</ref>。運転関係業務も営団地下鉄に移管され{{R|交通1971-0331}}、案内表示類も営団仕様に更新される。 * [[1979年]](昭和54年)[[12月20日]]:営団地下鉄千代田線(分岐線)綾瀬 - 北綾瀬間が開業<ref name="Chiyoda-Con1087">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、p.1087。</ref><ref name="eidan598">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.598。</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:0番線ホームを使用開始<ref name="RF521_41">{{Cite journal|和書|author=佐藤公一|date=2004-09-01|title=営団地下鉄の60年|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻521号)|page=41|publisher=[[交友社]]}}</ref>。北綾瀬行の電車は2・3番線発着から0番線発着となる<ref name="RF521_41" />。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[3月31日]]:貨物の取り扱いを開始{{R|停車場}}。 ** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄(常磐線)の駅が東日本旅客鉄道(JR東日本)と日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる<ref name="eidan604">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.604。</ref>。 * [[2002年]]([[平成]]14年) ** [[3月23日]]:0番線ホームで[[ホームドア]]の使用を開始(設置は同年[[2月15日]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-28.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205155516/http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-28.html|language=日本語|title=平成14年2月15日(予定) 千代田線 北綾瀬駅・綾瀬駅(0番線ホーム)ホームドアを設置します。3月中にワンマン運転を実施する予定|publisher=営団地下鉄|date=2001-12-17|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref>)<ref name="eidan624">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.624。</ref>。 ** [[12月3日]]:東口高架下に商業施設「M'av AYASE Lieta(マーヴ 綾瀬 リエッタ)」 がオープン<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-37.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040219102801/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-37.html|language=日本語|title=綾瀬駅高架下に「素敵ストリート」が誕生! RESTAURANT・CAFE&SHOP 「M'av AYASE Lieta(マーヴ 綾瀬 リエッタ)」12月3日(火)オープン!|publisher=営団地下鉄|date=2002-11-15|accessdate=2021-01-29|archivedate=2004-02-19}}</ref><ref name="eidan625">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.625。</ref>。 ** [[12月10日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:営団地下鉄の民営化に伴い、千代田線の駅が東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[10月27日]]:全ホームに[[発車メロディ]]を導入。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正に伴い北綾瀬駅から代々木上原方面への直通を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181214_124.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190129235844/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181214_124.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月16日(土)東西線及び千代田線のダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2018-12-14|accessdate=2020-03-11|archivedate=2019-01-29}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190301_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月16日(土)千代田線北綾瀬駅ホーム10両化 新たな出入口がオープン|publisher=東京地下鉄|date=2019-03-01|accessdate=2020-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200307153028/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190301_1.pdf|archivedate=2020-03-07}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月7日]]:1 - 4番線ホームでホームドアの使用を開始。 == 駅構造 == [[高架駅]]で、[[島式ホーム]]2面3線に加え、南側(1・2番線)ホームの亀有寄りに[[切欠きホーム]]が1線あり、合計で2面4線である。中線は島式ホームに挟まれており、基本的には当駅折り返し列車が使用する。切欠きホームは当駅 - 北綾瀬駅間の3両編成の区間列車([[ワンマン運転]])が使用する。 東口・西口改札内コンコースとホームを連絡する[[エスカレーター]]と、東口改札内コンコースと0・1・2番線ホームを連絡する[[エレベーター]]が設置されている。3・4番線ホームにはエレベーターが設置されていなかったが、2012年秋から設置工事が開始され、翌2013年9月14日より使用開始となった。多機能[[便所|トイレ]]は東口改札内コンコースにある。 相互直通運転を行っているため、JR東日本・東京メトロともに同一のホームを使用する。島式ホームは南側から1番線・2番線…と振られており、[[切欠きホーム]]は「0番線」(ゼロ番線)と呼ばれる。0番線が新設される1985年までは中線の2・3番線から北綾瀬行きの区間列車が発着していた<ref name="RF521_41" />。北綾瀬駅開業以前は当駅発着列車が使用し、2番線が乗車ホーム、3番線が降車ホームだった。 当駅の北綾瀬寄りの高架下には、千代田線の[[車掌]]・[[運転士]]が所属する綾瀬車掌事務室、綾瀬運転事務室(ほかに[[代々木上原駅]]に代々木車掌事務室・代々木運転事務室がある)が配置されている<ref name="Chiyoda-Const698">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.698 - 703。</ref><ref name="RP926_17">{{Cite book|和書|author=関田崇|chapter=総説:東京メトロ|title=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=12|page=17|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref group="注">『東京地下鉄道千代田線建設史』にある「綾瀬技術区」は、[[1999年]](平成11年)5月に[[綾瀬車両基地]]内の「地下鉄北綾瀬ビル」に移転している。</ref>。 また、常磐線と千代田線との分岐点付近にはJR東日本[[綾瀬運輸区]]<ref name="aran2012-7">{{Cite book|和書|chapter=長谷川達郎|title=綾瀬運輸区・我孫子運輸区新築工事|title=鉄道建築ニュース|publisher=鉄道建築協会|date=2012-07|pages=44 - 46}}</ref>と東京地下鉄綾瀬[[変電所]]がある<ref name="Chiyoda-Const715">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.687 - 690・715 - 728。</ref>。綾瀬変電所には[[2017年]](平成29年)3月、千代田線当駅 - 北千住間にある荒川橋梁における[[停電]]時の車両移動用として、非常用バッテリーを設置した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews210311_l82.pdf|format=PDF|title=「大規模停電対策」編|publisher=東京地下鉄|work=東京メトロニュースレター第82号|date=2021-03|accessdate=2021-12-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210504095533/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews210311_l82.pdf|archivedate=2021-05-04}}</ref>。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!行先!!備考 |- !0 |rowspan="3" style="text-align:center;"|東京メトロ |rowspan="3"|[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 |[[北綾瀬駅|北綾瀬]]行き<ref name="zb">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ayase/timetable/chiyoda/zb/index.html|title=綾瀬駅時刻表 北綾瀬方面 平日 |publisher=東京地下鉄|accessdate=2023-06-03}}</ref> |当駅始発(3両編成・ワンマン) |- !1・2 |[[代々木上原駅|代々木上原]]・[[本厚木駅|本厚木]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ayase/timetable/chiyoda/a/index.html|title=綾瀬駅時刻表 代々木上原・伊勢原・唐木田方面 平日|publisher=東京地下鉄|accessdate=2023-06-03}}</ref> |rowspan="3"|2・3番線は同じ線路 |- !rowspan="2"| 3・4 |北綾瀬行き<ref name="zb" /> |- |style="text-align:center;"|JR東日本 |[[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) |[[松戸駅|松戸]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/78.html|title=駅構内図(綾瀬駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ayase/index.html 東京メトロ:構内図]) * 0番線は1番線・2・3番線の北綾瀬方に設けられた終端型の切欠きホームで[[有効長]]は3両分である。 * 北綾瀬行きは、3両編成の列車は0番線から、10両編成の列車は2 - 4番線から発車する。 * 2・3番線は線路の両側にホームがある折り返し線。主に代々木上原方面に使用される(詳細は[[#運用|後述]])。 * [[三河島駅|三河島]]・[[日暮里駅|日暮里]]方面へは、1・2番線(一部3番線)の列車を利用の上、北千住で乗り換え。この場合、当駅 - 北千住間も運賃計算上JR線扱いとなる。なお、2006年秋に案内表示を更新する前までは「三河島方面へおいでの方は、北千住でのりかえです。」という赤文字の案内事項が記載されていた。 * 駅の[[サインシステム|案内サイン]]はすべて東京メトロ様式で統一されている。ホームの[[駅名標]]は東京メトロ様式のものに、JRの[[特定都区市内|東京都区内]]の駅であることを示す「区」のマークが入れられている。 * 北綾瀬方引込線では夜間留置(10両編成1本)が設定されている。 <gallery> Tokyo Metro・JR Ayase Station West Gates.jpg|西改札(2021年5月) Tokyo Metro・JR Ayase Station East Gates.jpg|東改札(2021年5月) Tokyo Metro・JR Ayase Station Platform 0.jpg|0番線ホーム(2021年5月) Tokyo Metro・JR Ayase Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2021年5月) Tokyo Metro・JR Ayase Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2021年5月) Ayase Station Sign board.jpg|駅名標(2019年10月) </gallery> === 発車メロディ === [[2018年]]([[平成]]30年)[[10月27日]]から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/news/370|title=東京メトロ千代田線発車サイン音を制作|publisher=スイッチ|date=2018-10-06|accessdate=2021-03-27}}</ref>。 {| class="wikitable" !番線 !曲名 !作曲者 |- !0 |茜 |大和優子 |- !1 |閃緑 | rowspan="2" |[[福嶋尚哉]] |- !2 |市松模様 |- !3 |雨が上がったよ |[[塩塚博]] |- !4 |プリティ・タウン |大和優子 |} === 駅構内設備 === * [[ゆうちょ銀行]] 本店出張所 ([[現金自動預け払い機|ATM]]) - 東口改札外 * [[券売機]]付近に[[伝言板]]が設置されている。 <!-- === 運用 === {{出典の明記|section=1|date=2010年11月}} 中線の2・3番線は[[ラッシュ時]]を除き、折り返し・始発ホームとして機能している。平日朝ラッシュ時、7・8時台の当駅始発代々木上原方面への列車は混雑緩和のために3番線からの優先乗車を行っている。 日中の2・3番線での代々木上原方面折り返し電車は、到着後3番線側、2番線側の順に両側の扉が開き、両側の扉が閉まった後、一旦北綾瀬方に引き上げる。また、朝には我孫子方面への当駅始発列車がある。 また、北千住発着の[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]として運用される[[小田急60000形電車|60000形(MSE)]]は、[[綾瀬車両基地]]への出入庫を除き、当駅の先まで回送され折り返している。 2019年3月16日ダイヤ改正以降、北綾瀬駅のホームが10両化されたことにより、3・4番線発の北綾瀬行き電車が設定された。4番線からの発車が主であるが、当駅始発など一部は3番線から発車する。 --> === 配線図 === {{駅配線図 |image = 綾瀬駅配線図.jpg |title = 東京メトロ・JR東日本 綾瀬駅構内配線略図 |width = 400px |legend = none |note = }} == 乗車券の取り扱いについて == 当駅は東京メトロの管轄駅のため、[[みどりの窓口]]がなく、[[指定席券売機]]類も設置されていない。このため、JR線の乗車券の発売には制限がある。 === 窓口の乗車券類の発売 === 駅窓口(東口改札口前、東京メトロがJR東日本より委託され運営)では、「みどりの窓口」扱いではなかったものの、取り扱いを制限する形で[[マルス (システム)|マルス]]端末が設置され、長距離のJR線乗車券・特急券や普通回数券(当駅発着のみ)を取り扱っていたが、2018年[[3月31日]]をもって取り扱いを終了した。 JR線定期券については隣接する定期券うりばで発売している。なお、定期券は東京メトロ仕様の磁気券のみの取り扱いとなる。なお、定期券うりばの窓口で発売するJR線定期券は当駅発着のものと北綾瀬発着の連絡定期券のみ取り扱う。定期券発行対応の自動券売機が設置されたことにより、東京メトロ線内発着の定期券(当駅・北千住駅発着で前後のJR線に跨るものを除く。ただし、他の東京メトロ線と連絡するものは可)については発着駅に関わらず発行できるようになっている。なお、[[クレジットカード]]については当駅での東京メトロ線の定期券の購入に限り使用できる(VISA・Master・JCBおよびTokyo Metro To Me CARD)。 当駅が営団管理となる際に、当時の日本国有鉄道首都圏本部長と帝都高速度交通営団総裁との間で、1971年4月19日に締結された「綾瀬駅共同使用契約書」の第16条第1号<ref name="Chiyoda-Con368-370">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.368 - 370。</ref>で入場料金は国鉄が取得する旨の協定が結ばれ、窓口で国鉄→JR東日本様式(発行駅名に丸囲みの「社」表記あり)の硬券の入場券が販売されていたが、硬券の廃止後は代替の軟券の設備や、JRの券売機への入場券の口座の追加が行われなかったため、入場券が発売されていない。 === 自動券売機・自動改札機での取り扱い === JR東日本の[[自動券売機]]では、東口と西口の2台ずつ、計4台で通常の乗車券類に加え国鉄時代から継承されている「[[都区内パス]]」を発売しているが、JRの特別企画乗車券である「[[休日おでかけパス]]」は発売されていないほか、[[ICカード]]は乗車券購入に使用できるのみで、チャージなどには対応していない(東京メトロの券売機でのチャージは可能)。また、JR線から連絡する他社線への[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]の取り扱いもない。北千住乗り換え東武線への連絡乗車券は東京メトロの券売機で発売している。なお[[東京フリーきっぷ]]は東京メトロの券売機で発売されている。 自動改札機は東京メトロ仕様であるが、JR東日本の駅としてマルス券(一部の特別企画乗車券を除く)および[[2013年]][[3月23日]]の交通系ICカード10種相互利用開始以前からPASMO・SuicaおよびSuicaと相互利用できる[[ICOCA]]などのICカードがすべて使用できた。 JRの運賃表は特殊なもので、[[西日暮里駅|西日暮里]]接続の連絡乗車券発売区間は北千住乗り換えと西日暮里乗り換えの両方が表記されており、発券している券売機も異なっている(前者はJR、後者は東京メトロ)。 === 特定運賃 === * 当駅 - 北千住駅間の運賃は、乗車券は150円、ICカードは146円となっている。これは、JR東日本の電車特定区間運賃に合わせて東京メトロの特定運賃として採用しているものである。 ** 当駅 - 北千住駅相互間の乗車券・回数券は国鉄→JRでは販売せず、営団地下鉄→東京メトロで販売する取り決めから、当駅では東京メトロの自動券売機で発売しているが<ref group="注">過去に綾瀬駅の営団地下鉄→東京メトロの窓口で国鉄→JRの長距離券を販売していた頃は、同区間は営団地下鉄→東京メトロの硬券や補充券で販売されていた。同様に北千住駅でも、過去には営団地下鉄が自社窓口だけでなく国鉄→JR東日本の窓口にも同区間の'''営団地下鉄が発行の乗車券'''を委託販売させていた。</ref><ref group="注">JR東日本の[[指定席券売機]]の乗車券のみの購入機能や、[[えきねっと]]での乗車券のみの予約機能では、導入初期に誤って当駅と北千住駅の相互間の乗車券が発券・購入できてしまうプログラムミスがあったが、早期にこの区間を指定してもブロックされるように修正された。[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[e5489]]では、乗車券単独での購入を可能とした2023年2月19日の機能追加以降、同区間の時刻の検索は可能だが、購入が不可能に設定されている。</ref>、乗車券はJR側の自動券売機で発売している150円区間の乗車券(亀有までの運賃が同額)を使用することも可能である。 * 当駅から北千住駅で乗り換えて常磐線南千住駅以遠を利用する場合は当駅 - 北千住駅間もJRを利用しているものとみなされるため、JRの券売機で乗車券を購入することになる。 * 当駅から東京メトロ線を利用して西日暮里駅で[[山手線]]・[[京浜東北線]]に乗り継ぐ場合、あらかじめ自動券売機で連絡乗車券を購入もしくは西日暮里の精算所で区間変更した場合に限り、通常210円の東京メトロ線綾瀬 - 西日暮里間の運賃が180円となる(ICカードを利用して同様の経路で乗車する場合も、通常209円のところ、178円となる)。乗車券の発売範囲とIC乗車券使用時の適用範囲は以下の区間に限られている。 ** [[東北本線]]:[[東京駅|東京]] - [[王子駅|王子]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]間(京浜東北線)、[[日暮里駅|日暮里]] - [[尾久駅|尾久]] - [[赤羽駅|赤羽]]間([[宇都宮線]]・[[高崎線]])、赤羽 - [[武蔵浦和駅|武蔵浦和]] - 大宮間([[埼京線]]) ** [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]:東京 - [[横浜駅|横浜]]間、[[品川駅|品川]] - [[武蔵小杉駅|武蔵小杉]] - [[鶴見駅|鶴見]]間([[横須賀線]]) ** 山手線:品川 - [[新宿駅|新宿]] - [[田端駅|田端]]間(全線全駅) ** [[赤羽線]](埼京線):[[池袋駅|池袋]] - 赤羽間(全線全駅) ** [[中央本線]]:[[神田駅 (東京都)|神田]] - [[代々木駅|代々木]]間、[[新宿駅|新宿]] - [[三鷹駅|三鷹]]間 ** [[総武本線]]:[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] - [[秋葉原駅|秋葉原]]間 ** [[根岸線]]:横浜 - [[関内駅|関内]]間 ** [[南武線]]:武蔵小杉 - [[川崎駅|川崎]]間 **: 適用区間は、基本的に常磐線の西日暮里経由の乗車券を自動券売機で購入した場合とほぼ同じだが、こちらは[[西大井駅|西大井]] - [[鶴見駅|鶴見]]間も対象になっている。また、2010年3月13日に横須賀線・[[湘南新宿ライン]]武蔵小杉駅が開業し、南武線と連絡運輸を開始したことに伴い、武蔵小杉 - 川崎間の南武線の駅も対象区間となった。 == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''12,270人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 東京メトロ線からの直通人員を含まない値で、北千住駅まで(および特例としてJR線扱いで運賃計算されるJR[[南千住駅]]・[[三河島駅]]方面)の乗車人員も含まない。常磐緩行線の駅では最も少なく、2008年度に2万人を下回った。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''349,331人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: JR線との直通人員を含んだ値で、北千住駅まで(およびJR南千住駅・三河島駅方面)の乗降人員も含む。東京メトロの他社直通連絡駅では[[渋谷駅]]に次ぐ第2位だが、2006年度以前は当駅が第1位だった。 *: 直通人員を含まない2019年度の1日平均'''乗降'''人員は'''87,232人'''である<ref group="乗降データ" name="adachi"/>。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="adachi">[http://www.city.adachi.tokyo.jp/kuse/ku/aramashi/toke-suji.html 数字で見る足立] - 足立区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2000年(平成12年) |508,155 | |- |2001年(平成13年) |502,265 |&minus;1.2% |- |2002年(平成14年) |497,405 |&minus;1.0% |- |2003年(平成15年) |492,283 |&minus;1.0% |- |2004年(平成16年) |495,890 |0.7% |- |2005年(平成17年) |480,138 |&minus;3.2% |- |2006年(平成18年) |454,314 |&minus;5.4% |- |2007年(平成19年) |458,670 |1.0% |- |2008年(平成20年) |460,786 |0.5% |- |2009年(平成21年) |450,965 |&minus;2.1% |- |2010年(平成22年) |446,839 |&minus;0.9% |- |2011年(平成23年) |433,614 |&minus;3.0% |- |2012年(平成24年) |435,540 |0.4% |- |2013年(平成25年) |435,564 |0.0% |- |2014年(平成26年) |436,961 |0.3% |- |2015年(平成27年) |440,825 |0.9% |- |2016年(平成28年) |447,118 |1.4% |- |2017年(平成29年) |451,413 |1.0% |- |2018年(平成30年) |454,734 |0.7% |- |2019年(令和元年) |455,014 |0.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>334,709 |&minus;26.4% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>321,845 |&minus;3.8% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>349,331 |8.5% |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |5,286 |rowspan="18" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |6,558 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |5,603 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |5,874 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |6,280 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |6,697 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |7,739 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |8,565 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |9,433 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |10,418 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |11,623 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |13,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |14,373 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |16,137 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |17,191 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |18,081 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |20,086 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |18,493 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |24,951 |<ref group="備考">1971年4月20日開業。開業日から翌年3月31日までの計347日間を集計したデータ。</ref>124,902 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |35,222 |140,649 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |38,907 |142,493 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |41,937 |162,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |42,587 |164,738 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |45,400 |177,907 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |50,110 |185,175 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |51,490 |185,953 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |56,000 |194,317 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |58,332 |196,986 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |59,871 |203,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |62,060 |209,227 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |64,568 |213,383 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |65,923 |221,841 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |66,085 |222,003 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |74,033 |228,504 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |39,601 |233,052 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |29,033 |246,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |29,518 |257,049 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |29,910 |264,408 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |29,511 |267,046 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |29,359 |272,126 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |29,315 |270,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |30,260 |269,438 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |30,167 |267,022 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |30,175 |267,578 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |29,297 |265,614 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |28,129 |262,641 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |27,574 |258,410 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>26,962 |256,447 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="adachi" /><ref group="乗降データ">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !年度 !JR東日本 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>26,446 |253,712 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>25,492 |251,778 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>25,209 |249,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>24,821 |249,455 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年)<!--首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)開業年度--> |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>23,338 |241,277 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>21,901 |228,216 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>20,609 |229,923 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>18,748 |230,230 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>17,606 |225,707 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>16,811 |223,493 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>16,088 |216,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>15,513 |217,803 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>15,311 |217,671 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>14,698 |218,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>14,755 |220,115 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>14,640 |223,148 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>14,433 |225,230 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>14,324 |226,814 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>14,265 |226,929 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>11,591 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>11,853 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>12,270 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 貨物取扱 == JR貨物の駅は[[車扱貨物]]の臨時取り扱い駅である。定期[[貨物列車]]の発着はないが、東京メトロ千代田線・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[埼玉高速鉄道]][[埼玉高速鉄道線|埼玉スタジアム線]]で使用される[[鉄道車両|車両]]を搬入する[[車両輸送|甲種輸送列車]]が発着する。車両は当駅でJR貨物から東京メトロに引き渡され、北綾瀬駅の先の[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]まで回送(千代田線車両の牽引による)される。また、常磐線内は[[松戸駅]]で快速線から緩行線に転線する。 運行される場合、常磐緩行線の保安装置の関係から、[[終電]]後の深夜(一例では午前2時台<!--2010年1月9日放送のテレビ朝日「ディレクターズTV」より-->)に[[線路閉鎖]]を行った上で実施されるため、一般には見ることができない。ただし、1996年3月26日の南北線[[四ツ谷駅]] - [[駒込駅]]間開業で所要となる車両の搬入は日中の時間帯にも実施された。<!--1996年3月上旬に放送された日本テレビ『所さんの目がテン』から--> 2008年度の車扱貨物の取扱量は発送なし、到着が3,600トンである。発送は有楽町線[[営団07系電車|07系]]の[[東京メトロ東西線|東西線]]転用時などで実績がある。近年の年間発着トン数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !rowspan=2|年度 !colspan=2|総数 !colspan=2|車扱貨物 !colspan=2|コンテナ貨物 !rowspan=2|出典 |- ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 ! rowspan="1" |発送トン数 ! rowspan="1" |到着トン数 |- |1990年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成2年) 222ページ</ref> |- |1991年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成3年) 228ページ</ref> |- |1992年 | |4,000 | |4,000 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成4年) 222ページ</ref> |- |1993年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成5年) 232ページ</ref> |- |1994年 | |2,400 | |2,400 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成6年) 218ページ</ref> |- |1995年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成7年) 236ページ</ref> |- |1996年 | |400 | |400 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成8年) 252ページ</ref> |- |1997年 | |800 | |800 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成9年) 252ページ</ref> |- |1998年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成10年) 252ページ</ref> |- |1999年 | |800 | |800 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成11年) 252ページ</ref> |- |2000年 | |5,600 | |5,600 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成12年) 252ページ</ref> |- |2001年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成13年) 252ページ</ref> |- |2002年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成14年) 252ページ</ref> |- |2003年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成15年) 252ページ</ref> |- |2004年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成16年) 248ページ</ref> |- |2005年 | | | | | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成17年) 266ページ</ref> |- |2006年 |1,200 |2,800 |1,200 |2,800 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成18年) 253ページ</ref> |- |2007年 | |5,600 | |5,600 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成19年) 252ページ</ref> |- |2008年 | |3,600 | |3,600 | | |<ref group="東京都統計">東京都統計年鑑(平成20年) 257ページ</ref> |- |2009年 | | | | | | | |} == 駅周辺 == {{See also|綾瀬 (足立区)|小菅 (葛飾区)}} {{columns-list|2| * [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 綾瀬店 * 綾瀬[[東急ストア]] * M'av AYASE Lieta * 綾瀬国際ホテル * [[足立区役所]]東綾瀬区民事務所 * 足立社会保険事務所 * [[東京法務局]]城北出張所 * [[東綾瀬公園]] ** [[東京武道館]] * [[東京拘置所]] * [[東京都下水道局]][[小菅水再生センター]] * 綾瀬駅前郵便局 * 足立綾瀬郵便局 * [[足立区立綾瀬小学校]] * [[足立区立東綾瀬中学校]] * [[東京都立江北高等学校]] * [[綾瀬川]] * 綾瀬新橋 * 都道314号線 * 都道467号線 * [[レンゴー]]葛飾工場 |}} === 東京地下鉄関連施設 === [[2019年]]([[平成]]31年)[[4月11日]]、当駅西口側に東京地下鉄とスペースマーケットの提携により、シェアリングスペース「'''むすべやメトロ綾瀬'''」が開設された。内装にかつて使用された鉄道部品を設置しており、採用した経緯は関係者によると「イメージイラストを見て、社員が照明をつり革と勘違いしたのがきっかけです」と言及している<ref>{{Cite news|和書|url=https://trafficnews.jp/post/85547|title=室内につり革・荷物棚! 東京メトロ高架下に時間貸しスペース開業 勘違いから電車風に|newspaper=乗りものニュース|publisher=[[メディア・ヴァーグ]]|date=2019-04-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190423031230/https://trafficnews.jp/post/85547|archivedate=2019-04-23}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://spacemarket.co.jp/archives/13194|title=東京メトロとスペースマーケットが資本業務提携しました!スタートアップへの直接出資は東京メトロ初〜第一弾施策として千代田線綾瀬駅近くの高架下にシェアリングスペースをオープン〜|publisher=東京地下鉄/スペースマーケット|date=2019-4-11|accessdate=2019-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190425080422/https://spacemarket.co.jp/archives/13194|archivedate=2019-04-25}}</ref>。 == バス路線 == === 西口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> 高架下に[[バスターミナル]]がある。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|綾瀬駅 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|京成タウンバス |{{Unbulleted list|[[京成タウンバス#小菅線|'''綾02''']]:タウンバス車庫|[[京成タウンバス#平和橋通り線|'''新小51''']]:[[新小岩駅]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成タウンバス|京成バス}} |[[京成バス金町営業所#亀有綾瀬線|'''綾01''']]:亀有社会教育館・[[亀有駅]]南口 |&nbsp; |- !rowspan="2"|3 |style="text-align:center;"|東武バスセントラル<ref name="tobu-bus">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyobus.or.jp/app/routebusstop/busstop/stopid/13-6038|title=路線バス 停留所 綾瀬駅<東武バスセントラル>|publisher=東京バス協会|accessdate=2022-10-19}}</ref> |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル葛飾営業所#綾瀬駅 - 六町駅 - 車検場 - 竹の塚駅線|'''綾22''']]:第五都営住宅行|'''綾24''':[[竹ノ塚駅]]東口|[[東武バスセントラル葛飾営業所#綾瀬駅 - 東和住区センター線|'''綾32'''・'''綾33''']]:東和住区センター循環・東和住区センター東|'''綾34''':[[大谷田]]一丁目}} |「綾22」は終車時間帯のみ運行 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東武バスセントラル|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]|[[新常磐交通]]}} |[[高速バス]]「'''[[いわき号]]'''」 |上り降車専用 |- !4 |rowspan="3" style="text-align:center;"|東武バスセントラル<ref name="tobu-bus" /> |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル花畑営業所#綾瀬駅 - 花畑団地線|'''綾40''']]:[[花畑 (足立区)|花畑]]団地|'''綾40-2''':花畑団地}} |&nbsp; |- !5 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル八潮営業所#八潮駅 - 神明町 - 綾瀬駅|'''綾61''']]:[[八潮駅]]北口|'''綾62''':[[八潮市]]役所}} |「綾62」は平日のみ運行 |- !6 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル葛飾営業所#綾瀬駅 - 六ツ木都住線|'''綾21''']]:[[六木|六ツ木]]都住|[[東武バスセントラル葛飾営業所#綾瀬駅 - 葛飾車庫線|'''綾23''']]:葛飾車庫|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口・綾瀬駅 - 水元総合スポーツセンター線|'''綾37''']]:水元総合スポーツセンター|'''六21''':六ツ木都住}} |「六21」は深夜バスのみ運行 |- !colspan="4"|綾瀬駅バスターミナル |- !7 |style="text-align:center;"|[[朝日自動車]]<br />(足立区コミュニティバス「[[はるかぜ (コミュニティバス)|はるかぜ]]」) |[[はるかぜ (コミュニティバス)#はるかぜ2号(綾瀬・六木線)|'''2号''']]:六ツ木都住・八潮駅南口 |&nbsp; |- !colspan="4"|千代田線綾瀬駅 |- !- |style="text-align:center;"|[[日立自動車交通]]<br />(葛飾区乗合タクシー「[[さくら (葛飾区)|さくら]]」) |[[小菅駅|東武小菅駅]]・小菅一丁目地域循環 |&nbsp; |} かつて[[都営バス]]が乗り入れていた2番乗り場は欠番になっている。 === 東口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="3"|綾瀬駅東口 |- |style="text-align:center;"|[[日立自動車交通]]<br />(足立区コミュニティバス「はるかぜ」) |{{Unbulleted list|[[はるかぜ (コミュニティバス)#はるかぜ1号(西新井・綾瀬線)|'''1号''']]:[[西新井駅]]東口 / 綾瀬小学校東|[[はるかぜ (コミュニティバス)#はるかぜ9号(青井・亀有線)|'''9号''']]・[[はるかぜ (コミュニティバス)#はるかぜ12号(西新井・亀有線)|'''12号''']]:亀有駅南口}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|朝日自動車<br />(足立区コミュニティバス「はるかぜ」) |'''2号''':六ツ木都住・八潮駅南口 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|日立自動車交通<br />(葛飾区コミュニティバス「[[レインボーかつしか]]」) |[[日立自動車交通#レインボーかつしか (葛飾区コミュニティバス)|'''有73''']]:亀有駅南口 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|JRバス関東|新常磐交通|東武バスセントラル}} |高速バス「'''いわき号'''」 |下り降車専用 |- !colspan="3"|綾瀬駅 |- |style="text-align:center;"|日立自動車交通<br />(足立区コミュニティバス「はるかぜ」) |{{Unbulleted list|'''9号''':青井駅|'''12号''':西新井駅東口}} |&nbsp; |} == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 :: [[北千住駅]](C 18) - '''綾瀬駅 (C 19)'''( - [[亀有駅]]) : [[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線(北綾瀬支線) :: '''綾瀬駅 (C 19)''' - [[北綾瀬駅]] (C 20) ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) :: ([[北千住駅]] - )'''綾瀬駅 (JL 19)''' - [[亀有駅]](JL 20) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/ayase/index.html 綾瀬駅/C19 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=78|name=綾瀬}} {{東京メトロ千代田線}} {{常磐緩行線}} {{デフォルトソート:あやせえき}} [[Category:足立区の鉄道駅|あやせ]] [[Category:日本の鉄道駅 あ|やせ]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅|あやせ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅|あやせ]] [[Category:日本貨物鉄道の鉄道駅|あやせ]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅|あやせ]] [[Category:常磐緩行線]] [[Category:綾瀬]] [[Category:1943年開業の鉄道駅|あやせ]]
2003-09-06T16:13:00Z
2023-12-19T01:27:41Z
false
false
false
[ "Template:駅情報", "Template:出典の明記", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Cite press release", "Template:常磐緩行線", "Template:国土航空写真", "Template:駅配線図", "Template:0", "Template:Unbulleted list", "Template:脚注ヘルプ", "Template:PDFlink", "Template:Commonscat", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:東京メトロ千代田線", "Template:R", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Columns-list" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E7%80%AC%E9%A7%85
15,446
菊名駅
菊名駅(きくなえき)は、神奈川県横浜市港北区菊名七丁目にある、東急電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 東急の東横線とJR東日本の横浜線の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は特定都区市内制度における「横浜市内」に属している。 駅設置時、橘樹郡大綱村大字菊名に位置していたため、地名を採ったもの。 島式ホーム2面4線を有する地上駅。のりばの番号はJRからの連番により3 - 6番線が割り振られている。 改札口は中央改札と東改札の2か所で、いずれも横浜寄りにある。改札口とホームとの間にはエスカレーターとエレベーターが、改札口と地上との間にはエレベーターが設置されている。トイレは駅舎内にあり、多目的トイレを併設している。売店の「toks」は駅構内の東改札脇と上りホームにある。東改札脇の売店は、駅のバリアフリー化工事の際に一時閉店となった。 特急運転開始前までは、当駅の乗り換え案内は横浜線のほかに新幹線(東海道新幹線)も放送され、構内の乗り換え案内表示にもかつては「新幹線」と記されていた。 当駅は有料座席指定列車「S-TRAIN」を除く全旅客営業列車が停車する東横線の主要駅である。「S-TRAIN」は当駅に運転停車するが、客扱いは行わない。 下り列車は当駅以遠に待避線を持つ駅がないため、先に発車した列車がそのまま横浜、元町・中華街駅まで先着する。 夜間留置が3本設定されている。 横浜方に8両編成対応のY形式の引き上げ線があり、4・5番線からの入線が可能で、渋谷方面への折り返し、回送、試運転、夜間の留置に使用される。 夜間の停泊列車は、早朝渋谷方面の列車に充当される。 2013年3月16日より当駅発着の一部急行列車が10両編成となったが、有効長の関係から引き上げ線を使用できないため、該当列車は2012年度中に設置された渋谷方の両渡り線を使い、当駅ホーム上で折り返す。なお、両渡り線の設置に伴い、当駅下り3・4番ホーム渋谷方面に出発信号機が設置された。 2023年3月18日より東急新横浜線開業に伴い当駅折り返しの列車は大幅に減便されることとなった。 東横線では1980年代に輸送力増強が実施され、1982年(昭和57年)4月1日から急行列車で大形20 m車8両編成(それまで7両編成)、各駅停車で大形20 m車7両編成(それまで6両編成)運転が開始された。この時点で急行列車において、渋谷側先頭車1両のドアカット扱いが始まった。1986年(昭和61年)4月1日からは各駅停車でも大形20 m車8両編成の運転が開始された。 これは当駅渋谷寄りのホーム脇に踏切(大倉山3号踏切)があり、これと横浜方の急カーブに挟まれた当駅のホーム有効長は東横線の大形20 m車7両編成分の150 m弱しかなかった。そのため、大形20 m車8両編成の列車については渋谷側の先頭車(1号車)をドアカット扱いにし、踏切上にはみだして停車していた。日比谷線直通電車は18 m級車両のため、8両編成すべてがホーム内に停車可能であった。その上、朝夕などは急行を待避する各駅停車が4 - 5分ほど停車するため、ラッシュ時には1時間あたり50分程度は遮断竿が上がらず、駅の脇を通る一方通行道路は大渋滞し、この踏切は開かずの踏切と呼ばれていた。 ドアカット扱い解消のため、1989年(平成元年)12月に大倉山 - 菊名間連続立体交差事業(大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事)に着手した。立体化するのは、同区間の環状2号線交差部から当駅にかけての延長776.8 mの区間である。工事にあたっては周辺は住宅街に囲まれて、仮線を敷設する用地を確保できないことから、仮線方式を使用しない「直上高架工法」(STRUM・ストラム・Shiftig Track Right Upper Method)により施工した。1991年(平成3年)10月19日終電後に線路を仮高架線に切り替える工事が行われ、翌日からは大倉山1号・2号踏切が除却された。 その後、仮設桁(STRUMでの立体化はあくまで仮高架である)から本設桁とする工事が行われ、1993年(平成5年)3月23日に当駅に隣接していた大倉山3号踏切を廃止、3月31日に当駅における大形20 m8両編成の渋谷方1両のドアカット扱いを終了、翌4月1日からドアカット扱いは解消された。代替として、歩行者用地下通路の新設と大倉山2号踏切跡(現在のサミットストア付近)の道路幅員を拡幅し、歩行者しか通行できなかった高架下を自動車が通過できるように改良した。その後、仮設ホームで延伸されていた部分の本設化などが実施され、最終的に1995年(平成7年)3月17日に竣工した。 後年に、2013年(平成25年)3月16日に運行開始した東京メトロ副都心線との相互直通運転と優等列車の10両編成化に伴い、ホームが渋谷側へ2両分延伸された。 2005年7月25日から東横線に導入された女性専用車は横浜側の先頭車(8号車)に設定され、平日ダイヤで運行される特急・通勤特急・急行の全列車が終日対象となっていた。その結果、7号車の混雑が極めて著しくなったほか、1か所しかない階段最寄りの車両が利用できないことで利便性が低下した男性客を中心に大きな反発を受けた(いわゆる「菊名問題」)。逆に、渋谷側の先頭車(1号車)に設定すると、当時の渋谷駅ホームの構造上(頭端式で主要改札口が行き止まり側にある)、2号車の混雑が極めて著しくなることが予想できたため、当初から設定されなかった。2006年7月18日より8号車から5号車に変更されるとともに、設定時間もラッシュ時間帯のみに縮小された。 2013年3月18日から、女性専用車は直通運転先の東京メトロ副都心線に合わせて渋谷寄り先頭車両(1号車)に設定され、設定時間帯はさらに縮小されているが、対象列車は各駅停車を含めた全種別に拡大されている。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームは盛土上にあり、カーブしている。 社員配置駅。改札口は1箇所で、2017年12月17日よりホーム上の4階に移設、階段位置がホーム中ほどに変更となり、新たにエスカレーターと2018年2月28日から改札とホームを結ぶエレベーターも新設された。管理駅として大口駅を管理する。構内には話せる指定席券売機・指定席券売機・NewDaysKIOSKが設置されている。 2017年12月16日までは東神奈川駅寄りに階段があり、右側が東急東横線への乗換改札、左側がJR改札口(西口)へと続き乗換改札口はJR管理で、自動精算機(乗継対応)、有人改札窓口と共に東急側には当日分みどりの窓口が設置されていた。なお、同精算機 の東急線切符には左上に「(東京急行)」と記載されていた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 横浜線には、1988年3月13日のダイヤ改正から快速列車が設定されたが、当駅は東急東横線との乗換駅で利用者が多い(横浜線では新横浜 - 当駅間が輸送量の一番多い区間である)にもかかわらず、東急東横線への旅客流出防止対策として快速は2006年3月17日まで通過していた。 そのため、当駅周辺では地元住民による菊名駅を快速停車駅にするように働きかける市民運動も度々展開されていた。快速停車駅に追加されたのは同年3月18日のダイヤ改正からである。 神奈川新聞の記事によると、快速を当駅に停車させた理由として、市民運動の結果だけではなく、東急東横線自由が丘方面から桜木町・関内方面へ利用してもらうためでもあり、従来「八王子方面から東急東横線桜木町方面への旅客流出防止のための通過」を行っていたところを東急東横線の横浜 - 桜木町間が廃止されたことにより逆に東急線から乗客を取り込むための停車へと方針転換したことが大きな要因である。 横浜市道路局は2010年3月31日にJR駅舎の改良を記者発表した。 2014年4月から改良工事に着工し一部2017年12月17日より使用開始、駅全体の改修工事は2019年3月18日に竣工した。 近年の1日平均乗降人員推移は下記の通り(JRを除く)。 近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。 当駅は、東横線を境に東口と西口があり、東西自由通路の東口寄りに東急、西口寄りにJRの出入口がある。駅周辺の道路の幅員は非常に狭く、路線バス、タクシーなどのターミナルはおろか、駅前広場もない。 もともと、東横線開通当時の駅予定地は現在地よりも横浜寄りであり、駅を中心とした放射線状の道路に東京横浜電鉄(当時)が田園調布・日吉と並ぶ住宅地「篠原学園都市」を開発する構想があったが、横浜線との乗り継ぎを考え、駅を計画地より若干渋谷寄りに開設した。その名残りが現在の錦が丘ロータリーである。 駅周辺は閑静な住宅地になっている。 駅前は南から北に向かう一方通行の道路(旧綱島街道)で、全体的にマンションが多い。「菊名駅前」と名乗るバス停留所は2か所存在する。一つは川崎鶴見臨港バスの「菊名駅前」で駅前東口階段直下にあり、もう一つの横浜市営バスの「菊名駅前」は駅から北に200mほど離れた綱島街道路上(芝信用金庫の前)にある。 タクシー乗り場は、この東出口はもとより反対側西出口にも存在しない。その代わり、前述の臨港バスの停留所直前に1台分が停まれるスペースがあり、そこで客待ちをしているタクシーが大抵いるので、これを利用することになる。ちなみに2台目以降は、その遥か後方の青木ビル前付近路上にて待機し、この先頭車両に客が乗車して発車次第、後方の2台目が当該スペースに移動するという「ショットガン方式」をとっている。もちろんこれらは駐車違反であるが、界隈のタクシー需要の旺盛さを考えると致し方ない面もあり、また当のタクシー側も違反を認識しつつ慎ましく営業しているので、地元や警察からは事実上黙認されているのが現状である。実際、タクシーセンター等が定期的に取り締まりに来ているので、一定程度の秩序は保たれている。 ただし、2022年7月ごろより、警察の指導によりタクシー車両の付待ちは禁止された。よって偶然流れてくる空車タクシーを拾うかアプリ等の配車サービスにて呼ぶしか、この乗り場からタクシーに乗車する方法はない。 東口同様に駅前広場などはなく西口には路線バスも乗り入れてない。 2018年9月28日よりJR駅舎テナント部に「CIAL菊名」が完成し、まいばすけっと、デリフランス(ベーカリー・カフェ)の店舗が入店したが、西口周辺は一戸建て中心の閑静な住宅地が広がる。 駅前に「菊名駅前」停留所があるが、運行事業者によって発着場所は異なり、旧綱島街道沿い東口駅前に川崎鶴見臨港バス乗り場があり、東口から北へ200 m程綱島街道沿いに 横浜市営バス乗り場がある。 正式な路線バスではないが、毎週火曜日に限って「コミバス市民の会」が「菊名おでかけバス」の運行を会員制で実施している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "菊名駅(きくなえき)は、神奈川県横浜市港北区菊名七丁目にある、東急電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東急の東横線とJR東日本の横浜線の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は特定都区市内制度における「横浜市内」に属している。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅設置時、橘樹郡大綱村大字菊名に位置していたため、地名を採ったもの。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する地上駅。のりばの番号はJRからの連番により3 - 6番線が割り振られている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "改札口は中央改札と東改札の2か所で、いずれも横浜寄りにある。改札口とホームとの間にはエスカレーターとエレベーターが、改札口と地上との間にはエレベーターが設置されている。トイレは駅舎内にあり、多目的トイレを併設している。売店の「toks」は駅構内の東改札脇と上りホームにある。東改札脇の売店は、駅のバリアフリー化工事の際に一時閉店となった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "特急運転開始前までは、当駅の乗り換え案内は横浜線のほかに新幹線(東海道新幹線)も放送され、構内の乗り換え案内表示にもかつては「新幹線」と記されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅は有料座席指定列車「S-TRAIN」を除く全旅客営業列車が停車する東横線の主要駅である。「S-TRAIN」は当駅に運転停車するが、客扱いは行わない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "下り列車は当駅以遠に待避線を持つ駅がないため、先に発車した列車がそのまま横浜、元町・中華街駅まで先着する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "夜間留置が3本設定されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "横浜方に8両編成対応のY形式の引き上げ線があり、4・5番線からの入線が可能で、渋谷方面への折り返し、回送、試運転、夜間の留置に使用される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "夜間の停泊列車は、早朝渋谷方面の列車に充当される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2013年3月16日より当駅発着の一部急行列車が10両編成となったが、有効長の関係から引き上げ線を使用できないため、該当列車は2012年度中に設置された渋谷方の両渡り線を使い、当駅ホーム上で折り返す。なお、両渡り線の設置に伴い、当駅下り3・4番ホーム渋谷方面に出発信号機が設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2023年3月18日より東急新横浜線開業に伴い当駅折り返しの列車は大幅に減便されることとなった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "東横線では1980年代に輸送力増強が実施され、1982年(昭和57年)4月1日から急行列車で大形20 m車8両編成(それまで7両編成)、各駅停車で大形20 m車7両編成(それまで6両編成)運転が開始された。この時点で急行列車において、渋谷側先頭車1両のドアカット扱いが始まった。1986年(昭和61年)4月1日からは各駅停車でも大形20 m車8両編成の運転が開始された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これは当駅渋谷寄りのホーム脇に踏切(大倉山3号踏切)があり、これと横浜方の急カーブに挟まれた当駅のホーム有効長は東横線の大形20 m車7両編成分の150 m弱しかなかった。そのため、大形20 m車8両編成の列車については渋谷側の先頭車(1号車)をドアカット扱いにし、踏切上にはみだして停車していた。日比谷線直通電車は18 m級車両のため、8両編成すべてがホーム内に停車可能であった。その上、朝夕などは急行を待避する各駅停車が4 - 5分ほど停車するため、ラッシュ時には1時間あたり50分程度は遮断竿が上がらず、駅の脇を通る一方通行道路は大渋滞し、この踏切は開かずの踏切と呼ばれていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ドアカット扱い解消のため、1989年(平成元年)12月に大倉山 - 菊名間連続立体交差事業(大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事)に着手した。立体化するのは、同区間の環状2号線交差部から当駅にかけての延長776.8 mの区間である。工事にあたっては周辺は住宅街に囲まれて、仮線を敷設する用地を確保できないことから、仮線方式を使用しない「直上高架工法」(STRUM・ストラム・Shiftig Track Right Upper Method)により施工した。1991年(平成3年)10月19日終電後に線路を仮高架線に切り替える工事が行われ、翌日からは大倉山1号・2号踏切が除却された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、仮設桁(STRUMでの立体化はあくまで仮高架である)から本設桁とする工事が行われ、1993年(平成5年)3月23日に当駅に隣接していた大倉山3号踏切を廃止、3月31日に当駅における大形20 m8両編成の渋谷方1両のドアカット扱いを終了、翌4月1日からドアカット扱いは解消された。代替として、歩行者用地下通路の新設と大倉山2号踏切跡(現在のサミットストア付近)の道路幅員を拡幅し、歩行者しか通行できなかった高架下を自動車が通過できるように改良した。その後、仮設ホームで延伸されていた部分の本設化などが実施され、最終的に1995年(平成7年)3月17日に竣工した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "後年に、2013年(平成25年)3月16日に運行開始した東京メトロ副都心線との相互直通運転と優等列車の10両編成化に伴い、ホームが渋谷側へ2両分延伸された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2005年7月25日から東横線に導入された女性専用車は横浜側の先頭車(8号車)に設定され、平日ダイヤで運行される特急・通勤特急・急行の全列車が終日対象となっていた。その結果、7号車の混雑が極めて著しくなったほか、1か所しかない階段最寄りの車両が利用できないことで利便性が低下した男性客を中心に大きな反発を受けた(いわゆる「菊名問題」)。逆に、渋谷側の先頭車(1号車)に設定すると、当時の渋谷駅ホームの構造上(頭端式で主要改札口が行き止まり側にある)、2号車の混雑が極めて著しくなることが予想できたため、当初から設定されなかった。2006年7月18日より8号車から5号車に変更されるとともに、設定時間もラッシュ時間帯のみに縮小された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2013年3月18日から、女性専用車は直通運転先の東京メトロ副都心線に合わせて渋谷寄り先頭車両(1号車)に設定され、設定時間帯はさらに縮小されているが、対象列車は各駅停車を含めた全種別に拡大されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームは盛土上にあり、カーブしている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "社員配置駅。改札口は1箇所で、2017年12月17日よりホーム上の4階に移設、階段位置がホーム中ほどに変更となり、新たにエスカレーターと2018年2月28日から改札とホームを結ぶエレベーターも新設された。管理駅として大口駅を管理する。構内には話せる指定席券売機・指定席券売機・NewDaysKIOSKが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2017年12月16日までは東神奈川駅寄りに階段があり、右側が東急東横線への乗換改札、左側がJR改札口(西口)へと続き乗換改札口はJR管理で、自動精算機(乗継対応)、有人改札窓口と共に東急側には当日分みどりの窓口が設置されていた。なお、同精算機 の東急線切符には左上に「(東京急行)」と記載されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "横浜線には、1988年3月13日のダイヤ改正から快速列車が設定されたが、当駅は東急東横線との乗換駅で利用者が多い(横浜線では新横浜 - 当駅間が輸送量の一番多い区間である)にもかかわらず、東急東横線への旅客流出防止対策として快速は2006年3月17日まで通過していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そのため、当駅周辺では地元住民による菊名駅を快速停車駅にするように働きかける市民運動も度々展開されていた。快速停車駅に追加されたのは同年3月18日のダイヤ改正からである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "神奈川新聞の記事によると、快速を当駅に停車させた理由として、市民運動の結果だけではなく、東急東横線自由が丘方面から桜木町・関内方面へ利用してもらうためでもあり、従来「八王子方面から東急東横線桜木町方面への旅客流出防止のための通過」を行っていたところを東急東横線の横浜 - 桜木町間が廃止されたことにより逆に東急線から乗客を取り込むための停車へと方針転換したことが大きな要因である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "横浜市道路局は2010年3月31日にJR駅舎の改良を記者発表した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2014年4月から改良工事に着工し一部2017年12月17日より使用開始、駅全体の改修工事は2019年3月18日に竣工した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員推移は下記の通り(JRを除く)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "当駅は、東横線を境に東口と西口があり、東西自由通路の東口寄りに東急、西口寄りにJRの出入口がある。駅周辺の道路の幅員は非常に狭く、路線バス、タクシーなどのターミナルはおろか、駅前広場もない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "もともと、東横線開通当時の駅予定地は現在地よりも横浜寄りであり、駅を中心とした放射線状の道路に東京横浜電鉄(当時)が田園調布・日吉と並ぶ住宅地「篠原学園都市」を開発する構想があったが、横浜線との乗り継ぎを考え、駅を計画地より若干渋谷寄りに開設した。その名残りが現在の錦が丘ロータリーである。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "駅周辺は閑静な住宅地になっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "駅前は南から北に向かう一方通行の道路(旧綱島街道)で、全体的にマンションが多い。「菊名駅前」と名乗るバス停留所は2か所存在する。一つは川崎鶴見臨港バスの「菊名駅前」で駅前東口階段直下にあり、もう一つの横浜市営バスの「菊名駅前」は駅から北に200mほど離れた綱島街道路上(芝信用金庫の前)にある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "タクシー乗り場は、この東出口はもとより反対側西出口にも存在しない。その代わり、前述の臨港バスの停留所直前に1台分が停まれるスペースがあり、そこで客待ちをしているタクシーが大抵いるので、これを利用することになる。ちなみに2台目以降は、その遥か後方の青木ビル前付近路上にて待機し、この先頭車両に客が乗車して発車次第、後方の2台目が当該スペースに移動するという「ショットガン方式」をとっている。もちろんこれらは駐車違反であるが、界隈のタクシー需要の旺盛さを考えると致し方ない面もあり、また当のタクシー側も違反を認識しつつ慎ましく営業しているので、地元や警察からは事実上黙認されているのが現状である。実際、タクシーセンター等が定期的に取り締まりに来ているので、一定程度の秩序は保たれている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ただし、2022年7月ごろより、警察の指導によりタクシー車両の付待ちは禁止された。よって偶然流れてくる空車タクシーを拾うかアプリ等の配車サービスにて呼ぶしか、この乗り場からタクシーに乗車する方法はない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東口同様に駅前広場などはなく西口には路線バスも乗り入れてない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2018年9月28日よりJR駅舎テナント部に「CIAL菊名」が完成し、まいばすけっと、デリフランス(ベーカリー・カフェ)の店舗が入店したが、西口周辺は一戸建て中心の閑静な住宅地が広がる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "駅前に「菊名駅前」停留所があるが、運行事業者によって発着場所は異なり、旧綱島街道沿い東口駅前に川崎鶴見臨港バス乗り場があり、東口から北へ200 m程綱島街道沿いに 横浜市営バス乗り場がある。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "正式な路線バスではないが、毎週火曜日に限って「コミバス市民の会」が「菊名おでかけバス」の運行を会員制で実施している。", "title": "バス路線" } ]
菊名駅(きくなえき)は、神奈川県横浜市港北区菊名七丁目にある、東急電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{出典の明記|date=2013年4月27日 (土) 13:36 (UTC)|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 菊名駅 |画像 = 菊名駅舎.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2020年8月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|30|36|N|139|37|53|E}}|title=東急 菊名駅|coord2={{coord|35|30|35|N|139|37|50|E}}|title2=JR東日本 菊名駅|marker-color=ee0011|marker-color2=008000}} |よみがな = きくな |ローマ字 = Kikuna |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東急電鉄]]([[#東急電鉄|駅詳細]]) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])}} |所在地 = [[横浜市]][[港北区]][[菊名]]七丁目 |備考 = }} [[File:菊名駅東口.jpg|thumb|東口(2017年12月)]] '''菊名駅'''(きくなえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]][[菊名]]七丁目にある、[[東急電鉄]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == 東急の[[東急東横線|東横線]]とJR東日本の[[横浜線]]の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|横浜市内]]」に属している<ref name="tokutei">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/kippu/11041.html |title=JR東日本:きっぷに関するご案内>特定の都区市内駅を発着する場合の特例 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2015-01-15}}</ref>。 * JR東日本:[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 - 駅番号「'''JH 15'''」<ref group="報道" name="Numbering">[https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf 首都圏エリアへ 「駅ナンバリング」を導入します](PDF)[[東日本旅客鉄道株式会社]]</ref> * 東急電鉄:[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 - 駅番号「'''TY16'''」 == 歴史 == * [[1926年]]([[大正]]15年) ** [[2月14日]]:[[東京横浜電鉄]]の菊名駅が開業<ref name="jtb62">[[#jtb|東急の駅]]、pp.62-63。</ref>。 ** [[9月1日]]:[[鉄道省]]の菊名駅が開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)3月:国鉄線と東京横浜電鉄をつなぐ菊名連絡線が開通<ref name="jtb62"/><ref>週刊歴史でめぐる鉄道全路線06 東京急行電鉄 (1)(朝日新聞出版刊) 7ページ 初期には貨物列車が、末期には甲種輸送を行ったとされる。</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)9月:菊名連絡線が撤去される<ref name="jtb62"/>。 * [[1970年]](昭和45年)[[3月14日]]:営業範囲を一般運輸営業から旅客、手荷物、小荷物及び小口扱貨物に改正。<ref>鉄道公報[[1970年]](昭和45年)[[3月14日]]第6145号</ref> * [[1970年]](昭和45年)[[4月1日]]:営業範囲を旅客、手荷物、小荷物及び小口扱貨物から旅客に改正。<ref>鉄道公報[[1970年]](昭和45年)[[3月30日]]第6157号</ref> * [[1972年]](昭和47年)[[7月27日]]<ref>[[#50th|50年史]]、p.1228。</ref>:大雨時に東急の線路が冠水する問題を解決するため、東急・国鉄双方の線路を嵩上げすることとなり、それに合わせて東急の駅舎を[[橋上駅|橋上駅舎]]化。この際に2面4線化され引き上げ線も完成する<ref name="jtb62"/>。この引き上げ線は1988年に[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]直通列車が乗り入れるまで非常時以外はほとんど使用されず、時々レールの錆取りなどに[[回送|回送列車]]などが使用していた。 ** 同時期に、国鉄駅が[[相対式ホーム]]から[[島式ホーム]]化される。 * [[1974年]](昭和49年):駅本屋内に東急ストア菊名店が開業。 * [[1982年]](昭和57年)4月1日:東横線の急行列車に大形20&nbsp;m車8両編成の投入が開始され、東横線当駅での[[ドアカット|ドア非扱い]]が始まる<ref name="Fan1982-7">交友社『鉄道ファン』1982年7月号「東急ニュース '82-4」pp.108 - 113。</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により横浜線の駅はJR東日本の駅となる。駅の管理は引き続き東急が行う。 * [[1988年]](昭和63年)[[8月9日]]:ダイヤ改正により、日比谷線直通列車の運転区間が[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]改良工事に伴い当駅まで延伸される。また、平日の朝に加え、夕方以降にも[[東急東横線#急行|急行]]との[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を実施するようになる。 * [[1989年]]([[平成]]元年)12月:東横線当駅のドア非扱い解消のため、大倉山 - 菊名間[[連続立体交差事業]](大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事)に着手<ref name="Doboku-kikuna">[https://web.archive.org/web/20220116043511/http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/498/498-122135.pdf 土木学会論文集No.498(1994年9月)「市街地における鉄道線路直下地下切替工法と直上高架切替への応用」]pp.31 - 34。</ref><ref name="Tokyu-100th">[https://web.archive.org/web/20230521203427/https://www.tokyu.co.jp/history/chapter06_3_1/ 第6章第3節第1項立体交差化の推進](東急100年史・インターネットアーカイブ)。</ref>。 * [[1991年]](平成3年):東横線日吉駅の改良工事が完成し、日中の日比谷線直通運転区間が同駅までとなる。 * [[1993年]](平成5年) ** [[3月23日]]:東横線大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事の進捗に伴い、当駅に隣接していた大倉山3号踏切が廃止される<ref name="PIC1993-7">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1993年7月号「読者短信」p.112。</ref>(前日まで通行可)<ref name="Tokyu-100th"/>。 ** [[3月31日]]:東横線当駅における大形20&nbsp;m8両編成の渋谷方1両のドア非扱いを終了<ref name="PIC1993-7"/><ref name="Tokyu-100th"/>。翌[[4月1日]]からは全車両のドア扱いとなる<ref name="PIC1993-7"/>。 * [[1994年]](平成6年):横浜線と東横線の乗り換え通路途中に連絡改札が設置される。これと同時にJR東日本の出札改札用の駅舎も完成し、横浜線部分は従来の東急委託からJR東日本が管理を開始。 * [[1995年]](平成7年)[[3月17日]]:東横線当駅ホームの本設工事・跨線人道橋が完成する<ref name="PIC1995-7">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1995年7月号「読者短信」pp.111 - 112。</ref>。およそ5年強におよんだ東横線大倉山 - 菊名間連続立体交差事業(大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事)が竣工<ref name="PIC1995-7"/>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[3月28日]]:ダイヤ改正により、東横線の[[東急東横線#特急(東横特急)|特急]]運行を開始。また、当駅で終日緩急接続を実施するようになる。 ** [[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2002年]](平成14年)3月:東横線上りホームが最大1.3[[メートル|m]]拡幅される<ref name="rail fan2003-02p8">{{Cite journal|和書 |author = 鉄道友の会東京支部東急部会 |date = 2003-02-01 |title = 2001年度 東急総決算 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 8 }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:ダイヤ改正により、横浜線を走行する[[横浜線#快速|快速]]の停車駅となる(横浜線快速停車駅追加は第3号である)。 * [[2007年]](平成19年)[[8月23日]]:ダイヤ改正により、日吉駅2・3番線ホームを東横線から[[東急目黒線|目黒線]]への発着路線変更に伴う工事を行うため、日比谷線直通列車は終日当駅までの運転となる。 * [[2009年]](平成21年)[[10月31日]]:東急電鉄の[[定期乗車券|定期券]]売り場が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0911/0911.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150623181852/http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0911/0911.pdf|title=HOT ほっと TOKYU|publisher=東京急行電鉄|date=2009-10-20|format=PDF|accessdate=2015-01-15|archivedate=2015-6-23|deadlink=2017-9}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)3月:横浜線ホームに設置されている案内サインが、新しい省エネタイプ(薄型反射透過フィルム型)に更新される。 * [[2013年]](平成25年)[[3月15日]]:[[3月16日]]の東横線と副都心線の相互直通運転開始に伴い、当駅まで乗り入れた日比谷線直通運転が終了となる。 * [[2016年]](平成28年)[[3月21日]]:東横線下りホームで[[ホームドア]]の使用を開始。 * [[2017年]](平成29年) **[[3月20日]]:東横線上りホームで[[ホームドア]]の使用を開始。 **[[12月17日]]:JRの新駅舎の供用開始に伴い、西口[[エレベーター]]の使用を開始し連絡改札が廃止になる<ref group="報道">{{Cite web|和書|title=12月17日(日)にJR菊名駅の橋上駅舎の供用を開始します|url=http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20171122_y02.pdf|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|date=2017-11-22|accessdate=2017-12-15}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[2月28日]]:JRの改札内のエレベーター使用開始<ref group="報道" name="jryokohama-20180216">{{Cite web|和書|title=JR菊名駅の改札内エレベーターの供用を開始します|url=http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20180216_y02.pdf|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|date=2018-02-16|accessdate=2018-03-07}}</ref>。バリアフリー工事終了<ref group="報道" name="jryokohama-20180216" />。 ** [[7月29日]]:東急の中央改札(JR側)を新設。東改札移設。 ** [[11月25日]]:東改札が従来の場所に戻る。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:当駅始発の急行2本が東武東上線の[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]までの運行になった。 * [[2020年]]([[令和]]2年)3月16日:東急駅のリニューアル工事が完成。駅構内にローソン+toks、渋谷しぶそば、[[三菱UFJ銀行]]のATMが設けられる。 * [[2021年]](令和3年) ** [[11月7日]]:横浜線ホームで[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050253/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年度のホームドア整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。 ** [[12月20日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_545">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=545|title=駅の情報(菊名駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-12-13|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211213204503/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=545|archivedate=2021-12-13}}</ref><ref name="pr20210602">{{Cite web|和書|url=http://jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/60b74f40fe5050643d84ee34.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602142918/http://jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/60b74f40fe5050643d84ee34.pdf|title=「2021年度駅業務執行体制の再構築について」提案受ける!②|date=2021-06-02|archivedate=2021-06-03|accessdate=2021-06-03|publisher=JR東労組横浜地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[2月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd_545" /><ref name="pr20210602" />。 === 駅名の由来 === {{See also|菊名#地理}} 駅設置時、[[橘樹郡]][[大綱村]]大字'''菊名'''に位置していたため、地名を採ったもの。 == 駅構造 == === 東急電鉄 === {{駅情報 |社色 = #ee0011 |文字色 = |駅名 = 東急 菊名駅 |画像 = 菊名駅東改札口.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東改札(2020年8月) |よみがな = きくな |ローマ字 = Kikuna |副駅名 = |前の駅 = TY15 [[大倉山駅 (神奈川県)|大倉山]] |駅間A = 1.3 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[妙蓮寺駅|妙蓮寺]] TY17 |駅番号 = {{駅番号r|TY|16|#da0442|3}} |所在地 = [[横浜市]][[港北区]][[菊名]]七丁目1-1 |座標 = {{coord|35|30|36|N|139|37|53|E|region:JP_type:railwaystation|name=東急 菊名駅|display=inline,title}} |所属事業者 = [[東急電鉄]] |所属路線 = {{Color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]] |キロ程 = 18.8 |起点駅 = [[渋谷駅|渋谷]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]]<ref name="jtb62"/> |乗降人員 = <ref group="東急" name="tokyu2022" />111,040 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} 島式ホーム2面4線を有する[[地上駅]]。のりばの番号はJRからの連番により3 - 6番線が割り振られている。 [[改札|改札口]]は中央改札と東改札の2か所で、いずれも横浜寄りにある。改札口とホームとの間には[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が、改札口と地上との間にはエレベーターが設置されている。[[便所|トイレ]]は駅舎内にあり、[[ユニバーサルデザイン|多目的]]トイレを併設している。売店の「[[toks]]」は駅構内の東改札脇と上りホームにある。東改札脇の売店は、駅のバリアフリー化工事の際に一時閉店となった。 特急運転開始前までは、当駅の乗り換え案内は横浜線のほかに[[東海道新幹線|新幹線(東海道新幹線)]]も放送され、構内の乗り換え案内表示にもかつては「新幹線」と記されていた。 当駅は有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」を除く全旅客営業列車が停車する東横線の主要駅である。「S-TRAIN」は当駅に運転停車するが、客扱いは行わない。 下り列車は当駅以遠に待避線を持つ駅がないため、先に発車した列車がそのまま横浜、元町・中華街駅まで先着する。 夜間留置が3本設定されている。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先 |- !3・4 |rowspan="2"|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 |style="text-align:center"|下り |[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty16_kikuna2.pdf|title=東横線標準時刻表 菊名駅 横浜 元町・中華街方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !5・6 |style="text-align:center"|上り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty16_kikuna.pdf|title=東横線標準時刻表 菊名駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |} ==== 緩急接続 ==== * 3・6番線 - 各駅停車。 * 4・5番線 - [[優等列車]]。 * 特急運転開始後は一部の列車を除き、終日[[自由が丘駅]]と共に当駅で[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を実施している。 * 構造上は4・6番線が[[停車場#本線|主本線]]、3・5番線が[[停車場#本線|副本線]]で、2021年3月13日ダイヤ改正から渋谷方面は主に副本線を優等列車が使用している。 * 特急運転開始以前は、上り5番線が主本線、6番線が副本線となっていたが、特急運転開始時に線形改良により現在の形態となり、6番線への入線速度が向上した。 ==== 引き上げ線 ==== 横浜方に8両編成対応のY形式の[[引き上げ線]]があり、4・5番線からの入線が可能で、渋谷方面への折り返し、[[回送]]、[[試運転]]、夜間の留置に使用される。 夜間の停泊列車は、早朝渋谷方面の列車に充当される。 [[2013年]][[3月16日]]より当駅発着の一部急行列車が10両編成となったが、有効長の関係から引き上げ線を使用できないため、該当列車は[[2012年]]度中に設置された渋谷方の[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]を使い、当駅ホーム上で折り返す。なお、両渡り線の設置に伴い、当駅下り3・4番ホーム渋谷方面に[[日本の鉄道信号|出発信号機]]が設置された。 [[2023年]][[3月18日]]より[[東急新横浜線]]開業に伴い当駅折り返しの列車は大幅に減便されることとなった。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 上りホームより引き上げ線と横浜方面を望む(2016年1月23日).JPG|上りホームより引き上げ線と横浜方面を望む(2016年1月) 上りホームより両渡線設置につき3 - 6番線の入替信号機及び種別表示(2016年1月23日).JPG|上りホームより両渡線設置につき3 - 6番線の入替信号機及び種別表示(2016年1月) 上りホームより本線兼用の引き上げ線8・9番線の進入ランプ(2016年1月23日).JPG|上りホームより本線兼用の引き上げ線8・9番線の進入ランプ(2016年1月) </gallery> ==== 開かずの踏切 ==== 東横線では[[1980年代]]に輸送力増強が実施され、[[1982年]](昭和57年)[[4月1日]]から急行列車で大形20&nbsp;m車8両編成(それまで7両編成)、各駅停車で大形20&nbsp;m車7両編成(それまで6両編成)運転が開始された<ref name="Fan1982-7"/>。この時点で急行列車において、渋谷側先頭車1両の[[ドアカット]]扱いが始まった<ref name="Fan1982-7"/>。[[1986年]](昭和61年)4月1日からは各駅停車でも大形20&nbsp;m車8両編成の運転が開始された<ref name="Fan1986-7">交友社『鉄道ファン』1986年7月号「東急ニュース VVVF車第2弾7600系登場」pp.56 - 58。</ref>。 これは当駅渋谷寄りのホーム脇に[[踏切]](大倉山3号踏切)があり<ref name="PIC1993-7"/>、これと横浜方の急カーブに挟まれた当駅のホーム有効長は東横線の大形20&nbsp;m車7両編成分の150&nbsp;m弱しかなかった。そのため、大形20&nbsp;m車8両編成の列車については渋谷側の先頭車(1号車)をドアカット扱いにし、踏切上にはみだして停車していた<ref name="PIC1993-7"/><ref name="Tokyu-100th"/>。日比谷線直通電車は18&nbsp;m級車両のため、8両編成すべてがホーム内に停車可能であった<ref name="PIC1993-7"/>。その上、朝夕などは急行を待避する各駅停車が4 - 5分ほど停車するため、ラッシュ時には1時間あたり50分程度は遮断竿が上がらず、駅の脇を通る[[一方通行]]道路は大渋滞し、この踏切は[[開かずの踏切]]と呼ばれていた<ref name="Tokyu-100th"/>。 ドアカット扱い解消のため、[[1989年]](平成元年)12月に[[大倉山 (横浜市)|大倉山]] - 菊名間[[連続立体交差事業]](大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事)に着手した<ref name="Doboku-kikuna"/><ref name="j-fab33">東京鐵骨橋梁製作所(現・[[日本ファブテック]])『技術報』No.33(1992年)「東横線大倉山 - 菊名間踏切除却立体交差工事報告 - 「直上高架切替工法(STRUM) - 」pp.5 - 16。</ref><ref name="Tokyu-100th"/>。立体化するのは、同区間の[[環状2号線 (横浜市)|環状2号線]]交差部から当駅にかけての延長776.8 mの区間である<ref name="Doboku-kikuna"/><ref name="j-fab33"/><ref name="Tokyu-100th"/>。工事にあたっては周辺は住宅街に囲まれて、[[仮線]]を敷設する用地を確保できないことから、仮線方式を使用しない「直上高架工法」('''STRUM'''・ストラム・'''S'''hiftig '''T'''rack '''R'''ight '''U'''pper '''M'''ethod)により施工した<ref name="j-fab33"/><ref name="Tokyu-100th"/>。[[1991年]](平成3年)[[10月19日]]終電後に線路を仮高架線に切り替える工事が行われ、翌日からは大倉山1号・2号踏切が除却された<ref name="Doboku-kikuna"/><ref name="j-fab33"/><ref name="Tokyu-100th"/>。 その後、仮設桁(STRUMでの立体化はあくまで仮高架である)から本設桁とする工事が行われ、[[1993年]](平成5年)[[3月23日]]に当駅に隣接していた大倉山3号踏切を廃止<ref name="PIC1993-7"/>、[[3月31日]]に当駅における大形20&nbsp;m8両編成の渋谷方1両のドアカット扱いを終了<ref name="PIC1993-7"/><ref name="Tokyu-100th"/>、翌[[4月1日]]からドアカット扱いは解消された<ref name="PIC1993-7"/>。代替として、歩行者用地下通路の新設と大倉山2号踏切跡(現在のサミットストア付近)の道路幅員を拡幅し、歩行者しか通行できなかった高架下を自動車が通過できるように改良した<ref name="PIC1993-7"/><ref name="Tokyu-100th"/>。その後、仮設ホームで延伸されていた部分の本設化などが実施され、最終的に[[1995年]](平成7年)[[3月17日]]に竣工した<ref name="PIC1995-7"/>。 後年に、[[2013年]](平成25年)[[3月16日]]に運行開始した[[東京メトロ副都心線]]との相互直通運転と優等列車の10両編成化に伴い、ホームが渋谷側へ2両分延伸された。 ==== 菊名問題 ==== [[2005年]][[7月25日]]から東横線に導入された[[女性専用車両|女性専用車]]は横浜側の先頭車(8号車)に設定され、平日ダイヤで運行される特急・[[東急東横線#通勤特急|通勤特急]]・急行の全列車が終日対象となっていた。その結果、7号車の混雑が極めて著しくなったほか、1か所しかない階段最寄りの車両が利用できないことで利便性が低下した男性客を中心に大きな反発を受けた(いわゆる「菊名問題」)<ref group="新聞">[https://web.archive.org/web/20060110032729/http://www.kanalog.jp/news/local/entry_17114.html ☆女性専用車両の位置を変更へ/東横線☆ 2006年1月5日 神奈川新聞(インターネットアーカイブ)]</ref>。逆に、渋谷側の先頭車(1号車)に設定すると、当時の渋谷駅ホームの構造上([[頭端式ホーム|頭端式]]で主要改札口が行き止まり側にある)、2号車の混雑が極めて著しくなることが予想できたため、当初から設定されなかった。2006年7月18日より8号車から5号車に変更されるとともに、設定時間もラッシュ時間帯のみに縮小された。 [[2013年]][[3月18日]]から、女性専用車は直通運転先の[[東京メトロ副都心線]]に合わせて渋谷寄り先頭車両(1号車)に設定<ref group="注釈">直通運転開始に伴う渋谷駅ホームの地下移転により、渋谷寄り車両に乗客が著しく集中する状況ではなくなった。</ref>され、設定時間帯はさらに縮小されているが、対象列車は各駅停車を含めた全種別に拡大されている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 上りホームより渋谷方面を望む(2016年1月23日).JPG|ホーム(2016年1月) </gallery> {{-}} === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 菊名駅 |画像 = JR East Kikuna Station Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR改札口(2022年8月) |よみがな = きくな |ローマ字 = Kikuna |前の駅 = JH 14 [[大口駅|大口]] |駅間A = 2.6 |駅間B = 1.3 |次の駅 = [[新横浜駅|新横浜]] JH 16 |電報略号 = キク |所在地 = [[横浜市]][[港北区]][[菊名]]七丁目1-1 |座標 = {{coord|35|30|35|N|139|37|50|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR東日本 菊名駅}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{Color|#7fc342|■}}[[横浜線]] |駅番号 = {{駅番号r|JH|15|#6fc342|1}}<ref group="報道" name="Numbering" /> |キロ程 = 4.8 |起点駅 = [[東神奈川駅|東神奈川]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[9月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 43,226 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]]([[管理駅]]) * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd_545" /><ref name="pr20210602" /> * [[File:JR area HAMA.png|15px|浜]] [[特定都区市内|横浜市内]]駅<ref name="tokutei"/>}} }} 島式ホーム1面2線を有する[[高架駅]]。ホームは[[盛土]]上にあり、カーブしている。 社員配置駅。改札口は1箇所で、2017年12月17日よりホーム上の4階に移設、階段位置がホーム中ほどに変更となり、新たに[[エスカレーター]]と2018年2月28日から改札とホームを結ぶ[[エレベーター]]も新設された。管理駅として[[大口駅]]を管理する。構内には[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd_545" /><ref name="pr20210602" />・[[指定席券売機]]・[[NewDays]]KIOSKが設置されている。 2017年12月16日までは[[東神奈川駅]]寄りに階段があり、右側が東急東横線への乗換改札、左側がJR改札口(西口)へと続き乗換改札口はJR管理で、自動精算機(乗継対応)、有人改札窓口と共に東急側には当日分みどりの窓口が設置されていた。なお、同精算機 の東急線切符には左上に「(東京急行)」と記載されていた。 ==== のりば ==== <!--2019年3月時点の発車標の表記に準拠--> {|class="wikitable" !nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 |style="text-align:center"|上り |[[東神奈川駅|東神奈川]]・[[横浜駅|横浜]]・[[大船駅|大船]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|下り |[[新横浜駅|新横浜]]・[[町田駅|町田]]・[[八王子駅|八王子]]方面 |} (出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/545.html JR東日本:駅構内図]) ==== 2006年まで快速通過駅 ==== 横浜線には、1988年3月13日の[[一本列島|ダイヤ改正]]から快速列車が設定されたが、当駅は東急東横線との[[乗換駅]]で利用者が多い(横浜線では新横浜 - 当駅間が輸送量の一番多い区間である)にもかかわらず、東急東横線への旅客流出防止対策として快速は2006年3月17日まで通過していた。 そのため、当駅周辺では地元住民による菊名駅を快速停車駅にするように働きかける[[市民運動]]も度々展開されていた。快速停車駅に追加されたのは同年3月18日のダイヤ改正からである。 [[神奈川新聞]]の記事によると{{要出典|date=2018年1月}}、快速を当駅に停車させた理由として、市民運動の結果だけではなく、東急東横線自由が丘方面から[[桜木町駅|桜木町]]・[[関内駅|関内]]方面へ利用してもらうためでもあり、従来「八王子方面から東急東横線桜木町方面への旅客流出防止のための通過」を行っていたところを東急東横線の[[横浜駅|横浜]] - 桜木町間が廃止されたことにより逆に東急線から乗客を取り込むための停車へと方針転換したことが大きな要因である。 ==== バリアフリー化 ==== 横浜市道路局は2010年3月31日にJR駅舎の改良を記者発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/press/h22/download/20100331-pln.pdf 横浜市道路局記者発表資料「菊名駅が利用しやすくなります」]}}</ref>。 2014年4月から改良工事に着工し一部2017年12月17日より使用開始、駅全体の改修工事は2019年3月18日に竣工した。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East Kikuna Station Platform.jpg|ホーム(2022年8月) JR East Kikuna Station Vending Machine.jpg|自動券売機(2022年8月) 菊名駅NEWDAYS.jpg|[[NewDays]]KIOSK菊名駅改札外店(2017年12月) KikunaStjr.jpg|西口・旧JR駅舎(2005年11月) JR線改札口.jpg|旧改札口(2016年10月) 東急乗換改札口.jpg|廃止になった連絡改札(2016年10月) </gallery> == 利用状況 == * '''東急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''111,040人'''である<ref group="東急" name="tokyu2022" />。 *: 東横線内では[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]に次いで第6位。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''43,226人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本全体では[[高円寺駅]]に次いで第97位である。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員推移は下記の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計" name="yokohamatoukei">[http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/index2.html#3 横浜市統計ポータル] - 横浜市</ref><ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|東急電鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) |111,024|| |- |2003年(平成15年) |112,633||1.4% |- |2004年(平成16年) |114,036||1.2% |- |2005年(平成17年) |115,380||1.2% |- |2006年(平成18年) |119,083||3.2% |- |2007年(平成19年) |129,908||9.1% |- |2008年(平成20年) |127,268||&minus;2.0% |- |2009年(平成21年) |127,008||&minus;0.2% |- |2010年(平成22年) |130,348||2.6% |- |2011年(平成23年) |129,446||&minus;0.7% |- |2012年(平成24年) |132,140||2.1% |- |2013年(平成25年) |135,171||2.3% |- |2014年(平成26年) |134,179||&minus;0.7% |- |2015年(平成27年) |137,195||2.2% |- |2016年(平成28年) |137,978||0.6% |- |2017年(平成29年) |138,346||0.3% |- |2018年(平成30年) |139,166||0.6% |- |2019年(令和元年) |<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>136,992||&minus;1.6% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>89,720||&minus;34.5% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>100,255||11.7% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>111,040||10.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1980年 - 2000年) === 近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="yokohamatoukei" /> !年度!!東急電鉄!!JR東日本!!出典 |- |1980年(昭和55年) |37,244 | | |- |1981年(昭和56年) |38,564 | | |- |1982年(昭和57年) |39,148 | | |- |1983年(昭和58年) |40,156 | | |- |1984年(昭和59年) |40,803 | | |- |1985年(昭和60年) |40,967 | | |- |1986年(昭和61年) |42,499 | | |- |1987年(昭和62年) |44,079 | | |- |1988年(昭和63年) |45,268 | | |- |1989年(平成元年) |47,449 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) |49,564 | | |- |1991年(平成{{0}}3年) |49,975 |36,810 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |50,165 |38,392 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |49,809 |38,208 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |49,404 |38,236 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |54,684 |40,001 |<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}}</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |54,733 |39,903 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |55,033 |40,007 | |- |1998年(平成10年) |54,645 |39,877 |<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref> |- |1999年(平成11年) |55,009 |39,878 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |53,875 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>40,035 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" /> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="yokohamatoukei" /> !年度!!東急電鉄!!JR東日本!!出典 |- |2001年(平成13年) |56,713 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>41,522 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref> |- |2002年(平成14年) |57,407 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>43,134 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref> |- |2003年(平成15年) |57,892 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>43,941 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref> |- |2004年(平成16年) |58,927 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>45,432 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref> |- |2005年(平成17年) |59,408 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>45,783 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref> |- |2006年(平成18年) |61,229 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>47,309 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref> |- |2007年(平成19年) |66,358 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>51,380 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref> |- |2008年(平成20年) |65,272 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>49,566 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref> |- |2009年(平成21年) |64,244 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>49,742 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref> |- |2010年(平成22年) |66,331 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>50,969 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref> |- |2011年(平成23年) |65,663 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>50,595 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref> |- |2012年(平成24年) |67,079 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>51,612 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref> |- |2013年(平成25年) |68,498 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>53,155 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref> |- |2014年(平成26年) |67,819 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>52,577 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref> |- |2015年(平成27年) |69,249 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>53,349 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref> |- |2016年(平成28年) |69,482 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>53,228 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20180614094521if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref> |- |2017年(平成29年) |69,618 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>52,958 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20190702120542if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成30年]}}</ref> |- |2018年(平成30年) |69,861 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>54,058 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 平成31年]}}</ref> |- |2019年(令和元年) |68,768 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>53,819 | |- |2020年(令和{{0}}2年) |45,007 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>36,355 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |50,317 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>39,155 | |- |2022年(令和{{0}}4年) | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>43,226 | |} == 駅周辺 == {{See also|菊名}} 当駅は、東横線を境に東口と西口があり、東西自由通路の東口寄りに東急、西口寄りにJRの出入口がある。駅周辺の道路の幅員は非常に狭く、[[路線バス]]、[[タクシー]]などのターミナルはおろか、駅前広場もない。 もともと、東横線開通当時の駅予定地は現在地よりも横浜寄りであり、駅を中心とした放射線状の道路に東京横浜電鉄(当時)が[[田園調布]]・[[日吉 (横浜市)|日吉]]と並ぶ住宅地「篠原学園都市」を開発する構想があったが、横浜線との乗り継ぎを考え、駅を計画地より若干渋谷寄りに開設した。その名残りが現在の錦が丘ロータリーである。 駅周辺は閑静な住宅地になっている。 === 東口 === [[画像:綱島街道(2016年1月23日).JPG|thumb|綱島街道(2016年1月)]] 駅前は南から北に向かう一方通行の道路(旧綱島街道)で、全体的に[[マンション]]が多い。「菊名駅前」と名乗る[[バス停留所]]は2か所存在する。一つは[[川崎鶴見臨港バス]]の「菊名駅前」で駅前東口階段直下にあり、もう一つの[[横浜市営バス]]の「菊名駅前」は駅から北に200mほど離れた綱島街道路上([[芝信用金庫]]の前)にある。 [[日本のタクシー|タクシー]]乗り場は、この東出口はもとより反対側西出口にも存在しない。その代わり、前述の臨港バスの停留所直前に1台分が停まれるスペースがあり、そこで客待ちをしているタクシーが大抵いるので、これを利用することになる。ちなみに2台目以降は、その遥か後方の青木ビル前付近路上にて待機し、この先頭車両に客が乗車して発車次第、後方の2台目が当該スペースに移動するという「ショットガン方式」をとっている。もちろんこれらは駐車違反であるが、界隈のタクシー需要の旺盛さを考えると致し方ない面もあり、また当のタクシー側も違反を認識しつつ慎ましく営業しているので、地元や警察からは事実上黙認されているのが現状である。実際、タクシーセンター等が定期的に取り締まりに来ているので、一定程度の秩序は保たれている。 ただし、2022年7月ごろより、警察の指導によりタクシー車両の付待ちは禁止された。よって偶然流れてくる空車タクシーを拾うかアプリ等の配車サービスにて呼ぶしか、この乗り場からタクシーに乗車する方法はない。 === 西口 === 東口同様に駅前広場などはなく西口には路線バスも乗り入れてない。 [[2018年]][[9月28日]]よりJR駅舎テナント部に「[[CIAL]]菊名」が完成し、[[まいばすけっと]]、[[ヴィ・ド・フランス|デリフランス]]([[ベーカリー]]・[[カフェ]])の店舗が入店したが、西口周辺は一戸建て中心の閑静な住宅地が広がる。 === 店舗・施設 === <!--チェーン店を含む飲食店・コンビニ・個人商店は記載しない--> {{columns-list|2| * スーパー **[[東急ストア]] 菊名店(駅本屋内) ** [[サミット (チェーンストア)|サミットストア]] 菊名店 * 郵便局・銀行<!--ATMのみ設置の無人店舗は記載しない--> ** [[港北郵便局]] *** [[ゆうちょ銀行]] 港北店 ** 神奈川菊名郵便局 ** [[横浜銀行]] 菊名支店 ** [[芝信用金庫]] 菊名支店 ** [[横浜農業協同組合|JA横浜]]港北支店 * 学校 **[[英理女子学院高等学校]](旧・高木学園女子高等学校) / [[認定こども園]] 高木学園附属幼稚園 ** [[横浜市立菊名小学校]] ** 菊名ドライビングスクール * 本社企業 ** [[アマノ]]株式会社 * その他 ** [[横浜市立図書館|横浜市立港北図書館]] / 横浜市菊名地区センター(旧・港北区総合庁舎) ** 菊名山蓮勝寺 ** 菊名神社 ** 大寶山本乗寺 ** [[菊名記念病院]] ** [[日本基督教団]] 横浜菊名教会附属菊名愛児園 ** [[菊名貝塚]]跡 ** [[港北警察署]] 菊名駅前交番 * 周辺商店街 ** 菊名東口商栄会 ** 菊名西口商店街 * 周辺道路 ** [[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線|綱島街道]] ** 旧綱島街道 ** [[首都高速神奈川7号横浜北線]] [[馬場出入口]] |}} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 東急ストア 駅構内(2016年1月23日).JPG|東急ストア 駅構内 サミットストア(2016年1月23日).JPG|サミットストア 港北郵便局(2016年1月23日).JPG|港北郵便局 Bank of Yokohama Kikuna branch.JPG|横浜銀行菊名支店 </gallery> == バス路線 == <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 駅前に「菊名駅前」停留所があるが、運行事業者によって発着場所は異なり、旧[[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線|綱島街道]]沿い東口駅前に[[川崎鶴見臨港バス]]乗り場があり、東口から北へ200&nbsp;m程綱島街道沿いに [[横浜市営バス]]乗り場がある。 * [[川崎鶴見臨港バス]] ** [[川崎鶴見臨港バス鶴見営業所#鶴01(菊名線)|鶴01]]:[[鶴見駅|鶴見駅西口]] * [[横浜市営バス]] ** [[横浜市営バス港北営業所#41・355系統|41]]:鶴見駅西口 / 川向町 / [[新横浜駅]]・[[横浜市営バス港北営業所|港北車庫]] ** [[横浜市営バス浅間町営業所#59系統|59]]:[[横浜駅|横浜駅西口]] / [[新綱島駅]]・大豆戸交差点 ; その他 正式な路線バスではないが、毎週火曜日に限って「コミバス市民の会」が「菊名おでかけバス」の運行を会員制で実施している<ref>[https://sites.google.com/view/kikuna-odekake コミバス市民の会] - 横浜 港北南部コミュニティバス実現をめざす市民の会</ref>。 * 菊名駅前(東口)- 菊名地区センター裏、港北公会堂 方面 * 菊名駅西口 - 錦が丘ロータリー [[篠原八幡神社]]、[[富士塚 (横浜市)|富士塚]]通り、妙蓮寺郵便局方面 == 隣の駅 == ; 東急電鉄 : [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 :: {{Color|#f7931d|■}}特急 ::: [[武蔵小杉駅]] (TY11) - '''菊名駅 (TY16)''' - [[横浜駅]] (TY21) :: {{Color|#f7931d|□}}通勤特急 ::: [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]] (TY13) - '''菊名駅 (TY16)''' - 横浜駅 (TY21) :: {{Color|#ef3123|■}}急行 ::: [[綱島駅]] (TY14) - '''菊名駅 (TY16)''' - 横浜駅 (TY21) :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車 ::: [[大倉山駅 (神奈川県)|大倉山駅]] (TY15) - '''菊名駅 (TY16)''' - [[妙蓮寺駅]] (TY17) ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速 ::: [[東神奈川駅]] (JH 13) - '''菊名駅 (JH 15)''' - [[新横浜駅]] (JH 16) :: {{Color|#7fc342|■}}各駅停車 ::: [[大口駅]] (JH 14) - '''菊名駅 (JH 15)''' - 新横浜駅 (JH 16) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; 東急電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東急"|22em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}} * {{Cite book|和書 |title=東京急行電鉄50年史 |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1973-04-18 |ref=50th}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Kikuna Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=545|name=菊名}} * {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=16|name=菊名}} {{東急東横線}} {{横浜線}} {{DEFAULTSORT:きくな}} [[Category:港北区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 き|くな]] [[Category:東急電鉄の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1926年開業の鉄道駅]] [[Category:横浜線]]
2003-09-06T16:40:02Z
2023-12-29T03:16:05Z
false
false
false
[ "Template:要出典", "Template:PDFlink", "Template:Cite press release", "Template:See also", "Template:Columns-list", "Template:Reflist", "Template:外部リンク/東急電鉄駅", "Template:東急東横線", "Template:出典の明記", "Template:-", "Template:横浜線", "Template:駅情報", "Template:0", "Template:Color", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Commons", "Template:外部リンク/JR東日本駅" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E5%90%8D%E9%A7%85
15,448
多摩川駅
多摩川駅(たまがわえき)は、東京都大田区田園調布一丁目にある、東急電鉄の駅である。 線路名称上で当駅に乗り入れているのは、東横線と東急多摩川線の2路線である。ただし東横線には、田園調布駅 - 日吉駅間の複々線を利用して目黒線の列車も乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。そのため、当駅は東横線・目黒線・東急多摩川線の3路線の接続駅として案内されている。 1988年11月から1997年6月にかけて、東横線複々線化事業の一環として田園調布 - 多摩川(旧・多摩川園)間改良工事が行われた。それに伴い、当駅についても駅舎の大規模改造工事が行われた。閑静な住宅街の中での工事で夜間工事はできないため、長期にわたる難工事となった。 改良工事前までは開業当時からの駅舎であり、改札口は現在の南口にしかなかった。現行の駅舎は旧駅の面影を全く留めていない。東横線と目蒲線は別線で、田園調布と多摩川(当時・多摩川園)の両駅間の土塁を複々線で走っており、田園調布駅とともに3面4線の形態であったが、改良工事着手後は2面4線に改められた。目蒲線は当駅から沼部方面になだらかに坂を下って多摩川第一踏切で平面となり、駅を出てすぐの所に多摩川園への入口となるコンクリート製のガードがあった。東横線は横浜方面のホームが多摩川橋梁への急カーブにかかっており、下り横浜方面の線路はホームと車両が離れているのでカントが付けられず、上り線よりカーブが外側にも位置するにもかかわらず駅を通過する急行は徐行運転を余儀なくされていた。また上り線は最後尾車両が傾いたまま停車するため、朝ラッシュ時にはドアが開くと人が降ってくるような状況で、いずれにせよ乗降に危険な駅であった。 複々線化事業に伴い目蒲線は当駅で分断され、目黒方面は東横線と同方向・同一ホーム2面4線の高架ホームとして50mほど田園調布寄りに移動して急曲線ホームを解消させた他、蒲田方面は新たに1面2線の地下ホームでの営業となった。目蒲線の地下への線路付け替え工事は終電後始発電車までの間に行われ、一夜にして切り替わった。 また、多摩川橋梁の所で交差する東京都道11号大田調布線(多摩堤通り)のガードの高さが3.3mしかなく、トラックが衝突して死亡事故も発生していたため嵩上げされ、当駅も旧駅より高くなった。 当初は田園調布駅とともにエレベーターを設置する予定はなかったが、地元住民の運動により設置が決定され、その後の日本の鉄道駅の本格的なバリアフリー化の嚆矢となった。 この工事は多摩川橋梁架替・増設工事(1997年12月完成)と新丸子⇔武蔵小杉間線増工事(2000年9月完成)に先行して行われたため、2000年8月6日の目黒線営業開始までの間、目蒲線は新しい地下駅を利用し、そこから田園調布方面に直通していた。この線路はその後も連絡線として使われており、田園調布駅から当駅に向かってすぐ、地下へのトンネルを見ることができる。なお、目黒線開業までは現・目黒線に線路が敷設されていなかった。 東横線、目黒線ホームは高架に島式ホーム2面4線、東急多摩川線ホームは地下に島式ホーム1面2線がそれぞれ設置されている。東横線・目黒線ホームにはホームドアが設置されている。 トイレは改札内にあり、多機能トイレも設置されている。エレベーターはホームの横浜・蒲田寄りに設置され、高架ホームから地下ホームまで直結する。 高架下に駅舎があり、改札は1か所であるが、東口、西口、南口の3方向から出入りすることが可能である。 東横線、目黒線ホームはカーブの途中にあるため、電車とホームの間が広く開く。また、東急多摩川線の両渡り線はホームから大きく離れた地上部の丸子橋付近に設置されているため、駅南側に1か所ある踏切では単線並列に近い形態で電車が通過する。 各線の2022年度の1日平均乗降人員は以下の通りである。 東横線・目黒線の急行停車駅で、東急の3路線が集結するが、各線とも乗降人員は少ない。これは主な利用形態が各路線(主に東横線・目黒線 - 東急多摩川線)相互間の乗り換えであり、改札を通らないことから乗降人員に数えられていないためである。仮に、これを含むと実際の利用客数はかなり多くなる。 近年の1日平均乗降人員・乗換人員の推移は下表の通り。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 駅周辺は田園調布一丁目に当たり、公園に囲まれた第一種低層住居専用地域と第2種風致地区の住宅地であり、大規模な小売店などはない。 駅前の道路が狭隘で、折り返し場や駅前広場も確保できないため、南口より先の多摩堤通り交差点近辺の旧東急スイミングスクール駐車場前に広場があり、停留所名も「多摩川園」を名乗っていたが、多摩川駅への改称に伴い「多摩川駅」となった。東急バスが運行している路線バスが乗り入れている。 2007年11月3日から同年11月11日まで実施された多摩川アートラインプロジェクトでは、蒲田駅とともに本部が設置された。また、アートが施された駅では最も多く施された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多摩川駅(たまがわえき)は、東京都大田区田園調布一丁目にある、東急電鉄の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "線路名称上で当駅に乗り入れているのは、東横線と東急多摩川線の2路線である。ただし東横線には、田園調布駅 - 日吉駅間の複々線を利用して目黒線の列車も乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。そのため、当駅は東横線・目黒線・東急多摩川線の3路線の接続駅として案内されている。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年11月から1997年6月にかけて、東横線複々線化事業の一環として田園調布 - 多摩川(旧・多摩川園)間改良工事が行われた。それに伴い、当駅についても駅舎の大規模改造工事が行われた。閑静な住宅街の中での工事で夜間工事はできないため、長期にわたる難工事となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "改良工事前までは開業当時からの駅舎であり、改札口は現在の南口にしかなかった。現行の駅舎は旧駅の面影を全く留めていない。東横線と目蒲線は別線で、田園調布と多摩川(当時・多摩川園)の両駅間の土塁を複々線で走っており、田園調布駅とともに3面4線の形態であったが、改良工事着手後は2面4線に改められた。目蒲線は当駅から沼部方面になだらかに坂を下って多摩川第一踏切で平面となり、駅を出てすぐの所に多摩川園への入口となるコンクリート製のガードがあった。東横線は横浜方面のホームが多摩川橋梁への急カーブにかかっており、下り横浜方面の線路はホームと車両が離れているのでカントが付けられず、上り線よりカーブが外側にも位置するにもかかわらず駅を通過する急行は徐行運転を余儀なくされていた。また上り線は最後尾車両が傾いたまま停車するため、朝ラッシュ時にはドアが開くと人が降ってくるような状況で、いずれにせよ乗降に危険な駅であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "複々線化事業に伴い目蒲線は当駅で分断され、目黒方面は東横線と同方向・同一ホーム2面4線の高架ホームとして50mほど田園調布寄りに移動して急曲線ホームを解消させた他、蒲田方面は新たに1面2線の地下ホームでの営業となった。目蒲線の地下への線路付け替え工事は終電後始発電車までの間に行われ、一夜にして切り替わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、多摩川橋梁の所で交差する東京都道11号大田調布線(多摩堤通り)のガードの高さが3.3mしかなく、トラックが衝突して死亡事故も発生していたため嵩上げされ、当駅も旧駅より高くなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当初は田園調布駅とともにエレベーターを設置する予定はなかったが、地元住民の運動により設置が決定され、その後の日本の鉄道駅の本格的なバリアフリー化の嚆矢となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この工事は多摩川橋梁架替・増設工事(1997年12月完成)と新丸子⇔武蔵小杉間線増工事(2000年9月完成)に先行して行われたため、2000年8月6日の目黒線営業開始までの間、目蒲線は新しい地下駅を利用し、そこから田園調布方面に直通していた。この線路はその後も連絡線として使われており、田園調布駅から当駅に向かってすぐ、地下へのトンネルを見ることができる。なお、目黒線開業までは現・目黒線に線路が敷設されていなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東横線、目黒線ホームは高架に島式ホーム2面4線、東急多摩川線ホームは地下に島式ホーム1面2線がそれぞれ設置されている。東横線・目黒線ホームにはホームドアが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "トイレは改札内にあり、多機能トイレも設置されている。エレベーターはホームの横浜・蒲田寄りに設置され、高架ホームから地下ホームまで直結する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高架下に駅舎があり、改札は1か所であるが、東口、西口、南口の3方向から出入りすることが可能である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東横線、目黒線ホームはカーブの途中にあるため、電車とホームの間が広く開く。また、東急多摩川線の両渡り線はホームから大きく離れた地上部の丸子橋付近に設置されているため、駅南側に1か所ある踏切では単線並列に近い形態で電車が通過する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "各線の2022年度の1日平均乗降人員は以下の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東横線・目黒線の急行停車駅で、東急の3路線が集結するが、各線とも乗降人員は少ない。これは主な利用形態が各路線(主に東横線・目黒線 - 東急多摩川線)相互間の乗り換えであり、改札を通らないことから乗降人員に数えられていないためである。仮に、これを含むと実際の利用客数はかなり多くなる。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員・乗換人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "駅周辺は田園調布一丁目に当たり、公園に囲まれた第一種低層住居専用地域と第2種風致地区の住宅地であり、大規模な小売店などはない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅前の道路が狭隘で、折り返し場や駅前広場も確保できないため、南口より先の多摩堤通り交差点近辺の旧東急スイミングスクール駐車場前に広場があり、停留所名も「多摩川園」を名乗っていたが、多摩川駅への改称に伴い「多摩川駅」となった。東急バスが運行している路線バスが乗り入れている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年11月3日から同年11月11日まで実施された多摩川アートラインプロジェクトでは、蒲田駅とともに本部が設置された。また、アートが施された駅では最も多く施された。", "title": "多摩川アートラインプロジェクト" } ]
多摩川駅(たまがわえき)は、東京都大田区田園調布一丁目にある、東急電鉄の駅である。
{{Otheruses|東急東横線・目黒線・東急多摩川線の駅|小田急小田原線の駅|和泉多摩川駅|京王相模原線の駅|京王多摩川駅}} {{混同|玉川駅|x1=各地に存在する}} {{駅情報 |社色 = #ee0011 |文字色 = |駅名 = 多摩川駅 |画像 = Tokyu Tamagawa-STA West.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 西口(2023年4月) |地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = たまがわ |ローマ字 = Tamagawa |電報略号 = |所属事業者= [[東急電鉄]] |所在地 = [[東京都]][[大田区]][[田園調布]]一丁目53-8 |緯度度 = 35|緯度分 = 35|緯度秒 = 23.1 |経度度 = 139|経度分 = 40|経度秒 = 7.8 |座標右上表示 = Yes |開業年月日 = [[1923年]]([[大正]]12年)[[3月11日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[高架駅]](東横線・目黒線)<br />[[地下駅]](東急多摩川線) |ホーム = 2面4線(東横線・目黒線)<br />1面2線(東急多摩川線) |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="東急" name="tokyu2022" />(東横線)11,539人/日<br />(目黒線)3,318人/日<br />(東急多摩川線)3,157人/日<br />(合計)18,014 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]] |前の駅1 = TY08 [[田園調布駅|田園調布]] |駅間A1 = 0.8 |駅間B1 = 1.3 |次の駅1 = [[新丸子駅|新丸子]] TY10 |駅番号1 = {{駅番号r|TY|09|#da0442|3}} |キロ程1 = 9.0 |起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]] |所属路線2 = {{color|#009cd2|■}}[[東急目黒線|目黒線]] |前の駅2 = MG08 田園調布 |駅間A2 = 0.8 |駅間B2 = 1.3 |次の駅2 = 新丸子 MG10 |駅番号2 = {{駅番号r|MG|09|#009cd2|3}} |キロ程2 = 7.3 |起点駅2 = [[目黒駅|目黒]] |所属路線3 = {{color|#ae0378|■}}[[東急多摩川線]] |隣の駅3 = |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 0.9 |次の駅3 = [[沼部駅|沼部]] TM02 |駅番号3 = {{駅番号r|TM|01|#ae0378|3}} |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 多摩川 |乗換 = |備考 = }} '''多摩川駅'''(たまがわえき)は、[[東京都]][[大田区]][[田園調布]]一丁目にある、[[東急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == * 東急電鉄 ** [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] [[東急東横線|東横線]] - 駅番号は「'''TY09'''」 ** [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] - 駅番号は「'''MG09'''」 ** [[File:Tokyu TM line symbol.svg|15px|TM]] [[東急多摩川線]] - 駅番号は「'''TM01'''」<ref name="eki">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/station/info/Pid=9.html |title=多摩川駅(各駅情報)|東急電鉄 |publisher=[[東急電鉄]]|accessdate=2023-03-26}}</ref> 線路名称上で当駅に乗り入れているのは、東横線と東急多摩川線の2路線である。ただし東横線には、[[田園調布駅]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]間の複々線を利用して目黒線の列車も乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。そのため、当駅は東横線・目黒線・東急多摩川線の3路線の接続駅として案内されている{{efn2|東急電鉄で3路線が接続する駅は当駅の他に[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]も該当し、東横線・目黒線・[[東急新横浜線]]の3路線が接続する。}}。 == 歴史 == * [[1923年]]([[大正]]12年)[[3月11日]] - [[目黒蒲田電鉄]]・目黒 - 丸子駅(現・[[沼部駅|沼部]])間開通と同時に'''多摩川駅'''として開業<ref name="jtb98">[[#jtb|東急の駅]]、p.98。</ref>。 * [[1926年]](大正15年) ** [[1月1日]] - 目黒寄りに移転し、駅名を'''丸子多摩川駅'''に改称<ref>[{{NDLDC|2956145/5}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年12月16日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref><ref name="jtb98"/><ref name="jtb97">[[#jtb|東急の駅]]、p.97。</ref>し、3面4線の駅となる<ref name="jtb52">[[#jtb|東急の駅]]、p.52。</ref>。 ** [[2月14日]] - 東横線が開業する<ref name="jtb97"/><ref name="jtb52"/>。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)[[1月1日]] - 近くにある「[[多摩川園|多摩川園遊園地]]」の名前を取って駅名を'''多摩川園前駅'''に改称<ref name="jtb97"/><ref name="jtb52"/>。 * [[1935年]](昭和10年)7月 - 構内踏切が廃止となり、地下道になる<ref name="jtb97"/>。 * [[1977年]](昭和52年)[[12月16日]] - 駅名を'''多摩川園駅'''に改称<ref name="jtb97"/><ref name="jtb52"/>。その多摩川園遊園地は[[1979年]](昭和54年)6月に閉園した<ref name="jtb98"/>。 * [[1988年]](昭和63年)11月 - 田園調布 - 多摩川間改良工事に着手<ref name="kairyo">{{Cite press release |和書 |url=http://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf |title=営団地下鉄南北線・都営三田線と相互直通運転を開始 |publisher=東京急行電鉄 |date=2000-02-07 |accessdate=2015-01-14 |format=pdf}}</ref>。 * [[1994年]]([[平成]]6年)[[11月27日]] - 目蒲線が地下ホームの使用を開始<ref name="RJ353">{{Cite journal|和書 |date =1996-03 |title =東急 田園調布駅の東横・目蒲4線地下線化が完成 |journal =[[鉄道ジャーナル]] |volume =30 |issue =3 |serial =353 |publisher =鉄道ジャーナル社 |page =90 }}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[12月17日]] - 東横線上りが高架ホームに切り替わる{{R|RJ353}}。 * [[1996年]](平成8年)[[2月4日]] - 東横線下りが仮設ホームから本設高架ホームに切り替わる<ref>{{Cite journal|和書 |date =1996-06 |title =東急田園調布-多摩川園間改良の竣工式実施 |journal =[[鉄道ジャーナル]] |volume =30 |issue =6 |serial =356 |publisher =鉄道ジャーナル社 |page =91 }}</ref>。同日から目蒲線地下ホームが1・2番線、東横線の地上仮設ホームが3・4番であったものを、現行の東横線地上ホームを1・4番線(2・3番線は未共用)、目蒲線地下ホームを5・6番線に変更した<ref name="PICT1996-6">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1996年6月号「話題の工事現場から4 東急東横線」p.90 - 91。</ref>。 * [[1997年]](平成9年) ** [[1月14日]] - 駅務室ならびに改札口を本設に切り替え<ref name="PICT1997-5">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1997年5月号「話題の工事現場から7 東京急行電鉄」p.102 - 103。</ref>。 ** 6月 - 改良工事が完成<ref name="kairyo"/>。 * [[2000年]](平成12年)[[8月6日]] - 目蒲線の目黒線・東急多摩川線への分割とともに、駅名を再び'''多摩川駅'''に改称<ref name="henko">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000328.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191029104951/https://www.tokyu.co.jp/file/000328.pdf|format=PDF|language=日本語|title=目蒲線の運行系統変更による線名変更などを実施 平成12年8月6日(日)から|publisher=東京急行電鉄|date=2000-03-28|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-10-29}}</ref><ref name="pr20000714">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414174636/http://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|format=PDF|language=日本語|title=8月6日(日)から運行開始の目黒線と東急多摩川線のダイヤを決定 併せて東横線、池上線のダイヤも改正|publisher=東京急行電鉄|date=2000-07-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2015-04-14}}</ref>。東横線の急行停車駅となる<ref name="pr20000714"/>。 === 駅舎改良 === {{see also|東急目蒲線}} [[1988年]]11月から[[1997年]]6月にかけて、東横線複々線化事業<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk.html 東横線複々線化事業]</ref>の一環として田園調布 - 多摩川(旧・多摩川園)間改良工事<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_decf_tmgw.html 田園調布 - 多摩川(旧・多摩川園)間改良工事]</ref>が行われた<ref name="kairyo"/>。それに伴い、当駅についても駅舎の大規模改造工事が行われた。閑静な住宅街の中での工事で夜間工事はできないため、長期にわたる難工事となった。 改良工事前までは開業当時からの駅舎であり、改札口は現在の南口にしかなかった<ref name="jtb52"/>。現行の駅舎は旧駅の面影を全く留めていない。東横線と[[東急目蒲線|目蒲線]]は別線で、田園調布と多摩川(当時・多摩川園)の両駅間の[[土塁]]を[[複々線]]で走っており、田園調布駅とともに3面4線の形態であったが、改良工事着手後は2面4線に改められた。目蒲線は当駅から[[沼部駅|沼部]]方面になだらかに坂を下って多摩川第一[[踏切]]で平面となり、駅を出てすぐの所に[[多摩川園]]への入口となるコンクリート製のガードがあった。東横線は横浜方面のホームが[[多摩川橋梁 (東急東横線)|多摩川橋梁]]への急カーブにかかっており、下り横浜方面の線路はホームと車両が離れているので[[カント (路線)|カント]]が付けられず、上り線よりカーブが外側にも位置するにもかかわらず駅を通過する急行は徐行運転を余儀なくされていた。また上り線は最後尾車両が傾いたまま停車するため、朝[[ラッシュ時]]にはドアが開くと人が降ってくるような状況で、いずれにせよ乗降に危険な駅であった。 複々線化事業に伴い目蒲線は当駅で分断され、目黒方面は東横線と同方向・同一ホーム2面4線の高架ホームとして50mほど田園調布寄りに移動して急曲線ホームを解消させた他、蒲田方面は新たに1面2線の地下ホームでの営業となった。目蒲線の地下への線路付け替え工事は[[終電]]後[[始発列車|始発電車]]までの間に行われ、一夜にして切り替わった。 また、多摩川橋梁の所で交差する[[東京都道11号大田調布線]](多摩堤通り)のガードの高さが3.3mしかなく、[[貨物自動車|トラック]]が衝突して死亡事故も発生していたため嵩上げされ、当駅も旧駅より高くなった。 当初は田園調布駅とともに[[エレベーター]]を設置する予定はなかったが、地元住民の運動により設置が決定され、{{要出典範囲|その後の日本の鉄道駅の本格的な[[バリアフリー]]化の嚆矢となった。|date=2020年1月}} この工事は多摩川橋梁架替・増設工事(1997年12月完成)<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_tmgw.html 多摩川橋梁架替・増設工事]</ref>と新丸子⇔武蔵小杉間線増工事(2000年9月完成)<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_snmrk_mksg.html 新丸子⇔武蔵小杉間線増工事]</ref>に先行して行われたため、2000年8月6日の目黒線営業開始までの間、目蒲線は新しい地下駅を利用し、そこから田園調布方面に直通していた。この線路はその後も[[連絡線]]として使われており、田園調布駅から当駅に向かってすぐ、地下への[[トンネル]]を見ることができる。なお、目黒線開業までは現・目黒線に線路が敷設されていなかった。 == 駅構造 == 東横線、目黒線ホームは[[高架駅|高架]]に[[島式ホーム]]2面4線、東急多摩川線ホームは[[地下駅|地下]]に島式ホーム1面2線がそれぞれ設置されている<ref name="map">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/station/info/Pid=9.html#anchor01|title=多摩川駅|駅構内図 |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2018-05-18}}</ref>。東横線・目黒線ホームには[[ホームドア]]が設置されている。 [[便所|トイレ]]は改札内にあり、多機能トイレも設置されている<ref name="map"/>。エレベーターはホームの横浜・蒲田寄りに設置され、高架ホームから地下ホームまで直結する<ref name="map"/>。 高架下に駅舎があり、[[改札]]は1か所であるが、東口、西口、南口の3方向から出入りすることが可能である<ref name="map"/>。 東横線、目黒線ホームはカーブの途中にあるため、電車とホームの間が広く開く。また、東急多摩川線の[[分岐器|両渡り線]]はホームから大きく離れた地上部の[[丸子橋]]付近に設置されているため、駅南側に1か所ある[[踏切]]では[[単線並列]]に近い形態で電車が通過する。 === のりば === {|class="wikitable" !nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先 |- |-style="border-top:solid 3px #999" | colspan="4" style="background-color:#eee" |'''高架ホーム''' |- !1 |[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り |[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty09_tamagawa2.pdf|title=東横線標準時刻表 多摩川駅 横浜 元町・中華街 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !2 |rowspan="2"|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線 |[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]・新横浜・二俣川方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg09_tamagawa2.pdf|title=目黒線標準時刻表 多摩川駅 日吉・新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !3 |rowspan="2" style="text-align:center"|上り |[[目黒駅|目黒]]・[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]・[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg09_tamagawa.pdf|title=目黒線標準時刻表 多摩川駅 目黒方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !4 |[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 |[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty09_tamagawa.pdf|title=東横線標準時刻表 多摩川駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- |-style="border-top:solid 3px #999" | colspan="4" style="background-color:#eee" |'''地下ホーム''' |- !5・6 |[[File:Tokyu TM line symbol.svg|15px|TM]] 東急多摩川線 |style="text-align:center"|下り |[[下丸子駅|下丸子]]・[[蒲田駅|蒲田]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_tm01_tamagawa2.pdf|title=東急多摩川線標準時刻表 多摩川駅 蒲田方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |} <gallery widths="150px"> Tamagawa Station.jpg|駅全景(2008年3月) TokyuTamagawaSta-EastEntrance.jpg|東口(2008年2月) TokyuTamagawaSta-SouthEntrance.jpg|南口(2008年2月) Tokyu Tamagawa-STA Gate.jpg|改札口(2023年4月) </gallery> <gallery widths="150px"> Tokyu Tamagawa-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2023年4月) Tokyu Tamagawa-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2023年4月) Tokyu Tamagawa-STA Platform5-6.jpg|5・6番線ホーム(2023年4月) Tamagawa Station Concourse.jpg|乗り換えコンコース(2010年8月) </gallery> === 構内施設 === * [[toks#LAWSON + toks|LAWSON + toks]](駅[[売店]]・[[駅ナカ]][[コンビニ]]) - 改札外および3・4番線ホーム<ref name="map"/> * [[梅もと]]([[立ち食いそば・うどん店]]) - 改札内<ref name="map"/> * [[神戸屋]]([[ベーカリー]]) - 改札内<ref name="map"/> == 利用状況 == 各線の[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は以下の通りである<ref group="東急" name="tokyu2022" />。 * 東横線 - '''11,539人''' * 目黒線 - '''3,318人''' * 東急多摩川線 - '''3,157人''' 東横線・目黒線の急行停車駅で、東急の3路線が集結するが、各線とも乗降人員は少ない。これは主な利用形態が各路線(主に東横線・目黒線 - 東急多摩川線)相互間の乗り換えであり、改札を通らないことから乗降人員に数えられていないためである。仮に、これを含むと実際の利用客数はかなり多くなる。 * 東急線相互の乗換人員を含んだ、2017年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref name="train-media" />。 ** 東横線 - '''78,586人''' - 同線内では渋谷駅、横浜駅、自由が丘駅、中目黒駅、武蔵小杉駅、日吉駅、菊名駅、綱島駅に次ぐ第9位。 ** 目黒線 - '''24,859人''' - 同線内では目黒駅、大岡山駅、日吉駅、武蔵小山駅、武蔵小杉駅、田園調布駅、西小山駅、不動前駅に次ぐ第9位。急行通過駅の西小山駅、不動前駅よりも少ない。 ** 東急多摩川線 - '''88,753人''' - 同線内では蒲田駅に次ぐ第2位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]・乗換人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right;" |+年度別1日平均乗降人員・乗換人員<ref name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref>[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/koho/hakkobutsu/kuseiyoran.html 区勢要覧] - 目黒区</ref><ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|東横線 !colspan=2|目黒線 !colspan=2|東急多摩川線 !rowspan=2|東横線⇔東急多摩川線<br />乗換人員 !rowspan=2|目黒線⇔東急多摩川線<br />乗換人員 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |2003年(平成15年) |10,795||5.1% |2,093||&minus;0.3% |2,007||12.0% | | |- |2004年(平成16年) |10,949||1.4% |2,153||2.9% |2,197||9.5% | | |- |2005年(平成17年) |11,779||7.6% |2,289||6.3% |2,407||9.6% | | |- |2006年(平成18年) |12,243||3.9% |2,292||0.1% |2,561||6.4% |59,273 |17,541 |- |2007年(平成19年) |13,208||7.9% |2,618||14.2% |2,943||14.9% |58,250 |17,961 |- |2008年(平成20年) |13,411||1.5% |2,884||10.2% |3,195||8.6% |57,641 |19,322 |- |2009年(平成21年) |13,386||&minus;0.2% |3,056||6.0% |3,295||3.1% |57,565 |19,578 |- |2010年(平成22年) |13,355||&minus;0.2% |3,027||&minus;0.9% |3,336||1.2% |58,251 |19,335 |- |2011年(平成23年) |13,348||&minus;0.1% |3,004||&minus;0.8% |3,358||0.7% |58,345 |19,017 |- |2012年(平成24年) |13,582||1.8% |3,131||4.2% |3,489||3.9% |59,557 |19,260 |- |2013年(平成25年) |14,036||3.3% |3,359||7.3% |3,539||1.4% |62,098 |19,694 |- |2014年(平成26年) |14,259||1.6% |3,439||2.4% |3,640||2.9% |62,110 |20,050 |- |2015年(平成27年) |14,582||2.3% |3,627||5.5% |3,775||3.7% |62,541 |20,592 |- |2016年(平成28年) |14,709||0.9% |3,745||3.3% |3,903||3.4% |62,702 |20,617 |- |2017年(平成29年) |14,901||1.3% |3,873||3.4% |4,082||4.6% |63,685 |20,986 |- |2018年(平成30年) |14,376|||&minus;3.5% |3,795|||&minus;2.0% |4,197||2.8% | | |- |2019年(令和元年) |<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>14,146|||&minus;1.6% |<ref group="東急" name="tokyu2019" />3,789|||&minus;0.2% |<ref group="東急" name="tokyu2019" />4,120|||&minus;1.8% | | |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>9,094|||&minus;35.7% |<ref group="東急" name="tokyu2020" />2,630|||&minus;30.6% |<ref group="東急" name="tokyu2020" />2,740|||&minus;33.5% | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>10,342||13.7% |<ref group="東急" name="tokyu2021" />2,981||13.3% |<ref group="東急" name="tokyu2021" />2,927||6.8% | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>11,539||11.6% |<ref group="東急" name="tokyu2022" />3,318||11.3% |<ref group="東急" name="tokyu2022" />3,157||7.8% | | |} === 年度別1日平均乗車人員 === 近年の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> <!--1993年までのデータは乗り換え人員を含んでいる思われるが、そのまま記載する--> {|class="wikitable" !年度 !東横線 !目蒲線 !出典 |- |1990年 |style="text-align:right"|15,929 |style="text-align:right"|13,285 |<ref name="toukei1990">東京都統計年鑑(平成2年)226ページ</ref> |- |1991年 |style="text-align:right"|16,096 |style="text-align:right"|13,331 |<ref name="toukei1991">東京都統計年鑑(平成3年)232ページ</ref> |- |1992年 |style="text-align:right"|15,137 |style="text-align:right"|12,014 |<ref name="toukei1992">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年 |style="text-align:right"|14,649 |style="text-align:right"|11,693 |<ref name="toukei1993">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年 |style="text-align:right"|4,263 |style="text-align:right"|1,493 |<ref name="toukei1994">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年 |style="text-align:right"|4,150 |style="text-align:right"|1,497 |<ref name="toukei1995">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年 |style="text-align:right"|4,145 |style="text-align:right"|1,375 |<ref name="toukei1996">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年 |style="text-align:right"|4,296 |style="text-align:right"|1,340 |<ref name="toukei1997">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年 |style="text-align:right"|4,271 |style="text-align:right"|1,290 |<ref name="toukei1998">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年 |style="text-align:right"|4,311 |style="text-align:right"|1,260 |<ref name="toukei1999">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |} {|class="wikitable" !年度 !東横線 !目黒線 !東急<br />多摩川線 !出典 |- |2000年 |style="text-align:right"|4,395 |style="text-align:right"|844 |style="text-align:right"|712 |<ref name="toukei2000">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年 |style="text-align:right"|4,616 |style="text-align:right"|1,162 |style="text-align:right"|838 |<ref name="toukei2001">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年 |style="text-align:right"|5,129 |style="text-align:right"|1,074 |style="text-align:right"|942 |<ref name="toukei2002">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年 |style="text-align:right"|5,492 |style="text-align:right"|1,087 |style="text-align:right"|1,090 |<ref name="toukei2003">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年 |style="text-align:right"|5,745 |style="text-align:right"|1,175 |style="text-align:right"|1,195 |<ref name="toukei2004">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年 |style="text-align:right"|6,096 |style="text-align:right"|1,170 |style="text-align:right"|1,289 |<ref name="toukei2005">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年 |style="text-align:right"|6,351 |style="text-align:right"|1,181 |style="text-align:right"|1,375 |<ref name="toukei2006">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年 |style="text-align:right"|6,809 |style="text-align:right"|1,352 |style="text-align:right"|1,533 |<ref name="toukei2007">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年 |style="text-align:right"|6,918 |style="text-align:right"|1,488 |style="text-align:right"|1,652 |<ref name="toukei2008">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年 |style="text-align:right"|6,907 |style="text-align:right"|1,581 |style="text-align:right"|1,704 |<ref name="toukei2009">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |} == 駅周辺 == [[画像:田園調布せせらぎ公園.jpg|thumb|260px|[http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/park/denenchoufu_seseragi.html 田園調布せせらぎ公園]から[[多摩川台公園]]方面を望む(2013年4月撮影)。<br />左手は多摩川駅、正面方向が多摩川台公園に当たる。右手は田園調布カトリック教会、その先に[http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/park/houraikouen.html 宝来公園]がある。]] {{See also|田園調布}} 駅周辺は[[田園調布]]一丁目に当たり、公園に囲まれた[[第一種低層住居専用地域]]と[http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/machizukuri/toshikeikaku/fuchi.html 第2種風致地区]の[[住宅地]]であり<ref>『東京土地のグランプリ 2012-2013 最新版』[[講談社]] 2012年3月15日</ref><ref>[http://media.yucasee.jp/posts/index/1254/2 「日本の高級住宅街」]</ref>、大規模な[[小売|小売店]]などはない。 * [[多摩川台公園]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/ekitown/info/?id=9 |title=多摩川駅|沿線・駅周辺ガイド |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-13}}</ref> ** [[多摩川台公園#多摩川台公園の古墳群|亀甲山古墳]]([[荏原台古墳群|田園調布古墳群]]の一つ) * 田園調布せせらぎ公園([[多摩川園]]遊園地・多摩川園ラケットクラブ跡地) * [[多摩川浅間神社]] * 田園調布郵便局 * [[田園調布警察署|警視庁田園調布警察署]](田園調布一丁目) * [[多摩川緑地広場硬式野球場]](旧・巨人軍多摩川グラウンド) * [[丸子橋]] * [[東京都道2号東京丸子横浜線]](中原街道) === バス路線 === [[画像:Tokyu Tamagawa-STA Bus-stop.jpg|thumb|250px|南口の先にある多摩川駅バス停(2023年4月)]] 駅前の道路が狭隘で、[[操車場|折り返し場]]や駅前広場も確保できないため、南口より先の[[東京都道11号大田調布線|多摩堤通り]]交差点近辺の旧東急スイミングスクール[[駐車場]]前に広場があり、停留所名も「'''多摩川園'''」を名乗っていたが、多摩川駅への改称に伴い「'''多摩川駅'''」となった。[[東急バス]]が運行している[[路線バス]]が乗り入れている<ref name="bus">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyubus.co.jp/jikoku/dia/cgi/search_route.cgi?stcode=1725816 |title=東急バス時刻表(多摩川駅) |publisher=東急バス株式会社 |accessdate=2015-01-14}}</ref>。 * [[東急バス瀬田営業所#遊園地線|玉11]] - 東急ゴルフパークたまがわ前経由 [[二子玉川駅]]行 / 瀬田営業所行<ref name="bus"/> / [[武蔵小杉駅|小杉駅]]東口行 * [[東急バス瀬田営業所#雪が谷線|多摩01]] - [[雪が谷大塚駅|雪が谷]]・[[奥沢駅]]・[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]・[[都立大学駅]]前経由[[国立病院機構東京医療センター|東京医療センター]]行<ref name="bus"/> == 多摩川アートラインプロジェクト == {{main|多摩川アートラインプロジェクト}} 2007年11月3日から同年11月11日まで実施された[[多摩川アートラインプロジェクト]]では、蒲田駅とともに本部が設置された。また、アートが施された駅では最も多く施された。 * 逢坂卓郎「Rainbow Steps - 虹の階段」 * アトリエ・ワン+山崎徹也「インフォトンネル」 * 内田繁「山居」 * 枯山水サラウンディング「八水響」 * 渡辺元佳「多摩川“猿” たまがわえん」 == 隣の駅 == ; 東急電鉄 : [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 :: {{Color|#f7931d|■}}特急・{{Color|#f7931d|□}}通勤特急 :::; 通過 :: {{Color|#ef3123|■}}急行 ::: [[田園調布駅]] (TY08) - '''多摩川駅 (TY09)''' - [[武蔵小杉駅]] (TY11) :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車 ::: 田園調布駅 (TY08) - '''多摩川駅 (TY09)''' - [[新丸子駅]] (TY10) : [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線 :: {{Color|#ef3123|■}}急行 ::: 田園調布駅 (MG08) - '''多摩川駅 (MG09)''' - 武蔵小杉駅 (MG11) :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車<!-- 目黒線の各駅停車の方向幕は2018年頃から青に順次変更 --> ::: 田園調布駅 (MG08) - '''多摩川駅 (MG09)''' - 新丸子駅 (MG10) : [[File:Tokyu TM line symbol.svg|15px|TM]] 東急多摩川線 ::: '''多摩川駅 (TM01)''' - [[沼部駅]] (TM02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東急電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東急"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}} == 関連項目 == {{commonscat|Tamagawa Station (Tokyo)}} * [[東急目蒲線]] * [[多摩川園]] * [[多摩川アートラインプロジェクト]] * [[目黒蒲田電鉄]] * [[田園調布]] * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=9|name=多摩川}} {{東急東横線}} {{東急目黒線}} {{東急多摩川線}} {{DEFAULTSORT:たまかわえき}} [[Category:田園調布]] [[Category:大田区の鉄道駅|たまかわ]] [[Category:日本の鉄道駅 た|まかわ]] [[Category:東急電鉄の鉄道駅|たまかわ]] [[Category:1923年開業の鉄道駅|たまかわ]]
2003-09-06T17:01:13Z
2023-11-17T09:24:22Z
false
false
false
[ "Template:Color", "Template:Efn2", "Template:要出典範囲", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:外部リンク/東急電鉄駅", "Template:R", "Template:混同", "Template:駅情報", "Template:See also", "Template:0", "Template:Main", "Template:Cite press release", "Template:Cite journal", "Template:Otheruses", "Template:Commonscat", "Template:東急東横線", "Template:東急多摩川線", "Template:PDFlink", "Template:Notelist2", "Template:東急目黒線", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E9%A7%85
15,450
ねこねこソフト
ねこねこソフトは、株式会社ソルジャーブルーによるアダルトゲームのブランド。同人ソフトサークル「ステージなな」が母体となった。 アダルトゲーム業界にあってなお独特の存在感を持つメーカーであったが、2006年(平成18年)5月26日に発売された『Scarlett』を最後の作品として、同年10月1日を以って活動を停止した。ただし、後述の「コットンソフト」はソルジャーブルーブランドであり、会社が清算されたわけではない。 活動停止前の最後の公的活動は、2006年(平成18年)8月11日 - 13日に行われたコミックマーケット70への参加であった。その後、ファン向けに製作したCD集『ねこサウンドコレクション』が活動停止前の最後の製品である(公式サイト上での通販限定商品)。 なお、活動停止発表以降の公式サイトは2006年(平成18年)9月末までの更新とし、同年10月1日よりサポート、トップページ、MMR日記(スタッフ日記)のみを残す縮小運営に切り替わっていた(「何か情報がある時だけお知らせする程度」とあり、TOP絵とMMR日記も時たま更新されていた)。 ねこねこソフトのスタッフはまた同じメンバーでゲーム制作を続けたいという意思を持っており、木緒なちを中心として新規ブランドの「コットンソフト」を立ち上げた。ただし、ねこねこソフト中心人物の片岡ともは「コットンソフト」の活動に参加しなかった。 活動停止から1年9ヶ月のブランクを経た2008年(平成20年)7月16日、公式サイトにて活動再開を発表した(再開日付は2008年(平成20年)7月15日付)。今後は「作りたいモノがあり、作れる状況にあり、PCプラットが最も似合うと思える」時に、ねこねこソフトとして制作するとしている。 2008年(平成20年)11月30日から、過去作品の一部ソフトウェアと『ねこサウンドコレクション』(ねこサントラ)について、自社通販による再発売を行っている。2009年(平成21年)6月30日にはオフィシャルダウンロードストアを開設し、過去作品の一部ソフトウェアのダウンロード販売を行っている。これらのソフトウェアは以前の通信販売とは異なり、受付期間の限定は行われていない。再発売されたソフトウェアはWindows Vistaにも対応している。 2009年(平成21年)9月18日には、活動再開後の第1作『そらいろ』が、2011年(平成23年)4月8日には、活動再開後の第2作『White 〜blanche comme la lune〜』が発売されている。 2014年(平成26年)4月には、ねこねこソフト15周年を記念して、萌えエロに特化した新ブランド「こねこソフト」を設立。2015年(平成27年)5月29日には、ねこねこソフト15周年記念作品『すみれ』が発売された。 2018年(平成30年)に、中国の四川省・成都市に拠点を置く「Nekoday」(成都猫之日网络科技有限公司)が発足し、2020年(令和2年)1月には、日中合同制作による新作AVG『Christmas Tina ‐泡沫冬景‐』がNekodayブランドで発売された。『Christmas Tina』は中国で50万本を売り上げる大ヒットとなった。 2021年(令和3年)には、湖北省・武漢市に拠点を置くYAMAYURI GAMESとの共同開発作品『神の国の魔法使い』を発表。 ねこねこソフトのほとんどのゲームに登場するキャラクター属性の一つで、おっちょこちょいで天然ボケのキャラクターが「ぽんこつ」と呼ばれる。 以下は各作品で「ぽんこつ」と呼ばれるキャラ。 当然ながら、キャラにより「ぽんこつ度」には差がある。2006年(平成18年)3月16日からウェブサイト上で無料配布された『ぷちファンディスクみたいなの』には「ぽんこつカウンター 2006年版」が収録されており、ぽんこつ度に応じて以下のような順位づけがされている。 (MAX) 早坂日和 > 宮原和泉 > 近衛七海(以上3名は「王家の先生方」) > 新・佐倉 > アメリア(“ぽんこつ子爵”程度) > なつみ > 椎名希未 > 新ぽん(コンシューマー版の早坂日和) > チュチュ > 狭霧 (MIN) みずいろ以降、ねこねこソフトの学園もののゲームで採用されているシステム。過去パートと現代パートに分かれており、過去パートでとった行動によって現代パートが変化するようになっている。 「みずいろシステム」の名前はそらいろのゲーム紹介で初めて使用された。 ねこねこソフトのファンクラブ「しょんぼりファンクラブ」会員に対し不定期に送られていたCD。完全無料なのが大きな特徴であった。 (おかえしCDその2は欠番。スタッフの片岡ともがコミックマーケット限定で配ったもの(おかえしCDその1に近い内容らしい)を勘違いして数えたため) White おかえしFDは、郵送時に一部ユーザーへMacフォーマットのブランクディスクが送られるトラブルがあった。 コミックマーケットにおいて第70回(2006年(平成18年)夏)まで企業ブースに出展していたが、出展企業名を「ねーこねこソフト」や「ねこねこソフー」等とすることがしばしばあった。 また、出展時のスタッフはオリジナルのジャンパーを着ていたが、これには「ねこねこ製作所」と描かれていた。2008年(平成20年)の活動再開後は、コットンソフトへの委託参加、現在は共同で出展している。 ソフマップなんばザウルス1号店で2002年(平成14年)5月 - 2006年(平成18年)5月の間、不定期でねこねこソフトの垂れ幕が計7枚掲示された。主にゲーム発売前の時期に広告用で掲示されていたが、最初の垂れ幕は人気投票優勝記念で企画されたものである。 これらの垂れ幕に一番登場回数が多かったキャラは「メカ進藤」であった(隅の方に小さく登場することが多かった)。 太字はコットンソフトに引き続き在籍
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ねこねこソフトは、株式会社ソルジャーブルーによるアダルトゲームのブランド。同人ソフトサークル「ステージなな」が母体となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アダルトゲーム業界にあってなお独特の存在感を持つメーカーであったが、2006年(平成18年)5月26日に発売された『Scarlett』を最後の作品として、同年10月1日を以って活動を停止した。ただし、後述の「コットンソフト」はソルジャーブルーブランドであり、会社が清算されたわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "活動停止前の最後の公的活動は、2006年(平成18年)8月11日 - 13日に行われたコミックマーケット70への参加であった。その後、ファン向けに製作したCD集『ねこサウンドコレクション』が活動停止前の最後の製品である(公式サイト上での通販限定商品)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、活動停止発表以降の公式サイトは2006年(平成18年)9月末までの更新とし、同年10月1日よりサポート、トップページ、MMR日記(スタッフ日記)のみを残す縮小運営に切り替わっていた(「何か情報がある時だけお知らせする程度」とあり、TOP絵とMMR日記も時たま更新されていた)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ねこねこソフトのスタッフはまた同じメンバーでゲーム制作を続けたいという意思を持っており、木緒なちを中心として新規ブランドの「コットンソフト」を立ち上げた。ただし、ねこねこソフト中心人物の片岡ともは「コットンソフト」の活動に参加しなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "活動停止から1年9ヶ月のブランクを経た2008年(平成20年)7月16日、公式サイトにて活動再開を発表した(再開日付は2008年(平成20年)7月15日付)。今後は「作りたいモノがあり、作れる状況にあり、PCプラットが最も似合うと思える」時に、ねこねこソフトとして制作するとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)11月30日から、過去作品の一部ソフトウェアと『ねこサウンドコレクション』(ねこサントラ)について、自社通販による再発売を行っている。2009年(平成21年)6月30日にはオフィシャルダウンロードストアを開設し、過去作品の一部ソフトウェアのダウンロード販売を行っている。これらのソフトウェアは以前の通信販売とは異なり、受付期間の限定は行われていない。再発売されたソフトウェアはWindows Vistaにも対応している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)9月18日には、活動再開後の第1作『そらいろ』が、2011年(平成23年)4月8日には、活動再開後の第2作『White 〜blanche comme la lune〜』が発売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2014年(平成26年)4月には、ねこねこソフト15周年を記念して、萌えエロに特化した新ブランド「こねこソフト」を設立。2015年(平成27年)5月29日には、ねこねこソフト15周年記念作品『すみれ』が発売された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)に、中国の四川省・成都市に拠点を置く「Nekoday」(成都猫之日网络科技有限公司)が発足し、2020年(令和2年)1月には、日中合同制作による新作AVG『Christmas Tina ‐泡沫冬景‐』がNekodayブランドで発売された。『Christmas Tina』は中国で50万本を売り上げる大ヒットとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)には、湖北省・武漢市に拠点を置くYAMAYURI GAMESとの共同開発作品『神の国の魔法使い』を発表。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ねこねこソフトのほとんどのゲームに登場するキャラクター属性の一つで、おっちょこちょいで天然ボケのキャラクターが「ぽんこつ」と呼ばれる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以下は各作品で「ぽんこつ」と呼ばれるキャラ。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当然ながら、キャラにより「ぽんこつ度」には差がある。2006年(平成18年)3月16日からウェブサイト上で無料配布された『ぷちファンディスクみたいなの』には「ぽんこつカウンター 2006年版」が収録されており、ぽんこつ度に応じて以下のような順位づけがされている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "(MAX) 早坂日和 > 宮原和泉 > 近衛七海(以上3名は「王家の先生方」) > 新・佐倉 > アメリア(“ぽんこつ子爵”程度) > なつみ > 椎名希未 > 新ぽん(コンシューマー版の早坂日和) > チュチュ > 狭霧 (MIN)", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "みずいろ以降、ねこねこソフトの学園もののゲームで採用されているシステム。過去パートと現代パートに分かれており、過去パートでとった行動によって現代パートが変化するようになっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「みずいろシステム」の名前はそらいろのゲーム紹介で初めて使用された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ねこねこソフトのファンクラブ「しょんぼりファンクラブ」会員に対し不定期に送られていたCD。完全無料なのが大きな特徴であった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "(おかえしCDその2は欠番。スタッフの片岡ともがコミックマーケット限定で配ったもの(おかえしCDその1に近い内容らしい)を勘違いして数えたため)", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "White おかえしFDは、郵送時に一部ユーザーへMacフォーマットのブランクディスクが送られるトラブルがあった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コミックマーケットにおいて第70回(2006年(平成18年)夏)まで企業ブースに出展していたが、出展企業名を「ねーこねこソフト」や「ねこねこソフー」等とすることがしばしばあった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、出展時のスタッフはオリジナルのジャンパーを着ていたが、これには「ねこねこ製作所」と描かれていた。2008年(平成20年)の活動再開後は、コットンソフトへの委託参加、現在は共同で出展している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ソフマップなんばザウルス1号店で2002年(平成14年)5月 - 2006年(平成18年)5月の間、不定期でねこねこソフトの垂れ幕が計7枚掲示された。主にゲーム発売前の時期に広告用で掲示されていたが、最初の垂れ幕は人気投票優勝記念で企画されたものである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これらの垂れ幕に一番登場回数が多かったキャラは「メカ進藤」であった(隅の方に小さく登場することが多かった)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "太字はコットンソフトに引き続き在籍", "title": "主な参加スタッフ" } ]
ねこねこソフトは、株式会社ソルジャーブルーによるアダルトゲームのブランド。同人ソフトサークル「ステージなな」が母体となった。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{美少女ゲームブランド |ブランド名 = ねこねこソフト |企業名 = 株式会社[[ソルジャーブルー]] |関連ブランド = [[コットンソフト]] |主要人物 = [[片岡とも]] |特記事項 = |デビュー作 = [[White 〜セツナサのカケラ〜]]<br>(「くるみ」ブランド名義) |デビュー作発売日 = [[2000年]][[1月28日]] |最新作 = 神の国の魔法使い |最新作発売日 = [[2022年]][[1月28日]] |URL = https://nekoneko-soft.info/ |サイト名 = ねこねこソフト Official Homepage }} '''ねこねこソフト'''は、[[株式会社]]ソルジャーブルーによる[[アダルトゲーム]]の[[ブランド]]。[[同人ゲーム|同人ソフト]][[同人サークル|サークル]]「ステージなな」が母体となった。 == 概要 == アダルトゲーム業界にあってなお独特の存在感を持つメーカーであったが、[[2006年]](平成18年)[[5月26日]]に発売された『[[Scarlett (ゲーム)|Scarlett]]』を最後の作品として、同年10月1日を以って活動を停止した<ref>{{ウェブアーカイブ|deadlink=no|title=旧トップページ|url=http://www.din.or.jp/~nekoneko/top2.htm|archiveurl=https://archive.today/Fl8RC|archiveservice=[[archive.today]]|archivedate=2006-10-14}}</ref>。ただし、後述の「[[コットンソフト]]」はソルジャーブルーブランドであり、[[会社]]が[[清算]]されたわけではない。 活動停止前の最後の公的活動は、[[2006年]](平成18年)8月11日 - 13日に行われた[[コミックマーケット]]70への参加であった。その後、ファン向けに製作したCD集『ねこサウンドコレクション』が活動停止前の最後の製品である(公式[[ウェブサイト|サイト]]上での[[通信販売|通販]]限定商品)。 なお、活動停止発表以降の公式サイトは[[2006年]](平成18年)9月末までの更新とし、同年10月1日よりサポート、トップページ、MMR日記(スタッフ日記)のみを残す縮小運営に切り替わっていた(「何か情報がある時だけお知らせする程度」とあり、TOP絵とMMR日記も時たま更新されていた)。 ねこねこソフトのスタッフはまた同じメンバーでゲーム制作を続けたいという意思を持っており、[[木緒なち]]を中心として新規ブランドの「コットンソフト」を立ち上げた。ただし、ねこねこソフト中心人物の[[片岡とも]]は「コットンソフト」の活動に参加しなかった。 活動停止から1年9ヶ月のブランクを経た[[2008年]](平成20年)[[7月16日]]、公式サイトにて活動再開を発表した(再開日付は[[2008年]](平成20年)[[7月15日]]付)。今後は「作りたいモノがあり、作れる状況にあり、PCプラットが最も似合うと思える」時に、ねこねこソフトとして制作するとしている<ref>[https://megalodon.jp/2008-0716-2337-15/www.din.or.jp/~nekoneko/info.htm お知らせ]、ねこねこソフト Official Homepage([[ウェブ魚拓]]による2008年7月16日 23:37 のアーカイブ)</ref>。 [[2008年]](平成20年)[[11月30日]]から、過去作品の一部ソフトウェアと『ねこサウンドコレクション』(ねこ[[サウンドトラック|サントラ]])について、自社通販による再発売を行っている。[[2009年]](平成21年)6月30日にはオフィシャルダウンロードストアを開設し、過去作品の一部ソフトウェアの[[ダウンロード販売]]を行っている。これらのソフトウェアは以前の通信販売とは異なり、受付期間の限定は行われていない。再発売されたソフトウェアは[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]にも対応している。 [[2009年]](平成21年)9月18日には、活動再開後の第1作『[[そらいろ]]』が、[[2011年]](平成23年)4月8日には、活動再開後の第2作『White 〜blanche comme la lune〜』が発売されている。 [[2014年]](平成26年)4月には、ねこねこソフト15周年を記念して、萌えエロに特化した新ブランド「こねこソフト」を設立<ref>[http://koneko.nekoneko-soft.com/about.html 『こねこソフト』設立のご挨拶]、ねこねこソフト Official Homepage</ref>。[[2015年]](平成27年)[[5月29日]]には、ねこねこソフト15周年記念作品『すみれ』が発売された。 [[2018年]](平成30年)に、中国の四川省・成都市に拠点を置く「Nekoday」(成都猫之日网络科技有限公司)が発足し、[[2020年]](令和2年)1月には、日中合同制作による新作AVG『Christmas Tina ‐泡沫冬景‐』がNekodayブランドで発売された。『Christmas Tina』は中国で50万本を売り上げる大ヒットとなった<ref>[https://bugbug.news/b_game/63413/ 【BugBug】ねこねこソフト20周年記念は日中共同開発!! 話題作『神の国の魔法使い』をBugBug1月号にてブランド代表・片岡とも氏へロングインタビュー] BugBug</ref>。 [[2021年]](令和3年)には、湖北省・武漢市に拠点を置くYAMAYURI GAMESとの共同開発作品『神の国の魔法使い』を発表。 == 特徴 == === ぽんこつ === ねこねこソフトのほとんどのゲームに登場するキャラクター属性の一つで、おっちょこちょいで天然ボケのキャラクターが「ぽんこつ」と呼ばれる。 以下は各作品で「ぽんこつ」と呼ばれるキャラ。 * [[White 〜セツナサのカケラ〜]] - 宮原和泉(初代ぽんこつ) * [[銀色 (ゲーム)|銀色]] - 狭霧(ぽんこつ亜種) * [[みずいろ]] - 早坂日和(2代目ぽんこつ。キング・オブ・ぽんこつ。日和先生とも呼ばれる/[[コンシューマーゲーム|コンシューマー]]版で追加された攻略ルートの日和は「新ぽん」と呼ばれる) * [[朱 -Aka-|朱]] - チュチュ(ぽんこつ亜種) * [[120円の春 \120Stories|120円の夏]] - なつみ(当初は名前が無く、「ハコネさん」または「夏ハコネ」と呼ばれた) * [[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]] - 近衛七海(3代目ぽんこつ継承者。七海先生とも呼ばれる)・佐倉裕美(コンシューマー版の「新・佐倉」のみ) * [[サナララ]] - 椎名希未(ぽんこつ度は低いが、のぞみ先生と呼ばれる) * [[Scarlett (ゲーム)|Scarlett]] - アメリア・ウィークス(ややぽんこつ、またはぽんこつ子爵) * [[そらいろ]] - 友坂つばめ(七海の娘。[[東京ドーム (単位)|東京ドーム]]3杯分のぽんこつ。つばめ先生と呼ばれる) 当然ながら、キャラにより「ぽんこつ度」には差がある。[[2006年]](平成18年)[[3月16日]]から[[ウェブサイト]]上で無料配布された『'''ぷちファンディスクみたいなの'''』には「'''ぽんこつカウンター 2006年版'''」が収録されており、ぽんこつ度に応じて以下のような順位づけがされている。 (MAX) 早坂日和 > 宮原和泉 > 近衛七海(以上3名は「王家の先生方」) > 新・佐倉 > アメリア(“ぽんこつ子爵”程度) > なつみ > 椎名希未 > 新ぽん(コンシューマー版の早坂日和) > チュチュ > 狭霧 (MIN) === みずいろシステム === みずいろ以降、ねこねこソフトの学園もののゲームで採用されているシステム。過去パートと現代パートに分かれており、過去パートでとった行動によって現代パートが変化するようになっている。 「みずいろシステム」の名前はそらいろのゲーム紹介で初めて使用された。 === おかえしCD === ねこねこソフトのファンクラブ「しょんぼりファンクラブ」会員に対し不定期に送られていたCD。完全無料なのが大きな特徴であった。 === おかえしCDの歴史 === * White おかえしFD * 銀色 どうもありがとうですCD * みずいろ おかえしCDその1 * みずいろ おかえしCDその2 * FC おかえしCDその1 * FC おかえしCDその3 * FC おかえしCDその4 * FC おかえしCDその5([[銀色 (ゲーム)|銀色 完全版]](ボイス無し)同封版と、同封無し版の2種類存在する) * FC おかえしCDその5.5 * ファンクラブ用小冊子 * FC おかえしCDその6 (おかえしCDその2は欠番。スタッフの[[片岡とも]]がコミックマーケット限定で配ったもの(おかえしCDその1に近い内容らしい)を勘違いして数えたため) White おかえしFDは、郵送時に一部ユーザーへMacフォーマットのブランクディスクが送られるトラブルがあった。 === コミックマーケット出展 === コミックマーケットにおいて第70回([[2006年]](平成18年)夏)まで企業ブースに出展していたが、出展企業名を「ねーこねこソフト」や「ねこねこソフー」等とすることがしばしばあった。 また、出展時のスタッフはオリジナルのジャンパーを着ていたが、これには「ねこねこ製作所」と描かれていた。[[2008年]](平成20年)の活動再開後は、コットンソフトへの委託参加、現在は共同で出展している。 === 垂れ幕 === [[ソフマップ]]なんばザウルス1号店で[[2002年]](平成14年)5月 - [[2006年]](平成18年)5月の間、不定期でねこねこソフトの[[幕#横断幕・懸垂幕|垂れ幕]]が計7枚掲示された。主にゲーム発売前の時期に広告用で掲示されていたが、最初の垂れ幕は人気投票優勝記念で企画されたものである。 これらの垂れ幕に一番登場回数が多かったキャラは「メカ進藤」であった(隅の方に小さく登場することが多かった)。 == 作品一覧 == * [[2000年]](平成12年)[[1月28日]] - [[White 〜セツナサのカケラ〜]]([[エンターグラム|TGL]]内の「くるみ」ブランドからの発売) * [[2000年]](平成12年)[[8月31日]] - [[銀色 (ゲーム)|銀色]] * [[2001年]](平成13年)[[4月13日]] - [[みずいろ]] * [[2001年]](平成13年)8月31日 - 銀色 完全版 * [[2002年]](平成14年)[[1月25日]] - ねこねこファンディスク * [[2003年]](平成15年)[[6月13日]] - [[朱 -Aka-]] * 2003年(平成15年)[[12月12日]] - ねこねこファンディスク2 * [[2004年]](平成16年)[[7月30日]] - [[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]] * 2004年(平成16年)[[12月10日]] - [[麻雀 (ねこねこソフト)|麻雀]] * [[2005年]](平成17年)[[4月29日]] - [[サナララ]] * [[2006年]](平成18年)[[3月16日]] - ぷちファンディスクみたいなの(ウェブサイト上で無料配布) * 2006年(平成18年)[[5月26日]] - [[Scarlett (ゲーム)|Scarlett]] * 2006年(平成18年)10月 - ねこサウンドコレクション(ゲームではなくCD集、通販限定) * [[2009年]](平成21年)[[9月18日]] - [[そらいろ]] * [[2010年]](平成22年)[[2月26日]] - ねこねこファンディスク3 * [[2011年]](平成23年)[[4月8日]] - White 〜blanche comme la lune〜 * [[2012年]](平成24年)[[4月27日]] - [[ゆきいろ 〜空に六花の住む町〜]] * 2012年(平成24年)[[10月26日]] - [[サナララ|サナララR]] * [[2013年]](平成25年)[[11月29日]] - そして煌めく乙女と秘密<sup>5</sup> * [[2014年]](平成26年)[[1月31日]] - 麻雀2014 * 2014年(平成26年)[[5月30日]] - 120円の春PC * 2014年(平成26年)[[7月25日]] - ねこまっしぐら〜ねこみみカフェにようこそ〜(「こねこソフト」ブランド名義) * [[2015年]](平成27年)[[5月29日]] - すみれ * 2015年(平成27年) - 15周年記念ねこねこコンプリートBOX(15年間の活動の全てをまとめたDVD-BOX) * 2017年(平成29年)[[1月27日]] - ラムネ2 * 2017年(平成29年)[[8月25日|10月27日]] - ルリのかさね 〜いもうと物語り〜 * 2018年(平成30年)[[12月21日]] - ねこねこファンディスク4 * 2021年(令和2年)12月24日 - 20周年ねこコンプ(20年間の活動の全てをまとめたDVD-BOX、通販限定) * 2022年(令和3年)[[1月28日]] - 神の国の魔法使い == 主な参加スタッフ == '''太字'''はコットンソフトに引き続き在籍 ; 原画 * [[ねこにゃん]] * [[秋乃武彦]] * [[葵渚]] - [[セルワークス]]のブランド「TRUST」所属後、[[2007年]](平成19年)から[[フリーランス|フリー]]に * [[オダワラハコネ]] * 朝祇もみじ - みるくそふとへ移籍 * 綾瀬悠 * 神代舞 * '''[[司ゆうき]]''' * '''[[あんころもち (イラストレーター)|あんころもち]]''' * u-r ; シナリオ * '''[[秋津環]]''' * '''[[木緒なち]]''' * '''[[海富一]]''' * 中森南文里 * [[高嶋栄二]] - みるくそふとへ移籍 * [[東トナタ]] - みるくそふとへ移籍 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[コットンソフト]] * [[片岡とも]](ねこねこソフトの代表シナリオライター) * [[120円の春 \120Stories|120円の春 ¥120Stories]] * [[せいやん・YURIAの 美少女ゲームは嫌い]] * [[蒼樹うめ]] == 外部リンク == * [https://nekoneko-soft.info/ ねこねこソフト 公式サイト] * {{Wayback |url=http://www.din.or.jp/~nekoneko |title=ねこねこソフト 旧公式サイト |date=20180510124758}} * {{Twitter|nekoneko_soft}} * [http://www.nekoday.com/index.html Nekoday Official Homepage] - (中国語) * [https://www.miraiworks.jp/christmas_tina/index.html ChristmasTina - 泡沫冬景 Official Homepage] - (日本語版特設ページ) * {{Twitter|nekoday_off|Nekoday公式}} {{ねこねこソフト}} {{company-stub}} {{adultgame-stub}} [[Category:ねこねこソフト|*]] [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:アダルトゲームのメーカー・ブランド]]
null
2023-05-02T20:58:28Z
false
false
false
[ "Template:Pp-vandalism", "Template:ウェブアーカイブ", "Template:Twitter", "Template:Adultgame-stub", "Template:美少女ゲームブランド", "Template:Reflist", "Template:Wayback", "Template:ねこねこソフト", "Template:Company-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%93%E3%81%AD%E3%81%93%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88
15,451
みずいろ
『みずいろ』は、2001年4月13日にねこねこソフトから発売されたWindows用アダルトゲームである。また2002年6月と2005年11月及び2008年11月にはパッケージおよびメディアをDVD-ROM仕様に変更して再発売されている。 後にNECインターチャネルから、2002年3月7日にはドリームキャスト版が、同年12月26日にはPlayStation 2版がそれぞれ発売され、2004年12月22日にはPS2ベスト版が発売された。 またOVA(18禁版と全年齢版の2種類)およびドラマCDも発売されている(後述)。 本作は、前作『銀色』から一転した明るいコメディ作品であり、キャラクター設定やグラフィックにおいては「萌え」を重視した内容となっている。 本作は、タイトルの通り「みずいろ」にまつわるエピソードをノベル形式で収録。最初に主人公たちの子供時代を描いた過去パートがあり、そこで出現するヒロインたちにまつわる選択肢の結果によって各シナリオ(現在パート)に分岐する(過去パートに登場しないヒロインもいる)。 壊滅的なNG選択は無く、文字通りノベル感覚で進行するが、本編の選択肢によっては後日談が始まらない、いわゆるバッドエンドが存在する(最初のスタッフロールが流れた後、メニュー画面へ戻ってしまう)。日和ルートのみ、他のヒロインとオープニングが一部異なっている。 PC初回プレス版では、ゲームをアンインストールする際、インストールしたディレクトリによってはハードディスクが初期化されてしまうという深刻なバグが報告されている(メーカーの公式サイトで修正差分が提供されている)。 声優表記はPC版・18禁OVA版/DC・PS2・全年齢OVA版の順。 PC版に準拠 各ヒロインをクリアすると、おまけの「After Story」にある「Afterえちぃ Story」の該当ヒロインCGがモノクロからカラーに変化して、アフターストーリーが選択出来るようになる。また「After Story」にある「OMAKE Story」にタイトルが表示され、おまけストーリーが選択出来るようになる。 おまけストーリーを1つクリアする毎に、次のおまけタイトルが追加される。表示されるタイトルは下記の通り。ただし最後の1つは雪希のアフターストーリーをクリアしないと表示されない。 「探偵片瀬健三郎。」というショートストーリーが収録されている。DC版では全2話だったが、PS2版で「探偵片瀬健三郎。Final〜最後の挑戦〜」が追加された。 ハードボイルドのようでナンセンスな筋書きの探偵ドラマであり、ヒヨリー、キヨカスキー、アサミーナ、シンドロポポフといった本編のヒロインによく似た人物が登場する。 2002年と2005年、および2008年にDVD-ROM版が、ねこねこソフトの通販限定で発売されている(2002年版と2005年版は販売終了)。以下の違いがある。 ねこねこソフトの代表作ともいえる本作品に登場したキャラクターは、後のねこねこソフト作品中においてアレンジされて登場している。 PC版『みずいろ』のアンケートハガキを送付したユーザーに対し、ねこねこソフトから各種コンテンツが収録されたCD-ROMが送付された。下記2種類の他に全部で8種類存在する。 最初に送付されたCD-ROM。CD-ROMのレーベルには「みずいろおかえしCDの巻」とあるが、プログラムタイトルおよびバージョン情報では「いつもありがとうCD みずいろの巻」となっている。コピーライトはねこねこ(はやぶさのけん)ソフト。収録内容は下記の通り。 メニューには表示されていないが、日和の壁紙2種、進藤の壁紙1種、および『銀色』のMADが収録されている。 「その1」が在庫切れになった後、送付されたCD-ROM。「その1」と異なり、アンケートハガキを送れば比較的後年まで入手できた。コピーライトはねこねこ(はかいのつるぎ)ソフト。収録内容は下記の通り。 メニューには表示されていないが、雪希の壁紙3種(エキスパート用、アウトロー専用、勇者専用)が収録されている。 2002年にピンクパイナップルから発売された18禁版(全2巻)と、2003年にムービックから発売された全年齢版(全2巻)の2種類がある。 本作は、アダルトゲーム雑誌「BugBug」に掲載された201年分の年間セールスランキングにおいて11位にランクインした。 本作は、美少女ゲーム雑誌BugBugの「2001年読者が選ぶ美少女ゲーム年間ランキング」の複数の部門において10位以内に選ばれた。キャラクター部門以外は右表の通り。 同誌の2002年4月号に掲載された企画「言いたいホーダイ2001年 編集部秘座談会」においては、ランキング内容に関する分析が行われており、ストーリーが良かったからこそ総合部門で上位10位にランクインしたいう声が挙がった一方、「開発側が登場人物全員をしっかり作ったために人気が分散してしまい、キャラクター部門では上位に上がってこなかったのではないか」という指摘も寄せられた。 BugBugの2022年のアンケート「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」において、9位となった。 IGNの歐陽宇亮は、本作について、キャラクターデザインの秀逸さと、軽快なシナリオ、さらには恋愛風景の多様性を評価した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『みずいろ』は、2001年4月13日にねこねこソフトから発売されたWindows用アダルトゲームである。また2002年6月と2005年11月及び2008年11月にはパッケージおよびメディアをDVD-ROM仕様に変更して再発売されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "後にNECインターチャネルから、2002年3月7日にはドリームキャスト版が、同年12月26日にはPlayStation 2版がそれぞれ発売され、2004年12月22日にはPS2ベスト版が発売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "またOVA(18禁版と全年齢版の2種類)およびドラマCDも発売されている(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本作は、前作『銀色』から一転した明るいコメディ作品であり、キャラクター設定やグラフィックにおいては「萌え」を重視した内容となっている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作は、タイトルの通り「みずいろ」にまつわるエピソードをノベル形式で収録。最初に主人公たちの子供時代を描いた過去パートがあり、そこで出現するヒロインたちにまつわる選択肢の結果によって各シナリオ(現在パート)に分岐する(過去パートに登場しないヒロインもいる)。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "壊滅的なNG選択は無く、文字通りノベル感覚で進行するが、本編の選択肢によっては後日談が始まらない、いわゆるバッドエンドが存在する(最初のスタッフロールが流れた後、メニュー画面へ戻ってしまう)。日和ルートのみ、他のヒロインとオープニングが一部異なっている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "PC初回プレス版では、ゲームをアンインストールする際、インストールしたディレクトリによってはハードディスクが初期化されてしまうという深刻なバグが報告されている(メーカーの公式サイトで修正差分が提供されている)。", "title": "不具合" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "声優表記はPC版・18禁OVA版/DC・PS2・全年齢OVA版の順。", "title": "主な登場人物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "PC版に準拠", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "各ヒロインをクリアすると、おまけの「After Story」にある「Afterえちぃ Story」の該当ヒロインCGがモノクロからカラーに変化して、アフターストーリーが選択出来るようになる。また「After Story」にある「OMAKE Story」にタイトルが表示され、おまけストーリーが選択出来るようになる。", "title": "おまけ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "おまけストーリーを1つクリアする毎に、次のおまけタイトルが追加される。表示されるタイトルは下記の通り。ただし最後の1つは雪希のアフターストーリーをクリアしないと表示されない。", "title": "おまけ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「探偵片瀬健三郎。」というショートストーリーが収録されている。DC版では全2話だったが、PS2版で「探偵片瀬健三郎。Final〜最後の挑戦〜」が追加された。", "title": "おまけ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ハードボイルドのようでナンセンスな筋書きの探偵ドラマであり、ヒヨリー、キヨカスキー、アサミーナ、シンドロポポフといった本編のヒロインによく似た人物が登場する。", "title": "おまけ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2002年と2005年、および2008年にDVD-ROM版が、ねこねこソフトの通販限定で発売されている(2002年版と2005年版は販売終了)。以下の違いがある。", "title": "DVD-ROM版" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ねこねこソフトの代表作ともいえる本作品に登場したキャラクターは、後のねこねこソフト作品中においてアレンジされて登場している。", "title": "派生キャラクター" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "PC版『みずいろ』のアンケートハガキを送付したユーザーに対し、ねこねこソフトから各種コンテンツが収録されたCD-ROMが送付された。下記2種類の他に全部で8種類存在する。", "title": "CD" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "最初に送付されたCD-ROM。CD-ROMのレーベルには「みずいろおかえしCDの巻」とあるが、プログラムタイトルおよびバージョン情報では「いつもありがとうCD みずいろの巻」となっている。コピーライトはねこねこ(はやぶさのけん)ソフト。収録内容は下記の通り。", "title": "CD" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "メニューには表示されていないが、日和の壁紙2種、進藤の壁紙1種、および『銀色』のMADが収録されている。", "title": "CD" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「その1」が在庫切れになった後、送付されたCD-ROM。「その1」と異なり、アンケートハガキを送れば比較的後年まで入手できた。コピーライトはねこねこ(はかいのつるぎ)ソフト。収録内容は下記の通り。", "title": "CD" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "メニューには表示されていないが、雪希の壁紙3種(エキスパート用、アウトロー専用、勇者専用)が収録されている。", "title": "CD" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2002年にピンクパイナップルから発売された18禁版(全2巻)と、2003年にムービックから発売された全年齢版(全2巻)の2種類がある。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "本作は、アダルトゲーム雑誌「BugBug」に掲載された201年分の年間セールスランキングにおいて11位にランクインした。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "本作は、美少女ゲーム雑誌BugBugの「2001年読者が選ぶ美少女ゲーム年間ランキング」の複数の部門において10位以内に選ばれた。キャラクター部門以外は右表の通り。 同誌の2002年4月号に掲載された企画「言いたいホーダイ2001年 編集部秘座談会」においては、ランキング内容に関する分析が行われており、ストーリーが良かったからこそ総合部門で上位10位にランクインしたいう声が挙がった一方、「開発側が登場人物全員をしっかり作ったために人気が分散してしまい、キャラクター部門では上位に上がってこなかったのではないか」という指摘も寄せられた。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "BugBugの2022年のアンケート「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」において、9位となった。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "IGNの歐陽宇亮は、本作について、キャラクターデザインの秀逸さと、軽快なシナリオ、さらには恋愛風景の多様性を評価した。", "title": "反響" } ]
『みずいろ』は、2001年4月13日にねこねこソフトから発売されたWindows用アダルトゲームである。また2002年6月と2005年11月及び2008年11月にはパッケージおよびメディアをDVD-ROM仕様に変更して再発売されている。 後にNECインターチャネルから、2002年3月7日にはドリームキャスト版が、同年12月26日にはPlayStation 2版がそれぞれ発売され、2004年12月22日にはPS2ベスト版が発売された。 またOVA(18禁版と全年齢版の2種類)およびドラマCDも発売されている(後述)。
{{Otheruses|ゲームソフトの「みずいろ」およびそれを原作とする[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]|色の一種の「水色」|水色}} {{出典の明記|date=2016-01-24}} {{Infobox animanga/Header2}} {{Infobox animanga/Game |タイトル= みずいろ |対応機種= [[Windows 9x系|Windows 95/98/Me]]<br/>[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]/[[Microsoft Windows XP|XP]](2005年版・2008年版)<br/>[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]](2008年版・ダウンロード版)<br/>[[ドリームキャスト]](以下:DC)<br/>[[PlayStation 2]](以下:PS2) |発売元= ねこねこソフト(PC)<br/>NECインターチャネル(DC、PS2) |発売日= 2001年4月13日(CD-ROM版)<br/>2002年3月7日(DC)<br/>2002年6月1日(DVD-ROM版)<br/>2002年12月26日(PS2)<br/>2004年12月22日(PS2ベスト版)<br/>2005年11月15日(DVD-ROM再版)<br/>2008年11月30日(DVD-ROM再々版)<br/>2009年10月9日(ダウンロード版) |ジャンル= [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]] |レイティング= 18禁(PC)<br/>全年齢対象(DC、PS2)<br/>[[CEROレーティング12才以上対象ソフトの一覧|CERO12]](PS2ベスト版) |キャラクター名設定= 可(名字は固定) |エンディング数= 5(PC)、7(DC、PS2) |セーブファイル数= 20 |メディア= CD-ROM3枚(CD-ROM版)<br/>GD-ROM1枚(DC)<br/>DVD-ROM1枚(DVD-ROM版、PS2) |ゲームエンジン= [[NScripter]](PC) |修正パッチ= あり |開発元= [[ねこねこソフト]](PC)<br/>[[NECインターチャネル]]/[[ヒューネックス|HuneX]](DC、PS2) |画面サイズ= 640×480 |全画面表示モード= あり |音楽フォーマット= [[CD-DA]](CD-ROM版)<br />[[WAV|WAVE]](DVD-ROM版) |キャラクターボイス= ヒロイン及び一部女性キャラのみフルボイス |CGモード= あり |音楽モード= あり |回想モード= あり |メッセージスキップ= 全文(DC、PS2)、既読 |オートモード= あり |その他= (同梱物)<br/>PC初回版:ねこ缶3<br />PC通常版:マウスパッド<br />DC限定版:オリジナルテレカ、ねこ缶DC味 }} {{Infobox animanga/Footer}} 『'''みずいろ'''』は、[[2001年]][[4月13日]]に[[ねこねこソフト]]から発売された[[Microsoft Windows|Windows]]用[[アダルトゲーム]]である。また[[2002年]]6月と[[2005年]]11月及び[[2008年]]11月にはパッケージおよびメディアをDVD-ROM仕様に変更して再発売されている。 後に[[インターチャネル・ホロン|NECインターチャネル]]から、2002年3月7日には[[ドリームキャスト]]版が、同年12月26日には[[PlayStation 2]]版がそれぞれ発売され、2004年12月22日にはPS2ベスト版が発売された。 また[[OVA]](18禁版と全年齢版の2種類)および[[ドラマCD]]も発売されている(後述)。 == 内容 == 本作は、前作『[[銀色 (ゲーム)|銀色]]』から一転した明るいコメディ作品であり、キャラクター設定やグラフィックにおいては「[[萌え]]」を重視した内容となっている{{R|BugBug2001Rank}}。 === システム === 本作は、タイトルの通り「みずいろ」にまつわるエピソードをノベル形式で収録。最初に主人公たちの子供時代を描いた過去パートがあり、そこで出現するヒロインたちにまつわる選択肢の結果によって各シナリオ(現在パート)に分岐する(過去パートに登場しないヒロインもいる)。 壊滅的なNG選択は無く、文字通りノベル感覚で進行するが、本編の選択肢によっては後日談が始まらない、いわゆるバッドエンドが存在する(最初のスタッフロールが流れた後、メニュー画面へ戻ってしまう)。<!-- PC版で確認。全キャラ存在します -->日和ルートのみ、他のヒロインとオープニングが一部異なっている。<!-- PC版でのみ確認。他機種でも同様 --> == 不具合 == PC初回プレス版では、ゲームをアンインストールする際、インストールしたディレクトリによってはハードディスクが初期化されてしまうという深刻なバグが報告されている(メーカーの公式サイトで修正差分が提供されている)。 == コンシューマ版での変更点 == * 新ヒロインの石川冬佳が登場。 * PC版と同じ日和ルートのほかに、まったく異なる内容の新日和ルートが追加。 * Hシーンが削除され、代わりに新イベントおよび新CGが追加されている。 * 選択肢アイコンが追加され、ヒロインアイコンの表情の変化により、ヒロインルートおよび選択肢の重要性が判断できる。 * DC版、PS2版はそれぞれPC版とは異なるオープニングを採用している。 == 主な登場人物 == [[声優]]表記はPC版・18禁OVA版/DC・PS2・全年齢OVA版の順。 <!-- 主な登場人物であり、攻略対象キャラではありません --> ; 片瀬 健二(かたせ けんじ) : 声:[[高橋あきお]](ドラマCD) / [[喜安浩平]](OVA) : 主人公(名前およびあだ名の変更可能)。身長175cm。 : 根は優しいのだが、女の子にはついいろいろひどいことをしてしまう。ゴーイングマイウェイな性格。 ; 片瀬 雪希(かたせ ゆき) : 声:[[綾川りの]] : [[5月7日]]生まれ。血液型はA型。身長151cm。スリーサイズはB80/W56/H81。 : 主人公の義妹。素直で健気な性格をしており、家事全般を笑顔でこなす。 : DC・PS2版の新日和ルートでは、同居している日和が家事を引き受けてるため、料理が苦手である。 : エロゲー界[[シスターコンプレックス|シスコン]]対象キャラの代名詞にしてねこねこソフトの看板的なキャラクターであり、以後の同社ゲームソフトの大半にオマケとして彼女と義兄とのHシーンが収録されていた。 : 日和(まじかる☆ひよりん)に魔法少女の衣装を用意させられ、「魔法少女まじかる☆雪希ちゃん」として登場することもある。 ; 早坂 日和(はやさか ひより) : 声:[[籐野らん]] / [[後藤邑子]] : [[4月23日]]生まれ。血液型はO型。身長160cm。スリーサイズはB87/W58/H85。 : 主人公の幼馴染で、すぐ泣きすぐ笑いすぐこける。雪希とは姉妹の様に仲が良いが、主人公をめぐり微妙な三角関係を形成。「るんらら~」という謎の言葉が口癖。 : 基本的に近所に住んでいるが、日和ルートでのみ幼いころに引っ越している。またコンシューマ版では、訳あって片瀬家で主人公兄妹と一緒に暮らす「新日和ルート」が追加されており、そこでは料理が上手くなっていて、主人公のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。 : 日和ルートをクリアすると、タイトル画面のメニューが追加され、ショートストーリーがプレイ可能(一部のみ音声あり)。 : おかえしCDでは「魔法少女まじかる☆ひよりん」として活躍。 ; 小野崎 清香(おのさき きよか) : 声:[[上本のぞみ]] / [[河本明子]] : [[10月23日]]生まれ。血液型はA型。身長147cm。スリーサイズはB78/W55/H79。 : 主人公の幼馴染で同級生、口喧嘩友達。 : 毎年冬になると[[砂絵]]作成に没頭するが、なぜか完成させた事がない。 : あまり素直ではない性格をしており、優しく見守る母親になぜか辛くあたり、それを主人公に注意される。 :長い髪を巨大リボンでポニーテールにしている。リボンがX字状に見えることから、「巨大タケコプター」「サテライトキャノン」「巨大パラボラ」などと呼ばれることもある。また、「ねこねこファンディスク2」に収録された、同じ[[パートナーブランド]]の[[戯画 (ブランド)|戯画]]のヒット作「[[BALDR FORCE]]」のゲームシステムにねこねこソフトの歴代のキャラを組み合わせたゲーム、「バルドねこフォース」に登場した際は、サテライトキャノンが武器であった。 ; 神津 麻美(こうづ あさみ) : 声:[[堀奈生]] / [[佐久間紅美]] : [[8月3日]]生まれ。血液型はB型。身長167cm。スリーサイズはB92/W60/H87。 : 主人公の上級生。のんびりした性格をしており混雑する学食で食事をすることを夢見ている。 : 餅が大好きで「餅をあげる」と言えば、たいてい言うことを聞いてくれるほか、力うどんも好む。おっとりしているが、猫にまつわる悲しいトラウマを持つ。 : おかえしCD3では、まじかる☆ひよりんの魔法で3倍の速度と、明るい性格を獲得した。 ; 進藤 むつき(しんどう むつき) : 声:[[奥森香由]] / [[吉住梢]] : 青いショートヘアー。赤いリボンでカチューシャ風にまとめている。瞳は赤。 : [[8月14日]]生まれ。血液型はAB型。身長159cm。スリーサイズはB84/W57/H83。 : 顔はそっくりだが性格は正反対の双子の姉妹、さつきがいる。 ; 進藤 さつき(しんどう さつき) : 声:奥森香由 / 吉住梢 : 青いショートヘアー。瞳は赤。ほぼむつきと同じ外見であるが、髪は特にまとめてはいない。 : [[8月14日]]生まれ。血液型はAB型。身長159cm。スリーサイズはB84/W57/H83。 : 「進藤ルート」でのみ姉の「進藤むつき」と偽って登場する(ただし、主人公に対してのみ)。 : 主人公の想い人である姉の「進藤むつき」を演じるうちに、本来とは正反対な主人公への想いを胸に秘めた、一途で健気な少女へと変貌した。通称「'''おとな進藤'''」。 : 「進藤ルート」以外で登場するむつきの妹(むつきは全寮制の女子校に通っている設定)。 : 雪希のクラスメイトであり、ハイテンションなマシンガントークを得意とする活発な少女。通称「'''やかま進藤'''」。 : 本編では下の名前が明らかではなく、ファンが開設した進藤FCサイトで行われた投票案の中から“さつき”の名前が公認された<ref name="fanbook">公式ビジュアルファンブックのスタッフインタビューによる。</ref>。その後、おかえしCD3において作られた『やかま進藤の攻略ルート』において「さつき」の名が明言された。このルートでの進藤姉妹の髪型は、むつきはセミロングに、さつきはショートヘアーになっている。 : 毎日余計なことをいっては、主人公の攻撃(チョップ)で倒されるのが定番パターン。しかし、主人公に対して一途なのは、おとな進藤の時と同じで、自身以外のほとんどのルートでも主人公に好意を寄せていることが分かる。また、恋に恋する少女らしく、恋愛ドラマを見て「私もあんな恋がしてみたい」と語っている。 : インパクトの強いキャラであり、ねこねこソフトの宣伝担当と言ってもいいほどあちこちに顔を出している。他作品のおまけや、おかえしCDなどへの出演数もトップ級であり、単に進藤と言うとさつきを指す。 : ドラマCD内では、まじかる☆ひよりんによって落ちとして最後に攻撃されてしまう他、「魔法少女まじかる☆シンドリッタ」にさせられたこともある。 : また、「夏はマシンガン」「冬もマシンガン」という、マシンガントークでひたすら喋るキャラクターソングを持つ。 : コンシューマ版の新日和ルートでは「やかま」と「おとな」の中間ぐらいのごく普通の女の子として登場している。 : ちなみに「ねこねこファンディスク2」に収録された、「バルドねこフォース」に登場した際は、サブマシンガンという武器が「やかマシンガン」に変更されていた。 ; 石川 冬佳(いしかわ ふゆか) : 声:登場なし / [[根谷美智子]] : [[1月14日]]生まれ。血液型はAB型。身長164cm。スリーサイズはB85/W56/H84。 : コンシューマ版での追加ヒロインであり、主人公の家庭教師となった大学一年生。落ち着いた物腰で論理的な思考を振りかざす。厳しい物言いは時として嫌われやすいが、本人はあまり周囲の目を気にしていない。 : トラウマにより、他人を信じられずにいる。 ; 小野崎ゆかり(おのさき ゆかり) : 声:橘律香<ref>「フル・オリジナル・キャストにドラマCD化」と帯に記載されるABSORD MUSIC JAPAN版ドラマCDのクレジットより</ref> / [[永見はるか]] : 小野崎清香の母親で、清香ママと呼ばれることもある。清香との関係が上手くいっていないが、それには理由がある。見た目が凄く若い。 : 名前は初期設定で存在していたが<ref name="fanbook" />、PC版では未使用。パラダイムノベルズの『みずいろ』ノベライズ版、移植されたコンシューマ版では正式に採用されている。 == 主題歌 == * 主題歌「'''みずいろ'''」 ** 作詞:片岡とも / 作曲・編曲:河辺建宏 / 歌:[[佐藤ひろ美|佐藤裕美]](現:佐藤ひろ美) * 挿入歌「'''ごめんね…'''」 ** 作詞:片岡とも / 作曲・編曲:河辺建宏 / 歌:佐藤裕美 * コンシューマ版挿入歌「'''Smile'''」 ** 作詞:東トナタ / 作曲・編曲:河辺健宏 / 歌:佐藤裕美 == スタッフ == PC版に準拠 * 原画:[[秋乃武彦]]、[[ねこにゃん]]、綾瀬悠、葵渚 * シナリオ:[[片岡とも]](日和)、米村順一 * 音楽:CATS、リメイン、SoundUnion(ebi) * プログラム:[[高橋直樹 (シナリオライター)|高橋直樹]] * スクリプト:ぶぐつ(ぶぐつの部屋)、高嶋栄二 * ディレクター:片岡とも * プロデューサー:せいやん == おまけ == === PC版 === 各ヒロインをクリアすると、おまけの「After Story」にある「Afterえちぃ Story」の該当ヒロインCGがモノクロからカラーに変化して、[[アフターストーリー]]が選択出来るようになる。また「After Story」にある「OMAKE Story」にタイトルが表示され、おまけストーリーが選択出来るようになる。 おまけストーリーを1つクリアする毎に、次のおまけタイトルが追加される。表示されるタイトルは下記の通り。ただし最後の1つは雪希のアフターストーリーをクリアしないと表示されない。 ; スピードワンボックス財団 :『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』のパロディ。[[荒木飛呂彦]]風のキャラクターが登場する。父の経営する喫茶店「スピードワンボックス」でバイトに励む、幽波紋使い・篠崎(ジョンスタァ)あやめのショートストーリー。音声なし。 ; 湯けむりOL旅情はぐれグルメ三毛猫家政婦は見た殺人事件 : 『[[ポートピア連続殺人事件]]』のパロディゲーム。ファミコン版の画面および効果音をほぼ忠実に再現している。テキストはひらがなおよびカタカナのみを使用。音声なし。 ; 白2 : ショートストーリー。朝、日和と会話する主人公。自販機で購入したジュースのお釣りで会話が弾む。タイトルの意味はシナリオを最後まで進めると判明する。ヒロインのみ音声あり。 ; 哭きのユキえもん : ショートストーリー。麻雀で先輩と進藤に大負けしたひよりんが、雪希えもんを連れて再戦する。一部音声あり。 ; エリコ ○6才 : 雪希ルートのアフターストーリー続編。タイトルをクリックすると現れる「ムーンゲート」を選択する事によりプレイする。エリ子○6才シリーズ「『エリ子○6才(主演)』〜初めてのエプロン〜」のビデオを主人公に騙されて見せられた雪希が裸エプロンでエッチする。音声なし。 === コンシューマ版 === 「探偵片瀬健三郎。」というショートストーリーが収録されている。DC版では全2話だったが、PS2版で「探偵片瀬健三郎。Final〜最後の挑戦〜」が追加された。 ハードボイルドのようでナンセンスな筋書きの探偵ドラマであり、ヒヨリー、キヨカスキー、アサミーナ、シンドロポポフといった本編のヒロインによく似た人物が登場する。 == DVD-ROM版 == 2002年と2005年、および2008年にDVD-ROM版が、ねこねこソフトの通販限定で発売されている(2002年版と2005年版は販売終了)。以下の違いがある。 ; 2002年版 :* パッケージ表面イラストはCD-ROM初回版パッケージ表面と同一イラストの日和を使用。 :* パッケージ裏面および裏[[ディスクジャケット|ジャケット]]のイラストは雪希を使用。 :* 対応機種はCD-ROM版と同一。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]/[[Microsoft Windows XP|XP]]でも稼動するが、メーカー正式サポート対象外(マニュアルに記載)。 :* CD-ROM版と比較して、シナリオの文法表現が一部修正されている。 ; 2005年版 :* パッケージ表面および裏ジャケットのイラストは新規描き下ろしの雪希を使用。 :* パッケージ裏面イラストはCD-ROM初回版パッケージ表面と同一デザインが使用されている。 :* Windows 2000/XPに正式対応し、[[microsoft Windows 95|Windows 95]]は動作対象外(本体プログラムおよび誤字修正以外は2002年版と同一)。なお、[[NScripter]]がXP対応版に変更されたため、2002年版とセーブデータに互換性は無い。 :* DVD-ROMメディアが、雪希のイラストを使用したカラーレーベルに変更されている。 :* 2002年版以降に発売された商品の差分パッチファイルを追加収録している。 :* 通販特典として雪希のイラストを使用したテレカが付属。 ; 2008年版 :* パッケージは2002年版と同一。DVD-ROMメディアは2005年版と同一デザインだが、Windows Vistaに正式対応している。 == 派生キャラクター == ねこねこソフトの代表作ともいえる本作品に登場したキャラクターは、後のねこねこソフト作品中においてアレンジされて登場している。 ; まじかる☆ひよりん : 早坂日和が[[魔法少女]]に変身(自称)した姿。「困った、困った」と言っていると、どこからともなく「'''お困りですか〜?'''」と言いつつ出現する。 : 本人は魔法少女として困った人を助けるつもりなのだが、あまり魔法が使えないばかりか、かえって相手を困らせる結果になる。 : 魔法の呪文は「ぴんぷるぱんぷる ろりぽっぷん まじかる まじかる るんらら〜 そ〜れ、にゃう〜ん」である。 : なお類似のキャラクターとして、'''まじかる☆雪希ちゃん'''(片瀬雪希)・'''まじかる☆シンドリッタ'''(やかま進藤)もいる。雪希ちゃんは魔法の力を使うが、シンドリッタは'''体を張って'''問題を解決しようとする。 : 弟子に'''まじかる☆ガンダルフ(16歳)'''がいる。しかしながら、ガンダルフはスタッフルームなどに登場するのみでひよりんと直接絡んだことはない。 : 2010年7月15日に公開された「おかえしCDvol.7くらい」では、ひよりん門下の弟子達が紹介され、ガンダルフはひよりん師匠の一番弟子と表記されていた。 : さらにねこねこソフトの[[麻雀 (ねこねこソフト)|麻雀]]では、『[[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]]』の近衛七海に魔法少女の素質があることが判明、'''まじかる☆ナナミー'''の姿が見られる。 ; メカ進藤 : やかま進藤を模した、手乗りサイズのメカ。マッサージ機能つき。ねこねこソフトのサイトの4コマ漫画の「諸葛瑾」の第2回目にて初登場。 : [[ソフトバンク]]地下300mの秘密工場で作られているという。 ; ひよりん部長 : 「まじかる☆ひよりん」を[[デフォルメ]]した[[ぬいぐるみ]]。販売促進や[[コミックマーケット|コミケ]]などのイベントに登場し、汚れるとエステに行く(クリーニングに出される)。[[コットンソフト]]と『[[せいやん・YURIAの 美少女ゲームは嫌い]]♥』のイベントにも登場している。UFOキャッチャー人形サイズの「ひよりん秘書」もいる。 : 偽部長と呼ばれる、ひよりん部長そっくりだが目つきが悪いぬいぐるみも後になって登場した。ひよりん部長と同じく販売促進やコミケなどのイベントに登場したが、ねこねこソフトとしての最後のコミケであるコミックマーケット70でお嫁に行った(ブース前でのじゃんけん大会で勝ち残った一般参加の女性にプレゼントされた)ため、コットンソフトなどのイベントには登場していない。 : 偽部長がコミケ76のねこねこソフトのブースにて展示されていた。 == CD == === おかえしCD === PC版『みずいろ』のアンケートハガキを送付したユーザーに対し、ねこねこソフトから各種コンテンツが収録されたCD-ROMが送付された。下記2種類の他に全部で8種類存在する。 ==== みずいろおかえしCD その1 ==== 最初に送付されたCD-ROM。CD-ROMのレーベルには「みずいろおかえしCDの巻」とあるが、プログラムタイトルおよびバージョン情報では「いつもありがとうCD みずいろの巻」となっている。コピーライトはねこねこ(はやぶさのけん)ソフト。収録内容は下記の通り。 ; せつめい : 雪希による、CD収録の差分ファイルの説明。『みずいろ』、『銀色』、『White 〜セツナサのカケラ〜』の3種についてゲーム画面に準じた形式で表示する。音声なし。 ; はなくまちょう : 正式名称「ながいたいとるでよみにくいだろうけどがんばってよむんださつじんじけん」。『みずいろ』のおまけストーリー「湯けむりOL旅情はぐれグルメ三毛猫家政婦は見た殺人事件」と同様の内容だが、より理不尽なシナリオになっている。 ; 野武士 : ねこねこソフトのウェブサイトに掲載されていた4コマ漫画を再収録したもの。不足分あり。 ; ほりーゆーじを倒せ : 『[[ドラゴンクエストII 悪霊の神々]]』のパロディゲーム。フィールド画面はファミコン版に準じ、サウンドおよび効果音もそれらしく再現している。戦闘画面のみ、一部音声あり。 ; 水色の土曜日 : 日和ルートのアフターストーリー。日和と健二が遊園地でデートする模様を描く。ヒロインのみ音声あり。 ; ユキちゃん○6才 : 雪希ルートのアナザーストーリー。エリ子○6才シリーズのレアアイテム「エリにょ○6才!」のビデオを健二に騙されて見せられた雪希が「[[デ・ジ・キャラット|デジにょ]]」コスプレにさせられてエッチする。ヒロインのみ音声あり。 メニューには表示されていないが、日和の壁紙2種、進藤の壁紙1種、および『銀色』のMADが収録されている。 ==== みずいろおかえしCD その2 ==== 「その1」が在庫切れになった後、送付されたCD-ROM。「その1」と異なり、アンケートハガキを送れば比較的後年まで入手できた。コピーライトはねこねこ(はかいのつるぎ)ソフト。収録内容は下記の通り。 ; かいせつ : 日和による、CD収録コンテンツの解説。ゲーム画面に準じた形式で表示する。音声あり(なぜか棒読み口調)。 ; ユキちゃん○6才 : 雪希ルートのアナザーストーリー。エリ子○6才シリーズ中、一際マニアックでレアな「ミニスカ婦警さん2001」のビデオを健二に隠れて見ていた雪希が「ミニスカ」コスプレにさせられてエッチする。ヒロインのみ音声あり。 ; ねーちんドラマCD : 全8話。「ねーちん 前半」4話および「ねーちん 後半」4話で構成。 :* 「ねーちん 前半」- ショッピンクを楽しんでいた健二と雪希。ふと立ち寄った大正風の食堂で、雪希はウェイトレスから「朝奈」と呼ばれて詰問される。 :* 「ねーちん 後半」- 「佐々井亭」から逃げ帰った夕食時、健二と雪希の二人で食事を行おうとしていた片瀬家に、雪希を「朝奈」と呼ぶ女性が訪問する。 :* 各話タイトル(タイトルとドラマCDの内容には一切関連は無い) :** 第一話 桃源の誓い :** 第二話 虎牢関の戦い :** 第三話 三顧の礼 :** 第四話 赤壁の戦い :** 第五話 漢中王劉備 :** 第六話 関羽の不覚 :** 第七話 孔明南蛮行 :** 最終話 五丈原の戦い メニューには表示されていないが、雪希の壁紙3種(エキスパート用、アウトロー専用、勇者専用)が収録されている。 === ドラマCD === ; ABSORD MUSIC JAPAN版 : PC版の声優陣に加え、片瀬健二役として[[高橋あきお]]が起用された。末尾には、声優陣のフリートーク付き。 :* みずいろ ドラマCD(ABCA-76、[[2001年]][[6月27日]]発売) :*: 人格交換もの。日和と進藤、雪希と清香が入れ替わってしまう。清香の母親役として[[橘律花]]が参加している。 :* みずいろ ドラマCD Vol.2(ABCA-85、2001年[[11月29日]]発売) :*: ミステリー仕立て。麻美の別荘に招かれ、雷雨の中、古びた別荘に泊まる一同。しかし、到着早々に進藤が、そして麻美が……と殺されていく。 ; ムービック版 : こちらはシリアスなストーリーとなっている。雪希、日和メインがそれぞれ1巻ずつ、また雪希・日和・進藤・清香・麻美の、雨にまつわるショートエピソード集が1巻。 : 各巻とも初回限定版と通常版があり、初回限定版にはボーナストラックとして声優のコメントが収録されている。 :* ドラマCD みずいろ 片瀬雪希編(MACP-1011、[[2002年]][[12月21日]]発売) :* ドラマCD みずいろ 早坂日和編(MACP-1012、[[2003年]][[1月24日]]発売) :* ドラマCD みずいろ ショートエピソード・あめのちはれ(MACP-1013、2003年[[4月26日]]発売) ; ねこねこソフト版 : [[コミックマーケット]]出展時に販売された限定品。 :* まじかる☆雪希ちゃん(2002年8月、コミックマーケット62) :* ねこクリスマス(2002年12月、コミックマーケット63) :* まじかる☆シンドリッタ(2003年12月、コミックマーケット65) === サウンドトラック === ;みずいろ オリジナルサウンドトラック :2001年05月23日発売 == OVA == {{Infobox animanga/Header2}} {{Infobox animanga/OVA |タイトル=みずいろ(18禁版) |原作=ねこねこソフト |監督=栗井重紀 |脚本=立花ユウ |キャラクターデザイン=樋渡琴 |音楽=[[修羅徹]] |アニメーション制作=[[アームス]] |製作=ピンクパイナップル |開始=2002年8月23日 |終了=2002年12月6日 |話数=全2話 |その他=第一期初回限定版特典・スタンド付ピクチャーCD<br />第二期初回限定版特典:ねこヌクヌク缶・おまけCD }} {{Infobox animanga/OVA |タイトル=みずいろ(全年齢版) |原作=ねこねこソフト |監督=井硲清高 |脚本=[[山口亮太]]、[[中村誠]] |キャラクターデザイン=[[倉嶋丈康]] |音楽=村山達哉 |アニメーション制作=[[オー・エル・エム|OLM]] |製作=ムービック・フロンティアワークス・パイオニアLDC |開始=2003年4月25日 |終了=2003年7月10日 |話数=全2話 |その他=第1巻初回限定版特典「OP&ED主題歌ヴォーカルCD」<br />第2巻初回限定版特典「オリジナルサウンドトラックCD」 }} {{Infobox animanga/Footer}} [[2002年]]に[[ピンクパイナップル]]から発売された18禁版(全2巻)と、[[2003年]]に[[ムービック]]から発売された全年齢版(全2巻)の2種類がある。 === 18禁版 === ; スタッフ :* 監督 - 栗井重紀 :* 脚本 - 立花ユウ :* キャラクターデザイン - 樋渡琴 :* 総作画監督 - 苑江高成 :* 音楽 - [[修羅徹]] :* プロデューサー - 織賀進 :* アニメーション制作 - [[アームス]] ; 主題歌 :; オープニング曲「わたしのそらのいろ」 :: 作詞 - 佐藤裕美 / 作曲 - 上松範康 / 歌 - 佐藤裕美 :; エンディング曲「こころのカケラ」 :: 作詞 - 佐藤裕美 / 作曲 - 藤間仁 / 歌 - 佐藤裕美 ; タイトル :* みずいろ 第一期〜雪希の章〜 :** 初回限定版DVD(KSXA54353)、通常版DVD(KSXA54331)、VHSの3種類を発売。 :** 2006年7月28日にはDVD廉価版(JDXA55803)が発売されている。 :* みずいろ 第二期〜日和の章〜 :** 初回限定版DVD(KSXA54354)、通常版DVD(KSXA54332)、VHSの3種類を発売。 :** 2006年7月28日にはDVD廉価版(JDXA55804)が発売されている。 === 全年齢版 === ; スタッフ :* 企画 - 及川武 :* 原作 - ねこねこソフト :* キャラクター原案 - 秋乃武彦 :* 監督 - 井硲清高 :* キャラクターデザイン - [[倉嶋丈康]] :* 美術監督 - 工藤ただし :* 色彩設計 - 佐藤和子 :* 撮影監督 - [[水谷貴哉]] :* 編集 - [[伊藤潤一]] :* 音楽 - 村山達哉 :* 音響監督 - [[渡辺淳 (音響監督)|渡辺淳]] :* 制作担当 - [[岩佐がく]] :* プロデューサー - [[中村誠 (脚本家)|中村誠]]、松永孝之 :* アニメーション・プロデューサー - [[神田修吉]] :* アニメーション制作 - [[オー・エル・エム|OLM TEAM IWASA]] :* 製作 - project みずいろ ; 主題歌 :; オープニング曲「空のつづき」 :: 作詞 - tomo / 作曲・編曲 - 西脇辰弥 / 歌 - 佐藤裕美 :; エンディング曲「やさしさの始まる場所」 :: 作詞 - tomo / 作曲・編曲 - 西脇辰弥 / 歌 - 佐藤裕美 ; 各巻リスト :{| class="wikitable" style="font-size:small" |- !巻数!!話数!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!DVD発売日!!MABP |- !第1巻 |第1話||[[山口亮太]]||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|井硲清高||[[倉嶋丈康]]||2003年4月25日||MABP-7008(初回)<br/>MABP-7010(通常) |- !第2巻 |第2話||[[中村誠 (脚本家)|中村誠]]||[[中村和久]]、[[東海林康和]]<br/>[[中田正彦]]、倉嶋丈康||2003年7月10日||MABP-7009(初回)<br/>MABP-7011(通常) |} == 書籍 == * 小説『みずいろ』([[パラダイム (出版社)|パラダイム]]刊)2001年10月1日 初版第1刷発行 ISBN 4-89490-122-6 ** ねこねこソフト / 原作、高橋恒星 / 著、[[秋乃武彦]] / 画 ** 各ヒロインのシナリオダイジェスト版が、章形式で収録されている。巻頭カラーページ以外の挿絵は描き下ろしイラストを使用。また、ゲーム本編には存在しない、AfterえちぃStory のサブタイトルが本作品では付けられている。 * 『みずいろビジュアルファンブックプレビュー』([[ソフトバンクパブリッシング]]) ** ソフトと同時発売。キャラクター紹介やその他ビジュアル素材を掲載。シートタイプマウスパッド(イラストデザイン:日和&雪希)が添付。 * 『みずいろ公式ビジュアルファンブック』(ソフトバンクパブリッシング)2001年8月31日 初版発行 ISBN 4-7973-1762-0 ** A4版サイズ全128ページ、フルカラー(一部モノクロ)。なお「進藤さつき」「小野崎ゆかり」の名前が公式に使われている最初の商品である。付録CDには清香ママ(小野崎ゆかり)ボイス用差分ファイルが収録されている(CD-ROM版用。DVD-ROM版は該当データ適用済)。 * 『みずいろ 公式しょんぼりガイド』(ソフトバンクパブリッシング)2002年3月28日 初版発行 ISBN 4-7973-1981-X ** ドリームキャスト版の攻略本。ボーカル5曲とドラマ5話を収録した「しょんぼりバラエティーCD」付き。 == 反響 == === 売り上げ === 本作は、アダルトゲーム雑誌「[[BugBug]]」に掲載された201年分の年間セールスランキングにおいて11位にランクインした<ref name="BugBug20210105">{{Cite news|url=https://bugbug.news/b_game/28501/|title=【BugBug CLASSICS】今から20年前・2001年のベスト美少女ゲームは!? 2002年4月号掲載「言いたいホーダイ2001年 編集部㊙座談会」後編|newspaper=bugbug.news|publisher=[[スコラマガジン]]|date=2021-01-05|accessdate=2021-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210108121814/https://bugbug.news/b_game/28448/|archivedate=2021-01-08}}</ref>。 === 読者投票 === {| class="wikitable" style="float:right; width:25em; font-size:80%; margin:5px; text-align:center" |+2001年読者が選ぶ美少女ゲーム年間ランキング(BugBug) !'''部門名''' !'''順位''' |- !総合 |8位<ref name="BugBug2001Rank">{{Cite web|和書|title=【BugBug CLASSICS】時代を超えた名作揃い!! 2002年4月号に掲載した名企画「言いたいホーダイ2001年 編集部㊙座談会」を復活紹介・前編|url=https://bugbug.news/b_game/28448/|website=bugbug.news|accessdate=2021-01-04|date=2021年1月4日}}</ref> |- <!--!シナリオ |不明<ref name="BugBug2001Rank" /> |- --> !グラフィック |10位<ref name="BugBug2001Rank" /> |- !サウンド |7位<ref name="BugBug2001Rank" /> |- !ゲーム性 |15位<ref name="BugBug2001Rank" /> |- !ヴォイス |5位<ref name="BugBug2001Rank" /> |} 本作は、美少女ゲーム雑誌[[BugBug]]の「2001年読者が選ぶ美少女ゲーム年間ランキング」の複数の部門において10位以内に選ばれた{{R|BugBug2001Rank}}。キャラクター部門以外は右表の通り。 同誌の2002年4月号に掲載された企画「言いたいホーダイ2001年 編集部㊙座談会」においては、ランキング内容に関する分析が行われており、ストーリーが良かったからこそ総合部門で上位10位にランクインしたいう声が挙がった一方、「開発側が登場人物全員をしっかり作ったために人気が分散してしまい、キャラクター部門では上位に上がってこなかったのではないか」という指摘も寄せられた{{R|BugBug2001Rank}}。 [[BugBug]]の2022年のアンケート「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」において、9位となった。<ref>{{Cite web|和書|title=【BugBug】「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」 3月号掲載の美少女ゲーム売上げランキング&1月号で募集した読者アンケート結果を大発表!! |url=https://bugbug.news/b_game/70693/|date=2022-03-02|accessdate=2022-03-09|publisher=[[BugBug]]}}</ref> === 評価 === IGNの歐陽宇亮は、本作について、キャラクターデザインの秀逸さと、軽快なシナリオ、さらには恋愛風景の多様性を評価した<ref>{{Cite web|和書|title=香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第24回!増殖する乖離感の中で“老化”する亮ちゃん|url=https://jp.ign.com/hkgirlgamer/16567/feature/24|website=IGN Japan|date=2017-08-21|accessdate=2021-01-10|author=歐陽宇亮}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.din.or.jp/~nekoneko/ ねこねこソフト 公式サイト] - (PC版発売元:18禁) * [http://www.gungho.jp/cgame/game/mizuiro/ みずいろ] - [[ガンホー・ワークス]]によるPlayStation 2版商品紹介ページ * [https://web.archive.org/web/20150410061005/http://sega.jp/dc/020206/home.shtml みずいろ] {{ja icon}} - 株式会社[[セガ]]によるドリームキャスト版製品情報ページ(インターネットアーカイブ2015年4月10日分キャッシュ) * {{ann|anime|2528|みずいろ(OVA版)}} {{ねこねこソフト}} {{OLM}} {{アームス}} {{Adultgame-stub}} {{Videogame-stub}} {{Anime-stub}} {{DEFAULTSORT:みすいろ}} [[Category:ねこねこソフト]] [[Category:インターチャネルのゲームソフト]] [[Category:ドリームキャスト用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:美少女ゲーム]] [[Category:恋愛アドベンチャーゲーム]] [[Category:2001年のアダルトゲーム]] [[Category:2002年のコンピュータゲーム]] [[Category:NScripter製ゲーム]] [[Category:埼玉県を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:アニメ作品 み|すいろ]] [[Category:2002年の成人向けOVA]] [[Category:OLMのアニメ作品]] [[Category:フロンティアワークスのアニメ作品]] [[Category:義兄弟姉妹の恋愛を扱ったコンピュータゲーム]] [[Category:埼玉県を舞台としたアニメ作品]]
2003-09-06T17:28:23Z
2023-11-16T06:12:19Z
false
false
false
[ "Template:Infobox animanga/Header2", "Template:Cite news", "Template:Ja icon", "Template:Anime-stub", "Template:ねこねこソフト", "Template:OLM", "Template:Adultgame-stub", "Template:Videogame-stub", "Template:Otheruses", "Template:Infobox animanga/Game", "Template:R", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Ann", "Template:アームス", "Template:出典の明記", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Infobox animanga/OVA" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%84%E3%82%8D
15,452
I've
I've(アイブ、アイヴ)は、北海道札幌市に本拠地を置く音楽制作プロダクション。雑誌媒体などでは音楽クリエイターチーム、サウンドチームと紹介されることが多い。 美少女ゲーム、テレビアニメ、映画などの主題歌やBGMを制作している他、所属ボーカリストのオリジナルCDやコンピレーションアルバムの発表、CMへの楽曲提供など幅広く活動している。また、外部のボーカリストやクリエイターとのコラボレーション活動、楽曲提供なども行っている。 I'veが手掛ける楽曲(I've Soundと呼ばれる)は主にトランスをベースとした打ち込みサウンドが多いが、クリエイターそれぞれが持つ個性と、タイアップ先の作品のイメージを尊重する手法によって、ポップな楽曲からハードなロックテイストの楽曲、ダンスチューン、バラードや電波ソングまで非常に幅広い楽曲を生み出している。I'veが音楽もしくは主題歌を担当したゲームのパッケージには、そのことを表すロゴマークが付くことがある。 NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンと提携しており、基本的に所属ボーカリストのシングルやアルバムといったメジャー流通のCDは同社からリリースしている。また、I'veの所属事務所でインディーズレーベルでもあるFUCTORY Recordsからリリースする作品も存在する。 結成初期からビジュアルアーツに所属しており、同社所属のゲームブランドへの楽曲提供は数多く行われている。FUCTORY Recordsがリリースする「I've Girls Compilation」シリーズなどのインディーズCDは、ビジュアルアーツのPC流通ルートを通して販売される。この場合、基本的にFUCTORY Recordsが担当するのはCD製作のみで、発売・販売元はビジュアルアーツとなる。また、コミックマーケットではビジュアルアーツのブースに出店している。 シングルなどは発売日予定日に発売されるが、アルバムは発売延期になることが多い。(例としてI'veのコンピレーションアルバム『COLLECTIVE』は6月発売予定が9月に延期、KOTOKOの3rdアルバム『UZU-MAKI』は11月発売予定が12月になったことがある。また、MELLのファーストアルバム『MELLSCOPE』は当初7月9日発売予定が8月6日に延期、更にその後8月20日に再延期となった。) 2008年からはiTunes Storeで楽曲配信もスタート。 各クリエイターやボーカリストの活動については個々のページを参照 I'veが活動を開始したのは1998年である。当初はI'veの名称は使われず、通信カラオケの音源制作や『Dancemania』シリーズの作曲などを手掛ける傍ら、北海道のゲームブランドに楽曲を提供していた。"I've"として結成された当時のメンバーは高瀬一矢、一法師康孝、中沢伴行、永田善也、板垣直基、三上誠一の6名。 I'veという名称は、1998年の秋に『Lips〜笑顔の行方〜』というPCゲームを制作しようとして、そのブランド名として使われたのが最初である。なお、結局このゲームは制作中止となり、世に出ることはなかった。1999年2月5日に発売されたPCゲーム『吐溜 -TRASH-』のエンディングテーマ2曲「FUCK ME」と「美しく生きたい」および同作品のBGMに、初めて"I've Sound"の表記が使われた。 高瀬一矢は稼ぐ手立てを得るために美少女ゲーム音楽への参入を決めたと2021年のCOSIOとのインタビューの中で話しており、当時のメンバーである三上誠一が自身とつながりのあったビジュアルアーツへ打診してはどうかと提案してきたことがきっかけであると振り返っている。その後、同社の社長の馬場隆博と電話でやり取りした後に、『Lips〜笑顔の行方〜』の企画書を送ったものの馬場にダメ出しされ、最終的に『吐溜 -TRASH-』を制作することになったという。 1999年6月4日にKeyより発売され大ヒットしたPCゲーム『Kanon』のオープニングテーマ「Last regrets」とエンディングテーマ「風の辿り着く場所」の編曲を高瀬一矢が担当。1999年12月24日に発表した初のコンピレーションアルバム『regret』に先の2曲が収録され、PCゲームファンの間でI'veの名が知られるようになる。以来、それまでにゲームに提供してきた楽曲の一部を、オリジナル曲やリミックス曲と共に「I've GIRL's COMPILATION」としてアルバムに収録して発表する、現在まで続くスタイルが確立される(#ディスコグラフィー参照)。 2002年にはテレビアニメ『おねがい☆ティーチャー』の主題歌とBGM、『シスター・プリンセス RePure』ストーリーズのBGMを担当。それによってアニメファンの間でもI'veの名が広がり始め、以来PCゲームのみならずテレビアニメにも楽曲を提供するようになる。また、この頃にはインターネット上を中心に"謎の音楽集団"と形容されるようになり、ファンによるウェブサイトが次々と開設され、I've Soundというブランドを確固たるものとしていた。 2003年11月27日、秋葉原アソビットシティにて、I'veとしての初イベントとなるアルバム『SHORT CIRCUIT』の発売記念イベントが開催された。このイベントには高瀬一矢、KOTOKO、詩月カオリが参加した。ライブイベントではなくトークイベントという形式で行われた。 2004年4月21日、ジェネオン エンタテインメント(現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)にてKOTOKOがアルバム『羽-hane-』でメジャーデビュー。続く2005年2月23日に、川田まみがシングル『radiance』で、同年3月16日には、島みやえい子がミニアルバム『ULYSSES』でメジャーデビュー。さらに2006年6月14日に、MELLがシングル『Red fraction』で、同年7月14日に、C.G mixがアルバム『in your life』で、2007年8月1日、詩月カオリがシングル『Shining stars bless☆』で次々とメジャーデビューを果たした。 2005年6月8日、I'veとしては初のコマーシャルソングを担当。タイアップ企業はドワンゴで、楽曲はKOTOKOの「421-a will-」が使用された。 2005年10月15日、日本武道館にて初のライブ『I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜』を開催。約7500人の観客を動員。2006年6月23日には、このライブの模様を収録したDVDを発売。しかし、このDVDは音声品質にクレームが相次ぎ、11月10日、そのクレームに対応する形で『I've in BUDOKAN 2005 〜COMPLETE EDIT〜』が発売されている。初版との交換も可能であったが、12月10日に店頭での交換期間が終了。 2007年4月21日、全国ロードショーされた劇場版アニメ『灼眼のシャナ』が公開された。その主題歌「天壌を翔る者たち」をI'veの女性ボーカリスト5名で結成されたスペシャルユニットLove Planet Fiveが担当。I've初の劇場映画作品への楽曲提供となった。 2007年7月14日から7月16日まで、アルバム『SHORT CIRCUIT II』の発売記念トーク&握手会を開催。14日は大阪・TBホール。15日は名古屋・スペースD。16日は東京・発明会館ホール。応募方法は前作『SHORT CIRCUIT』の発売記念イベントのように、整理券の配布はなく、『SHORT CIRCUIT II』に同封されていたハガキによる応募するという形になった。また、同年7月21日、限定ライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TOKYO』を「東京・新木場STUDIO COAST」にて開催。出演者はKOTOKOと詩月カオリの2名。 2008年2月2日、全国ロードショーにて映画『リアル鬼ごっこ』が公開され、その同名主題歌をKOTOKOが担当し、1月15日には完成試写会(於・スペースFS汐留)で舞台挨拶を行った。I've初の実写作品への楽曲提供となった。その後、川田まみが映画『お姉チャンバラ THE MOVIE』、島みやえい子が映画『ひぐらしのなく頃に』、MELLが映画『斬 〜KILL〜』の主題歌をそれぞれ担当している。 2008年7月19日、台湾の国立台湾芸術大学にてライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TAIWAN』を開催。 2008年9月24日、ジェネオン エンタテインメントより、メジャーにて初となるコンピレーションアルバム『master groove circle』を発売。これまでのコンピレーションアルバムとは違い、I'veがメジャーレーベルで発売した楽曲をDeep ForestやG.M.S.といったアーティスト(サイケデリックトランスのクリエイターが中心)がリミックスしたアルバムとなっている。 2009年1月1日、翌日のライブ『I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜』の前夜祭として『I've 10th Anniversary Museum in TOKYO FM HALL』が東京半蔵門・TOKYO FM HALLにて開催。 このイベントではI've所属のボーカリストたちの写真・衣装展示やプロモーションビデオ・メッセージ・ライブ映像の放映が行われた。 本イベントは、武道館前に特設テントを設置して開催される予定であったが、翌日の武道館ライブ設営のための重機や資材などを運び込む影響から直前に会場が変更された。 2009年1月2日、2度目の日本武道館ライブ公演『I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜』を開催。I'veが誕生して10周年を記念するイベント。ゲストとしてブルーマングループ、エリック・ムーケ、IKU、マーティ・フリードマン、森岡賢、田中"Machine"康治が登場した。 2009年3月25日、I've結成10周年を記念したスペシャルCDボックス『I've Sound 10th Anniversary 「Departed to the future」Special CD BOX』を発売。 2011年4月29日、Larval Stage Planningがシングル『君+謎+私でJUMP!!』にて大手レコード会社「Lantis」よりメジャーデビューを果たすことが発表された。I'veのボーカリストがジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン以外のレコード会社からメジャーデビューすることは、これが初となる。 2011年6月29日、島みやえい子が同日発売のベストアルバム『E.P.S -Eiko PRIMARY SELECTION-』の発売を以て、I'veを卒業。 2011年7月1日、I'veサウンド・クリエイターのオフィシャルファンクラブ「IVE's」が発足。 2011年8月1日、 KOTOKOがI'veより独立し、プライベートオフィスである合同会社Orpheecoへの移籍を発表した。 2012年6月29日、I've初のベストアルバム『G.C.BEST I've GIRL's COMPILATION BEST』と『オマイラBEST -SHORT CIRCUIT BEST-』を発売。収録曲はそれぞれ「I've GIRL's COMPILATION」と「SHORT CIRCUIT」のシリーズの中から、I've公式サイト上で行われたファン投票によって選抜された上位人気楽曲で構成された。 2012年7月29日、ビジュアルアーツ創立20周年を記念して横浜アリーナで開催されたライブイベント『ビジュアルアーツ大感謝祭LIVE 2012 in YOKOHAMA ARENA ~きみとかなでるあしたへのうた~』に出演。 2013年2月21日、詩月カオリがI've卒業を発表。 2013年3月20日、MELLが同日発売のベストアルバム『Entrust 〜the name of MELL〜』の発売を以て、I'veを卒業。同時に音楽活動を休止することを発表した。 2014年4月27日、幕張メッセ国際展示場で開催された『ニコニコ超会議3』内で実施された音楽ライブイベント『超音楽祭2014 ~超会議3~』にI've Special Unitとして出演。 2015年3月15日、I've結成15周年を記念した集大成ライブイベント『IVE RADICAL ENSEMBLE of 15th ANNIVERSARY』を東京ドームシティホールにて開催。それに合わせて、同ライブイベントに出演した歴代の女性ボーカリスト12名による、初の全曲書き下ろしの新曲を収録したコンピレーションアルバム『The Time 〜12 Colors〜』を年末のコミックマーケットにて発売。 2015年4月7日と2016年1月18日に、それぞれYouTubeとニコニコチャンネルにて公式動画配信チャンネル「IVE official Channel」を開設。 2016年1月24日、川田まみが年内での歌手活動引退を発表。これを以てI'veの活動初期から所属していた女性ボーカリストが全員卒業する形となった。 2017年8月1日、初期メンバーの一人である中沢伴行がI've卒業・独立を発表。 2018年2月3日、NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンがアニメ制作事業25周年を記念し、さいたまスーパーアリーナにて開催されたアニソン・ライブイベント『NBCUniversal ANIME×MUSIC FESTIVAL』にI've SPECIAL UNITとしてIKUと高瀬一矢が出演。 2019年1月1日、柚子乃が同年3月31日を以ってI've卒業を発表。 2019年7月31日、桐島愛里がアーティスト契約終了に伴いI'veを脱退。 2020年8月10日、Leinaが同年8月を以ってI've卒業を発表。 2021年4月、I've結成20周年を記念し、2012年12月を以って活動停止状態となっていたKOTOKOとI'veクリエイターによるパンク・ロックバンド"Outer"の復活が発表された。6月23日にはメジャーデビュー作品となる1stスタジオ・アルバム『Rebellious Easter』がNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売、7月4日には東京・豊洲PITにて一夜限りの復活ライブ『Outer one-night stand GIG "Rebellious Easter"』が開催された。 各ボーカリストのソロ活動のCDについてはそれぞれの項目を参照。ここではユニットやコンピレーションアルバム等のディスコグラフィーを掲載する。 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 発売元:ジェネオン エンタテインメント(現:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン) 発売元:ランティス 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン(現:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン) 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ 発売元:キングレコード 発売元:キングレコード オムニバス参加、発売元:コロムビアミュージックエンタテインメント ※発売元がビジュアルアーツの作品は、基本的にゲーム流通に乗るため、大手レコード店では販売されないので注意が必要。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "I've(アイブ、アイヴ)は、北海道札幌市に本拠地を置く音楽制作プロダクション。雑誌媒体などでは音楽クリエイターチーム、サウンドチームと紹介されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "美少女ゲーム、テレビアニメ、映画などの主題歌やBGMを制作している他、所属ボーカリストのオリジナルCDやコンピレーションアルバムの発表、CMへの楽曲提供など幅広く活動している。また、外部のボーカリストやクリエイターとのコラボレーション活動、楽曲提供なども行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "I'veが手掛ける楽曲(I've Soundと呼ばれる)は主にトランスをベースとした打ち込みサウンドが多いが、クリエイターそれぞれが持つ個性と、タイアップ先の作品のイメージを尊重する手法によって、ポップな楽曲からハードなロックテイストの楽曲、ダンスチューン、バラードや電波ソングまで非常に幅広い楽曲を生み出している。I'veが音楽もしくは主題歌を担当したゲームのパッケージには、そのことを表すロゴマークが付くことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンと提携しており、基本的に所属ボーカリストのシングルやアルバムといったメジャー流通のCDは同社からリリースしている。また、I'veの所属事務所でインディーズレーベルでもあるFUCTORY Recordsからリリースする作品も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "結成初期からビジュアルアーツに所属しており、同社所属のゲームブランドへの楽曲提供は数多く行われている。FUCTORY Recordsがリリースする「I've Girls Compilation」シリーズなどのインディーズCDは、ビジュアルアーツのPC流通ルートを通して販売される。この場合、基本的にFUCTORY Recordsが担当するのはCD製作のみで、発売・販売元はビジュアルアーツとなる。また、コミックマーケットではビジュアルアーツのブースに出店している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シングルなどは発売日予定日に発売されるが、アルバムは発売延期になることが多い。(例としてI'veのコンピレーションアルバム『COLLECTIVE』は6月発売予定が9月に延期、KOTOKOの3rdアルバム『UZU-MAKI』は11月発売予定が12月になったことがある。また、MELLのファーストアルバム『MELLSCOPE』は当初7月9日発売予定が8月6日に延期、更にその後8月20日に再延期となった。)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2008年からはiTunes Storeで楽曲配信もスタート。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各クリエイターやボーカリストの活動については個々のページを参照", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "I'veが活動を開始したのは1998年である。当初はI'veの名称は使われず、通信カラオケの音源制作や『Dancemania』シリーズの作曲などを手掛ける傍ら、北海道のゲームブランドに楽曲を提供していた。\"I've\"として結成された当時のメンバーは高瀬一矢、一法師康孝、中沢伴行、永田善也、板垣直基、三上誠一の6名。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "I'veという名称は、1998年の秋に『Lips〜笑顔の行方〜』というPCゲームを制作しようとして、そのブランド名として使われたのが最初である。なお、結局このゲームは制作中止となり、世に出ることはなかった。1999年2月5日に発売されたPCゲーム『吐溜 -TRASH-』のエンディングテーマ2曲「FUCK ME」と「美しく生きたい」および同作品のBGMに、初めて\"I've Sound\"の表記が使われた。 高瀬一矢は稼ぐ手立てを得るために美少女ゲーム音楽への参入を決めたと2021年のCOSIOとのインタビューの中で話しており、当時のメンバーである三上誠一が自身とつながりのあったビジュアルアーツへ打診してはどうかと提案してきたことがきっかけであると振り返っている。その後、同社の社長の馬場隆博と電話でやり取りした後に、『Lips〜笑顔の行方〜』の企画書を送ったものの馬場にダメ出しされ、最終的に『吐溜 -TRASH-』を制作することになったという。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1999年6月4日にKeyより発売され大ヒットしたPCゲーム『Kanon』のオープニングテーマ「Last regrets」とエンディングテーマ「風の辿り着く場所」の編曲を高瀬一矢が担当。1999年12月24日に発表した初のコンピレーションアルバム『regret』に先の2曲が収録され、PCゲームファンの間でI'veの名が知られるようになる。以来、それまでにゲームに提供してきた楽曲の一部を、オリジナル曲やリミックス曲と共に「I've GIRL's COMPILATION」としてアルバムに収録して発表する、現在まで続くスタイルが確立される(#ディスコグラフィー参照)。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2002年にはテレビアニメ『おねがい☆ティーチャー』の主題歌とBGM、『シスター・プリンセス RePure』ストーリーズのBGMを担当。それによってアニメファンの間でもI'veの名が広がり始め、以来PCゲームのみならずテレビアニメにも楽曲を提供するようになる。また、この頃にはインターネット上を中心に\"謎の音楽集団\"と形容されるようになり、ファンによるウェブサイトが次々と開設され、I've Soundというブランドを確固たるものとしていた。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2003年11月27日、秋葉原アソビットシティにて、I'veとしての初イベントとなるアルバム『SHORT CIRCUIT』の発売記念イベントが開催された。このイベントには高瀬一矢、KOTOKO、詩月カオリが参加した。ライブイベントではなくトークイベントという形式で行われた。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2004年4月21日、ジェネオン エンタテインメント(現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)にてKOTOKOがアルバム『羽-hane-』でメジャーデビュー。続く2005年2月23日に、川田まみがシングル『radiance』で、同年3月16日には、島みやえい子がミニアルバム『ULYSSES』でメジャーデビュー。さらに2006年6月14日に、MELLがシングル『Red fraction』で、同年7月14日に、C.G mixがアルバム『in your life』で、2007年8月1日、詩月カオリがシングル『Shining stars bless☆』で次々とメジャーデビューを果たした。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2005年6月8日、I'veとしては初のコマーシャルソングを担当。タイアップ企業はドワンゴで、楽曲はKOTOKOの「421-a will-」が使用された。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年10月15日、日本武道館にて初のライブ『I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜』を開催。約7500人の観客を動員。2006年6月23日には、このライブの模様を収録したDVDを発売。しかし、このDVDは音声品質にクレームが相次ぎ、11月10日、そのクレームに対応する形で『I've in BUDOKAN 2005 〜COMPLETE EDIT〜』が発売されている。初版との交換も可能であったが、12月10日に店頭での交換期間が終了。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2007年4月21日、全国ロードショーされた劇場版アニメ『灼眼のシャナ』が公開された。その主題歌「天壌を翔る者たち」をI'veの女性ボーカリスト5名で結成されたスペシャルユニットLove Planet Fiveが担当。I've初の劇場映画作品への楽曲提供となった。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年7月14日から7月16日まで、アルバム『SHORT CIRCUIT II』の発売記念トーク&握手会を開催。14日は大阪・TBホール。15日は名古屋・スペースD。16日は東京・発明会館ホール。応募方法は前作『SHORT CIRCUIT』の発売記念イベントのように、整理券の配布はなく、『SHORT CIRCUIT II』に同封されていたハガキによる応募するという形になった。また、同年7月21日、限定ライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TOKYO』を「東京・新木場STUDIO COAST」にて開催。出演者はKOTOKOと詩月カオリの2名。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2008年2月2日、全国ロードショーにて映画『リアル鬼ごっこ』が公開され、その同名主題歌をKOTOKOが担当し、1月15日には完成試写会(於・スペースFS汐留)で舞台挨拶を行った。I've初の実写作品への楽曲提供となった。その後、川田まみが映画『お姉チャンバラ THE MOVIE』、島みやえい子が映画『ひぐらしのなく頃に』、MELLが映画『斬 〜KILL〜』の主題歌をそれぞれ担当している。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2008年7月19日、台湾の国立台湾芸術大学にてライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TAIWAN』を開催。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2008年9月24日、ジェネオン エンタテインメントより、メジャーにて初となるコンピレーションアルバム『master groove circle』を発売。これまでのコンピレーションアルバムとは違い、I'veがメジャーレーベルで発売した楽曲をDeep ForestやG.M.S.といったアーティスト(サイケデリックトランスのクリエイターが中心)がリミックスしたアルバムとなっている。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2009年1月1日、翌日のライブ『I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜』の前夜祭として『I've 10th Anniversary Museum in TOKYO FM HALL』が東京半蔵門・TOKYO FM HALLにて開催。 このイベントではI've所属のボーカリストたちの写真・衣装展示やプロモーションビデオ・メッセージ・ライブ映像の放映が行われた。 本イベントは、武道館前に特設テントを設置して開催される予定であったが、翌日の武道館ライブ設営のための重機や資材などを運び込む影響から直前に会場が変更された。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2009年1月2日、2度目の日本武道館ライブ公演『I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜』を開催。I'veが誕生して10周年を記念するイベント。ゲストとしてブルーマングループ、エリック・ムーケ、IKU、マーティ・フリードマン、森岡賢、田中\"Machine\"康治が登場した。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2009年3月25日、I've結成10周年を記念したスペシャルCDボックス『I've Sound 10th Anniversary 「Departed to the future」Special CD BOX』を発売。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2011年4月29日、Larval Stage Planningがシングル『君+謎+私でJUMP!!』にて大手レコード会社「Lantis」よりメジャーデビューを果たすことが発表された。I'veのボーカリストがジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン以外のレコード会社からメジャーデビューすることは、これが初となる。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2011年6月29日、島みやえい子が同日発売のベストアルバム『E.P.S -Eiko PRIMARY SELECTION-』の発売を以て、I'veを卒業。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2011年7月1日、I'veサウンド・クリエイターのオフィシャルファンクラブ「IVE's」が発足。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2011年8月1日、 KOTOKOがI'veより独立し、プライベートオフィスである合同会社Orpheecoへの移籍を発表した。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2012年6月29日、I've初のベストアルバム『G.C.BEST I've GIRL's COMPILATION BEST』と『オマイラBEST -SHORT CIRCUIT BEST-』を発売。収録曲はそれぞれ「I've GIRL's COMPILATION」と「SHORT CIRCUIT」のシリーズの中から、I've公式サイト上で行われたファン投票によって選抜された上位人気楽曲で構成された。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年7月29日、ビジュアルアーツ創立20周年を記念して横浜アリーナで開催されたライブイベント『ビジュアルアーツ大感謝祭LIVE 2012 in YOKOHAMA ARENA ~きみとかなでるあしたへのうた~』に出演。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2013年2月21日、詩月カオリがI've卒業を発表。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2013年3月20日、MELLが同日発売のベストアルバム『Entrust 〜the name of MELL〜』の発売を以て、I'veを卒業。同時に音楽活動を休止することを発表した。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2014年4月27日、幕張メッセ国際展示場で開催された『ニコニコ超会議3』内で実施された音楽ライブイベント『超音楽祭2014 ~超会議3~』にI've Special Unitとして出演。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2015年3月15日、I've結成15周年を記念した集大成ライブイベント『IVE RADICAL ENSEMBLE of 15th ANNIVERSARY』を東京ドームシティホールにて開催。それに合わせて、同ライブイベントに出演した歴代の女性ボーカリスト12名による、初の全曲書き下ろしの新曲を収録したコンピレーションアルバム『The Time 〜12 Colors〜』を年末のコミックマーケットにて発売。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2015年4月7日と2016年1月18日に、それぞれYouTubeとニコニコチャンネルにて公式動画配信チャンネル「IVE official Channel」を開設。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2016年1月24日、川田まみが年内での歌手活動引退を発表。これを以てI'veの活動初期から所属していた女性ボーカリストが全員卒業する形となった。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2017年8月1日、初期メンバーの一人である中沢伴行がI've卒業・独立を発表。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2018年2月3日、NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンがアニメ制作事業25周年を記念し、さいたまスーパーアリーナにて開催されたアニソン・ライブイベント『NBCUniversal ANIME×MUSIC FESTIVAL』にI've SPECIAL UNITとしてIKUと高瀬一矢が出演。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2019年1月1日、柚子乃が同年3月31日を以ってI've卒業を発表。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2019年7月31日、桐島愛里がアーティスト契約終了に伴いI'veを脱退。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2020年8月10日、Leinaが同年8月を以ってI've卒業を発表。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2021年4月、I've結成20周年を記念し、2012年12月を以って活動停止状態となっていたKOTOKOとI'veクリエイターによるパンク・ロックバンド\"Outer\"の復活が発表された。6月23日にはメジャーデビュー作品となる1stスタジオ・アルバム『Rebellious Easter』がNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売、7月4日には東京・豊洲PITにて一夜限りの復活ライブ『Outer one-night stand GIG \"Rebellious Easter\"』が開催された。", "title": "I'veの歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "各ボーカリストのソロ活動のCDについてはそれぞれの項目を参照。ここではユニットやコンピレーションアルバム等のディスコグラフィーを掲載する。", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "発売元:ジェネオン エンタテインメント(現:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "発売元:ランティス", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン(現:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "発売元:キングレコード", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "発売元:キングレコード", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "オムニバス参加、発売元:コロムビアミュージックエンタテインメント", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "※発売元がビジュアルアーツの作品は、基本的にゲーム流通に乗るため、大手レコード店では販売されないので注意が必要。", "title": "ディスコグラフィー" } ]
I've(アイブ、アイヴ)は、北海道札幌市に本拠地を置く音楽制作プロダクション。雑誌媒体などでは音楽クリエイターチーム、サウンドチームと紹介されることが多い。
{{Otheruses|日本の音楽制作プロダクション|韓国の女性アイドルグループ|IVE (音楽グループ)}} {{Pathnav|[[テンセント|テンセント・ホールディングス]]|ビジュアルアーツ|frame=1}} {{出典の明記|date=2021年2月27日 (土) 01:06 (UTC)}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = I've |画像 = I've Logo.svg |画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> |画像サイズ = 200px |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = group |別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません --> |出身地 = {{JPN}}・[[北海道]][[札幌市]] |ジャンル = [[J-POP]]<br/>[[トランス (音楽)|トランス]]<br/>[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ・ダンスミュージック]]<br/>[[ゲームミュージック]]<br/>[[アニメソング]]<br/>[[デジタルロック]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/292851/products/1058593/1/ 尾崎武士、中沢伴行によるI’veデジタルロックの王道サウンドに仕上がった作品。|title= Break a spell川田まみ|date=2014|accessdate=2022-06-20|publisher=oricon}}</ref> |活動期間 = [[1998年]] - |レーベル = |事務所 = FUCTORY Records |共同作業者 = |公式サイト = [https://ive-sound.jp/ I've low trance assembly/I've SECONDARY CREATORS] |メンバー = [[#スタッフ]]および[[#歌手]]参照 |旧メンバー = [[#脱退したスタッフ]]および[[#卒業・脱退した歌手]]参照 }} '''I've'''(アイブ、アイヴ)は、[[北海道]][[札幌市]]に本拠地を置く[[音楽]][[制作プロダクション]]。雑誌媒体などでは[[音楽クリエイターチーム]]、サウンドチームと紹介されることが多い。 == 概要 == [[美少女ゲーム]]、[[テレビアニメ]]、[[映画]]などの[[主題歌]]や[[背景音楽|BGM]]を制作している他、所属ボーカリストのオリジナルCDやコンピレーションアルバムの発表、[[コマーシャルメッセージ|CM]]への楽曲提供など幅広く活動している。また、外部のボーカリストやクリエイターとのコラボレーション活動、楽曲提供なども行っている。 I'veが手掛ける楽曲('''I've Sound'''と呼ばれる)は主に[[トランス (音楽)|トランス]]をベースとした[[打ち込み]]サウンドが多いが、クリエイターそれぞれが持つ個性と、タイアップ先の作品のイメージを尊重する手法によって、ポップな楽曲からハードなロックテイストの楽曲、ダンスチューン、バラードや[[電波ソング]]まで非常に幅広い楽曲を生み出している。I'veが音楽もしくは主題歌を担当したゲームのパッケージには、そのことを表す[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が付くことがある。 [[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]と提携しており、基本的に所属ボーカリストのシングルやアルバムといったメジャー流通のCDは同社からリリースしている。また、I'veの所属事務所でインディーズレーベルでもあるFUCTORY Recordsからリリースする作品も存在する。 結成初期から[[ビジュアルアーツ]]に所属しており、同社所属のゲームブランドへの楽曲提供は数多く行われている。FUCTORY Recordsがリリースする「I've Girls Compilation」シリーズなどのインディーズCDは、ビジュアルアーツのPC流通ルートを通して販売される。この場合、基本的にFUCTORY Recordsが担当するのはCD製作のみで、発売・販売元はビジュアルアーツとなる。また、[[コミックマーケット]]ではビジュアルアーツのブースに出店している。 シングルなどは発売日予定日に発売されるが、アルバムは発売延期になることが多い。(例としてI'veのコンピレーションアルバム『[[COLLECTIVE]]』は6月発売予定が9月に延期、[[KOTOKO]]の3rdアルバム『[[UZU-MAKI]]』は11月発売予定が12月になったことがある。また、[[MELL]]のファーストアルバム『[[MELLSCOPE]]』は当初7月9日発売予定が8月6日に延期、更にその後8月20日に再延期となった。) 2008年からは[[iTunes Store]]で楽曲配信もスタート。 == I'veの歴史 == ''各クリエイターやボーカリストの活動については個々のページを参照'' I'veが活動を開始したのは1998年である。当初はI'veの名称は使われず、通信[[カラオケ]]の音源制作や『[[Dancemania]]』シリーズの[[作曲]]などを手掛ける傍ら、[[北海道]]のゲームブランドに楽曲を提供していた。"I've"として結成された当時のメンバーは[[高瀬一矢]]、一法師康孝、[[中沢伴行]]、永田善也、板垣直基、三上誠一の6名。 I'veという名称は、1998年の秋に『Lips〜笑顔の行方〜』というPCゲームを制作しようとして、そのブランド名として使われたのが最初である<ref name="4Gamer.net20210710">{{Cite web|和書|title=I've Sound結成20周年! 総帥・高瀬一矢氏に元ZUNTATA・COSIOが聞く,“Outer”新譜制作の裏話や作曲環境の移り変わりなど|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210705029/|website=www.4gamer.net|accessdate=2021-07-10|publisher=Aetas|date=2021-07-10}}</ref>。主人公は「LIPS」というアイドルグループの[[マネージャー]]となり、[[女子高生]]や[[女子大生]]といった3人の女性メンバーを、一流のアイドルに成長させるために指導する<ref>{{Cite book|和書 |title=[[電撃王]] |date=1998年9月1日 |year=1998 |publisher=[[メディアワークス]] |page=161 |issue=通巻81号}}</ref>。なお、結局このゲームは制作中止となり、世に出ることはなかった{{R|4Gamer.net20210710}}。1999年2月5日に発売されたPCゲーム『吐溜 -TRASH-』のエンディングテーマ2曲「FUCK ME」と「美しく生きたい」および同作品のBGMに、初めて"I've Sound"の表記が使われた{{R|4Gamer.net20210710}}。 高瀬一矢は稼ぐ手立てを得るために美少女ゲーム音楽への参入を決めたと2021年のCOSIOとのインタビューの中で話しており、当時のメンバーである三上誠一が自身とつながりのあった[[ビジュアルアーツ]]へ打診してはどうかと提案してきたことがきっかけであると振り返っている{{R|4Gamer.net20210710}}。その後、同社の社長の馬場隆博と電話でやり取りした後に、『Lips〜笑顔の行方〜』の企画書を送ったものの馬場にダメ出しされ、最終的に『吐溜 -TRASH-』を制作することになったという{{R|4Gamer.net20210710}}。 1999年6月4日に[[Key (ゲームブランド)|Key]]より発売され大ヒットしたPCゲーム『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』のオープニングテーマ「[[Kanon ORIGINAL SOUNDTRACK|Last regrets]]」とエンディングテーマ「風の辿り着く場所」の[[編曲]]を高瀬一矢が担当。1999年12月24日に発表した初のコンピレーションアルバム『[[Regret (アルバム)|regret]]』に先の2曲が収録され、PCゲームファンの間でI'veの名が知られるようになる。以来、それまでにゲームに提供してきた楽曲の一部を、オリジナル曲やリミックス曲と共に「I've GIRL's COMPILATION」としてアルバムに収録して発表する、現在まで続くスタイルが確立される([[#ディスコグラフィー]]参照)。 2002年にはテレビアニメ『[[おねがい☆ティーチャー]]』の主題歌とBGM、『[[シスター・プリンセス RePure]]』ストーリーズのBGMを担当。それによってアニメファンの間でもI'veの名が広がり始め、以来PCゲームのみならずテレビアニメにも楽曲を提供するようになる。また、この頃にはインターネット上を中心に"謎の音楽集団"と形容されるようになり、ファンによるウェブサイトが次々と開設され、I've Soundというブランドを確固たるものとしていた。 2003年11月27日、秋葉原アソビットシティにて、I'veとしての初イベントとなるアルバム『[[SHORT CIRCUIT (アルバム)|SHORT CIRCUIT]]』の発売記念イベントが開催された。このイベントには高瀬一矢、[[KOTOKO]]、[[詩月カオリ]]が参加した。ライブイベントではなくトークイベントという形式で行われた。 2004年4月21日、[[ジェネオン エンタテインメント]](現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)にてKOTOKOがアルバム『[[羽-hane-]]』でメジャーデビュー。続く2005年2月23日に、[[川田まみ]]がシングル『[[radiance/地に還る 〜on the earth〜|radiance]]』で、同年3月16日には、[[島みやえい子]]がミニアルバム『[[ULYSSES (アルバム)|ULYSSES]]』でメジャーデビュー。さらに2006年6月14日に、[[MELL]]がシングル『[[Red fraction]]』で、同年7月14日に、[[C.G mix]]がアルバム『[[in your life]]』で、2007年8月1日、詩月カオリがシングル『[[Shining stars bless☆]]』で次々とメジャーデビューを果たした。 2005年6月8日、I'veとしては初の[[コマーシャルソング]]を担当。タイアップ[[企業]]は[[ドワンゴ]]で、楽曲はKOTOKOの「[[421-a will-]]」が使用された。 2005年10月15日、[[日本武道館]]にて初のライブ『[[I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜]]』を開催。約7500人の観客を動員。2006年6月23日には、このライブの模様を収録した[[DVD]]を発売。しかし、このDVDは音声品質にクレームが相次ぎ、11月10日、そのクレームに対応する形で『I've in BUDOKAN 2005 〜COMPLETE EDIT〜』が発売されている。初版との交換も可能であったが、12月10日に店頭での交換期間が終了。 2007年4月21日、全国ロードショーされた劇場版アニメ『[[灼眼のシャナ (アニメ)#劇場版|灼眼のシャナ]]』が公開された。その主題歌「[[天壌を翔る者たち]]」をI'veの女性ボーカリスト5名で結成されたスペシャルユニット[[天壌を翔る者たち#Love Planet Five|Love Planet Five]]が担当。I've初の劇場映画作品への楽曲提供となった。 2007年7月14日から7月16日まで、アルバム『[[SHORT CIRCUIT II]]』の発売記念トーク&amp;握手会を開催。14日は[[大阪]]・TBホール。15日は[[名古屋市|名古屋]]・スペースD。16日は[[東京]]・発明会館ホール。応募方法は前作『SHORT CIRCUIT』の発売記念イベントのように、整理券の配布はなく、『SHORT CIRCUIT II』に同封されていた[[ハガキ]]による応募するという形になった。また、同年7月21日、限定ライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TOKYO』を「東京・[[新木場STUDIO COAST]]」にて開催。出演者はKOTOKOと詩月カオリの2名。 2008年2月2日、全国ロードショーにて映画『[[リアル鬼ごっこ#映画|リアル鬼ごっこ]]』が公開され、その同名主題歌をKOTOKOが担当し、1月15日には完成試写会(於・スペースFS汐留)で舞台挨拶を行った。I've初の実写作品への楽曲提供となった。その後、川田まみが映画『[[お姉チャンバラ#実写映画|お姉チャンバラ THE MOVIE]]』、島みやえい子が映画『[[ひぐらしのなく頃に#実写映画|ひぐらしのなく頃に]]』、MELLが映画『斬 〜KILL〜』の主題歌をそれぞれ担当している。 2008年7月19日、[[台湾]]の[[国立台湾芸術大学]]にてライブ『SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TAIWAN』を開催。 2008年9月24日、ジェネオン エンタテインメントより、メジャーにて初となるコンピレーションアルバム『[[master groove circle]]』を発売。これまでのコンピレーションアルバムとは違い、I'veがメジャーレーベルで発売した楽曲を[[ディープ・フォレスト|Deep Forest]]や[[GMS|G.M.S.]]といったアーティスト([[サイケデリックトランス]]のクリエイターが中心)が[[リミックス]]したアルバムとなっている。 2009年1月1日、翌日のライブ『[[I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜#I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜|I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜]]』の前夜祭として『I've 10th Anniversary Museum in TOKYO FM HALL』が東京[[半蔵門]]・[[エフエム東京|TOKYO FM HALL]]にて開催。 このイベントではI've所属のボーカリストたちの写真・衣装展示や[[ミュージック・ビデオ|プロモーションビデオ]]・メッセージ・ライブ映像の放映が行われた。 本イベントは、武道館前に特設テントを設置して開催される予定であったが、翌日の武道館ライブ設営のための重機や資材などを運び込む影響から直前に会場が変更された。 2009年1月2日、2度目の[[日本武道館]]ライブ公演『[[I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜#I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜|I'VE in BUDOKAN 2009 〜Departed to the future〜]]』を開催。I'veが誕生して10周年を記念するイベント。ゲストとして[[ブルーマングループ]]、[[エリック・ムーケ]]、[[IKU]]、[[マーティ・フリードマン]]、[[森岡賢]]、田中"Machine"康治が登場した。 2009年3月25日、I've結成10周年を記念したスペシャルCDボックス『I've Sound 10th Anniversary 「Departed to the future」Special CD BOX』を発売。 2011年4月29日、[[Larval Stage Planning]]がシングル『[[君+謎+私でJUMP!!]]』にて大手レコード会社「[[ランティス|Lantis]]」よりメジャーデビューを果たすことが発表された。I'veのボーカリストが[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]以外のレコード会社からメジャーデビューすることは、これが初となる。 2011年6月29日、島みやえい子が同日発売のベストアルバム『E.P.S -Eiko PRIMARY SELECTION-』の発売を以て、I'veを卒業。 2011年7月1日、I'veサウンド・クリエイターの[[ファンクラブ|オフィシャルファンクラブ]]「IVE's」が発足。 2011年8月1日、 KOTOKOがI'veより独立し、プライベートオフィスである合同会社Orpheecoへの移籍を発表した。 2012年6月29日、I've初のベストアルバム『[[G.C.BEST -I've GIRL's COMPILATION BEST-|G.C.BEST I've GIRL's COMPILATION BEST]]』と『[[オマイラBEST -SHORT CIRCUIT BEST-]]』を発売。収録曲はそれぞれ「I've GIRL's COMPILATION」と「SHORT CIRCUIT」のシリーズの中から、I've公式サイト上で行われたファン投票によって選抜された上位人気楽曲で構成された。 2012年7月29日、[[ビジュアルアーツ]]創立20周年を記念して[[横浜アリーナ]]で開催されたライブイベント『ビジュアルアーツ大感謝祭LIVE 2012 in YOKOHAMA ARENA ~きみとかなでるあしたへのうた~』に出演。 2013年2月21日、詩月カオリがI've卒業を発表。 2013年3月20日、MELLが同日発売のベストアルバム『[[Entrust 〜the name of MELL〜]]』の発売を以て、I'veを卒業。同時に音楽活動を休止することを発表した。 2014年4月27日、[[幕張メッセ]]国際展示場で開催された『ニコニコ超会議3』内で実施された音楽ライブイベント『超音楽祭2014 ~超会議3~』にI've Special Unitとして出演。 2015年3月15日、I've結成15周年を記念した集大成ライブイベント『IVE RADICAL ENSEMBLE of 15th ANNIVERSARY』を[[東京ドームシティホール]]にて開催。それに合わせて、同ライブイベントに出演した歴代の女性ボーカリスト12名による、初の全曲書き下ろしの新曲を収録したコンピレーションアルバム『[[The Time 〜12 Colors〜]]』を年末の[[コミックマーケット]]にて発売。 2015年4月7日と2016年1月18日に、それぞれ[[YouTube]]と[[ニコニコチャンネル]]にて公式動画配信チャンネル「IVE official Channel」を開設。 2016年1月24日、川田まみが年内での歌手活動引退を発表。これを以てI'veの活動初期から所属していた女性ボーカリストが全員卒業する形となった。 2017年8月1日、初期メンバーの一人である中沢伴行がI've卒業・独立を発表。 2018年2月3日、NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンがアニメ制作事業25周年を記念し、[[さいたまスーパーアリーナ]]にて開催されたアニソン・ライブイベント『[[NBCUniversal ANIME×MUSIC FESTIVAL]]』にI've SPECIAL UNITとしてIKUと高瀬一矢が出演。 2019年1月1日、[[柚子乃]]が同年3月31日を以ってI've卒業を発表。 2019年7月31日、[[Larval Stage Planning|桐島愛里]]がアーティスト契約終了に伴いI'veを脱退。 2020年8月10日、Leinaが同年8月を以ってI've卒業を発表。 2021年4月、I've結成20周年を記念し、2012年12月を以って活動停止状態となっていたKOTOKOとI'veクリエイターによるパンク・ロックバンド"[[Outer (ユニット)|Outer]]"の復活が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://nbcuni-music.com/kotoko/news/index01960000.html|title=奴らが目覚める…|date=2021-04-13|author=KOTOKO NBCUniversal Entertaiment Japan OFFICIAL SITE|accessdate=2021-07-04}}</ref><ref name="Outer 6月23日フルアルバム リリース!7月4日一夜限りの復活ライブ!">{{Cite web|和書|url=http://nbcuni-music.com/kotoko/news/index01970000.html|title=Outer 6月23日フルアルバム リリース!7月4日一夜限りの復活ライブ!|date=2021-04-20|author=KOTOKO NBCUniversal Entertaiment Japan OFFICIAL SITE|accessdate=2021-07-04}}</ref>。6月23日にはメジャーデビュー作品となる1stスタジオ・アルバム『Rebellious Easter』が[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]より発売<ref name="Outer 6月23日フルアルバム リリース!7月4日一夜限りの復活ライブ!"/><ref>{{Cite web|url=http://www.ive.mu/news.html?id=224|title=Outer/1st album 「Rebellious Easter」発表決定!|date=2021-04-20|author=I'VE OFFICIAL PORTAL SITE|accessdate=2021-07-04}}</ref>、7月4日には東京・[[豊洲PIT]]にて一夜限りの復活ライブ『Outer one-night stand GIG "Rebellious Easter"』が開催された<ref name="Outer 6月23日フルアルバム リリース!7月4日一夜限りの復活ライブ!"/><ref>{{Cite web|url=http://www.ive.mu/news.html?id=225|title=Outer/I’ve 20th Anniversary PRESENTS 「Outer one-night stand GIG “Rebellious Easter”」公演情報!|date=2021-04-20|author=I'VE OFFICIAL PORTAL SITE|accessdate=2021-07-04}}</ref>。 == 所属事務所 == ; FUCTORY Records : 由来はイギリスのインディーズレーベルである「[[ファクトリー・レコード|Factory Record]]」と「FUCK」から。代表取締役は高瀬一矢。本社所在地は[[北海道]][[札幌市]][[白石区]][[菊水上町]]。 == スタッフ == === クリエイター === ; [[高瀬一矢]](たかせ かずや) : 初期メンバーの一人で、サウンド・クリエイター兼I'veの代表取締役。 : 多くの代表的楽曲の作曲・編曲を手掛け、I've初期の楽曲については作詞も担当。 : 楽曲を提供する際に自身で[[デモテープ|仮歌]]を担当したり、レコーディングにコーラスとして参加することもある。 ; [[C.G mix]](しーじーみっくす) : 2001年から参加。 : ノリの良いダンス・ポップ系の楽曲や電波ソングの作曲・編曲を得意とするサウンド・クリエイターで、2003年からはボーカリストとしても活動している。 : なお、活動名のC と G の間はカンマではなくピリオドで、G と mix の間にピリオド等は入れない。 ; [[NAMI]](なみ) : 2010年から舞崎なみ名義でボーカリストとしてI'veに参加し、2014年4月からサウンド・クリエイターに転向。 : 2020年現在、I'veで唯一の女性クリエイターであり、歴代のI'veクリエイターでは最年少。 === その他のスタッフ === ; 小林拡幸(こばやし ひろゆき) : I'veの広報・アーティストマネージャー。他にもグラフィックやイラスト、ツアードライバー、司会などを幅広く担当。 : I've内では随一のコンピューターエキスパートでもある。愛称は「K林さん」。 ; 吉田晴彦(ハリー吉田)(よしだ はるひこ) : I'veのアーティストマネージャー。FUCTORY recordsのロサンゼルスオフィスに勤務。 : ライブでのドラム演奏を担当し、一部楽曲では作詞も手掛けている。 ; 木村聡恵(きむら さとえ) : I'veのデスクマネージャー。 == 脱退したスタッフ == ; [[中沢伴行]](なかざわ ともゆき) : 初期メンバーの一人で、サウンド・クリエイターとしてI've結成時から参加。 : 高瀬と共に多くの代表的楽曲の作曲・編曲を担当し、ボーカル曲以外にBGMも手掛けていた。 : 2017年7月末日を以てI'veを卒業・独立することを発表。 ; [[井内舞子]](いうち まいこ) : 2002年から外注クリエイターとして参加し、2013年からI'veに正式加入。 : BGMを中心にボーカル曲の作曲・編曲も数多く担当し、2005年前後までは羽越実有(うえつ みう)の名義で活動していた<!--「いうち まいこ」を一文字ずつずらして付けられた名前と考えられる。(井内舞子が本名)-->。 : 現在はI'veには所属しておらず、再び外注スタッフとしての参加に留まっている。 ; [[尾崎武士]](おざき たけし) : 1999年からギタリストとして参加。別名義にTAKESHIがある。 : 多くの楽曲の[[ギター]]アレンジを手掛け、ライブやレコーディングではギター演奏を担当。 : 2011年からはサウンド・クリエイターとして単独での作曲・編曲も行っていたが、現在はI'veには所属していない。 ; [[中坪淳彦]](なかつぼ あつひこ) : サウンド・クリエイターとして2000年から参加。 : 主にテクノ系の楽曲や既存の楽曲のリミックスを担当。2005年の武道館ライブの少し前にI'veから脱退。 : 音楽制作レーベル「TTB Studio」代表であり、FISH TONEという名義でも活動している。 ; [[渡部真也|wata]](わた) : 外注クリエイターとしてBGMでは2000年から、ボーカル曲では2002年から参加。 : 作曲・編曲をはじめ作詞やギターアレンジなども手掛けていたが、現在はI'veからは退いている。 ; 永田善也(ながたよしや) : 初期メンバーの一人でBGMや一部楽曲の作詞などを担当していたが、現在はI'veから脱退し、作家として活動している。 ; DOLLY(どりー) : 外注クリエイターとして2002年頃まで小動物と共同でBGMを担当していた。現在はI'veに関わっていない。 ; 小動物(こゆるぎもの) : 外注クリエイターとして2002年頃までDOLLYと共同でBGMを担当していた。現在はI'veに関わっていない。 ; 三上誠一(みかみ せいいち) : 初期メンバーの一人。事務のほか一部楽曲の作詞なども手掛けていたが、現在はI'veから退いている。 ; 辻内富久子(つじうち ふくこ) : アーティストマネージャーとして2005年から2008年の3年間務めていたが、2008年10月17日に退職した。 ; 東美代子(あずま みよこ) : I'veのCDのジャケットデザインなどを手掛けていた。 ; 一法師康孝(いっぽうし やすたか) : 初期メンバーの一人。高瀬一矢と共にI'veの代表取締役を務めていた。 ; 板垣直基(いたがき なおき) : 初期メンバーの一人。トータルマネージャーとして、主に広報活動や人事管理などを担当していた。2017年7月にI'veを退社。 : 歴史好きとして知られ、愛称は「将軍」。 == 歌手 == === ソロボーカル === ; [[IKU]](いく) : 2008年に[[高瀬一矢]]のプロデュースによってシングル『[[音のない夜空に/木の芽風]]』にてメジャーデビュー。 : 当初はゲストボーカルとしての参加に留まっていたが、2014年より正式にI'veに参加。 : 実質的なI'veデビュー曲は「Share the world」であり、I'veのボーカリストとして正式所属するのがメジャーデビュー後からという異例の経歴を持つ。 ; [[RINA (歌手)|RINA]](りな) : 2014年より参加。I'veデビュー曲はアルバム『I've MANIA TRACKS "NEW WAVE"』に収録された「DUpliciTY」「Prism」。 ; [[佐藤アスカ]](さとう あすか) : 2018年より参加。I'veデビュー曲はアルバム『I've ORIGINAL Compilations F-ive elements』に収録された「木 the earth」。 ; [[C.G mix]](しーじーみっくす) : サウンド・クリエイターの一人で、ボーカリストとしては2003年から参加。I'veでは唯一の男性ボーカリストである。 : I'veデビュー曲は「Welcome to HEAVEN!」。2006年7月14日、アルバム『[[in your life]]』にてメジャーデビュー。 === ユニット === ; [[Outer (ユニット)|Outer]](あうたー) : [[KOTOKO]]とクリエイター陣によるパンク・ロックバンドユニット。ボーカルはKOTOKO、ギターは[[高瀬一矢]]と[[尾崎武士]]、ベースは板垣直樹、キーボードは[[中沢伴行]]。活動開始からしばらくは正体不明のユニットとされていた。KOTOKOの独立後はゲストボーカルを迎えるなどして不定期に活動していたが、2012年12月を以って「遊結」(無期限活動停止)状態となった。それから約9年後の2021年4月、I've結成20周年を記念して再結集・復活が発表された。 ; Healing leaf(ひーりんぐ りーふ) : [[島みやえい子]]と[[川田まみ]]によるユニット。 ; KOTOKO TO AKI(ことこ と あき) : KOTOKOと[[AKI (女性歌手)|AKI]]によるユニット。AKI引退に伴い解散。 ; I've Special Unit(あいぶ すぺしゃるゆにっと) : KOTOKO・[[MELL]]・[[島みやえい子]]・[[SHIHO (ボーカリスト)|SHIHO]]・[[モモイヒトミ|MOMO]]・[[川田まみ]]・[[詩月カオリ]]によるユニット。SHIHO、MOMOのI've卒業に伴いLove Planet Fiveに移行。 ; [[天壌を翔る者たち#Love Planet Five|Love Planet Five]](らぶ ぷらねっと ふぁいぶ) : KOTOKO・川田まみ・島みやえい子・MELL・詩月カオリによるユニット。劇場版アニメ『[[灼眼のシャナ (アニメ)#劇場版|灼眼のシャナ]]』のエンディングテーマ「[[天壌を翔る者たち]]」のために結成されたスペシャルユニット。 ; KOTOKO to 詩月カオリ(ことこ と うたつきかおり) : KOTOKOと[[詩月カオリ]]による[[電波ソング]]ユニットで、SHORT CIRCUITという名義でも活動していた。 ; [[Larval Stage Planning]](らーばる すてーじ ぷらんにんぐ) : 桐島愛里によるソロユニット。活動開始時点では桐島愛里、舞崎なみ、朝見凛の3名のユニットだったが、舞崎と朝見のI've卒業に伴いソロユニットとなった。ユニットの命名者は高瀬一矢で、「幼虫期計画」という意味が込められている。 ; 柚子乃 and RINA(ゆずの あんど りな) : [[柚子乃]]とRINAによるI've次世代の電波ソングユニットで、しょーとサーキットDSという名義でも活動していた。「DS」は「Delusion Side」の略。 == 卒業・脱退した歌手 == ; [[SHIHO (ボーカリスト)|SHIHO]](しほ) : 2000年より参加。I'veデビュー曲は「Days of promise」。2006年3月脱退。現在は[[STARAVID]]で活動中。 ; [[モモイヒトミ|MOMO]](もも) : 2001年より参加。I'veデビュー曲は「uneasy -Remix-」。2006年4月卒業。現在は[[モモイヒトミ]]名義でソロ活動中。 ; [[AKI (女性歌手)|AKI]](あき) : 1999年より参加。I'veデビュー曲は「そよ風の行方」。[[ローカル]][[深夜]]番組の[[ナレーション]]も担当していた。 : 長年消息が不明であったが、Visual Style2008年5月号の高瀬のインタビューにて、2001年に体調不良の為に入院していたことが語られる。 ; 怜奈(れいな) : 2004年より参加。I'veデビュー曲は「Close to me…(Mixed up ver.)」。 : 2005年の武道館ライブに参加したが、2006年6月23日に「Cross talk -2006 ver.-」を発表して以来、現在まで新曲などのリリースもなく脱退したと思われる。 : 2018年に加入したLeinaとは別人である。 ; [[島みやえい子]](しまみや えいこ) : 1999年より旧名の「島宮えい子」名義で参加。I'veデビュー曲は「Last regrets -X'mas floor style-」。 : 2005年3月にミニアルバム『[[ULYSSES (アルバム)|ULYSSES]]』にてメジャーデビュー。 : 2011年6月29日、自身初のベストアルバムの発売をもって、I'veを卒業。 ; [[KOTOKO]](ことこ) : 2000年より参加。I'veデビュー曲は「Close to me…」。2004年4月にアルバム『[[羽-hane-]]』にてメジャーデビュー。 : 2011年8月1日、プライベートオフィスである合同会社Orpheecoへの移籍に伴い、I'veから独立することを発表<ref>{{Cite web|和書 |author=KOTOKO |url= http://www.kotoko.asia/ |title= KOTOKOからのお知らせ |accessdate=2011-08-01 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 |author=KOTOKO |url= https://ameblo.jp/kotoko-kirakira |title= 初めまして!始めました☆ |accessdate=2011-08-01 }}</ref>。 ; [[詩月カオリ]](うたつき かおり) : 2002年より参加。I'veデビュー曲は「Senecio」。2007年8月1日にシングル『[[Shining stars bless☆]]』にてメジャーデビュー。 : 2013年2月21日にI've卒業を発表し、現在は[[シンガーソングライター]]としてソロ活動中。 ; [[MELL]](める) : 1998年より参加。I'veデビュー曲は「美しく生きたい」。2006年6月14日にシングル『[[Red fraction]]』にてメジャーデビュー。 : 2013年3月20日、自身初のベストアルバムの発売をもってI'veを卒業すると同時に、音楽活動を休止することを発表した。 ; 舞崎なみ (まいさき なみ) : 2010年より参加。I'veデビュー曲は「piece of my heart」。ボーカルユニット「Larval Stage Planning」の元メンバー。 : 2014年4月をもってユニットを卒業した後は高瀬一矢に師事し、[[NAMI]]名義でサウンド・クリエイターに転向した。 ; 朝見凛 (あさみ りん) : 2010年より参加。I'veデビュー曲は「lead to the smile」。 : ボーカルユニット「Larval Stage Planning」の元メンバーで、2014年4月をもって舞崎なみと共にユニット及びI've卒業を発表。 ; [[川田まみ]](かわだ まみ) : 2001年より参加。I'veデビュー曲は「風と君を抱いて」。2005年2月23日、シングル『[[radiance/地に還る 〜on the earth〜|radiance]]』にてメジャーデビュー。 : 2016年を以て、I'veの脱退及び歌手活動を引退した。 ; [[柚子乃]](ゆずの) : 2013年より参加。I'veデビュー曲は「モラトリアム・クラスタ」。YUZUNOとも表記される。 : 自身がボーカルを務めるガールズロックバンド「ナデシコドール」での活動に専念するため、2019年3月31日を以ってI've卒業を発表。 ; [[Larval Stage Planning|桐島愛里]](きりしま あいり) : 2009年より参加。I'veデビュー曲は「two HeaRt」。 : 2016年からは@iRIやDJ AIRI KIRISHIMAという名義でクラブイベントを中心に[[DJ]]活動も行っている。 : 2019年7月31日を以ってアーティスト契約終了に伴いI'veを脱退。 ; Leina(れいな) : 2018年より参加。I'veプロデュースのシングル『Alstroemeria』にてデビュー。 : 2020年8月を以ってI've卒業を発表。現在は「久保田れな」名義でシンガーソングライターとしてソロ活動中。 == ゲスト参加・楽曲提供した主な歌手 == {{節スタブ}} ; [[Lia]](りあ) : 現在はqueens labelで活動しており、一時期[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロサンゼルス]]在住だった。『[[I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜]]』にもゲスト出演した。 ; [[彩菜]](あやな) : 『[[I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜]]』にゲスト出演し、I've15周年LIVEにも出演した。 ; [[佐藤ひろ美]](さとう ひろみ) : [[KOTOKO]]とのユニットにて『I've in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜』にもゲスト出演した。2016年をもって歌手活動を引退。 ; MAKO(まこ) : オムニバス「I've Girls Compilation」シリーズの『[[verge]]』に参加して以降、歌手活動は休止状態であったが、カバーオムニバス『[[TRIBAL LINK]]』で活動再開。以降、ミニアルバムの発表やライブイベントへの参加など、精力的に活動している。2015年に海外へと移住したため、現在は活動休止中である。 ; marriage blue(まりっじ ぶるー) : 『I've MANIA TRACKS NEW WAVE』でデビュー。I've15周年LIVEに出演したが、女性ボーカルということと簡易的なプロフィール以外は非公開となっている。Talk Jamなどで話題になる際には「marriage blueさんのmarriage blueな部分」「ダークサイドに堕ちた」や、レコーディング時も「marriage blueのような暗い気持ちで」とディレクションを行っており、ダークな印象を持たせている。なお、彼女の楽曲の殆どは[[LOVERSSOUL]]が作詞を手掛けている。 ; Pixy Lab.(ぴくしー らぼ) : 北海道を拠点に活動する同人ボーカルである[[井澤佳の実]]と岩杉夏によるユニットで、『オマイラBEST -SHORT CIRCUIT BEST-』より活動開始。I've15周年LIVEにも出演した。 ; [[Ray (歌手)|Ray]](れい) : 『超音楽祭2014 ~超会議3~』のI've出演時にゲストボーカルとして登場。2017年夏のファイナルライブを以って歌手活動卒業を発表。 ; [[黒崎真音]](くろさき まおん) : 『超音楽祭2014 ~超会議3~』のI've出演時にゲストボーカルとして登場。 ; [[奥井雅美]](おくい まさみ) : カバーオムニバス『TRIBAL LINK』で初めてI'veにボーカル参加し、その後のI'veファンクラブイベントではOuterのゲストボーカルを務めた。 ; 北村みのり(きたむら みのり) : 『I've MANIA TRACKS NEW WAVE』でデビュー。川田まみのバックバンドで[[ベース (弦楽器)|ベース]]を務め、現在は[[The Order Made]]のベースを担当しながらボーカリストとしても活動中。 ; [[茅原実里]](ちはら みのり) : ; [[やなぎなぎ]] : ; [[綾野ましろ]](あやの ましろ) : ; [[三澤紗千香]](みさわ さちか) : ; [[北沢綾香]](きたざわ あやか) : ; [[高木美佑]](たかぎ みゆ) : ; [[飛蘭]](ふぇいらん) : ; [[原田ひとみ]](はらだ ひとみ) : ; [[南條愛乃]](なんじょう よしの) : ; [[nao (1985年生の歌手)|nao]](なお) : ; [[松澤由美]](まつざわ ゆみ) : ; 美妃(みひ) : ; R.I.E(りえ) : ; MARY(まりー) : ; MIKI(みき) : ; [[菅井えり]](すがい えり) : ; 片桐明日香(かたぎり あすか) : ; 宮崎麻芽(みやざき あさめ) : 2001年の楽曲「satirize」を歌唱した女性ボーカリスト。歌声が類似していることから一部では[[KOTOKO]]の別名義ではないかという噂が度々流れていたが、2020年5月9日、I'veの[[YouTube]]生配信「NAMIの皆様一緒に踊り語りましょう!第四夜」内において[[高瀬一矢]]によりKOTOKO本人である事が明かされた。 ; 堤伊之助(つつみ いのすけ) : 『堤伊之助』はゲーム『[[Treating2U]]』内の登場人物名で、実際に歌っているのが誰なのかは詳細不明だが、高瀬の歌う『Last regrets』の仮歌と歌声が酷似しているため、高瀬一矢であるという説が有力だった。しかし、その後の高瀬のインタビューにて別人であることが判明した。 ;[[森中花咲]](もりなか かざき) ;[[petit fleurs]](ぷちふるーる) == ディスコグラフィー == '''各ボーカリストのソロ活動のCDについてはそれぞれの項目を参照。ここではユニットやコンピレーションアルバム等のディスコグラフィーを掲載する。''' === ユニット === ==== I've Special Unit ==== 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * Fair Heaven([[2005年]][[7月30日]]発売)※現在入手困難 ** 作詞・作曲・編曲:[[高瀬一矢]] ==== Love Planet Five ==== 発売元:ジェネオン エンタテインメント(現:[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]) * [[天壌を翔る者たち]]([[2007年]][[4月4日]]) **作詞:[[KOTOKO]]/作曲・編曲:[[高瀬一矢]] ==== KOTOKO & 佐藤ひろ美(佐藤裕美) ==== 発売元:[[ランティス]] * Second Flight([[2003年]][[7月24日]]) ** 作詞:[[KOTOKO]]/作曲:[[高瀬一矢]]/編曲:高瀬一矢、[[中沢伴行]] === GIRLS COMPILATIONシリーズ === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 ! 参加ボーカリスト |- ! 1st | 1999年12月24日 | '''[[regret (アルバム)|regret]]''' | ICD-66001 | 美妃<br>[[彩菜]]<br>[[AKI (女性歌手)|AKI]]<br>MARY<br>[[MELL]]<br>R.I.E<br>MIKI<br>[[島みやえい子]] |- ! 2nd | 2000年7月14日 | '''[[verge]]''' | ICD-66002 | MAKO<br>AKI<br>R.I.E<br>MELL<br>島みやえい子<br>[[Lia]]<br>MIKI<br>彩菜<br>[[SHIHO (ボーカリスト)|SHIHO]] |- ! 3rd | 2002年6月26日 | '''[[disintegration]]''' | ICD-66002 | [[KOTOKO]]<br>MELL<br>島みやえい子<br>[[モモイヒトミ|MOMO]]<br>SHIHO<br>Lia |- ! 4th | rowspan=2 | 2003年10月30日 | '''[[LAMENT]]''' | ICD-66007 | rowspan=3 | SHIHO<br>島みやえい子<br>KOTOKO<br>[[詩月カオリ]]<br>MOMO<br>[[川田まみ]]<br>MELL |- ! 5th | '''[[OUT FLOW]]''' | ICD-66008 |- ! 6th | 2005年9月30日 | '''[[COLLECTIVE]]''' | ICD-66013 |- ! 7th | 2010年9月24日 | '''[[EXTRACT]]''' | ICD-66021 | KOTOKO<br>川田まみ<br>[[Larval Stage Planning|桐島愛里]]<br>MELL<br>MOMO<br>島みやえい子 |- ! 8th | 2012年8月31日 | '''[[LEVEL OCTAVE]]''' | ICD-66032 | KOTOKO<br>Lia<br>[[Larval Stage Planning]]<br>朝見凛<br>川田まみ<br>詩月カオリ<br>桐島愛里<br>舞崎なみ<br>MAKO |- ! 9th | 2014年9月26日 | '''[[Evidence nine]]''' | ICD-66038 | KOTOKO<br>川田まみ<br>Pixy Lab.<br>舞崎なみ<br>桐島愛里<br>朝見凛<br>Larval Stage Planning<br>[[柚子乃]] |- ! 10th | 2016年1月1日 | '''[[The Time 〜12 Colors〜]]''' | ICD-66043 | 川田まみ<br>[[RINA (歌手)|RINA]]<br>marriage blue<br>北村みのり<br>柚子乃<br>島みやえい子<br>KOTOKO<br>Larval Stage Planning<br>[[IKU]]<br>詩月カオリ<br>SHIHO<br>MOMO |- ! 11th | 2017年7月29日 | '''[[ALIVE (I'veのアルバム)|ALIVE]]''' | ICD-66050 | RINA<br>川田まみ<br>柚子乃<br>Larval Stage Planning<br>桐島愛里<br>Lily on the FIeLD<br>KOTOKO<br>IKU<br>[[黒崎真音]]<br>marriage blue<br>島みやえい子 |- |} === コンセプトアルバム === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * [[SHORT CIRCUIT (アルバム)|SHORT CIRCUIT]]([[2003年]][[11月27日]]発売) * [[SHORT CIRCUIT II]]([[2007年]][[6月22日]]発売) * [[SHORT CIRCUIT III]]([[2010年]][[6月25日]]発売) === ベストアルバム === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * [[G.C.BEST -I've GIRL's COMPILATION BEST-]]([[2012年]][[6月29日]]発売) * [[オマイラBEST -SHORT CIRCUIT BEST-]]([[2012年]][[6月29日]]発売) === カバーアルバム === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * [[TRIBAL LINK]]([[2011年]][[7月29日]]) === コンピレーションアルバム === 発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン(現:[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]) * [[master groove circle]]([[2008年]][[9月24日]]) * [[I've Sound 10th Anniversary 「Departed to the future」Special CD BOX]]([[2009年]][[3月25日]]) * [[master groove circle 2]]([[2009年]][[12月30日]]) * [[master groove circle "NIJIIRO"]]([[2014年]][[12月24日]]) 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * [[I've C-VOX 2000-2014]]([[2018年]][[1月1日]]) * [[I've 20th Anniversary E-VOX]]([[2021年]][[12月18日]]) === コミックマーケットで販売されたCD === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ ; コミックマーケット59 :; Dear Feeling/KOTOKO TO AKI([[2000年]][[12月29日]]発売) ::# prime(作詞:[[KOTOKO]]/作曲・編曲:[[高瀬一矢]]/歌:KOTOKO TO AKI) ::# Over(作詞:[[木田亜由美|SAYUMI]]/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:[[AKI (女性歌手)|AKI]]) ::# 空より近い夢 Second Track(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:KOTOKO TO AKI) ::# 明日の向こう(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:KOTOKO) ::# prime -instrumental ver.- ::# regret spin style ※アルバム『[[regret (アルバム)|regret]]』のメドレー ::# verge spin style ※アルバム『[[verge]]』のメドレー : ; コミックマーケット61 :; C-LICK/I've([[2001年]]12月29日発売) ::# FUCK ME -Radio Activity Mix-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:[[中坪淳彦]]/歌:[[SHIHO (ボーカリスト)|SHIHO]]) ::# verge -REVIVE Mix-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中坪淳彦/歌:[[島みやえい子]]) ::# I pray to stop my cry -Nineball Mix-(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:MAKO) :; SHIFT -世代の向こう-/[[Lia]](2001年12月29日発売) ::# SHIFT -世代の向こう-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Lia) ::# SHIFT -World Wide Mix-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Lia) ::# SHIFT -世代の向こう- -instrumental ver.- :; hitorigoto/KOTOKO(2001年12月29日発売) ::# ひとりごと(作詞・作曲・歌:KOTOKO/編曲:高瀬一矢) ::# 疾風雲(作詞・作曲・歌:KOTOKO/編曲:高瀬一矢、[[中沢伴行]]) ::# ひとりごと -karaoke ver.- ::# 疾風雲 -karaoke ver.- ::# ひとりごと -instrumental ver.- ::# 疾風雲 -instrumental ver.- : ; コミックマーケット63 :; [[diRTY GiFT]]/I've([[2002年]]12月29日発売) ::# Overture(作曲:[[中坪淳彦|FISH TONE]]) ::# Dirty Boots(作詞・作曲:Gordon Kim、Moore Thurston Joseph、Ranaldo Lee、Shelley Steve/編曲・歌:Outer) ::# SWAY(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:[[詩月カオリ]]) ::# World My Eyes(作詞:[[MELL]]/作曲・編曲:中坪淳彦/歌:島みやえい子) ::# 砂漠の雪(作詞・歌:MELL/作曲・編曲:[[C.G mix]]) ::# Disintegration ::Symphony Second movement::(作詞:Ben/作曲:高瀬一矢/編曲:[[井内舞子|羽越実有]]/歌:菅井えり) ::# Last movement(作曲:FISH TONE) : ; コミックマーケット65 :; Ozone/[[島みやえい子]]([[2003年]][[12月28日]]発売) ::# Ozone(作詞・作曲・歌:島みやえい子/編曲:高瀬一矢) ::# 銀河の子(作詞・作曲・歌:島みやえい子/編曲:C.G mix) ::# 十四の月(作詞・作曲・歌:島みやえい子/編曲:高瀬一矢) ::# 愛のうた(作詞・作曲・歌:島みやえい子/編曲:C.G mix) ::# 宇宙の花(e)(作詞・作曲・歌:島みやえい子/編曲:中坪淳彦) : ; コミックマーケット67 :; Mixed up/I've([[2004年]][[12月29日]]発売) ::# 砂漠の雪 -Mixed up ver.-(作詞・歌:MELL/作曲:C.G mix/編曲:高瀬一矢) ::# Close to me… -Mixed up ver.-(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:怜奈) ::# 同じ空の下で -Mixed up ver.-(作詞:MOMO、高瀬一矢/作曲:高瀬一矢/編曲:羽越実有、Rich/歌:怜奈) ::# philosophy -Mixed up ver.-(作詞:KOTOKO、高瀬一矢/作曲:高瀬一矢/編曲:POR/歌:[[モモイヒトミ|MOMO]]) ::# See You 〜小さな永遠〜 -Mixed up ver.-(作詞:[[都築真紀]]、高瀬一矢/作曲:高瀬一矢/編曲:FISH TONE/歌:MAKO) ::# Ever stay snow -Mixed up ver.-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:C.G mix/歌:SHIHO) ::# 砂の城 -The Castleof Sand- -Mixed up ver.-(作詞:[[片岡とも]]/作曲:高瀬一矢/編曲:TAKESHI Featuring POR/歌:島みやえい子) ::# 涙の誓い -the divine pledge of tears-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:FISH TONE/歌:KOTOKO) ::# verge -Mixed up ver.-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:[[彩菜]]) ::# Cross talk -Mixed up ver.-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:FISH TONE/歌:詩月カオリ) : ; コミックマーケット73 :; [[I've MANIA Tracks Vol.I]]/I've([[2007年]]12月29日発売) ::# Synthetic Organism(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:Outer) ::# DROWNING -Ghetto blaster style-(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:MOMO) ::# HALLUCINO -Remix-(作詞・歌:KOTOKO/作曲:中沢伴行/編曲:SORMA) ::# Treating 2U(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:堤伊之助) ::# Time heals all sorrows(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# Lythrum(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix/歌:[[川田まみ]]) ::# L.A.M -laze and meditation- -2001 P.V Long Arrange Mix-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Outer) ::# sensitive 2001(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:島みやえい子) ::# Crossed Destiny(作詞・歌:KOTOKO/作曲:[[Shade (音楽家)|Shade]]/編曲:高瀬一矢、中沢伴行) ::# philosophy -Proto type Mix-(作詞:KOTOKO、高瀬一矢/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:KOTOKO) ::# Leave me hell alone(作詞:Ben/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Outer) ::# Welcome to HEAVEN! -Remix-(作詞:AIS/作曲・編曲・歌:C.G mix) ::# See You 〜小さな永遠〜 -P.V ver.-(作詞:都築真紀、高瀬一矢/作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、中坪淳彦/歌:I've Special Unit) : ; コミックマーケット75 :; [[The Front Line Covers]]/I've([[2008年]][[12月28日]]発売) ::# RIDE -The Front Line Covers-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:川田まみ) ::# DROWNING -The Front Line Covers-(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:[[井内舞子]]/歌:島みやえい子) ::# 季節の雫 -The Front Line Covers-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:KOTOKO) ::# Days of promise -The Front Line Covers-(作詞:SAYUMI/作曲:高瀬一矢/編曲:C.G mix/歌:川田まみ) ::# そよ風の行方 -The Front Line Covers-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:井内舞子/歌:詩月カオリ) ::# birthday eve -The Front Line Covers-(作詞:[[元長柾木]]/作曲:高瀬一矢/編曲:C.G mix/歌:川田まみ) ::# I Will… -The Front Line Covers-(作詞:DIE、JUNO/作曲:中沢伴行/編曲:C.G mix/歌:島みやえい子) ::# Two face -The Front Line Covers-(作詞:高瀬一矢、中沢伴行/作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行、[[尾崎武士]]/歌:MELL) ::# One small day -The Front Line Covers-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:詩月カオリ) ::# Belvedia -The Front Line Covers-(作詞:SAYUMI/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:KOTOKO) ::# Disintegration -The Front Line Covers-(作詞:Ben/作曲:高瀬一矢/編曲:SINE6/歌:MELL) ::# Dream to the new world -The Front Line Covers-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:詩月カオリ) : ; コミックマーケット77 :; I've MANIA Tracks Vol.II/I've ([[2009年]][[12月29日]]発売) ::# Ha!!!ppiness(作詞:KOTOKO/作曲:中沢伴行/編曲:中沢伴行、尾崎武士/歌:Outer) ::# The Maze(作詞:H2/作曲・編曲:中沢伴行/歌:川田まみ) ::# prime -"thank you"and"from now"-(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# Fortress(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:島みやえい子) ::# our youthful days(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix/歌:MELL) ::# absurd(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix) ::# こなたよりかなたまで(作詞:KOTOKO/作曲:中沢伴行/編曲:中沢伴行、羽越実有/歌:MOMO) ::# YA・KU・SO・KU(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# CAVE(作詞・歌:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行) ::# 砂の風(作詞:SAYUMI/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:MELL) ::# Fatally(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix) ::# 秋風に君を想ふ(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:中沢伴行/歌:Healing Leaf) ::# ↑青春ロケット↑ -SHORT CIRCUIT II EDIT-(作詞:KOTOKO/作曲:井内舞子/編曲:井内舞子、Rich/歌:KOTOKO to 詩月カオリ) ::# under the darkness -Remix-(作詞:A.I./作曲・編曲・歌:C.G mix) : ; コミックマーケット79 :; I've MANIA Tracks Vol.III/I've ([[2010年]]12月29日発売) ::# Isolation(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix/歌:怜奈) ::# cross up(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:中坪淳彦) ::# cross my heart(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢、中沢伴行/編曲:中沢伴行/歌:島みやえい子) ::# World meets worlds(作詞・歌:SHIHO/作曲・編曲:C.G mix) ::# cross talk -2006 ver.-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:怜奈) ::# satirize(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:中坪淳彦/歌:宮崎麻芽) ::# 恋のマグネット(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:中坪淳彦/歌:MOMO) ::# eclipse -UETSU MIU style-(作詞:KOTOKO/作曲:中沢伴行/編曲:羽越実有/歌:川田まみ) ::# loose(作詞・歌:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:中坪淳彦) ::# I pray to stop my cry(作詞・歌:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# spillage(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:中沢伴行/歌:MOMO) ::# 悲しみの花 -MELL LIVE IN TOKYO 2010 Mix-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:MELL) : ; コミックマーケット80 :; OUTER/Outer ([[2011年]][[8月12日]]発売) ::# Ha!!!ppiness -Album ver.-(作詞:KOTOKO/作曲:中沢伴行/編曲:中沢伴行、尾崎武士/歌:Outer) ::# Synthetic Organism(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:中沢伴行/歌:Outer) ::# BARE END(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Outer) ::# L.A.M -laze and meditation-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Outer) ::# Leave me hell alone -Album ver.-(作詞:Ben/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:Outer) ::# Dirty Boots(作詞・作曲:Gordon Kim、Moore Thurston Joseph、Ranaldo Lee、Shelley Steve/編曲・歌:Outer) ::# easy prey(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:尾崎武士/歌:Outer) ::# Bullshit!! Hard problem!!(作詞:KOTOKO/作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、尾崎武士/歌:Outer) : ; コミックマーケット81 :; 時の翼/詩月カオリ (2011年[[12月29日]]発売) ::# 時の翼(作詞・作曲・歌:詩月カオリ/編曲:町田拓哉) ::# 笑顔のタ・カ・ラ・モ・ノ(作詞・作曲・歌:詩月カオリ/編曲:尾崎武士・中沢伴行) ::# 星空のセレナーデ(作詞・作曲・歌:詩月カオリ/編曲:SORMA No.1) :; Got it!! -Extended ver.-/[[Larval Stage Planning|朝見凛]] (2011年12月29日発売) ::# Got it!! -Extended ver.-(作詞:川田まみ/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:朝見凛) ::# Got it!! -English Mix-(作詞:川田まみ/英訳:[[NAMI|舞崎なみ]]/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:朝見凛) ::# Got it!! -instrumental ver.- : ; コミックマーケット83 :; snow flake/MAKO ([[2012年]]12月29日発売) ::# Live Trip(作詞・歌:MAKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# snow flake(作詞・歌:MAKO/作曲・編曲:中沢伴行) ::# Precious(作詞・歌:MAKO/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# 虹(作詞・作曲・歌:MAKO/編曲:高瀬一矢) ::# LEVEL OCTAVE -Unplugged Mix-(作詞・歌:MAKO/作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、尾崎武士、八木一美) : ; コミックマーケット83 :; THIS IS HOW/MAKO ([[2013年]]12月29日発売) ::# Admoniton(作詞・作曲・歌:MAKO/編曲:高瀬一矢) ::# Happy Ever After(作詞・作曲・歌:MAKO/編曲:中沢伴行) ::# This is how I fall in love(作詞・作曲・歌:MAKO/編曲:高瀬一矢) ::# bite on the bullet -Acoustic ver.-(作詞・作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、尾崎武士/歌:MAKO) ::# Happy Ever After -Arrangement of Innocent-(作詞・作曲・歌:MAKO/編曲:高瀬一矢、中沢伴行) :; Hi-Black/[[柚子乃]] (2013年12月29日発売) ::# Hi-Black(作詞・歌:柚子乃/作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、尾崎武士、C.G mix) ::# In the mirror(作詞・歌:柚子乃/作曲・編曲:尾崎武士) ::# Love me...(作詞・歌:柚子乃/作曲:C.G mix/編曲:C.G mix、星野威) ::# モラトリアム・クラスタ(作詞:松島詩史/作曲:中沢伴行/編曲:中沢伴行、尾崎武士/歌:柚子乃) ::# TREASURE DAYS(作詞・歌:柚子乃/作曲・編曲:井内舞子) :; I've Piano Pieces「Monochrome Solitude vol.1」 (2013年12月29日発売) :: ※ピアノアレンジアルバム。全編曲:森藤昌司 ::# FUCK ME ::# 美しく生きたい ::# 季節の雫 ::# Cross talk ::# Pure Heart ~世界で一番アナタが好き~ ::# Around the mind ::# uneasy ::# verge ::# 涙の誓い ::# To lose in amber ::# Wing my Way ::# 君よ、優しい風になれ ::# Disintegration : ; コミックマーケット85 :; I've MANIA Tracks NEW WAVE/I've ([[2014年]][[12月29日]]発売) ::# One small day -Slap Fruit mix-(作詞・作曲・編曲:高瀬一矢/歌:北村みのり) ::# 光舞う、いつもの場所で(作詞:桐島愛里/作曲・編曲:中沢伴行/歌:北村みのり) ::# The Never Ending Story(作詞:[[LOVERSSOUL]]/作曲・編曲:尾崎武士/歌:marriage blue) ::# 弱くて強い生き物(作詞:LOVERSSOUL/作曲:高瀬一矢/編曲:高瀬一矢、尾崎武士/歌:marriage blue) ::# DUpliciTY(作詞:[[Larval Stage Planning|桐島愛里]]/作曲・編曲:C.G mix/歌:[[RINA (歌手)|RINA]]) ::# Prism(作詞:柚子乃/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:RINA) :; I've Piano Pieces「Monochrome Solitude vol.2」 (2014年12月29日発売) :: ※ピアノアレンジアルバム。全編曲:森藤昌司 ::# Close to me… ::# Face of Fact ::# Ever stay snow ::# 遮光 ::# Lupe ::# Do you know the magic? ::# Out Flow ::# Permit ::# 砂の城 -The Castle of Sand- ::# I pray to stop my cry -little sea style- ::# SNOW ::# See You ~小さな永遠~ ::# Imaginary affair : ; コミックマーケット89 :; しょーとサーキットDS/柚子乃 and RINA ([[2015年]][[12月29日]]発売) ::# 応援 is L♥VE!!(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix/歌:柚子乃 and RINA) ::# CAT -lonely lolita-(作詞:桐島愛里/作曲:尾崎武士/編曲:尾崎武士、中沢伴行/歌:柚子乃 and RINA) ::# Darlin'♥Darlin' ~ふたりのカノジョ~(作詞:桐島愛里/作曲・編曲:中沢伴行/歌:柚子乃 and RINA) ::# しょーとサーキット DS(作詞:柚子乃/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:柚子乃 and RINA) :; I've Piano Pieces「Monochrome Solitude vol.3」 (2015年12月29日発売) :: ※ピアノアレンジアルバム。全編曲:森藤昌司 ::# Leaf ticket ::# あしあと ~a Happiness Marker~ ::# WING OF ZERO ::# 同じ空の下で ::# jihad ::# Rolling Star☆彡 ::# two HeaRt ::# LAST IN BLUE ::# サブリミナル・アジェンダ ::# INITIATIVE ::# Bizarrerie Cage ::# 白い輪舞曲 ::# bumpy-Jumpy! : ; コミックマーケット91 :; しょーとサーキットDS2/柚子乃 and RINA ([[2016年]]12月29日発売) ::# Rhythmic Fighter ~DS~(作詞:RINA/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:柚子乃 and RINA) ::# Darlin'♥Darlin' ~ふたりのカノジョ~(IOSYS TRAX Remix)(作詞:狐夢想/作曲・編曲:ARM/歌:柚子乃 and RINA) ::# 悩んだときはバカヤロー!! -キュンキュン☆DIMENSION-(作詞:桐島愛里/作曲:中沢伴行/編:D.watt&uno/歌:柚子乃 and RINA) ::# ROCK 'N' ROLL HERO(作詞:桐島愛里/作曲:中沢伴行/編曲:尾崎武士、中沢伴行/歌:柚子乃 and RINA) ::# Flash!!(作詞:柚子乃/作曲・編曲:[[NAMI]]/歌:柚子乃 and RINA) ::# Welcome to きゅんきゅんワンダーランド(作詞:桐島愛里/作曲・編曲:C.G mix/歌:柚子乃 and RINA) :; Double Unlimited/I've (2016年12月29日発売) ::# Day Dream(作詞・歌:RINA/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# モノクローム(作詞・歌:RINA/作曲・編曲:NAMI) ::# kiss on kiss(作詞・歌:柚子乃/作曲・編曲:中沢伴行) ::# jewel snow(作詞・歌:柚子乃/作曲・編曲:C.G mix) : ; コミックマーケット93 :; しょーとサーキットDS3 -FINAL CORNER-/柚子乃 and RINA ([[2017年]][[12月29日]]発売) ::# A to Z(作詞:KOTOKO/作曲・編曲:C.G mix/歌:柚子乃 and RINA) ::# 始まりのshow down(作詞:狐夢想/作曲・編曲:ARM/歌:柚子乃 and RINA) ::# answer(作詞:桐島愛里/作曲:中沢伴行/編:D.watt&uno/歌:柚子乃 and RINA) ::# A to Z -instrumental ver.- ::# 始まりのshow down -instrumental ver.- ::# answer -instrumental ver.- ::# めぃぷるシロップ - vocal-1 - ::# Double HarmoniZe Shock!! -vocal-1 - ::# Princess Brave! -vocal-1 - : ; コミックマーケット95 :; I've ORIGINAL Compilations - F-ive elements -/I've ([[2018年]]12月29日発売) ::# 土 the under(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:柚子乃) ::# 風 the silence(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:RINA) ::# 木 the earth(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:佐藤アスカ) ::# 火 the flare(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:[[IKU]]) ::# 水 the flow(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:IKU) ::# 土 the under -instrumental ver.- ::# 風 the silence -instrumental ver.- ::# 木 the earth -instrumental ver.- ::# 火 the flare -instrumental ver.- ::# 水 the flow -instrumental ver.- :; Alstroemeria/Leina (2018年12月29日発売) ::# alstroemeria(作詞・歌:Leina/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# refrain(作詞・歌:Leina/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# stella(作詞・歌:Leina/作曲・編曲:NAMI) ::# alstroemeria -instrumental ver.- ::# refrain -instrumental ver.- ::# stella -instrumental ver.- : ; コミックマーケット97 :; F-ive elements -hexa communion-/I've ([[2019年]][[12月28日]]発売) ::# 炎 -EN-(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:佐藤アスカ) ::# 雷 -RAI-(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:RINA) ::# 湖 -KO-(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:[[北沢綾香]]) ::# 林 -RIN-(作詞・編曲:NAMI/作曲:高瀬一矢/歌:Leina) ::# 地 -CHI-(作詞:NAMI/作曲・編曲:高瀬一矢/歌:RINA) ::# 宙 -CHU-(作詞:NAMI/作曲・編曲:C.G mix/歌:IKU) ::# 炎 -EN- -instrumental ver.- ::# 雷 -RAI- -instrumental ver.- ::# 湖 -KO- -instrumental ver.- ::# 林 -RIN- -instrumental ver.- ::# 地 -CHI- -instrumental ver.- ::# 宙 -CHU- -instrumental ver.- :; GAUZE/I've (2019年12月28日発売) ::# GAUZE(作詞・歌:Leina/作曲・編曲:高瀬一矢) ::# GAUZEII -rebellion-(作詞・歌:佐藤アスカ/作曲:NAMI/編曲:NAMI、高瀬一矢) ::# GAUZEIII -R.E.D-(作詞・歌:RINA/作曲・編曲:NAMI) ::# GAUZE -instrumental ver.- ::# GAUZEII -rebellion- -instrumental ver.- ::# GAUZEIII -R.E.D- -instrumental ver.- === DVD === 製作:I've(FUCTORY Records)/発売元:ビジュアルアーツ * prime prototype(C59セット) * I've P.V.Collection Vol.1 L.A.M/Repeat(C61セット) * I've P.V.Collection Vol.2 疾風雲←HAYATE→GUMO(C63セット) * I've P.V.Collection Vol.3 SEE YOU〜小さな永遠〜(LAMENT/OUT FLOW に同梱) * Making of I've IN BUDOKAN(C69セット) * I'VE in BUDOKAN 2005 〜Open the Birth Gate〜 * I'VE in BUDOKAN 2005 〜COMPLETE EDIT〜 === TRANCE関連のCD === ==== CURE TRANCEシリーズ ==== 発売元:[[キングレコード]] * CURE TRANCE Vol.1『Psychedelic』 * CURE TRANCE Vol.2『Psychedelic GOA』 * CURE TRANCE Vol.3『Psychedelic IBIZA』 ==== VERVE CIRCLEシリーズ ==== 発売元:[[キングレコード]] * beyond the underground groove * beat spellbound-agitation mix * electronica-mayhem * Psychedelic Trance Edition featuring GMS * Psychedelic Trance Edition -Journey of Space Exploration- * Psychedelic Trance Edition -Fantastic Planet- * Psychedelic Trance Edition -Nature & ReNature- * Best of verve-circle I've found the fountains of paradise * Best of verve-circle Psychedelic Trance edition ==== TRANCE MAGICシリーズ ==== オムニバス参加、発売元:[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]] * TRANCE MAGIC Vol.1 * TRANCE MAGIC Vol.2 * TRANCE MAGIC Vol.3 ==== その他 ==== ; FISH TONE([[中坪淳彦]])アルバム :* FISH TONE :* KING JOE :* noyau :* 2006 SEPTEMBER :* REVIVE(1stアルバム「FISH TONE」のリマスタリング(正確には初期プロット段階)作品。そのためタイトルも「REVIVE」という) :* 2007 SEP :* RIOT OF ELECTRON : ; HARD STUFF([[高瀬一矢]]と[[中沢伴行]]のユニット) :* Luding Out : ; WORM WORLD([[高瀬一矢]]のI've以前のユニット名) :* EURO1 :* EURO2 :* EURO3 :* EURO4 : ; F.T.K. :* IF YOU WERE HERE - JENNIFER([[DanceDanceRevolution]]に収録されたことで有名。作詞は[[小室みつ子]]) :* IS THIS THE WAY YOU KILL A LOVE - GINA ※発売元がビジュアルアーツの作品は、基本的にゲーム流通に乗るため、大手レコード店では販売されないので注意が必要。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ive-sound.jp/ I've low trance assembly/I've SECONDARY CREATORS] - 公式サイト * {{Oricon name|name=MAKO|id=669537}} {{I've}} {{Navboxes|title=歴代所属歌手 |list= {{KOTOKO}} {{川田まみ}} {{島みやえい子}} {{MELL}} {{詩月カオリ}} }} {{Normdaten}} {{music-stub}} {{DEFAULTSORT:あいふ}} [[Category:I've|*]] [[Category:音楽プロダクション]] [[Category:ゲーム音楽グループ]] [[Category:日本のアニメ音楽の作曲家]] [[Category:トランス・ミュージック]] [[Category:萌えソングの作曲家]] [[Category:映画音楽の作曲家]] [[Category:日本の音楽・映像ソフト会社]] [[Category:ゲーム音楽レーベル]] [[Category:札幌市の音楽]] [[Category:1998年に結成した音楽グループ]]
2003-09-06T17:40:20Z
2023-12-11T04:16:41Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Oricon name", "Template:I've", "Template:Music-stub", "Template:Infobox Musician", "Template:R", "Template:節スタブ", "Template:出典の明記", "Template:Normdaten", "Template:Pathnav", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Navboxes", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/I%27ve
15,455
性器
性器(せいき、英: Sex organ)、または 交接器(こうせつき)とは、動物のうち、有性生殖時に体内受精を行う種において行われる「交接(交尾)行動」に関与する器官の総称。主として生殖に関連する器官である生殖器のうち、性差の外見的特徴を成す外性器の事を指す通称である。 一方の個体が、生殖子(精子または卵子など)をもう一方の体内に送り届けるための構造を有しており、突起状の器官を持つ側とそれを受け入れる袋状の器官をもつ側とが存在する。陸上生活をする脊椎動物では体内受精を行う必要があるためよく発達しており、この場合には、雄(オス)と雌(メス)が一対になる形状になっている。 性器は有性生殖において、遺伝子の交換を生物が行う際に、生殖細胞のうち主に精子など生物の体外に放出され運動する機能のある側をもつ個体から、交接相手側に送り込むための器官であり、また卵子といった運動機能が無く受動的な生殖細胞を持つ側がそれを受け入れ、受精させる器官のことである。このため体外受精を行う生物では性器の発達は見られない。なお生殖器はこうして行われた有性生殖のプロセスの後、次代の生命となる個体を体内で育てたり体外に押し出す機能を持つが、性器は交尾など接合に際して利用される器官を指し、より限定的である。性別の外見的特長となる。 特に一般において性器と表現する場合は、人間に限定しては男性の陰茎と陰嚢および女性の陰唇や陰裂といった外部に露出している(ただし公共良俗など諸般の事情により衣服で覆われ裸の場合を除き隠される)器官を指す傾向にあり、人間に限定しない動物全般の話では外部から見える生殖器を指す傾向にあるが、一部の動物では発情期にならないと外見的に目立たない場合や、交尾の段にならないと外部に露出しない(例えばクジラ目の陰茎は普段は皮下に埋没している)場合もある。 一方、性器は生殖に際して接合を行う器官ではあるが、しばしば性器は排出器官など別の機能も持っている。哺乳類では雄性器が排尿の機能を兼ね備えている。雌性器では産卵・出産のための生殖器を兼ねているほか、外性器の一部として尿排出口がある。また鳥類など(軟骨魚類・両生類・爬虫類・鳥類および一部の原始的な哺乳類)では雌生殖器官が総排出腔となっている。 また性器を発生学的に見ると、生殖器全般が胚発生の途中段階までは性差に依らずよく似たプロセスで形成されており、性器もまた途中までは同じような過程を経て形成されている。特に胎生の生物ではそれら動物としての特徴が顕著化しだすまでは性器の発生は見られず、誕生してからも性器は未発達なままで、多くの動物では肉体的な成熟と平行して生殖器や性器の成長に伴う変化もあり、性器が完全に成長しきるのは肉体全体から見ても比較的後のほうである。このため共通する部位もあり、陰茎と陰核のように基本構造に類似性も見出せる。なおこういった性器の発達は稀に性差に関わらず未分化なまま誕生して、顕著化しない場合もある。ヒトでは、いわゆる半陰陽の内、遺伝的には男性でありながら女性的外見を持つケース(停留睾丸など)では、性器の外見が誕生時に見分けが付かず、誤って女性として育てられる場合もあるなどしている。 性別を見分ける外見的特長であるため、家畜など産業動物では性別により価値が変わる場合では、比較的若い段階で見分けることも行われる。例えばニワトリのヒナの雌雄鑑別に見るように、日本の初生雛鑑別師など専門職も存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "性器(せいき、英: Sex organ)、または 交接器(こうせつき)とは、動物のうち、有性生殖時に体内受精を行う種において行われる「交接(交尾)行動」に関与する器官の総称。主として生殖に関連する器官である生殖器のうち、性差の外見的特徴を成す外性器の事を指す通称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一方の個体が、生殖子(精子または卵子など)をもう一方の体内に送り届けるための構造を有しており、突起状の器官を持つ側とそれを受け入れる袋状の器官をもつ側とが存在する。陸上生活をする脊椎動物では体内受精を行う必要があるためよく発達しており、この場合には、雄(オス)と雌(メス)が一対になる形状になっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "性器は有性生殖において、遺伝子の交換を生物が行う際に、生殖細胞のうち主に精子など生物の体外に放出され運動する機能のある側をもつ個体から、交接相手側に送り込むための器官であり、また卵子といった運動機能が無く受動的な生殖細胞を持つ側がそれを受け入れ、受精させる器官のことである。このため体外受精を行う生物では性器の発達は見られない。なお生殖器はこうして行われた有性生殖のプロセスの後、次代の生命となる個体を体内で育てたり体外に押し出す機能を持つが、性器は交尾など接合に際して利用される器官を指し、より限定的である。性別の外見的特長となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "特に一般において性器と表現する場合は、人間に限定しては男性の陰茎と陰嚢および女性の陰唇や陰裂といった外部に露出している(ただし公共良俗など諸般の事情により衣服で覆われ裸の場合を除き隠される)器官を指す傾向にあり、人間に限定しない動物全般の話では外部から見える生殖器を指す傾向にあるが、一部の動物では発情期にならないと外見的に目立たない場合や、交尾の段にならないと外部に露出しない(例えばクジラ目の陰茎は普段は皮下に埋没している)場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、性器は生殖に際して接合を行う器官ではあるが、しばしば性器は排出器官など別の機能も持っている。哺乳類では雄性器が排尿の機能を兼ね備えている。雌性器では産卵・出産のための生殖器を兼ねているほか、外性器の一部として尿排出口がある。また鳥類など(軟骨魚類・両生類・爬虫類・鳥類および一部の原始的な哺乳類)では雌生殖器官が総排出腔となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また性器を発生学的に見ると、生殖器全般が胚発生の途中段階までは性差に依らずよく似たプロセスで形成されており、性器もまた途中までは同じような過程を経て形成されている。特に胎生の生物ではそれら動物としての特徴が顕著化しだすまでは性器の発生は見られず、誕生してからも性器は未発達なままで、多くの動物では肉体的な成熟と平行して生殖器や性器の成長に伴う変化もあり、性器が完全に成長しきるのは肉体全体から見ても比較的後のほうである。このため共通する部位もあり、陰茎と陰核のように基本構造に類似性も見出せる。なおこういった性器の発達は稀に性差に関わらず未分化なまま誕生して、顕著化しない場合もある。ヒトでは、いわゆる半陰陽の内、遺伝的には男性でありながら女性的外見を持つケース(停留睾丸など)では、性器の外見が誕生時に見分けが付かず、誤って女性として育てられる場合もあるなどしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "性別を見分ける外見的特長であるため、家畜など産業動物では性別により価値が変わる場合では、比較的若い段階で見分けることも行われる。例えばニワトリのヒナの雌雄鑑別に見るように、日本の初生雛鑑別師など専門職も存在する。", "title": "概要" } ]
性器、または 交接器(こうせつき)とは、動物のうち、有性生殖時に体内受精を行う種において行われる「交接(交尾)行動」に関与する器官の総称。主として生殖に関連する器官である生殖器のうち、性差の外見的特徴を成す外性器の事を指す通称である。 一方の個体が、生殖子(精子または卵子など)をもう一方の体内に送り届けるための構造を有しており、突起状の器官を持つ側とそれを受け入れる袋状の器官をもつ側とが存在する。陸上生活をする脊椎動物では体内受精を行う必要があるためよく発達しており、この場合には、雄(オス)と雌(メス)が一対になる形状になっている。
{{性的}} {{出典の明記|date=2021年1月18日 (月) 16:11 (UTC)}} '''性器'''(せいき、{{lang-en-short|Sex organ}})、または '''交接器'''(こうせつき)とは、[[動物]]のうち、[[有性生殖]]時に[[体内受精]]を行う種において行われる「交接([[交尾]])行動」に関与する[[器官]]の総称。主として[[生殖]]に関連する器官である[[生殖器]]のうち、性差の外見的特徴を成す[[外性器]]の事を指す通称である。 一方の個体が、生殖子([[精子]]または[[卵子]]など)をもう一方の体内に送り届けるための構造を有しており、突起状の器官を持つ側とそれを受け入れる袋状の器官をもつ側とが存在する。陸上生活をする脊椎動物では体内受精を行う必要があるためよく発達しており、この場合には、[[雄]](オス)と[[雌]](メス)が一対になる形状になっている。 == 概要 == 性器は有性生殖において、[[遺伝子]]の交換を生物が行う際に、[[生殖細胞]]のうち主に[[精子]]など生物の体外に放出され運動する機能のある側をもつ個体から、交接相手側に送り込むための器官であり、また[[卵子]]といった運動機能が無く受動的な生殖細胞を持つ側がそれを受け入れ、[[受精]]させる器官のことである。このため[[体外受精 (生物)|体外受精]]を行う生物では性器の発達は見られない。なお生殖器はこうして行われた有性生殖のプロセスの後、次代の生命となる[[個体]]を体内で育てたり体外に押し出す機能を持つが、性器は交尾など接合に際して利用される器官を指し、より限定的である。[[性差|性別]]の外見的特長となる。 特に一般において性器と表現する場合は、人間に限定しては[[男性]]の[[陰茎]]と[[陰嚢]]および[[女性]]の[[陰唇]]や[[陰裂]]といった外部に露出している(ただし公共良俗など諸般の事情により[[衣類|衣服]]で覆われ[[裸]]の場合を除き隠される)器官を指す傾向にあり、人間に限定しない動物全般の話では外部から見える生殖器を指す傾向にあるが、一部の動物では[[発情期]]にならないと外見的に目立たない場合や、交尾の段にならないと外部に露出しない(例えば[[クジラ目]]の陰茎は普段は皮下に埋没している)場合もある。 一方、性器は生殖に際して接合を行う器官ではあるが、しばしば性器は[[排出器官]]など別の機能も持っている。[[哺乳類]]では雄性器が[[排尿]]の機能を兼ね備えている。雌性器では産卵・出産のための生殖器を兼ねているほか、外性器の一部として[[尿道|尿排出口]]がある。また[[鳥類]]など([[軟骨魚類]]・[[両生類]]・[[爬虫類]]・鳥類および一部の原始的な[[哺乳類]])では雌生殖器官が[[総排出腔]]となっている。 また性器を[[発生学]]的に見ると、生殖器全般が[[胚発生]]の途中段階までは[[性差]]に依らずよく似たプロセスで形成されており、性器もまた途中までは同じような過程を経て形成されている。特に[[胎生]]の生物ではそれら動物としての特徴が顕著化しだすまでは性器の発生は見られず、誕生してからも性器は未発達なままで、多くの動物では肉体的な成熟と平行して生殖器や性器の成長に伴う変化もあり、性器が完全に成長しきるのは肉体全体から見ても比較的後のほうである。このため共通する部位もあり、[[陰茎]]と[[陰核]]のように基本構造に類似性も見出せる。なおこういった性器の発達は稀に性差に関わらず未分化なまま誕生して、顕著化しない場合もある。[[ヒト]]では、いわゆる[[半陰陽]]の内、遺伝的には男性でありながら女性的外見を持つケース([[停留睾丸]]など)では、性器の外見が誕生時に見分けが付かず、誤って女性として育てられる場合もあるなどしている。 性別を見分ける外見的特長であるため、[[家畜]]など[[産業動物]]では性別により[[価値]]が変わる場合では、比較的若い段階で見分けることも行われる。例えば[[ニワトリのヒナの雌雄鑑別]]に見るように、日本の初生雛鑑別師など専門職も存在する。 <!-- 人間POV過ぎで説明的でない: == 人の性器 == * [[女性器]]の形状 ** {{要出典|範囲= [[日本人]]の場合、[[個人]]差はあるが下腹部に10cm程度|date= ~~~~~}}の割れ目([[陰裂]])がありその中に、[[膣]](vagina)がある。[[尿道]]口(external opening of urethra)もこの割れ目の中にある。外側から[[大陰唇]]、[[小陰唇]]に囲まれており性器の割れ目上部には[[陰核]](clitoris)があり、[[女性]]の[[性感帯]]とされている。割れ目の上部(前陰唇交連)より陰核、[[バルトリン腺]]、尿道口、[[スキーン腺]]、膣という順番になっている。合計7つ、孔がある。 * [[男性器]]の形状 ** [[日本人]]の場合、個人差はあるが[[成人]][[男子]]の[[勃起]]時で長さ13cm程度(平均12.7cmとされるが個人差がみられる〉)、直径3~5cm程度{{要出典}}の太さの円筒状の肉茎が下腹部から突出している。先端に[[尿道]]口がある。[[精液]]も[[尿]]も同じ穴から出る。 ** [[陰茎|ペニス]]の先端部は[[子供]]のころは[[包皮]]で覆われているが、大人になるにつれ包皮の開口部が自然にゆるみ、先端の膨らみ部分([[陰茎亀頭|亀頭]])の一部または全部が露出するようになる。 ** 包皮がむけないものを[[包茎]]という。 == 性的興奮と性交 == [[男性]]は[[性的興奮]]をすると性器が充血して[[勃起]]し、長さ太さが1.3から2倍程度{{要出典}}になり硬くなる。これを[[勃起]]という。女性も興奮すると性器が充血し無色透明の潤滑液([[バルトリン腺|バルトリン腺液]]など;総称・俗称:[[膣分泌液|愛液]])が膣より分泌される。 勃起した男性器を女性の膣に挿入し、前後に[[ピストン運動]]して互いの性器を刺激し合うことを[[性行為|性交]](セックス)という。しばらくして男性の快感が最高潮([[オーガズム]])に達すると[[睾丸]]の[[精巣]]で作られた[[精子]]が[[陰嚢]]で作られた液体([[尿道球腺液]])と混ざって[[精液]]となって、亀頭の先端の[[尿道]]口より吐出([[射精]])される。射精は律動的に起こり、約0.8秒間隔で数回の噴射を繰り返す。 なお、この勃起から射精までの一連の生理現象は[[反射 (生物学)|反射]]により引き起こされるため、自分で意識してもコントロールすることができないことが普通である。すなわち、一度性的に快感を得て脳が興奮すると、我慢しても射精を止めることができず、[[避妊]]には[[コンドーム]]の着用が必要となる。 男性は射精後急激に性的興奮が収まり、性器の勃起の現象も収まる。男性器は射精直後から一定の時間は「不応期」となる。不応期とは性的刺激に全く反応しない時期のことで、性的刺激を受けるとむしろ不快感を生じる。このため、男性器は射精後速やかに勃起の現象が収まることが多い。この不応期の長さは個体差があり、また老齢ほど長くなることが知られている。 不応期が生まれた理由については諸説ある。理由の一つは野生生活の名残で、性交後いつまでも勃起していては、敵の襲撃に対処することが出来ないからと考えられる。あるいは、次回の性交に備えて精子を生産するための休息と考えられている。 これに対し、女性の性的興奮は余韻を残しつつ徐々に収まるといわれる。これは、男性の性的興奮を常に受け入れる必要があるためである。 ([[避妊]]をしない場合)精液の中にいる精子はやがて[[子宮]](hystera)に向かう。[[排卵]]のタイミングと合えば精子と[[卵巣]]で造られた卵子が結合することがあり、これを[[受精]]という。--> <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> == 関連項目 == * [[性別]] * [[半陰陽|半陰]] * [[生殖器]] {{腎泌尿器疾患}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいき}} [[Category:生殖器|*せいき]]
2003-09-06T17:51:48Z
2023-12-16T07:57:25Z
false
true
false
[ "Template:Normdaten", "Template:性的", "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:腎泌尿器疾患" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%99%A8
15,456
アートディンク
株式会社アートディンク(英: ARTDINK CORPORATION)は、1986年に設立された、主にコンピュータゲームを開発・販売などを行う日本の企業。東京都中央区月島に本社を置く。 1980年代の設立当時よりPC用ゲームを開発・販売している老舗メーカーで、『A列車で行こう』『Neo ATLAS』『カルネージハート』シリーズなどの、シミュレーションゲームを得意とし、主力商品としている。1990年代初頭の国産PCゲーム興隆期においては国内トップシェアを誇り、1993年からPCエンジン等で家庭用ゲームソフトも提供し始める。以降、PC・家庭用を問わず様々なハードに多くのタイトルを提供し続けており、受託開発及び移植等のデベロッパー業務も積極的に行っている。 社名の由来は"ART"は「作品」、"DINK"は"DI"(2つの)+"NK"(NとK)で2人のN(永浜ともう一人)と2人のK(河西克重、神田英雄の元役員)の4人が会社を創設したことによる。なお、社名自体は現在も設立当時のままだが、社名ロゴデザインは一度変更されている。 元々ゲーム会社を作ろうという意識はなく、永浜と河西らが趣味のために作った開発用のモトローラ用CPUのアセンブラなどを制作していたことが会社設立のきっかけであった。それらのアセンブラなどを試しに売り出した所、評判を得たので、映画産業、防衛庁、百貨店等にそれぞれに勤めていた高校時代の同期4人で起業する事になった。さすがにそれだけでは会社の維持は難しいであろうとなったが、丁度その頃に立ち上がりつつあったコンピューターゲームの市場で商売が出来そうという理由でゲームも手掛ける事となり、製作されたのが初代『A列車』である。『A列車で行こう』はあまりゲームなどには詳しくない河西らがかなりの努力の上で作りあげたものである。 当初は「研究所」のイメージで運営されており、社員が全員白衣を着用していた時期があったという。販売促進はキャンペーンや雑誌広告が主だが、『A5』と『ナビット』『A列車で行こうDS』ではテレビCMが放送された。PC-9801シリーズ用のゲームが主力の時代には、ユーザー登録を行った人間全てにデモディスクを送付していた。 創業より都内~千葉県沿岸部の東京湾周辺にオフィスを構えており、代表作である『A列車で行こうシリーズ』においては美浜区周辺の建造物がモデルとなっている事が多い。3D化以降は海浜幕張周辺の建造物もモデルとなっており、例えばPlayStation版『A列車で行こう5』のデパートに描かれている「D」の看板は、開発当時本社を置いていた美浜区稲毛海岸駅にあるDマート(現在のイオンマリンピア専門館)がモデルとなっている。これは本社ビルと隣接していたため、当時の社員が多く利用していた事による。 関連会社であるスタジオアートディンクは、ゲームソフトウェアの受託開発、デバッグ業務を行っている。2018年7月24日、アイティエルホールディングスがスタジオアートディンクの発行済株式のすべてを取得しグループ会社としたため、関連会社ではなくなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社アートディンク(英: ARTDINK CORPORATION)は、1986年に設立された、主にコンピュータゲームを開発・販売などを行う日本の企業。東京都中央区月島に本社を置く。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1980年代の設立当時よりPC用ゲームを開発・販売している老舗メーカーで、『A列車で行こう』『Neo ATLAS』『カルネージハート』シリーズなどの、シミュレーションゲームを得意とし、主力商品としている。1990年代初頭の国産PCゲーム興隆期においては国内トップシェアを誇り、1993年からPCエンジン等で家庭用ゲームソフトも提供し始める。以降、PC・家庭用を問わず様々なハードに多くのタイトルを提供し続けており、受託開発及び移植等のデベロッパー業務も積極的に行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "社名の由来は\"ART\"は「作品」、\"DINK\"は\"DI\"(2つの)+\"NK\"(NとK)で2人のN(永浜ともう一人)と2人のK(河西克重、神田英雄の元役員)の4人が会社を創設したことによる。なお、社名自体は現在も設立当時のままだが、社名ロゴデザインは一度変更されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "元々ゲーム会社を作ろうという意識はなく、永浜と河西らが趣味のために作った開発用のモトローラ用CPUのアセンブラなどを制作していたことが会社設立のきっかけであった。それらのアセンブラなどを試しに売り出した所、評判を得たので、映画産業、防衛庁、百貨店等にそれぞれに勤めていた高校時代の同期4人で起業する事になった。さすがにそれだけでは会社の維持は難しいであろうとなったが、丁度その頃に立ち上がりつつあったコンピューターゲームの市場で商売が出来そうという理由でゲームも手掛ける事となり、製作されたのが初代『A列車』である。『A列車で行こう』はあまりゲームなどには詳しくない河西らがかなりの努力の上で作りあげたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初は「研究所」のイメージで運営されており、社員が全員白衣を着用していた時期があったという。販売促進はキャンペーンや雑誌広告が主だが、『A5』と『ナビット』『A列車で行こうDS』ではテレビCMが放送された。PC-9801シリーズ用のゲームが主力の時代には、ユーザー登録を行った人間全てにデモディスクを送付していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "創業より都内~千葉県沿岸部の東京湾周辺にオフィスを構えており、代表作である『A列車で行こうシリーズ』においては美浜区周辺の建造物がモデルとなっている事が多い。3D化以降は海浜幕張周辺の建造物もモデルとなっており、例えばPlayStation版『A列車で行こう5』のデパートに描かれている「D」の看板は、開発当時本社を置いていた美浜区稲毛海岸駅にあるDマート(現在のイオンマリンピア専門館)がモデルとなっている。これは本社ビルと隣接していたため、当時の社員が多く利用していた事による。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "関連会社であるスタジオアートディンクは、ゲームソフトウェアの受託開発、デバッグ業務を行っている。2018年7月24日、アイティエルホールディングスがスタジオアートディンクの発行済株式のすべてを取得しグループ会社としたため、関連会社ではなくなった。", "title": "概要" } ]
株式会社アートディンクは、1986年に設立された、主にコンピュータゲームを開発・販売などを行う日本の企業。東京都中央区月島に本社を置く。
{{基礎情報 会社 |社名= 株式会社アートディンク |英文社名 = ARTDINK CORPORATION |ロゴ = [[File:Artdink logo.svg|250px]] |画像 = |画像説明 = |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 104-0052 |本社所在地= [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]]1丁目2番13号<br />ワイズビルディング6階 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 39|本社緯度秒 = 56.2|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 46|本社経度秒 = 58.5|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |設立= [[1986年]][[4月21日]] |業種= 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容= [[ゲームソフト]](家庭用ゲーム機・PC・携帯等)ならびに 各種デジタルコンテンツの企画・開発・販売 |代表者= 代表取締役社長 永浜達郎 |資本金= 1億円(2020年1月現在) |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数= 88名(2020年1月現在) |決算期 = |主要株主 = |主要子会社= |関係する人物= [[#関係者]]参照 |外部リンク= {{Official URL}} |特記事項 = }} '''株式会社アートディンク'''({{Lang-en-short|ARTDINK CORPORATION}})は、[[1986年]]に設立された、主に[[コンピュータゲーム]]を開発・販売などを行う[[日本]]の企業。[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]]に本社を置く。 == 概要 == [[1980年代]]の設立当時よりPC用ゲームを開発・販売している老舗メーカーで、『[[A列車で行こうシリーズ|A列車で行こう]]』『[[Neo ATLAS]]』『[[カルネージハート]]』シリーズなどの、[[シミュレーションゲーム]]を得意とし、主力商品としている。[[1990年代]]初頭の国産PCゲーム興隆期においては国内トップシェアを誇り、[[1993年]]から[[PCエンジン]]等で家庭用ゲームソフトも提供し始める。以降、PC・家庭用を問わず様々なハードに多くのタイトルを提供し続けており、受託開発及び移植等のデベロッパー業務も積極的に行っている。 社名の由来は"ART"は「作品」、"DINK"は"DI"(2つの)+"NK"(NとK)で2人のN(永浜ともう一人)と2人のK(河西克重、神田英雄の元役員)の4人が会社を創設したことによる。なお、社名自体は現在も設立当時のままだが、社名ロゴデザインは一度変更されている。 元々[[ゲーム会社]]を作ろうという意識はなく、永浜と河西らが趣味のために作った開発用の[[モトローラ]]用[[CPU]]の[[アセンブラ]]などを制作していたことが会社設立のきっかけであった。それらのアセンブラなどを試しに売り出した所、評判を得たので、[[映画産業]]、[[防衛庁]]、[[百貨店]]等にそれぞれに勤めていた高校時代の同期4人で起業する事になった。さすがにそれだけでは会社の維持は難しいであろうとなったが、丁度その頃に立ち上がりつつあった[[コンピューターゲーム]]の市場で商売が出来そうという理由でゲームも手掛ける事となり、製作されたのが初代『A列車』である。『A列車で行こう』はあまりゲームなどには詳しくない河西らがかなりの努力の上で作りあげたものである<ref>{{Cite book|和書|year=1993|title=SLG解体新書|pages=148-150|author=多摩豊|authorlink=多摩豊|publisher=[[コーエー|光栄]]|id=ISBN 487-7190228}}</ref>。 当初は「研究所」のイメージで運営されており、社員が全員[[白衣]]を着用していた時期があったという<ref>ビジネス・アスキー発行「A.III. THE BOOK」 ISBN 4-89366-095-0 pp.22-23</ref>。販売促進はキャンペーンや雑誌広告が主だが、『[[A列車で行こうシリーズ#A列車で行こう5|A5]]』と『[[ナビット]]』『A列車で行こうDS』ではテレビCMが放送された。PC-9801シリーズ用のゲームが主力の時代には、ユーザー登録を行った人間全てにデモディスクを送付していた。 創業より都内~[[千葉県]]沿岸部の[[東京湾]]周辺にオフィスを構えており、代表作である『[[A列車で行こうシリーズ]]』においては[[美浜区]]周辺の建造物がモデルとなっている事が多い。3D化以降は[[海浜幕張]]周辺の建造物もモデルとなっており、例えば[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『A列車で行こう5』のデパートに描かれている「D」の看板は、開発当時本社を置いていた美浜区[[稲毛海岸駅]]にある[[Dマート]](現在の[[イオン (企業)|イオン]][http://www.aeon.jp/sc/marinpia-senmonkan/index.html マリンピア専門館])がモデルとなっている。これは本社ビルと隣接していたため、当時の社員が多く利用していた事による。 関連会社である[[スタジオアートディンク]]は、ゲームソフトウェアの受託開発、[[デバッグ]]業務を行っている。2018年7月24日、アイティエルホールディングスがスタジオアートディンクの発行済株式のすべてを取得しグループ会社としたため、関連会社ではなくなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://itl-hd.com/information/detail-3.html |title=株式会社スタジオアートディンク株式取得に関するお知らせ |publisher=アイティエルホールディングス|accessdate=2021-02-13}}</ref>。 == 沿革 == * [[1986年]] - 設立。初代『[[A列車で行こうシリーズ|A列車で行こう]]』発売。 * [[1988年]] - 戦略級リアルタイムWSLG『大海令』発売。 * [[1990年]] - ベストヒットソフトウェア賞シミュレーションゲーム賞を受賞。 * [[1991年]] - 『A列車で行こうIII』がベストヒットソフトウェア大賞を受賞。[[千葉市]][[美浜区]]に本社移転。 * [[1992年]] - 子会社『株式会社ゼスト』を広告代理業として設立。『A列車で行こうIV』発売。[[日本ソフトウェア大賞]]ゲームソフト部門最優秀賞受賞、『for Windows』[[日経パソコン]]・ベスト・ソフトWindowsゲーム・ソフト部門タイトル入選。 * [[1993年]] ** [[PCエンジン]]等、[[家庭用ゲーム]]事業に参入。 ** 『株式会社ゼスト』出版事業開始。『A列車で行こうIII』北米版『A-TRAIN』を[[アメリカ合衆国|米国]]その他数カ国で発売。「THE BEST OF 1992」SOFTWARE PRODUCTS賞「BEST STRATEGY GAME OF 1992」の各賞受賞。 ** 千葉市美浜区[[稲毛海岸駅]]に本社移転。 * [[1994年|1994]]~[[1996年]] - 『[[ルナティックドーン]]II』日本ソフトウェア大賞ログイン賞、『[[アクアノートの休日]]』日本ソフトウェア大賞エンターテインメントソフト部門優秀賞を受賞。 * [[1998年]] - [[千葉市]][[幕張新都心]](海浜幕張)に本社移転。 PC移植作、家庭用オリジナルタイトル多数発売。 * [[1999年]] - [[ミドルウェア]]事業を開始。 * [[2000年]] - [[PlayStation 2]]開発支援ツール「Agatha」発売。 * [[2002年]] - [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[月島]]に本社移転。受託開発事業を本格化。以降、他社タイトル、版権物等多数の[[キャラクターゲーム]]を開発。 == 開発タイトル一覧 == === パソコン用ソフト === * [[ルナティックドーン]]シリーズ * [[A列車で行こうシリーズ]] * [[大海令]]シリーズ * ハウメニロボットシリーズ<ref>公式にはシリーズであるとはアナウンスされていない。</ref> ** ハウメニロボット<small>HOW MANY ROBOT</small> - ロボットを操作し、時限爆弾を解除するシミュレーションゲーム:[[PC-9800シリーズ|PC-9800]]、[[FM-7]]([[1988年]])。 ** HR2 - (超)高層ビル(最大600m)を建てる建築シミュレーション。[[C言語]]風(サブセット)の言語で自律的に行動するロボットをプログラミングし、工事を進めていく:PC-9800、[[1994年]]。 * ブリッツシュトラーセ * [[栄冠は君にシリーズ]] * 機甲師団シリーズ * [[THE ATLAS]]シリーズ ** [[THE ATLAS]] ** [[Neo ATLAS]] * [[関ヶ原 (アートディンク)|関ヶ原]] * リバティータウン - [[国土交通省]]監修の元に製作された異色の河川行政シミュレーションであり、通常の販売ではなく大型書店のPCソフトコーナーでのみ販売された。箱庭ゲームではなく、水災害対策や河川環境の大切さを考える[[シリアスゲーム]]と言える。 * [[天下御免 (ゲーム)|天下御免]] * [[トキオ 〜東京都第24区〜]]:PC-98 * ダブルイーグル * ビッグオナー * [[はなまる工務店]]:[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]] * 地球防衛軍 - 自律的に行動する8機の宇宙戦闘機を運用し、異星人から太陽系を守るシミュレーションゲーム。戦闘機は設計と簡単なプログラミングが可能である。PC-9801、FM-7用。 * 地球防衛軍2 ファーサイドムーン:PC-9801、[[X68000]] ** X68000版は[[コンピュータウイルス]]が混入したまま出荷され問題になった<ref>「ゲームソフトにウイルス 製造元電算機が汚染?」『[[朝日新聞]]』1990年4月24日付朝刊、31頁。</ref>。 * ARCTIC<small>アークティック</small> - 創業7周年を記念してユーザー登録者限定で発売された『The Best Sellection』に収録された。『A列車で行こう』の原型となるパズルゲーム。PC-9800、FM-7。 === PCエンジン用ソフト === * [[栄冠は君にシリーズ|栄冠は君に 高校野球全国大会]] * [[A列車で行こうシリーズ#A列車で行こうIII|A列車で行こうIII]] * [[THE ATLAS]] : 3作品とも[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]で配信されている。 === PlayStation用ソフト === * [[A列車で行こうシリーズ]] * [[カルネージハート]]シリーズ * [[アクアノートの休日]]シリーズ * [[ラグナキュール]]シリーズ * [[Neo ATLAS]]シリーズ * [[ヴァンピール 吸血鬼伝説]] * [[右左(U-SA)]] * [[進め!海賊]] * [[太陽のしっぽ]] * [[ナビット]] * [[風のノータム]] * [[ザ・コンビニスペシャル 〜3つの世界を独占せよ〜]] * [[ザ・ファミレス]] * [[ドミノ君をとめないで。]] * [[伝説のオウガバトル]]:PlayStation移植版 * [[タクティクスオウガ]]:PlayStation移植版 * [[シムシティ2000]]:PlayStation移植版 * From TV animation ONE PIECE オーシャンズドリーム!(発売元:バンダイナムコゲームス) === PlayStation 2用ソフト === * TVware情報革命シリーズ ** [[新世紀エヴァンゲリオン タイピング-E計画]] * ルナティックドーンシリーズ ** ルナティックドーン テンペスト * A列車で行こう6 * A列車で行こう2001 * [[栄冠は君にシリーズ]] * [[建設重機喧嘩バトル ぶちギレ金剛!!]] * Neo ATLAS III * THE SEED * BASIC STUDIO パワフルゲーム工房 * ジパング(発売元:バンダイナムコゲームス) * ONE PIECE ランドランド!(発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ギャラクシーエンジェルII]] 絶対領域の扉(発売元:ブロッコリー) * ギャラクシーエンジェルII 無限回廊の鍵(発売元:ブロッコリー) * ギャラクシーエンジェルII 永劫回帰の刻(発売元:ブロッコリー) === PlayStation Portable用ソフト === * [[蒼穹のファフナー]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ガンダムバトルタクティクス]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[NARUTO-ナルト- ナルティメットポータブル 無幻城の巻]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[リサと一緒に大陸横断 〜A列車で行こう〜]](発売元:アイディアファクトリー) ** [[ライセンス]]のみ。企画・製作はアイディアファクトリー。 * [[カルネージハートポータブル]](発売元:元気) * [[ガンダムバトルロワイヤル]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ガンダムバトルクロニクル]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ガンダムバトルユニバース]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[マクロスエースフロンティア]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[マクロスアルティメットフロンティア]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ガンダムアサルトサヴァイブ]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[カルネージハート エクサ]] * [[AKB1/48 アイドルと恋したら…]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[AKB1/48 アイドルとグアムで恋したら…]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[探偵オペラ ミルキィホームズ]](発売元:[[ブシロード]]) * [[マクロストライアングルフロンティア]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[AKB1/149 恋愛総選挙]](発売元:バンダイナムコゲームス) * バトルロボット魂(発売元:バンダイナムコゲームス) === GAMEBOY ADVANCE用ソフト === * ONE PIECE ドラゴンドリーム!(発売元:バンダイナムコゲームス) === ニンテンドーDS用ソフト === * [[ぼくらはカセキホリダー]](発売元:[[任天堂]])※任天堂、[[レッド・エンタテインメント]]、[[M2 (ゲーム会社)|エムツー]]との共同制作 * [[スーパーカセキホリダー]](発売元:[[任天堂]])※任天堂、[[レッド・エンタテインメント]]との共同制作 * [[A列車で行こうDS]] === Xbox 360用ソフト === * A列車で行こうHX === PlayStation 3用ソフト === * [[AQUANAUT'S HOLIDAY〜隠された記録〜]] (発売元:[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]) * 劇場版マクロスF イツワリノウタヒメ Hybrid Pack 収録『[[劇場版 マクロスF|マクロストライアルフロンティア]]』(発売元:バンダイナムコゲームス) * 劇場版マクロスF サヨナラノツバサ Hybrid Pack 収録『[[マクロスラストフロンティア]]』(発売元:バンダイナムコゲームス) * [[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]] Hybrid Pack 収録『私の彼はパイロット2012』(発売元:バンダイナムコゲームス) * [[マクロス30 銀河を繋ぐ歌声]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[AKB1/149 恋愛総選挙]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ドラゴンボールZ BATTLE OF Z]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ソードアート・オンラインのゲーム作品|ソードアート・オンライン -ロスト・ソング-]](発売元:バンダイナムコゲームス) === ニンテンドー3DS用ソフト === * [[ガンダム ザ・スリーディーバトル]](発売:バンダイナムコゲームス) * [[A列車で行こう3D]] === PlayStation Vita用ソフト === * [[機動戦士ガンダムSEED BATTLE DESTINY]](発売:バンダイナムコゲームス) * [[AKB1/149 恋愛総選挙]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ|劇場版 魔法少女まどか☆マギカ The Battle of Pentragram]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ドラゴンボールZ BATTLE OF Z]](発売元:バンダイナムコゲームス) * ニセコイ ヨメイリ!?(発売元:コナミデジタルエンタテインメント) * [[ソードアート・オンラインのゲーム作品|ソードアート・オンライン -ロスト・ソング-]](発売元:バンダイナムコゲームス) * [[ワールドトリガー|ワールドトリガー ボーダレスミッション]](発売元:バンダイナムコエンターテインメント) * [[マクロスΔスクランブル]](発売元:バンダイナムコエンターテインメント) * マクロスΔスクランブル ルンピカ♪サウンドエディション(発売元:バンダイナムコエンターテインメント) * アクセル・ワールド vs ソードアート・オンライン 千年の黄昏(発売元:バンダイナムコエンターテインメント) * アイドリッシュセブン Twelve Fantasia!(発売元:バンダイナムコエンターテインメント) === Xbox One用ソフト === * SDガンダム バトルアライアンス(発売:バンダイナムコエンターテインメント) === PlayStation 4用ソフト === * ソードアート・オンライン ゲームディレクターズ・エディション(発売元:バンダイナムコエンターテインメント) * アクセル・ワールド vs ソードアート・オンライン 千年の黄昏(発売元:バンダイナムコエンターテインメント)<!--2015年11月19日発売--> * [[A列車で行こうシリーズ|A列車で行こうExp]] <!--2017年12月21日発売--> * SDガンダム バトルアライアンス(発売:バンダイナムコエンターテインメント) === Nintendo Switch用ソフト === * [[A列車で行こう はじまる観光計画]] * [[トライアングルストラテジー]](発売:[[スクウェア・エニックス]]) * SDガンダム バトルアライアンス(発売:バンダイナムコエンターテインメント) === Xbox Series X/S用ソフト === * SDガンダム バトルアライアンス(発売:バンダイナムコエンターテインメント) === PlayStation 5用ソフト === * SDガンダム バトルアライアンス(発売:バンダイナムコエンターテインメント) === アーケード === * DCD NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットクロス(発売元:バンダイ) * DCD NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットフォーメーション(発売元:バンダイ) * DCD NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットミッション(発売元:バンダイ) === iOS・Android === * うた☆プリアイランド(配信元:ブロッコリー) * はじめてのA列車で行こう ** 相鉄線で行こう([[相模鉄道]]とアートディンクとのコラボレーション) * ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ == 関係者 == * 永浜達郎:現社長。『A列車シリーズ』の生みの親であり最高責任者。 * 河西克重:現副社長。主に技術系を統括してきた。数多くの代表作をプロデュースする。 * 佐古茂人:元役員。初期の『栄冠は君に』やゴルフゲーム等をプロデュースする。 * 山口洋一([http://www.yobotch.com/index.html yobotch's]):『the ATLAS』などを手がけ、その後独立しフリップフロップ設立。『トポロ』『ネオアトラス』を手がける。 * 堀口祐一:『ルナティック・ドーンシリーズ』などを手がけ、その後退社。 * 飯塚正樹:『カルネージハート』など。現在も在籍。 * [[飯田和敏]]:『アクアノートの休日』、『太陽のしっぽ』をディレクション後退社、『巨人のドシン』を手がける。2010年より[[グラスホッパー・マニファクチュア]]に在籍。 * [[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]:元社員で在籍中も[[漫画家]]として活動。『アクアノートの休日2』、『ぶちギレ金剛!!』をプロデュース。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 月刊マイコン編集部 『チャレンジ!! パソコンシミュレーションゲーム』 電波新聞社 [[1987年]]10月 - 『A列車で行こう』、『地球防衛軍』の記事。アートディンク社内インタビュー。 * {{Cite book ja-jp | author = 多摩豊 | year = 1993 | title = SLG解体新書 | publisher = 光栄 | pages = pp.148-170}} 河西克重のインタビュー == 外部リンク == * [https://www.artdink.co.jp/ アートディンク] * [https://www.studioartdink.co.jp/ スタジオアートディンク] * {{Twitter|artdink_tw}} * {{YouTube|u=ARTDINKmovie}} * {{Mediaarts-db}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ああとていんく}} [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:アートディンク|*]] [[Category:東京都中央区の企業]] [[Category:1986年設立の企業]]
2003-09-06T17:52:02Z
2023-10-07T11:26:00Z
false
false
false
[ "Template:Cite book ja-jp", "Template:Mediaarts-db", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 会社", "Template:Lang-en-short", "Template:Twitter", "Template:YouTube" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AF
15,458
天上天下唯我独尊
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉。 釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という逸話から出てきたものである。しばしば釈迦を崇める言葉として使われる。 古い仏典には「天上天下唯我為尊」との表記が見られる。 元来、「天上天下唯我為尊」あるいは「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。『長阿含経』では釈迦以前に出世したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばしぶつ)が誕生した際に言ったとされる。 しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように讃嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。 釈迦の誕生を伝える漢訳仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上など様々あるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、 天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之 欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いとしている(利他)。 『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、 天上天下 唯吾獨尊今茲而往 生分已盡 という一節が記されている。 これを訳すと つまり釈迦がこの世で解脱するから「唯我独尊」としている。 残存するパーリ仏典も『大唐西域記』と同じように釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という利自の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。 天上天下を除いた省略形として「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味で用いられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という逸話から出てきたものである。しばしば釈迦を崇める言葉として使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古い仏典には「天上天下唯我為尊」との表記が見られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "元来、「天上天下唯我為尊」あるいは「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。『長阿含経』では釈迦以前に出世したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばしぶつ)が誕生した際に言ったとされる。", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように讃嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "釈迦の誕生を伝える漢訳仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上など様々あるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いとしている(利他)。", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天上天下 唯吾獨尊今茲而往 生分已盡", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "という一節が記されている。 これを訳すと", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "つまり釈迦がこの世で解脱するから「唯我独尊」としている。", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "残存するパーリ仏典も『大唐西域記』と同じように釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という利自の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。", "title": "形成過程" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "天上天下を除いた省略形として「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味で用いられる。", "title": "後世" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "", "title": "後世" } ]
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉。 釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という逸話から出てきたものである。しばしば釈迦を崇める言葉として使われる。 古い仏典には「天上天下唯我為尊」との表記が見られる。
{{otheruses||もりやまつるの漫画作品|天上天下唯我独尊 (漫画)}} {{出典の明記|date=2012年5月}} [[ファイル:The infant Buddha taking the Seven Steps.jpg|サムネイル|七歩を歩む釈迦。左端に摩耶夫人が、中央右に[[執金剛神]]が彫られている。]] '''天上天下唯我独尊'''(てんじょうてんげゆいがどくそん<ref>[http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qsb.html 天にちあ、やおらあり、たつやおま、用語 | 読むページ | 大谷大学]</ref><ref>[http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/080401.html 禅語「天上天下唯我独尊」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト]</ref><ref>[https://zenken.agu.ac.jp/zen/familiarity/h26.html 禅語に親しむ 平成26年度: 天上天下唯我独尊(著・木村文輝)]</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E5%94%AF%E6%88%91%E7%8B%AC%E5%B0%8A-102452 コトバンク:故事成語を知る辞典 「天上天下唯我独尊」の解説]</ref>、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、[[釈迦]]が誕生した時に言ったとされる言葉。 釈迦は[[摩耶夫人]]の右脇から生まれた<ref>「致令摩耶國大夫人立地之時。童子自然'''從右脇出'''。國大夫人胸脇腰身不破不缺。」(『[[仏本行集経]]』)など</ref>とされるが、その直後に七歩歩いて[[手|右手]]で天を指し、[[左手]]で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という[[逸話]]から出てきたものである。しばしば釈迦を崇める言葉として使われる。 古い仏典には「'''天上天下唯我為尊'''」との表記が見られる<ref>{{Cite journal|和書|author=門川徹眞 |title=佛傳における誕生偈の形成過程 |journal=印度學佛教學研究 |issn=0019-4344 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1967 |volume=15 |issue=2 |pages=614-615 |naid=130003828683 |doi=10.4259/ibk.15.614 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.15.614}}</ref>。 == 形成過程 == 元来、「天上天下唯我為尊」あるいは「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。『[[長阿含経]]』では釈迦以前に[[出世]]したといわれる[[過去七仏]]の第1仏である[[毘婆尸仏]](びばしぶつ)が誕生した際に言った<ref>「{{Lang|zh-tw|'''毗婆屍菩薩'''當其生時。從右脅出。專念不亂。從右脅出。墮地行七步。無人扶侍。遍觀四方。舉手而言。天上天下唯我為尊}}{{Cite wikisource|title=長阿含經/卷一|author=長阿含經|wslanguage=zh}}」(『[[長阿含経]]』)など</ref>とされる。 しかしそれが、釈迦が生まれた際に、{{要出典範囲|他の人々がそのように讃嘆したという説が生じて|date=2021年4月}}、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである<ref>「到四月八日夜明星出時。化從右脇生墮地。即行七歩。擧右手住而言。天上天下。唯我爲尊。」(『[[仏説太子瑞応本起経]]』)などにおいては、明らかに釈迦の誕生譚となっている。</ref>。 釈迦の誕生を伝える漢訳仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上など様々あるが、代表的な『[[修行本起経]]』卷上・菩薩降身品第二には、 {{quotation| 天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之 }} 欲界・色界・無色界の[[三界]]の迷界にある衆生はすべて[[苦 (仏教)|苦]]に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いとしている(利他)。 『[[大唐西域記]]』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える'''誕生偈'''と呼ばれる偈文には、 {{quotation| {{Lang|zh-tw|天上天下 唯吾獨尊<br />今茲而往 生分已盡}}<ref>{{Cite wikisource|title=大唐西域記/06|author=玄奘|wslanguage=zh}})</ref> }} という一節が記されている。 これを訳すと :世界の中で我のみが尊い。 :今ここに生まれてきたが再び生きることはない。 つまり釈迦がこの世で解脱するから「唯我独尊」としている。 {{要出典範囲|残存する[[パーリ仏典]]も『大唐西域記』と同じように釈迦自身の解脱という点で尊いとしている|date=2021年4月}}。この利他の面で尊いとするのか、解脱という利自の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。 == 後世 == * 天台宗尼僧の[[露の団姫]]は、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」と解釈している<ref>「人生が100倍オモシロくなる仏の教え」露の団姫 </ref>。 === 唯我独尊 === 天上天下を除いた省略形として「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味で用いられる<ref>。[https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/唯我独尊/m0u/ 新明解四字熟語辞典(三省堂)]</ref>。 <!--(2019-10-06T00:10の加筆)--> == 関連項目 == * [[無我]] * [[唯識]] * [[無自性]] * [[梵我一如]] * [[独我論]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ゆいかとくそん}} [[Category:仏教用語]] [[Category:慣用句]] [[Category:釈迦]]
2003-09-06T19:24:33Z
2023-10-09T03:42:12Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:要出典範囲", "Template:Quotation", "Template:Reflist", "Template:Lang", "Template:Cite wikisource", "Template:出典の明記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:Buddhism2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E5%94%AF%E6%88%91%E7%8B%AC%E5%B0%8A
15,459
314年
314年(314 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "314年(314 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
314年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|314}} {{year-definition|314}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲戌]] * [[日本]] ** [[仁徳天皇]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]974年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[西晋]] : [[建興 (晋)|建興]]2年 ** [[前趙]] : [[嘉平 (前趙)|嘉平]]4年 ** [[成漢]] : [[玉衡]]4年 ** [[前涼]] : 建興2年(西晋の元号を使用) * [[朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[美川王]]15年 ** [[百済]] : [[比流王]]11年 ** [[新羅]] : [[訖解尼師今|訖解王]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2647年 * [[仏滅紀元]] : 857年 * [[ユダヤ暦]] : 4074年 - 4075年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=314|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[シルウェステル1世]]がローマ教皇に即位。 * [[石勒]]が[[王浚]]を攻め滅ぼす。 == 誕生 == {{see also|Category:314年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[釈道安]]、[[中国仏教]]の指導者(+ [[385年]]) * [[支遁]]、[[東晋]]代の僧(+ [[366年]]) == 死去 == {{see also|Category:314年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]] - [[ミルティアデス (ローマ教皇)|ミルティアデス]]、[[ローマ教皇]](生年不詳) * [[4月4日]] - [[王浚]]、西晋の将軍(* [[252年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|314}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300}} {{デフォルトソート:314ねん}} [[Category:314年|*]]
2003-09-06T19:51:23Z
2023-08-07T11:18:13Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:See also", "Template:十年紀と各年", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/314%E5%B9%B4
15,460
366年
366年(366 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "366年(366 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
366年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|366}} {{year-definition|366}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[仁徳天皇]]54年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1026年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[東晋]] : [[太和 (東晋)|太和]]元年 ** [[前涼]] : [[升平]]10年(東晋の[[元号]]を継続して使用) ** [[前燕]] : [[建熙]]7年 ** [[前秦]] : [[建元 (前秦)|建元]]2年 ** [[代 (五胡十六国)|代]] : [[建国 (代)|建国]]29年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[故国原王]]36年 ** [[百済]] : [[近肖古王]]21年 ** [[新羅]] : [[奈勿尼師今|奈勿王]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2699年 * [[仏滅紀元]] : 909年 * [[ユダヤ暦]] : 4126年 - 4127年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=366|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[斯摩宿禰]]を[[伽耶#その他の諸国|卓淳国]](現在の[[大韓民国]][[慶尚南道]][[昌原市]])に派遣(『[[日本書紀]]』) * [[アレマン人]]が[[ライン川]]を渡り[[ローマ帝国]]に侵入{{要出典|date=2021-05}}。 == 誕生 == {{see also|Category:366年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[姚興]]、[[五胡十六国時代]]の[[後秦]]の第2代皇帝(+ [[416年]]) == 死去 == {{see also|Category:366年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月24日]] - [[リベリウス (ローマ教皇)|リベリウス]]、第36代目[[ローマ教皇]](* 生年不詳) * [[支遁]]、[[東晋]]の僧(* [[314年]]) * [[プロコピウス]]、[[ローマ帝国]]の東方の皇帝簒奪者(* 生年不詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|366}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300}} {{デフォルトソート:366ねん}} [[Category:366年|*]]
null
2021-05-11T09:34:40Z
false
false
false
[ "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:要出典", "Template:脚注ヘルプ", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:他の紀年法" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/366%E5%B9%B4
15,463
スラローム
スラローム(英語: slalom <ノルウェー語モルゲダール方言:slalåm 、「丘陵の緩やかな斜面(sla)につけたスキーの跡(låm)」が原意)とは、幾つかのスポーツで見られる競技の方法。「回転(競技)」「蛇行(競技)」などと訳され、ゲート(関門、旗門)で定められたコースを通ってゴールするまでの時間を競う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スラローム(英語: slalom <ノルウェー語モルゲダール方言:slalåm 、「丘陵の緩やかな斜面(sla)につけたスキーの跡(låm)」が原意)とは、幾つかのスポーツで見られる競技の方法。「回転(競技)」「蛇行(競技)」などと訳され、ゲート(関門、旗門)で定められたコースを通ってゴールするまでの時間を競う。", "title": null } ]
スラロームとは、幾つかのスポーツで見られる競技の方法。「回転(競技)」「蛇行(競技)」などと訳され、ゲート(関門、旗門)で定められたコースを通ってゴールするまでの時間を競う。 回転 (スキー) 大回転 スラローム (スノーボード) スラローム (ウィンドサーフィン) スラローム (オートバイ) スラローム (自動車) ジムカーナ ダートトライアル スラローム (ペンシルパズル) スラローム (小型船舶) スラローム (水上オートバイ) スラローム (自転車) デュアルスラローム スラロームドリブル カヌースラローム スラローム (車いす)
'''スラローム'''({{lang-en|slalom}}<ref>英語 slalom の発音は <small>{{IPA|ˈslɑːləm}} </small>。</ref> <[[ノルウェー語]]モルゲダール<ref>モルゲダール(Morgedal)は、[[ノルウェー]]南西部の[[テレマルク県]]中西部、クヴィテセイド地方(Kviteseid)にある村。スキー発祥の地とされている。</ref>方言:{{lang|no|slalåm}} 、「丘陵の緩やかな斜面({{lang|no|sla}})につけた[[スキー]]の跡({{lang|no|låm}})」が原意)とは、幾つかの[[スポーツ]]で見られる競技の方法。「回転(競技)」「蛇行(競技)」などと訳され、ゲート(関門、旗門)で定められたコースを通ってゴールするまでの時間を競う。 * [[回転 (スキー)]] * [[大回転]] * [[スラローム (スノーボード)]] * [[スラローム (ウィンドサーフィン)]] * [[スラローム (オートバイ)]] * [[スラローム (自動車)]] ** [[ジムカーナ]] ** [[ダートトライアル]] * [[スラローム (ペンシルパズル)]] * [[スラローム (小型船舶)]] * [[スラローム (水上オートバイ)]] * [[スラローム (自転車)]] ** [[マウンテンバイクレース|デュアルスラローム]] * [[スラロームドリブル]] * [[カヌースラローム]] * [[スラローム (車いす)]] == 脚註 == <references/> {{aimai}} {{デフォルトソート:すらろおむ}} [[Category:英語の語句]]
null
2023-03-29T11:29:31Z
true
false
false
[ "Template:Lang", "Template:IPA", "Template:Aimai", "Template:Lang-en" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0
15,464
衆生
衆生(しゅじょう、梵: sattva सत्त्व、巴: satta)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。 玄奘訳では有情(うじょう、梵: sattva)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記)といわれ、情(心の働き)を持つもの、という意味で、非精神的存在である非情(ひじょう)(無情(むじょう)ともいう)に対して、一切の生きとし生けるものを含む。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(梵: bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。 衆生・有情のほか、含識、含霊、含生、含情、群生、群萌、群類などの訳語がある。 衆生の中には、人間だけでなく動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は広い意味に用いられる。十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)ないしは五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)のいずれかに属して生きている。衆生が死ねば、また六道ないしは五趣のいずれかの中に生まれる(天人とても寿命は永遠ではなく、輪廻を離れてはいない)。仏教、少なくとも阿毘達磨倶舎論においては、植物までを含まないが、ジャイナ教では植物を含む。人間は、サンスクリット語でマヌシャ(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでのマン(英: man)やメンシュ(独: Mensch)と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、涅槃経獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、非情の存在は除外されるという意味を含む。 原義については、衆多の法が仮に和合して生ずるので衆生と名づける(大法鼓経)とする説や、衆多の生死を経るので衆生と名づける(大乗義章)などの説がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "衆生(しゅじょう、梵: sattva सत्त्व、巴: satta)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "玄奘訳では有情(うじょう、梵: sattva)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記)といわれ、情(心の働き)を持つもの、という意味で、非精神的存在である非情(ひじょう)(無情(むじょう)ともいう)に対して、一切の生きとし生けるものを含む。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(梵: bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。", "title": "訳語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "衆生・有情のほか、含識、含霊、含生、含情、群生、群萌、群類などの訳語がある。", "title": "訳語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "衆生の中には、人間だけでなく動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は広い意味に用いられる。十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)ないしは五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)のいずれかに属して生きている。衆生が死ねば、また六道ないしは五趣のいずれかの中に生まれる(天人とても寿命は永遠ではなく、輪廻を離れてはいない)。仏教、少なくとも阿毘達磨倶舎論においては、植物までを含まないが、ジャイナ教では植物を含む。人間は、サンスクリット語でマヌシャ(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでのマン(英: man)やメンシュ(独: Mensch)と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、涅槃経獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、非情の存在は除外されるという意味を含む。", "title": "意味" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "原義については、衆多の法が仮に和合して生ずるので衆生と名づける(大法鼓経)とする説や、衆多の生死を経るので衆生と名づける(大乗義章)などの説がある。", "title": "意味" } ]
衆生は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。
{{複数の問題|出典の明記=2017年7月31日 (月) 07:19 (UTC)|独自研究=2017年7月31日 (月) 07:19 (UTC)}} {{Infobox Buddhist term | title = 衆生 | en = Sattva | pi = satta | sa = sattva | my = | my-Latn = | zh = 有情 | zh-Latn = | ja = 衆生 | ja-Latn = しゅじょう }} '''衆生'''(しゅじょう、{{lang-sa-short|sattva सत्त्व}}、{{lang-pi-short|satta}}<ref>水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.324</ref>)は、一切の生きとし生けるもの([[生類]])のこと<ref name="総合仏教大辞典668">{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=上巻 |page=668 }}</ref>。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には[[仏]]・[[菩薩]]をも含めることがある<ref name="総合仏教大辞典668" />。 {{anchors|非情}} == 訳語 == [[玄奘]]訳では'''有情'''(うじょう、{{lang-sa-short|sattva}}{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=58}})と表記する。「[[サンスクリット|梵]]に薩&#x57f5;(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(''[[唯識述記]]'')といわれ、情(心の働き)を持つもの、という意味{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=58}}で、非精神的存在である'''非情'''(ひじょう){{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}}('''無情'''(むじょう)ともいう{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}})に対して、一切の生きとし生けるものを含む。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ({{lang-sa-short|bahujana}})ともいわれ、これは'''衆人'''とも訳される。 衆生・有情のほか、'''含識'''、'''含霊'''、'''含生'''、'''含情'''、'''群生'''、'''群萌'''、'''群類'''などの訳語がある<ref name="総合仏教大辞典668" />{{efn|含識とは、心識を有するものという意味<ref name="総合仏教大辞典668" />。群生、群萌、群類は、多くの生類という意味<ref name="総合仏教大辞典668" />。}}。 == 意味 == 衆生の中には、人間だけでなく動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は広い意味に用いられる。[[十界]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]]、[[声聞]]、[[縁覚]]、[[菩薩]]、[[仏]])の中でも前半の[[六道]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]])ないしは[[五趣]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[人間]]、[[天上]])のいずれかに属して生きている{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。衆生が死ねば、また[[六道]]ないしは[[五趣]]のいずれかの中に生まれる([[天 (仏教)|天]]人とても寿命は永遠ではなく、[[輪廻]]を離れてはいない){{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。[[仏教]]、少なくとも[[阿毘達磨倶舎論]]においては、[[植物]]までを含まないが、[[ジャイナ教]]では[[植物]]を含む{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。人間は、[[サンスクリット]]語でマヌシャ({{lang|sa|manuṣya मनुष}})といわれ、ヨーロッパでのマン({{lang-en-short|[[:en:man|man]]}})やメンシュ({{lang-de-short|[[:de:Mensch|Mensch]]}})と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、[[パーリ語]]のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、[[涅槃経]]獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、[[非情 (仏教)|非情]]の存在は除外されるという意味を含む{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}}。 === 漢語を元にした解釈 === 原義については、衆多の[[法 (仏教)|法]]が仮に和合して生ずるので衆生と名づける([[大法鼓経]])とする説や、衆多の[[生死]]を経るので衆生と名づける([[大乗義章]])などの説がある{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }} *{{Cite book |和書 |author1=櫻部建|authorlink1=櫻部建|author2=上山春平|authorlink2=上山春平 |year=2006 |title=存在の分析<[[阿毘達磨 |アビダルマ]]>―仏教の思想〈2〉 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |isbn=4-04-198502-1 |ref={{SfnRef|櫻部・上山|2006}} }}(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年) == 関連項目 == * [[四生]] * [[凡夫]] * [[徴税人|取税人]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しゆしよう}} [[Category:仏教用語]]
null
2022-09-04T12:50:41Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Lang-de-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Infobox Buddhist term", "Template:Lang", "Template:Notelist", "Template:Anchors", "Template:Reflist", "Template:複数の問題", "Template:Lang-sa-short", "Template:Lang-pi-short", "Template:Sfn", "Template:Efn", "Template:Buddhism2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E7%94%9F
15,466
名鉄豊田線
豊田線(とよたせん)は、愛知県日進市の赤池駅から愛知県豊田市の梅坪駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。正式名称は開業時より「豊田線」だが、1986年までは豊田新線(とよたしんせん)の名称を併用していた。 名古屋市と豊田市とを結ぶ通勤・通学路線である。沿線の大学・高校への通学目的の利用も多い。愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)同様、この路線もまた尾張丘陵を横断する路線であり、30‰以上の急勾配が随所に存在する。全区間が立体交差で踏切が存在しないが、すべて高架というわけではなく、丘陵地帯の地形に合わせ、トンネルや掘割なども多数ある。起点の赤池駅は地下駅であり、発車するとすぐに地上に出て高架に上がる。 三河線豊田市駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線を経由して最長で名鉄犬山線犬山駅まで直通運行している(全40駅、距離58.4 km)。犬山線まで直通する列車は少なく、ほとんどの列車は鶴舞線終点の上小田井駅で折り返す。 途中駅のホーム番号は全列車が直通する地下鉄鶴舞線に合わせられており、梅坪・豊田市方面が1番線、赤池・上小田井方面が2番線となっている(赤池駅では豊田線からの列車は4番線を発着する。梅坪駅では赤池・上小田井方面が1番線、豊田市方面が2番線である)。これは同じ名鉄の路線である三河線や犬山線とは異なった番号の付け方である。乗車位置の番号も小牧線と瀬戸線を除いた他の名鉄の路線とは異なり、4ドア車6両編成に対応した1-24番となっている。 運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)で、さらに加算運賃を適用する。manacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。 『鉄道要覧』による起点は赤池駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、梅坪駅から赤池駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。駅番号も梅坪駅の隣にある上豊田駅を01番として、赤池駅に向かって番号が大きくなっていく。 新線であるため、建設費を回収するためにキロ程で算出された運賃に加算額を加算する。豊田線の建設費回収率は2022年末時点で50.6%である。普通運賃(大人)への加算額は、豊田線内の運賃計算キロ(営業キロ×1.15)に応じて下表の通りとなっている。 地下鉄線と合算すると割高感があり(例:2006年7月時点で伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄500円 = 790円)、これを少しでも解消すべく、また建設費の回収も進んで来ていることから、2006年12月16日より普通運賃で10 - 50円引き下げられた(伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄450円 = 740円となった。2014年・2019年の消費税率引き上げにより2019年現在、伏見 - 豊田市は地下鉄310円 + 名鉄470円 = 780円となっている)。 一部列車が名古屋市営地下鉄鶴舞線経由で直通している犬山線上小田井駅以遠との間の連絡乗車券が購入できる。この鶴舞線経由の犬山線との連絡乗車券は自動券売機には設定されていないが、赤池駅の駅長室と有人駅の窓口で購入することができる。ただし前後の会社の営業キロを通算して運賃を算出する通過連絡運輸ではなく、前後の名鉄の運賃は接続駅で打ち切って計算され、通算されない。また2003年より地下鉄線経由で小牧線上飯田駅以遠へも中間改札なしで繋がっているが、こちらは通過連絡運輸や連絡乗車券が存在せず、2枚に分けて購入することになる。地下鉄線栄駅で徒歩連絡となる瀬戸線栄町駅以遠への連絡乗車券も当初から設定されていない。 1927年(昭和2年)設立の新三河鉄道が八事 - 挙母(豊田)間の鉄道敷設免許を取得したのが起源である。同社は名古屋市東部で路面電車(後に名古屋市電へ譲渡)を運行していた尾張電気軌道を合併し、親会社の三河鉄道と連携して、名古屋 - 挙母 - 岡崎間の連絡を目指したが、結局果たせず、敷設免許は三河鉄道を経て名古屋鉄道が引き継ぎ、1979年に名鉄が開業させた。 豊田市は名古屋市の中心部から30 km圏内に位置するが、名古屋市との鉄道連絡は名鉄三河線 - (知立駅) - 名古屋本線と南に大きく迂回するルートしかなく、後に建設された国鉄岡多線(現:愛知環状鉄道線)も東海道本線(岡崎駅)を経由するため、豊田市 - 名古屋を結ぶ大量輸送の交通機関は極めて不便な状況にあった。このような公共交通の立ち遅れから、豊田市民の移動手段は自家用自動車(マイカー)への依存度が高かった。豊田市だけでなく、同市と名古屋市の間に位置し、名古屋の衛星都市である愛知郡の日進町(現:日進市)・東郷町も同様の不便を感じていた。そのような状況を解消するため、名古屋市が偏った発展をしないような放射状鉄道路線を新設することも目的に、豊田市 - 三好 - 東郷 - 日進 - 名古屋を結ぶ鉄道路線を敷設する構想が浮上した。以下がその案である。 結果的に、2. と3. を折衷したような形で豊田線が建設される形となった。1971年(昭和46年)11月17日には1市3町(豊田市・三好町・日進町・東郷町)の首長らが集まり、「名古屋豊田間鉄道建設促進協議会」の結成を決定。ルートについては東郷町・三好町の中心部を経由し、豊田市と結ぶ南回りルートも予想されていたが、結果的には赤池駅(後の名古屋市営地下鉄鶴舞線との接続駅)から日進町の南部・三好町の北部を経由し、梅坪駅で三河線に乗り入れて豊田市駅まで結ぶルートに決定した。また、豊田・名古屋間の鉄道の豊田側の終着駅は岡多線の駅(現在の新豊田駅)と名鉄の豊田市駅(約250 m離れている)の中間に設置することで、両駅の心理的距離を縮めることも構想されたが、結局は三河線を介して豊田市駅に直接乗り入れる形となった。所要時間については、豊田市 - 名古屋都心間を約30分で結ぶことも想定されたが、豊田新線開業時(1979年)時点では豊田市駅 - 名古屋都心部の所要時間は約45分となっている。 なお、名鉄は本来免許通り八事までの建設を計画していたが、都市交通審議会で名古屋市内の天白まで公営地下鉄を建設することが答申されたことと、用地買収の過程で市交通局の車庫を日進町(現:日進市) 赤池地区に確保する必要が出て来たため、名鉄と名古屋市が協議を行い、八事 - 赤池の免許を名古屋市に無償譲渡し(同区間は名古屋市営地下鉄鶴舞線として開業)、その見返りとして瀬戸線の東大手 - 栄町の免許を得たという経緯がある。また、同線の試運転にはモ805-ク2313の2両編成が使われた。ただしATCが導入されていないため赤池駅には入線できずトンネル入口付近で折り返していた。その車両は豊田市の鞍ヶ池公園に静態保存されている。この車両のほかにも6000系が試運転で乗り入れ、1987年には5700系が回送列車として黒笹駅まで一度だけ乗り入れた。開業前の地固めとしてデキ400形電気機関車が乗り入れたこともある。試運転や回送列車で使われた本線系統用の各車両は豊田線内では鶴舞線経由で乗り入れる100・200系とは編成の向きが逆である(犬山線での向きを基準としたとき、豊橋寄り先頭車が鶴舞線直通車は豊田市向きであるのに対し、本線系統用の車両は赤池・上小田井向きである)。 豊田新線の開業により、名古屋・豊田間のバス路線は大幅に再編成され、豊田市内に設置された新駅(上豊田駅・浄水駅)と市街地・住宅地を直結する新路線が設けられた。また、豊田新線の開業は三河線の梅坪駅 - 上挙母駅間の連続立体交差事業や、豊田市駅 - 岡多線・新豊田駅間の市民広場の建設などをさらに具体化する格好となった。 普通列車のみの運転であり、全ての列車が各駅に停車する。名鉄三河線・名古屋市営地下鉄鶴舞線と直通運転を行い、豊田市駅 - 上小田井駅間を往復する運行を基本としている。平日のほぼ全時間帯、および土曜、休日の早朝・深夜には名鉄犬山線直通列車も設定されている。日中は毎時4本(平日15分毎、土休日13分または17分毎)の運行であり、平日朝は増発される。犬山線直通列車は、平日ダイヤの昼間は原則として岩倉行きのみが1時間に1本運転される(平日夕方には柏森行き、平日朝には扶桑行き、朝や深夜には犬山行きが運転されることがある。休日日中の犬山線からの直通列車は岩倉発豊田市行きが毎時2本運転)。豊田線からの下り列車は鶴舞線終点の上小田井駅から犬山線に直通した後も終点までそのまま普通列車として運転される(平日朝の赤池駅始発の一部列車のみ上小田井駅から犬山線内は急行になることがある)。上り列車は全て豊田市行きであり、梅坪駅や途中駅で折り返す列車はない。ただ、三好カントリー倶楽部で東海クラシックが開催された際、黒笹行きが設定されたことはある。終点となる豊田市駅では三河線知立方面との対面接続が考慮されている。また、土休日は鶴舞線が10分毎の運転となるので、運転間隔の調整のため直通列車の半数は赤池駅で約3分停車する。なお、赤池駅は名古屋市交通局が管理しているため、名鉄の旅客案内上は無人駅となっている。 当線が建設された場所は元々山間部であったため急勾配は多いが、急カーブが存在しないため、全列車が各駅停車ながらも線内のみの所要時分は18分で、表定速度は50 km/hと名鉄の普通列車としては高く、河和線の急行とほぼ同等である。なお豊田市駅 - 伏見駅間の標準所要時分は46分となっている。 毎年夏に行われる豊田おいでんまつりの最終日や豊田スタジアムでのサッカーやコンサートなど、イベント開催時には定期では赤池発上小田井行き(一部岩倉行き)となる列車が数本豊田市駅発に変更となる。逆の上り列車も定期では赤池駅止まりとなる列車が豊田市行きに延長となる。同時に臨時増発の送り込みのため、豊田線内で回送列車も数本運転される。 赤池駅で豊田線へ折り返す列車は通常運転されないが、鶴舞線内で事故などが発生して運休となった場合に運転されることがある。 車両は直通する名古屋市営地下鉄鶴舞線に合わせて、全て20 m両開き4扉ロングシート、6両固定編成になっている。ワンマン運転は行われていないが、豊田線内でも自動放送が行われている。「名古屋市営地下鉄鶴舞線#車両」も参照。編成両数は名古屋市営地下鉄と統一されているが、女性専用車両は導入されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "豊田線(とよたせん)は、愛知県日進市の赤池駅から愛知県豊田市の梅坪駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。正式名称は開業時より「豊田線」だが、1986年までは豊田新線(とよたしんせん)の名称を併用していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "名古屋市と豊田市とを結ぶ通勤・通学路線である。沿線の大学・高校への通学目的の利用も多い。愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)同様、この路線もまた尾張丘陵を横断する路線であり、30‰以上の急勾配が随所に存在する。全区間が立体交差で踏切が存在しないが、すべて高架というわけではなく、丘陵地帯の地形に合わせ、トンネルや掘割なども多数ある。起点の赤池駅は地下駅であり、発車するとすぐに地上に出て高架に上がる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "三河線豊田市駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線を経由して最長で名鉄犬山線犬山駅まで直通運行している(全40駅、距離58.4 km)。犬山線まで直通する列車は少なく、ほとんどの列車は鶴舞線終点の上小田井駅で折り返す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "途中駅のホーム番号は全列車が直通する地下鉄鶴舞線に合わせられており、梅坪・豊田市方面が1番線、赤池・上小田井方面が2番線となっている(赤池駅では豊田線からの列車は4番線を発着する。梅坪駅では赤池・上小田井方面が1番線、豊田市方面が2番線である)。これは同じ名鉄の路線である三河線や犬山線とは異なった番号の付け方である。乗車位置の番号も小牧線と瀬戸線を除いた他の名鉄の路線とは異なり、4ドア車6両編成に対応した1-24番となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)で、さらに加算運賃を適用する。manacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『鉄道要覧』による起点は赤池駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、梅坪駅から赤池駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。駅番号も梅坪駅の隣にある上豊田駅を01番として、赤池駅に向かって番号が大きくなっていく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新線であるため、建設費を回収するためにキロ程で算出された運賃に加算額を加算する。豊田線の建設費回収率は2022年末時点で50.6%である。普通運賃(大人)への加算額は、豊田線内の運賃計算キロ(営業キロ×1.15)に応じて下表の通りとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地下鉄線と合算すると割高感があり(例:2006年7月時点で伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄500円 = 790円)、これを少しでも解消すべく、また建設費の回収も進んで来ていることから、2006年12月16日より普通運賃で10 - 50円引き下げられた(伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄450円 = 740円となった。2014年・2019年の消費税率引き上げにより2019年現在、伏見 - 豊田市は地下鉄310円 + 名鉄470円 = 780円となっている)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一部列車が名古屋市営地下鉄鶴舞線経由で直通している犬山線上小田井駅以遠との間の連絡乗車券が購入できる。この鶴舞線経由の犬山線との連絡乗車券は自動券売機には設定されていないが、赤池駅の駅長室と有人駅の窓口で購入することができる。ただし前後の会社の営業キロを通算して運賃を算出する通過連絡運輸ではなく、前後の名鉄の運賃は接続駅で打ち切って計算され、通算されない。また2003年より地下鉄線経由で小牧線上飯田駅以遠へも中間改札なしで繋がっているが、こちらは通過連絡運輸や連絡乗車券が存在せず、2枚に分けて購入することになる。地下鉄線栄駅で徒歩連絡となる瀬戸線栄町駅以遠への連絡乗車券も当初から設定されていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)設立の新三河鉄道が八事 - 挙母(豊田)間の鉄道敷設免許を取得したのが起源である。同社は名古屋市東部で路面電車(後に名古屋市電へ譲渡)を運行していた尾張電気軌道を合併し、親会社の三河鉄道と連携して、名古屋 - 挙母 - 岡崎間の連絡を目指したが、結局果たせず、敷設免許は三河鉄道を経て名古屋鉄道が引き継ぎ、1979年に名鉄が開業させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "豊田市は名古屋市の中心部から30 km圏内に位置するが、名古屋市との鉄道連絡は名鉄三河線 - (知立駅) - 名古屋本線と南に大きく迂回するルートしかなく、後に建設された国鉄岡多線(現:愛知環状鉄道線)も東海道本線(岡崎駅)を経由するため、豊田市 - 名古屋を結ぶ大量輸送の交通機関は極めて不便な状況にあった。このような公共交通の立ち遅れから、豊田市民の移動手段は自家用自動車(マイカー)への依存度が高かった。豊田市だけでなく、同市と名古屋市の間に位置し、名古屋の衛星都市である愛知郡の日進町(現:日進市)・東郷町も同様の不便を感じていた。そのような状況を解消するため、名古屋市が偏った発展をしないような放射状鉄道路線を新設することも目的に、豊田市 - 三好 - 東郷 - 日進 - 名古屋を結ぶ鉄道路線を敷設する構想が浮上した。以下がその案である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "結果的に、2. と3. を折衷したような形で豊田線が建設される形となった。1971年(昭和46年)11月17日には1市3町(豊田市・三好町・日進町・東郷町)の首長らが集まり、「名古屋豊田間鉄道建設促進協議会」の結成を決定。ルートについては東郷町・三好町の中心部を経由し、豊田市と結ぶ南回りルートも予想されていたが、結果的には赤池駅(後の名古屋市営地下鉄鶴舞線との接続駅)から日進町の南部・三好町の北部を経由し、梅坪駅で三河線に乗り入れて豊田市駅まで結ぶルートに決定した。また、豊田・名古屋間の鉄道の豊田側の終着駅は岡多線の駅(現在の新豊田駅)と名鉄の豊田市駅(約250 m離れている)の中間に設置することで、両駅の心理的距離を縮めることも構想されたが、結局は三河線を介して豊田市駅に直接乗り入れる形となった。所要時間については、豊田市 - 名古屋都心間を約30分で結ぶことも想定されたが、豊田新線開業時(1979年)時点では豊田市駅 - 名古屋都心部の所要時間は約45分となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、名鉄は本来免許通り八事までの建設を計画していたが、都市交通審議会で名古屋市内の天白まで公営地下鉄を建設することが答申されたことと、用地買収の過程で市交通局の車庫を日進町(現:日進市) 赤池地区に確保する必要が出て来たため、名鉄と名古屋市が協議を行い、八事 - 赤池の免許を名古屋市に無償譲渡し(同区間は名古屋市営地下鉄鶴舞線として開業)、その見返りとして瀬戸線の東大手 - 栄町の免許を得たという経緯がある。また、同線の試運転にはモ805-ク2313の2両編成が使われた。ただしATCが導入されていないため赤池駅には入線できずトンネル入口付近で折り返していた。その車両は豊田市の鞍ヶ池公園に静態保存されている。この車両のほかにも6000系が試運転で乗り入れ、1987年には5700系が回送列車として黒笹駅まで一度だけ乗り入れた。開業前の地固めとしてデキ400形電気機関車が乗り入れたこともある。試運転や回送列車で使われた本線系統用の各車両は豊田線内では鶴舞線経由で乗り入れる100・200系とは編成の向きが逆である(犬山線での向きを基準としたとき、豊橋寄り先頭車が鶴舞線直通車は豊田市向きであるのに対し、本線系統用の車両は赤池・上小田井向きである)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "豊田新線の開業により、名古屋・豊田間のバス路線は大幅に再編成され、豊田市内に設置された新駅(上豊田駅・浄水駅)と市街地・住宅地を直結する新路線が設けられた。また、豊田新線の開業は三河線の梅坪駅 - 上挙母駅間の連続立体交差事業や、豊田市駅 - 岡多線・新豊田駅間の市民広場の建設などをさらに具体化する格好となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "普通列車のみの運転であり、全ての列車が各駅に停車する。名鉄三河線・名古屋市営地下鉄鶴舞線と直通運転を行い、豊田市駅 - 上小田井駅間を往復する運行を基本としている。平日のほぼ全時間帯、および土曜、休日の早朝・深夜には名鉄犬山線直通列車も設定されている。日中は毎時4本(平日15分毎、土休日13分または17分毎)の運行であり、平日朝は増発される。犬山線直通列車は、平日ダイヤの昼間は原則として岩倉行きのみが1時間に1本運転される(平日夕方には柏森行き、平日朝には扶桑行き、朝や深夜には犬山行きが運転されることがある。休日日中の犬山線からの直通列車は岩倉発豊田市行きが毎時2本運転)。豊田線からの下り列車は鶴舞線終点の上小田井駅から犬山線に直通した後も終点までそのまま普通列車として運転される(平日朝の赤池駅始発の一部列車のみ上小田井駅から犬山線内は急行になることがある)。上り列車は全て豊田市行きであり、梅坪駅や途中駅で折り返す列車はない。ただ、三好カントリー倶楽部で東海クラシックが開催された際、黒笹行きが設定されたことはある。終点となる豊田市駅では三河線知立方面との対面接続が考慮されている。また、土休日は鶴舞線が10分毎の運転となるので、運転間隔の調整のため直通列車の半数は赤池駅で約3分停車する。なお、赤池駅は名古屋市交通局が管理しているため、名鉄の旅客案内上は無人駅となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当線が建設された場所は元々山間部であったため急勾配は多いが、急カーブが存在しないため、全列車が各駅停車ながらも線内のみの所要時分は18分で、表定速度は50 km/hと名鉄の普通列車としては高く、河和線の急行とほぼ同等である。なお豊田市駅 - 伏見駅間の標準所要時分は46分となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "毎年夏に行われる豊田おいでんまつりの最終日や豊田スタジアムでのサッカーやコンサートなど、イベント開催時には定期では赤池発上小田井行き(一部岩倉行き)となる列車が数本豊田市駅発に変更となる。逆の上り列車も定期では赤池駅止まりとなる列車が豊田市行きに延長となる。同時に臨時増発の送り込みのため、豊田線内で回送列車も数本運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "赤池駅で豊田線へ折り返す列車は通常運転されないが、鶴舞線内で事故などが発生して運休となった場合に運転されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "車両は直通する名古屋市営地下鉄鶴舞線に合わせて、全て20 m両開き4扉ロングシート、6両固定編成になっている。ワンマン運転は行われていないが、豊田線内でも自動放送が行われている。「名古屋市営地下鉄鶴舞線#車両」も参照。編成両数は名古屋市営地下鉄と統一されているが、女性専用車両は導入されていない。", "title": "車両" } ]
豊田線(とよたせん)は、愛知県日進市の赤池駅から愛知県豊田市の梅坪駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。正式名称は開業時より「豊田線」だが、1986年までは豊田新線(とよたしんせん)の名称を併用していた。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox rail line | box_width = 300px | name = [[File:Meitetsu logomark 2.svg|20px|名古屋鉄道|link=名古屋鉄道]] 豊田線 | color = 9eb03a | logo = NP-TT.svg | image = Meitetsu 200 series 021.JPG | image_width = 300px | image_alt = 200系(三好ヶ丘駅付近) | caption = [[名鉄100系電車#200系|200系]](三好ヶ丘駅付近) | system = {{Color|#9eb03a|■}}豊田市方面 | start = 起点:[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]] | end = 終点:[[梅坪駅]] | stations = 8駅 | linenumber = {{名鉄駅番号|TT}} | open = {{Start date|1979|07|29|df=y}}(全通) | owner = [[名古屋鉄道]] | linelength_km = 15.2 | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | el = [[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]], <br> [[架空電車線方式]] | speed = 最高100&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=Data-TK/> | website = [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line06/index.html 豊田線] | map = [[File:Linemap of Toyota Line.svg|300px]] }} {|{{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線&nbsp;|#9eb03a}} {{BS-table}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%"}} 特記なき路線は[[名古屋鉄道|名鉄]]線 {{BS-colspan}} ---- {{BS2|HST|O1=HUBaq|HST|O2=HUBeq|||MY07 [[豊田市駅]]/右:[[新豊田駅]]||}} {{BS2|STR|STR|||↑[[名鉄三河線|三河線]]||}} {{BS2|BHF|O1=HUBaq|HST|O2=HUBeq|0.0|MY08 [[梅坪駅]]|/右:[[愛環梅坪駅]]|}} {{BS4|STRq|ABZgr|STR||||←三河線 ↓豊田線||}} {{BS4|STRq|KRZo|STRr||||←[[愛知環状鉄道]]:[[愛知環状鉄道線|愛環線]]||}} {{BS2|BHF||2.0|TT01 [[上豊田駅]]||}} {{BS2|BHF||3.8|TT02 [[浄水駅]]||}} {{BS2|SKRZ-Yo|||国道155線架道橋|45.3&nbsp;m [[国道155号]]|}} {{BS2|TUNNEL1|||福谷トンネル|505&nbsp;m|}} {{BS2|BHF||6.2|TT03 [[三好ヶ丘駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1|||黒笹トンネル|348&nbsp;m|}} {{BS2|BHF||8.1|TT04 [[黒笹駅]]||}} {{BS2|SKRZ-Ao|||東名高速架道橋|49.6&nbsp;m [[東名高速道路]]||}} {{BS2|WDOCKSaq|O1=lhMSTR|P1=STR|WDOCKSlg||愛知池橋梁|256m [[愛知池]]|}} {{BS2|BHF|O1=WDOCKSc1|WDOCKSe|10.4|TT05 [[米野木駅]]||}} {{BS2|TUNNEL1|||梨ノ木トンネル|390&nbsp;m|}} {{BS2|BHF||12.2|TT06 [[日進駅 (愛知県)|日進駅]]||}} {{BS2|TUNNEL2|||高松トンネル|260&nbsp;m|}} {{BS2|TUNNEL2|||平子トンネル|191&nbsp;m|}} {{BS4|STR+l|KRZo|ENDEeq|||日進車庫跨線橋|487.7&nbsp;m|}} {{BS4|BST|STR|||||[[名古屋市交通局日進工場|名市交日進工場]]|}} {{BS4|tSTRa|tSTRa|||||}} {{BS4|tSTRl|tABZg+r|||||}} {{BS2|tBHF+GRZq||15.2|TT07 [[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]||}} {{BS2|tSTR||||[[名古屋市交通局|名市交]]:[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]||}} {{BS-colspan}} ---- 橋梁、隧道の詳細は<br />『鉄道ピクトリアル』No.370、p.&nbsp;18による |} |} '''豊田線'''(とよたせん)は、[[愛知県]][[日進市]]の[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]から愛知県[[豊田市]]の[[梅坪駅]]までを結ぶ[[名古屋鉄道]](名鉄)の[[鉄道路線]]である。正式名称は開業時より「豊田線」だが<ref name="Rp370_p20">{{Cite book|和書|author=清水武|title=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=370|page=20|chapter=豊田新線の運転計画|date=1979-12|publisher=[[電気車研究会]]}}</ref>、1986年までは'''豊田新線'''(とよたしんせん)の名称を併用していた<ref name="meitetsu-haisen" />。 == 概要 == [[名古屋市]]と豊田市とを結ぶ通勤・通学路線である。沿線の大学・高校への通学目的の利用も多い。[[愛知高速交通東部丘陵線]](リニモ)同様、この路線もまた[[尾張丘陵]]を横断する路線であり、30[[パーミル|‰]]以上の急[[線形 (路線)#勾配|勾配]]が随所に存在する。全区間が[[立体交差]]で踏切が存在しないが、すべて高架というわけではなく、丘陵地帯の地形に合わせ、トンネルや[[切土|掘割]]なども多数ある。起点の赤池駅は地下駅であり、発車するとすぐに地上に出て高架に上がる。 [[名鉄三河線|三河線]][[豊田市駅]]から[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]を経由して最長で名鉄[[名鉄犬山線|犬山線]][[犬山駅]]まで[[直通運転|直通運行]]している(全40駅、距離58.4&nbsp;[[キロメートル|km]])<ref name ="meitetsu20130730">{{Cite press release|和書|title = 名鉄犬山線・地下鉄鶴舞線相互直通運転20周年記念イベントを開催します|publisher = 名古屋鉄道|date = 2013-07-30 |url = http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2013/__icsFiles/afieldfile/2014/02/09/release130730_inuyamasen.pdf |accessdate = 2015-06-20 |deadlink=2023-10-30 |archivedate=2015-05-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150502140124/http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2013/__icsFiles/afieldfile/2014/02/09/release130730_inuyamasen.pdf}}</ref>。犬山線まで直通する列車は少なく、ほとんどの列車は鶴舞線終点の上小田井駅で折り返す。 途中駅のホーム番号は全列車が直通する地下鉄鶴舞線に合わせられており、梅坪・豊田市方面が1番線、赤池・上小田井方面が2番線となっている(赤池駅では豊田線からの列車は4番線を発着する。梅坪駅では赤池・上小田井方面が1番線、豊田市方面が2番線である)。これは同じ名鉄の路線である三河線や犬山線とは異なった番号の付け方である。乗車位置の番号も小牧線と瀬戸線を除いた他の名鉄の路線とは異なり、4ドア車6両編成に対応した1-24番となっている。 [[名古屋鉄道#運賃|運賃計算区分]]は'''B'''(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)で、さらに[[#加算運賃|加算運賃]]を適用する。[[manaca]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用サービス対応カード]]が使用できる。 『[[鉄道要覧]]』による起点は赤池駅だが、列車運行および旅客案内、[[列車番号]]の設定においては、梅坪駅から赤池駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。[[駅ナンバリング|駅番号]]も梅坪駅の隣にある上豊田駅を01番として、赤池駅に向かって番号が大きくなっていく。 === 加算運賃 === 新線であるため、建設費を回収するためにキロ程で算出された運賃に加算額を加算する。豊田線の建設費回収率は2022年末時点で50.6%である<ref>{{Cite web|和書|title=加算運賃の現状について |publisher=名古屋鉄道 |date=2023-07-19 |url=https://www.meitetsu.co.jp/train/ticket_fare/fare/__icsFiles/afieldfile/2023/07/18/kasan_genjou230719_1.pdf |format=PDF |accessdate=2023-10-30}}</ref>。普通運賃(大人)への加算額は、豊田線内の運賃計算キロ(営業キロ×1.15)に応じて下表の通りとなっている<ref>{{Cite press release |和書 |title=鉄軌道旅客運賃・料金等の改定について |publisher=名古屋鉄道 |date=2019-09-05 |url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2019/__icsFiles/afieldfile/2021/08/11/release190905_unkai.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-06}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align: right;" |- !運賃計算キロ !加算額 |- |0.1キロ - 3.9キロ |20円 |- |4.0キロ - 7.9キロ |30円 |- |8.0キロ - 11.9キロ |40円 |- |12.0キロ - 15.9キロ |50円 |- |16.0キロ - 17.5キロ |60円 |} 地下鉄線と合算すると割高感があり(例:[[2006年]]7月時点で伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄500円 = 790円)、これを少しでも解消すべく、また建設費の回収も進んで来ていることから、2006年[[12月16日]]より普通運賃で10 - 50円引き下げられた(伏見 - 豊田市は地下鉄290円 + 名鉄450円 = 740円となった。2014年・2019年の消費税率引き上げにより2019年現在、伏見 - 豊田市は地下鉄310円 + 名鉄470円 = 780円となっている)。 === 連絡運輸 === 一部列車が名古屋市営地下鉄鶴舞線経由で直通している犬山線上小田井駅以遠との間の[[連絡運輸|連絡乗車券]]が購入できる。この鶴舞線経由の犬山線との連絡乗車券は自動券売機には設定されていないが、赤池駅の駅長室と有人駅の窓口で購入することができる。ただし前後の会社の営業キロを通算して運賃を算出する[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]ではなく、前後の名鉄の運賃は接続駅で打ち切って計算され、通算されない。また2003年より地下鉄線経由で小牧線上飯田駅以遠へも中間改札なしで繋がっているが、こちらは通過連絡運輸や連絡乗車券が存在せず、2枚に分けて購入することになる<ref group="注">いずれの場合も、乗車駅で接続駅(上小田井駅又は上飯田駅、豊田線内に出向く場合は赤池駅)までの乗車券を購入し下車駅で<!-- 駅窓口又は精算機に出向いて -->精算するか、manaca等のICカードを使用して乗車する<!-- 下車駅にて自動精算(カード内に下車駅までの運賃以上の残額があることが前提) -->ことが可能である。</ref>。地下鉄線栄駅で徒歩連絡となる瀬戸線栄町駅以遠への連絡乗車券も当初から設定されていない。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):15.2&nbsp;km * [[軌間]]:1067&nbsp;[[ミリメートル|mm]] * 駅数:8駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式<ref name=Data-TK/> * [[自動列車保安装置|保安装置]]:[[M式ATS]]<ref name=Data-TK/> * 最高速度:100&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=Data-TK>{{Cite book|和書|author=[[徳田耕一]]|title=名古屋鉄道 今昔<small>―不死鳥「パノラマカー」の功績</small>|date=2017-08 |series =[[交通新聞社新書]] |publisher=[[交通新聞社]] |isbn=978-4330819174|page=118}}</ref> * 最急勾配:34.5‰(三好ヶ丘駅 - 黒笹駅間)<ref name="datebook">{{Cite book|和書 |author=[[寺田裕一]]|title=改訂新版 データブック日本の私鉄|date= 2013-01-19|publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |series=NEKO BOOK 1836|isbn=978-4-7770-1336-4|page=106}}</ref> * 最小曲線半径:281m<ref name="datebook"/> * 軌条:50&nbsp;kgN(開通当初は一部に20&nbsp;[[メートル|m]]レールを敷設) * 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](黒笹駅 - 梅坪駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/achievement20231025.pdf |title=整備実績一覧 |date=2023-10-25 |publisher=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] |format=PDF |page=5 |language=ja |accessdate=2023-10-30}}</ref> * 主な橋梁・トンネル ** 日進車庫跨線橋(赤池 - 日進間、全長487.7&nbsp;m、[[プレストレスト・コンクリート橋|PC桁]]・鋼合成桁)<ref name="Rp370_p18">{{Cite journal|和書|author = 山下武|title = 豊田新線の計画と建設について|date = 1979-12 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 370|page=18}}</ref> ** 愛知池橋梁(米野木 - 黒笹間、全長256&nbsp;m、PC桁)<ref name="Rp370_p18"/> ** 東名高速架道橋(米野木 - 黒笹間、全長49.6m、[[トラス橋#プラットトラス|鋼プラットトラス]])<ref name="Rp370_p18"/> ** 福谷トンネル(三好ヶ丘 - 浄水間、505&nbsp;m)<ref name="Rp370_p18"/> - 名鉄で最も長い山岳トンネル<ref>{{Cite journal|和書|author = 高橋大介|title = 線路と保線|date = 2009-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 816|page=101}}</ref>。 ** 梨ノ木トンネル(日進 - 米野木間、390&nbsp;m)<ref name="Rp370_p18"/> ** 黒笹トンネル(黒笹 - 三好ヶ丘間、348&nbsp;m)<ref name="Rp370_p18"/> **高松トンネル(赤池 - 日進間) == 歴史 == [[1927年]](昭和2年)設立の[[新三河鉄道]]が八事 - 挙母(豊田)間の鉄道敷設免許を取得したのが起源である。同社は名古屋市東部で[[路面電車]](後に[[名古屋市電]]へ譲渡)を運行していた[[尾張電気軌道]]を合併し、親会社の[[三河鉄道]]と連携して、名古屋 - 挙母 - 岡崎間の連絡を目指したが<ref group="注">梅坪駅 - [[上挙母駅]]間は三河鉄道本線(現在の[[名鉄三河線]])、上挙母駅 - [[岡崎駅]]間は三河鉄道岡崎線(のちの[[名鉄挙母線]]=1973年廃止・[[名鉄岡崎市内線]]=1962年廃止)により結ばれていた。なお挙母線・岡崎市内線廃止後はこれらに近い路線として、国鉄岡多線(現:[[愛知環状鉄道線]])の[[新豊田駅]] - 岡崎駅間が1976年までに開業している。</ref>、結局果たせず、敷設免許は三河鉄道を経て名古屋鉄道が引き継ぎ、1979年に名鉄が開業させた。 豊田市は[[名古屋市]]の中心部から30&nbsp;km圏内に位置するが{{Sfn|豊田市|2019|p=20}}、名古屋市との鉄道連絡は[[名鉄三河線]] - ([[知立駅]]) - [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]と南に大きく迂回するルートしかなく、後に建設された国鉄岡多線(現:[[愛知環状鉄道線]])も[[東海道本線]]([[岡崎駅]])を経由するため、豊田市 - 名古屋を結ぶ大量輸送の交通機関は極めて不便な状況にあった{{Sfn|豊田市|2019|p=7}}。このような公共交通の立ち遅れから、豊田市民の移動手段は[[自家用自動車|自家用自動車(マイカー)]]への依存度が高かった{{Sfn|豊田市|2019|p=72}}。豊田市だけでなく、同市と名古屋市の間に位置し、名古屋の衛星都市である[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]の日進町(現:日進市)・[[東郷町]]も同様の不便を感じていた{{Sfn|豊田市|2019|p=70}}。そのような状況を解消するため、名古屋市が偏った発展をしないような[[放射線・環状線|放射状鉄道路線]]を新設することも目的に、豊田市 - 三好 - 東郷 - 日進 - 名古屋を結ぶ鉄道路線を敷設する構想が浮上した{{Sfn|豊田市|2019|p=8}}。以下がその案である。 # [[日本国有鉄道|国鉄]]建設線(千種 - 豊田):[[鉄道敷設法]]の予定路線として、[[千種区|千種]]から豊田[[武節町|武節]]を経て飯田に至る路線(参照:[[鉄道敷設法別表一覧#第69号]])が規定されていたため、そのうち千種 - 豊田間を工事線として建設する案{{Sfn|豊田市|2019|p=8}}。1967年(昭和42年)には豊田市が、豊田・名古屋間の鉄道敷設を国鉄に要望する旨{{Efn2|『加茂タイムス』は「同市が(要望先を)国鉄にしぼった理由は、現在建設中の国鉄岡多線の支線とした方が便利である、国鉄の方が地元負担が少なくてすむ――とするもの」と報じた{{Sfn|豊田市|2019|p=69}}。}}が『加茂タイムス』{{Efn2|現:新三河タイムス。}}11月13日号{{Efn2|『加茂タイムス』第1118号、1967年(昭和42年)11月13日「豊田―名古屋間 国鉄線敷設 豊田市が近く要望」{{Sfn|豊田市|2019|p=69}}。}}で報道された{{Sfn|豊田市|2019|p=69}}。 # 名古屋市高速鉄道の延長:名古屋市高速鉄道3号線(上小田井 - 八事 - 天白)をさらに豊田まで延伸する{{Sfn|豊田市|2019|p=8}}。 # 名古屋市高速鉄道線の終点から豊田市に至る間の鉄道を別個の鉄道として建設する案:八事 - 豊田間の先述の免許線の計画を一部変更し、名古屋市高速鉄道の終点(天白)から豊田市までの鉄道を建設し、天白で乗り換えるか両線を相互直通運転させる案{{Sfn|豊田市|2019|p=8}}。 # 名鉄名古屋本線・[[桜駅 (愛知県)|桜駅]](名古屋市[[南区 (名古屋市)|南区]])から豊田市方面へ分岐延伸する案 - 1968年(昭和43年)7月7日に『加茂タイムス』が「かねてから豊田市が計画していた国鉄による千種 - 武節線(1.)に対し、名鉄も桜駅から豊田間を全線高架で結ぶ構想がある」と報じた{{Efn2|『加茂タイムス』第1185号、1968年(昭和43年)7月7日「名鉄から申し入れ 全線高架で名古屋まで」{{Sfn|豊田市|2019|pp=69-70}}。}}{{Sfn|豊田市|2019|pp=69-70}}{{Efn2|後世には、これに近い鉄道路線の計画として[[名古屋市営地下鉄桜通線]]の[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|豊田市方面延伸]]も構想されたものの、名古屋市内の[[徳重駅 (名古屋市)|徳重駅]]より先は実現に至っていない。}}。 結果的に、2. と3. を折衷したような形で豊田線が建設される形となった。1971年(昭和46年)11月17日には1市3町(豊田市・三好町・日進町・東郷町)の首長らが集まり、「名古屋豊田間鉄道建設促進協議会」の結成を決定{{Sfn|豊田市|2019|p=71}}。ルートについては東郷町・三好町の中心部を経由し、豊田市と結ぶ南回りルートも予想されていたが、結果的には赤池駅(後の[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]との接続駅)から日進町の南部・三好町の北部を経由し、梅坪駅で三河線に乗り入れて豊田市駅まで結ぶルートに決定した{{Sfn|豊田市|2019|p=72}}。また、豊田・名古屋間の鉄道の豊田側の終着駅は岡多線の駅(現在の新豊田駅)と名鉄の豊田市駅(約250&nbsp;m離れている)の中間に設置することで、両駅の心理的距離を縮めることも構想された{{Sfn|豊田市|2019|p=9}}が、結局は三河線を介して豊田市駅に直接乗り入れる形となった。所要時間については、豊田市 - 名古屋都心間を約30分で結ぶことも想定された{{Sfn|豊田市|2019|p=18}}が、豊田新線開業時(1979年)時点では豊田市駅 - 名古屋都心部の所要時間は約45分となっている{{Sfn|豊田市|2019|pp=71-72}}。 なお、名鉄は本来免許通り八事までの建設を計画していたが、[[都市交通審議会]]で名古屋市内の天白まで公営地下鉄を建設することが答申されたことと、用地買収の過程で市交通局の車庫を日進町(現:日進市) 赤池地区に確保する必要が出て来たため、名鉄と名古屋市が協議を行い、八事 - 赤池の免許を名古屋市に無償譲渡し(同区間は名古屋市営地下鉄鶴舞線として開業)、その見返りとして[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]の東大手 - 栄町の免許を得たという経緯がある。また、同線の試運転には[[名岐鉄道デボ800形電車|モ805-ク2313]]の2両編成が使われた<ref name="meitetsu-haisen" />。ただし[[自動列車制御装置|ATC]]が導入されていないため赤池駅には入線できずトンネル入口付近で折り返していた。その車両は豊田市の[[鞍ヶ池公園]]に[[静態保存]]されている。この車両のほかにも[[名鉄6000系電車|6000系]]<ref group="注">6010編成。現在はmanaca未対応区間でのワンマン運転に対応済み</ref>が試運転で乗り入れ、[[1987年]]には[[名鉄5700系電車|5700系]]が回送列車として黒笹駅まで一度だけ乗り入れた<ref>「ミニコラム:豊田線を走った5700系」{{Cite book|和書 |author=徳田耕一 |title=名鉄名称列車の軌跡:<small>パノラマカーも輝いた魅惑の列車の半世紀</small> |date=2009-11-01 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |series=[[JTBキャンブックス]]. 鉄道97 |isbn=978-4-533-07673-2 |page=136}}</ref>。開業前の地固めとして[[愛知電気鉄道デキ400形電気機関車|デキ400形]][[電気機関車]]が乗り入れたこともある。試運転や回送列車で使われた本線系統用の各車両は豊田線内では鶴舞線経由で乗り入れる100・200系とは編成の向きが逆である(犬山線での向きを基準としたとき、豊橋寄り先頭車が鶴舞線直通車は豊田市向きであるのに対し、本線系統用の車両は赤池・上小田井向きである)。 豊田新線の開業により、名古屋・豊田間のバス路線は大幅に再編成され、豊田市内に設置された新駅(上豊田駅・浄水駅)と市街地・住宅地を直結する新路線が設けられた{{Sfn|豊田市|2019|pp=72-73}}。また、豊田新線の開業は三河線の梅坪駅 - [[上挙母駅]]間の[[連続立体交差事業]]{{Efn2|梅坪駅は豊田新線開業を控えた1979年3月27日に、豊田市駅は1985年11月1日にそれぞれ高架化され、1986年10月1日には両駅間が複線化された。<ref>{{Cite book|和書|author=神谷力(編)|year =2000|title = 三河を走って85年―三河線・挙母線とともに歩んだ郷土の歴史と文化|publisher =郷土文化社|isbn = 978-4876701292|page=236}}。</ref>}}や、豊田市駅 - 岡多線・新豊田駅間の市民広場の建設などをさらに具体化する格好となった{{Sfn|豊田市|2019|p=72}}。 === 年表 === * [[1926年]]([[大正]]15年)[[10月9日]]:新三河鉄道が、[[西加茂郡]][[豊田市|挙母町]] - [[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[東大曽根町]]および[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[天白村 (愛知県)|天白村]] - [[中区 (名古屋市)|中区]][[広路町 (名古屋市)|広路町]]間の鉄道敷設免許取得<ref>[{{NDLDC|2956392/5}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年10月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name ="meitetsu20090722">{{Cite press release|和書|title = 〜名鉄豊田線開通30周年記念〜「記念乗車券」および「記念SFパノラマカード」を7月29日(水)から発売します。 - ニュースリリース | 名古屋鉄道 |publisher = 名古屋鉄道 |date = 2009-07-22| url = http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2009/20090722_01.html| accessdate = 2015-06-21|deadlink=2023-10-30 |archivedate=2015-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150501132221/http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2009/20090722_01.html}}</ref> * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[9月11日]]:三河鉄道の系列会社として、新三河鉄道設立<ref name="meitetsu-haisen">{{Cite book |和書 |editor=徳田耕一(編著) |year=2001 |title=名鉄の廃線を歩く |publisher=JTB |pages=168-169 |chapter=三鉄ものがたり |author=新實守|isbn=978-4533039232 }}</ref>。 * [[1932年]](昭和7年)12月26日:八事 - 挙母間の工事施工認可<ref name="itiran10">[{{NDLDC|1190630/59}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。しかし、経営困難のため、本格的着工はできなかった。 * [[1937年]](昭和12年) ** [[12月16日]]:新三河鉄道から親会社の三河鉄道へ鉄道敷設免許を譲渡<ref>[{{NDLDC|2959780/20}} 「鉄道敷設権譲渡」『官報』1937年12月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 12月16日:新三河鉄道解散<ref name="meitetsu-haisen" />。 * [[1941年]](昭和16年)[[6月1日]]:名古屋鉄道が三河鉄道を合併。 * [[1972年]](昭和47年) ** 5月:八事 - 赤池間の鉄道敷設免許を名古屋市へ無償譲渡<ref name ="meitetsu20090722" />(名鉄は、見返りに瀬戸線の東大手 - 栄町間の免許を譲受)。 ** 10月:名鉄豊田新線 - 地下鉄3号線(鶴舞線) - 犬山線の相互直通運転について、名古屋市交通局と協定締結<ref name ="meitetsu20090722" /> * [[1973年]](昭和48年)10月:豊田新線建設着工(41年ぶりの再着工)、愛知池橋梁工事に着手<ref name ="meitetsu20090722" />。 * [[1978年]](昭和53年)6月:東名高速架道橋の架設<ref name ="meitetsu20090722" />。 ** 10月1日:名古屋市営地下鉄3号線(鶴舞線) 八事 - 赤池間開通<ref name="meitetsu-haisen" /><ref name ="meitetsu20090722" /><ref name="sougou-nenpyou-p59">{{Cite book |和書 |author=池田光雅 |year=1993 |title=鉄道総合年表1972-93 |publisher=中央書院 |page=59 |isbn=978-4924420823 |quote= }}</ref>。 ** 12月:豊田新線用車両100系8両(2編成)が完成<ref name ="meitetsu20090722" />。 * [[1979年]](昭和54年)[[7月29日]]:梅坪 - 赤池間が開業<ref name="meitetsu-haisen" /><ref name="sougou-nenpyou-p63">{{Cite book |和書 |author=池田光雅 |year=1993 |title=鉄道総合年表1972-93 |publisher=中央書院 |page=63 |isbn=978-4924420823 |quote= }}</ref>。名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互直通運転開始<ref name ="meitetsu20090722" /><ref name="sougou-nenpyou-p63" />。 * [[1986年]](昭和61年)[[9月29日]]:営業呼称を豊田線に改称<ref name="meitetsu-haisen" />。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[8月12日]]:鶴舞線の全通により犬山線と相互直通運転開始<ref name="meitetsu-haisen" />。 * [[2003年]](平成15年)[[10月1日]]:[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]導入<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2004-01-01 |title = 鉄道記録帳2003年10月 |journal = RAIL FAN |issue = 1 |volume = 51 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[2月11日]]:ICカード乗車券「[[manaca]]」供用開始。 * [[2012年]](平成24年)[[2月29日]]:トランパス供用終了。 == 運行形態 == [[普通列車]]のみの運転であり、全ての列車が各駅に停車する。名鉄[[名鉄三河線|三河線]]・[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]と[[直通運転]]を行い、[[豊田市駅]] - [[上小田井駅]]間を往復する運行を基本としている。平日のほぼ全時間帯、および土曜、休日の早朝・深夜には名鉄[[名鉄犬山線|犬山線]]直通列車も設定されている。日中は毎時4本(平日15分毎、土休日13分または17分毎)の運行であり、平日朝は増発される。犬山線直通列車は、平日ダイヤの昼間は原則として岩倉行きのみが1時間に1本運転される(平日夕方には[[柏森駅|柏森]]行き、平日朝には[[扶桑駅|扶桑]]行き、朝や深夜には犬山行きが運転されることがある。休日日中の犬山線からの直通列車は岩倉発豊田市行きが毎時2本運転)。豊田線からの下り列車は鶴舞線終点の上小田井駅から犬山線に直通した後も終点までそのまま普通列車として運転される(平日朝の赤池駅始発の一部列車のみ上小田井駅から犬山線内は急行になることがある)。上り列車は全て豊田市行きであり、梅坪駅や途中駅で折り返す列車はない。ただ、[[三好カントリー倶楽部]]で[[東海クラシック]]が開催された際、黒笹行きが設定されたことはある。終点となる豊田市駅では三河線知立方面との対面接続が考慮されている。また、土休日は鶴舞線が10分毎の運転となるので、運転間隔の調整のため直通列車の半数は赤池駅で約3分停車する。なお、赤池駅は[[名古屋市交通局]]が管理しているため、名鉄の旅客案内上は[[無人駅]]となっている。 当線が建設された場所は元々山間部であったため急勾配は多いが、急カーブが存在しないため、全列車が各駅停車ながらも線内のみの所要時分は18分で、表定速度は50&nbsp;km/hと名鉄の普通列車としては高く、[[名鉄河和線|河和線]]の急行とほぼ同等である。なお豊田市駅 - 伏見駅間の標準所要時分は46分となっている。 毎年夏に行われる[[豊田おいでんまつり]]の最終日や[[豊田スタジアム]]でのサッカーやコンサートなど、イベント開催時には定期では赤池発上小田井行き(一部[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉]]行き)となる列車が数本豊田市駅発に変更となる。逆の上り列車も定期では赤池駅止まりとなる列車が豊田市行きに延長となる。同時に臨時増発の送り込みのため、豊田線内で回送列車も数本運転される。 赤池駅で豊田線へ折り返す列車は通常運転されないが、鶴舞線内で事故などが発生して運休となった場合に運転されることがある。 == 車両 == 車両は直通する名古屋市営地下鉄鶴舞線に合わせて、全て20&nbsp;m両開き4扉ロングシート、6両固定編成になっている。ワンマン運転は行われていないが、豊田線内でも自動放送が行われている。「[[名古屋市営地下鉄鶴舞線#車両]]」も参照。編成両数は名古屋市営地下鉄と統一されているが、[[女性専用車両]]は導入されていない。 ; 自社車両 : 豊田線で運用される名鉄の自社車両は中間車が増結されたものの登場時より全車両健在であり、廃車は生じていない。 :* [[名鉄100系電車|100系]] :* [[名鉄100系電車|200系]] : ; 乗り入れ車両 : [[名古屋市交通局]] :* [[名古屋市交通局3000形電車 (鉄道)|3000形]] - 2023年までにN3000形に置き換えられて運用終了。 :* [[名古屋市交通局3050形電車|3050形]] :* [[名古屋市交通局N3000形電車|N3000形]] - 乗り入れ車両で唯一、豊田線内で「普通」の種別表示を出す(赤池駅で変更)。 <gallery widths="170px"><!--豊田線内の写真のみ掲載--> Meitetsu 100 series 021.JPG|100系 Nagoya Municipal Subway 3050 series 011.JPG|3050形 N3101H&N3102H in Nissin.JPG|N3000形 </gallery> == 利用状況 == {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:85%; text-align:right;" |+style="text-align:left;"|年度別年間乗車人員の推移と増減率(1980年度比) !年度 ! colspan="2" style="text-align:center" | 上豊田駅 ! colspan="2" style="text-align:center" | 浄水駅 ! colspan="2" style="text-align:center" | 三好ヶ丘駅 ! colspan="2" style="text-align:center" | 黒笹駅 ! colspan="2" style="text-align:center" | 米野木駅 ! colspan="2" style="text-align:center" | 日進駅 !備考 |- !1979年(昭和54年) |46,788 |62 % |240,508 |50 % |66,992 |99 % |75,831 |48 % |381,091 |48 % |648,708 |57 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画部統計課(編)『愛知県統計年鑑 昭和56年刊』、愛知県、1981年、228頁</ref>7月29日開業(238日間<!--1980年2月29日含む-->) |- style="background-color:#ddf" ! style="background-color:#ddf" |1980年(昭和55年) |75,052 |100 % |476,358 |100 % |68,014 |100 % |158,488 |100 % |802,086 |100 % |1,132,679 |100 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画部統計課(編)『愛知県統計年鑑 昭和57年刊』、愛知県、1982年、240頁</ref> |- ! 1985年(昭和60年) |307,440 |410 % |758,133 |159 % |96,335 |142 % |240,032 |151 % |918,105 |114 % |1,172,042 |103 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画部統計課(編)『愛知県統計年鑑 昭和62年刊』、愛知県、1987年、224頁</ref> |- ! 1990年(平成{{0}}2年) |371,160 |495 % |1,098,598 |231 % |217,512 |320 % |672,623 |424 % |836,957 |104 % |1,351,400 |119 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画部統計課(編)『愛知県統計年鑑 平成4年刊』、愛知県、1992年、230頁</ref> |- ! 1995年(平成{{0}}7年) |460,551 |614 % |1,385,615 |291 % |808,633 |1189 % |802,460 |506 % |1,106,317 |138 % |1,729,131 |153 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画部統計課(編)『愛知県統計年鑑 平成9年度刊』、愛知県、1998年、[https://www.pref.aichi.jp/soshiki/toukei/0000022243.html 第10章 運輸・通信]</ref> |- ! 2000年(平成12年) |530,443 |707 % |1,258,364 |264 % |1,114,897 |1639 % |987,723 |623 % |799,060 |99 % |1,725,949 |152 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県企画振興部統計課(編)『愛知県統計年鑑 平成14年度刊』、愛知県、2003年、[https://www.pref.aichi.jp/soshiki/toukei/0000008154.html 第10章 運輸・通信]</ref> |- ! 2005年(平成17年) |549,075 |732 % |1,298,075 |273 % |1,241,041 |1825 % |990,401 |625 % |870,420 |109 % |1,684,099 |149 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県県民生活部統計課(編)『愛知県統計年鑑 平成19年度刊』、愛知県、2008年、[https://www.pref.aichi.jp/soshiki/toukei/0000008510.html 第10章 運輸・通信]</ref> |- ! 2010年(平成22年) |560,766 |747 % |1,620,374 |340 % |1,458,723 |2145 % |1,164,880 |735 % |795,977 |99 % |1,752,645 |155 % |style="text-align:left" |<ref>愛知県県民生活部統計課(編)『愛知県統計年鑑 平成24年度刊』、愛知県、2013年、[https://www.pref.aichi.jp/soshiki/toukei/0000069494.html 第10章 運輸・情報通信]</ref> |- ! 2015年(平成27年) | colspan="4" style="text-align:center; background-color:#ececec;" | n/a |1,632,445 |2400 % |535,251 |338 % |1,062,762 |133 % |1,844,716 |163 % |style="text-align:left" |<ref name="三好2020">政策推進部 企画政策課(編)『みよしものしり専科 令和元年度版』、みよし市、2020年、65頁([https://www.city.aichi-miyoshi.lg.jp/kikaku/toukei/documents/r1_monosiri_toukei.pdf PDF])</ref><ref name="日進2020">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nisshin.lg.jp/opendata/serch/katsudou.html#h_idx_iw_flex_1_22 |title=日進市オープンデータポータルサイト 行政活動情報 交通・運輸 |publisher=日進市 |accessdate=2021-01-12}}</ref> |- ! 2018年(平成30年) | colspan="4" style="text-align:center; background-color:#ececec;" | n/a |1,829,013 |2689 % |598,848 |378 % |1,154,294 |144 % |1,896,064 |167 % |style="text-align:left" |<ref name="三好2020"/><ref name="日進2020"/> |} {{Image frame | align = none | caption=年度別年間乗車人員の推移(左)と1980年度の値を100%とした増減率(右) *出典(いずれも名古屋鉄道提供資料): :上豊田・浄水:『愛知県統計年鑑』(2011年度以降データなし<!--豊田市統計書は一日平均乗降人員しか掲載されない-->) :三好ヶ丘・黒笹:『愛知県統計年鑑』および『みよしものしり専科(みよしの統計)』 :米野木・日進:『愛知県統計年鑑』および『日進市オープンデータポータルサイト』 | content = {{Graph:Chart|width=300|height=400|showValues=offset:4|xAxisAngle=-40|xAxisMin=1979|yAxisMin=0|type=line|legend=凡例 |y1Title=上豊田|y2Title=浄水|y3Title=三好ヶ丘|y4Title=黒笹|y5Title=米野木|y6Title=日進 |yAxisTitle = 年間乗車人員(人) |yGrid= |xGrid= |x=1979, 1980, 1981, 1982, 1983, 1984, 1985, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, |y1=46788, 75052, 81658, 94234, 171118, 243934, 307440, 342217, 339974, 338960, 359394, 371160, 401586, 390464, 417483, 429520, 460551, 547927, 533490, 539241, 528372, 530443, 538712, 529436, 520700, 530028, 549075, 562190, 580350, 590192, 568728, 560766, , , , , , , , , |y2=240508, 476358, 515694, 531022, 559344, 665879, 758133, 908759, 965376, 974590, 1044841, 1098598, 1178478, 1239208, 1308623, 1347821, 1385615, 1344089, 1309444, 1306481, 1263357, 1258364, 1264694, 1264403, 1284892, 1301328, 1298075, 1306549, 1396996, 1521491, 1555899, 1620374, , , , , , , , , |y3=66992, 68014, 78668, 77998, 86707, 93124, 96335, 87420, 93319, 118592, 150872, 217512, 287001, 392965, 508653, 653244, 808633, 867451, 932879, 1022888, 1092302, 1114897, 1101199, 1102579, 1142595, 1175600, 1241041, 1242521, 1269053, 1331926, 1393055, 1458723, 1554555, 1598686, 1653311, 1632445, 1734174, 1773811, 1811545, 1829013, |y4=75831, 158488, 185504, 197473, 196760, 217665, 240032, 258641, 269093, 650176, 632935, 672623, 689699, 697934, 754642, 775411, 802460, 843394, 877853, 935807, 979728, 987723, 1016748, 1030181, 1021695, 944146, 990401, 1026136, 1035124, 1108938, 1116855, 1164880, 1188159, 468016, 482014, 498798, 535251, 553948, 571558, 598848, |y5=381091, 802086, 896297, 750266, 873416, 923423, 918105, 903795, 936280, 817147, 861108, 836957, 893338, 912410, 1091943, 1087313, 1106317, 1021269, 988550, 970315, 874690, 799060, 760874, 771626, 782140, 790596, 870420, 844663, 817723, 774307, 781520, 795977, 828853, 922116, 1012683, 1042948, 1062762, 1017450, 1108211, 1154294, |y6=648708, 1132679, 1189354, 1173493, 1186590, 1166160, 1172042, 1174965, 1171026, 1190678, 1299812, 1351400, 1440840, 1453786, 1475441, 1567726, 1729131, 1735174, 1749538, 1750858, 1745943, 1725949, 1698637, 1675342, 1662931, 1696456, 1684099, 1712073, 1738638, 1752216, 1718912, 1752645, 1734362, 1749196, 1804362, 1802155, 1844716, 1828761, 1859026, 1896064, }} {{Graph:Chart|width=300|height=400|showValues=offset:4|xAxisAngle=-40|xAxisMin=1979|yAxisMin=0|type=line |yAxisTitle = 増減率(%) |yGrid= |xGrid= |x=1979, 1980, 1981, 1982, 1983, 1984, 1985, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, |y1=62.34, 100, 108.8, 125.56, 228, 325.02, 409.64, 455.97, 452.98, 451.63, 478.86, 494.54, 535.08, 520.26, 556.26, 572.3, 613.64, 730.06, 710.83, 718.49, 704.01, 706.77, 717.79, 705.43, 693.79, 706.21, 731.59, 749.07, 773.26, 786.38, 757.78, 747.17, , , , , , , , , |y2=50.49, 100, 108.26, 111.48, 117.42, 139.79, 159.15, 190.77, 202.66, 204.59, 219.34, 230.62, 247.39, 260.14, 274.71, 282.94, 290.88, 282.16, 274.89, 274.26, 265.21, 264.16, 265.49, 265.43, 269.73, 273.18, 272.5, 274.28, 293.27, 319.4, 326.62, 340.16, , , , , , , , , |y3=98.5, 100, 115.66, 114.68, 127.48, 136.92, 141.64, 128.53, 137.21, 174.36, 221.82, 319.8, 421.97, 577.77, 747.87, 960.46, 1188.92, 1275.4, 1371.6, 1503.94, 1606, 1639.22, 1619.08, 1621.11, 1679.94, 1728.47, 1824.68, 1826.86, 1865.87, 1958.31, 2048.19, 2144.74, 2285.64, 2350.52, 2430.84, 2400.16, 2549.73, 2608.01, 2663.49, 2689.17, |y4=47.85, 100, 117.05, 124.6, 124.15, 137.34, 151.45, 163.19, 169.79, 410.24, 399.36, 424.4, 435.17, 440.37, 476.15, 489.26, 506.32, 532.15, 553.89, 590.46, 618.17, 623.22, 641.53, 650.01, 644.65, 595.72, 624.91, 647.45, 653.12, 699.7, 704.69, 735, 749.68, 295.3, 304.13, 314.72, 337.72, 349.52, 360.63, 377.85, |y5=47.51, 100, 111.75, 93.54, 108.89, 115.13, 114.46, 112.68, 116.73, 101.88, 107.36, 104.35, 111.38, 113.75, 136.14, 135.56, 137.93, 127.33, 123.25, 120.97, 109.05, 99.62, 94.86, 96.2, 97.51, 98.57, 108.52, 105.31, 101.95, 96.54, 97.44, 99.24, 103.34, 114.96, 126.26, 130.03, 132.5, 126.85, 138.17, 143.91, |y6=57.27, 100, 105, 103.6, 104.76, 102.96, 103.48, 103.73, 103.39, 105.12, 114.76, 119.31, 127.21, 128.35, 130.26, 138.41, 152.66, 153.19, 154.46, 154.58, 154.14, 152.38, 149.97, 147.91, 146.81, 149.77, 148.68, 151.15, 153.5, 154.7, 151.76, 154.73, 153.12, 154.43, 159.3, 159.11, 162.86, 161.45, 164.13, 167.4, }} }} == 駅一覧 == * 下り方向(梅坪→赤池)に記述。 * 全駅[[愛知県]]内に所在。 * '''普通列車'''のみ運行。全列車各駅に停車。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|駅番号 !style="width:6em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|営業キロ !style="width:18em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|接続路線 !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #9eb03a;"|所在地 |- |colspan="6" style="text-align:center;"|{{名鉄駅番号|MY}} [[名鉄三河線|三河線]][[豊田市駅]]まで直通運転 |- !MY08 |[[梅坪駅]] |style="text-align: center;"|- |style="text-align: right;"|0.0 |[[名古屋鉄道]]:{{名鉄駅番号|MY}} 三河線 |rowspan="3"|[[豊田市]] |- !TT01 |[[上豊田駅]] |style="text-align: right;"|2.0 |style="text-align: right;"|2.0 |&nbsp; |- !TT02 |[[浄水駅]] |style="text-align: right;"|1.8 |style="text-align: right;"|3.8 |&nbsp; |- !TT03 |style="white-space: nowrap;"|[[三好ヶ丘駅]] |style="text-align: right;"|2.4 |style="text-align: right;"|6.2 |&nbsp; |style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[みよし市]] |- !TT04 |[[黒笹駅]] |style="text-align: right;"|1.9 |style="text-align: right;"|8.1 |&nbsp; |- !TT05 |[[米野木駅]] |style="text-align: right;"|2.3 |style="text-align: right;"|10.4 |&nbsp; |rowspan="3"|[[日進市]] |- !TT06 |[[日進駅 (愛知県)|日進駅]] |style="text-align: right;"|1.8 |style="text-align: right;"|12.2 |&nbsp; |- !TT07 |[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]] |style="text-align: right;"|3.0 |style="text-align: right;"|15.2 |[[名古屋市営地下鉄]]:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]] (T20) |- |colspan="6" style="text-align:center;"|[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|20px]] 名古屋市営地下鉄鶴舞線[[伏見駅 (愛知県)|伏見]]・[[上小田井駅|上小田井]]経由 {{名鉄駅番号|IY}} [[名鉄犬山線|犬山線]][[岩倉駅 (愛知県)|岩倉]]・[[犬山駅|犬山]]方面に直通運転 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=新修 豊田市史 資料編 現代II|publisher=愛知県豊田市|date=2019-03-31|ref={{SfnRef|豊田市|2019}}|editor=新修豊田市史編さん専門委員会|pages=2-76|chapter=第1章 産業と生活を支えるインフラ|volume=14}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == {{commonscat}} * [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line06/index.html 豊田線] - 名古屋鉄道 {{名古屋鉄道路線}} [[Category:中部地方の鉄道路線|とよたせん]] [[Category:名古屋鉄道の鉄道路線|とよた]] [[Category:愛知県の交通|めいてつとよたせん]] [[Category:三河鉄道|路]]
2003-09-06T23:44:00Z
2023-12-06T20:57:57Z
false
false
false
[ "Template:BS-table", "Template:BS-colspan", "Template:BS4", "Template:Sfn", "Template:Efn2", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:名古屋鉄道路線", "Template:Pp-vandalism", "Template:BS2", "Template:名鉄駅番号", "Template:Reflist", "Template:Cite press release", "Template:Cite journal", "Template:Commonscat", "Template:Infobox rail line", "Template:UKrail-header2", "Template:Image frame", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E9%89%84%E8%B1%8A%E7%94%B0%E7%B7%9A
15,467
月刊コロコロコミック
『月刊コロコロコミック』(げっかんコロコロコミック)は、小学館が発行している小学生向けの月刊漫画雑誌。1977年5月15日創刊。漫画の他に、様々なキャラクターや玩具、ゲームなどを扱っている。『月刊コロコロコミック』と『別冊コロコロコミック』と『コロコロイチバン!』は、「コロコロ3兄弟」と呼ばれる。 少年漫画雑誌の読者層が上がっている中で、小学生が読むための漫画雑誌として創刊。学年誌より一回り小さいサイズとすることにより余った紙を厚さにまわし、この手にしたときのコロコロとしたスタイルから『コロコロコミック』と命名された。創刊当初は3か月に一回の刊行。4号(1978年1月号。1977年12月15日発売)より隔月刊(奇数月)。12号(1979年4月号。1979年3月15日発売)より月刊。現在は毎月15日頃発売。通称「コロコロ」。別冊との区別のため誌内では「月コロ」と書かれている場合もある。 マスコットキャラは初代が「コロちゃん」という名称で、頭に毛が3本、白く丸い身体に目と口、手足が生えているというキャラクターだった。2代目は1981年4月号以降「コロドラゴン」となり現在に至っている。「コロドラゴン」の名は読者からの公募によって決まった。 創刊当初は赤塚不二夫や川崎のぼるといった有名漫画家の漫画作品や『ドラえもん』『忍者ハットリくん』を初めとする藤子不二雄作品を掲載していた。 ゲームメーカーや玩具メーカーとタイアップした漫画や記事を掲載し、ファミコン、ビックリマン、アーケードゲーム、ミニ四駆、バーコードバトラー、ポケモン、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、ベイブレード、デュエル・マスターズ、ゾイド、甲虫王者ムシキング、妖怪ウォッチ、ニンジャラなど各商品でブーム・社会現象を巻き起こした。 1980年代年代には藤子作品や『おぼっちゃまくん』(小林よしのり)、『つるピカハゲ丸』(のむらしんぼ)といったギャグアニメがテレビ朝日系列で放映され人気を博す。 1990年代以降は子供が見られる時間帯のテレビアニメ枠の減少もあり、アニメに積極的なテレビ東京系でのアニメ化が多い。例外は玩具とのタイアップ漫画からアニメ化された『Bビーダマン爆外伝』(1996年連載、名古屋テレビ製作のテレビ朝日系列で1998年から1999年)と、1989年と1990年に番外編が連載された日本テレビ系制作・放送の『魔神英雄伝ワタル』シリーズ、『機獣新世紀・ZOIDS』(1999年連載、毎日放送製作のTBS系列)である。 また、放送中のテレビアニメとタイアップしたコミカライズ版を連載することも多い。内容や設定が低年齢層には分かりづらかったり、月刊連載であることから毎週放送のアニメに遅れないため、内容の一部をカットすることも多い。 これら玩具やホビー、アニメとのタイアップ作品では、関連商品の売り上げや読者人気の低迷等で連載作品としては不発に終わり打ち切られるケースも少なくない。人気面ではなく編成の都合で突如打ち切りとなる場合も多い。 近年では新連載となる、もしくは番外編が掲載される場合は大増ページで別冊付録として掲載されるケースも多く見られる。 メインの読者層となる男子小学生をターゲット(受け狙い)にした下ネタや暴力的なギャグが非常に多く、PTAからは常にクレームが付いている。特に『おぼっちゃまくん』の連載時(1986年~1994年)には、男児の性器の露出や、能動的な排泄で笑いを取る下ネタに対して多大な批判を受けた(後の『うちゅう人田中太郎』(1998年~2004年)の連載初期や、『学級王ヤマザキ』(1995年~2001年)等にも同様の描写がある)。初期の頃から若い女性が乳房を露出するなどのヌード描写が少なからず見られたほか、1995年前後には猟奇的描写や差別用語、ホモ(ゲイ)をネタにした作品も存在したが、2003年頃には出版業界全体で自主規制が行われるようになり、ほぼ見られなくなった。2000年代以降でも『ペンギンの問題』など男性の全裸キャラクターが登場する作品自体は存在するが、男性器部分には●状の塗り潰しやモザイクのトーンで隠すなどの自主規制が行なわれるようになった。 下ネタの中でも男性器・排泄物を扱うことが多いのは、メインの読者層である小学4 - 6年生の男児の受けが圧倒的に良いためで、編集部ではこれを「うんこ・ちんちん原理主義」と呼んでいる。逆の理由で女の子が主人公の作品が掲載される例は少なく、6代目編集長の横田清は「女の子に興味を持ち出したら、その子たちは『コロコロ』を卒業していってもらっていい」「それは子供が成長して次の段階に入ったということ」と語り、いわゆるラブコメなどを掲載しない理由としている。そのため、少年誌や青年誌に見られるようなお色気描写や性的描写は非常に少ない。 2018年3月号掲載の『やりすぎ!!! イタズラくん』(吉野あすみ)の作中で、チンギス・カンの肖像画に品のない落書きをする表現があり、朝青龍が自身のTwitterアカウントで批判。これを知ったモンゴル大使館が、同年2月23日に外務省に抗議する事態にまで発展し、小学館は謝罪に至ることとなり、同年3月6日に同号の販売を中止し、書店へ返品するよう申し出ると発表した。作者の吉野は、Twitterアカウントを非公開にする対策を施したが、6日に公式サイト上で謝罪している。また、次号である2018年4月号でも謝罪文を掲載した。なお、前述の問題作が掲載された号は一部のフリマアプリで2000円で売りに出されたものも出ている。 なお、小学校高学年以上を対象とした派生誌である『ハイパーコロコロ/コミックGOTTA』や『コロコロG』では、男子側の第二次性徴に関わる下ネタやお色気、暴力・猟奇的描写を取り入れた作品を多く扱っていた。 一般的にコロコロのライバルとしては『コミックボンボン』(講談社)が挙げられるほか、『ボンボン』の衰退後は『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)を挙げる人間も多い。ただ『コロコロ』編集部内では、『ボンボン』よりもむしろ『週刊少年ジャンプ』(集英社)をライバルとして意識していたという。なお、創刊間もないころの『てれびくん』の広告では、同じ出版社から出されているコロコロを名指しでライバル視した表現がされていた。 児童雑誌であるため、女性タレントのグラビア等は基本的に存在しないが、お笑い芸人やスポーツ選手の特集記事や、バラエティー番組やテレビドラマのタイアップ等は稀に組まれることがある。特に1990年代後半から2000年代初頭のコロコロコミック全盛期の頃は、玩具やゲーム以外のタイアップにも積極的で、K-1のコミカライズやテレビ情報誌のようなテレビ番組の紹介記事の他に、レンタルビデオやCDの売上ランキング等も掲載されていたが、いずれも2002年頃から廃止された。 1990年代まではハリウッド映画のコミカライズにも積極的で、主に『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993年)や『スモール・ソルジャーズ』(1998年)等の映画がコミカライズされた。 また、2000年代前半頃にビールのポスター風の水着女性の広告が載ったことがある。 2023年10月号現在で連載中の作品。 単行本のレーベルは「てんとう虫コミックス(TC)」(てんとう虫コロコロコミックス)である。毎月28日発売。 連載作品の単行本は、藤子不二雄作品などの一部の例外を除いて連載終了後まもなく絶版にされる作品が多く、単行本の回転が非常に速いことも特徴である。また、メジャー誌としては珍しく未単行本化作品や単行本未収録エピソードも多い。その理由も表現問題等ではなく、1巻に収録するにはページ数が不足・過剰であるためであることが多い。 打ち切り作品も含め過去に連載・絶版されていた作品がインターネットコミュニティ上で紹介されることが多く、2000年代より復刊ドットコムなどで再版を呼びかける運動が起こり、復刊ドットコムやサブカルチャー系の出版社からアンソロジー形式で出版されることがある。また、2007年の『熱血!!コロコロ伝説』の企画により、1980年代を中心としたごく一部のタイトルは小学館から再版されている。 2009年より、過去のてんとう虫コミックスと未単行本化作品の底本データをコンテンツワークスのオンデマンド出版サイト「コミックパーク」に順次供給しており、同サイトを通じて正規ルートでオンデマンド製本された単行本を入手することが可能となった(「コロコロコミック アーカイブズ」として展開し、2013年10月時点で60タイトル余りを販売)(2022年9月にコミックパークは終了する為一部の作品はまた絶版に戻る)。また、一部タイトルは後年、小学館により電子書籍化され、電子書籍販売サイトに供給している。 てんとう虫コミックスに未収録となっていた『ドラえもん』の話をまとめて読むことができるように、と方法を模索した結果が『コロコロコミック』創刊の発端で、『ドラえもん』を中心として藤子不二雄作品を集めた新しい児童向けの雑誌として創刊準備は進められた。少年漫画雑誌の読者層が上がっている中で、「小学生が読む、本当の意味でのまんが雑誌を作りたい!」という創刊編集長である千葉和治の言葉に、藤子Fは感化され、自身の全ての作品の掲載権を預けるとまで言って協力している。 小学館の学年別学習雑誌へ掲載された『ドラえもん』の総集編の色合いが強い雑誌として創刊された。そのため、創刊号の表紙は「ドラえもん」という文字が誌名よりも大きな字で書かれている。創刊当初は毎号『ドラえもん』が100頁掲載されているのが売りになる点だった。なお、創刊号は200頁、第2号は150頁掲載され、1995年8月号まで続けていた。『ドラえもん』のテレビ化開始直前には、1979年3月15日号(第11号)を『ドラえもんテレビ化記念おいわい特別号』の副題で発行。テレビ放映開始後の1979年と1980年の2回、別冊で#コロコロコミックデラックス「テレビ版ドラえもん」も発行された。映画作品の原作である『大長編ドラえもん』を映画公開前に掲載するなど、『ドラえもん』を前面に打ち出し、そのほかにも多数の藤子不二雄作品が掲載されていた。それらの作品は巻末の目次でも掲載順ではなく別枠として記載されていた。藤子・F・不二雄の死後は藤子プロの手による『大長編ドラえもん』や派生的な漫画『ドラベース ドラえもん超野球外伝』が掲載され、『ドラえもん』の再収録が2002年4月号より行われている。 背表紙のデザインは4月号~翌年3月号までの1年単位で統一されている。創刊号からの通巻ナンバーが記載されており、ドラえもんが必ず描かれているのが特徴である。 初期の頃には藤子不二雄のアシスタント陣による『フジコフジオ日記』(藤子スタジオの日常を描く)や『藤子不二雄のまんが入門』(読者投稿の『ドラえもん』を題材とした4コマ・1コマ漫画を批評する)などの連載があった他、藤本と安孫子の出会いからデビュー当初までを描く『まんが道』(藤子不二雄A)を年少向けに作り直したものともいえる『藤子不二雄物語 ハムサラダくん』もあった。また、チーフアシスタントだった方倉陽二による『ドラえもん百科』が連載され、ここから『ドラえもん』の裏設定(いわゆる方倉設定)が生まれていった。 『小学館新人コミック大賞』の児童部門である『藤子不二雄賞』の結果発表と受賞作品の掲載誌としても使われていた。 1980年代〜1990年代前半にかけて年3回(新年、春休み、夏休み)刊行されていた増刊号。 本のサイズは本誌と同様だがページは少ない。内容は特集記事と本誌連載作品の番外編、読み切り作品、新人作家の新人賞受賞作品といった具合に別冊と似通った構成ではあるが、読者コーナーや作家の巻末コメントは存在しない。 ドラえもんテレビアニメ放映化に伴い、番組・製作内容を特集したもので、カラーページを多用。1979年に第一号、1980年に第二号を発行(定価380円) 1981年3月28日創刊。偶数月発売の隔月刊である。 1988年創刊。本誌2代目編集長である福島征英によって立ち上げられた女児向け漫画雑誌。月刊コロコロコミックの編集方針を少女向け雑誌へと応用する形で創刊され「元気な女の子たちの新まんが雑誌」というキャッチコピーのもと「女の子向けのコロコロコミック」を目指した。雑誌名の「ぴょんぴょん」も本誌の誌名である「コロコロ」と好対照となるよう、本誌を倣う形でオノマトペから名付けられたものである。 創刊時は隔月刊誌として始まり、翌1989年1月号より月刊化に至るが、1992年に入ってからは不振が続き同10月号にて休刊。編集部および作家陣は『ちゃお』に併合されて引き継がれた。この併合が2000年代以降の『ちゃお』のメディア戦略に大きな影響を与えた(『ちゃお』側に『コロコロコミック』系列誌側が用いているメディア戦略のノウハウが流入する事となった)とされる。 1999年創刊。『コロコロ』の高学年版という位置づけであった。売り上げ不振のため、2001年7月号をもって休刊。 『てれびくん』との共同編集により発売された。2001年9月号増刊と2002年1月号増刊が発売。 2003年7月30日に増刊号として発売された。2003年12月号(2003年11月15日発売)以降は、本誌の別冊付録として付属している。 2005年3月25日創刊。以前は奇数月発売の隔月刊であったが、2011年6月号以降は月刊となっている。 2007年5月25日に、『コロコロコミック』創刊30周年特別企画として創刊。1977 - 1996年に連載されていた漫画の一部を掲載した「大人向け」の雑誌。10号に分けて発売された。 2010年5月創刊。『ハイパーコロコロ』、『コミックGOTTA』と同様のコンセプトで発売された。しかし、2011年11月の発売を最後に長期休刊状態になっている。 2014年10月15日に『コロコロコミック』の増刊号として発売。かつて本誌を愛読していた中学生~3・40代の大人をメインターゲットにしている。2019年夏号より年3回(4ヶ月毎)の発売。2021年春号をもって紙媒体による刊行を終了し、連載漫画はコロコロオンライン内のWeb漫画へ移行した。更に、週刊コロコロコミック創刊後はそちらに移行している。 2019年1月25日創刊。「ミライからやってきたミラクルなコロコロ」をキャッチコピーにしており、未来の本誌で連載を狙う読み切りを中心に掲載し、また本誌連載作品の未来を舞台とした番外編も収録される。創刊から約1年後の2020年1月17日には第2号(Ver2.0)が発売されたものの、2021年以降は単独の雑誌としては刊行されなくなったが、別冊コロコロコミック2021年6月号よりミラコログランプリとしての企画を隔号ごと(2月、6月、10月号)に行われていくこととなった。 2022年3月15日創刊。コロコロコミック編集部、コロコロイチバン!編集部、コロコロアニキ編集部、てれびくん編集部の4編集部が運営する無料のWeb漫画サイトであり、公式サイト「コロコロオンライン」内に創設された。 子どもの読者のために新作を365日無休で配信する。それと同時に、元コロコロ読者の親世代のために過去の名作も毎日公開すると共に、コロコロアニキ連載漫画の新作掲載の場も兼ねる。創刊に伴い、コロコロオンラインの旧漫画コーナーは公開を終了している。 創刊当初より、本誌はホビーメーカーの宣伝的な要素を強く含んでいる。主な宣伝手法として、玩具を取り扱ったマンガの存在が挙げられる。ブームまでに至らず終了したものもあるが、多くは子供たちの間でヒットした。ブームのレベルとしては、『爆転シュート ベイブレード』の場合「どこに行っても手に入らないほどの品薄状態が約半年間続く」などといった現象が起きている。『ポケットモンスター』に関しては、いち早く最新情報を掲載したり、「ミュウ」を初めとする限定ポケモンの配布を行うなど、特に力を入れている。漫画に関しても、最古参の『ポケットモンスター』を筆頭に、これまで数多く連載されてきた。毎年夏の映画公開が近づくと、劇場版を漫画化した作品が2 - 3か月に渡って連載される。ただし『ドラえもん』とは異なり、「続きは劇場で確かめよう」などと表記され完結せずに終わり、コミックスでのみ結末が収録される。後に『ドラえもん』も同じように結末は掲載されなくなった。また、ホビー系商品を原作にした漫画の場合、『デュエル・マスターズ』のように作者の意向とは無関係に、新商品にあわせて漫画の展開を大きく変えることがある。なお、 『デュエルマスターズ』は、当初は『マジックザギャザリング』とのタイアップであった。このように途中から漫画内でタイアップしたホビーが変わるケースは珍しい。コミカライズはしていないものの、CEROレーティングC(15歳以上対象)のゲーム『モンスターハンター』『フォートナイト』の記事を掲載している。 『デジモン』のように、シリーズが進むにつれて突如としてタイアップや宣伝を打ち切るホビーも多い。 スクウェアエニックスのコンテンツでは、「ドラゴンクエストシリーズ」は関連ホビーの「バトエン」や新作などを比較的取り上げるが、「ファイナルファンタジーシリーズ」は関連作の『チョコボの不思議なダンジョン』を除くと、取り上げることはほとんどない。 当誌の誌面内では玩具をほとんどの場合「ホビー(本来は趣味・道楽の意)」と呼称することが一般的であり、「おもちゃ」や「玩具」呼ばわりされることに関しては基本的に否定的である。また、『コロコロ』に限らず、小学館の学年誌各誌や『てれびくん』などでもホビーの呼称を用いている。 初代はコロコロFC(最終担当:なかむらひとし)で、その後、天久聖一とさいくろん猿橋(現在のPNはサイクロン猿橋)の2人で「コロコロバカデミー」「コロコロ超(ウルト)ランキング」などが掲載された。現在このコーナー枠は「ハガ友マンション」になっている。2002年5月号までの長い間、このコーナーは雑誌の最後に掲載されていたが、次の6月号からは情報コーナーに内包(そのため、サイズがやや縮小)という形になった。 こうした雑誌全体の読者コーナーの他にも個別の漫画作品やホビーごとのコーナーが設けられる事もあり、会員証やバッジなどが雑誌の付録や投稿掲載の景品として用意される場合がある。 創刊号から続く読者コーナー。途中何度かのリニューアルを行い、松本しげのぶなど、後にホビー漫画でヒットを飛ばす作家がカット絵を担当したこともあった。好評だったが、2001年1月号をもって23年間の歴史に幕を閉じた。途中から点数制を導入し、掲載された作品には点数を付け、点が増えるとそれに応じた賞品がもらえた。ただし、「1〜5点まである」とされていながらほとんどのハガキは1点であり、「全作品中最もインパクトがあった。よって2点」、「3点進呈」とコメント付で掲載された作品が数本存在したのみである。 構成はかなり自由で、レイアウトも毎号のように変わっていた。決められたコーナー以外にも様々な投稿ハガキを取り上げており、いくつかのコーナーはその中から始まっている。 1992年以降はひかわ博一(〜1994年)、松本しげのぶ(1994〜2000年)、なかむらひとし(2000〜2001年)がカットを担当。 松本しげのぶ時代のキャラクター。 なかむらひとし時代のキャラクター。 etc... 『コロコロFC』終了後「がっかりしないでくれ」と、天久聖一とサイクロン猿橋(当時はさいくろん猿橋)が手がけたコーナー。 「小学校の問題」を読者が間違えて答え、それを応募するコーナー。 このコーナーから身近なものを間違えて答えたり、歴史上の人物にニックネームをつけるなどという方式が生まれた。採用者には、下じきとノートが送られた。一度だけ番外編(読者の投稿ネタとは別にオリジナルの問題と回答をもとにした漫画)が連載漫画と同じページに掲載されたことがある。 2011年1月22日には、本コーナーに掲載されたネタを収録した書籍『こどもの発想。 コロコロバカデミーベストセレクション』がアスペクトから発売された(著者:天久聖一、書籍コード:ISBN 9784757218482)。 読者の選ぶナンバーワンをはがきで決定するコーナー。世界一の小国ビリケツ王国が良い意味での世界一になるためランキングを行い、1位に輝いた粗品を国宝と定めて国を世界一で埋め尽くそうと宣言する。2004年4月号から9月号までの6か月しか掲載されず、次のコーナーの紹介はなかった。 作者は「バカデミー」と同じ天久聖一とさいくろん猿橋。 内容は「好きな食べ物・嫌いな食べ物」など読者の意見を集計したランキング、「うるさい人ベスト3」など読者が作ったベスト3、「ブサイクで金持ちとハンサムで貧乏 どっちがいいか」など正反対の意見でどちらが支持が多いかを募集する3つのテーマに分かれていた。なお、テーマにそぐわない意見も番外として掲載されたことがある。 前コーナー以上に下ネタが増え、投稿数も減少したことから半年で打ち切りとなる。 掲載第1回では「先生になって欲しい有名人ランキング」で1位を獲得したはなわが出演した。 「超ラン」打ち切り後に始まった勝見直人の復帰作。それまでの路線とは大きく一転した。地球の生死を決める戦いだったが、実はごっこだった。スタジオのセットは公園になっていた。2004年10月号から2006年9月号まで連載されていた(前号告知が行われなかったため、送られたネタが掲載されたのは2004年12月号から)。 「ハガキ伝説バカベンチャー」を継承して、2006年10月号から2010年3月号まで連載されていた。予告ではイラストが谷口あさみだったが連載時からは萬屋不死身之介になった。なお、コーナーは以下のとおりである。2007年12月号をもって終了し、2008年1月号から内容はそのままで「ようこそハガキ アニマルの森Z」にリニューアル。Zの略は雑炊、ゾウリムシなど毎回変わる。また、2009年12月号からは内容を一新して「ようこそハガキ アニマルの森2ndz」に再びリニューアルした。 2010年3月号の最終回で再びメンバーがごはんだいすき(後述)らに戻ったためタイトルが再び「ようこそハガキ アニマルの森Z」になった。 以下、メンバー変更後含み全て読者募集キャラクター。 2009年11月号でガムが村長に就任したのと同時にメンバーが入れ替わった。ごはん達曰く、「このままじゃ絶対このまんが終わるよ...」。 「アニマルの森」の後継として、2010年4月号から2012年7月号まで連載された。担当はコーヘー。 「ハガ友マンション」の後継として、2012年8月号から2015年3月号まで連載された。担当は武内いぶき。 「珍検ゼミナール」の後継として、2015年4月号から2017年4月号まで連載された。担当はきさいちさとし。 「ポストの奥まで送ってQ!」の後継として、2017年5月号から2019年3月号まで連載された。担当はラーメン若。 「ハガキ島」の後継として、2019年4月号から2020年4月号まで連載された。担当はベラボウ。 「ハガブラ」の後継として、2020年5月号から2021年4月号まで連載された。担当は引き続きベラボウ。 「探偵コロコロスクープ」の後継として、2021年5月号から2023年3月号まで連載された。担当はとし山じゅん。 「コロコロ荘」の後継として、2023年4月号から連載開始予定。 ブヒカン警部が推理する事件のトリックなどをクイズで答えていく読者コーナー。漫画は黒葉潤一。毎月、正解を当てた応募者の中から10名に商品が送られる。2007年11月号をもって終了した。 1992年夏 - 1998年9月号まで、上記の読者コーナーとは別に、本誌の真ん中辺りのページに掲載されていた読者コーナー。スチャダラパー(ここではスチャダラ星人と称する)が編集を務めた。イラスト・4コマ漫画はすもと亜夢が担当。1回ネタを掲載されるごとに「1万ダラ」を授与される。5万ダラ集めるとTシャツ、10万ダラ集めると希望のゲーム機が賞品としてプレゼントされた。なお、100万ダラでも「もっとすてきな賞品(?)」が賞品として当たることになっているようだったが、誰もその掲載回数に達することはなかった。最高掲載者の横尾和慶(50万ダラ獲得)は、ピョコタンとして漫画家になり、『コロコロコミック』で連載も持った。また、このコーナーを担当したスチャダラパーはコロコロを題材にした歌「コロコロなるまま」を発表した。 読者が考えたおやつを紹介するコーナー。 1994年から1995年まで巻末に掲載されていたコーナー。今賀俊による漫画で漫画執筆の基礎知識を紹介すると共に、読者から送られた『ドラえもん』を題材とするテーマ別の4コマ漫画を掲載していた。連載終了後はてんとう虫コミックススペシャルより単行本も発売された。『まんがアカデミー』の題で電子書籍化もなされている。 2017年5月号時点での本誌累計発行部数は4億冊を突破している。 1980年代までのコロコロ編集部は、小学館本社近くの貸しビルに漫画家たちが泊り込みで漫画を描ける「執筆室」を用意していた。初代編集長である千葉和治の発案により、資金繰りの苦しい若手漫画家たちの、編集部までの交通費を浮かす等の理由で設けられたもので、利用した漫画家たちはお互いの原稿を手伝うなどして横の繋がりを深めていた。執筆室の常連だった漫画家には、たかや健二、ながいのりあき、大林かおる、小林たつよしらがおり、当時はまだ新人でアシスタントとして出入りしていた面々には徳田ザウルス、飛鳥昭雄、岩田和久、安江浩司らがいる。漫画執筆のみならず、執筆の合間の食事、様々な話題の雑談、酒などの楽しみもあった。たかや健二によれば、執筆室は夢と情熱にあふれた若い漫画家たちの場であり、当時の仲間たちとの交流はその後も続いており、執筆室はいわばトキワ荘のような存在だったという。 2017年に創刊40周年を迎えるにあたり、創刊40周年記念プロジェクトを展開している。 『40周年だよ!!コロコロオールスター小学校』は、YouTubeコロコロチャンネルで配信の40周年記念Webアニメ。 演じた声優も併せて記載。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『月刊コロコロコミック』(げっかんコロコロコミック)は、小学館が発行している小学生向けの月刊漫画雑誌。1977年5月15日創刊。漫画の他に、様々なキャラクターや玩具、ゲームなどを扱っている。『月刊コロコロコミック』と『別冊コロコロコミック』と『コロコロイチバン!』は、「コロコロ3兄弟」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "少年漫画雑誌の読者層が上がっている中で、小学生が読むための漫画雑誌として創刊。学年誌より一回り小さいサイズとすることにより余った紙を厚さにまわし、この手にしたときのコロコロとしたスタイルから『コロコロコミック』と命名された。創刊当初は3か月に一回の刊行。4号(1978年1月号。1977年12月15日発売)より隔月刊(奇数月)。12号(1979年4月号。1979年3月15日発売)より月刊。現在は毎月15日頃発売。通称「コロコロ」。別冊との区別のため誌内では「月コロ」と書かれている場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "マスコットキャラは初代が「コロちゃん」という名称で、頭に毛が3本、白く丸い身体に目と口、手足が生えているというキャラクターだった。2代目は1981年4月号以降「コロドラゴン」となり現在に至っている。「コロドラゴン」の名は読者からの公募によって決まった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "創刊当初は赤塚不二夫や川崎のぼるといった有名漫画家の漫画作品や『ドラえもん』『忍者ハットリくん』を初めとする藤子不二雄作品を掲載していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ゲームメーカーや玩具メーカーとタイアップした漫画や記事を掲載し、ファミコン、ビックリマン、アーケードゲーム、ミニ四駆、バーコードバトラー、ポケモン、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、ベイブレード、デュエル・マスターズ、ゾイド、甲虫王者ムシキング、妖怪ウォッチ、ニンジャラなど各商品でブーム・社会現象を巻き起こした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代年代には藤子作品や『おぼっちゃまくん』(小林よしのり)、『つるピカハゲ丸』(のむらしんぼ)といったギャグアニメがテレビ朝日系列で放映され人気を博す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1990年代以降は子供が見られる時間帯のテレビアニメ枠の減少もあり、アニメに積極的なテレビ東京系でのアニメ化が多い。例外は玩具とのタイアップ漫画からアニメ化された『Bビーダマン爆外伝』(1996年連載、名古屋テレビ製作のテレビ朝日系列で1998年から1999年)と、1989年と1990年に番外編が連載された日本テレビ系制作・放送の『魔神英雄伝ワタル』シリーズ、『機獣新世紀・ZOIDS』(1999年連載、毎日放送製作のTBS系列)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、放送中のテレビアニメとタイアップしたコミカライズ版を連載することも多い。内容や設定が低年齢層には分かりづらかったり、月刊連載であることから毎週放送のアニメに遅れないため、内容の一部をカットすることも多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これら玩具やホビー、アニメとのタイアップ作品では、関連商品の売り上げや読者人気の低迷等で連載作品としては不発に終わり打ち切られるケースも少なくない。人気面ではなく編成の都合で突如打ち切りとなる場合も多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近年では新連載となる、もしくは番外編が掲載される場合は大増ページで別冊付録として掲載されるケースも多く見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メインの読者層となる男子小学生をターゲット(受け狙い)にした下ネタや暴力的なギャグが非常に多く、PTAからは常にクレームが付いている。特に『おぼっちゃまくん』の連載時(1986年~1994年)には、男児の性器の露出や、能動的な排泄で笑いを取る下ネタに対して多大な批判を受けた(後の『うちゅう人田中太郎』(1998年~2004年)の連載初期や、『学級王ヤマザキ』(1995年~2001年)等にも同様の描写がある)。初期の頃から若い女性が乳房を露出するなどのヌード描写が少なからず見られたほか、1995年前後には猟奇的描写や差別用語、ホモ(ゲイ)をネタにした作品も存在したが、2003年頃には出版業界全体で自主規制が行われるようになり、ほぼ見られなくなった。2000年代以降でも『ペンギンの問題』など男性の全裸キャラクターが登場する作品自体は存在するが、男性器部分には●状の塗り潰しやモザイクのトーンで隠すなどの自主規制が行なわれるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "下ネタの中でも男性器・排泄物を扱うことが多いのは、メインの読者層である小学4 - 6年生の男児の受けが圧倒的に良いためで、編集部ではこれを「うんこ・ちんちん原理主義」と呼んでいる。逆の理由で女の子が主人公の作品が掲載される例は少なく、6代目編集長の横田清は「女の子に興味を持ち出したら、その子たちは『コロコロ』を卒業していってもらっていい」「それは子供が成長して次の段階に入ったということ」と語り、いわゆるラブコメなどを掲載しない理由としている。そのため、少年誌や青年誌に見られるようなお色気描写や性的描写は非常に少ない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2018年3月号掲載の『やりすぎ!!! イタズラくん』(吉野あすみ)の作中で、チンギス・カンの肖像画に品のない落書きをする表現があり、朝青龍が自身のTwitterアカウントで批判。これを知ったモンゴル大使館が、同年2月23日に外務省に抗議する事態にまで発展し、小学館は謝罪に至ることとなり、同年3月6日に同号の販売を中止し、書店へ返品するよう申し出ると発表した。作者の吉野は、Twitterアカウントを非公開にする対策を施したが、6日に公式サイト上で謝罪している。また、次号である2018年4月号でも謝罪文を掲載した。なお、前述の問題作が掲載された号は一部のフリマアプリで2000円で売りに出されたものも出ている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、小学校高学年以上を対象とした派生誌である『ハイパーコロコロ/コミックGOTTA』や『コロコロG』では、男子側の第二次性徴に関わる下ネタやお色気、暴力・猟奇的描写を取り入れた作品を多く扱っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一般的にコロコロのライバルとしては『コミックボンボン』(講談社)が挙げられるほか、『ボンボン』の衰退後は『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)を挙げる人間も多い。ただ『コロコロ』編集部内では、『ボンボン』よりもむしろ『週刊少年ジャンプ』(集英社)をライバルとして意識していたという。なお、創刊間もないころの『てれびくん』の広告では、同じ出版社から出されているコロコロを名指しでライバル視した表現がされていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "児童雑誌であるため、女性タレントのグラビア等は基本的に存在しないが、お笑い芸人やスポーツ選手の特集記事や、バラエティー番組やテレビドラマのタイアップ等は稀に組まれることがある。特に1990年代後半から2000年代初頭のコロコロコミック全盛期の頃は、玩具やゲーム以外のタイアップにも積極的で、K-1のコミカライズやテレビ情報誌のようなテレビ番組の紹介記事の他に、レンタルビデオやCDの売上ランキング等も掲載されていたが、いずれも2002年頃から廃止された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1990年代まではハリウッド映画のコミカライズにも積極的で、主に『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993年)や『スモール・ソルジャーズ』(1998年)等の映画がコミカライズされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、2000年代前半頃にビールのポスター風の水着女性の広告が載ったことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2023年10月号現在で連載中の作品。", "title": "連載作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "単行本のレーベルは「てんとう虫コミックス(TC)」(てんとう虫コロコロコミックス)である。毎月28日発売。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "連載作品の単行本は、藤子不二雄作品などの一部の例外を除いて連載終了後まもなく絶版にされる作品が多く、単行本の回転が非常に速いことも特徴である。また、メジャー誌としては珍しく未単行本化作品や単行本未収録エピソードも多い。その理由も表現問題等ではなく、1巻に収録するにはページ数が不足・過剰であるためであることが多い。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "打ち切り作品も含め過去に連載・絶版されていた作品がインターネットコミュニティ上で紹介されることが多く、2000年代より復刊ドットコムなどで再版を呼びかける運動が起こり、復刊ドットコムやサブカルチャー系の出版社からアンソロジー形式で出版されることがある。また、2007年の『熱血!!コロコロ伝説』の企画により、1980年代を中心としたごく一部のタイトルは小学館から再版されている。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2009年より、過去のてんとう虫コミックスと未単行本化作品の底本データをコンテンツワークスのオンデマンド出版サイト「コミックパーク」に順次供給しており、同サイトを通じて正規ルートでオンデマンド製本された単行本を入手することが可能となった(「コロコロコミック アーカイブズ」として展開し、2013年10月時点で60タイトル余りを販売)(2022年9月にコミックパークは終了する為一部の作品はまた絶版に戻る)。また、一部タイトルは後年、小学館により電子書籍化され、電子書籍販売サイトに供給している。", "title": "単行本" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "てんとう虫コミックスに未収録となっていた『ドラえもん』の話をまとめて読むことができるように、と方法を模索した結果が『コロコロコミック』創刊の発端で、『ドラえもん』を中心として藤子不二雄作品を集めた新しい児童向けの雑誌として創刊準備は進められた。少年漫画雑誌の読者層が上がっている中で、「小学生が読む、本当の意味でのまんが雑誌を作りたい!」という創刊編集長である千葉和治の言葉に、藤子Fは感化され、自身の全ての作品の掲載権を預けるとまで言って協力している。", "title": "藤子不二雄との関わり" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "小学館の学年別学習雑誌へ掲載された『ドラえもん』の総集編の色合いが強い雑誌として創刊された。そのため、創刊号の表紙は「ドラえもん」という文字が誌名よりも大きな字で書かれている。創刊当初は毎号『ドラえもん』が100頁掲載されているのが売りになる点だった。なお、創刊号は200頁、第2号は150頁掲載され、1995年8月号まで続けていた。『ドラえもん』のテレビ化開始直前には、1979年3月15日号(第11号)を『ドラえもんテレビ化記念おいわい特別号』の副題で発行。テレビ放映開始後の1979年と1980年の2回、別冊で#コロコロコミックデラックス「テレビ版ドラえもん」も発行された。映画作品の原作である『大長編ドラえもん』を映画公開前に掲載するなど、『ドラえもん』を前面に打ち出し、そのほかにも多数の藤子不二雄作品が掲載されていた。それらの作品は巻末の目次でも掲載順ではなく別枠として記載されていた。藤子・F・不二雄の死後は藤子プロの手による『大長編ドラえもん』や派生的な漫画『ドラベース ドラえもん超野球外伝』が掲載され、『ドラえもん』の再収録が2002年4月号より行われている。", "title": "藤子不二雄との関わり" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "背表紙のデザインは4月号~翌年3月号までの1年単位で統一されている。創刊号からの通巻ナンバーが記載されており、ドラえもんが必ず描かれているのが特徴である。", "title": "藤子不二雄との関わり" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "初期の頃には藤子不二雄のアシスタント陣による『フジコフジオ日記』(藤子スタジオの日常を描く)や『藤子不二雄のまんが入門』(読者投稿の『ドラえもん』を題材とした4コマ・1コマ漫画を批評する)などの連載があった他、藤本と安孫子の出会いからデビュー当初までを描く『まんが道』(藤子不二雄A)を年少向けに作り直したものともいえる『藤子不二雄物語 ハムサラダくん』もあった。また、チーフアシスタントだった方倉陽二による『ドラえもん百科』が連載され、ここから『ドラえもん』の裏設定(いわゆる方倉設定)が生まれていった。", "title": "藤子不二雄との関わり" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『小学館新人コミック大賞』の児童部門である『藤子不二雄賞』の結果発表と受賞作品の掲載誌としても使われていた。", "title": "藤子不二雄との関わり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1980年代〜1990年代前半にかけて年3回(新年、春休み、夏休み)刊行されていた増刊号。 本のサイズは本誌と同様だがページは少ない。内容は特集記事と本誌連載作品の番外編、読み切り作品、新人作家の新人賞受賞作品といった具合に別冊と似通った構成ではあるが、読者コーナーや作家の巻末コメントは存在しない。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ドラえもんテレビアニメ放映化に伴い、番組・製作内容を特集したもので、カラーページを多用。1979年に第一号、1980年に第二号を発行(定価380円)", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1981年3月28日創刊。偶数月発売の隔月刊である。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1988年創刊。本誌2代目編集長である福島征英によって立ち上げられた女児向け漫画雑誌。月刊コロコロコミックの編集方針を少女向け雑誌へと応用する形で創刊され「元気な女の子たちの新まんが雑誌」というキャッチコピーのもと「女の子向けのコロコロコミック」を目指した。雑誌名の「ぴょんぴょん」も本誌の誌名である「コロコロ」と好対照となるよう、本誌を倣う形でオノマトペから名付けられたものである。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "創刊時は隔月刊誌として始まり、翌1989年1月号より月刊化に至るが、1992年に入ってからは不振が続き同10月号にて休刊。編集部および作家陣は『ちゃお』に併合されて引き継がれた。この併合が2000年代以降の『ちゃお』のメディア戦略に大きな影響を与えた(『ちゃお』側に『コロコロコミック』系列誌側が用いているメディア戦略のノウハウが流入する事となった)とされる。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1999年創刊。『コロコロ』の高学年版という位置づけであった。売り上げ不振のため、2001年7月号をもって休刊。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『てれびくん』との共同編集により発売された。2001年9月号増刊と2002年1月号増刊が発売。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年7月30日に増刊号として発売された。2003年12月号(2003年11月15日発売)以降は、本誌の別冊付録として付属している。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2005年3月25日創刊。以前は奇数月発売の隔月刊であったが、2011年6月号以降は月刊となっている。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2007年5月25日に、『コロコロコミック』創刊30周年特別企画として創刊。1977 - 1996年に連載されていた漫画の一部を掲載した「大人向け」の雑誌。10号に分けて発売された。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2010年5月創刊。『ハイパーコロコロ』、『コミックGOTTA』と同様のコンセプトで発売された。しかし、2011年11月の発売を最後に長期休刊状態になっている。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2014年10月15日に『コロコロコミック』の増刊号として発売。かつて本誌を愛読していた中学生~3・40代の大人をメインターゲットにしている。2019年夏号より年3回(4ヶ月毎)の発売。2021年春号をもって紙媒体による刊行を終了し、連載漫画はコロコロオンライン内のWeb漫画へ移行した。更に、週刊コロコロコミック創刊後はそちらに移行している。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2019年1月25日創刊。「ミライからやってきたミラクルなコロコロ」をキャッチコピーにしており、未来の本誌で連載を狙う読み切りを中心に掲載し、また本誌連載作品の未来を舞台とした番外編も収録される。創刊から約1年後の2020年1月17日には第2号(Ver2.0)が発売されたものの、2021年以降は単独の雑誌としては刊行されなくなったが、別冊コロコロコミック2021年6月号よりミラコログランプリとしての企画を隔号ごと(2月、6月、10月号)に行われていくこととなった。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2022年3月15日創刊。コロコロコミック編集部、コロコロイチバン!編集部、コロコロアニキ編集部、てれびくん編集部の4編集部が運営する無料のWeb漫画サイトであり、公式サイト「コロコロオンライン」内に創設された。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "子どもの読者のために新作を365日無休で配信する。それと同時に、元コロコロ読者の親世代のために過去の名作も毎日公開すると共に、コロコロアニキ連載漫画の新作掲載の場も兼ねる。創刊に伴い、コロコロオンラインの旧漫画コーナーは公開を終了している。", "title": "系列誌" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "創刊当初より、本誌はホビーメーカーの宣伝的な要素を強く含んでいる。主な宣伝手法として、玩具を取り扱ったマンガの存在が挙げられる。ブームまでに至らず終了したものもあるが、多くは子供たちの間でヒットした。ブームのレベルとしては、『爆転シュート ベイブレード』の場合「どこに行っても手に入らないほどの品薄状態が約半年間続く」などといった現象が起きている。『ポケットモンスター』に関しては、いち早く最新情報を掲載したり、「ミュウ」を初めとする限定ポケモンの配布を行うなど、特に力を入れている。漫画に関しても、最古参の『ポケットモンスター』を筆頭に、これまで数多く連載されてきた。毎年夏の映画公開が近づくと、劇場版を漫画化した作品が2 - 3か月に渡って連載される。ただし『ドラえもん』とは異なり、「続きは劇場で確かめよう」などと表記され完結せずに終わり、コミックスでのみ結末が収録される。後に『ドラえもん』も同じように結末は掲載されなくなった。また、ホビー系商品を原作にした漫画の場合、『デュエル・マスターズ』のように作者の意向とは無関係に、新商品にあわせて漫画の展開を大きく変えることがある。なお、 『デュエルマスターズ』は、当初は『マジックザギャザリング』とのタイアップであった。このように途中から漫画内でタイアップしたホビーが変わるケースは珍しい。コミカライズはしていないものの、CEROレーティングC(15歳以上対象)のゲーム『モンスターハンター』『フォートナイト』の記事を掲載している。", "title": "ホビーメーカーとの関わり" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『デジモン』のように、シリーズが進むにつれて突如としてタイアップや宣伝を打ち切るホビーも多い。", "title": "ホビーメーカーとの関わり" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "スクウェアエニックスのコンテンツでは、「ドラゴンクエストシリーズ」は関連ホビーの「バトエン」や新作などを比較的取り上げるが、「ファイナルファンタジーシリーズ」は関連作の『チョコボの不思議なダンジョン』を除くと、取り上げることはほとんどない。", "title": "ホビーメーカーとの関わり" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "当誌の誌面内では玩具をほとんどの場合「ホビー(本来は趣味・道楽の意)」と呼称することが一般的であり、「おもちゃ」や「玩具」呼ばわりされることに関しては基本的に否定的である。また、『コロコロ』に限らず、小学館の学年誌各誌や『てれびくん』などでもホビーの呼称を用いている。", "title": "ホビーメーカーとの関わり" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "初代はコロコロFC(最終担当:なかむらひとし)で、その後、天久聖一とさいくろん猿橋(現在のPNはサイクロン猿橋)の2人で「コロコロバカデミー」「コロコロ超(ウルト)ランキング」などが掲載された。現在このコーナー枠は「ハガ友マンション」になっている。2002年5月号までの長い間、このコーナーは雑誌の最後に掲載されていたが、次の6月号からは情報コーナーに内包(そのため、サイズがやや縮小)という形になった。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "こうした雑誌全体の読者コーナーの他にも個別の漫画作品やホビーごとのコーナーが設けられる事もあり、会員証やバッジなどが雑誌の付録や投稿掲載の景品として用意される場合がある。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "創刊号から続く読者コーナー。途中何度かのリニューアルを行い、松本しげのぶなど、後にホビー漫画でヒットを飛ばす作家がカット絵を担当したこともあった。好評だったが、2001年1月号をもって23年間の歴史に幕を閉じた。途中から点数制を導入し、掲載された作品には点数を付け、点が増えるとそれに応じた賞品がもらえた。ただし、「1〜5点まである」とされていながらほとんどのハガキは1点であり、「全作品中最もインパクトがあった。よって2点」、「3点進呈」とコメント付で掲載された作品が数本存在したのみである。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "構成はかなり自由で、レイアウトも毎号のように変わっていた。決められたコーナー以外にも様々な投稿ハガキを取り上げており、いくつかのコーナーはその中から始まっている。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1992年以降はひかわ博一(〜1994年)、松本しげのぶ(1994〜2000年)、なかむらひとし(2000〜2001年)がカットを担当。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "松本しげのぶ時代のキャラクター。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なかむらひとし時代のキャラクター。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "etc...", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "『コロコロFC』終了後「がっかりしないでくれ」と、天久聖一とサイクロン猿橋(当時はさいくろん猿橋)が手がけたコーナー。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「小学校の問題」を読者が間違えて答え、それを応募するコーナー。 このコーナーから身近なものを間違えて答えたり、歴史上の人物にニックネームをつけるなどという方式が生まれた。採用者には、下じきとノートが送られた。一度だけ番外編(読者の投稿ネタとは別にオリジナルの問題と回答をもとにした漫画)が連載漫画と同じページに掲載されたことがある。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2011年1月22日には、本コーナーに掲載されたネタを収録した書籍『こどもの発想。 コロコロバカデミーベストセレクション』がアスペクトから発売された(著者:天久聖一、書籍コード:ISBN 9784757218482)。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "読者の選ぶナンバーワンをはがきで決定するコーナー。世界一の小国ビリケツ王国が良い意味での世界一になるためランキングを行い、1位に輝いた粗品を国宝と定めて国を世界一で埋め尽くそうと宣言する。2004年4月号から9月号までの6か月しか掲載されず、次のコーナーの紹介はなかった。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "作者は「バカデミー」と同じ天久聖一とさいくろん猿橋。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "内容は「好きな食べ物・嫌いな食べ物」など読者の意見を集計したランキング、「うるさい人ベスト3」など読者が作ったベスト3、「ブサイクで金持ちとハンサムで貧乏 どっちがいいか」など正反対の意見でどちらが支持が多いかを募集する3つのテーマに分かれていた。なお、テーマにそぐわない意見も番外として掲載されたことがある。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "前コーナー以上に下ネタが増え、投稿数も減少したことから半年で打ち切りとなる。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "掲載第1回では「先生になって欲しい有名人ランキング」で1位を獲得したはなわが出演した。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「超ラン」打ち切り後に始まった勝見直人の復帰作。それまでの路線とは大きく一転した。地球の生死を決める戦いだったが、実はごっこだった。スタジオのセットは公園になっていた。2004年10月号から2006年9月号まで連載されていた(前号告知が行われなかったため、送られたネタが掲載されたのは2004年12月号から)。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「ハガキ伝説バカベンチャー」を継承して、2006年10月号から2010年3月号まで連載されていた。予告ではイラストが谷口あさみだったが連載時からは萬屋不死身之介になった。なお、コーナーは以下のとおりである。2007年12月号をもって終了し、2008年1月号から内容はそのままで「ようこそハガキ アニマルの森Z」にリニューアル。Zの略は雑炊、ゾウリムシなど毎回変わる。また、2009年12月号からは内容を一新して「ようこそハガキ アニマルの森2ndz」に再びリニューアルした。 2010年3月号の最終回で再びメンバーがごはんだいすき(後述)らに戻ったためタイトルが再び「ようこそハガキ アニマルの森Z」になった。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "以下、メンバー変更後含み全て読者募集キャラクター。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2009年11月号でガムが村長に就任したのと同時にメンバーが入れ替わった。ごはん達曰く、「このままじゃ絶対このまんが終わるよ...」。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "「アニマルの森」の後継として、2010年4月号から2012年7月号まで連載された。担当はコーヘー。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "「ハガ友マンション」の後継として、2012年8月号から2015年3月号まで連載された。担当は武内いぶき。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「珍検ゼミナール」の後継として、2015年4月号から2017年4月号まで連載された。担当はきさいちさとし。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "「ポストの奥まで送ってQ!」の後継として、2017年5月号から2019年3月号まで連載された。担当はラーメン若。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "「ハガキ島」の後継として、2019年4月号から2020年4月号まで連載された。担当はベラボウ。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "「ハガブラ」の後継として、2020年5月号から2021年4月号まで連載された。担当は引き続きベラボウ。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "「探偵コロコロスクープ」の後継として、2021年5月号から2023年3月号まで連載された。担当はとし山じゅん。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "「コロコロ荘」の後継として、2023年4月号から連載開始予定。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ブヒカン警部が推理する事件のトリックなどをクイズで答えていく読者コーナー。漫画は黒葉潤一。毎月、正解を当てた応募者の中から10名に商品が送られる。2007年11月号をもって終了した。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1992年夏 - 1998年9月号まで、上記の読者コーナーとは別に、本誌の真ん中辺りのページに掲載されていた読者コーナー。スチャダラパー(ここではスチャダラ星人と称する)が編集を務めた。イラスト・4コマ漫画はすもと亜夢が担当。1回ネタを掲載されるごとに「1万ダラ」を授与される。5万ダラ集めるとTシャツ、10万ダラ集めると希望のゲーム機が賞品としてプレゼントされた。なお、100万ダラでも「もっとすてきな賞品(?)」が賞品として当たることになっているようだったが、誰もその掲載回数に達することはなかった。最高掲載者の横尾和慶(50万ダラ獲得)は、ピョコタンとして漫画家になり、『コロコロコミック』で連載も持った。また、このコーナーを担当したスチャダラパーはコロコロを題材にした歌「コロコロなるまま」を発表した。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "読者が考えたおやつを紹介するコーナー。", "title": "読者コーナー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1994年から1995年まで巻末に掲載されていたコーナー。今賀俊による漫画で漫画執筆の基礎知識を紹介すると共に、読者から送られた『ドラえもん』を題材とするテーマ別の4コマ漫画を掲載していた。連載終了後はてんとう虫コミックススペシャルより単行本も発売された。『まんがアカデミー』の題で電子書籍化もなされている。", "title": "新人漫画家育成コーナー" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2017年5月号時点での本誌累計発行部数は4億冊を突破している。", "title": "発行部数" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1980年代までのコロコロ編集部は、小学館本社近くの貸しビルに漫画家たちが泊り込みで漫画を描ける「執筆室」を用意していた。初代編集長である千葉和治の発案により、資金繰りの苦しい若手漫画家たちの、編集部までの交通費を浮かす等の理由で設けられたもので、利用した漫画家たちはお互いの原稿を手伝うなどして横の繋がりを深めていた。執筆室の常連だった漫画家には、たかや健二、ながいのりあき、大林かおる、小林たつよしらがおり、当時はまだ新人でアシスタントとして出入りしていた面々には徳田ザウルス、飛鳥昭雄、岩田和久、安江浩司らがいる。漫画執筆のみならず、執筆の合間の食事、様々な話題の雑談、酒などの楽しみもあった。たかや健二によれば、執筆室は夢と情熱にあふれた若い漫画家たちの場であり、当時の仲間たちとの交流はその後も続いており、執筆室はいわばトキワ荘のような存在だったという。", "title": "執筆室" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2017年に創刊40周年を迎えるにあたり、創刊40周年記念プロジェクトを展開している。", "title": "40周年記念プロジェクト" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "『40周年だよ!!コロコロオールスター小学校』は、YouTubeコロコロチャンネルで配信の40周年記念Webアニメ。", "title": "40周年記念プロジェクト" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "演じた声優も併せて記載。", "title": "40周年記念プロジェクト" } ]
『月刊コロコロコミック』(げっかんコロコロコミック)は、小学館が発行している小学生向けの月刊漫画雑誌。1977年5月15日創刊。漫画の他に、様々なキャラクターや玩具、ゲームなどを扱っている。『月刊コロコロコミック』と『別冊コロコロコミック』と『コロコロイチバン!』は、「コロコロ3兄弟」と呼ばれる。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{複数の問題|出典の明記=2016年10月|雑多な内容の箇条書き=2014年6月}} {{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 = CoroCoro Comic.png | 画像サイズ = 250px | 誌名 = 月刊コロコロコミック | 英文誌名 = | 誌名略称 = 月コロ、コロコロ | ジャンル = 小学生向けコミック誌 | 読者対象 = 小学生 | 刊行頻度 = [[逐次刊行物#刊行頻度|季刊 → 隔月刊 → 月刊]](毎月15日頃発売) | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 出版社 = [[小学館]] | 編集部名 = コロコロコミック編集部 | 発行人 = | 編集人1役職 = | 編集人1氏名 = | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = | 刊行期間 = [[1977年]][[4月15日]](1977年5月15日号) - | レーベル = [[てんとう虫コミックス]]→てんとう虫コロコロドラゴンコミックス→コロコロコミックス | 発行部数 = 33万3,333<!--<ref>{{Cite web|url=https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index|title=印刷証明付部数|publisher=日本雑誌協会|accessdate=2023-08-11}}</ref>--> | 発行部数調査年月 = 2023年4月 - 6月 | 発行部数調査機関 = [[日本雑誌協会]] | ウェブサイト = [https://corocoro.jp/ コロコロオンライン] | 特記事項 = | }} {{Infobox YouTube personality | name = コロコロチャンネル | channel_display_name = コロコロチャンネル【公式】 | channel_url = UCKtxF3ufOkuJohTeKyNbYrQ | channel_display_name2= コロコロチャンネルNEXT | channel_url2 = UC3sTnr-iJhQKmw9XSW23b8g | years_active = {{ublist|公式 [[2015年]][[11月2日]] -|NEXT [[2019年]][[12月10日]] -[[2021年]][[3月14日]]}} | genre = | subscribers = {{ublist|公式 63.7万人<ref name="yutura1">{{Cite web|和書|url=https://yutura.net/channel/2335/|title=コロコロチャンネル【公式】|website=ユーチュラ|publisher=オモシロ|accessdate=2023-05-15}}</ref>|NEXT 1.90万人<ref name="yutura2">{{Cite web|和書|url=https://yutura.net/channel/41296/|title=コロコロチャンネルNEXT|website=ユーチュラ|publisher=オモシロ|accessdate=2023-05-15}}</ref>}} | views = {{ublist|公式 5.6億回{{R|yutura1}}|NEXT 538万回{{R|yutura2}}}} | silver_button = | silver_year = | gold_button = | gold_year = | diamond_button = | diamond_year = | ruby_button = | ruby_year = | stats_update = {{dts|2023-05-15}} }} [[ファイル:Magazine_stand_in_subway_gallery.jpg|thumb|right|『月刊コロコロコミック』が並ぶ売場(上から2段目(下から4段目)の中央。『[[コミックボンボン]]』と隣り合わせになっている。2004年撮影)]] 『'''月刊コロコロコミック'''』(げっかんコロコロコミック)は、[[小学館]]が発行している小学生向けの月刊[[日本の漫画雑誌|漫画雑誌]]。[[1977年]][[5月15日]]創刊。漫画の他に、様々な[[キャラクター]]や[[玩具]]、[[ゲーム]]などを扱っている。『月刊コロコロコミック』と『[[別冊コロコロコミック]]』と『[[コロコロイチバン!]]』は、「コロコロ3兄弟」と呼ばれる。 == 概要 == === 創刊時期・マスコットキャラ === [[少年漫画]]雑誌の読者層が上がっている中で、小学生が読むための漫画雑誌として創刊<ref name="miracle">[[千葉和治]]「藤本先生の魂の雑誌『コロコロコミック』」『[[ミラ・クル・1]] / [[宙ポコ]] / [[宙犬トッピ]]』[[小学館]]〈[[藤子・F・不二雄大全集]]〉FZ-090、2010年11月30日初版第1刷発行、320-324頁、ISBN 978-4-09-143445-6</ref>。[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]より一回り小さいサイズとすることにより余った紙を厚さにまわし、この手にしたときのコロコロとしたスタイルから『コロコロコミック』と命名された<ref name="miracle" />。創刊当初は3か月に一回の刊行。4号([[1978年]]1月号。1977年[[12月15日]]発売)より隔月刊(奇数月)。12号([[1979年]]4月号。1979年[[3月15日]]発売)より[[月刊]]。現在は毎月15日頃発売。通称「'''コロコロ'''」。別冊との区別のため誌内では「'''月コロ'''」と書かれている場合もある。 [[マスコットキャラクター|マスコットキャラ]]は初代が「'''コロちゃん'''」という名称で、頭に毛が3本、白く丸い身体に目と口、手足が生えているというキャラクターだった。2代目は[[1981年]]4月号以降「'''コロドラゴン'''」となり現在に至っている。「コロドラゴン」の名は読者からの公募によって決まった。 === 連載漫画の特徴 === {{独自研究|section=1|date=2009年1月}} 創刊当初は[[赤塚不二夫]]や[[川崎のぼる]]といった有名[[漫画家]]の[[漫画]]作品や『[[ドラえもん]]』『[[忍者ハットリくん]]』を初めとする[[藤子不二雄]]作品を掲載していた。 [[ゲーム会社一覧|ゲームメーカー]]や[[玩具]]メーカーと[[タイアップ]]した漫画や記事を掲載し、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]、[[ビックリマン]]、[[アーケードゲーム]]、[[ミニ四駆]]、[[バーコードバトラー]]、[[ポケットモンスター|ポケモン]]、[[ビーダマン]]、[[ハイパーヨーヨー]]、[[ベイブレード]]、[[デュエル・マスターズ]]、[[ゾイド]]、[[甲虫王者ムシキング]]、[[妖怪ウォッチ]]、[[ニンジャラ]]など各商品で[[流行|ブーム]]・[[社会現象]]を巻き起こした。 [[1980年代]]年代には藤子作品や『[[おぼっちゃまくん]]』([[小林よしのり]])、『[[つるピカハゲ丸]]』([[のむらしんぼ]])といった[[ギャグアニメ]]が[[テレビ朝日]]系列で放映され人気を博す。 [[1990年代]]以降は子供が見られる時間帯の[[テレビアニメ]]枠の減少もあり、アニメに積極的な[[テレビ東京]]系でのアニメ化が多い。例外は玩具とのタイアップ漫画からアニメ化された『[[Bビーダマン爆外伝]]』([[1996年]]連載、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]製作の[[テレビ朝日]]系列で[[1998年]]から[[1999年]])と、[[1989年]]と[[1990年]]に番外編が連載された[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系制作・放送の『[[魔神英雄伝ワタル]]』シリーズ、『[[機獣新世紀・ZOIDS]]』(1999年連載、[[毎日放送]]製作の[[TBSテレビ|TBS系列]])である。 また、放送中のテレビアニメとタイアップした[[コミカライズ]]版を連載することも多い。内容や設定が低年齢層には分かりづらかったり、月刊連載であることから毎週放送のアニメに遅れないため、内容の一部をカットすることも多い。 これら玩具やホビー、アニメとのタイアップ作品では、関連商品の売り上げや読者人気の低迷等で連載作品としては不発に終わり打ち切られるケースも少なくない。人気面ではなく編成の都合で突如打ち切りとなる場合も多い。 近年では新連載となる、もしくは番外編が掲載される場合は大増ページで別冊付録として掲載されるケースも多く見られる。 === 下ネタ === メインの読者層となる男子[[小学生]]をターゲット(受け狙い)にした[[下ネタ]]や[[暴力]]的な[[ギャグ]]が非常に多く、[[PTA]]からは常にクレームが付いている。特に『[[おぼっちゃまくん]]』の連載時(1986年~1994年)には、男児の[[陰茎|性器]]の露出や、能動的な[[排泄]]で笑いを取る[[下ネタ]]に対して多大な批判を受けた(後の『[[うちゅう人田中太郎]]』(1998年~2004年)の連載初期や、『[[学級王ヤマザキ]]』(1995年~2001年)等にも同様の描写がある)。初期の頃から若い女性が[[乳房]]を露出するなどの[[ヌード]]描写が少なからず見られたほか、[[1995年]]前後には猟奇的描写や[[差別用語]]、[[同性愛|ホモ(ゲイ)]]をネタにした<!--猟奇的「サイファー」、「正伝ストリートファイター2」、「秘密警察ホームズ(連載初期)」など。ゲイネタ「やったね!ラモズくん」や読者コーナーでもたまに掲載された。差別用語「えんがちょ」など-->作品も存在したが、[[2003年]]頃には出版業界全体で[[自主規制]]が行われるようになり、ほぼ見られなくなった。[[2000年代]]以降でも『[[ペンギンの問題]]』など男性の[[全裸]]キャラクターが登場する作品自体は存在するが、男性器部分には●状の塗り潰しや[[モザイク]]のトーンで隠すなどの[[自主規制]]が行なわれるようになった。 下ネタの中でも[[男性器]]・[[排泄物]]を扱うことが多いのは、メインの読者層である小学4 - 6年生の男児の受けが圧倒的に良いためで、編集部ではこれを「[[トイレのユーモア|うんこ・ちんちん]][[原理主義]]」と呼んでいる<ref>[[日経MJ]] 2017年5月10日付 1面</ref>。逆の理由で女の子が[[主人公]]の作品が掲載される例は少なく、6代目[[編集長]]の横田清は「女の子に興味を持ち出したら、その子たちは『コロコロ』を卒業していってもらっていい」「それは子供が成長して次の段階に入ったということ」と語り、いわゆる[[ラブコメディ|ラブコメ]]などを掲載しない理由としている<ref>[[渋谷直角]]編『定本 コロコロ爆伝!! 1977 - 2009』[[飛鳥新社]]、2009年、70頁。</ref>。そのため、[[少年誌]]や[[青年誌]]に見られるような[[お色気]]描写や性的描写は非常に少ない。 [[2018年]]3月号掲載の『やりすぎ!!! イタズラくん』(吉野あすみ)の作中で、[[チンギス・カン]]の[[肖像画]]に品のない落書きをする表現<ref group="注">「[[モンゴル国]]の皇帝チ( )・( )ン」の穴埋め問題がついた肖像画に男性器を書き足し、この問題を'''[[おちんちん|「チ(ン)・(チ)ン」]]'''と埋める内容。</ref>があり、[[朝青龍明徳|朝青龍]]が自身の[[Twitter]]アカウントで批判<ref>{{Cite news|title=コロコロ漫画にモンゴル大使館が抗議文 チンギス・ハンの顔に落書き...「非礼な行為」「非常に残念」|newspaper=J-CASTニュース|date=2018年2月23日15時31分|url=https://www.j-cast.com/2018/02/23321978.html?p=all|accessdate=2018-02-26}}</ref>。これを知った[[駐日モンゴル国大使館|モンゴル大使館]]が、同年[[2月23日]]に[[外務省]]に抗議する事態にまで発展し、小学館は謝罪に至ることとなり<ref>{{Cite news|title=「漫画でチンギス・ハンを侮辱」モンゴル政府が抗議 小学館が謝罪 元朝青龍も怒り|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018年2月23日21時21分|url=https://www.sankei.com/article/20180223-QG45OREURRLGJA24BZJAJJRANE/|accessdate=2018-02-26}}</ref>、同年[[3月6日]]に同号の販売を中止し、書店へ返品するよう申し出ると発表した<ref>{{Cite news|title=『コロコロコミック』3月号が販売中止 小学館「書店での混乱を避けるため」|newspaper=[[ねとらぼ]]|date=2018年3月6日12時53分|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1803/06/news081.html|accessdate=2018-03-06}}</ref>。作者の吉野は、Twitterアカウントを非公開にする対策を施したが、6日に公式サイト上で謝罪している<ref>{{Cite news|title=チンギス・ハン問題、作者が謝罪 「コロコロ」サイトに載った文面|newspaper=J-CASTニュース|date=2018年3月6日13時14分|url=https://www.j-cast.com/2018/03/06322882.html}}</ref>。また、次号である2018年4月号でも謝罪文を掲載した。なお、前述の問題作が掲載された号は一部のフリマアプリで2000円で売りに出されたものも出ている<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2018/03/06/0011043807.shtml?pu=20180307 販売中止のコロコロコミック、早くも値段高騰 フリマアプリで2000円] デイリースポーツ公式ホームページ</ref>。 なお、小学校高学年以上を対象とした派生誌である『[[コミックGOTTA|ハイパーコロコロ/コミックGOTTA]]』や『[[コロコロG]]』では、男子側の[[第二次性徴]]に関わる下ネタやお色気、暴力・猟奇的描写を取り入れた作品を多く扱っていた。 === ライバル誌 === 一般的にコロコロのライバルとしては『[[コミックボンボン]]』([[講談社]])が挙げられるほか<ref>[https://mantan-web.jp/article/20160810dog00m200026000c.html SDガンダム:コミックボンボンの人気マンガシリーズが電子書籍で復活 26日配信開始] - まんたんウェブ・2016年8月10日</ref>、『ボンボン』の衰退後は『[[月刊少年ガンガン]]』([[スクウェア・エニックス]])を挙げる人間も多い<ref>[https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/30125 現役大学生に聞いた、「コロコロ」「ガンガン」「ボンボン」……何派だった? 半数以上が◯◯派!] - マイナビ学生の窓口・2016年1月20日</ref>。ただ『コロコロ』編集部内では、『ボンボン』よりもむしろ『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])をライバルとして意識していたという<ref>[https://builder.japan.zdnet.com/blog/10514442/2009/08/06/entry_27024179/ 「コロコロ爆伝!!」の著者・渋谷直角氏に裏話を色々と聞いてきた] - builder by ZDNet Japan・2009年8月6日</ref><ref group="注">なお、『ボンボン』の創刊はコロコロコミック創刊の4年半後の1981年10月15日である。</ref>。なお、創刊間もないころの『[[てれびくん]]』の広告では、同じ出版社から出されているコロコロを名指しでライバル視した表現がされていた。 === 備考 === [[児童雑誌]]であるため、女性[[タレント]]の[[グラビア]]等は基本的に存在しないが、[[お笑い芸人]]や[[スポーツ選手]]の特集記事や、[[バラエティー番組]]や[[テレビドラマ]]の[[タイアップ]]等は稀に組まれることがある。特に1990年代後半から2000年代初頭のコロコロコミック全盛期の頃は、玩具やゲーム以外のタイアップにも積極的で、[[K-1]]のコミカライズや[[テレビ情報誌]]のようなテレビ番組の紹介記事の他に、[[レンタルビデオ]]や[[CD]]の売上ランキング等も掲載されていたが、いずれも2002年頃から廃止された。 1990年代までは[[ハリウッド映画]]のコミカライズにも積極的で、主に『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』(1993年)や『[[スモール・ソルジャーズ]]』(1998年)等の映画がコミカライズされた。 また、2000年代前半頃に[[ビール]]の[[ポスター]]風の[[水着]]女性の[[広告]]が載ったことがある。 == 連載作品 == {{Main2|過去の連載作品については[[月刊コロコロコミック連載作品の一覧]]を}} 2024年1月号現在で連載中の作品。 <!-- 漫画頁扱いとして連載されている作品のみの記載です。 --> <!-- 最終話が掲載されてもその次の号が発売されるまでは連載中です。次の号が発売されるまでは最終話が掲載された作品を除去しないで下さい。--> {| class="wikitable sortable" style="background: #FFF;" ! 作品名 !! 作者(作画) !! 原作など !! 開始号 !! 備考 |- | {{Display none|すうはあまりおくん}}[[スーパーマリオくん (沢田ユキオの漫画)|スーパーマリオくん]] || {{Display none|さわた ゆきお}}[[沢田ユキオ]] || {{Display none|にんてんとう}}[[任天堂]] || 1990年11月号 || |- | {{Display none|けしかすくん}}[[ケシカスくん]] || {{Display none|むらせ のりゆき}}[[村瀬範行]] || - || 2004年06月号 || |- | {{Display none|ほしのかあひいまんふくふふふふあんたしい}}[[星のカービィ 〜まんぷくプププファンタジー〜|星のカービィ <br />〜まんぷくプププファンタジー〜]] || {{Display none|たけうち いふき}}[[武内いぶき]] || {{Display none|にんてんとう}}任天堂<br />[[ハル研究所]] || 2016年11月号 || |- | {{Display none|なんとてんちやらすしいさん}}[[絶体絶命でんぢゃらすじーさん|なんと!でんぢゃらすじーさん]] || {{Display none|そやま かすとし}}[[曽山一寿]] || - || 2017年04月号 || 『でんぢゃらすじーさん』<br />のシリーズ第3作 |- | {{Display none|すふらとううん}}[[Splatoon (漫画)|スプラトゥーン バンカラ!]]||{{Display none|ひのてや さんきち}}[[ひのでや参吉]] || {{Display none|にんてんとう}}任天堂 || 2017年06月号 || 2022年10月号から連載再開 |- | {{Display none|まんかてにやんこたいせんそう}}[[にゃんこ大戦争|まんがで!にゃんこ大戦争]] || {{Display none|よろすや ふしみのすけ}}[[萬屋不死身之介]] || [[ポノス (企業)|{{Display none|ほのす}}ポノス]] || 2018年12月号 || |- | {{Display none|てかすきてつかくん}}[[デカ杉デッカくん]] || {{Display none|あすま かなき}}あずまかなき || - || 2020年02月号 || |- | {{Display none|まいんくらふと}}[[Minecraft|マインクラフト 〜世界の果てへの旅〜]] || {{Display none|せと かすよし}}瀬戸カズヨシ || {{Display none|もうしやんすたしお}}[[Mojang]] || 2020年05月号 || |- | {{Display none|ふおうとないと}}[[フォートナイト (ゲーム)|フォートナイト]] || {{Display none|かつみ なおと}}勝見直人 || [[Epic Games]] || 2020年11月号 || |- | {{Display none|ふらつくちやんねる}}[[ブラックチャンネル]] || {{Display none|きさいち さとし}}きさいちさとし || - || 2020年11月号 || |- | {{Display none|おれたけはまともくん}}[[オレだけはマトモくん]] || {{Display none|なかむら なつき}}中村夏寿紀 || - || 2021年02月号 || |- | {{Display none|たつこくこつこ}}[[脱獄ごっこ]] || {{Display none|たかて なおたか}}高出なおたか || {{Display none|ううむ}}[[LiTMUS]]&[[UUUM]] || 2022年01月号 || |- | {{Display none|うんめいのまきもとし}}運命の巻戻士 || {{Display none|きむら ふうた}}木村風太 || - || 2022年02月号 || |- | {{Display none|けえつくつけえむをつくるひとになる}}ゲーつくっ!!-ゲームをつくる人になるっ!!- || {{Display none|きやるおうし}}ギャル王子 || - || 2022年06月号 || |- | {{Display none|てゆえるますたあすういん}}[[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズWIN]] || {{Display none|まつもと しけのふ}}[[松本しげのぶ]] || {{Display none|たからとみい}}[[タカラトミー]] || 2022年09月号 || 『デュエル・マスターズ』<br />の新シリーズ |- | {{Display none|まいせんしすたあす}}[[まいぜんシスターズ]] || {{Display none|なかい ゆうし}}[[永井ゆうじ]] || - || 2022年11月号 || |- | {{Display none|へへへへへいひい}}ベベベベベイビー || {{Display none|こおへえ}}[[コーヘー]] || - || 2022年12月号 || |- | {{Display none|つりすひりつつ}}[[釣りスピリッツ]] || {{Display none|むきわら しんたろう}}[[むぎわらしんたろう]] || [[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコ<br />エンターテインメント]]|| 2023年01月号 || |- | {{Display none|ふためん}}[[ブタメン]] || {{Display none|おこし ゆう}}おごしゆう || [[おやつカンパニー]] || 2023年01月号 || |- | {{Display none|かみさまのあるはいと}}神様のアルバイト || {{Display none|いしい たかし}}[[石井敬士]] || - || 2023年02月号 || |- | {{Display none|けえまあかようかいたいしやつてみた}}ゲーマーが妖怪退治やってみた! || {{Display none|こまつ せいたろう}}小松清太郎 || - || 2023年05月号 || |- | {{Display none|こすもふいえす}}コスモVS! || {{Display none|としやま しゆん}}とし山じゅん || - || 2023年06月号 || |- | {{Display none|たたさはいはあ}}[[ダダサバイバー]] || {{Display none|くりすとふああ あいせんふいいると}}クリストファー・アイゼンフィールド || Habby || 2023年07月号 || |- | {{Display none|へいふれえとえつくす}}[[BEYBLADE X]] || {{Display none|てみす ほすか}}[[出水ぽすか]] || [[河本ほむら]]<br />武野光<br />[[タカラトミー]] || 2023年07月号 || |- | {{Display none|にんしやら}}[[ニンジャラ]] || {{Display none|よしの あすみ}}吉野あすみ || [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|ガンホー]] || 2023年08月号 || |- | {{Display none|ていふさたいはあ}}デイヴ・ザ・ダイバー || {{Display none|つちた しんのすけ}}土田しんのすけ || [[ネクソン]] || 2023年09月号 || |- | {{Display none|まめたのはける}}豆狸のバケル || {{Display none|ふるもと ゆうや}}[[古本ゆうや]] || [[グッド・フィール]] || 2023年09月号 || |- | {{Display none|にしさんしてひてひてひるのしんりやく}}にじさんじ でびでび・でびるの侵略! || {{Display none|へらほう}}ベラボウ || [[にじさんじ]] || 2023年10月号 || |- | {{Display none|うあんかあとすかいらいと}}ヴァンガードスカイライド || {{Display none|たいえんほう まこと}}大円坊真 || [[ブシロード]] || 2024年01月号 || <!-- ※最終話が掲載されてもその次の号が発売されるまでは連載中です。次の号が発売されるまでは最終話が掲載された作品を除去しないで下さい。 ※新連載の追加方法 以下の雛形をコメントアウトのすぐ上にコピーアンドペーストし、《 》内の説明に従った内容をその箇所に記入してください。また、記入後は《》も不要になります。 ※原作者なしの場合 |- | {{Display none|《作品の読みをひらがな清音で》}}[[《作品名》]] || {{Display none|《作者名をひらがな清音で》}}[[《作者名》]] || - ||《開始号をxxxx年xx号》 ※原作者ありの場合 |- | {{Display none|《作品の読みをひらがな清音で》}}[[《作品名》]] || {{Display none|《作画者をひらがな清音で》}}[[《作画者名》]]{{Small|(原作)}} || {{Display none|《原作者をひらがな清音で》}}[[《原作者名》]]{{Small|(原作)}} || - ||《開始号をxxxx年xx号》 --> |} === 休載中 === {| class="wikitable sortable" style="background: #FFF;" ! 作品名 !! 作者(作画) !! 原作など !! 開始号 !! 備考 |- | {{Display none|からめる}}からめる || {{Display none|からめる}}[[からめる]] || - || 2021年05月号 || |} == 単行本 == 単行本のレーベルは「'''[[てんとう虫コミックス]](TC)'''」(てんとう虫コロコロコミックス)である。毎月28日発売。 連載作品の単行本は、[[藤子不二雄]]作品などの一部の例外を除いて連載終了後まもなく[[絶版]]にされる作品が多く、単行本の回転が非常に速いことも特徴である。また、メジャー誌としては珍しく未単行本化作品や単行本未収録エピソードも多い。その理由も表現問題等ではなく、1巻に収録するにはページ数が不足・過剰であるためであることが多い。 打ち切り作品も含め過去に連載・絶版されていた作品が[[インターネットコミュニティ]]上で紹介されることが多く、2000年代より[[復刊ドットコム]]などで再版を呼びかける運動が起こり、復刊ドットコムや[[サブカルチャー]]系の出版社から[[アンソロジー]]形式で出版されることがある<!--「バーコードファイター」、「ぐるっと!ヨーカイザー」など-->。また、2007年の『[[熱血!!コロコロ伝説]]』の企画により、1980年代を中心としたごく一部のタイトルは小学館から再版されている。 [[2009年]]より、過去のてんとう虫コミックスと未単行本化作品の底本データをコンテンツワークスの[[オンデマンド出版]]サイト「コミックパーク」に順次供給しており、同サイトを通じて正規ルートでオンデマンド製本された単行本を入手することが可能となった(「'''コロコロコミック アーカイブズ'''」として展開し、[[2013年]][[10月]]時点で60タイトル余りを販売)(2022年9月にコミックパークは終了する為一部の作品はまた絶版に戻る)。また、一部タイトルは後年、小学館により[[電子書籍]]化され、電子書籍販売サイトに供給している。 == 藤子不二雄との関わり == [[てんとう虫コミックス]]に未収録となっていた『[[ドラえもん]]』の話をまとめて読むことができるように、と方法を模索した結果が『コロコロコミック』創刊の発端で、『ドラえもん』を中心として[[藤子不二雄]]作品を集めた新しい児童向けの雑誌として創刊準備は進められた<ref name="miracle" />。少年漫画雑誌の読者層が上がっている中で、「''小学生が読む、本当の意味でのまんが雑誌を作りたい!''」という創刊編集長である千葉和治の言葉に、藤子Fは感化され、自身の全ての作品の掲載権を預けるとまで言って協力している<ref name="miracle" />。 [[小学館の学年別学習雑誌]]へ掲載された『[[ドラえもん]]』の総集編の色合いが強い雑誌として創刊された。そのため、創刊号の表紙は「ドラえもん」という文字が誌名よりも大きな字で書かれている。創刊当初は毎号『ドラえもん』が100頁掲載されているのが売りになる点だった。なお、創刊号は200頁、第2号は150頁掲載され、1995年8月号まで続けていた。『ドラえもん』の[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|テレビ化]]<ref group="注">正確には[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|1973年版]]に続き二度目のテレビ化。</ref>開始直前には、1979年3月15日号(第11号)を『ドラえもんテレビ化記念おいわい特別号』の副題で発行。テレビ放映開始後の1979年と1980年の2回、別冊で[[#コロコロコミックデラックス「テレビ版ドラえもん」]]も発行された。映画作品の原作である『[[大長編ドラえもん]]』<ref group="注">おおむね年度下半期に5-6回程度。これとは別に通常の読みきり(「ドラえもん大会」。毎回2-3作品)も連載されていた</ref>を[[映画]]公開前に掲載するなど、『ドラえもん』を前面に打ち出し、そのほかにも多数の[[藤子不二雄]]作品が掲載されていた。それらの作品は巻末の目次でも掲載順ではなく別枠として記載されていた。[[藤子・F・不二雄]]の死後は藤子プロの手による『大長編ドラえもん』や派生的な漫画『ドラベース ドラえもん超野球外伝』が掲載され、『ドラえもん』の再収録が[[2002年]]4月号より行われている<ref group="注">ただし、2002年4月号から連載されている再収録版は目次では情報頁扱いである。</ref>。<ref group="注">表紙のドラえもんについては、近年では大きく描かれてるのは毎年3月号のみでそれ以外の号では描かれないことが目立つようになった。</ref> 背表紙のデザインは4月号~翌年3月号までの1年単位で統一されている。創刊号からの通巻ナンバーが記載されており、ドラえもんが必ず描かれているのが特徴である<ref group="注">必ず描かれるようになったのは1985年5月号から。それ以前は他の藤子作品や藤子以外の漫画作品のキャラのみで背表紙を飾ることもあった。</ref>。 初期の頃には藤子不二雄のアシスタント陣による『フジコフジオ日記』(藤子スタジオの日常を描く)や『藤子不二雄のまんが入門』(読者投稿の『ドラえもん』を題材とした4コマ・1コマ漫画を批評する)などの連載があった他、藤本と安孫子の出会いからデビュー当初までを描く『[[まんが道]]』([[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]])を年少向けに作り直したものともいえる『[[藤子不二雄物語 ハムサラダくん]]』もあった。また、チーフ[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]だった[[方倉陽二]]による『[[ドラえもん百科]]』が連載され、ここから『ドラえもん』の裏設定(いわゆる方倉設定)が生まれていった。 『[[小学館新人コミック大賞]]』の児童部門である『[[藤子不二雄賞]]』の結果発表と受賞作品の掲載誌としても使われていた<ref group="注">現在では募集と結果発表のみが行われており、受賞作品が掲載されることは殆ど無い。</ref>。 <!-- 掲載された藤子不二雄作品は他に * [[みきおとミキオ]](創刊号(1977年5月15日号) - 3号(1977年11月15日号)) * [[バケルくん]](創刊号(1977年5月15日号) - 8号(1978年9月15日号)) * [[パーマン]](6号(1978年5月15日号) - 1982年1月号、1983年4月号 - 11月号、1984年4月号 - 11月号) * [[オバケのQ太郎]](7号(1978年7月15日号) - 1983年3月号、1985年4月号 - 1986年10月号) * [[ミラ・クル・1]](1979年4月号 - 1979年12月号) * [[怪物くん]](1980年4月号 - 1982年12月号) * [[21エモン]](1981年7月号 - 1981年8月号) * [[忍者ハットリくん]](1981年10月号 - 1988年5月号) ** 忍者ハットリくん ワシ獅子丸!!(1984年5月号 - 1984年11月号) * [[プロゴルファー猿]](連載途中で『新プロゴルファー猿』に改題)(1985年4月号 - 1988年12月号) * [[まんが道]](1986年9月号) * [[エスパー魔美]](1987年4月号 - 1988年4月号) * [[ビリ犬]](連載途中で『ビリ犬なんでも商会』に改題)(1988年7月号 - 1989年10月号) * [[ウメ星デンカ]](1994年1月号 - 1994年3月号) がある。ただしオバケのQ太郎、エスパー魔美は他の雑誌に掲載された作品の再録のみであり、パーマン、バケルくんは他の雑誌に掲載された作品の再録を含む。--><!-- この他に、既に小学館で人気を博していた漫画としてはもう一つ、[[山根あおおに]]「[[名たんていカゲマン]]」、[[室山まゆみ]]「[[あさりちゃん]]」もコロコロに引っ越して来ている。 こうした「特定の一作品のために児童雑誌を一つ作った」手法は、[[講談社]]が「[[仮面ライダー]]」専門誌として『[[テレビマガジン]]』を創刊したことが始まりである。 --> == 系列誌 == === 増刊号 === 1980年代〜1990年代前半にかけて年3回(新年、春休み、夏休み)刊行されていた増刊号。 本のサイズは本誌と同様だがページは少ない。内容は特集記事と本誌連載作品の番外編、読み切り作品、新人作家の新人賞受賞作品といった具合に別冊と似通った構成ではあるが、読者コーナーや作家の巻末コメントは存在しない。 === コロコロコミックデラックス「テレビ版ドラえもん」 === ドラえもんテレビアニメ放映化に伴い、番組・製作内容を特集したもので、カラーページを多用。[[1979年]]に第一号、[[1980年]]に第二号を発行(定価380円) === 別冊コロコロコミック === [[1981年]][[3月28日]]創刊。偶数月発売の隔月刊である。 {{See|別冊コロコロコミック}} === ぴょんぴょん === [[1988年]]創刊。本誌2代目編集長である福島征英によって立ち上げられた女児向け漫画雑誌。月刊コロコロコミックの編集方針を少女向け雑誌へと応用する形で創刊され「元気な女の子たちの新まんが雑誌」というキャッチコピーのもと「女の子向けのコロコロコミック」を目指した。雑誌名の「ぴょんぴょん」も本誌の誌名である「コロコロ」と好対照となるよう、本誌を倣う形で[[擬声語|オノマトペ]]から名付けられたものである。 創刊時は隔月刊誌として始まり、翌[[1989年]]1月号より月刊化に至るが、[[1992年]]に入ってからは不振が続き同10月号にて休刊。編集部および作家陣は『[[ちゃお]]』に併合されて引き継がれた。この併合が[[2000年代]]以降の『ちゃお』のメディア戦略に大きな影響を与えた(『ちゃお』側に『コロコロコミック』系列誌側が用いているメディア戦略のノウハウが流入する事となった)とされる。 {{See|ぴょんぴょん}} === ハイパーコロコロ・コミックGOTTA === [[1999年]]創刊。『コロコロ』の高学年版という位置づけであった。売り上げ不振のため、[[2001年]]7月号をもって休刊。 {{See|コミックGOTTA}} === てれコロコミック === 『[[てれびくん]]』との共同編集により発売された。2001年9月号増刊と2002年1月号増刊が発売。 === ギャグコロコミック === [[2003年]][[7月30日]]に増刊号として発売された。[[2003年]]12月号(2003年[[11月15日]]発売)以降は、本誌の別冊付録として付属している。 <!-- ==== ギャグコロコミックの漫画作品 ==== * ギャグコロコミック 2003年夏号 ** [[絶体絶命でんぢゃらすじーさん]] - [[曽山一寿]] ** [[名たんていカゲマン|探偵少年カゲマン]] - 曽山一寿 ** [[ポケットモンスター (穴久保幸作の漫画)|ポケットモンスター]] - [[穴久保幸作]] ** [[星のカービィ デデデでプププなものがたり]] - [[ひかわ博一]] ** [[スーパーマリオくん (沢田ユキオの漫画)|スーパーマリオくん]] - [[沢田ユキオ]] ** [[サルゲッチュ ウキウキ大作戦!]] - [[後藤英貴]] ** [[逆ギレ イチバンくん]] - [[村瀬範行]] ** [[コロッケ!]] - [[樫本学ヴ]] ** [[学級王ヤマザキ]] - 樫本学ヴ ** [[うちゅう人 田中太郎]] - [[ながとしやすなり]] ** [[DUEL JACK]] - [[伊原しげかつ]] ** [[ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん]] - [[河合じゅんじ]] ** [[つるピカハゲ丸]] - [[のむらしんぼ]] ** [[金色のガッシュベル!!]] - [[雷句誠]] ** [[闘う!動物のカメちゃん]] - [[そにしけんじ]] ** [[激闘!エグゼ兄弟ロックメーン]] - [[川野匠]] ** [[伝説のスタフィー (須藤ゆみこ)|伝説のスタフィー]] - [[須藤ゆみこ]] ** [[実況パワフルプロ野球|一発逆転!パワプロクン]] - [[山下たかひろ]] ** [[ボンバーマンジェッターズ|それいけ!!ボンバーマンジェッターズ]] - [[玉井たけし]] ** [[ダッシュ&スピン 超速ソニック]] - [[春風邪三太]] ** [[ケロケロキング]] - [[きはらようすけ]] ** [[ガブガブ!!サメちゃん]] - [[むさしのあつし]] ** [[あざやかマン7号]] - [[池生雅和]] ** [[ウラ昆虫王ゴキオ]] - [[なつき繭]] ** [[筋肉の乙女沢!]] - [[高野あつのり]] ** [[コロコロバカデミー]] - [[サイクロン猿橋]] ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ伝説 小さな勇者たち]] - [[上山道郎]] * ギャグコロコミック 年末大さわぎ号(2003年12月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** [[バビブベボブボブ!!さっぷくん]] - [[重岡秀満]] ** 星のカービィ デデデでプププなものがたり - ひかわ博一 ** うちゅう人 田中太郎 - ながとしやすなり ** 金色のガッシュベル!! - 雷句誠 ** 激闘!エグゼ兄弟ロックメーン - 川野匠 ** スーパーマリオくん - 沢田ユキオ ** DUEL JACK - 伊原しげかつ ** ポケットモンスター - 穴久保幸作 ** [[モリモリッ!ばんちょー!!キヨハラくん]] - 河合じゅんじ ** 伝説のスタフィー - 須藤ゆみこ ** サルゲッチュ ウキウキ大作戦! - 後藤英貴 ** 逆ギレ イチバンくん - 村瀬範行 ** [[100円ロボ ブギイモ]] - [[大熊良]] * ギャグコロコミック お笑い全国制覇号(2005年3月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** [[オッス!ムシキングッス!!]] - [[小西紀行]] ** [[コロッケ!|コロッケ! 学園ギャグ編]] - 樫本学ヴ ** [[ケシカスくん]] - 村瀬範行 ** [[ミラクルボール|ミラクルボール 奇跡ギャグ編]] - ながとしやすなり ** 星のカービィ デデデでプププなものがたり - ひかわ博一 ** [[ドラベース ドラえもん超野球外伝|ドラベース 特別編]] - [[むぎわらしんたろう]] ** 金色のガッシュベル!! - 雷句誠 ** スーパーマリオくん - 沢田ユキオ ** ポケットモンスター - 穴久保幸作 ** サルゲッチュ ウキウキ大作戦! - 後藤英貴 ** [[トイレの神様]] - [[黒葉潤一]] ** DUEL JACK - 伊原しげかつ ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエルマスターズ]] - [[松本しげのぶ]] ** [[ロックマンエグゼ (漫画)|ロックマンエグゼ]] - [[鷹岬諒]] * [[コロコロイチバン!]] 第0号(2005年4月号付録) ** [[わざぼー]] - 曽山一寿 ** [[甲虫王者ムシキング|オレってムシキング!?]] - 穴久保幸作 ** [[甲虫王者ムシキング|甲虫王者ムシキング ポポとキングの大冒険]] - [[犬木栄治]] ** [[ガリガリ君]] - [[小ガエル]] ** [[どーぶつのはなし]] - 河合じゅんじ ** [[つるぜ!カメスケくん]] - むぎわらしんたろう ** [[オレだよ!ワリオだよ!!]] - 沢田ユキオ * でんぢゃらすじーさん&名探偵たちの謎BOOK(2005年10月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[推理の星くん]] - [[せいの奈々]] ** [[天才推理ブタジル]] - [[黒葉潤一]] ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエルマスターズFE]] - 松本しげのぶ ** DUEL JACK - 伊原しげかつ * ギャグコロコミック 爆笑感動の春一番号!(2006年3月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエルマスターズFE 爆笑特別編]] - 松本しげのぶ ** [[ミラクルボール|ミラクルボール 爆笑特別編]] - ながとしやすなり ** コロッケ! - 樫本学ヴ ** [[ロックマンエグゼ (漫画)|ガルル ロックマンエグゼ]] - [[永井ゆうじ]] ** サルゲッチュ ウキウキ大作戦! - 後藤英貴 ** 推理の星くん - せいの奈々 ** [[スーパーマリオくん (沢田ユキオの漫画)|スーパーワリオくん]] - 沢田ユキオ ** [[マスカレード (漫画)|マスカレード 爆笑特別編]] - [[板垣雅也]] ** [[ポケットモンスター (穴久保幸作の漫画)|ポケットモンスター 特別4コマ編]] - 穴久保幸作 ** [[古代王者恐竜キング|古代王者恐竜キング ティラノかよ!]] - [[矢高鈴央]] ** [[ドラえもん のび太の恐竜2006 DS]] - [[藤子プロ]] * [[Newスーパーマリオブラザーズ]]最速攻略コミックBOOK スペシャル爆笑3大ギャグ(2006年7月号付録) ** [[スーパーマリオくん (沢田ユキオの漫画)|スーパーマリオくん Newマリオ特別編]] - 沢田ユキオ ** [[絶体絶命でんぢゃらすじーさん|絶体絶命でんぢゃらすじーさん 特別編 ひげのゲーム]] - 曽山一寿 ** [[ケシカスくん|ケシカスくん 目指せマリオ!]] - 村瀬範行 ** [[劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ]] - [[溝渕誠]] * ギャグコロコミック 超豪華お笑い号(2007年1月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** [[ペンギンの問題|ペンギンの問題 特別編]] - 永井ゆうじ ** [[西遊記ヒーローGo空伝!]] - 小西紀行 ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[ミラクルボール|ミラクルボール 超不思議編]] - ながとしやすなり ** [[ポケモンDP 4コマ劇場]] - [[松島リュウ]] ** [[もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド]] - [[萬屋不死身之介]] ** [[おいでよ どうぶつの森 〜ペッパー村のナッツ!〜]] - 矢高鈴央 ** [[聖犬王 大地のガブ]] - [[てしろぎたかし]] * C-1グランプリ2007(2007年7月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** [[ぼくはガリレオ|ぼくはガリレオ ギャグ特別編]] - 樫本学ヴ ** ペンギンの問題 特別編 - 永井ゆうじ ** [[西遊記ヒーローGo空伝!|西遊記ヒーローGo空伝! 特別編]] - 小西紀行 ** ミラクルボール 爆笑特別編 - ながとしやすなり ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[推理の星くん|推理の星くん 番外編]] - せいの奈々 ** [[星のカービィ! も〜れつプププアワー!|星のカービィ! も〜れつプププアワー! 大まんぷく特別編]] - [[谷口あさみ]] ** ポケモンDP 4コマ劇場 - 松島リュウ ** [[〜なめねこ又吉最強伝説〜なめんなよ!|〜なめねこ又吉最強伝説〜なめんなよ! 仏恥義理特別編]] - [[瀬戸カズヨシ]] ** スーパーマリオくん - 沢田ユキオ ** サルゲッチュ ウキウキ大作戦! - 後藤英貴 ** [[グレグレ〜 うしろのグレッグル]] - 萬屋不死身之介 ** [[ファイティングマシーン なぐります夫]] - [[しげおか秀満]] ** [[びっくり!計算王子マハラジャくん]] - [[吉もと誠]] * C-1グランプリ2008(2008年1月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** ペンギンの問題 特別編 - 永井ゆうじ ** [[西遊記ヒーローGo空伝!|西遊記ヒーローGo空伝! C-1特別編]] - 小西紀行 ** [[ぼくはガリレオ|ぼくはガリレオ ギャグ特別編]] - 樫本学ヴ ** [[星のカービィ! も〜れつプププアワー!|星のカービィ! も〜れつプププアワー! 特別編]] - 谷口あさみ ** [[ミラクルボール|ミラクルボール 特別ギャグ編]] - ながとしやすなり ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[〜なめねこ又吉最強伝説〜なめんなよ!|〜なめねこ又吉最強伝説〜なめんなよ! スペシャル喜家愚編!!]] - 瀬戸カズヨシ ** サルゲッチュ ウキウキ大作戦! - 後藤英貴 ** ポケモンDP 4コマ劇場 - 松島リュウ ** [[ようこそ!ハガキ アニマルの森Z]] - 萬屋不死身之介 * コロコロお笑いスター大集合!! レッドカーペットブック(2008年6月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** ペンギンの問題 特別編 - 永井ゆうじ ** [[ゴゴゴ西遊記 新悟空伝]] - 小西紀行 ** ぼくはガリレオ ギャグ特別編 - 樫本学ヴ ** [[ヤッターマン外伝 ボケボケボヤッキー|ヤッターマン外伝 ボケボケボヤッキー プロ野球編]] - 萬屋不死身之介 ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** ミラクルボール 特別ギャグ編 - ながとしやすなり ** [[星のカービィ! も〜れつプププアワー!|星のカービィ! も〜れつプププアワー! おにぎりコロりん編]] - 谷口あさみ * コロコロコミック ギャグDX(2009年3月号付録) ** 絶体絶命でんぢゃらすじーさん - 曽山一寿 ** [[イナズマイレブン]] - [[やぶのてんや]] ** ペンギンの問題 - 永井ゆうじ ** ゴゴゴ西遊記 新悟空伝 - 小西紀行 ** [[ぼくはガリレオ]] - 樫本学ヴ ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエルマスターズSX]] - 松本しげのぶ ** [[ドラベース ドラえもん超野球外伝]] - むぎわらしんたろう ** [[星のカービィ! も〜れつプププアワー!]] - 谷口あさみ ** [[ヤッターマン外伝 ボケボケボヤッキー]] - 萬屋不死身之介 ** [[怪盗ジョーカー]] - [[たかはしひでやす]] ** [[ド根性小学生ボン・ビー太]] - 小ガエル ** [[ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史]] - 藤子プロ * ギャグコロコミック2011(2011年4月号付録) ** [[絶体絶命でんぢゃらすじーさん|でんぢゃらすじーさん邪]] - 曽山一寿 ** ペンギンの問題 - 永井ゆうじ ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** [[キメルのYOYO!]] - 樫本学ヴ ** ド根性小学生ボン・ビー太 - 小ガエル ** ゴゴゴ西遊記 新悟空伝 - 小西紀行 ** 星のカービィ! も〜れつプププアワー! - 谷口あさみ ** [[宇宙刑事ベイダー]] - 萬屋不死身之介 ** [[最強小学生シロウ]] - [[武内いぶき]] * ギャグコロコミック2012(2012年1月号付録) ** でんぢゃらすじーさん邪 - 曽山一寿 ** [[イナズマイレブンGO]] - やぶのてんや ** スーパーマリオくん - 沢田ユキオ ** ペンギンの問題 - 永井ゆうじ ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ ビクトリー]] - 松本しげのぶ ** 星のカービィ! も〜れつプププアワー! - 谷口あさみ ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** キメルのYOYO! - 樫本学ヴ ** ゴゴゴ西遊記 新悟空伝 - 小西紀行 ** 怪盗ジョーカー - たかはしひでやす ** ド根性小学生ボン・ビー太 - 小ガエル ** [[イナズマイレブンGO|映画みようぜ!!イナズマGO ギャグ外伝]] - 萬屋不死身之介 * ウソコロコミック 新春特大号!!(2013年2月号付録) ** [[ウソツキ!ゴクオーくん]] - 吉もと誠 ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** デュエル・マスターズ ビクトリー - 松本しげのぶ ** 怪盗ジョーカー - たかはしひでやす ** ゾゾゾ ゾンビ〜くん - ながとしやすなり ** イナズマイレブンGO - やぶのてんや ** でんぢゃらすじーさん邪 - 曽山一寿 ** [[ダンボール戦機|ダンボール戦機W]] - [[藤異秀明]] ** [[ペンギンの問題|ペンギンの問題+]] - 永井ゆうじ ** ド根性小学生ボン・ビー太 - 小ガエル ** [[爆TECH!爆丸]] - [[槙吾]] ** [[モンスター烈伝 オレカバトル]] - [[山浦聡]] ** 星のカービィ! も〜れつプププアワー! - 谷口あさみ ** [[キメルのYOYO!|ぶっとびスピナー キメル!!]] - 樫本学ヴ ** スーパーマリオくん - 沢田ユキオ ** [[妖怪ウォッチ]] - 小西紀行 ** ポケットモンスター - 穴久保幸作 * ギャグコロコミック2013(2013年3月号付録) ** でんぢゃらすじーさん邪 - 曽山一寿 ** ゾゾゾ ゾンビ〜くん - ながとしやすなり ** [[モンスター烈伝 オレカバトル|オレカバトル 4コマつきモンスター辞典]] - 山浦聡 ** ウソツキ!ゴクオーくん - 吉もと誠 ** [[イナズマイレブンGO|イナズマGO2 4コマつき選手名鑑]] - [[百丸]] ** ケシカスくん - 村瀬範行 ** ペンギンの問題+ - 永井ゆうじ ** デュエル・マスターズ ビクトリー - 松本しげのぶ ** ド根性小学生ボン・ビー太 - 小ガエル ** 妖怪ウォッチ - 小西紀行 ** [[ドラえもん のび太のひみつ道具博物館]] - 藤子プロ * ホラコロコミック(2013年8月号付録) ** でんぢゃらすじーさん邪 - 曽山一寿 ** ゾゾゾ ゾンビ〜くん - ながとしやすなり ** ウソツキ!ゴクオーくん - 吉もと誠 ** [[魔石商ラピス・ラズリ]] - [[桜ナオキ]] ** 妖怪ウォッチ - 小西紀行 ** [[トマト目玉]] - [[出水ぽすか]] ** ケシカスくん - 村瀬範行 * ギャグコロコミック2014(2014年3月号付録) ** ゾゾゾ ゾンビ〜くん 変態4コマ図鑑 - ながとしやすなり ** [[でんぢゃらすじーさん邪|正しくは、でんぢゃらすじーさん車]] - 曽山一寿 ** 妖怪ウォッチ - 小西紀行 ** [[ぷにゅぷにゅ勇者 ミャメミャメ]] - 樫本学ヴ ** [[とびだせ どうぶつの森]] - [[コーヘー]] ** ウソツキ!ゴクオーくん - 吉もと誠 ** [[ふなっしー|ヒャッハーだよ♪ ふなっしー]] - [[まえだくん]] ** ペンギンの問題+ - 永井ゆうじ ** 星のカービィ! も〜れつプププアワー! - 谷口あさみ ** [[マジで!!まじめくん!]] - [[土田しんのすけ]] --> === コロコロイチバン! === [[2005年]][[3月25日]]創刊。以前は奇数月発売の隔月刊であったが、[[2011年]]6月号以降は月刊となっている。 {{See|コロコロイチバン!}} === 熱血!!コロコロ伝説 === [[2007年]][[5月25日]]に、『コロコロコミック』創刊30周年特別企画として創刊。1977 - 1996年に連載されていた漫画の一部を掲載した「大人向け」の雑誌。10号に分けて発売された。 {{See|熱血!!コロコロ伝説}} === コロコロG === [[2010年]][[5月]]創刊。『ハイパーコロコロ』、『コミックGOTTA』と同様のコンセプトで発売された。しかし、2011年11月の発売を最後に長期休刊状態になっている。 {{See|コロコロG}} === コロコロアニキ === [[2014年]][[10月15日]]に『コロコロコミック』の増刊号として発売。かつて本誌を愛読していた中学生~3・40代の大人をメインターゲットにしている。2019年夏号より年3回(4ヶ月毎)の発売。2021年春号をもって紙媒体による刊行を終了し、連載漫画はコロコロオンライン内のWeb漫画へ移行した<ref>[https://corocoro.jp/146210/ コロコロアニキから大切なお知らせ]コロコロオンライン 2020年11月14日</ref>。更に、週刊コロコロコミック創刊後はそちらに移行している<ref name="aniki_syuukan">{{Cite news|url=https://corocoro.jp/news/327619/|title=コロコロ編集部が作る 「週刊まんが誌」が新創刊!! 『週刊コロコロコミック』本日爆誕!!|newspaper=コロコロオンライン|publisher=小学館|date=2022-03-15|accessdate=2022-03-15}}</ref>。 {{See|コロコロアニキ}} <!-- * コロコロアニキ創刊号の漫画作品 ** [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!|爆走兄弟レッツ&ゴー!! RETURN RACERS]] - [[こしたてつひろ]] ** [[拝啓、徳田ザウルス先生]] - [[武井宏之]] ** [[コロコロ創刊伝説]] - [[のむらしんぼ]] ** [[THE3名様|3名様が狩る。]] - [[石原まこちん]] ** [[持ちこみ・オブ・ザ・デッド]] - [[萬屋不死身之介]] ** [[パズル&ドラゴンズ|PUZZLE&DRAGONS 誕生物語]] - [[瀬戸カズヨシ]] ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ覇王伝ガチ!!]] - [[藤崎聖人]] ** [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ フェアリーバトル]] - [[うさくん]] ** [[フューチャーカード バディファイト|フューチャーカード バディファイトダークゲーム異伝]] - [[吉田正紀]] ** [[怒れ!マカベくん]] - [[小田扉]] ** [[死.TV]] - [[カネダカズヤ]] ** [[3PIECE]] - [[コーヘー]] ** [[かっとばせ!キヨハラくん|かっとばせ!キヨハラくん ROAD TO 2015]] - [[河合じゅんじ]] ** [[ふなっしー|ヒャッハーだよ♪ふなっしー]] - [[まえだくん]] ** [[BLUE GIANT]] - [[石塚真一]] ** [[でんぢゃらすじーさん邪|でんぢゃらすリーマン邪]] - [[曽山一寿]] --> === ミラコロコミック === [[2019年]][[1月25日]]創刊。「'''ミライからやってきたミラクルなコロコロ'''」をキャッチコピーにしており、未来の本誌で連載を狙う読み切りを中心に掲載し、また本誌連載作品の未来を舞台とした番外編も収録される。創刊から約1年後の[[2020年]][[1月17日]]には第2号(Ver2.0)が発売されたものの、2021年以降は単独の雑誌としては刊行されなくなったが、別冊コロコロコミック2021年6月号より'''ミラコログランプリ'''としての企画を隔号ごと(2月、6月、10月号)に行われていくこととなった。 === 週刊コロコロコミック === [[2022年]][[3月15日]]創刊<ref name="natalie20220315">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/469423|title=週刊コロコロコミック創刊!子供も大人も楽しめる新作&名作を続々配信|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-15|accessdate=2022-03-15}}</ref>。コロコロコミック編集部、コロコロイチバン!編集部、コロコロアニキ編集部、てれびくん編集部の4編集部が運営する無料のWeb漫画サイトであり{{R|natalie20220315}}、公式サイト「コロコロオンライン」内に創設された。 子どもの読者のために新作を365日無休で配信する。それと同時に、元コロコロ読者の親世代のために過去の名作も毎日公開する{{R|natalie20220315}}と共に、コロコロアニキ連載漫画の新作掲載の場も兼ねる<ref name="aniki_syuukan"/><ref group="注">コロコロアニキの雑誌刊行終了後も、親世代にも楽しめる新作漫画が連載開始されている。(例:『[[ぷにるはかわいいスライム]]』、『[[炎の闘球女 ドッジ弾子]]』など)</ref>。創刊に伴い、コロコロオンラインの旧漫画コーナーは公開を終了している。 == ホビーメーカーとの関わり == 創刊当初より、本誌はホビーメーカーの宣伝的な要素を強く含んでいる。主な宣伝手法として、玩具を取り扱ったマンガの存在が挙げられる。ブームまでに至らず終了したものもあるが、多くは子供たちの間でヒットした。ブームのレベルとしては、『[[爆転シュート ベイブレード]]』の場合「どこに行っても手に入らないほどの品薄状態が約半年間続く」などといった現象が起きている。『ポケットモンスター』に関しては、いち早く最新情報を掲載したり、「[[ミュウ]]」を初めとする限定ポケモンの配布を行うなど、特に力を入れている。漫画に関しても、最古参の『[[ポケットモンスター (穴久保幸作の漫画)|ポケットモンスター]]』を筆頭に、これまで数多く連載されてきた。毎年夏の映画公開が近づくと、劇場版を漫画化した作品が2 - 3か月に渡って連載される。ただし『ドラえもん』とは異なり、「続きは劇場で確かめよう」などと表記され完結せずに終わり、コミックスでのみ結末が収録される。後に『ドラえもん』も同じように結末は掲載されなくなった。また、ホビー系商品を原作にした漫画の場合、『[[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ]]』のように作者の意向とは無関係に、新商品にあわせて漫画の展開を大きく変えることがある。なお、 『デュエルマスターズ』は、当初は『[[マジックザギャザリング]]』とのタイアップであった。このように途中から漫画内でタイアップしたホビーが変わるケースは珍しい。コミカライズはしていないものの、CEROレーティングC(15歳以上対象)のゲーム『[[モンスターハンター]]』『[[フォートナイト (ゲーム)|フォートナイト]]』の記事を掲載している。 『[[デジモン]]』のように、シリーズが進むにつれて突如としてタイアップや宣伝を打ち切るホビーも多い。 [[スクウェアエニックス]]のコンテンツでは、「[[ドラゴンクエストシリーズ]]」は関連ホビーの「[[バトルえんぴつ|バトエン]]」や新作などを比較的取り上げるが、「[[ファイナルファンタジーシリーズ]]」は関連作の『[[チョコボの不思議なダンジョン]]』を除くと、取り上げることはほとんどない。 当誌の誌面内では[[玩具]]をほとんどの場合「ホビー(本来は[[趣味]]・道楽の意)」と呼称することが一般的であり、「おもちゃ」や「玩具」呼ばわりされることに関しては基本的に否定的である。また、『コロコロ』に限らず、小学館の学年誌各誌や『[[てれびくん]]』などでもホビーの呼称を用いている。 == 歴代編集長 == {{節スタブ}} # [[千葉和治]](創刊編集長、1977年 - 1985年)*故人([[のむらしんぼ]]作『[[コロコロ創刊伝説]]』にて言及) # [[福島征英]](2代目編集長、1985年 - 1987年) # [[平山隆]](3代目編集長、1987年 - 1991年) # [[黒川和彦]](4代目編集長、1991年 - 1994年) # [[三浦卓嗣]](5代目編集長、1994年 - 1999年) # [[横田清]](6代目編集長、1999年 - 2004年) # [[佐上靖之]](7代目編集長・愛称 サガミネーター、2004年 - 2011年) # [[村上孝雄 (編集者)|村上孝雄]](8代目編集長・愛称 ムラ神さま、2011年 - 2015年) # [[和田誠 (編集者)|和田誠]](9代目編集長・愛称 まこ殿さま、2015年 - 2019年) # [[秋本武英]](10代目編集長・愛称 秋本じゃけぇ編集長、2019年 - ) == 読者コーナー == 初代はコロコロFC(最終担当:なかむらひとし)で、その後、[[天久聖一]]とさいくろん猿橋(現在のPNは[[サイクロン猿橋]])の2人で「コロコロバカデミー」「コロコロ超(ウルト)ランキング」などが掲載された。現在このコーナー枠は「ハガ友マンション」になっている。[[2002年]]5月号までの長い間、このコーナーは雑誌の最後に掲載されていたが、次の6月号からは情報コーナーに内包(そのため、サイズがやや縮小)という形になった。 こうした雑誌全体の読者コーナーの他にも個別の漫画作品やホビーごとのコーナーが設けられる事もあり、会員証やバッジなどが雑誌の付録や投稿掲載の景品として用意される場合がある。 === コロコロファンクラブ === 創刊号から続く読者コーナー。途中何度かのリニューアルを行い、[[松本しげのぶ]]など、後にホビー漫画でヒットを飛ばす作家がカット絵を担当したこともあった。好評だったが、2001年1月号をもって23年間の歴史に幕を閉じた<ref group="注">なお、最終回の前号である2000年12月号でもこれまでと同じように投稿ネタを募集していたが、2か月後の2001年2月号では1月号で募集した「コロコロバカデミー」の投稿ネタの一部(2月号の入稿日までに届いたネタ)が掲載されたのみで、12月号の「コロコロFC」で募集したネタは未掲載となっている。</ref>。途中から点数制を導入し、掲載された作品には点数を付け、点が増えるとそれに応じた賞品がもらえた。ただし、「1〜5点まである」とされていながらほとんどのハガキは1点であり、「全作品中最もインパクトがあった。よって2点」、「3点進呈」とコメント付で掲載された作品が数本存在したのみである。 === よりわけ隊時代の読者コーナー === 構成はかなり自由で、レイアウトも毎号のように変わっていた。決められたコーナー以外にも様々な投稿ハガキを取り上げており、いくつかのコーナーはその中から始まっている。 ; よりわけ7(セブン) : よりわけ隊のリーダー。おでこに数字で7と書かれた、太い眉毛とハゲ頭が特徴の青年。1985年6月号発表の読者コンテストによって、金賞とは別の秋田県の読者のアイデアが採用された。 ; ハガキくん、ポストくん、切手くん、ふうとうくん : 郵便関連グッズを基にした、よりわけ隊のメンバー。ハガキくんのデザインは上記コンテストの山形県の読者のアイデアから決定された。ふうとうくんの発案者は岡山県の読者。このデザインのよりわけ隊は1991年12月号までを担当した。 1992年以降はひかわ博一(〜1994年)、松本しげのぶ(1994〜2000年)、なかむらひとし(2000〜2001年)がカットを担当。 ; 神サマ、ピット、サータン 松本しげのぶ時代のキャラクター。 ; 室長、ハッキー、ガッキー なかむらひとし時代のキャラクター。 ==== 主なコーナー ==== ; 見たぞ〜!大発見コーナー : コロコロキャラの変なところにツッコミを入れるコーナー。 ; おもしろことば : ダジャレや言葉遊びを含んだ面白い言葉を紹介。関連コーナーに「使ってみましたおもしろことば!」がある。 ; スネカミコーナー : コロコロキャラや漫画内の変なところや気になるところにツッコミを入れるコーナー。コーナー名の由来は[[骨川スネ夫]]の髪型。その立体構造を予想したハガキが[[1987年]]1月号に掲載されたことを切っ掛けに、数か月に渡る大論争がファンクラブ内で勃発。同年9月号にて正式にコーナー化された。 ; 合体マンガ・モンタージュ漫画 : コロコロの漫画のコマを同じ号同士でつなぎ合わせて別の漫画を作るコーナー。 ; すりかえセリフコーナー : コロコロキャラの台詞を別の物に差し替えるコーナー。別冊で好評だったため逆輸入された。 ; きみならどっち? : コロコロキャラの似通った部分を比べ合い、読者にどちらかを選ばせるコーナー(野球漫画2つを比べて「どちらのチームに入りたい?」料理下手な女の子キャラ2人「どちらの料理を食べたい?」等)。 ; コロコロマンシールコレクション : コロコロキャラを使った[[ビックリマン (シール)|ビックリマンシール]]のパロディ。 ; ソー作小話 : コロコロキャラに駄洒落を言わせるコーナー。コーナー名の由来は『[[あほ拳ジャッキー]]』の登場人物、ブルース・ソーから。 ; キミ撮るカメラ : 読者が見つけたおもしろネタを写真で投稿するコーナー。ふうとうくんが担当した。 ; 愛読者レポート : 文章投稿ページ。コロコロイベントや生活の中での様々な体験談を文章で投稿する。 ; コロコロ大賞 : 年末あたりに行われる人気投票で、コロコロキャラをド元気賞、ドアホ賞、トップアイドル賞、新人賞の4つの部門にランキングする。発表は翌年2〜3月号。こいつが主役賞、いい味わき役賞、こころの友賞、あのセリフ忘れないで賞の4部門だった年もある。 ; 勝手にうわさコーナー : コロコロキャラの様々な噂を作るコーナー。 ; リアルイラスト : 毎回、テーマに選ばれたコロコロキャラをリアルに描くコーナー。コーナー末期は恐い描写や迫力のあるイラストは掲載されなくなり、写実的やギャグ的要素を含むイラストが掲載されることが多くなり、掲載作品は少なくなった。 ; ムリダス : コロコロキャラに絶対無理だといえることを紹介するコーナー。 ; もしもイラスト : 毎回、「もしも○○だったら」というテーマで自分だったらどうするかを考えるコーナー。 ; パロディイラスト : コロコロキャラやタイトル、ホビーなどの名前を少し変えたパロディを考えるコーナー。 ; ミラクルホビーコーナー : コロコロキャラを使った新商品を考えるコーナー。 ; あて先イラスト : 読者イラストの一種類。コロコロキャラの体の一部やアイテム等が空欄のようになっており、その中に投稿ハガキのあて先が写植文字で書き込まれていた。[[キングオブコメディ]]の[[高橋健一 (お笑い芸人)|高橋健一]]が小学生時代に投稿し採用されたハガキから始まったと言われている<ref>[https://news.nicovideo.jp/watch/nw1708435 「コロコロ漫画とのぼり棒で性と生を学んだ」高橋健一「コロコロコミック」編集部に潜入] ‐ニコニコニュース</ref>。 etc… === 天久・猿橋時代の読者コーナー === 『コロコロFC』終了後「がっかりしないでくれ」と、[[天久聖一]]と[[サイクロン猿橋]](当時はさいくろん猿橋)が手がけたコーナー。 ==== コロコロバカデミー ==== 「小学校の問題」を読者が間違えて答え、それを応募するコーナー。 このコーナーから身近なものを間違えて答えたり、歴史上の人物にニックネームをつけるなどという方式が生まれた。採用者には、下じきとノートが送られた。一度だけ番外編(読者の投稿ネタとは別にオリジナルの問題と回答をもとにした漫画)が連載漫画と同じページに掲載されたことがある。 [[2011年]][[1月22日]]には、本コーナーに掲載されたネタを収録した書籍『こどもの発想。 コロコロバカデミーベストセレクション』が[[アスペクト (企業)|アスペクト]]から発売された(著者:天久聖一、書籍コード:ISBN 9784757218482)。 ===== 登場キャラクター ===== ; ブタ野ケツ太郎(54) : バカデミー校長。爆笑0点とブタが好き、頭にあるのは毛じゃなくて豚のしっぽ(本人いわく「毛じゃなくて皮。わしのチャームポイント」)らしい。 ; ふま じめ男(12) : 学級委員長。名前の割にマジメ。初期の頃はそうでもなかったが途中から語尾に「 - でやんす」と付くようになる。 ; でた らめ子(12) : 副学級委員長。エビ(じめ男には「ザリガニ」と言われる)をカンザシ代わりにしている。バカデミーで一番クールであるため、4人の中ではツッコむ回数が最も多い。 ; うんち もれ造(6) : 新入生。「 - うんち」が口癖。外見は正に「うんち」。 ; 回転おやじ : にらめっこコーナーの司会者兼審判。普段は厳しそうな顔だが、笑う時は顔が180度回転して大笑いする顔になる。 ; テントリ虫 : ケツ太郎のペットで、問題についてアドバイスをしていた。後の方には登場しなくなる。 ===== 主なコーナー ===== ; 国語・算数・理科・社会・バカ : ごく普通の穴埋めテストが出題される。ただし問題には全て'''「まちがえて」'''答えなければならない。当初はこの形式がメインで、これに属しないお題が'''「バカ」'''という科目に分類されていた。 ; 表紙だけマンガ大賞 : 自作マンガを表紙だけ考えて、それをハガキの裏に書いて小学館へ送るものだった。 : ケツ太郎賞を受賞した作品にはケツ太郎が勝手にあらすじを書いていた。 : もれ造賞はページ数のため作品名のみの掲載だった。 ; ニックネームの問題 : 歴史上の人物に「ニックネーム」をつける。 ; 図工の問題 : テーマに沿って自分のオリジナルの○○を考える(回転寿司のネタ、クレーンゲームの景品など)。 ; 言葉足し算 : 国語と算数の合体問題 :* 「[[後藤真希]]」+「[[マキロン]]」=「後藤マキロン」 :* 「[[平井堅]]」+「[[フランケンシュタイン]]」=「ヒライケンシュタイン」など ; うそんこ絵日記 : 自分で勝手に絵日記を書くというもので、2001年10月号(実際の発売は9月15日)の宿題だった。うそんこ絵日記大賞は「今日はぼくは魔王と勝負した。もちろんぼくが勝った。大統領がお礼に日本をくれた」というもの。 ; にらめっこカードゲーム : カードを見せ合って笑った方が負けという[[カードゲーム]]という設定で、読者の投稿したイラストを出し合う。実質的にはテーマなしのフリーコーナーに近い。 ==== コロコロ超(ウルト)ランキング ==== 読者の選ぶナンバーワンをはがきで決定するコーナー。世界一の小国ビリケツ王国が良い意味での世界一になるためランキングを行い、1位に輝いた粗品を国宝と定めて国を世界一で埋め尽くそうと宣言する。[[2004年]]4月号から9月号までの6か月しか掲載されず、次のコーナーの紹介はなかった。 作者は「バカデミー」と同じ天久聖一とさいくろん猿橋。 ; ラン王 : 「ビリケツ王国」のワガママな王様。ハガキのネタを実体化させる力を持っている。本業はアンやケートの近所の酒屋(乱金酒店)。 ; アン : ビリケツ王国の王女。ケートと兄弟ではない。 ; ケート : ビリケツ王国の王子。アンと兄弟ではない。 ; ババザベス女王 : 世界一厳しいラン王のライバル。 内容は「好きな食べ物・嫌いな食べ物」など読者の意見を集計したランキング、「うるさい人ベスト3」など読者が作ったベスト3、「ブサイクで金持ちとハンサムで貧乏 どっちがいいか」など正反対の意見でどちらが支持が多いかを募集する3つのテーマに分かれていた。なお、テーマにそぐわない意見も番外として掲載されたことがある。 <!--「金持ちorハンサム」での「心が大事」という回答や、「たけのこ」という珍回答など --> 前コーナー以上に下ネタが増え、投稿数も減少したことから<!--開始当初は総得票数が何千通にも及ぶ企画もあったが、徐々に減っており全得票数が200通前後にまで落ち込んだ企画(「授業参観で自分or親のおなら、恥ずかしいのはどっち?」など)もある-->半年で打ち切りとなる。 掲載第1回では「先生になって欲しい有名人ランキング」で1位を獲得した[[はなわ]]が出演した。 === ハガキ伝説バカベンチャー === 「超ラン」打ち切り後に始まった勝見直人の復帰作。それまでの路線とは大きく一転した。地球の生死を決める戦いだったが、実はごっこだった。スタジオのセットは公園になっていた。2004年10月号から2006年9月号まで連載されていた(前号告知が行われなかったため、送られたネタが掲載されたのは2004年12月号から)。 ==== コーナー ==== * バカキャラ戦記 * マジスカデン * セリフを変えちゃおう!(バカベンチャー終了後は、アニマルの森(後述)の「1コマギャグの泉」に継承された) ==== 登場人物 ==== ; 勇者ボッケル : ハガキで世界の平和を守るオバカ少年。「 - ダス」が口癖。実は魔王の弟。 ; メ〜ルくん : ボッケルの賢いペット(ヤギ)。1回魔王にやられるが、その後究極体に進化した。実はボッケルのただのペット。 ; 魔王 : 世界征服を図る悪の支配者。実はボッケルの兄。本名はドン・バカチョ。 ; 犬歯 : 読者が考えた戦闘キャラ。ボッケルにやられる。 ; 黒城教師郎 : 同じく読者が考えた戦闘キャラ。ボッケルにやられる。『[[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ]]』に登場する黒城凶死郎のパロディ。 ; スナイパンダ : 魔王の最後の刺客として登場。これも読者が考えた戦闘キャラ。ボッケルとの戦闘中に冬眠してしまった。 ; コーデスカオオカブト : 元は、読者が考えた戦闘キャラだったが、レギュラーキャラクターとなる。魔王の手下として登場。「こうですか?」が口癖。 ; ソーデスヨオオカブト : コーデスカオオカブトと同じく、読者が考えた戦闘キャラだったが、コーデスカオオカブトとコンビを組むくらいレギュラー化した。魔王の手下として登場。「そうですよ」が口癖。その後「 - オオカブト」シリーズが大量に出てきた。 === ようこそ!ハガキ アニマルの森 === 「ハガキ伝説バカベンチャー」を継承して、[[2006年]]10月号から[[2010年]]3月号まで連載されていた。予告ではイラストが[[谷口あさみ]]だったが連載時からは[[萬屋不死身之介]]になった。なお、コーナーは以下のとおりである。2007年12月号をもって終了し、2008年1月号から内容はそのままで「ようこそハガキ アニマルの森Z」にリニューアル。Zの略は雑炊、ゾウリムシなど毎回変わる。また、2009年12月号からは内容を一新して「ようこそハガキ アニマルの森2ndz」に再びリニューアルした。 2010年3月号の[[最終回]]で再びメンバーがごはんだいすき(後述)らに戻ったためタイトルが再び「ようこそハガキ アニマルの森Z」になった。 * 読者募集の結果、村の名前は「'''ぜんめつ村'''」に決定。採用理由はハガキが来ないと村が潰れることをよく表現できているから。 * 最終回で2010年1月号の次回のお題で読者に募集したタイトルの「'''ようこそ!'''」の部分にかわる言葉が発表され「'''今回で最終回'''」に決定した。ごはんいわく「読者に先読みされてた!!」。 ==== 登場キャラクター ==== ; ごはんだいすき : 主人公。主人公の名前が最初はなく、読者から募集した結果は「ごはんだいすき」。[[松坂大輔]]みたいでかっこいいからという理由で名付けられた(本人は「『だいす』しか合ってないよ!!」とツッコんでいた)。なお、他の名前候補としては「ゴーグル野郎」「にょいたろう」「吉本・デスブリンガー」「クリスタル[[糞|う○こ]]」があり、それを聞かされたごはんは「ロクなのがない...」とショックを受けていた。涙もろく、そのような描写が描かれる時もある。 ; ああああ : 初代村長。初代の村長も名前がなく、読者から募集した結果で名前は「ああああ」になり、ゲームで適当に決めたような名前になり、さらに職業は泥棒になり村長ではなくなったため村長という地位から一気に没落した。最終的には馬と合体し[[ケンタウロス]]のような新生物になっていた。 以下、メンバー変更後含み全て読者募集キャラクター。 ; ケロ彦(けろひこ) : 1コマギャグの泉担当。[[ブリーフ]]一丁だったが、[[衣替え|夏服]]の募集により葉っぱ一枚となった。 ; タヌキン : 美術館→もしもミュージアム担当。プライドがない。最終的にはボスに従っていて[[モヒカン刈り|モヒカン]]頭に武装のような格好になっていた。 ; コザック爺さん : 2代目、4代目、6代目(最終回)村長。写真館を担当していたが、投稿者がほとんどおらず、爆発しその後消滅した。コザック自身も爆発に巻き込まれ、どこかへ吹き飛ばされたものの、読者募集キャラクターのアフロ亀がクッションになり辛うじて残っている。ああああと結婚していて、子供もいる。 ; ボス : 3代目村長。大砲や戦車を好む。一時期、彼のせいで村が大変なこととなっていたが、[[玉ねぎ]]が弱点であることを見抜かれたため村に平和が訪れた。 ;ガム : 5代目(2ndz時代)村長。普通のガムである。パッケージに[[花]]のマークと「ソンチョーガム」と書かれている。ガムなので話せない。アニマルの森2ndzの第1回でスローン(後述)らに食べられてしまった。 ==== メンバー変更後 ==== 2009年11月号でガムが村長に就任したのと同時にメンバーが入れ替わった。ごはん達曰く、「このままじゃ絶対このまんが終わるよ…」。 ; スローン : タヌキンに代わりもしもミュージアムの担当。[[漢字]]以外は[[カタカナ]]で話す。タヌキンいわく「こんなどっちが前か後ろかわからないやつに負けるなんて…」。 ; 血リス(ちりす) : ケロ彦に代わり1コマギャグの泉担当(血リスが担当になったのと同時にコーナー名が1コマギャグの泉から1コマギャグの血の泉になった)。体中から血が噴き出している。 ; カメどん : ああああの代わり。特に役職はない。新レギュラーメンバーの中で1番常識があり、唯一のツッコミ役でもある。 ; ニュータヌキン : ごはんだいすきの代わり。話せない村長に聞いて村長は何も言っていないのに勝手に決めて新キャラでOKということにした。ニューと名乗っているもののモヒカンを切り服装を変えたただのタヌキンである。メンバー変更後直後は本人が言うには副村長だったが、村長のガムは話せないためタヌキンが実権を握っており村長とも言えるようになっていた。最終回で、彼が副村長(実際は村長)になってから読者からの苦情が凄かったことがコザック爺さんの発言で明らかになる(その際タヌキンは「何で最後にそんなこと報告すんの!?」と言っていた)。 ==== コーナー ==== ; ハニマルけいじ板 : アニマルの森の新しい住人を、読者に募集してもらうコーナー。新しい住人は一話限りの登場である。また、採用されたキャラクターの中には[[著作権]]スレスレのキャラクターも存在する。担当キャラは2代目村長のコザック爺さん。以前は初代村長のああああが担当していた。例:[[オバマ大統領]]のパロディの、バラク・オナラ。 ; スーパー写真館 : 読者から送られた写真を紹介するコーナー。前述の通り消滅した。 ; 1コマギャグの血の泉 : コロコロコミックの漫画の中から1コマを選んで、セリフを変えるコーナー。前コーナー「ハガキ伝説バカベンチャー」の「セリフを変えちゃおう!」というコーナーを継承したコーナー。このコーナーは一番人気である。 ; リアル美術館 : 毎回の決められたコロコロコミックの漫画作品で出てくるキャラクターをリアルにして書いて載せるコーナー。担当キャラは、タヌキンだったが、一度読者投稿キャラのボスになり、また以前のタヌキンが担当に戻った。このコーナーは既に消滅している。 ; もしもミュージアム : 美術館と交代というかたちで始まった、毎回お題に沿って絵を描くコーナー。担当はタヌキン。「美術館」よりも幅を広げた感じとなっている。例:[[ド根性小学生ボン・ビー太|ビー太]]と[[怪盗ジョーカー|ジョーカー]]が合体したら? === ハガキで友だちハガ友マンション === 「アニマルの森」の後継として、2010年4月号から2012年7月号まで連載された。担当は[[コーヘー]]。 ==== コーナー ==== ; ハガ友新入居者 ; ハガ友かいらん板2012年8月号 : 「1コマギャグの泉」の継承である。 ; ハガ友笑店街 : 考えた変な店を描いて送るコーナー。実際に見つけた変な店の写真も良い。 ; 偉人ギャグ物館 : 偉人の画像に合う実際とは違う偉人の名前を募集。 ==== 主要登場人物 ==== ; ひー郎: 主人公。ハガ友マンションに引っ越して来た少年で、いつも鼻水を垂らしている。母が幼いころに亡くなっている。ヒロインという妹がいる。 ; ブリ大根くん : 102号室住人。大根の父とブリの母をもつ。煮込むと美味しいらしい。 ; 雪ダルマッチョマン : 103号室住人。ブリ大根くんとは仲が良い様子。筋トレをすると溶けてしまうため、冷蔵庫で冷える。冬季しか会えない。しかし、かき氷になってしまった。後に、メカ雪ダルマッチョマンとなった。 ; かいらんライダー : 「かいらんダーッ!」という掛け声で毎月色々な場所から出てくる。ハガ友かいらん板のコーナー担当。元々読者が考案したキャラクターだったが、レギュラー化し、[[2011年]][[7月]]号で一度主役になった。 ; カマ子 : 偉人ギャグ物館の担当。本作のヒロインだが、ケツアゴで髭が生えている。現在は整形して、普通の女性の顔になっている(時々髭が生えることがある)。 ; ガンダム : その昔、世界の危機を救ったと言われる伝説の巨大ロボ。外見は西郷隆盛そのままであり、『ガンダムラリアット』という必殺技を持つ。名前は「偉人ギャグ物館」にて読者が考案。 === 世界一ウケたい!珍検ゼミナール === 「ハガ友マンション」の後継として、2012年8月号から2015年3月号まで連載された。担当は[[武内いぶき]]。 === ポストの奥まで送ってQ! 読者投稿バラエティー=== 「珍検ゼミナール」の後継として、2015年4月号から2017年4月号まで連載された。担当は[[きさいちさとし]]。 === ダッシュで送れ!ハガキ島 === 「ポストの奥まで送ってQ!」の後継として、2017年5月号から2019年3月号まで連載された。担当は[[ラーメン若]]。 === 大投稿ハガキブラザーズ === 「ハガキ島」の後継として、2019年4月号から2020年4月号まで連載された。担当は[[ベラボウ]]。 === ハガキで解決!!探偵コロコロスクープ === 「ハガブラ」の後継として、2020年5月号から2021年4月号まで連載された。担当は引き続きベラボウ。 === ハガキアパート コロコロ荘 === 「探偵コロコロスクープ」の後継として、2021年5月号から2023年3月号まで連載された。担当は[[とし山じゅん]]。 === オモコロ放課後クラブ === 「コロコロ荘」の後継として、2023年4月号から連載開始予定。 {{節スタブ}} === 天才推理ブタジル === ブヒカン警部が推理する事件のトリックなどをクイズで答えていく読者コーナー。漫画は[[黒葉潤一]]。毎月、正解を当てた応募者の中から10名に商品が送られる。2007年11月号をもって終了した。 ==== 主要登場人物 ==== ; ブヒカン警部 : このコーナーの主人公。冷静な性格。「このブタジルがー!」が口癖。 ; 刑事たち : ブヒカン警部の側近の刑事。今までに3回交代している。この刑事は作者の担当をモチーフにしている。 :; かずくん刑事 :: 初期に出ていた刑事。初期ではブヒカン警部同様、名脇役だったが、ある事件で被害者をかばって撃たれ入院。その後ばったりと消え、イシイ刑事がほとんど目立ってしまった上、10月号で犯人にされるなど悲惨なキャラクターである。 :; イシイ刑事 :: かずくんに変わって登場した刑事。よく驚くと髪の毛が抜ける。爆弾解除の名人で、どんな爆弾も40秒あれば解除可能。警部に昇進するが事件に巻き込まれる。勝手な行動でブヒカン警部を驚かせたり困らせることもあり、たいした活躍はしていない。 :; ジュン刑事 :: アメリカ帰りの刑事。漢字が苦手。勝手な行動が多いが結果的に事件を解決するきっかけになっており、イシイ刑事よりは役に立っている。 === スチャダラ通信 === 1992年夏<!--何月号かは不明--> - 1998年9月号まで、上記の読者コーナーとは別に、本誌の真ん中辺りのページに掲載されていた読者コーナー。[[スチャダラパー]](ここではスチャダラ星人と称する)が編集を務めた。イラスト・4コマ漫画は[[すもと亜夢]]が担当。1回ネタを掲載されるごとに「1万ダラ」を授与される。5万ダラ集めるとTシャツ、10万ダラ集めると希望のゲーム機が賞品としてプレゼントされた。なお、100万ダラでも「もっとすてきな賞品(?)」が賞品として当たることになっているようだったが、誰もその掲載回数に達することはなかった。最高掲載者の横尾和慶(50万ダラ獲得)は、[[ピョコタン]]として漫画家になり、『コロコロコミック』で連載も持った。また、このコーナーを担当したスチャダラパーはコロコロを題材にした歌「コロコロなるまま」を発表した。 ==== 主なコーナー ==== ; 地球人VSスチャダラ星人 : 地球人が挙げる一般名詞を、スチャダラ星人風に駄洒落の言葉に変える。 ; めざせJリーグ!! : 地名をダジャレにした架空のサッカーチームの概要とマスコットを書く。 ; 大ボラコンテスト : とんでもない大ウソをつく。 ; スチャダラ珍獣図鑑 : 実在の有名人の名称をパロディ化した名前のお題に対し、想像でそのイラストを描く。 ; ゴッドファザー : お題に出された単語を、別の言葉で言い換える。 === 創のまんぷくガキグルメ === 読者が考えたおやつを紹介するコーナー。 * 登場人物 ; 具留米創 : 奇跡の味を創る天才小学生。 ; 具留米突連 : 甘え上手。創の親父。常に裸。そして色々な人のモノマネができる。 == 新人漫画家育成コーナー == : 将来の漫画家育成のため読者から作品を募集しているコーナー。 === コロコロまんがアカデミー === [[1994年]]から[[1995年]]まで巻末に掲載されていたコーナー。今賀俊による漫画で漫画執筆の基礎知識を紹介すると共に、読者から送られた『[[ドラえもん]]』を題材とするテーマ別の4コマ漫画を掲載していた。連載終了後は[[てんとう虫コミックス|てんとう虫コミックススペシャル]]より単行本も発売された。『まんがアカデミー』の題で電子書籍化もなされている。 ==== 登場人物 ==== ; かける : 本作の主人公で、プロの漫画家になることを目指している少年。同作者による『[[爆球連発!!スーパービーダマン]]』にも主人公タマゴのビーダー仲間として登場している。漫画にかける情熱は熱いが、飽きっぽく失敗ばかりする少年というコンセプトで制作された。 ; Dr.ペンガー : 主人公かけるに漫画の書き方を教えてくれる、長身のヒーローロボットのようなキャラクター。絵に描かれたものを実体化させる「ペンガーワンダービーム」の他、「ペンガータイムウェーブ」や「ペンガーミクロ光線」など様々な不思議な技を使用できる。正体不明で、漫画のことなら何でも知っており、他人に厳しく自分に甘いがいい人であるということをコンセプトに制作された。 ; カコ : かけるの妹。気が強く口が悪いが、兄思いの女の子。 ; 今賀俊 : コロコロまんがアカデミーの作者。「漫画家は自身の漫画を自由に作り上げることができ、(自身の漫画の中では)いわば神様のようなものである」ということを体現するため、神様のような出で立ちをしている。 ; 眼靴王 : Dr.ペンガーの友人。眼球から足が生え、靴を履いているといった見た目のキャラクター。漫画を書く上での様々なアングルを紹介する際に登場した他、様々な場面で登場する。 === コロコロ漫画大学校 === * 「藤子・不二雄賞」とは別に[[2000年]]からコロコロ独自で行われる新人賞。3か月ごとにオリジナル作品を募集し、優秀作はその評価で金メダル・銀メダル・銅メダルが贈られる。また、作品全体とは別に注目すべき点のあった1ページには「笑金」が贈られる。受賞後に活躍している作家に[[曽山一寿]]などがいる。 * 初期はコロコロの連載作家が審査員を務めることもあった。 * 誌面では漫画の基礎を紹介する漫画コーナーと、作品募集の告知を行っている。 ==== 登場人物 ==== ; コミ太 : 初代主人公。マンジロー校長から漫画の基礎を教わっている。執筆者はおぎのひとし。 ; ペン之助 : 2代目主人公。武士だったが漫画家を夢見てコロコロ編集部に筆書きの駄作を持ち込む。コロコロ編集部と連載作家から漫画の基礎を教わっていた。執筆者は[[おおせよしお]]。 ; ペン太 : 3代目主人公。生まれて初めてコロコロを見た瞬間に漫画家になることを決意したガリ勉少年。サガミネーターと執筆者の[[板垣雅也]]から漫画の基礎を教わっていた。作者が「[[マスカレード (漫画)|マスカレード]]」の連載に集中するため何の脈絡もなく打ち切りとなる。 ; 小タマ : 4代目主人公。「藤子不二雄賞」受賞後、連載に恵まれなかった小ガエルがサガミネーターに小タマに退化させられ、連載作家から漫画の基礎を学ぶよう命じられるという設定。コロコロ編集部と連載作家から漫画の基礎を教わっている。なお、小ガエルは開始時点で[[コロコロイチバン!]]で『ガリガリ君』を執筆していた他、途中から月コロで『[[ド根性小学生ボン・ビー太]]』の連載も開始している。 ; 番長 : 5代目主人公。この世の漫画を全て読み尽くしたため、もっと読みたいと願う。執筆者は矢川タケカズ。 ; 横田編集長 : ペン之助編で登場した編集長。「ヨコタヌキ」というあだ名で呼ばれることもあったが、基本的に普通の人間。モデルは横田前編集長。 ; サガミネーター :ペン之助編以降登場している編集長。金髪でサングラスをかけており、常に黒ずくめの服と武器を身につけている。横田編集長を抹殺して編集長に就任したとの噂があるらしい。このコーナー以外にも誌面の情報ページなどにも登場している他、公式サイトではコロドラゴンとサガミネーターによる4コマ漫画が連載されている。モデルは佐上7代目編集長。 == 発行部数 == * 2004年(2003年9月 - 2004年8月) 1,198,333部<ref name="jmpa">[https://www.j-magazine.or.jp/ 社団法人日本雑誌協会] JMPAマガジンデータによる該当期間中に発売された雑誌1号当たりの平均印刷部数。</ref> * 2005年(2004年9月 - 2005年8月) 1,085,000部<ref name="jmpa" /> * 2006年(2005年9月 - 2006年8月) 963,334部<ref name="jmpa" /> * 2007年(2006年9月 - 2007年8月) 932,500部<ref name="jmpa" /> * 2008年(2007年10月 - 2008年9月) 885,000部<ref name="jmpa" /> * 2009年(2008年10月 - 2009年9月) 911,667部<ref name="jmpa" /> * 2010年(2009年10月 - 2010年9月) 950,834部<ref name="jmpa" /> * 2011年(2010年10月 - 2011年9月) 837,500部<ref name="jmpa" /> 2017年5月号時点での本誌累計発行部数は4億冊を突破している<ref>[https://animeanime.jp/article/2017/05/04/33737.html コロコロ×スカイツリーのコラボビジュアル公開、カフェメニューも明らかに]、アニメ!アニメ!、2017年5月4日18:00。</ref>。 {| class="wikitable" |+ 発行部数(2008年4月以降)([https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index 一般社団法人 日本雑誌協会]) ! !! 1〜3月 !! 4〜6月 !! 7〜9月 !! 10〜12月 |- ! 2008年 | || 883,333 部 || 910,000 部 || 896,667 部 |- ! 2009年 | 923,334 部 || 936,667 部 || 890,000 部 || 920,000 部 |- ! 2010年 | 1,010,000 部 || 956,667 部 || 916,667 部 || 950,000 部 |- ! 2011年 | 893,334 部 || 763,334 部 || 743,334 部 || 733,334 部 |- ! 2012年 | 710,000 部 || 700,000 部 || 648,334 部 || 630,000 部 |- ! 2013年 | 616,667 部 || 573,334 部 || 560,000 部 || 620,000 部 |- ! 2014年 | 673,334 部 || 820,000 部 || 960,000 部 || 1,116,667 部 |- ! 2015年 | 1,050,000 部 || 970,000 部 || 920,000 部 || 896,667 部 |- ! 2016年 | 870,000 部 || 806,667 部 || 790,000 部 || 843,333 部 |- ! 2017年 | 763,333 部 || 776,667 部 || 763,333 部 || 800,000 部 |- ! 2018年 | 786,667 部 || 726,667 部 || 716,667 部 || 663,333 部 |- ! 2019年 | 623,333 部 || 640,000 部 || 560,000 部 || 563,333 部 |- ! 2020年 | 526,667 部 || 510,000 部 || 483,333 部 || 446,667 部 |- ! 2021年 | 406,667 部 || 376,667 部 || 360,000 部 || 346,667 部 |- ! 2022年 | 456,667 部 || 330,000 部 || 330,000 部 || 336,667 部 |- ! 2023年 | 323,333 部 || 333,333 部 || 326,667 部 || |} == 執筆室 == 1980年代までのコロコロ編集部は、小学館本社近くの貸しビルに漫画家たちが泊り込みで漫画を描ける「執筆室」を用意していた。初代編集長である千葉和治の発案により<ref name="コロコロ執筆突撃隊">{{Cite book|和書|author=たかや健二|authorlink=たかや健二|editor=塚原正寛・荒木淳・関俊行|title=[[熱血!!コロコロ伝説]]|year=2007|publisher=小学館|series=ワンダーライフスペシャル コロコロ30周年シリーズ|volume=Vol.2|isbn=978-4-09-106343-4|pages=221-227|chapter=コロコロ執筆突撃隊}}</ref>、資金繰りの苦しい若手漫画家たちの、編集部までの交通費を浮かす等の理由で設けられたもので、利用した漫画家たちはお互いの原稿を手伝うなどして横の繋がりを深めていた。執筆室の常連だった漫画家には、[[たかや健二]]、[[ながいのりあき]]、[[大林かおる]]、[[小林たつよし]]らがおり、当時はまだ新人でアシスタントとして出入りしていた面々には[[徳田ザウルス]]、[[飛鳥昭雄]]、[[岩田和久]]、[[安江浩司]]らがいる<ref name="コロコロ執筆突撃隊" />。漫画執筆のみならず、執筆の合間の食事、様々な話題の雑談、酒などの楽しみもあった<ref name="コロコロ執筆突撃隊" />。たかや健二によれば、執筆室は夢と情熱にあふれた若い漫画家たちの場であり、当時の仲間たちとの交流はその後も続いており、執筆室はいわば[[トキワ荘]]のような存在だったという<ref name="コロコロ執筆突撃隊" />。 == 40周年記念プロジェクト == [[2017年]]に創刊40周年を迎えるにあたり、創刊40周年記念プロジェクトを展開している。 * モンテリーズジャパン「リカルデントKIDS」- コラボレーションガムの発売 * [[東京スカイツリー]] - コラボカフェの設置およびスタンプラリーの実施 * [[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)・[[東武亀戸線]] - スタンプラリーの実施 * [[日刊スポーツ新聞社]]・[[日刊スポーツ新聞西日本]] - 「コロコロ40周年新聞」を7月15日から発行<ref>[https://www.nikkansports.com/corocoro/ コロコロ40周年新聞] 日刊スポーツ</ref> * [[パシフィックリーグ|パ・リーグ]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]・[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武]]・[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・[[オリックス・バファローズ|オリックス]]・[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]) - パ・リーグ親子プロジェクトの2017年度コラボテーマとして実施 * [[サンリオ]] - 歴代の人気連載漫画のキャラクターを同社がアレンジデザインしたグッズの発売 === Webアニメ === 『'''40周年だよ!!コロコロオールスター小学校'''』は、YouTubeコロコロチャンネルで配信の40周年記念Webアニメ。 ==== 登場キャラクター ==== 演じた[[声優]]も併せて記載。 * 『[[ドラえもん]]』 ** [[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]] - [[水田わさび]] ** [[野比のび太|のび太]] - [[大原めぐみ]] ** [[源静香|しずか]] - [[かかずゆみ]] ** [[剛田武|ジャイアン]] - [[木村昴]] ** [[骨川スネ夫|スネ夫]] - [[関智一]] * 『[[妖怪ウォッチ]]』 ** ジバニャン - [[小桜エツコ]] ** ロボニャン * 『[[100%パスカル先生]]』 ** パスカル先生 - [[佐藤はな]] * 『[[ベイブレードバースト]]』 ** 蒼井バルト - [[井上麻里奈]] * 『[[絶体絶命でんぢゃらすじーさん|なんと!でんぢゃらすじーさん]]』 ** じーさん - [[中村大樹]] * 『[[ケシカスくん]]』 ** ケシカスくん - [[岩田光央]] * 『[[デュエル・マスターズ (アニメ)|デュエル・マスターズ]]』 ** 切札ジョー - [[小林由美子]] * 『[[フューチャーカード バディファイト]]』 ** 未門牙王 - [[水野麻里絵]] * 『[[怪盗ジョーカー]]』 ** ジョーカー - [[村瀬歩]] * 『[[ウソツキ!ゴクオーくん]]』 ** ゴクオーくん - [[西墻由香]] * 『[[マジで!!まじめくん!]]』 ** まじめくん - [[池辺久美子]] * 『[[パズドラクロス]]』 ** 龍喚士エース - [[吉永拓斗]] * 『[[ゾゾゾ ゾンビーくん]]』 ** ゾンビーくん - [[安井咲希]] * 『手裏拳トンマ』 ** 目賀トンマ - [[虎渡瑞季]] * 『野球の星 メットマン』 ** 星野空 - [[弘松芹香]] * 『[[おぼっちゃまくん]]』 ** 御坊茶魔 * 『[[うちゅう人 田中太郎]]』 ** 田中太郎 * 『[[つるピカハゲ丸]]』 ** ハゲ田ハゲ丸 * オリジナルキャラクター ** 新キャラくん ** 編集長 - [[和田誠]] ==== スタッフ ==== ; ドラえもんアニメパート :* 原作 - [[藤子・F・不二雄]] :* 絵コンテ・演出 - [[腰繁男]] :* 作画監督 - [[大武正枝]] :* 色指定 - うすいこうぢ :* 美術監督 - 堀江志 :* 撮影監督 - 熊谷正弘 :* 音響監督 - 田中章喜 :* 音響制作 - AUDIO PLANNING U :* 録音スタジオ - APU MEGURO STUDIO :* アニメーション制作 - [[シンエイ動画]] ; コロコロオールスター小学校パート :* 監督 - 小高義規 :* 脚本 - [[永野たかひろ]] :* 絵コンテ - [[小野勝巳]] :* 演出 - 春藤佳奈 :* 作画監督 - 小沢久美子、[[佐藤和巳]]、しもがさ美穂、武内啓、[[長森佳容]]、薮本陽輔、[[山田俊也]] :* 色彩設計 - なかむらちほ :* 色指定・仕上げ検査 - 小日置知子 :* 美術監督 - 宮家昌和 :* 背景 - 新間夏海 :* 撮影監督 - 浅川茂輝 :* アニメーション制作 - [[オー・エル・エム|OLM]] TEAM KAMEI :* 音響監督 - [[飯塚康一]] :* 音響制作 - [[HALF H・P STUDIO]] :* 録音スタジオ - [[スワラ・プロ|スリーエススタジオ]] :* 音楽 - [[鳴瀬シュウヘイ]] :* 製作 - 小学館 コロコロコミック編集部 :* 協賛 - [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]]株式会社、株式会社[[キッズステーション]]、株式会社[[コナミデジタルエンタテインメント]]、株式会社[[タカラトミー]]、株式会社[[タカラトミーアーツ]]、株式会社[[バンダイ]]、株式会社[[ブシロード]]、株式会社[[レベルファイブ]]、映画『妖怪ウォッチ』プロジェクト2017、『[[ポケットモンスター サン&ムーン]]』、『[[ポケモンの家あつまる?]]』 :* 協力 - 相棒学園2017、ウィザーズ・オブ・ザ・ゴースト、怪盗ジョーカープロジェクト、パズドラクロスプロジェクト2017、100%パスカルプロジェクト、BBB Project、妖怪ウォッチプロジェクト ==== 各話リスト ==== {{節スタブ|第2話の記載をお願いします。}} {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!配信日 |- |第1話||コロコロキャラがガチバトル!<br />夢の対決! No.1決定戦||'''2017年'''<br />7月14日 |} == 関連項目 == * [[幼年漫画]] * [[週刊少年サンデー]] * [[てれびくん]] * [[別冊コロコロコミック]] * [[コロコロイチバン!]] * [[ぷっちぐみ]] * [[久保雅一]](デスク、副編集長験者) * [[佐々木多利爾]](1986年より表紙装丁を担当) * [[次世代ワールドホビーフェア]](小学館主催のホビーイベント) * [[おはスタ]](テレビ東京系の子供向け情報番組) * [[高橋健一 (お笑い芸人)|高橋健一]](読者コーナーで「イラスト中のスペースにハガキの応募宛先がはめ込まれる」パターンを考案した<ref>{{cite news|title=キングオブコメディ高橋健一「コロコロコミック」を捜索。一大革命を起こした小学生時代の投稿に出会えるか|newspaper=エキサイトニュース|date=2015-08-06|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1437721530586/|accessdate=2015-08-08|publication-date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150807052201/http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20150806/E1437721530586.html|archivedate=2015年8月7日}}</ref>) * [[ガリガリガリクソン]](ネタの時にコロコロのTシャツを着用) * [[T-Pistonz+KMC]](コロコロコミック35周年記念応援歌を製作) * [[岡崎体育]](コロコロコミック40周年記念応援歌を製作) * [[みゆはん]](コロコロコミック45周年記念応援歌を製作) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://corocoro.jp/ コロコロオンライン] * {{Twitter|corocoro_tw|コロコロコミック}} * {{YouTube|channel=UCKtxF3ufOkuJohTeKyNbYrQ|コロコロチャンネル}} * [https://web.archive.org/web/20090323053707/http://corocoro.tv/coroden/ 熱血!!コロコロ伝説公式ページ] * [https://web.archive.org/web/19980204165414/http://www.shogakukan.co.jp/corocoro/index.html ミニ四駆・ポケモンNEWS] * [https://web.archive.org/web/20010603161311/http://www.coro.shogakukan.co.jp/corocoro/ V-coro] {{コロコロコミック連載中}} {{小学館}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=コロコロコミック |1-1=隔月刊漫画雑誌 |1-2=季刊漫画雑誌 }} {{デフォルトソート:けつかんころころこみつく}} [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:小学館の漫画雑誌]] [[Category:月刊漫画雑誌|ころころこみつく]] [[Category:児童・幼年漫画雑誌]] [[Category:1977年創刊の雑誌]] [[Category:コロコロコミック|*]] [[Category:刊行中の漫画雑誌]]
2003-09-07T00:10:44Z
2023-12-21T12:09:20Z
false
false
false
[ "Template:複数の問題", "Template:Display none", "Template:See", "Template:Reflist", "Template:Pp-vandalism", "Template:独自研究", "Template:Unicode", "Template:Cite news", "Template:基礎情報 雑誌", "Template:Twitter", "Template:Cite book", "Template:YouTube", "Template:コロコロコミック連載中", "Template:Infobox YouTube personality", "Template:Main2", "Template:R", "Template:節スタブ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:小学館", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%88%8A%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF
15,468
東急3000系電車 (2代)
東急3000系電車(とうきゅう3000けいでんしゃ)は、東急電鉄の通勤形電車である。1999年(平成11年)4月16日に営業運転を開始した。 「すべてにやさしく美しい車両」をコンセプトとし、また2000年(平成12年)9月26日からの目黒線の地下鉄南北線・都営地下鉄三田線との直通運転に対応する車両として設計・製造された。東急電鉄での新型車両は2000系以来7年ぶり、新設計車両としては9000系以来13年ぶりとなった。車体・搭載機器・内装・運転台などすべてを見直し、東急の新造車両では初採用となる機器やバリアフリー設備を有している。 直通運転は当初9000系を改造して対応させる計画であったが、1990年6月にホームドア方式へ計画を変更したことでモニタ装置搭載等の大掛かりな改造が必要となったことや、南北線内は急勾配が連続し、主電動機の出力不足が懸念されていたことから、従来車の改造ではなく新設計の車両を導入する方がコスト面などで有利であると判断され、本系列が新製された。 なお、東急で3000系を名乗る形式はこれで2代目になるため、「新3000系」と呼ばれることもある。また、旧3000系と同じくデハ3200・3250・3400形が存在する。 20m級、片側4扉車体でビードのない軽量ステンレス鋼製車体であり、全面ダルフィニッシュ(つや消し)仕上げである。側面は窓下と幕板部に東急のコーポレートカラーの赤を基本としながら、アクセントとして濃紺と白のラインが貼られている。 前頭部は8000系製造時からの方針であった「前面形状は切妻以外行わない」と言う方針を、ワンマン機器搭載などの関係で転換し、東急では久々の流線型となった。FRP成形品を使用し、曲線を多用しソフトなイメージとしており、フロントガラスは側面までまわり込んだ曲面ガラスである。非常用貫通扉は運転室から見て右側にオフセット配置されており、プラグドアが採用されている。下部にはスカートが取り付けられた。車内には大型化された非常用ハシゴが搭載されている。また両先頭車の床下には非常脱出用の折りたたみ式ハシゴが設置されている。 行先表示器はゴシック体のLED式で、日本語と英語を交互に表示する方式であり、英字表記は2段表示となることもある。 車両番号・号車番号の表記は書体と方式が変更された。側面においては従来エッチングプレートを用いていたところ、本系列ではプレートにステッカーを貼付する方式とし、また号車番号も札を挿す形であったものを車番と同じリベット止めに変更した。エンド表記の書体は変更されていない。 目黒線上り(目黒方面)運転時は終着駅名と乗り入れ先の路線名を同時に表示していた(「三田線」もしくは「南北線埼玉線」)。この表示は目黒到着時に終着駅名表示のみとしている。急行運転開始後は、路線名表示に代わって種別を表示(急行または各停)するようにした。ただし、白金高輪始発の三田線内発着・南北線内発着の場合及び他社線内は行先のみ表示を行う。これは5080系も同様である。 本系列は落成時より車両間に転落防止幌を設置していたが、目黒線各駅にはホームドアがあり不要なことから、2003年1月より順次撤去した。 客室内はローズレッド系をベースとしたカラーリングである。化粧板は線路方向が光沢仕様の白色系、妻面は乗務員室仕切りを含め艶消しの淡いピンク色である。床材は薄い茶色であるが、編成で柄が異なり3種類ある。天井中央には冷房吹出口と一体成形されたFRP製空調ダクト(天井ユニット)を採用し、補助送風機として各車6台ラインデリアが設けられている。側窓は車端部は車いすスペース部を除いてすべて開閉可能、ドア間の2連窓は固定窓・下降窓のユニット式であり、車内窓枠はFRP製として遮光用に巻上げカーテンが設置されている。 客用ドアの室内側には化粧板が貼り付けられており、ドアガラスの室内側は段差のある金属支持である。車端部貫通路にも同様の化粧板が貼り付けられている。なお、貫通路窓は下方向に長い片開き式のもので、その支持方式は側面ドアとは異なる。貫通扉は各車両の上り側(目黒側)に設置され、妻面窓は設置している。戸閉装置はベルト駆動式の空気式だが、戸閉力弱め制御機構を搭載している。 座席は片持ち式であり、1人分の掛け幅が450mmのロングシートである。座面はバケットシートで、色調は赤系(背)と茶系(座面)である。7人掛の座席には3+4人にスタンションポールで仕切られている。座席端の仕切りは大形の仕切り板にした。各車には優先席が設けられており、優先席は区別のため座席が青色とされ、この付近のつり革はオレンジ色である。 車椅子スペースは2号車と5号車の編成中の2か所に設置されている。車椅子利用者への配慮として暖房器と安全手すり、非常通報器を設置している。車内の非常通報器は乗務員と相互通話可能なタイプを採用しており、各車4台設置してある。乗り入れ他社も含めて乗客が押釦後、運転士が10秒間応答しない場合には列車無線に接続され、運輸司令所の司令員が代わりに応答できるシステムになっている。 また、貫通路幅は車椅子での通行を考慮して900mm幅へ広げている。 荷棚は金網式だが、高さを従来車より20mm低い1,750mmとした。つり革は三角形のものとなり、高さは従来と同じ1,630mmを基本としているが、ユニバーサルデザインの一環として一部に100mm低い1,530mmのつり革を設けている。低いつり革は新5000系以降の新造車や9000系車内更新車の一部でも採用された。 客用ドア上部には東急の車両で初めて千鳥配置の2段LED式の旅客案内表示器、ドアチャイムを採用した。表示器の設置していないドア上部には広告枠とドア開閉予告灯が設置してある。その後、これに準じた案内表示器は8500系・9000系・1000系の一部と2000系にも取り付けられた。 車内放送装置には従来通り自動放送装置が搭載されたが、本系列より英語放送が追加されている。 車内の車号銘板・製造銘板・禁煙札・消火器札などの表記類は従来のアクリル板(リベット止め)からシール式に変更している。さらに製造年表記も和暦から西暦に変更され、以後の形式でも採用されている。 乗務員室内は反射を抑えた色調としてグレー系である。ワンマン運転設備の設置のために従来より線路方向に300mm広く、1,675mm確保されている。運転台はダークグレー系色であり、従来車同様T字形ワンハンドルマスコン(デッドマン装置付)が中央にある。速度計は120km/h表示であり、ワンマン運転用にドア開閉ボタン・ATO出発ボタン・非常停止ボタンなどがある。上部には車上ITV(ホーム監視モニター)が設置されている。車掌台上にはホーム監視カメラからの映像を受信するミリ波受信装置が設置されている。 計器盤右側には車両情報装置 (TIS) 表示器が収納されている。TISでは制御伝送機能・搭載機器の動作確認・行先表示の設定や空調装置・自動放送・車内表示器などのサービス機器の操作機能があり、ワンマン運転時の乗務員支援装置としての機能がある。車掌スイッチはワンマン運転用に押しボタン式としており、閉扉は1ボタン式だが、開扉は誤操作防止のため2ボタン式としている。さらに再開閉スイッチ、乗降促進ボタン、合図ブザー、非常ブレーキスイッチとユニット化された。 乗務員室仕切りは前面窓と同じような窓割で仕切り窓が3枚ある。客室から見て左側の大窓と乗務員室扉窓には遮光ガラスが使用され、遮光幕も設置されている。遮光幕は大窓は下降式の遮光板、仕切窓扉は開閉可能な窓のためにカーテン式とした。ワンマン運転用に乗務員室仕切扉には電磁鎖錠が取り付けられている。 3M3Tの6両編成であるが、将来の8両編成化を考慮してM車はM1車に、T車はM2車へと容易に改造可能な設計となっており、これにより補機類を搭載しないサハ2両を組み込むことで8両化が可能とされる。床下については従来車から見直され、大型機器のつり枠の廃止や、従来は個別に設置していた機器を「共通機器箱」と称する1つの箱に集約するなどして軽量化を図っている。 制御装置にはIGBT素子使用のVVVFインバータ制御(3レベル 1700V/1200A)を採用。トルク制御にはベクトル制御を採用することでスムーズな加減速を可能とした。1群で2つの主電動機を制御する1C2M制御とし、デハ3200形に4群の装置、デハ3400形は2群の装置を搭載する。日立製作所製と東芝製の2タイプが存在し、車両番号末尾が奇数の車両には日立製、偶数の車両には東芝製が使用されている。東芝製のVVVF装置は東急初の本格採用となった。形式については日立製4群がVFI-HR4820E、同2群がVFI-HR2420B、東芝製4群がSVF038-A0、同2群がSVF038-B0となる。 主電動機は定格出力190kW、回転数1,825rpmのかご形三相誘導電動機で、TKM-98形(東洋製)とTKM-99形(日立製)の二種が存在する。3007Fまでは前者、3008F以降は後者で製造されたが、互換性があるため検査等により入れ替わりが発生している。駆動装置はTD継手を使用した中実軸平行カルダン方式であり、歯車比は主電動機の回転数を抑え騒音を低減するために極力小さくした87:14(6.21)としている。 補助電源装置にはIGBT素子を使用した静止形インバータ (SIV) を採用した。容量は210kVAで、M2車・T車に搭載し、6両・8両ともに編成内で2台となる。形式はINV127-B0。 集電装置には東急の新型車両で初めてシングルアーム型パンタグラフを搭載した。剛体架線対応のPT-7108BをM1車に2基搭載する。 空気圧縮機 (CP) は従来車と同じレシプロ式だが、吐出量は従来車両の2,000L/minから2,463L/minに増大し、8両編成における搭載台数を2台とした。1744-C2500LをSIVと同じ車両に搭載する。 ブレーキ装置はHRDA(High Response Digital-Analog)方式で、回生ブレーキ併用デジタル指令-アナログ変換式電磁直通ブレーキである。保安ブレーキを備える。電気指令式であり、非常ブレーキや保安ブレーキ等の指令は引き通し線を使用、常用ブレーキの指令はモニタ装置により行われる。常用ブレーキは回生ブレーキを優先して使用、遅れ込め制御を行う。段数は通常時は7段、ATO運転時には15段となる。またフラット防止装置をブレーキ制御装置内に搭載している。電動機のPGセンサまたは台車の速度発電機からの入力により滑走を検知し、吸排気を行うことで固着滑走防止を図っている。 台車は東急車輛製造製の軸箱支持が軸梁式のボルスタレス台車 (TS-1019・TS-1020) であり、牽引装置はZリンクとなる。固定軸距は従来車より100mm短縮した2,100mmとし、軽量化等を図っている。車両の床高さを下げるため、台車枠の側梁の位置を下げるとともに、軸ばねが納まる「ばね帽」と呼ばれる部分を補強することで、台車枠の側梁を弓なり形状とせず、ほぼ直線状のままとした構造としている。基礎ブレーキはM台車、T台車ともに東急で初めて片押し式ユニットブレーキを採用した。ディスクブレーキは搭載していない。また軸端には速度計用、フラット防止装置用にそれぞれ速度発電機が取付けられている。なお、5000系列とその派生形式でも同等の台車が採用されている。 冷房装置は東急の車両として初めて集中式を採用した。温風暖房機能を備える。3012Fまでは冷房能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、3001F - 3009Fは東芝製RPU1101-2H、3010F - 3012Fは日立製作所製HRB503-1を搭載していた。3013Fは試験的に58.14kW(50,000kcal/h)の装置を搭載した。当初は1号車のみ従来型で、3種類のクーラーを搭載していたがすぐに交換され、目黒方3両が日立製作所製HRB504-1、日吉方3両が三菱電機製CU706という状態が長く続いた。写真についてはを参照のこと。なお、日立・三菱の装置に関しては2015年頃に交換され、現在は全編成が東芝製のRPU1101-2Hで統一されている。 列車無線はクハ3100形に集約配置し、本体装置と2基の屋根上アンテナを備える。クハ3000形には操作器のみが搭載される。 保安装置は新CS-ATC・ATC-P・東急型ATS・ATOを搭載し製造された。後に東急型ATSは使用を終了し撤去、さらに相鉄対応改造によりATS-Pが設置されている。 ATC装置については集約化・軽量化を図り、クハ3000形に装置本体 (ATC/ATO装置)を、クハ3100形にATC増幅器を搭載した。クハ3100形で運転する際は、同車の受電器にて受信した信号をATC増幅器を通してクハ3000形のATC装置に転送、その制御部で制御を行う形となる。両先頭車間の伝送にはTISを使用している。なお相鉄対応改造によりそれらの装置はATC/S/O装置に置き換えられた。 ATO送受信器などと同等の機能を有する情報伝送装置をクハ3000形に搭載し、ATCの付加機能やATOにおける定位置停止のための地上子とのインタフェースに使用される。 またホームドアと車両ドアの連動などを行うための戸閉制御切換装置を両先頭車に搭載している。 東急目黒線内ではATC-PとTASC(ATO装置内のTASC機能)を使用しており、力行時は運転士の手動操作、駅停止時のブレーキ操作はTASCで自動停止する。東急型ATSは2008年まで、定期検査などで長津田へ回送される際の大井町線走行時などに使用されていた。 1次車落成・東横線暫定運用 1999年3月、1次車として8両編成1本 (後の3001F・3002F、詳細は#編成表参照) が落成し、一時的に東横線へ投入された。1999年4月16日の入籍から2000年1月15日まで営業運転が行われ、主に急行運用に就いていた。 8両編成の組成は暫定的であるため将来の編成替えに備え、本来編成内で統一される車両番号末尾や制御装置などが不揃いなだけでなく、車椅子スペースの位置も2・6号車の日吉方と変則的な配置であった。しかしながら、サハ3500形の2両ではCP・SIVなどの補機類が未搭載(編成替え時に設置)であったことが特筆される。 2次車落成・本格運用開始 1999年10月から2000年1月にかけて、2次車として6両編成10本 (3003F - 3012F) と、3001F向けの中間車1両(デハ3401)・3002Fの3両 (クハ3002・クハ3102・デハ3402) が落成した。入籍はすべて営業運転開始日である2000年8月6日付とされている。営業運転開始までは乗務員訓練での使用のほか、鷺沼留置線などへの疎開留置もみられた。 2次車での以下の通り様々な仕様変更が行われている。 なお1次車においても後に量産化改造が実施され、一部を除き仕様が揃えられた。 2000年2月、3001F・3002Fの編成替えが行われた。3001Fはサハ3502・デハ3252・デハ3202の3両を外し、デハ3401を組み込み。3002Fには前述の3両が組み込まれた。また両編成においてサハ3500形はSIV・CP等の取付が行われ、2次車以降と編成構成が揃えられた。なお1次車の8両は2000年8月6日付で東横線から目黒線へ転属している。 2000年8月6日の運転系統変更とともに目黒線で本格的に運用を開始した。運用開始当初は3012Fまでの12本が在籍、うち1本を予備車としていた。 3次車落成 2001年3月、定期検査時の予備編成確保を考慮して3次車1本 (3013F) が増備された。仕様については若干の変更があり、運転台側のワイパーブレードが固定式へ変更されたほか、両先頭車の床下には側面非常はしごを新たに設置した。また、比較検討目的で空調装置も変更(#主要機器参照)されており、この編成での試験結果を基により能力向上させた冷房装置が5000系において採用されることとなった。 なおこれに合わせ1次車・2次車においても側面非常はしごの設置が行われている。 本系列の増備は3013Fの新製をもって終了し、よりコストダウンを図った5080系の増備に移行した。 編成ごとの仕様差 編成単位で変更が行われたものを以下に示す。 2022年8月から翌年3月にかけて、全13編成に対して新造車の増結による8両編成化が行われた。組込みに際しては既存車の改番も行われ、付番方式が5000系以降のものに変更されている。 増結用中間車の車体構造や内装は5000系列に準じており、同時期製造の5080系用中間車とほぼ同一の仕様であるが、外板は既存車に合わせたダルフィニッシュ仕上げとなっている。2021年度に20両、翌年度に6両が竣工し、いずれも組込み(既存車の改番)と同時に入籍している。 8両編成 6両編成 過去の形態:8両編成(竣工時・東横線) 現在、8両編成13本(104両)が元住吉検車区に在籍し、以下の路線で5080系、3020系と共通で運用されている。 ※2000年8月6日の本格運用開始以前の動きについては#導入完了までの動きを参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急3000系電車(とうきゅう3000けいでんしゃ)は、東急電鉄の通勤形電車である。1999年(平成11年)4月16日に営業運転を開始した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「すべてにやさしく美しい車両」をコンセプトとし、また2000年(平成12年)9月26日からの目黒線の地下鉄南北線・都営地下鉄三田線との直通運転に対応する車両として設計・製造された。東急電鉄での新型車両は2000系以来7年ぶり、新設計車両としては9000系以来13年ぶりとなった。車体・搭載機器・内装・運転台などすべてを見直し、東急の新造車両では初採用となる機器やバリアフリー設備を有している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "直通運転は当初9000系を改造して対応させる計画であったが、1990年6月にホームドア方式へ計画を変更したことでモニタ装置搭載等の大掛かりな改造が必要となったことや、南北線内は急勾配が連続し、主電動機の出力不足が懸念されていたことから、従来車の改造ではなく新設計の車両を導入する方がコスト面などで有利であると判断され、本系列が新製された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、東急で3000系を名乗る形式はこれで2代目になるため、「新3000系」と呼ばれることもある。また、旧3000系と同じくデハ3200・3250・3400形が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "20m級、片側4扉車体でビードのない軽量ステンレス鋼製車体であり、全面ダルフィニッシュ(つや消し)仕上げである。側面は窓下と幕板部に東急のコーポレートカラーの赤を基本としながら、アクセントとして濃紺と白のラインが貼られている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "前頭部は8000系製造時からの方針であった「前面形状は切妻以外行わない」と言う方針を、ワンマン機器搭載などの関係で転換し、東急では久々の流線型となった。FRP成形品を使用し、曲線を多用しソフトなイメージとしており、フロントガラスは側面までまわり込んだ曲面ガラスである。非常用貫通扉は運転室から見て右側にオフセット配置されており、プラグドアが採用されている。下部にはスカートが取り付けられた。車内には大型化された非常用ハシゴが搭載されている。また両先頭車の床下には非常脱出用の折りたたみ式ハシゴが設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "行先表示器はゴシック体のLED式で、日本語と英語を交互に表示する方式であり、英字表記は2段表示となることもある。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "車両番号・号車番号の表記は書体と方式が変更された。側面においては従来エッチングプレートを用いていたところ、本系列ではプレートにステッカーを貼付する方式とし、また号車番号も札を挿す形であったものを車番と同じリベット止めに変更した。エンド表記の書体は変更されていない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "目黒線上り(目黒方面)運転時は終着駅名と乗り入れ先の路線名を同時に表示していた(「三田線」もしくは「南北線埼玉線」)。この表示は目黒到着時に終着駅名表示のみとしている。急行運転開始後は、路線名表示に代わって種別を表示(急行または各停)するようにした。ただし、白金高輪始発の三田線内発着・南北線内発着の場合及び他社線内は行先のみ表示を行う。これは5080系も同様である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本系列は落成時より車両間に転落防止幌を設置していたが、目黒線各駅にはホームドアがあり不要なことから、2003年1月より順次撤去した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "客室内はローズレッド系をベースとしたカラーリングである。化粧板は線路方向が光沢仕様の白色系、妻面は乗務員室仕切りを含め艶消しの淡いピンク色である。床材は薄い茶色であるが、編成で柄が異なり3種類ある。天井中央には冷房吹出口と一体成形されたFRP製空調ダクト(天井ユニット)を採用し、補助送風機として各車6台ラインデリアが設けられている。側窓は車端部は車いすスペース部を除いてすべて開閉可能、ドア間の2連窓は固定窓・下降窓のユニット式であり、車内窓枠はFRP製として遮光用に巻上げカーテンが設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "客用ドアの室内側には化粧板が貼り付けられており、ドアガラスの室内側は段差のある金属支持である。車端部貫通路にも同様の化粧板が貼り付けられている。なお、貫通路窓は下方向に長い片開き式のもので、その支持方式は側面ドアとは異なる。貫通扉は各車両の上り側(目黒側)に設置され、妻面窓は設置している。戸閉装置はベルト駆動式の空気式だが、戸閉力弱め制御機構を搭載している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "座席は片持ち式であり、1人分の掛け幅が450mmのロングシートである。座面はバケットシートで、色調は赤系(背)と茶系(座面)である。7人掛の座席には3+4人にスタンションポールで仕切られている。座席端の仕切りは大形の仕切り板にした。各車には優先席が設けられており、優先席は区別のため座席が青色とされ、この付近のつり革はオレンジ色である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "車椅子スペースは2号車と5号車の編成中の2か所に設置されている。車椅子利用者への配慮として暖房器と安全手すり、非常通報器を設置している。車内の非常通報器は乗務員と相互通話可能なタイプを採用しており、各車4台設置してある。乗り入れ他社も含めて乗客が押釦後、運転士が10秒間応答しない場合には列車無線に接続され、運輸司令所の司令員が代わりに応答できるシステムになっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、貫通路幅は車椅子での通行を考慮して900mm幅へ広げている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "荷棚は金網式だが、高さを従来車より20mm低い1,750mmとした。つり革は三角形のものとなり、高さは従来と同じ1,630mmを基本としているが、ユニバーサルデザインの一環として一部に100mm低い1,530mmのつり革を設けている。低いつり革は新5000系以降の新造車や9000系車内更新車の一部でも採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "客用ドア上部には東急の車両で初めて千鳥配置の2段LED式の旅客案内表示器、ドアチャイムを採用した。表示器の設置していないドア上部には広告枠とドア開閉予告灯が設置してある。その後、これに準じた案内表示器は8500系・9000系・1000系の一部と2000系にも取り付けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "車内放送装置には従来通り自動放送装置が搭載されたが、本系列より英語放送が追加されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "車内の車号銘板・製造銘板・禁煙札・消火器札などの表記類は従来のアクリル板(リベット止め)からシール式に変更している。さらに製造年表記も和暦から西暦に変更され、以後の形式でも採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "乗務員室内は反射を抑えた色調としてグレー系である。ワンマン運転設備の設置のために従来より線路方向に300mm広く、1,675mm確保されている。運転台はダークグレー系色であり、従来車同様T字形ワンハンドルマスコン(デッドマン装置付)が中央にある。速度計は120km/h表示であり、ワンマン運転用にドア開閉ボタン・ATO出発ボタン・非常停止ボタンなどがある。上部には車上ITV(ホーム監視モニター)が設置されている。車掌台上にはホーム監視カメラからの映像を受信するミリ波受信装置が設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "計器盤右側には車両情報装置 (TIS) 表示器が収納されている。TISでは制御伝送機能・搭載機器の動作確認・行先表示の設定や空調装置・自動放送・車内表示器などのサービス機器の操作機能があり、ワンマン運転時の乗務員支援装置としての機能がある。車掌スイッチはワンマン運転用に押しボタン式としており、閉扉は1ボタン式だが、開扉は誤操作防止のため2ボタン式としている。さらに再開閉スイッチ、乗降促進ボタン、合図ブザー、非常ブレーキスイッチとユニット化された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "乗務員室仕切りは前面窓と同じような窓割で仕切り窓が3枚ある。客室から見て左側の大窓と乗務員室扉窓には遮光ガラスが使用され、遮光幕も設置されている。遮光幕は大窓は下降式の遮光板、仕切窓扉は開閉可能な窓のためにカーテン式とした。ワンマン運転用に乗務員室仕切扉には電磁鎖錠が取り付けられている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "3M3Tの6両編成であるが、将来の8両編成化を考慮してM車はM1車に、T車はM2車へと容易に改造可能な設計となっており、これにより補機類を搭載しないサハ2両を組み込むことで8両化が可能とされる。床下については従来車から見直され、大型機器のつり枠の廃止や、従来は個別に設置していた機器を「共通機器箱」と称する1つの箱に集約するなどして軽量化を図っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "制御装置にはIGBT素子使用のVVVFインバータ制御(3レベル 1700V/1200A)を採用。トルク制御にはベクトル制御を採用することでスムーズな加減速を可能とした。1群で2つの主電動機を制御する1C2M制御とし、デハ3200形に4群の装置、デハ3400形は2群の装置を搭載する。日立製作所製と東芝製の2タイプが存在し、車両番号末尾が奇数の車両には日立製、偶数の車両には東芝製が使用されている。東芝製のVVVF装置は東急初の本格採用となった。形式については日立製4群がVFI-HR4820E、同2群がVFI-HR2420B、東芝製4群がSVF038-A0、同2群がSVF038-B0となる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "主電動機は定格出力190kW、回転数1,825rpmのかご形三相誘導電動機で、TKM-98形(東洋製)とTKM-99形(日立製)の二種が存在する。3007Fまでは前者、3008F以降は後者で製造されたが、互換性があるため検査等により入れ替わりが発生している。駆動装置はTD継手を使用した中実軸平行カルダン方式であり、歯車比は主電動機の回転数を抑え騒音を低減するために極力小さくした87:14(6.21)としている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "補助電源装置にはIGBT素子を使用した静止形インバータ (SIV) を採用した。容量は210kVAで、M2車・T車に搭載し、6両・8両ともに編成内で2台となる。形式はINV127-B0。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "集電装置には東急の新型車両で初めてシングルアーム型パンタグラフを搭載した。剛体架線対応のPT-7108BをM1車に2基搭載する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "空気圧縮機 (CP) は従来車と同じレシプロ式だが、吐出量は従来車両の2,000L/minから2,463L/minに増大し、8両編成における搭載台数を2台とした。1744-C2500LをSIVと同じ車両に搭載する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ブレーキ装置はHRDA(High Response Digital-Analog)方式で、回生ブレーキ併用デジタル指令-アナログ変換式電磁直通ブレーキである。保安ブレーキを備える。電気指令式であり、非常ブレーキや保安ブレーキ等の指令は引き通し線を使用、常用ブレーキの指令はモニタ装置により行われる。常用ブレーキは回生ブレーキを優先して使用、遅れ込め制御を行う。段数は通常時は7段、ATO運転時には15段となる。またフラット防止装置をブレーキ制御装置内に搭載している。電動機のPGセンサまたは台車の速度発電機からの入力により滑走を検知し、吸排気を行うことで固着滑走防止を図っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "台車は東急車輛製造製の軸箱支持が軸梁式のボルスタレス台車 (TS-1019・TS-1020) であり、牽引装置はZリンクとなる。固定軸距は従来車より100mm短縮した2,100mmとし、軽量化等を図っている。車両の床高さを下げるため、台車枠の側梁の位置を下げるとともに、軸ばねが納まる「ばね帽」と呼ばれる部分を補強することで、台車枠の側梁を弓なり形状とせず、ほぼ直線状のままとした構造としている。基礎ブレーキはM台車、T台車ともに東急で初めて片押し式ユニットブレーキを採用した。ディスクブレーキは搭載していない。また軸端には速度計用、フラット防止装置用にそれぞれ速度発電機が取付けられている。なお、5000系列とその派生形式でも同等の台車が採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "冷房装置は東急の車両として初めて集中式を採用した。温風暖房機能を備える。3012Fまでは冷房能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、3001F - 3009Fは東芝製RPU1101-2H、3010F - 3012Fは日立製作所製HRB503-1を搭載していた。3013Fは試験的に58.14kW(50,000kcal/h)の装置を搭載した。当初は1号車のみ従来型で、3種類のクーラーを搭載していたがすぐに交換され、目黒方3両が日立製作所製HRB504-1、日吉方3両が三菱電機製CU706という状態が長く続いた。写真についてはを参照のこと。なお、日立・三菱の装置に関しては2015年頃に交換され、現在は全編成が東芝製のRPU1101-2Hで統一されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "列車無線はクハ3100形に集約配置し、本体装置と2基の屋根上アンテナを備える。クハ3000形には操作器のみが搭載される。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "保安装置は新CS-ATC・ATC-P・東急型ATS・ATOを搭載し製造された。後に東急型ATSは使用を終了し撤去、さらに相鉄対応改造によりATS-Pが設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ATC装置については集約化・軽量化を図り、クハ3000形に装置本体 (ATC/ATO装置)を、クハ3100形にATC増幅器を搭載した。クハ3100形で運転する際は、同車の受電器にて受信した信号をATC増幅器を通してクハ3000形のATC装置に転送、その制御部で制御を行う形となる。両先頭車間の伝送にはTISを使用している。なお相鉄対応改造によりそれらの装置はATC/S/O装置に置き換えられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ATO送受信器などと同等の機能を有する情報伝送装置をクハ3000形に搭載し、ATCの付加機能やATOにおける定位置停止のための地上子とのインタフェースに使用される。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "またホームドアと車両ドアの連動などを行うための戸閉制御切換装置を両先頭車に搭載している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "東急目黒線内ではATC-PとTASC(ATO装置内のTASC機能)を使用しており、力行時は運転士の手動操作、駅停止時のブレーキ操作はTASCで自動停止する。東急型ATSは2008年まで、定期検査などで長津田へ回送される際の大井町線走行時などに使用されていた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1次車落成・東横線暫定運用", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1999年3月、1次車として8両編成1本 (後の3001F・3002F、詳細は#編成表参照) が落成し、一時的に東横線へ投入された。1999年4月16日の入籍から2000年1月15日まで営業運転が行われ、主に急行運用に就いていた。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "8両編成の組成は暫定的であるため将来の編成替えに備え、本来編成内で統一される車両番号末尾や制御装置などが不揃いなだけでなく、車椅子スペースの位置も2・6号車の日吉方と変則的な配置であった。しかしながら、サハ3500形の2両ではCP・SIVなどの補機類が未搭載(編成替え時に設置)であったことが特筆される。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2次車落成・本格運用開始", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1999年10月から2000年1月にかけて、2次車として6両編成10本 (3003F - 3012F) と、3001F向けの中間車1両(デハ3401)・3002Fの3両 (クハ3002・クハ3102・デハ3402) が落成した。入籍はすべて営業運転開始日である2000年8月6日付とされている。営業運転開始までは乗務員訓練での使用のほか、鷺沼留置線などへの疎開留置もみられた。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2次車での以下の通り様々な仕様変更が行われている。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお1次車においても後に量産化改造が実施され、一部を除き仕様が揃えられた。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2000年2月、3001F・3002Fの編成替えが行われた。3001Fはサハ3502・デハ3252・デハ3202の3両を外し、デハ3401を組み込み。3002Fには前述の3両が組み込まれた。また両編成においてサハ3500形はSIV・CP等の取付が行われ、2次車以降と編成構成が揃えられた。なお1次車の8両は2000年8月6日付で東横線から目黒線へ転属している。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2000年8月6日の運転系統変更とともに目黒線で本格的に運用を開始した。運用開始当初は3012Fまでの12本が在籍、うち1本を予備車としていた。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "3次車落成", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2001年3月、定期検査時の予備編成確保を考慮して3次車1本 (3013F) が増備された。仕様については若干の変更があり、運転台側のワイパーブレードが固定式へ変更されたほか、両先頭車の床下には側面非常はしごを新たに設置した。また、比較検討目的で空調装置も変更(#主要機器参照)されており、この編成での試験結果を基により能力向上させた冷房装置が5000系において採用されることとなった。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なおこれに合わせ1次車・2次車においても側面非常はしごの設置が行われている。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "本系列の増備は3013Fの新製をもって終了し、よりコストダウンを図った5080系の増備に移行した。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "編成ごとの仕様差", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "編成単位で変更が行われたものを以下に示す。", "title": "導入完了までの動き" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2022年8月から翌年3月にかけて、全13編成に対して新造車の増結による8両編成化が行われた。組込みに際しては既存車の改番も行われ、付番方式が5000系以降のものに変更されている。", "title": "改造工事等" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "増結用中間車の車体構造や内装は5000系列に準じており、同時期製造の5080系用中間車とほぼ同一の仕様であるが、外板は既存車に合わせたダルフィニッシュ仕上げとなっている。2021年度に20両、翌年度に6両が竣工し、いずれも組込み(既存車の改番)と同時に入籍している。", "title": "改造工事等" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "8両編成", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "6両編成", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "過去の形態:8両編成(竣工時・東横線)", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現在、8両編成13本(104両)が元住吉検車区に在籍し、以下の路線で5080系、3020系と共通で運用されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "※2000年8月6日の本格運用開始以前の動きについては#導入完了までの動きを参照", "title": "運用" } ]
東急3000系電車(とうきゅう3000けいでんしゃ)は、東急電鉄の通勤形電車である。1999年(平成11年)4月16日に営業運転を開始した。
{{更新|date=2022年3月2日 (水) 06:47 (UTC)|8両化と[[相鉄・東急直通線]]}}{{画像提供依頼|相鉄直通対応で改造された運転台|date=2020年6月|cat=鉄道}} {{鉄道車両 | 車両名 = 東急3000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tokyu-Series3000-3813.jpg | 画像説明 = 3000系3113F<br />(2023年4月28日 [[多摩川駅]]) | 運用者 = [[東急|東京急行電鉄]] →<br />[[東急電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]]<br>[[総合車両製作所|総合車両製作所横浜事業所]]<ref Group="備" name="増結">増結用中間車のみ</ref> | 運用範囲 = [[東急目黒線|目黒線]]・[[東急新横浜線]] | 製造年 = 1999年 - 2001年<br>2021年 - 2022年<ref Group="備" name="増結"/> | 製造数 = 13編成104両 | 運用開始 = 1999年4月16日 | 編成 = 6両編成→8両編成 | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V <br />([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 110 km/h(東急目黒線)<br/>100 km/h(相鉄線)<br/>80 km/h(南北線・埼玉高速線)<br/>75 km/h(都営三田線) | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 3.3 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 編成定員 = 6両編成:886(座席306)人 | 車両定員 = 先頭車141(座席48)人<br/>中間車151(座席54または51) | 自重 = 本文参照 | 編成重量 = 6両編成:182.0 t<small>(2次車日立)</small> | 全長 = 20,300 mm(先頭車)<br/>20,000 mm(中間車)<!-- 各項目のカンマは消さないこと --> | 全幅 = 2,820 mm(側灯) | 全高 = 4,065 mm(パンタ車も同じ) | 車体長 = | 車体幅 = 2,770 mm<!-- 車体基準幅 --> | 車体高 = 3,655 mm(屋根上面) | 車体 = [[ステンレス鋼|軽量ステンレス]] | 台車 = 軸梁式ボルスタレス台車<br>TS-1019・TS-1020 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] TKM98/TKM99 | 主電動機出力 = 190 kW | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 87:14 (6.21) | 制御方式 = [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ (HRDA-2)]] | 保安装置 = [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・[[自動列車運転装置|ATO]]([[定位置停止装置|TASC]])・[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急形ATS]](撤去済)・[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]] | 備考 = {{reflist|group="備"}} |床面高さ=1,150 mm}} '''東急3000系電車'''(とうきゅう3000けいでんしゃ)は、[[東急電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。[[1999年]]([[平成]]11年)[[4月16日]]に営業運転を開始した。 == 概要 == [[ファイル:東急電鉄3000系.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|6両編成時代の3002F(2019年7月16日 [[武蔵小杉駅]])]] 「すべてにやさしく美しい車両」を[[概念|コンセプト]]とし、また[[2000年]](平成12年)[[9月26日]]からの[[東急目黒線|目黒線]]の[[東京メトロ南北線|地下鉄南北線]]・[[都営地下鉄三田線]]との[[直通運転]]に対応する車両として設計・製造された。東急電鉄での新型車両は[[東急2000系電車|2000系]]以来7年ぶり、新設計車両としては[[東急9000系電車|9000系]]以来13年ぶりとなった。車体・搭載機器・内装・運転台などすべてを見直し、東急の新造車両では初採用となる機器や[[バリアフリー]]設備を有している。 直通運転は当初9000系を改造して対応させる計画であったが<ref group="注">計画段階ではホームセンサー方式での[[ワンマン運転]]を実施することとされていた。</ref>、1990年6月にホームドア方式へ計画を変更したことでモニタ装置搭載等の大掛かりな改造が必要となったことや、南北線内は急勾配が連続し、主電動機の出力不足が懸念されていたことから、従来車の改造ではなく新設計の車両を導入する方がコスト面などで有利であると判断され、本系列が新製された。 なお、東急で3000系を名乗る形式はこれで2代目になるため、「新3000系」と呼ばれることもある。また、[[東急3000系電車 (初代)|旧3000系]]と同じくデハ3200・3250・3400形が存在する。 == 車両概説 == === 車体 === 20m級、片側4扉車体でビードのない軽量[[ステンレス鋼]]製車体であり、全面ダルフィニッシュ(つや消し)仕上げである。側面は窓下と幕板部に東急の[[コーポレートカラー]]の赤を基本としながら、アクセントとして濃紺と白のラインが貼られている。 前頭部は[[東急8000系電車|8000系]]製造時からの方針であった「前面形状は切妻以外行わない」と言う方針を、ワンマン機器搭載などの関係で転換し、東急では久々の流線型となった。[[繊維強化プラスチック|FRP]]成形品を使用し、曲線を多用しソフトなイメージとしており、フロントガラスは側面までまわり込んだ曲面ガラスである。非常用[[貫通扉]]は[[操縦席|運転室]]から見て右側にオフセット配置されており、[[プラグドア]]が採用されている。下部にはスカートが取り付けられた。車内には大型化された[[梯子|非常用ハシゴ]]が搭載されている。また両先頭車の床下には非常脱出用の折りたたみ式ハシゴが設置されている。 [[方向幕|行先表示器]]は[[ゴシック体]]の[[発光ダイオード|LED]]式で、日本語と[[英語]]を交互に表示する方式であり、英字表記は2段表示となることもある。 車両番号・号車番号の表記は書体と方式が変更された。側面においては従来エッチングプレートを用いていたところ、本系列ではプレートにステッカーを貼付する方式とし、また号車番号も札を挿す形であったものを車番と同じリベット止めに変更した。エンド表記の書体は変更されていない。 [[東急目黒線|目黒線]]上り([[目黒駅|目黒]]方面)運転時は終着駅名と[[直通運転|乗り入れ]]先の路線名を同時に表示していた(「[[都営地下鉄三田線|三田線]]」もしくは「[[東京メトロ南北線|南北線]][[埼玉高速鉄道線|埼玉線]]」)。この表示は目黒到着時に終着駅名表示のみとしている。急行運転開始後は、路線名表示に代わって種別を表示(急行または各停)するようにした。ただし、[[白金高輪駅|白金高輪]]始発の三田線内発着・南北線内発着の場合及び他社線内は行先のみ表示を行う。これは5080系も同様である。 本系列は落成時より車両間に[[転落防止幌]]を設置していたが、目黒線各駅には[[ホームドア]]があり不要なことから、[[2003年]]1月より順次撤去した<ref name=":1" />。 === 内装 === 客室内はローズレッド系をベースとしたカラーリングである。化粧板は線路方向が光沢仕様の白色系、妻面は乗務員室仕切りを含め艶消しの淡いピンク色である。床材は薄い茶色であるが、編成で柄が異なり3種類ある。天井中央には冷房吹出口と一体成形された[[繊維強化プラスチック|FRP]]製空調ダクト(天井ユニット)を採用し、補助送風機として各車6台ラインデリアが設けられている。側窓は車端部は車いすスペース部を除いてすべて開閉可能、ドア間の2連窓は固定窓・下降窓のユニット式であり、車内窓枠はFRP製として遮光用に巻上げ[[カーテン]]が設置されている。 客用ドアの室内側には化粧板が貼り付けられており、ドアガラスの室内側は段差のある金属支持である。車端部貫通路にも同様の化粧板が貼り付けられている。なお、貫通路窓は下方向に長い片開き式のもので、その支持方式は側面ドアとは異なる。貫通扉は各車両の上り側(目黒側)に設置され、妻面窓は設置している。戸閉装置はベルト駆動式の空気式だが、戸閉力弱め制御機構を搭載している。 座席は[[鉄道車両の座席#片持式座席|片持ち式]]であり、1人分の掛け幅が450mmの[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]である。座面は[[バケットシート]]で、色調は赤系(背)と茶系(座面)である。7人掛の座席には3+4人にスタンションポールで仕切られている。座席端の仕切りは大形の仕切り板にした。各車には[[優先席]]が設けられており、優先席は区別のため座席が青色とされ、この付近の[[つり革]]はオレンジ色である。 [[車椅子スペース]]は2号車と5号車の編成中の2か所に設置されている。車椅子利用者への配慮として暖房器と安全手すり、[[車内非常通報装置|非常通報器]]を設置している。車内の非常通報器は[[乗務員]]と相互通話可能なタイプを採用しており、各車4台設置してある。乗り入れ他社も含めて乗客が押釦後、[[運転士]]が10秒間応答しない場合には列車無線に接続され、[[運転指令所|運輸司令所]]の司令員が代わりに応答できるシステムになっている。 また、貫通路幅は車椅子での通行を考慮して900mm幅へ広げている<ref name=":0" />。 [[網棚|荷棚]]は金網式だが、高さを従来車より20mm低い1,750mm<!-- 一部の資料では1,710mmとあるがこれは誤り -->とした。[[つり革]]は三角形のものとなり、高さは従来と同じ1,630mmを基本としているが、[[ユニバーサルデザイン]]の一環として一部に100mm低い1,530mmのつり革を設けている。低いつり革は新5000系以降の新造車や9000系車内更新車の一部でも採用された。 客用ドア上部には東急の車両で初めて千鳥配置の2段[[発光ダイオード|LED]]式の[[車内案内表示装置|旅客案内表示器]]、[[ドアチャイム]]を採用した。表示器の設置していないドア上部には[[広告]]枠とドア開閉予告灯が設置してある。その後、これに準じた案内表示器は[[東急8500系電車|8500系]]・9000系・[[東急1000系電車|1000系]]の一部と[[東急2000系電車|2000系]]にも取り付けられた。 [[車内放送]]装置には従来通り自動放送装置が搭載されたが、本系列より英語放送が追加されている。 車内の車号銘板・製造銘板・禁煙札・[[消火器]]札などの表記類は従来の[[アクリル樹脂|アクリル板]]([[リベット]]止め)から[[シール]]式に変更している<ref name=":0" />。さらに製造年表記も和暦から西暦に変更され、以後の形式でも採用されている。 <gallery widths="180" perrow="3" style="font-size:90%;"> ファイル:Inside-Tokyu3000-1.jpg|車内内装 ファイル:Inside-Tokyu3000-2.jpg|7人掛け座席と一部が低いつり革 ファイル:Inside-Tokyu3000-3.jpg|車いすスペース<br />(右側) ファイル:Inside-Tokyu3000-4.jpg|優先席部<br />つり革がオレンジ色 ファイル:Inside-Tokyu3000-5.jpg|東急初採用の<br />FRPユニット天井 ファイル:Inside-Tokyu3000-6.jpg|客用ドア上部の<br />車内案内表示器 </gallery> === 乗務員室 === [[操縦席|乗務員室]]内は反射を抑えた色調としてグレー系である。[[ワンマン運転]]設備の設置のために従来より線路方向に300mm広く、1,675mm確保されている。運転台はダークグレー系色であり、従来車同様T字形[[マスター・コントローラー#ワンハンドルマスコン|ワンハンドルマスコン]]([[デッドマン装置]]付)が中央にある。[[速度計]]は120km/h表示であり、ワンマン運転用にドア開閉ボタン・ATO出発ボタン・非常停止ボタンなどがある。上部には車上ITV(ホーム監視モニター)が設置されている。車掌台上にはホーム[[監視カメラ]]からの映像を受信する[[ミリ波]]受信装置が設置されている。 計器盤右側には[[鉄道車両のモニタ装置|車両情報装置 (TIS)]] 表示器が収納されている。TISでは制御伝送機能・搭載機器の動作確認・行先表示の設定や空調装置・自動放送・車内表示器などのサービス機器の操作機能があり、ワンマン運転時の乗務員支援装置としての機能がある。[[車掌スイッチ]]はワンマン運転用に押しボタン式としており、閉扉は1ボタン式だが、開扉は誤操作防止のため2ボタン式としている。さらに再開閉スイッチ、乗降促進ボタン、合図ブザー、[[非常ブレーキ]]スイッチとユニット化された。 乗務員室仕切りは前面窓と同じような窓割で仕切り窓が3枚ある。客室から見て左側の大窓と乗務員室扉窓には遮光ガラスが使用され、[[遮光幕]]も設置されている。遮光幕は大窓は下降式の遮光板、仕切窓扉は開閉可能な窓のためにカーテン式とした。ワンマン運転用に乗務員室仕切扉には[[オートロック#鉄道車両の電磁鎖錠システム|電磁鎖錠]]が取り付けられている。 <gallery widths="180" perrow="3" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu3000cab.jpg|ワンマン運転に対応した運転台 ファイル:Tokyu3000back.jpg|乗務員室背面の仕切り壁 </gallery> === 主要機器 === 3M3Tの6両編成であるが、将来の8両編成化を考慮してM車はM1車に、T車はM2車へと容易に改造可能な設計となっており<ref>鉄道ピクトリアル2004年7月臨時増刊号「東京急行電鉄特集」45頁</ref>、これにより補機類を搭載しないサハ2両を組み込むことで8両化が可能とされる。<!-- 実際の8両化については断定できる状態で書き込んでください。予想を書き込むのはルールだけでなく文章として不適切です。 -->床下については従来車から見直され、大型機器のつり枠の廃止や、従来は個別に設置していた機器を「共通機器箱」と称する1つの箱に集約するなどして軽量化を図っている。 制御装置には[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]使用の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](3レベル 1700V/1200A)を採用<ref name=":0" />。トルク制御にはベクトル制御を採用することでスムーズな加減速を可能とした<ref name=":0" />。1群で2つの主電動機を制御する1C2M制御とし、デハ3200形に4群の装置、デハ3400形は2群の装置を搭載する。[[日立製作所]]製と[[東芝]]製の2タイプが存在し、車両番号末尾が奇数の車両には日立製、偶数の車両には東芝製が使用されている<ref group="注">東横線時代の8両編成では混在していた。</ref><ref name=":1">「鉄道ピクトリアル」2004年7月臨時増刊号(通巻749号)東京急行電鉄 現有車両プロフィール 3000系(p.219 - p.222)</ref>。東芝製のVVVF装置は東急初の本格採用となった。形式については日立製4群がVFI-HR4820E、同2群がVFI-HR2420B、東芝製4群がSVF038-A0、同2群がSVF038-B0となる<ref name=":2">「鉄道ピクトリアル」2015年12月臨時増刊号(通巻912号)東京急行電鉄 主要諸元表(p.304 - p.307)</ref><!-- 出典元のVFI-HR2420Eは誤り。 -->。 [[かご形三相誘導電動機|主電動機]]は定格出力190kW、回転数1,825rpmの[[かご形三相誘導電動機]]で、TKM-98形(東洋製)とTKM-99形(日立製)の二種が存在する。3007Fまでは前者、3008F以降は後者で製造されたが<ref name=":1" />、互換性があるため検査等により入れ替わりが発生している。駆動装置はTD継手を使用した中実軸平行カルダン方式であり、[[歯車比]]は主電動機の回転数を抑え[[騒音]]を低減するために極力小さくした87:14(6.21)としている。 補助電源装置にはIGBT素子を使用した[[静止形インバータ]] (SIV) を採用した<ref name=":0" />。容量は210kVAで、M2車・T車<ref group="注">東横線時代の8両編成では未搭載。</ref>に搭載し<ref name=":1" />、6両・8両ともに編成内で2台となる。形式はINV127-B0<ref name=":2" />。 集電装置には東急の新型車両で初めて[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアーム型パンタグラフ]]を搭載した<ref name=":1" />。[[剛体架線]]対応のPT-7108B<ref name=":2" />をM1車に2基搭載する。 [[圧縮機|空気圧縮機 (CP)]] は従来車と同じレシプロ式だが、吐出量は従来車両の2,000L/minから2,463L/minに増大し<ref name=":0" />、8両編成における搭載台数を2台とした<ref name=":0" />。1744-C2500L<ref name=":2" />をSIVと同じ車両に搭載する。 ブレーキ装置はHRDA(High Response Digital-Analog)方式で、[[回生ブレーキ]]併用デジタル指令-アナログ変換式電磁直通ブレーキである<ref name=":0" />。保安ブレーキを備える<ref name=":0" />。[[電気指令式ブレーキ|電気指令式]]であり、非常ブレーキや保安ブレーキ等の指令は引き通し線を使用、常用ブレーキの指令はモニタ装置により行われる<ref name=":0" />。常用ブレーキは回生ブレーキを優先して使用、[[遅れ込め制御]]を行う<ref name=":0" />。段数は通常時は7段、ATO運転時には15段となる<ref name=":0" />。また[[フラット防止装置]]をブレーキ制御装置内に搭載している<ref name=":0" />。電動機のPGセンサまたは台車の速度発電機からの入力により滑走を検知し、吸排気を行うことで固着滑走防止を図っている<ref name=":0" />。 [[鉄道車両の台車|台車]]は[[東急車輛製造]]製の[[鉄道車両の台車#軸箱支持装置|軸箱支持]]が軸梁式の[[ボルスタレス]]台車 (TS-1019・TS-1020) であり、牽引装置はZリンクとなる<ref name=":0" />。[[ホイールベース|固定軸距]]は従来車より100mm短縮した2,100mmとし、軽量化等を図っている<ref name=":0" />。車両の床高さを下げるため、台車枠の側梁の位置を下げるとともに、軸ばねが納まる「ばね帽」と呼ばれる部分を補強することで、台車枠の側梁を弓なり形状とせず、ほぼ直線状のままとした構造としている。基礎ブレーキはM台車、T台車ともに東急で初めて片押し式[[踏面ブレーキ|ユニットブレーキ]]を採用した<ref name=":0" />。ディスクブレーキは搭載していない。また軸端には速度計用、フラット防止装置用にそれぞれ速度発電機が取付けられている<ref name=":0" />。なお、5000系列とその派生形式でも同等の台車が採用されている。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は東急の車両として初めて[[集中式冷房装置|集中式]]を採用した。温風[[暖房]]機能を備える<ref name=":0" />。3012Fまでは冷房能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、3001F - 3009Fは[[東芝]]製RPU1101-2H、3010F - 3012Fは[[日立製作所]]製HRB503-1<ref name=":0" group="注">HRB503-1・HRB504-1については当初、妻面に2本のリブがあったが、2005年頃に消滅している。</ref>を搭載していた<ref name=":1" /><ref name=":3" /><ref name=":5" />。3013Fは試験的に58.14kW(50,000kcal/h)の装置を搭載した<ref name=":3">[https://web.archive.org/web/20041121225249/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/3013F/3013F-3.shtml 3.クーラーの性能および、形状が変更されました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。当初は1号車のみ従来型で、3種類のクーラーを搭載していた<ref name=":1" />がすぐに交換され、目黒方3両が日立製作所製HRB504-1<ref name=":0" group="注" /><ref group="注">またHRB504-1については途中でファン部分のメッシュ形状が変更されており、HRB503-1と同形状のものから正方形に近いものとなった。</ref>、日吉方3両が[[三菱電機]]製CU706という状態<ref name=":1" /><ref name=":3" /><ref name=":5">「鉄道ピクトリアル」2004年7月臨時増刊号(通巻749号)東京急行電鉄 線別車両配置表・主要諸元表 3000系(p.262 - p.271)</ref>が長く続いた。<!--鉄道ピクトリアル749号の分類表で、3013Fの空調装置が「日立・東芝」とあるがこれは誤り。-->写真については<ref name=":3" />を参照のこと。なお、日立・三菱の装置に関しては2015年頃に交換され、現在は全編成が東芝製のRPU1101-2Hで統一されている。 [[列車無線]]はクハ3100形に集約配置し、本体装置と2基の屋根上[[列車無線アンテナ|アンテナ]]を備える。クハ3000形には操作器のみが搭載される。 保安装置は[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車制御装置#東急電鉄・横浜高速鉄道|ATC-P]]・[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]]・[[自動列車運転装置|ATO]]を搭載し製造された<ref name=":0">「車両技術」1999年9月号(通巻218号)東京急行電鉄3000系車両</ref>。後に東急型ATSは使用を終了し撤去、さらに相鉄対応改造によりATS-Pが設置されている。 ATC装置については集約化・軽量化を図り、クハ3000形に装置本体 (ATC/ATO装置)を、クハ3100形にATC増幅器を搭載した<ref name=":0" />。クハ3100形で運転する際は、同車の受電器にて受信した信号をATC増幅器を通してクハ3000形のATC装置に転送、その制御部で制御を行う形となる<ref>「鉄道ファン」1999年6月号(通巻458号) 新車ガイド 東急3000系 p.70 -p.77</ref>。両先頭車間の伝送にはTISを使用している<ref name=":0" />。なお相鉄対応改造によりそれらの装置はATC/S/O装置に置き換えられた<ref group="注">これによりクハ3000形は後述の情報伝送装置も同一の箱に収められた。装置箱の外観は3020系と同等となっている。</ref>。 ATO送受信器などと同等の機能を有する[[トランスポンダ|情報伝送装置]]をクハ3000形に搭載し、ATCの付加機能やATOにおける定位置停止のための地上子との[[インタフェース]]に使用される。 また[[ホームドア]]と車両ドアの連動などを行うための[[車掌スイッチ#方向切換器と戸閉制御切換装置|戸閉制御切換装置]]を両先頭車に搭載している。 東急目黒線内ではATC-Pと[[定位置停止装置|TASC]](ATO装置内のTASC機能)を使用しており、力行時は運転士の手動操作、駅停止時のブレーキ操作はTASCで自動停止する。東急型ATSは2008年まで、[[日本の鉄道車両検査|定期検査]]などで長津田へ回送される際の[[東急大井町線|大井町線]]走行時などに使用されていた<ref group="注">東横線運用時には、[[菊名駅|菊名]]-[[桜木町駅|桜木町]]間の営業運転でも使用されていた。</ref>。 == 導入完了までの動き == [[File:Tokyu-3000-Toyoko.jpg|thumb|240px|東横線を走る8両編成当時の3001F<br />(1999年4月 / [[菊名駅|菊名]])]] '''1次車落成・東横線暫定運用''' 1999年3月、1次車として8両編成1本 (後の3001F・3002F、詳細は[[#編成表]]参照) が落成し、一時的に[[東急東横線|東横線]]へ投入された。1999年4月16日の入籍<ref name=":4">「鉄道ピクトリアル」2004年7月臨時増刊号(通巻749号)東京急行電鉄 車歴表 p.245 - p.261</ref>から[[2000年]][[1月15日]]まで営業運転が行われ、主に[[急行列車|急行]]運用に就いていた<ref group="注">ただし早朝・夜間および[[ダイヤグラム|ダイヤ]]が乱れた際には[[各駅停車|各停]]運用に入ることもあった。</ref><ref group="注">目黒線転属後の[[2003年]][[7月20日]]に[[臨時列車]]「横浜みなと祭[[花火]]号」で営業列車として再び東横線に乗り入れた。なお目黒線開業後も回送列車としては東横線を運行していた。</ref>。 8両編成の組成は暫定的であるため将来の編成替えに備え、本来編成内で統一される車両番号末尾や制御装置などが不揃いなだけでなく、車椅子スペースの位置も2・6号車の日吉方と変則的な配置であった<ref name=":0" />。しかしながら、サハ3500形の2両ではCP・SIVなどの補機類が未搭載(編成替え時に設置)であった<ref name=":0" />ことが特筆される。 '''2次車落成・本格運用開始''' 1999年10月から2000年1月にかけて<ref name=":1" />、2次車として6両編成10本 (3003F - 3012F) と、3001F向けの中間車1両(デハ3401)・3002Fの3両 (クハ3002・クハ3102・デハ3402) が落成した。入籍はすべて営業運転開始日である2000年[[8月6日]]付とされている<ref name=":4" />。営業運転開始までは[[習熟運転|乗務員訓練]]での使用のほか、[[鷺沼駅|鷺沼]]留置線などへの疎開留置もみられた。 2次車での以下の通り様々な仕様変更が行われている。 *[[排障器|スカート]]の連結器部の切欠きを縮小<ref name=":1" /> *前面ガラスの[[ワイパー]]を黒色化<ref name=":1" /> *[[列車番号|運行番号]]表示器を拡大<ref name=":1" /> *[[通過標識灯]]を廃止<ref name=":1" /> *前面ガラス上部に遮光フィルム貼付け<ref name=":1" />(車上ITV<ref group="注">車内ホーム監視モニタ</ref>の視認性向上のため) *運転台のスイッチ類の配置を見直し<ref name=":1" />(乗降促進スイッチの大形化など) *車内ITV設置<ref name=":1" /> *前面ガラスの遮光パネルを[[カーテン]]式に変更 *乗務員室仕切扉の開く向きを変更(運転台側に開く→車掌台側に開く) *乗務員室背面仕切りガラスの遮光率を変更(50%→90%)<ref>『鉄道ファン』1999年12月号 CAR INFO 「東急電鉄3000系2次車」 pp.61 - 62</ref> *客室内の[[カーテン]]をフリーストップ式に変更<ref name=":1" />(東急初) *車内の車いすスペースの手すり延長・ヒーター形状の変更(薄型化) *客用ドア脇の戸柱(手すりの設置してある面)をFRP製から化粧板仕上げに変更 *妻面貫通扉に若干の変更 なお1次車においても後に量産化改造が実施され、一部を除き仕様が揃えられた<ref name=":1" />。 2000年2月、3001F・3002Fの編成替えが行われた<ref name=":1" />。3001Fはサハ3502・デハ3252・デハ3202の3両を外し、デハ3401を組み込み。3002Fには前述の3両が組み込まれた。また両編成においてサハ3500形はSIV・CP等の取付が行われ<ref>「鉄道ピクトリアル」2015年12月臨時増刊号(通巻912号)東京急行電鉄 現有車両プロフィール 3000系(p.265 - p.266)</ref>、2次車以降と編成構成が揃えられた。なお1次車の8両は2000年8月6日付で東横線から目黒線へ転属している<ref>鉄道ファン2001年7月号(通巻483号) 「大手私鉄車両ファイル」 pp.78 - 95</ref>。 2000年8月6日の運転系統変更とともに目黒線で本格的に運用を開始した<ref name=":1" />。運用開始当初は3012Fまでの12本が在籍、うち1本を予備車としていた。 '''3次車落成''' 2001年3月、定期検査時の予備編成確保を考慮して3次車1本 (3013F) が増備された。仕様については若干の変更があり、運転台側のワイパーブレードが固定式へ変更<ref>[https://web.archive.org/web/20041121113653/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/3013F/3013F-2.shtml 2. ワイパー形状が変更されました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>されたほか、両先頭車の床下には側面非常はしごを新たに設置<ref>[https://web.archive.org/web/20041121012944/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/3013F/3013F-1.shtml 1. 先頭車側面に非常用梯子が設置されました。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>した。また、比較検討目的で空調装置も変更([[#主要機器]]参照)されており、この編成での試験結果を基により能力向上させた冷房装置が5000系において採用されることとなった。 なおこれに合わせ1次車・2次車においても側面非常はしごの設置が行われている<ref name=":1" />。 本系列の増備は3013Fの新製をもって終了し、よりコストダウンを図った[[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]]の増備に移行した。 '''編成ごとの仕様差''' 編成単位で変更が行われたものを以下に示す。 * 現在の3001F・3002F - 3005F・3006F - 3013Fでそれぞれ床面の柄が異なる<ref name=":1" />。車号末尾の数字に依存しており、東横線時代の8両編成では2種が混在していた。 * このほか、主制御器・主電動機や空調装置なども変更が行われている([[#主要機器]]参照)。 == 改造工事等 == {{節スタブ|date=2022年3月2日 (水) 06:47 (UTC)}} === 8両編成化<!--憶測や独自研究ではなく、明確な出典を明示した上で編集を行うこと。2nd-trainなど個人サイトは出典に扱えない--> === 2022年8月から翌年3月にかけて、全13編成に対して新造車の増結による8両編成化が行われた<ref>『鉄道ファン』2023年8月号(通巻748号) 付録「大手私鉄車両ファイル」</ref>。組込みに際しては既存車の改番も行われ、付番方式が5000系以降のものに変更されている<ref name=":7">『鉄道ピクトリアル』2022年10月号(通巻1003号) 「東急電鉄 目黒線3000系8両化」 p.108</ref>。 増結用中間車の車体構造や内装は5000系列に準じており、同時期製造の5080系用中間車とほぼ同一の仕様であるが、外板は既存車に合わせたダルフィニッシュ仕上げとなっている<ref name=":8">『鉄道ピクトリアル』2022年10月号(通巻1003号) 「2021年度民営鉄道車両動向」東急電鉄 pp.146 - 147</ref>。2021年度に20両<ref name=":7" />、翌年度に6両が竣工し、いずれも組込み(既存車の改番)と同時に入籍している。 === その他の変更 === *[[2006年]]9月の目黒線内での急行運転開始に伴い、前面・側面の[[方向幕|行先表示器]]に[[列車種別]]を表示するようになった<ref group="注">第1編成は先述の東横線急行運用時にも種別表示を行っていた。</ref>。 * 2022年3月から6月にかけて、全編成において種別・行先表示器のフルカラーLED化が行われた。<!-- 鉄道ファン9月号掲載。直接確認してないためコメントアウト --> == 編成表 == '''8両編成''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="8" style="background-color:#9cf;" |{{TrainDirection|(渋谷・)目黒<small>(浦和美園・赤羽岩淵・西高島平・横浜<相鉄>)</small>|日吉・新横浜<small>(西谷・海老名・湘南台)</small>}} ! rowspan="4" |備考 |- ! 号車 |1||2||3||4||5||6||7||8 |- !形式・車種 |&nbsp;<br />'''クハ3100形''' |&nbsp;<br />'''デハ3200形''' |< ><br />'''デハ3300形''' |&nbsp;<br />'''サハ3400形''' |<  <br />'''デハ3500形''' |&nbsp;<br />'''サハ3600形''' |< ><br />'''デハ3700形''' |&nbsp;<br />'''クハ3800形''' |- ! 搭載機器・設備 | &nbsp;|| SIV,CP,BT,♿︎ || VVVF2 || ♿︎ || ♿︎,VVVF1A || SIV,CP,BT || ♿︎,VVVF1|| &nbsp; |- style="border-top:solid 2px #666;" ! rowspan="3" |車両番号<br>(旧車号) |3101(II)<br>(3001)<br>:<br>3113(II)<br>(3013) |3201(II)<br>(3251)<br>:<br>3213(II)<br>(3263) |3301<br>(3201)<br>:<br>3313<br>(3213) |3401(II)<br><small>(新造)</small><br>:<br>3413(II)<br><small>(新造)</small> |3501(II)<br><small>(新造)</small><br>:<br>3513(II)<br><small>(新造)</small> |3601<br>(3501)<br>:<br>3613<br>(3513) |3701<br>(3401)<br>:<br>3713<br>(3413) |3801<br>(3101)<br>:<br>3813<br>(3113) | rowspan="3" style="text-align:left;" |新造の4・5号車を挿入、既存車は全て改番<br>既存車の詳細は6両編成の表を参照 |} '''6両編成''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | colspan="2" style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="6" style="background-color:#9cf;" |{{TrainDirection|(渋谷)目黒<small>(浦和美園・赤羽岩淵/西高島平)</small>|日吉}} ! rowspan="7" |分類 ! rowspan="7" |竣工日<ref name=":4" /> |- ! colspan="2" | 号車 |1||2||3||4||5||6 |- ! colspan="2" |形式・車種 |&nbsp;<br />'''クハ3000形'''<br />(Tc2) |&nbsp;<br />'''デハ3250形'''<br />(M2) |< ><br />'''デハ3200形'''<br />(M1) |&nbsp;<br />'''サハ3500形'''<br />(T) |< ><br />'''デハ3400形'''<br />(M) |&nbsp;<br />'''クハ3100形'''<br />(Tc1) |- ! colspan="2" | 搭載機器・設備 | &nbsp; || SIV,CP,BT,♿︎ || VVVF2 || SIV,CP,BT ||♿︎,VVVF1|| &nbsp; |- ! rowspan="2" |{{縦書き|自重}}<br><ref name=":6">「とれいん」2007年9月号(通巻393号)MODELERSFILE 東京急行3000系 p.14 - p.25</ref> !2次車日立 | rowspan="2" |26.0 t | rowspan="2" |33.0 t |34.5 t | rowspan="2" |28.5 t |33.5 t | rowspan="2" |26.5 t |- !2次車東芝 |33.5 t |32.5 t |- ! colspan="2" |定員<br>(座席) |141<br>(48) |151<br>(51) |151<br>(54) |151<br>(54) |151<br>(51) |141<br>(48) |- style="border-top:solid 2px #666;" ! colspan="2" rowspan="3" |車両番号 |<span style="text-decoration:underline;">3001</span><br />3002 |<span style="text-decoration:underline;">3251</span><br /><span style="text-decoration:underline;">3252</span> |<span style="text-decoration:underline;">3201</span><br /><span style="text-decoration:underline;">3202</span> |<span style="text-decoration:underline;">3501</span><br /><span style="text-decoration:underline;">3502</span> |3401<br />3402 |<span style="text-decoration:underline;">3101</span><br />3102 |1・2次車<br /><small>(下記参照)</small> |下記参照 |- |3003<br />:<br />3012 |3253<br />:<br />3262 |3203<br />:<br />3212 |3503<br />:<br />3512 |3403<br />:<br />3412 |3103<br />:<br />3112 |2次車 |2000年8月6日 |- | 3013 || 3263 || 3213 || 3513 || 3413 || 3113 |3次車 | 2001年3月23日 |} *3001F・3002Fについて **<span style="text-decoration:underline;">下線</span>は1次車で、1999年4月16日竣工<ref name=":4" /> **それ以外は2次車で、2000年8月6日竣工<ref name=":4" /> '''過去の形態:8両編成(竣工時・東横線)'''<ref name=":0" /> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="8" style="background-color:#fcf;" |{{TrainDirection|渋谷|桜木町}} ! rowspan="6" |竣工日 |- !号車 |1||2||3||4||5||6||7||8 |- ! 形式・車種 |&nbsp;<br />'''クハ3000形'''<br />(Tc2) |&nbsp;<br />'''デハ3250形'''<br />(M2) |< ><br />'''デハ3200形'''<br />(M1) |&nbsp;<br />'''サハ3500形'''<br />(T') |&nbsp;<br />'''サハ3500形'''<br />(T') |&nbsp;<br />'''デハ3250形'''<br />(M2) |< ><br />'''デハ3200形'''<br />(M1) |&nbsp;<br />'''クハ3100形'''<br />(Tc1) |- ! 搭載機器・設備 | &nbsp; || SIV,CP,BT,♿︎ || VVVF2 || &nbsp; || &nbsp; || SIV,CP,BT,♿︎ || VVVF2 || &nbsp; |- !自重 |26.0t |31.0t |32.5t |24.0t |24.0t |31.0t |32.5t |26.5t |- !定員<br>(座席) |141<br>(48) |151<br>(51) |151<br>(54) |151<br>(54) |151<br>(54) |151<br>(54) |151<br>(51) |141<br>(48) |- style="border-top:solid 2px #666;" !車両番号 | 3001 || 3251 || 3201 || 3501 || 3502 || 3252 || 3202 || 3101 || 1999年4月16日 |} ;凡例 * VVVF2:[[主制御器]]([[VVVFインバータ]]/1C2M4群=2両分御) * VVVF1:同上(1C2M2群=1両分制御) * VVVF1A:同上(1C4M1群=1両分制御) * SIV:補助電源装置([[静止形インバータ]]) * CP:[[空気圧縮機]] *BT:[[蓄電池]] *♿︎:[[車椅子スペース]] == 運用 == 現在、8両編成13本(104両)が[[元住吉検車区]]に在籍し、以下の路線で[[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]]、[[東急2020系電車#3020系|3020系]]と共通で運用されている。 *[[東急目黒線]]全線 *[[東急新横浜線]]全線 *[[東京メトロ南北線]]全線 *[[都営地下鉄三田線]]全線 *[[埼玉高速鉄道線]]全線 : ※2001年3月28日の同区間の開業により、東急の車両が営業運転としては初めて[[埼玉県]]内でも見られるようになった。 *[[相模鉄道]]のうち、[[相鉄厚木線|厚木線]]を除く全線 ※2000年8月6日の本格運用開始以前の動きについては[[#導入完了までの動き]]を参照 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *門田吉人 「東京急行電鉄3000系」『[[鉄道ピクトリアル]]』1999年6月号(通巻670号)、[[鉄道図書刊行会]]。 *門田吉人 「東京急行電鉄3000系」『鉄道ピクトリアル』1999年10月臨時増刊号(通巻676号)特集・新車年鑑1999年版、鉄道図書刊行会。 *東京急行電鉄株式会社車両部 「新車ガイド 東急3000系」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1999年6月号(通巻458号)、[[交友社]]。 *門田吉人 「東京急行電鉄3000系2次車」『鉄道ピクトリアル』2000年10月臨時増刊号(通巻692号)特集・新車年鑑2000年版、鉄道図書刊行会。 *交友社編集部 「CAR INFO 東急電鉄3000系2次車」『鉄道ファン』1999年12月号(通巻464号)、交友社。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20041120144731/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/3013F/3013F.shtml 3000系3次車がまもなく登場いたします。(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版) == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkyū 3000 series (II)}} * [[東急5000系電車 (2代)|東急5080系電車]] * [[東急2020系電車|東急3020系電車]] * [[営団9000系電車|東京メトロ9000系電車]] * [[埼玉高速鉄道2000系電車]] * [[東京都交通局6300形電車]] * [[東京都交通局6500形電車 (鉄道)]] * [[相鉄20000系電車|相鉄20000系・21000系電車]] ** 上記の車種は本系列と同じく「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線・相鉄線との直通車両申し合わせ事項」の基準を満たしている。 * [[横浜高速鉄道Y000系電車]] {{東急電鉄の車両}} {{DEFAULTSORT:とうきゆう3000けいてんしや2}} [[Category:東急電鉄の電車|3000-2]] [[Category:1999年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:鉄道車両関連]]
2003-09-07T00:25:29Z
2023-10-20T09:54:03Z
false
false
false
[ "Template:更新", "Template:画像提供依頼", "Template:鉄道車両", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:東急電鉄の車両", "Template:節スタブ", "Template:TrainDirection", "Template:縦書き", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A53000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A_(2%E4%BB%A3)
15,469
斎藤実
斎藤 実(さいとう まこと、旧字体: 齋藤󠄁 實、1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。第30代内閣総理大臣。 出生時の名前は富五郎(とみごろう、旧字体: 富五郞)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。 第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で海軍大臣を務めた。その間に男爵に授爵。後に、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務めているあいだに、子爵に陞爵。 総理大臣であった犬養毅が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。 陸奥国胆沢郡塩竈村に、当地を地方知行により治めていた仙台藩一門水沢伊達氏に仕える斎藤高庸の長男として1858年(安政5年)に生まれた。幼名は富五郎。 斎藤家は、水沢伊達氏(留守氏)家中で上から4番目の家格「二番着坐」10家の1つであり、水沢伊達氏家臣団(808家)における序列は15位。父の高庸は、水沢藩士として目付・小姓頭を務め、明治維新後は岩手県警察官となった(明治14年に死去)。 『子爵斎藤実伝』によれば、斎藤氏の始祖とされる斎宮頭藤原叙用の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府の奉行人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に奥州へ赴き留守氏(後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった岩切城がある宮城郡岩切邑(現・宮城県仙台市宮城野区岩切)に居住したのが初祖とされている。 1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、1879年(明治12年)に卒業した(6期)。同期に山内万寿治、坂本俊篤がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた。 1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。1888年(明治24年)に帰国し、海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。1896年(明治29年)11月6日に戦艦「富士」回航委員に任じられ、艦はスエズ運河を通航して1897年10月31日に横須賀に到着した。1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。 1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。同年9月2日に朝鮮の南大門駅(現・ソウル駅)において、独立運動派テロリストの姜宇奎に爆弾を投げつけられる暗殺未遂事件に遭遇している。ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。 1931年(昭和6年)9月満洲事変が勃発し、翌1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺された(五・一五事件)。 当初、犬養首相の後任は同立憲政友会の次期総裁から選出されるものと目されており、政友会右派の森恪らが司法官僚の平沼騏一郎を次期総裁に担ぐ動きもあったが、結果的に鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)が次期総裁に選出された。 元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣 や元帥 の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした。斎藤は英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという。 同26日、第30代内閣総理大臣に就任(同年7月6日まで外務大臣兼任)。 (詳細は五・一五事件を参照。) 齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であり、蔵相に留任した高橋是清の下、積極財政を継続。翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて昭和恐慌前の経済水準に回復し、国内の安定に努めた。 軍部の方針とも大きく対立はせず、1932年(昭和7年)9月15日、日満議定書を締結し満洲国を承認、その後国際連盟総会にて日本側の主張が却下されると、1933年(昭和8年)3月27日、国際連盟脱退を日本政府として表明した。しかし一部軍人からは、元来リベラル派である斎藤への反感や、陸軍予算折衝で荒木陸相を出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚のスキャンダル暴きが行われた。 そして1934年(昭和9年)、帝人事件が勃発。鈴木商店倒産に伴い台湾銀行の担保とされた同子会社帝国人造絹糸(帝人)株式22万株をめぐり、財界グループ「番町会」が買い戻しの依頼を受け、その後の帝人増資で株価利益を上げた問題で、帝人社長高木復亨や番町会の永野護、台湾銀行頭取島田茂、黒田大蔵次官など16名が起訴された。齋藤内閣は綱紀上の責任を理由に、同年7月8日総辞職した。 同事件は、265回にわたる公判の結果、1937年(昭和12年)10月全員が無罪判決を得るという異例の経過をたどったことから、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校、立憲政友会右派らが倒閣の為に仕組んだ陰謀であったと見られている。 その後内大臣に就任した斎藤は、皇道派の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす重臣ブロックとして目の敵にされ、1936年(昭和11年)の二・二六事件において斎藤は殺害された。 事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。 事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。 2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。 斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。 斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。享年79。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。 斎藤は多磨霊園と故郷の小山崎斎藤墓地に埋葬された。葬儀・告別式は同年3月22日築地本願寺にて営まれ、陪柩者として列した木戸幸一は「国民葬の如き観」との感想を記す。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "斎藤 実(さいとう まこと、旧字体: 齋藤󠄁 實、1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。第30代内閣総理大臣。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "出生時の名前は富五郎(とみごろう、旧字体: 富五郞)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で海軍大臣を務めた。その間に男爵に授爵。後に、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務めているあいだに、子爵に陞爵。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "総理大臣であった犬養毅が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "陸奥国胆沢郡塩竈村に、当地を地方知行により治めていた仙台藩一門水沢伊達氏に仕える斎藤高庸の長男として1858年(安政5年)に生まれた。幼名は富五郎。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "斎藤家は、水沢伊達氏(留守氏)家中で上から4番目の家格「二番着坐」10家の1つであり、水沢伊達氏家臣団(808家)における序列は15位。父の高庸は、水沢藩士として目付・小姓頭を務め、明治維新後は岩手県警察官となった(明治14年に死去)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『子爵斎藤実伝』によれば、斎藤氏の始祖とされる斎宮頭藤原叙用の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府の奉行人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に奥州へ赴き留守氏(後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった岩切城がある宮城郡岩切邑(現・宮城県仙台市宮城野区岩切)に居住したのが初祖とされている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、1879年(明治12年)に卒業した(6期)。同期に山内万寿治、坂本俊篤がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた。 1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。1888年(明治24年)に帰国し、海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。1896年(明治29年)11月6日に戦艦「富士」回航委員に任じられ、艦はスエズ運河を通航して1897年10月31日に横須賀に到着した。1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。同年9月2日に朝鮮の南大門駅(現・ソウル駅)において、独立運動派テロリストの姜宇奎に爆弾を投げつけられる暗殺未遂事件に遭遇している。ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)9月満洲事変が勃発し、翌1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺された(五・一五事件)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当初、犬養首相の後任は同立憲政友会の次期総裁から選出されるものと目されており、政友会右派の森恪らが司法官僚の平沼騏一郎を次期総裁に担ぐ動きもあったが、結果的に鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)が次期総裁に選出された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣 や元帥 の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした。斎藤は英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同26日、第30代内閣総理大臣に就任(同年7月6日まで外務大臣兼任)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(詳細は五・一五事件を参照。)", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であり、蔵相に留任した高橋是清の下、積極財政を継続。翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて昭和恐慌前の経済水準に回復し、国内の安定に努めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "軍部の方針とも大きく対立はせず、1932年(昭和7年)9月15日、日満議定書を締結し満洲国を承認、その後国際連盟総会にて日本側の主張が却下されると、1933年(昭和8年)3月27日、国際連盟脱退を日本政府として表明した。しかし一部軍人からは、元来リベラル派である斎藤への反感や、陸軍予算折衝で荒木陸相を出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚のスキャンダル暴きが行われた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "そして1934年(昭和9年)、帝人事件が勃発。鈴木商店倒産に伴い台湾銀行の担保とされた同子会社帝国人造絹糸(帝人)株式22万株をめぐり、財界グループ「番町会」が買い戻しの依頼を受け、その後の帝人増資で株価利益を上げた問題で、帝人社長高木復亨や番町会の永野護、台湾銀行頭取島田茂、黒田大蔵次官など16名が起訴された。齋藤内閣は綱紀上の責任を理由に、同年7月8日総辞職した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同事件は、265回にわたる公判の結果、1937年(昭和12年)10月全員が無罪判決を得るという異例の経過をたどったことから、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校、立憲政友会右派らが倒閣の為に仕組んだ陰謀であったと見られている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後内大臣に就任した斎藤は、皇道派の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす重臣ブロックとして目の敵にされ、1936年(昭和11年)の二・二六事件において斎藤は殺害された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。享年79。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "斎藤は多磨霊園と故郷の小山崎斎藤墓地に埋葬された。葬儀・告別式は同年3月22日築地本願寺にて営まれ、陪柩者として列した木戸幸一は「国民葬の如き観」との感想を記す。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。", "title": "経歴" } ]
斎藤 実は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。第30代内閣総理大臣。
{{Other people|||斎藤実 (曖昧さ回避)}} {{政治家 |人名 = {{big|{{ruby-ja|斎藤|さいとう}} {{ruby-ja|実|まこと}}}} |各国語表記 = <small>{{kyujitai|'''齋藤&#xe0101; 實'''}}</small> | 画像 = Makoto Saito 2.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像説明 = 内閣総理大臣在任時(昭和7〜9年) | 国略称 = {{JPN1870}} | 生年月日 = [[1858年]][[12月2日]]<br />([[安政]]5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) | 出生地 = {{JPN}} [[陸奥国]][[胆沢郡]]塩竈村<br />(現:[[岩手県]][[奥州市]][[水沢市|水沢]]吉小路) | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1858|12|2|1936|2|26}} | 死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[四谷区]]<br />(現:[[東京都]][[新宿区]]) | 出身校 = [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業 | 前職 = 海軍次官 | 称号・勲章 = [[File:Imperial Japan-Navy-OF-9-collar.svg|30px]] [[海軍大将]]<br />[[従一位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br /> [[File:JPN Kinshi-kunsho blank BAR.svg|38px]] [[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]] <br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日大綬章]] <br />[[子爵]] | 親族(政治家) = [[仁礼景範]](岳父)<br />[[斎藤斉]](養嗣子) | 配偶者 = [[斎藤春子]] | サイン = SaitoM kao.png | 国旗 = JPN1870 | 職名 = 第30代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[斎藤内閣]] | 就任日 = [[1932年]][[5月26日]] | 退任日 = [[1934年]][[7月8日]] | 元首職 = 天皇 | 元首 = [[昭和天皇]] | 国旗2 = JPN1870 | 職名2 = 第8代 [[内大臣府|内大臣]] | 就任日2 = [[1935年]][[12月26日]] | 退任日2 = 1936年2月26日 | 国旗3 = JPN1870 | 職名3 = 第41代 [[文部大臣]](総理兼任) | 内閣3 = 斎藤内閣 | 就任日3 = 1934年[[3月3日]] | 退任日3 = 1934年7月8日 | 国旗4 = JPN1870 | 職名4 = 第43代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]](総理兼任) | 内閣4 = 斎藤内閣 | 就任日4 = 1932年5月26日 | 退任日4 = 1932年[[7月6日]] | 国旗5 = | 職名5 = [[File:Seal of the Government-General of Korea.svg|25px]] 第3・5代 [[朝鮮総督府|朝鮮総督]] | 就任日5 = [[1919年]][[8月13日]] - [[1927年]][[12月10日]]<hr/>[[1929年]][[8月17日]] | 退任日5 = [[1931年]][[6月17日]] | 国旗6 = JPN1870 | その他職歴1 = 第6代 [[海軍大臣]] | 就任日6 = [[1906年]][[1月7日]] | 退任日6 = [[1914年]][[4月16日]] <!-- ↑省略可↑ -->}} '''斎藤 実'''(さいとう まこと、{{旧字体|'''齋藤&#xe0101; 實'''}}、[[1858年]][[12月2日]]〈[[安政]]5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]〉- [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[海軍大将]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。功級は[[金鵄勲章#略綬一覧|功二級]]。[[爵位]]は[[子爵]]。[[斎藤内閣|第30代]][[内閣総理大臣]]。 == 概要 == [[File:Saito Makoto 1910.jpg|thumb|1910年ごろ]] 出生時の名前は富五郎(とみごろう、{{旧字体|'''富五郞'''}})といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。[[号]]は皋水(こうすい)。 [[第1次西園寺内閣|第一次西園寺]]・[[第2次桂内閣|第二次桂]]・[[第2次西園寺内閣|第二次西園寺]]・[[第3次桂内閣|第三次桂]]・[[第1次山本内閣|第一次山本]]の5内閣で[[海軍大臣]]を務めた。その間に[[男爵]]に授爵。後に、[[シーメンス事件|シーメンス汚職事件]]により大臣を引責辞任した。その後、[[ジュネーブ海軍軍縮会議]]の主席全権を務め、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]を2期務めているあいだに、[[子爵]]に陞爵。 総理大臣であった[[犬養毅]]が[[大日本帝国海軍|海軍]]将校らによって殺害された[[五・一五事件]]のあとの[[齋藤内閣|第30代]][[内閣総理大臣]]として、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[関東軍]]による前年からの[[満洲事変|満州事変]]など混迷した政局に対処し、[[満洲国|満州国]]を認めなかった[[国際連盟]]を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、[[帝人事件]]での政府批判の高まりにより[[内閣総辞職]]した。<!--[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[齋藤内閣|第47代]])、[[文部大臣]](第41代)、--><!--単なる兼任-->その後[[内大臣府|内大臣]]となって宮中にまわったが、直後に[[二・二六事件]]で暗殺された。 == 経歴 == === 生い立ち === [[陸奥国]][[胆沢郡]]塩竈村に、当地を[[地方知行]]により治めていた[[仙台藩]][[仙台藩家臣|一門]][[留守氏|水沢伊達氏]]に仕える斎藤高庸<ref name=":0">{{Harvnb|斎藤子爵記念会|1941|pp=86-92}}</ref>の長男として[[1858年]](安政5年)に生まれた<ref name=":1">{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置番号 4152-4161、海軍大将略歴:斎藤実}}</ref>。幼名は富五郎<ref name=":1" />。 斎藤家は、水沢伊達氏(留守氏)家中で上から4番目の家格「二番着坐」10家の1つであり、水沢伊達氏家臣団(808家)における序列は15位<ref name=":0" />。父の高庸は、水沢藩士として目付・小姓頭を務め、明治維新後は岩手県警察官となった(明治14年に死去)<ref>{{Harvnb|斎藤子爵記念会|1941|p=111}}</ref>。 『子爵斎藤実伝』によれば、斎藤氏の始祖とされる[[斎宮寮|斎宮頭]][[藤原叙用]]の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から[[鎌倉幕府]]の[[奉行]]人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に[[陸奥国|奥州]]へ赴き[[留守氏]](後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった[[岩切城]]がある[[宮城郡]]岩切邑(現・[[宮城県]][[仙台市]][[宮城野区]]岩切)に居住したのが初祖とされている。 === 海軍軍人として === [[ファイル:Makoto Saito.jpg|thumb|left|[[海軍大臣]]のころ]] 1873年(明治6年)10月27日に[[海軍兵学寮]](後の海軍兵学校)に入学{{efn|明治5年[[陸軍幼年学校]]を受験するが落第<ref>石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書 100ページ</ref>。}}、[[1879年]](明治12年)に卒業した([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#6期|6期]])。同期に[[山内万寿治]]、[[坂本俊篤]]がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた<ref>実松譲『海軍大学教育』(光人社NF文庫、1993年)P.177。</ref>。 [[1884年]](明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]留学兼駐米公使館付[[駐在武官]]を務めた。1888年(明治24年){{要出典|date=2012年4月|}}に帰国し、[[軍令部|海軍参謀本部]]員、「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」、「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」艦長を歴任した。1896年(明治29年)11月6日に戦艦「[[富士 (戦艦)|富士]]」回航委員に任じられ、艦は[[スエズ運河]]を通航して1897年10月31日に[[横須賀市|横須賀]]に到着した。1898年(明治31年)11月10日に[[第1次大隈内閣]]の[[山本権兵衛]][[海軍大臣]]の推挙により[[海軍次官]]に就任、[[艦政本部]]長を経て1906年に[[第1次西園寺内閣]]で海軍大臣を拝命し、[[第1次山本内閣]]まで8年間つとめた。[[1912年]]([[大正]]元年)、[[海軍大将]]。[[1914年]](大正3年)、[[シーメンス事件]]により海軍大臣を辞任し、[[予備役]]に編入された。 [[1919年]](大正8年)、武断政治が批判された[[陸軍大将]][[長谷川好道]]に代わって、現役海軍大将に復して第3代[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]に就任、[[文化政治]]を推し進めた。同年9月2日に朝鮮の南大門駅(現・[[ソウル駅]])において、独立運動派[[テロリズム|テロリスト]]の[[姜宇奎]]に爆弾を投げつけられる暗殺未遂事件に遭遇している。[[ジュネーブ海軍軍縮会議]]全権委員、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。 === 総理大臣兼外務大臣(満洲国承認から国際連盟脱退まで)=== {{See also|齋藤内閣|帝人事件}} 1931年(昭和6年)9月満洲事変が勃発し、翌1932年(昭和7年)5月15日、[[犬養毅]]首相が[[大日本帝国海軍|海軍]]若手将校らにより暗殺された([[五・一五事件]])。 当初、犬養首相の後任は同[[立憲政友会]]の次期総裁から選出されるものと目されており<ref group="注釈">[[原内閣]]、[[加藤高明内閣]]、[[濱口内閣]]と首相在任中に倒れた場合、同党の次期総裁が後継内閣を組織することが慣例となっていた。</ref>、政友会[[右翼|右派]]の[[森恪]]らが司法官僚の[[平沼騏一郎]]を次期総裁に担ぐ動きもあったが<ref group="注釈">平沼は一部軍人や国粋主義者などから支持が篤かったが、[[昭和天皇]]が「次期首相に[[ファシズム|ファッショ]]に近い者は絶対に不可」と考えていたこともあり、この時点で平沼にとっては不利な情勢であった。</ref>、結果的に[[鈴木喜三郎]]([[鳩山一郎]]の義弟)が次期総裁に選出された。 [[元老]][[西園寺公望]]も当初は[[政党内閣]]継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の[[荒木貞夫]]も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた<ref>『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月19日</ref>。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ<ref>『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月20日</ref>、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣 <ref group="注釈">[[倉富勇三郎]][[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]、[[牧野伸顕]][[内大臣]]、[[近衛文麿]][[貴族院議長 (日本)#歴代貴族院副議長|貴族院副議長]]、[[若槻禮次郎|若槻礼次郎]]元首相、[[清浦奎吾|清浦圭吾]]元首相、[[山本権兵衛]]元首相</ref>や元帥 <ref group="注釈">[[上原勇作]]、[[東郷平八郎]]</ref>の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした<ref group="注釈">西園寺はこれを一時的な措置とし、いずれ政党政治に戻す事を企図していたとされるが、時局が進むにつれそれが実現することはなかった。</ref>。斎藤は[[英語]]に堪能で、[[条約派]]に属する国際派の[[海軍軍人]]であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという。 同26日、第30代[[内閣総理大臣]]に就任(同年7月6日まで[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]兼任)。 (詳細は[[五・一五事件#後継首相の選定|五・一五事件]]を参照。) 齋藤内閣は[[立憲政友会]]と[[立憲民政党]]の双方から大臣を迎えた[[挙国一致内閣]](連立内閣)であり、蔵相に留任した[[高橋是清]]の下、積極財政を継続。翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて[[昭和恐慌]]前の経済水準に回復し、国内の安定に努めた。 軍部の方針とも大きく対立はせず、1932年(昭和7年)9月15日、[[日満議定書]]を締結し[[満洲国]]を承認、その後[[国際連盟]]総会にて日本側の主張が却下されると、1933年(昭和8年)3月27日、国際連盟脱退を[[日本国政府|日本政府]]として表明した。しかし一部軍人からは、元来[[自由主義|リベラル派]]である斎藤への反感や、陸軍予算折衝で荒木陸相を出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚のスキャンダル暴きが行われた。 そして1934年(昭和9年)、[[帝人事件]]が勃発。[[鈴木商店]]倒産に伴い[[台湾銀行]]の[[担保]]とされた同子会社[[帝国人造絹絲|帝国人造絹糸]](帝人)[[株式]]22万株をめぐり、[[財界]]グループ「番町会」が買い戻しの依頼を受け、その後の帝人増資で株価利益を上げた問題で、帝人社長高木復亨や番町会の[[永野護 (政治家)|永野護]]、台湾銀行[[頭取]][[島田茂 (大蔵官僚)|島田茂]]、[[黒田英雄|黒田]][[大蔵次官]]など16名が起訴された。齋藤内閣は綱紀上の責任を理由に、同年7月8日[[内閣総辞職|総辞職]]した。 同事件は、265回にわたる[[公判]]の結果、1937年(昭和12年)10月全員が[[無罪]]判決を得るという異例の経過をたどったことから、[[検察庁|検察]]内の[[平沼騏一郎]]派、陸軍将校、立憲政友会右派らが倒閣の為に仕組んだ陰謀であったと見られている。 === 二・二六事件 === その後[[内大臣府|内大臣]]に就任した斎藤は、[[皇道派]]の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす[[重臣]]ブロックとして目の敵にされ、1936年(昭和11年)の[[二・二六事件]]において斎藤は殺害された。 事件の数日前、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。 事件の前夜、斎藤は知日派の[[ジョセフ・グルー]]駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『[[浮かれ姫君]]』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった<ref>グルー『滞日十年』(上下、[[石川欣一 (ジャーナリスト)|石川欣一]]訳、[[毎日新聞社]]、1948年)に紹介されている。</ref>。 2月26日未明に[[坂井直]]中尉、高橋太郎少尉、[[安田優]]少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、[[ピストル]]などを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で[[虐殺]]された。 斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の[[有馬頼義]]は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。[[斎藤春子|春子]]から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に[[軽機関銃]]を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。 斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。[[享年]]79。信任していた重臣らを殺害された[[昭和天皇]]は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。 斎藤は[[多磨霊園]]と故郷の小山崎斎藤墓地に埋葬された。葬儀・告別式は同年3月22日[[築地本願寺]]にて営まれ、陪柩者として列した[[木戸幸一]]は「国民葬の如き観」との感想を記す<ref>木戸幸一『木戸幸一日記:上巻』 東京大学出版会、1980年。</ref>。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、[[岩手県]][[奥州市]]水沢の斎藤實記念館と、[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]の[[国立国会図書館]]に分散して保存されている。 == 人物 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2011年11月}} [[ファイル:Makoto Saito LKPS.jpg|thumb|200px|[[政治家]]のころ]] [[ファイル:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together cropped.jpg|thumb|200px|[[1936年]][[2月20日]]、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]][[高橋是清]](左)と]] * 斎藤の英語力は歴代総理の中でも相当のもので、要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほどだった[https://www.ndl.go.jp/modern/guidance/images/286.jpg]。また、ともに滞米経験があり親英米派だった高橋是清とは個人的に親しい友人でもあった。 * 青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日[[ビール]]を配達させていた。その甲斐あって、斎藤は強靱な体力を得た。強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。 * 若いときから酒豪であったが、[[日清戦争]]のとき、[[広島大本営|広島に設置された大本営]]に海軍参謀本部参謀として務めた斎藤は、いつものように徹夜で一升酒をあけ、翌日、素知らぬ振りで[[明治天皇]]の前に出仕した。明治天皇は休憩時間に斎藤を呼び、好きな[[蹴鞠]]の相手をするように言った。実は酔いのさめていない斎藤は、不覚にも腰を抜かしてしまい動けなくなった。明治天皇は斎藤の徹夜酒をすぐに悟ったが、特に何も注意せず、ニコニコしているだけであった。斎藤はしばらく禁酒するとともに、明治天皇の部下への大らかな態度に大いに学ぶところがあったという。 * [[1914年]](大正3年)、[[千葉県]][[一宮町]]新地に別荘を所有している。[[九十九里浜]]の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。この別荘は[[1901年]](明治34年)10月に竣工のもので、1914年(大正3年)に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。古洋服に[[草履]]をはき、[[手拭]]を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。なお、別荘を所有していた関係上、近くの[[玉前神社]]には彼が奉納した扁額が掲げられている。 * 斎藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。[[揮毫]]をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。斎藤が整理・保管した書翰類は、大半が[[国立国会図書館]]に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている<ref group="注釈">国立国会図書館専門資料部編『斎藤実関係文書目録』は、書類の部と書翰の部・各2巻で、1993-99年に出版。</ref>。 === 朝鮮総督時代の評価 === * 1926年に[[イギリス]]の植民地研究の専門家である、[[アレン・アイルランド]]は斎藤について次のように述べている。「1922年の朝鮮においては、[[反日]]の過激論者を除けば、斎藤総督に対する世間一般の評価は次のようであった。総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、[[日本人]]と[[朝鮮民族|朝鮮人]]の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていたのである」<ref>アレン・アイルランド『THE NEW KOREA(1926)』桜の花出版、2013年。</ref>。 == 略歴 == [[ファイル:Makoto Saito full.jpg|thumb|200px|椅子に座る齋藤]] * [[安政]]5年10月27日([[1858年]][[12月2日]]) - 誕生。 * [[1873年]]([[明治]]6年)10月27日 - [[海軍兵学寮]]入校。 * [[1879年]](明治12年)4月20日 - 海軍兵学校卒業(6期)。 * [[1882年]](明治15年)9月8日 - 海軍[[少尉]]に任官。 * [[1884年]](明治17年) ** 2月25日 - [[海軍中尉]]に進級。 ** 9月19日 - 駐[[アメリカ合衆国]]公使館付[[駐在武官|武官]](至 [[1888年]](明治21年)10月26日) * [[1886年]](明治19年)7月14日 - 海軍[[大尉]]に進級。 * [[1893年]](明治26年)12月20日 - 海軍[[少佐]]に進級。 * [[1894年]](明治27年)9月7日 - [[侍従武官]]。 * [[1895年]](明治28年)5月 - [[常備艦隊]]参謀。 * [[1896年]](明治29年)11月6日 - [[戦艦]]「[[富士 (戦艦)|富士]]」回航委員(「富士」副長)。 * [[1897年]](明治30年) ** 12月1日 - 海軍[[中佐]]に進級。 ** 12月27日 - 海軍[[大佐]]に進級。[[防護巡洋艦]]「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」[[艦長]]。 * [[1898年]](明治31年) ** 10月1日 - 二等巡洋艦「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」艦長。 ** 11月10日 - 海軍次官(至 明治39年1月)。 * [[1900年]](明治33年) ** 5月 - 海軍[[少将]]に進級。 ** 明治33年5月から同年10月 - 兼 [[軍務局#海軍省軍務局|海軍省軍務局]]長。 * [[1903年]](明治36年)10月から明治39年1月 - 兼 [[海軍艦政本部]]長。 * [[1904年]](明治37年)2月から明治38年12月 - 兼 海軍省軍務局長。 ** 6月 - 海軍[[中将]]に進級。 [[File:LS75Z1.jpg|right|thumb|日露戦争凱旋式当日の海軍首脳 最前列左4人目から順に<br/>[[伊集院五郎]]、[[上村彦之丞]]、[[東郷平八郎]]、[[山本権兵衛]]、[[伊東祐亨]]、[[片岡七郎]]、[[出羽重遠]]、斎藤実、[[山下源太郎]]<br/>中列左から6人目[[加藤友三郎]]]] * [[1905年]](明治38年)2月から同年11月 - 兼 [[海軍教育本部]]長。 * [[1906年]](明治39年)1月7日 - [[海軍大臣]]に親補される。 * [[1907年]](明治40年)9月 - [[男爵]]。 * [[1912年]]([[大正]]元年)10月16日 - [[海軍大将]]に親任される。 * [[1914年]](大正2年) ** 4月16日 - 海軍大臣を辞任。 ** 5月11日 - 予備役編入<ref>『官報』第534号、大正3年5月12日。</ref>。 * [[1919年]](大正8年) ** 8月12日 - 現役に復帰し、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]に就任<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/07/21/9000000000AJP20090721003300882.HTML 今日の歴史(8月12日)] 聯合ニュース 2009/08/12</ref>(至 昭和2年([[1927年]])12月9日)。 ** 9月2日 [[姜宇奎]]による暗殺未遂事件。 * 1925年(大正14年)4月 - 子爵。 * [[1927年]](昭和2年) ** 4月から9月 - [[ジュネーブ海軍軍縮会議]]全権 ** 12月10日 - 朝鮮総督 依願免官、国務大臣たる前官の待遇を賜る<ref>『官報』第287号「叙任及辞令」1927年12月12日。</ref>。後備役<ref group="注釈">1914年の現役復帰は、朝鮮総督在任中に限りとはう例されていたため、朝鮮総督退任により辞令を受けずに予備役となった。</ref> ** 12月17日 - [[枢密院 (日本)|枢密]]顧問官<ref>『官報』第293号「叙任及辞令」1927年12月19日。</ref> * [[1928年]](昭和3年)11月17日 - 退役 * [[1929年]](昭和4年) ** 7月30日 - 王公族審議会審議官<ref>『官報』第776号「叙任及辞令」1929年7月31日。</ref> ** 8月17日 - 朝鮮総督に就任。 * [[1931年]](昭和6年)6月17日 - 朝鮮総督 依願免官、国務大臣たる前官の待遇を賜る<ref>『官報』第1339号「叙任及辞令」1931年6月18日。</ref>。 [[File:Saito-Makoto former residence.jpg|thumb|180px|1932年に[[水沢町]]に建てられた齋藤實旧宅]] * [[1932年]](昭和7年) ** 5月26日 - 第30代[[内閣総理大臣]]及び第47代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任<ref>『官報』第1619号「叙任及辞令」1932年5月26日。</ref>。 ** 7月6日 - 内閣総理大臣及び外務大臣 免官<ref>『官報』第1654号「叙任及辞令」1932年7月6日。</ref>。 * [[1934年]](昭和9年) ** 3月3日 - 第53代[[文部大臣]]に就任。 ** 7月3日 - [[内閣総辞職]]。 * [[1935年]](昭和10年) ** 6月 - 日本[[ボーイスカウト]]連盟(日本少年団連盟)総長。 ** 12月10日 - 大日本映画協会会長に就任。協会は[[警保局]]映画統制委員会の別働組織<ref>警保局主導で設置、役員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年12月3日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p352 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 ** 12月26日 - [[内大臣府|内大臣]]に就任<ref>『官報』第2695号「叙任及辞令」1935年12月26日。</ref>。 * [[1936年]](昭和11年)2月26日 - [[二・二六事件]]で反乱部隊に殺害され、[[薨去]]。 == 栄典 == ;位階 * [[1882年]](明治15年)[[10月31日]] - [[正八位]]<ref name="aser">{{アジア歴史資料センター|A06051177100|斎藤実}}</ref> * [[1884年]](明治17年)[[3月29日]] - [[従七位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第228号「叙任」1884年4月7日。</ref> * [[1890年]](明治23年)[[1月17日]] - [[正七位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。</ref> * [[1894年]](明治27年)[[2月28日]] - [[従六位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。</ref> * [[1898年]](明治31年) ** [[3月21日]] - [[従五位]]<ref name="aser"/> ** [[12月22日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第4646号「叙任及辞令」1898年12月23日。</ref> * [[1902年]](明治35年)[[3月10日]] - [[従四位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第5602号「叙任及辞令」1902年3月11日。</ref> * [[1906年]](明治39年)[[1月20日]] - [[正四位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第6766号「叙任及辞令」1906年1月22日。</ref> * [[1908年]](明治41年)[[2月21日]] - [[従三位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第7394号「叙任及辞令」1908年2月22日。</ref> * [[1911年]](明治44年)[[3月10日]] - [[正三位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。</ref> * [[1915年]](大正4年)[[12月28日]] - [[従二位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。</ref> * [[1926年]](大正15年)[[9月15日]] - [[正二位]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第4222号「叙任及辞令」1926年9月18日。</ref> * [[1936年]](昭和11年)[[2月26日]] - [[従一位]]<ref name="ooo">『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。</ref> ;勲章など * [[1893年]](明治26年)[[5月26日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第2974号「叙任及辞令」1893年5月31日。</ref> * [[1895年]](明治28年)[[11月18日]] - [[従軍記章#明治二十七八年従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第3830号・付録「辞令」1896年4月9日。</ref> * [[1896年]](明治29年) **[[5月23日]] - [[金鵄勲章|功四級金鵄勲章]]・[[旭日章|単光旭日章]]<ref name="aser"/> ** [[11月25日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。</ref> * [[1899年]](明治32年)[[6月20日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="aser"/> * [[1901年]](明治34年)[[12月27日]] - [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。</ref> * [[1902年]](明治35年)[[5月10日]] - [[従軍記章#明治三十三年従軍記章|明治三十三年従軍記章]]<ref name="aser"/> * [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]・[[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。</ref> * [[1907年]](明治40年)[[9月21日]] - [[男爵]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。</ref> * [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|韓国併合記念章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。</ref> * [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(大正)]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref> * [[1920年]](大正9年)[[12月25日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref name="aser"/> * [[1924年]](大正13年)[[2月11日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。</ref> * [[1925年]](大正14年)[[4月9日]] - [[子爵]]<ref name="aser"/> * [[1927年]](昭和2年)[[3月15日]] - [[賞杯|御紋付銀杯]]<ref name="aser"/> * [[1928年]](昭和3年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(昭和)]]<ref name="aser"/> * [[1931年]](昭和6年)[[3月30日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref> * [[1936年]](昭和11年)[[2月26日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="ooo"/> ;外国勲章佩用允許 * [[1893年]](明治26年)[[6月19日]] - [[フランス|フランス共和国]]:ダカデミー記章オフィシェー<ref name="aser"/><ref>『官報』「叙任及辞令」1893年6月23日。</ref> * [[1897年]](明治30年)[[12月6日]] - [[イギリス帝国]]:銀製ジュビリー記念章<ref name="aser"/> * [[1901年]](明治34年)[[4月4日]] - [[フランス|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章]]コマンドール<ref name="aser"/><ref>『官報』第5328号「叙任及辞令」1901年4月11日。</ref> * [[1906年]](明治39年)[[6月19日]] - [[イギリス帝国]]:[[バス勲章]]グランドクロス<ref name="aser"/> * [[1907年]](明治40年) **[[2月26日]] - [[プロイセン王国]]:{{仮リンク|赤鷲勲章|en|Order of the Red Eagle}}第一等勲章<ref name="aser"/> **[[7月1日]] - [[イタリア王国]]:[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]第一等勲章<ref name="aser"/><ref>『官報』第7210号「叙任及辞令」1907年7月12日。</ref> **[[12月17日]] - [[フランス|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエ<ref name="aser"/> * [[1908年]](明治41年) **[[3月3日]] - [[大韓帝国]]:[[大勲位李花大綬章|李花大勲章]]<ref name="aser"/><ref>『官報』第7407号「叙任及辞令」1908年3月9日。</ref> **[[5月1日]] - [[ロシア帝国]]:{{仮リンク|白鷲勲章 (ロシア帝国)|en|Order of the White Eagle (Russian Empire)|ru|Орден Белого орла (Российская империя)|label=白鷲勲章}}<ref name="aser"/> * [[1910年]](明治43年)[[4月1日]] - [[大韓帝国]]:韓国皇帝陛下南西巡幸記念章<ref name="aser"/><ref>『官報』第8034号「叙任及辞令」1910年4月7日。</ref> * [[1911年]](明治44年)[[5月31日]] - [[オランダ王国]]:{{仮リンク|オラニエ=ナッサウ勲章|en|Order of Orange-Nassau}}第一等勲章<ref name="aser"/><ref>『官報』「叙任及辞令」1911年7月4日。</ref> * [[1913年]](大正2年)[[3月22日]] - [[チリ共和国]]:{{仮リンク|メリット勲章 (チリ)|label=チリ・メリット勲章|en|Order of Merit (Chile)}}第一等記章<ref name="aser"/> * [[1922年]](大正11年)[[5月1日]] - [[ローマ教皇庁]]:[[聖シルベストロ教皇騎士団勲章|聖シルベストロ勲章]]グランクロア<ref>[http://www.vatican.va/archive/aas/documents/AAS-14-1922-ocr.pdf 『使徒座公報』: Commentarium Officiale, Annus XIV - Vol. XIV, 1922, pages. 207]</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A10112960600|東京帝国大学名誉教授寺尾寿外十四名外国勲章記章受領及佩用ノ件}}</ref> * [[1932年]](昭和7年)[[7月7日]] - [[バチカン|ローマ教皇庁]]:[[ピウス9世勲章]]グランクロア<ref>[http://www.vatican.va/archive/aas/documents/AAS-24-1932-ocr.pdf 『使徒座公報』: Commentarium Officiale, Annus XXIV - Vol. XXIV, 1932, pages. 104]</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A10113110700|辻二郎外八名外国勲章記章受領及佩用ノ件}}</ref> == 親族 == * 妻 [[斎藤春子]]([[仁礼景範]]長女)<ref name="he">『平成新修旧華族家系大成』上巻、628頁。</ref> * 養嗣子 [[斎藤斉]](通信技師、貴族院子爵議員、[[豊川良平]]五男)<ref name="he"/> == 関連文献 == * [[松田十刻]]『齋藤實伝 「二・二六事件」で暗殺された提督の真実』元就出版社、2008年。 **『提督斎藤實 「二・二六」に死す 昭和天皇が愛した軍人政治家の生涯』光人社NF文庫、2020年 ** [[松田十刻|高橋文彦]]『惨殺 提督斎藤実 「二・二六」に死す』[[光人社]]、1999年。元版 * [[村上貞一]]『歴代総理大臣伝記叢書21 斎藤実』復刻・[[御厨貴]]監修、[[ゆまに書房]]、2006年。 * [[有竹修二]]『日本宰相列伝14 斎藤実』[[時事通信社]]、1986年。新版 * [[アレン・アイルランド]]『THE NEW KOREA』 桜の花出版、2013年。編集部編 * 霞会館[[華族]]家系大成編輯委員会『[[平成新修旧華族家系大成]]』上巻、[[霞会館]]、1996年。 * 斎藤實顕彰会『斎藤實生誕百六十年関連事業<!--原著は縦書き漢数字表記--> うつならこの私をうってください!』 - 斎藤實の妻・春子を偲ぶ記録集、2020年(令和2年)2月26日<ref>{{Citenews|title=優しさと高貴さ 春子夫人の思い出、本に 斎藤實生誕160年記念事業 顕彰会が2年かけ発行【奥州】(登録制)|url=https://www.iwanichi.co.jp/2020/03/02/1297336/|newspaper=Iwanichi Online(岩手日日新聞社)|date=2020-03-02|accessdate=2020-12-06}}</ref> == 関連作品 == ;映画 * [[天皇・皇后と日清戦争]](1958年、演:[[細川俊夫 (俳優)|細川俊夫]]) * [[宴 (映画)|宴]](1967年、演:[[青野平義]]) * [[動乱 (映画)|動乱]](1980年、演:[[山本武 (俳優)|山本武]])※役名は内大臣 * [[226 (映画)|226]](1989年、演:[[高桐真]]) ;テレビドラマ * [[大風呂敷 (テレビドラマ)|大風呂敷]](1970年、NHK、演:[[田辺靖雄]]) * [[妻たちの二・二六事件]](1976年、NHK、演:[[嵯峨善兵]]) * [[海は甦える]](1977年、TBS、演:[[草薙幸二郎]]) * [[山河燃ゆ]](1984年、NHK大河ドラマ、演:山本武) * [[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機]](2008年、TBS、演:[[森下明]]) * [[落日燃ゆ]](2009年、テレビ朝日、演:[[織本順吉]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|28em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|ref=harv|title=子爵斎藤実伝|last=斎藤子爵記念会|first=|authorlink=|year=1941|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058030|edition=|publisher=斎藤子爵記念会|series=|volume=1|isbn=}}(国立国会図書館デジタルコレクション) * {{Citation|和書|ref=harv|title=歴代海軍大将全覧|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|year=2013|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書ラクレ}} == 関連項目 == * [[大本営]] * [[昭和三陸地震]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|スカウト}} [[ファイル:Saito-Makoto Museum.jpg|thumb|200px|齋藤實記念館]] * [http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/saitomakoto.html 【政治家】齋藤実] * [http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/index.html 齋藤實記念館(奥州市)] * [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/87/ 斎藤実 | 近代日本人の肖像] * [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/saitoumakoto1.html 国立国会図書館 憲政資料室 斎藤実関係文書(その1)] * [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/saitoumakoto3.html 国立国会図書館 憲政資料室 斎藤実関係文書(その2)] * [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/saitoumakoto2.html 国立国会図書館 憲政資料室 斎藤実関係文書(MF:個人蔵)] * {{Kotobank}} * {{Commonscat-inline}} {{S-start}} {{s-off}} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] | before = [[犬養毅]] | years = 第30代:1932年5月26日 - 1934年7月8日 | after = [[岡田啓介]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[海軍大臣]] | before = [[山本権兵衛]] | years = 第14 - 18代:1906年1月7日 - 1914年2月20日 | after = [[八代六郎]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[朝鮮総督府|朝鮮総督]] | before = [[長谷川好道]]<br/>[[山梨半造]] | years = 第3代:1919年8月13日 - 1927年12月10日<br/>第5代:1929年8月17日 - 1931年6月17日 | after = [[宇垣一成]](臨時代理)<br/>[[宇垣一成]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | before = [[芳澤謙吉]] | years = 第47代:1932年5月26日 - 同7月6日(兼任) | after = [[内田康哉]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[文部大臣]] | before = [[鳩山一郎]] | years = 第41代:1933年3月3日 - 1934年7月8日(兼任) | after = [[松田源治]] }} {{S-mil}} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[海軍省|海軍次官]] | titlenote = 1900年5月20日 - 1903年12月5日は海軍総務長官 | before = [[伊藤雋吉]] | years = 第3代:1898年11月10日 - 1906年1月7日 | after = [[加藤友三郎]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[艦政本部|艦政本部長]] | titlenote = 海軍次官と兼務 | before = [[有馬新一]] | years = 第3代:1903年10月27日 - 1906年1月10日 | after = [[伊集院五郎]] }} {{S-reg|jp}} {{Succession box | title = 子爵 | years = 斎藤(実)家初代<br />1925年 - 1936年 | before = 陞爵 | after = [[斎藤斉]] }} {{Succession box | title = 男爵 | years = 斎藤(実)家初代<br />1907年 - 1925年 | before = 叙爵 | after = 陞爵 }} {{S-end}} {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[齋藤内閣|30]] |在任期間= 1932年5月26日 - 1934年7月8日 |前代=[[犬養内閣|29]] |前首相名=犬養毅 |次代=[[岡田内閣|31]] |次首相名=岡田啓介 }} {{文部科学大臣|1933年 -1934年|[[文部大臣]]}} {{外務大臣|1932年}} {{朝鮮総督||1919年-1927年}} {{海軍大臣|1906年-1914年}} {{海軍次官|1898年-1906年}} {{海軍省軍務局長|1900年/1904年-1905年}} {{226}} {{Scouting|founders}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいとう まこと}} [[Category:斎藤実|*]] [[Category:昭和時代戦前の内閣総理大臣]] [[Category:昭和時代戦前の閣僚]] [[Category:大正時代の閣僚]] [[Category:明治時代の閣僚]] [[Category:日本の海軍大臣]] [[Category:日本の外務大臣]] [[Category:日本の文部大臣]] [[Category:昭和時代の内大臣]] [[Category:大日本帝国海軍大将]] [[Category:海軍次官]] [[Category:海軍省軍務局長]] [[Category:海軍教育本部長]] [[Category:日本の子爵]] [[Category:日本の男爵]] [[Category:日本の枢密顧問官]] [[Category:朝鮮総督]] [[Category:日本学術振興会の人物]] [[Category:東邦協会の人物]] [[Category:シーメンス事件の人物]] [[Category:二・二六事件の人物]] [[Category:日露戦争の人物]] [[Category:スカウト関係者]] [[Category:従一位受位者]] [[Category:大勲位菊花大綬章受章者]] [[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]] [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] [[Category:勲二等旭日重光章受章者]] [[Category:勲四等瑞宝章受章者]] [[Category:勲五等瑞宝章受章者]] [[Category:勲六等単光旭日章受章者]] [[Category:勲六等瑞宝章受章者]] [[Category:功二級金鵄勲章受章者]] [[Category:功四級金鵄勲章受章者]] [[Category:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者]] [[Category:レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者]] [[Category:バス勲章]] [[Category:赤鷲勲章受章者]] [[Category:白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)]] [[Category:オラニエ=ナッサウ勲章受章者]] [[Category:暗殺された政治家]] [[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]] [[Category:幕末仙台藩の人物]] [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:1858年生]] [[Category:1936年没]] [[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
2003-09-07T00:25:35Z
2023-12-22T17:00:58Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat-inline", "Template:S-mil", "Template:S-reg", "Template:海軍大臣", "Template:Normdaten", "Template:Efn", "Template:仮リンク", "Template:S-off", "Template:S-end", "Template:海軍次官", "Template:226", "Template:Citenews", "Template:Kotobank", "Template:Citation", "Template:外務大臣", "Template:海軍省軍務局長", "Template:Scouting", "Template:Other people", "Template:Notelist", "Template:雑多な内容の箇条書き", "Template:Harvnb", "Template:S-start", "Template:政治家", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:旧字体", "Template:要出典", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:日本国歴代内閣総理大臣", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Succession box", "Template:朝鮮総督", "Template:アジア歴史資料センター", "Template:文部科学大臣" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F
15,470
東急5000系電車
東急5000系電車(とうきゅう5000けいでんしゃ)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急5000系電車(とうきゅう5000けいでんしゃ)", "title": null } ]
東急5000系電車(とうきゅう5000けいでんしゃ) 東急5000系電車 (2代)…2002年(平成14年)に登場した東京急行電鉄の最新系列グループ。5000系(田園都市線用)・5050系(東横線用)・5080系(目黒線用)がこのグループにあたる。「新5000系」と呼ばれることもある。 東急5000系電車 (初代)…1954年(昭和29年)~1986年(昭和61年)に在籍した東京急行電鉄初のカルダン駆動車。通称「青ガエル」。「旧5000系」と呼ばれることもある。
'''東急5000系電車'''(とうきゅう5000けいでんしゃ) *'''[[東急5000系電車 (2代)]]'''…[[2002年]]([[平成]]14年)に登場した[[東京急行電鉄]]の最新系列グループ。5000系([[東急田園都市線|田園都市線]]用)・5050系([[東急東横線|東横線]]用)・5080系([[東急目黒線|目黒線]]用)がこのグループにあたる。「新5000系」と呼ばれることもある。 *'''[[東急5000系電車 (初代)]]'''…[[1954年]]([[昭和]]29年)~[[1986年]](昭和61年)に在籍した東京急行電鉄初の[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]車。通称「'''青ガエル'''」。「旧5000系」と呼ばれることもある。 {{aimai}} {{デフォルトソート:とうきゆう5000けいてんしや}}
null
2022-12-29T06:13:10Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A55000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,471
東急7000系電車 (初代)
東急7000系電車(とうきゅう7000けいでんしゃ)は、134両が東急車輛製造で製造され、1962年(昭和37年)から2000年(平成12年)まで東京急行電鉄で運用された通勤形電車である。 本項では、編成単位で表記する場合は東横線上で渋谷寄りの先頭車番号で代表し、「7001F」などの様に表記する。「6000系」は1960年製造開始の東急6000系電車 (初代)を指す。本系列の仕様に大きな影響を与えた、日比谷線直通車両の規格や運転取り扱いは、「乗り入れ協定」と表記する。「東急」と表記する場合は1962年当時の社名である鉄道会社の「東京急行電鉄」を指し、車両製造メーカーの「東急車輛製造」は「東急車輛」と表記する。東急の各線は過去に路線名・運転系統を何回か変更し、路線名および区間が時代により異なるが、記事中では記載された事象がおこった時点の路線名で記載している。 なお、本項目では基本的に7000系のみ解説するため、当形式より改造された7700系や譲渡車については当該記事を参照。 東急車輛がアメリカのバッド社と技術提携により製作した日本初のオールステンレス車両であり、1962年1月25日から1966年9月10日にかけて、134両が同社で製造された。総数134両は、東急の1系列として当時最大両数であった。 東横線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線の直通運転を前提として設計されたため、車体の規格は乗り入れ協定に準拠したものとなっているが、乗り入れに必要な機器が搭載された車両は一部にとどまった。最初に製造された車両には制御装置をはじめとする電装品には6000系で採用されたのと同等のものも多く採用されたが、車体や台車にはバッド社の特許技術が多く盛り込まれた。東急車輌は本系列について、『東急車輌30年のあゆみ』に以下のように記している。 また、本系列の製造を通じて、同業他社と肩を並べるまでの技術発展ができたと評している。また、「1960年代のエポックメーカー」などと評されることもある。 当初は東横線に配置され、1964年から日比谷線乗り入れを開始、次いで1966年から田園都市線でも運用されるようになるなど、池上線、新玉川線を除く東急の鉄道線各線で広く運用された。 オールステンレス車両は解体しない東京急行電鉄の方針のもと、134両すべてが改造、譲渡などを経て再利用され、1987年から1991年にかけて56両がVVVFインバータ制御化・冷房化・台車交換などを行って7700系へと改番されたほか、76両が1988年から1991年にかけて5つの鉄道事業者に譲渡された。初号車製造から50年を経過した2012年4月1日時点でも84両が5鉄道事業者で旅客営業に供されていた。 本系列はアメリカの技術を導入した日本初のオールステンレス車両であり、導入に至るまでの経緯が本系列の構造や部品、その後の車両に大きな影響を与えている。 本系列の製造にあたった東急車輛製造は、国有財産の設備や土地などを借り受け、1948年8月23日に株式会社東急横浜製作所として設立された、戦後発足の車両製造メーカーであり、戦後の混乱を乗り越えた後も先行する同業他社に追いつく努力が必要だった。1952年7月11日に同社社長に就任した吉次利二は、鉄道部門の業績向上のために、同業他社を上回る技術力でシェアを獲得することと、海外メーカーの技術の取り入れ・自社の技術や車両の輸出をセットで行うことを経営方針の1つとして掲げ、その一環として、吉次を団長とした業界関係者が北米・南米の市場開拓や視察を目的として1956年に海外へ渡り、南米では日本製車両の長所を伝えて回った。訪問先の鉄道事業者ではアメリカ製の車両が導入されており、ブラジルではアメリカのバッド社が製造したオールステンレス車両に乗車する機会があった。吉次は後に東急車輌創立20周年記念の座談会で以下のように述べている。 バッド社は1934年には世界初のステンレス製ディーゼル列車である「パイオニア・ゼファー」を世に送り出し、1959年までに累計3000両を超えるステンレス車両を製造していたほか、視察時点で7社の海外メーカーと技術提携していた。視察の帰り際、先方との交渉の末に吉次ほか一部の人間がバッド社の工場を見学し、ステンレス製車両が鋼製車両に比べ軽量化(経済性)と構造の強靱さ(安全性)の面で優れていることから、吉次はステンレス車両の将来性を確信したという。吉次は帰国後の視察報告や質疑応答の際、オールステンレス車やバッド社のことには触れておらず、これには、先の視察団には同業他社の関係者が多く参加していたことから、自社の動向を他社に察知されないようにするための判断だったのではないかという見方や、バッド社の工場を見学したのは視察団の一部だったと推定され、視察団の公式訪問の扱いではなかったから、との見方がある。 東急車輌では1955年ごろから独自にステンレス製車両の技術開発を始めていたが、吉次は先の視察から帰国した直後にはオールステンレス車両の製造を決意しており、社内でも優秀な技術者を集めて技術開発や設計業務に着手、独自設計の東急5200系を1958年に、東急6000系を1960年に製造していたが、これらはいずれもセミステンレス構造の車体であった。この構造では車体の腐食を完全に防止することはできず、実際にも6000系では登場から20年を経ないうちに腐食した裾部分の構体を取り替えている。セミステンレス構造は塗装費の節減にはつながっても、車体そのものの耐久性ならびに軽量化という観点では満足できるものではなかった。 5200系が営業運転を開始した1958年当時、東急車輛の技術陣はすでにステンレス鋼の特長を最大限に生かすにはオールステンレス車両しかないとの結論に達しており、バッド社の技術は必要欠くべからざるものだとの認識も持たれていた。この流れの中で、同年8月、東急車輌の幹部がバッド社を訪問、折衝の末技術提携の合意を得た。日本の外貨事情が良くない時代の技術提携は円貨の流出を伴うため、日本政府の認可が必要となり、認可ののち1959年12月15日に契約締結に至った。翌年には親会社である東急と本系列の試作車となる試作品納入の同意を取り付け、販売先を確保することができた。 1960年2月、東急車輛社内に臨時の技術開発部が設けられ、技術者がバッド社に赴いて技術研修が行われた。帰国後もバッド社との緊密な連携のもとに技術の習得が進められ、いくつもの画期的な新技術が導入された。 本系列では従来のステンレス鋼よりも強度を高めた高抗張力ステンレス鋼を含む厚さ0.4mm - 5.0mmの鋼材を採用し、日本国内での調達が困難だった一部の部材や加工装置はアメリカから輸入された。屋根板には厚さ0.4mmの部材が用いられるなど、従来より薄い部材が用いられた箇所もある。これらの部材の溶接に際し、もともと熱に敏感なステンレスには従来からスポット溶接が採用されていたが、バッド社がスポット溶接の際の電流・時間などの条件管理を通じて開発した、「ショット溶接」と呼ばれる工法が本系列では新たに採用された。図面に指定された部品形状、精度などを厳格に守る必要から、自動電流調節装置や自動溶接条件記録装置が用意され、工程では多くの治具が使用された。 床下配線や床下機器の取り付けでは台枠が完成した時点で裏返して艤装する「反転艤装」と呼ばれる方式が採用された。これもバッド社が採用していた工法であり、上下を反転させずに終始上を向いて作業をする従来の工法に比べて、作業者の負担を減らすことができる上、本系列では事前に製作された10分の1スケールの模型を確認しながら施工する方法で作業効率が向上し、この工法は以降のステンレス車両の製造にも取り入れられた。しかし、従来の工法では構体が完成した時点までに電機品が用意されていればよかったが、反転艤装の場合は台枠が完成するまでに全ての電機品を用意する必要があり、工程が長い電機部品が必要な場合は車両の製作期間全体が長くなってしまう欠点があった。 生産ラインの構成では、普通鋼車両の生産ラインから生じた鉄粉がステンレス鋼の表面に刺さって腐食することを懸念したバッド社が、オールステンレス車両の生産ラインを鋼製車両のものと分離することを求めたため、オールステンレス車両専用の工場を新設して対応、新工場が1961年9月に完成した。各工程で使用される機械のうち、溶接機械や加工機械など特殊性の高いものはアメリカから輸入され、東急車輌がオールステンレス車両の製造にあたって設備投資した2億3518万円のうち、輸入分はおよそ4分の1にあたる6254万円分を占めた。機械や装置類の中には、電源電圧の違いに対応する改造が行われたものがあるほか、バッド社から派遣された担当者は1人で扱えても東急車輌側の担当者は2人がかりでないと扱えない機械類があったため、これらについては操作法の変更が行われた。 製図法、部品表作成、材料手配など一連の設計業務などは全てバッド社の方式に沿うことになり、過去の類似設計に頼ってこれまで強度計算を行っていなかった細かい部位の強度計算も行われた。 作業の各段階では数ステップの品質試験が義務づけられており、それらをクリアしなければ部材を次の工程に送ることはできない決まりになっていた。 バッド社との契約には英文のバッド社のライセンス下で製造されたことを示す銘板を「東急車輌」の銘板と併設することが含まれており、バッド社側は当初、車両の内側と外側の両方に銘板を設置することを求めていたが、東急車輌側が外側設置に難色を示したため、車内のよく見える位置のみに設置することで決着した。 東急では東急車輛から提案を受けたオールステンレス車両を、当時計画されていた地下鉄日比谷線への乗り入れ用車両として導入することとした。東武鉄道・東京急行電鉄・帝都高速度交通営団との3事業者で作成された「2号線車両規格」と称する乗り入れ協定によって車両の規格が詳細に決められていたため、本系列の仕様もそれに大きく影響されている。車体寸法は18,000mm(連結面間)×2,800mm(車体幅)×4,000mm(パンタグラフ折りたたみ高さ)で、床面高さは6000系よりも25mm低い1,125mmであった。客用扉は6000系に続いて両開きが採用され、1両あたり3カ所・6メートル間隔で設けられた。 車両デザインはバッド社からの推奨によりアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの公共交通ネットワークである「SEPTA」の車両をモデルとし、1959年から61年にかけて270両が製造された「M-3形」が直接のモデルと言われているが、設計陣は国内の諸条件に合わせるのに苦労したという。M-3形と同様に直線を基調としたスタイルとなり、屋根板がR3,450mmの単純曲線となったことと合わせ、6000系よりも丸みが少なくシンプルな形状となった。台枠の端部、構造が複雑な枕ばり及び正面貫通路両脇に設けられた衝突柱はステンレス製ではない。 車体裾は5200系と6000系では凹凸のない直線だったのに対し、本系列では台車の直上の部分に補強があり、その部分の裾部の構体が下に出っ張っている。6000系と同様、先頭部にはコルゲーションがないが、窓の上下にコルゲーションがあった6000系に対し、5200系と同様側面の下半分にのみコルゲーションが入った。いずれの形式に比べても、コルゲーションの密度は高い。車体設計に際しては、コルゲーションの有無や仕上げをデザインとして上手に取り込むような工夫がなされた。 先頭部は三面折妻で、貫通扉の上に東急の車両では初めて前面方向幕が、左右の窓下に設置されたケースには前照灯と尾灯が収まっている。このケースは、デハ7040以前はステンレス製、デハ7041以降はFRP製である。バッド社との技術提携初期に設計された本系列ではバッド社からの直接的な技術指導を受けたことから当時のアメリカの鉄道車両構造規格の影響を受けた部分が少なからずあり、その一例として車両が衝突した場合に運転台周りが局部的に破損しないよう衝突柱が設けられた。貫通扉はこの衝突柱の奥に設けられたので、従来の車両よりやや奥に設置されている。貫通幌を使用しない場合はこの凹んだ部分に折り込めるようになっていた。 車両番号は先頭車の向かって右上と、各車両側面車端寄り1箇所に紺色の文字で表示された。初期に製造された車両の先頭部の車両番号は5200系や6000系と同様サイズが小さかったが、デハ7007以降は大きめのものに変更された。 当初は各駅停車のみの運用を想定していたためにデハ7018までは正面に通過標識灯を設置せずに登場したが、1964年に標識灯が設置され、以降はこれらの車両も急行列車に運用されるようになった。 台車もバッド社の自社設計により1956年に発表され、アメリカでも広く使用されていたパイオニアIII形台車が採用された。本系列の台車はTS-701形またはPIII-701形と呼ばれる。以下、同形態の台車を「パイオニア台車」と総称する。なお、オリジナルでは車輪よりも内側にあった台車枠が外側にあるなど、複数の設計変更がなされている。 台車そのものは枕ばねを空気ばねとした1自由度系台車で、軸ばねや軸梁、下揺れ枕などの部品が省略されており、構造の単純化によって台車重量は6000系A編成の6.7tに比べて2t以上軽量化された4.2tに軽減された。車体荷重は空気ばね→枕ばり→側受→側ばりと伝わる。 側梁は小判型の断面で内部が空洞となっており、軸箱は側梁にゴム板を介して固定されている。枕梁と台車枠が接する側受が唯一の摺動部であり、この部分に摩擦軽減を目的としてテフロン材を貼り付けることで定期給油が不要となった。これ以外にも、軸受にゴムブッシュをはじめとした耐摩耗性のある材料を採用し、保守の合理化がはかられた。 横梁は左右で分割されている特徴的な形態で、左右が自由に動けることから、軸ばねがない構造にも関わらず走行中に車軸が変位しても台車枠に無理な力をかけずに、レールに追従できる。6000系では1台車・1モーター・2軸駆動方式を採用し、粘着性能は非常に良好だったものの、本系列では横梁が分割された構造から同様の方式が採用できず、1台車・2モーター・2軸駆動となった。 ディスクブレーキは安定した制動力が得られるものの、1,067mm軌間の電動台車にはスペースの制約から当時は採用が困難とされていたが、台車の外側にブレーキディスクを配置する構造とすることでこれを採用、制輪子交換を容易にするとともに、回生ブレーキを最大限に利用する方式の採用と併せて制輪子の摩耗が少なく、従来車の制輪子の交換に追われていた現業部門からは好評を得た。また、当時鋳鉄制輪子を使用していた在来車に比べ、大きく保守性が向上した。 運用開始時に東急の車両部長(当時)を務めていた白石安之は、本系列完成前にアメリカでパイオニア台車装着車両に乗車した際の感想を以下のように記している。 それを踏まえ、この台車も基本構造が同じであることから高いパフォーマンスを示すであろうと期待を述べていた。 一方、1自由度系台車であるため、軸箱を固定する部分のゴム板はあるものの台車のばねは、枕ばねの空気ばねのみであり、枕ばね・軸ばねを装備した2自由度系の台車と比べ、乗り心地が劣るうえ、台車枠に架装された主電動機や駆動装置などが2自由度系台車ではばね上重量となる一方、1自由度系台車ではばね下重量となるため、軌条に与える振動の面でも劣っていた。特に日比谷線乗り入れが始まって以降はフランジの摩耗や台車枠にキズが入るなどの事象が発生するようになった。また、その構造上保守管理についても、ブレーキ系統は格段に容易になった一方、台車枠が左右別々であることから、組み立て時には専用の作業台が必要になり、位置合わせや車体乗せにあたっては一定の熟練が必要とされるなど、必ずしも日々の保守管理が容易になったわけではなかった。1966年に台車性能の調査のために滑走防止装置と車輪踏面清掃装置をデハ7047とデハ7154に取り付け、ボルスタアンカーの取り付け位置を本来より下げてテストが行われている。デハ7042では通常より支点の低いボルスタアンカーが試作・取り付けられた。 結果的に、本系列以降の東急の車両ではパイオニア台車は7200系と8000系の付随台車として採用されたのみに終わり、8000系のものは1990年から1991年に交換されている。東急車輌が本系列に続いて1962年から製造したオールステンレス車両である京王3000系と南海6000系にもパイオニア台車が装備されたが、京王3000系は製造途中から異なる形式の台車に変更されている。特に京王3000系は、パイオニア台車の振動特性が電動車には不向きであると判断されたため、電動車のパイオニア台車を別形式の台車に交換し、捻出したパイオニア台車を同時期に新製された車両の先頭車(いずれも付随車)に装備している。 本系列の設計に携わった守谷之男は後年、パイオニア台車の評価が芳しくなかった要因としてアメリカと日本の鉄道のゲージや許容最大軸重など線路条件の違いを挙げている。 パイオニア台車の実績と評価については鉄道車両の台車史#パイオニアIIIも参照のこと。 本系列には日立製作所製の電装品を装備した車両(日立車)と、東洋電機製造製の電装品を装備した車両(東洋車)があり、主電動機定格電圧が異なるなど、大きく異なるシステム構成が採用されたため、連結して運転することは可能であるものの、ユニットを組むことはできないなどの制約があった。1962年製は東洋車のみだったが、1963年以降日立車と東洋車は並行して製造され、電装品メーカーの区別なしに車両番号は製造順に付番された。両社製とも4.0km/h/sと、高い起動加速度・減速度を有しているが、定格速度が低いために最大加速度を発揮する速度域は狭い。駆動装置は中空軸平行カルダンで、歯車比は全車両が85:13 (6.54) と比較的低速向けだが、弱め界磁制御により中速域までの性能を確保しており、日立車は急行運用にも使用されるために高速性能も確保している。設計最高速度は110km/hだが、当時の東横線急行の最高速度は90km/hだった。日比谷線直通に使用された東洋車の弱界磁最終段における1時間定格速度は50km/hで、営団3000系は64km/h、東武2000系は73km/hと、日比谷線で運用される他車車両よりも低かった。出力も60kWと、営団3000系・東武2000系の75kWに比べやや低く、協議の過程で営団側から出力増強の要請もあったが、最終的には加速時間を他車より延ばしてダイヤに乗れるよう取り扱うことで決着した。 主電動機は両社製とも複巻式で、東洋車では東洋電機製造のTDK-826Aが採用され、8台のモーターを永久直列接続する方式だったことから、定格電圧が187.5Vとなっており、日立車に比べて整流の面で優位性があった。 日立車では日立製作所製HS-533-JrbおよびHS-830-Arbが採用され、こちらは4台ずつ直並列切り替えする方式で、定格電圧は375V、出力は70kWであった。 主回路制御方式は抵抗式で、1制御器あたり8つの主電動機を、日立車は直並列制御、東洋車は永久直列制御する。 初期の東洋車では6000系と同一のACRF-H860-754A形(永久直列14段、弱め界磁4段)が採用された。電動車2両1ユニットに含まれる8台の主電動機を直列に接続し、起動時には抵抗制御を、起動終了後は分巻界磁制御を行うものだった。1963年に入籍したデハ7007以降では、設計変更を加えたACRF-H860-757A形が採用された。 日立車ではMMC-HTR-10A(直列10段、渡り1段、並列8段、弱め界磁5段)を採用、主電動機を4台2セットで低速時は直列、高速時は並列に接続していた。 両社の制御器では弱め界磁制御の方法が異なり、日立車の弱め界磁は主電動機の分巻回路に抵抗器を挿入するごく一般的な電動カム軸式だったが、東洋車の弱め界磁はサーボモータで駆動する界磁調整器と呼ばれる整流子形の可変抵抗器を使用する。 マスコンハンドルの段数は全車4段で統一されており、第1段目は「起動」、第2段目は「直列制御」で統一されていたが、日立車の第3段目は「直並列制御」なのに対して、東洋車は「直列制御+弱め界磁制御(2段のみ使用)」であり、第4段目も同様に日立車が「直並列制御+弱め界磁(5段すべて使用)」で、東洋車は「直列制御+弱め界磁(4段すべて使用)」である。特に第3段目が大きく異なるのは、東洋車の全界磁定格速度が28km/hと低かったことによる。また、日立車は第3段以上、東洋車は第2段以上で弱め界磁制御のノッチ戻しが可能である。なお、マスコンハンドルは営団3000系や東武2000系と同様、跳ね上げデッドマン式である。この後7200系まで採用される。 ブレーキ装置は6000系で採用された回生ブレーキ併用電磁直通空気式(HSC-R) を引き続き採用し、1つのブレーキハンドルで電力回生ブレーキも操作できるようになっていたが、日比谷線内では電気ブレーキは発電ブレーキのみとすることが乗り入れ協定で定められていたことから、日比谷線内では回生ブレーキは使用せず、空気ブレーキのみが使用され、中目黒駅で切り替えが行われていた。 パンタグラフは東洋電機製造のPT43-B形を採用した。すり板は、東横線では長年にわたってカーボン製が使われていたが、営団日比谷線への乗り入れに際し、剛体架線の摩耗を防ぐために、東横線に在籍していた全車がカーボン製からブロイメット製に交換された。 電動発電機は東洋車ではTDK381-A形を、日立車ではHG-533Jrb形を採用した。空気圧縮機はMH80-C1000形を採用したが、東横線や田園都市線などの駅間距離の関係から、容量を適正化するため、MH80-C1000形を3000系に移した上でCM515-A-1HB1500T形およびD1215-HS20Gに換装した。 制御器が変更されたデハ7007以降の東洋車のみを乗り入れ対応車とすることになり、デハ7007 - デハ7022およびデハ7025 - デハ7030に乗り入れに必要なWS-ATCと誘導無線が1964年に取り付けられた。 照明は40ワットの蛍光灯を1両あたり16本装着し、照度の向上を図ったほか、6000系に装備された蛍光灯カバーは装着されず、保守の合理化にもつながった。暖房装置は電圧250ボルト・750ワットの電熱器を座席下に並べる方式とした。発熱体の長さは1個あたり1.5メートルで、座席のどこでも同等の暖房効果を得られるようになった。座席のモケットはエンジ色で、新たにステンレス製のパイプを設置した。 側窓は最初に製造された3編成(デハ7001 - デハ7006)のみ上下の窓をつるべ式につないだ上段下降・下段上昇式で、乗り入れ協定の「側窓の開放寸法は150mm以内かまたは保護棒を設ける場合は下より150, 100mmのピッチを標準とする」との規定に従い、外側に保護棒をつけていた。この3編成はいずれも乗り入れ運用には充当されなかったが、つるべ式の構造は保守管理に難があることから、1978年から1983年にかけて施工された車体更新時に上段下降・下段固定式に改造されている。 それ以外の車両は全て一般的な上段下降・下段上昇式での落成となったが、下窓の開口幅が140mmとなったことから、保護棒は設置されていない。 地下鉄線内を走行する際の騒音を防ぐため、床面にはトラップドアが設けられなかった。 冷房装置の搭載は想定されておらず、7000系としての冷房化は行われなかった。屋根上の通風器は側面に通風口があるバッド社特有の形状で、冬季は開口部に蓋がされていた。車内側は1982年 - 1984年頃にファンデリア(シャンデリア状の換気扇)から扇風機に換装されている。 デハ7001 - デハ7018およびデハ7101 - デハ7106に対し、1978年から1983年にかけてドアと先述の側窓の更新、内装板の張り替えをはじめとする更新工事が施工された。 1両あたりの価格は在来の車両よりも7 - 8%ほど(製造当時で300万円程度)高額になったが、塗装工程が不要になることから重要部・全般検査では1回1両あたり30万円前後の費用削減(1986年当時の価額)になるなどのランニングコスト削減を通じ、おおむね3 - 4年程度で回収できるとされた。また、外板の更新費用もゼロに抑えることができた。 塗装工程の廃止は車両の検査期間短縮に貢献し、後に東急の全車両がステンレス製車両となった時点で工場の塗装部門が廃止され、作業環境の向上も達成した。 本系列は全車電動車で、デハ7000形とデハ7100形の2形式で構成される。形式にかかわらず奇数番号の車両と偶数番号の車両で2両1ユニットを組み、偶数番号の車両にパンタグラフと主制御器が奇数番号の車両に電動発電機や空気圧縮機などの補機が搭載された。 東洋車・日立車の最終的な製造数および内容は下記の通りである。このうちデハ7003 - デハ7042とデハ7103 - デハ7168の計106両は信託車両として製造され、三井信託銀行または三菱信託銀行の信託車両である旨を記した銘板が車内に設置されていた。 下表は、全車両の竣功年と電装品メーカー、他形式へ改造または他社に譲渡された時期の対照表である。 「+」は先頭車同士の連結部を、「-」はそれ以外を示す。 東横線 ←渋谷/桜木町→ 大井町線 ←大井町 出典: ←目黒/蒲田→ ←長津田/こどもの国→ 出典: 最初の編成は1962年(昭和37年)1月25日に竣功した4両編成であり、編成は東横線の渋谷方から順に7001-7102-7101-7002であった。1月27日には東横線の渋谷 - 元住吉間で試乗会が行われ、国鉄や私鉄関係者が多く参加した。 しばらくは東横線向けに増備が進められていたが、1965年9月以降に入籍した車両の一部は田園都市線に配置されることになり、東横線からの転属分と合わせて36両(2+2の4連5本、4両固定4本)が1966年4月1日の溝の口 - 長津田間開業時に営業運転を開始し、そのうち4両編成1本(7045-7162-7161-7046)が祝賀列車として装飾を施されて走行した。当時は3000系列や5200系、6000系も営業運転を行っており、いずれも分割できる編成は鷺沼駅で分割される大井町 - 長津田間の直通運転に、分割できない編成は大井町 - 梶が谷・二子新地前(現二子新地駅)間の運用に使用されていた。同線で快速列車に使用される際は、赤地に白文字で「快速」と記された種別表示板を先頭部に取り付けて運行した。 東横線では、主電動機の出力が比較的大きい日立車が高速性能に優れていたことから急行列車は日立車を中心に運用され、7200系・6000系・8000系と同様に、急行運用では「急行」と書かれた赤色の種別表示板を取り付けて運行していた。1964年4月1日のダイヤ改正以降は6両編成の急行列車が運転されることになり、本系列6連9本が中心となって運用された。 乗り入れ対応工事が施工された車両は、1964年8月29日に日比谷線との相互直通運転を開始した。関係各社の協議の中で「相互直通は営団と東武,および営団と東急それぞれの間に限ること」という合意があったことから直通列車の運転区間は日吉 - 北千住間とされ、初日には本系列が祝賀列車として装飾を施されて運行された。当初の乗り入れ協定では最大連結両数は6両としていたが、輸送力増強のために1969年から1971年にかけて北千住 - 茅場町間の各駅を8両編成対応にする工事などを施工し、1971年5月31日のダイヤ改正で全列車8両編成での運転が始まった。1978年3月からは青地に白文字で「日比谷線直通」と記されたサボが側面に取り付けられた。本系列は日比谷線開業後も渋谷発着の運用にも充当された。1988年8月9日より日吉駅改良工事に伴い、日比谷線直通列車はこれまでの日吉から菊名まで区間が延伸された。 その後、田園都市線の5両編成化に際して本系列は5両編成は組成できないこと、さらに1977年4月7日の新玉川線開業以降は同線経由で半蔵門線に乗り入れる田園都市線の輸送力増強が必要になったことから、8000系に替わられる形で東横線への転属が進み、1980年と1981年には8連16本と6連1本に組成され、134両全てが東横線に集められた。6連は東洋車4両と日立車2両の混結であった。 翌1982年から、大井町線と改称されていた大井町 - 二子玉川園間の6両編成運転開始に伴い再び同線へ一部が転属、1986年には78両となって東横線の56両を上回ったが、1988年から行われた7700系への改造や1989年3月に4両編成化された目蒲線への転属で同区間の運用を終了した。 1988年の春から夏にかけて、7200系・7600系・7700系・8000系とともに先頭車の前面に赤帯が施された。 東横線では、本系列に代わる日比谷線乗り入れ用車両として製造された1000系が1988年12月26日に営業運転を開始し、直通運用からも順次はずれ、1991年(平成3年)6月3日朝方の営業運転(資料によっては6月7日 )で直通運用を終了した。 なお、目蒲線では1989年(平成元年)3月18日に旧3000系列が営業運転を退いたことに伴い 、翌日から同線は3両編成から4両編成運転とされ、また運用車両として本系列と7700系が配置された。この時点で目蒲線には本系列4両編成7本(28両)と7700系4両編成10本(40両)が配置された。その後、7700系への改造の進行と1991年(平成3年)9月からの1000N'系(1014F以降)の投入の開始により 、1991年9月21日をもって最後まで目蒲線で運用されていた編成(7061F)が営業運転を終了した。 1991年8月25日にはスタンプラリー号として7061Fを使用してさよなら運転が行われ 、渋谷 - 桜木町間を2往復した。先頭車には「スタンプラリー号 7000系ありがとう」のヘッドマークが掲出された。 1989年1月26日にこどもの国線がワンマン運転化され、7057 - 7052の2両編成に対応工事が施されて同線専用となった。この2両はワンマン改造に加え、運転台のワンハンドル化、テープによる放送装置の設置などを行った上で、こどもの国のマークを掲出し、赤・青・緑の装飾がほどこされて営業運転に充当された。こどもの国線の通勤線化に伴って1999年(平成11年)7月31日に横浜高速鉄道Y000系に置き換えられて営業運転を終了し、その後2000年(平成12年)3月20日にさよなら運転として鷺沼 - 中央林間間を2往復した。この2両は本系列で最後まで東急線に在籍していた車両であり、同時に東急の鉄道線用として最後の非冷房車でもあった。 ここでは、1960年代に東急の車籍のまま他車線を走行した事例についてまとめる。 7700系へ改造された車両以外は全て他の鉄道事業者などへ譲渡された。デハ7100形には、秩父鉄道に譲渡された8両と福島交通に譲渡された2両を除き、東横車輌(現・東急テクノシステム)で先頭車化工事が施工された。譲渡後の処遇などは各記事を参照のこと。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急7000系電車(とうきゅう7000けいでんしゃ)は、134両が東急車輛製造で製造され、1962年(昭和37年)から2000年(平成12年)まで東京急行電鉄で運用された通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では、編成単位で表記する場合は東横線上で渋谷寄りの先頭車番号で代表し、「7001F」などの様に表記する。「6000系」は1960年製造開始の東急6000系電車 (初代)を指す。本系列の仕様に大きな影響を与えた、日比谷線直通車両の規格や運転取り扱いは、「乗り入れ協定」と表記する。「東急」と表記する場合は1962年当時の社名である鉄道会社の「東京急行電鉄」を指し、車両製造メーカーの「東急車輛製造」は「東急車輛」と表記する。東急の各線は過去に路線名・運転系統を何回か変更し、路線名および区間が時代により異なるが、記事中では記載された事象がおこった時点の路線名で記載している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、本項目では基本的に7000系のみ解説するため、当形式より改造された7700系や譲渡車については当該記事を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急車輛がアメリカのバッド社と技術提携により製作した日本初のオールステンレス車両であり、1962年1月25日から1966年9月10日にかけて、134両が同社で製造された。総数134両は、東急の1系列として当時最大両数であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東横線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線の直通運転を前提として設計されたため、車体の規格は乗り入れ協定に準拠したものとなっているが、乗り入れに必要な機器が搭載された車両は一部にとどまった。最初に製造された車両には制御装置をはじめとする電装品には6000系で採用されたのと同等のものも多く採用されたが、車体や台車にはバッド社の特許技術が多く盛り込まれた。東急車輌は本系列について、『東急車輌30年のあゆみ』に以下のように記している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、本系列の製造を通じて、同業他社と肩を並べるまでの技術発展ができたと評している。また、「1960年代のエポックメーカー」などと評されることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当初は東横線に配置され、1964年から日比谷線乗り入れを開始、次いで1966年から田園都市線でも運用されるようになるなど、池上線、新玉川線を除く東急の鉄道線各線で広く運用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オールステンレス車両は解体しない東京急行電鉄の方針のもと、134両すべてが改造、譲渡などを経て再利用され、1987年から1991年にかけて56両がVVVFインバータ制御化・冷房化・台車交換などを行って7700系へと改番されたほか、76両が1988年から1991年にかけて5つの鉄道事業者に譲渡された。初号車製造から50年を経過した2012年4月1日時点でも84両が5鉄道事業者で旅客営業に供されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本系列はアメリカの技術を導入した日本初のオールステンレス車両であり、導入に至るまでの経緯が本系列の構造や部品、その後の車両に大きな影響を与えている。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本系列の製造にあたった東急車輛製造は、国有財産の設備や土地などを借り受け、1948年8月23日に株式会社東急横浜製作所として設立された、戦後発足の車両製造メーカーであり、戦後の混乱を乗り越えた後も先行する同業他社に追いつく努力が必要だった。1952年7月11日に同社社長に就任した吉次利二は、鉄道部門の業績向上のために、同業他社を上回る技術力でシェアを獲得することと、海外メーカーの技術の取り入れ・自社の技術や車両の輸出をセットで行うことを経営方針の1つとして掲げ、その一環として、吉次を団長とした業界関係者が北米・南米の市場開拓や視察を目的として1956年に海外へ渡り、南米では日本製車両の長所を伝えて回った。訪問先の鉄道事業者ではアメリカ製の車両が導入されており、ブラジルではアメリカのバッド社が製造したオールステンレス車両に乗車する機会があった。吉次は後に東急車輌創立20周年記念の座談会で以下のように述べている。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "バッド社は1934年には世界初のステンレス製ディーゼル列車である「パイオニア・ゼファー」を世に送り出し、1959年までに累計3000両を超えるステンレス車両を製造していたほか、視察時点で7社の海外メーカーと技術提携していた。視察の帰り際、先方との交渉の末に吉次ほか一部の人間がバッド社の工場を見学し、ステンレス製車両が鋼製車両に比べ軽量化(経済性)と構造の強靱さ(安全性)の面で優れていることから、吉次はステンレス車両の将来性を確信したという。吉次は帰国後の視察報告や質疑応答の際、オールステンレス車やバッド社のことには触れておらず、これには、先の視察団には同業他社の関係者が多く参加していたことから、自社の動向を他社に察知されないようにするための判断だったのではないかという見方や、バッド社の工場を見学したのは視察団の一部だったと推定され、視察団の公式訪問の扱いではなかったから、との見方がある。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東急車輌では1955年ごろから独自にステンレス製車両の技術開発を始めていたが、吉次は先の視察から帰国した直後にはオールステンレス車両の製造を決意しており、社内でも優秀な技術者を集めて技術開発や設計業務に着手、独自設計の東急5200系を1958年に、東急6000系を1960年に製造していたが、これらはいずれもセミステンレス構造の車体であった。この構造では車体の腐食を完全に防止することはできず、実際にも6000系では登場から20年を経ないうちに腐食した裾部分の構体を取り替えている。セミステンレス構造は塗装費の節減にはつながっても、車体そのものの耐久性ならびに軽量化という観点では満足できるものではなかった。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "5200系が営業運転を開始した1958年当時、東急車輛の技術陣はすでにステンレス鋼の特長を最大限に生かすにはオールステンレス車両しかないとの結論に達しており、バッド社の技術は必要欠くべからざるものだとの認識も持たれていた。この流れの中で、同年8月、東急車輌の幹部がバッド社を訪問、折衝の末技術提携の合意を得た。日本の外貨事情が良くない時代の技術提携は円貨の流出を伴うため、日本政府の認可が必要となり、認可ののち1959年12月15日に契約締結に至った。翌年には親会社である東急と本系列の試作車となる試作品納入の同意を取り付け、販売先を確保することができた。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1960年2月、東急車輛社内に臨時の技術開発部が設けられ、技術者がバッド社に赴いて技術研修が行われた。帰国後もバッド社との緊密な連携のもとに技術の習得が進められ、いくつもの画期的な新技術が導入された。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本系列では従来のステンレス鋼よりも強度を高めた高抗張力ステンレス鋼を含む厚さ0.4mm - 5.0mmの鋼材を採用し、日本国内での調達が困難だった一部の部材や加工装置はアメリカから輸入された。屋根板には厚さ0.4mmの部材が用いられるなど、従来より薄い部材が用いられた箇所もある。これらの部材の溶接に際し、もともと熱に敏感なステンレスには従来からスポット溶接が採用されていたが、バッド社がスポット溶接の際の電流・時間などの条件管理を通じて開発した、「ショット溶接」と呼ばれる工法が本系列では新たに採用された。図面に指定された部品形状、精度などを厳格に守る必要から、自動電流調節装置や自動溶接条件記録装置が用意され、工程では多くの治具が使用された。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "床下配線や床下機器の取り付けでは台枠が完成した時点で裏返して艤装する「反転艤装」と呼ばれる方式が採用された。これもバッド社が採用していた工法であり、上下を反転させずに終始上を向いて作業をする従来の工法に比べて、作業者の負担を減らすことができる上、本系列では事前に製作された10分の1スケールの模型を確認しながら施工する方法で作業効率が向上し、この工法は以降のステンレス車両の製造にも取り入れられた。しかし、従来の工法では構体が完成した時点までに電機品が用意されていればよかったが、反転艤装の場合は台枠が完成するまでに全ての電機品を用意する必要があり、工程が長い電機部品が必要な場合は車両の製作期間全体が長くなってしまう欠点があった。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "生産ラインの構成では、普通鋼車両の生産ラインから生じた鉄粉がステンレス鋼の表面に刺さって腐食することを懸念したバッド社が、オールステンレス車両の生産ラインを鋼製車両のものと分離することを求めたため、オールステンレス車両専用の工場を新設して対応、新工場が1961年9月に完成した。各工程で使用される機械のうち、溶接機械や加工機械など特殊性の高いものはアメリカから輸入され、東急車輌がオールステンレス車両の製造にあたって設備投資した2億3518万円のうち、輸入分はおよそ4分の1にあたる6254万円分を占めた。機械や装置類の中には、電源電圧の違いに対応する改造が行われたものがあるほか、バッド社から派遣された担当者は1人で扱えても東急車輌側の担当者は2人がかりでないと扱えない機械類があったため、これらについては操作法の変更が行われた。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "製図法、部品表作成、材料手配など一連の設計業務などは全てバッド社の方式に沿うことになり、過去の類似設計に頼ってこれまで強度計算を行っていなかった細かい部位の強度計算も行われた。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "作業の各段階では数ステップの品質試験が義務づけられており、それらをクリアしなければ部材を次の工程に送ることはできない決まりになっていた。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "バッド社との契約には英文のバッド社のライセンス下で製造されたことを示す銘板を「東急車輌」の銘板と併設することが含まれており、バッド社側は当初、車両の内側と外側の両方に銘板を設置することを求めていたが、東急車輌側が外側設置に難色を示したため、車内のよく見える位置のみに設置することで決着した。", "title": "オールステンレス車誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "東急では東急車輛から提案を受けたオールステンレス車両を、当時計画されていた地下鉄日比谷線への乗り入れ用車両として導入することとした。東武鉄道・東京急行電鉄・帝都高速度交通営団との3事業者で作成された「2号線車両規格」と称する乗り入れ協定によって車両の規格が詳細に決められていたため、本系列の仕様もそれに大きく影響されている。車体寸法は18,000mm(連結面間)×2,800mm(車体幅)×4,000mm(パンタグラフ折りたたみ高さ)で、床面高さは6000系よりも25mm低い1,125mmであった。客用扉は6000系に続いて両開きが採用され、1両あたり3カ所・6メートル間隔で設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "車両デザインはバッド社からの推奨によりアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの公共交通ネットワークである「SEPTA」の車両をモデルとし、1959年から61年にかけて270両が製造された「M-3形」が直接のモデルと言われているが、設計陣は国内の諸条件に合わせるのに苦労したという。M-3形と同様に直線を基調としたスタイルとなり、屋根板がR3,450mmの単純曲線となったことと合わせ、6000系よりも丸みが少なくシンプルな形状となった。台枠の端部、構造が複雑な枕ばり及び正面貫通路両脇に設けられた衝突柱はステンレス製ではない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "車体裾は5200系と6000系では凹凸のない直線だったのに対し、本系列では台車の直上の部分に補強があり、その部分の裾部の構体が下に出っ張っている。6000系と同様、先頭部にはコルゲーションがないが、窓の上下にコルゲーションがあった6000系に対し、5200系と同様側面の下半分にのみコルゲーションが入った。いずれの形式に比べても、コルゲーションの密度は高い。車体設計に際しては、コルゲーションの有無や仕上げをデザインとして上手に取り込むような工夫がなされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "先頭部は三面折妻で、貫通扉の上に東急の車両では初めて前面方向幕が、左右の窓下に設置されたケースには前照灯と尾灯が収まっている。このケースは、デハ7040以前はステンレス製、デハ7041以降はFRP製である。バッド社との技術提携初期に設計された本系列ではバッド社からの直接的な技術指導を受けたことから当時のアメリカの鉄道車両構造規格の影響を受けた部分が少なからずあり、その一例として車両が衝突した場合に運転台周りが局部的に破損しないよう衝突柱が設けられた。貫通扉はこの衝突柱の奥に設けられたので、従来の車両よりやや奥に設置されている。貫通幌を使用しない場合はこの凹んだ部分に折り込めるようになっていた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "車両番号は先頭車の向かって右上と、各車両側面車端寄り1箇所に紺色の文字で表示された。初期に製造された車両の先頭部の車両番号は5200系や6000系と同様サイズが小さかったが、デハ7007以降は大きめのものに変更された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "当初は各駅停車のみの運用を想定していたためにデハ7018までは正面に通過標識灯を設置せずに登場したが、1964年に標識灯が設置され、以降はこれらの車両も急行列車に運用されるようになった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "台車もバッド社の自社設計により1956年に発表され、アメリカでも広く使用されていたパイオニアIII形台車が採用された。本系列の台車はTS-701形またはPIII-701形と呼ばれる。以下、同形態の台車を「パイオニア台車」と総称する。なお、オリジナルでは車輪よりも内側にあった台車枠が外側にあるなど、複数の設計変更がなされている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "台車そのものは枕ばねを空気ばねとした1自由度系台車で、軸ばねや軸梁、下揺れ枕などの部品が省略されており、構造の単純化によって台車重量は6000系A編成の6.7tに比べて2t以上軽量化された4.2tに軽減された。車体荷重は空気ばね→枕ばり→側受→側ばりと伝わる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "側梁は小判型の断面で内部が空洞となっており、軸箱は側梁にゴム板を介して固定されている。枕梁と台車枠が接する側受が唯一の摺動部であり、この部分に摩擦軽減を目的としてテフロン材を貼り付けることで定期給油が不要となった。これ以外にも、軸受にゴムブッシュをはじめとした耐摩耗性のある材料を採用し、保守の合理化がはかられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "横梁は左右で分割されている特徴的な形態で、左右が自由に動けることから、軸ばねがない構造にも関わらず走行中に車軸が変位しても台車枠に無理な力をかけずに、レールに追従できる。6000系では1台車・1モーター・2軸駆動方式を採用し、粘着性能は非常に良好だったものの、本系列では横梁が分割された構造から同様の方式が採用できず、1台車・2モーター・2軸駆動となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ディスクブレーキは安定した制動力が得られるものの、1,067mm軌間の電動台車にはスペースの制約から当時は採用が困難とされていたが、台車の外側にブレーキディスクを配置する構造とすることでこれを採用、制輪子交換を容易にするとともに、回生ブレーキを最大限に利用する方式の採用と併せて制輪子の摩耗が少なく、従来車の制輪子の交換に追われていた現業部門からは好評を得た。また、当時鋳鉄制輪子を使用していた在来車に比べ、大きく保守性が向上した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "運用開始時に東急の車両部長(当時)を務めていた白石安之は、本系列完成前にアメリカでパイオニア台車装着車両に乗車した際の感想を以下のように記している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "それを踏まえ、この台車も基本構造が同じであることから高いパフォーマンスを示すであろうと期待を述べていた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方、1自由度系台車であるため、軸箱を固定する部分のゴム板はあるものの台車のばねは、枕ばねの空気ばねのみであり、枕ばね・軸ばねを装備した2自由度系の台車と比べ、乗り心地が劣るうえ、台車枠に架装された主電動機や駆動装置などが2自由度系台車ではばね上重量となる一方、1自由度系台車ではばね下重量となるため、軌条に与える振動の面でも劣っていた。特に日比谷線乗り入れが始まって以降はフランジの摩耗や台車枠にキズが入るなどの事象が発生するようになった。また、その構造上保守管理についても、ブレーキ系統は格段に容易になった一方、台車枠が左右別々であることから、組み立て時には専用の作業台が必要になり、位置合わせや車体乗せにあたっては一定の熟練が必要とされるなど、必ずしも日々の保守管理が容易になったわけではなかった。1966年に台車性能の調査のために滑走防止装置と車輪踏面清掃装置をデハ7047とデハ7154に取り付け、ボルスタアンカーの取り付け位置を本来より下げてテストが行われている。デハ7042では通常より支点の低いボルスタアンカーが試作・取り付けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "結果的に、本系列以降の東急の車両ではパイオニア台車は7200系と8000系の付随台車として採用されたのみに終わり、8000系のものは1990年から1991年に交換されている。東急車輌が本系列に続いて1962年から製造したオールステンレス車両である京王3000系と南海6000系にもパイオニア台車が装備されたが、京王3000系は製造途中から異なる形式の台車に変更されている。特に京王3000系は、パイオニア台車の振動特性が電動車には不向きであると判断されたため、電動車のパイオニア台車を別形式の台車に交換し、捻出したパイオニア台車を同時期に新製された車両の先頭車(いずれも付随車)に装備している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "本系列の設計に携わった守谷之男は後年、パイオニア台車の評価が芳しくなかった要因としてアメリカと日本の鉄道のゲージや許容最大軸重など線路条件の違いを挙げている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "パイオニア台車の実績と評価については鉄道車両の台車史#パイオニアIIIも参照のこと。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "本系列には日立製作所製の電装品を装備した車両(日立車)と、東洋電機製造製の電装品を装備した車両(東洋車)があり、主電動機定格電圧が異なるなど、大きく異なるシステム構成が採用されたため、連結して運転することは可能であるものの、ユニットを組むことはできないなどの制約があった。1962年製は東洋車のみだったが、1963年以降日立車と東洋車は並行して製造され、電装品メーカーの区別なしに車両番号は製造順に付番された。両社製とも4.0km/h/sと、高い起動加速度・減速度を有しているが、定格速度が低いために最大加速度を発揮する速度域は狭い。駆動装置は中空軸平行カルダンで、歯車比は全車両が85:13 (6.54) と比較的低速向けだが、弱め界磁制御により中速域までの性能を確保しており、日立車は急行運用にも使用されるために高速性能も確保している。設計最高速度は110km/hだが、当時の東横線急行の最高速度は90km/hだった。日比谷線直通に使用された東洋車の弱界磁最終段における1時間定格速度は50km/hで、営団3000系は64km/h、東武2000系は73km/hと、日比谷線で運用される他車車両よりも低かった。出力も60kWと、営団3000系・東武2000系の75kWに比べやや低く、協議の過程で営団側から出力増強の要請もあったが、最終的には加速時間を他車より延ばしてダイヤに乗れるよう取り扱うことで決着した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "主電動機は両社製とも複巻式で、東洋車では東洋電機製造のTDK-826Aが採用され、8台のモーターを永久直列接続する方式だったことから、定格電圧が187.5Vとなっており、日立車に比べて整流の面で優位性があった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日立車では日立製作所製HS-533-JrbおよびHS-830-Arbが採用され、こちらは4台ずつ直並列切り替えする方式で、定格電圧は375V、出力は70kWであった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "主回路制御方式は抵抗式で、1制御器あたり8つの主電動機を、日立車は直並列制御、東洋車は永久直列制御する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "初期の東洋車では6000系と同一のACRF-H860-754A形(永久直列14段、弱め界磁4段)が採用された。電動車2両1ユニットに含まれる8台の主電動機を直列に接続し、起動時には抵抗制御を、起動終了後は分巻界磁制御を行うものだった。1963年に入籍したデハ7007以降では、設計変更を加えたACRF-H860-757A形が採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日立車ではMMC-HTR-10A(直列10段、渡り1段、並列8段、弱め界磁5段)を採用、主電動機を4台2セットで低速時は直列、高速時は並列に接続していた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "両社の制御器では弱め界磁制御の方法が異なり、日立車の弱め界磁は主電動機の分巻回路に抵抗器を挿入するごく一般的な電動カム軸式だったが、東洋車の弱め界磁はサーボモータで駆動する界磁調整器と呼ばれる整流子形の可変抵抗器を使用する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "マスコンハンドルの段数は全車4段で統一されており、第1段目は「起動」、第2段目は「直列制御」で統一されていたが、日立車の第3段目は「直並列制御」なのに対して、東洋車は「直列制御+弱め界磁制御(2段のみ使用)」であり、第4段目も同様に日立車が「直並列制御+弱め界磁(5段すべて使用)」で、東洋車は「直列制御+弱め界磁(4段すべて使用)」である。特に第3段目が大きく異なるのは、東洋車の全界磁定格速度が28km/hと低かったことによる。また、日立車は第3段以上、東洋車は第2段以上で弱め界磁制御のノッチ戻しが可能である。なお、マスコンハンドルは営団3000系や東武2000系と同様、跳ね上げデッドマン式である。この後7200系まで採用される。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ブレーキ装置は6000系で採用された回生ブレーキ併用電磁直通空気式(HSC-R) を引き続き採用し、1つのブレーキハンドルで電力回生ブレーキも操作できるようになっていたが、日比谷線内では電気ブレーキは発電ブレーキのみとすることが乗り入れ協定で定められていたことから、日比谷線内では回生ブレーキは使用せず、空気ブレーキのみが使用され、中目黒駅で切り替えが行われていた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "パンタグラフは東洋電機製造のPT43-B形を採用した。すり板は、東横線では長年にわたってカーボン製が使われていたが、営団日比谷線への乗り入れに際し、剛体架線の摩耗を防ぐために、東横線に在籍していた全車がカーボン製からブロイメット製に交換された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "電動発電機は東洋車ではTDK381-A形を、日立車ではHG-533Jrb形を採用した。空気圧縮機はMH80-C1000形を採用したが、東横線や田園都市線などの駅間距離の関係から、容量を適正化するため、MH80-C1000形を3000系に移した上でCM515-A-1HB1500T形およびD1215-HS20Gに換装した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "制御器が変更されたデハ7007以降の東洋車のみを乗り入れ対応車とすることになり、デハ7007 - デハ7022およびデハ7025 - デハ7030に乗り入れに必要なWS-ATCと誘導無線が1964年に取り付けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "照明は40ワットの蛍光灯を1両あたり16本装着し、照度の向上を図ったほか、6000系に装備された蛍光灯カバーは装着されず、保守の合理化にもつながった。暖房装置は電圧250ボルト・750ワットの電熱器を座席下に並べる方式とした。発熱体の長さは1個あたり1.5メートルで、座席のどこでも同等の暖房効果を得られるようになった。座席のモケットはエンジ色で、新たにステンレス製のパイプを設置した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "側窓は最初に製造された3編成(デハ7001 - デハ7006)のみ上下の窓をつるべ式につないだ上段下降・下段上昇式で、乗り入れ協定の「側窓の開放寸法は150mm以内かまたは保護棒を設ける場合は下より150, 100mmのピッチを標準とする」との規定に従い、外側に保護棒をつけていた。この3編成はいずれも乗り入れ運用には充当されなかったが、つるべ式の構造は保守管理に難があることから、1978年から1983年にかけて施工された車体更新時に上段下降・下段固定式に改造されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "それ以外の車両は全て一般的な上段下降・下段上昇式での落成となったが、下窓の開口幅が140mmとなったことから、保護棒は設置されていない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "地下鉄線内を走行する際の騒音を防ぐため、床面にはトラップドアが設けられなかった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "冷房装置の搭載は想定されておらず、7000系としての冷房化は行われなかった。屋根上の通風器は側面に通風口があるバッド社特有の形状で、冬季は開口部に蓋がされていた。車内側は1982年 - 1984年頃にファンデリア(シャンデリア状の換気扇)から扇風機に換装されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "デハ7001 - デハ7018およびデハ7101 - デハ7106に対し、1978年から1983年にかけてドアと先述の側窓の更新、内装板の張り替えをはじめとする更新工事が施工された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1両あたりの価格は在来の車両よりも7 - 8%ほど(製造当時で300万円程度)高額になったが、塗装工程が不要になることから重要部・全般検査では1回1両あたり30万円前後の費用削減(1986年当時の価額)になるなどのランニングコスト削減を通じ、おおむね3 - 4年程度で回収できるとされた。また、外板の更新費用もゼロに抑えることができた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "塗装工程の廃止は車両の検査期間短縮に貢献し、後に東急の全車両がステンレス製車両となった時点で工場の塗装部門が廃止され、作業環境の向上も達成した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本系列は全車電動車で、デハ7000形とデハ7100形の2形式で構成される。形式にかかわらず奇数番号の車両と偶数番号の車両で2両1ユニットを組み、偶数番号の車両にパンタグラフと主制御器が奇数番号の車両に電動発電機や空気圧縮機などの補機が搭載された。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "東洋車・日立車の最終的な製造数および内容は下記の通りである。このうちデハ7003 - デハ7042とデハ7103 - デハ7168の計106両は信託車両として製造され、三井信託銀行または三菱信託銀行の信託車両である旨を記した銘板が車内に設置されていた。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "下表は、全車両の竣功年と電装品メーカー、他形式へ改造または他社に譲渡された時期の対照表である。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「+」は先頭車同士の連結部を、「-」はそれ以外を示す。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "東横線", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "←渋谷/桜木町→", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "大井町線", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "←大井町", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "←目黒/蒲田→", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "←長津田/こどもの国→", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "最初の編成は1962年(昭和37年)1月25日に竣功した4両編成であり、編成は東横線の渋谷方から順に7001-7102-7101-7002であった。1月27日には東横線の渋谷 - 元住吉間で試乗会が行われ、国鉄や私鉄関係者が多く参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "しばらくは東横線向けに増備が進められていたが、1965年9月以降に入籍した車両の一部は田園都市線に配置されることになり、東横線からの転属分と合わせて36両(2+2の4連5本、4両固定4本)が1966年4月1日の溝の口 - 長津田間開業時に営業運転を開始し、そのうち4両編成1本(7045-7162-7161-7046)が祝賀列車として装飾を施されて走行した。当時は3000系列や5200系、6000系も営業運転を行っており、いずれも分割できる編成は鷺沼駅で分割される大井町 - 長津田間の直通運転に、分割できない編成は大井町 - 梶が谷・二子新地前(現二子新地駅)間の運用に使用されていた。同線で快速列車に使用される際は、赤地に白文字で「快速」と記された種別表示板を先頭部に取り付けて運行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "東横線では、主電動機の出力が比較的大きい日立車が高速性能に優れていたことから急行列車は日立車を中心に運用され、7200系・6000系・8000系と同様に、急行運用では「急行」と書かれた赤色の種別表示板を取り付けて運行していた。1964年4月1日のダイヤ改正以降は6両編成の急行列車が運転されることになり、本系列6連9本が中心となって運用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "乗り入れ対応工事が施工された車両は、1964年8月29日に日比谷線との相互直通運転を開始した。関係各社の協議の中で「相互直通は営団と東武,および営団と東急それぞれの間に限ること」という合意があったことから直通列車の運転区間は日吉 - 北千住間とされ、初日には本系列が祝賀列車として装飾を施されて運行された。当初の乗り入れ協定では最大連結両数は6両としていたが、輸送力増強のために1969年から1971年にかけて北千住 - 茅場町間の各駅を8両編成対応にする工事などを施工し、1971年5月31日のダイヤ改正で全列車8両編成での運転が始まった。1978年3月からは青地に白文字で「日比谷線直通」と記されたサボが側面に取り付けられた。本系列は日比谷線開業後も渋谷発着の運用にも充当された。1988年8月9日より日吉駅改良工事に伴い、日比谷線直通列車はこれまでの日吉から菊名まで区間が延伸された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "その後、田園都市線の5両編成化に際して本系列は5両編成は組成できないこと、さらに1977年4月7日の新玉川線開業以降は同線経由で半蔵門線に乗り入れる田園都市線の輸送力増強が必要になったことから、8000系に替わられる形で東横線への転属が進み、1980年と1981年には8連16本と6連1本に組成され、134両全てが東横線に集められた。6連は東洋車4両と日立車2両の混結であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "翌1982年から、大井町線と改称されていた大井町 - 二子玉川園間の6両編成運転開始に伴い再び同線へ一部が転属、1986年には78両となって東横線の56両を上回ったが、1988年から行われた7700系への改造や1989年3月に4両編成化された目蒲線への転属で同区間の運用を終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1988年の春から夏にかけて、7200系・7600系・7700系・8000系とともに先頭車の前面に赤帯が施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "東横線では、本系列に代わる日比谷線乗り入れ用車両として製造された1000系が1988年12月26日に営業運転を開始し、直通運用からも順次はずれ、1991年(平成3年)6月3日朝方の営業運転(資料によっては6月7日 )で直通運用を終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "なお、目蒲線では1989年(平成元年)3月18日に旧3000系列が営業運転を退いたことに伴い 、翌日から同線は3両編成から4両編成運転とされ、また運用車両として本系列と7700系が配置された。この時点で目蒲線には本系列4両編成7本(28両)と7700系4両編成10本(40両)が配置された。その後、7700系への改造の進行と1991年(平成3年)9月からの1000N'系(1014F以降)の投入の開始により 、1991年9月21日をもって最後まで目蒲線で運用されていた編成(7061F)が営業運転を終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1991年8月25日にはスタンプラリー号として7061Fを使用してさよなら運転が行われ 、渋谷 - 桜木町間を2往復した。先頭車には「スタンプラリー号 7000系ありがとう」のヘッドマークが掲出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1989年1月26日にこどもの国線がワンマン運転化され、7057 - 7052の2両編成に対応工事が施されて同線専用となった。この2両はワンマン改造に加え、運転台のワンハンドル化、テープによる放送装置の設置などを行った上で、こどもの国のマークを掲出し、赤・青・緑の装飾がほどこされて営業運転に充当された。こどもの国線の通勤線化に伴って1999年(平成11年)7月31日に横浜高速鉄道Y000系に置き換えられて営業運転を終了し、その後2000年(平成12年)3月20日にさよなら運転として鷺沼 - 中央林間間を2往復した。この2両は本系列で最後まで東急線に在籍していた車両であり、同時に東急の鉄道線用として最後の非冷房車でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ここでは、1960年代に東急の車籍のまま他車線を走行した事例についてまとめる。", "title": "他社線での走行実績" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "7700系へ改造された車両以外は全て他の鉄道事業者などへ譲渡された。デハ7100形には、秩父鉄道に譲渡された8両と福島交通に譲渡された2両を除き、東横車輌(現・東急テクノシステム)で先頭車化工事が施工された。譲渡後の処遇などは各記事を参照のこと。", "title": "譲渡と保存" } ]
東急7000系電車(とうきゅう7000けいでんしゃ)は、134両が東急車輛製造で製造され、1962年(昭和37年)から2000年(平成12年)まで東京急行電鉄で運用された通勤形電車である。 本項では、編成単位で表記する場合は東横線上で渋谷寄りの先頭車番号で代表し、「7001F」などの様に表記する。「6000系」は1960年製造開始の東急6000系電車 (初代)を指す。本系列の仕様に大きな影響を与えた、日比谷線直通車両の規格や運転取り扱いは、「乗り入れ協定」と表記する。「東急」と表記する場合は1962年当時の社名である鉄道会社の「東京急行電鉄」を指し、車両製造メーカーの「東急車輛製造」は「東急車輛」と表記する。東急の各線は過去に路線名・運転系統を何回か変更し、路線名および区間が時代により異なるが、記事中では記載された事象がおこった時点の路線名で記載している。 なお、本項目では基本的に7000系のみ解説するため、当形式より改造された7700系や譲渡車については当該記事を参照。
{{鉄道車両 | 車両名 = 東急7000系電車 | 背景色 = #ee0011 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Tkk7000.JPG | 画像説明 = [[東急東横線|東横線]]で急行運用に就く7000系<br/>(1980年3月) | 運用者 = [[東急電鉄|東京急行電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]]<ref name="shitetsu-tokyu-171-172"/> | 製造年 = 1962年 - 1966年 | 製造数 = 134両 | 運用開始 = 1962年2月1日 | 運用終了 = 1991年9月21日(目蒲線)<br/>1999年8月(こどもの国線の定期運用、以降は予備車) | 廃車 = | 消滅 = | 投入先 = | 編成 = 2両<ref name="formation98-55"/>、4両<ref name="formation90-18"/>、6両<ref name="formation90-21"/>、8両<ref name="formation90-18"/> | 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V<br/>([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 90 km/h | 設計最高速度 = 110 km/h | 起動加速度 = 4.0 km/h/s<ref name="pic199109-548-102"/> | 常用減速度 = 4.0 km/h/s<ref name="pic199109-548-102"/> | 非常減速度 = | 車両定員 = 先頭車140人(座席52人)<ref name="ayumi52"/><br/>中間車150人(座席60人)<ref name="ayumi52"/> | 自重 = 27.32t(M1)<ref name="ayumi52"/><br/>27.18t(M2)<ref name="ayumi52"/><br/>28.15t(M1c)<ref name="ayumi52"/><br/>28.02t(M2c)<ref name="ayumi52"/> | 全長 = 18,000 mm<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/> | 全幅 = 2,800 mm<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/> | 全高 = 3,790 - 4,000mm<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/> | 床面高さ = 1,125 mm | 車体 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = PIII-701形<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/> | 主電動機 = TDK826-A<ref name="ayumi52"/><br/>HS-830-Arb(日立車)<ref name="ayumi52"/><br/>[[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]] | 主電動機出力 = 60 kW<ref name="ayumi52"/>、端子電圧187.5V<ref name="ayumi52"/>(東洋車)<br/>70 kW<ref name="ayumi52"/>、端子電圧375V<ref name="ayumi52"/>(日立車) | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]]<br/>(撓み板継手方式)<br/>KD-102A<ref name="ayumi52"/> | 歯車比 = 85:13 (6.54)<ref name="denkisha196201-165-10"/> | 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]] | 制御装置 = ACRF-H860-754A(東洋車)<br/>MMC-HTR-10A(日立車) | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#東急型ATS|東急形ATS]]<br/>[[自動列車制御装置#WS-ATC|営団WS-ATC]](東洋車の一部) | 備考 = }} '''東急7000系電車'''(とうきゅう7000けいでんしゃ)は、134両が[[東急車輛製造]]で製造され、[[1962年]]([[昭和]]37年)から<ref name="shitetsu-tokyu-32"/>[[2000年]]([[平成]]12年)まで<ref name="ayumi18"/>[[東急電鉄|東京急行電鉄]]で運用された[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本項では、編成単位で表記する場合は東横線上で渋谷寄りの先頭車番号で代表し、「7001F」などの様に表記する。「6000系」は1960年製造開始の[[東急6000系電車 (初代)]]を指す。本系列の仕様に大きな影響を与えた、日比谷線直通車両の規格や運転取り扱い{{refnest|group="注"|[[1957年]][[7月31日]]から[[1961年]]まで行われた「2号線直通車両規格小委員会」で営団・東急・東武の3社によって定められ、1957年[[9月24日]]<ref name="history692"/>に覚書が交換された。}}<ref name="history614"/>は、「乗り入れ協定」と表記する。「[[東急]]」と表記する場合は1962年当時の社名である鉄道会社の「東京急行電鉄」を指し、車両製造メーカーの「[[東急車輛製造]]」は「東急車輛」と表記する。東急の各線は過去に路線名・運転系統を何回か変更し、路線名および区間が時代により異なるが、記事中では記載された事象がおこった時点の路線名で記載している。 なお、本項目では基本的に7000系のみ解説するため、当形式より改造された[[東急7700系電車|7700系]]や譲渡車については当該記事を参照。 == 概要 == 東急車輛が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[バッド (車両メーカー)|バッド社]]と技術提携により製作した日本初のオールステンレス車両であり<ref name="denkisha196201-165-9"/><ref name="ayumi48"/>、[[1962年]][[1月25日]]から[[1966年]][[9月10日]]にかけて、134両が同社で製造された<ref name="shitetsu-tokyu-171-172"/>。総数134両は、東急の1系列として当時最大両数であった<ref name="pic197209-269-74"/>。 [[東急東横線|東横線]]と[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の[[直通運転]]を前提として設計された<ref name="shitetsu-tokyu-33" />ため、車体の規格は乗り入れ協定に準拠したものとなっているが、乗り入れに必要な機器が搭載された車両は一部にとどまった<ref name="pic197209-269-73" />。最初に製造された車両には制御装置をはじめとする電装品には[[東急6000系電車 (初代)|6000系]]で採用されたのと同等のものも多く採用された<ref name="denkisha196201-165-12" />が、車体や台車にはバッド社の特許技術が多く盛り込まれた。東急車輌は本系列について、『東急車輌30年のあゆみ』に以下のように記している。 {{Quotation|当社にとって,オールステンレスカーと[[日本国有鉄道|国鉄]]電車製作は経営史上においても画期的な事柄であった|[[#tokyu-ayumi|『東急車輌30年のあゆみ』]]、56-57頁より引用。}} また、本系列の製造を通じて、同業他社と肩を並べるまでの技術発展ができたと評している<ref name="tokyu-ayumi46"/>。また、「[[1960年代]]のエポックメーカー」などと評されることもある<ref name="colorbooks-79"/>。 当初は東横線に配置され<ref name="pic200407-749-116"/>、[[1964年]]から日比谷線乗り入れを開始、次いで[[1966年]]から田園都市線でも運用されるようになる<ref name="pic200407-749-168"/>など、[[東急池上線|池上線]]<ref group="注">ただし、VVVF制御に改造された7700系は池上線でも運用されている。</ref>、新玉川線を除く東急の鉄道線各線で広く運用された。 オールステンレス車両は解体しない東京急行電鉄の方針<ref name="pic200609-779-18" />のもと、134両すべてが改造、譲渡などを経て再利用され、[[1987年]]から[[1991年]]にかけて56両が[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]化・[[冷房]]化・[[鉄道車両の台車|台車]]交換などを行って'''[[東急7700系電車|7700系]]'''へと改番<ref name="pic200407-749-249-252"/>されたほか、76両が[[1988年]]から[[1991年]]にかけて5つの鉄道事業者に譲渡された<ref name="pic200407-749-249-251"/>。初号車製造から50年を経過した2012年4月1日時点でも84両が5鉄道事業者で旅客営業に供されていた<ref group="注">[[東急7000系電車 (初代)#AB2012M|鉄道車両年鑑2012年版 在籍車両形式別両数表]]によると、2012年3月31日現在、弘南鉄道に22両、十和田観光電鉄に6両、福島交通に14両、北陸鉄道に10両、水間鉄道に10両、東急に30両の92両が在籍している。十和田観光電鉄は2012年3月31日に廃止、水間鉄道の2両はATS非設置で営業運転できないため、営業運転を行っているのは84両となる。</ref>。 == オールステンレス車誕生までの経緯 == 本系列はアメリカの技術を導入した日本初のオールステンレス車両であり、導入に至るまでの経緯が本系列の構造や部品、その後の車両に大きな影響を与えている。 === バッド社との技術提携まで === [[Image:Pioneer Zephyr Front.jpg|thumb|right|バッド社が製造した「パイオニア・ゼファー」(保存車)]] 本系列の製造にあたった東急車輛製造は、国有財産の設備や[[土地]]などを借り受け<ref name="tokyu-ayumi48"/>、[[1948年]][[8月23日]]に株式会社東急横浜製作所として設立された、[[戦後]]発足の車両製造メーカーであり<ref name="tokyu-ayumi129"/>、戦後の混乱を乗り越えた後も先行する同業他社に追いつく努力が必要だった<ref name="tokyu-ayumi27"/>。[[1952年]][[7月11日]]に同社社長に就任した<ref name="tokyu-ayumi130"/>吉次利二は、鉄道部門の業績向上のために、同業他社を上回る技術力でシェアを獲得することと、海外メーカーの技術の取り入れ・自社の技術や車両の輸出をセットで行うことを経営方針の1つとして掲げ<ref name="tokyu-ayumi27-28"/>、その一環として、吉次を団長とした業界関係者が[[北米]]・[[南米]]の市場開拓や視察を目的として[[1956年]]に海外へ渡り<ref name="pic200101-696-67"/>、南米では日本製車両の長所を伝えて回った。訪問先の鉄道事業者ではアメリカ製の車両が導入されており、ブラジルでは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[バッド (車両メーカー)|バッド社]]が製造したオールステンレス車両に乗車する機会があった<ref name="pic200101-696-67"/>。吉次は後に東急車輌創立20周年記念の座談会で以下のように述べている。 {{Quotation|南米はどこへ行っても「俺たちは米国からこんな立派な車両を買っているんだ。お前たちも乗せてやろう」と言われ、ブラジルではバッド社製のオールステンレス車に乗った。乗ってみたら素晴らしい。PRに行きながら他国の車両に感心してほめほめ乗って歩いた。|[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、67頁]]より引用。}} バッド社は[[1934年]]には世界初のステンレス製ディーゼル列車である「[[パイオニア・ゼファー]]」を世に送り出し<ref name="pic200101-696-69"/>、[[1959年]]までに累計3000両を超えるステンレス車両を製造していた<ref name="denkisha196201-165-9"/>ほか、視察時点で7社の海外メーカーと技術提携していた<ref name="rm200508-659-27"/>。視察の帰り際、先方との交渉の末に吉次ほか一部の人間がバッド社の工場を見学し<ref name="pic200101-696-67"/><ref name="rm200508-659-26"/>、ステンレス製車両が鋼製車両に比べ軽量化(経済性)と構造の強靱さ(安全性)の面で優れていることから<ref name="denkisha196111-163-3"/>、吉次はステンレス車両の将来性を確信したという<ref name="denkisha196111-163-3"/>。吉次は帰国後の視察報告や質疑応答の際、オールステンレス車やバッド社のことには触れておらず<ref name="yoshitsugu107"/>、これには、先の視察団には同業他社の関係者が多く参加していたことから、自社の動向を他社に察知されないようにするための判断だったのではないかという見方<ref name="yoshitsugu108-109"/>や、バッド社の工場を見学したのは視察団の一部だったと推定され、視察団の公式訪問の扱いではなかったから、との見方がある<ref name="pic200101-696-67-68"/>。 東急車輌では[[1955年]]ごろから独自にステンレス製車両の技術開発を始めていたが<ref name="tokyu-news198205-132-18"/>、吉次は先の視察から帰国した直後にはオールステンレス車両の製造を決意しており<ref name="tokyu-ayumi45"/>、社内でも優秀な技術者を集めて技術開発や設計業務に着手<ref name="yoshitsugu108"/>、独自設計<ref name="tokyu-ayumi45"/>の[[東急5200系電車|東急5200系]]を[[1958年]]に<ref name="shitetsu-tokyu-170-171"/>、[[東急6000系電車 (初代)|東急6000系]]を[[1960年]]に<ref name="shitetsu-tokyu-171"/>製造していたが、これらはいずれも[[セミステンレス車両|セミステンレス]]構造<ref group="注">[[台枠#鉄道車両の台枠|台枠]]や柱を鋼製とし、外板のみをステンレス張りとした構造。</ref>の車体であった。この構造では車体の腐食を完全に防止することはできず、実際にも6000系では登場から20年を経ないうちに腐食した裾部分の構体を取り替えている<ref name="ayumi38"/>。セミステンレス構造は[[塗装]]費の節減にはつながっても、車体そのものの耐久性<ref name="pic200101-696-68"/>ならびに軽量化<ref name="pic200101-696-68"/>という観点では満足できるものではなかった。 5200系が営業運転を開始した1958年当時、東急車輛の技術陣はすでにステンレス鋼の特長を最大限に生かすにはオールステンレス車両しかないとの結論に達しており<ref name="tokyu-news198205-132-18"/>、バッド社の技術は必要欠くべからざるものだとの認識も持たれていた<ref name="pic200101-696-68"/>。この流れの中で、同年8月、東急車輌の幹部がバッド社を訪問、折衝の末技術提携の合意を得た<ref name="tokyu-ayumi45"/>。[[日本]]の[[外貨]]事情が良くない時代の技術提携は円貨の流出を伴うため<ref name="tokyu-ayumi45"/><ref name="rm200508-659-28"/>、日本政府の認可が必要となり、認可ののち[[1959年]][[12月15日]]に契約締結に至った<ref name="yoshitsugu109"/>。翌年には親会社である東急と本系列の試作車となる試作品納入の同意を取り付け、販売先を確保することができた<ref name="tokyu-ayumi49"/>。 === 提携により導入された技術 === [[1960年]]2月、東急車輛社内に臨時の技術開発部が設けられ<ref name="tokyu-ayumi45"/>、技術者がバッド社に赴いて技術研修が行われた<ref name="tokyu-ayumi49"/>。帰国後もバッド社との緊密な連携のもとに技術の習得が進められ<ref name="tokyu-ayumi46"/>、いくつもの画期的な新技術が導入された。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right;" |+ 鋼製車両との鋼材の厚み比較<ref name="denkisha196111-163-58"/> ! &nbsp;!! 鋼製車両!! ステンレス製車両!! 減少率 |- |屋根板||1.6mm||0.4mm||75% |- |側板||2.3mm||0.8mm||65% |- |[[台枠#鉄道車両の台枠|台枠]]||4.5mm以上||5.0mm以下||- |- |側骨組||3.2mm||1.5mm||53% |- |[[垂木]]||2.3mm||1.0mm||57% |} 本系列では従来のステンレス鋼よりも強度を高めた高抗張力ステンレス鋼を含む厚さ0.4mm - 5.0mmの鋼材を採用し<ref name="denkisha196201-165-9"/>、日本国内での調達が困難だった一部の部材<ref name="denkisha196201-165-9"/>や加工装置<ref name="pic200101-696-71"/>はアメリカから[[輸入]]された。[[屋根]]板には厚さ0.4mmの部材が用いられるなど、従来より薄い部材が用いられた箇所もある<ref name="fan196203-9-43"/>。これらの部材の[[溶接]]に際し、もともと熱に敏感なステンレスには従来から[[スポット溶接]]が採用されていた<ref name="pic199109-548-100"/>が、バッド社がスポット溶接の際の電流・時間などの条件管理を通じて開発した、「ショット溶接」と呼ばれる工法が本系列では新たに採用された<ref name="denkisha196201-165-9-10"/>。図面に指定された部品形状、精度などを厳格に守る必要から<ref name="denkisha196111-163-58"/>、自動電流調節装置や自動溶接条件記録装置が用意され<ref name="denkisha196201-165-9"/>、工程では多くの[[治具]]が使用された<ref name="denkisha196111-163-58"/>。 床下[[配線]]や床下機器の取り付けでは[[台枠#鉄道車両の台枠|台枠]]が完成した時点で裏返して艤装する「反転艤装」と呼ばれる方式が採用された<ref name="denkisha196201-165-11"/>。これもバッド社が採用していた工法であり、上下を反転させずに終始上を向いて作業をする従来の工法に比べて、作業者の負担を減らすことができる上<ref name="denkisha196201-165-10-11"/>、本系列では事前に製作された10分の1スケールの[[模型]]を確認しながら施工する方法で作業効率が向上し<ref name="denkisha196201-165-10-11"/>、この工法は以降のステンレス車両の製造にも取り入れられた<ref name="colorbooks-80-81"/>。しかし、従来の工法では構体が完成した時点までに電機品が用意されていればよかったが、反転艤装の場合は台枠が完成するまでに全ての電機品を用意する必要があり、工程が長い電機部品が必要な場合は車両の製作期間全体が長くなってしまう欠点があった<ref name="denkisha196201-165-11"/>。 [[ファイル:Izukyu 8000 Series EMU 011.JPG|thumb|ライセンス契約を示す銘板(左上)<br/>(写真は[[伊豆急行8000系電車|伊豆急行クハ8000形]]、元[[東急8000系電車|東急クハ8000形]])]] 生産ラインの構成では、普通鋼車両の生産ラインから生じた鉄粉がステンレス鋼の表面に刺さって腐食することを懸念したバッド社が、オールステンレス車両の生産ラインを鋼製車両のものと分離することを求めた<ref name="pic200101-696-71"/>ため、オールステンレス車両専用の工場を新設して対応、新工場が1961年9月に完成した<ref name="pic198501-442-63"/>。各工程で使用される機械のうち、溶接機械や加工機械など特殊性の高いものはアメリカから輸入され<ref name="rm200508-659-28"/>、東急車輌がオールステンレス車両の製造にあたって設備投資した2億3518万円のうち、輸入分はおよそ4分の1にあたる6254万円分を占めた<ref name="tokyu-ayumi46"/>。機械や装置類の中には、電源電圧の違いに対応する改造が行われたものがあるほか、バッド社から派遣された担当者は1人で扱えても東急車輌側の担当者は2人がかりでないと扱えない機械類があったため、これらについては操作法の変更が行われた<ref name="pic200101-696-71"/>。 製図法、部品表作成、材料手配など一連の設計業務などは全てバッド社の方式に沿うことになり、過去の類似設計に頼ってこれまで強度計算を行っていなかった細かい部位の強度計算も行われた<ref name="pic200403-743-69"/>。 作業の各段階では数ステップの品質試験が義務づけられており、それらをクリアしなければ部材を次の工程に送ることはできない決まりになっていた<ref name="pic200101-696-71"/>。 バッド社との契約には英文のバッド社のライセンス下で製造されたことを示す銘板を「東急車輌」の銘板と併設することが含まれており<ref name="denkisha196203-167-25"/><ref name="pic199109-548-107"/>、バッド社側は当初、車両の内側と外側の両方に銘板を設置することを求めていたが、東急車輌側が外側設置に難色を示したため、車内のよく見える位置のみに設置することで決着した<ref name="rm200510-661-54"/>。 == 車両概説 == === 車体 === 東急では東急車輛から提案を受けたオールステンレス車両を、当時計画されていた地下鉄日比谷線への乗り入れ用車両として導入することとした。[[東武鉄道]]・[[東京急行電鉄]]・[[帝都高速度交通営団]]との3事業者で作成された「2号線車両規格」<ref>{{Cite book|和書|author=[[所澤秀樹]]・[[来住憲司]]|title=東京の地下鉄相互直通ガイド|publisher=[[創元社]]|date=2018-09-25|isbn=978-4-422-24080-0|pages=166-168}}</ref><ref group="注">「2号線直通車両規格」と書かれている書籍も見受けられるが、これは間違いである。</ref>と称する乗り入れ協定によって車両の規格が詳細に決められていたため<ref name="history614-617"/>、本系列の仕様もそれに大きく影響されている。車体寸法は18,000mm(連結面間)×2,800mm(車体幅)×4,000mm(パンタグラフ折りたたみ高さ)で<ref name="ayumi52"/>、床面高さは6000系よりも25mm低い1,125mmであった<ref name="ayumi52"/><ref name="ayumi43"/>。客用扉は6000系に続いて両開きが採用され、1両あたり3カ所・6メートル間隔で設けられた。 [[File:SEPTA M-3 and trackless trolley at Seashore Trolley Museum, August 2006.jpg|thumb|モデルとなったSEPTAの地下鉄「M-3形」(左、保存車)]] [[ファイル:Tokyu 7000 Midorigaoka.jpg|thumb|大井町線で運用されていたころの7001ほか。正面のナンバープレートが小さい(1985年2月)]] 車両デザインはバッド社からの推奨により[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の公共交通ネットワークである「[[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]]」の車両をモデルとし<ref name="pic200101-696-73"/>、[[1959年]]から[[1961年|61年]]にかけて270両が製造された「'''[[南東ペンシルベニア交通局M-3形電車|M-3形]]'''」が直接のモデルと言われている<ref name="ayumi12"/>が、設計陣は国内の諸条件に合わせるのに苦労したという<ref name="pic200101-696-73"/>。M-3形と同様に直線を基調としたスタイルとなり、屋根板がR3,450mmの単純曲線<ref name="pic197209-269-73"/>となったことと合わせ、6000系よりも丸みが少なくシンプルな形状となった<ref name="denkisha196201-165-12"/>。台枠の端部、構造が複雑な枕ばり及び正面貫通路両脇に設けられた衝突柱はステンレス製ではない<ref name="pic198501-442-25"/>。 車体裾は5200系と6000系では凹凸のない直線だったのに対し、本系列では台車の直上<ref name="denkisha196203-167-24"/>の部分に補強<ref name="shitetsu-tokyu-32"/><ref name="denkisha196203-167-24"/>があり、その部分の裾部の構体が下に出っ張っている。6000系と同様、先頭部にはコルゲーションがない<ref name="shitetsu-tokyu-30-31"/><ref name="shitetsu-tokyu-34-35"/>が、窓の上下にコルゲーションがあった6000系に対し、5200系と同様側面の下半分にのみコルゲーションが入った<ref name="shitetsu-tokyu-30-31"/><ref name="shitetsu-tokyu-38-39"/>。いずれの形式に比べても、コルゲーションの密度は高い<ref name="shitetsu-tokyu-30-31"/><ref name="shitetsu-tokyu-34-35"/><ref name="shitetsu-tokyu-38-39"/>。車体設計に際しては、コルゲーションの有無や仕上げをデザインとして上手に取り込むような工夫がなされた<ref name="ayumi50"/>。 先頭部は三面折妻で<ref name="ayumi51"/>、貫通扉の上に東急の車両では初めて前面方向幕<ref name="ayumi51"/>が、左右の窓下に設置されたケースには前照灯と尾灯が収まっている<ref name="ayumi51"/>。このケースは、デハ7040以前は[[ステンレス鋼|ステンレス]]製、デハ7041以降は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製である。バッド社との技術提携初期に設計された本系列ではバッド社からの直接的な技術指導を受けたことから当時のアメリカの鉄道車両構造規格の影響を受けた部分が少なからずあり、その一例として車両が衝突した場合に運転台周りが局部的に破損しないよう衝突柱が設けられた<ref name="pic200403-743-72"/>。貫通扉はこの衝突柱の奥に設けられたので、従来の車両よりやや奥に設置されている<ref name="rm200508-659-28"/>。貫通幌を使用しない場合はこの凹んだ部分に折り込めるようになっていた<ref name="pic197209-269-73"/>。 車両番号は先頭車の向かって右上と、各車両側面車端寄り1箇所に[[紺色]]の文字で表示された<ref name="ayumi20"/>。初期に製造された車両の先頭部の車両番号は5200系や6000系と同様サイズが小さかったが、デハ7007以降は大きめのものに変更された<ref name="ayumi20"/><ref group="注">これらの車両は全車が7700系に改造され、その際に先頭部の車両番号はデハ7007以降と同じサイズとなった。</ref>。 当初は[[各駅停車]]のみの運用を想定していたためにデハ7018までは正面に[[通過標識灯]]を設置せずに登場した<ref name="ayumi53"/>が、[[1964年]]に標識灯が設置され、以降はこれらの車両も急行列車に運用されるようになった<ref name="pic198501-442-223"/>。 === 台車 === [[ファイル:Tōkyū 7000 series EMU 011.JPG|thumb|TS-701形台車<br/>(写真は水間鉄道1000形)]] [[ファイル:Tōkyū 7000 series EMU 012.JPG|thumb|ブレーキてこ周り<br/>ブレーキホースは外してある<br/>(水間鉄道1000形)]] [[鉄道車両の台車|台車]]もバッド社の自社設計により<ref name="denkisha196201-165-11"/>[[1956年]]に発表され<ref name="pic199109-548-101"/>、アメリカでも広く使用されていた<ref name="denkisha196203-167-19"/>パイオニアⅢ形台車が採用された<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/>。本系列の台車はTS-701形またはPⅢ-701形と呼ばれる。以下、同形態の台車を「パイオニア台車」と総称する。なお、オリジナルでは車輪よりも内側にあった台車枠が外側にあるなど、複数の設計変更がなされている<ref name="pic200101-696-74"/>。 台車そのものは枕ばねを空気ばねとした1自由度系台車で<ref name="fan201005-589-104"/><ref name="pic197209-269-73"/>{{refnest|group="注"|軸ばねと枕ばねの2つの可動部を有している「2自由度系台車」に対し、軸ばねが省略されているものを「1自由度系台車」と呼ぶ<ref name="fan201005-589-104"/>。}}、軸ばね<ref name="kaisou2-144"/>や軸梁<ref name="ayumi52"/>、下揺れ枕などの部品が省略されており<ref name="ayumi52"/>、構造の単純化によって台車重量は6000系A編成の6.7tに比べて2t以上軽量化された<ref name="pic200402-742-116"/>4.2tに軽減された<ref name="pic199109-548-101"/>{{refnest|group="注"|4.5tとする文献もある<ref name="denkisha196203-167-26"/>。}}。車体荷重は空気ばね→枕ばり→側受→側ばりと伝わる<ref name="pic198501-442-25"/>。 側梁は小判型の断面で内部が空洞となっており、軸箱は側梁にゴム板を介して固定されている<ref name="pic198501-442-25"/>。枕梁と台車枠が接する側受が唯一の摺動部であり、この部分に摩擦軽減を目的として[[ポリテトラフルオロエチレン|テフロン]]材を貼り付けることで定期給油が不要となった<ref name="fan201005-589-104-105"/>。これ以外にも、[[軸受]]に[[ゴム]]ブッシュをはじめとした耐摩耗性のある材料を採用し、保守の合理化がはかられた<ref name="ayumi52"/>。 横梁<ref group="注">台車の側梁を結ぶ枕木方向の梁のこと。</ref>は左右で分割されている特徴的な形態<ref name="denkisha196203-167-19"/>で、左右が自由に動けることから<ref name="denkisha196203-167-19"/>、軸ばねがない構造にも関わらず走行中に[[軸 (機械要素)|車軸]]が[[変位]]しても台車枠に無理な力をかけずに<ref name="ayumi52"/>、レールに追従できる<ref name="pic198501-442-25"/>。6000系では1[[鉄道車両の台車|台車]]・1[[電動機|モーター]]・2[[輪軸 (鉄道車両)|軸]][[駆動輪|駆動]]方式を採用し、粘着性能は非常に良好だったものの<ref name="denkisha196201-165-11-12"/>、本系列では横梁が分割された構造から同様の方式が採用できず<ref name="fan197905-217-19"/>、1台車・2モーター・2軸駆動となった<ref name="fan197905-217-19"/>。 [[ディスクブレーキ]]は安定した制動力が得られるものの、1,067mm軌間の電動台車にはスペースの制約から当時は採用が困難とされていたが、台車の外側にブレーキディスクを配置する構造とすることでこれを採用<ref name="ayumi49"/>、[[制輪子]]交換を容易にするとともに、回生ブレーキを最大限に利用する方式の採用と併せて制輪子の摩耗が少なく<ref name="fan197905-217-20"/>、従来車の制輪子の交換に追われていた現業部門からは好評を得た<ref name="shitetsu-tokyu-33"/>。また、当時鋳鉄制輪子を使用していた在来車に比べ、大きく保守性が向上した<ref name="pic199110-549-103"/>。 運用開始時に東急の車両部長(当時)を務めていた白石安之は、本系列完成前にアメリカでパイオニア台車装着車両に乗車した際の感想を以下のように記している。 {{Quotation|幾分[[ローリング]]を感じたが,ビビリ振動を含む細い振動は全く感じないと言える成績であった|[[#denkisha196203-167-19-24|『電気車の科学』通巻167号、20頁]]より引用。}} それを踏まえ、この台車も基本構造が同じであることから高いパフォーマンスを示すであろうと期待を述べていた<ref name="denkisha196203-167-20"/>。 一方、1自由度系台車であるため、軸箱を固定する部分のゴム板はあるものの台車のばねは、枕ばねの空気ばねのみであり<ref name="pic200101-696-74"/>、枕ばね・軸ばねを装備した2自由度系の台車と比べ、乗り心地が劣るうえ、台車枠に架装された主電動機や駆動装置などが2自由度系台車では[[ばね上重量]]となる一方、1自由度系台車では[[ばね下重量]]となる<ref name="pic200101-696-74"/><ref name="rm200510-661-54"/>ため、軌条に与える振動の面でも劣っていた<ref name="pic200101-696-75"/>。特に日比谷線乗り入れが始まって以降はフランジの摩耗や台車枠にキズが入るなどの事象が発生するようになった<ref name="fan201005-589-107"/>。また、その構造上保守管理についても、ブレーキ系統は格段に容易になった一方<ref name="fan201005-589-107"/>、台車枠が左右別々であることから、組み立て時には専用の作業台が必要になり<ref name="fan201005-589-107"/>、位置合わせや車体乗せにあたっては一定の熟練が必要とされるなど、必ずしも日々の保守管理が容易になったわけではなかった<ref name="fan201005-589-107"/>。1966年に台車性能の調査のために滑走防止装置と車輪踏面清掃装置をデハ7047とデハ7154に取り付け、ボルスタアンカーの取り付け位置を本来より下げてテストが行われている<ref name="pic197209-269-74"/>。デハ7042では通常より支点の低いボルスタアンカーが試作・取り付けられた<ref name="kaisou2-145"/>。 結果的に、本系列以降の東急の車両ではパイオニア台車は[[東急7200系電車|7200系]]と[[東急8000系電車|8000系]]の付随台車として採用されたのみに終わり<ref name="pic200407-749-41"/><ref name="shitetsu-tokyu-162-163"/><ref name="shitetsu-tokyu-162-165"/>、8000系のものは1990年から1991年に交換されている<ref name="AB1992p189"/>。東急車輌が本系列に続いて1962年から製造したオールステンレス車両である[[京王3000系電車|京王3000系]]と[[南海6000系電車|南海6000系]]<ref name="tokyu-ayumi47"/>にもパイオニア台車が装備されたが、京王3000系は製造途中から異なる形式の台車に変更されている<ref name="guidebook80"/>。特に京王3000系は、パイオニア台車の振動特性が電動車には不向きであると判断されたため<ref name="guidebook80"/>、[[動力車|電動車]]のパイオニア台車を別形式の台車に交換し、捻出したパイオニア台車を同時期に新製された車両の先頭車(いずれも[[付随車]])に装備している<ref name="guidebook80"/>。 本系列の設計に携わった守谷之男は後年、パイオニア台車の評価が芳しくなかった要因としてアメリカと日本の鉄道のゲージや許容最大軸重など線路条件の違いを挙げている<ref name="pic200101-696-75"/>。 パイオニア台車の実績と評価については[[鉄道車両の台車史#パイオニアIII]]も参照のこと。 === 電装部品 === 本系列には日立製作所製の電装品を装備した車両(日立車)と、東洋電機製造製の電装品を装備した車両(東洋車)があり、主電動機定格電圧が異なるなど、大きく異なるシステム構成が採用されたため、連結して運転することは可能であるものの、ユニットを組むことはできないなどの制約があった。1962年製は東洋車のみだったが、1963年以降日立車と東洋車は並行して製造され、電装品メーカーの区別なしに車両番号は製造順に付番された<ref name="colorbooks-81"/>。両社製とも4.0km/h/sと、高い[[起動加速度]]・減速度を有しているが、定格速度が低いために最大加速度を発揮する速度域は狭い。駆動装置は[[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸平行カルダン]]で、歯車比は全車両が85:13 (6.54) と比較的低速向けだが、弱め界磁制御により中速域までの性能を確保しており、日立車は急行運用にも使用されるために高速性能も確保している。設計最高速度は110km/hだが、当時の東横線急行の最高速度は90km/hだった。日比谷線直通に使用された東洋車の弱界磁最終段における1時間定格速度は50km/hで、[[営団3000系]]は64km/h、[[東武2000系]]は73km/h<ref name="history678"/>と、日比谷線で運用される他車車両よりも低かった。出力も60kWと、営団3000系・東武2000系の75kWに比べやや低く<ref name="history678"/>、協議の過程で営団側から出力増強の要請もあった<ref name="pic200503-759-125"/>が、最終的には加速時間を他車より延ばしてダイヤに乗れるよう取り扱うことで決着した<ref name="pic200503-759-125"/>。 ==== 主電動機・駆動装置 ==== [[電動機|主電動機]]は両社製とも[[複巻整流子電動機|複巻]]式で<ref name="shitetsu-tokyu-126"/>、東洋車では東洋電機製造のTDK-826A<ref name="pic199109-548-102"/><ref name="denkisha196203-167-20"/><ref group="注">端子電圧187.5V・出力60kW・全界磁定格速度28km/h・全界磁定格牽引力3,000kgf・最弱め界磁率20%・20%界磁定格速度50km/h・20%界磁定格牽引力1,640kgf。</ref>が採用され、8台のモーターを永久直列接続する方式だった<ref name="monogatari105"/>ことから、[[定格電圧]]が187.5Vとなっており、日立車に比べて整流の面で優位性があった<ref name="pic199109-548-102"/>。 日立車では日立製作所製HS-533-JrbおよびHS-830-Arb<ref name="ayumi52"/><ref group="注">端子電圧375V・出力70kW・全負荷時定格牽引力2,840kgf・最弱め界磁率18%・18%界磁定格牽引力960kgf。</ref>が採用され、こちらは4台ずつ直並列切り替えする方式<ref name="monogatari105"/>で、定格電圧は375V<ref name="pic199109-548-102"/>、出力は70kWであった<ref name="ayumi52"/>。 ==== 制御装置 ==== 主回路制御方式は[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗]]式で、1制御器あたり8つの主電動機を、日立車は[[電気車の速度制御#直並列組合せ制御|直並列制御]]、東洋車は永久直列制御する。 初期の東洋車では6000系と同一のACRF-H860-754A形(永久直列14段、弱め界磁4段)が採用された。電動車2両1ユニットに含まれる8台の主電動機を直列に接続し、起動時には抵抗制御を、起動終了後は分巻界磁制御を行うものだった<ref name="pic199109-548-102"/>。[[1963年]]に入籍したデハ7007以降では、設計変更を加えたACRF-H860-757A形が採用された<ref name="pic199109-548-102"/>。 日立車ではMMC-HTR-10A(直列10段、渡り1段、並列8段、弱め界磁5段)を採用<ref name="pic198501-442-223"/>、主電動機を4台2セットで低速時は直列、高速時は並列に接続していた<ref name="pic199109-548-102"/>。 両社の制御器では[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱め界磁制御]]の方法が異なり、日立車の弱め界磁は主電動機の分巻回路に抵抗器を挿入するごく一般的な電動カム軸式だったが、東洋車の弱め界磁は[[サーボモータ]]で駆動する界磁調整器と呼ばれる整流子形の可変抵抗器を使用する。 [[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]の段数は全車4段で統一されており、第1段目は「起動」、第2段目は「直列制御」で統一されていたが、日立車の第3段目は「直並列制御」なのに対して、東洋車は「直列制御+弱め界磁制御(2段のみ使用)」であり、第4段目も同様に日立車が「直並列制御+弱め界磁(5段すべて使用)」で、東洋車は「直列制御+弱め界磁(4段すべて使用)」である。特に第3段目が大きく異なるのは、東洋車の全界磁定格速度が28km/hと低かったことによる。また、日立車は第3段以上、東洋車は第2段以上で弱め界磁制御のノッチ戻しが可能である。なお、マスコンハンドルは営団3000系や東武2000系と同様、跳ね上げ[[デッドマン装置|デッドマン]]式である。この後7200系まで採用される。 ==== その他電装品 ==== ブレーキ装置は6000系で採用された[[回生ブレーキ]]併用<ref name="monogatari105"/>[[電磁直通ブレーキ|電磁直通空気式]](HSC-R) <ref name="colorbooks-142-143"/>を引き続き採用し、1つのブレーキハンドルで電力回生ブレーキも操作できるようになっていた<ref name="pic199109-548-102"/>が、日比谷線内では電気ブレーキは発電ブレーキのみとすることが乗り入れ協定で定められていたことから<ref name="history615"/>、日比谷線内では回生ブレーキは使用せず、空気ブレーキのみが使用され<ref name="pic199109-548-106"/>、中目黒駅で切り替えが行われていた<ref name="pic200503-759-125"/>。 [[集電装置|パンタグラフ]]は東洋電機製造のPT43-B形を採用した<ref name="pic199109-548-103"/>。すり板は、東横線では長年にわたって[[カーボン]]製が使われていた<ref name="pic200503-759-125"/>が、[[東京メトロ日比谷線|営団日比谷線]]への乗り入れに際し、剛体架線の摩耗を防ぐために、東横線に在籍していた全車がカーボン製からブロイメット{{refnest|group="注"|銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある<ref name="Broimet"/><ref name="handbook-204"/>。}}製に交換された<ref name="tokyu50-1076"/>。 [[電動発電機]]は東洋車ではTDK381-A形<ref name="denkisha196201-165-10"/>を、日立車ではHG-533Jrb形<ref name="pic199109-548-103"/>を採用した。[[空気圧縮機]]はMH80-C1000形を採用した<ref name="denkisha196201-165-10"/>が、東横線や田園都市線などの駅間距離の関係から、容量を適正化するため、MH80-C1000形を3000系に移した上でCM515-A-1HB1500T形およびD1215-HS20Gに換装した<ref name="pic199110-549-100"/><ref name="pic199109-548-103"/>。 制御器が変更されたデハ7007以降の東洋車のみを乗り入れ対応車とすることになり<ref name="pic197209-269-73"/>、デハ7007 - デハ7022およびデハ7025 - デハ7030に乗り入れに必要なWS-ATCと誘導無線<ref name="monogatari107"/>が[[1964年]]に取り付けられた<ref name="pic197209-269-73"/>。 === 接客設備 === 照明は40[[ワット]]の[[蛍光灯]]を1両あたり16本装着し、照度の向上を図った<ref name="denkisha196201-165-12"/>ほか、6000系に装備された蛍光灯カバー<ref name="denkisha196203-167-25"/>は装着されず、保守の合理化にもつながった<ref name="denkisha196201-165-12"/>。[[暖房]]装置は電圧250[[ボルト (単位)|ボルト]]・750ワットの[[電熱器]]を座席下に並べる方式とした<ref name="denkisha196201-165-12"/>。発熱体の長さは1個あたり1.5[[メートル]]で、座席のどこでも同等の暖房効果を得られるようになった<ref name="denkisha196201-165-12"/>。座席のモケットはエンジ色<ref name="denkisha196203-167-25"/>で、新たにステンレス製のパイプを設置した<ref name="denkisha196203-167-25"/>。 側窓は最初に製造された3編成(デハ7001 - デハ7006)のみ上下の窓を[[つるべ]]式につないだ上段下降・下段上昇式で<ref name="monogatari106"/>、乗り入れ協定の「側窓の開放寸法は150mm以内かまたは保護棒を設ける場合は下より150, 100mmのピッチを標準とする」との規定<ref name="history614-615"/>に従い、外側に保護棒をつけていた<ref name="pic199109-548-106"/>。この3編成はいずれも乗り入れ運用には充当されなかった<ref name="pic197209-269-73"/>が、つるべ式の構造は保守管理に難があることから<ref name="pic199109-548-101"/>、[[1978年]]から[[1983年]]にかけて施工された車体更新時に上段下降・下段固定式に改造されている<ref name="pic199109-548-107"/><ref name="pic199109-548-101"/>。 それ以外の車両は全て一般的な上段下降・下段上昇式での落成となったが<ref name="pic199109-548-101"/>、下窓の開口幅が140mmとなったことから、保護棒は設置されていない<ref name="pic197209-269-73"/>。 地下鉄線内を走行する際の騒音を防ぐため、床面にはトラップドア<ref group="注">モーターを点検するために車内床面に設置される扉のこと。</ref>が設けられなかった<ref name="monogatari105"/>。 冷房装置の搭載は想定されておらず<ref name="denkisha196203-167-25"/>、7000系としての冷房化は行われなかった<ref name="pic200407-749-249-252"/>。屋根上の通風器は側面に通風口があるバッド社特有の形状で、冬季は開口部に蓋がされていた。車内側は[[1982年]] - 1984年頃にファンデリア(シャンデリア状の[[換気扇]])から[[扇風機]]に換装されている。 デハ7001 - デハ7018およびデハ7101 - デハ7106に対し、1978年から1983年にかけてドアと先述の側窓の更新、内装板の張り替えをはじめとする更新工事が施工された<ref name="pic199109-548-107"/>。 === コスト貢献・波及効果 === 1両あたりの価格は在来の車両よりも7 - 8%ほど(製造当時で300万円程度<ref name="rm200508-659-28"/>)高額になった<ref name="denkisha196111-163-4"/>が、塗装工程が不要になることから重要部・全般検査では1回1両あたり30万円前後の費用削減([[1986年]]当時の価額)<ref name="t-e199203-537-68"/>になるなどのランニングコスト削減を通じ、おおむね3 - 4年程度で回収できるとされた<ref name="denkisha196111-163-4"/>。また、外板の更新費用もゼロに抑えることができた<ref name="t-e199203-537-68"/>。 塗装工程の廃止は車両の検査期間短縮に貢献し<ref name="t-e199203-537-66"/>、後に東急の全車両がステンレス製車両となった時点で工場の塗装部門が廃止され、作業環境の向上も達成した<ref name="t-e199203-537-66"/>。 == 編成 == === 形式 === 本系列は全車電動車で、デハ7000形とデハ7100形の2形式で構成される。形式にかかわらず奇数番号の車両と偶数番号の車両で2両1ユニットを組み、偶数番号の車両にパンタグラフと主制御器が奇数番号の車両に[[電動発電機]]や[[空気圧縮機]]などの補機が搭載された<ref name="shitetsu-tokyu-32"/>。 * デハ7000形 - 制御電動車(Mc)<ref name="shitetsu-tokyu-32"/>。下り方がM1c<ref name="ayumi52"/>、上り方がM2c<ref name="ayumi52"/>。 * デハ7100形 - 中間電動車(M)<ref name="shitetsu-tokyu-32"/>。上り方がM1<ref name="ayumi52"/>、下り方がM2<ref name="ayumi52"/>。 東洋車・日立車の最終的な製造数および内容は下記の通りである<ref name="shitetsu-tokyu-171-172"/><ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/>。このうちデハ7003 - デハ7042とデハ7103 - デハ7168の計106両は信託車両として製造され、三井信託銀行または三菱信託銀行の信託車両である旨を記した銘板が車内に設置されていた<ref name="pic199109-548-107"/>。 * 東洋車(92両) ** デハ7000形 - 42両 ** デハ7100形 - 50両 * 日立車(42両) ** デハ7000形 - 22両 ** デハ7100形 - 20両 === 車両一覧 === 下表は、全車両の竣功年<ref name="shitetsu-tokyu-171-172"/>と電装品メーカー<ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/>、他形式へ改造または他社に譲渡された時期<ref name="pic200407-749-249-251"/>の対照表である。 * 凡例 ** 車両番号 *** 後ろに※印が付いている車両は日比谷線乗り入れ対応工事が施工された車両<ref name="pic197209-269-73"/> *** 番号に<u>下線</u>が付いている車両は1978年から1983年に車内更新が施工された車両<ref name="pic199109-548-107"/> ** 電装品メーカー *** 東洋:東洋電機製造、日立:日立製作所 ** 新番号 *** 社名がない車両は7700系へ改造されたもの *** 新番号2はその後改番、譲渡などをされた場合の社名、番号 *** 譲渡された車両は譲渡先と番号を記載。譲渡先での形式などは「[[#譲渡と保存|譲渡と保存]]」節を参照。 <div style="float: left;"> <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! colspan="8"|デハ7000形 |- ! 車両番号!! 竣工年!! 電装品メーカー!! 新番号!!竣工年!!新番号2!!竣工年!!廃車年 |- |<u>7001</u>||rowspan="6"|1962年||rowspan="22"|東洋||7910||rowspan="6"|1988<ref name="AB1989p237"/>||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|&nbsp;2014 |- |<u>7002</u>||7710 |- |<u>7003</u>||7909||[[十和田観光電鉄|十和田]]7902||rowspan="2"|2002<ref name="AB2003p208"/>||rowspan="2"|2012<ref name="AB2012p86"/> |- |<u>7004</u>||7709||十和田7702 |- |<u>7005</u>||7908||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="10"|&nbsp; |- |<u>7006</u>||7708 |- |<u>7007</u>※||rowspan="18"|1963年||[[水間鉄道|水間]]7101||rowspan="6"|1990<ref name="AB1991p249"/>||水間1004||rowspan="2"|2007<ref name="AB2008p235"/> |- |<u>7008</u>※||水間7001||水間1003 |- |<u>7009</u>※||水間7102||水間1002||rowspan="2"|2006<ref name="AB2007p234"/> |- |<u>7010</u>※||水間7002||水間1001 |- |<u>7011</u>※||水間7103||rowspan="4"|&nbsp;||rowspan="4"|&nbsp; |- |<u>7012</u>※||水間7003 |- |<u>7013</u>※||[[弘南鉄道|弘南]]7011||rowspan="2"|1989<ref name="AB1990p294"/> |- |<u>7014</u>※||弘南7021 |- |<u>7015</u>※||7911||1990<ref name="AB1990p296"/>||十和田7903||2002<ref name="AB2003p208"/>||2012<ref name="AB2012p86"/> |- |<u>7016</u>※||[[秩父鉄道|秩父]]2302||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|2000<ref name="AB1992p188"/> |- |<u>7017</u>※||秩父2001 |- |<u>7018</u>※||7711||rowspan="3"|1990<ref name="AB1990p296"/>||十和田7703||2002<ref name="AB2003p208"/>||2012<ref name="AB2012p86"/> |- |7019※||7913|| rowspan="4" |&nbsp;|| rowspan="4" |&nbsp;||rowspan="2"|2011<ref name="AB2012p223"/> |- |7020※||7713 |- |7021※||秩父2003||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|2000<ref name="AB2002p190"/> |- |7022※||秩父2303 |- |7023||rowspan="2"|日立||7903||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p189"/> |[[養老鉄道|養老]]7903 | rowspan="2" |2019<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/04/28/202500.html|title=養老鉄道7700系が営業運転開始|accessdate=2020/4/20|publisher=}}</ref>|| rowspan="5" |&nbsp; |- |7024||7703 |養老7703 |- |7025※||rowspan="12"|1964年||rowspan="6"|東洋||弘南7012||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p244"/> | rowspan="2" | | rowspan="2" | |- |7026※||弘南7022 |- |7027※||7914||1991<ref name="AB1992p189"/> |養老7914 |2020<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/01/18/201500.html|title=養老鉄道7700系TQ14編成が営業運転を開始|accessdate=2020/4/20|publisher=}}</ref> |- |7028※||秩父2304||1991<ref name="AB1992p188"/> | rowspan="13" | | rowspan="10" | ||2000<ref name="AB2002p190"/> |- |7029※||弘南7013||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p244"/>||rowspan="6"|&nbsp; |- |7030※||弘南7023 |- |7031||rowspan="4"|日立||弘南7031||rowspan="4"|1988<ref name="AB1989p236"/> |- |7032||弘南7032 |- |7033||弘南7033 |- |7034||弘南7034 |- |7035||rowspan="2"|東洋||秩父2002||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|2000<ref name="AB2000p199"/> |- |7036||秩父2301 |- |7037||rowspan="16"|1965年||rowspan="4"|日立||弘南7037||rowspan="4"|1988<ref name="AB1989p236"/>||rowspan="10"|&nbsp; |- |7038||弘南7038 | rowspan="3" | |- |7039||弘南7039 |- |7040||弘南7040 |- |7041||rowspan="6"|東洋||7906||rowspan="8"|1987<ref name="AB1988p220"/> |養老7906 | rowspan="2" |2019<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/07/20/202000.html|title=養老鉄道7700系TQ06編成が営業運転を開始|accessdate=2020/4/20|publisher=}}</ref> |- |7042||7706 |養老7706 |- |7043||7905 |養老7905 | rowspan="2" |2019<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/11/07/180000.html|title=養老鉄道7700系TQ05編成が営業運転を開始|accessdate=2020/4/20|publisher=}}</ref> |- |7044||7705 |養老7705 |- |7045||7901 |養老7901 |2020<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/02/15/203000.html|title=養老鉄道7700系TQ01編成が営業運転を開始|accessdate=2020/4/20|publisher=}}</ref> |- |7046||7702 | | |- |7047||rowspan="12"|日立||7904||十和田7901||rowspan="2"|2002<ref name="AB2003p208"/>||rowspan="2"|2012<ref name="AB2012p86"/> |- |7048||7704||十和田7701 |- |7049||[[北陸鉄道|北陸]]7011||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p247"/>|| rowspan="10" |&nbsp;|| rowspan="10" |&nbsp;||rowspan="3"|&nbsp; |- |7050||北陸7001 |- |7051||7907||1988<ref name="AB1989p237"/> |- |7052||[[東急車輛製造]]||&nbsp;||2000<ref name="AB2001p182"/> |- |7053||rowspan="12"|1966年||北陸7111||rowspan="4"|1990<ref name="AB1991p247"/>||rowspan="4"|&nbsp; |- |7054||北陸7101 |- |7055||北陸7112 |- |7056||北陸7102 |- |7057||東急車輌||&nbsp;||2000<ref name="AB2001p182"/> |- |7058||7707||1988<ref name="AB1989p237"/>||rowspan="3"|&nbsp; |- |7059||rowspan="6"|東洋||7912||rowspan="2"|1990<ref name="AB1990p296"/> |養老7912 | rowspan="2" |2019<ref name=":0" /> |- |7060||7712 |養老7712 |- |7061||秩父2004||1991<ref name="AB1992p188"/> | | ||2000<ref name="AB2000p199"/> |- |7062||7714||1991<ref name="AB1992p189"/> |養老7714 |2020<ref name=":1" />|| rowspan="3" |&nbsp; |- |7063||7902||rowspan="2"|1987<ref name="AB1988p220"/> | | |- |7064||7701 |養老7701 |2020<ref name=":2" /> |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! colspan="8"|デハ7100形 |- ! 車両番号!! 竣工年!! 電装品メーカー!! 新番号!!竣工年!!新番号2!!竣工年!!廃車年 |- |<u>7101</u>||rowspan="6"|1962年||rowspan="10"|東洋||7960||rowspan="6"|1988<ref name="AB1989p237"/>||rowspan="9"|&nbsp;||rowspan="9"|&nbsp;||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |<u>7102</u>||7810||&nbsp; |- |<u>7103</u>||7959||rowspan="2"|2002<ref name="AB2003p211"/> |- |<u>7104</u>||7809 |- |<u>7105</u>||7958||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |<u>7106</u>||7808||rowspan="5"|&nbsp; |- |7107||rowspan="6"|1963年||[[福島交通|福島]]7108||1991<ref name="AB1992p188"/> |- |7108||弘南7103||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p244"/> |- |7109||弘南7153 |- |7110||水間7110||1990<ref name="AB1991p249"/>||水間1007||2007<ref name="AB2008p235"/> |- |7111||rowspan="4"|日立||7953||rowspan="4"|1987<ref name="AB1988p220"/>||&nbsp;||&nbsp;||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7112||7803 |養老7803 |2019<ref name=":0" />||&nbsp; |- |7113||rowspan="42"|1964年||7951 | rowspan="6" | | rowspan="6" | ||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7114||7801||rowspan="5"|&nbsp; |- |7115||rowspan="16"|東洋||福島7210||rowspan="4"|1991<ref name="AB1992p188"/> |- |7116||福島7107 |- |7117||福島7212 |- |7118||福島7109 |- |7119||7964||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p189"/>||7715||1996<ref name="AB1997p180"/>||2010<ref name="AB2011p214"/> |- |7120||7814||養老7814||2020<ref name=":1" />&nbsp;||&nbsp; |- |7121||秩父2203||1991<ref name="AB1992p188"/> | rowspan="6" | | rowspan="6" | ||2000<ref name="AB2000p199"/> |- |7122||弘南7155||1990<ref name="AB1991p244"/>||rowspan="9"|&nbsp; |- |7123||福島7206||rowspan="4"|1991<ref name="AB1992p188"/> |- |7124||福島7103 |- |7125||福島7202 |- |7126||福島7101 |- |7127||水間7151||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p249"/>||水間1006||rowspan="2"|2007<ref name="AB2008p235"/> |- |7128||水間7051||水間1005 |- |7129||福島7214||1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|&nbsp;||rowspan="2"|&nbsp; |- |7130||7813||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p246"/> |- |7131||rowspan="8"|日立||7963||7915||1996<ref name="AB1997p180"/>||2010<ref name="AB2011p214"/> |- |7132||7802||rowspan="2"|1988<ref name="AB1989p237"/>||rowspan="7"|&nbsp;||rowspan="7"|&nbsp;||&nbsp; |- |7133||7952||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7134||福島7315||1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="9"|&nbsp; |- |7135||北陸7211||rowspan="4"|1990<ref name="AB1991p247"/> |- |7136||北陸7201 |- |7137||北陸7212 |- |7138||北陸7202 |- |7139||rowspan="12"|東洋||水間7152||1990<ref name="AB1991p249"/>||水間1008||2007<ref name="AB2008p235"/> |- |7140||福島7113||1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="9"|&nbsp;||rowspan="9"|&nbsp; |- |7141||弘南7101||rowspan="4"|1989<ref name="AB1990p294"/> |- |7142||弘南7102 |- |7143||弘南7151||1999<ref name="AB2000p199"/> |- |7144||弘南7152||&nbsp; |- |7145||秩父2204||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|2000<ref name="AB2000p199"/> |- |7146||秩父2104 |- |7147||福島7208||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="2"|2001<ref name="AB2002p190"/> |- |7148||福島7107 |- |7149||7962||rowspan="4"|1990<ref name="AB1990p296"/>||7815||1995<ref name="AB1995p189"/>||2010<ref name="AB2011p214"/> |- |7150||7812||養老7812||2019<ref name=":0" />||&nbsp; |- |7151||日立||7961 | rowspan="17" | | rowspan="17" | || rowspan="2" |2002<ref name="AB2003p211"/> |- |7152||rowspan="4"|東洋||7811 |- |7153||弘南7105||rowspan="2"|1990<ref name="AB1991p244"/>||rowspan="2"|&nbsp; |- |7154||弘南7154 |- |7155||rowspan="2"|1965年||7956||rowspan="2"|1988<ref name="AB1989p237"/>||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7156||日立||7805|| rowspan="3" |&nbsp; |- |7157||rowspan="14"|1966年||rowspan="6"|東洋||福島7204||rowspan="2"|1991<ref name="AB1992p188"/> |- |7158||福島7105 |- |7159||秩父2201||rowspan="4"|1991<ref name="AB1992p188"/>||rowspan="4"|2000<ref name="AB2000p199"/> |- |7160||秩父2101 |- |7161||秩父2202 |- |7162||秩父2102 |- |7163||rowspan="6"|日立||7954||1987<ref name="AB1988p220"/>||2002<ref name="AB2003p211"/> |- |7164||7807||rowspan="2"|1988<ref name="AB1989p237"/>||&nbsp; |- |7165||7957||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7166||7804||1987<ref name="AB1988p220"/>||2002<ref name="AB2003p211"/> |- |7167||7955||rowspan="2"|1988<ref name="AB1989p237"/>||2001<ref name="AB2002p193"/> |- |7168||7806 |養老7806 |部品取り車||2018<ref>{{Cite web|和書|title=【東急】7700系7906F 恩田工場へ|RMニュース|鉄道ホビダス|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/10/77007906f_1.html|website=rail.hobidas.com|accessdate=2020-04-13}}</ref> |- |7169||rowspan="2"|東洋||弘南7104||1990<ref name="AB1991p244"/> | rowspan="2" | | rowspan="2" | ||1999<ref name="AB2000p199"/> |- |7170||秩父2103||1991<ref name="AB1992p188"/>||2000<ref name="AB2000p199"/> |} </div></div> {{-}} === 編成表 === 「+」は先頭車同士の連結部を、「-」はそれ以外を示す。 ==== 1985年4月時点の編成表 ==== '''東横線''' ←[[渋谷駅|渋谷]]/[[桜木町駅|桜木町]]→ * 7011-7128-7127-7130-7129-7008+7007-7012 * 7013-7144-7143-7142-7141-7010+7009-7014 * 7015-7152-7151-7150-7149-7042+7041-7018 * 7021-7170-7169-7154-7153-7016+7017-7022 * 7025-7118-7117-7116-7115-7064+7063-7026 * 7027-7122-7121-7120-7119-7062+7061-7028 * 7035-7148-7147-7146-7145-7044+7043-7036 * 7055-7138-7137-7058+7057-7136-7135-7056 * 7019-7140-7139-7110-7109-7108-7107-7020 * 7029-7126-7125-7124-7157-7158-7123-7030 '''大井町線''' ←[[大井町駅|大井町]] * 7001-7102-7103-7104-7101-7002 * 7023-7114-7113-7112-7111-7024 * 7037-7168-7167-7156-7155-7038 * 7059-7160-7159-7162-7161-7060 * 7005-7106-7105-7006+7003-7004 * 7031-7134-7131-7032+7049-7050 * 7033-7132-7133-7034+7039-7040 * 7047-7166-7163-7048+7053-7054 * 7051-7164-7165-7052+7045-7046 出典:<ref>宮田道一『日本の私鉄 (8) 東急』([[保育社]]カラーブックス)</ref> ==== 最後まで目蒲線に残った原型の7000系 ==== ←[[目黒駅|目黒]]/[[蒲田駅|蒲田]]→ * 7017-7160-7159-7036 * 7035-7162-7161-7016 * 7021-7170-7121-7022 * 7061-7146-7145-7028 ==== 最後まで在籍していた原型の7000系 ==== ←[[長津田駅|長津田]]/[[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国]]→ * 7057-7052 出典:<ref name="formation98-52-55"/><ref name="colorbooks-1997-151"/> == 歴史 == [[ファイル:Tokyu 7000 approaching Tamagawa En.jpg|thumb|多摩川を渡る日比谷線直通運用車。赤帯付きで東横線を走った時期は長くなかった(1988年8月)]] 最初の編成は[[1962年]](昭和37年)[[1月25日]]に竣功した<ref name="shitetsu-tokyu-171"/>4両編成であり、編成は[[東急東横線|東横線]]の[[渋谷駅|渋谷]]方から順に7001-7102-7101-7002であった<ref name="fan196203-9-43"/>。[[1月27日]]には東横線の渋谷 - [[元住吉駅|元住吉]]間で試乗会が行われ<ref name="tokyu-ayumi46"/>、国鉄や私鉄関係者が多く参加した<ref name="tokyu-ayumi46"/>。 しばらくは東横線向けに増備が進められていたが、[[1965年]]9月以降に入籍した車両の一部は[[東急田園都市線|田園都市線]]に配置されることになり<ref name="pic200407-749-116"/>、東横線からの転属分と合わせて<ref name="pic199109-548-106"/>36両(2+2の4連5本、4両固定4本<ref name="pic200407-749-116"/>)が[[1966年]][[4月1日]]の[[溝の口駅|溝の口]] - [[長津田駅|長津田]]間開業時に営業運転を開始し<ref name="pic200407-749-168"/>、そのうち4両編成1本(7045-7162-7161-7046)が祝賀列車として装飾を施されて走行した<ref name="ayumi54"/>。当時は[[東急3000系電車 (初代)|3000系列]]や5200系、6000系も営業運転を行っており<ref name="pic200407-749-117"/>、いずれも分割できる編成は鷺沼駅で分割<ref name="ayumi51"/>される[[大井町駅|大井町]] - 長津田間の直通運転に、分割できない編成は大井町 - [[梶が谷駅|梶が谷]]・二子新地前(現[[二子新地駅]])間の運用に使用されていた<ref name="pic200407-749-116"/>。同線で快速列車に使用される際は、赤地に白文字で「快速」と記された[[行先標|種別表示板]]を先頭部に取り付けて運行した<ref name="pic200407-749-119"/>。 東横線では、主電動機の出力が比較的大きい日立車が高速性能に優れていたことから急行列車は日立車を中心に運用され<ref name="ayumi53"/>、[[東急7200系電車|7200系]]・6000系・[[東急8000系電車|8000系]]と同様に、急行運用では「急行」と書かれた赤色の種別表示板を取り付けて運行していた<ref name="fan200608-544-111"/>。[[1964年]][[4月1日]]のダイヤ改正以降は6両編成の急行列車が運転されることになり、本系列6連9本が中心となって運用された<ref name="magazine200805-296-96"/>。 乗り入れ対応工事が施工された車両は、[[1964年]][[8月29日]]に日比谷線との相互直通運転を開始した<ref name="history702"/>。関係各社の協議の中で「相互直通は営団と東武,および営団と東急それぞれの間に限ること」という合意があったことから<ref name="subway50-187"/>直通列車の運転区間は[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]] - [[北千住駅|北千住]]間とされ<ref name="history702"/>、初日には本系列が祝賀列車として装飾を施されて運行された<ref name="subway50-223"/>。当初の乗り入れ協定では最大連結両数は6両としていた<ref name="history614"/>{{refnest|group="注"|北千住から乗り入れる東武線の旅客数の見積もりが東急線側からのそれよりも少なく、北千住 - [[茅場町駅|茅場町]]間の各駅が6両編成対応で建設されていたことが理由である<ref name="subway50-271-272"/>。}}が、輸送力増強のために[[1969年]]から[[1971年]]にかけて北千住 - [[茅場町駅|茅場町]]間の各駅を8両編成対応にする工事などを施工し<ref name="pic197712-342-124"/><ref name="subway50-272"/>、1971年[[5月31日]]のダイヤ改正で全列車8両編成での運転が始まった<ref name="subway50-687"/>。[[1978年]]3月からは青地に白文字で「日比谷線直通」と記されたサボが側面に取り付けられた<ref name="fan197807-207-119"/>。本系列は日比谷線開業後も渋谷発着の運用にも充当された<ref name="shitetsu-tokyu-31"/><ref name="shitetsu-tokyu-178"/>。1988年8月9日より日吉駅改良工事に伴い、日比谷線直通列車はこれまでの日吉から[[菊名駅|菊名]]まで区間が延伸された。 その後、田園都市線の5両編成化に際して本系列は5両編成は組成できない<ref name="pic199109-548-106-107"/>こと、さらに[[1977年]][[4月7日]]の[[新玉川線]]開業以降は同線経由で[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]に乗り入れる田園都市線の輸送力増強が必要になったことから、[[東急8000系電車|8000系]]に替わられる形で東横線への転属が進み<ref name="magazine200805-296-97-98"/>、[[1980年]]と[[1981年]]には8連16本と6連1本に組成され、134両全てが東横線に集められた<ref name="pic199109-548-106-107"/>。6連は東洋車4両と日立車2両の混結であった<ref name="fan197911-223-56"/>。 翌[[1982年]]から、大井町線と改称されていた大井町 - 二子玉川園間の6両編成運転開始に伴い再び同線へ一部が転属、[[1986年]]には78両となって東横線の56両を上回った<ref name="pic199109-548-106-107"/>が、[[1988年]]から行われた[[東急7700系電車|7700系]]への改造や1989年3月に4両編成化された目蒲線<ref name="pic199109-548-107"/>への転属で同区間の運用を終了した<ref name="pic199109-548-106-107"/>。 [[1988年]]の春から夏にかけて、7200系・[[東急7600系電車|7600系]]・7700系・8000系とともに先頭車の前面に赤帯が施された。 東横線では、本系列に代わる日比谷線乗り入れ用車両として製造された<ref name="pic198905-512-166"/>[[東急1000系電車|1000系]]が[[1988年]][[12月26日]]に営業運転を開始し<ref name="pic198905-512-167"/>、直通運用からも順次はずれ<ref name="pic199109-548-107"/>、[[1991年]](平成3年)[[6月3日]]朝方の営業運転(資料によっては6月7日<ref name="RM1991-9">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」1991年9月号RM NEWS REPORT「東急の話題」126頁記事。なお、同誌では東横線の定期運用を終了と記載されている。</ref> )で直通運用を終了した<ref name="pic199109-548-107"/>。 なお、目蒲線では1989年(平成元年)3月18日に旧3000系列が営業運転を退いたことに伴い<ref name="RM1989-6">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」1989年6月号RM NEWS REPORT「東急の話題」128頁記事。</ref> 、翌日から同線は3両編成から4両編成運転とされ<ref name="RM1989-6"/>、また運用車両として本系列と7700系が配置された<ref name="RM1989-6"/>。この時点で目蒲線には本系列4両編成7本(28両)と7700系4両編成10本(40両)が配置された<ref name="RM1989-6"/>。その後、7700系への改造の進行と1991年(平成3年)9月からの1000N'系(1014F以降)の投入の開始により<ref name="RM1991-12">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」1991年12月号RM NEWS REPORT「東急電鉄の話題」120頁記事。</ref> 、1991年9月21日をもって最後まで目蒲線で運用されていた編成(7061F)が営業運転を終了した<ref name="RM1991-12"/>。 [[1991年]][[8月25日]]にはスタンプラリー号として7061Fを使用して[[さよなら運転]]が行われ<ref name="Fan1991-11">交友社「鉄道ファン」1991年11月号107頁「東急7000系お別れ運転」記事。</ref><ref name="RM1991-11">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」1991年11月号RM NEWS REPORT「東急電鉄の話題」126頁記事。</ref> 、[[渋谷駅|渋谷]] - [[桜木町駅|桜木町]]間を2往復した。先頭車には「スタンプラリー号 7000系ありがとう」のヘッドマークが掲出された<ref name="Fan1991-11"/><ref name="RM1991-11"/>。 [[ファイル:Tokyu-7000.jpg|thumb|こどもの国線専用編成(1998年)]] 1989年[[1月26日]]に[[東急こどもの国線|こどもの国線]]がワンマン運転化され、7057 - 7052の2両編成に対応工事が施されて同線専用となった<ref name="pic199110-549-34"/>。この2両はワンマン改造に加え、運転台のワンハンドル化、テープによる放送装置の設置などを行った上で<ref name="pic199412-600-42"/>、[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]のマークを掲出し、赤・青・緑の装飾がほどこされて営業運転に充当された<ref name="pic199110-549-102"/>。こどもの国線の通勤線化に伴って[[1999年]](平成11年)[[7月31日]]に[[横浜高速鉄道Y000系電車|横浜高速鉄道Y000系]]に置き換えられて営業運転を終了し、その後[[2000年]](平成12年)[[3月20日]]に[[さよなら運転]]として[[鷺沼駅|鷺沼]] - [[中央林間駅|中央林間]]間を2往復した。この2両は本系列で最後まで東急線に在籍していた車両であり<ref name="pic200407-749-250"/>、同時に東急の鉄道線<ref group="注">[[東急世田谷線|世田谷線]]を除く全線。</ref>用として最後の非冷房車でもあった<ref name="formation98-52-55"/>。 == 他社線での走行実績 == ここでは、1960年代に東急の車籍のまま他車線を走行した事例についてまとめる。 ; [[伊豆急行線]]への貸し出し : [[1961年]][[12月9日]]に[[伊東駅|伊東]] - [[伊豆急下田駅|伊豆急下田]]間を開業させた<ref name="izukyu113"/>[[伊豆急行線]]へ、[[1964年]]夏、落成直後の6両編成1本が貸し出された<ref name="kaisou1-30"/>。単線トンネルの多い同線では車内を吹き抜ける強風への対策が必要であり、2両ごとに仕切り扉(横引きタイプではなく、蝶番のついた「ドア」であった)が設置されていた<ref name="pic198501-442-77"/>。本系列の貸し出しは夏季のみの措置であり、[[1966年]]まで貸し出しが行われた{{refnest|group="注"|1966年のみ8連1本であり、[[1977年]]と[[1978年]]には[[東急7200系電車|7200系]]6連が貸し出された<ref name="kaisou1-30"/>。また、[[1961年]]から[[1964年]]にかけては[[東急3000系電車 (初代)|3000系列]]も貸し出されていた<ref name="izukyu93"/>。}}<ref name="kaisou1-30"/>。 ; [[小田急小田原線]]での走行試験 : [[1963年]][[9月28日]]、落成したばかりのデハ7019・デハ7020の2両がPⅢ台車の高速走行試験のため東急車輌から小田急の[[大野工場]]へと送られた<ref name="kaisou1-28"/>。[[10月1日]]から走行試験を開始し、翌日からは[[新宿駅|新宿]]-[[小田原駅|小田原]]間を最高速度100km/h以上で走行した<ref name="kaisou1-28"/>。ここで得られた成果を踏まえ、[[小田急4000形電車 (初代)|小田急4000形]]の台車にPⅢ706形台車が採用された<ref name="kaisou1-28"/>。 == 譲渡と保存 == 7700系へ改造された車両以外は全て<ref name="pic200407-749-249-252"/>他の鉄道事業者などへ譲渡された。デハ7100形には、秩父鉄道に譲渡された8両と福島交通に譲渡された2両を除き、東横車輌(現・[[東急テクノシステム]])で先頭車化工事が施工された<ref name="ayumi57"/>。譲渡後の処遇などは各記事を参照のこと。 ;[[弘南鉄道7000系電車]] : [[1988年]]10月から[[1990年]]12月までに合計24両が譲渡された<ref name="pic200407-749-249-251"/>。[[弘南鉄道大鰐線]]に日立車、[[弘南鉄道弘南線]]に東洋車が配置された。弘南線には先頭車化改造車もある。[[1997年]]の弘南線での事故で2両が1999年に除籍された<ref name="AB2000p199"/><ref name="pic200407-749-237"/>。 ;[[北陸鉄道7000系電車]] : [[1990年]]7月に日立車10両が譲渡された<ref name="pic200609-779-18"/><ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/><ref name="pic200407-749-250"/>。電機品と台車は[[JR]]・[[西武鉄道]]・[[営団地下鉄]] ・[[京阪電気鉄道]]の廃車発生品を流用したものに交換され、600ボルトへの降圧改造が施工された<ref name="ayumi57"/>。地方に譲渡された7000系のうち、台車を振り替えたのは北陸鉄道への譲渡分のみである<ref name="pic200407-749-241"/>。原型の先頭車と運転台新設車両の2タイプがあり<ref name="ayumi59"/>、譲渡後に冷房化改造された車両がある<ref name="ayumi59"/>。 ;[[水間鉄道7000系電車]]→1000形 : 1990年8月に東洋車10両が譲渡された<ref name="pic200609-779-18"/><ref name="ayumi57"/>。4両が先頭車化改造車<ref name="pic201108-851-66"/>で、4両が譲渡時に冷房化された<ref name="pic201108-851-66"/>。同時に1500Vへの昇圧が行われ、在来車を全て置き換えた<ref name="pic199110-549-103"/>。 : 譲渡された10両中8両が[[2006年]]から[[2007年]]にかけてリニューアル工事を受け、1000形へ改番された<ref name="pic201108-851-67"/>。一方で対象外となった2両は車籍を残したまま[[水間観音駅]]の車庫に留置されている<ref name="pic201108-851-67"/>。 ;[[福島交通7000系電車]] : [[1991年]][[6月24日]]に750Vから1500Vへの昇圧が行われるのに先立ち<ref name="pic199110-549-104"/>、6月中に2両編成5本と3両編成2本の東洋車16両が譲渡された<ref name="pic200609-779-18"/>。先頭車は全車デハ7100形を先頭車化改造したものである。一部には冷房装置が搭載され<ref name="pic201108-851-61"/>、在来車を全て置き換えた<ref name="pic199110-549-104"/>。[[2001年]]に福島駅での事故で2両が廃車された<ref name="pic201108-851-61"/>。 : 2017年に[[福島交通1000系電車|1000系]](元[[東急1000系電車|東急1000系]])が導入されて置き換えられ<ref>{{PDFlink|[http://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/attache/files/16070327_%E3%81%84%E3%81%84%E9%9B%BBB4.pdf 「いい電」が変わります。福島交通飯坂線に新車両が導入されます。]}} - 福島交通</ref>、1編成を除いて廃車となった。 ;[[秩父鉄道2000系電車]] : 1991年11月と12月に東洋車16両が譲渡された<ref name="pic200609-779-18"/><ref name="shitetsu-tokyu-160-163"/><ref name="pic200407-749-251"/>。最後まで目蒲線で運用されていた4連がほぼそのままの状態で譲渡され<ref name="pic200609-779-21"/>、外観上の改造は前面の帯が青色に変更される程度だった<ref name="colorbooks-1997-134"/>。 : 非冷房の車両はすでに時代遅れであり<ref name="pic200609-779-21"/>、冷房化もされないまま<ref name="ayumi58"/>、[[1999年]]から[[2000年]]にかけて[[秩父鉄道5000系電車|5000系]]に置き換えられ<ref name="pic200407-749-173"/>、2000年2月に全車廃車・解体された<ref name="pic200407-749-239"/>。事故廃車を除けば元東急7000系として初の廃車であった。 ; 東急車輛製造(→[[総合車両製作所]]) : こどもの国線で運用されていた<ref name="colorbooks-1997-151"/>デハ7057とデハ7052の2両が2000年6月に東急車輛製造に譲渡され<ref name="pic200407-749-250"/>、入換車として使用された<ref name="pic200407-749-229"/>。 : その後、自社の発展に貢献した製品を「東急車輛産業遺産」として保存する事業を進めていたが<ref name="journal200911-517-146-147"/>、デハ7052が[[2009年]]8月に同社敷地内に開設された「横浜製作所歴史記念館」横で保存された<ref name="nikkan-20090812"/>。同遺産への指定は5200系デハ5201に続いて2例目で<ref name="journal200911-517-146-147"/>、現地ではデハ5201と背中合わせで保存されている<ref name="ayumi16"/>。地上から電力が供給され、車内灯や標識灯などは点灯させることができる<ref name="railmagazine200911-314-147"/>。ただし、東急車輌はこの2両と記念館はいずれも一般公開しない方針としている<ref name="journal200911-517-146-147"/>が、[[2012年]]2月に1度だけこの2両を含め「東急車輛産業遺産」が一般公開されている。 : また、この2両は、[[2010年]][[5月15日]]に産業考古学会(JIAS)から推薦産業遺産の認定を受けている<ref name="industry201006-136-42-43"/>ほか、2012年[[8月7日]]に日本機械学会から機械遺産第51号(2012年度認定分の一つ)の認定を受けた<ref name="MEH"/>。 <gallery style="font-size:90%"> ファイル:Konan 7000.jpg|[[弘南鉄道]]7000系<br/>大鰐線所属のオリジナルの先頭車 ファイル:Konan Railway-7155.jpg|弘南鉄道7000系<br/>中間車の先頭車化改造車 ファイル:Mizuma 1000 Series 01.jpg|水間鉄道1000形<br/>(旧7000系)<br/>オリジナルの先頭車 ファイル:Mizuma railway 1005F 20070429.jpg|水間鉄道1000形<br/>(旧7000系)<br/>中間車の先頭車化改造車 ファイル:Hokutetsu7011.JPG|北陸鉄道7000系<br/>オリジナルの先頭車 ファイル:Hokutetsu-7200.JPG|北陸鉄道7000系<br/>中間車の先頭車化改造車 ファイル:FKK7000.JPG|福島交通7000系<br/>中間車の先頭車化改造車 ファイル:Chichibu-2002.jpg|秩父鉄道2000形 ファイル:Tokyu 7000 series 7052 JTREC Yokohama 20131125.JPG|総合車両製作所横浜製作所に展示されているデハ7052 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <ref name="denkisha196111-163-3">[[#denkisha196111-163-3-4|『電気車の科学』通巻163号、p.3]]</ref> <ref name="denkisha196111-163-4">[[#denkisha196111-163-3-4|『電気車の科学』通巻163号、p.4]]</ref> <ref name="denkisha196111-163-58">[[#denkisha196111-163-58-59|『電気車の科学』通巻163号、p.58]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-9">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、p.9]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-9-10">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、pp.9-10]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-10">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、p.10]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-10-11">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、pp.10-11]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-11">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、p.11]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-11-12">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、pp.11-12]]</ref> <ref name="denkisha196201-165-12">[[#denkisha196201-165-9-12|『電気車の科学』通巻165号、p.12]]</ref> <ref name="denkisha196203-167-19">[[#denkisha196203-167-19-24|『電気車の科学』通巻167号、p.19]]</ref> <ref name="denkisha196203-167-20">[[#denkisha196203-167-19-24|『電気車の科学』通巻167号、p.20]]</ref> <ref name="denkisha196203-167-24">[[#denkisha196203-167-19-24|『電気車の科学』通巻167号、p.24]]</ref> <ref name="denkisha196203-167-25">[[#denkisha196203-167-25-26|『電気車の科学』通巻167号、p.25]]</ref> <ref name="denkisha196203-167-26">[[#denkisha196203-167-25-26|『電気車の科学』通巻167号、p.26]]</ref> <ref name="pic197209-269-73">[[#pic197209-269-57-78|『鉄道ピクトリアル』通巻269号、p.73]]</ref> <ref name="pic197209-269-74">[[#pic197209-269-57-78|『鉄道ピクトリアル』通巻269号、p.74]]</ref> <ref name="pic197712-342-124">[[#pic197712-342-120-124|『鉄道ピクトリアル』通巻342号、p.124]]</ref> <ref name="pic198501-442-25">[[#pic198501-442-24-27|『鉄道ピクトリアル』通巻442号、p.25]]</ref> <ref name="pic198501-442-63">[[#pic198501-442-61-64|『鉄道ピクトリアル』通巻442号、p.63]]</ref> <ref name="pic198501-442-77">[[#pic198501-442-77|『鉄道ピクトリアル』通巻442号、p.77]]</ref> <ref name="pic198501-442-223">[[#pic198501-442-208-232|『鉄道ピクトリアル』通巻442号、p.223]]</ref> <ref name="pic198905-512-166">[[#pic198905-512-166-167|『鉄道ピクトリアル』通巻512号、p.166]]</ref> <ref name="pic198905-512-167">[[#pic198905-512-166-167|『鉄道ピクトリアル』通巻512号、p.167]]</ref> <ref name="pic199109-548-100">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.100]]</ref> <ref name="pic199109-548-101">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.101]]</ref> <ref name="pic199109-548-102">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.102]]</ref> <ref name="pic199109-548-103">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.103]]</ref> <ref name="pic199109-548-106">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.106]]</ref> <ref name="pic199109-548-106-107">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、pp.106-107]]</ref> <ref name="pic199109-548-107">[[#pic199109-548-100-107|『鉄道ピクトリアル』通巻548号、p.107]]</ref> <ref name="pic199110-549-34">[[#pic199110-549-34-35|『鉄道ピクトリアル』通巻549号、p.34]]</ref> <ref name="pic199110-549-100">[[#pic199110-549-100-103|『鉄道ピクトリアル』通巻549号、p.100]]</ref> <ref name="pic199110-549-102">[[#pic199110-549-100-103|『鉄道ピクトリアル』通巻549号、p.102]]</ref> <ref name="pic199110-549-103">[[#pic199110-549-100-103|『鉄道ピクトリアル』通巻549号、p.103]]</ref> <ref name="pic199110-549-104">[[#pic199110-549-104-105|『鉄道ピクトリアル』通巻549号、p.104]]</ref> <ref name="pic199412-600-42">[[#pic199412-600-36-42|『鉄道ピクトリアル』通巻600号、p.42]]</ref> <ref name="pic200101-696-67">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.67]]</ref> <ref name="pic200101-696-67-68">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、pp.67-68]]</ref> <ref name="pic200101-696-68">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.68]]</ref> <ref name="pic200101-696-69">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.69]]</ref> <ref name="pic200101-696-71">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.71]]</ref> <ref name="pic200101-696-73">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.73]]</ref> <ref name="pic200101-696-74">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.74]]</ref> <ref name="pic200101-696-75">[[#pic200101-696-67-75|『鉄道ピクトリアル』通巻696号、p.75]]</ref> <ref name="pic200402-742-116">[[#pic200402-742-114-117|『鉄道ピクトリアル』通巻742号、p.116]]</ref> <ref name="pic200403-743-69">[[#pic200403-743-69-72|『鉄道ピクトリアル』通巻743号、p.69]]</ref> <ref name="pic200403-743-72">[[#pic200403-743-69-72|『鉄道ピクトリアル』通巻743号、p.72]]</ref> <ref name="pic200407-749-41">[[#pic200407-749-40-46|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.41]]</ref> <ref name="pic200407-749-116">[[#pic200407-749-108-119|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.116]]</ref> <ref name="pic200407-749-117">[[#pic200407-749-108-119|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.117]]</ref> <ref name="pic200407-749-119">[[#pic200407-749-108-119|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.119]]</ref> <ref name="pic200407-749-168">[[#pic200407-749-168-171|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.168]]</ref> <ref name="pic200407-749-173">[[#pic200407-749-172-175|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.173]]</ref> <ref name="pic200407-749-229">[[#pic200407-749-195-243|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.229]]</ref> <ref name="pic200407-749-237">[[#pic200407-749-195-243|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.237]]</ref> <ref name="pic200407-749-239">[[#pic200407-749-195-243|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.239]]</ref> <ref name="pic200407-749-241">[[#pic200407-749-195-243|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.241]]</ref> <ref name="pic200407-749-249-251">[[#pic200407-749-245-261|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、pp.249-251]]</ref> <ref name="pic200407-749-249-252">[[#pic200407-749-245-261|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、pp.249-252]]</ref> <ref name="pic200407-749-250">[[#pic200407-749-245-261|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.250]]</ref> <ref name="pic200407-749-251">[[#pic200407-749-245-261|『鉄道ピクトリアル』通巻749号、p.251]]</ref> <ref name="pic200503-759-125">[[#pic200503-759-123-129|『鉄道ピクトリアル』通巻759号、p.125]]</ref> <ref name="pic200609-779-18">[[#pic200609-779-10-21|『鉄道ピクトリアル』通巻779号、p.18]]</ref> <ref name="pic200609-779-21">[[#pic200609-779-10-21|『鉄道ピクトリアル』通巻779号、p.21]]</ref> <ref name="pic201108-851-61">[[#pic201108-851-59-70|『鉄道ピクトリアル』通巻851号、p.61]]</ref> <ref name="pic201108-851-66">[[#pic201108-851-59-70|『鉄道ピクトリアル』通巻851号、p.66]]</ref> <ref name="pic201108-851-67">[[#pic201108-851-59-70|『鉄道ピクトリアル』通巻851号、p.67]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-30-31">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.30-31]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-31">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.31]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-32">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.32]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-33">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.33]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-34-35">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.34-35]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-38-39">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.38-39]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-126">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.126]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-160-163">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.160-163]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-162-163">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.162-163]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-162-165">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.162-165]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-170-171">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.170-171]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-171">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.171]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-171-172">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、pp.171-172]]</ref> <ref name="shitetsu-tokyu-178">[[#shitetsu-tokyu|『私鉄の車両4 東京急行電鉄』(2002年版)、p.178]]</ref> <ref name="ayumi12">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.12]]</ref> <ref name="ayumi16">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.16]]</ref> <ref name="ayumi18">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.18]]</ref> <ref name="ayumi20">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.20]]</ref> <ref name="ayumi38">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.38]]</ref> <ref name="ayumi43">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.43]]</ref> <ref name="ayumi48">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.48]]</ref> <ref name="ayumi49">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.49]]</ref> <ref name="ayumi50">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.50]]</ref> <ref name="ayumi51">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.51]]</ref> <ref name="ayumi52">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.52]]</ref> <ref name="ayumi53">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.53]]</ref> <ref name="ayumi54">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.54]]</ref> <ref name="ayumi57">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.57]]</ref> <ref name="ayumi58">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.58]]</ref> <ref name="ayumi59">[[#ayumi|『東急ステンレスカーのあゆみ』p.59]]</ref> <ref name="formation90-18">[[#formation90|『私鉄車両編成表 90年版』p.18]]</ref> <ref name="formation90-21">[[#formation90|『私鉄車両編成表 90年版』p.21]]</ref> <ref name="formation98-52-55">[[#formation98|『私鉄車両編成表 '98年版』pp.52-55]]</ref> <ref name="formation98-55">[[#formation98|『私鉄車両編成表 '98年版』p.55]]</ref> <ref name="kaisou1-28">[[#kaisou1|『回想の東京急行Ⅰ』p.28]]</ref> <ref name="kaisou1-30">[[#kaisou1|『回想の東京急行Ⅰ』p.30]]</ref> <ref name="kaisou2-144">[[#kaisou2|『回想の東京急行Ⅱ』p.144]]</ref> <ref name="kaisou2-145">[[#kaisou2|『回想の東京急行Ⅱ』p.145]]</ref> <ref name="colorbooks-79">[[#colorbooks|『日本の私鉄(6) 東急』p.79]]</ref> <ref name="colorbooks-80-81">[[#colorbooks|『日本の私鉄(6) 東急』pp.80-81]]</ref> <ref name="colorbooks-81">[[#colorbooks|『日本の私鉄(6) 東急』p.81]]</ref> <ref name="colorbooks-142-143">[[#colorbooks|『日本の私鉄(6) 東急』pp.142-143]]</ref> <ref name="colorbooks-1997-134">[[#colorbooks-1997|『日本の私鉄 東急』p.134]]</ref> <ref name="colorbooks-1997-151">[[#colorbooks-1997|『日本の私鉄 東急』p.151]]</ref> <ref name="tokyu50-1076">[[#tokyu50|『東京急行電鉄50年史』p.1076]]</ref> <ref name="history614">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』p.614]]</ref> <ref name="history614-615">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』pp.614-615]]</ref> <ref name="history614-617">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』pp.614-617]]</ref> <ref name="history615">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』p.615]]</ref> <ref name="history678">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』p.678]]</ref> <ref name="history692">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』p.692]]</ref> <ref name="history702">[[#history|『東京地下鉄道日比谷線建設史』p.702]]</ref> <ref name="monogatari105">[[#monogatari|『東急電車物語』p.105]]</ref> <ref name="monogatari106">[[#monogatari|『東急電車物語』p.106]]</ref> <ref name="monogatari107">[[#monogatari|『東急電車物語』p.107]]</ref> <ref name="nikkan-20090812">{{Cite news |title = 東急車両が記念館─技術伝承や社員教育に活用 |date = 2009-08-12 |newspaper = [[日刊工業新聞]]}}</ref> <ref name="journal200911-517-146-147">[[#journal200911-517-146-147|『鉄道ジャーナル』通巻517号、pp.146-147]]</ref> <ref name="guidebook80">[[#guidebook|『新版私鉄電車ガイドブック 西武・京王・小田急・東京モノレール』p.80]]</ref> <ref name="industry201006-136-42-43">[[#industry201006-136|『産業考古学』通巻136号、pp.42-43]]</ref> <ref name="MEH">[https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/heritage_051_jp.html 日本機械学会「機械遺産」 機械遺産 第51号 ステンレス鋼製車両群(東急5200系と7000系)] - 一般社団法人日本機械学会</ref>。 <ref name="yoshitsugu107">[[#yoshitsugu|『吉次利二・事績とその時代』p.107]]</ref> <ref name="yoshitsugu108">[[#yoshitsugu|『吉次利二・事績とその時代』p.108]]</ref> <ref name="yoshitsugu108-109">[[#yoshitsugu|『吉次利二・事績とその時代』pp.108-109]]</ref> <ref name="yoshitsugu109">[[#yoshitsugu|『吉次利二・事績とその時代』p.109]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi27">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.27]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi27-28">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』pp.27-28]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi45">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.45]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi46">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.46]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi47">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.47]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi48">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.48]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi49">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.49]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi129">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.129]]</ref> <ref name="tokyu-ayumi130">[[#tokyu-ayumi|『東急車輛30年のあゆみ』p.130]]</ref> <ref name="izukyu93">[[#izukyu|『伊豆とともに生きる 伊豆急行30年史』p.93]]</ref> <ref name="izukyu113">[[#izukyu|『伊豆とともに生きる 伊豆急行30年史』p.113]]</ref> <ref name="tokyu-news198205-132-18">[[#tokyu-news198205-132-16-19|『東急車輛ニュース』通巻132号、p.18]]</ref> <ref name="rm200508-659-26">[[#rm200508-659-26-28|『R&M』通巻659号、p.26]]</ref> <ref name="rm200508-659-27">[[#rm200508-659-26-28|『R&M』通巻659号、p.27]]</ref> <ref name="rm200508-659-28">[[#rm200508-659-26-28|『R&M』通巻659号、p.28]]</ref> <ref name="rm200510-661-54">[[#rm200510-661-54-56|『R&M』通巻661号、p.54]]</ref> <ref name="t-e199203-537-66">[[#t-e199203-537-65-73|『運輸と経済』通巻537号、p.66]]</ref> <ref name="t-e199203-537-68">[[#t-e199203-537-65-73|『運輸と経済』通巻537号、p.68]]</ref> <ref name="fan196203-9-43">[[#fan196203-9-42-44|『鉄道ファン』通巻9号、p.43]]</ref> <ref name="fan197807-207-119">[[#fan197807-207-118-119|『鉄道ファン』通巻207号、p.119]]</ref> <ref name="fan197905-217-19">[[#fan197905-217-7-33|『鉄道ファン』通巻217号、p.19]]</ref> <ref name="fan197905-217-20">[[#fan197905-217-7-33|『鉄道ファン』通巻217号、p.20]]</ref> <ref name="fan197911-223-56">[[#fan197911-223-50-57|『鉄道ファン』通巻223号、p.56]]</ref> <ref name="fan200608-544-111">[[#fan200608-544-110-119|『鉄道ファン』通巻544号、p.111]]</ref> <ref name="fan201005-589-104">[[#fan201005-589-104-107|『鉄道ファン』通巻589号、p.104]]</ref> <ref name="fan201005-589-104-105">[[#fan201005-589-104-107|『鉄道ファン』通巻589号、pp.104-105]]</ref> <ref name="fan201005-589-107">[[#fan201005-589-104-107|『鉄道ファン』通巻589号、p.107]]</ref> <ref name="subway50-187">[[#subway50|『営団地下鉄五十年史』、p.187]]</ref> <ref name="subway50-223">[[#subway50|『営団地下鉄五十年史』、p.223]]</ref> <ref name="subway50-271-272">[[#subway50|『営団地下鉄五十年史』、pp.271-272]]</ref> <ref name="subway50-272">[[#subway50|『営団地下鉄五十年史』、p.272]]</ref> <ref name="subway50-687">[[#subway50|『営団地下鉄五十年史』、p.687]]</ref> <ref name="magazine200805-296-96">[[#magazine200805-296-92-99|『Rail Magazine』通巻296号、p.96]]</ref> <ref name="magazine200805-296-97-98">[[#magazine200805-296-92-99|『Rail Magazine』通巻296号、pp.97-98]]</ref> <ref name="railmagazine200911-314-147">[[#railmagazine200911-314-147|『Rail Magazine』通巻314号、p.147]]</ref> <ref name="AB1988p220">[[#AB1988M|『新車年鑑 1988年版』p220]]</ref> <ref name="AB1989p236">[[#AB1989M|『新車年鑑 1989年版』p236]]</ref> <ref name="AB1989p237">[[#AB1989M|『新車年鑑 1989年版』p237]]</ref> <ref name="AB1990p294">[[#AB1990M|『新車年鑑 1990年版』p294]]</ref> <ref name="AB1990p296">[[#AB1990M|『新車年鑑 1990年版』p296]]</ref> <ref name="AB1991p244">[[#AB1991M|『新車年鑑 1991年版』p244]]</ref> <ref name="AB1991p246">[[#AB1991M|『新車年鑑 1991年版』p246]]</ref> <ref name="AB1991p247">[[#AB1991M|『新車年鑑 1991年版』p247]]</ref> <ref name="AB1991p249">[[#AB1991M|『新車年鑑 1991年版』p249]]</ref> <ref name="AB1992p188">[[#AB1992M|『新車年鑑 1992年版』p188]]</ref> <ref name="AB1992p189">[[#AB1992M|『新車年鑑 1992年版』p189]]</ref> <ref name="AB1995p189">[[#AB1995M|『新車年鑑 1995年版』p189]]</ref> <ref name="AB1997p180">[[#AB1995M|『新車年鑑 1997年版』p180]]</ref> <ref name="AB2000p199">[[#AB2000M|『新車年鑑 2000年版』p199]]</ref> <ref name="AB2001p182">[[#AB2001M|『新車年鑑 2001年版』p182]]</ref> <ref name="AB2002p190">[[#AB2002M|『鉄道車両年鑑 2002年版』p190]]</ref> <ref name="AB2002p193">[[#AB2002M|『鉄道車両年鑑 2002年版』p193]]</ref> <ref name="AB2003p208">[[#AB2003M|『鉄道車両年鑑 2003年版』p208]]</ref> <ref name="AB2003p211">[[#AB2003M|『鉄道車両年鑑 2002年版』p211]]</ref> <ref name="AB2007p234">[[#AB2007M|『鉄道車両年鑑 2007年版』p234]]</ref> <ref name="AB2008p235">[[#AB2008M|『鉄道車両年鑑 2008年版』p235]]</ref> <ref name="AB2011p214">[[#AB2011M|『鉄道車両年鑑 2011年版』p214]]</ref> <ref name="AB2012p86">[[#AB2012V|『鉄道車両年鑑 2012年版』p86]]</ref> <ref name="AB2012p223">[[#AB2012M|『鉄道車両年鑑 2012年版』p223]]</ref> <ref name="Broimet">{{Cite web|author=[[ファインシンター]]|date=|url=http://www.fine-sinter.com/company/history.html|title=沿革|work=|publisher=|language=日本語|accessdate=2011-10-17}}</ref> <ref name="handbook-204">[[#handbook|『電気鉄道ハンドブック』p.204]]</ref> }} == 参考文献 == === 書籍 === * {{Cite book|和書|author=飯島巌、宮田道一、井上広和|authorlink= |year=2002|title=私鉄の車両4 東京急行電鉄|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|ref = shitetsu-tokyu|id=|isbn=978-4-87366-287-9}} * {{Cite book|和書|author=伊豆急行社史編纂委員会|authorlink=|year=1992|title=伊豆とともに生きる 伊豆急行30年史|publisher=[[伊豆急行|伊豆急行電鉄株式会社]]|ref=izukyu|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=荻原二郎、宮田道一、関田克孝|authorlink=|year=2001|title=回想の東京急行Ⅰ|publisher=[[大正出版]]|ref=kaisou1|id=|isbn=978-4-8117-0640-5}} * {{Cite book|和書|author=荻原二郎、宮田道一、関田克孝|authorlink=|year=2002|title=回想の東京急行Ⅱ|publisher=大正出版|ref=kaisou2|id=|isbn=4-8117-0641-2}} * {{Cite book|和書|author=荻原俊夫|authorlink=|year=2010|title=東急ステンレスカーのあゆみ|publisher=[[JTBパブリッシング]]|ref=ayumi|id=|isbn=978-4-533-07925-2}} * {{Cite book|和書|author=ジェー・アール・アール|authorlink=|year=1990|title=私鉄車両編成表 90年版|publisher=ジェー・アール・アール|ref=formation90|id=|isbn=4-88283-211-9}} * {{Cite book|和書|author=ジェー・アール・アール|authorlink=|year=1998|title=私鉄車両編成表 '98年版|publisher=ジェー・アール・アール|ref=formation98|id=|isbn=4-88283-219-4}} * {{Cite book|和書|author=多田淳典|authorlink=|year=1985|title=吉次利二・事績とその時代|publisher=[[東急車輛製造]]|ref=yoshitsugu|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=帝都高速度交通営団|authorlink=帝都高速度交通営団|year=1969|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=history|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=帝都高速度交通営団|authorlink=|year=1991|title=営団地下鉄五十年史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=subway50|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=電気学会通信教育会|authorlink=|coauthors=|year=1962|title=電気学会大学講座 電気鉄道ハンドブック|publisher=[[電気学会]]|ref=handbook|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=東急車輛製造株式会社|authorlink=|year=1978|title=東急車輛30年のあゆみ|publisher=東急車輛製造株式会社|ref=tokyu-ayumi|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=東京急行電鉄株式会社|authorlink=東京急行電鉄|year=1973|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄株式会社|ref=tokyu50|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author1=東京工業大学鉄道研究部編|authorlink1=東京工業大学|year=1981|title=新版私鉄電車ガイドブック 西武・京王・小田急・東京モノレール|publisher=[[誠文堂新光社]]|ref=guidebook|id=|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=宮田道一|authorlink=|year=1995|title=東急電車物語|publisher=多摩川新聞社|ref=monogatari|id=|isbn=4-924882-15-1}} * {{Cite book|和書|author=宮田道一、いのうえ・こーいち|authorlink=|year=1989|title=日本の私鉄(6) 東急|publisher=[[保育社]]|ref=colorbooks|id=|isbn=4-586-50790-X}} * {{Cite book|和書|author=宮田道一、焼田健|authorlink=|year=1997|title=日本の私鉄 東急|publisher=保育社|ref=colorbooks-1997|id=|isbn=4-586-50900-7}} === 雑誌記事 === * {{Cite journal|和書|author=内田修平|year=1962|month=03|title=東京急行電鉄オールステンレス デハ7000系|journal=[[鉄道ファン]]|issue=9|pages=42-44|publisher=[[交友社]]|ref=fan196203-9-42-44}} * {{Cite journal|和書|author=荻原二郎、久原秀雄、宮田道一|year=1972|month=09|title=私鉄車両めぐり〔93〕東京急行電鉄|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=269|pages=57-78|publisher=[[電気車研究会]]|ref= pic197209-269-57-78}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫|year=1991|month=09|title=東急7000系ものがたり(前編)|journal=鉄道ピクトリアル|issue=548|pages=100-107|publisher=電気車研究会|ref=pic199109-548-100-107}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫|year=1991|month=10|title=東急7000系ものがたり(後編)|journal=鉄道ピクトリアル|issue=549|pages=100-103|publisher=電気車研究会|ref=pic199110-549-100-103}} * {{Cite journal|和書|author=荻原俊夫ほか|year=1991|month=10|title= 東急7000系新時代|journal=鉄道ピクトリアル|issue=549|pages=34-35|publisher=電気車研究会|ref=pic199110-549-34-35}} * {{Cite journal|和書|author=金子智治、焼田健|year=2004|month=07|title=東京急行電鉄 現有車両プロフィール2004|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=195-243|publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-195-243}} * {{Cite journal|和書|author=神尾純一|year=2004|month=07|title=車両総説|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=40-46|publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-40-46}} * {{Cite journal|和書|author=川口雄二|year=1989|month=05|title=新車年鑑II 民鉄車両編 15.東京急行電鉄1000系|journal=鉄道ピクトリアル|issue=512|pages=166-167|publisher=電気車研究会|ref=pic198905-512-166-167}} * {{Cite journal|和書|author=栗原久|year=1985|month=01|title=あの時の東急 4 伊豆急を走った東急の車両|journal=鉄道ピクトリアル|issue=442|pages=77|publisher=電気車研究会|ref=pic198501-442-77}} * {{Cite journal|和書|author=楠居利彦|year=2010|month=05|title=パイオニア形台車をふりかえる|journal=鉄道ファン|issue=589|pages=104-107|publisher=交友社|ref=fan201005-589-104-107}} * {{Cite journal|和書|author=白石安之|year=1962|month=01|title=東京急行の7000形オールステンレス・カーについて(1)|journal=電気車の科学 |issue=165|pages=9-12|publisher=電気車研究会|ref=denkisha196201-165-9-12}} * {{Cite journal|和書|author=白石安之|year=1962|month=03|title=東京急行の7000形オールステンレス・カーについて〔続〕|journal=電気車の科学 |issue=167|pages=19-24|publisher=電気車研究会|ref=denkisha196203-167-19-24}} * {{Cite journal|和書|author=関田克孝|year=2004|month=07|title=田園都市線 開通の頃(あとさき)|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=108-119|publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-108-119}} * {{Cite journal|和書|author=関田克孝|year=2008|month=05|title=東急初代6000系の25年|journal=[[レイルマガジン]]|issue=296|pages=92-99 |publisher=ネコ・パブリッシング|ref=magazine200805-296-92-99}} * {{Cite journal|和書|author=T記者|year=1961|month=11|title=東急車輌ステンレス車両工場を見て|journal=電気車の科学|issue=163|pages=58-59|publisher=電気車研究会|ref=denkisha196111-163-58-59}} * {{Cite journal|和書|author=T記者|year=1962|month=03|title=東急オールステンレスカー7000形見たり・聞いたり|journal=電気車の科学|issue=167|pages=25-26|publisher=電気車研究会|ref=denkisha196203-167-25-26}} * {{Cite journal|和書|author=富永冴樹|year=2011|month=08|title=地方私鉄へ譲渡された元東急の車両の近況|journal=鉄道ピクトリアル|issue=851|pages=59-70|publisher=電気車研究会|ref=pic201108-851-59-70}} * {{Cite journal|和書|author=中野良男|year=1985|month=01|title=東急とステンレスカー|journal=鉄道ピクトリアル|issue=442|pages=24-27|publisher=電気車研究会|ref=pic198501-442-24-27}} * {{Cite journal|和書|author=福原俊一|authorlink=福原俊一 (電車発達史研究家) |year=2005|month=08|title=ステンレス鋼製車 誕生の頃(その1) -守谷之男氏(東急車輌製造OB)に聞く-|journal=R&M|issue=659|pages=26-28|publisher=日本鉄道車両機械技術協会|ref=rm200508-659-26-28}} * {{Cite journal|和書|author=福原俊一|year=2005|month=10|title=ステンレス鋼製車 誕生の頃(その2) -守谷之男氏(東急車輌製造OB)に聞く-|journal=R&M|issue=661|pages=54-56|publisher=日本鉄道車両機械技術協会|ref=rm200510-661-54-56}} * {{Cite journal|和書|author=細川成海|year=1977|month=12|title=営団地下鉄の工務概要|journal=鉄道ピクトリアル|issue=342|pages=120-124|publisher=電気車研究会|ref=pic197712-342-120-124}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=1979|month=05|title=東急ステンレスカー20周年|journal=鉄道ファン|issue=217|pages=7-33 |publisher=交友社|ref=fan197905-217-7-33}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=1979|month=11|title=多摩田園都市が都心に直結|journal=鉄道ファン|issue=223|pages=50-57|publisher=交友社|ref=fan197911-223-50-57}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=1991|month=10|title=東急から7000系が入線した福島交通ルポ|journal=鉄道ピクトリアル|issue=549|pages=104-105|publisher=電気車研究会|ref=pic199110-549-104-105}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一、今城光英|year=1992|month=03|title=東京急行電鉄の車両政策を語る|journal=運輸と経済|issue=537|pages=65-73|publisher=運輸調査局|ref=t-e199203-537-65-73}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一、尾崎正明|year=1994|month= 12|title=車両総説|journal=鉄道ピクトリアル|issue=600|pages=36-42|publisher=電気車研究会|ref=pic199412-600-36-42}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=2005|month=03|title=東急-営団 相互直通運転の協議をめぐって|journal=鉄道ピクトリアル|issue=759 |pages=123-129|publisher=電気車研究会|ref=pic200503-759-123-129}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=2006|month=09|title=とことん使う東急流の思想・思慮・文化史 東急の車両譲渡を顧みて|journal=鉄道ピクトリアル|issue=779|pages=10-21|publisher=電気車研究会|ref=pic200609-779-10-21}} * {{Cite journal|和書|author=宮田道一|year=2009|month=08|title=東急8000系ファミリーの記録 1|journal=鉄道ファン|issue=544|pages=110-119 |publisher=交友社|ref=fan200608-544-110-119}} * {{Cite journal|和書|author=守谷之男|year=1985|month=01|東急車輌製造の概況|journal=鉄道ピクトリアル|issue=442|pages=61-64|publisher=電気車研究会|ref=pic198501-442-61-64}} * {{Cite journal|和書|author=守谷之男|year=1985|month=01|title=私鉄車両めぐり〔127〕 東京急行電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|issue=442|pages=208-232|publisher=電気車研究会|ref=pic198501-442-208-232}} * {{Cite journal|和書|author=守谷之男|year=2001|month=01|title=バッド社とステンレス車両|journal=鉄道ピクトリアル|issue=696|pages=67-75 |publisher=電気車研究会|ref=pic200101-696-67-75}} * {{Cite journal|和書|author=守谷之男|year=2004|month=02|title=連載・設計者のノートから-(2)東急5000系から伊豆急100系へ|journal=鉄道ピクトリアル|issue=742|pages=114-117|publisher=電気車研究会 |ref=pic200402-742-114-117}} * {{Cite journal|和書|author=守谷之男|year=2004|month=03|title=連載・設計者のノートから-(3)オールステンレス車両の夜明け|journal=鉄道ピクトリアル|issue=743|pages=69-72|publisher=電気車研究会|ref=pic200403-743-69-72}} * {{Cite journal|和書|author=吉次利二|year=1961|month=11|title=オールステンレス車両の経済的価値|journal=電気車の科学|issue=163|pages=3-4 |publisher=電気車研究会|ref=denkisha196111-163-3-4}} * {{Cite journal|和書|author=|year=1978|month=07|title=RAIL NEWS|journal=鉄道ファン|issue=207|pages=118-119|publisher=交友社|ref=fan197807-207-118-119}} * {{Cite journal|和書|author=|year=1982|month=05|title=オールステンレス車両1,000両完成記念式|journal=東急車輌ニュース|issue=132|pages=16-19|publisher=東急車輛製造株式会社|ref=tokyu-news198205-132-16-19}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2004|month=07|title=開通当時の田園都市線|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=168-171|publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-168-171}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2004|month=07|title=他社へ行った東急の車両&保存車|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=172-175|publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-172-175}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2004|month=07|title=東京急行電鉄 社歴表|journal=鉄道ピクトリアル|issue=749|pages=245-261 |publisher=電気車研究会|ref=pic200407-749-245-261}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2009|month=11|title=東急車輛が「横浜製作所歴史記念館」を開設|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=517|pages=146-147|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=journal200911-517-146-147}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2009|month=11|title=東急車輌産業遺産第2号 永久保存された東急7000系|journal=Rail Magazine|issue=314|pages=147|publisher=ネコ・パブリッシング|ref=railmagazine200911-314-147}} * {{Cite journal|和書|author=|year=2010|month=06|title=2010年度功労者表彰・推薦産業遺産|journal=産業考古学|issue=136|pages=42-43|publisher=産業考古学会|ref=industry201006-136}} * {{Cite journal|和書|author=田中正之、宮田道一|year=1978|month=09|title=東京急行電鉄におけるトロリ線とすり板の摩耗|journal=電気鉄道|issue=364|pages=18-20|publisher=鉄道電化協会|ref=er197809-364-18-20}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻496号「新車年鑑1988年版」(1988年5月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=195-237|publisher=|ref=AB1988M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻512号「新車年鑑1989年版」(1989年5月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=207-253|publisher=|ref=AB1989M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻534号「新車年鑑1990年版」(1990年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=245-309|publisher=|ref=AB1990M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻550号「新車年鑑1991年版」(1991年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編 |journal=|issue=|pages=213-263|publisher=|ref=AB1991M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻566号「新車年鑑1992年版」(1992年11月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編 |journal=|issue=|pages=151-206|publisher=|ref=AB1992M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻612号「新車年鑑1995年版」(1995年11月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=151-206|publisher=|ref=AB1995M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻644号「新車年鑑1997年版」(1997年11月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=143-198|publisher=|ref=AB1997M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻692号「新車年鑑2000年版」(2000年11月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=166-209|publisher=|ref=AB2000M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻708号「新車年鑑2001年版」(2001年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=資料編|journal=|issue=|pages=145-192|publisher=|ref=AB2001M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻723号「鉄道車両年鑑2002年版」(2002年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2001年度|journal=|issue=|pages=167-212|publisher=|ref=AB2002M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻738号「鉄道車両年鑑2003年版」(2003年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2002年度|journal=|issue=|pages=185-234|publisher=|ref=AB2003M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻795号「鉄道車両年鑑2007年版」(2007年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2006年度|journal=|issue=|pages=201-250|publisher=|ref=AB2007M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻810号「鉄道車両年鑑2008年版」(2008年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2007年度|journal=|issue=|pages=215-269|publisher=|ref=AB2008M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻855号「鉄道車両年鑑2011年版」(2011年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2010年度|journal=|issue=|pages=187-235|publisher=|ref=AB2011M}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻868号「鉄道車両年鑑2012年版」(2012年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=岸上 明彦|year=|month=|title=2011年度民鉄車両動向|journal=|issue=|pages=86-119|publisher=|ref=AB2011V}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year=|month=|title=車両データ 2011年度|journal=|issue=|pages=199-244|publisher=|ref=AB2011M}} === 新聞記事 === * {{Cite news|title=東急車両が記念館─技術伝承や社員教育に活用|date=2009-08-12|newspaper=[[日刊工業新聞]]}} == 外部リンク == * 日立製作所『日立評論』1965年5月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1965/05/1965_05_08.pdf 東京急行電鉄株式会社納7000形電車用停車用電力回生ブレーキ付電気品]}}」 == 関連項目 == {{commonscat|Tōkyū 7000 series}} * [[ペンシルバニア鉄道MP85形電車]] {{東急電鉄の車両}} {{Good article}} {{デフォルトソート:とうきゆう7000けいてんしや1}} [[Category:東急電鉄の電車|7000-1]] [[Category:1962年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:バッド社]]
2003-09-07T00:39:08Z
2023-11-24T18:27:30Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:東急電鉄の車両", "Template:Refnest", "Template:PDFlink", "Template:Cite news", "Template:Quotation", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Cite journal ja-jp", "Template:Commonscat", "Template:-", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Good article", "Template:鉄道車両" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A57000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
15,472
卒業式
卒業式(そつぎょうしき、英: Graduation ceremony)は、学校における教育課程を全て修了したことを認定し、卒業証書を授与することで門出を祝う式典である。 欧米でも大学の学位授与の式典はあるが、各学校の修了ごとに祝う式典は日本と韓国でのみ見られる習慣である。また、卒業生が教諭・教授や両親への感謝を伝え、節目をつける式典でもある。 かつてはほぼ例外なく対面で行われていたが、新型コロナウイルス感染症が流行した2020年以降は学部ごとの時間差(分散)による実施やオンラインによる開催など、感染拡大に繋がりうる状況を表す3つの密(密閉・密集・密接)を避けられる方式が導入されている。 なお本項では、卒業式後の学籍満了日についても詳述することとする。 小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校では、式典で「卒業証書」を授与することから「卒業証書授与式」と呼ばれる(これについては次の「#歴史」を参照)。 一方で大学においては、大学院修了者に対しては「卒業証書」は授与されず「学位記」のみが授与されるため、大学院のみで行う場合は「学位記授与式」、学部と合同で行う場合は「大学院修了式・大学卒業式」「学位記授与式」など各校によって呼称には差が見られる。 幼稚園および特別支援学校の幼稚部においては「卒園式」と呼ばれ、「卒園証書」が授与される。なお、保育所(保育園)でも「卒園式」が行われる。 日本では1872年(明治5年)の学制の施行に伴い、各等級(学年)ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことに起源を持つ。その後、明治10年代ごろ(1870年代半ばから1880年代にかけて)に現在のような独立した儀式として定着した。 2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染症拡大の問題に直面し、この年の卒業式が相次いでキャンセルとなった。一方で感染の拡大状況を見ながら延期して行った学校もあり、その際には参加者同士の密集を防ぐために式を複数回に分けて行う、身体的距離を保つために席の間隔を空けるなどといった工夫がなされた。これらの対策は翌年以降も継続して取り入れられている。 通常、3月に実施される(早春の歳時記的なものにされるほどである)が、一部の私立中学校、高等学校では2月に実施される。小中学校では従来は3月20日頃が多かったが、近年、小学校・中学校は3月中旬ごろに行われている。 小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校においては、学校教育法施行規則における教育課程の中の特別活動に位置づけられ、始業式・終業式・入学式・修了式などと並ぶ学校行事となっている。 なお文部科学省が定める学習指導要領では、特別活動領域における「儀式的行事」の一種とされており、入学式などと同様に「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定められている。 日本国外でも学位授与のための卒業式は存在するが、西欧諸国など学校の課程終了が公的試験(バカロレアやアビトゥーアの取得)によって認定される国では、卒業という概念はなく、そのため卒業式も存在しない。 アメリカでは6月、ブラジルでは1月、韓国では2月が多い。これは学年年度(アメリカでは6月に年度終了、9月から新学期)による違いである。 大きく分けて、一面式と対面式の2種類がある。 演壇に向かって卒業生一同、在校生一同、保護者一同の順に同じ方向で配席される。教職員と来賓は両側から内向きに配席される。 伝統的な方法である。 近年特に小学校で増えてきた方式である。一部の中学校や特別支援学校でも採用されている。 なお一面式の卒業式でも、「卒業の言葉」が行われる際は対面式になり、卒業生が振り向き在校生と向かい合う形になる。 以下は基本例であり、実際の形式等については学校によって異なる。 学級担任教諭が卒業生を先導する。その際、吹奏楽部による演奏やBGM(「威風堂々」など)をバックに入場する。小中学校では1クラスずつ男女で2列を成して入場することが多いが、主に高等学校では学級担任の手によって証書授与を受けることも多いため、2クラス同時に1列ずつ成して入場することもある。 なお、大学等の高等教育機関(以下「大学等」)では式次第としては行われない(後述の「卒業生退場」も同様)。 司会者により開式宣言が行われる。 卒業生・来賓・教員全員による君が代の斉唱が行われる。 大学等ではこれに代えて式歌斉唱(大学独自の歌であり、後述の卒業歌と別物)が行われる場合もある。 一部の公立学校では市歌も斉唱される。 なお宗教系の学校では歌われないことが多く、特にミッションスクールでは聖歌が何曲か歌われたりする。 来賓として招待した学校教育関係者(教育委員会など)への業務報告を行う。これは、一年間の職員の体制、各学年の入学・進級の実績などを報告するもので、主に公立小で行われることが多い。 卒業証書授与は校長(幼稚園・保育園の場合は園長、大学の場合は学長・総長。以下まとめて「校長等」と称する)によって行われる。校長等の脇には教頭や卒業生の学年主任、幼稚園・保育園などの場合は担任教員などの教員がつく。 「生徒全員が校長等から受け取る」「クラス全員の卒業証書を代表者が校長等から受け取り、教室で1人1人に渡す」方法があり、これは学校によって異なる。後者の場合、優秀な生徒が代表者に選ばれることが多い。 なお授与の際、教員は卒業生にねぎらいの言葉を掛ける場合もある。ただし、学年の規模や校風による。 校長等により行われる。「告辞」と称する場合もあり、私立学校においては、学校法人理事長による式辞も行われる。 教育関係者など、列席の来賓により行われる。 都道府県立高等学校の場合は知事祝辞が必ずあるが、年度末で定例議会開会中であり、また知事が全ての高校へ出席するのは時間的に不可能のため、副知事が出席代読する例が非常に多い。 上記の者を含む、列席の来賓を紹介する。 上記以外の者からの祝電を発表する。 卒業生が母校に遺す記念品の紹介。 基本的に、「送辞」は在校生代表が卒業生へ向けて、また「答辞」は卒業生代表が校長等へ向けて発言する。送辞・答辞共に内容は基本パターンがあり、発言者生徒が教師の助言を受けて自分達の環境に合わせて加筆することが多い。 なお小学校などにおいては「卒業の言葉」と称し、在校生・卒業生による対面式になる場合が多い。 一方で、学校によっては送辞がなく答辞のみの所があるほか、送辞・答辞ともに行われない所もある。 保護者代表により行われる。 旅立ちの日に、仰げば尊し、蛍の光、未来へ、旅立ちの時〜Asian Dream Song〜、手紙、ありがとう さようならなど。小学校の場合は上記の「卒業の言葉」の合間に歌われることが多い。 なお、学校によっては卒業歌自体が歌われない所もある。 学校によっては国歌斉唱のあとに斉唱する所もある。 司会者により閉式宣言が行われる。 担任教諭が先導。入場と同様、吹奏楽部の演奏(「マイ・ウェイ」など)をバックに退場する。大学などでは式次第としては行われない。 卒業式の開催日にかかわらず、最終学年の終期、すなわち学籍満了日はあくまでも修業年限末日であるため、式後も同日まではその学校に在籍している扱いとなる。具体的には、学校教育法施行規則における学年の始期および終期の規程に基づき、それぞれ以下のように取り扱われる。 1.学年の始期が4月1日である以下の学校については、年度末である3月31日となっている。 2.学年の始期が4月1日とは限らない以下の学校については、学長・校長がそれぞれ定めることとなっている。 なお、学生・生徒(中学生以上)については学籍満了日までは学割を使うことが可能だが、学生証は卒業式当日に卒業証書と引き換えに回収されることが多いので、その場合は学校や鉄道会社等に相談する必要がある。 卒業式から数日後、異動する教職員とのお別れの式として離任式、早期退職または定年退職する教職員とのお別れの式として退任式が行われることが多い。ちなみに卒業生が参加した場合、その日が事実上の最終登校日となる。 また、当該卒業生の担任団もしくは校長・教頭の教員が定年退職を控えている場合、退任式とは別に卒業生から「教員卒業」という意味で卒業式、いわゆる「労い式」を開いてくれることもある。 1968年(昭和43年)、安田講堂での卒業式実力阻止を図った学生運動によって東京大学の卒業式が中止になった。 学習指導要領では、「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定められている。 1990年代(平成2年-平成11年)以降、この要領に卒業式(及び入学式)における日章旗の掲揚、君が代の斉唱が指示されている事について、これを「強制」であると主張し、国旗掲揚・国歌斉唱に反対する教師が存在する。これに関連して、様々な問題が発生している。 卒業式ガイドラインのようなものを策定するなどして、各学校・校長へ指示・指導を行っている都道府県あるいは市町村・特別区の教育委員会もある。ガイドラインとは、例えば以下のような内容のものである。 しかし、教職員や児童・生徒の中には、「『思想・信条の自由』に反し不服である」などとして、君が代斉唱時の起立をしなかったり、君が代を斉唱しなかったりする者もいる。教職員のこれらの意見や行動は、日本国内の教育の場に対して混乱を招いているとして、教育委員会が前述のガイドラインを職務命令とし、これに反する教職員を訓告・戒告・減給等の処分にする例が年々増加している。 東京都では東京都教育委員会(都教委)が、都立高校の卒業式(入学式も)において、国旗を壇上向かって左側に掲げ、国歌斉唱の際は国旗に向かって起立し、ピアノ伴奏を伴って歌うこととしており、これに違反した者は職務上の責任を問われる(懲戒処分など)としているが、これに対して反発する一部の教職員もいる。違反を理由に処分された教職員らは、都は日本国憲法第19条に定める思想・良心の自由を侵しているとして、都教委を相手に処分の取り消しなどの裁判を起こしており、東京地裁において、原告の教師側が勝訴したこともある(詳しくは国旗及び国歌に関する法律を参照)。 これらの件に関連して、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法・平成11年8月13日法律第127号)制定における答弁の中で、時の首相小渕恵三は「教育現場に強制をするものではない」としているが、同じく時の文部省(当時、現・文部科学省)教育助成局局長・矢野重典(のち、文部科学審議官・国立教育政策研究所所長、独立行政法人日本学生支援機構理事を経て公立学校共済組合理事長)は、参議院国旗・国歌特別委員会で、学校での日章旗掲揚や君が代斉唱の指導について「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ、思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要がある」と述べている。 なお、大学については教育基本法第7条第2項より「自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とされており(ちなみに大学においては学習指導要領は存在しない)、国立大学法人といえども国旗掲揚や国歌斉唱がなされないことが多い。 また私立学校においても、宗教系学校などについては建学の精神の観点から行われないことが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "卒業式(そつぎょうしき、英: Graduation ceremony)は、学校における教育課程を全て修了したことを認定し、卒業証書を授与することで門出を祝う式典である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "欧米でも大学の学位授与の式典はあるが、各学校の修了ごとに祝う式典は日本と韓国でのみ見られる習慣である。また、卒業生が教諭・教授や両親への感謝を伝え、節目をつける式典でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつてはほぼ例外なく対面で行われていたが、新型コロナウイルス感染症が流行した2020年以降は学部ごとの時間差(分散)による実施やオンラインによる開催など、感染拡大に繋がりうる状況を表す3つの密(密閉・密集・密接)を避けられる方式が導入されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお本項では、卒業式後の学籍満了日についても詳述することとする。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校では、式典で「卒業証書」を授与することから「卒業証書授与式」と呼ばれる(これについては次の「#歴史」を参照)。", "title": "卒業式の呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一方で大学においては、大学院修了者に対しては「卒業証書」は授与されず「学位記」のみが授与されるため、大学院のみで行う場合は「学位記授与式」、学部と合同で行う場合は「大学院修了式・大学卒業式」「学位記授与式」など各校によって呼称には差が見られる。", "title": "卒業式の呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幼稚園および特別支援学校の幼稚部においては「卒園式」と呼ばれ、「卒園証書」が授与される。なお、保育所(保育園)でも「卒園式」が行われる。", "title": "卒業式の呼称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では1872年(明治5年)の学制の施行に伴い、各等級(学年)ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことに起源を持つ。その後、明治10年代ごろ(1870年代半ばから1880年代にかけて)に現在のような独立した儀式として定着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染症拡大の問題に直面し、この年の卒業式が相次いでキャンセルとなった。一方で感染の拡大状況を見ながら延期して行った学校もあり、その際には参加者同士の密集を防ぐために式を複数回に分けて行う、身体的距離を保つために席の間隔を空けるなどといった工夫がなされた。これらの対策は翌年以降も継続して取り入れられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "通常、3月に実施される(早春の歳時記的なものにされるほどである)が、一部の私立中学校、高等学校では2月に実施される。小中学校では従来は3月20日頃が多かったが、近年、小学校・中学校は3月中旬ごろに行われている。", "title": "日本における卒業式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校においては、学校教育法施行規則における教育課程の中の特別活動に位置づけられ、始業式・終業式・入学式・修了式などと並ぶ学校行事となっている。", "title": "日本における卒業式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお文部科学省が定める学習指導要領では、特別活動領域における「儀式的行事」の一種とされており、入学式などと同様に「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定められている。", "title": "日本における卒業式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本国外でも学位授与のための卒業式は存在するが、西欧諸国など学校の課程終了が公的試験(バカロレアやアビトゥーアの取得)によって認定される国では、卒業という概念はなく、そのため卒業式も存在しない。", "title": "海外における卒業式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アメリカでは6月、ブラジルでは1月、韓国では2月が多い。これは学年年度(アメリカでは6月に年度終了、9月から新学期)による違いである。", "title": "海外における卒業式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大きく分けて、一面式と対面式の2種類がある。", "title": "卒業式の形式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "演壇に向かって卒業生一同、在校生一同、保護者一同の順に同じ方向で配席される。教職員と来賓は両側から内向きに配席される。 伝統的な方法である。", "title": "卒業式の形式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "近年特に小学校で増えてきた方式である。一部の中学校や特別支援学校でも採用されている。", "title": "卒業式の形式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお一面式の卒業式でも、「卒業の言葉」が行われる際は対面式になり、卒業生が振り向き在校生と向かい合う形になる。", "title": "卒業式の形式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下は基本例であり、実際の形式等については学校によって異なる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "学級担任教諭が卒業生を先導する。その際、吹奏楽部による演奏やBGM(「威風堂々」など)をバックに入場する。小中学校では1クラスずつ男女で2列を成して入場することが多いが、主に高等学校では学級担任の手によって証書授与を受けることも多いため、2クラス同時に1列ずつ成して入場することもある。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、大学等の高等教育機関(以下「大学等」)では式次第としては行われない(後述の「卒業生退場」も同様)。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "司会者により開式宣言が行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "卒業生・来賓・教員全員による君が代の斉唱が行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大学等ではこれに代えて式歌斉唱(大学独自の歌であり、後述の卒業歌と別物)が行われる場合もある。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一部の公立学校では市歌も斉唱される。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお宗教系の学校では歌われないことが多く、特にミッションスクールでは聖歌が何曲か歌われたりする。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "来賓として招待した学校教育関係者(教育委員会など)への業務報告を行う。これは、一年間の職員の体制、各学年の入学・進級の実績などを報告するもので、主に公立小で行われることが多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "卒業証書授与は校長(幼稚園・保育園の場合は園長、大学の場合は学長・総長。以下まとめて「校長等」と称する)によって行われる。校長等の脇には教頭や卒業生の学年主任、幼稚園・保育園などの場合は担任教員などの教員がつく。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「生徒全員が校長等から受け取る」「クラス全員の卒業証書を代表者が校長等から受け取り、教室で1人1人に渡す」方法があり、これは学校によって異なる。後者の場合、優秀な生徒が代表者に選ばれることが多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお授与の際、教員は卒業生にねぎらいの言葉を掛ける場合もある。ただし、学年の規模や校風による。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "校長等により行われる。「告辞」と称する場合もあり、私立学校においては、学校法人理事長による式辞も行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "教育関係者など、列席の来賓により行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "都道府県立高等学校の場合は知事祝辞が必ずあるが、年度末で定例議会開会中であり、また知事が全ての高校へ出席するのは時間的に不可能のため、副知事が出席代読する例が非常に多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上記の者を含む、列席の来賓を紹介する。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上記以外の者からの祝電を発表する。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "卒業生が母校に遺す記念品の紹介。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "基本的に、「送辞」は在校生代表が卒業生へ向けて、また「答辞」は卒業生代表が校長等へ向けて発言する。送辞・答辞共に内容は基本パターンがあり、発言者生徒が教師の助言を受けて自分達の環境に合わせて加筆することが多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお小学校などにおいては「卒業の言葉」と称し、在校生・卒業生による対面式になる場合が多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方で、学校によっては送辞がなく答辞のみの所があるほか、送辞・答辞ともに行われない所もある。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "保護者代表により行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "旅立ちの日に、仰げば尊し、蛍の光、未来へ、旅立ちの時〜Asian Dream Song〜、手紙、ありがとう さようならなど。小学校の場合は上記の「卒業の言葉」の合間に歌われることが多い。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、学校によっては卒業歌自体が歌われない所もある。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "学校によっては国歌斉唱のあとに斉唱する所もある。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "司会者により閉式宣言が行われる。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "担任教諭が先導。入場と同様、吹奏楽部の演奏(「マイ・ウェイ」など)をバックに退場する。大学などでは式次第としては行われない。", "title": "卒業式の内容" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "卒業式の開催日にかかわらず、最終学年の終期、すなわち学籍満了日はあくまでも修業年限末日であるため、式後も同日まではその学校に在籍している扱いとなる。具体的には、学校教育法施行規則における学年の始期および終期の規程に基づき、それぞれ以下のように取り扱われる。", "title": "学籍満了日" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1.学年の始期が4月1日である以下の学校については、年度末である3月31日となっている。", "title": "学籍満了日" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2.学年の始期が4月1日とは限らない以下の学校については、学長・校長がそれぞれ定めることとなっている。", "title": "学籍満了日" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、学生・生徒(中学生以上)については学籍満了日までは学割を使うことが可能だが、学生証は卒業式当日に卒業証書と引き換えに回収されることが多いので、その場合は学校や鉄道会社等に相談する必要がある。", "title": "学籍満了日" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "卒業式から数日後、異動する教職員とのお別れの式として離任式、早期退職または定年退職する教職員とのお別れの式として退任式が行われることが多い。ちなみに卒業生が参加した場合、その日が事実上の最終登校日となる。", "title": "離任式・退任式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、当該卒業生の担任団もしくは校長・教頭の教員が定年退職を控えている場合、退任式とは別に卒業生から「教員卒業」という意味で卒業式、いわゆる「労い式」を開いてくれることもある。", "title": "離任式・退任式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)、安田講堂での卒業式実力阻止を図った学生運動によって東京大学の卒業式が中止になった。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "学習指導要領では、「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定められている。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1990年代(平成2年-平成11年)以降、この要領に卒業式(及び入学式)における日章旗の掲揚、君が代の斉唱が指示されている事について、これを「強制」であると主張し、国旗掲揚・国歌斉唱に反対する教師が存在する。これに関連して、様々な問題が発生している。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "卒業式ガイドラインのようなものを策定するなどして、各学校・校長へ指示・指導を行っている都道府県あるいは市町村・特別区の教育委員会もある。ガイドラインとは、例えば以下のような内容のものである。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "しかし、教職員や児童・生徒の中には、「『思想・信条の自由』に反し不服である」などとして、君が代斉唱時の起立をしなかったり、君が代を斉唱しなかったりする者もいる。教職員のこれらの意見や行動は、日本国内の教育の場に対して混乱を招いているとして、教育委員会が前述のガイドラインを職務命令とし、これに反する教職員を訓告・戒告・減給等の処分にする例が年々増加している。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "東京都では東京都教育委員会(都教委)が、都立高校の卒業式(入学式も)において、国旗を壇上向かって左側に掲げ、国歌斉唱の際は国旗に向かって起立し、ピアノ伴奏を伴って歌うこととしており、これに違反した者は職務上の責任を問われる(懲戒処分など)としているが、これに対して反発する一部の教職員もいる。違反を理由に処分された教職員らは、都は日本国憲法第19条に定める思想・良心の自由を侵しているとして、都教委を相手に処分の取り消しなどの裁判を起こしており、東京地裁において、原告の教師側が勝訴したこともある(詳しくは国旗及び国歌に関する法律を参照)。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "これらの件に関連して、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法・平成11年8月13日法律第127号)制定における答弁の中で、時の首相小渕恵三は「教育現場に強制をするものではない」としているが、同じく時の文部省(当時、現・文部科学省)教育助成局局長・矢野重典(のち、文部科学審議官・国立教育政策研究所所長、独立行政法人日本学生支援機構理事を経て公立学校共済組合理事長)は、参議院国旗・国歌特別委員会で、学校での日章旗掲揚や君が代斉唱の指導について「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ、思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要がある」と述べている。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、大学については教育基本法第7条第2項より「自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とされており(ちなみに大学においては学習指導要領は存在しない)、国立大学法人といえども国旗掲揚や国歌斉唱がなされないことが多い。", "title": "卒業式における問題" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また私立学校においても、宗教系学校などについては建学の精神の観点から行われないことが多い。", "title": "卒業式における問題" } ]
卒業式は、学校における教育課程を全て修了したことを認定し、卒業証書を授与することで門出を祝う式典である。 欧米でも大学の学位授与の式典はあるが、各学校の修了ごとに祝う式典は日本と韓国でのみ見られる習慣である。また、卒業生が教諭・教授や両親への感謝を伝え、節目をつける式典でもある。 かつてはほぼ例外なく対面で行われていたが、新型コロナウイルス感染症が流行した2020年以降は学部ごとの時間差(分散)による実施やオンラインによる開催など、感染拡大に繋がりうる状況を表す3つの密(密閉・密集・密接)を避けられる方式が導入されている。 なお本項では、卒業式後の学籍満了日についても詳述することとする。
{{出典の明記|date=2014年4月}} [[File:Academic procession.jpg|right|thumb|250px|[[ニュージーランド]]・[[カンタベリー大学 (ニュージーランド)|カンタベリー大学]]での卒業式中の卒業生の行進<br>(2004年)]] '''卒業式'''(そつぎょうしき、{{lang-en-short|Graduation ceremony}})は、[[学校]]における[[教育課程]]を全て[[修了]]したことを認定し、卒業証書を授与することで門出を祝う[[式典]]である。 欧米でも大学の[[学位]]授与の式典はあるが、各学校の修了ごとに祝う式典は日本と[[大韓民国|韓国]]でのみ見られる習慣である。また、卒業生が教諭・教授や両親への感謝を伝え、節目をつける式典でもある。 [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]出現前はほぼ例外なく対面で行われていたが、コロナが出現した[[2020年]]以降は学部ごとの時間差(分散)による実施や[[オンライン]]による開催など、感染拡大に繋がりうる状況を表す'''[[3つの密]]'''(密閉・密集・密接)を避けられる方式が導入されている。なお、コロナの類型が見直される24年以降については現時点では言及はない。 なお本項では、卒業式後の学籍満了日についても詳述することとする。 == 卒業式の呼称 == [[小学校]]・[[中学校]]・[[義務教育学校]]・[[高等学校]]・[[中等教育学校]]および[[特別支援学校]]では、式典で「'''[[卒業証書]]'''」を授与することから「'''卒業証書[[授与]]式'''」と呼ばれる(これについては次の「[[#歴史]]」を参照)。 一方で[[大学]]においては、[[大学院]]修了者に対しては「卒業証書」は授与されず「'''[[学位記]]'''」のみが授与されるため、大学院のみで行う場合は「'''学位記授与式'''」、[[学部]]と合同で行う場合は「'''大学院修了式・大学卒業式'''<ref>{{Cite web|和書|title=2021(令和3)年度 名古屋外国語大学 大学院修了式・大学卒業式の挙行について {{!}} News&Topics {{!}} 名古屋外国語大学 The World with Us! 世界はわたしたちとともに |url=https://www.nufs.ac.jp/news-topics/20211227-02/ |website=www.nufs.ac.jp |access-date=2022-07-24 |language=ja}}</ref><ref>[https://www.chiba-u.ac.jp/others/topics/info/4_12.html 令和4年度卒業式、大学院修了式・学位記授与式を挙行しました]千葉大学</ref>」「'''学位記授与式'''<ref>{{Cite web|和書|title=2021年度3月学位記授与式が挙行されました {{!}} お知らせ {{!}} キャンパスライフ {{!}} 名古屋商科大学 - AACSB国際認証校 |url=https://www.nucba.ac.jp/nisshin/news/entry-23977.html |website=名古屋商科大学 |access-date=2022-07-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2021年度学位記授与式を挙行 - NEWS |url=https://www.aichi-u.ac.jp/news/53629 |website=愛知大学 |access-date=2022-07-24}}</ref>」など各校によって呼称には差が見られる。 [[幼稚園]]および特別支援学校の幼稚部においては「'''卒園式'''」と呼ばれ、「卒園[[証書]]」が授与される。なお、[[保育所]](保育園)<ref group="注釈">学校ではなく、[[児童福祉法]]第7条に規定される[[児童福祉施設]]である。</ref>でも「卒園式」が行われる。 == 歴史 == 日本では[[1872年]](明治5年)の[[学制]]の施行に伴い、各[[等級]]([[学年]])ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことに起源を持つ<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1268114550451/ 「卒業証書授与式」は「卒業式」の正式名称じゃないの?] - エキサイトニュース</ref>。その後、明治10年代ごろ([[1870年代]]半ばから[[1880年代]]にかけて)に現在のような独立した儀式として定着した。 [[2020年]](令和2年)は[[日本における2019年コロナウイルス感染症による教育への影響|新型コロナウイルス感染症拡大]]の問題に直面し、この年の卒業式が相次いでキャンセルとなった<ref>{{cite web2|url=https://mainichi.jp/articles/20200225/k00/00m/040/287000c|title=卒業式、入学式の延期・中止相次ぐ 新型コロナ感染拡大で|accessdate=2021年2月26日|publisher=毎日新聞(2020年2月25日作成)}}</ref>。一方で感染の拡大状況を見ながら延期して行った学校もあり、その際には参加者同士の[[3つの密#密集|密集]]を防ぐために式を複数回に分けて行う、[[社会距離拡大戦略|身体的距離]]を保つために席の間隔を空けるなどといった工夫がなされた<ref>{{Cite news|url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201103/amp/k10012693421000.html |title= 「特別な卒業式に」 コロナで行われなかった卒業式開催 東京 |newspaper= NHKニュース |publisher= 日本放送協会 |date=2020-11-03|accessdate=2021-02-26}}</ref>。これらの対策は翌年以降も継続して取り入れられている<ref>{{Cite web|和書|title=学位記授与式(対象:大学院修了者) |url=https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/students/events/h15_04.html |website=東京大学 |accessdate=2022-03-10 |language=ja}}</ref>。 == 日本における卒業式 == [[File:Graduation day stage.jpg|thumb|日本の卒業式([[北海道]][[室蘭市]])<br>2006年3月1日撮影]] 通常、[[3月]]に実施される([[春|早春]]の[[歳時記]]的なものにされるほどである)が、一部の[[私立学校|私立]][[中学校]]、[[高等学校]]では2月に実施される。小中学校では従来は[[3月20日]]頃が多かったが、近年、小学校・中学校は3月中旬ごろに行われている{{要出典|date=2022年7月}}。 ===教育課程における位置づけ=== [[小学校]]・[[中学校]]・[[義務教育学校]]・[[高等学校]]・[[中等教育学校]]および[[特別支援学校]]においては、[[学校教育法施行規則]]における[[教育課程]]の中の[[特別活動]]<ref group="注釈">学校教育法施行規則では、小学校は第50条、中学校は第72条、高等学校は第83条、中等教育学校は第108条第1項(前期課程)および第2項(後期課程)、そして特別支援学校は第126条(小学部)・第127条(中学部)・第128条(高等部)にそれぞれ規定される。なお義務教育学校についても、第79条の6第1項で小学校の規定が前期課程に、同条第2項で中学校の規定が後期課程にそれぞれ準用となる。</ref>に位置づけられ、[[始業式]]・[[終業式]]・[[入学式]]・[[修了式]]などと並ぶ[[学校行事]]となっている<ref group="注釈">学校教育法施行規則第58条において、「''校長は、小学校の'''全課程'''を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない''」(第79条で中学校、第79条の8で義務教育学校、第104条で高等学校、第113条で中等教育学校、そして第135条第2項で特別支援学校(小学部・中学部・高等部)にそれぞれ準用する)と規定されているが、学校行事も教育課程という意味では、「'''全課程'''」とは「'''入学式'''から'''卒業式'''に至るまでの、学校行事を含めた'''全課程'''」ということになる。</ref>。 なお[[文部科学省]]が定める[[学習指導要領]]では、[[特別活動]]領域における「[[儀式的行事]]」<ref group="注釈">「''学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと''」を目的としている。</ref>の一種とされており、入学式などと同様に「その意義を踏まえ、[[日本の国旗|国旗]]を掲揚するとともに、[[君が代|国歌]]を[[斉唱]]するよう指導するものとする」と定められている。 {{seealso|国旗及び国歌に関する法律|日本における国旗国歌問題}} == 海外における卒業式== 日本国外でも学位授与のための卒業式は存在するが、[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国など学校の課程終了が公的試験([[バカロレア (フランス)|バカロレア]]や[[アビトゥーア]]の取得)によって認定される国では、卒業という概念はなく、そのため卒業式も存在しない<ref>ブリタニカ国際大百科事典(電子辞書対応小項目版2006年)</ref>。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[6月]]、[[ブラジル]]では1月、[[大韓民国|韓国]]では2月が多い。これは学年年度(アメリカでは6月に年度終了、[[9月]]から新学期)による違いである。 <gallery> File:US Navy 060526-N-2383B-237 Newly commissioned officers celebrate the conclusion of their 2006 graduation and commissioning ceremony, with the traditional tossing of their covers into the air.jpg|[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ海軍兵学校]]の卒業式・兼(少尉)任官式<br>2005年5月27日撮影 File:Nursecmubundit.JPG|[[タイ王国|タイ]]における[[看護師]]の卒業式 File:Graduates of Brunswick High in 2007.jpg|[[アメリカ合衆国|米国]][[ジョージア州]]の[[:en:Brunswick High School (Georgia)|ブランズウィック高校]]の卒業式<br>2007年5月25日撮影 </gallery> ==卒業式の形式== 大きく分けて、一面式と対面式の2種類がある。 === 一面式 === 演壇に向かって卒業生一同、在校生一同、保護者一同の順に同じ方向で配席される。教職員と来賓は両側から内向きに配席される。 伝統的な方法である。 === 対面式 === 近年特に小学校で増えてきた方式である。一部の中学校や特別支援学校でも採用されている。 *その名のとおり、演台を中央に置かれた卒業生と在校生・保護者、教職員と来賓が向かい合わせになり進行する方式である。そのため、在校生と卒業生の目が合うため緊張感が持ちやすく、近年多くの小学校などで取り入れられている。 *その際、後述の送辞・答辞の代わりに「卒業の言葉」が用意され、呼びかけが行われる。また途中で卒業の歌が入る場合が多い。 *特徴としてステージが空くため、さまざまな演出がしやすい。その一方で、児童・生徒と教職員、保護者、来賓などとの上下関係を希薄にさせることから「悪平等」であるという側面もあり、賛否両論である。 なお一面式の卒業式でも、「卒業の言葉」が行われる際は対面式になり、卒業生が振り向き在校生と向かい合う形になる。 ==卒業式の内容== 以下は基本例であり、実際の形式等については学校によって異なる。 ;1.卒業生入場 学級担任教諭が卒業生を先導する。その際、[[吹奏楽部]]による演奏や[[BGM]](「[[威風堂々 (行進曲)|威風堂々]]」など)をバックに入場する。小中学校では1クラスずつ男女で2列を成して入場することが多いが、主に[[高等学校]]では学級担任の手によって証書授与を受けることも多いため、2クラス同時に1列ずつ成して入場することもある。 なお、[[大学]]等の[[日本の高等教育|高等教育]]機関(以下「大学等」)では式次第としては行われない(後述の「卒業生退場」も同様)。 ;2.開式の辞(開式の言葉) 司会者により開式宣言が行われる。 ;3.国歌斉唱(国歌演奏) 卒業生・来賓・教員全員による[[君が代]]の斉唱が行われる。 [[大学]]等ではこれに代えて式歌斉唱(大学独自の歌であり、後述の卒業歌と別物)が行われる場合もある。 一部の公立学校では[[市歌]]も斉唱される<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/ 横浜市生涯学習ページ 「はまなび」 - 横浜市歌]</ref>。 なお[[宗教]]系の学校では歌われないことが多く、特に[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]では[[聖歌]]が何曲か歌われたりする{{要出典|date=2022年7月}}。 ;4.学事報告 来賓として招待した[[学校教育#日本の学校教育|学校教育]]関係者([[教育委員会]]など)への業務報告を行う。これは、一年間の職員の体制、各学年の入学・進級の実績などを報告するもので、主に公立小で行われることが多い。 ;5.卒業証書授与 卒業証書授与は校長(幼稚園・保育園の場合は園長、大学の場合は学長・総長。以下まとめて「校長等」と称する)によって行われる。校長等の脇には教頭や卒業生の学年主任、幼稚園・保育園などの場合は担任教員などの教員がつく。 「生徒全員が校長等から受け取る」「クラス全員の卒業証書を代表者が校長等から受け取り、教室で1人1人に渡す」方法があり、これは学校によって異なる。後者の場合、優秀な生徒が代表者に選ばれることが多い。 なお授与の際、教員は卒業生にねぎらいの言葉を掛ける場合もある。ただし、学年の規模や校風による。 ;6.式辞(「学校長式辞」など) 校長等により行われる。「告辞」と称する場合もあり、私立学校においては、[[学校法人]]理事長による式辞も行われる。 ;7.来賓祝辞 教育関係者など、列席の来賓により行われる。 都道府県立高等学校の場合は知事祝辞が必ずあるが、年度末で定例議会開会中であり、また[[都道府県知事|知事]]が全ての高校へ出席するのは時間的に不可能のため、副知事が出席代読する例が非常に多い。 ;8.来賓紹介 上記の者を含む、列席の来賓を紹介する。 ;9.祝電披露 上記以外の者からの[[電報|祝電]]を発表する。 ;10.記念品贈呈 卒業生が母校に遺す記念品の紹介。 ;11.送辞・答辞/卒業の言葉 基本的に、「送辞」は在校生代表が卒業生へ向けて、また「答辞」は卒業生代表が校長等へ向けて発言する。送辞・答辞共に内容は基本パターンがあり、発言者生徒が教師の助言を受けて自分達の環境に合わせて加筆することが多い。 なお小学校などにおいては「卒業の言葉」と称し、在校生・卒業生による[[卒業式#対面式|対面式]]になる場合が多い。 一方で、学校によっては送辞がなく答辞のみの所があるほか、送辞・答辞ともに行われない所もある。 ;12.謝辞 保護者代表により行われる。 ;13.式歌(卒業歌) [[旅立ちの日に]]、[[仰げば尊し]]、[[蛍の光]]、[[未来へ (Kiroroの曲)|未来へ]]、[[旅立ちの時〜Asian Dream Song〜]]、[[手紙 〜拝啓 十五の君へ〜|手紙]]、[[ありがとう・さようなら|ありがとう さようなら]]など。小学校の場合は上記の「卒業の言葉」の合間に歌われることが多い。 なお、学校によっては卒業歌自体が歌われない所もある。 ;14.校歌斉唱 学校によっては国歌斉唱のあとに斉唱する所もある。 ;15.閉式の辞(閉式の言葉) 司会者により閉式宣言が行われる。 ;16.卒業生退場 担任教諭が先導。入場と同様、吹奏楽部の演奏(「[[マイ・ウェイ]]」など)をバックに退場する。大学などでは式次第としては行われない。 * [[防衛大学校]]([[文部科学省]]ではなく[[防衛省]]所管の[[省庁大学校]])<ref group="注釈">[[防衛省設置法]]第14条および第15条に規定された[[陸上自衛隊|陸]][[海上自衛隊|海]][[航空自衛隊|空]][[自衛隊]]の[[士官#自衛隊|幹部自衛官]]養成機関(諸外国の[[軍隊]]における[[士官学校]]に相当する)であり、[[学校教育法]]に規定する大学ではない。</ref>の「卒業式典」においては、「卒業」はすなわち「部隊解散」のため、卒業生たちは部隊長の「学生隊解散!」の号令で一斉に制帽を放り投げ、会場から飛び出す。 ==卒業式の出席者の服装== [[File:Mariko's Graduation '96.jpg|thumb|[[振袖]]や[[袴]]を着用する日本の女性の卒業生。<br>2007年7月2日撮影]] *基本的に儀式の場であるため、児童・生徒・学生は[[日本の学校制服|制服]]校の場合は制服、私服校の場合はスーツ・礼服・袴などを着用する。 **小学校では私服校の場合、進学先の中学校の制服を着用する場合もある。 *学校職員は、校長は正礼装(モーニング、女性は[[袴]])、教頭以下は準礼装が主流。 *担任教諭も基本的に準礼装の場合が多いが、女性教諭は袴を着用することもある。 *小学校では女性教諭はほぼ袴を着用、中学校は半々、高校になると準礼装のスーツが多くなる。 *大学では女子学生が袴を着用することが多い。 *卒業生の父親はスーツとネクタイ、母親はセレモニースーツやワンピースなど着用する。 *朝日真・[[文化服装学院]]専任教授は「小学生の卒業式で袴がはやりだしたのは5年ほど前から(2019年当時)。大学の卒業式で袴が流行したのが[[1990年代]]そのころの女子大生の子どもが小学校を卒業するようになった最近のこと」。着物業界が少子化により成人式での需要が減り新たなターゲットが(制服のない)小学校の卒業式だった<ref>2019年3月8日中日新聞朝刊27面</ref>。 ==学籍満了日== {{see also|学年#期間としての「学年」|春休み#日本の春休み}} 卒業式の開催日にかかわらず、最終学年の終期、すなわち学籍満了日はあくまでも[[修業年限]]末日であるため、式後も同日まではその学校に在籍している扱いとなる。具体的には、[[学校教育法施行規則]]における学年の始期および終期の規程に基づき、それぞれ以下のように取り扱われる。 1.学年の始期が4月1日である以下の学校については、年度末である3月31日となっている。 * 小学校(第59条。以下各条に準用) * 中学校(第79条) * 義務教育学校(第79条の8) * 高等学校(第104条) ** 修業年限が3年を超える定時制の課程においては9月30日とすることができる(同条第2項)。 ** 第93条第1項により外国の高等学校に留学し、同条第2項により所定の単位を修得した場合は、その事実をもって学籍を終了することができる(同条第3項)。 ** 特別の必要があり、かつ教育上支障がないと認められた場合は、その学期末をもって学籍を終了することができる(第104条第3項)。 * 中等教育学校(第113条) - その他同条第3項により、高等学校より第93条または第104条第2項の規程が準用される。 * 特別支援学校(第135条) - その他同条第5項により、高等学校より第93条または第104条第3項の規程が高等部に準用される。 * [[高等専門学校]](第179条) ** 商船学科においては9月30日となる(修業年限が5年6か月であるため<ref>学校教育法第117条ただし書き</ref>)。 ** その他、高等学校より第104条第3項の規程が準用される(第179条)。 * 幼稚園(第39条) 2.学年の始期が4月1日とは限らない以下の学校については、学長・校長がそれぞれ定めることとなっている。 * 大学(第163条) - なお同条第2項により、学年途中の学期末をもって学籍を終了することができる。 * [[専修学校]](第184条) なお、[[在籍者 (学習者)|学生・生徒(中学生以上)]]については学籍満了日までは[[学生割引|学割]]を使うことが可能だが、学生証は卒業式当日に卒業証書と引き換えに回収されることが多いので、その場合は学校や鉄道会社等に相談する必要がある。 ==離任式・退任式== 卒業式から数日後、異動する教職員とのお別れの式として[[離任式]]、早期退職または定年退職する教職員とのお別れの式として退任式が行われることが多い。ちなみに卒業生が参加した場合、その日が事実上の最終登校日となる。 また、当該卒業生の担任団もしくは校長・教頭の教員が定年退職を控えている場合、退任式とは別に卒業生から「教員卒業」という意味で卒業式、いわゆる「労い式」を開いてくれることもある。 ==卒業式における問題== {{main|日本における国旗国歌問題}} ===学生運動による卒業式中止=== [[1968年]](昭和43年)、[[安田講堂]]での卒業式実力阻止を図った[[学生運動]]によって[[東京大学]]の卒業式が中止になった。 ===日章旗の掲揚や君が代の斉唱における問題=== [[学習指導要領]]では、「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定められている。 [[1990年代]]([[平成]]2年-平成11年)以降、この要領に卒業式(及び入学式)における[[日本の国旗|日章旗]]の掲揚、[[君が代]]の斉唱が指示されている事について、これを「強制」であると主張し、国旗掲揚・国歌斉唱に反対する教師が存在する。これに関連して、様々な問題が発生している。 '''卒業式ガイドライン'''のようなものを策定するなどして、各学校・校長へ指示・指導を行っている[[都道府県]]あるいは[[市町村]]・[[特別区]]の[[教育委員会]]もある。ガイドラインとは、例えば以下のような内容のものである。 #式場正面中央に日章旗を掲揚し、児童・生徒は日章旗に正対する。 #式次第に「国歌斉唱」と明記する。 #君が代の斉唱は教師のピアノ演奏で行い、一同起立し、日章旗に注目する。 #警備要員を除く全教職員が参列する。 しかし、教職員や児童・生徒の中には、「『思想・信条の自由』に反し不服である」などとして、君が代斉唱時の起立をしなかったり、君が代を斉唱しなかったりする者もいる。教職員のこれらの意見や行動は、日本国内の教育の場に対して混乱を招いているとして、教育委員会が前述のガイドラインを'''職務命令'''とし、これに反する教職員を訓告・戒告・減給等の処分にする例が年々増加している。 [[東京都]]では東京都教育委員会(都教委)が、[[都立高等学校|都立高校]]の卒業式([[入学式]]も)において、国旗を壇上向かって左側に掲げ、国歌斉唱の際は国旗に向かって起立し、ピアノ伴奏を伴って歌うこととしており、これに違反した者は職務上の責任を問われる([[懲戒処分]]など)としているが、これに対して反発する一部の教職員もいる。違反を理由に処分された教職員らは、都は[[日本国憲法第19条]]に定める[[思想・良心の自由]]を侵しているとして、都教委を相手に処分の取り消しなどの裁判を起こしており、東京地裁において、原告の教師側が勝訴したこともある(詳しくは[[国旗及び国歌に関する法律]]を参照)。 これらの件に関連して、[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗国歌法・平成11年8月13日法律第127号)制定における答弁の中で、時の首相[[小渕恵三]]は「教育現場に強制をするものではない」としているが、同じく時の[[文部省]](当時、現・[[文部科学省]])教育助成局局長・矢野重典(のち、文部科学審議官・[[国立教育政策研究所]]所長、[[独立行政法人]][[日本学生支援機構]]理事を経て[[公立学校共済組合]]理事長)は、[[参議院]]国旗・国歌特別委員会で、学校での日章旗掲揚や君が代斉唱の指導について「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ、思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要がある」と述べている。 なお、[[大学]]については[[教育基本法]]第7条第2項より「自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とされており(ちなみに大学においては[[学習指導要領]]は存在しない)、[[国立大学法人]]といえども国旗掲揚や国歌斉唱がなされないことが多い。 また私立学校においても、宗教系学校などについては建学の精神の観点から行われないことが多い<ref group="注釈">[[教育基本法]]第15条により、宗教に関する「寛容の態度」や「一般的な教養」および「社会生活における地位」は、「教育上尊重されなければならない」とされている。なお、国公立学校においては同条第2項により「宗教教育」や「宗教的活動」が禁止されている。</ref><ref group="注釈">[[教育基本法]]第8条では、「国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、(中略)私立学校教育の振興に努めなければならない」とされている。また[[私立学校法]]第1条により、私立学校に対しては「特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高める」ことが求められている。</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html 文部省 学制百年史] ==関連項目== {{commonscat|Graduation ceremonies}} {{commonscat|Graduation ceremonies in Japan|日本の卒業式}} * [[卒業]] * [[予餞会]] * [[卒業ソング]] ** [[仰げば尊し]] ** [[蛍の光]] ** [[旅立ちの日に]] ** [[贈る言葉]] * [[修了式]] *[[学位授与式]] * [[離任式]] * [[学校等の離任式]] * [[退任式]] * [[新任式]] * [[入学式]] * [[成人式]] * [[結婚式]] * [[葬儀]] * [[送別会]] * [[同窓会]] * [[OB・OG]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そつきようしき}} [[Category:学校教育]] [[Category:通過儀礼]] [[Category:学校文化]] [[Category:卒業]]
2003-09-07T01:08:23Z
2023-12-23T05:15:17Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:See also", "Template:Cite web2", "Template:Normdaten", "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:Lang-en-short", "Template:要出典", "Template:Seealso", "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%92%E6%A5%AD%E5%BC%8F
15,473
熱帯夜
熱帯夜(ねったいや)は、日本の気象庁の用語で、「夜間(夕方から翌朝まで)の最低気温が25度以上のこと。」をいう。 元々は、気象エッセイスト・倉嶋厚による造語。 気象庁は、熱帯夜における「夜間」を「夕方から翌朝まで」としており、時刻何時から何時までを指すか定義しておらず、気温推移による「熱帯夜」の公式な統計はない。 「1日(0時1分から24時まで)の最低気温が摂氏25度以上の日」の統計は公表されているので、これを新聞・放送などは便宜的に報道の根拠として用いている。「1日の最低気温が摂氏25度以上の日」を指す、気象庁の特別な用語はない。 俳句においては夏の季語だが、近代気象学を前提とする語であるため、伝統的俳諧や明治など近代初年の俳句においては作例をもたない。 「夜間の最低気温摂氏30度以上の夜」は、超熱帯夜(ちょうねったいや)と表現されることがある。これは気象庁によって公式に定義された用語ではないが、日本気象協会においては2022年8月2日よりこのように呼ぶように定められた。これは日本気象協会に所属する気象予報士130名からアンケートをとり決定したもので、中には「灼熱夜」「茹暑夜」といった回答もあった。超熱帯夜は、これまで2000年7月31日の富山、2013年8月11日の東京、2017年8月5日の口之津(長崎県)、2018年8月22日の福岡でそれぞれ記録している。1990年8月22日の金沢と2004年7月21日の東京も超熱帯夜になるところであったが、単位時間あたりの最低気温が摂氏30度を下回る時間帯があり、超熱帯夜にはならなかった。 夏になると日照時間が増え、熱が地面や建物に伝導して蓄積され、コンクリートやアスファルトなど熱容量が大きい物質から熱放射が発生し、日暮れ以降の夜も続くために夜間も気温が下がらず、ヒートアイランド現象の一因ともされる。東京湾、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海、博多湾、有明海などの内海は、盛夏に表面水温が摂氏30度以上を推移することがあり、沿岸の都市部である東京都心部、金沢市、名古屋市、大阪市、神戸市、岡山市、広島市、福岡市、佐賀市、長崎市などはヒートアイランド現象に加えて内湾の風呂効果で、夜間も日付が変わるごろまで30度以上を維持する日が見られる。 東京において熱帯夜の日数は増加しており、2010年では56日であった。 本州は、以前は7月中旬から8月中旬頃までの観測が多かったが、近年は6月下旬から10月中旬まで記録することもあり、長期化傾向にある。2011年6月に東京で日最低気温25°C以上を4回記録し、2016年10月3日に広島と越廼でそれぞれ25.2度と25.4度を、10月4日に福岡で25.0度、2018年10月6日と2019年10月2日に玉野で25.1°Cを記録し、いずれの地点でも10月の最低気温の最も高い記録を更新した(玉野は両日とも同じ数値で一位タイ)。 極めて稀ではあるが、亜寒帯気候の北海道でも熱帯夜を観測している。 それまでアメダスは10分ごとに気温の観測を行っていたが、2008年3月25日に新アメダスの運用を始めてからは、気象台などの気象官署と同じく10秒ごとの観測値から算出したものを10分ごとに配信している。 前日に異常な高温を記録したり、台風などの通過で発生するフェーン現象によって、まれに0時から翌朝9時の夜間に最低気温が摂氏30度以上になることはある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "熱帯夜(ねったいや)は、日本の気象庁の用語で、「夜間(夕方から翌朝まで)の最低気温が25度以上のこと。」をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元々は、気象エッセイスト・倉嶋厚による造語。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "気象庁は、熱帯夜における「夜間」を「夕方から翌朝まで」としており、時刻何時から何時までを指すか定義しておらず、気温推移による「熱帯夜」の公式な統計はない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「1日(0時1分から24時まで)の最低気温が摂氏25度以上の日」の統計は公表されているので、これを新聞・放送などは便宜的に報道の根拠として用いている。「1日の最低気温が摂氏25度以上の日」を指す、気象庁の特別な用語はない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "俳句においては夏の季語だが、近代気象学を前提とする語であるため、伝統的俳諧や明治など近代初年の俳句においては作例をもたない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「夜間の最低気温摂氏30度以上の夜」は、超熱帯夜(ちょうねったいや)と表現されることがある。これは気象庁によって公式に定義された用語ではないが、日本気象協会においては2022年8月2日よりこのように呼ぶように定められた。これは日本気象協会に所属する気象予報士130名からアンケートをとり決定したもので、中には「灼熱夜」「茹暑夜」といった回答もあった。超熱帯夜は、これまで2000年7月31日の富山、2013年8月11日の東京、2017年8月5日の口之津(長崎県)、2018年8月22日の福岡でそれぞれ記録している。1990年8月22日の金沢と2004年7月21日の東京も超熱帯夜になるところであったが、単位時間あたりの最低気温が摂氏30度を下回る時間帯があり、超熱帯夜にはならなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "夏になると日照時間が増え、熱が地面や建物に伝導して蓄積され、コンクリートやアスファルトなど熱容量が大きい物質から熱放射が発生し、日暮れ以降の夜も続くために夜間も気温が下がらず、ヒートアイランド現象の一因ともされる。東京湾、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海、博多湾、有明海などの内海は、盛夏に表面水温が摂氏30度以上を推移することがあり、沿岸の都市部である東京都心部、金沢市、名古屋市、大阪市、神戸市、岡山市、広島市、福岡市、佐賀市、長崎市などはヒートアイランド現象に加えて内湾の風呂効果で、夜間も日付が変わるごろまで30度以上を維持する日が見られる。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東京において熱帯夜の日数は増加しており、2010年では56日であった。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本州は、以前は7月中旬から8月中旬頃までの観測が多かったが、近年は6月下旬から10月中旬まで記録することもあり、長期化傾向にある。2011年6月に東京で日最低気温25°C以上を4回記録し、2016年10月3日に広島と越廼でそれぞれ25.2度と25.4度を、10月4日に福岡で25.0度、2018年10月6日と2019年10月2日に玉野で25.1°Cを記録し、いずれの地点でも10月の最低気温の最も高い記録を更新した(玉野は両日とも同じ数値で一位タイ)。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "極めて稀ではあるが、亜寒帯気候の北海道でも熱帯夜を観測している。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "それまでアメダスは10分ごとに気温の観測を行っていたが、2008年3月25日に新アメダスの運用を始めてからは、気象台などの気象官署と同じく10秒ごとの観測値から算出したものを10分ごとに配信している。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前日に異常な高温を記録したり、台風などの通過で発生するフェーン現象によって、まれに0時から翌朝9時の夜間に最低気温が摂氏30度以上になることはある。", "title": "観測" } ]
熱帯夜(ねったいや)は、日本の気象庁の用語で、「夜間(夕方から翌朝まで)の最低気温が25度以上のこと。」をいう。
{{Otheruses|日本の気象用語|その他の熱帯夜|熱帯夜 (曖昧さ回避)}} {{正確性|date=2019年1月}} '''熱帯夜'''(ねったいや)は、[[日本]]の[[気象庁]]の用語で、「夜間(夕方から翌朝まで)の最低[[気温]]が25度以上のこと。<ref name="yohou-yougo">[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kion.html#G33 予報用語(熱帯夜)] 気象庁</ref><ref name="kion-ni-tsuite">[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq3.html 気温について] 気象庁 気象等の知識</ref>」をいう。 == 概要 == 元々は、[[気象]][[エッセイスト]]・[[倉嶋厚]]による造語<ref>『[https://books.google.co.jp/books?id=O8gRAQAAMAAJ&q=%E5%80%89%E5%B6%8B%E5%8E%9A+%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C&dq=%E5%80%89%E5%B6%8B%E5%8E%9A+%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibt5mE4L_VAhUGUbwKHVZXAIsQ6AEIJjAA 月刊地理]』第44号、[[古今書院]]、1999年、12頁。</ref><ref>倉嶋厚『[https://books.google.co.jp/books?id=9RhNAAAAMAAJ&q=%E5%80%89%E5%B6%8B%E5%8E%9A+%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C&dq=%E5%80%89%E5%B6%8B%E5%8E%9A+%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibt5mE4L_VAhUGUbwKHVZXAIsQ6AEIKjAB 日本の気候]』、古今書院、1966年(1985年版では101頁)。</ref>。 気象庁は、熱帯夜における「夜間」を「夕方から翌朝まで」としており、時刻何時から何時までを指すか定義しておらず、気温推移による「熱帯夜」の公式な統計はない。{{Main|気温#気温の測定と統計}}「'''1日'''(0時1分から24時まで)の最低気温が摂氏25度以上の日」の統計は公表されているので、これを新聞・放送などは便宜的に報道の根拠として用いている。「1日の最低気温が摂氏25度以上の日」を指す、気象庁の特別な用語はない<ref name="yohou-yougo" /><ref name="kion-ni-tsuite" />。 [[俳句]]においては[[夏]]の季語だが、近代[[気象学]]を前提とする語であるため、伝統的[[俳諧]]や明治など近代初年の俳句においては作例をもたない。 === 超熱帯夜 === 「夜間の最低気温摂氏30度以上の夜」は、'''超熱帯夜'''(ちょうねったいや)と表現されることがある<ref>[[森田正光]]『[https://books.google.co.jp/books?id=V21vDQAAQBAJ&pg=PA109&dq=%22%E8%B6%85%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C%22&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiE4tfj47_VAhXKwbwKHT5xB4MQ6AEIMDAC#v=onepage&q=%22%E8%B6%85%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C%22&f=false ゼロから理解する 気象と天気のしくみ - よくわかる! 気象現象・天気予報・温暖化のメカニズム]』[[誠文堂新光社]]、2012年、109頁。</ref><ref>饒村曜『[https://books.google.co.jp/books?id=Uu5uBQAAQBAJ&pg=PA86&dq=%22%E8%B6%85%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C%22&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiE4tfj47_VAhXKwbwKHT5xB4MQ6AEIJjAA#v=onepage&q=%22%E8%B6%85%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C%22&f=false 天気と気象100 - 一生付き合う自然現象を本格解説]』[[オーム社]]、2014年、86頁。</ref>。これは気象庁によって公式に定義された用語ではないが、[[日本気象協会]]においては2022年8月2日よりこのように呼ぶように定められた<ref name="tenkijp">{{Cite web|和書|url= https://tenki.jp/suppl/tenkijp_labo/2022/08/02/31275.html|title= 日本気象協会が選ぶ 暑さに関する新しい言葉|author= tenki.jpチーム|website= tenki.jp|work= tenki.jpラボVol.22|publisher= 日本気象協会|date= 2022-08-02|accessdate= 2022-08-07}}</ref>。これは日本気象協会に所属する[[気象予報士]]130名からアンケートをとり決定したもので、中には「灼熱夜」「茹暑夜」といった回答もあった<ref name="tenkijp" />。<!--気象予報士の、高橋和也は「超絶熱帯夜」、[[真壁京子]]は「スーパー熱帯夜」あるいは「灼熱夜」と表現している。-->超熱帯夜は、これまで2000年7月31日の富山、2013年8月11日の東京、2017年8月5日の[[口之津町|口之津]](長崎県)、2018年8月22日の福岡でそれぞれ記録している。1990年8月22日の金沢と2004年7月21日の東京も超熱帯夜になるところであったが、単位時間あたりの最低気温が摂氏30度を下回る時間帯があり、超熱帯夜にはならなかった。 == 原理 == 夏になると[[日照時間]]が増え、熱が地面や建物に伝導して蓄積され、[[コンクリート]]や[[アスファルト]]など[[熱容量]]が大きい物質から[[熱放射]]が発生し、日暮れ以降の夜も続くために夜間も気温が下がらず、[[ヒートアイランド]]現象の一因ともされる。[[東京湾]]、[[伊勢湾]]、[[大阪湾]]、[[瀬戸内海]]、[[博多湾]]、[[有明海]]などの[[内海]]は、盛夏に表面水温が摂氏30度以上を推移することがあり、沿岸の都市部である東京都心部、金沢市、名古屋市、大阪市、神戸市、岡山市、広島市、福岡市、佐賀市、長崎市などはヒートアイランド現象に加えて内湾の風呂効果で、夜間も日付が変わるごろまで30度以上を維持する日が見られる。 == 観測 == {{独自研究|section=1|date=2014年7月}} 東京において熱帯夜の日数は増加しており、2010年では56日であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/climate/heat_island/tebiki.files/atsusa_tebiki_h30kaitei.pdf|title=夏の暑さ対策の手引|author=東京都環境局地球環境エネルギー部環境都市づくり課|date=2019-01|page=3|format=PDF|accessdate=2019-04-30}}</ref>。 本州は、以前は7月中旬から8月中旬頃までの観測が多かったが、近年は6月下旬から10月中旬まで記録することもあり、長期化傾向にある。2011年6月に東京で日最低気温25℃以上を4回記録し、<!--ここから出典あり-->2016年10月3日に[[広島地方気象台|広島]]と[[越廼村|越廼]]でそれぞれ25.2度と25.4度を、10月4日に[[福岡管区気象台|福岡]]で25.0度、2018年10月6日と2019年10月2日に[[玉野市|玉野]]で25.1℃を記録し、いずれの地点でも10月の最低気温の最も高い記録を更新した(玉野は両日とも同じ数値で一位タイ)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=67&block_no=47765&year=&month=10&day=&view=h0 観測史上1~10位の値(10月としての値) 広島(広島県)] 気象庁 2019年1月2日閲覧</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_a.php?prec_no=57&block_no=1316&year=&month=10&day=&view=h0 観測史上1~10位の値(10月としての値) 越廼(福井県)] 気象庁 2019年1月2日閲覧</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=82&block_no=47807&year=&month=10&day=&view=h0 観測史上1〜10位の値(10月としての値) 福岡(福岡県)] 気象庁 2019年1月2日閲覧</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_a.php?prec_no=66&block_no=0670&year=&month=10&day=&view=h0 観測史上1~10位の値(10月としての値) 玉野(岡山県)] 気象庁 2019年1月2日閲覧</ref>。 極めて稀ではあるが、[[亜寒帯気候]]の[[北海道]]でも熱帯夜を観測している。 {|class="wikitable" style="font-size:95%; text-align:right" |+年間日数の変化率 (1936 - 2007年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/himr/2008/himr2008.pdf|title=ヒートアイランド監視報告(平成19 年冬・夏-関東・近畿地方)|publisher=気象庁|format=PDF|accessdate=2019-01-02|page=6}}</ref> ! &nbsp; || 観測所 || 変化率(日/10年) || 都市率{{Refnest|group="注釈"|観測地点を中心とした半径7kmの円内に、建物用地・幹線交通用地などが含まれる割合<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/himr/2008/himr2008.pdf|title=ヒートアイランド監視報告(平成19 年冬・夏-関東・近畿地方)|publisher=気象庁|format=PDF|accessdate=2019-01-02|page=3}}</ref>。}} |- | 1 | style="text-align:left" | 福岡県 福岡 | +5.0日 | 62% |- | 2 | style="text-align:left" | 沖縄県 石垣島 | +4.9日 | 5% |- | 3 | style="text-align:left" | 山口県 下関 | +4.8日 | 32% |- | rowspan=3 | 4 | style="text-align:left" | 東京都 東京 | +3.7日 | 92% |- | style="text-align:left" | 和歌山県 和歌山 | +3.7日 | 35% |- | style="text-align:left" | 熊本県 熊本 | +3.7日 | 51% |- | rowspan=3 | 7 | style="text-align:left" | 愛知県 名古屋 | +3.6日 | 86% |- | style="text-align:left" | 三重県 津 | +3.6日 | 24% |- | style="text-align:left" | 京都府 京都 | +3.6日 | 64% |- | 10 | style="text-align:left" | 徳島県 徳島 | +3.5日 | 27% |- | style="text-align:center" | - | style="text-align:left" | 大阪府 大阪<ref>統計期間: 1968-2007年 [http://www.osaka-jma.go.jp/kikou/ondanka/heat20.pdf 『ヒートアイランド監視報告 近畿版(平成20年)』] 大阪管区気象台</ref> | +6.3日 | style="text-align:center" | - |} === 日最低気温摂氏30度以上日数の推移 === それまで[[アメダス]]は10分ごとに気温の観測を行っていたが、2008年3月25日に[[新アメダス]]の運用を始めてからは、気象台などの[[気象官署]]と同じく10秒ごとの観測値から算出したものを10分ごとに配信している<ref>{{Cite web|和書|date=2008-03-07 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0803/07b/amedas080306.html |title=報道発表資料 アメダスデータ等統合処理システムの運用開始について |publisher=気象台 |accessdate=2019-05-01}}</ref>。 前日に異常な高温を記録したり、台風などの通過で発生する[[フェーン現象]]によって、まれに0時から翌朝9時の夜間に最低気温が摂氏30度以上になることはある。 ;日最低気温(日界24時)が摂氏30度以上 *30.8度 [[新潟県]][[上越市]][[高田市|高田]](2023年8月10日)<ref> [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=54&block_no=47612&year=2023&month=08&day=10&view=p1 高田 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.8度 新潟県[[佐渡市]][[相川町|相川]](2019年8月15日)<ref> [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=54&block_no=47602&year=2019&month=08&day=15&view=p1 相川 2019年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.7度 [[鳥取県]][[境港市]](2023年8月10日)<ref name="名前なし-20231105131129">[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=69&block_no=47742&year=2023&month=08&day=09&view=p1 境 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.5度 [[福岡県]][[福岡市]][[中央区_(福岡市)|中央区]](2018年8月22日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=82&block_no=47807&year=2018&month=08&day=22&view=p1 福岡 2018年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.4度 [[島根県]][[松江市]](2023年8月10日)<ref name="名前なし_2-20231105131129">[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=68&block_no=47741&year=2023&month=08&day=09&view=p1 松江 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.4度 鳥取県[[米子市]](2023年8月10日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=69&block_no=47744&year=2023&month=8&day=&view=p1 米子 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.4度 新潟県佐渡市相川(2023年8月10日)<ref name="名前なし_3-20231105131129">[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=54&block_no=47602&year=2023&month=08&day=09&view=p1 相川 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.4度 [[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]](2013年8月11日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=44&block_no=47662&year=2013&month=08&day=11&view=p1 東京 2013年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.3度 新潟県上越市高田(2019年8月15日)<ref> [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=54&block_no=47612&year=2019&month=08&day=15&view=p1 高田 2019年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref>  *30.2度 新潟県佐渡市相川(2023年8月9日)<ref name="名前なし_3-20231105131129"/> *30.1度 [[愛媛県]][[松山市]](2023年8月10日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=73&block_no=47887&year=2023&month=8&day=&view=p1 松山 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> *30.1度 島根県松江市(2023年8月9日)<ref name="名前なし_2-20231105131129"/> *30.1度 鳥取県境港市(2023年8月9日)<ref name="名前なし-20231105131129"/> *30.1度 [[富山県]][[富山市]](2000年7月31日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=55&block_no=47607&year=2000&month=07&day=31&view=p1 富山 2000年7月(日ごとの値)] 気象庁</ref>  :参考(アメダス観測) ::31.4度 新潟県[[糸魚川市]](2023年8月10日)<ref> [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=54&block_no=0539&year=2023&month=08&day=15&view=p1 糸魚川 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::31.3度 新潟県糸魚川市(2019年8月15日)<ref> [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=54&block_no=0539&year=2019&month=08&day=15&view=p1 糸魚川 2019年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.8度 新潟県糸魚川市(1990年8月22日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=54&block_no=0539&year=1990&month=08&day=22&view=p1 糸魚川 1990年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.6度 新潟県[[岩船郡]][[粟島浦村]](2023年8月10日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=54&block_no=0995&year=2023&month=8&day=&view=p1 粟島 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.3度 [[石川県]][[小松市]](2000年7月31日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=56&block_no=1324&year=2000&month=07&day=31&view=p1 小松 2000年7月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.2度 島根県[[出雲市]]斐川(2023年8月9日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=68&block_no=0694&year=2023&month=08&day=09&view=p1 斐川 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.2度 富山県[[中新川郡]][[上市町]](1997年8月9日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=55&block_no=0553&year=1997&month=08&day=09&view=p1 上市 1997年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.0度 鳥取県[[鳥取市]][[湖山村|湖山]](2023年8月10日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=69&block_no=1519&year=2023&month=08&day=&view=p1 湖山 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.0度 鳥取県[[西伯郡]][[大山町]]塩津(2023年8月10日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=69&block_no=1231&year=2023&month=08&day=&view=p1 塩津 2023年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.0度 [[長崎県]][[南島原市]][[口之津町|口之津]](2017年8月5日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=84&block_no=0922&year=2017&month=8&day=&view=p1 口之津 2017年8月(日ごとの値)] 気象庁</ref> ::30.0度 [[福井県]][[丹生郡]][[越廼村]](2000年7月31日)<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_a1.php?prec_no=57&block_no=1316&year=2000&month=07&day=31&view=p1 越廼 2000年7月(日ごとの値)] 気象庁</ref> <!-- 上位の記録順なのか不明なので、上の金沢だけ残し、下の3箇所は隠し書きとしておきました。 **30.8℃ 石川県小松市(2007年8月3日)※25.5℃<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_a1.php?prec_no=56&block_no=1324&year=2007&month=8&day=3&view=p1 小松 2007年8月3日(10分ごとの値)] 気象庁</ref> **30.5℃ 東京都千代田区(2007年8月17日)※25.9℃<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/hourly_s1.php?prec_no=44&block_no=47662&year=2007&month=8&day=17&view=p1 東京 2007年8月17日(1時間ごとの値)] 気象庁</ref> **30.2℃ 大阪府大阪市(1991年7月26日)※26.2℃<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/hourly_s1.php?prec_no=62&block_no=47772&year=1991&month=7&day=26&view=p1 大阪 1991年7月26日(1時間ごとの値)] 気象庁</ref> ---> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[猛暑#猛暑日]] * [[天気予報]] * [[気候変動]] * [[地球温暖化]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{気象要素}} {{DEFAULTSORT:ねつたいや}} [[Category:気象]] [[Category:夏]] [[Category:季節現象]] [[Category:夏の季語]] {{Climate-stub}}
2003-09-07T01:12:37Z
2023-11-27T23:27:45Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:独自研究", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Cite web", "Template:Kotobank", "Template:気象要素", "Template:Climate-stub", "Template:正確性", "Template:Main", "Template:Refnest", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E5%B8%AF%E5%A4%9C
15,474
サマータイム (曲)
「サマータイム」(Summertime)は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲したアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード(英語版)。 スタンダード・ナンバーとして知られ、ジャズ、ソウル、R&B、ポップス、ロックなど幅広いジャンルでも歌われている。ジョージ・ガーシュウィンは1933年12月に作曲を開始した。彼は黒人の民俗音楽をもとに、自分自身の音楽を作曲しようとした。曲は1935年にリリースされている。 オペラの第1幕冒頭で、生まれたばかりの赤ん坊にクララが歌いかけるブルース調の子守唄である。 前半の「夏になれば豊かになれる、魚は跳ねて、綿の木は伸びる。父さんは金持ち、母さんはきれい。だから坊や、泣くのはおよし...」では、歌詞とは裏腹に1920年代のアメリカの黒人たちの過酷な生活が反映されているが、後半の歌詞では、「ある朝、お前は立ち上がって歌う、そして羽を広げて飛んでいく...」という子供の成長を祈る内容になっている。 その後、ジェイクが嵐に遭遇して行方不明となったときと、ジェイクの死を知ったクララが嵐で死んだ直後にも歌われるが、歌詞の一部が変えられ、悲壮な内容となっていく。 日本においては1998年5月、1937年に死去したジョージの著作権の保護期間が終了しパブリックドメインとなったが、その後の調査で「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」などと共に兄のアイラ・ガーシュウィンとの共同著作物であることが判明し、2035年まで保護期間が延長された。 現在までに少なくとも2600を超えるカヴァーが産み出されている 。 1936年にビリー・ホリデイが歌ったものがヒットして以来、ジャズにおけるスタンダードとなっている。1960年にはジョン・コルトレーンがこの曲を録音し、アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』に収録した。1966年7月14日に長崎を訪れたジョン・コルトレーンは、コンサート会場に行く前に自ら希望して浦上の爆心地に直行し献花した。そして公演の最後に"Summer Time"を演奏した。他にも、マイルス・デイヴィス、エラ・フィッツジェラルド、ロック、ソウルでは、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー演奏、ジャニス・ジョプリンが歌うブルース調カヴァーが有名である。アレンジが施され、一部歌詞も変えられている。ビリー・スチュアートも「サマータイム」のソウル/R&Bバージョンを歌っている。また、『Time Of The Season』(ふたりのシーズン)のヒットで知られるゾンビーズもデビューアルバムに収録している。 他にビル・エヴァンス、ゲイリー・バートン&フレンズがカバーしている。また、ハービー・ハンコックは1998年のアルバム『ガーシュウィン・ワールド』に、ジョニ・ミッチェルやスティーヴィー・ワンダーをゲストに迎えたカヴァーを収録した。1990年にグラミー賞をもらったハロリン・ブラックウェル(Harolyn Blackwell)がこの曲を授賞式で歌って、さらに有名になった。 クラシック音楽では、ギター独奏用の編曲に、武満徹『ギターのための12のうた』がある。他にヤッシャ・ハイフェッツが『ポーギーとベス』から6曲を選びヴァイオリン独奏用(ピアノ伴奏)に編曲したものの中にこの曲がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "「サマータイム」(Summertime)は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲したアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード(英語版)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スタンダード・ナンバーとして知られ、ジャズ、ソウル、R&B、ポップス、ロックなど幅広いジャンルでも歌われている。ジョージ・ガーシュウィンは1933年12月に作曲を開始した。彼は黒人の民俗音楽をもとに、自分自身の音楽を作曲しようとした。曲は1935年にリリースされている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オペラの第1幕冒頭で、生まれたばかりの赤ん坊にクララが歌いかけるブルース調の子守唄である。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "前半の「夏になれば豊かになれる、魚は跳ねて、綿の木は伸びる。父さんは金持ち、母さんはきれい。だから坊や、泣くのはおよし...」では、歌詞とは裏腹に1920年代のアメリカの黒人たちの過酷な生活が反映されているが、後半の歌詞では、「ある朝、お前は立ち上がって歌う、そして羽を広げて飛んでいく...」という子供の成長を祈る内容になっている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、ジェイクが嵐に遭遇して行方不明となったときと、ジェイクの死を知ったクララが嵐で死んだ直後にも歌われるが、歌詞の一部が変えられ、悲壮な内容となっていく。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本においては1998年5月、1937年に死去したジョージの著作権の保護期間が終了しパブリックドメインとなったが、その後の調査で「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」などと共に兄のアイラ・ガーシュウィンとの共同著作物であることが判明し、2035年まで保護期間が延長された。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在までに少なくとも2600を超えるカヴァーが産み出されている 。", "title": "カバー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1936年にビリー・ホリデイが歌ったものがヒットして以来、ジャズにおけるスタンダードとなっている。1960年にはジョン・コルトレーンがこの曲を録音し、アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』に収録した。1966年7月14日に長崎を訪れたジョン・コルトレーンは、コンサート会場に行く前に自ら希望して浦上の爆心地に直行し献花した。そして公演の最後に\"Summer Time\"を演奏した。他にも、マイルス・デイヴィス、エラ・フィッツジェラルド、ロック、ソウルでは、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー演奏、ジャニス・ジョプリンが歌うブルース調カヴァーが有名である。アレンジが施され、一部歌詞も変えられている。ビリー・スチュアートも「サマータイム」のソウル/R&Bバージョンを歌っている。また、『Time Of The Season』(ふたりのシーズン)のヒットで知られるゾンビーズもデビューアルバムに収録している。", "title": "カバー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "他にビル・エヴァンス、ゲイリー・バートン&フレンズがカバーしている。また、ハービー・ハンコックは1998年のアルバム『ガーシュウィン・ワールド』に、ジョニ・ミッチェルやスティーヴィー・ワンダーをゲストに迎えたカヴァーを収録した。1990年にグラミー賞をもらったハロリン・ブラックウェル(Harolyn Blackwell)がこの曲を授賞式で歌って、さらに有名になった。", "title": "カバー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "クラシック音楽では、ギター独奏用の編曲に、武満徹『ギターのための12のうた』がある。他にヤッシャ・ハイフェッツが『ポーギーとベス』から6曲を選びヴァイオリン独奏用(ピアノ伴奏)に編曲したものの中にこの曲がある。", "title": "カバー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "カバー" } ]
「サマータイム」(Summertime)は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲したアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード。
{{Otheruses|ジョージ・ガーシュウィンが作曲した楽曲|その他の同名あるいは類似する題名の楽曲|サマータイム (曖昧さ回避)}} {{Infobox Song | Name = サマータイム | Type = | Artist = | alt Artist = [[ビリー・ホリデイ]](1936年) | from Album = | from Album2 = | Released = 1935年 | Format = | track_no = | Recorded = | Genre = [[オペラ]]、[[ジャズ]] | Length = | Writer = デュボーズ・ヘイワード | Composer = [[ジョージ・ガーシュウィン]] | Label = | Producer = | Chart position = | Tracks = | prev = | prev_no = | next = | next_no = | Misc = }} {{Portal|クラシック音楽}} 「'''サマータイム'''」(''Summertime'')は、[[ジョージ・ガーシュウィン]]が1935年の[[オペラ]]『[[ポーギーとベス]]』のために作曲した[[アリア]]。作詞は{{仮リンク|デュボーズ・ヘイワード|en|DuBose Heyward|DuBose Heyward}}。 == 解説 == [[スタンダード・ナンバー]]として知られ、ジャズ、ソウル、R&B、[[ポピュラー音楽|ポップス]]、[[ロック (音楽)|ロック]]など幅広いジャンルでも歌われている<ref name=":0">{{Cite web|title=「サマータイム」などガーシュウィンの337曲 著作権管理再開へ|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013252191000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-10|last=日本放送協会}}</ref>。ジョージ・ガーシュウィンは1933年12月に作曲を開始した。彼は黒人の民俗音楽をもとに、自分自身の音楽を作曲しようとした<ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/georgegershwinhi00poll|url-access=registration|quote=Gershwin summertime spiritual style.|first=Howard|last=Pollack|author-link=Howard Pollack|title=George Gershwin: His Life and Work|publisher=University of California Press|year=2006|page=[https://archive.org/details/georgegershwinhi00poll/page/589 589]| access-date=02 April 2022}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=EoKvjKEsf0MC&q=Gershwin+summertime+negro&pg=PA171|first=William|last=Hyland|title=George Gershwin: A New Biography|publisher=Greenwood Publishing Group|year=2003|page=171|isbn=9780275981112| access-date=02 April 2022}}</ref>。曲は1935年にリリースされている。 オペラの第1幕冒頭で、生まれたばかりの赤ん坊にクララが歌いかける[[ブルース]]調の[[子守唄]]である。 前半の「夏になれば豊かになれる、魚は跳ねて、綿の木は伸びる。父さんは金持ち、母さんはきれい。だから坊や、泣くのはおよし…」では、歌詞とは裏腹に1920年代のアメリカの黒人たちの過酷な生活が反映されているが、後半の歌詞では、「ある朝、お前は立ち上がって歌う、そして羽を広げて飛んでいく…」という子供の成長を祈る内容になっている。 その後、ジェイクが嵐に遭遇して行方不明となったときと、ジェイクの死を知ったクララが嵐で死んだ直後にも歌われるが、歌詞の一部が変えられ、悲壮な内容となっていく。 日本においては1998年5月、1937年に死去したジョージの著作権の保護期間が終了し[[パブリックドメイン]]となったが、その後の調査で「[[サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー]]」などと共に兄の[[アイラ・ガーシュウィン]]との共同著作物であることが判明し、2035年まで保護期間が延長された<ref name=":0" />。 ==カバー== 現在までに少なくとも2600を超えるカヴァーが産み出されている<ref>http://www.summertime-connection.nl/ST%20Coverlist.pdf</ref> 。 [[1936年]]に[[ビリー・ホリデイ]]が歌ったものがヒットして以来、[[ジャズ]]におけるスタンダードとなっている<ref name=":0" />。[[1960年]]には[[ジョン・コルトレーン]]がこの曲を録音し、アルバム『[[マイ・フェイヴァリット・シングス (ジョン・コルトレーンのアルバム)|マイ・フェイヴァリット・シングス]]』に収録した。[[1966年]]7月14日に[[長崎市|長崎]]を訪れたジョン・コルトレーンは、コンサート会場に行く前に自ら希望して浦上の爆心地に直行し献花した。そして公演の最後に"Summer Time"を演奏した。他にも、[[マイルス・デイヴィス]]、[[エラ・フィッツジェラルド]]、ロック、ソウルでは、[[ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー]]演奏、[[ジャニス・ジョプリン]]が歌う[[ブルース]]調カヴァーが有名である。アレンジが施され、一部歌詞も変えられている。ビリー・スチュアートも「サマータイム」のソウル/R&Bバージョンを歌っている。また、『Time Of The Season』(ふたりのシーズン)のヒットで知られる[[ゾンビーズ]]もデビューアルバムに収録している。 他に[[ビル・エヴァンス]]、[[ゲイリー・バートン]]&フレンズがカバーしている。また、[[ハービー・ハンコック]]は[[1998年]]のアルバム『[[ガーシュウィン・ワールド]]』に、[[ジョニ・ミッチェル]]や[[スティーヴィー・ワンダー]]をゲストに迎えたカヴァーを収録した<ref>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/gershwins-world-mw0000038316 |last=Newsom |first=Jim |title=Herbie Hancock - Gershwin's World Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-04-23}}</ref>。[[1990年]]に[[グラミー賞]]をもらった[[ハロリン・ブラックウェル]]([[:en:Harolyn Blackwell|Harolyn Blackwell]])がこの曲を授賞式で歌って、さらに有名になった。 [[クラシック音楽]]では、[[ギター]]独奏用の編曲に、[[武満徹]]『ギターのための12のうた』がある。他に[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]が『ポーギーとベス』から6曲を選び[[ヴァイオリン]]独奏用(ピアノ伴奏)に編曲したものの中にこの曲がある。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ブルース]] * [[R&B]] == 外部リンク == * {{YouTube|A24JZkgvNv4|Big Brother & The Holding Company - Summertime}}・[[ジャニス・ジョプリン]]のバージョン {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さまあたいむ}} [[Category:ガーシュウィンの楽曲]] [[Category:オペラの中の楽曲]] [[Category:ソプラノ・アリア]] [[Category:1935年の楽曲]] [[Category:アメリカ合衆国の歌]] [[Category:ブルース]] [[Category:ジャズの楽曲]] [[Category:子守歌]] [[Category:ニュー・サウンズ・イン・ブラス]] [[Category:楽曲 さ|まあたいむ]]
2003-09-07T01:17:40Z
2023-10-16T09:05:32Z
false
false
false
[ "Template:Portal", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:YouTube", "Template:Otheruses", "Template:Infobox Song", "Template:Cite book", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0_(%E6%9B%B2)
15,475
夏休み
夏休み(なつやすみ)、夏季休暇(かききゅうか)は、教育機関や企業などで夏の期間、授業や業務を休みにする休暇のことである。北半球では主に7月下旬から8月の終わり頃までの、長期休業である。 日本の教育機関の場合、正式名称は「夏季休業」という。校舎などに冷房設備がない場合が多く、太平洋高気圧支配下での授業が暑熱により困難なので、その間を休業とするためとされる。そして、その期間に期待される教育効果の主たるものは、普段学校では体験することの出来ないことへの児童・生徒の挑戦とされる。 幼稚園・小学校・中学校・高等学校の夏休み期間は全国一律ではなく、その土地の気候や風土により期間の長短がある。公立小学校・公立中学校の場合、学校教育法施行令第29条に基づき、日数は原則として学校を管轄する市町村の教育委員会が定めている。大学の場合は、カリキュラムや前期試験・中間試験の時期により異なる。 1939年以降の戦時下においては、夏休みの呼称が廃止され、心身鍛錬の期間とされていた。 夏休みの期間は、日本では7月下旬から8月下旬までが一般的である。 2020年(令和2年)の夏休みについては、新型コロナウイルス感染防止のための臨時休校の実施などの影響を踏まえ、例外措置が取られた。文部科学省における「新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえた公立学校における学習指導等に関する状況について」の調査内容公表によると、全体の95%が長期休業期間の短縮を予定する。夏休み期間は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校では16日間、高等学校では23日間が最も多い。最短は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校が9日間、高等学校が4日間であった。休業期間を短縮しない学校も、中等教育学校以外では見られた。ただし、令和2年7月豪雨発生前の調査のため、数値が変動する可能性もある。 内閣府「平成27年版自殺対策白書」の(過去40年間)「18歳以下の日別自殺者数」では二学期が始まる9月1日前後で突出した自殺数となっている。 上記の内閣府のデータをもとに、9月1日が自殺の多発日として対策が取られている。一方で、自殺総合対策推進センター は「直近10年間の自殺のピークは8月下旬にある」と結論づけた。「夏休みの短縮化も影響している可能性ある」とし、「休み明けに限らない、幅広い期間の対策の必要性」を示唆している。 労働法においては特別休暇(非法定休暇)に分類される。日本では月遅れ盆に合わせ8月15日前後に夏期休暇を設ける企業が多い。休業の形態は、全社的もしくは事業所単位での一斉休業の場合と、従業員ごとの交代制をとる場合とがある。官公庁、金融機関、病院などはお盆の期間でも暦通りの勤務となるため、後者のほうに該当する。企業によっては連続休暇とせず、ある一定の日数を7月から8月の間に断続的に取得させる形態もある。4勤2休などの交代勤務が導入されている製造部門などでは夏休みが無いことが多い。その一方で、夏季の電力需要を抑えるため操業調整を行い、お盆休みとは別の休みを取る所もある(夏季電力休暇)。土曜日や祝日の一部を勤務日に変更し、その分の休日を夏期休暇に充当して大型連休にする所もある。 近年、夏期休暇を旅行などの目的で取得する人を中心に、旅行料金の下がる8月下旬 - 9月に休暇をとる人が増えている。 一方で鉄道・バスなどの運輸事業、旅行会社や飲食店などのサービス業では、この時期はむしろ書き入れ時なので、夏期休暇を別日(6月下旬 - 7月もしくは8月下旬 - 9月)に交代で取ることが多い。全く無いという企業もある。 平日の帯番組を担当する司会者もこの時期に合わせて夏休みを取ることがある(とくダネ!の小倉智昭、ミヤネ屋の宮根誠司、報道ステーションの古舘伊知郎などがその一例)。 アメリカ合衆国では6月から8月にかけて夏休みがとられることが多い。 学校では主に6月に夏休みが始まり(州や、地域、学校によって異なる)、学校年度の始まりが9月になるため、それまでの2 - 3ヶ月間が夏休みの期間となる。宿題はないが、その代わりとして「サマースクール」を開講する学校や州がある。 一方、社会人を対象としたビジネススクールなど高等教育においては、総修学期間の短縮のため、夏休みを設定しないこともしばしばある。 アメリカでは、人口の大半が農業に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができたという話が広く知られている。しかし実際は、20世紀初頭、当時は脳は筋肉で出来ており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたとされる。 グアムの学校では夏の約3ヶ月間が夏休みとなっている。グアムではサマーキャンプなどの開催が少なく、アメリカ本土やハワイで過ごしたり、アジアやヨーロッパの人と国際結婚をしている人たちは相手の国やその近隣の国を旅行するケースも多い。 カナダでは6月末から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い。 イギリスでは7月下旬から8月にかけて夏休みがとられることが多い。イギリスの学校では9月が年度初めとなることから、学年末後となる夏休みには宿題が出されることは基本的にないとされる。GCSEやAレベルなどの試験が始まる前の学齢で進学塾に通うことは稀である。夏休みが始まる7月20日前後の週末に地方の高速道路で渋滞が発生するが、これは共働き家庭で夏休みに入った子供たちの面倒を見てもらうために祖父母宅に預ける車で混雑すると言われている。 フランスでは7月から8月にかけて夏休みがとられることが多い。旅行に行く人や海辺や山のアパートを借りて過ごす人も多い。また祖父母が田舎に住んでいる場合や別荘を所有している場合には、子どもだけで1週間から2週間過ごすこともある。フランスにはアクティヴィティつきの合宿を提供する組織が複数あり、スポーツ、言語学習、料理学習などの内容で週単位で開催されている。また、合宿ほど長期間ではないが、その他のアクティヴィティとして美術館や博物館が催すアトリエも人気がある。 ドイツでは、州により異なるが、6月下旬から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い。 イタリアの学校では6月初旬から9月初旬までの約3ヶ月間を夏休みとすることが多い。特に7月から8月にかけて夏休みがとられることが多いとされる。 ポーランドでは学校は6月下旬から夏休みに入ることが多い。 オーストリアでは法律で最低25日間の有給休暇が定められているため、平均2週間、短くても1週間の夏休みをとることが一般的である。内陸国のためビーチリゾートが人気で、自動車でイタリアやクロアチアなどに行き滞在型のアパートメントなどで自炊しながら過ごす人も多い。黒海沿岸のリゾートやエジプトのリゾートなどで過ごす人や国内のチロルやザルツカンマグートなどでハイキングやウォータースポーツを楽しむ人もいる。 チェコでは学校は7月5日と6日が祝日のため、この両日をまたぐように夏休みをとる人が多い。チェコでは夏休みに郊外のコテージや田舎の実家に行く家族が多かったが、イタリアやギリシャなどの保養地ですごすケースも増えている。 ハンガリーでは2~3週間の休みを取る人が多い。夏休みのシーズンには旅行代理店に旅行プランが並ぶが、ハンガリーには海がないことから海辺のリゾートを旅行先にしたものも多い。 ブルガリアの公立学校では夏休みの期間が長く、小学校では5月下旬から9月15日まで約4ヶ月間夏休みとなる。 リトアニアではバルト海沿岸のニダやプランガなどのリゾート地ですごす人が多い。また、エストニアでは夏休みに国内の島や、スペイン、トルコ、北アフリカ、キプロスなどですごす人が多いが、冬に1~2週間の休暇をかわりにとる人も多くなっている。 スウェーデンの学校では次の学事年度が8月20日以降の最初の月曜日に始まるため、それまでの2 - 3ヶ月間(6月中旬頃に開始)が夏休みの期間となる。宿題はない。しかしレポートの提出が求められるケースがある。 ロシアでは7月末から8月にかけて夏休みがとられることが多い。 韓国では学事年度は3月に始まるが、2学期制である小・中・高校の夏休みは、日本とほぼ同じく7月中旬または下旬から8月下旬までとなっている。一方、大学・大学院では6月末または7月初めから、8月下旬までとなっている。大学・大学院は3月入学と9月入学を併用しているため、8月中旬にも卒業式が行われる。 中国では次の学事年度が9月に始まるため、7月上旬頃から8月末までの期間が、夏休み(暑假)期間となる。大学では6月20日ぐらいに始まる。(夏休みは学校のみため) 香港の学校では9月から学期がスタートして6月に終わり、7月からの約2箇月間が夏休みとなる。香港では7・8月には祝日がないため、サラリーマンは会社や同僚との時間を調整して夏休みをとることが多い。 インドネシアは国土が赤道近辺にあるため、季節としての夏を特定できない。オランダ植民地時代の名残か、学事年度が9月に始まるため、その前2 - 3ヶ月間を長期休暇としている。なお、現在、インドネシアは2学期制を採用しており、前期と後期の間の1月も1ヶ月間の休暇となっている。 フィリピンの学校では次の学事年度が6月に始まるため、それまでの2ヶ月間(4月から5月)が夏休みの期間である。 タイの学校では新学年度が毎年の5月中旬~下旬に始まるため、それまでの約2ヶ月間(3月終わりから5月中旬)が夏休みの期間である。 北半球とは夏冬が逆転する。オーストラリアでは12月から2月にかけて夏休みがとられることが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "夏休み(なつやすみ)、夏季休暇(かききゅうか)は、教育機関や企業などで夏の期間、授業や業務を休みにする休暇のことである。北半球では主に7月下旬から8月の終わり頃までの、長期休業である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の教育機関の場合、正式名称は「夏季休業」という。校舎などに冷房設備がない場合が多く、太平洋高気圧支配下での授業が暑熱により困難なので、その間を休業とするためとされる。そして、その期間に期待される教育効果の主たるものは、普段学校では体験することの出来ないことへの児童・生徒の挑戦とされる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "幼稚園・小学校・中学校・高等学校の夏休み期間は全国一律ではなく、その土地の気候や風土により期間の長短がある。公立小学校・公立中学校の場合、学校教育法施行令第29条に基づき、日数は原則として学校を管轄する市町村の教育委員会が定めている。大学の場合は、カリキュラムや前期試験・中間試験の時期により異なる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1939年以降の戦時下においては、夏休みの呼称が廃止され、心身鍛錬の期間とされていた。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "夏休みの期間は、日本では7月下旬から8月下旬までが一般的である。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)の夏休みについては、新型コロナウイルス感染防止のための臨時休校の実施などの影響を踏まえ、例外措置が取られた。文部科学省における「新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえた公立学校における学習指導等に関する状況について」の調査内容公表によると、全体の95%が長期休業期間の短縮を予定する。夏休み期間は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校では16日間、高等学校では23日間が最も多い。最短は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校が9日間、高等学校が4日間であった。休業期間を短縮しない学校も、中等教育学校以外では見られた。ただし、令和2年7月豪雨発生前の調査のため、数値が変動する可能性もある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "内閣府「平成27年版自殺対策白書」の(過去40年間)「18歳以下の日別自殺者数」では二学期が始まる9月1日前後で突出した自殺数となっている。 上記の内閣府のデータをもとに、9月1日が自殺の多発日として対策が取られている。一方で、自殺総合対策推進センター は「直近10年間の自殺のピークは8月下旬にある」と結論づけた。「夏休みの短縮化も影響している可能性ある」とし、「休み明けに限らない、幅広い期間の対策の必要性」を示唆している。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "労働法においては特別休暇(非法定休暇)に分類される。日本では月遅れ盆に合わせ8月15日前後に夏期休暇を設ける企業が多い。休業の形態は、全社的もしくは事業所単位での一斉休業の場合と、従業員ごとの交代制をとる場合とがある。官公庁、金融機関、病院などはお盆の期間でも暦通りの勤務となるため、後者のほうに該当する。企業によっては連続休暇とせず、ある一定の日数を7月から8月の間に断続的に取得させる形態もある。4勤2休などの交代勤務が導入されている製造部門などでは夏休みが無いことが多い。その一方で、夏季の電力需要を抑えるため操業調整を行い、お盆休みとは別の休みを取る所もある(夏季電力休暇)。土曜日や祝日の一部を勤務日に変更し、その分の休日を夏期休暇に充当して大型連休にする所もある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年、夏期休暇を旅行などの目的で取得する人を中心に、旅行料金の下がる8月下旬 - 9月に休暇をとる人が増えている。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一方で鉄道・バスなどの運輸事業、旅行会社や飲食店などのサービス業では、この時期はむしろ書き入れ時なので、夏期休暇を別日(6月下旬 - 7月もしくは8月下旬 - 9月)に交代で取ることが多い。全く無いという企業もある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "平日の帯番組を担当する司会者もこの時期に合わせて夏休みを取ることがある(とくダネ!の小倉智昭、ミヤネ屋の宮根誠司、報道ステーションの古舘伊知郎などがその一例)。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では6月から8月にかけて夏休みがとられることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "学校では主に6月に夏休みが始まり(州や、地域、学校によって異なる)、学校年度の始まりが9月になるため、それまでの2 - 3ヶ月間が夏休みの期間となる。宿題はないが、その代わりとして「サマースクール」を開講する学校や州がある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、社会人を対象としたビジネススクールなど高等教育においては、総修学期間の短縮のため、夏休みを設定しないこともしばしばある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アメリカでは、人口の大半が農業に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができたという話が広く知られている。しかし実際は、20世紀初頭、当時は脳は筋肉で出来ており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたとされる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "グアムの学校では夏の約3ヶ月間が夏休みとなっている。グアムではサマーキャンプなどの開催が少なく、アメリカ本土やハワイで過ごしたり、アジアやヨーロッパの人と国際結婚をしている人たちは相手の国やその近隣の国を旅行するケースも多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カナダでは6月末から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イギリスでは7月下旬から8月にかけて夏休みがとられることが多い。イギリスの学校では9月が年度初めとなることから、学年末後となる夏休みには宿題が出されることは基本的にないとされる。GCSEやAレベルなどの試験が始まる前の学齢で進学塾に通うことは稀である。夏休みが始まる7月20日前後の週末に地方の高速道路で渋滞が発生するが、これは共働き家庭で夏休みに入った子供たちの面倒を見てもらうために祖父母宅に預ける車で混雑すると言われている。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "フランスでは7月から8月にかけて夏休みがとられることが多い。旅行に行く人や海辺や山のアパートを借りて過ごす人も多い。また祖父母が田舎に住んでいる場合や別荘を所有している場合には、子どもだけで1週間から2週間過ごすこともある。フランスにはアクティヴィティつきの合宿を提供する組織が複数あり、スポーツ、言語学習、料理学習などの内容で週単位で開催されている。また、合宿ほど長期間ではないが、その他のアクティヴィティとして美術館や博物館が催すアトリエも人気がある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ドイツでは、州により異なるが、6月下旬から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イタリアの学校では6月初旬から9月初旬までの約3ヶ月間を夏休みとすることが多い。特に7月から8月にかけて夏休みがとられることが多いとされる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ポーランドでは学校は6月下旬から夏休みに入ることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オーストリアでは法律で最低25日間の有給休暇が定められているため、平均2週間、短くても1週間の夏休みをとることが一般的である。内陸国のためビーチリゾートが人気で、自動車でイタリアやクロアチアなどに行き滞在型のアパートメントなどで自炊しながら過ごす人も多い。黒海沿岸のリゾートやエジプトのリゾートなどで過ごす人や国内のチロルやザルツカンマグートなどでハイキングやウォータースポーツを楽しむ人もいる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "チェコでは学校は7月5日と6日が祝日のため、この両日をまたぐように夏休みをとる人が多い。チェコでは夏休みに郊外のコテージや田舎の実家に行く家族が多かったが、イタリアやギリシャなどの保養地ですごすケースも増えている。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ハンガリーでは2~3週間の休みを取る人が多い。夏休みのシーズンには旅行代理店に旅行プランが並ぶが、ハンガリーには海がないことから海辺のリゾートを旅行先にしたものも多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ブルガリアの公立学校では夏休みの期間が長く、小学校では5月下旬から9月15日まで約4ヶ月間夏休みとなる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "リトアニアではバルト海沿岸のニダやプランガなどのリゾート地ですごす人が多い。また、エストニアでは夏休みに国内の島や、スペイン、トルコ、北アフリカ、キプロスなどですごす人が多いが、冬に1~2週間の休暇をかわりにとる人も多くなっている。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "スウェーデンの学校では次の学事年度が8月20日以降の最初の月曜日に始まるため、それまでの2 - 3ヶ月間(6月中旬頃に開始)が夏休みの期間となる。宿題はない。しかしレポートの提出が求められるケースがある。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ロシアでは7月末から8月にかけて夏休みがとられることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "韓国では学事年度は3月に始まるが、2学期制である小・中・高校の夏休みは、日本とほぼ同じく7月中旬または下旬から8月下旬までとなっている。一方、大学・大学院では6月末または7月初めから、8月下旬までとなっている。大学・大学院は3月入学と9月入学を併用しているため、8月中旬にも卒業式が行われる。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中国では次の学事年度が9月に始まるため、7月上旬頃から8月末までの期間が、夏休み(暑假)期間となる。大学では6月20日ぐらいに始まる。(夏休みは学校のみため)", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "香港の学校では9月から学期がスタートして6月に終わり、7月からの約2箇月間が夏休みとなる。香港では7・8月には祝日がないため、サラリーマンは会社や同僚との時間を調整して夏休みをとることが多い。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "インドネシアは国土が赤道近辺にあるため、季節としての夏を特定できない。オランダ植民地時代の名残か、学事年度が9月に始まるため、その前2 - 3ヶ月間を長期休暇としている。なお、現在、インドネシアは2学期制を採用しており、前期と後期の間の1月も1ヶ月間の休暇となっている。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "フィリピンの学校では次の学事年度が6月に始まるため、それまでの2ヶ月間(4月から5月)が夏休みの期間である。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "タイの学校では新学年度が毎年の5月中旬~下旬に始まるため、それまでの約2ヶ月間(3月終わりから5月中旬)が夏休みの期間である。", "title": "各国の夏休み" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北半球とは夏冬が逆転する。オーストラリアでは12月から2月にかけて夏休みがとられることが多い。", "title": "各国の夏休み" } ]
夏休み(なつやすみ)、夏季休暇(かききゅうか)は、教育機関や企業などで夏の期間、授業や業務を休みにする休暇のことである。北半球では主に7月下旬から8月の終わり頃までの、長期休業である。
{{脚注の不足|date=2023年6月}} {{Otheruses}} [[ファイル:Suma Beach.jpg|thumb|right|240px|夏休みは[[海岸]]に人が集まる(イメージ)]] '''夏休み'''(なつやすみ)、'''夏季休暇'''(かききゅうか)は、[[教育機関]]や[[企業]]などで[[夏]]の期間、[[授業]]や業務を休みにする[[休日|休暇]]のことである。[[北半球]]では主に[[7月]][[下旬]]から[[8月]]の終わり頃までの、長期[[休業]]である。 == 各国の夏休み == === 日本 === {{Main2|日本の学校における夏休み(夏季休業)の詳細は「[[日本の学校における休業日]]」を}} [[日本]]の教育機関の場合、正式名称は「夏季休業」という<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/063.html|title=夏期休暇?夏季休暇?|publisher=NHK| accessdate=2020-7-29}}</ref><ref name=学校教育法>{{Cite web|和書|url= https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=328CO0000000340#L|title=学校教育法施行令|publisher=e-gov|accessdate=2020-7-29}}</ref>。校舎などに[[エア・コンディショナー|冷房設備]]がない場合が多く、[[太平洋高気圧]]支配下での授業が暑熱により困難なので、その間を休業とするためとされる。そして、その期間に期待される教育効果の主たるものは、普段学校では体験することの出来ないことへの児童・生徒の挑戦とされる<ref name=学校教育法/>。 [[幼稚園]]・[[小学校]]・[[中学校]]・[[高等学校]]の夏休み期間は全国一律ではなく、その土地の気候や風土により期間の長短がある。公立小学校・公立中学校の場合、[[学校教育法施行令]]第29条に基づき、日数は原則として学校を管轄する市町村の[[教育委員会]]が定めている。[[大学]]の場合は、カリキュラムや前期試験・中間試験の時期により異なる。 [[1939年]]以降の戦時下においては、夏休みの呼称が廃止され、心身鍛錬の期間とされていた<ref>{{PDFlink|[https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/research/dglb/rn/rn_list/rnsenji2-203.pdf 日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動 第五編 言論統制と文化運動 第三章 教育運動]}} 法政大学大原社会問題研究所 2017年10月7日閲覧</ref>。 ==== 幼稚園・小学校・中学校・高等学校 ==== 夏休みの期間は、日本では7月下旬から8月下旬までが一般的である<ref>http://mengry.net/2016/03/14/natsuyasumi_kikan/</ref>。 ===== 幼稚園・小学校・中学校・高等学校における例外措置について ===== [[2020年]]([[令和2年]])の夏休みについては、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染防止のための臨時休校の実施などの影響を踏まえ、例外措置が取られた。[[文部科学省]]における「新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえた公立学校における学習指導等に関する状況について」の調査内容公表によると、全体の95%が長期休業期間の短縮を予定する。夏休み期間は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校では16日間、高等学校では23日間が最も多い。最短は公立幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、特別支援学校が9日間、高等学校が4日間であった。休業期間を短縮しない学校も、中等教育学校以外では見られた。ただし、[[令和2年7月豪雨]]発生前の調査のため、数値が変動する可能性もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/content/20200717-mxt_kouhou01-000004520_1.pdf|title=新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえた公立学校における学習指導等に関する状況について(令和2年6月23日時点)|accessdate=2020-7-23|publisher=文部科学省|date=2020-7-17|format=PDF}}</ref>。 ===== 自殺 ===== {{seealso|9月1日問題}} 内閣府「平成27年版自殺対策白書」の(過去40年間)「18歳以下の日別自殺者数」では二学期が始まる9月1日前後で突出した自殺数となっている<ref>{{cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/bf188f5a98fc1ff5d0ea6389f5755ab767c8a5f5 |title= 9月1日に考える、自殺と子どもたちの逃げ道|author=平岩国泰|accessdate=2020-7-29}}</ref>。 上記の内閣府のデータをもとに、9月1日が自殺の多発日として対策が取られている<ref name=総合/>。一方で、[https://jssc.ncnp.go.jp/ 自殺総合対策推進センター] は「直近10年間の自殺のピークは8月下旬にある」と結論づけた<ref name=総合/>。「夏休みの短縮化も影響している可能性ある」とし、「休み明けに限らない、幅広い期間の対策の必要性」を示唆している<ref name=総合>{{cite news|url= https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/441266/ |title=子どもの自殺、ピークは夏休み後半 直近10年「9月1日」から変化|publisher=西日本新聞社|date=2018-8-15|accessdate=2020-7-29}}</ref>。 ==== 大学・高等専門学校 ==== {{Main|日本の学校における休業日#夏季休業}} ==== 企業 ==== {{労働における休み}} 労働法においては[[特別休暇]](非法定休暇)に分類される。日本では月遅れ盆に合わせ[[8月15日]]前後に夏期休暇を設ける企業が多い。休業の形態は、全社的もしくは事業所単位での一斉休業の場合と、従業員ごとの交代制をとる場合とがある。官公庁、金融機関、病院などはお盆の期間でも暦通りの勤務となるため、後者のほうに該当する。企業によっては連続休暇とせず、ある一定の日数を7月から8月の間に断続的に取得させる形態もある。4勤2休などの[[シフト勤務|交代勤務]]が導入されている製造部門などでは夏休みが無いことが多い。その一方で、夏季の電力需要を抑えるため操業調整を行い、お盆休みとは別の休みを取る所もある(夏季電力休暇)。土曜日や祝日の一部を勤務日に変更し、その分の休日を夏期休暇に充当して大型連休にする所もある。 近年、夏期休暇を旅行などの目的で取得する人を中心に、旅行料金の下がる8月下旬 - 9月に休暇をとる人が増えている。 一方で[[鉄道事業者|鉄道]]・[[日本のバス|バス]]などの運輸事業、[[旅行会社]]や飲食店などのサービス業では、この時期はむしろ[[書き入れ時]]なので、夏期休暇を別日(6月下旬 - 7月もしくは8月下旬 - 9月)に交代で取ることが多い。全く無いという企業もある。 平日の帯番組を担当する司会者もこの時期に合わせて夏休みを取ることがある([[情報プレゼンター とくダネ!|とくダネ!]]の[[小倉智昭]]、[[情報ライブ ミヤネ屋|ミヤネ屋]]の[[宮根誠司]]、[[報道ステーション]]の[[古舘伊知郎]]などがその一例)。 === アメリカ合衆国 === [[アメリカ合衆国]]では6月から8月にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31">[https://ocvb.or.jp/pages/data/H31_NewMarketpromotion.pdf 平成31年度 地域別海外誘客プロモーション計画 新規開拓市場(欧州・北米・豪・露) p.15] 一般財団法人沖縄観光コンベンションビューロー(2023年4月4日閲覧)。</ref>。 学校では主に6月に夏休みが始まり([[州]]や、地域、学校によって異なる)、[[学校年度]]の始まりが9月になるため、それまでの2 - 3ヶ月間が夏休みの期間となる。宿題はないが、その代わりとして「[[サマースクール]]」を開講する学校や州がある。 一方、社会人を対象とした[[ビジネススクール]]など高等教育においては、総修学期間の短縮のため、夏休みを設定しないこともしばしばある。 アメリカでは、人口の大半が[[農業]]に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができたという話が広く知られている。しかし実際は、[[20世紀]]初頭、当時は[[脳]]は[[筋肉]]で出来ており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたとされる<ref>{{cite news |title=親はうんざり、長すぎるアメリカの学校の夏休み もはや時代にそぐわない100年前の旧弊|author=石紀美子 |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2014-8-22 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41533 |accessdate=2014-8-23}}</ref>。 グアムの学校では夏の約3ヶ月間が夏休みとなっている<ref name="arukikata20090824">[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2134529/ グアムの人たちの夏休みの過ごし方] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。グアムではサマーキャンプなどの開催が少なく、アメリカ本土やハワイで過ごしたり、アジアやヨーロッパの人と国際結婚をしている人たちは相手の国やその近隣の国を旅行するケースも多い<ref name="arukikata20090824" />。 === カナダ === [[カナダ]]では6月末から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。 === イギリス === [[イギリス]]では7月下旬から8月にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。イギリスの学校では9月が年度初めとなることから、学年末後となる夏休みには宿題が出されることは基本的にないとされる<ref name="education-in-england">[https://www.news-digest.co.uk/news/columns/education-in-england/16675-21.html 第21回 宿題のない夏休み] 英国ニュースダイジェスト(2023年6月5日閲覧)。</ref>。[[GCSE]]やAレベルなどの試験が始まる前の学齢で進学塾に通うことは稀である<ref name="education-in-england" />。夏休みが始まる7月20日前後の週末に地方の高速道路で渋滞が発生するが、これは共働き家庭で夏休みに入った子供たちの面倒を見てもらうために祖父母宅に預ける車で混雑すると言われている<ref name="education-in-england" />。 === フランス === [[フランス]]では7月から8月にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。旅行に行く人や海辺や山のアパートを借りて過ごす人も多い<ref name="arukikata20150825">[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2145348/ 僕の夏休み、フランスの場合] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。また祖父母が田舎に住んでいる場合や別荘を所有している場合には、子どもだけで1週間から2週間過ごすこともある<ref name="arukikata20150825" />。フランスにはアクティヴィティつきの合宿を提供する組織が複数あり、スポーツ、言語学習、料理学習などの内容で週単位で開催されている<ref name="arukikata20150825" />。また、合宿ほど長期間ではないが、その他のアクティヴィティとして美術館や博物館が催すアトリエも人気がある<ref name="arukikata20150825" />。 === ドイツ === [[ドイツ]]では、州により異なるが、6月下旬から9月上旬にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。 === イタリア === [[イタリア]]の学校では6月初旬から9月初旬までの約3ヶ月間を夏休みとすることが多い<ref name="arukikata20140917">[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2141730/ イタリアの子供達の夏休みの過ごし方・・・] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。特に7月から8月にかけて夏休みがとられることが多いとされる<ref name="data31" />。 === ポーランド === [[ポーランド]]では学校は6月下旬から夏休みに入ることが多い<ref name="jetroreport">[https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/05000579/05000579_001_BUP_0.pdf 中・東欧ミニ情報] 独立行政法人日本貿易振興機構(2023年4月4日閲覧)。</ref>。 === オーストリア === オーストリアでは法律で最低25日間の有給休暇が定められているため、平均2週間、短くても1週間の夏休みをとることが一般的である<ref name="arukikata20090816">[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2171962/ オーストリアの夏休み] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。内陸国のためビーチリゾートが人気で、自動車でイタリアやクロアチアなどに行き滞在型のアパートメントなどで自炊しながら過ごす人も多い<ref name="arukikata20090816" />。黒海沿岸のリゾートやエジプトのリゾートなどで過ごす人や国内のチロルやザルツカンマグートなどでハイキングやウォータースポーツを楽しむ人もいる<ref name="arukikata20090816" />。 === チェコ === [[チェコ]]では学校は7月5日と6日が祝日のため、この両日をまたぐように夏休みをとる人が多い<ref name="jetroreport" />。チェコでは夏休みに郊外のコテージや田舎の実家に行く家族が多かったが、イタリアやギリシャなどの保養地ですごすケースも増えている<ref name="jetroreport" />。 === ハンガリー === ハンガリーでは2~3週間の休みを取る人が多い<ref name="jetroreport" />。夏休みのシーズンには旅行代理店に旅行プランが並ぶが、ハンガリーには海がないことから海辺のリゾートを旅行先にしたものも多い<ref name="jetroreport" />。 === ブルガリア === ブルガリアの公立学校では夏休みの期間が長く、小学校では5月下旬から9月15日まで約4ヶ月間夏休みとなる<ref>[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2204420/ ブルガリアの子供たちの夏の過ごし方:Manastir村訪問] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。 === バルト三国 === [[リトアニア]]ではバルト海沿岸のニダやプランガなどのリゾート地ですごす人が多い<ref name="jetroreport" />。また、[[エストニア]]では夏休みに国内の島や、スペイン、トルコ、北アフリカ、キプロスなどですごす人が多いが、冬に1~2週間の休暇をかわりにとる人も多くなっている<ref name="jetroreport" />。 ===スウェーデン=== [[スウェーデン]]の学校では次の学事年度が8月20日以降の最初の月曜日に始まるため、それまでの2 - 3ヶ月間(6月中旬頃に開始)が夏休みの期間となる。宿題はない。しかしレポートの提出が求められるケースがある。 === ロシア === [[ロシア]]では7月末から8月にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。 === 韓国 === [[大韓民国|韓国]]では学事年度は3月に始まるが、2学期制である小・中・高校の夏休みは、日本とほぼ同じく7月中旬または下旬から8月下旬までとなっている。一方、大学・大学院では6月末または7月初めから、8月下旬までとなっている。大学・大学院は3月入学と9月入学を併用しているため、8月中旬にも卒業式が行われる。 === 中国 === [[中華人民共和国|中国]]では次の学事年度が9月に始まるため、7月上旬頃から8月末までの期間が、夏休み('''暑假''')期間となる。大学では6月20日ぐらいに始まる。(夏休みは学校のみため) 香港の学校では9月から学期がスタートして6月に終わり、7月からの約2箇月間が夏休みとなる<ref name="arukikata20150829">[https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/2125708/ 香港における「僕の夏休み」] 地球の歩き方(2023年6月5日閲覧)。</ref>。香港では7・8月には祝日がないため、サラリーマンは会社や同僚との時間を調整して夏休みをとることが多い<ref name="arukikata20150829" />。 === インドネシア === [[インドネシア]]は国土が[[赤道]]近辺にあるため、季節としての夏を特定できない。オランダ植民地時代の名残か、学事年度が9月に始まるため、その前2 - 3ヶ月間を長期休暇としている。なお、現在、インドネシアは2学期制を採用しており、前期と後期の間の1月も1ヶ月間の休暇となっている。 === フィリピン === [[フィリピン]]の学校では次の学事年度が6月に始まるため、それまでの2ヶ月間(4月から5月)が夏休みの期間である<ref>[https://www.nhk.or.jp/school/eigo/kisoseka/kyouzai/005503.pdf 「キソ英語を学んでみたら世界とつながった」指導のヒント 第21回 フィリピン] 日本放送協会(2023年6月5日閲覧)。</ref>。 === タイ === [[タイ王国|タイ]]の学校では新学年度が毎年の5月中旬~下旬に始まるため、それまでの約2ヶ月間(3月終わりから5月中旬)が夏休みの期間である。 === 南半球の国 === 北半球とは夏冬が逆転する。[[オーストラリア]]では12月から2月にかけて夏休みがとられることが多い<ref name="data31" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[お盆]] * [[春休み]] * [[秋休み]] * [[冬休み]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:なつやすみ}} [[Category:夏]] [[Category:夏の季語]] [[de:Schulferien#Sommerferien]]
2003-09-07T01:22:17Z
2023-11-17T06:58:48Z
false
false
false
[ "Template:Main2", "Template:Seealso", "Template:Main", "Template:労働における休み", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:脚注の不足", "Template:Kotobank", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E4%BC%91%E3%81%BF
15,476
蚊取線香
蚊取り線香(かとりせんこう)とは、主に蚊を駆除する目的で、線香に除虫菊の有効成分(ピレトリン)や類似のピレスロイド系成分を練り込んだ燻煙式渦巻き型の殺虫剤である。 原料は粕粉(除虫菊の地上部分を半年間乾燥させたもの)、タブ粉、でんぷん、ピレスロイド(除虫菊に含まれる有効成分)、染料など。粉末状、棒状、渦巻状などに成形される。色は緑色がほとんど。7時間ほど燃焼するものが多いが、燃焼時間3時間程度の小巻の物や、12時間程度燃焼するものもある。 使用するには先端に着火し、最初に出る炎を吹き消して燠(おき)の状態にする。このようにすると不完全燃焼によって煙が立ちのぼるようになる。この煙そのものに蚊を殺す効果があると思われがちだが、実際には燃焼部分の手前で高温により揮発する化学物質(ピレスロイド)に殺虫作用がある(煙と異なり目には見えず、周囲に拡散して殺虫効果を生じさせている)。 今日では、全化学合成したピレスロイド系殺虫剤が使われている。除虫菊の代わりにレモングラスの成分などを使用した製品もあるが、そちらには忌避効果はあるものの殺虫効果はない。蚊取り線香メーカーによっては煙の少ないもの(逆に野外作業用で、羽虫が嫌う煙の多いものもある)、花の香料(ビャクダンやバラ他)や果物の香料を練りこませたものも発売している。タイではラベンダーの香りが人気だという。人間以外にペット用や、畜舎で使用する畜産用の大型などもある。屋外用ではアブやブユなどにも効果を発揮する製品も登場している。 日本での主な生産地は、和歌山県有田市である。有田市では地元の除虫菊を使った蚊取り線香を製造していた企業が1社あったが、2014年10月に製造を停止した。 開発国の日本を始めとして、世界でも生産・輸出されている。アメリカ合衆国ではモスキートコイル (Mosquito Coil) として売られている(但し、その利用に関して言えば有名ではない)。家庭の電化が遅れ、停電が頻発している国家や地域でも火種さえあれば使用でき、最後まで安定した効果が持続するので、蚊をはじめとする羽虫の防除で東南アジアを中心に普及し、蚊帳と共に、カ媒介の感染症であるマラリア・デング熱予防を期待して利用されている。一方で、科学的にはマラリア・デング熱の予防に有効との根拠は得られていない。 和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)は、1886年に福澤諭吉より紹介されたH.E.アモアより除虫菊の種子を譲り受ける。上山は、平安時代から日本に残る伝統的な風習「蚊遣り火」のように粉末状にした除虫菊におがくずを混ぜて燃やす方法を考えたが、夏に季節はずれの火鉢が必要であったために普及には至らなかった。 そこで上山は、今度は線香に除虫菊を練り込むことを考案、1890年に世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した。 棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。最大の欠点は、線香の形状から長時間の燃焼が難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは輸送や保管に不便である上に燃焼中に倒れやすくなるので、延長にも限度があった。 現在、日本で普及している渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、1895年からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる(倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと、全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる。この7時間とは、睡眠時間に合わせたものである。また、寝かせた状態で使うので、従来の形状よりも安全に取り扱えるようになった。 なお、考案されてから長きにわたり、人の手によって渦巻き状に成形してから、乾燥させて固める生産方式を採っていたが、1955年ころから自動化により、現在の渦巻き型の型抜き機械による成形に移行した。 他に短時間用・長時間用・線香が太い物などの種類があり、外国産のものには、四角形や六角形のものもある。 蚊取り線香の研究開発の様子やプロセスを紹介する映画『この一筋の煙に 大日本除虫菊中央研究所』が、大阪万博開催の前年にあたる1969年(昭和44年)、大日本除虫菊の企画の下、東京文映により製作された《カラー・21分》。映画タイトルの通り、大日本除虫菊の研究施設(大日本除虫菊中央研究所)で繰り広げられる蚊取り線香の研究開発の現場を映し出しているが、これと共に、大日本除虫菊による蚊取り線香発明の歴史についても若干触れられている。 当該映画作品は、科学映像館に於いて無料公開されている。 渦巻型の蚊取線香は中心部分を金属製でY字型の突起になっている線香立に固定して用いられることが多く、使用している際には灰が落ちるので、その受け皿として、金属製の線香皿や陶製の蚊遣器(かやりき)が用いられる。また、このようなY字型の線香立ではなく、耐熱性のガラス繊維に直接載せる線香皿もある。 蚊取り線香が複数枚封入されている製品には、アルミニウム製の線香立や線香皿を封入している。缶の蓋を裏返すと中心部分に直接Y字型の突起が切り込まれており、これを引き起こして線香皿として使用できるようにした製品や、金属缶の蓋部分に綿状のガラス繊維が敷かれており、そのまま線香皿として利用できるようにした製品もある。また、陶製の蚊遣器には代表的なものとして、ブタを模した蚊遣豚(かやりぶた)があり、夏の風物詩となっている。 また、キャンプやアウトドアや野外作業など、屋外での利用を想定した吊り下げ方式(フック付き)の線香皿もある。フックは線香皿の外周についており、吊るすときは線香が垂直になるので、ガラス綿に載せた上から金網で押さえて固定する。 これらの用具を用いることで、燃焼を伴う製品ながら安全に使用できる。皿または台が同梱されていることもある。 1960年代から火を使わず煙が出ないマット式の電気蚊取が開発され、さらに電気も使わず効果が数時間持続するスプレー式防虫剤も販売されている。先述のとおり火を使うタイプのものは、発煙し火災のリスクもあるなどデメリットが大きいことから、日本国内で年々見かけなくなってきている。 電源不要で屋外でも使用できることから、東南アジアなどでは屋外で長時間使用できる大型タイプに一定の需要がある。特にタイでは近隣諸国より多い100巻入りが売れているという。アース製薬では東南アジア向けに販売している製品を、アウトドア向けとして日本国内に逆輸入している。 蚊取線香の燃焼は、ベンゼンやホルムアルデヒドといった揮発性有機化合物(VOC)や、二酸化窒素、発がん性の多環芳香族炭化水素(PAH)を含む粒子状物質といった汚染物質を発生させる。研究によれば、蚊取線香1本の燃焼(2時間)は、紙巻きたばこ約75 - 137本分のPM2.5、同約51本分のホルムアルデヒドを発生させ、室内空気質は容易に環境基準を超えて汚染される。こうした汚染は、とりわけ子供の健康に深刻な影響を与える可能性があり、長期連用は喘息や喘鳴の増加と関連がある。 その他、火気の使用を含む、線香一般における危険性については線香#危険性を参照。 2021年には、台湾で蚊取り線香の杜撰な取り扱い、不始末が原因でビル火災が発生。46人死亡、41人が負傷している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "蚊取り線香(かとりせんこう)とは、主に蚊を駆除する目的で、線香に除虫菊の有効成分(ピレトリン)や類似のピレスロイド系成分を練り込んだ燻煙式渦巻き型の殺虫剤である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "原料は粕粉(除虫菊の地上部分を半年間乾燥させたもの)、タブ粉、でんぷん、ピレスロイド(除虫菊に含まれる有効成分)、染料など。粉末状、棒状、渦巻状などに成形される。色は緑色がほとんど。7時間ほど燃焼するものが多いが、燃焼時間3時間程度の小巻の物や、12時間程度燃焼するものもある。", "title": "材料・薬効" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "使用するには先端に着火し、最初に出る炎を吹き消して燠(おき)の状態にする。このようにすると不完全燃焼によって煙が立ちのぼるようになる。この煙そのものに蚊を殺す効果があると思われがちだが、実際には燃焼部分の手前で高温により揮発する化学物質(ピレスロイド)に殺虫作用がある(煙と異なり目には見えず、周囲に拡散して殺虫効果を生じさせている)。", "title": "材料・薬効" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "今日では、全化学合成したピレスロイド系殺虫剤が使われている。除虫菊の代わりにレモングラスの成分などを使用した製品もあるが、そちらには忌避効果はあるものの殺虫効果はない。蚊取り線香メーカーによっては煙の少ないもの(逆に野外作業用で、羽虫が嫌う煙の多いものもある)、花の香料(ビャクダンやバラ他)や果物の香料を練りこませたものも発売している。タイではラベンダーの香りが人気だという。人間以外にペット用や、畜舎で使用する畜産用の大型などもある。屋外用ではアブやブユなどにも効果を発揮する製品も登場している。", "title": "材料・薬効" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本での主な生産地は、和歌山県有田市である。有田市では地元の除虫菊を使った蚊取り線香を製造していた企業が1社あったが、2014年10月に製造を停止した。", "title": "材料・薬効" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "開発国の日本を始めとして、世界でも生産・輸出されている。アメリカ合衆国ではモスキートコイル (Mosquito Coil) として売られている(但し、その利用に関して言えば有名ではない)。家庭の電化が遅れ、停電が頻発している国家や地域でも火種さえあれば使用でき、最後まで安定した効果が持続するので、蚊をはじめとする羽虫の防除で東南アジアを中心に普及し、蚊帳と共に、カ媒介の感染症であるマラリア・デング熱予防を期待して利用されている。一方で、科学的にはマラリア・デング熱の予防に有効との根拠は得られていない。", "title": "材料・薬効" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)は、1886年に福澤諭吉より紹介されたH.E.アモアより除虫菊の種子を譲り受ける。上山は、平安時代から日本に残る伝統的な風習「蚊遣り火」のように粉末状にした除虫菊におがくずを混ぜて燃やす方法を考えたが、夏に季節はずれの火鉢が必要であったために普及には至らなかった。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そこで上山は、今度は線香に除虫菊を練り込むことを考案、1890年に世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した。 棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。最大の欠点は、線香の形状から長時間の燃焼が難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは輸送や保管に不便である上に燃焼中に倒れやすくなるので、延長にも限度があった。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現在、日本で普及している渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、1895年からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる(倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと、全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる。この7時間とは、睡眠時間に合わせたものである。また、寝かせた状態で使うので、従来の形状よりも安全に取り扱えるようになった。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、考案されてから長きにわたり、人の手によって渦巻き状に成形してから、乾燥させて固める生産方式を採っていたが、1955年ころから自動化により、現在の渦巻き型の型抜き機械による成形に移行した。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "他に短時間用・長時間用・線香が太い物などの種類があり、外国産のものには、四角形や六角形のものもある。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "蚊取り線香の研究開発の様子やプロセスを紹介する映画『この一筋の煙に 大日本除虫菊中央研究所』が、大阪万博開催の前年にあたる1969年(昭和44年)、大日本除虫菊の企画の下、東京文映により製作された《カラー・21分》。映画タイトルの通り、大日本除虫菊の研究施設(大日本除虫菊中央研究所)で繰り広げられる蚊取り線香の研究開発の現場を映し出しているが、これと共に、大日本除虫菊による蚊取り線香発明の歴史についても若干触れられている。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当該映画作品は、科学映像館に於いて無料公開されている。", "title": "開発の歴史と形状" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "渦巻型の蚊取線香は中心部分を金属製でY字型の突起になっている線香立に固定して用いられることが多く、使用している際には灰が落ちるので、その受け皿として、金属製の線香皿や陶製の蚊遣器(かやりき)が用いられる。また、このようなY字型の線香立ではなく、耐熱性のガラス繊維に直接載せる線香皿もある。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "蚊取り線香が複数枚封入されている製品には、アルミニウム製の線香立や線香皿を封入している。缶の蓋を裏返すと中心部分に直接Y字型の突起が切り込まれており、これを引き起こして線香皿として使用できるようにした製品や、金属缶の蓋部分に綿状のガラス繊維が敷かれており、そのまま線香皿として利用できるようにした製品もある。また、陶製の蚊遣器には代表的なものとして、ブタを模した蚊遣豚(かやりぶた)があり、夏の風物詩となっている。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、キャンプやアウトドアや野外作業など、屋外での利用を想定した吊り下げ方式(フック付き)の線香皿もある。フックは線香皿の外周についており、吊るすときは線香が垂直になるので、ガラス綿に載せた上から金網で押さえて固定する。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの用具を用いることで、燃焼を伴う製品ながら安全に使用できる。皿または台が同梱されていることもある。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1960年代から火を使わず煙が出ないマット式の電気蚊取が開発され、さらに電気も使わず効果が数時間持続するスプレー式防虫剤も販売されている。先述のとおり火を使うタイプのものは、発煙し火災のリスクもあるなどデメリットが大きいことから、日本国内で年々見かけなくなってきている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "電源不要で屋外でも使用できることから、東南アジアなどでは屋外で長時間使用できる大型タイプに一定の需要がある。特にタイでは近隣諸国より多い100巻入りが売れているという。アース製薬では東南アジア向けに販売している製品を、アウトドア向けとして日本国内に逆輸入している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "蚊取線香の燃焼は、ベンゼンやホルムアルデヒドといった揮発性有機化合物(VOC)や、二酸化窒素、発がん性の多環芳香族炭化水素(PAH)を含む粒子状物質といった汚染物質を発生させる。研究によれば、蚊取線香1本の燃焼(2時間)は、紙巻きたばこ約75 - 137本分のPM2.5、同約51本分のホルムアルデヒドを発生させ、室内空気質は容易に環境基準を超えて汚染される。こうした汚染は、とりわけ子供の健康に深刻な影響を与える可能性があり、長期連用は喘息や喘鳴の増加と関連がある。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その他、火気の使用を含む、線香一般における危険性については線香#危険性を参照。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2021年には、台湾で蚊取り線香の杜撰な取り扱い、不始末が原因でビル火災が発生。46人死亡、41人が負傷している。", "title": "危険性" } ]
蚊取り線香(かとりせんこう)とは、主に蚊を駆除する目的で、線香に除虫菊の有効成分(ピレトリン)や類似のピレスロイド系成分を練り込んだ燻煙式渦巻き型の殺虫剤である。
{{Otheruses||[[大塚愛]]の曲|LOVE PiECE}} {{混同|蚊遣り火}} [[ファイル:Katorisenkou.jpg|thumb|線香立に固定した状態の蚊取線香(真上から)。[[香料]]や[[着色料]]の成分により、緑や赤といった色もある。]] '''蚊取り線香'''(かとりせんこう)とは、主に[[カ|蚊]]を駆除する目的で、[[線香]]に[[シロバナムシヨケギク|除虫菊]]の有効成分([[ピレトリン]])や類似の[[ピレスロイド]]系成分を練り込んだ燻煙式渦巻き型の[[殺虫剤]]である。 == 材料・薬効 == [[ファイル:Tanacetum cinerariifolium1.jpg|thumb|初期の蚊取り線香では、花から取られる天然成分の[[ピレトリン]]が利用された。[[シロバナムシヨケギク|除虫菊]]の胚珠部分にピレスロイドが含まれている。また、天然志向の観点から今でも天然成分のピレトリンのみを使った蚊取り線香は数多く存在している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wakayama-kg.jp/column/2019/08/post-8.html|title=コーヒーブレイク: 蚊取線香よもやま話|publisher=和歌山県工業技術センター|date=2019-8-1|accessdate=2021-9-7}}</ref>]] 原料は粕粉(除虫菊の地上部分を半年間乾燥させたもの)、[[タブノキ|タブ粉]]、[[でんぷん]]、[[ピレスロイド]](除虫菊に含まれる有効成分)、[[染料]]など。粉末状、棒状、[[渦巻き|渦巻]]状などに成形される。色は緑色がほとんど。7時間ほど燃焼するものが多いが、燃焼時間3時間程度の小巻の物や、12時間程度燃焼するものもある<ref>{{Cite news|title=蚊取り線香を知る6ポイント。電気式蚊取りや虫除けスプレーより効果ある?|url=https://taskle.jp/media/articles/230|accessdate=2018-10-24|language=ja-JP|work=タスクル {{!}} 暮らしのお悩み解決サイト}}</ref>。 使用するには先端に着火し、最初に出る炎を吹き消して燠(おき)の状態にする。このようにすると[[不完全燃焼]]によって煙が立ちのぼるようになる。この煙そのものに[[カ|蚊]]を殺す効果があると思われがちだが、実際には燃焼部分の手前で高温により揮発する化学物質(ピレスロイド)に殺虫作用がある(煙と異なり目には見えず、周囲に拡散して殺虫効果を生じさせている)。 今日では、全化学合成したピレスロイド系殺虫剤が使われている。除虫菊の代わりに[[レモングラス]]の成分などを使用した製品もあるが、そちらには忌避効果はあるものの殺虫効果はない。蚊取り線香メーカーによっては煙の少ないもの(逆に野外作業用で、羽虫が嫌う煙の多いものもある)、花の香料([[ビャクダン]]や[[バラ]]他)や果物の香料を練りこませたものも発売している。[[タイ王国|タイ]]ではラベンダーの香りが人気だという<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=タイで人気の虫よけ線香「モンスーン」が“逆輸入”で日本上陸…特徴を販売元のアース製薬に聞いた |url=https://www.fnn.jp/articles/-/395918 |website=FNNプライムオンライン |access-date=2022-08-01}}</ref>。人間以外に[[ペット]]用や、畜舎で使用する畜産用の大型などもある。屋外用では[[アブ]]や[[ブユ]]などにも効果を発揮する製品も登場している<ref name=":0" />。 [[日本]]での主な生産地は、[[和歌山県]][[有田市]]である。有田市では地元の除虫菊を使った蚊取り線香を製造していた企業が1社あったが、2014年10月に製造を停止した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141228-00000012-asahi-soci 国産除虫菊蚊取り、断念 採算とれず和歌山・有田の企業]朝日新聞、12月28日</ref>。 開発国の日本を始めとして、[[世界]]でも生産・輸出されている。[[アメリカ合衆国]]ではモスキートコイル{{enlink|Mosquito coil|Mosquito Coil}}として売られている(但し、その利用に関して言えば有名ではない)。[[家庭の電化]]が遅れ、[[停電]]が頻発している[[国家]]や地域でも[[火種]]さえあれば使用でき、最後まで安定した効果が持続するので、蚊をはじめとする羽虫の[[防除]]で[[東南アジア]]を中心に普及し<ref name=":0" />、[[蚊帳]]と共に、[[カ]]媒介の[[感染症]]である[[マラリア]]・[[デング熱]]予防を期待して利用されている。一方で、科学的にはマラリア・デング熱の予防に有効との[[エビデンス (医学)|エビデンス]]は得られていない<ref>{{Cite web|url=https://www.sydney.edu.au/news-opinion/news/2017/12/20/are-mosquito-coils-good-or-bad-for-our-health-.html|title=Opinion: Are mosquito coils good or bad for our health?|author=Cameron Webb|publisher=University of Sydney|date=2017-12-20|accessdate=2021-9-5}}</ref><ref>{{Cite journal|title=Mosquito repellents for malaria prevention|author=Marta F Maia; Merav Kliner; Marty Richardson; Christian Lengeler; Sarah J Moore|journal=Cochrane Database of Systematic Reviews|volume=2018|issue=2|publisher=John Wiley & Sons|date=2018-2-6|doi=10.1002/14651858.CD011595.pub2|PMID=29405263}}</ref><ref>{{Cite journal|title=Do mosquito coils prevent malaria? A systematic review of trials|author=Clare E Lawrance; Ashley M Croft|journal=Journal of Travel Medicine|volume=11|issue=2|pages=92-96|publisher=International Society of Travel Medicine|date=2004|doi=10.2310/7060.2004.17015|PMID=15109473}}</ref>。 == 開発の歴史と形状 == 和歌山県の[[上山英一郎]]([[大日本除虫菊]]株式会社の創業者)は、[[1886年]]に[[福澤諭吉]]より紹介されたH.E.アモアより[[シロバナムシヨケギク|除虫菊]]の[[種子]]を譲り受ける。上山は、[[平安時代]]から[[日本]]に残る[[伝統的]]な風習「[[蚊遣り火]]」のように粉末状にした除虫菊におがくずを混ぜて燃やす方法を考えたが、夏に季節はずれの[[火鉢]]が必要であったために普及には至らなかった<ref name="katori1">[http://www.nttcom.co.jp/comzine/no003/long_seller/index.html 金鳥蚊取り線香]</ref>。 そこで上山は、今度は[[線香]]に除虫菊を練り込むことを考案、[[1890年]]に[[世界初]]の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した<ref name="ayumi1">[http://www.kincho.co.jp/kaisha/japanese/ayumi/ayumi01.html 金鳥のあゆみ 創業〜明治時代 大日本除虫菊株式会社HP]</ref>。 棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。最大の欠点は、線香の形状から長時間の燃焼が難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは輸送や保管に不便である上に燃焼中に倒れやすくなるので、延長にも限度があった<ref name="katori1"/>。 現在、日本で普及している渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、[[1895年]]からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる<ref name="ayumi1"/>([[倉]]の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと、全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる<ref>{{Cite web|和書|url=http://goodboone.com/izime/life777/post-90.html|title=蚊取り線香の渦は、右巻き?左巻き?|accessdate=2020-4-29}}</ref>。この7時間とは、睡眠時間に合わせたものである。また、寝かせた状態で使うので、従来の形状よりも安全に取り扱えるようになった。 なお、考案されてから長きにわたり、人の手によって渦巻き状に成形してから、乾燥させて固める生産方式を採っていたが、[[1955年]]ころから自動化により、現在の渦巻き型の型抜き機械による成形に移行した。 他に短時間用・長時間用・線香が太い物などの種類があり、外国産のものには、四角形や六角形のものもある。 === 蚊取り線香の歴史 === *[[1886年]]([[明治]]19年) 除虫菊がアメリカ合衆国から渡来し、和歌山県、[[東京都]]、[[熊本県]]などで栽培され始める。和歌山県のみかん農園であった上山も種子交換により播種、栽培をはじめる。 *[[1888年]](明治21年) 上山により粉末状の蚊取線香が作られる。 *[[1890年]](明治23年) 棒状の蚊取線香が作られる。 *[[1895年]](明治28年) 渦巻き型の蚊取線香が作られる。 *[[1943年]](昭和18年) 大同除虫菊(現在の[[ライオンケミカル]])が世界初の蚊取線香自動製造機を開発する。 *[[1955年]]([[昭和]]30年)頃 合成ピレスロイドの実用化が始まる<ref>{{Cite web|和書|title=工場長に聞く 詳細な話コース {{!}} 工場見学 {{!}} KINCHO |url=https://www.kincho.co.jp/factory/index.html |website=KINCHO 大日本除虫菊株式会社 |access-date=2022-08-01 |language=ja}}</ref>。 === 映画『この一筋の煙に』 === 蚊取り線香の研究開発の様子やプロセスを紹介する映画『'''この一筋の煙に 大日本除虫菊中央研究所'''』が、[[日本万国博覧会|大阪万博開催]]の前年にあたる1969年(昭和44年)、大日本除虫菊の企画の下、東京文映により製作された《カラー・21分》。映画タイトルの通り、大日本除虫菊の研究施設(大日本除虫菊中央研究所)で繰り広げられる蚊取り線香の研究開発の現場を映し出しているが、これと共に、大日本除虫菊による蚊取り線香発明の歴史についても若干触れられている。 当該映画作品は、[[科学映像館]]に於いて無料公開されている。 == 使用法 == [[ファイル:Brandende katori senkō, -18 juli 2004 a.jpg|thumb|燻る様子]] 渦巻型の蚊取線香は中心部分を金属製でY字型の突起になっている線香立に固定して用いられることが多く、使用している際には[[灰]]が落ちるので、その受け皿として、金属製の線香皿や陶製の[[蚊遣器]](かやりき)が用いられる。また、このようなY字型の線香立ではなく、耐熱性の[[ガラス繊維]]に直接載せる線香皿もある。 蚊取り線香が複数枚封入されている製品には、アルミニウム製の線香立や線香皿を封入している。缶の蓋を裏返すと中心部分に直接Y字型の突起が切り込まれており、これを引き起こして線香皿として使用できるようにした製品や、金属缶の蓋部分に綿状のガラス繊維が敷かれており、そのまま線香皿として利用できるようにした製品もある。また、陶製の蚊遣器には代表的なものとして、[[ブタ]]を模した'''蚊遣豚'''(かやりぶた)があり、夏の風物詩となっている。 また、[[キャンプ]]や[[アウトドア]]や野外作業など、屋外での利用を想定した吊り下げ方式(フック付き)の線香皿もある。フックは線香皿の外周についており、吊るすときは線香が垂直になるので、ガラス綿に載せた上から金網で押さえて固定する。 これらの用具を用いることで、燃焼を伴う製品ながら安全に使用できる。皿または台が同梱されていることもある。 {{中央|<gallery widths="200px" heights="150px"> Kayaributa02.jpg|[[蚊遣器]](蚊遣豚)<br />豚の胴を模した[[陶器]]の中に線香を入れて使用する Mosquito coil dish.jpg|線香皿 Sitting (6204034998).jpg|屋外での利用 </gallery>}} == 現状 == 1960年代から火を使わず煙が出ないマット式の[[電気蚊取]]が開発され、さらに電気も使わず効果が数時間持続するスプレー式防虫剤も販売されている。先述のとおり火を使うタイプのものは、発煙し火災のリスクもあるなどデメリットが大きいことから、日本国内で年々見かけなくなってきている。 電源不要で屋外でも使用できることから、東南アジアなどでは屋外で長時間使用できる大型タイプに一定の需要がある<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アース製薬、タイで売れた虫よけ線香を逆輸入 パッケージは“トラ” |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2207/12/news099.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-08-01 |language=ja}}</ref>。特にタイでは近隣諸国より多い100巻入りが売れているという<ref name=":0" />。[[アース製薬]]では東南アジア向けに販売している製品を、アウトドア向けとして日本国内に逆輸入している<ref name=":1" /><ref name=":0" />。 == 危険性 == 蚊取線香の燃焼は、[[ベンゼン]]や[[ホルムアルデヒド]]といった[[揮発性有機化合物]](VOC)や、[[二酸化窒素]]、発がん性の[[多環芳香族炭化水素]](PAH)を含む[[粒子状物質]]といった汚染物質を発生させる<ref name="WHO2008">{{Cite book|title=Indoor air pollution|publisher=World Health Organization|date=2008|id={{Hdl|10665/336889}}}}</ref><ref>{{Cite book|title=WHO guidelines for indoor air quality: selected pollutants|publisher=World Health Organization|date=2010|id={{Hdl|10665/260127}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-eiken.go.jp/lb_kankyo/room/index-j/s8_2/#ab73|title=室内環境関連の発表内容: 線香、お香及び蚊取り線香の煙中揮発性有機化合物(VOC)濃度|publisher=東京都健康安全研究センター|date=2013|accessdate=2021-6-25}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=線香等から放出される揮発性有機化合物類,アルデヒド類及び有機酸の調査|author=大貫文、菱木麻佑、斎藤育江、保坂三継、中江大|journal=室内環境|volume=18|issue=1|pages=15-25|publisher=室内環境学会|date=2015|doi=10.7879/siej.18.15}}</ref>。研究によれば、蚊取線香1本の燃焼(2時間)は、[[紙巻きたばこ]]約75 - 137本分の[[PM2.5]]、同約51本分のホルムアルデヒドを発生させ、室内空気質は容易に環境基準を超えて汚染される<ref name="WHO2008"/>。こうした汚染は、とりわけ[[子供]]の健康に深刻な影響を与える可能性があり、長期連用は[[喘息]]や[[喘鳴]]の増加と関連がある<ref name="WHO2008"/>。 その他、火気の使用を含む、線香一般における危険性については[[線香#危険性]]を参照。 [[2021年]]には、[[台湾]]で蚊取り線香の杜撰な取り扱い、不始末が原因でビル火災が発生。46人死亡、41人が負傷している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211016-V3VNQPMLABMLXFIPYSDCFZUB5Q/ |title=蚊取り線香の不始末原因か、台湾ビル火災で50代女拘束 |publisher=産経新聞 |date=2015-10-16 |accessdate=2021-10-17}}</ref>。 == 主な蚊取り線香メーカー == *[[大日本除虫菊]] *[[アース製薬]] *[[フマキラー]] *[[ライオンケミカル]] *[[児玉兄弟商会]] *[[紀陽除虫菊]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Mosquito coils}} *[[蚊遣器]] *[[殺虫剤]] *[[電気蚊取]] *[[蚊遣り具]](蚊火) *[[蚊帳]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/672_2.htm |title=「蚊取線香」で世界に躍進 安住伊三郎|date=20120117064245}}([[鳥取県]]広報課メルマガ編集部 とっとり雑学本舗) * {{サイエンスチャンネル|番組番号=B980601|動画番号=b000601052|動画タイトル=蚊取り線香のできるまで|製作年度=2000年|中身の概要=和歌山県有田市にある金鳥の紀州工場を取材した映像|時間=15分}} ** {{YouTube|RKJ3Ldrowng|THE MAKING (52)蚊取り線香ができるまで}} * [http://www.kagakueizo.org/movie/animal/8469/ 映画『この一筋の煙に 大日本除虫菊中央研究所』] - 『科学映像館』より ** {{YouTube|EedVb_W6esY|この一筋の煙に*大日本除虫菊中央研究所}} {{DEFAULTSORT:かとりせんこう}} [[Category:日用品]] [[Category:夏]] [[Category:殺虫剤]] [[Category:ピレスロイド]] [[Category:カ]] [[Category:香]] [[Category:大日本除虫菊]] [[Category:日本の発明]] [[Category:有田市]]
2003-09-07T01:27:10Z
2023-12-30T03:32:02Z
false
false
false
[ "Template:Enlink", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Wayback", "Template:サイエンスチャンネル", "Template:Otheruses", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:混同", "Template:Commons", "Template:YouTube", "Template:中央" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%8A%E5%8F%96%E7%B7%9A%E9%A6%99
15,477
電気回路
電気回路(でんきかいろ、英: electrical circuit)は、電気を利用するために電源、負荷などの回路素子を導体で接続したものである。 電気回路は電流の流れのための閉ループを持っていて、2つ以上の回路素子(電源、負荷)が接続されていることが通例である。「回路」の語義的には閉ループになっていることを指すが、アンテナのように開放端になっている部分も通例として含めている。また回路のうち機能的に一部分を取り出して、その部分を指して回路ということもある。 電気を利用する人工物はすべて電気回路の範疇であるが、態様や機能により様々な種類・類型が存在する。 例えば分野・領域名ではトランジスタ、ダイオード等の半導体素子を含むものを指す電子回路、高周波信号を扱う場合の分布定数回路などがあり、機能を表すものとして増幅器の差動増幅回路、通信分野における変調機能を担う変調回路などがある。 「電気回路」という語を用いる場合は、これら各領域に共通する電気現象の工学的利用のためのモデル、実装に関する概念を取り扱う。 電気回路は、電気の利用、電気現象の検討に用いるモデルとしての側面と、具体的な製品・システムの実装物としての側面が存在する。電気の利用に関する場面においてはこの両者の存在に留意して、モデルとして設計した回路を実現する実装技術に関する理解、実装可能な方法に留意したモデルとしての回路設計の理解が必要である。 電気回路のモデルとしての側面では、電気回路の回路図が与えられる場合、実際の物的な構成がその回路通りであるとは限らない。例えば電動機(モーター)を示す電気回路図では電気的エネルギーと機械的エネルギーの変換関係をモデル化して模式的に電気回路として表現しており、半導体デバイスのトランジスタでは動作を電源と受動素子の組み合わせとして模式的に別の電気回路で表現することが行われる。このようにある機能・現象を模式的に表す回路を等価回路と呼ぶ。等価回路は電気回路のモデルとしての側面でよく用いられる考え方である。 電気回路が回路図として示された場合、それが実装物としての構成を示すのか、ある程度実装に即した設計モデルなのか、あるいは等価回路なのかという位置づけに注意することが必要である。 小規模または簡単なものではオームの法則、キルヒホッフの法則をはじめとした諸性質を用いて手計算を行うことができる。 実際の利用目的に即した特定の状況の下では、基本的な回路の構成や利用される入出力の条件が定型化されていることも多く、それに応じた解法を用いて設計できる場合がある。 電気回路を設計するためのツールとして回路シミュレーターがある。これは回路の構成とそれに加えられる電圧・電流を仕様に従って記述することで、各節点における電位、各枝における電流の分布の時系列を計算するものである。 計算の方法として節点電位法、閉路電流法があるが、実現面で変数の設定の容易さから前者が用いられる。 回路シミュレーターの例として電子回路分野を中心とした用途でSPICE、電力工学分野を中心とした用途でEMTPがある。 大学等における授業科目としての電気回路は、抵抗、インダクタ、コンデンサ等の受動素子が電源に接続された回路で、電気回路の基本的性質を題材とする。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電気回路(でんきかいろ、英: electrical circuit)は、電気を利用するために電源、負荷などの回路素子を導体で接続したものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "電気回路は電流の流れのための閉ループを持っていて、2つ以上の回路素子(電源、負荷)が接続されていることが通例である。「回路」の語義的には閉ループになっていることを指すが、アンテナのように開放端になっている部分も通例として含めている。また回路のうち機能的に一部分を取り出して、その部分を指して回路ということもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "電気を利用する人工物はすべて電気回路の範疇であるが、態様や機能により様々な種類・類型が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "例えば分野・領域名ではトランジスタ、ダイオード等の半導体素子を含むものを指す電子回路、高周波信号を扱う場合の分布定数回路などがあり、機能を表すものとして増幅器の差動増幅回路、通信分野における変調機能を担う変調回路などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「電気回路」という語を用いる場合は、これら各領域に共通する電気現象の工学的利用のためのモデル、実装に関する概念を取り扱う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "電気回路は、電気の利用、電気現象の検討に用いるモデルとしての側面と、具体的な製品・システムの実装物としての側面が存在する。電気の利用に関する場面においてはこの両者の存在に留意して、モデルとして設計した回路を実現する実装技術に関する理解、実装可能な方法に留意したモデルとしての回路設計の理解が必要である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "電気回路のモデルとしての側面では、電気回路の回路図が与えられる場合、実際の物的な構成がその回路通りであるとは限らない。例えば電動機(モーター)を示す電気回路図では電気的エネルギーと機械的エネルギーの変換関係をモデル化して模式的に電気回路として表現しており、半導体デバイスのトランジスタでは動作を電源と受動素子の組み合わせとして模式的に別の電気回路で表現することが行われる。このようにある機能・現象を模式的に表す回路を等価回路と呼ぶ。等価回路は電気回路のモデルとしての側面でよく用いられる考え方である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "電気回路が回路図として示された場合、それが実装物としての構成を示すのか、ある程度実装に即した設計モデルなのか、あるいは等価回路なのかという位置づけに注意することが必要である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小規模または簡単なものではオームの法則、キルヒホッフの法則をはじめとした諸性質を用いて手計算を行うことができる。", "title": "設計方法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "実際の利用目的に即した特定の状況の下では、基本的な回路の構成や利用される入出力の条件が定型化されていることも多く、それに応じた解法を用いて設計できる場合がある。", "title": "設計方法" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "電気回路を設計するためのツールとして回路シミュレーターがある。これは回路の構成とそれに加えられる電圧・電流を仕様に従って記述することで、各節点における電位、各枝における電流の分布の時系列を計算するものである。", "title": "設計方法" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "計算の方法として節点電位法、閉路電流法があるが、実現面で変数の設定の容易さから前者が用いられる。", "title": "設計方法" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "回路シミュレーターの例として電子回路分野を中心とした用途でSPICE、電力工学分野を中心とした用途でEMTPがある。", "title": "設計方法" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大学等における授業科目としての電気回路は、抵抗、インダクタ、コンデンサ等の受動素子が電源に接続された回路で、電気回路の基本的性質を題材とする。", "title": "大学等での授業科目としての電気回路" } ]
電気回路は、電気を利用するために電源、負荷などの回路素子を導体で接続したものである。
'''電気回路'''(でんきかいろ、{{lang-en-short|electrical circuit}})は、[[電気]]を利用するために[[電源]]、負荷などの回路素子を[[電気伝導体|導体]]で接続したものである<ref name="柴田">柴田尚志「電気回路I」コロナ社刊、2006年</ref>。 == 概要 == 電気回路は電流の流れのための閉ループを持っていて、2つ以上の回路素子(電源、負荷)が接続されていることが通例である。「回路」の語義的には閉ループになっていることを指すが、[[アンテナ]]のように開放端になっている部分も通例として含めている。また回路のうち機能的に一部分を取り出して、その部分を指して回路ということもある。 電気を利用する人工物はすべて電気回路の範疇であるが、態様や機能により様々な種類・類型が存在する。 例えば分野・領域名では[[トランジスタ]]、[[ダイオード]]等の半導体素子を含むものを指す[[電子回路]]<ref name="iwata1">岩田聡『電子回路 新インターユニバーシティ』2008年、1頁</ref><ref>雨宮好文『現代 電子回路学(I)』 オーム社、1994年、p.1</ref>、高周波信号を扱う場合の[[分布定数回路]]などがあり、機能を表すものとして増幅器の[[差動増幅回路]]、通信分野における[[変調]]機能を担う[[変調回路]]などがある。 「電気回路」という語を用いる場合は、これら各領域に共通する電気現象の工学的利用のためのモデル、実装に関する概念を取り扱う。 電気回路は、電気の利用、電気現象の検討に用いるモデルとしての側面と、具体的な製品・システムの実装物としての側面が存在する。電気の利用に関する場面においてはこの両者の存在に留意して、モデルとして設計した回路を実現する実装技術に関する理解、実装可能な方法に留意したモデルとしての回路設計の理解が必要である。 電気回路のモデルとしての側面では、電気回路の[[回路図]]が与えられる場合、実際の物的な構成がその回路通りであるとは限らない。例えば電動機(モーター)を示す電気回路図では電気的エネルギーと機械的エネルギーの変換関係をモデル化して模式的に電気回路として表現しており、半導体デバイスのトランジスタでは動作を電源と受動素子の組み合わせとして模式的に別の電気回路で表現することが行われる。このようにある機能・現象を模式的に表す回路を等価回路と呼ぶ。等価回路は電気回路のモデルとしての側面でよく用いられる考え方である。 電気回路が回路図として示された場合、それが実装物としての構成を示すのか、ある程度実装に即した設計モデルなのか、あるいは等価回路なのかという位置づけに注意することが必要である。 == 電気回路に関する主な法則 == * [[オームの法則]] : 回路素子に加わる電圧は[[インピーダンス #電気回路におけるインピーダンス|インピーダンス]]値と電流の積である。 * [[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]] : ** 電気回路の任意の節点において、流入する電流と流出する電流の和は等しい。(電流則) ** 電気回路の任意の閉路において、電圧の向きを一方向に取ったとき、電圧の総和は0となる。(電圧則) * [[重ね合わせの原理 (電気回路)|重ね合わせの原理]] : * [[テレゲンの定理]] : * [[Y-Δ変換]] : * [[ノートンの定理]] : * [[テブナンの定理]] : * [[ミルマンの定理]] : * [[相反定理]] == 設計方法 == 小規模または簡単なものではオームの法則、キルヒホッフの法則をはじめとした諸性質を用いて手計算を行うことができる。 実際の利用目的に即した特定の状況の下では、基本的な回路の構成や利用される入出力の条件が定型化されていることも多く、それに応じた解法を用いて設計できる場合がある。 電気回路を設計するためのツールとして[[回路シミュレーター]]がある。これは回路の構成とそれに加えられる電圧・電流を仕様に従って記述することで、各節点における電位、各枝における電流の分布の時系列を計算するものである。 計算の方法として節点電位法、閉路電流法があるが、実現面で変数の設定の容易さから前者が用いられる。 回路シミュレーターの例として電子回路分野を中心とした用途で[[SPICE (ソフトウェア)|SPICE]]、[[電力工学]]分野を中心とした用途で[[EMTP]]がある。 == 大学等での授業科目としての電気回路 == 大学等における授業科目としての電気回路は、[[電気抵抗|抵抗]]、[[インダクタ]]、[[コンデンサ]]等の受動素子が電源に接続された回路で、電気回路の基本的性質を題材とする<ref>電気学会 『電気回路論 改訂版』 1978年</ref><ref name="iwata1" />。 * [[電気回路 #電気回路に関する主な法則|電気回路の主な法則]] * [[線型回路]] - [[RC回路]] - [[LC回路]] - [[RLC回路]] *:抵抗、インダクタ(=コイル)、キャパシタ(=コンデンサ)の受動素子のみを構成要素とする電気回路で、回路方程式から解析的な解が得られる<ref>岩田聡『電子回路 新インターユニバーシティ』2008年、1-2頁</ref>。 ** [[直流回路]] **:回路に直流電圧・電流が加えられた場合の動作に関する項目である。 ** [[交流回路]] **:回路に交流電圧・電流が加えられた場合の動作に関する項目である。 **:ここでいう交流とはある特定の周波数の場合を取扱い、複数の周波数成分を含むものではない。 * [[二端子対回路]] *:入力側二端子、出力側二端子の端子を持つ構成の回路である。 *:電気回路を機能ブロックに分けて取り扱う場合に用いるモデルである。 * [[電力回路]] *:電気回路のうち電力分野で用いられる回路に関する項目である。 ** [[三相交流]]回路 **:電力分野で用いられる三相交流に用いられる回路である。 * 過渡応答、パルス応答 *:電気回路に、周波数成分が特定の値ではなく広がりを持った時間変化をする電圧・電流が与えられた場合の挙動に関する項目である。 *:電圧値0から電圧値V(またはその逆)に変化する電圧のステップ応答、 *:電圧値Vがごく短い時間加えられ、その他の時間では電圧値0のパルス応答が代表的である。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikibooks}} * [[回路図]] * [[電子回路]] * [[水流モデル]](電気回路のアナロジー) {{電磁気学}} {{電気電力}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんきかいろ}} [[Category:電気回路|*]] [[Category:電気工学]] [[Category:電気理論]]
null
2023-06-08T00:52:24Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Wikibooks", "Template:電磁気学", "Template:電気電力", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E5%9B%9E%E8%B7%AF
15,478
分散型
分散型(ぶんさんがた)とは、複数のコンピュータなどに分散して機能を持たせること、またはそれで一つの機能を動作させる考え方。集中型の反対の意味として用いられる。 利点には、それぞれのデータの発生箇所や利用箇所に近い場所で処理ができ、通信コストの削減や柔軟な運用が可能である他、あるコンピュータやセンターの障害で全面障害となる可能性が減少する、などが挙げられる。 難点としては、複数のコンピュータやセンターが必要となり、全体としての管理運用が複雑になることによる費用や管理リスクの増加、特に厳密なデータの一貫性確保が困難であること、などが挙げられる。 軍事目的に始まったインターネットの原型のARPANETでは、分散と迂回が基本的な考え方となった。またこの他の意味として、鉄道車両の空調設備を一体化せず、数箇所に分けて設置する方式も指す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "分散型(ぶんさんがた)とは、複数のコンピュータなどに分散して機能を持たせること、またはそれで一つの機能を動作させる考え方。集中型の反対の意味として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "利点には、それぞれのデータの発生箇所や利用箇所に近い場所で処理ができ、通信コストの削減や柔軟な運用が可能である他、あるコンピュータやセンターの障害で全面障害となる可能性が減少する、などが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "難点としては、複数のコンピュータやセンターが必要となり、全体としての管理運用が複雑になることによる費用や管理リスクの増加、特に厳密なデータの一貫性確保が困難であること、などが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "軍事目的に始まったインターネットの原型のARPANETでは、分散と迂回が基本的な考え方となった。またこの他の意味として、鉄道車両の空調設備を一体化せず、数箇所に分けて設置する方式も指す。", "title": "概要" } ]
分散型(ぶんさんがた)とは、複数のコンピュータなどに分散して機能を持たせること、またはそれで一つの機能を動作させる考え方。集中型の反対の意味として用いられる。
'''分散型'''(ぶんさんがた)とは、複数の[[コンピュータ]]などに分散して機能を持たせること、またはそれで一つの機能を動作させる考え方。[[集中型]]の反対の意味として用いられる。 == 概要 == 利点には、それぞれのデータの発生箇所や利用箇所に近い場所で処理ができ、通信コストの削減や柔軟な運用が可能である他、あるコンピュータやセンターの障害で全面障害となる可能性が減少する、などが挙げられる。 難点としては、複数のコンピュータやセンターが必要となり、全体としての管理運用が複雑になることによる費用や管理リスクの増加、特に厳密なデータの一貫性確保が困難であること、などが挙げられる。 軍事目的に始まった[[インターネット]]の原型の[[ARPANET]]では、分散と[[迂回]]が基本的な考え方となった。またこの他の意味として、鉄道車両の空調設備を一体化せず、数箇所に分けて設置する方式も指す。 ;[[検索エンジン]]での例 :[[Google]]の[[PageRank]]が先駆けとなった[[link popularity]]は、分散型の[[評価システム]]である。 ;[[ウェブディレクトリ]]での例 :データを一定の条件のもとで、自由なカスタマイズまで許容して分散させる[[Open Directory Project]]は、分散型の[[データ管理]]である。 == 関連項目 == * [[分散コンピューティング]] * {{仮リンク|非集中型コンピューティング|en|Decentralized computing}} * [[分散システム]] * [[分散型アプリケーション]] * [[オープンシステム]] {{DEFAULTSORT:ふんさんかた}} [[Category:分散処理]]
null
2022-08-08T03:46:19Z
false
false
false
[ "Template:仮リンク" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%95%A3%E5%9E%8B
15,479
安住紳一郎
安住 紳一郎(あずみ しんいちろう、1973年8月3日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 北海道帯広市生まれ。両親ともに砂糖工場の経理係。網走郡美幌町で小学2年まで育ち、その後、河西郡芽室町へ移りそこで育つ。小学生の頃、少年野球チーム“芽室ジャガーズ”のメンバーであった。 芽室町立芽室中学校を経て、北海道帯広柏葉高等学校に進学。3年生の一時期は親の仕事の都合で一人暮らしをしていた。その後、代々木ゼミナール札幌校に通いながらの浪人生活を経て、明治大学文学部文学科へ進学。明治大学文学部在学中は齋藤孝ゼミナールに所属(齋藤とは『情報7daysニュースキャスター』で共演し、齋藤はレギュラーコメンテーターとして出演することになる)。1997年3月、同大学同学科を卒業。 中学校・高等学校国語科の教員免許取得、話しことば検定1級取得。姉と同じ教師を志望し教育実習も済ませた上で就職する高校も決まっていたが、大学の掲示板でアナウンサー募集のポスターをたまたま見かけたことがきっかけとなり、「教師とアナウンサーには『一対多数のコミュニケーション』という共通項があり、教師になるための勉強につながる」と考え、記念受験のつもりでアナウンサー試験を受けることにした。TBS(現・TBSホールディングス)、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日のアナウンサー試験を受け、日本テレビは書類選考で不採用、テレビ朝日は最終選考前に不採用、TBSとフジテレビは第一次を通過したが、フジテレビは同局人事部長への連絡が遅くなったので不採用となり、TBSのみ最終選考で合格した。 1997年4月、アナウンサーとしてTBSに入社。1997年には『情報!もぎたてサラダ』、『はなまるマーケット』で「はなまるエプロン隊」役で出演。1998年からは『ジャスト』の水、木、金曜に出演(~2005年)。1999年からは『さんまのSUPERからくりTV』(~2014年)など。→テレビ 2002年には『おはよう!グッデイ』の「レシート拝見コーナー」で出演。同年の夏クールに放送された『ぼくが地球を救う』、同年冬クールに放送された『木更津キャッツアイ』最終回の2作品にも本人役で出演。2003年、ドラマ『GOOD LUCK!!』では本人の名をもじったパイロットの「安住龍二郎」役として起用され出演。 2004年10月1日より組織改編でTBSテレビに出向。2006年5月から7月に放送された『愛の劇場・吾輩は主婦である』では、回想シーンに登場する若き日の夏目漱石を演じた。2009年4月1日、TBSグループの放送持株会社移行の際にTBSテレビへ自動的に転籍。2018年、初代「しょうゆ大使」に就任。 2019年7月1日付で、所属部署(TBSテレビ総合編成本部アナウンスセンター)での役職が「次長待遇」に変更。部長職を経ずに上位のポストへ昇進したため、安住は後に「二階級特進というね、殉職級の昇進」 と振り返っている。さらに、翌2020年には「局長待遇」への昇進を果たした。 2021年10月4日(放送上は同月1日)からは、平日早朝の生放送番組『THE TIME,』(5:20 - 8:00)でメインキャスターを担当中。TBSテレビの制作・全国ネット向けの生放送による帯番組のキャスターをレギュラーで担当することは、『ジャスト』の終了(2005年3月)以来16年半振りである。ただし、生放送による他のレギュラー番組(土曜日夜の『情報7daysニュースキャスター』と日曜日午前中の『日曜天国』)への出演も続けることから、『THE TIME,』への出演をあらかじめ週4日(月 - 木曜日)に限定。収録によるレギュラー番組については、『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』の出演を続ける一方で、長時間のロケ収録を伴う『ぴったんこカン・カン』が2021年9月24日で終了した。 2023年7月1日付で、TBSテレビにおける役職が「総合編成本部 アナウンスセンター 役員待遇 エキスパート職」に変更された。同社のアナウンサー経験者でアナウンス関連以外の部署への異動を経ずに現職の者が役員に相当する地位(役員待遇)にまで昇進したのは安住が初めてである。 2000年代から、TBSの「看板アナウンサー」と位置づけられており、オリコンが実施した「好きな男性アナウンサーランキング」で5回連続1位になり、2009年に殿堂入りを果たした。 安住は「安住紳一郎」とフルネームで呼ばれたり「安住アナ」などと呼ばれることが多い。ネット上ではファンや視聴者などから、その時の役職に応じて、「安住係長」「安住副部長」「安住部次長」「安住局次長」「安住局長」「安住役員待遇」と呼ばれることがある。。役職名だけで呼ばれることもある。 ファッション情報番組の『ファッション通信』を必ず見ていた。様々なブランドを挙げて、歴史やロゴについて詳しく説明するほど「アパレルに対してはかなり造詣が深いんですね」と『安住紳一郎の日曜天国』(TBSラジオ)で述べている。 安住が好きな花はハクモクレンである。 また安住は醤油が好きで全国の醤油ラベルを集めたり、ワインのラベル用のアルバムにテイストや産地を詳しく書き留めている。その活動を『安住紳一郎の日曜天国』で度々トークし、しょうゆの魅力を広めてきた功績が認められ日本醤油協会公式の初代「しょうゆ大使」に委嘱された。 安住は横浜DeNAベイスターズのファンであることを公言している。 2023年6月現在、TwitterなどのSNSは、見ることはあるものの自身の公式アカウントは持っていない。2023年6月ごろ、Twitter上にあった自身を装う偽アカウントについて『安住紳一郎の日曜天国』内で言及し、その後そのアカウントが削除された。 影響を受けたアナウンサーは久米宏、古舘伊知郎、地元・北海道に居た頃にSTVラジオ(旧札幌テレビ放送ラジオ局)の『アタックヤング』を聴いていて憧れていたという木村洋二。 大泉洋とは、浪人時に代々木ゼミナール札幌校で同級生だった。 TBSの同期にはアナウンサーの伊藤隆太・小倉弘子、他職では石丸彰彦(ドラマプロデューサー)、竹内由布子がいる。 後輩で、TBSアナウンサーだった田中みな実が在局中、田中の仕事を巡って安住が注意をしたところ、互いに険悪な雰囲気となり、1年半の期間も口をきいていなかったが、安住がデスクワーク中に煎餅を食べていたところ、田中が久しぶりに「私にもお煎餅を1枚いただけますか」と口を開き、お菓子の誘惑でわだかまりがとけたエピソードが語られている。 今までお付き合いしてきた女性たちは「アパレル関係の方」と公表している。 「社内で生き残るために、平均点的な人間になってしまうのを避け(独自の道を進むことに決め)、そのためにあえて、上の人の言うことは聞いてこなかった、編成(局)の言うことを聞かなかった、社長の言うことも聞かなかった」と本人は説明した。「(電子)メールは見ない。ファックスも見ない。電話も出ない」という作戦をとったという。 安住は独身で未婚。柏倉早智子(北海道の高校教師、チアリーディング指導者、チアリーディング元日本代表)が姉で、女優の原千晶は従妹である。 鳥取県にルーツがあり、父方が鳥取県から北海道に移住して開拓した。 祖父は宮城県石巻市出身。祖母は山形県天童市出身。 レギュラー番組 特別番組
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "安住 紳一郎(あずみ しんいちろう、1973年8月3日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北海道帯広市生まれ。両親ともに砂糖工場の経理係。網走郡美幌町で小学2年まで育ち、その後、河西郡芽室町へ移りそこで育つ。小学生の頃、少年野球チーム“芽室ジャガーズ”のメンバーであった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "芽室町立芽室中学校を経て、北海道帯広柏葉高等学校に進学。3年生の一時期は親の仕事の都合で一人暮らしをしていた。その後、代々木ゼミナール札幌校に通いながらの浪人生活を経て、明治大学文学部文学科へ進学。明治大学文学部在学中は齋藤孝ゼミナールに所属(齋藤とは『情報7daysニュースキャスター』で共演し、齋藤はレギュラーコメンテーターとして出演することになる)。1997年3月、同大学同学科を卒業。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中学校・高等学校国語科の教員免許取得、話しことば検定1級取得。姉と同じ教師を志望し教育実習も済ませた上で就職する高校も決まっていたが、大学の掲示板でアナウンサー募集のポスターをたまたま見かけたことがきっかけとなり、「教師とアナウンサーには『一対多数のコミュニケーション』という共通項があり、教師になるための勉強につながる」と考え、記念受験のつもりでアナウンサー試験を受けることにした。TBS(現・TBSホールディングス)、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日のアナウンサー試験を受け、日本テレビは書類選考で不採用、テレビ朝日は最終選考前に不採用、TBSとフジテレビは第一次を通過したが、フジテレビは同局人事部長への連絡が遅くなったので不採用となり、TBSのみ最終選考で合格した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1997年4月、アナウンサーとしてTBSに入社。1997年には『情報!もぎたてサラダ』、『はなまるマーケット』で「はなまるエプロン隊」役で出演。1998年からは『ジャスト』の水、木、金曜に出演(~2005年)。1999年からは『さんまのSUPERからくりTV』(~2014年)など。→テレビ", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2002年には『おはよう!グッデイ』の「レシート拝見コーナー」で出演。同年の夏クールに放送された『ぼくが地球を救う』、同年冬クールに放送された『木更津キャッツアイ』最終回の2作品にも本人役で出演。2003年、ドラマ『GOOD LUCK!!』では本人の名をもじったパイロットの「安住龍二郎」役として起用され出演。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2004年10月1日より組織改編でTBSテレビに出向。2006年5月から7月に放送された『愛の劇場・吾輩は主婦である』では、回想シーンに登場する若き日の夏目漱石を演じた。2009年4月1日、TBSグループの放送持株会社移行の際にTBSテレビへ自動的に転籍。2018年、初代「しょうゆ大使」に就任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2019年7月1日付で、所属部署(TBSテレビ総合編成本部アナウンスセンター)での役職が「次長待遇」に変更。部長職を経ずに上位のポストへ昇進したため、安住は後に「二階級特進というね、殉職級の昇進」 と振り返っている。さらに、翌2020年には「局長待遇」への昇進を果たした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年10月4日(放送上は同月1日)からは、平日早朝の生放送番組『THE TIME,』(5:20 - 8:00)でメインキャスターを担当中。TBSテレビの制作・全国ネット向けの生放送による帯番組のキャスターをレギュラーで担当することは、『ジャスト』の終了(2005年3月)以来16年半振りである。ただし、生放送による他のレギュラー番組(土曜日夜の『情報7daysニュースキャスター』と日曜日午前中の『日曜天国』)への出演も続けることから、『THE TIME,』への出演をあらかじめ週4日(月 - 木曜日)に限定。収録によるレギュラー番組については、『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』の出演を続ける一方で、長時間のロケ収録を伴う『ぴったんこカン・カン』が2021年9月24日で終了した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2023年7月1日付で、TBSテレビにおける役職が「総合編成本部 アナウンスセンター 役員待遇 エキスパート職」に変更された。同社のアナウンサー経験者でアナウンス関連以外の部署への異動を経ずに現職の者が役員に相当する地位(役員待遇)にまで昇進したのは安住が初めてである。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2000年代から、TBSの「看板アナウンサー」と位置づけられており、オリコンが実施した「好きな男性アナウンサーランキング」で5回連続1位になり、2009年に殿堂入りを果たした。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "安住は「安住紳一郎」とフルネームで呼ばれたり「安住アナ」などと呼ばれることが多い。ネット上ではファンや視聴者などから、その時の役職に応じて、「安住係長」「安住副部長」「安住部次長」「安住局次長」「安住局長」「安住役員待遇」と呼ばれることがある。。役職名だけで呼ばれることもある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ファッション情報番組の『ファッション通信』を必ず見ていた。様々なブランドを挙げて、歴史やロゴについて詳しく説明するほど「アパレルに対してはかなり造詣が深いんですね」と『安住紳一郎の日曜天国』(TBSラジオ)で述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "安住が好きな花はハクモクレンである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また安住は醤油が好きで全国の醤油ラベルを集めたり、ワインのラベル用のアルバムにテイストや産地を詳しく書き留めている。その活動を『安住紳一郎の日曜天国』で度々トークし、しょうゆの魅力を広めてきた功績が認められ日本醤油協会公式の初代「しょうゆ大使」に委嘱された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "安住は横浜DeNAベイスターズのファンであることを公言している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2023年6月現在、TwitterなどのSNSは、見ることはあるものの自身の公式アカウントは持っていない。2023年6月ごろ、Twitter上にあった自身を装う偽アカウントについて『安住紳一郎の日曜天国』内で言及し、その後そのアカウントが削除された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "影響を受けたアナウンサーは久米宏、古舘伊知郎、地元・北海道に居た頃にSTVラジオ(旧札幌テレビ放送ラジオ局)の『アタックヤング』を聴いていて憧れていたという木村洋二。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大泉洋とは、浪人時に代々木ゼミナール札幌校で同級生だった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "TBSの同期にはアナウンサーの伊藤隆太・小倉弘子、他職では石丸彰彦(ドラマプロデューサー)、竹内由布子がいる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "後輩で、TBSアナウンサーだった田中みな実が在局中、田中の仕事を巡って安住が注意をしたところ、互いに険悪な雰囲気となり、1年半の期間も口をきいていなかったが、安住がデスクワーク中に煎餅を食べていたところ、田中が久しぶりに「私にもお煎餅を1枚いただけますか」と口を開き、お菓子の誘惑でわだかまりがとけたエピソードが語られている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "今までお付き合いしてきた女性たちは「アパレル関係の方」と公表している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「社内で生き残るために、平均点的な人間になってしまうのを避け(独自の道を進むことに決め)、そのためにあえて、上の人の言うことは聞いてこなかった、編成(局)の言うことを聞かなかった、社長の言うことも聞かなかった」と本人は説明した。「(電子)メールは見ない。ファックスも見ない。電話も出ない」という作戦をとったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "安住は独身で未婚。柏倉早智子(北海道の高校教師、チアリーディング指導者、チアリーディング元日本代表)が姉で、女優の原千晶は従妹である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "鳥取県にルーツがあり、父方が鳥取県から北海道に移住して開拓した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "祖父は宮城県石巻市出身。祖母は山形県天童市出身。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "レギュラー番組", "title": "出演番組" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "特別番組", "title": "出演番組" } ]
安住 紳一郎は、TBSテレビのアナウンサー。
{{ファンサイト的|date=2021年3月17日 (水) 05:07 (UTC)}} {{出典の明記|date=2021年3月17日 (水) 05:07 (UTC)}} {{基礎情報 アナウンサー |名前={{ruby|安住 紳一郎|あずみ しんいちろう}} |画像ファイル= |画像サイズ= <!--ある場合のみ、220px以内--> |画像コメント= |愛称= あずみ |身長=174 [[センチメートル|cm]] |血液型=[[ABO式血液型|AB型]] |出身地={{JPN}} 北海道[[帯広市]] |生年月日= {{生年月日と年齢|1973|8|3}} |最終学歴=[[明治大学大学院文学研究科・文学部|明治大学文学部]]文学科([[日本文学]]専攻) |在籍局=[[TBSテレビ]] |部署= 総合編成本部 アナウンスセンター<ref>{{Cite news|url= https://www.tbsholdings.co.jp/tbstv/corporate/organization.html |title= TBSテレビ 企業情報 組織図|publisher=TBSテレビ|date=2021-11-01|accessdate=2022-05-20}}</ref> |職歴= 役員待遇エキスパート職(現職)<ref name ="spo nichi230609">{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/06/09/kiji/20230609s00041000714000c.html|title=TBS安住アナ 驚異の出世スピード!役員待遇に昇任へ 19年に2階級特進で局次長、20年には局長に|newspaper=スポーツニッポン|date=2023-06-09|accessdate=2023-07-01}}</ref> |活動期間=1997年 - |ジャンル=情報 |配偶者=[[西島まどか]](本人談によると、2024年1月1日時点ではまだ結婚予定、とのこと) |著名な家族= |公式サイト=https://www.tbs.co.jp/anatsu/who/azumi.html |現在の出演番組={{plainlist| *『[[THE TIME,]]』 *『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』 *『[[情報7daysニュースキャスター]]』 *『[[安住紳一郎の日曜天国]]』}} など |過去の出演番組= [[#過去の出演番組|後述]] |その他= |備考= }} '''安住 紳一郎'''(あずみ しんいちろう、[[1973年]][[8月3日]] - )は、[[TBSテレビ]]の[[アナウンサー]]。 == 来歴 == === 生い立ち、教育、学生時代の活動など === 北海道[[帯広市]]生まれ。両親ともに砂糖工場の経理係<ref>{{Cite news|title=安住紳一郎アナ 両親から受けた影響を告白「計算することから始まります」「誇りに思ってますね」|newspaper=スポニチアネックス|date=2022-11-6|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/11/06/kiji/20221106s00041000357000c.html |accessdate=2022-11-13}}</ref>。網走郡[[美幌町]]で小学2年まで育ち<ref>{{Cite news|title=安住紳一郎 極寒の北海道の野良猫を語る|url =https://miyearnzzlabo.com/archives/62598 2020年2月9日 日曜天国}}</ref>、その後、河西郡[[芽室町]]へ移りそこで育つ。小学生の頃、少年野球チーム“芽室ジャガーズ”のメンバーであった<ref>{{Cite news|title= 安住紳一郎 じゃんけんの苦い思い出を語る|url= https://miyearnzzlabo.com/archives/23845}}</ref>。 芽室町立芽室中学校を経て、[[北海道帯広柏葉高等学校]]に進学。3年生の一時期は親の仕事の都合で一人暮らしをしていた。その後、[[代々木ゼミナール]]札幌校に通いながらの浪人生活を経て、[[明治大学大学院文学研究科・文学部|明治大学文学部]]文学科へ進学。明治大学文学部在学中は[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]ゼミナールに所属(齋藤とは『[[情報7daysニュースキャスター]]』で共演し、齋藤はレギュラーコメンテーターとして出演することになる)。1997年3月、同大学同学科を卒業{{efn2|なお[[2004年]]には、母校・[[明治大学]]の[[入学式]]でOB代表として祝辞を述べた。}}。 中学校・高等学校国語科の教員免許取得、話しことば検定1級取得。姉と同じ教師を志望し教育実習も済ませた上で就職する高校も決まっていたが、大学の掲示板でアナウンサー募集のポスターをたまたま見かけたことがきっかけとなり、「教師とアナウンサーには『一対多数のコミュニケーション』という共通項があり、教師になるための勉強につながる」と考え、記念受験のつもりでアナウンサー試験を受けることにした。TBS(現・[[TBSホールディングス]])、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ朝日]]のアナウンサー試験を受け、日本テレビは書類選考で不採用、テレビ朝日は最終選考前に不採用、TBSとフジテレビは第一次を通過したが、フジテレビは同局人事部長への連絡が遅くなったので不採用となり{{efn2|2019年12月1日に放送された『[[鶴瓶&安住の放送局漫遊記]]』([[BS-TBS]]や[[BSフジ]]などを含む[[BS民放5局共同特別番組|BS民放5局の共同制作]])での安住本人による説明によると、フジテレビの人事部長(当時)から「今晩中に連絡がほしい」との電話が自宅にあったが、私用で居なかったため、[[留守番電話]]にメッセージが吹き込まれていた。帰宅してその伝言を聞いたのが夜の10時頃であったため、「遅い時間に電話したら、かえって失礼になる」との自身の判断で当日の連絡は断念して、翌朝一番で人事部長に電話したところ、「(昨日夜まで待っていたが)電話がなかったので、(フジの人事で)決済してしまった。諦めてくれ」と断られたとの事である。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/12/02/kiji/20191202s00041000382000c.html|title=安住アナ、フジテレビに恨み節!?「私を採ればよかったのに」 入社試験で“落とされた”過去告白|accessdate=2019-12-5|publisher=スポーツニッポン|date=2019-12-2}}</ref>}}、TBSのみ最終選考で合格した{{sfn|安住|2006}}{{Refnest|group="t"|安住は入社試験の質疑応答で、(試験準備を手伝ってくれた元アナに)「『今年は無理じゃないか』というお話をいただいてきたので、今日は気楽にやらせていただいています」と答え試験官を笑わせた、という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/01/04/kiji/20210104s00041000162000c.html |title=TBS安住アナ「怖かった」24年前の入社試験 試験官を笑わた言葉とは |date=2021-01-04 |publisher=スポニチ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210104072837/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/01/04/kiji/20210104s00041000162000c.html |archivedate=2021-01-04 |accessdate=2021-05-09}}</ref>。}}。 === 職務経歴 === 1997年4月、アナウンサーとしてTBSに入社{{efn2|社員番号は、入社年の数である1997の下2桁を上2桁に付けた97002<ref>{{Cite web|和書|url=https://miyearnzzlabo.com/archives/71081|title=安住紳一郎 TBS入社試験を振り返る|accessdate=2021-1-4}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://miyearnzzlabo.com/archives/71108|title=安住紳一郎 TBSアナウンサー新人時代を振り返る|accessdate=2021-1-4}}</ref>}}。1997年には『[[情報!もぎたてサラダ]]』、『[[はなまるマーケット]]』で「はなまるエプロン隊」役で出演。1998年からは『[[ジャスト (情報番組)|ジャスト]]』の水、木、金曜に出演(~2005年)。1999年からは『[[さんまのSUPERからくりTV]]』(~2014年)など。→[[#テレビ|テレビ]] 2002年には『[[おはよう!グッデイ]]』の「レシート拝見コーナー」で出演。同年の夏クールに放送された『[[ぼくが地球を救う]]』、同年冬クールに放送された『[[木更津キャッツアイ]]』最終回の2作品にも本人役で出演。2003年、ドラマ『[[GOOD LUCK!!]]』では本人の名をもじったパイロットの「安住龍二郎」役として起用され出演。 2004年10月1日より組織改編で[[TBSテレビ]]に出向。2006年5月から7月に放送された『[[愛の劇場]]・[[吾輩は主婦である]]』では、回想シーンに登場する若き日の[[夏目漱石]]を演じた。2009年4月1日、TBSグループの放送持株会社移行の際にTBSテレビへ自動的に転籍。2018年、初代「しょうゆ大使」に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tbsradio.jp/personality/azumi-shinichiro/|title=TBSアナウンサー 安住紳一郎 プロフィール|publisher=[[TBSラジオ]]|accessdate=2020-10-22}}</ref><ref name="soysauce2018">{{Cite web|和書|url=http://www.soysauce.or.jp/wp-content/uploads/2018/07/No152%E3%80%8C%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%86%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E3%80%8DH30.7.2.pdf|title=日本醤油協会 初代「しょうゆ大使」に TBSアナウンサー安住紳一郎さんに就任していただきました|publisher=しょうゆ情報センター|date=2018-07-02|accessdate=2020-10-22}}</ref>。 2019年7月1日付で、所属部署(TBSテレビ総合編成本部アナウンスセンター)での役職が「次長待遇」に変更。部長職を経ずに上位のポストへ昇進したため、安住は後に「二階級特進というね、殉職級の昇進」 と振り返っている<ref>{{Cite news|title=テレ朝市川寛子が広報部異動、TBS安住紳一郎は局次長待遇…局アナ夏の人事|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07050556/?all=1|publisher=デイリー新潮|date=2019-07-04|accessdate=2019-09-12}}</ref>。さらに、翌2020年には「局長待遇」への昇進を果たした<ref name="spo nichi210530"/>。 2021年10月4日(放送上は同月1日)からは、平日早朝の生放送番組『[[THE TIME,]]』(5:20 - 8:00)でメインキャスターを担当中。TBSテレビの制作・全国ネット向けの生放送による帯番組のキャスターをレギュラーで担当することは、『ジャスト』の終了(2005年3月)以来16年半振りである。ただし、生放送による他のレギュラー番組(土曜日夜の『[[情報7daysニュースキャスター]]』と日曜日午前中の『日曜天国』)への出演も続けることから、『THE TIME,』への出演をあらかじめ週4日(月 - 木曜日)に限定。収録によるレギュラー番組については、『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』の出演を続ける一方で、長時間のロケ収録を伴う『[[ぴったんこカン・カン]]』が2021年9月24日で終了した<ref>{{Cite press release |和書 |title= MCはTBSアナウンサー・安住紳一郎!2021年秋、新情報番組がスタート!|publisher= TBSテレビ|date= 2021-05-19|url= https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=12831|format= HTML|language= 日本語|trans-title= |accessdate= 2021-05-19|archiveurl= |archivedate= |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news2|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202105190000255.html|title=TBS安住紳一郎アナ、10月から新・朝の顔になる 16年ぶり生の帯番組|newspaper=Nikkan Sports|agency=日刊スポーツ新聞社|date=2021-05-19|accessdate=2021-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/06/28/kiji/20210628s00041000273000c.html?amp=1|title=今秋TBS朝の情報番組「THE TIME,」安住アナ&金曜・香川照之が司会決定 強力タッグに期待|website=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|work=株式会社スポーツニッポン新聞社|date=2021-06-28|accessdate=2021-06-28}}</ref>。 2023年7月1日付で、TBSテレビにおける役職が「総合編成本部 アナウンスセンター 役員待遇 エキスパート職」に変更された。同社のアナウンサー経験者でアナウンス関連以外の部署への異動を経ずに現職の者が役員に相当する地位(役員待遇)にまで昇進したのは安住が初めてである<ref name="spo nichi230609"/>。 == 人物 == ===人気度=== 2000年代から、TBSの「看板アナウンサー」と位置づけられており、[[オリコン]]が実施した「好きな男性アナウンサーランキング」で5回連続1位になり、[[2009年]]に殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web|和書|date=2009-12-10 |url=https://www.oricon.co.jp/news/71445/ |title=『第5回 好きな男性アナウンサーランキング』安住紳一郎アナが5連覇で殿堂入り!! |work=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン|oricon ME]] |accessdate=2019-03-27 }}</ref>。 ===呼ばれ方=== 安住は「安住紳一郎」とフルネームで呼ばれたり「安住アナ」などと呼ばれることが多い。ネット上ではファンや視聴者などから、その時の役職に応じて、「安住係長」「安住副部長」「安住部次長」「安住局次長」「安住局長」「安住役員待遇」と呼ばれることがある。{{要出典|date=2021年9月}}。役職名だけで呼ばれることもある。 ===趣味=== ファッション情報番組の『[[ファッション通信]]』を必ず見ていた。様々なブランドを挙げて、歴史やロゴについて詳しく説明するほど「アパレルに対してはかなり造詣が深いんですね」と『[[安住紳一郎の日曜天国]]』(TBSラジオ)で述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20201020-1427437/|title=安住紳一郎アナ、「アパレルには大変詳しい」理由を明かす|publisher=マイナビニュース|date=2020-10-20|accessdate=2020-10-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbsradio.jp/archives/?id=p-529164|title=10月18日(日)安住紳一郎のTBSラジオクラウド~メッセージコーナー「服・ファッションの話」〜|publisher=[[TBSラジオ]]|date=2020-10-18|accessdate=2020-10-20}}</ref>。 安住が好きな花は[[ハクモクレン]]である<ref>{{Cite news|title=安住紳一郎 モクレンの花の魅力を語る|url=https://miyearnzzlabo.com/archives/72682}}</ref>。 また安住は醤油が好きで全国の醤油ラベルを集めたり、ワインのラベル用のアルバムにテイストや産地を詳しく書き留めている。その活動を『安住紳一郎の日曜天国』で度々トークし、しょうゆの魅力を広めてきた功績が認められ日本醤油協会公式の初代「しょうゆ大使」に委嘱された<ref name="soysauce2018"/>。 安住は[[横浜DeNAベイスターズ]]<ref group="注">なお、横浜DeNAベイスターズは2001年から2011年までTBSが運営しており、[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]傘下に移行した2022年現在でも同球団と資本関係がある。{{see also|横浜DeNAベイスターズ#株主構成}}</ref>のファンであることを公言している<ref>{{Cite web|和書|title=安住紳一郎アナ、村上宗隆の56号に複雑…「私はベイスターズを応援…記録を作るのは横浜から」 |url=https://hochi.news/articles/20221004-OHT1T51020.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-10-04 |access-date=2022-10-04}}</ref>。 ===SNS=== 2023年6月現在、[[Twitter]]などのSNSは、見ることはあるものの自身の公式アカウントは持っていない。2023年6月ごろ、Twitter上にあった自身を装う偽アカウントについて『安住紳一郎の日曜天国』内で言及し、その後そのアカウントが削除された<ref>{{Cite web|和書|title=安住紳一郎アナ、SNSの偽アカウントに生放送で苦言「正直困っています」即アカウント削除される |url=https://hochi.news/articles/20230611-OHT1T51055.html |website=スポーツ報知 |date=2023-06-11 |access-date=2023-06-11}}</ref>。 ===影響を受けた人物=== 影響を受けたアナウンサーは[[久米宏]]、[[古舘伊知郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2016/06/11269384.html?p=all|title=こんな古舘伊知郎を待っていた 安住アナも泣いた名人芸トーク|publisher=JCASTニュース|date=2016-06-11|accessdate=2020-06-17}}</ref>、地元・北海道に居た頃に[[STVラジオ]](旧[[札幌テレビ放送]]ラジオ局)の『[[アタックヤング]]』を聴いていて憧れていたという[[木村洋二]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/%E3%81%B4%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3/1226851|title=2019年1月4日放送 19:00 - 21:00 TBS ぴったんこカン・カン|work=TVでた蔵|publisher=[[ワイヤーアクション (企業)|ワイヤーアクション]]|date=2019-01-04|accessdate=2020-06-17}}</ref>。 ===同窓生、同僚、交友関係など=== [[大泉洋]]とは、浪人時に[[代々木ゼミナール]]札幌校で同級生だった<ref>{{Cite web|和書|title=価格.com - 「ぴったんこカン・カン 〜【大泉洋&安住が故郷北海道に&ぴったんこ名家部】〜」2019年1月4日(金)放送内容 {{!}} テレビ紹介情報|url=https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=996/episodeID=1226851/|website=kakaku.com|accessdate=2020-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210122175903/https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=996/episodeID=1226851/|archivedate=2021-01-22}}</ref>。 TBSの同期にはアナウンサーの[[伊藤隆太]]・[[小倉弘子]]<ref>{{Cite book|和書|editor=東京放送|title=TBS50年史 資料編|date=2002-01|publisher=東京放送|page=240|chapter=III 放送関係 7.アナウンサーの活動記録|quote=1997.4<32期生> 3人入社(男2・女1) 安住紳一郎 伊藤隆太 小倉弘子}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=東京放送|title=TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編|format=DVD-ROM & PDF|date=2002-01|publisher=東京放送|page=33|chapter=TBSアナウンサーの動き|quote=97.4<32期生>3人入社 安住紳一郎 伊藤 隆太 小倉 弘子}}</ref>、他職では[[石丸彰彦]](ドラマプロデューサー)、[[竹内由布子]]がいる。 後輩で、TBSアナウンサーだった[[田中みな実]]が在局中、田中の仕事を巡って安住が注意をしたところ、互いに険悪な雰囲気となり、1年半の期間も口をきいていなかったが、安住がデスクワーク中に煎餅を食べていたところ、田中が久しぶりに「私にもお煎餅を1枚いただけますか」と口を開き、お菓子の誘惑でわだかまりがとけたエピソードが語られている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.excite.co.jp/news/article/Dokujo_71653/ |title=安住アナ、涙で語った元同僚とのエピソードに「TBSは闇が深い」の声|publisher=excite.ニュース|date=2018-05-29|accessdate=2020-11-12}}</ref>。 今までお付き合いしてきた女性たちは「アパレル関係の方」と公表している。 ===生き残り法=== 「社内で生き残るために、平均点的な人間になってしまうのを避け(独自の道を進むことに決め)、そのためにあえて、上の人の言うことは聞いてこなかった、編成(局)の言うことを聞かなかった、社長の言うことも聞かなかった」と本人は説明した。「(電子)メールは見ない。ファックスも見ない。電話も出ない」という作戦をとったという{{Refnest|group="t"|2021年2月9日(火)、TBSラジオの生放送「[[爆笑問題カーボーイ]]」に田中裕二の代理として出演した折に、太田が話を面白くするために、勝手に安住のことを「新入社員時期には既に社長物件」だったと勝手に決め付けたが安住本人は完全否定。安住は、社内で平均的な人間になるのは避けたという。そのために「(電子)メールは見ません。ファックスも見ません。電話も出ません。それから上の人の言うことを聞きません。」という作戦をとったという<ref>{{Cite news|title= 安住紳一郎『爆笑問題カーボーイ』代打出演を渋りまくった話|url= https://miyearnzzlabo.com/archives/72060|date=2021-02-10|access_date=2021-05-17}}</ref>。}}。 ===家族・親族=== 2024年元日に、元タレントの[[西島まどか]]と結婚予定であることを公表した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202312310001050.html|title=独占結婚報告!安住紳一郎アナが元タレントの38歳一般女性と TBS役員待遇50歳ついに|newspaper=[[日刊スポーツ]]|accessdate=2023-01-01}}</ref>。[[柏倉早智子]](北海道の高校教師、[[チアリーダー|チアリーディング]]指導者、チアリーディング元日本代表)<ref>『局アナ 安住紳一郎』「姉はチアリーダーの世界チャンピオン!?」の章より。</ref>が姉で、女優の[[原千晶]]は従妹である。 鳥取県にルーツがあり<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202312310001050.html|title=日本海新聞発刊 45周年記念 紙上トップインタビュー BSS山陰放送 代表取締役社長 坂口 吉平氏|newspaper=[[日本海新聞]]|accessdate=2022-12-03}}</ref>、父方が鳥取県から北海道に移住して開拓した。 祖父は宮城県[[石巻市]]出身。祖母は山形県[[天童市]]出身。 == 出演番組 == <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」、「プロジェクト:アナウンサー」参照 --> === テレビ === ;現在出演中の番組 レギュラー番組 * [[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]](金曜、2001年10月 - ※2008年10月以降不定期)進行 * [[情報7daysニュースキャスター]](土曜、2008年10月4日 - )進行 * [[THE TIME,]](月〜木曜、2021年10月1日 - )総合司会 特別番組 * [[日本レコード大賞|輝く!日本レコード大賞]](年に1度開催、2000年 - ) ** [[第42回日本レコード大賞|第42回]](2000年):中継リポーター<ref>{{Cite web|和書|title=安住紳一郎アナ、40代最後の『レコ大』 中継アナ時代からは23回目「『TSUNAMI』の大賞のときが最初」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2259503/full/|publisher=ORICON NEWS|date=2022-12-06|accessdate=2022-12-06}}</ref> ** [[第43回日本レコード大賞|第43回]](2001年) - [[第53回日本レコード大賞|第53回]](2011年):進行アナウンサー ** [[第54回日本レコード大賞|第54回]](2012年) - 現在:総合司会 * [[音楽の日]](年に1度開催、2011年 - {{efn2|2021年に限り年2回開催。}})総合司会 ;過去の出演番組 * [[情報!もぎたてサラダ]](1997年)<ref name="TBS50th_s_azumishinichirou">{{Cite book|和書|editor=東京放送|title=TBS50年史 資料編|date=2002-01|publisher=東京放送|page=240|chapter=III 放送関係 7.アナウンサーの活動記録|quote=安住紳一郎 TV「もぎたてサラダ(1997)」「はなまるマーケット(1997)」「ジャスト(2000)」「さんまのからくりTV(2000)」「お家に帰ろう」}}</ref><ref name="tbsana_azumishinichirou">{{Cite book|和書|editor=東京放送|title=TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編|format=DVD-ROM & PDF|date=2002-01|publisher=東京放送|page=33|chapter=TBSアナウンサーの動き|quote=安住紳一郎…TV「もぎたてサラダ(97)」「はなまるマーケット(97)」「ジャスト(00〜)」「さんまのからくりTV(00〜)」「お家に帰ろう」}}</ref> * [[はなまるマーケット]](1997年)はなまるエプロン隊ほか<ref name="TBS50th_s_azumishinichirou" /><ref name="tbsana_azumishinichirou" /> * [[ジャスト (情報番組)|ジャスト]](1998年 - 2005年)水 - 金曜<ref name="TBS50th_s_azumishinichirou" /><ref name="tbsana_azumishinichirou" /> * [[さんまのSUPERからくりTV]](1999年 - 2014年) - 2007年秋以降[[大江裕]]と共に全国旅をし、演歌高校生から演歌歌手への企画で歌手になるまで優しく見届ける。2014年9月7日の最終回に出演<ref name="TBS50th_s_azumishinichirou" /><ref name="tbsana_azumishinichirou" /> * [[おウチに帰ろう!]]<ref name="TBS50th_s_azumishinichirou" /><ref name="tbsana_azumishinichirou" /> * [[おはよう!グッデイ]](2002年)レシート拝見コーナー * [[ぴったんこカン・カン|ぴったんこカン★カン]](2003年4月15日 - 2021年9月24日)司会(4代目) * [[ドリーム・プレス社]](2006年 - 2008年) * [[カネボウ木曜劇場]] [[ぼくが地球を救う]]第6話(2002年)司会者 役 * [[日曜劇場]] [[GOOD LUCK!!]](2003年)安住龍二郎 役 * [[日曜劇場]] [[官僚たちの夏]](2009年7月5日 - 9月20日)ナレーション * [[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]] [[木更津キャッツアイ]]最終話(2002年) * [[愛の劇場]] [[吾輩は主婦である]](2006年) * [[渡る世間は鬼ばかり]] 第9シリーズ 最終回(2008年) * [[ザ・ベストテン]](2000年 - 2004年の[[ザ・ベストテン#番組終了後(特番など)|復刻版]])司会 ** ザ・ベストテン2016(2016年10月31日<ref>音楽特番『ハロウィン音楽祭2016』の1コーナーとして放送</ref>)司会 * [[オールスター感謝祭|オールスター感謝祭'03春 超豪華!クイズ決定版]](2003年3月29日)解答者 * [[JNN票決ライブ|JNN開票ライブ2004]](2004年7月11日) * [[3年B組金八先生|25年目の贈る言葉 3年B組金八先生〜涙の卒業式スペシャル]](2005年3月25日)ダイジェスト部司会 * [https://www.tbs.co.jp/shinjitsu2007/ 真実の衝撃!筑紫哲也 安住紳一郎の報道2007](2007年12月15日) * [[ザ・ドリームプレッシャー]] * [[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機|シリーズ激動の昭和 あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機]](2008年12月24日)第1部司会 * [https://web.archive.org/web/20090204131253/http://www.tbs.co.jp/program/bakusho_vs_azumi.html 爆笑問題VS安住紳一郎 平成ニッポン20年史!](2008年12月26日) * [[乱!総選挙2009]](2009年8月30日)第1 - 2部メインキャスター * [https://web.archive.org/web/20130607152400/http://www.tbs.co.jp/program/koushitsusp_20100106.html 新春皇室SP2010 愛子さまと悠仁さま… 未来を担う子ども達へ 美智子さま祈りの言葉](2010年1月6日)司会 * [[スパモク!!]] 秋の皇室SP2010 愛子さま悠仁さまへ…美智子さまの愛と真実 心に響く軽井沢夏(2010年10月7日)司会 * [[ファミ☆ピョン]](2011年4月 - 10月、不定期出演) * [[報道の日|報道の日 2011 記憶と記録そして願い]] (2011年12月25日)第4部「明日へ…」司会 * 皇太子さまと雅子さまご結婚20年〜オランダで花咲く未来への道(2013年6月9日)ナビゲーター * [[テレビ未来遺産]]ドラマ特別企画「こうのとりのゆりかご〜『赤ちゃんポスト』の6年間と救われた92の命の未来〜」(2013年11月25日)ナレーター * 皇后美智子さま傘寿のお祝い〜心よせ続ける愛のうた(2014年10月26日<ref>[[BS-TBS]]でも2015年1月11日・3月4日に地上波未公開分を加えた再編集版を放送。</ref>)ナビゲーター、ナレーター * TBSテレビ60周年特別企画 ** 「ものづくり日本の奇跡」(2015年3月23日 - 3月26日、3月28日) - MC ** 伝説のドラマ&バラエティー全部見せます!夢共演も大連発SP(2015年10月12日)司会<ref>{{Cite web|和書|author=マイナビニュース|url =https://news.mynavi.jp/article/20150901-a131/|title=TBS&さんまの還暦祝う特番決定! 秘蔵映像で60年を回顧、夢の共演も実現|date=2015-09-01|accessdate=2015-10-12}}</ref> ** たけし&安住が贈る!「伝説の芸能60年史」(2015年12月26日)司会 * 皇室特別番組 陛下82歳「お気持ち」美智子さまと寄り添い共に開く未来への扉(2016年8月8日)司会 * ものづくり日本の奇跡 日の丸テクノロジーがオリンピックを変えた元気が出る60年物語(2016年9月3日) - MC<ref>[https://www.tbs.co.jp/monodukuri.jpn/ ものづくり日本の奇跡(TBS)]、2016年8月27日閲覧</ref> * [[どうぶつ奇想天外!|どうぶつ奇想天外!2016]](2016年9月21日)司会 * [[ハロウィン音楽祭|CDTVスペシャル! ハロウィン音楽祭2017]](2017年10月25日)総合司会 * 世界ふしぎ大冒険!(2018年3月17日)司会 * 皇室特番“新時代へ”(2018年12月30日)ナビゲーター・ナレーター * 平成最後の大晦日スペシャル [[SASUKE]]2018&ボクシング[[井岡一翔]]世界タイトルマッチ(2018年12月31日)総合MC、「SASUKE2018」ファイナルステージ実況 * 皇居千二百年物語 平安から平成、そして新元号へ(BS-TBS、2019年1月11日)司会 * 皇室2019秘蔵映像SP 陛下と美智子さま祈りの60年(BS-TBS、2019年1月19日)ナビゲーター・ナレーション * 生放送!平成最後の日(2019年4月30日)司会 * [[安住紳一郎と2019年上半期のTBS]](2019年7月6日未明(5日深夜)) * [[東京VICTORY (テレビ番組)|東京VICTORY]](土曜、2019年7月6日 - 2021年9月25日)メインキャスター * [[2019年のマラソングランドチャンピオンシップ|マラソングランドチャンピオンシップ]] 東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ(2019年9月11日)司会 * [[SASUKE]](2018年・2019年12月31日)生実況 * [[半沢直樹|生放送!!半沢直樹の恩返し]]{{efn2|当初は「日曜劇場 半沢直樹第2シリーズ8話」を放送予定だったが、制作スタッフが[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]への陽性反応が確認されことに伴い撮影スケジュールが変更されたことを受け、放送を翌週に延期したため[[代替番組]]として放送。}}(2020年9月6日)進行 * [[東大王]](2021年4月28日・2021年7月7日)解答者<ref>{{Cite web|和書|url =https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=12702|title=東大王フルメンバーとSDGsキャンペーン大使がガチンコ勝負!|author=TBS TOPICS|date=2021-04-28|accessdate=2021-08-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url =https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=13186|title=『東大王SP』五輪直前!クイズ番組初出演のオリンピアン軍団が襲来!|author=TBS TOPICS|date=2021-07-07|accessdate=2021-08-08}}</ref> * [[2020年東京オリンピック]]中継(2021年)総合司会 ** [[東京五輪プレミアム]](2021年) * [[2022年北京オリンピック]]中継(2022年)総合司会 * [[妻、小学生になる。#テレビドラマ|妻、小学生になる。]] 最終話(2022年3月25日、TBS)- 本人 役 ;共同中継 * 東京メトロスポーツスペシャル マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表選考レース 男子〜(2019年9月15日、NHK総合(女子)と共同中継)進行 * [[一緒にやろう2020#大発表スペシャル|民放同時放送 一緒にやろう2020 大発表スペシャル]](2020年1月24日) ;TBS以外のテレビ番組 * [[森田一義アワー 笑っていいとも!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2008年11月25日放送)「[[テレフォンショッキング]]」 - [[中居正広]]からの紹介で出演。他局の現役アナウンサーが出演するのは当時日本テレビアナウンサーだった[[徳光和夫]]と[[小林完吾]]以来約25年ぶり。お友達紹介では[[大竹まこと]]を紹介した。 * [[おはよう朝日です]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、2010年3月26日放送) - [[宮根誠司]]の出演最終週に当たる3月22日 - 26日には、「おは朝」や宮根に縁があった人物から宮根宛てのビデオメッセージを放送。宮根の卒業日に当たる26日には、『ぴったんこカン・カン』で宮根と共演した安住が([[#テレビ|前述]])、放送局の壁を越える形でメッセージを寄せた。 * [[NHK全国学校音楽コンクール|Nコン]]2010スペシャル 合唱のちから([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2010年4月29日放送) * [[沼にハマってきいてみた]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]、2019年7月8日放送<ref>{{Cite web|和書|title=TBS安住アナ、NHK生放送番組初出演へ あり得ないことを実現させた「合唱」の力 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2138608/full/|publisher=ORICON NEWS|date=2019-06-26|accessdate=2019-09-12}}</ref>) * [[BS民放5局共同特別番組|BSデジタル20周年YEAR突入記念 BS民放5局共同制作特番]]「[[鶴瓶&安住の放送局漫遊記|BS5局で生放送!鶴瓶&安住の放送局漫遊記]]」([[BS日本|BS日テレ]]・[[BS朝日]]・BS-TBS・[[BSテレビ東京|BSテレ東]]・[[BSフジ]]共同制作、2019年12月1日)総合司会 * [[1×8いこうよ!]]([[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、2021年7月4日) - 親交がある[[大泉洋]]と、憧れのアナウンサーである[[木村洋二]]が出演している番組であり、放送1000回を記念し、系列局の枠<ref>安住はTBS系列だが、この番組を放送している札幌テレビは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列</ref>を越えてVTR出演。 * アナテレビ(NHK総合、2023年5月3日) - この番組では、NHKから[[高瀬耕造]](放送時点は[[NHK大阪放送局|大阪放送局]]在籍)、日本テレビから[[水卜麻美]]、テレビ朝日から[[大下容子]]、テレビ東京から[[松丸友紀]]、フジテレビから[[伊藤利尋]]が出演した<ref>[https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/tag/index.html?i=38258 アナテレビ(NHK PR 注目番組ご紹介)] - NHKホームページ</ref>。 === ラジオ === * [[安住紳一郎の日曜天国]](日曜)メインパーソナリティー ;TBS以外のラジオ番組 * [[次は〜新福島!#新春特別番組|MBSラジオ亥の一番! 次は~新福島! 猪(ちょ)ベリグ大新年会!]]([[MBSラジオ|毎日放送]]、2019年1月1日) - 自身が夏季休暇を取っていた2018年10月7日放送分『安住紳一郎の日曜天国』のパーソナリティ代理を同局アナウンサーの[[福島暢啓]]に依頼した縁で、同年12月に毎日放送本社(大阪市北区)で収録された福島との対談パートに出演。 *[[LILY' S TONE]]([[J-WAVE]]、2022年6月5日) == 映画 == * [[あずみ2 Death or Love]](2005年) * [[のぼうの城#映画|のぼうの城]](2012年)ナレーション == 広告 == * [[アサヒ飲料]]、[[十六茶]](2010年)ナレーション - 映画『[[ハナミズキ (映画)|ハナミズキ]]』とのコラボレーションCM。 == その他 == * 没後120年 ゴッホ展([[国立新美術館]] 2010年10月1日 - 12月20日、[[九州国立博物館]] 2011年1月1日 - 2月13日、[[名古屋市美術館]] 2011年2月22日 - 4月10日)音声ガイド ナレーション{{r|ゴッホ展}} * [[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系]][[持続可能な開発目標|SDGs]]プロジェクト 地球を笑顔にするWEEK(TBS) - キャンペーン大使 **第1弾(2020年11月23日 - 11月29日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2173180/full/|title=TBS、11月に「SDGsウィーク」開催 キャンペーン大使に安住アナ、香川照之、指原莉乃が就任|website=ORICON NEWS|work=[[オリコン|oricon ME]]|date=2020-09-30|accessdate=2021-04-14}}</ref><ref group="注">[[香川照之]]、[[指原莉乃]]、[[藤森祥平]]、[[井上貴博 (アナウンサー)|井上貴博]]、[[江藤愛]]、[[国山ハセン]]、[[上村彩子 (アナウンサー)|上村彩子]]、[[日比麻音子]]、[[山本恵里伽]]、[[山形純菜]]、[[山本里菜]]、[[宇賀神メグ]]、[[小林廣輝]]、[[田村真子]]、[[良原安美]]、[[近藤夏子 (アナウンサー)|近藤夏子]]、[[篠原梨菜]]、[[若林有子]]、[[渡部峻]]と共に担当。</ref> ** 第2弾(2021年4月26日 - 5月5日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000025.000065979.html|title=4月26日(月)~5月5日(水・祝)開催「地球を笑顔にするWEEK」キービジュアルと12種類のスポット動画を本日解禁!SDGs特番や『東大王』とのコラボ番組も放送決定!!|website=プレスリリース([[PR TIMES]])|work=株式会社 PR TIMES|date=2021-04-13|accessdate=2021-04-14}}</ref><ref group="注">[[木村佳乃]]、[[バナナマン]]、[[山之内すず]]、井上貴博、[[杉山真也]]、江藤愛、[[宇内梨沙]]、上村彩子、日比麻音子、山本恵里伽、山形純菜、山本里菜、宇賀神メグ、小林廣輝、田村真子、良原安美、近藤夏子、篠原梨菜、[[齋藤慎太郎]]、[[野村彩也子]]と共に担当。</ref> == ビブリオグラフィ == === 著書 === * 『局アナ 安住紳一郎』 2006年4月、[[小学館]]、{{ISBN2|4-09-387641-X}}、ISBN 978-409-387641-4。 * 『話すチカラ』 2020年2月、[[ダイヤモンド社]] - 齋藤孝との共著<ref>{{Cite web|和書|title=安住紳一郎TBSアナウンサーが語る「話すチカラ」の養いかた|url=https://diamond.jp/articles/-/228580|work=DIAMOND online|date=2020-02-19|accessdate=2020-02-23}}</ref> {{ISBN2|978-4-478-10981-6}} * 『マンガでわかる 話すチカラ』2021年3月、ダイヤモンド社 - 齋藤孝との共著 ISBN 978-4-478-11263-2 == 受賞歴 == === 2002年 === * 第27回(2001年度) [[アノンシスト賞#第27回(2001年度) - 第31回(2005年度)|アノンシスト賞]](テレビ「フリートーク」部門) === 2008年 === * 第33回(2007年度) [[アノンシスト賞#第32回(2006年度) - 第43回(2017年度)|アノンシスト賞]] (ラジオ「フリートーク」部門)最優秀賞 === 2016年 === * 第19回 [[みうらじゅん賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=「みうらじゅん賞」にボブ・ディランや安住紳一郎|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000136330|website=BARKS|accessdate=2019-07-07}}</ref> === 2019年 === * 第27回 [[橋田賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=安住アナに橋田賞! 橋田壽賀子から称賛「えらい! よそへ行かない」|url=https://news.mynavi.jp/article/20190511-821473/|website=マイナビニュース|date=2019-05-11|accessdate=2019-07-07}}</ref> === 2023年 === * 第60回 [[ギャラクシー賞]] ラジオ部門 DJパーソナリティ賞<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2277201/full/ TBS安住紳一郎アナ「第60回ギャラクシー賞」でDJパーソナリティ賞「放送人の代表として称えます」],ORICON NEWS,2023年4月28日</ref> == 脚注 == == 注記 == <references group="t"/> == 注釈 == {{Notelist2}} == 出典 == {{Reflist|2|refs= <ref name="ゴッホ展">{{Cite web|和書 | url = http://www.gogh-ten.jp/tokyo/event/index.html | archiveurl = https://archive.fo/Erbln | title = 没後120年 ゴッホ展 | accessdate = 2010-10-25 | archivedate = 2010-10-27 | deadlinkdate = 2020年6月19日 }}</ref> <ref name ="spo nichi210530">{{Cite news|title=TBS安住紳一郎アナ 局長待遇に昇進していた 長すぎる肩書に「名乗り上げるだけでも時間かかっちゃう」 |url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/05/30/kiji/20210530s00041000296000c.html |publisher=スポーツニッポン|date=2021-05-30|accessdate=2021-05-30}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=東京放送|title=TBS50年史|date=2002-01|publisher=東京放送}} * {{Citation|和書 |last=安住 |first=紳一郎 |title=局アナ 安住紳一郎 |year=2006 |publisher=小学館 |id={{ISBN2|4-09-387641-X}}。ISBN 978-4-09-387641-4 }} == 関連項目 == * [[TBSテレビのアナウンサー一覧]] * [[堀内大輝]] - TBSテレビ・ラジオと同じ系列に属する[[北海道放送]]のアナウンサーで、出身地と出身高校が安住と同じ(高校では安住の後輩)。安住が総合司会を務める『THE TIME,』の列島リレー中継に、北海道内担当のキャスターとして出演している(不定期)。 * [[古野真也]] - TBSテレビ・ラジオと同じ系列に属する[[東北放送]]の社員(元アナウンサー)で、安住と容姿が似ており、公式ブログのタイトルも(同じく似ている[[羽生結弦]]と合わせた)「あずゆづ日記」とするほど古野自身も意識している。アナウンサーから異動するまで堀内同様、『THE TIME,』の列島リレー中継に、宮城県内担当のキャスターとして出演していた(不定期)。 * [[小坂菜緒]] == 外部リンク == * [https://www.tbs.co.jp/anatsu/who/azumi.html TBSアナウンサー通信・安住紳一郎] {{TBSテレビアナウンサー}} {{中居正広の金曜日のスマイルたちへ}} {{ジャスト歴代総合司会・進行役ほか}} {{日本レコード大賞 歴代司会者}} {{ギャラクシー賞ラジオ部門DJ賞}} {{Normdaten}} {{Ana-stub}} {{デフォルトソート:あすみ しんいちろう}} [[Category:安住紳一郎|*]] [[Category:TBSテレビのアナウンサー]] [[Category:ニュースアナウンサー]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:みうらじゅん賞受賞者]] [[Category:学士(文学)取得者]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:北海道帯広柏葉高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:20世紀日本の人物]] [[Category:21世紀日本の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
2003-09-07T01:50:12Z
2024-01-01T00:00:49Z
false
false
false
[ "Template:ファンサイト的", "Template:Notelist2", "Template:See also", "Template:Cite press release", "Template:Citation", "Template:TBSテレビアナウンサー", "Template:Normdaten", "Template:Efn2", "Template:中居正広の金曜日のスマイルたちへ", "Template:ギャラクシー賞ラジオ部門DJ賞", "Template:Ana-stub", "Template:Refnest", "Template:要出典", "Template:R", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:ジャスト歴代総合司会・進行役ほか", "Template:日本レコード大賞 歴代司会者", "Template:出典の明記", "Template:基礎情報 アナウンサー", "Template:Sfn", "Template:ISBN2", "Template:Cite web", "Template:Cite news2", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BD%8F%E7%B4%B3%E4%B8%80%E9%83%8E
15,480
電力機器
電力機器(でんりょくきき、electric appliance)は、電気を利用するために必要な、様々な機器類の総称である。電力機器は、発電、電気エネルギーから他のエネルギーへの変換、蓄電、電圧変換・力率調整、電力の接続・遮断などを行う。電気機器(electric device)とも呼ばれ、両者はともに"電機"と略される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電力機器(でんりょくきき、electric appliance)は、電気を利用するために必要な、様々な機器類の総称である。電力機器は、発電、電気エネルギーから他のエネルギーへの変換、蓄電、電圧変換・力率調整、電力の接続・遮断などを行う。電気機器(electric device)とも呼ばれ、両者はともに\"電機\"と略される。", "title": null } ]
電力機器は、電気を利用するために必要な、様々な機器類の総称である。電力機器は、発電、電気エネルギーから他のエネルギーへの変換、蓄電、電圧変換・力率調整、電力の接続・遮断などを行う。電気機器(electric device)とも呼ばれ、両者はともに"電機"と略される。
{{redirect|電機|主に家庭用に使用される機器|家庭用電気機械器具|電気機関車|電気機関車}} {{混同|電気|伝記|redirect=電機}} {{出典の明記|date=2023年12月}} '''電力機器'''(でんりょくきき、electric appliance)は、[[電気]]を利用するために必要な、様々な[[機器]]類の総称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.power-academy.jp/electronics/keyword/search.php?d_code=d_01|title=電力機器|電気工学のキーワード|電気工学を知る|パワーアカデミー|accessdate=2021-05-28}}</ref>。電力機器は、[[発電]]、電気エネルギーから他のエネルギーへの変換、[[蓄電]]、[[電圧]]変換・[[力率]]調整、電力の[[:wikt:ja:接続|接続]]・[[遮断]]などを行う。'''電気機器'''(electric device)とも呼ばれ、両者はともに"電機"と略される。 ==他のエネルギーから電気エネルギーへの変換を行う機器== *[[発電機]]: [[力学的エネルギー]]を電気エネルギーへ変換 *[[太陽電池]]: [[光エネルギー]]を電気エネルギーへ変換 *[[燃料電池]]・[[一次電池]]: [[化学エネルギー]]を電力へ変換 ==電気エネルギーから他のエネルギーへの変換を行う機器== *[[電動機]](モーター): 電気エネルギーを力学的エネルギーへ変換 [[原動機]]の他[[ヒートポンプ]]も含む *[[電熱]]器: 電気エネルギーを熱エネルギーへ変換 *[[光源]]: 電気エネルギーを光エネルギーへ変換 ==電気エネルギーの他のエネルギーでの蓄積を行う機器== *[[二次電池]](蓄電池) ==電気エネルギーを直接蓄積を行う機器== *[[コンデンサ]]([[電気二重層コンデンサ]]) ==電力の電圧変換・力率調整を行う機器== *[[変圧器]](トランス) *電力用[[コンデンサ]] *電力用[[リアクトル]] ==電力の接続・遮断などを行う機器== *[[遮断器]] *[[電力ヒューズ]] *[[開閉器]] *[[断路器]] *[[接触器]] *[[電力用半導体素子]] *[[継電器]] *[[避雷器]] ==関連項目== *[[電気機器の冷却方式]] *[[電力機器の保護方式]] *[[電気製品の一覧]] *[[電機メーカー]] {{電気電力}} [[Category:電力機器|*]] == 出典 == {{reflist}}
2003-09-07T01:51:36Z
2023-12-28T08:42:10Z
false
false
false
[ "Template:Redirect", "Template:混同", "Template:電気電力", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E6%A9%9F%E5%99%A8
15,481
集中型
集中型(しゅうちゅうがた)とは、一つのコンピュータなどにのみ機能を依存している処理形態のこと。分散型の反対の意味として用いられる。 集中型は、いわゆる一対多型の形態で、情報処理能力を主システムに依存する形で提供される。この場合、端末機の機能(マシンパワー:機械的な性能の高さ・処理能力)はあまり必要とされず、それだけ様々な機器にサービスを提供することが可能である。1970年代までのメインフレームを中心とした集中処理が典型である。 主となるシステムは一つの設備のみ(あるいは予備も含む)の設置ですむため、システム全体の設置・維持コストは分散型ほどかからない。しかし、主システムに障害が発生すると、機能全体が止まってしまう危険性を持つ。 インターネットは、この集中を回避するために開発された。インターネットは同等の機能を持つサーバや通信経路を相互接続することで、コンピュータネットワークが部分的に欠落しても、全体的な(=致命的な)機能停止が発生しないよう設計されたのである(→ARPANET)。しかし、日本においては、インターネット相互接続点(IX)が東京と大阪に集中しており、関東大震災規模の大規模災害時にインターネットが機能しなくなることが懸念されている。 他方、インターネット上で構築される、World Wide Webやクラウドコンピューティングなどは、中央のデータセンターに、世界中から多数のウェブブラウザなどで接続する面では一種の集中型である。その各データセンター内では、各種の分散コンピューティング技術を使用してスケーラビリティを確保している。このように多くの現実のシステムでは、集中型と分散型を色々なレベルで組み合わせている。 パソコン通信や銀行のオンラインシステムでは、ホストコンピュータに一極集中して接続されている。これはシステム構築当初の端末性能が余り高くなかったことにも関係するが、その一方でパソコン通信では受信したキャラクタデータ(文字情報)をディスプレイに表示し、入力されたキャラクタデータを送信する機能だけで済んだため、ワードプロセッサのような汎用の家庭用コンピュータ(パーソナルコンピュータ)以外からも利用できるなど融通が利き、他方のオンラインシステムでは情報を一括管理することからコンピュータセキュリティ上で一定の水準を維持し易いという利点がある。 ただパソコン通信では後に端末の性能が上がると共に、インターネットの普及にも伴い、サーバの相互接続にもよりインターネットへと組み込まれていった。 銀行などのオンラインシステムでは、依然として一極型の集中処理が管理上で都合が良いため続けられているが、データセンター内では複数のサーバでミラーリングするなど並行処理することで、システムトラブルによる致命的な問題が起こらないようにするなどの対策がとられている。またテロや災害といった問題でデータセンターそのものが全損しても、システム全体が停止しないよう離れた場所にバックアップ用のデータセンターを並列設置するなどといったリスクマネジメント手法もあり、厳密な意味での一極集中型ではなくなってきている(→事業継続マネジメント)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "集中型(しゅうちゅうがた)とは、一つのコンピュータなどにのみ機能を依存している処理形態のこと。分散型の反対の意味として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "集中型は、いわゆる一対多型の形態で、情報処理能力を主システムに依存する形で提供される。この場合、端末機の機能(マシンパワー:機械的な性能の高さ・処理能力)はあまり必要とされず、それだけ様々な機器にサービスを提供することが可能である。1970年代までのメインフレームを中心とした集中処理が典型である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主となるシステムは一つの設備のみ(あるいは予備も含む)の設置ですむため、システム全体の設置・維持コストは分散型ほどかからない。しかし、主システムに障害が発生すると、機能全体が止まってしまう危険性を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "インターネットは、この集中を回避するために開発された。インターネットは同等の機能を持つサーバや通信経路を相互接続することで、コンピュータネットワークが部分的に欠落しても、全体的な(=致命的な)機能停止が発生しないよう設計されたのである(→ARPANET)。しかし、日本においては、インターネット相互接続点(IX)が東京と大阪に集中しており、関東大震災規模の大規模災害時にインターネットが機能しなくなることが懸念されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "他方、インターネット上で構築される、World Wide Webやクラウドコンピューティングなどは、中央のデータセンターに、世界中から多数のウェブブラウザなどで接続する面では一種の集中型である。その各データセンター内では、各種の分散コンピューティング技術を使用してスケーラビリティを確保している。このように多くの現実のシステムでは、集中型と分散型を色々なレベルで組み合わせている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パソコン通信や銀行のオンラインシステムでは、ホストコンピュータに一極集中して接続されている。これはシステム構築当初の端末性能が余り高くなかったことにも関係するが、その一方でパソコン通信では受信したキャラクタデータ(文字情報)をディスプレイに表示し、入力されたキャラクタデータを送信する機能だけで済んだため、ワードプロセッサのような汎用の家庭用コンピュータ(パーソナルコンピュータ)以外からも利用できるなど融通が利き、他方のオンラインシステムでは情報を一括管理することからコンピュータセキュリティ上で一定の水準を維持し易いという利点がある。", "title": "1対多のネットワークシステム" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただパソコン通信では後に端末の性能が上がると共に、インターネットの普及にも伴い、サーバの相互接続にもよりインターネットへと組み込まれていった。", "title": "1対多のネットワークシステム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "銀行などのオンラインシステムでは、依然として一極型の集中処理が管理上で都合が良いため続けられているが、データセンター内では複数のサーバでミラーリングするなど並行処理することで、システムトラブルによる致命的な問題が起こらないようにするなどの対策がとられている。またテロや災害といった問題でデータセンターそのものが全損しても、システム全体が停止しないよう離れた場所にバックアップ用のデータセンターを並列設置するなどといったリスクマネジメント手法もあり、厳密な意味での一極集中型ではなくなってきている(→事業継続マネジメント)。", "title": "1対多のネットワークシステム" } ]
集中型(しゅうちゅうがた)とは、一つのコンピュータなどにのみ機能を依存している処理形態のこと。分散型の反対の意味として用いられる。
'''集中型'''(しゅうちゅうがた)とは、一つの[[コンピュータ]]などにのみ機能を依存している処理形態のこと。[[分散型]]の反対の意味として用いられる。 ==概要== 集中型は、いわゆる一対多型の形態で、情報処理能力を主システムに依存する形で提供される。この場合、[[端末|端末機]]の機能(マシンパワー:機械的な性能の高さ・処理能力)はあまり必要とされず、それだけ様々な機器にサービスを提供することが可能である。[[1970年代]]までの[[メインフレーム]]を中心とした集中処理が典型である。 主となるシステムは一つの設備のみ(あるいは予備も含む)の設置ですむため、システム全体の設置・維持コストは分散型ほどかからない。しかし、主システムに障害が発生すると、機能全体が止まってしまう危険性を持つ。 [[インターネット]]は、この集中を回避するために開発された。インターネットは同等の機能を持つ[[サーバ]]や通信経路を相互接続することで、[[コンピュータネットワーク]]が部分的に欠落しても、全体的な(=致命的な)機能停止が発生しないよう設計されたのである(→[[ARPANET]])。しかし、日本においては、[[インターネットエクスチェンジ|インターネット相互接続点]](IX)が東京と大阪に集中しており、[[関東大震災]]規模の大規模災害時にインターネットが機能しなくなることが懸念されている。 他方、インターネット上で構築される、[[World Wide Web]]や[[クラウドコンピューティング]]などは、中央の[[データセンター]]に、世界中から多数の[[ウェブブラウザ]]などで接続する面では一種の集中型である。その各データセンター内では、各種の[[分散コンピューティング]]技術を使用して[[スケーラビリティ]]を確保している。このように多くの現実のシステムでは、集中型と分散型を色々なレベルで組み合わせている。 ==1対多のネットワークシステム== [[パソコン通信]]や銀行の[[オンラインシステム]]では、[[ホストコンピュータ]]に一極集中して接続されている。これはシステム構築当初の端末性能が余り高くなかったことにも関係するが、その一方でパソコン通信では受信したキャラクタデータ(文字情報)を[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に表示し、入力されたキャラクタデータを送信する機能だけで済んだため、[[ワードプロセッサ]]のような汎用の家庭用コンピュータ([[パーソナルコンピュータ]])以外からも利用できるなど融通が利き、他方のオンラインシステムでは情報を一括管理することから[[コンピュータセキュリティ]]上で一定の水準を維持し易いという利点がある。 ただパソコン通信では後に端末の性能が上がると共に、インターネットの普及にも伴い、サーバの相互接続にもよりインターネットへと組み込まれていった。 銀行などのオンラインシステムでは、依然として一極型の集中処理が管理上で都合が良いため続けられているが、データセンター内では複数のサーバで[[ミラーリング]]するなど並行処理することで、システムトラブルによる致命的な問題が起こらないようにするなどの対策がとられている。またテロや災害といった問題でデータセンターそのものが全損しても、システム全体が停止しないよう離れた場所にバックアップ用のデータセンターを並列設置するなどといった[[リスクマネジメント]]手法もあり、厳密な意味での一極集中型ではなくなってきている(→[[事業継続マネジメント]])。 {{DEFAULTSORT:しゆうちゆうかた}} [[Category:集中処理]] [[Category:インターネット技術]] {{Computer-stub}}
null
2021-01-14T16:57:45Z
false
false
false
[ "Template:Computer-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E4%B8%AD%E5%9E%8B
15,484
おジャ魔女どれみ
『おジャ魔女どれみ』(おジャまじょどれみ)は、1999年より東映アニメーションが断続的に制作している、オリジナル魔法少女アニメ作品、およびそのシリーズの総称。版権上、原作は東堂いづみとされており、アニメにとどまらずコミック・ゲームなど、幅広いメディアミックス展開も行われた。 本項目では、必要に応じ以下の初回公開順に則った略称で表記する。作中の時系列上では『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(第3シリーズ)と『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(第5シリーズ)が同時期を描いた作品となっている。 この他、コミック版は別に略称を設けて該当節にて解説する。 本シリーズは、1999年に第1シリーズ『おジャ魔女どれみ(全51話)』が、テレビアニメとして制作・放送されたことに端を発している。東映アニメーションが約15年ぶり手がけた魔法少女物であり、当初は4クールの放送予定であったが、第1シリーズのヒットに伴い、同シリーズ放送期間中のゴールデンウィーク以降に、続編である第2シリーズ『おジャ魔女どれみ♯(全49話)』と、劇場版の制作が決定。以降、後述の通り現実と作中の時間経過をシンクロさせて物語が進行し、2001年には劇場版第2作も制作・上映されたものの、第1シリーズの時点から卒業までのエピソードを描くという構想や、4年を上回るとどれみたちの頭身が高くなりアクション路線に傾斜する可能性があるという懸念から、地上波でのテレビアニメシリーズは第4シリーズをもって終了の運びとなった。地上波テレビアニメシリーズは最終的に16クール(4年)、4シリーズ(通算201話)という長期間の放送となり、これら一連のシリーズが放送されていたテレビ朝日系列の日曜8時台後半のテレビアニメ枠(朝日放送制作枠)の人気作品へと発展した。アニメ作品としてはその後、2004年に番外編『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ(全13話)』が、パーフェクト・チョイス(現・スカチャン)でPPV放送(後に地上波でも放送)されている。 これらテレビアニメシリーズと並行して、月刊少女漫画雑誌『なかよし』ではたかなししずえによる漫画版も連載され、このうち単行本『おジャ魔女どれみ』(全3巻)と『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(1巻のみ発売)が刊行された。またテレビアニメシリーズ終了後の2011年12月から2015年12月にかけて、高校生になった主人公たちを描く小説『おジャ魔女どれみ16』シリーズ(既刊10巻)が講談社ラノベ文庫より展開された。 前述の通り魔法少女物という体裁を取っているものの、魔法ヒロイン路線よりも主要人物である彼女達だけでなく、周囲の人物達の葛藤や成長に比重が置かれており、自らの意思で魔法を使うのをやめたり、魔法を捨てたりした魔女も描かれるなど、魔法が決して万能の解決手段ではないことが暗示され、作中における魔法も万能の解決手段というよりも人物の迷いや悩みと向き合い、彼らの背中を押す程度の描かれ方であることが多い。テレビアニメシリーズでも初期の挿話では、魔女見習いである主人公たちの技量不足もあって全く役に立っていない話、後期には魔法が無くても話が成り立つような話、末期には魔法を一切使用しない話まで作られた。また、他の魔法少女物とは異なる点として、所謂魔法少女としての姿が「変身」によるものではなく「お着替え」であることが挙げられる。これは幼い子供の目線で考えた結果、自分で着替えることが一人前への大前提であることから発案されたもので、作中ではそうした点を活かし、見習い服の下(普段着)のポケットから物を取り出したりするといった描写も見られた。 各シリーズとも基本的には一話完結のストーリーであるが、シリーズ全体で見ると1話ごとでストーリーにつながりを持っており、長期シリーズとなったこともあり、以前の話で出てきたキャラクターがその能力や性格を活かした形で後に再登場する、というケースも散見される。また、作中での四季も放送時期と合わせてあるなど、物語内の時間経過の速度が現実と大体同じになるように作られていた。また、放送時期に現実で起こった出来事が、作中に反映されることもあった。さらに、テレビアニメシリーズでは主人公陣の一人を通じて家族内の不仲と和解を描き、第3シリーズでは不登校(長期欠席)児童・生徒問題も取り上げたりと、それまでのアニメでは展開し辛かった社会的問題を取り上げる場面も語られている。こうした傾向は、小説として展開された第6シリーズにも引き継がれ、同シリーズでは現代の高校生にとって身近な内容である学校裏サイト問題が取り上げられている。以上を踏まえて、シリーズの時系列はテレビアニメシリーズをリアルタイム基軸としており、第5シリーズ以降の物語は作品発表時期が作内時間ではない。特に第6シリーズとなる『おジャ魔女どれみ16シリーズ』では、それに関連して北京オリンピックなどの描写が存在する。 1話単位での構成・演出上の特徴としては、第1シリーズ第1話と第5シリーズ第12話を除く全話において、アバンタイトルが通常20秒流されている。内容は本編自体の抜粋からイメージ映像的なもの、あるいはミスリードを誘うような内容であることもままある他、アバンタイトルの内容が本編と全く関係ない時もある。第1シリーズ第47話以外のアバンタイトルの全てにフレームが付く。また、CM前後のアイキャッチが第2シリーズまでは12秒、第3シリーズ以降は10秒と比較的長いことも特徴の一つである。全作を通じて、オープニングアニメーションの変更はマイナーチェンジのみであり、第4シリーズと第5シリーズ第12話を除きエンディングの変更はない。次回予告は、第2シリーズまではエンディングの前に、第3シリーズ第14話以降はエンディングの後に配されており、各シリーズごとに締めの決めゼリフが用意されている。コメディ路線の回ではどれみがオチを担当することが定番となっている。その回のタイトルと次回予告の決めゼリフの読み上げは、どれみ役の千葉千恵巳がシリーズを通して担当している。提供テロップの背景は、第2シリーズまではBGMなしのブルーバックが用いられ、第3シリーズからはBGMつきの作品のイメージ静止画へと移行している。 タイトルロゴや主人公の名前にもあるように、音楽に関連する記号や用語が作中では頻繁に登場する。 本シリーズの生みの親は、前番組『夢のクレヨン王国』(1997年 - 1999年)でプロデューサーを務めた関弘美、脚本家の山田隆司、シリーズディレクターだった佐藤順一の3人である。 前番組とは異なり原作も何もなかったので、関は魔法や魔女に関する書籍など、要となる資料を片っ端から集めた。特に関を共感させたのが、『夢のチョコレート工場』の作者ロアルド・ダールの『魔女がいっぱい』である。関はこの書籍のストーリーではなく、「たくさんの魔女が人間の世界に入り込んで生活している」と言うところに惹かれ、イメージとして企画した。これが採用され制作が開始された。シリーズディレクターには、企画段階から参加している佐藤が担当した。「おジャ魔女」という名称も佐藤のアイデアによるものである。シリーズディレクターに関しては佐藤の要望でもう一人加わった。それがテレビアニメシリーズでメインシリーズディレクターを務めることとなる五十嵐卓哉である。五十嵐は本シリーズの立ち上げ以前にも、『美少女戦士セーラームーン』(1992年 - 1997年)や『ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー』(1998年 - 1999年)で高い評価を受けていた。2004年に放送された第5シリーズでは、監修を本シリーズについて知り尽くしていた五十嵐にしようとしていたが、生みの親である佐藤が務めることになった。 次にシリーズ構成(脚本)である。脚本はストーリーの基本となり、それに重ねて対象年齢が小学校低学年、高学年のため、いかに子供たちに分かってもらえるかが重要となる。そのため、関による小学三年生以下の男女児童のマーケティングがおこなわれ、『おジャ魔女どれみ』という作品のコンセプトが制作されていった。加えて、クラスメイトたちの設定やシリーズ中の各エピソードは、スタッフたち自身が小学生だった頃の思い出を元にした部分が多いという。また第3シリーズで扱った不登校児の問題などは、実際の小学校で意見を集めるなどした。 キャラクターデザインには、『ママレード・ボーイ』や『剣風伝奇ベルセルク』で好評の馬越嘉彦を起用した。最初のキャラクターデザイン段階では手足に関節や筋肉があったが、佐藤の「誰にでも描けるキャラクターにして欲しい」という要望で「棒みたい」になった。この他、美術は前作から継続でゆきゆきえと行信三が、色彩設計も同じく辻田邦夫が担当した。製作担当については、第3シリーズの中盤まで風間厚徳が務めており、風間の製作編成への異動に当たり、本シリーズで製作進行のキャリアを積んできた坂井和男が後任として起用された。第4シリーズ終盤では、当時スタジオジブリへの出向により、2年以上の空白期間があったアニメ監督・細田守が演出で参加、『時をかける少女』などで有名な女優・原田知世の声優参加などが一部で話題となった。 本シリーズは音楽にも定評がある。作中で使用された劇伴のすべて、それに挿入歌やキャラクターソングの一部は奥慶一の作曲によるもので、作中での挿入歌やお着替えシーン、マジカルステージの音楽も特徴的で、各シリーズの挿入歌集(BGMコレクション)の売上も好調だった。 出演声優は、『夢のクレヨン王国』にも出演していた声優陣の大半が本シリーズにも引き続き参加している他、本業が声優ではない役者を起用するという傾向も引き継いでおり、一例としては前出の原田知世や、舞台女優としての活躍も多い堂ノ脇恭子などが挙げられる。 スタッフ一同、第5シリーズ終了後「二度と『どれみ』に携わることはない」との気持ちであったが、本シリーズのスタッフが多数起用された『ハートキャッチプリキュア!』(2010年 - 2011年、プリキュアシリーズ第7作)が好評を博し、栗山緑名義で同作品の脚本を手がけていた山田のもとにも「どれみみたいな作品また作ってくださいよ」という声が寄せられるようになった。これを受けて、山田の筆により公式な続編『おジャ魔女どれみ16シリーズ』が刊行された。 シリーズごとにテーマが設定されているが、それ以外にも全体を通してどれみたちやそのクラスメートの日常生活、恋の悩みや体の悩み、人間関係など、日常に潜む困難にも立ち向かう様子も描かれている。 1999年2月7日から2000年1月30日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8:30 - 9:00(JST)に全51話が放送された。前述の通り、同系列における同時間帯での本シリーズの放送は、その後第4シリーズ終了まで踏襲された。作品のテーマとしては友情が掲げられている。 シリーズタイトルと区別する意味で、一部スタッフやファンの間からは『無印』と通称されているほか、2005年発行の『おジャ魔女どれみ メモリアルアルバム』では『第1シリーズ』と表記されている。次回予告の決めゼリフは「ハッピー! ラッキー! みんなにとーどけ!」。オープニングアニメーションの変更は第25話から、アイキャッチの変更は第27話から行われた。また、序盤には効果音の変更も複数回にわたって行われている。 ドジで妹の春風ぽっぷからもバカにされる自称「世界一不幸な美少女」の小学3年生・春風どれみ。魔女に憧れ、好きな人に告白する勇気を魔法で手に入れたいと思っていた彼女は、ひょんなことから本物の魔女・マジョリカと出会う。この時マジョリカが魔女であることを、どれみが見破ってしまった為に、マジョリカは魔女ガエルの呪いの力により魔女ガエルとなってしまう(猫に変身していたマジョリカのお付きの妖精ララは正体を隠す必要がなくなったため、元の妖精の姿に戻る)。 魔女ガエルに変えてしまったマジョリカを元の姿に戻すため、どれみは幼なじみの藤原はづき、転校生の妹尾あいこ、後にはどれみの妹春風ぽっぷと共に魔女見習いとしての修行に励んでいく。 魔女見習いとしての修行を続けていた3人は、偶然にも人間界に潜む「バッドアイテム」というものを見つける。これは、かつて魔女界に封印されていた「バッドカード」がとりついたものであり、持ち主の願いと正反対の不幸をもたらす。3人は魔女界の女王様からバッドカードの回収を依頼される。 中盤からは、別の魔女の下で魔女見習いをしている瀬川おんぷが登場。最初は自己中心的な性格で、どれみたちとは異なり魔法はあくまでも自分自身のために使っていた彼女だったが、どれみたちとの触れ合いを通じて次第に変わっていく。 その後、どれみ・はづき・あいこ・おんぷは見習い試験などのすべての課題をクリアし、一度は晴れて魔女になるが、直後にクラスメイト全員から魔女であることを見破られる。おんぷがとっさに魔法でクラスメイトの記憶を消去したためにこと無きを得たが、禁断の魔法の反動を打ち消すブレスレットが完全に壊れ、効果を打ち消すことが出来ず、おんぷは24時間以内に助けないと百年の眠りにつく呪いにかかってしまう。おんぷを救うことは禁忌に触れた罰にある者を救うことになり、魔女界の禁忌で同罪にもかかわらず、どれみたちは自分たちの魔女としての資格剥奪と引き替えにおんぷを目覚めさせる。 「魔法の力を借りなくても、自分たちの努力で願いをかなえることは出来る」ことを学んだ彼女たちは魔女から普通の人間の女の子に戻り、そして大親友となったのであった。一方で、元の姿に戻るすべを失ったマジョリカはMAHO堂を閉店することを決めた。 2000年2月6日から2001年1月28日にかけて、全49話が放送された。また放送期間中の2000年7月8日には、劇場版1作品(テレビアニメと同じく30分の短編映画作品)も公開された。作品のテーマとしては愛情が位置づけられ、先々代の女王様など、後のシリーズの世界を広げる要素も同シリーズにて次々と登場した。また、同シリーズではMAHO堂が花屋になったことから、作中でも花言葉が多数登場した。 次回予告の決めゼリフは「ドキドキ! ワクワク! クルクルまーわれ!」。オープニングアニメーションの変更は第24話から、アイキャッチの変更は第3話と第8話のマイナーチェンジの後第29話から行われた。第1話のみ、次回予告BGMが「おジャ魔女はココにいる」のカラオケバージョンである。 2002年度東京アニメアワード優秀作品賞受賞。 魔女は人間と違いバラの木から生まれる。その中でも100年に一度、とてつもない魔力をもった魔女の赤ちゃんを産むという「ウィッチー・クイーン・ローズ」の開花が間近に迫っていた。 魔女見習いの資格を失い人間に戻ったどれみたちはいつも通りの日常を過ごしていたが、小学3年生の終業式の日の夜に、「魔女ガエルの村」に旅立つマジョリカとララを見送ろうとMAHO堂の跡地に行くが、彼女たちは置き手紙だけを残してどれみたちの妖精ドド・レレ・ミミ・ロロと一緒に旅立ってしまっていた。悲嘆にくれる彼女たちだったがマジョリカの忘れ物に気づき、それを届けに魔女界へ入る。途中、ウィッチー・クイーン・ローズから魔女の赤ちゃんが生まれるところに居合わせたことから、彼女達は1年間その赤ちゃんのママとなることを義務づけられてしまう。 小学4年生に進級したどれみたちは、新たに仲間に加わった瀬川おんぷとともに再び魔女見習いに戻って、その魔女の赤ちゃん・ハナちゃんを1年間育てることになる。無事に育てることができたなら、以前に没収した水晶玉を返すことを女王様は約束した。どれみたちは出来る限り魔法を使わずに、自分たちの力でハナちゃんを育てようと決心するが、慣れない子育てに戸惑うばかり。落第すれば親権を剥奪されてしまうという魔女界の医者マジョハートによる検診を乗り越え、そしてそれぞれが家族との過去の諍いや衝突の中で自分達も両親や周りの人々に愛されながら育っていることを学びながら次第に一人前の母親として、1人の人間としても成長していく。 中盤からはハナちゃんを誘拐して魔女界から領土を取り返そうとする魔法使いたちが登場する。ハナちゃんを守るために新たな力を授かったどれみたちは、ハナちゃんを無事1年間育て上げるとともに魔法使い界と魔女界の戦争も回避させ、再び魔女になれることとなった。 ハナちゃんの魔力、そして、どれみたちとハナちゃんによって人間界と魔女界が再びつながりを持つことを恐れる先々代の女王様(の幻影)はそのことを不快に感じ、「このままでは、自身がかけた魔女ガエルの呪いを打ち破ってしまうため、ハナちゃんを生かしておけない」と、高熱で命を落とす呪いをかけてしまった。その呪いからハナちゃんを救うため、どれみたち4人は呪いの森に入り、魔女としての力を使い切って千年の眠りにつくのと引き換えにハナちゃんの命を助ける。どれみたちの優しさと犠牲を厭わない精神に心を乱された先々代の女王様(の幻影)は姿を消す(消滅はしていない)。そして、ママたちを慕うハナちゃんの必死の叫びが呪いを打ち破り、どれみたちは目覚める。 しかし、ハナちゃんを救うため呪いの森で先々代の女王様(の幻影)の呪いを打ち破る行動により、おジャ魔女達は各自所有していた水晶玉を失ってしまった。水晶玉を失うことは、魔女の資格を完全に失うだけでなく、魔女見習いにもなれないことであることを女王様とマジョリンから伝えられ、おジャ魔女たちは驚愕し落胆する。だがどれみは、「それと引き換えにハナちゃんの命が救われたからそれで良い」と納得する。魔女(魔女見習い)の資格を失った元おジャ魔女達は、魔女界の規定により、1年間育て上げたハナちゃんと別れの時を迎え、悲しみの涙の中、マジョリカ・ララと共に人間界へ戻った。人間界に戻った後のMAHO堂にある温室のライフウッドのベッドには、おジャ魔女達とハナちゃんの記念写真が飾られた。 2001年2月4日から2002年1月27日にかけて、全50話が放送された。さらに放送期間中の2001年7月14日には、劇場版1作品も公開された。作品のテーマは成長で、同シリーズからキャラクターデザインが一新され、併せて基本衣装も変更された。 次回予告の決めゼリフは「ケーキにクッキー! 魔法のレシピ、教えてあーげる!」である。前述の通り、同シリーズより次回予告の前にエンディングが流れるという構成へと変更され、そのエンディングにも歌詞テロップが追加された。オープニングアニメーション・アイキャッチはともに第31話にて変更。またオープニングに登場するハナちゃんの髪型は、本編での髪型変更(第7話)に先駆けて初回の時点でツインテール(左右に水晶玉2つずつ)とされている。エンディングアニメーションは同シリーズより10秒短縮された。 同シリーズでMAHO堂がお菓子屋になったことから、作中でもお菓子のレシピが多数登場したほか、どれみたちも2種類のコスチュームにお着替えするようになった。1つは従来のスタイルを継承した魔女見習い服。もう1つはお菓子を作る時に使われるパティシエ服で、コックコートがモチーフとなっている。他方で、同シリーズからはおジャ魔女たちのお着替えのシーンが前シリーズまでよりも少なくなる。お菓子はもとより、パティシエ服が好評だったこともあり、第6シリーズ終了後の2017年と2018年には第3シリーズを基にした、「おジャ魔女CAFE」が期間限定で2度開催された。ももこの加入に伴い、同シリーズ以降では作中でも英語のセリフがいくつか登場している。字幕や日本語訳は一切付けられていないものの、セリフの意味については一部除けば前後の文脈から判断することができる。 放送期間中には、交通安全をテーマにした非売品のビデオソフト「おジャ魔女どれみの交通安全」(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - 青山充)、「おジャ魔女どれみの自転車安全教室」(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - なかじまちゅうじ)の2本をリリース。2本とも、はづきとあいこ、マジョリカとララが登場しない。 ハナちゃんを救うために、魔女の証である水晶玉を割ってしまい、再び普通の人間に戻ったどれみたち。魔女の子供は満1歳になると育ての親と離して魔女幼稚園に預けさせるという魔女界の掟により、ハナちゃんとも離ればなれになってしまった。 小学5年生となったどれみたちは女王の計らいによって再び魔女見習いになり、帰国子女の新しい仲間「飛鳥ももこ」を加えて、どれみたちを魔女にすることに反対している魔女界の元老たちに魔女になることを認めてもらうために、今度はお菓子作りにチャレンジする。またクラス替えによって新たなクラスメイトや先生が多数登場し、彼らの抱える幾多の悩みを共に乗り越えていく。 当初は日本語やアメリカとの考え方の違いから衝突を起こしがちだったももこも、どれみ達の協力やはじめは嫉妬し邪険にしていたある玉木を含むクラスメイトの協力もあって打ち解けていく。 また、彼女たちの奮闘もあり、魔女界の規則(慣例)が見直されていく。 一方、魔女幼稚園に入園したハナちゃんは園内で他の園児同様、寄宿生活を送っていたが、どれみたちが1回目のパティシエ試験に合格後、マジョミラーの独り言を聞いて、魔女幼稚園の裏門からどれみ達が幼稚園の様子をこっそり覗き見る。その最中、でんぐり返しに失敗するハナちゃんを見て、どれみはついハナちゃんを応援すべく声を出してしまい、そのことでハナちゃんにかえって寂しい思いをさせてしまう。その後、オヤジーデがハナちゃんを幼稚園から人間界に連れ出し、そのことで、ハナちゃんが幼稚園から行方不明になったと魔女界で騒動になってしまい、どれみたちも急きょ魔女界へ向かい大捜索の末、人間界の美空町にあるMAHO堂にいるのを見つけ出した。そこで、ハナちゃんはママと禁断の再会を果たす。その後、昼間MAHO堂での経緯とその前の出来事を思い出したどれみは、でんぐり返しに支障がないよう髪型をツインテールに変える。その後、マジョミラー園長にハナちゃんを人間界で無事見つけたことを報告し、幼稚園に返しションボリしながら帰ろうとしたところ、ハナはママ達を呼び止め、目の前で「でんぐり返し」にチャレンジし、成功させる。この光景を見たマジョミラーは、「人間界のママ達と会わせるのは魔女として育てるのに良くないというのは考え違いで、人間と過ごすことでハナが学ぶことがある」と、これまでの慣習を見直し、ハナとの定期的な面会を認めることにした。 シリーズ中盤でハナちゃんは、ママであるどれみを魔法で人間界から魔女界へ呼び出したことが原因で、再び現れた呪いの森にいる先々代の女王様(の幻影)により、魔力の源である野菜を嫌いになる呪いをかけられてしまう。再びハナちゃんを引き取ったどれみたちは、人間界で野菜嫌いを治して魔力を取り戻させるために試行錯誤する。 どれみたちは工夫を凝らして最終的にハナちゃんの野菜嫌いの呪いを完治させることに成功した。そして、人間界での哀しい思い出から負の感情を暴走させていた先々代の女王様をも助けようとしたが、結果として呪いの森は(同時に先々代の女王の幻影も)消滅したものの、彼女を完全に救うことはできなかった。しかし、呪いの森が消滅したことで呪いの森の周辺の環境が元に戻り、先々代女王の深い眠りについている真の姿が初めて出現した。パティシエ試験を全てクリアするだけでなく、ハナちゃんの野菜嫌いを克服させたこと、幻のレシピを完全再現させ、呪いの森と先々代の女王様の幻影を消滅させることができた功績により、全ての元老院魔女に認められ、全員一致で魔女に戻すことが認められた。女王様をはじめ、どれみたちはいつか先々代の女王様を救うことを誓う。そしてハナちゃんは、野菜嫌いの呪いが克服されたため人間界から再び魔女界へ戻り、どれみたちと離れて生活することになる。 2002年2月3日から2003年1月26日にかけて、全51話が放送された。地上波でのテレビアニメシリーズとしての最終作であり、当初はシリーズそのものの完結編として位置づけられていた。作品のテーマは卒業。次回予告の決めゼリフは「ピュアピュアドリームでっかくそーだて!」。前シリーズまでは「マジカルステージ」と唱える所からBGMが変わっていたが、同シリーズではマジカルステージを唱え始めからBGMが変わるようになる(代わりにポロンの音が出ない)などのマイナーチェンジも行われた。また、どれみとハナちゃん以外のおジャ魔女は、お着替えのシーンだけではなく個人でポロンを使うシーンも数えるほどしかない。 第40話からアサツー ディ・ケイのクレジットがASATSU-DKからADKに変更され、オープニングアニメーションの変更は第2話と第32話にて実施。アイキャッチの変更は第31話からで、変更前のアイキャッチは5種類が用意された。同シリーズのみエンディングの変更があり、第14話から第30話まで別のエンディングが流されていた。 ハナちゃんは再び、ママと離れて魔女幼稚園で生活するようになった。だが、1歳半からの約半年間、人間界でママたちと再び一緒に暮らしていたことから、他の魔女幼稚園児よりもママへの思いは強く、幼稚園内でも寂しさのあまり泣いてばかり。その様子を見た女王様は、ハナちゃんを連れて先々代女王が眠るライフウッドの根元へ向かう。先々代女王を覆うように取り囲む6つの茨の横には、半分埋まったままのウェンディング・チェストがあった。それを偶然見かけたハナちゃんは女王様の制止を振り切り、そのチェストに触れてしまう。ハナちゃんの強力な魔法により、ウェディングチェストの封印が解かれ、中に封印されていた先々代女王の妖精ババが約1000年ぶりに目覚め、姿を現す。 その頃、スイートハウスMAHO堂に集まったどれみたちは魔女界から連絡があったか気になって学校に行く前に集まるも、何の連絡もなかったため落胆する。同じ頃、魔女幼稚園に戻ったハナちゃんは、オヤジーデやマジョポン・マジョピー達先生方をはじめ、園児たちのありとあらゆる手段を使ってもハナちゃんの機嫌を取ることは難しい状況に陥っていた。さらに「(ママ達と一緒に)学校へ通いたい」というワガママ同然の暴走を起こし、自ら持つすべての魔力を使って急成長し、かつ、美空町のMAHO堂までも変えてしまった。その行為によりハナちゃんの魔法の力が水晶玉の限界を超えてしまい、4つあった水晶玉を全て割ってしまった。この事態によりハナちゃんは魔女の資格を失ってしまうだけでなく、無断でママ達が暮らす「人間界」へ向かった。6年生になったどれみたちは、最初は金色の髪をした少女が誰なのか分からなかったが、その少女が自ら「ハナちゃん」であることを告げ、急成長した姿に驚く。さらに水晶玉を割ってまで人間界にきてしまったことに衝撃をうけてしまう。その時、MAHO堂に来た女王様の計らいにより、魔女の資格を失ったハナちゃんが再び魔女に戻れるよう魔女見習いとして修行をすることになる。どれみたちは既に魔女の資格を得ているため、ハナちゃんの見習い試験1級合格のサポートをするよう命じられる。そして魔女界の女王様は、晴れてハナちゃんが魔女になったときには、どれみたちを魔女にすることを約束した(なお、ぽっぷは魔女見習い中であったため、このとき対象に含まれなかった。当初の規定どおり、1級の見習い試験に合格したら魔女になるということになっていた)。小学校最後の1年間は、人間界の常識など全く気にしないハナちゃんを加え、これまでにないドタバタ劇が繰り広げられるが、どれみたちが作中の問題解決のために魔法を使うことは次第に少なくなっていく。 一方、先々代の女王様は自らが人間界で味わった辛い思い出から生まれた「悲しみの茨(読み:いばら)」に捕らわれたまま眠り続けていた。どれみたちは、先々代の女王様の悲しみを癒す方法を見つけるために試行錯誤を繰り返すが、茨は次第に成長し、深い悲しみが魔女界や人間界を覆い、皆の気力を奪い始めてしまう。そうした幾多の苦難に加え、小学校卒業を前にそれぞれの複雑な家庭事情や将来のことについても悩み、自分なりの答えを見つけ出していく。 苦闘の末、どれみたちは悲しみの茨を消し、先々代の女王様を目覚めさせ、魔女ガエルの呪いも解かれた。無事課題を解決したどれみたちは、改めて魔女となるかどうするかの選択を迫られる。しかし、1か月の考慮期間を経て「魔女にならない」ことを決意する。ハナちゃんは次期女王の最有力候補として魔女界で研鑽につとめ、ともに魔女界と人間界が再び交流できるようになる日を目指すことになった。また、これに伴いマジョリカもハナちゃんの後見人に指名されたため、MAHO堂第1シリーズの建物に戻した上で店じまいし、ララや妖精たちそしてハナちゃんとともに魔女界へと帰っていった。 2004年6月26日から2004年12月11日まで、スカイパーフェクTVの有料チャンネル・パーフェクト・チョイス(PPV)で全13話が隔週で有料放送された。またCS放送終了後、地上波では2005年より朝日放送をはじめ一部のテレビ朝日系列局や、独立UHF局でも放送された。これは、おジャ魔女どれみシリーズ初の地上波デジタル放送でもあり、このような放送形式や各話のフォーマットから、テレビアニメシリーズの1つとして扱われる場合もあるが、元々はテレビ放送を前提としないOVAとして企画・制作されたものであり、スカイパーフェクTVでの放送は先行放送という位置づけとなっている。 前述の通り、第3シリーズと時代設定を同じくする外伝的なシリーズとして制作されており、見習い服やキャラクターの設定についても第3シリーズのそれに準じたものとなっている。同シリーズではささやかな秘密をテーマに、どれみたちやクラスメートの小学5年生の時の、誰にも話せない秘密の話や意外な話、ほろ苦かったり切なかったりするナイショの話が、オムニバス形式で描かれている。このため、前シリーズまでとは異なり魔女界に関する話が中心にならないのも特徴である。 次回予告の決めゼリフは「ノートの端っこつまんで破いて秘密のお手紙回しちゃお!」。 2011年12月2日から2015年12月2日まで、および2019年10月2日に講談社ラノベ文庫から通算10巻が刊行された。執筆者は栗山緑(第1 - 9巻)、影山由美 (20's)が、挿絵イラストは馬越嘉彦がそれぞれ担当。 第4シリーズ終了から3年後、高校生となったどれみたちを描いた小説作品で、前シリーズまでのようなテレビアニメシリーズではないが、執筆者・挿絵担当のみならず、CDドラマのプロデューサーを関弘美が務め、また原作者の名義も東堂いづみとして発表されているなど、テレビアニメシリーズの中核スタッフが同シリーズの制作に携わっており、アニメ作品ではないながらも正式な続編、第6シリーズとして位置づけられている。 タイトルの数字は作中でのどれみの年齢を示しており、作中でのどれみの誕生日(7月30日)に合わせて度々変更されている。また、後述の通り一部の巻では初版特典として、CDドラマを付録とした『ドラマCD付き限定版』も刊行されている。10巻目『おジャ魔女どれみ20's』は20代になったどれみ達を描いており、9巻目『おジャ魔女どれみ19』の番外編に相当する。したがって、2022年現在、『19』のエピローグが本シリーズの最終的な結末に該当する。 前シリーズまでと異なり、どれみたちに対しての「テーマ」や「課題」などは設定・明言されておらず、物語上の問題解決に至る作内時間のスパンも長く設定されている。作品の舞台や内容も、より「現実の過酷さ」に近付いた形となっている。 魔女にならず人間として生き続けることを選んだどれみ達は、それぞれが別々の中学に進み、無事中学を卒業して16歳の高校生になっていた。小学校の同窓会であいこ、はづきと再会したどれみ。あいこは新学期から、ももこは2学期から、美空町に戻って来るという。かつてのメンバーの再集結に喜ぶどれみたちだったが、そこにおんぷの姿はなかった。中学期、成長によってチャイドルとしての仕事を失ったおんぷは、どれみたちとも連絡を絶ち、いずこかへと雲隠れしてしまった。 同窓会終了後、自分たちのこれからを話し合う中で「もし魔法がつかえたら、おんぷちゃんの行方も捜せるのに...」と昔を懐かしむ、どれみたち。しかし「魔法を捨てた決断をしたのは自分たちだ」、と改めて確認し合う。そんな矢先、第1シリーズ(どれみシリーズ原点)の「マキハタヤマリカのMAHO堂」が突如あらわれ、そこには魔女界に戻ったはずのマジョリカとララがいた。マジョリカはハナちゃんによって後見人を解任されたのだという。肝心のハナちゃんは反抗期に入り、自分たちの言うことなど聞きもしない。それどころか忠言を続ける自分を疎み、代わりの後見人にマジョルカを指名して自分をクビにしたのだ、と。 マジョリカから聞いたハナちゃんの変容に驚きを隠せない、どれみたち3人だが、魔法を捨てて人間として生きる決断をした自分たちには、もはや口を出せる問題でもない。取り敢えずは後見人を解任されてヒマになったから再びMAHO堂を始めるというマジョリカの誘いを受けて、どれみたちは再びMAHO堂で働くことにした。 最初は、もはや魔法は捨てたのだからとMAHO堂で働きはしても、魔法そのものには手を出さなかったどれみたちだったが、女性週刊誌がおんぷのプライベートを探り出したことから状況が一変した。おんぷ本人の声明が無いことをいいことにあることないことを書きたて、しまいにはおんぷ本人への人格攻撃までやらかす週刊誌にどれみたちは激昂。このままではおんぷの人生そのものにも影響をもたらしかねない。それを救えるのは友人である自分たちしかいない。そう決意したどれみたちは、おんぷを探し出すことを決意する。 しかし、どれみたちに立ちふさがる現実の壁は、あまりにも高すぎた。なんとか、おんぷが北海道にいるらしいことまではつかめたが、それ以上のことは何もわからない。どれみたちが手をこまねいている間にも女性週刊誌の悪意ある記事は人々を煽り、そして無責任な大衆はおんぷへの攻撃すらも辞さなくなるかもしれない。その焦燥にかられたどれみたちは「笑う月の晩」に「他人(ひと)を守るため、他人(ひと)を救うために、魔女(見習い)に戻ろう」と決断をする。 魔女ガエルの呪いが3年前に解消され、主だったペナルティや制約がないことから、自らに課した制約は「自分のために魔法を使わない」こと。それを破れば永遠に魔法を失う。それを魔女界の女王様に願ってどれみたちは魔女見習いに戻り、魔法でおんぷを探し出してことなきを得た。後にことの顛末を聞いたももこがどれみたちと同じ条件で魔女見習いに復帰する(ももこが魔女見習いに戻った翌日、MAHO堂は第3シリーズのMAHO堂に改装される)。そして、どれみたちとの絆によって立ち直り女優として再起を始めたおんぷは仕事で赴いたパリにて、ハナちゃんが人間界にたびたび出没していることを知る。小学生時代と異なりインターネットによる情報が急速に発達している現代、混乱は避けられない状況であり(動画も撮られていて、世界中で閲覧されていた)、すでにパリに出没している「謎の人物」の噂は世界中を駆け巡りつつあった。どれみたちは慌てると共に、「どれだけ世界を隔てようと、あたし達はハナちゃんの『母親』だ」と再確認する。 その決意を胸に、おんぷも魔女見習いに戻り、ハナちゃんと邂逅を果たす。そしてハナちゃんの口から飛び出たのは、今まで魔女界が、その世界の安定のために隠し続けてきた、とんでもない事実だった。その事実を追うためにハナちゃんは今まで反抗期を装ってきたのだという。どれみたちは母親としてハナちゃんの言葉を信じ、そしてハナちゃんとともに、魔女界が隠し続けてきた、その真実を追うことになる。そのために、ハナちゃんは4度目となる人間界で留学することになる。 これらの出来事の合間にも、彼女らの周囲には時に大きく、時に大小の「事件」が次々と巻き起こる。16歳から始まる「高校生」という多感な年頃に端を発する、どれみたちゆえの悩みや迷い。同様に苦しみや不安を抱える友人たち。そんな彼らの力になり、時には逆に支えられ、おジャ魔女たちは自らの人生の進路に向けて、さらに大きな成長を果たしていく。 美空市(みそらし)及び美空町(みそらちょう)は作品の主な舞台となる架空の地域。 作中には関東地方及び神奈川県を舞台とするような描写が描かれている(第5シリーズ第1話にて小竹達が鎌倉方面から藤沢方面に自転車で向かっているシーンや、小田急小田原線、箱根登山鉄道の発着駅でもある箱根湯本駅が写っているシーン等がある)。 地形は起伏に富み、どれみたちの通う美空市立美空第一小学校は海の見える高台に建っている。太陽が海から昇り海に沈むことが地理的特徴。また、ほとんどのおジャ魔女達の住む場所は、美空市美空町である。 全体的に市が設置した建物はデザインに富んでおりかつ新しい物が多いのも特徴。また、美空市には市営スポーツセンターや歴史資料館などスポーツや文化的な施設も数多くある(第4シリーズ第40話)上に複数の線路がある。この点から考えると美空市は規模が大きく、財政状況はかなり潤沢であることが推測できる。また、少なくとも200年前の江戸時代から美空市が存在する。 他に今までに美空市にあると確認されている施設は、美空市役所(第4シリーズ第2話)、美空市総合病院(第1シリーズ第51話)、美空第一病院(第5シリーズ第12話)、美空大学(第2シリーズ第20話。ただし建物そのものは確認されておらず、看板だけである)、美空駅、美空市郵便局(第4シリーズ第40話)、美空市立美空中学校(第4シリーズ)、県立美空高等学校(第6シリーズ)などである。美空市内には鉄道が通っており、最寄り駅は「美空駅」。近隣には「青空駅」もある。 MAHO堂(まほーどう)は登場人物たちが働く架空の店。おジャ魔女達が活躍した頃の所有者はマジョリカである。 第1シリーズでは、魔女見習いが魔法を使うためには魔女界の通貨でもある「魔法玉」が必要であり、それは自ら作った「魔法グッズ」を売って稼いだお金で、魔女界の問屋から買わなければならなかった。そこでどれみたちは魔女修行をしつつマジョリカの店「マキハタヤマリカの魔法堂」で働くことになったが、その際に自分達で店内を改装し、また店名「マキハタヤマリカの魔法堂」の「マキハタヤマリカ」を削り、後ろの「魔法」を漢字からをローマ字にして、「MAHO堂」に改めた。なおどれみたちは家族やクラスメイトにボランティアで病弱な老婦人の店を手伝っていると説明している。 MAHO堂には、願いごとや悩みといった強い思いを抱いている者を、本人の知らないうちに引き寄せてしまう力を持っている。当初は冷房がないという設定だったが、次第に使われなくなった。 廃車だったものを改造したバス「MAHO堂号」を1台所有している。このバスはMAHO堂のメンバーの移動手段として使われるほか、移動販売車にもなる。 シリーズの変遷に伴い、MAHO堂も各シリーズの初回で度々改装されており、第2シリーズではマジカルステージで「FLOWER GARDEN MAHO堂」という花屋に、第3シリーズ(第5シリーズ)では同じくマジカルステージで「SWEET HOUSE MAHO堂」というお菓子屋に、第4シリーズではハナの魔法だけで「おしゃれZAKKA・MAHO堂」というビーズ細工などの小物などを扱う雑貨屋にそれぞれ改装された。 第6シリーズでは、当初は『おジャ魔女どれみ』同様の魔法グッズの店とされ、後にももこの帰国に伴って第3シリーズと同じくお菓子屋に改装されている。どれみ、はづき、あいこ、ももこは学業やクラブ活動、個人練習などの合間を縫って、アルバイトとして働いている。自分達で店内を改装し、また店名を改めたのも第1シリーズと同じである。どれみとあいこ(後に帰国・転入したももこ)は学校にアルバイト届を出しているが、担任の八巻先生はどれみたちに理由を聞くことなく、「バイトは金が必要だからやる。理由はそれだけで十分だ」と寛容な姿勢を示し、「大人の中に入って、社会勉強できて、金までもらえるんだ。俺はバイト、大いに結構だと思っている」と奨励すらしている。 どれみ達の高校卒業後の『20's』ではマジョリカによってカフェ併設のシェアハウスに改装されている。当初はマジョリカ自身で運営していたが、就職浪人中だったどれみが自ら管理人に立候補し、彼女が運営することになった。また、ハナが通学の下宿先として入居している他、パリから帰国したももこが併設のカフェで提供するスイーツ作りのために出入りしている。 第4シリーズ(第5シリーズは第3シリーズと同じ年)までの「MAHO堂」の中では、「SWEET HOUSE MAHO堂」が一番売り上げがあったようである。 マジョルカの「ルカ・エンタープライズ」(芸能プロダクション)やマジョモンローの「MONROE'S MAGICAL SHOP」(菓子屋)など、人間界で暮らす魔女のほとんどは自分の店かそれに類する物を持っており、それらを総称して「MAHO(魔法)堂」と呼ぶこともある。中でも美空市の魔法堂は伝統のある著名な店であり、魔女界の女王が即位する前にオーナーだったということもあって、この店のオーナーになることは、魔女界の女王になろうとする者にとって大きなステータスであり、次期女王が約束されているとも言われている。 メインキャラクター5人(ももこ・あいこ・はづき・おんぷ・どれみ)の名前をローマ字で書いた頭文字を並べると「M・A・H・O・D (o)」となる。 同名の声優ユニットの名前についてはMAHO堂を参照。 魔女界(まじょかい)は作品の主な舞台の一つとなる架空の異世界。人間界とは別の次元にあり、日本とは昼夜逆転している。女王と12人の元老魔女によって統治されており、女王は世襲制ではなく、前任者の指名または選挙によって決まるらしい。およそ1000年前までは人間界と交流があったが現在は途絶えており、ごく少数の魔女が密かに人間界に住んでいるのみとなっている。魔女界の空はいつも夕焼けのように赤く、小さな島や、何だかよくわからない物が浮かんでいたりする。魔女は魔女界にあるバラの木から生まれる。魔女だけでなく知性を持ったタコやイカあるいはムンクやキリコの絵画を思わせる人型生物なども住んでいる。「魔法文字」と呼ばれる音符のような形をした文字が使用されているが、なぜか平仮名や漢字、ローマ字に英語などを使って店の看板が書かれていたりもしている。魔女界の紋章は魔女界の「M」をモチーフにした16分音符のような形をしている(ただし、作中では紋章が16分音符の形で描かれることも多かった)。 他にも魔法使い界・星界・音楽界(ミュージカルのみ)・天界などがあり、幽霊(作中では「おばけ」と言っていた)、織姫、彦星など現実世界では実在が確認されていなかったり、伝承上の人物も作中では実在しているという世界観になっている。サンタクロースは第1シリーズでは実在が確認されたが、第2シリーズ以降は登場しない。また、伝説の黄金郷として知られる「エルドラド」は実在することになっている。 上述の架空の場所以外では実在する場所やイベントを基に作られていることが多数あり、あいこが引っ越す前に住んでいた所の大阪府大阪市西成区天下茶屋、あいこの母親がアニメ放送時の居住地及び勤務場所としていた阪南市、またあいこの両親との思い出の場所として箱作海水浴場、マジョリリカの営んでいるペンションの所在地が伊豆高原、ももこが幼稚園児時代から住んでいてマジョモンローの魔法堂があった場所としてアメリカ・ニューヨーク、ももこの母親の出身地として横浜市やその中の横浜中華街、高校生になったあいこが出場したインターハイや兵庫国体、どれみがサッカー部のマネージャーとして関わったサッカーでは、等々力競技場・国立競技場、成長したハナちゃんが出現したパリやカンヌなども作中にも登場している。さらに、SOSトリオのギャグなどで嘉門達夫や島田紳助、どれみの父・渓介は奥田民生のファンであるなど、実在する芸能人が挙がることもある。実在した言動や作品のシーンなどのパロディなどもいくつかある〔さよなら・さよなら・さよなら(テレビ朝日系列で同じ日曜に放送されていた映画番組『日曜洋画劇場』の解説者だった淀川長治のセリフ)や、○○・カンバーック!(『シェーン』のクライマックス)など〕。 どれみたちのクラスメイトの一人、横川信子による創作。男役の信子があいこと共演する筋書きが多い。小学校卒業後も「美空小町」のペンネームでクラスメイト(高校は別々である)の丸山みほとの創作(合作)活動が、続いていることが第6シリーズで明かされた。 声はテレビアニメシリーズの声優。 BS朝日では「おジャ魔女どれみ#」の途中で打ち切られた。CS放送では、キッズステーションにおいて第4シリーズまでが放送され、字幕放送も実施された。 海外では、韓国において第3シリーズまでがMBCで、第4シリーズがケーブルテレビ「トゥーニバース」のみでそれぞれ放送。後者では主題歌を差し替えて放送となった。また第5シリーズは韓国の他、イタリア、スペインでも日本と同様にケーブルテレビでの放送実績がある。 20周年大感謝祭(カーニバル)プロジェクトクラウドファンディングの特典としてBlu-ray収録予定の短編Flashアニメ。全5話。また2020年1月10日開催の期間限定ショップでも第2話をミニシアター上映された。 『おジャ魔女どれみ』20周年記念として制作が発表された映画作品で、キャストおよびスタッフも再集結して制作された。テレビアニメシリーズとは異なりどれみたちではなく、子供のころに『どれみ』を見ていた女性3人を主人公に据え、一緒に旅に出るという物語が描かれている。 当初は2020年5月15日に公開予定であったが、制作上の都合により公開を同年秋に延期することが、2020年3月19日に発表。その後同年11月13日に公開されることが、8月18日に改めて発表された。 2021年1月、第75回毎日映画コンクールアニメーション映画賞を受賞。 たかなししずえによる漫画版が、講談社の月刊誌『なかよし』の1999年3月号から2003年1月号まで連載された。単行本は、後述の漫画版第2シリーズの1巻までが刊行され、漫画版全体としての最終話は『おジャ魔女どれみ公式ヒストリーブック』に収録された。 基本的な設定は第1シリーズのそれに準じるものの、物語構成とストーリーは独自のものとなっており、特に第1シリーズのおんぷ編に相当するエピソードから、第2シリーズに相当する辺りまでは完全にオリジナルの展開となっている。また連載当初は、毎月15 - 20ページ程度の枠による通常の漫画連載であったが、後述の漫画版第3シリーズの開始(2002年3月号)に伴い、月8ページ単位のショートコミックへと移行し、さらに内容の簡略化が進むこととなった。 雑誌連載時において、第2シリーズのそれとして掲載されていた物語は、単行本収録に際して前半が「テレビアニメ第1シリーズの話」、後半が「テレビアニメ第3シリーズの話」としてそれぞれ組み込まれており、その都合上単行本では『おジャ魔女どれみ♯』という物語そのものが存在していない。これを踏まえて本節のみ、漫画版において「テレビアニメの第1シリーズならびに第2シリーズ前半部」に相当する部分を「漫画版第1シリーズ」、「テレビアニメの第2シリーズ後半部と第3シリーズ」に相当する部分を「漫画版第2シリーズ」、そして「テレビアニメの第4シリーズ」に相当する部分を「漫画版第3シリーズ」として、それぞれ呼称するものとする。 単行本各巻の巻頭には、おまけとしてテレビアニメシリーズの画像を元としたシールが添付されている。 上記『おジャ魔女どれみ16シリーズ』を参照 2001年と2002年にそれぞれ第3シリーズと第4シリーズを題材としたマスクプレイミュージカルが上演された。イベントなどで行われるアトラクションと同様に着ぐるみが演じるものであるが、「音楽界」を舞台にしたオリジナルストーリーや専用の歌が作られるなど本格的な物であった。これとは別に2003年にも、第2シリーズと第4シリーズのストーリーを編集し、二部構成にまとめたマスクプレイミュージカルが劇団飛行船によって上演されている。2004年の『プリキュア・ナージャ・どれみスーパーヒロインスペシャルショー』も着ぐるみで上演された。 上記とは別に、本シリーズとのコラボレーション企画として指原莉乃がプロデュースするアイドルグループ『≠ME』のメンバーによる舞台「≠ME ACT LIVE『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』」も2022年5月15日から22日まで品川プリンスホテル ステラボールにて上演された。 第4シリーズ放送時に結成された、子役タレントによるダンスユニット。配役は以下の通り。 テレビアニメの各シリーズ毎に発売されているが、リリース元は各々異なっている。特に『おジャ魔女どれみ』のCDは、放送当時発売された分はバンダイミュージックが現在存在しないためすべて廃盤となっているが、その収録曲などは大部分が第3シリーズのCDや「MEMORIAL CD BOX」に再録された。第6シリーズに関しては文庫本のドラマCD付き限定版(初版特典版)にCDドラマが付録として添付されている。 第4シリーズから、同時間帯にて放送された『ヒーリングっど♥プリキュア』までのの映像作品は、セル・レンタル共にマーベラスエンターテイメント→マーベラスAQL→マーベラス発売、ポニーキャニオン(『ハートキャッチプリキュア!』まで及び『Go!プリンセスプリキュア』以降)販売となる。 この他、VHSビデオもセル・レンタルそれぞれがリリースされていた。第2シリーズのみ全13巻、それ以外は全12巻。 地上波テレビアニメシリーズ全4作と、劇場版2作が東映アニメオンデマンドにて有料配信されており、各シリーズの第1話は無料でも視聴できる。第5シリーズについてはビデオマーケットが取り扱っている。その他、東映アニメーションミュージアム公式YouTubeチャンネル(旧・東映アニメーション創立60周年公式YouTubeチャンネル)でも、第1 - 第5シリーズの第1話を視聴できるな他、前述の通りショート・ショート作品『おジャ魔女どれみ お笑い劇場』も期間限定で配信された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『おジャ魔女どれみ』(おジャまじょどれみ)は、1999年より東映アニメーションが断続的に制作している、オリジナル魔法少女アニメ作品、およびそのシリーズの総称。版権上、原作は東堂いづみとされており、アニメにとどまらずコミック・ゲームなど、幅広いメディアミックス展開も行われた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項目では、必要に応じ以下の初回公開順に則った略称で表記する。作中の時系列上では『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(第3シリーズ)と『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(第5シリーズ)が同時期を描いた作品となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この他、コミック版は別に略称を設けて該当節にて解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本シリーズは、1999年に第1シリーズ『おジャ魔女どれみ(全51話)』が、テレビアニメとして制作・放送されたことに端を発している。東映アニメーションが約15年ぶり手がけた魔法少女物であり、当初は4クールの放送予定であったが、第1シリーズのヒットに伴い、同シリーズ放送期間中のゴールデンウィーク以降に、続編である第2シリーズ『おジャ魔女どれみ♯(全49話)』と、劇場版の制作が決定。以降、後述の通り現実と作中の時間経過をシンクロさせて物語が進行し、2001年には劇場版第2作も制作・上映されたものの、第1シリーズの時点から卒業までのエピソードを描くという構想や、4年を上回るとどれみたちの頭身が高くなりアクション路線に傾斜する可能性があるという懸念から、地上波でのテレビアニメシリーズは第4シリーズをもって終了の運びとなった。地上波テレビアニメシリーズは最終的に16クール(4年)、4シリーズ(通算201話)という長期間の放送となり、これら一連のシリーズが放送されていたテレビ朝日系列の日曜8時台後半のテレビアニメ枠(朝日放送制作枠)の人気作品へと発展した。アニメ作品としてはその後、2004年に番外編『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ(全13話)』が、パーフェクト・チョイス(現・スカチャン)でPPV放送(後に地上波でも放送)されている。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これらテレビアニメシリーズと並行して、月刊少女漫画雑誌『なかよし』ではたかなししずえによる漫画版も連載され、このうち単行本『おジャ魔女どれみ』(全3巻)と『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(1巻のみ発売)が刊行された。またテレビアニメシリーズ終了後の2011年12月から2015年12月にかけて、高校生になった主人公たちを描く小説『おジャ魔女どれみ16』シリーズ(既刊10巻)が講談社ラノベ文庫より展開された。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "前述の通り魔法少女物という体裁を取っているものの、魔法ヒロイン路線よりも主要人物である彼女達だけでなく、周囲の人物達の葛藤や成長に比重が置かれており、自らの意思で魔法を使うのをやめたり、魔法を捨てたりした魔女も描かれるなど、魔法が決して万能の解決手段ではないことが暗示され、作中における魔法も万能の解決手段というよりも人物の迷いや悩みと向き合い、彼らの背中を押す程度の描かれ方であることが多い。テレビアニメシリーズでも初期の挿話では、魔女見習いである主人公たちの技量不足もあって全く役に立っていない話、後期には魔法が無くても話が成り立つような話、末期には魔法を一切使用しない話まで作られた。また、他の魔法少女物とは異なる点として、所謂魔法少女としての姿が「変身」によるものではなく「お着替え」であることが挙げられる。これは幼い子供の目線で考えた結果、自分で着替えることが一人前への大前提であることから発案されたもので、作中ではそうした点を活かし、見習い服の下(普段着)のポケットから物を取り出したりするといった描写も見られた。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各シリーズとも基本的には一話完結のストーリーであるが、シリーズ全体で見ると1話ごとでストーリーにつながりを持っており、長期シリーズとなったこともあり、以前の話で出てきたキャラクターがその能力や性格を活かした形で後に再登場する、というケースも散見される。また、作中での四季も放送時期と合わせてあるなど、物語内の時間経過の速度が現実と大体同じになるように作られていた。また、放送時期に現実で起こった出来事が、作中に反映されることもあった。さらに、テレビアニメシリーズでは主人公陣の一人を通じて家族内の不仲と和解を描き、第3シリーズでは不登校(長期欠席)児童・生徒問題も取り上げたりと、それまでのアニメでは展開し辛かった社会的問題を取り上げる場面も語られている。こうした傾向は、小説として展開された第6シリーズにも引き継がれ、同シリーズでは現代の高校生にとって身近な内容である学校裏サイト問題が取り上げられている。以上を踏まえて、シリーズの時系列はテレビアニメシリーズをリアルタイム基軸としており、第5シリーズ以降の物語は作品発表時期が作内時間ではない。特に第6シリーズとなる『おジャ魔女どれみ16シリーズ』では、それに関連して北京オリンピックなどの描写が存在する。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1話単位での構成・演出上の特徴としては、第1シリーズ第1話と第5シリーズ第12話を除く全話において、アバンタイトルが通常20秒流されている。内容は本編自体の抜粋からイメージ映像的なもの、あるいはミスリードを誘うような内容であることもままある他、アバンタイトルの内容が本編と全く関係ない時もある。第1シリーズ第47話以外のアバンタイトルの全てにフレームが付く。また、CM前後のアイキャッチが第2シリーズまでは12秒、第3シリーズ以降は10秒と比較的長いことも特徴の一つである。全作を通じて、オープニングアニメーションの変更はマイナーチェンジのみであり、第4シリーズと第5シリーズ第12話を除きエンディングの変更はない。次回予告は、第2シリーズまではエンディングの前に、第3シリーズ第14話以降はエンディングの後に配されており、各シリーズごとに締めの決めゼリフが用意されている。コメディ路線の回ではどれみがオチを担当することが定番となっている。その回のタイトルと次回予告の決めゼリフの読み上げは、どれみ役の千葉千恵巳がシリーズを通して担当している。提供テロップの背景は、第2シリーズまではBGMなしのブルーバックが用いられ、第3シリーズからはBGMつきの作品のイメージ静止画へと移行している。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "タイトルロゴや主人公の名前にもあるように、音楽に関連する記号や用語が作中では頻繁に登場する。", "title": "シリーズの概要・設定" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本シリーズの生みの親は、前番組『夢のクレヨン王国』(1997年 - 1999年)でプロデューサーを務めた関弘美、脚本家の山田隆司、シリーズディレクターだった佐藤順一の3人である。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前番組とは異なり原作も何もなかったので、関は魔法や魔女に関する書籍など、要となる資料を片っ端から集めた。特に関を共感させたのが、『夢のチョコレート工場』の作者ロアルド・ダールの『魔女がいっぱい』である。関はこの書籍のストーリーではなく、「たくさんの魔女が人間の世界に入り込んで生活している」と言うところに惹かれ、イメージとして企画した。これが採用され制作が開始された。シリーズディレクターには、企画段階から参加している佐藤が担当した。「おジャ魔女」という名称も佐藤のアイデアによるものである。シリーズディレクターに関しては佐藤の要望でもう一人加わった。それがテレビアニメシリーズでメインシリーズディレクターを務めることとなる五十嵐卓哉である。五十嵐は本シリーズの立ち上げ以前にも、『美少女戦士セーラームーン』(1992年 - 1997年)や『ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー』(1998年 - 1999年)で高い評価を受けていた。2004年に放送された第5シリーズでは、監修を本シリーズについて知り尽くしていた五十嵐にしようとしていたが、生みの親である佐藤が務めることになった。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "次にシリーズ構成(脚本)である。脚本はストーリーの基本となり、それに重ねて対象年齢が小学校低学年、高学年のため、いかに子供たちに分かってもらえるかが重要となる。そのため、関による小学三年生以下の男女児童のマーケティングがおこなわれ、『おジャ魔女どれみ』という作品のコンセプトが制作されていった。加えて、クラスメイトたちの設定やシリーズ中の各エピソードは、スタッフたち自身が小学生だった頃の思い出を元にした部分が多いという。また第3シリーズで扱った不登校児の問題などは、実際の小学校で意見を集めるなどした。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "キャラクターデザインには、『ママレード・ボーイ』や『剣風伝奇ベルセルク』で好評の馬越嘉彦を起用した。最初のキャラクターデザイン段階では手足に関節や筋肉があったが、佐藤の「誰にでも描けるキャラクターにして欲しい」という要望で「棒みたい」になった。この他、美術は前作から継続でゆきゆきえと行信三が、色彩設計も同じく辻田邦夫が担当した。製作担当については、第3シリーズの中盤まで風間厚徳が務めており、風間の製作編成への異動に当たり、本シリーズで製作進行のキャリアを積んできた坂井和男が後任として起用された。第4シリーズ終盤では、当時スタジオジブリへの出向により、2年以上の空白期間があったアニメ監督・細田守が演出で参加、『時をかける少女』などで有名な女優・原田知世の声優参加などが一部で話題となった。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本シリーズは音楽にも定評がある。作中で使用された劇伴のすべて、それに挿入歌やキャラクターソングの一部は奥慶一の作曲によるもので、作中での挿入歌やお着替えシーン、マジカルステージの音楽も特徴的で、各シリーズの挿入歌集(BGMコレクション)の売上も好調だった。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "出演声優は、『夢のクレヨン王国』にも出演していた声優陣の大半が本シリーズにも引き続き参加している他、本業が声優ではない役者を起用するという傾向も引き継いでおり、一例としては前出の原田知世や、舞台女優としての活躍も多い堂ノ脇恭子などが挙げられる。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "スタッフ一同、第5シリーズ終了後「二度と『どれみ』に携わることはない」との気持ちであったが、本シリーズのスタッフが多数起用された『ハートキャッチプリキュア!』(2010年 - 2011年、プリキュアシリーズ第7作)が好評を博し、栗山緑名義で同作品の脚本を手がけていた山田のもとにも「どれみみたいな作品また作ってくださいよ」という声が寄せられるようになった。これを受けて、山田の筆により公式な続編『おジャ魔女どれみ16シリーズ』が刊行された。", "title": "制作の経緯と中心スタッフ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "シリーズごとにテーマが設定されているが、それ以外にも全体を通してどれみたちやそのクラスメートの日常生活、恋の悩みや体の悩み、人間関係など、日常に潜む困難にも立ち向かう様子も描かれている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1999年2月7日から2000年1月30日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8:30 - 9:00(JST)に全51話が放送された。前述の通り、同系列における同時間帯での本シリーズの放送は、その後第4シリーズ終了まで踏襲された。作品のテーマとしては友情が掲げられている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "シリーズタイトルと区別する意味で、一部スタッフやファンの間からは『無印』と通称されているほか、2005年発行の『おジャ魔女どれみ メモリアルアルバム』では『第1シリーズ』と表記されている。次回予告の決めゼリフは「ハッピー! ラッキー! みんなにとーどけ!」。オープニングアニメーションの変更は第25話から、アイキャッチの変更は第27話から行われた。また、序盤には効果音の変更も複数回にわたって行われている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ドジで妹の春風ぽっぷからもバカにされる自称「世界一不幸な美少女」の小学3年生・春風どれみ。魔女に憧れ、好きな人に告白する勇気を魔法で手に入れたいと思っていた彼女は、ひょんなことから本物の魔女・マジョリカと出会う。この時マジョリカが魔女であることを、どれみが見破ってしまった為に、マジョリカは魔女ガエルの呪いの力により魔女ガエルとなってしまう(猫に変身していたマジョリカのお付きの妖精ララは正体を隠す必要がなくなったため、元の妖精の姿に戻る)。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "魔女ガエルに変えてしまったマジョリカを元の姿に戻すため、どれみは幼なじみの藤原はづき、転校生の妹尾あいこ、後にはどれみの妹春風ぽっぷと共に魔女見習いとしての修行に励んでいく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "魔女見習いとしての修行を続けていた3人は、偶然にも人間界に潜む「バッドアイテム」というものを見つける。これは、かつて魔女界に封印されていた「バッドカード」がとりついたものであり、持ち主の願いと正反対の不幸をもたらす。3人は魔女界の女王様からバッドカードの回収を依頼される。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中盤からは、別の魔女の下で魔女見習いをしている瀬川おんぷが登場。最初は自己中心的な性格で、どれみたちとは異なり魔法はあくまでも自分自身のために使っていた彼女だったが、どれみたちとの触れ合いを通じて次第に変わっていく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その後、どれみ・はづき・あいこ・おんぷは見習い試験などのすべての課題をクリアし、一度は晴れて魔女になるが、直後にクラスメイト全員から魔女であることを見破られる。おんぷがとっさに魔法でクラスメイトの記憶を消去したためにこと無きを得たが、禁断の魔法の反動を打ち消すブレスレットが完全に壊れ、効果を打ち消すことが出来ず、おんぷは24時間以内に助けないと百年の眠りにつく呪いにかかってしまう。おんぷを救うことは禁忌に触れた罰にある者を救うことになり、魔女界の禁忌で同罪にもかかわらず、どれみたちは自分たちの魔女としての資格剥奪と引き替えにおんぷを目覚めさせる。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「魔法の力を借りなくても、自分たちの努力で願いをかなえることは出来る」ことを学んだ彼女たちは魔女から普通の人間の女の子に戻り、そして大親友となったのであった。一方で、元の姿に戻るすべを失ったマジョリカはMAHO堂を閉店することを決めた。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2000年2月6日から2001年1月28日にかけて、全49話が放送された。また放送期間中の2000年7月8日には、劇場版1作品(テレビアニメと同じく30分の短編映画作品)も公開された。作品のテーマとしては愛情が位置づけられ、先々代の女王様など、後のシリーズの世界を広げる要素も同シリーズにて次々と登場した。また、同シリーズではMAHO堂が花屋になったことから、作中でも花言葉が多数登場した。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "次回予告の決めゼリフは「ドキドキ! ワクワク! クルクルまーわれ!」。オープニングアニメーションの変更は第24話から、アイキャッチの変更は第3話と第8話のマイナーチェンジの後第29話から行われた。第1話のみ、次回予告BGMが「おジャ魔女はココにいる」のカラオケバージョンである。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2002年度東京アニメアワード優秀作品賞受賞。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "魔女は人間と違いバラの木から生まれる。その中でも100年に一度、とてつもない魔力をもった魔女の赤ちゃんを産むという「ウィッチー・クイーン・ローズ」の開花が間近に迫っていた。 魔女見習いの資格を失い人間に戻ったどれみたちはいつも通りの日常を過ごしていたが、小学3年生の終業式の日の夜に、「魔女ガエルの村」に旅立つマジョリカとララを見送ろうとMAHO堂の跡地に行くが、彼女たちは置き手紙だけを残してどれみたちの妖精ドド・レレ・ミミ・ロロと一緒に旅立ってしまっていた。悲嘆にくれる彼女たちだったがマジョリカの忘れ物に気づき、それを届けに魔女界へ入る。途中、ウィッチー・クイーン・ローズから魔女の赤ちゃんが生まれるところに居合わせたことから、彼女達は1年間その赤ちゃんのママとなることを義務づけられてしまう。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "小学4年生に進級したどれみたちは、新たに仲間に加わった瀬川おんぷとともに再び魔女見習いに戻って、その魔女の赤ちゃん・ハナちゃんを1年間育てることになる。無事に育てることができたなら、以前に没収した水晶玉を返すことを女王様は約束した。どれみたちは出来る限り魔法を使わずに、自分たちの力でハナちゃんを育てようと決心するが、慣れない子育てに戸惑うばかり。落第すれば親権を剥奪されてしまうという魔女界の医者マジョハートによる検診を乗り越え、そしてそれぞれが家族との過去の諍いや衝突の中で自分達も両親や周りの人々に愛されながら育っていることを学びながら次第に一人前の母親として、1人の人間としても成長していく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中盤からはハナちゃんを誘拐して魔女界から領土を取り返そうとする魔法使いたちが登場する。ハナちゃんを守るために新たな力を授かったどれみたちは、ハナちゃんを無事1年間育て上げるとともに魔法使い界と魔女界の戦争も回避させ、再び魔女になれることとなった。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ハナちゃんの魔力、そして、どれみたちとハナちゃんによって人間界と魔女界が再びつながりを持つことを恐れる先々代の女王様(の幻影)はそのことを不快に感じ、「このままでは、自身がかけた魔女ガエルの呪いを打ち破ってしまうため、ハナちゃんを生かしておけない」と、高熱で命を落とす呪いをかけてしまった。その呪いからハナちゃんを救うため、どれみたち4人は呪いの森に入り、魔女としての力を使い切って千年の眠りにつくのと引き換えにハナちゃんの命を助ける。どれみたちの優しさと犠牲を厭わない精神に心を乱された先々代の女王様(の幻影)は姿を消す(消滅はしていない)。そして、ママたちを慕うハナちゃんの必死の叫びが呪いを打ち破り、どれみたちは目覚める。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、ハナちゃんを救うため呪いの森で先々代の女王様(の幻影)の呪いを打ち破る行動により、おジャ魔女達は各自所有していた水晶玉を失ってしまった。水晶玉を失うことは、魔女の資格を完全に失うだけでなく、魔女見習いにもなれないことであることを女王様とマジョリンから伝えられ、おジャ魔女たちは驚愕し落胆する。だがどれみは、「それと引き換えにハナちゃんの命が救われたからそれで良い」と納得する。魔女(魔女見習い)の資格を失った元おジャ魔女達は、魔女界の規定により、1年間育て上げたハナちゃんと別れの時を迎え、悲しみの涙の中、マジョリカ・ララと共に人間界へ戻った。人間界に戻った後のMAHO堂にある温室のライフウッドのベッドには、おジャ魔女達とハナちゃんの記念写真が飾られた。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2001年2月4日から2002年1月27日にかけて、全50話が放送された。さらに放送期間中の2001年7月14日には、劇場版1作品も公開された。作品のテーマは成長で、同シリーズからキャラクターデザインが一新され、併せて基本衣装も変更された。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "次回予告の決めゼリフは「ケーキにクッキー! 魔法のレシピ、教えてあーげる!」である。前述の通り、同シリーズより次回予告の前にエンディングが流れるという構成へと変更され、そのエンディングにも歌詞テロップが追加された。オープニングアニメーション・アイキャッチはともに第31話にて変更。またオープニングに登場するハナちゃんの髪型は、本編での髪型変更(第7話)に先駆けて初回の時点でツインテール(左右に水晶玉2つずつ)とされている。エンディングアニメーションは同シリーズより10秒短縮された。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同シリーズでMAHO堂がお菓子屋になったことから、作中でもお菓子のレシピが多数登場したほか、どれみたちも2種類のコスチュームにお着替えするようになった。1つは従来のスタイルを継承した魔女見習い服。もう1つはお菓子を作る時に使われるパティシエ服で、コックコートがモチーフとなっている。他方で、同シリーズからはおジャ魔女たちのお着替えのシーンが前シリーズまでよりも少なくなる。お菓子はもとより、パティシエ服が好評だったこともあり、第6シリーズ終了後の2017年と2018年には第3シリーズを基にした、「おジャ魔女CAFE」が期間限定で2度開催された。ももこの加入に伴い、同シリーズ以降では作中でも英語のセリフがいくつか登場している。字幕や日本語訳は一切付けられていないものの、セリフの意味については一部除けば前後の文脈から判断することができる。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "放送期間中には、交通安全をテーマにした非売品のビデオソフト「おジャ魔女どれみの交通安全」(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - 青山充)、「おジャ魔女どれみの自転車安全教室」(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - なかじまちゅうじ)の2本をリリース。2本とも、はづきとあいこ、マジョリカとララが登場しない。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ハナちゃんを救うために、魔女の証である水晶玉を割ってしまい、再び普通の人間に戻ったどれみたち。魔女の子供は満1歳になると育ての親と離して魔女幼稚園に預けさせるという魔女界の掟により、ハナちゃんとも離ればなれになってしまった。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小学5年生となったどれみたちは女王の計らいによって再び魔女見習いになり、帰国子女の新しい仲間「飛鳥ももこ」を加えて、どれみたちを魔女にすることに反対している魔女界の元老たちに魔女になることを認めてもらうために、今度はお菓子作りにチャレンジする。またクラス替えによって新たなクラスメイトや先生が多数登場し、彼らの抱える幾多の悩みを共に乗り越えていく。 当初は日本語やアメリカとの考え方の違いから衝突を起こしがちだったももこも、どれみ達の協力やはじめは嫉妬し邪険にしていたある玉木を含むクラスメイトの協力もあって打ち解けていく。 また、彼女たちの奮闘もあり、魔女界の規則(慣例)が見直されていく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方、魔女幼稚園に入園したハナちゃんは園内で他の園児同様、寄宿生活を送っていたが、どれみたちが1回目のパティシエ試験に合格後、マジョミラーの独り言を聞いて、魔女幼稚園の裏門からどれみ達が幼稚園の様子をこっそり覗き見る。その最中、でんぐり返しに失敗するハナちゃんを見て、どれみはついハナちゃんを応援すべく声を出してしまい、そのことでハナちゃんにかえって寂しい思いをさせてしまう。その後、オヤジーデがハナちゃんを幼稚園から人間界に連れ出し、そのことで、ハナちゃんが幼稚園から行方不明になったと魔女界で騒動になってしまい、どれみたちも急きょ魔女界へ向かい大捜索の末、人間界の美空町にあるMAHO堂にいるのを見つけ出した。そこで、ハナちゃんはママと禁断の再会を果たす。その後、昼間MAHO堂での経緯とその前の出来事を思い出したどれみは、でんぐり返しに支障がないよう髪型をツインテールに変える。その後、マジョミラー園長にハナちゃんを人間界で無事見つけたことを報告し、幼稚園に返しションボリしながら帰ろうとしたところ、ハナはママ達を呼び止め、目の前で「でんぐり返し」にチャレンジし、成功させる。この光景を見たマジョミラーは、「人間界のママ達と会わせるのは魔女として育てるのに良くないというのは考え違いで、人間と過ごすことでハナが学ぶことがある」と、これまでの慣習を見直し、ハナとの定期的な面会を認めることにした。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "シリーズ中盤でハナちゃんは、ママであるどれみを魔法で人間界から魔女界へ呼び出したことが原因で、再び現れた呪いの森にいる先々代の女王様(の幻影)により、魔力の源である野菜を嫌いになる呪いをかけられてしまう。再びハナちゃんを引き取ったどれみたちは、人間界で野菜嫌いを治して魔力を取り戻させるために試行錯誤する。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "どれみたちは工夫を凝らして最終的にハナちゃんの野菜嫌いの呪いを完治させることに成功した。そして、人間界での哀しい思い出から負の感情を暴走させていた先々代の女王様をも助けようとしたが、結果として呪いの森は(同時に先々代の女王の幻影も)消滅したものの、彼女を完全に救うことはできなかった。しかし、呪いの森が消滅したことで呪いの森の周辺の環境が元に戻り、先々代女王の深い眠りについている真の姿が初めて出現した。パティシエ試験を全てクリアするだけでなく、ハナちゃんの野菜嫌いを克服させたこと、幻のレシピを完全再現させ、呪いの森と先々代の女王様の幻影を消滅させることができた功績により、全ての元老院魔女に認められ、全員一致で魔女に戻すことが認められた。女王様をはじめ、どれみたちはいつか先々代の女王様を救うことを誓う。そしてハナちゃんは、野菜嫌いの呪いが克服されたため人間界から再び魔女界へ戻り、どれみたちと離れて生活することになる。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2002年2月3日から2003年1月26日にかけて、全51話が放送された。地上波でのテレビアニメシリーズとしての最終作であり、当初はシリーズそのものの完結編として位置づけられていた。作品のテーマは卒業。次回予告の決めゼリフは「ピュアピュアドリームでっかくそーだて!」。前シリーズまでは「マジカルステージ」と唱える所からBGMが変わっていたが、同シリーズではマジカルステージを唱え始めからBGMが変わるようになる(代わりにポロンの音が出ない)などのマイナーチェンジも行われた。また、どれみとハナちゃん以外のおジャ魔女は、お着替えのシーンだけではなく個人でポロンを使うシーンも数えるほどしかない。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "第40話からアサツー ディ・ケイのクレジットがASATSU-DKからADKに変更され、オープニングアニメーションの変更は第2話と第32話にて実施。アイキャッチの変更は第31話からで、変更前のアイキャッチは5種類が用意された。同シリーズのみエンディングの変更があり、第14話から第30話まで別のエンディングが流されていた。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ハナちゃんは再び、ママと離れて魔女幼稚園で生活するようになった。だが、1歳半からの約半年間、人間界でママたちと再び一緒に暮らしていたことから、他の魔女幼稚園児よりもママへの思いは強く、幼稚園内でも寂しさのあまり泣いてばかり。その様子を見た女王様は、ハナちゃんを連れて先々代女王が眠るライフウッドの根元へ向かう。先々代女王を覆うように取り囲む6つの茨の横には、半分埋まったままのウェンディング・チェストがあった。それを偶然見かけたハナちゃんは女王様の制止を振り切り、そのチェストに触れてしまう。ハナちゃんの強力な魔法により、ウェディングチェストの封印が解かれ、中に封印されていた先々代女王の妖精ババが約1000年ぶりに目覚め、姿を現す。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その頃、スイートハウスMAHO堂に集まったどれみたちは魔女界から連絡があったか気になって学校に行く前に集まるも、何の連絡もなかったため落胆する。同じ頃、魔女幼稚園に戻ったハナちゃんは、オヤジーデやマジョポン・マジョピー達先生方をはじめ、園児たちのありとあらゆる手段を使ってもハナちゃんの機嫌を取ることは難しい状況に陥っていた。さらに「(ママ達と一緒に)学校へ通いたい」というワガママ同然の暴走を起こし、自ら持つすべての魔力を使って急成長し、かつ、美空町のMAHO堂までも変えてしまった。その行為によりハナちゃんの魔法の力が水晶玉の限界を超えてしまい、4つあった水晶玉を全て割ってしまった。この事態によりハナちゃんは魔女の資格を失ってしまうだけでなく、無断でママ達が暮らす「人間界」へ向かった。6年生になったどれみたちは、最初は金色の髪をした少女が誰なのか分からなかったが、その少女が自ら「ハナちゃん」であることを告げ、急成長した姿に驚く。さらに水晶玉を割ってまで人間界にきてしまったことに衝撃をうけてしまう。その時、MAHO堂に来た女王様の計らいにより、魔女の資格を失ったハナちゃんが再び魔女に戻れるよう魔女見習いとして修行をすることになる。どれみたちは既に魔女の資格を得ているため、ハナちゃんの見習い試験1級合格のサポートをするよう命じられる。そして魔女界の女王様は、晴れてハナちゃんが魔女になったときには、どれみたちを魔女にすることを約束した(なお、ぽっぷは魔女見習い中であったため、このとき対象に含まれなかった。当初の規定どおり、1級の見習い試験に合格したら魔女になるということになっていた)。小学校最後の1年間は、人間界の常識など全く気にしないハナちゃんを加え、これまでにないドタバタ劇が繰り広げられるが、どれみたちが作中の問題解決のために魔法を使うことは次第に少なくなっていく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、先々代の女王様は自らが人間界で味わった辛い思い出から生まれた「悲しみの茨(読み:いばら)」に捕らわれたまま眠り続けていた。どれみたちは、先々代の女王様の悲しみを癒す方法を見つけるために試行錯誤を繰り返すが、茨は次第に成長し、深い悲しみが魔女界や人間界を覆い、皆の気力を奪い始めてしまう。そうした幾多の苦難に加え、小学校卒業を前にそれぞれの複雑な家庭事情や将来のことについても悩み、自分なりの答えを見つけ出していく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "苦闘の末、どれみたちは悲しみの茨を消し、先々代の女王様を目覚めさせ、魔女ガエルの呪いも解かれた。無事課題を解決したどれみたちは、改めて魔女となるかどうするかの選択を迫られる。しかし、1か月の考慮期間を経て「魔女にならない」ことを決意する。ハナちゃんは次期女王の最有力候補として魔女界で研鑽につとめ、ともに魔女界と人間界が再び交流できるようになる日を目指すことになった。また、これに伴いマジョリカもハナちゃんの後見人に指名されたため、MAHO堂第1シリーズの建物に戻した上で店じまいし、ララや妖精たちそしてハナちゃんとともに魔女界へと帰っていった。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2004年6月26日から2004年12月11日まで、スカイパーフェクTVの有料チャンネル・パーフェクト・チョイス(PPV)で全13話が隔週で有料放送された。またCS放送終了後、地上波では2005年より朝日放送をはじめ一部のテレビ朝日系列局や、独立UHF局でも放送された。これは、おジャ魔女どれみシリーズ初の地上波デジタル放送でもあり、このような放送形式や各話のフォーマットから、テレビアニメシリーズの1つとして扱われる場合もあるが、元々はテレビ放送を前提としないOVAとして企画・制作されたものであり、スカイパーフェクTVでの放送は先行放送という位置づけとなっている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "前述の通り、第3シリーズと時代設定を同じくする外伝的なシリーズとして制作されており、見習い服やキャラクターの設定についても第3シリーズのそれに準じたものとなっている。同シリーズではささやかな秘密をテーマに、どれみたちやクラスメートの小学5年生の時の、誰にも話せない秘密の話や意外な話、ほろ苦かったり切なかったりするナイショの話が、オムニバス形式で描かれている。このため、前シリーズまでとは異なり魔女界に関する話が中心にならないのも特徴である。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "次回予告の決めゼリフは「ノートの端っこつまんで破いて秘密のお手紙回しちゃお!」。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2011年12月2日から2015年12月2日まで、および2019年10月2日に講談社ラノベ文庫から通算10巻が刊行された。執筆者は栗山緑(第1 - 9巻)、影山由美 (20's)が、挿絵イラストは馬越嘉彦がそれぞれ担当。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "第4シリーズ終了から3年後、高校生となったどれみたちを描いた小説作品で、前シリーズまでのようなテレビアニメシリーズではないが、執筆者・挿絵担当のみならず、CDドラマのプロデューサーを関弘美が務め、また原作者の名義も東堂いづみとして発表されているなど、テレビアニメシリーズの中核スタッフが同シリーズの制作に携わっており、アニメ作品ではないながらも正式な続編、第6シリーズとして位置づけられている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "タイトルの数字は作中でのどれみの年齢を示しており、作中でのどれみの誕生日(7月30日)に合わせて度々変更されている。また、後述の通り一部の巻では初版特典として、CDドラマを付録とした『ドラマCD付き限定版』も刊行されている。10巻目『おジャ魔女どれみ20's』は20代になったどれみ達を描いており、9巻目『おジャ魔女どれみ19』の番外編に相当する。したがって、2022年現在、『19』のエピローグが本シリーズの最終的な結末に該当する。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "前シリーズまでと異なり、どれみたちに対しての「テーマ」や「課題」などは設定・明言されておらず、物語上の問題解決に至る作内時間のスパンも長く設定されている。作品の舞台や内容も、より「現実の過酷さ」に近付いた形となっている。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "魔女にならず人間として生き続けることを選んだどれみ達は、それぞれが別々の中学に進み、無事中学を卒業して16歳の高校生になっていた。小学校の同窓会であいこ、はづきと再会したどれみ。あいこは新学期から、ももこは2学期から、美空町に戻って来るという。かつてのメンバーの再集結に喜ぶどれみたちだったが、そこにおんぷの姿はなかった。中学期、成長によってチャイドルとしての仕事を失ったおんぷは、どれみたちとも連絡を絶ち、いずこかへと雲隠れしてしまった。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "同窓会終了後、自分たちのこれからを話し合う中で「もし魔法がつかえたら、おんぷちゃんの行方も捜せるのに...」と昔を懐かしむ、どれみたち。しかし「魔法を捨てた決断をしたのは自分たちだ」、と改めて確認し合う。そんな矢先、第1シリーズ(どれみシリーズ原点)の「マキハタヤマリカのMAHO堂」が突如あらわれ、そこには魔女界に戻ったはずのマジョリカとララがいた。マジョリカはハナちゃんによって後見人を解任されたのだという。肝心のハナちゃんは反抗期に入り、自分たちの言うことなど聞きもしない。それどころか忠言を続ける自分を疎み、代わりの後見人にマジョルカを指名して自分をクビにしたのだ、と。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "マジョリカから聞いたハナちゃんの変容に驚きを隠せない、どれみたち3人だが、魔法を捨てて人間として生きる決断をした自分たちには、もはや口を出せる問題でもない。取り敢えずは後見人を解任されてヒマになったから再びMAHO堂を始めるというマジョリカの誘いを受けて、どれみたちは再びMAHO堂で働くことにした。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "最初は、もはや魔法は捨てたのだからとMAHO堂で働きはしても、魔法そのものには手を出さなかったどれみたちだったが、女性週刊誌がおんぷのプライベートを探り出したことから状況が一変した。おんぷ本人の声明が無いことをいいことにあることないことを書きたて、しまいにはおんぷ本人への人格攻撃までやらかす週刊誌にどれみたちは激昂。このままではおんぷの人生そのものにも影響をもたらしかねない。それを救えるのは友人である自分たちしかいない。そう決意したどれみたちは、おんぷを探し出すことを決意する。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "しかし、どれみたちに立ちふさがる現実の壁は、あまりにも高すぎた。なんとか、おんぷが北海道にいるらしいことまではつかめたが、それ以上のことは何もわからない。どれみたちが手をこまねいている間にも女性週刊誌の悪意ある記事は人々を煽り、そして無責任な大衆はおんぷへの攻撃すらも辞さなくなるかもしれない。その焦燥にかられたどれみたちは「笑う月の晩」に「他人(ひと)を守るため、他人(ひと)を救うために、魔女(見習い)に戻ろう」と決断をする。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "魔女ガエルの呪いが3年前に解消され、主だったペナルティや制約がないことから、自らに課した制約は「自分のために魔法を使わない」こと。それを破れば永遠に魔法を失う。それを魔女界の女王様に願ってどれみたちは魔女見習いに戻り、魔法でおんぷを探し出してことなきを得た。後にことの顛末を聞いたももこがどれみたちと同じ条件で魔女見習いに復帰する(ももこが魔女見習いに戻った翌日、MAHO堂は第3シリーズのMAHO堂に改装される)。そして、どれみたちとの絆によって立ち直り女優として再起を始めたおんぷは仕事で赴いたパリにて、ハナちゃんが人間界にたびたび出没していることを知る。小学生時代と異なりインターネットによる情報が急速に発達している現代、混乱は避けられない状況であり(動画も撮られていて、世界中で閲覧されていた)、すでにパリに出没している「謎の人物」の噂は世界中を駆け巡りつつあった。どれみたちは慌てると共に、「どれだけ世界を隔てようと、あたし達はハナちゃんの『母親』だ」と再確認する。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "その決意を胸に、おんぷも魔女見習いに戻り、ハナちゃんと邂逅を果たす。そしてハナちゃんの口から飛び出たのは、今まで魔女界が、その世界の安定のために隠し続けてきた、とんでもない事実だった。その事実を追うためにハナちゃんは今まで反抗期を装ってきたのだという。どれみたちは母親としてハナちゃんの言葉を信じ、そしてハナちゃんとともに、魔女界が隠し続けてきた、その真実を追うことになる。そのために、ハナちゃんは4度目となる人間界で留学することになる。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "これらの出来事の合間にも、彼女らの周囲には時に大きく、時に大小の「事件」が次々と巻き起こる。16歳から始まる「高校生」という多感な年頃に端を発する、どれみたちゆえの悩みや迷い。同様に苦しみや不安を抱える友人たち。そんな彼らの力になり、時には逆に支えられ、おジャ魔女たちは自らの人生の進路に向けて、さらに大きな成長を果たしていく。", "title": "各シリーズの概要" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "美空市(みそらし)及び美空町(みそらちょう)は作品の主な舞台となる架空の地域。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "作中には関東地方及び神奈川県を舞台とするような描写が描かれている(第5シリーズ第1話にて小竹達が鎌倉方面から藤沢方面に自転車で向かっているシーンや、小田急小田原線、箱根登山鉄道の発着駅でもある箱根湯本駅が写っているシーン等がある)。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "地形は起伏に富み、どれみたちの通う美空市立美空第一小学校は海の見える高台に建っている。太陽が海から昇り海に沈むことが地理的特徴。また、ほとんどのおジャ魔女達の住む場所は、美空市美空町である。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "全体的に市が設置した建物はデザインに富んでおりかつ新しい物が多いのも特徴。また、美空市には市営スポーツセンターや歴史資料館などスポーツや文化的な施設も数多くある(第4シリーズ第40話)上に複数の線路がある。この点から考えると美空市は規模が大きく、財政状況はかなり潤沢であることが推測できる。また、少なくとも200年前の江戸時代から美空市が存在する。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "他に今までに美空市にあると確認されている施設は、美空市役所(第4シリーズ第2話)、美空市総合病院(第1シリーズ第51話)、美空第一病院(第5シリーズ第12話)、美空大学(第2シリーズ第20話。ただし建物そのものは確認されておらず、看板だけである)、美空駅、美空市郵便局(第4シリーズ第40話)、美空市立美空中学校(第4シリーズ)、県立美空高等学校(第6シリーズ)などである。美空市内には鉄道が通っており、最寄り駅は「美空駅」。近隣には「青空駅」もある。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "MAHO堂(まほーどう)は登場人物たちが働く架空の店。おジャ魔女達が活躍した頃の所有者はマジョリカである。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "第1シリーズでは、魔女見習いが魔法を使うためには魔女界の通貨でもある「魔法玉」が必要であり、それは自ら作った「魔法グッズ」を売って稼いだお金で、魔女界の問屋から買わなければならなかった。そこでどれみたちは魔女修行をしつつマジョリカの店「マキハタヤマリカの魔法堂」で働くことになったが、その際に自分達で店内を改装し、また店名「マキハタヤマリカの魔法堂」の「マキハタヤマリカ」を削り、後ろの「魔法」を漢字からをローマ字にして、「MAHO堂」に改めた。なおどれみたちは家族やクラスメイトにボランティアで病弱な老婦人の店を手伝っていると説明している。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "MAHO堂には、願いごとや悩みといった強い思いを抱いている者を、本人の知らないうちに引き寄せてしまう力を持っている。当初は冷房がないという設定だったが、次第に使われなくなった。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "廃車だったものを改造したバス「MAHO堂号」を1台所有している。このバスはMAHO堂のメンバーの移動手段として使われるほか、移動販売車にもなる。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "シリーズの変遷に伴い、MAHO堂も各シリーズの初回で度々改装されており、第2シリーズではマジカルステージで「FLOWER GARDEN MAHO堂」という花屋に、第3シリーズ(第5シリーズ)では同じくマジカルステージで「SWEET HOUSE MAHO堂」というお菓子屋に、第4シリーズではハナの魔法だけで「おしゃれZAKKA・MAHO堂」というビーズ細工などの小物などを扱う雑貨屋にそれぞれ改装された。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "第6シリーズでは、当初は『おジャ魔女どれみ』同様の魔法グッズの店とされ、後にももこの帰国に伴って第3シリーズと同じくお菓子屋に改装されている。どれみ、はづき、あいこ、ももこは学業やクラブ活動、個人練習などの合間を縫って、アルバイトとして働いている。自分達で店内を改装し、また店名を改めたのも第1シリーズと同じである。どれみとあいこ(後に帰国・転入したももこ)は学校にアルバイト届を出しているが、担任の八巻先生はどれみたちに理由を聞くことなく、「バイトは金が必要だからやる。理由はそれだけで十分だ」と寛容な姿勢を示し、「大人の中に入って、社会勉強できて、金までもらえるんだ。俺はバイト、大いに結構だと思っている」と奨励すらしている。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "どれみ達の高校卒業後の『20's』ではマジョリカによってカフェ併設のシェアハウスに改装されている。当初はマジョリカ自身で運営していたが、就職浪人中だったどれみが自ら管理人に立候補し、彼女が運営することになった。また、ハナが通学の下宿先として入居している他、パリから帰国したももこが併設のカフェで提供するスイーツ作りのために出入りしている。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "第4シリーズ(第5シリーズは第3シリーズと同じ年)までの「MAHO堂」の中では、「SWEET HOUSE MAHO堂」が一番売り上げがあったようである。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "マジョルカの「ルカ・エンタープライズ」(芸能プロダクション)やマジョモンローの「MONROE'S MAGICAL SHOP」(菓子屋)など、人間界で暮らす魔女のほとんどは自分の店かそれに類する物を持っており、それらを総称して「MAHO(魔法)堂」と呼ぶこともある。中でも美空市の魔法堂は伝統のある著名な店であり、魔女界の女王が即位する前にオーナーだったということもあって、この店のオーナーになることは、魔女界の女王になろうとする者にとって大きなステータスであり、次期女王が約束されているとも言われている。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "メインキャラクター5人(ももこ・あいこ・はづき・おんぷ・どれみ)の名前をローマ字で書いた頭文字を並べると「M・A・H・O・D (o)」となる。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "同名の声優ユニットの名前についてはMAHO堂を参照。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "魔女界(まじょかい)は作品の主な舞台の一つとなる架空の異世界。人間界とは別の次元にあり、日本とは昼夜逆転している。女王と12人の元老魔女によって統治されており、女王は世襲制ではなく、前任者の指名または選挙によって決まるらしい。およそ1000年前までは人間界と交流があったが現在は途絶えており、ごく少数の魔女が密かに人間界に住んでいるのみとなっている。魔女界の空はいつも夕焼けのように赤く、小さな島や、何だかよくわからない物が浮かんでいたりする。魔女は魔女界にあるバラの木から生まれる。魔女だけでなく知性を持ったタコやイカあるいはムンクやキリコの絵画を思わせる人型生物なども住んでいる。「魔法文字」と呼ばれる音符のような形をした文字が使用されているが、なぜか平仮名や漢字、ローマ字に英語などを使って店の看板が書かれていたりもしている。魔女界の紋章は魔女界の「M」をモチーフにした16分音符のような形をしている(ただし、作中では紋章が16分音符の形で描かれることも多かった)。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "他にも魔法使い界・星界・音楽界(ミュージカルのみ)・天界などがあり、幽霊(作中では「おばけ」と言っていた)、織姫、彦星など現実世界では実在が確認されていなかったり、伝承上の人物も作中では実在しているという世界観になっている。サンタクロースは第1シリーズでは実在が確認されたが、第2シリーズ以降は登場しない。また、伝説の黄金郷として知られる「エルドラド」は実在することになっている。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "上述の架空の場所以外では実在する場所やイベントを基に作られていることが多数あり、あいこが引っ越す前に住んでいた所の大阪府大阪市西成区天下茶屋、あいこの母親がアニメ放送時の居住地及び勤務場所としていた阪南市、またあいこの両親との思い出の場所として箱作海水浴場、マジョリリカの営んでいるペンションの所在地が伊豆高原、ももこが幼稚園児時代から住んでいてマジョモンローの魔法堂があった場所としてアメリカ・ニューヨーク、ももこの母親の出身地として横浜市やその中の横浜中華街、高校生になったあいこが出場したインターハイや兵庫国体、どれみがサッカー部のマネージャーとして関わったサッカーでは、等々力競技場・国立競技場、成長したハナちゃんが出現したパリやカンヌなども作中にも登場している。さらに、SOSトリオのギャグなどで嘉門達夫や島田紳助、どれみの父・渓介は奥田民生のファンであるなど、実在する芸能人が挙がることもある。実在した言動や作品のシーンなどのパロディなどもいくつかある〔さよなら・さよなら・さよなら(テレビ朝日系列で同じ日曜に放送されていた映画番組『日曜洋画劇場』の解説者だった淀川長治のセリフ)や、○○・カンバーック!(『シェーン』のクライマックス)など〕。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "どれみたちのクラスメイトの一人、横川信子による創作。男役の信子があいこと共演する筋書きが多い。小学校卒業後も「美空小町」のペンネームでクラスメイト(高校は別々である)の丸山みほとの創作(合作)活動が、続いていることが第6シリーズで明かされた。", "title": "作中劇" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "声はテレビアニメシリーズの声優。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "BS朝日では「おジャ魔女どれみ#」の途中で打ち切られた。CS放送では、キッズステーションにおいて第4シリーズまでが放送され、字幕放送も実施された。", "title": "放送局" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "海外では、韓国において第3シリーズまでがMBCで、第4シリーズがケーブルテレビ「トゥーニバース」のみでそれぞれ放送。後者では主題歌を差し替えて放送となった。また第5シリーズは韓国の他、イタリア、スペインでも日本と同様にケーブルテレビでの放送実績がある。", "title": "放送局" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "20周年大感謝祭(カーニバル)プロジェクトクラウドファンディングの特典としてBlu-ray収録予定の短編Flashアニメ。全5話。また2020年1月10日開催の期間限定ショップでも第2話をミニシアター上映された。", "title": "短編アニメ" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "『おジャ魔女どれみ』20周年記念として制作が発表された映画作品で、キャストおよびスタッフも再集結して制作された。テレビアニメシリーズとは異なりどれみたちではなく、子供のころに『どれみ』を見ていた女性3人を主人公に据え、一緒に旅に出るという物語が描かれている。", "title": "劇場版" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "当初は2020年5月15日に公開予定であったが、制作上の都合により公開を同年秋に延期することが、2020年3月19日に発表。その後同年11月13日に公開されることが、8月18日に改めて発表された。", "title": "劇場版" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2021年1月、第75回毎日映画コンクールアニメーション映画賞を受賞。", "title": "劇場版" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "たかなししずえによる漫画版が、講談社の月刊誌『なかよし』の1999年3月号から2003年1月号まで連載された。単行本は、後述の漫画版第2シリーズの1巻までが刊行され、漫画版全体としての最終話は『おジャ魔女どれみ公式ヒストリーブック』に収録された。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "基本的な設定は第1シリーズのそれに準じるものの、物語構成とストーリーは独自のものとなっており、特に第1シリーズのおんぷ編に相当するエピソードから、第2シリーズに相当する辺りまでは完全にオリジナルの展開となっている。また連載当初は、毎月15 - 20ページ程度の枠による通常の漫画連載であったが、後述の漫画版第3シリーズの開始(2002年3月号)に伴い、月8ページ単位のショートコミックへと移行し、さらに内容の簡略化が進むこととなった。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "雑誌連載時において、第2シリーズのそれとして掲載されていた物語は、単行本収録に際して前半が「テレビアニメ第1シリーズの話」、後半が「テレビアニメ第3シリーズの話」としてそれぞれ組み込まれており、その都合上単行本では『おジャ魔女どれみ♯』という物語そのものが存在していない。これを踏まえて本節のみ、漫画版において「テレビアニメの第1シリーズならびに第2シリーズ前半部」に相当する部分を「漫画版第1シリーズ」、「テレビアニメの第2シリーズ後半部と第3シリーズ」に相当する部分を「漫画版第2シリーズ」、そして「テレビアニメの第4シリーズ」に相当する部分を「漫画版第3シリーズ」として、それぞれ呼称するものとする。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "単行本各巻の巻頭には、おまけとしてテレビアニメシリーズの画像を元としたシールが添付されている。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "上記『おジャ魔女どれみ16シリーズ』を参照", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2001年と2002年にそれぞれ第3シリーズと第4シリーズを題材としたマスクプレイミュージカルが上演された。イベントなどで行われるアトラクションと同様に着ぐるみが演じるものであるが、「音楽界」を舞台にしたオリジナルストーリーや専用の歌が作られるなど本格的な物であった。これとは別に2003年にも、第2シリーズと第4シリーズのストーリーを編集し、二部構成にまとめたマスクプレイミュージカルが劇団飛行船によって上演されている。2004年の『プリキュア・ナージャ・どれみスーパーヒロインスペシャルショー』も着ぐるみで上演された。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "上記とは別に、本シリーズとのコラボレーション企画として指原莉乃がプロデュースするアイドルグループ『≠ME』のメンバーによる舞台「≠ME ACT LIVE『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』」も2022年5月15日から22日まで品川プリンスホテル ステラボールにて上演された。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "第4シリーズ放送時に結成された、子役タレントによるダンスユニット。配役は以下の通り。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "テレビアニメの各シリーズ毎に発売されているが、リリース元は各々異なっている。特に『おジャ魔女どれみ』のCDは、放送当時発売された分はバンダイミュージックが現在存在しないためすべて廃盤となっているが、その収録曲などは大部分が第3シリーズのCDや「MEMORIAL CD BOX」に再録された。第6シリーズに関しては文庫本のドラマCD付き限定版(初版特典版)にCDドラマが付録として添付されている。", "title": "アニメ以外のメディア" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "第4シリーズから、同時間帯にて放送された『ヒーリングっど♥プリキュア』までのの映像作品は、セル・レンタル共にマーベラスエンターテイメント→マーベラスAQL→マーベラス発売、ポニーキャニオン(『ハートキャッチプリキュア!』まで及び『Go!プリンセスプリキュア』以降)販売となる。", "title": "映像ソフト化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "この他、VHSビデオもセル・レンタルそれぞれがリリースされていた。第2シリーズのみ全13巻、それ以外は全12巻。", "title": "映像ソフト化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "地上波テレビアニメシリーズ全4作と、劇場版2作が東映アニメオンデマンドにて有料配信されており、各シリーズの第1話は無料でも視聴できる。第5シリーズについてはビデオマーケットが取り扱っている。その他、東映アニメーションミュージアム公式YouTubeチャンネル(旧・東映アニメーション創立60周年公式YouTubeチャンネル)でも、第1 - 第5シリーズの第1話を視聴できるな他、前述の通りショート・ショート作品『おジャ魔女どれみ お笑い劇場』も期間限定で配信された。", "title": "映像配信" } ]
『おジャ魔女どれみ』(おジャまじょどれみ)は、1999年より東映アニメーションが断続的に制作している、オリジナル魔法少女アニメ作品、およびそのシリーズの総称。版権上、原作は東堂いづみとされており、アニメにとどまらずコミック・ゲームなど、幅広いメディアミックス展開も行われた。 本項目では、必要に応じ以下の初回公開順に則った略称で表記する。作中の時系列上では『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(第3シリーズ)と『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(第5シリーズ)が同時期を描いた作品となっている。 「第1シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ』 「第2シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ♯』 「第3シリーズ」 - 『も〜っと! おジャ魔女どれみ』 「第4シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』 「第5シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』 「第6シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ16シリーズ』 この他、コミック版は別に略称を設けて該当節にて解説する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = おジャ魔女どれみシリーズ | ジャンル = [[魔法少女アニメ|魔法少女]]、[[女児向けアニメ]]、[[喜劇|コメディ]] }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = おジャ魔女どれみ{{small|(第1シリーズ)}}<br />おジャ魔女どれみ♯{{small|(第2シリーズ)}}<br />も〜っと!おジャ魔女どれみ{{small|(第3シリーズ)}}<br />おジャ魔女どれみドッカ〜ン!{{small|(第4シリーズ)}} | 原作 = [[東堂いづみ]]{{small|(擬人名称)}} | シリーズディレクター = [[五十嵐卓哉]]{{small|(第1 - 第4シリーズ)}}<br />[[佐藤順一]]{{small|(第1シリーズ)}}、[[山内重保]]{{small|(第2シリーズ)}} | シリーズ構成 = [[山田隆司]] | キャラクターデザイン = [[馬越嘉彦]]<br />{{small|(※キャラクターコンセプトデザイン名義)}} | 音楽 = [[奥慶一]] | 製作 = [[朝日放送テレビ|朝日放送]]、[[アサツー ディ・ケイ|ADK]]<br />東映アニメーション | 放送局 = 朝日放送・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] | 放送開始 = 第1シリーズ:[[1999年]][[2月7日]] | 放送終了 = [[2000年]][[1月30日]]<br />第2シリーズ:2000年[[2月6日]] - [[2001年]][[1月28日]]<br />第3シリーズ:2001年[[2月4日]] - [[2002年]][[1月27日]]<br />第4シリーズ:2002年[[2月3日]] - [[2003年]][[1月26日]] | 話数 = 第1シリーズ:全51話 / 第2シリーズ:全49話<br />第3シリーズ:全50話 / 第4シリーズ:全51話 | アニメーション制作 = [[東映アニメーション]] }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = おジャ魔女どれみナ・イ・ショ | シリーズ構成 = 山田隆司 | キャラクターデザイン = 馬越嘉彦 | アニメーション制作 = 東映アニメーション | 製作 = ナイショ制作委員会 | 開始 = 2004年9月24日 | 終了 = 2005年3月25日 | 話数 = 全13話 | その他 = 監修:佐藤順一、[[中村隆太郎]]{{small|(第12話のみ)}} }} {{Infobox animanga/Movie | タイトル = 映画 おジャ魔女どれみ♯{{small|(第1作)}}<br />映画 も〜っと! おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ{{small|(第2作)}} | 監督 = 五十嵐卓哉{{small|(第1作)}} / 山内重保{{small|(第2作)}} | 制作 = [[東映]]、東映アニメーション、[[バンダイ]] | 封切日 = 2000年[[7月]]{{small|(第1作)}} / 2001年7月{{small|(第2作)}} | 上映時間 = 30分(共通) }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = おジャ魔女どれみ(おジャ魔女どれみ♯ を含む)<br />も〜っと!おジャ魔女どれみ<br />おジャ魔女どれみドッカ〜ン! | 作者 = 東堂いづみ | 作画 = [[たかなししずえ]] | 出版社 = [[講談社]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[なかよし]] | レーベル = KCDXなかよし | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = [[1999年]][[3月]]号 | 終了号 = [[2003年]][[1月]]号 | 開始日 = | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 全4巻(未完)<br />(無印3巻・も〜っと!1巻) | 話数 = 全44話 | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = おジャ魔女どれみ16(第1巻)<br />おジャ魔女どれみ16 Naive(第2巻)<br />おジャ魔女どれみ16 TURNING POINT(第3巻)<br />おジャ魔女どれみ17(第4巻)<br />おジャ魔女どれみ17 2nd 〜kizashi〜(第5巻)<br />おジャ魔女どれみ17 3rd 〜COMEON!〜(第6巻)<br />おジャ魔女どれみ18(第7巻)<br />おジャ魔女どれみ18 2ndSpring has……(第8巻)<br />おジャ魔女どれみ19(第9巻)<br />おジャ魔女どれみ20's (20's) | 著者 = [[山田隆司|栗山緑]](第1 - 9巻)、[[影山由美]] (20's) | イラスト = 馬越嘉彦 | 出版社 = [[講談社]] | レーベル = [[講談社ラノベ文庫]] | 発売日 = 2011年12月2日(第1巻)<br />2012年5月2日(第2巻)<br />2012年11月30日(第3巻)<br />2013年7月2日(第4巻)<br />2013年10月2日(第5巻)<br />2014年2月28日(第6巻)<br />2014年9月2日(第7巻)<br />2015年6月2日(第8巻)<br />2015年12月2日(第9巻)<br />2019年10月2日 (20's) | 巻数 = 全9巻(通巻)+1巻 (20's) }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''おジャ魔女どれみ'''』(おジャまじょどれみ)は、1999年より[[東映アニメーション]]が断続的に制作している、オリジナル[[魔法少女アニメ]]作品、およびそのシリーズの総称。版権上、原作は[[東堂いづみ]]とされており{{efn2|東映アニメーション作品において、名義上の原作者として東堂いづみの名が用いられたのは本シリーズが初めてである。}}、アニメにとどまらず[[漫画|コミック]]・[[コンピュータゲーム|ゲーム]]など、幅広い[[メディアミックス]]展開も行われた。 本項目では、必要に応じ以下の初回公開順に則った略称で表記する。作中の時系列上では『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(第3シリーズ)と『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(第5シリーズ)が同時期を描いた作品となっている。 *「第1シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ』 *「第2シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ♯』 *「第3シリーズ」 - 『も〜っと! おジャ魔女どれみ』 *「第4シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』 *「第5シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』 *「第6シリーズ」 - 『おジャ魔女どれみ16シリーズ』 この他、コミック版は別に略称を設けて[[#コミック|該当節]]にて解説する。 == シリーズの概要・設定 == 本シリーズは、1999年に第1シリーズ『'''おジャ魔女どれみ'''(全51話)』が、テレビアニメとして制作・放送されたことに端を発している。東映アニメーションが約15年ぶり{{Efn2|『[[とんがり帽子のメモル]]』以来。本シリーズの放送枠である日曜8時台後半において最初に放送されたテレビアニメでもある。}}手がけた魔法少女物であり、当初は4[[クール (放送)|クール]]の放送予定であったが、第1シリーズのヒットに伴い、同シリーズ放送期間中のゴールデンウィーク以降に、続編である第2シリーズ『'''おジャ魔女どれみ♯'''(全49話)』と、劇場版の制作が決定。以降、後述の通り現実と作中の時間経過をシンクロさせて物語が進行し、2001年には劇場版第2作も制作・上映されたものの、第1シリーズの時点から卒業までのエピソードを描くという構想や、4年を上回るとどれみたちの頭身が高くなりアクション路線に傾斜する可能性があるという懸念から、地上波でのテレビアニメシリーズは第4シリーズをもって終了の運びとなった<ref>『おジャ魔女どれみ20周年記念 おジャ魔女どれみ 公式ヒストリーブック TVシリーズから映画『魔女見習いをさがして』まで』140ページ。</ref>。地上波テレビアニメシリーズは最終的に16クール(4年)、4シリーズ(通算201話)という長期間の放送となり、これら一連のシリーズが放送されていた[[朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ|テレビ朝日系列の日曜8時台後半のテレビアニメ枠(朝日放送制作枠)]]の人気作品へと発展した<ref>『馬越嘉彦 東映アニメーションワークス』[[一迅社]]、2011年、p145 {{ISBN2|978-4-7580-1221-8}}</ref>。アニメ作品としてはその後、2004年に番外編『'''おジャ魔女どれみナ・イ・ショ'''(全13話)』が、[[パーフェクト・チョイス]](現・[[スカチャン]])で[[ペイ・パー・ビュー|PPV]]放送(後に地上波でも放送)されている。 これらテレビアニメシリーズと並行して、月刊少女漫画雑誌『[[なかよし]]』では[[#コミック|たかなししずえによる漫画版]]も連載され、このうち単行本『おジャ魔女どれみ』(全3巻)と『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(1巻のみ発売)が刊行された。またテレビアニメシリーズ終了後の[[2011年]]12月から[[2015年]]12月にかけて、高校生になった主人公たちを描く小説『'''おジャ魔女どれみ16'''』シリーズ(既刊10巻)が[[講談社ラノベ文庫]]より展開された。 前述の通り魔法少女物という体裁を取っているものの、魔法ヒロイン路線よりも主要人物である彼女達だけでなく、周囲の人物達の葛藤や成長に比重が置かれており、自らの意思で魔法を使うのをやめたり、魔法を捨てたりした魔女も描かれるなど、魔法が決して万能の解決手段ではないことが暗示され、作中における魔法も万能の解決手段というよりも人物の迷いや悩みと向き合い、彼らの背中を押す程度の描かれ方であることが多い。テレビアニメシリーズでも初期の挿話では、魔女見習いである主人公たちの技量不足もあって全く役に立っていない話、後期には魔法が無くても話が成り立つような話、末期には魔法を一切使用しない話まで作られた。また、他の魔法少女物とは異なる点として、所謂魔法少女としての姿が「変身」によるものではなく「お着替え」であることが挙げられる。これは幼い子供の目線で考えた結果、自分で着替えることが一人前への大前提であることから発案されたもの<ref>『AX BOOK おジャ魔女どれみ1』[[ソニー・マガジンズ]]、2000年、84頁 {{ISBN2|4-7897-1526-4}}。関プロデューサーインタビューより。</ref>で、作中ではそうした点を活かし、見習い服の下(普段着)のポケットから物を取り出したりするといった描写も見られた<ref>第3シリーズ第9話など。</ref>。 各シリーズとも基本的には一話完結のストーリーであるが、シリーズ全体で見ると1話ごとでストーリーにつながりを持っており、長期シリーズとなったこともあり、以前の話で出てきたキャラクターがその能力や性格を活かした形で後に再登場する、というケースも散見される。また、作中での四季も放送時期と合わせてある{{Efn2|番組改編期の都合上発生する、序盤や終盤での若干のずれを除けば、各シリーズとも学年単位で構成されていることから、春→夏→秋→冬の順で物語が進んでいる。OVAとして制作された第5シリーズも、やはりスカイパーフェクTV!での放送時期にあわせ、夏休みに始まりひな祭りで終わる形で作られている。}}など、物語内の時間経過の速度が現実と大体同じになるように作られていた。また、放送時期に現実で起こった出来事が、作中に反映されることもあった{{Efn2|主な例としては[[2000年]][[4月]]からの[[チャイルドシート]]使用義務化や、[[2002年]]4月からの[[学校週5日制]]導入など。}}。さらに、テレビアニメシリーズでは主人公陣の一人を通じて家族内の不仲と和解を描き、第3シリーズでは[[不登校]]([[長期欠席]])児童・生徒問題も取り上げたりと、それまでのアニメでは展開し辛かった社会的問題を取り上げる場面も語られている。こうした傾向は、小説として展開された第6シリーズにも引き継がれ、同シリーズでは現代の高校生にとって身近な内容である学校裏サイト問題が取り上げられている。以上を踏まえて、シリーズの時系列はテレビアニメシリーズをリアルタイム基軸としており、'''第5シリーズ以降の物語は作品発表時期が作内時間ではない'''。特に第6シリーズとなる『おジャ魔女どれみ16シリーズ』では、それに関連して[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]などの描写が存在<ref>第6シリーズ第4巻p200など</ref>する。 1話単位での構成・演出上の特徴としては、第1シリーズ第1話と第5シリーズ第12話を除く全話において、[[アバンタイトル]]が通常20秒{{Efn2|第1シリーズ第47話では40秒、第3シリーズ第9話から第17話は30秒、第5シリーズでは回によって15秒から40秒。}}流されている。内容は本編自体の抜粋からイメージ映像的なもの、あるいはミスリードを誘うような内容であることもままある他、アバンタイトルの内容が本編と全く関係ない時もある<ref>第2シリーズ第20話など</ref>。第1シリーズ第47話以外のアバンタイトルの全てにフレームが付く。また、CM前後の[[アイキャッチ]]が第2シリーズまでは12秒、第3シリーズ以降は10秒と比較的長い{{Efn2|一般的なアニメは5秒程度かそれ未満が多い。}}ことも特徴の一つである。全作を通じて、オープニングアニメーションの変更はマイナーチェンジのみであり、第4シリーズと第5シリーズ第12話を除きエンディングの変更はない。次回予告は、第2シリーズまではエンディングの前に、第3シリーズ第14話以降はエンディングの後に配されており、各シリーズごとに締めの決めゼリフが用意されている。コメディ路線の回ではどれみがオチを担当することが定番となっている。その回のタイトルと次回予告の決めゼリフの読み上げは、どれみ役の[[千葉千恵巳]]がシリーズを通して担当している{{Efn2|例外として、第4シリーズ第50話の次回予告の決めゼリフ、並びにテレビアニメシリーズの最終話でもある第51話のタイトルの読み上げは、おジャ魔女のメンバー5人を担当する声優陣全員で声をあてた。また、第5シリーズでは次回予告の決めゼリフを、おジャ魔女のメンバー5人それぞれが持ち回りで担当した。}}。提供テロップの背景は、第2シリーズまではBGMなしのブルーバックが用いられ、第3シリーズからはBGMつきの作品のイメージ静止画へと移行している。 タイトルロゴや主人公の名前にもあるように、音楽に関連する記号や用語が作中では頻繁に登場する{{Efn2|例えば、本シリーズの舞台となる美空市は「ミ」「ソ」「ラ」(「シ」)と音階順だったり、ドドをはじめどれみたちの妖精の名前もドレミ、ハニホの違いはあれ音階名である。魔女界で使われている文字は音符がペースになっていたり、魔女界の空には音符を模したオブジェクトが浮かんでいる。作中における人間界にも音符を模したオブジェクトが散見される。また、主人公級のキャラクターにはそれぞれ担当楽器があり、それぞれの楽器にまつわるエピソードを持っているキャラクターもいる。さらにはマジカルステージを発動させるときは[[指揮者]]のような動作をとっている。}}。 == 制作の経緯と中心スタッフ == 本シリーズの生みの親は、前番組『[[夢のクレヨン王国]]』(1997年 - 1999年)でプロデューサーを務めた[[関弘美]]、脚本家の[[山田隆司]]、シリーズディレクターだった[[佐藤順一]]の3人である。 前番組とは異なり原作も何もなかったので、関は魔法や魔女に関する書籍など、要となる資料を片っ端から集めた。特に関を共感させたのが、『[[夢のチョコレート工場]]』の作者[[ロアルド・ダール]]の『魔女がいっぱい』である。関はこの書籍のストーリーではなく、「たくさんの魔女が人間の世界に入り込んで生活している」と言うところに惹かれ、イメージとして企画した。これが採用され制作が開始された。シリーズディレクターには、企画段階から参加している佐藤が担当した。「おジャ魔女」という名称も佐藤のアイデアによるものである。シリーズディレクターに関しては佐藤の要望でもう一人加わった。それがテレビアニメシリーズでメインシリーズディレクターを務めることとなる[[五十嵐卓哉]]である。五十嵐は本シリーズの立ち上げ以前にも、『美少女戦士セーラームーン』(1992年 - 1997年)や『[[ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー]]』(1998年 - 1999年)で高い評価を受けていた。2004年に放送された第5シリーズでは、監修を本シリーズについて知り尽くしていた五十嵐にしようとしていたが、生みの親である佐藤が務めることになった。 次に[[シリーズ構成]](脚本)である。脚本はストーリーの基本となり、それに重ねて対象年齢が小学校低学年、高学年のため、いかに子供たちに分かってもらえるかが重要となる。そのため、関による小学三年生以下の男女児童のマーケティングがおこなわれ、『おジャ魔女どれみ』という作品のコンセプトが制作されていった。加えて、クラスメイトたちの設定やシリーズ中の各エピソードは、スタッフたち自身が小学生だった頃の思い出を元にした部分が多いという。また第3シリーズで扱った不登校児の問題などは、実際の小学校で意見を集めるなどした。 キャラクターデザインには、『[[ママレード・ボーイ]]』や『[[剣風伝奇ベルセルク]]』で好評の[[馬越嘉彦]]を起用した。最初のキャラクターデザイン段階では手足に関節や筋肉があったが、佐藤の「誰にでも描けるキャラクターにして欲しい」という要望で「棒みたい」になった<ref>『馬越嘉彦 東映アニメーションワークス』160頁</ref>。この他、[[美術]]は前作から継続でゆきゆきえと[[行信三]]が、[[色彩設計]]も同じく[[辻田邦夫]]が担当した。製作担当については、第3シリーズの中盤まで風間厚徳が務めており、風間の製作編成への異動に当たり、本シリーズで製作進行のキャリアを積んできた[[坂井和男]]が後任として起用された。第4シリーズ終盤では、当時スタジオジブリへの出向により、2年以上の空白期間があったアニメ監督・[[細田守]]が演出で参加、『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』などで有名な女優・[[原田知世]]の声優参加などが一部で話題となった<ref>『おジャ魔女どれみメモリアルアルバム』 [[宙出版]]、2005年、318頁 {{ISBN2|4-7767-9196-X}}</ref><ref>「[http://www.anime-bb.com/special_doremiselection/ 「おジャ魔女どれみ」セレクション] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080915204940/http://www.anime-bb.com/special_doremiselection/ |date=2008年9月15日 }}」東映アニメBBプレミアム</ref>。 本シリーズは音楽にも定評がある<ref>『おジャ魔女どれみメモリアルアルバム』 宙出版、2005年、257頁 {{ISBN2|4-7767-9196-X}}</ref><ref>『マスクプレイミュージカルおジャ魔女どれみパンフレット』 劇団飛行船、2003年、スタッフからのメッセージ</ref>。作中で使用された劇伴のすべて、それに挿入歌やキャラクターソングの一部は[[奥慶一]]の作曲によるもので、作中での挿入歌やお着替えシーン、マジカルステージの音楽も特徴的で、各シリーズの挿入歌集(BGMコレクション)の売上も好調だった。 出演声優は、『夢のクレヨン王国』にも出演していた声優陣の大半が本シリーズにも引き続き参加している他、本業が声優ではない役者を起用するという傾向も引き継いでおり、一例としては前出の[[原田知世]]や、舞台女優としての活躍も多い[[堂ノ脇恭子]]などが挙げられる。 スタッフ一同、第5シリーズ終了後「二度と『どれみ』に携わることはない」との気持ちであったが、本シリーズのスタッフが多数起用された『[[ハートキャッチプリキュア!]]』(2010年 - 2011年、[[プリキュアシリーズ]]第7作)が好評を博し、栗山緑名義で同作品の脚本を手がけていた山田のもとにも「どれみみたいな作品また作ってくださいよ」という声が寄せられるようになった。これを受けて、山田の筆により公式な続編『おジャ魔女どれみ16シリーズ』が刊行された<ref>『おジャ魔女どれみ16』第1巻表紙カバー折り返しコメント</ref>。 == 各シリーズの概要 == シリーズごとにテーマが設定されているが、それ以外にも全体を通してどれみたちやそのクラスメートの日常生活、恋の悩みや体の悩み、人間関係など、日常に潜む困難にも立ち向かう様子も描かれている。 === 『おジャ魔女どれみ』(第1シリーズ) === [[1999年]][[2月7日]]から[[2000年]][[1月30日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週日曜8:30 - 9:00([[日本標準時|JST]])に全51話が放送された。前述の通り、同系列における同時間帯での本シリーズの放送は、その後第4シリーズ終了まで踏襲された。作品のテーマとしては'''[[友情]]'''が掲げられている。 シリーズタイトルと区別する意味で、一部スタッフやファンの間からは『'''無印'''』と通称されているほか、2005年発行の『おジャ魔女どれみ メモリアルアルバム』では『'''第1シリーズ'''』と表記されている。次回予告の決めゼリフは「ハッピー! ラッキー! みんなにとーどけ!{{efn2|例外として、第3話予告までは「ハッピー! ラッキー! みんなにとどけ!」、最終回予告では「最後の魔法、みんなにとーどけ!」。}}」。[[オープニングアニメーション]]の変更は第25話から、[[アイキャッチ]]の変更は第27話から行われた。また、序盤には効果音の変更も複数回にわたって行われている。 ==== あらすじ(第1シリーズ) ==== ドジで妹の[[春風ぽっぷ]]からもバカにされる自称「世界一不幸な美少女」の小学3年生・[[春風どれみ]]。魔女に憧れ、好きな人に告白する勇気を魔法で手に入れたいと思っていた彼女は、ひょんなことから本物の魔女・マジョリカと出会う。この時マジョリカが魔女であることを、どれみが見破ってしまった{{Efn2|第5シリーズ第12話で、7人目の魔女見習いになるはずであった「和久のぞみ」がどれみよりも1年早く、小学校2年の時点でマジョリカが魔女だと気づいていたが、本人の前で魔女と見破らなかったため、どれみが見破るまで魔女のままだった。}}為に、マジョリカは魔女ガエルの呪いの力により魔女ガエルとなってしまう(猫に変身していたマジョリカのお付きの妖精ララは正体を隠す必要がなくなったため、元の妖精の姿に戻る)。 魔女ガエルに変えてしまったマジョリカを元の姿に戻すため、どれみは幼なじみの[[藤原はづき]]、転校生の[[妹尾あいこ]]、後にはどれみの妹[[春風ぽっぷ]]と共に魔女見習いとしての修行に励んでいく。 魔女見習いとしての修行を続けていた3人は、偶然にも人間界に潜む「バッドアイテム」というものを見つける。これは、かつて魔女界に封印されていた「バッドカード」がとりついたものであり、持ち主の願いと正反対の不幸をもたらす。3人は[[おジャ魔女どれみの登場人物#魔女界|魔女界の女王様]]からバッドカードの回収を依頼される。 中盤からは、別の魔女の下で魔女見習いをしている[[瀬川おんぷ]]が登場。最初は自己中心的な性格で、どれみたちとは異なり魔法はあくまでも自分自身のために使っていた彼女だったが、どれみたちとの触れ合いを通じて次第に変わっていく。 その後、どれみ・はづき・あいこ・おんぷは見習い試験などのすべての課題をクリアし、一度は晴れて魔女になるが{{Efn2|この時どれみはマジョリカを自身の魔法の力で元の姿に戻したが、魔女として未熟だったためほんの僅かな時間で魔女ガエルに戻ってしまう。}}、直後にクラスメイト全員{{Efn2|この時来ていたのは小竹、矢田、玉木、島倉、ななこ、信子、佐川、太田、杉山、まりな、木村、まさはるの12名。}}から魔女であることを見破られる{{Efn2|どれみとあいこが箒で飛んでいるところを最初に見た島倉の話から、クラスメートに伝言が伝わるうちに尾ひれがついてしまった。結果的に4人が'''MAHO'''堂に監禁されているという誤った情報が錯綜して、4人の家族とクラスメート全員が'''MAHO'''堂に押しかけて来たことが原因である<ref name=s1ep50/>。}}。おんぷがとっさに魔法でクラスメイトの記憶を消去したためにこと無きを得たが、禁断の魔法の反動を打ち消すブレスレットが完全に壊れ、効果を打ち消すことが出来ず、おんぷは24時間以内に助けないと百年の眠りにつく呪いにかかってしまう<ref name=s1ep51>第1シリーズ第51話</ref>。おんぷを救うことは禁忌に触れた罰にある者を救うことになり、魔女界の禁忌で同罪にもかかわらず、どれみたちは自分たちの魔女としての資格剥奪と引き替えにおんぷを目覚めさせる。 「魔法の力を借りなくても、自分たちの努力で願いをかなえることは出来る」ことを学んだ彼女たちは魔女から普通の人間の女の子に戻り、そして大親友となったのであった。一方で、元の姿に戻るすべを失ったマジョリカは'''MAHO'''堂を閉店することを決めた。 === 『おジャ魔女どれみ♯(しゃーぷっ)』(第2シリーズ) === 2000年[[2月6日]]から[[2001年]][[1月28日]]にかけて、全49話が放送された。また放送期間中の2000年[[7月8日]]には、劇場版1作品(テレビアニメと同じく30分の短編映画作品)も公開された。作品のテーマとしては'''[[愛情]]'''が位置づけられ、先々代の女王様など、後のシリーズの世界を広げる要素も同シリーズにて次々と登場した。また、同シリーズでは'''MAHO'''堂が花屋になったことから、作中でも[[花言葉]]が多数登場した。 次回予告の決めゼリフは「ドキドキ! ワクワク! クルクルまーわれ!」。[[オープニングアニメーション]]の変更は第24話から、[[アイキャッチ]]の変更は第3話と第8話のマイナーチェンジの後第29話から行われた。第1話のみ、[[次回予告]]BGMが「おジャ魔女はココにいる」のカラオケバージョンである。 2002年度[[東京アニメアワード]]優秀作品賞受賞。 ==== あらすじ(第2シリーズ) ==== 魔女は人間と違い[[バラ]]の木から生まれる。その中でも100年に一度、とてつもない魔力をもった魔女の赤ちゃんを産むという「ウィッチー・クイーン・ローズ」の開花が間近に迫っていた。 魔女見習いの資格を失い人間に戻ったどれみたちはいつも通りの日常を過ごしていたが、小学3年生の終業式の日の夜に、「魔女ガエルの村」に旅立つマジョリカとララを見送ろうとMAHO堂の跡地に行くが、彼女たちは置き手紙だけを残してどれみたちの妖精ドド・レレ・ミミ・ロロと一緒に旅立ってしまっていた。悲嘆にくれる彼女たちだったがマジョリカの忘れ物に気づき、それを届けに魔女界へ入る。途中、ウィッチー・クイーン・ローズから魔女の赤ちゃんが生まれるところに居合わせたことから、彼女達は1年間その赤ちゃんのママとなることを義務づけられてしまう{{Efn2|第1話で女王様による隠れた意図として、どれみたちに最初から赤ちゃんを育てさせようとしていたのではないか、と感じさせる描写が描かれていた。後に、第4シリーズ第50話で、第2シリーズ第1話の出来事が全て女王様が仕組んだことであり「どうしても人間にハナちゃんを育てさせ、人間の持つ優しい深い愛情を持つ魔女になってもらいたかったから」と女王様自ら理由を説明した。}}。 小学4年生に進級したどれみたちは、新たに仲間に加わった瀬川おんぷとともに再び魔女見習いに戻って、その魔女の赤ちゃん・[[ハナちゃん (おジャ魔女どれみ)|'''ハナちゃん''']]を1年間育てることになる。無事に育てることができたなら、以前に没収した水晶玉を返すことを女王様は約束した。どれみたちは出来る限り魔法を使わず{{Efn2|第2話。ミルクの温度や哺乳瓶の消毒などに加え、様子を見に来たどれみの母・はるかが手際よくハナちゃんのお世話をする様子を目の当たりにして、魔法では赤ちゃんを育てるのに最適な状態とは言えなかったことを身を持って感じたから。}}に、自分たちの力でハナちゃんを育てようと決心するが、慣れない子育てに戸惑うばかり。落第すれば親権を剥奪されてしまうという魔女界の[[医者]]マジョハートによる検診を乗り越え、そしてそれぞれが家族との過去の諍いや衝突の中で自分達も両親や周りの人々に愛されながら育っていることを学びながら次第に一人前の母親として、1人の人間としても成長していく。 中盤からはハナちゃんを誘拐して魔女界から[[領土]]を取り返そうとする魔法使いたちが登場する。ハナちゃんを守るために新たな力を授かったどれみたちは、ハナちゃんを無事1年間育て上げるとともに魔法使い界と魔女界の[[戦争]]も回避させ、再び魔女になれることとなった。 ハナちゃんの魔力、そして、どれみたちとハナちゃんによって人間界と魔女界が再びつながりを持つことを恐れる先々代の女王様(の幻影)はそのことを不快に感じ、「このままでは、自身がかけた魔女ガエルの呪いを打ち破ってしまうため、ハナちゃんを生かしておけない」と、高熱で命を落とす呪いをかけてしまった。その呪いからハナちゃんを救うため、どれみたち4人は呪いの森に入り、魔女としての力を使い切って千年の眠りにつくのと引き換えにハナちゃんの命を助ける。どれみたちの優しさと犠牲を厭わない精神に心を乱された先々代の女王様(の幻影)は姿を消す(消滅はしていない)。そして、ママたちを慕うハナちゃんの必死の叫びが呪いを打ち破り、どれみたちは目覚める。 しかし、ハナちゃんを救うため呪いの森で先々代の女王様(の幻影)の呪いを打ち破る行動により、おジャ魔女達は各自所有していた水晶玉を失ってしまった。水晶玉を失うことは、魔女の資格を完全に失うだけでなく、魔女見習いにもなれない{{Efn2|魔女は一生に持てる水晶玉は1つだけと決められている。}}ことであることを女王様とマジョリンから伝えられ、おジャ魔女たちは驚愕し落胆する。だがどれみは、「それと引き換えにハナちゃんの命が救われたからそれで良い」と納得する。魔女(魔女見習い)の資格を失った元おジャ魔女達は、魔女界の規定により、1年間育て上げたハナちゃんと別れの時を迎え、悲しみの涙の中、マジョリカ・ララと共に人間界へ戻った{{Efn2|この時点では、おジャ魔女達が再び魔女界に来ることは不可能だった。}}。人間界に戻った後のMAHO堂にある温室のライフウッドのベッドには、おジャ魔女達とハナちゃんの記念写真が飾られた。 === 『も〜っと! おジャ魔女どれみ』(第3シリーズ) === 2001年[[2月4日]]から[[2002年]][[1月27日]]にかけて、全50話が放送された。さらに放送期間中の2001年[[7月14日]]には、劇場版1作品も公開された。作品のテーマは'''[[成長]]'''で、同シリーズからキャラクターデザインが一新され、併せて基本衣装も変更された{{Efn2|2010年代以降に再版されたグッズ(2017年に[[サンキューマート]]で発売されたものなど)やDVD・Blu-rayソフトのパッケージなどのイラストでは、第3シリーズ以前の服装(私服・魔女見習い服とも)でありながら、キャラクターデザインとしては第3シリーズ以降のそれで描かれているものもある。また、20周年関連企画ではももこも含めた5人組でありながら、第1シリーズの見習い服と小道具で描かれたイラストが使われている。}}。 次回予告の決めゼリフは「ケーキにクッキー! 魔法のレシピ、教えてあーげる!」である。前述の通り、同シリーズより次回予告の前にエンディングが流れるという構成へと変更され、そのエンディングにも[[歌詞]][[テロップ]]が追加された{{Efn2|再放送版、配信版は本放送時と同様のフォーマットであるが、DVD版などでは前シリーズまでと同様に次回予告が先になっており、第4シリーズにも踏襲されている。}}。[[オープニングアニメーション]]・[[アイキャッチ]]はともに第31話にて変更。またオープニングに登場するハナちゃんの髪型は、本編での髪型変更(第7話)に先駆けて初回の時点でツインテール(左右に水晶玉2つずつ)とされている。[[エンディングアニメーション]]は同シリーズより10秒短縮された。 同シリーズで'''MAHO'''堂がお菓子屋になったことから、作中でもお菓子の[[レシピ]]が多数登場したほか、どれみたちも2種類のコスチュームにお着替えするようになった。1つは従来のスタイルを継承した魔女見習い服。もう1つはお菓子を作る時に使われる[[パティシエ]]服で、[[コックコート]]{{Efn2|洋菓子を作る人が着る制服の一種。パティシエ服独特の襟のマフラーなどにその意匠が見て取れる。}}がモチーフとなっている。他方で、同シリーズからはおジャ魔女たちのお着替えのシーンが前シリーズまでよりも少なくなる。お菓子はもとより、パティシエ服が好評{{Efn2|第6シリーズ第2巻、はづき役(秋谷智子)インタビューで、シリーズの中で第3シリーズが一番好きであると言及している。}}だったこともあり、第6シリーズ終了後の2017年と2018年には第3シリーズを基にした、「おジャ魔女CAFE」が期間限定で2度開催された。ももこの加入に伴い、同シリーズ以降では作中でも[[英語]]のセリフがいくつか登場している。字幕や日本語訳は一切付けられていないものの、セリフの意味については一部除けば前後の文脈から判断することができる。 放送期間中には、交通安全をテーマにした非売品のビデオソフト「おジャ魔女どれみの交通安全」(脚本 - [[大和屋暁]]、演出 - 岩井隆央、作画監督 - 青山充)、「おジャ魔女どれみの自転車安全教室」(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - [[なかじまちゅうじ]])の2本をリリース。2本とも、はづきとあいこ、マジョリカとララが登場しない。 ==== あらすじ(第3シリーズ) ==== [[ハナちゃん (おジャ魔女どれみ)|ハナちゃん]]を救うために、魔女の証である水晶玉を割ってしまい、再び普通の人間に戻ったどれみたち。魔女の子供は満1歳になると育ての親と離して魔女幼稚園に預けさせるという魔女界の掟{{Efn2|マジョリカの説明によれば、魔女界では昔から、誕生から1年経過後、育ての親は子どもが成人するまでは一切会ってはならないこととされている。理由は、人間のように怒りや悲しみ(いわゆる喜怒哀楽)に流されて魔法を使わないようにするため。}}により、ハナちゃんとも離ればなれになってしまった。 小学5年生となったどれみたちは女王の計らい{{Efn2|通常は二度と魔女や魔女見習いにすることは魔女界の規則で出来ないが、次期女王候補のハナを1年間育て上げた実績を考慮し、魔女に戻したいと提案するも、賛成反対同数となり、(同数の場合は女王様に一任する規則があり)新たに魔女見習いに戻すことを提案し、反対派も「見習い」であれば賛成であったため、魔女見習いへ戻すことが決まった。}}によって再び魔女見習いになり、帰国子女の新しい仲間「[[飛鳥ももこ]]」を加えて、どれみたちを魔女にすることに反対している魔女界の[[元老]]たち{{Efn2|物語の中では、元老院魔女と呼ばれており、定員は12名。}}に魔女になることを認めてもらう{{Efn2|第2シリーズでハナの育児テストを担当したマジョハートから、反対派の元老院にテストをしてもらうことを提案し、それが認められたため、お菓子作りのテストを反対派の6人が試験官となり行うこととなった(マジョハートは第2シリーズでおジャ魔女達の奮闘ぶりを1年間見ており、賛成の立場を取っていた)。}}ために、今度はお菓子作りにチャレンジする{{Efn2|MAHO堂がお菓子店に変わったのは、先々代の女王様の呪いを解くという意図があったこと、そのためにももこがアメリカから帰国してMAHO堂の仲間に加えたことが第4シリーズ第50話で女王様から明らかにされた。}}。またクラス替え{{Efn2|美空第一小学校では、2年に1度(奇数年)クラス替えがされる。そのため、5年と6年は同じ担任・クラスメイトとなる。おジャ魔女達では、どれみだけが1組になり、はづき・あいこ・おんぷは2組になる(5年の1学期始業式で、ももこが1組に転入する)。なお、美空第一小学校は各学年2クラスとなっている。}}によって新たなクラスメイトや先生{{Efn2|はづき・あいこ・おんぷが在籍する2組の担任には、新任教諭として赴任してきた、西沢ゆうか(第6シリーズでは西澤優香)先生になった。}}が多数登場し、彼らの抱える幾多の悩みを共に乗り越えていく。 当初は日本語やアメリカとの考え方の違いから衝突を起こしがちだったももこも、どれみ達の協力やはじめは嫉妬し邪険にしていたある玉木を含むクラスメイトの協力もあって打ち解けていく。 また、彼女たちの奮闘もあり、魔女界の規則(慣例)が見直されていく。 一方、魔女幼稚園に入園したハナちゃんは園内で他の園児同様、寄宿生活を送っていたが、どれみたちが1回目のパティシエ試験に合格後、マジョミラーの独り言を聞いて、魔女幼稚園の裏門からどれみ達が幼稚園の様子をこっそり覗き見る。その最中、でんぐり返しに失敗するハナちゃんを見て、どれみはついハナちゃんを応援すべく声を出してしまい、そのことでハナちゃんにかえって寂しい思いをさせてしまう{{Efn2|声を出してしまったどれみを周りの3人が押さえつけ、ママ達がいると気づき追いかけてくるハナちゃんから逃げるようにこの日は魔女界から去って行った。彼女達も思いはハナちゃんと同じく相当辛いようで、いつでも会える日がくればいいのにと願っていた。}}。その後、オヤジーデがハナちゃんを幼稚園から人間界に連れ出し{{Efn2|それに便乗して、おんぷの映画を見に行くことを画策していた。}}、そのことで、ハナちゃんが幼稚園から行方不明になったと魔女界で騒動になってしまい、どれみたちも急きょ魔女界へ向かい大捜索の末{{Efn2|園児たち(テキ・テキパキ・アタリメ子)が紙ふぶきをつくって遊んでいるのを偶然みかけたおジャ魔女たちが、紙片を見て見覚えのある絵だったので、つなぎあわせたところ、おんぷファンクラブ会報だったことが判明。魔法を使える世界にいるおんぷファンクラブといえば、オヤジーデしか当てはまらず、マジョポンに確認したところ魔女幼稚園でバイトしていることが判明したため、ハナちゃんを連れて人間界に行ったと分かり、どれみたちは人間界へ急行した。}}、人間界の美空町にあるMAHO堂にいるのを見つけ出した。そこで、ハナちゃんはママと禁断の再会を果たす。その後、昼間MAHO堂での経緯とその前の出来事を思い出したどれみは、でんぐり返しに支障がないよう髪型をツインテールに変える{{Efn2|このツインテールの髪型が、後のハナの髪型の基本形となる。}}。その後、マジョミラー園長にハナちゃんを人間界で無事見つけたことを報告し、幼稚園に返しションボリしながら帰ろうとしたところ、ハナはママ達を呼び止め、目の前で「でんぐり返し」にチャレンジし、成功させる。この光景を見たマジョミラーは、「人間界のママ達と会わせるのは魔女として育てるのに良くないというのは考え違いで、人間と過ごすことでハナが学ぶことがある」と、これまでの慣習を見直し、ハナとの定期的な面会を認めることにした{{Efn2|ただし、幼稚園側からの日時指定の条件つき。この時点で他の園児は育ての親との面会は認められていない。}}。 シリーズ中盤でハナちゃんは、ママであるどれみ{{Efn2|最初に誕生の際取り上げて「ママ」になったのがどれみであり、また呼び出した同時期、他の園児たちのにママはそれぞれ1人だったことが理由。}}を魔法で人間界から魔女界へ呼び出したことが原因{{Efn2|笑う月が出ていないにも関わらず、人間を魔女界に連れ出すのは魔力が強力であるという証拠である。また、この時、他の子ども達の育ての母も魔法で呼び出してしまい、これを機に、魔女界の慣例が全面的に見直され、他の園児達も育ての母と「いつでも」面会できるようになった。}}で、再び現れた呪いの森にいる先々代の女王様(の幻影)により、魔力の源である[[野菜]]を嫌いになる呪いをかけられてしまう{{Efn2|野菜を食べられずにいると次第に魔力が落ち、魔法が使えなくなってしまう。魔法を使う魔女にとって、命の次に致命傷ともいえる恐ろしい呪いである。また、第2シリーズでは先々代女王の幻影は直接命を狙ったが、今回は魔力を落とし、最終的に魔力をなくす(使えなくする)という新たな行為に出た。}}。再びハナちゃんを引き取ったどれみたちは、人間界で野菜嫌いを治して魔力を取り戻させるために試行錯誤する{{Efn2|野菜が食べられない時期は、ハナちゃんの魔力が落ちていたので、魔法が使えないか、魔法が使えても本来の強力な力は出せず中途半端な状態になってしまった(ライオンを出したつもりが、「ライオンの姿をしたネコ」だったり、暴走した自転車のブレーキが効かないなど)。また、健康にも悪影響が出てお通じが悪くなったせいや、野菜の栄養を摂取できないことでの不調もみられた。}}。 どれみたちは工夫を凝らして最終的にハナちゃんの野菜嫌いの呪いを完治させることに成功した。そして、人間界での哀しい思い出から負の感情を暴走させていた先々代の女王様をも助けようとしたが、結果として呪いの森は(同時に先々代の女王の幻影も)消滅したものの、彼女を完全に救うことはできなかった。しかし、呪いの森が消滅したことで呪いの森の周辺の環境が元に戻り、先々代女王の深い眠りについている真の姿が初めて出現した。パティシエ試験を全てクリアするだけでなく、ハナちゃんの野菜嫌いを克服させたこと、幻のレシピを完全再現させ、呪いの森と先々代の女王様の幻影を消滅させることができた功績により、全ての元老院魔女に認められ、全員一致で魔女に戻すことが認められた。女王様をはじめ、どれみたちはいつか先々代の女王様を救うことを誓う。そしてハナちゃんは、野菜嫌いの呪いが克服されたため人間界から再び魔女界へ戻り、どれみたちと離れて生活することになる{{Efn2|第2シリーズと違い、第3シリーズ終了時点で「魔女」ではないものの、「魔女見習い」の身分があるので、離れて生活しても定期的な面会は可能。}}。 === 『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』(第4シリーズ) === 2002年[[2月3日]]から[[2003年]][[1月26日]]にかけて、全51話が放送された。地上波でのテレビアニメシリーズとしての最終作であり、当初はシリーズそのものの完結編として位置づけられていた。作品のテーマは'''[[卒業]]'''。次回予告の決めゼリフは「ピュアピュアドリームでっかくそーだて!」。前シリーズまでは「マジカルステージ」と唱える所からBGMが変わっていたが、同シリーズではマジカルステージを唱え始めからBGMが変わるようになる(代わりにポロンの音が出ない)などのマイナーチェンジも行われた。また、どれみとハナちゃん以外のおジャ魔女は、お着替えのシーンだけではなく個人でポロンを使うシーンも数えるほどしかない。 第40話から[[アサツー ディ・ケイ]]のクレジットが''ASATSU-DK''から''ADK''に変更され、[[オープニングアニメーション]]の変更は第2話{{Efn2|第1話では、OP中のハナちゃんのお着替え&呪文が最初から最後までの全てを早送りで流されたが、第2話からは一部が省略されて早送りが無くなった。}}と第32話にて実施。アイキャッチの変更は第31話からで、変更前のアイキャッチは5種類が用意された。同シリーズのみエンディングの変更があり、第14話から第30話まで別のエンディングが流されていた。 ==== あらすじ(第4シリーズ) ==== [[ハナちゃん (おジャ魔女どれみ)|ハナちゃん]]は再び、ママと離れて魔女幼稚園で生活するようになった。だが、1歳半からの約半年間、人間界でママたちと再び一緒に暮らしていたことから、他の魔女幼稚園児よりもママへの思いは強く、幼稚園内でも寂しさのあまり泣いてばかり。その様子を見た女王様は、ハナちゃんを連れて先々代女王が眠るライフウッドの根元へ向かう。先々代女王を覆うように取り囲む6つの茨の横には、半分埋まったままのウェンディング・チェストがあった。それを偶然見かけたハナちゃんは女王様の制止を振り切り、そのチェストに触れてしまう。ハナちゃんの強力な魔法により、ウェディングチェストの封印が解かれ、中に封印されていた先々代女王の妖精ババが約1000年ぶりに目覚め、姿を現す。 その頃、スイートハウスMAHO堂に集まったどれみたちは魔女界から連絡があったか気になって学校に行く前に集まるも、何の連絡もなかったため落胆する{{Efn2|第3シリーズ最終話で、元老院魔女全員一致で魔女にすることが認められていたため。}}。同じ頃、魔女幼稚園に戻ったハナちゃんは、オヤジーデやマジョポン・マジョピー達先生方をはじめ、園児たちのありとあらゆる手段を使ってもハナちゃんの機嫌を取ることは難しい状況に陥っていた。さらに「(ママ達と一緒に)学校へ通いたい」というワガママ同然の暴走を起こし、自ら持つすべての魔力を使って急成長し、かつ、美空町のMAHO堂までも変えてしまった{{Efn2|この時変えてしまったMAHO堂は(魔女の子どもを育てるのに最適と言われる)ライフウッドが随所にみられる建物に変わってしまった。一方、この時のMAHO堂は何の前触れもなく突然光に包まれ一瞬で変わってしまったため、おジャ魔女達やマジョリカ・ララはどういうことか全く分からず困惑した。}}。その行為によりハナちゃんの魔法の力が水晶玉の限界を超えてしまい、4つあった水晶玉を全て割ってしまった。この事態によりハナちゃんは魔女の資格を失ってしまうだけでなく、無断でママ達が暮らす「人間界」へ向かった。6年生になったどれみたちは、最初は金色の髪をした少女が誰なのか分からなかった{{Efn2|しかも、クラスメイトがいる前でどれみに向かって「ママ」といって抱きつくほど。}}が、その少女が自ら「ハナちゃん」であることを告げ、急成長した姿に驚く。さらに水晶玉を割ってまで人間界にきてしまったことに衝撃をうけてしまう。その時、MAHO堂に来た女王様の計らいにより、魔女の資格を失ったハナちゃんが再び魔女に戻れるよう魔女見習いとして修行をすることになる{{Efn2|魔女は一生に持てる水晶玉は1つと決まっており、水晶を失うことは魔女の資格を失うことを意味するが、他人の魔女の水晶を砕き、新たな水晶玉を得ることは可能なため、女王様は自身のもつ水晶を砕き、ハナやどれみたちの6人分の水晶玉を新たに作った。このことで、「魔女として生まれてきたハナが魔女から魔女見習いを経て魔女に戻る」という、「魔女界史上初」の経歴を持つことになる。}}。どれみたちは既に魔女の資格を得ているため、ハナちゃんの見習い試験1級合格のサポートをするよう命じられる{{Efn2|よって、前シリーズまでのような魔女になるための試験を受ける必要はなくなった。第4シリーズでのおジャ魔女達の使命はハナちゃんの試験以外では、先々代の女王様の眠っている場所にある6本の悲しみの茨を取り除く、ということになった。}}。そして魔女界の女王様は、晴れてハナちゃんが魔女になったときには、どれみたちを魔女にすることを約束した(なお、ぽっぷは魔女見習い中であったため、このとき対象に含まれなかった。当初の規定どおり、1級の見習い試験に合格したら魔女になるということになっていた)。小学校最後の1年間は、人間界の常識など全く気にしないハナちゃんを加え、これまでにないドタバタ劇が繰り広げられるが、どれみたちが作中の問題解決のために魔法を使うことは次第に少なくなっていく。 一方、先々代の女王様は自らが人間界で味わった辛い思い出から生まれた「悲しみの茨(読み:いばら)」に捕らわれたまま眠り続けていた。どれみたちは、先々代の女王様の悲しみを癒す方法を見つけるために試行錯誤を繰り返すが、茨は次第に成長し、深い悲しみが魔女界や人間界を覆い、皆の気力を奪い始めてしまう。そうした幾多の苦難に加え、小学校卒業を前にそれぞれの複雑な家庭事情や将来のことについても悩み、自分なりの答えを見つけ出していく。 苦闘の末、どれみたちは悲しみの茨を消し、先々代の女王様を目覚めさせ、魔女ガエルの呪いも解かれた{{Efn2|ただし、マジョリカのみババの計らいで、当初の予定通りどれみの魔法で戻ることとなった。}}。無事課題を解決したどれみたちは、改めて魔女となるかどうするかの選択を迫られる。しかし、1か月の考慮期間を経て「'''魔女にならない'''」ことを決意する{{Efn2|決断までの1か月間悩みに悩んだが、決断を大きく左右したのが、第40話でのどれみと(魔女をやめた魔女の)未来との出会いであった(テレビシリーズでは一切明かされなかったが、第6シリーズで魔女界の現・女王様の実の妹であったことが判明する)。}}。ハナちゃんは次期女王の最有力候補として魔女界で研鑽につとめ、ともに魔女界と人間界が再び交流できるようになる日を目指すことになった。また、これに伴いマジョリカもハナちゃんの後見人に指名されたため、'''MAHO'''堂第1シリーズの建物に戻した上で店じまいし、ララや妖精{{Efn2|魔女見習いの妖精は、魔女界の掟により魔女見習いが魔女にならない(なれなかった)場合、専用箱に戻され、次の魔女見習いが現れるまで封印されることになっていたが、次期女王に推薦されたハナのお付き妖精として全員引き取ることになった(でなければ、女王にならないとマジョリンに脅しを入れ、女王様もしぶしぶ受け入れざるを得なかった)。}}たちそしてハナちゃんとともに魔女界へと帰っていった。 === 『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(第5シリーズ) === [[2004年]][[6月26日]]から2004年[[12月11日]]まで、スカイパーフェクTVの有料チャンネル・[[パーフェクト・チョイス]]([[ペイ・パー・ビュー|PPV]])で全13話が隔週で有料放送された。またCS放送終了後、地上波では[[2005年]]より[[朝日放送テレビ|朝日放送]]をはじめ一部のテレビ朝日系列局や、[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]でも放送された。これは、おジャ魔女どれみシリーズ初の地上波デジタル放送でもあり{{Efn2| 当時は東名阪エリアのみで放送開始したため、実際に地上デジタル放送で『ナ・イ・ショ』が放送されたのは名古屋テレビ放送(現・メ~テレ)・ABCテレビ・tvkの3局のみ。なお、tvkの地デジは2004年12月1日に開始された。}}、このような放送形式や各話のフォーマットから、テレビアニメシリーズの1つとして扱われる場合もあるが、元々はテレビ放送を前提としないOVAとして企画・制作されたものであり、スカイパーフェクTVでの放送は先行放送という位置づけとなっている。 前述の通り、第3シリーズと時代設定を同じくする外伝的なシリーズとして制作されており、見習い服やキャラクターの設定についても第3シリーズのそれに準じたものとなっている。同シリーズでは'''ささやかな[[秘密]]'''をテーマに、どれみたちやクラスメートの小学5年生の時の、誰にも話せない秘密の話や意外な話、ほろ苦かったり切なかったりする'''ナイショ'''の話が、[[オムニバス]]形式で描かれている。このため、前シリーズまでとは異なり魔女界に関する話が中心にならないのも特徴である{{Efn2|野菜嫌いの呪いがかけられた描写が一切ないことや、人間界に再び来た時期が一部合わないなど、前シリーズまでの設定も一部変更されたものもある。}}。 次回予告の決めゼリフは「ノートの端っこつまんで破いて秘密のお手紙回しちゃお!」{{Efn2|MAHO堂のメンバーが週代わりで担当。はづきは「〜回してね」、あいこは「〜回してな」になっている。}}。 === 『おジャ魔女どれみ16シリーズ』(第6シリーズ) === 2011年12月2日{{Efn2|「講談社ラノベ文庫」レーベルの創刊日でもあり、同シリーズは同レーベルにおける[[キラータイトル]]としても設定されている。}}から2015年12月2日まで、および2019年10月2日<ref>[https://www.doremi-anniv.com/news/goods/2019100201/ ライトノベル「おジャ魔女どれみ」シリーズ最新刊「おジャ魔女どれみ20’s」が本日発売開始!!],おジャ魔女どれみ 20周年公式サイト,2019年10月2日</ref><ref>[https://gigazine.net/news/20190323-ojamajo-aj2019/ 「おジャ魔女どれみ」20周年で映画「魔女見習いをさがして」やフラッシュ短編アニメ「おジャ魔女どれみ お笑い劇場」など発表],GIGAZINE,2019年3月23日</ref>に[[講談社ラノベ文庫]]から通算10巻が刊行された。執筆者は栗山緑(第1 - 9巻)、影山由美 (20's)が、挿絵イラストは馬越嘉彦がそれぞれ担当。 第4シリーズ終了から3年後、高校生となったどれみたちを描いた小説作品で、前シリーズまでのようなテレビアニメシリーズではないが、執筆者・挿絵担当のみならず、CDドラマのプロデューサーを関弘美が務め、また原作者の名義も東堂いづみとして発表されているなど、テレビアニメシリーズの中核スタッフが同シリーズの制作に携わっており、アニメ作品ではないながらも正式な続編、第6シリーズとして位置づけられている。 タイトルの数字は作中でのどれみの年齢を示しており、作中でのどれみの誕生日(7月30日)に合わせて度々変更されている{{Efn2|通算4巻目からは『おジャ魔女どれみ17』、7巻目からは『おジャ魔女どれみ18』、9巻目では『おジャ魔女どれみ19』としてそれぞれ刊行。}}。また、後述の通り一部の巻では初版特典として、CDドラマを付録とした『ドラマCD付き限定版』も刊行されている。10巻目『おジャ魔女どれみ20's』は20代になったどれみ達を描いており、9巻目『おジャ魔女どれみ19』の番外編{{Efn2|『19』の本編各章とエピローグの間の時系列に位置する。}}に相当する。したがって、2022年現在、『19』のエピローグが本シリーズの最終的な結末に該当する。 前シリーズまでと異なり、どれみたちに対しての「テーマ」や「課題」などは設定・明言されておらず、物語上の問題解決に至る作内時間のスパンも長く設定されている。作品の舞台や内容も、より「現実の過酷さ」に近付いた形となっている。 * 刊行一覧は[[#ライトノベル刊行一覧|該当節]]を参照 * 限定版付属のCDドラマについては[[#第6シリーズのCDドラマ|該当節]]を参照 ==== あらすじ(第6シリーズ) ==== 魔女にならず人間として生き続けることを選んだどれみ達は、それぞれが別々の中学に進み、無事中学を卒業して16歳の高校生になっていた。小学校の同窓会{{Efn2|小学校の同窓会なので、元6年1組ではハナちゃんも出席すべきところだが、ハナちゃんは魔女界に戻ってしまっているので、連絡の手段がないことから欠席。欠席の理由は、小学校卒業後、両親の仕事の都合で外国に行ったということで誤魔化した。ももこは、アメリカに夏までいるため欠席した。}}であいこ、はづきと再会したどれみ。あいこは新学期{{Efn2|急遽決まったことらしくはづきは知っていたが、どれみには話が伝わっていなかった<ref>第6シリーズ第1巻p40-42</ref>。}}から、ももこは2学期から{{Efn2|アメリカの学校は秋(9月頃)に新学期が始まり、夏(6 - 7月頃)に終わるため。}}、美空町に戻って来るという。かつてのメンバーの再集結に喜ぶどれみたちだったが、そこにおんぷの姿はなかった。中学期、成長によってチャイドルとしての仕事を失ったおんぷは、どれみたちとも連絡を絶ち、いずこかへと雲隠れしてしまった。 同窓会終了後、自分たちのこれからを話し合う中で「もし魔法がつかえたら、おんぷちゃんの行方も捜せるのに…」と昔を懐かしむ、どれみたち。しかし「魔法を捨てた決断をしたのは自分たちだ」、と改めて確認し合う。そんな矢先、第1シリーズ(どれみシリーズ原点)の「'''マキハタヤマリカのMAHO堂'''」が突如あらわれ{{Efn2|第4シリーズ終了後、程なく美空町のMAHO堂の建物も解体され更地になったことで、小学校時代の友人たちからMAHO堂のことやハナちゃんのことを聞かれることも少なくなった(小学校卒業後のハナちゃんについては、親の仕事の都合で外国に行った、ということにした)。}}、そこには魔女界に戻ったはずのマジョリカとララがいた。マジョリカはハナちゃんによって後見人を解任されたのだという。肝心のハナちゃんは反抗期に入り、自分たちの言うことなど聞きもしない。それどころか忠言を続ける自分を疎み、代わりの後見人にマジョルカを指名して自分をクビにしたのだ、と。 マジョリカから聞いたハナちゃんの変容に驚きを隠せない、どれみたち3人{{Efn2|どれみ・はづき・あいこの無印メンバーである。}}だが、魔法を捨てて人間として生きる決断をした自分たちには、もはや口を出せる問題でもない。取り敢えずは後見人を解任されてヒマになったから再び'''MAHO'''堂を始めるというマジョリカの誘いを受けて、どれみたち{{Efn2|しかしどれみは、元クラスメイトの飯田かなえの両親が経営しているステーキハウスで、アルバイトをする予定だった(第6シリーズ第1巻p65 - 67)。ここでも、念願のステーキに関われると思いきや、離れざるを得ない、どれみらしい展開となる。}}は再び'''MAHO'''堂で働くことにした。 最初は、もはや魔法は捨てたのだからと'''MAHO'''堂で働きはしても、魔法そのものには手を出さなかったどれみたちだったが、[[女性週刊誌]]がおんぷのプライベートを探り出したことから状況が一変した。おんぷ本人の声明が無いことをいいことにあることないことを書きたて、しまいにはおんぷ本人への人格攻撃までやらかす週刊誌にどれみたちは激昂。このままではおんぷの人生そのものにも影響をもたらしかねない。それを救えるのは友人である自分たちしかいない。そう決意したどれみたちは、おんぷを探し出すことを決意する。 しかし、どれみたちに立ちふさがる現実の壁は、あまりにも高すぎた。なんとか、おんぷが北海道にいるらしいことまではつかめたが、それ以上のことは何もわからない。どれみたちが手をこまねいている間にも女性週刊誌の悪意ある記事は人々を煽り、そして無責任な大衆はおんぷへの攻撃すらも辞さなくなるかもしれない。その焦燥にかられたどれみたちは「笑う月の晩」に「他人(ひと)を守るため、他人(ひと)を救うために、魔女(見習い)に戻ろう」と決断をする。 魔女ガエルの呪いが3年前に解消され、主だったペナルティや制約がないことから、自らに課した制約は「自分のために魔法を使わない」こと。それを破れば永遠に魔法を失う。それを魔女界の女王様に願ってどれみたちは魔女見習いに戻り{{Efn2|女王様は、どれみたちが魔女界にとっての「大恩人」であることから、魔女「見習い」に戻すことは賛成であった。また、ペナルティをつけるつもりはなかったが、どれみたちの「魔法に対する制御の思い」を理解して、ペナルティを設定した。}}、魔法でおんぷを探し出してことなきを得た。後にことの顛末を聞いたももこがどれみたち{{Efn2|この時点では『どれみ・はづき・あいこ』の3人である。}}と同じ条件で魔女見習いに復帰する(ももこが魔女見習いに戻った翌日、MAHO堂は第3シリーズのMAHO堂に改装される)。そして、どれみたちとの絆によって立ち直り女優として再起を始めたおんぷは仕事で赴いたパリにて、ハナちゃんが人間界にたびたび出没していることを知る。小学生時代と異なりインターネットによる情報が急速に発達している現代、混乱は避けられない状況であり(動画も撮られていて、世界中で閲覧されていた)、すでにパリに出没している「謎の人物」の噂は世界中を駆け巡りつつあった。どれみたちは慌てると共に、「どれだけ世界を隔てようと、あたし達はハナちゃんの『母親』だ」と再確認する。 その決意を胸に、おんぷも魔女見習いに戻り{{Efn2|おんぷが魔女見習いに戻ったのは、「ハナちゃんを守る」ためで、どれみたちと同じ条件(ペナルティ)が課されている描写はないが、おんぷが自身のために魔法を使った際、おんぷだけ魔女見習いの資格を失い、どれみたちが連帯で魔法を失うことはなかった。}}、ハナちゃんと邂逅を果たす。そしてハナちゃんの口から飛び出たのは、今まで魔女界が、その世界の安定のために隠し続けてきた、とんでもない事実{{Efn2|ウィッチー・クイーン・ローズから生まれる、女王候補になる魔女には必ず「妹」が存在するという、ハナ自身も衝撃的なことであった。}}だった。その事実を追うためにハナちゃんは今まで反抗期を装ってきたのだという。どれみたちは母親としてハナちゃんの言葉を信じ、そしてハナちゃんとともに、魔女界が隠し続けてきた、その真実を追うことになる。そのために、ハナちゃんは4度目{{Efn2|1度目は誕生から1年間の育ての母による育児必須期間、2度目は1歳半の時に「野菜嫌いの呪い」をかけられ、その呪いを解く期間(半年)、3度目は、2歳になって間もなく、自身のワガママを暴走させた挙句水晶玉を割ってまで小学校6年生の姿になって、どれみたちと小学校に通った1年間である。}}となる人間界で留学することになる。 これらの出来事の合間にも、彼女らの周囲には時に大きく、時に大小の「事件」が次々と巻き起こる。16歳から始まる「高校生」という多感な年頃に端を発する、どれみたちゆえの悩みや迷い。同様に苦しみや不安を抱える友人たち。そんな彼らの力になり、時には逆に支えられ、おジャ魔女たちは自らの人生の進路に向けて、さらに大きな成長を果たしていく。 == 舞台 == === 美空市 / 美空町 === {{独自研究|section=1|date=2008年12月}} '''美空市'''('''みそらし''')及び'''美空町'''('''みそらちょう''')は作品の主な舞台となる架空の地域。 作中には関東地方及び神奈川県を舞台とするような描写が描かれている(第5シリーズ第1話にて小竹達が鎌倉方面から藤沢方面に自転車で向かっているシーンや、小田急小田原線、箱根登山鉄道の発着駅でもある箱根湯本駅が写っているシーン等がある)。 地形は起伏に富み、どれみたちの通う美空市立美空第一小学校{{Efn2|第2シリーズ第38話、第4シリーズ第10話・第22話・第43話、第5シリーズ第9話・第12話より。設定上は美空第一小学校が正式名称ではあるが、劇中には美空市立第一小学校(第2シリーズ第43話、第4シリーズ第8話・第17話・第44話・第51話)や、美空市立美空小学校(第4シリーズ第40話)となっている描写がある。第4シリーズ第50話では、映像では「美空市立第一小学校」、セリフでは「美空第一小学校」となっている。[[四角錐]]の形をした[[体育館]]が特徴。}}は海の見える高台に建っている。太陽が海から昇り海に沈むことが地理的特徴。また、ほとんどのおジャ魔女達の住む場所は、美空市美空町である。 全体的に市が設置した建物はデザインに富んでおりかつ新しい物が多いのも特徴。また、美空市には市営スポーツセンターや歴史資料館などスポーツや文化的な施設も数多くある(第4シリーズ第40話)上に[[複々線|複数の線路]]がある。この点から考えると美空市は規模が大きく、財政状況はかなり潤沢であることが推測できる。また、少なくとも200年前の江戸時代から美空市が存在する{{Efn2|第6シリーズにて言及。その頃に美空神社が建立され、以降美空市の発展を見守ってきたという。}}。 他に今までに美空市にあると確認されている施設は、美空市役所(第4シリーズ第2話)、美空市総合病院(第1シリーズ第51話)、美空第一病院(第5シリーズ第12話)、美空大学(第2シリーズ第20話。ただし建物そのものは確認されておらず、看板だけである)、美空駅、美空市郵便局(第4シリーズ第40話)、美空市立美空中学校(第4シリーズ)、県立美空高等学校(第6シリーズ)などである。美空市内には鉄道が通っており、最寄り駅は「美空駅<ref>第1シリーズ第34話・第2シリーズ第20話・第3シリーズ第4・40話・第4シリーズ第43話などで登場</ref>」。近隣には「青空駅」もある<ref>第4シリーズ第20話</ref>。 === MAHO堂 === '''MAHO'''堂('''まほーどう''')は登場人物たちが働く架空の店。おジャ魔女達が活躍した頃の所有者は[[マジョリカ (おジャ魔女どれみ)|マジョリカ]]である{{Efn2|それ以前に、この地(美空市)では幾人かの魔女が同じ店を経営していたことが作中で語られており、(美空市の)魔法堂の経営者は次期女王候補の最有力者であったりするなど、何らかの重要な位置づけがされていた可能性が示唆されている。}}。 第1シリーズでは、魔女見習いが魔法を使うためには魔女界の[[通貨]]でもある「魔法玉」が必要であり、それは自ら作った「魔法グッズ」を売って稼いだお金で、魔女界の[[卸売|問屋]]から買わなければならなかった。そこでどれみたちは魔女修行をしつつマジョリカの店「'''マキハタヤマリカの魔法堂'''」で働くことになったが、その際に自分達で店内を改装し、また店名「マキハタヤマリカの魔法堂」の「マキハタヤマリカ」を削り、後ろの「魔法」を[[漢字]]からを[[ローマ字]]にして、「'''MAHO'''堂」に改めた。なおどれみたちは家族やクラスメイトに[[ボランティア]]で病弱な老婦人の店を手伝っていると説明している。 '''MAHO'''堂には、願いごとや悩みといった強い思いを抱いている者を、本人の知らないうちに引き寄せてしまう力を持っている{{Efn2|第1シリーズ第1話・第1シリーズ第5話・第3シリーズ第25話など、事実、どれみも知らないうちにマキハタヤマリカの魔法堂(第1シリーズ第1話以外は各'''MAHO'''堂である)の前へたどり着いている。また第6シリーズ第1巻冒頭でも同様の描写がある<ref>第6シリーズ第1巻p44-50</ref>}}。当初は冷房がない<ref name="第1シリーズ第26話">第1シリーズ第26話</ref>という設定だったが、次第に使われなくなった。 [[廃車 (自動車)|廃車]]だったものを改造したバス「'''MAHO'''堂号」{{Efn2|初出は第1シリーズ第20話で、以降も作中にたびたび登場する。バスメーカーは「IRUSU」。}}を1台所有している。このバスは'''MAHO'''堂のメンバーの移動手段として使われるほか、移動販売車にもなる。 シリーズの変遷に伴い、MAHO堂も各シリーズの初回で度々改装されており{{efn2|第5シリーズを除く。その都合上、各シリーズの初回の前半では、前シリーズのMAHO堂が存在している。またMAHO堂が改装される日は、必ず魔女界への行き来が可能な「笑う月」が出る日となる。}}、第2シリーズでは[[#用語・主要アイテム|マジカルステージ]]で「'''FLOWER GARDEN MAHO'''堂」という[[花屋]]に、第3シリーズ(第5シリーズ)では同じくマジカルステージで「'''SWEET HOUSE MAHO'''堂」というお菓子屋に、第4シリーズではハナの魔法だけで「'''おしゃれZAKKA・MAHO'''堂」という[[ビーズ]]細工などの小物などを扱う雑貨屋にそれぞれ改装された。 第6シリーズでは、当初は『おジャ魔女どれみ』同様の魔法グッズの店とされ、後にももこの帰国に伴って第3シリーズと同じくお菓子屋{{Efn2|ももこの得意分野である「お菓子作り」の腕を最も活かせるという理由もある。}}に改装されている{{Efn2|この改装も、おジャ魔女達のマジカルステージと女王様の力を組み合わせたもので、ももこ帰国翌日の夜に行われた。}}。どれみ、はづき、あいこ、ももこは学業やクラブ活動、個人練習などの合間を縫って、アルバイトとして働いている{{Efn2|テレビシリーズと決定的に違う点として、高校生であることからバイト代が支給される。}}。自分達で店内を改装し、また店名を改めたのも第1シリーズと同じである。どれみとあいこ(後に帰国・転入したももこ)は学校にアルバイト届を出しているが、担任の八巻先生はどれみたちに理由を聞くことなく、「バイトは金が必要だからやる。理由はそれだけで十分だ」と寛容な姿勢を示し、「大人の中に入って、社会勉強できて、金までもらえるんだ。俺はバイト、大いに結構だと思っている」と奨励すらしている<ref>第6シリーズ第1巻p85 - 87</ref>。 どれみ達の高校卒業後の『20's』ではマジョリカによってカフェ併設の[[シェアハウス]]に改装されている。当初はマジョリカ自身で運営していたが、就職浪人中だったどれみが自ら管理人に立候補し、彼女が運営することになった{{Efn2|魔法に関係ない一般人の入居者が増えたら不便な暮らしを強いられることをどれみに指摘されたため、マジョリカは渋々運営から退き、魔法界から様子を見ることになった。}}。また、ハナが通学の下宿先として入居している他、パリから帰国したももこが併設のカフェで提供するスイーツ作りのために出入りしている。 第4シリーズ(第5シリーズは第3シリーズと同じ年)までの「'''MAHO'''堂」の中では、「'''SWEET HOUSE MAHO堂'''」が一番売り上げがあったようである<ref>第6シリーズ第2巻p24</ref>。 マジョルカの「ルカ・エンタープライズ」(芸能プロダクション)やマジョモンローの「MONROE'S MAGICAL SHOP」(菓子屋)など、人間界で暮らす魔女のほとんどは自分の店かそれに類する物を持っており、それらを総称して「MAHO(魔法)堂」と呼ぶこともある{{Efn2|例えば、ニューヨークでマジョモンローの所有していた店を「ニューヨークのMAHO(魔法)堂」と呼ぶ<ref>第3シリーズ第1話</ref>など。}}。中でも美空市の魔法堂は伝統のある著名な店であり、魔女界の女王が即位する前にオーナーだったということもあって、この店のオーナーになることは、魔女界の女王になろうとする者にとって大きなステータス{{Efn2|現在の女王様もこの魔法堂のオーナーを経て、今の地位を築いている<ref>第1シリーズ第20話</ref>。}}であり、次期女王が約束されているとも言われている。 メインキャラクター5人(ももこ・あいこ・はづき・おんぷ・どれみ)の名前をローマ字で書いた頭文字を並べると「M・A・H・O・D (o)」となる{{Efn2|ももこの登場前はマジョリカがMである。}}。 同名の声優ユニットの名前については[[MAHO堂]]を参照。 === 魔女界 === '''魔女界'''('''まじょかい''')は作品の主な舞台の一つとなる架空の異世界。人間界とは別の次元にあり、日本とは昼夜逆転している{{Efn2|人間界(日本)の夜が魔女界の日中となる。}}。女王と12人の[[元老]]魔女によって統治されており、女王は世襲制ではなく、前任者の指名または選挙によって決まるらしい。およそ1000年前{{Efn2|ちょうどその時期にバッドカードが人間界に広まり始めた<ref name="第1シリーズ第26話">第1シリーズ第26話</ref>。}}までは人間界と交流があったが現在は途絶えており、ごく少数の魔女が密かに人間界に住んでいるのみとなっている。魔女界の空はいつも夕焼けのように赤く、小さな島や、何だかよくわからない物が浮かんでいたりする。魔女は魔女界にある[[バラ]]の木から生まれる{{Efn2|同様に、オヤジーデなどの出身地の魔法使い界ではウィザードペンペングサという[[ナズナ|ペンペングサ]]のような植物から魔法使いが生まれる。}}。魔女だけでなく知性を持った[[タコ]]や[[イカ]]あるいは[[エドヴァルド・ムンク|ムンク]]や[[ジョルジョ・デ・キリコ|キリコ]]の絵画を思わせる人型生物なども住んでいる。「魔法文字」と呼ばれる[[音符]]のような形をした文字が使用されているが、なぜか平仮名や漢字、ローマ字に英語などを使って店の看板が書かれていたりもしている。魔女界の紋章は魔女界の「M」をモチーフにした16分音符のような形をしている(ただし、作中では紋章が16分音符の形で描かれることも多かった)。 他にも魔法使い界{{Efn2|全員で28人しかいなかった<ref>第4シリーズ第37話</ref>が、その後ハナのお陰で元気になったウィザードペンペン草からたくさんの魔法使いの子供が生まれ、魔法使い幼稚園がいっぱいになっており、園長に就任したオヤジーデは休む暇がないほどにぎわっていると言及している<ref>第6シリーズ第1巻p142</ref>。}}・星界・音楽界(ミュージカルのみ)・天界などがあり、[[幽霊]](作中では「おばけ」と言っていた)、[[織姫]]、[[彦星]]など現実世界では実在が確認されていなかったり、伝承上の人物も作中では実在しているという世界観になっている。[[サンタクロース]]は第1シリーズでは実在が確認されたが、第2シリーズ以降は登場しない。また、伝説の黄金郷として知られる「[[エル・ドラード|エルドラド]]」は実在することになっている<ref>第3シリーズ第34話</ref>。 === 実在する場所・人物・イベント === 上述の架空の場所以外では実在する場所やイベントを基に作られていることが多数あり、あいこが引っ越す前に住んでいた所の[[大阪府]][[大阪市]][[西成区]][[天下茶屋]]、あいこの母親がアニメ放送時の居住地及び勤務場所としていた[[阪南市]]、またあいこの両親との思い出の場所として[[箱作海水浴場]]、マジョリリカの営んでいるペンションの所在地が[[伊豆高原]]、ももこが幼稚園児時代から住んでいてマジョモンローの魔法堂があった場所として[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]、ももこの母親の出身地として[[横浜市]]やその中の[[横浜中華街]]、高校生になったあいこが出場した[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]や[[第61回国民体育大会|兵庫国体]]<ref>第6シリーズ第1巻p287</ref>、どれみがサッカー部のマネージャーとして関わったサッカーでは、等々力競技場・国立競技場、成長したハナちゃんが出現した[[パリ]]や[[カンヌ]]<ref>第6シリーズ第3巻p17 - 75</ref>なども作中にも登場している。さらに、SOSトリオのギャグなどで[[嘉門達夫]]や[[島田紳助]]、どれみの父・渓介は[[奥田民生]]のファンであるなど、実在する芸能人が挙がることもある。実在した言動や作品のシーンなどのパロディなどもいくつかある〔さよなら・さよなら・さよなら(テレビ朝日系列で同じ日曜に放送されていた映画番組『[[日曜洋画劇場]]』の解説者だった[[淀川長治]]のセリフ)や、○○・カンバーック!(『[[シェーン]]』のクライマックス)など〕。 == 用語 == ; 魔女見習い : 自分の水晶玉を持たない未熟な魔女。人間が何らかの理由で魔女になるために魔女見習いになるケースが多いが、急成長したハナのように、水晶玉を失った魔女が再び水晶玉を得るために魔女見習いになるケースもある。通常の魔女との相違点は、[[寿命]]{{Efn2|本シリーズの魔女は、幼少時代こそ人間とほぼ同様に加齢するが、成人してからの[[老化]]が遅いため人間より長寿となっている。水晶玉を失った魔女の寿命が人間並みに縮むかは明らかにされていない。}}と魔法の使用に呪文を要すること、そして魔法を使うためには見習い服に着替える必要があることである。魔女ガエルの呪いの対象になるが、それは「魔女」ではなく「魔女'''見習い'''」だと看破された場合のみであり、魔女ガエルの呪いにかかる危険性は魔女と比べると格段に低い。 : 熟練した魔女は指を弾くか、杖を振るだけで魔法を発動できるが、魔女見習いや未熟な魔女は呪文を唱える必要がある。呪文の詠唱中の扱いが謎になっている作品は多いが、作中では魔女見習いが呪文を唱えている間は明確な時間経過が存在するため、詠唱中に時間を止められるなど何らかの妨害があれば魔法を発動できない。この欠点は第2シリーズの中盤〜終盤の間のみ、後述のロイヤルパトレーヌの能力によって軽減された。 ; 呪文 : どれみたち7人の呪文は以下の通りである。 :: 春風どれみ '''ピリカピリララ ポポリナペペルト'''{{Efn2|彼女の孫・ふぁみも使用<ref>第5シリーズ第13話</ref>。}} :: 藤原はづき '''パイパイポンポイ プワプワプー''' :: 妹尾あいこ '''パメルクラルク ラリロリポップン''' :: 瀬川おんぷ '''プルルンプルン ファミファミファー''' :: 飛鳥ももこ '''ペルタンペットン パラリラポン''' :: 春風ぽっぷ '''ピピットプリット プリタンペペルト''' :: ハナ '''ポロリンピュアリン ハナハナピー'''{{Efn2|これはハナが雰囲気で考えた呪文。生まれつき魔女であるため本来は呪文を唱える必要はない。}} : 彼女らの呪文は全員「パ行」が多く使用されているのが特徴である。 ; おジャ魔女 : 劣等生魔女の別称「お邪魔な魔女」を指す[[侮蔑]]用語<ref>『日本TVアニメーション全史』(2014年12月30日、世界文化社発行)300ページ。</ref>。特に主人公・春風どれみは魔女見習いとして劣等生だったこととドジっぷりとで即座におジャ魔女扱いをされていた。しかし、物語が進むにつれてどれみたちに対しては上記の侮蔑の意味合いが薄れ、単純に彼女らに対する[[通称]]に変化していった。マジョハートは当初どれみたちをこれに倣って「'''おジャママ'''」と呼んでいた。また、第4シリーズでは所持している水晶玉を割ってしまい、女王様から魔女見習いを命じられたハナちゃんもおジャ魔女の1人になる。 ; 魔女ガエルの呪い : 人間に「魔女だ」と口頭で指摘された魔女が、魔女ガエルという[[カエル]]のような醜い姿(作画上は形容しがたい愉快な形状の緑色の小動物{{Efn2|第6シリーズのどれみによると、カエルとも尺取り虫ともつかない奇妙な生き物<ref>第6シリーズ第1巻p14</ref>。}})に変身してしまう呪い。ただし、水晶玉があれば変身前と同様に魔法を使うことはできる。 : 魔女ガエルとなった魔女を元の姿に戻せるのは指摘した当人の魔法だけであり、その為には指摘した人間が魔女見習いとなり、一人前の魔女にならなければならない。だが、魔女の正体を見破った時点で恐れをなして逃げ出してしまう人間が多い。また、例え魔女になれたとしても、そこからさらに修行を積んで自身の水晶玉を大きくしなければこの呪いを解くことは困難である。このため、魔女界には元の姿に戻れない数多くの魔女たちの生活場所として'''魔女ガエル村'''が存在する。 : この呪いは魔女見習いにも適用されるが、魔女見習いは「人間でも魔女でもない状態」のため、「魔女'''見習い'''だ」とまで言及されて初めて呪いが発動する。他方で、男性から正体を見破られた場合については劇中において全く想定されていない。 : 呪いが発動しない条件は劇中で登場したもので以下の4通り。 :* 魔女見習いが他の魔女の正体を看破した場合(逆も同様) :* 正体がばれても、口頭で直接指摘されない場合 :* 看破したのが通常の人間ではなかった場合(サンタクロースや幽霊、魔法使いなど) : この呪いを掛けたのは魔女界の先々代の女王・マジョトゥルビヨンであり、元々は彼女が体験した苦痛を他の魔女が味わうことを避けるため掛けた魔法である。しかし徐々に、彼女の意志に逆らい交流を禁じた人間界へ行った者への「呪い」としての概念が確立され、上記の名が定着した。 : 第4シリーズ終盤、悲しみから解放されたマジョトゥルビヨンと魔女界の住人全員の協力により、魔女ガエルの呪いは完全に消滅し、全ての魔女ガエルは無事元の姿を取り戻した。ただし呪いが消滅した第6シリーズでも、どれみたちのこの呪いに対する恐怖心が未だ根強いことが描写されている<ref>第6シリーズ第1巻p169</ref>。 ; 笑う月の晩 :人間界と魔女界との間は、上級の魔女、魔法使い、魔女界の女王は無条件で行き来することができるが、魔女見習いは「笑う月の晩」しか行き来できない{{Efn2|第3シリーズ第28話では、笑う月ではない日にも関わらず、ハナの強力な魔法により、育ての母「どれみ」が人間界から魔女界に呼びだされた。}}。作中に登場する月は実際に笑顔を浮かべている。[[月齢]]は関係なく、「欠けた笑う月」も登場している。また、[[満月]]の夜は無条件で笑うため、「笑う月の晩」は作品世界で「満月」の代名詞となっている。 : 第6シリーズにおいて笑う月が出る日は、時刻に関係なく人間界と魔女界を行き来できるとの記述があるが<ref>第6シリーズ第3巻p28</ref>、この記述の内容が魔女見習いであるどれみたちに適用されるかどうかまでは、作中では言及されていない。 ; 魔女見習い試験 : 魔女見習いの昇級試験。あらかじめ試験日が告知され、1人につき1日1回しか受験できない。9級から1級までの順番に従う必要は無く、成績が優秀または何らかの善行を行えば、飛び級ができる。6級以上の合格者には証明として「認定玉」を入れる容器である「認定証」が与えられる。最終的に1級の試験に合格し、かつ魔法により2度の善行を行った時に見習い魔女は魔女として認められ、認定証は各人固有の水晶玉に変化する。第1シリーズ終盤ではこの時点で「魔女」とされていたが、後の第4シリーズ終盤の説明ではこの時点でも実質人間のままであり、完全な魔女になるには、自身の水晶玉で「魔女になれ」と自身に呪文を唱えるという、さらなる段階を踏む必事があることが明らかになっている<ref>第4シリーズ第50話</ref>。試験の課題はほぼ毎回違うが、作中では4級、3級、1級の課題は共通である(後述)。前述の通り、魔女見習いは「笑う月の晩」のみ魔女界へ行き来できるため、試験(1級を除く)は人間界の夜に行われる{{Efn2|ぽっぷが夜明け前に起きて試験に参加した例もある(劇場版)。}}。見習い試験は頻繁に受験をすれば一年程で1級に進級できるが、ぽっぷだけは見習い試験1級に合格するまで4年かかった{{Efn2|よって、ぽっぷの魔女見習い服は4シリーズ通して第1シリーズの見習い服を着用。}}。 : 不合格の場合は追試験というケースもある。また、試験の日に欠席した場合は不合格にならず、ただ進級できないだけである。 : 一度試験に合格すれば、魔女見習いをやめる、あるいは資格を剥奪された後に再度復帰しても合格した級の資格が取り消されることは無い{{Efn2|1級試験合格後に魔女見習いの資格を剥奪されたどれみ達は1級合格済みの扱いで復帰している。}}。 : 以下の3つは各級の試験に合格した際の特典。 :* 9級:1体の妖精が与えられる(後述参照)。 :* 7級:植物に魔法を掛けることで、その植物と会話することができるようになる。 :* 6級:自分のポロンと思い入れのある楽器を合体させた「クルールポロン」が使用可能となる。 : 共通の課題 :* 4級:勤勉な兎と素早い亀との競走。参加者は魔女見習いの妖精。兎と亀より先にゴールに到着すれば合格となる。途中で色々な仕掛けがあり、魔女見習いは魔法で協力できるが、箒で飛ぶ魔法と相手を邪魔する魔法は使ってはいけない。 :** 仕掛け:大きな壁、魔女見習いと同じ姿になった妖精と二人三脚、眠って夢の中の蝶々を捕まえる。 :* 3級:制限時間内に三つの世界の扉に入り、最初の場所に到着すれば合格。ただし、魔法は二回しか使用できない。また、最後の扉に入る前に受験者の好きなもので誘惑するという仕掛けがある{{Efn2|そのせいで、どれみはステーキに、ももこはイチゴタルトに誘惑され不合格となった。}}。 :* 1級:魔法で良いことをし、相手に「ありがとう」と言わせると合格となる。ただし、相手に魔法のことを知られてはいけない。「ありがとう」と言わせる相手は人間とは限らない。たとえ助けた相手が動物でも「ありがとう」という態度が示された場合も合格となる<ref name="s1ep50"/>。相手が魔法で助けられて魔法の力を知らない場合、その場で「ありがとう」と言っても合格できる<ref>第4シリーズ第41話</ref>。これまでの試験と違い、1級試験は昼間に実行され、場所は魔女界ではなく受験者の住む町である{{Efn2|どれみたちはこの試験で島倉をはじめとするクラスメイトに箒で飛んでいるところを見られ、4人が'''MAHO'''堂に監禁されているという誤った情報が錯綜したことでクラスメイト全員や家族に正体がばれるという窮地に陥るが、おんぷがとっさに魔法で記憶を消去したことで魔女ガエルの呪いを免れた。}}。 ;[[妖精]] : 9級試験に合格した魔女見習いに与えられる妖精。魔女見習いの妖精は主人と同じ姿に変身できるが、会話は成長するまで特定の音でしか交わせない。魔女の妖精は猫に変身できるが、主人の姿に変身する描写は劇中にはない。ただし自分の姿を隠す能力は共通している。 : また、元々魔女である者の妖精については、いつ誕生するのか、また全ての魔女に妖精がいるかどうかは明らかになっていない。劇中に妖精の存在が判明した魔女はマジョリカ、マジョルカ、先々代の女王様だけである。 ; 水晶玉 : 魔女の力の源。魔女は生まれつき持っており、魔女見習いは認定証を完全に満たすことで手に入る。持っていればポロンを使わずに魔法を行使でき、所持者の成長と共に肥大化し、使える魔法も増えていく。しかし所持者から離れると一切の魔法が使えなくなり、また、水晶玉の許容限度を超えた魔法を使うと砕けてしまう。自身の水晶玉の一部を削り他者に分け与えることも可能{{Efn2|但し、水晶玉を削ると魔力が落ちるだけでなく、自身の体力も落ちてしまうほど、リスクが伴う(第4シリーズ第20話以降)。}}。一生に持てる水晶玉はひとつだけという決まりがあり、完全な紛失(砕け散った場合も同様)もしくは没収された者は魔女の資格を失い、通常二度と魔女に復帰することはできない。なお、ハナの水晶玉は誕生の時点で5つ(後に4つ)持っていたが、後にハナが強力な魔法の使用により所持していた自身の水晶玉全てを砕け散ってしまったため、該当するパターンはシリーズを通して無かったが、水晶玉を複数個所持している場合、水晶玉がその後どうなるかの扱いについてはシリーズ全体を通して言及されていない{{Efn2|第4シリーズ第50話で、ハナが新たに得た水晶玉とおジャ魔女達6人の水晶玉をマジカルステージで1つにすることができたので、同様の方法で複数個の水晶玉を1つにすることは可能。}}。 ; 禁断の魔法 : 使用者が必ず報復を受けるため、発動が禁じられている魔法。魔法が万能でないことを証明するためにそのようなものがあると思う。魔女見習いは報復に加え、女王により罰則として一定期間の魔法の使用禁止、最悪の場合は資格の剥奪を課せられる。作中では以下の3種類の魔法が禁止されている。(それ以外の禁断の魔法が存在するかどうかは不明。) :*[[死者蘇生|死者を蘇らせる]]魔法 :* 病気や怪我を治す魔法 :* 人の心を変える魔法(対象者に好意を抱かせる、記憶の抹消、緊張感の緩和など) : 報復として言及・描写されているものには、「死者を蘇生した代わりに使用者が死ぬ」、「病気や怪我を治療した場合はそれを代わりに使用者が引き継ぐ」などが挙げられる。ただし、呪いの内容一律ではなく、魔法の成否などによって呪いの内容は変化する。例として、第1シリーズで頻繁に禁断の魔法を使ったおんぷは、使用した代償が重なり100年の眠りに陥りかけた。第3シリーズではももこが、死去したマジョモンローに[[死者蘇生|死者を蘇らせる]]魔法を使ったが、水晶玉の粉砕により失敗した為、魔女の資格剥奪のみで許されている。 なお、第2シリーズ最終話で、1000年の眠りについた元おジャ魔女たちを目覚めさせようと、女王様自身が禁断の魔法で助けようとしたが、マジョリンとマジョハートが体を張って阻止したため未遂に終わっている。万が一、女王様が禁断の魔法を使った場合の扱いについては、シリーズ全体を通して言及されていない。 ; マジカルステージ : 9級以上の魔女見習い3人以上が力を合わせて発動できる魔法。これにより自身達の級に2級増しの魔法が使える。ただし1級と6級の魔女見習いでは魔力に差があるため、ステージが発動できない。 : 使用するには「その場でマジカルステージに参加する」見習いを含む魔女が3人以上いなければならないが、パトレーヌコール(後述)を使うことで遠隔地にいる魔女見習いもマジカルステージに参加することができる(第2シリーズのみ)。また、魔力の不十分や欠員があった場合、マジョリカやハナなどステージに参加していない他の魔力所持者の補助を受けられれば発動可能になる。 MAHO堂(第2・3・6シリーズ)の改装の際は、マジカルステージを出現させた上で、かつ、女王様の魔法「MAHO堂よ、変われ!」の組み合わせでMAHO堂は一瞬で改装される。 : シリーズ最大のマジカルステージは、魔女界の住民全員で行われた魔女ガエルの呪いを解いた時<ref>第4シリーズ第46話</ref>のものである。 ; タップ : 魔女見習いの身分を象徴するアイテム。見習い服・ポロン・[[箒|ほうき]]が収納されている。第3シリーズのパララタップを除き、見習い服に着替える際はタップを手に持って使用し、着替え後は見習い服の胸に装着される。タップの使用には資格や年齢制限などはなく、所有者を認識する機能もないため、基本的に誰でも使える{{Efn2|事実第1シリーズに、どれみが落としたタップを[[プードル]]犬が触って着替えている。}}。ただし、第2シリーズ以降に登場したタップを使用するには、1級の魔女見習い試験に合格している必要がある。 ; 見習い服 : タップに収納されており、音楽に合わせて着替える。服・手袋・ブーツ・帽子がセットになっている。各自に固有の色がある。 ; ポロン : 「魔法を使うための楽器」。各自に固有の呪文と効果音がある。 ; 空飛ぶほうき : 空を自由に飛べる箒。魔女見習いはタップで出す必要がある{{Efn2|ただし、第2シリーズ以降この描写が省略されている。}}。生物のように独自の意志があり、新人の魔女見習いはそれを乗りこなすには苦労を要するが、例外的にあいこは脅迫でねじ伏せて乗りこなしている。 : 第1シリーズの終盤以外で、飛行するところを誰かに目撃されたことは無い。 ; 魔女界への扉 : 魔女界へと繋がっている扉。月が笑う晩(例外あり)に行き来できる。美空町の'''MAHO'''堂の扉はシリーズによって異なる。 : 第6シリーズまでに判明している、魔女界への扉がある場所は以下の通り :* 美空町の'''MAHO'''堂 :* 美空町の芸能プロダクション「ルカ・エンタープライズ」 :*[[ニューヨーク|NY]]の魔法堂 :*[[パリ]]のMAHO堂 :* パリの[[バスティーユ]]にある、マジョコレットが営む骨董店 :* パリ郊外の[[ペール・ラシェーズ墓地]] ; ライフウッド :魔女界の子どもを育てる際に用意される木。子どもの健康状態に合わせ、周囲の気温を調整{{Efn2|第2シリーズ第4話でハナが風邪を引いた時など、変化の様子がよく分かる描写がある。}}できる。ベッドの部分は別でライフウッドから作られた物。第3シリーズの中盤で、ハナが野菜嫌いの呪いのため、再び人間界で暮らすことになった時に、女王様の計らいで、第2シリーズで使用していたライフウッドをリメイク(コンパクト化)したベッドをMAHO堂へ持ち込んだ。 第4シリーズではハナの魔法で巨大なライフウッドが「'''おしゃれZAKKA・MAHO'''堂」の一部となった。また、魔女幼稚園の寄宿舎には巨大なライフウッドがあり、各園児のベッドが用意され、根本部分はグランドピアノになっている。 ;'''MAHO'''堂号 :'''MAHO'''堂がマジョルカに乗っ取られた時に、近くにあった廃車を改造して作られた移動販売兼用バス。伊豆高原や横浜などに遠出する際使われた。 == アイテム == === 第1シリーズのアイテム === :; 見習いタップ(どれみタップ) :: シリーズ初期のタップ。第1話の時点でマジョリカは3個所有し、ぽっぷの分は後にデラを通して購入した。真ん中のボタンを押すと見習い服が現れ、音楽が鳴る間に着替える必要があり、着れなければ服がタップの中に戻る。見習い服を着ている間は胸中央にタップが付く。第2シリーズ以降のタップは主に叩くことでポロンや空飛ぶほうきを出すが、このタップは周囲の音の出るボタンを後述の方法で押して出す。中央には[[八分音符]]のマークがついている。NY時代のももこも同様のタップを使用していた。 :; 見習い服(第1シリーズ仕様) :: シリーズ初期の見習い服。タップ中央のボタンを押すと音楽と共に現れ、音楽が鳴っている間に着替える。間に合わなければやり直しとなり、どれみとはづきは1度着損ねている。犬がボタンを押し、偶発的に着替えさせられた描写も存在する。NY時代のももこも着用していた。 :; ポロン :: タップで低い方から高い方へ「ド・ミ・ソ・ド」と鳴らせば現れる。数種類の名前があるが、形状は3種類のみ。 ::; ペペルトポロン ::: 魔法の杖状の楽器。どれみ・ぽっぷが使用していた。 ::; プワプワポロン ::: 当初はづきが使用していたポロン。バトンのような細長い型。バイオリンの音が鳴る。 ::; ポップンポロン ::: 当初あいこが使用していたポロン。プワプワポロンと同型。ハーモニカの音が鳴る。 ::; クルールポロン ::: 6級試験に合格した魔女見習いがそれまで使用していたポロンと、各自の愛用の楽器を合体させたポロン。なお、魔女の資格が剥奪された際は、女王様によって愛用の楽器が分離されて各自に返却された<ref>第1シリーズ第51話</ref>。 :; 魔法玉 :: 魔法を使う際に必要な[[ビー玉]]状の玉。強力な魔法を使う際は複数の魔法玉が必要となる。なお、後に出てくる「魔法の実」と同様、第40話で「魔法玉がたわわになる木」が登場している。人間界の貨幣や品物と交換する場合、その額面ではなく物に込められた「想い」の強さが基準となる。クルールポロン専用の魔法玉は形が異なり、通常の魔法玉の3倍の力があるとされる<ref>第23話</ref>。 :: 「魔法玉5個分」といった重量の基準<ref>第3シリーズ第30話</ref>や魔女界の[[通貨]]としても使われる。 :; 空飛ぶほうき :: 「ド・ファ・ラ・ド」と押すことで現れる箒。 :; 認定玉 :: 6級の見習い試験に合格した時、認定証(専用のケース)と共に与えられる玉。6級以降の見習い試験に合格した時、及び善行の魔法を使った時にもらえる。形はクルールポロンに収められる魔法玉に似ている{{Efn2|ピュアレーヌに認定された魔女見習いの認定玉は、他の魔女見習いたちとは異なる色をしている(第26話)。}}。魔女になるためには6級から1級試験に合格する他、2回善行を行わなければならず、よって認定玉は8個必要となる。 :; レジスター(第2シリーズまで) :: 通常の小売店で使われる[[キャッシュレジスター|レジ]]とは異なり、[[バーコード]]ではなく直接商品にスキャナをあてるだけで価格を読み取ることができる。また[[領収書|レシート]]はカラフルである。第3シリーズから『MA HO DO』と書かれた新しいレジスターを使うようになった。 :; バッドカード :: 第1シリーズ中盤で登場したカード。かつて魔女界に封印されていたが、一部の悪意をもった魔法使いが盗み、人間界に持ち込んでしまった代物。バッドカードは人間界の様々な物品に憑依し、それを「バッドアイテム」に変えてしまう力を持っている。バッドアイテムは持ち主の願いと正反対の不幸をもたらす。 :; ピュアレーヌ :: 第1シリーズ中盤で登場した称号。バッドアイテムを見つけ出し、悪用しなかった清き心を持つ者にのみ認められ、マジカルステージを使うことでバッドアイテムからバッドカードを抜き取ることができる。 :: 作中では当初どれみ・はづき・あいこの3人がピュアレーヌとして認められていたが、最後の4枚のバッドカードを抜き取る際にはおんぷも参加していた。 :; ピュアレーヌパソコン :: 第26話から登場。バッドカードを回収して保管する際に使われる。ピュアレーヌに認められ、バッドカードの回収を命じられたどれみたちに女王から渡された。起動させるためのスイッチは画面から出さなくてはならず、ピュアレーヌ以外の者は使用できない。中にはオヤジーデが封印されていたが、第2シリーズ第5話でハナの力により不完全ながら解放された。第2シリーズ第5話で全て回収し、女王様へ返却する。 :; マジョルカのお守り(おんぷのみ) :: 第35話からおんぷが使用。禁断の魔法を使った際に発生する報復から着用者を守るが、限度を超えると粉々に壊れ、それまでの報復が一斉に襲いかかる。最終話で記憶抹消魔法を使用した際に限界を超えて壊れてしまい、蓄積していた報復は100年の眠りとなっておんぷを襲った。 === 第2シリーズのアイテム === : 同シリーズ以降、主要アイテムは各シリーズの第1話で女王から支給される。他方でぽっぷのみ、第4シリーズ第50話まで一貫して初期のタップ・見習い服・クルールポロンを使い続けた。 :; リズムタップ :: 1級試験に合格した魔女見習いだけが使用できるタップ。[[カスタネット]]のように体を叩きながら着替える。魔法の実を収納できる。 :; 見習い服(第2シリーズ仕様) :: 第1シリーズのデザインを残しながらも各所に白を配されている。女王への謁見時には、魔女界の紋章のついた[[ケープ|マント]]を羽織る。 :; ピコットポロン :: 魔法の実で使用できるポロン。呪文を唱えると先端の♪マークが回転する。魔法の実は1つしか入らないが、巨大な魔法でない限り1回では消滅しない。魔法ハーブはこのポロンでのみ見つけられる。 :; 魔法の実 :: [[音符|八分音符]]に似た形状の[[種実類|木の実]]であり、1個あたりの魔力・通貨としての価値は魔法玉の数十倍に相当する<ref>第2シリーズ第21話</ref>。魔法玉と違い、各自で「魔法の実のなる木<ref>第2シリーズ第2話</ref>」を育てることで補充するが、育てるのは大変難しいとされている。 :; [[母子健康手帳|母子手帳]] :: 第7話から登場した手帳。デラが第2話で渡し忘れていたため、どれみたちには遅れて送られた。ハナの健康診断・育児テストの際に必要となる。合格するとマジョハートから[[印章|ハンコ]]をもらい、押すたびに表紙の色が変化する。表紙は子どもである「ハナ」の写真がプリントされている。 :; クルリンコール :: 第7話から登場。ダイヤル式の[[携帯電話]]。魔法の実がなければ使用できない。「魔法の実が勿体ない」としてあまり使用されなかった。アイキャッチでは、ぽっぷが使用している場面がある。 :; 魔法ハーブ :: 第9話から登場。魔女の赤ん坊を養育する際に必要となる。普通に(といっても魔女問屋から)買えば高価な物であり、どれみたちは買わずに[[伊豆高原]]などにある野生の魔法ハーブを採取した。主に栄養剤や薬として利用される。 ; ロイヤルパトレーヌ : 第2シリーズ中盤から登場。ピュアレーヌ同様、女王に認められた特別な魔女だけに与えられる称号である。以下のパトレーヌドレス・リースポロン・パトレーヌコールを使うことが許される。どれみたちは、オヤジーデら魔法使い達からハナを守るため、女王からこの称号を与えられた。なお、ロイヤルパトレーヌに変身する際は、1度マジカルステージを発動し「ハナちゃんを助けて!」と唱える必要がある。作中ではどれみたち4人が一斉に変身することが多かったが、マジカルステージの発動条件の関係上、パトレーヌコールの使用による参加者も含め3人いれば変身可能<ref>第2シリーズ第32話</ref>。 :; パトレーヌドレス :: 第23話から登場。ハナを守る為にロイヤルパトレーヌになったどれみたちに新たに与えられた服で、タップはなく、代わりに魔女界の紋章が付く。花びらをモチーフにしたデザインで、見習い服(第2シリーズ仕様)よりもさらに白の配色が多い。悪意のある魔法を跳ね返す力があるが、ドレスに触れない魔法には効果が無い。ドレスを着ている間はリースポロンしか使えない<ref>第2シリーズ第47話</ref>。なお、悪意のある魔法を跳ね返す力には限度があり、それを超えてしまうと引き裂かれてしまう<ref>第2シリーズ第49話</ref>。 :; リースポロン :: 第23話から登場。パドレーヌドレス着用時のみ使え、ロイヤルシードでのみ使用できる。呪文は「最初の1節 + パトレーヌ」と短く済ませ、魔法の内容を頭の中で念じるだけでマジカルステージ級の魔法を発動させられる。ただし、媒体となるロイヤルシードが希少な物な為、主に魔法使い達からハナを守る場合にのみ使用が許されている。 :; ロイヤルシード :: 第23話から登場。魔法の実の成る木に、「10年に1個実ればいい方」だと言われる、二連八分音符に似た貴重な魔法の実。極めて高い魔力があり、リースポロンはこのロイヤルシードでのみ使用できる。物語終盤で、どれみの鉢植えに奇跡的に4つも実っていた<ref>第47話</ref>。この実のおかげで、魔法使い界での危機を脱出することができた。 :; パトレーヌコール :: 第25話から登場。ロイヤルパトレーヌ専用の携帯電話。1か所に全員が揃っていなくてもマジカルステージが出来るよう魔法を飛ばしたり、ノートなどの物を飛ばしたり、妖精をロイヤルパトレーヌパソコンに送り込んだり出来る。 :; ロイヤルパトレーヌパソコン :: 第31話から登場{{Efn2|第29話からのアイキャッチから先行で登場している。}}。付属の発信バッチを使ってハナの現在位置を表示したり、妖精やオヤジーデを取り込むことができる。妖精をパトレーヌコールからロイヤルパトレーヌパソコンに送ると妖精たちの頭身が大きくなる。 === 第3・第5シリーズのアイテム === :; パララタップ :: 他シリーズのタップと異なり、左手に付けられた腕輪状。[[指輪]]がセットになっている。始めに[[拍子|手拍子]]を2拍打ち[[パラパラ]]風の[[メロディ]]で踊りながら着替える。踊りの3拍子目のポーズと手袋の装着ポーズに各自の個性が現れている。また、手を叩く回数と踊りの順序を変え、3拍目で頭に手をのせるポーズを取るとパティシエ服に着替えられる。 :: 必要時以外は出ない(見えない)ようになる。見習い服、パティシエ服どちらかを着ている場合、1回手を叩けば服の裏返しができる。 :; 見習い服(第3・5シリーズ仕様) :: パフスリーブがついた[[ボレロ (衣服)|ボレロ]]風のデザイン。他シリーズと異なり、胸中央部は魔女界の紋章がついている(他シリーズでは、お着替え後にタップが装着される)。[[リバーシブル]]であり、裏返すとパティシエ服になる。 :; スウィートポロン :: 魔法の素により使用できるポロン。握り部分の先端に[[傘|パラソル]]に似せた反りがついている。呪文詠唱時の音楽が全て生演奏に変わった。また、ポロンに魔法の素を補充するには女王に取り次いでもらわなければならない。 :; パティシエ服 :: 見習い服とリバーシブルになった、菓子作り専用の服。白を基調にしたデザインとなっている。手袋が消え、パティシエポロンを出そうとする時以外タップが消える。スカーフは♪をモチーフに各自の見習い服のカラーになっている。 :: 魔女(見習い)の正体を隠すため、どれみたちは魔女見習い服で衆目に晒されることをアニメシリーズ全編を通して避けているが、このパティシエ服の場合は例外であり、魔女感が皆無なイメージであるため普通にこのスタイルで知人であっても接することができる{{Efn2|通常の魔女見習い服でも、TPOに合致する場合であれば人前で披露することがある。無印第35話、『#』第13話など。}}。 :; パティシエインカム :: パティシエ服に着替えた時、見習い服の帽子の代わりに装着される。同時通訳機能がついている他、(シリーズ後半から)レシピ日記に妖精を送り込む機能もある。耳の所には魔女界の紋章がついている。第5シリーズでは、インカムが装着されていない回もある。 :; パティシエポロン :: お菓子を作る時の仕上げに、願い事を唱えながら魔法の素を振りかける。これにより作られたお菓子は魔法アイテム扱いとなる。 :; 魔法の素 :: 粉末状の魔力媒体。極めて高価なもので、数も少ない。魔法問屋で購入することが可能<ref>第3シリーズ第21話</ref>。スウィートポロン、パティシエポロンを使う際に用いられる。女王様のみポロンに補充ができるが、作中では1回しか補充されていない。 :; クッキングストーブ :: [[オーブン]]と[[焜炉|コンロ]]と[[ストーブ]]が一つになっている料理器具。中央の扉がオーブン、左右が火を焚くスペースになっている。上部中央のガラス窓はオーブンの中に入っている生地の焼け具合を確認するためにある。'''S.H.MAHO'''堂のお菓子の大半はこれで作られる。 :; キャンディタワー :: [[キャンディ]]や[[チョコレート]]を作ることができる3階建ての機械。3階部分に投入口があり、スイッチを入れると1階の部分にキャンディが出てくる。 :; レシピ日記 :: 第30話から登場。先々代の女王の専属料理人だったマジョロクサーヌが、魔法文字で各種の[[レシピ|調理法]]を記した本。これが登場するまでは、どれみたちは市販のレシピ集を利用していた。日記の内部には無尽蔵に広がる[[書庫]]としての空間や、占いや日記、伝言板などの機能を備えた空間が構築されており、妖精を中に送り込むことでそれらの機能が使用できる。この中に入ると幼い妖精でも人間の言葉を話せるようになる。 === 第4シリーズのアイテム === :; コロンタップ :: 他のタップとは異なり、ハート型の[[アトマイザー]]タイプで、[[香水]]を吹き付けるようにして着替える。タップ上部には魔女界の紋章が付く。使用後はパララタップ以外のタップと同様、胸中央部に付けられる。 :; 見習い服(第4シリーズ仕様) :: それまでの見習い服と異なり、飾りボタンと直角を多用したデザイン。これまでのシリーズのものに比べ、少し大人っぽいデザインとなっている。 :; ジュエリーポロン :: 先端にジュエリーをあしらったポロン。マジカルステージを利用する時はリミッターを外して使う。ポロンを出した描写は劇中ではない。中に仕込まれている大きなひし形の魔法玉(新型魔法玉)に魔法玉の力(魔力)を充填することで魔法を使えるようになる。なお、魔力の充填はこのポロンを作ったマジョトロンでしかできない<ref>第4シリーズ第14話</ref>。また、このポロンの最大の特徴として後述のハナちゃんのコンパクトにエナジーを送れるという能力がある。 :; コンパクト :: ハナがタップの代わりに使用。コンパクトを開き中央のボタンを押すと中心部から羽のついたリュックが現れ、見習い服が飛び出してきて着替えられる。着替え中はコンパクトに羽が付き、ハナの周りを飛び回る。着替え後はそのまま胸の部分に装着される。使用するにはどれみたち5人から送ってもらうエナジーが必要であり、エナジーがない状態では使用できず、見習い服を着ている間にエナジーが尽きると見習い服がコンパクトに戻ってしまう。中には女王の水晶玉を砕いて作った6人の水晶玉が(ハナの水晶玉を5人の水晶玉が囲むように)収められている。 :; 見習い服(ハナ専用) :: レモンカラーと白色を基調に、フリルを多用したデザイン。着替えのポージングは第1シリーズのものに近い。背中には見習い服が入っていたリュックを背負う。帽子の先端はどれみたちのものとは違って二股になっている。 :; マジカルリスト :: ハナがポロンの代わりに使用する[[リストバンド]]。呪文なしで使えるが、ハナは自分で考えた振り付けと呪文で魔法を使う。リストが1つでも欠けている状態では魔法を使えない<ref>第4シリーズ21話</ref>。 :; [[織機|機織り機]] :: 一般的な機織り機。魔女界の紋章が付いているため魔女界の物とされるが、ほとんどの魔女は魔法で一瞬で作ってしまうため、機織り機が使える魔女はほとんどいない{{Efn2|第4シリーズの時点では、マジョクロスただ一人とされている。}}。 :; [[コンサーティーナ|アコーディオン]] :: 白象のパオちゃんが身に付けていた楽器。ハナは初見ながら見事弾きこなし、パオちゃんが伴奏に合わせて踊ることで、先々代の女王の悲しみが生み出したイバラを取り除くことができる。なお、パオちゃんがハナの魔法で小さくなった後は、ハナとパオちゃんの鼻がタッチすることでアコーディオンが現れていた。 === 第6シリーズのアイテム === :: 基本的には第1シリーズ(第1巻・第2巻)、第3・5シリーズ(第2巻以降)のそれに準じるが、細部については相違点も複数見られる。 :; 見習いタップ :: 第1シリーズと同一。魔女ガエルの呪いが解けたため、代わりとしてどれみたちは「自分のために魔法を使わない」というルールを決め、女王に相談した。このため、女王の計らいによって、どれみ、はづき、あいこ(第2巻でももこが加わる)のいずれか一人でもルールを破った場合、全員のタップが破砕される仕様になっている。 :; パララタップ :: 第3・5シリーズと同一。ももこの帰国にあたり'''MAHO'''堂が洋菓子店にリニューアルされることになったため、見習いタップはパララタップに交換された。どれみたち4人のペナルティについては見習いタップと同様。おんぷは復帰当初からこちらを使用するが、彼女に関しては上記のペナルティが課されている描写はされていない。 :; 見習い服(第1シリーズ仕様改) :: 基本的なデザインは第1シリーズ仕様に準拠しているが、ニーソックスや[[イブニンググローブ]]を着用している点が異なる{{Efn2|なお、この見習い服はあいこがイメージしたものに基づいている<ref>第6シリーズ第1巻p150</ref>。}}。作中では「魔女見習いバージョンじゅうろく」と呼称。第6シリーズ第1巻のラスト及び2巻冒頭ではももこ<ref>第6シリーズ第1巻p299、第2巻p15</ref>、第1巻・第2巻カラー口絵ではおんぷも着用している。 :; 見習い服(第3・5シリーズ仕様改) :: ももこの帰国に伴いリニューアルされた。基本的なデザインは第3・5シリーズ仕様に準拠しているが、第3・5シリーズ当時にはなかった襟が追加された他、第1シリーズ仕様改同様ニーソックスを着用している<ref>第6シリーズ第2巻p29</ref>。第6シリーズ第3巻ではおんぷも着用している<ref>第6シリーズ第3巻p42</ref>。作中では「も〜っと! 魔女見習いバージョンじゅうろく」と呼称される。 :; パティシエ服(改) :: 基本的なデザインは第3・5シリーズ仕様に準拠しているが、襟元やカチューシャのデザインが変更されている。パティシエインカムは付いていない{{Efn2|第6シリーズ第2巻カラー口絵参照。また、ももこが日本語を問題なく話せるようになったことや、ハナの野菜嫌いを克服するために渡してもらっていたレシピブックも完成したため、インカムが不要となった。}}。なお作中では現在の慣例に合わせ「パティシエール服」と表記されている(全員が女性である為)<ref>第6シリーズ第2巻p25他</ref>。 :; クルールポロン :: 第1シリーズと同一。本来ならば初期のポロンとなるが、女王の計らいにより、ペペルトポロンより高度な魔法が使えるクルールポロンを与えられた。材料となる各自の愛用の楽器はマジョリカが魔法で人間界から運び出し、女王によって合体が行われた<ref>第6シリーズ第1巻p154</ref>。 :; スウィートポロン :: 第3・5シリーズと同一。ももこの帰国に伴いクルールポロンから交換した。おんぷは復帰当初からこれを保有する。 :; 魔法玉 :: 第1シリーズと同一。 :; 空飛ぶほうき :: 第1シリーズと同一。 :; クッキングストーブ、キャンディタワー :: 第3・5シリーズと同一。'''S.H.MAHO'''堂への改装により再び設置された。なおクッキングストーブだけは、どれみたちが高校卒業後、'''MAHO'''堂が洋菓子店から魔法グッズの店に戻った後も残してもらった(お店としてではなく、元おジャ魔女やマジョリカ達のプライベートのお菓子作りのため)。 == 作中劇 == === 信子作品 === どれみたちのクラスメイトの一人、横川信子による創作。男役の信子があいこと共演する筋書きが多い。小学校卒業後も「美空小町」のペンネームでクラスメイト(高校は別々である)の丸山みほとの創作(合作)活動が、続いていることが第6シリーズで明かされた。 ; 「少年探偵 縦川信夫」 : 第1シリーズ第6話で登場 : 少年探偵として活躍する縦川信夫とその従順な助手である忠犬どれみが何者かに拉致された。縦川は忠犬どれみが監禁されている山小屋を見つけたが、その部屋には爆弾が仕掛けられていた。 ; 「走る少女」{{Efn2|登場時点では作りかけの作品であり、あとの展開をどれみたちが勝手に創造し、信子から注意を受けている。また、この作品で登場する高校は、「県立美空高等学校」である。}} : 第2シリーズ第10話で登場 : あいこは、新学期初日に校門でぶつかったのがきっかけで信彦と知り合った。第一印象は最悪だったが、徐々に互いに惹かれていく。しかし、信彦の家族やライバル・おんぷの妨害で2人はすれ違い始める。 ; 「無国籍戦士あいこ」 : 第3シリーズ第8話で登場。丸山みほとの合作漫画(信子が原案、みほが作画)。あいこ隊員がどれみロボに乗って麗香星人を倒す物語。当時日本語が読めなかったももこの為にマジカルステージで漫画の中に入って物語を楽しんだ。 ; 「カリスマ配達員」 : 第2シリーズ第39話で登場。信子が自身の経験を基に書いた、4年生のときの学芸会の台本。 ; 「ハナちゃんのひみつ」 : 第4シリーズ第8話で登場。「無国籍戦士あいこ」と同様に丸山みほとの合作漫画である。ハナちゃんが変身したり呪文を唱えたりするシーンが登場し、魔女だと知っているのではないかどれみたちに誤解される。 === テレビ・映画など === ; 「おジャ魔女時代劇 少女よ大志を抱け」 : 第2シリーズ第45話で放送された時代劇。魔女見習いが天女見習いなど、作中での時代に合わせた設定がなされている。 ; 「機動戦隊バトルレンジャー」 : 第1シリーズ第42話、第4シリーズ第24話などに登場。同じ東映グループ制作の特撮テレビドラマ「[[スーパー戦隊シリーズ]]」をモチーフとしたテレビドラマで、おんぷがミイ姫の役で出演している。どれみ(後にはハナちゃんも)は同作品の大ファンであり、左記2エピソードでは仲間たちを巻き込んで「おジャ魔女戦隊マジョレンジャー(第4シリーズ第24話では冠は「魔法戦隊」である)」に変身している。 ; 「ガザマドン」 : 第1シリーズ第38話、第2シリーズ第39話などに登場。[[ゴジラ]]シリーズをモチーフとした怪獣映画シリーズ。第3作「ガザマドン エピソード1」ではなぜか江戸時代が舞台となる。作中では瀬川おんぷが複数回出演している。ガザマドンの名前は製作担当の風間厚徳から。第6シリーズでは、同作品の二番煎じとして制作された「ザガイドン」シリーズが興行的に失敗したことが語られ、出演したおんぷの人気低下の一因になった。 ; 「しあわせ橋」 : 第1シリーズ第49話で、おんぷがヒロイン役のオーディションに出場したドラマ。 ; 「走れ熱血先生」 : 第3シリーズ第11話などに登場。少し昔の学園ドラマで、5年生ではづきたちの担任になった西沢先生が教師を志すきっかけとなった。 ; 「ブルームーン」 : 第6シリーズ第2巻でおんぷがオーディションを受けたミュージカル(舞台)。イギリスで話題になった作品を日本で公演する為に、新たなキャストを募るべくオーディションを行った。この舞台の成功によりおんぷは、チャイドルから女優への脱皮を遂げる。日本での初演は12月1日。日本での好評を受けて、翌年3月にはロンドンで、翌4月にはパリ・[[オデオン座]]で再演された。そしてパリ公演中におんぷはハナちゃんと思しき「パリの歌姫(読み:ディーヴァ)」の存在を知る。 == 登場人物 == {{Main|おジャ魔女どれみの登場人物}} 声はテレビアニメシリーズの[[声優]]。 ; [[春風どれみ]](はるかぜ どれみ) : 声 - [[千葉千恵巳]] : 本シリーズの主人公。赤毛のお団子頭がトレードマーク。自称「世界一不幸な美少女」。ステーキが何よりの大好物。 : ドジで何をやっても失敗ばかりだが、明るくて友達思いの優しい純粋な心の持ち主。魔女に憧れていて、偶然にもマジョリカが魔女だと知り、元に戻すために魔女見習いとなる。惚れっぽく、魔女見習いになった理由は「好きな人に告白する勇気が欲しい」。見習い服の色はピンク。 :魔女としての様々な修行や友人・知人達の悩みと向き合うにつれて、仲間達と共に1人の人間として大きな成長を遂げていく。 ; [[藤原はづき]](ふじわら はづき) : 声 - [[秋谷智子]] : どれみの幼馴染。茶髪のポニーテールと眼鏡が特徴。どれみが魔女見習いであることを最初に見破ったのも彼女である。 : おしとやかでおっとりとした性格だが、笑いのツボが他のズレている一面もある。家にばあやのいるお嬢様で、バイオリンが得意。魔女見習いになった理由は「母に嫌と言える勇気が欲しい」。見習い服の色はオレンジ。 : 自分が言いたいことがハッキリと言えないことに悩んでいたが、どれみ達と共にシリーズを通じて様々な経験を積んだ事で成長し、しっかりと自分なりの意見を言えるようになっていく。 ; [[妹尾あいこ]](せのお あいこ) : 声 - [[松岡由貴]] : 大阪生まれの転校生。おでこの広い青色のショートヘアが特徴。粋のいい浪速っ子。ボーイッシュで運動神経は抜群。 : 大阪弁で話し、天然な所のあるおジャ魔女たちのツッコミ役で常識人。両親が離婚し、父娘家庭の生活のため家事全般を担う。魔女見習いになった理由は両親の復縁。見習い服の色は水色。 ; [[瀬川おんぷ]](せがわ おんぷ) : 声 - [[宍戸留美]] : 第1シリーズの中盤から登場。人気チャイドルの転校生。紫色のサイドテールが特徴。マジョリカのライバルであるマジョルカの正体を知ったことで魔女見習いとなった。 : 普段はチャイドルらしく愛想良く振舞うが、本来はクールでドライな性格。向上心があり、学業と芸能活動、魔女見習いを両立させている。 :当初は禁断の「人の気持ちを変える魔法」を多用することからどれみたちと対立していたが、彼女たちと過ごしていく内に心を開き友達になる。 : 第2シリーズからはどれみたちの仲間として行動し、角が取れて穏やかな性格になっている。見習い服の色は紫。 ; [[飛鳥ももこ]](あすか ももこ) : 声 - [[宮原永海]] : 第3シリーズから登場。アメリカ育ちの転校生。ライトイエロー色のリング型の髪型が特徴。お菓子作りが得意。以前までは師匠のマジョモンローの下で働き魔女見習いとなっていたが、その師匠を亡くした上に禁断の魔法を使用したことで、どれみたちと合流した。 : アメリカ育ちらしい、天然で明るくハイテンションな性格。転入当初は日本語がまともに話せないなどのアメリカとのカルチャーショックや自分の意見をストレートに口にしすぎて相手への配慮を欠いたことからトラブルを起こすが、どれみたちのおかげで本来の明るさを取り戻す。見習い服の色は黄色。 ; [[春風ぽっぷ]](はるかぜ ぽっぷ) : 声 - [[石毛佐和]]、[[詩乃優花]](代役) : どれみの妹。外ハネしたピンク色のショートヘアが特徴。どれみたちの正体を偶然目撃し、姉を追いかけるように魔女見習いになる。どれみたちよりも年下なので魔女見習い最年少。 : 姉のどれみと違って、おませなしっかり者。どれみを馬鹿にすることも多々あるが、本当はどれみのことが大好きな甘えん坊。途中からピアノを習い始める。見習い服の色は赤。 ; [[ハナちゃん (おジャ魔女どれみ)|ハナちゃん]] : 声 - [[大谷育江]] : 第2シリーズから登場。魔女界のバラから産まれた赤ちゃんで、次期女王候補である。どれみたちが育ての親となり、赤ん坊の時は小学生で子育てすることになったどれみたちをハラハラさせるが、彼女たちの献身もあって実母同然に慕うようになり、結果としてどれみ達の成長に大きく貢献する。 : 第4シリーズではふとした出来事がきっかけで、魔法でどれみたちと同年代まで急成長し、「巻旗山 花(まきはたやま はな)」という名前でどれみたちの小学校に通い、魔女見習いとなる。ただし、無邪気さは幼稚園児のままなため、度々トラブルを引き起こす。見習い服の色は白。 ; [[マジョリカ (おジャ魔女どれみ)|マジョリカ]] : 声 - [[永澤菜教]] : 「MAHO堂」のオーナーを務める魔女。どれみに正体を知られ、呪いで魔女ガエルになってしまう。元の姿に戻して貰うため、どれみたちを魔女見習いにする魔法の師匠的存在。 : 当初は人間嫌いでどれみたちを厳しく叱っていたが、彼女達と交流する内に心を開く。 ; ララ : 声 - [[高村めぐみ]] : マジョリカのお付きの妖精。普段は人型の妖精の姿をしているが、おジャ魔女以外の人の前では猫の姿をしている。おジャ魔女達のお姉さん的存在で、マジョリカを落ち着かせる唯一の人物である。 ; 魔女界の女王様 : 声 - [[今井由香]] : 魔女界に住む美しく寛大な女王様。おジャ魔女達のことを見守っている。ベールの下の顔は謎に包まれているが、その素顔は第4シリーズで明かされる。 == スタッフ == * 原作 - [[東堂いづみ]] * 連載 - [[講談社]]「[[なかよし]]」 * シリーズ構成 - [[山田隆司]] * 音楽 - [[奥慶一]] * 製作担当{{Efn2|第3シリーズ第27話から第30話までは連名。}} - 風間厚徳(第1話 - 第3シリーズ第30話) → [[坂井和男]](第3シリーズ第27話 - ) * 美術デザイン - ゆきゆきえ、[[行信三]] * 色彩設計 - [[辻田邦夫]] * キャラクターコンセプトデザイン・総作画監督 - [[馬越嘉彦]] * 監修 - [[佐藤順一]](「ナ・イ・ショ」) * シリーズディレクター - [[五十嵐卓哉]]、佐藤順一(第1シリーズ) → [[山内重保]](第2シリーズ) * 音楽制作 - [[バンダイ・ミュージックエンタテインメント|バンダイ・ミュージック]] → [[キングレコード]] → [[マーベラスエンターテイメント]] * 演技事務 - 小浜匠 * デジタル撮影 - 三晃プロダクション * 効果 - 石野貴久([[サウンドリング]]) * アニメーション制作 - 東映アニメーション * 制作協力 - [[東映]]{{Efn2|name="seisaku"|1998年に「東映動画」から「東映アニメーション」へと商号が変更されているが、第1シリーズ放送時点でのクレジット表記は「制作:朝日放送、ASATSU-DK、東映」とされ、テレビアニメシリーズの途中から現在の制作体制に変更。}} * 制作 - [[朝日放送テレビ|朝日放送]] (「ナ・イ・ショ」を除く)、[[アサツー ディ・ケイ|ADK]]、[[東映アニメーション]]{{Efn2|name="seisaku"}}、マーベラスエンターテイメント(「ナ・イ・ショ」のみ) === シリーズプロデューサー === * おジャ魔女どれみ - 株柳真司(朝日放送)、堀内孝・荒井加奈子(ASATSU-DK)、蛭田成一・[[関弘美]](東映アニメーション) * おジャ魔女どれみ♯ - 株柳真司・西澤萠黄(朝日放送)、荒井加奈子・成毛克憲(ASATSU-DK)、関弘美(東映アニメーション) * も〜っと! おジャ魔女どれみ - 西澤萠黄(朝日放送)、成毛克憲・高橋知子(ASATSU-DK)、関弘美(東映アニメーション) * おジャ魔女どれみドッカ〜ン! - 西澤萠黄(朝日放送)、高橋知子(ASATSU-DK→ADK)、関弘美(東映アニメーション) * おジャ魔女どれみナ・イ・ショ - 関弘美、小林宣弘(東映アニメーション)、高橋知子(ASATSU-DK→ADK)、川村彩(マーベラスエンターテイメント) == 主題歌 == === オープニングテーマ === ; おジャ魔女どれみ :; 「[[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#おジャ魔女カーニバル!!|おジャ魔女カーニバル!!]]」 :: 作詞 - [[大森祥子]] / 作曲 - [[池毅]] / 編曲 - [[坂本昌之]] / 歌 - [[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#MAHO堂|MAHO堂]] ::* 1999年の第4回[[アニメーション神戸]] AM・KOBE賞(主題歌賞)受賞曲 ::* 第4シリーズ最終回でも挿入歌として使用。 ; おジャ魔女どれみ♯ :; 「[[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#おジャ魔女はココにいる|おジャ魔女はココにいる]]」 :: 作詞 - 並河祥太 / 作曲・編曲 - 堀隆 / 歌 - MAHO堂 ; も〜っと! おジャ魔女どれみ :; 「[[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#おジャ魔女でBAN2|おジャ魔女でBAN<sup>2</sup>]]」 :: 作詞 - [[里乃塚玲央]] / 作曲 - [[小杉保夫]] / 編曲 - 安井歩 / 歌 - MAHO堂 ; おジャ魔女どれみドッカ〜ン! :; 「[[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#DANCE!おジャ魔女|DANCE!おジャ魔女]]」 :: 作詞 - [[もりちよこ]] / 作曲 - 小杉保夫 / 編曲 - 山中紀昌 / 歌 - MAHO堂 ; おジャ魔女どれみナ・イ・ショ :; 「[[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#ナ・イ・ショ・YO! おジャ魔女|ナ・イ・ショ・YO! おジャ魔女]]」 :: 作詞 - [[柚木美祐]] / 作曲 - 吉山隆之 / 編曲 - 川本盛文 / 歌 - MAHO堂 * 「おジャ魔女カーニバル!!」、「おジャ魔女はココにいる」は第3シリーズ時のMAHO堂メンバーで収録したバージョンもある([[#ミュージカル|ミュージカル]]で使用)。 * オープニングアニメーションは、同一の主題歌でも複数のバリエーションが存在することがある。「おジャ魔女カーニバル!!」には魔女見習いの[[春風ぽっぷ]]が登場するバージョンが、「DANCE! おジャ魔女」にはハナちゃんのお着替えシーンが異なるバージョンがそれぞれ存在する。「おジャ魔女はココにいる」、「おジャ魔女でBAN<sup>2</sup>」にもバリエーションがある。 === エンディングテーマ === ; おジャ魔女どれみ :; 「きっと明日は」 :: 作詞 - 大森祥子 / 作曲 - 茅原万起 / 編曲 - [[川崎真弘]] / 歌 - [[しゅうさえこ]] ::* 第51話では劇中シークエンスで使用された。 ; おジャ魔女どれみ♯ :; 「声をきかせて」 :: 作詞・作曲 - 杉山加奈 / 編曲 - 丸尾めぐみ / 歌 - MAHO堂 ::* 第49話では劇中シークエンスにてフルサイズで使用された。 ; も〜っと! おジャ魔女どれみ :; 「たからもの」 :: 作詞・作曲 - 茅原万起 / 編曲 - 安井歩 / 歌 - [[こむろゆい]] ::* 他のシリーズとは異なり最終回(第50話)でも通常の映像が用いられた。 ; おジャ魔女どれみドッカ〜ン! :; 「わたしのつばさ」(第1話 - 第13話、第31話 - 第51話) :: 作詞 - [[佐藤順一|ひかわさくら]] / 作曲 - 佐野恭野 / 編曲 - 信田かずお / 歌 - [[中司雅美]] ::* 第51話のみ、佐藤順一の子供達による合唱で、2番まで使用された<ref>『おジャ魔女どれみメモリアルアルバム』 宙出版、2005年、323頁 {{ISBN2|4-7767-9196-X}}</ref>。 :; 「おジャ魔女音頭でハッピッピ!!」(第14話 - 第30話) :: 作詞 - 武頼杏 / 作曲 - 小杉保夫 / 編曲 - 上田益 / 歌 - MAHO堂 ::* 「東映アニメーション魔女っ子シリーズ」で音頭が放送されたのは、史上初{{Efn2|これより前『[[ひみつのアッコちゃん|ひみつのアッコちゃん(第2期)]]』で、「アッコちゃん音頭」がリリースされたことがあったが、[[1989年]][[7月]]公開の劇場版で流されたのみだったので、TV放送は史上初。}}。 ; おジャ魔女どれみナ・イ・ショ :; 「ステキ∞(ムゲンダイ)」(第1話 - 第11話、第13話) :: 作詞 - 柚木美祐 / 作曲 - [[manzo|坂下正俊]] / 編曲 - 川本盛文 / 歌 - MAHO堂 ::* 最終回となる第13話のみダイジェスト映像となっている。 :; 「たからもの」(第12話) ::* 第3シリーズのエンディング。第12話のみエンディングでこの曲が使われた。 == 放送局 == {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !放送局!!放送期間!!放送日時!!備考 |- |[[朝日放送テレビ|朝日放送]]・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]{{Efn2|[[クロスネットワーク|クロスネット]]の[[福井放送]]、[[テレビ宮崎]]除く。}}||1999年2月7日 - 2003年1月26日||日曜 8:30 - 9:00|| |- |[[山陰放送]]|| || 木曜 16:00 - 16:30<br />(1999年9月時点)<ref name="ani199910">『[[アニメージュ]]』1999年10月号([[徳間書店]])全国放送局別放映リスト(157頁)</ref><br />水曜 16:54 - 17:24<br />(2001年7月時点)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=2001年8月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=116}}</ref><br />水曜 16:50 - 17:20<br />(2002年7月時点)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=2002年8月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=118}}</ref><br />土曜 7:00 - 7:30<br />(2003年1月時点)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=2003年2月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=136}}</ref> ||スポンサードネット |- |rowspan="7"|[[チューリップテレビ]]||2000年4月15日<ref>富山新聞 2000年4月15日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2000年7月1日<ref>北日本新聞 2000年7月1日付朝刊テレビ欄より</ref>||土曜 6:00 - 6:30||rowspan="3"|第1シリーズ |- |2000年7月10日<ref>北日本新聞 2000年7月10日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2000年9月25日<ref>北日本新聞 2000年9月25日付朝刊テレビ欄より</ref>||月曜 16:00 - 16:29 |- |2000年10月3日<ref>北日本新聞 2000年10月3日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2001年5月1日<ref>北日本新聞 2000年5月1日付朝刊テレビ欄より</ref>{{efn2|終了後約2ヶ月間シリーズ休止。この間は『[[まんが日本昔ばなし]]』の再放送となった。}}||rowspan="2"|火曜 16:28 - 17:00 |- |2001年7月3日<ref>北日本新聞 2001年7月3日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2002年3月12日<ref>北日本新聞 2002年3月12日付朝刊テレビ欄より</ref>||rowspan="4"|第2 - 第4シリーズ |- |2002年3月26日<ref>北日本新聞 2002年3月26日付朝刊テレビ欄より</ref>||火曜 16:22 - 16:50 |- |2002年4月1日<ref>北日本新聞 2002年4月1日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2002年9月23日<ref>北日本新聞 2002年9月23日付朝刊テレビ欄より</ref>||月曜 16:20 - 16:50 |- |2002年9月28日<ref>北日本新聞 2002年9月28日付朝刊テレビ欄より</ref> - 2004年5月15日<ref>富山新聞 2004年5月15日付朝刊テレビ欄より</ref>||土曜 6:00 - 6:30 |- |rowspan="3"|[[宮崎放送]]||2001年5月7日 - 8月6日||月曜 - 木曜 5:30 - 6:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=2001年8月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=117}}</ref>||第1シリーズ |- |2001年10月1日 - 12月26日||月曜 - 木曜 5:30 - 6:00||第2シリーズ |- |2002年9月4日 - 2004年8月11日||水曜 5:30 - 6:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=2003年6月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=111}}</ref>||第3シリーズ以降 |- |[[テレビ高知]]|| || 水曜 16:30 - 17:00<ref name="ani199910" /> ||第1シリーズのみ |} ; 『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』(全13話) {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! 放送局!!放送期間!!放送日時!!style="width:50%"|備考 |- |朝日放送||2005年3月25日 - 4月10日|| ||第1話 - 第6話、第8話 - 第12話は平日午前([[子供アニメ大会]]枠)にて、<br />第7話、第13話は日曜6:30 - 7:00にてそれぞれ放送。 |- |[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]||2005年4月2日 - 7月9日||土曜 7:00 - 7:30||6月18日は「[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープンゴルフ]]」、6月25日は「[[全米女子オープン|全米女子オープンゴルフ]]」の生中継のため休止。 |- |[[テレビ神奈川]]||2005年6月21日 - 11月15日||火曜 20:00 - 20:30||7月5日は『神奈川県議会中継』(19:00 - 20:25)、7月12日は『プロ野球〜横浜 横浜×広島』(19:00 - 21:30)、7月19日は『プロ野球〜甲子園 阪神×横浜』(19:00 - 21:30)、8月2日は『プロ野球〜横浜 横浜×阪神』(19:00 - 21:30)、8月16日は『プロ野球〜大阪ドーム 阪神×横浜』(19:00 - 21:30)、9月13日は『プロ野球〜ナゴヤドーム 中日×横浜』(19:00 - 21:30)、9月27日は『プロ野球〜横浜 横浜×中日』、10月4日は『神奈川県議会中継』(19:00 - 20:25)、11月8日は『高校サッカー選手権神奈川県大会〜等々力』(19:00 - 21:30)のためそれぞれ休止。 |- |[[群馬テレビ]]||2005年8月2日 - 11月1日||火曜 17:00 - 17:30||9月13日は『競艇中継』(14:45 - 17:30)のため休止。 |- |[[秋田朝日放送]]|||2005年8月25日 - 12月8日||木曜 16:00 - 16:30||9月8日は『健康達人の旅〜膝関節とサメ軟骨の巻〜』(16:00 - 16:30)、11月24日は『わくわくビューティ!』(16:00 - 16:30)、12月1日は『インフォ』(16:00 - 16:30)のため休止。 |- |[[千葉テレビ放送|チバテレビ]]||2006年2月1日 - 5月23日||火曜 17:30 - 18:00||3月7日は『茨城県立高校入試解答速報』(17:30 - 17:45)、『地球は元気!まつりに乾杯!!』(17:45 - 18:00)のため休止。 |- |[[テレビ埼玉]]||||金曜 18:30 - 19:00|| |- |[[サンテレビジョン|サンテレビ]]||||月曜 - 木曜 7:00 - 7:30|| |- |[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]||||日曜 6:30 - 7:00|| |- |[[TVQ九州放送]]||||日曜 5:30 - 6:00|| |- |[[サガテレビ]]||||水曜 15:30 - 15:57|| |} ; その他 BS朝日では「おジャ魔女どれみ#」の途中で打ち切られた。CS放送では、キッズステーションにおいて第4シリーズまでが放送され、字幕放送も実施された。 海外では、韓国において第3シリーズまでが[[文化放送 (韓国)|MBC]]で、第4シリーズがケーブルテレビ「[[トゥーニバース]]」のみでそれぞれ放送。後者では主題歌を差し替えて放送となった。また第5シリーズは韓国の他、イタリア、スペインでも日本と同様にケーブルテレビでの放送実績がある。 == アニメサブタイトルリスト == {{see|おジャ魔女どれみのエピソード一覧}} == 短編アニメ == === お笑い劇場 === ; 『おジャ魔女どれみ お笑い劇場』 : おジャ魔女どれみ20周年記念として、2019年3月23日から2020年3月22日まで、東映アニメーション公式Youtubeチャンネルにて全26話が配信された。 : 第6シリーズと同じ時系列上のストーリーにあたるが、一方で登場キャラが2頭身のデフォルメキャラとなっているなど、同シリーズと比べてコミカルな作風が志向されており、一部の設定も異なっている{{Efn2|第6シリーズでは常時本来の姿であるはずのマジョリカがマジョガエルの姿で登場する等。}}。キャストならびに一部のスタッフはテレビアニメシリーズに準じる。また、配信日時は地上波でのテレビアニメシリーズの放送当時の日時に合わせ、隔週日曜の8:30からの配信とされている。 ; キャスト(お笑い劇場) :* 春風どれみ - 千葉千恵巳 :* 藤原はづき - 秋谷智子 :* 妹尾あいこ - 松岡由貴 :* 瀬川おんぷ - 宍戸留美 :* 飛鳥ももこ、矢田まさる - 宮原永海 :* 春風ぽっぷ - 石毛佐和 :* マジョリカ - 長澤菜教 :* ハナちゃん - 大谷育江 :* 小竹哲也 - [[氷青]] :* 玉木麗香 - [[永野愛]] ; スタッフ(お笑い劇場) * 監督 - [[谷東]] * 企画 - 関弘美、国広守 * 原作 - 東堂いづみ * プロデューサー - 原田拓朗 * 音楽 - 奥慶一 * キャラクターデザイン - 馬越嘉彦 * 音響監督/録音 - 亀田亮治 * 音響効果 - [[出雲範子]] * 録音スタジオ - スタジオJumo * 音響制作 - Ai Addiction * 製作 - coyote * 制作 - 東映アニメーション ; 主題歌(お笑い劇場) : 「おジャ魔女カーニバル!」 ; 各話リスト(お笑い劇場) {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!脚本!!配信日 |- |第1話||結成!お笑いMAHO堂||栗山緑||'''2019年'''<br />3月23日 |- |第2話||今は昔 パート1||rowspan="3"|大和屋暁||4月14日 |- |第3話||誰が突っ込み?||4月28日 |- |第4話||連想クイズ||5月12日 |- |第5話||ステーキの呪い||rowspan="2"|栗山緑||5月26日 |- |第6話||今は昔 パート2||6月8日 |- |第7話||何食べる?||大和屋暁||6月22日 |- |第8話||おジャ魔女大喜利 その1||栗山緑||7月6日 |- |第9話||今は昔 パート3||rowspan="2"|大和屋暁||7月20日 |- |第10話||玩具||8月4日 |- |第11話||ハナちゃんがやってきた||栗山緑||8月25日 |- |第12話||通訳||rowspan="2"|大和屋暁||9月7日 |- |第13話||いらっしゃい||9月22日 |- |第14話||おジャ魔女大喜利 その2||栗山緑||10月5日 |- |第15話||最近どうなの?||大和屋暁||10月19日 |- |第16話||ハナちゃんはストーカー?①||栗山緑||11月2日 |- |第17話||今は昔 パート4||大和屋暁||11月16日 |- |第18話||玉木麗香は絶好調!||rowspan="2"|栗山緑||12月1日 |- |第19話||あいちゃんの恋愛事情||12月14日 |- |第20話||はじめての[[蕎麦#コロッケそば|○○]]||大和屋暁||12月28日 |- |第21話||ハナちゃんはストーカー?②||rowspan="3"|栗山緑||'''2020年'''<br />1月12日 |- |第22話||今は昔 パート5||1月26日 |- |第23話||もしも、あいちゃんが東京育ちだったら||2月9日 |- |第24話||今は昔 パート6||rowspan="3"|大和屋暁||2月23日 |- |第25話||おジャ魔女大喜利 その3||3月7日 |- |第26話||おジャ魔女大喜利 その4||3月22日 |} === ほのぼの劇場 === ; 短編Flashアニメ集おジャ魔女どれみ ほのぼの劇場 20周年大感謝祭(カーニバル)プロジェクト[[クラウドファンディング]]の特典としてBlu-ray収録予定の短編Flashアニメ<ref>[https://www.doremi-anniv.com/news/notice/2019122701/ 「おジャ魔女どれみ」のハタチの成人式をお祝いしたい!おジャ魔女どれみ20周年大感謝祭(カーニバル)プロジェクト!1月8日(水)スタート] おジャ魔女どれみ20周年公式サイト 2019年12月27日</ref>。全5話。また2020年1月10日開催の期間限定ショップでも第2話をミニシアター上映された<ref>[https://natalie.mu/comic/news/361317 「おジャ魔女」期間限定ショップを渋谷で、新作Flashアニメの最速上映も] コミックナタリー 2019年12月27日</ref>。 ; キャスト(ほのぼの劇場) * 春風どれみ - 千葉千恵巳 * 藤原はづき - 秋谷智子 * 妹尾あいこ - 松岡由貴 * 瀬川おんぷ - 宍戸留美 * 飛鳥ももこ - 宮原永海 * マジョリカ - 永澤菜教 * ララ - 高村めぐみ * 女の子 - [[白石晴香]] ; スタッフ(ほのぼの劇場) * 監督 - ポエ山 * キャラクターコンセプトデザイン - 馬越嘉彦 * 音響監督 - 佐藤順一、鎌谷悠 ; 各話リスト(ほのぼの劇場) {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!脚本 |- |第1話||さいこうのおくりもの♪<ref>講談社刊『おジャ魔女どれみ おはなしえほん さいこうの おくりもの♪』より。2015年11月29日発売。文:摘木葉枝芽、絵:馬越嘉彦 {{ISBN2|978-4-06-219844-8}}</ref>||東堂いづみ |- |第2話||げんきのまほう♪||山崎亮 |- |第3話||あめふりのまほう♪||黒須美由記 |- |第4話||ことばのまほう♪||成田良美 |- |第5話||みんなのたからもの♪||高木黎 |} == 劇場版 == === 『映画 おジャ魔女どれみ♯(しゃーぷっ)』 === : [[2000年]][[7月8日]]に「[[東映アニメフェア]]」の一環として公開された。 ; ストーリー : 5級試験を終えたぽっぷが魔女界から持ち帰った「ウィッチー・クイーン・ハート」という花によって巻き起こる騒動の物語。どれみがねずみになる事件を通じて、どれみとぽっぷの姉妹の絆を描く。同作品での騒動は、第2シリーズ第37話の回想シーンでも語られており、さらにラストシーンは第2シリーズ第40話へ直接繋がる形にもなっている。 ; キャスト :* 春風どれみ - 千葉千恵巳 :* 藤原はづき - 秋谷智子 :* 妹尾あいこ - 松岡由貴 :* 瀬川おんぷ - 宍戸留美 :* 春風ぽっぷ - 石毛佐和 :* マジョリカ - 長澤菜教 :* ハナちゃん - 大谷育江 ; スタッフ :* 企画 - 関弘美 :* 監督 - 五十嵐卓哉 :* 脚本 - 栗山緑 :* 音楽 - 奥慶一 :* 美術 - 行信三、下川忠海 :* 作画監督 - 馬越嘉彦 :* 制作 - 東映、東映アニメーション、[[バンダイ]] ; 主題歌 :; オープニングテーマ「おジャ魔女はココにいる」 :; エンディングテーマ「ぽっぷな勇気」 :: 作詞 - 小森まなみ / 作曲・編曲 - 奥慶一 / 歌 - [[小森まなみ]] === 『映画 も〜っと! おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ』 === : [[2001年]][[7月14日]]に「東映アニメフェア」の一環として公開された。 ; ストーリー : どれみの父方の祖父母が住む[[高山市|飛騨高山]]を訪れたどれみたちが、地元の伝説「カエル石」にまつわる不思議な出来事に遭遇する。間接的ではあるが同作品の内容の一部が、第4シリーズ第38話に引き継がれ、その他にも第5シリーズ第3話にも回想シーンとして登場したり、第3シリーズ第46話においても少しだけ語られている。また、劇中曲『カエルが一つなきゃ』が第4シリーズ第31話でも流されている。 ; キャスト :* 春風どれみ - 千葉千恵巳 :* 藤原はづき - 秋谷智子 :* 妹尾あいこ - 松岡由貴 :* 瀬川おんぷ - 宍戸留美 :* 飛鳥ももこ - 宮原永海 :* 春風ぽっぷ - 石毛佐和 :* どれみの祖父 - [[たてかべ和也]] :* 魔女ガエル - 長澤菜教 ; スタッフ :* 企画 - 関弘美 :* 監督 - 山内重保 :* 脚本 - 栗山緑 :* 音楽 - 奥慶一 :* 美術 - 行信三 :* 作画監督 - 馬越嘉彦 :* 制作 - 東映、東映アニメーション、バンダイ ; 主題歌 :; オープニングテーマ「おジャ魔女でBAN<sup>2</sup>」 :; エンディングテーマ「夏のまほう」 :: 作詞 - 柚木美祐 / 作曲 - 池毅 / 編曲 - 信田かずお / 歌 - MAHO堂 === 『魔女見習いをさがして』 === {{Main|魔女見習いをさがして}} {{Infobox Film | 作品名 = 魔女見習いを探して | 監督 = [[佐藤順一]]<br/>[[鎌谷悠]] | 脚本 = [[山田隆司|栗山緑]]([[山田隆司]]) | 出演者 = [[森川葵]]<br />[[松井玲奈]]<br />[[百田夏菜子]]([[ももいろクローバーZ]])<br />[[三浦翔平]]<br />[[石田彰]]<br />[[浜野謙太]]<br />ほか | 興行収入 = 3億円<ref>『キネマ旬報』2021年3月下旬特別号 p.45</ref> | 配給 = [[東映]] | 言語 = [[日本語]] | 製作国 = {{JPN}} | 公開日 = {{JPN}}2020年11月13日 }} 『おジャ魔女どれみ』20周年記念として制作が発表された<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2132095/full/ 『おジャ魔女どれみ』新作映画制作決定 スタッフ&キャスト集結『魔女見習いをさがして』20年公開],ORICON NEWS,2019年3月23日</ref>映画作品で、キャストおよびスタッフも再集結して制作された<ref>[https://natalie.mu/comic/news/353353 映画「魔女見習いをさがして」来年5月公開!キャラ&物語解禁、どれみたちの姿も],コミックナタリー,2019年10月29日</ref><ref>[https://natalie.mu/comic/news/353370 「おジャ魔女」から20年、主人公は20代!佐藤順一監督らが新作映画を語る(イベントレポート)],コミックナタリー,2019年10月29日</ref>。テレビアニメシリーズとは異なりどれみたちではなく、子供のころに『どれみ』を見ていた女性3人を主人公に据え、一緒に旅に出るという物語が描かれている。 当初は2020年5月15日に公開予定<ref>[https://mantan-web.jp/article/20191029dog00m200047000c.html 魔女見習いをさがして:2020年5月15日公開 主人公は「おジャ魔女どれみ」世代の3人の20代女性],まんたんウェブ,2019年10月29日</ref>であったが、制作上の都合により公開を同年秋に延期することが、2020年3月19日に発表<ref>[https://www.lookingfor-magical-doremi.com/news/67/ 『魔女見習いをさがして』公開延期のお知らせ],公式サイト内『NEWS』(2020年3月19日).2020年3月20日閲覧</ref>。その後同年11月13日に公開されることが、8月18日に改めて発表された<ref>[https://www.lookingfor-magical-doremi.com/news/191/ 公開日が正式決定!さらに、ヒロイン3人の声が収まった待望の予告映像も解禁!],公式サイト内『NEWS』(2020年8月18日).2020年8月18日閲覧</ref>。 2021年1月、第75回[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞]]を受賞<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20210121dog00m200057000c.html|newspaper=まんたんウェブ|title=魔女見習いをさがして:「毎日映画コンクール」アニメーション映画賞受賞 「おジャ魔女どれみ」20周年記念作|date=2021-01-22|accessdate=2021-01-22}}</ref>。 ; ストーリー : 愛知に住む教師を目指す22歳の大学生・長瀬ソラ。東京に住む一流貿易商社で働く帰国子女で語学堪能な27歳の吉月ミレ。広島に住む絵画修復士になるためバイトに励む20歳のフリーター川谷レイカ。年齢も境遇も違う3人の共通点は幼少期に『おジャ魔女どれみ』を見ていたということ。「MAHO堂」のモデルと言われている鎌倉の洋館で偶然出会った3人はお互いに魔法玉を持っていたことで意気投合、ゴールデンウィークに聖地巡礼として飛騨高山へ3人で旅行に出ることになる。 ; キャスト :* 長瀬ソラ - [[森川葵]]<ref name="natalie368967">{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/368967|title=森川葵、松井玲奈、百田夏菜子が「魔女見習いをさがして」でトリプル主演|newspaper=映画ナタリー|date=2020-02-28|accessdate=2020-02-28}}</ref> :* 吉月ミレ - [[松井玲奈]]{{R|natalie368967}} :* 川谷レイカ - [[百田夏菜子]]{{R|natalie368967}} :* 大宮竜一 - [[三浦翔平]] :* 矢部隼人 - [[石田彰]] :* 久保聖也 - [[浜野謙太]] :* 春風どれみ - 千葉千恵巳{{Efn2|京都の公園の女の子(姉)の声も演じている。<ref name="majominarainaisyobanashi">『魔女見習いをさがして』劇場版公式パンフレット 「あなたは気がついた?『魔女見習いをさがして』のナイショ話」のページおよび「声の出演」ページ参照。</ref>}} :* 藤原はづき - 秋谷智子{{Efn2|飛騨高山の女子中学生(妹)の声も演じている{{R|majominarainaisyobanashi}}。}} :* 妹尾あいこ - 松岡由貴{{Efn2|飛騨高山の女子中学生(姉)の声も演じている{{R|majominarainaisyobanashi}}。}} :* 瀬川おんぷ - 宍戸留美{{Efn2|尾道のお好み焼き屋の女性客の声も演じている{{R|majominarainaisyobanashi}}。}} :* 飛鳥ももこ - 宮原永海{{Efn2|飛騨高山の野球少年の声も演じている{{R|majominarainaisyobanashi}}。}} :* 春風ぽっぷ - 石毛佐和{{Efn2|京都の公園の女の子(妹)の声も演じている{{R|majominarainaisyobanashi}}。}} :* ハナちゃん - 大谷育江 :* マジョリカ - 永澤菜教 :* 宮尾課長(ミレの上司) - [[金光宣明]] :* 玉木哲司(レイカの父) - [[菅原淳一]] :* 京都の公園の姉妹の父親 - [[望月祐多]]<ref name="majominaraikoenosyutsuen">『魔女見習いをさがして』劇場版公式パンフレット 「声の出演」ページ参照。</ref> :* 塾指導員 - [[詩乃優花]]{{R|majominaraikoenosyutsuen}} :* エゼキエル - [[厚切りジェイソン]]<ref name="natalieowarai">{{Cite web|和書|work=お笑いナタリー|url=https://natalie.mu/owarai/news/403362|title=厚切りジェイソン&Kダブシャイン、映画「魔女見習いをさがして」声優に|accessdate=2021-08-07}}</ref> :* エゼキエルが勤める会社の代表 - [[Kダブシャイン]]{{R|natalieowarai}} ; スタッフ :* 企画 - 関弘美 :* 脚本 - 栗山緑 :* 音楽 - 奥慶一 :* キャラクターデザイン・総作画監督 - 馬越嘉彦 :* 作画監督 - [[中村章子]]、佐藤雅将、馬場充子、[[石野聡]]、西位輝美、浦上貴之 :* 絵コンテ - 佐藤順一、鎌谷悠、五十嵐卓哉、[[谷東]] :* 制作担当 - 村上昌裕 :* 編集 - [[西山茂 (編集技師)|西山茂]] :* 録音 - 川崎公敬 :* 音響効果 - 石野貴久 :* 音楽構成 - 水野さやか :* 美術デザイン - 田尻健一 :* MAHO堂デザイン - 行信三、ゆきゆきえ :* 色彩設計 - 辻田邦夫 :* 撮影監督 - 白鳥友和 :* 主題歌 - MAHO堂「おジャ魔女カーニバル!!(魔女見習いをさがして Version)」 :* 劇中歌 - MAHO堂+子供たち「おジャ魔女カーニバル!!(+子供たち Version)」 :* エンディングテーマ - 瀬川おんぷ(宍戸留美)「終わらない物語(魔女見習いをさがして Version)」 :* アニメーション制作 - 東映アニメーション :* 制作 - 東映、東映アニメーション :* 配給 - 東映 :* 監督 - 佐藤順一、鎌谷悠 == アニメ以外のメディア == === コミック === [[たかなししずえ]]による漫画版が、[[講談社]]の月刊誌『[[なかよし]]』の[[1999年]][[3月]]号から2003年[[1月]]号まで連載された。単行本は、後述の漫画版第2シリーズの1巻までが刊行され、漫画版全体としての最終話は『おジャ魔女どれみ公式ヒストリーブック』に収録された。 基本的な設定は第1シリーズのそれに準じるものの、物語構成とストーリーは独自のものとなっており、特に第1シリーズのおんぷ編に相当するエピソードから、第2シリーズに相当する辺りまでは完全にオリジナルの展開となっている。また連載当初は、毎月15 - 20ページ程度の枠による通常の漫画連載であったが、後述の漫画版第3シリーズの開始(2002年3月号)に伴い、月8ページ単位のショートコミックへと移行し、さらに内容の簡略化が進むこととなった。 雑誌連載時において、第2シリーズのそれとして掲載されていた物語{{Efn2|2巻収録第13話以降の物語。}}は、単行本収録に際して前半が「テレビアニメ第1シリーズの話」{{Efn2|3巻収録分(第20話)まで}}、後半が「テレビアニメ第3シリーズの話」{{Efn2|漫画版2期となる『も〜っと!おジャ魔女どれみ』単行本1巻収録第3話まで。}}としてそれぞれ組み込まれており、その都合上単行本では『おジャ魔女どれみ♯』という物語そのものが存在していない{{efn2|他方で、単行本『も〜っと!』1巻に収録されている、おんぷ主役の番外編『ないしょのメリークリスマス』にのみ、『おジャ魔女どれみ♯ 番外編』のタイトルが残されている。}}。これを踏まえて本節のみ、漫画版において「テレビアニメの第1シリーズならびに第2シリーズ前半部」に相当する部分を「'''漫画版第1シリーズ'''」、「テレビアニメの第2シリーズ後半部と第3シリーズ」に相当する部分を「'''漫画版第2シリーズ'''」、そして「テレビアニメの第4シリーズ」に相当する部分を「'''漫画版第3シリーズ'''」として、それぞれ呼称するものとする。 ==== アニメシリーズとの主な相違点 ==== * どれみ・はづき・あいこは最初からクラスメートとして登場しており、魔女見習いになったのも同時(どれみがマジョリカの正体を見破った現場に、はづきとあいこも居合わせている)になっている。また月刊雑誌連載の制約から家庭環境にまつわる話は最小限触れるにとどまり、同級生たちをメインとした話も、ほぼオミットされている。 * バッドカード(漫画版ではバッドボム)<ref>単行本2巻収録第9話</ref>編は簡略化され、2話で<ref>単行本2巻収録第10話</ref>終わっている。そのためオヤジーデの登場がテレビアニメの第2シリーズ相当部分まで無い上、オヤジーデもおジャ魔女たちにとっての敵役以上の役割を持っておらず、オヤジーデのマスコット姿も登場しない(オヤジーデとバッドアイテムの関連性も明言されない)。 * どれみたちの魔女検定がテレビアニメの第1シリーズの該当部分で収まらず、同第2シリーズの該当部分にずれ込んでいる。また、この部分より検定試験の内容も4級から2級までは、漫画オリジナルのものへと変更されている<ref>2巻収録第13話。同話数では4級試験が描かれている。</ref>{{Efn2|4級試験は子守り。3級試験(同時におんぷの2級試験)はカップルの仲直り。2級試験はボオちゃんの捕獲。1級試験はテレビアニメ第3シリーズ(漫画版第2シリーズ)の「5回のパティシエ試験」で、これに関しては内容・顛末ともにアニメでのそれにほぼ準じている。前述した刊行方式の都合上、単行本では第1回パティシエ試験のみが収録されている。}}。 * テレビアニメの第1シリーズ相当部分における、おんぷの「人の心を変える魔法」のペナルティ{{Efn2|おんぷが禁呪を使った「理由」はテレビアニメとほぼ同様。また漫画版で、このペナルティが与えられたのは、2級試験において同様の禁呪を用いたため。}}が、テレビアニメにおける「100年の眠り」から、女王様による「魔女資格の剥奪」に変わっている。そのため漫画版第1シリーズでの、テレビアニメ第2シリーズ相当部分のおんぷは、立場としては魔女見習いではない<ref>3巻収録・漫画版第15話より</ref>。この魔女資格剥奪の際に、どれみたちがおんぷを弁護したことから、おんぷとどれみたちとの間に友情が結ばれることとなる<ref>3巻収録・漫画版第15話、第17話より</ref>。 * おんぷの性格が若干異なり、テレビシリーズよりも裏表が激しく自己中心的で腹黒い性格となっており、どれみたちと親しくなってからもその傾向は多少であるが続いている。 * [[ハナちゃん (おジャ魔女どれみ)|ハナちゃん]]の代わりに、怪獣の[[おジャ魔女どれみの登場人物#天界|ボオちゃん]]が登場し、ハナちゃんのポジションとなる<ref>3巻収録・漫画版第16話以降</ref>。そのため漫画版では、ハナちゃんの登場が漫画版第3シリーズまでずれ込んでいる。またその都合上、漫画版でのハナちゃんは「いきなり押しかけてきた、どれみたちのファン」という扱いになり、テレビアニメにおいて重要視されていた要素である「どれみたちとの親子関係」が完全にオミットされている<ref>なかよし2002年3月号。単行本未収録。</ref>。 * 前述した、テレビアニメ第2シリーズに相当する部分の単行本への組み込みのため、「FLAT4」の登場する話は漫画版第2シリーズ(テレビアニメ第3シリーズ)として分類されている。また、FLAT4の登場時点で前出のボオちゃんは天界に帰還しているため、彼らがどれみたちに近付く目的もテレビアニメでの「隙を見てどれみたちから赤ちゃんを奪う」から、「どれみたちを誘惑して天界やボオちゃんの情報を聞き出す」へと変更されている<ref>漫画版第2シリーズの第2話より。単行本では第2シリーズの1巻に収録。</ref>。また、FLAT4やオヤジーデの登場も漫画版第2シリーズの前半のみに限定されている。 * 前述したハナちゃんの登場時期のずれなど{{Efn2|ボオちゃんも『も〜っと!』の「FLAT4編」(単行本1巻収録第3話)で退場となっている。}}もあり、本来ハナちゃんが担っていた「野菜嫌い」になるポジションが、漫画版では[[飛鳥ももこ|ももこ]]に変更。これに伴い「魔法が使えなくなる」とともに、「不調を起こしてスイーツが作れなくなっていく(= 魔女見習い試験を受けられない)」という要素も追加されている<ref>なかよし2001年10月号。単行本未収録。</ref>。 * 漫画版第2シリーズにおけるニューヨーク時代のももこの回想シーンでは、彼女はテレビアニメ第2シリーズの見習い服を着ている。 * 漫画版では魔女界の女王様の正体が明かされず、ゆき先生も登場しない。また、魔女界・魔法使い界・人間界の関係性(バックボーン)も解説されないままで終わっている。 * 先々代の女王様の悲劇の物語の中核が簡略化されており、テレビアニメシリーズにおいて物語の終盤で語られた、運命のいたずらによるすれ違いや誤解の要素は完全にオミットされている。先々代女王が目覚めた理由も、テレビアニメシリーズのように「誤解を知った」からではなく、「温かい思い出を取り戻したから」と改変されている(テレビアニメシリーズで語られた「先々代の女王の孫たちは後に改心していた」という部分が削られたため、孫たちは先々代の女王への悔いを残さず、嫌った(もしくは曾祖母への仕打ちを完全に忘却した)ままで人生を終えている)<ref>なかよし2003年1月号。単行本未収録。</ref>。 ==== コミック刊行一覧 ==== 単行本各巻の巻頭には、おまけとしてテレビアニメシリーズの画像を元としたシールが添付されている。 ; おジャ魔女どれみ : 第1巻 {{ISBN2|4-06-334349-9}} : 第2巻 {{ISBN2|4-06-334350-2}} : 第3巻 {{ISBN2|4-06-334366-9}} ; も〜っと!おジャ魔女どれみ : 第1巻 {{ISBN2|4-06-334502-5}} === ライトノベル === ''上記[[#『おジャ魔女どれみ16シリーズ』|『おジャ魔女どれみ16シリーズ』]]を参照'' ==== ライトノベル刊行一覧 ==== # おジャ魔女どれみ16 {{ISBN2|978-4-06-375206-9}} # おジャ魔女どれみ16 Naive {{ISBN2|978-4-06-375235-9}} # おジャ魔女どれみ16 TURNING POINT {{ISBN2|978-4-06-375273-1}} # おジャ魔女どれみ17 {{ISBN2|978-4-06-358458-5}} (CDドラマ付き限定版)/ {{ISBN2|978-4-06-375287-8}} (通常版) # おジャ魔女どれみ17 2nd 〜KIZASHI〜 {{ISBN2|978-4-06-375327-1}} # おジャ魔女どれみ17 3rd 〜COME ON!〜 {{ISBN2|978-4-06-358486-8}} (CDドラマ付き限定版)/ {{ISBN2|978-4-06-375347-9}} (通常版) # おジャ魔女どれみ18 {{ISBN2|978-4-06-375371-4}} # おジャ魔女どれみ18 2nd Spring has… {{ISBN2|978-4-06-381425-5}} # おジャ魔女どれみ19 {{ISBN2|978-4-06-358779-1}} (CDドラマ付き限定版) / {{ISBN2|978-4-06-381429-3}} (通常版) # おジャ魔女どれみ20's {{ISBN2|978-4-06-516234-7}} ==== 関連書籍 ==== * おジャ魔女どれみ16 馬越嘉彦 Illustrations {{ISBN2|978-4-06-364985-7}} ** 『おジャ魔女どれみ16シリーズ』で用いられた馬越嘉彦による挿絵と共に描き下ろしイラストや未公開ラフイラスト集、馬越自身によるイラスト解説やロングインタビューを収録。 * おジャ魔女どれみ20's 馬越嘉彦 Illustrations+ {{ISBN2|978-4-06-519564-2}} ** 前記画集の増補改訂版で、前回発行時未収録だった『おジャ魔女どれみ20's』での挿絵や未公開イラストなどを追加収録。 === 絵本 === ; おジャ魔女どれみ おはなしえほん さいこうのおくりもの♪ {{ISBN2|4-06-219844-4}} * [[摘木葉枝芽]] 著、馬越嘉彦 絵によるオリジナル幼児向け作品。 === ミュージカル === 2001年と2002年にそれぞれ第3シリーズと第4シリーズを題材とした[[マスクプレイミュージカル]]が上演された。イベントなどで行われるアトラクションと同様に[[着ぐるみ]]が演じるものであるが、「音楽界」を舞台にしたオリジナルストーリーや専用の歌が作られるなど本格的な物であった。これとは別に2003年にも、第2シリーズと第4シリーズのストーリーを編集し、二部構成にまとめたマスクプレイミュージカルが[[劇団飛行船]]によって上演されている。2004年の『[[プリキュア・ナージャ・どれみスーパーヒロインスペシャルショー]]』も着ぐるみで上演された。 上記とは別に、本シリーズとのコラボレーション企画として[[指原莉乃]]がプロデュースするアイドルグループ『[[≠ME]]』のメンバーによる舞台「≠ME ACT LIVE『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』」も2022年5月15日から22日まで[[アクアパーク品川#ステラボール|品川プリンスホテル ステラボール]]にて上演された<ref>{{Cite web|和書|title=【出演情報】舞台 ≠ME ACT LIVE「おジャ魔女どれみドッカ~ン!」 |url=https://not-equal-me.jp/news/detail/1758 |website=≠ME(ノットイコールミー) オフィシャルサイト |accessdate=2022-05-15 |date=2022-04-10|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=≠ME「おジャ魔女」舞台ビジュアル公開、どれみ役は冨田菜々風と蟹沢萌子 |url=https://natalie.mu/music/news/473429 |website=音楽ナタリー |accessdate=2022-05-15|date=2022-04-10 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === おジャ魔女kids === 第4シリーズ放送時に結成された、[[子役]]タレントによるダンスユニット。配役は以下の通り。 * 春風どれみ - [[鈴木かすみ]] * 藤原はづき - [[田中みいや]] * 妹尾あいこ - [[渡辺千晴]] * 瀬川おんぷ - [[竹田真恋人]] * 飛鳥ももこ - [[前田ちさと]] * ハナちゃん - [[篠原愛実]] === CD / CDドラマ === テレビアニメの各シリーズ毎に発売されているが、リリース元は各々異なっている。特に『おジャ魔女どれみ』の[[コンパクトディスク|CD]]は、放送当時発売された分はバンダイミュージックが現在存在しないためすべて廃盤となっているが、その収録曲などは大部分が第3シリーズのCDや「MEMORIAL CD BOX」に再録された。第6シリーズに関しては文庫本のドラマCD付き限定版(初版特典版)にCDドラマが付録として添付されている。 ====『CDくらぶ』シリーズ==== * '''おジャ魔女どれみ''' ** バンダイミュージックより発売 *** OP/EDテーマ おジャ魔女カーニバル / きっと明日は(シングル) *** おジャ魔女CDくらぶ **** その1 おジャ魔女ヴォーカルコレクション!! **** その2 おジャ魔女BGMコレクション!! **** その3 おジャ魔女 ハッピッピ ドラマシアター!! **** その4 おジャ魔女ソロヴォーカルコレクション 春風どれみ篇(マキシシングル) **** その5 おジャ魔女ソロヴォーカルコレクション 藤原はづき篇(マキシシングル) **** その6 おジャ魔女ソロヴォーカルコレクション 妹尾あいこ篇(マキシシングル) **** その7 MAHO堂のおジャ魔女クリスマスカーニバル!! ** マーベラスエンターテイメントより発売 *** おジャ魔女どれみ MEMORIAL CD BOX(4枚組) ** コロムビアミュージックエンタテインメントより発売 *** おジャ魔女BGMコレクション!!(おジャ魔女CDくらぶその2 おジャ魔女BGMコレクション!!の[[デジタルリマスター|デジタルリマスタリング]]版) * '''おジャ魔女どれみ♯(しゃーぷっ)''' ** キングレコード(スターチャイルドブランド)より発売 *** OP/EDテーマ おジャ魔女はココにいる / 声をきかせて(シングル) *** 映画 おジャ魔女どれみ♯ テーマソング ぽっぷな勇気 / ひまわり(シングル) *** MAHO堂 CDコレクション **** その1 さうんどとらっく ぼりゅーむ1 **** その2 すくりーんテーマ&しーくれっとすと〜り〜 **** ソロ 春風どれみ(マキシシングル) **** ソロ 藤原はづき(マキシシングル) **** ソロ 妹尾あいこ(マキシシングル) **** ソロ 瀬川おんぷ(マキシシングル) **** その3 そんぐ・ふぇすてぃばる♪ *** おジャ魔女どれみ♯ MEMORIAL CD BOX(4枚組) * '''も〜っと! おジャ魔女どれみ''' ** マーベラスエンターテイメントより発売 *** OP/EDテーマ おジャ魔女でBAN<sup>2</sup> / たからもの(マキシシングル) *** 2001夏・東映アニメフェア も〜っと! おジャ魔女どれみ カエル石の秘密 夏のまほう / カエルが一つなきゃ(マキシシングル) *** おジャ魔女BAN<sup>2</sup> CDくらぶ **** その1 おジャ魔女ニューBGMコレクション!! **** その2 も〜っと! おジャ魔女すい〜とソングコレクション!! **** その3 おジャ魔女ミュージカル ヴォーカルコレクション!! **** その4 おジャ魔女パジャマ・ミュージックトーク!! **** その5 キャラクター・ミニアルバムシリーズ1 〜春風どれみ〜{{Efn2|name="CD"|本シリーズ中には「すいーとそんぐABC」がそれぞれのソロVer. で収録されている。当時はこういった形の「全く同一の曲を全くの別人が歌う曲として収録する」方法はほとんど見られていなかった。}} **** その6 キャラクター・ミニアルバムシリーズ2 〜瀬川おんぷ〜{{Efn2|name="CD"}} **** その7 キャラクター・ミニアルバムシリーズ3 〜飛鳥ももこ〜{{Efn2|name="CD"}} **** その8 キャラクター・ミニアルバムシリーズ4 〜妹尾あいこ〜{{Efn2|name="CD"}} **** その9 キャラクター・ミニアルバムシリーズ5 〜藤原はづき〜{{Efn2|name="CD"}} **** その10 MAHO堂のおジャ魔女BAN<sup>2</sup>クリスマスパーティ!! **** その11 おジャ魔女BAN<sup>2</sup> カーテンコール!! *** も〜っと! おジャ魔女どれみ MEMORIAL CD BOX(4枚組) * '''おジャ魔女どれみドッカ〜ン!''' ** マーベラスエンターテイメントより発売 *** OP/EDテーマ DANCE!おジャ魔女 / わたしのつばさ(マキシシングル) *** EDテーマ&挿入歌 おジャ魔女音頭でハッピッピ!! / MAHOでチャチャチャ(マキシシングル) *** おジャ魔女ドッカ〜ン! CDくらぶ **** その1 キャラクター・ミニアルバム Special 巻機山花(ハナちゃん) **** その2 おジャ魔女ドッカ〜ン! ソングライブラリィ!! **** その3 おジャ魔女ミュージカルコレクションドッカ〜ン! おジャ魔女危機一髪!音楽界を救え! **** その4 おジャ魔女ドッカ〜ン! BGMコレクション+α(プラスアルファ) **** その5 キャラクター・ヴォーカルコレクション(6年1組盤) **** その6 キャラクター・ヴォーカルコレクション(6年2組盤) **** その7 おジャ魔女ドッカ〜ン!ドラマシアター *MAHO堂の魔女界はっぴっぴツアー!!* **** その8 FRIENDS -フレンズ- *MAHO堂ソロヴォーカルアルバム* *** おジャ魔女どれみドッカ〜ン! MEMORIAL CD BOX(4枚組) * '''おジャ魔女どれみナ・イ・ショ''' ** マーベラスエンターテイメントより発売 *** OP/EDテーマ ナ・イ・ショ・YO! おジャ魔女 / ステキ∞(マキシ) ***: 初回版のみDVD(ノンテロップOP/ED収録)が付属 * '''魔女見習いをさがして''' ** [[日本コロムビア]]より発売 *** 魔女見習いをさがして ミュージック・コレクション ==== 第6シリーズのCDドラマ ==== * '''おジャ魔女どれみ16/17/19''' **[[講談社]]より発売(講談社ラノベ文庫CDドラマ付き限定版として) ***『おジャ魔女どれみ16』脚本:[[影山由美]](『17』に付属) ***『おジャ魔女どれみ16』脚本:影山由美(『17 / 3rd〜COME ON〜』に付属) ***『おジャ魔女どれみ18』脚本:栗山緑(『19』に付属) ****内容は『16』第1巻 - 第3巻、『18』第2巻・『19』のCDドラマ化及びおまけのメッセージ。 ==== Blu-ray BOX初回生産限定特典CDドラマ ==== * '''その1 『どれみ、一句ひねる』'''脚本:影山由美 * '''その2 『小悪魔なおんぷはいかが?』'''脚本:栗山緑 ==== 挿入歌関連項目 ==== * [[井上望]] * [[五條真由美]](この挿入歌でデビュー) * [[ザ・しばたごろー]] * [[松浦有希]] * [[松平直子]] * [[松原みき]] === 関連書籍 === * [[講談社]] ** も~っと!おジャ魔女どれみオフィシャルファンブック ぎゅ~っと!どれみ(2001年4月1日発売 {{ISBN2|978-4061793545}}) ** も~っと!おジャ魔女どれみオフィシャルファンブック2 ハナちゃん はぁ~い!(2001年9月発売 {{ISBN2|978-4-06-179360-6}}) ** おジャ窓どれみ パティシエクッキングブック(2002年2月15日発売 {{ISBN2|978-4-06-339070-4}}) ** おジャ魔女どれみドッカ~ン!オフィシャルファンブック3 おジャ魔女 ゴーゴー!(2002年4月発売 {{ISBN2|978-4061793736}}) * [[宙出版]] ** おジャ魔女どれみメモリアルアルバム(2005年11月1日発売 {{ISBN2|978-4776791966}}、完全版:2016年11月29日発売 {{ISBN2|978-4776796749}} *: アニメ全5作品のあらすじや設定資料集、声優・スタッフのインタビュー記事、キャラクターショー・ミュージカルショーの内容などを網羅したファンブック。完全版ではさらに『どれみ16』シリーズなどの記述も追加。 * [[一迅社]] ** 『[[馬越嘉彦 東映アニメーションワークス]]』(2011年7月20日発売 {{ISBN2|978-4-7580-1221-8}}、改訂版:2014年11月5日発売 {{ISBN2|978-4-7580-1409-0}}) *: 本シリーズや 『[[ハートキャッチプリキュア!]]』、『[[マリー&ガリー]]』シリーズといった馬越嘉彦が東映アニメーションで関わった作品の画集。各種アニメ雑誌やDVDジャケットなどに使われた版権イラスト、キャラクター設定、修正原画などで構成され、改訂版には前回発行時点で未収録だった『ハートキャッチプリキュア!』に関するイラスト・原画や『おジャ魔女どれみ16』シリーズの挿絵ラフイラストなどを追加収録している。 * [[アニメスタイル|スタイル]] ** 『馬越嘉彦 アニメーション原画集』(第1巻:2018年9月13日発売 {{ISBN2|978-4802131179}}、第2巻:2019年9月10日発売 {{ISBN2|978-4802131612}}) *: 本シリーズを初めとする、馬越が制作に関わったアニメ作品の原画を収録。 * 講談社 ** 『おジャ魔女20周年記念 おジャ魔女どれみ公式ヒストリーブック TVシリーズから映画『魔女見習いをさがして』まで』(2020年11月02日発売 {{ISBN2|978-4-06-519348-8}}) *: シリーズ20周年記念と映画公開を記念して発行された公式ヒストリーブック。エピソードガイド、キャラクターファイル、声優陣の座談会やスタッフインタビュー、漫画版や児童向け雑誌・書籍のギャラリーなどで構成。 * [[文藝春秋]] ** 『おジャ魔女どれみ OFFICIAL CHARACTER BOOK どれみ&おんぷ大全』(2020年11月12日発売 {{ISBN2|978-4160070165}}) *: どれみとおんぷそれぞれにスポットを当てたキャラクターブック。『どれみ大全』『おんぷ大全』としてそれぞれ単独の電子書籍としても同時発行。 * [[ソフトバンククリエイティブ]](アニメ版のフィルムコミック、いずれも一部話数のみ収録) ** 『おジャ魔女どれみ』 # 2000年10月1日発売(ISBN 978-4797314489) # 2000年10月1日発売(ISBN 978-4797314496) # 2000年10月1日発売(ISBN 978-4797314502) # 2000年12月1日発売(ISBN 978-4797314519) # 2000年12月1日発売(ISBN 978-4797314526) # 2000年12月1日発売(ISBN 978-4797314533) **『おジャ魔女どれみ#』 # 2001年3月1日発売(ISBN 978-4797315899) # 2001年3月1日発売(ISBN 978-4797315905) # 2001年5月1日発売(ISBN 978-4797315912) # 2001年5月1日発売(ISBN 978-4797315929) # 2001年5月1日発売(ISBN 978-4797315936) # 2001年5月1日発売(ISBN 978-4797315943) === ゲームなど === * [[バンダイ]] - [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ソフト4本、[[キッズコンピュータ・ピコ]]用絵本ソフト2本 ** プレイステーション(低年齢向け知育ゲーム3本、パーティーゲーム1本) *** キッズステーション おジャ魔女どれみ♯ MAHO堂ダンスカーニバル! *** キッズステーション も〜っと!おジャ魔女どれみ MAHO堂スマイルパーティー *** キッズステーション おジャ魔女どれみドッカ〜ン! MAHO堂えいごフェスティバル *** [[おジャ魔女どれみドッカ〜ン!にじいろパラダイス]] ** キッズコンピュータ・ピコ(低年齢向け遊びゲーム2本) *** おジャ魔女どれみ♯ *** も〜っと!おジャ魔女どれみ * [[ドラス]] - PC用ソフト3本(ジグソーパズル2本、塗り絵1本) ** も〜っと!おジャ魔女どれみ パソコンやろうよ! マウスでジグソーパズル ** おジャ魔女どれみドッカ〜ン! パソコンやろうよ! マウスでジグソーパズル ** パソコンやろうよ! ぬりえスタジオ おジャ魔女どれみドッカ〜ン! * [[天田印刷加工]] ** [[トレーディングカードゲーム]]『おジャ魔女どれみ カードゲームコレクション』 *: 第4シリーズ作中でのマジョレンジャー版のMAHO堂(おジャ魔女)がラインナップされている。どれみがマジョレッドで、ぽっぷは入っていない。従って、おジャ魔女全員版マジョレンジャーは存在しない。 ** PC用デジタルデータ集『おジャ魔女どれみデジタルファンボックス』 *: マウスパッド付属。ただし絵柄は何種類かあり、そのうちの何が当たるか分からない。ソフトは『〜ないしょのまほう』につながるデータが存在する。 ** PC用ゲームソフト『[[おジャ魔女あどべんちゃ〜ないしょのまほう]]』 *: [[長谷見沙貴]]脚本作品。主人公は同作品オリジナルのおジャ魔女。 [[File:Keihan-doremi.jpg|thumb|京阪電気鉄道のラッピングトレイン]] * [[京阪電気鉄道]] - 同社が経営する[[遊園地]]・[[ひらかたパーク]]にて毎年恒例で開催される朝日放送制作アニメのアトラクションの一環として、当作品の[[ラッピングトレイン]]が期間限定で運行された。他にも同社では『[[きかんしゃトーマス]]』などのラッピングトレインを運行しているが、国内制作アニメ作品としては最初の例である(京阪以外では、[[東急東横線]]での『[[ふたりはプリキュア|ふたりはプリキュア Max Heart]]』がある)。 * 携帯電話向けに高画質ムービーやオリジナルFlashゲーム、メニューアイコンや、待ち受け画像、着うたやデコメールなどを配信する「おジャ魔女どれみANiMO」という有料会員登録が必要なモバイルサイトが運営されていた。 == 映像ソフト化 == 第4シリーズから、[[朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ|同時間帯]]にて放送された『[[ヒーリングっど♥プリキュア]]』までのの映像作品は、セル・レンタル共に[[マーベラスエンターテイメント]]→マーベラスAQL→マーベラス発売、[[ポニーキャニオン]](『[[ハートキャッチプリキュア!]]』まで及び『[[Go!プリンセスプリキュア]]』以降{{Efn2|『[[スイートプリキュア♪]]』から『[[ハピネスチャージプリキュア!]]』までは[[TCエンタテインメント]]が販売を担当していた。}})販売となる。 * 第1シリーズのDVDは、2000年10月21日 - 2001年7月21日にかけて全10巻(各巻5話(第1巻のみ6話)収録)が[[東映ビデオ]]よりリリースされた。[[Blu-ray Disc|Blu-ray]] [[ボックス・セット|BOX]](8枚組)は、2016年12月2日に[[ハピネット]]{{Efn2|『[[トロピカル〜ジュ!プリキュア]]』以降の日曜8時台後半のテレビアニメ作品の映像ソフト販売も担当。}}より発売<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/747846.html '99年放送開始、「おジャ魔女どれみ」第1期シリーズBlu-ray BOX化。全51話収録],AV Watch,2016年3月11日</ref>。 * 第2シリーズのDVDは2001年1月10日 - 10月3日にかけて、全10巻(各巻5話(第10巻のみ4話)収録)が[[キングレコード]]よりリリースされた。 * 第3シリーズのDVDは2001年12月7日 - 2002年11月21日にかけて全12巻(各巻4話(第11・12巻は5話)収録)がリリースされた。発売元はマーベラスエンターテイメント、販売元は東映ビデオ。 * 第4シリーズのDVDは2002年10月2日 - 2003年10月1日にかけて全13巻(各巻4話(第13巻のみ3話)収録)。発売元はマーベラスエンターテイメント、販売元はポニーキャニオン。 * 第5シリーズのDVDは、2004年9月24日 - 2005年3月25日にかけて全7巻(各巻2話(第1巻のみ1話)収録)がリリースされた。発売元は東映アニメーション、アサツー ディ・ケイ、マーベラスエンターテイメントの3社協同{{Efn2|発売元は。レンタル版は東映ビデオからリリースされている。}}で、販売元はジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント。 * 映画版のDVDは、第1作が2001年3月21日、第2作が2002年3月21日にそれぞれ発売。第2作のDVDには舞台挨拶の模様が特典映像として収録されている。2017年1月11日にはこれら2作を収録したBlu-ray Disc『おジャ魔女どれみ THE MOVIE Blu-ray』も発売(発売元:東映アニメーション・東映ビデオ、販売元:東映)<ref>[http://www.toei-video.co.jp/BD/doremi.html 東映ビデオ:おジャ魔女どれみ THE MOVIE Blu-ray 特集]</ref>。 この他、VHSビデオもセル・レンタルそれぞれがリリースされていた。第2シリーズのみ全13巻、それ以外は全12巻。 == 映像配信 == 地上波テレビアニメシリーズ全4作と、劇場版2作が東映アニメオンデマンドにて有料配信されており<ref>[https://taod.jp/lineup#sublineO 作品一覧]</ref>、各シリーズの第1話は無料でも視聴できる。第5シリーズについては[[ビデオマーケット]]が取り扱っている<ref>[https://www.videomarket.jp/title/048114 無料視聴あり!アニメ『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』の動画まとめ|ネット動画配信サービスのビデオマーケット]</ref>。その他、東映アニメーションミュージアム公式YouTubeチャンネル(旧・東映アニメーション創立60周年公式YouTubeチャンネル)でも、第1 - 第5シリーズの第1話を視聴できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/playlist?list=PLNdQp-whLwzDtO3T8V8VDGxq5dpVwExp_ |title=『おジャ魔女どれみ』シリーズ |publisher=YouTube |date=2017-04-05 |accessdate=2019-03-24}}</ref>な他、前述の通りショート・ショート作品『おジャ魔女どれみ お笑い劇場』も期間限定で配信された。 == 関連項目 == * [[テレビ朝日系アニメ]] * [[東映魔女っ子シリーズ]] * [[ヒーリングっど♥プリキュア]] - 本シリーズと同時間帯にて、2020年に放送されたテレビアニメ。同作品の2020年7月19日放送分(第16話)にて、『魔女見習いをさがして』のポスターが登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20200719dog00m200002000c.html|title=おジャ魔女どれみ:「ヒーリングっど プリキュア」で“17年ぶりの日曜朝” 夢の共演で「おジャ魔女」「魔女見習い」がトレンドに|accessdate=2022-5-14|date=2022-5-14}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|46em}} === 出典 === {{Reflist|40em|refs= <ref name=s1ep50>第1シリーズ第50話</ref> }} == 外部リンク == * [https://www.toei-anim.co.jp/ptr/doremi/ おジャ魔女どれみ] - 東映アニメーション * [http://taod.jp/ 東映アニメオンデマンド] - 東映アニメーションによる動画配信サイト * [http://lanove.kodansha.co.jp/official/doremi16/ おジャ魔女どれみ16] - 講談社ラノベ文庫 * [http://www.doremi-anniv.com/ おジャ魔女どれみ 20周年公式サイト] * [https://www.lookingfor-magical-doremi.com/ 映画『魔女見習いをさがして』公式サイト] * {{YouTube|playlist = PLNdQp-whLwzDtO3T8V8VDGxq5dpVwExp_|『おジャ魔女どれみ』シリーズ}} {{前後番組 | 放送局=[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] | 放送枠=[[朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ|日曜8:30 - 9:00]] | 番組名=おジャ魔女どれみ<br />(1999年2月7日 - 2000年1月30日)<hr />おジャ魔女どれみ♯<br />(2000年2月6日 - 2001年1月28日)<hr />も〜っと!おジャ魔女どれみ<br />(2001年2月4日 - 2002年1月27日)<hr />おジャ魔女どれみドッカ〜ン!<br />(2002年2月3日 - 2003年1月26日) | 前番組= [[夢のクレヨン王国]]<br />(1997年9月7日 - 1999年1月31日) | 次番組= [[明日のナージャ]]<br />(2003年2月2日 - 2004年1月25日) }} {{おジャ魔女どれみ}} {{朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ}} {{東映アニメーション}} {{佐藤順一監督作品}} {{五十嵐卓哉監督作品}} {{山内重保監督作品}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1= おジャ魔女どれみ♯ |1-1= 2000年のテレビアニメ |1-2= スターチャイルドのアニメ作品 |1-3= 育児を題材としたアニメ作品 |1-4= 花を題材としたアニメ作品 |1-5= 日本のオリジナルテレビアニメの劇場版 |1-6= 2000年のアニメ映画 |1-7= 東映アニメフェア |1-8= 東映アニメーションのアニメ映画 |1-9= 朝日放送製作のアニメ映画 |1-10= 魔女を題材としたアニメ映画 |redirect2= も〜っと!おジャ魔女どれみ |2-1= 2001年のテレビアニメ |2-2= 菓子・製菓業を題材としたアニメ作品 |redirect3= も〜っと!おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ |3-1= 日本のオリジナルテレビアニメの劇場版 |3-2= 2001年のアニメ映画 |3-3= 東映アニメフェア |3-4= 東映アニメーションのアニメ映画 |3-5= 朝日放送製作のアニメ映画 |3-6= 岐阜県を舞台とした映画作品 |3-7= 魔女を題材としたアニメ映画 |redirect4= おジャ魔女どれみドッカ〜ン! |4-1= 2002年のテレビアニメ |4-2= ポニーキャニオンのアニメ作品 |redirect5= おジャ魔女どれみナ・イ・ショ |5-1= 2004年のOVA |5-2= NBCユニバーサル・ジャパンのアニメ作品 |redirect6= おジャ魔女どれみ16 |6-1= 2011年の小説 |6-2= 講談社ラノベ文庫 |6-3= 魔女を題材とした小説 }} {{デフォルトソート:おしやましよとれみ}} [[Category:おジャ魔女どれみ|*]] [[Category:アニメ作品 お|しやましよとれみ]] [[Category:日本のオリジナルテレビアニメ]] [[Category:1999年のテレビアニメ]] [[Category:朝日放送テレビのアニメ]] [[Category:東映・東映アニメーションの魔法少女アニメ]] [[Category:魔女を題材としたアニメ作品]] [[Category:ADKグループのアニメ作品]] [[Category:マーベラスのアニメ作品]] [[Category:山田隆司のシナリオ作品]] [[Category:吉田玲子のシナリオ作品]] [[Category:変身ヒロインアニメ]] [[Category:アニメ番組のシリーズ]] [[Category:漫画作品 お|しやましよとれみ]] [[Category:1999年の漫画]] [[Category:なかよし本誌の漫画作品]] [[Category:ドラマCD]] [[Category:PlayStation用ソフト]]
2003-09-07T02:27:36Z
2023-12-03T05:35:20Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:JIS2004", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Efn2", "Template:R", "Template:おジャ魔女どれみ", "Template:東映アニメーション", "Template:Infobox animanga/OVA", "Template:Infobox animanga/Manga", "Template:See", "Template:Webarchive", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:独自研究", "Template:Main", "Template:Infobox Film", "Template:ISBN2", "Template:五十嵐卓哉監督作品", "Template:山内重保監督作品", "Template:Pp-vandalism", "Template:Infobox animanga/Header", "Template:前後番組", "Template:佐藤順一監督作品", "Template:朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Infobox animanga/Movie", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:YouTube", "Template:Infobox animanga/TVAnime", "Template:Notelist2", "Template:Infobox animanga/Novel" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%B8%E3%83%A3%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%BF
15,486
瑕疵
瑕疵(かし)とは、通常、一般的には備わっているにもかかわらず本来あるべき機能・品質・性能・状態が備わっていないこと。法概念としても用いられる。 民法上で「瑕疵」の概念が用いられる例として次のような場合がある。 代理行為の瑕疵とは「意思表示の効力が意思の不存在、詐欺、強迫又はある事情を知っていたこと若しくは知らなかったことにつき過失があったことによって影響を受けるべき場合」(101条1項)をいう。代理行為の瑕疵についての事実の有無は、代理人について決する(101条1項)。ただし、特定の法律行為をすることを委託された場合において、代理人が本人の指図に従ってその行為をしたときや本人が過失によって知らなかった事情については本人は代理人の善意を主張できない(101条2項)。 売買などの有償契約において、契約の当事者の一方(買主)が給付義務者(売主)から目的物の引渡しを受けた場合に、その給付された目的物について権利関係または目的物そのものに瑕疵があるときには損害賠償などの責任を負う(561条以下。売買以外の有償契約への準用につき559条)。これを担保責任というが、このうち目的物そのものに隠れた瑕疵があった場合の責任を瑕疵担保責任という(570条、566条)。 瑕疵担保責任でいう隠れた瑕疵とは、買主が取引上において一般的に要求される程度の通常の注意を払っても知り得ない瑕疵を指し、買主は善意・無過失であることが必要である(通説・判例)。瑕疵は取引通念からみて通常であれば同種の物が有するべき品質・性能を欠いており欠陥が存在することをいう。契約に先立って売主が見本や広告を用いて一定の品質や性能を保証した場合には、その基準に至らなければ瑕疵となる(大判大15・5・24民集5巻433頁)。なお、法律上の瑕疵につき判例は瑕疵担保責任の問題とするが、多数説は566条の類推適用によるべきとする。 瑕疵担保責任の内容は契約の解除や損害賠償請求であるが、担保責任の法的性質については、法定責任説、契約責任説(債務不履行責任説)、危険負担的減額請求権説が対立し、学説ごとに瑕疵担保責任の適用範囲や損害賠償の範囲などについて見解を異にする。瑕疵担保責任に基づく契約の解除又は損害賠償請求は、買主が事実を知った時から1年以内にしなければならない(570条、566条3項)。 行政行為(行政処分)は法律に従って行わなければならない(法律の留保)。しかしその処分が有効に成立するためには、法律上不能でないこと、法令に違反していないこと(法律の優位)が前提である。その上で、権限のある行政機関による執行がなされなければならない。以上の要件のいずれかを欠くときは、その行政処分は違法な処分となり、これを「瑕疵ある行政処分」という。 瑕疵ある行政処分は、その瑕疵が重大明白でない限り、無効とはならない。これは、命令された国民が、違法であるからと考えて、それを無視できるとすれば、混乱を生じ、公益確保が困難になるからである。 さらに、行政庁の行為は公益を目的としているという前提があるために、適法性の推定が働く。よって、国民は違法であると考えながらも、権限のある機関(行政庁や裁判所)がその処分を取り消すまでは、その処分に従わなくてはならない。これを「行政処分の公定力」という。 以上のように、行政行為の瑕疵は、行政行為を無効とする瑕疵と、行政行為の取消原因となる瑕疵とに分かれる。それぞれ、行政訴訟において効力を争う場合の具体的方法が異なる。 行政行為の瑕疵は、違法性、合目的性を回復するため職権で取り消すことが出来、取り消すと遡及して最初から無かったことになる。しかし、裁断手続を経て発せられた行政行為は、不可変更力が発生しているので処分庁は、取り消すことが出来ない。 また、国民に権利利益を与える受益的行政行為や第三者に法的利益を与える複効的行政行為は、相手の既得権益や信頼を上回る特別の公益上の必要性がなければ、職権で取り消すことができない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "瑕疵(かし)とは、通常、一般的には備わっているにもかかわらず本来あるべき機能・品質・性能・状態が備わっていないこと。法概念としても用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "民法上で「瑕疵」の概念が用いられる例として次のような場合がある。", "title": "民法上における瑕疵" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "代理行為の瑕疵とは「意思表示の効力が意思の不存在、詐欺、強迫又はある事情を知っていたこと若しくは知らなかったことにつき過失があったことによって影響を受けるべき場合」(101条1項)をいう。代理行為の瑕疵についての事実の有無は、代理人について決する(101条1項)。ただし、特定の法律行為をすることを委託された場合において、代理人が本人の指図に従ってその行為をしたときや本人が過失によって知らなかった事情については本人は代理人の善意を主張できない(101条2項)。", "title": "民法上における瑕疵" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "売買などの有償契約において、契約の当事者の一方(買主)が給付義務者(売主)から目的物の引渡しを受けた場合に、その給付された目的物について権利関係または目的物そのものに瑕疵があるときには損害賠償などの責任を負う(561条以下。売買以外の有償契約への準用につき559条)。これを担保責任というが、このうち目的物そのものに隠れた瑕疵があった場合の責任を瑕疵担保責任という(570条、566条)。", "title": "民法上における瑕疵" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "瑕疵担保責任でいう隠れた瑕疵とは、買主が取引上において一般的に要求される程度の通常の注意を払っても知り得ない瑕疵を指し、買主は善意・無過失であることが必要である(通説・判例)。瑕疵は取引通念からみて通常であれば同種の物が有するべき品質・性能を欠いており欠陥が存在することをいう。契約に先立って売主が見本や広告を用いて一定の品質や性能を保証した場合には、その基準に至らなければ瑕疵となる(大判大15・5・24民集5巻433頁)。なお、法律上の瑕疵につき判例は瑕疵担保責任の問題とするが、多数説は566条の類推適用によるべきとする。", "title": "民法上における瑕疵" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "瑕疵担保責任の内容は契約の解除や損害賠償請求であるが、担保責任の法的性質については、法定責任説、契約責任説(債務不履行責任説)、危険負担的減額請求権説が対立し、学説ごとに瑕疵担保責任の適用範囲や損害賠償の範囲などについて見解を異にする。瑕疵担保責任に基づく契約の解除又は損害賠償請求は、買主が事実を知った時から1年以内にしなければならない(570条、566条3項)。", "title": "民法上における瑕疵" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "行政行為(行政処分)は法律に従って行わなければならない(法律の留保)。しかしその処分が有効に成立するためには、法律上不能でないこと、法令に違反していないこと(法律の優位)が前提である。その上で、権限のある行政機関による執行がなされなければならない。以上の要件のいずれかを欠くときは、その行政処分は違法な処分となり、これを「瑕疵ある行政処分」という。", "title": "行政行為の瑕疵" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "瑕疵ある行政処分は、その瑕疵が重大明白でない限り、無効とはならない。これは、命令された国民が、違法であるからと考えて、それを無視できるとすれば、混乱を生じ、公益確保が困難になるからである。", "title": "行政行為の瑕疵" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "さらに、行政庁の行為は公益を目的としているという前提があるために、適法性の推定が働く。よって、国民は違法であると考えながらも、権限のある機関(行政庁や裁判所)がその処分を取り消すまでは、その処分に従わなくてはならない。これを「行政処分の公定力」という。", "title": "行政行為の瑕疵" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以上のように、行政行為の瑕疵は、行政行為を無効とする瑕疵と、行政行為の取消原因となる瑕疵とに分かれる。それぞれ、行政訴訟において効力を争う場合の具体的方法が異なる。", "title": "行政行為の瑕疵" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "行政行為の瑕疵は、違法性、合目的性を回復するため職権で取り消すことが出来、取り消すと遡及して最初から無かったことになる。しかし、裁断手続を経て発せられた行政行為は、不可変更力が発生しているので処分庁は、取り消すことが出来ない。", "title": "行政行為の瑕疵" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、国民に権利利益を与える受益的行政行為や第三者に法的利益を与える複効的行政行為は、相手の既得権益や信頼を上回る特別の公益上の必要性がなければ、職権で取り消すことができない。", "title": "行政行為の瑕疵" } ]
瑕疵(かし)とは、通常、一般的には備わっているにもかかわらず本来あるべき機能・品質・性能・状態が備わっていないこと。法概念としても用いられる。
{{更新|date=2019年7月|民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)による変更点(2020年(令和2年)4月1日施行予定)}} {{wiktionary|瑕疵}} '''瑕疵'''(かし)とは、通常、一般的には備わっているにもかかわらず本来あるべき機能・品質・性能・状態が備わっていないこと。法概念としても用いられる。 == 民法上における瑕疵 == 民法上で「瑕疵」の概念が用いられる例として次のような場合がある。 *日本の[[民法 (日本)|民法]]は、以下で条数のみ記載する。 === 瑕疵ある意思表示 === {{main|瑕疵ある意思表示}} === 代理行為の瑕疵 === {{main|代理}} '''代理行為の瑕疵'''とは「意思表示の効力が意思の不存在、詐欺、強迫又はある事情を知っていたこと若しくは知らなかったことにつき過失があったことによって影響を受けるべき場合」([[b:民法第101条|101条]]1項)をいう。代理行為の瑕疵についての事実の有無は、代理人について決する([[b:民法第101条|101条]]1項)。ただし、特定の[[法律行為]]をすることを委託された場合において、代理人が本人の指図に従ってその行為をしたときや本人が過失によって知らなかった事情については本人は代理人の善意を主張できない([[b:民法第101条|101条]]2項)。 === 瑕疵ある占有 === {{main|占有権}} === 瑕疵担保責任 === {{main|担保責任}} [[売買]]などの[[有償契約]]において、契約の当事者の一方(買主)が給付義務者(売主)から目的物の[[引渡し]]を受けた場合に、その給付された目的物について権利関係または目的物そのものに瑕疵があるときには[[損害賠償]]などの責任を負う([[b:民法第561条|561条]]以下。売買以外の有償契約への準用につき[[b:民法第559条|559条]])。これを担保責任というが、このうち目的物そのものに隠れた瑕疵があった場合の責任を'''瑕疵担保責任'''という([[b:民法第570条|570条]]、[[b:民法第566条|566条]])。 瑕疵担保責任でいう'''隠れた瑕疵'''とは、買主が取引上において一般的に要求される程度の通常の注意を払っても知り得ない瑕疵を指し、買主は善意・無過失であることが必要である(通説・判例)<ref>遠藤浩・原島重義・水本浩・川井健・広中俊雄・山本進一著 『民法6 契約各論 第4版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、1997年4月、52頁</ref><ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、284頁</ref><ref name="名前なし-1">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、64頁</ref>。瑕疵は取引通念からみて通常であれば同種の物が有するべき品質・性能を欠いており欠陥が存在することをいう<ref name="名前なし-2">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、160頁</ref><ref name="名前なし-3">遠藤浩・原島重義・水本浩・川井健・広中俊雄・山本進一著 『民法6 契約各論 第4版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、1997年4月、50頁</ref><ref name="名前なし-1"/>。契約に先立って売主が見本や広告を用いて一定の品質や性能を保証した場合には、その基準に至らなければ瑕疵となる(大判大15・5・24民集5巻433頁)<ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、160-161頁</ref><ref name="名前なし-3"/><ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、283-284頁</ref><ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、63頁</ref>。なお、法律上の瑕疵につき判例は瑕疵担保責任の問題とするが、多数説は566条の類推適用によるべきとする<ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、65頁</ref><ref>近江幸治著 『民法講義Ⅴ 契約法 第3版』 成文堂、2006年10月、145頁</ref><ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、161頁</ref><ref>遠藤浩・原島重義・水本浩・川井健・広中俊雄・山本進一著 『民法6 契約各論 第4版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、1997年4月、51頁</ref>。 瑕疵担保責任の内容は契約の[[解除]]や損害賠償請求であるが、担保責任の法的性質については、法定責任説、契約責任説(債務不履行責任説)、危険負担的減額請求権説が対立し、学説ごとに瑕疵担保責任の適用範囲や損害賠償の範囲などについて見解を異にする<ref>近江幸治著 『民法講義Ⅴ 契約法 第3版』 成文堂、2006年10月、139頁以下</ref><ref name="名前なし-2"/><ref>遠藤浩・原島重義・水本浩・川井健・広中俊雄・山本進一著 『民法6 契約各論 第4版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、1997年4月、53頁以下</ref><ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、67頁以下</ref><ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、289頁以下</ref>。瑕疵担保責任に基づく契約の解除又は損害賠償請求は、買主が事実を知った時から1年以内にしなければならない(570条、566条3項)。 * その他の契約上の目的物の瑕疵についての規定・法律 # [[贈与|贈与者]]の担保責任([[b:民法第551条|551条]]) # [[消費貸借]]における貸主の担保責任([[b:民法第590条|590条]]) # [[請負|請負人]]の担保責任([[b:民法第634条|634条]]、[[b:民法第635条|635条]]、[[b:民法第636条|636条]]、[[b:民法第637条|637条]]、[[b:民法第638条|638条]]) # [[寄託 (日本法)|寄託者]]による損害賠償([[b:民法第661条|661条]]) # 商人間の瑕疵担保責任の特則(買主による目的物の検査及び通知義務([[b:商法第526条|商法526条]]) #: 商人間の売買において、買主は、その売買の目的物を受領したときは、遅滞なく、その物を検査しなければならない。 #: 前項に規定する場合において、買主は、同項の規定による検査により売買の目的物に瑕疵があること又はその数量に不足があることを発見したときは、直ちに売主に対してその旨の通知を発しなければ、その瑕疵又は数量の不足を理由として契約の解除又は代金減額若しくは損害賠償の請求をすることができない。売買の目的物に直ちに発見することのできない瑕疵がある場合において、買主が六箇月以内にその瑕疵を発見したときも、同様とする。 #: 前項の規定は、売主がその瑕疵又は数量の不足につき悪意であった場合には、適用しない。 # [[s:宅地建物取引業法 第五章 業務#40|宅地建物取引業法40条]] #: [[宅地]]又は[[建物]]に関しては、売主が業者の場合、目的物の引渡しの日から2年以上となる特約をする場合以外の買主に不利となる特約は、[[無効]]となる。 # [[特定住宅瑕疵担保責任の履行の確保等に関する法律]] === 土地工作物の瑕疵 === {{main|工作物責任}} * [[b:民法第717条|717条]] : 土地工作物の設置・保存に瑕疵があること、あるいは、竹木の栽植又は支持の瑕疵によって他人に損害を生じたときは、その工作物の占有者は損害賠償責任を負う。占有者が損害の発生を防止するのに必要な注意をしたときは、所有者が損害賠償責任を負う。ただし、損害の原因について他にその責任を負う者があるときは、占有者又は所有者は、その者に対して求償権を行使することができる。 == 行政行為の瑕疵 == {{main|行政行為#瑕疵ある行政行為}} [[行政行為]](行政処分)は[[法律]]に従って行わなければならない([[法律の留保]])。しかしその処分が有効に成立するためには、法律上不能でないこと、法令に違反していないこと(法律の優位)が前提である。その上で、権限のある行政機関による執行がなされなければならない。以上の要件のいずれかを欠くときは、その行政処分は違法な処分となり、これを「瑕疵ある行政処分」という。 瑕疵ある行政処分は、その瑕疵が重大明白でない限り、[[無効]]とはならない。これは、命令された国民が、違法であるからと考えて、それを無視できるとすれば、混乱を生じ、公益確保が困難になるからである。 さらに、行政庁の行為は公益を目的としているという前提があるために、適法性の推定が働く。よって、国民は違法であると考えながらも、権限のある機関(行政庁や[[裁判所]])がその処分を[[取消|取り消す]]までは、その処分に従わなくてはならない。これを「'''行政処分の[[公定力]]'''」という。 以上のように、[[行政行為]]の瑕疵は、行政行為を無効とする瑕疵と、行政行為の取消原因となる瑕疵とに分かれる。それぞれ、[[行政訴訟]]において効力を争う場合の具体的方法が異なる。 行政行為の瑕疵は、違法性、合目的性を回復するため職権で取り消すことが出来、取り消すと遡及して最初から無かったことになる。しかし、裁断手続を経て発せられた行政行為は、[[不可変更力]]が発生しているので処分庁は、取り消すことが出来ない。 また、国民に権利利益を与える'''受益的行政行為'''や第三者に法的利益を与える'''複効的行政行為'''は、相手の既得権益や信頼を上回る特別の公益上の必要性がなければ、職権で取り消すことができない。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[契約書]] * [[リスクマネジメント]] {{DEFAULTSORT:かし}} [[Category:日本の私法]] [[Category:日本の行政法]] [[Category:法]] [[Category:法的過誤]]
null
2023-02-17T10:24:33Z
false
false
false
[ "Template:更新", "Template:Wiktionary", "Template:Main" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%95%E7%96%B5
15,490
グラムロック
グラムロック(glam rock)主にイギリスで1960年代後半から流行した、ロックのジャンル。由来は、魅惑的であることを意味する英語の"glamorous"から来ている。 グラム・ロックの音楽家は、男性でも、女性でも、一般的な化粧よりも濃いメイクを施したり、煌びやかなヨーロッパ貴族的(ヨーロッパの中でも主に西欧の国々)な衣装を身につけた。 1970年代前半には、ラウドなハードロックや、演奏技術や長尺曲が特徴だったプログレッシブ・ロックが流行。それらと異なる中性的なファッションやメイク、グルーヴ感あふれるビートや、ポップなメロディーを演奏していたのがグラムロックミュージシャンだった。グラム・ロックは70年代後半のパンク・ロックの一部にも影響を与えることになる。また、T・レックス、モット・ザ・フープルやロキシー・ミュージックのヒット曲のように、サックスでリフを刻む楽曲もグラム・ロックの一部に見られた。 グラム・ロックは、音楽性よりもメイクや、ステージングなどでカテゴライズされることが多かった。Tレックスやゲイリー・グリッターはブギー、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックはアート・ロック、スレイドやスウィートはハードなポップ・ロックといったように、サウンドや楽曲、音楽的志向などは大きく異なり、共通点はあまり見られない。 マーク・ボランとTレックスやデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルが英国における代表的なアーティストである。日本でもグラムロックは人気があり、「オールジャパン・ポップ20」(文化放送)のようなラジオ番組のチャートを賑わせていた。ボランとボウイが成功を収めた直後、ロキシー・ミュージック、スウィート、スレイド、モット・ザ・フープル、マッド、アルヴィン・スターダストなどのアクトが続いた。英国でのグラムロックバンドの中には、英国の主要なクリスマスヒットシングルをリリースしたバンドもいた。スレイドの「MerryXmasEverybody」、ウィザードの「I Wish It Could Be Christmas Daily」、マッド・Mudの「Lonely This Christmas」は、いずれも人気を獲得した。グラム・ロックは、英国のポピュラー音楽で非常に成功したトレンドの側面だけでなく、1970年代の英国ポピュラー文化における他のカルチャーにも影響を与えた。 グラムロックのより重い変種で、ギターリフ中心のサウンドを強調し、リズムを駆り立て、聴衆が参加するライブパフォーマンスを行った。スレイドは「ムーブ・オーバー」「グッバイ・トゥ・ジェーン」「カモン」を日本でもヒットさせた。モットザフープルは「すべての若き野郎ども」「ロックンロール黄金時代」をイギリスでヒットさせている。 マーク・ボランは、グラムロックの盛衰と自身の音楽活動の波が重なるように、グラム・ロック衰退期である1977年、交通事故により29歳で死亡。 デヴィッド・ボウイはグラムロック衰退以降も音楽活動を継続した。また、彼は映画『地球に落ちて来た男』(1976年)にも出演した。ボウイはモット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」(1972年)を作曲している。ボウイがジギー・スターダストというキャラクターを生み出す際に、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』や『2001年宇宙の旅』をモデルにしている。また、ボウイはこの頃、ザ・ストゥージズの『ロウ・パワー』やルー・リードの『トランスフォーマー』などのプロデュースも担当。 他にも、スウィート、シルヴァーヘッド、ホークウインド、ジョーディーなどがグラムロック系のバンドとされている。 1973年のオイル・ショックやその後の不況、ロック・ファンの世代交代などが重なり、グラム・ロックのブームは1975年ごろ終焉を迎えた。その後、1970年代後半のパンク/ニュー・ウェイヴが勃興することとなる。 時代背景としては、それまでのヒッピーやウッドストックなどに代表される自然回帰運動への反動として、「人工的なもの」への志向が生じたのではないかとする説もある。ポップ・アートのアンディ・ウォーホールの「Pork」という映画・舞台がグラム発生に影響を与えたという説もある。ウォーホールは異性装(トランスヴェスチズム)を好んでおり、またアンディ・ウォーホルの映画に数多く出演していたイーディ・セジウィックも中性的なイメージを持っていた。 また、1960年代後半のロンドンのアンダーグランド・シーンの影響も見られる。UFOクラブなどのナイトクラブ、ライブハウスでの演奏を通じて、メジャー・シーンへと進出を果たしたアーティストも多い。シド・バレットと初期のピンク・フロイドは、デヴィッド・ボウイやマーク・ボランに影響を与えた。 グラム・ファッションの影響を受けたローリング・ストーンズも、当時は濃いメイクをしていた。ヴィジュアル面では、グラム・ロックが80年代前半に起こったニューロマンティックや、後に誕生する日本のヴィジュアル系の先駆けとなった。音楽的にはクラッシュのミック・ジョーンズがモット・ザ・フープルのフォロワーであったことが良い例だが、パンク・ロックの一部への影響が見られる。 アメリカにおいて、グラムロックでの商業的な成功を収めたのはアリス・クーパーであった。さらに、1973年にはニューヨーク・ドールズがデビューし、ルー・リードやイギー・ポップなどもグラムロックに影響されたステージを見せた。他には、ラモーンズのメンバーがTレックスやスレイドを愛聴していることを、少年ナイフによるインタビューで答えたことがある。 国内では、1970年代半ば以降の沢田研二、忌野清志郎、1980年代前半には、土屋昌巳の一風堂が登場した。しかし、いずれも「グラム・ロック」とは呼ばれなかった。 1980年代以降、グラマラスなメイクをしたミュージシャンらは、ニュー・ロマンティックの影響を受けていると見られている。BOØWY、安全地帯、マルコシアス・バンプ、THE YELLOW MONKEY、ROLLY率いるすかんち、X JAPAN、毛皮のマリーズ、「ヴィジュアル系」バンド、本田恭章、中川勝彦など。 なお、マーク・ボランの命日である9月16日には「マーク・ボラン追悼~グラムロックイースター」というイベントが毎年開催されている。常連参加者には、頭脳警察にいたPANTAのほか、ROLLY、マルコシアス・バンプの旧メンバーなどがいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "グラムロック(glam rock)主にイギリスで1960年代後半から流行した、ロックのジャンル。由来は、魅惑的であることを意味する英語の\"glamorous\"から来ている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "グラム・ロックの音楽家は、男性でも、女性でも、一般的な化粧よりも濃いメイクを施したり、煌びやかなヨーロッパ貴族的(ヨーロッパの中でも主に西欧の国々)な衣装を身につけた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1970年代前半には、ラウドなハードロックや、演奏技術や長尺曲が特徴だったプログレッシブ・ロックが流行。それらと異なる中性的なファッションやメイク、グルーヴ感あふれるビートや、ポップなメロディーを演奏していたのがグラムロックミュージシャンだった。グラム・ロックは70年代後半のパンク・ロックの一部にも影響を与えることになる。また、T・レックス、モット・ザ・フープルやロキシー・ミュージックのヒット曲のように、サックスでリフを刻む楽曲もグラム・ロックの一部に見られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "グラム・ロックは、音楽性よりもメイクや、ステージングなどでカテゴライズされることが多かった。Tレックスやゲイリー・グリッターはブギー、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックはアート・ロック、スレイドやスウィートはハードなポップ・ロックといったように、サウンドや楽曲、音楽的志向などは大きく異なり、共通点はあまり見られない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "マーク・ボランとTレックスやデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルが英国における代表的なアーティストである。日本でもグラムロックは人気があり、「オールジャパン・ポップ20」(文化放送)のようなラジオ番組のチャートを賑わせていた。ボランとボウイが成功を収めた直後、ロキシー・ミュージック、スウィート、スレイド、モット・ザ・フープル、マッド、アルヴィン・スターダストなどのアクトが続いた。英国でのグラムロックバンドの中には、英国の主要なクリスマスヒットシングルをリリースしたバンドもいた。スレイドの「MerryXmasEverybody」、ウィザードの「I Wish It Could Be Christmas Daily」、マッド・Mudの「Lonely This Christmas」は、いずれも人気を獲得した。グラム・ロックは、英国のポピュラー音楽で非常に成功したトレンドの側面だけでなく、1970年代の英国ポピュラー文化における他のカルチャーにも影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "グラムロックのより重い変種で、ギターリフ中心のサウンドを強調し、リズムを駆り立て、聴衆が参加するライブパフォーマンスを行った。スレイドは「ムーブ・オーバー」「グッバイ・トゥ・ジェーン」「カモン」を日本でもヒットさせた。モットザフープルは「すべての若き野郎ども」「ロックンロール黄金時代」をイギリスでヒットさせている。 マーク・ボランは、グラムロックの盛衰と自身の音楽活動の波が重なるように、グラム・ロック衰退期である1977年、交通事故により29歳で死亡。 デヴィッド・ボウイはグラムロック衰退以降も音楽活動を継続した。また、彼は映画『地球に落ちて来た男』(1976年)にも出演した。ボウイはモット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」(1972年)を作曲している。ボウイがジギー・スターダストというキャラクターを生み出す際に、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』や『2001年宇宙の旅』をモデルにしている。また、ボウイはこの頃、ザ・ストゥージズの『ロウ・パワー』やルー・リードの『トランスフォーマー』などのプロデュースも担当。 他にも、スウィート、シルヴァーヘッド、ホークウインド、ジョーディーなどがグラムロック系のバンドとされている。 1973年のオイル・ショックやその後の不況、ロック・ファンの世代交代などが重なり、グラム・ロックのブームは1975年ごろ終焉を迎えた。その後、1970年代後半のパンク/ニュー・ウェイヴが勃興することとなる。 時代背景としては、それまでのヒッピーやウッドストックなどに代表される自然回帰運動への反動として、「人工的なもの」への志向が生じたのではないかとする説もある。ポップ・アートのアンディ・ウォーホールの「Pork」という映画・舞台がグラム発生に影響を与えたという説もある。ウォーホールは異性装(トランスヴェスチズム)を好んでおり、またアンディ・ウォーホルの映画に数多く出演していたイーディ・セジウィックも中性的なイメージを持っていた。 また、1960年代後半のロンドンのアンダーグランド・シーンの影響も見られる。UFOクラブなどのナイトクラブ、ライブハウスでの演奏を通じて、メジャー・シーンへと進出を果たしたアーティストも多い。シド・バレットと初期のピンク・フロイドは、デヴィッド・ボウイやマーク・ボランに影響を与えた。 グラム・ファッションの影響を受けたローリング・ストーンズも、当時は濃いメイクをしていた。ヴィジュアル面では、グラム・ロックが80年代前半に起こったニューロマンティックや、後に誕生する日本のヴィジュアル系の先駆けとなった。音楽的にはクラッシュのミック・ジョーンズがモット・ザ・フープルのフォロワーであったことが良い例だが、パンク・ロックの一部への影響が見られる。 アメリカにおいて、グラムロックでの商業的な成功を収めたのはアリス・クーパーであった。さらに、1973年にはニューヨーク・ドールズがデビューし、ルー・リードやイギー・ポップなどもグラムロックに影響されたステージを見せた。他には、ラモーンズのメンバーがTレックスやスレイドを愛聴していることを、少年ナイフによるインタビューで答えたことがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国内では、1970年代半ば以降の沢田研二、忌野清志郎、1980年代前半には、土屋昌巳の一風堂が登場した。しかし、いずれも「グラム・ロック」とは呼ばれなかった。", "title": "日本への影響" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1980年代以降、グラマラスなメイクをしたミュージシャンらは、ニュー・ロマンティックの影響を受けていると見られている。BOØWY、安全地帯、マルコシアス・バンプ、THE YELLOW MONKEY、ROLLY率いるすかんち、X JAPAN、毛皮のマリーズ、「ヴィジュアル系」バンド、本田恭章、中川勝彦など。", "title": "日本への影響" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、マーク・ボランの命日である9月16日には「マーク・ボラン追悼~グラムロックイースター」というイベントが毎年開催されている。常連参加者には、頭脳警察にいたPANTAのほか、ROLLY、マルコシアス・バンプの旧メンバーなどがいる。", "title": "日本への影響" } ]
グラムロック主にイギリスで1960年代後半から流行した、ロックのジャンル。由来は、魅惑的であることを意味する英語の"glamorous"から来ている。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{Infobox music genre|name=グラムロック<br />Glam Rock |bgcolor=crimson |color=white |stylistic_origins= ロック、[[アート・ロック]]、[[ブギー]] |cultural_origins= 1970年代前半、イギリス、アメリカ |instruments= [[エレクトリック・ギター|ギター]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ボーカル]]、[[鍵盤楽器]]など |popularity= 1970年代前半に人気 |regional_scenes= |fusiongenres= [[ニュー・ロマンティック]] |other_topics= 本文参照 }} '''グラムロック'''(glam rock)主にイギリスで[[1960年代]]後半から流行した、[[ロック (音楽)|ロック]]のジャンル。由来は、魅惑的であることを意味する英語の"glamorous"から来ている。 == 概要 == グラム・ロックの音楽家は、男性でも、女性でも、一般的な化粧よりも濃い[[化粧|メイク]]を施したり、煌びやかな[[ヨーロッパ貴族]]的(ヨーロッパの中でも主に西欧の国々)な衣装を身につけた。 [[1970年代]]前半には、ラウドな[[ハードロック]]や、[[演奏]]技術や長尺曲が特徴だった[[プログレッシブ・ロック]]が流行。それらと異なる中性的なファッションやメイク、グルーヴ感あふれるビートや、ポップなメロディーを演奏していたのがグラムロックミュージシャンだった。グラム・ロックは70年代後半の[[パンク・ロック]]の一部にも影響を与えることになる。また、[[T・レックス]]、[[モット・ザ・フープル]]<ref>http://www.allmusic.com/album/mott-mw0000652911</ref>や[[ロキシー・ミュージック]]のヒット曲のように、[[サクソフォーン|サックス]]で[[リフ]]を刻む楽曲もグラム・ロックの一部に見られた。 グラム・ロックは、音楽性よりもメイクや、ステージングなどでカテゴライズされることが多かった。Tレックス<ref group="注釈">「メタル・グゥルー」「ゲット・イット・オン」などヒット曲多数</ref>やゲイリー・グリッターはブギー<ref>http://www.allmusic.com/album/bolan-boogie-mw0000649907 </ref>、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックは[[アート・ロック]]、スレイドやスウィートはハードな[[ポップ・ロック]]といったように、サウンドや楽曲、音楽的志向などは大きく異なり、共通点はあまり見られない。 == 歴史 == [[マーク・ボラン]]とTレックス<ref>http://www.discogs.com/artist/255047-T-Rex </ref>や[[デヴィッド・ボウイ]]<ref>http://www.discogs.com/ja/artist/10263-David-Bowie </ref>、[[ロキシー・ミュージック]]、[[モット・ザ・フープル]]が英国における代表的なアーティストである。日本でもグラムロックは人気があり、「オールジャパン・ポップ20」(文化放送)のようなラジオ番組のチャートを賑わせていた。ボランとボウイが成功を収めた直後、ロキシー・ミュージック、スウィート、スレイド、モット・ザ・フープル、マッド、アルヴィン・スターダストなどのアクトが続いた。英国でのグラムロックバンドの中には、英国の主要なクリスマスヒットシングルをリリースしたバンドもいた。スレイドの「MerryXmasEverybody」、ウィザードの「I Wish It Could Be Christmas Daily」、マッド・Mudの「Lonely This Christmas」は、いずれも人気を獲得した。グラム・ロックは、英国のポピュラー音楽で非常に成功したトレンドの側面だけでなく、1970年代の英国ポピュラー文化における他のカルチャーにも影響を与えた。 グラムロックのより重い変種で、ギターリフ中心のサウンドを強調し、リズムを駆り立て、聴衆が参加するライブパフォーマンスを行った。スレイドは「ムーブ・オーバー」「グッバイ・トゥ・ジェーン」「カモン」を日本でもヒットさせた。モットザフープルは「すべての若き野郎ども」「ロックンロール黄金時代」をイギリスでヒットさせている。 マーク・ボランは、グラムロックの盛衰と自身の音楽活動の波が重なるように、グラム・ロック衰退期である1977年、交通事故により29歳で死亡<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2651733.stm|title=T Rex band member dies|language=en|publisher=BBC NEWS|date=2003-01-13}}</ref>。 デヴィッド・ボウイはグラムロック衰退以降も音楽活動を継続した。また、彼は映画『[[地球に落ちて来た男]]』(1976年)にも出演した。ボウイはモット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」(1972年)を作曲している。ボウイがジギー・スターダストというキャラクターを生み出す際に、[[スタンリー・キューブリック]]の『[[時計じかけのオレンジ]]』や『[[2001年宇宙の旅]]』をモデルにしている。また、ボウイはこの頃、[[ザ・ストゥージズ]]の『ロウ・パワー』や[[ルー・リード]]の『[[トランスフォーマー (ルー・リードのアルバム)|トランスフォーマー]]』などのプロデュースも担当。 他にも、[[スウィート]]、[[シルヴァーヘッド]]、[[ホークウインド]]、[[ジョーディー (バンド)|ジョーディー]]などがグラムロック系のバンドとされている。 [[1973年]]の[[オイル・ショック]]やその後の不況、ロック・ファンの世代交代などが重なり、グラム・ロックのブームは1975年ごろ終焉を迎えた。その後、1970年代後半のパンク/[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]が勃興することとなる。 時代背景としては、それまでの[[ヒッピー]]や[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストック]]などに代表される自然回帰運動への反動として、「人工的なもの」への志向が生じたのではないかとする説もある。ポップ・アートの[[アンディ・ウォーホール]]<ref group="注釈">ベルベット・アンダーグラウンドやローリング・ストーンズのアルバム・ジャケットを手掛けた。</ref>の「Pork」という映画・舞台がグラム発生に影響を与えたという説もある。ウォーホールは[[異性装]](トランスヴェスチズム)を好んでおり、また[[アンディ・ウォーホル]]の映画に数多く出演していた[[イーディ・セジウィック]]も中性的なイメージを持っていた。 また、1960年代後半の[[ロンドン]]のアンダーグランド・シーンの影響も見られる。UFOクラブなどのナイトクラブ、ライブハウスでの演奏を通じて、メジャー・シーンへと進出を果たしたアーティストも多い。[[シド・バレット]]<ref group="注釈">精神疾患のために音楽業界を去った。</ref>と初期の[[ピンク・フロイド]]は、[[デヴィッド・ボウイ]]や[[マーク・ボラン]]に影響を与えた。 グラム・ファッションの影響を受けた[[ローリング・ストーンズ]]も、当時は濃いメイクをしていた。ヴィジュアル面では、グラム・ロックが80年代前半に起こった[[ニューロマンティック]]や、後に誕生する日本の[[ヴィジュアル系]]の先駆けとなった。音楽的にはクラッシュのミック・ジョーンズがモット・ザ・フープルのフォロワーであったことが良い例だが、[[パンク・ロック]]の一部への影響が見られる。 アメリカにおいて、グラムロックでの商業的な成功を収めたのは[[アリス・クーパー]]であった。さらに、1973年には[[ニューヨーク・ドールズ]]がデビューし、[[ルー・リード]]や[[イギー・ポップ]]などもグラムロックに影響されたステージを見せた。他には、[[ラモーンズ]]のメンバーがTレックスやスレイドを愛聴していることを、[[少年ナイフ]]によるインタビューで答えたことがある<ref group="注釈">93年のタワー・レコード「バウンス」による。</ref>。 == 日本への影響 == 国内では、1970年代半ば以降の[[沢田研二]]<ref group="注釈">70年代にも簡単なメイクをしたことがあるが、本格的なメイクは80年代からで「OH!ギャル」はその代表的な曲である。</ref>、[[忌野清志郎]]<ref group="注釈">ライブでもテレビ出演でもメイクで登場していたが、「いけないルージュ・マジック」でのメイクは有名。</ref>、1980年代前半には、[[土屋昌巳]]の[[一風堂 (バンド)|一風堂]]<ref group="注釈">「すみれセプテンバー・ラブ」でのメイクで知られる。</ref>が登場した。しかし、いずれも「グラム・ロック」とは呼ばれなかった。 1980年代以降、グラマラスなメイクをしたミュージシャンらは、ニュー・ロマンティックの影響を受けていると見られている。[[BOØWY]]、[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]、[[マルコシアス・バンプ]]、[[THE YELLOW MONKEY]]、[[ROLLY]]率いる[[すかんち]]、[[X JAPAN]]、[[毛皮のマリーズ]]、「[[ヴィジュアル系]]」バンド、[[本田恭章]]、[[中川勝彦]]など。 なお、[[マーク・ボラン]]の命日である9月16日には「マーク・ボラン追悼~グラムロックイースター」というイベントが毎年開催されている。常連参加者には、[[頭脳警察]]にいた[[PANTA]]のほか、ROLLY、[[マルコシアス・バンプ]]の旧メンバーなどがいる。 == 代表曲 == * 「メタル・グゥルー」 - [[T・レックス]] * 「スターマン」「ジーン・ジニー」 - [[デヴィッド・ボウイ]] * 「恋はドラッグ」 - [[ロキシー・ミュージック]] * 「ロックンロール黄金時代」 - [[モット・ザ・フープル]] * 「スクールズ・アウト」 - [[アリス・クーパー]] * 「ブロックバスター」 - [[スウィート]] * 「クレイジー・ママ」 - [[スレイド (バンド)|スレイド]] * 「[[ナウ・アイム・ヒア]]」 - [[クイーン (バンド)|クイーン]] == グラムロック・アーティスト == === 洋楽(1960年〜2000年代) === * [[T・レックス]]<ref>Mark Paytress, Bolan – The Rise And Fall of a 20th Century Superstar (Omnibus Press 2002) ISBN 0-7119-9293-2, pp. 180–181.</ref> * [[デヴィッド・ボウイ]]<ref group="注釈">ヨーロッパ的な曲と、「フェイム」のような黒人音楽に影響を受けた曲の両方を演奏した。</ref> * [[ロキシー・ミュージック]]<ref group="注釈">最初に三年間は主にイギリスを中心としたヒットだったが、75年に初めてアメリカ進出に成功した。</ref> * [[モット・ザ・フープル]]<ref group="注釈">ヒットが出ずに解散を考えていた時に、解散を止めて曲を提供したのがデヴィッド・ボウイである。</ref> * [[アリス・クーパー]]<ref group="注釈">「アリスは大統領」「ノーモア・ミスター・ナイス・ガイ」などもヒット。「アリスが大統領」発表時にはプロモーションのために、実際に大統領選挙に出馬している。</ref> * [[スウィート]] * [[ミック・ロンソン]] * [[スレイド (バンド)|スレイド]] * [[シルヴァーヘッド]] * [[ゲイリー・グリッター]] * [[ニューヨーク・ドールズ]] * [[ニック・ギルダー]] * [[ジョブライアス]] * [[スパークス (バンド)|スパークス]] * [[ホークウインド]] * [[ルー・リード]] * [[ジョーディー (バンド)|ジョーディー]] * [[スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベル|コックニー・レベル]] * ハロー(UK)<ref group="注釈">74年に「テル・ヒム」がイギリスのチャートで6位まで上昇したグラム・ロック・バンド。同曲はエキサイターズのカバー。</ref> * マッド * [[アルヴィン・スターダスト]] * [[スージー・クアトロ|スージー・クワトロ]] * [[ザ・ムーブ (バンド)|ザ・ムーブ]] * [[クイーン (バンド)|クイーン]] * [[ジャパン]] === 洋楽(2010年〜2020年代) === * [[マネスキン]] === 邦楽 === * [[沢田研二]] * [[忌野清志郎]] * [[土屋昌巳]] * [[一風堂 (バンド)|一風堂]] * [[THE YELLOW MONKEY]] * [[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]] * [[すかんち]] * [[マルコシアス・バンプ]] == 映画 == * デヴィッド・ボウイの映画『[[ジギー・スターダスト]]』(1973年) * T.Rexのドキュメンタリー『[[ボーン・トゥ・ブギー ]]』 * ゲイリー・グリッターの映画『Remember Me This Way』 * スレイド『Flame』 * [[トッド・ヘインズ]]監督の映画『[[ベルベット・ゴールドマイン]]』(1998年) === グラム・ロックスターが参加した映画 === * [[映画音楽]]の担当である[[坂本龍一]]と一緒に[[デヴィッド・ボウイ]]が出演。敵対国である兵士との[[同性愛]]を描いた戦争映画。[[第二次世界大戦下]]が舞台。『[[戦場のメリークリスマス]]』(1983年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ハードロック]] - 同時代に全盛期 * [[プログレッシブ・ロック]] {{音楽}} {{ロック・ミュージック}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くらむろつく}} [[Category:グラムロック|*]] [[Category:イギリスの音楽]]
2003-09-07T03:28:37Z
2023-12-28T14:04:33Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:出典の明記", "Template:Infobox music genre", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:音楽", "Template:ロック・ミュージック", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
15,493
戦車
戦車(せんしゃ、英: tank〈タンク〉)は、火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力および特殊鋼板製の装甲による防護力も備えた車両。第一次世界大戦で初めて登場し、第二次世界大戦における地上の戦闘で、中心的な役割を果たす兵器となった。 戦車は一般に、履帯(キャタピラ)を備え、これにより不整地(舗装道路以外の場所、オフロード)でも行動することができる。主たる武装として強力な火砲(戦車砲、「備砲」)を備え、ごく初期のものや一部の例外を除き旋回砲塔を装備して砲の向きを変えることができ、敵の陣地・戦車・車輌等々の攻撃が可能。副武装として主に機関銃を装備し、これにより歩兵群や非装甲車輌なども制圧できる。防御のためには主に鋼板製の装甲を備え、これにより敵からの小銃・機関銃、砲弾片、砲弾の直撃などによる攻撃に耐えることができる。 戦車は分類上、陸戦兵器のうち装甲戦闘車両の一種ということになる。しかし戦車は戦う車輌の総称ではなく、自走砲や装甲車などとは区別される。何をもって戦車と定義するかは曖昧な部分もあり、また時代や国、地域によって変化する。21世紀初頭現在では次のように要約できる。 1の走行装置については#走行装置の節で詳説、2の防御については#装甲の節で詳説 、3の攻撃力については#兵装の節で詳説する。 ただし、上記の条件全てを満たさなくても、保有する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある。例えばスウェーデンのStrv.103は上記のような旋回砲塔を持たず、大戦中の駆逐戦車や対戦車自走砲のような形状の車輛であるが、その開発・運用目的・戦闘能力から、スウェーデン軍では主力戦車として配備されていた。 現代の正規戦に通用する戦車は、製造に高い技術が求められるうえに部品点数も多く、「戦車は千社」という日本の諧謔に象徴されるように、生産ラインの維持には層の厚い産業が必要である。そのような事情もあって、現在自国で戦車の開発と生産ができる国家は10に満たないと言われる。 戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については、配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本では、大日本帝国陸軍が皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ...チ=中戦車、ハ=いろは順の三番目)もつけられていた。 近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。 第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線による鉄条網が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた。 このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現キャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。 イギリスではサー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍少佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。 陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。 1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤で世界初の戦車の実戦投入が行われマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。 その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。 後に登場したフランスのルノーFT-17という軽戦車は360度旋回する砲塔を装備し砲の死角を無くした。エンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことから隔壁で戦闘室と機関室を分離し、それまでの戦車兵の役割の1つだった車内でエンジンを点検する機関手が廃止された。車体も走行装置に車体を載せる方式を改め車体側面に足回りを取り付け、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。FT-17は「戦車」としての基本形を整え、初期の戦車設計の参考資料となった。 3,000輛以上生産されたFT-17は第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、当時もっとも成功した戦車となった。 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。 戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の装甲で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。 戦間期に戦車の運用方法が各国で研究され、第二次世界大戦前には、戦車を中心とし、それを支援する歩兵・砲兵など諸兵科を統合編成した戦車連隊や機甲師団が編成され、戦車は陸戦における主力兵器としての地位を獲得した。また、各国で中戦車が大規模に配備されるようになり、中戦車の数が充実するようになると、それまで主戦力だった軽戦車は偵察戦車や水陸両用戦車といった補助的な用途で使用されるようになった。ただし軽戦車の命脈が完全に断たれたわけではなく、その後中国の15式軽戦車のように現在でも製造・運用されている軽戦車も存在する。 攻守ともに当時としては破格で8万両以上生産されたソ連のT-34は米英軍の戦車より質及び量で優越することになる。独ソ戦におけるT-34ショックは、海軍艦艇における戦艦「ドレッドノート」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは戦車の発展及び対戦車兵器の開発を推し進めた。また、T-34は避弾経始に優れた曲面形状の鋳造砲塔と傾斜装甲を取り入れており、第2世代主力戦車(いわゆる第二次世界大戦後第2世代の戦車)まで、各国で避弾経始を意識した戦車設計が行われた。 自動車大国であったアメリカで開発されたM4中戦車は高度な自動車技術が応用されているため信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力によって5万両以上が生産された。自国産戦車が不足していたイギリスではレンドリースで受け取ったM4中戦車を主戦力として運用した。配備当初は数の優越で質の劣勢を補っていたがドイツ軍重戦車が活躍するようになるとそれに対抗できる強力な戦車が求められアメリカではM26重戦車(M3 90mmライフル砲搭載)が、イギリスでは重戦車相当のセンチュリオン重巡航戦車(オードナンス QF 17ポンド砲搭載)が開発され、更にセンチュリオンは歩兵戦車と巡航戦車を統合した。また、これらの重戦車は車体に傾斜装甲を採用したことで重量の割に高い防御力を発揮した。 戦車においては長らく圧延鋼板をリベット留めした構造が大半であったがリベットは被弾や付近での爆発による衝撃で千切れ飛び、車内の戦車兵や随伴歩兵が死傷する事故が相次いだ。また、留め具であるリベットを失った装甲板は脱落することもあった。一部の先進国では圧延鋼板を線で接合する溶接技術や鋳造鋼をボルトで接合する製法が採り入れられた。また、先進国の戦車は重装甲なため大出力なエンジンが必要だったが、航空機用エンジンが転用されることが多かった。 なお、用途に応じた戦車として指揮戦車、駆逐戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車、地雷処理戦車、空挺戦車などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。 第1世代主力戦車は西側ではセンチュリオン、M26を発展させたM46パットンが登場した。前述したようにこれらの戦車はM4中戦車の後継であり、ソ連のT-10と同級のコンカラーとM103ファイティングモンスターといった更に高火力・重装甲の重戦車が登場し同時並行で配備されたため、これらの戦車の分類は中戦車に落ち着いた。東側では西側中戦車に対抗してT-44を攻守共に強化したT-54(D-10T 100mmライフル砲搭載)が登場し、従来通りに別の重戦車の開発・運用が続いた。 特徴として丸型の鋳造砲塔を持ち、ジャイロ式砲身安定装置により走行中の射撃も可能である。 センチュリオン、M46パットン、M47パットン、M48パットン、T-54、T-55、61式戦車などが相当する。 第2世代主力戦車はイギリスで開発されたロイヤル・オードナンスL7 105mmライフル砲が西側戦車で一般化した。東側では西側に先駆け滑腔砲(115mm滑腔砲)を搭載した。中戦車の重戦車化によって重戦車は存在意義を失い、中戦車があらゆる局面において活用される主力戦車(英: main battle tank、MBT)として生き残った(ただし、ソ連では高性能で高価なT-64及びT-80と、廉価版のT-62及びT-72という、重量による区別とは別の異種類の戦車でそれぞれ部隊編成を行う、ハイローミックスの二本立てが存在した)。また、戦車の防御力が攻撃力に対し立ち遅れていたことから「戦車不要論」が主流となり、防御力を捨て機動力で生存性を確保するレオパルト1のような戦車も登場した。 対戦車ミサイルが発達し、随伴歩兵による携帯用対戦車兵器を持つ敵歩兵部隊の掃討がより重要視されるようになり、戦車部隊と機械化歩兵部隊がともに行動する戦術が生み出された。また、自走化された対戦車砲である駆逐戦車は存在意義を失っていったが、軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、歩兵戦闘車のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。 特徴として砲塔内容積と避弾経始を両立するため砲塔は横に広くなり、アクティブ投光器による暗視装置により夜戦能力を得た。 M60パットン、チーフテン、T-62、T-64、AMX-30、レオパルト1、Strv.103などが相当する。 ソ連製のT-72は2A46 125mm滑腔砲の搭載、2層のガラス繊維材を装甲板で挟み込んだ複合装甲(性質の異なる装甲素材を重ね合わせた装甲で単一素材の圧延鋼板装甲より強固とされる)の採用、軽量化によって当時の戦車の中では走・攻・守いずれにおいても優れていた。一方、豊富な戦車戦経験と戦車の改造技術を持つイスラエル初の国産戦車メルカバはその独自の設計と、1982年のレバノン内戦で初期型のT-72を破った事で注目を集めた。これら1970年以降に開発された戦車は西側では第3世代主力戦車で主流となる技術をいち早く採用していたり、第2世代主力戦車の多くが第1世代主力戦車の改良発展型であるのに対し、新規開発である点から第3世代主力戦車の方に分類されたり、技術的には第2世代と第3世代の中間的な観点から第2.5世代主力戦車と分類される事も多い。 T-72、74式戦車、メルカバ、CM11、96式戦車などが相当する。 第3世代主力戦車は東側は第2.5世代戦車の時点で当時の西側戦車より優れていたため大幅な性能向上は無かったが、次第に対戦車ミサイルも発射可能な2A46の搭載や箱状の爆発反応装甲の追加が行われていった。西側ではドイツのレオパルト2が同国で開発されたラインメタル L44 120mm滑腔砲を装備し、複合装甲を導入しただけでなく複合装甲を内包した溶接砲塔を採用し、パッシブ型(投光器で光を照射するアクティブ型と違い、敵の発した光を受容する)の暗視装置を装備した。また、西側諸国のラインメタルL44 120mm滑腔砲は1980年代中頃から普及し始め、複合装甲や暗視装置は各国で独自に開発された。 ソ連戦車以外は砲塔が車体同様に溶接構造となり、T-80以外はレーザー測遠機を装備した。 T-80、レオパルト2、M1エイブラムス、K1、チャレンジャー1、アリエテ、90式戦車、98式戦車などが相当する。 冷戦終結に伴う軍事的緊張の緩和と軍事費削減によって、次世代主力戦車の登場を前に既存の戦車をもとにポスト冷戦時代の紛争の戦訓や関連技術の進展を反映させた戦車群(第3.5世代主力戦車)が開発された(M1A2エイブラムス、チャレンジャー2、レオパルト2A5、99式戦車、T-84、T-90Mなどが相当)。装甲の改良が施され、重量が概ね約3トンから10トン増加する傾向にある。 また、前述のように戦車の新規開発は難しい環境にありながらも、戦車開発技術の獲得・維持、既存戦車の改修による能力向上が困難なほど陳腐化もしくは改修はかえって費用対効果で割に合わないといった場合には新規開発が行われる(ルクレール、メルカバMk.4、10式戦車、K2およびアルタイ、T-14などが相当)。着脱が可能で破損時の交換や新型装甲への換装が容易であるモジュール装甲(外装式と内装式がある)が導入された。新規開発されていることから光学機器をはじめとする電子機器の進化が著しい。 特徴としてC4Iシステムの搭載によって戦車は他兵器や司令部と相互に情報共有を行い諸兵科を統合運用でき(ネットワーク中心の戦い)、トップアタック可能な対戦車ミサイルなどの上方からの攻撃への考慮やL55や2A46M5等、戦車砲の大口径化による威力の向上が行われた。また、ソ連崩壊後からのロシア戦車は西側第3世代主力戦車に比べて防御力が遅れがちになりTShU-1-7 シュトーラ-1等のアクティブ防護システムでの間接的な補強、西側に追随した複合装甲を内包した溶接砲塔の導入によって2000年代序盤に西側最新砲弾に耐える防御力を獲得し、レリークト・カークトゥス等の爆破反応装甲の改良、全く新しいコンセプトである無人砲塔の開発などでさらに防御力が向上した。また、エンジンの改良を行うことで重量増加に対応した。この他、イギリスでのチャレンジャー3の採用決定の様に同盟国・友好国との弾薬などの互換性を高める等、補給面での利便性を向上させる改良計画も存在する。 20世紀の内にも登場するはずであった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。背景には東西冷戦の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、戦車の性能向上がそれほど重要視されなくなった。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から70tを超えるような戦車は輸送や装甲の追加が困難で、走行可能な地形にも制限がかかるなど、主力戦車としての運用に支障が出るのである。 この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。その一つに有人車両からコントロールする無人のロボット僚車や戦車機能を数両で分担するなど斬新なアイデアも提案されている。サイズの縮小によって軽量化を達成した戦車は東側戦車、ルクレール、10式、K2が該当し、現代の西側戦車の60トン後半の重量に対し、これらの戦車は60トン未満の重量となっている。米国のM1A3計画のように軽量化に追従するものも存在する。 2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度なC4Iシステムなどを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) の採用により向上した。 戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、プラットフォームの共通化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、ロシアではアルマータと呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14の開発が進められている。T-14は10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられ、長山号やアメリカ軍のArmed Robotic Vehicle(ARV) 等とは異なり有人戦車だが乗員を必要としない遠隔操作モードが試験段階にある。一方、ドイツではウクライナ問題の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される(ドイツとフランスでそれぞれ配備中の主力戦車レオパルト2およびルクレールの後継機開発計画であるEMBTでは、新規開発の130mm滑腔砲搭載により攻撃力の向上を図り、68トン積載可能なレオパルト2A7からのシャーシ及びエンジンに、自動装填装置を備え乗員2名のルクレールの砲塔を併せることで、軽量化に伴う機動力の向上が見込めるとされる)。 各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。 戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、1915年(大正4年)時点で国内自動車保有台数がわずか897台という有様であったが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車に早くから注目しており、ソンムの戦いの翌年である1917年(大正6年)には陸軍が調達に動き出している。1918年(大正7年)10月17日、欧州に滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によって同盟国イギリスから購入されたMk.IV 雌型 戦車1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに神戸港に入港した。 翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設され、以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。1923年 - 1924年(大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、1925年(大正14年)の宇垣軍縮による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。当時(大正後期)の日本の不況経済や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたが、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始される事となった。 戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた大阪砲兵工廠で行われることとなり、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーばね式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で1927年2月には試製1号戦車をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められた。 その後、八九式中戦車、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産された。しかし、第二次世界大戦においては、日本は限りあるリソースを航空機や艦艇に割かざるを得ず、しかも、その間の欧州戦線での開発競争によって日本の戦車技術は陳腐化した。一方で、本土決戦用に温存されていた車輌とともに、原中将はじめ開発・運用要員の多くが幸いにも終戦まで生き延びていたことが、戦後の戦車開発に寄与することとなる。 戦後日本は非武装化されたが、共産主義勢力の台頭と朝鮮戦争の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負った事などで、新戦車開発・運用のためのノウハウが蓄積されていった。とはいえこれらアメリカ戦車がまもなく旧式化することは明らかであり、規格が日本人の体型にも合わないことも踏まえて、日本の国情に合わせた国産戦車の開発を目指すこととなった。 アメリカの支援などによって開発費の目処もつき、戦後初の国産戦車となった61式戦車が1961年(昭和36年)4月に制式採用された。この戦車は旧陸軍の設計思想を受け継いだこともあり、開発した時点では既に米ソや西ドイツの水準からは見ると陳腐なことは否めず、習作的意味合いが強いものであったが、続く74式戦車で世界水準にキャッチアップし、更にその後継の90式戦車で世界水準を一部上回ったといえる。 2000年代に開発された10式戦車は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などベトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、2013年に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、本州配備の戦車は廃止され、戦車は北海道と九州にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の16式機動戦闘車のみが配備される。装輪戦車である16式機動戦闘車は、10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性(不整地突破能力)の面において劣るものの、逆に戦略機動性(舗装路での高速走行や輸送機・輸送艦での運搬による、長距離の移動能力)は優れており、74式戦車と同等の火力を戦場に素早く展開できる即応力を備えている。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、16式機動戦闘車が引き継ぐことになる。 防衛省では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するベトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。 砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年のゴラン高原での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている。 重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い。最近は対戦車ミサイルや航空機からの攻撃が多く、砲塔上面の装甲の脆弱性が問題になる例が増えている。また道路に設定されているIEDや対戦車地雷等に対してV型装甲など戦車下面の防御も重要視されている。 またRPG-7等の旧来からある比較的破壊力の低い非誘導ミサイルによって、履帯、転輪等が破壊されると戦車は行動不能に陥り放棄されることも多い。戦況が有利に展開して回収できなければ、敵軍に捕獲されて簡単な修理で敵の戦力となり、また無線通信や兵器の秘密が明らかになる可能性がある。放棄時には通信装置や照準装置等の破壊が推奨されているが、実際には行動不能となった戦車は敵軍の攻撃に対しさらに脆弱となるため、乗組員は何も破壊できずに可及的に素早く避難することが多い。 戦車を含め殆どの兵器は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される工業製品である。そのため殆どの国は戦車を輸入に頼っており、ロシア、ドイツ、アメリカ等の戦車を開発できる国は戦車の輸出によって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。中国はロシア設計を改変した車輌を輸出している。 先進国では最新鋭の第3.5世代戦車が主流だが、途上国に限らずロシアやイスラエル等であっても旧式戦車に近代化改修を施して配備されていることがある。近代化改修では車体はそのままに主砲の滑空砲への改良、より高性能なレーザー式照準装置や通信装置、外部に爆発反応装甲の追加、より高馬力なエンジンへの換装などの手法が用いられ、外見が大きく変化することもある。旧式化した戦車を自走砲や回収戦車、架橋車両などに改装する例がある他、砲塔のみを他の車両やトーチカに転用される場合もある。 冷戦期には、世界中の国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を多く保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少に伴う軍事費の削減によって、多くの国では戦車保有数が減少し100輌単位での保有となったが、米中露をはじめとする超大国では1,000輌単位の保有となっている。中でもロシアは依然として1万両を超える戦車を持つとされているが、実際には稼働可能な戦車は数千両に限られ、またT-62やT72の近代化改修車もかなりを占めると言われる。 戦車兵の軍服は狭い車内で活動するため、他の兵科より裾を短くするなど引っかからないように工夫されており、素材に難燃性が求められる。第二次世界大戦後になるとつなぎタイプの軍服を採用する軍隊が多数を占めるようになる。履物については他部隊より軽量化されたものが多い。 戦車内部は狭く頭をぶつける恐れが高いので、頭部を守るためのクッションパッドもしくは樹脂製の外殻で構成されたヘルメットが用いられる。また、車内はエンジン音や履帯の走行音などで騒がしいため、遮音材と通話のためのヘッドセットがヘルメットに組み込まれることが多く、ヘルメットも縁が切り落とされている専用設計のものが一般的である。その場合、それぞれの席にはインターホンのジャックがある。近年では生存性を高めるためボディーアーマーを着用することもある。ハッチを開けて走行すると土砂や砂塵が巻き上がり、また射撃時には車内にガスが発生するため、マスクと防塵眼鏡が多用される。 乗員の位置としては車長席の前方に砲手席、主砲を挟んだ反対側に装填手席がある。自動装填装置を搭載する車両では、主砲を挟んで車長席と砲手席が設けられる。操縦手席は乗り降りの際に主砲が邪魔にならないように車体前方の左ないし右に位置するが、操縦手席が中央に設けられている場合は主砲の位置と仰角によっては脱出が困難のため砲塔のハッチから脱出する。車両によっては底面に脱出口があるものや、イスラエルのメルカバのように車体後面に脱出口を持つものもある。 乗員の自衛用の小火器は、狭い車内での取り回しを考慮して主にカービンタイプのアサルトライフルや短機関銃が用いられ、拳銃はヒップホルスターはハッチ類に引っかかる恐れがあるためショルダーホルスターが好まれる。戦車は内部は装備の近代化や高度化で少々大型化してもすぐに装備で狭くなる傾向があるため、世界的には比較的小柄な乗員を採用することが多いといわれている。 戦車はキャタピラ、または無限軌道と呼ばれる走行装置によって、車体を支え走行する。 多くの場合無限軌道は、鋼製の各履板(りばん)がピンで接続されたもので輪を構成していて、履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。履帯と起動輪、誘導輪、転輪、上部転輪などをもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。これに対しタイヤの駆動で走行する車両を装輪車両と呼ぶ。エンジンの出力は変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪を駆動する。起動輪には歯輪があり、履板のピンブロックと噛み合って履帯を起動する。履帯では方向の変更は起動輪の左右回転数の差で行われる。 履帯はタイヤに比べて接地面積が広く荷重が分散され、装輪車両では走行不可能な泥濘などの不整地に対する「不整地走破能力」が優れる。また、接地面積の広さから地面との摩擦が大きいため「登坂能力」にも優れる。履帯は地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かってもフタのような役を果たして転輪を落としこまない。この働きによって、装軌車両は装輪車両では越えられない幅の壕を越えられ、「越壕能力」に優れる。段や堤も装輪車両より高いものを越えられ、「越堤能力」に優れる。また鉄条網が引かれた阻止線もそのまま轢き倒して走行できる。川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。 変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、低速ながら数十トンの質量を動かすトルクを作り出す。動力は操向変速機へ送られ左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧式で多板のディスクブレーキと停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式のリターダを備える。 上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっている。装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回以外の動きが出来なくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動が容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類の重量が車重の多くを占め、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。 戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である。またアメリカのシェリダンのように軽量な戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。 橋梁による河川の通過は橋の強度が求められ、橋に頼れば移動経路が制約されて、戦争時には意図的に破壊されることもあり作戦上は好ましくない。川底のぬかるみがひどかったり、特に急流であれば水中渡河は困難だと考えられる。戦車を含む車両全般の渡河を行うため、比較的狭い幅の川では戦車相当の車台上に折り畳んだ橋体を搭載し川辺から素早く簡易の橋を展開設置する架橋戦車が使用される。また、幅の広い河に対しては架橋戦車の数両分で橋脚を備え連結出来るものも存在する。ポンツーンやポンツーン橋と呼ばれる小型艇を数艇以上を川面に並べることで応急・簡易に戦車等が渡河可能とするものもあり、さらに広い河ではこれを橋ではなく艀として使用することもある。この専用運搬車両も存在する。 戦車を相手に戦うことを「対戦車戦」、戦車を攻撃するための手段を「対戦車兵器」とそれぞれ呼ぶ。 戦車は開口部が極端に少ないため、視界は狭く死角が多い、また外部音が遮蔽され乗員は周囲の音を感知することが困難であるという弱点・欠点がある。反対に、戦車は車体や走行音が大きく、エンジンなど熱源を積んでいるため、暗視装置など技術機材の有無を問わず敵からは察知されやすい。ハッチ、外部を観察するための光学装置、履帯や転輪も破壊しやすく、戦車の弱点である。 戦車と戦う側からすると、敵戦車の弱点を見極めてそこを攻める必要が出てくる。歩兵は物陰に隠れたり地形に潜んで、戦車を奇襲的に攻撃することができる。攻撃機や武装ヘリコプターといった航空機は戦車からは察知されにくく、戦車砲を指向させにくい角度の上空から一方的に戦車を攻撃することができる。 戦車が登場した当初に行われた対戦車攻撃としては、地雷を用いて戦車の履帯や底面を破壊する、歩兵が肉迫して手榴弾や爆薬を投げ込む、野砲が直接照準で射撃するといった方法があった。第二次世界大戦初期までは、歩兵用の対戦車兵器のひとつとして対戦車ライフルが用いられていた。人力で運搬・射撃する都合上、威力を向上させようとすると重量・反動が増大して運用が難しくなる。戦車の装甲が強化されるに従い、対戦車兵器としては衰退した。 第二次世界大戦後期にはバズーカやパンツァーファウストなどの個人が携行することが可能な対戦車ロケットや無反動砲が普及したことにより、射程では劣るが貫通力では対等になった。これらの兵器は成形炸薬によるモンロー効果を用いた成形炸薬弾(HEAT弾)を使用し、人間が受け止められる反動以上の対戦車戦闘力を歩兵にもたらした。また、ソ連で開発されたRPG-7は簡単な構造で、途上国でも簡単にコピー生産できるため、世界のテロリストやゲリラなどの弱小勢力でも正規軍の戦車に対抗できるようになり、低強度紛争(Low Intensity Conflict:LIC)といった非対称戦が多発する要因ともなった。 1970年代には、誘導装置を備えた対戦車ミサイルにより、それまでの「戦車の歩兵に対する圧倒的な優位」の状態が一気に崩れ、立場が逆転してしまった。歩兵は、比較的安価で入手しやすく、取り扱いが軽便な携帯用対戦車兵器により、高価な敵戦車を撃破することができるようになった。 イスラエルとアラブ諸国が争った数次の中東戦争ではしばしば大規模な戦車戦が繰り広げられた。第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが、特に1973年10月に勃発した第四次中東戦争ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌)の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車(センチュリオン「ショット」、M48パットン/M60パットン「マガフ」など)とソ連製戦車 (T-54/55、T-62、なおイスラエル軍も「Tiran-4/5/6」として使用)が正規戦を行った。8日に発生したエジプト軍第二歩兵師団とイスラエル軍第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍がRPG-7やAT-3「サガー」を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車はこうした対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。シナイ方面で行われた10月14日の戦車戦はクルスク大戦車戦以来最大の規模となり、また対戦車ミサイルが大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となった事から、以後の戦車開発に戦訓を与え、以降の戦車は更に重武装、重装甲であることが求められる様になった。 当時はT-72をはじめとして東側戦車は複合装甲を備えていたため携帯式対戦車兵器の威力に対抗できたが、西側戦車はただの鋼板による防御力しか持たなかったため戦車を持たずとも対戦車ミサイルのみで対処できるということが世界中に理解された。当時盛んだった戦車不要論をある意味で証明することになった。また、爆発反応装甲はイスラエルで実用化されたが、体積および質量当たりの防御力の高さはむしろ東側戦車で評価されていった。それでもなお、戦車の側面・後面や走行装置等の弱点を狙ったり、タンデム弾頭や地面設置型のミサイルを使用するなど、状況は限られるものの撃破自体は不可能ではない。対戦車ヘリコプターの出現や対戦車ミサイルが猛威をふるったことにより「戦車不要論」も唱えられたが湾岸戦争・イラク戦争は戦車が活躍し下火となった。 現代の戦車は敵の対戦車兵器に備えて常に周囲を警戒する必要に迫られ、第一次世界大戦で戦車が登場した当初の「味方歩兵を護るために戦車が先行し、彼等のための壁になる」という図式が成り立たなくなり、「戦車を敵歩兵から護るために、歩兵を先行・随行させる」という状況に陥ってしまった。戦車を運用する側は戦車を単独で進めるのではなく、視界の広い歩兵を随伴させ、歩兵の警戒と小火器による牽制・制圧で敵方の対戦車戦闘を困難にさせなければならなくなった。それに対して対戦車攻撃を仕掛ける側にとっては、まず敵戦車に随伴する歩兵を無力化、あるいは両者を分断してから戦車を攻撃する必要性が生まれ、彼我の駆け引き・せめぎあいが行われるようになった。現代の地上戦において戦車の出番は最終段階となる。 戦車は大きく重いことから交通路には制限があり、防御側はこれを利用して対戦車壕や対戦車用バリケード、対戦車地雷等の障害物によって自由な移動を阻害する。戦車は車体の大きさから停止して動けない状態では容易に狙い撃ちされるため、走行不能な状態に陥った戦車の自衛戦闘には限界があり、味方の救出が間に合わなければ乗員は脱出を強いられることになる。 最新の戦車はモニターやセンサー類を充実することで不利を補おうとしているが、それでもなお充分とは言えず、随伴歩兵との連携を必要としつづけている。歩兵が戦車の外に直接同乗するタンクデサントは歩兵の視野の広さと戦車の機動力を得られる反面、むき出しの歩兵は敵からの攻撃に対して無防備であり、常に推奨される戦法とは言えない。ロシアでは味方戦車を敵歩兵から守ることに特化した戦闘車輛であるBMP-Tシリーズが開発された。 2000年代になると携行型の対戦車ミサイルは、歩兵1名での運用、2kmを超える長射程化、ファイア・アンド・フォーゲットによる反撃の回避、正面装甲より弱い上部装甲を狙うトップアタックなど高機能化したが、電子機器の低価格化により価格上昇は少なく、多くの軍で標準的な装備となった。また無人航空機や徘徊型兵器も実戦配備されるようになった。対戦車ミサイルへの対策として、被弾を前提とした改修が行われている。 進化した対戦車兵器への対策により戦車の開発費・価格は上昇し、先進国でも大きな負担となっている。2022年ロシアのウクライナ侵攻ではロシア軍の戦車が低コスト化した対戦車兵器で大損害を受けたことから、コスト面での優位性が低下しつつある。一方で地上部隊の駆逐など火力を必要とする作戦など特性にあった状況で利用されている。高価な戦車の損害を抑えるため、前線から下がらせて主砲による砲撃を担当するという自走榴弾砲的な運用も行われている。 火砲やロケットランチャーといった対戦車兵器を使えない場合、太い木や鉄の棒などを履帯に投げ込んだり、あるいはバリケードを用いて敵戦車を足止めした上で、灯油やガソリンなどの可燃物を戦車の上面に大量に浴びせかけたり、地面など周囲にも可燃物を配置しておいて着火し、火攻めにするという攻撃方法が用いられる場合がある。かつては同じ目的で火炎放射器や火炎瓶、焼夷剤投射器(例:ドイツ連邦軍のHandflammpatrone)を使う事例もあった。開口部や吸気口から燃える可燃物が車内に入り込むことで、戦闘室やエンジンが焼損にいたる。また装甲板で覆われて開口部が少ない戦車は温度上昇を防ぐことができず、炎にさらされ続けると全体がまるで大型のオーブンのようになり、機器が故障したり弾薬が誘爆しなくとも、内部の乗員は脱出を余儀なくされる。現代の戦車はアンテナやカメラなど重要だが脆弱な箇所が多く、作戦を続行するためには消火が必要となり人手が割かれる。 ありあわせの爆発物で作られた即席爆発装置は、戦車の下部装甲や走行装置を破壊したり、車体を横転させる威力を持ちうるため、紛争地域に投入された戦車にとり大きな脅威となっている。 陸戦を主目的とする戦車にとって上空を高速で移動する航空機への対応は難しく、第二次世界大戦の中期から対地攻撃機が対戦車攻撃にも導入され多くの成果を挙げた。特にダイブブレーキを備えた急降下爆撃機は狙いを定めやすく、戦車側は直撃を受けないようにジグザグに動く、急停止・急発進するなど回避行動を取っていたが効果が薄かった。対策として大規模な戦車部隊には対空戦車が随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊の援護が必要不可欠である。 戦車の上部装甲は正面装甲に比べると薄く作られるため、正面装甲であれば充分に耐えられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通される可能性がある。ソ連では第二次世界大戦の中期から23mm機関砲を搭載したシュトゥルモヴィークIl-2を東部戦線に投入し、ドイツ軍の戦車部隊に対して大きな戦果を挙げた。ドイツでも大戦後期からJu 87GやHs 129のような爆撃機・攻撃機に機関砲や対戦車砲を装備して対戦車攻撃機として投入し、ソ連軍の戦車を多数撃破している。現代の攻撃機はアメリカ空軍のA-10のように機関砲、爆弾、ロケット、ミサイルで武装しており、戦車や装甲車への攻撃を主任務としている。 低速ながらも空中を比較的自由に動き回り、一定の空域に留まり続けることができる攻撃ヘリコプターは固定翼機以上の脅威であり、戦車砲の射程外から機関砲や空対地ミサイルなどで一方的に戦車を撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプターの射程に入った場合、煙幕を張って視界を遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車を運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイルや対空攻撃の可能な銃砲、また専門の防空車輌や高射部隊との協調によって敵ヘリコプターの接近を阻止する必要がある。近年の自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリが射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜される可能性がある。ヘリは機動性と射程距離で勝り、装甲貫徹力は同等で、防御力と運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置が破壊されるだけで無力化される。このためヘリは被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力を活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。 近年は攻撃能力を有する無人航空機や徘徊型兵器が新たな脅威になっている。 現代の地上戦ではミサイルにより防空レーダーや飛行場を破壊して航空戦力を減らし、榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊を攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊と歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、制空権の確保は戦闘車両を大規模展開させるうえでの前提条件である。 市街戦は視界の狭さと通行の制限という二つの弱点から戦車にとっては不利な環境で、とくに曲がり角や建物の上層などの高所から、弱点である後面や上面に攻撃を受ける危険性がある。防御側は侵攻する戦車をあえて市街地へ侵入させ、歩兵の対戦車兵器で破壊するという戦術もある。それでも歩兵の盾や強力な火力援護手段として戦車が必要されていることに違いは無く、非対称戦争対策として市街地向けの改修が行われている。設計段階から市街戦を考慮した戦車も登場し、また建造物破壊に対応できる砲弾も実用化されている。市街戦では主役である歩兵を援護する近接支援火力として戦車が投入され、搭載できる砲弾に限りがあるため対歩兵には同軸機銃や対空機銃が用いられ、対空機銃は建物の上階など砲が届かない相手に対応するために重要である。 前面以外は装甲が比較的薄い傾向にあり弱点になっていることが多い。ソ連戦車、99式戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である上面に増加装甲を加え、トップアタック式ミサイルに対抗したものがある。ロシア戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である側面の装甲を強化し、側方からの攻撃に対抗したものがある。 イラク戦争後、米英を主体とした駐留軍の車両も対HEAT装甲である鳥籠状の構造物で車体を覆っているが、これは前述のように独軍が採用した防御方法であったもので、その後に同じ着想のものが世界中で採用された。これがRPGの弾頭を数十%の確率で不発、または著しく効果を削ぐと云われている。イスラエルのメルカバは砲塔後部下部に対HEAT弾用のチェーンカーテンを取り付けており、ロシアではスラットアーマーを車体後方や上面に装備している。 各国において、戦争に関する博物館が存在する。中でも、戦車を中心にした博物館がいくつか存在する。連合軍の博物館は自国の戦車はもとより、鹵獲した枢軸国の戦車の展示においても充実しており、戦車の変遷を理解する上においては重要な資料を提供している。 自衛隊の車両を運転する内部資格「MOS」(Military Occupational Speciality、特技区分)の他、公道を走るには大型特殊自動車免許や大型特殊免許(カタピラ限定)の運転免許が必要となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "戦車(せんしゃ、英: tank〈タンク〉)は、火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力および特殊鋼板製の装甲による防護力も備えた車両。第一次世界大戦で初めて登場し、第二次世界大戦における地上の戦闘で、中心的な役割を果たす兵器となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "戦車は一般に、履帯(キャタピラ)を備え、これにより不整地(舗装道路以外の場所、オフロード)でも行動することができる。主たる武装として強力な火砲(戦車砲、「備砲」)を備え、ごく初期のものや一部の例外を除き旋回砲塔を装備して砲の向きを変えることができ、敵の陣地・戦車・車輌等々の攻撃が可能。副武装として主に機関銃を装備し、これにより歩兵群や非装甲車輌なども制圧できる。防御のためには主に鋼板製の装甲を備え、これにより敵からの小銃・機関銃、砲弾片、砲弾の直撃などによる攻撃に耐えることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "戦車は分類上、陸戦兵器のうち装甲戦闘車両の一種ということになる。しかし戦車は戦う車輌の総称ではなく、自走砲や装甲車などとは区別される。何をもって戦車と定義するかは曖昧な部分もあり、また時代や国、地域によって変化する。21世紀初頭現在では次のように要約できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1の走行装置については#走行装置の節で詳説、2の防御については#装甲の節で詳説 、3の攻撃力については#兵装の節で詳説する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ただし、上記の条件全てを満たさなくても、保有する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある。例えばスウェーデンのStrv.103は上記のような旋回砲塔を持たず、大戦中の駆逐戦車や対戦車自走砲のような形状の車輛であるが、その開発・運用目的・戦闘能力から、スウェーデン軍では主力戦車として配備されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現代の正規戦に通用する戦車は、製造に高い技術が求められるうえに部品点数も多く、「戦車は千社」という日本の諧謔に象徴されるように、生産ラインの維持には層の厚い産業が必要である。そのような事情もあって、現在自国で戦車の開発と生産ができる国家は10に満たないと言われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については、配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本では、大日本帝国陸軍が皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ...チ=中戦車、ハ=いろは順の三番目)もつけられていた。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線による鉄条網が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現キャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イギリスではサー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍少佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤で世界初の戦車の実戦投入が行われマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "後に登場したフランスのルノーFT-17という軽戦車は360度旋回する砲塔を装備し砲の死角を無くした。エンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことから隔壁で戦闘室と機関室を分離し、それまでの戦車兵の役割の1つだった車内でエンジンを点検する機関手が廃止された。車体も走行装置に車体を載せる方式を改め車体側面に足回りを取り付け、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。FT-17は「戦車」としての基本形を整え、初期の戦車設計の参考資料となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "3,000輛以上生産されたFT-17は第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、当時もっとも成功した戦車となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の装甲で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "戦間期に戦車の運用方法が各国で研究され、第二次世界大戦前には、戦車を中心とし、それを支援する歩兵・砲兵など諸兵科を統合編成した戦車連隊や機甲師団が編成され、戦車は陸戦における主力兵器としての地位を獲得した。また、各国で中戦車が大規模に配備されるようになり、中戦車の数が充実するようになると、それまで主戦力だった軽戦車は偵察戦車や水陸両用戦車といった補助的な用途で使用されるようになった。ただし軽戦車の命脈が完全に断たれたわけではなく、その後中国の15式軽戦車のように現在でも製造・運用されている軽戦車も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "攻守ともに当時としては破格で8万両以上生産されたソ連のT-34は米英軍の戦車より質及び量で優越することになる。独ソ戦におけるT-34ショックは、海軍艦艇における戦艦「ドレッドノート」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは戦車の発展及び対戦車兵器の開発を推し進めた。また、T-34は避弾経始に優れた曲面形状の鋳造砲塔と傾斜装甲を取り入れており、第2世代主力戦車(いわゆる第二次世界大戦後第2世代の戦車)まで、各国で避弾経始を意識した戦車設計が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "自動車大国であったアメリカで開発されたM4中戦車は高度な自動車技術が応用されているため信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力によって5万両以上が生産された。自国産戦車が不足していたイギリスではレンドリースで受け取ったM4中戦車を主戦力として運用した。配備当初は数の優越で質の劣勢を補っていたがドイツ軍重戦車が活躍するようになるとそれに対抗できる強力な戦車が求められアメリカではM26重戦車(M3 90mmライフル砲搭載)が、イギリスでは重戦車相当のセンチュリオン重巡航戦車(オードナンス QF 17ポンド砲搭載)が開発され、更にセンチュリオンは歩兵戦車と巡航戦車を統合した。また、これらの重戦車は車体に傾斜装甲を採用したことで重量の割に高い防御力を発揮した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "戦車においては長らく圧延鋼板をリベット留めした構造が大半であったがリベットは被弾や付近での爆発による衝撃で千切れ飛び、車内の戦車兵や随伴歩兵が死傷する事故が相次いだ。また、留め具であるリベットを失った装甲板は脱落することもあった。一部の先進国では圧延鋼板を線で接合する溶接技術や鋳造鋼をボルトで接合する製法が採り入れられた。また、先進国の戦車は重装甲なため大出力なエンジンが必要だったが、航空機用エンジンが転用されることが多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、用途に応じた戦車として指揮戦車、駆逐戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車、地雷処理戦車、空挺戦車などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第1世代主力戦車は西側ではセンチュリオン、M26を発展させたM46パットンが登場した。前述したようにこれらの戦車はM4中戦車の後継であり、ソ連のT-10と同級のコンカラーとM103ファイティングモンスターといった更に高火力・重装甲の重戦車が登場し同時並行で配備されたため、これらの戦車の分類は中戦車に落ち着いた。東側では西側中戦車に対抗してT-44を攻守共に強化したT-54(D-10T 100mmライフル砲搭載)が登場し、従来通りに別の重戦車の開発・運用が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "特徴として丸型の鋳造砲塔を持ち、ジャイロ式砲身安定装置により走行中の射撃も可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "センチュリオン、M46パットン、M47パットン、M48パットン、T-54、T-55、61式戦車などが相当する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第2世代主力戦車はイギリスで開発されたロイヤル・オードナンスL7 105mmライフル砲が西側戦車で一般化した。東側では西側に先駆け滑腔砲(115mm滑腔砲)を搭載した。中戦車の重戦車化によって重戦車は存在意義を失い、中戦車があらゆる局面において活用される主力戦車(英: main battle tank、MBT)として生き残った(ただし、ソ連では高性能で高価なT-64及びT-80と、廉価版のT-62及びT-72という、重量による区別とは別の異種類の戦車でそれぞれ部隊編成を行う、ハイローミックスの二本立てが存在した)。また、戦車の防御力が攻撃力に対し立ち遅れていたことから「戦車不要論」が主流となり、防御力を捨て機動力で生存性を確保するレオパルト1のような戦車も登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "対戦車ミサイルが発達し、随伴歩兵による携帯用対戦車兵器を持つ敵歩兵部隊の掃討がより重要視されるようになり、戦車部隊と機械化歩兵部隊がともに行動する戦術が生み出された。また、自走化された対戦車砲である駆逐戦車は存在意義を失っていったが、軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、歩兵戦闘車のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "特徴として砲塔内容積と避弾経始を両立するため砲塔は横に広くなり、アクティブ投光器による暗視装置により夜戦能力を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "M60パットン、チーフテン、T-62、T-64、AMX-30、レオパルト1、Strv.103などが相当する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ソ連製のT-72は2A46 125mm滑腔砲の搭載、2層のガラス繊維材を装甲板で挟み込んだ複合装甲(性質の異なる装甲素材を重ね合わせた装甲で単一素材の圧延鋼板装甲より強固とされる)の採用、軽量化によって当時の戦車の中では走・攻・守いずれにおいても優れていた。一方、豊富な戦車戦経験と戦車の改造技術を持つイスラエル初の国産戦車メルカバはその独自の設計と、1982年のレバノン内戦で初期型のT-72を破った事で注目を集めた。これら1970年以降に開発された戦車は西側では第3世代主力戦車で主流となる技術をいち早く採用していたり、第2世代主力戦車の多くが第1世代主力戦車の改良発展型であるのに対し、新規開発である点から第3世代主力戦車の方に分類されたり、技術的には第2世代と第3世代の中間的な観点から第2.5世代主力戦車と分類される事も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "T-72、74式戦車、メルカバ、CM11、96式戦車などが相当する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "第3世代主力戦車は東側は第2.5世代戦車の時点で当時の西側戦車より優れていたため大幅な性能向上は無かったが、次第に対戦車ミサイルも発射可能な2A46の搭載や箱状の爆発反応装甲の追加が行われていった。西側ではドイツのレオパルト2が同国で開発されたラインメタル L44 120mm滑腔砲を装備し、複合装甲を導入しただけでなく複合装甲を内包した溶接砲塔を採用し、パッシブ型(投光器で光を照射するアクティブ型と違い、敵の発した光を受容する)の暗視装置を装備した。また、西側諸国のラインメタルL44 120mm滑腔砲は1980年代中頃から普及し始め、複合装甲や暗視装置は各国で独自に開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ソ連戦車以外は砲塔が車体同様に溶接構造となり、T-80以外はレーザー測遠機を装備した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "T-80、レオパルト2、M1エイブラムス、K1、チャレンジャー1、アリエテ、90式戦車、98式戦車などが相当する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "冷戦終結に伴う軍事的緊張の緩和と軍事費削減によって、次世代主力戦車の登場を前に既存の戦車をもとにポスト冷戦時代の紛争の戦訓や関連技術の進展を反映させた戦車群(第3.5世代主力戦車)が開発された(M1A2エイブラムス、チャレンジャー2、レオパルト2A5、99式戦車、T-84、T-90Mなどが相当)。装甲の改良が施され、重量が概ね約3トンから10トン増加する傾向にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、前述のように戦車の新規開発は難しい環境にありながらも、戦車開発技術の獲得・維持、既存戦車の改修による能力向上が困難なほど陳腐化もしくは改修はかえって費用対効果で割に合わないといった場合には新規開発が行われる(ルクレール、メルカバMk.4、10式戦車、K2およびアルタイ、T-14などが相当)。着脱が可能で破損時の交換や新型装甲への換装が容易であるモジュール装甲(外装式と内装式がある)が導入された。新規開発されていることから光学機器をはじめとする電子機器の進化が著しい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "特徴としてC4Iシステムの搭載によって戦車は他兵器や司令部と相互に情報共有を行い諸兵科を統合運用でき(ネットワーク中心の戦い)、トップアタック可能な対戦車ミサイルなどの上方からの攻撃への考慮やL55や2A46M5等、戦車砲の大口径化による威力の向上が行われた。また、ソ連崩壊後からのロシア戦車は西側第3世代主力戦車に比べて防御力が遅れがちになりTShU-1-7 シュトーラ-1等のアクティブ防護システムでの間接的な補強、西側に追随した複合装甲を内包した溶接砲塔の導入によって2000年代序盤に西側最新砲弾に耐える防御力を獲得し、レリークト・カークトゥス等の爆破反応装甲の改良、全く新しいコンセプトである無人砲塔の開発などでさらに防御力が向上した。また、エンジンの改良を行うことで重量増加に対応した。この他、イギリスでのチャレンジャー3の採用決定の様に同盟国・友好国との弾薬などの互換性を高める等、補給面での利便性を向上させる改良計画も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "20世紀の内にも登場するはずであった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。背景には東西冷戦の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、戦車の性能向上がそれほど重要視されなくなった。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から70tを超えるような戦車は輸送や装甲の追加が困難で、走行可能な地形にも制限がかかるなど、主力戦車としての運用に支障が出るのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。その一つに有人車両からコントロールする無人のロボット僚車や戦車機能を数両で分担するなど斬新なアイデアも提案されている。サイズの縮小によって軽量化を達成した戦車は東側戦車、ルクレール、10式、K2が該当し、現代の西側戦車の60トン後半の重量に対し、これらの戦車は60トン未満の重量となっている。米国のM1A3計画のように軽量化に追従するものも存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度なC4Iシステムなどを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) の採用により向上した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、プラットフォームの共通化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、ロシアではアルマータと呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14の開発が進められている。T-14は10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられ、長山号やアメリカ軍のArmed Robotic Vehicle(ARV) 等とは異なり有人戦車だが乗員を必要としない遠隔操作モードが試験段階にある。一方、ドイツではウクライナ問題の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される(ドイツとフランスでそれぞれ配備中の主力戦車レオパルト2およびルクレールの後継機開発計画であるEMBTでは、新規開発の130mm滑腔砲搭載により攻撃力の向上を図り、68トン積載可能なレオパルト2A7からのシャーシ及びエンジンに、自動装填装置を備え乗員2名のルクレールの砲塔を併せることで、軽量化に伴う機動力の向上が見込めるとされる)。 各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、1915年(大正4年)時点で国内自動車保有台数がわずか897台という有様であったが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車に早くから注目しており、ソンムの戦いの翌年である1917年(大正6年)には陸軍が調達に動き出している。1918年(大正7年)10月17日、欧州に滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によって同盟国イギリスから購入されたMk.IV 雌型 戦車1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに神戸港に入港した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設され、以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。1923年 - 1924年(大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、1925年(大正14年)の宇垣軍縮による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。当時(大正後期)の日本の不況経済や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたが、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始される事となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた大阪砲兵工廠で行われることとなり、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーばね式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で1927年2月には試製1号戦車をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "その後、八九式中戦車、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産された。しかし、第二次世界大戦においては、日本は限りあるリソースを航空機や艦艇に割かざるを得ず、しかも、その間の欧州戦線での開発競争によって日本の戦車技術は陳腐化した。一方で、本土決戦用に温存されていた車輌とともに、原中将はじめ開発・運用要員の多くが幸いにも終戦まで生き延びていたことが、戦後の戦車開発に寄与することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "戦後日本は非武装化されたが、共産主義勢力の台頭と朝鮮戦争の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負った事などで、新戦車開発・運用のためのノウハウが蓄積されていった。とはいえこれらアメリカ戦車がまもなく旧式化することは明らかであり、規格が日本人の体型にも合わないことも踏まえて、日本の国情に合わせた国産戦車の開発を目指すこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アメリカの支援などによって開発費の目処もつき、戦後初の国産戦車となった61式戦車が1961年(昭和36年)4月に制式採用された。この戦車は旧陸軍の設計思想を受け継いだこともあり、開発した時点では既に米ソや西ドイツの水準からは見ると陳腐なことは否めず、習作的意味合いが強いものであったが、続く74式戦車で世界水準にキャッチアップし、更にその後継の90式戦車で世界水準を一部上回ったといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2000年代に開発された10式戦車は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などベトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、2013年に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、本州配備の戦車は廃止され、戦車は北海道と九州にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の16式機動戦闘車のみが配備される。装輪戦車である16式機動戦闘車は、10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性(不整地突破能力)の面において劣るものの、逆に戦略機動性(舗装路での高速走行や輸送機・輸送艦での運搬による、長距離の移動能力)は優れており、74式戦車と同等の火力を戦場に素早く展開できる即応力を備えている。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、16式機動戦闘車が引き継ぐことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "防衛省では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するベトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年のゴラン高原での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている。", "title": "装備と構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い。最近は対戦車ミサイルや航空機からの攻撃が多く、砲塔上面の装甲の脆弱性が問題になる例が増えている。また道路に設定されているIEDや対戦車地雷等に対してV型装甲など戦車下面の防御も重要視されている。", "title": "装備と構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "またRPG-7等の旧来からある比較的破壊力の低い非誘導ミサイルによって、履帯、転輪等が破壊されると戦車は行動不能に陥り放棄されることも多い。戦況が有利に展開して回収できなければ、敵軍に捕獲されて簡単な修理で敵の戦力となり、また無線通信や兵器の秘密が明らかになる可能性がある。放棄時には通信装置や照準装置等の破壊が推奨されているが、実際には行動不能となった戦車は敵軍の攻撃に対しさらに脆弱となるため、乗組員は何も破壊できずに可及的に素早く避難することが多い。", "title": "装備と構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "戦車を含め殆どの兵器は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される工業製品である。そのため殆どの国は戦車を輸入に頼っており、ロシア、ドイツ、アメリカ等の戦車を開発できる国は戦車の輸出によって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。中国はロシア設計を改変した車輌を輸出している。", "title": "兵器産業における戦車" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "先進国では最新鋭の第3.5世代戦車が主流だが、途上国に限らずロシアやイスラエル等であっても旧式戦車に近代化改修を施して配備されていることがある。近代化改修では車体はそのままに主砲の滑空砲への改良、より高性能なレーザー式照準装置や通信装置、外部に爆発反応装甲の追加、より高馬力なエンジンへの換装などの手法が用いられ、外見が大きく変化することもある。旧式化した戦車を自走砲や回収戦車、架橋車両などに改装する例がある他、砲塔のみを他の車両やトーチカに転用される場合もある。", "title": "兵器産業における戦車" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "冷戦期には、世界中の国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を多く保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少に伴う軍事費の削減によって、多くの国では戦車保有数が減少し100輌単位での保有となったが、米中露をはじめとする超大国では1,000輌単位の保有となっている。中でもロシアは依然として1万両を超える戦車を持つとされているが、実際には稼働可能な戦車は数千両に限られ、またT-62やT72の近代化改修車もかなりを占めると言われる。", "title": "兵器産業における戦車" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "戦車兵の軍服は狭い車内で活動するため、他の兵科より裾を短くするなど引っかからないように工夫されており、素材に難燃性が求められる。第二次世界大戦後になるとつなぎタイプの軍服を採用する軍隊が多数を占めるようになる。履物については他部隊より軽量化されたものが多い。", "title": "乗員" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "戦車内部は狭く頭をぶつける恐れが高いので、頭部を守るためのクッションパッドもしくは樹脂製の外殻で構成されたヘルメットが用いられる。また、車内はエンジン音や履帯の走行音などで騒がしいため、遮音材と通話のためのヘッドセットがヘルメットに組み込まれることが多く、ヘルメットも縁が切り落とされている専用設計のものが一般的である。その場合、それぞれの席にはインターホンのジャックがある。近年では生存性を高めるためボディーアーマーを着用することもある。ハッチを開けて走行すると土砂や砂塵が巻き上がり、また射撃時には車内にガスが発生するため、マスクと防塵眼鏡が多用される。", "title": "乗員" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "乗員の位置としては車長席の前方に砲手席、主砲を挟んだ反対側に装填手席がある。自動装填装置を搭載する車両では、主砲を挟んで車長席と砲手席が設けられる。操縦手席は乗り降りの際に主砲が邪魔にならないように車体前方の左ないし右に位置するが、操縦手席が中央に設けられている場合は主砲の位置と仰角によっては脱出が困難のため砲塔のハッチから脱出する。車両によっては底面に脱出口があるものや、イスラエルのメルカバのように車体後面に脱出口を持つものもある。", "title": "乗員" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "乗員の自衛用の小火器は、狭い車内での取り回しを考慮して主にカービンタイプのアサルトライフルや短機関銃が用いられ、拳銃はヒップホルスターはハッチ類に引っかかる恐れがあるためショルダーホルスターが好まれる。戦車は内部は装備の近代化や高度化で少々大型化してもすぐに装備で狭くなる傾向があるため、世界的には比較的小柄な乗員を採用することが多いといわれている。", "title": "乗員" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "戦車はキャタピラ、または無限軌道と呼ばれる走行装置によって、車体を支え走行する。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "多くの場合無限軌道は、鋼製の各履板(りばん)がピンで接続されたもので輪を構成していて、履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。履帯と起動輪、誘導輪、転輪、上部転輪などをもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。これに対しタイヤの駆動で走行する車両を装輪車両と呼ぶ。エンジンの出力は変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪を駆動する。起動輪には歯輪があり、履板のピンブロックと噛み合って履帯を起動する。履帯では方向の変更は起動輪の左右回転数の差で行われる。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "履帯はタイヤに比べて接地面積が広く荷重が分散され、装輪車両では走行不可能な泥濘などの不整地に対する「不整地走破能力」が優れる。また、接地面積の広さから地面との摩擦が大きいため「登坂能力」にも優れる。履帯は地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かってもフタのような役を果たして転輪を落としこまない。この働きによって、装軌車両は装輪車両では越えられない幅の壕を越えられ、「越壕能力」に優れる。段や堤も装輪車両より高いものを越えられ、「越堤能力」に優れる。また鉄条網が引かれた阻止線もそのまま轢き倒して走行できる。川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、低速ながら数十トンの質量を動かすトルクを作り出す。動力は操向変速機へ送られ左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧式で多板のディスクブレーキと停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式のリターダを備える。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっている。装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回以外の動きが出来なくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動が容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類の重量が車重の多くを占め、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である。またアメリカのシェリダンのように軽量な戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "橋梁による河川の通過は橋の強度が求められ、橋に頼れば移動経路が制約されて、戦争時には意図的に破壊されることもあり作戦上は好ましくない。川底のぬかるみがひどかったり、特に急流であれば水中渡河は困難だと考えられる。戦車を含む車両全般の渡河を行うため、比較的狭い幅の川では戦車相当の車台上に折り畳んだ橋体を搭載し川辺から素早く簡易の橋を展開設置する架橋戦車が使用される。また、幅の広い河に対しては架橋戦車の数両分で橋脚を備え連結出来るものも存在する。ポンツーンやポンツーン橋と呼ばれる小型艇を数艇以上を川面に並べることで応急・簡易に戦車等が渡河可能とするものもあり、さらに広い河ではこれを橋ではなく艀として使用することもある。この専用運搬車両も存在する。", "title": "走行装置" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "戦車を相手に戦うことを「対戦車戦」、戦車を攻撃するための手段を「対戦車兵器」とそれぞれ呼ぶ。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "戦車は開口部が極端に少ないため、視界は狭く死角が多い、また外部音が遮蔽され乗員は周囲の音を感知することが困難であるという弱点・欠点がある。反対に、戦車は車体や走行音が大きく、エンジンなど熱源を積んでいるため、暗視装置など技術機材の有無を問わず敵からは察知されやすい。ハッチ、外部を観察するための光学装置、履帯や転輪も破壊しやすく、戦車の弱点である。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "戦車と戦う側からすると、敵戦車の弱点を見極めてそこを攻める必要が出てくる。歩兵は物陰に隠れたり地形に潜んで、戦車を奇襲的に攻撃することができる。攻撃機や武装ヘリコプターといった航空機は戦車からは察知されにくく、戦車砲を指向させにくい角度の上空から一方的に戦車を攻撃することができる。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "戦車が登場した当初に行われた対戦車攻撃としては、地雷を用いて戦車の履帯や底面を破壊する、歩兵が肉迫して手榴弾や爆薬を投げ込む、野砲が直接照準で射撃するといった方法があった。第二次世界大戦初期までは、歩兵用の対戦車兵器のひとつとして対戦車ライフルが用いられていた。人力で運搬・射撃する都合上、威力を向上させようとすると重量・反動が増大して運用が難しくなる。戦車の装甲が強化されるに従い、対戦車兵器としては衰退した。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後期にはバズーカやパンツァーファウストなどの個人が携行することが可能な対戦車ロケットや無反動砲が普及したことにより、射程では劣るが貫通力では対等になった。これらの兵器は成形炸薬によるモンロー効果を用いた成形炸薬弾(HEAT弾)を使用し、人間が受け止められる反動以上の対戦車戦闘力を歩兵にもたらした。また、ソ連で開発されたRPG-7は簡単な構造で、途上国でも簡単にコピー生産できるため、世界のテロリストやゲリラなどの弱小勢力でも正規軍の戦車に対抗できるようになり、低強度紛争(Low Intensity Conflict:LIC)といった非対称戦が多発する要因ともなった。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1970年代には、誘導装置を備えた対戦車ミサイルにより、それまでの「戦車の歩兵に対する圧倒的な優位」の状態が一気に崩れ、立場が逆転してしまった。歩兵は、比較的安価で入手しやすく、取り扱いが軽便な携帯用対戦車兵器により、高価な敵戦車を撃破することができるようになった。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "イスラエルとアラブ諸国が争った数次の中東戦争ではしばしば大規模な戦車戦が繰り広げられた。第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが、特に1973年10月に勃発した第四次中東戦争ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌)の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車(センチュリオン「ショット」、M48パットン/M60パットン「マガフ」など)とソ連製戦車 (T-54/55、T-62、なおイスラエル軍も「Tiran-4/5/6」として使用)が正規戦を行った。8日に発生したエジプト軍第二歩兵師団とイスラエル軍第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍がRPG-7やAT-3「サガー」を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車はこうした対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。シナイ方面で行われた10月14日の戦車戦はクルスク大戦車戦以来最大の規模となり、また対戦車ミサイルが大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となった事から、以後の戦車開発に戦訓を与え、以降の戦車は更に重武装、重装甲であることが求められる様になった。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "当時はT-72をはじめとして東側戦車は複合装甲を備えていたため携帯式対戦車兵器の威力に対抗できたが、西側戦車はただの鋼板による防御力しか持たなかったため戦車を持たずとも対戦車ミサイルのみで対処できるということが世界中に理解された。当時盛んだった戦車不要論をある意味で証明することになった。また、爆発反応装甲はイスラエルで実用化されたが、体積および質量当たりの防御力の高さはむしろ東側戦車で評価されていった。それでもなお、戦車の側面・後面や走行装置等の弱点を狙ったり、タンデム弾頭や地面設置型のミサイルを使用するなど、状況は限られるものの撃破自体は不可能ではない。対戦車ヘリコプターの出現や対戦車ミサイルが猛威をふるったことにより「戦車不要論」も唱えられたが湾岸戦争・イラク戦争は戦車が活躍し下火となった。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "現代の戦車は敵の対戦車兵器に備えて常に周囲を警戒する必要に迫られ、第一次世界大戦で戦車が登場した当初の「味方歩兵を護るために戦車が先行し、彼等のための壁になる」という図式が成り立たなくなり、「戦車を敵歩兵から護るために、歩兵を先行・随行させる」という状況に陥ってしまった。戦車を運用する側は戦車を単独で進めるのではなく、視界の広い歩兵を随伴させ、歩兵の警戒と小火器による牽制・制圧で敵方の対戦車戦闘を困難にさせなければならなくなった。それに対して対戦車攻撃を仕掛ける側にとっては、まず敵戦車に随伴する歩兵を無力化、あるいは両者を分断してから戦車を攻撃する必要性が生まれ、彼我の駆け引き・せめぎあいが行われるようになった。現代の地上戦において戦車の出番は最終段階となる。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "戦車は大きく重いことから交通路には制限があり、防御側はこれを利用して対戦車壕や対戦車用バリケード、対戦車地雷等の障害物によって自由な移動を阻害する。戦車は車体の大きさから停止して動けない状態では容易に狙い撃ちされるため、走行不能な状態に陥った戦車の自衛戦闘には限界があり、味方の救出が間に合わなければ乗員は脱出を強いられることになる。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "最新の戦車はモニターやセンサー類を充実することで不利を補おうとしているが、それでもなお充分とは言えず、随伴歩兵との連携を必要としつづけている。歩兵が戦車の外に直接同乗するタンクデサントは歩兵の視野の広さと戦車の機動力を得られる反面、むき出しの歩兵は敵からの攻撃に対して無防備であり、常に推奨される戦法とは言えない。ロシアでは味方戦車を敵歩兵から守ることに特化した戦闘車輛であるBMP-Tシリーズが開発された。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2000年代になると携行型の対戦車ミサイルは、歩兵1名での運用、2kmを超える長射程化、ファイア・アンド・フォーゲットによる反撃の回避、正面装甲より弱い上部装甲を狙うトップアタックなど高機能化したが、電子機器の低価格化により価格上昇は少なく、多くの軍で標準的な装備となった。また無人航空機や徘徊型兵器も実戦配備されるようになった。対戦車ミサイルへの対策として、被弾を前提とした改修が行われている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "進化した対戦車兵器への対策により戦車の開発費・価格は上昇し、先進国でも大きな負担となっている。2022年ロシアのウクライナ侵攻ではロシア軍の戦車が低コスト化した対戦車兵器で大損害を受けたことから、コスト面での優位性が低下しつつある。一方で地上部隊の駆逐など火力を必要とする作戦など特性にあった状況で利用されている。高価な戦車の損害を抑えるため、前線から下がらせて主砲による砲撃を担当するという自走榴弾砲的な運用も行われている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "火砲やロケットランチャーといった対戦車兵器を使えない場合、太い木や鉄の棒などを履帯に投げ込んだり、あるいはバリケードを用いて敵戦車を足止めした上で、灯油やガソリンなどの可燃物を戦車の上面に大量に浴びせかけたり、地面など周囲にも可燃物を配置しておいて着火し、火攻めにするという攻撃方法が用いられる場合がある。かつては同じ目的で火炎放射器や火炎瓶、焼夷剤投射器(例:ドイツ連邦軍のHandflammpatrone)を使う事例もあった。開口部や吸気口から燃える可燃物が車内に入り込むことで、戦闘室やエンジンが焼損にいたる。また装甲板で覆われて開口部が少ない戦車は温度上昇を防ぐことができず、炎にさらされ続けると全体がまるで大型のオーブンのようになり、機器が故障したり弾薬が誘爆しなくとも、内部の乗員は脱出を余儀なくされる。現代の戦車はアンテナやカメラなど重要だが脆弱な箇所が多く、作戦を続行するためには消火が必要となり人手が割かれる。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ありあわせの爆発物で作られた即席爆発装置は、戦車の下部装甲や走行装置を破壊したり、車体を横転させる威力を持ちうるため、紛争地域に投入された戦車にとり大きな脅威となっている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "陸戦を主目的とする戦車にとって上空を高速で移動する航空機への対応は難しく、第二次世界大戦の中期から対地攻撃機が対戦車攻撃にも導入され多くの成果を挙げた。特にダイブブレーキを備えた急降下爆撃機は狙いを定めやすく、戦車側は直撃を受けないようにジグザグに動く、急停止・急発進するなど回避行動を取っていたが効果が薄かった。対策として大規模な戦車部隊には対空戦車が随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊の援護が必要不可欠である。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "戦車の上部装甲は正面装甲に比べると薄く作られるため、正面装甲であれば充分に耐えられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通される可能性がある。ソ連では第二次世界大戦の中期から23mm機関砲を搭載したシュトゥルモヴィークIl-2を東部戦線に投入し、ドイツ軍の戦車部隊に対して大きな戦果を挙げた。ドイツでも大戦後期からJu 87GやHs 129のような爆撃機・攻撃機に機関砲や対戦車砲を装備して対戦車攻撃機として投入し、ソ連軍の戦車を多数撃破している。現代の攻撃機はアメリカ空軍のA-10のように機関砲、爆弾、ロケット、ミサイルで武装しており、戦車や装甲車への攻撃を主任務としている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "低速ながらも空中を比較的自由に動き回り、一定の空域に留まり続けることができる攻撃ヘリコプターは固定翼機以上の脅威であり、戦車砲の射程外から機関砲や空対地ミサイルなどで一方的に戦車を撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプターの射程に入った場合、煙幕を張って視界を遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車を運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイルや対空攻撃の可能な銃砲、また専門の防空車輌や高射部隊との協調によって敵ヘリコプターの接近を阻止する必要がある。近年の自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリが射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜される可能性がある。ヘリは機動性と射程距離で勝り、装甲貫徹力は同等で、防御力と運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置が破壊されるだけで無力化される。このためヘリは被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力を活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "近年は攻撃能力を有する無人航空機や徘徊型兵器が新たな脅威になっている。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "現代の地上戦ではミサイルにより防空レーダーや飛行場を破壊して航空戦力を減らし、榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊を攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊と歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、制空権の確保は戦闘車両を大規模展開させるうえでの前提条件である。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "市街戦は視界の狭さと通行の制限という二つの弱点から戦車にとっては不利な環境で、とくに曲がり角や建物の上層などの高所から、弱点である後面や上面に攻撃を受ける危険性がある。防御側は侵攻する戦車をあえて市街地へ侵入させ、歩兵の対戦車兵器で破壊するという戦術もある。それでも歩兵の盾や強力な火力援護手段として戦車が必要されていることに違いは無く、非対称戦争対策として市街地向けの改修が行われている。設計段階から市街戦を考慮した戦車も登場し、また建造物破壊に対応できる砲弾も実用化されている。市街戦では主役である歩兵を援護する近接支援火力として戦車が投入され、搭載できる砲弾に限りがあるため対歩兵には同軸機銃や対空機銃が用いられ、対空機銃は建物の上階など砲が届かない相手に対応するために重要である。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "前面以外は装甲が比較的薄い傾向にあり弱点になっていることが多い。ソ連戦車、99式戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である上面に増加装甲を加え、トップアタック式ミサイルに対抗したものがある。ロシア戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である側面の装甲を強化し、側方からの攻撃に対抗したものがある。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "イラク戦争後、米英を主体とした駐留軍の車両も対HEAT装甲である鳥籠状の構造物で車体を覆っているが、これは前述のように独軍が採用した防御方法であったもので、その後に同じ着想のものが世界中で採用された。これがRPGの弾頭を数十%の確率で不発、または著しく効果を削ぐと云われている。イスラエルのメルカバは砲塔後部下部に対HEAT弾用のチェーンカーテンを取り付けており、ロシアではスラットアーマーを車体後方や上面に装備している。", "title": "戦車の弱点と対戦車戦" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "各国において、戦争に関する博物館が存在する。中でも、戦車を中心にした博物館がいくつか存在する。連合軍の博物館は自国の戦車はもとより、鹵獲した枢軸国の戦車の展示においても充実しており、戦車の変遷を理解する上においては重要な資料を提供している。", "title": "戦車博物館" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "自衛隊の車両を運転する内部資格「MOS」(Military Occupational Speciality、特技区分)の他、公道を走るには大型特殊自動車免許や大型特殊免許(カタピラ限定)の運転免許が必要となる。", "title": "戦車の運転(日本)" } ]
戦車は、火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力および特殊鋼板製の装甲による防護力も備えた車両。第一次世界大戦で初めて登場し、第二次世界大戦における地上の戦闘で、中心的な役割を果たす兵器となった。
{{Otheruseslist|'''近代戦車'''|古代戦車|チャリオット|[[タロット|タロットカード]]|戦車 (タロット)}} {{出典の明記|date=2018-12}} [[Image:Stridsvagn 122 Revinge 2016-2 (cropped).jpg|thumb|350px|[[レオパルト2]]]] '''戦車'''(せんしゃ、{{Lang-en-short|tank〈タンク〉}})は、[[火砲]]および[[自動火器]]を備え、[[無限軌道]]により道路以外を走行する能力および特殊[[鋼板]]製の[[装甲]]による防護力も備えた車両<ref name="daijisen">デジタル大辞泉「戦車」</ref>。[[第一次世界大戦]]で初めて登場し、[[第二次世界大戦]]における地上の戦闘で、中心的な役割を果たす[[兵器]]となった<ref name="daijisen" />。 == 概要 == 戦車は一般に、[[無限軌道|履帯]](キャタピラ)を備え、これにより不整地(舗装道路以外の場所、オフロード)でも行動することができる。主たる武装として強力な[[火砲]](戦車砲、「備砲」)を備え、ごく初期のものや一部の例外を除き旋回砲塔を装備して砲の向きを変えることができ、敵の陣地・戦車・車輌等々の攻撃が可能。副武装として主に[[機関銃]]を装備し、これにより[[歩兵]]群や非装甲車輌なども制圧できる。防御のためには主に鋼板製の装甲を備え、これにより敵からの[[小銃]]・[[機関銃]]、砲弾片、砲弾の直撃などによる攻撃に耐えることができる。 戦車は分類上、陸戦[[兵器]]のうち[[装甲戦闘車両]]の一種ということになる。しかし戦車は戦う車輌の総称ではなく、[[自走砲]]や[[装甲車]]などとは区別される。何をもって戦車と[[定義]]するかは曖昧な部分もあり、また[[時代]]や[[国]]、[[地域]]によって変化する。[[21世紀]]初頭現在では次のように要約できる。 # 走行装置が[[無限軌道]](履帯、キャタピラ)であること<ref name="戦車マニアの基礎知識">{{Cite book|author=三野正洋 |year=1997|title=戦車マニアの基礎知識|publisher=[[イカロス出版]]}}</ref> # 防御について、戦線を突破できるだけの防御力を持つ。具体的には、主に特殊鋼板製の装甲で覆われている。 # 攻撃力について、戦車をはじめとする敵[[装甲戦闘車両]]を待ち伏せでなく積極的に砲撃し、撃破できること<ref name="戦車マニアの基礎知識"/>。全周旋回可能かつ全面を装甲化した[[砲塔]]<ref name="戦車マニアの基礎知識"/>を有すること。 1の走行装置については[[#走行装置]]の節で詳説、2の防御については[[#装甲]]の節で詳説 <ref group="注">特に敵からの砲弾が直撃しがちな砲塔前面、次いで車体前面は装甲がより分厚く設計されていることが一般的で、こうした前面は砲弾の直撃にもある程度耐え得る。それ以外の面(後面、両側面、上下面)はやや装甲が薄く設計され、弱点となっていることは多い。もし全ての面の装甲を均等に厚くしてしまうと車体が重くなりすぎて、エンジン・トランスミッションや足回りの走行装置に負担がかかり、実際上、戦場で使いものにならなくなってしまう。そのため前面装甲を重点的に強化し、敵に対して極力前面を向けるように運用するという防御策をとることになる。反対に対戦車攻撃では、敵戦車の前面ではない部分(走行装置を含む)を攻撃するのが定石である。</ref>、3の攻撃力については[[#兵装]]の節で詳説する。 ただし、上記の条件全てを満たさなくても、保有する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある。例えばスウェーデンの[[Strv.103]]は上記のような旋回砲塔を持たず、大戦中の駆逐戦車や対戦車自走砲のような形状の車輛であるが、その開発・運用目的・戦闘能力から、スウェーデン軍では主力戦車として配備されていた。 現代の正規戦に通用する戦車は、製造に高い技術が求められるうえに部品点数も多く<ref>{{Cite web|和書|title=74年前の米軍の空爆戦略から日本人が学ぶべき「急所を見抜く力」|url=https://gendai.media/articles/-/52207|website=現代ビジネス|accessdate=2019-12-21|author=藤田 元信|date=2017-07-06}}</ref>、「戦車は千社<ref>{{Cite web|和書|title=第129回国会 衆議院 予算委員会 第11号 平成6年5月27日|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112905261X01119940527|website=国会会議録検索システム|accessdate=2019-12-21|publisher=国立国会図書館}}</ref>」という日本の諧謔に象徴されるように、生産ラインの維持には層の厚い産業が必要である<ref>{{Cite web|和書|title=リアルからネットへ「逆侵攻」、自衛隊の思い |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO54708190W3A500C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2013-05-06 |access-date=2023-01-26 |quote=10式は純国産。しゃれじゃありませんけれど、日本の千数百社、千社で戦車を造っています}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=防衛産業とは 3兆円市場、下請け含めれば数千社 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA185M70Y2A810C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-08-19 |access-date=2023-01-26 |quote=部品をつくる下請け企業まで含めると裾野は広い。戦闘機や戦車はそれぞれ1000社程度、護衛艦は数千社が関与する。国内には防衛を専門とする企業はほとんどなく、大手企業の売上高に占める防衛部門の比率は10%ほどにとどまる。}}</ref>。そのような事情もあって、現在自国で戦車の開発と生産ができる国家は10に満たないと言われる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日本の戦車100年 始まりは神戸のマークIV、そこから世界有数の「原産国」に至るまで|url=https://trafficnews.jp/post/81764|website=乗りものニュース|accessdate=2019-12-21|publisher=株式会社メディア・ヴァーグ|author=月刊PANZER編集部|date=2018-10-19}}</ref>。 == 名称 == === 各言語での呼称 === ; {{lang-en|Tank}}(タンク) : [[イギリス]]で作られた世界最初の戦車は、当初「水運搬車({{En|Water Carrier}})」という[[コードネーム|秘匿名称]]が付けられていた。戦車開発のために、[[リヴェンジ級戦艦]]・[[ネルソン級戦艦]]の設計を手掛けた海軍造船局長サー・[[ユースタス・テニソン=ダインコート]]を委員長とした委員会が設置されたが、英国陸軍連絡将校スウィントン大佐が「<span lang="en" abbr="Water Carrier">W.C.</span>(便所)委員会」<ref group="注">イギリスでは委員会をその頭文字で呼ぶ風習があった。</ref>では都合が悪いと異論を唱えた<ref>{{Cite |和書 |author=[[阿川弘之]] |title=軍艦長門の生涯 上巻|page=28 |date=1975-12 |publisher=新潮社}}</ref> 。そこで「<span lang="en" abbr="Tank Supply">T.S.</span>({{En|Tank Supply}}=水槽供給)委員会」と呼ぶことにした。これによりイギリスでは戦車は通称で「tank [[タンク]]」(≒[[水槽]])という言葉で呼ばれるようになり、のちに英語圏での正式名称になった。この語源については「戦車を前線に輸送する際に偽装として『ロシア向け水タンク』と呼称した」など諸説あるものの、以後戦車一般の名称として定着した。なお、イギリス海軍が開発を主導していたこともあり、英語における戦車用語には海軍由来のものが存在する。(Hull=[[船体]]=車体、[[スポンソン]]、ハッチ、(エンジン)[[デッキ]]など) ; [[日本語]]: 戦車(せんしゃ) : もともと「戦車」という言葉は[[中国語]]同様に[[チャリオット|古代戦車(チャリオット)]]を意味していた<ref group="注">tankが登場する直前の辞書[{{NDLDC|954647}} 大日本国語辞典(大正4年8月発行)] には「せんしゃ【戰車】 戦争に用ふる車。軍用の車。兵車」とある。</ref>が、[[日本の歴史]]では使われたことが無い兵器だった<ref group="注">[[中国大陸]]では青銅器時代に、戦車が主力兵器とみなされるほど重視されていたものの、時代が下ると歩兵と騎兵に地位を奪われて廃れていった。日本では山がちな地勢や、中国大陸から伝わった鉄器や騎馬の技術によって、戦車の時代を経ること無く、歩兵と騎兵の時代に移行したため、使われなかった。</ref>。[[内燃機関]]を使った戦車については、1917年([[大正]]6年)の[[陸軍省]]調査書において『近迫戦に専用する「タンク」と称するものあり』と記され<ref>{{Cite |和書 |author=陸軍省臨時軍事調査委員 |title=欧洲交戦諸国ノ陸軍ニ就テ(増補再版)|page=第九 欧州戦ニ於ケル兵器ノ趨勢 24 |date=1916-6 |publisher=陸軍省 |url={{NDLDC|1885847}}}}</ref>、1918年(大正7年)に[[大日本帝国陸軍]]へ導入された当初は、英語の {{en|tank}} をそのまま音写して「タンク」あるいは装甲車と呼んでいたが、程なくして戦車と呼ばれるようになった。 : はっきりとした時期は定かでないが、1922年(大正11年)発行の論文中に戦車の訳語が登場する{{Refnest|group="注"|大正11年「偕行社記事」4月号に掲載された「作戦上に於ける自動車の利用について」という論文に戦車の語が確認できるという<ref>佐山二郎『機甲入門』光人社NF文庫、2002年。70ページ ISBN 4-7698-2362-2</ref>。}}。また陸軍の会合の席上で、ある大尉が思いつきで「戦車と呼ぶのはどうか」と提案したところ、その場の皆の賛同を得て受けいれられたという話もある<ref group="注">[[奥村恭平]]大尉(陸士21期・輜重、のち陸軍少将)が軍用自動車調査会の席上で「戦車」と呼称することを提案した。</ref>{{sfn|『日本陸軍の戦車発達史 (1)』|pages=88 - 89}}。1925年(大正14年)[[陸軍歩兵学校]]制作の「歩兵操典草案」では、兵卒向け心得の中で戦車という語を用いつつ「一般にタンクと称する」と説明し<ref>{{Cite |和書 |author=細見惟雄、重信吉固 |title=中隊教練ノ研究 歩兵操典草案 下巻 |at=附表第二 |date=1925-3 |publisher= 陸軍歩兵学校将校集会所 |url={{NDLDC|914145}}}}</ref>、一般向けの冊子と思われる「学校案内」においても、同様な表現を用いている<ref>{{Cite |和書 |author=陸軍歩兵学校准士官下士集会所編 |title=陸軍歩兵学校案内 |page=六 戦車 19 |date=1925-8 |publisher=陸軍歩兵学校准士官下士集会所 |url={{NDLDC|964209}}}}</ref>。 : [[第二次世界大戦]]後に発足した[[警察予備隊]](後の[[自衛隊]])は当初、戦車という軍事用語を忌避して「[[自衛隊用語|'''特車''']]」と呼称していたが、1962年([[昭和]]37年)1月からは「戦車」と呼ばれるようになった{{sfn|『日本の陸軍』|pages=41}}。 ; {{lang-zh|坦克}}({{lang-zh|tǎnkè}}・タンクー) : 一方、 [[中華人民共和国]]における[[中国語]]では「<span lang="zh" xml:lang="zh">'''战车'''</span>」は[[チャリオット|古代戦車]]を意味する。近代戦車は tank を音写して「<span lang="zh" xml:lang="zh">'''坦克'''</span>」と呼んでいる。ただし[[中華民国]]([[台湾]])では、日本語と同様に「'''戰車'''」と呼んでいる。 ; {{lang-ko|전차}}(チョンチャ/南)または<span lang="ko" xml:lang="ko">땅크</span>(タンク/北) : [[大韓民国]]では、日本語と同様に古代戦車・近代戦車ともに「<span lang="ko" xml:lang="ko">'''전차'''</span>(戰車)」の語を用いるが、[[緊圧茶]](磚茶)や[[電車]]([[電気機関車]])も同じ表記である。外来語として英語の {{en|tank}} を音写した語の表記は탱크(テンク)である。 [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では、ロシア語の {{ru|танк}} を音写した「<span lang="ko" xml:lang="ko">'''땅크'''</span>」と呼ぶ<ref>{{Cite web|url=http://krdic.naver.com/detail.nhn?docid=11177000|title=네이버 국어사전 - 땅크|accessdate=2017-09-18|work=NAVER国語辞典|publisher=NAVER}}</ref>。 ; {{lang-de|Panzer}}(パンツァー、パンヅァー) : [[ドイツ語]]では <span lang="de" xml:lang="de">Panzerkampfwagen</span>(装甲戦闘車輌)の略称として '''<span lang="de" xml:lang="de">Panzer</span>'''(パンツァー)が一般的である。英語上ではPanzerは「ドイツの戦車」全般を意味する語として取り入れられている<ref group="注">兵器の制式名としてPanzerkampfwagenではなくPanzerだけで「戦車」を意味するようになったのが確認できるのは、[[IV号駆逐戦車]]の長砲身型であるIV号戦車/70 (Panzer IV/70) が最初である。</ref>。元来ドイツ語でPanzer は装甲という意味で、英語の '''<span lang="en" xml:lang="en">Armour</span>''' / '''<span lang="en" xml:lang="en">Armor</span>''' と同様に、かつては中世騎士などが身につけた金属製の甲冑・[[鎧]]を意味した。現代ではPanzerは装甲戦闘車両(戦車)の意味で使われる事が多いので、旧来の鎧は[[:de:Rüstung|Rüstung]](武具、武装)と呼んで区別されることが増えた<ref>アーマーモデリング誌創刊号での、ドイツ人編集者の証言より</ref>。ただし、日本語では装甲戦闘車輌としての''Panzer''でも、例えば''Panzerdivision''は「戦車師団」ではなく「装甲師団」や「[[機甲師団]]」、''Panzergrenadier''も装甲[[擲弾兵]]と訳される{{Refnest|group="注"|現在のドイツ連邦軍のPanzerdivisionも装甲師団と訳されるのが通例である。日本語中の頻度を調べるサービス<ref>[http://www.kotonoha.gr.jp/shonagon/search_form KOTONOHA「現代日本語書き言葉均衡コーパス」 少納言]</ref>で検索すると「装甲師団」31件、「機甲師団」22件に対して、「戦車師団」は5件。しかも内訳を見ていくと装甲師団はドイツのPanzerdivisionのことを指す用例ばかりであるのに対し、戦車師団はいずれもドイツのそれではなく日本や韓国の戦車師団についての用例である(2014年の検索結果)。}}。また、[[パンツァーファウスト]]擲弾発射筒のように原語をそのまま音写するのが一般的な言葉もある。現代のドイツ軍でもパンツァーファウストの名前を受け継いだ後継兵器を使用しており、そのうち[[パンツァーファウスト3]]を日本の自衛隊が110mm個人携帯対戦車弾として採用している。そのため日本の公文書中にもパンツァーファウストの文字を見て取れる。 ; {{lang-he|טנק}}(タンク) : [[ヘブライ語]]では近代戦車のことを、英語の「<span lang="en" xml:lang="en">Tank</span>」をヘブライ文字に置き換えた「<span lang="he" xml:lang="he">'''טנק'''</span>」(タンク)と表記する。なお[[チャリオット|古代戦車(チャリオット)]]は「<span lang="he" xml:lang="he">'''מרכבה'''</span>」(メルカバ)と呼ばれ、イスラエルの主力戦車の名称ともなっている。 ; {{lang-fr|Char de combat}}(シャール・ド・コンバ) : [[フランス語]]では戦車のことを「<span lang="fr" xml:lang="fr">'''Char'''</span>」(シャール)と呼ぶが、もともとこの語は[[チャリオット|古代戦車(チャリオット)]]を指す名称であるため、近代戦車を指す際には「<span lang="fr" xml:lang="fr">'''Char de combat'''</span>」(シャール・ド・コンバ、直訳で「戦闘戦車」)と表記される。「<span lang="fr" xml:lang="fr">'''char de bataille'''</span>」(シャール・ド・バタイユ、戦う戦車)や「<span lang="fr" xml:lang="fr">'''char d'assaut'''</span>」(シャール・ダッソー、突撃戦車)とも表記される。 ; {{lang-it|Carro armato}}(カルロ・アルマート) : 直訳で「'''装甲車輌'''」。単に「<span lang="fr" xml:lang="fr">'''Carro'''</span>」(カルロ)とも。 ; {{lang-ru|Танк}}(タンク) : [[英語]]の「<span lang="en" xml:lang="en">Tank</span>」を[[キリル文字]]に置き換えたもの。 === 制式名称と愛称 === 戦車の名称は、兵器としての[[制式名称]]と、軍や兵士達によって付けられた[[愛称]]とに大別される。愛称については、配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元の[[イギリス軍]]による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 ('''C'''ruiser) 戦車や主力戦車では「[[C]]」で始まる単語が付けられている。日本では、[[大日本帝国陸軍]]が[[神武天皇即位紀元|皇紀]]、[[自衛隊]]では[[西暦]]からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車、ハ=[[いろは順]]の三番目)もつけられていた。 == 歴史 == {{独自研究|section=1|date=2022年9月}} === 第一次世界大戦 === <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:British Mark I male tank Somme 25 September 1916.jpg|[[ソンムの戦い]]に展開する[[マーク I 戦車|マークI戦車]]「雄型」 ファイル:FT 17.jpg|フランスの[[ルノー FT-17 軽戦車|ルノーFT-17 (1917〜1949年)]] ファイル:Tanks of WWI.ogv|[[第一次世界大戦]]の戦車(1927年) </gallery> 近代工業化による[[内燃機関]]の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。<!--初期の装甲車両がイタリア軍により[[伊土戦争]]中のトリポリタニア作戦(1912年)に投入されている。--> 第一次世界大戦で主戦場となった[[ヨーロッパ]]ではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で[[塹壕]]が数多く掘られいわゆる[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、[[機関銃]]陣地、[[有刺鉄線]]による[[鉄条網]]が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある[[無人地帯]]は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた{{sfn|『世界の戦車 1915 - 1945』|p=114}}。 このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりの[[ホルト五屯牽引車|ホルトトラクター]]であった。これはアメリカのホルト社(現[[キャタピラー (企業)|キャタピラー]]社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。 イギリスでは[[サー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン]]陸軍少佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していた[[イギリス海軍航空隊]]のマーレー・スウェーター海軍大佐が'''陸上軍艦''' (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であった[[ウィンストン・チャーチル]]により、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。 陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「[[リトル・ウィリー]]」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちの[[マーク A ホイペット中戦車]]の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、[[マーク I 戦車]]の元となった。 [[1916年]][[9月15日]]、[[ソンムの戦い]]の中盤で世界初の戦車の実戦投入が行われマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の[[野戦砲]]の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国(協商国)]]側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。 その後、[[1917年]][[11月20日]]の[[カンブレーの戦い]]では世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。 後に登場した[[フランス]]の[[ルノー FT-17 軽戦車|ルノーFT-17]]という[[軽戦車]]は360度旋回する[[砲塔]]を装備し砲の死角を無くした。エンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことから隔壁で戦闘室と機関室を分離し、それまでの戦車兵の役割の1つだった車内でエンジンを点検する機関手が廃止された。車体も走行装置に車体を載せる方式を改め車体側面に足回りを取り付け、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。FT-17は「戦車」としての基本形を整え、初期の戦車設計の参考資料となった。 3,000輛以上生産されたFT-17は第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、当時もっとも成功した戦車となった。 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、[[ヴェルサイユ条約]]により戦車の開発は禁止されたものの、農業[[トラクター]]と称して[[スウェーデン]]で戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と[[ラパッロ条約 (1922年)|秘密軍事協力協定]]を結び、[[赤軍]]と一緒に[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]河畔の[[カザン]]に戦車開発研究センターを設けた。 戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の[[装甲]]で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。 === 第二次世界大戦 === <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:Shermans disembarking from LST at Anzio crop.jpg|輸送船から上陸する[[M4中戦車|M4シャーマン]]、[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]](1944年) </gallery> [[戦間期]]に戦車の運用方法が各国で研究され、[[第二次世界大戦]]前には、戦車を中心とし、それを支援する歩兵・砲兵など諸兵科を統合編成した戦車連隊や[[機甲師団]]が編成され、戦車は陸戦における主力兵器としての地位を獲得した。また、各国で[[中戦車]]が大規模に配備されるようになり、中戦車の数が充実するようになると、それまで主戦力だった[[軽戦車]]は[[偵察戦車]]や[[水陸両用戦車]]といった補助的な用途で使用されるようになった。ただし軽戦車の命脈が完全に断たれたわけではなく、その後中国の15式軽戦車のように現在でも製造・運用されている軽戦車も存在する。 攻守ともに当時としては破格で8万両以上生産されたソ連の[[T-34]]は米英軍の戦車より質及び量で優越することになる。[[独ソ戦]]における[[T-34]]ショックは、海軍艦艇における[[戦艦]]「[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは戦車の発展及び[[対戦車兵器]]の開発を推し進めた。また、T-34は[[避弾経始]]に優れた曲面形状の'''鋳造砲塔'''と'''傾斜装甲'''を取り入れており、第2世代主力戦車(いわゆる第二次世界大戦後第2世代の戦車)まで、各国で避弾経始を意識した戦車設計が行われた。 自動車大国であったアメリカで開発された[[M4中戦車]]は高度な自動車技術が応用されているため信頼性が高く、[[アメリカ軍]]の高い[[兵站]]能力によって5万両以上が生産された。自国産戦車が不足していたイギリスではレンドリースで受け取ったM4中戦車を主戦力として運用した。配備当初は数の優越で質の劣勢を補っていたがドイツ軍重戦車が活躍するようになるとそれに対抗できる強力な戦車が求められアメリカではM26[[重戦車]]([[90mm戦車砲 (アメリカ)|M3 90mmライフル砲]]搭載)が、イギリスでは重戦車相当の[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]重巡航戦車([[オードナンス QF 17ポンド砲]]搭載)が開発され、更にセンチュリオンは[[歩兵戦車]]と[[巡航戦車]]を統合した。また、これらの重戦車は車体に傾斜装甲を採用したことで重量の割に高い防御力を発揮した。 戦車においては長らく'''圧延鋼板'''を[[リベット]]留めした構造が大半であったがリベットは被弾や付近での爆発による衝撃で千切れ飛び、車内の戦車兵や随伴歩兵が死傷する事故が相次いだ。また、留め具であるリベットを失った装甲板は脱落することもあった。一部の先進国では圧延鋼板を線で接合する[[溶接]]技術や[[鋳造]]鋼を[[ボルト (部品)|ボルト]]で接合する製法が採り入れられた。また、先進国の戦車は重装甲なため大出力なエンジンが必要だったが、航空機用エンジンが転用されることが多かった。<!--一方でアメリカは別の戦略思想に着目しており、[[戦略爆撃機]]や[[戦闘爆撃機|戦闘攻撃機]]による空襲、あるいは[[艦砲射撃]]や長射程砲撃を多用し、車体の破壊のみならず補給を切断することでドイツ機甲師団の持久的運用を困難にした。 --> なお、用途に応じた戦車として[[指揮戦車]]、[[駆逐戦車]]、[[火炎放射戦車]]、[[対空戦車]]、[[架橋戦車]]、[[回収戦車]]、[[地雷処理戦車]]、[[空挺戦車]]などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。 === 冷戦 === ==== 第1世代主力戦車 ==== [[ファイル:Centurion Mk3.jpg|thumb|250px|センチュリオン(1945〜1963年)]] '''第1世代主力戦車'''は西側ではセンチュリオン、M26を発展させた[[M46パットン]]が登場した。前述したようにこれらの戦車はM4中戦車の後継であり、ソ連の[[T-10]]と同級の[[コンカラー (戦車)|コンカラー]]と[[M103重戦車|M103ファイティングモンスター]]といった更に高火力・重装甲の[[重戦車]]が登場し同時並行で配備されたため、これらの戦車の分類は[[中戦車]]に落ち着いた。東側では西側中戦車に対抗してT-44を攻守共に強化した[[T-54]]([[D-10 100mm戦車砲#D-10T|D-10T 100mmライフル砲]]搭載)が登場し、従来通りに別の重戦車の開発・運用が続いた。 特徴として丸型の鋳造砲塔を持ち、ジャイロ式砲身安定装置により走行中の射撃も可能である。 [[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]、M46パットン、[[M47パットン]]、[[M48パットン]]、T-54、[[T-55]]、[[61式戦車]]などが相当する。 {{-}} ==== 第2世代主力戦車 ==== [[ファイル:M60.JPG|サムネイル|249x249ピクセル|M60(1960〜1984年)]] '''第2世代主力戦車'''はイギリスで開発された[[ロイヤル・オードナンス L7|ロイヤル・オードナンスL7]] 105mm[[ライフル砲]]が西側戦車で[[デファクトスタンダード|一般化]]した<ref group="注">105mm砲を開発したイギリスでは、当時の重戦車砲を上回る55口径120mmライフル砲L11をチーフテンに搭載し、第3世代戦車であるチャレンジャー1にも同砲の改良型が引き続き搭載された。</ref>。東側では西側に先駆け[[滑腔砲]]([[115mm滑腔砲]])を搭載した。中戦車の重戦車化によって重戦車は存在意義を失い、中戦車があらゆる局面において活用される[[主力戦車]]({{lang-en-short|main battle tank}}、'''MBT''')として生き残った(ただし、ソ連では高性能で高価なT-64及びT-80と、廉価版のT-62及びT-72という、重量による区別とは別の異種類の戦車でそれぞれ部隊編成を行う、ハイローミックスの二本立てが存在した)。また、戦車の防御力が攻撃力に対し立ち遅れていたことから「[[戦車不要論]]」が主流となり、防御力を捨て機動力で生存性を確保する[[レオパルト1]]のような戦車も登場した。 [[対戦車ミサイル]]が発達し、随伴歩兵による携帯用対戦車兵器を持つ敵歩兵部隊の掃討がより重要視されるようになり、戦車部隊と機械化歩兵部隊がともに行動する戦術が生み出された。また、自走化された[[対戦車砲]]である駆逐戦車は存在意義を失っていったが、軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、[[歩兵戦闘車]]のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。 特徴として砲塔内容積と[[避弾経始]]を両立するため砲塔は横に広くなり、アクティブ投光器による[[暗視装置]]により夜戦能力を得た。 [[M60パットン]]、[[チーフテン (戦車)|チーフテン]]、[[T-62]]、[[T-64]]、[[AMX-30]]、[[レオパルト1]]、[[Strv.103]]などが相当する。 ソ連製の[[T-72]]は[[2A46 125mm滑腔砲]]の搭載、2層のガラス繊維材を装甲板で挟み込んだ'''[[装甲#複合装甲|複合装甲]]'''(性質の異なる装甲素材を重ね合わせた装甲で単一素材の圧延鋼板装甲より強固とされる)の採用、軽量化によって当時の戦車の中では走・攻・守いずれにおいても優れていた。一方、豊富な戦車戦経験と戦車の改造技術を持つ[[イスラエル]]初の国産戦車メルカバはその独自の設計と、[[1982年]]の[[レバノン内戦]]で初期型のT-72を破った事で注目を集めた。これら1970年以降に開発された戦車は西側では第3世代主力戦車で主流となる技術をいち早く採用していたり、第2世代主力戦車の多くが第1世代主力戦車の改良発展型であるのに対し、新規開発である点から第3世代主力戦車の方に分類されたり、技術的には第2世代と第3世代の中間的な観点から'''第2.5世代主力戦車'''と分類される事も多い。 [[T-72]]、[[74式戦車]]、[[メルカバ (戦車)|メルカバ]]、[[CM11]]、[[96式戦車]]などが相当する。 ==== 第3世代主力戦車 ==== [[ファイル:Leopard 2 A4 Dresden.JPG|thumb|250px|レオパルト2(1979年)]] '''第3世代主力戦車'''は東側は第2.5世代戦車の時点で当時の西側戦車より優れていたため大幅な性能向上は無かったが、次第に対戦車ミサイルも発射可能な[[2A46 125mm滑腔砲|2A46]]の搭載や箱状の'''[[爆発反応装甲]]'''の追加が行われていった<ref group="注">爆発反応装甲の特性として着脱が可能で破損時の交換が容易な他、作動時の爆発によって自身より重く厚い装甲板と同程度の防御力を発揮するが、車体周囲の随行歩兵や自車の装甲に損傷を与える恐れがあり作動後はその箇所の防御力は低下してしまう。装甲防御力が弱い旧世代の主力戦車に、爆発反応装甲を前面に貼り付ける事で兵器寿命の延命を計ることがある。[[コンタクト5]]、[[FY-5]]、ERAWA-2などの現代の爆発反応装甲はHEAT弾だけでなく[[APFSDS]]弾にも効果がある。PT-91の様にHEAT弾にしか効果がないERAWA-1を併用している場合もある。</ref>。西側ではドイツの[[レオパルト2]]が同国で開発された[[ラインメタル 120 mm L44|ラインメタル L44]] 120mm[[滑腔砲]]を装備し、複合装甲を導入しただけでなく複合装甲を内包した'''溶接砲塔'''を採用し、[[暗視装置#パッシブ方式|パッシブ型]](投光器で光を照射するアクティブ型と違い、敵の発した光を受容する)の暗視装置を装備した。また、西側諸国のラインメタルL44 120mm滑腔砲は1980年代中頃から普及し始め、複合装甲や暗視装置は各国で独自に開発された。 ソ連戦車以外は砲塔が車体同様に溶接構造となり、T-80以外はレーザー測遠機を装備した。 [[T-80]]、レオパルト2、[[M1エイブラムス]]、[[K1 (戦車)|K1]]、[[チャレンジャー1]]、[[アリエテ (戦車)|アリエテ]]、[[90式戦車]]、[[98式戦車]]などが相当する。 === 現代 === [[ファイル:M1A2 SEP V3 Abrams - 200721-A-BT735-029.jpg|サムネイル|249x249ピクセル|M1A2(1992年)]] [[冷戦]]終結に伴う軍事的緊張の緩和と軍事費削減によって、次世代主力戦車の登場を前に既存の戦車をもとにポスト冷戦時代の紛争の戦訓や関連技術の進展を反映させた戦車群(第3.5世代主力戦車)が開発された([[M1エイブラムス|M1A2エイブラムス]]、[[チャレンジャー2]]、[[レオパルト2#改修による強化|レオパルト2A5]]、[[99式戦車]]、[[T-84]]、[[T-90|T-90M]]などが相当)。装甲の改良が施され、<!--装甲の改良に伴って基本的に外見が変化するが、エイブラムスのように外見があまり変化しないものもある-->重量が概ね約3トンから10トン増加する傾向にある。 また、前述のように戦車の新規開発は難しい環境にありながらも、戦車開発技術の獲得・維持、既存戦車の改修による能力向上が困難なほど陳腐化もしくは改修はかえって[[コストパフォーマンス|費用対効果]]で割に合わないといった場合には新規開発が行われる([[ルクレール]]、[[メルカバ (戦車)|メルカバMk.4]]、[[10式戦車]]、[[K2 (戦車)|K2]]および[[アルタイ (戦車)|アルタイ]]、[[T-14 (戦車)|T-14]]などが相当)。着脱が可能で破損時の交換や新型装甲への換装が容易である'''モジュール装甲'''(外装式と内装式がある)が導入された。新規開発されていることから光学機器をはじめとする電子機器の進化が著しい。 特徴として[[C4Iシステム]]の搭載によって戦車は他兵器や司令部と相互に情報共有を行い諸兵科を[[統合運用]]でき([[ネットワーク中心の戦い]])、トップアタック可能な対戦車ミサイルなどの上方からの攻撃への考慮やL55や2A46M5等、戦車砲の[[口径|大口径]]化による威力の向上が行われた。また、ソ連崩壊後からのロシア戦車は西側第3世代主力戦車に比べて防御力が遅れがちになり[[シュトーラ (兵器)|TShU-1-7 シュトーラ-1]]等の[[アクティブ防護システム]]での間接的な補強、西側に追随した複合装甲を内包した溶接砲塔の導入によって2000年代序盤に西側最新砲弾に耐える防御力を獲得し、レリークト・カークトゥス等の爆破反応装甲の改良、全く新しいコンセプトである無人砲塔の開発などでさらに防御力が向上した。また、エンジンの改良を行うことで重量増加に対応した。この他、イギリスでのチャレンジャー3の採用決定の様に同盟国・友好国との弾薬などの互換性を高める等、補給面での利便性を向上させる改良計画も存在する。 === 将来 === {{第3.5世代主力戦車}} ==== 第4世代主力戦車 ==== [[20世紀]]の内にも登場するはずであった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。背景には東西[[冷戦]]の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、戦車の性能向上がそれほど重要視されなくなった。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から70tを超えるような戦車は輸送や装甲の追加が困難で、走行可能な地形にも制限がかかるなど、主力戦車としての運用に支障が出るのである。 この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。その一つに有人車両からコントロールする無人のロボット僚車や[[MCS|戦車機能を数両で分担する]]など斬新なアイデアも提案されている。サイズの縮小によって軽量化を達成した戦車は東側戦車、ルクレール、10式、K2が該当し、現代の西側戦車の60トン後半の重量に対し、これらの戦車は60トン未満の重量となっている。米国の[[M1エイブラムス#形式|M1A3計画]]のように軽量化に追従するものも存在する。 2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用<ref>[http://www.mhi.co.jp/news/story/1101175018.html 三菱重工|「Best Innovation 2010」]</ref>、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度な[[自衛隊のC4Iシステム|C4Iシステム]]などを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も[[無段変速機#油圧機械式|油圧機械式無段階自動変速操向機]] (HMT) の採用により向上した。 戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、プラットフォームの共通化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、[[ロシア]]では[[アルマータ]]と呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14の開発が進められている<ref group="注">アルゼンチンのTAMは自走砲と歩兵戦闘車に車体が流用されているがTAM自体がマルダー歩兵戦闘車の車体を流用して作られている。</ref>。T-14は10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられ、[[長山号]]やアメリカ軍の''Armed Robotic Vehicle''(ARV)<ref>[http://www.globalsecurity.org/military/systems/ground/fcs-arv.htm Armed Robotic Vehicle (ARV) UGV Robotic Armored Assault System (RAAS)]</ref> 等とは異なり有人戦車だが乗員を必要としない遠隔操作モードが試験段階にある。一方、ドイツでは[[2014年ウクライナ内戦|ウクライナ問題]]の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される(ドイツとフランスでそれぞれ配備中の主力戦車レオパルト2およびルクレールの後継機開発計画である[[メイン・グランド・コンバット・システム|EMBT]]では、新規開発の130mm滑腔砲搭載により攻撃力の向上を図り、68トン積載可能なレオパルト2A7からのシャーシ及びエンジンに、自動装填装置を備え乗員2名のルクレールの砲塔を併せることで、軽量化に伴う機動力の向上が見込めるとされる)。 <!-- {{要出典範囲|世界的な非対称型戦闘の増加以前は140mm級の滑腔砲とそれに耐える装甲が「第4世代主力戦車」の基準として考えられてきたが、主力戦車同士が直接交戦するような可能性が減少しつつある21世紀現在では、[[非対称戦]](ゲリラ戦)への対応や[[PKO]]などに対応するための緊急展開能力の向上など、戦車に求められる能力が冷戦期のものとは全く異なったものになってきており、第4世代での基準が失われ、代わって最強の戦闘車両は何かという課題が問われている。|date= 2010年3月}} --> 各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。 ; 主砲 : 弾頭を長くすることで貫通力は向上する。ロシアのT-14で使用されるヴァキュームと呼ばれる砲弾はM829A3等と比べて弾頭が長いため貫通力が高い。大型砲弾は携行弾数が減るデメリットがあるが、T-14は乗員用の空間を減らし弾薬庫の空間を増やすことで40発以上の携行弾数を実現している。また、ヴァキュームは装薬分離式砲弾のため戦車への積み込み作業も重さの割には負担が軽く、[[自動装填装置]]を搭載しているため戦闘時の人力での装填による重量限界も無い。120mm級の戦車砲より威力が高い130mm級の戦車砲は反動も大きくなるため、反動を抑えるのに必要な重量は70トンから80トンに達すると想像され、現在の技術で取り扱える重量限界を超えるといった問題点がある。ラインメタル社では反動低減のための研究が進行中であるが、10式戦車では主砲の反動を計算して圧力を調整し反動を吸収するアクティブ・サスペンションの導入により44トンの車体に120mm砲の搭載を実現しており、今後同様の手法で重量を抑えつつ130mm級主砲を搭載した車輌が出現する可能性も考えられる。 : 主砲の新技術として[[液体装薬]]、[[リニアモーター]]の原理で弾体を[[磁気]]の力で加速して打ち出す'''静電砲(リニアガン/[[コイルガン]])'''、ローレンツ力を利用した'''電磁投射砲([[レールガン]])'''があるがいずれも実用化にはまだ遠い{{sfn|『現代戦車のテクノロジー』}}。 ;防護 :[[ファイル:T14-armata.jpg|サムネイル|249x249ピクセル|T-14(乗員を保護する装甲カプセルによって高い防御性能を発揮する)]]防護性能の向上では、被弾する可能性が最も高い[[砲塔]]の暴露面積を縮小する努力が払われ、頭上砲 (Overhead Gun) をほとんど無装甲で搭載した'''無砲塔戦車'''が構想された。主砲を操作する乗員を砲塔リングより下の砲塔バスケット内に配置して砲塔を小型化する低姿勢砲塔(Low Profile Turret:LPT)については、[[ヨルダン]]陸軍の主力戦車「アルフセイン」(輸出されたチャレンジャー1)の最新改良型に、[[南アフリカ]]の企業と共同開発した「ファルコン2」砲塔<ref>[http://www.kaddb.com/static/project1.shtm KADDB - Projects - Falcon Turret] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080206232641/http://kaddb.com/static/project1.shtm |date=2008年2月6日 }} - [http://img229.imageshack.us/img229/4175/1512006215231338xt2.jpg 写真1] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110920222122/http://img229.imageshack.us/img229/4175/1512006215231338xt2.jpg |date=2011年9月20日 }} - [http://img229.imageshack.us/img229/8035/1512006215245950vk9.jpg 写真2] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120521232143/http://img229.imageshack.us/img229/8035/1512006215245950vk9.jpg |date=2012年5月21日 }} - [http://img517.imageshack.us/img517/923/1512006215152233ad0.jpg 写真3] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111025061515/http://img517.imageshack.us/img517/923/1512006215152233ad0.jpg |date=2011年10月25日 }}</ref>を搭載し、即応弾は主砲の後方に搭載している。乗員全員を車体前方に搭乗させ、砲塔を車体内から遠隔操作することで砲塔を小さくした'''無人砲塔'''はロシアのアルマータプラットフォームやクルガネツプラットフォームが有名で、ドイツの[[プーマ装甲歩兵戦闘車|プーマ]]も数少ない成功例である。またT-14は角ばった外見で[[ステルス性]]も考慮している。 : '''[[電磁装甲]]'''も、未来技術であり実用化の目処はたっていない。 ;アクティブ防護システム : センサーによる周辺の監視によって被弾自体を防ぐ'''[[アクティブ防護システム]]'''(Active Protection System:APS)がある。システムは多くの企業が開発しているが、実際に軍の戦車に採用されるものは数少ない。レーザー照射をセンサー類で探知するレーザー警報装置はT-90、ルクレール、PT-91、アリエテ、10式、K2、Strv122で採用され、連動して煙幕を展開する機能を備えるものもある。飛翔体の接近をレーダーで探知し自動的に擲弾で迎撃するハードキルAPSはイスラエルのラファエル社製のトロフィー(メルカバMk.4へ採用)がある。一方で、探知用のレーダー波で自らの位置を暴露してしまうことや地上は空中や海上に比べて干渉要素が多くレーダー探知が有効に機能しにくいこと、ミサイルを迎撃するための反撃に、戦車付近に展開している随伴する歩兵を巻き込む恐れがある。 ; 装輪戦車 : {{Main|装輪戦車}} : ソマリアの戦訓やイラク戦争の戦果は[[装甲車]]や[[歩兵戦闘車]]の有用性を示すものであった。戦闘車両の主敵は敵の戦闘車両ではなくなりつつあり、[[RPG (兵器)|RPG]]や[[即席爆発装置|路肩爆弾]]などへの防護が求められるようになっている。また決戦兵器としてではなく歩兵支援兵器として輸送に適し小型軽量、高速走行できる軍用車両の必要性が高まり、従来とは異なった兵器体系の模索が開始された。 こういった戦車類似車両を含む新たな戦闘車両体系は、いずれも味方側との無線ネットワークを使って情報化された高度に有機的な運用方法を想定しているため、戦闘車両単体での購入では能力は発揮できず、導入時には戦闘ファミリー全体の保有が求められる。このような戦闘車両が海外へ輸出販売される場合には、兵器技術の拡散という負の側面もあるが、兵器メーカーでは広範な兵器システムの売り込みが図れ、輸出国では購入国への軍事的影響力がこれまでの単体兵器以上に大きくなると考えられる。冷戦の終結により大規模戦争の可能性は小さくなっており、低脅威度地域紛争への派兵にともなう新たな戦闘車両への要求が大きくなっている。 :装輪装甲車が対戦車用に備える火力は、軽量・無反動で射程が長く破壊力も大きい[[対戦車ミサイル]]が有効であるが、反面で一定の距離よりも遠くしか攻撃できず発射や再装填に時間がかかり即応性に制約があるという弱点もある。各国の軍事費削減や緊急展開能力への要求から、南アフリカの[[ルーイカット装甲車|ルーイカット]]やイタリアの[[チェンタウロ戦闘偵察車]]や日本の[[16式機動戦闘車]]のように戦車の様な火砲を搭載した[[装輪装甲車]]を導入する例がある。また、[[Stridsfordon 90]]や[[ASCOD歩兵戦闘車]]など装軌装甲車をベースにした事例もある。これらの武装は76 - 120mm砲クラスの低反動砲であり旧世代戦車や戦車以下の装甲車両に対処できる攻撃力を持ち即応性も高く、陣地破壊や[[狙撃手]]の掃討といった高価なミサイルを使っていては費用対効果の悪い任務にも対応できるなど多用途性の面では優れている。 : 経済的に主力戦車を導入できない国がその代替として機動砲を導入する場合や、空輸での利便性が評価されて導入が進む場合が多い。とはいえ、RPGのような近接対戦車兵器は途上国でもよく普及しており、たとえばストライカー装甲車では戦車のような歩兵の盾としての役目は果たせず、イラク戦争においてはRPGへの対策としてカゴ状の追加装甲を取り付けることを強いられている。さらに走行装置にタイヤを用いるため、射撃時の安定性が戦車よりも劣り、射撃後の揺動を短時間で抑える安定化システムが必要となる。道路外での走破性も装軌式車輌に比べれば低く、機動力を維持するためにはパンクレスタイヤやタイヤ空気圧調整システムの装備も必要となる。結局のところ機動砲は火力支援のための自走砲であって、戦車とは配備旅団が異なるなど戦車の完全な代替には成り得ないという意見が強いが今後の推移が注目される<ref>PANZER誌 2007年1月号特集「第4世代MBTは実現するか?」</ref>。 === 日本の戦車開発史 === [[ファイル:Japanese MarkIV.JPG|thumb|250px|[[千葉県]]・[[陸軍歩兵学校]]におけるMk.IV戦車(1927年)]] 戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、[[1915年]](大正4年)時点で国内自動車保有台数がわずか897台という有様であったが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車に早くから注目しており、[[ソンムの戦い]]の翌年である1917年(大正6年)には陸軍が調達に動き出している。1918年(大正7年)10月17日、欧州に滞在していた[[水谷吉蔵]][[輜重兵]]大尉によって[[日英同盟|同盟国]]イギリスから購入された[[マーク IV 戦車|Mk.IV 雌型 戦車]]1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに[[神戸港]]に入港した<ref name=":0" />。 翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、[[陸軍科学研究所]]が創設され、以降[[1919年]]([[大正]]8年)から[[1920年]](大正9年)にかけて日本陸軍は[[ルノー FT-17 軽戦車]]と[[マーク A ホイペット中戦車]]を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。[[1923年]] - [[1924年]](大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、[[1925年]](大正14年)の[[宇垣軍縮]]による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。当時([[大正]]後期)の日本の不況経済や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため<ref name=":0" />、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたが、[[陸軍技術本部]]所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた[[原乙未生]][[大尉]](後に[[中将]])が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始される事となった。 戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた[[大阪砲兵工廠]]で行われることとなり<ref name=":0" />、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーばね式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で[[1927年]]2月には[[試製1号戦車]]をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められた<ref name=":0" />。 その後、[[八九式中戦車]]、[[九五式軽戦車]] 、[[九七式中戦車 チハ|九七式中戦車]]などの車輌が生産された。しかし、第二次世界大戦においては、日本は限りあるリソースを航空機や艦艇に割かざるを得ず、しかも、その間の欧州戦線での開発競争によって日本の戦車技術は陳腐化した<ref name=":0" />。一方で、[[本土決戦]]用に温存されていた車輌とともに、原中将はじめ開発・運用要員の多くが幸いにも終戦まで生き延びていたことが、戦後の戦車開発に寄与することとなる。 [[ファイル:Japanese Type 90 Tank - 2.jpg|thumb|250px|90式戦車(1990年)]] 戦後日本は非武装化されたが、[[共産主義]]勢力の台頭と[[朝鮮戦争]]の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて[[警察予備隊]](後の[[自衛隊]])が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負った事などで、新戦車開発・運用のための[[ノウハウ (知的財産権)|ノウハウ]]が蓄積されていった。とはいえこれらアメリカ戦車がまもなく旧式化することは明らかであり、規格が日本人の体型にも合わないことも踏まえて、日本の国情に合わせた国産戦車の開発を目指すこととなった<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 アメリカの支援などによって開発費の目処もつき、戦後初の国産戦車となった[[61式戦車]]が[[1961年]](昭和36年)4月に制式採用された。この戦車は旧陸軍の設計思想を受け継いだこともあり、開発した時点では既に米ソや西ドイツの水準からは見ると陳腐なことは否めず、習作的意味合いが強いものであったが、続く[[74式戦車]]で世界水準にキャッチアップし、更にその後継の[[90式戦車]]で世界水準を一部上回ったといえる<ref name=":0" /><ref name=":1">ストライクアンドタクティカルマガジン別冊「戦後の日本戦車」古是三春、一戸崇 カマド社</ref>。 [[ファイル:駒門移駐.jpg|サムネイル|16式機動戦闘車(手前)と10式戦車(奥)]] [[2000年代]]に開発された[[10式戦車]]は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などベトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、[[2013年]]に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、[[本州]]配備の戦車は廃止され、戦車は[[北海道]]と[[九州]]にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の[[16式機動戦闘車]]のみが配備される。[[装輪戦車]]である16式機動戦闘車は、10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性(不整地突破能力)の面において劣るものの、逆に戦略機動性(舗装路での高速走行や輸送機・輸送艦での運搬による、長距離の移動能力<ref>{{Cite web|和書|title=陸上自衛隊:即応機動展開の装備「16式機動戦闘車」、戦車の火力と8輪タイヤの高速性を持つ現代の戦闘車両 |url=https://motor-fan.jp/mf/article/23798/ |website=Motor-Fan |access-date=2022-06-06 |author=貝方士英樹 |date=2021-11-13}}</ref>)は優れており、74式戦車と同等の火力を戦場に素早く展開できる即応力を備えている<ref>{{Cite web|和書|title=都内で目撃多数の陸自16式機動戦闘車はなにをしていた? その「戦い方」に関係アリ |url=https://trafficnews.jp/post/100573 |website=乗りものニュース |access-date=2022-06-06 |author=月刊PANZER編集部 |date=2020-10-07}}</ref>。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、16式機動戦闘車が引き継ぐことになる。 [[防衛省]]では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するベトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。 == 装備と構造 == [[ファイル:Tank Schema2.png|thumb|center|500px|1:足回り 2:主砲 3:フェンダー 4:発煙弾発射機 5:対空機銃 <br />6:機関室 7:キューポラ 8:同軸機銃 9:車体 10:操縦室]] {{-}} ; 足回り (1) : [[ファイル:Leopard 1, durchgeschnitten (42437719875).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|レオパルト1の履帯と起動輪。履帯はダブルピンで結合され、踏面にゴムパッドを備えた方式]]戦車は[[無限軌道]] (履帯、商標名でキャタピラ)で走行する。最初期のMk.I戦車を除いて[[サスペンション]] は必須の装備であり、二次大戦時までは複数の転輪を前後で連結する方式が大半を占めた。この方式は性能に限界があるため車体や乗員の負担が大きく、エンジン出力が大きくても機動性に制約を課すことになったが、二次大戦後は機動性向上のためスウェーデン戦車で長らく採用されていた、独立懸架式の横置きトーションバーが主流となった。転輪は起動輪、誘導輪、転輪に大別される。金属製の転輪には騒音や振動を軽減する目的で外周にゴム製のソリッドタイヤが装着される。ゴム資源が不足していた第二次世界大戦中の[[ドイツ]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]では、転輪内部や車軸にゴムを内蔵したり、やむを得ず全くゴムを用いなかった。また[[イスラエル]]の戦車は砂漠でゴムタイヤの破損が激しいため、一部に完全鋼製転輪を使用している。無限軌道の連結方式は前後二枚の履帯を連結するのに一本のピンを用いるシングルピン方式から、二本のピンを用いるダブルピン方式へと進化した。金属製の履板には走行時の抵抗を低減するために、ピン穴にゴムブッシュが設けられる。また第二次大戦後の東側陣営戦車で踏面にゴムパッドを着脱できる履帯が実用化されている。 :スウェーデンの[[Strv.103]]は前後左右の油圧を変えることで車体の角度を変えられる油気圧([[ハイドロニューマチック・サスペンション]])を史上初めて実用装備した。[[陸上自衛隊]]の[[74式戦車]]も同様の油気圧式サスペンションを採用しているが、この機能は地形を利用した待ち伏せ砲撃に有利である。スウェーデンでは後継のStrv.122でこの機能を廃止したが、[[日本]]の[[10式戦車]]や[[大韓民国|韓国]]の[[K2 (戦車)|K2]]ではこの機能を保持しており両国の防衛策に適していると言える。 ; 主砲 (2) : [[ファイル:Japan Ground Self-Defense Force; June 2018 (8839439370).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[90式戦車]]の主砲]][[1970年代]]に東側で125mm滑腔砲が採用され以降主流となり、西側で120mm滑腔砲が採用され以降主流となった。 : 射撃時の反動を抑えると共に、砲身後退量を抑えて砲塔を小さく済ませるため、油圧により反動を吸収する[[駐退機]]が備えられている。これがないと発射のたびに車体前部が跳ね上がるなど、車体が激しく動揺する。以前は砲口に[[マズルブレーキ]]を装備したものが多かったが、射撃精度を上げるため、最近の車輌では見られない。なお、戦後の対戦車用砲弾の主力である[[APDS]]や[[APFSDS]]の発射時に、外れる装弾筒がマズルブレーキに引っかかってしまうというのは間違いである。 : 主砲の発砲時に火薬の燃焼ガスが発生するが、砲身から砲塔内へガスが入り込まないように'''エバキュエータ'''([[排煙器]])と呼ばれる空洞部が砲身に取り付けられる。砲身は温度差で歪みが生じるが、砲身に熱を均一に伝えることで歪みを抑える'''サーマル・スリーブ'''(遮熱カバー)が装着される。サーマル・スリーブを装着しても砲身の歪みを完全に防ぐことはできず、砲身の歪みをレーザー計測する'''ボアサイト・ミラー'''が砲口近くに装着される。 :[[射撃管制装置|射撃統制]]に測遠機、環境センサー、砲口照合装置から得られた情報を基にデジタル[[コンピュータ]]が主砲、砲塔の微調整を行うことで、あらゆる条件下での精密射撃が可能で、照準器は安定化されサーマルサイトとレーザー測遠機で構成される。また、被弾時の火災の延焼を避けるため、従来の油圧は避けて電動になる傾向がある。 ; フェンダー (3) : 泥などが巻き上がるのを防ぐために車体両側面上部に位置する。現代戦車は強力な主砲を装備するため砲塔リングが大きく、車体の大型化を抑えるためフェンダー上部に砲塔リング用のオーバーハングがある。 : またサイドスカートが取り付けてある場合には、第二次世界大戦時にドイツ軍戦車の側面に車体からやや離して装着された薄い鋼板「シュルツェン」の様に、HEAT弾を車体からできるだけ離れたところで起爆させ、メタルジェットの貫通力を抑える効果がある。なお、シュルツェンはエプロンを意味し、もともとはソ連軍の[[対戦車ライフル]]対策で取り付けられていた。 ;発煙弾発射機(スモーク・ディスチャージャー) (4) : [[File:M1A1 Abrams tank equipped with tank urban survivability kit retouched.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|M1A1の砲塔両側面に装備されたスモーク・ディスチャージャー]]防御戦闘時に敵の視界を遮ったり、随伴歩兵の進撃を支援したり、[[ミサイル]]防御に煙幕を発生させるための[[発煙弾]]を発射する。東側車輌にはエンジン排気に燃料を噴霧して[[煙幕]]を発生させる機構を併用する物もある。 {{main|発煙弾発射機}} {{-}} ;対空機銃 (5) : [[File:Tank-exercises-2017 24.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|T-72B3の砲塔上部に設置された対空機銃]]車長と装填手のハッチ付近に搭載された12.7mmもしくは7.62mm口径の機銃である。車長や装填手がハッチから上半身だけを出して操作し、仰角をとり対空威嚇に用いたり俯角をとり対地掃射に用いることが可能。また、主砲に連動しない為、主砲とは別の方向を攻撃することも可能。照準用ペリスコープなどを用いて対空機銃を車内から操作できるリモート機銃や、カメラとモニター、種類によっては火器管制装置も搭載される等電子化されたリモート機銃である[[RWS]] (Remote Weapon System) が存在し両者とも外部を監視するセンサーと対空攻撃を両立でき、使用者が攻撃を受けやすい状況下でも機銃を積極的に利用できる。RWSは装置自体が高価な割に万全とは言えないためUAE、米陸軍、タイ、カタール、ロシア等の国で普及している。 {{-}} ;機関室 (6) : [[ファイル:Leopard 2 Engine pic5.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|クレーンで吊り上げるためのマウントが装着されているレオパルト2のパワーパック]]戦車においてはエンジンは給排気と放熱のために装甲で閉鎖されるのには向かないために脆弱となりやすく、被弾しにくい車体後方に搭載するレイアウトが一般的である。二次大戦時はT-34などを除きトランスミッションが車体前方に位置し、後方のエンジンと前方のトランスミッションをつなぐためにやむを得ず長大なドライブシャフトを搭載したが、第二次大戦後はエンジン後方にトランスミッションが直結した[[ミッドシップ|MR]]方式が主流となった。T-44ではエンジンを横置きにすることで車体全長を短くする構造が、M26では縦置きエンジンとトランスミッションを一体化し短時間で交換できるパワーパック構造が採用され、東西それぞれで主流となった。一方で[[イスラエル]]の[[メルカバ (戦車)|メルカバ]]や[[スウェーデン]]の[[Strv.103]]の様に、乗員保護を優先してあえてエンジン・変速機を車体前方に配して装甲の一部としている例もある。 :エンジンは通常の自動車用エンジン同様に液体を冷媒として冷却し、二次大戦時には複数のシリンダーをV型にコンパクトに配置し、東側は第1世代から西側は東側に遅れて第2世代から燃費の良いディーゼルへ移行し、第3世代から出力を増大させる[[ターボチャージャー]]を搭載し、出力は1,000-1,500馬力になる。また、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンより油種を選ばず、軽油以外でも灯油やジェット燃料などが使用できる。 :引火点の高いディーゼル燃料が防御上有利であるが、気化すれば爆発もする危険物であることに変わりはなく利点としては副次的である。馬力を求めて選択されたガソリンエンジンがディーゼルエンジンへと更新された最大の理由は、走行距離が2倍程度に改善される燃費であり、時代が下るまでディーゼルエンジンを搭載できなかった理由は、重量あたりでガソリンエンジンの半分という貧弱な馬力にあった。[[M48パットン|M48]]は開発したアメリカによってガソリンエンジンからディーゼルエンジンへと変更されているが、ARCOVE(Ad Hoc Group on Armament for Future Tanks or Similar Combat Vehicles)がディーゼルエンジンへの変更を勧告した際、OTAC(Ordnance Tank-Automotive Center)は「燃費の向上に大きく貢献する場合」にのみ許可するとし、M48A1ならびにA2で行われた航続距離に関する改良は、4個で840リットルに達する投棄式外部燃料タンクの設置やエンジンのコンパクト化で浮いた車体内部容積をガソリンタンクに充てるというものだった。[[ノモンハン事件]]での日本軍の火炎瓶攻撃からソビエト軍は対策としてディーゼルエンジンへの転換を図ったとする説も誤りで、ソビエトでの戦車用ディーゼルエンジンB-2の開発は1931年に遡る。これは多くの車両に搭載され、大量生産されたが、アルミニウム製シリンダーヘッドの採用などで大出力でありながら重量はガソリンエンジン並みという高性能軽量エンジンであったことが理由である。また、日本軍の[[火炎瓶]]攻撃についてソビエト軍の認識は「数回が行われた」「10名から12名の火炎瓶装備の対戦車班があった」という程度で、日本における高い評価とは異なる。ソビエト軍が火炎瓶攻撃を重大な脅威と見做したのは[[冬戦争]]でのモロトフカクテルでの攻撃と436両に上る損害であり、フィンランド軍の教本においても火炎瓶は戦車の視界を塞ぐことを第一義としていた。日本軍においてディーゼル化が熱心に研究された理由も防御上のものではなく、乏しい資源の中で石油精製上圧倒的に歩留まりの良い軽油を燃料にするためであった。近年は加速性に優れるが、燃費が非常に悪い上に技術的ハードルも高い[[ガスタービンエンジン]]装備の戦車もある。 :[[21世紀]]現在では、センサー類や[[C4Iシステム]]といった多数の電子機器を常時稼動させる必要があり、停車時に主たるエンジンを停止する間の電力供給手段として補助発電機を搭載する必要が生まれている。 ; キューポラ (7) : [[ファイル:Strong Europe Tank Challenge 2018 (28897734688).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|チャレンジャー2のキューポラから上半身を出す車長(砲塔上向かって左)]]英語では“commander's cupola" と形容される。車内から外部を視察するための視察孔を開けるため砲塔上に設置される塔状の設備だったことから日本語では「車長用展望塔」ないし単に「展望塔」、もしくは「司令塔」と訳される。第二次世界大戦からは上面にハッチを備え、ハッチから頭や上半身を乗り出して警戒に当たることが可能になった。第二次世界大戦後には車長用ハッチの周りを多数の潜望鏡が囲む方式となり、砲塔上面からの出っ張りが低いキューポラへと移行した。車長用サイトがパノラマサイトとしてキューポラから分離し、近年ではサーマルサイトだけでなくレーザー測遠機を備えるようになりつつある。20世紀末以降の戦車では砲手が砲手席の照準器の視界で目標を見失っても、車長が別途車長用サイトで捉えた目標の方向へ砲塔を向けさせることができる'''オーバーライド'''能力を獲得した。 :光学機器が発展した現代でも目視で周囲を警戒することは効果的である。車長用ハッチは閉鎖姿勢(水平状態)のまま少しだけ浮かせハッチを天蓋代わりにして、その下のすき間から周囲を視察できる機構のものもある。これは従来の大きく開くことしかできないハッチでは、車長が目視を行う際に頭部や上半身がむき出しになり、無防備になる欠点を克服したものである。 ; 同軸機銃 (8) : 主砲に並べて砲手側の反対側に取り付けられる機銃で、7.62mm口径が主流である<ref group="注">M1、10式、K2は砲手側に同軸機銃を置く。[[AMX-30]]の同軸機銃は12.7mm口径ないし20mm口径と大型で、後継のルクレールでも12.7mm口径である。</ref>。自衛隊の[[機甲科]]では連装機銃と呼ばれている。歩兵や軽装甲車輌といったソフトターゲットに対して直接使用することで主砲砲弾の消費を抑えるよう計られた。主砲発射に先んじて同軸機銃を射撃し、その着弾を見て照準を微調整する、[[スポッティングライフル]]として利用されていた戦車もあった。 ;車体 (9) :[[ファイル:T-90 Tank.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|インド軍の[[T-90]]S]]一般的には前面の左右30度の範囲が最も防御力が高く、側面、後面、上面、下面の順に防御力は低くなっていく。敵からの視認性を下げるよう全高は低く設計され、その分車内容積を確保するために全幅と全長(特に全長)が大きく取られる傾向にある。車高を低くすることは敵に発見されにくくなるだけでなく、最も重量がある前面装甲の減少によって重量が軽減される他、重心が低くなることで走行時の安定性にも貢献する。ただし車高を下げ過ぎると、主砲の俯仰角が制限されたり、操縦手の着座姿勢が極端に不自然になるといった欠点がある。[[T-62]]は砲塔を小型化したため主砲の俯角を6度までしか取れず、中東戦争では地形を利用した伏せ撃ち射撃ができず多数が撃破されている。過去には鋳鋼やリベットが用いられていたが、現代では一般的に圧延防弾鋼板の全溶接構造で、装甲板内部に複合装甲が内包される。一例として、[[M1エイブラムス|M1戦車]]の試作車であるXM1においては砲塔の前面及び側面、車体の前面、サイドスカートの前方に複合装甲が内包されている。現代戦車の砲塔側面は地面に対してほぼ垂直になっているが、第2世代戦車の様に傾斜角がある戦車では砲塔の張り出しに引っ掛かってパワーパック交換に支障が出る物もある<ref group="注">M1戦車は砲塔を90度横に向けても、パワーパックがそのまま垂直には引き上げられず、斜めに傾ける作業が必要となっている。</ref>。また、爆発反応装甲やモジュール装甲の装着を前提として設計されている戦車の砲塔前面は楔形等の形状である場合が多い。 :車内は圧迫感の緩和と少ない光量で効率的に照明が行えるように白色系の色で塗装されることが多い。多くの戦車での外見塗装は複数色の迷彩塗装だが、単に1色で塗装される場合も少なくない。近年では[[赤外線]]探知を回避するために、赤外線波長域まで迷彩塗装が考慮されている。現地の環境に適した塗装でない場合は、上から再塗装したり現地の植物や擬装用ネット等を括り付けることもある。 ; 操縦室 (10) : [[ファイル:Leo2 driver's post.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|レオパルト2A5の運転席]]第二次大戦時までは車体に備えられた前方機銃を操作する機銃手が操縦手と隣り合って搭乗し、無線機が搭載されている戦車では通信を担当する無線手の役割も兼任した(アメリカ軍戦車では無線機は装填手が扱うもので機銃手に与えられた役割は副操縦手だった)。車体機銃は装甲板にマウントを設けるため防御面での弱点になり、無線機が進歩すると車長が自分で扱える様になり無線手の存在意義も薄れていった。T-44は車体機銃<ref group="注">精密な射撃はできないが敵陣を威嚇する効果を期待したもので、現代のロシア製歩兵戦闘車などに受け継がれている。</ref>こそT-55まで残ったものの世界に先駆けて機銃手が廃止され、以降の戦車では機銃手の廃止と同時に車体機銃も廃止された。操縦手が前方を広範囲視認できるようにハッチ前方にペリスコープが配置され、夜間視界はペリスコープを暗視機能付きのものに交換することで確保される。後方視認にはカメラが使用される。 : 操縦手は、ステアリングハンドルとアクセルペダル、前進・後進を選ぶセレクター・レバーの操作によって、比較的簡単に操縦できる{{sfn|『現代戦車のテクノロジー』}}。以前は履帯用へのクラッチが左右で独立しており、その操作で方向転換を行う方式が主流であった。戦間期から第二次大戦中は故障の大半が重量と大馬力で負担の大きなクラッチとトランスミッションであり、また操作に筋力を要するのが通常であった。その後、クラッチとトランスミッションは単純な機械式から、[[トルクコンバータ]]のような無段階式・[[オートマチックトランスミッション]]等へと変遷した。戦車では片方の履帯を動かさずにもう片方の履帯を動かすことで停止側の履帯を中心として旋回([[超信地旋回#信地旋回と緩旋回|信地旋回]])でき、トランスミッション操作で左右の履帯を互いに逆回転させることで車体中央を中心として旋回([[超信地旋回]])できる場合が多い。 ;弾薬 :[[ファイル:Engineering Technologies 2010 Part7 0039 copy.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|旧ソ連の125mm滑腔砲用の発射装薬(中央の2点)と各種砲弾]]陣地や兵員装甲車のような軽装甲目標には、[[モンロー/ノイマン効果]]による化学エネルギーで装甲を貫徹する[[成形炸薬弾]] (HEAT) が使用される。イギリスのチャレンジャー2は炸裂時の衝撃によって目標の内部を破壊する粘着榴弾 ([[HESH]]) を成形炸薬弾と同じ用途に使用する。 :戦車のような重装甲目標には、多くが速度と重量による運動エネルギーで装甲を貫徹する[[APFSDS]](装弾筒付翼安定徹甲弾)が使用される。飛翔貫徹抵抗と重量を両立するため針状の弾芯を持つ。 :歩兵のような非装甲目標に使用するHE([[榴弾]])はかつては東側戦車独自の砲弾だったが、西側でラインメタル社製DM11やElbit社製M339 HE-MP-Tのように1000個程度のタングステン球と空中爆発信管により物陰に隠れている歩兵に対処できる砲弾が採用され、対人用[[キャニスター弾]]等の多数の砲弾を運用していた米軍でも[[ノースロップ・グラマン]]社のM1147 AMPが実用化するなど榴弾は東側にとどまらず西側でも評価されていった。 :また、砲発射型[[対戦車ミサイル]]は高価なため東側戦車自体を採用している国でも配備・運用されない場合が多いが、類似装備のLAHAT対戦車ミサイルがメルカバで使用されている。 ;弾薬庫 : [[ファイル:Panzermuseum Munster 2010 0792.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|T-72の砲塔訓練装置。底部に弾薬庫が配置されている。台座の右手前には模擬薬莢が置かれている]]初期の戦車では[[砲弾]]は車体側面・砲塔後部・床下・砲塔バスケット周囲など、詰め込めるだけ詰め込まれ、被弾時の砲弾の誘爆に関してあまり考慮されていなかったが、T-44は操縦手席横に予備弾薬庫を搭載し、この構造が以降の標準となった。しかし、以降の戦車でも砲塔に即用弾が搭載されており完全な誘爆対策はされていなかった。 :T-72は被弾しにくい車体底部に弾薬庫を配置し、砲塔の小型化および砲塔後部から排莢するための排莢口の設置の自由度が向上した。また、弾薬庫と戦闘室を装甲壁で仕切り、装填作動中のみ装甲ドアが開く設計が採用され東側で標準となった。また、[[M4中戦車]]同様に弾薬の誘爆によって戦闘室に被害が及ぶ欠点がある。 :レオパルト2は被弾しやすい砲塔後部に弾薬庫を配置したが、これは装填手の屈む動作を無くすためであり、東側同様に装甲壁と装甲ドアで仕切るだけではなく、弾薬の誘爆で生じる爆圧で弾薬庫上面の装甲が吹き飛ぶ事で爆風等を外部へ逃がし、戦闘室の被害を最小にする「'''ブローオフパネル方式'''」が採用され西側で標準となった。西側でも自動装填を行う戦車が登場したが弾薬庫のレイアウトは変化しなかったが後方給弾ハッチから直接給弾できる。湿式弾薬庫を採用していたチャレンジャー戦車も弾薬庫を装甲化した。T-90Mは予備弾薬庫ではあるが西側同様に砲塔後部の弾薬庫を持っている。砲弾が大型化すると携行弾数が少なくなる傾向にあり、105mm砲を搭載した初期のM1では55発であり120mm砲を搭載したM1A1では40発になっている。 ; ハッチ : 装填手席は車長席から見て主砲をはさんだ反対側に位置し、ハッチの位置関係も同じである。自動装填装置を搭載する車両は装填手席に相当する席が砲手用となる。砲搭上のハッチは片開式に開き、ペリスコープはハッチ外周に配置される。対して操縦手用ハッチは砲塔や主砲に干渉しないよう横に回転して開き、ペリスコープはハッチ前方の車体に設けられるほか、ハッチ自体に取り付けてある場合もある。 ;床下脱出口 : 戦闘時に車体上のハッチから脱出するのは極めて危険であり、車体底面に脱出口が設けられる。かつては、側面に設けられる場合もあったが走行装置との干渉を避け、車体底面と地面との間に十分なクリアランスがあることが必要であった。また、トーションバー・サスペンションを採用している車輌では床下に横棒が通る構造上、脱出口の設置位置に制限がある。 : イスラエルのメルカバは地雷に対する下面の装甲強化を行っており床下脱出口を持たないが、代わりに車体後部に乗降ハッチが設けられており、乗員の脱出や弾薬補給に有利である。 ;潜望鏡 : [[ファイル:Leopard2 MSPO2004 PICT0062.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|レオパルト2の装填手用ペリスコープ]]かつて、ハッチを開けて外部を直接視認するのが危険な戦闘中には、ハッチを閉め安全な車内から銃弾や弾片が飛び込まないように細く長いスリットを通して外部を視認していた。旧日本軍では「車内から外を覘く孔」という意味で「覘視孔(てんしこう)」、ドイツでは外部に開閉式のカバーを設けたスリットをクラッペ(Klappe)と呼んでいた。[[八九式中戦車]]の操縦手用前方視察窓は、小窓とスリットないし小穴を設けた円盤とを重ねたもので、円盤を電動モーターで回転させてストロボ式に視界を得ることで、広い視野と被弾時の防護を両立させようとしていた。しかし単純なスリットだと細かい弾片が車内にまで飛来することがあり、次第に車内側に防弾ガラスをはめ込むようになった。 :こうしたスリットは構造上被弾に弱いため、第二次大戦中には多くがスウェーデン戦車で長らく採用されていた間接視認型の[[潜望鏡]]へと移行し、現在ではスリットは軽装甲車輌にのみ使われている。装填手用には側方や前方を視認できるように配置され、砲手用は無い場合が多い。基本的に、複数の固定式ペリスコープが乗員を囲むように配置されるが、M1とチャレンジャーの装填手用ペリスコープはそれ自体が回転する。[[20世紀]]末からは可視光や赤外線によるカメラの映像取得や、[[21世紀]]の現在では車体各部のカメラ映像を統合処理して全周の外景を映し出す画像システムも開発されている。 ;武器 : 車外作業時の警戒や戦車からの脱出時、弾薬が完全に尽きた時など戦車兵といえども車外で活動する機会は多く、護身用に最も小型で邪魔にならない銃である[[拳銃]]を携帯している。また、車内には[[手榴弾]]、[[短機関銃]]、[[カービン|カービン銃]](短縮小銃)、折りたたみストックの小銃といった火器が搭載されている。 ;シュノーケル : [[ファイル:Zwei Leopard 2A5 beim durchqueren eines Gewässer.ogv|thumb|250px|[[レオパルト2]]A5]]T-54で河川を横断して渡河するために潜水走行時に吸排気口を確保するため吸排気口に装着するシュノーケルが使用され始めた。戦車が丸ごと隠れる程の深い川では操縦手は元より車長も外部を目視できず運転は計器頼りとなるが、レオパルト1に見られるようなキューポラに装着する吸排気塔では車長が目視できるため操縦手は車長の誘導に従って運転できる。シュノーケル装脱着に時間がかかることや多少は浸水するため上陸後に排水を行わなければいけないなど進軍の上でタイムロスが多くなるため可能な限り架橋車両を使用する方が好ましい。 ; 換気装置 : 第二次大戦時までの戦車は単純な換気扇を備え、エンジンや火器から発生する有毒ガスを排出するだけであった。当時日本軍の戦車は独立した換気扇を持たず、ハッチや視察窓を開くか、空冷エンジンの冷却ファンが回ることによる限定的な外気吸い込みで換気を行っていた。T-55では[[大量破壊兵器|核・生物・化学兵器]]に対する生残性を向上させるためこれらの有害物質を除去するフィルターを換気装置に装備し、以降戦車に必須の装備となった。 ;自動消火装置 : 戦闘室やエンジン室に取り付けられ、被弾時の延焼拡大を防ぐ。人体に有毒な消火剤を用いるものもあり、戦闘室で消火装置が作動した場合には、乗員は戦車から脱出しなければならない。 ;車外装備品 : [[ファイル:M48-Patton-latrun-2-3.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|砲塔後部やフェンダー上に装備品を搭載した[[M48パットン]]]]OVM(On Vehicle Material)とも呼ばれ、第二次世界大戦時のドイツ戦車の砲塔後部にゲペックカステン(Gepäckkasten)と呼ばれる工具や乗員の私物などを収納する雑具箱が取り付けられており、第二次世界大戦後はこのような雑具箱が広く普及した。ハンマー、ピッケル、シャベルなどの汎用工具、牽引用のシャックル・ワイアー、消火器、雨よけシート、テント、機関銃用の弾薬箱、整備・修理に用いるジャッキや履帯張度調節器、河川渡渉用の延長排気パイプなどを車体外部に付けていることが多い。ソ連/ロシア戦車では悪路脱出用の丸太と多用途の防水シートが標準装備されている。 :雑具箱は成形炸薬弾 (HEAT) に対する一種の空間装甲として機能し、砲塔を囲うように配置された雑具箱(ルクレール)も存在する。予備の[[無限軌道|覆帯]]は装甲の一部として車体前方に取り付けられていたが、現在では車体後方に取り付けられる。 ;電子機器(ベトロニクス) : 20世紀末からは戦車にも、航空機搭載の電子機器である[[アビオニクス]](Aviation+electronics=Avionics)にならって[[ベトロニクス]](Vehicle+Electronics=Vetronics)と呼ばれる高度な電子機器が装備されるようになっている。ベトロニクスには、[[射撃管制装置|火器管制装置]]や[[衛星測位システム]]や[[戦術データ・リンク]]、[[敵味方識別装置]]、車外監視システム、攻撃警戒システム、動力系制御装置などが連動されており、必要に応じて切替可能な表示装置によって乗員の意思決定を助け迅速な操作を可能としている。 ;砲塔バスケット :[[砲塔]]に付随する吊下げ式の作業プラットフォーム。これがあると、その床板に立った装填手が砲塔の旋回と一緒に回ることができ、操砲作業が楽になる。戦車長や砲手は、砲塔に付いた座席に座っているので砲塔バスケットを利用することはない。第二次大戦時のドイツ軍戦車で導入されたが、T-64以降の東側戦車のように床下に円状の弾薬庫を持つ戦車は搭載していない。 ; 自動装填装置 : 射手の選択指示に従って、装填手に代わり[[自動装填装置]]が砲弾を弾薬庫から受け取り、主砲へ自動的に装填する。人数の減少によって人間の占有スペースが削減できるため、戦車を小型に設計でき重量軽減の面で有利。逆に人的冗長性の低下、警戒人数の減少、戦闘時以外での保守整備の面で不利。 :装填速度も出荷時点で錬度の高い装填手と同等であり、人力とは異なり熟練するまでは装填速度が遅い、個人差によって装填手全員が必ずしも熟練するとは限らない、人間のように体調が悪い時には速度が落ちるといった欠点が無い。現在の120mm砲弾には人力装填の重量限界とされる20kgを越すものがあり、弾頭と発射薬が分離されるか、完全に自動装填装置によって扱われる必要性が生じつつある。また、被弾時の火災の延焼を避けるため、従来の油圧は避けて電動になる傾向がある<ref name="国土防衛と陸上作戦における戦車の役割(下)32">高井三郎著『国土防衛と陸上作戦における戦車の役割(下)』[[軍事研究]]2008年10月号(株)ジャパン・ミリタリー・レビュー 2008年10月1日発行 ISSN 0533-6716</ref>。全東側戦車は自動装填装置を装備し、西側戦車ではルクレール、10式、K2が装備する。[[イスラエル陸軍]]では3人だけでは整備や周囲警戒、防御陣地の構築などの非乗務作業を行うには負担が大きすぎるという考えや、戦闘によって1名でも負傷すれば直ちに有効な戦闘が行えなくなるという冗長性の不足を指摘する声があり、戦訓により「戦車を守るには最低4人必要」としているため同軍のメルカバは装填手の負担を軽減する半自動装填装置を装備している。 ; 補助燃料タンク : [[ファイル:T-55 Base Borden rear.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|展示・教育用に一部がカットされたT-55。車体の後部左右に燃料用ドラム缶を搭載するラックがある]]戦二次世界大戦後のソ連製戦車の場合、右側フェンダー上に燃料タンクが露出して搭載されたものが多いが、引火点の高いディーゼル燃料と言えど高温な環境下では気化し、中東戦争では榴弾の爆発の高温で実際に着火してしまうことが多かった。 : 第二次世界大戦中に燃料補給の利便に[[ジェリカン]]が発明され、補助タンクとして車体外部に大量に搭載している例も見られた。ソ連製戦車をはじめ、航続距離を伸ばすために車内搭載の燃料タンク以外に車体後部に専用の補助燃料タンクが搭載される。戦闘前には外されるが、奇襲され補助燃料タンクが引火しても車内から操作して投棄することで車体への延焼を防ぐ事が可能。 :燃料タンク等をHEAT弾に対して装甲内に空洞を待たせることで対応するスペースドアーマーとして利用する試みもなされ<ref group="注">[[Strv.103|Strv 103]]では増加燃料タンクを足回りを覆うように並べ、HEAT弾の威力を減衰させる装甲としての役割を兼ねさせた。これに対する射撃実験の映像でも確認できるように、当然HEAT弾によって燃料に着火してしまうが、着弾時に飛び散ったり空いた穴から地面に流れるため、そのまま走り抜けてしまえば車体が炎上することは無いようである。さらに同車は車体前面に柵型の対HEAT装甲を設けたが、これは後述する鳥籠装甲と同じ原理によるものである。</ref>、スウェーデンではHEAT弾の爆発的な加熱ではディーゼル燃料に着火しないことが実射実験で確かめられている{{sfn|『現代戦車のテクノロジー』}}。乗員保護を重んじるイスラエルのメルカバにおいても貯蔵ディーゼル油は乗員室を守る盾として作用する<ref>メルカバ主力戦車 MKs I/II/III 42ページ</ref>。 ;エアコン : かつての戦車内は蒸し風呂のような状態であったが、乗員や電子機器を熱疲労やオーバーヒートから保護するために近年ではエアコンシステムが搭載されるようになりつつある。ただ、{{要出典範囲|date=2013年10月|戦闘行動中は探知センサーの感度を保持する必要から使用しないとされる}}。 ;トラベリング・ロック : 移動・輸送中に主砲身を固定して、振動や周囲との接触による破損・故障を防ぐための支持架。一般に車体後部に位置しており、砲塔を後ろ向きにして砲身の中ほどを支える形式の車両が多い。主砲の砲尾付近を車内で支える場合もある。 ; 方向指示器 : 第二次世界大戦後の日本・ドイツ・イギリス・フランスなどの戦車には、一般道路走行用の[[方向指示器]]が装備されている。日本の[[道路交通法]]では緊急車両に方向指示器の装備は義務付けられている一方で戦車は適用外ながら、自衛隊ではできるだけ法律に合わせようと付けている<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 4 |publisher=講談社 }}</ref>。戦闘時には不要なため取り外しできるタイプもある。 : 方向指示器を持たない戦車が平時や戦線後方地域で走る際には、戦車長がハッチから半身を出し、操縦手にインターホンなどで進路を指示しつつ、自転車など軽車輌と同様に、周囲に[[手信号]]で曲がる方向を示す。 ; [[ドーザーブレード]] [[File:DM-SC-92-03658.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|M60A1に取り付けられたドーザーブレード]] : 土砂をかくために、車体前部に[[ブルドーザー]]の様な排土板(ドーザーブレード)を装備することもある。[[塹壕]]を構築するなど本格的な土木工事は出来ないが、装備していれば歩兵が身を隠せる盛土を作ったり、整地して後続車両の進路を確保したり、障害物の撤去など簡易のブルドーザーとして行動できる。 ;近接防御兵器 : 第二次世界大戦時のドイツ軍戦車の一部には、Sミーネ(Sマイン)と呼ばれる対人攻撃用の[[跳躍地雷]] を備えるものがあり、イスラエルのメルカバは[[迫撃砲]]を装備しており、当初は砲塔外部に搭載していたがMk.IIでは車内から装填できるように改修した。ただ、現在でもこの種の装備は主流にはなっていない。 ;トイレ : 車種によってはトイレが標準装備されている([[メルカバ (戦車)|メルカバ戦車]]など)が、一般にはポータブルトイレキットを使用する。 ;インターホン : 車体外部(主に尾部)に取り付けられた通話器で車外の歩兵と車内の乗員とが通話できるようになっている<ref name="戦車メカニズム図鑑">上田信『戦車メカニズム図鑑』([[グランプリ出版]] [[1997年]][[3月25日]]初版)</ref> 。[[日本]]では、最新の国産戦車[[10式戦車]]で廃止された。 ;地雷処理装備 [[File:92式地雷原処理ローラ (1).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[90式戦車]]に取り付けられた[[92式地雷原処理ローラ]]]] :対戦車地雷を排除するため車体前方に取り付ける装備。車輌幅全体や履帯が通過する幅の地雷を除去することで安全な通行帯を構築する。 : 大きな[[鋤]](プラウ)で掘り起こすタイプの他、重いローラーで地雷を起爆させるタイプもある。 {{-}} === 過去の装備 === ; ピストルポート : 車外を射撃するため各部に設けられた銃眼。撃つとき以外は閉められたが、装甲板にピストルポートが開けられている場合には防御上の弱点になり得る。また車内には大型の火器は持ち込めず、射角も限られたため、接近する敵歩兵を牽制する程度しか出来なかった。 ; ガン・ランチャー : シェリダン、M60A2、MBT-70で従来の主砲に代わり装備された対戦車ミサイルの発射に特化した砲。構造が複雑で整備面やコスト面から実用性に乏しくMBT-70では試作のまま終わった。 ; 千鳥型転輪 : かつてのドイツ重戦車は転輪が千鳥型に2重、3重なって荷重を分散するようにしていたが、構造が複雑で大した効果がなかったため衰退し、同重量の現代戦車でも転輪は複列だが千鳥型にはなってない。 ; 手摺 : 第二次世界大戦中のソ連軍では不足していた[[装甲兵員輸送車]]の代わりに戦車や[[自走砲]]の車体や砲塔側面に手すりを付けることで、[[タンクデサント]]と呼ばれる跨乗歩兵を輸送した。戦車と歩兵を相互に援護させることができた反面、戦車の外面に取り付いた歩兵達は無防備であり、敵陣への正面攻撃には不向きであった。見た目が勇ましいので、第二次世界大戦後も東側の[[プロパガンダ]]映像によく登場した。これ以外にも戦車への乗降用に設置された手すりもあり、現地改造で追加されたものも見られる。 ;ツィメリット・コーティング [[File:Rétromobile 2015 - Panzer VI Ausf B Tigre II - 1944 - 036.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[ティーガーII]]に施されたツィメリット・コーティング]] : 「セメントコーティング」とも言われ、「ツィンメリット」と表記される場合もある。「ツィメリット」、または「ツィンメリット」とは、この塗料を開発したツィンマー社にちなむ名称である。 :第二次世界大戦時に戦車攻撃用の磁力[[吸着地雷]]を開発したドイツ軍は、同様の兵器への対策として、[[硫酸バリウム]]におがくずや黄土顔料を混ぜた、「ツィメリット剤」を自軍の戦車へ塗布していた。これは重量軽減や剥離防止のために独特のパターンが刻まれており、車体表面がザラザラして見える。だが連合軍は磁力吸着地雷を使用せず、生産の手間や重量を増加させるだけだったので第二次世界大戦末期には廃止された。 {{Main|ツィンメリット・コーティング}} === 兵装 === 砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年の[[ゴラン高原]]での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている{{sfn|『タンクテクノロジー』|page=52}}。 === 装甲 === {{main|装甲}} 重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い{{sfn|『タンクテクノロジー』|page=77}}。最近は[[対戦車ミサイル]]や航空機からの攻撃が多く、砲塔上面の装甲の脆弱性が問題になる例が増えている。また道路に設定されている[[即席爆発装置|IED]]や[[対戦車地雷]]等に対してV型装甲など戦車下面の防御も重要視されている。 また[[RPG-7]]等の旧来からある比較的破壊力の低い非誘導ミサイルによって、履帯、転輪等が破壊されると戦車は行動不能に陥り放棄されることも多い。戦況が有利に展開して回収できなければ、敵軍に捕獲されて簡単な修理で敵の戦力となり、また無線通信や兵器の秘密が明らかになる可能性がある。放棄時には通信装置や照準装置等の破壊が推奨されているが、実際には行動不能となった戦車は敵軍の攻撃に対しさらに脆弱となるため、乗組員は何も破壊できずに可及的に素早く避難することが多い。 == 兵器産業における戦車 == 戦車を含め殆どの兵器は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される[[工業製品]]である。そのため殆どの国は戦車を輸入に頼っており、ロシア、ドイツ、アメリカ等の戦車を開発できる国は戦車の輸出によって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。中国はロシア設計を改変した車輌を輸出している<ref group="注">兵器輸出入の実例を挙げれば、外国産の車輌の輸入から国産の車輌の国内生産に切り替わる場合が多く、日本やイスラエルの様に、防衛上の方針や政治的制約からコスト面での不利を覚悟で輸出を行わずに国内での生産と運用に限定する国もある。逆に[[イラン]]への輸出用に開発したものの革命でキャンセルされ、開発企業救済のために本国イギリス陸軍に採用された[[チャレンジャー1]]の例もある。また西側標準となったL7ライフル砲や[[ラインメタル]]120mm滑腔砲のように、一部装備のみの輸出入や[[ライセンス生産]]が行われる事も多い。</ref><ref group="注">戦車の性能は、開発国の工業力を推し量る指針となる。第二次世界大戦中、ドイツは同国ならではの優れた機械技術で[[VI号戦車|ティーガー]]、[[V号戦車パンター|パンター]]などの強力な戦車を開発したが、あまりに複雑な構造故に生産性が非常に悪く、戦場でも稼働率が上げられずに当初見込んだ戦果を得る事が出来なかった。対するアメリカは[[M4中戦車|M4シャーマン]]戦車のような単純な構造で生産性と信頼性、可用性の高い戦車の[[大量生産]]を行い、物量でドイツ軍戦車を圧倒する事で連合国の勝利に大きく貢献した。</ref>。 先進国では最新鋭の第3.5世代戦車が主流だが、途上国に限らずロシアやイスラエル等であっても旧式戦車に近代化改修を施して配備されていることがある。近代化改修では車体はそのままに主砲の[[滑空砲]]への改良、より高性能なレーザー式照準装置や通信装置、外部に[[爆発反応装甲]]の追加、より高馬力なエンジンへの換装などの手法が用いられ、外見が大きく変化することもある。旧式化した戦車を自走砲や回収戦車、架橋車両などに改装する例がある他、砲塔のみを他の車両やトーチカに転用される場合もある。 冷戦期には、世界中の国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を多く保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少<ref group="注">冷戦終結による「脅威の減少」とは、戦車同士が大規模に砲火を交える可能性が小さくなったという事を指す。</ref>に伴う軍事費の削減によって、多くの国では戦車保有数が減少し100輌単位での保有となったが、米中露をはじめとする超大国では1,000輌単位の保有となっている。中でもロシアは依然として1万両を超える戦車を持つとされているが、実際には稼働可能な戦車は数千両に限られ、またT-62やT72の近代化改修車もかなりを占めると言われる。 == 乗員 == [[ファイル:US Army M1 Abrams exercise.ogv|thumb|250px|[[アメリカ陸軍]]の[[M1エイブラムス]]で装填作業の様子]][[ファイル:T72 crew.svg|thumb|250px|戦車の乗員、[[T-72]]([[ソビエト連邦]])。1.操縦手 2.車長兼測的手 3.砲手]]戦車兵の軍服は狭い車内で活動するため、他の兵科より裾を短くするなど引っかからないように工夫されており、素材に難燃性が求められる。第二次世界大戦後になると[[つなぎ]]タイプの軍服を採用する軍隊が多数を占めるようになる。履物については他部隊より軽量化されたものが多い。 戦車内部は狭く頭をぶつける恐れが高いので、頭部を守るためのクッションパッドもしくは樹脂製の外殻で構成された[[ヘルメット]]が用いられる。また、車内はエンジン音や履帯の走行音などで騒がしいため、遮音材と通話のための[[ヘッドセット (音響機器)|ヘッドセット]]がヘルメットに組み込まれることが多く、ヘルメットも縁が切り落とされている専用設計のものが一般的である。その場合、それぞれの席には[[インターホン]]のジャックがある。近年では生存性を高めるため[[ボディーアーマー]]を着用することもある。ハッチを開けて走行すると土砂や砂塵が巻き上がり、また射撃時には車内にガスが発生するため、マスクと防塵眼鏡が多用される。 乗員の位置としては車長席の前方に砲手席、主砲を挟んだ反対側に装填手席がある。自動装填装置を搭載する車両では、主砲を挟んで車長席と砲手席が設けられる。操縦手席は乗り降りの際に主砲が邪魔にならないように車体前方の左ないし右に位置するが、操縦手席が中央に設けられている場合は主砲の位置と仰角によっては脱出が困難のため砲塔のハッチから脱出する。車両によっては底面に脱出口があるものや、イスラエルの[[メルカバ]]のように車体後面に脱出口を持つものもある。 乗員の自衛用の[[小火器]]は、狭い車内での取り回しを考慮して主にカービンタイプの[[アサルトライフル]]や[[短機関銃]]が用いられ、[[拳銃]]はヒップホルスターはハッチ類に引っかかる恐れがあるためショルダーホルスターが好まれる。戦車は内部は装備の近代化や高度化で少々大型化してもすぐに装備で狭くなる傾向があるため、世界的には比較的小柄な乗員を採用することが多いといわれている。 == 走行装置 == === 履帯 === {{main|無限軌道}} 戦車はキャタピラ、または[[無限軌道]]と呼ばれる走行装置によって、車体を支え走行する。 多くの場合無限軌道は、鋼製の各履板(りばん)がピンで接続されたもので輪を構成していて、履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。履帯と起動輪、誘導輪、転輪、上部転輪などをもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。これに対しタイヤの駆動で走行する車両を装輪車両と呼ぶ。エンジンの出力は変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪を駆動する。起動輪には歯輪があり、履板のピンブロックと噛み合って履帯を起動する。履帯では方向の変更は起動輪の左右回転数の差で行われる。 履帯はタイヤに比べて接地面積が広く荷重が分散され、装輪車両では走行不可能な泥濘などの不整地に対する「不整地走破能力」が優れる。また、接地面積の広さから地面との摩擦が大きいため「登坂能力」にも優れる。履帯は地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かってもフタのような役を果たして転輪を落としこまない。この働きによって、装軌車両は装輪車両では越えられない幅の壕を越えられ、「越壕能力」に優れる。段や堤も装輪車両より高いものを越えられ、「越堤能力」に優れる。また[[鉄条網]]が引かれた阻止線もそのまま轢き倒して走行できる。川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。 変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、低速ながら数十トンの質量を動かすトルクを作り出す。動力は操向変速機へ送られ左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧式で多板の[[ディスクブレーキ]]と停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式の[[リターダ]]を備える。 上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっている。装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回以外の動きが出来なくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動が容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類の重量が車重の多くを占め、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。 戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である<ref name="国土防衛と陸上作戦における戦車の役割(下)">高井三郎著『国土防衛と陸上作戦における戦車の役割(下)』[[軍事研究]]2008年10月号(株)ジャパン・ミリタリー・レビュー 2008年10月1日発行 ISSN 0533-6716</ref>。また[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[M551シェリダン|シェリダン]]のように軽量な戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。 [[橋梁]]による河川の通過は橋の強度が求められ、橋に頼れば移動経路が制約されて、戦争時には意図的に破壊されることもあり作戦上は好ましくない。川底のぬかるみがひどかったり、特に急流であれば水中渡河は困難だと考えられる。戦車を含む車両全般の渡河を行うため、比較的狭い幅の川では戦車相当の車台上に折り畳んだ橋体を搭載し川辺から素早く簡易の橋を展開設置する[[架橋戦車]]が使用される。また、幅の広い河に対しては架橋戦車の数両分で橋脚を備え連結出来るものも存在する。[[ポンツーン]]やポンツーン橋と呼ばれる小型艇を数艇以上を川面に並べることで応急・簡易に戦車等が渡河可能とするものもあり、さらに広い河ではこれを橋ではなく[[艀]]として使用することもある。この専用運搬車両も存在する。 == 戦車の弱点と対戦車戦 == {{Main|対戦車兵器|[[:en:Anti-tank warfare]]|地雷#対戦車地雷}} 戦車を相手に戦うことを「対戦車戦」、戦車を攻撃するための手段を「[[対戦車兵器]]」とそれぞれ呼ぶ。 戦車は開口部が極端に少ないため、視界は狭く死角が多い、また外部音が遮蔽され乗員は周囲の音を感知することが困難であるという弱点・欠点がある。反対に、戦車は車体や走行音が大きく、エンジンなど熱源を積んでいるため、暗視装置など技術機材の有無を問わず敵からは察知されやすい。ハッチ、外部を観察するための光学装置、[[無限軌道|履帯]]や転輪も破壊しやすく、戦車の弱点である。 戦車と戦う側からすると、敵戦車の弱点を見極めてそこを攻める必要が出てくる。歩兵は物陰に隠れたり地形に潜んで、戦車を奇襲的に攻撃することができる。攻撃機や武装ヘリコプターといった[[航空機]]は戦車からは察知されにくく、戦車砲を指向させにくい角度の上空から一方的に戦車を攻撃することができる。 戦車が登場した当初に行われた対戦車攻撃としては、地雷を用いて戦車の履帯や底面を破壊する、歩兵が肉迫して手榴弾や爆薬を投げ込む、野砲が直接照準で射撃するといった方法があった。第二次世界大戦初期までは、歩兵用の対戦車兵器のひとつとして[[対戦車ライフル]]が用いられていた。人力で運搬・射撃する都合上、威力を向上させようとすると重量・反動が増大して運用が難しくなる。戦車の装甲が強化されるに従い、対戦車兵器としては衰退した。 第二次世界大戦後期には[[バズーカ]]や[[パンツァーファウスト]]などの個人が携行することが可能な[[対戦車ロケット]]や[[無反動砲]]が普及したことにより、射程では劣るが貫通力では対等になった。これらの兵器は[[成形炸薬]]による[[モンロー効果]]を用いた[[成形炸薬弾]](HEAT弾)を使用し、人間が受け止められる反動以上の対戦車戦闘力を歩兵にもたらした。また、ソ連で開発された[[RPG-7]]は簡単な構造で、途上国でも簡単にコピー生産できるため、世界の[[テロリスト]]や[[ゲリラ]]などの弱小勢力でも正規軍の戦車に対抗できるようになり、[[低強度紛争]](Low Intensity Conflict:LIC)といった[[非対称戦]]が多発する要因ともなった。 [[1970年代]]には、誘導装置を備えた[[対戦車ミサイル]]により、それまでの「戦車の歩兵に対する圧倒的な優位」の状態が一気に崩れ、立場が逆転してしまった。歩兵は、比較的安価で入手しやすく、取り扱いが軽便な携帯用対戦車兵器により、高価な敵戦車<ref>{{Cite web|和書|url= http://karapaia.com/archives/52169716.html |title= 現代版世界の高額戦車トップ10。日本は2位にランクイン |website= カラパイア |date= 2014-08-05 |accessdate= 2020-07-25 }}</ref>を撃破することができるようになった<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=ウクライナでも次々破壊、戦車はコスパ悪い? 財務省と防衛省の攻防:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ5R4VT0Q5LUTIL03P.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-05-25 |language=ja}}</ref>。 イスラエルとアラブ諸国が争った数次の[[中東戦争]]ではしばしば大規模な戦車戦が繰り広げられた。第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが、特に[[1973年]][[10月]]に勃発した[[第四次中東戦争]]ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌<ref>{{Cite book|和書|author=高井三郎|year=1982|title=ゴランの激戦 第四次中東戦争|publisher=原書房|isbn=4-562-01250-1}}</ref>)の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車([[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]「[[ショット (戦車)|ショット]]」、[[M48パットン]]/[[M60パットン]]「[[マガフ]]」など)とソ連製戦車 ([[T-54]]/[[T-55|55]]、[[T-62]]、なおイスラエル軍も「[[チラン (戦車)|Tiran-4/5/6]]」として使用)が正規戦を行った。8日に発生した[[エジプト軍]]第二歩兵師団と[[イスラエル軍]]第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍が[[RPG-7]]や[[9M14 (ミサイル)|AT-3「サガー」]]を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車はこうした対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。シナイ方面で行われた[[10月14日の戦車戦]]は[[クルスクの戦い|クルスク大戦車戦]]以来最大の規模<ref>{{Cite book|author=Chaim Herzog|year=2009|title=The War of Atonement:The Inside Story of the Yom Kippur War|publisher=A GreenHill Book|location=|isbn=978-1-935149-13-2}},P205.</ref>となり、また[[対戦車ミサイル]]が大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となった事から、以後の戦車開発に戦訓を与え、以降の戦車は更に重武装、重装甲であることが求められる様になった。 当時はT-72をはじめとして東側戦車は複合装甲を備えていたため携帯式[[対戦車兵器]]の威力に対抗できたが、西側戦車はただの鋼板による防御力しか持たなかったため戦車を持たずとも対戦車ミサイルのみで対処できるということが世界中に理解された。当時盛んだった戦車不要論をある意味で証明することになった。また、爆発反応装甲はイスラエルで実用化されたが、体積および質量当たりの防御力の高さはむしろ東側戦車で評価されていった。それでもなお、戦車の側面・後面や走行装置等の弱点を狙ったり、タンデム弾頭や地面設置型のミサイルを使用するなど、状況は限られるものの撃破自体は不可能ではない。[[攻撃ヘリコプター|対戦車ヘリコプター]]の出現や対戦車ミサイルが猛威をふるったことにより「戦車不要論」も唱えられたが[[湾岸戦争]]・[[イラク戦争]]は戦車が活躍し下火となった。 現代の戦車は敵の対戦車兵器に備えて常に周囲を警戒する必要に迫られ、第一次世界大戦で戦車が登場した当初の「味方歩兵を護るために戦車が先行し、彼等のための壁になる」という図式が成り立たなくなり、「戦車を敵歩兵から護るために、歩兵を先行・随行させる」という状況に陥ってしまった。戦車を運用する側は戦車を単独で進めるのではなく、視界の広い歩兵を随伴させ、歩兵の警戒と小火器による牽制・制圧で敵方の対戦車戦闘を困難にさせなければならなくなった。それに対して対戦車攻撃を仕掛ける側にとっては、まず敵戦車に随伴する歩兵を無力化、あるいは両者を分断してから戦車を攻撃する必要性が生まれ、彼我の駆け引き・せめぎあいが行われるようになった。現代の地上戦において戦車の出番は最終段階となる<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=ウクライナ支える武器供与 欧米の狙いは? 専門家と読み解く {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220602/k10013653981000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-06-05 |last=日本放送協会}}</ref>。 戦車は大きく重いことから交通路には制限があり、防御側はこれを利用して対戦車壕や対戦車用バリケード、[[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]]等の障害物によって自由な移動を阻害する。戦車は車体の大きさから停止して動けない状態では容易に狙い撃ちされるため、走行不能な状態に陥った戦車の自衛戦闘には限界があり、味方の救出が間に合わなければ乗員は脱出を強いられることになる。 最新の戦車はモニターやセンサー類を充実することで不利を補おうとしているが、それでもなお充分とは言えず、随伴歩兵との連携を必要としつづけている。歩兵が戦車の外に直接同乗する[[タンクデサント]]は歩兵の視野の広さと戦車の機動力を得られる反面、むき出しの歩兵は敵からの攻撃に対して無防備であり、常に推奨される戦法とは言えない。ロシアでは味方戦車を敵歩兵から守ることに特化した戦闘車輛である[[BMP-T]]シリーズが開発された。 2000年代になると携行型の対戦車ミサイルは、歩兵1名での運用、2kmを超える長射程化、[[ファイア・アンド・フォーゲット]]による反撃の回避、正面装甲より弱い上部装甲を狙うトップアタックなど高機能化したが、電子機器の低価格化により価格上昇は少なく、多くの軍で標準的な装備となった。また無人航空機や[[徘徊型兵器]]も実戦配備されるようになった。対戦車ミサイルへの対策として、被弾を前提とした改修が行われている<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=【軍事のツボ】特別版6 ウクライナ戦争で姿を見せた新兵器、見せていない新兵器(下) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220408-DARWHM5LSJGOXD3AFB4N5FK6ZU/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2022-04-08 |access-date=2022-06-05 |language=ja |last=梶川浩伸}}</ref>。 進化した対戦車兵器への対策により戦車の開発費・価格は上昇し、先進国でも大きな負担となっている。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]ではロシア軍の戦車が低コスト化した対戦車兵器で大損害を受けたことから、コスト面での優位性が低下しつつある<ref name=":2" /><ref name=":3">[https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings_sk/material/zaiseisk20220420/03.pdf 財政制度等審議会 資料3 防衛]</ref>。一方で地上部隊の駆逐など火力を必要とする作戦など特性にあった状況で利用されている<ref name=":6">{{Cite web |title=徒歩で突撃のロシア歩兵、ウクライナは戦車で迎撃 東部激戦地 {{!}} Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン) |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/67926 |website=forbesjapan.com |access-date=2023-12-13 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米国、戦車「エイブラムス」31両をウクライナに供与へ-ドイツと協調 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-01-25/RP1RQAT0G1KW01 |website=Bloomberg.com |access-date=2023-01-26 |language=ja}}</ref>。高価な戦車の損害を抑えるため、前線から下がらせて主砲による砲撃を担当するという自走榴弾砲的な運用も行われている<ref name=":6" />。 <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:CV9030N og Leopard2A4, 2009.jpg|戦車(レオパルト2)に随伴する歩兵戦闘車([[Stridsfordon 90|CV90]]) ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-719-0240-26, Pas de Calais, Atlantikwall, Panzersperren.jpg|海岸線に設置された対戦車バリケードの一例。第二次世界大戦の[[大西洋の壁]]の一部で、鉄骨を組み合わせた「[[チェコの針鼠]]」。 ファイル:Lunge AT Mine.jpg|戦車を破壊すべく、[[刺突爆雷]]を持ち戦車に向かって突入しようと身構えるヴェトナムの兵士の像 ファイル:Chinese infantry soldier preparing a suicide vest of Model 24 hand grenades at the Battle of Taierzhuang against Japanese Tanks.jpg|[[台児荘の戦い]]において対戦車兵器の不足を補うため、多量の手榴弾を身に付けて自爆攻撃に備える中国軍兵士 ファイル:ПТРД.jpg|[[デグチャレフPTRD1941|PTRD-41]]の銃身の長さが分かる写真 ファイル:ISF member armed with RPG-7.jpg|[[RPG-7]]を担いだイラク治安部隊兵士。背中には予備の弾も2つ背負っている。 ファイル:TM-46 AP-mine.JPEG|ソ連製の対戦車地雷。 ファイル:Marines 1st Battalion, 6th Marines in Marjeh, Afghanistan.jpg|[[FGM-148 ジャベリン]]を担ぐアメリカ軍兵士。 </gallery> ;有効な対戦車兵器が無い場合 火砲やロケットランチャーといった対戦車兵器を使えない場合、太い木や鉄の棒などを履帯に投げ込んだり、あるいはバリケードを用いて敵戦車を足止めした上で、[[灯油]]や[[ガソリン]]などの可燃物を戦車の上面に大量に浴びせかけたり、地面など周囲にも可燃物を配置しておいて着火し、火攻めにするという攻撃方法が用いられる場合がある。かつては同じ目的で[[火炎放射器]]や[[火炎瓶]]、焼夷剤投射器(例:ドイツ連邦軍のHandflammpatrone)を使う事例もあった。開口部や吸気口から燃える可燃物が車内に入り込むことで、戦闘室やエンジンが焼損にいたる。また装甲板で覆われて開口部が少ない戦車は温度上昇を防ぐことができず、炎にさらされ続けると全体がまるで大型の[[オーブン]]のようになり、機器が故障したり弾薬が誘爆しなくとも、内部の乗員は脱出を余儀なくされる。現代の戦車はアンテナやカメラなど重要だが脆弱な箇所が多く、作戦を続行するためには消火が必要となり人手が割かれる。 ありあわせの爆発物で作られた[[即席爆発装置]]は、戦車の下部装甲や走行装置を破壊したり、車体を横転させる威力を持ちうるため、紛争地域に投入された戦車にとり大きな脅威となっている。 <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:IED Baghdad from munitions.jpg|[[即席爆発装置]] ファイル:Konladdning.jpg|道路外(オフロード)に[[成形炸薬]]を用いた対戦車地雷を設置した事例。罠線や遠隔操作で信管を作動させると、向かって右奥にメタルジェットが噴射される。 ファイル:Canadian Forces soldier throwing Molotov cocktail.jpg|火炎瓶の投擲訓練を行う[[カナダ軍]]兵士 </gallery> === 空襲 === 陸戦を主目的とする戦車にとって上空を高速で移動する航空機への対応は難しく、第二次世界大戦の中期から対地攻撃機が対戦車攻撃にも導入され多くの成果を挙げた。特にダイブブレーキを備えた[[急降下爆撃機]]は狙いを定めやすく、戦車側は直撃を受けないようにジグザグに動く、急停止・急発進するなど回避行動を取っていたが効果が薄かった。対策として大規模な戦車部隊には[[対空戦車]]が随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊の援護が必要不可欠である。 戦車の上部装甲は正面装甲に比べると薄く作られるため、正面装甲であれば充分に耐えられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通される可能性がある。ソ連では第二次世界大戦の中期から23mm機関砲を搭載した[[シュトゥルモヴィーク]][[Il-2 (航空機)|Il-2]]を東部戦線に投入し、ドイツ軍の戦車部隊に対して大きな戦果を挙げた。ドイツでも大戦後期から[[Ju 87 (航空機)|Ju 87G]]や[[Hs 129 (航空機)|Hs 129]]のような爆撃機・攻撃機に機関砲や対戦車砲を装備して対戦車攻撃機として投入し、ソ連軍の戦車を多数撃破している。現代の攻撃機はアメリカ空軍の[[A-10 (航空機)|A-10]]のように機関砲、爆弾、ロケット、ミサイルで武装しており、戦車や装甲車への攻撃を主任務としている。 低速ながらも空中を比較的自由に動き回り、一定の空域に留まり続けることができる[[攻撃ヘリコプター]]は固定翼機以上の脅威であり、戦車砲の射程外から機関砲や空対地ミサイルなどで一方的に戦車を撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプターの射程に入った場合、煙幕を張って視界を遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車を運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイルや対空攻撃の可能な銃砲、また専門の防空車輌や高射部隊との協調によって敵ヘリコプターの接近を阻止する必要がある。近年の自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリが射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜される可能性がある。ヘリは機動性と射程距離で勝り、装甲貫徹力は同等で、防御力と運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置が破壊されるだけで無力化される。このためヘリは被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力を活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。 近年は攻撃能力を有する[[無人航空機]]や徘徊型兵器が新たな脅威になっている<ref name=":3" />。 現代の地上戦ではミサイルにより防空レーダーや飛行場を破壊して航空戦力を減らし、榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊を攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊と歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、[[制空権]]の確保は戦闘車両を大規模展開させるうえでの前提条件である<ref name=":4" />。 <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:Bulgarian Su-25K Frogfoot.jpg|[[Su-25 (航空機)|Su-25]] ファイル:Mi24CP (modified).jpg|[[Mi-24 (航空機)|Mi-24]] ファイル:Bayraktar TB2 at 2020 Victory Parade in Baku.jpg|[[バイラクタル TB2]] </gallery> === 市街戦 === [[市街戦]]は視界の狭さと通行の制限という二つの弱点から戦車にとっては不利な環境で、とくに曲がり角や建物の上層などの高所から、弱点である後面や上面に攻撃を受ける危険性がある。防御側は侵攻する戦車をあえて市街地へ侵入させ、歩兵の対戦車兵器で破壊するという戦術もある<ref name=":4" />。それでも歩兵の盾や強力な火力援護手段として戦車が必要されていることに違いは無く、[[非対称戦争]]対策として市街地向けの改修が行われている。設計段階から市街戦を考慮した戦車も登場し、また建造物破壊に対応できる砲弾も実用化されている。市街戦では主役である歩兵を援護する近接支援火力として戦車が投入され、搭載できる砲弾に限りがあるため対歩兵には同軸機銃や対空機銃が用いられ、対空機銃は建物の上階など砲が届かない相手に対応するために重要である。 前面以外は装甲が比較的薄い傾向にあり弱点になっていることが多い。ソ連戦車、99式戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である上面に増加装甲を加え、トップアタック式ミサイルに対抗したものがある。ロシア戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である側面の装甲を強化し、側方からの攻撃に対抗したものがある。 [[イラク戦争]]後、米英を主体とした駐留軍の車両も対HEAT装甲である鳥籠状の構造物で車体を覆っているが、これは前述のように独軍が採用した防御方法であったもので、その後に同じ着想のものが世界中で採用された{{sfn|『現代戦車のテクノロジー』}}。これがRPGの弾頭を数十%の確率で不発、または著しく効果を削ぐと云われている。イスラエルのメルカバは砲塔後部下部に対HEAT弾用のチェーンカーテンを取り付けており、ロシアではスラットアーマーを車体後方や上面に装備している<ref name=":5" />。<gallery widths="180" heights="150"> ファイル:Armored Corps Operate Near the Gaza Border (14537008909)-1.jpg|[[メルカバ (戦車)|メルカバ ]]Mk 4 ファイル:Pontoon-BrigdeExercise2018-12.jpg|[[T-72]]B3 ファイル:2014.9.26 육군 20기계화보병사단 기동화력 시범 K-2 전차 firing demonstration, Republic of Korea Army The 20th Mechanized Infantry Division (15373704976).jpg|[[K2 (戦車)|K2]] </gallery> == 戦車博物館 == 各国において、戦争に関する博物館が存在する。中でも、戦車を中心にした博物館がいくつか存在する。連合軍の博物館は自国の戦車はもとより、鹵獲した枢軸国の戦車の展示においても充実しており、戦車の変遷を理解する上においては重要な資料を提供している。 {{div col||18em}} * {{Flagicon|JPN}}[[陸上自衛隊武器学校]] * {{Flagicon|JPN}}[[陸上自衛隊広報センター]] * {{Flagicon|KOR}}[[戦争記念館 (韓国)|戦争記念館]] * {{Flagicon|USA}}[[アメリカ陸軍兵器博物館|アバディーン陸軍兵器展示場]] * {{Flagicon|USA}}[[パットン戦車博物館]] * {{Flagicon|UK}}[[ボービントン戦車博物館]] * {{Flagicon|UK}}[[ダックスフォード帝国戦争博物館]] * {{Flagicon|FRA}}[[ソミュール戦車博物館]] * {{Flagicon|RUS}}[[クビンカ戦車博物館]] * {{Flagicon|RUS}}[[ロシア中央軍事博物館]] * {{Flagicon|DEU}}[[ムンスター戦車博物館]] * {{Flagicon|DEU}}[[コブレンツ国防技術博物館]] * {{Flagicon|NLD}}[[オーフェルローン戦争博物館]] * {{Flagicon|NLD}}[[オランダ国立軍事博物館]] * {{Flagicon|BEL}}ブリュッセル戦車博物館 * {{Flagicon|FIN}}[[パロラ戦車博物館]] * {{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア陸軍戦車博物館]] * {{Flagicon|ISR}}[[ラトルン戦車博物館]] * {{Flagicon|JOR}}王立戦車博物館 {{div col end}} ==戦車の運転(日本)== 自衛隊の車両を運転する内部資格「MOS」(Military Occupational Speciality、[[特技区分]])の他、公道を走るには[[日本の運転免許#大型特殊自動車|大型特殊自動車免許]]や[[限定免許 (運転免許)|大型特殊免許(カタピラ限定)]]の[[運転免許]]が必要となる<ref>{{Cite web|和書|url= https://trafficnews.jp/post/78600 |title= 戦車の操縦に必要な免許とは? 戦車乗りの証、「大特車はカタピラ車に限る」の意味 |website= 乗りものニュース |date= 2017-09-30 |accessdate= 2020-07-25 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://gazoo.com/article/daily/151006.html |title= 戦車の運転に必要な免許は? 自衛隊車両への素朴なギモン |website= GAZOO |date= 2015-10-06 |accessdate= 2020-07-25 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://carby.jp/car_100502/car_100512/1018167 |title= 戦車の免許の取り方・一般人でも免許取得できるのか|自衛隊 |website= Carby |date= 2017-11-15 |accessdate= 2020-07-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20190108200731/https://carby.jp/car_100502/car_100512/1018167 |archivedate= 2019-01-08 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === {{参照方法|date=2013年10月}} * {{Cite book|和書|author=扇広|year=1982|title=日本陸軍の戦車発達史 (1)、『戦車マガジン』1982年6月号|publisher=株式会社戦車マガジン|ref={{sfnRef|『日本陸軍の戦車発達史 (1)』}}}} * {{Cite book|和書|title=近代の戦闘車両―開発・設計・性能 |author=リチャード・M.オゴルキィウィッチ |translator=林磐男 |isbn=9784874721001 |publisher=現代工学社 |date=1983-03 |ref={{sfnRef|『近代の戦闘車両』}}}} * {{Cite book|和書|author=林磐男|date=1992年7月15日|title=タンクテクノロジー|edition=初版|publisher=[[山海堂 (出版社)|山海堂]]|location=東京都文京区|isbn=4-381-10051-4|ref={{sfnRef|『タンクテクノロジー』}}}} * {{Cite book|和書|author1=ピーター・チェンバレン|author2=クリス・エリス|date=1996年12月|title=世界の戦車 1915 - 1945|edition=初版|publisher=大日本絵画|location=東京都千代田区|isbn=4-499-22616-3|ref={{sfnRef|『世界の戦車 1915 - 1945』}}}} * {{Cite book|和書|author=|year=2008|title=日本の陸軍|series=Jグランド vol.18|publisher=イカロス出版|page=41|id=[[JANコード]] 4910151760288 |ref={{sfnRef|『日本の陸軍』}}}} * {{Cite book|和書|author=日本兵器研究会編|year=2001-05-10|title=現代戦車のテクノロジー|edition=第2刷|publisher=アリアドネ企画|isbn=4-384-02592-0|ref={{sfnRef|『現代戦車のテクノロジー』}}}} == 関連項目 == * [[軍用車両]] * [[戦車運搬車|タンクトランスポーター]](戦車運搬車) - 長距離走行に向かない戦車を運ぶ専用大型トレーラー。 * [[ダミー戦車]] - 敵軍に実際の戦車と誤認させる[[デコイ (兵器)|デコイ]]。 * [[戦車バイアスロン]] - 戦車を使った[[モータースポーツ]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * {{科学映像館|genre=other|id=11294|name=軍用タンク}} {{装甲戦闘車両の分類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せんしや}} [[Category:戦車|*]]
2003-09-07T04:11:47Z
2023-12-28T20:38:00Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:Div col", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Lang-en", "Template:Sfn", "Template:Lang-ru", "Template:-", "Template:Kotobank", "Template:科学映像館", "Template:脚注ヘルプ", "Template:En", "Template:Refnest", "Template:Lang-de", "Template:Div col end", "Template:参照方法", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:Lang-fr", "Template:Lang-it", "Template:Lang-zh", "Template:Cite book", "Template:Webarchive", "Template:装甲戦闘車両の分類", "Template:Ru", "Template:Cite", "Template:Lang-ko", "Template:Lang-he", "Template:要出典範囲", "Template:Flagicon", "Template:Otheruseslist", "Template:独自研究", "Template:第3.5世代主力戦車" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%BB%8A
15,494
電気材料
電気材料(でんきざいりょう)とは、電力機器・電子機器に用いられる材料である。電気的物性はもちろんのこと、加工のしやすさ・機械的強度、熱・湿分に対する安定性などが求められる。 近年、環境保全のため、有害物質を含まない・リサイクルのしやすい・廃棄物処理の負担の少ない素材が開発されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電気材料(でんきざいりょう)とは、電力機器・電子機器に用いられる材料である。電気的物性はもちろんのこと、加工のしやすさ・機械的強度、熱・湿分に対する安定性などが求められる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近年、環境保全のため、有害物質を含まない・リサイクルのしやすい・廃棄物処理の負担の少ない素材が開発されている。", "title": null } ]
電気材料(でんきざいりょう)とは、電力機器・電子機器に用いられる材料である。電気的物性はもちろんのこと、加工のしやすさ・機械的強度、熱・湿分に対する安定性などが求められる。 近年、環境保全のため、有害物質を含まない・リサイクルのしやすい・廃棄物処理の負担の少ない素材が開発されている。 電気伝導体 抵抗体 半導体 絶縁体・誘電体 磁性体 超伝導体
'''電気材料'''(でんきざいりょう)とは、[[電力機器]]・[[電子機器]]に用いられる材料である。<br>電気的物性はもちろんのこと、加工のしやすさ・機械的強度、熱・湿分に対する安定性などが求められる。 近年、環境保全のため、有害物質を含まない・リサイクルのしやすい・廃棄物処理の負担の少ない素材が開発されている。 * [[電気伝導体]] * [[抵抗体]] * [[半導体]] * [[絶縁体]]・[[誘電体]] * [[磁性体]] * [[超伝導体]] {{Product-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんきさいりよう}} [[category:電気]]
null
2021-03-15T11:18:03Z
false
false
false
[ "Template:Product-stub", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%9D%90%E6%96%99
15,495
時代小説・歴史小説作家一覧
時代小説・歴史小説作家一覧は、時代小説や歴史小説作家の五十音順の一覧である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "時代小説・歴史小説作家一覧は、時代小説や歴史小説作家の五十音順の一覧である。", "title": null } ]
時代小説・歴史小説作家一覧は、時代小説や歴史小説作家の五十音順の一覧である。
'''時代小説・歴史小説作家一覧'''は、[[時代小説]]や[[歴史小説]]作家の五十音順の一覧である。 ==日本== ===あ行=== *[[阿井景子]] *[[藍川慶次郎]] *[[青山文平]] *[[赤垣風遊夫]] *[[赤木駿介]] *[[赤瀬川隼]] *[[明石散人]] *[[赤間倭子]] *[[秋月達郎]] *[[秋永芳郎]] *[[秋山香乃]] *[[秋山慶彦]] *[[朝井まかて]] *[[浅黄斑]] *[[浅田耕三]] *[[浅田次郎]] *[[浅田晃彦]] *[[朝野敬]] *[[浅野里沙子]] *[[芦川淳一]] *[[梓澤要]] *[[安住洋子]] *[[安土弁]] *[[東秀紀]] *[[安能務]] *[[安部龍太郎]] *[[天野純希]] *[[天宮響一郎]] *[[荒崎一海]] *[[荒山徹]] *[[安西篤子]] *[[飯野笙子]] *[[飯嶋和一]] *[[飯島一次]] *[[家坂洋子]] *[[家村耕]] *[[井川香四郎]] *[[生田直親]] *[[池田平太郎]] *[[池波正太郎]] *[[池端洋介]] *[[池宮彰一郎]] *[[井口朝生]] *[[池内昭一]] *[[生駒忠一郎]] *[[井沢元彦]] *[[石川能弘]] *[[石黒耀]] *[[石月正広]] *[[泉淳]] *[[伊多波碧]] *[[一條明]] *[[市原麻里子]] *[[伊藤桂一]] *[[伊東潤]] *[[伊藤三男]] *[[伊藤浩士]] *[[伊藤致雄]] *[[稲葉稔 (作家)|稲葉稔]] *[[乾荘次郎]] *[[乾浩]] *[[乾緑郎]] *[[犬飼六岐]] *[[井上祐美子]] *[[井ノ部康之]] *[[伊吹昭]] *[[今井絵美子]] *[[今村翔吾]] *[[今村了介]] *[[岩井三四二]] *[[岩崎正吾]] *[[宇江佐真理]] *[[上田秀人]] *[[上野誠]] *[[植松三十里]] *[[浮穴みみ]] *[[宇月原晴明]] *[[内村幹子]] *[[梅本育子]] *[[海野謙四郎]] *[[江崎惇]] *[[江崎俊平]] *[[えとう乱星]] *[[江馬修]] *[[江宮隆之]] *[[江森備]] *[[遠藤寛子 (作家)|遠藤寛子]] *[[大池唯雄]] *[[大内美予子]] *[[大川タケシ]] *[[大久保智弘]] *[[大栗丹後]] *[[大路和子]] *[[大島昌宏]] *[[大塚雅春]] *[[大庭鉄太郎]] *[[大林清]] *[[大平陽介]] *[[小笠原京]] *[[岡崎久彦]] *[[岡田秀文]] *[[岡本綺堂]] *[[岡本さとる]] *[[小川由秋]] *[[小川良]] *[[沖田正午]] *[[奥山景布子]] *[[尾崎士郎]] *[[大佛次郎]] *[[押川國秋]] *[[乙川優三郎]] *[[小野寺公二]] *[[小山勝清]] ===か行=== *[[海音寺潮五郎]] *[[海道龍一朗]] *[[加来耕三]] *[[岳真也]] *[[笠岡治次]] *[[風野真知雄]] *[[風早恵介]] *[[風巻絃一]] *[[加治将一]] *[[梶よう子]] *[[片岡麻紗子]] *[[片倉出雲]] *[[堅山忠男]] *[[加藤廣]] *[[加藤美勝]] *[[門田泰明]] *[[金子成人]] *[[加野厚志]] *[[狩野あざみ]] *[[鎌田樹]] *[[神尾秀]] *[[神尾正武]] *[[神川武利]] *[[神永学]] *[[神谷満雄]] *[[神渡良平]] *[[神室磐司]] *[[川上直志]] *[[川口松太郎]] *[[河治和香]] *[[河田蒼龍]] *[[川村真二]] *[[菅靖匡]] *[[木内昇]] *[[菊池道人]] *[[岸宏子]] *[[北方謙三]] *[[北川哲史]] *[[北沢秋]] *[[北重人]] *[[北園孝吉]] *[[北原亞以子]] *[[北山悦史]] *[[木下昌輝]] *[[金重明]] *[[木村友馨]] *[[喜安幸夫]] *[[木屋進]] *[[霧島那智]] *[[桐野作人]] *[[久坂裕]] *[[楠田匡介]] *[[楠戸義昭]] *[[楠木誠一郎]] *[[葛葉康司]] *[[工藤章興]] *[[邦枝完二]] *[[国枝史郎]] *[[邦光史郎]] *[[粂田和夫]] *[[雲村俊慥]] *[[倉阪鬼一郎]] *[[黒岩重吾]] *[[黒崎裕一郎]] *[[黒澤はゆま]] *[[黒須紀一郎]] *[[黒田如泉]] *[[黒部亨]] *[[桑島かおり]] *[[桑原譲太郎]] *[[郡司次郎正]] *[[小嵐九八郎]] *[[小石房子]] *[[神坂次郎]] *[[郷仙太郎]] *[[高妻秀樹]] *[[郡順史]] *[[古賀宣子]] *[[黄金寅森]] *[[小島英記]] *[[小島政二郎]] *[[小杉健治]] *[[谺雄一郎]] *[[近衛龍春]] *[[小早川涼]] *[[小林克巳]] *[[小林信彦]] *[[小林力]] *[[小前亮]] *[[小松エメル]] *[[小松重男]] *[[小松哲史]] *[[五味康祐]] *[[小山龍太郎]] ===さ行=== *[[西木暉]] *[[西條奈加]] *[[斎藤史子]] *[[斎藤光顕]] *[[佐江衆一]] *[[佐伯泰英]] *[[三枝和子]] *[[早乙女貢]] *[[酒井篤彦]] *[[堺屋太一]] *[[坂上泉]] *[[坂上天陽]] *[[坂岡真]] *[[榊山周]] *[[逆井辰一郎]] *[[酒見賢一]] *[[咲村観]] *[[桜田晋也]] *[[左近隆]] *[[佐々木譲]] *[[佐々木味津三]] *[[佐々木杜太郎]] *[[佐々木裕一]] *[[笹沢左保]] *[[佐竹申伍]] *[[颯手達治]] *[[佐藤賢一]] *[[佐藤広樹]] *[[佐藤雅美]] *[[佐野孝]] *[[沢田黒蔵]] *[[澤田瞳子]] *[[澤田ふじ子]] *[[沙羅双樹 (小説家)|沙羅双樹]] *[[塩野七生]] *[[塩見鮮一郎]] *[[潮山長三]] *[[志川節子]] *[[志木沢郁]] *[[志津三郎]] *[[篠綾子]] *[[篠崎紘一]] *[[篠田達明]] *[[芝豪]] *[[柴英三郎]] *[[芝村涼也]] *[[司馬遼太郎]] *[[柴田錬三郎]] *[[柴山芳隆]] *[[渋田黎明花]] *[[島津隆子]] *[[嶋津義忠]] *[[島村匠]] *[[島本春雄]] *[[島遼伍]] *[[志水辰夫]] *[[霜川遠志]] *[[子母澤寛]] *[[霜月千尋]] *[[下村悦夫]] *[[下村芳男]] *[[城駿一郎]] *[[城昌幸]] *[[城野隆]] *[[庄司圭太]] *[[白井喬二]] *[[白石一郎]] *[[城山三郎]] *[[城駿一郎]] *[[城野隆]] *[[新宮正春]] *[[神宮寺元]] *[[神護かずみ]] *[[陣出達朗]] *[[須賀しのぶ]] *[[杉洋子]] *[[杉本章子]] *[[杉本苑子]] *[[杉山大二郎]] *[[鈴木英治]] *[[鈴木輝一郎]] *[[鈴木晴世]] *[[鈴木由紀子]] *[[須田京介]] *[[瀬川貴一郎]] *[[瀬戸口寅雄]] *[[左右田謙]] *[[曽田博久]] *[[祖父江一郎]] ===た行=== *[[田岡典夫]] *[[鷹井伶]] *[[高市俊次]] *[[高桑義清]] *[[高瀬千図]] *[[高田郁]] *[[高田宏]] *[[高橋克彦]] *[[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]] *[[高橋義夫]] *[[高橋和島]] *[[高橋由太]] *[[高野澄]] *[[高野賢彦]] *[[多岐川恭]] *[[瀧川駿]] *[[滝口康彦]] *[[竹内大]] *[[岳宏一郎]] *[[武田櫂太郎]] *[[竹田真砂子]] *[[武田八洲満]] *[[竹中亮]] *[[竹山洋]] *[[太佐順]] *[[多田容子]] *[[橘千秋]] *[[立石優]] *[[立松和平]] *[[たなか踏基]] *[[谷恒生]] *[[谷口純]] *[[田牧大和]] *[[田宮虎彦]] *[[田村登正]] *[[檀一雄]] *[[千野隆司]] *[[陳舜臣]] *[[塚本靑史|&#xFA10;本靑史]] *[[塚原渋柿園]] *[[築山桂]] *[[柘植久慶]] *[[辻堂魁]] *[[綱淵謙錠]] *[[角田喜久雄]] *[[津本陽]] *[[寺林峻]] *[[典厩五郎]] *[[東郷隆]] *[[藤堂房良]] *[[童門冬二]] *[[富樫倫太郎]] *[[戸川貞雄]] *[[土岐信吉]] *[[徳永健生]] *[[徳永真一郎]] *[[鳥羽亮]] *[[戸部新十郎]] *[[富田源太郎]] *[[富田常雄]] *[[伴野朗]] *[[鳥越碧]] *[[豊田巧]] ===な行=== *[[直木三十五]] *[[永井紗耶子]] *[[永井秀尚]] *[[永井路子]] *[[永井義男]] *[[中尾實信]] *[[長尾宇迦]] *[[長尾誠夫]] *[[永岡慶之助]] *[[納言恭平]] *[[中里介山]] *[[中里融司]] *[[中路啓太]] *[[中島要]] *[[中嶋隆]] *[[中島道子]] *[[中薗英助]] *[[永田ガラ]] *[[長田秀雄]] *[[中谷航太郎]] *[[中津文彦]] *[[長辻象平]] *[[中祭邦乙]] *[[中見利男]] *[[永峯清成]] *[[中村彰彦]] *[[中村晃 (作家)|中村晃]] *[[中村整史朗]] *[[中村朋臣]] *[[中村隆資]] *[[中山義秀]] *[[夏堀正元]] *[[七海壮太郎]] *[[奈良谷隆]] *[[鳴海丈]] *[[鳴海風]] *[[鳴神響一]] *[[鳴山草平]] *[[南條三郎]] *[[南條範夫]] *[[南原幹雄]] *[[二階堂玲太]] *[[西川秀司]] *[[西木正明]] *[[仁志耕一郎]] *[[西津弘美]] *[[西村望]] *[[西村亮太郎]] *[[新田次郎]] *[[仁田義男]] *[[二宮隆雄]] *[[丹羽文雄]] *[[額田六福]] *[[ねじめ正一]] *[[野口卓]] *[[野田真理子]] *[[信原潤一郎]] *[[野村胡堂]] *[[野村尚吾]] *[[野村敏雄]] ===は行=== *[[萩耿介]] *[[萩尾農]] *[[獏不次男]] *[[間真里子]] *[[橋爪彦七]] *[[土師清二]] *[[葉治英哉]] *[[長谷川伸]] *[[長谷川卓]] *[[長谷川つとむ]] *[[葉多黙太郎]] *[[畠中恵]] *[[羽太雄平]] *[[蜂谷涼]] *[[花村奨]] *[[花家圭太郎]] *[[羽生道英]] *[[浜野卓也]] *[[葉室麟]] *[[早坂倫太郎]] *[[羽山信樹]] *[[林不忘]] *[[早瀬詠一郎]] *[[早見俊]] *[[原田孔平]] *[[原田真介]] *[[原田種夫]] *[[原田種眞]] *[[原田康子]] *[[原田八束]] *[[磐紀一郎]] *[[幡大介]] *[[半藤一利]] *[[坂東眞砂子]] *[[火坂雅志]] *[[久木綾子]] *[[聖龍人]] *[[氷月葵]] *[[平山蘆江]] *[[平岩弓枝]] *[[平岡一二]] *[[平川弥太郎]] *[[平山寿三郎]] *[[広瀬仁紀]] *[[風来某]] *[[笛吹明生]] *[[深水聡之]] *[[福本武久]] *[[藤井邦夫]] *[[藤井博吉]] *[[藤井素介]] *[[藤木稟]] *[[藤沢周平]] *[[藤ノ木陵]] *[[藤原緋沙子]] *[[藤水名子]] *[[藤村与一郎]] *[[藤本ひとみ]] *[[舟橋聖一]] *[[船山馨]] *[[古川薫]] *[[別所真紀子]] *[[北城小路]] *[[星川清司]] *[[星亮一]] *[[堀田あけみ]] *[[穂積驚]] *[[堀和久]] *[[堀江朋子]] *[[本郷純子]] *[[本庄慧一郎]] *[[本田美禅]] *[[誉田龍一]] ===ま行=== *[[舞岡淳]] *[[前島不二雄]] *[[牧秀彦]] *[[牧南恭子]] *[[真下五一]] *[[増田貴彦]] *[[町田富男]] *[[松井今朝子]] *[[松井永人]] *[[松浦節]] *[[松岡弘一]] *[[松田十刻]] *[[松永義弘]] *[[松乃藍]] *[[松本賢吾]] *[[松本幸子]] *[[松本茂樹]] *[[松本匡代]] *[[真鍋元之]] *[[真野ひろみ]] *[[真山青果]] *[[三上於菟吉]] *[[三木一郎]] *[[三田誠広]] *[[満坂太郎]] *[[三戸岡道夫]] *[[水上準也]] *[[水嶋元]] *[[水田勁]] *[[湊邦三]] *[[峰隆一郎]] *[[宮城賢秀]] *[[宮城谷昌光]] *[[三宅孝太郎]] *[[三宅登茂子]] *[[宮野叢子]] *[[宮本昌孝]] *[[三好京三]] *[[三好徹]] *[[向谷匡史]] *[[石松愛弘|宗方翔]] *[[棟田博]] *[[村上元三]] *[[村上浪六]] *[[村咲数馬]] *[[村雨退二郎]] *[[村松駿吉]] *[[村松梢風]] *[[村松友視]] *[[村山知義]] *[[米津彬介]] *[[本山荻舟]] *[[百瀬明治]] *[[森達二郎]] *[[森真沙子]] *[[森田誠吾]] *[[森福都]] *[[森村南]] *[[森本繁]] *[[森山茂里]] *[[杜山悠]] *[[諸田玲子]] ===や行=== *[[八木荘司]] *[[八木忠純]] *[[八切止夫]] *[[八雲滉]] *[[安永明子]] *[[矢田挿雲]] *[[八剣浩太郎]] *[[八柳誠]] *[[八尋舜右]] *[[山岡荘八]] *[[山口椿]] *[[山田風太郎]] *[[山手樹一郎]] *[[矢的竜]] *[[山村竜也]] *[[山本一力]] *[[山本音也]] *[[山本兼一]] *[[山本周五郎]] *[[山元泰生]] *[[柳蒼二郎]] *[[湯川裕光]] *[[行友李風]] *[[夢枕獏]] *[[吉岡道夫]] *[[吉川英治]] *[[吉田雄亮]] *[[吉田与志雄]] *[[吉見周子]] *[[吉村昭]] *[[好村兼一]] *[[吉村正一郎 (作家)|吉村正一郎]] *[[米村圭伍]] *吉原実 ===ら行=== *[[六道慧]] *[[陸直次郎]] *[[劉寒吉]] *[[隆慶一郎]] *[[竜崎攻]] *[[龍道真一]] *[[領家高子]] ===わ行=== *[[和久田正明]] *[[鷲尾雨工]] *[[和田はつ子]] *[[渡瀬草一郎]] *[[渡辺寿光]] *[[渡辺毅 (作家)|渡辺毅]] *[[渡辺房男]] *[[輪渡颯介]] *[[和田竜]] *[[和巻耿介]] ==アジア== ===韓国=== *[[イ・スグァン]](李秀光) *[[キム・サンホン]] *キム・フン([[金薫]]) ===中国=== *[[金庸]](きん よう) *[[古龍]](こ りゅう) *[[羅貫中]](ら かんちゅう) *[[梁羽生]](りょう うせい) ==欧米== ===あ行=== *[[パトリック・オブライアン]] *[[バロネス・オルツィ]] ===か行=== *[[ドナルド・キーン]] *[[ウィンストン・グルーム]] ===さ行=== *[[ローズマリー・サトクリフ]] *[[ジョン・ジェイクス]] *[[クリスチャン・ジャック]] *[[ウォルター・スコット]] ===た行=== ===な行=== ===は行=== *[[イーディス・パージター]] *[[アレックス・ヘイリー]] ===ま行=== ===や行=== ===ら行=== *[[アルトゥーロ・ペレス=レベルテ]] ===わ行=== ==関連項目== [[人名一覧]] - [[小説家]] [[Category:小説家一覧|したいれきししようせつさつか]] [[Category:歴史小説|*したいれきししようせつさつかいちらん]] [[Category:時代小説|*したいれきししようせつさつかいちらん]]
2003-09-07T04:14:52Z
2023-12-11T05:43:17Z
false
false
false
[]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7
15,496
PS/2コネクタ
PS/2コネクタ(ピーエスツーコネクタ)は、パーソナルコンピュータで使用される入出力ポートの接続コネクタの1規格。名称はIBM PS/2で採用されたことに由来する。 物理形状はミニDIN6Pコネクタ、通信方式は同期シリアル通信が採用されており、以後のPC/AT互換機の多くではマザーボードに搭載された。通常はキーボード(PS/2キーボード)とマウス(PS/2マウス)の接続に使用される。過去にはバーコードリーダや磁気カードリーダなどの入力デバイス、ごく稀にはポータブルHDD、キーボード切り替え装置などの駆動用電力を取得する目的でも使用された。 キーボードの信号内容はATマザーで使われた5ピンの(ミニでない大型の)DINコネクタと同等であり、PS/2コネクタとの変換コネクタが存在する。 ノートPCや近年のマザーボードなどではマウスとキーボードがひとつのPS/2コネクタに統合されていることがあり、そのままではマウスかキーボードの片方しか接続できないが、PS/2スプリッターで分岐することにより両方を同時に利用できるようになる。また、コネクタ部も紫・緑の二色で表されていることが多い。 1990年代後半以降はUSBやBluetoothに置き換わっていった。ただしUSBが登場したばかりであった2000年代のPCでは、 などの理由で、PS/2コネクタには一定の需要があった。 USBが普及した2000年代中盤以降はPS/2コネクタを廃止したマザーボードが増え、完全にレガシーデバイスの1つとなった。一方サーバ機や業務用の組み込み機器ではUSBポートを搭載するとUSBメモリを介したウイルス感染などセキュリティ上の懸念があること、非常に廉価な組み込み機器やシングルボードコンピュータではUSBをサポートするとコストがかかることなどの理由で、2018年現在においても一部のサーバ機やシングルボードコンピュータなどでPS/2ポートのみをサポートしている例があり、細々とした需要がある。 PS/2との両対応を謳ったUSBキーボードやUSBマウスは一般にPS/2コネクタに接続するための変換アダプタが付属するが、アダプタは物理的な接続のみをサポートし、プロトコルの変換を行うわけではなく、PS/2コネクタがUSBとも、USBのHIDデバイスとも互換性があるわけではない。接続されたバスの状態から、キーボードや、マウスのコントローラが接続先を認識し、実際の振る舞いを決めている。以上のような状況から、アダプタは固有の商品に対するオプションや、添付品など、その接続の対象は限定され、汎用のものではないことには注意が必要である。明示が無くとも、使用できるケースもあるものの明示された組み合わせ以外での使用は「保証外」である。また、PS/2専用の古いホストではタイミングや初期状態等の仕様の違いにより、動作しないケースもまれに存在する。そのような場合は実際に信号を変換するアダプタを挟む必要がある。 逆にPS/2接続のキーボード・マウスをUSB接続に変換するアダプタもあるが、こちらはアダプタ内で信号を変換する回路を搭載する汎用品であるため、逆の変換アダプタと比べて大掛かりなアダプタになっていることがある。 またPCIボードで、USBコントローラを搭載しており本体側から見るとUSBキーボードやUSBマウスとして接続する、PS/2ポート増設ボード、といった製品もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PS/2コネクタ(ピーエスツーコネクタ)は、パーソナルコンピュータで使用される入出力ポートの接続コネクタの1規格。名称はIBM PS/2で採用されたことに由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "物理形状はミニDIN6Pコネクタ、通信方式は同期シリアル通信が採用されており、以後のPC/AT互換機の多くではマザーボードに搭載された。通常はキーボード(PS/2キーボード)とマウス(PS/2マウス)の接続に使用される。過去にはバーコードリーダや磁気カードリーダなどの入力デバイス、ごく稀にはポータブルHDD、キーボード切り替え装置などの駆動用電力を取得する目的でも使用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "キーボードの信号内容はATマザーで使われた5ピンの(ミニでない大型の)DINコネクタと同等であり、PS/2コネクタとの変換コネクタが存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ノートPCや近年のマザーボードなどではマウスとキーボードがひとつのPS/2コネクタに統合されていることがあり、そのままではマウスかキーボードの片方しか接続できないが、PS/2スプリッターで分岐することにより両方を同時に利用できるようになる。また、コネクタ部も紫・緑の二色で表されていることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1990年代後半以降はUSBやBluetoothに置き換わっていった。ただしUSBが登場したばかりであった2000年代のPCでは、", "title": "レガシーデバイスとして" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "などの理由で、PS/2コネクタには一定の需要があった。", "title": "レガシーデバイスとして" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "USBが普及した2000年代中盤以降はPS/2コネクタを廃止したマザーボードが増え、完全にレガシーデバイスの1つとなった。一方サーバ機や業務用の組み込み機器ではUSBポートを搭載するとUSBメモリを介したウイルス感染などセキュリティ上の懸念があること、非常に廉価な組み込み機器やシングルボードコンピュータではUSBをサポートするとコストがかかることなどの理由で、2018年現在においても一部のサーバ機やシングルボードコンピュータなどでPS/2ポートのみをサポートしている例があり、細々とした需要がある。", "title": "レガシーデバイスとして" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "PS/2との両対応を謳ったUSBキーボードやUSBマウスは一般にPS/2コネクタに接続するための変換アダプタが付属するが、アダプタは物理的な接続のみをサポートし、プロトコルの変換を行うわけではなく、PS/2コネクタがUSBとも、USBのHIDデバイスとも互換性があるわけではない。接続されたバスの状態から、キーボードや、マウスのコントローラが接続先を認識し、実際の振る舞いを決めている。以上のような状況から、アダプタは固有の商品に対するオプションや、添付品など、その接続の対象は限定され、汎用のものではないことには注意が必要である。明示が無くとも、使用できるケースもあるものの明示された組み合わせ以外での使用は「保証外」である。また、PS/2専用の古いホストではタイミングや初期状態等の仕様の違いにより、動作しないケースもまれに存在する。そのような場合は実際に信号を変換するアダプタを挟む必要がある。", "title": "レガシーデバイスとして" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "逆にPS/2接続のキーボード・マウスをUSB接続に変換するアダプタもあるが、こちらはアダプタ内で信号を変換する回路を搭載する汎用品であるため、逆の変換アダプタと比べて大掛かりなアダプタになっていることがある。", "title": "レガシーデバイスとして" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "またPCIボードで、USBコントローラを搭載しており本体側から見るとUSBキーボードやUSBマウスとして接続する、PS/2ポート増設ボード、といった製品もある。", "title": "レガシーデバイスとして" } ]
PS/2コネクタ(ピーエスツーコネクタ)は、パーソナルコンピュータで使用される入出力ポートの接続コネクタの1規格。名称はIBM PS/2で採用されたことに由来する。
{{出典の明記|date=2013年2月}} {{Infobox コネクタ |name = PS/2コネクタ |type = [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](PS/2キーボード)と[[マウス (コンピュータ)|マウス]](PS/2マウス)の接続。 |image = [[画像:Two PS2 connectors PNr°0053.jpg|150px]] |logo = [[画像:MiniDIN-6 Connector Pinout.svg|150px]] |caption = PS/2コネクタ 緑がマウス、紫がキーボード用。 |designer = [[IBM]] |design_date = [[1987年]] |manufacturer = |production_date = |superseded = [[DINコネクタ]]([[PC/AT]]){{-}}[[D-subminiature]]{{-}}[[バスマウス]] |superseded_by = [[ユニバーサル・シリアル・バス]] |superseded_by_date = [[1996年]]1月 |hotplug = 未対応 |length = |width = |height = |electrical = TTLレベル |ground = |maximum_voltage = 5 V |maximum_current = 275 mA |data_signal = シリアル通信{{-}}クロック16 kHz{{-}}ストップビット1{{-}}スタートビット1{{-}}パリティビット奇数 |data_bit_width = |data_bandwidth = |data_devices = [[入力機器]] |data_style = 3線式[[シリアル通信]] |cable = ツイストペア多心シールドケーブル |physical_connector = [[ミニDINコネクタ|Mini-DINコネクタ]] |num_pins = 6 |pinout_col1_name = 信号名 |pinout_col2_name = 説明 |pinout_image = [[画像:MiniDIN-6 Connector Pinout.svg|150px]] |pinout_caption = |pin1 = データ信号{{-}}(正極性) |pin1_name = +DATA |pin2 = 未接続 |pin2_name = Not connected |pin3 = [[接地]] |pin3_name = GND |pin4 = 電源 +5[[ボルト (単位)|V]] |pin4_name = Vcc |pin5 = [[クロック]]{{-}}(正極性) |pin5_name = +CLK |pin6 = 未接続 |pin6_name = Not connected |pin_custom1_name = ケース |pin_name_custom1 = Case sealed |pin_custom1 = シールド接地 }} '''PS/2コネクタ'''(ピーエスツーコネクタ)は、[[パーソナルコンピュータ]]で使用される[[入出力ポート]]の[[コネクタ|接続コネクタ]]の1規格。名称は[[IBM PS/2]]で採用されたことに由来する。 __TOC__ ==概要== 物理形状は[[ミニDINコネクタ|ミニDIN6Pコネクタ]]、通信方式は同期[[シリアル通信]]<ref>同期式のため、レガシーなシリアル系のインタフェースのわりには、比較的高速である。</ref>が採用されており、以後の[[PC/AT互換機]]の多くでは[[マザーボード]]に搭載された。通常は[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](PS/2キーボード)と[[マウス (コンピュータ)|マウス]](PS/2マウス)の接続に使用される。過去には[[バーコードリーダ]]や[[磁気カード|磁気カードリーダ]]などの入力デバイス、ごく稀にはポータブルHDD、キーボード切り替え装置などの駆動用電力を取得する目的でも使用された。 キーボードの信号内容はATマザーで使われた5ピンの(ミニでない大型の)DINコネクタと同等であり、PS/2コネクタとの変換コネクタが存在する<ref>吉田功、キーボード&マウス・ポートの構造、トランジスタ技術1995年10月号、pp224-239</ref>。 ノートPCや近年のマザーボードなどではマウスとキーボードがひとつのPS/2コネクタに統合されていることがあり、そのままではマウスかキーボードの片方しか接続できないが、PS/2スプリッターで分岐することにより両方を同時に利用できるようになる。また、コネクタ部も紫・緑の二色で表されていることが多い。 ==レガシーデバイスとして== 1990年代後半以降は[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]や[[Bluetooth]]に置き換わっていった。ただしUSBが登場したばかりであった2000年代のPCでは、 *USBキーボードを使うとPCの数少ないUSBポートを占有すること(当時のPCはPS/2や[[RS-232]]などのレガシーポートが現役で存在した一方で、USBポートは少なかった) *動作にOSのドライバを必要とする一部のUSBキーボードは[[BIOS]]画面では操作できない場合があること(PS/2キーボードなら確実にBIOSを操作できる) *PS/2キーボードは押されたキーを押された順番で全て認識できるという「[[Nキーロールオーバー]]」に標準対応していたこと(ゲーミング利用を想定していないUSBキーボードは6キーまでしか同時に押せない)<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/gamelab/577629.html 【PCゲームグッズLab.】USB接続で全キー同時押し対応キーボード「Quick Fire Pro」 - PC Watch]</ref> などの理由で、PS/2コネクタには一定の需要があった。 USBが普及した2000年代中盤以降はPS/2コネクタを廃止した[[マザーボード]]が増え、完全に[[レガシーデバイス]]の1つとなった。一方[[PCサーバ|サーバ機]]や業務用の[[組み込みシステム|組み込み機器]]ではUSBポートを搭載するとUSBメモリを介したウイルス感染などセキュリティ上の懸念があること、非常に廉価な組み込み機器や[[シングルボードコンピュータ]]ではUSBをサポートするとコストがかかることなどの理由で、2018年現在においても一部の[[PCサーバ|サーバ機]]や[[シングルボードコンピュータ]]などでPS/2ポートのみをサポートしている例があり、細々とした需要がある<ref name="impress1125356">{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1125356.html|title=家電のケンちゃんで見かけたマニアックな同人ハードいろいろ|publisher=Akiba PC Hotline!|date=2018-06-04|accessdate=2018-06-05}}</ref>。 === 変換アダプタ === PS/2との両対応を謳ったUSBキーボードやUSBマウスは一般にPS/2コネクタに接続するための変換アダプタが付属するが、アダプタは物理的な接続のみをサポートし、プロトコルの変換を行うわけではなく、PS/2コネクタがUSBとも、USBのHIDデバイスとも互換性があるわけではない。接続されたバスの状態から、キーボードや、マウスのコントローラが接続先を認識し、実際の振る舞いを決めている。以上のような状況から、アダプタは固有の商品に対するオプションや、添付品など、その接続の対象は限定され、汎用のものではないことには注意が必要である。明示が無くとも、使用できるケースもあるものの明示された組み合わせ以外での使用は「保証外」である。また、PS/2専用の古いホストではタイミングや初期状態等の仕様の違いにより、動作しないケースもまれに存在する。そのような場合は実際に信号を変換するアダプタ[https://github.com/meerstern/PS2USB_CONVERTER]を挟む必要がある<ref name="impress1125356" />。 逆にPS/2接続のキーボード・マウスをUSB接続に変換するアダプタもあるが、こちらはアダプタ内で信号を変換する回路を搭載する汎用品であるため、逆の変換アダプタと比べて大掛かりなアダプタになっていることがある。 またPCIボードで、USBコントローラを搭載しており本体側から見るとUSBキーボードやUSBマウスとして接続する、PS/2ポート増設ボード、といった製品もある。 ==脚注・出典== {{Reflist}} ==関連項目== {{Commonscat|PS/2 connectors}} {{Portal|コンピュータ}} * [[レガシーデバイス]] * [[Apple Desktop Bus]] - [[Apple]]が策定したマウス/キーボードポート。 * [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]] * [[ミニDINコネクタ]] {{デフォルトソート:PS2こねくた}} [[Category:インタフェース規格]] {{Computer-stub}}
2003-09-07T04:25:55Z
2023-09-29T07:26:01Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Infobox コネクタ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Portal", "Template:Computer-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/PS/2%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF
15,497
Enhanced Graphics Adapter
Enhanced Graphics Adapter(エンハンスト グラフィックス アダプター、EGA)は、IBMが1984年に開発したディスプレイ規格である。グラフィックモードで640×350 64色中16色が表示可能。 EGAは1984年10月にIBMより発表された。(PC/ATの発売直後だが、PC/AT専用ではない。) EGA規格は1987年にPS/2とともに発表されたMCGAおよびVGAに置き換えられた。 VGAが発表される少し前に、ジェノア・システムズ (Genoa Systems) がプロプライエタリなチップセットを搭載したハーフサイズのグラフィックカード、Super EGAを発表した(後期のカードはSuper VGAと同様にVGAで拡張されたモードをサポートした)。 EGAは最大640x350ピクセルの画面解像度で64色のパレットから16色を選択して同時に表示する。EGAカードは追加のグラフィック機能をサポートするシステムBIOSの拡張のために16KBのROMを搭載し、また、旧来のグラフィックコントローラー(MDA、CGA)でビデオタイミング信号を生成するのに使われていたモトローラMC6845チップと後方互換のモードを持つカスタムCRTCを搭載していた。 640x350高解像度モードではピクセルあたり赤、緑、青の各2ビットずつ、それぞれの原色に4階調の輝度を設定でき、それらを組み合わせ可能なパレット(計64色)から16色を選択できた。EGAはCGAの640x200および320x200グラフィックモードのうち16色バージョンを搭載していた。EGA 4ビット(16色)グラフィックモードはCPUのビット演算によるビットプレーンとマスクレジスタの複雑な使用方法としても知られ、VGAや多くの互換ハードウェアに継承されることになる、早期のグラフィックアクセラレータを構成するものであった。 EGAは350ラインモード時に21.8kHz、200ラインモード時に15.7kHzで駆動するデュアルシンクである。オリジナルのCGAモードも存在するが、EGAはCGAとのハードウェア互換性は完全ではない。EGAはボード上のスイッチの設定を変えることでMDA用モニターを使用できるものの、この設定では640x350高解像度モノクログラフィックと標準MDAテキストモードのみが利用可能である。 EGAカードはISAバスを採用し、当初は8ビット版および16ビット版が用意されていた。オリジナルのIBM製EGAカードは64KBのオンボードRAMを持ち、64KBを追加するためにはドーターボードを必要とした。(64KBのEGAカードでは640x350モード時は4色に制限される。)ほとんどのサードパーティー製カードは128KBが実装済みで、一部は256KBを搭載して複数のグラフィックページをサポートした。いくつかのサードパーティー製EGA互換品(特にATIテクノロジーズやパラダイス(現・ウェスタン・ディジタル)のボードが知られる)は640x400、640x480、720x540などの拡張されたグラフィックモード、モニター種別の自動検出、CGAモニターを使うための400ラインインターレースモードをサポートしていた。 テキストモード: EGA グラフィックモード: サードパーティー製ボードの拡張グラフィックモード: EGAパレットは全ての16色CGAカラーを同時に使用することができ、これらの色はそれぞれ計64色から選んで置き換えることができた。これは追加のディスプレイハードウェア無しでCGA特有の茶色を表示させることも可能にした。後のVGA規格では64色をさらにカスタマイズすることができた。拡張カラーパレットは200ラインモードでは使用できなかった。 EGAパレットから色を選択するとき、赤、緑、青チャンネルに2ビットが使用される。これは各チャンネルが0、1、2、3の値を設定できることを意味する。マゼンタカラーを選択するには、赤と青の値を中輝度(十進数で2またはバイナリ値で10)として、緑の値をオフ(0)にセットする。64色EGAパレットで指定値を計算するとき、指定するバイナリ値の書式は"rgbRGB"、小文字をチャンネル輝度の最下位ビット、大文字を最上位ビットとする。マゼンタであれば、赤と青の最上位ビットは1なので、大文字のRとBの場所が1になる。残りの桁は全て0となり、マゼンタカラーを表すバイナリ値は"000101"となる。これは10進数で5となるから、パレット指定に5をセットすることでマゼンタが選択されたことになる。全てのデフォルト色のカラー値を次の表に記述する。 EGAはCGA端子と同じ9ピンメスのDサブ端子を使用する。ピン割り当てを含むハードウェア信号インターフェースはCGAとほぼ互換性がある。その違いは3つのピンがEGAのセカンダリRGB信号となっていること。詳しくは、CGAではIntensityピンとされていたのがSecondary green、Secondary groundピンとされていたのがSecondary red、予約ピンとされていたのがSecondary blueに変更されている。EGAがCGAと同じ走査レートのモードで動作している場合、CGAモニターへの接続は正常に動作するが、モニターが2ピンをグラウンドに接続している場合はEGAのSecondary red出力をグラウンドに短絡させることになり、EGAアダプターの損傷に繋がる恐れがある。 ほとんどのEGAカードはカード背面にモニター種別を選択するためのディップスイッチを持っており、CGAが選択されていると、カードは200ラインモードで動作し、テキストモードでは8x8ピクセルフォントが使用される。350ラインモードには切り替えることができず、拡張カラーパレットも使用できない。EGAが選択されると、カードは350ラインモードで動作し、8x14ピクセルフォントが使用される。しかし、グラフィックモードは640x350x2のみが使用できる。 IBM 5154 EGAモニターは特殊なIBM 5153 CGA互換モードを備えていて、CGA相当の同期信号で動作しているときは自動でCGAのピン割り当てに切り替え、先に述べた問題を回避するようになっている。 EGAグラフィックモードはプレーンアクセス方式で、これはCGAやHerculesモードとは対照的である。ビデオメモリは4ページに分割され(2ページを持つ530x350x2を除く)、それぞれRGBI色空間を持つ。各ビットは1ピクセルを表す。赤ページの1ビットが有効にされると、他のページの同等のビットがセットされていなくても、画面上の指定位置に赤色のドットが現れる。同じピクセルの他のプレーン全てのビットも有効にすると、それは白色になる。各プレーンのサイズは、8KB(200ラインモードと640x350ピクセル2色)、16KB(64KBビデオRAMでの640x350ピクセル)、32KB(128KBビデオRAMでの640x350)となり、CPUアドレス空間のセグメントA000に割り当てられる。それらはバンク切り替え方式で、一度に1プレーンのみ読むことができるのだが、プログラマーは書き込み先のプレーンをEGAカードのコントロールレジスタにセットする手法をとっていた。したがって、読み込みは常に1プレーンのみだが、書き込みは全てのプレーンに一度に行うことができた。 後方互換性を確保するため、カラーテキストとCGAモードはセグメントB800、モノクロテキストはB000に割り当てられた。 EGAではDE-9メスコネクタが使われている。ピン番号は上段が1-5、下段が6-9で、どちらも右から左に番号を割り当てた状態のピン割り当てを次に示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Enhanced Graphics Adapter(エンハンスト グラフィックス アダプター、EGA)は、IBMが1984年に開発したディスプレイ規格である。グラフィックモードで640×350 64色中16色が表示可能。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "EGAは1984年10月にIBMより発表された。(PC/ATの発売直後だが、PC/AT専用ではない。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "EGA規格は1987年にPS/2とともに発表されたMCGAおよびVGAに置き換えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "VGAが発表される少し前に、ジェノア・システムズ (Genoa Systems) がプロプライエタリなチップセットを搭載したハーフサイズのグラフィックカード、Super EGAを発表した(後期のカードはSuper VGAと同様にVGAで拡張されたモードをサポートした)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "EGAは最大640x350ピクセルの画面解像度で64色のパレットから16色を選択して同時に表示する。EGAカードは追加のグラフィック機能をサポートするシステムBIOSの拡張のために16KBのROMを搭載し、また、旧来のグラフィックコントローラー(MDA、CGA)でビデオタイミング信号を生成するのに使われていたモトローラMC6845チップと後方互換のモードを持つカスタムCRTCを搭載していた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "640x350高解像度モードではピクセルあたり赤、緑、青の各2ビットずつ、それぞれの原色に4階調の輝度を設定でき、それらを組み合わせ可能なパレット(計64色)から16色を選択できた。EGAはCGAの640x200および320x200グラフィックモードのうち16色バージョンを搭載していた。EGA 4ビット(16色)グラフィックモードはCPUのビット演算によるビットプレーンとマスクレジスタの複雑な使用方法としても知られ、VGAや多くの互換ハードウェアに継承されることになる、早期のグラフィックアクセラレータを構成するものであった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "EGAは350ラインモード時に21.8kHz、200ラインモード時に15.7kHzで駆動するデュアルシンクである。オリジナルのCGAモードも存在するが、EGAはCGAとのハードウェア互換性は完全ではない。EGAはボード上のスイッチの設定を変えることでMDA用モニターを使用できるものの、この設定では640x350高解像度モノクログラフィックと標準MDAテキストモードのみが利用可能である。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "EGAカードはISAバスを採用し、当初は8ビット版および16ビット版が用意されていた。オリジナルのIBM製EGAカードは64KBのオンボードRAMを持ち、64KBを追加するためにはドーターボードを必要とした。(64KBのEGAカードでは640x350モード時は4色に制限される。)ほとんどのサードパーティー製カードは128KBが実装済みで、一部は256KBを搭載して複数のグラフィックページをサポートした。いくつかのサードパーティー製EGA互換品(特にATIテクノロジーズやパラダイス(現・ウェスタン・ディジタル)のボードが知られる)は640x400、640x480、720x540などの拡張されたグラフィックモード、モニター種別の自動検出、CGAモニターを使うための400ラインインターレースモードをサポートしていた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "テキストモード:", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "EGA グラフィックモード:", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "サードパーティー製ボードの拡張グラフィックモード:", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "EGAパレットは全ての16色CGAカラーを同時に使用することができ、これらの色はそれぞれ計64色から選んで置き換えることができた。これは追加のディスプレイハードウェア無しでCGA特有の茶色を表示させることも可能にした。後のVGA規格では64色をさらにカスタマイズすることができた。拡張カラーパレットは200ラインモードでは使用できなかった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "EGAパレットから色を選択するとき、赤、緑、青チャンネルに2ビットが使用される。これは各チャンネルが0、1、2、3の値を設定できることを意味する。マゼンタカラーを選択するには、赤と青の値を中輝度(十進数で2またはバイナリ値で10)として、緑の値をオフ(0)にセットする。64色EGAパレットで指定値を計算するとき、指定するバイナリ値の書式は\"rgbRGB\"、小文字をチャンネル輝度の最下位ビット、大文字を最上位ビットとする。マゼンタであれば、赤と青の最上位ビットは1なので、大文字のRとBの場所が1になる。残りの桁は全て0となり、マゼンタカラーを表すバイナリ値は\"000101\"となる。これは10進数で5となるから、パレット指定に5をセットすることでマゼンタが選択されたことになる。全てのデフォルト色のカラー値を次の表に記述する。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "EGAはCGA端子と同じ9ピンメスのDサブ端子を使用する。ピン割り当てを含むハードウェア信号インターフェースはCGAとほぼ互換性がある。その違いは3つのピンがEGAのセカンダリRGB信号となっていること。詳しくは、CGAではIntensityピンとされていたのがSecondary green、Secondary groundピンとされていたのがSecondary red、予約ピンとされていたのがSecondary blueに変更されている。EGAがCGAと同じ走査レートのモードで動作している場合、CGAモニターへの接続は正常に動作するが、モニターが2ピンをグラウンドに接続している場合はEGAのSecondary red出力をグラウンドに短絡させることになり、EGAアダプターの損傷に繋がる恐れがある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ほとんどのEGAカードはカード背面にモニター種別を選択するためのディップスイッチを持っており、CGAが選択されていると、カードは200ラインモードで動作し、テキストモードでは8x8ピクセルフォントが使用される。350ラインモードには切り替えることができず、拡張カラーパレットも使用できない。EGAが選択されると、カードは350ラインモードで動作し、8x14ピクセルフォントが使用される。しかし、グラフィックモードは640x350x2のみが使用できる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "IBM 5154 EGAモニターは特殊なIBM 5153 CGA互換モードを備えていて、CGA相当の同期信号で動作しているときは自動でCGAのピン割り当てに切り替え、先に述べた問題を回避するようになっている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "EGAグラフィックモードはプレーンアクセス方式で、これはCGAやHerculesモードとは対照的である。ビデオメモリは4ページに分割され(2ページを持つ530x350x2を除く)、それぞれRGBI色空間を持つ。各ビットは1ピクセルを表す。赤ページの1ビットが有効にされると、他のページの同等のビットがセットされていなくても、画面上の指定位置に赤色のドットが現れる。同じピクセルの他のプレーン全てのビットも有効にすると、それは白色になる。各プレーンのサイズは、8KB(200ラインモードと640x350ピクセル2色)、16KB(64KBビデオRAMでの640x350ピクセル)、32KB(128KBビデオRAMでの640x350)となり、CPUアドレス空間のセグメントA000に割り当てられる。それらはバンク切り替え方式で、一度に1プレーンのみ読むことができるのだが、プログラマーは書き込み先のプレーンをEGAカードのコントロールレジスタにセットする手法をとっていた。したがって、読み込みは常に1プレーンのみだが、書き込みは全てのプレーンに一度に行うことができた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "後方互換性を確保するため、カラーテキストとCGAモードはセグメントB800、モノクロテキストはB000に割り当てられた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "EGAではDE-9メスコネクタが使われている。ピン番号は上段が1-5、下段が6-9で、どちらも右から左に番号を割り当てた状態のピン割り当てを次に示す。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "", "title": "設計" } ]
Enhanced Graphics Adapterは、IBMが1984年に開発したディスプレイ規格である。グラフィックモードで640×350 64色中16色が表示可能。
{{Infobox graphics processing unit | name = Enhanced Graphics Adapter | image = | codename = | created = {{Start date and age|1984|10}}<ref>IBM Announcement Letter Number 184-114 dated September 10, 1984, http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/4/897/ENUS184-114/index.html&lang=en&request_locale=en</ref> | transistors = | architecture = [[Motorola 6845]]、[[チップス・アンド・テクノロジーズ]] | entry = IBM EGA card, Chips and Technologies, [[ATI EGA Wonder]] | midrange = ATI EGA Wonder 800 | highend = ATI EGA Wonder 800+ | enthusiast = | openglversion = | d3dversion = | predecessor = [[Monochrome Display Adapter]], [[Color Graphics Adapter]] | successor = [[Video Graphics Array]] }} [[File:IBM_EGA_card.jpg|サムネイル|IBM製EGAカード - 64KB版]] [[File:KL_Genoa_EGA.jpg|サムネイル|EGA互換カード]] '''Enhanced Graphics Adapter'''(エンハンスト グラフィックス アダプター、'''EGA''')は、[[IBM]]が[[1984年]]に開発したディスプレイ規格である。グラフィックモードで640×350 64色中16色が表示可能。 == 歴史 == EGAは1984年10月に[[IBM]]より発表された<ref>High-Resolution Standard Is Latest Step in DOS Graphics Evolution, ''InfoWorld'', June 26, 1989, p. 48</ref><ref>News Briefs, Big Blue Turns Colors, ''InfoWorld'', Oct 8, 1984</ref>。([[PC/AT]]の発売直後だが、PC/AT専用ではない。) EGA規格は1987年に[[IBM PS/2|PS/2]]とともに発表された[[Multicolor Graphics Adapter|MCGA]]および[[Video Graphics Array|VGA]]に置き換えられた<ref>Scott Mueller, ''Upgrading and Repairing PCs, Tenth Edition'', Que,1998, 0-7897-1636-4 page 515</ref>。 VGAが発表される少し前に、ジェノア・システムズ (''Genoa Systems'') がプロプライエタリなチップセットを搭載したハーフサイズの[[ビデオカード|グラフィックカード]]、''Super EGA''を発表した(後期のカードは[[Super Video Graphics Array|Super VGA]]と同様にVGAで拡張されたモードをサポートした)<ref>Hardware, Genoa Systems Ready to Ship $449 Half-Size Graphics Card, ''InfoWorld'', February 23, 1987</ref>。 == 設計 == EGAは最大640x350ピクセルの[[画面解像度]]で64色のパレットから16色を選択して同時に表示する。EGAカードは追加のグラフィック機能をサポートするシステム[[Basic Input/Output System|BIOS]]の拡張のために16KBの[[Read Only Memory|ROM]]を搭載し、また、旧来のグラフィックコントローラー([[Monochrome Display Adapter|MDA]]、[[Color Graphics Adapter|CGA]])でビデオタイミング信号を生成するのに使われていた[[CRTC (LSI)|モトローラMC6845]]チップと後方互換のモードを持つカスタム[[CRTC (LSI)|CRTC]]を搭載していた。<ref>{{cite journal|last=Hart|first=Glenn A.|date=December 25, 1984|title=IBM Sets a New Standard|url=https://books.google.ru/books?id=azbgSlPdJawC&pg=PA173#v=onepage&q&f=false|journal=PC Magazine|volume=3|issue=25|page=173|publisher=Ziff-Davis Publishing}}</ref> 640x350高解像度モードではピクセルあたり赤、緑、青の各2ビットずつ、それぞれの原色に4階調の輝度を設定でき、それらを組み合わせ可能なパレット(計64色)から16色を選択できた。EGAはCGAの640x200および320x200グラフィックモードのうち16色バージョンを搭載していた。EGA 4ビット(16色)グラフィックモードは[[CPU]]の[[ビット演算]]による<ref>{{cite book|last=Abrash|first=Michael|title=Graphics Programming Black Book|url=http://www.phatcode.net/res/224/files/html/|year=2001|publisher=[[Penguin Group|Coriolis Group Books]]|pages=1342|chapter=Chapter 43: Bit-plane animation|location=|authorlink=Michael Abrash|accessdate=March 2010|chapterurl=http://www.phatcode.net/res/224/files/html/ch43/43-01.html|isbn=1-57610-174-6}}</ref>ビットプレーンとマスクレジスタ<ref>[http://support.microsoft.com/kb/45699 Complete Instructions to BLOAD and BSAVE EGA and VGA Screens], [[マイクロソフト]]</ref>の複雑な使用方法としても知られ、VGAや多くの互換ハードウェアに継承されることになる、早期の[[グラフィックアクセラレータ]]を構成するものであった。 EGAは350ラインモード時に21.8kHz、200ラインモード時に15.7kHzで駆動するデュアルシンクである。オリジナルのCGAモードも存在するが、EGAはCGAとのハードウェア互換性は完全ではない。EGAはボード上のスイッチの設定を変えることでMDA用モニターを使用できるものの、この設定では640x350高解像度モノクログラフィックと標準MDAテキストモードのみが利用可能である。 EGAカードは[[Industry Standard Architecture|ISA]]バスを採用し、当初は[[8ビット]]版および[[16ビット]]版が用意されていた。オリジナルのIBM製EGAカードは64KBの[[VRAM|オンボードRAM]]を持ち、64KBを追加するためには[[ドーターボード]]を必要とした。(64KBのEGAカードでは640x350モード時は4色に制限される。)ほとんどの[[サードパーティー]]製カードは128KBが実装済みで、一部は256KBを搭載して複数のグラフィックページをサポートした。いくつかのサードパーティー製EGA互換品(特に[[ATI Technologies|ATIテクノロジーズ]]やパラダイス(現・[[ウェスタン・デジタル|ウェスタン・ディジタル]])のボードが知られる)は640x400、640x480、720x540などの拡張されたグラフィックモード、モニター種別の自動検出、CGAモニターを使うための400ライン[[インターレース]]モードをサポートしていた。 === 表示機能 === [[File:VGA_text_sample_animation.gif|サムネイル|カーソル付きテキストモードの例]] [[File:Birds ega.png|サムネイル|EGA 640×350×16の模擬イメージ、縦横比補正]] テキストモード: *40x25、8x8ピクセルフォント(有効解像度は320x200) *80x25、8x8ピクセルフォント(有効解像度は640x200) *80x25、8x14ピクセルフォント(有効解像度は640x350) *80x43、8x8ピクセルフォント(有効解像度は640x344) EGA グラフィックモード: *640x350、16色(64色の6ビットパレット)、ピクセル[[アスペクト比|縦横比]]は1:1.37 *640x350、2色、ピクセル縦横比は1:1.37 *640x200、16色、ピクセル縦横比は1:2.4 *320x200、16色、ピクセル縦横比は1:1.2 サードパーティー製ボードの拡張グラフィックモード: *640x400 *640x480 *720x540 === カラーパレット === [[File:EGA Table.svg|サムネイル|EGAカラーテーブル]] [[File:6-bit_RGB_uniform_palette_with_black_borders.svg|サムネイル|全64色EGAパレット]] [[File:Screen_color_test_EGA_16colors.png|サムネイル|EGA 16色の色表示テスト]] [[File:Screen_color_test_EGA_16colors_CGA.png|サムネイル|CGA16色パレットによるEGAの色表示テスト]] EGAパレットは全ての16色CGAカラーを同時に使用することができ、これらの色はそれぞれ計64色から選んで置き換えることができた。これは追加のディスプレイハードウェア無しでCGA特有の茶色を表示させることも可能にした。後のVGA規格では64色をさらにカスタマイズすることができた。拡張カラーパレットは200ラインモードでは使用できなかった。 EGAパレットから色を選択するとき、赤、緑、青チャンネルに2ビットが使用される。これは各チャンネルが0、1、2、3の値を設定できることを意味する。[[マゼンタ]]カラーを選択するには、赤と青の値を中輝度(十進数で2またはバイナリ値で10)として、緑の値をオフ(0)にセットする。64色EGAパレットで指定値を計算するとき、指定するバイナリ値の書式は"rgbRGB"、小文字をチャンネル輝度の最下位ビット、大文字を最上位ビットとする。マゼンタであれば、赤と青の最上位ビットは1なので、大文字のRとBの場所が1になる。残りの桁は全て0となり、マゼンタカラーを表すバイナリ値は"000101"となる。これは10進数で5となるから、パレット指定に5をセットすることでマゼンタが選択されたことになる。全てのデフォルト色のカラー値を次の表に記述する。 {| class="wikitable" |+ EGA 16色パレット(標準CGAカラーに設定した場合) |- ! 番号 ! colspan="2" |色 ! 16進数 ! rgbRGB ! 10進数 |- | 0 | style="background:#000000;"| || Black || #000000 || 000000 || 0 |- | 1 | style="background:#0000aa;"| || Blue || #0000aa || 000001 || 1 |- | 2 | style="background:#00aa00;"| || Green || #00aa00 || 000010 || 2 |- | 3 | style="background:#00aaaa;"| || Cyan || #00aaaa || 000011 || 3 |- | 4 | style="background:#aa0000;"| || Red || #aa0000 || 000100 || 4 |- | 5 | style="background:#aa00aa;"| || Magenta || #aa00aa || 000101 || 5 |- | 6 | style="background:#aa5500;"| || Brown || #aa5500 || 010100 || 20 |- | 7 | style="background:#aaaaaa;"| || White / light gray || #aaaaaa || 000111 || 7 |- | 8 | style="background:#555555;"| || Dark gray / bright black || #555555 || 111000 || 56 |- | 9 | style="background:#5555ff;"| || Bright blue || #5555ff || 111001 || 57 |- | 10 | style="background:#55ff55;"| || Bright green || #55ff55 || 111010 || 58 |- | 11 | style="background:#55ffff;"| || Bright cyan || #55ffff || 111011 || 59 |- | 12 | style="background:#ff5555;"| || Bright red || #ff5555 || 111100 || 60 |- | 13 | style="background:#ff55ff;"| || Bright magenta || #ff55ff || 111101 || 61 |- | 14 | style="background:#ffff55;"| || Bright yellow || #ffff55 || 111110 || 62 |- | 15 | style="background:#ffffff;"| || Bright white || #ffffff || 111111 || 63 |} ===仕様=== EGAはCGA端子と同じ9ピンメスの[[D-subminiature|Dサブ]]端子を使用する。ピン割り当てを含むハードウェア信号インターフェースはCGAとほぼ互換性がある。その違いは3つのピンがEGAのセカンダリRGB信号となっていること。詳しくは、CGAでは{{lang|en|Intensity}}ピンとされていたのが{{lang|en|Secondary green}}、{{lang|en|Secondary ground}}ピンとされていたのが{{lang|en|Secondary red}}、予約ピンとされていたのが{{lang|en|Secondary blue}}に変更されている。EGAがCGAと同じ走査レートのモードで動作している場合、CGAモニターへの接続は正常に動作するが、モニターが2ピンをグラウンドに接続している場合はEGAの{{lang|en|Secondary red}}出力をグラウンドに短絡させることになり、EGAアダプターの損傷に繋がる恐れがある。 ほとんどのEGAカードはカード背面にモニター種別を選択するための[[ディップスイッチ]]を持っており、CGAが選択されていると、カードは200ラインモードで動作し、テキストモードでは8x8ピクセルフォントが使用される。350ラインモードには切り替えることができず、拡張カラーパレットも使用できない。EGAが選択されると、カードは350ラインモードで動作し、8x14ピクセルフォントが使用される。しかし、グラフィックモードは640x350x2のみが使用できる。 IBM 5154 EGAモニターは特殊なIBM 5153 CGA互換モードを備えていて、CGA相当の同期信号で動作しているときは自動でCGAのピン割り当てに切り替え、先に述べた問題を回避するようになっている<ref>IBM Options and Adapters, Volume 1, "Enhanced Color Display", Page 4: "When operating in Mode 1, the display maps the 4 input bits into 16 of the possible 64 colors as shown in the following chart.". August 2nd, 1984.</ref>。 ===メモリ割り当て=== EGAグラフィックモードはプレーンアクセス方式で、これはCGAや[[Hercules Graphics Card|Hercules]]モードとは対照的である。ビデオメモリは4ページに分割され(2ページを持つ530x350x2を除く)、それぞれRGBI色空間を持つ<ref group="注">1ページあたりにRGBI(赤、緑、青、輝度)の4プレーンを持つ。このうち、同時には1プレーンのみをCPUのアドレス空間に割り当てることができる。</ref>。各ビットは1ピクセルを表す。赤ページの1ビットが有効にされると、他のページの同等のビットがセットされていなくても、画面上の指定位置に赤色のドットが現れる。同じピクセルの他のプレーン全てのビットも有効にすると、それは白色になる。各プレーンのサイズは、8KB(200ラインモードと640x350ピクセル2色)、16KB(64KBビデオRAMでの640x350ピクセル)、32KB(128KBビデオRAMでの640x350)となり、CPUアドレス空間のセグメントA000に割り当てられる。それらはバンク切り替え方式で、一度に1プレーンのみ読むことができるのだが、プログラマーは書き込み先のプレーンをEGAカードのコントロールレジスタにセットする手法をとっていた。したがって、読み込みは常に1プレーンのみだが、書き込みは全てのプレーンに一度に行うことができた。 後方互換性を確保するため、カラーテキストとCGAモードはセグメントB800、モノクロテキストはB000に割り当てられた。 ===コネクタ=== EGAでは[[D-subminiature|DE-9]]メスコネクタが使われている。ピン番号は上段が1-5、下段が6-9で、どちらも右から左に番号を割り当てた状態のピン割り当てを次に示す。 [[File:DE9 Diagram.svg|177px]] {| class="wikitable" |+ '''ピン割り当て''' |- ! '''ピン''' ! '''名称''' ! '''役割''' |- |1|| GND || Ground |- |2|| SR || Secondary Red (Intensity) |- |3|| PR || Primary Red |- |4|| PG || Primary Green |- |5|| PB || Primary Blue |- |6|| SG || Secondary Green (Intensity) |- |7|| SB || Secondary Blue (Intensity) |- |8|| H || Horizontal Sync |- |9|| V || Vertical Sync |- |} ===信号=== {| class="wikitable" |- !align="right"|種別 |デジタル、TTLレベル |- !align="right"|{{nowrap|解像度 横 × 縦}} | 640×350、他 |- ! 水平同期周波数 | 15.7kHzまたは21.8&nbsp;kHz |- ! 垂直同期周波数 | 60&nbsp;Hz |- ! 表現可能色数 | 6ビット(64色) |} ==脚注== '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{Reflist}} ==参考文献== * {{Cite book|title=IBM Options and Adapters Technical Reference (Volume 1)|year=1984|publisher=International Business Machines Corporation}}(IBM Part Number 6322509) * {{cite book |last=Mueller |first=Scott |title=Upgrading and Repairing PCs |edition=second |year=1992 |publisher=Que Books |authorlink=Scott Mueller |isbn=0-88022-856-3 }} ==関連項目== {{Commons category|EGA}} *[[ビデオカード]] *[[画面解像度]] {{IBM PCファミリーのビデオハードウェア}} [[Category:グラフィックカード]]
null
2022-05-06T19:10:09Z
false
false
false
[ "Template:Infobox graphics processing unit", "Template:Lang", "Template:Nowrap", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Commons category", "Template:IBM PCファミリーのビデオハードウェア" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Enhanced_Graphics_Adapter
15,498
交響曲第9番 (ベートーヴェン)
交響曲第9番 ニ短調 作品125(こうきょうきょくだい9ばん ニたんちょう さくひん125、ドイツ語: Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。 ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。また日本では略称として「第九」(だいく)とも呼ばれ、その演奏会は年末の風物詩となっている。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。 多くの批評家や音楽学者によってベートーヴェンの最高傑作に位置付けられるだけでなく、西洋音楽史上最も優れた作品の1つに数えられている。第4楽章の「歓喜」の主題は、欧州評議会においてはヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」として、欧州連合(EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌や、かつてのローデシアの国歌としても制定されていた。ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコ記憶遺産リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年にサザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている。 元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた管弦楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ形式、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタやロンドという4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンは交響曲の第3楽章にスケルツォを導入したり、交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたりしたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章に4人の独唱と混声合唱を導入した。ゆえに「合唱付き」(Choral)と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に声楽が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。 なお、ベートーヴェン以降も声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。ベルリオーズやメンデルスゾーン、リストなどが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、マーラーの『交響曲第2番「復活」』が作曲された頃からであった。 大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかったティンパニ以外の打楽器(シンバルやトライアングルなど)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持つ。シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだワーグナーやリストは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。 日本でも人気は高く、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、アマチュア合唱団の一員として演奏に参加する愛好家も増えつつある。ヨーロッパにおいてオーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないが、音盤の制作はピリオドとモダンともに豊富でフランソワ=グザヴィエ・ロトがBBCウェールズ交響楽団を指揮したライブ演奏ディスクが、雑誌のおまけに付いたことがあった。 1824年5月7日のウィーンでの初演の演奏時間については明確な数字が記された書類は無いが、1825年3月21日に英国ロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が『ベートーヴェンの会話帳』に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている。 リヒャルト・シュトラウスはジークフリート・ワーグナーの追悼演奏会で45分で演奏したという逸話があるが、真偽のほどは定かではない。 SPレコード時代であるフェリックス・ヴァインガルトナーの1935年の録音は62分程度、アルトゥーロ・トスカニーニの1939年の録音は60分強だが、LP時代に入って話題になったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのバイロイト音楽祭での録音は75分弱である。LPレコード時代でもルネ・レイボヴィッツ、ヘルマン・シェルヘンらはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮者界の中では異端であり、全体の時間は1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするものまであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる。 「通常のCDの記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある。 CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。まず、デイヴィッド・ジンマンが1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる。ベンジャミン・ザンダー(英語版)指揮ボストン・フィルハーモニー管弦楽団(英語版)による演奏は全曲で57分51秒であった。同じくザンダーの指揮によってフィルハーモニア管弦楽団を振った演奏は全曲で58分37秒、フランソワ=グザヴィエ・ロトとBBCウェールズ交響楽団とのライブ演奏においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏があるが、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。 研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度であり、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、さらに研究が進んでテンポの数字も他人の手で代筆されたものであることが判明し、ベートーヴェンが望んだテンポについての議論がすべて決着したわけではない。 ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳でまだ交響曲第1番も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。 交響曲第7番から3年程度を経た1815年頃から作曲が開始された。さらに1817年、ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始した。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこのころだが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使い回しているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。 ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていた。一つは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していた。しかし様々な事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。1824年に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。楽譜は1826年にショット社より出版された。 作品は当初、ロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈する目論見があり、初演と再演直後の1824年5月26日付ニコライ・ボリソヴィチ・ガリツィン宛の書簡に、次のような文章がある。 ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節がある。その後の推移ははっきりしていないが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記しており、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせる旨記している。それから約2か月後、詳しい経緯は不明ながらプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈されることが決まり、3月28日付ショット社宛の書簡でもこのことについて触れられている。9月に入り、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世宛の書簡で「ボン市民として陛下の臣民のなかに数えられること」に関して祝意を示していたが、11月25日にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世からの礼状が届いた後12月に入って下賜品のダイヤモンドの指輪が届けられるも、ベートーヴェンは12月下旬に指輪を売却。売却に関しては「実際にはダイヤモンドではなく赤い石の指輪が送られた」「宝石鑑定士に鑑定させた結果にベートーヴェンが怒った」「鑑定値が160グルテン約定値」「買取りの最低価格程度の価値」など諸説があるが、先にフランス国王ルイ18世が『ミサ・ソレムニス』予約譜購入の返礼品として21ルイドール(英語版)相当の金メダルをベートーヴェンに下賜し、こちらは終生手放さず遺品として残されたこととは対照的な対応で、いずれにせよベートーヴェンからしてみれば期待外れの下賜品だったことがうかがえる。 初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる。 初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演された。ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会ったが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行った。 当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まった。 第九の初演については多くの逸話がある。参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた。 一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができた。という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている。 このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話に置かれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある。5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ「タンクレーディ」のアリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている。 なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。 世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アントワーヌ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者を務めるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。 1831年3月27日、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。当時の記録では、独唱者名も記載されている。なお、アブネックによる『第九』の演奏は、1842年まで複数回演奏されている。これらの演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。 一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズであり、彼はベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。この頃から『第九』は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。 リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年にドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。 ドレスデンでは毎年、復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声があがったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得に努めるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。 彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。 徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。 第一次世界大戦において日本は対独参戦してアジア太平洋地域のドイツ帝国拠点を攻撃し、多数の捕虜を得た。1918年(大正7年)6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年(昭和16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代(平成2年)になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ、松平健ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された。鳴門市では日本における『第九』初演を記念して毎年6月の第一日曜日を「第九の日」に制定して定期演奏会を開催している。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、鳴門市ドイツ館前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された。 『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には捕虜のうち45人でつくる「徳島オーケストラ」による収容所内の定期演奏会の曲目の一つで、日本人は招かれていない。これを記念して、収容所の記念施設である鳴門市ドイツ館隣の道の駅は「第九の里」と命名されている。 1919年(大正8年)12月3日、福岡県久留米市の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜オーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学校の教師や女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている。2日後の12月5日、久留米俘虜収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた。 1924年(大正13年)1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニーオーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』のメロディにアレンジしたものだった。また、第4楽章が通して演奏されたのではなく、合唱を伴う部分を抜粋したものだった。このため、これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。 日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日、東京音楽学校(東京芸術大学の前身の一校)のメンバーがドイツ人教授グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。同年12月にも追加公演された。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年(昭和2年)5月3日に行われた。 東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高が、「演奏中にコンサートミストレスの安藤幸(幸田露伴の妹。姉の幸田延ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。 全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年(昭和38年)11月7日、日生劇場にて行われた。 この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくするという騒ぎもあった。 1940年(昭和15年)12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより "深夜に演奏してそのまま新年を迎える" といった勘違いをしたのではないかと思われる。 日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、第二次世界大戦後間もない1940年代後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時(クラシック音楽の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう。1956年(昭和31年)に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている。 1872年、バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年はリヒャルト・シュトラウス、1951年と1954年はヴィルヘルム・フルトヴェングラー、1953年はパウル・ヒンデミット、1963年はカール・ベーム、2001年はクリスティアン・ティーレマン。 1918年、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの『第九』は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時)。 第二次世界大戦でドイツ本土は激しい空襲に晒され、1944年、ライプツィヒのコンサートホール「ゲヴァントハウス」は戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されるとクルト・マズアは生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーヴェンの『第九』を選んだ。東ドイツ崩壊後の統一ドイツではMDR(中部ドイツ放送協会)が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立された。それ以来、毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーヴェンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオFigaroによって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には香港、オランダ、アメリカ合衆国などにも演奏がライブ放映・放送された。 指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。 第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ナチス・ドイツ総統ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮し、ゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった。 1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した。フルトヴェングラーは54年にもバイロイトで「第九」を指揮しているが、51年の演奏は『バイロイトの第九』と呼ばれ、第九の演奏の歴史の中でも著名なものである。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。 しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。 2007年、バイエルン放送の「放送禁止」と書かれた録音テープを音源としたCDがフルトヴェングラー・センター会員限定で頒布され、のちに一般向けにORFEOから発売された。EMI盤よりも明瞭な音質だっただけでなく、大部分が異なる演奏だったため、公演本編なのかリハーサルなのか、EMI盤との比較から編集と加工についても憶測を呼んだ。2021年10月、同日生中継を行ったスウェーデン放送協会の所蔵音源が85分ノーカット収録でSACD化され、より無加工に近い本番の模様を確認出来る。これによりバイエルン放送の音源が公演本番であり、多くの人々から絶賛されたEMI盤はリハーサル時の録音を主体としたものだったと考えられている。 フルトヴェングラーの第九は他に1954年のルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団を指揮した演奏の録音も名高い。 1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しはカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。 1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。 1989年のベルリンの壁崩壊直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一のときの統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。 演奏のみのバージョンが欧州連合(EU)の歌として使用されている。2007年にはルーマニアとブルガリアがEUに加盟し、2007年の1月元旦の0時を回ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。 サントリー1万人の第九は1983年に大阪城築城から400年を迎えることを記念すべく、その前年1982年に設立したばかりの大阪21世紀協会(現「関西・大阪21世紀協会」)が中核事業として「大阪築城400年まつり」を企画し、当該企画への参加催事の一つとして、また目玉的存在とされた、大阪砲兵工廠本館跡地に建設された大阪城国際文化スポーツホール(大阪城ホール)のこけら落としの一環として企画されたことが発端となった。1983年の第1回から1998年の第16回までは山本直純が指揮、構成を務め、翌年1999年の第17回から現在までは佐渡裕が指揮、総監督を務めている。 1998年2月7日、長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小澤征爾がタクトを振った長野県県民文化会館、中国・北京の紫禁城、オーストラリア・シドニー(翌々年の五輪開催地)のオペラハウス前、ドイツ・ベルリンのブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国・ケープタウンの喜望峰、アメリカ・ニューヨークの国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、オリンピック聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、日の出と重なり徐々に明るくなってゆくケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者の小澤も別会場で演奏する必要があった)。 2020年10月、中国共産党は歓喜の歌を「宗教音楽」の1つと定義し、学校教育の教材から外すように指示したことで音楽関係者に波紋を広げた。これについてドイツ在住の中国人作曲家の王西麟(英語版)は「1942年以来、共産党は芸術を党に仕えるものと見なし、それ以外のイデオロギーに重要な意味を持つすべての良い作品を封鎖してきました」と述べた。 1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮 シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。 1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー(ドイツ語版)指揮 新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。 1923年10-11月に収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。 1924年1-2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表した)。 1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から発売された。 なお、これらの録音は全て「合唱が原語(ドイツ語)ではない」あるいは「曲の一部がカットされている」のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後1928年のオスカー・フリートとベルリン国立歌劇場管弦楽団によるものが世界で初めてである。 1926年3月16-17日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ロンドン交響楽団(英訳詞による合唱) 1926年10月、アルバート・コーツ指揮 交響楽団(英訳詞による合唱) 1928年、オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音) 1934年4月30日、レオポルド・ストコフスキー指揮 フィラデルフィア管弦楽団(英訳詞による合唱) 1935年2月2-4日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(世界初の交響曲全集に収録された) 以降はオイゲン・ヨッフム(1938年)、カール・ベーム(1941年(昭和16年))、橋本國彦(1943年5月・日本初録音)、山田一雄(1943年11月・日本初全曲録音)、ユージン・オーマンディ(1945年)と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月のアルトゥーロ・トスカニーニ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団) またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『時計じかけのオレンジ』にも使われた1962年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)、スーパーオーディオCD(SACD)に加えガラスCD化も行われた。 二管編成・追加楽器・声楽が用いられる。ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番、交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としては最大級のものである。前述の通り声楽を交響曲に用いるのは当時としては極めて奇抜なアイデアである。またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。初演時の編成については#初演参照。 声楽は第4楽章のみ使用される。 全体で約70分に及ぶ演奏時間にかかわらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールで演奏される際は、合唱と独唱は第2楽章と第3楽章、もしくは第3楽章と第4楽章の間に入場することが多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。ヘルベルト・ブロムシュテットが1985年にNHK交響楽団で演奏した際には、「『おお友よ、このような音ではない』と歌う独唱が第1楽章からステージにいなくて、そんな台詞がいえるか」というブロムシュテットの指示で独唱者も含めて第1楽章から待機することになったという。 一般的な交響曲の「アレグロソナタ - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に舞曲由来のスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような楽章順は初期のハイドンなどには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化していた。ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となり、以後この形式も定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった。 また、第3楽章と第4楽章が共に変奏曲に基づく楽曲であり、交響曲のみならず他のジャンルの絶対音楽を含めても、2つの楽章が続けて変奏曲であることは極めて異例である。 Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調 4分の2拍子 ソナタ形式。革新的要素の多い楽章。 冒頭の、弦楽器のトレモロとホルンの持続音にのせて、調性の長短が不明な断片的動機が空虚五度の和音で提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、ニ音とイ音による完全五度を骨格とした力強い主題であり、一度目は主調のニ短調で、冒頭がリピートされたのち二度目は変ロ長調で立ち現れるが、すぐにニ短調に戻り、強奏でこれが定着される。第2主題導入部は、第4楽章で現れる「歓喜」の主題を暗示するような優しいものであるが、これも変ロ長調で、通常、主調の平行調または属調で現れる提示部第2主題が下属調の平行調になっている。それを引きついだコデッタは形式どおり長調で展開されるが、弦と木管の応答部分では、同じフレーズが短調と長調で交互に繰り返されるなど、長調と短調の葛藤が垣間見られる。提示部はベートーヴェンの交響曲で最も長大なためもあってか反復指定がない。 展開部は再び、冒頭の和音で始まるが、すぐに短調となり、第1主題がほぼ提示部と同じ長さ、変奏、展開される。 再現部は展開部のクライマックスを兼ねるようなものとなっており、冒頭の和音と主題がffの全奏で再現される。ティンパニもffのロールを持続しながら「ニ、イ」の主題動機の強打に参加し、圧巻のクライマックスが築かれる(提示部と再現部の冒頭の変奏の差はこれまでのベートーヴェンの交響曲にも見られたが、ここでは特に大きい)。第2主題は再現部の定型通りニ長調で演奏され提示部以上に歓喜の歌を連想させるが、すぐさまニ短調に押し流され、以降、短調による激しい展開となる。コーダは最後、半音階を滑り落ちるような不気味なオスティナートに導かれ、それに全弦が誘い込まれたところで全奏となり、第1主題のユニゾンで締めくくられる。 Molto vivace ニ短調 4分の3拍子 - Presto ニ長調 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto 複合三部形式をとるスケルツォ楽章である。スケルツォ部分だけでソナタ形式をとる。提示部、展開部・再現部ともに反復指定あり。 序奏として、第1楽章を受け継ぐような、ニ短調の主和音の降下が、弦楽器のユニゾンとティンパニで出るが、ユニークなことに、主和音でニ短調を決定づけるF音のオクターブに高低2音ともティンパニが調律されている。(通常、ニ短調の場合、ティンパニはAとDに調律される。ベートーヴェンは、既に第8番の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っているが、それはヘ長調の主音であり、この9番の楽章はより冒険的である)このオクターブの基本動機がスケルツォ部分を支配している。提示部では冒頭にこのオクターブの動機を置いた第1主題が疾走するように出、フーガのように重なって増幅し、全奏で確保される。経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常平行調(ニ短調に対してはヘ長調)をとるところ、ここではハ長調で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。展開部ではティンパニが活躍する。(このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある)再現部はオクターブの主動機をティンパニが連打しながら導く。(ティンパニ奏者が高いFと低いFを両端に配置した場合、この部分で非常に派手なマレット(ばち)捌きを見せる場合があり、演奏会では視覚的にも見所である)再現部がティンパニのロール調の連打を加えた強奏で戻ってくるところも第1楽章と類似している。最後、突然4分の4拍子となり、それが4分の4拍子の中間部(トリオ)を導く。 中間部(トリオ)の旋律もまた、最終第4楽章の歓喜の主題を予感させる。(スケルツォの第1主題も短調だが歓喜の主題に似ているといわれることがある。これらは意図的でなく、単に同一作曲時の類似だといわれることもある)速度は更に速められてプレスト。オーボエによる主題提示の後、弦楽器群のフーガ風旋律を経てホルンが同じ主題を提示する。フルートを除く木管楽器群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。 三部形式後半のスケルツォは前半のリピート。しかし最後にまた突然4分の4拍子となるので、中間部の旋律が顔を出してしまう。それに突然気が付いたように1小節全休符となり、スケルツォの最終部分で締めくくり直す。 Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ニ長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ト長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ホ長調 4分の4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 8分の12拍子 2つの主題が交互に現れる変奏曲の形式と見るのが一般的であるが、一種のロンド形式、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。 神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章であるが、拍子、調性、テンポを変えることによって、変化がつけられている。木管の短い導入部のあと透明感のある第1主題を第1ヴァイオリンが静かに歌いだす。第2主題は4分の3拍子、ニ長調、アンダンテ・モデラートに変わり、やや動きを帯びる。続く第1主題の第1変奏では、第1主題が16分音符に分解されて奏され、木管による第2主題の変奏がそれに続く。そのまま木管による第1主題の第2変奏を経て、また第1主題の、第3変奏と続くが、ここでは8分の12拍子に変わって、動きが大きくなる、長さも倍加するなど、第2主題を吸収したかのような変化が加わっている。末尾において、それまで沈黙していたトランペットとともに管楽器が鋭い歓声をあげ、弦楽器がそれに応えてクライマックスを迎える。しかしすぐに元の安らぎと静けさを取り戻し、同音の三連符の伴奏に乗って静かに終結に向かう。 4番ホルンの独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙なゲシュトプフト奏法を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時はバルブ付きの楽器が出回り始めたころだったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。 この楽章の形式は後世のブルックナーのアダージョ楽章などに大きな影響を与えた。ピエール・モントゥーは第三楽章からattaccaで第四楽章に入るのを提唱し、ワインガルトナーも同様に行うよう勧めており、20世紀中には(演奏開始前から第2~3楽章の曲間までに合唱とソリストを入れた上で)このような次第を採る実演も少なくなかったが、ベートーヴェンの原譜にそうした指示はなく、ジョナサン・デルマーはベーレンライター版の校訂報告でattaccaの次第が支持されている事を認めた上で「作曲当時の金管楽器とティンパニは、楽器の調整抜きに第4楽章を始められない」と指摘し、少なくともattaccaは前提でない旨を述べている。 管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示され、ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成。変奏曲の一種と見るのが一般的であるが、有節歌曲形式の要素もあり、展開部を欠くソナタ形式という見方も可能である("Freude, schöner Götterfunken"が第1主題、"Ihr, stürzt nieder"が第2主題、Allegro energico, sempre ben marcatoが再現部)。 この最終楽章に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、リスト、マーラー、ショスタコーヴィチなどが取り入れている。 フリードリヒ・フォン・シラーがフリーメイソンリーの理念を書いた詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté 1785年)がフランス革命の直後『ラ・マルセイエーズ』のメロディーでドイツの学生に歌われていた。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(An die Freude 初稿1785年、改稿1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年から1824年に書き直したものである。 「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である1808年の『合唱幻想曲』作品80と、1810年のゲーテの詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。 An die Freude O Freunde, nicht diese Töne! Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere. (ベートーヴェン作詞) Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum! Deine Zauber binden wieder, (1803年改稿) Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brüder, (1785年初稿: Was der Mode Schwert geteilt; Bettler werden Fürstenbrüder,) Wo dein sanfter Flügel weilt. Wem der große Wurf gelungen, Eines Freundes Freund zu sein, Wer ein holdes Weib errungen, Mische seinen Jubel ein! Ja, wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund! Und wer's nie gekonnt, der stehle Weinend sich aus diesem Bund! Freude trinken alle Wesen An den Brüsten der Natur; Alle Guten, alle Bösen Folgen ihrer Rosenspur. Küsse gab sie uns und Reben, Einen Freund, geprüft im Tod; Wollust ward dem Wurm gegeben, und der Cherub steht vor Gott. Froh, wie seine Sonnen fliegen Durch des Himmels prächt'gen Plan, Laufet, Brüder, eure Bahn, Freudig, wie ein Held zum Siegen. Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt! Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen. Ihr stürzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schöpfer, Welt? Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen. 「歓喜に寄せて」 おお友よ、このような音ではない! 我々はもっと心地よい もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか (ベートーヴェン作詞) 歓喜よ、神々の麗しき霊感よ 天上の楽園の乙女よ 我々は火のように酔いしれて 崇高な汝(歓喜)の聖所に入る 汝が魔力は再び結び合わせる (1803年改稿) 時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる (1785年初稿: 時流の刀が切り離したものを 貧しき者らは王侯の兄弟となる) 汝の柔らかな翼が留まる所で ひとりの友の友となるという 大きな成功を勝ち取った者 心優しき妻を得た者は 彼の歓声に声を合わせよ そうだ、地上にただ一人だけでも 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ そしてそれがどうしてもできなかった者は この輪から泣く泣く立ち去るがよい すべての被造物は 創造主の乳房から歓喜を飲み、 すべての善人とすべての悪人は 創造主の薔薇の踏み跡をたどる。 口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を 創造主は我々に与えた 快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ 智天使ケルビムは神の御前に立つ 天の星々がきらびやかな天空を 飛びゆくように、楽しげに 兄弟たちよ、自らの道を進め 英雄のように喜ばしく勝利を目指せ 抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ! この口づけを全世界に! 兄弟よ、この星空の上に ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない 諸人よ、ひざまずいたか 世界よ、創造主を予感するか 星空の彼方に神を求めよ 星々の上に、神は必ず住みたもう この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナー、マーラー、ワインガルトナーといった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー、近衛秀麿、トスカニーニなども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。 また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは『ベートーヴェンの会話帳』の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。 『ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、出版やオーストリア帝国以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり、作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。 ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後にベルリン国立図書館へ収められたが、国立図書館は戦後は東ベルリンに属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之、クレンペラーなどの例も有ったのだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。 20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、欧米各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリのフランス国立図書館、独ボンのベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。 イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デル・マーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し、この研究は楽譜化されて1996年にベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にもない音形が数多く表れている点もこの版の特徴である。 21世紀に入って、旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデル・マーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている。いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も容れて編集された批判校訂版である。2020年3月にはベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集版も刊行された。 なお、かつて教育テレビで1986年秋に放送された『NHK趣味講座 第九をうたおう』では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した井上道義は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からの第1ヴァイオリンのパートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際、史料状況や編曲の実態について解説したのは金子建志であった。 全音楽譜出版社による新版スタディスコアも、その版元の変遷を明示した上で、独自の解釈を行っている。 現在では原典版編集者が用いたものと同じ資料を、インターネットを通じて複数参照することが可能となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "交響曲第9番 ニ短調 作品125(こうきょうきょくだい9ばん ニたんちょう さくひん125、ドイツ語: Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。また日本では略称として「第九」(だいく)とも呼ばれ、その演奏会は年末の風物詩となっている。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多くの批評家や音楽学者によってベートーヴェンの最高傑作に位置付けられるだけでなく、西洋音楽史上最も優れた作品の1つに数えられている。第4楽章の「歓喜」の主題は、欧州評議会においてはヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」として、欧州連合(EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌や、かつてのローデシアの国歌としても制定されていた。ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコ記憶遺産リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年にサザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた管弦楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ形式、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタやロンドという4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンは交響曲の第3楽章にスケルツォを導入したり、交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたりしたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章に4人の独唱と混声合唱を導入した。ゆえに「合唱付き」(Choral)と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に声楽が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、ベートーヴェン以降も声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。ベルリオーズやメンデルスゾーン、リストなどが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、マーラーの『交響曲第2番「復活」』が作曲された頃からであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかったティンパニ以外の打楽器(シンバルやトライアングルなど)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持つ。シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだワーグナーやリストは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本でも人気は高く、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、アマチュア合唱団の一員として演奏に参加する愛好家も増えつつある。ヨーロッパにおいてオーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないが、音盤の制作はピリオドとモダンともに豊富でフランソワ=グザヴィエ・ロトがBBCウェールズ交響楽団を指揮したライブ演奏ディスクが、雑誌のおまけに付いたことがあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1824年5月7日のウィーンでの初演の演奏時間については明確な数字が記された書類は無いが、1825年3月21日に英国ロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が『ベートーヴェンの会話帳』に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リヒャルト・シュトラウスはジークフリート・ワーグナーの追悼演奏会で45分で演奏したという逸話があるが、真偽のほどは定かではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "SPレコード時代であるフェリックス・ヴァインガルトナーの1935年の録音は62分程度、アルトゥーロ・トスカニーニの1939年の録音は60分強だが、LP時代に入って話題になったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのバイロイト音楽祭での録音は75分弱である。LPレコード時代でもルネ・レイボヴィッツ、ヘルマン・シェルヘンらはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮者界の中では異端であり、全体の時間は1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするものまであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「通常のCDの記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。まず、デイヴィッド・ジンマンが1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる。ベンジャミン・ザンダー(英語版)指揮ボストン・フィルハーモニー管弦楽団(英語版)による演奏は全曲で57分51秒であった。同じくザンダーの指揮によってフィルハーモニア管弦楽団を振った演奏は全曲で58分37秒、フランソワ=グザヴィエ・ロトとBBCウェールズ交響楽団とのライブ演奏においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏があるが、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度であり、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、さらに研究が進んでテンポの数字も他人の手で代筆されたものであることが判明し、ベートーヴェンが望んだテンポについての議論がすべて決着したわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳でまだ交響曲第1番も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "交響曲第7番から3年程度を経た1815年頃から作曲が開始された。さらに1817年、ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始した。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこのころだが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使い回しているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていた。一つは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していた。しかし様々な事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。1824年に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。楽譜は1826年にショット社より出版された。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "作品は当初、ロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈する目論見があり、初演と再演直後の1824年5月26日付ニコライ・ボリソヴィチ・ガリツィン宛の書簡に、次のような文章がある。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節がある。その後の推移ははっきりしていないが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記しており、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせる旨記している。それから約2か月後、詳しい経緯は不明ながらプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈されることが決まり、3月28日付ショット社宛の書簡でもこのことについて触れられている。9月に入り、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世宛の書簡で「ボン市民として陛下の臣民のなかに数えられること」に関して祝意を示していたが、11月25日にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世からの礼状が届いた後12月に入って下賜品のダイヤモンドの指輪が届けられるも、ベートーヴェンは12月下旬に指輪を売却。売却に関しては「実際にはダイヤモンドではなく赤い石の指輪が送られた」「宝石鑑定士に鑑定させた結果にベートーヴェンが怒った」「鑑定値が160グルテン約定値」「買取りの最低価格程度の価値」など諸説があるが、先にフランス国王ルイ18世が『ミサ・ソレムニス』予約譜購入の返礼品として21ルイドール(英語版)相当の金メダルをベートーヴェンに下賜し、こちらは終生手放さず遺品として残されたこととは対照的な対応で、いずれにせよベートーヴェンからしてみれば期待外れの下賜品だったことがうかがえる。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる。", "title": "初演" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演された。ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会ったが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行った。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まった。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第九の初演については多くの逸話がある。参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができた。という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話に置かれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある。5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ「タンクレーディ」のアリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アントワーヌ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者を務めるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1831年3月27日、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。当時の記録では、独唱者名も記載されている。なお、アブネックによる『第九』の演奏は、1842年まで複数回演奏されている。これらの演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズであり、彼はベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。この頃から『第九』は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年にドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ドレスデンでは毎年、復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声があがったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得に努めるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦において日本は対独参戦してアジア太平洋地域のドイツ帝国拠点を攻撃し、多数の捕虜を得た。1918年(大正7年)6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年(昭和16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代(平成2年)になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ、松平健ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された。鳴門市では日本における『第九』初演を記念して毎年6月の第一日曜日を「第九の日」に制定して定期演奏会を開催している。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、鳴門市ドイツ館前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には捕虜のうち45人でつくる「徳島オーケストラ」による収容所内の定期演奏会の曲目の一つで、日本人は招かれていない。これを記念して、収容所の記念施設である鳴門市ドイツ館隣の道の駅は「第九の里」と命名されている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1919年(大正8年)12月3日、福岡県久留米市の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜オーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学校の教師や女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている。2日後の12月5日、久留米俘虜収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニーオーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』のメロディにアレンジしたものだった。また、第4楽章が通して演奏されたのではなく、合唱を伴う部分を抜粋したものだった。このため、これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日、東京音楽学校(東京芸術大学の前身の一校)のメンバーがドイツ人教授グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。同年12月にも追加公演された。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年(昭和2年)5月3日に行われた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高が、「演奏中にコンサートミストレスの安藤幸(幸田露伴の妹。姉の幸田延ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年(昭和38年)11月7日、日生劇場にて行われた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくするという騒ぎもあった。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより \"深夜に演奏してそのまま新年を迎える\" といった勘違いをしたのではないかと思われる。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、第二次世界大戦後間もない1940年代後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時(クラシック音楽の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう。1956年(昭和31年)に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1872年、バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年はリヒャルト・シュトラウス、1951年と1954年はヴィルヘルム・フルトヴェングラー、1953年はパウル・ヒンデミット、1963年はカール・ベーム、2001年はクリスティアン・ティーレマン。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1918年、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの『第九』は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時)。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦でドイツ本土は激しい空襲に晒され、1944年、ライプツィヒのコンサートホール「ゲヴァントハウス」は戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されるとクルト・マズアは生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーヴェンの『第九』を選んだ。東ドイツ崩壊後の統一ドイツではMDR(中部ドイツ放送協会)が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立された。それ以来、毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーヴェンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオFigaroによって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には香港、オランダ、アメリカ合衆国などにも演奏がライブ放映・放送された。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ナチス・ドイツ総統ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮し、ゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した。フルトヴェングラーは54年にもバイロイトで「第九」を指揮しているが、51年の演奏は『バイロイトの第九』と呼ばれ、第九の演奏の歴史の中でも著名なものである。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2007年、バイエルン放送の「放送禁止」と書かれた録音テープを音源としたCDがフルトヴェングラー・センター会員限定で頒布され、のちに一般向けにORFEOから発売された。EMI盤よりも明瞭な音質だっただけでなく、大部分が異なる演奏だったため、公演本編なのかリハーサルなのか、EMI盤との比較から編集と加工についても憶測を呼んだ。2021年10月、同日生中継を行ったスウェーデン放送協会の所蔵音源が85分ノーカット収録でSACD化され、より無加工に近い本番の模様を確認出来る。これによりバイエルン放送の音源が公演本番であり、多くの人々から絶賛されたEMI盤はリハーサル時の録音を主体としたものだったと考えられている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "フルトヴェングラーの第九は他に1954年のルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団を指揮した演奏の録音も名高い。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しはカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1989年のベルリンの壁崩壊直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の\"Freude\"をあえて\"Freiheit(自由)\"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一のときの統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "演奏のみのバージョンが欧州連合(EU)の歌として使用されている。2007年にはルーマニアとブルガリアがEUに加盟し、2007年の1月元旦の0時を回ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "サントリー1万人の第九は1983年に大阪城築城から400年を迎えることを記念すべく、その前年1982年に設立したばかりの大阪21世紀協会(現「関西・大阪21世紀協会」)が中核事業として「大阪築城400年まつり」を企画し、当該企画への参加催事の一つとして、また目玉的存在とされた、大阪砲兵工廠本館跡地に建設された大阪城国際文化スポーツホール(大阪城ホール)のこけら落としの一環として企画されたことが発端となった。1983年の第1回から1998年の第16回までは山本直純が指揮、構成を務め、翌年1999年の第17回から現在までは佐渡裕が指揮、総監督を務めている。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1998年2月7日、長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小澤征爾がタクトを振った長野県県民文化会館、中国・北京の紫禁城、オーストラリア・シドニー(翌々年の五輪開催地)のオペラハウス前、ドイツ・ベルリンのブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国・ケープタウンの喜望峰、アメリカ・ニューヨークの国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、オリンピック聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、日の出と重なり徐々に明るくなってゆくケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者の小澤も別会場で演奏する必要があった)。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2020年10月、中国共産党は歓喜の歌を「宗教音楽」の1つと定義し、学校教育の教材から外すように指示したことで音楽関係者に波紋を広げた。これについてドイツ在住の中国人作曲家の王西麟(英語版)は「1942年以来、共産党は芸術を党に仕えるものと見なし、それ以外のイデオロギーに重要な意味を持つすべての良い作品を封鎖してきました」と述べた。", "title": "演奏史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮 シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー(ドイツ語版)指揮 新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1923年10-11月に収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1924年1-2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表した)。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から発売された。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なお、これらの録音は全て「合唱が原語(ドイツ語)ではない」あるいは「曲の一部がカットされている」のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後1928年のオスカー・フリートとベルリン国立歌劇場管弦楽団によるものが世界で初めてである。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1926年3月16-17日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ロンドン交響楽団(英訳詞による合唱)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1926年10月、アルバート・コーツ指揮 交響楽団(英訳詞による合唱)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1928年、オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1934年4月30日、レオポルド・ストコフスキー指揮 フィラデルフィア管弦楽団(英訳詞による合唱)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1935年2月2-4日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(世界初の交響曲全集に収録された)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "以降はオイゲン・ヨッフム(1938年)、カール・ベーム(1941年(昭和16年))、橋本國彦(1943年5月・日本初録音)、山田一雄(1943年11月・日本初全曲録音)、ユージン・オーマンディ(1945年)と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月のアルトゥーロ・トスカニーニ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団)", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『時計じかけのオレンジ』にも使われた1962年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)、スーパーオーディオCD(SACD)に加えガラスCD化も行われた。", "title": "レコード録音史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "二管編成・追加楽器・声楽が用いられる。ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番、交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としては最大級のものである。前述の通り声楽を交響曲に用いるのは当時としては極めて奇抜なアイデアである。またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。初演時の編成については#初演参照。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "声楽は第4楽章のみ使用される。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "全体で約70分に及ぶ演奏時間にかかわらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールで演奏される際は、合唱と独唱は第2楽章と第3楽章、もしくは第3楽章と第4楽章の間に入場することが多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。ヘルベルト・ブロムシュテットが1985年にNHK交響楽団で演奏した際には、「『おお友よ、このような音ではない』と歌う独唱が第1楽章からステージにいなくて、そんな台詞がいえるか」というブロムシュテットの指示で独唱者も含めて第1楽章から待機することになったという。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "一般的な交響曲の「アレグロソナタ - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に舞曲由来のスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような楽章順は初期のハイドンなどには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化していた。ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となり、以後この形式も定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、第3楽章と第4楽章が共に変奏曲に基づく楽曲であり、交響曲のみならず他のジャンルの絶対音楽を含めても、2つの楽章が続けて変奏曲であることは極めて異例である。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調 4分の2拍子", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ソナタ形式。革新的要素の多い楽章。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "冒頭の、弦楽器のトレモロとホルンの持続音にのせて、調性の長短が不明な断片的動機が空虚五度の和音で提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、ニ音とイ音による完全五度を骨格とした力強い主題であり、一度目は主調のニ短調で、冒頭がリピートされたのち二度目は変ロ長調で立ち現れるが、すぐにニ短調に戻り、強奏でこれが定着される。第2主題導入部は、第4楽章で現れる「歓喜」の主題を暗示するような優しいものであるが、これも変ロ長調で、通常、主調の平行調または属調で現れる提示部第2主題が下属調の平行調になっている。それを引きついだコデッタは形式どおり長調で展開されるが、弦と木管の応答部分では、同じフレーズが短調と長調で交互に繰り返されるなど、長調と短調の葛藤が垣間見られる。提示部はベートーヴェンの交響曲で最も長大なためもあってか反復指定がない。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "展開部は再び、冒頭の和音で始まるが、すぐに短調となり、第1主題がほぼ提示部と同じ長さ、変奏、展開される。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "再現部は展開部のクライマックスを兼ねるようなものとなっており、冒頭の和音と主題がffの全奏で再現される。ティンパニもffのロールを持続しながら「ニ、イ」の主題動機の強打に参加し、圧巻のクライマックスが築かれる(提示部と再現部の冒頭の変奏の差はこれまでのベートーヴェンの交響曲にも見られたが、ここでは特に大きい)。第2主題は再現部の定型通りニ長調で演奏され提示部以上に歓喜の歌を連想させるが、すぐさまニ短調に押し流され、以降、短調による激しい展開となる。コーダは最後、半音階を滑り落ちるような不気味なオスティナートに導かれ、それに全弦が誘い込まれたところで全奏となり、第1主題のユニゾンで締めくくられる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "Molto vivace ニ短調 4分の3拍子 - Presto ニ長調 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "複合三部形式をとるスケルツォ楽章である。スケルツォ部分だけでソナタ形式をとる。提示部、展開部・再現部ともに反復指定あり。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "序奏として、第1楽章を受け継ぐような、ニ短調の主和音の降下が、弦楽器のユニゾンとティンパニで出るが、ユニークなことに、主和音でニ短調を決定づけるF音のオクターブに高低2音ともティンパニが調律されている。(通常、ニ短調の場合、ティンパニはAとDに調律される。ベートーヴェンは、既に第8番の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っているが、それはヘ長調の主音であり、この9番の楽章はより冒険的である)このオクターブの基本動機がスケルツォ部分を支配している。提示部では冒頭にこのオクターブの動機を置いた第1主題が疾走するように出、フーガのように重なって増幅し、全奏で確保される。経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常平行調(ニ短調に対してはヘ長調)をとるところ、ここではハ長調で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。展開部ではティンパニが活躍する。(このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある)再現部はオクターブの主動機をティンパニが連打しながら導く。(ティンパニ奏者が高いFと低いFを両端に配置した場合、この部分で非常に派手なマレット(ばち)捌きを見せる場合があり、演奏会では視覚的にも見所である)再現部がティンパニのロール調の連打を加えた強奏で戻ってくるところも第1楽章と類似している。最後、突然4分の4拍子となり、それが4分の4拍子の中間部(トリオ)を導く。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "中間部(トリオ)の旋律もまた、最終第4楽章の歓喜の主題を予感させる。(スケルツォの第1主題も短調だが歓喜の主題に似ているといわれることがある。これらは意図的でなく、単に同一作曲時の類似だといわれることもある)速度は更に速められてプレスト。オーボエによる主題提示の後、弦楽器群のフーガ風旋律を経てホルンが同じ主題を提示する。フルートを除く木管楽器群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "三部形式後半のスケルツォは前半のリピート。しかし最後にまた突然4分の4拍子となるので、中間部の旋律が顔を出してしまう。それに突然気が付いたように1小節全休符となり、スケルツォの最終部分で締めくくり直す。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ニ長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ト長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ホ長調 4分の4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 8分の12拍子", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2つの主題が交互に現れる変奏曲の形式と見るのが一般的であるが、一種のロンド形式、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章であるが、拍子、調性、テンポを変えることによって、変化がつけられている。木管の短い導入部のあと透明感のある第1主題を第1ヴァイオリンが静かに歌いだす。第2主題は4分の3拍子、ニ長調、アンダンテ・モデラートに変わり、やや動きを帯びる。続く第1主題の第1変奏では、第1主題が16分音符に分解されて奏され、木管による第2主題の変奏がそれに続く。そのまま木管による第1主題の第2変奏を経て、また第1主題の、第3変奏と続くが、ここでは8分の12拍子に変わって、動きが大きくなる、長さも倍加するなど、第2主題を吸収したかのような変化が加わっている。末尾において、それまで沈黙していたトランペットとともに管楽器が鋭い歓声をあげ、弦楽器がそれに応えてクライマックスを迎える。しかしすぐに元の安らぎと静けさを取り戻し、同音の三連符の伴奏に乗って静かに終結に向かう。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "4番ホルンの独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙なゲシュトプフト奏法を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時はバルブ付きの楽器が出回り始めたころだったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "この楽章の形式は後世のブルックナーのアダージョ楽章などに大きな影響を与えた。ピエール・モントゥーは第三楽章からattaccaで第四楽章に入るのを提唱し、ワインガルトナーも同様に行うよう勧めており、20世紀中には(演奏開始前から第2~3楽章の曲間までに合唱とソリストを入れた上で)このような次第を採る実演も少なくなかったが、ベートーヴェンの原譜にそうした指示はなく、ジョナサン・デルマーはベーレンライター版の校訂報告でattaccaの次第が支持されている事を認めた上で「作曲当時の金管楽器とティンパニは、楽器の調整抜きに第4楽章を始められない」と指摘し、少なくともattaccaは前提でない旨を述べている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示され、ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成。変奏曲の一種と見るのが一般的であるが、有節歌曲形式の要素もあり、展開部を欠くソナタ形式という見方も可能である(\"Freude, schöner Götterfunken\"が第1主題、\"Ihr, stürzt nieder\"が第2主題、Allegro energico, sempre ben marcatoが再現部)。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "この最終楽章に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、リスト、マーラー、ショスタコーヴィチなどが取り入れている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "フリードリヒ・フォン・シラーがフリーメイソンリーの理念を書いた詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté 1785年)がフランス革命の直後『ラ・マルセイエーズ』のメロディーでドイツの学生に歌われていた。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(An die Freude 初稿1785年、改稿1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年から1824年に書き直したものである。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である1808年の『合唱幻想曲』作品80と、1810年のゲーテの詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "An die Freude O Freunde, nicht diese Töne! Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere. (ベートーヴェン作詞) Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum! Deine Zauber binden wieder, (1803年改稿) Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brüder, (1785年初稿: Was der Mode Schwert geteilt; Bettler werden Fürstenbrüder,) Wo dein sanfter Flügel weilt. Wem der große Wurf gelungen, Eines Freundes Freund zu sein, Wer ein holdes Weib errungen, Mische seinen Jubel ein! Ja, wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund! Und wer's nie gekonnt, der stehle Weinend sich aus diesem Bund! Freude trinken alle Wesen An den Brüsten der Natur; Alle Guten, alle Bösen Folgen ihrer Rosenspur. Küsse gab sie uns und Reben, Einen Freund, geprüft im Tod; Wollust ward dem Wurm gegeben, und der Cherub steht vor Gott. Froh, wie seine Sonnen fliegen Durch des Himmels prächt'gen Plan, Laufet, Brüder, eure Bahn, Freudig, wie ein Held zum Siegen. Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt! Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen. Ihr stürzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schöpfer, Welt? Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen.", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "「歓喜に寄せて」 おお友よ、このような音ではない! 我々はもっと心地よい もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか (ベートーヴェン作詞) 歓喜よ、神々の麗しき霊感よ 天上の楽園の乙女よ 我々は火のように酔いしれて 崇高な汝(歓喜)の聖所に入る 汝が魔力は再び結び合わせる (1803年改稿) 時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる (1785年初稿: 時流の刀が切り離したものを 貧しき者らは王侯の兄弟となる) 汝の柔らかな翼が留まる所で ひとりの友の友となるという 大きな成功を勝ち取った者 心優しき妻を得た者は 彼の歓声に声を合わせよ そうだ、地上にただ一人だけでも 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ そしてそれがどうしてもできなかった者は この輪から泣く泣く立ち去るがよい すべての被造物は 創造主の乳房から歓喜を飲み、 すべての善人とすべての悪人は 創造主の薔薇の踏み跡をたどる。 口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を 創造主は我々に与えた 快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ 智天使ケルビムは神の御前に立つ 天の星々がきらびやかな天空を 飛びゆくように、楽しげに 兄弟たちよ、自らの道を進め 英雄のように喜ばしく勝利を目指せ 抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ! この口づけを全世界に! 兄弟よ、この星空の上に ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない 諸人よ、ひざまずいたか 世界よ、創造主を予感するか 星空の彼方に神を求めよ 星々の上に、神は必ず住みたもう", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナー、マーラー、ワインガルトナーといった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー、近衛秀麿、トスカニーニなども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは『ベートーヴェンの会話帳』の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "『ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、出版やオーストリア帝国以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり、作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後にベルリン国立図書館へ収められたが、国立図書館は戦後は東ベルリンに属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之、クレンペラーなどの例も有ったのだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、欧米各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリのフランス国立図書館、独ボンのベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デル・マーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し、この研究は楽譜化されて1996年にベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にもない音形が数多く表れている点もこの版の特徴である。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "21世紀に入って、旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデル・マーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている。いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も容れて編集された批判校訂版である。2020年3月にはベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集版も刊行された。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "なお、かつて教育テレビで1986年秋に放送された『NHK趣味講座 第九をうたおう』では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した井上道義は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からの第1ヴァイオリンのパートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際、史料状況や編曲の実態について解説したのは金子建志であった。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "全音楽譜出版社による新版スタディスコアも、その版元の変遷を明示した上で、独自の解釈を行っている。", "title": "版の問題" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "現在では原典版編集者が用いたものと同じ資料を、インターネットを通じて複数参照することが可能となっている。", "title": "資料" } ]
交響曲第9番 ニ短調 作品125は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。 ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。また日本では略称として「第九」(だいく)とも呼ばれ、その演奏会は年末の風物詩となっている。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。 多くの批評家や音楽学者によってベートーヴェンの最高傑作に位置付けられるだけでなく、西洋音楽史上最も優れた作品の1つに数えられている。第4楽章の「歓喜」の主題は、欧州評議会においてはヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」として、欧州連合(EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌や、かつてのローデシアの国歌としても制定されていた。ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコ記憶遺産リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年にサザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている。
{{redirectlist|第九|他の作曲家の交響曲第9番|交響曲第9番|GReeeeNのアルバム|第九 (GReeeeNのアルバム)}} {{Listen | header = ベートーヴェン: 交響曲第9番<br />指揮:[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]<br />演奏:[[バイロイト祝祭管弦楽団]]<br/>録音:[[1951年]][[7月29日]] | type = music | filename =Beethoven Symphony No.9 - I. Allegro ma non troppo, un poco maestoso.ogg| title = 第一楽章 | filename2 = Beethoven Symphony No.9 - II. Molto vivace.ogg | title2 = 第二楽章 | filename3 = Beethoven Symphony No.9 - III. Adagio molto e cantabile.ogg | title3 = 第三楽章 | filename4 =| title4 = 第四楽章 }} {{External media | width = 310px | topic = 全曲を試聴する | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=rOjHhS5MtvA Beethoven 9] - [[リッカルド・ムーティ]]指揮[[シカゴ交響楽団]]他による演奏。シカゴ交響楽団公式[[YouTube]]。 | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=QkQapdgAa7o Beethoven's Symphony No_9] - [[クラウス・マケラ]]指揮[[オスロ・フィルハーモニー管弦楽団]]他による演奏。オスロ・フィルハーモニー管弦楽団公式YouTube。 | audio3 = [https://vimeo.com/groups/211565/videos/76521237 BEETHOVEN - Symphony No.9] - [[ケント・ナガノ]]指揮[[エーテボリ交響楽団]]他による演奏。エーテボリ交響楽団公式[[Vimeo]]。 | audio4 = [https://www.youtube.com/watch?v=gT91esZK90I Beethoven:9.Sinfonie] - [[アンドレス・オロスコ=エストラーダ]]指揮[[hr交響楽団]]他による演奏。hr交響楽団YouTube。 | audio5 = [https://www.youtube.com/watch?v=XRdUdWwVca4 Beethoven - Negende Symfonie (Symfonie nr.9)] - [[トマス・ツェートマイアー]]指揮オランダ放送室内フィルハーモニー(Radio Kamer Filharmonie)他による演奏。[[オランダ公共放送|NPO Klassiek]]公式YouTube。 | audio6 = [https://www.youtube.com/watch?v=irWsBKY4_k0 Beethoven Symphony No 9] - TEMPUS Collection公式YouTube。「テンポ・ジュスト理論」実践者マキシミアンノ・コブラの指揮。 | audio7 = [https://www.youtube.com/watch?v=Fs4xVjzpE6k 日本人初の第九レコード《歓喜の頌》] - [[橋本國彦]]指揮、東京交響楽団(現・[[東京フィルハーモニー交響楽団]])、1943年5月13日録音(於・日本青年館)。[[尾崎喜八]]による日本語訳詞を使用した第四楽章のみの録音で、日本初の第9の商業録音。 }} {{Portal クラシック音楽}} '''交響曲第9番''' '''ニ短調''' '''作品125'''(こうきょうきょくだい9ばん ニたんちょう さくひん125、{{Lang-de|''Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125''}})は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]が[[1824年]]に作曲した[[ソロ (音楽)|独唱]]と[[合唱]]を伴う[[交響曲]]。ベートーヴェンの9番目にして最後の[[交響曲]]である{{Efn|[[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|第10番]]は断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない。}}。 ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「'''合唱'''」や「'''合唱付き'''」が付されることも多い。また日本では略称として「'''第九'''」(だいく)とも呼ばれ、その[[演奏会]]は年末の[[風物詩]]となっている<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012060000815.html 師走の風物詩「1万人の第九」もコロナ禍で様変わり]『[[日刊スポーツ]]』2020年12月6日(2020年12月8日閲覧)</ref>。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞には[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の詩『歓喜に寄す』が用いられ、その主題は『'''[[歓喜の歌]]'''』としても親しまれている{{Sfn|諸井|p=5}}。原曲の歌詞は[[ドイツ語]]だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。 多くの批評家や音楽学者によってベートーヴェンの最高傑作に位置付けられるだけでなく、西洋音楽史上最も優れた作品の1つに数えられている<ref name=NCookblurb>{{harvnb|Cook|1993|loc=Product description (blurb). "Beethoven's Ninth Symphony is acknowledged as one of the supreme masterpieces of the Western tradition. More than any other musical work it has become an international symbol of unity and affirmation."}}</ref><ref name=TomServiceSymphGuide>{{cite news|url=https://www.theguardian.com/music/tomserviceblog/2014/sep/09/symphony-guide-beethoven-ninth-choral-tom-service|title=Symphony guide: Beethoven's Ninth ('Choral')|first=Tom|last=Service|author-link=Tom Service|work=[[The Guardian]]|date=9 September 2014|quote=the central artwork of Western music, the symphony to end all symphonies}}</ref>。第4楽章の[[歓喜の歌|「歓喜」の主題]]は、[[欧州評議会]]においては[[ヨーロッパ]]全体をたたえる「[[欧州の歌]]」として、[[欧州連合]](EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、[[コソボ共和国]]の暫定[[国歌]]や、かつての[[ローデシア]]の国歌<ref>[https://web.archive.org/web/20071214092053/http://www.rhodesia.jp/profile.html ローデシアの概要]</ref>としても制定されていた。[[ベルリン国立図書館]]所蔵の自筆譜資料は[[2001年]]に[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[ユネスコ記憶遺産]]リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写[[楽譜|スコア]]が[[2003年]]に[[サザビーズ]]で[[競売]]にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている<ref>{{Cite news |title=「第九」手書き楽譜を公開 NY、楽聖のコメントも |newspaper=[[共同通信社|共同通信]]([[47NEWS]]) |date=2003-05-10 |url=http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html |accessdate=2017-04-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141228094438/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html |archivedate=2014年12月28日 }} ※ 現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存</ref>。 == 概要 == [[File:Ninth Symphony original.png|thumb|自筆譜]] 元来、交響曲とは[[ソナタ]]の形式で書かれた[[管弦楽]]のための楽曲で、第1楽章が[[ソナタ形式]]、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章が[[メヌエット]]、第4楽章がソナタや[[ロンド形式|ロンド]]という4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンは交響曲の第3楽章に[[スケルツォ]]を導入したり、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番]]では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたりしたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に[[瞑想]]的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章に4人の[[ソロ (音楽)|独唱]]と[[混声合唱]]を導入した。ゆえに「'''合唱付き'''」('''Choral'''){{Efn|ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの[[頌歌]]『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語では "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本で[[コンパクトディスク|CD]]の表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な[[形容詞]]、[[名詞]]だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「[[コラール]]」にあるように「[[賛歌]]」「[[賛美歌]]」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。}}と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。第4楽章の旋律は有名な「[[歓喜の歌]](喜びの歌)」で、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に[[声楽]]が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、[[ペーター・フォン・ヴィンター]]による『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。 なお、ベートーヴェン以降も声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]などが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の『[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番「復活」]]』が作曲された頃からであった。 大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった[[ティンパニ]]以外の打楽器([[シンバル]]や[[トライアングル]]など)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持つ。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]など、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]や[[フランツ・リスト|リスト]]は、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。 日本でも人気は高く、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる{{Sfn|金・玉木|2007|p=204}}。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、アマチュア合唱団の一員として演奏に参加する愛好家も増えつつある。ヨーロッパにおいて[[オーケストラ]]に加え独唱者と[[合唱団]]を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないが、音盤の制作はピリオドとモダンともに豊富で[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]]が[[BBCウェールズ交響楽団]]を指揮したライブ演奏ディスクが、雑誌のおまけに付いたことがあった<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070439/https://rovimusic.rovicorp.com/image.jpg?c=kLxl1iMMjzOJ3kg4kY7-NCpQg_7iAU1wjqLgK_xGXts=&f=5|title = Beethoven Symphony No.9 |publisher = rovimusic.rovicorp.com |date = |accessdate = 2019-11-21}}</ref>。 === 演奏時間 === [[1824年]]5月7日の[[ウィーン]]での初演<ref>【ニュースの門】淵上えり子:第九 初めは「失敗作」!?『[[読売新聞]]』朝刊2020年11月19日(解説面)</ref>の演奏時間については明確な数字が記された書類は無いが、[[1825年]][[3月21日]]に英国[[ロンドン]]で『第九』を初演した[[ジョージ・スマート]]がベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が『[[ベートーヴェンの会話帳]]』に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている{{Efn|初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳にはこの次に「45分」という記述もある(第2楽章から第4楽章まで何分ですかという問いが消失した可能性がある。)が、あまりに短すぎるということで『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章の[[テンポ]]も「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、ベートーヴェンの勘違いではないかと考えられている。}}。 [[リヒャルト・シュトラウス]]は[[ジークフリート・ワーグナー]]の追悼演奏会で45分で演奏したという逸話があるが<ref>[[大町陽一郎]]「指揮者としてのリヒャルト・シュトラウス」日本リヒャルト・シュトラウス協会編『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』([[音楽之友社]]、2000年)115頁</ref>、真偽のほどは定かではない。 [[SPレコード]]時代である[[フェリックス・ヴァインガルトナー]]の1935年の録音は62分程度、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の1939年の録音は60分強だが、LP時代に入って話題になった[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の[[バイロイト音楽祭]]での録音は75分弱である。[[LPレコード]]時代でも[[ルネ・レイボヴィッツ]]、[[ヘルマン・シェルヘン]]らはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮者界の中では異端であり、全体の時間は1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするもの{{Efn|[[カール・ベーム]]が最晩年の1980年に録音した演奏は18:34/13:22/18:15/28:35で78分を超える。}}まであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる<ref>[https://archive.is/RxSDw PRESTO CLASSICAL] - [[クリスティアン・ティーレマン]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]</ref>。 「通常の[[コンパクトディスク|CD]]の記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある{{Efn|[[1979年]](昭和54年)からCD の開発に当たった[[フィリップス]]と[[ソニー]]はディスクの直径を11.5[[センチメートル|cm]]とするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、当時のソニー副社長で[[バリトン]]歌手の[[大賀典雄]]は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60分)と12cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。カラヤンの『第九』は約63分~69分であり、ほとんどの指揮者による演奏時間は60分を超えているからだ。この「カラヤン裁定」を要因として、最終的に12cmに決定したというもの。}}。 CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。まず、[[デイヴィッド・ジンマン]]が1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115144244/https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51ecqaha7PL._SX450_.jpg|title = Symphony No.9 |publisher = images-na.ssl-images-amazon.com |date = |accessdate = 2019-11-15 }}</ref>。{{仮リンク|ベンジャミン・ザンダー|en|Benjamin Zander}}指揮{{仮リンク|ボストン・フィルハーモニー管弦楽団|en|Boston Philharmonic}}による演奏は全曲で57分51秒であった。同じくザンダーの指揮によって[[フィルハーモニア管弦楽団]]を振った演奏は全曲で58分37秒<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070324/https://www.gramophone.co.uk/review/beethoven-symphony-no-9-zander|title = BEETHOVEN Symphony No 9 (Zander) |publisher = www.gramophone.co.uk |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>、[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]]と[[BBCウェールズ交響楽団]]とのライブ演奏<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070428/https://www.allmusic.com/album/release/beethoven-symphony-no-9-choral-mr0002739122|title = Beethoven: Symphony No. 9 "Choral" |publisher = www.allmusic.com |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏がある<ref>[[クリスチャン・ヤルヴィ]]指揮[[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]] King International KKC-5119 (59分44秒)</ref>が、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。 研究家が考証を行なった[[古楽器]]による演奏では大概63分程度であり、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、さらに研究が進んでテンポの数字も他人の手で代筆されたものであることが判明し、ベートーヴェンが望んだテンポについての議論がすべて決着したわけではない。 == 作曲の経緯 == [[File:Beethoven Ninth Symphony.png|thumb|right|250px|直筆譜]] ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、[[1792年]]のことである{{Sfn|金・玉木|2007|p=206}}。ベートーヴェンは当時22歳でまだ[[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|交響曲第1番]]も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる{{Sfn|金・玉木|2007|p=206}}。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。 [[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]]から3年程度を経た[[1815年]]頃から作曲が開始された。さらに[[1817年]]、ロンドンの[[ロイヤル・フィルハーモニック協会|フィルハーモニック協会]]から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始した{{Sfn|諸井|p=10}}。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこのころだが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使い回しているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。 ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていた。一つは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していた{{Sfn|金・玉木|2007|p=208}}。しかし様々な事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは[[1822年]]頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに[[弦楽四重奏曲第15番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第15番]]の第5楽章に流用された。[[1824年]]に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、[[1824年]][[5月7日]]に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。楽譜は[[1826年]]に[[ショット・ミュージック|ショット社]]より出版された。 作品は当初、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]に献呈する目論見があり、初演と再演直後の1824年5月26日付[[ニコライ・ボリソヴィチ・ガリツィン]]宛の書簡に、次のような文章がある。 {{Quotation|もしかしたら、殿下のご尽力にとってミサ曲をロシアの皇妃に献げることは可能でしょうか。もしかしたらしかも、ロシア皇帝のような雅量に富む君主が私に年金を下賜されることは可能でしょうか。それに対して私は全ての大作品を真っ先に送らせていただきます。...それにより困窮したる者は世俗的に助けられることになりましょう。|Beethoven. Briefwechsel Gesamtausgabe (1996 - 98), 1841/大崎滋生『ベートーヴェン 完全詳細年譜』459ページ}} ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『[[ミサ・ソレムニス]]』を皇后[[エリザヴェータ・アレクセーエヴナ]]にそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節がある{{Sfn|大崎|2019|pp=459}}。その後の推移ははっきりしていないが、[[1825年]]11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記しており、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御{{Sfn|大崎|2019|pp=492-493}}。年明けた[[1826年]]1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせる旨記している{{Sfn|大崎|2019|pp=497}}。それから約2か月後、詳しい経緯は不明ながらプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]に献呈されることが決まり、3月28日付ショット社宛の書簡でもこのことについて触れられている{{Sfn|大崎|2019|pp=503}}。9月に入り、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世宛の書簡で「[[ボン]]市民として陛下の臣民のなかに数えられること」に関して祝意を示していたが{{Sfn|大崎|2019|pp=513}}、11月25日にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世からの礼状が届いた後12月に入って下賜品のダイヤモンドの指輪が届けられるも、ベートーヴェンは12月下旬に指輪を売却{{Sfn|大崎|2019|pp=515, 517}}。売却に関しては「実際にはダイヤモンドではなく赤い石の指輪が送られた」「宝石鑑定士に鑑定させた結果にベートーヴェンが怒った」「鑑定値が160グルテン約定値」「買取りの最低価格程度の価値」など諸説があるが{{Sfn|中川|2011|p=55 - 56}}{{Sfn|大崎|2019|pp=517}}、先にフランス国王[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が『ミサ・ソレムニス』予約譜購入の返礼品として21{{仮リンク|ルイドール|en|Louis d'or}}相当の金メダルをベートーヴェンに下賜し、こちらは終生手放さず遺品として残されたこととは対照的な対応で、いずれにせよベートーヴェンからしてみれば期待外れの下賜品だったことがうかがえる{{Sfn|大崎|2019|pp=435, 517}}。 == 初演 == 初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は[[倍管|倍の編成]](木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集した[[ジョナサン・デル・マー]]は「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる{{Efn|楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[マタイ受難曲]]における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。}}。 == 演奏史 == === 初演 === {| style="float:right;" |- |[[File:Beethoven 6.jpg|thumb|right|145px|[[1824年]]のベートーヴェン]] |[[File:Kärntnertortheater 1830.jpg|thumb|right|290px|初演の会場となったケルントナートーア劇場]] |} 初演は[[1824年]][[5月7日]]、ウィーンの[[ケルントナートーア劇場]]において[[ミサ・ソレムニス]]の「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や[[献堂式序曲|「献堂式」序曲]]とともに初演された。ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会ったが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行った{{Sfn|中川|2011|p=45}}。 当時のウィーンでは[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の[[オペラ]]が流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、[[ベルリン]]での初演を希望していた{{Sfn|中川|2011|p=31}}。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まった{{Sfn|中川|2011|p=33}}。 第九の初演については多くの逸話がある。参加者の証言によると、第九の初演は[[リハーサル]]不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。[[ソプラノ]]ソロの[[ヘンリエッテ・ゾンターク|ゾンターク]]は18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた{{Efn|これはベートーヴェンに限った問題ではなく、クレメンティも自作の交響曲の際にピアノを用い、ピアノの音とオーケストラの音が度々ずれると記録が残されている。出典:レオン・プランティンガ『クレメンティ 生涯と音楽』(音楽之友社)ISBN 978-4276222175。}}。 一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正[[指揮者]]として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった{{Sfn|中川|2011|p=46}}。見かねたアルト歌手の[[:en:Caroline_Unger|カロリーネ・ウンガー]]がベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができた。という逸話がある{{Sfn|中川|2011|p=46}}。観衆が熱狂し、[[アンコール]]では2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている{{Sfn|中川|2011|p=47}}。 このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話に置かれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある<ref>エステルハージ家の秘書官だったJ.C.Rosenbaum(1770-1829年)の日記より。"The diaries of Joseph Carl Rosenbaum"はHaydon Yearbook V所収。日本語ではC.ダールハウス著/杉橋陽一・訳『ベートーヴェンとその時代』([[西村書店]]、1997年)p.384で紹介。</ref>。[[5月23日]]に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙って[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]のオペラ「[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]」の[[アリア]]を入れたこと、昼間の演奏会だったので人々が[[ピクニック]]に出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている{{Sfn|中川|2011|p=49}}。 なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420[[グルデン]]という数字が伝えられている{{Sfn|中川|2011|p=48}}。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった{{Sfn|中川|2011|p=48}}。再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。 === パリでの再演 === 世界初の音楽学校として設立された[[パリ音楽院]]の卒業生[[フランソワ・アントワーヌ・アブネック]]は、[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]管弦楽団の[[ヴァイオリン]]奏者として活躍した後、指揮者に転向し、[[1828年]]、母校に[[パリ音楽院管弦楽団]]を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者を務めるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。 [[1831年]]3月27日、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。当時の記録では、独唱者名も記載されている<ref>{{Cite web|和書|title=パリ音楽院管弦楽団の演奏会記録、1831年3月27日の項目を参照|url=https://web.archive.org/web/20100611234550fw_/http://hector.ucdavis.edu/SdC/Programs/Pr004.htm|website=web.archive.org|accessdate=2021-09-20}}</ref>。なお、アブネックによる『第九』の演奏は、1842年まで複数回演奏されている<ref>{{Cite web|和書|title=インターネット・アーカイブ Wayback Machine|url=https://web.archive.org/web/20091006100051/http://hector.ucdavis.edu/sdc/|website=web.archive.org|date=2009-10-06|accessdate=2021-09-20}}</ref>。これらの演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。 一人は、当時パリ音楽院の学生だった[[エクトル・ベルリオーズ]]であり、彼はベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツの[[リヒャルト・ワーグナー]]である。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。この頃から『第九』は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。 === ワーグナーによる復活演奏 === [[リヒャルト・ワーグナー]]は少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、[[1842年]]に[[ドレスデン]]で[[歌劇]]『[[リエンツィ]]』を上演、大好評を博した。この功績により、[[ドレスデン国立歌劇場管弦楽団]](当時は[[ザクセン王国]]の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。 ドレスデンでは毎年、[[復活祭]]の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会では[[オラトリオ]]と交響曲が演奏されるのが定番となっていた。[[1846年]]、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声があがったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得に努めるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。 彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。 徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである{{Efn|ワーグナー改変版は販売されなかったが、ピアノ編曲版が販売された([https://archive.is/CljeC 外部リンク])}}。 === 日本初演 === {{multiple image | footer = 『第九』日本初演が行われた[[板東俘虜収容所]]。【左】1919年当時の収容所平面図。【右】[[テーマパーク]]「[[阿波大正浪漫 バルトの庭]]」(現在は閉園)に於いて再現された収容所正門。 | width1 = 150 | image1 = Lager Bando 1919.png | alt1 = 板東俘虜収容所平面図(1919年) | width2 = 315 | image2 = 140712 Baruto-no-niwa in Bando Naruto Tokushima pref Japan01bs5.jpg | alt2 = 板東俘虜収容所の正門《「阿波大正浪漫 バルトの庭(既に閉園)」で再現させたもの》 }} [[第一次世界大戦]]において日本は対独参戦してアジア太平洋地域の[[ドイツ帝国]]拠点を攻撃し、多数の[[日独戦ドイツ兵捕虜|捕虜]]を得た。[[1918年]]([[大正]]7年)[[6月1日]]に、[[徳島県]][[板東町]](現・[[鳴門市]])にあった[[板東俘虜収容所]]で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は[[1941年]]([[昭和]]16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた[[徳川頼貞]]が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、[[1990年代]]([[平成]]2年)になって脚光を浴びた。映画『[[バルトの楽園]]』(出演:[[ブルーノ・ガンツ]]、[[松平健]]ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、[[ファゴット]]と[[コントラファゴット]]が無かったので、[[オルガン]]で代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された<ref>[https://web.archive.org/web/20120426221648/http://www.topics.or.jp/localNews/news/2012/04/2012_133524563153.html 捕虜作成の測量図「正確」 板東収容所跡調査まとめ]『[[徳島新聞]]』2012年4月24日《2017年4月22日閲覧;現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存》</ref>。鳴門市では日本における『第九』初演を記念して毎年6月の第一日曜日を「第九の日」に制定して定期演奏会を開催している<ref>{{Cite journal |和書|title=『鳴門の第九』というブランド |date=2011-07-01 |publisher=鳴門市秘書広報課 |journal=『広報なると』 |issue=723 |pages=1-7 |url=http://www.city.naruto.tokushima.jp/_files/00061070/201107.pdf |format=PDF |accessdate=2017-04-22 |quote=全7頁構成。4頁目左上『第1回鳴門「第九」演奏会』欄中に「第九の日」制定に至る経緯に関する記述有}}《{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20170421234433/http://www.city.naruto.tokushima.jp/_files/00061070/201107.pdf →アーカイブ]}}》</ref>。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、[[鳴門市ドイツ館]]前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180603/ddl/k36/040/335000c|title=第九 鳴門で初演100周年 再現に喝采 歓喜の歌声響く|newspaper=『[[毎日新聞]]』|date=2018-06-03|accessdate=2018-06-05}}</ref>。 『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には捕虜のうち45人でつくる「徳島オーケストラ」による収容所内の定期演奏会の曲目の一つで、日本人は招かれていない<ref name="朝日20201219">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14734007.html 【はじまりを歩く】ベートーベンの第九(徳島県、東京都、大阪府)捕虜の声響く 日本初演の地/「生」への賛歌 時代を超えて][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年12月19日(6-7面)2020年12月31日閲覧</ref>。これを記念して、収容所の記念施設である[[鳴門市ドイツ館]]隣の[[道の駅]]は「[[道の駅第九の里|第九の里]]」と命名されている<ref name="朝日20201219"/>。 [[1919年]](大正8年)12月3日、[[福岡県]][[久留米市]]の久留米高等女学校(現・[[福岡県立明善高等学校]])に[[久留米俘虜収容所]]に収容されていたドイツ兵捕虜オーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学校の教師や女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている<ref name="asahi">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASLDT3Q0VLDTTIPE00P.html|title=大正時代の第九、楽譜見つかる 演奏10分の詳細が判明|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2018-12-30|accessdate=2020-11-29}}</ref>。2日後の12月5日、久留米俘虜収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた<ref>{{Cite web|和書| author = | authorlink = | datepublished = | url = http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3030shuuzoukan/files/rokukai.pdf | title = 久留米市:「ドイツさんと久留米」(久留米俘虜収容所のエピソード)第6回「ドイツさんと第九演奏」 | format = | work = | publisher = [[久留米市役所]]市民文化部文化財保護課・ 総合政策部広報戦略課 | accessdate = 2020-12-06 | lang = | description = | archiveurl = | archivedate = }}</ref>。 [[1924年]](大正13年)1月26日、[[九州大学|九州帝国大学]]の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の[[九大フィルハーモニーオーケストラ]])が当時の[[摂政宮]](後の[[昭和天皇]])の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の[[文部省]]が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』の[[メロディ]]にアレンジしたものだった。また、第4楽章が通して演奏されたのではなく、合唱を伴う部分を抜粋したものだった<ref name="asahi"/>。このため、これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。 日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]([[東京芸術大学]]の前身の一校)のメンバーがドイツ人[[教授]][[グスタフ・クローン]]の指揮によって演奏したものだとされている。同年12月にも追加公演された<ref name="朝日20201219"/>。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]]の前身)により[[1927年]](昭和2年)[[5月3日]]に行われた。 東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の[[埴谷雄高]]が、「演奏中に[[コンサートマスター|コンサートミストレス]]の[[安藤幸]]([[幸田露伴]]の妹。姉の[[幸田延]]ともども「[[上野]]の[[西太后]]」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。 全員が外来演奏家による日本初演は[[カール・ベーム]]指揮の[[ベルリン・ドイツ・オペラ]]により[[1963年]](昭和38年)[[11月7日]]、[[日生劇場]]にて行われた。 * [[ソプラノ]]:{{仮リンク|エリーザベト・グリュンマー|de|Elisabeth Grümmer}} * [[メゾソプラノ]]:[[クリスタ・ルートヴィヒ]] * [[テノール]]:[[ジェームズ・キング (声楽家)|ジェームズ・キング]] * [[バリトン]]:[[ヴァルター・ベリー]] この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくするという騒ぎもあった。 === 日本での年末の演奏の歴史 === [[1940年]](昭和15年)12月31日午後10時30分、[[紀元二千六百年記念行事]]の一環として、[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]が新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])を指揮して『第九』の[[ラジオ]]生放送を行った。これを企画したのは当時、[[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]]の洋楽課員だった[[三宅善三]]である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として[[大晦日]]に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところでは[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより "深夜に演奏してそのまま新年を迎える" といった勘違いをしたのではないかと思われる。 日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、[[第二次世界大戦]]後間もない[[1940年代]]後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時([[クラシック音楽]]の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる{{Sfn|金・玉木|2007|p=204}}。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう{{Efn|[[黒柳徹子]]は父の[[黒柳守綱]](新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元[[コンサートマスター]])から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」『[[東京新聞]]』2007年12月25日朝刊([[中日新聞]]東京本社発行)。}}。1956年(昭和31年)に[[群馬交響楽団]]が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている<ref>NHK [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] 第127回 「第九への果てなき道」(群馬交響楽団 10月14日)</ref>。 === バイロイト音楽祭と第九 === [[1872年]]、[[バイロイト]]に祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として[[選帝侯]]劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』は[[バイロイト音楽祭]]においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。[[1933年]]は[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[1951年]]と[[1954年]]は[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[1953年]]は[[パウル・ヒンデミット]]、[[1963年]]は[[カール・ベーム]]、[[2001年]]は[[クリスティアン・ティーレマン]]。 === ライプツィヒ・ゲヴァントハウスと12月31日の第九 === [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-Z1008-030, Leipzig, "Neues Gewandhaus", Konzert.jpg|thumb|250px|1981年の新ゲヴァントハウスこけら落とし公演]] [[1918年]]、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時は[[ライプツィヒ]]の郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部である[[ゴーリス]]という土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの『第九』は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時)。 第二次世界大戦でドイツ本土は激しい[[空襲]]に晒され、1944年、ライプツィヒのコンサートホール「[[ゲヴァントハウス]]」は戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されると[[クルト・マズア]]は生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーヴェンの『第九』を選んだ。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]崩壊後の統一ドイツではMDR([[中部ドイツ放送|中部ドイツ放送協会]])が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立された。それ以来、毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーヴェンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオ[[:de:MDR Figaro|Figaro]]によって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には[[香港]]、[[オランダ]]、[[アメリカ合衆国]]などにも演奏がライブ放映・放送された。 === フルトヴェングラーと第九 === 指揮者[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]は第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者[[ハインリヒ・シェンカー]]の分析からも影響を受けている。第4楽章330小節の[[フェルマータ]]を非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏は[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]流の明晰な演奏が主流となり、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い{{Efn|トスカニーニとフルトヴェングラーの芸術性の違いを示す例として、音楽著述家のハンス・ケラーはドキュメンタリー『アート・オブ・コンダクティング』で、トスカニーニ指揮の『第九』演奏会で客席に居たフルトヴェングラーが第1楽章冒頭の弦楽器による6連符刻みを聴くなり「単なる時間刻み人だ! ("nur einen Zeitschläger!" ) 」と言って退席したエピソードを示し、不明瞭に演奏されたフルトヴェングラー指揮の冒頭部分と比較している。}}。 第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは[[1942年]]4月19日、[[ナチス・ドイツ]]総統[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の誕生日前日に『第九』を指揮し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]と握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった{{Efn|経緯は中川右介・著「至高の十大指揮者(2020年角川文庫)」などに詳しい。フルトヴェングラー自身は最後まで入党せず、1939年以来ヒトラーの誕生日が近づくとウィーンとベルリンから離れ、指揮を執る演奏会に誕生日祝賀の意味が伴わないよう暗に抵抗していたのだが、42年にはゲッベルスが当初入っていた演奏会の予定を無理矢理変えさせ、忌避しようの無い状況にフルトヴェングラーを追い込んだのである。}}。 [[1951年]]7月末、終戦後初の[[バイロイト音楽祭]]でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。フルトヴェングラーは54年にもバイロイトで「第九」を指揮しているが、51年の演奏は『[[バイロイトの第九]]』と呼ばれ、第九の演奏の歴史の中でも著名なものである。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となった[[EMI]]のプロデューサー[[ウォルター・レッグ]]はフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]の音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、[[録音テープ]]が廃棄されかかったという逸話もある{{Efn|音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言って[[マイクロフォン]]を撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によれば、この日の終演後に[[楽屋]]を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。[[モノラル]]LP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に詳訳あり。}}。 しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。 2007年、[[バイエルン放送]]の「放送禁止」と書かれた録音テープを音源としたCDがフルトヴェングラー・センター会員限定で頒布され、のちに一般向けにORFEOから発売された。EMI盤よりも明瞭な音質だっただけでなく、大部分が異なる演奏だったため、公演本編なのかリハーサルなのか、EMI盤との比較から編集と加工についても憶測を呼んだ。2021年10月、同日生中継を行ったスウェーデン放送協会の所蔵音源が85分ノーカット収録でSACD化され、より無加工に近い本番の模様を確認出来る。これによりバイエルン放送の音源が公演本番であり、多くの人々から絶賛されたEMI盤はリハーサル時の録音を主体としたものだったと考えられている。 フルトヴェングラーの第九は他に1954年の[[ルツェルン音楽祭]]で[[フィルハーモニア管弦楽団]]を指揮した演奏の録音も名高い。 === 戦後復興と第九 === [[1955年]]に、戦争で破壊された[[ウィーン国立歌劇場]]が再建された際にも、[[ブルーノ・ワルター]]指揮により[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]で『第九』が演奏された。なお、再建の[[こけら落し]]は[[カール・ベーム]]指揮の歌劇『[[フィデリオ]]』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これは[[オーストリア放送協会]]による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。 === ドイツ分断と第九 === [[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。 [[1989年]]の[[ベルリンの壁崩壊]]直後の年末に[[レナード・バーンスタイン]]が、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ソビエト連邦|ソ連]])のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。また、翌年の[[ドイツ再統一]]のときの統一前夜の祝典曲として[[クルト・マズア]]指揮の[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が[[ライプツィヒ]]で演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルの[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団#ジルヴェスターコンサート|ジルベスターコンサート]]に対抗して演奏されTV中継されている。 演奏のみのバージョンが[[欧州連合]](EU)の歌として使用されている{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。[[2007年]]には[[ルーマニア]]と[[ブルガリア]]がEUに加盟し、2007年の1月[[元旦]]の0時を回ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。 === サントリー1万人の第九 === [[サントリー1万人の第九]]は[[1983年]]に[[大坂城|大阪城]]築城から400年を迎えることを記念すべく、その前年[[1982年]]に設立したばかりの大阪21世紀協会(現「[[関西・大阪21世紀協会]]」)が中核事業として「大阪築城400年まつり」を企画し、当該企画への参加催事の一つとして、また目玉的存在とされた、[[大阪砲兵工廠|大阪砲兵工廠本館]]跡地に建設された[[大阪城ホール|大阪城国際文化スポーツホール(大阪城ホール)]]の[[こけら落し|こけら落とし]]の一環として企画されたことが発端となった。1983年の第1回から[[1998年]]の第16回までは[[山本直純]]が指揮、構成を務め、翌年[[1999年]]の第17回から現在までは[[佐渡裕]]が指揮、総監督を務めている。 === 長野オリンピックと第九 === [[1998年]][[2月7日]]、[[長野オリンピック]]の開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は[[小澤征爾]]がタクトを振った[[長野県県民文化会館]]、[[中華人民共和国|中国]]・[[北京市|北京]]の[[紫禁城]]、[[オーストラリア]]・[[シドニー]]([[2000年シドニーオリンピック|翌々年の五輪]]開催地)の[[シドニー・オペラハウス|オペラハウス]]前、ドイツ・ベルリンの[[ブランデンブルク門]]、黒人と白人の混成合唱団で歌われた[[南アフリカ共和国]]・[[ケープタウン]]の[[喜望峰]]、アメリカ・[[ニューヨーク]]の[[国際連合本部ビル|国連本部]]、開会式が行われた[[長野オリンピックスタジアム]]である。午前11時に始まった開会式では、[[オリンピック聖火]]が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、日の出と重なり徐々に明るくなってゆくケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者の小澤も別会場で演奏する必要があった)。 === その他の国での受容と変化 === [[2020年]][[10月]]、[[中国共産党]]は歓喜の歌を「宗教音楽」の1つと定義し、学校教育の教材から外すように指示したことで音楽関係者に波紋を広げた。これについてドイツ在住の中国人作曲家の{{ill|王西麟|en|Wang Xilin}}は「1942年以来、共産党は芸術を党に仕えるものと見なし、それ以外の[[イデオロギー]]に重要な意味を持つすべての良い作品を封鎖してきました」と述べた<ref>[https://www.visiontimesjp.com/?p=9485&fbclid=IwAR26v3vjB0ElGQBn6AT1ge-BZDbU8jXf0MwlWR3wtak37kB4h9RGuypuhuk 中国共産党がベートーヴェンの「歓喜の歌」を禁止 国内外に波紋] 看中国 2020年10月4日</ref>。 == レコード録音史 == ===アコースティック録音時代=== [[1921年]]2月7日、[[:de:Eduard_Mörike_(Dirigent)|エドゥアルト・メーリケ]]指揮 [[ベルリン・ドイツ・オペラ|シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団]]によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏が[[パーロフォン]]・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。 [[1923年]]、独[[ポリドール]]社が{{仮リンク|ブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー|de|Bruno Seidler-Winkler}}指揮 新交響楽団(実態は[[ベルリン国立歌劇場管弦楽団]]の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。 [[1923年]]10-11月に収録された[[アルバート・コーツ]]指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが[[1924年]]5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。 [[1924年]]1-2月、フリーダー・ワイスマンが[[ベルリン・ブリュトナー管弦楽団]]を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが[[1921年]]に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英[[パーロフォン]]社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった([[1997年]]にカナダのレコード研究家が真相を発表した)。 [[1925年]]1月、エドゥアルト・メーリケが[[ベルリン国立歌劇場管弦楽団]]を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが[[1924年]]に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独[[パーロフォン]]社から発売された。 なお、これらの録音は全て「合唱が原語(ドイツ語)ではない」あるいは「曲の一部がカットされている」のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後[[1928年]]のオスカー・フリートと[[ベルリン国立歌劇場管弦楽団]]によるものが世界で初めてである。 === 電気録音時代 === [[1926年]]3月16-17日、[[フェリックス・ワインガルトナー]]指揮 [[ロンドン交響楽団]](英訳詞による合唱) [[1926年]]10月、[[アルバート・コーツ]]指揮 交響楽団(英訳詞による合唱) [[1928年]]、[[オスカー・フリート]]指揮 [[ベルリン国立歌劇場管弦楽団]](世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音) [[1934年]]4月30日、[[レオポルド・ストコフスキー]]指揮 [[フィラデルフィア管弦楽団]](英訳詞による合唱) [[1935年]]2月2-4日、[[フェリックス・ワインガルトナー]]指揮 [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]](世界初の交響曲全集に収録された) 以降は[[オイゲン・ヨッフム]]([[1938年]])、[[カール・ベーム]](1941年(昭和16年))、[[橋本國彦]]([[1943年]]5月・日本初録音)、[[山田一雄]]([[1943年]]11月・日本初全曲録音)、[[ユージン・オーマンディ]]([[1945年]])と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月の[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]指揮 [[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]]) またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『[[時計じかけのオレンジ]]』にも使われた1962年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、[[スーパー・ハイ・マテリアルCD|スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)]]、[[Super Audio CD|スーパーオーディオCD(SACD)]]に加え[[ガラスCD]]化も行われた。 == 編成 == [[二管編成]]・追加楽器・声楽が用いられる。[[ピッコロ]]、コントラファゴット、[[トロンボーン]]はベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番]]で使用されているのみである。また、[[ホルン]]が4本、打楽器は他の交響曲では使われていない[[トライアングル]]、[[シンバル]]、[[バスドラム]]を使用しており、この時期の交響曲の編成としては最大級のものである。前述の通り声楽を交響曲に用いるのは当時としては極めて奇抜なアイデアである。またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。初演時の編成については[[#初演]]参照。 === 管弦楽 === {{管弦楽編成 |フルート=2, [[ピッコロ|Fl.picc.]] 1 (第4楽章のみ) |オーボエ=2 |クラリネット=2 (第1・3・4楽章はB管。第2楽章はC管。第4楽章でA管持ち替えあり) |ファゴット=2, [[コントラファゴット|Cfg.]] 1 (第4楽章のみ) |ホルン=4 (第1・2・4楽章はD管、B管各2。第3楽章はB管、Es管各2。第4楽章ではD管、B管が同時に4本使われる持ち替えあり) |トランペット=2 (第1・2・4楽章はD管、第3楽章はB管) |トロンボーン=3 ([[アルトトロンボーン|アルト]]、テノール、[[バストロンボーン|バス]]各1。第2・4楽章のみ) |ティンパニ=● |打楽器=[[トライアングル|Trgl.]], [[シンバル|Ptti.]], [[バスドラム|Gr. Tamb.]](第4楽章のみ) |第1ヴァイオリン=● |第2ヴァイオリン=● |ヴィオラ=● |チェロ=● |コントラバス=●}} === 声楽 === [[声楽]]は第4楽章のみ使用される。 * [[ソプラノ]]独唱 * [[アルト]]独唱 * [[テノール]]独唱 * [[バリトン]]独唱 * [[混声合唱|四部合唱]] ** ソプラノ ** アルト ** テノール ** [[バス (声域)|バス]] 全体で約70分に及ぶ演奏時間にかかわらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールで演奏される際は、合唱と独唱は第2楽章と第3楽章、もしくは第3楽章と第4楽章の間に入場することが多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。[[ヘルベルト・ブロムシュテット]]が[[1985年]]に[[NHK交響楽団]]で演奏した際には、「『おお友よ、このような音ではない』と歌う独唱が第1楽章からステージにいなくて、そんな台詞がいえるか」というブロムシュテットの指示で独唱者も含めて第1楽章から待機することになったという<ref>佐野之彦『N響80年全記録』([[文藝春秋社]]、2007年)</ref>。 == 曲の構成 == 一般的な交響曲の「[[アレグロソナタ]] - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に[[舞曲]]由来の[[スケルツォ]]、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような楽章順は初期の[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]などには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化していた。ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となり、以後この形式も定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった。 また、第3楽章と第4楽章が共に[[変奏曲]]に基づく楽曲であり、交響曲のみならず他のジャンルの絶対音楽を含めても、2つの楽章が続けて変奏曲であることは極めて異例である。 === 第1楽章 === '''Allegro ma non troppo, un poco maestoso [[ニ短調]] 4分の2[[拍子]]''' [[ソナタ形式]]。革新的要素の多い楽章。 :<score %vorbis="1"%> \relative c''' { \set Staff.midiInstrument = #"violin" \set Score.tempoHideNote = ##t \tempo 4 = 88 \key d \minor \time 2/4 \set Score.currentBarNumber = #17 \partial 32 d32\ff^\markup "First theme" a4~ a8.. f32 d8.. a32 f8. a32( f) d4~ d16 f'-. e-. d-. a'8-. g-. e-. a-. d,8.\sf } </score> {{External media | width = 240px | topic = | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=VKxX2EJozxo Ⅰ.Allegro ma non troppo, un poco maestoso] - [[パーヴォ・ヤルヴィ]]指揮[[ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団]] [[ドイチェ・ヴェレ|DW Classical Music]]公式YouTube | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=EUadoHjHhkE Ⅰ.Allegro ma non troppo, un poco maestoso] - {{ill|ビクトル・パブロ・ペレス|en|Víctor Pablo Pérez}}指揮[[:en:Orquesta Sinfónica de Galicia|ガリシア交響楽団]] ガリシア交響楽団公式YouTube }} 冒頭の、弦楽器の[[トレモロ]]とホルンの持続音にのせて、調性の長短が不明な断片的[[モチーフ (音楽)|動機]]が[[空虚五度]]の和音で提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、[[ニ (音名)|ニ音]]と[[イ (音名)|イ音]]による[[完全五度]]を骨格とした力強い主題であり、一度目は主調のニ短調で、冒頭がリピートされたのち二度目は変ロ長調で立ち現れるが、すぐにニ短調に戻り、強奏でこれが定着される。第2主題導入部は、第4楽章で現れる「歓喜」の主題を暗示するような優しいものであるが、これも変ロ長調で、通常、主調の[[平行調]]または[[属調]]で現れる提示部第2主題が[[下属調]]の[[平行調]]になっている。それを引きついだコデッタは形式どおり長調で展開されるが、弦と木管の応答部分では、同じフレーズが短調と長調で交互に繰り返されるなど、長調と短調の葛藤が垣間見られる。提示部はベートーヴェンの交響曲で最も長大なためもあってか反復指定がない。 展開部は再び、冒頭の和音で始まるが、すぐに短調となり、第1主題がほぼ提示部と同じ長さ、変奏、展開される。 再現部は展開部のクライマックスを兼ねるようなものとなっており、冒頭の[[和音]]と主題がffの全奏で再現される。[[ティンパニ]]もffのロールを持続しながら「ニ、イ」の主題動機の強打に参加し、圧巻のクライマックスが築かれる(提示部と再現部の冒頭の変奏の差はこれまでのベートーヴェンの交響曲にも見られたが、ここでは特に大きい)。第2主題は再現部の定型通りニ長調で演奏され提示部以上に歓喜の歌を連想させるが、すぐさまニ短調に押し流され、以降、短調による激しい展開となる。コーダは最後、半音階を滑り落ちるような不気味な[[オスティナート]]に導かれ、それに全弦が誘い込まれたところで全奏となり、第1主題の[[ユニゾン]]で締めくくられる。 === 第2楽章 === '''Molto vivace [[ニ短調]] 4分の3拍子 - Presto [[ニ長調]] 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto''' [[複合三部形式]]をとる[[スケルツォ]]楽章である。スケルツォ部分だけで[[ソナタ形式]]をとる。提示部、展開部・再現部ともに反復指定あり<ref>ベートーヴェンが複雑な順序を曖昧に指示したため、初版スコアが記述に失敗した上、ダ・カーポ後の反復指示はスコアによって解釈が割れている。さらに388小節第一括弧は演奏の現場ではたびたびスキップされ、最短と最長では演奏時間に4分以上開きが生じる。</ref>。 :<score %vorbis="1"%> \relative c''' { \set Staff.midiInstrument = #"violin" \set Score.tempoHideNote = ##t \tempo 2. = 116 \key d \minor \time 3/4 \set Score.currentBarNumber = #9 \bar "" a4.\pp^\markup "First theme" a,8 a4 d4-. e-. f-. e-. f-. g-. f-. e-. d-. f e d c b a gis a b a gis a } </score> {{External media | width = 240px | topic = Ⅱ.Molto vivace… | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=a8FnmdNi-Xc P.ヤルヴィ指揮ブレーメン・ドイツ室内フィル] - DW Classical Music公式YouTube | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=RA8ouY7nwyg ビクトル・パブロ・ペレス指揮ガリシア響] - ガリシア交響楽団公式YouTube }} 序奏として、第1楽章を受け継ぐような、ニ短調の主和音の降下が、弦楽器のユニゾンとティンパニで出るが、ユニークなことに、主和音でニ短調を決定づけるF音のオクターブに高低2音ともティンパニが調律されている。(通常、ニ短調の場合、ティンパニはAとDに調律される。ベートーヴェンは、既に[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|第8番]]の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っているが、それはヘ長調の主音であり、この9番の楽章はより冒険的である)このオクターブの基本動機がスケルツォ部分を支配している。提示部では冒頭にこのオクターブの動機を置いた第1主題が疾走するように出、[[フーガ]]のように重なって増幅し、全奏で確保される。経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常[[平行調]](ニ短調に対しては[[ヘ長調]])をとるところ、ここでは[[ハ長調]]で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。展開部ではティンパニが活躍する。(このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある)再現部はオクターブの主動機をティンパニが連打しながら導く。(ティンパニ奏者が高いFと低いFを両端に配置した場合、この部分で非常に派手なマレット(ばち)捌きを見せる場合があり、演奏会では視覚的にも見所である)再現部がティンパニのロール調の連打を加えた強奏で戻ってくるところも第1楽章と類似している。最後、突然4分の4拍子となり、それが4分の4拍子の中間部(トリオ)を導く。 中間部(トリオ)の旋律もまた、最終第4楽章の歓喜の主題を予感させる。(スケルツォの第1主題も短調だが歓喜の主題に似ているといわれることがある。これらは意図的でなく、単に同一作曲時の類似だといわれることもある)速度は更に速められてプレスト。[[オーボエ]]による主題提示の後、[[弦楽器]]群のフーガ風旋律を経て[[ホルン]]が同じ主題を提示する。[[フルート]]を除く[[木管楽器]]群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。 三部形式後半のスケルツォは前半のリピート。しかし最後にまた突然4分の4拍子となるので、中間部の旋律が顔を出してしまう。それに突然気が付いたように1小節全休符となり、スケルツォの最終部分で締めくくり直す。 === 第3楽章 === '''Adagio molto e cantabile [[変ロ長調]] 4分の4拍子 - Andante moderato ニ長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato [[ト長調]] 4分の3拍子 - Tempo I [[変ホ長調]] 4分の4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 8分の12拍子''' 2つの主題が交互に現れる[[変奏曲]]の形式と見るのが一般的であるが、一種の[[ロンド形式]]、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto;width:90%" |A || B(ニ長調) || A第I変奏 || B(ト長調) || A第II変奏(変ホ長調) || A第III変奏 || コーダ |- |第1主題 || 第2主題 || 第1主題 || 第2主題 || colspan="3" |コーダ |- | colspan="2" |提示部 || colspan="2" |再現部 || colspan="3" | |} {{External media | width = 240px | topic = Ⅲ.Adagio molto e cantabile… | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=ecDhLebBBhc P.ヤルヴィ指揮ブレーメン・ドイツ室内フィル] - DW Classical Music公式YouTube | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=cLMH_DNe1fY ビクトル・パブロ・ペレス指揮ガリシア響] - ガリシア交響楽団公式YouTube }} 神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章であるが、拍子、[[調|調性]]、テンポを変えることによって、変化がつけられている。木管の短い導入部のあと透明感のある第1主題を第1ヴァイオリンが静かに歌いだす。第2主題は4分の3拍子、ニ長調、アンダンテ・モデラートに変わり、やや動きを帯びる。続く第1主題の第1変奏では、第1主題が16分音符に分解されて奏され、[[木管楽器|木管]]による第2主題の変奏がそれに続く。そのまま木管による第1主題の第2変奏を経て、また第1主題の、第3変奏と続くが、ここでは8分の12拍子に変わって、動きが大きくなる、長さも倍加するなど、第2主題を吸収したかのような変化が加わっている。末尾において、それまで沈黙していたトランペットとともに管楽器が鋭い歓声をあげ、弦楽器がそれに応えてクライマックスを迎える。しかしすぐに元の安らぎと静けさを取り戻し、同音の三連符の伴奏に乗って静かに終結に向かう。 4番[[ホルン]]の独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙な[[ゲシュトプフト奏法]]を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時は[[金管楽器#バルブ|バルブ]]付きの楽器が出回り始めたころだったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。 この楽章の形式は後世の[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]のアダージョ楽章などに大きな影響を与えた。[[ピエール・モントゥー]]は第三楽章からattaccaで第四楽章に入るのを提唱し、ワインガルトナーも同様に行うよう勧めており、20世紀中には(演奏開始前から第2~3楽章の曲間までに合唱とソリストを入れた上で)このような次第を採る実演も少なくなかったが、ベートーヴェンの原譜にそうした指示はなく、ジョナサン・デルマーはベーレンライター版の校訂報告でattaccaの次第が支持されている事を認めた上で「作曲当時の[[金管楽器]]とティンパニは、楽器の調整抜きに第4楽章を始められない」と指摘し、少なくともattaccaは前提でない旨を述べている。 === 第4楽章 === {{External media | width = 240px | topic = Ⅳ.Presto… | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=cep8Ru4TL4k P.ヤルヴィ指揮ブレーメン・ドイツ室内フィル] - DW Classical Music公式YouTube | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=kohoim1Aoro ビクトル・パブロ・ペレス指揮ガリシア響] - ガリシア交響楽団公式YouTube }} 管弦楽が前の3つの楽章を回想するのを[[レチタティーヴォ]]が否定して歓喜の歌が提示され、ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成。[[変奏曲]]の一種と見るのが一般的であるが、[[有節歌曲形式]]の要素もあり、展開部を欠くソナタ形式という見方も可能である("Freude, schöner Götterfunken"が第1主題、"Ihr, stürzt nieder"が第2主題、Allegro energico, sempre ben marcatoが再現部)。 ;Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子 :[[管楽器]]の強烈な不協和音で始まる。しかし、すぐさま低弦([[チェロ]]と[[コントラバス]])の[[レチタティーヴォ]]がこれに答える。 ;Allegro ma non troppo ニ短調 4分の2拍子 :管弦楽が第1楽章冒頭を出す。しかし、再び低弦のレチタティーヴォがこれに答える。 ;Vivace ニ短調 4分の3拍子 :今度は第2楽章の主題が木管で出される。しかし、再度低弦のレチタティーヴォに中断される。 ;Adagio cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 :第3楽章をやはり木管が回想するが、これも低弦のレチタティーヴォに中断される。 ;Allegro assai ニ長調 4分の4拍子 :<score %vorbis="1"%> \new Score { \new Staff { \relative c { \set Staff.instrumentName = #"Vc." \set Staff.midiInstrument = #"cello" \set Score.currentBarNumber = #92 \time 4/4 \key d \major \clef bass \tempo "Allegro assai" 2 = 60 \set Score.tempoHideNote=##t \bar "" fis2\p( g4 a) | a4( g fis e) | d2( e4 fis) | fis4.( e8) e2 | fis2( g4 a) | a4( g fis e) | d2( e4 fis) | e4.( d8) d2 | \break e( fis4 d) | e( fis8 g fis4 d) | e( fis8 g fis4 e) | d( e a,) fis'~ | fis fis( g a) | a( g fis e) | d2( e4 fis) | e4.( d8) d2 } } } </score> :管楽器が、新しい動機を出す。(これは前の三つの楽章で断片的に姿を見せていた[[モチーフ (音楽)|動機]]でもある)この動機に低弦が生き生きとした調子に変わり、他の楽器群も応答する。やがて低弦が静かに第1主題([[歓喜の歌|「歓喜」の主題]])を奏し始める。[[ヴィオラ]]がそれに続き、ファゴットとコントラバスの対旋律がそれを支える。さらに、歓喜の主題は第1ヴァイオリンに渡され、四声の[[対位法]]によって豊かなハーモニーを織り成す。最後に管楽器に旋律が渡され、全管弦楽で輝かしく歌い上げられる。 ;Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子 :<score %vorbis="1"%> \relative c' { \set Staff.midiInstrument = #"voice oohs" \set Score.currentBarNumber = #216 \bar "" \clef bass \key d \minor \time 3/4 \set Score.tempoHideNote = ##t \tempo 4 = 104 r4^\markup { \bold { \italic { Recitativo } } } r a \grace { a8^( } e'2.)(~ e4 d8 cis d e)~ e4 g,4 r8 g bes2( a8) e f4 f r } \addlyrics { O Freun- de, nicht die- se Tö- ne! } </score> :"O Freunde" :再び冒頭部の厳しい不協和音が、今度は管弦楽の全奏で演奏される。バリトン独唱が低弦のレチタティーヴォと同じ旋律のレチタティーヴォで"O Freunde, nicht diese Töne!"(「おお友よ、このような音ではない!」)と歌う。ここで初めて、冒頭から繰り返された低弦のレチタティーヴォの意味が、第1〜第3楽章までの音楽の否定であったことが明らかとなる。 :今日の出版譜ではバリトンの歌い出しには「ラ→ミ」の跳躍に加え「ラ→ド♯」が記されているが、レチタティーヴォ後半部の高いファ#を出せない初演ソリストのために変更された代替パートで稀にしか歌われない。(このメロディーを選んだために音程が悪いと酷評されている大歌手もいる)初演ではまた細かい上下([[メリスマ]])部分のカットも検討されたようである。最後期筆写スコアには他にも代替案が残っているが、出版譜には反映されなかった。 ;Allegro assai ニ長調 4分の4拍子 :"Freude, schöner Götterfunken" :Freude!(歓喜よ)の掛け声をバリトン独唱と合唱のバス([[テノール]]も一緒に歌われることもある)が掛け合うと、バリトン独唱によって"Freude, schöner Götterfunken"「歓喜」の歌が開始される。旋律後半部を合唱がリピートする形で続く。次に独唱4人となり、やはり旋律後半部を合唱がリピートする。決め台詞の様に入るGott!で自筆スコアはアクセントではなく[[デクレシェンド]]を指示しており、現在も指揮者間で解釈が分かれる。 ;Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 8分の6拍子 :"Froh, wie seine Sonnen" :[[行進曲]]である。それまで沈黙を守っていた打楽器群が弱音で鳴り始め次第に音量を増し、その上を管楽器が「歓喜」の主題を変奏する。続いて、テノール独唱が「歓喜」の主題の変奏の旋律で"Froh, wie seine Sonnen"「神の計画」を歌い、それに男声三部合唱(第1テノール、第2テノール、バス)、続いて管弦楽の伴奏が力強く重ねて入ってきて一つの頂点を作る。 :シンバルやトライアングルといった[[トルコ]]起源の打楽器が使われているためこの部分を「[[トルコ行進曲#ベートーヴェン|トルコ行進曲]]」と呼ぶ事があるが、拍子も装飾の付け方も(新しい研究では恐らくテンポも)本来の[[トルコ音楽]]とはかけ離れている。『第九』の30年前にベートーヴェンの師の一人であった[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]]が[[交響曲第100番 (ハイドン)|交響曲第100番『軍隊』]]でこれらトルコ起源の打楽器を使用しており、当時の流行がうかがえるものの、時代を下るにつれ欧州各国の[[軍楽隊]]でシンバルやトライアングルは常備されるようになっていた。ベートーヴェンの後の世代となる[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]などはもはやシンバルもトライアングルも軍隊と無関係な音楽で導入している。 :高らかな男声合唱の余勢を受けて、管弦楽のみによるスケルツォ風の[[フガート]]の長い間奏が力強く奏される。それが収まったあと、全合唱が「歓喜」の主題と最初の歌詞を総括的に歌う(「第九の合唱」として最もよく聴かれる部分である)。 ;Andante maestoso ト長調 2分の3拍子 :"Seid umschlungen, Millionen!" :初めて登場するトロンボーンの旋律をなぞりながら「抱擁」の詩が合唱により、[[中世西洋音楽|中世]]の[[宗教音楽]]のように荘重に歌われる。 ;Adagio ma non troppo, ma divoto 変ロ長調 2分の3拍子 :"Ihr, stürzt nieder" :「創造主の予感」が引き続き歌われる。 ;Allegro energico, sempre ben marcato ニ長調 4分の6拍子 :"Freude, schöner Götterfunken" / "Seid umschlungen, Millionen!" :「歓喜の歌」の旋律による「歓喜」と「抱擁」の2歌詞が二重[[フーガ]]で展開される。 ;Allegro ma non tanto ニ長調 2分の2拍子 :"Freude, Tochter aus Elysium!" :独唱4人で、第1の「歓喜」の歌詞をフーガ風に歌う。それが絡み合うところに合唱が入ってきてそれを引き継ぐと、今度は逆に4人の独唱が入ってきて交替し、[[アダージョ]]で順に(ソプラノ→アルト・テノール→バリトン)3連符や16分音符で細かく余韻を持たせながら静まっていく。これ以降、独唱の部分はない。 ;Prestissimo ニ長調 2分の2拍子 :"Seid umschlungen, Millionen!" :第4楽章のクライマックスで、最もテンポが速い。自筆スコアは851小節にPrestissimoではなくPrestoを置いており、ベーレンライター版が採用した。916小節から4分の3拍子で4小節間Maestosoとなり、この曲でシラーの歌詞として冒頭に出た"Freude, schöner Götterfunken"が壮大に歌われたのち、再びPrestissimo(Presto)となり管弦楽のみの後奏で曲を閉じる。 :尚、919小節の部分オーケストラスコアでは、トライアングルにトレモロの指示があるが、実際の演奏ではトレモロ奏法されているのは少ない<ref>[[井上道義]]『第九をうたおう』〈NHK趣味講座〉([[日本放送出版協会]]、1986年)61頁で[[金子建志]]が指摘している。ベートーヴェンはトレモロの要求を"tr."と波線、あるいは斜線付きの音符という方法で書き分けている。トライアングルには自筆スコア以降斜線が二本付けられており、分割すると16分音符=ヴァイオリン2音ごとにトライアングルが一音叩く計算になる。</ref>。この演奏法は1972年5月収録の[[シカゴ交響楽団]](CSO)、[[ゲオルグ・ショルティ]]の指揮による演奏で確認できる。 :{| class="wikitable" ! || 歌詞 ||ソナタ形式としてとらえた場合 |- |叙唱 || rowspan="5" | || rowspan="2" | |- | 第1・第2・第3楽章の回想と新しい主題の着想 |- | 第1主題 ||rowspan="4" |提示部第1主題 |- |第1主題の変奏I II III |- |叙唱 |- |第1主題の変奏IV V VI VII VIII || 1番、2番、3番、4番、1番 |- | 第2主題a || 5番 || rowspan="2" |第2主題 |- |第2主題b || 6番 |- |第1主題と第2主題aの対位(変奏IX) || 1番と5番 || 再現部第1主題 |- |第2主題b || 6番 ||第2主題 |- |第1主題の変奏X ||1番 || rowspan="3" | コーダ |- |第1主題と第2主題aによる変奏(XI) ||1番と5番 |- |コーダ || |} この最終楽章に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、[[フランツ・リスト|リスト]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]などが取り入れている。 ==== 歓喜の歌 ==== {{main|歓喜の歌}} [[フリードリヒ・フォン・シラー]]が[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の理念を書いた<ref>{{Cite web |url= http://www.freimaurer-in-essen.de/cms/index.php?option=com_content&task=view&id=34&Itemid=39|title= VIII. Die "Ode an die Freude"|work= Unser Namenspatron|publisher= Freimaurerloge 'Schiller' (unter der [[:de:Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland|Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland]])|accessdate=2013-08-19}}</ref>詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté [[1785年]])が[[フランス革命]]の直後『[[ラ・マルセイエーズ]]』のメロディーでドイツの学生に歌われていた<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kamei/sam_texte/let_3b_symphonie.pdf|title= Symphonie zum Frieden 平和の交響曲|format= PDF|publisher= [[大阪教育大学]] [[亀井一|亀井]]研究室|accessdate=2013-08-19}}</ref>。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(''An die Freude'' [[初稿1785年、改稿1803年]])にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として[[1822年]]から[[1824年]]に書き直したものである。 「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である[[1808年]]の『[[合唱幻想曲]]』作品80と、[[1810年]]の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。 ===== 歌詞(ドイツ語原詞・日本語訳) ===== {{Col| <poem> {{lang|de|An die Freude ''O Freunde, nicht diese Töne!'' ''Sondern laßt uns angenehmere'' ''anstimmen und freudenvollere.'' ''(ベートーヴェン作詞)'' Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum! Deine Zauber binden wieder, (1803年改稿) Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brüder, (1785年初稿: Was der Mode Schwert geteilt; Bettler werden Fürstenbrüder,) Wo dein sanfter Flügel weilt. Wem der große Wurf gelungen, Eines Freundes Freund zu sein, Wer ein holdes Weib errungen, Mische seinen Jubel ein! Ja, wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund! Und wer's nie gekonnt, der stehle Weinend sich aus diesem Bund! Freude trinken alle Wesen An den Brüsten der Natur; Alle Guten, alle Bösen Folgen ihrer Rosenspur. Küsse gab sie uns und Reben, Einen Freund, geprüft im Tod; Wollust ward dem Wurm gegeben, und der Cherub steht vor Gott. Froh, wie seine Sonnen fliegen Durch des Himmels prächt'gen Plan, Laufet, Brüder, eure Bahn, Freudig, wie ein Held zum Siegen. Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt! Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen. Ihr stürzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schöpfer, Welt? Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen.}} </poem> | <poem> 「歓喜に寄せて」 ''おお友よ、このような音ではない!'' ''我々はもっと心地よい'' ''もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか'' ''(ベートーヴェン作詞) 歓喜よ、神々の麗しき霊感よ [[エーリュシオン|天上の楽園]]の乙女よ 我々は火のように酔いしれて 崇高な汝(歓喜)の聖所に入る 汝が魔力は再び結び合わせる (1803年改稿) 時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる (1785年初稿: 時流の刀が切り離したものを 貧しき者らは王侯の兄弟となる) 汝の柔らかな翼が留まる所で ひとりの友の友となるという 大きな成功を勝ち取った者 心優しき妻を得た者は 彼の歓声に声を合わせよ そうだ、地上にただ一人だけでも 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ そしてそれがどうしてもできなかった者は この輪から泣く泣く立ち去るがよい すべての被造物は 創造主の乳房から歓喜を飲み、 すべての善人とすべての悪人は 創造主の薔薇の踏み跡をたどる。 口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を 創造主は我々に与えた 快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ [[智天使|智天使ケルビム]]は神の御前に立つ 天の星々がきらびやかな天空を 飛びゆくように、楽しげに 兄弟たちよ、自らの道を進め 英雄のように喜ばしく勝利を目指せ 抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ! この口づけを全世界に! 兄弟よ、この星空の上に ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない 諸人よ、ひざまずいたか 世界よ、創造主を予感するか 星空の彼方に神を求めよ 星々の上に、神は必ず住みたもう </poem> }} == 版の問題 == この作品は、その斬新な作風から解釈や[[管弦楽法|オーケストレーション]]について多くの問題を含んでおり、19世紀後半の[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]{{Efn|旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は『ある指揮者の提言』で、マーラー版については『マーラーの交響曲』で詳しく紹介されている。長年マーラー自身の書き込みがある楽譜が使われて来たが、近年は校訂版もマーラーが編曲したベートーヴェンの交響曲3,5,7,9番や序曲『レオノーレ』2番、3番のJosef Weinberger版(David Pickett校訂、貸し譜のみ)が利用可能で、[[2006年]]に[[クリスチャン・ヤルヴィ]]指揮[[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]]の演奏がSACD化された。}}といった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、[[レオポルド・ストコフスキー|ストコフスキー]]、[[近衛秀麿]]、[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]なども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。 ===ベートーヴェンの本意=== また自筆[[総譜|スコア]]の他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは『[[ベートーヴェンの会話帳]]』の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。 『[[ミサ・ソレムニス]]』という更なる大曲と並行して作られ、出版や[[オーストリア帝国]]以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの[[筆跡]]判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが[[1823年]]に亡くなり、作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の[[校正]]も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。このような状況で[[1826年]]に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。[[1864年]]に出た[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる{{Efn|第1楽章81小節に行われた全集版独自の改変などはどの資料にも存在しない音形であるにもかかわらず、本格的な原典版が演奏されたときには衝撃をもって迎えられた。同じ改変が最新のハウシルト版でも分析検証の上ではあるが、採用されている。}}。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。 ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後に[[ベルリン国立図書館]]へ収められたが、国立図書館は戦後は[[東ベルリン]]に属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える[[岩城宏之]]、[[オットー・クレンペラー|クレンペラー]]などの例も有った{{Efn|有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられた[[デクレッシェンド]]の処理なども聴いて判りやすい。}}のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。 ===再解釈の時代へ=== 20世紀末になると、[[ドイツ再統一|東西ドイツの統合]]と[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、欧米各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリの[[フランス国立図書館]]、独[[ボン]]のベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。 イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デル・マーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し{{Efn|その研究を参考に音楽学者・指揮者の[[金子建志]]も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。}}、この研究は楽譜化されて[[1996年]]に[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター社]]から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にもない音形が数多く表れている点もこの版の特徴である{{Efn|この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デル・マー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デル・マー版の知名度を大いに上げたのは[[クラウディオ・アバド]]指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤(1996年)や[[デヴィッド・ジンマン]]指揮の[[チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団]]盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照して新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だったが、これらはほとんど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている。}}。 21世紀に入って、旧ベートーヴェン全集の出版社である[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|ブライトコプフ社]]もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデル・マーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている{{Efn|例えば先述の第4楽章330小節について、デル・マーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。[[クルト・マズア]]らが参照している)に従い、'''合唱以外の全楽器にデクレッシェンド'''をつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の[[朝比奈隆]]にインタビューした際「[[楽音|噪音]]の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、また[[フランツ・リスト|リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]によるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している。(『[[レコード芸術]]』2007年10月号、p164-)}}。いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も容れて編集された批判校訂版である。2020年3月にはベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集版も刊行された{{Efn|ヘンレ社は室内楽・管弦楽曲のパート譜は基本的に供給せず、新ベートーヴェン全集の管弦楽曲はヘンレ社が新全集版を刊行した数年後、校訂報告が付属しない新全集版スコアをパート譜セットと共にブライトコプフ社が販売するのが通例であったが、告知から1年遅れ、ブライトコプフ社の演奏譜はヘンレ社の校訂報告付きスコアとほとんど同時期に刊行された。ブライトコプフ社は「第九」の新版を2種類販売することになる。}}。 なお、かつて[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]で[[1986年]]秋に放送された『[[NHK趣味講座]] 第九をうたおう』では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した[[井上道義]]は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からの第1ヴァイオリンのパートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際、史料状況や編曲の実態について解説したのは[[金子建志]]であった。 [[全音楽譜出版社]]による新版スタディスコアも、その版元の変遷を明示した上で、独自の解釈を行っている<ref>[https://archive.is/nGv8I 外部リンク]</ref>。 == 前後の作品 == * 作品番号 ** 作品124 『献堂式』序曲 - '''作品125 交響曲第9番''' - 作品126 [[6つのバガテル (ベートーヴェン)|ピアノのための6つのバガテル]] * 交響曲 ** [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]] - '''交響曲第9番''' - [[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番(未完成)]] ==注釈== <references group="注釈"> </references> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 土田英三郎解説 ミニチュアスコア『ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125』[[音楽之友社]], ISBN 4-276-91936-3 *{{Cite book|和書|title=ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」(ポケットスコア)|publisher=全音楽譜出版社|author=諸井三郎 (解説)|authorlink=諸井三郎|ref={{SfnRef|諸井}}}} *{{Cite book|和書|title=ベートーヴェンの交響曲|date=2007年11月20日|publisher=[[講談社現代新書]]|author=金聖響|author2=玉木正之|ref={{SfnRef|金・玉木|2007}}}} * 児島新『ベートーヴェン研究』[[春秋社]]、ISBN 978-4-393-93174-5 * ベートーヴェン著、小松雄一郎 訳・編『ベートーヴェン書簡選集』(主に下巻)音楽之友社 * Symphony No. 9 with final chorus 'An die Freude' D minor op. 125 Ed; J. Del Mar(Barenreiter, BA9009, 2013年12月、楽譜輸入を代行する東京のアカデミア・ミュージックがベーレンライター社と共同の企画として序文・解説の[[広瀬大介]]による日本語訳が付いたスタディスコア、ヴォーカルスコアを発売した。) * Symphonie Nr. 9 d-moll op. 125 hrsg. von P. Hauschild(Breitkopf Urtext neuausgabe, PB5239) * 武川寛海『「第九」のすべて』日本放送出版協会、1977年 * [[金子建志]]『こだわり派のための名曲徹底分析「マーラーの交響曲」』音楽之友社、1994年 * 金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析 ベートーヴェンの「第九」』音楽之友社、1996年 * [[フェリックス・ワインガルトナー]]著、糸賀英憲 訳『ある指揮者の提言~ベートーヴェン交響曲の解釈』音楽之友社、1965年 * {{Cite book|和書|title=第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話|date=2011|publisher=[[幻冬舎]]|author=中川右介|ref={{SfnRef|中川|2011}}}} * {{Cite book|和書|author = 大崎滋生|year = 2019|title = ベートーヴェン 完全詳細年譜|publisher = 音楽之友社|ref = {{SfnRef|大崎|2019}} }} == 資料 == 現在では原典版編集者が用いたものと同じ資料を、インターネットを通じて複数参照することが可能となっている。 * [[ベルリン国立図書館]]収蔵の自筆スコアは、[[2001年]]の世界遺産(正確には「[[世界の記憶]]」。「世界記録遺産」とも)登録後はインターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来る。2021年にはベートーヴェンの書き込みが多数ある初版用筆写スコアの書き直し前のページ12枚、ヴィルヘルム三世に献呈された筆写スコアも、同館のサイトで閲覧可能になった。 * 初演にも使われた初版用筆写スコアはショット社が[[2003年]]に売却、ロンドン・[[サザビーズ]]の[[オークション]]で190万[[スターリング・ポンド|ポンド]](当時約310万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]=約3億6500万円)で匿名の入札者によって落札され、同社による音楽資料の落札価格最高値を更新した。こちらも[[ジュリアード音楽院]]の手稿譜コレクションとして、トロンボーンや声楽用の筆写パート譜とともにインターネットを通じて閲覧出来る。 * ベートーヴェン研究所もショット社の初版スコア/パート譜/ヴォーカルスコア(ピアノ伴奏が付いた声楽用簡易スコア)などを公開している。作品に関する書簡も解読された文面とともに公開されている。また[[フランス国立図書館]]所蔵のスケッチ断片画像にもリンクが置かれている。 * ヨーロッパ諸国に分散している自筆資料はスコアの断片、自筆パート譜にいたるまでカラー・ファクシミリに集成され、2010年ベーレンライター社から刊行された(ISBN 978-3-7618-2169-5)。原典版校訂を担ったデル・マーも序文を寄せている。 == 関連項目 == * [[フリードリヒ・フォン・シラー]] * [[ジョイフルジョイフル]] - 第4楽章の旋律をとった[[讃美歌]]。 * [[合唱幻想曲]] - 「歓喜の主題」の原型が現れている、ルーツ的存在。 * [[交響曲第8番 (シューベルト)]] - 第4楽章で歓喜の主題が引用されている。 * [[第九と皇帝]] * [[ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会]] * [[第九ひろしま]] * [[サントリー1万人の第九]] * [[国技館5000人の第九コンサート]] * [[TOKYO FM 夢の第九コンサート]] * [[世界の記憶]] * [[道の駅第九の里]] == 外部リンク == {{commonscat|Symphony No. 9 (Beethoven)}} * [http://beethoven.staatsbibliothek-berlin.de/ ベートーヴェンの交響曲第9番の手書譜] - Die Staatsbibliothek zu Berlin – Preußischer Kulturbesitz (Berlin State Library – Prussian Cultural Heritage) * [http://www.dlib.indiana.edu/variations/scores/cab4188/large/index.html ベートーヴェンの交響曲第9番の総譜 (HTML)] - IUDLP: The Indiana University Digital Library Program * [http://imslp.org/wiki/Symphony_No.9%2C_Op.125_%28Beethoven%2C_Ludwig_van%29 ベートーヴェンの交響曲第9番の総譜 (PDF)] - IMSLP: The International Music Score Library Project * [[choralwiki:Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 (Ludwig van Beethoven)|ベートーヴェンの交響曲第9番の合唱総譜 (PDF)]] - CPDL: The Choral Public Domain Library * [https://musopen.org/ja/music/2571-symphony-no-9-in-d-minor-op-125/ Symphony no.9 in D minor, Op.125] - 『[[Musopen]]』より * 『Free-scores.com』より ** [http://www.free-scores.com/download-sheet-music.php?pdf=1220 Symphony No.9 in D Minor Op.125] - 管弦楽総譜およびパート譜《[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]発行版》 ** [http://www.free-scores.com/download-sheet-music.php?pdf=3637 Symphony No.9 in D minor Op.125 (S.464)] - [[フランツ・リスト|F.リスト]]編曲によるピアノ・ソロ版 * 『Leon Levy Digital Archives』([[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィル]]公式)より ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/3b5411dc-a48c-4444-afe9-7e6fdffc7ea6-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.9 IN D MINOR, OP.125 - Score (ID:2194)] - [[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]等が実際に使用した総譜(特製)。[[ペータース (出版社)|ペータース]]発行版 ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/6cd85b1e-aad9-405a-bf0d-7a51383036ef-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.9 IN D MINOR, OP.125 - Score and Parts (ID:1666)] - バーンスタインが実際に使用した総譜およびパート譜。[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]発行版。 * [https://www.allmusic.com/composition/symphony-no-9-in-d-minor-choral-op-125-mc0002366840 Symphony No.9 in D minor ('Choral'), Op.125] - 『AllMusic』より《[[ディスコグラフィ]]一覧有り》 * [https://www.liberliber.it/online/autori/autori-b/ludwig-van-beethoven/sinfonia-n-9-in-re-minore-op-125/ Sinfonia n°9 in Re minore, Op.125]{{it icon}} - 『Liber Liber』より《[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]指揮[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]、ブルーノ・キッテル合唱団他による演奏音源(1942年3月収録)》 * [[インターネットアーカイブ]]より ** [https://archive.org/details/BEETHOVENSymphonyNo.9InDMinorOp.125Choral-NEWTRANSFER Symphony No.9 in D Minor, Op.125 'Choral'] - [[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]、ウィーン国立歌劇場合唱団他による演奏音源《1935年2月収録》 ** [https://archive.org/details/beethoven9 The Symphony No.9 in D minor, Op.125 'Choral' (1824)] - [[オットー・クレンペラー|クレンペラー]]指揮[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|コンセルトヘボウ管]]、トーンクンスト合唱団他による演奏音源《1956年5月収録》 ** [https://archive.org/details/lp-00834_BeG/lp-00834_BeG-record_1_side_A.wav lp-00834_BeG - Johannes Brahms] - [[ブルーノ・ワルター|ワルター]]指揮ニューヨーク・フィル、ウエストミンスター合唱団他による演奏音源《[https://www.classiccat.net/beethoven_l_van/125.php#mp3 歴史的録音];[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]『[[運命の歌 (ブラームス)|運命の歌]]』と共に収録》 * [http://itunes.apple.com/us/app/beethovens-9th-symphony/id601942399?mt=8 Beethoven's 9th Symphony] - iPhoneおよびiPad向けアプリ《iOSのバージョンが9.0以降であることが必要》 * [https://web.archive.org/web/20140110141353/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/690053/index.html 「NHKアーカイブス」 - 響け!歓喜の歌〜日本人と第九〜 -] 第九が年末に演奏されるようになった経緯を解説。 * [https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201118-OYT1T50244/ 初めは失敗作だった「第九」…当初の演奏会、何があったのか] [[読売新聞]] 2020年11月19日 {{ベートーヴェンの交響曲}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうきようきよく9 へとうえん}} [[Category:交響曲第9番 (ベートーヴェン)|!]] [[Category:ベートーヴェンの交響曲|*09]] [[Category:声楽を伴う交響曲|へとうえん9]] [[Category:合唱曲]] [[Category:ニ短調]] [[Category:1824年の楽曲]] [[Category:楽曲 こ|うきようきよく09 へとうえん]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:フリードリヒ・フォン・シラーの作品に基づく音楽作品]] [[Category:ドイツ語の楽曲]] [[Category:ロイヤル・フィルハーモニック協会の委嘱作品]]
2003-09-07T04:41:39Z
2023-12-25T04:57:03Z
false
false
false
[ "Template:仮リンク", "Template:Multiple image", "Template:Ill", "Template:Cite book", "Template:ベートーヴェンの交響曲", "Template:Listen", "Template:External media", "Template:Efn", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:Commonscat", "Template:Redirectlist", "Template:Sfn", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Normdaten", "Template:Harvnb", "Template:Portal クラシック音楽", "Template:Lang-de", "Template:Quotation", "Template:管弦楽編成", "Template:Main", "Template:Col", "Template:脚注ヘルプ", "Template:It icon" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)
15,500
平岩弓枝
平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、1932年3月15日 - 2023年6月9日)は、日本の小説家、脚本家。長谷川伸門下。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。 東京・代々木にある代々木八幡宮の宮司の一人娘として生まれた。渋谷区立富谷小学校を経て、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、伯母の実家がある福井県に疎開し。そこでは福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)に通っていた。 戦後、東京に戻り日本女子大学附属高等学校に通い、そこで友人らと演劇部を結成して『安寿と厨子王』などをもとにした脚本を執筆・上演した。なおその頃の同期には河内桃子などがいた。1955年(昭和30年)に日本女子大学国文科を卒業した平岩は戸川幸夫に師事、その後長谷川伸主宰の新鷹会に入会。同門の先輩の伊東昌輝と結婚した。伊東は平岩家の婿養子となり平岩昌利に改名し、代々木八幡宮の宮司を務める。娘の平岩小枝(こずえ)は代々木八幡宮の禰宜を務める。 1959年(昭和34年)、『鏨師』が第41回直木賞を受賞。1974年(昭和49年)には『御宿かわせみ』を発表し、その後も同シリーズの作品を次々と発表して30年以上にわたるベストセラーシリーズとした。 それと平行してTBS系テレビドラマ『ありがとう』シリーズ、『肝っ玉かあさん』シリーズ、TBS系東芝日曜劇場『女と味噌汁』シリーズ、『下町の女』シリーズやNHK大河ドラマ『新・平家物語』を始めとするテレビドラマの代表作や演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。 2023年6月9日、間質性肺炎により東京都内の病院で死去した。91歳没。死没日付をもって従三位に叙された。翌7月に『平岩弓枝「御宿かわせみ」の世界』(文春ムック:オール讀物責任編集、文藝春秋)が追悼刊行された。11月8日、都内でお別れの会が行われた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、1932年3月15日 - 2023年6月9日)は、日本の小説家、脚本家。長谷川伸門下。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京・代々木にある代々木八幡宮の宮司の一人娘として生まれた。渋谷区立富谷小学校を経て、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、伯母の実家がある福井県に疎開し。そこでは福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)に通っていた。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "戦後、東京に戻り日本女子大学附属高等学校に通い、そこで友人らと演劇部を結成して『安寿と厨子王』などをもとにした脚本を執筆・上演した。なおその頃の同期には河内桃子などがいた。1955年(昭和30年)に日本女子大学国文科を卒業した平岩は戸川幸夫に師事、その後長谷川伸主宰の新鷹会に入会。同門の先輩の伊東昌輝と結婚した。伊東は平岩家の婿養子となり平岩昌利に改名し、代々木八幡宮の宮司を務める。娘の平岩小枝(こずえ)は代々木八幡宮の禰宜を務める。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)、『鏨師』が第41回直木賞を受賞。1974年(昭和49年)には『御宿かわせみ』を発表し、その後も同シリーズの作品を次々と発表して30年以上にわたるベストセラーシリーズとした。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "それと平行してTBS系テレビドラマ『ありがとう』シリーズ、『肝っ玉かあさん』シリーズ、TBS系東芝日曜劇場『女と味噌汁』シリーズ、『下町の女』シリーズやNHK大河ドラマ『新・平家物語』を始めとするテレビドラマの代表作や演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2023年6月9日、間質性肺炎により東京都内の病院で死去した。91歳没。死没日付をもって従三位に叙された。翌7月に『平岩弓枝「御宿かわせみ」の世界』(文春ムック:オール讀物責任編集、文藝春秋)が追悼刊行された。11月8日、都内でお別れの会が行われた。", "title": "来歴・人物" } ]
平岩 弓枝は、日本の小説家、脚本家。長谷川伸門下。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。
{{Infobox 作家 | name = 平岩 弓枝<br />(ひらいわ ゆみえ) | image = Hiraiwa(2).png | image_size = <!-- 画像サイズ --> | caption = 文化勲章受章に際して公表された肖像写真 | birth_date = {{生年月日と年齢|1932|3|15|no}} | birth_place = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]渋谷<br/>(現:[[東京都]][[渋谷区]]) | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1932|3|15|2023|6|9}} | death_place = {{JPN}} [[東京都]] | occupation = [[小説家]]<br/>[[脚本家]] | nationality = {{JPN}} | period = | genre = [[時代小説]]、[[現代小説]]、[[推理小説]] | subject = | movement = | notable_works = '''小説'''<br />『鏨師』(1959年)<br />『[[女の顔 (平岩弓枝の小説)|女の顔]]』(1969年 - 1970年)<br />『[[御宿かわせみ]]』シリーズ(1974年 - 2006年)<br />『花影の花』(1990年)<br />『西遊記』(2007年)<br />'''ドラマ脚本'''<br />『[[ありがとう (テレビドラマ)|ありがとう]]』シリーズ(1970年 - 1973年)<br />『[[肝っ玉かあさん]]』シリーズ(1968年 - 1972年)<br />『[[女と味噌汁]]』シリーズ(1965年 - 1980年)<br />『[[下町の女]]』シリーズ(1970年 - 1974年)<br />『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』(1972年) | awards = [[直木三十五賞]](1959年)<br />[[NHK放送文化賞]](1979年)<br />[[吉川英治文学賞]](1991年)<br />[[紫綬褒章]](1997年)<br />[[菊池寛賞]](1998年)<br />[[文化功労者]](2004年)<br />[[毎日芸術賞]](2008年)<br />[[文化勲章]](2016年)<br />叙[[従三位]](2023年・没時叙位) | debut_works = }} '''平岩 弓枝'''(ひらいわ ゆみえ、[[1932年]][[3月15日]] - [[2023年]][[6月9日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[脚本家]]。[[長谷川伸]]門下。[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。位階は[[従三位]]。 『鏨師』(たがねし)で[[直木賞]]を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『[[御宿かわせみ]]』シリーズ、『[[はやぶさ新八御用帳]]』シリーズなどがある。 == 来歴・人物 == [[ファイル:Yumie Hiraiwa (1939).jpg|thumb|150px|幼い頃の平岩([[1939年]]([[昭和]]14年)頃)]] 東京・[[代々木]]にある[[代々木八幡宮]]の[[宮司]]の一人娘として生まれた。[[渋谷区立富谷小学校]]を経て<ref>{{Cite web|和書|title=卒業生 紹介 #1 | 富谷小学校同窓会 |url=https://tomisyo-ob.com/2021/05/14/%e5%8d%92%e6%a5%ad%e7%94%9f-%e7%b4%b9%e4%bb%8b/ |website=富谷小学校同窓会 |access-date=2022-11-06 |language=ja}}</ref>、[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)、伯母の実家がある[[福井県]]に疎開し<ref name="yomi1216">『[[読売新聞]]』 [[2010年]][[12月16日]]付朝刊、13版、11面</ref>。そこでは福井高等女学校(現在の[[福井県立藤島高等学校]])に通っていた<ref name="yomi1216"/>。 戦後、東京に戻り[[日本女子大学附属中学校・高等学校|日本女子大学附属高等学校]]に通い、そこで友人らと演劇部を結成して『[[安寿と厨子王]]』などをもとにした脚本を執筆・上演した<ref name="yomi1218">『[[読売新聞]]』 [[2010年]][[12月18日]]付朝刊、13版、14面</ref>。なおその頃の同期には[[河内桃子]]などがいた<ref name="yomi1218"/>。[[1955年]]([[昭和]]30年)に[[日本女子大学]]国文科を卒業した平岩は[[戸川幸夫]]に師事、その後[[長谷川伸]]主宰の[[新鷹会]]に入会。同門の先輩の[[伊東昌輝]]と結婚した<ref name="yomi1216"/>。伊東は平岩家の[[婿養子]]となり平岩昌利に改名し、代々木八幡宮の宮司を務める。娘の平岩小枝(こずえ)は代々木八幡宮の[[禰宜]]を務める。 [[1959年]]([[昭和]]34年)、『鏨師』が第41回[[直木賞]]を受賞。[[1974年]]([[昭和]]49年)には『[[御宿かわせみ]]』を発表し、その後も同シリーズの作品を次々と発表して30年以上にわたるベストセラーシリーズとした。 それと平行して[[TBSテレビ|TBS]]系[[テレビドラマ]]『[[ありがとう (テレビドラマ)|ありがとう]]』シリーズ、『[[肝っ玉かあさん]]』シリーズ、[[TBSテレビ|TBS]]系[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]『[[女と味噌汁]]』シリーズ、『[[下町のおんなシリーズ・風子|下町の女]]』シリーズや[[NHKテレビ|NHK]]大河ドラマ『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』を始めとするテレビドラマの代表作や演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している<ref name="yomi1216"/>。 [[2023年]][[6月9日]]、[[間質性肺炎]]により東京都内の病院で死去した<ref>{{Cite web|和書|title=作家の平岩弓枝氏死去、91歳|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023061800180&g=soc|website=時事ドットコム|date=2023-6-18|accessdate=2023-6-18}}</ref><ref>{{cite news2|url=https://www.sankei.com/article/20230618-OPWQL445Z5ORLLVTCHBFVP2B64/|title=作家、脚本家の平岩弓枝さん死去 時代小説「御宿かわせみ」、ドラマ「ありがとう」|newspaper=産経ニュース|agency=産経デジタル|date=2023-06-18|accessdate=2023-06-18}}</ref>。{{没年齢|1932|3|15|2023|6|9}}。死没日付をもって[[従三位]]に叙された<ref>『官報』第1021号8頁 令和5年7月18日</ref><ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023070700987 故平岩弓枝さんに従三位] - 時事ドットコム 2023年7月7日</ref>。<br/>翌7月に『平岩弓枝「御宿かわせみ」の世界』(文春ムック:[[オール讀物]]責任編集、文藝春秋)が追悼刊行された。<br/>11月8日、都内でお別れの会が行われた。 == 年表 == [[File:Kyoga no Komusume Dojoji played by Japanese writers.JPG|thumb|200px|『[[週刊文春]]』 1959年12月14日号文春歌舞伎『[[娘道成寺|京鹿子娘道成寺]]』の一場面。右から、[[加藤芳郎]]、平岩弓枝、[[小山いと子]]、[[芝木好子]]、[[五味康祐]]、[[平林たい子]]、[[森田たま]]]] * 1959年(昭和34年)-『鏨師』で第41回[[直木賞]] * 1979年(昭和54年)- 第30回[[NHK放送文化賞]] * 1986年(昭和61年)- 第12回[[菊田一夫演劇賞]]大賞 * 1989年(平成元年)- 第9回日本文芸大賞 * 1990年(平成2年)-『花影の花』で第25回[[吉川英治文学賞]] * 1997年(平成9年)- [[紫綬褒章]] * 1998年(平成10年)- 第46回[[菊池寛賞]] * 2004年(平成16年)- [[文化功労者]] * 2006年(平成18年)- 渋谷区[[名誉区民]]<ref>{{Cite web|和書|title=渋谷区名誉区民|website=渋谷区|url=https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/ku/meiyokumin.html|accessdate=2022-07-13}}</ref> * 2008年(平成20年)-『西遊記』で[[毎日芸術賞]]。7月[[日本経済新聞]]に『[[私の履歴書]]』を1か月間にわたり連載。 * 2010年(平成22年)-1987年から務めていた直木賞の選考委員はこの年で退任している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG1501J_V10C10A3000000/ |title=平岩・五木両氏、直木賞の選考委員を退任 |date=2010-03-15 | publisher=日本経済新聞 |archiveurl=https://archive.ph/wip/qJPwd |archivedate=2021-03-13 |accessdate=2021-03-13}}</ref>。 * 2015年(平成27年)- 2009年1月(選考が2008年暮れに行われ1月1日に授与される回)(第50回)から務めていた毎日芸術賞の選考委員はこの年1月授与の第56回で退任している * 2016年(平成28年)- [[文化勲章]] <ref><!-- {{cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJBT543RJBTUCVL01D.html|title=文化勲章に6人決まる 大隅良典氏や草間彌生氏ら|newspaper=朝日新聞|date=2016-10-28|accessdate=2016-10-28}} -->{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASJBT543RJBTUCVL01D.html|title=文化勲章に6人決まる 大隅良典氏や草間彌生氏ら|accessdate=2022-06-03|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date = 2016/10/28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201204182040/https://www.asahi.com/articles/ASJBT543RJBTUCVL01D.html|archivedate=2020年12月4日|ref=|deadlinkdate=2022年6月}}</ref> * 2018年(平成30年)- 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館において「作家・平岩弓枝展」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=渋谷区と同い年、実家は代々木八幡宮……作家・平岩弓枝氏の足跡を辿る |url=https://bunshun.jp/articles/-/9450 |website=文春オンライン |access-date=2022-11-07 |last=「週刊文春」編集部}}</ref>。 * 2020年(令和2年)- 2000年第34回から務めていた[[吉川英治文学賞]]の選考委員はこの年第54回(受賞作なし)で退任。 * 2023年(令和5年)- [[間質性肺炎]]のため東京都内の病院で死去。91歳没。叙[[従三位]]。 == 著作リスト == === 小説 === *『鏨師』新小説社、1959年 のち[[文春文庫]] *『美女誕生』[[角川書店]] 1960年 *『[[その道は行き止り]]』東京文芸社 1961年 のち「女の足音」[[中公文庫]] *『黒い扇』東京文芸社 1961年 のち[[角川文庫]] *『アキとマキの愛の交換日記』正続 [[集英社]] 1966年-1967年 のち文庫コバルト *『若い真珠』集英社 1966年 のち文庫コバルト、[[文春文庫]] *『旅路』第1-3部 東京文芸社 1967年-1968年(NHK朝の連続テレビ小説『[[旅路 (1967年のテレビドラマ)|旅路]]』原作)のち角川文庫 *『信号は青』集英社(コバルト・ブックス)1967年 のち文庫コバルト *『海とみさきの青春』集英社(コバルト・ブックス)1967年 のち文庫コバルト *『女と味噌汁』現文社(シスター・ブックス)1967年 のち集英社文庫 *『赤絵獅子』[[人物往来社]](歴史小説選書)1967年 *『華やかな魔獣』集英社(コンパクト・ブックス)1967年 のち文庫 *『がんばれ良比古ちゃん』[[主婦と生活社]] 1968年 *『おんなみち』[[講談社]] 1969年 のち文庫 *『十二年目の初恋』東京文芸社 1969年 *『花房一平捕物夜話』東京文芸社 1969年 *『若い海峡』集英社(コバルト・ブックス)1969年 のち文庫コバルト、文春文庫  *『[[女の顔 (平岩弓枝)|女の顔]]』[[文藝春秋]] 1970年 のち文庫 *『[[日野富子]]』[[読売新聞社]] 1971年 *『藍の季節』文藝春秋、1971年 のち文庫 *『親なし子なし』[[毎日新聞社]] 1971年 *『[[肝っ玉かあさん]]』文藝春秋 1971年 のち文庫(テレビドラマ原作) *『かまくら三国志』文藝春秋 1972年 のち文庫 *『花嫁の日』講談社 1972年 のち文庫 *『下町の女』文藝春秋 1972年 のち文庫 *『花のながれ』文藝春秋 1972年 のち文庫 *『彩の女』文藝春秋 1973年 のち文庫 *『あした天気に』文藝春秋 1973年-1974年 のち文庫 *『夜の桜』東京文芸社 1973年 *『湯の宿の女』東京文芸社 1974年 のち角川文庫 *『女の気持』[[中央公論社]] 1974年 のち文庫 * [[御宿かわせみ]]シリーズ *#『御宿かわせみ』毎日新聞社 1974年 のち文春文庫 *#『江戸の子守唄』毎日新聞社 1975年 同 *#『水郷から来た女』毎日新聞社、1977年 同 *#『山茶花は見た』毎日新聞社、1977年 同 *#『幽霊殺し』文藝春秋、1982年 のち文庫 *#『狐の嫁入り』文藝春秋、1983年 同 *#『酸漿は殺しの口笛』文藝春秋、1986年 同 *#『白萩屋敷の月』文藝春秋、1986年 同 *#『一両二分の女』文藝春秋、1987年 同 *#『閻魔まいり』文藝春秋、1988年 同 *#『二十六夜待の殺人』文藝春秋、1988年 同 *#『夜鴉おきん』文藝春秋、1989年 同 *#『鬼の面』文藝春秋、1989年 同 *#『神かくし』文藝春秋、1990年 同 *#『恋文心中』文藝春秋、1990年 同 *#『八丁堀の湯屋』文藝春秋、1991年 同 *#『雨月』文藝春秋、1992年 同 *#『秘曲』文藝春秋、1993年 同 *#『かくれんぼ』文藝春秋、1994年 同 *#『お吉の茶碗』文藝春秋、1995年 同 *#『犬張子の謎』文藝春秋、1996年 同 *#『清姫おりょう』文藝春秋、1996年 同 *#『源太郎の初恋』文藝春秋、1997年 同 *#『春の高瀬舟』文藝春秋、1998年 同 *#『宝船まつり』文藝春秋、1999年 同 *#『長助の女房』文藝春秋、1999年 同 *#『横浜慕情』文藝春秋、2000年 同 *#『佐助の牡丹』文藝春秋、2001年 同 *#『初春弁財船』文藝春秋、2001年 同 *#『鬼女の花摘み』文藝春秋、2002年 同 *#『江戸の精霊流し』文藝春秋、2003年 同 *#『十三歳の仲人』文藝春秋、2004年 同 *#『小判商人』文藝春秋、2005年 同 *#『浮かれ黄蝶』文藝春秋、2006年 同 *#『[[新・御宿かわせみ]]』文藝春秋 2008年 同 *#『華族夫人の忘れもの 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2008年 同 *#『花世の立春 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2010年 同 *#『蘭陵王の恋 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2013年 同 *#『千春の婚礼 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2015年 同 *#『お伊勢まいり 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2016年 同 *#『青い服の女 新・御宿かわせみ』文藝春秋 2017年 同 *『へんこつ』文藝春秋 1975年 のち文庫([[曲亭馬琴]]が主役) *『この町の人』文藝春秋 1975年 のち集英社文庫(テレビドラマ原作) *『女の四季』東京文芸社 1975年 のち角川文庫 *『花天女』中央公論社 1975年 のち文庫 *『ハサウェイ殺人事件』東京文芸社 1975年 のち集英社文庫(短編集) *『密通』東京文芸社 1975年 のち角川文庫 *『女ぶり』文芸社 1976年 *『女の旅』文藝春秋 1976年 のち文庫 *『結婚のとき』講談社 1976年 のち文庫 *『絵島の恋』東京文芸社 1977年 *『女の河』文藝春秋 1977年(テレビドラマ原作)新装版 上下 2013年 *『小さくとも命の花は』文藝春秋 1977年 のち文庫 *『やきもの師』東京文芸社 1977年 のち集英社文庫 *『五月の女』文藝春秋 1977年 のち文庫 *『女の家庭』[[主婦の友社]] 1978年 のち文春文庫 *『風子(ふうこ)』[[新潮社]] 1978年 のち文庫(テレビドラマ原作) *『結婚の四季』講談社 1978年 のち文庫 *『火の航跡』[[朝日新聞社]] 1978年 のち文春文庫 *『日蔭の女』文藝春秋 1978年 のち文庫 *『呪いの家 花房一平シリーズ』東京文芸社 1978年 「釣女」「女櫛」集英社文庫 *『女の幸福』文藝春秋 1978年 のち文庫 *『日本のおんな』新潮社 1979年 のち文庫 *『午後の恋人』文藝春秋 1979年 のち文庫 *『わたしは椿姫』講談社 1979年 のち文庫(短編集) *『他人の花は赤い』文藝春秋 1979年 のち文庫 *『女のそろばん』読売新聞社 1979年 のち集英社文庫 *『風の墓標』新潮社 1979年 のち文庫 *『江戸の娘』東京文芸社 1979年 のち角川文庫 *『女たちの家』文藝春秋 1980年 のち文庫 *『女たちの海峡』文藝春秋 1981年 のち文庫 *『天の花地の星 日本のおんな』新潮社 1981年 のち文庫 *『花の影』文藝春秋 1981年 のち文庫 *『花祭』講談社 1981年 のち文庫 *『結婚飛行』集英社 1981年 のち文庫 *『色のない地図』文藝春秋 1981年 のち文庫 *『風祭』[[角川書店]] 1983年 のち文庫 *『花ホテル』新潮社 1983年 のち文庫 *『湖水祭』[[サンケイ出版]] 1983年 のち文春文庫 *『橋の上の霜』新潮社 1984年 のち文庫 *『祝婚歌』文藝春秋 1985年 のち文庫 *『青の伝説』講談社 1985年 のち文庫 *『白い序章』中央公論社 1985年 のち文庫 *『青の回帰』講談社 1985年 のち文庫 *『女の暦』東京文芸社 1986 *『紅梅館おとせ』東京文芸社 1986年 *『青の背信』講談社 1986年 のち文庫 *『葡萄街道の殺人』角川書店 1986年 のち文庫 *『三味線お千代』東京文芸社 1986年 *『ありがとう』東京文芸社 1986年 *『青い華火』東京文芸社 1987年 *『ちっちゃなかみさん』角川文庫 1987年 *『秋色』文藝春秋 1987年 のち文庫 *『ふたりで探偵』新潮社 1987年 のち文庫 *『平岩弓枝自選長篇全集』全15巻 文藝春秋 1987年-1989年 *『パナマ運河の殺人』角川書店 1988年 のち文庫 *『春の砂漠』文藝春秋 1988年 のち文庫 *『火宅の女-[[春日局]]』角川書店 1988年 のち文庫 *『芸能社会』読売新聞社 1989年 のち文春文庫 * はやぶさ新八シリーズ **『[[はやぶさ新八御用帳]]』講談社、のち文庫 **#『大奥の恋人』1989年 **#『江戸の海賊』1989年 **#『又右衛門の女房』1991年 **#『鬼勘の娘』1992年 **#『御守殿おたき』1993年 **#『春月の雛』1994年 **#『寒椿の寺』1996年 **#『春怨根津権現』1997年 **#『王子稲荷の女』1998年 **#『幽霊屋敷の女』1999年 **『はやぶさ新八御用旅』講談社、のち文庫 **#『東海道五十三次』2001年 **#『中仙道六十九次』2002年 **#『日光例幣使道の殺人』2004年 **#『北前船の事件』2006年 *『犬のいる窓』毎日新聞社 1990年 のち文春文庫 *『[[千姫]]様』角川書店 1990年 のち文庫 *『花影の花 大石内蔵助の妻』新潮社 1990年 のち文庫 *『嵯峨御絵巻』角川書店 1992年 *『絹の道』文藝春秋 1993年 のち文庫 *『お夏清十郎』新潮社 1993年 のち文庫 *『五人女捕物くらべ』講談社 1994年 のち文庫 *『セイロン亭の謎』中央公論社 1994年 のち新潮文庫 *『水鳥の関』文藝春秋、1996年 のち文庫 *『風よヴェトナム』新潮社 1998年 のち文庫 *『幸福の船』新潮社 1998年 のち文庫 *『妖怪』文藝春秋 1999年 「鳥居耀蔵」文庫 *『平安妖異伝』新潮社 2000年 のち文庫 *『獅子の座 足利義満伝』[[中央公論新社]] 2000年 のち文春文庫 *『魚の棲む城』新潮社 2002年 のち文庫 *『うらしま 復刊』 (復刊・日本の名作絵本)新井勝利 絵、岩崎書店 2002年 *『道長の冒険 平安妖異伝』新潮社 2004年 のち文庫 *『聖徳太子の密使』新潮社 2009年 のち文庫  *『ベトナムの桜』[[毎日新聞出版]] 2015年 === 映画脚本 === *『[[青幻記]] 遠い日の母は美しく』1973年(成島東一郎、伊東昌輝との共同脚本) === 主なドラマ脚本 === * [[明治の女]]([[1963年]]([[昭和]]37年)に東芝日曜劇場で放送された[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・[[長谷川伸]]の脚本を担当) * [[女と味噌汁]]シリーズ([[1965年]]([[昭和]]39年)から[[1980年]]([[昭和]]55年)まで東芝日曜劇場で全38話放送された[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・脚本を担当) * [[肝っ玉かあさん]]シリーズ([[1968年]]([[昭和]]43年)から[[1972年]]([[昭和]]47年)まで全3シリーズ放送された[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・脚本を担当) * [[ありがとう (テレビドラマ)|ありがとう]]シリーズ([[1970年]]([[昭和]]45年)から[[1975年]]([[昭和]]50年)まで全4シリーズ[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・脚本を担当) * [[下町の女]]シリーズ([[1970年]]([[昭和]]45年)から[[1974年]]([[昭和]]49年)まで東芝日曜劇場で全8話放送された[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・脚本を担当) * [[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]([[1972年]]([[昭和]]47年)に放送された[[NHKテレビ|NHK]]のテレビ大河ドラマ第10作目、脚本を担当、原作は[[吉川英治]]) * [[この町の人]]([[1975年]]([[昭和]]50年)で土曜ドラマ枠で放送された[[NHKテレビ|NHK]]のテレビドラマ作目、原作・脚本を担当)放送された[[NHKテレビ|NHK]]のテレビドラマ、原作・脚本を担当) * [[明日がござる]]([[1975年]]([[昭和]]50年)に1年間放送された[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ、原作・脚本・主題歌の作詞を担当) * [[平岩弓枝ドラマシリーズ]]([[1977年]]([[昭和]]52年)から[[1985年]]([[昭和]]60年)まで放送された[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のドラマシリーズ。原作だけでなく脚本も担当した) {{-}} === 随筆 === *『お宮のゆみちゃん』現文社 1967年 のち文春文庫、中公文庫 *『旅路の旅』[[朝日ソノラマ]] 1969年 のち中公文庫 *『女らしいということ 心を奪う魅力と知恵』[[大和書房]] 1970年 のち文庫 *『愛するひとができたら 妻となる日の心得』大和書房 1971年 *『女らしさの知恵 “ごめんなさい”と素直に言える心』[[祥伝社]](ノン・ブック)1977年「女らしいということ」大和文庫 *『わたしの[[万葉集]]』大和書房 1986年 のち[[新潮文庫]] *『水曜日のひとりごと』毎日新聞社 1987年 のち文春文庫 *『女性のための外国旅行』ミリオン書房 1990年 *『窓のむこうに』[[広済堂出版]] 1995年 のち新潮文庫 *『極楽とんぼの飛んだ道 私の半生、私の小説』講談社 1999年 のち文庫 *『ものは言いよう』講談社 2000年 のち文庫 *『老いること暮らすこと』講談社 2003年 のち文庫 *『なかなかいい生き方』講談社 2007年 のち文庫  *『私の履歴書』[[日本経済新聞出版社]] 2008年 *『東京暮らし江戸暮らし』講談社 2012年 *『噓かまことか』文藝春秋 2021年 === 共著編 === *『花平家物語』[[相馬大]]共著 光村推古書院 1981年 *『隣の花はなぜ赤い』[[伊東昌輝]]共著 学習研究社 1979年 「茶の間の人間学」ケイブンシャ文庫 *『伴侶の死』(編)文藝春秋 2001年 のち文庫 *『「御宿かわせみ」読本』(編)文春文庫 2003年 *『「京味」の十二か月』[[西健一郎]]共著 文藝春秋 2009年 === 現代語訳・再話 === [[File:Chinsetsu Yumiharizuki - Sutemaru shooting down a bird in flight Cropped.jpg|thumb|150px|[[曲亭馬琴]] 著(1807 - 1811年刊)『椿説弓張月』平岩弓枝 学研〈現代語訳 日本の古典20〉1981年4月20日島烏を射抜く舜天丸。]] *『[[椿説弓張月]]』(曲亭馬琴原作)[[学習研究社]](日本の古典ノベルス)1982年 のち文庫 *『[[南総里見八犬伝]]』(曲亭馬琴原作)中央公論社 1993年 のち文庫 *『太平記』(少年少女古典文学館 第14巻)講談社 1994年 *『[[西遊記]]』([[呉承恩]]原作)毎日新聞社 2007年 のち文春文庫  *『椿説弓張月 私家本』新潮社 2014年 のち文庫 === 作詞 === * [[梶光夫]]・[[高田美和]]「アキとマキ/空と海と白い船」作曲:[[山本丈晴]](1966年2月 [[日本コロムビア]] SAS-647) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{NHK人物録|D0009072070_00000}} {{毎日芸術賞}} {{直木賞|第41回}} {{吉川英治文学賞|第25回}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひらいわ ゆみえ}} [[Category:平岩弓枝|*]] [[Category:日本の女性小説家]] [[Category:日本の歴史小説家]] [[Category:女性歴史小説家]] [[Category:日本の女性脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:日本のテレビの脚本家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の脚本家]] [[Category:21世紀日本の脚本家]] [[Category:20世紀日本の女性随筆家]] [[Category:21世紀日本の女性随筆家]] [[Category:従三位受位者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:文化功労者]] [[Category:直木賞受賞者]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:文学士取得者]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:日本女子大学出身の人物]] [[Category:福井県立藤島高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:2023年没]]
2003-09-07T04:45:16Z
2023-12-12T11:59:40Z
false
false
false
[ "Template:-", "Template:脚注ヘルプ", "Template:吉川英治文学賞", "Template:NHK紅白歌合戦審査員", "Template:Cite news2", "Template:NHK人物録", "Template:毎日芸術賞", "Template:直木賞", "Template:Infobox 作家", "Template:没年齢", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A9%E5%BC%93%E6%9E%9D
15,501
電力流通
電力流通(でんりょくりゅうつう)とは、需要家に適切な電力を供給するため、システムの構築とその運用を行うことである。 電力需要が社会の状況によって変化し、また、電力系統の構築には長期間の多額の投資が必要であるので長期的視野で対応しなければならない。 電力需要の長期予想を行う場合、景気動向や一般家庭の生活スタイルの変化など多くの要素を見積もる必要がある。また、エネルギー需給・環境問題は地球規模での検討が必要である。 予備力を確保した上で予想された電力需要をまかなうのに必要な電力系統を構築しなければ産業活動・市民生活に重大な支障をきたす。また、発電所・送電系統・変電所の整備には多額の投資が必要であり、地元の反対運動などで長い期間を要することが多い。 そのため、電力設備整備計画には、認可制度や補助金などで国の関与も大きい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電力流通(でんりょくりゅうつう)とは、需要家に適切な電力を供給するため、システムの構築とその運用を行うことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "電力需要が社会の状況によって変化し、また、電力系統の構築には長期間の多額の投資が必要であるので長期的視野で対応しなければならない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "電力需要の長期予想を行う場合、景気動向や一般家庭の生活スタイルの変化など多くの要素を見積もる必要がある。また、エネルギー需給・環境問題は地球規模での検討が必要である。", "title": "電力需要の長期予想" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "予備力を確保した上で予想された電力需要をまかなうのに必要な電力系統を構築しなければ産業活動・市民生活に重大な支障をきたす。また、発電所・送電系統・変電所の整備には多額の投資が必要であり、地元の反対運動などで長い期間を要することが多い。", "title": "電力設備整備計画" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "そのため、電力設備整備計画には、認可制度や補助金などで国の関与も大きい。", "title": "電力設備整備計画" } ]
電力流通(でんりょくりゅうつう)とは、需要家に適切な電力を供給するため、システムの構築とその運用を行うことである。 電力需要が社会の状況によって変化し、また、電力系統の構築には長期間の多額の投資が必要であるので長期的視野で対応しなければならない。
{{出典の明記|date=2012年10月}} '''電力流通'''(でんりょくりゅうつう)とは、需要家に適切な[[電力]]を供給するため、[[システム]]の構築とその運用を行うことである。 電力需要が社会の状況によって変化し、また、[[電力系統]]の構築には長期間の多額の投資が必要であるので長期的視野で対応しなければならない。 == 電力需要の長期予想 == 電力需要の長期予想を行う場合、景気動向や一般家庭の生活スタイルの変化など多くの要素を見積もる必要がある。また、[[エネルギー]]需給・[[環境問題]]は地球規模での検討が必要である。 == 電力設備整備計画 == [[供給予備力|予備力]]を確保した上で予想された電力需要をまかなうのに必要な電力系統を構築しなければ産業活動・市民生活に重大な支障をきたす。また、[[発電所]]・送電系統・[[変電所]]の整備には多額の投資が必要であり、地元の反対運動などで長い期間を要することが多い。 そのため、電力設備整備計画には、認可制度や[[補助金]]などで国の関与も大きい。 == 関連項目 == * [[電力系統]] * [[発電設備の運用]] * [[電気工作物]] * [[送電線]] * [[発電]]・[[発電所]]・[[発電機]] * [[変電]]・[[変電所]]・[[変電設備]] * [[送電]]・[[電線路]] * [[配電]]・[[受電設備]] * [[電力自由化]] * [[スマートグリッド]] {{Tech-stub}} {{DEFAULTSORT:てんりよくりゆうつう}} [[Category:電力流通|*]]
null
2022-03-23T15:36:08Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Tech-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E6%B5%81%E9%80%9A
15,504
朝日放送グループホールディングス
朝日放送グループホールディングス株式会社(あさひほうそうグループホールディングス、英: ASAHI BROADCASTING GROUP HOLDINGS CORPORATION)は、日本の認定放送持株会社。 傘下に、地上デジタルテレビ放送事業を行う朝日放送テレビ、AMラジオ放送事業を行う朝日放送ラジオ、CSデジタル放送事業を行うスカイAなどを有する。 1951年(昭和26年)3月15日に「朝日放送株式会社」として設立。同年11月11日に日本で3番目のAMラジオ放送を開始し、1956年12月1日には同社が設立に関わった大阪テレビ放送が西日本で初となるテレビ本放送を開始する。その後、郵政大臣からの勧告により、大阪テレビ放送と合併し、1959年6月1日、「朝日放送テレビ」としてテレビ放送を開始した。以降、2018年3月31日まで中波放送(AM放送)とテレビジョン放送を同一法人で行う兼営局(ラテ兼営局)であった。 2018年4月1日、テレビ・ラジオの放送免許・放送事業全般の業務を新設した事業子会社(朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ)に承継し、商号を「朝日放送グループホールディングス株式会社」に変更。認定放送持株会社へと移行した(詳細は後述)。 兼営局時代より、略称であるABC(エービーシー)と呼称されることが多い。日本の放送局では初めて国際環境規格「ISO14001」を認証取得(2001年3月23日)。これをきっかけに、系列局のテレビ朝日・名古屋テレビ放送・瀬戸内海放送などもISO14001を認証取得した。 朝日新聞社系列であり、同社主導で開局した最初の放送局である。人材交流も盛んで、ABC所属社員が朝日新聞に、逆に朝日新聞所属社員がABCにそれぞれ出向社員として派遣されることもある。中村鋭一、堀江政生、高橋大作のように、アナウンサーが朝日新聞記者となった例もある。 放送局を取り巻く状況として、コンテンツビジネスの環境変化が起きており、インターネットやスマートフォンの技術革新による視聴環境、メディアへの接触や視聴者の生活スタイルが大きく変化している。また、動画配信や4K・8Kといった技術革新、放送以外の多様性、コンテンツの海外輸出、インバウンドビジネスなどの急激な変化にも適応していく必要がある。 こうした状況を受け、朝日放送では、2016年4月に中間持株会社のABCフロンティアホールディングスと事業子会社のABCアニメーション・ABCインターナショナル・ABCライツビジネスを発足し、同年7月よりアニメーション制作事業、海外への番組・フォーマット販売等の海外ビジネス事業、ライセンス・物販事業といった放送関連事業を分社し承継させ、業務を開始している。そして、さらなるグループ経営の迅速化と柔軟な経営判断ができる体制構築を目的とし、またテレビとラジオがともに勝ち抜いていくため、いずれも独立した経営及び事業体制が必要と判断したことから、2017年2月8日に放送持株会社への移行と、テレビ放送事業・ラジオ放送事業それぞれの分社化を発表した。放送持株会社への移行は、在阪準キー局では同年4月に移行した毎日放送(MBSメディアホールディングス)に続いて2社目、全国では9社目(上場企業では8社目)の事例となる。また、ラテ兼営からテレビ・ラジオそれぞれを独立させる形にするのは、ラジオでネットワークを組んでおり、かつてのテレビ系列局だったTBSホールディングス(TBSテレビ・TBSラジオ)、中部日本放送(CBCテレビ・CBCラジオ)に続く。 移行スキームとしては、2017年4月上旬に分割準備会社として「朝日放送テレビ分割準備会社」と「朝日放送ラジオ分割準備会社」を設立、同年6月に行われる定時株主総会での承認と、総務大臣を始めとする官公庁による許認可を得た上で、2018年4月1日に朝日放送が商号を「朝日放送グループホールディングス株式会社」に変更、免許を含めた放送事業のうち、テレビ放送事業を朝日放送テレビ分割準備会社に分割・承継し「朝日放送テレビ株式会社」に商号変更、ラジオ放送事業を朝日放送ラジオ分割準備会社に分割・承継し「朝日放送ラジオ株式会社」に商号変更し、朝日放送グループホールディングスが認定放送持株会社になった上で、その傘下に朝日放送テレビ、朝日放送ラジオ、スカイAといった基幹放送事業者やエー・ビー・シーメディアコム、ABCリブラ、アイネックス、ABCフロンティアホールディングスなどの子会社を置く形となる。2018年2月7日にこれらの許認可が下り、同年4月1日から正式に同体制に移行することが決定した。 ABCロゴ 社名ロゴ 企業・団体は当時の名称。出典: 朝日放送グループホールディングスは筆頭株主である朝日新聞社の株式を2.31%(74,000株)保有しており株式持ち合い関係にある。また、テレビ朝日ホールディングス、TBSホールディングスとも株式を持ち合っている。 出典: 移転の歴史については#沿革も参照のこと。 関連施設についてはABCセンター#施設を参照のこと。 1966年から、それまでの本社およびラジオ部門の中之島、テレビ部門の堂島社屋を統合して移転したABCセンターと称する大阪市北区(旧大淀区)大淀南の社屋を使用してきた。社屋周辺には大阪タワーやホテルプラザ、ザ・シンフォニーホールがあり、単なる放送施設に留まらない形となっていた。北区(旧大淀区)への移転により、梅田には比較的近くなったが、ホテルプラザをはじめ関連施設の閉鎖や社屋の老朽化が進んだこともあり、2004年にほたるまちへの移転計画が発表された。 大淀の旧社屋よりなにわ筋を約700メートル南に移転した現社屋は、敷地面積8,500平方メートル(ABCセンターの約半分)、地上16階、地下1階建て・高さ110メートル、延べ床面積約44,500平方メートルである(建物の床面積は旧社屋の1.5倍)。『おはよう天気です』で兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に襲われた反省から、建物には大規模放送局で初めて免震構造を取り入れている。また屋上にガスタービン発電機2機、地下に最大150キロリットルの重油を備蓄可能なタンクを備え、停電時にも最大5日間ビル全館への電力供給が可能。 社屋は9階建てのスタジオ棟(低層棟)と16階建ての事務棟(高層棟)からなり、建物内にはスタジオ棟にテレビスタジオが4つ、事務棟13階にラジオスタジオ5つが設置された。スタジオ棟には、公開放送用のABCホール(3代目、258席 / 最大320席)も設けられている。設計は隈研吾建築都市設計事務所とNTTファシリティーズが手掛けた。堂島川に面して広大なリバーデッキも設けられている。 また新社屋に加え、なにわ筋を挟んだ西側の関西電力病院向かいの福島2丁目には6階建てのアネックス(別館)が同時期に建設され、関連会社などの事務所が入居した。 移転準備のため、新社屋テレビAスタジオを使用して番組の放送や収録が移転1か月前の2008年4月から始まり、同年5月に北区大淀南2丁目の社屋から福島区福島1丁目の新社屋への移転が実施された。5月12日には、関連会社のスカイ・エー(スカイ・A sports+)の放送センターが大淀社屋から福島社屋へ移転し、5月19日には大淀社屋から福島社屋へ本社が移転した。 6月17日には、放送センター移転後も大淀社屋にあったスカイ・A sports+の送出マスターがハイビジョン対応の新社屋マスターに切り替わり、6月23日から放送を新社屋マスターへ切り替えた。新社屋の一部のラジオスタジオ完成が間に合わなかったため、新社屋移転後も旧社屋のラジオスタジオで一部の番組収録が行われていたが、7月末をもって旧社屋での番組収録は終了した。8月5日には、新社屋の3代目ABCホール完成・稼働開始後も引き続き稼働していた旧社屋の2代目ABCホールが閉鎖された。旧社屋での全ての業務終了後も、テレビスタジオは『ごきげん!ブランニュ』の収録に使用された。 開業当時から社屋にはABCのロゴが掲げられていなかったが、2015年6月より上部に設置された。 ※が付いている会社は連結子会社。 1971年(昭和46年)から1994年(平成6年)まで、ミス・ユニバース日本大会の運営権及び放送権を有していた。また、ミス・ユニバース世界大会についても、1967年から1995年(平成7年)まで、日本大会および日本での放送権を有していた。 技術者にサイバー関西・ワイドプロジェクトに関係した人物がいたこともあり、朝日放送がasahi.co.jpを使い始めたのは1984年で、当時は朝日新聞がまだJPNICに申請をしておらず、日本でのco.jpサイトとして、最初にasahiの名前を使うことになった。公式サイト開設に当たり、ANAビジネスクリエイトにドメイン名「abc.co.jp」を先に使われたため、「asahi.co.jp」となった。その影響で系列の朝日新聞社は「asahi-np.co.jp」および「asahi.com」となっている。現在は「asahi.jp」及びABCラジオ用の「abc1008.com」も使われている。 夜間における緊急事態発生に備え、局アナ1人と制作・技術・報道部門のスタッフ数人が局に毎日交替で泊まり込む「宿直勤務制度」を敷いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "朝日放送グループホールディングス株式会社(あさひほうそうグループホールディングス、英: ASAHI BROADCASTING GROUP HOLDINGS CORPORATION)は、日本の認定放送持株会社。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "傘下に、地上デジタルテレビ放送事業を行う朝日放送テレビ、AMラジオ放送事業を行う朝日放送ラジオ、CSデジタル放送事業を行うスカイAなどを有する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)3月15日に「朝日放送株式会社」として設立。同年11月11日に日本で3番目のAMラジオ放送を開始し、1956年12月1日には同社が設立に関わった大阪テレビ放送が西日本で初となるテレビ本放送を開始する。その後、郵政大臣からの勧告により、大阪テレビ放送と合併し、1959年6月1日、「朝日放送テレビ」としてテレビ放送を開始した。以降、2018年3月31日まで中波放送(AM放送)とテレビジョン放送を同一法人で行う兼営局(ラテ兼営局)であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2018年4月1日、テレビ・ラジオの放送免許・放送事業全般の業務を新設した事業子会社(朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ)に承継し、商号を「朝日放送グループホールディングス株式会社」に変更。認定放送持株会社へと移行した(詳細は後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "兼営局時代より、略称であるABC(エービーシー)と呼称されることが多い。日本の放送局では初めて国際環境規格「ISO14001」を認証取得(2001年3月23日)。これをきっかけに、系列局のテレビ朝日・名古屋テレビ放送・瀬戸内海放送などもISO14001を認証取得した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "朝日新聞社系列であり、同社主導で開局した最初の放送局である。人材交流も盛んで、ABC所属社員が朝日新聞に、逆に朝日新聞所属社員がABCにそれぞれ出向社員として派遣されることもある。中村鋭一、堀江政生、高橋大作のように、アナウンサーが朝日新聞記者となった例もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "放送局を取り巻く状況として、コンテンツビジネスの環境変化が起きており、インターネットやスマートフォンの技術革新による視聴環境、メディアへの接触や視聴者の生活スタイルが大きく変化している。また、動画配信や4K・8Kといった技術革新、放送以外の多様性、コンテンツの海外輸出、インバウンドビジネスなどの急激な変化にも適応していく必要がある。", "title": "分社・放送持株会社化" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうした状況を受け、朝日放送では、2016年4月に中間持株会社のABCフロンティアホールディングスと事業子会社のABCアニメーション・ABCインターナショナル・ABCライツビジネスを発足し、同年7月よりアニメーション制作事業、海外への番組・フォーマット販売等の海外ビジネス事業、ライセンス・物販事業といった放送関連事業を分社し承継させ、業務を開始している。そして、さらなるグループ経営の迅速化と柔軟な経営判断ができる体制構築を目的とし、またテレビとラジオがともに勝ち抜いていくため、いずれも独立した経営及び事業体制が必要と判断したことから、2017年2月8日に放送持株会社への移行と、テレビ放送事業・ラジオ放送事業それぞれの分社化を発表した。放送持株会社への移行は、在阪準キー局では同年4月に移行した毎日放送(MBSメディアホールディングス)に続いて2社目、全国では9社目(上場企業では8社目)の事例となる。また、ラテ兼営からテレビ・ラジオそれぞれを独立させる形にするのは、ラジオでネットワークを組んでおり、かつてのテレビ系列局だったTBSホールディングス(TBSテレビ・TBSラジオ)、中部日本放送(CBCテレビ・CBCラジオ)に続く。", "title": "分社・放送持株会社化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "移行スキームとしては、2017年4月上旬に分割準備会社として「朝日放送テレビ分割準備会社」と「朝日放送ラジオ分割準備会社」を設立、同年6月に行われる定時株主総会での承認と、総務大臣を始めとする官公庁による許認可を得た上で、2018年4月1日に朝日放送が商号を「朝日放送グループホールディングス株式会社」に変更、免許を含めた放送事業のうち、テレビ放送事業を朝日放送テレビ分割準備会社に分割・承継し「朝日放送テレビ株式会社」に商号変更、ラジオ放送事業を朝日放送ラジオ分割準備会社に分割・承継し「朝日放送ラジオ株式会社」に商号変更し、朝日放送グループホールディングスが認定放送持株会社になった上で、その傘下に朝日放送テレビ、朝日放送ラジオ、スカイAといった基幹放送事業者やエー・ビー・シーメディアコム、ABCリブラ、アイネックス、ABCフロンティアホールディングスなどの子会社を置く形となる。2018年2月7日にこれらの許認可が下り、同年4月1日から正式に同体制に移行することが決定した。", "title": "分社・放送持株会社化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ABCロゴ", "title": "ロゴ・社章" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "社名ロゴ", "title": "ロゴ・社章" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "企業・団体は当時の名称。出典:", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "朝日放送グループホールディングスは筆頭株主である朝日新聞社の株式を2.31%(74,000株)保有しており株式持ち合い関係にある。また、テレビ朝日ホールディングス、TBSホールディングスとも株式を持ち合っている。", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "資本構成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "移転の歴史については#沿革も参照のこと。 関連施設についてはABCセンター#施設を参照のこと。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1966年から、それまでの本社およびラジオ部門の中之島、テレビ部門の堂島社屋を統合して移転したABCセンターと称する大阪市北区(旧大淀区)大淀南の社屋を使用してきた。社屋周辺には大阪タワーやホテルプラザ、ザ・シンフォニーホールがあり、単なる放送施設に留まらない形となっていた。北区(旧大淀区)への移転により、梅田には比較的近くなったが、ホテルプラザをはじめ関連施設の閉鎖や社屋の老朽化が進んだこともあり、2004年にほたるまちへの移転計画が発表された。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大淀の旧社屋よりなにわ筋を約700メートル南に移転した現社屋は、敷地面積8,500平方メートル(ABCセンターの約半分)、地上16階、地下1階建て・高さ110メートル、延べ床面積約44,500平方メートルである(建物の床面積は旧社屋の1.5倍)。『おはよう天気です』で兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に襲われた反省から、建物には大規模放送局で初めて免震構造を取り入れている。また屋上にガスタービン発電機2機、地下に最大150キロリットルの重油を備蓄可能なタンクを備え、停電時にも最大5日間ビル全館への電力供給が可能。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "社屋は9階建てのスタジオ棟(低層棟)と16階建ての事務棟(高層棟)からなり、建物内にはスタジオ棟にテレビスタジオが4つ、事務棟13階にラジオスタジオ5つが設置された。スタジオ棟には、公開放送用のABCホール(3代目、258席 / 最大320席)も設けられている。設計は隈研吾建築都市設計事務所とNTTファシリティーズが手掛けた。堂島川に面して広大なリバーデッキも設けられている。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また新社屋に加え、なにわ筋を挟んだ西側の関西電力病院向かいの福島2丁目には6階建てのアネックス(別館)が同時期に建設され、関連会社などの事務所が入居した。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "移転準備のため、新社屋テレビAスタジオを使用して番組の放送や収録が移転1か月前の2008年4月から始まり、同年5月に北区大淀南2丁目の社屋から福島区福島1丁目の新社屋への移転が実施された。5月12日には、関連会社のスカイ・エー(スカイ・A sports+)の放送センターが大淀社屋から福島社屋へ移転し、5月19日には大淀社屋から福島社屋へ本社が移転した。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "6月17日には、放送センター移転後も大淀社屋にあったスカイ・A sports+の送出マスターがハイビジョン対応の新社屋マスターに切り替わり、6月23日から放送を新社屋マスターへ切り替えた。新社屋の一部のラジオスタジオ完成が間に合わなかったため、新社屋移転後も旧社屋のラジオスタジオで一部の番組収録が行われていたが、7月末をもって旧社屋での番組収録は終了した。8月5日には、新社屋の3代目ABCホール完成・稼働開始後も引き続き稼働していた旧社屋の2代目ABCホールが閉鎖された。旧社屋での全ての業務終了後も、テレビスタジオは『ごきげん!ブランニュ』の収録に使用された。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "開業当時から社屋にはABCのロゴが掲げられていなかったが、2015年6月より上部に設置された。", "title": "拠点" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "※が付いている会社は連結子会社。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)から1994年(平成6年)まで、ミス・ユニバース日本大会の運営権及び放送権を有していた。また、ミス・ユニバース世界大会についても、1967年から1995年(平成7年)まで、日本大会および日本での放送権を有していた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "技術者にサイバー関西・ワイドプロジェクトに関係した人物がいたこともあり、朝日放送がasahi.co.jpを使い始めたのは1984年で、当時は朝日新聞がまだJPNICに申請をしておらず、日本でのco.jpサイトとして、最初にasahiの名前を使うことになった。公式サイト開設に当たり、ANAビジネスクリエイトにドメイン名「abc.co.jp」を先に使われたため、「asahi.co.jp」となった。その影響で系列の朝日新聞社は「asahi-np.co.jp」および「asahi.com」となっている。現在は「asahi.jp」及びABCラジオ用の「abc1008.com」も使われている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "夜間における緊急事態発生に備え、局アナ1人と制作・技術・報道部門のスタッフ数人が局に毎日交替で泊まり込む「宿直勤務制度」を敷いている。", "title": "その他" } ]
朝日放送グループホールディングス株式会社は、日本の認定放送持株会社。 傘下に、地上デジタルテレビ放送事業を行う朝日放送テレビ、AMラジオ放送事業を行う朝日放送ラジオ、CSデジタル放送事業を行うスカイAなどを有する。
{{半保護}} {{混同|テレビ朝日ホールディングス}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 朝日放送グループホールディングス株式会社 | 英文社名 = ASAHI BROADCASTING GROUP HOLDINGS CORPORATION<!-- 定款で定められた英文社名を記載 --> | ロゴ = [[File:Asahi Broadcasting Corporation Logo.svg|200px]] | 画像 = [[File:Asahi Broadcasting Corporation headquarters in 201909 001.jpg|250px]] | 画像説明 = 本社社屋 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/company/organization.html 組織図] - 朝日放送グループホールディングス株式会社</ref> | 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9405|2013年7月16日}}{{上場情報|大証2部|9405|1961年10月1日|2013年7月12日}} | 略称 = 朝日放送GHD<br />ABCGHD | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 553-8503 | 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1丁目1-30 | 本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 41|本社緯度秒 = 37.9|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 135|本社経度分 = 29|本社経度秒 = 18.2|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1951年]]([[昭和]]26年)3月15日<br />(朝日放送株式会社) | 業種 = 5250 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[放送法]]に基づく[[放送持株会社|認定放送持株会社]] | 代表者 = 代表取締役社長 [[沖中進]]<br />代表取締役副社長 [[山本晋也 (実業家)|山本晋也]] | 資本金 = 52億9900万円<br/>(2022年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=朝日放送グループホールディングス株式会社 |date=2022-06-24 |title=第95期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = 4183万3000株<br/>(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = 連結: 851億0000万円<br />単独: 59億1700万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 連結: 42億0300万円<br />単独: 3億5800万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = 連結: 47億9200万円<br />単独: 3億8900万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 連結: 24億8500万円<br />単独: △62億9900万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 連結: 704億9700万円<br />単独: 430億0300万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 連結: 1237億8800万円<br />単独: 569億1000万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 1,509人<br />単独: 72人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 支店舗数 = | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[有限責任監査法人トーマツ]]<ref name="fy" /> | 主要株主 = [[#資本構成|資本構成]]を参照 | 主要子会社 = [[#関係会社|関係会社]]を参照 | 関係する人物 = [[広岡知男]]<br />[[道上洋三]] | 外部リンク = https://corp.asahi.co.jp/ | 特記事項 = 2018年4月1日、朝日放送株式会社から商号を変更 }} '''朝日放送グループホールディングス株式会社'''(あさひほうそうグループホールディングス、{{Lang-en-short|''ASAHI BROADCASTING GROUP HOLDINGS CORPORATION''}}<!-- 定款で定められた英文社名を記載 --><ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.asahi.co.jp/ja/company/articles.html |title=朝日放送グループホールディングス株式会社 定款 第1章第1条(2022年6月23日改定) |publisher=朝日放送グループホールディングス株式会社 |accessdate=2022-07-11}}</ref>)は、日本の[[放送持株会社|認定放送持株会社]]。 傘下に、[[地上デジタルテレビ放送]]事業を行う'''[[朝日放送テレビ]]'''、[[振幅変調|AMラジオ放送]]事業を行う'''[[朝日放送ラジオ]]'''、[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CSデジタル放送]]事業を行う'''[[スカイA]]'''などを有する。 == 概要 == [[1951年]]([[昭和]]26年)3月15日に「'''朝日放送株式会社'''」として設立。同年11月11日に日本で3番目の[[振幅変調|AMラジオ放送]]を開始し、[[1956年]]12月1日には同社が設立に関わった[[大阪テレビ放送]]が西日本で初となるテレビ本放送を開始する。その後、[[郵政大臣]]からの勧告により、大阪テレビ放送と合併し、[[1959年]]6月1日、「'''朝日放送テレビ'''」としてテレビ放送を開始した。以降、[[2018年]]3月31日まで[[中波放送]](AM放送)と[[テレビジョン放送]]を同一法人で行う兼営局([[ラテ兼営#概要|ラテ兼営]]局)であった。 2018年4月1日、テレビ・ラジオの放送免許・放送事業全般の業務を新設した事業子会社([[朝日放送テレビ]]・[[朝日放送ラジオ]])に承継し、商号を「'''朝日放送グループホールディングス株式会社'''」に変更。[[認定放送持株会社]]へと移行した(詳細は[[朝日放送グループホールディングス#分社・放送持株会社化|後述]])。 兼営局時代より、略称である'''ABC'''(エービーシー)と呼称されることが多い。日本の放送局では初めて国際環境規格「[[ISO 14000#ISO 14001|ISO14001]]」を認証取得([[2001年]][[3月23日]])。これをきっかけに、系列局の[[テレビ朝日]]・[[名古屋テレビ放送]]・[[瀬戸内海放送]]などもISO14001を認証取得した。 [[朝日新聞社]]系列であり、同社主導で開局した最初の[[放送局]]である<ref group="注釈">現在の[[キー局]]である[[テレビ朝日|テレビ朝日(当時はNETテレビ)]]より約7年、かつてのキー局で、同じく朝日新聞社が開局に携わった[[TBSラジオ|TBS(当時はラジオ東京)]]より約1ヶ月早く開局している。</ref>。人材交流も盛んで、ABC所属社員が朝日新聞に、逆に朝日新聞所属社員がABCにそれぞれ出向社員として派遣されることもある。[[中村鋭一]]、[[堀江政生]]、[[高橋大作]]のように、アナウンサーが朝日新聞記者となった例もある。 == 分社・放送持株会社化 == 放送局を取り巻く状況として、コンテンツビジネスの環境変化が起きており、インターネットやスマートフォンの技術革新による視聴環境、メディアへの接触や視聴者の生活スタイルが大きく変化している。また、動画配信や4K・8Kといった技術革新、放送以外の多様性、コンテンツの海外輸出、インバウンドビジネスなどの急激な変化にも適応していく必要がある<ref name="abc20170208" /><ref name="abc20160304" />。 こうした状況を受け、朝日放送では、2016年4月に[[持株会社|中間持株会社]]の[[ABCフロンティア|ABCフロンティアホールディングス]]と事業子会社の[[ABCアニメーション]]・ABCインターナショナル・ABCライツビジネスを発足し、同年7月よりアニメーション制作事業、海外への番組・フォーマット販売等の海外ビジネス事業、ライセンス・物販事業といった放送関連事業を分社し承継させ、業務を開始している<ref name="abc20160304" />。そして、さらなるグループ経営の迅速化と柔軟な経営判断ができる体制構築を目的とし、またテレビとラジオがともに勝ち抜いていくため、いずれも独立した経営及び事業体制が必要と判断したことから、2017年2月8日に[[放送持株会社]]への移行と、テレビ放送事業・ラジオ放送事業それぞれの分社化を発表した<ref name="abc20170208" /><ref name="nikkei_20170209">{{Cite news |title= 朝日放送、持株会社に |newspaper= 日本経済新聞|date= 2017-02-09|author= |url= http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12700730Y7A200C1TJC000/|accessdate=2017-02-09}}</ref><ref name="sankei_20170209">{{Cite news|url=http://www.sankei.com/west/news/170208/wst1702080123-n1.html|title= 毎日放送に続き…朝日放送、来年4月から持株会社に 在阪2局目、全国9番目|newspaper= 産経新聞社|date=2017-02-08|accessdate=2017-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171213143232/http://www.sankei.com/west/news/170208/wst1702080123-n1.html|archivedate=2017-12-13}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASK285GYPK28PTFC00S.html|title= 朝日放送、持株会社に移行へ テレビとラジオを分割|newspaper= 朝日新聞|date= 2017-02-08|accessdate=2017-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170209102653/http://www.asahi.com/articles/ASK285GYPK28PTFC00S.html|archivedate=2017-02-09}}</ref>。放送持株会社への移行は、在阪準キー局では同年4月に移行した[[毎日放送]]([[MBSメディアホールディングス]])に続いて2社目<ref group="注釈">毎日放送では当初はラテ兼営を維持していたが、2021年4月にラジオ部門を分社し、テレビ・ラジオそれぞれ独立させた。</ref>、全国では9社目(上場企業では8社目)の事例となる。また、ラテ兼営からテレビ・ラジオそれぞれを独立させる形にするのは、ラジオでネットワークを組んでおり、かつてのテレビ系列局だった[[TBSホールディングス]]([[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]])、[[中部日本放送]]([[CBCテレビ]]・[[CBCラジオ]])に続く<ref group="注釈">ただし、この2社が既にラジオ放送事業を分社し、その後放送持株会社移行に合わせてテレビ放送事業を分社(TBSはラ・テ共に既存会社に承継、CBCはラジオを既存会社に、テレビは新設の準備会社に承継)しているのに対し、朝日放送は放送持株会社化と同時に両放送事業を分社。準備会社に承継する形態を取る。</ref>。 移行スキームとしては、2017年4月上旬に分割準備会社として「朝日放送テレビ分割準備会社」と「朝日放送ラジオ分割準備会社」を設立、同年6月に行われる定時株主総会での承認と、総務大臣を始めとする官公庁による許認可を得た上で、2018年4月1日に朝日放送が商号を「'''朝日放送グループホールディングス株式会社'''」に変更、免許を含めた放送事業のうち、テレビ放送事業を朝日放送テレビ分割準備会社に分割・承継し「'''朝日放送テレビ株式会社'''」に商号変更、ラジオ放送事業を朝日放送ラジオ分割準備会社に分割・承継し「'''朝日放送ラジオ株式会社'''」に商号変更し、朝日放送グループホールディングスが認定放送持株会社になった上で、その傘下に朝日放送テレビ、朝日放送ラジオ、[[スカイA]]といった基幹放送事業者や[[ABCファンライフ|エー・ビー・シーメディアコム]]、[[ABCリブラ]]、[[アイネックス (技術プロダクション)|アイネックス]]、ABCフロンティアホールディングスなどの子会社を置く形となる<ref name="abc20170208" />。2018年2月7日にこれらの許認可が下り、同年4月1日から正式に同体制に移行することが決定した<ref>[http://corp.asahi.co.jp/ja/info/info-256357625233456757_koho/main/0/link/20170207_koho.pdf 認定放送持株会社の認定等について] - 朝日放送 2018年2月7日(2018年3月3日閲覧)</ref>。 == ロゴ・社章 == === ロゴ === [[ファイル:AAK-ABC Bell430 JA06NR RJOY 20081121-001.jpg|thumb|240px|3代目「ABC」ロゴがペイントされた取材用ヘリコプター(2008年11月21日撮影)]] [[ファイル:ABC rogo.JPG|thumb|px|3代目「ABC」ロゴ(大淀旧社屋裏の旧大阪タワー案内板)(2008年撮影)]] [[ファイル:朝日放送(ABCテレビ)の中継車.jpg|thumb|px|3代目「ABC」ロゴと6マークが付けられたままの中継車(2012年撮影)]] '''ABCロゴ''' * '''初代''' - 縦細で描かれたものが開局時に登場<!-- (2代目ロゴを併用した[[ベリカード]][http://jazmys.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_6f6/jazmys/BCL_JONR.JPG?c=a0]) -->。下記にある通り1989年まで長らく使われ続けた。コールサイン「JONR(-TV)」にも同じデザインのロゴが存在した<ref group="注釈">このコールサインロゴは2010年代においてもラジオ番組「[[Club JONR]]」のタイトルやテレビのアナログ放送終了時のクロージングにて復刻的に使用されている。</ref>。 * '''2代目''' - [[1973年]]に登場した<!-- [http://4.bp.blogspot.com/_4-LPpMVLEFM/TSmE4MLk5-I/AAAAAAAACAM/-nmRmoBCUdk/s1600/img032.jpg] -->。これ以後も初代ロゴは[[局名告知|オープニング]]や『[[ABCフラッシュニュース]]』など一部の番組、放送機材<ref group="注釈">初代ロゴ時代から使用しているカラー放送対応のテレビカメラでは2代目ロゴ登場後にブラウン管の枠に「6(上段)ABC(下段)」とかかれたシールが追加で貼られており、機材更新まで初代ロゴと2代目ロゴが併記する形で使われ続けていた。</ref>、そしてベリカードのデザイン<ref group="注釈">[[1976年]]頃発行のベリカードのデザインから、その中に表記のロゴが2代目ロゴになった。</ref>で長らく継続使用されていた。2022年現在も[[ABCゴルフ倶楽部]]のロゴはこの当時のロゴを継続使用している。また、このころより6マーク(ブラウン管の中に親局のチャンネル番号である6とABCのロゴが入っていた。現在でも中継車に付けられている。下記の画像を参照のこと)<ref group="注釈">基本的に6マークを多用したのは関西ローカルのみだが、かつてのTBS→テレビ朝日・及び当局制作番組の宣伝広告では下部に必ずと言っていいほど、キー局であるTBS→テレ朝・ABCとそれ以外の各地のJNN→ANNの主要系列局のロゴマークをやはりブラウン管で囲ったものが並べられており(新局開局時にはその局も増加されていた)、そちらで全国的に6マークを見る事は出来た。なお、このロゴマーク掲示は両系列のみならずNNN・FNSでも同様に行っていた。</ref>と1008マーク(8が大きく書かれ、100の下にABCが入っていた。なお、1978年11月23日以前は1010マーク)が使用開始された。コールサインのロゴも同じデザインに変更された(3代目まで継続使用)。 * '''3代目''' - [[1989年]][[4月1日]]より通常使用する名称を「ABC」に統一した際に従来のロゴの右側にエコーを入れるマイナーチェンジを行ったものであった(右写真)。2007年12月31日放送まで使用された。これ以後は初代と2代目のロゴが併用されることはなくなった。 * '''4代目''' - 社屋移転年となる[[2008年]][[1月1日]]、移転に先行してフルモデルチェンジした、4代目となる現行ロゴの使用を開始。「昇る朝日」をイメージしたSunrise Orange(サンライズオレンジ)の色をベースに、「C」の右隣にある上へ伸びるラインでアクティブなスピード感を表現している(ABCの文字が斜線でつながっている)。なお、このロゴは[[岬深日中継局]]など一部の中継局の表札でも使用している。 ** 長方形のオレンジにABCのロゴを入れ、斜めラインの下に「TV」「Radio」と入ったロゴや、同じく、長方形のオレンジに大きく「1008」のロゴを入れ、その下にABCのロゴを入れ、斜めラインの下に「Radio」と入った「ABC Radio」専用ロゴ、長方形のオレンジに大きく「6」のロゴを入れ、その下にABCのロゴを入れ、斜めラインの下に「TV」と入った「ABC TV」専用ロゴも用意されている<ref group="注釈">日曜8:30から全国ネットで放送されていた『[[Yes!プリキュア5]]』では、[[2008年]][[1月6日]]の第46話「カワリーノ非情の策略!」まで3代目ロゴを使用し、翌週放送の13日分の第47話「ドリームコレットを取り戻せ!」から4代目ロゴの使用を開始した。これにより遅れネット等を除き、全ての制作番組でロゴの変更が完了した。</ref><ref group="注釈">その他、遅れ時差ネットの番組や再放送の番組でも全国ネット・関西ローカルで2007年12月末までの初回放送分は3代目ロゴが使用されている。</ref>。2018年4月の分社化以降は前述の「Radio」「TV」だけでなく、斜めラインの下に「ラジオ」「テレビ」が入った専用ロゴの使用も開始している<ref name="group">[https://corp.asahi.co.jp/ja/company/group.html グループ会社・その他 | 会社紹介 | 朝日放送グループホールディングス]</ref>。 *** 長方形ロゴは2016年に分社設立された[[ABCアニメーション]]、ABCインターナショナル、ABCライツビジネスの3社でも応用使用されており、地の色を各社のコーポレートカラーであるピンク、スカイブルー、グリーンに変え、ABCの下ないし斜めラインの下に「animation」「International」「RIGHTS」と入ったロゴ(ABCの下表記の場合は長方形の外に記載したロゴもある)を使用している<ref name="group" />。 ** 2010年10月から2012年3月までは、朝日放送創立60周年記念ロゴとして、4代目ロゴの斜めラインの上側に大きく「60th」のロゴが入り、斜めラインの下側に「Anniversary」のロゴの入ったロゴマークが4代目ロゴと併用して使用されていた。2010年10月中は「ABC創立60周年記念ドラマ」として制作された『[[東京地検特捜部長・鬼島平八郎 “眠らぬ鬼”#テレビドラマ|検事・鬼島平八郎]]』でのみ使用され、11月以降は他のABC制作番組でも使用されるようになった。 ** なお旧社屋や大阪タワーに取付けられた看板については、3代目ロゴのまま業務を終了した。ただし一部の放送機材および番組台本<ref>[https://ameblo.jp/momirobi/entry-10218010354.html 2009年3月3日付の江口ともみオフィシャルブログ] に掲載している、『[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]スペシャル』(2009年3月22日放送分)の台本が移っている写真を参照。</ref>、『[[パネルクイズ アタック25]]』の旅行獲得クイズで司会者が出題内容を読み上げる際に使用するファイルやABC関連会社のロゴは、2008年以降も3代目ABCロゴを一部使用している。また、中継車も旧ロゴが付けられたままのものも存在する。(写真参照) * その他、放送以外(主にウェブサイト上)ではキャラクター「[[キュキュ]]」を加工してロゴ代わりに使用している例がある<ref group="注釈">バリエーションとして、2007年8月19日放送の全国ネット特番『[[サンデーデラックス|ネタ祭り2007夏の陣]]』にて3代目ロゴの「B」の字に稲妻が刺さっているもの(「[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]」ロゴのパロディ)が使用された。</ref>。 * 2015年5月上旬から同6月中旬の新キャラクター「[[エビシー]]」登場までは、「キュキュ」に代わって地上デジタル放送の局名アイコンのロゴマークに4代目ロゴが暫定的に使われていた。 '''社名ロゴ''' * 「'''朝日放送'''」のロゴは、最初は宋朝体のロゴが番組クレジットにも使用されていた。 ** 大阪・中之島の新朝日ビルの塔屋に「朝日新聞」と掲示は変わったものの、同一書体の看板・ネオンが残っていた。新朝日ビル建設時は、ビル内に入居していた関係で「朝日放送」と掲示されていた。 ** 宋朝体のロゴは大淀[[ABCセンター]]時代の社屋の玄関などには最後まで残されていた。 * 1973年頃からABCのロゴ変更と共に、2代目となる「朝」の「月」の部分と「放」の「方」の部分には撥ねがないデザインのロゴへ変更し、番組クレジットにも使われだしたが、1981年頃にABCロゴのマイナーチェンジより少し早く、2代目後期型の丸みを帯びたデザインにマイナーチェンジされた。 * [[2008年]][[1月1日]]、ABCロゴ変更と共に社名ロゴについてもデザインが変更され、4代目となる現行ロゴが登場する。ABCウェブサイトや新聞・雑誌などの宣伝で、ABCロゴと一緒に「(ABCロゴ) 朝日放送」という形で再び使用されるようになった<ref group="注釈">スタッフロールについては従来通り「ABCロゴ」のみを使用。</ref>。番組クレジット上ではABCロゴのみ表示している<ref group="注釈">ただし[[深夜アニメ]]では「朝日放送」と表記する場合がある。</ref>。主催イベントの告知CMでは社名ロゴのみ表示している。また、新社屋入口にも4代目社名ロゴが配されている。 === 社章 === [[File:朝日放送高石ラジオ送信所.jpg|thumb|240px|大阪府高石市にあるAMラジオ送信所。局舎左上に描かれているマークが社章である。]] * ロゴとは別に制定されている正式な社章は、[[目]]の輪郭を[[鎖]]のように3つ繋いで、それぞれに小文字1字ずつ「abc」と配したものであり、1959年[[大阪テレビ放送]]との合併に際して新調したもの。当時の新聞には広報部の談話として「評判であったOTVのロゴマークにかわるものを」とある。現在も社員バッジ、株券などに使用されている。また、生駒山テレビ送信所の表札・AMラジオ送信所の外壁にも使用されており、一部の中継車には正面に社章を見ることができる。大淀ABCセンター時代の社屋塔屋や東京のabc会館外壁にも表示してあった。 * なお、朝日放送がラジオ専業局だった時代の社章は、大文字の“A”と“B”を幾何学的に組み合わせた三角形に近い図形に、周囲を細い線の“C”で円く配し、その上に電波を配したものが使われていた。 == 資本構成 == 企業・団体は当時の名称。出典:<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/stock/memo.html 株主メモ | 株式情報 | 株主・投資家の皆様へ | 朝日放送グループホールディングス]</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1992-11|title=日本民間放送年鑑'92|publisher=コーケン出版|page=345}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本民間放送連盟|authorlink=日本民間放送連盟|date=1978-12|title=日本放送年鑑'78|publisher=洋文社|page=240}}</ref> 朝日放送グループホールディングスは筆頭株主である朝日新聞社の株式を2.31%(74,000株)保有しており[[株式持ち合い]]関係にある<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/disclosure/ednr/20200625S100ITP9/ 株式会社朝日新聞社第167期有価証券報告書(2020年3月期)]</ref>。また、テレビ朝日ホールディングス、[[TBSホールディングス]]とも株式を持ち合っている{{Refnest|group="注釈"|朝日放送グループホールディングスがテレビ朝日ホールディングス1,572,000株、TBSホールディングス302,610株を保有。TBSホールディングスが朝日放送グループホールディングス240,000株を保有<ref>[https://ssl4.eir-parts.net/doc/9401/ir_material_for_fiscal_ym6/83415/00.pdf 東京放送ホールディングス2020年3月期 有価証券報告書 第4 提出会社の状況]</ref>。テレビ朝日ホールディングスは現テレビ系列キー局持株会社、TBSホールディングスはラジオ系列キー局・旧テレビ系列キー局持株会社である。}}。 === 2022年3月31日 === 出典:<ref>{{Cite report |和書 |author=朝日放送グループホールディングス株式会社 |date=2022-06-24 |title=第95期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書 株式等の状況}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数!!自己株式 |- |52億9900万円||41,833,000株||31,536||101,200株 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[朝日新聞社]]||6,224,900株||14.92% |- |[[テレビ朝日ホールディングス]]||3,877,600株||{{0}}9.29% |- |[[香雪美術館|公益財団法人香雪美術館]]||2,930,000株||{{0}}7.02% |- |[[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口)||2,036,400株||{{0}}4.88% |- |[[帝京大学グループ|学校法人帝京大学]]||1,571,000株||{{0}}3.76% |- |[[朝日新聞信用組合]]||1,500,000株||{{0}}3.59% |- |[[大阪ガス|大阪瓦斯]]||1,065,000株||{{0}}2.55% |- |[[日本生命保険]]||1,005,200株||{{0}}2.41% |- |[[近鉄バス]]{{Refnest|group="注釈"|[[近畿日本鉄道]]([[近鉄グループホールディングス]])は、設立時からの大株主。2018年現在は同社のバス部門を分離した[[近鉄バス]]が大株主として入っている。}}||{{0|0,}}800,000株||{{0}}1.92% |- |[[竹中工務店]]||{{0|0,}}776,600株||{{0}}1.86% |} === 過去の資本構成 === <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1978年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !資本金!!発行済株式総数 |- |18億円||3,600,000株 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[朝日新聞社]]||360,000株||10.00% |- |[[朝日新聞信用組合]]||180,000株||{{0}}5.00% |- |[[後藤基夫]]||145,560株||{{0}}4.04% |- |[[近鉄グループホールディングス|近畿日本鉄道]]||132,750株||{{0}}3.68% |- |[[日本生命保険]]||125,650株||{{0}}3.49% |- |[[大和銀行]]||115,350株||{{0}}3.20% |- |[[第一生命保険]]||{{0}}94,200株||{{0}}2.61% |- |[[村山美知子]]||{{0}}90,000株||{{0}}2.50% |- |[[大阪ガス|大阪瓦斯]]||{{0}}85,500株||{{0}}2.37% |- |[[阪神電気鉄道]]{{Refnest|group="注釈"|[[坂井信也]]元会長が取締役を務めていた。}}||{{0}}74,250株||{{0}}2.06% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">1992年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |18億円||3,600,000株||1,227 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[朝日新聞社]]||360,000株||10.00% |- |[[朝日新聞信用組合]]||180,000株||{{0}}5.00% |- |[[一柳東一郎]]||149,160株||{{0}}4.14% |- |[[村山美知子]]||145,500株||{{0}}4.04% |- |[[近鉄グループホールディングス|近畿日本鉄道]]||135,150株||{{0}}3.75% |- |[[日本生命保険]]||125,650株||{{0}}3.49% |- |[[大和銀行]]||115,350株||{{0}}3.20% |- |[[帝京大学グループ|学校法人帝京大学]]||{{0}}94,500株||{{0}}2.62% |- |[[第一生命保険]]||{{0}}94,200株||{{0}}2.61% |- |[[大阪ガス|大阪瓦斯]]||{{0}}85,500株||{{0}}2.37% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2005年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |18億円||3,600,000株||2,462 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率 |- |[[朝日新聞社]]||509,160株||14.14% |- |[[モルガン・スタンレー]] アンド カンパニー インク<br/>※常任代理人 [[モルガン・スタンレー]]証券会社 東京支店||231,500株||{{0}}6.43% |- |[[朝日新聞信用組合]]||180,000株||{{0}}5.00% |- |[[村山美知子]]||145,500株||{{0}}4.04% |- |[[帝京大学グループ|学校法人帝京大学]]||130,400株||{{0}}3.62% |- |[[日本生命保険]]||125,650株||{{0}}3.49% |- |[[BONYT JA]]<br/>※常任代理人 [[東京三菱銀行]]||114,900株||{{0}}3.19% |- |[[テレビ朝日]]||{{0}}96,100株||{{0}}2.66% |- |[[大阪ガス|大阪瓦斯]]||{{0}}85,500株||{{0}}2.37% |- |[[近鉄バス]]||{{0}}80,000株||{{0}}2.22% |} </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">2016年3月31日</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:right" !資本金!!発行済株式総数!!株主数 |- |52億9980万円||41,833,000株||17,580 |} {| class="wikitable" !株主!!株式数!!比率!!議決権 |- |[[朝日新聞社]]||6,224,900株||14.88%||15.24% |- |[[テレビ朝日ホールディングス]]||3,877,600株||{{0}}9.26%||{{0}}9.49% |- |[[香雪美術館]]||2,930,000株||{{0}}7.00%||{{0}}7.17% |- |[[帝京大学グループ|学校法人帝京大学]]||1,554,000株||{{0}}3.71%||{{0}}3.80% |- |[[朝日新聞信用組合]]||1,500,000株||{{0}}3.58%||{{0}}3.67% |- |[[大阪ガス|大阪瓦斯]]||1,065,000株||{{0}}2.54%||{{0}}2.60% |- |[[日本生命保険]]||1,005,200株||{{0}}2.40%||{{0}}2.46% |- |[[近鉄バス]]||{{0|0,}}800,000株||{{0}}1.92%||{{0}}1.95% |- |[[竹中工務店]]||{{0|0,}}776,600株||{{0}}1.85%||{{0}}1.90% |- |[[りそな銀行]]||{{0|0,}}763,500株||{{0}}1.82%||{{0}}1.86% |- |※自己株式||{{0|0,}}996,087株||{{0}}2.38%||{{0}}0.00% |} </div></div> == 沿革 == [[File:Osaka-Asahi-Shimbun-Bldg-01.jpg|thumb|200px|朝日放送が[[中波放送|AMラジオ放送]]の第一声を発した大阪市北区中之島の[[大阪朝日ビル|朝日会館]]。1958年に東隣の[[新朝日ビルディング]]に本社が移転するまでラジオ放送はこの建物から放送されていた。]] [[File:New asahi bld01 2816.jpg|thumb|200px|[[新朝日ビルディング]](1958-1966にラジオ放送のスタジオが設けられた)]] * [[1948年]]([[昭和]]23年)秋 - [[朝日新聞東京本社]]内に朝日放送設立準備委員会を設置。このとき「'''ABC'''」の呼称も決まる。 * [[1949年]](昭和24年)12月15日 - 東京・大阪で「朝日放送株式会社」の設立申請を郵政当局に提出。 * [[1950年]](昭和25年)12月 - 東京の「朝日放送」は「東京放送」([[電通]]系)、「[[読売放送]]」、「ラジオ日本<ref group="注釈">現在の[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]とは無関係。</ref>」([[毎日新聞]]系)と合同してラジオ東京(JOKR。現在の[[TBSラジオ]])となる。 * [[1951年]](昭和26年) ** 2月26日 - 大阪の「朝日放送」は新日本放送(現・[[毎日放送]]、[[毎日新聞]]系)との合同工作に失敗。一転して同社と放送免許獲得競争を繰り広げることとなる。 ** 3月15日 - 創立総会を開き、朝日放送株式会社設立。[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]中之島の[[大阪朝日ビル|朝日会館]]に本社を置き、初代社長に[[石井光次郎]]が就任。 ** 4月21日 - 5回にわたる公聴会での激しいやりとりの末、新日本放送と共に予備免許を獲得。 ** 11月11日 - 大阪市北区中之島の[[大阪朝日ビル|朝日会館]]から、新日本放送に続いて[[近畿地方|近畿]]地区の民間放送局としては2局目、日本で3番目の[[中波放送|AMラジオ放送]]を開始。周波数1010kc(kcは現在のkHz)、出力10kW。 * [[1952年]](昭和27年)8月 - [[毎日放送|新日本放送]]・[[毎日新聞]]・[[朝日新聞]]と共同で「大阪テレビジョン放送」の名でテレビ免許を申請。 * [[1954年]](昭和29年) - 1954年から1956年まで、当時朝日会館の[[四つ橋筋]]を挟んで東側(現・[[中之島フェスティバルタワー]]東地区の位置)にあったアイススケートリンク「アサヒアリーナ」をオフシーズンの夏場のみ借りて、「アサヒラジオホール」(収容人数3,000人)として朝日放送専用のラジオの公開録音会場として使用していた。 * [[1955年]](昭和30年)5月25日 - [[大阪テレビ放送]]株式会社(OTV)設立。 * [[1956年]](昭和31年) ** [[近衛秀麿]]率いる近衛管弦楽団を母体に、ABC交響楽団を東京に設立。[[NHK交響楽団]]に対抗するオーケストラとして期待されたが短期間で解散した。 ** 7月28日 - 大阪市北区堂島浜に大阪テレビ放送本社社屋竣工。 ** 12月1日 - 大阪テレビ放送、テレビ放送を開始(JOBX-TV 6ch)<ref group="注釈">中部日本放送(現・[[CBCテレビ]])も同日に開局。</ref>。 * [[1957年]](昭和32年)12月6日 - 郵政大臣より、朝日放送と大阪テレビ放送の合併を勧告される。 * [[1958年]](昭和33年) ** 4月1日 - 本社を「アサヒアリーナ」跡地に落成した[[新朝日ビルディング|新朝日ビル]]10〜13階に移転。移転と同時に同ビル地下に公開放送用ホールのABCホール(現在の[[リサイタルホール]])がオープン。 ** 12月23日 - 朝日放送と大阪テレビ放送が合併契約に調印。 * [[1959年]](昭和34年) ** 2月28日 - 大阪テレビ放送と朝日放送の合併にともない、合併作業完了までの呼称を「朝日放送大阪テレビ」、略称を「ABC-OTV」とする。この日をもってコールサインJOBX-TVを廃止し<ref group="注釈">JOBX-TVのコールサインはのちに[[大分朝日放送]]に再度割り当てられた。</ref>、3月1日よりJONR-TV放送開始。 ** 6月1日 - ABCと大阪テレビ放送が合併手続き完了。大阪市北区堂島1丁目42番地の旧大阪テレビ放送の本社社屋は、合併後ABC堂島社屋(テレビ社屋)となり、1966年に大淀社屋へ移転するまで引き続きテレビ部門の拠点として運用された<ref group="注釈">現在、跡地には[[ANAクラウンプラザホテル大阪]](旧・大阪全日空ホテル)が建っている。</ref>。テレビネットワークもそのまま引き継がれ、ラジオ東京(KRT、現:[[TBSテレビ]])系列の準キー局となった。一方、毎日放送は日本教育テレビ(NETテレビ、現:[[テレビ朝日]])とネットワークを結んだが、NETテレビは後に朝日新聞社傘下となったため、新聞資本と放送局の関係性に捻じれが生じた<ref group="注釈">日本教育テレビは[[東映]]と[[日本経済新聞社]]、[[旺文社]]などが中心となって開局しており、当初、朝日新聞社の影響力は大きくなかった。また、ラジオ東京(KRT)は開局時から朝日新聞社が資本参加していたため、ABCとしてはKRTのネット開始時点で新聞資本の捻じれがなかった。</ref>。これを「'''[[ネットチェンジ|腸捻転]]'''」と呼ぶ。 * [[1960年]](昭和35年)9月10日 - カラーテレビ放送開始。大阪地区では[[日本放送協会|NHK]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、東京地区ではNHK、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[TBSテレビ|TBS]]と共に初。 * [[1961年]](昭和36年) ** 10月1日 - [[大阪取引所|大阪証券取引所]]市場第二部に株式上場。 ** 12月1日 - 同社労働組合が実施したストライキの影響で、同日23時30分からテレビ・ラジオ共に[[停波]]。労使交渉妥結後の12月3日20時まで停波が続く。 * [[1965年]](昭和40年)5月2日 - [[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]結成に参加。翌5月3日には[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の結成にも加わった。以後ラジオネットワークではクロスネットとなる。 * [[1966年]](昭和41年)6月1日 - 大阪市[[大淀区]](現在の北区)大淀南の旧[[関西大倉中学校・高等学校|関西大倉高校]]跡地<ref group="注釈">この新社屋移転案としては、このほかに、堂島社屋(旧大阪テレビ放送社屋)の敷地を拡張をして、そこに新社屋を建設する案や、現本社がある[[福島区]]の(当時)[[大阪大学医学部附属病院|阪大病院]]敷地(当時から移転の計画があった)への移転案もあった。</ref>に新社屋が落成し、中之島から本社・ラジオ部門が、堂島からテレビ部門がそれぞれ移転、テレビ・ラジオ共に同日から新社屋からの放送を開始した([[ABCセンター]]も参照)。また、新社屋敷地内にはABCホール(2代目)がオープンし、これに伴い、中之島のABCホール(初代)はSABホールに改称。 * [[1975年]](昭和50年) ** 3月31日 - TBSとのネットワーク関係を解消し、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|五社連盟]]を脱退。NETテレビと新たにネットワーク関係を構築し、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]に加入。これにより、毎日放送とのネットチェンジによって「腸捻転」が解消された。 ** 11月 - 東京都港区芝公園にabc会館が完成。東京支社を移転して、東京での拠点とする。 * [[1978年]](昭和53年)11月23日 - 午前5時を以て、ラジオの周波数を1010kHzから現在の1008kHzに変更。 * [[1983年]](昭和58年)4月1日 - 気象情報の提供元を[[日本気象協会]]からオーシャンルーツ日本社(現在の[[ウェザーニューズ]]){{Refnest|group="注釈"|日本の放送局で初めて、日本気象協会以外からの気象情報提供}}へ変更。 * [[1985年]](昭和60年) - [[経済産業省|通商産業省]]が、情報化月間での情報化促進貢献優秀処理システム部門で、朝日放送の天気システム開発プロジェクトチームを表彰。 * [[1989年]]([[平成]]元年)4月1日 - テレビでのクレジット表示を朝日放送からABCに変更、テレビの通称を「ABCテレビ」へ、ラジオの通称を「ABCラジオ」へ変更。 * [[1990年]](平成2年) ** 9月1日 - クラシック音楽の振興を目的として[[財団法人]]ABC音楽振興財団を設立<ref name="abccon">{{Wayback|url=http://abc-concert.org/about/|title=ABC音楽振興会とは|NPO法人 ABC音楽振興会|date=20180901115138}}</ref>。 ** 10月18日 - [[原清 (実業家)|原清]]会長が、[[パリ]]出張中に急逝。 * [[1992年]](平成4年)3月15日 - 午前9時にラジオの[[AMステレオ放送|AMステレオ]]本放送を開始した。[[MBSラジオ|毎日放送]]、TBSラジオ、[[文化放送]]、ニッポン放送も同時に開始した。 * [[1993年]](平成5年)4月1日 - [[民間放送教育協会]](民教協)に、前年3月31日に脱退した毎日放送の後を継ぐ形で加盟<ref group="注釈">毎日放送脱退後の近畿広域圏における民教協番組は[[京都放送|KBS京都]]、[[サンテレビジョン]]、[[テレビ和歌山]]がクッション期間としての形で放送した。</ref>。 * [[1995年]](平成7年) ** 1月17日 - [[阪神・淡路大震災]]が発生。テレビでは『[[おはよう天気です]]』の生放送開始直後で、その瞬間のスタジオ内や外部カメラからの生々しい映像が記録され、後にそれらをまとめた映像がソフト化された。ラジオでは『[[慶元まさ美のおはようパートナー|毛利千代子のおはようパートナー]]』が生放送中であったが、地震発生直後停電による中断が発生した。激しい揺れで[[ABCセンター]]自体も大きな被害を受け、社員1名も犠牲となった<ref>[http://www.mmjp.or.jp/machi/67/67dojyoyozo.html 道上洋三のインタビュー記事より。]</ref>。こうした事情から、後述する大阪市福島区福島の新社屋には[[免震|免震構造]]が取り入れられることになった。 ** 8月 - 放送終了後に[[放送休止#放送休止時間帯に送出される内容|フィラー]]を流すことによりテレビ24時間放送開始。 * [[2001年]](平成13年)3月23日 - 日本の放送局では初めて国際環境規格「[[ISO 14000|ISO14001]]」を認証取得。 * [[2003年]](平成15年) ** 11月27日 - ABC音楽振興財団の後継団体として[[特定非営利活動法人]]ABC音楽振興会を設立。[[公益法人制度改革]]に伴うもので、振興会に業務継承後2004年3月末で財団は解散した<ref name="abccon" />。 ** 12月1日 - 午前11時 [[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタルテレビ放送]](JONR-DTV)放送開始。 ** 12月 - 大阪市[[福島区]]福島1丁目の旧・[[大阪大学医学部附属病院|阪大病院]]跡の用地を取得し、2008年を目処に念願の新社屋を建設することになった<ref group="注釈">当時の本社土地を[[近鉄不動産]]ほか3社に譲渡のうえ、新社屋土地を取得。また、東京支社も移転を目的として他社に土地・建物を譲渡。いずれも移転までは新しい所有者との間に賃貸借契約を取っている。</ref>。 * [[2005年]](平成17年) ** 5月6日 - アメリカの投資顧問会社リバティー・スクェア・アセット・マネジメントが、筆頭株主の朝日新聞社に次ぐ、発行済み株式の8.22%取得していたことが明らかになる。 ** 2005年10月 - 東京支社が港区芝のABC会館から中央区築地5丁目の朝日新聞東京本社別館に移転。10月31日に業務開始。 * [[2008年]](平成20年) ** 1月1日 - 4代目となる現在の新ロゴが登場。新ロゴ登場記念として、11月30日・12月1日の2日間、局内の社員食堂の昼食が無料となった。 ** 1月18日 - 子会社の[[ABCファンライフ|エー・ビー・シーメディアコム]]が、[[インデックス・ホールディングス|インデックス]]と共同で、在阪民放局初の独自ミュージックレーベル「[http://www.nakanoshima-records.co.jp 中之島レコーズ]」を立ち上げる。 ** 5月19日 - 福島区福島1丁目へ本社を移転。 ** 6月23日 - 演奏所(マスター)を新社屋に移転。新社屋からの最初の生番組はテレビが『[[おはようコールABC]]』、ラジオが『[[慶元まさ美のおはようパートナー|宇野ひろみのおはようパートナー]]』であった。また新社屋のマスターから初めて配信されたテレビの全国ネット番組は『[[上沼恵美子のおしゃべりクッキング]]』だった。 * [[2010年]](平成22年) ** 3月14日 - ラジオのAMステレオ放送を終了。翌日からモノラル放送に切り替え<ref>[https://web.archive.org/web/20100313075007/http://abc1008.com/ 【お知らせ】ABCラジオは、2010年3月15日(月)からモノラル放送になります。]</ref>。 ** 3月15日 - ほかの在阪ラジオ5局と共同でインターネットでのサイマル放送「[[radiko]]」を試験的に大阪府・京都府・兵庫県・奈良県内で開始した。「radiko」ではステレオ配信を実施。同年12月1日からの本運用では、対象エリアを滋賀県・和歌山県にも拡大している。 ** 11月11日 - ラジオの開局記念日に当たるこの日から2012年3月31日まで、テレビ・ラジオ合同で「開局60周年企画」を展開。現在までに、数々の特別番組やスペシャルドラマを放送している。 * [[2011年]](平成23年)7月24日 - 同日正午を以て[[NTSC#日本における実装 (NTSC-J)|アナログテレビ放送]]の番組が終了し、番組終了を告知する青色単色画面に切り替わった。23時56分からはアナログ放送停波用の特別の局名告知が放送され、23時59分にはアナログ放送の電波が停止されて約55年に亘る歴史に幕を下ろし、デジタル放送へと完全移行。最後の番組は『[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]』での[[2011年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#テレビ中継|オールスターゲーム第3戦の中継]]だった。 * [[2012年]](平成24年)3月29日 - [[ザ・シンフォニーホール]]を[[学校法人滋慶学園]]グループに、2012年9月末をもって譲渡することを発表。2013年末まではABCが運営管理する。 * [[2013年]](平成25年)7月16日 - 大阪証券取引所における現物株市場の移管に伴い、[[東京証券取引所]]第2部に上場、在阪民放テレビ・ラジオ局で唯一の東証2部上場企業となる。東証2部上場における放送事業者は、[[関東地方|関東広域圏]]で中波ラジオ放送を運営し、2005年に上場廃止された[[ニッポン放送]]以来8年振りである。 * [[2014年]](平成26年)10月10日 - 東京証券取引所第1部に指定替え。ただし、銘柄の名称も「朝日放送」ではなく、「朝日放」のままである。放送業界による銘柄は「○○放送」という銘柄も1社もない。 * [[2016年]](平成28年) ** 65周年を迎える。 ** 3月4日 - 放送関連事業を分割・子会社化することを発表、4月5日付で[[持株会社|中間持株会社]]の株式会社[[ABCフロンティア|ABCフロンティアホールディングス]]、アニメ事業会社の株式会社[[ABCアニメーション]]、海外事業会社の株式会社ABCインターナショナル、ライセンス・物販事業会社の株式会社ABCライツビジネスを設立し、7月1日付で4社の増資を引き受けると共にABCにある各事業を3事業会社に、3事業会社の統括管理業務をABCフロンティアホールディングスにそれぞれ承継させ、中間持株会社による3事業会社を運営する体制に移行する<ref name="abc20160304">{{PDFlink|[http://file.swcms.net/file/asahi/ja/ir/news/auto_20160304428138/pdfFile.pdf 会社分割による放送関連事業の中間持株体制への移行および新会社設立について]|朝日放送 2016年3月4日}}</ref>。 ** 3月19日 - この日の正午放送の在阪3局共同制作特別番組『[[ほんまもんのワイドFMをハッキリ愛して]]』より、毎日放送のラジオ・ラジオ大阪と共に、奈良県生駒市の生駒山にある生駒[[FM補完中継局]]からFM補完放送(ワイドFM、93.3&nbsp;MHz)を開始<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/1c098b2b49ca1e7fa04f6228e19445dece4f3993 MBS・ABC・OBC3局にワイドFM免許交付 3月19日放送開始へ] THE PAGE 2016年2月29日</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** 2月8日 - 放送持株会社への移行を発表<ref name="abc20170208">{{PDFlink|[http://file.swcms.net/file/asahi/ja/ir/news/auto_20170207493107/pdfFile.pdf 会社分割による認定放送持株会社体制への移行に関するお知らせ]|朝日放送,2017年2月8日}}</ref>。 ** 4月5日 - 放送事業承継のための準備会社として朝日放送テレビ分割準備会社株式会社と朝日放送ラジオ分割準備会社株式会社を設立<ref name="abc20170208" /><ref name="abc20170510">{{PDFlink|[http://file.swcms.net/file/asahi/ja/ir/news/auto_20170510464879/pdfFile.pdf 会社分割による認定放送持株会社体制への移行に伴う吸収分割契約締結および定款の一部変更(商号および事業目的の変更)に関するお知らせ]|朝日放送,2017年5月10日}}</ref>。 ** 6月22日 - この日行われた株主総会で会社分割による認定放送持株会社体制への移行が承認される<ref>{{PDFlink|[http://corp.asahi.co.jp/ja/ir/stock/meeting/main/06/teaserItems1/0/linkList/00/link/20160623rinpo.pdf 議決権行使結果のお知らせ(臨時報告書)]|朝日放送,2017年6月23日}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** 2月7日 - 総務省より認定放送持株会社の認定および免許人の地位の承継の認可を受けることが決定する<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu09_02000195.html 認定放送持株会社の認定等],総務省情報流通行政局,2018年2月7日</ref>。 ** 4月1日 - '''朝日放送グループホールディングス株式会社'''に商号変更し、放送持株会社へ移行<ref name="abc20170510" />。併せて常務取締役の沖中進が代表取締役社長、同じく常務取締役の山本晋也が代表取締役副社長(朝日放送テレビ代表取締役社長を兼務)に昇格し、これまで社長を務めた脇阪聰史が取締役会長に就任する。放送免許や諸権利を含めたラジオ放送事業を朝日放送ラジオ分割準備会社に分割承継し'''朝日放送ラジオ株式会社'''に商号変更<ref name="abc20170510" />。ラジオ放送事業・グループ経営管理事業・不動産管理事業・太陽光発電事業を除く一切の事業とテレビ放送免許・諸権利、従業員を朝日放送テレビ分割準備会社に分割承継し、'''朝日放送テレビ株式会社'''に商号を変更。併せて朝日放送グループホールディングスが引き受ける新規株式を発行し1億円に増資<ref name="abc20170510" />。併せて、朝日放送テレビのコールサインを「JONR-DTV」から「'''JOAY-DTV'''」に変更<ref name="callsign_rel">{{Cite web|和書|url=https://corp.asahi.co.jp/ja/info/info5343365259668314668/main/0/link/180330_1_news.pdf |title=朝日放送テレビのコールサインが変わります|format=PDF|publisher=朝日放送|date=2018-03-30 |accessdate=2018-04-21}}</ref>。 ** 8月23日 - ABC音楽振興会が解散を決議<ref name="abccon" />。 ** 10月9日 - 関連会社を含めた東京支社を朝日新聞東京本社新館から港区浜松町の日本生命浜松町クレアタワーに移転<ref name="abc170420_tokyo" /><ref name="abchdrel20180911" />。 * [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年) ** 4月8日 - 株式会社マッシュの発行済株式の過半数を取得する資本業務提携契約を締結。イベント企画・運営に実績を持つ同社ののグループ化によって、グループのイベントプロデュース力の向上を図る<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20190405401186/pdfFile.pdf イベント企画・制作会社株式会社マッシュとの資本業務提携について],朝日放送グループホールディングス,2019年4月8日</ref>。 ** 5月29日 - [[ディー・エル・イー]]の第三者割当増資を引き受け、約51%の株式を取得し連結子会社とする<ref>[https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1189442_1527.html データを読む 朝日放送がDLEを子会社化へ、DLE椎木社長は交代の方針] 東京商工リサーチ、2019年5月10日</ref>。 ** 10月25日 - 電通、Glamp、カプセルとの共同出資でグランピングを中核としたローカル遊休地の開発・立案・利活用を行う合弁会社「ABC Glamp&Outdoors」を設立<ref> [https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/news/18/06217/ 朝日放送グループHDらが共同出資会社、グランピングを中核に事業展開],日経xTECH,2019年10月16日</ref> ** 12月4日 - ポストプロダクション会社のプロセンスタジオの経営権を取得する資本業務提携契約を締結したと発表<ref>[https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/news/18/06622/ 朝日放送グループがプロセンスタジオと資本業務提携、映像・音響の編集事業強化へ],日経xTECH,2019年12月4日</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** 4月1日 - グループ内の音楽出版事業・音楽関連事業をエー・ビー・シーメディアコムからABCフロンティアホールディングスに事業移管<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/info/info6703121901474669762/main/0/link/20200401_news_group.pdf 朝日放送グループ 音楽出版事業の移管について],エー・ビー・シーメディアコム・ABCフロンティアホールディングス,2020年4月1日</ref>。[[西日本電信電話|NTT西日本]]との合弁でスポーツ映像配信事業会社「NTTSportict」を設立<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20200319481695/pdfFile.pdf スポーツ映像配信分野における新会社の設立について],朝日放送グループホールディングス,2020年3月23日</ref>。 ** 10月1日 - [[SILVER LINK.]](初代)および子会社のCONNECTのアニメーション制作事業を継承した、SILVER LINK.(2代目)を完全子会社化<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20200731472189/pdfFile.pdf アニメ制作会社 株式会社 SILVER LINK.の株式取得(子会社化)に関するお知らせ],朝日放送グループホールディングス,2020年8月3日</ref>。 ** [[10月26日]] - 朝日放送テレビの子会社として、出版・メディア事業会社の株式会社ABCアークを設立、12月1日付で[[ベストセラーズ]]から歴史雑誌『歴史人』及びその付帯事業の譲渡を受ける<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20201119426241/pdfFile.pdf 当社グループ会社(孫会社)による雑誌事業譲受に関するお知らせ],朝日放送グループホールディングス,2020年11月19日</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[1月5日]] - グループ会社であるカガミから新設分割する形でスポーツ関連コンテンツ制作会社として株式会社[[ベスティ]]を設立。あわせてカガミの撮影事業及びその付帯事業など残る部門をアイネックスに事業承継<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20201225439381/pdfFile.pdf スポーツコンテンツ制作会社 株式会社ベスティの設立に関するお知らせ],朝日放送グループホールディングス,2021年1月5日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20181206182132/https://www.kagami-osaka.com/ 株式会社カガミ]</ref>。 ** [[1月18日]] - [[DMM.com]]との合弁によるシニア向け通販事業会社ONE DAY DESIGNを設立し業務を開始<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2012/23/news086.html 朝日放送とDMM、シニア向け通販で合弁会社 スタートアップ支援なども展開],ITmedia NEWS,2020年12月24日</ref>。 ** 4月1日 - ABCフロンティアホールディングスグループを再編し、ABCフロンティアホールディングスがABCインターナショナルとABCライツビジネスを吸収合併しABCフロンティアに商号変更。あわせてABCアニメーションを現物配当による当社の直接子会社にする<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20201203431381/pdfFile.pdf 完全子会社及び孫会社2社の合併契約の承認及び子会社の現物配当による孫会社の異動について],朝日放送グループホールディングス,2020年12月7日</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** 5月16日、[[BuzzFeed Japan]]と資本業務提携を締結。あわせて[[Zホールディングス]]が保有する株式24.5%のうち21.5%の譲渡を受ける<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000128.000019238.html BuzzFeed Japan、朝日放送グループホールディングス、バリューコマースとの資本業務提携に関するお知らせ],BuzzFeed Japan,2022年5月16日</ref><ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20220513548224/pdfFile.pdf ニュースやエンタメなどのオンラインメディアを展開するBuzzFeed Japan との資本業務提携のお知らせ],朝日放送グループホールディングス,2022年5月16日</ref>。 ** 8月8日、ゼロジーアクトの発行済み株式を全て取得すると共に、SILVER LINK.を含めた三社間の事業提携契約を締結することを発表<ref>[https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/news/auto_20220804511891/pdfFile.pdf 株式取得による子会社化及び資本業務提携のお知らせ],朝日放送グループホールディングス,2022年8月8日</ref>。 * 2023年(令和5年)10月1日 - SILVER LINK.とゼロジーアクトが当社との株式交換によりABCアニメーションの子会社となる<ref name="ABCHD_20231002">{{Cite web|和書|url= https://corp.asahi.co.jp/ja/info/info-644729485001522626/main/0/link/231002animation.pdf|title= 当社グループ会社の再編について|format=PDF |publisher= 朝日放送グループホールディングス|date= 2023-10-02|accessdate=2023-10-02}}</ref>。これによって、ABCアニメーションは、朝日放送グループにおいて「アニメ事業における中核事業持株会社」に移行した<ref name="ABCHD_20231002"/>。 === 社史・記念誌 === * '''ABC 創業五周年記念''' 1956年11月11日発行、272ページ<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2482250|ABC}}</ref>。 * '''ABC十年'''(朝日放送株式会社 十周年記念誌編集委員会・編) 1961年3月15日発行、198ページ<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2494225|ABC十年}}</ref><ref>{{渋沢社史データベース|13170|朝日放送(株)『ABC十年』(1961.03)}}</ref>。 * '''朝日放送の50年・本史'''(朝日放送社史編集室・編) 2000年3月発行、423ページ<ref>{{渋沢社史データベース|13180|朝日放送(株)『朝日放送の50年. 1 本史』(2000.03)}}</ref>。 * '''朝日放送の50年・番組おもしろ史'''(朝日放送社史編集室・編) 2000年3月発行、183ページ<ref>{{渋沢社史データベース|13190|朝日放送(株)『朝日放送の50年. 2 番組おもしろ史』(2000.03)}}</ref>。 * '''朝日放送の50年・資料集'''(朝日放送社史編集室・編) 2000年3月発行、391ページ<ref>{{渋沢社史データベース|13200|朝日放送(株)『朝日放送の50年. 3 資料集』(2000.03)}}</ref>。 * '''朝日放送グループ70年の歩み:更なる進化、未来への躍動'''(朝日放送グループホールディングス株式会社コンプライアンス広報局社史編集担当・編集) 2021年9月発行、423ページ。 === コールサインの変遷 === {|class="wikitable" |- !colspan=2 rowspan=2|期間!!colspan=2|ラジオ!!colspan=2|テレビ!!rowspan=2|変更理由 |- !コールサイン!!免許人!!コールサイン!!免許人 |- !1951年<br/>11月11日||1956年<br/>11月30日 |rowspan=7|'''JONR'''||rowspan=6|朝日放送||colspan=2|(未開局)||ラジオ本放送開始 |- !1956年<br/>12月1日||1959年<br/>2月28日 |'''JOBX-TV'''||rowspan=2|大阪テレビ放送||テレビ本放送開始 |- !1959年<br/>3月1日||1959年<br/>5月31日 |rowspan=2|'''JONR-TV'''||コールサイン変更 |- !1959年<br/>6月1日||2003年<br/>11月30日 |rowspan=3|朝日放送||大阪テレビ放送を合併 |- !2003年<br/>12月1日||2011年<br/>7月24日 |'''JONR-TV'''<br/>'''JONR-DTV'''||デジタルテレビ放送開始 |- !2011年<br/>7月25日||2018年<br/>3月31日<br/> |'''JONR-DTV'''||アナログテレビ停波 |- !2018年<br/>4月1日||現在 ||朝日放送ラジオ||'''JOAY-DTV'''<ref name="callsign_rel"/>||朝日放送テレビ||ラジオ・テレビ同時分社化 |} == 歴代社長 == # [[石井光次郎]] # [[飯島幡司]] # [[鈴木剛 (経営者)|鈴木剛]] # [[平井常次郎]] # [[原清 (実業家)|原清]] # [[福田保朝]] # [[藤井桑正]] # [[柴田俊治]] # [[西村嘉郎]] # [[渡辺克信]] # [[脇阪聰史]] # [[沖中進]] == イメージキャラクター == ; エビシー : キュキュに代わり2015年6月より朝日放送創立65周年を記念して採用されたキャラクター。 : {{Main|エビシー}} ; キュキュ : 2015年6月まで使用された初代キャラクター。{{Main|キュキュ}} ; ねったまくん : {{Main|全国高校野球選手権大会中継#ねったまくん}} ; 猫 : 大阪テレビ放送時代のキャラクター。当時テストパターンやオープニングに使用されていた。目が大阪テレビのロゴマークになっている。 == 放送事業 == === テレビ放送 === * '''[[朝日放送テレビ]]'''(地上デジタル放送、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系列・[[準キー局]]) * '''[[スカイA]]'''(CSデジタル放送、スポーツ・カルチャー番組専門チャンネル) === ラジオ放送 === * '''[[朝日放送ラジオ]]'''(AMラジオ放送、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]/[[全国ラジオネットワーク|NRN]][[クロスネット局]]) == 拠点 == === 本社・支社 === * 本社:[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1丁目1-30 ** 旧[[大阪大学医学部附属病院]](阪大病院)跡地の[[ほたるまち]]内にあり、[[2008年]]([[平成]]20年)[[5月19日]]にABCセンターの旧本社から移転。[[6月23日]]より放送業務を開始した。専用[[日本の郵便番号|郵便番号]]553-8503。 ** 詳細は「[[#社屋・スタジオ]]」も参照。 ** 専用郵便番号は553-8503だが、別途[[大阪北郵便局]]等に番組用[[私書箱]]が設けられ、そこにも番組別の専用郵便番号があるため、視聴者、聴取者が実際にこの番号を使う機会は少なく、主に番組・局全般の問い合わせ、テレビ・ラジオの受信報告書、テレビ・ラジオの番組表請求として使用される程度である。私書箱用の郵便番号は現本社に放送業務移転後も継続して使われており、一部の番組で郵便・私書箱番号が変更になっている。ただし、スポーツ部制作の番組宛はテレビ・ラジオとも530-8003、映画関連イベントの応募先は530-8008(私書箱146号)、『[[きよし・黒田の今日もへぇーほぉー]]』は530-8799(大阪北郵便局留め)<ref group="注釈">ただし同番組のスペシャル時でのプレゼントの応募先は別住所になる。</ref>となっている。 * 東京オフィス:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[浜松町]]2丁目3-1 [[日本生命浜松町クレアタワー]]18階 ** 朝日放送テレビの東京オフィス、朝日放送ラジオ、スカイA、エー・ビー・シー開発の東京支社、[[ABCフロンティア]]、ABC&SETの本社も入る。 ** オフィス内には朝日放送ラジオのスタジオ(生放送対応可能)も設けられている。 ** クイズ番組『[[パネルクイズ アタック25]]』の関東地区([[山梨県]]も含む)予選会場にも使われている{{Refnest|group="注釈"|それ以外の地域は最寄の系列局}}。 ** これまで[[朝日新聞東京本社]]新館([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[築地]]5丁目3-2)に入居していたが、当時のABCフロンティアホールディングスグループの拡張に伴うオフィススペース不足の解消と放送持株会社化に伴う支社機能拡大のため、abc会館(後述)跡地や[[文化放送]]に程近い日本生命浜松町クレアタワーに、2018年10月9日に関連会社と併せて移転した。これによりこれまで東京都中央区[[日本橋室町]]に所在したエー・ビー・シー開発東京支社や、新たに開設されたABCリブラ東京支社も含めたグループの東京での拠点が集約された<ref name="abc170420_tokyo">[http://corp.asahi.co.jp/ja/info/info6081652731262998792/main/0/link/170420_tokyo.pdf 東京支社移転についてのお知らせ],朝日放送,2017年4月19日</ref><ref name="abchdrel20180911">[https://corp.asahi.co.jp/ja/info/info-3450230718783132264/main/0/link/20180911_iten.pdf 朝日放送グループの東京支社、東京オフィスが10月9日より港区浜松町に移転します!],朝日放送グループホールディングス,2018年9月11日</ref>。 ** なお、当初入居していたABCアニメーションはアニメ制作スタジオを開設した新宿区に、ABCリブラ東京支社は東京オフィスに近い港区芝公園に、それぞれ移転している。 === 朝日放送テレビの支社・支局 === * 名古屋支社:[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]]3丁目14-7 RICCO栄9F ** 同フロアには[[テレビ朝日]]名古屋支局や[[静岡朝日テレビ]]名古屋支社も入居している。 ** 従前は名古屋朝日会館(アムナットビル・[[朝日新聞名古屋本社]]、名古屋市中区栄1丁目3-3)内に所在した。 * 神戸支局:[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[浪花町 (神戸市)|浪花町]]60 [[神戸朝日ビル]]内 * 京都支局:[[京都府]][[京都市]][[中京区]]柳馬場通御池下る柳八幡町65 [[京都朝日ビル]]内 * [[朝日放送テレビ徳島支局|徳島支局]]:[[徳島県]][[徳島市]]<ref>[https://web.archive.org/web/20130219124702/http://www.pref.tokushima.jp/faq/docs/00001878/?s_category1_id=6&s_category2_id=49&s_category3_id=&fm=t 徳島県の記者クラブに加盟している報道機関が知りたい。](Q & A) - 徳島県庁コールセンター すだちくんコール(徳島県、2010年3月31日更新、2016年6月18日閲覧)</ref> * [[朝日放送テレビ高知支局|高知支局]]:[[高知県]][[高知市]] === かつての施設 === * [[ABCセンター]]:大阪府大阪市[[北区 (大阪市)|北区]][[大淀 (大阪市)|大淀]]南2丁目2-48 ** [[1966年]]([[昭和]]41年)[[6月]]から[[2008年]]([[平成]]20年)[[5月18日]]まで本社があったところで、[[2008年]](平成20年)[[6月22日]]放送終了時([[6月23日]]未明)までは、ABCセンター内にあったテレビ・ラジオの送出マスターで放送業務を行っていた。 * abc会館:東京都港区[[芝公園]]2丁目6-3 ** [[1975年]](昭和50年)11月完成<ref>[https://www.shimz.co.jp/200th/sakuhin/sakuhin_pdf/b073100_01.pdf 朝日放送ABC会館]([[清水建設]]公式サイト内)</ref>。東京支社などが入居し、イベントホールやラジオスタジオもある自社ビルで、朝日放送の東京における拠点であった。ANNへのネット替え後も維持し、ラジオスタジオはテレビ朝日制作『[[特捜最前線]]』のロケにも使われるなどしていたが、テレビのデジタル化、本社移転に必要な経費の捻出と朝日新聞グループとの結びつきを強めるため、東京支社を朝日新聞東京本社内に移転し売却した。跡地には、地上24階のオフィスビル「芝公園フロントタワー」が2010年に完成している。 ** 東京支社制作番組の視聴者プレゼント等の宛先は「[[芝郵便局]](民営分社化以前の芝公園郵便局)区内」となっていた{{Refnest|group="注釈"|築地<!--現在、東京支社は中央区築地に所在-->移転後の現在は[[銀座郵便局]]留<ref group="注釈">「大改造!劇的ビフォーアフター」のリフォーム依頼募集のみ、「〒104-8691(晴海郵便局)私書箱27号」が宛先になっている。</ref>。}}。 ** abc会館の建設以前、朝日放送東京支社は1951年の開設当初は[[西銀座]]朝日ビルに置かれ、その後1959年に[[千代田区]][[有楽町]]にあった朝日新聞東京本社内に移転した<ref name="abc170420_tokyo" />。 === 社屋・スタジオ === {{基礎情報 超高層ビル | ビルディング名称 = [[ほたるまち]]本社社屋 | 画像 = [[Image:Asahi Broadcasting Corporation headquarter.JPG|200px]] | 画像説明 = | 画像2 = | 画像説明2 = | 位置図種類 = | 所在地 = 〒553-8503<br/>[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1-1-30 | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = | 状態 = 完成 | 着工 = [[2005年]]([[平成]]17年)[[7月31日]] | 建設期間 = | 竣工 = [[2008年]]([[平成]]20年)[[1月]] | 完成予定 = | 開業 = | 改装 = | 解体 = | 崩落 = | 使用目的 = [[放送局]]・[[事務所]]・[[多目的ホール]]・[[駐車場]] | 建設費 = | アンテナ_尖塔 = 110m | 屋上 = | 最上階 = | 階数 = 地上16階地下1階 塔屋2階 | 構造形式 = [[鉄骨造]](一部[[鉄筋コンクリート造]]) | 敷地面積 = 8500 | 建築面積 = 6959.85 | 床面積 = 44482 | 高さ = | エレベーター数 = | 戸数 = | 駐車台数 = | 設計 = [[隈研吾|隈研吾建築都市設計事務所]]・[[NTTファシリティーズ]] | 構造エンジニア = | 施工 = [[竹中工務店]] | デベロッパー = 朝日放送 | 所有者 = | 管理運営 = | skyscraperpage_id = }} [[ファイル:Asahi-Broadcasting-Corp-hq-01.jpg|thumb|right|200px|朝日放送旧本社社屋<!--現在は解体済-->]] ''移転の歴史については[[#沿革]]も参照のこと。''<br /> ''関連施設については[[ABCセンター#施設]]を参照のこと。'' [[1966年]]から、それまでの本社およびラジオ部門の中之島、テレビ部門の堂島社屋を統合して移転した[[ABCセンター]]と称する[[北区 (大阪市)|大阪市北区]](旧[[大淀区]])大淀南の社屋を使用してきた。社屋周辺には[[大阪タワー]]や[[ホテルプラザ]]、[[ザ・シンフォニーホール]]があり、単なる放送施設に留まらない形となっていた。北区(旧大淀区)への移転により、[[梅田]]には比較的近くなったが、ホテルプラザをはじめ関連施設の閉鎖や社屋の老朽化が進んだこともあり、[[2004年]]に[[ほたるまち]]<ref group="注釈">計画時は「水都・OSAKAαプロジェクト」</ref>への移転計画が発表された。 大淀の旧社屋より[[なにわ筋]]を約700メートル南に移転した現社屋は、敷地面積8,500平方メートル(ABCセンターの約半分)、地上16階、地下1階建て・高さ110メートル、延べ床面積約44,500平方メートルである(建物の床面積は旧社屋の1.5倍)。『[[おはよう天気です]]』で[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])に襲われた反省から、建物には大規模放送局で初めて[[免震]]構造を取り入れている<ref group="注釈">放送局全体では[[NHK神戸放送局]]、ABCと同じANN系列の[[静岡朝日テレビ]]も免震構造を取り入れている。</ref>。また屋上にガスタービン発電機2機、地下に最大150キロリットルの重油を備蓄可能なタンクを備え、停電時にも最大5日間ビル全館への電力供給が可能<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kokudo_kyoujinka/minkan_torikumi/pdf/2061.pdf 非常用発電機のために燃料備蓄タンクを増設] - 内閣官房</ref>。 社屋は9階建てのスタジオ棟(低層棟)と16階建ての事務棟(高層棟)からなり、建物内にはスタジオ棟にテレビスタジオが4つ、事務棟13階にラジオスタジオ5つが設置された。スタジオ棟には、公開放送用の'''ABCホール'''(3代目、258席 / 最大320席)も設けられている。設計は[[隈研吾]]建築都市設計事務所と[[NTTファシリティーズ]]が手掛けた。[[旧淀川|堂島川]]に面して広大なリバーデッキも設けられている。 また新社屋に加え、なにわ筋を挟んだ西側の[[関西電力病院]]向かいの福島2丁目には6階建てのアネックス(別館)が同時期に建設され、関連会社などの事務所が入居した。 移転準備のため、新社屋テレビAスタジオを使用して番組の放送や収録が移転1か月前の[[2008年]]4月から始まり、同年5月に北区大淀南2丁目の社屋から福島区福島1丁目の新社屋への移転が実施された。5月12日には、関連会社の[[スカイ・エー]](スカイ・A sports+)の放送センターが大淀社屋から福島社屋へ移転し、5月19日には大淀社屋から福島社屋へ本社が移転した。 6月17日には、放送センター移転後も大淀社屋にあったスカイ・A sports+の送出マスターが[[ハイビジョン]]対応の新社屋マスターに切り替わり、6月23日から放送を新社屋マスター<ref group="注釈">[[日本電気|NEC]]製のアナログ(テレビ)・デジタル(テレビ)・AMラジオ放送統合マスターを使用。</ref>へ切り替えた。新社屋の一部のラジオスタジオ完成が間に合わなかったため、新社屋移転後も旧社屋のラジオスタジオで一部の番組収録が行われていたが、7月末をもって旧社屋での番組収録は終了した。8月5日には、新社屋の3代目ABCホール完成・稼働開始後も引き続き稼働していた旧社屋の2代目ABCホールが閉鎖された。旧社屋での全ての業務終了後も、テレビスタジオは『[[ごきげん!ブランニュ]]』の収録{{Refnest|group="注釈"|2008年10月7日放送の『復活宣言!パラ軍団』の24時間耐久ドミノ}}に使用された。 開業当時から社屋には'''ABC'''のロゴが掲げられていなかったが、2015年6月より上部に設置された。 ==== スタジオ ==== {{Main|朝日放送テレビ#スタジオ|朝日放送ラジオ#スタジオ}} ==== 交通アクセス ==== * [[京阪中之島線]] [[中之島駅]]下車、玉江橋側出口を出て東へ徒歩、玉江橋を渡ってすぐ。 * [[JR東西線]] [[新福島駅]]から[[なにわ筋]]を南へ徒歩。 * [[大阪環状線]] [[福島駅 (JR西日本)|福島駅]]からなにわ筋を南に徒歩。 * [[阪神本線]] [[福島駅 (阪神)|福島駅]]からなにわ筋を南に徒歩。 * [[大阪駅周辺バスのりば#大阪駅前停留所(大阪シティバス)|大阪駅前]]から[[大阪シティバス]] [[大阪シティバス鶴町営業所#55号系統|55号系統]]・[[大阪シティバス鶴町営業所|鶴町四丁目]]行、[[大阪シティバス酉島営業所#56号系統|56号系統]]・[[大阪シティバス酉島営業所|酉島車庫前]]行で「浄正橋」下車、なにわ筋を南に徒歩。 == 関係会社 == ※が付いている会社は連結子会社。 === 放送・コンテンツ事業 === * [[朝日放送テレビ]](テレビ放送事業)※ ** ABCアーク(朝日放送テレビの完全子会社、出版事業・メディア運営・EC事業・地域活性化に関するイベント・プロモーション等の企画運営)※ * [[朝日放送ラジオ]](ラジオ放送事業)※ * [[スカイA]](CS放送事業、地上波と別法人の運営ではあるが、放送業務の大半は朝日放送テレビに業務委託している)※ * [[ABCリブラ]](旧ABCアーカイブ、テレビ番組制作、映像保管管理)※ * [[ABCフロンティア]](版権管理、音楽出版事業・音楽関連業務、海外事業、ライセンス・物販事業)※ ** ABC&SET([[劇団スーパー・エキセントリック・シアター|スーパーエキセントリックシアター]]との合弁会社、演劇・イベントの企画・制作・興行等) * [[ABCアニメーション]](アニメ事業会社)※ ** [[SILVER LINK.]](アニメーション制作、2020年10月に子会社化、2023年10月にABCアニメーションの子会社となる)※ ** ゼロジーアクト(アニメキャラクターグッズの企画・デザイン・製造・開発、2022年8月に完全子会社化を発表、2023年10月にABCアニメーションの子会社となる)※ ** [[CGCGスタジオ]](CG映像制作、2023年12月にABCアニメーションの子会社となる)※ * デジアサ(旧朝日テレスキャン放送→朝日文字テレビ、字幕放送・デジタルコンテンツの制作)※ * [[アイネックス (技術プロダクション)|アイネックス]](旧ABCビデオサービス、旧アンツ、[[技術プロダクション]])※ * マッシュ(イベント企画・制作、2019年4月に資本業務提携を締結)※ * [[ディー・エル・イー]](映像コンテンツ制作、2019年5月に第三者割当増資を引き受け、筆頭株主となると同時に連結子会社化)※ ** アマダナ総合研究所 ** ちゅらっぷす※ ** エモクリ ** DLE キャピタル ** AMIDUS. ** DLE America, Inc. ** CARAVAN Japan * プロセンスタジオ(音響制作・ポストプロダクション。1979年設立。アニメ・外国映画の吹替アフレコを多数手がけている老舗。2019年12月、東京でのポスプロ事業内製化を目的にして経営権を取得)※ * [[ベスティ]](スポーツコンテンツの企画・制作・コンサルティング。[[カガミ (テレビ制作会社)|カガミ(旧・各務プロダクション)]]のスポーツ映像製作部門を新設分割して2021年1月に設立)※ === ライフスタイル事業 === * ABC開発([[住宅展示場]]「[[ABCハウジング]]」及びショールーム施設「ハウジング・デザイン・センター」の運営、保険代理店業、広告代理店業)※ ** ハウジングサポート(ABCハウジングの管理運営業務、労働者派遣事業) * [[ABCゴルフ倶楽部]](ゴルフ場運営。[[ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント|マイナビチャンピオンシップ]]の開催場所)※ * [[ABCファンライフ]](旧エー・ビー・シーメディアコム、通信販売事業:ABCテレショップセンター、ラジオ番組制作、[http://www.nakanoshima-records.co.jp 中之島レコーズ] を運営)※ * ONE DAY DESIGN([[DMM.com]]との合弁会社、シニア向け通販事業)※ * ABC Glamp&Outdoors(グランピングを中核とした地域共創・エリア開発プロデュース、2019年10月25日設立、51%出資) === その他事業 === * ABCドリームベンチャーズ([[ベンチャーキャピタル]]の運営) * ABC HORIZON PTE. LTD.(ABCホライゾン、[[シンガポール]]の海外現地法人) * エー・ビー・シー興産(ABC本社の警備受付業務) * MBC-Studio(ABC・ABCフロンティアと[[ベトナム]]のMBCメディアエンタテインメントとの合弁によるコンテンツ制作会社、2018年10月設立) * NTTSportict([[西日本電信電話|NTT西日本]]との合弁会社、スポーツ映像配信事業) * リバティ・コンサーツ(コンサート企画等) * [[BuzzFeed Japan]](オンラインメディア運営、2022年5月に資本業務提携) * [http://www.shinki-tr.co.jp/ 神姫トラベル](旧・エービーシー神姫トラベル)<ref group="注釈">当初は朝日放送の完全子会社「エービーシートラベル」であったが、[[姫路市]]のバス会社・[[神姫バス]]が資本参加し「エービーシー・神姫トラベル」となった。2016年4月に社名からエービーシーが消えたが、引き続き朝日放送も神姫バスと共に関連会社として位置付けているため、本社は他の関連会社同様、ABCアネックスに所在している。</ref> == その他 == === ミス・ユニバース日本大会 === [[1971年]]([[昭和]]46年)から[[1994年]]([[平成]]6年)まで、[[ミス・ユニバース・ジャパン#かつてのミス・ユニバース日本大会|ミス・ユニバース日本大会]]の運営権及び放送権を有していた。また、[[ミス・ユニバース|ミス・ユニバース世界大会]]についても、[[1967年]]から[[1995年]]([[平成]]7年)まで、日本大会および日本での放送権を有していた<ref>『朝日放送の50年』(2000年3月)Ⅰ本史 P146, P150による</ref>。 === インターネットドメイン === 技術者にサイバー関西・ワイドプロジェクトに関係した人物がいたこともあり、朝日放送がasahi.co.jpを使い始めたのは1984年で、当時は朝日新聞がまだJPNICに申請をしておらず、日本でのco.jpサイトとして、最初にasahiの名前を使うことになった。公式サイト開設に当たり、[[ANAビジネスクリエイト]]<ref group="注釈">[[全日本空輸|ANA]]グループの[[アウトソーシング]]会社</ref>に[[ドメイン名]]「[http://www.abc.co.jp/ abc.co.jp]」を先に使われたため、「[http://www.asahi.co.jp/ asahi.co.jp]」となった。その影響で系列の[[朝日新聞社]]は「[http://www.asahi-np.co.jp/ asahi-np.co.jp]」および「[http://www.asahi.com/ asahi.com]」となっている<ref group="注釈">前者はかつて出版部門に使われていたが、2003年以降後者にリンクする形となり、2014年現在は後者の[[朝日新聞デジタル]]と [http://www.asahi.com/shimbun/ 朝日新聞社インフォメーション] へのリンクが張られているだけで、実質上使われなくなった。</ref>。現在は「[https://web.archive.org/web/20041216131925/http://asahi.jp/ asahi.jp]」及びABCラジオ用の「[http://www.abc1008.com abc1008.com]」も使われている。 === 宿直制度 === 夜間における緊急事態発生に備え、局アナ1人と制作・技術・報道部門のスタッフ数人が局に毎日交替で泊まり込む「[[シフト勤務|宿直勤務]]制度」を敷いている。 == 不祥事・事件・トラブル == ; 『素敵にドキュメント』やらせ事件 : ABCテレビ制作・全国ネットの情報番組『[[素敵にドキュメント|いつみの情報案内人・素敵にドキュメント]]』の[[1992年]][[7月17日]]放送分で女性の性行為を取り上げた際に女性タレントを使って[[やらせ]]を行っていたことが発覚。司会の[[逸見政孝]]はやらせへの関わりはなかったものの「番組タイトルに自分の名前が入っている以上、責任を取る必要がある」として即刻番組を降板。逸見抜きで番組は継続したものの最終的には全スポンサーが降板し、同年9月25日の放送をもって打ち切りとなった。ANNのキー局・テレビ朝日でも1985年10月に『[[アフタヌーンショー]]』がやはりやらせ発覚が契機となって打ち切られており、それに続く不祥事となった。朝日放送は当時の郵政省(現・[[総務省]])から厳重注意処分を受け、同局のみならずANN加盟各局の信用失墜と視聴率低下を招くこととなった。なお、朝日放送側は「問題のシーンの撮影は外部の番組制作会社のスタッフが行っていて、現場にABCの人間はおらず、チェックが出来なかった」と説明した。 ; 『サイキック青年団』打切り事件 : 20年以上続いたABCラジオの人気番組『[[誠のサイキック青年団]]』が「番組内での不適切発言」を理由に[[2009年]][[3月8日]]の放送を最後に突如打ち切られた事件。しかし、どの発言が問題になったかは明らかにされず、また番組のイベントが理由の説明もないまま中止されたり、本来同年3月末まで放送される予定だった同番組が予告なく3月8日で打ち切りになるなど、未だに謎の部分が多い。これに関連して出演者の一人である[[北野誠 (タレント)|北野誠]]が2009年5月から[[2010年]]2月まで芸能活動休止に追い込まれ、朝日放送は北野の所属事務所である[[松竹芸能]]と共に[[日本音楽事業者協会]]を自主脱会した<ref group="注釈">なお、のちに前者・松竹芸能は正会員として復帰、朝日放送も賛助会員として復帰している。</ref>。 ; 個人情報流出 : [[2006年]][[10月26日]]、通販番組『[[評判!なかむら屋]]』で、同年10月21日から23日の間に発送した商品の送り主欄に、過去に商品を購入した人の住所と氏名を誤って印字して358件に発送したことを明らかにした。原因は調査中としている。 : [[2008年]][[5月15日]]、ABCラジオのワイド番組『[[全力投球!!妹尾和夫です]]』のリスナー244人に[[高野あさお|前アシスタント]]に対する激励メールなどの返信メールを一括送信した際、全員のメールアドレスを表示したまま誤って送信したことを明らかにした。 ; アナウンサーによる不祥事 : [[2006年]][[11月14日]]、朝日放送[[アナウンサー]]3名([[上田慶行]]、[[長嶋賢一朗]]、[[松原宏樹]])が性犯罪事件を起こしていたことが一部スポーツ紙の取材を端緒として発覚、上田と長嶋を停職3ヶ月、松原を譴責とする社内処分を行った。同年5月に自社の[[情報番組]]『[[ムーブ!]]』において、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の男性アナウンサーが電車内で盗撮行為をして書類送検された際に、他のメディアに先駆けて実名を公表し[[マスメディア]]の透明性を訴えておきながら、それとほぼ同時期に起きていた自社の同種の不祥事を隠匿し続けたことや、「被害者の女性のプライバシーを考慮し、詳しい内容は話せない」「社員にも家族や子どもがいる。勘弁してほしい」と繰り返し3名の氏名の公表を拒絶したこと、実質的には準強姦、強制わいせつに類する行為を「セクハラ」との比較的軽い表現で扱った姿勢などが、「報道機関にあるまじきもの」「他社の不祥事を叩いておきながら自社の不祥事は隠蔽するのか」などとして批判された。また、その当時、同社の取締役を務めていた[[道上洋三]]が担当していたラジオ番組『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』では、他局の番組では冒頭でこの事件を取り上げていたにもかかわらず、この番組では番組終了時間の数分前になって、この事件のことを取り上げた。なお、上田と長嶋は処分解除と同時に他部署に異動となり、松原もしばらくはアナウンス職にとどまったものの2008年9月に他部署へ異動となった。また同時期、同局社員が同年3月17日に痴漢で逮捕されていた事実を隠蔽し続けてきたことが、[[2007年]]1月25日付けの『[[週刊文春]]』で告発され(事案は、本人否認のまま不起訴処分。事実上の無罪裁定)、同社の隠蔽体質が際立つこととなった。 : 1980年代後半にも、当時アナウンサーだった男性社員が酒で酔った状態でタクシー運転手に暴行を働き逮捕された事件があった。この男性社員は当時ラジオでレギュラー番組を持つなど人気アナウンサーだったが、逮捕後は暫く謹慎したのち別部署に異動している。 ; 公然わいせつ : [[2008年]][[3月2日]]、新幹線「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」の車内で朝日放送の男性社員が、乗降口付近を通りかかった女性客室乗務員の前で下半身を露出させたとして、公然わいせつ容疑で逮捕された。[[2009年]][[3月5日]]、この事件で有罪判決が言い渡されたが、ABCラジオ、ABCテレビ、ABCのWebサイト内のニュースでは匿名の形で報道された。ライバル局である[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の『[[FNNスーパーニュースアンカー]]』ではこの匿名報道について批判した。後に大阪高裁でも有罪判決、刑が確定した。 ; 麻薬表現の法令違反事案 : ABCテレビのバラエティ番組『[[世界の村で発見!こんなところに日本人]]』に出演していたタレントが[[ボリビア]]の露店でコカインの原料のコカの葉<ref group="注釈">コカの葉はコカインと同様に麻薬に指定されており、栽培や使用は処罰の対象になる。一方、麻薬特例法では、薬物犯罪や規制薬物の乱用をあおったり、使用をそそのかしたりすることを禁じている。 </ref>をかむ場面があり、近畿厚生局麻薬取締部が、薬物犯罪をあおることを禁じた[[麻薬特例法]]に抵触する恐れがあるとして、同社に口頭で注意した。朝日放送によると、2009年1月5日に近畿厚生局から指摘があり、担当者が事情を説明。今後このシーンの再放送は控えるという。同広報部は「なじみのない外国の風習を伝えたいとの意図だった。放送に際してはより慎重を期すべきだった」とコメントしている。 ; 捏造リスト : [[2012年]][[2月6日]]放送の『[[ABCニュース (朝日放送テレビ)|ABCニュース]]』において、[[2011年]]の[[2011年大阪市長選挙|大阪市長選挙]]で[[大阪市交通局]]の労働組合の内部で「現職市長の支援に協力しなければ不利益がある」と組合員を脅すよう指示した疑惑を報道した。その時に配布されたという知人や友人が書かれたリストを選挙協力の強要の根拠としていた。しかし、このリストが後に捏造であると判明し、労働組合が朝日放送を[[名誉毀損]]で訴えた。[[2013年]][[10月1日]]、[[放送倫理・番組向上機構]]は「放送倫理上重大な問題がある」として、再発防止などを勧告した<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131001-OYT1T00920.htm|title=捏造リスト「スクープ」朝日放送に再発防止勧告 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2013-10-1|accessdate=2013-10-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004233423/https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131001-OYT1T00920.htm|archivedate=2013-10-04}}</ref><ref>{{cite news |title=朝日放送に勧告=大阪市交通局労組めぐる報道-BPO |newspaper=[[時事通信]] |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013100100858 |date=2013-10-1 |accessdate=2013-10-1 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131216212438/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201310/2013100100858 |archivedate=2013-12-16}}</ref>。 ; 「大改造!!劇的ビフォーアフター」における捏造疑惑 : [[2016年]][[7月26日]]、「[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]」でリフォームを担当した[[愛知県]]の[[建設会社]]が、追加工事費の損害賠償を求め[[名古屋地方裁判所]]に提訴した。この建設会社によると、当初改修費は約2200万円とされていたのが、追加工事によって最終的に約2700万円オーバーしたにもかかわらず、それに対する支払いがされていないとのことである。また、番組内では予算内でリフォームしたと放送されたため、[[放送倫理・番組向上機構]]にも申し立てる意向であると報じられた。これに対し朝日放送側は建設会社の管理に問題があったと主張している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/west/news/160726/wst1607260073-n1.html |title= 「ビフォーアフター」追加工事費で提訴 建設会社が朝日放送などへ2900万円損賠請求 |publisher=産経WEST |date=2016-07-26 |accessdate=2016-07-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161101091648/https://www.sankei.com/west/news/160726/wst1607260073-n1.html |archivedate=2016-11-01}}</ref>。 ; インサイダー取引 : [[2021年]][[1月15日]]、[[証券取引等監視委員会]]は、朝日放送テレビの男性社員が[[内部者取引|インサイダー取引]]し、知人にも知らせて株取引させたとして、[[金融商品取引法]]違反の疑いで、社員に451万円の課徴金納付命令を出すよう[[金融庁]]に勧告した。朝日放送は2017年2月8日に会社の分割を公表したが、男性社員はこの情報を公表前に番組制作会社経営の知人に伝達。知人は公表直前に同社株1900株を買い、値上がり後に売却して約5万円の利益を得たという。また男性社員は、2019年5月10日に公表された朝日放送グループホールディングスと「[[ディー・エル・イー]]」との資本提携情報などを公表前に把握。同じ知人と2人で2019年4~5月、ディー・エル・イーの計4万3千株を買い、それぞれ約183万円の利益を得たという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASP1H6HT7P1HPTIL03B.html |title=朝日放送テレビの50代社員に課徴金 インサイダー疑い |date=2021-01-15 |publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2021-01-16}}</ref>。1月19日に朝日放送はこの社員を懲戒解雇処分にした<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG195TB0Z10C21A1000000/|title=朝日放送社員を懲戒解雇、インサイダー取引疑い|newspaper=日本経済新聞|date=2021-01-19|accessdate=2023-02-19}}</ref>。 ; 局員のガム噛み生中継 : [[2023年]][[1月13日]]、朝の情報番組「[[おはよう朝日です]]」のコーナー「関西ええとこみっけ隊」でリポーターを務める女性ディレクターが、ガムを噛みながら生中継。エンディングでMCの[[岩本計介]]アナが「中継のコーナーでリポーターがガムを噛みながら出演することがありました。御協力いただいた地元の川湯温泉の皆様、ならびにテレビにご覧の皆様に対しても非常に失礼な行為でした。大変失礼いたしました」と謝罪した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/251552|title=ABCテレビ社長 局員のガム噛み生中継に苦言「あってはならない」|date=2023-01-20|accessdate=2023-02-04}}</ref>。[[2月10日]]、このディレクターが番組の生放送に出演し、「取材先の皆様に、不快な思いをさせてしまい、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」と謝罪した<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/02/10/kiji/20230210s00041000211000c.html?amp=1|title=ガムを噛みながら生中継…「おは朝」つだまゆが出演し謝罪「不快な思いをさせてしまった」|newspaper=スポーツニッポン|date=2023-02-10|accessdate=2023-02-19}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|放送局}} * [[BS朝日]] * [[テレ朝チャンネル]] * [[名古屋テレビ放送]](メ〜テレ) * [[九州朝日放送]](KBC) ** [[KBCラジオ]] * [[北海道テレビ放送]](HTB) == 外部リンク == {{Commonscat|Asahi_Broadcasting_Corporation}} * [https://corp.asahi.co.jp/ja/index.html 朝日放送グループホールディングス] * [http://www.owarai.to/otv/ 大阪テレビ放送] - 大阪テレビ放送研究会 * {{wayback|url=https://radiofly.to/wiki/?cmd=read&page=%C2%E7%BA%E5%A5%C6%A5%EC%A5%D3%CA%FC%C1%F7&word=%C2%E7%BA%E5%A5%C6%A5%EC%A5%D3|title=大阪テレビ放送|date=20140706232933}} - radiofly放送博物誌 {{朝日放送グループ}} {{ANN}} {{朝日新聞社}} {{日本の放送持株会社}} {{Portal bar|日本|大阪府|テレビ|メディア}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あさひほうそう}} [[Category:朝日放送グループ|*]] [[Category:放送持株会社]] [[Category:日本民間放送連盟会員|過27あさひほうそうくるうふほおるていんくす]] [[Category:福島区の企業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1961年上場の企業]] [[Category:1951年設立の企業]] [[Category:堂島]] [[Category:かつて存在した日本の放送事業者]] [[Category:大阪市北区の歴史]]
2003-09-07T05:23:38Z
2023-12-12T09:11:23Z
false
false
false
[ "Template:半保護", "Template:混同", "Template:Cite web", "Template:Wayback", "Template:渋沢社史データベース", "Template:Portal bar", "Template:Normdaten", "Template:0", "Template:Cite news", "Template:ウィキプロジェクトリンク", "Template:朝日放送グループ", "Template:Refnest", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:PDFlink", "Template:Cite book", "Template:Cite report", "Template:Commonscat", "Template:日本の放送持株会社", "Template:基礎情報 会社", "Template:Lang-en-short", "Template:基礎情報 超高層ビル", "Template:Reflist", "Template:国立国会図書館のデジタル化資料", "Template:ANN", "Template:朝日新聞社" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%94%BE%E9%80%81%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9
15,505
ニュートリノ振動
ニュートリノ振動(ニュートリノしんどう、英: neutrino oscillation)は、生成時に決定されたニュートリノのフレーバー(電子、ミューオン、タウ粒子のいずれか)が、後に別のフレーバーとして観測される素粒子物理学での現象。その存在確率はニュートリノが伝搬していく過程で周期的に変化(すなわち振動)する。これはニュートリノが質量を持つことにより起きるとされ、素粒子物理学の標準模型では説明できない。 ニュートリノ振動は、1957年にブルーノ・ポンテコルボによって最初に予測された。これは、K中間子振動(英語版)理論 (Murray Gell-Mann and Abraham Pais, 1955) から類推された。ポンテコルボの理論はニュートリノと反ニュートリノの間で振動するというもので、現在受け入れられているニュートリノがフレーバー間で振動する理論とは異なるものであった。しかし、その後10年で彼が取り組んだ真空の振動理論の数学的定式化はニュートリノ振動の理論の基礎となった。1962年に坂田昌一・牧二郎・中川昌美によって、フレーバー間で振動する理論が提唱および定式化された。あるフレーバーのニュートリノがニュートリノ振動により他のフレーバーに変換される混合の強さは、ポンテコルボ・牧・中川・坂田行列(PMNS行列)によって特定することができる。 1998年に梶田隆章らによるスーパーカミオカンデが大気ニュートリノの観測から、アーサー・B・マクドナルドらによるサドベリー・ニュートリノ天文台が太陽ニュートリノの観測からこの現象を実証した。2010年5月31日に国際研究実験OPERAを実施する研究チームがCERNの加速器において振動現象をはじめて直接的に確認したと発表。このほかにも次節で示す諸実験が行われている。 ニュートリノ振動が観測されたことにより、ニュートリノの質量をゼロとする標準模型に何らかの修正が必要であることが示された。期待されている新しい理論では、ニュートリノと同じように他のレプトンも振動していることを予測する(荷電レプトン混合現象)。ただし、レプトンの場合はその測定にはさらなる精密さを要求されるため、観測精度を一層高めた今後の研究結果が待たれている。なお、ハドロンについてはクォーク混合により振動は既知の現象である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニュートリノ振動(ニュートリノしんどう、英: neutrino oscillation)は、生成時に決定されたニュートリノのフレーバー(電子、ミューオン、タウ粒子のいずれか)が、後に別のフレーバーとして観測される素粒子物理学での現象。その存在確率はニュートリノが伝搬していく過程で周期的に変化(すなわち振動)する。これはニュートリノが質量を持つことにより起きるとされ、素粒子物理学の標準模型では説明できない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ニュートリノ振動は、1957年にブルーノ・ポンテコルボによって最初に予測された。これは、K中間子振動(英語版)理論 (Murray Gell-Mann and Abraham Pais, 1955) から類推された。ポンテコルボの理論はニュートリノと反ニュートリノの間で振動するというもので、現在受け入れられているニュートリノがフレーバー間で振動する理論とは異なるものであった。しかし、その後10年で彼が取り組んだ真空の振動理論の数学的定式化はニュートリノ振動の理論の基礎となった。1962年に坂田昌一・牧二郎・中川昌美によって、フレーバー間で振動する理論が提唱および定式化された。あるフレーバーのニュートリノがニュートリノ振動により他のフレーバーに変換される混合の強さは、ポンテコルボ・牧・中川・坂田行列(PMNS行列)によって特定することができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1998年に梶田隆章らによるスーパーカミオカンデが大気ニュートリノの観測から、アーサー・B・マクドナルドらによるサドベリー・ニュートリノ天文台が太陽ニュートリノの観測からこの現象を実証した。2010年5月31日に国際研究実験OPERAを実施する研究チームがCERNの加速器において振動現象をはじめて直接的に確認したと発表。このほかにも次節で示す諸実験が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニュートリノ振動が観測されたことにより、ニュートリノの質量をゼロとする標準模型に何らかの修正が必要であることが示された。期待されている新しい理論では、ニュートリノと同じように他のレプトンも振動していることを予測する(荷電レプトン混合現象)。ただし、レプトンの場合はその測定にはさらなる精密さを要求されるため、観測精度を一層高めた今後の研究結果が待たれている。なお、ハドロンについてはクォーク混合により振動は既知の現象である。", "title": "歴史" } ]
ニュートリノ振動は、生成時に決定されたニュートリノのフレーバー(電子、ミューオン、タウ粒子のいずれか)が、後に別のフレーバーとして観測される素粒子物理学での現象。その存在確率はニュートリノが伝搬していく過程で周期的に変化(すなわち振動)する。これはニュートリノが質量を持つことにより起きるとされ、素粒子物理学の標準模型では説明できない。
{{標準模型を超える物理}} '''ニュートリノ振動'''(ニュートリノしんどう、{{lang-en-short|''neutrino oscillation''}})は、生成時に決定された[[ニュートリノ]]の[[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]([[電子]]、[[ミューオン]]、[[タウ粒子]]のいずれか)が、後に別のフレーバーとして観測される[[素粒子物理学]]での現象。その存在確率はニュートリノが伝搬していく過程で周期的に変化(すなわち振動)する。これはニュートリノが[[質量]]を持つことにより起きるとされ、素粒子物理学の[[標準模型]]では説明できない。 == 歴史 == ニュートリノ振動は、1957年に[[ブルーノ・ポンテコルボ]]によって最初に予測された。これは、{{仮リンク|K中間子振動|en|kaon oscillation}}理論 (Murray Gell-Mann and Abraham Pais, 1955) から類推された。ポンテコルボの理論はニュートリノと反ニュートリノの間で振動するというもので、現在受け入れられているニュートリノが[[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]間で振動する理論とは異なるものであった。しかし、その後10年で彼が取り組んだ真空の振動理論の数学的定式化はニュートリノ振動の理論の基礎となった。1962年に[[坂田昌一]]・[[牧二郎]]・[[中川昌美]]によって、フレーバー間で振動する理論が提唱および定式化された<ref>{{Cite journal|author=Maki, Z.; Nakagawa, M.; Sakata, S.|month=11|year=1962|title=Remarks on the Unified Model of Elementary Particles|url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1962PThPh..28..870M/abstract|journal=Progress of Theoretical Physics|volume=28|issue=5|page=|pages=870-880}}</ref>。ある[[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]のニュートリノがニュートリノ振動により他のフレーバーに変換される混合の強さは、[[ポンテコルボ・牧・中川・坂田行列]](PMNS行列)によって特定することができる。 [[1998年]]に[[梶田隆章]]らによる[[スーパーカミオカンデ]]が大気ニュートリノの観測から<ref>{{Cite journal|author=梶田隆章|year=|date=1998-10-05|title=ニュートリノ振動の証拠 - スーパーカミオカンデにおける大気ニュートリノの観測から|url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.53.783|journal=日本物理学会誌|volume=53|issue=10|page=|pages=783-784}}</ref>、[[アーサー・B・マクドナルド]]らによる[[サドベリー・ニュートリノ天文台]]が太陽ニュートリノの観測からこの現象を実証した<ref>{{Cite web |url = http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2015/ |title = The Nobel Prize in Physics 2015 |accessdate = 2021-10-07 |publisher = Nobel Media AB}}</ref>。[[2010年]][[5月31日]]に国際研究実験OPERAを実施する研究チームが[[欧州原子核研究機構|CERN]]の加速器において振動現象をはじめて直接的に確認したと発表<ref name=kyodo20100531>{{cite news |url=https://web.archive.org/web/20100603171921/http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010053101000921.html |title=ニュートリノ振動を初確認 日本も参加の国際実験 |work=47NEWS |publisher=[[共同通信]] |date=2010-05-31 |accessdate=2010-06-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603171921/https://www.47news.jp/CN/201005/CN2010053101000921.html |archivedate=2010-06-03 }}</ref><ref name=yomiuri20100601>{{cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100601-OYT1T00134.htm |title=ニュートリノ振動、初の直接観測…質量裏付け |work=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞]] |date=2010-06-01 |accessdate=2010-06-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603030729/https://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100601-OYT1T00134.htm |archivedate=2010-06-03 }}</ref>。このほかにも[[ニュートリノ振動#実験|次節で示す諸実験]]が行われている。 ニュートリノ振動が観測されたことにより、ニュートリノの質量をゼロとする[[標準模型]]に何らかの修正が必要であることが示された。期待されている新しい理論では、ニュートリノと同じように他の[[レプトン (素粒子)|レプトン]]も振動していることを予測する([[荷電レプトン混合現象]]<ref>{{Cite web|和書|title=荷電レプトン混合現象の探索|url=http://www-kuno.phys.sci.osaka-u.ac.jp/kunolab_old2/researches/lepton-mix/index.html|accessdate=2016-01-03|publisher=大阪大学 素粒子物理学実験研究グループ 久野研究室}}</ref>)。ただし、レプトンの場合はその測定にはさらなる精密さを要求されるため、観測精度を一層高めた今後の研究結果が待たれている。なお、[[ハドロン]]については[[CKM行列|クォーク混合]]により振動は既知の現象である。 == 実験 == === 実験手法 === ; 太陽ニュートリノ観測実験 : 太陽内部の核融合反応で発生するニュートリノを観測し、理論計算値と比べることでニュートリノ振動を検出する。[[レイモンド・デイビス]]が HOMESTAKE 実験により観測されるニュートリノの数が太陽モデルに基づく計算結果に比べて三分の一しかない「[[太陽ニュートリノ問題]]」を提示したことから、その後様々な追実験が行われ、ニュートリノ振動の発見につながった。HOMESTAKE、GALLEX、SAGE、KAMIOKANDE、スーパーカミオカンデ、SNO 等 ; 大気ニュートリノ観測実験 : [[宇宙線]]が大気に衝突して発生するニュートリノを観測する。ニュートリノは相互作用が小さく地球を突き抜けるので、観測装置ではその上方の大気で発生したニュートリノだけでなく、地球の裏側で発生したニュートリノも観測することが出来る。観測装置に上方から入射するニュートリノの数と下方から入射するニュートリノの数を比較することで、ニュートリノ振動を検出する。スーパーカミオカンデ、ANTARES 等 ; 原子炉ニュートリノ観測実験 : 原子力発電所では原子炉内の反応を精密にコントロールしているため、そこで発生するニュートリノの数とエネルギー分布は高い精度で計算可能である。原子炉で発生するニュートリノを離れた場所で観測し、その数、エネルギー分布を計算結果と比較することにより、ニュートリノ振動を検出する。KamLAND (150-200 km) 等 ; 長基線ニュートリノ・ビーム実験 : 粒子加速器を用いてビーム状のニュートリノを作り出し、距離の離れたところにあるニュートリノ観測装置に入射する実験。ニュートリノ・ビーム生成直後の前段検出器と離れたところに設置された観測装置との二つの観測結果を比較し、ニュートリノ振動を検出する。K2K (日本、250 km)、MINOS(アメリカ、730km)、OPERA/ICARUS (ヨーロッパ、732 km)、[[T2K]](日本、295km) 等 === 諸実験 === ; {{仮リンク|Homestake|en|Homestake experiment}} : 地下 3000 m に設置した 600 トンの塩化物溶液のタンクを用い、塩素37とニュートリノの反応を利用して太陽ニュートリノを観測した。1969年から観測開始、観測されるニュートリノの数が太陽モデルに基づく計算結果に比べて三分の一しかないことを示した([[太陽ニュートリノ問題]])。 ; [[スーパーカミオカンデ]](ミュー型とタウ型の間の振動を確認) : 地下 1000 m に設置した約 50000 トンの純水のタンク(直径39.3m、高さ41.4m)に入射するニュートリノを検出しその入射方向、エネルギーを測定する。電子ニュートリノとミュー・ニュートリノを観測可。1996年から観測を開始し、太陽から飛来する電子ニュートリノが理論計算値よりも少ないという太陽ニュートリノ問題を確認、1998年大気ニュートリノの観測によるニュートリノ振動の証拠を捉えた。1999年から2004年にかけて250km離れた高エネルギー加速器研究機構からニュートリノビームを入射する長基線ニュートリノ・ビーム実験(K2K)によるニュートリノ振動の検証も行った。2001年SNO実験の結果と合わせて太陽ニュートリノ問題もニュートリノ振動によることを明らかにした。 ; [[サドベリー・ニュートリノ天文台]] : 地下2000mに設置した 1000 トンの重水で満たした直径 12 m の容器に入射する太陽ニュートリノを検出する。電子、ミュー、タウの三種類のニュートリノを観測可。1999 年から観測を開始し、2001年に太陽から飛来する電子ニュートリノが別の種類のニュートリノに変化していることを確認。スーパーカミオカンデの結果と合わせることによりニュートリノ振動を確認した。2002年には中性カレント反応を利用した独自の結果と昼夜効果の観測結果を発表、改めてニュートリノ振動を確認した。その後検出器の重水に食塩を混入し、ミュー、タウ・ニュートリノに対する感度を向上させて観測を続けている。 ; [[カムランド]](ミュー型と電子型の間の振動を確認) : 地下 1000 m (カミオカンデ跡地)に設置した 1000 トンの液体シンチレーターで満たした直径 13 m の球状容器に入射するニュートリノを観測する。ニュートリノと[[反ニュートリノ]]を識別することが出来る。2002年観測開始。150 から 200 km 離れた原子炉の核分裂反応で発生する反ニュートリノ(電子型)を検出し、原子炉のデータから予測される発生数、エネルギー分布と比較して反ニュートリノのニュートリノ振動を初めて確認した(2002年、2004年)。2005年には地球内部で発生した反ニュートリノの観測結果を発表、地球の内部構造を理解するための新たな手段となる可能性を示した。 ; [[T2K]](タウ型と電子型の間の振動を確認) :東海村のJ-PARC加速器で発射したニュートリノを295km離れた[[スーパーカミオカンデ]]で捉える。2009年確認。 ; [[Borexino]] : 地下 1400 m ([[グラン・サッソ]])に設置した 1300 トンの液体シンチレーターと 2400 トンの水の二重構造の球形容器(内側容器直径 8.5 m、総直径 13.7 m)を用いて太陽ニュートリノを観測する。 ; [[OPERA]] : [[欧州原子核研究機構|CERN]] からグラン・サッソへの 732 km 長基線ニュートリノ・ビームラインを使用し、写真乾板を用いてミューニュートリノからタウニュートリノへの変化を観測する。[[2010年]][[5月31日]]に観測に成功したと発表<ref name=kyodo20100531 /><ref name=yomiuri20100601 />。2011年9月には光より60[[ナノ]]秒速い可能性のあるニュートリノが検出されたと報告したが、後に光ケーブルの接続不良等の問題が判明し撤回した。 ; [[ANTARES]] : 地中海の海底に検出器を設置し、厚さ 2400 m の海水を利用してニュートリノを検出する。 ; [[ダブルショー]] : [[ショー原子力発電所]]において原子炉ニュートリノを検出する実験。ニュートリノ振動のパラメーターの一つである混合角<math> \theta_{13} \ </math>を測定することを目的としている。 ; [[大亜湾原子炉ニュートリノ実験]] : [[大亜湾原子力発電所]]と[[嶺澳原子力発電所]]の原子炉で生成される反ニュートリノを検出する実験。混合角<math> \theta_{13} \ </math>を測定することを目的としている。 == 出典 == {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[ニュートリノ]] * [[太陽ニュートリノ]] * [[スーパーカミオカンデ]] == 外部リンク == {{Commonscat|Neutrino oscillation}} * [https://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/ スーパーカミオカンデ 公式ホームページ | スーパーカミオカンデ 公式ホームページ] * [https://neutrino.kek.jp K2K: Long Baseline Neutrino Oscillation Experiment] K2K実験 * [https://sno.phy.queensu.ca The SNO Homepage] SNO実験 * [https://www.awa.tohoku.ac.jp/kamland/ KamLAND] KamLAND実験 * [https://www.lngs.infn.it Home - LNGS] Gran Sasso 国立研究所(イタリア) * [http://wwwlapp.in2p3.fr/neutrinos/anhistory.html Neutrino History] * [http://wwwlapp.in2p3.fr/neutrinos/anexp.html Neutrino experiments] "Neutrino Detection Experiments" {{Physics-stub}} {{DEFAULTSORT:にうとりのしんとう}} [[Category:物理現象]] [[Category:ニュートリノ]] [[Category:素粒子物理学]] [[Category:ブルーノ・ポンテコルボ]] [[Category:標準模型を超える物理]]
2003-09-07T05:35:56Z
2023-10-22T10:56:38Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:標準模型を超える物理", "Template:Cite journal", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Physics-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E%E6%8C%AF%E5%8B%95
15,506
1086年
1086年(1086 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1086年(1086 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。", "title": "他の紀年法" } ]
1086年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1086}} {{year-definition|1086}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丙寅]] * [[日本]] ** [[応徳]]3年 ** [[皇紀]]1746年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[元祐]]元年 ** [[遼]] : [[太安 (遼)|太安]]2年 ** [[西夏]] : [[天安礼定]]元年、[[天儀治平]]元年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[広祐]]2年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、太陽暦採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1086|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[10月26日]]([[応徳]]3年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]):[[藤原通俊]]が『[[後拾遺和歌集]]』を撰進する。 * [[11月7日]](同[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]):[[源義綱]]の奥州の戦乱([[後三年の役]])への派遣が審議される。 * 冬、[[源義家]]が[[藤原清衡]]の味方として[[清原家衡]]・[[清原武衡]]の沼柵を攻め、敗北する。 *[[11月26日]] [[白河天皇]]が幼少の[[堀河天皇]]に譲位し、院庁を整備して上皇として政務を握る[[院政]]を開始した。 == 誕生 == {{see also|Category:1086年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月11日]] - [[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1125年]]<ref>成瀬他、p. 207</ref>) * [[八田宗綱]]、[[平安時代]]の[[武将]]、[[豪族]](+ [[1162年]]) == 死去 == {{see also|Category:1086年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月21日]](天安礼定元年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[恵宗 (西夏)|恵宗]]、[[西夏]]の第3代[[皇帝]](* [[1061年]]) * [[9月25日]] - [[ギヨーム8世 (アキテーヌ公)|ギヨーム8世]]、[[アキテーヌ公]]、[[ポワティエ]]伯(* [[1025年]]) * [[11月10日]](応徳3年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[源有光]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1037年]]) * [[王安石]]、[[北宋]]の[[政治家]]、[[詩人]](* [[1021年]]) * [[司馬光]]、北宋の[[儒学者]]、[[歴史家]]、政治家(* [[1019年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1086}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1086ねん}} [[Category:1086年|*]]
null
2021-03-21T22:55:46Z
false
false
false
[ "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:年間カレンダー" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1086%E5%B9%B4
15,507
1358年
1358年(1358 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1358年(1358 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1358年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1358}} {{year-definition|1358}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[南朝 (日本)|南朝]] : [[正平 (日本)|正平]]13年 ** [[北朝 (日本)|北朝]] : [[延文]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2018年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[至正]]18年 *** [[徐寿輝]] : [[太平 (徐寿輝)|太平]]3年、[[天啓 (徐寿輝)|天啓]]元年旧8月 - *** [[韓林児]] : [[龍鳳 (韓林児)|龍鳳]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[恭愍王]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3691年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[大治 (陳朝)|大治]]元年 * [[仏滅紀元]] : 1900年 - 1901年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 759年 - 760年 * [[ユダヤ暦]] : 5118年 - 5119年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1358|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[6月7日]](正平13年/延文3年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[足利尊氏]]が死去。[[足利義詮]]が跡を継ぐ(翌年、将軍宣下)。 == 誕生 == {{see also|Category:1358年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]] - [[レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|レオノール・デ・アラゴン]]、カスティーリャ王フアン1世の最初の王妃(+ [[1382年]]) * [[7月20日]] - [[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]、[[カスティーリャ王国]][[トラスタマラ家|トラスタマラ朝]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]](+ [[1390年]]) * [[9月25日]](正平13年/延文3年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[足利義満]]、[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍]](+ [[1408年]]) * [[赤松義則]]、[[室町時代]]の[[守護大名]](+ [[1427年]]) * [[朝倉貞景 (4代当主)|朝倉貞景]]、[[室町時代]]の[[越前国|越前]][[守護]][[斯波氏]]の家臣(+ [[1436年]]) * [[一条経嗣]]、室町時代の[[公卿]]([[関白]])(+ [[1418年]]) == 死去 == {{see also|Category:1358年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月7日]](正平13年/延文3年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[足利尊氏]]、室町幕府初代征夷大将軍(* [[1305年]]) * [[8月16日]] - [[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]]、[[オーストリア大公|オーストリア公]](* [[1298年]]) * [[8月22日]] - [[イザベラ・オブ・フランス]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の王妃(* [[1295年]]?) * [[9月22日]](正平13年/延文3年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[洞院実世]]、[[南朝 (日本)|南朝]]に仕えた公卿(* [[1331年]]) * [[9月29日]] - [[カジミェシュ1世 (チェシン公)|カジミェシュ1世]]、[[チェシン公国|チェシン公]](* 1280年/1290年?) * [[11月11日]](正平13年/延文3年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[新田義興]]、南朝方の[[武将]](* [[1331年]]) * [[ジャン・ビュリダン]]、[[フランス]]の司祭、[[哲学者]](* [[1295年]]?) * [[ファドリケ・アルフォンソ・デ・カスティーリャ]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ11世]]と愛妾[[レオノール・デ・グスマン]]の庶子(* [[1334年]]?) * [[エティエンヌ・マルセル]]、[[フランス王国]]の商人、[[パリ]]市長(* [[1315年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1358}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1358ねん}} [[Category:1358年|*]]
null
2023-02-09T14:40:50Z
false
false
false
[ "Template:See also", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1358%E5%B9%B4
15,508
1335年
1335年(1335 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1335年(1335 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1335年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1335}} {{year-definition|1335}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建武 (日本)|建武]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 1995年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[元統 (元)|元統]]3年、[[至元 (元順帝)|至元]]元年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]] - * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠粛王]]([[重祚]])4年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3668年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[開祐]]7年 * [[仏滅紀元]] : 1877年 - 1878年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 735年 - 736年 * [[ユダヤ暦]] : 5095年 - 5096年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1335|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 8月(建武2年7月) - [[北条時行]]が関東で挙兵し、[[足利尊氏]]によって鎮圧される([[中先代の乱]])。 * 11月(建武2年11月) - 足利尊氏が朝廷への叛意を明らかにする。[[後醍醐天皇]]は[[新田義貞]]を大将とする追討軍を派遣([[建武の乱]]の開幕)。 == 誕生 == {{see also|Category:1335年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月28日]]([[忠粛王]]4年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[李成桂]]{{要出典|date=2021-02}}、[[李氏朝鮮]]創始者(+ [[1408年]]) * [[今出川公直]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]の[[公卿]](+ [[1396年]]) * [[上杉憲方]]、南北朝時代、室町時代の[[武将]]、[[関東管領]](+ [[1394年]]) * [[西園寺実俊]]、南北朝時代の公卿(+ [[1389年]]) * [[直仁親王]]、南北朝時代の[[皇族]](+ [[1398年]]) * [[マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃)|マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]の最初の妃(+ [[1349年]]) * [[姚広孝]]、[[明]]の[[政治家]]、[[軍師]](+ [[1418年]]) * [[上杉朝房]]、南北朝時代の武将、[[関東管領]](+ [[1391年]]?) == 死去 == {{see also|Category:1335年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月23日]](建武元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[二階堂貞藤]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1267年]]) * [[2月27日]](建武2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[二条道平]]、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1287年]]) * [[4月2日]] - [[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]、[[チロル伯]]、[[ケルンテン公国|ケルンテン公]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]](* [[1265年]]?) * [[4月24日]](建武2年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[石川時光]]、鎌倉時代の武将、[[陸奥石川氏]]の第13代当主(* 生年未詳) * [[8月2日]](建武2年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[小山秀朝]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[8月12日]](建武2年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[護良親王]]、鎌倉時代の[[皇族]](* [[1308年]]) * [[8月20日]](建武2年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[西園寺公宗]]、鎌倉時代の公卿(* [[1310年]]) * [[9月4日]](建武2年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[蘆名盛員]]、鎌倉時代の武将、[[蘆名氏]]の第6代当主(* [[1285年]]?) * [[9月6日]](建武2年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[諏訪時継]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * 9月6日 (建武2年8月19日) - [[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[10月18日]] - [[リクサ・エルジュビェタ]]、ボヘミア王・[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]の2番目の妃(* [[1286年]]) * [[11月24日]] - [[ヘンリク6世ドブルィ]]、[[ヴロツワフ]]=[[レグニツァ公国|レグニツァ]]=[[ブジェク公国|ブジェク]]公(* [[1294年]]) * [[アブー=サイード]]、[[イルハン朝]]の第9代君主(* [[1301年]]) * [[熊谷蓮覚]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[ジョヴァンニ2世オルシーニ]]、[[エピロス専制侯国|イピロス専制公国]]君主(* 生年未詳) * [[畠山家国]]、鎌倉時代の武将、[[畠山氏]]の第5代当主(* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1335}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1335ねん}} [[Category:1335年|*]]
null
2023-05-31T08:53:36Z
false
false
false
[ "Template:要出典", "Template:十年紀と各年", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:年間カレンダー", "Template:Commonscat", "Template:年代ナビ", "Template:Clear", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1335%E5%B9%B4
15,509
カール・マルクス
カール・マルクス(ドイツ語: Karl Marx、英語: Karl Marx FRSA、1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。 フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。 カール・マルクスは1818年、当時プロイセン王国領であったトリーアに生まれた。現在のロスチャイルド家の礎を築いたネイサン・メイアー・ロスチャイルドと結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた。 1843年にイェニー・フォン・ヴェストファーレン(兄のフェルディナントはプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間ロンドンで暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンでフリードリヒ・エンゲルスとともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『共産党宣言』、および3巻から成る『資本論』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。 マルクスの社会、経済、政治に関する批判的な理論(マルクス主義)では、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展するとされる。資本主義の下にあって階級対立は、生産手段を管理する支配階級(ブルジョワジー)と、賃金と引き換えに労働力を売る労働者階級(プロレタリア)の間に現れる。マルクスは、史的唯物論(唯物史観)として知られる批判的方法を以て、以前のどの階級社会とも同様に、資本主義が内部崩壊を引き起こし、新しいシステム(社会主義)へと変革されると予測した。 マルクスによれば、資本主義下の階級対立は、労働者階級の階級意識の発展をもたらし、労働者階級が政治的権力を獲得して最終的には階級のない自由な生産者の結社としての共産主義社会を確立する。マルクスは積極的にその実行を強く求め、労働者階級が資本主義を打倒し、社会経済的解放をもたらすために組織的な革命的行動をとるべきだと主張した。 マルクスは人類の歴史の中で最も影響力のある人物の一人であると説明されている。彼の著作は高く評価され、また批判されてきた。経済学における彼の研究は、労働と資本との関係、およびその後の経済思想に関する現在の理解の多くの基礎を築いた。世界中の多くの知識人、労働組合、芸術家、政党は、マルクスの仕事に影響を受けており、その多くは彼のアイデアを変更または適応している。マルクスは通常、現代社会科学の主要な創設者の一人として評価されている。 1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる。 父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている。 母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、フィリップスの創業者ジェラルド・フィリップス(英語版)の父)。 マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争・ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義・資本主義・カトリックの気風は残された。 マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり、1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500ターラーで、これはトリーアの富裕層上位5%に入った。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、金利5%のロシア国債540ターラーの資産などを保有していた。 母方のプレスブルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり、やはり代々ラビを務めていた。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語会話や読み書きに不慣れだったという。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた。叔父はフィリップスの創業者の祖父リオン・フィリップス(オランダ語版)でマルクスの財政援助者でもあった。 一家は1820年にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。 マルクスが6歳の時の1824年8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の1825年に改宗した。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない。 マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる。マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない。 1830年、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム(ドイツ語版)に入学した。このギムナジウムは父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった。 1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近いハンバッハ(ドイツ語版)でも1832年に自由とドイツ統一を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒもライン県(ドイツ語版)県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた。 マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)。 このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという。 卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに唯物論の影響が見られるという指摘もある。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、E.H.カーは「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている。 1835年10月にボン大学に入学した。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。 また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している。 当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。 全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという。 1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは参事官としてトリーアに居住していた。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。 貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた。 一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な持参金を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている。 1836年10月にベルリン大学に転校した。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという。 同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった。1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた。 以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった。また、ブルーノ・バウアーやカール・フリードリヒ・ケッペン(ドイツ語版)、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、アーノルト・ルーゲ、アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク(ドイツ語版)らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい。 ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった。1837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている。 1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始した。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった。 1840年にキリスト教と正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン(ドイツ語版)が文部大臣(ドイツ語版)に任命されたことで言論統制が強化された。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた。 マルクスはベルリン大学で学士号、修士号を取得後、博士号を取得するべく博士論文の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(英語版)(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している。 1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月にボンへ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には岳父ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)。 ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』をザクセン王国ライプツィヒで出版したことだった。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる。 やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。1842年3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた。 マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった。 1841年夏にアーノルト・ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった。 ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『ライン新聞(ドイツ語版)』に目を転じた。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼンらライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった。 同紙を実質的に運営していたのは社会主義者のモーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた。 マルクスは1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた。 このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している。 また7月革命後の1830年代のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が1840年代以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した。 一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり、ライン県(ドイツ語版)知事エドゥアルト・フォン・シャーパー(ドイツ語版)の方針に公然と反対するなどした。 だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることとなった。 マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた。 年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した。 ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、クロイツナハにおいて25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した。 前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、その子で当代当主となっているフェルディナント(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった。 これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている。 マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった。その勉強の中で『キリスト教の本質』(1841年)を著したフォイエルバッハの人間主義的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した。 マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『聖家族』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる。 マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる。 『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスはフランス王国領ストラスブールを希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めなベルギー王国王都ブリュッセルを希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都パリに定められた。 こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意したフォーブール・サンジェルマン(フランス語版)の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった。 1844年2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネ、エンゲルスが寄稿した。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている。 マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』という2つの論文を載せている。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっともローレンツ・フォン・シュタインが紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた。 しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された。 スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった。 マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した。 これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿』である。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった。「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった。 1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。この著作はバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた。 また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツ(ドイツ語版)』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した。 しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした。 こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった。 マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった。 ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフ(ドイツ語版)、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)などがブリュッセルを往来した。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる。 1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」に批判を加えている。マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた。 さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学(仏:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している。 1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本(ドイツ語版)』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている。 パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった。 1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する。 新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された。 合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった。 この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。 1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった。 ドイツ連邦議会(ドイツ語版)議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した。そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った。 マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコン(フランス語版)から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した。 その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された。 マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している。 3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった。 3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した。 3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている。 マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークとアデルベルト・フォン・ボルンシュテット(ドイツ語版)の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう。 マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうとヴッパータールに向かった。 マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入った。革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった。 新たな新聞の名前は『新ライン新聞』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した。マルクスの年棒は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった。 しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルン(ドイツ語版)からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された。 同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった。 プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った。 しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれた。6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった。ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍がロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した。プロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼンやダーヴィト・ハンゼマン(ドイツ語版)の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった。 革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した。 マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、9月25日にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた。 10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。 しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルム(ドイツ語版)が見せしめの即決裁判で処刑された。プロイセンでも11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた。 プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した。 フェルディナント・ラッサールがデュッセルドルフでこれに呼応するも、彼は11月22日に反逆容疑で逮捕された。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日に陪審制の裁判にかけられた。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした。 この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている。 5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した。 革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を赤刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった。 パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放された。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた。 6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた。 この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)。 この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた。 ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった。 ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという。 イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル(英語版)にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった。 これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り(英語版)28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた。 プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。 それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。 生計はフリードリヒ・エンゲルスからの定期的な仕送り、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)。 しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという。 エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた。これに応じてエンゲルスも11月12日にはロンドンへやってきた。 エンゲルスやコンラート・シュラム(ドイツ語版)の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌『新ライン新聞 政治経済評論(ドイツ語版)』を出版した。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した。 ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員となった。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。 マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人(英語版)に対して「サザーランド公爵家もスコットランドの領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで南北戦争が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)。 1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した。 再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)。 しかし1850年夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱)。 こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた。 1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている。 共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)。 これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議した。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した。 一方フランスでは1851年12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法を制定して独裁体制を樹立した。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポレオン3世と称するようになった。 マルクスは彼のクーデタを考察した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する。 ナポレオン3世は東方問題をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相パーマストン子爵と連携して1854年からクリミア戦争を開始した。マルクスはロシアのツァーリズムに対するこの戦争を歓迎した。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている。 一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵もツァーリ(ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいたそれは極端な意見だったが、実際クリミア戦争はクリミア半島セヴァストポリ要塞を陥落させたところで中途半端に終わった。 ナポレオン3世は1859年にサルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールと連携して北イタリアを支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した(イタリア統一戦争)。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局大ドイツ主義者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、小ドイツ主義者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった。 この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した。 マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許したバーゼルの和約に歓声を送り、またウルムの戦いやアウステルリッツの戦いでオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張するカール・フォークト(ドイツ語版)を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した。 しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、ハプスブルク家による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方のシュレースヴィヒとホルシュタインに対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった。 1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった。 マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ベルサイズ・パーク(英語版)グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている。 引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」。 終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している。 特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の出札係に応募したがひどい悪筆のため断られ生活苦は続いた。 マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。 「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の使用価値(用途)が異なり、またその価値(生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」 「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して剰余価値を生み出させ、それを搾取しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」 「商品は、不変資本(機械や原料など生産手段に投下される資本)、可変資本(労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って利潤率が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」。 そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する。 1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した。これを受けてベルリン在住の友人ラッサールはマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた。 マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された。 マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった。 1862年の夏、ラッサールがロンドン万博で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアのマッツィーニやガリバルディもプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた。 プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党が大議席を獲得していた。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。 ところがラッサールは進歩党の「夜警国家」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、1863年に進歩党と決別して全ドイツ労働者同盟を結成しはじめた。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用したユンカーの保守主義者オットー・フォン・ビスマルクと親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。 不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、ユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる。 ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)に彼の死を惜しむ弔辞を書いた。 ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった。 1863年11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった。しかしともかくもその遺産を使って1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している。 さらに1864年5月9日には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである。 急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた。 1875年春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる。 1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会(英語版)がロンドンに創設された。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政(フランス語版)」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した。 こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館(英語版)でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館(英語版)でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会(英語版)のジョージ・オッジャー(英語版)を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った。 マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)とともに出席した。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された。 マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている。 こうして作成された規約は全会一致で採択された。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている。 インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、労働組合主義、バクーニン派であった(バクーニンについては後述)。 フランス人メンバーはフランス革命に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する私有財産制の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった。 むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった。イギリス人メンバーは労働組合主義や議会主義に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった社会改良だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す改革連盟に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士エドモンド・ビールズ(英語版)がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの政党政治に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した。 1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった。 これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている。 この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった。 ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力とヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した。 そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている。 このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、アウグスト・ベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた大ドイツ主義的統一・反プロイセン的な主張をするようになった。ラッサール派の小ドイツ主義統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった。 もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、1866年に普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立することに成功した。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の帝国議会選挙に出馬して当選を果たした。 マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは1868年初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めにアイゼナハにおいて社会民主労働党(ドイツ語版)(アイゼナハ派)を結成した。 マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。 1870年夏に勃発した普仏戦争はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。 開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている。 もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じくパロディーで終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした。 戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬のセダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して第三共和政が樹立されるに至った。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった。 9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した。 一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させてドイツ帝国を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した。 マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである。 マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。 その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている。娘婿ポール・ラファルグやジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。 しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった。 こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた。 マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく。 ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来スイス・ジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった。 バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリア、スペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった。 しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である。 ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダ・ハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた。 バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた。 ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった。『ザ・スペクテイター』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた。 なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をルイス・クーゲルマン(英語版)に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・ゾルゲ(英語版)らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる。 しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった。 ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった。 すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである。 この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領(ドイツ語版)だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた。 この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『ゴータ綱領批判』である。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした。 マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した。 また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した。 リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという。 マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国領カールスバートにしばしば通った。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った。 1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟(英語版)を結成する。この組織にはエリノア・マルクスやウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディやトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。 1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲ(フランス語版)がジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった。 パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」 と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている。 独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー(英語版)を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアのアルジェへ移った。北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女カロリーネの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女カロリーネは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスのヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した。 1883年1月12日に長女カロリーネが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった。 その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった。 葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた。 マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。 マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する。2013年に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界の記憶に登録された。 マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている。1970年1月18日、何者かが墓と胸像に爆弾を仕掛けて破壊する事件が発生した。胸像などは後に修復されている。 2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった。 小柄で肥満体形だった。娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである。 マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった。肝臓病や脳病、神経病など様々な病気に苦しんだ。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している。 また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘・痔・胃腸カタルなどに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした。オットー・リュウレ(ドイツ語版)は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる。 酒好きであり、またヘビースモーカーだった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている。 詩や劇文学を愛好した。古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスとホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという。ドイツ文学ではゲーテとハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった。フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった。逆にシャトーブリアンらロマン主義作家のことは嫌った。ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない。フィールディングの『トム・ジョウンズ』も愛した。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた。バイロンとシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している。イタリア文学ではダンテを愛した。 前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理、キャビア、ピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという。 チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという。気分転換は高等数学を解くことであった。 「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として赤、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた。 他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ。ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤのニガー」だった。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである。 ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている。 マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。 マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した。 マルクスは亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。 マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスはダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。 マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキ、ハイネ、オコーナー(英語版)、ガリバルディなどがいるが、プルードン、フォイエルバッハ、バウアー、デューリング、マッツィーニ、バクーニンなどは厳しい批判にさらされた。 批判者からは以下のような意見が見られる。 1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」。 アーノルド・ルーゲは「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る。 ミハイル・バクーニンは「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る。 マルクスの伝記を書いたE・H・カーは「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している。 マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている。 マルクスとエンゲルスは1844年の再会以降、無二の盟友として緊密な関係を保ち、頻繁に往復書簡を交わして思想交流をしていたために、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられるが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。 たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学が自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している。 1869年にロンドンへ移住して以降のエンゲルスの理論活動においては、自然科学や原始社会などの新たな研究をふまえ、マルクス主義を社会のみならず自然をも包括するよう体系化しようとする志向が見受けられる。現在の『資本論』第3巻では、エンゲルスによる大幅な改変がなされている。 マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである。また、カール・ポパーやアイザイア・バーリンはマルクスがヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している。 マルクスがヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえばイーグルトンはマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する。またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している。 E.H.カーは、カール・ポパーやアイザイア・バーリンがマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。 マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった。マルクスは自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネやラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった。 しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤのニガー」と渾名したことや、マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。 『ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている。 マルクスやエンゲルスは労働者を軽蔑していたという主張がある。 レオポルト・シュワルツシルト(ドイツ語版)は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する。マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ(英語版)も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する。ロバート・ペイン(英語版)も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する。 一方フランシス・ウィーン(英語版)は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている。 またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている。 マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した。 1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した。普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした。 しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」。 マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。 プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている。他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。 十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p. 340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している。 マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」。 他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばエドワード・サイードのマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。 ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。 「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」。 「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」。 マルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した。 マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン(英語版)は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリンも毛沢東もチェ・ゲバラもカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する。 歴史学者E.H.カーは「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している。 政治哲学者アイザイア・バーリンは「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば唯物論はスピノザやドルバック、フォイエルバッハに負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観はシモン=ニコラ=アンリ・ランゲ(フランス語版)やサン=シモンが主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論はシスモンディの発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」はマックス・シュティルナーがマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁はバブーフが設計したものであること、労働価値説はジョン・ロックやアダム・スミス、リカードら古典経済学者に依拠していること、搾取と剰余価値説もシャルル・フーリエがすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策もジョン・フランシス・ブレイ(英語版)、ウィリアム・トンプソン(英語版)、トーマス・ホジスキンらがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する。 城塚登はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する。 2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でマルクスは偉大な哲学者第1位に選ばれた。2位はヒューム、3位はウィトゲンシュタイン、4位はニーチェ、5位はプラトン、6位はカント、7位はアクィナス、8位はソクラテス、9位はアリストテレス、10位はポパーだった。 1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンの娘であるイェニー(ジェニー、1814-1881)と婚約し、1843年に結婚した。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた。 マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップ(ドイツ語版)の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない。 イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナントは、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある。一方イェニーの弟エドガー(ドイツ語版)はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた。 マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった。 ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムート(ドイツ語版)(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった。 このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという。 ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる 東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長やドイツ社会民主党のアンドレア・ナーレス党首などが出席したが、かつてドイツ共産党の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カール・マルクス(ドイツ語: Karl Marx、英語: Karl Marx FRSA、1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カール・マルクスは1818年、当時プロイセン王国領であったトリーアに生まれた。現在のロスチャイルド家の礎を築いたネイサン・メイアー・ロスチャイルドと結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1843年にイェニー・フォン・ヴェストファーレン(兄のフェルディナントはプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間ロンドンで暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンでフリードリヒ・エンゲルスとともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『共産党宣言』、および3巻から成る『資本論』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "マルクスの社会、経済、政治に関する批判的な理論(マルクス主義)では、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展するとされる。資本主義の下にあって階級対立は、生産手段を管理する支配階級(ブルジョワジー)と、賃金と引き換えに労働力を売る労働者階級(プロレタリア)の間に現れる。マルクスは、史的唯物論(唯物史観)として知られる批判的方法を以て、以前のどの階級社会とも同様に、資本主義が内部崩壊を引き起こし、新しいシステム(社会主義)へと変革されると予測した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マルクスによれば、資本主義下の階級対立は、労働者階級の階級意識の発展をもたらし、労働者階級が政治的権力を獲得して最終的には階級のない自由な生産者の結社としての共産主義社会を確立する。マルクスは積極的にその実行を強く求め、労働者階級が資本主義を打倒し、社会経済的解放をもたらすために組織的な革命的行動をとるべきだと主張した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "マルクスは人類の歴史の中で最も影響力のある人物の一人であると説明されている。彼の著作は高く評価され、また批判されてきた。経済学における彼の研究は、労働と資本との関係、およびその後の経済思想に関する現在の理解の多くの基礎を築いた。世界中の多くの知識人、労働組合、芸術家、政党は、マルクスの仕事に影響を受けており、その多くは彼のアイデアを変更または適応している。マルクスは通常、現代社会科学の主要な創設者の一人として評価されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、フィリップスの創業者ジェラルド・フィリップス(英語版)の父)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争・ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義・資本主義・カトリックの気風は残された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり、1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500ターラーで、これはトリーアの富裕層上位5%に入った。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、金利5%のロシア国債540ターラーの資産などを保有していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "母方のプレスブルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり、やはり代々ラビを務めていた。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語会話や読み書きに不慣れだったという。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた。叔父はフィリップスの創業者の祖父リオン・フィリップス(オランダ語版)でマルクスの財政援助者でもあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一家は1820年にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マルクスが6歳の時の1824年8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の1825年に改宗した。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる。マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1830年、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム(ドイツ語版)に入学した。このギムナジウムは父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近いハンバッハ(ドイツ語版)でも1832年に自由とドイツ統一を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒもライン県(ドイツ語版)県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに唯物論の影響が見られるという指摘もある。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、E.H.カーは「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1835年10月にボン大学に入学した。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは参事官としてトリーアに居住していた。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な持参金を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1836年10月にベルリン大学に転校した。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった。1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった。また、ブルーノ・バウアーやカール・フリードリヒ・ケッペン(ドイツ語版)、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、アーノルト・ルーゲ、アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク(ドイツ語版)らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった。1837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始した。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1840年にキリスト教と正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン(ドイツ語版)が文部大臣(ドイツ語版)に任命されたことで言論統制が強化された。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マルクスはベルリン大学で学士号、修士号を取得後、博士号を取得するべく博士論文の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(英語版)(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月にボンへ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には岳父ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』をザクセン王国ライプツィヒで出版したことだった。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。1842年3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1841年夏にアーノルト・ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『ライン新聞(ドイツ語版)』に目を転じた。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼンらライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同紙を実質的に運営していたのは社会主義者のモーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "マルクスは1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また7月革命後の1830年代のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が1840年代以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり、ライン県(ドイツ語版)知事エドゥアルト・フォン・シャーパー(ドイツ語版)の方針に公然と反対するなどした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、クロイツナハにおいて25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、その子で当代当主となっているフェルディナント(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった。その勉強の中で『キリスト教の本質』(1841年)を著したフォイエルバッハの人間主義的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『聖家族』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスはフランス王国領ストラスブールを希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めなベルギー王国王都ブリュッセルを希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都パリに定められた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意したフォーブール・サンジェルマン(フランス語版)の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1844年2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネ、エンゲルスが寄稿した。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』という2つの論文を載せている。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっともローレンツ・フォン・シュタインが紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿』である。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった。「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。この著作はバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツ(ドイツ語版)』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフ(ドイツ語版)、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)などがブリュッセルを往来した。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」に批判を加えている。マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学(仏:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本(ドイツ語版)』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ドイツ連邦議会(ドイツ語版)議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した。そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコン(フランス語版)から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークとアデルベルト・フォン・ボルンシュテット(ドイツ語版)の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうとヴッパータールに向かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入った。革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "新たな新聞の名前は『新ライン新聞』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した。マルクスの年棒は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルン(ドイツ語版)からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれた。6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった。ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍がロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した。プロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼンやダーヴィト・ハンゼマン(ドイツ語版)の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、9月25日にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルム(ドイツ語版)が見せしめの即決裁判で処刑された。プロイセンでも11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "フェルディナント・ラッサールがデュッセルドルフでこれに呼応するも、彼は11月22日に反逆容疑で逮捕された。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日に陪審制の裁判にかけられた。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を赤刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放された。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル(英語版)にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り(英語版)28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "生計はフリードリヒ・エンゲルスからの定期的な仕送り、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた。これに応じてエンゲルスも11月12日にはロンドンへやってきた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "エンゲルスやコンラート・シュラム(ドイツ語版)の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌『新ライン新聞 政治経済評論(ドイツ語版)』を出版した。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員となった。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人(英語版)に対して「サザーランド公爵家もスコットランドの領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで南北戦争が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "しかし1850年夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議した。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "一方フランスでは1851年12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法を制定して独裁体制を樹立した。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポレオン3世と称するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "マルクスは彼のクーデタを考察した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ナポレオン3世は東方問題をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相パーマストン子爵と連携して1854年からクリミア戦争を開始した。マルクスはロシアのツァーリズムに対するこの戦争を歓迎した。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵もツァーリ(ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいたそれは極端な意見だったが、実際クリミア戦争はクリミア半島セヴァストポリ要塞を陥落させたところで中途半端に終わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ナポレオン3世は1859年にサルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールと連携して北イタリアを支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した(イタリア統一戦争)。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局大ドイツ主義者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、小ドイツ主義者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許したバーゼルの和約に歓声を送り、またウルムの戦いやアウステルリッツの戦いでオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張するカール・フォークト(ドイツ語版)を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、ハプスブルク家による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方のシュレースヴィヒとホルシュタインに対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ベルサイズ・パーク(英語版)グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の出札係に応募したがひどい悪筆のため断られ生活苦は続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の使用価値(用途)が異なり、またその価値(生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して剰余価値を生み出させ、それを搾取しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "「商品は、不変資本(機械や原料など生産手段に投下される資本)、可変資本(労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って利潤率が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した。これを受けてベルリン在住の友人ラッサールはマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "1862年の夏、ラッサールがロンドン万博で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアのマッツィーニやガリバルディもプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党が大議席を獲得していた。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "ところがラッサールは進歩党の「夜警国家」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、1863年に進歩党と決別して全ドイツ労働者同盟を結成しはじめた。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用したユンカーの保守主義者オットー・フォン・ビスマルクと親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、ユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)に彼の死を惜しむ弔辞を書いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "1863年11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった。しかしともかくもその遺産を使って1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "さらに1864年5月9日には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "1875年春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会(英語版)がロンドンに創設された。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政(フランス語版)」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館(英語版)でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館(英語版)でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会(英語版)のジョージ・オッジャー(英語版)を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)とともに出席した。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "こうして作成された規約は全会一致で採択された。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、労働組合主義、バクーニン派であった(バクーニンについては後述)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "フランス人メンバーはフランス革命に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する私有財産制の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった。イギリス人メンバーは労働組合主義や議会主義に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった社会改良だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す改革連盟に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士エドモンド・ビールズ(英語版)がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの政党政治に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力とヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、アウグスト・ベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた大ドイツ主義的統一・反プロイセン的な主張をするようになった。ラッサール派の小ドイツ主義統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、1866年に普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立することに成功した。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の帝国議会選挙に出馬して当選を果たした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは1868年初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めにアイゼナハにおいて社会民主労働党(ドイツ語版)(アイゼナハ派)を結成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "1870年夏に勃発した普仏戦争はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じくパロディーで終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬のセダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して第三共和政が樹立されるに至った。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させてドイツ帝国を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている。娘婿ポール・ラファルグやジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来スイス・ジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリア、スペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダ・ハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった。『ザ・スペクテイター』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をルイス・クーゲルマン(英語版)に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・ゾルゲ(英語版)らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領(ドイツ語版)だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『ゴータ綱領批判』である。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国領カールスバートにしばしば通った。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟(英語版)を結成する。この組織にはエリノア・マルクスやウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディやトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲ(フランス語版)がジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」 と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー(英語版)を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアのアルジェへ移った。北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女カロリーネの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女カロリーネは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスのヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "1883年1月12日に長女カロリーネが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する。2013年に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界の記憶に登録された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている。1970年1月18日、何者かが墓と胸像に爆弾を仕掛けて破壊する事件が発生した。胸像などは後に修復されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "小柄で肥満体形だった。娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった。肝臓病や脳病、神経病など様々な病気に苦しんだ。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘・痔・胃腸カタルなどに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした。オットー・リュウレ(ドイツ語版)は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "酒好きであり、またヘビースモーカーだった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "詩や劇文学を愛好した。古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスとホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという。ドイツ文学ではゲーテとハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった。フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった。逆にシャトーブリアンらロマン主義作家のことは嫌った。ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない。フィールディングの『トム・ジョウンズ』も愛した。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた。バイロンとシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している。イタリア文学ではダンテを愛した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理、キャビア、ピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという。気分転換は高等数学を解くことであった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として赤、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ。ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤのニガー」だった。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている。", "title": "家計・金銭問題" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。", "title": "家計・金銭問題" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した。", "title": "家計・金銭問題" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "マルクスは亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスはダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキ、ハイネ、オコーナー(英語版)、ガリバルディなどがいるが、プルードン、フォイエルバッハ、バウアー、デューリング、マッツィーニ、バクーニンなどは厳しい批判にさらされた。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "批判者からは以下のような意見が見られる。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "アーノルド・ルーゲは「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "ミハイル・バクーニンは「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "マルクスの伝記を書いたE・H・カーは「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "マルクスとエンゲルスは1844年の再会以降、無二の盟友として緊密な関係を保ち、頻繁に往復書簡を交わして思想交流をしていたために、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられるが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学が自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "1869年にロンドンへ移住して以降のエンゲルスの理論活動においては、自然科学や原始社会などの新たな研究をふまえ、マルクス主義を社会のみならず自然をも包括するよう体系化しようとする志向が見受けられる。現在の『資本論』第3巻では、エンゲルスによる大幅な改変がなされている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである。また、カール・ポパーやアイザイア・バーリンはマルクスがヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "マルクスがヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえばイーグルトンはマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する。またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "E.H.カーは、カール・ポパーやアイザイア・バーリンがマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった。マルクスは自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネやラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤのニガー」と渾名したことや、マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "『ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "マルクスやエンゲルスは労働者を軽蔑していたという主張がある。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "レオポルト・シュワルツシルト(ドイツ語版)は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する。マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ(英語版)も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する。ロバート・ペイン(英語版)も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "一方フランシス・ウィーン(英語版)は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した。普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている。他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p. 340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばエドワード・サイードのマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "マルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン(英語版)は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリンも毛沢東もチェ・ゲバラもカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "歴史学者E.H.カーは「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "政治哲学者アイザイア・バーリンは「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば唯物論はスピノザやドルバック、フォイエルバッハに負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観はシモン=ニコラ=アンリ・ランゲ(フランス語版)やサン=シモンが主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論はシスモンディの発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」はマックス・シュティルナーがマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁はバブーフが設計したものであること、労働価値説はジョン・ロックやアダム・スミス、リカードら古典経済学者に依拠していること、搾取と剰余価値説もシャルル・フーリエがすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策もジョン・フランシス・ブレイ(英語版)、ウィリアム・トンプソン(英語版)、トーマス・ホジスキンらがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "城塚登はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でマルクスは偉大な哲学者第1位に選ばれた。2位はヒューム、3位はウィトゲンシュタイン、4位はニーチェ、5位はプラトン、6位はカント、7位はアクィナス、8位はソクラテス、9位はアリストテレス、10位はポパーだった。", "title": "評価・批判" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンの娘であるイェニー(ジェニー、1814-1881)と婚約し、1843年に結婚した。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップ(ドイツ語版)の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナントは、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある。一方イェニーの弟エドガー(ドイツ語版)はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムート(ドイツ語版)(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長やドイツ社会民主党のアンドレア・ナーレス党首などが出席したが、かつてドイツ共産党の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた。", "title": "マルクス像" } ]
カール・マルクスは、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。 フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。
{{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = [[19世紀の哲学]] | image_name = Marx7.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = [[1875年]][[8月24日]]のマルクスの写真 | name = カール・マルクス<br />Karl Marx{{#tag:ref|さまざまな辞典で使用される「カール・ハインリヒ・マルクス」という名前は、誤りによるもの。彼の出生証明書には「カール・ハインリヒ・マルクス」と書かれているが、他の場所では「カール・マルクス」が使用されている。「K.H.マルクス」は、彼の詩集と彼の論文の書き起こしでのみ使用されている。マルクスは[[1838年]]に亡くなった父親に敬意を表したかったので、3つの文書で自分を「カール・ハインリヒ」と呼んだ。|group=注釈}} | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1818|5|5|死去}} | birth_place = {{PRU1803}}<br>{{仮リンク|ニーダーライン大公領属州|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}<br>[[トリーア]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1818|5|5|1883|3|14}} | death_place = {{GBR3}}<br>{{ENG}}<br>[[ロンドン]] | spouse = [[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]] | school_tradition = [[大陸哲学]]、[[唯物論]]、[[マルクス主義|科学的社会主義]]、[[共産主義]]、若いころは[[青年ヘーゲル派]] | main_interests = [[自然哲学]]、[[唯物論]]、[[自然科学]]、[[歴史哲学]]、[[倫理学]]、[[社会哲学]]、[[政治哲学]]、[[法哲学]]、[[経済学]]、各国の近現代史、[[政治学]]、[[社会学]]、[[資本主義]][[経済]]の分析 | notable_ideas = [[唯物弁証法|弁証法的唯物論]]、[[唯物史観|史的唯物論]]、[[疎外]]、[[労働価値説]]、[[階級闘争]]、[[剰余価値]]の[[搾取]]、[[価値形態]]、[[相対的価値形態]]、[[等価形態]]、[[物神性]]、[[物象化]]など多数 | influences = [[チャールズ・バベッジ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ジョン・ロック]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[マックス・シュティルナー]]、[[アダム・スミス]]、[[ヴォルテール]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[シャルル・フーリエ]]、[[ロバート・オウエン]]、[[モーゼス・ヘス]]、[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[コンスタンタン・ペクール]]、[[アリストテレス]]、[[エピクロス]]など | influenced = [[大陸哲学|大陸哲学系]][[現代思想]]、[[構造主義]]、[[ポスト構造主義]]、[[ジャック・ラカン|ラカン派]]、[[フロイト=マルクス主義 |ラカニアン・レフト(ジャック・ラカン左派)]]、[[五月危機|Mai 68]]、[[スチューデント・パワー]]、[[パリ・コミューン]]、[[プロレタリア文学]]、[[フランクフルト学派]]、[[批判理論]]、多くの[[マルクス主義|マルクス主義者]]、[[分析的マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]、[[マルクス主義と文芸批評|マルクス主義文芸批評]]、[[構造主義的マルクス主義]]、[[フロイト=マルクス主義]]、[[マルクス・レーニン主義]]、[[レーニン主義]]、[[毛沢東思想|マオイズム]]、[[エフゲニー・パシュカーニス]]、マルクス主義法学、[[アラン・バディウ|コミュニズム仮説]]、[[岩井克人]]、[[柄谷行人]]など | signature = Karl Marx signature (red version).svg | signature_alt = | website = <!-- {{URL|example.com}} --> }} '''カール・マルクス'''({{lang-de|'''Karl Marx'''}}、{{lang-en|'''Karl Marx''' {{Post-nominals|post-noms=[[ロイヤル・ソサエティー・オブ・アーツ・フェロー|FRSA]]}}{{Efn|1862年、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]](英国王立技芸協会)より授かる<ref>[http://www.calmview2.eu/RSA/CalmViewA/Record.aspx?src=CalmView.Catalog&id=RSA%2fSC%2fIM%2f701%2fS1000&pos=9 Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results]</ref>。}}}}、[[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[プロイセン王国]]時代の[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[経済学者]]、[[革命家]]。[[社会主義]]および[[労働運動]]に強い影響を与えた。[[1845年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]][[国籍]]を離脱しており、以降は[[無国籍|無国籍者]]であった。[[1849年]](31歳)の渡英以降は[[イギリス]]を拠点として活動した。 [[フリードリヒ・エンゲルス]]の協力のもと、包括的な[[世界観]]および[[革命]]思想として[[マルクス主義|科学的社会主義(マルクス主義)]]を打ちたて、[[資本主義]]の高度な発展により[[社会主義]]・[[共産主義]]社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた[[資本主義]]社会の研究は『[[資本論]]』に結実し、その理論に依拠した経済学体系は[[マルクス経済学]]と呼ばれ、[[20世紀]]以降の[[国際政治]]や[[思想]]に多大な影響を与えた。 {{TOC limit}} == 概要 == カール・マルクスは[[1818年]]、当時[[プロイセン王国]]領であった[[トリーア]]に生まれた{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}。現在の[[ロスチャイルド家]]の礎を築いた[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]と結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた<ref name="林(2021)94-95,102">[[#林(2021)|林(2021)]] p.94-95,102</ref>。 1843年に[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]](兄の[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]はプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間[[ロンドン]]で暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンで[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『[[共産党宣言]]』、および3巻から成る『[[資本論]]』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。 マルクスの社会、経済、政治に関する批判的な理論([[マルクス主義]])では、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展するとされる。資本主義の下にあって階級対立は、生産手段を管理する支配階級([[ブルジョワジー]])と、賃金と引き換えに労働力を売る労働者階級([[プロレタリア]])の間に現れる。マルクスは、史的唯物論([[唯物史観]])として知られる批判的方法を以て、以前のどの階級社会とも同様に、資本主義が内部崩壊を引き起こし、新しいシステム([[社会主義]])へと変革されると予測した。 マルクスによれば、資本主義下の階級対立は、労働者階級の階級意識の発展をもたらし、労働者階級が政治的権力を獲得して最終的には階級のない自由な生産者の結社としての共産主義社会を確立する。マルクスは積極的にその実行を強く求め、労働者階級が資本主義を打倒し、社会経済的解放をもたらすために組織的な革命的行動をとるべきだと主張した。 マルクスは人類の歴史の中で最も影響力のある人物の一人であると説明されている。彼の著作は高く評価され、また批判されてきた。経済学における彼の研究は、労働と資本との関係、およびその後の経済思想に関する現在の理解の多くの基礎を築いた。世界中の多くの知識人、労働組合、芸術家、政党は、マルクスの仕事に影響を受けており、その多くは彼のアイデアを変更または適応している。マルクスは通常、現代社会科学の主要な創設者の一人として評価されている。 == 生涯 == === 出生と出自 === [[File:Karl Heinrich Marx House.JPG|250px|thumb|ブリュッケンシュトラーセ10番地(当時はブリュッカーガッセ664番地)にある[[カール・マルクスの生家|マルクスの生家]]。<br/><small>この家は[[1928年]]に[[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主党(SPD)]]によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。</small>]] [[1818年]][[5月5日]]午前2時頃、[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ニーダーライン大公国県|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}に属する[[モーゼル川]]河畔の町[[トリーア]]のブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="カー(1956)14">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.14</ref>。 父は[[ユダヤ教]][[ラビ]]だった[[弁護士]]{{仮リンク|ハインリヒ・マルクス|de|Heinrich Marx (Justizrat)}}<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="小牧(1966)39">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.39</ref>。母は[[オランダ]]出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))<ref name="廣松(2008)16"/>。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている<ref name="廣松(2008)17"/>。 母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、[[フィリップス]]の創業者{{仮リンク|ジェラルド・フィリップス|en|Gerard_Philips|preserve=1}}の父)。 マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたって[[トリーア大司教]]領の首都だったが、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]中には他の[[ライン地方]]ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地は[[ウィーン会議]]の決議に基づき[[封建主義]]的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、[[ナポレオン法典]]の存続も認めた。そのため[[自由主義]]・[[資本主義]]・[[カトリック教会|カトリック]]の気風は残された<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.26-27</ref>。 マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、[[1723年]]以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父{{仮リンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位にあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、彼は[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響を受けた自由主義者であり<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)44">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚(1970)25">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.25</ref>、[[1812年]]からは[[フリーメイソン]]の会員にもなっている<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.</ref>。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し{{#tag:ref|プロイセン政府は1815年にも[[ドイツ連邦]]規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期に改宗している<ref name="廣松(2008)19">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19</ref>。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の{{仮リンク|法務大臣 (プロイセン)|label=法務大臣|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{仮リンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈}}、[[1816年]]秋([[1817年]]春とも)にプロイセン[[国教]]である[[プロテスタント]]に改宗して「[[ハインリヒ]]」の洗礼名を受けた<ref name="ウィーン(2002)18"/><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17-19</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.3/8</ref>。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500[[ターラー (通貨)|ターラー]]で、これはトリーアの富裕層上位5%に入った{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、[[金利]]5%のロシア[[国債]]540ターラーの資産などを保有していた{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。 母方のプレスブルク家は数世紀前に[[中欧]]からオランダへ移民したユダヤ人家系であり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々ラビを務めていた<ref name="廣松(2008)17"/><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36</ref>。母自身もオランダに生まれ育ったので、[[ドイツ語]]会話や読み書きに不慣れだったという<ref name="カー(1956)15"/>。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会]]に籍を入れさせた<ref name="廣松(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.4/9</ref>。叔父は[[フィリップス]]の創業者の祖父{{仮リンク|リオン・フィリップス|nl|Lion Philips}}でマルクスの財政援助者でもあった<ref>Heinz Monz: ''Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx''</ref><ref>Manfred Schöncke: ''Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister'', S. 307–309</ref><ref>Jan Gielkens, S. 220–221</ref>。 {{-}} === 幼年期 === [[File:Trier BW 2011-09-22 18-02-16.JPG|180px|thumb|ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にある{{仮リンク|カール・マルクスの育った家|label=マルクスの育った家|de|Karl-Marx-Wohnhaus}}]] 一家は[[1820年]]にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。 マルクスが6歳の時の[[1824年]]8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の[[1825年]]に改宗した<ref name="廣松(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.9-10</ref>。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで[[反ユダヤ主義]]が強まりつつある時期だったからかもしれない<ref name="石浜(1931)46">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.46</ref><ref name="メーリング(1974,1)40">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.40</ref>。 マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="廣松(2008)21">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.21</ref>。マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない<ref name="ウィーン(2002)21"/>。<!--この記述は必要ですか?/ 泥団子はともかく、幼少期の親の評価はなかなか興味深いんじゃないかと思います。とりあえずこの状態のまま、もう少しマルクスに肯定的に加筆・修正しておきますね。/ 学校に入る前のマルクスの幼年時代については他の兄弟姉妹によく[[泥団子]]を食わせていたなどといった逸話以外不明な点が多い<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。 父ハインリヒは息子カールに天分の素質を見出し、「いつか人類の幸福に貢献するだろう」とその将来を嘱望し、母も息子カールをこの子の手にかかると全てうまくいく幸運児であると称したという。一方で父は息子の中に潜む「魔性」も感じ取り、不安に思っていたという<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36-37</ref>。 --> === トリーアのギムナジウム === [[1830年]]、12歳の時にトリーアの{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム (トリーア)|label=フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム|de|Friedrich-Wilhelm-Gymnasium (Trier)}}に入学した<ref name="ウィーン(2002)21-22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21-22</ref>。この[[ギムナジウム]]は父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="小牧(1966)43">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.43</ref><ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref>。 1830年にフランスで[[7月革命]]があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近い{{仮リンク|ハンバッハ|de|Hambach (bei Diez)}}でも[[1832年]]に自由と[[ドイツ統一]]を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。[[1833年]]にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された<ref name="廣松(2008)25"/><ref name="ウィーン(2002)22"/>。ついで1834年1月には父ハインリヒも{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた<ref name="ウィーン(2002)19">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.19</ref><ref name="廣松(2008)26">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.26</ref>。さらにギムナジウムの[[数学]]と[[ヘブライ語]]の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)22"/><ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。 マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)<ref name="廣松(2008)27"/>。 このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている<ref name="カー(1956)15"/>。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)18">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18</ref>。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある<ref name="カー(1956)15"/>。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人[[ハインリヒ・ハイネ]]の影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)17">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.17</ref>。 卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに[[唯物論]]の影響が見られるという指摘もある<ref name="廣松(2008)29">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.29</ref>。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、[[E.H.カー]]は「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている<ref name="カー(1956)16-17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16-17</ref>。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている{{#tag:ref|[[ヨーゼフ・シュンペーター]]はマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>。|group=注釈}}<ref name="カー(1956)16">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16</ref>。 {{-}} === ボン大学 === [[File:Marx1.jpg|180px|thumb|1836年ボン大学学生時代のマルクス]] [[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30"/>。 また1835年に18歳になったマルクスは[[プロイセン陸軍]]に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。 当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で[[決闘]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="廣松2008 p.65-66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生に一般的だった[[サーベル]]を使っての決闘ではなく、[[ピストル]]でもって決闘したようである{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。 全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)<ref name="廣松2008 p.65-66"/>。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという<ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>。 [[1836年]]夏にトリーアに帰郷した際に[[イェニー・マルクス|イェニー・フォン・ヴェストファーレン]]と婚約した<ref name="城塚(1970)30"/><ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66</ref>。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父[[ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン]]は参事官としてトリーアに居住していた<ref name="石浜(1931)56">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.56</ref><ref name="廣松(2008)156">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.156</ref>。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい{{sfn|佐々木|2016|p=20}}。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが<ref name="メーリング(1974,1)43"/><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.22-23</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.26/28</ref>、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという<ref name="ウィーン(2002)28">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.28</ref>。 貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた<ref name="ウィーン(2002)27"/>{{sfn|佐々木|2016|pp=22-23}}<ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref><ref name="メーリング(1974,1)45">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.45</ref>。 一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な[[持参金]]を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている{{Sfn|スパーバー|2015a|p=73}}。 {{-}} === ベルリン大学 === [[File:Berlin Universitaet um 1850.jpg|250px|thumb|マルクス在学中から10年後の1850年の[[ベルリン大学]]を描いた絵。]] [[1836年]]10月に[[ベルリン大学]]に転校した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="石浜(1931)57">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57</ref><ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="メーリング(1974,1)51">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.51</ref>。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった<ref name="城塚(1970)31"/><ref name="石浜(1931)55">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.55</ref><ref name="メーリング(1974,1)50">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.50</ref>。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという<ref name="メーリング(1974,1)50"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57-58</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66-67</ref>。 同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67-68</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.62-64</ref>。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それに[[ローマ法]]への関心が加わって、[[哲学]]に最も強い関心を持つようになった<ref name="城塚(1970)31"/>。[[1837年]]と[[1838年]]の冬に病気をしたが、その時に療養地[[シュトラロー]]で、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学{{#tag:ref|[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを[[弁証法]]という<ref name="小牧(1966)72">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.72</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.41-42</ref>。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.74-76</ref>。|group=注釈}}の最初の影響を受けた{{sfn|佐々木|2016|pp=25-35}}<ref name="石浜(1931)66">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.66</ref><ref name="廣松(2008)80">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.80</ref>。 以降ヘーゲル中央派に分類されつつも[[ヘーゲル左派]]寄りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業を熱心に聴くようになった<ref name="廣松(2008)67">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)29">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.29</ref>。また、[[ブルーノ・バウアー]]や{{仮リンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)32">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.64</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)37">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.37</ref>。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」が[[キリスト教]]批判・[[無神論]]に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)43">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.43</ref>。 ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500[[ターレル]]以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている<ref name="廣松(2008)68">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.56</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)33">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.33</ref>。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。1837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている{{sfn|佐々木|2016|pp=25-35}}。 [[1838年]][[5月10日]]に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松(2008)93-94">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.93-94</ref>。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、[[古代ギリシャ]]の哲学者[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文の執筆を開始した<ref name="カー(1956)27"/><ref name="廣松(2008)96"/><ref name="城塚(1970)42">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.42</ref>。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった<ref name="廣松(2008)93-94"/>。 [[1840年]]に[[キリスト教]]と[[正統主義]]思想の強い影響を受ける[[ロマン主義]]者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]がプロイセン王に即位し、保守的な{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{仮リンク|文部大臣 (プロイセン)|label=文部大臣|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命されたことで言論統制が強化された{{#tag:ref|前王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は優柔不断な性格の王でヘーゲル派の{{仮リンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった<ref name="廣松(2008)123-125"/>。|group=注釈}}<ref name="カー(1956)27"/><ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="廣松(2008)123-125">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.123-125</ref>。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派の[[フリードリヒ・シェリング]]教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。 マルクスはベルリン大学で[[学士号]]、[[修士号]]を取得後、[[博士号]]を取得するべく[[博士論文]]の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、[[1841年]][[4月6日]]に審査が迅速で知られる[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]に『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の[[4月15日]]に同大学から[[博士|哲学博士号]]を授与された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43/45-46</ref>。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.67-68</ref>。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスを[[ストア派]]や[[懐疑主義]]とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈}}<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.105-106</ref>。 === 大学教授への道が閉ざされる === [[File:Bruno Bauer.jpg|180px|thumb|[[ブルーノ・バウアー]]。<br/><small>若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスによって批判される。晩年は無神論や共産主義から離れた。</small>]] 1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した<ref name="カー(1956)28">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.28</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月に[[ボン]]へ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった<ref name="廣松(2008)126"/>。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には[[岳父]]ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.125-126</ref>。 ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった<ref name="廣松(2008)126"/><ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref>。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、[[ロバ]]でボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』を[[ザクセン王国]][[ライプツィヒ]]で出版したことだった<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref>。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる<ref name="廣松(2008)126"/><ref name="カー(1956)31"/>。 やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった<ref name="ウィーン(2002)46"/>。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。[[1842年]]3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46"/><ref name="城塚(1970)67">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.67</ref><ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)48">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.48</ref>。 マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった<ref name="廣松(2008)128"/>。 {{-}} === 『ライン新聞』のジャーナリストとして === [[File:Rheinische-zeitung.gif|180px|thumb|マルクスが編集長を務めていた『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』]] 1841年夏に[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]は検閲が比較的緩やかな[[ザクセン王国]]の王都[[ドレスデン]]へ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった{{#tag:ref|ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している<ref name="石浜(1931)77">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.77</ref>。|group=注釈}}<ref name="廣松(2008)126"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.76-77</ref><ref name="城塚(1970)68">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.68</ref><ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>。 ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』に目を転じた<ref name="ウィーン(2002)49"/>。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として[[1842年]]1月に{{仮リンク|ダーゴベルト・オッペンハイム|de|Dagobert Oppenheim}}や[[ルドルフ・カンプハウゼン]]らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった{{#tag:ref|この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという<ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.49-50</ref>。|group=注釈}}<ref name="石浜(1931)79">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.79</ref><ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.32-33</ref><ref name="太田(1930)7">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.7</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)50">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.50</ref>。 同紙を実質的に運営していたのは社会主義者の[[モーゼス・ヘス]]だったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]とヴォルテールと[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ホルバッハ]]と[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]とハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.53-54</ref>。 マルクスは1842年5月にも[[ボン]](後に[[ケルン]])へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.80-81</ref><ref name="カー(1956)33">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.33</ref>。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた{{sfn|佐々木|2016|p=37}}<ref name="シュワルツシルト(1950)61">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.61</ref>。 このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全て[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した<ref name="シュワルツシルト(1950)62">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.62</ref>。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)<ref name="廣松(2008)147">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.147</ref><ref name="城塚(1970)85">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.85</ref>。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)66">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.66</ref>。 また7月革命後の[[1830年代]]のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が[[1840年代]]以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した{{#tag:ref|ただしこの論説のなかでマルクスは「[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている<ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="石浜(1931)82">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82</ref><ref name="廣松(2008)143">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.143</ref>。|group=注釈}}{{sfn|佐々木|2016|pp=37-39}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82-83</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="城塚(1970)80">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.80</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.142-143</ref>。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した<ref name="シュワルツシルト(1950)62"/>。 一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり{{#tag:ref|農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の[[入会権|慣習上の権利]]を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない<ref name="廣松(2008)140">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.140</ref>。|group=注釈}}、{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}知事{{仮リンク|エドゥアルト・フォン・シャーパー|de|Eduard von Schaper}}の方針に公然と反対するなどした<ref name="廣松(2008)152"/>。 だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった<ref name="廣松(2008)152"/><ref name="シュワルツシルト(1950)72">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.72</ref>。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと[[神聖同盟]]を結ぶ[[ロシア帝国]]を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、[[1843年]]3月をもって廃刊させられることとなった{{sfn|佐々木|2016|pp=37-39}}<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.62-63</ref><ref name="石浜(1931)85">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.85</ref><ref name="カー(1956)35">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.35</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。 マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている<ref name="ウィーン(2002)64">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.64</ref>。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた<ref name="石浜(1931)87">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.87</ref>。 {{-}} === 結婚 === 年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『[[独仏年誌]]』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152-153</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89-90</ref>。 ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、[[バート・クロイツナハ|クロイツナハ]]において25歳のマルクスは29歳の婚約者[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン|イェニー]]と結婚した{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref name="カー(1956)37">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.37</ref><ref name="石浜(1931)90">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90</ref><ref name="廣松(2008)155">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155</ref><ref name="ウィーン(2002)69">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.69</ref>。 前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、その子で当代当主となっている[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]](イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68-69</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)78">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.78</ref>。 これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―[[神|天上の主]]と[[プロイセン国王|ベルリンの主]]を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/>。 === フォイエルバッハの人間主義へ === [[File:Ludwig feuerbach.jpg|180px|thumb|[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]<br/><small>マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けつつ、その人間観が経済的基礎に裏付けられていないと批判した。</small>]] マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref name="城塚(1970)87">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.87</ref>。その勉強の中で『[[キリスト教の本質]]』(1841年)を著した[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]の[[人間主義]]的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした{{sfn|佐々木|2016|pp=43-45}}<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.81-82</ref><ref name="城塚(1970)88">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.88</ref>。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた<ref name="廣松(2008)190">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.190</ref>)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した<ref name="カー(1956)100">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.100</ref><ref name="バーリン(1974)84">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.84</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.104-107</ref><ref name="城塚(1970)90">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.90</ref>。 マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した<ref name="小牧(1966)107">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.107</ref>。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.91-92</ref>。 マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった<ref name="石浜(1931)89"/><ref name="廣松(2008)163">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.163</ref>。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.94-96</ref>、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ<ref name="廣松(2008)171">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.171</ref>、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した<ref name="城塚(1970)97">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.97</ref>。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.167-170</ref>。 {{-}} === パリ在住時代 === 『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスは[[7月王政|フランス王国]]領[[ストラスブール]]を希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めな[[ベルギー王国]]王都[[ブリュッセル]]を希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都[[パリ]]に定められた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90-92</ref><ref name="カー(1956)38">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.38</ref><ref name="廣松(2008)195">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.195</ref>。 こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意した{{仮リンク|フォーブール・サンジェルマン|fr|Faubourg Saint-Germain}}の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった<ref name="石浜(1931)92">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.92</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)79">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.79</ref>。 ==== 「人間解放」 ==== [[File:Deutsch Franz Jahrbücher (Ruge Marx) 071.jpg|180px|thumb|『[[独仏年誌]]』に掲載された『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』<br/><small>この著作からマルクスは「非人間」の[[プロレタリアート]]階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。</small>]] [[1844年]]2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスや[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]が寄稿した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.94-95</ref><ref name="小牧(1966)111">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)80">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.80</ref>。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった{{#tag:ref|仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」<ref name="ウィーン(2002)84">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.84</ref>。|group=注釈}}<ref name="小牧(1966)111"/><ref name="シュワルツシルト(1950)80"/>。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.55-56</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-128</ref>。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった<ref name="シュワルツシルト(1950)80"/>。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている<ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref>。 マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『[[ユダヤ人問題によせて]]』と『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』という2つの論文を載せている<ref name="太田(1930)9"/><ref name="石浜(1931)95"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111-112</ref>。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.106-107</ref><ref name="小牧(1966)113">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.113</ref>、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という[[阿片]]に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」<ref name="小牧(1966)115">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.115</ref>、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されている[[プロレタリアート]]階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.116-117</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.114-116</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.219-221</ref><ref name="石浜(1931)96">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.96</ref>。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっとも[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]が紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた<ref name="廣松(2008)222">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.222</ref>。 しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった<ref name="ウィーン(2002)85-86">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85-86</ref>。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した<ref name="シュワルツシルト(1950)87">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.87</ref>。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された<ref name="ウィーン(2002)85">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85</ref><ref name="石浜(1931)105">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.105</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)88">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.88</ref>。 スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった<ref name="シュワルツシルト(1950)88"/><ref name="廣松(2008)206">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.206</ref><ref name="小牧(1966)121">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.104-105</ref>。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した<ref name="シュワルツシルト(1950)89">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.89</ref>。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった<ref name="カー(1956)47">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.47</ref>。 <!--これは必要な記述ですか? それに初めて無心したと書いていますが、父にも無心してますし、寄生生活という言葉は穏当な表現ではないですね。/ 『独仏年誌』の仕事を失って収入を無くしたマルクスは『ライン新聞』以来の彼の崇拝者であるゲオルク・ユング(Georg Jung)、岳母ヴェストファーレン未亡人、母の甥にあたるミーンヘール・フィリップスなどから金の無心をして生計を立てるようになった。これがマルクスの金の無心の最初であり、以降こうした寄生生活が常態化していくことになる<ref name="シュワルツシルト(1950)90">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.90</ref>。--> {{-}} ==== そして共産主義へ ==== [[File:Friedrich Engels-1840-cropped.jpg|180px|thumb|[[フリードリヒ・エンゲルス]](1840年頃)。<br/><small>1844年に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。</small>]] マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた{{sfn|佐々木|2016|p=62}}<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-129</ref>。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化する[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]、[[ジャン=バティスト・セイ|セイ]]などの国民経済学([[古典派経済学]])を批判した<ref name="城塚(1970)128">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.128</ref>。 これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、[[ジェームズ・ミル]]等の国民経済学者の本、また[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]、[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]等の社会主義者の本を読み漁った<ref name="小牧(1966)122"/>。この時の勉強のノートや草稿の一部を[[ソビエト連邦|ソ連]]のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『[[経済学・哲学草稿]]』である<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.123-124</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.129-130</ref>。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する<ref name="城塚(1970)131">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.131</ref>。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.136-138</ref><ref name="小牧(1966)124">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124</ref>。「生産的労働を行って、人間の類的本質<!--括弧内はマルクスの言葉ですか?/(社会的共存)-->を達成することが人間の本来的あり方<!--(自己実現)-->」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124-125</ref><ref name="城塚(1970)139">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.139</ref>。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を'''[[共産主義]]'''と定義するようになった<ref name="城塚(1970)144">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.144</ref>。 1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122-123</ref><ref name="石浜(1931)117">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.117</ref>。この著作はバウアー派を批判したもので{{sfn|佐々木|2016|pp=62-63}}<!--関係が悪くなっていたから批判したのではなく、マルクスとエンゲルスが経済学的見地で社会をとらえる見方で合意したから批判したんですよね。-->、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した[[唯物弁証法|新しい弁証法]]を確立せねばならない」と訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.129-132</ref>。 また1844年7月にルーゲが『{{仮リンク|フォールヴェルツ|de|Vorwärts (Wochenblatt)}}』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した{{sfn|佐々木|2016|p=52}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.106-108</ref><ref name="ウィーン(2002)87">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.87</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)106">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.106</ref>。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した<ref name="カー(1956)58-59">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.58-59</ref>。 しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、[[外務大臣 (フランス)|フランス外務大臣]][[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|フランソワ・ギゾー]]は、[[内務省 (フランス)|内務省]]を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした<ref name="カー(1956)58-59"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.108-109</ref><ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121-122/135</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)118">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.118</ref>。 こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.93/109</ref>。 {{-}} === ブリュッセル在住時代 === マルクス一家は[[1845年]]2月にパリを離れ、ベルギー王都[[ブリュッセル]]に移住した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.135-136</ref><ref name="石浜(1931)109">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.109</ref>。ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した<ref name="ウィーン(2002)112"/><ref name="シュワルツシルト(1950)120">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.120</ref>。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた<ref name="ウィーン(2007)">[[#ウィーン(2007)|ウィーン(2007)]]</ref>。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで[[無国籍]]者であった<ref name="石浜(1931)124">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.124</ref>。 ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人[[フェルディナント・フライリヒラート]]、元プロイセン軍将校のジャーナリストである{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、学校教師の{{仮リンク|ヴィルヘルム・ヴォルフ|de|Wilhelm Wolff (Publizist)}}、マルクスの義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}などがブリュッセルを往来した<ref name="石浜(1931)130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.130</ref>。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた<ref name="小牧(1966)136">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.136</ref>。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる<ref name="石浜(1931)122-123">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.122-123</ref>。 ==== 唯物史観と剰余価値理論の確立 ==== 1845年夏からエンゲルスとともに『[[ドイツ・イデオロギー]]』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった<ref name="小牧(1966)137">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.137</ref><ref name="ウィーン(2002)115-116">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.115-116</ref><ref name="石浜(1931)125">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.125</ref>。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスや[[カール・グリューン]]ら「真正社会主義者」{{#tag:ref|ブリュッセル時代にも[[モーゼス・ヘス]]とマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた<ref name="石浜(1931)137">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.137</ref>。|group=注釈}}に批判を加えている<ref name="石浜(1931)129-130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.129-130</ref><ref name="小牧(1966)138">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138</ref>。マルクスは同じころに書いたメモ『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき[[唯物史観]]を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138-139</ref>。 さらに1847年には『[[哲学の貧困]]』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学([[フランス語|仏]]:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、[[漸進主義]]ですませようとしている物として批判したものである<ref name="石浜(1931)144">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.144</ref>。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、[[剰余価値]]理論を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.141-142</ref>。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する<ref name="小牧(1966)142">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142</ref>。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする[[小ブルジョア]]に過ぎない」と結論している<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142-143</ref>。 1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」<ref name="小牧(1966)144">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.144</ref>、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.145-146</ref>、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.146-147</ref>。 ==== 共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』 ==== [[File:Communist-manifesto.png|180px|thumb|[[共産主義者同盟]]の綱領として書かれた革命実践の小冊子『[[共産党宣言]]』]] パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった<ref name="小牧(1966)153">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.153</ref>。 1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}、[[フェルディナント・フライリヒラート]]、{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]、{{仮リンク|ヘルマン・クリーゲ|de|Hermann Kriege}}、{{仮リンク|エルンスト・ドロンケ|de|Ernst Dronke (Schriftsteller)}}らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「[[正義者同盟]]」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="石浜(1931)146">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146</ref><ref name="小牧(1966)154">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.154</ref><ref name="ウィーン(2002)127">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127</ref>。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127-131</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)147-158">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.147-158</ref>。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="ウィーン(2002)132">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.132</ref>。 新たな参加者が現れず、停滞気味の中の[[1847年]]1月、ロンドン正義者同盟の{{仮リンク|マクシミリアン・ヨーゼフ・モル|de|Maximilien Joseph Moll}}がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会<!--必要な記述ですか?/(マルクスは路銀が用意できず、エンゲルスが代わりに出席)-->で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「[[共産主義者同盟 (1847年)]]」を結成することを正式に決議した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146-150</ref><ref name="小牧(1966)155">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.155</ref>。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。 合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった<ref name="ウィーン(2002)138"/>。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『[[共産党宣言]]』を完成させた{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.153-154</ref><ref name="小牧(1966)156">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.156</ref>。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった<ref name="ウィーン(2002)145">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.145</ref>。 この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.157-162</ref><ref name="石浜(1931)155">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.155</ref>。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する{{#tag:ref|たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによる[[ギルド]]的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「[[空想的社会主義]]」などである<ref name="石浜(1931)155"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.163-165</ref>。|group=注釈}}。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている<ref name="小牧(1966)166">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.166</ref>。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。 {{Quotation|共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国のプロレタリアよ、団結せよ]]<ref name="カー(1956)79">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.79</ref>。}} === 1848年革命をめぐって === [[File:Europe_1848_map_en.png|280px|thumb|[[1848年革命]]のヨーロッパ。]]{{See also|1848年革命}} 1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都[[パリ]]で[[1848年]]2月22日に暴動が発生し、24日に[[フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を追われて[[フランス第二共和政|共和政]]政府が樹立される事件が発生した([[1848年のフランス革命|2月革命]]){{#tag:ref|ルイ・フィリップ王は1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]で[[復古王政]]が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.157-158</ref>。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生<ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである<ref name="石浜(1931)160">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった<ref>{{Cite web|和書|title=1848年革命とは|url=https://kotobank.jp/word/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD-847643|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。 {{仮リンク|ドイツ連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長国である[[オーストリア帝国]]の帝都[[ウィーン]]では3月13日に学生や市民らの運動により宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下の[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国の[[イタリア統一運動]]も刺激された<ref name="石浜(1931)162">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162</ref>。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設、[[ドイツ統一]]運動に承諾を与えた<ref name="石浜(1931)163">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会([[フランクフルト国民議会]])が設置されるに至った{{Efn|こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。}}<ref name="小牧(1966)169">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.169</ref>。 ==== ベルギー警察に逮捕される ==== マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていた{{仮リンク|フェルディナン・フロコン|fr|Ferdinand Flocon}}から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた<ref name="石浜(1931)166">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.166</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した<ref name="カー(1956)83"/><ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref>。 その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた<ref name="ウィーン(2002)152">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.152</ref>。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧(1966)170">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170</ref>。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという<ref name="ウィーン(2002)153"/>。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。 マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している<ref name="ウィーン(2002)154"/>。 3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町[[ヴァランシエンヌ]]で停まり、マルクス一家はそこから[[乗合馬車]]でパリに向かった<ref name="ウィーン(2002)154"/>。 {{-}} ==== 共産主義者同盟をパリに移す ==== [[File:PontdArcole1848 v2.jpg|250px|thumb|1848年の[[パリ]]]] 3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、[[カール・シャッパー]]、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170-171</ref><ref name="メーリング(1974,1)267">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.267</ref>。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した<ref name="ウィーン(2002)155">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.155</ref>。 3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている{{#tag:ref|たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている<ref name="ReferenceA">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。|group=注釈}}<ref name="ReferenceA">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。 マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた<ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref>。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、[[ゲオルク・ヘルヴェーク]]と{{仮リンク|アデルベルト・フォン・ボルンシュテット|de|Adelbert von Bornstedt}}の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した<ref name="メーリング(1974,1)266"/><ref name="ウィーン(2002)156"/><ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref>。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)<ref name="カー(1956)84">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.84</ref>。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう<ref name="ウィーン(2002)156"/><ref name="石浜(1931)169"/><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。 マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた<ref name="ウィーン(2002)157">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.157</ref>。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した<ref name="石浜(1931)171"/>。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうと[[ヴッパータール]]に向かった<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。 ==== ケルン移住と『新ライン新聞』発行 ==== [[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[新ライン新聞]]』1848年6月19日号]] マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158"/>。革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.268</ref>。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name="石浜(1931)173"/>。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=285}}。 新たな新聞の名前は『[[新ライン新聞]]』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="カー(1956)86"/><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。マルクスの年棒は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=287}}。 しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、{{仮リンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された{{#tag:ref|マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していた{{仮リンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)159"/>。 同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧(1966)172">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref>。 プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172-173</ref>。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである<ref name="バーリン(1974)185">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.185</ref>。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った<ref name="メーリング(1974,1)275-276">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.275-276</ref>。 ==== 革命の衰退 ==== [[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6月蜂起]]でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画]] しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、[[4月10日]]にはイギリスで[[チャーティスト運動]]が抑え込まれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6月23日]]にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも([[6月蜂起]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された<ref name="カー(1956)86"/><ref name="エンゲルベルク(1996)279"/>。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった<ref name="石浜(1931)174"/><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる[[オーストリア軍]]が[[ロンバルディア]](北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命以来[[ルドルフ・カンプハウゼン]]や{{仮リンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.271-272</ref>。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった<ref name="カー(1956)87"/>。 革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.272-273/290</ref>。 マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、[[7月7日]]には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された<ref name="ウィーン(2002)164">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164</ref>。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、[[9月25日]]にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164-166</ref>。 10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。 しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。[[10月16日]]にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までに[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ|ヴィンディシュ=グレーツ伯爵]]率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員{{仮リンク|ローベルト・ブルム|de|Robert Blum}}が見せしめの即決裁判で処刑された<ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.299-300</ref>。プロイセンでも[[11月1日]]に保守派の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク]]伯爵が宰相に就任し、[[11月10日]]には[[フリードリヒ・フォン・ヴランゲル]]元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた<ref name="エンゲルベルク(1996)301">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.301</ref>。 {{-}} ==== 武装闘争とプロイセンからの追放 ==== [[File:NGR RED.jpg|180px|thumb|1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号]] プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した<ref name="エンゲルベルク(1996)303">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.303</ref><ref name="石浜(1931)179">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179</ref>。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)305">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.305</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179-180</ref>。 [[フェルディナント・ラッサール]]が[[デュッセルドルフ]]でこれに呼応するも、彼は[[11月22日]]に反逆容疑で逮捕された<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、[[1849年]][[2月8日]]に[[陪審制]]の裁判にかけられた<ref name="メーリング(1974,1)306"/>。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした<ref name="ウィーン(2002)173"/>。 この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。[[3月2日]]には軍人がマルクスの事務所にやってきて[[サーベル]]を抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、[[ジャコバン派]]の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている<ref name="ウィーン(2002)174-175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.174-175</ref>。 5月にフランクフルト国民議会の決議した[[パウロ教会憲法|ドイツ帝国憲法]]とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領[[プファルツ]]地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン[[皇太弟]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]](後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した<ref name="石浜(1931)182">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.182</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.320</ref>。 革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref>。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を[[赤]]刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった<ref name="ウィーン(2002)175"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.174-175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.317</ref>。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった<ref name="ウィーン(2002)175"/><ref name="メーリング(1974,1)317"/>。 パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地である[[カイザースラウテルン]]に向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなく[[フランクフルト・アム・マイン]]で釈放された<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref>。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた<ref name="メーリング(1974,1)318"/><ref name="小牧(1966)176">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.176</ref><ref name="ウィーン(2002)176">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176</ref>。 {{-}} ==== フランスを経てイギリスへ ==== 6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して[[偽造パスポート]]でフランスに入国。パリの{{仮リンク|リール通り|fr|Rue de Lille (Paris)}}に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した<ref name="ReferenceB">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。 この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝[[ナポレオン3世]])が大統領を務めていた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の[[秩序党]]の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、[[6月13日]]に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)<ref name="ReferenceB"/><ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。 この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官から[[モルビアン県]]へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここは{{仮リンク|ポンティノ湿地|fr|Marais pontins}}の影響で[[マラリア]]が流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。 ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国は[[イギリス]]以外にはなかった<ref name="ウィーン(2002)177"/>。 === ロンドン在住時代 === ==== ディーン通りで赤貧生活 ==== [[File:Commemorative plaque "Karl Marx (1818-1883) lived here 1851-56". Dean Street 28, London.jpg|180px|thumb|マルクスが暮らしていた{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の住居。マルクスの[[ブルー・プラーク]]が入っている。]] ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると<ref name="バーリン(1974)190">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.190</ref>、1849年8月27日に<!--シャルル・マルクスは偽名ではなく、カール・マルクスをフランス語で書いたもの/「シャルル・マルクス博士」という偽名で-->船に乗り、イギリスに入国した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177-179</ref>。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという<ref name="バーリン(1974)191">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.191</ref>。 イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンで{{仮リンク|キャンバーウェル|en|Camberwell}}にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121-122</ref>。 これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だった[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]・{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="石浜(1931)206">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.206</ref><ref name="ウィーン(2002)199">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.199</ref>。 プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという<ref name="バーリン(1974)205">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.205</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)265">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.265</ref>。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した{{sfn|佐々木|2016|pp=91-94}}<ref name="カー(1956)127">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.127</ref>。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった<ref name="小牧(1966)180">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.180</ref><ref name="ウィーン(2002)212">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.212</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)267">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.267</ref>。 それでもマルクスは毎日のように[[大英博物館]]図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた{{sfn|佐々木|2016|pp=91-94}}<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。のみならず<!--ウィーンによればピーパーの業務は口述筆記と翻訳/勉強のための-->秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。また、[[レイ・ランケスター]]といった博物館関係者とも親交を得た。 生計は[[フリードリヒ・エンゲルス]]からの定期的な仕送り{{#tag:ref|エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206-207</ref>。|group=注釈}}、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123/128</ref>。 しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった<ref name="ウィーン(2002)215"/>。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという<ref name="カー(1956)123"/><ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。<!--バーリンがこうした評価を下したのは事実ですが、バーリンの評価は中立的な観点ではないし、カーやウィーンといった他のマルクス研究者の一般的な評価でもありません。/ こうした惨めな赤貧生活は、「自分は命令的地位につく資格がある」と思い込んでいたマルクスのプライドをズタズタにし、彼の憎悪と憤怒の感情を高めることにつながったという<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。--> {{-}} ==== 自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動 ==== [[File:Nytrib1864.jpg|250px|thumb|1864年の『[[ニューヨーク・トリビューン]]』]] エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた<ref name="ウィーン(2002)178">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.178</ref><ref name="メーリング(1974,2)7">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7</ref>。これに応じてエンゲルスも[[11月12日]]にはロンドンへやってきた<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。 エンゲルスや{{仮リンク|コンラート・シュラム|de|Conrad Schramm}}の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月から[[ドイツ連邦]][[自由都市]][[ハンブルク]]で月刊誌『{{仮リンク|新ライン新聞 政治経済評論|de|Neue Rheinische Zeitung. Politisch-ökonomische Revue}}』を出版した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.187-188</ref><ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref><ref name="カー(1956)122">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.122</ref><ref name="ウィーン(2002)187">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.187</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7-8</ref>。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである<ref name="小牧(1966)177"/>。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.189-190</ref>。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した<ref name="カー(1956)122"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177-178</ref>。 ついで1851年秋から[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]で発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『[[ニューヨーク・トリビューン]]』のロンドン通信員となった<ref name="ウィーン(2002)215"/>。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった<ref name="バーリン(1974)209">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.209</ref>。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった<ref name="ウィーン(2002)215"/><ref name="バーリン(1974)210">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.210</ref>。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである<ref name="石浜(1931)211">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.211</ref>。 マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの[[黒人]][[奴隷]]制を批判した{{仮リンク|ハリエッタ・サザーランド=ルーソン=ゴア (サザーランド公爵夫人)|label=サザーランド公爵夫人|en|Harriet Sutherland-Leveson-Gower, Duchess of Sutherland}}に対して「[[サザーランド公爵|サザーランド公爵家]]も[[スコットランド]]の領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある<ref name="バーリン(1974)217">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.217</ref>。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで[[南北戦争]]が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)<ref name="カー(1956)186">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.186</ref>。 ==== 共産主義者同盟の再建と挫折 ==== [[1849年]]秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりの[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だった{{仮リンク|アウグスト・ヴィリヒ|de|August Willich}}などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.22-24</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.190-191</ref><ref name="カー(1956)144">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144</ref>。 再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.24-25</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.191-192</ref>。 しかし[[1850年]]夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした[[小ドイツ主義]]統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された([[オルミュッツ協定|オルミュッツの屈辱]])<ref name="メーリング(1974,2)27">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.27</ref><ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.343-344</ref>。 こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり<ref name="石浜(1931)195">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195</ref>、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144-145</ref>。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195-196</ref><ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。 1850年[[9月15日]]の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである<ref name="カー(1956)146">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.146</ref>。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている<ref name="カー(1956)147">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147</ref>。 共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。[[1851年]]5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧(1966)178">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.178</ref>。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した<ref name="シュワルツシルト(1950)271">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.271</ref>。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局[[1852年]]10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.207-209</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)273">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.273</ref>。 これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年[[11月17日]]に正式に解散を決議した<ref name="小牧(1966)178"/>。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる<ref name="カー(1956)151"/>。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した{{Sfn|スパーバー|2015b|p=8}}。 ==== ナポレオン3世との闘争 ==== [[File:Napoleon-III1.jpg|180px|thumb|マルクスが厳しく批判した[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]]] 一方フランスでは[[1851年]]12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる[[1852年憲法|新憲法]]を制定して独裁体制を樹立した<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.118-139</ref>。さらに同年12月には皇帝に即位し、[[ナポレオン3世]]と称するようになった<ref name="鹿島(2004)79"/>。 マルクスは彼のクーデタを考察した『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した{{sfn|佐々木|2016|p=91}}<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref><ref name="ウィーン(2002)225">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.225</ref>。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり<ref name="カー(1956)152"/>、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する<ref name="カー(1956)152"/>。 ナポレオン3世は[[東方問題]]をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と連携して[[1854年]]から[[クリミア戦争]]を開始した。マルクスはロシアの[[ツァーリズム]]に対するこの戦争を歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.80-81</ref>。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている<ref name="カー(1956)184">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.184</ref>。 一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵も[[ツァーリ]](ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいた<!--この注釈をとりあえずコメントアウト。ウィーンの伝記には、マルクスが、アーカートと共通するのはパーマストンに関する見解だけで、そのほかの点ではすべて相反していると手紙に書いていることが記述されている。「アーカートから金を引き出した」とあるが、これはマルクス憎さのあまりバーリンがわざと誤解をまねくような書き方をしただけで、マルクスは「じつにしつこい」アーカートの信奉者の依頼に負けて新聞に記事を書き、原稿料をもらっただけである。「経済的にはありがたいことだが、しかし、彼らと政治的に深い関わりをもつべきなのかどうか、そこのところが私にはまだわからない」(ウィーン、250頁)。{{#tag:ref|[[ナポレオン3世]]はともかく、ロシアに一切容赦がない[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]を「ロシアの犬」とするマルクスの言説は実に奇妙なものだった。そればかりかマルクスは「[[ピョートル大帝]]の時代にロシアとイギリスは秘密協定を結んでおり、以降150年にわたって共謀関係にある。今回ロシアと戦争をしたのはその共謀関係を隠すための偽装工作なのだ」というロシア[[陰謀論]]的主張までするようになった。マルクスのこうした胡散臭い主張はロシア陰謀論者の[[庶民院]]議員{{仮リンク|デヴィッド・アーカート|en|David Urquhart}}の影響だったようである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.248-249</ref><ref name="バーリン(1974)215">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215</ref>。アーカートは別に社会主義者でも何でもなくただの変人だったが、マルクスと彼の奇妙な友情は彼が死ぬまで続いた。またマルクスは彼からだいぶ金を引き出したようである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215-216</ref>。|group=注釈}}。-->それは極端な意見だったが、実際クリミア戦争は[[クリミア半島]][[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ要塞]]を陥落させたところで中途半端に終わった<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。 ナポレオン3世は[[1859年]]に[[サルデーニャ王国]]宰相[[カミッロ・カヴール]]と連携して[[ロンバルド=ヴェネト王国|北イタリア]]を支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した([[イタリア統一戦争]])。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局[[大ドイツ主義]]者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、[[小ドイツ主義]]者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった<ref name="カー(1956)207">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.207</ref>。 この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.224-225</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref name="メーリング(1974,2)126-128">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。 マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった<ref name="メーリング(1974,2)133">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.133</ref>。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許した[[バーゼルの和約]]に歓声を送り、また[[ウルムの戦い]]や[[アウステルリッツの戦い]]でオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した<ref name="メーリング(1974,2)134">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.134</ref>。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張する{{仮リンク|カール・フォークト|de|Carl Vogt}}を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.209-210</ref>。 しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、[[ハプスブルク家]]による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン]]に対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった<ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。<!-- この論争について[[フランツ・メーリング]]は「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としている。 --> ==== グラフトン・テラスへ引っ越し ==== [[File:Marx3.jpg|180px|thumb|1861年のマルクス]] 1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)268">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.268</ref>。 マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部{{仮リンク|ベルサイズ・パーク|en|Belsize Park}}グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した<ref name="ウィーン(2002)266"/>。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266-270</ref>。 引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである<ref name="ウィーン(2002)271">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.271</ref>。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.232-233</ref>。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.269-270</ref>。 終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している<ref name="シュワルツシルト(1950)269">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.269</ref>。 特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の[[出札]]係に応募したがひどい[[悪筆]]のため断られ生活苦は続いた<ref name="バーリン(1974)240"/>。 {{-}} ==== 『経済学批判』と『資本論』 ==== [[File:Zentralbibliothek Zürich Das Kapital Marx 1867.jpg|180px|thumb|『[[資本論]]』初版のタイトルページ]] マルクスの最初の本格的な経済学書である『[[経済学批判]]』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。[[1859年]]1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.185-187</ref>。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが[[1866年]]11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『[[資本論]]』第1巻だった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.188-189</ref>。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている<ref name="バーリン(1974)228">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.228</ref>。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。 「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の[[使用価値]](用途)が異なり、またその[[価値]](生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.196-199</ref> 「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して[[剰余価値]]を生み出させ、それを[[搾取]]しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.199-204</ref> 「商品は、[[不変資本]](機械や原料など生産手段に投下される資本)、[[可変資本]](労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って[[利潤率]]が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.203-206</ref>。 そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する<ref name="小牧(1966)208">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.208</ref>。 {{-}} ==== プロイセン帰国騒動 ==== 1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が[[崩御]]し、[[皇太弟]]ヴィルヘルムが[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを受けてベルリン在住の友人[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]はマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた<ref name="ウィーン(2002)296"/>。 マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた<ref name="ウィーン(2002)297">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297</ref>。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。 マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた<ref name="ウィーン(2002)298">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった<ref name="ウィーン(2002)298"/>。 ==== ラッサールとの亀裂 ==== [[File:Bundesarchiv Bild 183-J0827-500-002, Ferdinand Lassalle.jpg|180px|thumb|[[フェルディナント・ラッサール]]<br/><small>マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。</small>]] 1862年の夏、ラッサールが[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万博]]で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアの[[マッツィーニ]]や[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]もプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた<ref name="ウィーン(2002)301-303">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.301-303</ref>。 プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党[[ドイツ進歩党]]が大議席を獲得していた<ref name="エンゲルベルク(1996)482-483">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.482-483</ref>。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。 ところがラッサールは進歩党の「[[夜警国家]]」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、[[1863年]]に進歩党と決別して[[全ドイツ労働者同盟]]を結成しはじめた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.167-189</ref>。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用した[[ユンカー]]の保守主義者[[オットー・フォン・ビスマルク]]と親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。 不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のため[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]をベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、{{仮リンク|ユリウス・ファールタイヒ|de|Julius Vahlteich}}ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った<ref name="江上(1972)209">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.209</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.245-246</ref>。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる<ref>[[アウグスト・ベーベル]]『ベーベル自叙伝』{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。 ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした<ref name="江上(1972)261">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.261</ref>。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}に彼の死を惜しむ弔辞を書いた{{#tag:ref|これについてマルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスが[[ゲットー]]のユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している<ref name="カー(1956)249">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.249</ref>。|group=注釈}}<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.248-249</ref><ref name="メーリング(1974,2)194">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.194</ref>。 ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった<ref name="カー(1956)251">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.251</ref>。 {{-}} ==== メイトランド・パークへの引っ越し ==== [[1863年]]11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.319-320</ref>。しかしともかくもその遺産を使って[[1864年]]3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた<ref name="ウィーン(2002)320">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.320</ref>。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している<ref>[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.136-137</ref>。 さらに[[1864年]][[5月9日]]には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった<ref name="ウィーン(2002)321">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.321</ref>。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである<ref name="ウィーン(2002)322">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322</ref>。 急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322-323</ref>。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた<ref name="ガンブレル(1989)139">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.139</ref>。 [[1875年]]春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる<ref name="メーリング(1974,3)182">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.182</ref>。 ==== 第一インターナショナルの結成 ==== [[File:FRE-AIT.svg|180px|thumb|[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)のロゴ]] 1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う[[綿花]]危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.241-242</ref>。イギリスでは1860年に{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}がロンドンに創設された<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.242-243</ref>。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「{{仮リンク|自由帝政|fr|Empire libéral}}」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり<ref name="鹿島(2004)178">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178</ref>、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.369-370</ref>。プルードン派や[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]派の活動も盛んになった<ref name="石浜(1931)243">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.243</ref>。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した<ref name="江上(1972)210">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.210</ref>。 こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。[[1862年]][[8月5日]]にはロンドンの{{仮リンク|フリーメーソン会館 (ロンドン)|label=フリーメーソン会館|en|Freemasons' Hall, London}}でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された<ref name="カー(1956)255">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.255</ref>。労働者の国際組織を作ろうという話になり、[[1864年]][[9月28日]]にロンドンの{{仮リンク|女王劇場 (ロング・エーカー)|label=セント・マーチン会館|en|Queen's Theatre, Long Acre}}でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}の{{仮リンク|ジョージ・オッジャー|en|George Odger}}を議長とする[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)の発足が決議されるに至った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259-261</ref>。 マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人である{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}とともに出席した<ref name="カー(1956)259">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259</ref>。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された<ref name="カー(1956)262">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.262</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.245-249</ref>。 マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref>。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている<ref name="カー(1956)263"/>。イタリア人の委員が[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]の主張を入れようとしたり、イギリス人の委員が[[ロバート・オウエン|オーエン主義]]を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている<ref name="カー(1956)263"/>。 こうして作成された規約は全会一致で採択された<ref name="石浜(1931)249"/>。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)<ref name="石浜(1931)256">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.256</ref>。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている<ref name="小牧(1966)211">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.211</ref>。 {{-}} {{See also|第一インターナショナル}} ==== プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争 ==== [[File:Marx1867.jpg|180px|thumb|1867年のマルクス]] インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、[[労働組合主義]]、バクーニン派であった<ref name="カー(1956)266">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266</ref>([[#バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争|バクーニン]]については後述)。 フランス人メンバーは[[フランス革命]]に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する[[私有財産制]]の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった<ref name="カー(1956)266-267">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266-267</ref>。 むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった<ref name="カー(1956)268">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.268</ref>。イギリス人メンバーは[[労働組合主義]]や[[議会主義]]に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった[[社会改良主義|社会改良]]だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266/269</ref>。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す[[改革連盟]]に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士{{仮リンク|エドモンド・ビールズ|en|Edmond Beales}}がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの[[政党政治]]に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した<ref name="カー(1956)270">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.270</ref>。 {{-}} {{See also|改革連盟}} ==== リンカーンの奴隷解放政策を支持 ==== 1861年に[[アメリカ南北戦争]]が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部([[アメリカ合衆国]])を支持するかアメリカ南部([[アメリカ連合国]])を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。 これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|合衆国大統領選挙]]があり、奴隷制廃止を掲げる[[エイブラハム・リンカーン]]が再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|アメリカ大使]][[チャールズ・フランシス・アダムズ (1世)|アダムズ]]に提出した<ref name="カー(1956)269"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.329-330</ref>。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている<ref name="カー(1956)269"/>。 この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した<ref name="シュワルツシルト(1950)330">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.330</ref>。実際そのことが『[[タイムズ]]』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった<ref name="カー(1956)269"/>。 {{-}} ==== ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争 ==== [[ファイル:Bismarck pickelhaube.jpg|180px|thumb|プロイセン王国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]]] ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力と{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した<ref name="カー(1956)287">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.287</ref>。 そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-289</ref>。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-290</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.215-216</ref>。 このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、[[アウグスト・ベーベル]]とともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた[[大ドイツ主義]]的統一・反プロイセン的な主張をするようになった<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)79">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79</ref>。ラッサール派の[[小ドイツ主義]]統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった<ref name="カー(1956)291"/>。 もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、[[1866年]]に[[普墺戦争]]でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする[[北ドイツ連邦]]を樹立することに成功した<ref name="シュワルツシルト(1950)340-341">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.340-341</ref>。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78"/>。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]選挙に出馬して当選を果たした<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。 マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは[[1868年]]初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである<ref name="カー(1956)292"/>。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めに[[アイゼナハ]]において{{仮リンク|社会民主労働党 (ドイツ)|label=社会民主労働党|de|Sozialdemokratische Arbeiterpartei (Deutschland)}}(アイゼナハ派)を結成した<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref>。 {{要出典範囲|date=2021年11月|マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。}} {{-}} ==== 普仏戦争をめぐって ==== [[File:1870 bei Le Bourget.jpg|180px|thumb|普仏戦争で進軍するプロイセン軍。]] [[ファイル:A v Werner - Kaiserproklamation am 18 Januar 1871 (3. Fassung 1885).jpg|250px|thumb|1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]のドイツ皇帝即位式。白い軍服が[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]。]] [[1870年]]夏に勃発した[[普仏戦争]]はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。 開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた<ref name="カー(1956)295"/><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.81-82</ref>。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.296-297</ref>。 もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じく[[パロディー]]で終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクは[[ケーニヒグレーツの戦い]]以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今や[[ライン川]]の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」<ref name="カー(1956)297">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.297</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79-80</ref>、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした<ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="カー(1956)299">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299</ref><ref name="メーリング(1974,3)80">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.80</ref><ref name="ウィーン(2002)385">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385</ref>。 戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬の[[セダンの戦い]]でナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して[[フランス第三共和政|第三共和政]]が樹立されるに至った<ref name="ウィーン(2002)387">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.387</ref>。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらう[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]にへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンが[[アルザス=ロレーヌ]]を併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.298-299</ref>。 9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した<ref name="小牧(1966)214"/><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299-300</ref>。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した<ref name="カー(1956)300">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.300</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.388-389</ref>。 一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させて[[ドイツ帝国]]を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した<ref name="カー(1956)301">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.301</ref>。 {{-}} ==== パリ・コミューン支持をめぐって ==== [[File:Communeprisoners.jpg|250px|thumb|ティエール政府の軍隊により逮捕される[[パリ・コミューン]]のメンバー。]] マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日には[[アドルフ・ティエール]]政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府[[パリ・コミューン]]を樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.302-303</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性を[[パリジャン]]は持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した<ref name="ウィーン(2002)391"/><ref name="メーリング(1974,3)97">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.97</ref>。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである<ref name="小牧(1966)214"/><ref name="ウィーン(2002)391"/><ref name="カー(1956)303">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.303</ref>。 マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した<ref name="石浜(1931)269">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.269</ref><ref name="メーリング(1974,3)103">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.103</ref>。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した<ref name="カー(1956)304"/>。 その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている<ref name="カー(1956)307">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.307</ref>。娘婿[[ポール・ラファルグ]]や[[ジュール・ゲード]]など、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちの[[フランス社会党(SFIO)|フランス社会党]]の一翼を形成することになる。 しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、[[ユダヤ陰謀論]]が出回るようになった{{#tag:ref|たとえば『{{仮リンク|フレイザーズ・マガジン|en|Fraser's Magazine}}』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた<ref name="ウィーン(2002)399">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.399</ref>。『{{仮リンク|ペルメル・ガゼット|en|Pall Mall Gazette}}』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた<ref name="ウィーン(2002)400">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.400</ref>。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている<ref name="ウィーン(2002)398">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.398</ref>。|group=注釈}}。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref><ref name="ガンブレル(1989)150">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.150</ref>。 こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した<ref name="カー(1956)310">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.310</ref>。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた<ref name="カー(1956)309"/>。 マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるように[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]との闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく<ref name="カー(1956)333">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.333</ref>。 {{-}} {{See also|パリ・コミューン}} ==== バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争 ==== [[File:Bakunin.png|180px|thumb|[[ミハイル・バクーニン]]<br/><small>ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更に[[ユダヤ陰謀論]]からマルクスの正体を怪しんだ。</small>]] [[ミハイル・バクーニン]]はロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、[[シベリア]][[流刑]]となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来[[スイス]]・[[ジュネーブ]]でインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.321-325</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.380-383</ref>。 バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった<ref name="バーリン(1974)243">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.243</ref>。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスや[[イタリア王国|イタリア]]、[[スペイン]]の支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242/274</ref>。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242-243</ref>。 しかもバクーニンは強烈な[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・[[ユダヤ陰謀論]]の色彩を帯びていった<ref name="バーリン(1974)244">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.244</ref>。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」<ref name="外川(1973)390">[[#外川(1973)|外川(1973)]] p.390</ref>「この世界の大部分は、片やマルクス、片や[[ロスチャイルド家]]の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。[[ラテン系]]の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である<ref name="ウィーン(2002)408"/>。 ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した<ref name="ウィーン(2002)409">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.409</ref>。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月に[[オランダ]]・[[ハーグ]]で開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref><ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.273-274</ref>。 ==== インターナショナルの終焉 ==== バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、[[ハーグ大会]]の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた<ref name="カー(1956)354-355">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.354-355</ref>。 ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・[[ニューヨーク]]に移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった<ref name="ReferenceC">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった<ref name="バーリン(1974)274"/><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『[[スペクテイター (1828年創刊の雑誌)|ザ・スペクテイター]]』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。 なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境を{{仮リンク|ルイス・クーゲルマン|en|Louis Kugelmann}}に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる<ref name="ReferenceC"/>。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部{{仮リンク|フリードリヒ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる<ref>[[渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館|渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p]].309-310</ref>。 しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年の[[フィラデルフィア]]大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった{{efn|インターナショナルの再建にはその後13年を要し、マルクスは既に他界している。再建された[[第二インターナショナル]]は、[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ロシア社会民主党]]といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツの[[ベルンシュタイン]]からロシアの[[レーニン]]まで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。}}<ref name="ウィーン(2002)416"/>。 {{-}} ==== 『ゴータ綱領批判』 ==== [[File:Wilhelm Liebknecht 2.jpg|180px|thumb|[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]<br/><small>基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。</small>]] ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。 すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた[[1875年]]2月には[[ゴータ]]で両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである<ref name="カー(1956)394-395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.394-395</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.275-276</ref>。 この合同に際して両党の統一綱領として作られたのが{{仮リンク|ゴータ綱領|de|Gothaer Programm}}だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった<ref name="カー(1956)395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.395</ref>。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた<ref name="バーリン(1974)276"/>。 この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『[[ゴータ綱領批判]]』である{{efn|マルクス派が優勢になったドイツ社会主義労働者党は、1891年に[[ドイツ社会民主党]]と党名を変更し[[エルフルト綱領]]を制定した<ref>{{Cite web|和書|title=ドイツ社会民主党とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-102966|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。この中で、エンゲルスは『ゴータ綱領批判』を出版しラサール主義の色が強いゴータ綱領を批判した<ref>{{Cite web|和書|title=ゴータ綱領とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B6%B1%E9%A0%98-65096|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。}}。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。 マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した<ref name="バーリン(1974)277"/>。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し<ref name="カー(1956)397"/>。「[[賃金の鉄則]]」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した<ref name="カー(1956)397"/>。 また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した<ref name="カー(1956)397"/>。 リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった<ref name="バーリン(1974)277"/><ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった<ref name="カー(1956)398"/>。ゴータ綱領のもとに[[ドイツ社会主義労働者党]]が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし<ref name="カー(1956)398"/>、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.411-412/414</ref>、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという<ref name="カー(1956)398"/>。 {{-}} === 晩年の放浪生活 === [[File:Marx old.jpg|180px|thumb|1882年のカール・マルクス]] マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、[[1873年]]には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降[[鉱泉]]での[[湯治]]を目的にあちこちを巡ることになった。1876年までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[カールスバート]]にしばしば通った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401-402</ref>。1877年にはドイツ・ライン地方の[[バート・ノイェンアール=アールヴァイラー]](Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という<ref name="カー(1956)402">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.402</ref>。1878年からは[[イギリス王室属領|イギリス王室の私領]]である[[チャンネル諸島]]で湯治を行った<ref name="カー(1956)403">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.403</ref>。 1880年秋からイギリス人社会主義者[[ヘンリー・ハインドマン]]と親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する{{仮リンク|社会民主主義連盟|en|Social Democratic Federation}}を結成する。この組織には[[エリノア・マルクス]]や[[ウィリアム・モリス]]も参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、[[社会主義同盟]]を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した<ref name="カー(1956)405">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.405</ref>。結局、イギリス労働運動は[[ケア・ハーディ]]や[[トム・マン]]らの[[独立労働党]](のちの[[イギリス労働党]])に収斂することになる。[[イギリス労働党]]は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。 [[1881年]]夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}が[[ジョルジュ・クレマンソー]]からマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった<ref name="カー(1956)406">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.406</ref>。 パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」<ref name="カー(1956)407">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.407</ref> と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘[[エリノア・マルクス|エリノア]]に述べている<ref name="バーリン(1974)292">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.292</ref>。 独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために[[1882年]]も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・{{仮リンク|ヴェントナー|en|Ventnor}}を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由して[[フランス植民地帝国|フランス植民地]][[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]の[[アルジェ]]へ移った<ref name="カー(1956)407"/><ref name="石浜(1931)280">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.280</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.215-216</ref>。[[北アフリカ]]の灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った<ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref>。アルジェリアからの帰国途中の6月には[[モナコ公国]][[モンテカルロ]]に立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女カロリーネの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女カロリーネは病んでいた。つづいて次女ラウラとともに[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]を訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した<ref name="カー(1956)408"/><ref name="石浜(1931)281">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281</ref><ref name="メーリング(1974,3)216">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.216</ref>。 {{-}} === 死去 === 1883年1月12日に長女カロリーネが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった<ref name="カー(1956)410">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.410</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281-282</ref><ref name="メーリング(1974,3)217">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.217</ref>。 その3日後に[[ハイゲイト墓地]]の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった<ref name="小牧(1966)221">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221</ref><ref name="ReferenceD">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.219-221</ref>。 葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志は[[シベリア]]の鉱山から[[カリフォルニア]]の海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた<ref name="ReferenceD"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221-222</ref>。 マルクスの死後、イギリスでは[[労働党]]が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による[[人民戦線]]内閣が誕生。ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアでは[[レーニン]]の指導する[[ロシア革命]]を経て、[[ソヴィエト連邦]]が誕生した。 マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する{{#tag:ref|『資本論』第4部こと『[[剰余価値学説史]]』は、エンゲルスの死後[[カール・カウツキー]]の編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿の並べ替えが行われ、[[廣松渉]]から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる<ref>『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜(1931)284">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.284</ref>。[[2013年]]に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[世界の記憶]]に登録された<ref>[http://www.unesco.de/kommunikation/mow/mow-deutschland/kommunistisches-manifest.html Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)]</ref>。 マルクスの墓は[[1954年]]に墓地内の目立つ場所に移され、[[1956年]]には頭像が取り付けられている。その墓には「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者よ、団結せよ]]」という彼の最も有名な言葉と『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている<ref name="ガンブレル(1989)170">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.170</ref>。[[1970年]][[1月18日]]、何者かが墓と胸像に[[爆弾]]を仕掛けて破壊する事件が発生した<ref>マルクスの墓に爆弾『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月19日朝刊 12版 15面</ref>。胸像などは後に修復されている。 2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0[[ユーロ紙幣]]を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL4X1VGQL4XUHBI001.html?iref=com_rnavi_arank_nr05 生誕200年記念「マルクス紙幣」に注文殺到 額面は0] - [[朝日新聞]]</ref>。 {{Gallery |lines=4 |File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとの墓(ロンドン、[[ハイゲイト墓地]]) |File:KarlMarx Tomb.JPG|1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地) |File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像画([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[平壌直轄市|平壌]]・外国貿易省) |File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンの{{仮リンク|シュロース広場|label=マルクス・エンゲルス広場|de|Schloßplatz (Berlin)}}) |File:USSR-1983-1ruble-CuNi-Marx165-b.jpg|没後100周年記念1[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]硬貨(1983年発行) <!--|File:USSR-1983-comm-1ruble-CuNi-a.jpg|没後100周年記念1ルーブル硬貨(1983年発行)--><!--上記硬貨の別面--> }} {{-}} == 人物 == [[File:Karl Marx 1867 Hannover.jpg|180px|thumb|1867年のカール・マルクス]] === 健康状態・体格 === 小柄で肥満体形だった<ref name="石浜(1931)272">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.272</ref>。娘婿の[[ポール・ラファルグ]]は舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも[[脊柱]]はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである<ref name="メーリング(1974,3)175">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.175</ref>。 マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった<ref name="カー(1956)401">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401</ref>。[[肝臓病]]や[[脳病]]、[[神経病]]など様々な病気に苦しんだ<ref name="石浜(1931)274">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.274</ref>。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している<ref name="ウィーン(2002)354">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.354</ref>。 また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・[[便秘]]・[[痔]]・[[胃腸]][[カタル]]などに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした<ref name="小泉(1967)29">[[#小泉(1967)|小泉(1967)]] p.29</ref>。{{仮リンク|オットー・リュウレ|de|Otto Rühle (Politiker, 1874)}}は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる<ref name="小泉(1967)29"/>。 酒好きであり<ref name="石浜(1931)43"/>、また[[ヘビースモーカー]]だった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている<ref name="ウィーン(2002)353">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.353</ref><ref name="メーリング(1974,3)176">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176</ref>。 === 趣味・嗜好 === 詩や[[劇文学]]を愛好した。[[古代ギリシャ]]の詩人では[[アイスキュロス]]と[[ホメーロス]]を愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176-177</ref>。[[ドイツ文学]]では[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]と[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]を愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応は[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]を「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった<ref name="メーリング(1974,3)177">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177</ref>。[[フランス文学]]では[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の『ラモーの甥』のような啓蒙文学と[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の『[[人間喜劇]]』のような[[写実主義]]文学を愛した<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177-178</ref>。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった<ref name="バーリン(1974)291">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。逆に[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]ら[[ロマン主義]]作家のことは嫌った<ref name="メーリング(1974,3)177"/>。ロンドン亡命後には[[イギリス文学]]にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといっても[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[ヘンリー・フィールディング|フィールディング]]の『[[トム・ジョウンズ]]』も愛した<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。またロマン主義を嫌うマルクスだが、[[ウォルター・スコット]]の作品は「ロマン類の傑作」と評していた<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]と[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]については、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[イタリア文学]]では[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]を愛した<ref name="メーリング(1974,3)176"/><ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。 前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するために[[ハム]]、薫製の[[魚料理]]、[[キャビア]]、[[ピクルス]]など塩辛い物を好んで食べたという<ref name="メーリング(1974,3)176"/>。 [[チェス]]が好きだったが、よくその相手をした[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]に勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという<ref name="カー(1956)126">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.126</ref>。気分転換は高等数学を解くことであった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=木原武一 |authorlink=木原武一 |year=1994 |title=天才の勉強術 |publisher=[[新潮選書]] |page= |id= |isbn= |quote= }}</ref>。 「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として[[赤]]、好きな花として[[月桂樹]]、好きなヒーローとして[[スパルタクス]]、好きなヒロインとして[[ファウスト 第一部|グレートヒェン]]をあげた<ref name="ウィーン(2002)463">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.463</ref>。 他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった<ref name="バーリン(1974)290"/><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref><ref name="メーリング(1974,2)75">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.75</ref>。[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」<ref name="カー(1956)291"/>。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤの[[ニガー]]」だった<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「[[ムーア人]]」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された<ref name="バーリン(1974)290"/><ref name="カー(1956)124"/><ref name="ウィーン(2002)51">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.51</ref>。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである<ref name="ウィーン(2002)183"/>。 {{-}} == 家計・金銭問題 == ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている<ref name="ハイルブローナー(2001)">[[#ハイルブローナー(2001)|ハイルブローナー(2001)]]</ref>。 マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった<ref name="ウィーン(2002)81">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.81</ref>。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。 マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている<ref name="メーリング(1974,1)319"/>。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある<ref name="ウィーン(2002)315">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.315-319</ref>。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した<ref name="ウィーン(2002)357">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.357</ref>。 == 人間関係 == マルクスは[[亡命者]]だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。 マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師である[[クーゲルマン]]とは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスは[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが<ref>John Bellamy Foster, Marx's Ecology: Materialism and Nature, p. 207.</ref>、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。 マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、[[ブランキ]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、{{仮リンク|ファーガス・オコナー|en|Feargus O'Connor|label=オコーナー}}、[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]などがいるが、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ブルーノ・バウアー|バウアー]]、[[オイゲン・デューリング|デューリング]]、[[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ]]、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]などは厳しい批判にさらされた。 批判者からは以下のような意見が見られる。 1848年8月、当時ボン大学の学生だった[[カール・シュルツ]]はケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」<ref name="ウィーン(2002)163">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.163</ref>。 [[アーノルド・ルーゲ]]は「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る<ref name="シュワルツシルト(1950)89"/>。 [[ミハイル・バクーニン]]は「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神[[エホバ]]の如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る<ref name="バーリン(1974)118">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.118</ref>。 マルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している<ref name="カー(1956)145"/>。 マルクス主義者の[[フランツ・メーリング]]さえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している<ref name="シュワルツシルト(1950)109">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.109</ref>。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている<ref name="メーリング(1974,2)184">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.184</ref>。 {{-}} == 思想 == === エンゲルスとの関係 === マルクスと[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は1844年の再会以降、無二の盟友として緊密な関係を保ち、頻繁に往復書簡を交わして思想交流をしていたために、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられるが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。 たとえばエンゲルスは『[[反デューリング論]]』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『[[自然弁証法]]』で[[弁証法哲学]]が[[自然科学]]の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している<ref>[[テレル・カーヴァー]](1995)『マルクスとエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153</ref>。 1869年にロンドンへ移住して以降のエンゲルスの理論活動においては、自然科学や原始社会などの新たな研究をふまえ、マルクス主義を社会のみならず自然をも包括するよう体系化しようとする志向が見受けられる<ref>{{Cite journal|和書|last=保住|first=敏彦 |year=1995 |title=エンゲルスの理論活動の意義と問題:没後100年を記念して |url=https://doi.org/10.11498/jshet1963.33.39 |journal=経済学史学会年報 |volume=33 |issue=33 |pages=39-51 |doi=10.11498/jshet1963.33.39 |naid=130004246154 |ISSN=0453-4786 |publisher=経済学史学会}}</ref>。現在の『資本論』第3巻では、エンゲルスによる大幅な改変がなされている<ref>{{Cite journal|和書|last=佐々木|first=隆治|year=2016|title=いわゆる「転形問題」についての覚え書き|journal=立教經濟學研究|volume=70|issue=1|pages=89 - 102|doi=10.14992/00012411}}</ref>。 === 「決定論」 === マルクスの思想体系は「[[経済決定論]]」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである<ref>[[オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房]] p.35</ref>。また、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]はマルクスが[[ヘーゲル主義]]的な「歴史決定論」に陥っていると批判している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.134-136</ref>。 マルクスがヘーゲルの言う「[[理性の狡知]]」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえば[[イーグルトン]]はマルクスが初期の著作で人間の[[類的存在]]と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する<ref>イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84</ref>。またマルクスは『[[フォイエルバッハ・テーゼ]]』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし<ref>[[マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫]] p.230</ref>、『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している<ref>[[マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社]] p.198</ref>。 E.H.カーは、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]がマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.149</ref>。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。 === ユダヤ人観 === マルクスは自分が[[ユダヤ人]]であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘[[エリノア・マルクス]]が自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった<ref name="ウィーン(2002)73">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.73</ref>。マルクスは[[自由主義]]的な[[ライン地方]]に生まれ育ち、6歳のときに親の方針で[[キリスト教]]に改宗していたので[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]や[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]のようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref>。 しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤの[[ニガー]]」と渾名したことや{{#tag:ref|マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が[[黒人]]系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方([[縮れ毛]])がよく示している通り、彼は[[モーセ]]がユダヤ人を連れて[[エジプト]]から脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref><ref name="カー(1956)243">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.243</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)311">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.311</ref>。|group=注釈}}、マルクスが若い頃に書いた『[[ユダヤ人問題によせて]]』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。 『[[ユダヤ人問題によせて]]』でマルクスは、[[ブルーノ・バウアー]]がユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている<ref name=yosete>マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』</ref>。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている<ref name=yosete/>。 === 労働者観 === マルクスやエンゲルスは[[労働者]]を軽蔑していたという主張がある。 {{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する<ref name="シュワルツシルト(1950)155">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.155</ref>。マルクスに批判的な{{仮リンク|シュロモ・アヴィネリ|en|Shlomo Avineri}}も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。{{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne (author)}}も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333"/>。 一方{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する<ref name="ウィーン(2002)333-334">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333-334</ref>。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げる[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]については「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている<ref name="ウィーン(2002)333-334"/>。 またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示する{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている<ref name="ウィーン(2002)334-335">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.334-335</ref>。 === 戦争観 === マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた<ref name="メーリング(1974,3)77">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77</ref>。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた<ref name="メーリング(1974,3)77"/>。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した<ref name="石浜(1931)219">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.219</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77-78</ref>。 1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、[[諸国民の春]]に対して[[ヨーロッパの憲兵]]として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし<ref name="メーリング(1974,1)275-276"/>、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した<ref name="メーリング(1974,2)126-128"/>。[[普墺戦争]]も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.78</ref>。 しかし弟子たちの模範になったのは、[[普仏戦争]]に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」<ref name="ウィーン(2002)385-386">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385-386</ref>。 マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。 === 各国観 === プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的に[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]で、『[[共産党宣言]]』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている<ref>共産党宣言第二章</ref>。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。他方、イギリスの[[チャーチスト運動]]やフランスの[[パリコミューン]]を遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった<ref name="ウィーン(2002)391"/>。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。 十九世紀、[[ヨーロッパの憲兵]]として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた<ref name="カー(1956)183">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.183</ref>。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の[[農奴解放令]]によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、[[フロレンスキー]]の『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.&nbsp;340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家[[ヴェラ・ザスーリッチ]]に通信している<ref name="カー(1956)316">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.316</ref>。 === 植民地観 === マルクスは、『[[共産党宣言]]』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し<ref>マルクス・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言』岩波書店p.86</ref>、1867年の[[フェニアン]]によるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」<ref>マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクス・エンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.</ref>。 他方、マルクスのインド・中国論には[[オリエンタリズム]]という批判がある(たとえば[[エドワード・サイード]]のマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある<ref>今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁</ref>。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。 ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。 「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」<ref>マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクス・エンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.</ref>。 「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」<ref>マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁</ref>。 == 評価・批判 == {{Main2|マルクスの共産主義思想、哲学への評価・批判については[[マルクス主義批判]]を、マルクスの経済理論については[[マルクス経済学への批判]]を}} マルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済学者になった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会主義者になった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現した<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。 マルクスの伝記作家{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]も[[毛沢東]]も[[チェ・ゲバラ]]も[[フィデル・カストロ|カストロ]]も ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそ[[イエス・キリスト]]以来ではないだろうか」と評する<ref name="ウィーン(2002)467-468">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.467-468</ref>。 歴史学者[[E.H.カー]]は「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している<ref name="カー(1956)412-413">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.412-413</ref>。 政治哲学者[[アイザイア・バーリン]]は「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば[[唯物論]]は[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]に負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観は{{仮リンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論は[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁は[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計したものであること、[[労働価値説]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典経済学者に依拠していること、[[搾取]]と[[剰余価値説]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策も{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン (哲学者)|label=ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>{{#tag:ref|さらにバーリンは述べる。「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」|group=注釈}}。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.18-20/205</ref>。 [[城塚登]]はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する<ref name="城塚(1970)132">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.132</ref>。 [[2005年]]のイギリス[[BBC]]のラジオ番組の視聴者投票でマルクスは偉大な哲学者第1位に選ばれた。2位は[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]、3位は[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]、4位は[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、5位は[[プラトン]]、6位は[[イマヌエル・カント|カント]]、7位は[[トマス・アクィナス|アクィナス]]、8位は[[ソクラテス]]、9位は[[アリストテレス]]、10位は[[カール・ポパー|ポパー]]だった<ref>[https://www.bbc.co.uk/pressoffice/pressreleases/stories/2005/07_july/13/radio4.shtml Press Releases Marx wins In Our Time's Greatest Philosopher vote],BBC Radio 4,Date:13.07.2005</ref>。 == 家族 == === 妻 === [[ファイル:Karl Marx Frau.jpg|サムネイル|180px|妻のジェニー]] 1836年にトリーア在住の貴族[[ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン]]の娘である[[イェニー・マルクス|イェニー]](ジェニー、1814-1881)と婚約し、1843年に結婚した<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.51/229</ref>。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218-219</ref>。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた<ref name="ウィーン(2002)218">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218</ref>。 マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父である{{仮リンク|フィリップ・フォン・ヴェストファーレン|label=フィリップ|de|Philipp von Westphalen}}の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家は[[スコットランド]]王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155-156</ref>。 イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となった[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/><ref name="ウィーン(2002)68">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68</ref>。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相[[オットー・フォン・マントイフェル]]の方針に背いてまで[[ユンカー]]のための保守政治を推し進めた人物でもある<ref name="メーリング(1974,1)47">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47</ref>。一方イェニーの弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|label=エドガー|de|Edgar von Westphalen}}はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.133-134</ref><ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47-48</ref>。 === 子供 === [[File:Marx+Family and Engels.jpg|180px|thumb|マルクス(左上)と娘たち(前列左より長女ジェニー・キャロライン、四女[[エリノア・マルクス|エリノア]]、次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ラウラ|de|Laura Lafargue}})。右上は[[フリードリヒ・エンゲルス]]。1864年頃]] マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた<ref name="カー(1956)124"/>。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった<ref name="カー(1956)404">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.404</ref>。 # 長女{{仮リンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844年]]-[[1883年]])は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚した<ref name="石浜(1931)289">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している<ref name="石浜(1931)290">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.290</ref>。 # 次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845年]]-[[1911年]])は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者[[ポール・ラファルグ]]と結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。 # 長男エドガー(エトガル{{Sfn|スパーバー|2015b|p=9}})([[1847年]]-[[1855年]]4月6日)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた<ref name="石浜(1931)134">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.134</ref>。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.261-262</ref>。8歳でなくなったエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている<ref name="ウィーン(2002)264">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.264</ref>。妻の子6人のほかに、メイドとの間に男児がいたとされる。 # 次男ヘンリー・エドワード・ガイ(ハインリヒ・グイード{{Sfn|スパーバー|2015a|p=326-331}})([[1849年]]-[[1850年]]11月19日)はイギリス議会爆破未遂犯[[ガイ・フォークス]]に因んで名付けたが<ref name="ウィーン(2002)182"/>、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した<ref name="ウィーン(2002)200">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.200</ref>。 # 三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(フランツィスカ{{Sfn|スパーバー|2015a|p=332-337}})([[1851年]]-[[1852年]]4月14日)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている<ref name="ウィーン(2002)211">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.211</ref>。 # 四女[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855年]]-[[1898年]])は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという<ref name="カー(1956)386-387">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.386-387</ref>。<!-- 彼女はイギリス人社会主義者{{仮リンク|エドワード・エイヴリング|en|Edward Aveling}}と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、{{要検証範囲|やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された[[青酸カリ]]を飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った|date=2015年1月}}。明らかに[[殺人罪]]であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。 -->エレノアの生涯は『[[ミス・マルクス]]』(日本公開2021年)として映画化された<ref>[https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g37452173/toxic-father-karl-marx-and-his-daughter-eleanor-marx-210904/ マルクスに才能とケア労働を搾取された”父の娘”の壮絶な最後【毒家族に生まれて】]Elle, ハースト婦人画報社、2021/09/03 </ref>。[[1898年]][[3月31日]]に[[遺書]]を残して服毒自殺<ref name="Kapp, pp. 696-697">Kapp, ''Eleanor Marx: Volume 2,'' pp. 696-697.</ref>。 === 婚外子 === [[File:Helene Demuth.jpg|180px|thumb|マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドの{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}|左]] [[ファイル:Frederick Demuth-1.1.jpg|サムネイル|180px|マルクスとヘレーネの子とされるフレデリック。1921年]] ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていた{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた<ref name="シュワルツシルト(1950)88"/><ref name="カー(1956)121">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121</ref>。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205-211</ref>。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、[[里子]]に出されたが、1962年に発見された[[アムステルダム]]の「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった<ref name="ウィーン(2002)205">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205</ref>。 このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる<ref name="ウィーン(2002)209">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.209</ref>。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという<ref name="ウィーン(2002)206">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.206</ref>。 ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205/462</ref>。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる<ref>Wheen, Francis (1999). Karl Marx. Fourth Estate. pp. 170–176</ref> {{-}} == マルクスの著作 == [[File:Das Kapital.JPG|180px|thumb|1973年に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で出版された『[[資本論]]』]] *『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}』([[1840年]]) *『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』([[1842年]]) *『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』([[1843年]]) *『[[ユダヤ人問題によせて]]』([[1843年]]) *『[[経済学・哲学草稿]]』([[1844年]]) *『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』([[1844年]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]との共著) *『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』(1845年) *『[[ドイツ・イデオロギー]]』([[1845年]]、エンゲルスとの共著) *『[[哲学の貧困]]』(''La misère de la philosophie'')([[1847年]]) *『[[共産党宣言]]』([[1848年]]、エンゲルスとの共著) *『{{仮リンク|賃労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』([[1849年]]) *『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』([[1850年]]) *『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』([[1852年]]) *『[[経済学批判要綱]]』([[1858年]]) *『[[経済学批判]]』([[1859年]]) *『{{仮リンク|フォークト君よ|de|Herr Vogt}}』([[1860年]]) *『{{仮リンク|剰余価値理論|de|Theorien über den Mehrwert}}』([[1863年]]) *『[[賃金、価格、利潤]]』([[1865年]]) *『[[資本論]]』(1巻[[1867年]]、2巻[[1885年]]、3巻[[1894年]]。2巻と3巻はマルクスの遺稿をエンゲルスが編纂・出版) *『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』([[1871年]]) *『[[ゴータ綱領批判]]』([[1875年]]) *『{{仮リンク|労働者へのアンケート|de|Fragebogen für Arbeiter}}』([[1880年]]) *『{{仮リンク|ザスーリチへの手紙|de|Sassulitsch-Brief}}』([[1881年]]) {{-}} == マルクス像 == 東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には[[欧州委員会]]の[[ジャン=クロード・ユンケル]]委員長や[[ドイツ社会民主党]]の[[アンドレア・ナーレス]]党首などが出席したが<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-11|url= https://gendai.media/articles/-/55617?page=2|title= 中国がドイツに贈った「巨大マルクス像」が大論争を起こしたワケ|publisher= [[現代ビジネス]]|accessdate=2019-03-29}}</ref>、かつて[[ドイツ共産党]]の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-04|url= https://www.sankei.com/article/20180504-5YDZR5FTJFMLRBSMJFJ4FMS3EM/|title= マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」|publisher= [[産経デジタル|産経ニュース]]|accessdate=2019-10-16}}</ref>。 {{Gallery |lines=3 |File:Ulyanovsk pamyatnik K Marxu.jpg|[[ロシア]]・[[ウリヤノフスク]]にあるマルクス像 |File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{仮リンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}}) |File:Karl Marx memorial.jpg|東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・[[ケムニッツ]]) |File:Marx et Engels à Shanghai.jpg|マルクスとエンゲルスの像([[中華人民共和国]]・[[上海]]) |File:Karl-Marx-Statue in Trier Juni 2020.jpg|2018年に中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念してドイツ・トリーア市に贈呈されたマルクス像。 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 ==<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。 --> *{{Cite book|和書|title=ザ・ロスチャイルド|publisher=[[経営科学出版]]|year=|isbn=978-4905319474|author=林千勝|authorlink=林千勝|date=2021年(令和3年)|ref=林(2021)}} *{{Cite book|和書|author=ジャック・アタリ|authorlink=ジャック・アタリ|translator=[[的場昭弘]]||date=2014年|title=世界精神マルクス|publisher=[[藤原書店]]|ref={{harvid|[[アタリ]]|2014}}}} *{{Cite book|和書|author=石浜知行|authorlink=石浜知行|date =1931年(昭和6年)|title=マルクス伝|url={{NDLDC|1880408}}|series=偉人傳全集第6巻|publisher=[[改造社]]|ref=石浜(1931)}} *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}} *{{Cite book|和書|author=フランシス・ウィーン|translator=[[中山元]]|date=2007年(平成19年)|title=マルクスの『資本論』 (名著誕生)|publisher=[[ポプラ社]]|isbn=978-4591099124|ref=ウィーン(2007)}} *{{Cite book|和書|author=江上照彦|authorlink=江上照彦|date=1972年(昭和47年)|title=ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9G1V4|ref=江上(1972)}} *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}} *{{Cite book|和書|author=大内兵衛|authorlink=大内兵衛|date=1964年(昭和39年)|title=マルクス・エンゲルス小伝|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4004110668|ref=大内(1964)}} *{{Cite book|和書|author=太田恭二|authorlink=太田恭二|date =1930年(昭和5年)|title=マルクスとエンゲルスその生涯と学説|url={{NDLDC|1457632}}|publisher=[[紅玉堂書店]]|ref=太田(1930)}} *{{Cite book|和書|author=E・H・カー|authorlink=E・H・カー|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|asin=B000JB1AHC|ref=カー(1956)}} *{{Cite book|和書|author=鹿島茂|authorlink=鹿島茂|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 <small>第二帝政全史</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}} *{{Cite book|和書|author=コーリン・ガンブレル|authorlink=コーリン・ガンブレル|translator=[[湯浅赴男]]|series=リバー・ブックス|date=1989年(平成元年)|title=カール・マルクス|publisher=[[西村書店]]|isbn=978-4890131105|ref=ガンブレル(1989)}} *{{Cite book|和書|author=ハリンリヒ・グムコー,マルクス=レーニン主義研究所|year=1972 |translator=[[土屋保男]],[[松本洋子]]|title=フリードリヒ・エンゲルス 一伝記(上)、(下)|publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|グムコー|1972}}}} *{{Cite book|和書|author=小泉信三|authorlink=小泉信三|date=1967年(昭和42年)|title=小泉信三全集〈第7巻〉|publisher=[[文藝春秋]]|asin=B000JBGBO4|ref=小泉(1967)}} * {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator= 小原淳 | year = 2015a | title = マルクス ある十九世紀人の生涯 上| publisher = 白水社}} * {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=小原淳| year = 2015b | title = マルクス ある十九世紀人の生涯 下| publisher = 白水社}} *{{Cite book|和書|editor1=外川継男|editor1-link=外川継男|editor2=左近毅|editor2-link=左近毅|date=1973年(昭和48年)|title=バクーニン著作集 第6巻|publisher=[[白水社]]|asin=B000J9MY6U|ref=外川(1973)}} *{{Cite book|和書|author=小牧治|authorlink=小牧治|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}} *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}|translator=[[竜口直太郎]]|date =1950年(昭和25年)|title=人間マルクス|publisher=[[雄鶏社]]|asin=B000JAPR54|ref=シュワルツシルト(1950)}} *{{Cite book|和書|author=城塚登|authorlink=城塚登|date =1970年(昭和45年)|title=若きマルクスの思想|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000J9OBWA|ref=城塚(1970)}} *{{Cite book|和書|author=ロバート・L.ハイルブローナー|authorlink=ロバート・L.ハイルブローナー|translator=[[八木甫]]、[[浮田聡]]、[[堀岡治男]]、[[松原隆一郎]]、[[奥井智之]]|date =2001年(平成13年)|title=入門経済思想史 世俗の思想家たち|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480086655|ref=ハイルブローナー(2001)}} *{{Cite book|和書|author=アイザイア・バーリン|authorlink=アイザイア・バーリン|translator=[[倉塚平]]、[[小箕俊介]]|date =1974年(昭和49年)|title=カール・マルクス その生涯と環境|publisher=[[中央公論社]]|asin=B000J9G9Z2|ref=バーリン(1974)}} *{{Cite book|和書|author=アイザイア・バーリン|authorlink=アイザイア・バーリン|translator=[[谷福丸]]|editor1=福田歓一|editor1-link=福田歓一|editor2=河合秀和監修|editor2-link=河合秀和 (政治学者)|series=バーリン選集 1|date=1983年(平成5年)|title=思想と思想家|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000010009|ref=バーリン(1983)}} *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|トリストラム・ハント|en|Tristram Hunt}} |translator=[[東郷えりか]] |year=2016 |title=エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 |publisher=筑摩書房|ref={{harvid|ハント|2016}}}} *{{Cite book|和書|author=廣松渉|authorlink=廣松渉|date=2008年(平成20年)|title=青年マルクス論|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582766547|ref=廣松(2008)}} *{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|authorlink=フランツ・メーリング|translator=[[栗原佑]]|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝1|series=[[国民文庫]]440a|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J9D4WI|ref=メーリング(1974,1)}} *{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝2|series=国民文庫440b|publisher=大月書店|asin=B000J9D4W8|ref=メーリング(1974,2)}} *{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝3|series=国民文庫440c|publisher=大月書店|asin=B000J9D4VY|ref=メーリング(1974,3)}} *{{Citation|和書|title=カール・マルクス {{small|「資本主義」と闘った社会思想家}}|year=2016|last=佐々木|first=隆治|publisher=筑摩書房|isbn=978-4480068897}} *コーン、ノーマン 『千年王国の追求』紀伊國屋書店、1978年。千年王国論の明らかな歴史主義に就いて。 == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{wikisourcelang|de|Karl Marx|カール・マルクス}} {{Wikiquote|カール・マルクス}} * [[マルクス主義]]、[[マルクス経済学]] * [[共産党宣言]]、[[資本論]] * [[剰余価値]]、[[搾取]]、[[唯物弁証法]]、[[唯物史観]]、[[階級闘争]]、[[プロレタリア独裁]] * [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[弁証法]] * [[青年ヘーゲル派]]、[[ヘーゲル主義者の一覧]]、[[ブルーノ・バウアー]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]] * [[フリードリヒ・エンゲルス]] * [[フェルディナント・ラッサール]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]] * [[ミハイル・バクーニン]] * [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、[[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ゴータ綱領批判]] * [[ナポレオン3世]]、[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]] * [[共産主義者同盟]]、[[第一インターナショナル]]、[[パリ・コミューン]] * [[ロシア革命]]、[[ウラジーミル・レーニン]]、[[ボルシェヴィキ]] * [[マルクス主義関係の記事一覧]] * [[カール・マルクス・ホーフ]]、[[カール=マルクス=アレー]] * 『[[マルクス・エンゲルス]]』(2017年の映画。若年期のマルクスとエンゲルスを描いた映画) * 『[[アサシン クリード シンジケート]]』(2015年のゲームソフト。マルクスが登場する) == 外部リンク == * {{DDB|Person|118578537}} * {{青空文庫著作者|1138|マルクス カール・ハインリッヒ}} * {{Kotobank|マルクス(Karl Heinrich Marx)}} {{社会哲学と政治哲学}} {{共産主義}} {{大陸哲学}} {{経済学}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:まるくす かある}} [[Category:マルクス主義|**]] [[Category:19世紀ドイツの哲学者]] [[Category:19世紀の社会科学者]] [[Category:19世紀の経済学者]] [[Category:ドイツの政治哲学者]] [[Category:ドイツの哲学史家]] [[Category:ドイツの無神論活動家]] [[Category:ドイツの経済学者]] [[Category:ドイツの歴史学者]] [[Category:ドイツのジャーナリスト]] [[Category:ドイツの革命家]] [[Category:ドイツの亡命者]] [[Category:ハイゲイト墓地に埋葬されている人物]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:社会哲学者]] [[Category:歴史哲学者]] [[Category:法哲学者]] [[Category:無神論の哲学者]] [[Category:科学技術の哲学者]] [[Category:共産主義者]] [[Category:ドイツ社会主義の人物]] [[Category:イギリス社会主義の人物]] [[Category:フランス社会主義の人物]] [[Category:マルクス=エンゲルス|*まるくす]] [[Category:新聞編集者]] [[Category:マルクス経済学|*まるくす かる]] [[Category:ユダヤ系ドイツ人]] [[Category:ユダヤ人の後裔]] [[Category:ユダヤ人の哲学者]] [[Category:ユダヤ人の無神論者]] [[Category:無国籍の人物]] [[Category:ロシア革命]] [[Category:宗教と科学に関する著作家]] [[Category:ドイツの紙幣の人物]] [[Category:経済に関する人物]] [[Category:死刑廃止論者]] [[Category:ヴィクトリア朝の人物]] [[Category:1848年革命の人物]] [[Category:フリードリヒ・シラー大学イェーナ出身の人物]] [[Category:ベルリン大学出身の人物]] [[Category:ボン大学出身の人物]] [[Category:トリーア出身の人物]] [[Category:1818年生]] [[Category:1883年没]] [[Category:ドイツの反資本主義者]]
2003-09-07T05:52:31Z
2023-12-29T04:26:04Z
false
false
false
[ "Template:Main2", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:社会哲学と政治哲学", "Template:大陸哲学", "Template:Lang-en", "Template:Efn", "Template:Wikisourcelang", "Template:Wikiquote", "Template:DDB", "Template:Gallery", "Template:Notelist", "Template:See also", "Template:経済学", "Template:Cite journal", "Template:青空文庫著作者", "Template:Infobox 哲学者", "Template:Lang-de", "Template:Sfn", "Template:-", "Template:要出典範囲", "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:Good article", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:要ページ番号", "Template:共産主義", "Template:TOC limit", "Template:Quotation", "Template:Cite book", "Template:Citation" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9
15,510
ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン
ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン(ゲオルク・アウグストだいがくゲッティンゲン、英語: Georg August University of Göttingen、公用語表記: Georg-August-Universität Göttingen)は、ドイツニーダーザクセン州ゲッティンゲンに本部を置くドイツの公立大学。1737年創立、1737年大学設置。大学の略称はGAUGあるいはゲッティンゲン大学(ドイツ語Universität Göttingen; 英語University of Göttingen)。 1737年にハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト(英国王ジョージ2世)によって設立。創設者のゲオルク2世は、ハレ大学を見本とする科学尊重の大学として、この大学を設立した。法学、哲学、数学、物理学において伝統的に実績を有し、特に数学に関しては19世紀の中頃から20世紀の前半にかけて、フェリックス・クラインやダフィット・ヒルベルト、さらにはヘルマン・ミンコフスキーをはじめとする多くの有能な数学者が集まり、世界の研究の中心としての役割を果たした。 その後もヨーロッパにおける学術拠点としての機能を持ち続けたので、第二次世界大戦中はイギリスとドイツはケンブリッジとゲッティンゲンをお互いに爆撃しないという紳士協定を結んでいた。 現在では北ドイツ最大の州であるニーダーザクセン州を代表する大学で、南ドイツの大学がやや保守色が強いのに対して、地理的にもドイツ中央部に位置するためか、進歩色から中道寄りの校風である。1980年代には緑の党の拠点の一つでもあった。 本大学で博士号を取得した人物は(男性も女性も)ゲッティンゲン市庁舎前にあるガチョウ娘リーゼルの銅像にキスを贈るという風習がある。この風習は1926年にこれを禁止する条例が制定されたが、現在では伝統的行事として取り締まりは行われていない。2004年の放火事件によりリーゼル像は大きく破損したが、現在は元の姿に戻っている。 1837年にハノーファー王エルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件は「ゲッティンゲン七教授事件」(ゲッティンガー・ジーベン)として知られ、大学の自治権の歴史の中で特記すべきものである。7人の教授の中にはグリム兄弟や物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーも含まれ、その後、兄弟はベルリン大学に、ヴェーバーはライプツィヒ大学に移ることになる。その後ヴェーバーは1849年に復職した。(後にこれにちなんで、1960年代末アメリカ合衆国の大学でベトナム反戦運動の中でリーダー的存在となったトム・ヘイドン、アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンらが「シカゴ・セブン」と呼ばれた。) 現在まで45名のノーベル賞受賞者を輩出している。 上述のヴェーバー、グリム兄弟の他にも、数学ではガウス、ベルンハルト・リーマン、クラインの壺で知られるクライン、ヒルベルト、ゲルハルト・ゲンツェン、ヘルムート・ハッセ、ヘルマン・ワイル、哲学ではエドムント・フッサール、社会学ではヘルムート・プレスナー、物理学ではヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・プランク、法学ではルドルフ・フォン・イェーリング、神学ではカール・バルトといった著名な学者がここで教鞭を執った。 また、ロベルト・コッホやフリードリヒ・フレーベル、アルトゥル・ショーペンハウアー、ハインリヒ・ハイネ、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマー、アレクサンダー・フォン・フンボルト、ユルゲン・ハーバーマスなどもこの地で学んだ。数学者のクラインが同大学の教授時代、ヒルベルトを招聘したことでも知られる。 ドイツの有力政治家も数多く輩出している。鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク、第7代連邦首相ゲアハルト・シュレーダー、第6代連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーも本大学で学問を修めた。 日本人では齋藤恭司(数学者)、仁科芳雄(物理学者)、本多光太郎(金属工学者)、高木貞治(数学者)などが在籍していた。 札幌農学校初代教頭ウィリアム・スミス・クラークもここに留学しており、明治時代の日本人留学生はゲッティンゲンに「月沈原」という漢字を当てた。 主な出身者および教鞭を執った人物をアルファベット順に並べる。 A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T W Y Z
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン(ゲオルク・アウグストだいがくゲッティンゲン、英語: Georg August University of Göttingen、公用語表記: Georg-August-Universität Göttingen)は、ドイツニーダーザクセン州ゲッティンゲンに本部を置くドイツの公立大学。1737年創立、1737年大学設置。大学の略称はGAUGあるいはゲッティンゲン大学(ドイツ語Universität Göttingen; 英語University of Göttingen)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1737年にハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト(英国王ジョージ2世)によって設立。創設者のゲオルク2世は、ハレ大学を見本とする科学尊重の大学として、この大学を設立した。法学、哲学、数学、物理学において伝統的に実績を有し、特に数学に関しては19世紀の中頃から20世紀の前半にかけて、フェリックス・クラインやダフィット・ヒルベルト、さらにはヘルマン・ミンコフスキーをはじめとする多くの有能な数学者が集まり、世界の研究の中心としての役割を果たした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後もヨーロッパにおける学術拠点としての機能を持ち続けたので、第二次世界大戦中はイギリスとドイツはケンブリッジとゲッティンゲンをお互いに爆撃しないという紳士協定を結んでいた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在では北ドイツ最大の州であるニーダーザクセン州を代表する大学で、南ドイツの大学がやや保守色が強いのに対して、地理的にもドイツ中央部に位置するためか、進歩色から中道寄りの校風である。1980年代には緑の党の拠点の一つでもあった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "大学組織・教育体制" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本大学で博士号を取得した人物は(男性も女性も)ゲッティンゲン市庁舎前にあるガチョウ娘リーゼルの銅像にキスを贈るという風習がある。この風習は1926年にこれを禁止する条例が制定されたが、現在では伝統的行事として取り締まりは行われていない。2004年の放火事件によりリーゼル像は大きく破損したが、現在は元の姿に戻っている。", "title": "行事・関連事項" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1837年にハノーファー王エルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件は「ゲッティンゲン七教授事件」(ゲッティンガー・ジーベン)として知られ、大学の自治権の歴史の中で特記すべきものである。7人の教授の中にはグリム兄弟や物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーも含まれ、その後、兄弟はベルリン大学に、ヴェーバーはライプツィヒ大学に移ることになる。その後ヴェーバーは1849年に復職した。(後にこれにちなんで、1960年代末アメリカ合衆国の大学でベトナム反戦運動の中でリーダー的存在となったトム・ヘイドン、アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンらが「シカゴ・セブン」と呼ばれた。)", "title": "大学自治とゲッティンゲン七教授事件" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在まで45名のノーベル賞受賞者を輩出している。 上述のヴェーバー、グリム兄弟の他にも、数学ではガウス、ベルンハルト・リーマン、クラインの壺で知られるクライン、ヒルベルト、ゲルハルト・ゲンツェン、ヘルムート・ハッセ、ヘルマン・ワイル、哲学ではエドムント・フッサール、社会学ではヘルムート・プレスナー、物理学ではヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・プランク、法学ではルドルフ・フォン・イェーリング、神学ではカール・バルトといった著名な学者がここで教鞭を執った。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、ロベルト・コッホやフリードリヒ・フレーベル、アルトゥル・ショーペンハウアー、ハインリヒ・ハイネ、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマー、アレクサンダー・フォン・フンボルト、ユルゲン・ハーバーマスなどもこの地で学んだ。数学者のクラインが同大学の教授時代、ヒルベルトを招聘したことでも知られる。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ドイツの有力政治家も数多く輩出している。鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク、第7代連邦首相ゲアハルト・シュレーダー、第6代連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーも本大学で学問を修めた。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本人では齋藤恭司(数学者)、仁科芳雄(物理学者)、本多光太郎(金属工学者)、高木貞治(数学者)などが在籍していた。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "札幌農学校初代教頭ウィリアム・スミス・クラークもここに留学しており、明治時代の日本人留学生はゲッティンゲンに「月沈原」という漢字を当てた。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主な出身者および教鞭を執った人物をアルファベット順に並べる。", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "A", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "B", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "C", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "D", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "E", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "F", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "G", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "H", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "I", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "J", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "K", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "L", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "M", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "N", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "O", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "P", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Q", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "R", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "S", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "T", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "W", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Y", "title": "出身者" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "Z", "title": "出身者" } ]
ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンは、ドイツニーダーザクセン州ゲッティンゲンに本部を置くドイツの公立大学。1737年創立、1737年大学設置。大学の略称はGAUGあるいはゲッティンゲン大学。
{{出典の明記|date=2023年9月}} {{大学 | 国 = ドイツ | 大学名 = ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン | ふりがな = ゲオルク・アウグストだいがくゲッティンゲン | 英称 =Georg August University of Göttingen | 公用語表記 =Georg-August-Universität Göttingen | 大学の略称 = GAUGあるいはゲッティンゲン大学(ドイツ語Universität Göttingen; 英語University of Göttingen) | 画像 = | pxl= 250px | 画像説明 = | 大学設置年 = 1737年 | 創立年 = 1737年 | 学校種別 =公立 | 設置者 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト]] | 本部所在地 = [[ドイツ]][[ニーダーザクセン州]][[ゲッティンゲン]] | 緯度度 = |経度分 = | 地図国コード = | キャンパス = | 学部 = | 研究科 = | ウェブサイト = }} ==沿革== [[1737年]]に[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[選帝侯]]ゲオルク・アウグスト(英国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]])によって設立。創設者のゲオルク2世は、[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]を見本とする[[科学]]尊重の大学として、この大学を設立した。[[法学]]、[[哲学]]、[[数学]]、[[物理学]]において伝統的に実績を有し、特に数学に関しては[[19世紀]]の中頃から[[20世紀]]の前半にかけて、[[フェリックス・クライン]]や[[ダフィット・ヒルベルト]]、さらには[[ヘルマン・ミンコフスキー]]をはじめとする多くの有能な[[数学者]]が集まり、世界の研究の中心としての役割を果たした。 その後もヨーロッパにおける学術拠点としての機能を持ち続けたので、[[第二次世界大戦]]中は[[イギリス]]とドイツは[[ケンブリッジ]]とゲッティンゲンをお互いに[[空襲|爆撃]]しないという[[紳士協定]]を結んでいた。 現在では北ドイツ最大の州である[[ニーダーザクセン州]]を代表する大学で、南ドイツの大学がやや[[保守]]色が強いのに対して、地理的にもドイツ中央部に位置するためか、[[進歩主義 (政治)|進歩色]]から[[中道政治|中道]]寄りの[[校風]]である。[[1980年代]]には[[緑の党 (ドイツ)|緑の党]]の拠点の一つでもあった。 ==大学組織・教育体制== ==キャンパス・施設== *大学設立に先立つ[[1734年]]に設立された[[ニーダーザクセン州立兼大学図書館ゲッティンゲン|大学図書館]]は約350万冊の蔵書を誇り、世界に4冊しか現存していない[[グーテンベルク聖書]]、[[グリム兄弟]]の草稿、ヒルベルトの書簡など世界的に貴重な資料を保存している。 [[ファイル:SUB Göttingen.jpg|right|thumb|upright=1.2|ニーダーザクセン州立兼大学図書館ゲッティンゲン]] *1989年から発行されたドイツ連邦共和国の[[ドイツマルク|マルク]]紙幣第4シリーズの10マルク紙幣の表面には、[[カール・フリードリヒ・ガウス]]の肖像画の背景に本大学の校舎が描かれていた。 [[ファイル:10 DM Serie4 Vorderseite.jpg|right|thumb|10マルク紙幣の表面(1993年発行)]] [[ファイル:ISH WC GoettingenUni6.jpg|right|thumb|大学内の風景]] ==行事・関連事項== [[ファイル:Göttingen Gänseliesel März06.jpg|right|thumb|[[がちょう番の女|ガチョウ娘リーゼル]]の像。花は博士号取得者が贈ったもの]] 本大学で博士号を取得した人物は(男性も女性も)ゲッティンゲン市庁舎前にある[[がちょう番の女|ガチョウ娘リーゼル]]の銅像にキスを贈るという風習がある。この風習は1926年にこれを禁止する条例が制定されたが、現在では伝統的行事として取り締まりは行われていない。2004年の放火事件によりリーゼル像は大きく破損したが、現在は元の姿に戻っている。 ==大学自治とゲッティンゲン七教授事件== [[1837年]]にハノーファー王[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]の政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件は「[[ゲッティンゲン七教授事件]]」(ゲッティンガー・ジーベン)として知られ、大学の[[自治権]]の歴史の中で特記すべきものである。7人の教授の中にはグリム兄弟や物理学者[[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]も含まれ、その後、兄弟は[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に、ヴェーバーは[[ライプツィヒ大学]]に移ることになる。その後ヴェーバーは1849年に復職した。(後にこれにちなんで、[[1960年代]]末アメリカ合衆国の大学で[[ベトナム戦争#反戦運動|ベトナム反戦運動]]の中でリーダー的存在となった[[トム・ヘイドン]]、[[アビー・ホフマン]]、[[ジェリー・ルービン]]らが「[[シカゴ・セブン]]」と呼ばれた。) == 出身者 == 現在まで45名の[[ノーベル賞]]受賞者を輩出している。 上述のヴェーバー、グリム兄弟の他にも、数学ではガウス、[[ベルンハルト・リーマン]]、[[クラインの壺]]で知られるクライン、ヒルベルト、[[ゲルハルト・ゲンツェン]]、[[ヘルムート・ハッセ]]、[[ヘルマン・ワイル]]、哲学では[[エドムント・フッサール]]、社会学では[[ヘルムート・プレスナー]]、物理学では[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]、[[マックス・プランク]]、法学では[[ルドルフ・フォン・イェーリング]]、神学では[[カール・バルト]]といった著名な学者がここで教鞭を執った。 また、[[ロベルト・コッホ]]や[[フリードリヒ・フレーベル]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]、[[ハインリヒ・ハイネ]]、アメリカの物理学者[[ロバート・オッペンハイマー]]、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]、[[ユルゲン・ハーバーマス]]などもこの地で学んだ。数学者のクラインが同大学の教授時代、ヒルベルトを招聘したことでも知られる。 ドイツの有力政治家も数多く輩出している。鉄血宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]、第7代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]][[ゲアハルト・シュレーダー]]、第6代[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]][[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]も本大学で学問を修めた。 日本人では[[齋藤恭司]](数学者)、[[仁科芳雄]](物理学者)、[[本多光太郎]](金属工学者)、[[高木貞治]](数学者)などが在籍していた。 [[札幌農学校]]初代教頭[[ウィリアム・スミス・クラーク]]もここに留学しており、[[明治]]時代の日本人留学生はゲッティンゲンに「月沈原」という漢字を当てた。 === 主な出身者、教職員一覧 === 主な出身者および教鞭を執った人物をアルファベット順に並べる。 '''A''' * [[オテニオ・アーベル]] (Othenio Abel) [[古生物学|古生物学者]]。 * [[ナルツィス・アハ]] (Narziß Ach) [[心理学者]]。 * [[ゴットフリート・アヒェンヴァル]] (Gottfried Achenwall) [[哲学者]]、[[歴史学者]]、[[法律家]]。 * [[ヴィルヘルム・アッカーマン]] (Wilhelm Ackermann) [[数学者]]。 * [[ラインハルト・アールリヒス]] (Reinhart Ahlrichs) [[理論化学|理論化学者]]。 * [[フリードリッヒ・カール・アンドレアス|フリードリヒ・カール・アンドレアス]] (Friedrich Carl Andreas) [[イラン]]学者。 '''B''' * [[ジョージ・バンクロフト (歴史家)|ジョージ・バンクロフト]] (George Bancroft) 歴史家、政治家。 * [[カール・バルト]] (Karl Barth) [[神学者]]。 * [[ヴァルター・バウアー]] (Walter Bauer) 神学者。 * [[ヨハン・ベックマン]] (Johann Beckmann) [[経済学者]]、哲学者。 * [[オッコー・ベーレンツ]] (Okko Behrends) [[法学者]]。 * [[フリードリヒ・バイルシュタイン]] (Friedrich Beilstein) [[化学者]]。 * [[フリードリヒ・エドゥアルト・ベネケ]] (Friedrich Eduard Beneke) [[心理学者]]。 * [[カール・ベルクマン]] (Carl Bergmann) [[解剖学者]]、[[生理学者]]。 * [[オットー・フォン・ビスマルク]] (Otto von Bismarck) 政治家。[[ドイツ帝国]]首相。 * [[ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ]] (Johann Friedrich Blumenbach) [[動物学者]]、[[人類学者]]、解剖学者 * [[ヴィルヘルム・フォン・ボーデ]] (Wilhelm von Bode) [[美術史|美術史家]]。 * [[ディーター・ボーレン]] (Dieter Bohlen) [[音楽プロデューサー]] * [[オットー・フリードリッヒ・ボルノウ]] (Otto Friedrich Bollnow) [[理論物理学]]を学び、後に[[教育哲学|教育哲学者]]。 * [[マックス・ボルン]] (Max Born) 理論物理学者。1954年[[ノーベル物理学賞]]受賞者。 * [[フリードリヒ・ルーデヴィヒ・ボウターヴェック]] (Friedrich Ludewig Bouterweck) 哲学者、著述家。 * [[ハインリヒ・ブルクシュ]] (Heinrich Brugsch) [[エジプト学|エジプト学者]]。 * [[ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー]] (Gottfried August Bürger) [[詩人]]。 * [[アントン・フリードリヒ・ビュッシング]] (Anton Friedrich Büsching) 神学者、[[地理学者]]。 * [[アドルフ・ブーテナント]] (Adolf Butenandt) [[生化学者]]。1939年[[ノーベル化学賞]]受賞者。 '''C''' * [[モーリッツ・カントール]] (Moritz Cantor) [[数学史|数学史家]]。 * [[コンスタンティン・カラテオドリ]] (Constantin Carathéodory) 数学者。 * [[アロンゾ・チャーチ]] (Alonzo Church) 数学者、[[論理学者]]。 * [[カール・クラウス (動物学者)|カール・クラウス]] (Carl Claus) [[動物学者]]、解剖学者。 * [[アルフレート・クレープシュ]] (Alfred Clebsch) 数学者。 * [[リヒャルト・クーラント]] (Richard Courant) 数学者。 * [[エルンスト・クルティウス]] (Ernst Curtius) [[考古学者]]、古代史家。 *[[陳雲 (香港)|陳雲]](Chin Wan)[[作家]]、[[歴史学者]]。 '''D''' * [[フリードリヒ・クリストフ・ダールマン]] (Friedrich Christoph Dahlmann) 歴史学者。 * [[ピーター・デバイ]] (Peter Debye) 理論物理学者、化学者。1936年ノーベル化学賞受賞者。 * [[リヒャルト・デーデキント]] (Richard Dedekind) 数学者。 * [[マックス・デルブリュック]] (Max Delbrück) [[生物物理学|生物物理学者]]。1969年[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞者。 * [[ポール・ディラック]] (Paul Dirac) 理論物理学者。1933年[[ノーベル物理学賞]]受賞者。 * [[ペーター・グスタフ・ディリクレ]] (Peter Gustav Lejeune Dirichlet) 数学者。 * [[オスカー・ドルーデ]] (Oscar Drude) [[植物学者]]。 '''E''' * [[ゲオルク・エーバース]] (Georg Ebers) エジプト学者、[[作家]]。 * [[ヴィルヘルム・エープシュタイン]] (Wilhelm Ebstein) [[内科学|内科学者]]。 * [[ホルスト・エームケ]] (Horst Paul August Ehmke) [[法学者]]、政治家。連邦法務大臣、連邦研究・技術大臣、連邦郵政・通信大臣 * [[パウル・エールリヒ]] (Paul Ehrlich) [[細菌学|細菌学者]]。1908年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[ヨハン・ゴットフリート・アイヒホルン]] (Johann Gottfried Eichhorn) [[東洋学者]]、歴史学者。 * [[カール・フリードリヒ・アイヒホルン]] (Karl Friedrich Eichhorn) 法学者。 * [[マンフレート・アイゲン]] (Manfred Eigen) 生物物理学者。1967年ノーベル化学賞受賞者。 * [[ハインツ・エレンベルク]] (Heinz Ellenberg) [[生物学者]]、植物学者。 * [[ヴォルフ・フォン・エンゲルハート|ヴォルフ・フォン・エンゲルハルト]] (Wolf Jürgen von Engelhardt) [[鉱物学者]]。 * [[ヨハン・クリスティアン・エルクスレーベン]] (Johann Christian Erxleben) 生物学者。 * [[ルドルフ・クリストフ・オイケン|ルドルフ・オイケン]] (Rudolf Christoph Eucken) 哲学者。1908年[[ノーベル文学賞]]受賞者。 * [[ハインリヒ・エーヴァルト]] (Heinrich Ewald) 東洋学者、神学者。 '''F''' * [[ウィリアム・フェラー]] (William Feller) 数学者。 * [[エンリコ・フェルミ]] (Enrico Fermi) 物理学者。1938年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ルドルフ・フィッティヒ]] (Rudolph Fittig) 化学者。 * [[エドゥアルト・フレンケル]] (Eduard Fraenkel) [[文献学|古文献学者]]。 * [[ジェイムズ・フランク]] (James Franck) 物理学者。1925年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ヘルマン・フレンケル]] (Hermann Fränkel) 古文献学者。 * [[ゴットロープ・フレーゲ]] (Friedrich Frege) 哲学者、数学者、論理学者。 * [[ラーツァルス・インマヌエル・フックス]] (Lazarus Immanuel Fuchs) 数学者。 '''G''' * [[ジグマール・ガブリエル]] (Sigmar Gabriel) [[社会学者]]、政治家。ニーダーザクセン州首相、連邦環境・自然保護・原子力安全大臣。 * [[カール・フリードリヒ・ガウス]] (Carl Friedrich Gauß) 数学者、[[天文学者]]。 * [[ゲルハルト・ゲンツェン]] (Gerhard Gentzen) 数学者。 * [[ヨハン・マティアス・ゲスナー]] (Johann Matthias Gesner) 教育学者、哲学者。 * [[カール・ゲルデラー]] (Carl Friedrich Goerdeler) 反ナチス運動家。 * [[マリア・ゲッパート=メイヤー]] (Maria Göppert-Mayer) 物理学者。1963年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ゴッター]] (Friedrich Wilhelm Gotter) 作家。 * [[ヤーコプ・グリム]] (Jacob Grimm) [[言語学者]]、文学研究者、[[童話]]・[[民話]]編集者([[グリム兄弟]])。 * [[ヴィルヘルム・グリム]] (Wilhelm Grimm) 言語学者、文学研究者、童話・民話編集者([[グリム兄弟]])。 * [[アウグスト・グリーゼバッハ]] (August Grisebach) 植物学者。 * [[ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェント]] (Georg Friedrich Grotefend) 言語学者。古代研究家。 '''H''' * [[ハール・アルフレード]] (Haar Alfréd) 数学者。 * [[ユルゲン・ハーバーマス]] (Jürgen Habermas) 社会学者、哲学者。 * [[オットー・ハーン]] (Otto Hahn) 化学者。1944年ノーベル化学賞受賞者。 * [[アルブレヒト・フォン・ハラー]] (Albrecht von Haller) 解剖学者、[[外科学|外科学者]]、植物学者 * [[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク]] (Karl August von Hardenberg) [[プロイセン王国]]宰相。 * [[ニコライ・ハルトマン]] (Nicolai Hartmann) 哲学者。 * [[ヘルムート・ハッセ]] (Helmut Hasse) 数学者。 * クラウス・ハッセルマン(Klaus Hasselmann)海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞。 * [[ウォルター・ハース]] (Walter Norman Haworth) 化学者。1937年ノーベル化学賞受賞者。 * [[ハインリヒ・ハイネ]] (Heinrich Heine) 詩人、作家。 * [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]] (Werner Heisenberg) 物理学者。1932年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[カール・ヘンペル]] (Carl Gustav Hempel) [[科学哲学|科学哲学者]]。 * [[ゲルハルト・ヘルツベルク]] (Gerhard Herzberg) 化学者。1971年ノーベル化学賞受賞者。 * [[クリスティアン・ゴットロープ・ハイネ]] (Christian Gottlob Heyne) 哲学者、言語学者、考古学者。 * [[ダフィット・ヒルベルト|ダーフィト・ヒルベルト]] (David Hilbert) 数学者。 * [[ハインツ・ホップ]] (Heinz Hopf) 数学者。 * [[フリッツ・ハウターマンス]] (Fritz Houtermans) 物理学者。 * [[グスタフ・フォン・フーゴ]] (Gustav von Hugo) 法律家。 * [[アレクサンダー・フォン・フンボルト]] (Alexander von Humboldt) 数学者、物地学者、地理学者。 * [[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]] (Wilhelm von Humboldt) 言語学者、政治家。 * [[フリードリッヒ・フント]] (Friedrich Hund) 物理学者。 * [[エトムント・フッサール]] (Edmund Husserl) 哲学者、数学者。 '''I''' * [[エルンスト・イージング]] (Ernst Ising) 数学者。 '''J''' * [[ルドルフ・フォン・イェーリング]] (Rudolf von Jhering) 法学者。 '''K''' * [[アーブラハム・ゴットヘルフ・ケストナー]] (Abraham Gotthelf Kästner) 数学者。 * [[カール・フリードリヒ・キールマイヤー]] (Carl Friedrich Kielmeyer) 生物学者。 * [[フェリックス・クライン]] (Felix Klein) 数学者。 * [[クラウス・クラインフェルト]] (Klaus Kleinfeld) 実業家。[[シーメンス|ジーメンスAG]]代表。 * [[ロベルト・コッホ]] (Robert Koch) 細菌学者。1905年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[ヴォルフガング・ケーラー]] (Wolfgang Köhler) 心理学者。 * [[フリードリッヒ・コールラウシュ|フリードリヒ・コールラウシュ]] (Friedrich Kohlrausch) 物理学者。 * [[ヘルマン・コルベ]] (Hermann Kolbe) 化学者。 * [[カール・コルデヴァイ]] (Carl Koldewey) [[北極]]探検家。 * [[ヒンリヒ・ヴィルヘルム・コプフ]] (Hinrich Wilhelm Kopf) 政治家。ハノーファー州初代首相。 * [[ハンス・クレブス|ハンス・アドルフ・クレープス]] (Hans Adolf Krebs) 生化学者。1953年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[クリスティアン・グラーフ・フォン・クロッコフ]] (Christian Graf von Krockow) [[政治学者]]、歴史学者、著述家。 * [[ヴォルフガング・クルル]] (Wolfgang Krull) 数学者。 * [[クリスティーナ・キューンバウム=シュミット]] (Kristina Kühnbaum-Schmidt) [[北ドイツ福音ルター派教会]][[監督 (キリスト教)|監督]]。 '''L''' * [[エトムント・ランダウ]] (Edmund Landau) 数学者。 * [[アーヴィング・ラングミュア]] (Irving Langmuir) 物理化学者。1932年ノーベル化学賞受賞者。 * [[カール・ラーレンツ]] (Karl Larenz) 法学者。 * [[マックス・フォン・ラウエ]] (Max von Laue) 物理学者。1914年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー]] (Sabine Leutheusser-Schnarrenberger) 政治家。連邦法務大臣。 * [[ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク]] (Georg Christoph Lichtenberg) 物理学者、数学者、天文学者。 * [[ソーンダース・マックレーン]] (Saunders Mac Lane) 数学者。 * [[ベルンハルト・フォン・ランゲンベック]] (Bernhard von Langenbeck) 外科学者。 * [[ヘルマン・ロッツェ]] (Rudolf Hermann Lotze) 哲学者。 '''M''' * [[トビアス・マイヤー]] (Tobias Mayer) 数学者、地理学者。 * [[イリヤ・メチニコフ]] (Ilya Ilyich Mechnikov) [[微生物学|微生物学者]]、動物学者。1908年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[ヴィクトル・マイヤー]] (Viktor Meyer) 化学者。 * [[アンドレアス・マイヤー=ラントルート]] (Andreas Meyer-Landrut) [[外交官]]。 * [[ゲオルク・ミヒャエリス]] (Georg Michaelis) 政治家。ドイツ帝国首相。 * [[ヘルマン・ミンコフスキー]] (Hermann Minkowski) 数学者。 * [[水谷章]] (Akira Mizutani) 外交官。 * [[ジョン・モルガン]] (John Pierpont Morgan) [[投資家]]、[[銀行家]]。 * [[ヨハン・ローレンツ・フォン・モースハイム]] (Johann Lorenz von Mosheim) 神学者、[[教会史|教会史家]]。 * [[ジョン・ロスロップ・モトリー]] (John Lothrop Motley) 歴史家、外交官。 * [[ゲオルク・エリアス・ミュラー]] (Georg Elias Nathanael Müller) 心理学者。 * [[ハンフリート・ミュラー]] (Hanfried Müller) 神学者、[[組織神学|組織神学者]]。 * [[カール・オトフリート・ミュラー]] (Karl Otfried Müller) 古文献学者、考古学者。 * [[アドルフ・ムシュク]] (Adolf Muschg) 詩人、作家、文学研究家。 '''N''' * [[エルヴィン・ネーアー]] (Erwin Neher) 生物物理学者。1991年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[ヴァルター・ネルンスト]] (Walther Nernst) 物理化学者。1920年ノーベル化学賞受賞者。 * [[ジョン・フォン・ノイマン]] (John von Neumann) 数学者。 * [[エミー・ネーター]] (Emmy Noether) 数学者。 '''O''' * [[ハンス・フォン・オハイン]] (Hans von Ohain) 物理学者([[空気力学]])。[[ターボジェットエンジン]]の開発者。 * [[ラサ・オッペンハイム]] (Lassa Francis Lawrence Oppenheim) 法学者。 * [[ロバート・オッペンハイマー]] (Robert Oppenheimer) 物理学者。 * [[フランツ・オーヴァーベック]] (Franz Overbeck) 教会史家、神学者。 '''P''' * [[ヴォルフガング・パウリ]] (Wolfgang Pauli) 物理学者。1945年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[カール・ペータース]] (Karl Peters) アフリカ探検家。 * [[ヴィルヘルム・ペッファー]] (Wilhelm Pfeffer) 植物学者。 * [[マックス・プランク]] (Max Planck) 物理学者。1918年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ヘルムート・プレスナー]] (Helmuth Plessner) 哲学者、社会学者。 * [[ルートヴィヒ・プラントル]] (Ludwig Prandtl) 物理学者。 * [[フーゴー・プロイス|フーゴ・プロイス]] (Hugo Preuß) 法学者。 '''Q''' * [[ルートヴィッヒ・クヴィデ]] (Ludwig Quidde) 歴史学者。1927年[[ノーベル平和賞]]受賞者。 '''R''' * [[リヒャルト・ラード]] (Richard Rado) 数学者。 * [[ヨハン・ラドン]] (Johann Radon) 数学者。 * [[クルト・ライデマイスター]] (Kurt Reidemeister) 数学者。 * [[セオドア・リチャーズ]] (Theodore William Richards) 物理化学者。1914年ノーベル化学賞受賞者。 * [[ベルンハルト・リーマン]] (Bernhard Riemann) 数学者。 * [[リース・フリジェシュ]] (Riesz Frigyes) 数学者。 * [[ヴァルター・リッツ]] (Walter Ritz) 数学者。 * [[クラウス・ロキシン]] (Claus Roxin) 法学者。 * [[カール・ルンゲ]] (Carl Runge) 数学者。 '''S''' * [[齋藤恭司]] 京都大学数理解析研究所元所長 * [[ベルト・ザクマン]] (Bert Sakmann) 細胞生理学者。1991年ノーベル生理学・医学賞受賞者。 * [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]] (Friedrich Carl von Savigny) 法学者。 * [[アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・シュレーツァー]] (August Ludwig von Schlözer) 歴史家、教育者、哲学者、[[統計学|統計学者]]。 * [[エツァルト・シュミット=ヨルツィヒ]] (Edzard Schmidt-Jortzig) 法学者。 * [[アルトゥール・モリッツ・シェーンフリース]] (Arthur Moritz Schoenflies) 数学者。 * [[ゲアハルト・シュレーダー]] (Gerhard Schröder) 政治家。[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ連邦首相]]。 * [[ヨハン・シュレーター]] (Johann Hieronymus Schroter) 法律家。後に天文学者。 * [[ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ]] (Hermann Amandus Schwarz) 数学者。 * [[カール・シュヴァルツシルト]] (Karl Schwarzschild) 天文学者、天体物理学者。 * [[アルトゥル・ショーペンハウアー]] (Arthur Schopenhauer) 哲学者。 * [[クルト・ゼーテ]] (Kurt Sethe) エジプト学者。 * [[カール・ジーゲル]] (Carl Ludwig Siegel) 数学者。 * [[アダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ]] (Adam von Trott zu Solz) 外交官。反ナチス運動家。 * [[アルノルト・ゾンマーフェルト]] (Arnold Sommerfeld) 数学者、理論物理学者。 * [[クリスティアン・シュテーブライン]] (Christian Stäblein) [[福音主義教会]][[監督 (キリスト教)|監督]]、[[実践神学|実践神学者]]。 * [[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]] (Heinrich Friedrich Karl vom Stein) 政治家。 * [[オットー・シュテルン]] (Otto Stern) 物理学者。1943年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[カール・シュトゥンプ]] (Carl Stumpf) 哲学者、心理学者。 * [[リタ・ジュスムート]] (Rita Süssmuth) 政治家。[[ドイツ連邦議会]]議長。 '''T''' * [[グスタフ・タンマン]] (Gustav Tammann) [[無機化学|無機化学者]]、物理化学者。 * [[エドワード・テラー]] (Edward Teller) 物理学者。 * [[バッサム・ティビ]] (Bassam Tibi) 政治学者。 * [[オットー・テプリッツ]] (Otto Toeplitz) 数学者。 * [[ヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネン|ヨハン・ハインリッヒ・フォン・チューネン]] (Johann Heinrich von Thünen) 農業経済学者。『孤立国』で有名。 '''W''' * [[バルテル・レーンデルト・ヴァン・デア・ヴェルデン]] (Bartel Leendert van der Waerden) 数学者。 * [[ゲオルク・ヴァイツ]] (Georg Waitz) [[法制史|法制史学者]]、中世研究家。 * [[オットー・ヴァラッハ]] (Otto Wallach) 化学者。1910年ノーベル化学賞受賞者。 * [[マックス・ヴェーバー]] (Max Weber) 社会学者、経済学者。 * [[ヴィルヘルム・ヴェーバー]] (Wilhelm Weber) 物理学者。 * [[アンドレ・ヴェイユ]] (André Weil) 数学者。 * [[ユリウス・ワイスバッハ|ユリウス・ヴァイスバッハ]] (Julius Ludwig Weisbach) 数学者。 * [[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]] (Richard von Weizsäcker) 政治家。西ベルリン市長、[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]。 * [[ユリウス・ヴェルハウゼン]] (Julius Wellhausen) 神学者、[[聖書学|聖書学者]]、東洋学者、言語学者。 * [[ヘルマン・ワイル|ヘルマン・ヴァイル]] (Hermann Weyl) 数学者。 * [[エミール・ヴィーヘルト]] (Emil Wiechert) [[地球物理学|地球物理学者]]。 * [[マクシミリアン・ツー・ヴィート=ノイヴィート]] (Maximilian zu Wied-Neuwied) [[博物学者]]。 * [[ヴィルヘルム・ヴィーン]] (Wilhelm Wien) 物理学者。1911年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ノーバート・ウィーナー]] (Norbert Wiener) 数学者。 * [[ユージン・ウィグナー]] (Eugene Paul Wigner) 物理学者。1963年ノーベル物理学賞受賞者。 * [[ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ]] (Ulrich von Wilamowitz-Moellendorff) 文献学者。 * [[アドルフ・ヴィンダウス]] (Adolf Windaus) 化学者。1928年ノーベル化学賞受賞者。 * [[フリードリヒ・ヴェーラー]] (Friedrich Wöhler) 化学者。 '''Y''' * [[トマス・ヤング]] (Thomas Young) 医師。後に物理学に転じ、物理学者となった。 '''Z''' * [[エルンスト・ツェルメロ]] (Ernst Zermelo) 数学者。 * [[朱徳]] (Zhu De) 政治家。 * [[リヒャルト・ジグモンディ]] (Richard Zsigmondy) 化学者。1925年ノーベル化学賞受賞者。 <!-- == 脚注 == <references />--> == 関連項目 == {{Div col}} * [[ドイツ・メルヘン街道]] * [[がちょう番の女]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Commons&cat}} * {{official}}{{de icon}} * {{kotobank|ゲッティンゲン大学}} {{WikidataCoord}} {{コインブラ・グループ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けおるくあうくすとたいかくけつていんけん}} [[Category:ニーダーザクセンの大学]] [[Category:ゲッティンゲン]] [[Category:1737年設立]] [[Category:ジョージ2世]] [[Category:ゲッティンゲン大学|*]]
2003-09-07T06:07:31Z
2023-09-19T15:33:52Z
false
false
false
[ "Template:Commons&cat", "Template:De icon", "Template:Kotobank", "Template:WikidataCoord", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Div col", "Template:Official", "Template:コインブラ・グループ", "Template:大学", "Template:Div col end" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3
15,512
司馬遷
司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。 遠い部分の信憑性には疑問が残るが、父の司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる。司馬昌の子は司馬無沢(しばむえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。 このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職 を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。 司馬遷は、一族代々の墓があった内史(後の左馮翊)夏陽県竜門(現在の陝西省渭南市韓城市芝川鎮)で生まれた。彼はそこで10歳になる前まで過ごし、農耕や牧畜など を通じて壮健な身体を育んだ。9歳になる頃までには家塾での勉学を始めた。 10歳の時には「古文(尚書)を誦んじた」という。『尚書』(『書経』)を学んだ師である孔安国 は当時侍中の任にあったことから、司馬遷は長安へ移っていたと考えられる。さらに董仲舒らにも師事し、歴史書『春秋』は政治の根本原理を体現したものだと主張する公羊学派の影響を受けた。 司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および中原を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている。最初に江淮(現在の江蘇省と安徽省北部)へ行き、韓信が建てた母の墓を訪ねた。次に江西の廬山から禹が疏いた九江を見物し、さらに浙江省の会稽山に登り、禹が入ったと伝わる洞窟(禹穴)を探検したりした。この後、彼は湘江に沿って長沙に向かった。そこで屈原が身を投げた汨羅江を見て、また当地で不遇を託った賈誼へ思いを馳せた。 東南方向の旅で楚の文化に触れた後、司馬遷は北に向かい、闔閭と夫差ゆかりの姑蘇・五湖を訪れ、さらに儒家発展の地である斉と魯へ赴いた。魯の滞在は長期に亘ったと思われる。その後はいずれも山東省南部と江蘇省北部に当たる鄱、孟嘗君ゆかりの薛、彭城(徐州市)を訪れた。彭城の北には豊・沛の地があり、司馬遷はそこまで足を伸ばして蕭何・曹参・樊噲・夏侯嬰(滕公)の生家を見物し、彼らの話を聞いた。 その後、河南地方(開封・徐州)へ向かった。開封は大梁と呼ばれた魏の首府だった地であり、土地の人から秦の攻撃で陥落した様子を伺い、信陵君を訪ねた。。徐州は戦国時代末期の楚の土地であり、ここで壮大な春申君の古城や宮室を見物した。河南を後にした司馬遷は西に向かったと思われ、許由ゆかりの箕山に登った。 この旅がいつ終わったのかははっきりしない。旅から戻った3年後の22歳頃、司馬遷は郎中に任命される。これは定常業務を持たないが勅命の使者や天子巡遊に従うなど、皇帝の侍従を担う仕事を行った。当時、郎中になるには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせるか、もしくは優秀な人物が試験を経て採用されるかの二つの方法があった。父・談の官位は600石であったため、司馬遷は後者の道筋で登用されたと考えられる 彼が仕える武帝は生涯において何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も多くに付き従った。元鼎5年(前112年)、武帝は秦の徳公が居城とした雍で五帝を祀り、黄帝も登ったという崆峒を訪れ、さらに西の会寧へ至った。翌年には巴・蜀・滇などの西南巡遊に随行し、昆明まで至った。この時の奉使は、後に「西南夷列傳」に纏められた。 元封元年(前110年)、武帝は封禅の儀式に向けた準備に取り掛かり、武威を示す18万の騎兵を各地に派遣した。この軍団が洛陽に到着した際、付き従っていた父・司馬談が病に倒れた。西南奉使から戻った司馬遷は洛陽に向かった。 死の床にあり、司馬談は先祖の事業が道半ばで去らねばならないことを嘆き、司馬遷へ引き継ぐよう命じた。そして、周公旦が定めた礼楽が衰えた際に孔子が現れ『詩』『書』『春秋』を著したが、400年以上が経過した今はまた事績の記録が荒んでいると指摘した。父は子に第二の孔子となれと言い残し、息を引き取った。 父の後を受け、司馬遷は封禅の儀式に加わった。緱氏と嵩山の祭祀に間に合ったかどうかはわからないが、泰山での封禅には参加し、その大典の内容を「封禪書」に纏めた。この奉使において司馬遷は斉の地を訪れ、その国の気風 や、斉人らの情報を得た。その後、封禅の行列は北方を巡幸し、遼寧・河北そして内蒙古の五原へ至った。五所は秦の時代に整備された「直道」の北端に当たり、ここで司馬遷は蒙恬が築いた要塞などを眼にした。 元封2年(前109年)も武帝は各地を巡り、山東半島や泰山を訪れた。この年、瓠子という場所で黄河が決壊を起こしたため、武帝は百官に薪を背負わせて向かい修復工事を行った。司馬遷もこれに付随し、後に「河渠書」を書かせる体験を得た。 父の死から3年後の元封3年(前108年)、司馬遷は太史令の官職を継承した。彼の才能は高く買われており、父も亡くなる際に「太史に任命される」と述べていたが、3年は喪に服す期間として置かれた。彼は就任するや、友人らに政治への参加を勧めた。その中の一人・摯峻と交わした手紙が残っている。司馬遷は君子最上の生き方は徳を立てる事であり、その実現のために君主への働きかけをすべきと説く。摯峻は有能な者が取り上げられる時代が来たが、私は気楽に過ごしたいと返答し誘いに応じなかった。この当時、司馬遷は血気盛んであり、任安への手紙にて、私的な事は省みず職務に専念し武帝の期待に応えると考えていたと述べている。 実際、太史令となった彼は多くの書籍・文書に触れることを仕事とし、豊富な知識をさらに収集した。一方で元封4年(前107年)、5年(前106年)の武帝巡遊にも従い、各地を廻った。 太初元年(前104年)、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は太初暦の制定であり、後者は『史記』執筆に着手したことである。太初暦は、年初を夏の暦である春正月に固定し、二十四節気を取り入れる ことで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国における時間感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており、主導的役割を果たしたと考えられる。 司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」 を実現するものでもあった。 そして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた。彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ。 前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり、将軍李広利(武帝の寵妃であった李夫人の兄)による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は匈奴に眼が向けられた。匈奴の且鞮侯単于は当初こそ従順な態度を見せた。しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。天漢二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで李陵が単独行動を願い出た。結果的に武帝は彼と配下5000の歩兵出陣を許し、李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。しかし、3万を超える敵軍と遭遇し包囲されてしまい、彼は激しい戦いを繰りながら退却を続けた。匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついには投降の道を選んだ。 武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した。 司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた。 しかしこれは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止めた。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。 だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報 がもたらされ、事態は一変した。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑(腐刑)が処された。 この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う腐刑は最低なものだと言った。そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。 『漢書』では、司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・景帝を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという。しかしこの説には確証は無い。 牢獄に繋がれてから4年後の太始元年(前96年)6月、大赦によって司馬遷は釈放された。そして彼には中書令の任が下った。宮中の文書を扱い、皇帝に奏上する文書、また逆に皇帝の詔を接受する中書令は、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。 『史記』の執筆に取り組みながら、太始二年(前95年)からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。太始四年(前93年)に泰山から戻った司馬遷は、任安から受け取っていた手紙の返書(『報任少卿書』)を書いた。任安の手紙とは、高い地位にあるにもかかわらず司馬遷が有能な人物を推挙していないことを責めたものだった。かつて太史令に着任した頃は人材発掘を行っていた司馬遷だったが、この時には五体を欠く身となった自分にはその資格が無いと断った。続けて彼は、自分の考えを述べた。 この手紙の中で、司馬遷は『史記』をおよそ130篇と述べている。『史記』の中で司馬遷自身の筆と考えられる最も遅い出来事の記述は、征和3年(前90年)に李広利が匈奴に降伏した戦いであった。また「太史公自序」にて、約130篇536,500字の『史記』を名山に蔵し、副本を京師に置いたとある。これらの点から、任安への返書を書いた時にはほぼ形になっていたが、『史記』が完成したのはその4年後の前90年であり、字数を記し、本書と写しのみに纏めた上で筆を置いたと考えられる。 『史記』完成後、司馬遷がいつまで、どのように生きたかははっきりしていない。王国維は『観堂集林』にて、司馬遷の死は武帝の崩御(前87年)前後ではないかと記した。 司馬遷は20歳から各地を巡る旅を始め、役人に登用されてからも武帝に従って様々な地を訪れた。この旅行は漢のほぼ全土を網羅し、四川中部や雲南など当時は未開と言える場所にまで至っている。そしてこれは放浪などではなく、彼は各地を丁寧に見て廻り、資料を調べ、古老など様々な人々の話を聞いた。これら積み重ねた調査は『史記』に反映された。いわば彼は著述家以前に、大旅行家であり探検家でもあった。 しかし、この旅は紀行文や風土記のような形には纏められなかった。司馬遷が筆を執った目的は歴史記述であり、そのために個人の直接的な観察はその中へ消化されてしまった。また、特定の歴史的事件を土地の環境から記すこともしなかった。 父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸(「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。 そして司馬遷と孔子の間には、「利を求めず、時流に迎合しない」という共通の性質が見て取れる。『史記』「孔子世家」では、孔子一行が旅先で苦難にあった時、弟子の子路と子貢がもっと妥協して仕官されるようすべきと進言したがこれを跳ね除け、用いられないのは為政者の落ち度であり、信念を貫くべきという顔淵の言葉に大いに賛同する場面がある。司馬遷が貫いた信念とは「中立的立場から歴史の必然を見る」 または「大所から鑑定・選別・判断を行う、いわゆる「識」を発揮する」 点にあったという意見がある。李陵の禍では、彼は妥協を良しとせず、罰が自らに及ぶ可能性がありながら、李陵の評価をこの視点から述べた。『報任少卿書』も、武帝と皇太子が争った際に中立を守った任安に共感して書かれたとも言う。 孔子を高く評価する司馬遷は、『史記』において本来世襲された系譜を記す「世家」の中に、その原則に反して「孔子世家」を書いた。彼は、家系的繋がりと同様に思想の繋がりを重視し、孔子を「世家」に含めた。 しかし、必ずしもその論を無批判で受け入れたわけではない。『史記』は孔子が『春秋』を書いた際に基準とした大義名分に則らず、事実を重視する態度を貫いている。「伯夷列伝」の中で、司馬遷は『春秋』に記されていない人物・許由と務光を実在したと認めている。また、餓死した伯夷・叔斉についても孔子が「怨みがなかった」と論じたのに対し、司馬遷は「怨みがあった」と異なる見解を記した。 司馬遷から1世紀ほど後の文人揚雄は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。司馬貞も『史記索隠』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない法家の韓非にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す。 司馬遷が最も「奇」を見出した人物が項羽と李広であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は劉邦に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている。 司馬遷の生年については複数の説がある。その中でも、景帝中元五年(前145年)と建元六年(前135年)の二説が有力であり、これらはいずれも『史記』「太史公自序」14条の「卒三歲而遷為太史令,(中略)。五年而當太初元年(父の死から3年後に太史令となり、)」 という箇所に、唐代につけられた註釈が元になっている。司馬貞『史記索隠』は「卒三歲而遷為太史令」の箇所に「司馬、年28、3年6月乙卯、600石の除せられる」と記した。張守節『史記正義』は「五年而當太初元年」の箇所に「按ずるに、司馬遷は、年42歳也」と記した。司馬談の死は元封元年(前110年)であるから、その3年後に28歳という『索隠』によれば、生年は前135年となる。一方、太初元年は前104年であり、42歳と註された『正義』によれば、生年は前145年となる。 李長之は以下の点を示して、前135年説を支持した。 司馬遷の生地である陝西省韓城市では紀元前145年生誕説を採り、2010年に民間伝承で伝わる誕生日の旧暦2月9日に、生誕2155年記念行事を執り行った。 司馬遷の没年も明瞭ではない。『史記』に記述された最も遅い事件の頃には生きていたと考えがちだが、同記には後年の補筆が多い。ひとつの考察として武帝をどのように表しているかという点から検討が可能である。『封禪書』で司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味の「今上」と表記している。「武帝」と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後年に加えられた可能性を否定できないが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにくい箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死後、諡号が贈られた時には生きていたと考えられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "遠い部分の信憑性には疑問が残るが、父の司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる。司馬昌の子は司馬無沢(しばむえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職 を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "司馬遷は、一族代々の墓があった内史(後の左馮翊)夏陽県竜門(現在の陝西省渭南市韓城市芝川鎮)で生まれた。彼はそこで10歳になる前まで過ごし、農耕や牧畜など を通じて壮健な身体を育んだ。9歳になる頃までには家塾での勉学を始めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "10歳の時には「古文(尚書)を誦んじた」という。『尚書』(『書経』)を学んだ師である孔安国 は当時侍中の任にあったことから、司馬遷は長安へ移っていたと考えられる。さらに董仲舒らにも師事し、歴史書『春秋』は政治の根本原理を体現したものだと主張する公羊学派の影響を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および中原を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている。最初に江淮(現在の江蘇省と安徽省北部)へ行き、韓信が建てた母の墓を訪ねた。次に江西の廬山から禹が疏いた九江を見物し、さらに浙江省の会稽山に登り、禹が入ったと伝わる洞窟(禹穴)を探検したりした。この後、彼は湘江に沿って長沙に向かった。そこで屈原が身を投げた汨羅江を見て、また当地で不遇を託った賈誼へ思いを馳せた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東南方向の旅で楚の文化に触れた後、司馬遷は北に向かい、闔閭と夫差ゆかりの姑蘇・五湖を訪れ、さらに儒家発展の地である斉と魯へ赴いた。魯の滞在は長期に亘ったと思われる。その後はいずれも山東省南部と江蘇省北部に当たる鄱、孟嘗君ゆかりの薛、彭城(徐州市)を訪れた。彭城の北には豊・沛の地があり、司馬遷はそこまで足を伸ばして蕭何・曹参・樊噲・夏侯嬰(滕公)の生家を見物し、彼らの話を聞いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後、河南地方(開封・徐州)へ向かった。開封は大梁と呼ばれた魏の首府だった地であり、土地の人から秦の攻撃で陥落した様子を伺い、信陵君を訪ねた。。徐州は戦国時代末期の楚の土地であり、ここで壮大な春申君の古城や宮室を見物した。河南を後にした司馬遷は西に向かったと思われ、許由ゆかりの箕山に登った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この旅がいつ終わったのかははっきりしない。旅から戻った3年後の22歳頃、司馬遷は郎中に任命される。これは定常業務を持たないが勅命の使者や天子巡遊に従うなど、皇帝の侍従を担う仕事を行った。当時、郎中になるには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせるか、もしくは優秀な人物が試験を経て採用されるかの二つの方法があった。父・談の官位は600石であったため、司馬遷は後者の道筋で登用されたと考えられる", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "彼が仕える武帝は生涯において何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も多くに付き従った。元鼎5年(前112年)、武帝は秦の徳公が居城とした雍で五帝を祀り、黄帝も登ったという崆峒を訪れ、さらに西の会寧へ至った。翌年には巴・蜀・滇などの西南巡遊に随行し、昆明まで至った。この時の奉使は、後に「西南夷列傳」に纏められた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元封元年(前110年)、武帝は封禅の儀式に向けた準備に取り掛かり、武威を示す18万の騎兵を各地に派遣した。この軍団が洛陽に到着した際、付き従っていた父・司馬談が病に倒れた。西南奉使から戻った司馬遷は洛陽に向かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "死の床にあり、司馬談は先祖の事業が道半ばで去らねばならないことを嘆き、司馬遷へ引き継ぐよう命じた。そして、周公旦が定めた礼楽が衰えた際に孔子が現れ『詩』『書』『春秋』を著したが、400年以上が経過した今はまた事績の記録が荒んでいると指摘した。父は子に第二の孔子となれと言い残し、息を引き取った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "父の後を受け、司馬遷は封禅の儀式に加わった。緱氏と嵩山の祭祀に間に合ったかどうかはわからないが、泰山での封禅には参加し、その大典の内容を「封禪書」に纏めた。この奉使において司馬遷は斉の地を訪れ、その国の気風 や、斉人らの情報を得た。その後、封禅の行列は北方を巡幸し、遼寧・河北そして内蒙古の五原へ至った。五所は秦の時代に整備された「直道」の北端に当たり、ここで司馬遷は蒙恬が築いた要塞などを眼にした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "元封2年(前109年)も武帝は各地を巡り、山東半島や泰山を訪れた。この年、瓠子という場所で黄河が決壊を起こしたため、武帝は百官に薪を背負わせて向かい修復工事を行った。司馬遷もこれに付随し、後に「河渠書」を書かせる体験を得た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "父の死から3年後の元封3年(前108年)、司馬遷は太史令の官職を継承した。彼の才能は高く買われており、父も亡くなる際に「太史に任命される」と述べていたが、3年は喪に服す期間として置かれた。彼は就任するや、友人らに政治への参加を勧めた。その中の一人・摯峻と交わした手紙が残っている。司馬遷は君子最上の生き方は徳を立てる事であり、その実現のために君主への働きかけをすべきと説く。摯峻は有能な者が取り上げられる時代が来たが、私は気楽に過ごしたいと返答し誘いに応じなかった。この当時、司馬遷は血気盛んであり、任安への手紙にて、私的な事は省みず職務に専念し武帝の期待に応えると考えていたと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "実際、太史令となった彼は多くの書籍・文書に触れることを仕事とし、豊富な知識をさらに収集した。一方で元封4年(前107年)、5年(前106年)の武帝巡遊にも従い、各地を廻った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "太初元年(前104年)、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は太初暦の制定であり、後者は『史記』執筆に着手したことである。太初暦は、年初を夏の暦である春正月に固定し、二十四節気を取り入れる ことで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国における時間感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており、主導的役割を果たしたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」 を実現するものでもあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた。彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり、将軍李広利(武帝の寵妃であった李夫人の兄)による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は匈奴に眼が向けられた。匈奴の且鞮侯単于は当初こそ従順な態度を見せた。しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。天漢二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで李陵が単独行動を願い出た。結果的に武帝は彼と配下5000の歩兵出陣を許し、李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。しかし、3万を超える敵軍と遭遇し包囲されてしまい、彼は激しい戦いを繰りながら退却を続けた。匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついには投降の道を選んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかしこれは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止めた。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報 がもたらされ、事態は一変した。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑(腐刑)が処された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う腐刑は最低なものだと言った。そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『漢書』では、司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・景帝を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという。しかしこの説には確証は無い。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "牢獄に繋がれてから4年後の太始元年(前96年)6月、大赦によって司馬遷は釈放された。そして彼には中書令の任が下った。宮中の文書を扱い、皇帝に奏上する文書、また逆に皇帝の詔を接受する中書令は、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『史記』の執筆に取り組みながら、太始二年(前95年)からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。太始四年(前93年)に泰山から戻った司馬遷は、任安から受け取っていた手紙の返書(『報任少卿書』)を書いた。任安の手紙とは、高い地位にあるにもかかわらず司馬遷が有能な人物を推挙していないことを責めたものだった。かつて太史令に着任した頃は人材発掘を行っていた司馬遷だったが、この時には五体を欠く身となった自分にはその資格が無いと断った。続けて彼は、自分の考えを述べた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この手紙の中で、司馬遷は『史記』をおよそ130篇と述べている。『史記』の中で司馬遷自身の筆と考えられる最も遅い出来事の記述は、征和3年(前90年)に李広利が匈奴に降伏した戦いであった。また「太史公自序」にて、約130篇536,500字の『史記』を名山に蔵し、副本を京師に置いたとある。これらの点から、任安への返書を書いた時にはほぼ形になっていたが、『史記』が完成したのはその4年後の前90年であり、字数を記し、本書と写しのみに纏めた上で筆を置いたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『史記』完成後、司馬遷がいつまで、どのように生きたかははっきりしていない。王国維は『観堂集林』にて、司馬遷の死は武帝の崩御(前87年)前後ではないかと記した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "司馬遷は20歳から各地を巡る旅を始め、役人に登用されてからも武帝に従って様々な地を訪れた。この旅行は漢のほぼ全土を網羅し、四川中部や雲南など当時は未開と言える場所にまで至っている。そしてこれは放浪などではなく、彼は各地を丁寧に見て廻り、資料を調べ、古老など様々な人々の話を聞いた。これら積み重ねた調査は『史記』に反映された。いわば彼は著述家以前に、大旅行家であり探検家でもあった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、この旅は紀行文や風土記のような形には纏められなかった。司馬遷が筆を執った目的は歴史記述であり、そのために個人の直接的な観察はその中へ消化されてしまった。また、特定の歴史的事件を土地の環境から記すこともしなかった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸(「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "そして司馬遷と孔子の間には、「利を求めず、時流に迎合しない」という共通の性質が見て取れる。『史記』「孔子世家」では、孔子一行が旅先で苦難にあった時、弟子の子路と子貢がもっと妥協して仕官されるようすべきと進言したがこれを跳ね除け、用いられないのは為政者の落ち度であり、信念を貫くべきという顔淵の言葉に大いに賛同する場面がある。司馬遷が貫いた信念とは「中立的立場から歴史の必然を見る」 または「大所から鑑定・選別・判断を行う、いわゆる「識」を発揮する」 点にあったという意見がある。李陵の禍では、彼は妥協を良しとせず、罰が自らに及ぶ可能性がありながら、李陵の評価をこの視点から述べた。『報任少卿書』も、武帝と皇太子が争った際に中立を守った任安に共感して書かれたとも言う。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "孔子を高く評価する司馬遷は、『史記』において本来世襲された系譜を記す「世家」の中に、その原則に反して「孔子世家」を書いた。彼は、家系的繋がりと同様に思想の繋がりを重視し、孔子を「世家」に含めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、必ずしもその論を無批判で受け入れたわけではない。『史記』は孔子が『春秋』を書いた際に基準とした大義名分に則らず、事実を重視する態度を貫いている。「伯夷列伝」の中で、司馬遷は『春秋』に記されていない人物・許由と務光を実在したと認めている。また、餓死した伯夷・叔斉についても孔子が「怨みがなかった」と論じたのに対し、司馬遷は「怨みがあった」と異なる見解を記した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "司馬遷から1世紀ほど後の文人揚雄は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。司馬貞も『史記索隠』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない法家の韓非にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "司馬遷が最も「奇」を見出した人物が項羽と李広であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は劉邦に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "司馬遷の生年については複数の説がある。その中でも、景帝中元五年(前145年)と建元六年(前135年)の二説が有力であり、これらはいずれも『史記』「太史公自序」14条の「卒三歲而遷為太史令,(中略)。五年而當太初元年(父の死から3年後に太史令となり、)」 という箇所に、唐代につけられた註釈が元になっている。司馬貞『史記索隠』は「卒三歲而遷為太史令」の箇所に「司馬、年28、3年6月乙卯、600石の除せられる」と記した。張守節『史記正義』は「五年而當太初元年」の箇所に「按ずるに、司馬遷は、年42歳也」と記した。司馬談の死は元封元年(前110年)であるから、その3年後に28歳という『索隠』によれば、生年は前135年となる。一方、太初元年は前104年であり、42歳と註された『正義』によれば、生年は前145年となる。", "title": "生没年の説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "李長之は以下の点を示して、前135年説を支持した。", "title": "生没年の説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "司馬遷の生地である陝西省韓城市では紀元前145年生誕説を採り、2010年に民間伝承で伝わる誕生日の旧暦2月9日に、生誕2155年記念行事を執り行った。", "title": "生没年の説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "司馬遷の没年も明瞭ではない。『史記』に記述された最も遅い事件の頃には生きていたと考えがちだが、同記には後年の補筆が多い。ひとつの考察として武帝をどのように表しているかという点から検討が可能である。『封禪書』で司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味の「今上」と表記している。「武帝」と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後年に加えられた可能性を否定できないが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにくい箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死後、諡号が贈られた時には生きていたと考えられる。", "title": "生没年の説" } ]
司馬 遷は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。
[[ファイル:Si maqian.jpg|thumb|司馬遷]] [[File:Sima Qian 2.jpg|thumb|司馬遷]] {{二十四史}} '''司馬 遷'''(しば せん、[[紀元前145年|紀元前145]]/[[紀元前135年|135年]]? – [[紀元前87年|紀元前87]]<ref name=Kage>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15083/00026981 |author=影山輝國 |date=2006-03 |title=『史記』「将相年表」倒書考 |journal=東洋文化研究所紀要 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |volume=149 |pages=1-42 |naid=120000872471 |doi=10.15083/00026981 |ISSN=05638089 |accessdate=2022-02-28}}</ref>/[[紀元前86年|86年]]?<ref name=NII>{{Cite web|和書|url= http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/creator/si_ma_qian.html.ja |title=『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブ 著者 司馬遷|publisher=[[国立情報学研究所]]|accessdate=2012-02-10}}</ref>)は、[[中国]][[前漢]]時代の[[歴史家]]で、『[[史記]]』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長<ref name=NII /><ref>[[#シャヴァンヌ1975|シャヴァンヌ(1975)、p.33、第二節 司馬遷、司馬遷の生年]]</ref>。[[周]]代の記録係である司馬氏の子孫で、[[太史令]]の[[司馬談]]を父に持つ<ref name=Lee46>[[#李1988|李 (1988)、pp.46-49、第二章 司馬遷の父 1.世伝の歴史家、並びに天文家]]</ref>。[[太初暦]]の制定や、[[通史]]『[[史記]]』の執筆などの業績がある<ref name=Lee46 />。 == 生涯 == === 家系 === 遠い部分の信憑性には疑問が残るが<ref>[[#李1988|李 (1988)、p.46]]</ref>、父の司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は[[堯]]・[[舜]]の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。[[秦]]の[[恵文王 (秦)|恵文王]]らに仕えた[[司馬錯]]、その孫で[[白起]]の部下として[[長平の戦い]]に従軍した[[司馬靳]](しばきん)、さらにその孫で[[始皇帝]]時代に[[鉄鉱]]を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる<ref name=Lee46 />。司馬昌の子は司馬無沢(しばむえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で[[五大夫]]の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる<ref name=Lee46 /><ref name=ShiTa2>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」2]]</ref>。 このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・[[老荘思想|道論]]などの教えを受け<ref name=Lee49>[[#李1988|李 (1988)、pp.49-52、第二章 司馬遷の父 2.司馬談の思想の淵源]]</ref>、[[漢]]王朝に仕え、司馬遷3歳の年から<ref name=ShiTa3>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」3]]</ref>[[元封 (漢)|元封]]までの約30年間にわたり[[太史公]]の官職<ref name=ShiTa2 /> を得ていた<ref name=Lee52>[[#李1988|李 (1988)、pp.52-58、第二章 司馬遷の父 3.批判精神と道家の立場]]</ref>。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた<ref name=Lee52 />。 === 生誕から少年期まで === 司馬遷は、一族代々の[[墓]]があった内史(後の[[左馮翊]])夏陽県竜門<ref>[[#シャヴァンヌ1975|シャヴァンヌ(1975)、p.34、第二節 司馬遷、司馬遷の故郷]]</ref>(現在の[[陝西省]][[渭南市]][[韓城市]]芝川鎮)で生まれた<ref name=Syou159>[[#鍾2005|鍾 (2005)、pp.159-161、18司馬遷 苦悩と覚悟によって研ぎ澄まされた歴史への観察眼]]</ref>。彼はそこで10歳になる前まで過ごし<ref group="注">『史記』「游俠列傳」16にて、司馬遷は[[郭解]]を見たと言う。郭解は前126年に母方の家族を夏陽へ避難させた。目撃はこの時の事と推測され、司馬遷が夏陽にいた傍証となる。([[#李1988|李 (1988)、pp.136-137]])</ref>、農耕や牧畜など<ref name=ShiTa12>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」12]]</ref> を通じて壮健な身体を育んだ<ref name=Lee66>[[#李1988|李 (1988)、pp.66-68、第二章 司馬遷の父 6.天才の育成]]</ref>。9歳になる頃までには家塾での勉学を始めた<ref name=ShiTa12 />。 10歳の時には「古文(尚書)を誦んじた」という<ref name=ShiTa12 />。『[[書経|尚書]]』(『[[書経]]』)を学んだ師である[[孔安国]]<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/ru-lin-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『漢書』儒林傳 23|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref><ref group="注">[[王国維]]は『太史公繋年考略』にて、孔安国が臨淮の太守となった時期に司馬遷との接点を持ったと考察している。ただし王国維は司馬遷を紀元前145年生まれの当時20歳と置いた。([[#李1988|李 (1988)、pp.69-70]])</ref> は当時[[侍中]]の任にあったことから、司馬遷は[[長安]]へ移っていたと考えられる<ref name=Lee136>[[#李1988|李 (1988)、pp.136-138、第四章 無限の象徴 1.耕牧から場国都勉学へ]]</ref>。さらに[[董仲舒]]らにも師事し、歴史書『[[春秋]]』は政治の根本原理を体現したものだと主張する[[公羊学]]派の影響を受けた<ref name=Syou159 /><ref name=Lee185>[[#李1988|李 (1988)、pp.185-206、第五章 必然の悲劇 3.司馬遷と友情]]</ref>。 === 大旅行 === 司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および[[中原]]を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている<ref name=ShiTa12 /><ref name=Lee138>[[#李1988|李 (1988)、pp.138-147、第四章 無限の象徴 2.東南と中原への大旅行]]</ref>。最初に江淮(現在の[[江蘇省]]と[[安徽省]]北部)へ行き、[[韓信]]が建てた母の墓を訪ねた。次に[[江西省|江西]]の[[廬山]]から[[禹]]が疏いた[[九江]]を見物し<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/he-qu-shu/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』河渠書 14|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>、さらに[[浙江省]]の[[会稽山]]に登り、禹が入ったと伝わる[[洞窟]](禹穴)を探検したりした<ref name=Lee138 />。この後、彼は湘江に沿って[[長沙市|長沙]]に向かった。そこで[[屈原]]が身を投げた[[汨羅江]]を見て、また当地で不遇を託った[[賈誼]]へ思いを馳せた<ref name=Lee138 />。 東南方向の旅で[[楚 (春秋)|楚]]の文化に触れた後、司馬遷は北に向かい、[[闔閭]]と[[夫差]]ゆかりの姑蘇・五湖を訪れ<ref name=Lee138 />、さらに[[儒家]]発展の地である[[斉 (春秋)|斉]]と[[魯]]へ赴いた<ref name=ShiTa12 />。魯の滞在は長期に亘ったと思われる<ref name=Lee138 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』孔子世家 85|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。その後はいずれも[[山東省]]南部と江蘇省北部に当たる鄱、[[孟嘗君]]ゆかりの薛<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/meng-chang-jun-lie-zhuan/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』孟嘗君列傳 19|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>、彭城([[徐州市]])を訪れた。彭城の北には豊・沛の地があり、司馬遷はそこまで足を伸ばして[[蕭何]]・[[曹参]]・[[樊噲]]・[[夏侯嬰]](滕公)の生家を見物し、彼らの話を聞いた<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/fan-li-teng-guan-lie-zhuan/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』樊酈滕灌列傳 34|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。 その後、河南地方([[開封市|開封]]・[[徐州]])へ向かった。開封は大梁と呼ばれた[[魏 (戦国)|魏]]の首府だった地であり、土地の人から[[秦]]の攻撃で陥落した様子を伺い、[[信陵君]]を訪ねた。<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/wei-shi-jia/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』魏世家 75|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。徐州は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期の楚の土地であり、ここで壮大な[[春申君]]の古城や宮室を見物した<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/chun-shen-jun-lie-zhuan/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』春申君列傳 22|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。河南を後にした司馬遷は西に向かったと思われ<ref>[[#李1988|李 (1988)、p.146]]</ref>、[[許由]]ゆかりの箕山に登った<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/bo-yi-lie-zhuan/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』伯夷列傳 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。 === 登用と巡遊随行 === この旅がいつ終わったのかははっきりしない<ref name=Lee147>[[#李1988|李 (1988)、pp.147-151、第四章 無限の象徴 3.役人生活の始まり]]</ref>。旅から戻った3年後の22歳頃、司馬遷は[[光禄勲|郎中]]に任命される。これは定常業務を持たないが勅命の使者や天子巡遊に従うなど、皇帝の[[侍従]]を担う仕事を行った。当時、郎中になるには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせるか、もしくは優秀な人物が試験を経て採用されるかの二つの方法があった。父・談の官位は600石であったため、司馬遷は後者の道筋で登用されたと考えられる<ref name=Lee147 /> 彼が仕える[[武帝 (漢)|武帝]]は生涯において何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も多くに付き従った。[[元鼎]]5年(前112年)、武帝は秦の[[徳公 (秦)|徳公]]が居城とした雍で五帝を祀り、[[黄帝]]も登ったという崆峒を訪れ、さらに西の[[会寧県|会寧]]へ至った<ref name=Lee147 />。翌年には[[重慶市|巴]]・[[成都市|蜀]]・[[滇]]などの西南巡遊に随行し、[[昆明]]まで至った。この時の奉使は、後に「西南夷列傳」に纏められた<ref name=Lee147 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/xi-nan-yi-lie-zhuan/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』西南夷列傳|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。 === 父の死と封禅 === [[File:Han Wudi1.gif|thumb|left|200px|漢の武帝]] [[元封 (漢)|元封]]元年(前110年)、武帝は[[封禅]]の儀式に向けた準備に取り掛かり、武威を示す18万の騎兵を各地に派遣した。この軍団が[[洛陽]]に到着した際、付き従っていた父・司馬談が病に倒れた。西南奉使から戻った司馬遷は洛陽に向かった<ref name=Lee151>[[#李1988|李 (1988)、pp.151-155、第四章 無限の象徴 4.封禅と北地遊歴]]</ref>。 死の床にあり、司馬談は先祖の事業が道半ばで去らねばならないことを嘆き、司馬遷へ引き継ぐよう命じた。そして、[[周公旦]]が定めた礼楽が衰えた際に[[孔子]]が現れ『[[詩経|詩]]』『[[書経|書]]』『[[春秋]]』を著したが、400年以上が経過した今はまた事績の記録が荒んでいると指摘した<ref name=Lee62>[[#李1988|李 (1988)、pp.62-66、第二章 司馬遷の父 5.偉大な遺命]]</ref><ref name=ShiTa13>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」13]]</ref>。父は子に第二の孔子となれと言い残し、息を引き取った<ref name=Lee151 />。 父の後を受け、司馬遷は封禅の儀式に加わった。緱氏と[[嵩山]]の祭祀に間に合ったかどうかはわからないが、[[泰山]]での封禅には参加し、その大典の内容を「封禪書」に纏めた<ref name=Lee151 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/feng-chan-shu/zh|language=漢 文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』封禪書|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。この奉使において司馬遷は[[斉郡|斉]]の地を訪れ、その国の気風<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/qi-tai-gong-shi-jia/zh|language=漢 文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』齊太公世家80|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref> や、斉人らの情報を得た<ref name=Lee151 />。その後、封禅の行列は北方を巡幸し、[[遼寧省|遼寧]]・[[河北省|河北]]そして[[内モンゴル自治区|内蒙古]]の五原へ至った。五所は秦の時代に整備された「直道」の北端に当たり、ここで司馬遷は[[蒙恬]]が築いた要塞などを眼にした<ref name=Lee151 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/meng-tian-lie-zhuan/zh|language=漢 文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』蒙恬列傳11|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>。 元封2年(前109年)も武帝は各地を巡り、[[山東半島]]や泰山を訪れた。この年、瓠子という場所で[[黄河]]が決壊を起こしたため、武帝は百官に薪を背負わせて向かい修復工事を行った。司馬遷もこれに付随し、後に「河渠書」を書かせる体験を得た<ref name=Lee156>[[#李1988|李 (1988)、pp.156-158、第四章 無限の象徴 5.負薪塞河]]</ref>。 === 太史令拝命 === 父の死から3年後の元封3年(前108年)、司馬遷は太史令の官職を継承した。彼の才能は高く買われており、父も亡くなる際に「太史に任命される」と述べていたが、3年は喪に服す期間として置かれた<ref name=Lee158>[[#李1988|李 (1988)、pp.158-163、第四章 無限の象徴 6.父の官職の継承]]</ref>。彼は就任するや、友人らに政治への参加を勧めた。その中の一人・摯峻と交わした手紙が残っている。司馬遷は君子最上の生き方は徳を立てる事であり、その実現のために君主への働きかけをすべきと説く。摯峻は有能な者が取り上げられる時代が来たが、私は気楽に過ごしたいと返答し誘いに応じなかった<ref name=Lee158 />。この当時、司馬遷は血気盛んであり、任安への手紙にて、私的な事は省みず職務に専念し武帝の期待に応えると考えていたと述べている<ref name=Lee158 />。 実際、太史令となった彼は多くの書籍・文書に触れることを仕事とし<ref name=ShiTa14>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」14]]</ref>、豊富な知識をさらに収集した。一方で元封4年(前107年)、5年(前106年)の武帝巡遊にも従い、各地を廻った<ref name=Lee158 />。 === 改暦と史記編纂の開始 === [[太初 (漢)|太初]]元年(前104年)、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は[[太初暦]]の制定であり、後者は『[[史記]]』執筆に着手したことである。太初暦は、年初を[[夏 (三代)|夏]]の暦である春正月に固定し、[[二十四節気]]を取り入れる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn025.html|title=正月の風俗-中国と日本- (Customs of the New Year:China and Japan)|author= 興国(Ma Xing-guo )[[遼寧大学]]日本研究所副所長|publisher=代学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国際日本文化研究センター 日文研フォーラム|accessdate=2012-05-10}}</ref> ことで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国における[[時間]]感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/han-chang-ru-lie-zhuan/zh|language=漢 文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』韓長孺列傳14|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>、主導的役割を果たしたと考えられる<ref name=Lee163>[[#李1988|李 (1988)、pp.163-169、第四章 無限の象徴 7.太初暦の編定と著述]]</ref>。 司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/xia-ben-ji/zh|language=漢 文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』夏本紀35|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref> を実現するものでもあった<ref name=Lee163 />。 そして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった<ref name=Lee163 />。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた<ref name=Lee158 />。彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた<ref name=Lee151 />。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ<ref name=Lee151 />。 === 李陵の禍 === 前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり<ref name=Lee151 />、将軍[[李広利]](武帝の寵妃であった李夫人の兄)による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は[[匈奴]]に眼が向けられた<ref>[[#史記「匈奴列伝」|『史記』「匈奴列伝」57]]</ref>。匈奴の[[且鞮侯]][[単于]]は当初こそ従順な態度を見せた<ref>[[#史記「匈奴列伝」|『史記』「匈奴列伝」58]]</ref>。しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。[[天漢 (漢)|天漢]]二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで[[李陵]]が単独行動を願い出た。結果的に武帝は彼と配下5000の歩兵出陣を許し、李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。しかし、3万を超える敵軍と遭遇し包囲されてしまい、彼は激しい戦いを繰りながら退却を続けた。匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついには投降の道を選んだ<ref>[[#史記「匈奴列伝」|『史記』「匈奴列伝」59]]</ref><ref name=Lee214>[[#李1988|李 (1988)、pp.214-233、第五章 必然の悲劇5.李陵事件のいきさつ]]</ref>。 武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを<ref name=Cha41>[[#シャヴァンヌ1975|シャヴァンヌ(1975)、pp.41-43、第二節 司馬遷、宮刑に処さる]]</ref>、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した<ref name=Lee214 />。 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|陵事親孝,與士信,常奮不顧身以殉國家之急。其素所畜積也,有國士之風。今舉事一不幸,全軀保妻子之臣隨而媒糱其短,誠可痛也!且陵提步卒不滿五千,深輮戎馬之地,抑數萬之師,虜救死扶傷不暇,悉舉引弓之民共攻圍之。轉鬥千里,矢盡道窮,士張空拳,冒白刃,北首爭死敵,得人之死力,雖古名將不過也。身雖陷敗,然其所摧敗亦足暴於天下。彼之不死,宜欲得當以報漢也。}}|『漢書』「李廣蘇建傳」21<ref>{{cite web|url= http://ctext.org/han-shu/li-guang-su-jian-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『道徳経』|chapter=老子|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref> }} 司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。[[自害]]の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた<ref name=Lee214 />。 しかしこれは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく<ref name=Lee214 />、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止めた<ref name=Cha41 />。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された<ref name=Lee214 />。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった<ref name=Lee214 />。 だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報<ref group="注">匈奴に練兵を行った人物は李陵ではなく、別人の降将・李緒であった。([[#李1988|李 (1988)、pp.227-228]])</ref> がもたらされ、事態は一変した。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には[[宮刑]](腐刑)が処された<ref name=Lee214 />。 この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う腐刑は最低なものだと言った<ref name="『漢書』「司馬遷傳」25">[[#漢書「司馬遷傳」|『漢書』「司馬遷傳」25]]</ref>。そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた<ref name=Lee214 />。ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ<ref name=Lee214 />。 『漢書』では、司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・[[景帝 (漢)|景帝]]を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという。しかしこの説には確証は無い<ref name=Cha41 />。 === 『史記』の完成とその後 === 牢獄に繋がれてから4年後の[[太始 (漢)|太始]]元年(前96年)6月、[[大赦]]によって司馬遷は釈放された。そして彼には[[中書令]]の任が下った。宮中の文書を扱い、皇帝に奏上する文書、また逆に皇帝の詔を接受する中書令は、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、[[宦官]]が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった<ref name=Lee234>[[#李1988|李 (1988)、pp.234-243、第五章 必然の悲劇6.二人の英雄の晩年]]</ref>。 『史記』の執筆に取り組みながら、太始二年(前95年)からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。太始四年(前93年)に泰山から戻った司馬遷は、[[任安]]から受け取っていた手紙の返書(『報任少卿書』)を書いた。任安の手紙とは、高い地位にあるにもかかわらず司馬遷が有能な人物を推挙していないことを責めたものだった。かつて太史令に着任した頃は人材発掘を行っていた司馬遷だったが、この時には五体を欠く身となった自分にはその資格が無いと断った<ref name=Lee234 />。続けて彼は、自分の考えを述べた。 {{quotation| 「自分は死を恐れない。あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした」と述べ、更に「今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。」|『漢書』「司馬遷傳」21-27<ref>[[#漢書「司馬遷傳」|『漢書』「司馬遷傳」21-27]]</ref>}} この手紙の中で、司馬遷は『史記』をおよそ130篇と述べている<ref>[[#漢書「司馬遷傳」|『漢書』「司馬遷傳」26]]</ref>。『史記』の中で司馬遷自身の筆と考えられる最も遅い出来事の記述は、[[征和]]3年(前90年)に李広利が匈奴に降伏した戦いであった<ref>[[#史記「匈奴列伝」|『史記』「匈奴列伝」]]</ref>。また「太史公自序」にて、約130篇536,500字の『史記』を名山に蔵し、副本を京師に置いたとある<ref name=ShiTa149>[[#史記「太史公自序」|『史記』「太史公自序」149]]</ref>。これらの点から、任安への返書を書いた時にはほぼ形になっていたが、『史記』が完成したのはその4年後の前90年であり、字数を記し、本書と写しのみに纏めた上で筆を置いたと考えられる<ref name=Lee234 />。 『史記』完成後、司馬遷がいつまで、どのように生きたかははっきりしていない<ref name=Lee234 />。[[王国維]]は『観堂集林』にて、司馬遷の死は武帝の崩御(前87年)前後ではないかと記した<ref name=Kage />。 == 人物 == === 旅行家そして探検家 === 司馬遷は20歳から各地を巡る旅を始め、役人に登用されてからも武帝に従って様々な地を訪れた。この旅行は漢のほぼ全土を網羅し、四川中部や雲南など当時は未開と言える場所にまで至っている。そしてこれは放浪などではなく、彼は各地を丁寧に見て廻り、資料を調べ、古老など様々な人々の話を聞いた。これら積み重ねた調査は『史記』に反映された。いわば彼は著述家以前に、大旅行家であり探検家でもあった<ref name=Cha37>[[#シャヴァンヌ1975|シャヴァンヌ(1975)、pp.37-38、第二節 司馬遷、探検家としての司馬遷]]</ref>。 しかし、この旅は紀行文や風土記のような形には纏められなかった。司馬遷が筆を執った目的は歴史記述であり、そのために個人の直接的な観察はその中へ消化されてしまった。また、特定の歴史的事件を土地の環境から記すこともしなかった<ref name=Cha37 />。 === 孔子からの影響 === 父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている<ref name=Lee73>[[#李1988|李 (1988)、pp.73-82、第三章 司馬遷と孔子2.孔子への傾倒]]</ref>。特に司馬遷は、孔子思想において[[六芸]](「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統<ref group="注">この六芸を具体的に記した書が[[六経]](『[[詩経]]』・『[[書経]]』・『[[礼経]]』・『[[楽経]]』・『[[易経]]』・『[[春秋経]]』)である。([[#李1988|李 (1988)、p.93]])</ref>)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ<ref>{{cite web|url= http://ctext.org/shiji/hua-ji-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』滑稽列傳1|chapter=司馬遷|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref>、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた<ref name=Lee89>[[#李1988|李 (1988)、pp.89-107、第三章 司馬遷と孔子4.六芸に対する理解]]</ref>。 そして司馬遷と孔子の間には、「利を求めず、時流に迎合しない」という共通の性質が見て取れる。『史記』「孔子世家」では、孔子一行が旅先で苦難にあった時、弟子の[[子路]]と[[子貢]]がもっと妥協して仕官されるようすべきと進言したがこれを跳ね除け、用いられないのは為政者の落ち度であり、信念を貫くべきという[[顔回|顔淵]]の言葉に大いに賛同する場面がある<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh|language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』孔子世家 44-48|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2012-05-10}}</ref><ref name=Lee83>[[#李1988|李 (1988)、pp.83-89、第三章 司馬遷と孔子3.孔子との性格上の結合点、およびその距離]]</ref>。司馬遷が貫いた信念とは「中立的立場から歴史の必然を見る」<ref name=Ogu>[[#小倉1974|小倉(1974)、V.『史記』私議、pp.159-167、『史記』を読むとは]]</ref> または「大所から鑑定・選別・判断を行う、いわゆる「識」を発揮する」<ref name=Lee246>[[#李1988|李 (1988)、pp.246-254、第六章 浪漫の自然主義 1.司馬遷の「識」]]</ref> 点にあったという意見がある。李陵の禍では、彼は妥協を良しとせず、罰が自らに及ぶ可能性がありながら、李陵の評価をこの視点から述べた。『報任少卿書』も、武帝と[[劉拠|皇太子]]が争った際に中立を守った任安に共感して書かれたとも言う<ref name=Ogu />。 孔子を高く評価する司馬遷は、『史記』において本来世襲された系譜を記す「世家」の中に、その原則に反して「孔子世家」を書いた。彼は、家系的繋がりと同様に思想の繋がりを重視し、孔子を「世家」に含めた<ref name=Lee246 />。 しかし、必ずしもその論を無批判で受け入れたわけではない。『史記』は孔子が『春秋』を書いた際に基準とした大義名分に則らず、事実を重視する態度を貫いている。「伯夷列伝」の中で、司馬遷は『春秋』に記されていない人物・[[許由]]と[[務光]]を実在したと認めている。また、餓死した[[伯夷・叔斉]]についても孔子が「怨みがなかった」と論じたのに対し、司馬遷は「怨みがあった」と異なる見解を記した<ref>{{Cite web|和書|url= http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00012362&elmid=Body&lfname=016000030006.pdf |format=PDF|title=「伯夷列伝」の構成|author=波多野鹿之助|publisher=[[同志社大学]]DOORS |accessdate=2012-05-14}}</ref>。 === 「奇」を好む === 司馬遷から1世紀ほど後の文人[[揚雄]]は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。[[司馬貞]]も『[[史記索隠]]』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた<ref name=Lee176>[[#李1988|李 (1988)、pp.176-185、第五章 必然の悲劇2.奇を好むことと才を愛すること]]</ref>。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない[[法家]]の[[韓非]]にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す<ref name=Lee176 />。 司馬遷が最も「奇」を見出した人物が[[項羽]]と[[李広]]であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www1.doshisha.ac.jp/~mnawa/siki.html |title=『史記』と司馬遷 |author=名和又介|publisher=[[同志社大学]] |accessdate=2012-05-14}}</ref>。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は[[劉邦]]に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている<ref name=Lee176 />。 == 生没年の説 == === 生年 === 司馬遷の生年については複数の説がある。その中でも、[[景帝 (漢)|景帝]]中元五年(前145年)と建元六年(前135年)の二説が有力であり、これらはいずれも『史記』「太史公自序」14条の「卒三歲而遷為太史令,(中略)。五年而當太初元年(父の死から3年後に太史令となり、)」<ref name=ShiTa13 /> という箇所に、[[唐]]代につけられた註釈が元になっている。司馬貞『史記索隠』は「卒三歲而遷為太史令」の箇所に「司馬、年28、3年6月乙卯、600石の除せられる」と記した。[[張守節]]『[[史記正義]]』は「五年而當太初元年」の箇所に「按ずるに、司馬遷は、年42歳也」と記した。司馬談の死は元封元年(前110年)であるから、その3年後に28歳という『索隠』によれば、生年は前135年となる。一方、太初元年は前104年であり、42歳と註された『正義』によれば、生年は前145年となる<ref name=Lee358>[[#李1988|李 (1988)、pp.358-364、《付》司馬遷の生年について]]</ref>。 李長之は以下の点を示して、前135年説を支持した。 *『漢書』「司馬遷傳」25条にある任安への返書にて、司馬遷は「蚤失二親(若くして両親を失う)」と書いている<ref name="『漢書』「司馬遷傳」25"/>。前145年生誕説だと父死去の際、司馬遷は36歳で若いとは言えない。前135年生誕説ならば26歳となり辻褄は合う。 *『漢書』「司馬遷傳」23条にある任安への返書にて、司馬遷は「得待罪輦轂下,二十餘年矣(天子に仕える事、20数年)」と書いている<ref>[[#漢書「司馬遷傳」|『漢書』「司馬遷傳」23]]</ref>。この手紙は太始四年(前93年)に書かれており、一方司馬遷が郎中になったのは20歳代の前半である。つまりこの手紙は40歳代で書かれたと考える方が自然であり、50歳を超えてしまう前145年生誕説では無理がある。 *故事を習ったという孔安国が博士になった時期を、[[王国維]]は[[元光 (漢)|元光]] - [[元朔]]年間(前134年 - 前129年)と考証した。司馬遷が10歳の時に孔安国の教えを受け「古文を誦んじた」<ref name=ShiTa12 /> ならば、前135年生誕説の方が可能性は高い。 *『史記』「太史公自序」12条で司馬遷は、20歳代前半までを年齢だけで書いている<ref name=ShiTa12 />。そして次条で父の死(前110年)に触れるが、前145年生誕説ならばこの時35歳であり、自らについて書かれない十数年の空白が生じる。12条では郎中任命からすぐ武帝巡遊に従ったよう書かれている事<ref name=ShiTa12 /> からも、空白が生じない前135年生誕説が妥当と考える。 *『史記』「太史公自序」11条の文章は、司馬談が太史公に就いた後に司馬遷を儲けたかのように書かれている<ref name=ShiTa14/>。前145/135年の両生誕説では、後者の方が乖離が少ない。 *『史記』「太史公自序」13条で司馬談が息子に語る内容は教えを垂れるものであり、36歳(前145年生誕説)よりも26歳(前135年生誕説)に対する言葉の方がふさわしい。 *元封3年(前108年)に太史令となった司馬遷は、摯峻らに出仕を勧めた。このような行動は、前145年生誕説による38歳にしては血気盛んである。 *郭解は国都・長安に行ったことはなかった。彼の姿を司馬遷は見たと述べているが、二人の接点は郭解が元朔2年(前127年)に親族を司馬遷の生地・夏陽に退避させた時と考えられる。一方で司馬遷は10歳時には長安に出たと考えられ、前145年生誕説を採るとそれは前135年であり、夏陽で司馬遷は郭解を見る事はできない。 *司馬遷が庇った李陵は友人であったが、彼の祖父・李広は[[元狩]]4年(前119年)に六十数歳で亡くなっている。その孫と親交があるならば、27歳(前145年生誕説)よりも17歳(前135年生誕説)の方がふさわしい。 *王国維は『索隠』を第一級の史料と評価しつつも、「年28」が「年38」の誤植としており矛盾する。『正義』の「42歳」という表記について、ある[[年]]を指してそのとき人物が何歳であるという註は非常にまれであり、李長之はこれを、張守節は司馬遷の生涯が42歳までであった事を述べていると主張した。 司馬遷の生地である陝西省韓城市では紀元前145年生誕説を採り、2010年に民間伝承で伝わる誕生日の旧暦2月9日に、生誕2155年記念行事を執り行った<ref>{{Cite web|和書|url= http://blogs.yahoo.co.jp/niwang2009/31859979.html |title=『司馬遷生誕2155年記念行事 陝西省韓城市で開催|publisher=中国西安金橋旅行社日本語西安観光ガイド |accessdate=2012-05-14}}</ref>。 === 没年 === 司馬遷の没年も明瞭ではない。『史記』に記述された最も遅い事件の頃には生きていたと考えがちだが、同記には後年の補筆が多い。ひとつの考察として武帝をどのように表しているかという点から検討が可能である。『封禪書』で司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味の「今上」と表記している。「武帝」と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後年に加えられた可能性を否定できないが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにくい箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死後、[[諡号]]が贈られた時には生きていたと考えられる<ref name=Cha44>[[#シャヴァンヌ1975|シャヴァンヌ(1975)、pp.44-45、第二節 司馬遷、司馬遷の没年]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=司馬遷|author=李長之|translator=[[和田武司]] |publisher=[[徳間書店]]〈[[徳間文庫]]〉 |year=1988|origyear=1980|edition=文庫初版|isbn=4-19-598626-5|ref=李1988}} * {{Cite book|和書|title=司馬遷と史記|author=エドゥアール・シャヴァンヌ|authorlink=エドゥアール・シャヴァンヌ|translator=[[岩村忍]]|publisher=[[新潮社]]〈[[新潮選書]]〉 |year=1975|origyear= 1974|edition=二刷|ref=シャヴァンヌ1975}} * {{Cite book|和書|title=古代中国を読む|author=小倉芳彦|authorlink=小倉芳彦|publisher=岩波書店〈[[岩波新書]]〉 |year=1974 |ref=小倉1974}} * {{cite book|title=史記|chapter=太史公自序|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/shiji/tai-shi-gong-zi-xu/zh|language=漢文|ref=史記「太史公自序」}} * {{cite book|title=史記|chapter=匈奴列傳|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/shiji/xiong-nu-lie-zhuan/zh|language=漢文|ref=史記「匈奴列伝」}} * {{cite book|title=[[漢書]] |chapter=司馬遷傳|author=[[班固]]・[[班昭]]ら|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/han-shu/si-ma-qian-zhuan/zh|language=漢文|ref=漢書「司馬遷傳」}} * {{Cite book|和書|title=人物50人で読む「中国の思想」―孔子から孫文まで |author=鍾 清漢|publisher=[[PHP研究所]] |year=2005 |isbn=978-4569663463 |url=https://books.google.co.jp/books?id=DZpYEvh_3dQC&pg=PA161&dq=%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7&hl=ja&sa=X&ei=ISYuT7alMqj5mAWp4c3ODw&ved=0CF8Q6AEwCA#v=onepage&q=%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7&f=false|ref=鍾2005}} * 司馬遷 『史記列伝』、[[小川環樹]]ほか訳、岩波文庫(全5巻)、1975年。 * 『世界大百科事典』 Hitachi Digital Heibonsha([[平凡社]])、1998年。 ; テレビドラマ * 『[[漢武大帝]]』(2004年、中国、演:[[王往]]) == 読書案内 == * 伊藤徳男『史記と司馬遷』 [[山川出版社]] * 大島利一『司馬遷と『史記』の成立』 [[清水書院]] * [[藤田勝久]]『司馬選の旅』 [[中公新書]] * [[宮崎市定]]『史記を語る』 [[岩波新書]]、のち[[岩波文庫]] * [[武田泰淳]]『司馬遷 史記の世界』 [[講談社文庫]]、のち[[講談社文芸文庫]]、中公文庫 * [[林田慎之助]]『司馬遷 起死回生を期す』 集英社、のち[[集英社文庫]] * [[加地伸行]]『「史記」再説 司馬遷の世界』 [[講談社現代新書]]、のち[[中公文庫]] * 渡辺精一『中国古代史 司馬遷「史記」の世界』 [[角川ソフィア文庫]] * [[大木康]]訳・解説『史記 現代語訳』 [[ちくま新書]] * 司馬遷『史記』 [[小竹文夫]]・[[小竹武夫]]共訳、[[ちくま学芸文庫]] 全8巻   * 司馬遷『史記列伝』全5巻 +『史記[[世家]]』全3巻、各・岩波文庫、[[小川環樹]]・[[今鷹真]]・福島吉彦訳 * 司馬遷『史記列伝』全2巻、[[貝塚茂樹]]・[[川勝義雄]]共訳、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉 * 司馬遷『史記列伝』全3巻、[[野口定男]]訳、[[平凡社ライブラリー]] *『中国古代の歴史家たち-司馬遷・[[班固]]・[[范曄]]・[[陳寿]]の列伝訳注』 [[福井重雅]]編訳、早稲田大学出版部 * 宮崎市定訳著『史記列伝 抄』 [[国書刊行会]]、[[礪波護]]編・解説 == 登場作品 == ; テレビドラマ * 史記 司馬遷(旧邦題:司馬遷と漢武帝、1995年、中国、演:[[仇永力|チョウ・ヨンリー]]) == 関連項目 == {{Commons&cat|Sima Qian}} {{Wikisourcelang|zh|作者:司馬遷|司馬遷の作品}} {{Wikiquote|司馬遷}} * [[史記]] * [[太史公]] * [[司馬氏]] * [[司馬遷 (小惑星)]] * [[司馬遼太郎]] - 司馬遷にちなんだ筆名 * [[楊敞]] - 司馬遷の婿、司馬遷の娘との間に[[楊惲]]を儲けている == 外部リンク == * {{Kotobank|司馬遷}} * {{青空文庫著作者|1524|司馬 遷}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:しは せん}} [[Category:司馬遷|*]] [[Category:紀元前2世紀中国の詩人]] [[Category:紀元前1世紀中国の詩人]] [[Category:紀元前2世紀中国の歴史家]] [[Category:紀元前1世紀中国の歴史家]] [[Category:中国の史学史]] [[Category:前漢武帝期の人物]] [[Category:漢代の宦官]] [[Category:司馬氏|せん]] [[Category:紀元前145年生]] [[Category:史記]]
2003-09-07T06:09:37Z
2023-11-15T23:51:28Z
false
false
false
[ "Template:Wikiquote", "Template:Cite journal", "Template:Wikisourcelang", "Template:Reflist", "Template:青空文庫著作者", "Template:Good article", "Template:Quotation", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Normdaten", "Template:二十四史", "Template:Kotobank", "Template:Commons&cat", "Template:Cite web", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
15,513
テレワーク
テレワーク(英: telework)あるいはテレコミューティング(英: telecommuting)とは、勤労形態の一種で、情報通信技術(ICT、英: Information and Communication Technology)を活用し時間や場所の制約を受けずに、柔軟に働く形態をいう。「tele = 離れた所」と「work = 働く」をあわせた造語。在宅勤務(WFH)、モバイルワーク(英: mobile work)、リモートワーク(英: remote work)、フレキシブルワークプレイスとも呼ばれる。また、テレワークで働く人をテレワーカーと呼ぶ。 テレコミューティングは、1970年代に、電気通信および関連する情報技術を移動の代わりに使用する業務関連の代替を意味する言葉として脚光を浴びるようになった。21世紀のテレワーカーは、多くの場合、Wi-Fiを搭載したラップトップデバイスやタブレット型コンピュータ、スマートフォンなどのモバイル通信技術を使用してコーヒーショップから仕事をしている。ロイターの世論調査によると、「世界中の労働者の約5人に1人、特に中東、ラテンアメリカ、アジアの従業員は頻繁に在宅勤務をしており、10%近くが毎日自宅で仕事をしている」。2000年代には、一部の組織では、年休や休暇は仕事をやめるのではなく、職場を休むこととみなされており、一部のオフィス従業員は休暇中も仕事のメールをチェックし続けるためにテレワークを利用していた。 1990年代には、テレワークがポップカルチャーの注目の的となった。1995年には、「仕事はあなたがすることであり、旅行することではない(work is something you do, not something you travel to)」という標語が作られた。この標語のバリエーションには、「仕事は私たちが行うことであり、旅行先ではありません(Work is something we DO, not something you travel to)」、「仕事は私たちが行うことであり、私たちがいる場所ではない(Work is what we do, not where we are)」というものがある。 テレワークは、さまざまな企業、政府、非営利団体で採用されている。組織はコスト削減のためにテレワークを利用することもある(テレワークの従業員はオフィスや作業スペース(英語版)を必要とせず、スペースを借りたり購入したりする必要があり、照明や空調などの追加コストが発生する)。テレワークを導入することで、通勤時間や渋滞に巻き込まれる時間を減らすことができるため、社員の生活の質を向上させるためにテレワークを導入している企業もある。これに加えて、テレワークを導入することで、労働者は仕事の責任と私生活や家族の役割(子供や高齢の両親の介護など)とのバランスを取りやすくなることができる。テレワークは渋滞や大気汚染を軽減し、道路上の車の数を減らすことができるため、環境上の理由からテレワークを採用している組織もある。 「在宅勤務」と「テレワーク」は1973年にジャック・ニールズによって造語された。 専門的な文脈では「在宅勤務の専門家」とされる在宅で勤務をする者は「在宅勤務者」、「テレワーカー」と称される。また「自宅勤務者」と呼ばれることもあるように、多くは自宅で仕事をするが、「ノマドワーカー」と称されるようなコーヒーショップなどの遠隔地で仕事をする者もいる。 特にテレワークには以下の区分がある 1、中央集権的な職場以外の自由な勤務地 2、技術的にサポートする情報通信技術の利用 3、従来の職場で置き換えられていた時間配分 4、雇用主と被雇用者の雇用関係の多様性(契約労働から従来のフルタイム雇用まで) 狭義で在宅勤務とは勤務地であるオフィスが維持された状態で、週1日から3日、ブロードバンド接続、コンピュータや電話回線その他の電子メディアを介して通勤時間を短縮できる場所で仕事をすることを指し、これを含む広い概念として配置された作業スペースの外で行われるあらゆるテクノロジーを利用した仕事(自宅で行われる仕事、外線通話などを含む)は、テレワークとみなされる。 2012年の推計では、5,000万人以上の米国の労働者(労働人口の約40%)が、少なくとも一部の時間は自宅で仕事ができるとされているが、2008年には自営業者を除いて、自宅を主な仕事場と考えている従業員は250万人にすぎなかった。2010年に「主な仕事で」自宅で仕事をしたと報告された従業員の数は940万人(労働人口の6.6%)と報告されているが、この数には自営業者も含まれている可能性がある。 2017年現在、約370万人の従業員が労働力の2.8%を占め、少なくとも半分の時間は自宅で仕事をしているとGlobal Analytics Workplaceは報告している。在宅勤務のフルタイムスタッフを大量に雇用している企業はほとんどないが、コールセンター業界(英語版)は顕著な例外で、米国のいくつかのコールセンターでは数千人の在宅勤務者を雇用している。多くの従業員にとって、在宅勤務の選択肢は従業員の福利厚生として提供されているが、ほとんどの従業員が在宅勤務を行っているのはごく一部の時間に過ぎない。テレワークの中で最も高給取りなのは在宅勤務の医師と放射線技師で、米国労働統計局の報告によると、医師の週収は中央値1,975ドルに近い収入を得ているとされており、6桁の収入のある仕事となっている。研究によると、自宅で仕事をする労働者は、最大で30%も収入が減り、生産性が高まった経験をしたいと考えているという。 2009年、アメリカ合衆国人事管理局(英語版)は、約10万3,000人の連邦政府職員がテレワークを行っていると報告している。しかし、週に3日以上在宅勤務をしている人は14,000人に満たない。2012年1月、ロイターは、Ipsos/Reutersの世論調査をもとに、在宅勤務は「可能であればフルタイムで在宅勤務する可能性が非常に高いと回答したコネクテッドワーカーの34%が、今後も継続すると思われる傾向にある」と予測している。 2010年12月9日、米国連邦政府は、業務の継続性を向上させ、緊急時にも連邦政府の重要な機能が維持されるようにするため、テレワークを利用して組織や交通費、環境への影響を削減し、労働者のワーク・ライフ・バランスを向上させるテレワーク強化法を2010年に可決した。例えば、テレワークを利用することで、従業員は仕事や家族の義務をより適切に管理することができ、その結果、より回復力のある連邦政府の労働力を維持し、機関の目標を達成することができるようになる。 2013年9月に発表された「2013 Regus Global Economic Indicator」の調査結果によると、世界のビジネスマネージャーの48%が週の半分以上をリモートで仕事をしていることが明らかになった。この調査は、90カ国26,000人以上のビジネスマネージャー(英語版)を対象としたもので、回答者の55%がリモートワーカーの効果的な管理を達成可能な目標と回答している。結果発表後、リージャスのCEOマーク・ディクソンは次のように述べている。「私たちが話すビジネスパーソンは、信頼と自由がリモート管理の重要な役割を果たしていると言っていますが、これらが導入されれば、生産性の向上、スタッフの定着率の向上、運用コストの削減などのメリットは誰の目にも明らかです」。 フォレスター・リサーチが行った米国テレワーク予測によると、3,400万人のアメリカ人が在宅勤務をしており、その数は2016年までに6,300万人、つまり米国の労働力の43%に達すると予測されている。シスコは、従業員に在宅勤務やテレワークを認めることで、年間2億7,700万ドルの生産性の向上を実現していると報告している。また、米国のソフトウェア会社・イントゥイットのレポートによると、2020年までにアメリカの労働力の40%以上、つまり6000万人がフリーランサー、契約社員、派遣社員になるという。英国では、2007年から2012年の間に、通常は自宅で仕事をする従業員の数が13%増加し、50万人近くにまで増えており、英国の労働人口3000万人のうち、400万人以上の従業員が働いていることになる。 在宅勤務のルーツは、1970年代初頭の技術にある。当時は電話回線をネットワークブリッジとして使用したダム端末を使って、サテライトオフィスと都心のメインフレームをリンクさせた。後に継続的かつ指数関数的にテレワークのコストが低下し、同時にパソコンの性能と使いやすさが向上したことで、オフィスを自宅に移す道が開かれていった。 1980年代初頭までには、支店や在宅ワーカーは、パソコンや端末エミュレーションを使って組織のメインフレームに接続することができるようになった。テレワークは、コラボレーティブソフトウェア、仮想プライベートネットワーク、電話会議、ビデオ会議、バーチャルコールセンター、Voice over IP (VOIP)、バーチャルオフィス (ソフトウェア)などのツールや、高品質のノートパソコンの低価格化によって促進されている。ブロードバンド・インターネットは、労働者が長距離の通信を可能にし、移動時間とコストを大幅に節約できるため、企業にとって効率的で有用なものとなる。ブロードバンド・インターネット接続が一般的になるにつれ、自宅でこれらのツールを使用して企業のイントラネットや社内電話ネットワークに接続するための十分な帯域幅を持つ労働者が増えてきている。 ローカル・エリア・ネットワークの採用により、リソースの共有が促進され、クライアント・サーバ・モデルのクライアント・サーバ・コンピューティングにより、さらに大きな分散化が可能になった。今日では、在宅勤務者はノートパソコンを持ち歩くことができ、オフィスでも自宅でも、ほぼどこでも利用することができる。クラウドコンピューティング技術とWi-Fiが利用できるようになり、持ち運び可能なハードウェアとソフトウェアを組み合わせてリモートサーバにアクセスすることが可能になった。さらに、技術の向上と普及に伴い、スマートフォンはテレワークにも広く使われるようになってきている。スマートフォンは、労働者の移動性と組織との連携の度合いを大幅に向上させる。携帯電話やパーソナルデジタルアシスタント、パーソナルデジタルアシスタント(PDA)デバイスの技術は、テキストメッセージ、カメラの写真、ビデオクリップを介して、いつでもどこからでもインスタントコミュニケーションを可能にする。 コミュニケーションのための技術は、対面でのオフィスでのやりとりを再現できるほどには進歩していない。つまり、コミュニケーションの失敗が増える可能性がある。メディアリッチネス理論(英語版)によると、対面でのコミュニケーションは、豊かな情報を処理する能力を備えている。これは、曖昧な問題を明確にすることができ、即時にフィードバックを提供することができ、個人に適したコミュニケーション(ボディランゲージ、声のトーンなど)があるということである。在宅勤務では、電話や電子メールなど、さまざまなタイプのメディアを使用してコミュニケーションをとる必要がある。そして、電子メールにはタイムラグがあり、すぐにフィードバックを得ることができない。また、電話での会話では、電話の相手やチームの感情を推し量ることが難しくなる。このように、典型的な組織のコミュニケーションパターンは、在宅勤務では変化する。例えば、コンピュータ会議を利用したコンピュータ媒介型コミュニケーションを使用しているチームは、対面式のグループよりもグループの意思決定に時間がかかる。 労働者は、コミュニケーションを行うにあたって、対面でのやりとり、電話での会話、対面での部門会議に満足する傾向が見られるが、電子メールやインターネットはコミュニケーションの満足度を高めない。ある研究では、チーム内のバーチャルワーカーは、対面のオフィスでのコミュニケーションよりもテクノロジーを媒介としたコミュニケーションに満足していたという結果が出ているが、このことから、テレワークは対面のコミュニケーションに比べて「豊かなコミュニケーション」の要素を持っていない可能性があることが示唆されている。 在宅勤務のメリットとデメリットのいくつかは、仕事の特徴やタスクそのものが従業員の仕事に対する態度や行動に影響を与えるという職務特性理論(英語版)によって説明することができる。仕事に5つの特性(技能多様性、タスク完結性、タスク重要性、自律性、フィードバック)があれば、その仕事に就いている従業員は、仕事に対する内発的なモチベーション、自己成長の機会に対する満足感、仕事に対する全般的な満足感、仕事のパフォーマンスの向上、欠勤や離職の減少などを経験することになると考えられている。多くの研究で、仕事の特性が従業員の行動や態度に影響を与えるという根拠が示されている。さらに、職務特性は個人差と相互作用して、労働者の態度や行動に影響を与える。これら5つの職務特性のうち、テレワークは特に対面での仕事と比較して自律性とフィードバックが変化するため、従業員の行動や態度に影響を与える可能性がある。職務特性理論によれば、自律性とフィードバックの変化は、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の変化よりも、仕事の行動や態度に影響を与えるとされている。 自律性は経験豊富な責任に影響を与え、仕事が自由、独立性、スケジュールの柔軟性をもたらしている場合、その人は自分の仕事の結果に責任を感じるはずである。テレワークは、オフィスの外にいることで労働者に多くの選択肢を与えてくれるので、スケジュールの柔軟性と自由をもたらす。テレワーカーはオフィスでのルーチンに固執する必要はなく、一日のうちのさまざまな時間帯に仕事を移すことが可能である。テレワークによって、従業員は最高の仕事ができるように、働く場所、働く時、そして働くために着るものさえも自由に選ぶことができる。テレワーカーは、自分の仕事をコントロールし、説明責任があると感じる程度には、より多くの責任を経験することができる。また、テレワークの自律性により、仕事と家庭の対立が少なくなる。テレワークは、家族との衝突を避けるために仕事を自由にアレンジすることが可能である。人生の要求に対するコントロール性が高まることは、テレワークの主な魅力の一つである。従業員が感じるテレワークの自律性のレベルは、スケジュールの柔軟性や家庭の規模など、さまざまな要因に依存している。仕事と家庭の衝突が減るだけでなく、レクリエーション活動との衝突も減る。時間制限の自由度の増加と減少は、労働者が社会的や物理的なものであるかどうかにかかわらず、より多くのレクリエーション活動に参加することができるようになる。 職業の特性の次元であるフィードバックは、結果に関する労働者の知識を増加させる。フィードバックは個人が仕事の活動に関連した自身のパフォーマンスについての直接的で明確な情報を受け取る程度を指す。フィードバックは、従業員が自分のパフォーマンスについて継続的に学ぶために特に重要である。テレワークでは、テレワーカーのための手掛かりが少ないため、情報を解釈して得ることが難しく、その後、フィードバックを受け取ることが難しくなる可能性がある。労働者がオフィスにいない場合は、割り当てや期待など、限られた情報とより大きな曖昧さが見られる。役割の曖昧さは、状況に対して労働者が何をすべきか不明確な期待を持っているときに、より大きな競合、フラストレーション、そして疲労につながる可能性がある。 フィードバックの相互作用には、個々のニーズに合わせたコミュニケーションが重要である。人は、性格や気質の違いにより、コミュニケーションの必要性や環境との社会的なつながりのレベルが部分的に異なる。テレワーカーではコミュニケーションのレベルが低下することがあるが、在職期間が長く、社会的関係ではなく機能的な関係を持っている人など、一部のサンプルでは、コミュニケーションのレベルに対する満足度が高くなることがある。フィードバックやコミュニケーションは、マネージャーの勤務地によっても影響を受けることがある。マネージャーがテレワークをしていると、明確さ、応答のスピード、コミュニケーションの豊かさ、頻度、フィードバックの質が低下することがよく見られる。 5つの仕事の特性のうち、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の3つは、労働者が自分の仕事をどれだけ意味のあるものと考えているかに影響を与える。 技能多様性とは、仕事を完遂するためには、その仕事に必要な活動や技能多様性が必要とされる度合いのことである。技能多様性が増すと、仕事のやりがいが増すと考えられている。仕事のやりがいが増すことで、その人の経験的な意味深さや、その人が仕事をどれだけ大切にしているか、やりがいを感じているかが増すのである。テレワークは、オフィスで仕事をしていたときと比べて、個人の技能多様性や仕事の有意義性に直接影響を与えることはないかもしれないが、グループで仕事をしているときには、個人の技能多様性や仕事の有意義性が高まる可能性がある。自宅での仕事がチームではなく個人に集中している場合、多様なスキルを使う機会が少なくなる可能性がある。 タスク完結性とは、その人が仕事を最初から最後まで見ているか、また、小さな部分だけではなく、特定可能な部分、そして仕事全体を完了する度合いのことである。 タスク重要性とは、自分の仕事が組織内や組織外の他の人の生活や仕事に大きな影響を与えていると個人が感じている度合いのことである。テレワークでは、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性といった仕事の特性は、オフィスで働く場合と比べて変わらないかもしれないが、これらの特性の存在は、テレワーカーの仕事の成果や態度に影響を与えることになる。 在宅勤務における職務特性に対する反応は、個人によって異なる可能性がある。職務特性理論によれば、個人の達成欲求や成長欲求の強さが、在宅勤務の仕事の側面に対する個人の反応に影響を与えるとされている。例えば、成長欲求の強さが高い人は、成長欲求の強さが低い人に比べて、在宅勤務における自律性の向上に対して肯定的な反応を示し、フィードバックの減少に対して否定的な反応を示すようになる。 テレワークは、従来の労働環境とは異なる柔軟な構造を持つ新しい労働形態である。テレワークと従来の労働環境との違いを説明するのには、職務特性理論に加えて、様々な職務設計理論が役に立つ。 動機付け・衛生理論(英語版)では、動機づけ要因(モチベーター)と衛生要因(ハイジーン)を区別している。テレワークでは、認知度やキャリアアップなどのモチベーション要因が低下する可能性がある。テレワーカーが物理的に不在の場合、オフィス内の他のワーカーからは「見えない、気にならない」状態になる可能性がある。さらに、管理職の管理下に置かれることを恐れているため、テレワークが必ずしも経営者に好意的に受け止められているとは限らない。2008年の研究では、在宅勤務に費やす時間が長いほど、経営者の目に映る在宅勤務者の生産性に対する認識が低下することが明らかになっている。テレワークでは、テレワーカーが様々な場所で働くことができるように、職場環境などの衛生面が改善される可能性がある。このように、テレワークはオフィスワークとは異なる仕事の動機づけ要因や衛生要因を持っている。 社会情報処理(英語版)は、個人が仕事の特性に意味を与えることを示唆している。人は社会的な手がかりを解釈することで、自分自身の環境認識を構築する能力を持っている。この社会的情報は、同僚からのあからさまな発言、仕事やタスクの次元に対する認知的評価、過去の行動などから得られる。この社会的文脈は、特に不確実な状況では、仕事の性質、個人の行動に対する期待、行動の潜在的な結果に関する個人の信念に影響を与えることができる。テレワークでは、社会的な交流や個人に最適化されたコミュニケーションは、対面でのやりとりよりもコンピュータを介したコミュニケーションの方が処理に時間がかかるため、社会的な手がかりは少ない。 社会‐技術システム論(英語版)(STS)は、社会的要因と技術的要因の相互作用を説明するものである。つまり、STSは、仕事の満足度を高め、生産性を高めるように仕事を設計するために、人、技術、職場環境の関係を検討する理論である。もともとは、技術が進歩していくものの生産性は低下するというパラドックスを説明するために開発された理論であるが、テレワークの設計にも応用できる。STSの原則の1つは、最小臨界仕様である。この原則では、絶対に必要な場合を除き、選択肢を閉じたり、効果的な行動を阻害したりすることを避けるために、目的や仕事の進め方については最小限の仕様にすべきであるとしている。テレワークでは、テレワーカーはいつ、どのように仕事をするかを自由に決めることができる。同様に、テレワーカーは、自分の責任を果たすために自分の機器やリソースを使用する責任を有している。このように仕事に対する責任感が高まることで、テレワークは特権であり、一部の企業では昇進とみなされているという考えを裏付けるものとなっている。 適応構造理論は、新しい技術が導入されたときの組織の変化を説明する理論である。適応構造理論は、構造(技術によって提供される一般的なルールやリソース)と構造化(人々が実際にこれらのルールやリソースをどのように使用するか)が異なる場合があることを示している。テクノロジーの使用目的と、人々がテクノロジーを使用する方法の間には相互作用がある。テレワークは、特定の相互作用を可能にしたり制約したりする社会構造をもたらしている。例えば、オフィス環境では、他人と対面で交流するのが一般的かもしれないが、在宅勤務で対人交流を実現するためには、他の形態の相互作用を利用する必要が出てくる。適応構造理論は、テクノロジーが時間をかけて使われるようになると、社会的相互作用のためのルールやリソースが変化することを示唆している。テレワークは、主に対面でのコミュニケーションから電子的なコミュニケーションへの切り替えなど、伝統的な仕事のやり方を変える可能性がある。 会社が主導権を握っているときには、ホームショアリングやホームソーシングといった用語が使われることがある。 調査会社IDCによると、ホームソーシングは年間約20%の規模で拡大しており(2006年)、「爆発的に拡大しそうである」という。 在宅勤務は、経済的、環境的、個人的な面で社会にメリットをもたらす。ICTの普及は、従業員、特に身体に障害を持つ従業員にとっての大きなメリットになる。また、経済成長に悪影響を与えることなく、省エネ社会の実現にもつながる。在宅勤務は、地域社会、雇用者、従業員にメリットをもたらす。地域社会にとっては、在宅勤務は在宅勤務者の親や介護者、障害者、定年退職者、遠隔地に住む人々など、状況的に疎外された人々の雇用機会を増やすことで雇用を拡大し、交通渋滞や交通事故の減少、交通インフラへの負担の軽減、温室効果ガスの削減、エネルギー使用量の削減、災害への備えの向上といったメリットがある。 企業にとっては、在宅勤務は人材プールの拡大、病気の蔓延の防止、不動産フットプリントを含むコストの削減、生産性の向上、二酸化炭素排出量とエネルギー使用量の削減、障害を持つアメリカ人法(ADA)への準拠と、米国人であれば税額控除を受けることができる手段となり、離職率と欠勤率の削減、従業員の士気の向上、事業継続戦略の強化、複数の時間帯にまたがるビジネスへの対応能力の向上、文化的適応力の強化といったメリットが有る。フルタイムのテレワークを導入することで、従業員一人当たり約20,000ドルのコスト削減になるという試算もある。 テレワーカーのうち、特に「在宅勤務」をしている人は、ワークライフバランスの改善、二酸化炭素排出量と燃料使用量の削減、年間15~25日分の労働時間(通勤に費やしていた時間)の解消、出張費と仕事関連のコストを年間数千ドル節約できることを実感することができる。働きがいのある仕事をしている人(40%)と、そうしたいと考えている人(79%)によるハーフタイムのテレワークによって、企業、地域社会、従業員において年間6,500億ドル以上を節約することができる。 在宅勤務は、1996年に「二酸化炭素と地上レベルのオゾン層のレベルを25%削減することを目的とした大気汚染防止法の改正が採択された」ことをきっかけに、米国で定着した。この法律では、従業員が100人を超える企業に対して、カープール、公共交通機関、時短勤務、在宅勤務を奨励することが義務付けられた。2004年には、特定の連邦政府機関において在宅勤務を奨励するための充当法案が議会で制定された。この法案は、資格のあるすべての従業員に在宅勤務の選択肢を提供できなかった機関から資金を差し引くと脅すものであった。 テレワーク対応の仕事を抱え、自宅で仕事をしたい米国の人口の40%のうち、労働時間の半分でそうした場合: 英国では、在宅で働く従業員の数を増やせば、英国の雇用者と従業員の年間30億ポンドのコスト削減による経済効果に加えて、毎年300万トン以上の二酸化炭素汚染を削減できると推定されている。 職務特性理論(英語版)によれば、職務特性と職務満足度の関係は中程度に強いことが示された。また、5つの仕事の特性のうち、自律性は仕事の満足度と強い関係があり、自律性が高いほど仕事の満足度が高くなることがわかった。テレワーカーは、仕事の柔軟性や自律性により、仕事の満足度が高くなっているのかもしれない。また、テレワーカーは、オフィスで働く労働者よりも高い満足度を持っていることがわかった。特に、従来の勤務時間外の勤務を許可され、家族のためにより柔軟に対応できるようになった場合には、自律性がテレワーカーの満足度を高め、仕事と家庭の衝突を減らすことがわかった。さらに、テレワークに費やす時間が増加した場合、従業員のエンゲージメント(英語版)が増加することは自律性によって説明できる。さらに、FlexJobsが3000人以上を対象に行った調査では、回答者の81%が、フレキシブルワークの選択肢があれば雇用主への忠誠心が高まると回答している。 在宅勤務は、従業員の生産性を大幅に向上させる方法として長い間推進されてきた。スタンフォード大学と北京大学の教授が中国の大手旅行会社の従業員242人を対象に実施した在宅勤務関連の実験では、無作為に割り当てられた従業員が9ヶ月間在宅勤務を行った場合、オフィスを拠点とする対照群と比較して13.5%の生産性の向上が見られた。このような生産性の向上は、通勤時間を節約したことで9%の時間分、労働が増加したことと、より静かな労働条件による3.5%の効率改善に起因している。この研究ではまた、在宅勤務者は仕事の満足度が有意に高く、離職率が50%近く低下したことも明らかになった。しかし、在宅労働者の昇進率は、明らかなパフォーマンスの低下により半分に低下しており、在宅勤務の潜在的なキャリアコストを示している。 テレワークの柔軟性は従業員にとって望ましい前提条件である。人材紹介会社のロバートハーフ・インターナショナルが1,400人のCFOを対象に行った2008年のロバートハーフ・インターナショナル財務採用指数では、13%がテレワークを現在の会計専門家にとって最高の採用インセンティブと考えていることが示されている。以前の調査では、33%がテレワークを最高の採用インセンティブと考えており、半数がテレワークを2番目に良いインセンティブと考えていた。 テレワークでは労働時間の規制が少ないため、従業員の努力や献身・貢献は、純粋にアウトプットや結果だけで評価される可能性がはるかに高くなっている。非生産的な労働活動(研究、自己訓練、技術的な問題や機器の故障への対応)や、失敗した試みのために失われた時間(初期の草稿、実りのない努力、失敗したイノベーション)の痕跡はあったとしても、雇用主にはほとんど認識されない。在宅勤務者にとっては、出来高払い、コミッション、またはその他の業績に応じた報酬も可能性が高くなる。さらに、コーヒー、水道、電気、通信サービスなどの単純なものから、オフィス機器やソフトウェアのライセンスなどの莫大な資本コストまで、従業員一人当たりの費用の大部分は、在宅勤務者自身が負担している。 このように、仕事に費やした時間は過小評価され、経費は過小に報告される傾向があり、生産性向上や節約のための数字が楽観的になりがちであるが、その一部または全部が実際には在宅勤務者の時間と財布から出ていっている。企業は一定の要件に該当する設備導入を行った場合、税制優遇が受けられる「中小企業経営強化税制」というものがある。 テレワーク導入を促進するため、デジタル化設備(C類型)が追加されている。優遇内容は、投資額の即時償却または特別控除を受けることが可能で、中小企業庁サイトで詳しく見ることが出来る。 国際的なファクトと経験から、テレワークは個人、雇用者、社会全体に幅広い利益をもたらすことがわかっている。テレワークは、ビジネスの遂行方法を変えることで、時間の経過とともに変化をもたらすことが可能になる。例えば、オーストラリアにおける2013年の調査によると、ナショナル・ブロードバンド・ネットワークによって可能になったテレワークは、2020年までに国内総生産において新たに83億ドルを追加し、さらに25,000人のフルタイム雇用に相当する雇用を創出すると予想されている。このうち約1万人の雇用がオーストラリアの地方で創出されることになる。環境面では、オーストラリアの従業員の10%が労働時間の半分をテレワークに当てると、1億2,000万リットルの燃料と32万トンの二酸化炭素排出量を節約できると試算されている。また、この割合でテレワークを行うと、年間14億ドルから19億ドルの生産性向上効果が得られることになる。 退職の意志(英語版)に関して、普通の労働者と比べるとテレワーカーの方が低い。仕事上の孤立感が大きいテレワーカーの退職の意志は、実際には低かった。ある研究では、目標、目的、期待を明確に伝えることで、フィードバックとタスク完結性が高まり、テレワーカーの退職の意志が低下し、仕事の質が向上したと報告されている。 ラビ・ガジェンドランとデビッド・A・ハリソンが行った、Journal of Applied Psychology誌に掲載された12,833人の従業員を対象とした46件の在宅勤務に関する研究のメタ分析の結果、在宅勤務は従業員と雇用主に大きなプラスの影響を与えることがわかった。ガジェンドランとハリソンのメタ分析研究では、在宅勤務は従業員の仕事の満足度、知覚された自律性、ストレスレベル、管理職の評価する仕事のパフォーマンス、仕事と家庭の低い葛藤に、ささやかではあるものの有益な効果があることがわかった。また、在宅勤務は退職の意志(仕事を辞めたいという意向)を減少させる。在宅勤務には、仕事の満足度の向上、離職意向の低下、役割ストレスの減少が見られたが、その理由の一部には、仕事と家庭の対立が減少したことが挙げられる。さらに、在宅勤務による自律性の向上は、仕事の満足度を向上させる。 在宅勤務によって従業員のキャリアが損なわれたり、職場の人間関係が損なわれたりするのではないかと懸念する学者や経営者は以前から多くいたが、今回のメタ分析では、職場の人間関係の質やキャリアの成果に一般的に有害な影響はないことが明らかになった。実際に在宅勤務は従業員と上司との関係に正の影響を与え、仕事の満足度と退職の意志との関係は上司との関係の質に一部起因していることがわかった。高強度の在宅勤務(週に2.5日以上在宅勤務)のみが、従業員と同僚との関係に悪影響を与えていたが、仕事と家庭の対立は減少していた。 技能多様性は仕事の内発的動機づけと最も強い関係がある。多様なスキルを使うことができる仕事は、内発的な仕事へのモチベーションを高める。テレワークの場合、チームワークの機会が限られていたり、多様なスキルを使う機会が少なかったりすると、仕事に対する内発的なモチベーションが低下する可能性がある。また、社会的孤立感もモチベーションの低下につながる可能性がある。なお承認欲求の日本人特有の表れ方が、テレワークへの適応を妨げているという指摘もある。職場環境や上司が近くにいないと、在宅勤務では、オフィス勤務よりもモチベーションを高める能力がより重要になると言える。オフィスでの仕事にも気が散ることはあるものの、在宅勤務はさらに気が散ることが多いとよく言われている。ある調査によると、気が散ることの第1位は子供で、次いで配偶者、ペット、隣人、弁護士の順となっている。また、適切な道具や設備がないこともひどい注意散漫につながるが、短期のコワーキングスペースをレンタルなどで利用すると軽減することができる。 対面での交流は、対人関係、つながり、信頼感を高める。そのため、2012年の調査では、テレワーカーの54%が社交的な交流を失ったと考え、52.5%が専門的な交流を失ったと感じている。テレワークは、テレワーカーと同僚の間の仕事上の関係を傷つける可能性があり、特に同僚がテレワークをしていない場合はそうである。テレワークをしない同僚は、自分もテレワークを認められていないと不公平だと考える可能性があるため、憤慨したり、嫉妬したりすることがみられる。しかし、在宅勤務に関するメタ分析では、対人行為や仕事上の孤立感が少ないにもかかわらず、在宅勤務者と同僚との関係や在宅勤務者と上司との関係が否定的であることを支持する結果は得られなかった。75%の管理職は従業員を信頼していると答えているが、3分の1は「念のため」従業員と会うことができるようにしたいと答えている。 在宅勤務をしている労働者は、自身は価値があると思われるために、より多くの成果を出さなければならないというプレッシャーを感じ、自分の仕事量が他の人より少ないという考えを減らすことができる可能性がある。このような成果を出さなければならないプレッシャーは、限られた同僚との関係や孤立感からくる社会的サポートの欠如と同様に、テレワーカーの仕事へのエンゲージメントの低下につながる。さらに、チームメイトとの質の高い関係は、テレワーカーの仕事への満足度を低下させ、テクノロジーを介した交流への不満が原因となっている可能性がある。しかし、チームビルディングのための同僚サポートやバーチャルなソーシャルグループは、仕事の満足度の向上に直接的な影響を与えていた。これは、チームワークによる技能多様性の向上と、より多くの人間関係によるタスク重要性の向上によるものと考えられている。 テレワークと満足度に関する一貫性のない所見は、より複雑な関係性によって説明できる可能性がある。おそらく、自律性の効果により、最初の仕事の満足度は在宅勤務の量が増えるにつれて上昇するが、在宅勤務が増えるにつれて、フィードバックとタスク重要性が低下し、仕事の満足度は横ばいになり、わずかに低下する。このように、在宅勤務の時間が、在宅勤務と仕事の満足度の関係に影響を与えていると考えられる。在宅勤務の継続的な拡大を阻む障壁としては、雇用主からの不信感や、従業員の個人的な孤立感が挙げられる。テレワーク環境下では、従業員や上司は同僚との関係を維持するために努力する必要が出てくる。また、会社の日々の活動からの孤立感が生じ、会社に起こっている他のことをあまり意識しなくなり、在宅勤務をしていない他の従業員からその従業員への嫌悪感が生じる可能性がある。在宅勤務は、「職場での仕事の代わりというよりは、補完的なもの」と考える人もいる。 セキュリティは、テレワーカーや非テレワーカーにも対応する必要がある。2006年には、アメリカ合衆国退役軍人省の職員のノートパソコンが盗まれ、「これまでで最大規模の社会保障番号の損失となる可能性がある」と報道された。当人の人物は在宅勤務者ではなかったが、この事件は職場から離れて働くことに内在するリスクが注目された。大企業のセキュリティ担当役員の90%は、在宅勤務はセキュリティ上の懸念事項ではないと感じている。これは、テレワーカーが受けるトレーニングやツール、技術が不足しているため、テレワーカーではない人がオフィスから持ち出してくる稀な仕事の方を気にかけている。職務特性理論に関する他の研究では、仕事のフィードバックは、他の仕事の特性と比較して、全体的な仕事の満足度と最も強い関係があるように思われる。テレワーク中のコミュニケーションは、対面でのやりとりのように即時性や豊かさはない。テレワーク時のフィードバックの少なさは、仕事への関与度の低さと関連している。このように、知覚された上司のサポートやリーダーとテレワーカーの間の関係の質が低下すると、テレワーカーの仕事の満足度は低下していく。管理職とテレワーカーとのコミュニケーションの重要性は、管理職がテレワークをすると個人の仕事への満足度が低下することがわかった研究で明らかになっている。 日本ではテレワーク時にセキュリティに気を付けていない人の割合が61.7%という調査結果も出ている。。 管理職は、最初の数ヶ月間はテレワーカーの生産性が低下していると考える可能性がある。この生産性の低下は、「従業員、同僚、マネージャーが新しい仕事の様式に慣れる」段階で生じる。生産性の低下は、不適切なオフィス環境が原因である可能性もある。さらに、1999年の調査では、「通常のオフィスでは1日のうち70分が、中断されたり、コピー機の周りでしゃべったり、その他の気晴らしによって無駄にされている」ということがわかっている。2008年の調査によると、雇用主の3分の2以上が在宅勤務者の生産性向上を報告している。従来のラインマネージャーは、観察によって管理することに慣れており、必ずしも結果によって管理する必要はない。このため、在宅勤務を導入しようとする組織では、重大な障害となっている。また、責任や労働者災害補償も深刻な問題になる可能性がある。仕事のパフォーマンスや欠勤など、仕事の側面と仕事の成果との関係が弱いことが、パフォーマンスとテレワークに関する結果が矛盾している理由である可能性がある。いくつかの研究では、テレワークが労働者の生産性を向上させ、上司の業績評価や業績評価の向上につながることが明らかになっている。しかし、別の研究では、テレワークをしている人の職業的な孤立感が、特にテレワークに費やす時間が長く、対面での交流が少ない人の仕事のパフォーマンスの低下につながっていることがわかっている。このように、仕事に対する態度と同様に、テレワークに費やす時間もテレワークと仕事のパフォーマンスの関係に影響を与える可能性がある。 テレワークは、その人のキャリアに悪影響を及ぼすこともある。71カ国の1,300人の経営者を対象にした最近の調査では、テレワークをしている人は昇進する可能性が低いと回答した経営者は考えていることが示されている。企業は、一貫して仕事ぶりを見られていない人を指導的役割に昇進させることはほとんどない。監督不足による先延ばしが続くことによる生産性の低下は、その従業員の仕事の質の低下につながる。これらの要因は、テレワークがその人のキャリアに与える悪影響の一部である。 テレワークや在宅勤務の詐欺は非常に一般的で、これらの求人の多くは、在宅で仕事をしながら「早く一攫千金」ができると主張する詐欺である。実際、これらの詐欺の多くは、前もって投資をしなければならず、最後には見返りはない。この問題は、2006年に米国連邦取引委員会(FTC)が偽のビジネスチャンスと在宅ワーク詐欺を標的とした連邦および州の法執行機関による掃討機関「プロジェクト・フォルス・ホープス(Project False Hopes)」を設立したほど蔓延している。この取り締まりには、FTC、司法省、米国郵政検査局(英語版)、11州の法執行機関による100件以上の法執行措置が含まれている。FTCのデボラ・プラット・マジョラス会長は、「偽のビジネスチャンスは、経済的自立というアメリカ人の夢を踏みにじるものだ」と述べた。「ビジネスチャンスは、リスクがなく、少しの努力で、大きな利益を約束している場合、それはほぼ確実に詐欺です。これらの詐欺は、どれだけ時間とお金を投資しても、消費者が約束したような豊かさや経済的自由を手に入れることができない、お金の落とし穴を提供しているに過ぎません」。FBIは2009年2月にも、このような詐欺について警告している。 「在宅ワーク」という単語で検索した結果、300万件以上のウェブエントリーのうち、95%以上が詐欺、詐欺へのリンク、またはその他の行き止まりであった。在宅ワーク詐欺は加害者に年間5億ドル以上の収入をもたらし、在宅ビジネス詐欺はさらに年間2億5000万ドルの収入をもたらしている。詐欺がないと謳っているサイトでも、詐欺にリンクする広告が掲載されていることがよく見られる。StaffcentrixのCEOであるクリスティン・ダーストによると、インターネット上の在宅ワークの求人情報の中には、48対1の割合で詐欺と合法的な求人情報が存在するという。 新型コロナウイルス感染症の流行に関連して、毎日新聞は2020年4月26日、「在宅勤務求める妊婦に『特別扱いできぬ』 新型コロナが浮き彫りにする職場の意識」との見出しで、妊娠中の肺炎には重症化の可能性も指摘され、政府は経済団体に配慮を要請したが、「特別扱いできない」とこれまで通りの勤務を求める職場も多いと伝えた。専門家は「各職場の働き方改革に取り組む姿勢が浮き彫りになっている」と指摘している。 同記事によると、ある銀行で働く妊娠中の30代女性は、感染リスクを下げるため顧客対応の少ない担当への配置転換か休職ができないか上司に相談したところ、「あなたの後任の同僚がコロナにかかってもいいということ?」と返答されて言葉を失った。女性は「同僚が感染してもいいなんて考えているわけがない。ただ、もし赤ちゃんに悪影響があったら......」と不安を吐露する。しかし、「長くここで働きたいので、人間関係を考えると無理は言えない」と途方に暮れると言う。 2020年9月に出産予定の20歳代小学校教員は同年4月上旬、事務作業を自宅でできないか上司に相談したところ、「特別扱いはできない」と拒否された。前月・3月末には管理職ら数人が夜の会食をしており「感染防止の意識が低く、同じ部屋で働くことが苦痛だった」と明かす。緊急事態宣言が出された2020年4月7日以降は職場全体で在宅勤務が認められたが、同年5月に学校が再開されると電車で1時間かけて通うことになるとも伝えられた。また、共同通信は2020年6月に「妊婦の約4割が在宅ではなく出勤を主とする働き方をしている」ことが、民間企業によるアンケート調査で分かったと伝えた。医療従事者に限ると6割を超えたと言う。同ニュースではアンケートの結果、勤務態勢が「出勤、出勤が多め」と答えた全体の約4割のうち、フルタイムで働く人は約29%と最多で、時短勤務は約6%、パート・アルバイトは約4%。医療従事者ではフルタイムが4割以上だったであるとも伝えられている。 日本でのテレワークの区分として、雇用関係の有無がある。企業や官公庁に雇用され、在宅勤務などを行う「雇用型」と、フリーライターやSOHOなどの「自営型」、あるいは「非雇用型」は、広く使われる区分である。また、国土交通省のテレワーク人口実態調査では、情報通信機器等を利用し仕事をする時間が1週間当たり8時間以上の者を「狭義のテレワーカー」、それ以外を「広義のテレワーカー」としている。また、佐藤彰男は雇用型、非雇用型を在宅勤務、モバイルワーク、SOHO、在宅就業に分けることができる、としている。それぞれの概要は以下のとおり。 また、総務省では上記に付け加えて、施設利用型勤務を定義している。 国土交通省が行った平成17年度(2005年度)テレワーク実態調査によれば、2005年時点で日本には狭義のテレワーカーが674万人いる。政府は2003年7月策定の「eJAPAN戦略II」で、2010年に日本の労働人口の2割をテレワーカーにする目標をかかげている。 一方で、この数字は過大であるという指摘もある。一例として、「調査は本人の自覚によらず定義に当てはまるかで判断しているため、例えば週に8時間以上自宅へ持ち帰り残業を行えばテレワーカーとなる」(佐藤、2008)を挙げる。 日本は通勤者のための公共交通機関網が他国と比較して広範囲に発達していることや、企業の人事評価制度の問題などから、2019年までの日本ではテレワークの普及が遅れていたが、2019新型コロナウイルス (SARS-CoV-2) の感染が世界的に拡大する中、2020年4月7日に東京都などで、改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出されると、人との接触機会が多い満員電車の解消などのため、テレワークが推奨された。準備期間はほとんどなかったにも関わらず、テレワークに切り替える会社も相次いだ。単純な解雇や自宅待機者も含まれるため全てがテレワークによる減少とは限らないものの、丸の内や八重洲など比較的大企業のオフィスが周辺に存在する東京駅の利用者は、朝7時台47.8%減、8時台67.7%減となった。 テレワークを企業が導入するにあたっては、テレワークソリューション、労務管理、執務環境の3つの側面から検討することが必要。特に在宅勤務の場合、パソコンの画面をずっと見て仕事をすることが多い為「VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン」に留意した執務環境が必要である。 総務省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省、内閣官房、内閣府では、東京都及び経済界と連携し、2020年までの毎年、東京オリンピックの開会式が予定されている7月24日を『「働く、を変える日」テレワーク・デイ』とし、企業等による全国一斉のテレワーク実施を呼びかけている。 2020年8月、K-51インターナショナルがオーダースーツ購入経験のある20代~50代の男性を対象に、「新型コロナとオーダースーツ」に関する調査を実施。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の発令や外出自粛要請を受けて、リモートワーク(テレワーク)という働き方が急増したが、スーツ着用が『かなり減った(38.5%)』、『少し減った(24.0%)』『変わらない(18.0%)』『全く着なくなった(18.0%)』『かなり増えた(1.0%)』『少し増えた(0.5%)』の回答を得た。しかし、重要な会議や商談などではビデオ会議やWEB商談でも8割以上が『はい(81.8%)』(着用)と回答した。 厚生労働省は2018年(平成30年)2月に「情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン」を策定し、さらに新型コロナウイルス感染症対策として、非常に多くの企業でテレワークが実施されることになったことを踏まえ、2021年(令和3年)3月に「テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン」を策定した(令和3年3月25日基発0325第2号/雇均発0325第3号)。同ガイドラインによって使用者にはテレワークのルールの策定と周知が求められ、具体的には以下のとおりである。 企業では、タブレットやラップトップなどのリモートデバイスからアクセスできる社内アプリケーションへのアクセスをテレワーカーに提供することがよくある。これらのデバイスは、従業員の間で人気が高まっているが、基礎となるOSが異なるため、さまざまな互換性の問題がみられる。しかし、デスクトップ仮想化、特にリモート・デスクトップ仮想化を利用することで、モバイル・デバイスからレガシー・アプリケーションやOSにアクセスすることができる。 2000年以降、米国連邦法(運輸省および関連省庁歳出法)では、各行政機関に対し、対象となる従業員が可能な限り在宅勤務に参加できるよう、従業員のパフォーマンスを低下させない限り、在宅勤務に関する方針を定めることを義務づけている。つまり、連邦法は、各機関がテレワーク・プログラムを確立しなければならないことを義務付けているが、個々の従業員にテレワークをする法的権利は与えられていない。 もし、フルタイムでテレワークを行う資格のあるスベテ連邦政府職員がテレワークに移行すれば、連邦政府は年間139億ドルの通勤コストの削減を実現し、毎年9ポンド(4キロ82グラム)の環境汚染物質を削減することができる。2007年の出来事により、米国連邦政府にとって重要な測定値として、テレワークが前面に押し出された。 テレワークは、事業の継続性(COOP)や国家的なパンデミック対策の計画、外国産石油への依存度の低下やガス価格上昇の負担の軽減、国防軍基地閉鎖・再編委員会(BRAC)、職員の採用と定着への焦点などに関連している。 2007年9月12日に開催されたテレワーク交流タウンホールミーティングの基調講演の中で、当時のアメリカ共通役務庁(英語版)長官であったルリタ・ドアン(英語版)は、機関のテレワーク参加率を高めるための積極的なコミットメント目標を発表した。ドアンの課題は、2010年までに対象となる機関職員の50%が週1日以上のテレワークを可能にすることであった。2007年現在、対象となるGSA職員の10%がテレワークを行っているのに対し、連邦労働者全体では4.2%となっている。ドアンの目標は、2008年末までに20%、2009年末までに40%、そして2010年までに最終的に50%にすることであった。 2007年のアメリカ国立科学財団職員を対象とした調査では、約3分の1がテレワークに定期的に参加しており、職員はこのプログラムに満足しており、テレワークの結果、職員の時間と温室効果ガスの排出量が節約されたと指摘されている。サーベンス議員(D-MD)は、2009年3月に「2009年テレワーク改善法」を提出した。この法案の共同提案者には、コノリ(D-VA)議員が含まれている。コノリ(D-VA)、ウルフ(R-VA)、カピト(R-WV)が法案の共同提案者となった。この法案は、各行政機関が、従業員の業績や行政機関の運営を低下させることなく、可能な限り最大限に従業員にテレワークを認める方針を定めることを求めている。同時に、米国上院で、アカカ上院議員(D-HI)は、ランドリュー上院議員(D-LA)とヴォイノビッチ(R-OH)とともに、同法案を提出した。 2010年5月24日、アメリカ上院は、ダニエル・アカカ(ハワイ州)とジョージ・ヴォイノビッチ(オハイオ州)の両上院議員が提唱するテレワーク強化法(S.707)を可決した。この法案は、連邦職員にテレワークを行う資格を与え、連邦政府機関がテレワーク方針を定め、テレワーク・マネージャーを特定することを要求している。2010年7月14日、下院は「2010年テレワーク改善法」(H.R.1722)を290-131で可決した。米国上院は2010年9月29日に全会一致で法案の最終版を可決し、下院は2010年11月18日に254-152の超党派投票で可決した。2010年12月9日、オバマ大統領は、2010年のテレワーク強化法(H.R.1722)に署名を行った。2012年のテレワーク強化法は、米国の機関が従業員に実行可能なオプションとしてテレワークを提供するための枠組みを提供した。テレワークを行う従業員の数を増やすテレワーク強化法の主な目的は次の3つで、(1)業務の継続性の向上、(2)経営の有効性の促進、(3)ワークライフバランスの強化である。 「連邦政府における2012年のテレワークの状況(The 2012 Status Telework in the Federal Government)」では、過去18ヶ月間のテレワークのハイライトと、今後のテレワーク改善の目標が掲載されている。データセルに参加している87の機関すべてがテレワーク政策を策定し、政策の73%がテレワーク法の要件を満たしていることが報告されている。68万4,000人以上の連邦職員がテレワークの資格があるとみなされ、これは全連邦職員の約32%に相当する。144,000人以上の連邦職員が、所属機関との間でテレワーク協定を結んでいた。在宅勤務者の27%が週に3日以上遠隔勤務していた。この調査結果に加えて、報告書は国防総省でのテレワークについても調査している。報告書によると、国防総省には79万3,000人以上の職員がおり、そのうち13万4,877人がテレワークの対象とみなされている。全体的に見て、連邦政府はテレワークを受け入れているようで、従業員のためのリモートワークの機会をより多く作ろうとしている。最後に、報告書では、政府がテレワークを通じてより多くの仕事を提供できるようにする方法をいくつか挙げている。その中には、定年間近の従業員を維持するためのツールとしてテレワークを利用することや、高度な訓練を受けた障害のある退役軍人の雇用を拡大するためにテレワークを利用することなどの提案が含まれている。 テレワークセンターは、一般的に車で移動したり、公共交通機関を利用したりする人が多い場所の近くに設置されているオフィスである。通常は、生産性を最大限に高めるために、オフィス設備や高速インターネット接続を完備している。中には、受付や管理者などのサポートスタッフを配置しているところも見られる。例えば、ワシントンの首都圏には、メリーランド州に7カ所、バージニア州に8カ所、ワシントンD.C.に3カ所、ウェストバージニア州に1カ所のテレワークセンターが設置されている。テレワークセンターは、通勤時間を短縮しながら、従来のオフィス環境で仕事をすることができる。テレワークセンターの中には、個々の企業が設立したものもあれば、多くの組織が利用するために独立した組織が設立したものも存在する。また、テレワークセンターは、自宅で仕事をするスペースがない人や、自宅で仕事をする気がない人には魅力的なものである。そして、雇用主に労働力のためのより正式な構造を維持する能力を提供している。 このようなワークアレンジメントは、サービスのカスタマイズや仮想的な組織化へと向かう現在の傾向に伴い、より一般的になる可能性が高くなっている。分散型ワークは、コスト削減、競争上の優位性と敏捷性の強化、希少な人材へのアクセス、従業員の柔軟性、有効性、生産性の向上など、企業にとって大きな可能性を提供している。それは欧米、特にヨーロッパで人気を得ている。重要性は増加しているが、分散型ワークはアジアではまだ広く受け入れられていない。 リモートオフィスセンター(英語版)(ROCs)は、複数の企業から個人にオフィスを貸し出す分散型のセンターである。リモートオフィスセンターでは、プロ仕様のネットワークアクセス、電話システム、セキュリティシステム、メールストップ、オプションサービスなどを追加料金で提供している。ROCは一般的に、人口集中地域全体の人々が住んでいる場所の近くに位置しているため、労働者は数マイル以上の距離を通勤する必要がない。在宅勤務者は実際のオフィスで仕事を行うが、従来の在宅勤務と同様にVPNを利用してインターネットを介して会社のネットワークにアクセスする。 このタイプの在宅勤務は、在宅勤務のメリットを十分に享受することはできないが、在宅勤務ができない、またはしたくないという従業員のニーズに対応することが可能である。 安全ではないコンピュータやネットワーク接続から情報を盗むことを生業とするハッカーにとって、テレワーカーは組織の最も機密性の高いデータへ扉を開くことになる可能性がある。セキュリティとプライバシーは、技術者が作成できるあらゆるセキュリティ対策の一歩先を行くハッカーの能力のおかげで、最近ではますます希少価値の高いものとなっている。セキュリティ侵害は、標準的なオフィス環境では十分に大きな脅威であるが、在宅勤務や外出先で働く従業員がいる組織では、そのリスクはさらに大きなものとなる。 データ保護と情報セキュリティが組織にとって重要であり、機密データ保護という全体的な目標を達成するためには、従業員の行動が重要であることをテレワーカーに伝えることが組織にとって重要である。セキュリティ問題に対する意識の向上とトレーニングを行っているにもかかわらず、多くの従業員がセキュリティリスクを抑止するために必要な予防措置を講じていないのが現状である。 真のセキュリティは、セキュリティポリシーから始まるものである。情報セキュリティの専門家は、セキュリティポリシーが在宅勤務/テレワーク、そして誰がテレワークをすることができるか、テレワークをする人が利用できるサービス、情報の制限、本人確認/認証/認可、機器とソフトウェアの仕様、完全性と機密性、メンテナンスガイドライン、および堅牢なユーザー教育をカバーしていることを確認しなければならないとされている。 ニューヨーク・タイムズの記事によると、在宅勤務は現在アメリカの労働力の約2.6%を占めており、ドライバーなどのリモートワークは含まれていないという。記事では、スタンフォード大学の経済学教授であるニコラス・ブルームの実験についても言及されている。この実験では、250人の労働者が中国の大手旅行会社であるCtripからランダムに選ばれ、自宅かオフィスのどちらかで働くことになった。その結果、在宅勤務をしている人の方が、オフィス勤務をしている人よりも長時間勤務していることが判明した。在宅勤務者はまた、より生産性が高く、より幸せな生活を送っていた。Ctripは在宅勤務で約2Kを節約した。なお、在宅勤務者の退職率は低下したが、昇進率も低下した。在宅勤務者の多くは、孤独感や昇進願望などを理由に、最後にはオフィスに戻ることを求めていた。Global Workplace Analyticsの社長であるケイト・リスターは、ほとんどの労働者が在宅勤務とオフィスワークの併用を好むという結論に達した。在宅勤務は効率性を高め、労働者の柔軟性を高めるものである。 アメリカは経済性が高く、マルチメディアサービスも充実しているため、テレワークを利用する傾向が高まっている。在宅勤務を好む国トップ10の中では米国が1位であるが、中国などの発展途上国もこの傾向に追いついてきている。money.163.comの記事によると、アジア太平洋地域の在宅勤務者数は、アメリカ、ヨーロッパ、中東、アフリカなどの地域を上回っている。アジア太平洋地域の在宅勤務者数は約37%、その他の地域では約23~4%となっている。 なお、すべての労働者が在宅勤務をする機会があるわけではない。在宅勤務の倫理的な問題の一つは、誰に在宅勤務の機会を与えるべきかということである。ある人は、幼い子供がいるので、自宅で仕事をする機会が多いかもしれないが、もう一人は個人的な問題を抱えていると言い出すこともある。そして、在宅勤務とオフィスワークを両立させることは、多くの労働者に好まれている。多くの人は、週に1~2回の在宅勤務が妥当なスケジュールだと考えている。企業もまた、労働者の満足度が高く、企業がコストを節約できるため、この提案を支持している。 アナリストは、現在進行中の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) の世界的流行が在宅勤務の「転換点」になる可能性を示唆している。シアトルでは、マイクロソフト、アマゾン、フェイスブック、グーグルが従業員に在宅勤務を義務付けている。また、流行の結果として在宅勤務が増加することでアメリカではインターネットへのアクセス権(英語版)が拡大する可能性があると示唆する声もある。 コワーキングとは、独立して仕事をしている人たちが、同じ空間で働くことで生まれる相乗効果はもちろんのこと、共通の作業スペースを共有することで生まれる社交的な集まりのことである。 コワーキングの施設は、フォーマルなオフィスの共有スペースから、コーヒーショップのような社交場まで様々なものがある。起業家や社会起業家は、ビジネスインキュベーターやシードアクセラレーターの組織が提供する共有オフィスやワークショップ施設でコワーキングを行うことが多い。 起業家にとってコワーキングは、創造的な起業家、研究者、ナレッジワーカーが出会い、アイデアを共有し、共同作業を行い、新しい研究を共有し、潜在的なパートナーを見つけることを可能にしている。 分散型ワークとは、従来のオフィスやワークスペースの枠を超えた場所での組織的な仕事の遂行を意味している。これは、情報通信技術を利用して、自宅や顧客先などの適切な場所で、ワーカーがより効果的に仕事を行うことを可能にしたり、要求したりする組織的な仕組みを指す。 例えば、ファイナンシャルプランナーが顧客の職場で顧客のランチタイムに顧客と会う場合、これはオフィス外でのミーティングであるにもかかわらず、インターネットを利用してファイナンシャルプランナーはモバイルコンピュータでファイナンシャルプランニングツールやプレゼンテーションを提示することができる。 もう一つの例としては、出版社の役員が、Eメールやオンラインシステムを使って、自宅から図書館や大学教授に本を勧めたり、最新の書籍の注文をしたりしている。このような分散型の仕事が、労働者の通勤時間を置き換える場合は在宅勤務とみなされ、そうでない場合はテレワークとなる。 特に社員が外出先や遠隔地で長時間を過ごす企業では、本社の一時的な従来のオフィスやキュービクル(英語版)、会議室、遠隔地のオフィスセンター(英語版)、その他のシェアオフィス施設を予約して利用できるホットデスク(英語版)やホテリング(英語版)を提供している企業もある。 ホームワーカー、あるいは在宅勤務者とは、国際労働機関(ILO)によって、雇用者が指定した製品やサービスの結果として生じる賃金の支払いのために、自宅または職場以外の任意の場所で働く人々と定義されている。 世界には推定3億人の在宅労働者がいるとされているが、これらの労働者は一般的に非公式経済で機能しており、登録も契約もされていないことが多いため、正確な数を把握することは難しい。 最近では、通信技術の向上、サプライチェーンの変化、特にジャストインタイムの在庫システムの開発などにより、在宅ワークの現象が拡大している。ホームワーカーは、ピースワーク(英語版)で雇用されることが多い。 ホームワーカーは、起業家や自営業者、ファミリービジネスとは異なり、企業に雇われて自宅から特定の活動やサービスを行うという点が特徴である。ホームワーカーは、自身が働いているビジネスを所有したり、運営したりすることはない。高度なスキルを持つ在宅ワーカーは、特に情報技術の分野ではかなりの数にのぼるが、ほとんどの在宅ワーカーは低スキル労働者とみなされている。最近では、在宅勤務者の労働条件が悪化しており、国際開発組織や非政府組織の懸念事項となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "テレワーク(英: telework)あるいはテレコミューティング(英: telecommuting)とは、勤労形態の一種で、情報通信技術(ICT、英: Information and Communication Technology)を活用し時間や場所の制約を受けずに、柔軟に働く形態をいう。「tele = 離れた所」と「work = 働く」をあわせた造語。在宅勤務(WFH)、モバイルワーク(英: mobile work)、リモートワーク(英: remote work)、フレキシブルワークプレイスとも呼ばれる。また、テレワークで働く人をテレワーカーと呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "テレコミューティングは、1970年代に、電気通信および関連する情報技術を移動の代わりに使用する業務関連の代替を意味する言葉として脚光を浴びるようになった。21世紀のテレワーカーは、多くの場合、Wi-Fiを搭載したラップトップデバイスやタブレット型コンピュータ、スマートフォンなどのモバイル通信技術を使用してコーヒーショップから仕事をしている。ロイターの世論調査によると、「世界中の労働者の約5人に1人、特に中東、ラテンアメリカ、アジアの従業員は頻繁に在宅勤務をしており、10%近くが毎日自宅で仕事をしている」。2000年代には、一部の組織では、年休や休暇は仕事をやめるのではなく、職場を休むこととみなされており、一部のオフィス従業員は休暇中も仕事のメールをチェックし続けるためにテレワークを利用していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年代には、テレワークがポップカルチャーの注目の的となった。1995年には、「仕事はあなたがすることであり、旅行することではない(work is something you do, not something you travel to)」という標語が作られた。この標語のバリエーションには、「仕事は私たちが行うことであり、旅行先ではありません(Work is something we DO, not something you travel to)」、「仕事は私たちが行うことであり、私たちがいる場所ではない(Work is what we do, not where we are)」というものがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "テレワークは、さまざまな企業、政府、非営利団体で採用されている。組織はコスト削減のためにテレワークを利用することもある(テレワークの従業員はオフィスや作業スペース(英語版)を必要とせず、スペースを借りたり購入したりする必要があり、照明や空調などの追加コストが発生する)。テレワークを導入することで、通勤時間や渋滞に巻き込まれる時間を減らすことができるため、社員の生活の質を向上させるためにテレワークを導入している企業もある。これに加えて、テレワークを導入することで、労働者は仕事の責任と私生活や家族の役割(子供や高齢の両親の介護など)とのバランスを取りやすくなることができる。テレワークは渋滞や大気汚染を軽減し、道路上の車の数を減らすことができるため、環境上の理由からテレワークを採用している組織もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「在宅勤務」と「テレワーク」は1973年にジャック・ニールズによって造語された。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "専門的な文脈では「在宅勤務の専門家」とされる在宅で勤務をする者は「在宅勤務者」、「テレワーカー」と称される。また「自宅勤務者」と呼ばれることもあるように、多くは自宅で仕事をするが、「ノマドワーカー」と称されるようなコーヒーショップなどの遠隔地で仕事をする者もいる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "特にテレワークには以下の区分がある", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1、中央集権的な職場以外の自由な勤務地", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2、技術的にサポートする情報通信技術の利用", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "3、従来の職場で置き換えられていた時間配分", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "4、雇用主と被雇用者の雇用関係の多様性(契約労働から従来のフルタイム雇用まで)", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "狭義で在宅勤務とは勤務地であるオフィスが維持された状態で、週1日から3日、ブロードバンド接続、コンピュータや電話回線その他の電子メディアを介して通勤時間を短縮できる場所で仕事をすることを指し、これを含む広い概念として配置された作業スペースの外で行われるあらゆるテクノロジーを利用した仕事(自宅で行われる仕事、外線通話などを含む)は、テレワークとみなされる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2012年の推計では、5,000万人以上の米国の労働者(労働人口の約40%)が、少なくとも一部の時間は自宅で仕事ができるとされているが、2008年には自営業者を除いて、自宅を主な仕事場と考えている従業員は250万人にすぎなかった。2010年に「主な仕事で」自宅で仕事をしたと報告された従業員の数は940万人(労働人口の6.6%)と報告されているが、この数には自営業者も含まれている可能性がある。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2017年現在、約370万人の従業員が労働力の2.8%を占め、少なくとも半分の時間は自宅で仕事をしているとGlobal Analytics Workplaceは報告している。在宅勤務のフルタイムスタッフを大量に雇用している企業はほとんどないが、コールセンター業界(英語版)は顕著な例外で、米国のいくつかのコールセンターでは数千人の在宅勤務者を雇用している。多くの従業員にとって、在宅勤務の選択肢は従業員の福利厚生として提供されているが、ほとんどの従業員が在宅勤務を行っているのはごく一部の時間に過ぎない。テレワークの中で最も高給取りなのは在宅勤務の医師と放射線技師で、米国労働統計局の報告によると、医師の週収は中央値1,975ドルに近い収入を得ているとされており、6桁の収入のある仕事となっている。研究によると、自宅で仕事をする労働者は、最大で30%も収入が減り、生産性が高まった経験をしたいと考えているという。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2009年、アメリカ合衆国人事管理局(英語版)は、約10万3,000人の連邦政府職員がテレワークを行っていると報告している。しかし、週に3日以上在宅勤務をしている人は14,000人に満たない。2012年1月、ロイターは、Ipsos/Reutersの世論調査をもとに、在宅勤務は「可能であればフルタイムで在宅勤務する可能性が非常に高いと回答したコネクテッドワーカーの34%が、今後も継続すると思われる傾向にある」と予測している。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2010年12月9日、米国連邦政府は、業務の継続性を向上させ、緊急時にも連邦政府の重要な機能が維持されるようにするため、テレワークを利用して組織や交通費、環境への影響を削減し、労働者のワーク・ライフ・バランスを向上させるテレワーク強化法を2010年に可決した。例えば、テレワークを利用することで、従業員は仕事や家族の義務をより適切に管理することができ、その結果、より回復力のある連邦政府の労働力を維持し、機関の目標を達成することができるようになる。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2013年9月に発表された「2013 Regus Global Economic Indicator」の調査結果によると、世界のビジネスマネージャーの48%が週の半分以上をリモートで仕事をしていることが明らかになった。この調査は、90カ国26,000人以上のビジネスマネージャー(英語版)を対象としたもので、回答者の55%がリモートワーカーの効果的な管理を達成可能な目標と回答している。結果発表後、リージャスのCEOマーク・ディクソンは次のように述べている。「私たちが話すビジネスパーソンは、信頼と自由がリモート管理の重要な役割を果たしていると言っていますが、これらが導入されれば、生産性の向上、スタッフの定着率の向上、運用コストの削減などのメリットは誰の目にも明らかです」。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "フォレスター・リサーチが行った米国テレワーク予測によると、3,400万人のアメリカ人が在宅勤務をしており、その数は2016年までに6,300万人、つまり米国の労働力の43%に達すると予測されている。シスコは、従業員に在宅勤務やテレワークを認めることで、年間2億7,700万ドルの生産性の向上を実現していると報告している。また、米国のソフトウェア会社・イントゥイットのレポートによると、2020年までにアメリカの労働力の40%以上、つまり6000万人がフリーランサー、契約社員、派遣社員になるという。英国では、2007年から2012年の間に、通常は自宅で仕事をする従業員の数が13%増加し、50万人近くにまで増えており、英国の労働人口3000万人のうち、400万人以上の従業員が働いていることになる。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "在宅勤務のルーツは、1970年代初頭の技術にある。当時は電話回線をネットワークブリッジとして使用したダム端末を使って、サテライトオフィスと都心のメインフレームをリンクさせた。後に継続的かつ指数関数的にテレワークのコストが低下し、同時にパソコンの性能と使いやすさが向上したことで、オフィスを自宅に移す道が開かれていった。", "title": "テクノロジー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年代初頭までには、支店や在宅ワーカーは、パソコンや端末エミュレーションを使って組織のメインフレームに接続することができるようになった。テレワークは、コラボレーティブソフトウェア、仮想プライベートネットワーク、電話会議、ビデオ会議、バーチャルコールセンター、Voice over IP (VOIP)、バーチャルオフィス (ソフトウェア)などのツールや、高品質のノートパソコンの低価格化によって促進されている。ブロードバンド・インターネットは、労働者が長距離の通信を可能にし、移動時間とコストを大幅に節約できるため、企業にとって効率的で有用なものとなる。ブロードバンド・インターネット接続が一般的になるにつれ、自宅でこれらのツールを使用して企業のイントラネットや社内電話ネットワークに接続するための十分な帯域幅を持つ労働者が増えてきている。", "title": "テクノロジー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ローカル・エリア・ネットワークの採用により、リソースの共有が促進され、クライアント・サーバ・モデルのクライアント・サーバ・コンピューティングにより、さらに大きな分散化が可能になった。今日では、在宅勤務者はノートパソコンを持ち歩くことができ、オフィスでも自宅でも、ほぼどこでも利用することができる。クラウドコンピューティング技術とWi-Fiが利用できるようになり、持ち運び可能なハードウェアとソフトウェアを組み合わせてリモートサーバにアクセスすることが可能になった。さらに、技術の向上と普及に伴い、スマートフォンはテレワークにも広く使われるようになってきている。スマートフォンは、労働者の移動性と組織との連携の度合いを大幅に向上させる。携帯電話やパーソナルデジタルアシスタント、パーソナルデジタルアシスタント(PDA)デバイスの技術は、テキストメッセージ、カメラの写真、ビデオクリップを介して、いつでもどこからでもインスタントコミュニケーションを可能にする。", "title": "テクノロジー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コミュニケーションのための技術は、対面でのオフィスでのやりとりを再現できるほどには進歩していない。つまり、コミュニケーションの失敗が増える可能性がある。メディアリッチネス理論(英語版)によると、対面でのコミュニケーションは、豊かな情報を処理する能力を備えている。これは、曖昧な問題を明確にすることができ、即時にフィードバックを提供することができ、個人に適したコミュニケーション(ボディランゲージ、声のトーンなど)があるということである。在宅勤務では、電話や電子メールなど、さまざまなタイプのメディアを使用してコミュニケーションをとる必要がある。そして、電子メールにはタイムラグがあり、すぐにフィードバックを得ることができない。また、電話での会話では、電話の相手やチームの感情を推し量ることが難しくなる。このように、典型的な組織のコミュニケーションパターンは、在宅勤務では変化する。例えば、コンピュータ会議を利用したコンピュータ媒介型コミュニケーションを使用しているチームは、対面式のグループよりもグループの意思決定に時間がかかる。", "title": "メディアリッチネス理論" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "労働者は、コミュニケーションを行うにあたって、対面でのやりとり、電話での会話、対面での部門会議に満足する傾向が見られるが、電子メールやインターネットはコミュニケーションの満足度を高めない。ある研究では、チーム内のバーチャルワーカーは、対面のオフィスでのコミュニケーションよりもテクノロジーを媒介としたコミュニケーションに満足していたという結果が出ているが、このことから、テレワークは対面のコミュニケーションに比べて「豊かなコミュニケーション」の要素を持っていない可能性があることが示唆されている。", "title": "メディアリッチネス理論" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "在宅勤務のメリットとデメリットのいくつかは、仕事の特徴やタスクそのものが従業員の仕事に対する態度や行動に影響を与えるという職務特性理論(英語版)によって説明することができる。仕事に5つの特性(技能多様性、タスク完結性、タスク重要性、自律性、フィードバック)があれば、その仕事に就いている従業員は、仕事に対する内発的なモチベーション、自己成長の機会に対する満足感、仕事に対する全般的な満足感、仕事のパフォーマンスの向上、欠勤や離職の減少などを経験することになると考えられている。多くの研究で、仕事の特性が従業員の行動や態度に影響を与えるという根拠が示されている。さらに、職務特性は個人差と相互作用して、労働者の態度や行動に影響を与える。これら5つの職務特性のうち、テレワークは特に対面での仕事と比較して自律性とフィードバックが変化するため、従業員の行動や態度に影響を与える可能性がある。職務特性理論によれば、自律性とフィードバックの変化は、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の変化よりも、仕事の行動や態度に影響を与えるとされている。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "自律性は経験豊富な責任に影響を与え、仕事が自由、独立性、スケジュールの柔軟性をもたらしている場合、その人は自分の仕事の結果に責任を感じるはずである。テレワークは、オフィスの外にいることで労働者に多くの選択肢を与えてくれるので、スケジュールの柔軟性と自由をもたらす。テレワーカーはオフィスでのルーチンに固執する必要はなく、一日のうちのさまざまな時間帯に仕事を移すことが可能である。テレワークによって、従業員は最高の仕事ができるように、働く場所、働く時、そして働くために着るものさえも自由に選ぶことができる。テレワーカーは、自分の仕事をコントロールし、説明責任があると感じる程度には、より多くの責任を経験することができる。また、テレワークの自律性により、仕事と家庭の対立が少なくなる。テレワークは、家族との衝突を避けるために仕事を自由にアレンジすることが可能である。人生の要求に対するコントロール性が高まることは、テレワークの主な魅力の一つである。従業員が感じるテレワークの自律性のレベルは、スケジュールの柔軟性や家庭の規模など、さまざまな要因に依存している。仕事と家庭の衝突が減るだけでなく、レクリエーション活動との衝突も減る。時間制限の自由度の増加と減少は、労働者が社会的や物理的なものであるかどうかにかかわらず、より多くのレクリエーション活動に参加することができるようになる。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "職業の特性の次元であるフィードバックは、結果に関する労働者の知識を増加させる。フィードバックは個人が仕事の活動に関連した自身のパフォーマンスについての直接的で明確な情報を受け取る程度を指す。フィードバックは、従業員が自分のパフォーマンスについて継続的に学ぶために特に重要である。テレワークでは、テレワーカーのための手掛かりが少ないため、情報を解釈して得ることが難しく、その後、フィードバックを受け取ることが難しくなる可能性がある。労働者がオフィスにいない場合は、割り当てや期待など、限られた情報とより大きな曖昧さが見られる。役割の曖昧さは、状況に対して労働者が何をすべきか不明確な期待を持っているときに、より大きな競合、フラストレーション、そして疲労につながる可能性がある。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "フィードバックの相互作用には、個々のニーズに合わせたコミュニケーションが重要である。人は、性格や気質の違いにより、コミュニケーションの必要性や環境との社会的なつながりのレベルが部分的に異なる。テレワーカーではコミュニケーションのレベルが低下することがあるが、在職期間が長く、社会的関係ではなく機能的な関係を持っている人など、一部のサンプルでは、コミュニケーションのレベルに対する満足度が高くなることがある。フィードバックやコミュニケーションは、マネージャーの勤務地によっても影響を受けることがある。マネージャーがテレワークをしていると、明確さ、応答のスピード、コミュニケーションの豊かさ、頻度、フィードバックの質が低下することがよく見られる。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "5つの仕事の特性のうち、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の3つは、労働者が自分の仕事をどれだけ意味のあるものと考えているかに影響を与える。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "技能多様性とは、仕事を完遂するためには、その仕事に必要な活動や技能多様性が必要とされる度合いのことである。技能多様性が増すと、仕事のやりがいが増すと考えられている。仕事のやりがいが増すことで、その人の経験的な意味深さや、その人が仕事をどれだけ大切にしているか、やりがいを感じているかが増すのである。テレワークは、オフィスで仕事をしていたときと比べて、個人の技能多様性や仕事の有意義性に直接影響を与えることはないかもしれないが、グループで仕事をしているときには、個人の技能多様性や仕事の有意義性が高まる可能性がある。自宅での仕事がチームではなく個人に集中している場合、多様なスキルを使う機会が少なくなる可能性がある。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "タスク完結性とは、その人が仕事を最初から最後まで見ているか、また、小さな部分だけではなく、特定可能な部分、そして仕事全体を完了する度合いのことである。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "タスク重要性とは、自分の仕事が組織内や組織外の他の人の生活や仕事に大きな影響を与えていると個人が感じている度合いのことである。テレワークでは、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性といった仕事の特性は、オフィスで働く場合と比べて変わらないかもしれないが、これらの特性の存在は、テレワーカーの仕事の成果や態度に影響を与えることになる。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "在宅勤務における職務特性に対する反応は、個人によって異なる可能性がある。職務特性理論によれば、個人の達成欲求や成長欲求の強さが、在宅勤務の仕事の側面に対する個人の反応に影響を与えるとされている。例えば、成長欲求の強さが高い人は、成長欲求の強さが低い人に比べて、在宅勤務における自律性の向上に対して肯定的な反応を示し、フィードバックの減少に対して否定的な反応を示すようになる。", "title": "職務特性理論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "テレワークは、従来の労働環境とは異なる柔軟な構造を持つ新しい労働形態である。テレワークと従来の労働環境との違いを説明するのには、職務特性理論に加えて、様々な職務設計理論が役に立つ。", "title": "他の理論" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "動機付け・衛生理論(英語版)では、動機づけ要因(モチベーター)と衛生要因(ハイジーン)を区別している。テレワークでは、認知度やキャリアアップなどのモチベーション要因が低下する可能性がある。テレワーカーが物理的に不在の場合、オフィス内の他のワーカーからは「見えない、気にならない」状態になる可能性がある。さらに、管理職の管理下に置かれることを恐れているため、テレワークが必ずしも経営者に好意的に受け止められているとは限らない。2008年の研究では、在宅勤務に費やす時間が長いほど、経営者の目に映る在宅勤務者の生産性に対する認識が低下することが明らかになっている。テレワークでは、テレワーカーが様々な場所で働くことができるように、職場環境などの衛生面が改善される可能性がある。このように、テレワークはオフィスワークとは異なる仕事の動機づけ要因や衛生要因を持っている。", "title": "他の理論" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "社会情報処理(英語版)は、個人が仕事の特性に意味を与えることを示唆している。人は社会的な手がかりを解釈することで、自分自身の環境認識を構築する能力を持っている。この社会的情報は、同僚からのあからさまな発言、仕事やタスクの次元に対する認知的評価、過去の行動などから得られる。この社会的文脈は、特に不確実な状況では、仕事の性質、個人の行動に対する期待、行動の潜在的な結果に関する個人の信念に影響を与えることができる。テレワークでは、社会的な交流や個人に最適化されたコミュニケーションは、対面でのやりとりよりもコンピュータを介したコミュニケーションの方が処理に時間がかかるため、社会的な手がかりは少ない。", "title": "他の理論" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "社会‐技術システム論(英語版)(STS)は、社会的要因と技術的要因の相互作用を説明するものである。つまり、STSは、仕事の満足度を高め、生産性を高めるように仕事を設計するために、人、技術、職場環境の関係を検討する理論である。もともとは、技術が進歩していくものの生産性は低下するというパラドックスを説明するために開発された理論であるが、テレワークの設計にも応用できる。STSの原則の1つは、最小臨界仕様である。この原則では、絶対に必要な場合を除き、選択肢を閉じたり、効果的な行動を阻害したりすることを避けるために、目的や仕事の進め方については最小限の仕様にすべきであるとしている。テレワークでは、テレワーカーはいつ、どのように仕事をするかを自由に決めることができる。同様に、テレワーカーは、自分の責任を果たすために自分の機器やリソースを使用する責任を有している。このように仕事に対する責任感が高まることで、テレワークは特権であり、一部の企業では昇進とみなされているという考えを裏付けるものとなっている。", "title": "他の理論" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "適応構造理論は、新しい技術が導入されたときの組織の変化を説明する理論である。適応構造理論は、構造(技術によって提供される一般的なルールやリソース)と構造化(人々が実際にこれらのルールやリソースをどのように使用するか)が異なる場合があることを示している。テクノロジーの使用目的と、人々がテクノロジーを使用する方法の間には相互作用がある。テレワークは、特定の相互作用を可能にしたり制約したりする社会構造をもたらしている。例えば、オフィス環境では、他人と対面で交流するのが一般的かもしれないが、在宅勤務で対人交流を実現するためには、他の形態の相互作用を利用する必要が出てくる。適応構造理論は、テクノロジーが時間をかけて使われるようになると、社会的相互作用のためのルールやリソースが変化することを示唆している。テレワークは、主に対面でのコミュニケーションから電子的なコミュニケーションへの切り替えなど、伝統的な仕事のやり方を変える可能性がある。", "title": "他の理論" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "会社が主導権を握っているときには、ホームショアリングやホームソーシングといった用語が使われることがある。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "調査会社IDCによると、ホームソーシングは年間約20%の規模で拡大しており(2006年)、「爆発的に拡大しそうである」という。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "在宅勤務は、経済的、環境的、個人的な面で社会にメリットをもたらす。ICTの普及は、従業員、特に身体に障害を持つ従業員にとっての大きなメリットになる。また、経済成長に悪影響を与えることなく、省エネ社会の実現にもつながる。在宅勤務は、地域社会、雇用者、従業員にメリットをもたらす。地域社会にとっては、在宅勤務は在宅勤務者の親や介護者、障害者、定年退職者、遠隔地に住む人々など、状況的に疎外された人々の雇用機会を増やすことで雇用を拡大し、交通渋滞や交通事故の減少、交通インフラへの負担の軽減、温室効果ガスの削減、エネルギー使用量の削減、災害への備えの向上といったメリットがある。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "企業にとっては、在宅勤務は人材プールの拡大、病気の蔓延の防止、不動産フットプリントを含むコストの削減、生産性の向上、二酸化炭素排出量とエネルギー使用量の削減、障害を持つアメリカ人法(ADA)への準拠と、米国人であれば税額控除を受けることができる手段となり、離職率と欠勤率の削減、従業員の士気の向上、事業継続戦略の強化、複数の時間帯にまたがるビジネスへの対応能力の向上、文化的適応力の強化といったメリットが有る。フルタイムのテレワークを導入することで、従業員一人当たり約20,000ドルのコスト削減になるという試算もある。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "テレワーカーのうち、特に「在宅勤務」をしている人は、ワークライフバランスの改善、二酸化炭素排出量と燃料使用量の削減、年間15~25日分の労働時間(通勤に費やしていた時間)の解消、出張費と仕事関連のコストを年間数千ドル節約できることを実感することができる。働きがいのある仕事をしている人(40%)と、そうしたいと考えている人(79%)によるハーフタイムのテレワークによって、企業、地域社会、従業員において年間6,500億ドル以上を節約することができる。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "在宅勤務は、1996年に「二酸化炭素と地上レベルのオゾン層のレベルを25%削減することを目的とした大気汚染防止法の改正が採択された」ことをきっかけに、米国で定着した。この法律では、従業員が100人を超える企業に対して、カープール、公共交通機関、時短勤務、在宅勤務を奨励することが義務付けられた。2004年には、特定の連邦政府機関において在宅勤務を奨励するための充当法案が議会で制定された。この法案は、資格のあるすべての従業員に在宅勤務の選択肢を提供できなかった機関から資金を差し引くと脅すものであった。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "テレワーク対応の仕事を抱え、自宅で仕事をしたい米国の人口の40%のうち、労働時間の半分でそうした場合:", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "英国では、在宅で働く従業員の数を増やせば、英国の雇用者と従業員の年間30億ポンドのコスト削減による経済効果に加えて、毎年300万トン以上の二酸化炭素汚染を削減できると推定されている。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "職務特性理論(英語版)によれば、職務特性と職務満足度の関係は中程度に強いことが示された。また、5つの仕事の特性のうち、自律性は仕事の満足度と強い関係があり、自律性が高いほど仕事の満足度が高くなることがわかった。テレワーカーは、仕事の柔軟性や自律性により、仕事の満足度が高くなっているのかもしれない。また、テレワーカーは、オフィスで働く労働者よりも高い満足度を持っていることがわかった。特に、従来の勤務時間外の勤務を許可され、家族のためにより柔軟に対応できるようになった場合には、自律性がテレワーカーの満足度を高め、仕事と家庭の衝突を減らすことがわかった。さらに、テレワークに費やす時間が増加した場合、従業員のエンゲージメント(英語版)が増加することは自律性によって説明できる。さらに、FlexJobsが3000人以上を対象に行った調査では、回答者の81%が、フレキシブルワークの選択肢があれば雇用主への忠誠心が高まると回答している。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "在宅勤務は、従業員の生産性を大幅に向上させる方法として長い間推進されてきた。スタンフォード大学と北京大学の教授が中国の大手旅行会社の従業員242人を対象に実施した在宅勤務関連の実験では、無作為に割り当てられた従業員が9ヶ月間在宅勤務を行った場合、オフィスを拠点とする対照群と比較して13.5%の生産性の向上が見られた。このような生産性の向上は、通勤時間を節約したことで9%の時間分、労働が増加したことと、より静かな労働条件による3.5%の効率改善に起因している。この研究ではまた、在宅勤務者は仕事の満足度が有意に高く、離職率が50%近く低下したことも明らかになった。しかし、在宅労働者の昇進率は、明らかなパフォーマンスの低下により半分に低下しており、在宅勤務の潜在的なキャリアコストを示している。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "テレワークの柔軟性は従業員にとって望ましい前提条件である。人材紹介会社のロバートハーフ・インターナショナルが1,400人のCFOを対象に行った2008年のロバートハーフ・インターナショナル財務採用指数では、13%がテレワークを現在の会計専門家にとって最高の採用インセンティブと考えていることが示されている。以前の調査では、33%がテレワークを最高の採用インセンティブと考えており、半数がテレワークを2番目に良いインセンティブと考えていた。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "テレワークでは労働時間の規制が少ないため、従業員の努力や献身・貢献は、純粋にアウトプットや結果だけで評価される可能性がはるかに高くなっている。非生産的な労働活動(研究、自己訓練、技術的な問題や機器の故障への対応)や、失敗した試みのために失われた時間(初期の草稿、実りのない努力、失敗したイノベーション)の痕跡はあったとしても、雇用主にはほとんど認識されない。在宅勤務者にとっては、出来高払い、コミッション、またはその他の業績に応じた報酬も可能性が高くなる。さらに、コーヒー、水道、電気、通信サービスなどの単純なものから、オフィス機器やソフトウェアのライセンスなどの莫大な資本コストまで、従業員一人当たりの費用の大部分は、在宅勤務者自身が負担している。 このように、仕事に費やした時間は過小評価され、経費は過小に報告される傾向があり、生産性向上や節約のための数字が楽観的になりがちであるが、その一部または全部が実際には在宅勤務者の時間と財布から出ていっている。企業は一定の要件に該当する設備導入を行った場合、税制優遇が受けられる「中小企業経営強化税制」というものがある。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "テレワーク導入を促進するため、デジタル化設備(C類型)が追加されている。優遇内容は、投資額の即時償却または特別控除を受けることが可能で、中小企業庁サイトで詳しく見ることが出来る。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "国際的なファクトと経験から、テレワークは個人、雇用者、社会全体に幅広い利益をもたらすことがわかっている。テレワークは、ビジネスの遂行方法を変えることで、時間の経過とともに変化をもたらすことが可能になる。例えば、オーストラリアにおける2013年の調査によると、ナショナル・ブロードバンド・ネットワークによって可能になったテレワークは、2020年までに国内総生産において新たに83億ドルを追加し、さらに25,000人のフルタイム雇用に相当する雇用を創出すると予想されている。このうち約1万人の雇用がオーストラリアの地方で創出されることになる。環境面では、オーストラリアの従業員の10%が労働時間の半分をテレワークに当てると、1億2,000万リットルの燃料と32万トンの二酸化炭素排出量を節約できると試算されている。また、この割合でテレワークを行うと、年間14億ドルから19億ドルの生産性向上効果が得られることになる。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "退職の意志(英語版)に関して、普通の労働者と比べるとテレワーカーの方が低い。仕事上の孤立感が大きいテレワーカーの退職の意志は、実際には低かった。ある研究では、目標、目的、期待を明確に伝えることで、フィードバックとタスク完結性が高まり、テレワーカーの退職の意志が低下し、仕事の質が向上したと報告されている。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ラビ・ガジェンドランとデビッド・A・ハリソンが行った、Journal of Applied Psychology誌に掲載された12,833人の従業員を対象とした46件の在宅勤務に関する研究のメタ分析の結果、在宅勤務は従業員と雇用主に大きなプラスの影響を与えることがわかった。ガジェンドランとハリソンのメタ分析研究では、在宅勤務は従業員の仕事の満足度、知覚された自律性、ストレスレベル、管理職の評価する仕事のパフォーマンス、仕事と家庭の低い葛藤に、ささやかではあるものの有益な効果があることがわかった。また、在宅勤務は退職の意志(仕事を辞めたいという意向)を減少させる。在宅勤務には、仕事の満足度の向上、離職意向の低下、役割ストレスの減少が見られたが、その理由の一部には、仕事と家庭の対立が減少したことが挙げられる。さらに、在宅勤務による自律性の向上は、仕事の満足度を向上させる。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "在宅勤務によって従業員のキャリアが損なわれたり、職場の人間関係が損なわれたりするのではないかと懸念する学者や経営者は以前から多くいたが、今回のメタ分析では、職場の人間関係の質やキャリアの成果に一般的に有害な影響はないことが明らかになった。実際に在宅勤務は従業員と上司との関係に正の影響を与え、仕事の満足度と退職の意志との関係は上司との関係の質に一部起因していることがわかった。高強度の在宅勤務(週に2.5日以上在宅勤務)のみが、従業員と同僚との関係に悪影響を与えていたが、仕事と家庭の対立は減少していた。", "title": "潜在的な利点" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "技能多様性は仕事の内発的動機づけと最も強い関係がある。多様なスキルを使うことができる仕事は、内発的な仕事へのモチベーションを高める。テレワークの場合、チームワークの機会が限られていたり、多様なスキルを使う機会が少なかったりすると、仕事に対する内発的なモチベーションが低下する可能性がある。また、社会的孤立感もモチベーションの低下につながる可能性がある。なお承認欲求の日本人特有の表れ方が、テレワークへの適応を妨げているという指摘もある。職場環境や上司が近くにいないと、在宅勤務では、オフィス勤務よりもモチベーションを高める能力がより重要になると言える。オフィスでの仕事にも気が散ることはあるものの、在宅勤務はさらに気が散ることが多いとよく言われている。ある調査によると、気が散ることの第1位は子供で、次いで配偶者、ペット、隣人、弁護士の順となっている。また、適切な道具や設備がないこともひどい注意散漫につながるが、短期のコワーキングスペースをレンタルなどで利用すると軽減することができる。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "対面での交流は、対人関係、つながり、信頼感を高める。そのため、2012年の調査では、テレワーカーの54%が社交的な交流を失ったと考え、52.5%が専門的な交流を失ったと感じている。テレワークは、テレワーカーと同僚の間の仕事上の関係を傷つける可能性があり、特に同僚がテレワークをしていない場合はそうである。テレワークをしない同僚は、自分もテレワークを認められていないと不公平だと考える可能性があるため、憤慨したり、嫉妬したりすることがみられる。しかし、在宅勤務に関するメタ分析では、対人行為や仕事上の孤立感が少ないにもかかわらず、在宅勤務者と同僚との関係や在宅勤務者と上司との関係が否定的であることを支持する結果は得られなかった。75%の管理職は従業員を信頼していると答えているが、3分の1は「念のため」従業員と会うことができるようにしたいと答えている。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "在宅勤務をしている労働者は、自身は価値があると思われるために、より多くの成果を出さなければならないというプレッシャーを感じ、自分の仕事量が他の人より少ないという考えを減らすことができる可能性がある。このような成果を出さなければならないプレッシャーは、限られた同僚との関係や孤立感からくる社会的サポートの欠如と同様に、テレワーカーの仕事へのエンゲージメントの低下につながる。さらに、チームメイトとの質の高い関係は、テレワーカーの仕事への満足度を低下させ、テクノロジーを介した交流への不満が原因となっている可能性がある。しかし、チームビルディングのための同僚サポートやバーチャルなソーシャルグループは、仕事の満足度の向上に直接的な影響を与えていた。これは、チームワークによる技能多様性の向上と、より多くの人間関係によるタスク重要性の向上によるものと考えられている。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "テレワークと満足度に関する一貫性のない所見は、より複雑な関係性によって説明できる可能性がある。おそらく、自律性の効果により、最初の仕事の満足度は在宅勤務の量が増えるにつれて上昇するが、在宅勤務が増えるにつれて、フィードバックとタスク重要性が低下し、仕事の満足度は横ばいになり、わずかに低下する。このように、在宅勤務の時間が、在宅勤務と仕事の満足度の関係に影響を与えていると考えられる。在宅勤務の継続的な拡大を阻む障壁としては、雇用主からの不信感や、従業員の個人的な孤立感が挙げられる。テレワーク環境下では、従業員や上司は同僚との関係を維持するために努力する必要が出てくる。また、会社の日々の活動からの孤立感が生じ、会社に起こっている他のことをあまり意識しなくなり、在宅勤務をしていない他の従業員からその従業員への嫌悪感が生じる可能性がある。在宅勤務は、「職場での仕事の代わりというよりは、補完的なもの」と考える人もいる。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "セキュリティは、テレワーカーや非テレワーカーにも対応する必要がある。2006年には、アメリカ合衆国退役軍人省の職員のノートパソコンが盗まれ、「これまでで最大規模の社会保障番号の損失となる可能性がある」と報道された。当人の人物は在宅勤務者ではなかったが、この事件は職場から離れて働くことに内在するリスクが注目された。大企業のセキュリティ担当役員の90%は、在宅勤務はセキュリティ上の懸念事項ではないと感じている。これは、テレワーカーが受けるトレーニングやツール、技術が不足しているため、テレワーカーではない人がオフィスから持ち出してくる稀な仕事の方を気にかけている。職務特性理論に関する他の研究では、仕事のフィードバックは、他の仕事の特性と比較して、全体的な仕事の満足度と最も強い関係があるように思われる。テレワーク中のコミュニケーションは、対面でのやりとりのように即時性や豊かさはない。テレワーク時のフィードバックの少なさは、仕事への関与度の低さと関連している。このように、知覚された上司のサポートやリーダーとテレワーカーの間の関係の質が低下すると、テレワーカーの仕事の満足度は低下していく。管理職とテレワーカーとのコミュニケーションの重要性は、管理職がテレワークをすると個人の仕事への満足度が低下することがわかった研究で明らかになっている。 日本ではテレワーク時にセキュリティに気を付けていない人の割合が61.7%という調査結果も出ている。。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "管理職は、最初の数ヶ月間はテレワーカーの生産性が低下していると考える可能性がある。この生産性の低下は、「従業員、同僚、マネージャーが新しい仕事の様式に慣れる」段階で生じる。生産性の低下は、不適切なオフィス環境が原因である可能性もある。さらに、1999年の調査では、「通常のオフィスでは1日のうち70分が、中断されたり、コピー機の周りでしゃべったり、その他の気晴らしによって無駄にされている」ということがわかっている。2008年の調査によると、雇用主の3分の2以上が在宅勤務者の生産性向上を報告している。従来のラインマネージャーは、観察によって管理することに慣れており、必ずしも結果によって管理する必要はない。このため、在宅勤務を導入しようとする組織では、重大な障害となっている。また、責任や労働者災害補償も深刻な問題になる可能性がある。仕事のパフォーマンスや欠勤など、仕事の側面と仕事の成果との関係が弱いことが、パフォーマンスとテレワークに関する結果が矛盾している理由である可能性がある。いくつかの研究では、テレワークが労働者の生産性を向上させ、上司の業績評価や業績評価の向上につながることが明らかになっている。しかし、別の研究では、テレワークをしている人の職業的な孤立感が、特にテレワークに費やす時間が長く、対面での交流が少ない人の仕事のパフォーマンスの低下につながっていることがわかっている。このように、仕事に対する態度と同様に、テレワークに費やす時間もテレワークと仕事のパフォーマンスの関係に影響を与える可能性がある。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "テレワークは、その人のキャリアに悪影響を及ぼすこともある。71カ国の1,300人の経営者を対象にした最近の調査では、テレワークをしている人は昇進する可能性が低いと回答した経営者は考えていることが示されている。企業は、一貫して仕事ぶりを見られていない人を指導的役割に昇進させることはほとんどない。監督不足による先延ばしが続くことによる生産性の低下は、その従業員の仕事の質の低下につながる。これらの要因は、テレワークがその人のキャリアに与える悪影響の一部である。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "テレワークや在宅勤務の詐欺は非常に一般的で、これらの求人の多くは、在宅で仕事をしながら「早く一攫千金」ができると主張する詐欺である。実際、これらの詐欺の多くは、前もって投資をしなければならず、最後には見返りはない。この問題は、2006年に米国連邦取引委員会(FTC)が偽のビジネスチャンスと在宅ワーク詐欺を標的とした連邦および州の法執行機関による掃討機関「プロジェクト・フォルス・ホープス(Project False Hopes)」を設立したほど蔓延している。この取り締まりには、FTC、司法省、米国郵政検査局(英語版)、11州の法執行機関による100件以上の法執行措置が含まれている。FTCのデボラ・プラット・マジョラス会長は、「偽のビジネスチャンスは、経済的自立というアメリカ人の夢を踏みにじるものだ」と述べた。「ビジネスチャンスは、リスクがなく、少しの努力で、大きな利益を約束している場合、それはほぼ確実に詐欺です。これらの詐欺は、どれだけ時間とお金を投資しても、消費者が約束したような豊かさや経済的自由を手に入れることができない、お金の落とし穴を提供しているに過ぎません」。FBIは2009年2月にも、このような詐欺について警告している。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "「在宅ワーク」という単語で検索した結果、300万件以上のウェブエントリーのうち、95%以上が詐欺、詐欺へのリンク、またはその他の行き止まりであった。在宅ワーク詐欺は加害者に年間5億ドル以上の収入をもたらし、在宅ビジネス詐欺はさらに年間2億5000万ドルの収入をもたらしている。詐欺がないと謳っているサイトでも、詐欺にリンクする広告が掲載されていることがよく見られる。StaffcentrixのCEOであるクリスティン・ダーストによると、インターネット上の在宅ワークの求人情報の中には、48対1の割合で詐欺と合法的な求人情報が存在するという。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染症の流行に関連して、毎日新聞は2020年4月26日、「在宅勤務求める妊婦に『特別扱いできぬ』 新型コロナが浮き彫りにする職場の意識」との見出しで、妊娠中の肺炎には重症化の可能性も指摘され、政府は経済団体に配慮を要請したが、「特別扱いできない」とこれまで通りの勤務を求める職場も多いと伝えた。専門家は「各職場の働き方改革に取り組む姿勢が浮き彫りになっている」と指摘している。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "同記事によると、ある銀行で働く妊娠中の30代女性は、感染リスクを下げるため顧客対応の少ない担当への配置転換か休職ができないか上司に相談したところ、「あなたの後任の同僚がコロナにかかってもいいということ?」と返答されて言葉を失った。女性は「同僚が感染してもいいなんて考えているわけがない。ただ、もし赤ちゃんに悪影響があったら......」と不安を吐露する。しかし、「長くここで働きたいので、人間関係を考えると無理は言えない」と途方に暮れると言う。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2020年9月に出産予定の20歳代小学校教員は同年4月上旬、事務作業を自宅でできないか上司に相談したところ、「特別扱いはできない」と拒否された。前月・3月末には管理職ら数人が夜の会食をしており「感染防止の意識が低く、同じ部屋で働くことが苦痛だった」と明かす。緊急事態宣言が出された2020年4月7日以降は職場全体で在宅勤務が認められたが、同年5月に学校が再開されると電車で1時間かけて通うことになるとも伝えられた。また、共同通信は2020年6月に「妊婦の約4割が在宅ではなく出勤を主とする働き方をしている」ことが、民間企業によるアンケート調査で分かったと伝えた。医療従事者に限ると6割を超えたと言う。同ニュースではアンケートの結果、勤務態勢が「出勤、出勤が多め」と答えた全体の約4割のうち、フルタイムで働く人は約29%と最多で、時短勤務は約6%、パート・アルバイトは約4%。医療従事者ではフルタイムが4割以上だったであるとも伝えられている。", "title": "潜在的な欠点と懸念" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "日本でのテレワークの区分として、雇用関係の有無がある。企業や官公庁に雇用され、在宅勤務などを行う「雇用型」と、フリーライターやSOHOなどの「自営型」、あるいは「非雇用型」は、広く使われる区分である。また、国土交通省のテレワーク人口実態調査では、情報通信機器等を利用し仕事をする時間が1週間当たり8時間以上の者を「狭義のテレワーカー」、それ以外を「広義のテレワーカー」としている。また、佐藤彰男は雇用型、非雇用型を在宅勤務、モバイルワーク、SOHO、在宅就業に分けることができる、としている。それぞれの概要は以下のとおり。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、総務省では上記に付け加えて、施設利用型勤務を定義している。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "国土交通省が行った平成17年度(2005年度)テレワーク実態調査によれば、2005年時点で日本には狭義のテレワーカーが674万人いる。政府は2003年7月策定の「eJAPAN戦略II」で、2010年に日本の労働人口の2割をテレワーカーにする目標をかかげている。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "一方で、この数字は過大であるという指摘もある。一例として、「調査は本人の自覚によらず定義に当てはまるかで判断しているため、例えば週に8時間以上自宅へ持ち帰り残業を行えばテレワーカーとなる」(佐藤、2008)を挙げる。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本は通勤者のための公共交通機関網が他国と比較して広範囲に発達していることや、企業の人事評価制度の問題などから、2019年までの日本ではテレワークの普及が遅れていたが、2019新型コロナウイルス (SARS-CoV-2) の感染が世界的に拡大する中、2020年4月7日に東京都などで、改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出されると、人との接触機会が多い満員電車の解消などのため、テレワークが推奨された。準備期間はほとんどなかったにも関わらず、テレワークに切り替える会社も相次いだ。単純な解雇や自宅待機者も含まれるため全てがテレワークによる減少とは限らないものの、丸の内や八重洲など比較的大企業のオフィスが周辺に存在する東京駅の利用者は、朝7時台47.8%減、8時台67.7%減となった。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "テレワークを企業が導入するにあたっては、テレワークソリューション、労務管理、執務環境の3つの側面から検討することが必要。特に在宅勤務の場合、パソコンの画面をずっと見て仕事をすることが多い為「VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン」に留意した執務環境が必要である。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "総務省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省、内閣官房、内閣府では、東京都及び経済界と連携し、2020年までの毎年、東京オリンピックの開会式が予定されている7月24日を『「働く、を変える日」テレワーク・デイ』とし、企業等による全国一斉のテレワーク実施を呼びかけている。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2020年8月、K-51インターナショナルがオーダースーツ購入経験のある20代~50代の男性を対象に、「新型コロナとオーダースーツ」に関する調査を実施。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の発令や外出自粛要請を受けて、リモートワーク(テレワーク)という働き方が急増したが、スーツ着用が『かなり減った(38.5%)』、『少し減った(24.0%)』『変わらない(18.0%)』『全く着なくなった(18.0%)』『かなり増えた(1.0%)』『少し増えた(0.5%)』の回答を得た。しかし、重要な会議や商談などではビデオ会議やWEB商談でも8割以上が『はい(81.8%)』(着用)と回答した。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "厚生労働省は2018年(平成30年)2月に「情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン」を策定し、さらに新型コロナウイルス感染症対策として、非常に多くの企業でテレワークが実施されることになったことを踏まえ、2021年(令和3年)3月に「テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン」を策定した(令和3年3月25日基発0325第2号/雇均発0325第3号)。同ガイドラインによって使用者にはテレワークのルールの策定と周知が求められ、具体的には以下のとおりである。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "企業では、タブレットやラップトップなどのリモートデバイスからアクセスできる社内アプリケーションへのアクセスをテレワーカーに提供することがよくある。これらのデバイスは、従業員の間で人気が高まっているが、基礎となるOSが異なるため、さまざまな互換性の問題がみられる。しかし、デスクトップ仮想化、特にリモート・デスクトップ仮想化を利用することで、モバイル・デバイスからレガシー・アプリケーションやOSにアクセスすることができる。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2000年以降、米国連邦法(運輸省および関連省庁歳出法)では、各行政機関に対し、対象となる従業員が可能な限り在宅勤務に参加できるよう、従業員のパフォーマンスを低下させない限り、在宅勤務に関する方針を定めることを義務づけている。つまり、連邦法は、各機関がテレワーク・プログラムを確立しなければならないことを義務付けているが、個々の従業員にテレワークをする法的権利は与えられていない。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "もし、フルタイムでテレワークを行う資格のあるスベテ連邦政府職員がテレワークに移行すれば、連邦政府は年間139億ドルの通勤コストの削減を実現し、毎年9ポンド(4キロ82グラム)の環境汚染物質を削減することができる。2007年の出来事により、米国連邦政府にとって重要な測定値として、テレワークが前面に押し出された。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "テレワークは、事業の継続性(COOP)や国家的なパンデミック対策の計画、外国産石油への依存度の低下やガス価格上昇の負担の軽減、国防軍基地閉鎖・再編委員会(BRAC)、職員の採用と定着への焦点などに関連している。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2007年9月12日に開催されたテレワーク交流タウンホールミーティングの基調講演の中で、当時のアメリカ共通役務庁(英語版)長官であったルリタ・ドアン(英語版)は、機関のテレワーク参加率を高めるための積極的なコミットメント目標を発表した。ドアンの課題は、2010年までに対象となる機関職員の50%が週1日以上のテレワークを可能にすることであった。2007年現在、対象となるGSA職員の10%がテレワークを行っているのに対し、連邦労働者全体では4.2%となっている。ドアンの目標は、2008年末までに20%、2009年末までに40%、そして2010年までに最終的に50%にすることであった。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2007年のアメリカ国立科学財団職員を対象とした調査では、約3分の1がテレワークに定期的に参加しており、職員はこのプログラムに満足しており、テレワークの結果、職員の時間と温室効果ガスの排出量が節約されたと指摘されている。サーベンス議員(D-MD)は、2009年3月に「2009年テレワーク改善法」を提出した。この法案の共同提案者には、コノリ(D-VA)議員が含まれている。コノリ(D-VA)、ウルフ(R-VA)、カピト(R-WV)が法案の共同提案者となった。この法案は、各行政機関が、従業員の業績や行政機関の運営を低下させることなく、可能な限り最大限に従業員にテレワークを認める方針を定めることを求めている。同時に、米国上院で、アカカ上院議員(D-HI)は、ランドリュー上院議員(D-LA)とヴォイノビッチ(R-OH)とともに、同法案を提出した。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2010年5月24日、アメリカ上院は、ダニエル・アカカ(ハワイ州)とジョージ・ヴォイノビッチ(オハイオ州)の両上院議員が提唱するテレワーク強化法(S.707)を可決した。この法案は、連邦職員にテレワークを行う資格を与え、連邦政府機関がテレワーク方針を定め、テレワーク・マネージャーを特定することを要求している。2010年7月14日、下院は「2010年テレワーク改善法」(H.R.1722)を290-131で可決した。米国上院は2010年9月29日に全会一致で法案の最終版を可決し、下院は2010年11月18日に254-152の超党派投票で可決した。2010年12月9日、オバマ大統領は、2010年のテレワーク強化法(H.R.1722)に署名を行った。2012年のテレワーク強化法は、米国の機関が従業員に実行可能なオプションとしてテレワークを提供するための枠組みを提供した。テレワークを行う従業員の数を増やすテレワーク強化法の主な目的は次の3つで、(1)業務の継続性の向上、(2)経営の有効性の促進、(3)ワークライフバランスの強化である。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "「連邦政府における2012年のテレワークの状況(The 2012 Status Telework in the Federal Government)」では、過去18ヶ月間のテレワークのハイライトと、今後のテレワーク改善の目標が掲載されている。データセルに参加している87の機関すべてがテレワーク政策を策定し、政策の73%がテレワーク法の要件を満たしていることが報告されている。68万4,000人以上の連邦職員がテレワークの資格があるとみなされ、これは全連邦職員の約32%に相当する。144,000人以上の連邦職員が、所属機関との間でテレワーク協定を結んでいた。在宅勤務者の27%が週に3日以上遠隔勤務していた。この調査結果に加えて、報告書は国防総省でのテレワークについても調査している。報告書によると、国防総省には79万3,000人以上の職員がおり、そのうち13万4,877人がテレワークの対象とみなされている。全体的に見て、連邦政府はテレワークを受け入れているようで、従業員のためのリモートワークの機会をより多く作ろうとしている。最後に、報告書では、政府がテレワークを通じてより多くの仕事を提供できるようにする方法をいくつか挙げている。その中には、定年間近の従業員を維持するためのツールとしてテレワークを利用することや、高度な訓練を受けた障害のある退役軍人の雇用を拡大するためにテレワークを利用することなどの提案が含まれている。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "テレワークセンターは、一般的に車で移動したり、公共交通機関を利用したりする人が多い場所の近くに設置されているオフィスである。通常は、生産性を最大限に高めるために、オフィス設備や高速インターネット接続を完備している。中には、受付や管理者などのサポートスタッフを配置しているところも見られる。例えば、ワシントンの首都圏には、メリーランド州に7カ所、バージニア州に8カ所、ワシントンD.C.に3カ所、ウェストバージニア州に1カ所のテレワークセンターが設置されている。テレワークセンターは、通勤時間を短縮しながら、従来のオフィス環境で仕事をすることができる。テレワークセンターの中には、個々の企業が設立したものもあれば、多くの組織が利用するために独立した組織が設立したものも存在する。また、テレワークセンターは、自宅で仕事をするスペースがない人や、自宅で仕事をする気がない人には魅力的なものである。そして、雇用主に労働力のためのより正式な構造を維持する能力を提供している。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "このようなワークアレンジメントは、サービスのカスタマイズや仮想的な組織化へと向かう現在の傾向に伴い、より一般的になる可能性が高くなっている。分散型ワークは、コスト削減、競争上の優位性と敏捷性の強化、希少な人材へのアクセス、従業員の柔軟性、有効性、生産性の向上など、企業にとって大きな可能性を提供している。それは欧米、特にヨーロッパで人気を得ている。重要性は増加しているが、分散型ワークはアジアではまだ広く受け入れられていない。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "リモートオフィスセンター(英語版)(ROCs)は、複数の企業から個人にオフィスを貸し出す分散型のセンターである。リモートオフィスセンターでは、プロ仕様のネットワークアクセス、電話システム、セキュリティシステム、メールストップ、オプションサービスなどを追加料金で提供している。ROCは一般的に、人口集中地域全体の人々が住んでいる場所の近くに位置しているため、労働者は数マイル以上の距離を通勤する必要がない。在宅勤務者は実際のオフィスで仕事を行うが、従来の在宅勤務と同様にVPNを利用してインターネットを介して会社のネットワークにアクセスする。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "このタイプの在宅勤務は、在宅勤務のメリットを十分に享受することはできないが、在宅勤務ができない、またはしたくないという従業員のニーズに対応することが可能である。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "安全ではないコンピュータやネットワーク接続から情報を盗むことを生業とするハッカーにとって、テレワーカーは組織の最も機密性の高いデータへ扉を開くことになる可能性がある。セキュリティとプライバシーは、技術者が作成できるあらゆるセキュリティ対策の一歩先を行くハッカーの能力のおかげで、最近ではますます希少価値の高いものとなっている。セキュリティ侵害は、標準的なオフィス環境では十分に大きな脅威であるが、在宅勤務や外出先で働く従業員がいる組織では、そのリスクはさらに大きなものとなる。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "データ保護と情報セキュリティが組織にとって重要であり、機密データ保護という全体的な目標を達成するためには、従業員の行動が重要であることをテレワーカーに伝えることが組織にとって重要である。セキュリティ問題に対する意識の向上とトレーニングを行っているにもかかわらず、多くの従業員がセキュリティリスクを抑止するために必要な予防措置を講じていないのが現状である。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "真のセキュリティは、セキュリティポリシーから始まるものである。情報セキュリティの専門家は、セキュリティポリシーが在宅勤務/テレワーク、そして誰がテレワークをすることができるか、テレワークをする人が利用できるサービス、情報の制限、本人確認/認証/認可、機器とソフトウェアの仕様、完全性と機密性、メンテナンスガイドライン、および堅牢なユーザー教育をカバーしていることを確認しなければならないとされている。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ニューヨーク・タイムズの記事によると、在宅勤務は現在アメリカの労働力の約2.6%を占めており、ドライバーなどのリモートワークは含まれていないという。記事では、スタンフォード大学の経済学教授であるニコラス・ブルームの実験についても言及されている。この実験では、250人の労働者が中国の大手旅行会社であるCtripからランダムに選ばれ、自宅かオフィスのどちらかで働くことになった。その結果、在宅勤務をしている人の方が、オフィス勤務をしている人よりも長時間勤務していることが判明した。在宅勤務者はまた、より生産性が高く、より幸せな生活を送っていた。Ctripは在宅勤務で約2Kを節約した。なお、在宅勤務者の退職率は低下したが、昇進率も低下した。在宅勤務者の多くは、孤独感や昇進願望などを理由に、最後にはオフィスに戻ることを求めていた。Global Workplace Analyticsの社長であるケイト・リスターは、ほとんどの労働者が在宅勤務とオフィスワークの併用を好むという結論に達した。在宅勤務は効率性を高め、労働者の柔軟性を高めるものである。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アメリカは経済性が高く、マルチメディアサービスも充実しているため、テレワークを利用する傾向が高まっている。在宅勤務を好む国トップ10の中では米国が1位であるが、中国などの発展途上国もこの傾向に追いついてきている。money.163.comの記事によると、アジア太平洋地域の在宅勤務者数は、アメリカ、ヨーロッパ、中東、アフリカなどの地域を上回っている。アジア太平洋地域の在宅勤務者数は約37%、その他の地域では約23~4%となっている。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "なお、すべての労働者が在宅勤務をする機会があるわけではない。在宅勤務の倫理的な問題の一つは、誰に在宅勤務の機会を与えるべきかということである。ある人は、幼い子供がいるので、自宅で仕事をする機会が多いかもしれないが、もう一人は個人的な問題を抱えていると言い出すこともある。そして、在宅勤務とオフィスワークを両立させることは、多くの労働者に好まれている。多くの人は、週に1~2回の在宅勤務が妥当なスケジュールだと考えている。企業もまた、労働者の満足度が高く、企業がコストを節約できるため、この提案を支持している。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "アナリストは、現在進行中の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) の世界的流行が在宅勤務の「転換点」になる可能性を示唆している。シアトルでは、マイクロソフト、アマゾン、フェイスブック、グーグルが従業員に在宅勤務を義務付けている。また、流行の結果として在宅勤務が増加することでアメリカではインターネットへのアクセス権(英語版)が拡大する可能性があると示唆する声もある。", "title": "現在のトレンド" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "コワーキングとは、独立して仕事をしている人たちが、同じ空間で働くことで生まれる相乗効果はもちろんのこと、共通の作業スペースを共有することで生まれる社交的な集まりのことである。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "コワーキングの施設は、フォーマルなオフィスの共有スペースから、コーヒーショップのような社交場まで様々なものがある。起業家や社会起業家は、ビジネスインキュベーターやシードアクセラレーターの組織が提供する共有オフィスやワークショップ施設でコワーキングを行うことが多い。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "起業家にとってコワーキングは、創造的な起業家、研究者、ナレッジワーカーが出会い、アイデアを共有し、共同作業を行い、新しい研究を共有し、潜在的なパートナーを見つけることを可能にしている。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "分散型ワークとは、従来のオフィスやワークスペースの枠を超えた場所での組織的な仕事の遂行を意味している。これは、情報通信技術を利用して、自宅や顧客先などの適切な場所で、ワーカーがより効果的に仕事を行うことを可能にしたり、要求したりする組織的な仕組みを指す。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "例えば、ファイナンシャルプランナーが顧客の職場で顧客のランチタイムに顧客と会う場合、これはオフィス外でのミーティングであるにもかかわらず、インターネットを利用してファイナンシャルプランナーはモバイルコンピュータでファイナンシャルプランニングツールやプレゼンテーションを提示することができる。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "もう一つの例としては、出版社の役員が、Eメールやオンラインシステムを使って、自宅から図書館や大学教授に本を勧めたり、最新の書籍の注文をしたりしている。このような分散型の仕事が、労働者の通勤時間を置き換える場合は在宅勤務とみなされ、そうでない場合はテレワークとなる。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "特に社員が外出先や遠隔地で長時間を過ごす企業では、本社の一時的な従来のオフィスやキュービクル(英語版)、会議室、遠隔地のオフィスセンター(英語版)、その他のシェアオフィス施設を予約して利用できるホットデスク(英語版)やホテリング(英語版)を提供している企業もある。", "title": "関連する用語と概念" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ホームワーカー、あるいは在宅勤務者とは、国際労働機関(ILO)によって、雇用者が指定した製品やサービスの結果として生じる賃金の支払いのために、自宅または職場以外の任意の場所で働く人々と定義されている。", "title": "ホームワーカー" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "世界には推定3億人の在宅労働者がいるとされているが、これらの労働者は一般的に非公式経済で機能しており、登録も契約もされていないことが多いため、正確な数を把握することは難しい。", "title": "ホームワーカー" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "最近では、通信技術の向上、サプライチェーンの変化、特にジャストインタイムの在庫システムの開発などにより、在宅ワークの現象が拡大している。ホームワーカーは、ピースワーク(英語版)で雇用されることが多い。", "title": "ホームワーカー" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ホームワーカーは、起業家や自営業者、ファミリービジネスとは異なり、企業に雇われて自宅から特定の活動やサービスを行うという点が特徴である。ホームワーカーは、自身が働いているビジネスを所有したり、運営したりすることはない。高度なスキルを持つ在宅ワーカーは、特に情報技術の分野ではかなりの数にのぼるが、ほとんどの在宅ワーカーは低スキル労働者とみなされている。最近では、在宅勤務者の労働条件が悪化しており、国際開発組織や非政府組織の懸念事項となっている。", "title": "ホームワーカー" } ]
テレワークあるいはテレコミューティングとは、勤労形態の一種で、情報通信技術を活用し時間や場所の制約を受けずに、柔軟に働く形態をいう。「tele = 離れた所」と「work = 働く」をあわせた造語。在宅勤務(WFH)、モバイルワーク、リモートワーク、フレキシブルワークプレイスとも呼ばれる。また、テレワークで働く人をテレワーカーと呼ぶ。
[[ファイル:USMC-100324-M-6847A-001.jpg|thumb|260px|right|[[アメリカ海兵隊|米国海兵隊]]は2010年に一部の民間人従業員に自宅からの在宅勤務を許可し始めた]] '''テレワーク'''({{lang-en-short|telework}})あるいは'''テレコミューティング'''({{lang-en-short|telecommuting}})とは、勤労形態の一種で、[[情報通信技術]](ICT、{{lang-en-short|Information and Communication Technology}})を活用し時間や場所の制約を受けずに、柔軟に働く形態をいう。「tele = 離れた所」と「work = 働く」をあわせた造語<ref>[http://japan-telework.or.jp/tw_about/ テレワークとは] 日本テレワーク協会</ref>'''。[[在宅ワーク|在宅勤務]]'''('''WFH'''<ref>{{Cite web|url=https://www.forbes.com/sites/williamarruda/2020/03/18/how-to-stay-productive-if-youre-wfh-because-of-the-coronavirus/|title=How To Stay Productive If You're WFH Because Of The Coronavirus|newspaper=Forbes|author=William Arruda|date=18 March 2020|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>)、'''モバイルワーク'''({{lang-en-short|mobile work}})、'''リモートワーク'''({{lang-en-short|remote work}})、'''フレキシブルワークプレイス'''<ref name="usopm_def">{{Citation|title=What is telework?|work=Frequently Asked Questions|publisher={{仮リンク|United States Office of Personnel Management|en|United States Office of Personnel Management|label=United States Office of Personnel Management}}|url=https://www.opm.gov/FAQs/QA.aspx?fid=b48bf83b-440c-4f1e-a88c-3cdc9d802ac8&pid=75346675-3b92-4aec-831d-58cf5b0e86d2&result=1|accessdate=June 24, 2018}}</ref><ref>{{Cite web|title=Google Ngram Viewer|url=https://books.google.com/ngrams/graph?content=telework,teleworking,telecommuting,remote+work,mobile+work,working+from+home,flexible+workplace&year_start=1960&year_end=2000&corpus=0&smoothing=3&share=&direct_url=t1%3B%2Ctelework%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Cteleworking%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Ctelecommuting%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Cremote%20work%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Cmobile%20work%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Cworking%20from%20home%3B%2Cc0%3B.t1%3B%2Cflexible%20workplace%3B%2Cc0t1;,telework;,c0;.t1;,teleworking;,c0;.t1;,telecommuting;,c0;.t1;,remote%20work;,c0;.t1;,mobile%20work;,c0;.t1;,working%20from%20home;,c0;.t1;,flexible%20workplace;,c0|website=books.google.com|accessdate=2020-04-20}}</ref>とも呼ばれる。また、テレワークで働く人を'''テレワーカー'''と呼ぶ。 == 概要 == テレコミューティングは、1970年代に、電気通信および関連する情報技術を移動の代わりに使用する業務関連の代替を意味する言葉として脚光を浴びるようになった<ref>{{Cite book|title=Encyclopedia of the City|last=Caves|first=R. W.|publisher=Routledge|year=2004|isbn=978-0415862875|location=|pages=663}}</ref>。21世紀のテレワーカーは、多くの場合、[[Wi-Fi]]を搭載した[[ラップトップパソコン|ラップトップデバイス]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット型コンピュータ]]、[[スマートフォン]]などのモバイル通信技術を使用して[[カフェ|コーヒーショップ]]から仕事をしている。ロイターの世論調査によると、「世界中の労働者の約5人に1人、特に中東、ラテンアメリカ、アジアの従業員は頻繁に[[在宅勤務]]をしており、10%近くが毎日自宅で仕事をしている」<ref name="Ipsos">{{Citation|author=Patricia Reaney|title=About one in five workers worldwide telecommute: poll|url=https://www.reuters.com/article/2012/01/24/us-telecommuting-idUSTRE80N1IL20120124|accessdate=June 29, 2012|date=January 24, 2012|series=[[ロイター|Reuters]]}}</ref>。2000年代には、一部の組織では、[[年次有給休暇|年休]]や[[休日|休暇]]は仕事をやめるのではなく、職場を休むこととみなされており、一部のオフィス従業員は休暇中も仕事の[[電子メール|メール]]をチェックし続けるためにテレワークを利用していた{{要出典|date=May 2017}}。 1990年代には、テレワークが[[ポップカルチャー]]の注目の的となった。1995年には、「仕事はあなたがすることであり、旅行することではない(work is something you do, not something you travel to)」という標語が作られた<ref>{{Cite book|first=Leonhard|last=Woody|authorlink=|title=The Underground Guide to Telecommuting|publisher=Addison-Wesley|year=1995|isbn=978-0-201-48343-7}}</ref>。この標語のバリエーションには、「仕事は私たちが行うことであり、旅行先ではありません(Work is something we DO, not something you travel to)」<ref>{{Cite web|title=Ordinary Or Extraordinary?|url=http://content.mycareer.com.au/advice-research/employer-of-choice/it/microsoft.aspx|work=My Career|publisher=Fairfax Media|accessdate=June 29, 2012|author=Microsoft|year=2012}}</ref>、「仕事は私たちが行うことであり、私たちがいる場所ではない(Work is what we do, not where we are)」というものがある<ref>{{Cite web|title=Mobile Worker Toolkit: A Notional Guide|url=http://www.gsa.gov/graphics/admin/Mobile-Worker-Toolkit_Detailed_Final.pdf|work=GSA EnterpriseTransformation|publisher=GSA|accessdate=June 29, 2012|author=Staff|year=2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120926032329/http://www.gsa.gov/graphics/admin/Mobile-Worker-Toolkit_Detailed_Final.pdf|archivedate=September 26, 2012}}</ref>。 テレワークは、さまざまな企業、政府、非営利団体で採用されている。組織はコスト削減のためにテレワークを利用することもある(テレワークの従業員はオフィスや{{仮リンク|cubicle|en|cubicle|label=作業スペース}}を必要とせず、スペースを借りたり購入したりする必要があり、照明や空調などの追加コストが発生する)。テレワークを導入することで、通勤時間や[[渋滞]]に巻き込まれる時間を減らすことができるため、社員の生活の質を向上させるためにテレワークを導入している企業もある。これに加えて、テレワークを導入することで、労働者は仕事の責任と私生活や家族の役割(子供や高齢の両親の介護など)とのバランスを取りやすくなることができる。テレワークは渋滞や[[大気汚染]]を軽減し、道路上の車の数を減らすことができるため、環境上の理由からテレワークを採用している組織もある。 == 用語 == 「[[在宅勤務]]」と「テレワーク」は1973年にジャック・ニールズによって造語された<ref>{{Citation|title=Jack Nilles|date=September 26, 2011|url=http://www.jala.com/jnmbio.php|work=jala.com|publisher=JALA International|accessdate=August 11, 2012}}</ref>。 専門的な文脈では「在宅勤務の専門家」とされる在宅で勤務をする者は「在宅勤務者」、「テレワーカー」と称される。また「自宅勤務者」と呼ばれることもあるように、多くは自宅で仕事をするが、「ノマドワーカー」と称されるようなコーヒーショップなどの遠隔地<ref name="Gaj222">{{Cite journal|last1=Gajendran|first1=Ravi S.|last2=Harrison|first2=David A.|year=2007|title=The good, the bad, and the unknown about telecommuting: Meta-analysis of psychological mediators and individual consequences|journal=Journal of Applied Psychology|volume=92|issue=6|pages=1524–1541|doi=10.1037/0021-9010.92.6.1524|pmid=18020794}}</ref>で仕事をする者もいる。 特にテレワークには以下の区分がある 1、[[中央集権|中央集権的]]な職場以外の自由な勤務地 2、技術的にサポートする[[情報通信技術]]の利用 3、従来の職場で置き換えられていた時間配分 4、雇用主と被雇用者の雇用関係の多様性(契約労働から従来のフルタイム雇用まで) 狭義で在宅勤務とは勤務地であるオフィスが維持された状態で、週1日から3日、ブロードバンド接続、コンピュータや電話回線その他の電子メディアを介して<ref name="ellison20042">{{Citation|title=Telework and Social Change: how technology is reshaping the boundaries between home and work|last=Ellison|first=Nicole B.|year=2004|publisher={{仮リンク|Praeger Publishers|en|Praeger Publishers|label=Praeger}}|page=18|location={{仮リンク|Westport, Connecticut|en|Westport, Connecticut|label=Westport, Connecticut}}|isbn=9780313051715|oclc=57435712}}</ref>通勤時間を短縮できる場所で仕事をする<ref>{{Cite journal|last1=Hill|first1=J. E.|last2=Miller|first2=B. C.|last3=Weiner|first3=S. P.|last4=Colihan|first4=J.|year=1998|title=Influences of the virtual office on aspects of work and work/life balance|url=|journal=Personnel Psychology|volume=51|issue=3|pages=667–683|doi=10.1111/j.1744-6570.1998.tb00256.x}}</ref>ことを指し、これを含む広い概念として配置された作業スペースの外で行われるあらゆるテクノロジーを利用した仕事(自宅で行われる仕事、外線通話などを含む)は、テレワークとみなされる。 == 統計 == 2012年の推計では、5,000万人以上の米国の労働者(労働人口の約40%)が、少なくとも一部の時間は自宅で仕事ができるとされているが<ref>{{Cite journal|last=Matthews|first=H. Scott|date=February 28, 2012|title=Telework Adoption and Energy Use in Building and Transport Sectors in the United States and Japan|journal=J. Infrastruct. Syst.|volume=SPECIAL ISSUE: SUSTAINABILITY OF TRANSPORTATION AND OTHER INFRASTRUCTURE SYSTEMS|issue=11|pages=21–30|doi=10.1061/(ASCE)1076-0342(2005)11:1(21)|issn=1076-0342|author2=Eric Williams}}</ref>、2008年には自営業者を除いて、自宅を主な仕事場と考えている従業員は250万人にすぎなかった<ref>{{Cite web|title=How Many People Telecommute?|url=http://undress4success.com/research/people-telecommute/|work=Telework Research Network|publisher=Telework Research Network|accessdate=August 11, 2012|author=Consumer Electronics Association|date=July 2007|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110306155430/http://undress4success.com/research/people-telecommute/|archivedate=March 6, 2011|author-link=Consumer Electronics Association}}</ref>。2010年に「主な仕事で」自宅で仕事をしたと報告された従業員の数は940万人(労働人口の6.6%)と報告されているが、この数には自営業者も含まれている可能性がある<ref name="wessel2012">{{Cite news|author=David Wessel|date=December 20, 2012|title=Out of the Office but Still on the Job|newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル|The Wall Street Journal]]|page=A4}}</ref>。 2017年現在、約370万人の従業員が労働力の2.8%を占め、少なくとも半分の時間は自宅で仕事をしているとGlobal Analytics Workplaceは報告している<ref>{{Cite web|url=http://globalworkplaceanalytics.com/telecommuting-statistics|title=Latest Telecommuting Statistics|date=June 2017|website=Global Workplace Analytics|access-date=2017-11-27}}</ref>。在宅勤務のフルタイムスタッフを大量に雇用している企業はほとんどないが{{要出典|date=March 2013}}、{{仮リンク|call center industry|en|call center industry|label=コールセンター業界}}は顕著な例外で、米国のいくつかの[[コールセンター]]では数千人の在宅勤務者を雇用している。多くの従業員にとって、在宅勤務の選択肢は従業員の福利厚生として提供されているが、ほとんどの従業員が在宅勤務を行っているのはごく一部の時間に過ぎない<ref>{{Cite book|author=Kate Lister|title=Undress For Success--The Naked Truth About Making Money at Home|publisher=John Wiley & Sons|year=2009|isbn=978-0-470-38332-2}}</ref>。テレワークの中で最も高給取りなのは在宅勤務の医師と放射線技師で、米国労働統計局の報告によると、医師の週収は中央値1,975ドルに近い収入を得ているとされており、6桁の収入のある仕事となっている。研究によると、自宅で仕事をする労働者は、最大で30%も収入が減り、生産性が高まった経験をしたいと考えているという<ref>{{Cite journal2|title=The Best-Paying Work-At-Home|url=https://www.forbes.com/sites/jennagoudreau/2011/09/27/the-best-paying-work-at-home-jobs/|magazine=Forbes|accessdate=March 20, 2013|author=Forbes|format=PDF|date=September 2011|author-link=フォーブス (雑誌)}}</ref>。 2009年、{{仮リンク|United States Office of Personnel Management|en|United States Office of Personnel Management|label=アメリカ合衆国人事管理局}}は、約10万3,000人の連邦政府職員がテレワークを行っていると報告している。しかし、週に3日以上在宅勤務をしている人は14,000人に満たない<ref>{{Cite web|title=Status of Telework in the Federal Government|url=http://www.telework.gov/Reports_and_Studies/Annual_Reports/2009teleworkreport.pdf|work=Report to the Congress|publisher=United States Office of Personnel Management|accessdate=July 18, 2012|author=United States Office of Personnel Management|date=August 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120915092634/http://www.telework.gov/Reports_and_Studies/Annual_Reports/2009teleworkreport.pdf|archivedate=September 15, 2012|author-link=United States Office of Personnel Management}}</ref>。2012年1月、[[ロイター]]は、Ipsos/Reutersの世論調査をもとに、在宅勤務は「可能であればフルタイムで在宅勤務する可能性が非常に高いと回答したコネクテッドワーカーの34%が、今後も継続すると思われる傾向にある」と予測している<ref name="Ipsos2">{{Citation|author=Patricia Reaney|title=About one in five workers worldwide telecommute: poll|url=https://www.reuters.com/article/2012/01/24/us-telecommuting-idUSTRE80N1IL20120124|accessdate=June 29, 2012|date=January 24, 2012|series=[[ロイター|Reuters]]}}</ref>。 2010年12月9日、米国連邦政府は、業務の継続性を向上させ、緊急時にも連邦政府の重要な機能が維持されるようにするため、テレワークを利用して組織や交通費、環境への影響を削減し、労働者のワーク・ライフ・バランスを向上させるテレワーク強化法を2010年に可決した<ref>{{Cite web|title=Telework Enhancement Act of 2010|url=http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/PLAW-111publ292/pdf/PLAW-111publ292.pdf|work=PUBLIC LAW 111–292|publisher=United States Government|accessdate=July 18, 2012|author=United States Government|date=December 9, 2010}}</ref>。例えば、テレワークを利用することで、従業員は仕事や家族の義務をより適切に管理することができ、その結果、より回復力のある連邦政府の労働力を維持し、機関の目標を達成することができるようになる<ref>{{Cite web|title=Telework Enhancement Act of 2010|url=http://www.telework.gov/Telework_Enhancement_Act/index.aspx|work=telework.gov|publisher=United States Federal Government|accessdate=July 18, 2012|author={{仮リンク|United States Office of Personnel Management|en|United States Office of Personnel Management|label=The Office of Personnel Management}} (OPM) and the {{仮リンク|General Services Administration|en|General Services Administration|label=General Services Administration}} (GSA)|date=December 9, 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120801170248/http://www.telework.gov/telework_enhancement_act/index.aspx|archivedate=August 1, 2012}}</ref>。 2013年9月に発表された「2013 Regus Global Economic Indicator」の調査結果によると、世界のビジネスマネージャーの48%が週の半分以上をリモートで仕事をしていることが明らかになった。この調査は、90カ国26,000人以上の{{仮リンク|business manager|en|business manager|label=ビジネスマネージャー}}を対象としたもので、回答者の55%がリモートワーカーの効果的な管理を達成可能な目標と回答している。結果発表後、リージャスのCEOマーク・ディクソンは次のように述べている。「私たちが話すビジネスパーソンは、信頼と自由がリモート管理の重要な役割を果たしていると言っていますが、これらが導入されれば、生産性の向上、スタッフの定着率の向上、運用コストの削減などのメリットは誰の目にも明らかです」<ref>{{Cite web|title=Remote working is here to stay - 2013 Regus Global Economic Indicator|url=http://www.di-ve.com/business-technology/remote-working-here-stay-2013-regus-global-economic-indicator|work=di-ve|publisher=Digital Interactive Limited|accessdate=September 16, 2013|date=September 11, 2013}}</ref>。 [[:en:Forrester Research|フォレスター・リサーチ]]が行った米国テレワーク予測によると、3,400万人のアメリカ人が在宅勤務をしており、その数は2016年までに6,300万人、つまり米国の労働力の43%に達すると予測されている。[[シスコシステムズ|シスコ]]は、従業員に在宅勤務やテレワークを認めることで、年間2億7,700万ドルの生産性の向上を実現していると報告している。また、米国のソフトウェア会社・[[:en:Intuit|イントゥイット]]のレポートによると、2020年までにアメリカの労働力の40%以上、つまり6000万人が[[フリーランス|フリーランサー]]、[[契約社員]]、[[派遣社員]]になるという。英国では、2007年から2012年の間に、通常は自宅で仕事をする従業員の数が13%増加し、50万人近くにまで増えており、英国の労働人口3000万人のうち、400万人以上の従業員が働いていることになる<ref>{{Cite web|url=http://www.carbontrust.com/resources/reports/advice/homeworking-helping-businesses-cut-costs-and-reduce-their-carbon-footprint|title=Homeworking: helping businesses cut costs and reduce their carbon footprint|publisher=The Carbon Trust|accessdate=July 18, 2014}}</ref>。 == テクノロジー == [[File:ENWA Company, Limited Exhibition 2.JPG|thumb|260px|right|全国の[[自治体]]、[[消防]]、[[病院]]、[[放送局]]などで多く採用されているビデオ会議。Web会議システム([[ENWA]])]] [[在宅勤務]]のルーツは、1970年代初頭の技術にある。当時は[[電話回線]]をネットワークブリッジとして使用した[[ダム端末]]を使って、サテライトオフィスと都心のメインフレームをリンクさせた。後に継続的かつ指数関数的にテレワークのコストが低下し、同時にパソコンの性能と使いやすさが向上したことで、オフィスを自宅に移す道が開かれていった。 1980年代初頭までには、支店や在宅ワーカーは、パソコンや端末エミュレーションを使って組織のメインフレームに接続することができるようになった。テレワークは、[[コラボレーティブソフトウェア]]、[[Virtual Private Network|仮想プライベートネットワーク]]、[[遠隔会議|電話会議]]、[[ビデオ会議]]、バーチャルコールセンター、[[Voice over IP]] (VOIP)、[[バーチャルオフィス (ソフトウェア)]]などのツールや、高品質のノートパソコンの低価格化によって促進されている。[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド・インターネット]]は、労働者が長距離の通信を可能にし、移動時間とコストを大幅に節約できるため、企業にとって効率的で有用なものとなる。ブロードバンド・インターネット接続が一般的になるにつれ、自宅でこれらのツールを使用して企業のイントラネットや社内電話ネットワークに接続するための十分な帯域幅を持つ労働者が増えてきている。 [[ファイル:PIA23881-MarsPerseveranceRover-PortraitsInPerseverance-20200421.jpg|thumb|200px|right|[[NASA]]の[[火星探査]]「[[マーズ2020]]」の[[ミッション]]の[[パーサヴィアランス]][[マーズ・ローバー]]の[[プロジェクト]]のメンバーがロケット「[[アトラス V]]」の打ち上げの前の期間中[[コロナ禍]]のためテレワークでミッションを進める様子]] [[Local Area Network|ローカル・エリア・ネットワーク]]の採用により、リソースの共有が促進され、[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバ・モデル]]の[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバ・コンピューティング]]により、さらに大きな分散化が可能になった。今日では、在宅勤務者はノートパソコンを持ち歩くことができ、オフィスでも自宅でも、ほぼどこでも利用することができる。クラウドコンピューティング技術とWi-Fiが利用できるようになり、持ち運び可能なハードウェアとソフトウェアを組み合わせてリモートサーバにアクセスすることが可能になった<ref>{{Cite journal|last=Watad|first=Mahmoud M.|date=December 4, 2010|title=The Impact Of Telework On Knowledge Creation And Management|url=http://www.tlainc.com/articl237.htm|journal=Journal of Knowledge Management Practice|volume=11|issue=4|author2=Gregory T. Jenkins}}</ref>。さらに、技術の向上と普及に伴い、[[スマートフォン]]はテレワークにも広く使われるようになってきている。スマートフォンは、労働者の移動性と組織との連携の度合いを大幅に向上させる。携帯電話やパーソナルデジタルアシスタント、パーソナルデジタルアシスタント(PDA)デバイスの技術は、テキストメッセージ、カメラの写真、ビデオクリップを介して、いつでもどこからでもインスタントコミュニケーションを可能にする<ref>{{Cite web|title=Straight Talk on Telework. Technology|url=http://www.verizonbusiness.com/resources/whitepapers/wp_straight-talk-on-telework-technology_en_xg.pdf|work=Telework Exchange|publisher=Telework Exchange|accessdate=July 18, 2012|author=Telework Exchange}}</ref>。 == メディアリッチネス理論 == コミュニケーションのための技術は、対面でのオフィスでのやりとりを再現できるほどには進歩していない。つまり、コミュニケーションの失敗が増える可能性がある。{{仮リンク|media richness theory|en|media richness theory|label=メディアリッチネス理論}}によると、対面でのコミュニケーションは、豊かな情報を処理する能力を備えている。これは、曖昧な問題を明確にすることができ、即時にフィードバックを提供することができ、個人に適したコミュニケーション([[ボディーランゲージ|ボディランゲージ]]、声のトーンなど)があるということである<ref name="Daft, R. L. 1986">{{Cite journal|last1=Daft|first1=R. L.|last2=Lengel|first2=R. H.|year=1986|title=Organizational information requirements, media richness and structural design|url=|journal=Management Science|volume=32|issue=5|pages=554–571|doi=10.1287/mnsc.32.5.554}}</ref>。在宅勤務では、電話や電子メールなど、さまざまなタイプのメディアを使用してコミュニケーションをとる必要がある。そして、電子メールにはタイムラグがあり、すぐにフィードバックを得ることができない。また、電話での会話では、電話の相手やチームの感情を推し量ることが難しくなる<ref>{{Cite journal|last1=Workman|first1=M.|last2=Kahnweiler|first2=W.|last3=Bommer|first3=W.|year=2003|title=The effects of cognitive style and media richness on commitment to telework and virtual teams|url=|journal=Journal of Vocational Behavior|volume=63|issue=2|pages=199–219|doi=10.1016/S0001-8791(03)00041-1}}</ref>。このように、典型的な組織のコミュニケーションパターンは、在宅勤務では変化する。例えば、コンピュータ会議を利用した[[Computer-Mediated Communication|コンピュータ媒介型コミュニケーション]]を使用しているチームは、対面式のグループよりもグループの意思決定に時間がかかる<ref>{{Cite journal|last1=Kiesler|first1=S.|last2=Siegel|first2=J.|last3=McGuire|first3=T. W.|year=1984|title=Social psychological aspects of computer-mediated communication|url=|journal=American Psychologist|volume=39|issue=10|pages=1123–1134|doi=10.1037/0003-066x.39.10.1123}}</ref>。 労働者は、コミュニケーションを行うにあたって、対面でのやりとり、電話での会話、対面での部門会議に満足する傾向が見られるが、電子メールやインターネットはコミュニケーションの満足度を高めない。ある研究では、チーム内のバーチャルワーカーは、対面のオフィスでのコミュニケーションよりもテクノロジーを媒介としたコミュニケーションに満足していたという結果が出ているが<ref>{{Cite journal|last1=Byrne|first1=Z. S.|last2=LeMay|first2=E.|year=2006|title=Different media for organizational communication: perceptions of quality and satisfaction|url=|journal=Journal of Business and Psychology|volume=21|issue=2|pages=149–173|doi=10.1007/s10869-006-9023-8}}</ref>、このことから、テレワークは対面のコミュニケーションに比べて「豊かなコミュニケーション」の要素を持っていない可能性があることが示唆されている<ref name="Akkirman">{{Cite journal|last1=Akkirman|first1=A.|last2=Harris|first2=D. L.|year=2005|title=Organizational communication satisfaction in the virtual workplace|url=|journal=Journal of Management Development|volume=24|issue=5|pages=397–409|doi=10.1108/02621710510598427}}</ref>。 == 職務特性理論 == 在宅勤務のメリットとデメリットのいくつかは、仕事の特徴やタスクそのものが従業員の仕事に対する態度や行動に影響を与えるという{{仮リンク|job characteristic theory|en|job characteristic theory|label=職務特性理論}}によって説明することができる<ref name="Oldham 2005">Oldham, G. R., & Hackman, J. R. (2005). How job characteristics theory happened. In The Oxford handbook of management theory: The process of theory development, 151-170.</ref>。仕事に5つの特性(技能多様性、タスク完結性、タスク重要性、自律性、フィードバック)があれば、その仕事に就いている従業員は、仕事に対する内発的なモチベーション、自己成長の機会に対する満足感、仕事に対する全般的な満足感、仕事のパフォーマンスの向上、欠勤や離職の減少などを経験することになると考えられている<ref name="Oldham 2005" /><ref name="Hackman1971">{{Cite journal|last1=Hackman|first1=J. R.|last2=Lawler|first2=E. E.|year=1971|title=Employee reactions to job characteristics|url=|journal=Journal of Applied Psychology|volume=55|issue=3|pages=259–286|doi=10.1037/h0031152}}</ref>。多くの研究で、仕事の特性が従業員の行動や態度に影響を与えるという根拠が示されている<ref name="Fried">{{Cite journal|last1=Fried|first1=Y.|last2=Ferris|first2=G. R.|year=1987|title=The validity of the job characteristics model: A review and meta-analysis|url=|journal=Personnel Psychology|volume=40|issue=2|pages=287–322|doi=10.1111/j.1744-6570.1987.tb00605.x}}</ref>。さらに、職務特性は個人差と相互作用して、労働者の態度や行動に影響を与える<ref name="Hackman1971" /><ref name="Hackman1976">{{Cite journal|last1=Hackman|first1=J.Richard|last2=Oldham|first2=Greg R.|year=1976|title=Motivation through the design of work: Test of a theory|journal=Organizational Behavior and Human Performance|volume=16|issue=2|pages=250–279|doi=10.1016/0030-5073(76)90016-7}}</ref>。これら5つの職務特性のうち、テレワークは特に対面での仕事と比較して自律性とフィードバックが変化するため、従業員の行動や態度に影響を与える可能性がある。職務特性理論によれば、自律性とフィードバックの変化は、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の変化よりも、仕事の行動や態度に影響を与えるとされている<ref name="Oldham 2005" />。 === 自律性 === 自律性は経験豊富な責任に影響を与え、仕事が自由、独立性、スケジュールの柔軟性をもたらしている場合、その人は自分の仕事の結果に責任を感じるはずである。テレワークは、オフィスの外にいることで労働者に多くの選択肢を与えてくれるので、スケジュールの柔軟性と自由をもたらす。テレワーカーはオフィスでのルーチンに固執する必要はなく、一日のうちのさまざまな時間帯に仕事を移すことが可能である<ref name="Sardes">{{Cite journal|last1=Sardeshmukh|first1=Shruti R.|last2=Sharma|first2=Dheeraj|last3=Golden|first3=Timothy D.|year=2012|title=Impact of telework on exhaustion and job engagement: A job demands and job resources model|journal=New Technology, Work and Employment|volume=27|issue=3|pages=193–207|doi=10.1111/j.1468-005X.2012.00284.x}}</ref>。テレワークによって、従業員は最高の仕事ができるように、働く場所、働く時、そして働くために着るものさえも自由に選ぶことができる<ref name="Gaj">{{Cite journal|last1=Gajendran|first1=Ravi S.|last2=Harrison|first2=David A.|year=2007|title=The good, the bad, and the unknown about telecommuting: Meta-analysis of psychological mediators and individual consequences|journal=Journal of Applied Psychology|volume=92|issue=6|pages=1524–1541|doi=10.1037/0021-9010.92.6.1524|pmid=18020794}}</ref>。テレワーカーは、自分の仕事をコントロールし、説明責任があると感じる程度には、より多くの責任を経験することができる<ref>{{Cite journal|last1=Hackman|first1=J.Richard|last2=Oldham|first2=Greg R.|year=1976|title=Motivation through the design of work: Test of a theory|journal=Organizational Behavior and Human Performance|volume=16|issue=2|pages=250–279|doi=10.1016/0030-5073(76)90016-7}}</ref>。また、テレワークの自律性により、仕事と家庭の対立が少なくなる<ref name="Rau">{{Cite journal|last1=Rau|first1=Barbara L.|last2=Hyland|first2=Mary Anne M.|year=2002|title=Role Conflict and Flexible Work Arrangements: The Effects on Applicant Attraction|journal=Personnel Psychology|volume=55|pages=111–136|doi=10.1111/j.1744-6570.2002.tb00105.x}}</ref>。テレワークは、家族との衝突を避けるために仕事を自由にアレンジすることが可能である。人生の要求に対するコントロール性が高まることは、テレワークの主な魅力の一つである<ref name="Golden 2006">{{Cite journal|last1=Golden|first1=T. D.|last2=Veiga|first2=J. F.|last3=Simsek|first3=Z.|year=2006|title=Telecommuting's differential impact on work–family conflict: Is there no place like home?|url=|journal=Journal of Applied Psychology|volume=91|issue=6|pages=1340–1350|doi=10.1037/0021-9010.91.6.1340|pmid=17100488}}</ref>。従業員が感じるテレワークの自律性のレベルは、スケジュールの柔軟性や家庭の規模など、さまざまな要因に依存している<ref name="Golden 2006" />。仕事と家庭の衝突が減るだけでなく、[[レクリエーション|レクリエーション活動]]との衝突も減る。時間制限の自由度の増加と減少は、労働者が社会的や物理的なものであるかどうかにかかわらず、より多くのレクリエーション活動に参加することができるようになる<ref name="Gaj" />。 === フィードバック === 職業の特性の次元であるフィードバックは、結果に関する労働者の知識を増加させる。フィードバックは個人が仕事の活動に関連した自身のパフォーマンスについての直接的で明確な情報を受け取る程度を指す<ref name="Hackman1971" />。フィードバックは、従業員が自分のパフォーマンスについて継続的に学ぶために特に重要である<ref name="Hackman1976" />。テレワークでは、テレワーカーのための手掛かりが少ないため、情報を解釈して得ることが難しく、その後、フィードバックを受け取ることが難しくなる可能性がある<ref name="Sardes" />。労働者がオフィスにいない場合は、割り当てや期待など、限られた情報とより大きな曖昧さが見られる<ref name="Golden11">{{Cite journal|last1=Golden|first1=Timothy D.|last2=Fromen|first2=Allan|year=2011|title=Does it matter where your manager works? Comparing managerial work mode (Traditional, telework, virtual) across subordinate work experiences and outcomes|journal=Human Relations|volume=64|issue=11|pages=1451–1475|doi=10.1177/0018726711418387}}</ref>。役割の曖昧さは、状況に対して労働者が何をすべきか不明確な期待を持っているときに<ref name="Sonnetag">Sonnentag, S. & Frese, M. (2003). Stress in organizations. In I. B. Weiner (Series Ed.) & W. C. Borman, D. R. Ilgen, & R. J. Klimoski (Vol. Eds.) Handbook of Psychology: Vol. 12. Industrial and Organizational Psychology (pp. 453-491). Hoboken, NJ: John Wiley & Sons.</ref>、より大きな競合、フラストレーション、そして疲労につながる可能性がある<ref name="Sardes" />。 フィードバックの相互作用には、個々のニーズに合わせたコミュニケーションが重要である<ref>{{Cite journal|last1=Fritz|first1=M. B. W.|last2=Narasimhan|first2=S.|last3=Rhee|first3=H. S.|year=1998|title=Communication and coordination in the virtual office|url=|journal=Journal of Management Information Systems|volume=14|issue=4|pages=7–28|doi=10.1080/07421222.1998.11518184}}</ref>。人は、[[性格]]や[[気質]]の違いにより、コミュニケーションの必要性や環境との社会的なつながりのレベルが部分的に異なる<ref>{{Cite journal|last1=Pickett|first1=C. L.|year=2004|title=Getting a cue: The need to belong and enhanced sensitivity to social cues|url=|journal=Personality & Social Psychology Bulletin|volume=30|issue=9|pages=1095–107|doi=10.1177/0146167203262085|pmid=15359014}}</ref>。テレワーカーではコミュニケーションのレベルが低下することがあるが、在職期間が長く、社会的関係ではなく機能的な関係を持っている人など、一部のサンプルでは、コミュニケーションのレベルに対する満足度が高くなることがある<ref name="Akkirman" />。フィードバックやコミュニケーションは、マネージャーの勤務地によっても影響を受けることがある。マネージャーがテレワークをしていると、明確さ、応答のスピード、コミュニケーションの豊かさ、頻度、フィードバックの質が低下することがよく見られる<ref name="Golden11" />。 === 技能多様性・タスク完結性・タスク重要性 === 5つの仕事の特性のうち、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性の3つは、労働者が自分の仕事をどれだけ意味のあるものと考えているかに影響を与える<ref name="Hackman1976" />。 技能多様性とは、仕事を完遂するためには、その仕事に必要な活動や技能多様性が必要とされる度合いのことである。技能多様性が増すと、仕事のやりがいが増すと考えられている。仕事のやりがいが増すことで、その人の経験的な意味深さや、その人が仕事をどれだけ大切にしているか、やりがいを感じているかが増すのである<ref name="Hackman1976" /><ref name="Oldham 2005" />。テレワークは、オフィスで仕事をしていたときと比べて、個人の技能多様性や仕事の有意義性に直接影響を与えることはないかもしれないが、グループで仕事をしているときには、個人の技能多様性や仕事の有意義性が高まる可能性がある。自宅での仕事がチームではなく個人に集中している場合、多様なスキルを使う機会が少なくなる可能性がある<ref name="Shamir">{{Cite journal|last1=Shamir|first1=Boas|last2=Salomon|first2=Ilan|year=1985|title=Work-At-Home and the Quality of Working Life|journal=Academy of Management Review|volume=10|issue=3|pages=455–464|doi=10.5465/amr.1985.4278957}}</ref>。 タスク完結性とは、その人が仕事を最初から最後まで見ているか、また、小さな部分だけではなく、特定可能な部分、そして仕事全体を完了する度合いのことである。 タスク重要性とは、自分の仕事が組織内や組織外の他の人の生活や仕事に大きな影響を与えていると個人が感じている度合いのことである<ref name="Hackman1976" /><ref name="Shamir" />。テレワークでは、技能多様性、タスク完結性、タスク重要性といった仕事の特性は、オフィスで働く場合と比べて変わらないかもしれないが、これらの特性の存在は、テレワーカーの仕事の成果や態度に影響を与えることになる。 === 個人差 === 在宅勤務における職務特性に対する反応は、個人によって異なる可能性がある。職務特性理論によれば、個人の達成欲求や成長欲求の強さが、在宅勤務の仕事の側面に対する個人の反応に影響を与えるとされている<ref name="Hackman1971" />。例えば、成長欲求の強さが高い人は、成長欲求の強さが低い人に比べて、在宅勤務における自律性の向上に対して肯定的な反応を示し、フィードバックの減少に対して否定的な反応を示すようになる。 == 他の理論 == テレワークは、従来の労働環境とは異なる柔軟な構造を持つ新しい労働形態である<ref name="Torraco">{{Cite journal|last1=Torraco|first1=Richard J.|year=2005|title=Work design theory: A review and critique with implications for human resource development|journal=Human Resource Development Quarterly|volume=16|pages=85–109|doi=10.1002/hrdq.1125}}</ref>。テレワークと従来の労働環境との違いを説明するのには、職務特性理論に加えて、様々な職務設計理論が役に立つ。 === 動機付け・衛生理論 === {{仮リンク|Motivator-hygiene theory|en|Motivator-hygiene theory|label=動機付け・衛生理論}}では<ref name="Herzberg">Herzberg, F., Mausner, B., & Snyderman, B.B., (1959). The motivation to work. New York: Wiley.</ref>、動機づけ要因(モチベーター)と衛生要因(ハイジーン)を区別している。テレワークでは、認知度やキャリアアップなどのモチベーション要因が低下する可能性がある<ref name="Morganson, V. J. 2010">{{Cite journal|last1=Morganson|first1=V. J.|last2=Major|first2=D. A.|last3=Oborn|first3=K. L.|last4=Verive|first4=J.M|last5=Heelan|first5=M. P.|year=2010|title=Comparing telework locations and traditional work arrangements: differences in work-life balance support, job satisfaction and inclusion|url=|journal=Journal of Managerial Psychology|volume=25|issue=6|pages=578–595|doi=10.1108/02683941011056941}}</ref>。テレワーカーが物理的に不在の場合、オフィス内の他のワーカーからは「見えない、気にならない」状態になる可能性がある。さらに、管理職の管理下に置かれることを恐れているため、テレワークが必ずしも経営者に好意的に受け止められているとは限らない<ref name="Hartman">{{Cite journal|last1=Hartman|first1=R. I.|last2=Stoner|first2=C. R.|last3=Arora|first3=R.|year=1991|title=An investigation of selected variables affecting telecommuting productivity and satisfaction|url=|journal=Journal of Business and Psychology|volume=6|issue=2|pages=207–225|doi=10.1007/bf01126709}}</ref>。2008年の研究では、在宅勤務に費やす時間が長いほど、経営者の目に映る在宅勤務者の生産性に対する認識が低下することが明らかになっている<ref name="Golden 2008">{{Cite journal|last1=Golden|first1=T. D.|last2=Veiga|first2=J. F.|last3=Dino|first3=R. N.|year=2008|title=The impact of professional isolation on teleworker job performance and turnover intentions: Does time spent teleworking, interacting face-to-face, or having access to communication-enhancing technology matter?|url=|journal=Journal of Applied Psychology|volume=93|issue=6|pages=1412–1421|doi=10.1037/a0012722|pmid=19025257}}</ref>。テレワークでは、テレワーカーが様々な場所で働くことができるように、職場環境などの衛生面が改善される可能性がある<ref name="Torraco" /><ref name="Morganson, V. J. 2010" />。このように、テレワークはオフィスワークとは異なる仕事の動機づけ要因や衛生要因を持っている<ref name="Morganson, V. J. 2010" />。 === 社会情報処理 === {{仮リンク|Social information processing|en|Social information processing|label=社会情報処理}}は、個人が仕事の特性に意味を与えることを示唆している<ref name="Salancik">{{Cite journal|last1=Salancik|first1=Gerald R.|last2=Pfeffer|first2=Jeffrey|year=1978|title=A Social Information Processing Approach to Job Attitudes and Task Design|journal=Administrative Science Quarterly|volume=23|issue=2|pages=224-253|doi=10.2307/2392563|jstor=2392563|author-link1=Salancik, G. R.}}</ref>。人は社会的な手がかりを解釈することで、自分自身の環境認識を構築する能力を持っている<ref name="Morgeson03">Morgeson, F.P., & Campion, M.A. (2003). Work design. In W. Bornman, D. Ilgen & R. Klimoksi (Eds.), Handbook of Psychology: Industrial and Organizational Psychology Vol. 12, 423-452. Hoboken, N.J.: Wiley.</ref>。この社会的情報は、同僚からのあからさまな発言、仕事やタスクの次元に対する認知的評価、過去の行動などから得られる。この社会的文脈は、特に不確実な状況では、仕事の性質、個人の行動に対する期待、行動の潜在的な結果に関する個人の信念に影響を与えることができる<ref name="Morgeson03" />。テレワークでは、社会的な交流や個人に最適化されたコミュニケーションは、対面でのやりとりよりもコンピュータを介したコミュニケーションの方が処理に時間がかかるため、社会的な手がかりは少ない<ref name="Waither">{{Cite journal|last1=Walther|first1=Joseph B.|year=1992|title=Interpersonal Effects in Computer-Mediated Interaction|journal=Communication Research|volume=19|pages=52–90|doi=10.1177/009365092019001003}}</ref>。 === 社会‐技術システム論 === {{仮リンク|Sociotechnical system|en|Sociotechnical system|label=社会‐技術システム論}}(STS)は、社会的要因と技術的要因の相互作用を説明するものである。つまり、STSは、仕事の満足度を高め、生産性を高めるように仕事を設計するために、人、技術、職場環境の関係を検討する理論である<ref name="Torraco" />。もともとは、技術が進歩していくものの生産性は低下するというパラドックスを説明するために開発された理論であるが<ref name="Trist">{{Cite journal|last1=Trist|first1=E. L.|last2=Bamforth|first2=K. W.|year=1951|title=Some Social and Psychological Consequences of the Longwall Method of Coal-Getting|journal=Human Relations|volume=4|pages=3–38|doi=10.1177/001872675100400101}}</ref>、テレワークの設計にも応用できる。STSの原則の1つは、最小臨界仕様である<ref name="Cherns">{{Cite journal|last1=Cherns|first1=Albert|year=1987|title=Principles of Sociotechnical Design Revisted|journal=Human Relations|volume=40|issue=3|pages=153–161|doi=10.1177/001872678704000303}}</ref>。この原則では、絶対に必要な場合を除き、選択肢を閉じたり、効果的な行動を阻害したりすることを避けるために、目的や仕事の進め方については最小限の仕様にすべきであるとしている。テレワークでは、テレワーカーはいつ、どのように仕事をするかを自由に決めることができる<ref name="Gaj" />。同様に、テレワーカーは、自分の責任を果たすために自分の機器やリソースを使用する責任を有している。このように仕事に対する責任感が高まることで<ref name="Cherns" />、テレワークは特権であり、一部の企業では昇進とみなされているという考えを裏付けるものとなっている<ref name="Morganson, V. J. 2010" />。 === 適応構造理論 === 適応構造理論は、新しい技術が導入されたときの組織の変化を説明する理論である<ref name="DeSanctis">{{Cite journal|last1=Desanctis|first1=Gerardine|last2=Poole|first2=Marshall Scott|year=1994|title=Capturing the Complexity in Advanced Technology Use: Adaptive Structuration Theory|journal=Organization Science|volume=5|issue=2|pages=121–147|doi=10.1287/orsc.5.2.121}}</ref>。適応構造理論は、構造(技術によって提供される一般的なルールやリソース)と構造化(人々が実際にこれらのルールやリソースをどのように使用するか)が異なる場合があることを示している<ref name="Torraco" />。テクノロジーの使用目的と、人々がテクノロジーを使用する方法の間には相互作用がある。テレワークは、特定の相互作用を可能にしたり制約したりする社会構造をもたらしている<ref name="Hill09">{{Cite journal|last1=Hill|first1=N. Sharon|last2=Bartol|first2=Kathryn M.|last3=Tesluk|first3=Paul E.|last4=Langa|first4=Gosia A.|year=2009|title=Organizational context and face-to-face interaction: Influences on the development of trust and collaborative behaviors in computer-mediated groups|journal=Organizational Behavior and Human Decision Processes|volume=108|issue=2|pages=187–201|doi=10.1016/j.obhdp.2008.10.002}}</ref>。例えば、オフィス環境では、他人と対面で交流するのが一般的かもしれないが、在宅勤務で対人交流を実現するためには、他の形態の相互作用を利用する必要が出てくる。適応構造理論は、テクノロジーが時間をかけて使われるようになると、社会的相互作用のためのルールやリソースが変化することを示唆している<ref name="DeSanctis" />。テレワークは、主に対面でのコミュニケーションから電子的なコミュニケーションへの切り替えなど、伝統的な仕事のやり方を変える可能性がある<ref name="Torraco" />。 == 潜在的な利点 == 会社が主導権を握っているときには、ホームショアリングやホームソーシングといった用語が使われることがある<ref>{{Cite web|title=New words|work=Macmillan English Dictionary|url=http://www.macmillandictionary.com/new-words/050530-homeshoring.htm|accessdate=2007-10-05}}</ref>。 === 利点の概要 === * ワーカーの好み - テレワーカーは、在宅勤務を必要としているか、希望していることが多い。そういった人は通常、この機会に感謝している。 * 電話機やコンピューターシステムを提供することが多いため、雇用主にとってはコスト削減になる。また、雇用主はオフィスのスペース分、コストを節約することができる。 * ローカル地域に住んでいるテレワーカーを雇用すると、地域のアクセント、マナーやスピーチコードから形成される偏見を取り除くことがある。 * ビジネス目的のために自宅の一部を使用している労働者において、税制上の利点がある。 * 障害のため自宅から移動できない人に対して仕事を提供できる 調査会社IDCによると、ホームソーシングは年間約20%の規模で拡大しており(2006年)、「爆発的に拡大しそうである」という<ref>{{Cite web|title=Who's Helping Homeshore Workers?|url=https://web.archive.org/web/20060512001222/http://www.businessweek.com/technology/homesourcing.htm|website=web.archive.org|date=2006-05-12|accessdate=2020-04-19}}</ref>。 === 詳細 === 在宅勤務は、経済的、環境的、個人的な面で社会にメリットをもたらす。[[情報通信技術|ICT]]の普及は、従業員、特に身体に障害を持つ従業員にとっての大きなメリットになる。また、[[経済成長]]に悪影響を与えることなく、[[省エネルギー|省エネ]]社会の実現にもつながる<ref>{{Cite web|title=Information Technologies and Telecommuting: Good for the Economy, Good for the Environment|url=http://www.theamericanconsumer.org/2008/04/11/information-technologies-and-telecommuting-good-for-the-economy-good-for-the-environment/|accessdate=April 11, 2008|date=April 11, 2008}}</ref>。在宅勤務は、地域社会、雇用者、従業員にメリットをもたらす。地域社会にとっては、在宅勤務は在宅勤務者の親や介護者、障害者、定年退職者、遠隔地に住む人々など、状況的に疎外された人々の雇用機会を増やすことで雇用を拡大し、[[渋滞|交通渋滞]]や交通事故の減少、交通インフラへの負担の軽減、[[温室効果ガス]]の削減、エネルギー使用量の削減、災害への備えの向上といったメリットがある<ref>{{Cite web|title=Sustainable Facilities Tool: Sustainable Sites|url=https://sftool.gov/learn/about/46/sustainable-sites|website=sftool.gov|accessdate=July 1, 2014}}</ref>。 企業にとっては、在宅勤務は人材プールの拡大、病気の蔓延の防止、[[不動産]][[フットプリント]]を含むコストの削減、生産性の向上、[[二酸化炭素排出係数|二酸化炭素排出量]]とエネルギー使用量の削減、[[障害を持つアメリカ人法]](ADA)への準拠と、米国人であれば税額控除を受けることができる手段となり、離職率と欠勤率の削減、従業員の士気の向上、事業継続戦略の強化、複数の時間帯にまたがるビジネスへの対応能力の向上、文化的適応力の強化といったメリットが有る。フルタイムのテレワークを導入することで、従業員一人当たり約20,000ドルのコスト削減になるという試算もある<ref>{{Cite web|title=Telework Savings Calculator|url=http://undress4success.com/research/telework-savings-calculator/|work=undress4success.com|publisher=Telework Research Network|accessdate=August 11, 2012|author=Telework Research Network}}</ref>。 テレワーカーのうち、特に「在宅勤務」をしている人は、[[ワーク・ライフ・バランス|ワークライフバランス]]の改善、二酸化炭素排出量と燃料使用量の削減、年間15~25日分の労働時間(通勤に費やしていた時間)の解消、出張費と仕事関連のコストを年間数千ドル節約できることを実感することができる<ref>{{Cite web|url=http://undress4success.com/research/telework-savings-calculator/|last=Lister|first=Kate|title=Telework Savings Calculator|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://blog.extra-paycheck.com/pros-and-cons-of-working-from-home/|title=Pros And Cons of Working From Home - Extra Paycheck|date=December 17, 2013|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。働きがいのある仕事をしている人(40%)と、そうしたいと考えている人(79%)によるハーフタイムのテレワークによって、企業、地域社会、従業員において年間6,500億ドル以上を節約することができる<ref>{{Cite web|url=http://undress4success.com/research/cut-oil/|title=Telework Savings Potential|author=Kate Lister, Principal Researcher for TeleworkResearchNetwork.com|accessdate=2012-05-15}}</ref>。 === 環境上の利点 === 在宅勤務は、1996年に「二酸化炭素と地上レベルのオゾン層のレベルを25%削減することを目的とした大気汚染防止法の改正が採択された」<ref>Siano, M. (1998, March–April). "Merging home and office: telecommuting is a high-tech energy saver" [Electronic version]. E.</ref>ことをきっかけに、米国で定着した。この法律では、従業員が100人を超える企業に対して、[[相乗り|カープール]]、公共交通機関、時短勤務、在宅勤務を奨励することが義務付けられた。2004年には、特定の連邦政府機関において在宅勤務を奨励するための充当法案が議会で制定された。この法案は、資格のあるすべての従業員に在宅勤務の選択肢を提供できなかった機関から資金を差し引くと脅すものであった。 テレワーク対応の仕事を抱え、自宅で仕事をしたい米国の人口の40%のうち、労働時間の半分でそうした場合: * 国は{{Convert|280000000|oilbbl}}の石油を節約することになる(湾岸の石油輸入量の37%)。 * 環境に関して、恒久的に道路から900万台の車が消えるのと同等の節約になる。 * 燃料の節約から得られるエネルギーは、現在米国によって生産されているすべての再生可能エネルギー源を合わせた量の2倍以上になる<ref>{{Cite web|url=http://undress4success.com/research/telework-savings-calculator/|title=Lister, Kate, Principal Researcher at the Telework Research Network and co-author of Undress For Success--The Naked Truth About Making Money at Home, John Wiley & Sons 2009, [[:en:Template:Text]]<!-- {{Text|ISBN}} --> 978-0-470-38332-2|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。 英国では、在宅で働く従業員の数を増やせば、英国の雇用者と従業員の年間30億ポンドのコスト削減による経済効果に加えて、毎年300万トン以上の二酸化炭素汚染を削減できると推定されている<ref>{{Cite web|url=http://www.carbontrust.com/resources/reports/advice/homeworking-helping-businesses-cut-costs-and-reduce-their-carbon-footprint|title=Homeworking: helping businesses cut costs and reduce their carbon footprint|publisher=The Carbon Trust|accessdate=July 18, 2014}}</ref>。 === 仕事の態度 === {{仮リンク|job characteristic theory|en|job characteristic theory|label=職務特性理論}}によれば、職務特性と[[従業員満足|職務満足度]]の関係は中程度に強いことが示された<ref name="Loher">{{Cite journal|last1=Loher|first1=B. T.|last2=Noe|first2=R. A.|last3=Moeller|first3=N. L.|last4=Fitzgerald|first4=M. P.|year=1985|title=A meta-analysis of the relation of job characteristics to job satisfaction|url=|journal=Journal of Applied Psychology|volume=70|issue=2|pages=280–289|doi=10.1037/0021-9010.70.2.280}}</ref>。また、5つの仕事の特性のうち、自律性は仕事の満足度と強い関係があり、自律性が高いほど仕事の満足度が高くなることがわかった<ref name="Loher" />。テレワーカーは、仕事の柔軟性や自律性により、仕事の満足度が高くなっているのかもしれない。また、テレワーカーは、オフィスで働く労働者よりも高い満足度を持っていることがわかった<ref name="Bailey">{{Cite journal|last1=Bailey|first1=D. E.|last2=Kurland|first2=N. B.|year=2002|title=A review of telework research: findings, new directions, and lessons for the study of modern work|url=|journal=Journal of Organizational Behavior|volume=23|issue=4|pages=383–400|doi=10.1002/job.144}}</ref><ref name="Morganson, V. J. 2010" />。特に、従来の勤務時間外の勤務を許可され、家族のためにより柔軟に対応できるようになった場合には、自律性がテレワーカーの満足度を高め、仕事と家庭の衝突<ref name="Golden 2006" /><ref name="Maruy">{{Cite journal|last1=Maruyama|first1=Takao|last2=Tietze|first2=Susanne|year=2012|title=From anxiety to assurance: Concerns and outcomes of telework|journal=Personnel Review|volume=41|issue=4|pages=450–469|doi=10.1108/00483481211229375}}</ref>を減らすことがわかった<ref name="Golden11" />。さらに、テレワークに費やす時間が増加した場合、{{仮リンク|employee engagement|en|employee engagement|label=従業員のエンゲージメント}}が増加することは自律性によって説明できる<ref name="Sardes" />。さらに、FlexJobsが3000人以上を対象に行った調査では、回答者の81%が、フレキシブルワークの選択肢があれば雇用主への忠誠心が高まると回答している<ref>{{Cite web|last1=Reynolds|first1=Brie|title=Survey: Only 7% of Workers Say They're Most Productive in the Office|url=https://www.flexjobs.com/blog/post/survey-workers-most-productive-in-the-office|website=FlexJobs.com|date=August 26, 2016|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。 === 生産性と労働者の福利厚生 === 在宅勤務は、従業員の生産性を大幅に向上させる方法として長い間推進されてきた。[[スタンフォード大学]]と[[北京大学]]の教授が中国の大手[[旅行会社]]の従業員242人を対象に実施した在宅勤務関連の実験では、無作為に割り当てられた従業員が9ヶ月間在宅勤務を行った場合、オフィスを拠点とする対照群と比較して13.5%の生産性の向上が見られた。このような生産性の向上は、通勤時間を節約したことで9%の時間分、労働が増加したことと、より静かな労働条件による3.5%の効率改善に起因している。この研究ではまた、在宅勤務者は仕事の満足度が有意に高く、離職率が50%近く低下したことも明らかになった。しかし、在宅労働者の昇進率は、明らかなパフォーマンスの低下により半分に低下しており、在宅勤務の潜在的なキャリアコストを示している<ref>Bloom, Nicholas, Liang, James, Roberts, John and Ying, Jenny [http://www.stanford.edu/~nbloom/WFH.pdf "Does working from home work? Evidence from a Chinese experiment"] Stanford Research Paper, February 2013.</ref>。 テレワークの柔軟性は従業員にとって望ましい前提条件である。人材紹介会社のロバートハーフ・インターナショナルが1,400人の[[最高財務責任者|CFO]]を対象に行った2008年のロバートハーフ・インターナショナル財務採用指数では、13%がテレワークを現在の会計専門家にとって最高の採用インセンティブと考えていることが示されている<ref>{{Cite web|url=http://www.roberthalffinance.com/portal/site/rhf-us/template.PAGE/menuitem.b55c61eb41144dbf9a64e9c302f3dfa0/?javax.portlet.tpst=7658df44c982f2e6fa64e9c302f3dfa0&javax.portlet.prp_7658df44c982f2e6fa64e9c302f3dfa0_releaseId=2108&javax.portlet.prp_7658df44c982f2e6fa64e9c302f3dfa0_request_type=RenderPressRelease&javax.portlet.begCacheTok=com.vignette.cachetoken&javax.portlet.endCacheTok=com.vignette.cachetoken|title=Survey Finds Salary Is Top Draw for Job Candidates but Benefits Nearly As Popular|author=Robert Half International|date=2008-02-06|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。以前の調査では、33%がテレワークを最高の採用インセンティブと考えており、半数がテレワークを2番目に良いインセンティブと考えていた<ref>{{Cite news|url=http://www.sfgate.com/technology/article/Group-touts-telecommuting-s-green-benefits-3286958.php|title=SF Chronicle "Group touts telecommuting's green benefits"|author=Tom Abate|publisher=Hearst Communications, Inc.|date=April 22, 2008|accessdate=November 6, 2016}}</ref>。 テレワークでは労働時間の規制が少ないため、従業員の努力や献身・貢献は、純粋にアウトプットや結果だけで評価される可能性がはるかに高くなっている。非生産的な労働活動(研究、自己訓練、技術的な問題や機器の故障への対応)や、失敗した試みのために失われた時間(初期の草稿、実りのない努力、失敗したイノベーション)の痕跡はあったとしても、雇用主にはほとんど認識されない。在宅勤務者にとっては、出来高払い、コミッション、またはその他の業績に応じた報酬も可能性が高くなる。さらに、コーヒー、水道、電気、通信サービスなどの単純なものから、オフィス機器やソフトウェアのライセンスなどの莫大な資本コストまで、従業員一人当たりの費用の大部分は、在宅勤務者自身が負担している。 このように、仕事に費やした時間は過小評価され、経費は過小に報告される傾向があり、生産性向上や節約のための数字が楽観的になりがちであるが、その一部または全部が実際には在宅勤務者の時間と財布から出ていっている<ref>{{Cite web|url=https://www.leagle.com/decision/infdco20141210926|title=Richie v. Blue Shield of California|date=December 9, 2014|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref><ref>"Off-the-clock work was never compensated"</ref><ref>"Unreimbursed Business Expenses" .. "supplies out of her own pocket" .. "physical renovations to facilitate telecommuting" (not reimbursed)</ref>。企業は一定の要件に該当する設備導入を行った場合、税制優遇が受けられる「中小企業経営強化税制<ref>{{Cite web|和書|title=No.5434 中小企業経営強化税制(中小企業者等が特定経営力向上設備等を取得した場合の特別償却又は税額控除)|国税庁 |url=https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hojin/5434.htm |website=www.nta.go.jp |accessdate=2022-03-10}}</ref>」というものがある。<ref>{{Cite web|和書|title=テレワーク導入時の経費は課税?非課税?区分を確認しておこう |url=https://keiriplus.jp/tips/telework_kazei/ |website=経理プラス |date=2021-09-15 |accessdate=2022-03-10}}</ref> テレワーク導入を促進するため、デジタル化設備(C類型)が追加されている。優遇内容は、投資額の即時償却または特別控除を受けることが可能で、中小企業庁サイトで詳しく見ることが出来る。 国際的なファクトと経験から、テレワークは個人、雇用者、社会全体に幅広い利益をもたらすことがわかっている。テレワークは、ビジネスの遂行方法を変えることで、時間の経過とともに変化をもたらすことが可能になる。例えば、オーストラリアにおける2013年の調査によると、ナショナル・ブロードバンド・ネットワークによって可能になったテレワークは、2020年までに国内総生産において新たに83億ドルを追加し、さらに25,000人のフルタイム雇用に相当する雇用を創出すると予想されている。このうち約1万人の雇用がオーストラリアの地方で創出されることになる。環境面では、オーストラリアの従業員の10%が労働時間の半分をテレワークに当てると、1億2,000万リットルの燃料と32万トンの二酸化炭素排出量を節約できると試算されている。また、この割合でテレワークを行うと、年間14億ドルから19億ドルの生産性向上効果が得られることになる<ref>{{Cite web|url=http://www.nbn.gov.au/nbn-benefits/digital-economy-goals/telework/|title=NBN - Telework (defunct)|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130309010053/http://www.nbn.gov.au/nbn-benefits/digital-economy-goals/telework/|archivedate=2013-03-09|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。 === 退職の意志 === {{仮リンク|Turnover intention|en|Turnover intention|label=退職の意志}}に関して、普通の労働者と比べるとテレワーカーの方が低い<ref name="Gaj" />。仕事上の孤立感が大きいテレワーカーの退職の意志は、実際には低かった<ref name="Golden 2008" />。ある研究では、目標、目的、期待を明確に伝えることで、フィードバックとタスク完結性が高まり、テレワーカーの退職の意志が低下し、仕事の質が向上したと報告されている<ref name="Ilozor">{{Cite journal|last1=Ilozor|first1=D. B.|last2=Ilozor|first2=B. D.|last3=Carr|first3=J.|year=2001|title=Management communication strategies determine job satisfaction in telecommuting|url=|journal=Journal of Management Development|volume=20|issue=6|pages=495–507|doi=10.1108/02621710110399783}}</ref>。 === 利点と欠点のメタ分析 === ラビ・ガジェンドランとデビッド・A・ハリソンが行った、Journal of Applied Psychology誌に掲載された12,833人の従業員を対象とした46件の在宅勤務に関する研究のメタ分析の結果、在宅勤務は従業員と雇用主に大きなプラスの影響を与えることがわかった<ref>{{Cite web|url=http://www.apa.org/news/press/releases/2007/11/telecommuting.aspx|title=APA Press Release "Telecommuting has Mostly Positive Consequences for Employees and Employers, Say Researchers"|author=APA|publisher=American Psychological Association|date=November 19, 2007|accessdate=November 6, 2016}}</ref><ref name="Gaj" />。ガジェンドランとハリソンのメタ分析研究では、在宅勤務は従業員の仕事の満足度、知覚された自律性、ストレスレベル、管理職の評価する仕事のパフォーマンス、仕事と家庭の低い葛藤に、ささやかではあるものの有益な効果があることがわかった。また、在宅勤務は退職の意志(仕事を辞めたいという意向)を減少させる。在宅勤務には、仕事の満足度の向上、離職意向の低下、役割ストレスの減少が見られたが、その理由の一部には、仕事と家庭の対立が減少したことが挙げられる。さらに、在宅勤務による自律性の向上は、仕事の満足度を向上させる。 在宅勤務によって従業員のキャリアが損なわれたり、職場の人間関係が損なわれたりするのではないかと懸念する学者や経営者は以前から多くいたが、今回のメタ分析では、職場の人間関係の質やキャリアの成果に一般的に有害な影響はないことが明らかになった。実際に在宅勤務は従業員と上司との関係に正の影響を与え、仕事の満足度と退職の意志との関係は上司との関係の質に一部起因していることがわかった。高強度の在宅勤務(週に2.5日以上在宅勤務)のみが、従業員と同僚との関係に悪影響を与えていたが、仕事と家庭の対立は減少していた。 == 潜在的な欠点と懸念 == 技能多様性は仕事の内発的動機づけと最も強い関係がある<ref name="Fried" />。多様なスキルを使うことができる仕事は、内発的な仕事へのモチベーションを高める。テレワークの場合、[[チームワーク]]の機会が限られていたり、多様なスキルを使う機会が少なかったりすると<ref name="Shamir" />、仕事に対する内発的なモチベーションが低下する可能性がある。また、社会的孤立感もモチベーションの低下につながる可能性がある<ref name="Maruy" />。なお承認欲求の日本人特有の表れ方が、テレワークへの適応を妨げているという指摘もある<ref>[[太田肇]](2022)『日本人の承認欲求:テレワークがさらした深層』新潮社。</ref>。職場環境や上司が近くにいないと、在宅勤務では、オフィス勤務よりもモチベーションを高める能力がより重要になると言える。オフィスでの仕事にも気が散ることはあるものの、在宅勤務はさらに気が散ることが多いとよく言われている。ある調査によると、気が散ることの第1位は子供で、次いで配偶者、ペット、隣人、弁護士の順となっている。また、適切な道具や設備がないこともひどい注意散漫につながるが<ref>{{Cite web|title=3 Reasons Why Working From Home Can be Unproductive|url=http://www.corporatesuites.com/3-reasons-working-home-can-unproductive/|publisher=Corporate Suites|accessdate=September 4, 2015}}</ref>、短期の[[コワーキング]]スペースをレンタルなどで利用すると軽減することができる。 対面での交流は、対人関係、つながり、信頼感を高める<ref name="Golden 2008" />。そのため、2012年の調査では、テレワーカーの54%が社交的な交流を失ったと考え、52.5%が専門的な交流を失ったと感じている<ref name="Maruy" />。テレワークは、テレワーカーと同僚の間の仕事上の関係を傷つける可能性があり、特に同僚がテレワークをしていない場合はそうである。テレワークをしない同僚は、自分もテレワークを認められていないと不公平だと考える可能性があるため、憤慨したり、嫉妬したりすることがみられる<ref name="Gaj" /><ref name="Morganson, V. J. 2010" />。しかし、在宅勤務に関するメタ分析では、対人行為や仕事上の孤立感が少ないにもかかわらず<ref name="Golden 2008" />、在宅勤務者と同僚との関係や在宅勤務者と上司との関係が否定的であることを支持する結果は得られなかった<ref name="Gaj" />。75%の管理職は従業員を信頼していると答えているが、3分の1は「念のため」従業員と会うことができるようにしたいと答えている<ref>{{Cite web|url=http://undress4success.com/research/pros-cons/|title=Lister, Kate, Undress For Success--The Naked Truth About Making Money at Home, (John Wiley & Sons 2009, [[:en:Template:Text]]<!-- {{Text|ISBN}} --> 978-0-470-38332-2) quoting Management-Issues.com (July 30, 2007) survey|accessdate=2012-05-15}}</ref>。 在宅勤務をしている労働者は、自身は価値があると思われるために、より多くの成果を出さなければならないというプレッシャーを感じ、自分の仕事量が他の人より少ないという考えを減らすことができる可能性がある。このような成果を出さなければならないプレッシャーは、限られた同僚との関係や孤立感からくる社会的サポートの欠如と同様に、テレワーカーの仕事へのエンゲージメントの低下につながる<ref name="Sardes" />。さらに、チームメイトとの質の高い関係は、テレワーカーの仕事への満足度を低下させ、テクノロジーを介した交流への不満が原因となっている可能性がある<ref name="golden006">{{Cite journal|last1=Golden|first1=T. D.|year=2006|title=Avoiding depletion in virtual work: Telework and the intervening impact of work exhaustion on commitment and turnover intentions|url=|journal=Journal of Vocational Behavior|volume=69|issue=|pages=176–187|doi=10.1016/j.jvb.2006.02.003}}</ref>。しかし、チームビルディングのための同僚サポートやバーチャルなソーシャルグループは、仕事の満足度の向上に直接的な影響を与えていた<ref name="Ilozor" /><ref name="Bailey" />。これは、チームワークによる技能多様性の向上と、より多くの人間関係によるタスク重要性の向上によるものと考えられている。 テレワークと満足度に関する一貫性のない所見は、より複雑な関係性によって説明できる可能性がある。おそらく、自律性の効果により、最初の仕事の満足度は在宅勤務の量が増えるにつれて上昇するが、在宅勤務が増えるにつれて、フィードバックとタスク重要性が低下し、仕事の満足度は横ばいになり、わずかに低下する<ref name="Golden05">{{Cite journal|last1=Golden|first1=T. D.|last2=Veiga|first2=J. F.|year=2005|title=The impact of extent of telecommuting on job satisfaction: Resolving inconsistent findings|url=|journal=Journal of Management|volume=31|issue=2|pages=301–318|doi=10.1177/0149206304271768}}</ref>。このように、在宅勤務の時間が、在宅勤務と仕事の満足度の関係に影響を与えていると考えられる。在宅勤務の継続的な拡大を阻む障壁としては、雇用主からの不信感や、従業員の個人的な孤立感が挙げられる<ref>{{Cite web|url=http://www.discovery.org/scripts/viewDB/index.php?command=view&program=DI%20Main%20Page%20-%20News&id=4235|title=Slow But Steady "Telework Revolution" Eyed|author=Matt Rosenberg|publisher=Cascadia Prospectus|date=2007-09-26|accessdate=2012-05-15}}</ref>。テレワーク環境下では、従業員や上司は同僚との関係を維持するために努力する必要が出てくる<ref>{{Cite web|title=Telework works: A Compendium of Success Stories|url=http://www.opm.gov/studies/final-telewrk.txt|publisher=U.S. Office of Personnel Management, Office of Merit Systems Oversight and Effectiveness|accessdate=2012-03-25|date=2001-10-15}}</ref>。また、会社の日々の活動からの孤立感が生じ、会社に起こっている他のことをあまり意識しなくなり、在宅勤務をしていない他の従業員からその従業員への嫌悪感が生じる可能性がある<ref>{{Cite web|title=Advantages and Disadvantages of Telecommuting to Work|url=http://www.saching.com/Article/Advantages-and-Disadvantages-of-Telecommuting-to-Work/455|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。在宅勤務は、「職場での仕事の代わりというよりは、補完的なもの」と考える人もいる<ref>Pliskin, N. (1998, March–April). "Explaining the paradox of telecommuting", para. 5 [Electronic version]. ''Business Horizons''</ref>。 セキュリティは、テレワーカーや非テレワーカーにも対応する必要がある。2006年には、[[アメリカ合衆国退役軍人省]]の職員のノートパソコンが盗まれ、「これまでで最大規模の[[社会保障番号]]の損失となる可能性がある」と報道された<ref>Lemos, Robert: [http://www.securityfocus.com/news/11393 Veterans Affairs warns of massive privacy breach] ''Security Affairs'' Retrieved 03–11–06</ref>。当人の人物は在宅勤務者ではなかったが、この事件は職場から離れて働くことに内在するリスクが注目された。大企業のセキュリティ担当役員の90%は、在宅勤務はセキュリティ上の懸念事項ではないと感じている。これは、テレワーカーが受けるトレーニングやツール、技術が不足しているため、テレワーカーではない人がオフィスから持ち出してくる稀な仕事の方を気にかけている<ref>Remote Control Federal CISOs Dish on Mobility, Telework, and Data Security (2007, Telework Exchange)</ref>。職務特性理論に関する他の研究では、仕事のフィードバックは、他の仕事の特性と比較して、全体的な仕事の満足度と最も強い関係があるように思われる<ref name="Fried" />。テレワーク中のコミュニケーションは、対面でのやりとりのように即時性や豊かさはない<ref name="Daft, R. L. 1986" />。テレワーク時のフィードバックの少なさは、仕事への関与度の低さと関連している<ref name="Sardes" />。このように、知覚された上司のサポートやリーダーとテレワーカーの間の関係の質が低下すると、テレワーカーの仕事の満足度は低下していく<ref name="Golden 2006" /><ref>{{Cite journal|last1=Swanberg|first1=J. E.|last2=McKechnie|first2=S. P.|last3=Ojha|first3=M. U.|last4=James|first4=J. B.|year=2011|title=Schedule control, supervisor support and work engagement: A winning combination for workers in hourly jobs?|url=|journal=Journal of Vocational Behavior|volume=79|issue=3|pages=613–624|doi=10.1016/j.jvb.2011.04.012}}</ref>。管理職とテレワーカーとのコミュニケーションの重要性は、管理職がテレワークをすると個人の仕事への満足度が低下することがわかった研究で明らかになっている<ref name="Golden11" />。 日本ではテレワーク時にセキュリティに気を付けていない人の割合が61.7%という調査結果も出ている。<ref>{{Cite web|和書|title=テレワーク時のセキュリティ意識調査|url=https://wacaru-net.co.jp/telework-net-report/|website=wacaru-net.co.jp/|accessdate=2023-01-04|language=ja}}</ref>。 管理職は、最初の数ヶ月間はテレワーカーの生産性が低下していると考える可能性がある。この生産性の低下は、「従業員、同僚、マネージャーが新しい仕事の様式に慣れる」段階で生じる<ref name="gantenbein">Gantenbein, D. (December 1999). "All dressed up with no place to go" [Electronic version]. ''Home Office Computing'', para. 21.</ref>。生産性の低下は、不適切なオフィス環境が原因である可能性もある。さらに、1999年の調査では、「通常のオフィスでは1日のうち70分が、中断されたり、コピー機の周りでしゃべったり、その他の気晴らしによって無駄にされている」ということがわかっている<ref>Gantenbein, 1999, December, para. 24</ref>。2008年の調査によると、雇用主の3分の2以上が在宅勤務者の生産性向上を報告している<ref>CompTIA survey of 212 diverse employers. October 2008</ref>。従来のラインマネージャーは、観察によって管理することに慣れており、必ずしも結果によって管理する必要はない。このため、在宅勤務を導入しようとする組織では、重大な障害となっている<ref>Davenport, T. (1998, Summer). "Two cheers for the virtual office" [Electronic version] para. 8. ''Sloan Management Review''</ref>。また、責任や労働者災害補償も深刻な問題になる可能性がある。仕事のパフォーマンスや欠勤など、仕事の側面と仕事の成果との関係が弱いことが、パフォーマンスとテレワークに関する結果が矛盾している理由である可能性がある<ref name="Hackman1976" />。いくつかの研究では、テレワークが労働者の生産性を向上させ<ref name="Hill">{{Cite journal|last1=Hill|first1=E. J.|last2=Ferris|first2=M.|last3=Märtinson|first3=V.|year=2003|title=Does it matter where you work? A comparison of how three work venues (traditional office, virtual office, and home office) influence aspects of work and personal/family life|url=|journal=Journal of Vocational Behavior|volume=63|issue=2|pages=220–241|doi=10.1016/s0001-8791(03)00042-3}}</ref>、上司の業績評価や業績評価の向上につながることが明らかになっている<ref name="Gaj" />。しかし、別の研究では、テレワークをしている人の職業的な孤立感が、特にテレワークに費やす時間が長く、対面での交流が少ない人の仕事のパフォーマンスの低下につながっていることがわかっている<ref name="Golden 2008" />。このように、仕事に対する態度と同様に、テレワークに費やす時間もテレワークと仕事のパフォーマンスの関係に影響を与える可能性がある。 テレワークは、その人のキャリアに悪影響を及ぼすこともある。71カ国の1,300人の経営者を対象にした最近の調査では、テレワークをしている人は昇進する可能性が低いと回答した経営者は考えていることが示されている。企業は、一貫して仕事ぶりを見られていない人を指導的役割に昇進させることはほとんどない<ref>Organizational Behavior,eight edition,McGraw-Hill</ref>。監督不足による[[先延ばし]]が続くことによる生産性の低下は、その従業員の仕事の質の低下につながる。これらの要因は、テレワークがその人のキャリアに与える悪影響の一部である<ref>{{Cite web|title=Disadvantages of Telecommuting|url=http://www.brighthub.com/office/home/articles/94227.aspx|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。 === テレワーク詐欺 === {{Main|Work at home scheme}}テレワークや在宅勤務の詐欺は非常に一般的で、これらの求人の多くは、在宅で仕事をしながら「早く一攫千金」ができると主張する詐欺である。実際、これらの詐欺の多くは、前もって投資をしなければならず、最後には見返りはない<ref>{{Cite web |title=Work-at-home E-mail Scams Target the Vulnerable |url=https://www.newswise.com/articles/work-at-home-e-mail-scams-target-the-vulnerable |website=www.newswise.com |access-date=2023-02-19 |language=en}}</ref>。この問題は、2006年に[[連邦取引委員会|米国連邦取引委員会]](FTC)が偽のビジネスチャンスと在宅ワーク詐欺を標的とした連邦および州の法執行機関による掃討機関「プロジェクト・フォルス・ホープス(Project False Hopes)」を設立したほど蔓延している。この取り締まりには、FTC、司法省、{{仮リンク|United States Postal Inspection Service|en|United States Postal Inspection Service|label=米国郵政検査局}}、11州の法執行機関による100件以上の法執行措置が含まれている{{要出典|date=March 2013}}。FTCのデボラ・プラット・マジョラス会長は、「偽のビジネスチャンスは、経済的自立というアメリカ人の夢を踏みにじるものだ」と述べた。「ビジネスチャンスは、リスクがなく、少しの努力で、大きな利益を約束している場合、それはほぼ確実に詐欺です。これらの詐欺は、どれだけ時間とお金を投資しても、消費者が約束したような豊かさや経済的自由を手に入れることができない、お金の落とし穴を提供しているに過ぎません」<ref>{{Cite web|url=http://www.ftc.gov/opa/2006/12/falsehopes.shtm|title=Federal, State Law Enforcers Complete Bogus Business Opportunity Sweep|author=Federal Trade Commission|publisher=Federal Trade Commission|accessdate=2006-12-06|archive-url=https://web.archive.org/web/20130903060014/http://www.ftc.gov/opa/2006/12/falsehopes.shtm|archive-date=2013-09-03|url-status=dead}}</ref>。[[連邦捜査局|FBI]]は2009年2月にも、このような詐欺について警告している。 「[[在宅ワーク]]」という単語で検索した結果、300万件以上のウェブエントリーのうち、95%以上が詐欺、詐欺へのリンク、またはその他の行き止まりであった。在宅ワーク詐欺は加害者に年間5億ドル以上の収入をもたらし、在宅ビジネス詐欺はさらに年間2億5000万ドルの収入をもたらしている<ref>{{Cite web|url=http://undress4success.com/scams/|title=Lister, Kate, Undress For Success--The Naked Truth About Making Money at Home, John Wiley & Sons 2009, [[:en:Template:Text]]<!-- {{Text|ISBN}} --> 978-0-470-38332-2; also quoted by AARP Bulletin, March 23, 2009|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。詐欺がないと謳っているサイトでも、詐欺にリンクする広告が掲載されていることがよく見られる。StaffcentrixのCEOであるクリスティン・ダーストによると、インターネット上の在宅ワークの求人情報の中には、48対1の割合で詐欺と合法的な求人情報が存在するという<ref>Klein, Karen E. ''Business Week'' [http://www.businessweek.com/stories/2008-03-03/scanning-for-scammers-before-you-buy-inbusinessweek-business-news-stock-market-and-financial-advice Scanning for Scammers Before You Buy] March 3, 2008.</ref>。 === 報道されている問題点 === [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]に関連して、[[毎日新聞]]は2020年4月26日、「在宅勤務求める妊婦に『特別扱いできぬ』 新型コロナが浮き彫りにする職場の意識」との見出しで、妊娠中の肺炎には重症化の可能性も指摘され、政府は経済団体に配慮を要請したが、「特別扱いできない」とこれまで通りの勤務を求める職場も多いと伝えた。専門家は「各職場の働き方改革に取り組む姿勢が浮き彫りになっている」と指摘している<ref name="mainichi20200426">{{Citenews|title=在宅勤務求める妊婦に「特別扱いできぬ」 新型コロナが浮き彫りにする職場の意識(一部有料記事)|url=https://mainichi.jp/articles/20200426/k00/00m/020/007000c|newspaper=毎日新聞|date=2020-04-26|accessdate=2020-06-12}}</ref>。 同記事によると、ある銀行で働く妊娠中の30代女性は、感染リスクを下げるため顧客対応の少ない担当への配置転換か休職ができないか上司に相談したところ、「あなたの後任の同僚がコロナにかかってもいいということ?」と返答されて言葉を失った。女性は「同僚が感染してもいいなんて考えているわけがない。ただ、もし赤ちゃんに悪影響があったら……」と不安を吐露する。しかし、「長くここで働きたいので、人間関係を考えると無理は言えない」と途方に暮れると言う<ref name="mainichi20200426" />。 2020年9月に出産予定の20歳代小学校教員は同年4月上旬、事務作業を自宅でできないか上司に相談したところ、「特別扱いはできない」と拒否された。前月・3月末には管理職ら数人が夜の会食をしており「感染防止の意識が低く、同じ部屋で働くことが苦痛だった」と明かす。緊急事態宣言が出された2020年4月7日以降は職場全体で在宅勤務が認められたが、同年5月に学校が再開されると電車で1時間かけて通うことになるとも伝えられた<ref name="mainichi20200426" />。また、共同通信は2020年6月に「妊婦の約4割が在宅ではなく出勤を主とする働き方をしている」ことが、民間企業によるアンケート調査で分かったと伝えた。医療従事者に限ると6割を超えたと言う<ref name="47news202006">{{Citenews|title=働く妊婦の4割出勤 勤務先の対応に不満も|url=https://www.47news.jp/4904782.html|newspaper=一般社団法人 共同通信社・47NEWS|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12}}</ref>。同ニュースではアンケートの結果、勤務態勢が「出勤、出勤が多め」と答えた全体の約4割のうち、フルタイムで働く人は約29%と最多で、時短勤務は約6%、パート・アルバイトは約4%。医療従事者ではフルタイムが4割以上だったであるとも伝えられている<ref name="47news202006" />。 == 現在のトレンド == === 日本 === ==== 区分 ==== 日本でのテレワークの区分として、雇用関係の有無がある。企業や官公庁に雇用され、在宅勤務などを行う「雇用型」と、フリーライターや[[Small Office/Home Office|SOHO]]などの「自営型」、あるいは「非雇用型」は、広く使われる区分である<ref name=":1">『THE Telework GUIDEBOOK 企業のためのテレワーク導入・運用ガイドブック』[[国土交通省]]他 2008年版</ref><ref name="satou2008">佐藤彰男『テレワーク―「未来型労働」の現実』[[岩波書店]]、2008年5月、ISBN 9784004311331</ref>。また、[[国土交通省]]のテレワーク人口実態調査では、情報通信機器等を利用し仕事をする時間が1週間当たり8時間以上の者を「狭義のテレワーカー」、それ以外を「広義のテレワーカー」としている<ref name=":2">『平成20年度 テレワーク人口実態調査』国土交通省 2009年4月</ref>。また、佐藤彰男は雇用型、非雇用型を在宅勤務、モバイルワーク、SOHO、在宅就業に分けることができる、としている<ref name="satou2008" />。それぞれの概要は以下のとおり。 * 雇用型 ** 自宅利用型テレワーク - [[在宅勤務]]。自宅にいて、事業所とはインターネット、パソコン、電話などで連絡を取る。 ** モバイルワーク - 事業所に毎日出勤することはせずに、顧客先や移動中にノートパソコン、携帯電話などを使って勤務する。 * 非雇用型 ** SOHO - 個人事業主。法人格を持っていることが条件。 ** [[在宅ワーク]]型 - 個人が請負、あるいはテレワークあっせん会社に登録を行い、データ入力やアドレス収集、ホームページ作成などを行う。収入の低さから「電脳内職」と揶揄される形態でもある。 また、総務省では上記に付け加えて、施設利用型勤務<ref name=":0" group="注">[[サテライト・オフィス]]、テレワークセンター、スポットオフィス等を就業場所とするもの。</ref>を定義している。 ==== 規模 ==== [[国土交通省]]が行った平成17年度(2005年度)テレワーク実態調査によれば、2005年時点で日本には狭義のテレワーカーが674万人<ref name=":1" group="注">内訳は、雇用型で506万人、自営型で168万人。</ref>いる。政府は2003年7月策定の「eJAPAN戦略II」で、2010年に日本の労働人口の2割<ref name=":2" group="注">7000万人×0.2=1400万人</ref>をテレワーカーにする目標をかかげている。 一方で、この数字は過大であるという指摘もある。一例として、「調査は本人の自覚によらず定義に当てはまるかで判断しているため、例えば週に8時間以上自宅へ持ち帰り残業を行えばテレワーカーとなる」(佐藤、2008)を挙げる<ref name="satou2008" />。 日本は通勤者のための[[公共交通機関]]網が他国と比較して広範囲に発達していることや、[[企業]]の[[人事評価]]制度の問題などから、2019年までの日本ではテレワークの普及が遅れていたが、[[SARSコロナウイルス2|2019新型コロナウイルス (SARS-CoV-2) ]]の感染が[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的に拡大]]する中、2020年4月7日に東京都などで、改正・[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]に基づく緊急事態宣言が発出されると、人との接触機会が多い[[満員電車]]の解消などのため、テレワークが推奨された。準備期間はほとんどなかったにも関わらず、テレワークに切り替える会社も相次いだ。単純な解雇や自宅待機者も含まれるため全てがテレワークによる減少とは限らないものの、[[丸の内]]や[[八重洲]]など比較的大企業のオフィスが周辺に存在する[[東京駅]]の利用者は、朝7時台47.8%減、8時台67.7%減となった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-25 |url= https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2004/25/news008_3.html|title=結局、首都圏の鉄道利用者はどのくらい減ったのか (3/4) |publisher=IT MEDIA |accessdate=2020-04-27}}</ref>。 ==== テレワークソリューション ==== テレワークを企業が導入するにあたっては、テレワークソリューション、労務管理、執務環境の3つの側面から検討することが必要。特に在宅勤務の場合、パソコンの画面をずっと見て仕事をすることが多い為「[https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11200000-Roudoukijunkyoku/0000184703.pdf VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン]」に留意した執務環境が必要である。 ==== テレワーク・デイ ==== [[総務省]]、[[厚生労働省]]、[[経済産業省]]、[[国土交通省]]、[[内閣官房]]、[[内閣府]]では、東京都及び経済界と連携し、2020年までの毎年、東京オリンピックの開会式が予定されている7月24日を『「働く、を変える日」テレワーク・デイ』とし、企業等による全国一斉のテレワーク実施を呼びかけている<ref name="teleworkday">{{Cite web|和書|url=http://www.japan-telework.or.jp/oshirase/173.html|title=「働く、を変える日」テレワーク・デイ報告会の開催10月6日(金)|date=2017-10-02|accessdate=2018-07-27|publisher=日本テレワーク協会}}</ref><ref name=":3">[http://teleworkgekkan.org/day0724/ テレワーク・デイ|働く、を変える日|2017.07.24]</ref>。 * 第1回目(2017年) - 900団体以上、約6.3万人が参加<ref name="teleworkday" />。[[NTTコミュニケーションズ]]は約800人の社員が終日、在宅で勤務した<ref name="paraft180523">{{Cite web|和書|url=https://paraft.jp/r000017003125|title=テレワーク・デイとは?東京五輪で変わる働き方|date=2018-05-23|accessdate=2018-07-27|publisher=PARAFT}}</ref>。[[Yahoo!]]は全従業員の半数に当たる3000人規模でテレワークを実施し、自宅やカフェ、サテライトオフィスなど、それぞれのワークスタイルに合う空間で作業をした<ref name="paraft180523" />。[[サニーサイドアップ (PR会社)|サニーサイドアップ]]は本社最寄り駅の一つが[[国立競技場駅]]であり、「下り電車に乗ろう」プランを導入、海の家や高尾山でミーティングを行った<ref name="paraft180523" />。 * 第2回目(2018年) - テレワーク・デイズ(7月23日の週で、24日を含む計2日以上)として開催、1200団体以上が実施団体として登録した<ref name=":4">[https://teleworkdays.jp/ テレワーク・デイズ]{{404|date=2023年2月}}</ref>。 ==== スーツ着用の有無 ==== 2020年8月、[[K-51インターナショナル]]がオーダースーツ購入経験のある20代~50代の男性を対象に、「[[SARSコロナウイルス2|新型コロナ]]とオーダースーツ」に関する調査を実施。[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]][[感染]]拡大による[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]の発令や外出自粛要請を受けて、[[リモートワーク]](テレワーク)という働き方が急増したが、[[スーツ]]着用が『かなり減った(38.5%)』、『少し減った(24.0%)』『変わらない(18.0%)』『全く着なくなった(18.0%)』『かなり増えた(1.0%)』『少し増えた(0.5%)』の回答を得た。しかし、重要な[[会議]]や[[商談]]などでは[[ビデオ会議]]やWEB商談でも8割以上が『はい(81.8%)』(着用)と回答した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-8-18|url=https://www.asahi.com/and_M/pressrelease/pre_15115027/|title=【withコロナ時代のオーダースーツ】オンラインでオーダースーツを購入した男性の7割以上が「リピートしていない」!?今求められている買い方とは…?|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-9-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-8-18|url=https://toyokeizai.net/ud/pressrelease/5f3b923a7765617b53260000|title=【withコロナ時代のオーダースーツ】オンラインでオーダースーツを購入した男性の7割以上が「リピートしていない」!?今求められている買い方とは…?|publisher=東洋経済online|accessdate=2020-9-17}}</ref>。 ==== 労務管理・労働法令の適用 ==== [[厚生労働省]]は2018年(平成30年)2月に「情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン」を策定し、さらに新型コロナウイルス感染症対策として、非常に多くの企業でテレワークが実施されることになったことを踏まえ、2021年(令和3年)3月に「テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン」を策定した(令和3年3月25日基発0325第2号/雇均発0325第3号)。同ガイドラインによって使用者にはテレワークのルールの策定と周知が求められ、具体的には以下のとおりである。 *[[労働基準法]]上の[[労働者]]については、テレワークを行う場合においても、労働基準法、[[最低賃金法]]、[[労働安全衛生法]]、[[労働者災害補償保険法]]等の労働基準関係法令が適用される。 *テレワークを円滑に実施するためには、使用者は労使で協議して策定したテレワークのルールを[[就業規則]]に定め、労働者に適切に周知することが望ましい。テレワークを行う場所について、労働者が専らモバイル勤務をする場合や、いわゆる「ワーケーション」の場合など、労働者の都合に合わせて柔軟に選択することができる場合には、使用者の許可基準を示した上で、「使用者が許可する場所」においてテレワークが可能である旨を定めておくことが考えられる。なお、テレワークを行う場所の如何に関わらず、テレワークを行う労働者の属する事業場がある都道府県の[[最低賃金]]が適用されることに留意する必要がある。 *使用者は、労働契約を締結する際、労働者に対し、就業の場所に関する事項等を明示することとなっており(労働基準法第15条、労働基準法施行規則第5条第1項第1号の3)、労働者に対し就労の開始日からテレワークを行わせることとする場合には、就業の場所として「使用者が許可する場所」も含め自宅やサテライトオフィスなど、テレワークを行う場所を明示する必要がある。また、労働者が就労の開始後にテレワークを行うことを予定している場合には、使用者は、テレワークを行うことが可能である場所を明示しておくことが望ましい。 *労働契約や就業規則において定められている勤務場所や業務遂行方法の範囲を超えて使用者が労働者にテレワークを行わせる場合には、労働者本人の合意を得た上での労働契約の変更が必要であること(労働者本人の合意を得ずに[[労働条件]]の変更を行う場合には、労働者の受ける不利益の程度等に照らして合理的なものと認められる就業規則の変更及び周知によることが必要であること)に留意する必要がある([[労働契約法]]第8条~第11条)。 *労働基準法には様々な[[労働時間]]制度が定められており、全ての労働時間制度でテレワークが実施可能である。このため、テレワーク導入前に採用している労働時間制度を維持したまま、テレワークを行うことが可能である。一方で、テレワークを実施しやすくするために労働時間制度を変更する場合には、各々の制度の導入要件に合わせて変更することが可能である。 **通常の労働時間制度及び[[変形労働時間制]]においては、始業及び終業の時刻や所定労働時間をあらかじめ定める必要があるが、テレワークでオフィスに集まらない労働者について必ずしも一律の時間に労働する必要がないときには、その日の所定労働時間はそのままとしつつ、始業及び終業の時刻についてテレワークを行う労働者ごとに自由度を認めることも考えられる。このような場合には、使用者があらかじめ就業規則に定めておくことによって、テレワークを行う際に労働者が始業及び終業の時刻を変更することができるようにすることが可能である。 **[[フレックスタイム制]]は、労働者が始業及び終業の時刻を決定することができる制度であり、テレワークになじみやすい制度である。特に、テレワークには、働く場所の柔軟な活用を可能とすることにより、例えば、次のように、労働者にとって仕事と生活の調和を図ることが可能となるといったメリットがあるものであり、フレックスタイム制を活用することによって、労働者の仕事と生活の調和に最大限資することが可能となる。 ***在宅勤務の場合に、労働者の生活サイクルに合わせて、始業及び終業の時刻を柔軟に調整することや、オフィス勤務の日は労働時間を長く、一方で在宅勤務の日は労働時間を短くして家庭生活に充てる時間を増やすといった運用が可能 ***一定程度労働者が業務から離れる中抜け時間についても、労働者自らの判断により、その時間分その日の終業時刻を遅くしたり、清算期間の範囲内で他の労働日において労働時間を調整したりすることが可能 ***テレワークを行う日についてはコアタイム(労働者が労働しなければならない時間帯)を設けず、オフィスへの出勤を求める必要がある日・時間についてはコアタイムを設けておくなど、企業の実情に応じた柔軟な取扱いも可能 **事業場外[[みなし労働時間制]]は、労働者が事業場外で業務に従事した場合において、労働時間を算定することが困難なときに適用される制度であり、使用者の具体的な指揮監督が及ばない事業場外で業務に従事することとなる場合に活用できる制度である。テレワークにおいて一定程度自由な働き方をする労働者にとって、柔軟にテレワークを行うことが可能となる。 **[[裁量労働制]]及び[[高度プロフェッショナル制度]]は、業務遂行の方法、時間等について労働者の自由な選択に委ねることを可能とする制度である。これらの制度の対象労働者について、テレワークの実施を認めていくことにより、労働する場所についても労働者の自由な選択に委ねていくことが考えられる。 === 仮想化 === 企業では、タブレットやラップトップなどのリモートデバイスからアクセスできる社内アプリケーションへのアクセスをテレワーカーに提供することがよくある。これらのデバイスは、従業員の間で人気が高まっているが、基礎となるOSが異なるため、さまざまな互換性の問題がみられる。しかし、デスクトップ仮想化、特に[[デスクトップ仮想化|リモート・デスクトップ仮想化]]を利用することで、モバイル・デバイスからレガシー・アプリケーションやOSにアクセスすることができる。 === アメリカ連邦政府 === 2000年以降、[[アメリカ法|米国連邦法]](''運輸省および関連省庁歳出法'')では、各行政機関に対し、対象となる従業員が可能な限り在宅勤務に参加できるよう、従業員のパフォーマンスを低下させない限り、在宅勤務に関する方針を定めることを義務づけている<ref>{{Cite web|url=https://www.telework.gov/guidance-legislation/telework-legislation/legislation/|title=Telework legislation|publisher=U.S. Office of Personnel Management|accessdate=2019-03-17}}</ref>。つまり、連邦法は、各機関がテレワーク・プログラムを確立しなければならないことを義務付けているが、個々の従業員にテレワークをする法的権利は与えられていない<ref>{{Cite web|url=https://www.telework.gov/guidance-legislation/telework-guidance/telework-guide/guide-to-telework-in-the-federal-government.pdf|title=Guide to Telework in the Federal Government|date=April 2011|accessdate=2019-03-17}}, p 6.</ref>。 もし、フルタイムでテレワークを行う資格のあるスベテ連邦政府職員がテレワークに移行すれば、連邦政府は年間139億ドルの通勤コストの削減を実現し、毎年9ポンド(4キロ82グラム)の環境汚染物質を削減することができる<ref name="twe_research_2008">{{Citation|author=Telework Exchange|publisher=Telework Exchange|year=2008|url=http://www.teleworkexchange.com/our-research/research-detail/726|title=Telework Eligibility Profile: Feds Fit the Bill|lay-url=http://www.teleworkexchange.com/uploads/1000/95-Telework_Eligibility_Profile_Feds_Fit_the_Bill_Press_Release_FINAL_021908.pdf|laysource=Telework Exchange press release|laydate=February 19, 2008|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110917201757/http://www.teleworkexchange.com/our-research/research-detail/726|archivedate=September 17, 2011}} ''Note: access to report requires free''</ref>。2007年の出来事により、[[アメリカ合衆国連邦政府|米国連邦政府]]にとって重要な測定値として、テレワークが前面に押し出された。 テレワークは、事業の継続性(COOP)や国家的なパンデミック対策の計画、外国産石油への依存度の低下やガス価格上昇の負担の軽減、国防軍基地閉鎖・再編委員会(BRAC)、職員の採用と定着への焦点などに関連している。 2007年9月12日に開催されたテレワーク交流タウンホールミーティングの基調講演の中で、当時の{{仮リンク|General Services Administration|en|General Services Administration|label=アメリカ共通役務庁}}長官であった{{仮リンク|Lurita Doan|en|Lurita Doan|label=ルリタ・ドアン}}は、機関のテレワーク参加率を高めるための積極的なコミットメント目標を発表した。ドアンの課題は、2010年までに対象となる機関職員の50%が週1日以上のテレワークを可能にすることであった。2007年現在、対象となるGSA職員の10%がテレワークを行っているのに対し、連邦労働者全体では4.2%となっている。ドアンの目標は、2008年末までに20%、2009年末までに40%、そして2010年までに最終的に50%にすることであった<ref>{{Cite web|url=http://www.gsa.gov/Portal/gsa/ep/contentView.do?pageTypeId=8199&channelId=-18821&P=&contentId=23524&contentType=GSA_BASIC|title=Administrator Doan Issues GSA Telework Challenge|author=Lurita Doan|publisher=U.S. General Services Administration|date=2007-09-12|accessdate=2012-05-15|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090825115535/http://www.gsa.gov/Portal/gsa/ep/contentView.do?pageTypeId=8199&channelId=-18821&P=&contentId=23524&contentType=GSA_BASIC|archivedate=2009-08-25}}</ref>。 2007年の[[アメリカ国立科学財団]]職員を対象とした調査では、約3分の1がテレワークに定期的に参加しており、職員はこのプログラムに満足しており、テレワークの結果、職員の時間と温室効果ガスの排出量が節約されたと指摘されている<ref name="nsf_2007">{{Citation|author=National Science Foundation|publisher=National Science Foundation|url=https://www.nsf.gov/news/news_summ.jsp?cntn_id=111252&org=olpa&from=news|title="Telework" Benefits Employers, Employees and the Environment|date=March 11, 2008|format=press release}}</ref><ref name="twe_research_2007">{{Citation|author=Telework Exchange|publisher=Telework Exchange|title=Telework Under the Microscope - A Report on the National Science Foundation's Telework Program|url=http://www.teleworkexchange.com/our-research/research-detail/725|laydate=March 11, 2008|lay-url=http://www.teleworkexchange.com/uploads/1000/335-Telework_Exchange_NSF_Study_Press_Release_FINAL__03_11_08.pdf|laysource=Telework Exchange press release|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120416165544/http://www.teleworkexchange.com/our-research/research-detail/725|archivedate=April 16, 2012}} ''Note: access to report requires free registration on website.''</ref>。サーベンス議員(D-MD)は、2009年3月に「2009年テレワーク改善法」を提出した。この法案の共同提案者には、コノリ(D-VA)議員が含まれている。コノリ(D-VA)、ウルフ(R-VA)、カピト(R-WV)が法案の共同提案者となった。この法案は、各行政機関が、従業員の業績や行政機関の運営を低下させることなく、可能な限り最大限に従業員にテレワークを認める方針を定めることを求めている。同時に、米国上院で、アカカ上院議員(D-HI)は、ランドリュー上院議員(D-LA)とヴォイノビッチ(R-OH)とともに、同法案を提出した<ref>{{Cite web|title=GovTrack, H.R. 1722: Telework Improvements Act of 2010|url=http://www.govtrack.us/congress/bill.xpd?bill=h111-1722|accessdate=2012-05-15}}</ref>。 2010年5月24日、アメリカ上院は、ダニエル・アカカ(ハワイ州)とジョージ・ヴォイノビッチ(オハイオ州)の両上院議員が提唱するテレワーク強化法(S.707)を可決した。この法案は、連邦職員にテレワークを行う資格を与え、連邦政府機関がテレワーク方針を定め、テレワーク・マネージャーを特定することを要求している<ref>{{Cite web|title=Federal Computer Week, Telework: Senate gives unanimous thumbs up: Telework Improvements Act of 2010|url=http://fcw.com/articles/2010/05/25/senate-passes-telework-legislation.aspx|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。2010年7月14日、下院は「2010年テレワーク改善法」(H.R.1722)を290-131で可決した。米国上院は2010年9月29日に全会一致で法案の最終版を可決し、下院は2010年11月18日に254-152の超党派投票で可決した<ref>{{Cite web|publisher=Telework Exchange|title=Legislation|url=http://www.teleworkexchange.com/resource-center-resources-leg-per.asp|accessdate=2012-05-15|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110412194059/http://www.teleworkexchange.com/resource-center-resources-leg-per.asp|archivedate=2011-04-12}}</ref>。2010年12月9日、オバマ大統領は、2010年のテレワーク強化法(H.R.1722)に署名を行った<ref>{{Cite web|title=White House, Statement by the Press Secretary|url=http://www.whitehouse.gov/the-press-office/2010/12/09/statement-press-secretary|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。2012年のテレワーク強化法は、米国の機関が従業員に実行可能なオプションとしてテレワークを提供するための枠組みを提供した。テレワークを行う従業員の数を増やすテレワーク強化法の主な目的は次の3つで、(1)業務の継続性の向上、(2)経営の有効性の促進、(3)ワークライフバランスの強化である<ref>{{Cite web|title=U.S. Government Agencies Lead in Telework|url=http://www.mobileworkexchange.com/uploads/1000/810-US_Government_Agencies_Lead_in_Telework.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20130514140436/http://www.mobileworkexchange.com/uploads/1000/810-US_Government_Agencies_Lead_in_Telework.pdf|url-status=dead|archive-date=2013-05-14|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。 「連邦政府における2012年のテレワークの状況(The 2012 Status Telework in the Federal Government)」では、過去18ヶ月間のテレワークのハイライトと、今後のテレワーク改善の目標が掲載されている。データセルに参加している87の機関すべてがテレワーク政策を策定し、政策の73%がテレワーク法の要件を満たしていることが報告されている。68万4,000人以上の連邦職員がテレワークの資格があるとみなされ、これは全連邦職員の約32%に相当する。144,000人以上の連邦職員が、所属機関との間でテレワーク協定を結んでいた。在宅勤務者の27%が週に3日以上遠隔勤務していた<ref name="mnn.com">{{Cite web|title=Federal Teleworking Report Released|url=http://www.mnn.com/money/green-workplace/blogs/federal-teleworking-report-released|accessdate=2020-04-19|publisher=}}</ref>。この調査結果に加えて、報告書は国防総省でのテレワークについても調査している。報告書によると、国防総省には79万3,000人以上の職員がおり、そのうち13万4,877人がテレワークの対象とみなされている。全体的に見て、連邦政府はテレワークを受け入れているようで、従業員のためのリモートワークの機会をより多く作ろうとしている。最後に、報告書では、政府がテレワークを通じてより多くの仕事を提供できるようにする方法をいくつか挙げている。その中には、定年間近の従業員を維持するためのツールとしてテレワークを利用することや、高度な訓練を受けた障害のある退役軍人の雇用を拡大するためにテレワークを利用することなどの提案が含まれている<ref name="mnn.com" />。 === テレワークセンター === [[ファイル:EXPRESS WORK-Booth at Nagoya Station - 1.jpg|サムネイル|名古屋駅に設置された会員制のテレワークスペース]] テレワークセンターは、一般的に車で移動したり、[[公共交通機関]]を利用したりする人が多い場所の近くに設置されているオフィスである。通常は、[[生産性]]を最大限に高めるために、オフィス設備や高速インターネット接続を完備している。中には、受付や管理者などのサポートスタッフを配置しているところも見られる。例えば、ワシントンの首都圏には、メリーランド州に7カ所、バージニア州に8カ所、ワシントンD.C.に3カ所、ウェストバージニア州に1カ所のテレワークセンターが設置されている。テレワークセンターは、通勤時間を短縮しながら、従来のオフィス環境で仕事をすることができる。テレワークセンターの中には、個々の企業が設立したものもあれば、多くの組織が利用するために独立した組織が設立したものも存在する。また、テレワークセンターは、自宅で仕事をするスペースがない人や、自宅で仕事をする気がない人には魅力的なものである。そして、雇用主に労働力のためのより正式な構造を維持する能力を提供している。 このようなワークアレンジメントは、サービスのカスタマイズや仮想的な組織化へと向かう現在の傾向に伴い、より一般的になる可能性が高くなっている。分散型ワークは、コスト削減、競争上の優位性と敏捷性の強化、希少な人材へのアクセス、従業員の柔軟性、有効性、生産性の向上など、企業にとって大きな可能性を提供している<ref>{{Cite journal|last1=Venkatesh|first1=Alladi|last2=Vitalari|first2=Nicholas P.|year=1992|title=An Emerging Distributed Work Arrangement: An Investigation of Computer-Based Supplemental Work at Home|journal=Management Science|volume=38|issue=12|pages=1687–1706|doi=10.1287/mnsc.38.12.1687}}</ref><ref>Korte, W. B., "Telework – Potentials, Inceptions, Operations and Likely Future Situations," in W. B. Korte, S. Robinson, and W. J. Steinle (Eds.), ''Telework: Present Situations and Future Development of A New Form of Work Organization'', Elsevier Science Publishers, Amsterdam, Netherlands, 1988.</ref><ref>Sieber, P. "Virtuality as a Strategic Approach for Small and Medium Sized IT Companies to Stay Competitive in a Global Market," in J.I. DeGross, S. Jarvenpaa, and A. Srinivasan (Eds.), ''Proceedings of the Seventeenth International Conference on Information Systems'', Cleveland, OH, 1996, pp. 468.</ref><ref>Taylor, W. C., "At VeriFone, It's a Dog's Life (And they Love it)," Fast Company, 1995, 1 (Premiere Issue), pp. 115-121. {{Cite web|url=http://www.fastcompany.com/online/01/vfone.html|title=Archived copy|accessdate=2006-05-16|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061019011052/http://www.fastcompany.com/online/01/vfone.html|archivedate=2006-10-19}}</ref>。それは欧米、特にヨーロッパで人気を得ている。重要性は増加しているが、分散型ワークはアジアではまだ広く受け入れられていない<ref>{{Cite journal|last1=Sia|first1=Choon-Ling|last2=Teo|first2=Hock-Hai|last3=Tan|first3=B.C.Y.|last4=Wei|first4=Kwok-Kee|year=2004|title=Effects of Environmental Uncertainty on Organizational Intention to Adopt Distributed Work Arrangements|journal=IEEE Transactions on Engineering Management|volume=51|issue=3|pages=253–267|doi=10.1109/tem.2004.830859}}</ref>。 === リモートオフィスセンター === {{仮リンク|Remote office center|en|Remote office center|label=リモートオフィスセンター}}(ROCs)は、複数の企業から個人にオフィスを貸し出す分散型のセンターである。リモートオフィスセンターでは、プロ仕様のネットワークアクセス、電話システム、セキュリティシステム、メールストップ、オプションサービスなどを追加料金で提供している。ROCは一般的に、人口集中地域全体の人々が住んでいる場所の近くに位置しているため、労働者は数マイル以上の距離を通勤する必要がない。在宅勤務者は実際のオフィスで仕事を行うが、従来の在宅勤務と同様に[[Virtual Private Network|VPN]]を利用してインターネットを介して会社のネットワークにアクセスする。 このタイプの在宅勤務は、在宅勤務のメリットを十分に享受することはできないが、在宅勤務ができない、またはしたくないという従業員のニーズに対応することが可能である。 === テレワーカーのための情報セキュリティ === 安全ではないコンピュータやネットワーク接続から情報を盗むことを生業とする[[ハッカー]]にとって、テレワーカーは組織の最も機密性の高いデータへ扉を開くことになる可能性がある<ref name=":0">{{Cite news|title=Improving Information Security for Teleworkers|first=Tim|last=Godlove|url=https://www.ufairfax.edu/news/Improving-Information-Security-for-Teleworkers-20170113-0022|publisher=University of Fairfax}}</ref>。セキュリティとプライバシーは、技術者が作成できるあらゆるセキュリティ対策の一歩先を行くハッカーの能力のおかげで、最近ではますます希少価値の高いものとなっている。セキュリティ侵害は、標準的なオフィス環境では十分に大きな脅威であるが、在宅勤務や外出先で働く従業員がいる組織では、そのリスクはさらに大きなものとなる。 データ保護と情報セキュリティが組織にとって重要であり、機密データ保護という全体的な目標を達成するためには、従業員の行動が重要であることをテレワーカーに伝えることが組織にとって重要である<ref name=":0" />。セキュリティ問題に対する意識の向上とトレーニングを行っているにもかかわらず、多くの従業員がセキュリティリスクを抑止するために必要な予防措置を講じていないのが現状である。 真のセキュリティは、セキュリティポリシーから始まるものである。情報セキュリティの専門家は、セキュリティポリシーが在宅勤務/テレワーク、そして誰がテレワークをすることができるか、テレワークをする人が利用できるサービス、情報の制限、本人確認/認証/認可、機器とソフトウェアの仕様、完全性と機密性、メンテナンスガイドライン、および堅牢なユーザー教育をカバーしていることを確認しなければならないとされている<ref name=":0" />。 === その他の国々 === ニューヨーク・タイムズの記事によると、在宅勤務は現在アメリカの労働力の約2.6%を占めており、ドライバーなどのリモートワークは含まれていないという。記事では、スタンフォード大学の経済学教授であるニコラス・ブルームの実験についても言及されている。この実験では、250人の労働者が中国の大手旅行会社であるCtripからランダムに選ばれ、自宅かオフィスのどちらかで働くことになった。その結果、在宅勤務をしている人の方が、オフィス勤務をしている人よりも長時間勤務していることが判明した。在宅勤務者はまた、より生産性が高く、より幸せな生活を送っていた。Ctripは在宅勤務で約2Kを節約した。なお、在宅勤務者の退職率は低下したが、昇進率も低下した。在宅勤務者の多くは、孤独感や昇進願望などを理由に、最後にはオフィスに戻ることを求めていた。Global Workplace Analyticsの社長であるケイト・リスターは、ほとんどの労働者が在宅勤務とオフィスワークの併用を好むという結論に達した。在宅勤務は効率性を高め、労働者の柔軟性を高めるものである<ref>{{Cite news|last1=Yee|first1=Marilynn K.|title=It's Unclearly Defined, but Telecommuting Is Fast on the Rise|url=https://www.nytimes.com/2014/03/08/your-money/when-working-in-your-pajamas-is-more-productive.html?_r=1|work=The New York Times}}</ref>。 アメリカは経済性が高く、マルチメディアサービスも充実しているため、テレワークを利用する傾向が高まっている。在宅勤務を好む国トップ10の中では米国が1位であるが<ref>{{Cite news|last1=Levin|first1=Jack|title=Top 10 telecommuters. Christian Science Monitor, 08827729, 10/4/95, Vol. 87, Issue 217|newspaper=The Christian Science Monitor}}</ref>、中国などの発展途上国もこの傾向に追いついてきている。money.163.comの記事によると、アジア太平洋地域の在宅勤務者数は、アメリカ、ヨーロッパ、中東、アフリカなどの地域を上回っている。アジア太平洋地域の在宅勤務者数は約37%、その他の地域では約23~4%となっている<ref>{{Cite news|和書 |title=中国员工更爱远程办公? |url=http://money.163.com/13/0726/01/94M289L100253B0H.html |date=2013-07-26 |newspaper=网易财经 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170915204540/http://money.163.com/13/0726/01/94M289L100253B0H.html |archive-date=2017-09-15 |language=}}</ref>。 なお、すべての労働者が在宅勤務をする機会があるわけではない。在宅勤務の倫理的な問題の一つは、誰に在宅勤務の機会を与えるべきかということである。ある人は、幼い子供がいるので、自宅で仕事をする機会が多いかもしれないが、もう一人は個人的な問題を抱えていると言い出すこともある。そして、在宅勤務とオフィスワークを両立させることは、多くの労働者に好まれている。多くの人は、週に1~2回の在宅勤務が妥当なスケジュールだと考えている。企業もまた、労働者の満足度が高く、企業がコストを節約できるため、この提案を支持している。 === 新型コロナウイルスによるパンデミックの影響 === アナリストは、現在進行中の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) の世界的流行]]が在宅勤務の「転換点」になる可能性を示唆している<ref>{{Cite web|title=Coronavirus could be a tipping point (finally) for telecommuting|url=https://bobsullivan.net/cybercrime/coronavirus-be-a-tipping-point-finally-for-telecommuting/|website=GeekWire|date=2020-03-06|accessdate=2020-04-19|language=en-US}}</ref>。[[シアトル]]では、[[マイクロソフト]]、[[Amazon.com|アマゾン]]、[[Facebook|フェイスブック]]、[[Google|グーグル]]が従業員に在宅勤務を義務付けている<ref>{{Cite web |title=Amazon, Google, Facebook, and Microsoft are asking Seattle-based staff to work from home because of coronavirus |url=https://www.theverge.com/2020/3/5/21166686/coronavirus-amazon-google-facebook-microsoft-twitter-seattle-staff-remote-work |website=The Verge |date=2020-03-05 |access-date=2023-02-19 |language=en-US |first=Jay |last=Peters}}</ref><ref>{{Cite web|title=Seattle traffic disappears as Amazon, Microsoft, others enforce remote work policies|url=https://www.geekwire.com/2020/seattle-morning-traffic-disappears-amazon-microsoft-others-enforce-remote-work-policies/|website=GeekWire|date=2020-03-05|accessdate=2020-04-19|language=en-US}}</ref>。また、流行の結果として在宅勤務が増加することでアメリカでは{{仮リンク|right to Internet access|en|right to Internet access|label=インターネットへのアクセス権}}が拡大する可能性があると示唆する声もある<ref>{{Cite web|title='Can everyone mute?' Coronavirus means we must telecommute. We're not ready|url=https://www.latimes.com/business/technology/story/2020-03-06/coronavirus-telecommute-work-from-home|website=Los Angeles Times|date=2020-03-06|accessdate=2020-04-20|language=en-US}}</ref>。 == 関連する用語と概念 == === コワーキング === [[コワーキング]]とは、独立して仕事をしている人たちが、同じ空間で働くことで生まれる相乗効果はもちろんのこと、共通の作業スペースを共有することで生まれる社交的な集まりのことである。 コワーキングの施設は、フォーマルなオフィスの共有スペースから、コーヒーショップのような社交場まで様々なものがある。起業家や社会起業家は、[[ビジネスインキュベーター]]や[[シードアクセラレーター]]の組織が提供する共有オフィスやワークショップ施設でコワーキングを行うことが多い。 起業家にとってコワーキングは、創造的な起業家、研究者、ナレッジワーカーが出会い、アイデアを共有し、共同作業を行い、新しい研究を共有し、潜在的なパートナーを見つけることを可能にしている。 === 分散型ワーク・分散作業 === 分散型ワークとは、従来の[[オフィス]]やワークスペースの枠を超えた場所での組織的な仕事の遂行を意味している。これは、情報通信技術を利用して、自宅や顧客先などの適切な場所で、ワーカーがより効果的に仕事を行うことを可能にしたり、要求したりする組織的な仕組みを指す。 例えば、[[ファイナンシャルプランナー]]が顧客の職場で顧客のランチタイムに顧客と会う場合、これはオフィス外でのミーティングであるにもかかわらず、インターネットを利用してファイナンシャルプランナーはモバイルコンピュータでファイナンシャルプランニングツールやプレゼンテーションを提示することができる。 もう一つの例としては、出版社の役員が、Eメールやオンラインシステムを使って、自宅から図書館や大学教授に本を勧めたり、最新の書籍の注文をしたりしている。このような分散型の仕事が、労働者の通勤時間を置き換える場合は在宅勤務とみなされ、そうでない場合はテレワークとなる。 === ホテリング === 特に社員が外出先や遠隔地で長時間を過ごす企業では、本社の一時的な従来のオフィスや{{仮リンク|cubicle|en|cubicle|label=キュービクル}}、[[会議室]]、{{仮リンク|remote office center|en|remote office center|label=遠隔地のオフィスセンター}}、その他のシェアオフィス施設を予約して利用できる{{仮リンク|hotdesking|en|hotdesking|label=ホットデスク}}や{{仮リンク|hoteling|en|hoteling|label=ホテリング}}を提供している企業もある。 == ホームワーカー == '''ホームワーカー'''、あるいは'''在宅勤務者'''とは、[[国際労働機関]](ILO)によって、雇用者が指定した製品やサービスの結果として生じる賃金の支払いのために、自宅または職場以外の任意の場所で働く人々と定義されている。 世界には推定3億人の在宅労働者がいるとされているが{{要出典|date=February 2014}}、これらの労働者は一般的に[[非公式経済]]で機能しており、登録も契約もされていないことが多いため、正確な数を把握することは難しい。 最近では、[[通信技術の歴史|通信技術]]の向上、サプライチェーンの変化、特に[[ジャストインタイム生産システム|ジャストインタイム]]の在庫システムの開発などにより、[[在宅ワーク]]の現象が拡大している。ホームワーカーは、{{仮リンク|piece work|en|piece work|label=ピースワーク}}で雇用されることが多い。 ホームワーカーは、[[起業家]]や[[個人事業主|自営業者]]、[[同族経営|ファミリービジネス]]とは異なり、企業に雇われて自宅から特定の活動やサービスを行うという点が特徴である。ホームワーカーは、自身が働いているビジネスを所有したり、運営したりすることはない。高度なスキルを持つ在宅ワーカーは、特に[[情報技術]]の分野ではかなりの数にのぼるが、ほとんどの在宅ワーカーは低スキル労働者とみなされている。最近では、在宅勤務者の労働条件が悪化しており{{要出典|date=February 2014}}、国際開発組織や[[非政府組織]]の懸念事項となっている{{要出典|date=February 2014}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[John O'Duinn|O'Duinn, J.]], (2018) Distributed Teams: The Art and Practice of Working Together While Physically Apart, {{ISBN2|978-1732254909}} * Thomas L. Friedman, ''The World is Flat: A Brief History of the Twenty-First Century''. 2005 {{ISBN2|0-374-29288-4}} == 関連項目 == * [[在宅ワーク]] * [[ビデオ会議]] * [[遠隔会議]] * [[サテライト・オフィス]] * [[日本テレワーク協会]] * [[ノマドワーカー]] * [[オフィススイートの比較]] * [[フライトシェイム]] * [[内職]] * [[時差出勤]] * {{仮リンク|バーチャルチーム|en|Virtual team}} – メンバーがリモートでコラボレーションするチーム == 外部リンク == {{commonscat|Telecommuting}} {{外部リンクの方針参照/追跡}}<!-- 宣伝目的のサイトや、私的な考えを書いたに過ぎないようなサイトは除去されます。また、ウィキペディアはリンク集ではありません。ウィキペディアにおける適切な外部リンクの選び方は、[[Wikipedia:外部リンク]](ショートカット:[[WP:EL]])を参照して下さい。このメッセージは、2021年4月に貼り付けられました。{{外部リンクの方針参照}}を使って貼り付けることができます。--> * [https://telework.mhlw.go.jp/ テレワーク総合ポータルサイト] - [[厚生労働省]] * [https://work-holiday.mhlw.go.jp/telework/ テレワークとは | 働き方・休み方改善ポータルサイト] - [[厚生労働省]] * [https://telework.soumu.go.jp/ テレワーク総合情報サイト Telework Net] - [[総務省]] * [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/telework/ テレワークの推進] - [[総務省]] * [https://japan-telework.or.jp/tw_about/ テレワークとは] - 日本テレワーク協会 {{就業}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てれわく}} [[Category:労働の形態]] [[Category:コンピュータの利用]] [[Category:コンピュータネットワーク]] [[Category:ワーク]]
2003-09-07T06:11:31Z
2023-11-09T18:20:23Z
false
false
false
[ "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Cite news", "Template:Citenews", "Template:外部リンクの方針参照/追跡", "Template:Normdaten", "Template:仮リンク", "Template:Main", "Template:Cite journal2", "Template:ISBN2", "Template:Lang-en-short", "Template:要出典", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:就業", "Template:Convert", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Citation", "Template:404" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF
15,516
大東文化大学
大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学。1923年創立、1946年大学設置。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。 大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。 2022年(令和4年)現在、8学部20学科・8研究科を設置している。 漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。 そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。 大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。 8学部20学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部は創立当時からの歴史と伝統を持つ。 書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。1969年(昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている。 創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。2006年(平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択。 2005年(平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択。 自己点検・評価は1994年(平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。 また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。 大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、1921年(大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。 その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。 この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。 再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災で東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉、江木千之。評議員の一人に渋沢栄一。 大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学、京都帝国大学、早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった。 教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった。 大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の私立専門学校の中ではやや特殊な性格を持った高等教育機関であった。(「財団法人大東文化協会」項目も参照) 九段校舎は、青桐という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても校章や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。 この期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「大漢和辞典」(大修館書店)の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で原田種成ら学院生は中心的存在として携わった。戦中の資源不足の中に刊行され、戦災で原版を失い、最終的な完成は2000年となった足かけ75年余のこの大事業は、今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。大東文化学院では1925年頃に学内紛争があり、百人近い退学者を出していた。漢字研究者で同学院で教鞭を執っていた諸橋轍次が、行く当てを無くした彼らの再就職までの仕事としてこの辞書編纂事業を引き受けた、という経緯がある。 学生数の増加や明治期に建造された木造校舎の老朽化により、1941年(昭和16年)に九段校舎から池袋校舎(東京都豊島区池袋三丁目1385番地)へ移転。剣道場や柔道場、弓道場などが整備された。1944年(昭和19年)3月26日に「大東文化学院専門学校」と改称。次第に太平洋戦争の学徒動員等で教育機能が失われていき、1945年(昭和20年)4月14日未明の空襲によって校舎が全焼し、数万冊の蔵書も焼失。その後は、当時の総長である酒井忠正伯爵が小石川原町(現・文京区白山)の邸宅の一部を仮校舎として開放し、授業を継続した。 終戦翌年の1946年(昭和21年)1月、総長である酒井忠正がGHQにより公職追放となり、前述の設立経緯を持つ学院は閉鎖、酒井邸(仮校舎も含む)は進駐軍により接収された。残された学院関係者と生徒は拠り所を求めて、同年2月12日に青砥校舎(葛飾区青戸町四番地)へ移転、同18日には授業が再開した。 この青砥校舎は元来、大日本機械の少年工訓練養成所と寄宿舎であり、駅からも遠く、川が氾濫すると泥田のようになる土地であり、学校として確保すべき立地環境が整えられているとはいえなかった。それでも学生らは戦災で残された貴重な書物を貪るように読み、卒業生からの寄贈や家族らの支援を受けて、劣悪な環境の中で学び続けた。 1947年から認可・移行が始まった新制大学へ認定されるにあたり、同校設立の経緯、「大東文化」が学名として相応しくないこと、校舎環境等の不備などを理由として第一回審査では認可保留となった。この審査に備えて校舎隣接地に建設中であった図書館は、襲来したカスリーン台風によって倒壊し未完成であり、これも設備不備とされた。 制度上、大学への昇格が不可能であれば廃校となるため、何としても昇格させなければならないとして関係者や卒業生らは学院内外で協議を重ねた。1949年(昭和24年)4月付で「財団法人大東文化学院」を廃止とし、5月に「財団法人東方文化協会」と改称した。その上で、申請する学名を「東京文政大学」とし、旧池袋校舎跡地で諸設備を整えることを条件に再審査を訴え、1949年(昭和24年)6月、新制大学への移行を認可された。開学時の学部は文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)のみ。同年10月に池袋校舎が完成し、移転した。同月、各種学校として東京文政学院も認可された(1961年(昭和36年)8月廃止。) 1951年(昭和26年)、法人名を「学校法人文政大学」、大学名を「文政大学」に改称した。さらに卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、1953年(昭和28年)に法人名を「学校法人大東文化大学」、大学名を「大東文化大学」として再出発した。 1956年(昭和31年)には、同校の教授・卒業生・在校生により「書道学会」が発足し、全国的な展覧会を実施。日本国内の書道教育発展の基礎が大東文化大学関係者主導で創られた。その後、学内でも書道分野の教授陣の充実が図られ、これまでに山﨑節堂、熊谷恒子、松井如流、青山杉雨、宇野雪村、上條信山らの大家が名を連ねた。 この頃、校地の狭さなどによる施設不足等が問題となり、大学振興計画案が立てられた。この計画案を前提として、1960年(昭和35年)10月に現在の板橋校舎の土地(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は1961年(昭和36年)8月に完成した。同月には池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。 翌年の1962年(昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。 この間に東洋研究所や大東柔道整復専門学校(大東医学技術専門学校。2012年(平成24年)末閉校)や文政幼稚園(1963年(昭和38年)廃止)が設立されている。 学生数の急増に対応するため、埼玉県東松山市の元国有林野にキャンパス建設を計画。1966年(昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。 創立50周年記念事業で板橋キャンパスには記念館、研究室の整備が進められた。 1969年(昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。1988年(昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている。さらに2001年(平成13年)には日本初の書道学科(文学部)が誕生した。 1972年(昭和47年)、大東文化大学附属青桐幼稚園が開園。 1973年(昭和48年)、板橋校舎に開学50周年記念講堂が完成。 1976年(昭和51年)、東武東上線東武練馬駅至近に大東文化会館が竣工。板橋校舎への通学に使用されるいわゆる「学バス」はこの一階を発着場とした。 1986年(昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。 1990年代前半、東松山キャンパスの遊休地に授業利用および営利を目的としたパットゴルフ(パターゴルフ)場を造る計画が浮上したが、学生やOBらの反対もあり頓挫した。同時期、群馬県に新キャンパス用地を取得。 2003年(平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から2006年(平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。 2006年(平成18年)、ビアトリクス・ポター資料館竣工。また、東武練馬駅隣接の大東文化会館の改築が完了した。 2007年(平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、2008年(平成20年)に総合グラウンドの完成、2015年(平成27年)完工の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。また、廃校となった東松山市立緑山小学校を取得。「緑山キャンパス」と改称した。 学園年表 学校設置法人(経営母体)と学校(高等教育機関)の変遷 建造物所在地等年表 大東文化学院・大東文化学院専門学校 東京文政大学・文政大学・大東文化大学 板橋校舎近くにある和菓子店が製造する「大東まんじゅう」が生協(板橋・東松山)で販売中。淡いグリーンとオレンジを基調にした「大東文化大学」の文字が施された包装紙、学園章に記された「東」「文」の文字の刻印、黒ごまが入ったこしあんが特徴である。 Google ストリートビューで、板橋・東松山キャンパスの風景を見ることができる。撮影時期は2011年(平成23年)10月で、2012年(平成24年)9月6日から提供開始。 東松山キャンパスから約2.5kmの距離。旧東松山市立緑山小学校。 地上4階、地下1階建て。平成18年(2006年)4月にリニューアル。1階にホール、3・4階に研修施設がある。 敷地は約2,800坪で、ゼミ室やテニスコート、ラグビーコートなど多目的グラウンドがある。ゼミ合宿やクラブ活動で利用されている。 8学部20学科 ●:博士課程前期・後期 ○:修士課程 ◎:専門職学位課程 東松山キャンパスに隣接するこども動物自然公園内で運営している。大東文化大学図書館・英米文学科が所蔵するコレクションの中から、ピーター・ラビットシリーズで日本でも著名なビアトリクス・ポター関連のものを中心に、貴重な書籍、原画、直筆手紙などを一般公開している。 中国 2007年(平成19年)4月に開設した海外事務所。中国国内の協定大学との学術交流の促進を行う。日本人スタッフが駐在し、学生間の交流と情報交換の場にもなっている。 それぞれの分野における学術研究や調査、高度な職業人育成のための講座などを展開している。 1969年(昭和44年)設立の「大東文化書道文化センター」が前身。1988年(昭和63年)設立。日本で唯一書道の研究と芸術活動を行う研究機関で、書道・美術関連の貴重な資料や図書を収蔵している。書道テキストシリーズや1969年(昭和44年)創刊である月刊誌「大東書道」を刊行、2011年(平成23年)現在、大学で刊行される唯一の競書雑誌であり、500号刊行を記念する展覧会を開催した。「高校生のための書道講座」も開催している。 1923年(大正12年)設立。大東文化大学の前身である大東文化協会の研究機関から度々の改組を経て、1961年(昭和36年)に大学附属の研究機関として発足。 研究論文機関誌「東洋研究」を年4回発行している。 当研究所は徳丸研究棟にある。 歴代所長 体育連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、39部、2同好会が存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。 文化団体連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、24部存在している。大東文化大学では文化系のクラブ活動も盛んである。以下に特筆すべき文化系の部活動を紹介する。 ★主な実績 大学側が把握している団体が、2018年(平成30年)3月現在で約70存在する。 学園祭は、「大東祭」とよばれ、毎年11月の上旬に3日間開催される。元々は板橋校舎で開催されていたが、板橋校舎の再開発によって平成14年(2002年)度より東松山校舎で行われていた。平成20年(2008年)度より再び板橋校舎で開催されるようになった。プロのミュージシャン1組のライブと、お笑い芸人のライブを観覧できる企画が人気。 本校が主催で各種コンテストを開催している。 ただし令和4年の関東大学リーグ戦では留学生頼みの勢いだけのラグビーで、前半で息切れ状態。下位に低迷している。 1967年(昭和42年)4月に創部。青葉昌幸監督の下で力をつけ、1973年(昭和48年)の全日本大学駅伝で学生駅伝初優勝を飾る。関東学生陸上競技連盟所属。 襷の色はDAITOグリーン。「大東文化大学」の文字が黒糸で施されている。 箱根駅伝には1968年(昭和43年)の第44回大会から43回連続出場し、第97回大会現在、50回出場・4回の総合優勝・全区間で区間賞を獲得(区間新記録は2区と7区以外で獲得)している。平成2年(1990年)度には史上初の学生駅伝三冠を達成(出雲くにびきロードリレー、全日本大学駅伝、箱根駅伝)している。特に5区と6区に強く、「山の大東」とも称されることもある。しかし、第87回大会では予選会で敗退し、連続出場が43で途絶えた。第96回大会・第97回大会では予選会で15位以下(10位までが本選出場)に沈み、最も低迷した時代を迎えている。 全日本大学駅伝では1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)の4連覇と1984年(昭和59年)、1989年(平成元年)、1990年(平成2年)の7勝を挙げている。4連覇は早稲田大学・駒澤大学に並ぶ大会連勝記録である。出雲駅伝は1990年(平成2年)の1回である。しかし、2010年頃からはシード権争いにも絡まず低迷。1994年の第26回大会には出場できず、連続出場が25で途絶えた。2008年の第40回大会から5年連続で予選会敗退するなど低迷した時代を迎えている。 2010年(平成22年)度創設の女子長距離部門は、全日本大学女子駅伝に第29回から出場し2023年現在、9回の準優勝を果たしている。 2021年(令和3年)には高校、社会人で活躍した留学生が初めて入部。近年遠のいていた箱根駅伝本選出場の期待がかかっていたが、箱根予選会ではその留学生が大ブレーキで出場ならず。しかし、令和4年に仙台育英高校を全国屈指の強豪に育て上げた大東大OBの真名子圭を新監督に迎えたことで、仙台育英時代の教え子だった留学生の実力が開花。令和4年の全日本大学駅伝予選会、令和5年三が日に行われる箱根駅伝の予選会を突破し、本選出場を決めた。 箱根駅伝での主な記録(2020年現在)総合優勝回数:4回(第51回-第52回,第66回-第67回) 大東文化大学同窓会 東京都板橋区との連携事業 インターンシップ 他大学間協定 卒業単位の一部を他の教育機関で取得することができる。 2010年(平成22年)4月現在、全部で21ヶ国71大学と国際交流協定を結んでいる。詳しくは協定校を参照のこと。 主な協定校 付設校は、大学を頂点とする附属校ではなく、学校法人大東文化学園が設置する形態を取っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学。1923年創立、1946年大学設置。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)現在、8学部20学科・8研究科を設置している。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "8学部20学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部は創立当時からの歴史と伝統を持つ。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。1969年(昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。2006年(平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自己点検・評価は1994年(平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、1921年(大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災で東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉、江木千之。評議員の一人に渋沢栄一。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学、京都帝国大学、早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の私立専門学校の中ではやや特殊な性格を持った高等教育機関であった。(「財団法人大東文化協会」項目も参照)", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "九段校舎は、青桐という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても校章や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「大漢和辞典」(大修館書店)の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で原田種成ら学院生は中心的存在として携わった。戦中の資源不足の中に刊行され、戦災で原版を失い、最終的な完成は2000年となった足かけ75年余のこの大事業は、今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。大東文化学院では1925年頃に学内紛争があり、百人近い退学者を出していた。漢字研究者で同学院で教鞭を執っていた諸橋轍次が、行く当てを無くした彼らの再就職までの仕事としてこの辞書編纂事業を引き受けた、という経緯がある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "学生数の増加や明治期に建造された木造校舎の老朽化により、1941年(昭和16年)に九段校舎から池袋校舎(東京都豊島区池袋三丁目1385番地)へ移転。剣道場や柔道場、弓道場などが整備された。1944年(昭和19年)3月26日に「大東文化学院専門学校」と改称。次第に太平洋戦争の学徒動員等で教育機能が失われていき、1945年(昭和20年)4月14日未明の空襲によって校舎が全焼し、数万冊の蔵書も焼失。その後は、当時の総長である酒井忠正伯爵が小石川原町(現・文京区白山)の邸宅の一部を仮校舎として開放し、授業を継続した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "終戦翌年の1946年(昭和21年)1月、総長である酒井忠正がGHQにより公職追放となり、前述の設立経緯を持つ学院は閉鎖、酒井邸(仮校舎も含む)は進駐軍により接収された。残された学院関係者と生徒は拠り所を求めて、同年2月12日に青砥校舎(葛飾区青戸町四番地)へ移転、同18日には授業が再開した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この青砥校舎は元来、大日本機械の少年工訓練養成所と寄宿舎であり、駅からも遠く、川が氾濫すると泥田のようになる土地であり、学校として確保すべき立地環境が整えられているとはいえなかった。それでも学生らは戦災で残された貴重な書物を貪るように読み、卒業生からの寄贈や家族らの支援を受けて、劣悪な環境の中で学び続けた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1947年から認可・移行が始まった新制大学へ認定されるにあたり、同校設立の経緯、「大東文化」が学名として相応しくないこと、校舎環境等の不備などを理由として第一回審査では認可保留となった。この審査に備えて校舎隣接地に建設中であった図書館は、襲来したカスリーン台風によって倒壊し未完成であり、これも設備不備とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "制度上、大学への昇格が不可能であれば廃校となるため、何としても昇格させなければならないとして関係者や卒業生らは学院内外で協議を重ねた。1949年(昭和24年)4月付で「財団法人大東文化学院」を廃止とし、5月に「財団法人東方文化協会」と改称した。その上で、申請する学名を「東京文政大学」とし、旧池袋校舎跡地で諸設備を整えることを条件に再審査を訴え、1949年(昭和24年)6月、新制大学への移行を認可された。開学時の学部は文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)のみ。同年10月に池袋校舎が完成し、移転した。同月、各種学校として東京文政学院も認可された(1961年(昭和36年)8月廃止。)", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)、法人名を「学校法人文政大学」、大学名を「文政大学」に改称した。さらに卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、1953年(昭和28年)に法人名を「学校法人大東文化大学」、大学名を「大東文化大学」として再出発した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)には、同校の教授・卒業生・在校生により「書道学会」が発足し、全国的な展覧会を実施。日本国内の書道教育発展の基礎が大東文化大学関係者主導で創られた。その後、学内でも書道分野の教授陣の充実が図られ、これまでに山﨑節堂、熊谷恒子、松井如流、青山杉雨、宇野雪村、上條信山らの大家が名を連ねた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この頃、校地の狭さなどによる施設不足等が問題となり、大学振興計画案が立てられた。この計画案を前提として、1960年(昭和35年)10月に現在の板橋校舎の土地(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は1961年(昭和36年)8月に完成した。同月には池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "翌年の1962年(昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この間に東洋研究所や大東柔道整復専門学校(大東医学技術専門学校。2012年(平成24年)末閉校)や文政幼稚園(1963年(昭和38年)廃止)が設立されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "学生数の急増に対応するため、埼玉県東松山市の元国有林野にキャンパス建設を計画。1966年(昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "創立50周年記念事業で板橋キャンパスには記念館、研究室の整備が進められた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。1988年(昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている。さらに2001年(平成13年)には日本初の書道学科(文学部)が誕生した。 1972年(昭和47年)、大東文化大学附属青桐幼稚園が開園。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)、板橋校舎に開学50周年記念講堂が完成。 1976年(昭和51年)、東武東上線東武練馬駅至近に大東文化会館が竣工。板橋校舎への通学に使用されるいわゆる「学バス」はこの一階を発着場とした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1990年代前半、東松山キャンパスの遊休地に授業利用および営利を目的としたパットゴルフ(パターゴルフ)場を造る計画が浮上したが、学生やOBらの反対もあり頓挫した。同時期、群馬県に新キャンパス用地を取得。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から2006年(平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)、ビアトリクス・ポター資料館竣工。また、東武練馬駅隣接の大東文化会館の改築が完了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、2008年(平成20年)に総合グラウンドの完成、2015年(平成27年)完工の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。また、廃校となった東松山市立緑山小学校を取得。「緑山キャンパス」と改称した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "学園年表", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "学校設置法人(経営母体)と学校(高等教育機関)の変遷", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "建造物所在地等年表", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大東文化学院・大東文化学院専門学校", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東京文政大学・文政大学・大東文化大学", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "板橋校舎近くにある和菓子店が製造する「大東まんじゅう」が生協(板橋・東松山)で販売中。淡いグリーンとオレンジを基調にした「大東文化大学」の文字が施された包装紙、学園章に記された「東」「文」の文字の刻印、黒ごまが入ったこしあんが特徴である。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Google ストリートビューで、板橋・東松山キャンパスの風景を見ることができる。撮影時期は2011年(平成23年)10月で、2012年(平成24年)9月6日から提供開始。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "東松山キャンパスから約2.5kmの距離。旧東松山市立緑山小学校。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "地上4階、地下1階建て。平成18年(2006年)4月にリニューアル。1階にホール、3・4階に研修施設がある。", "title": "学外施設" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "敷地は約2,800坪で、ゼミ室やテニスコート、ラグビーコートなど多目的グラウンドがある。ゼミ合宿やクラブ活動で利用されている。", "title": "学外施設" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "8学部20学科", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "●:博士課程前期・後期 ○:修士課程 ◎:専門職学位課程", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "東松山キャンパスに隣接するこども動物自然公園内で運営している。大東文化大学図書館・英米文学科が所蔵するコレクションの中から、ピーター・ラビットシリーズで日本でも著名なビアトリクス・ポター関連のものを中心に、貴重な書籍、原画、直筆手紙などを一般公開している。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "中国 2007年(平成19年)4月に開設した海外事務所。中国国内の協定大学との学術交流の促進を行う。日本人スタッフが駐在し、学生間の交流と情報交換の場にもなっている。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "それぞれの分野における学術研究や調査、高度な職業人育成のための講座などを展開している。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)設立の「大東文化書道文化センター」が前身。1988年(昭和63年)設立。日本で唯一書道の研究と芸術活動を行う研究機関で、書道・美術関連の貴重な資料や図書を収蔵している。書道テキストシリーズや1969年(昭和44年)創刊である月刊誌「大東書道」を刊行、2011年(平成23年)現在、大学で刊行される唯一の競書雑誌であり、500号刊行を記念する展覧会を開催した。「高校生のための書道講座」も開催している。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)設立。大東文化大学の前身である大東文化協会の研究機関から度々の改組を経て、1961年(昭和36年)に大学附属の研究機関として発足。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "研究論文機関誌「東洋研究」を年4回発行している。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "当研究所は徳丸研究棟にある。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "歴代所長", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "体育連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、39部、2同好会が存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "文化団体連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、24部存在している。大東文化大学では文化系のクラブ活動も盛んである。以下に特筆すべき文化系の部活動を紹介する。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "★主な実績", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "大学側が把握している団体が、2018年(平成30年)3月現在で約70存在する。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "学園祭は、「大東祭」とよばれ、毎年11月の上旬に3日間開催される。元々は板橋校舎で開催されていたが、板橋校舎の再開発によって平成14年(2002年)度より東松山校舎で行われていた。平成20年(2008年)度より再び板橋校舎で開催されるようになった。プロのミュージシャン1組のライブと、お笑い芸人のライブを観覧できる企画が人気。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "本校が主催で各種コンテストを開催している。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ただし令和4年の関東大学リーグ戦では留学生頼みの勢いだけのラグビーで、前半で息切れ状態。下位に低迷している。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)4月に創部。青葉昌幸監督の下で力をつけ、1973年(昭和48年)の全日本大学駅伝で学生駅伝初優勝を飾る。関東学生陸上競技連盟所属。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "襷の色はDAITOグリーン。「大東文化大学」の文字が黒糸で施されている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "箱根駅伝には1968年(昭和43年)の第44回大会から43回連続出場し、第97回大会現在、50回出場・4回の総合優勝・全区間で区間賞を獲得(区間新記録は2区と7区以外で獲得)している。平成2年(1990年)度には史上初の学生駅伝三冠を達成(出雲くにびきロードリレー、全日本大学駅伝、箱根駅伝)している。特に5区と6区に強く、「山の大東」とも称されることもある。しかし、第87回大会では予選会で敗退し、連続出場が43で途絶えた。第96回大会・第97回大会では予選会で15位以下(10位までが本選出場)に沈み、最も低迷した時代を迎えている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "全日本大学駅伝では1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)の4連覇と1984年(昭和59年)、1989年(平成元年)、1990年(平成2年)の7勝を挙げている。4連覇は早稲田大学・駒澤大学に並ぶ大会連勝記録である。出雲駅伝は1990年(平成2年)の1回である。しかし、2010年頃からはシード権争いにも絡まず低迷。1994年の第26回大会には出場できず、連続出場が25で途絶えた。2008年の第40回大会から5年連続で予選会敗退するなど低迷した時代を迎えている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)度創設の女子長距離部門は、全日本大学女子駅伝に第29回から出場し2023年現在、9回の準優勝を果たしている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)には高校、社会人で活躍した留学生が初めて入部。近年遠のいていた箱根駅伝本選出場の期待がかかっていたが、箱根予選会ではその留学生が大ブレーキで出場ならず。しかし、令和4年に仙台育英高校を全国屈指の強豪に育て上げた大東大OBの真名子圭を新監督に迎えたことで、仙台育英時代の教え子だった留学生の実力が開花。令和4年の全日本大学駅伝予選会、令和5年三が日に行われる箱根駅伝の予選会を突破し、本選出場を決めた。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "箱根駅伝での主な記録(2020年現在)総合優勝回数:4回(第51回-第52回,第66回-第67回)", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "大東文化大学同窓会", "title": "大学関係者と組織" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "東京都板橋区との連携事業", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "インターンシップ", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "他大学間協定 卒業単位の一部を他の教育機関で取得することができる。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)4月現在、全部で21ヶ国71大学と国際交流協定を結んでいる。詳しくは協定校を参照のこと。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "主な協定校", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "付設校は、大学を頂点とする附属校ではなく、学校法人大東文化学園が設置する形態を取っている。", "title": "対外関係" } ]
大東文化大学は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学。1923年創立、1946年大学設置。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。
{{Pathnav|学校法人大東文化学園|frame=1}} {{画像提供依頼|大東文化会館(東京都板橋区)、菅平セミナーハウス(長野県上田市)|date=2009年8月|cat=板橋区|cat2=上田市}} {{日本の大学 | 国 = 日本 | 大学名 = 大東文化大学 | ふりがな = だいとうぶんかだいがく | 英称 = Daito Bunka University | ロゴ = [[File:大東文化大.svg |290px]] | 画像 = daitobunkauniv.jpg | pxl = 250px | 画像説明 = 板橋キャンパス エントランスプラザ | 大学設置年 = 1949年 | 創立年 = 1923年 | 学校種別 = 私立 | 設置者 = [[学校法人大東文化学園]] | 本部所在地 = [[東京都]][[板橋区]][[高島平]]1丁目9番1号 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 46 | 緯度秒 = 55.7 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 | 経度分 = 40 | 経度秒 = 4.6 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP | キャンパス = 板橋(東京都板橋区)<br />東松山([[埼玉県]][[東松山市]])<br />緑山(埼玉県東松山市) | 学部 = 文学部<br />経済学部<br />外国語学部<br />法学部<br />国際関係学部<br />経営学部<br />スポーツ・健康科学部<br />社会学部 | 研究科 = 文学研究科<br />経済学研究科<br />法学研究科<br />外国語学研究科<br />アジア地域研究科<br />経営学研究科<br />スポーツ・健康科学研究科<br />法務研究科(法科大学院) | 大学の略称 = '''大東'''(だいとう)、'''大東大'''(だいとうだい) | ウェブサイト = https://www.daito.ac.jp }} '''大東文化大学'''(だいとうぶんかだいがく、{{Lang-en|Daito Bunka University}})は、[[東京都]][[板橋区]][[高島平]]1丁目9番1号に本部を置く[[日本]]の[[私立大学]]。[[1923年]]創立、[[1946年]]大学設置。[[大学の略称]]は'''大東'''(だいとう)、'''大東大'''(だいとうだい)。 == 概観 == === 大学全体 === 大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、[[漢学]]を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする[[木下成太郎]]による「漢学振興運動」を発端として、[[1923年]](大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。 [[2014年|2022年]](令和4年)現在、8学部20学科・8研究科を設置している。 === 建学の精神 === 漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。[[1985年]]([[昭和]]60年)に制定された。 そして、[[2008年]]([[平成]]20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「[[多文化共生]]を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。 === 教育の理念 === 大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。 === 教育および研究 === 8学部20学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部は創立当時からの歴史と伝統を持つ<ref group="注釈">当時は全て文政学部である。[[1967年]](昭和37年)に改組。</ref>。 書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。[[1969年]](昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている<ref name="kenkyujo-url">[http://www.daito.ac.jp/research/laboratory/calligraphy/information/index.html 研究所案内|大東文化大学]</ref>。 創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。[[2006年]](平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「[[特色ある大学教育支援プログラム]](特色GP)」に採択。 [[2005年]](平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「[[現代的教育ニーズ取組支援プログラム]](現代GP)」に採択。 自己点検・評価は[[1994年]](平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。 また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、[[ファカルティ・ディベロップメント]](Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。 == 沿革 == [[File:Hiranuma Kiichiro.jpg|thumb|190px|大東文化学院初代総長<br />[[平沼騏一郎]]]] [[File:INOUE Tetsujiro.jpg|thumb|170px|大東文化学院第二代総長<br />[[井上哲次郎]]]] === 略歴 === ;大東文化学院の誕生と九段校舎時代 [[ファイル:Kudanue-kosha.jpg|thumb|200px|right|九段校舎(法政大学旧校舎)]] 大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した[[木下成太郎]]を中心とするメンバーの尽力により、[[1921年]]([[大正]]10年)3月18日、第44回[[帝国議会]][[衆議院]]本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。 {{Quotation|漢学ハ古来我ガ邦ノ文化ニ貢献シ国民思想ノ涵養ニ資益セシ所大ナルモノアリ而シテ今後亦之ニ待ツ所少シトセス之カ振興ノ途ヲ講スルハ刻下ノ急務ナリトス依テ政府ハ之ニ関シ適当ノ方法ヲ施サレムコトヲ望ム<br />右建議ス|漢学振興ニ関スル建議案}} その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。 この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。 再三に渡って行われた審議の結果、可決され[[1923年]](大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき<ref name="tayori5">大東文化大学歴史資料館だより第5号</ref>、大東文化学院([[旧制専門学校]])は文部省から設置認可を受けたが、[[関東大震災]]で[[東京府]][[東京市]][[神田区]][[神田錦町|錦町]]三丁目十番地の校舎予定地(旧[[日本工業大学|東京工科学校]]の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市[[麹町区]][[富士見 (千代田区)|富士見町]]六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、[[法政大学]]旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は[[平沼騏一郎]]、初代会頭は[[大木遠吉]]、初代副会頭は[[小川平吉]]、[[江木千之]]。評議員の一人に[[渋沢栄一]]。 大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、[[東京帝国大学]]、[[京都帝国大学]]、[[早稲田大学]]を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった<ref name="tayori5" />。 教授陣には、第二代総長となる[[井上哲次郎]]が[[哲学]]を担当したことをはじめ、[[法学]]の[[鵜澤總明]]、[[山岡萬之助]]、[[漢学]]の[[松平康國]]、[[牧野謙次郎]]、[[内田周平]]のほか、[[哲学者]][[北昤吉]]も[[論理]]・[[心理学]]を講じている。また、[[平沼淑郎]](平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の[[経済学]]教授として教鞭をとった<ref>大東文化大学歴史資料館だより第6号</ref>。 大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の[[私立学校|私立]][[旧制専門学校|専門学校]]の中ではやや特殊な性格を持った[[旧制高等教育機関|高等教育機関]]であった。(「[[大東文化協会|財団法人大東文化協会]]」項目も参照) 九段校舎は、[[アオギリ|青桐]]という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても[[校章]]や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。 この期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「[[大漢和辞典]]」([[大修館書店]])の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で[[原田種成 (漢文学者)|原田種成]]ら学院生は中心的存在として携わった。戦中の資源不足の中に刊行され、戦災で原版を失い、最終的な完成は2000年となった足かけ75年余のこの大事業は、今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。大東文化学院では1925年頃に学内紛争があり、百人近い退学者を出していた。漢字研究者で同学院で教鞭を執っていた[[諸橋轍次]]が、行く当てを無くした彼らの再就職までの仕事としてこの辞書編纂事業を引き受けた、という経緯がある。 ;池袋校舎から青砥校舎へ 学生数の増加や明治期に建造された木造校舎の老朽化により、[[1941年]]([[昭和]]16年)に九段校舎から池袋校舎([[東京都]][[豊島区]][[池袋]]三丁目1385番地)へ移転<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960755/4 官報]』 1941年3月18日</ref>。剣道場や柔道場、弓道場などが整備された。[[1944年]](昭和19年)3月26日に「大東文化学院専門学校」と改称。次第に[[太平洋戦争]]の学徒動員等で教育機能が失われていき、1945年(昭和20年)4月14日未明の空襲によって校舎が全焼し、数万冊の蔵書も焼失。その後は、当時の総長である[[酒井忠正]][[伯爵]]が小石川原町(現・[[文京区]][[白山 (文京区)|白山]])の邸宅の一部を仮校舎として開放し、授業を継続した。 終戦翌年の[[1946年]](昭和21年)1月、総長である酒井忠正が[[GHQ]]により[[公職追放]]となり、前述の設立経緯を持つ学院は閉鎖、酒井邸(仮校舎も含む)は進駐軍により接収された。残された学院関係者と生徒は拠り所を求めて、同年2月12日に青砥校舎([[葛飾区]][[青戸 (葛飾区)|青戸町]]四番地)へ移転、同18日には授業が再開した。 この青砥校舎は元来、大日本機械の少年工訓練養成所と寄宿舎であり、駅からも遠く、川が氾濫すると泥田のようになる土地であり、学校として確保すべき立地環境が整えられているとはいえなかった。それでも学生らは戦災で残された貴重な書物を貪るように読み、卒業生からの寄贈や家族らの支援を受けて、劣悪な環境の中で学び続けた。 ;新制大学認可 1947年から認可・移行が始まった[[新制大学]]へ認定されるにあたり、同校設立の経緯、「大東文化」が学名として相応しくないこと、校舎環境等の不備などを理由として第一回審査では認可保留となった。この審査に備えて校舎隣接地に建設中であった図書館は、襲来した[[カスリーン台風]]によって倒壊し未完成であり、これも設備不備とされた。 制度上、大学への昇格が不可能であれば廃校となるため、何としても昇格させなければならないとして関係者や卒業生らは学院内外で協議を重ねた。1949年(昭和24年)4月付で「財団法人大東文化学院」を廃止とし、5月に「財団法人東方文化協会」と改称した。その上で、申請する学名を「東京文政大学」とし、旧池袋校舎跡地で諸設備を整えることを条件に再審査を訴え、[[1949年]](昭和24年)6月、新制大学への移行を認可された。開学時の学部は文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)のみ。同年10月に池袋校舎が完成し、移転した。同月、各種学校として東京文政学院も認可された(1961年(昭和36年)8月廃止。) ;「大東文化」大学へ [[1951年]](昭和26年)、法人名を「[[学校法人]]文政大学」、大学名を「文政大学」に改称した。さらに卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、[[1953年]](昭和28年)に法人名を「学校法人大東文化大学」、大学名を「'''大東文化大学'''」として再出発した<ref group="注釈">従って、第一期生の卒業証書から大学名が「'''大東文化大学'''」になった。この間の「東京文政大学」「文政大学」名の卒業証書は発行されていない。</ref>。 [[1956年]](昭和31年)には、同校の教授・卒業生・在校生により「書道学会」が発足し、全国的な展覧会を実施。日本国内の書道教育発展の基礎が大東文化大学関係者主導で創られた<ref>大東文化大学歴史資料館だより第9号</ref>。その後、学内でも書道分野の教授陣の充実が図られ、これまでに[[山﨑節堂]]、[[熊谷恒子]]、[[松井如流]]、[[青山杉雨]]、[[宇野雪村]]、[[上條信山]]らの大家が名を連ねた。<ref>学部の設立は[[2001年]](平成13年)まで待たれる</ref> この頃、校地の狭さなどによる施設不足等が問題となり、大学振興計画案が立てられた。この計画案を前提として、[[1960年]](昭和35年)10月に現在の板橋校舎の土地(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は[[1961年]](昭和36年)8月に完成した。同月には池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。 翌年の[[1962年]](昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。 この間に東洋研究所や大東柔道整復専門学校(大東医学技術専門学校。2012年(平成24年)末閉校)や文政幼稚園(1963年(昭和38年)廃止)が設立されている。 ;東松山キャンパスの開校から現在まで 学生数の急増に対応するため、[[埼玉県]][[東松山市]]の元[[国有林野]]にキャンパス建設を計画。[[1966年]](昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。 創立50周年記念事業で板橋キャンパスには記念館、研究室の整備が進められた。 [[1969年]](昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。[[1988年]](昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている<ref name="kenkyujo-url" />。さらに[[2001年]](平成13年)には日本初の書道学科(文学部)が誕生した。 [[1972年]](昭和47年)、大東文化大学附属青桐幼稚園が開園。 [[1973年]](昭和48年)、板橋校舎に開学50周年記念講堂が完成。 [[1976年]](昭和51年)、東武東上線[[東武練馬駅]]至近に大東文化会館が竣工。<ref>東京都板橋区徳丸2-4-21</ref>板橋校舎への通学に使用されるいわゆる「学バス」はこの一階を発着場とした。 [[1986年]](昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。 1990年代前半、東松山キャンパスの遊休地に授業利用および営利を目的とした[[パターゴルフ|パットゴルフ(パターゴルフ)]]場を造る計画が浮上したが、学生やOBらの反対もあり頓挫した。同時期、群馬県に新キャンパス用地を取得。 [[2003年]](平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から[[2006年]](平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。 2006年(平成18年)、[[ビアトリクス・ポター資料館]]竣工。また、[[東武練馬駅]]隣接の大東文化会館の改築が完了した。 [[2007年]](平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、[[2008年]](平成20年)に総合グラウンドの完成、[[2015年]](平成27年)完工の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。また、廃校となった東松山市立緑山小学校<ref>埼玉県東松山市旗立台3</ref>を取得。「緑山キャンパス」と改称した。 === 年表 === '''学園年表''' {| |- bgcolor="#cccccc" !width="4%"|西暦 !!width="6%"|和暦 !!width="4%"|月 !!width="86%"|沿革 |- | [[1921年|1921]] || [[大正]]10 || 3 || 第44国会にて「漢学振興ニ関スル建議案」が可決 |- | [[1923年|1923]] || 大正12 || 9 || 第46回国会の決議に基づき、国費をもって、財団法人大東文化協会を設立、大東文化学院(本科・高等科、旧制専門学校)を設立認可 |- | || || 11 || 校舎と事務所を麹町区富士見六丁目十六番地に置く(九段校舎) |- | [[1944年|1944]] || [[昭和]]19 || 3 || 校名を大東文化学院専門学校と改称 |- | [[1949年|1949]] || 昭和24 || 4 || 大東文化学院専門学校を廃止 |- | || || 5 || 法人名を財団法人東方文化協会と変更 |- | || || 6 || [[新制大学]]に移行、(東京文政大学)文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)設置。 |- | || || 10 || 東京文政学院(各種学校)設置認可 |- | [[1951年|1951]] || 昭和26 || 2 || 法人名を学校法人文政大学、校名文政大学と改称認可 |- | [[1953年|1953]] || 昭和28 || 3 || 校名を'''大東文化大学'''と改称 |- | [[1956年|1956]] || 昭和31 || 10 || 文政幼稚園設置認可 |- | [[1960年|1960]] || 昭和35 || 6 || 法人名を学校法人大東文化学園と改称 |- | || || 9 || 大東柔道整復専門学校設立認可 |- | [[1961年|1961]] || 昭和36 || 4 || 大東柔道整復専門学校を大東医学技術整復専門学校に改称、衛生検査科を新設、東洋研究所設立 |- | || || 8 || 東京文政学院廃止認可 |- | [[1962年|1962]] || 昭和37 || 4 || 文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組、大東文化大学第一高等学校開校 |- | [[1963年|1963]] || 昭和38 || 4 || 経済学部経営学科設置、文政幼稚園廃止認可 |- | [[1964年|1964]] || 昭和39 || 4 || 大学院文学研究科日本文学専攻(修士課程)・中国学専攻(修士課程)設置 |- | [[1967年|1967]] || 昭和42 || 4 || 文学部英米文学科、大学院文学研究科中国学専攻(博士課程)設置、 大東文化大学東松山キャンパス開設 |- | || || 6 || 大東医学技術整復専門学校を大東医学技術専門学校と名称変更 |- | [[1968年|1968]] || 昭和43 || 4 || 文学部外国語学科設置 |- | [[1971年|1971]] || 昭和46 || 12 || 大東医学技術専門学校の衛生検査科を臨床検査科と名称変更 |- | [[1972年|1972]] || 昭和47 || 4 || 大東文化大学附属青桐幼稚園開園、文学部教育学科、外国語学部中国語学科・英語学科、大学院経済学研究科経済学専攻(修士課程)、大学院文学研究科日本文学専攻(博士課程)設置 |- | [[1973年|1973]] || 昭和48 || 4 || 法学部法律学科設置 |- | [[1977年|1977]] || 昭和52 || 4 || 大学院法学研究科法律学専攻(修士課程)設置 |- | [[1978年|1978]] || 昭和53 || 4 || 大学院経済学研究科経済学専攻(博士課程後期)、大学院文学研究科英文学専攻(修士課程)、別科日本語研修課程、文学専攻科経済学専攻設置 |- | [[1986年|1986]] || 昭和61 || 4 || 国際関係学部国際関係学科・国際文化学科設置 |- | [[1990年|1990]] || [[平成]]2 || 4 || 法学部政治学科設置 |- | [[1991年|1991]] || 平成3 || 4 || 大学院法学研究科法律学専攻(博士課程後期)、文学専攻科教育学専攻設置 |- | [[1993年|1993]] || 平成5 || 4 || 外国語学部日本語学科、大学院経済学研究科(経済学専攻)設置 |- | [[1994年|1994]] || 平成6 || 4 || 大学院法学研究科政治学専攻(修士課程)設置 |- | [[1995年|1995]] || 平成7 || 4 || 大学院経済学研究科経営学専攻(博士課程後期)設置 |- | [[1996年|1996]] || 平成8 || 4 || 大学院法学研究科政治学専攻(博士課程後期)設置 |- | [[1999年|1999]] || 平成11 || 4 || 大学院外国語学研究科中国語学専攻・英語学専攻・日本言語文化学専攻(修士課程)、大学院アジア地域研究科アジア地域研究専攻(修士課程)設置 |- | [[2000年|2000]] || 平成12 || 4 || 文学部[[書道学科]]設置('''日本初の[[書道]]の専門学科''')、経済学部経営学科を学部に昇格させ、経営学部経営学科と企業システム学科設置 |- | [[2001年|2001]] || 平成13 || 4 || 環境創造学部環境創造学科設置、経済学部を社会経済学科と現代経済学科の2学科を設置 |- | [[2003年|2003]] || 平成15 || 4 || 大学院経営学研究科経営学専攻(博士課程前期・後期)、文学研究科書道学専攻(修士課程)設置 |- | [[2004年|2004]] || 平成16 || 4 || 大学院法務研究科法務専攻(専門職学位課程) 設置 |- | [[2005年|2005]] || 平成17 || 4 || 文学部中国文学科を中国学科へと名称変更、スポーツ・健康科学部(スポーツ科学科・健康科学科)設置 |- | [[2006年|2006]] || 平成18 || || 「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム」に選定 |- | [[2007年|2007]] || 平成19 || 4 || 外国語学研究科日本言語文化学専攻(博士課程後期)設置 |- | [[2008年|2008]] || 平成20 || 4 || 大学院文学研究科教育学専攻(修士課程)設置 |- | [[2009年|2009]] || 平成21 || 4 || 大学院スポーツ・健康科学研究科(修士課程)設置 |- | [[2011年|2011]] || 平成23 || 2 || 外国語学研究科(中国言語文化学専攻)博士課程後期課程を開設(従来の中国語専攻修士課程は博士課程後期課程の開設に伴い、中国言語文化学専攻博士課程前期課程と改称)。 |- | [[2012年|2012]] || 平成24 || 3 || 大東医学技術専門学校閉校 |- | [[2013年|2013]] || 平成25 || 4 || 文学部教育学科に保育士課程を開設 |- |[[2013年|2015]] |平成27 |4 |大学院法務研究科(法科大学院)学生募集停止 |- |[[2013年|2016]] |平成28 |4 |経営学部 企業システム学科学生募集停止、経営学部 経営学科一科へ改組 |- |[[2013年|2018]] |平成30 |4 |スポーツ・健康科学部看護学科、文学部歴史文化学科、社会学部社会学科 設置。環境創造学部環境創造学科 学生募集停止 |} '''学校設置法人(経営母体)と学校(高等教育機関)の変遷''' {|class="wikitable" style="font-size:small;" !学校設置法人(経営母体)!!colspan="4"|学校(高等教育機関) |- |大東文化協会<br />1923年(大正12年)2月11日設立 - 1923年(大正12年)9月20日||colspan="4"|(開設準備) |- |rowspan="2"|財団法人大東文化協会<br />1923年(大正12年)9月20日改組 - 1949年(昭和24年)4月||colspan="3"|大東文化学院<br />1923年(大正12年)9月20日設立認可 - 1944年(昭和19年)3月26日||rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|[[旧制専門学校]] |- |colspan="3"|大東文化学院専門学校<br />1944年(昭和19年)3月26日改称認可 - 1949年(昭和24年)4月廃止 |- |財団法人東方文化協会<br />1949年(昭和24年)5月名称変更 - 1951年(昭和26年)2月||colspan="3"|東京文政大学<br />1949年(昭和24年)6月新制大学移行認可 - 1951年(昭和26年)2月||rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|[[新制大学]] |- |rowspan="2"|学校法人文政大学<br />1951年(昭和26年)2月改称認可 - 1960年(昭和35年)6月||colspan="3"|文政大学<br />1951年(昭和26年)2月改称認可 - 1953年(昭和28年)3月 |- |rowspan="3" style="border-right:#f9f9f9 1px solid;"|大東文化大学<br />1953年(昭和28年)3月改称 - 現在||colspan="2"|{{Color|#f9f9f9|.}} |- |rowspan="2"|学校法人大東文化学園<br />1960年(昭和35年)6月改称 - 現在||style="border-right:#f9f9f9 1px solid;"|大学院<br />1964年(昭和39年)3月設置<br /> - 現在||専攻科<br />1978年(昭和53年)4月 -<br />2012年(平成24年)度募集停止 |} '''建造物所在地等年表''' {| style="width:60em;" |- bgcolor="#cccccc" !width="4%"|西暦 !!width="8%"|和暦 !!width="6%"|月 !!width="82%"|沿革 |- | 1923 || [[大正]]12 || 11 ||校舎と事務所を麹町区富士見六丁目十六番地に置く(九段校舎) |- | 1941 || [[昭和]]16 || 2 ||九段より豊島区池袋三丁目1385番地に移転(池袋校舎) |- | 1945 || 昭和20 || 4 ||戦災により池袋校舎を焼失 |- | 1946 || 昭和21 || 2 ||葛飾区青戸町四番地(青砥校舎)に移転 |- | 1949 || 昭和24 || 10 ||池袋校舎跡地に校舎完成復帰 |- | 1961 || 昭和36 || 8 ||大学を池袋より板橋区志村西台町に移転(現在地) |- | 1967 || 昭和42 || 4 ||大東文化大学東松山キャンパス開設 |- | 1970 || 昭和45 || 6 ||第一高等学校新校舎竣工 |- | 1973 || 昭和48 || 10 ||板橋校舎50周年記念館竣工(現交流の杜) |- | 1975 || 昭和50 || 5 ||群馬県嬬恋セミナーハウス竣工 |- | 1976 || 昭和51 || 12 ||大東文化会館竣工 |- | 1988 || 昭和63 || 3 ||東松山校舎建設および開発造成工事竣工 |- | [[1989年|1989]] || [[平成]]元 || 3 ||板橋校舎1号館竣工 |- | 1994 || 平成6 || 6 ||長野県菅平セミナーハウス竣工 |- | 1995 || 平成7 || 5 ||第一高等学校新校舎竣工 |- | 1998 || 平成10 || 4 ||図書館書庫棟竣工 |- | 1999 || 平成11 || 4 ||東洋研究所徳丸研究棟竣工 |- | 2003 || 平成15 || 4 ||板橋キャンパス整備計画第I期工事(中央棟図書館・3号館)竣工 |- | || || 12 ||信濃町校舎(法務研究科)竣工 |- | 2005 || 平成17 || 8 ||板橋キャンパス整備計画第II期工事(体育館・厚生棟)竣工 |- | || || 9 ||東松山校舎新9号館竣工 |- | 2006 || 平成18 || 4 ||ビアトリクス・ポター資料館竣工 |- | 2007 || 平成19 || 5 ||板橋キャンパス整備計画第III期工事(思索の杜・交流の杜)※全事業完了 |- | 2010 || 平成22 || 10 ||東松山キャンパス整備事業第1期工事(新3号館・10号館)起工 |- | 2011 || 平成23 || 12 ||東松山キャンパス整備事業第1期工事(新3号館・10号館)竣工 |- | 2012 || 平成24 || 2 ||東松山キャンパス整備事業第2期工事(新4号館・新5号館)起工 |- | 2013 || 平成25 || 3 ||東松山キャンパス新4号館供用開始 |- | || || 5 ||東松山キャンパス新5号館供用開始、東松山キャンパス整備事業第2期工事(新4号館・新5号館)竣工 |- | || || 8 ||東松山キャンパス整備事業第3期工事(新2号館・周辺外構整備)起工 |- | 2014 || 平成26 || 10 ||東松山キャンパス新2号館供用開始予定 |- | 2015 || 平成27 || 1 ||東松山キャンパス整備事業第3期工事竣工 |- |2018 |平成30 |8 |法務研究科、信濃町校舎より板橋校舎へ移転 |- | | | | |- |} === 歴代総長・校長・学長 === '''大東文化学院・大東文化学院専門学校''' {|class="wikitable" style !!!代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- !rowspan="12" style="text-align:center;"|大東文化<br />学院総長 |- |初代||[[平沼騏一郎]]||1923年(大正12年)9月25日||1925年(大正14年)2月16日|| |- |第二代||[[井上哲次郎]]||1925年(大正15年)2月16日||1926年(大正15年)10月11日|| |- |第三代||[[大島健一]]||1926年(大正15年)10月23日||1927年(昭和2年)6月20日||総長事務取扱 |- |第四代||[[鵜澤總明]]<sup>1</sup>||1927年(昭和2年)6月20日||同年11月30日||総長事務取扱 |- |第五代||鵜澤總明<sup>2</sup>||1927年(昭和2年)11月30日||1928年(昭和3年)12月3日||総長事務取扱 |- |第六代||[[大津淳一郎]]||1928年(昭和3年)12月3日||1932年(昭和7年)1月29日|| |- |第七代||[[加藤政之助]]||1932年(昭和7年)1月30日||1938年(昭和13年)2月9日||1938年(昭和13年)1月27日まで総長事務取扱 |- |第八代||[[松平頼寿]]<sup>1</sup>||1938年(昭和13年)2月10日||1940年(昭和15年)3月1日||1940年(昭和15年)12月以降[[名誉総長]] |- |第九代||鵜澤總明<sup>3</sup>||1940年(昭和15年)12月27日||1943年(昭和18年)8月24日|| |- |第十 代 |松平頼寿<sup>2</sup>||colspan="2" style="text-align:center;"|1943年(昭和18年)8月25日|| |- |rowspan="3"|第十 一代 | rowspan="3" |[[酒井忠正]]||rowspan="3"|1943年(昭和18年)9月||rowspan="3"|1945年(昭和20年)12月||1944年(昭和19年)3月以前は「総長」 |- ! rowspan="6" style="text-align:center;" |大東文化<br />学院<br />専門学校<br />校長 |- |1944年(昭和19年)3月の改称後から「校長」 |- |第十 二代 |鵜澤總明<sup>4</sup>||1946年(昭和21年)9月18日||1948年(昭和23年)3月10日||名誉総長 |- |第十三代 |[[藤塚鄰]] |1948年(昭和23年)3月<ref>{{Cite book|和書|title=心は放て天地間、まなこはさらせ世の移り(大東文化大学創立80周年誌)|year=2003|publisher=大東文化大学}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daito.ac.jp/100th/publications/04.html|title=心は放て天地間、まなこはさらせ世の移り(大東文化大学創立80周年誌)|accessdate=2021/5/31|publisher=大東文化大学}}</ref> |1948年(昭和23年)12月 | |- |第十 四代 |[[土屋久泰]]||1949年(昭和24年)1月15日||同年3月18日|| |} '''東京文政大学・文政大学・大東文化大学''' *1949年 - 1951年:東京文政大学学長 *1951年 - 1953年:文政大学学長 *1953年 - 現在:大東文化大学学長 {|class="wikitable" style !代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |初代||[[土屋久泰]]||1949年(昭和24年)5月1日||1958年(昭和33年)3月31日||名誉総長 |- |第二代||[[平島敏夫]]||1958年(昭和33年)4月1日||1962年(昭和37年)11月30日|| |- |第三代||[[南条徳男]]||1962年(昭和37年)11月30日||1969年(昭和44年)3月31日||名誉総長 |- |第四代||[[佐伯梅友]]||1969年(昭和44年)4月1日||1975年(昭和50年)3月31日|| |- |第六代||[[清原道壽]]||1983年(昭和58年)4月1日||1984年(昭和59年)3月31日|| |- |第七代||[[香坂順一]]||1984年(昭和59年)4月1日||1987年(昭和62年)3月31日|| |- |第八代||[[杉本良吉 (裁判官)|杉本良吉]]||1987年(昭和62年)4月1日||1990年(平成2年)3月31日|| |- |第九代||[[穂積重行]]||1990年(平成2年)4月1日||1993年(平成5年)3月31日|| |- |第十 代 |[[佐藤定幸]]||1993年(平成5年)4月1日||1996年(平成8年)3月31日|| |- |第十 四代 |[[渡部茂]]||2008年(平成20年)4月1日||2010年(平成22年)8月10日||任期途中退任<br />次代学長就任まで経営学部長岡田良徳教授(当時)が職務代理 |- |第十 五代 |[[太田政男]]||2010年(平成22年)10月27日||2017年(平成29年)3月31日 | |} == 基礎データ == === 所在地 === *板橋キャンパス(〒175-8571 [[東京都]][[板橋区]][[高島平]]1丁目9番1号) *東松山キャンパス(〒355-8501 [[埼玉県]][[東松山市]]岩殿560番地) *緑山キャンパス(〒355-0054 埼玉県東松山市旗立台3番1) *大東文化会館(〒175-0083 東京都板橋区[[徳丸]]2丁目4番21) *菅平セミナーハウス(〒386-2204 [[長野県]][[上田市]][[菅平高原]]1278番1002) === 象徴 === *'''学園章''' :「東文」の2文字を配した紋章 :桐紋に「東文」の2文字を配した紋章(日本政府が用いる紋章([[五七桐花紋]])に近い)。 *'''シンボルマーク''' :DBマーク:創立80周年を記念し、公募によって決定。「大東(DAITO)」のDと「文化(BUNKA)」のBを図案化したもの。[[商標登録]]第4642290号。 *'''イメージキャラクター''' :パラブン(PaRaBun):大東文化学園のイメージキャラクター。「大東(DAITO)」のDと「パラボラアンテナ」をモチーフにした鳥で、「文化(BUNKA)」のBと都市型大学をイメージした羽とボディが特徴。商標登録第4642291号。 *'''プロモーションキャラクター''' :ピーターラビット {{main|ピーターラビット|大東文化大学ビアトリクス・ポター資料館}} *'''和文ロゴタイプ''' :筆文字 *'''英文ロゴタイプ''' *'''[[スクールカラー|イメージカラー]]''' {{色}} :大学イメージカラーはDAITOグリーンという名称で[[DICカラーガイド]]の「{{Color|#5A7B21|■}}DIC-247」と「{{Color|#005740|■}}DIC-389」を用いている<ref>色見本の数値は全て「[http://www.dic-graphics.co.jp/color/search.html DICカラーガイド情報検索]」に基づく。</ref>。 <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> {{ Infobox subcolor |title=DIC-247 |kana=系統色名:こい黄緑 |english= |hex=5A7B21 |c=55|m=2|y=100|k=53 |munsell=6.0GY 4.7/7.6 |float=none }} </div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> {{ Infobox subcolor |title=DIC-389 |kana=系統色名:こい青みの緑 |english= |hex=005740 |c=94|m=52|y=90|k=26 |munsell=6.2G 3.2/5.9 |float=none }} </div>{{clear|left}} ==== 校歌・学生歌 ==== *'''校歌''' :作詞:[[谷鼎]](たにかなえ)、作曲:[[信時潔]]。現在の校歌は、旧校歌(学院歌)に代わり、1953年(昭和28年)9月20日の大学創立30周年を記念して発表されたもの。ちなみに、谷が急逝した[[1960年]](昭和35年)に作られた「通勤」と題する連作短歌の中に、大東文化大学を歌った一首がある<ref name="tayori2">大東文化大学歴史資料館だより第2号</ref>。 : [http://www.daito.ac.jp/information/about/college_song.html 大東文化大学混声合唱団による校歌斉唱ページ] *'''学生歌''' :作詞:[[児玉花外]]、作曲:[[梁田貞]]。大東文化学院(前身校)の学生歌。正確な作詞時期は不詳であるが、昭和5年([[1930年]])前後のことであったと思われる<ref name="tayori2" />。 :歌詞に「[[靖国神社]]」「九段坂」があるのは、創設した場所が東京・九段であったため。 *'''新学生歌''' :創設60周年を記念して、大学が新たな学生歌を公募した。 :「おゝ青春よ」作詞:広井大三、作曲:広瀬鐵雄 :「桐の窓辺に」作詞:尾島博、作曲:広瀬鐵雄 ==== 大東まんじゅう ==== 板橋校舎近くにある和菓子店が製造する「大東まんじゅう」が生協(板橋・東松山)で販売中。淡いグリーンとオレンジを基調にした「大東文化大学」の文字が施された包装紙、学園章に記された「東」「文」の文字の刻印、黒ごまが入ったこしあんが特徴である<ref>{{Cite web|和書|title=全力で食レポ!大東文化のお土産といったら「大東まんじゅう」|大東文化大学|url=https://www.daito.ac.jp/daitoeyes/culture/details_00230.html|website=Daito Eyes|accessdate=2020-01-23|language=ja}}</ref>。 == 施設 == [[Google ストリートビュー]]で、板橋・東松山キャンパスの風景を見ることができる。撮影時期は2011年(平成23年)10月で、2012年(平成24年)9月6日から提供開始。 === 板橋キャンパス === [[File:Daitobunkauniv.jpg|thumb|キャンパスプラザ]] [[File:Daito bunka univ Itabashi campus1.jpg|thumb|正面が3号館、交流の杜を見渡す。]] *所在地:〒175-8571 東京都板橋区高島平1丁目9番1号 *設置学部:文学部・外国語学部・経済学部・経営学部・法学部・環境創造学部・社会学部の3~4年(国際関係学部、スポーツ・健康科学部以外の3~4年) *設置研究科:文学研究科、経済学研究科、法学研究科、外国語学研究科、経営学研究科 *敷地面積:24,040.39㎡ *交通アクセス: **[[都営地下鉄三田線]] [[西台駅]]西口から徒歩約9分 **[[国際興業バス]]:東武練馬駅から[[浮間舟渡駅]]行「高島六の橋」下車 **国際興業バス:[[成増駅]]北口から[[赤羽駅]]西口または[[志村三丁目駅]]行「大東文化大学」下車 *スクールバス: **[[東武東上本線|東武東上線]] [[東武練馬駅]]北口の大東文化会館からスクールバスで約7分(無料) ==== 環境 ==== *キャンパスは[[東京都道446号長後赤塚線]]とその高架上の[[首都高速5号池袋線]]と隣接する。 *創立80周年記念事業により、中央棟・図書館、3号館(第I期)、体育館・厚生棟(第II期)、思索の杜・交流の杜(第III期)が建てられた。「人と環境にやさしい都市型キャンパスの創造」という全体コンセプトのもと、中村勉総合計画事務所、山本・堀アーキテクツの設計により、2003年(平成15年)竣工。建築施工は、大林組東京本社。グッドデザイン賞、第31回東京建築賞・東京都知事賞受賞。 *高断熱、高気密、日射遮蔽の高環境躯体性能をもち、太陽光、地中熱などの自然エネルギー、コージェネ廃熱利用などにより省エネを実現。 ==== 主な施設 ==== *'''中央棟・図書館''' :地下1階、地上5階建て。情報ラウンジ・食堂・カフェテリア、大学生協売店などが配置。 :図書館は蔵書総数は約100万冊(2021年(令和3年)3月31日現在)、総閲覧席数は610席、総面積は5,743平米。自動化書庫システムによりパソコンから図書を呼び出せる。 *'''3号館''' :地上5階建て。1〜3階が教室、3階の一部〜5階が研究室。壁面には太陽光発電パネルと屋上に発電用風車を設置し学内に電力を供給している。 *'''体育館''' :収納式の移動観覧席と舞台設備を備えている。クラブ活動やイベントなどに利用。 *'''思索の杜''' :中央棟・図書館裏、体育館、1号館の間にある、常緑樹林。旧体育館跡地。 *'''交流の杜''' :キャンパスの中心に位置する空間。50周年記念館の跡地。 :風神と雷神をイメージした「空の記憶1・2」モニュメントは、教育学科教授の和田章の作品。 === 東松山キャンパス === [[File:Daito bunka univ campus-plaza1.jpg|thumb|キャンパスプラザ]] [[File:Daito bunka univ over-bridge1.jpg|thumb|オーバーブリッジ外観]] *所在地:〒355-8501 埼玉県東松山市岩殿560 *設置学部:全ての学部1-2年、国際関係学部1-4年、スポーツ・健康科学部1-4年 *設置研究科:アジア地域研究科、スポーツ・健康科学研究科 *敷地面積:252,237.46㎡ *交通アクセス: **[[川越観光バス]]:高坂駅西口から[[鳩山ニュータウン]]行「大東文化大学」バス停下車 *スクールバス: **東武東上線 [[高坂駅]]西口からスクールバスで約7分(無料、常時運行) **[[東日本旅客鉄道|JR]][[高崎線]] [[鴻巣駅]]西口からスクールバスで約40分(有料、登録乗車制) **JR[[宇都宮線]]、[[東武伊勢崎線]] [[久喜駅]]東口からスクールバスで約60分(有料、登録乗車制) ==== 環境 ==== *面積は249,606.36平米で東京ドーム5.2個分相当の広大なキャンパス。 ==== 主な施設 ==== *'''キャンパスプラザ''' :スクールバス乗降場すぐ、レンガ敷きの広場。野外ステージもあり、昼休みや各行事の時にはバンド演奏など各種イベントの場になる。 *'''60周年記念図書館 :地下2階、地上4階建て。蔵書総数は約60万冊(2021年《令和3年》3月31日現在)、総閲覧席数は999席、総面積は8,916平米。地下1階には130人を収容できるAVホールを完備。リスニングルームでは約1万4000種のソフトが自由に視聴できる。入館は学生証・職員証・図書館利用カードのいずれかが必要となる。 *'''オーバーブリッジ''' :中庭や道路、調整池をまたいで、2号館付近〜60周年記念図書館・60周年記念講堂付近〜第2研究棟を結ぶ。全長約300m。外と隔てる屋根は透明な素材によって覆われているため、ブリッジ内室温は直射日光や外気温に影響される。 *'''調整池''' :通称「池」と呼ばれている。周囲は芝が敷かれた階段状でベンチも設置されている。 *'''学生食堂''' :生協レストラン・ビュッフェ(第1厚生棟2階)、レストラン大東(第1厚生棟1階)、第一食堂(部室棟隣)の3つの食堂がある。昼時には席数が不足し、キャンパスプラザなどの屋外で食べる学生も多い。 *'''総合グラウンド''' :東松山キャンパス40周年記念事業として2008年(平成20年)に完成。緑の人工芝や全天候型舗装トラックなど、最新設備が整っている。 *'''専用グラウンド''' :野球、ラグビーの専用グラウンドとテニスコートがある。3グラウンドは道路に沿って所在する。2007年(平成19年)に野球専用グラウンドに人工芝が敷き詰められた。 === 緑山キャンパス === [[File:Daito-bunka-univ-midoriyama.jpg|thumb|緑山キャンパス全景]] 東松山キャンパスから約2.5kmの距離。旧[[東松山市立桜山小学校#旧東松山市立緑山小学校|東松山市立緑山小学校]]。 *所在地:〒355-0054 埼玉県東松山市旗立台3番 *設置学部:(なし) *利用場所:グラウンド、体育館、各教室、駐車場 *交通アクセス: **東武東上線 高坂駅 **川越観光バス:[[川越観光自動車森林公園営業所#高坂駅 - 高坂ニュータウン - 東京電機大学方面|高02系統]]:高坂駅西口-東京電機大学本館前線 *** 桜山台経由「桜山台」バス停下車徒歩5分、「旗立台」バス停下車2分 *** 白山台郵便局・松風台経由「旗立台」バス停下車2分 == 学外施設 == === 大東文化会館 === [[File:Daito Bunka Kaikan 2022-10-23.jpg|thumb|大東文化会館]] 地上4階、地下1階建て。平成18年(2006年)4月にリニューアル。1階にホール、3・4階に研修施設がある。 *交通アクセス:東武東上線 [[東武練馬駅]]から徒歩3分 === 菅平セミナーハウス === 敷地は約2,800坪で、ゼミ室やテニスコート、ラグビーコートなど多目的グラウンドがある。ゼミ合宿やクラブ活動で利用されている。 *収容人数:40名 == 教育および研究 == === 学部 === 8学部20学科 *[[文学部]] **[[日本文学科]] **中国文学科 **[[英米文学科]] **[[教育学部|教育学科]] **[[書道学科]] **歴史文化学科 *[[経済学部]] **[[社会経済学|社会経済学科]] **現代経済学科 *[[外国語学部]] **中国語学科 **英語学科 **[[日本語学科]] *[[法学部]] **法律学科 **[[政治学部|政治学科]] *[[国際関係学部]] **国際関係学科 **国際文化学科 *[[経営学部]] **経営学科 *[[スポーツ学部|スポーツ・健康科学部]] **スポーツ科学科 **健康科学科 **看護学科 *[[社会学部]] **[[社会学部|社会学科]] === 研究科 === ●:博士課程前期・後期<br /> ○:修士課程<br /> ◎:専門職学位課程<br /> * [[文学研究科]] *文学研究科は1964年(昭和39年)に大東文化大学で初めて設立された研究科である。 ** 日本文学専攻● ** 中国学専攻● ** 英文学専攻○ ** 教育学専攻○ ** 書道学専攻● ― 日本唯一(2014年現在)の[[博士(書道学)]]が授与される。 * [[経済学研究科]] ** 経済学専攻● * [[法学研究科]] ** 法律学専攻● ** 政治学専攻● * [[外国語学研究科]] ** 英語学専攻● ** 日本言語文化学専攻● ** 中国言語文化学専攻○ * [[アジア地域研究科]](東松山キャンパス) ** アジア地域研究専攻● * [[経営学研究科]] ** 経営学専攻● * [[法務研究科]]([[法科大学院]])(学生募集停止) ** 法務専攻◎ * [[スポーツ・健康科学研究科]](東松山キャンパス) ** スポーツ・健康科学専攻○ === 専攻科 === *文学専攻科 **教育学専攻 === 関係機関 === ==== ビアトリクス・ポター資料館 ==== 東松山キャンパスに隣接する[[埼玉県こども動物自然公園|こども動物自然公園]]内で運営している。大東文化大学図書館・英米文学科が所蔵するコレクションの中から、ピーター・ラビットシリーズで日本でも著名な[[ビアトリクス・ポター]]関連のものを中心に、貴重な書籍、原画、直筆手紙などを一般公開している。 {{main|ピーターラビット|大東文化大学ビアトリクス・ポター資料館}} ==== 北京事務所 ==== {{CHN}}<br /> 2007年(平成19年)4月に開設した海外事務所。中国国内の協定大学との学術交流の促進を行う。日本人スタッフが駐在し、学生間の交流と情報交換の場にもなっている。 ==== 研究所 ==== それぞれの分野における学術研究や調査、高度な職業人育成のための講座などを展開している。 *書道研究所 *東洋研究所 *[[人文科学研究所]] **文学部に付置する研究所である。 *語学教育研究所 **外国語学部に付置する研究所である。 *経済研究所 **経済学部に付置する研究所である。 *経営研究所 **経営学部に付置する研究所である。 *法学研究所 **法学部法律学科に付置する研究所である。 *国際比較政治研究所 **法学部政治学科に付置する研究所である。 *現代アジア研究所 **国際関係学部の付置研究所として1991年(平成3年)に設立された。アジアの政治、経済、社会、歴史、文化、芸術などの観点からアジア諸地域の研究を行っている。 ===== 書道研究所 ===== 1969年(昭和44年)設立の「大東文化書道文化センター」が前身。1988年(昭和63年)設立。'''日本で唯一'''書道の研究と芸術活動を行う研究機関で、書道・美術関連の貴重な資料や図書を収蔵している。書道テキストシリーズや1969年(昭和44年)創刊である月刊誌「大東書道」を刊行、2011年(平成23年)現在、大学で刊行される唯一の競書雑誌であり、500号刊行を記念する展覧会を開催した。「高校生のための書道講座」も開催している。 *当研究所主催の全国書道展は、毎年11月に開催。2022年(令和4年)に第63回展を迎えた。 ===== 東洋研究所 ===== 1923年(大正12年)設立。大東文化大学の前身である大東文化協会の研究機関から度々の改組を経て、1961年(昭和36年)に大学附属の研究機関として発足。 研究論文機関誌「東洋研究」を年4回発行している。 当研究所は徳丸研究棟にある。 *'''沿革''' **1923年(大正12年)2月 大東文化協会の研究組織として、東洋研究部と比較研究部が設置される。 **1953年(昭和28年)9月20日 大学附属「大東文化研究所」に継承。 **1961年(昭和36年)4月 東洋研究所発足。法人附属機関から大学附置研究所へ移行。 **1961年(昭和36年)7月10日 研究論文機関誌「東洋研究」創刊。 '''歴代所長''' {|class="wikitable" style !氏名!!在任期 |- |平島敏夫||1961年4月 - 1962年11月 |- |南条徳男||1962年12月 - 1964年3月 |- |金子昇||1964年4月 - 1965年3月 |- |髙橋梵仙||1965年4月 - 1968年3月 |- |市野沢寅雄||1968年4月 - 1970年3月 |- |野口正之||1970年4月 - 1972年3月 |- |土井章||1972年4月 - 1978年3月 |- |中嶋敏||1978年4月 - 1983年3月 |- |岡倉古志郎||1983年4月 - 1985年3月 |- |古島和雄||1985年4月 - 1993年3月 |- |遠藤光正||1993年4月 - 1997年3月 |- |松本照敬||1997年4月 - 2003年3月 |- |福田俊昭||2003年4月 - 2009年3月 |- |山田準||2009年4月 - 2017年3月 |- |岡﨑邦彦 |2017年4月 - |} ==== センター ==== *キャリアセンター *国際交流センター *体育センター *地域連携センター *入学センター == 学生生活 == === 自治会・部活動・サークル活動 === ==== 学生自治会 ==== *中央執行委員会 *全學應援團リーダー部 *全學應援團チアリーダー部 *全學應援團吹奏楽部 *大東祭実行委員会 *大東文化大学放送協会 ==== 体育連合会(体連) ==== 体育連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、39部、2同好会が存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。 ==== 文化団体連合会(文連) ==== 文化団体連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、24部存在している。大東文化大学では文化系のクラブ活動も盛んである。以下に特筆すべき文化系の部活動を紹介する。 * 映画研究会 - 1968年創部。映像業界、マスコミ業界に数多くの人材を輩出。 * 書道部 - 全国的に珍しい書道学科があるため、部員は100名を越す大所帯。 * 吹奏楽団 - [[吹奏楽|シンフォニック]]と[[マーチング]]の両方に取り組んでいる。部員は50名前後。過去には数々の賞を受賞している。 * 将棋研究会 - 関東大学将棋連盟所属。団体戦はC1級。部員は10名超。目立った成績は残せていないが、部内には[[新進棋士奨励会]]([[日本将棋連盟]]のプロ養成機関)の学生も在籍していた(のちに退会)。 ★主な実績 * 関東学生将棋連盟令和4年秋季個人戦 - 文学部2年生がベスト32入り * 令和4年朝日アマ名人戦 - 奈良県代表(朝日新聞社主催)→関西ブロック大会出場 文学部2年生 * 令和4年赤旗名人戦(しんぶん赤旗主催、日本将棋連盟後援) - 奈良県代表→全国大会出場 文学部2年生 * 劇団虚構 - 1980年代後半より活動しており、[[劇団四季]]や[[文学座]]などに人材を輩出している。 ==== サークル ==== 大学側が把握している団体が、2018年(平成30年)3月現在で約70存在する。 === 学園祭 === 学園祭は、「大東祭」とよばれ、毎年11月の上旬に3日間開催される。元々は板橋校舎で開催されていたが、板橋校舎の再開発によって平成14年(2002年)度より東松山校舎で行われていた。平成20年(2008年)度より再び板橋校舎で開催されるようになった。プロのミュージシャン1組のライブと、お笑い芸人のライブを観覧できる企画が人気。 === 各種コンテスト === 本校が主催で各種コンテストを開催している。 *'''大東生論文コンテスト''' :学生に論文作成の機会を与え、分析能力を養成する目的で行う。年1回開催。大東文化大学学長賞など各賞があり、副賞としてノートパソコンが贈呈される。2011年(平成23年)に第21回開催を迎えた。 *'''英語スピーチコンテスト''' :出場資格は大学生・留学生・高校生・一般があり、本選出場にはそれぞれ定数が設けられている。英語圏話者は参加できない。スピーチは5分を上限とし、毎年メインテーマが決められる。2022年(令和4年)に第22回開催を迎えた。 *'''アジア言語スピーチコンテスト(Asian Languages Speech Contest -ALSC-)''' :国際関係学部主催。10言語(中国語、コリア語、タイ語、インドネシア語、ベトナム語、ヒンディー語、ウルドゥー語、ペルシア語、アラビア語に、留学生用の日本語)の部門があり、民族衣装を身にまとって習得言語を発表する。企画や準備、運営は学部生によって行われる。2022年(令和4年)で24回目。 *'''起業アイデアコンテスト''' :このコンテストは地域デザインフォーラム(別述)の一環で2002年(平成14年)から始まった。学外ベンチャー企業が最終審査を行い、厳正に審査されたのち、創業の実現性が高いグループには板橋区から区立企業活性化センター内のオフィスを無償貸与される。各賞には学長賞、板橋区長賞、ニュー・アイデア賞、コミュニティ・ビジネス賞、カレッジ・ビジネス賞がある。 *'''全国高校新聞コンクール(募集終了)''' :[[朝日新聞社]]後援。全国の高等学校で発行した[[新聞]]で競う。2018年(平成30年)に第48回開催を迎えた。 *'''全国高校生作文コンテスト(募集終了)''' :[[文部科学省]]後援。高校生の創意性を養い、国語能力の涵養に寄与することを目的とする。2013年(平成25年)に第50回開催を迎えた。 *'''法学部懸賞論文''' *'''経済学部懸賞論文''' :学部生を対象とした懸賞論文である。 *'''学生懸賞論文''' :経営学部生を対象とした懸賞論文である。論文テーマにはキーワードが多数決められ、その中から選択して応募する。副賞として賞金10万円が贈呈される。2011年(平成23年)に第11回開催を迎えた。 *'''高校生翻訳コンテスト''' :文学部英米文学科が主催。応募資格は高校生のみ。課題文を翻訳して郵送かEメールで応募する。 === スポーツ === *[[大東文化大学ラグビー部|ラグビー部]]は、[[関東大学ラグビーリーグ戦グループ]]で優勝8回、[[全国大学ラグビーフットボール選手権大会|大学選手権]]では優勝を3回している。 ただし令和4年の関東大学リーグ戦では留学生頼みの勢いだけのラグビーで、前半で息切れ状態。下位に低迷している。 *[[大東文化大学テコンドー部|テコンドー部]]は、全日本学生テコンドー選手権大会で9度優勝を果たしている。 *[[大東文化大学ベアーズ|男子バスケットボール部]]は、[[関東大学バスケットボール連盟]]1部加盟。2017年、[[関東大学バスケットボール連盟|関東インカレ]]と1部リーグ戦で初優勝。[[全日本大学バスケットボール選手権大会|全日本インカレ]]でも2003年(平成15年)に準優勝を果たしている。大学本体もプロチームである[[レバンガ北海道]]及び[[富山グラウジーズ]]とパートナーシップ契約を締結しており、両チームにOBも在籍している。また、琉球ゴールデンキングスにもエースの''岸本 隆一や金城 茂之などが所属している。'' *[[大東文化大学硬式野球部|硬式野球部]]は、[[首都大学野球連盟]]所属、首都大学2部リーグでは27回優勝、1部リーグでは1回の優勝経験がある。 *'''Walk(ウォーキング大会)''' :大学や地域の歴史・文化を学び、健康増進を図ることを目的としたもので、例年10月中旬に開催。創立60周年記念事[[業]]のひとつとして催された「メモリアルウォーク60」が始まり。当初は東松山校舎〜板橋校舎間の約50kmコースと、その中間地点から板橋校舎までの25kmコースの2コースで行われていたが、現在は約20kmのコースに変更されている。参加者には参加賞としてTシャツや帽子が、完歩者にはタオルが贈呈される。 ==== 陸上競技部 ==== 1967年(昭和42年)4月に創部。[[青葉昌幸]]監督の下で力をつけ、1973年(昭和48年)の[[全日本大学駅伝対校選手権大会|全日本大学駅伝]]で学生駅伝初優勝を飾る。[[関東学生陸上競技連盟]]所属。 襷の色はDAITOグリーン。「大東文化大学」の文字が黒糸で施されている。 [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]には1968年(昭和43年)の第44回大会から43回連続出場し、[[第97回東京箱根間往復大学駅伝競走|第97回大会]]現在、50回出場・4回の総合優勝・全区間で区間賞を獲得(区間新記録は2区と7区以外で獲得)している。平成2年(1990年)度には'''史上初の学生駅伝三冠を達成'''([[出雲全日本大学選抜駅伝競走|出雲くにびきロードリレー]]、全日本大学駅伝、箱根駅伝)している<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/sports/hakone/news/20101231-OHT1T00163.htm 早大、史上3校目3冠へ、カギは東洋大への「対抗心」…箱根駅伝] - スポーツ報知 2013年4月1日閲覧</ref>。特に5区と6区に強く、「'''山の大東'''」とも称されることもある。しかし、[[第87回東京箱根間往復大学駅伝競走|第87回大会]]では予選会で敗退し、連続出場が43で途絶えた。[[第96回東京箱根間往復大学駅伝競走|第96回大会]]・[[第97回東京箱根間往復大学駅伝競走|第97回大会]]では予選会で15位以下(10位までが本選出場)に沈み、最も低迷した時代を迎えている。 全日本大学駅伝では1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)の4連覇と1984年(昭和59年)、1989年(平成元年)、1990年(平成2年)の7勝を挙げている。4連覇は[[早稲田大学]]・[[駒澤大学]]に並ぶ大会連勝記録である。出雲駅伝は1990年(平成2年)の1回である。しかし、2010年頃からはシード権争いにも絡まず低迷。1994年の第26回大会には出場できず<ref group="注釈">当時は書類選考(8人の[[10000メートル競走|10000m]]の公認記録の合計タイムで選出)</ref>、連続出場が25で途絶えた。2008年の第40回大会から5年連続で[[全日本大学駅伝関東地区予選会|予選会]]敗退するなど低迷した時代を迎えている。 2010年(平成22年)度創設の女子長距離部門は、[[全日本大学女子駅伝対校選手権大会|全日本大学女子駅伝]]に第29回から出場し2023年現在、9回の準優勝を果たしている。 2021年(令和3年)には高校、社会人で活躍した留学生が初めて入部。近年遠のいていた箱根駅伝本選出場の期待がかかっていたが、箱根予選会ではその留学生が大ブレーキで出場ならず。しかし、令和4年に仙台育英高校を全国屈指の強豪に育て上げた大東大OBの真名子圭を新監督に迎えたことで、仙台育英時代の教え子だった留学生の実力が開花。令和4年の全日本大学駅伝予選会、令和5年三が日に行われる箱根駅伝の予選会を突破し、本選出場を決めた。 '''箱根駅伝での主な記録'''(2020年現在)総合優勝回数:4回(第51回-第52回,[[第66回東京箱根間往復大学駅伝競走|第66回]]-[[第67回東京箱根間往復大学駅伝競走|第67回]]) **往路優勝回数:4回(第51回-第52回,第66回-第67回) **復路優勝回数:4回(第49回-第51回,第57回) **完全優勝回数:1回(第51回) **シード権獲得回数:34回(第45回-第68回,第72回-第75回,第77回-第79回,第85回,第90回-第91回) **区間賞獲得数:40個 **連続区間賞獲得年数:8年連続(第48回-第55回)と7年連続(第62回-[[第68回東京箱根間往復大学駅伝競走|第68回]]) **史上初4年連続同一区間区間賞:[[大久保初男]](5区・第50回-第53回、うち区間新記録を2度記録<ref name="Ohkubo">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/sports/hakone/news/20130131-OHT1T00113.htm [襷の記憶]大東大・大久保初男さん(74〜77年) スポーツ報知] - 2014年4月1日閲覧</ref>) {{See also|箱根駅伝の記録一覧}} {{col-begin}} | style="text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" | {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:60em;text-align:center;" |- ! colspan="7" style="text-align:center"|箱根駅伝での歴代成績 |- !出場<br />回数!!出場回!!往路<br />順位!!復路<br />順位!!総合<br />順位!!シード権<br />獲得!!備 考 |- || 1 ||第44回 (1968年)|| 15位 || 15位 || 15位 || ||align="left"| 予選会4位通過、初出場 |- || 2 ||第45回 (1969年)|| 6位 || 10位 || 7位 || ● ||align="left"| 予選会2位通過、区間賞(1区)、初のシード権獲得 |- || 3 ||第46回 (1970年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 || 7位 || 5位 || ● ||align="left"| 区間賞(6区) |- || 4 ||第47回 (1971年)|| 9位 || 4位 || 7位 || ● ||align="left"| |- || 5 ||第48回 (1972年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞('''1区新'''、'''3区新''') |- || 6 ||第49回 (1973年)|| 4位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 || ● ||align="left"| 区間賞('''8区新'''、9区、10区)、復路初優勝(復路区間新記録) |- || 7 ||第50回 (1974年)|| 5位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 || ● ||align="left"| 区間賞(5区、6区、7区、8区)、復路優勝 |- || 8 ||第51回 (1975年)||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 || ● ||align="left"| 区間賞('''4区新'''、'''5区新'''、'''6区新'''、7区、'''10区新''')、<br />往路初・復路・総合初優勝の完全優勝(往路・総合区間新記録) |- || 9 ||第52回 (1976年)||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 || ● ||align="left"| 区間賞(5区、7区、9区)、往路・総合優勝 |- || 10 ||第53回 (1977年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 || 5位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞('''5区新''') |- || 11 ||第54回 (1978年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞(7区) |- || 12 ||第55回 (1979年)|| 5位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞(3区) |- || 13 ||第56回 (1980年)|| 4位 || 5位 || 4位 || ● ||align="left"| |- || 14 ||第57回 (1981年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞('''9区新''')、復路優勝(復路区間新記録) |- || 15 ||第58回 (1982年)|| 4位 || 5位 || 4位 || ● ||align="left"| |- || 16 ||第59回 (1983年)|| 9位 || 5位 || 6位 || ● ||align="left"| |- || 17 ||第60回 (1984年)|| 4位 || 6位 || 4位 || ● ||align="left"| 区間賞(2区) |- || 18 ||第61回 (1985年)|| 5位 || 6位 || 5位 || ● ||align="left"| |- || 19 ||第62回 (1986年)|| 6位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| 区間賞(9区、10区) |- || 20 ||第63回 (1987年)|| 4位 || 9位 || 5位 || ● ||align="left"| 区間賞(2区) |- || 21 ||第64回 (1988年)||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 || ● ||align="left"| 区間賞(1区) |- || 22 ||第65回 (1989年)|| 5位 || 5位 || 4位 || ● ||align="left"| 区間賞(3区) |- || 23 ||第66回 (1990年)||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 || ● ||align="left"| 区間賞(3区、5区、'''6区新'''、9区)、往路・総合優勝 |- || 24 ||第67回 (1991年)||style="background-color:#ffd700"| 1位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 ||style="background-color:#ffd700"| 1位 || ● ||align="left"| 区間賞(3区、4区)、往路・総合優勝 |- || 25 ||第68回 (1992年)|| 4位 || 7位 || 5位 || ● ||align="left"| 区間賞('''5区新''')、第45回から今大会までシード権24回連続獲得 |- || 26 ||第69回 (1993年)|| 12位 || 15位 || 15位 || ||align="left"| |- || 27 ||第70回 (1994年)|| 20位 || 14位 || 18位 || ||align="left"| 予選会6位通過 |- || 28 ||第71回 (1995年)|| 15位 || 10位 || 14位 || ||align="left"| 予選会1位通過 |- || 29 ||第72回 (1996年)|| 7位 || 6位 || 5位 || ● ||align="left"| 予選会5位通過、4年ぶりシード権獲得 |- || 30 ||第73回 (1997年)||style="background-color:#cc9966"| 3位 || 6位 ||style="background-color:#cc9966"| 3位 || ● ||align="left"| |- || 31 ||第74回 (1998年)|| 7位 || 12位 || 9位 || ● ||align="left"| |- || 32 ||第75回 (1999年)|| 9位 || 6位 || 7位 || ● ||align="left"| |- || 33 ||第76回 (2000年)|| 9位 || 13位 || 12位 || ||align="left"| |- || 34 ||第77回 (2001年)|| 13位 ||style="background-color:#c0c0c0"| 2位 || 6位 || ● ||align="left"| 予選会1位通過、区間賞('''6区新'''、'''10区新''')、2年ぶりシード権獲得 |- || 35 ||第78回 (2002年)|| 5位 || 5位 || 5位 || ● ||align="left"| 区間賞(6区) |- || 36 ||第79回 (2003年)|| 4位 || 9位 || 4位 || ● ||align="left"| |- || 37 ||第80回 (2004年)|| 16位 || 12位 || 13位 || ||align="left"| |- || 38 ||第81回 (2005年)|| 14位 || 11位 || 12位 || ||align="left"| 予選会2位通過 |- || 39 ||第82回 (2006年)|| 11位 || 12位 || 12位 || ||align="left"| 予選会5位通過 |- || 40 ||第83回 (2007年)|| 15位 || 14位 || 14位 || ||align="left"| 予選会8位通過 |- || 41 ||第84回 (2008年)|| 11位 || 棄権 || - || ||align="left"| 予選会5位通過、初の途中棄権(9区) |- || 42 ||第85回 (2009年)|| 9位 || 5位 || 4位 || ● ||align="left"| 予選会10位通過、区間賞(6区)、6年ぶりシード権獲得 |- || 43 ||第86回 (2010年)|| 20位 || 9位 || 18位 || ||align="left"| 初出場から今大会出場まで43回連続出場記録 |- || 44 ||第89回 (2013年)|| 12位 || 16位 || 12位 || ||align="left"| 予選会4位通過、3年ぶり出場 |- || 45 ||第90回 (2014年)|| 8位 || 16位 || 10位 || ● ||align="left"| 予選会6位通過、5年ぶりシード権獲得 |- || 46 ||第91回 (2015年)|| 9位 || 12位 || 10位 || ● ||align="left"| |- || 47 ||第92回 (2016年)|| 20位 || 13位 || 18位 || ||align="left"| |- || 48 ||第93回 (2017年)|| 18位 || 10位 || 13位 || ||align="left"| |- || 49 ||第94回 (2018年)|| 17位 || 16位 || 16位 || ||align="left"| |- || 50 ||第95回 (2019年)|| 21位 || 14位 || 19位 || ||align="left"| |- |colspan="2" style="background:#f2f2f2"| '''優勝(1位)回数''' ||style="background:#f2f2f2"| '''4回''' ||style="background:#f2f2f2"| '''4回''' ||style="background:#f2f2f2"| '''4回''' ||colspan="2" style="text-align:left;background:#f2f2f2"| '''往路優勝''':第51回-第52回,第66回-第67回 {{!}} '''復路優勝''':第49回-第51回,第57回<br />'''総合優勝''':第51回-第52回,第66回-第67回 {{!}} '''完全優勝''':第51回 |- |colspan="7" style="text-align:left;background:#f2f2f2"|総合順位上位入賞10校は、翌大会のシード校として出場可。区間賞('''n区新(ボールド体)''')は、当該大会の区間新記録。 |} {{col-end}} *'''全日本大学駅伝での主な記録'''(2023年現在) **優勝回数:7回(第4回-第7回,第15回,第21回-第22回) **シード権獲得回数:5回(第32回,第34回-第35回,第37回,第55回) **区間賞獲得数:35個 **連続区間賞獲得年数:5年連続(第3回-第7回)、4年連続(第12回-第15回)、3年連続2回(第17回-第19回,第21回-第23回) {{See also|全日本大学駅伝対校選手権大会の記録一覧}} {{col-begin}} | style="text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" | {| class="sortable wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:60em;text-align:center;" |- ! colspan="5" style="text-align:center"|全日本大学駅伝での歴代成績 |- !出場<br />回数!!出場回!!順位!!class="unsortable" |シード権<br />獲得!!class="unsortable" |備 考 |- || 1 ||<span style="display:none">1970年</span>第1回 (1970年)|| <span style="display:none">04位01回目</span>4位 ||rowspan="29" style="text-align:center;"| ||align="left"| 区間賞(5区、6区) |- || 2 ||<span style="display:none">1971年</span>第2回 (1971年)|| <span style="display:none">06位01回目</span>6位 ||align="left"| |- || 3 ||<span style="display:none">1972年</span>第3回 (1972年)|| <span style="display:none">04位02回目</span>4位 ||align="left"| 区間賞(3区、5区) |- || 4 ||<span style="display:none">1973年</span>第4回 (1973年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位01回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(1区、7区)、初優勝 |- || 5 ||<span style="display:none">1974年</span>第5回 (1974年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位02回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(1区、3区、7区)、優勝 |- || 6 ||<span style="display:none">1975年</span>第6回 (1975年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位03回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(1区、5区、7区)、優勝 |- || 7 ||<span style="display:none">1976年</span>第7回 (1976年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位04回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(3区、4区)、優勝 |- || 8 ||<span style="display:none">1977年</span>第8回 (1977年)|| <span style="display:none">04位03回目</span>4位 ||align="left"| |- || 9 ||<span style="display:none">1978年</span>第9回 (1978年)|| <span style="display:none">04位04回目</span>4位 ||align="left"| |- || 10 ||<span style="display:none">1979年</span>第10回 (1979年)|| <span style="display:none">05位01回目</span>5位 ||align="left"| |- || 11 ||<span style="display:none">1980年</span>第11回 (1980年)|| <span style="display:none">04位05回目</span>4位 ||align="left"| |- || 12 ||<span style="display:none">1981年</span>第12回 (1981年)|| <span style="display:none">04位06回目</span>4位 ||align="left"| 区間賞(5区) |- || 13 ||<span style="display:none">1982年</span>第13回 (1982年)|| <span style="display:none">04位07回目</span>4位 ||align="left"| 区間賞(5区) |- || 14 ||<span style="display:none">1983年</span>第14回 (1983年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位01回目</span>2位 ||align="left"| 区間賞(3区) |- || 15 ||<span style="display:none">1984年</span>第15回 (1984年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位05回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(3区、5区)、優勝 |- || 16 ||<span style="display:none">1985年</span>第16回 (1985年)||style="background-color:#cc9966"| <span style="display:none">03位01回目</span>3位 ||align="left"| |- || 17 ||<span style="display:none">1986年</span>第17回 (1986年)|| <span style="display:none">19位01回目</span>19位 ||align="left"| 区間賞(1区、4区、6区) |- || 18 ||<span style="display:none">1987年</span>第18回 (1987年)|| <span style="display:none">06位02回目</span>6位 ||align="left"| 区間賞(3区) |- || 19 ||<span style="display:none">1988年01月</span>第19回 (1988年)||style="background-color:#cc9966"| <span style="display:none">03位02回目</span>3位 ||align="left"| 区間賞(4区、5区) |- || 20 ||<span style="display:none">1988年11月</span>第20回 (1988年)|| <span style="display:none">06位03回目</span>6位 ||align="left"| 開催時期を11月初旬実施に変更 |- || 21 ||<span style="display:none">1989年</span>第21回 (1989年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位06回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(2区、4区、5区)、優勝 |- || 22 ||<span style="display:none">1990年</span>第22回 (1990年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位07回目</span>1位 ||align="left"| 区間賞(3区、5区、7区)、優勝 |- || 23 ||<span style="display:none">1991年</span>第23回 (1991年)||style="background-color:#cc9966"| <span style="display:none">03位03回目</span>3位 ||align="left"| 区間賞(7区) |- || 24 ||<span style="display:none">1992年</span>第24回 (1992年)|| <span style="display:none">10位01回目</span>10位 ||align="left"| |- || 25 ||<span style="display:none">1993年</span>第25回 (1993年)|| <span style="display:none">09位01回目</span>9位 ||align="left"| 第1回から今大会まで25回連続出場 |- || 26 ||<span style="display:none">1995年</span>第27回 (1995年)|| <span style="display:none">06位04回目</span>6位 ||align="left"| 2年ぶり出場 |- || 27 ||<span style="display:none">1997年</span>第29回 (1997年)|| <span style="display:none">08位01回目</span>8位 ||align="left"| 2年ぶり出場 |- || 28 ||<span style="display:none">1998年</span>第30回 (1998年)|| <span style="display:none">11位01回目</span>11位 ||align="left"| |- || 29 ||<span style="display:none">1999年</span>第31回 (1999年)|| <span style="display:none">10位02回目</span>10位 ||align="left"| |- || 30 ||<span style="display:none">2000年</span>第32回 (2000年)||style="background-color:#cc9966"| <span style="display:none">03位04回目</span>3位 || ● ||align="left"| シード制新設 |- || 31 ||<span style="display:none">2001年</span>第33回 (2001年)|| <span style="display:none">07位01回目</span>7位 || ||align="left"| |- || 32 ||<span style="display:none">2002年</span>第34回 (2002年)|| <span style="display:none">04位08回目</span>4位 || ● ||align="left"| 区間賞(7区)、2年ぶりシード権獲得 |- || 33 ||<span style="display:none">2003年</span>第35回 (2003年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位02回目</span>2位 || ● ||align="left"| 区間賞(3区、5区) |- || 34 ||<span style="display:none">2004年</span>第36回 (2004年)|| <span style="display:none">09位02回目</span>9位 || ||align="left"| |- || 35 ||<span style="display:none">2005年</span>第37回 (2005年)|| <span style="display:none">06位05回目</span>6位 || ● ||align="left"| 2年ぶりシード権獲得 |- || 36 ||<span style="display:none">2006年</span>第38回 (2006年)|| <span style="display:none">11位02回目</span>11位 || ||align="left"| |- || 37 ||<span style="display:none">2007年</span>第39回 (2007年)|| <span style="display:none">08位02回目</span>8位 || ||align="left"| 第29回から今大会まで11回連続出場 |- || 38 ||<span style="display:none">2013年</span>第45回 (2013年)|| <span style="display:none">07位02回目</span>7位 || ||align="left"| 6年ぶり出場 |- || 39 ||<span style="display:none">2014年</span>第46回 (2014年)|| <span style="display:none">08位03回目</span>8位 || ||align="left"| |- || 40 ||<span style="display:none">2015年</span>第47回 (2015年)|| <span style="display:none">18位01回目</span>18位 || ||align="left"| |- || 41 ||<span style="display:none">2016年</span>第48回 (2016年)|| <span style="display:none">15位01回目</span>15位 || ||align="left"| |- || 42 ||<span style="display:none">2017年</span>第49回 (2017年)|| <span style="display:none">14位01回目</span>14位 || ||align="left"| |- class="sortbottom" |colspan="2" style="background:#f2f2f2"| '''優勝(1位)回数''' ||style="background:#f2f2f2"| '''7回''' ||colspan="2" style="text-align:left;background:#f2f2f2"| '''優勝回:'''第4回-第7回,第15回,第21回-第22回 |- class="sortbottom" |colspan="5" style="text-align:left;background:#f2f2f2"|上位入賞6校は、翌大会のシード校として出場可。 |} {{col-end}} *'''出雲駅伝での主な記録'''(2020年現在) **優勝回数:1回(第2回) **シード権獲得回数:5回(第1回-第4回,第15回) {{See also|出雲全日本大学選抜駅伝競走}} {{col-begin}} | style="text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" | {| class="sortable wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:60em;text-align:center;" |- ! colspan="5" style="text-align:center"|出雲駅伝での歴代成績 |- !出場<br />回数!!出場回!!順位!!シード権<br />獲得!!class="unsortable" |備 考 |- || 1 ||<span style="display:none">第01回</span>第1回 (1989年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位01回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり01回目</span>● ||align="left"| |- || 2 ||<span style="display:none">第02回</span>第2回 (1990年)||style="background-color:#ffd700"| <span style="display:none">01位01回目</span>1位 || <span style="display:none">シードあり02回目</span>● ||align="left"| 初優勝 |- || 3 ||<span style="display:none">第03回</span>第3回 (1991年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位02回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり03回目</span>● ||align="left"| |- || 4 ||<span style="display:none">第04回</span>第4回 (1992年)||style="background-color:#cc9966"| <span style="display:none">03位01回目</span>3位 || <span style="display:none">シードあり04回目</span>● ||align="left"| 第1回から今大会までシード権4回連続獲得 |- || 5 ||<span style="display:none">第05回</span>第5回 (1993年)|| <span style="display:none">15位01回目</span>15位 || <span style="display:none">シードなし01</span> ||align="left"| 第1回から今大会まで5回連続出場 |- || 6 ||<span style="display:none">第08回</span>第8回 (1996年)|| <span style="display:none">08位01回目</span>8位 || <span style="display:none">シードなし02</span> ||align="left"| 3年ぶり出場 |- || 7 ||<span style="display:none">第09回</span>第9回 (1997年)|| <span style="display:none">08位02回目</span>8位 || <span style="display:none">シードなし03</span> ||align="left"| |- || 8 ||<span style="display:none">第10回</span>第10回 (1998年)|| <span style="display:none">09位01回目</span>9位 || <span style="display:none">シードなし04</span> ||align="left"| |- || 9 ||第11回 (1999年)|| <span style="display:none">07位01回目</span>7位 || <span style="display:none">シードなし05回目</span> ||align="left"| |- || 10 ||第13回 (2001年)|| <span style="display:none">08位03回目</span>8位 || <span style="display:none">シードなし06回目</span> ||align="left"| 2年ぶり出場 |- || 11 ||第14回 (2002年)|| <span style="display:none">05位01回目</span>5位 || <span style="display:none">シードなし07回目</span> ||align="left"| |- || 12 ||第15回 (2003年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位</span>2位 || <span style="display:none">シードあり05回目</span>● ||align="left"| |- || 13 ||第16回 (2004年)|| <span style="display:none">08位04回目</span>8位 || <span style="display:none">シードなし08回目</span> ||align="left"| |- || 14 ||第20回 (2008年)|| <span style="display:none">14位01回目</span>14位 || <span style="display:none">シードなし09回目</span> ||align="left"| 4年ぶり出場 |- || 15 ||第21回 (2009年)|| <span style="display:none">09位02回目</span>9位 || <span style="display:none">シードなし10回目</span> ||align="left"| |- || 16 ||第26回 (2014年)|| <span style="display:none">中止</span>- || <span style="display:none">シードなし11回目</span><!--大会中止により、シード権は第46回全日本大学駅伝の上位3チームに与えられたので無印。--> ||align="left"| 5年ぶり出場(大会は中止) |- || 17 ||第27回 (2015年)|| <span style="display:none">12位01回目</span>12位 || <span style="display:none">シードなし1回目</span> ||align="left"| |- class="sortbottom" |colspan="2" style="background:#f2f2f2"| '''優勝(1位)回数''' ||style="background:#f2f2f2"| '''1回''' ||colspan="2" style="text-align:left;background:#f2f2f2"| '''優勝回:'''第2回 |- class="sortbottom" |colspan="5" style="text-align:left;background:#f2f2f2"|上位入賞3校は、翌大会のシード校として出場可。 |} {{col-end}} *'''全日本大学女子駅伝での主な記録'''(2023年現在) **シード権獲得回数:12回(第30回-第41回) {{See also|全日本大学女子駅伝対校選手権大会}} {{col-begin}} | style="text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" | {| class="sortable wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:60em;text-align:center;" |- ! colspan="5" style="text-align:center"|全日本大学女子駅伝での歴代成績 |- !出場<br />回数!!出場回!!順位!!シード権<br />獲得!!class="unsortable" |備 考 |- || 1 ||第29回 (2011年)|| 棄権 || <span style="display:none">シードなし01回目</span> ||align="left"| 初出場、途中棄権(3区) |- || 2 ||第30回 (2012年)|| <span style="display:none">06位01回目</span>6位 || <span style="display:none">シードあり01回目</span>● ||align="left"| 初のシード権獲得 |- || 3 ||第31回 (2013年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位01回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり02回目</span>● ||align="left"| |- || 4 ||第32回 (2014年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位02回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり03回目</span>● ||align="left"| 6区区間新記録達成 |- || 5 ||第33回 (2015年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位03回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり04回目</span>● ||align="left"| |- || 6 ||第34回 (2016年)|| <span style="display:none">05位02回目</span>5位 || <span style="display:none">シードあり05回目</span>● ||align="left"| |- || 7 ||第35回 (2017年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位04回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり06回目</span>● ||align="left"| 区間賞(5区) |- || 8 ||第36回 (2018年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位05回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり06回目</span>● ||align="left"| 区間賞(2区、5区) |- || 8 ||第37回 (2019年)||style="background-color:#c0c0c0"| <span style="display:none">02位05回目</span>2位 || <span style="display:none">シードあり06回目</span>● ||align="left"| 区間賞(3区) |- class="sortbottom" |colspan="5" style="text-align:left;background:#f2f2f2"|上位入賞6校は、翌大会のシード校として出場可。 |} {{col-end}} == 大学関係者と組織 == === 大学関係者組織 === ==== 同窓会 ==== 大東文化大学同窓会 ==== 青桐会 ==== === 大学関係者一覧 === * [[大東文化大学の人物一覧]] == 対外関係 == === 地方自治体との協定 === '''東京都板橋区との連携事業''' * '''公開講座(生涯学習課)''' - 大東文化大学と板橋区教育委員会が共催して、区内在住・在勤・在学者を対象に大学公開講座を実施。 * '''なかいた環創堂''' - 大東文化大学の環境創造学部の学生が中板橋商店街や板橋区と協力し、地域環境の観点から中板橋商店街の活性化を行うプロジェクト。板橋区と大東文化大学が提唱した「板橋区に賑わいのある街づくり事業」の一環としての活動であり、この提案を中板橋商店街が受け入れたことから始まった。ボランティア学生約50名がこのプロジェクトに参加している。 * '''地域デザインフォーラム(人事課)''' - 2000年(平成12年)5月18日、板橋区と大東文化大学のあいだで「地域デザインフォーラム」協定が締結され、法学部・経済学部・経営学部・環境創造学部のスタッフと区職員などで、地域社会が抱える政策課題を共同研究している。地域連携研究の成果は毎年発行の報告書・ブックレットで公表されている。 * '''板橋・環境創造講座(人事課''')- 2001年(平成13年)開設。一般区民向けのまちづくりに関する公開講座。講師として区職員を派遣。 * '''現代政治論特殊講義ii(人事課)''' - 2002年(平成14年)から実施。大学院法学研究科の正規科目。「分権時代の地方行政を板橋区の政策形成の取組みから学ぶ」をテーマに講師として区幹部職員を派遣。最終講義に区長特別講義がある。 * '''商学公連携モデル事業(産業振興課)''' - 大学の持つ専門性を生かし、学生の新たな視点で、商店街活性化事業を商店街と連携して企画・運営している。区は大学と委託契約を行い、補助金を交付する。 * '''コミュニティビジネス・コンテスト(産業活性化推進室)''' - コミュニティビジネス・コンテストと大学主催の「起業アイデア・コンテスト」の同時開催。 * '''企業活性化センターオフィス利用(産業活性化推進室) -''' 大東文化大学の起業家育成事業を支援するため、オフィスの無料貸し出しをする。 * '''学習指導員(教育委員会事務局指導室)''' - 教育委員会・学校長の指揮監督の下に少人数グループによる授業援助、特別に支援を必要な生徒に対する個別支援などを行う。 '''インターンシップ''' * '''みらいネット高島平''' - 埼玉県各自治体との連携事業。 * '''[[東松山市]]との地域連携事業''' - きらめき市民大学、大学院への講師派遣など。 * '''[[比企郡]][[ときがわ町]]との地域連携事業''' - 2006年(平成18年)6月締結。農業体験や、小中学校での学習指導、町内代替バス路線の提案、観光振興の計画などを行っている。 * '''[[比企郡]][[鳩山町]]''' - 2016年(平成28年)6月23日、地域連携に関する基本協定を締結。互いに有する人的資源と物的資源を有効に活用し、連携協力することにより、地域社会および教育・研究の発展に寄与することを目指す。 === 国内大学との協定 === '''他大学間協定''' 卒業単位の一部を他の教育機関で取得することができる。 *[[放送大学]]<ref>[http://www.ouj.ac.jp/hp/nyugaku/tanigokan/pdf/tanigokan_annai.pdf 放送大学 平成28年度 単位互換案内]</ref> === 国際交流大学等 === 2010年(平成22年)4月現在、全部で21ヶ国71大学と国際交流協定を結んでいる。詳しくは[http://www.daito.ac.jp/international_exchange/agreement.html 協定校]を参照のこと。 主な協定校 {{Col| *'''アジア''' **{{CHN}} ***[[北京外国語大学]] ***[[上海師範大学]] ***[[中山大学]] ***[[復旦大学]] ***[[山東大学]] ***[[北京師範大学]] ***[[中国美術学院]] ***[[中央民族大学]] ***[[西北大学]] ***[[東北師範大学]] ***[[天津美術大学]] ***[[首都師範大学]] ***[[清華大学]] ***[[アモイ大学]] ***[[大連外国語学院]] ***[[三江学院]] ***[[中国社会科学院|中国社会科学院歴史研究所]] ***[[吉林師範大学|吉林師範大学東亜研究所]] **{{TWN}} ***[[東呉大学]] ***[[国立中山大学]] ***[[国立台湾芸術大学]] ***[[中信金融管理学院]] ***[[輔仁大学]] ***[[国立中央研究院|国立中央研究院歴史語言研究所]] | *'''アジア''' **{{KOR}} ***[[高麗大学校]] ***[[圓光大学校]] ***[[延世大学校]] ***[[西京大学校]] ***[[成均館大学校]] ***[[又石大学校]] ***[[木浦大学校]] ***[[昌原大学校]] **{{IND}} ***[[ラジャスタン大学]] ***[[ジャワハルラルネルー大学]] **{{IDN}} ***[[パジャジャラン大学]] **{{THA}} ***[[チュラロンコーン大学]] **{{PAK}} ***[[カラチ大学]] **{{VNM}} ***[[ベトナム国家大学|ベトナム国家大学ハノイ]] | *'''アフリカ''' **{{EGY}} ***[[アレキサンドリア大学]] **{{MAR}} ***[[モハメッドV世大学]] *'''中東''' **{{IRN}} ***[[シーラーズ大学]] *'''北米''' **{{CAN}} ***[[ブリティッシュコロンビア大学]] ***[[ラヴァル大学]] **{{USA}} ***[[コーカーカレッジ]] ***[[ウェスタン・ミシガン大学]] ***[[ハワイ大学ヒロ校]] ***[[ウエスト・フロリダ大学]] ***[[ジョージア大学]] ***[[ノーザン・アリゾナ大学]] ***[[セーラム国際大学]] ***[[フィンドレー大学]] ***[[サウスイースト・ミズーリ州立大学]] ***[[セント・クラウド州立大学]] | *'''ヨーロッパ''' **{{GBR}} ***[[ウェストミンスター大学]] ***[[セントラルランカシャー大学]] **{{SVK}} ***[[プレショフ大学]] **{{FIN}} ***[[タンペレ大学]] **{{ITA}} ***[[サレント大学]] **{{DEU}} ***[[トリアー大学]] ***[[ライプツィヒ大学|ライプツィヒ大学ヘルダーインスティチュートinterDaF]] **{{FRA}} ***[[カンヌ国際学院]] ***[[リヨンカトリック大学]] *'''オセアニア''' **{{AUS}} ***[[グリフィス大学]] ***[[ウェスタンシドニー大学]] ***[[ニューイングランド大学 (オーストラリア)|ニューイングランド大学]] ***[[モナッシュ大学]] ***[[マードック大学]] **{{NZL}} ***[[ヴィクトリア大学ウェリントン|ヴィクトリア大学ウェリントン校]]}} === 付設校 === 付設校は、大学を頂点とする附属校ではなく、学校法人大東文化学園が設置する形態を取っている。 *高等学校 :[[大東文化大学第一高等学校]] *幼稚園 :大東文化大学附属青桐幼稚園 ==== 旧設置・付設校 ==== *大東医学技術専門学校・柔道整復科大東接骨院(附属臨床実習施設) :1956年(昭和31年)開設、2012年(平成24年)3月閉校。 *大東文化大学附属盈進幼稚園・小学校・中学校・高等学校 :学校法人盈進学園から経営協力の依頼を受け、1972年(昭和47年)4月1日に吸収合併。施設設備の充実を図り、独立の学園として運営が可能と判断し、1977年(昭和52年)7月7日に設置者変更許可を受け、再び学校法人盈進学園として独立した<ref>大東文化大学七十年史</ref>。 :現在は移転し、同法人による高等学校のみ存続。 {{main|東野高等学校}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.781718,139.669104&spn=0.006154,0.011362&sll=35.78224,139.66846&sspn=0.010288,0.022638&brcurrent=3,0x6018ec96f16afeb7:0x45db3c65fe92df76,0&t=m&layer=c&cbll=35.781403,139.668446&panoid=sgwaRMkAhJnHfbFojweRsQ&cbp=12,5.53,,0,-0.94&hq=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&z=17 大東文化大学板橋キャンパス ストリートビュー] * [https://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&hl=ja&ie=UTF8&ll=36.000509,139.366593&spn=0.001534,0.00284&sll=36.00046,139.366612&sspn=0.001543,0.00284&brcurrent=3,0x6018d581d946f4c9:0xe90157130ef6f5ee,0&hq=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&t=m&z=19&layer=c&cbll=36.000459,139.366613&panoid=3KaDBotVYq5nQK1FmHTa2A&cbp=12,327.7,,0,-9.01 大東文化大学東松山キャンパス ストリートビュー] <br /> == 公式サイト == {{Commonscat|Daito Bunka University}} * [https://www.daito.ac.jp/ 大東文化大学] {{学校法人大東文化学園}} {{Navboxes|list= {{首都圏私立17大学}} {{日本私立大学連盟}} {{比企地域大学等連携協議会}} {{健康運動指導士養成大学全国連絡協議会}} {{日本臨床検査学教育協議会}} {{箱根駅伝優勝校}} }} {{Normdaten}} {{univ-stub}} {{DEFAULTSORT:たいとうふんか}} [[Category:大東文化大学|*]] [[Category:東京都の私立大学]] [[Category:埼玉県の私立大学]] [[Category:学校法人大東文化学園]] [[Category:学校記事]] [[Category:大東亜帝国]]
2003-09-07T06:19:27Z
2023-11-17T18:28:00Z
false
false
false
[ "Template:色", "Template:Clear", "Template:Col-end", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:Pathnav", "Template:画像提供依頼", "Template:Lang-en", "Template:Cite web", "Template:Navboxes", "Template:Quotation", "Template:See also", "Template:Cite book", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:学校法人大東文化学園", "Template:Univ-stub", "Template:日本の大学", "Template:Main", "Template:Col", "Template:Col-begin", "Template:Color", "Template:Infobox subcolor", "Template:CHN" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6
15,517
ガザーリー
アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー(アラビア語: أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي、Abū Ḥāmid Muḥammad ben. Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。 「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。 1058年にガザーリーはイランのホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った 1077年にガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる。1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した。 やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年にバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った。アブー・ターリブ・マッキー(英語版)、ムハースィビー(英語版)、ジュナイド(英語版)、シブリー(英語版)、バスターミー(英語版)ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する。1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った。 ガザーリーはおよそ2年の間シリア、パレスチナ各地を巡り歩き、1096年11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った。ダマスカスを訪れたガザーリーはウマイヤド・モスクのミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した。放浪中のガザーリーは俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている。メッカ巡礼を終えたガザーリーは子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。 ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している。復職した後のガザーリーは講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107年/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている。1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌1111年12月18日にこの地で没した。 トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている。イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている。 ガザーリーの著作はイスラーム法学、神学、哲学、護教論、神秘主義の5つの分野に大別できる。 ガザーリーはイマームル・ハラマイン・ジュワイニーからシャーフィイー学派の法学を学び、それを発展させた。ガザーリーが著した法学書には最晩年に執筆した『法源学の精髄』などがあるが、散逸したものも多い。 ガザーリーが世に出たとき、既にイスラーム法学の権威は社会の隅々にまで行き渡っていたが、ガザーリーは権威主義に陥った信仰の有り方を疑問視し、 仰を個人の内面に戻そうと試みた。ガザーリーは権力と癒着したウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践の両立を説いた。批判の対象とされた人物の一人にハールーン・ラシードの時代の宰相アブー・ユースフがおり、来世のために奉仕することを忘れて現世の利益のみを追求する、ウラマー本来の理念から逸脱した人間たちを批判している。 スーフィズムに回心する前のガザーリーは、自分がイスラム教徒であるのはたまたまイスラム教徒の子として生まれたためであり、信仰によるものではないと考えていた。ガザーリーは自分の思想を揺るぎないものとする「確実な知識」に行き着くため、様々な学問を追究していく。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起する余地すらない知の対象を明らかにする知」である確実な知識を獲得する手段を検討するため、全てを疑うことから始めた。 エスファハーンの宮廷に出仕していた時代、ガザーリーは理性の優位性を疑う「第一の危機」に陥った。ガザーリーは知識を感覚による知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が天文学的証明によれば地球よりも大きい例を述べ、理性が感覚の誤謬を指摘する点を明らかにした。そして、高次の世界に理性の確実性を否定する判断者が存在する可能性に思い至り、懐疑に陥った。理性によって認知できる世界を夢と同様のものと捉え、理性の上にある世界は忘我の境地に達したスーフィーが見る世界、あるいは死と考えた。やがて理性の権威が及ぶ範囲には限界があると結論付け、理性が及ぶ領域を「知('ilm)」と命名する。疑いようのない自明な領域である「知」に対して、神に最も接近できる人間の精神に存在する領域を「信(qalb)」と定義した。ガザーリーは理性・知と感覚・信の間に優劣をつけず、コーランの章句を理性によって解釈しようと試みる哲学者、思惟と信仰の矛盾を解消しようと試みる神学者といった、二つの領域を混同する人間を批判した。 理性への疑いを抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリーはスーフィズムへの回心と世俗への執着に葛藤する第二の危機を乗り越え、スーフィーとして放浪の旅に発つ。 11世紀初頭にイブン・スィーナーらによって完成されたイスラーム哲学は、イスラームの教義から外れる主張のために保守的なウラマーから攻撃を受けたが、彼らの批判の論拠は感情的で論理性を欠くものであり、哲学者たちの理論を崩すことはできなかった。ガザーリーは哲学を研究した上で反論を書き上げ、ニザーミーヤ学院の講義の合間に書物から哲学者の理論を取り入れ、哲学が含む矛盾を導き出した。1094年に哲学の概説書である『哲学者の意図』を著し、翌1095年に哲学の批判書『哲学者の自己矛盾』を著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学はイスラームの思想家の批判の対象となっていたが、先達の神学者たちが出した反論はコーランやハディースの章句を引用する不完全なものだった。ガザーリーは哲学を神の啓示に代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明を試みた。 ガザーリーは哲学を数学、論理学、自然学、形而上学、政治学、倫理学の6つに分類した。算術、幾何学、天文学を含む数学、論理学、自然学を宗教と共存しうるものと考え、それらの学問に求められる「理性」と宗教が抱える「真理」の混同を戒めた。政治学はコーランやハディースを基礎とするもので、倫理学については哲学者の誤った主張が混ざり合うこともあるが、魂の本質と性格、改善を追及する学問であるため、基本的に否定されるものではないと述べている。 哲学者の犯す誤りの大部分は形而上学にあると主張し、『哲学者の自己矛盾』の中で20の項目を列挙して彼らの思想を批判した。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学のすべてを否定しておらず、イスラームの教義と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判に際して論理学的手法を利用している。12世紀のアシュアリー学派の思想家ファフルッディーン・ラーズィー(英語版)はガザーリーの思想の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していった。 ガザーリーは哲学の論理学をアシュアリー学派の神学に取り入れ、その結晶である『中庸の神学』を著した。『中庸の神学』では世界は原子で構成されるアシュアリー学派の原子論、神を非物質的なものとする哲学の論理により、神と世界の隔絶性が強調されている。ガザーリーはジュワイニーら先人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させ、アシュアリー学派は哲学の論理学・形而上学を批判的に受容してより哲学に近づいていく。しかし、ガザーリーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論を展開する神学の限界を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムへのアプローチが必要であると述べている。 ガザーリーの哲学の批判は一般のイスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激し、哲学者の著書が焼き捨てられた。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でもガザーリーの批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家イブン・ルシュドは「不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともにガザーリーの哲学批判をも再批判し、アリストテレスの思想を擁護した。 護教論を記したガザーリーの作品は、彼の存命中に勢力を拡大していたイスマーイール派に対抗するため書かれたものが多い。イスマーイール派の教義を批判するために書かれた書のひとつに、アッバース朝のカリフ・ムスタズヒル(英語版)の依頼を受けて書いた『ムスタズヒルの書』がある。 ガザーリーはイスマーイール派の特徴であるイマームへの個人崇拝と服従を批判し、未知の問題が発生した際にウラマーが下す自主的な判断とそれに対して共同体が合意を形成するスンナ派の姿勢を主張した。無謬のイマームに対する盲目的な服従を説くイスマーイール派に対して、ガザーリーは時に間違いを犯すことを承知した上で、信仰のために自主的な判断を下すよう主張した。真理を伝授する無謬の人物をイスマーイール派の主張するイマームではなく預言者ムハンマドに定め、ムハンマドの死後に無謬の伝授者は不在でも問題は無く、イスマーイール派は誰をイマームに特定するかという証明すら完成させていないと批判した。そして、スンナ派世界の指導者であるカリフに対しては政治的・宗教的指導者としての素質を要求せず、社会の平和と安定のため、カリフから権力を委ねられた実力者がカリフの選出と統治を行う当時の世相を追認していた。ガザーリーのイスマーイール派批判は指導者であるイマームの無謬性、絶対性が中心で哲学論にはほとんど触れられておらず、スィジスターニー、キルマーニーといった思想家による哲学書ではなく、宣教のために使われていたパンフレットを通してイスマーイール派の思想に触れていたと考えられている。 ガザーリーが1106年から1109年の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分はガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている。多くの研究者は1095年から始まる遍歴の旅の動機を、『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている。『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺したニザール派の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる。ダンカン・ブラック・マクドナルド(英語版)は、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している。 回心した後のガザーリーはイスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた。 ガザーリーは神を人間の愛の対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した。ガザーリーの唱える愛は自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した。12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた。 ガザーリー以前のスーフィーの中にはイスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識をコーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった。ガザーリーは信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した。ガザーリー、クシャイリー(英語版)らが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によってスーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された。 ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』はイブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたものであり、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパのスコラ派哲学者たちの間で広く読まれた。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた。 19世紀に入るとアラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する。1859年に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表したザロモン・ミュンク(フランス語版)によって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった。 ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」においてガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した。 マクドナルドの研究は後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出してそこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー(アラビア語: أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي、Abū Ḥāmid Muḥammad ben. Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1058年にガザーリーはイランのホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1077年にガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる。1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年にバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った。アブー・ターリブ・マッキー(英語版)、ムハースィビー(英語版)、ジュナイド(英語版)、シブリー(英語版)、バスターミー(英語版)ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する。1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ガザーリーはおよそ2年の間シリア、パレスチナ各地を巡り歩き、1096年11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った。ダマスカスを訪れたガザーリーはウマイヤド・モスクのミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した。放浪中のガザーリーは俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている。メッカ巡礼を終えたガザーリーは子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している。復職した後のガザーリーは講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107年/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている。1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌1111年12月18日にこの地で没した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている。イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ガザーリーの著作はイスラーム法学、神学、哲学、護教論、神秘主義の5つの分野に大別できる。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ガザーリーはイマームル・ハラマイン・ジュワイニーからシャーフィイー学派の法学を学び、それを発展させた。ガザーリーが著した法学書には最晩年に執筆した『法源学の精髄』などがあるが、散逸したものも多い。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ガザーリーが世に出たとき、既にイスラーム法学の権威は社会の隅々にまで行き渡っていたが、ガザーリーは権威主義に陥った信仰の有り方を疑問視し、 仰を個人の内面に戻そうと試みた。ガザーリーは権力と癒着したウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践の両立を説いた。批判の対象とされた人物の一人にハールーン・ラシードの時代の宰相アブー・ユースフがおり、来世のために奉仕することを忘れて現世の利益のみを追求する、ウラマー本来の理念から逸脱した人間たちを批判している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スーフィズムに回心する前のガザーリーは、自分がイスラム教徒であるのはたまたまイスラム教徒の子として生まれたためであり、信仰によるものではないと考えていた。ガザーリーは自分の思想を揺るぎないものとする「確実な知識」に行き着くため、様々な学問を追究していく。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起する余地すらない知の対象を明らかにする知」である確実な知識を獲得する手段を検討するため、全てを疑うことから始めた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "エスファハーンの宮廷に出仕していた時代、ガザーリーは理性の優位性を疑う「第一の危機」に陥った。ガザーリーは知識を感覚による知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が天文学的証明によれば地球よりも大きい例を述べ、理性が感覚の誤謬を指摘する点を明らかにした。そして、高次の世界に理性の確実性を否定する判断者が存在する可能性に思い至り、懐疑に陥った。理性によって認知できる世界を夢と同様のものと捉え、理性の上にある世界は忘我の境地に達したスーフィーが見る世界、あるいは死と考えた。やがて理性の権威が及ぶ範囲には限界があると結論付け、理性が及ぶ領域を「知('ilm)」と命名する。疑いようのない自明な領域である「知」に対して、神に最も接近できる人間の精神に存在する領域を「信(qalb)」と定義した。ガザーリーは理性・知と感覚・信の間に優劣をつけず、コーランの章句を理性によって解釈しようと試みる哲学者、思惟と信仰の矛盾を解消しようと試みる神学者といった、二つの領域を混同する人間を批判した。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "理性への疑いを抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリーはスーフィズムへの回心と世俗への執着に葛藤する第二の危機を乗り越え、スーフィーとして放浪の旅に発つ。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "11世紀初頭にイブン・スィーナーらによって完成されたイスラーム哲学は、イスラームの教義から外れる主張のために保守的なウラマーから攻撃を受けたが、彼らの批判の論拠は感情的で論理性を欠くものであり、哲学者たちの理論を崩すことはできなかった。ガザーリーは哲学を研究した上で反論を書き上げ、ニザーミーヤ学院の講義の合間に書物から哲学者の理論を取り入れ、哲学が含む矛盾を導き出した。1094年に哲学の概説書である『哲学者の意図』を著し、翌1095年に哲学の批判書『哲学者の自己矛盾』を著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学はイスラームの思想家の批判の対象となっていたが、先達の神学者たちが出した反論はコーランやハディースの章句を引用する不完全なものだった。ガザーリーは哲学を神の啓示に代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明を試みた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ガザーリーは哲学を数学、論理学、自然学、形而上学、政治学、倫理学の6つに分類した。算術、幾何学、天文学を含む数学、論理学、自然学を宗教と共存しうるものと考え、それらの学問に求められる「理性」と宗教が抱える「真理」の混同を戒めた。政治学はコーランやハディースを基礎とするもので、倫理学については哲学者の誤った主張が混ざり合うこともあるが、魂の本質と性格、改善を追及する学問であるため、基本的に否定されるものではないと述べている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "哲学者の犯す誤りの大部分は形而上学にあると主張し、『哲学者の自己矛盾』の中で20の項目を列挙して彼らの思想を批判した。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学のすべてを否定しておらず、イスラームの教義と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判に際して論理学的手法を利用している。12世紀のアシュアリー学派の思想家ファフルッディーン・ラーズィー(英語版)はガザーリーの思想の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ガザーリーは哲学の論理学をアシュアリー学派の神学に取り入れ、その結晶である『中庸の神学』を著した。『中庸の神学』では世界は原子で構成されるアシュアリー学派の原子論、神を非物質的なものとする哲学の論理により、神と世界の隔絶性が強調されている。ガザーリーはジュワイニーら先人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させ、アシュアリー学派は哲学の論理学・形而上学を批判的に受容してより哲学に近づいていく。しかし、ガザーリーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論を展開する神学の限界を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムへのアプローチが必要であると述べている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ガザーリーの哲学の批判は一般のイスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激し、哲学者の著書が焼き捨てられた。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でもガザーリーの批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家イブン・ルシュドは「不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともにガザーリーの哲学批判をも再批判し、アリストテレスの思想を擁護した。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "護教論を記したガザーリーの作品は、彼の存命中に勢力を拡大していたイスマーイール派に対抗するため書かれたものが多い。イスマーイール派の教義を批判するために書かれた書のひとつに、アッバース朝のカリフ・ムスタズヒル(英語版)の依頼を受けて書いた『ムスタズヒルの書』がある。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ガザーリーはイスマーイール派の特徴であるイマームへの個人崇拝と服従を批判し、未知の問題が発生した際にウラマーが下す自主的な判断とそれに対して共同体が合意を形成するスンナ派の姿勢を主張した。無謬のイマームに対する盲目的な服従を説くイスマーイール派に対して、ガザーリーは時に間違いを犯すことを承知した上で、信仰のために自主的な判断を下すよう主張した。真理を伝授する無謬の人物をイスマーイール派の主張するイマームではなく預言者ムハンマドに定め、ムハンマドの死後に無謬の伝授者は不在でも問題は無く、イスマーイール派は誰をイマームに特定するかという証明すら完成させていないと批判した。そして、スンナ派世界の指導者であるカリフに対しては政治的・宗教的指導者としての素質を要求せず、社会の平和と安定のため、カリフから権力を委ねられた実力者がカリフの選出と統治を行う当時の世相を追認していた。ガザーリーのイスマーイール派批判は指導者であるイマームの無謬性、絶対性が中心で哲学論にはほとんど触れられておらず、スィジスターニー、キルマーニーといった思想家による哲学書ではなく、宣教のために使われていたパンフレットを通してイスマーイール派の思想に触れていたと考えられている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ガザーリーが1106年から1109年の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分はガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている。多くの研究者は1095年から始まる遍歴の旅の動機を、『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている。『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺したニザール派の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる。ダンカン・ブラック・マクドナルド(英語版)は、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "回心した後のガザーリーはイスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ガザーリーは神を人間の愛の対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した。ガザーリーの唱える愛は自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した。12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ガザーリー以前のスーフィーの中にはイスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識をコーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった。ガザーリーは信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した。ガザーリー、クシャイリー(英語版)らが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によってスーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』はイブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたものであり、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパのスコラ派哲学者たちの間で広く読まれた。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた。", "title": "哲学者アルガゼル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "19世紀に入るとアラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する。1859年に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表したザロモン・ミュンク(フランス語版)によって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった。", "title": "哲学者アルガゼル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」においてガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した。", "title": "哲学者アルガゼル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マクドナルドの研究は後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出してそこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた。", "title": "哲学者アルガゼル" } ]
アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリーはペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが、研究者の中にはガッザーリーと発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。 「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。
[[File:Al Ghazzali illustration.gif|thumb|ガザーリー]] '''アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー'''({{lang-ar|أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي}}、{{lang|ar-Latn|Abū Ḥāmid Muḥammad ben. Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī}}、[[1058年]] - [[1111年]][[12月18日]])は[[ペルシア]]の[[イスラーム]]の[[神学者]]、神秘主義者([[スーフィー]])。通常名前の最後の部分を取って'''ガザーリー'''と呼ばれるが<ref name="aoyagi2014-1">青柳『ガザーリー』、1頁</ref>、研究者の中には'''ガッザーリー'''( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある<ref name="aoyagi2014-1"/><ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、127頁</ref>。[[ヨーロッパ]]では'''アルガゼル'''({{lang|lt|Algazer}})のラテン名で知られ、長らく[[哲学者]]と見なされていた。 「[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め<ref name="horupu">ヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻、38-39頁</ref>、[[スンナ派]]がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる<ref name="ii-jiten">松本「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』、255-256頁</ref><ref>青柳『ガザーリー』、3頁</ref>。ガザーリーはスンナ派と対立する[[シーア派]]への反論、[[イスラーム哲学]]への批判、[[スーフィズム]]([[神秘主義]])への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論は[[ファトワー]](法的回答)を発する多くの[[ウラマー]](イスラーム世界の知識人)によって、[[コーラン]](クルアーン)や[[ハディース]](預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている<ref>青柳『ガザーリー』、1-2頁</ref>。弟の[[アフマド・ガザーリー]]もスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている<ref name="ii-jiten"/>。 == 生涯 == 1058年にガザーリーは[[イラン]]の[[ホラーサーン]]地方の[[トゥース]]近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、127-128頁</ref>。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、128頁</ref>。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従って[[マドラサ]](神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、[[カスピ海]]沿岸の[[ジュルジャーン]]に移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、129頁</ref>。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った [[1077年]]にガザーリーは[[ニーシャープール]]に移り、[[ニザーミーヤ学院]]で当時の大学者[[アブル・マアーリー・ジュワイニー|イマームル・ハラマイン・ジュワイニー]]に師事し、[[シャーフィイー学派]]の法学と[[アシュアリー学派]]の神学を修めた<ref>青柳『ガザーリー』、4,26頁</ref>。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、[[1084年]]にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる<ref>青柳『ガザーリー』、4-5頁</ref>。[[1085年]]にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であった[[セルジューク朝]]の宰相[[ニザームルムルク|ニザームル・ムルク]]の庇護を受け、[[エスファハーン]](イスファハーン)の宮廷に出仕した<ref>青柳『ガザーリー』、5頁</ref>。 やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、[[1091年]]に[[バグダード]]のニザーミーヤ学院の教授に任命される<ref name="ii-jiten"/>。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に[[イスラーム哲学|哲学]]、[[シーア派]]の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた<ref>青柳『ガザーリー』、27頁</ref>。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った<ref name="aoyagi2014-48">青柳『ガザーリー』、48頁</ref>。{{仮リンク|アブー・ターリブ・マッキー|en|Abu Talib al-Makki}}、{{ill2|ハーリス・ムハースィビー|en|Harith al-Muhasibi|label=ムハースィビー}}、{{仮リンク|ジュナイド・バグダーディー|en|Junayd of Baghdad|label=ジュナイド}}、{{仮リンク|アブー・バクル・シブリー|en|Abu Bakr Shibli|label=シブリー}}、{{仮リンク|バーヤズィード・バスターミー|en|Bayazid Bastami|label=バスターミー}}ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する<ref name="aoyagi2014-48"/>。[[1095年]]、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる<ref>『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、347頁</ref>。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者として[[ハッジ|メッカ(マッカ)巡礼]]に旅立った<ref>青柳『ガザーリー』、48-51頁</ref>。 ガザーリーはおよそ2年の間[[歴史的シリア|シリア]]、[[パレスチナ]]各地を巡り歩き、[[1096年]]11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った<ref name="aoyagi2014-51">青柳『ガザーリー』、51頁</ref>。[[ダマスカス]]を訪れたガザーリーは[[ウマイヤド・モスク]]の[[ミナレット]]に閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。[[エルサレム]]でも一人[[瞑想]]に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、133頁</ref>。放浪中のガザーリーは俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、135頁</ref>。メッカ巡礼を終えたガザーリーは子供たちの要請を受けて[[1099年]]に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。 [[File:Grave of Ghazali.PNG|thumb|160px|トゥースで発見されたガザーリーのものと考えられる棺]] ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、[[1106年]]にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに共同体の中に改革者を派遣する」といった旨の[[ハディース]]に突き動かされたことを述懐している<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、136-137頁</ref>。復職した後のガザーリーは講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。[[1107年]]/[[1108年|08年]]に勉学のために東方を訪れた[[マグリブ]]の思想家[[イブン・トゥーマルト]]がガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機として[[ムワッヒド運動]]を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、180頁</ref>。[[1110年]]にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌1111年12月18日にこの地で没した<ref name="aoyagi2014-52">青柳『ガザーリー』、52頁</ref>。 トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている<ref name="aoyagi2014-52"/>。[[イラン・イスラム共和国]]はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人[[フェルドウスィー]]の墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている<ref name="ii-jiten"/>。 == 思想 == {{節スタブ}} ガザーリーの著作はイスラーム法学、神学、哲学、護教論、神秘主義の5つの分野に大別できる<ref name="ii-jiten"/>。 === 法学 === ガザーリーはイマームル・ハラマイン・ジュワイニーから[[シャーフィイー学派]]の法学を学び、それを発展させた。ガザーリーが著した法学書には最晩年に執筆した『[[法源学の精髄]]』などがあるが、散逸したものも多い<ref>青柳『ガザーリー』、28頁</ref>。 ガザーリーが世に出たとき、既にイスラーム法学の権威は社会の隅々にまで行き渡っていたが、ガザーリーは権威主義に陥った信仰の有り方を疑問視し、 仰を個人の内面に戻そうと試みた<ref>井筒『イスラーム思想史』、123-124頁</ref>。ガザーリーは権力と癒着したウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践の両立を説いた<ref name="aoyagi2014-2930">青柳『ガザーリー』、29-30頁</ref>。批判の対象とされた人物の一人に[[ハールーン・アッ=ラシード|ハールーン・ラシード]]の時代の宰相[[アブー・ユースフ]]がおり、来世のために奉仕することを忘れて現世の利益のみを追求する、ウラマー本来の理念から逸脱した人間たちを批判している<ref name="aoyagi2014-2930"/>。 === 懐疑論 === スーフィズムに回心する前のガザーリーは、自分がイスラム教徒であるのはたまたまイスラム教徒の子として生まれたためであり、信仰によるものではないと考えていた<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、139-140頁</ref><ref name="aoyagi2014-8">青柳『ガザーリー』、8頁</ref>。ガザーリーは自分の思想を揺るぎないものとする「確実な知識」に行き着くため、様々な学問を追究していく<ref>青柳『ガザーリー』、9頁</ref>。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起する余地すらない知の対象を明らかにする知」である確実な知識を獲得する手段を検討するため、全てを疑うことから始めた<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、140頁</ref>。 エスファハーンの宮廷に出仕していた時代、ガザーリーは[[理性]]の優位性を疑う「第一の危機」に陥った<ref>青柳『ガザーリー』、6-7頁</ref>。ガザーリーは知識を感覚による知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が天文学的証明によれば地球よりも大きい例を述べ、理性が感覚の誤謬を指摘する点を明らかにした<ref>井筒『イスラーム思想史』、117-118頁</ref><ref name="nakamura2003-141">『誤りから救うもの』(中村訳)、141頁</ref>。そして、高次の世界に理性の確実性を否定する判断者が存在する可能性に思い至り、懐疑に陥った<ref name="nakamura2003-141"/>。理性によって認知できる世界を[[夢]]と同様のものと捉え、理性の上にある世界は忘我の境地に達したスーフィーが見る世界、あるいは[[死]]と考えた<ref>井筒『イスラーム思想史』、119頁</ref>。やがて理性の権威が及ぶ範囲には限界があると結論付け、理性が及ぶ領域を「知('ilm)」と命名する<ref>井筒『イスラーム思想史』、119-120頁</ref>。疑いようのない自明な領域である「知」に対して、神に最も接近できる人間の精神に存在する領域を「信(qalb)」と定義した。ガザーリーは理性・知と感覚・信の間に優劣をつけず、コーランの章句を理性によって解釈しようと試みる哲学者、思惟と信仰の矛盾を解消しようと試みる神学者といった、二つの領域を混同する人間を批判した<ref>井筒『イスラーム思想史』、121頁</ref>。 理性への疑いを抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリーはスーフィズムへの回心と世俗への執着に葛藤する第二の危機を乗り越え、スーフィーとして放浪の旅に発つ<ref>青柳『ガザーリー』、49-51頁</ref>。 === イスラーム哲学 === 11世紀初頭に[[イブン・スィーナー]]らによって完成された[[イスラーム哲学]]は、イスラームの教義から外れる主張のために保守的なウラマーから攻撃を受けたが、彼らの批判の論拠は感情的で論理性を欠くものであり、哲学者たちの理論を崩すことはできなかった<ref>井筒『イスラーム思想史』、261頁</ref>。ガザーリーは哲学を研究した上で反論を書き上げ、ニザーミーヤ学院の講義の合間に書物から哲学者の理論を取り入れ、哲学が含む矛盾を導き出した<ref>青柳『ガザーリー』、40-41頁</ref>。[[1094年]]に哲学の概説書である『哲学者の意図』を著し、翌[[1095年]]に哲学の批判書『哲学者の自己矛盾』を著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた<ref name="aoyagi2014-41">青柳『ガザーリー』、41頁</ref>。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学はイスラームの思想家の批判の対象となっていたが、先達の神学者たちが出した反論はコーランやハディースの章句を引用する不完全なものだった<ref>青柳『ガザーリー』、40,45頁</ref>。ガザーリーは哲学を神の啓示に代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明を試みた<ref name="aoyagi2014-46">青柳『ガザーリー』、46頁</ref>。 ガザーリーは哲学を[[数学]]、論理学、[[自然科学|自然学]]、形而上学、[[政治学]]、[[倫理学]]の6つに分類した。[[算術]]、[[幾何学]]、[[天文学]]を含む数学、論理学、自然学を宗教と共存しうるものと考え、それらの学問に求められる「理性」と宗教が抱える「真理」の混同を戒めた<ref>『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、351頁</ref>。政治学はコーランやハディースを基礎とするもので<ref>『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、353頁</ref>、倫理学については哲学者の誤った主張が混ざり合うこともあるが、魂の本質と性格、改善を追及する学問であるため、基本的に否定されるものではないと述べている<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、144頁</ref>。 哲学者の犯す誤りの大部分は形而上学にあると主張し、『哲学者の自己矛盾』の中で20の項目を列挙して彼らの思想を批判した<ref>『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、351-352頁</ref>。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学のすべてを否定しておらず、イスラームの教義と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判に際して論理学的手法を利用している<ref name="aoyagi2014-46"/>。[[12世紀]]のアシュアリー学派の思想家{{ill2|ファフルッディーン・ラーズィー|en|Fakhr al-Din al-Razi}}はガザーリーの思想の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していった<ref>青柳『ガザーリー』、38頁</ref>。 ガザーリーは哲学の論理学を[[アシュアリー学派]]の神学に取り入れ、その結晶である『中庸の神学』を著した<ref name="aoyagi2014-37">青柳『ガザーリー』、37頁</ref>。『中庸の神学』では世界は[[原子]]で構成されるアシュアリー学派の[[原子論]]、神を非物質的なものとする哲学の論理により、神と世界の隔絶性が強調されている<ref name="aoyagi2014-37"/>。ガザーリーはジュワイニーら先人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させ、アシュアリー学派は哲学の論理学・形而上学を批判的に受容してより哲学に近づいていく<ref name="aoyagi2014-39">青柳『ガザーリー』、39頁</ref>。しかし、ガザーリーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論を展開する神学の限界を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムへのアプローチが必要であると述べている<ref name="aoyagi2014-39"/>。 ガザーリーの哲学の批判は一般のイスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激し、哲学者の著書が焼き捨てられた<ref>井筒『イスラーム思想史』、275頁</ref>。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でもガザーリーの批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家[[イブン・ルシュド]]は「不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともにガザーリーの哲学批判をも再批判し、[[アリストテレス]]の[[アリストテレス主義|思想]]を擁護した<ref>井筒『イスラーム思想史』、275-276頁</ref>。 === 神学 === 護教論を記したガザーリーの作品は、彼の存命中に勢力を拡大していた[[イスマーイール派]]に対抗するため書かれたものが多い<ref name="ii-jiten"/>。イスマーイール派の教義を批判するために書かれた書のひとつに、アッバース朝の[[カリフ]]・{{ill2|ムスタズヒル|en|Al-Mustazhir}}の依頼を受けて書いた『ムスタズヒルの書』がある。 ガザーリーはイスマーイール派の特徴である[[イマーム]]への個人崇拝と服従を批判し、未知の問題が発生した際にウラマーが下す自主的な判断とそれに対して共同体が合意を形成するスンナ派の姿勢を主張した<ref>青柳『ガザーリー』、33頁</ref>。無謬のイマームに対する盲目的な服従を説くイスマーイール派に対して、ガザーリーは時に間違いを犯すことを承知した上で、信仰のために自主的な判断を下すよう主張した<ref>青柳『ガザーリー』、31頁</ref>。真理を伝授する無謬の人物をイスマーイール派の主張するイマームではなく預言者ムハンマドに定め、ムハンマドの死後に無謬の伝授者は不在でも問題は無く、イスマーイール派は誰をイマームに特定するかという証明すら完成させていないと批判した<ref>青柳『ガザーリー』、31-32頁</ref>。そして、スンナ派世界の指導者であるカリフに対しては政治的・宗教的指導者としての素質を要求せず、社会の平和と安定のため、カリフから権力を委ねられた実力者がカリフの選出と統治を行う当時の世相を追認していた<ref>青柳『ガザーリー』、23-24頁</ref>。ガザーリーのイスマーイール派批判は指導者であるイマームの無謬性、絶対性が中心で哲学論にはほとんど触れられておらず、スィジスターニー、キルマーニーといった思想家による哲学書ではなく、宣教のために使われていたパンフレットを通してイスマーイール派の思想に触れていたと考えられている<ref>青柳『ガザーリー』、32頁</ref>。 === スーフィズム === ガザーリーが1106年から[[1109年]]の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分はガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、125-126頁</ref>。多くの研究者は1095年から始まる遍歴の旅の動機を、『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている<ref>青柳『ガザーリー』、52-53頁</ref><ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、151頁</ref>。『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺した[[ニザール派]]の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、152-157頁</ref>。{{仮リンク|ダンカン・ブラック・マクドナルド|en|Duncan Black MacDonald}}は、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、183頁</ref>。 回心した後のガザーリーはイスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている<ref>青柳『ガザーリー』、54頁</ref>。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している<ref>青柳『ガザーリー』、65-66頁</ref>。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた<ref>青柳『ガザーリー』、68-69頁</ref>。 ガザーリーは神を人間の[[愛]]の対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた<ref>青柳『ガザーリー』、59-60頁</ref>。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた<ref>井筒『イスラーム思想史』、128-129頁</ref>。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した<ref>井筒『イスラーム思想史』、129頁</ref>。ガザーリーの唱える愛は自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される<ref>井筒『イスラーム思想史』、130-132頁</ref>。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した<ref>井筒『イスラーム思想史』、132-134頁</ref>。[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて活躍した[[イブン・アラビー]]は神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた<ref>青柳『ガザーリー』、58-60頁</ref>。 ガザーリー以前のスーフィーの中にはイスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識をコーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた<ref>青柳『ガザーリー』、60-61頁</ref>。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった<ref name="aoyagi2014-61">青柳『ガザーリー』、61頁</ref>。ガザーリーは信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した<ref>青柳『ガザーリー』、62頁</ref>。ガザーリー、{{ill2|アブル・カースィム・クシャイリー|en|Al-Qushayri|label=クシャイリー}}らが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった<ref>青柳『ガザーリー』、63-64頁</ref>。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によってスーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された<ref>青柳『ガザーリー』、71頁</ref>。 == 哲学者アルガゼル == ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』は[[イブン・スィーナー]]の思想の入門書として最も優れたものであり、[[ラテン語]]に翻訳されて中世ヨーロッパの[[スコラ学|スコラ派]]哲学者たちの間で広く読まれた<ref name="ii-jiten"/>。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず<ref name="aoyagi2014-41"/>、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため<ref>『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、340-341頁</ref><ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、162頁</ref>、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる<ref name="ii-jiten"/><ref name="aoyagi2014-41"/><ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、161頁</ref>。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた<ref name="nakamura2003-164">『誤りから救うもの』(中村訳)、164頁</ref>。 19世紀に入るとアラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、164,166頁</ref>。[[1859年]]に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表した{{ill2|ザロモン・ミュンク|fr|Salomon Munk}}によって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、168-172頁</ref>。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、172頁</ref>。 ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」においてガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、174,182頁</ref>。 # スコラ学的神学研究から、コーラン(神の啓示)・ハディース(預言者の伝承)への回帰の促進 # 説教、道徳的訓戒への畏怖、恐怖の再導入 # イスラーム社会内でのスーフィズムの地位の確立 # 哲学、哲学的神学の内容を一般の人間が理解できる程度に構築した マクドナルドの研究は後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、182-183頁</ref>。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出してそこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた<ref>『誤りから救うもの』(中村訳)、191頁</ref>。 == 主要な著作 == *『哲学者の意図』(''Maqāsid al-falāsifa'') *『哲学者の矛盾』(''Tahāhut al-falāsifa'') *『宗教諸学の再興』(''Ihyā' 'ulm al-dīn'') *『迷いから救うもの』(''al-Munqidh min al-dalāl'') *『幸福の錬金術』(''Kimiyā' al-Sa'ādah'') *『エルサレム書簡』(''al-Risāla al-Qudsīya'') *『神学綱要』(''al-Iqtisād fi'l-I'tiqād'') *『法理論精要』(''al-Mustasfā min 'Ilm al-Usūl'') == 日本語訳 == *『哲学者の意図』、[[黒田寿郎|黒田壽郎]]訳([[岩波書店]][イスラーム古典叢書]、1985年) *『誤りから救うもの』、[[中村廣治郎]]訳([[ちくま学芸文庫]]、2003年) **上記の『迷いから救うもの』原典(''al-Munqidh min al-dalāl'')の訳書名。下記『中庸の神学』にも収録 *『[[中世思想原典集成]] 11 イスラーム哲学』([[平凡社]]、2000年) **『イスラーム神学綱要』、『光の壁龕』を所収。[[クラウス・リーゼンフーバー|上智大学中世思想研究所]]編訳 *『中庸の神学 中世イスラームの神学・哲学・神秘主義』、中村廣治郎訳([平凡社東洋文庫、2013年) *『哲学者の自己矛盾 イスラームの哲学批判』、中村廣治郎訳([[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、2015年) == 出典 == {{Reflist|3}} == 参考文献 == * 青柳かおる『ガザーリー』(世界史リブレット 人, 山川出版社, 2014年4月) * 井筒俊彦『イスラーム思想史』(岩波書店, 1975年) * 松本耿郎「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月) * リチャード.N.ヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月) * ガザーリー『哲学者の意図』(黒田壽郎訳・解説, イスラーム古典叢書, 岩波書店, 1985年12月) * ガザーリー『誤りから救うもの』(中村廣治郎訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2003年8月) == 外部リンク == {{wikisource author}} {{commons category|Al-Ghazali}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かさありい あふう はあみと}} [[Category:イスラーム法学者]] [[Category:神秘思想家]] [[Category:11世紀の学者]] [[Category:12世紀の学者]] [[Category:スーフィー]] [[Category:イスラム史の人物]] [[Category:セルジューク朝]] [[Category:1058年生]] [[Category:1111年没]]
2003-09-07T06:27:19Z
2023-12-18T09:23:55Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Commons category", "Template:節スタブ", "Template:Wikisource author", "Template:Kotobank", "Template:Lang-ar", "Template:Lang", "Template:Ill2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
15,518
エピゴノイ
エピゴノイ(古希: Ἐπίγονοι, Epigonoi)は、ギリシア語で「後に生まれた者」を意味するエピゴノス(epigonos)の複数形。 ギリシア神話では、テーバイ攻めの七将が敗れた10年後に、七将の子供たちが復讐を誓い、再びテーバイを攻めた故事において、この七将の子供たちを「エピゴノイ」と呼んだ。エピゴノイの戦いは「テーバイ攻めの七将」のときとは逆の経過をたどった。彼らは勝利してテーバイを落城させたが、かつての七将のうちただ一人生還したアドラーストスの子アイギアレウスのみがこの戦いで死んだ。 ロバート・グレーヴスによれば、これは古くから吟遊詩人たちが語り伝えてきた物語で、アルゴナウタイの冒険やトロイア戦争より前の紀元前14世紀ごろの史実ではないかと考えられている。 歴史上では、アレクサンドロス大王の死後、その後継者となった部下たちをディアドコイといい、さらにその次代を担う指導者のことをいう。 テーバイ攻めの七将がだれであるかについては説が分かれているため、エピゴノイがだれであるかについても異同がある。アポロドーロスによれば、次の8名である。 エウリュアロスの代わりにヒッポメドーンの子ポリュドーロスとする説もある。 先の七将の戦から10年経ち、七将の息子たちは父親の志を継ぐべくテーバイへの再攻撃を企てた。デルポイの神託を仰ぐと、「アルクマイオーンが指揮をとれば勝利を得る」と告げられた。しかし、エピゴノイ中アルクマイオーンひとりはこの戦いに気乗り薄で、このため弟のアムピロコスと激しい口論となった。二人は、結論を母親のエリピューレーの裁断に委ねることにした。 この事態を見て取ったテルサンドロスは、父ポリュネイケースがかつてそうしたように、ハルモニアーの魔法の婚礼衣装をエリピューレーに贈った。これはカドモスとハルモニアーの結婚式に、アテーナーが贈ったものである。エリピューレーは二人に参戦を命じ、アルクマイオーンはしぶしぶ指揮を執った。 エピゴノイ率いるアルゴスの軍勢を迎え撃ったのは、エテオクレースの子ラーオダマースである。城外に撃って出た戦いでラーオダマースはアイギアレウスを斃したが、アルクマイオーンに討ち取られた。テーバイ勢は城に敗走した。 テーバイの予言者テイレシアースは、七将のひとりが生き残っているうちはテーバイは持ちこたえるが、その生き残りであるアドラーストスが息子のアイギアレウスの死によって、死期が迫っていること、そうなればテーバイは略奪されるであろうと予言した。彼はテーバイの民に対し、アルゴス勢に和議を申し出ておいて、夜のうちに家族を連れて脱出するよう助言した。テイレシアース自身はテーバイがアルゴス勢の手に落ちると同時に死ぬ運命であるから、人々が自分の言葉に従おうと従うまいといっこうに構わない、といった。テーバイの民はこれに従い、城から北をめざして落ち延びてヘスティアイアの都市を建てた。テイレシアース自身もティルプーサ(またはティルピュッサ)の泉まで逃れたが、泉の水を飲んだところで彼の長い寿命が尽きた。 息子アイギアレウスの死を聞かされたアドラーストスは悲しみのあまり息が絶えた。同じ日、もぬけの殻となったテーバイにエピゴノイは乗り込み、略奪の上、城壁を壊した。勝利したときには戦利品の中で最も良いものをアポローンに捧げるという誓いにより、テイレシアースの娘マントーがデルポイに送られた。 戦いの後、テルサンドロスはアルゴス勢の勝利はエリピューレーを買収した自分の功績であると自慢した。これを聞いてアルクマイオーンは、エリピューレーの虚栄心が父アムピアラーオスを死地においやり、また自分も同様の危険にさらされていたことを知った。またアムピアラーオスはアルクマイオーンに、自分が生還しなかったら、母を成敗するよう言い残していたともいう。デルポイの神託を求めると、アポローンは「エリピューレーは死に値する」と応えた。母を殺せ、との意に受け取ったアルクマイオーンは、帰還すると母親を殺害した。死ぬ間際にエリピューレーは息子を呪い、アルクマイオーンはエリーニュスたちに追われる身となった。 生き残ったエピゴノイは、その後勃発したトロイア戦争にも遠征軍として加わった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エピゴノイ(古希: Ἐπίγονοι, Epigonoi)は、ギリシア語で「後に生まれた者」を意味するエピゴノス(epigonos)の複数形。 ギリシア神話では、テーバイ攻めの七将が敗れた10年後に、七将の子供たちが復讐を誓い、再びテーバイを攻めた故事において、この七将の子供たちを「エピゴノイ」と呼んだ。エピゴノイの戦いは「テーバイ攻めの七将」のときとは逆の経過をたどった。彼らは勝利してテーバイを落城させたが、かつての七将のうちただ一人生還したアドラーストスの子アイギアレウスのみがこの戦いで死んだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ロバート・グレーヴスによれば、これは古くから吟遊詩人たちが語り伝えてきた物語で、アルゴナウタイの冒険やトロイア戦争より前の紀元前14世紀ごろの史実ではないかと考えられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "歴史上では、アレクサンドロス大王の死後、その後継者となった部下たちをディアドコイといい、さらにその次代を担う指導者のことをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "テーバイ攻めの七将がだれであるかについては説が分かれているため、エピゴノイがだれであるかについても異同がある。アポロドーロスによれば、次の8名である。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エウリュアロスの代わりにヒッポメドーンの子ポリュドーロスとする説もある。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "先の七将の戦から10年経ち、七将の息子たちは父親の志を継ぐべくテーバイへの再攻撃を企てた。デルポイの神託を仰ぐと、「アルクマイオーンが指揮をとれば勝利を得る」と告げられた。しかし、エピゴノイ中アルクマイオーンひとりはこの戦いに気乗り薄で、このため弟のアムピロコスと激しい口論となった。二人は、結論を母親のエリピューレーの裁断に委ねることにした。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この事態を見て取ったテルサンドロスは、父ポリュネイケースがかつてそうしたように、ハルモニアーの魔法の婚礼衣装をエリピューレーに贈った。これはカドモスとハルモニアーの結婚式に、アテーナーが贈ったものである。エリピューレーは二人に参戦を命じ、アルクマイオーンはしぶしぶ指揮を執った。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "エピゴノイ率いるアルゴスの軍勢を迎え撃ったのは、エテオクレースの子ラーオダマースである。城外に撃って出た戦いでラーオダマースはアイギアレウスを斃したが、アルクマイオーンに討ち取られた。テーバイ勢は城に敗走した。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "テーバイの予言者テイレシアースは、七将のひとりが生き残っているうちはテーバイは持ちこたえるが、その生き残りであるアドラーストスが息子のアイギアレウスの死によって、死期が迫っていること、そうなればテーバイは略奪されるであろうと予言した。彼はテーバイの民に対し、アルゴス勢に和議を申し出ておいて、夜のうちに家族を連れて脱出するよう助言した。テイレシアース自身はテーバイがアルゴス勢の手に落ちると同時に死ぬ運命であるから、人々が自分の言葉に従おうと従うまいといっこうに構わない、といった。テーバイの民はこれに従い、城から北をめざして落ち延びてヘスティアイアの都市を建てた。テイレシアース自身もティルプーサ(またはティルピュッサ)の泉まで逃れたが、泉の水を飲んだところで彼の長い寿命が尽きた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "息子アイギアレウスの死を聞かされたアドラーストスは悲しみのあまり息が絶えた。同じ日、もぬけの殻となったテーバイにエピゴノイは乗り込み、略奪の上、城壁を壊した。勝利したときには戦利品の中で最も良いものをアポローンに捧げるという誓いにより、テイレシアースの娘マントーがデルポイに送られた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "戦いの後、テルサンドロスはアルゴス勢の勝利はエリピューレーを買収した自分の功績であると自慢した。これを聞いてアルクマイオーンは、エリピューレーの虚栄心が父アムピアラーオスを死地においやり、また自分も同様の危険にさらされていたことを知った。またアムピアラーオスはアルクマイオーンに、自分が生還しなかったら、母を成敗するよう言い残していたともいう。デルポイの神託を求めると、アポローンは「エリピューレーは死に値する」と応えた。母を殺せ、との意に受け取ったアルクマイオーンは、帰還すると母親を殺害した。死ぬ間際にエリピューレーは息子を呪い、アルクマイオーンはエリーニュスたちに追われる身となった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "生き残ったエピゴノイは、その後勃発したトロイア戦争にも遠征軍として加わった。", "title": "神話" } ]
エピゴノイは、ギリシア語で「後に生まれた者」を意味するエピゴノス(epigonos)の複数形。 ギリシア神話では、テーバイ攻めの七将が敗れた10年後に、七将の子供たちが復讐を誓い、再びテーバイを攻めた故事において、この七将の子供たちを「エピゴノイ」と呼んだ。エピゴノイの戦いは「テーバイ攻めの七将」のときとは逆の経過をたどった。彼らは勝利してテーバイを落城させたが、かつての七将のうちただ一人生還したアドラーストスの子アイギアレウスのみがこの戦いで死んだ。 ロバート・グレーヴスによれば、これは古くから吟遊詩人たちが語り伝えてきた物語で、アルゴナウタイの冒険やトロイア戦争より前の紀元前14世紀ごろの史実ではないかと考えられている。 歴史上では、アレクサンドロス大王の死後、その後継者となった部下たちをディアドコイといい、さらにその次代を担う指導者のことをいう。
{{Otheruses|ギリシア神話の人物たち|その話を物語った叙事詩|エピゴノイ (叙事詩)}} '''エピゴノイ'''({{lang-grc-short|'''Ἐπίγονοι'''}}, {{ラテン翻字|el|Epigonoi}})は、[[ギリシア語]]で「後に生まれた者」を意味するエピゴノス(epigonos)の複数形。 [[ギリシア神話]]では、[[テーバイ攻めの七将]]が敗れた10年後に、七将の子供たちが復讐を誓い、再び[[テーバイ]]を攻めた故事において、この七将の子供たちを「エピゴノイ」と呼んだ。エピゴノイの戦いは「テーバイ攻めの七将」のときとは逆の経過をたどった。彼らは勝利してテーバイを落城させたが、かつての七将のうちただ一人生還した[[アドラーストス]]の子[[アイギアレウス]]のみがこの戦いで死んだ。 [[ロバート・グレーヴス]]によれば、これは古くから[[吟遊詩人]]たちが語り伝えてきた物語で、[[アルゴナウタイ]]の冒険や[[トロイア戦争]]より前の[[紀元前14世紀]]ごろの史実ではないかと考えられている。 歴史上では、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の死後、その後継者となった部下たちを[[ディアドコイ]]といい、さらにその次代を担う指導者のことをいう。 == 神話 == テーバイ攻めの七将がだれであるかについては説が分かれているため、エピゴノイがだれであるかについても異同がある。[[アポロドーロス]]によれば、次の8名である。 * [[ポリュネイケース]]の子[[テルサンドロス]] * [[アドラーストス]]の子[[アイギアレウス]] * [[アムピアラーオス]]の子[[アルクマイオーン]]、[[アムピロコス]] * [[テューデウス]]の子[[ディオメーデース]] * [[パルテノパイオス]]の子[[プロマコス]] * [[カパネウス]]の子[[ステネロス]] * [[メーキステウス]]の子[[エウリュアロス]] エウリュアロスの代わりに[[ヒッポメドーン]]の子[[ポリュドーロス]]とする説もある。 === アルクマイオーンの逡巡 === 先の七将の戦から10年経ち、七将の息子たちは父親の志を継ぐべく[[テーバイ]]への再攻撃を企てた。[[デルポイ]]の神託を仰ぐと、「アルクマイオーンが指揮をとれば勝利を得る」と告げられた。しかし、エピゴノイ中アルクマイオーンひとりはこの戦いに気乗り薄で、このため弟のアムピロコスと激しい口論となった。二人は、結論を母親の[[エリピューレー]]の裁断に委ねることにした。 この事態を見て取ったテルサンドロスは、父ポリュネイケースがかつてそうしたように、[[ハルモニアー]]の魔法の婚礼衣装をエリピューレーに贈った。これは[[カドモス]]とハルモニアーの結婚式に、[[アテーナー]]が贈ったものである。エリピューレーは二人に参戦を命じ、アルクマイオーンはしぶしぶ指揮を執った。 エピゴノイ率いる[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の軍勢を迎え撃ったのは、[[エテオクレース]]の子[[ラーオダマース]]である。城外に撃って出た戦いでラーオダマースはアイギアレウスを斃したが、アルクマイオーンに討ち取られた。テーバイ勢は城に敗走した。 === テイレシアースの予言 === テーバイの[[予言]]者[[テイレシアース]]は、七将のひとりが生き残っているうちはテーバイは持ちこたえるが、その生き残りであるアドラーストスが息子のアイギアレウスの死によって、死期が迫っていること、そうなればテーバイは略奪されるであろうと予言した。彼はテーバイの民に対し、アルゴス勢に和議を申し出ておいて、夜のうちに家族を連れて脱出するよう助言した。テイレシアース自身はテーバイがアルゴス勢の手に落ちると同時に死ぬ運命であるから、人々が自分の言葉に従おうと従うまいといっこうに構わない、といった。テーバイの民はこれに従い、城から北をめざして落ち延びてヘスティアイアの都市を建てた。テイレシアース自身もティルプーサ(またはティルピュッサ)の泉まで逃れたが、泉の水を飲んだところで彼の長い寿命が尽きた。 === テーバイの陥落 === 息子アイギアレウスの死を聞かされたアドラーストスは悲しみのあまり息が絶えた。同じ日、もぬけの殻となったテーバイにエピゴノイは乗り込み、略奪の上、城壁を壊した。勝利したときには戦利品の中で最も良いものを[[アポローン]]に捧げるという誓いにより、テイレシアースの娘[[マントー]]がデルポイに送られた。 戦いの後、テルサンドロスはアルゴス勢の勝利はエリピューレーを買収した自分の功績であると自慢した。これを聞いてアルクマイオーンは、エリピューレーの虚栄心が父アムピアラーオスを死地においやり、また自分も同様の危険にさらされていたことを知った。またアムピアラーオスはアルクマイオーンに、自分が生還しなかったら、母を成敗するよう言い残していたともいう。デルポイの神託を求めると、アポローンは「エリピューレーは死に値する」と応えた。母を殺せ、との意に受け取ったアルクマイオーンは、帰還すると母親を殺害した。死ぬ間際にエリピューレーは息子を呪い、アルクマイオーンは[[エリーニュス]]たちに追われる身となった。 生き残ったエピゴノイは、その後勃発した[[トロイア戦争]]にも遠征軍として加わった。 == 関連項目 == * [[エピゴーネン]] == 参考書籍 == * [[アポロドーロス]]『ギリシア神話』([[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]]) * [[カール・ケレーニイ]]『ギリシアの神話』(「神々の時代」・「英雄の時代」、[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]訳、[[中央公論社]]) * [[ロバート・グレーヴス]]『ギリシア神話』(上・下、[[高杉一郎]]訳、[[紀伊國屋書店]]) * R・L・グリーン『ギリシア神話 テーバイ物語』(眞方陽子訳、[[ちくま文庫]]) (ISBN 4-480-02592-8) * B・エヴスリン『ギリシア神話小事典』(小林稔訳、[[現代教養文庫]]) (ISBN 4-390-11000-4) {{ギリシア神話}} {{DEFAULTSORT:えひこのい}} [[Category:ギリシア神話]] [[Category:ギリシア語の成句]]
null
2022-04-06T17:45:38Z
false
false
false
[ "Template:ラテン翻字", "Template:ギリシア神話", "Template:Otheruses", "Template:Lang-grc-short" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B4%E3%83%8E%E3%82%A4
15,520
オックスフォード大学
オックスフォード大学(オックスフォードだいがく、英語: University of Oxford)は、イギリスの大学都市、オックスフォードに所在する総合大学である。11世紀の末に大学の礎が築かれていることから、現存する大学としては世界で3番目に古く、英語圏では最古の大学であり、ケンブリッジ大学と共に「オックスブリッジ」としてイギリス最高峰の大学として並び称される。各種の世界大学ランキングで1位の大学に選ばれるなど(例えば「タイムスハイヤーエデュケーション」では、2017年から5年連続で1位)、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学と共に世界トップ5大学として知られる。 多くの政治家や学者を輩出し、政治家では28人のイギリス首相、30人以上の各国元首、73人のノーベル賞受賞者、150人以上のオリンピックメダリストなどがオックスフォードの出身である。6人のイギリス国王が学び、日本からも今上天皇、皇后雅子、秋篠宮文仁親王らの皇族が留学している。 学生数(2019年時点)は、学部生が1万1930人、大学院生が1万1813人で、160カ国・地域からの留学生が4割を占める。 「オックスブリッジ」として並び称されるケンブリッジ大学は、オックスフォードから多くの教師と学生が1209年にケンブリッジに移住した出来事に端を発する。両校とも英語圏の古代大学、欧州内の中世大学群に属し、イギリス伝統のカレッジ制を特徴とする大学である。入学式と卒業式はラテン語で行われる。 オックスフォード大学法学部(Oxford Law)は、ケンブリッジ大学、ハーバード大学、イェール大学と共に世界最高峰のロースクール(法科大学院)として知られている。公共政策大学院のオックスフォード大学ブラバトニク行政スクール(Blavatnik School)における社会政策・管理(Social Policy & Administration)分野でも、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスと共に世界最高峰を誇る。オックスフォード大学医学部(Oxford Medicine)は、ハーバード・メディカル・スクール、ケンブリッジ大学医学部と共に世界最高峰のメディカルスクール(医学大学院)として知られている。また、オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール(SBS)は、ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)、マンチェスター・ビジネス・スクール(AMBS)、ダラム・ビジネス・スクール(DBS)と共に、イギリス最古のビジネススクール(MBA提供校)の一つとして名高い。 運営の最高責任者は総長(Vice-Chancellor)であり、2019年時点の総長はルイーズ・リチャードソン。名誉総長(Chancellor)と呼ばれる職位は終身の名誉職であり、2016年時点の名誉総長は香港総督を務めたクリストファー・パッテン。副総長(英称; Pro Vice-Chancellor)は5名の大学運営・学生担当教師と7名のカレッジの学長の計12名が務める。 設置形態は、英語圏では公立大学であると認識されている。法的根拠がイギリス国王の勅許状により設立された自治団体であること、大学財政審議会(UFC)を通じて国家から国庫補助金の配分を受けており、大学規模や文科・理科の配分比率がUFCにより決定されていること、法的性質が明らかに違うバッキンガム大学などの私立大学が近年新設されたことによる。ただし、自然発生的な創立の歴史や高度な大学自治、独自の財産と安定収入のあるカレッジの存在、日本でいう国公立大学とは解釈が異なる。 オクスフォード大学と表記されることもある。 オックスフォード大学の創立時期はよく解明されていない。大学としての正式な創立年は1167年と言われているが、全ての施設が一気に構築されたのではなく、長い年月をかけて徐々に形成されたものと考えられている。最古の記録として、1096年にオックスフォードで講義が行われていたという公式の記録が存在しており、少なくともこの時期に大学の前身となる教育施設が築かれていたことは確かであると考えられる。 大学の運営は、学科(department)とカレッジ(学寮、college)が並列に行っており、カレッジと学科が複雑に相互依存している。学科の中には学部(Faculty)の名称を持つものもある。 学科の集合としてディヴィジョン(Division)がある。具体的には、Humanities Division(人文学)、Medical Sciences Division(医科学)、Mathematical, Physical and Life Sciences Division(数理・物理・生命科学)、Social Sciences Division(社会科学)の4つ存在する。 カレッジは39あり、大学への入学はカレッジに認められなければならず、授与される学位も、学科での審査とカレッジの認証によって大学から与えられる。カレッジは、学生を学科に送って講義を受けさせる一方で、3人以下の少人数制の個別指導や、4 - 15人程度の中規模のクラスを主催し、専門性が強くなると学科に委託する。学部生は、教育・生活の両面でカレッジへの依存性が強いが、大学院生になるとカレッジ外に住む割合も増え、学科にある研究室や図書館などで行う研究活動が中心になる。各カレッジは代々固有の財産と安定収入を持ち、伝統的な資産はイギリス各地の荘園、農園であり、近年では株式の割合も増えている。カレッジの資産を管理・運用するフェローのことをバルサー(英語版)と呼ぶ。 日本語ではカレッジが単科大学を指す場合もあるが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学のカレッジ制度は性質が異なり、アメリカ合衆国のカレッジ制度とも異なるため学寮やコレッジと呼ぶこともある。学生の多くと一部の教職員とが寝食をともにし、またそこでともに学ぶというシステムである。各カレッジには得意とする専攻分野があるが、基本的には様々な学問分野の研究者と学生が揃っており、学際的な環境にある。大学院生を含めた全ての学生と、ポスドク研究員を除く大学教職員は、カレッジと学科の両方に所属するが、カレッジや学科独自の役職もある。ケンブリッジ大学やダラム大学は、同種のカレッジ制を採用した大学であることから、毎年大学間でカレッジ対抗のスポーツイベント、ドオックスブリッジが開催されている。 キリスト教系宗派の系統を持つカレッジも多く、特にクライストチャーチは、イングランド国教会オックスフォード教区の大聖堂でもあり、唯一大学の中にあり、大聖堂の規模としては英国最小であることを特色とする。英国国教会派以外にもカトリック系(トリニティ・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジ)、長老派系(ハリス・マンチェスター・カレッジ)、バプテスト系(リージェンツ・パーク・カレッジ)、福音派教会系(ウィックリフ・ホール)などのカレッジやパーマネント・プライベート・ホールがある。各カレッジの自治と宗派とのつながりも深く、その点では私立大学的要素も持ち合わせている。 連合王国のうち、イングランド王国の大学都市、オックスフォード市に本部ならびにカレッジをおく。各カレッジをキャンパスとみなすこともできるが、学科(department)や中央図書館などを含めたものと考えるのが一般的であろう。また、ケンブリッジ大学の項にも記載があるように、学校用地という意味であれば、サイト(Site)が用いられる。 中央機関として学部、図書館、科学施設と39のカレッジ、5つのホール(Permanent Private Halls ; PPHs)があり、大学の教職員と学生は、カレッジ又はPPHsのうちいずれか1つに所属する。大学院生のみを受け入れるカレッジ、女性専用のカレッジ(St Hilda's)もある(St Hilda's は2006年6月6日に男性の将来的受入に同意し、2007年10月より男女共学が始まった)。St Hilda's College to admit men 2つのカトリックPPHsのほか、St Benet's HallとCampion Hallは男子学生のみを受け入れている。 教育は、講義だけではなく、個別指導に力を注いだ形態をとっており、特に学部生はカレッジごとに1対1 - 5人程度の少数のグループでの教育を受ける。講義は学科(department)レベルで行われ、基本的には大学に所属していれば誰でも聴きにいくことができる。分野によって多少の差はあるが、基本的に講義の出欠を取ることはない。しかし試験は講義に沿った内容で学科(department)が行うため、カレッジ中心の教育体制ともいいがたい。 学士の学位は第1級(First Class)、第2級上(Upper Second class)、第2級下(Lower Second Class)、第3級(Third Class)、合格(Pass)の5種類があり、一般的な科目では「ファイナルズ(Finals)」と呼ばれる卒業試験の成績で学位が決まる。ただし、実験レポートなどのコースワークの成績も試験の1科目として扱われるため、試験が全てでない科目も多い。 ケンブリッジ大学とは強いライバル関係にあり、両大学合わせて、「オックスブリッジ」と呼ばれる。両校の間では、スポーツなど各種の親善試合が頻繁に行われる。中でもとりわけ有名なのは、毎年春にロンドンのテムズ川で行われるボートレース(レガッタ)である。両大学は、互いに「あちら(the other place, another universityなど)」と呼び合うだけでなく、パントと呼ばれる舟遊びでも逆方向から漕ぐ徹底振りである。 大学都市である、ケンブリッジ市内中心部にあるケンブリッジ大学はよく「町の中に大学がある」と言われるのに対し、市内中心部を諸カレッジの壁面が覆うことよりオックスフォード大学が「大学の中に町がある」と称される。 慶應義塾大学、関西学院大学、専修大学、奈良県立大学、金沢学院大学など、いくつかの大学と友好的な異文化交流を結んでいるカレッジも存在する。これはオックスフォード大学の学部や学科との交換留学制度ではないが、それぞれ中期または短期留学での渡航プログラムが各大学向けにデザインされており、主な目的としては外国語研修を通じて英語および英国の文化や歴史を学ぶ内容とされている。 上智大学との協定により、毎年サマープログラムが開講されている。『エコノミスト』で活躍する記者などを講師に招き、政治・メディアについて理論と実践の立場から学ぶ。他、イギリス文化(シェイクスピアなどを含む)に関する講義もある。 なお、早稲田大学とはオックスフォード遠征や奥外交官を偲んでラグビーの交流も盛んだが、研究面では2020年4月17日付で大学間協定を締結した。 受験に際しては、ケンブリッジ大学と同じで、通常の試験および面接による。特徴を挙げると、オックスフォードは人物評価点を重視、ケンブリッジ大学は客観入試点を重視するところに違いがあるといわれている。そのほか、入試期間が約2週間程度になる(アドミッションオフィス入試制)。 カレッジによっては通常の夕食の後で「フォーマル・ホール(Formal Hall)」と呼ばれる正装を必要とする晩餐を開催するなど、他の国々の大学制度とは異なったしきたりやルールが多数ある。 学部生、大学院生などそれぞれの立場によって着るべき黒のガウンが決められており、各種式典やフォーマル・ホールなどの公式な場では身に着けることを要請されている。また、ライバル校、ケンブリッジにはないしきたりとして、試験を受ける際、白いシャツ、黒のズボンあるいはスカートに男性はジャケット、その上からガウンを着る、いわゆる「サブファスク」を着るよう義務づけられていることが挙げられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オックスフォード大学(オックスフォードだいがく、英語: University of Oxford)は、イギリスの大学都市、オックスフォードに所在する総合大学である。11世紀の末に大学の礎が築かれていることから、現存する大学としては世界で3番目に古く、英語圏では最古の大学であり、ケンブリッジ大学と共に「オックスブリッジ」としてイギリス最高峰の大学として並び称される。各種の世界大学ランキングで1位の大学に選ばれるなど(例えば「タイムスハイヤーエデュケーション」では、2017年から5年連続で1位)、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学と共に世界トップ5大学として知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "多くの政治家や学者を輩出し、政治家では28人のイギリス首相、30人以上の各国元首、73人のノーベル賞受賞者、150人以上のオリンピックメダリストなどがオックスフォードの出身である。6人のイギリス国王が学び、日本からも今上天皇、皇后雅子、秋篠宮文仁親王らの皇族が留学している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "学生数(2019年時点)は、学部生が1万1930人、大学院生が1万1813人で、160カ国・地域からの留学生が4割を占める。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「オックスブリッジ」として並び称されるケンブリッジ大学は、オックスフォードから多くの教師と学生が1209年にケンブリッジに移住した出来事に端を発する。両校とも英語圏の古代大学、欧州内の中世大学群に属し、イギリス伝統のカレッジ制を特徴とする大学である。入学式と卒業式はラテン語で行われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "オックスフォード大学法学部(Oxford Law)は、ケンブリッジ大学、ハーバード大学、イェール大学と共に世界最高峰のロースクール(法科大学院)として知られている。公共政策大学院のオックスフォード大学ブラバトニク行政スクール(Blavatnik School)における社会政策・管理(Social Policy & Administration)分野でも、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスと共に世界最高峰を誇る。オックスフォード大学医学部(Oxford Medicine)は、ハーバード・メディカル・スクール、ケンブリッジ大学医学部と共に世界最高峰のメディカルスクール(医学大学院)として知られている。また、オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール(SBS)は、ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)、マンチェスター・ビジネス・スクール(AMBS)、ダラム・ビジネス・スクール(DBS)と共に、イギリス最古のビジネススクール(MBA提供校)の一つとして名高い。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "運営の最高責任者は総長(Vice-Chancellor)であり、2019年時点の総長はルイーズ・リチャードソン。名誉総長(Chancellor)と呼ばれる職位は終身の名誉職であり、2016年時点の名誉総長は香港総督を務めたクリストファー・パッテン。副総長(英称; Pro Vice-Chancellor)は5名の大学運営・学生担当教師と7名のカレッジの学長の計12名が務める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "設置形態は、英語圏では公立大学であると認識されている。法的根拠がイギリス国王の勅許状により設立された自治団体であること、大学財政審議会(UFC)を通じて国家から国庫補助金の配分を受けており、大学規模や文科・理科の配分比率がUFCにより決定されていること、法的性質が明らかに違うバッキンガム大学などの私立大学が近年新設されたことによる。ただし、自然発生的な創立の歴史や高度な大学自治、独自の財産と安定収入のあるカレッジの存在、日本でいう国公立大学とは解釈が異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オクスフォード大学と表記されることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "オックスフォード大学の創立時期はよく解明されていない。大学としての正式な創立年は1167年と言われているが、全ての施設が一気に構築されたのではなく、長い年月をかけて徐々に形成されたものと考えられている。最古の記録として、1096年にオックスフォードで講義が行われていたという公式の記録が存在しており、少なくともこの時期に大学の前身となる教育施設が築かれていたことは確かであると考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大学の運営は、学科(department)とカレッジ(学寮、college)が並列に行っており、カレッジと学科が複雑に相互依存している。学科の中には学部(Faculty)の名称を持つものもある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "学科の集合としてディヴィジョン(Division)がある。具体的には、Humanities Division(人文学)、Medical Sciences Division(医科学)、Mathematical, Physical and Life Sciences Division(数理・物理・生命科学)、Social Sciences Division(社会科学)の4つ存在する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カレッジは39あり、大学への入学はカレッジに認められなければならず、授与される学位も、学科での審査とカレッジの認証によって大学から与えられる。カレッジは、学生を学科に送って講義を受けさせる一方で、3人以下の少人数制の個別指導や、4 - 15人程度の中規模のクラスを主催し、専門性が強くなると学科に委託する。学部生は、教育・生活の両面でカレッジへの依存性が強いが、大学院生になるとカレッジ外に住む割合も増え、学科にある研究室や図書館などで行う研究活動が中心になる。各カレッジは代々固有の財産と安定収入を持ち、伝統的な資産はイギリス各地の荘園、農園であり、近年では株式の割合も増えている。カレッジの資産を管理・運用するフェローのことをバルサー(英語版)と呼ぶ。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語ではカレッジが単科大学を指す場合もあるが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学のカレッジ制度は性質が異なり、アメリカ合衆国のカレッジ制度とも異なるため学寮やコレッジと呼ぶこともある。学生の多くと一部の教職員とが寝食をともにし、またそこでともに学ぶというシステムである。各カレッジには得意とする専攻分野があるが、基本的には様々な学問分野の研究者と学生が揃っており、学際的な環境にある。大学院生を含めた全ての学生と、ポスドク研究員を除く大学教職員は、カレッジと学科の両方に所属するが、カレッジや学科独自の役職もある。ケンブリッジ大学やダラム大学は、同種のカレッジ制を採用した大学であることから、毎年大学間でカレッジ対抗のスポーツイベント、ドオックスブリッジが開催されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "キリスト教系宗派の系統を持つカレッジも多く、特にクライストチャーチは、イングランド国教会オックスフォード教区の大聖堂でもあり、唯一大学の中にあり、大聖堂の規模としては英国最小であることを特色とする。英国国教会派以外にもカトリック系(トリニティ・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジ)、長老派系(ハリス・マンチェスター・カレッジ)、バプテスト系(リージェンツ・パーク・カレッジ)、福音派教会系(ウィックリフ・ホール)などのカレッジやパーマネント・プライベート・ホールがある。各カレッジの自治と宗派とのつながりも深く、その点では私立大学的要素も持ち合わせている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "連合王国のうち、イングランド王国の大学都市、オックスフォード市に本部ならびにカレッジをおく。各カレッジをキャンパスとみなすこともできるが、学科(department)や中央図書館などを含めたものと考えるのが一般的であろう。また、ケンブリッジ大学の項にも記載があるように、学校用地という意味であれば、サイト(Site)が用いられる。", "title": "キャンパス" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中央機関として学部、図書館、科学施設と39のカレッジ、5つのホール(Permanent Private Halls ; PPHs)があり、大学の教職員と学生は、カレッジ又はPPHsのうちいずれか1つに所属する。大学院生のみを受け入れるカレッジ、女性専用のカレッジ(St Hilda's)もある(St Hilda's は2006年6月6日に男性の将来的受入に同意し、2007年10月より男女共学が始まった)。St Hilda's College to admit men", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2つのカトリックPPHsのほか、St Benet's HallとCampion Hallは男子学生のみを受け入れている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "教育は、講義だけではなく、個別指導に力を注いだ形態をとっており、特に学部生はカレッジごとに1対1 - 5人程度の少数のグループでの教育を受ける。講義は学科(department)レベルで行われ、基本的には大学に所属していれば誰でも聴きにいくことができる。分野によって多少の差はあるが、基本的に講義の出欠を取ることはない。しかし試験は講義に沿った内容で学科(department)が行うため、カレッジ中心の教育体制ともいいがたい。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "学士の学位は第1級(First Class)、第2級上(Upper Second class)、第2級下(Lower Second Class)、第3級(Third Class)、合格(Pass)の5種類があり、一般的な科目では「ファイナルズ(Finals)」と呼ばれる卒業試験の成績で学位が決まる。ただし、実験レポートなどのコースワークの成績も試験の1科目として扱われるため、試験が全てでない科目も多い。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ケンブリッジ大学とは強いライバル関係にあり、両大学合わせて、「オックスブリッジ」と呼ばれる。両校の間では、スポーツなど各種の親善試合が頻繁に行われる。中でもとりわけ有名なのは、毎年春にロンドンのテムズ川で行われるボートレース(レガッタ)である。両大学は、互いに「あちら(the other place, another universityなど)」と呼び合うだけでなく、パントと呼ばれる舟遊びでも逆方向から漕ぐ徹底振りである。", "title": "ケンブリッジ大学との関係" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大学都市である、ケンブリッジ市内中心部にあるケンブリッジ大学はよく「町の中に大学がある」と言われるのに対し、市内中心部を諸カレッジの壁面が覆うことよりオックスフォード大学が「大学の中に町がある」と称される。", "title": "ケンブリッジ大学との関係" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "慶應義塾大学、関西学院大学、専修大学、奈良県立大学、金沢学院大学など、いくつかの大学と友好的な異文化交流を結んでいるカレッジも存在する。これはオックスフォード大学の学部や学科との交換留学制度ではないが、それぞれ中期または短期留学での渡航プログラムが各大学向けにデザインされており、主な目的としては外国語研修を通じて英語および英国の文化や歴史を学ぶ内容とされている。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上智大学との協定により、毎年サマープログラムが開講されている。『エコノミスト』で活躍する記者などを講師に招き、政治・メディアについて理論と実践の立場から学ぶ。他、イギリス文化(シェイクスピアなどを含む)に関する講義もある。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、早稲田大学とはオックスフォード遠征や奥外交官を偲んでラグビーの交流も盛んだが、研究面では2020年4月17日付で大学間協定を締結した。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "受験に際しては、ケンブリッジ大学と同じで、通常の試験および面接による。特徴を挙げると、オックスフォードは人物評価点を重視、ケンブリッジ大学は客観入試点を重視するところに違いがあるといわれている。そのほか、入試期間が約2週間程度になる(アドミッションオフィス入試制)。", "title": "学生" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カレッジによっては通常の夕食の後で「フォーマル・ホール(Formal Hall)」と呼ばれる正装を必要とする晩餐を開催するなど、他の国々の大学制度とは異なったしきたりやルールが多数ある。", "title": "スポーツ・サークル・伝統" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "学部生、大学院生などそれぞれの立場によって着るべき黒のガウンが決められており、各種式典やフォーマル・ホールなどの公式な場では身に着けることを要請されている。また、ライバル校、ケンブリッジにはないしきたりとして、試験を受ける際、白いシャツ、黒のズボンあるいはスカートに男性はジャケット、その上からガウンを着る、いわゆる「サブファスク」を着るよう義務づけられていることが挙げられる。", "title": "スポーツ・サークル・伝統" } ]
オックスフォード大学は、イギリスの大学都市、オックスフォードに所在する総合大学である。11世紀の末に大学の礎が築かれていることから、現存する大学としては世界で3番目に古く、英語圏では最古の大学であり、ケンブリッジ大学と共に「オックスブリッジ」としてイギリス最高峰の大学として並び称される。各種の世界大学ランキングで1位の大学に選ばれるなど(例えば「タイムスハイヤーエデュケーション」では、2017年から5年連続で1位)、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学と共に世界トップ5大学として知られる。 多くの政治家や学者を輩出し、政治家では28人のイギリス首相、30人以上の各国元首、73人のノーベル賞受賞者、150人以上のオリンピックメダリストなどがオックスフォードの出身である。6人のイギリス国王が学び、日本からも今上天皇、皇后雅子、秋篠宮文仁親王らの皇族が留学している。 学生数(2019年時点)は、学部生が1万1930人、大学院生が1万1813人で、160カ国・地域からの留学生が4割を占める。 「オックスブリッジ」として並び称されるケンブリッジ大学は、オックスフォードから多くの教師と学生が1209年にケンブリッジに移住した出来事に端を発する。両校とも英語圏の古代大学、欧州内の中世大学群に属し、イギリス伝統のカレッジ制を特徴とする大学である。入学式と卒業式はラテン語で行われる。 オックスフォード大学法学部(Oxford Law)は、ケンブリッジ大学、ハーバード大学、イェール大学と共に世界最高峰のロースクール(法科大学院)として知られている。公共政策大学院のオックスフォード大学ブラバトニク行政スクール(Blavatnik School)における社会政策・管理分野でも、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスと共に世界最高峰を誇る。オックスフォード大学医学部(Oxford Medicine)は、ハーバード・メディカル・スクール、ケンブリッジ大学医学部と共に世界最高峰のメディカルスクール(医学大学院)として知られている。また、オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール(SBS)は、ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)、マンチェスター・ビジネス・スクール(AMBS)、ダラム・ビジネス・スクール(DBS)と共に、イギリス最古のビジネススクール(MBA提供校)の一つとして名高い。
{{Infobox University | name = オックスフォード大学 | native_name = University of Oxford | image_name = Tom Quad, Christ Church, Oxford.jpg |image_size = 290px | caption = | motto = The Lord is my light | established = [[11世紀]]末 | type = [[古代の大学]]、[[国立大学]] | endowment = £8.12 billion (including colleges) (2022) | chancellor = [[クリストファー・パッテン]] | enrollment = 26,455 (2021) | undergrad = 12,580 | postgrad = 13,445 | other_students = 430 |free_label = [[ノーベル賞]]受賞者数 |free = 73 | affiliations = [[サイード・ビジネス・スクール]] (経営大学院), [[:EN:International Alliance of Research Universities|IARU]], [[ラッセル・グループ]], [[:EN:Science and Engineering South|SES]], [[:EN:Universities UK|Universities UK]], [[:EN:Europaeum|Europaeum]], [[:EN:League of European Research Universities|LERU]], [[:EN:European University Association|EUA]] | city = [[オックスフォード]] | state = {{flag|England}} | country = {{UK}} | mascot = | athletics = | colours = {{color box|#002147}} [[:EN:Oxford Blue (colour)|Oxford Blue]] | website = http://www.ox.ac.uk/ | footnotes = '''紋章''' | logo = [[File:Coat of arms of the University of Oxford.svg|200px]] }} [[File: Oxford - Balliol College - geograph.org.uk - 1329613.jpg |right|thumb|250px|Balliol College]] [[File:UK-2014-Oxford-Worcester_College_02.jpg|right|thumb|250px|Worcester College]] [[File:Lady_Margaret_Hall_(6148510434).jpg|right|thumb|250px|Lady Margaret Hall]] [[File:Clarendon_Building,_Oxford,_England_-_May_2010.jpg|right|thumb|250px| Clarendon Building]] [[File:Law Faculty, St Cross Building.jpg|right|thumb|250px|オックスフォード大学法学部(Oxford Law)]] [[File:Blavatnik School of Government.png|right|thumb|250px|オックスフォード大学ブラバトニク行政スクール(Blavatnik School)]] [[File:The John Radcliffe Hospital.jpg|right|thumb|250px|オックスフォード大学医学部(Oxford Medicine)]] [[File:Said Business School.jpg |right|thumb|230px|オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール(SBS)]] '''オックスフォード大学'''(オックスフォードだいがく、{{Lang-en|University of Oxford}})は、[[イギリス]]の[[学園都市の一覧|大学都市]]、[[オックスフォード]]に所在する[[単科大学と総合大学|総合大学]]である。[[11世紀]]の末に大学の礎が築かれていることから、現存する大学としては世界で3番目に古く、[[英語圏]]では最古の大学であり、[[ケンブリッジ大学]]と共に「[[オックスブリッジ]]」としてイギリス最高峰の大学として並び称される。各種の[[世界大学ランキング]]で1位の大学に選ばれるなど(例えば「タイムスハイヤーエデュケーション」では、2017年から5年連続で1位)<ref>https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2020/world-ranking#!/page/0/length/25/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/statshttps</ref>、[[ハーバード大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[マサチューセッツ工科大学]]、[[スタンフォード大学]]と共に世界トップ5大学として知られる。 多くの[[政治家]]や[[学者]]を輩出し、政治家では28人の[[イギリスの首相|イギリス首相]]<ref name="日経20191218">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53454280X11C19A2TCN000/ 英オックスフォード大に学ぶ(上)伝統に革新重ねる]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年12月18日(大学面)2020年1月2日閲覧</ref>、30人以上の各国[[元首]]、73人の[[ノーベル賞]]受賞者、150人以上の[[近代オリンピック|オリンピック]]メダリストなどがオックスフォードの出身である。6人の[[イギリスの君主|イギリス国王]]が学び、日本からも[[徳仁|今上天皇]]、[[皇后雅子]]、[[秋篠宮文仁親王]]らの[[皇族]]が留学している。 学生数(2019年時点)は、[[学部|学部生]]が1万1930人、[[大学院|大学院生]]が1万1813人で、160カ国・地域からの[[留学生]]が4割を占める<ref name="日経20191218"/>。 「[[オックスブリッジ]]」として並び称される[[ケンブリッジ大学]]は、オックスフォードから多くの教師と学生が[[1209年]]に[[ケンブリッジ]]に移住した出来事に端を発する<ref>水田大紀「学校と教育」『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』指昭博編著、[[ミネルヴァ書房]]、2012年、159-160頁。</ref>。両校とも[[英語圏]]の[[古代の大学|古代大学]]、[[ヨーロッパ|欧州]]内の[[中世大学]]群に属し、イギリス伝統の[[カレッジ|カレッジ制]]を特徴とする大学である。入学式と卒業式は[[ラテン語]]で行われる<ref name="日経20191218"/>。 [[:EN:Faculty of Law, University of Oxford|オックスフォード大学法学部]]('''Oxford Law''')は、[[ケンブリッジ大学]]、[[ハーバード大学]]、[[イェール大学]]と共に世界最高峰の[[ロースクール]]([[法科大学院]])として知られている。[[公共政策大学院]]のオックスフォード大学ブラバトニク行政スクール('''Blavatnik School''')における[[社会政策]]・管理(Social Policy & Administration)分野でも、[[ハーバード大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]と共に世界最高峰を誇る。[[:EN:Oxford University Medical School|オックスフォード大学医学部]]('''Oxford Medicine''')は、[[ハーバード・メディカル・スクール]]、[[ケンブリッジ大学]]医学部と共に世界最高峰の[[メディカルスクール]]([[医学大学院]])として知られている。また、[[サイード・ビジネス・スクール|オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール]]('''SBS''')は、[[ロンドン・ビジネス・スクール]](LBS)、[[マンチェスター・ビジネス・スクール]](AMBS)、[[ダラム・ビジネス・スクール]](DBS)と共に、イギリス最古の[[ビジネススクール]]([[MBA]]提供校)の一つとして名高い。 == 概要 == 運営の最高責任者は[[総長]](Vice-Chancellor)<ref group="注">『[[研究社]] 新英和中辞典』では、「Vice-Chancellor」を「副総長」と訳している。「Chancellor」は名誉職で実務を行わないので、「Vice-Chancellor」が事実上の最高責任者であることには違いない。</ref>であり、2019年時点の総長は[https://www.ashinaga.org/about-us/kenjin-tatsujin/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3/ ルイーズ・リチャードソン]<ref name="日経20191218" />。[[名誉総長]](Chancellor)と呼ばれる職位は終身の[[名誉職]]であり、2016年時点の名誉総長は[[香港総督]]を務めた[[クリストファー・パッテン]]。副総長(英称; Pro Vice-Chancellor)は5名の大学運営・学生担当教師と7名のカレッジの学長の計12名が務める。 設置形態は、英語圏では公立大学であると認識されている。法的根拠が[[イギリス国王]]の勅許状により設立された自治団体であること、大学財政審議会(UFC)を通じて国家から国庫補助金の配分を受けており、大学規模や文科・理科の配分比率がUFCにより決定されていること、法的性質が明らかに違う[[バッキンガム大学]]などの私立大学が近年新設されたことによる。ただし、自然発生的な創立の歴史や高度な大学自治、独自の財産と安定収入のあるカレッジの存在、日本でいう国公立大学とは解釈が異なる。 <!-- 以下、オックスフォード自体の説明ではないため 英国で私立大学であると認識されているのは[[バッキンガム大学]]のみで、政府から施設補助金も経常費補助金も受けていない。その他のすべての大学は公立大学と認識されている。英国政府が公立大学の資産を保有していないこと、公立大学スタッフは公務員(civil servants)ではないことは、ともに日本の国立大学法人・公立大学法人と共通である。但し、地理的理由による創立の歴史、高度な大学自治、独自の財産と安定収入のあるカレッジの存在、大学当局が立場を明確に表明していないことから私立大学であると考えられる場合もある。 --> オクスフォード大学と表記されることもある<ref>[http://agora-web.jp/archives/2035107.html http://agora-web.jp/archives/2035107.html 【GEPR】世界の環境は改善されている] [[アゴラ]]</ref>。 == 歴史 == オックスフォード大学の創立時期はよく解明されていない。大学としての正式な創立年は[[1167年]]と言われているが、全ての施設が一気に構築されたのではなく、長い年月をかけて徐々に形成されたものと考えられている。最古の記録として、[[1096年]]にオックスフォードで講義が行われていたという公式の記録が存在しており、少なくともこの時期に大学の前身となる教育施設が築かれていたことは確かであると考えられる。 * [[1167年]]、[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]によって、イギリスの学生が[[パリ大学]]で学ぶことを禁じられたことをきっかけにオックスフォードに学者が集まり<ref>中野葉子「ジェントルマンのたしなみ」『概説 イギリス文化史』佐久間康夫・中野葉子・太田雅孝編著、ミネルヴァ書房、2002年、166-167頁。</ref>、[[パリ]]から移住してきた学生たちによって大学が形成された<ref>水田大紀「学校と教育」『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』指昭博編著、ミネルヴァ書房、2012年、159頁。</ref>。この時期から初期のホール(寮)が設立された。これらのホールはのちにカレッジ(学寮)へと発展した。 * [[1209年]]に殺人罪で告発された2人の学生が処刑されたことをきっかけに大学は一時解散し、これがケンブリッジ大学の設立につながった。 * [[1214年]]、[[ローマ教皇]]特使のニコラス・デ・ロマーニス({{interlang|en|Niccolò de Romanis}})による交渉の結果、オックスフォードにて大学を再開することが認可された。 * この大学の地位は[[1571年]]に『2大学法人に関する法令(Act for the Incorporation of Both Universities)』によって公式に制定された。ここで、大学の正式名称は「オックスフォードの大学の総長、[[修士]]、および[[学士]](The Chancellor, Masters and Scholars of the University of Oxford)」と定められた。 == 組織 == [[ファイル:University of Oxford coat-of-arms.png|thumb|オックスフォード大学の紋章。ラテン語''Dominus illuminatio mea''(「主は我が光」の意」]]{{Main|オックスフォード大学のディヴィジョン|}} 大学の運営は、[[学科]]('''department''')と[[カレッジ]](学寮、'''college''')が並列に行っており、カレッジと学科が複雑に相互依存している。学科の中には学部('''Faculty''')の名称を持つものもある。 学科の集合として[[オックスフォード大学のディヴィジョン|ディヴィジョン]](Division)がある。具体的には、'''Humanities Division'''(人文学)、'''Medical Sciences Division'''(医科学)、'''Mathematical, Physical and Life Sciences Division'''(数理・物理・生命科学)、'''Social Sciences Division'''(社会科学)の4つ存在する。 === カレッジ === カレッジは39あり<ref name="日経20191218" />、大学への入学はカレッジに認められなければならず、授与される[[学位]]も、学科での審査とカレッジの認証によって大学から与えられる。カレッジは、学生を学科に送って講義を受けさせる一方で、3人以下の少人数制の個別指導や、4 - 15人程度の中規模のクラスを主催し、専門性が強くなると学科に委託する。学部生は、教育・生活の両面でカレッジへの依存性が強いが、大学院生になるとカレッジ外に住む割合も増え、学科にある研究室や図書館などで行う研究活動が中心になる。各カレッジは代々固有の財産と安定収入を持ち、伝統的な資産はイギリス各地の[[荘園]]、農園であり、近年では株式の割合も増えている。カレッジの資産を管理・運用するフェローのことを{{仮リンク|バルサー|en|Bursar}}と呼ぶ。 日本語ではカレッジが単科大学を指す場合もあるが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学のカレッジ制度は性質が異なり、アメリカ合衆国のカレッジ制度とも異なるため学寮やコレッジと呼ぶこともある。学生の多くと一部の教職員とが寝食をともにし、またそこでともに学ぶというシステムである。各カレッジには得意とする専攻分野があるが、基本的には様々な学問分野の研究者と学生が揃っており、[[学際]]的な環境にある。大学院生を含めた全ての学生と、[[博士研究員|ポスドク研究員]]を除く大学教職員は、カレッジと学科の両方に所属するが、カレッジや学科独自の役職もある。ケンブリッジ大学や[[ダラム大学]]は、同種のカレッジ制を採用した大学であることから、毎年大学間でカレッジ対抗のスポーツイベント、[[ドオックスブリッジ]]が開催されている。 [[キリスト教]]系宗派の系統を持つカレッジも多く、特にクライストチャーチは、[[イングランド国教会]]オックスフォード[[教区]]の大聖堂でもあり、唯一大学の中にあり、大聖堂の規模としては英国最小であることを特色とする。英国国教会派以外にも[[カトリック教会|カトリック]]系(トリニティ・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジ)、[[長老派]]系(ハリス・マンチェスター・カレッジ)、[[バプテスト]]系(リージェンツ・パーク・カレッジ)、[[福音派]]教会系(ウィックリフ・ホール)などのカレッジやパーマネント・プライベート・ホールがある。各カレッジの自治と宗派とのつながりも深く、その点では私立大学的要素も持ち合わせている。 == キャンパス == {{節スタブ}} 連合王国のうち、イングランド王国の[[大学都市]]、[[オックスフォード]]市に本部ならびにカレッジをおく。各カレッジをキャンパスとみなすこともできるが、学科(department)や中央図書館などを含めたものと考えるのが一般的であろう。また、[[ケンブリッジ大学]]の項にも記載があるように、学校用地という意味であれば、サイト(Site)が用いられる。 == 施設 == 中央機関として[[学部]]、[[図書館]]、科学施設と39のカレッジ、5つのホール(Permanent Private Halls ; PPHs)があり、大学の教職員と学生は、カレッジ又はPPHsのうちいずれか1つに所属する。大学院生のみを受け入れるカレッジ、女性専用のカレッジ(St Hilda's)もある(St Hilda's は[[2006年]][[6月6日]]に男性の将来的受入に同意し、2007年10月より男女共学が始まった)。[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/oxfordshire/5054126.stm St Hilda's College to admit men] 2つのカトリックPPHsのほか、[[w:St Benet's Hall, Oxford|St Benet's Hall]]と[[w:Campion Hall, Oxford|Campion Hall]]は男子学生のみを受け入れている。 教育は、講義だけではなく、個別指導に力を注いだ形態をとっており、特に学部生はカレッジごとに1対1 - 5人程度の少数のグループでの教育を受ける。講義は学科(department)レベルで行われ、基本的には大学に所属していれば誰でも聴きにいくことができる。分野によって多少の差はあるが、基本的に講義の出欠を取ることはない。しかし試験は講義に沿った内容で学科(department)が行うため、カレッジ中心の教育体制ともいいがたい。 学士の学位は第1級(First Class)、第2級上(Upper Second class)、第2級下(Lower Second Class)、第3級(Third Class)、合格(Pass)の5種類があり、一般的な科目では「ファイナルズ(Finals)」と呼ばれる卒業試験の成績で学位が決まる。ただし、実験レポートなどのコースワークの成績も試験の1科目として扱われるため、試験が全てでない科目も多い。 == ケンブリッジ大学との関係 == {{main|オックスブリッジ}} [[ケンブリッジ大学]]とは強いライバル関係にあり、両大学合わせて、「[[オックスブリッジ]]」と呼ばれる。両校の間では、スポーツなど各種の親善試合が頻繁に行われる。とりわけ有名なのは、毎年春に[[ロンドン]]の[[テムズ川]]で行われる[[ボート競技|ボートレース]]([[レガッタ]])である。両大学は、互いに「あちら(the other place, another universityなど)」と呼び合うだけでなく、[[パント (舟)|パント]]と呼ばれる舟遊びでも逆方向から漕ぐ徹底振りである。また、1827年に開始された[[クリケット]]の定期戦も有名であり、ザ・大学マッチ(The University Match)と呼ばれ、ボートレースより長い歴史がある<ref name="LORD'S">[https://www.lords.org/lords/our-history/father-time-wall/1827-the-first-oxford-v-cambridge-match-takes-plac/ THE FIRST OXFORD V. CAMBRIDGE MATCH AT LORD'S] LORD'S 2023年10月1日閲覧。</ref>。通算成績は2023年現在、ケンブリッジ大学が勝ち越しており、クリケットの聖地と呼ばれるロンドンの[[ローズ・クリケット・グラウンド]]で多くの試合が行われた<ref name="LORD'S"/>。 [[大学都市]]である、ケンブリッジ市内中心部にあるケンブリッジ大学はよく「町の中に大学がある」と言われるのに対し、市内中心部を諸カレッジの壁面が覆うことよりオックスフォード大学が「大学の中に町がある」と称される<ref>『地球の歩き方 イギリス 1999~2000年版』ダイヤモンド・ビッグ社 p.234.</ref>。 == 日本との関係 == === 大学間の連携 === [[慶應義塾大学]]、[[関西学院大学]]、[[専修大学]]、[[奈良県立大学]]、[[金沢学院大学]]など、いくつかの大学と友好的な異文化交流を結んでいるカレッジも存在する。これはオックスフォード大学の学部や学科との交換留学制度ではないが、それぞれ中期または短期留学での渡航プログラムが各大学向けにデザインされており、主な目的としては外国語研修を通じて英語および英国の文化や歴史を学ぶ内容とされている。 [[上智大学]]との協定により、毎年サマープログラムが開講されている。『[[エコノミスト]]』で活躍する記者などを講師に招き、政治・メディアについて理論と実践の立場から学ぶ。他、イギリス文化([[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]などを含む)に関する講義もある。 なお、[[早稲田大学]]とはオックスフォード遠征や奥外交官を偲んでラグビーの交流も盛んだが、研究面では2020年4月17日付で大学間協定を締結した<ref>[https://www.cs.ox.ac.uk/news/1805-full.html オックスフォード大学ホームページ]</ref>。 == カレッジ一覧 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !名前!!設立年!!ウェブサイト!![[ケンブリッジ大学]]の姉妹関係のカレッジ |- |'''[[オール・ソウルズ・カレッジ (オックスフォード大学)|オール・ソウルズ・カレッジ<br>All Souls College]]'''||[[1438年]]||http://www.all-souls.ox.ac.uk/||[[トリニティ・ホール|トリニティ・ホール Trinity Hall]] |- |'''[[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ<br>Balliol College]]'''||[[1263年]]||http://www.balliol.ox.ac.uk/||[[セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|セント・ジョンズ・カレッジ St John's College]] |- |'''[[ブレーズノーズ・カレッジ (オックスフォード大学)|ブレーズノーズ・カレッジ<br>Brasenose College]]'''||[[1509年]]||http://www.bnc.ox.ac.uk/||[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ|ゴンヴィル アンド キース・カレッジ Gonville and Caius College]] |- |'''[[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ<br>Christ Church]]'''||[[1546年]]||http://www.chch.ox.ac.uk/||[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ Trinity College]] |- |'''[[コーパス・クリスティ・カレッジ (オックスフォード大学)|コーパス・クリスティ・カレッジ<br>Corpus Christi College]]'''||[[1517年]]||http://www.ccc.ox.ac.uk/||[[コーパス・クリスティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|コーパス・クリスティ・カレッジ Corpus Christi College]] |- |'''[[エクセター・カレッジ (オックスフォード大学)|エクセター・カレッジ<br>Exeter College]]'''||[[1314年]]||http://www.exeter.ox.ac.uk/||[[エマニュエル・カレッジ|エマニュエル・カレッジ Emmanuel College]] |- |'''[[グリーン・テンプルトン・カレッジ (オックスフォード大学)|グリーン・テンプルトン・カレッジ<br>Green Templeton College]]'''||[[2008年]]||http://www.gtc.ox.ac.uk/||[[セント・エドムンズ・カレッジ|セント・エドムンズ・カレッジ St Edmund's College]] |- |'''[[ハリス・マンチェスター・カレッジ (オックスフォード大学)|ハリス・マンチェスター・カレッジ<br>Harris Manchester College]]'''||[[1786年]],<br> College status [[1996年]]||http://www.hmc.ox.ac.uk/||[[ホーマートン・カレッジ|ホーマートン・カレッジ<br>Homerton College]] |- |'''[[ハートフォード・カレッジ (オックスフォード大学)|ハートフォード・カレッジ<br>Hertford College]]'''||[[1282年]]||http://www.hertford.ox.ac.uk/|| |- |'''[[ジーザス・カレッジ (オックスフォード大学)|ジーザス・カレッジ<br>Jesus College]]'''||[[1571年]]||http://www.jesus.ox.ac.uk/||[[ジーザス・カレッジ|ジーザス・カレッジ Jesus College]] |- |'''[[キーブル・カレッジ (オックスフォード大学)|キーブル・カレッジ<br>Keble College]]'''||[[1870年]]||http://www.keble.ox.ac.uk/||[[セルウィン・カレッジ|セルウィン・カレッジ Selwyn College]] |- |'''[[ケロッグ・カレッジ (オックスフォード大学)|ケロッグ・カレッジ<br>Kellogg College]]'''||[[1990年]],<br> College status [[1994年]]||http://www.kellogg.ox.ac.uk/|| |- |'''[[レディ・マーガレット・ホール (オックスフォード大学)|レディ・マーガレット・ホール<br>Lady Margaret Hall]]'''||[[1878年]]||http://www.lmh.ox.ac.uk/||[[ニューナム・カレッジ|ニューナム・カレッジ Newnham College]] |- |'''[[リネカー・カレッジ (オックスフォード大学)|リネカー・カレッジ<br>Linacre College]]'''||[[1962年]]||http://www.linacre.ox.ac.uk/||[[ウルフソン・カレッジ|ウルフソン・カレッジ Wolfson College]] |- |'''[[リンカーン・カレッジ (オックスフォード大学)|リンカーン・カレッジ<br>Lincoln College]]'''||[[1427年]]||http://www.linc.ox.ac.uk/||[[ダウニング・カレッジ|ダウニング・カレッジ Downing College]] |- |'''[[モードリン・カレッジ (オックスフォード大学)|モードリン・カレッジ<br>Magdalen College]]'''||[[1458年]]||http://www.magd.ox.ac.uk/||[[モードリン・カレッジ (ケンブリッジ大学)|モードリン・カレッジ Magdalene College]] |- |'''[[マンスフィールド・カレッジ (オックスフォード大学)|マンスフィールド・カレッジ<br>Mansfield College]]'''||[[1886年]],<br> College status [[1995年]]||http://www.mansfield.ox.ac.uk/||[[ホーマートン・カレッジ|ホーマートン・カレッジ Homerton College]] |- |'''[[マートン・カレッジ (オックスフォード大学)|マートン・カレッジ]]''' '''[[マートン・カレッジ (オックスフォード大学)|Metton College]]''' |[[1264年]]||http://www.merton.ox.ac.uk/||[[ピーターハウス|ピーターハウス Peterhouse]] |- |'''[[ニュー・カレッジ (オックスフォード大学)|ニュー・カレッジ<br>New College]]''' |[[1379年]]||http://www.new.ox.ac.uk/||[[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ King's College]] |- |'''[[ナフィールド・カレッジ (オックスフォード大学)|ナフィールド・カレッジ<br>Nuffield College]]'''||[[1958年]]||http://www.nuff.ox.ac.uk/|| |- |'''[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ<br>Oriel College]]'''||[[1326年]]||http://www.oriel.ox.ac.uk/||[[クレア・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クレア・カレッジ Clare College]] |- |'''[[ペンブルック・カレッジ (オックスフォード大学)|ペンブルック・カレッジ<br>Pembroke College]]'''||[[1624年]]||http://www.pmb.ox.ac.uk/||[[クイーンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クイーンズ・カレッジ Queens' College]] |- |'''[[ザ・クイーンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|ザ・クイーンズ・カレッジ<br>The Queen's College]]'''||[[1341年]]||http://www.queens.ox.ac.uk/||[[ペンブルック・カレッジ|ペンブルック・カレッジ Pembroke College]] |- |'''[[ルベン・カレッジ (オックスフォード大学)|ルベン・カレッジ<br>Reuben College]]'''||[[2019年]]||https://www.reuben.ox.ac.uk/|| |- |'''[[セント・アンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・アンズ・カレッジ<br>St Anne's College]]'''||[[1878年]]||http://www.st-annes.ox.ac.uk/||[[ニュー・ホール|ニュー・ホール New Hall]] |- |'''[[セント・アントニーズ・カレッジ|セント・アントニーズ・カレッジ<br>St Antony's College]]'''||[[1950年]],<br> College status [[1963年]]||http://www.sant.ox.ac.uk/||[[ウォルフソン・カレッジ|ウォルフソン・カレッジ Wolfson College]] |- |'''[[セント・キャサリンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・キャサリンズ・カレッジ<br>St Catherine's College]]'''||[[1963年]]||http://www.stcatz.ox.ac.uk/||[[ロビンソン・カレッジ|ロビンソン・カレッジ Robinson College]] |- |'''[[セント・クロス・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・クロス・カレッジ<br>St Cross College]]'''||[[1965年]]||http://www.stx.ox.ac.uk/||[[クレア・ホール|クレア・ホール Clare Hall]] |- |'''[[セント・エドモンド・ホール (オックスフォード大学)|セント・エドモンド・ホール<br>St Edmund Hall]]'''||[[c.1278年]],<br> College status [[1957年]]||http://www.seh.ox.ac.uk/||[[フィッツウィリアム・カレッジ|フィッツウィリアム・カレッジ Fitzwilliam College]] |- |'''[[セント・ヒルダズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・ヒルダズ・カレッジ<br>St Hilda's College]]'''||[[1893年]]||http://www.st-hildas.ox.ac.uk/||[[ピーター・ハウス|ピーター・ハウス Clare College]] |- |'''[[セント・ヒューズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・ヒューズ・カレッジ<br>St Hugh's College]]'''||[[1886年]]||http://www.st-hughs.ox.ac.uk/||[[クレア・カレッジ|クレア・カレッジ Peterhouse]] |- |'''[[セント・ジョンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・ジョンズ・カレッジ<br>St John's College]]'''||[[1555年]]||http://www.sjc.ox.ac.uk/||[[シドニー・サセックス・カレッジ|シドニー・サセックス・カレッジ Sidney Sussex College]] |- |'''[[セント・ピーターズ・カレッジ (オックスフォード大学)|セント・ピーターズ・カレッジ<br>St Peter's College]]'''||[[1929年]]||http://www.spc.ox.ac.uk/|| |- |'''[[サマーヴィル・カレッジ|サマービル・カレッジ<br>Somerville College]]'''||[[1879年]]||http://www.some.ox.ac.uk/||[[ガートン・カレッジ|ガートン・カレッジ Girton College]] |- |'''[[トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)|トリニティ・カレッジ<br>Trinity College]]'''||[[1554年]]||http://www.trinity.ox.ac.uk/||[[チャーチル・カレッジ|チャーチル・カレッジ Churchill College]] |- |'''[[ユニバーシティ・カレッジ (オックスフォード大学)|ユニバーシティ・カレッジ<br>University College]]'''||[[1249年]]||http://www.univ.ox.ac.uk/||[[トリニティ・ホール|トリニティ・ホール Trinity Hall]] |- |'''[[ウォドム・カレッジ (オックスフォード大学)|ウォドム・カレッジ<br>Wadham College]]'''||[[1610年]]||http://www.wadham.ox.ac.uk/||[[クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クライスト・カレッジ Christ's College]] |- |'''[[ウォルフソン・カレッジ (オックスフォード大学)|ウォルフソン・カレッジ<br>Wolfson College]]'''||[[1966年]],<br> College status [[1981年]]||http://www.wolfson.ox.ac.uk/||[[ダーウィン・カレッジ|ダーウィン・カレッジ Darwin College]] |- |'''[[ウスター・カレッジ (オックスフォード大学)|ウスター・カレッジ<br>Worcester College]]'''||[[1714年]]||http://www.worcester.ox.ac.uk/||[[セント・キャサリンズ・カレッジ|セント・キャサリンズ・カレッジ St Catharine's College]] |} <gallery> Magdalen-may-morning-2007-panorama.jpg|[[モードリン・カレッジ (オックスフォード大学)|モードリン・カレッジ]] Mansfield College.JPG|[[マンスフィールド・カレッジ (オックスフォード大学)|マンスフィールド・カレッジ]] </gallery> == 学位 == === 学士号 === * Bachelor of Arts([[Bachelor of Arts|B.A.]]):教養学士号 * Bachelor of Fine Arts([[Bachelor of Fine Arts|B.F.A.]]):美術士号 * Bachelor of Theology([[Bachelor of Theology|B.Th.]]):[[神学]]士号 * Bachelor of Education([[Bachelor of Education|B.Ed.]]):[[教育学]]士号 ==== 修士号(学部、4年制) ==== * Master of Engineering(M.Eng.):[[工学]]修士号 * Master of Physics(M.Phys.):[[物理学]]修士号 * Master of Chemistry(M.Chem.):[[化学]]修士号 * Master of Biochemistry(M.Biochem.):[[生物学]]修士号 * Master of Mathematics(M.Math.):[[数学]]修士号 * Master of Earth Sciences(M.EarthSc.):[[地球科学]]修士号 === 文学修士号 === * Master of Arts([[Master of Arts (Oxbridge)|M.A.]]):教養修士号 === 大学院学位 === ==== 学士号 ==== * Bachelor of Divinity(B.D.):神学士号 * Bachelor of Medicine & Bachelor of Surgery(B.M., B.Ch.):[[医学]]士号、[[外科学]]士号 * Bachelor of Civil Law(B.C.L.):民法学士号 * Bachelor of Letters(B.Litt.)(no longer awarded):文学士号 * Bachelor of Science(B.Sc.)(no longer awarded):科学士号 * Bachelor of Music(B.Mus.):[[音楽学]]士号 * Bachelor of Philosophy(B.Phil.)(only now awarded in Philosophy):[[哲学]]士号 ==== 修士号 ==== * Master of Surgery(M.Ch.)(10年):外科学修士号 * Master of Philosophy(M.Phil.):哲学修士号 * Master of Letters(M.Litt.):文学修士号 * Master of Science(M.Sc.)(awarded by examination or by research):理学修士号 * Magister Juris(M.Jur.):法学修士号 * Master of Studies(M.St.):学士号 * Master of Theology(M.Th.):神学士号 * Master of Business Administration(MBA):[[経営学修士]]([[サイード・ビジネス・スクール]]) * Master of Public Policy(MPP):[[公共政策学]]修士(ブラバトニック公共政策大学院) * Master of Education(M.Ed.):教育学修士号 ==== 博士号 ==== * Doctor of Divinity(D.D.):[[神学博士]] * Doctor of Civil Law(D.C.L.):[[民法学博士]] * Doctor of Medicine(D.M.):[[医学博士]] * Doctor of Letters(D.Litt.):[[文学博士]] * Doctor of Science(D.Sc.):[[理学博士]] * Doctor of Music(D.Mus.):[[音楽学博士]] * Doctor of Philosophy(D.Phil.):[[哲学博士]] * Doctor of Clinical Psychology(D.Clin.Psychol.):[[臨床心理学博士]] * Doctor of Engineering(Eng.D.):[[工学博士]] == 学生 == 受験に際しては、[[ケンブリッジ大学]]と同じで、通常の試験および面接による。特徴を挙げると、オックスフォードは人物評価点を重視、ケンブリッジ大学は客観入試点を重視するところに違いがあるといわれている。そのほか、入試期間が約2週間程度になる(アドミッションオフィス入試制)。 == スポーツ・サークル・伝統 == カレッジによっては通常の夕食の後で「フォーマル・ホール(Formal Hall)」と呼ばれる正装を必要とする晩餐を開催するなど、他の国々の大学制度とは異なったしきたりやルールが多数ある。 学部生、大学院生などそれぞれの立場によって着るべき黒の[[ガウン]]が決められており、各種式典やフォーマル・ホールなどの公式な場では身に着けることを要請されている。また、ライバル校、ケンブリッジにはないしきたりとして、試験を受ける際、白いシャツ、黒のズボンあるいはスカートに男性は[[ジャケット]]、その上からガウンを着る、いわゆる「サブファスク」を着るよう義務づけられていることが挙げられる。 == 教員およびおもな出身者 == {{see|オックスフォード大学の人物一覧}} == 関連書籍 == * [[オックスフォード英語辞典]] * [[オクスフォード英語語源辞典]] * [[オクスフォード・ビザンツ事典]] * [[オクスフォード世界宗教辞典]] * [[オクスフォード哲学辞典]] == 関連項目 == * [[ボドリアン図書館]] * [[ジョンロック講義]] * [[ラッセル・グループ]] * [[ロバート・グロステスト]] * [[ユダヤ学]] * [[アカデミックドレス]] * [[オックスフォードシューズ]] * [[オクスフォード式綴り]] * [[ローズ奨学制度]] * [[Social Science Japan Journal]] * [[サイード・ビジネス・スクール]] * [[ライオット・クラブ]] * [[ジェンナー研究所]] * [[ドオックスブリッジ]] * [[ラッセルグループ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|University of Oxford}} * [https://www.ox.ac.uk/ オックスフォード大学 公式サイト]{{en icon}} * [https://oxfordujapan.org/?lang=ja オックスフォード大学日本事務所]{{ja icon}} * [https://www.russellgroup.ac.uk/ Russell Group website]{{en icon}} {{coord|51|45|40|N|1|15|12|W|type:landmark_region:GB|display=title}} {{オックスフォード大学}} {{ラッセル・グループ}} {{コインブラ・グループ}} {{ヨーロッパ研究大学連盟}} {{国際研究型大学連合}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おつくすふおおと たいかく}} [[Category:オックスフォード大学|*]] [[Category:イングランドの大学]] [[Category:ラッセル・グループ]] [[Category:学校記事]]
2003-09-07T06:35:25Z
2023-09-30T23:03:12Z
false
false
false
[ "Template:コインブラ・グループ", "Template:Normdaten", "Template:Infobox University", "Template:Lang-en", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Ja icon", "Template:Notelist2", "Template:オックスフォード大学", "Template:Reflist", "Template:En icon", "Template:Coord", "Template:ラッセル・グループ", "Template:ヨーロッパ研究大学連盟", "Template:国際研究型大学連合", "Template:Interlang", "Template:Main", "Template:節スタブ", "Template:See", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6
15,521
ボランティア
ボランティア(英: volunteer)は、自らの意志により志願すること。特に日本語としてのボランティアは一般的に、公共性の高い社会への奉仕(チャリティー)に際して用いられることが多い。ただし「仕へ奉る」活動という字義や、また戦前の「勤労奉仕」のように過去には強制性を伴う活動で用いられた名称である歴史的背景があることから、自発性のみを意味するボランティアとは似ていても異なる点は注意を要する。従って、学校や企業が生徒や社員を動員して行う「ボランティア」は正確に言えば「社会奉仕活動」である。なお文部省の定めるボランティア活動の基本理念は、公共性、自発性、先駆性である。 世界でのボランティアは自発性のみを指す言葉である一方、日本国内でのカタカナ語用法では奉仕との混同からか完全な無償奉仕や費用の自己負担が必要と考える人も多い。そのため、対価や実費が出るボランティアは「有償ボランティア」などと区別される。 ラテン語動詞「volo(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の volunteer となった。英語の volunteer の語の原義は十字軍の際に「神の意思」(voluntas)に従うひとを意味した志願兵である。 現在でも「ボランティアをする(人)」は志願兵の意味で使用されており、徴集兵を意味する forced,drafts とは対義の関係にある。なお、古代ローマ帝国とカルタゴが戦ったポエニ戦争の際、名将ハンニバルに大敗した古代ローマ帝国が奴隷の身分から解放する制度を導入した際に志願した奴隷をvolo(ウォロ)、複数形ではvoluntrii(ウォルンタリー)と呼称した。 この点を考慮すると、ボランティアの「義勇兵」「志願兵」を意味する起源は、古代ローマ時代の「奴隷兵」にさかのぼれる。日本のボランティア活動においては、完全な自己負担もしくは交通費や食費や実費その他活動に必要な実経費のみを実費弁償する「無償ボランティア」、または実費弁償の範囲を超えて低額の報酬を受け取る「有償(非利益化)ボランティア」、完全な営利化を行っている「営利ボランティア」などの呼称例が存在する。 ハーバード大学によると、ボランティア活動は喜びを高めるのに有効であると推奨している者もいる。また、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の研究者は、ボランティア活動などの親社会的な活動は、魅力を高めるのに有効であると推奨している。超高齢社会に向かいつつある社会背景の中で、アメリカ合衆国では定年退職者や高齢者の社会参加の一環として、若者の開発途上国でのボランティアを平和部隊として組織した先例に倣って、高齢者が学校や障害者、引きこもりの児童などに社会的なボランティアを展開するのをアメリコー(AmeriCorps、アメリカ部隊)と名づけて、アメリカ合衆国連邦政府から経済支援を与えることにした。 アメリカ合衆国では、州によって高校生・大学生の時期に、5,000時間ほどボランティアに従事すると、就職のためのキャリア形成につながるというシステムがある。ボランティアを募集する機関と、ボランティアをしたことを認定する機関や認定資格者が制度的に確立し、一定の活動条件を満たした場合には本人にボランティア認定証が発行される。 ロシアで開催された2018 FIFAワールドカップのボランティアの活躍でロシアの印象が前後で一変したと評価されている。現地取材した記者は頼りになるボランティアスタッフの存在の大きさを指摘している。大学生を中心としたロシアのボランティアスタッフがスムーズな英語を話せたこと、スタジアムだけでなく駅や空港、繁華街などで積極的なサービスが印象的だったと述べている。 「ボランティア」「NPO」は、2002年1月18日に株式会社角川グループホールディングス(当時は、株式会社角川書店)が商標登録出願、2003年4月25日に登録されたが、2005年5月10日に商標登録を取消されている。2012年に厚生労働省が日本国内のボランティア活動者を対象として実施した調べでは、最大のボランティア人材源となっているのは主婦層および高齢者層である。 1995年の阪神・淡路大震災では、全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれる。震災が起きた1月17日を「防災とボランティアの日」としている。東日本大震災で罹災した男性が、恩返しとして災害ボランティア活動に参加するようになり、熊本地震・西日本豪雨・北海道胆振東部地震の復興に助力している。このように、被災した過去のある人々が恩返しとして、他の被災地でボランティア活動や支援活動に参加する動きが、日本に広がっている。ボランティアに関しては日本国内では「無償奉仕」の原則が諸外国とは違い定着し、特に災害ボランティアなどには、移動・食事・飲料・保険・事故等は自己責任とされ、ボランティア自体の「地位向上」がみられない。 兵庫県西宮市の今村岳司市議会議員(当時)は、阪神・淡路大震災での被災体験を振り返り「ボランティアは、被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、被災者が寝るべきところで寝(た)」と述べ、当時のボランティアのことを「観光気分で来た自分探し」「ただの野次馬観光客」「人から感謝されることを楽しみにやってきただけ」等とし、「要はプロに任せること」「被災地に必要なのは、プロだけで」あり、「部隊の指揮下で日本のために自分を犠牲にできる人だけが、「ボランティア=義勇兵」として現地入りすべき」だと述べた。 1948年にイギリスで開催されたロンドン五輪オリンピックがオリンピックボランティアの始まりである。2012年夏季ロンドンオリンピック・パラリンピックでは開催の2年前である2010年9月から募集が開始され、応募してきた24万人の中から書類選考などを経て最終選考に残った8万6000人に対して面接が行われ、その中から面接審査に合格した約7万人が参加している。ラフバラ大学Globalization and Sports修士の川部亮子はイギリス国内でスポーツに関連するボランティアのイメージが大会前より身近になったことを評価した一方で、審査に合格出来なかったために興味を持ってボランティアに応募したのに活かされなかった人々が沢山いたことを指摘している。 2000年夏季シドニーオリンピックでは5万人のボランティアが参加した。自らシドニーの事務局に自己アピールをしてボランティアに選ばれたというオーストラリア国外からのボランティア参加者も少なからずいたと報道されている。大学院在学中に日本から参加した女性はオリンピックボランティアについて非日常空間として、「学校に通ったり、仕事をしたりしている中では味わえない経験が出来た」「1カ月間お祭りをやっている空間に当事者の人としていられるのは、ものすごく刺激的な経験」と述べている。シドニーオリンピックのボランティアの年齢構成については大学生を中心に若年層とリタイア世代の高齢者が多かったと明かしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボランティア(英: volunteer)は、自らの意志により志願すること。特に日本語としてのボランティアは一般的に、公共性の高い社会への奉仕(チャリティー)に際して用いられることが多い。ただし「仕へ奉る」活動という字義や、また戦前の「勤労奉仕」のように過去には強制性を伴う活動で用いられた名称である歴史的背景があることから、自発性のみを意味するボランティアとは似ていても異なる点は注意を要する。従って、学校や企業が生徒や社員を動員して行う「ボランティア」は正確に言えば「社会奉仕活動」である。なお文部省の定めるボランティア活動の基本理念は、公共性、自発性、先駆性である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界でのボランティアは自発性のみを指す言葉である一方、日本国内でのカタカナ語用法では奉仕との混同からか完全な無償奉仕や費用の自己負担が必要と考える人も多い。そのため、対価や実費が出るボランティアは「有償ボランティア」などと区別される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ラテン語動詞「volo(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の volunteer となった。英語の volunteer の語の原義は十字軍の際に「神の意思」(voluntas)に従うひとを意味した志願兵である。", "title": "語源・原義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在でも「ボランティアをする(人)」は志願兵の意味で使用されており、徴集兵を意味する forced,drafts とは対義の関係にある。なお、古代ローマ帝国とカルタゴが戦ったポエニ戦争の際、名将ハンニバルに大敗した古代ローマ帝国が奴隷の身分から解放する制度を導入した際に志願した奴隷をvolo(ウォロ)、複数形ではvoluntrii(ウォルンタリー)と呼称した。", "title": "語源・原義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この点を考慮すると、ボランティアの「義勇兵」「志願兵」を意味する起源は、古代ローマ時代の「奴隷兵」にさかのぼれる。日本のボランティア活動においては、完全な自己負担もしくは交通費や食費や実費その他活動に必要な実経費のみを実費弁償する「無償ボランティア」、または実費弁償の範囲を超えて低額の報酬を受け取る「有償(非利益化)ボランティア」、完全な営利化を行っている「営利ボランティア」などの呼称例が存在する。", "title": "語源・原義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ハーバード大学によると、ボランティア活動は喜びを高めるのに有効であると推奨している者もいる。また、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の研究者は、ボランティア活動などの親社会的な活動は、魅力を高めるのに有効であると推奨している。超高齢社会に向かいつつある社会背景の中で、アメリカ合衆国では定年退職者や高齢者の社会参加の一環として、若者の開発途上国でのボランティアを平和部隊として組織した先例に倣って、高齢者が学校や障害者、引きこもりの児童などに社会的なボランティアを展開するのをアメリコー(AmeriCorps、アメリカ部隊)と名づけて、アメリカ合衆国連邦政府から経済支援を与えることにした。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、州によって高校生・大学生の時期に、5,000時間ほどボランティアに従事すると、就職のためのキャリア形成につながるというシステムがある。ボランティアを募集する機関と、ボランティアをしたことを認定する機関や認定資格者が制度的に確立し、一定の活動条件を満たした場合には本人にボランティア認定証が発行される。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ロシアで開催された2018 FIFAワールドカップのボランティアの活躍でロシアの印象が前後で一変したと評価されている。現地取材した記者は頼りになるボランティアスタッフの存在の大きさを指摘している。大学生を中心としたロシアのボランティアスタッフがスムーズな英語を話せたこと、スタジアムだけでなく駅や空港、繁華街などで積極的なサービスが印象的だったと述べている。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「ボランティア」「NPO」は、2002年1月18日に株式会社角川グループホールディングス(当時は、株式会社角川書店)が商標登録出願、2003年4月25日に登録されたが、2005年5月10日に商標登録を取消されている。2012年に厚生労働省が日本国内のボランティア活動者を対象として実施した調べでは、最大のボランティア人材源となっているのは主婦層および高齢者層である。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1995年の阪神・淡路大震災では、全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれる。震災が起きた1月17日を「防災とボランティアの日」としている。東日本大震災で罹災した男性が、恩返しとして災害ボランティア活動に参加するようになり、熊本地震・西日本豪雨・北海道胆振東部地震の復興に助力している。このように、被災した過去のある人々が恩返しとして、他の被災地でボランティア活動や支援活動に参加する動きが、日本に広がっている。ボランティアに関しては日本国内では「無償奉仕」の原則が諸外国とは違い定着し、特に災害ボランティアなどには、移動・食事・飲料・保険・事故等は自己責任とされ、ボランティア自体の「地位向上」がみられない。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "兵庫県西宮市の今村岳司市議会議員(当時)は、阪神・淡路大震災での被災体験を振り返り「ボランティアは、被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、被災者が寝るべきところで寝(た)」と述べ、当時のボランティアのことを「観光気分で来た自分探し」「ただの野次馬観光客」「人から感謝されることを楽しみにやってきただけ」等とし、「要はプロに任せること」「被災地に必要なのは、プロだけで」あり、「部隊の指揮下で日本のために自分を犠牲にできる人だけが、「ボランティア=義勇兵」として現地入りすべき」だと述べた。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1948年にイギリスで開催されたロンドン五輪オリンピックがオリンピックボランティアの始まりである。2012年夏季ロンドンオリンピック・パラリンピックでは開催の2年前である2010年9月から募集が開始され、応募してきた24万人の中から書類選考などを経て最終選考に残った8万6000人に対して面接が行われ、その中から面接審査に合格した約7万人が参加している。ラフバラ大学Globalization and Sports修士の川部亮子はイギリス国内でスポーツに関連するボランティアのイメージが大会前より身近になったことを評価した一方で、審査に合格出来なかったために興味を持ってボランティアに応募したのに活かされなかった人々が沢山いたことを指摘している。", "title": "世界各国のボランティア" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2000年夏季シドニーオリンピックでは5万人のボランティアが参加した。自らシドニーの事務局に自己アピールをしてボランティアに選ばれたというオーストラリア国外からのボランティア参加者も少なからずいたと報道されている。大学院在学中に日本から参加した女性はオリンピックボランティアについて非日常空間として、「学校に通ったり、仕事をしたりしている中では味わえない経験が出来た」「1カ月間お祭りをやっている空間に当事者の人としていられるのは、ものすごく刺激的な経験」と述べている。シドニーオリンピックのボランティアの年齢構成については大学生を中心に若年層とリタイア世代の高齢者が多かったと明かしている。", "title": "世界各国のボランティア" } ]
ボランティアは、自らの意志により志願すること。特に日本語としてのボランティアは一般的に、公共性の高い社会への奉仕(チャリティー)に際して用いられることが多い。ただし「仕へ奉る」活動という字義や、また戦前の「勤労奉仕」のように過去には強制性を伴う活動で用いられた名称である歴史的背景があることから、自発性のみを意味するボランティアとは似ていても異なる点は注意を要する。従って、学校や企業が生徒や社員を動員して行う「ボランティア」は正確に言えば「社会奉仕活動」である。なお文部省の定めるボランティア活動の基本理念は、公共性、自発性、先駆性である。 世界でのボランティアは自発性のみを指す言葉である一方、日本国内でのカタカナ語用法では奉仕との混同からか完全な無償奉仕や費用の自己負担が必要と考える人も多い。そのため、対価や実費が出るボランティアは「有償ボランティア」などと区別される。
{{複数の問題 |出典の明記=2018年8月 |独自研究=2018年8月}} [[ファイル:PrestigeVolunteersInGaliciaCoast.jpg|thumb|[[石油流出]]事故で汚染された海岸の清掃ボランティア]] [[ファイル:Political volunteers.jpg|right|thumb|[[選挙運動]]のボランティア]] [[ファイル:Heavy rain disaster in Hiroshima-20140823 162612.jpg|thumb|ボランティアによる[[災害]]現場での土砂除去]] '''ボランティア'''({{Lang-en-short|volunteer}})は、自らの意志により志願すること。特に[[日本語]]としてのボランティアは一般的に、[[公共]]性の高い[[社会]]への[[奉仕]]([[チャリティー]])に際して用いられることが多い。ただし「仕へ奉る」活動という字義や、また[[戦前]]の「[[国民勤労報国協力令|勤労奉仕]]」のように過去には強制性を伴う活動で用いられた名称である歴史的背景があることから、自発性のみを意味するボランティアとは似ていても異なる点は注意を要する<ref>{{Cite book|title=ボランティアコーディネーション力・第2版|url=https://www.worldcat.org/oclc/982489893|publisher=中央法規出版|date=2017|location=Tōkyō|isbn=978-4-8058-5493-8|oclc=|others=筒井のり子|last=早瀬 昇|last2=|year=2017}}</ref>。従って、学校や企業が生徒や社員を[[動員]]して行う「ボランティア」は正確に言えば「社会奉仕活動」である。なお[[文部省]]の定めるボランティア活動の基本理念は、公共性、自発性、先駆性である<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19920803001/t19920803001.html |title=生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」の送付について |publisher=文部科学省 |accessdate=2018-08-22}}</ref>。 {{See also|[[奉仕]]|[[チャリティー]]}} 世界でのボランティアは自発性のみを指す言葉である一方、日本国内での[[カタカナ語]]用法では奉仕との混同からか、完全な無償奉仕や費用の自己負担が必要と考える者も多い{{refnest|group=注|ボランティアであっても法的責任は問われる<ref>{{Cite journal|和書|author=有住淑子|title=ボランティア活動と法的責任|url=https://blog.canpan.info/kurara_info/img/18/yj22114.pdf|date=2005-04|publisher=日本損害保険協会|journal=予防時報|issue=221|format=PDF|naid=40006710734|pages=14-19}}</ref>。}}。そのため、対価や実費が出るボランティアは「有償ボランティア」などと区別される。 == 語源・原義 == [[ラテン語]]動詞「{{la|volo}}(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の {{en|volunteer}} となった<ref>「ボランティア」の源流は聖書が起点である―『石巻かほく』つつじ野 (2017年11月21日付)</ref><ref> {{cite speech | title =「キリスト教とボランティア道」 ―水平の<運動>から,垂直の<活動>に― | author = 岩村義雄| date =2016-05-01 | location = 東京大学本郷キャンパス | url = http://kicc.sub.jp/wp-content/uploads/2016/05/33ddbe942723595e25a1137ecc35bf3c.pdf | accessdate = 2018-06-30 |ref="岩村20160501"}}</ref>。英語の {{en|volunteer}} の語の原義は[[十字軍]]の際に「神の意思」({{en|voluntas}})に従うひとを意味した<ref>八木雄二『神を哲学した中世』新潮選書、p.71。</ref>[[志願制度|志願兵]]である。 現在でも「ボランティアをする(人)」は[[志願兵]]の意味で使用されており、[[徴兵制度|徴集兵]]を意味する {{en|forced}},{{en|drafts}} とは対義の関係にある。なお、[[古代ローマ帝国]]と[[カルタゴ]]が戦った[[ポエニ戦争]]の際、名将[[ハンニバル]]に大敗した古代ローマ帝国が[[奴隷]]の身分から解放する制度を導入した際に志願した奴隷を volo(ウォロ)、複数形ではvoluntrii(ウォルンタリー)と呼称した<ref>{{Cite journal|和書|author=池田浩士|year=|date=2019-5-20|title=『ボランティアとファシズム』|url=http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b451495.html|journal=|volume=|issue=|page=176|pages=|doi=|issn=}}</ref>。 この点を考慮すると、ボランティアの「[[義勇兵]]」「志願兵」を意味する起源は、古代ローマ時代の「奴隷兵」にさかのぼれる。日本のボランティア活動においては、完全な自己負担もしくは交通費や食費や実費その他活動に必要な実経費のみを実費弁償する「無償ボランティア」、または実費弁償の範囲を超えて低額の[[報酬]]を受け取る「有償(非利益化)ボランティア」、完全な[[営利]]化を行っている「営利ボランティア」などの呼称例が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/12/dl/s1203-5e_0001.pdf|title=ボランティアについて|accessdate=2018-08-22|date=|format=PDF|publisher=厚生労働省 社会・援護局 地域福祉課}}</ref>。 == 世界各国のボランティア == === 米国 === [[ファイル:HandsOnMiamiVolunteersZooMiami.jpg|thumb|right|米国での動物園ボランティア]] [[ハーバード大学]]によると、ボランティア活動は喜びを高めるのに有効であると推奨している者もいる<ref>{{Cite web |title=How can you find joy (or at least peace) during difficult times? |url=https://www.health.harvard.edu/blog/how-can-you-find-joy-or-at-least-peace-during-difficult-times-202210062826 |website=Harvard Health |date=2022-10-17 |access-date=2022-12-23 |language=en |first=Stephanie Collier, MD |last=MPH}}</ref>。また、[[ノースカロライナ大学チャペルヒル校]]の研究者は、ボランティア活動などの親社会的な活動は、魅力を高めるのに有効であると推奨している<ref>{{Cite web|和書|title=https://www.coursera.org/lecture/popularity/what-functions-of-aggression-are-related-to-popularity-and-rejection-SanVs |url=https://www.coursera.org/lecture/popularity/what-functions-of-aggression-are-related-to-popularity-and-rejection-SanVs |website=Coursera |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref>。[[高齢化社会|超高齢社会]]に向かいつつある社会背景の中で、[[アメリカ合衆国]]では[[定年]]退職者や高齢者の社会参加の一環として、[[若者]]の[[開発途上国]]でのボランティアを[[平和部隊]]として組織した先例に倣って、高齢者が学校や障害者、引きこもりの児童などに社会的なボランティアを展開するのをアメリコー(''AmeriCorps''、アメリカ部隊)と名づけて、[[アメリカ合衆国連邦政府]]から経済支援を与えることにした。 アメリカ合衆国では、州によって高校生・大学生の時期に、5,000時間ほどボランティアに従事すると、就職のための[[キャリア形成]]につながるというシステムがある。ボランティアを募集する機関と、ボランティアをしたことを認定する機関や認定資格者が制度的に確立し、一定の活動条件を満たした場合には本人にボランティア認定証が発行される。 === ロシア === [[ロシア]]で開催された[[2018 FIFAワールドカップ]]のボランティアの活躍でロシアの印象が前後で一変したと評価されている。現地取材した記者は頼りになるボランティアスタッフの存在の大きさを指摘している。大学生を中心としたロシアのボランティアスタッフがスムーズな英語を話せたこと、[[スタジアム]]だけでなく[[鉄道駅]]や[[空港]]、[[繁華街]]などでの積極的な[[サービス]]が印象的だったと述べている<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180723-00000072-sasahi-socc W杯前後で印象が一変、現地取材記者が経験したロシアのおもてなし]</ref>。 === 日本 === 「ボランティア」「[[NPO]]」は、[[2002年]][[1月18日]]に[[株式会社]][[角川グループホールディングス]](当時は、株式会社[[角川書店]])が[[商標]]登録出願、[[2003年]][[4月25日]]に登録されたが、[[2005年]][[5月10日]]に商標登録を取消されている。2012年に[[厚生労働省]]が日本国内のボランティア活動者を対象として実施した調べでは、最大のボランティア人材源となっているのは主婦層および高齢者層である<ref>[https://www8.cao.go.jp/kourei/kenkyu/19html/honbunhu3.html 付属資料4. 高齢者の社会参画についての企業やNPO等の実態に関する既存調査一覧] 内閣府共生社会政策統括官</ref>。 [[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]では、全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「[[ボランティア元年]]」とも呼ばれる。震災が起きた[[1月17日]]を「[[防災とボランティアの日]]」としている。[[東日本大震災]]で罹災した男性が、[[恩]]返しとして災害ボランティア活動に参加するようになり、[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]・[[平成30年7月豪雨|西日本豪雨]]・[[北海道胆振東部地震]]の復興に助力している。このように、被災した過去のある人々が[[恩]]返しとして、他の被災地でボランティア活動や支援活動に参加する動きが、日本に広がっている<ref>{{Cite news|title=泥かきやごみ撤去に汗 被災地でボランティア活動本格化|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33010840U8A710C1AC1000/|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=日本経済新聞 電子版}}</ref><ref>{{Cite news|title=茨城・常総から真備へ「恩返し」 15年被災時にボランティア支援|url=http://www.sanyonews.jp/article/753288/1/|accessdate=2018-09-16|language=ja|work=山陽新聞デジタル|さんデジ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201807/0011479567.shtml|title=神戸新聞NEXT|総合|「9年前の恩返し」 佐用町民、豪雨被災地に支援のタオル|accessdate=2018-09-16|website=www.kobe-np.co.jp|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=東北や神戸から真備へ「恩返し」 ボランティア2千人が復旧支援|url=http://www.sanyonews.jp/article/751673|accessdate=2018-09-16|language=ja|work=山陽新聞デジタル|さんデジ}}</ref><ref>{{Cite news|title=西日本豪雨:「困った時はお互い様」恩返しのボランティア - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180730/k00/00e/040/219000c|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite news|title=西日本豪雨:被災地へ「恩返し」 住宅無償貸与など 県内で支援広がる /栃木 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180712/ddl/k09/040/207000c|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite news|title=「大雪の恩返しを」豪雨被災地へ 舞鶴市に福井県からボランティア {{!}} 社会 {{!}} 福井のニュース {{!}} 福井新聞ONLINE|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/620935|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=福井新聞ONLINE}}</ref><ref>{{Cite news|title=<西日本豪雨>宮城からも続々とボランティア 汗だくで作業、思いは一つ「震災支援の恩返しを」|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180724_13015.html|accessdate=2018-09-16|language=ja|work=河北新報オンラインニュース}}</ref><ref>{{Cite news|title=梅パワー届け 恩返し|date=2018-09-13|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/news/20180913-OYTNT50123.html|accessdate=2018-09-16|language=ja|work=YOMIURI ONLINE(読売新聞)}}</ref><ref>{{Cite news|title=3連休でボランティア続々 北海道地震の被災地|url=https://www.47news.jp/news/2769138.html|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=47NEWS}}</ref><ref>{{Cite news|title=被災地でボランティア“始動” 広がる“支援の輪” - FNN.jpプライムオンライン|url=https://www.fnn.jp/posts/00400674CX|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=FNN.jpプライムオンライン}}</ref><ref>{{Cite news|title=北海道地震:宮城から80歳の恩返し ボランティア続々と - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180916/k00/00m/040/090000c|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite news|title=【北海道震度7地震】列なすボランティア希望者 冷え込む中、被災者の力に|date=2018-09-12|last=INC.|first=SANKEI DIGITAL|url=https://www.sankei.com/affairs/news/180912/afr1809120005-n1.html|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=産経ニュース}}</ref><ref>{{Cite news|title=受けた恩、他の被災地へ 愛媛県にボラバス運行、土のう袋寄付 - 大分のニュースなら 大分合同新聞プレミアムオンライン Gate|url=https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2018/09/13/JD0057308948|accessdate=2018-09-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=西日本豪雨:熊本地震で被災のボランティア、汗ぬぐって恩返し - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180715/ddm/041/040/052000c|accessdate=2018-09-16|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref>。ボランティアに関しては日本国内では「無償奉仕」の原則が諸外国とは違い定着し、特に災害ボランティアなどには、移動・食事・飲料・保険・事故等は[[責任#自己責任|自己責任]]とされ、ボランティア自体の「地位向上」がみられない。 {| class="wikitable" |+災害ボランティアの概数<ref>「惨禍語り継ぐ 阪神大震災20年=下=」2015年1月15日、日本経済新聞朝刊39面。</ref> |- !災害 !人数 !集計期間 |- |[[阪神・淡路大震災|阪神淡路大震災]] |138万人 |1995年1月 - 1996年1月 |- |[[新潟県中越地震]] |{{00}}8万人 |2004年10月23日 - 2005年3月31日 |- |[[新潟県中越沖地震]] |{{00}}3万人 |2007年7月 - 12月 |- |[[東日本大震災]] |102万人 |2011年3月 - 12年3月 |- |[[平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害|広島土砂災害]] |{{00}}4万人 |2014年8月 - 12月 |} ==== 観光客的ボランティアへの批判 ==== [[兵庫県]][[西宮市]]の[[今村岳司]]市議会議員(当時)は、阪神・淡路大震災での被災体験を振り返り「ボランティアは、被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、被災者が寝るべきところで寝(た)」と述べ、当時のボランティアのことを「[[観光]]気分で来た[[自分探し]]」「ただの[[野次馬]]観光客」「人から感謝されることを楽しみにやってきただけ」等とし、「要は[[プロ]]に任せること」「被災地に必要なのは、プロだけ」であり<ref>{{Cite web|和書|title=あの恐怖と屈辱は、記憶よりさらに奥に刻みつけられてしまっている。 |url=http://xdl.jp/diary/?date=20110313 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110313235550/http://xdl.jp/diary/?date=20110313 |archiveservice=Internet Archive |archivedate=2011-3-13 |deadlinkdate=2019-1-12 }}</ref>、「部隊の指揮下で日本のために自分を犠牲にできる人だけが、「ボランティア=義勇兵」として現地入りすべき」だと述べた<ref>{{Cite web|和書|title=それでもなにかできることを。~昨日の続編 |url=http://xdl.jp/diary/?date=20110314 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110321205335/http://xdl.jp/diary/?date=20110314 |archiveservice=Internet Archive |archivedate=2011-3-21 |deadlinkdate=2019-1-12 }}</ref>。 === イギリス === [[1948年]]にイギリスで開催された[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]がオリンピックボランティアの始まりである<ref name=":2">{{Cite news|title=世界の人々を迎える五輪ボランティアの仕事とは|url=https://news.nicovideo.jp/watch/nw792988|accessdate=2018-09-15|language=ja|work=ニコニコニュース}}</ref>。[[2012年ロンドンオリンピック|2012年夏季ロンドンオリンピック・パラリンピック]]では開催の2年前である2010年9月から募集が開始され、応募してきた24万人の中から書類選考などを経て最終選考に残った8万6000人に対して面接が行われ、その中から審査に合格した約7万人が参加している<ref name=":2" /><ref name=":3">{{Cite news|title=五輪ボランティアスタッフに学ぶ、従業員満足度と顧客満足度の連係。(葛山智子)|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/545535|accessdate=2018-09-15|language=ja-JP|work=Number Web - ナンバー}}</ref>。ラフバラ大学 Globalization and Sports 修士の川部亮子はイギリス国内でスポーツに関連するボランティアのイメージが大会前より身近になったことを評価した一方で、興味を持ってボランティアに応募したのに、審査に合格出来なかったために活かされなかった人々が沢山いたことを指摘している<ref>{{Cite news|author=若松千枝加|title=五輪ボランティア経験のキャリアへの活かし方・2012ロンドン大会に学ぶ。~若松千枝加(留学プレス編集長)|date=2021-01-29|url=https://www.ryugakupress.com/tokyo2020-4/|accessdate=2018-09-15|language=ja|work=留学プレス(PRESS){{!}}留学・旅・グローバル教育のニュースサイト}}</ref>。 === オーストラリア === [[2000年シドニーオリンピック|2000年夏季シドニーオリンピック]]では5万人のボランティアが参加した。自らシドニーの事務局に自己アピールをしてボランティアに選ばれたというオーストラリア国外からのボランティア参加者も少なからずいたと報道されている<ref name=":3" />。大学院在学中に日本から参加した女性はオリンピックボランティアについて非日常空間として、「学校に通ったり、仕事をしたりしている中では味わえない経験が出来た」「1カ月間お祭りをやっている空間に当事者の人としていられるのは、ものすごく刺激的な経験」と述べている。シドニーオリンピックのボランティアの年齢構成については大学生を中心に若年層とリタイア世代の高齢者が多かったと明かしている<ref>{{Cite news|title=ボランティア体験記 〜ボランティア経験者にインタビュー〜 第1回 {{!}} 東京ボランティアナビ―東京2020大会に向けたボランティアウェブサイト―|url=http://www.city-volunteer.metro.tokyo.jp/jp/about/interview/experience/index.html|accessdate=2018-09-15|language=ja|work=東京ボランティアナビ―東京2020大会に向けたボランティアウェブサイト―}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 田尾雅夫・川野祐二『ボランティア・NPOの組織論』学陽書房、2005年、ISBN 4-313-81508-2。 * {{Cite book|和書| author = マルフリート-マリー・ホファート著 | year = 2002-10 | title = 世界のボランティア事情各国の歴史と実例 | publisher = アルク出版}} * {{Cite book|和書 | author = IAVE | year = 2007 | title = 第11回IAVEアジア太平洋地域ボランティア会議 2007年会議報告書 | edition = | publisher = IAVE | id = }} * 加藤基樹編『0泊3日の支援からの出発 早稲田大学ボランティアセンター・学生による復興支援活動』早稲田大学出版部(早稲田大学ブックレット<「震災後」に考える>)、2011年、ISBN 978-4-657-11309-2。 == 関連項目 == * [[学校支援ボランティア]] * [[災害ボランティア]] * [[バーチャル・ボランティア]] * [[プールボランティア]] * [[プロボノ]] * [[チャリティー]] * [[近代オリンピック]] * [[国際ボランティア学会]] * [[国際ボランティア・デー]] * [[特定非営利活動法人]] * [[無給労働]] * [[やりがい搾取]] * [[年俸1ドル]] == 外部リンク == * [https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/volunteer/ ボランティア活動] 厚生労働省 * [https://www.zcwvc.net/ 地域福祉・ボランティア 情報ネットワーク] 全国社会福祉協議会 * {{Kotobank}} {{チャリティー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほらんていあ}} [[Category:ボランティア|*]] [[Category:ワーク]] [[Category:ラテン語からの借用語]] [[Category:英語の語句]] [[Category:自由意志]]
2003-09-07T06:35:46Z
2023-11-23T22:16:33Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:La", "Template:Reflist", "Template:Cite speech", "Template:Cite news", "Template:Normdaten", "Template:See also", "Template:00", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:チャリティー", "Template:En", "Template:Cite web", "Template:複数の問題", "Template:Refnest", "Template:Cite journal" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
15,523
旧世界
旧世界(きゅうせかい)は、アフロ・ユーラシア大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ)及びこれらの周辺島嶼部を指す名称として使われる。旧大陸(きゅうたいりく)ともいう。 クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見以前にヨーロッパの人々に存在が知られていた地域のことで、アメリカ大陸およびその後に発見されたオーストラリア大陸のことを新世界(新大陸)と総称したのに対する呼称である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "旧世界(きゅうせかい)は、アフロ・ユーラシア大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ)及びこれらの周辺島嶼部を指す名称として使われる。旧大陸(きゅうたいりく)ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見以前にヨーロッパの人々に存在が知られていた地域のことで、アメリカ大陸およびその後に発見されたオーストラリア大陸のことを新世界(新大陸)と総称したのに対する呼称である。", "title": null } ]
旧世界(きゅうせかい)は、アフロ・ユーラシア大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ)及びこれらの周辺島嶼部を指す名称として使われる。旧大陸(きゅうたいりく)ともいう。 クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見以前にヨーロッパの人々に存在が知られていた地域のことで、アメリカ大陸およびその後に発見されたオーストラリア大陸のことを新世界(新大陸)と総称したのに対する呼称である。
[[File:LocationAfricaEurasia.png|thumb|{{leftlegend|#23600F|旧世界|outline=white}} ]] [[File:Ptolemy World Map.jpg|thumb|[[15世紀]]に描かれた[[プトレマイオス図]]の[[コピー]]]] '''旧世界'''(きゅうせかい)は、[[アフロ・ユーラシア大陸]]([[ヨーロッパ]]・[[アジア]]・[[アフリカ]])及びこれらの周辺島嶼部を指す名称として使われる{{sfn|全国歴史教育研究協議会|2006|p=1}}。'''旧大陸'''(きゅうたいりく)ともいう{{sfn|全国歴史教育研究協議会|2006|p=1}}。 [[クリストファー・コロンブス]]による[[アメリカ大陸]]の[[アメリカ大陸の発見|発見]]以前に[[ヨーロッパ]]の人々に存在が知られていた地域のことで、アメリカ大陸およびその後に発見された[[オーストラリア大陸]]のことを[[新世界]](新大陸)と総称したのに対する呼称である{{sfn|全国歴史教育研究協議会|2006|p=1}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author= 全国歴史教育研究協議会 |authorlink= 全国歴史教育研究協議会 |year=2008 |title=世界史B用語集 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-03302-3}} {{DEFAULTSORT:きゆうせかい}} [[Category:大航海時代]] [[Category:大陸]] [[Category:国家の分類]] [[Category:人文地理学]] [[Category:レトロニム]] {{history-stub|きゆうせかい}}
2003-09-07T06:38:31Z
2023-08-07T16:55:59Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:History-stub", "Template:Leftlegend", "Template:Sfn", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E4%B8%96%E7%95%8C
15,524
新世界
新世界(しんせかい、New World)あるいは新大陸(しんたいりく、New Continent)とは、大航海時代に欧州人が新たに発見した土地に対する呼称である。 しばしば南北アメリカとその近隣の島々(太平洋諸島)を集合的に表すものとして用いられるが、広くはオーストラリア大陸とその周辺諸島をも含み称せられる。これらの地域が発見される以前の欧州では、世界が欧州、アジア、アフリカ、すなわち「旧世界」からのみ形成されると考えられていた。つまり、旧世界から隔絶した世界であったので、新世界と呼ばれる。 キリスト教社会が形成されるより前の時代に移住し、そのまま定住した民族が独自の文化を形成していた地域も多く、かつては文化の類似性により、現在ではそれに加えて遺伝子の共通性によって、遠く離れた地域に住む民族が同一の祖先を持つと推測されることがある。 今日、これらの諸地域では、西欧の言語である英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語が話されており、西欧人の子孫が支配権を維持する社会が形成されている。 生物学の世界では、しばしば南北アメリカ大陸と同様の生物相を持つ地域を「新世界」と称し(新世界ザルなど)、今日の生物地理区では「新北区」及び「新熱帯区」に区分されている。また、オーストラリア大陸や太平洋諸島と同様の生物相を持つ地域は「オーストラリア区」および「オセアニア区」に区分される。生物相の違いは、地学分野のプレートテクトニクス理論においても、海進、海退や大陸分断の状況を判断する資料のひとつとして用いられる。 ワインにおける新世界ワイン(英語版)あるいはニューワールドワインとは、大航海時代以降にヨーロッパから製法が伝えられた地域で生産されるワインを指す。すなわち、南北アメリカとオセアニアに加え、地理上は旧世界に属する南アフリカや日本で生産されるワインも含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新世界(しんせかい、New World)あるいは新大陸(しんたいりく、New Continent)とは、大航海時代に欧州人が新たに発見した土地に対する呼称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "しばしば南北アメリカとその近隣の島々(太平洋諸島)を集合的に表すものとして用いられるが、広くはオーストラリア大陸とその周辺諸島をも含み称せられる。これらの地域が発見される以前の欧州では、世界が欧州、アジア、アフリカ、すなわち「旧世界」からのみ形成されると考えられていた。つまり、旧世界から隔絶した世界であったので、新世界と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "キリスト教社会が形成されるより前の時代に移住し、そのまま定住した民族が独自の文化を形成していた地域も多く、かつては文化の類似性により、現在ではそれに加えて遺伝子の共通性によって、遠く離れた地域に住む民族が同一の祖先を持つと推測されることがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "今日、これらの諸地域では、西欧の言語である英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語が話されており、西欧人の子孫が支配権を維持する社会が形成されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "生物学の世界では、しばしば南北アメリカ大陸と同様の生物相を持つ地域を「新世界」と称し(新世界ザルなど)、今日の生物地理区では「新北区」及び「新熱帯区」に区分されている。また、オーストラリア大陸や太平洋諸島と同様の生物相を持つ地域は「オーストラリア区」および「オセアニア区」に区分される。生物相の違いは、地学分野のプレートテクトニクス理論においても、海進、海退や大陸分断の状況を判断する資料のひとつとして用いられる。", "title": "生物学" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ワインにおける新世界ワイン(英語版)あるいはニューワールドワインとは、大航海時代以降にヨーロッパから製法が伝えられた地域で生産されるワインを指す。すなわち、南北アメリカとオセアニアに加え、地理上は旧世界に属する南アフリカや日本で生産されるワインも含む。", "title": "ワイン" } ]
新世界あるいは新大陸とは、大航海時代に欧州人が新たに発見した土地に対する呼称である。 しばしば南北アメリカとその近隣の島々(太平洋諸島)を集合的に表すものとして用いられるが、広くはオーストラリア大陸とその周辺諸島をも含み称せられる。これらの地域が発見される以前の欧州では、世界が欧州、アジア、アフリカ、すなわち「旧世界」からのみ形成されると考えられていた。つまり、旧世界から隔絶した世界であったので、新世界と呼ばれる。
{{Otheruses2|地理用語|その他|新世界 (曖昧さ回避)|ニュー・ワールド}} {{出典の明記|date=2017年9月}} [[ファイル:OldNewWorld v2.png|400px|thumb|緑の地域(南北[[アメリカ大陸]]や[[オセアニア]]周辺)が[[大航海時代]]の新世界]] <!-- この上二行あける --> '''新世界'''(しんせかい、New World)あるいは'''新大陸'''(しんたいりく、New Continent)とは、[[大航海時代]]に[[ヨーロッパ|欧州人]]が新たに[[発見]]した[[土地]]に対する呼称である。 しばしば[[アメリカ州|南北アメリカ]]とその近隣の[[島|島々]]([[太平洋諸島]])を集合的に表すものとして用いられるが、広くは[[オーストラリア大陸]]とその周辺[[諸島]]をも含み称せられる。これらの地域が発見される以前の欧州では、世界が欧州、[[アジア]]、[[アフリカ]]、すなわち「[[旧世界]]」からのみ形成されると考えられていた。つまり、旧世界から隔絶した世界であったので、新世界と呼ばれる。 == 歴史 == [[キリスト教]]社会が形成されるより前の時代に移住し、そのまま定住した[[民族]]が独自の[[文化]]を形成していた地域も多く、かつては文化の類似性により、現在ではそれに加えて[[遺伝子]]の共通性によって、遠く離れた地域に住む民族が同一の[[祖先]]を持つと推測されることがある。 今日、これらの諸地域では、[[西ヨーロッパ|西欧]]の言語である[[英語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[オランダ語]]が話されており、西欧人の子孫が[[支配]]権を維持する社会が形成されている。 == 生物学 == [[生物学]]の世界では、しばしば南北アメリカ大陸と同様の[[生物相]]を持つ地域を「新世界」と称し([[広鼻下目|新世界ザル]]など)、今日の[[生物地理区]]では「[[新北区]]」及び「[[新熱帯区]]」に区分されている。また、オーストラリア大陸や太平洋諸島と同様の生物相を持つ地域は「[[オーストラリア区]]」および「[[オセアニア区]]」に区分される。生物相の違いは、[[地球科学|地学]]分野の[[プレートテクトニクス]]理論においても、[[隆起と沈降|海進、海退]]や大陸分断の状況を判断する資料のひとつとして用いられる。 [[クリストファー・コロンブス]]がアメリカ大陸へ到達してから、植物や生物の流出入があり、生態系に変化がおきた。これは[[コロンブス交換]]と呼ばれる。 == ワイン == [[ワイン]]における{{仮リンク|新世界ワイン|en|New World wine}}あるいはニューワールドワインとは、[[大航海時代]]以降に[[ヨーロッパ]]から製法が伝えられた地域で生産されるワインを指す。すなわち、南北アメリカとオセアニアに加え、地理上は旧世界に属する[[南アフリカ]]や[[日本]]で生産されるワインも含む<ref>[https://www.sapporobeer.jp/wine/wine_opener/article/wine_new_world/ 新世界ワインとは?ワイン初心者向けに新世界ワインを徹底解説] サッポロビール(2018年2月1日)</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アメリカ大陸の発見]] * [[メソアメリカ]] * [[アステカ帝国]] * [[インカ帝国]] * [[ミシシッピ文化]] * [[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲「新世界より」]] * [[コロンブス交換]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{デフォルトソート:しんせかい}} [[Category:大航海時代]] [[Category:大陸]] [[Category:国家の分類]] [[Category:生物学]]
2003-09-07T06:41:46Z
2023-11-12T02:44:43Z
false
false
false
[ "Template:Kotobank", "Template:Otheruses2", "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
15,525
ウマイヤ朝
ウマイヤ朝(ウマイヤちょう、アラビア語: الدولة الأموية、al-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。 カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。 656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。 ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。 ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。680年10月10日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。 ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。シリア駐屯軍は彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した。これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。 第二次内乱中の685年にはシーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームでありマフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。 ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った。また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。 第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。 694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた。 アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた。征服戦争は彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破ってブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。 この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた。 これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。 また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した。 ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた 第10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。 また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。 744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。 680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシム(英語版)がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマド(英語版)に伝えられたと主張するグループが登場した。 アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイー(英語版)は、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した。 749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い(英語版))。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。750年8月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。 ウマイヤ朝によって、カリフ制度は王朝的支配の原理として確立された。ウマイヤ朝においてカリフ位はウマイヤ家の一族によって占められ、なおかつ14人のカリフのうちムアーウィヤを含めた4人は子にカリフ位を譲った。後に発展したスンナ派の政治理論では、正統カリフ時代は共同体による選出と統治委任の誓いによって統治に正統性が生じていたとされており、ウマイヤ朝はこの理論から逸脱している。しかし、嶋田 (1977)は、アラビアでは家長の地位が父から子に伝えられた事例は多く、カリフの父子継承は、ウマイヤ家の家長としての地位を譲ることを国家制度の領域にまで拡大させたことであるとしている。 ウマイヤ朝のカリフは全員がウマイヤ家の一族だが、最初の3代のカリフと残りの11代のカリフはウマイヤ家の中の異なる家系に属している。ムアーウィヤから第3代カリフであるムアーウィヤ2世まではムアーウィヤの父であるアブー・スフヤーンにちなんでスフヤーン家と呼ばれ、第4代カリフであるマルワーン1世以降のカリフは全員が彼の子孫であるため、マルワーン家と呼ばれた。 正統カリフであったアブー・バクルやウマルは重要な意思決定の際にムハージルーンの長老らに意見を求めていた。この一種の合議制はマディーナ時代には有効に作用したものの、ムアーウィヤはダマスクスに都を置いたため、ムハージルーンの意見が政策に反映されることはなくなり、カリフが自ら政策を決定できるようになった。 カリフの私的な諮問機関としてアラブ有力部族の族長会議であるシューラーと代表者会議であるウフードが設けられ、必要に応じて招集されたが、これは説得と同意を取り付ける場に過ぎなかった。これはムアーウィヤとヤズィード1世の時代において有効に機能したと言われる。 正統カリフ時代には行政官庁に当たるものはウマルが創設した、ムカーティラ(兵士)の登録と俸給の支払いを司るディーワーンがあるのみだったが、ウマイヤ朝初代カリフであるムアーウィヤは、これをディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)と改名したうえで、租税の徴収を司るディーワーン・アル=ハラージュ(租税庁)や、カリフの書簡を作成するディーワーン・アッ=ラサーイル(文書庁)、それを保管するディーワーン・アル=ハータム(印璽庁)を設立した。これらのうち、ディーワーン・アル=ジュンドとディーワーン・アル=ハラージュが国家機関のほとんどすべてであった。これらの中央官庁は行政州に出先機関を持ち、それらの支所は行政州の管轄に置かれた。 ディーワーン・アル=ジュンドなどの行政官庁ではアラビア語が用いられていたが、ディーワーン・アル=ハラージュでは各地の言語が用いられていた。第5代カリフであるアブドゥルマリクは改革に着手し、697年には彼の指示を受けたハッジャージュがイラク州の官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に変える命令を下した。また、700年にはシリアでギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、742年にはイランでペルシア語から、それぞれアラビア語への切り替えが行われた。こうした行政言語の切り替えによって官庁で働く役人も、各地のズィンミーに代わってアラブ人が重用されるようになった。 大征服が行われるにあたり、カリフに任命された遠征軍の司令官は進路や作戦行動などを全て一任され、政府は基本的にこれに干渉しなかった。また、それぞれのミスルの軍の征服地がそのままミスルの行政や徴税の範囲となり、行政州が形成された。司令官が行政州の総督となり、ミスルは行政州の首都となった。これによってウマイヤ朝は各行政州単位の地域連合となった。各州の総督はカリフにより任命されたが、シリア州のみは首都州としてカリフの直轄地となった。総督はカリフの代理として集団礼拝の指導や遠征軍の派遣、カーディーの任命、治安維持などの任についた。 総督はアルメニア、イエメン、イラク、エジプト、キンナスリーン(英語版)、ジャズィーラ、パレスティナ、ヒムス、マディーナ、マッカ、ヨルダンなどに置かれた。マディーナや、アルメニアといったビザンツとの国境地帯の総督にはカリフの親族が重用されたが、アブドゥルマリクやワリード1世の時代を除くと総督にカリフの親族が重用されることはほとんどなかった。 ウマイヤ朝の中期以降、イスラームの司法制度が整えられた。これは各行政州にカーディーが任命されたことを指す。正統カリフ時代においてカーディーは地方公庫の管理者や部族間紛争の調停者に過ぎなかったが、ウマイヤ朝の第二次内乱以降は裁判官としての面が現れ、ウマイヤ朝の末期までには全国に任命された。しかし、当時は司法権は行政権の元にあったためカーディーの判決はカリフや総督によって覆されることがあった。 裁判官としてのカーディーの出現はイスラームを生活の規範として確立させ、イスラーム法の体系化と成文化へとつながった。 現在のイスラーム法ではジズヤは人頭税、ハラージュは地租税を指すが、ウマイヤ朝時代にはこのような区別はなく、行政用語ではジズヤ、旧サーサーン朝支配下ではハラージュと呼ばれていた。しかし人頭税と地租税はそれぞれ「首のジズヤ」または「首のハラージュ」、「土地のジズヤ」または「土地のハラージュ」と呼ばれて区別されていた。ウマル2世は改宗したズィンミーからの租税の徴収の免除を行った。この際に彼はジズヤの免除と言ったため、このとき初めて人頭税がジズヤ、地租税がハラージュであるというイスラーム法の用語が確定した。 ハラージュは耕地面積に応じて貨幣と現物との二本立てで、村落共同体単位で徴収された。現物での徴収は収穫のほぼ半分に及んだという。 こうしたジズヤやハラージュは非ムスリムであったズィンミーに課されており、アラブ人地主などはウシュルと呼ばれた十分の一税のみを収めていた。 重税に苦しんだ非ムスリムの農民は土地を棄てて周辺のミスルに流れ込み、イスラームへ改宗した。こうした改宗者はマワーリーと呼ばれる。彼らは移住先のミスルで貴重な労働力となったが、その一方で農民が減ったことで税収が減り、政府は財政の基礎を守るため彼らを元の村に強制的に追い返した。 8代カリフであるウマル2世はイスラームへの改宗を自由に認めたうえでミスルへの移住や、マワーリーへの俸給の支給を決定した。しかし、こうした改革は芳しい結果はもたらさなかった。マワーリーはミスルで生計を維持することが出来なかったため結局農村に留まって重税を払って生きるほかなく、むしろ現場の徴税官の間に混乱が広がって税収はかえって減少した。 古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ古代南アラビア語と古代北アラビア語、南アラビア文字と古代北アラビア文字など異なる言語や文字、文化を持っていた。両者はイスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して南アラブとの親善関係を保つことに努めた。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした。 ウマイヤ朝が実現させたパクス・イスラミカのなかでムスリム商人は経済力をつけ、中央アジアやインド、東南アジア、中国へと活動を広げた。 アラブによって征服された後も東部のイランやイラクなどではサーサーン朝時代に用いられていたディルハム銀貨が流通しており、西部のエジプトやシリアではビザンツ帝国時代にディーナール金貨が流通していた。しかし、東西を結ぶ流通が活発になり経済が発達するにつれ、旧来の貨幣システムでは対応できない状況になった。695年、第5代カリフであるアブドゥルマリクは純粋なアラブ式貨幣を鋳造して流通させることを決定し、表にクルアーンの章句を、裏に自らの名を刻んだ金貨と銀貨を発行した。 新貨幣にクルアーンの章句が刻まれたことで保守派の宗教家がこの貨幣の発行に反対したが、一時的なものに終わった。この貨幣の発行により貨幣経済の進展は加速され、官僚や軍隊への俸給の支払いも現金で行われるようになった。 成年男子のアラブ人ムスリムはディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)でムカーティラ(兵士)として登録された。総督は軍事活動の必要が生じた際に登録台帳に従ってムカーティラを徴兵し、出動させる権利があった。ムカーティラはこの徴兵に従う代わりに現金俸給であるアターや現物俸給であるリズクを受け取る権利を与えられた。こうした俸給は膨大な額であったが、これらの大部分はズィンミーから徴収したハラージュで賄われていた。 ウマイヤ朝はイスラーム王朝であったが、住民のほとんどはムスリムではなかった。キリスト教が主流だったシリアやエジプトでは、キリスト教がビザンツ帝国の政治と切り離されたことで、異端とされていた合性論派が主流となり、シリア正教会やコプト正教会が形成された。イラクでも、異端とされていたネストリウス派が勢力を拡大させた。サーサーン朝の支配地だったイランなどではゾロアスター教が主流だった。しかし、サーサーン朝の滅亡と共に宗教組織が消滅し、ゾロアスター教は急速に衰退していった。いずれの被支配地域においても、ビザンツ帝国やサーサーン朝など当時の政治権力と結びついていた宗教組織が消滅し、民衆と結びついた宗教組織が成立していった。 ウマイヤ朝の末期近く、シリアでカダル派が誕生した。カダル派は、人間は自由意志を持っており、自分の行動に責任を持っていると主張し、人間は自分の行為を創造するという「行為の創造」を中心的なテーゼとして掲げた。ウマイヤ朝の支配を受け入れたカダル派は、ウマイヤ家を背教者とするハワーリジュ派と激しく対立した。 また、ハワーリジュ派と対立する学派としてムルジア派が存在した。彼らは、何の落ち度もないうちからウマイヤ家を正統でない支配者と決めつけるべきではないが、クルアーンの規範に背いた場合は厳しく非難すべきだとした。また、信仰による罪の救いを強調していた。この学派の支持者には後にイスラーム法学という学問分野を開拓したアブー・ハニーファがいた。 ワースィル・イブン・アターは、穏健なムゥタズィラ学派を創始した。この学派は人間の自由意志を重視し、全ムスリムの平等を主張したという点ではカダル派と同じだったが、ムゥタズィラ派は神の公正さを強調し、自分のために他人を利用するムスリムに対しては非常に批判的だった。この学派はその後100年に渡ってイラクの知識人世界で主流となった。 イスラーム法学は、内乱後に生まれた不満に起源をもつ。人々はウマイヤ朝による統治の問題点について話し合い、イスラームの信条に従って社会を運営する方法を議論していた。バスラやクーファ、マディーナ、ダマスクスでは初期の法学者が各地に即した法制度を提案したが、クルアーンには法律的な要素がほとんどなかった。そのため一部の法学者はハディースの収集を始め、別の法学者は自らの町のムスリムが実践している慣行を遡って、何が正しいのかについての知識を得ようとした。 イラク地方のバスラやクーファでは移住者によってさまざまなアラビア語方言が話されており、共通語としての文語を確立するために2つの町の学者はそれぞれ学派を形成して文法の精緻さを競った。 サーサーン朝時代のイラン南西部にはホスロー1世が設けたギリシア学術の研究所があり、ガレノスの医学書やアリストテレスの論理学などをシリア語に翻訳させていた。この地域を支配したウマイヤ朝はこうしたシリア語の訳書をアラビア語に翻訳していた。しかし、ウマイヤ朝においてこれらの学問は初歩的な段階に留まっていた。 ウマイヤ朝時代は、初期イスラーム建築が建設された時代である。サーサーン朝の影響を色濃く受けているが、首都がダマスカスに置かれてこともあり、ビザンティン建築の影響もわずかながら受けている。 ウマイヤ朝時代に建設され、現存する建築物の代表格が、ダマスカスに残るウマイヤド・モスクとエルサレムの岩のドームである。岩のドームは、第5代カリフアブドゥルマリクによって692年によって建設され、692年に完成した。イランのタイル職人やビザンツのモザイク師、エジプトの木彫り工などが建設に加わり、様々な文化が融合した建築になっている。また、大征服を展開する中で、新しい都市が建設された。その中でもウマイヤ朝時代の建築が残るのが、670年に建設された北アフリカのカイラワーン(現チュニジア)である。 ヨルダンには、未完成で建設を放棄したムシャッタ宮殿がある。 10世紀中葉のアッバース朝期に成立し、イスラーム成立以降の音楽と歌手に関して伝える唯一の歌手伝である『歌書』には97人の歌手が掲載されており、このうち32人がウマイヤ朝期に活動した。マアバドやイブン・スライジュ、イブン・アーイシャなどは第9代カリフであるワリード1世から第11代カリフであるワリード2世の時代を中心に宮廷歌手としてカリフに寵愛された。また、ウマル2世やワリード2世といったカリフたちも作曲家として名を連ねている。 『歌書』に掲載されている歌手たちの一部はサーサーン朝やビザンツの音楽を学んだのちにウマイヤ朝の宮廷で活躍していたとされており、『歌書』の成立時にはウマイヤ朝の宮廷音楽の起源はサーサーン朝やビザンツの音楽にあると考えられていたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝(ウマイヤちょう、アラビア語: الدولة الأموية、al-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。680年10月10日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。シリア駐屯軍は彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した。これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第二次内乱中の685年にはシーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームでありマフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った。また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた。征服戦争は彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破ってブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシム(英語版)がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマド(英語版)に伝えられたと主張するグループが登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイー(英語版)は、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い(英語版))。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。750年8月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝によって、カリフ制度は王朝的支配の原理として確立された。ウマイヤ朝においてカリフ位はウマイヤ家の一族によって占められ、なおかつ14人のカリフのうちムアーウィヤを含めた4人は子にカリフ位を譲った。後に発展したスンナ派の政治理論では、正統カリフ時代は共同体による選出と統治委任の誓いによって統治に正統性が生じていたとされており、ウマイヤ朝はこの理論から逸脱している。しかし、嶋田 (1977)は、アラビアでは家長の地位が父から子に伝えられた事例は多く、カリフの父子継承は、ウマイヤ家の家長としての地位を譲ることを国家制度の領域にまで拡大させたことであるとしている。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝のカリフは全員がウマイヤ家の一族だが、最初の3代のカリフと残りの11代のカリフはウマイヤ家の中の異なる家系に属している。ムアーウィヤから第3代カリフであるムアーウィヤ2世まではムアーウィヤの父であるアブー・スフヤーンにちなんでスフヤーン家と呼ばれ、第4代カリフであるマルワーン1世以降のカリフは全員が彼の子孫であるため、マルワーン家と呼ばれた。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "正統カリフであったアブー・バクルやウマルは重要な意思決定の際にムハージルーンの長老らに意見を求めていた。この一種の合議制はマディーナ時代には有効に作用したものの、ムアーウィヤはダマスクスに都を置いたため、ムハージルーンの意見が政策に反映されることはなくなり、カリフが自ら政策を決定できるようになった。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カリフの私的な諮問機関としてアラブ有力部族の族長会議であるシューラーと代表者会議であるウフードが設けられ、必要に応じて招集されたが、これは説得と同意を取り付ける場に過ぎなかった。これはムアーウィヤとヤズィード1世の時代において有効に機能したと言われる。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "正統カリフ時代には行政官庁に当たるものはウマルが創設した、ムカーティラ(兵士)の登録と俸給の支払いを司るディーワーンがあるのみだったが、ウマイヤ朝初代カリフであるムアーウィヤは、これをディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)と改名したうえで、租税の徴収を司るディーワーン・アル=ハラージュ(租税庁)や、カリフの書簡を作成するディーワーン・アッ=ラサーイル(文書庁)、それを保管するディーワーン・アル=ハータム(印璽庁)を設立した。これらのうち、ディーワーン・アル=ジュンドとディーワーン・アル=ハラージュが国家機関のほとんどすべてであった。これらの中央官庁は行政州に出先機関を持ち、それらの支所は行政州の管轄に置かれた。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ディーワーン・アル=ジュンドなどの行政官庁ではアラビア語が用いられていたが、ディーワーン・アル=ハラージュでは各地の言語が用いられていた。第5代カリフであるアブドゥルマリクは改革に着手し、697年には彼の指示を受けたハッジャージュがイラク州の官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に変える命令を下した。また、700年にはシリアでギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、742年にはイランでペルシア語から、それぞれアラビア語への切り替えが行われた。こうした行政言語の切り替えによって官庁で働く役人も、各地のズィンミーに代わってアラブ人が重用されるようになった。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "大征服が行われるにあたり、カリフに任命された遠征軍の司令官は進路や作戦行動などを全て一任され、政府は基本的にこれに干渉しなかった。また、それぞれのミスルの軍の征服地がそのままミスルの行政や徴税の範囲となり、行政州が形成された。司令官が行政州の総督となり、ミスルは行政州の首都となった。これによってウマイヤ朝は各行政州単位の地域連合となった。各州の総督はカリフにより任命されたが、シリア州のみは首都州としてカリフの直轄地となった。総督はカリフの代理として集団礼拝の指導や遠征軍の派遣、カーディーの任命、治安維持などの任についた。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "総督はアルメニア、イエメン、イラク、エジプト、キンナスリーン(英語版)、ジャズィーラ、パレスティナ、ヒムス、マディーナ、マッカ、ヨルダンなどに置かれた。マディーナや、アルメニアといったビザンツとの国境地帯の総督にはカリフの親族が重用されたが、アブドゥルマリクやワリード1世の時代を除くと総督にカリフの親族が重用されることはほとんどなかった。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝の中期以降、イスラームの司法制度が整えられた。これは各行政州にカーディーが任命されたことを指す。正統カリフ時代においてカーディーは地方公庫の管理者や部族間紛争の調停者に過ぎなかったが、ウマイヤ朝の第二次内乱以降は裁判官としての面が現れ、ウマイヤ朝の末期までには全国に任命された。しかし、当時は司法権は行政権の元にあったためカーディーの判決はカリフや総督によって覆されることがあった。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "裁判官としてのカーディーの出現はイスラームを生活の規範として確立させ、イスラーム法の体系化と成文化へとつながった。", "title": "政府と行政" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在のイスラーム法ではジズヤは人頭税、ハラージュは地租税を指すが、ウマイヤ朝時代にはこのような区別はなく、行政用語ではジズヤ、旧サーサーン朝支配下ではハラージュと呼ばれていた。しかし人頭税と地租税はそれぞれ「首のジズヤ」または「首のハラージュ」、「土地のジズヤ」または「土地のハラージュ」と呼ばれて区別されていた。ウマル2世は改宗したズィンミーからの租税の徴収の免除を行った。この際に彼はジズヤの免除と言ったため、このとき初めて人頭税がジズヤ、地租税がハラージュであるというイスラーム法の用語が確定した。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ハラージュは耕地面積に応じて貨幣と現物との二本立てで、村落共同体単位で徴収された。現物での徴収は収穫のほぼ半分に及んだという。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "こうしたジズヤやハラージュは非ムスリムであったズィンミーに課されており、アラブ人地主などはウシュルと呼ばれた十分の一税のみを収めていた。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "重税に苦しんだ非ムスリムの農民は土地を棄てて周辺のミスルに流れ込み、イスラームへ改宗した。こうした改宗者はマワーリーと呼ばれる。彼らは移住先のミスルで貴重な労働力となったが、その一方で農民が減ったことで税収が減り、政府は財政の基礎を守るため彼らを元の村に強制的に追い返した。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "8代カリフであるウマル2世はイスラームへの改宗を自由に認めたうえでミスルへの移住や、マワーリーへの俸給の支給を決定した。しかし、こうした改革は芳しい結果はもたらさなかった。マワーリーはミスルで生計を維持することが出来なかったため結局農村に留まって重税を払って生きるほかなく、むしろ現場の徴税官の間に混乱が広がって税収はかえって減少した。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ古代南アラビア語と古代北アラビア語、南アラビア文字と古代北アラビア文字など異なる言語や文字、文化を持っていた。両者はイスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して南アラブとの親善関係を保つことに努めた。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝が実現させたパクス・イスラミカのなかでムスリム商人は経済力をつけ、中央アジアやインド、東南アジア、中国へと活動を広げた。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アラブによって征服された後も東部のイランやイラクなどではサーサーン朝時代に用いられていたディルハム銀貨が流通しており、西部のエジプトやシリアではビザンツ帝国時代にディーナール金貨が流通していた。しかし、東西を結ぶ流通が活発になり経済が発達するにつれ、旧来の貨幣システムでは対応できない状況になった。695年、第5代カリフであるアブドゥルマリクは純粋なアラブ式貨幣を鋳造して流通させることを決定し、表にクルアーンの章句を、裏に自らの名を刻んだ金貨と銀貨を発行した。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新貨幣にクルアーンの章句が刻まれたことで保守派の宗教家がこの貨幣の発行に反対したが、一時的なものに終わった。この貨幣の発行により貨幣経済の進展は加速され、官僚や軍隊への俸給の支払いも現金で行われるようになった。", "title": "社会・経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "成年男子のアラブ人ムスリムはディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)でムカーティラ(兵士)として登録された。総督は軍事活動の必要が生じた際に登録台帳に従ってムカーティラを徴兵し、出動させる権利があった。ムカーティラはこの徴兵に従う代わりに現金俸給であるアターや現物俸給であるリズクを受け取る権利を与えられた。こうした俸給は膨大な額であったが、これらの大部分はズィンミーから徴収したハラージュで賄われていた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝はイスラーム王朝であったが、住民のほとんどはムスリムではなかった。キリスト教が主流だったシリアやエジプトでは、キリスト教がビザンツ帝国の政治と切り離されたことで、異端とされていた合性論派が主流となり、シリア正教会やコプト正教会が形成された。イラクでも、異端とされていたネストリウス派が勢力を拡大させた。サーサーン朝の支配地だったイランなどではゾロアスター教が主流だった。しかし、サーサーン朝の滅亡と共に宗教組織が消滅し、ゾロアスター教は急速に衰退していった。いずれの被支配地域においても、ビザンツ帝国やサーサーン朝など当時の政治権力と結びついていた宗教組織が消滅し、民衆と結びついた宗教組織が成立していった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝の末期近く、シリアでカダル派が誕生した。カダル派は、人間は自由意志を持っており、自分の行動に責任を持っていると主張し、人間は自分の行為を創造するという「行為の創造」を中心的なテーゼとして掲げた。ウマイヤ朝の支配を受け入れたカダル派は、ウマイヤ家を背教者とするハワーリジュ派と激しく対立した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、ハワーリジュ派と対立する学派としてムルジア派が存在した。彼らは、何の落ち度もないうちからウマイヤ家を正統でない支配者と決めつけるべきではないが、クルアーンの規範に背いた場合は厳しく非難すべきだとした。また、信仰による罪の救いを強調していた。この学派の支持者には後にイスラーム法学という学問分野を開拓したアブー・ハニーファがいた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ワースィル・イブン・アターは、穏健なムゥタズィラ学派を創始した。この学派は人間の自由意志を重視し、全ムスリムの平等を主張したという点ではカダル派と同じだったが、ムゥタズィラ派は神の公正さを強調し、自分のために他人を利用するムスリムに対しては非常に批判的だった。この学派はその後100年に渡ってイラクの知識人世界で主流となった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "イスラーム法学は、内乱後に生まれた不満に起源をもつ。人々はウマイヤ朝による統治の問題点について話し合い、イスラームの信条に従って社会を運営する方法を議論していた。バスラやクーファ、マディーナ、ダマスクスでは初期の法学者が各地に即した法制度を提案したが、クルアーンには法律的な要素がほとんどなかった。そのため一部の法学者はハディースの収集を始め、別の法学者は自らの町のムスリムが実践している慣行を遡って、何が正しいのかについての知識を得ようとした。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "イラク地方のバスラやクーファでは移住者によってさまざまなアラビア語方言が話されており、共通語としての文語を確立するために2つの町の学者はそれぞれ学派を形成して文法の精緻さを競った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "サーサーン朝時代のイラン南西部にはホスロー1世が設けたギリシア学術の研究所があり、ガレノスの医学書やアリストテレスの論理学などをシリア語に翻訳させていた。この地域を支配したウマイヤ朝はこうしたシリア語の訳書をアラビア語に翻訳していた。しかし、ウマイヤ朝においてこれらの学問は初歩的な段階に留まっていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝時代は、初期イスラーム建築が建設された時代である。サーサーン朝の影響を色濃く受けているが、首都がダマスカスに置かれてこともあり、ビザンティン建築の影響もわずかながら受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝時代に建設され、現存する建築物の代表格が、ダマスカスに残るウマイヤド・モスクとエルサレムの岩のドームである。岩のドームは、第5代カリフアブドゥルマリクによって692年によって建設され、692年に完成した。イランのタイル職人やビザンツのモザイク師、エジプトの木彫り工などが建設に加わり、様々な文化が融合した建築になっている。また、大征服を展開する中で、新しい都市が建設された。その中でもウマイヤ朝時代の建築が残るのが、670年に建設された北アフリカのカイラワーン(現チュニジア)である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ヨルダンには、未完成で建設を放棄したムシャッタ宮殿がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "10世紀中葉のアッバース朝期に成立し、イスラーム成立以降の音楽と歌手に関して伝える唯一の歌手伝である『歌書』には97人の歌手が掲載されており、このうち32人がウマイヤ朝期に活動した。マアバドやイブン・スライジュ、イブン・アーイシャなどは第9代カリフであるワリード1世から第11代カリフであるワリード2世の時代を中心に宮廷歌手としてカリフに寵愛された。また、ウマル2世やワリード2世といったカリフたちも作曲家として名を連ねている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『歌書』に掲載されている歌手たちの一部はサーサーン朝やビザンツの音楽を学んだのちにウマイヤ朝の宮廷で活躍していたとされており、『歌書』の成立時にはウマイヤ朝の宮廷音楽の起源はサーサーン朝やビザンツの音楽にあると考えられていたという。", "title": "文化" } ]
ウマイヤ朝は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。 カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = ウマイヤ朝 |公式国名 ='''{{Lang|ar|(الخلافة الأموية) الدولة الأموية}}''' |建国時期 = [[661年]] |亡国時期 = [[750年]] |先代1 = 正統カリフ |先旗1 = |先代2 = 東ローマ帝国 |先旗2 = Simple Labarum.svg |先代3 = 西ゴート王国 |先旗3 = |先代4 = :en:Kingdom of the Aurès |先旗4 = |先代5 = :en:Kingdom of Altava |先旗5 = |次代1 = アッバース朝 |次旗1 = Black flag.svg |次代2 = 後ウマイヤ朝 |次旗2 = |次代3 = :en:Barghawata |次旗3 = |次代4 = :en:Kingdom of Nekor |次旗4 = |次代5 = :en:Emirate of Tlemcen |次旗5 = |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = 125px |国旗縁 = |国章画像 = <!--画像ファイル名を入力--> |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = <!--初期値85px--> |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = 倭馬亞王朝版圖.svg |位置画像説明 = ウマイヤ朝の最大版図 |公用語 = [[アラビア語]]ほか |宗教 = [[イスラム教]] |首都 = [[ダマスカス]]([[661年]] - [[744年]])<br>[[ハッラーン]]([[744年]] - [[750年]]) |元首等肩書 = [[カリフ]] |元首等年代始1 = [[661年]] |元首等年代終1 = [[680年]] |元首等氏名1 = [[ムアーウィヤ|ムアーウィヤ1世]] |元首等年代始2 = [[685年]] |元首等年代終2 = [[705年]] |元首等氏名2 = [[アブドゥルマリク]] |元首等年代始3 = |元首等年代終3 = |元首等氏名3 = |元首等年代始4 = |元首等年代終4 = |元首等氏名4 = |元首等年代始5 = [[744年]] |元首等年代終5 = [[750年]] |元首等氏名5 = [[マルワーン2世]] |面積測定時期1 = [[720年]]<ref> Rein Taagepera (September 1997). "Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia". International Studies Quarterly. 41 (3): 496. doi:10.1111/0020-8833.00053. JSTOR 2600793. </ref> |面積値1 = 11,100,000 |面積測定時期2 = |面積値2 = |面積測定時期3 = |面積値3 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |人口測定時期2 = |人口値2 = |変遷1 = 成立 |変遷年月日1 = [[661年]] |変遷2 = [[カルバラーの戦い|カルバラーの悲劇]] |変遷年月日2 = [[680年]][[10月10日]] |変遷3 = [[マグリブ]]征服が完了 |変遷年月日3 = [[709年]] |変遷4 = [[イベリア半島]]に進出 |変遷年月日4 = [[711年]] |変遷5 = [[コンスタンティノープル]]包囲 |変遷年月日5 = [[718年]] |変遷6 = [[トゥール・ポワティエ間の戦い|トゥール・ポアティエの戦い]] |変遷年月日6 = [[732年]][[10月10日]] |変遷7 = [[アッバース革命]]により滅亡 |変遷年月日7 = [[750年]][[8月5日]] |通貨 = [[ディナール]] (金貨) 、[[ディルハム]] (銀貨) |現在 = {{hidden begin}}{{SYR}}<br>{{IRQ}}<br>{{KWT}}<br>{{SAU}}<br>{{QAT}}<br>{{BHR}}<br>{{ARE}}<br>{{OMN}}<br>{{YEM}}<br>{{JOR}}<br>{{ISR}}<br>{{PSE}}<br>{{LBN}}<br>{{TUR}}<br> {{ARM}}<br>{{GEO}}<br>{{AZE}}<br>{{IRN}}<br>{{AFG}}<br>{{PAK}}<br>{{TKM}}<br>{{TJK}}<br>{{UZB}}<br>{{EGY}}<br>{{LBY}}<br>{{TUN}}<br>{{DZA}}<br>{{MAR}}<br>{{ESP}}<br>{{PRT}}<br>{{FRA}}{{hidden end}} |注記 = }} <!--{{Islam}}--> '''ウマイヤ朝'''(ウマイヤちょう、{{Lang-ar|'''الدولة الأموية'''}}、al-Dawla al-Umawiyya)は、[[イスラム教|イスラム]]史上最初の世襲[[イスラム王朝]]である。[[イスラム帝国#大食|大食]]([[唐]]での呼称)、またはカリフ帝国や[[イスラム帝国#定義|アラブ帝国]]と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、[[イスラム帝国]]のひとつでもある。 [[イスラーム]]の預言者[[ムハンマド]]と父祖を同じくする[[クライシュ族]]の名門で、[[メッカ]]の指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代[[正統カリフ]]である[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]との抗争において、660年自ら[[カリフ]]を名乗った[[歴史的シリア|シリア]]総督[[ムアーウィヤ]]が、661年の[[ハワーリジュ派]]によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアの[[ダマスカス]]。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)から[[マルワーン2世]]までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。[[750年]]に[[アッバース朝]]によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとり[[アブド・アッラフマーン1世]]が[[イベリア半島]]に逃れ、[[後ウマイヤ朝]]を建てる。 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにも[[ズィンミー]](庇護民)として人頭税([[ジズヤ]])と地租([[ハラージュ]])の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、[[ディーワーン]]制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。 [[カリフ]]位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで[[預言者ムハンマド]]の宣教に抵抗してきたという事実、また後述の[[カルバラーの戦い|カルバラーの悲劇]]ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である<ref>[[中村廣治郎]]『イスラム教入門』(岩波新書、1998年)54頁</ref>。  == 歴史 == [[ファイル:Map of expansion of Caliphate.svg|300px|right|thumb|'''[[イスラム世界]]の領土拡大''' {{legend|#a1584e|[[ムハンマド]]下における領土拡大, 622–632}} {{legend|#ef9070|[[正統カリフ]]時代における領土拡大, 632–661}} {{legend|#fad07d|'''ウマイヤ朝時代'''における領土拡大, 661–750}} 預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。]] === ムアーウィヤによる創始 === [[656年]]、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・[[ウスマーン・イブン=アッファーン|ウスマーン]]が、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された{{sfn|蔀|2018|p=249}}。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であった[[アーイシャ]]などがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、[[第一次内乱 (イスラーム史)|第一次内乱]]が起こった{{sfn|蔀|2018|p=249}}{{sfn|小杉|2006|p=175}}。両者の抗争は656年12月の[[ラクダの戦い]]において頂点に達し、アリーが勝利を収めた{{sfn|小杉|2006|p=175}}。その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った{{sfn|嶋田|1977|p=69}}。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、[[657年]]に[[スィッフィーンの戦い]]でアリー率いるイラク軍と戦った{{sfn|蔀|2018|p=249}}。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派である[[ハワーリジュ派]]となった{{sfn|小杉|2006|p=179}}。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、[[660年]]、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した{{sfn|蔀|2018|p=250}}{{sfn|佐藤|2008|p=114}}。ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いである[[バイア]]を受け、正式にカリフとして認められた{{sfn|佐藤|2008|p=104}}。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した{{sfn|蔀|2018|p=250}}{{sfn|嶋田|1977|p=72}}。 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった{{sfn|小杉|2006|p=179}}。ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した{{sfn|嶋田|1977|p=76-77}}。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた{{sfn|嶋田|1977|p=77}}。 ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた{{sfn|余部|1991|p=64}}。 === 第二次内乱 === ムアーウィヤの死後、[[ヤズィード1世]]がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男である[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]はヤズィード1世に対して蜂起をしようとした{{sfn|佐藤|2008|p=114-115}}{{sfn|小杉|2006|p=196}}。680年[[10月10日]]、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された{{sfn|蔀|2018|p=249}}{{sfn|佐藤|2008|p=116}}。この事件は[[カルバラーの悲劇]]と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった{{sfn|小杉|2006|p=196}}。 ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した{{sfn|蔀|2018|p=251}}。シリア駐屯軍は彼の息子である[[ムアーウィヤ2世]]をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した{{sfn|蔀|2018|p=253}}{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。これを好機として捉えた[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|イブン・アッズバイル]]はカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた{{sfn|蔀|2018|p=251}}{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。これによって10年に渡る[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]が始まった{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。 第二次内乱中の685年にはシーア派の[[ムフタール・アッ=サカフィー]]が、アリーの息子でありフサインの異母兄弟である[[イブン・ハナフィーヤ|ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤ]]をイマームであり[[マフディー]]であるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった{{sfn|蔀|2018|p=253}}{{sfn|余部|1991|p=65}}。ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された{{sfn|佐藤|2008|p=120}}{{sfn|蔀|2018|p=253}}。 ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、[[マルワーン1世]]がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった{{sfn|小杉|2011|p=209}}。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった{{sfn|蔀|2018|p=253}}。すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた{{sfn|小杉|2006|p=197}}。しかし、第5代カリフに就任した[[アブドゥルマリク]]は、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した{{sfn|蔀|2018|p=253}}{{sfn|余部|1991|p=66}}。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った{{sfn|蔀|2018|p=254}}。また、692年には{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}を討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたる[[メッカ包囲戦 (692年)|メッカ包囲戦]]を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した{{sfn|蔀|2018|p=254}}{{sfn|佐藤|2008|p=121}}。 === 絶頂期 === 第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた{{sfn|アームストロング|2017|p=56}}{{sfn|横内|2005|p=101}}{{sfn|嶋田|1977|p=111}}。 694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた{{sfn|佐藤|2008|p=123}}。 アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた{{sfn|アームストロング|2017|p=65}}。征服戦争は彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した{{sfn|アームストロング|2017|p=65}}{{sfn|余部|1991|p=69}}。その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた{{sfn|佐藤|2008|p=124}}。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破って[[ブハラ]]や[[サマルカンド]]といったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった{{sfn|佐藤|2008|p=124}}{{sfn|余部|1991|p=70}}。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ{{sfn|余部|1991|p=70}}。 === ウマル2世の治世 === この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた{{sfn|余部|1991|p=72}}。 これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった{{sfn|余部|1991|p=72}}。彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした{{sfn|アームストロング|2017|p=67}}。 また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した{{sfn|アームストロング|2017|p=67}}{{sfn|余部|1991|p=72}}。 ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった{{sfn|アームストロング|2017|p=68}}。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた{{sfn|黒田|1967|p=321}} === 最後の輝き === 第10代カリフとなった[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク]]の治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった{{sfn|佐藤|2008|p=140}}。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた{{sfn|アームストロング|2017|p=68}}。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。 また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである[[蘇禄]]が率いた[[突騎施]]にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。 === 第三次内乱 === 744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した{{sfn|松本|2013|p=245}}{{sfn|余部|1991|p=74}}。 === アッバース革命 === {{main|アッバース革命}} [[File:Revolt.png|180px|right|thumb|アブー・ムスリムの進軍ルート。緑がウマイヤ朝の版図。]] 680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたる[[イブン・ハナフィーヤ|ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤ]]こそが、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]及び[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]の正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことを[[カイサーン派]]と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた{{sfn|佐藤|2008|p=143}}。カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子である{{仮リンク|アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤ|en|Abd-Allah ibn Muhammad ibn al-Hanafiyyah|label=アブー・ハーシム}}がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家の{{仮リンク|ムハンマド・イブン・アリー・アッバースィー|en|Mohammad ibn Ali Abbasi|label=ムハンマド}}に伝えられたと主張するグループが登場した{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。 アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年([[718年]]8月から[[719年]]7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧された[[マズダク教]]の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。[[747年]]、アッバース家の運動員である[[アブー・ムスリム]]がホラーサーン地方の都市[[メルヴ]]近郊で挙兵した{{sfn|佐藤|2008|p=145}}。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した{{sfn|佐藤|2008|p=145}}。アブー・ムスリム配下の将軍{{仮リンク|カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイー|en|Qahtaba ibn Shabib al-Ta'i}}は、[[ニハーヴァンド]]を制圧後、イラクに進出し、[[749年]]9月、クーファに到達した{{sfn|佐藤|2008|p=146}}。 749年11月、クーファで、[[サッファーフ|アブー・アル=アッバース]]は、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した{{sfn|佐藤|2008|p=146}}。[[750年]]1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、[[マルワーン2世]]は、イラク北部・[[モースル]]近郊の[[大ザーブ川]]に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した({{仮リンク|ザーブ河畔の戦い|en|Battle of the Zab}})。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。750年8月、彼は上エジプトの[[ファイユーム]]で殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した{{sfn|佐藤|2008|p=148}}。 == 政府と行政 == === カリフ === ==== カリフ位 ==== ウマイヤ朝によって、カリフ制度は王朝的支配の原理として確立された。ウマイヤ朝においてカリフ位はウマイヤ家の一族によって占められ、なおかつ14人のカリフのうちムアーウィヤを含めた4人は子にカリフ位を譲った{{sfn|嶋田|1977|p=72}}。後に発展したスンナ派の政治理論では、正統カリフ時代は共同体による選出と統治委任の誓いによって統治に正統性が生じていたとされており、ウマイヤ朝はこの理論から逸脱している{{sfn|小杉|2006|p=185-186}}。しかし、{{harvtxt|嶋田|1977}}は、アラビアでは家長の地位が父から子に伝えられた事例は多く、カリフの父子継承は、ウマイヤ家の家長としての地位を譲ることを国家制度の領域にまで拡大させたことであるとしている{{sfn|嶋田|1977|p=84}}。 ウマイヤ朝のカリフは全員がウマイヤ家の一族だが、最初の3代のカリフと残りの11代のカリフはウマイヤ家の中の異なる家系に属している{{sfn|横内|2011|p=28}}。ムアーウィヤから第3代カリフであるムアーウィヤ2世まではムアーウィヤの父であるアブー・スフヤーンにちなんでスフヤーン家と呼ばれ、第4代カリフであるマルワーン1世以降のカリフは全員が彼の子孫であるため、マルワーン家と呼ばれた{{sfn|横内|2011|p=28}}{{sfn|松本|2013|p=252}}。 ==== 意思決定 ==== 正統カリフであったアブー・バクルやウマルは重要な意思決定の際に[[ムハージルーン]]の長老らに意見を求めていた。この一種の合議制はマディーナ時代には有効に作用したものの、ムアーウィヤはダマスクスに都を置いたため、ムハージルーンの意見が政策に反映されることはなくなり、カリフが自ら政策を決定できるようになった{{sfn|嶋田|1977|p=77}}。 カリフの私的な諮問機関としてアラブ有力部族の族長会議であるシューラーと代表者会議であるウフードが設けられ、必要に応じて招集されたが、これは説得と同意を取り付ける場に過ぎなかった。これはムアーウィヤとヤズィード1世の時代において有効に機能したと言われる{{sfn|嶋田|1977|p=78}}。 === 行政官庁 === 正統カリフ時代には行政官庁に当たるものはウマルが創設した、ムカーティラ(兵士)の登録と俸給の支払いを司る[[ディーワーン]]があるのみだったが、ウマイヤ朝初代カリフであるムアーウィヤは、これをディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)と改名したうえで、租税の徴収を司るディーワーン・アル=ハラージュ(租税庁)や、カリフの書簡を作成するディーワーン・アッ=ラサーイル(文書庁)、それを保管するディーワーン・アル=ハータム(印璽庁)を設立した{{sfn|嶋田|1977|p=77}}{{sfn|佐藤|2008|p=127}}。これらのうち、ディーワーン・アル=ジュンドとディーワーン・アル=ハラージュが国家機関のほとんどすべてであった{{sfn|嶋田|1977|p=85}}。これらの中央官庁は行政州に出先機関を持ち、それらの支所は行政州の管轄に置かれた{{sfn|佐藤|2008|p=127}}。 ディーワーン・アル=ジュンドなどの行政官庁ではアラビア語が用いられていたが、ディーワーン・アル=ハラージュでは各地の言語が用いられていた。第5代カリフであるアブドゥルマリクは改革に着手し、697年には彼の指示を受けたハッジャージュがイラク州の官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に変える命令を下した。また、700年にはシリアでギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、742年にはイランでペルシア語から、それぞれアラビア語への切り替えが行われた{{sfn|佐藤|2008|p=128}}{{sfn|嶋田|1977|p=111}}。こうした行政言語の切り替えによって官庁で働く役人も、各地のズィンミーに代わってアラブ人が重用されるようになった{{sfn|佐藤|2008|p=128}}。 === 総督 === 大征服が行われるにあたり、カリフに任命された遠征軍の司令官は進路や作戦行動などを全て一任され、政府は基本的にこれに干渉しなかった{{sfn|嶋田|1977|p=86}}。また、それぞれのミスルの軍の征服地がそのままミスルの行政や徴税の範囲となり、行政州が形成された。司令官が行政州の総督となり、ミスルは行政州の首都となった。これによってウマイヤ朝は各行政州単位の地域連合となった。各州の総督はカリフにより任命されたが、シリア州のみは首都州としてカリフの直轄地となった{{sfn|嶋田|1977|p=87}}。総督はカリフの代理として集団礼拝の指導や遠征軍の派遣、カーディーの任命、治安維持などの任についた{{sfn|横内|2005|p=577}}。 総督はアルメニア、イエメン、イラク{{refnest|group="注"|クーファとバスラにそれぞれ総督が任命される場合と、両都市を合わせてイラク総督が任命される場合があった{{sfn|高野|1996|p=338}}。}}、エジプト、{{仮リンク|キンナスリーン|en|Qinnasrin}}、[[ジャズィーラ]]、パレスティナ、ヒムス、マディーナ、マッカ、ヨルダンなどに置かれた{{sfn|横内|2011|p=38-41}}。マディーナや、アルメニアといったビザンツとの国境地帯の総督にはカリフの親族が重用されたが、アブドゥルマリクやワリード1世の時代を除くと総督にカリフの親族が重用されることはほとんどなかった{{sfn|横内|2011|p=39}}。 === 司法 === ウマイヤ朝の中期以降、イスラームの司法制度が整えられた{{sfn|嶋田|1977|p=99}}。これは各行政州に[[カーディー]]が任命されたことを指す。正統カリフ時代においてカーディーは地方公庫の管理者や部族間紛争の調停者に過ぎなかったが、ウマイヤ朝の第二次内乱以降は裁判官としての面が現れ、ウマイヤ朝の末期までには全国に任命された。しかし、当時は司法権は行政権の元にあったためカーディーの判決はカリフや総督によって覆されることがあった{{sfn|嶋田|1977|p=100}}。 裁判官としてのカーディーの出現はイスラームを生活の規範として確立させ、イスラーム法の体系化と成文化へとつながった{{sfn|嶋田|1977|p=100}}。 == 社会・経済 == === 税制 === 現在のイスラーム法ではジズヤは人頭税、ハラージュは地租税を指すが、ウマイヤ朝時代にはこのような区別はなく、行政用語ではジズヤ、旧サーサーン朝支配下ではハラージュと呼ばれていた。しかし人頭税と地租税はそれぞれ「首のジズヤ」または「首のハラージュ」、「土地のジズヤ」または「土地のハラージュ」と呼ばれて区別されていた{{sfn|嶋田|1977|p=97}}。ウマル2世は改宗したズィンミーからの租税の徴収の免除を行った。この際に彼はジズヤの免除と言ったため、このとき初めて人頭税がジズヤ、地租税がハラージュであるというイスラーム法の用語が確定した{{sfn|嶋田|1977|p=119}}。 ハラージュは耕地面積に応じて貨幣と現物との二本立てで、[[村落共同体]]単位で徴収された{{sfn|嶋田|1977|p=106}}。現物での徴収は収穫のほぼ半分に及んだという{{sfn|佐藤|2008|p=136}}。 こうしたジズヤやハラージュは非ムスリムであったズィンミーに課されており、アラブ人地主などはウシュルと呼ばれた十分の一税のみを収めていた{{sfn|佐藤|2008|p=136}}。 === マワーリー === 重税に苦しんだ非ムスリムの農民は土地を棄てて周辺のミスルに流れ込み、イスラームへ改宗した。こうした改宗者はマワーリーと呼ばれる。彼らは移住先のミスルで貴重な労働力となったが、その一方で農民が減ったことで税収が減り、政府は財政の基礎を守るため彼らを元の村に強制的に追い返した{{sfn|佐藤|2008|p=137}}。 8代カリフであるウマル2世はイスラームへの改宗を自由に認めたうえでミスルへの移住や、マワーリーへの俸給の支給を決定した。しかし、こうした改革は芳しい結果はもたらさなかった。マワーリーはミスルで生計を維持することが出来なかったため結局農村に留まって重税を払って生きるほかなく、むしろ現場の徴税官の間に混乱が広がって税収はかえって減少した{{sfn|佐藤|2008|p=139-140}}。 === 南北アラブの対立 === 古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ[[古代南アラビア語]]と[[古代北アラビア語]]、[[南アラビア文字]]と[[古代北アラビア文字]]など異なる言語や文字、文化を持っていた{{sfn|後藤|2017|p=62}}。両者はイスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して南アラブとの親善関係を保つことに努めた{{sfn|嶋田|1977|p=76}}{{sfn|後藤|2017|p=138}}。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした{{sfn|後藤|2017|p=138}}。 === 交易 === ウマイヤ朝が実現させたパクス・イスラミカのなかでムスリム商人は経済力をつけ、中央アジアやインド、東南アジア、中国へと活動を広げた{{sfn|佐藤|2008|p=125}}。 === 通貨 === [[File:Umayyad calif Sassanian prototype copper falus Aleppo Syria circa 695 CE.jpg|180px|右|thumb|695年に鋳造されたアラブ・ビザンチン様式ファルス銅貨]] アラブによって征服された後も東部のイランやイラクなどではサーサーン朝時代に用いられていたディルハム銀貨が流通しており、西部のエジプトやシリアではビザンツ帝国時代にディーナール金貨が流通していた。しかし、東西を結ぶ流通が活発になり経済が発達するにつれ、旧来の貨幣システムでは対応できない状況になった。695年、第5代カリフであるアブドゥルマリクは純粋なアラブ式貨幣を鋳造して流通させることを決定し、表にクルアーンの章句を、裏に自らの名を刻んだ金貨と銀貨を発行した{{sfn|佐藤|2008|p=125}}。 新貨幣にクルアーンの章句が刻まれたことで保守派の宗教家がこの貨幣の発行に反対したが、一時的なものに終わった。この貨幣の発行により貨幣経済の進展は加速され、官僚や軍隊への俸給の支払いも現金で行われるようになった{{sfn|佐藤|2008|p=126}}。 == 軍事 == === ムカーティラ === 成年男子のアラブ人ムスリムはディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)でムカーティラ(兵士)として登録された。総督は軍事活動の必要が生じた際に登録台帳に従ってムカーティラを徴兵し、出動させる権利があった。ムカーティラはこの徴兵に従う代わりに現金俸給であるアターや現物俸給であるリズクを受け取る権利を与えられた{{sfn|高野|1996|p=310-311}}。こうした俸給は膨大な額であったが、これらの大部分はズィンミーから徴収したハラージュで賄われていた{{sfn|高野|1996|p=314}}。 == 宗教 == ウマイヤ朝はイスラーム王朝であったが、住民のほとんどはムスリムではなかった。キリスト教が主流だったシリアやエジプトでは、キリスト教がビザンツ帝国の政治と切り離されたことで、異端とされていた[[合性論]]派が主流となり、[[シリア正教会]]や[[コプト正教会]]が形成された{{sfn|小杉|2006|p=187-188}}{{sfn|後藤|2017|p=135}}。イラクでも、異端とされていたネストリウス派が勢力を拡大させた{{sfn|後藤|2017|p=135}}。サーサーン朝の支配地だったイランなどではゾロアスター教が主流だった{{sfn|小杉|2006|p=187-188}}。しかし、サーサーン朝の滅亡と共に宗教組織が消滅し、ゾロアスター教は急速に衰退していった{{sfn|後藤|2017|p=136}}。いずれの被支配地域においても、ビザンツ帝国やサーサーン朝など当時の政治権力と結びついていた宗教組織が消滅し、民衆と結びついた宗教組織が成立していった{{sfn|後藤|2017|p=136}}。 === イスラーム神学 === ウマイヤ朝の末期近く、シリアで[[カダル派]]が誕生した{{sfn|井筒|1991|p=42}}。カダル派は、人間は自由意志を持っており、自分の行動に責任を持っていると主張し、人間は自分の行為を創造するという「行為の創造」を中心的なテーゼとして掲げた{{sfn|井筒|1991|p=43}}{{sfn|アームストロング|2017|p=60}}。ウマイヤ朝の支配を受け入れたカダル派は、ウマイヤ家を背教者とするハワーリジュ派と激しく対立した{{sfn|アームストロング|2017|p=60}}。 また、ハワーリジュ派と対立する学派としてムルジア派が存在した。彼らは、何の落ち度もないうちからウマイヤ家を正統でない支配者と決めつけるべきではないが、クルアーンの規範に背いた場合は厳しく非難すべきだとした。また、信仰による罪の救いを強調していた。この学派の支持者には後にイスラーム法学という学問分野を開拓したアブー・ハニーファがいた{{sfn|アームストロング|2017|p=62}}{{sfn|井筒|1991|p=51}}。 ワースィル・イブン・アターは、穏健なムゥタズィラ学派を創始した。この学派は人間の自由意志を重視し、全ムスリムの平等を主張したという点ではカダル派と同じだったが、ムゥタズィラ派は神の公正さを強調し、自分のために他人を利用するムスリムに対しては非常に批判的だった。この学派はその後100年に渡ってイラクの知識人世界で主流となった{{sfn|アームストロング|2017|p=61}}。 === イスラーム法学 === イスラーム法学は、内乱後に生まれた不満に起源をもつ。人々はウマイヤ朝による統治の問題点について話し合い、イスラームの信条に従って社会を運営する方法を議論していた。バスラやクーファ、マディーナ、ダマスクスでは初期の法学者が各地に即した法制度を提案したが、クルアーンには法律的な要素がほとんどなかった。そのため一部の法学者はハディースの収集を始め、別の法学者は自らの町のムスリムが実践している慣行を遡って、何が正しいのかについての知識を得ようとした{{sfn|アームストロング|2017|p=63}}。 == 文化 == [[File:Grande Mosquée de Kairouan, vue d'ensemble.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|en|Great Mosque of Kairouan}}]] [[ファイル:Omayyad mosque.jpg|right|200px|thumb|'''ダマスカスの[[ウマイヤ・モスク]]''':現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である]] [[File:Harhab mini.JPG|right|200px|thumb|[[岩のドーム]]]] [[File:Anjar - Cardo vu du nord 2.jpg|right|200px|thumb|[[アンジャル]]]] {{see also|{{仮リンク|ウマイヤ朝の美術|fr|Art omeyyade}}}} === 言語 === イラク地方のバスラやクーファでは移住者によってさまざまなアラビア語方言が話されており、共通語としての文語を確立するために2つの町の学者はそれぞれ学派を形成して文法の精緻さを競った{{sfn|佐藤|2008|p=129}}。 === 学問 === サーサーン朝時代のイラン南西部にはホスロー1世が設けたギリシア学術の研究所があり、ガレノスの医学書やアリストテレスの論理学などをシリア語に翻訳させていた。この地域を支配したウマイヤ朝はこうしたシリア語の訳書をアラビア語に翻訳していた。しかし、ウマイヤ朝においてこれらの学問は初歩的な段階に留まっていた{{sfn|佐藤|2008|p=132}}。 === 建築物 === {{main|イスラーム建築#ウマイヤ朝によるイスラーム建築の発達}} ウマイヤ朝時代は、初期イスラーム建築が建設された時代である。[[サーサーン朝]]の影響を色濃く受けているが、首都がダマスカスに置かれてこともあり、[[ビザンティン建築]]の影響もわずかながら受けている。 ウマイヤ朝時代に建設され、現存する建築物の代表格が、ダマスカスに残る[[ウマイヤド・モスク]]とエルサレムの[[岩のドーム]]である。岩のドームは、第5代カリフ[[アブドゥルマリク]]によって[[692年]]によって建設され、692年に完成した。イランのタイル職人やビザンツのモザイク師、エジプトの木彫り工などが建設に加わり、様々な文化が融合した建築になっている{{sfn|佐藤|2008|p=134}}。また、大征服を展開する中で、新しい都市が建設された。その中でもウマイヤ朝時代の建築が残るのが、670年に建設された北アフリカの[[カイラワーン]](現[[チュニジア]])である。 [[ヨルダン]]には、未完成で建設を放棄した[[ムシャッタ宮殿]]がある。 === 音楽 === 10世紀中葉のアッバース朝期に成立し、イスラーム成立以降の音楽と歌手に関して伝える唯一の歌手伝である『歌書』には97人の歌手が掲載されており、このうち32人がウマイヤ朝期に活動した{{sfn|中野|2012|p=61, 67}}{{refnest|group="注"|時代の内訳は、3人が正統カリフ末期からウマイヤ朝初期、24人がウマイヤ朝期、5人がウマイヤ朝末期からアッバース朝初期となっている{{sfn|中野|2012|p=67}}。}}。[[マアバド]]や[[イブン・スライジュ]]、[[イブン・アーイシャ]]などは第9代カリフであるワリード1世から第11代カリフであるワリード2世の時代を中心に宮廷歌手としてカリフに寵愛された{{sfn|中野|2012|p=74}}。また、ウマル2世やワリード2世といったカリフたちも作曲家として名を連ねている{{sfn|中野|2012|p=70}}。 『歌書』に掲載されている歌手たちの一部はサーサーン朝やビザンツの音楽を学んだのちにウマイヤ朝の宮廷で活躍していたとされており、『歌書』の成立時にはウマイヤ朝の宮廷音楽の起源はサーサーン朝やビザンツの音楽にあると考えられていたという{{sfn|中野|2012|p=75}}。 == 年譜 == * [[661年]] - [[ムアーウィヤ]]、[[カリフ]]となり、[[ダマスカス]]を都とする。 * [[673年]] - [[687年]]まで数年に渡って、[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲したが失敗。 * [[680年]] - 第2代カリフ後継者ヤズィード、アリーの子[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の勢力を制圧。後の[[スンニー派]]によるイスラムの[[覇権]]を築く。 * [[697年]] - [[東ローマ帝国]]から[[カルタゴ]]を奪い、[[北アフリカ]]のほぼ全域を支配。 * [[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]の危機を乗り越えた[[アブドゥルマリク]]の時代に全盛時代を迎える。しかし、その後、ウマイヤ家を認めない[[シーア派]]や[[ハワーリジュ派]]の反乱、アラブ諸部族間の内紛などにより傾きはじめる。 * [[711年]] - [[イベリア半島]]の[[ゲルマン人]]国家[[西ゴート王国]]を滅ぼし([[グアダレーテ河畔の戦い]])、西は[[イベリア半島]]から東は[[インド洋]]までの広大な地域を支配。 * [[718年]] - [[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]]を大規模艦隊と陸軍で包囲したものの敗北し、遠征軍は壊滅。 * [[732年]] - [[メロヴィング朝]][[フランク王国]]との[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]に敗北。 * [[750年]] - [[ホラーサーン]]地方で勃発した[[アッバース革命]]により[[750年]]に滅亡。[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]]の子孫[[アブド・アッラフマーン1世]]は[[イベリア半島]]へ逃れて、[[後ウマイヤ朝]]([[756年]]-[[1031年]])を建国。 == 歴代カリフ == # [[ムアーウィヤ]](1世)(661年 - 680年) # [[ヤズィード1世]](680年 - 683年) # [[ムアーウィヤ2世]](683年 - 684年) # [[マルワーン1世]](684年 - 685年) # [[アブドゥルマリク]](685年 - 705年) # [[ワリード1世]](705年 - 715年) # [[スライマーン・イブン・アブドゥルマリク|スライマーン]](715年 - 717年) # [[ウマル2世 (ウマイヤ朝)|ウマル2世]](717年 - 720年) # [[ヤズィード2世]](720年 - 724年) # [[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]](724年 - 743年) # [[ワリード2世]](743年 - 744年) # [[ヤズィード3世]](744年) # [[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]](744年) # [[マルワーン2世]](744年 - 750年) == 系図 == {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | |QUR |QUR=[[クライシュ族#系図|クライシュ族]]}} {{familytree | | |:| | |}} {{familytree | |ABD |ABD=アブド・シャムス}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |UMA |UMA=ウマイヤ}} {{familytree | | |)|-|-|-|.| | |}} {{familytree | |HAL | |ABA | | | | | |HAL=ハルブ|ABA=アブー・アルアース}} {{familytree | | |!| | | |)|-|-|-|.| | |}} {{familytree | |ABS | |HAK | |AFF | |ABS=アブー・スフヤーン|HAK=ハカム|AFF=アッファーン}} {{familytree | | |!| | | |!| | | |!| | |}} {{familytree | |MUA | |MAL | |USM | |MUA='''[[ムアーウィヤ|ムアーウィヤ1世]]'''<sup>1</sup>|MAL='''[[マルワーン1世]]'''<sup>4</sup>|USM=''[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]''<br>正統3代カリフ|boxstyle_MUA =background-color: #fcf;|boxstyle_MAL =background-color: #fcf;}} {{familytree | | |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | |}} {{familytree | |JA1 | |MUH | |ADA | | | | | | | | | | | | | |ADL | |JA1='''[[ヤズィード1世]]'''<sup>2</sup>|MUH=[[ムハンマド・ブン・マルワーン|ムハンマド]]|ADA='''[[アブドゥルマリク]]'''<sup>5</sup>|ADL=アブド・アルアズィーズ|boxstyle_JA1 =background-color: #fcf;|boxstyle_ADA =background-color: #fcf;}} {{familytree | | |!| | | |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |!| | |}} {{familytree | |MU2 | |MA2 | |WA1 | |SRA | |JA2 | |HIS | |UM2 | |MU2='''[[ムアーウィヤ2世]]'''<sup>3</sup>|MA2='''[[マルワーン2世]]'''<sup>14</sup>|WA1='''[[ワリード1世]]'''<sup>6</sup>|SRA='''[[スライマーン・イブン・アブドゥルマリク|スライマーン]]'''<sup>7</sup>|JA2='''[[ヤズィード2世]]'''<sup>9</sup>|HIS='''[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]]'''<sup>10</sup>|UM2='''[[ウマル2世 (ウマイヤ朝)|ウマル2世]]'''<sup>8</sup>|boxstyle_MU2 =background-color: #fcf;|boxstyle_MA2 =background-color: #fcf;|boxstyle_WA1 =background-color: #fcf;|boxstyle_SRA =background-color: #fcf;|boxstyle_JA2 =background-color: #fcf;|boxstyle_HIS =background-color: #fcf;|boxstyle_UM2 =background-color: #fcf;}} {{familytree | | | | | | | | | | |)|-|-|-|.| | | |!| | | |!| | | | | | |}} {{familytree | | | | | | | | | |JA3 | |IBH | |WA2 | |MUA | |JA3='''[[ヤズィード3世]]'''<sup>12</sup>|IBH='''[[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]]'''<sup>13</sup>|WA2='''[[ワリード2世]]'''<sup>11</sup>|MUA=ムアーウィヤ|boxstyle_JA3 =background-color: #fcf;|boxstyle_IBH =background-color: #fcf;|boxstyle_WA2 =background-color: #fcf;}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |AA1 | |AA1=[[アブド・アッラフマーン1世]]<br>後ウマイヤ朝初代カリフ}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |:| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | AUM | |AUM=[[後ウマイヤ朝]]}} {{familytree/end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 脚注 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=カレン・アームストロング|translator=小林朋則|title=イスラームの歴史|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|year=2017|isbn=978-4-12-102453-4|ref={{SfnRef|アームストロング|2017}}}} * {{Cite book|和書|author=余部福三|title=イスラーム全史|publisher=[[勁草書房]]|year=1991|isbn=4-326-20034-0|ref={{SfnRef|余部|1991}}}} * {{Cite book|和書|author=井筒俊彦|title=イスラーム思想史|series=[[中公文庫]]|publisher=中央公論社|year=1991|isbn=4-12-201794-7|ref={{SfnRef|井筒|1991}}}} * {{Cite journal|和書|author=黒田寿郎 |title=ウマイヤ朝後期における政治的変遷の特殊性について |journal=史学 |issn=03869334 |publisher=三田史学会 |year=1967 |month=nov |volume=40 |issue=2/3 |pages=309-329 |naid=110007410069 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19671100-0313 |ref={{SfnRef|黒田|1967}}}} * {{Cite book|和書|author=小杉泰|title=イスラーム帝国のジハード|series=[[興亡の世界史]]|publisher=[[講談社]]|year=2006|isbn=4-06-280706-8|ref={{SfnRef|小杉|2006}}}} * {{Cite book|和書|author=小杉泰|title=イスラーム 文明と国家の形成|series=諸文明の起源|publisher=[[京都大学学術出版会]]|year=2011|isbn=978-4-87698-854-9|ref={{SfnRef|小杉|2011}}}} * {{Cite book|和書|author=後藤明|title=イスラーム世界史|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[KADOKAWA]]|year=2017|isbn=978-4-04-400264-0|ref={{SfnRef|後藤|2017}}}} * {{Cite book|和書|author=佐藤次高||year=2008|title=世界の歴史8 イスラーム世界の興隆|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|id=ISBN 978-4-12-205079-2|ref={{SfnRef|佐藤|2008}}}} * {{Cite book|和書|author=蔀勇造|authorlink=蔀勇造|title=物語 アラビアの歴史|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2018|isbn=978-4-12-102496-1|ref={{SfnRef|蔀|2018}}}} * {{Cite book|和書|author=嶋田襄平|title=イスラムの国家と社会|series=世界歴史叢書|publisher=[[岩波書店]]|year=1977|isbn=4-00-004551-2|ref={{SfnRef|嶋田|1977}}}} * {{Cite journal|和書|author=高野太輔 |title=ウマイヤ朝期イラク地方における軍事体制の形成と変容 : シリヤ軍の東方進出問題をめぐって |journal=史学雑誌 |issn=0018-2478 |publisher=史学会 |year=1996 |volume=105 |issue=3 |pages=307-331 |naid=110002362042 |doi=10.24471/shigaku.105.3_307 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.105.3_307 |ref={{SfnRef|高野|1996}}}} * {{Cite journal|和書|author=中野さやか |title=アブー・ファラジュ・イスファハーニー著『歌書』に見られる歌手達の分析:ウマイヤ朝・アッバース朝宮廷との関わりを中心に |journal=日本中東学会年報 |issn=0913-7858 |publisher=[[日本中東学会]] |year=2012 |volume=28 |issue=1 |pages=59-98 |naid=110009480301 |doi=10.24498/ajames.28.1_59 |url=https://doi.org/10.24498/ajames.28.1_59 |ref={{SfnRef|中野|2012}}}} * {{Cite journal|和書|author=松本隆志 |title=『歴史』と『征服』におけるハーリド・アルカスリーと第三次内乱 |journal=人文研紀要 |issn=0287-3877 |publisher=[[中央大学]]人文科学研究所 |year=2013 |issue=75 |pages=229-254 |naid=120006637978 |url=http://id.nii.ac.jp/1648/00005980/ |ref={{SfnRef|松本|2013}}}} * {{Cite journal|和書|author=横内吾郎 |title=ウマイヤ朝におけるエジプト総督人事とカリフへの集権 |journal=史林 |issn=03869369 |publisher=史学研究会 ([[京都大学文学部]]内) |year=2005 |month=jul |volume=88 |issue=4 |pages=576-603 |naid=120006598313 |doi=10.14989/shirin_88_576 |url=https://hdl.handle.net/2433/239860 |ref={{SfnRef|横内|2005}}}} * {{Cite journal|和書|author=横内吾郎 |title=ウマイヤ朝マルワーン家統治時代におけるメディナ統治 |journal=西南アジア研究 |issn=09103708 |publisher=西南アジア研究会 |year=2011 |issue=74 |pages=28-57 |naid=120006942900 |doi=10.14989/seinan-asia-kenkyu_74_28 |url=https://hdl.handle.net/2433/260444 |ref={{SfnRef|横内|2011}}}} * 平凡社音楽大事典 - 西アジア項 * サラーフ・アル・マハディ「アラブ音楽 構造・歴史・楽器学・古典39譜例付」(松田嘉子訳、PASTORALE出版、1998年) == 関連項目 == {{Commonscat|Umayyads}} * [[イスラム帝国]] * [[後ウマイヤ朝]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うまいやちよう}} [[Category:ウマイヤ朝|*]] [[Category:イスラム王朝]]
null
2023-06-29T07:18:59Z
false
false
false
[ "Template:Legend", "Template:Harvtxt", "Template:Familytree/start", "Template:Familytree/end", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 過去の国", "Template:Sfn", "Template:Refnest", "Template:Familytree", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Lang-ar", "Template:仮リンク", "Template:Main", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%9C%9D
15,527
アッバース朝
アッバース朝(الدولة العباسية、al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年–1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。 ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。 こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い(英語版)でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。 シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。 弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。 アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。 第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。 アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。 第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。 ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。 第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。 マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。 869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。 9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。 10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。 そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。 1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。 11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。 1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258年1月29日 - 2月10日)。1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。 1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィルが遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンの手厚い保護を受けることができた。 1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどを伴ってイスタンブールに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀を経て、エジプトのムスリムのなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。 その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースはこの滅亡の経緯について、「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。 首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。 アッバース朝は月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝はそのような体制を8世紀には実現していた。 アッバース朝では中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。 アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。 アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクではアフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。 アッバース朝では東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。 アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。 アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされイスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。 二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアのの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦やインド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。 天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュ(英語版)のものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によるとそのような変化には、宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。 マアムーンは科学振興のためバグダードに「知恵の館」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかしマアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーもマアムーン宮廷に出仕した天文学者である。 10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」はプロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。 スーフィズムはアッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。 錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものはごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出はマアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義がバグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるためにクルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。 イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴い、アッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で、改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。 アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。 第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。 第7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。 アルフラガヌスは第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。 知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。 サービト・イブン=クッラはペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。 シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。 アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。 初期アッバース朝時代に公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。 様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。 この物語の国際性は帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。 千夜一夜物語にはユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。 10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。 アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムはユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡はアラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。 Cはカイロ・アッバース朝のカリフ
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アッバース朝(الدولة العباسية、al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年–1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い(英語版)でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258年1月29日 - 2月10日)。1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィルが遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンの手厚い保護を受けることができた。", "title": "バグダード・アッバース朝の滅亡後" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどを伴ってイスタンブールに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀を経て、エジプトのムスリムのなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。", "title": "バグダード・アッバース朝の滅亡後" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースはこの滅亡の経緯について、「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。", "title": "バグダード・アッバース朝の滅亡後" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アッバース朝は月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝はそのような体制を8世紀には実現していた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アッバース朝では中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクではアフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。", "title": "農業" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アッバース朝では東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされイスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアのの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦やインド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュ(英語版)のものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によるとそのような変化には、宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "マアムーンは科学振興のためバグダードに「知恵の館」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかしマアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーもマアムーン宮廷に出仕した天文学者である。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」はプロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スーフィズムはアッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものはごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出はマアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義がバグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるためにクルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴い、アッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で、改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アルフラガヌスは第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "サービト・イブン=クッラはペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。", "title": "イスラム科学" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "初期アッバース朝時代に公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。", "title": "イスラム神学 " }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。", "title": "文学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この物語の国際性は帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。", "title": "文学" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "千夜一夜物語にはユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。", "title": "文学" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。", "title": "文学" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムはユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡はアラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。", "title": "イスラム文明とヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "Cはカイロ・アッバース朝のカリフ", "title": "系図" } ]
アッバース朝は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年–1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。
{{脚注の不足|date=2022-02-10 01:34(UTC)}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = アッバース朝 |日本語国名 = アッバース朝 |公式国名 ='''{{lang|ar|الخلافة العباسية الاسلامية}}''' |建国時期 = [[750年]] |亡国時期 = [[1258年]] |建国時期2 = [[1261年]] |亡国時期2 = [[1517年]] |先代1 = ウマイヤ朝 |先旗1 = |先代2 = |先旗2 = |次代1 = モンゴル帝国 |次旗1 = Flag of the Mongol Empire.svg |次旗1縁 = no |次代2 = フレグ・ウルス |次旗2 = Flag of Ilkhanate.svg |次代3 = オスマン帝国 |次旗3 = Flag of the Ottoman Empire.svg |次代4 = マムルーク朝 |次旗4 = Mameluke Flag.svg |次代5 = ブワイフ朝 |次代6 = セルジューク朝 |次旗6 = |次代7 = ルスタム朝 |次代8 = イドリース朝 |次旗8 = Flag of Morocco (780 1070) (1258 1659).svg |次代9 = アグラブ朝 |次代10 = ターヒル朝 |次旗10 = |国旗画像 = Abbasid banner.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = Abbasid Caliphate (greatest extent).svg |位置画像説明 = アッバース朝の版図(850年) |公用語 = [[アラビア語]] |宗教 = [[イスラム教]][[スンナ派]] |首都 = [[クーファ]]([[750年]] - [[752年]])<br>[[アンバール]]([[752年]] - [[762年]])<br>[[バグダード]]([[762年]] - [[836年]])<br>[[サーマッラー]]([[836年]] - [[886年]])<br>バグダード([[886年]] - [[1258年]])<br>[[カイロ]]([[1261年]] - [[1517年]]) |元首等肩書 = [[カリフ]] |元首等年代始1 = [[750年]] |元首等年代終1 = [[754年]] |元首等氏名1 = [[サッファーフ]] |元首等年代始2 = [[1242年]] |元首等年代終2 = [[1258年]] |元首等氏名2 = [[ムスタアスィム]] |元首等年代始3 = [[1508年]] |元首等年代終3 = [[1517年]] |元首等氏名3 = [[ムタワッキル3世]] |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |首相等氏名1 = |首相等年代始2 = |首相等年代終2 = |首相等氏名2 = |首相等年代始3 = |首相等年代終3 = |首相等氏名3 = |首相等年代始4 = |首相等年代終4 = |首相等氏名4 = |首相等年代始5 = |首相等年代終5 = |首相等氏名5 = |面積測定時期1 = 最大版図 |面積値1 = 12,600,000 |面積測定時期2 = |面積値2 = |人口測定時期1 =最盛期 |人口値1 =50,000,000 |人口測定時期2 = |人口値2 = |人口測定時期3 = |人口値3 = |人口測定時期4 = |人口値4 = |人口測定時期5 = |変遷1 = [[アッバース革命]] |変遷年月日1 = [[750年]] |変遷2 = [[タラス河畔の戦い]] |変遷年月日2 = [[751年]] |変遷3 = 分裂 |変遷年月日3 = [[8世紀]] - [[10世紀]] |変遷4 = [[ブワイフ朝]]が[[バグダード]]入城 |変遷年月日4 = [[945年]] |変遷5 = [[セルジューク朝]]が[[バグダード]]入城 |変遷年月日5 = [[1055年]] |変遷6 = [[モンゴル帝国]]により一旦滅亡 |変遷年月日6 = [[1258年]] |変遷7 = [[マムルーク朝]]の保護 |変遷年月日7 = [[1261年]] |変遷8 = [[オスマン帝国]]により断絶 |変遷年月日8 = [[1517年]] |通貨 = [[ディルハム]]<br>[[ディナール]] |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |現在 = {{IRQ}}<br>{{SYR}}<br>{{KWT}}<br>{{SAU}}<br>{{QAT}}<br>{{BHR}}<br>{{ARE}}<br>{{OMN}}<br>{{YEM}}<br>{{JOR}}<br>{{ISR}}<br>{{PSE}}<br>{{LBN}}<br>{{TUR}}<br> {{ARM}}<br>{{GEO}}<br>{{AZE}}<br>{{IRN}}<br>{{AFG}}<br>{{PAK}}<br>{{TKM}}<br>{{TJK}}<br>{{UZB}}<br> {{CYP}}<br>{{GRC}}<br>{{ITA}}<br>{{EGY}}<br>{{LBY}}<br>{{TUN}}<br>{{DZA}}<br>{{MAR}} |注記 = }} [[File:Abbasid Caliphate most extant.png|right|thumb|アッバース朝の最大版図(深緑はまもなく離反し([[後ウマイヤ朝]]など)、緑が850年以降の領土として留まる)]] '''アッバース朝'''({{lang|ar|'''الدولة العباسية'''}}、{{lang|ar-Latn|al-Dawla al-‘Abbāsīya}})は、[[中東]]地域を支配した[[イスラム帝国]]第2の[[イスラム王朝]]([[750年]]–[[1258年]])。[[ウマイヤ朝]]に代わり成立した。 王朝名は一族の名称となった父祖[[アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ]](預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の叔父)の名前に由来する。 == 概要 == [[イスラム教]]の開祖[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の叔父[[アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ]]の子孫を[[カリフ]]とし、最盛期にはその支配は西は[[イベリア半島]]から東は[[中央アジア]]まで及んだ。アッバース朝では[[アラブ人]]の特権は否定され、すべての[[ムスリム]]に平等な権利が認められ、[[イスラム黄金時代]]を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは[[産業革命]]より前における世界最大の都市となった<ref>宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』1994年</ref>。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、[[古代エジプト|エジプト]]、[[バビロニア]]の伝統文化を基礎にして、[[アラビア]]、[[ペルシア]]、[[古代ギリシア|ギリシア]]、[[古代インド|インド]]、[[中国]]などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年には[[ブワイフ朝]]がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼした[[セルジューク朝]]の庇護下に入るが、1258年に[[モンゴル帝国]]によって滅ぼされてしまう。しかし、[[カリフ]]位は[[マムルーク朝]]に保護され、1518年に[[オスマン帝国]][[スルタン]]の[[セリム1世]]によって廃位されるまで存続した。 [[イスラム帝国]]という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。[[後ウマイヤ朝]]を西カリフ帝国、アッバース朝を'''東カリフ帝国'''と呼称する場合もある。 == 歴史 == === 前史 === {{main|ウマイヤ朝}} [[ファイル:Abbasid sword.jpg|thumb|アッバース朝時代の刀剣([[トプカプ宮殿]]所蔵)]] [[ウマイヤ朝]]末期、[[ウマイヤ家]]によるイスラム教団の私物化は[[コーラン]]に記された[[アッラーフ]]の意思に反しているとみなされ、[[ムハンマド]]の一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張する[[シーア派]]の反発が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムは[[マワーリー]]と呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらず[[ジズヤ]](人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた<ref>小杉泰『イスラーム世界のジハード(興亡の世界史 第6巻)』講談社、 2006年11月17日第1刷、p203-205</ref>。 === ザーブ河畔の戦い === こうした不満を受けてイラン東部の[[ホラーサーン]]地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派の[[アラブ人]]とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗[[ペルシア人]]からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月に[[イラク]]中部都市[[クーファ]]に入城し、[[サッファーフ|アブー=アル=アッバース]](サッファーフ)を初代[[カリフ]]とする新王朝の成立を宣言した。翌750年1月、アッバース軍が{{仮リンク|ザーブ河畔の戦い|en|Battle of the Zab}}でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって[[族誅|根絶やし]]にされたが、第10代カリフ・[[ヒシャーム]]の孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。彼は後に[[イベリア半島]]に移り、756年には[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]で[[後ウマイヤ朝]]を建国して[[アブド・アッラフマーン1世]]と名乗ることとなった。 === アッバース革命 === {{main|アッバース革命}} シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。 弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。 アッバース朝は[[ウラマー]](宗教指導者)を裁判官に任用するなどして[[イスラム教]]の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革を[[アッバース革命]]という。アッバース革命は、[[イスラム教]]、[[シャリーア]](イスラム法)、[[アラビア語]]により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。 === アッバース朝の最盛期 === {{main|{{仮リンク|ムスリムのトランスオクシアナ征服|en|Muslim conquest of Transoxiana}}}} [[ファイル:Samara_spiralovity_minaret_rijen1973.jpg|thumb|サーマッラーの[[マルウィヤ・ミナレット]]]] 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は[[高仙芝]]が率いる3万人の[[唐]]軍を[[タラス河畔の戦い]]で破り、[[シルクロード]]を支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカの[[ターハルト]]([[:en:Tiaret|en]])に[[ルスタム朝]]が成立した。 第2代カリフ[[マンスール]]は、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代[[正統カリフ]]・[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]の故都[[クーファ]]に近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、[[チグリス川|ティグリス]]河畔の[[バグダード]](ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、[[762年]]から新都を造営した。この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人の[[ホラーサーン]]軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールは[[サーサーン朝]]の旧首都[[クテシフォン]]に保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。 アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「[[イマーム]]」「神の代理人」といった称号を採用し、単なる[[イスラム共同体]]([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまで[[ウラマー]]の同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力や[[シャリーア]](イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。 第5代カリフの[[ハールーン・アッ=ラシード]]の時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くの[[ハンマーム]](公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年には[[モロッコ]]の[[フェス]]に[[イドリース朝]]が成立、800年には[[チュニジア]]の[[カイラワーン]]に、[[アミール]]を名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であった[[アグラブ朝]]が成立し、[[マグリブ]]がアッバース朝統治下から離れた。 === 衰退への道 === ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟の[[アミーン]]を処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、[[ターヒル朝]]を開いてイラン東部を支配下におさめた。 第7代カリフの[[マアムーン]]は[[ギリシア哲学]]に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「[[知恵の館]]」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、[[ネストリウス派]]キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、[[アリストテレス]]の哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。 マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都[[サーマッラー]]を造営して遷都を行った。しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフの[[ムタワッキル]]没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であった[[エジプト]]が[[トゥールーン朝]]の下で事実上独立した。 869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こした[[ザンジュの乱]]は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。 === 政治的混乱 === [[ファイル:Shattering isochamend.png|thumb|300px|[[後ウマイヤ朝]]、[[イドリース朝]]、[[アグラブ朝]]、[[トゥールーン朝]]、[[ブワイフ朝]]、[[ハムダーン朝]]、{{仮リンク|サージュ朝|en|Sajid dynasty}}、[[アラヴィー朝|アリー朝]]、[[サーマーン朝]]、[[サッファール朝]](905年頃)]] 9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。 10世紀になると、[[北アフリカ]]に[[シーア派]]の[[ファーティマ朝]]が、[[イベリア半島]]に[[後ウマイヤ朝]]が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派の[[ブワイフ朝]]がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。 そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人を[[マムルーク]](軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。 1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派の[[セルジューク朝]]の[[トゥグリル・ベグ]]がバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフから[[スルタン]]の称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。 === アッバース朝のイラク支配回復 === {{main|ムスタルシド|ムクタフィー (12世紀)|ナースィル}} 11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配する[[マフムード2世 (セルジューク朝)|マフムード2世]]は[[イラク・セルジューク朝]]を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、[[ムスタルシド]]、第31代カリフ、[[ムクタフィー (12世紀)|ムクタフィー]]らは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。第34代カリフの[[ナースィル]]は[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・テキシュ]]を誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]と対立した。 === モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡 === {{main|チンギス・カンの西征|フレグの西征}} 1220年に[[チンギス・カンの西征]]によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、[[モンゴル帝国]]の[[モンケ|モンケ・ハーン]]は[[フレグ]]に10万超の軍勢を率いさせたうえで[[バグダード]]を攻略させた([[バグダードの戦い]]、1258年1月29日 - 2月10日)。1258年、当時のカリフであった[[ムスタアスィム]]は2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。 == バグダード・アッバース朝の滅亡後 == === カイロ・アッバース朝のカリフ存続 === 1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィルが遊牧民に護衛されて[[ダマスカス]]に到着したとの知らせを受けた[[マムルーク朝]]第5代スルタン[[バイバルス]]は、この人物を[[カイロ]]に招き、カリフ・[[ムスタンスィル2世]]として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンの手厚い保護を受けることができた。 === カイロ・アッバース朝の滅亡 === [[1517年]]、[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・[[ムタワッキル3世]]は数千人による[[エジプト人]]の[[アミール]]、行政官、書記、商人、職人、[[ウラマー]]などを伴って[[イスタンブール]]に移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀を経て、エジプトの[[ムスリム]]のなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。 その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、[[1543年]]にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースはこの滅亡の経緯について、「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。<ref>佐藤次高 『マムルーク』 東京大学出版、 P148、P176</ref> == 軍事 == [[File:Baghdad 150 to 300 AH.png|thumb|300px|当時のバグダードの俯瞰図]] 首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。 アッバース朝は月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝はそのような体制を8世紀には実現していた。<ref>佐藤次高、鈴木薫編 『都市の文明イスラーム』1993年</ref> アッバース朝では中央アジアの遊牧[[トルコ人]]との交易が盛んになって以降、[[マムルーク]]と呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。 == 交通 == アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。 == 農業 == アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクではアフリカ東岸から連れてこられた[[ザンジュ]]と呼ばれる[[イスラームと奴隷制|黒人奴隷]]を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の[[栽培植物]]の栽培が進められた。技術面ではイラン高原の[[カナート]](地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。 == 経済 == [[File:Abbasids Baghdad Iraq 1244.JPG|thumb|ディナール金貨]] アッバース朝では[[東ローマ帝国]]の[[ノミスマ金貨]]による金本位制と[[サーサーン朝]]による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、[[ヌビア]]や[[スーダン]]で金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手は[[モロッコ]]で現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が[[複式簿記]]を発明し、[[ジェノヴァ]]、[[ヴェネツィア]]を経由してヨーロッパに伝わった。<ref>宮崎正勝『知っておきたい「お金」の世界史』2009年</ref> アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場([[スーク (市)|スーク]]、[[バザール]])が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海の[[ガレー船]]、北欧の[[ヴァイキング船]]、インド洋の[[ダウ船]]、中央アジアの[[馬]]、砂漠地帯の[[ラクダ]]というような種々の交易手段の往来が活性化し、[[港湾]]、[[キャラバンサライ]](隊商宿)というような商業施設が成長した。 == イスラム科学 == アッバース朝では、[[東ローマ帝国]]への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面では[[クルアーン]]を読むために必須とされイスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていた[[アラビア語]]、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年の[[タラス河畔の戦い]]の際捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年には[[サマルカンド]]に製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった<ref>長澤和俊『シルクロード』講談社、1993年8月10日第1刷、p315</ref>。 二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアのの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした<ref name="三村2022">{{citation |和書|title=岩波講座 世界歴史 08 |contribution=イスラーム科学とギリシア文明 |first=太郎 |last=三村 |publisher=岩波書店 |year=2022 |isbn=978-4-00-011418-9 |pages=267-285 }}</ref>。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた{{r|三村2022}}。マンスールは新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師[[ナウバフト]]、[[マーシャーアッラー]]らに占わせた{{r|三村2022}}。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である<ref name="矢島1977">{{citation |和書|contribution=イスラム科学の発展過程の一考察 |author=矢島祐利 |title=アラビア科学史序説 |publisher=岩波書店 |year=1977 |NCID=BN01281079 |id={{全国書誌番号|77018899}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000001338890 }}</ref>{{rp|304-326}}。また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた{{r|三村2022}}{{r|矢島1977}}{{rp|304-326}}。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった{{r|三村2022}}。また、インドで考案された[[正弦]]や[[インド数字]]を使用する[[位取り記数法|十進位取り記法]]が利用されるようになった{{r|三村2022}}。翻訳者は[[ファザーリー]]と言われ、この人物はイスラーム圏ではじめて[[アストロラーベ]]を製作した者であるともされる{{r|三村2022}}{{r|矢島1977}}{{rp|304-326}}。なお[[ビールーニー]]によると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでも[[ブラフマグプタ]]の『[[ブラフマスピュタシッダーンタ]]』であったとのことである{{r|矢島1977}}{{rp|304-326}}。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した{{r|三村2022}}。 天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「[[ズィージュ]]」と呼ばれ、ファザーリー以後何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった{{r|三村2022}}。現存する最古のズィージュは七代目カリフ・マアムーンのころから活動していた{{ill2|ハバシュ・ハースィブ|en|Habash al-Hasib al-Marwazi|label=ハバシュ}}のものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている{{r|三村2022}}。[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[アルマゲスト]]』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる{{r|三村2022}}。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した<ref name="清水2022">{{citation |和書|title=岩波講座 世界歴史 08 |contribution=ユーラシア西部世界の構成と展開 |first=康弘 |last=大月 |first2=和裕 |last2=清水 |publisher=岩波書店 |year=2022 |isbn=978-4-00-011418-9 |pages=003-076 }}</ref>。三村 (2022) によるとそのような変化には、宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという{{r|三村2022}}。 マアムーンは科学振興のためバグダードに「{{ruby|[[知恵の館]]|バイトル・ヒクマ}}」という天文台付きの図書館を建てたと言われる<ref name="EI2-Bayt al-Ḥikma">{{EI2|title=Bayt al-Ḥikma |last=Sourdel |first=D. }}</ref>。ヨーロッパの[[オリエンタリズム|オリエンタリスト]]は[[アレクサンドリア図書館]]の模倣であろうと言い慣わしてきたが<ref>{{cite journal |title=Le Bayt al-ḥikma de Baghdad |first=M.-G. |last=Balty-Guesdon |journal=Arabica |volume=39 |number=2 |date=1992-07 |pages=131-150 |url=https://www.jstor.org/stable/4057057 }}</ref>、サーサーン朝期の[[ジュンディーシャープール]]にあった学院がモデルであるのは疑いない{{r|EI2-Bayt al-Ḥikma}}。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている{{r|清水2022}}。しかしマアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった{{r|清水2022}}<ref name="britannica al-Maʾmūn">Sourdel, Dominique. "al-Maʾmūn". Encyclopedia Britannica, 1 Jan. 2023, https://www.britannica.com/biography/al-Mamun. Accessed 16 March 2023.</ref>。彼の宮廷では、[[キンディー]]や[[フナイン・イブン・イスハーク]]らが活躍して大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた{{r|三村2022}}。[[バヌー・ムーサー三兄弟]]や[[ファルガーニー]]、[[ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミー]]もマアムーン宮廷に出仕した天文学者である{{r|矢島1977}}{{rp|304-326}}。 10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという<ref name="五十嵐1984">{{citation |和書|title=講座美学1―美学の歴史|contribution=イスラームの美学思想 |last=五十嵐 |first=一 |year=1984 |publisher=東京大学出版会 |pages=297-309 |isbn=4-13-015031-6 }}</ref>。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている{{r|五十嵐1984}}。ここでいう「知性」は[[プロティノス]]の[[流出論]]の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である<ref>{{citation |和書|title=知の連鎖―イスラームとギリシアの饗宴 |last=五十嵐 |first=一 |publisher=勁草書房 |year=1983 |pages=3-4}}</ref>。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのが[[スーフィー]]たちである{{r|五十嵐1984}}。 [[スーフィズム]]はアッバース朝が成立した8世紀半ばに[[バスラのラービア]]が現れ新たな局面を迎えた<ref name="シンメル1988">{{citation |和書|title=岩波講座東洋思想第四巻イスラーム思想2 |contibution=古典的スーフィズム―神秘思想とその象徴的表現 |author=アンネマリー・シンメル |first=アンネマリー |last=シンメル |publisher=岩波書店 |year=1988 |pages=50-84 }}</ref>。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ{{r|シンメル1988}}。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた{{r|清水2022}}{{r|シンメル1988}}。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった<ref name="佐藤1999">{{citation |和書|title=岩波講座世界歴史10イスラーム世界の発展 |contribution=イスラーム国家論 |pages=3-70 |year=1999 |last=佐藤 |first=次高 |publisher=岩波書店 }}</ref>{{rp|63}}。しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった{{r|佐藤1999}}{{rp|63}}。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた{{r|佐藤1999}}{{rp|63}}。9世紀のスーフィー、[[エジプトのズンヌーン]]は「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった{{r|シンメル1988}}。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる{{r|シンメル1988}}。 錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された<ref name="Meer, van der, 2000">{{citation |contribution=THE HARRAN OF THE SABIANS IN THE FIRST MILLENNIUM A.D.; CHANNEL OF TRANSMISSION OF A HERMETIC TRADITION? |title=18th World Congress of the International Association of the History of Religion, Durban/Zuid-Afrika |first=Annie |last=van der Meer |year=2000 }}</ref>。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものはごく一部にすぎない{{r|Meer, van der, 2000}}。伝説的な錬金術師[[ヘルメス・トリスメギストス|ヘルメス]]の教えとする文献が2000点にのぼる{{r|Meer, van der, 2000}}。有名な[[エメラルド・タブレット|緑玉板]]の初出はマアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である<ref name="Corbin1974">{{Cite book|和書|author=アンリ・コルバン|authorlink=アンリ・コルバン|title=イスラーム哲学史|translator=[[黒田壽郎]]、[[柏木英彦]]|publisher=[[岩波書店]]|date=1974 }}</ref>{{rp|150-151}}。エジプトで受け継がれてきた[[ヘルメス主義]]がバグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、[[ハッラーン]]の「[[サービア教徒]]」がかかわった{{r|Meer, van der, 2000}}。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるためにクルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である{{r|Meer, van der, 2000}}<ref name="江原2021">江原, 聡子, 2021, イスラーム期における都市ハランの宗教 : イブン・アン = ナディームの『目録の書』を中心に: 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会, 101–133 p.</ref>。 イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴い、アッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった{{r|清水2022}}。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で、改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった{{r|清水2022}}。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを[[預言者イドリース]]あるいは[[エノク|ウフノフ]]と同一視することで預言者を持ち{{r|Meer, van der, 2000}}{{r|Corbin1974}}、[[至高神]]として[[不動の動者|第一原因]]を観念するといった一神教化を遂げる{{r|江原2021}}。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する{{r|Corbin1974}}。 アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは主に[[カイサーン派]]と[[ザイド派]]のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家の[[ムハンマド・バーキル]]と[[ジャアファル・サーディク]]の支持者は当時、必ずしも多くなかったようである<ref name="菊地2009">菊地達也『イスラーム教「異端」と「正統」の思想史』(講談社、2009年)</ref>{{rp|99-100}}。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、[[イマーム派]]のなかから生まれた{{r|菊地2009}}{{rp|99-100}}。イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した{{r|菊地2009}}{{rp|106-113}}。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという{{r|矢島1977}}{{rp|171-172}}{{r|菊地2009}}{{rp|99-100}}。 第5代カリフ、[[ハールーン・アッ=ラシード]]に仕えた[[ジャービル・イブン=ハイヤーン]]は近代[[化学]]の基礎を築いた人物である。彼は[[塩酸]]、[[硝酸]]、[[硫酸]]の精製と結晶化法を発明し、[[金]]を溶かすことができる[[王水]]を発明した。また、彼は[[クエン酸]]、[[酢酸]]、[[酒石酸]]の発見者であるとされる。[[アルカリ]]の概念も彼が生み出した。 第7代カリフ、[[マアムーン]]に仕えた[[フワーリズミー]]は、インドとギリシアの数学を総合して[[代数学]]を確立したことで知られ、[[アルゴリズム]]の語源となった人物である。 [[アルフラガヌス]]は第7代カリフ・[[マアムーン]]が組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。 [[知恵の館]]の主任翻訳官を務めた[[フナイン・イブン・イスハーク]]は[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家論]]』や[[アリストテレス]]の『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』、[[クラウディオス・プトレマイオス]]の『[[アルマゲスト]]』、[[ヒポクラテス]]や[[ガレノス]]の医学書を翻訳した。 [[サービト・イブン=クッラ]]は[[ペルガのアポロニウス]]、[[アルキメデス]]、[[エウクレイデス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス]]の著書を訳した。また、[[友愛数]]の発見者とされる。 シリアで活躍した[[バッターニー]]は[[球面幾何学]]、[[黄道傾斜角]]を発見した。月のクレーターなど多くの事物に[[バッターニー]]の名が残されている。 [[アル・ラーズィー]]は実用医学の基礎をつくった人物であり、[[エタノール]]を発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。[[コーヒー]]に関する最古の記録を残したことでも知られる。 == イスラム神学 == {{Main|カラーム}} 初期アッバース朝時代に公認の教義とされた[[イスラム神学]]に[[ムータジラ学派]]がある。[[ギリシア哲学]]の影響を強く受けたムータジラ学派は合理主義的な解釈に特徴がある。[[マアムーン]]はムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。 == 文学 == [[ファイル:Arabian nights manuscript.jpg|thumb|[[アラビア語]]で書かれた[[千夜一夜物語]]]] 様々なジャンルの物語を集めた[[千夜一夜物語]]はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『[[ハールーン・アッ=ラシード]]の御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、また[[マグリブ|マグレブ]]から[[アンダルス]]、[[支那|シナ]]や[[韃靼]]の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、[[ハールーン・アッ=ラシード]]の時代の物語というかたちになっている。 この物語の国際性は帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手の[[シェヘラザード]]はペルシア系、[[アリババと40人の盗賊|アリババ]]がアラブ系、[[シンドバード]]がインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。 [[千夜一夜物語]]にはユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。[[バスラ]]から荒海に乗り出した船乗り[[シンドバード]]の話は有名であり、後の[[ロビンソン・クルーソー]]の冒険、[[ガリバー旅行記]]などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。 10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。[[サアーリビー]]は、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。[[タヌーヒー]]は、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話は[[マカーマ (文学)|マカーマ]]という文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評された[[アル・ハマザーニー]]がマカーマを創始し、[[アル・ハリーリー]]が大成した。百科全書的な書籍としては、[[アブル・ファラジュ]]によるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。 == イスラム文明とヨーロッパ == アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムはユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡はアラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。<ref>宮崎正勝『世界史の誕生とイスラーム』2009年</ref> == 歴代カリフ == === バグダード・アッバース朝 === # [[サッファーフ]](750年 - 754年) # [[マンスール]](754年 - 775年)- 首都[[バグダード]]を造営。 # [[マフディー (アッバース朝カリフ)|マフディー]](775年 - 785年) # [[ハーディー (アッバース朝カリフ)|ハーディー]](785年 - 786年) # [[ハールーン・アッ=ラシード]](786年 - 809年) - 最盛期を達成。 # [[アミーン]](809年 - 813年) # [[マアムーン]](813年 - 833年) - [[知恵の館]]を設立。 # [[ムウタスィム]](833年 - 842年) # {{仮リンク|ワースィク|en|Al-Wathiq}}(842年 - 847年) # [[ムタワッキル]](847年 - 861年) # [[ムンタスィル]](861年 - 862年) # [[ムスタイーン]](862年 - 866年) # [[ムウタッズ]](866年 - 869年) # [[ムフタディー]](869年 - 870年) # [[ムウタミド]](870年 - 892年) # [[ムウタディド]](892年 - 902年) # {{仮リンク|ムクタフィー (アッバース朝カリフ)|label=ムクタフィー|en|Al-Muktafi}}(902年 - 908年) # [[ムクタディル]](908年 - 932年) # [[カーヒル (アッバース朝カリフ)|カーヒル]](932年 - 934年) # [[ラーディー]](934年 - 940年) # [[ムッタキー]](940年 - 944年) # [[ムスタクフィー]](944年 - 946年) # [[ムティー]](946年 - 974年) # [[ターイー]](974年 - 991年) # [[カーディル]](991年 - 1031年) # [[カーイム]](1031年 - 1075年) # {{仮リンク|ムクタディー|en|Al-Muqtadi}}(1075年 - 1094年) # {{仮リンク|ムスタズィール|en|Al-Mustazhir}}(1094年 - 1118年) # [[ムスタルシド]](1118年 - 1135年) # [[ラーシド]](1135年 - 1136年) # [[ムクタフィー (12世紀)|ムクタフィー]](1136年 - 1160年) # [[ムスタンジド]](1160年 - 1170年) # [[ムスタディー]](1170年 - 1180年) # [[ナースィル]](1180年 - 1225年) # [[ザーヒル]](1225年 - 1226年) # [[ムスタンスィル]](1226年 - 1242年) # [[ムスタアスィム]](1242年 - 1258年) === カイロ・アッバース朝 === # [[ムスタンスィル2世]]([[1261年]] - [[1262年]]) # [[ハーキム1世]]([[1262年]] - [[1302年]]) # {{仮リンク|ムスタクフィー1世|en|Al-Mustakfi I (Cairo)}}([[1303年]] - [[1340年]]) # [[ワースィク1世]]([[1340年]] - [[1341年]]) # {{仮リンク|ハーキム2世|en|Al-Hakim II}}([[1341年]] - [[1352年]]) # {{仮リンク|ムゥタディド1世|en|Al-Mu'tadid I}}([[1352年]] - [[1362年]]) # {{仮リンク|ムタワッキル1世|en|Al-Mutawakkil I}}(第1期:[[1362年]] - [[1377年]]) # {{仮リンク|ムウタスィム (カイロ・アッバース朝カリフ)|en|Al-Musta'sim (Cairo)|label=ムウタスィム}}(第1期:[[1377年]]) # ムタワッキル1世(第2期:1377年 - [[1383年]]) # {{仮リンク|ワースィク2世|en|Al-Wathiq II}}([[1383年]] - [[1386年]]) # ムウタスィム(第2期:[[1386年]] - [[1389年]]) # ムタワッキル1世(第3期:[[1389年]] - [[1406年]]) # {{仮リンク|ムスタイーン (カイロ・アッバース朝カリフ)|en|Al-Musta'in (Cairo)|label=ムスタイーン}} ([[1406年]] - [[1414年]]) # {{仮リンク|ムウタディド2世|en|Al-Mu'tadid II}}([[1414年]] - [[1441年]]) # {{仮リンク|ムスタクフィー2世|en|Al-Mustakfi II}}([[1441年]] - [[1451年]]) # {{仮リンク|カーイム (カイロ・アッバース朝カリフ)|en|Al-Qa'im (Abbasid caliph at Cairo)|label=カーイム}}([[1451年]] - [[1455年]]) # {{仮リンク|ムスタンジド (カイロ・アッバース朝カリフ)|en|Al-Mustanjid (Cairo)|label=ムスタンジド}}([[1455年]] - [[1479年]]) # {{仮リンク|ムタワッキル2世|en|Al-Mutawakkil II}}([[1479年]] - [[1497年]]) # {{仮リンク|ムスタムスィク|en|Al-Mustamsik}}(第1期:[[1497年]] - [[1508年]]) # [[ムタワッキル3世]] (第1期:[[1508年]] - [[1516年]]) # ムスタムスィク(第2期:[[1516年]] - [[1517年]]) # ムタワッキル3世(第2期:[[1517年]]) == 系図 == Cはカイロ・アッバース朝のカリフ {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | | | | HAS | |HAS=[[ハーシム家]]}} {{familytree | | | | |:| | |}} {{familytree | | | |ABB | |ABB=[[アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ|アッバース]]}} {{familytree | | | | |!| | |}} {{familytree | | | |ADA | |ADA=アブド・アッラーフ}} {{familytree | | | | |!| | |}} {{familytree | | | |ALI | |ALI=アリー}} {{familytree | | | | |)|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | |MUH | |ABD | |MUH=ムハンマド|ABD=[[アブドゥッラー・イブン・アリー|アブドゥッラー]]}} {{familytree | | | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | |IBR | |MAN | |SAF | |IBR=[[イブラーヒーム・イブン・ムハンマド|イブラーヒーム]]|MAN='''[[マンスール]]'''<sup>2</sup>|SAF='''[[サッファーフ]]'''<sup>1</sup>}} {{familytree | | | | | | | | |)|-|-|-|.| | | | | | |}} {{familytree | | | | | | | |MAF | |JAF | | | |MAF='''[[マフディー (アッバース朝カリフ)|マフディー]]'''<sup>3</sup>|JAF=ジャアファル}} {{familytree | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|*|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | |HAD | |HAL |y| ZBI | |ABB |~|JAH | |HAD='''[[ハーディー (アッバース朝カリフ)|ハーディー]]'''<sup>4</sup>|HAL='''[[ハールーン・アッ=ラシード]]'''<sup>5</sup>|ZBI=[[ズバイダ]]|ABB=アッバーサ|JAH=[[ジャアファル]]}} {{familytree | | |,|-|-|-|v|-|'| |!| | |}} {{familytree | |MAA | |MUT | |AMI | |MAA='''[[マアムーン]]'''<sup>7</sup>|MUT='''[[ムウタスィム]]'''<sup>8</sup>|AMI='''[[アミーン]]'''<sup>6</sup>}} {{familytree | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | |}} {{familytree | |MUH | |WAS | |MUT | |MUH=ムハンマド|WAS='''[[ワースィク]]'''<sup>9</sup>|MUT='''[[ムタワッキル]]'''<sup>10</sup>}} {{familytree | | |!| | | |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |}} {{familytree | |MST | |MFT | |MNT | |MTZ | |MTM | |MWF | |MST='''[[ムスタイーン]]'''<sup>12</sup>|MFT='''[[ムフタディー]]'''<sup>14</sup>|MNT='''[[ムンタスィル]]'''<sup>11</sup>|MTZ='''[[ムウタッズ]]'''<sup>13</sup>|MTM='''[[ムウタミド]]'''<sup>15</sup>|MWF=ムワッファク}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |MTD | |MTD='''[[ムウタディド]]'''<sup>16</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|(| | |}} {{familytree | | | | | | | | | |MKT | | | | | |MKD | |KAH | |MKT='''[[ムクタフィー (10世紀)|ムクタフィー]]'''<sup>17</sup>|MKD='''[[ムクタディル]]'''<sup>18</sup>|KAH='''[[カーヒル (アッバース朝カリフ)|カーヒル]]'''<sup>19</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | | | | | | | |MST | |LAD | |MTK | |MTI | |MST='''[[ムスタクフィー]]'''<sup>22</sup>|LAD='''[[ラーディー]]'''<sup>20</sup>|MTK='''[[ムッタキー]]'''<sup>21</sup>|MTI='''[[ムティー]]'''<sup>23</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |KAD | |TAI | |KAD='''[[カーディル]]'''<sup>25</sup>|TAI='''[[ターイー]]'''<sup>24</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |KAI | |KAI='''[[カーイム]]'''<sup>26</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |JAA | |JAA=ジャーヒラ・アッディーン}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |MUK | |MUK='''[[ムクタディー]]'''<sup>27</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |MST | |MST='''[[ムスタズヒル]]'''<sup>28</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | |}} {{familytree | | | | | | | | | |MST | | | | | |MKT | |MST='''[[ムスタルシド]]'''<sup>29</sup>|MKT='''[[ムクタフィー (12世紀)|ムクタフィー]]'''<sup>31</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | |RAS | | | | | |MUT | |RAS='''[[ラーシド]]'''<sup>30</sup>|MUT='''[[ムスタンジド]]'''<sup>32</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | |MST | |MST='''[[ムスタディー]]'''<sup>33</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | |NAS | |NAS='''[[ナースィル]]'''<sup>34</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | |ZAH | |ZAH='''[[ザーヒル]]'''<sup>35</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | | |)|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | |MST | |MS2 | |MST='''[[ムスタンスィル]]'''<sup>36</sup>|MS2='''[[ムスタンスィル2世]]'''<sup>C1</sup>}} {{familytree | | | | | | | | | | |:| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | | | | | | | | | |HA1 | | | | | |MUS | |HA1='''[[ハーキム1世]]'''<sup>C2</sup>|MUS='''[[ムスタアスィム]]'''<sup>37</sup>}} {{familytree | | | | | | |,|-|-|-|(| | |}} {{familytree | | | | | |MUH | |MS1 | |MUH=ムハンマド|MS1='''[[ムスタクフィー1世]]'''<sup>C3</sup>}} {{familytree | | | | | | |!| | | |)|-|-|-|.| | |}} {{familytree | | | | | |WA1 | |HA2 | |MU1 | |WA1='''[[ワースィク1世]]'''<sup>C4</sup>|HA2='''[[ハーキム2世]]'''<sup>C5</sup>|MU1='''[[ムゥタディド1世]]'''<sup>C6</sup>}} {{familytree | | |,|-|-|-|(| | | | | | | |!| | |}} {{familytree | |WA2 | |MUA | | | | | |MT1 | |WA2='''[[ワースィク2世]]'''<sup>C8</sup>|MUA='''[[ムウタスィム (カイロのカリフ)|ムウタスィム]]'''<sup>C9</sup>|MT1='''[[ムタワッキル1世]]'''<sup>C7,C10</sup>}} {{familytree | | |,|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|+|-|-|-|.| | |}} {{familytree | |MST | |MU2 | |MS2 | |QAI | |MSJ | |MST='''[[アーディル・ムスタイーン|ムスタイーン]]'''<sup>C11</sup>|MU2='''[[ムウタディド2世]]'''<sup>C12</sup>|MS2='''[[ムスタクフィー2世]]'''<sup>C13</sup>|QAI='''[[カーイム (カイロのカリフ)|カーイム]]'''<sup>C14</sup>|MSJ='''[[ムスタンジド (カイロのカリフ)|ムスタンジド]]'''<sup>C15</sup>}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |MT2 | |MT2='''[[ムタワッキル2世]]'''<sup>C16</sup>}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |MTS | |MTS='''[[ムスタムスィク]]'''<sup>C17</sup>}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |MT3 | |MT3='''[[ムタワッキル3世]]'''<sup>C18</sup>}} {{familytree/end}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考書籍 == * [[イブン・ハルドゥーン]]『[[歴史序説]]』、[[森本公誠]]訳、[[岩波文庫]](全4巻)、2001年。 * 木村康彦・[[木村靖二]]・吉田寅編『詳説 世界史研究』、[[山川出版社]]、改訂版2008年。 * [[宮崎正勝]]『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』、講談社選書メチエ、1994年。 * 宮崎正勝『世界史の誕生とイスラーム』、[[原書房]]、2009年。 * ダニエル・ジャーカル『アラビア科学の歴史』、遠藤ゆかり訳、創元社[[「知の再発見」双書]]、2006年。 * [[佐藤次高]]・鈴木薫編『都市の文明イスラーム イスラームの世界史①』[[講談社現代新書]]、1993年。 == 関連項目 == * {{仮リンク|アッバース朝の美術|fr|Art abbasside}} * {{仮リンク|ダブワイド朝|en|Dabuyid dynasty|fr|Dabwaïhides}}([[642年]]-[[760年]]) == 外部リンク == {{Commons category|Abbasid Caliphate}} * [http://www.princeton.edu/~batke/itl/denise/abbasids.htm Abbasids (750-1517)] * [http://www.islamicarchitecture.org/dynasties/abbasids.html Abbasids the 2nd dynasty of caliphs] * [http://www.bbc.co.uk/radio4/history/inourtime/inourtime_20060202.shtml Abbasid Caliphs (In Our Time, Radio 4)], in Streaming RealAudio * [http://synkronyzer.wordpress.com/tag/islamic-history/ An On-Going Detailed Account of the History of the Abbasids from an Islamic perspective. Most of the narrations have been sifted through to avoid "biased" theories regardless if the historians as mentioned are Shiite or Sunni.] * [http://www.iranica.com/newsite/articles/v1f1/v1f1a052.html Abbasid Caliphate] entry in [http://www.iranica.com/newsite/ Encyclopaedia Iranica] * {{Kotobank}} {{アッバース朝}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:あつはあすちよう}} [[Category:アッバース朝|*]] [[Category:イスラム世界史]] [[Category:バグダードの歴史]] [[Category:イスラム王朝]]
null
2023-06-08T23:46:17Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 過去の国", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Citation", "Template:Cite book", "Template:Authority control", "Template:Familytree/end", "Template:EI2", "Template:Commons category", "Template:仮リンク", "Template:Rp", "Template:Kotobank", "Template:Cite journal", "Template:脚注の不足", "Template:Main", "Template:R", "Template:Ill2", "Template:Ruby", "Template:Familytree/start", "Template:Familytree", "Template:アッバース朝" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
15,529
中山道
中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。 南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県・京都府に該当する地域を通過する。 江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている。東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には碓氷峠越えや和田峠越え、「木曽のかけはし」通過などの難所があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず川越人足が置かれ、時に長期の川止めもある大井川、安倍川や、険しい箱根峠など交通難所が多い上に、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる。 西からであるが倉賀野宿からは日光例幣使街道が整備され、日光西街道を経て日光街道に接続している。 信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の1つである甲州街道と再び合流する。また、美濃の垂井で脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、東海道の宮(熱田)と連絡した。 律令時代に東山道は畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。途中の上野国から分岐して武蔵国に向かう東山道武蔵路もあった(後の中山道よりも西寄りのルートをたどっていた)。 戦国時代の東山道は、武田氏(甲斐国)や小笠原氏(信濃国)や金森氏(飛騨国)や織田氏(美濃国)などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号、国道151号・国道153号、国道22号などの源流となった。 織田信長は江南の六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿(滋賀県米原市)から鳥居本宿(滋賀県彦根市)間で東山道と異なり、中山道となった。 1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。 東山道の岡谷・佐久間をショートカットし和田峠を越える道筋はすでに使われていた。 江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) - 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった。 戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された。一方で庶民には木曽街道や木曽路といった古くからの呼称、俗称も用いられた。また、数箇所の険しい峠道があった。東海道のような長期にわたる川止めがある河川は比較的少ないと言えど、長良川の増水と川止めに留意をするなど、河川対策はそれなりに必要であった。中山道は、姫街道とも呼ばれ、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた。皇女和宮の他、徳川家定の2番目の正室「澄心院」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている。 幕末、文久元年(1861年10月20日)に皇女和宮は徳川家への降嫁のための江戸下向の旅についた。下向経路は、当初東海道とされていたが、中山道に変更・利用された。このことは、下向に先立つこと半年程前の文久元年3月26日(1861年5月5日)に、老中久世大和守から道中奉行兼帯の大目付平賀駿河守(勝足)に発出された文書から明らかにされている。 関所は、上野国碓氷(群馬県安中市)、信濃国福島(長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川(長野県塩尻市)の3箇所に設置された。 明治中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と信州を結ぶ街道(東京 - 長野)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋 - 長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。 1869年(明治2年)、明治政府により東京 - 京都の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画したが、その路線の選定では東海道ルートと中山道ルートの両案が並立した。東海道ルートは1870年(明治3年)、中山道ルートに対しては1871年(明治4年)から1875年(明治8年)にかけて数回の実地調査が行われた結果、1876年(明治9年)に建築師長ボイルから上告書が提出され、建設は中山道ルートが適当であると決定した。上告書には、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から有利であると報告されている。しかし資金難から政府による鉄道建設は進まず、1883年(明治16年)に、再度路線の比較検討が行われた。東海道ルートでは箱根の山越えと大井川等の河川に架橋することの困難さが懸念される一方、中山道ルートはすでに私鉄の日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日、上野 - 熊谷間などが開業、翌1884年(明治17年)には上野 - 高崎間が開通予定であったこと、碓氷峠通過の困難さが検討事項に入っていないなどにより、正式に「中山道鉄道建設公債」を発行して中山道ルートを建設することが決定した。一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の山縣有朋が1883年(明治16年)6月に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張したことから、このようなルートが採用されたとするものもあるが、実際には工部省鉄道局が1883年(明治16年)8月にこのルートの採用を決めている。 更に、当時の日本の主力輸出産品であった生糸の主産地である群馬県や長野県を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線(軽井沢 - 直江津、岐阜 - 武豊、米原 - 敦賀など)も設置することになっていた。 この決定に従い、官設鉄道の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。開業は以下の通りである。 東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。東海道に加え明治維新以後、名古屋を中心とする放射状交通網が整備されたため、人と物流の構造が中山道を中心とした「内陸」と東海道を中心とした「沿岸」から、東西の幹線の東海道と名古屋を中心とした構造に変わったためである。 加納宿(岐阜市加納)以西の中山道ルートには、太平洋沿岸に当たる三重県の鈴鹿山脈を越える本来の東海道に代わって、新たに東海道線が敷設された。そして戦後には、岐阜以西の中山道ルートには、名神高速道路や東海道新幹線が敷設され、東西の幹線の表道となった。 岐阜以東の中山道ルートには、概ね高山本線・太多線・中央本線・信越本線・高崎線などの国鉄路線が整備されたが、いずれも東西の幹線という意味を持たず、太平洋側(関東、東海地方)・内陸側(甲信地方)・日本海側(北陸地方)の都市や村落を結ぶ、南北の連絡線や、東西の幹線の裏道というルートとなった。また、私鉄による東海道新線構想には熱心だった明治・大正期の資本家も初期の明治政府が放棄した東名・東阪連絡の中山道幹線の建設再開の動きを示さなかった。 中山道ルートの内、和田峠を越える部分に当たる岩村田 - 下諏訪間については、並行する鉄道が建設されなかった。また現在も高速道路の計画はない。それ以降、東京 - 下諏訪間の内陸ルートは、中山道ルート(高崎経由)ではなく、甲州街道ルート(甲府経由)が主流となっており、下諏訪以西が中山道ルートとなっている。 戦後、日本経済は東京一極集中が進み、それに伴い関西経済は地盤沈下して、北関東・東信と畿内との間の交流が希薄となり、中山道ルートの衰退に拍車をかけた。 しかし、関東地方と近畿地方を結ぶ幹線を、東海道ルートではなく中山道ルートに建設しようという構想は、1950年代以後に国土開発幹線自動車道(国土縦貫自動車道)計画として再び現れた。甲州街道と併走し、岐阜県東濃地方で中山道と併走する中央自動車道は、中山道と併走する名神高速道路を正式には含んでおり(名神高速道路の法定名称は「中央自動車道西宮線」)、東京と西宮を結ぶ東西の幹線になっている。また東京と大阪を結ぶ新幹線の計画路線として構想されており、東海道新幹線のバイパスとしての役割を担う中央新幹線も、同じく内陸部の甲州街道・中山道に併走する建設ルートが予定されている。一方で名古屋以西では対照的に、名神高速より高規格な新名神高速道路が東海道ルートで開通し、中央新幹線も関ヶ原には回らずに三重県・奈良県を経て大阪に達するルートが有力である。 明治以後の急速な経済発展や関東大震災による被災、第二次大戦時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来た。高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。特に、重要伝統的建造物群保存地区として選定された長野県の妻籠宿(1976年選定)と奈良井宿(1978年選定)が有名である。他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。また、奈良井宿と藪原宿の間にあり、日本海(信濃川水系)と太平洋(木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠や、妻籠宿と馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備が進められている。 中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われている。その中で最大の領地を持つ加賀藩は、江戸藩邸の上屋敷を中山道沿いの本郷に、下屋敷を板橋宿に置いた。そのうち、江戸上屋敷の敷地は明治以後は、東京帝国大学となった。現在の東京大学本郷キャンパスは、国道17号に面している(ただし、国道17号の同キャンパス付近の通称は「本郷通り」と呼ばれ、後述のように「中山道」とは呼ばれていない)。また、かつての中山道に面して建つ加賀藩上屋敷の御守殿門(赤門)は、重要文化財に指定され保存されている。 中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった。馬籠宿出身の島崎藤村は、自らの故郷を舞台に歴史小説『夜明け前』を執筆した。現在は馬籠の生家跡に「藤村記念館」がある。 他の江戸五街道は基本的に1本(東海道 = 国道1号など)または多くても2本(日光街道 = 国道4号・国道119号)の国道(の一部区間)として継承されているが、中山道は多数の道路に分割されている。 現在は、以下の道路が中山道に相当し (一部は中山道の道筋と重なる)、呼称(後述)や愛称で中山道などと呼ばれている区間も存在する。 国道17号の西巣鴨交差点から埼玉県境までの「東京都通称道路名」を中山道(なかせんどう)と称している。 新後閑町交差点から岩鼻町交差点に至る群馬県道12号前橋高崎線、群馬県道121号和田多中倉賀野線、及び高崎市道の「高崎市道路愛称名」を旧中山道(きゅうなかせんどう、英 : Kyu Nakasendo、番号28番)と称している。 近年においては沿線が連携した観光振興・広報策が図られている。 一例として中山道沿いの30市町区が連携した宿場の人気投票イベント「NSD67 総選挙!!」が2015年11月1日〜29日の日程で実施され、総投票数8948票を得た。 投票対象は大津宿(東海道と共有)を除く68宿および日本橋で、タイトルに付された数字の67は草津宿(東海道と合流)と大津宿を除く宿場の数を意味する。上位には旧信濃国(おおむね長野県)に所在し木曽路の観光地である奈良井宿(1位)・妻籠宿(2位)・馬籠宿(9位、現在は岐阜県)などがランクインした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県・京都府に該当する地域を通過する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている。東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には碓氷峠越えや和田峠越え、「木曽のかけはし」通過などの難所があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず川越人足が置かれ、時に長期の川止めもある大井川、安倍川や、険しい箱根峠など交通難所が多い上に、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "西からであるが倉賀野宿からは日光例幣使街道が整備され、日光西街道を経て日光街道に接続している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の1つである甲州街道と再び合流する。また、美濃の垂井で脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、東海道の宮(熱田)と連絡した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "律令時代に東山道は畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。途中の上野国から分岐して武蔵国に向かう東山道武蔵路もあった(後の中山道よりも西寄りのルートをたどっていた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦国時代の東山道は、武田氏(甲斐国)や小笠原氏(信濃国)や金森氏(飛騨国)や織田氏(美濃国)などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号、国道151号・国道153号、国道22号などの源流となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "織田信長は江南の六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿(滋賀県米原市)から鳥居本宿(滋賀県彦根市)間で東山道と異なり、中山道となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "東山道の岡谷・佐久間をショートカットし和田峠を越える道筋はすでに使われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) - 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された。一方で庶民には木曽街道や木曽路といった古くからの呼称、俗称も用いられた。また、数箇所の険しい峠道があった。東海道のような長期にわたる川止めがある河川は比較的少ないと言えど、長良川の増水と川止めに留意をするなど、河川対策はそれなりに必要であった。中山道は、姫街道とも呼ばれ、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた。皇女和宮の他、徳川家定の2番目の正室「澄心院」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "幕末、文久元年(1861年10月20日)に皇女和宮は徳川家への降嫁のための江戸下向の旅についた。下向経路は、当初東海道とされていたが、中山道に変更・利用された。このことは、下向に先立つこと半年程前の文久元年3月26日(1861年5月5日)に、老中久世大和守から道中奉行兼帯の大目付平賀駿河守(勝足)に発出された文書から明らかにされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "関所は、上野国碓氷(群馬県安中市)、信濃国福島(長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川(長野県塩尻市)の3箇所に設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "明治中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と信州を結ぶ街道(東京 - 長野)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋 - 長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)、明治政府により東京 - 京都の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画したが、その路線の選定では東海道ルートと中山道ルートの両案が並立した。東海道ルートは1870年(明治3年)、中山道ルートに対しては1871年(明治4年)から1875年(明治8年)にかけて数回の実地調査が行われた結果、1876年(明治9年)に建築師長ボイルから上告書が提出され、建設は中山道ルートが適当であると決定した。上告書には、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から有利であると報告されている。しかし資金難から政府による鉄道建設は進まず、1883年(明治16年)に、再度路線の比較検討が行われた。東海道ルートでは箱根の山越えと大井川等の河川に架橋することの困難さが懸念される一方、中山道ルートはすでに私鉄の日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日、上野 - 熊谷間などが開業、翌1884年(明治17年)には上野 - 高崎間が開通予定であったこと、碓氷峠通過の困難さが検討事項に入っていないなどにより、正式に「中山道鉄道建設公債」を発行して中山道ルートを建設することが決定した。一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の山縣有朋が1883年(明治16年)6月に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張したことから、このようなルートが採用されたとするものもあるが、実際には工部省鉄道局が1883年(明治16年)8月にこのルートの採用を決めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "更に、当時の日本の主力輸出産品であった生糸の主産地である群馬県や長野県を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線(軽井沢 - 直江津、岐阜 - 武豊、米原 - 敦賀など)も設置することになっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この決定に従い、官設鉄道の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。開業は以下の通りである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。東海道に加え明治維新以後、名古屋を中心とする放射状交通網が整備されたため、人と物流の構造が中山道を中心とした「内陸」と東海道を中心とした「沿岸」から、東西の幹線の東海道と名古屋を中心とした構造に変わったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "加納宿(岐阜市加納)以西の中山道ルートには、太平洋沿岸に当たる三重県の鈴鹿山脈を越える本来の東海道に代わって、新たに東海道線が敷設された。そして戦後には、岐阜以西の中山道ルートには、名神高速道路や東海道新幹線が敷設され、東西の幹線の表道となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "岐阜以東の中山道ルートには、概ね高山本線・太多線・中央本線・信越本線・高崎線などの国鉄路線が整備されたが、いずれも東西の幹線という意味を持たず、太平洋側(関東、東海地方)・内陸側(甲信地方)・日本海側(北陸地方)の都市や村落を結ぶ、南北の連絡線や、東西の幹線の裏道というルートとなった。また、私鉄による東海道新線構想には熱心だった明治・大正期の資本家も初期の明治政府が放棄した東名・東阪連絡の中山道幹線の建設再開の動きを示さなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中山道ルートの内、和田峠を越える部分に当たる岩村田 - 下諏訪間については、並行する鉄道が建設されなかった。また現在も高速道路の計画はない。それ以降、東京 - 下諏訪間の内陸ルートは、中山道ルート(高崎経由)ではなく、甲州街道ルート(甲府経由)が主流となっており、下諏訪以西が中山道ルートとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "戦後、日本経済は東京一極集中が進み、それに伴い関西経済は地盤沈下して、北関東・東信と畿内との間の交流が希薄となり、中山道ルートの衰退に拍車をかけた。 しかし、関東地方と近畿地方を結ぶ幹線を、東海道ルートではなく中山道ルートに建設しようという構想は、1950年代以後に国土開発幹線自動車道(国土縦貫自動車道)計画として再び現れた。甲州街道と併走し、岐阜県東濃地方で中山道と併走する中央自動車道は、中山道と併走する名神高速道路を正式には含んでおり(名神高速道路の法定名称は「中央自動車道西宮線」)、東京と西宮を結ぶ東西の幹線になっている。また東京と大阪を結ぶ新幹線の計画路線として構想されており、東海道新幹線のバイパスとしての役割を担う中央新幹線も、同じく内陸部の甲州街道・中山道に併走する建設ルートが予定されている。一方で名古屋以西では対照的に、名神高速より高規格な新名神高速道路が東海道ルートで開通し、中央新幹線も関ヶ原には回らずに三重県・奈良県を経て大阪に達するルートが有力である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "明治以後の急速な経済発展や関東大震災による被災、第二次大戦時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来た。高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。特に、重要伝統的建造物群保存地区として選定された長野県の妻籠宿(1976年選定)と奈良井宿(1978年選定)が有名である。他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。また、奈良井宿と藪原宿の間にあり、日本海(信濃川水系)と太平洋(木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠や、妻籠宿と馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備が進められている。", "title": "歴史遺産" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われている。その中で最大の領地を持つ加賀藩は、江戸藩邸の上屋敷を中山道沿いの本郷に、下屋敷を板橋宿に置いた。そのうち、江戸上屋敷の敷地は明治以後は、東京帝国大学となった。現在の東京大学本郷キャンパスは、国道17号に面している(ただし、国道17号の同キャンパス付近の通称は「本郷通り」と呼ばれ、後述のように「中山道」とは呼ばれていない)。また、かつての中山道に面して建つ加賀藩上屋敷の御守殿門(赤門)は、重要文化財に指定され保存されている。", "title": "歴史遺産" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった。馬籠宿出身の島崎藤村は、自らの故郷を舞台に歴史小説『夜明け前』を執筆した。現在は馬籠の生家跡に「藤村記念館」がある。", "title": "歴史遺産" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "他の江戸五街道は基本的に1本(東海道 = 国道1号など)または多くても2本(日光街道 = 国道4号・国道119号)の国道(の一部区間)として継承されているが、中山道は多数の道路に分割されている。", "title": "現在の状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現在は、以下の道路が中山道に相当し (一部は中山道の道筋と重なる)、呼称(後述)や愛称で中山道などと呼ばれている区間も存在する。", "title": "現在の状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国道17号の西巣鴨交差点から埼玉県境までの「東京都通称道路名」を中山道(なかせんどう)と称している。", "title": "現代の呼称における中山道" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "新後閑町交差点から岩鼻町交差点に至る群馬県道12号前橋高崎線、群馬県道121号和田多中倉賀野線、及び高崎市道の「高崎市道路愛称名」を旧中山道(きゅうなかせんどう、英 : Kyu Nakasendo、番号28番)と称している。", "title": "現代の呼称における中山道" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "近年においては沿線が連携した観光振興・広報策が図られている。", "title": "観光振興" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一例として中山道沿いの30市町区が連携した宿場の人気投票イベント「NSD67 総選挙!!」が2015年11月1日〜29日の日程で実施され、総投票数8948票を得た。", "title": "観光振興" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "投票対象は大津宿(東海道と共有)を除く68宿および日本橋で、タイトルに付された数字の67は草津宿(東海道と合流)と大津宿を除く宿場の数を意味する。上位には旧信濃国(おおむね長野県)に所在し木曽路の観光地である奈良井宿(1位)・妻籠宿(2位)・馬籠宿(9位、現在は岐阜県)などがランクインした。", "title": "観光振興" } ]
中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。
{{Otheruses|'''[[五街道]]'''の一つの中山道|テレビ東京の番組|中山道 (テレビ番組)}} '''中山道'''(なかせんどう)は、[[江戸時代]]に整備された[[五街道]]の1つで、[[江戸]]の[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]と[[京都]]の[[三条大橋]]を内陸経由で結ぶ街道である<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/oomiya/04data/puratto/nakasendo.htm 中山道散策][[国土交通省]][[関東地方整備局]]大宮国道事務所</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.nhk.or.jp/bs-blog/600/224014.html |title= これまでにない「参勤交代ロードムービー時代劇」をお楽しみください! ~BS時代劇「一路」~ |website= NHK BSオンライン |date= 2015-07-29 |accessdate= 2020-04-18 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150811223710/http://www.nhk.or.jp/bs-blog/600/224014.html |archivedate= 2015-08-11 }}</ref>。「'''中仙道'''」、「'''仲仙道'''<ref group="注釈">[[板橋駅]]の北側にある踏切が「仲仙道踏切」という名称である。</ref>」とも表記するほか、「'''木曾街道'''」や「'''木曽路'''<ref name="nsd69" />」の異称も有した。 == 概要 == <imagemap> File:中山道.svg|right|512px circle 464 128 4 [[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]] circle 457 119 4 [[板橋宿]] circle 454 111 4 [[蕨宿]] circle 451 106 4 [[浦和宿]] circle 449 100 4 [[大宮宿]] circle 445 92 4 [[上尾宿]] circle 442 89 4 [[桶川宿]] circle 437 82 4 [[鴻巣宿]] circle 424 72 4 [[熊谷宿]] circle 414 66 4 [[深谷宿]] circle 404 60 4 [[本庄宿]] circle 396 56 4 [[新町宿]] circle 390 53 4 [[倉賀野宿]] circle 386 50 4 [[高崎宿]] circle 378 49 4 [[板鼻宿]] circle 375 49 4 [[安中宿]] circle 365 52 4 [[松井田宿]] circle 357 47 4 [[坂本宿]] circle 349 46 4 [[軽井沢宿]] circle 345 47 4 [[沓掛宿]] circle 340 49 4 [[追分宿]] circle 335 53 4 [[小田井宿]] circle 334 57 4 [[岩村田宿]] circle 328 57 4 [[塩名田宿]] circle 325 57 4 [[八幡宿]] circle 322 58 4 [[望月宿]] circle 317 57 4 [[芦田宿]] circle 313 59 4 [[長久保宿]] circle 307 65 4 [[和田宿]] circle 295 81 4 [[下諏訪宿]] circle 283 78 4 [[塩尻宿]] circle 278 80 4 [[洗馬宿]] circle 276 83 4 [[本山宿]] circle 272 90 4 [[贄川宿]] circle 267 95 4 [[奈良井宿]] circle 264 99 4 [[藪原宿]] circle 262 105 4 [[宮ノ越宿]] circle 256 110 4 [[福島宿 (中山道)|福島宿]] circle 256 117 4 [[上松宿]] circle 255 129 4 [[須原宿]] circle 250 131 4 [[野尻宿]] circle 247 139 4 [[三留野宿]] circle 245 143 4 [[妻籠宿]] circle 243 149 4 [[馬籠宿]] circle 239 151 4 [[落合宿]] circle 236 153 4 [[中津川宿]] circle 227 158 4 [[大井宿]] circle 215 161 4 [[大湫宿]] circle 209 161 4 [[細久手宿]] circle 199 161 4 [[御嶽宿]] circle 194 160 4 [[伏見宿]] circle 187 160 4 [[太田宿 (中山道)|太田宿]] circle 179 164 4 [[鵜沼宿]] circle 161 164 4 [[加納宿]] circle 155 164 4 [[河渡宿]] circle 151 163 4 [[美江寺宿]] circle 143 166 4 [[赤坂宿 (中山道)|赤坂宿]] circle 138 168 4 [[垂井宿]] circle 132 169 4 [[関ヶ原宿]] circle 129 171 4 [[今須宿]] circle 125 171 4 [[柏原宿]] circle 120 173 4 [[醒井宿]] circle 116 175 4 [[番場宿]] circle 113 178 4 [[鳥居本宿]] circle 110 185 4 [[高宮宿]] circle 105 192 4 [[愛知川宿]] circle 98 199 4 [[武佐宿]] circle 83 206 4 [[守山宿]] circle 80 211 4 [[草津宿]] circle 70 212 4 [[大津宿]] circle 61 211 4 [[三条大橋]] desc top-right </imagemap> 南回り・太平洋沿岸経由の[[東海道#道(みち)としての東海道|東海道]]に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。[[草津宿|草津追分]]以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の[[宿場]]が置かれた<ref name="nsd69">[https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-3.htm 五街道―諸道の性格]国土交通省</ref>。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である<ref name="nsd69" />。現在の都府県では、[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[群馬県]]・[[長野県]]・[[岐阜県]]・[[滋賀県]]・[[京都府]]に該当する地域を通過する。 === 経路 === [[File:Nakasendo Shimosuwa01bs3200.jpg|thumb|220px|五十五里塚跡、[[下諏訪宿]]]] [[File:Nakasendo Kiso-fukushima01n4272.jpg|thumb|220px|中山道上の段([[福島宿 (中山道)|福島宿]])]] [[File:Tarui Ichirizuka 02.jpg|thumb|220px|一里塚(岐阜県垂井町)]] 江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、[[木曽路]]、[[関ヶ原宿|関ヶ原]]を経て[[近江国|近江]]・[[草津宿|草津]]まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には[[碓氷峠]]越えや[[和田峠 (長野県)|和田峠]]越え、「[[木曽の桟|木曽のかけはし]]」通過などの難所<ref> [https://kaikan.ootajuku.net/history/nansyo/ 中山道 三大難所(太田宿中山道会館)]</ref>があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず[[川越制度|川越人足]]が置かれ、時に長期の川止めもある[[大井川]]、[[安倍川]]や<ref>中山道でも[[太田の渡し]]などでの川止めはある。</ref>、険しい[[箱根峠]]など交通難所が多い上に、江戸幕府による「[[入鉄砲出女]]」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の[[旅籠]]の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。 西からであるが[[倉賀野宿]]からは[[日光例幣使街道]]が整備され、[[壬生通り|日光西街道]]を経て[[日光街道]]に接続している<ref> {{Cite web|和書|url=https://www.city.tochigi.lg.jp/site/tourism/50197.html |title=日光例幣使道とは |publisher=[[栃木市]] |date= |accessdate=2022-08-06}} </ref>。 信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の1つである[[甲州街道]]と再び合流する{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。また、美濃の[[垂井宿|垂井]]で脇街道(脇往還)である[[美濃路]]と接続し、東海道の[[宮宿|宮]](熱田)と連絡した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。 === 宿場の一覧 === {{main|中山道六十九次#六十九次の一覧}} === 主な峠 === * [[碓氷峠]]([[坂本宿]] - [[軽井沢宿]]) * 笠取峠([[芦田宿]] - [[長久保宿]]) * [[和田峠 (長野県)|和田峠]]([[和田宿]] - [[下諏訪宿]]) * [[塩尻峠]](下諏訪宿 - [[塩尻宿]]) * [[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]([[奈良井宿]] - [[藪原宿]]) * [[馬籠峠]]([[妻籠宿]] - [[馬籠宿]]) * 十曲峠(馬籠宿 - [[落合宿]]) * [[十三峠 (中山道)|十三峠]]([[大井宿]] - [[大湫宿]]) * [[琵琶峠]](大湫宿 - [[細久手宿]]) * [[物見峠]](細久手宿 - [[御嶽宿]]) * [[うとう峠]]([[太田宿 (中山道)|太田宿]] - [[鵜沼宿]]) * [[今須峠]]([[関ヶ原宿]] - [[今須宿]]) * 摺針峠([[番場宿]] - [[鳥居本宿]]) == 歴史 == === 前史 === ==== 律令時代 ==== [[律令制|律令時代]]に'''[[東山道]]'''は[[畿内]]から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く[[陸奥国]]へ至る幹線路として整備された。途中の[[上野国]]から分岐して[[武蔵国]]に向かう[[東山道武蔵路]]もあった(後の中山道よりも西寄りのルートをたどっていた)。<!-- [[畿内]]を中心とした地方区分であったため、 --> ==== 戦国時代 ==== [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の東山道は、[[武田氏]]([[甲斐国]])や[[小笠原氏]]([[信濃国]])や[[金森氏]]([[飛騨国]])や[[織田氏]]([[美濃国]])などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と[[東海道]]を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の[[国道52号]]、[[国道151号]]・[[国道153号]]、[[国道22号]]などの源流となった。 [[織田信長]]は江南の[[六角氏]]攻略のため近道を整備し、[[醒井宿|醒ヶ井宿]]([[滋賀県]][[米原市]])から[[鳥居本宿]](滋賀県[[彦根市]])間で東山道と異なり、中山道となった。 [[1600年]](慶長8年)、[[宇都宮市|宇都宮]]から[[関ヶ原の戦い]]へ向かう[[徳川秀忠]]の軍勢が中山道を通っている。 東山道の[[岡谷]]・[[佐久]]間をショートカットし[[和田峠_(長野県)|和田峠]]を越える道筋はすでに使われていた。 === 江戸時代 === [[江戸時代]]に入り、[[江戸幕府]]は、[[1601年]](慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、[[大井宿]]([[岐阜県]][[恵那市]]) - [[御嶽宿]](岐阜県[[可児郡]][[御嵩町]])間や、[[加納宿]](岐阜県[[岐阜市]]) - [[赤坂宿 (中山道)|赤坂宿]](岐阜県[[大垣市]])間など、新しく作られた街道筋もあった。 戦国時代迄は'''山道'''や'''[[東山道]]'''とも称された。江戸時代には'''中山道'''や'''中仙道'''とも表記されたが、[[1716年]]([[享保]]元年)に、[[新井白石]]の意見を入れた江戸幕府の通達により'''中山道'''に統一された{{sfn|小林幹男|1998|page=16}}。一方で庶民には'''[[木曽街道]]'''や'''木曽路'''といった古くからの呼称、俗称も用いられた。また、数箇所の険しい峠道があった。東海道のような長期にわたる川止めがある河川は比較的少ないと言えど、長良川の増水と川止めに留意をするなど、河川対策はそれなりに必要であった。'''中山道は、[[姫街道の一覧|姫街道]]'''とも呼ばれ、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた。皇女和宮の他、[[徳川家定]]の2番目の正室「[[一条秀子|澄心院]]」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている<ref>青柳(2008)。</ref>。 幕末、[[文久]]元年([[1861年]]10月20日)に皇女[[和宮親子内親王|和宮]]は徳川家への降嫁のための江戸下向の旅についた。下向経路は、当初東海道とされていたが、中山道に変更・利用された。このことは、下向に先立つこと半年程前の[[文久]]元年3月26日([[1861年]]5月5日)に、老中[[久世広周|久世大和守]]から[[道中奉行]]兼帯の大目付平賀駿河守(勝足)に発出された文書から明らかにされている{{sfn|小林幹男|1999|page=14}}。 {{Quotation|大目付{{small|江}}<br>和宮様当春中御下向たるべき旨、先達{{small|而}}被仰出候処、東海道筋荒所等も多く、御通行御差支{{small|二}}、中山道{{small|江}}御通替被仰出候。御下向之儀、暫御差延被仰出候。猶御頃合之儀{{small|者}}、追{{small|而}}被仰出。右之通向々{{small|江}}可被達候。|『久世大和守殿渡候御書付之写』に拠る}} [[関所]]は、[[上野国]][[碓氷峠|碓氷]]([[群馬県]][[安中市]])、[[信濃国]][[福島宿 (中山道)|福島]]([[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]])、信濃国[[贄川宿|贄川]](長野県[[塩尻市]])の3箇所に設置された。 === 明治時代以降 === [[明治]]中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と信州を結ぶ街道(東京 - 長野)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋 - 長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。 ==== 中山道幹線 ==== {{Main|中山道幹線}} [[1869年]](明治2年)、[[明治政府]]により[[東京市|東京]] - [[京都市|京都]]の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画したが、その路線の選定では'''[[東海道]]ルート'''と'''中山道ルート'''の両案が並立した。東海道ルートは[[1870年]](明治3年)、中山道ルートに対しては[[1871年]](明治4年)から[[1875年]](明治8年)にかけて数回の実地調査が行われた結果、[[1876年]](明治9年)に建築師長ボイルから上告書が提出され、建設は中山道ルートが適当であると決定した<ref>日本鉄道史 上 1921年 鉄道省編 407頁</ref>。上告書には、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から有利であると報告されている。しかし資金難から政府による鉄道建設は進まず、[[1883年]](明治16年)に、再度路線の比較検討が行われた。東海道ルートでは箱根の山越えと大井川等の河川に架橋することの困難さが懸念される一方、中山道ルートはすでに私鉄の[[日本鉄道]]により[[1883年]](明治16年)[[7月28日]]、[[上野駅|上野]] - [[熊谷駅|熊谷]]間などが開業、翌[[1884年]](明治17年)には上野 - [[高崎駅|高崎]]間が開通予定であったこと、碓氷峠通過の困難さが検討事項に入っていないなどにより、正式に「中山道鉄道建設公債」を発行して中山道ルートを建設することが決定した<ref>日本鉄道史 上 1921年 鉄道省編 452頁</ref>。一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の[[山縣有朋]]が[[1883年]](明治16年)6月に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張<ref>山県参議建議幹線鉄道布設ノ件「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03022898900、公文別録・太政官・明治十五年~明治十八年・第一巻・明治十五年~明治十六年(国立公文書館)</ref>したことから、このようなルートが採用されたとするものもあるが、実際には[[工部省]]鉄道局が[[1883年]](明治16年)8月にこのルートの採用を決めて<ref>JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07061661600、記録材料・鉄道局年報(国立公文書館)・両京間鉄道幹線ノ沿革</ref>いる。 更に、当時の日本の主力輸出産品であった[[生糸]]の主産地である[[群馬県]]や[[長野県]]を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線([[軽井沢駅|軽井沢]] - [[直江津駅|直江津]]、[[岐阜駅|岐阜]] - [[武豊駅|武豊]]、[[米原駅|米原]] - [[敦賀駅|敦賀]]など)も設置することになっていた。 この決定に従い、[[日本国有鉄道|官設鉄道]]の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。開業は以下の通りである。 * [[1882年]][[3月10日]]、支線部分:[[長浜駅|長浜]] - 柳ヶ瀬間、洞道口(仮)(後の洞道西口) - 金ヶ崎(現在の[[敦賀港駅|敦賀港]])間(注:東西幹線ルート決定前の開業) * [[1884年]][[4月16日]]、支線部分:柳ヶ瀬 - 洞道西口(仮)間 ** [[5月25日]]、支線部分:[[大垣駅|大垣]] - 長浜間 * [[1885年]][[10月15日]]、本線部分:高崎 - [[横川駅 (群馬県)|横川]]間 * [[1886年]][[3月1日]]、支線部分:[[武豊駅|武豊]] - [[大府駅|大府]] - [[熱田駅|熱田]]間 * 1886年[[4月25日]]、支線部分:熱田 - [[大垣駅|大垣]]間(武豊 - 敦賀 - 金ヶ崎間開通) * [[1886年]][[7月19日]]、明治政府は東西幹線ルートを東海道に変更すると決定。 *: 実際に測量が開始され、一部では建設にも着手したが、[[碓氷峠]]などの山越えが予想以上に険しく、工事の長期化や費用増、開業後の輸送力制限などが避けられなくなった。そこで、産業革命の進展や国際情勢の緊迫化などで東西幹線の早期完成や輸送力強化が求められるようになった。また、このルートで通過しない名古屋の市長は市の衰退を憂慮し、国へ東海道ルートへの変更を求めて働きかけを行っていた。 *: そこで、一部を除けば比較的平坦で、当時の技術水準でも早期完成が可能な東海道ルートに変更し、[[1890年]]の[[帝国議会]]開設に間に合うように至急工事が行われることになった。 * [[1889年]][[7月1日]]、[[東海道本線]]新橋(後の[[汐留]]) - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間が全通。 *: 中山道幹線として建設された部分では、本線の西側部分になる大垣 - 草津 - 京都間と、支線の大府 - 大垣間が東海道線として組み込まれた。支線のうち、武豊 - 大府間は東海道線の支線となり、その後[[1909年]]に[[武豊線]]となった。 * 1890年[[11月25日]]、第一回[[帝国議会]](第一議会)が召集<!--招集は日本の帝国議会・国会では用いない-->された。 ==== 東海道線開通以後 ==== 東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。東海道に加え[[明治維新]]以後、[[名古屋市|名古屋]]を中心とする放射状交通網が整備されたため、人と物流の構造が中山道を中心とした「内陸」と東海道を中心とした「沿岸」から、東西の幹線の東海道と名古屋を中心とした構造に変わったためである。 [[加納宿]]([[岐阜市]]加納)以西の中山道ルートには、[[太平洋]]沿岸に当たる[[三重県]]の[[鈴鹿山脈]]を越える本来の[[東海道]]に代わって、新たに東海道線が敷設された。そして戦後には、岐阜以西の中山道ルートには、[[名神高速道路]]や[[東海道新幹線]]が敷設され、''東西の幹線の'''表道'''''となった。 [[岐阜駅|岐阜]]以東の中山道ルートには、概ね[[高山本線]]・[[太多線]]・[[中央本線]]・[[信越本線]]・[[高崎線]]などの国鉄路線が整備されたが、いずれも東西の幹線という意味を持たず、[[太平洋]]側([[関東地方|関東]]、[[東海地方]])・[[内陸]]側([[甲信地方]])・[[日本海]]側([[北陸地方]])の[[都市]]や[[村落]]を結ぶ、''南北の連絡線''や、''東西の幹線の'''裏道'''''というルートとなった。また、私鉄による[[東海道新線]]構想には熱心だった明治・大正期の資本家も初期の明治政府が放棄した東名・東阪連絡の中山道幹線の建設再開の動きを示さなかった{{efn|なお、[[愛知電気鉄道]][[名鉄名古屋本線|豊橋線]]が[[小坂井駅]]に到達した1926年には[[豊川鉄道|豊川]]・[[鳳来寺鉄道|鳳来寺]]両鉄道と共に、神宮前から[[三河川合駅]]までの私鉄路線網が形成され、1937年までに5私鉄によって路線網が長野県[[辰野駅|辰野]]まで拡大して、一時的ではあるが、名古屋と信州間に私鉄路線網が形成された。<br />一方、関東側では1897年開業の[[上信電鉄]]が佐久平、1925年全通の[[東武東上本線|東武東上線]]が群馬県方面への延伸を計画していたが、いずれも頓挫した。}}。 中山道ルートの内、[[和田峠 (長野県)|和田峠]]を越える部分に当たる[[岩村田宿|岩村田]] - [[下諏訪宿|下諏訪]]間については、並行する鉄道が建設されなかった<ref group="注釈">大正期に[[小諸市|小諸]]と[[諏訪市|諏訪]]を結ぶ[[布引電気鉄道|佐久諏訪電気鉄道]]の構想があったが実現には至らなかった。</ref>。また現在も[[高速道路]]の計画はない。それ以降、東京 - [[下諏訪町|下諏訪]]間の内陸ルートは、中山道ルート([[高崎市|高崎]]経由)ではなく、[[甲州街道]]ルート([[甲府市|甲府]]経由)が主流となっており、下諏訪以西が中山道ルートとなっている。 戦後、日本経済は[[東京一極集中]]が進み、それに伴い関西経済は地盤沈下して、[[北関東]]・[[東信地方|東信]]と[[畿内]]との間の交流が希薄となり、中山道ルートの衰退に拍車をかけた。<br /> しかし、[[関東地方]]と[[近畿地方]]を結ぶ幹線を、東海道ルートではなく中山道ルートに建設しようという構想は、1950年代以後に[[国土開発幹線自動車道]](国土縦貫自動車道)計画として再び現れた。[[甲州街道]]と併走し、岐阜県[[東濃]]地方で中山道と併走する[[中央自動車道]]は、中山道と併走する[[名神高速道路]]を正式には含んでおり(名神高速道路の法定名称は「中央自動車道'''西宮'''線」)、東京と[[西宮市|西宮]]を結ぶ東西の幹線になっている。また[[東京都|東京]]と[[大阪市|大阪]]を結ぶ[[新幹線]]の[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画|計画路線]]として構想されており、[[東海道新幹線]]のバイパスとしての役割を担う[[中央新幹線]]も、同じく内陸部の[[甲州街道]]・中山道に併走する建設ルートが予定されている。一方で名古屋以西では対照的に、名神高速より高規格な[[新名神高速道路]]が東海道ルートで開通し、中央新幹線も[[関ケ原町|関ヶ原]]には回らずに三重県・奈良県を経て大阪に達するルートが有力である。 == 歴史遺産 == 明治以後の急速な経済発展や[[関東大震災]]による被災、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来た。[[高度経済成長]]期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。特に、[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定された長野県の[[妻籠宿]](1976年選定)と[[奈良井宿]](1978年選定)が有名である。他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。また、奈良井宿と[[藪原宿]]の間にあり、[[日本海]]([[信濃川]][[水系]])と[[太平洋]]([[木曽川]]水系)の中央[[分水嶺]]でもある[[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]や、妻籠宿と[[馬籠宿]]の間にある[[馬籠峠]]では、自然遊歩道としての整備が進められている。 中山道は、約30の大名が[[参勤交代]]に利用したと言われている。その中で最大の領地を持つ[[加賀藩]]は、[[江戸藩邸]]の上屋敷を中山道沿いの[[本郷 (文京区)|本郷]]に、下屋敷を[[板橋宿]]に置いた。そのうち、江戸上屋敷の敷地は[[明治]]以後は、[[東京大学|東京帝国大学]]となった。現在の[[東京大学本郷キャンパス]]は、国道17号に面している(ただし、国道17号の同キャンパス付近の通称は「[[本郷通り (東京都)|本郷通り]]」と呼ばれ、後述のように「中山道」とは呼ばれていない)。また、かつての中山道に面して建つ加賀藩上屋敷の御守殿門([[赤門]])は、[[重要文化財]]に指定され保存されている。 中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった。[[馬籠宿]]出身の[[島崎藤村]]は、自らの故郷を舞台に歴史小説『[[夜明け前]]』を執筆した。現在は馬籠の生家跡に「[[藤村記念館 (岐阜県)|藤村記念館]]」がある。 == 現在の状況 == 他の江戸五街道は基本的に1本([[東海道]] = 国道1号など)または多くても2本([[日光街道]] = 国道4号・[[国道119号]])の国道(の一部区間)として継承されているが、中山道は多数の道路に分割されている。 現在は、以下の道路が中山道に相当し<ref>[http://www.ctie.co.jp/publishing/nazenaze/pdf/michi/2-4.pdf 道の名前はどのようにしてつけるのですか?][[建設技術研究所]](2016年1月18日閲覧)</ref><ref>[https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%8C%97%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%83%A1%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2%E7%94%BA/@36.3183665,138.4918817,16z/data=!4m2!3m1!1s0x601dd23c3fc1a393:0x99118f4883da71f9 馬瀬口][[Google マップ]]</ref> <ref>[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92385-0022+%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%B8%82%E5%B2%A9%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%9B%B8%E7%94%9F%E7%94%BA/@36.2711624,138.4764281,17z/data=!4m5!3m4!1s0x601dcb63995eadb5:0xd85e576d071619fd!8m2!3d36.2690133!4d138.4768517 相生町交差点付近]Google マップ</ref> <ref>[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92384-2102+%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%B8%82%E5%A1%A9%E5%90%8D%E7%94%B0/@36.2714598,138.4232696,17z/data=!4m2!3m1!1s0x601dca44ca5cdaf5:0x4f856028acd948d5 塩名田交差点付近]Google マップ</ref><ref>[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92384-2106+%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%B8%82%E5%85%AB%E5%B9%A1/@36.2699455,138.3858608,17z/data=!4m2!3m1!1s0x601db5fce5050f73:0xddc7f08c42ec6415 八幡西交差点周辺]Google マップ</ref>(一部は中山道の道筋と重なる)、呼称(後述)や愛称で中山道などと呼ばれている区間も存在する。 * [[国道17号]]:日本橋 - [[高崎市|高崎]] [[高崎前橋バイパス#君が代橋東交差点|君が代橋東交差点]] * [[国道18号]]:君が代橋東交差点 - [[軽井沢町|軽井沢]] 馬瀬口交差点 * [[長野県道9号佐久軽井沢線]]:馬瀬口交差点 - [[佐久市|佐久]] 相生町交差点 * [[長野県道44号下仁田浅科線]]:相生町交差点 - 佐久市[[岩村田宿|岩村田]] * [[長野県道154号塩名田佐久線]]:佐久市岩村田 - [[塩名田宿|塩名田]]交差点 * 佐久市道:塩名田交差点 - [[八幡宿|八幡]]西交差点 * [[国道142号]]:八幡西交差点 - [[下諏訪町|下諏訪]] 大社通り交差点 * [[国道20号]]:大社通り交差点 - [[塩尻市|塩尻]] 高出交差点 * [[国道19号]]:高出交差点 - [[瑞浪市|瑞浪]] 中大島交差点 *[[岐阜県道65号恵那御嵩線]]:中大島交差点 - [[御嵩町]]美佐野 * [[国道21号]]:御嵩町美佐野 - [[米原市|米原]] [[米原警察署]]前交差点 * [[国道8号]]:米原警察署前交差点 - [[京都市|京都]] [[烏丸五条]]交差点 * [[国道1号]]:烏丸五条交差点 - [[鴨川 (淀川水系)#主な橋梁|鳥羽大橋]] == 現代の呼称における中山道 == === 東京都通称道路名 === {{Ja_Route_Sign|17|align=left}} 国道17号の西巣鴨交差点から埼玉県境までの「東京都通称道路名」を'''中山道'''(なかせんどう)と称している<ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf 東京都通称道路名一覧表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305043815/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf |date=2016年3月5日 }}[[東京都建設局]]</ref><ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf 東京都通称道路名地図(区部拡大版)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305013228/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf |date=2016年3月5日 }}東京都建設局</ref>。 ==== 概要 ==== * 起点:[[豊島区]][[西巣鴨]]3丁目 西巣鴨交差点 * 終点:[[板橋区]][[舟渡 (板橋区)|舟渡]]3丁目 [[戸田橋]]埼玉県境 * 通過する自治体:[[北区 (東京都)|北区]] ==== 接続する主な道路 ==== {|border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable" |- !colspan="2" style="border-bottom: 3px solid red;"|交差する道路 !style="border-bottom: 3px solid red;"|交差点名 !style="border-bottom: 3px solid red;"|所在地 |- |colspan="6" style="text-align:center;"|国道17号([[白山通り]])・[[巣鴨]]・[[本郷 (文京区)|本郷]]・日本橋方面 |- |style="text-align:center;"|[[国道122号]]・[[東京都道305号芝新宿王子線]]([[明治通り (東京都)|明治通り]]) |style="text-align:center;"|東京都道305号芝新宿王子線(明治通り) |西巣鴨 |豊島区 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|([[高岩寺#旧中山道|旧中山道]]) |板橋郵便局前 |rowspan="8"|板橋区 |- |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|[[東京都道317号環状六号線]](山手通り)<br />[[東京都道420号鮫洲大山線]] |[[仲宿]] |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道318号環状七号線]](環七通り) |[[大和町 (板橋区)|大和町]] |- |style="text-align:center;"|(旧中山道) |style="text-align:center;"| | |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道445号常盤台赤羽線]](福寿通り・前野中央通り) |志村警察署前 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道311号環状八号線]](環八通り) |[[志村 (板橋区)|志村]]3丁目 |- |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|[[東京都道446号長後赤塚線]]([[高島通り]]) |志村坂下 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道447号赤羽西台線]] |舟渡 |- |colspan="6" style="text-align:center;"|国道17号(中山道) [[さいたま市|さいたま]]・[[熊谷市|熊谷]]・高崎方面 |} ==== 交差する鉄道・河川 ==== * [[埼京線]]([[板橋駅]]・[[十条駅 (東京都)|十条駅]]間) * [[石神井川]]([[新板橋]]) * [[新河岸川]](志村橋) * [[荒川 (関東)|荒川]](戸田橋) ==== 沿線の主な施設 ==== * [[北区立滝野川第二小学校]] * [[北区立図書館|北区立滝野川西図書館]] * [[滝野川入口]] * [[新板橋出口]] * [[新板橋駅]] * [[板橋郵便局]] * 板橋消防署 * [[板橋警察署]] * [[板橋区役所前駅]] * [[板橋区役所]] * [[板橋ジャンクション|板橋JCT]] * [http://www.houtoku-net.co.jp/live.html 仲宿交差点ライブカメラ] - 画面右が[[東京都道317号環状六号線]](山手通り)、左が[[国道17号]](中山道)である。 * [[板橋区立板橋第一小学校]] * [[氷川神社 (板橋区氷川町)|氷川神社]] * [[板橋本町出入口]] * [[板橋本町駅]] * [[本蓮沼駅]] * [[志村坂上駅]] * [[総泉寺]] * [[志村警察署]] ==== 史跡 ==== * [[志村一里塚]] ==== その他 ==== * [[警視庁]]の速度取り締まり重点路線である<ref>[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kotu/sokudo_sisin/10/itabashi_sokudo.pdf 板橋警察署速度取締指針][[板橋警察署]]([[2015年の日本|2015年]]12月18日閲覧)</ref>。 * 起点([[西巣鴨駅]]付近)から志村坂上交差点([[志村坂上駅]]付近)にかけて[[都営地下鉄三田線]]が下を通るほか、起点から仲宿交差点付近にかけて[[首都高速中央環状線]]、仲宿交差点から志村警察署清水町交番と[[本蓮沼駅]]の間にかけて[[首都高速5号池袋線]]が上を通る。 *巣鴨地蔵通り商店街、 滝野川銀座商店街、板橋仲宿商店街はいずれも旧中山道を中心とした商店街である。 === 高崎市道路愛称名 === {{Ja_Pref_Route_Sign|pref=群馬|number=012|align=left}} {{Ja_Pref_Route_Sign|pref=群馬|number=121|align=left}} 新後閑町交差点から岩鼻町交差点に至る[[群馬県道12号前橋高崎線]]、[[群馬県道121号和田多中倉賀野線]]、及び高崎市道の「高崎市道路愛称名」を'''旧中山道'''(きゅうなかせんどう、英 : Kyu Nakasendo、番号28番)と称している<ref>[http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121900195/ 高崎市道路愛称名一覧] - 高崎市</ref>。 ==== 概要 ==== * 起点:和田多中町3-12 新後閑町交差点(三条大橋寄り) * 終点:岩鼻町247 岩鼻町交差点(日本橋寄り) * 延長:6,100m * 正式名称:群馬県道12号前橋高崎線(新後閑町交差点 - 和田多中町交差点)、群馬県道121号和田多中倉賀野線(和田多中町交差点 - 新柳瀬橋北交差点)、高崎市道(新柳瀬橋北交差点 - 岩鼻町交差点) ==== 接続する主な道路 ==== {|border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable" |- !colspan="2" style="border-bottom: 3px solid green;"|交差する道路 !style="border-bottom: 3px solid green;"|交差点名 |- |style="text-align:center;"|[[群馬県道・埼玉県道71号高崎神流秩父線|群馬県道71号高崎神流秩父線]] |style="text-align:center;"|群馬県道12号前橋高崎線 |新後閑町 |- |style="text-align:center;"|国道17号[[高崎バイパス]](中山道) |style="text-align:center;"|国道17号[[倉賀野バイパス]](中山道) |和田多中町 |- |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|[[群馬県道138号倉賀野停車場線]] |[[倉賀野駅]]入口 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[群馬県道173号金井倉賀野停車場線]] |中町 |- |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|[[群馬県道133号元島名倉賀野線]] | |- |style="text-align:center;"| |style="text-align:center;"|([[日光例幣使街道|例幣使街道]]) |下町 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|国道17号倉賀野バイパス(中山道) |新柳瀬橋北 |- |colspan="2" style="text-align:center;"|[[群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線|群馬県道13号前橋長瀞線]](長瀞線) |岩鼻町 |} * 上が軽井沢寄り、下が日本橋寄り。左が軽井沢方面行きの車線、右が日本橋方面行きの車線。 * 中町交差点は倉賀野駅方向進入禁止。 ==== 交差する鉄道 ==== * 高崎線([[新町駅]] - 倉賀野駅間) * [[八高線]]([[北藤岡駅]] - 倉賀野駅間) == 観光振興 == 近年においては沿線が連携した観光振興・広報策が図られている。 一例として中山道沿いの30市町区が連携した宿場の人気投票イベント「NSD67 総選挙!!」が2015年11月1日{{~}}29日の日程で実施され、総投票数8948票を得た<ref>{{Cite news|title=NSD67 総選挙!!|newspaper=[[草津市]]|date=2015年12月18日|url=https://www.city.kusatsu.shiga.jp/shisei/shichoshitsu/kishakaikei/h27/20151218.files/3.pdf|accessdate=2016-01-31}}</ref><!-- ←この出典に掲載されている順位は最終結果ではなく2015年12月10日の暫定版です。 --><ref>{{Cite news|title=旧中山道の宿場人気投票イベント 奈良井宿1位、妻籠宿2位|newspaper=[[信濃毎日新聞|信毎Web]]|date=2016年1月14日|url=http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160114/KT160107GUI090007000.php|accessdate=2016-02-01}}</ref><ref>{{Cite news|title=中山道宿場町「総選挙」、滋賀の草津宿は5位に|newspaper=産経ニュース|date=2015年12月29日7時7分|url=https://www.sankei.com/article/20151229-KOEK7BCQUNNG5HGDGBXP5M7WGE/|accessdate=2016-02-01}}</ref><ref>{{Cite news|title=滋賀・草津宿5位、奈良井宿トップ NSD67総選挙|newspaper=[[京都新聞]]|date=2015年12月28日17時0分|url=http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20151228000058/print|accessdate=2016-02-01}}</ref>。 投票対象は[[大津宿]](東海道と共有)を除く68宿および日本橋で、タイトルに付された数字の67は[[草津宿]](東海道と合流)と大津宿を除く宿場の数を意味する<ref>{{Cite news|title=中山道宿場町の好きな場所は? 滋賀・草津宿街道交流館がSND67総選挙|newspaper=[[産経新聞|産経ニュース]]|date=2015年11月11日7時1分|url=https://www.sankei.com/article/20151111-VEUNLECQZZKN7KSVS3WXDXCXOM/|accessdate=2016-02-01}}</ref>。上位には旧[[信濃国]](おおむね長野県)に所在し[[木曽街道|木曽路]]の観光地である[[奈良井宿]](1位)・[[妻籠宿]](2位)・[[馬籠宿]](9位、現在は岐阜県)などがランクインした。 <!-- 順位は以下の通り(総投票数は8948票)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 順位 ! 宿場名 ! 旧国名 ! 現在の自治体名 ! 票数 |- | 1 || [[奈良井宿]] || [[信濃国]] || [[長野県]][[塩尻市]] || 1314 |- | 2 || [[妻籠宿]] || 信濃国 || 長野県([[木曽郡]])[[南木曽町]] || 426 |- | 3 || [[本庄宿]] || [[武蔵国]] || [[埼玉県]][[本庄市]] || 368 |- | 5 || [[草津宿]] || [[近江国]] || [[滋賀県]][[草津市]] || 320 |- | 9 || [[馬籠宿]] || 信濃国 || [[岐阜県]][[中津川市]] || 262 |- |- | 22 || [[塩尻宿]] || 信濃国 || 長野県塩尻市 || |- | 32 || [[薮原宿]] || 信濃国 || 長野県(木曽郡)[[木祖村]] || |}--><!--当記事にあっては観光振興が図られているということが判れば必要十分。また、正確公平ではない断片的な情報が必要かな?--> {{節スタブ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 青柳周一「史料紹介 : 有川市郎兵衛家文書と寿明姫の下向」、『滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM,』第29号、[[滋賀大学経済学部]]附属史料館、2008年。 * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite journal |和書|author =小林幹男|title =幕末期における中山道の助郷に関する研究 |year =1998 |publisher =長野女子短期大学出版会 |journal =長野女子短期大学研究紀要 |volume =第6号|pages =15-29 |ref =harv}} * {{Cite journal |和書|author =小林幹男|title =和宮の下向と助郷に関する研究 |year =1999 |publisher =長野女子短期大学出版会 |journal =長野女子短期大学研究紀要 |volume =第7号|pages =11-30 |ref =harv}} == 関連項目 == * [[中山道の一里塚一覧]] * [[中山道六十九次]] * [[中山道69次資料館]] * [[街道てくてく旅]] * [[国道17号]] - [[国道18号]] - [[国道19号]] - [[国道21号]] * [[関越自動車道]] - [[上信越自動車道]] - [[中央自動車道]] - [[名神高速道路]] * [[中山道幹線]] * [[高崎線]] - [[信越本線]] - [[中央本線]] - [[太多線]] - [[東海道本線]] * [[北陸新幹線]] - [[東海道新幹線]] * [[甲信地方]]([[中央高地]]) - [[東山道]] * [[日本の交通]] * [[奥州街道]] - 五街道のひとつ * [[日光街道]] - 五街道のひとつ * [[伝馬騒動]] * [[姫街道の一覧|姫街道]] * [[はだか武兵]] *[[中部地方の史跡一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Nakasendō}} * [http://nakasendo69.sakura.ne.jp/ 中山道69次資料館] * {{Kotobank}} * [http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/nakasendo.html 五街道の旅ホームページ・中山道道上道中記] {{中山道}} {{日本の道100選}} {{姫街道}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかせんとう}} [[Category:中山道|*]] [[Category:姫街道]] [[Category:江戸時代の交通]] [[Category:日本の交通史 (地域別)|かんとう]] [[Category:関東地方の交通|れきし]] [[Category:関東地方の歴史|こうつう]] [[Category:街道]] [[Category:群馬県の道路]] [[Category:埼玉県の道路]] [[Category:東京都の道路]] [[Category:長野県の道路]] [[Category:岐阜県の道路]] [[Category:滋賀県の道路]] [[Category:京都府の道路]] [[Category:群馬県の交通史]] [[Category:埼玉県の交通史]] [[Category:東京都の交通史]] [[Category:長野県の交通史]] [[Category:岐阜県の交通史]] [[Category:滋賀県の交通史]] [[Category:京都府の交通史]] [[Category:長野県にある国指定の史跡]] [[Category:日本の道100選]] [[Category:国道1号]] [[Category:国道8号]] [[Category:国道17号]] [[Category:国道18号]] [[Category:国道19号]] [[Category:国道20号]] [[Category:国道21号]] [[Category:国道354号]]
2003-09-07T06:52:48Z
2023-12-06T19:01:38Z
false
false
false
[ "Template:姫街道", "Template:Quotation", "Template:Ja Pref Route Sign", "Template:節スタブ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Ja Route Sign", "Template:Otheruses", "Template:Cite journal", "Template:Kotobank", "Template:Commonscat", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:Efn", "Template:~", "Template:Reflist", "Template:Webarchive", "Template:Cite news", "Template:中山道", "Template:日本の道100選", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93
15,530
中仙道
中仙道(なかせんどう)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中仙道(なかせんどう)", "title": null } ]
中仙道(なかせんどう) 中山道の別表記。 地名のひとつ 秋田県雄勝郡羽後町中仙道 岡山県岡山市北区中仙道 台湾の花東縦谷 - 日本統治時代には、中仙道平野、中仙道とも呼ばれていた。
'''中仙道'''(なかせんどう) *[[中山道]]の別表記。 *地名のひとつ **[[秋田県]][[雄勝郡]][[羽後町]]中仙道 **[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]]中仙道 **[[台湾]]の[[花東縦谷]] - [[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]には、中仙道平野、中仙道とも呼ばれていた。 {{aimai}} {{デフォルトソート:なかせんとう}} [[Category:日本の地名]] [[Category:同名の地名]]
null
2022-05-17T11:13:38Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BB%99%E9%81%93
15,531
PC-8800シリーズ
PC-8800シリーズは、1981年(昭和56年)から日本電気(NEC、後に日本電気ホームエレクトロニクスへ移管)が販売していた、パーソナルコンピュータ「PC-8801」及びその周辺機器のシリーズ名である。1980年代当時パソコン御三家の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。 シリーズの初代機であるPC-8801は、1981年(昭和56年)9月22日にPC-6001と同時に発表され、同年12月に発売された。同じNECの8ビットパソコンであるPC-8001の上位互換機種であり、縦400ライン表示可能なビジネス用途もターゲットとした最上位機種という位置付けだった。当時は『I/O』や『マイコンBASICマガジン』などプログラム投稿雑誌やエニックスの賞金付ゲームコンテストも盛んになっていた。1982年(昭和57年)にPC-9801が発売されると、PC-8001ソフトとの両活用でホビーユースに対応した人気機種というポジションにシフトし、日本電気ホームエレクトロニクスへ移管された後に発売されたPC-8801mkIISRで、その位置づけを決定的にした。 PC-8800シリーズはNECの半導体開発部門(電子デバイス事業グループパーソナルコンピュータ事業部)が開発しており、情報処理部門(情報処理事業グループ小型システム事業部)が開発した16ビットパソコンのPC-9800シリーズとは販売戦略が異なっていた。 累計出荷台数は、1989年(平成元年)3月末時点で約94万台、同年9月時点で約96万台出荷されている。 PC-8801は別売ながら漢字ROMを用意したことで、「マイレター」、「文筆」、「ユーカラ」などのいくつかの日本語ワープロソフトがPC-8801用に開発された。これらは後にPC-9801対応版も登場し、パソコンソフト市場に日本語ワープロソフトのジャンルを確立することになった。NEC自身も「ユーカラ」を自社ブランドで「日本語ワードプロセッサ」として発売したが、こちらは失敗に終わっている。PC-8801は1983年11月までに17万台が出荷された。 1983年に登場した後継機、PC-8801mkIIでは、FDDを2基本体に内蔵可能とし、縦置きも可能な新しい筐体を採用した。また、キーボードは人間工学に基づいたステップスカルプチャー方式が採用された。8801mkII以降の機種はFDDが本体内に内蔵可能となったため、内蔵FDD制御用サブCPUとしてμPD780C-1(Z80A相当、4MHz)とサブCPU用RAMが搭載された。漢字ROMが標準搭載されるようになり、ブザーがスピーカーに置換されると共に、従来のBEEP音のほかに、BASICからCMD SINGで利用可能なI/Oポートを制御することで、ソフトウェア的にパルスを生成できる単音の音源が追加され音程を奏でることが可能になった。 上記の2つの機種(後にPC-8800シリーズでは旧機種として分類される)は、テキスト画面の描画サイクルのDMA動作でメインCPUの処理が一時停止する等のハード仕様のため、動作速度やグラフィックの描画などが遅く、テキスト画面の表示を無効にし表示タイミングを無視して書き込む「高速モード」もあったものの、表示によるレスポンスを必要とするリアルタイムゲームでは、その恩恵を受けられなかった。 PC-8801登場時の1981年はコンピュータゲームの黎明期にあたり、アクションゲーム(略称:ACG)・ロールプレイングゲーム(略称:RPG)・シミュレーションゲーム(略称:SLG)・アドベンチャーゲーム(略称:AVG)の各ジャンルに分かれて発展していくこととなる。PC-8801の歴史はゲームの歴史でもあると言われるが、このうちアクションゲームは初期のPC-8801にとって不向きと言われた分野で、プログラマーが腕を競う激戦区ともなった。エニックスが開催したプログラムコンテストでは、ドアを開け閉めして敵を閉じ込める『ドアドア』が優秀賞を受賞している。 このPC-8801mkIIからPC-8801mkIIFR/MRまで、CMキャラクターに武田鉄矢が起用された。 ホビーマシンとしてのPC-8800シリーズの地位を確立した後継機種が、1985年(昭和60年)1月に登場したPC-8801mkIISRである。主にグラフィック機能とサウンド機能が強化され、強化されたハードウェアに対応するために、従来のN-88BASIC(本機以降、N-88BASIC V1と呼称)を機能拡張したN-88BASIC V2が搭載された。 グラフィック機能では、640×200ドット/512色中8色のアナログRGBへと発色数が強化され、ALUを搭載し、GVRAMの論理演算を伴うRGB3プレーン同時アクセスを可能にするなど、グラフィックス処理に対するCPUの演算負荷を軽減する仕組みが用意された。GVRAM(グラフィックVRAM)は48KBのままで、従来のデジタルRGB端子も引き続き使用できた。また、テキストVRAM4KBをメインメモリから独立させ、GVRAMにサイクルスチールを採用し、旧機種ではシステム速度の負荷となっていたバス調停による速度低下を抑えた。 この拡張グラフィック機能はV2モードと呼ばれ、以前のものをV1モードと呼んで区別し、本体のモードスイッチでN-BASIC/V1S/V1H/V2の4つのモードを切り替えて使うようになった(V1S:互換、V1H:高速)。前述のアナログパレットの追加に伴い、初期化の状況によって、V1モードのプログラムはV2モードでは色が正しく表示されない事があったが、正しく初期化して両モード対応のソフトを書くことも可能だった。 サウンド機能では、ヤマハの音源チップYM2203が搭載され、FM音源3音+SSG3音のサウンド機能を新たに標準装備。BEEP音のみだった旧機種から表現力を大幅に向上させた。旧機種用にもFM音源は「サウンドボード(型番:PC-8801-11)」として用意されたが、I/Oポートアドレスは異なり互換性は無い。内蔵音源とはI/Oポートアドレスが異なることから併用は可能になっており、ボード付属の拡張BASICでFM6重和音の演奏が可能となった。また、数は少ないが初代・mkIIでFM音源ボードに対応したソフトが発売されている。この機能拡張に伴い、ソフトウェアメーカーによって多くのソフトウェアが作られ、同人ゲームソフトやCG・サウンド集といった、在野の活動も促す形となった。しかし、V2モード専用とは別にV1モード用がリリースされたものや、V2モード用のものにパッチを当てると動作するソフトがあったものの、V1モードで動作するプログラムは市場からは早々に衰退することとなった。 同年9月発売のPC-8801mkIITRでは、SRと同一筐体の横に電話機・モデム・NCU(網制御装置)を一体化したモデム電話を装備した。ただし、このモデムの通信速度は全二重通信300bpsと低く、当時このパソコンをレビューした雑誌『ログイン』においてさえも「将来を考えると、通信速度が遅すぎるのではないか?」と指摘されるなど、実験的な要素が目立つ機種だった。 同年11月には、SRをマイナーチェンジしたPC-8801mkIIFR/MRが発売された。FRはSRの廉価版であり、下位の8ビット機種を廃止する代わりにこれらのユーザー層を取り込む役割があった。MRにおいては、2HDと2Dの読み書きに両対応したFDD、JIS第2水準漢字まで含んだ漢字ROMを搭載するなど、当時の8ビット機種としては高い機能が盛り込まれた。ソフトウェア的な互換性は維持されていたものの、2Dと2HD/2DDではヘッドのトラック幅の違いがあることから、2HD/2D兼用ドライブで書き込んだ2Dディスクが2D専用ドライブで読めないことや、コピープロテクト対策や極限ともいえる容量までディスクを使用することが多かったゲームソフトの中には動作しないものがあるなど注意喚起されたが、実際の市場では大きな問題になっていない。バンク切り換え方式(NEC標準バンク増設方式)の128KBの拡張メモリが標準装備されたラインナップもMRが初であり、拡張メモリが標準搭載されたモデルが発売されたことで、対応するアプリケーションも増加した。バンク切り換え方式のメモリは、純正では128KBの「増設RAM ボード(型番:PC-8801-02/PC-8801-02N)」が売られており、設計上の仕様としては、最大512KBの空間を管理できるようになっている。NEC標準バンク増設方式を拡張して最大4MB(128バンク×32KB)まで拡張できる1MBバンクRAMボード、2MBバンクRAMボードがアイ・オー・データ機器から発売されているが、実際にディスクキャッシュなどとして活用するのは標準搭載された128KB迄という実装が多く見られ、積極的に活用されたとは言い難い。88VAの互換モード時の64KB以上のメモリは、このバンクメモリとして認識する。 このほか、MRには文節変換が可能なN88-日本語BASIC、FRには熟語変換が可能なN88-日本語BASICが標準搭載された(model 10は別売)。また、このFR/MRから拡張スロットの数が減らされたり、MRのデータレコーダ用インタフェース(カセットテープインタフェース)削除など、不要な機能の削減が意識されるようになった。mkII/SR/FR/FHまでは、FDD無しのmodel 10、FDD1台のみのmodel 20が用意され、NEC純正の増設FDD以外に、旧機種からFDDを移植したり、バルク品のFDDを搭載して安価にアップグレードすることもできた。 1986年(昭和61年)11月には、PC-8801FH/MHが登場した(型番からmkIIの文字が消えたのはこのモデルから)。CPUがZ80H相当のμPD70008AC-8に変更され、クロック周波数は4MHzと8MHzに切り替え可能となり、処理速度の更なる向上が図られた。本体とキーボードのデザインも一新され、設定用のディップスイッチは消えてメモリスイッチとなり、付属キーボードは設定メニュー表示用に「PC」キーが追加され、日本語入力用にスペースキーを三分割して変換キーに割り当てられるなど大幅に更新された。後にFHには筐体が黒色のモデルも発売された。なお、PC-8801FH/MHには、「サウンドボード2」を装着するための専用カバーと専用スロットが存在する。 旧機種の弱点だった部分を補強して機能と処理速度を向上させていったSR以降のシリーズは、SR発売当初に登場したアクションゲーム『テグザー』をはじめ、FM音源による音声合成を実現した『シルフィード』『ぎゅわんぶらあ自己中心派』、RPGでは『イースシリーズ」や『ハイドライド3』『ソーサリアン』『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』など、SLGでは『スーパー大戦略』や『三國志II』などのシリーズを生んだ。この頃にはPC-8800シリーズが次第に8ビットパソコン市場で一人勝ちの様相を呈するようになり、ゲームソフトが優先的に発売されるほか、PC-8801mkIISR以降用だけで発売されたタイトルも存在するようになった。 なお、N-BASICモードが製品仕様から外れたことによりモードスイッチから削除され、この仕様の違いから、N-BASICモードから起動する一部のPC-8801版ゲームソフトで起動しないものがある。N-BASICモードはV1Sモードの4MHz設定でキーボードから「N80」を押してリセットすることで起動するようになった。また、他メーカー機種のAV機能の向上に合わせて、65536色(B:5ビット、R:5ビット、G:6ビット)同時表示が可能となる「ビデオアートボード(型番:PC-8801-17)」もオプションで用意された。「N80」リセットの際、グラフィックスメモリの初期化が行われないことを利用し、市販ソフトの画面を取り込むツールにも利用された。 1987年(昭和62年)3月4日のPC-88VA(後述)発売後の、同年10月15日に発売されたPC-8801FA/MAでは、音源チップをスーパーシンセサイザーIC・YM2608に変更し、サウンド機能がステレオFM音源6音+リズム6音+SSG3音+ADPCM音源1音へと大幅に強化された。同機能を、VA、FH/MHやそれ以外の旧機種に対応させるために「サウンドボード2」と呼ばれる拡張ボードが用意された。FA/MAに標準搭載されたYM2608のI/Oポートアドレスは従来のYM2203と同じアドレスだったため、V2モード専用ソフトはそのまま利用することができた。PC-8801/mkII/SR/TR/FR/MR用「サウンドボード2(型番:PC-8801-23)」のYM2608のI/Oポートアドレスは別のアドレスに割り当てられたため、一部のソフトウェアでは増設された音源が正しく認識・演奏されないものがある。FH/MH用「サウンドボード2(型番:PC-8801-24)」及びFE/FE2用「サウンドボード2(型番:PC-8801-25)」は、専用スロットに装着することで内蔵音源と置き換わるように設計されている。また、メインメモリのウェイトをOFFに設定出来るようになったほか、MAでは辞書ROMを512KB搭載して連文節変換機能を実現したほか、学習機能等を持った日本語エディタも付属した。 しかし、1987年(昭和62年)にはシャープの新世代ホビー機X68000が登場し、88の王座は揺らぎ始めた。次期主要機として投入したPC-88VAの営業的失敗もあって、PC-8800シリーズは斜陽の時代に入ることとなる(MSXとゲーム専用機を除く全ての8ビットパソコンがその役割を終えたともいえる)。ホビーユースにおいてもPC-9800シリーズの本格的なシフトを始める等、NECはPC-8800シリーズを整理し、ハイエンド志向だったPC-9800シリーズのラインアップを見直して需要に応えていった。 1988年(昭和63年)には、家庭用テレビに接続可能なビデオ出力端子を搭載したPC-8801FEが用意された。このFEでは徹底的な機能削減を図り、BASICは添付されず、汎用拡張スロットも削除され、音源もYM2203が標準となっている。一方で、これまでの流れを汲むPC-8801MA2も用意された。これらの機種では、モニタメモリの種類を選択するスイッチは起動時にキーボードを押して選択するようになり、V1/V2のモード切替スイッチはメモリスイッチに取り込まれた。このメニューにより画面がクリアされるため、MA2/FEでは、V1SモードからのN80リセットは可能だが、これを利用したV2モード時の画面取り込みは出来ない。 なお、FH/MHからFE/MA2/VA2/VA3まで、CMキャラクターに斉藤由貴が起用された。 1989年(平成元年)にPC-98DO(後述)を挟んで登場したPC-8801MCでは、縦置きデザインの筐体になると共に、システムの起動も可能なCD-ROMドライブが装備された。このドライブはPCエンジンのCD-ROM2と共用のものであり、CD-ROMドライブ非搭載のModel 1では流用して搭載することが可能だった。旧機種向けに「CD-ROMインタフェースセット(型番:PC-8801-31)」も用意されたが、使用のための価格的なハードルや、容量のみで解決する問題が少ないこと、BASIC等からの制御や、CD-ROMを作成する手段が当時の一般ユーザーには無いこともあり、PC-8800シリーズでは、CD-ROM自体が普及しなかった。それらの状況や、既にPC-8800シリーズ自体が末期ということもあり、実際にPC-88シリーズ用に提供されたCD-ROMの市販ソフトウェアは『MIRRORS(ミラーズ)』など数えるほどにとどまっていたが、日本ファルコムや光栄のソフトウェアの一部が、BGMにサウンドトラックのCDを使えるように対応している。同時期にPC-8801FE2も発売された。MC/FE2ではメモリアクセスノーウェイト動作の8MHzHモードが追加された。N80リセットがV2モードからも可能になり、画面の初期化が省略されることによって画面の取り込みも再度可能になった。MH以降の2HD機種ではその表記が機種名の後ろに付いた(VA3では2HD+2TD)が、MCでは表記されなくなった。 広告には松下進のキャラクターが起用された。純粋な8800シリーズはこのMCで終了となったが、MSXを除く他社の8ビットPCに比べて1年遅くまで新製品が投入された。88アーキテクチャを持つ機種は1990年(平成2年)10月に登場したPC-98DO(後述)が最後となる。 PC-8800シリーズは、他社に先駆けてCPUクロックの高速化などを行っていたものの、8ビットCPUを使用する以上、基本性能の向上はほぼ限界に達しつつあった。1987年(昭和62年)3月4日に発売された PC-88VAでは、NEC独自の16ビットCPU、μPD9002(8MHz、V50のカスタム品)を採用し、メインメモリは512KBを備え、大幅な性能向上を図った上位機種である。外観でもFDDを横並びからPC-9800同様の縦並びとし、筐体も大きくなった。このCPUはV30としての動作に加え、8ビットCPU・μPD70008AC互換のモードを持っており、従来のPC-8800シリーズのV1/V2モードのソフトウェアの大部分が互換モードで動作可能だった。 VDPの搭載により640×400ドット/256色や640×200ドット/65536色、スクロール機能・複数画面の合成 といった強力なグラフィック機能、4096色中16色・サイズ最大256×256ドットで最大同時表示32枚のスプライト機能などを備えた。OSにも、MS-DOSVer.2とシステムコールが概ね互換である独自OS、NEC PC-Engineを搭載していた。このOSではN88-日本語BASIC V3が動作し、N88-DISK BASICのディスクもファイルフォーマットを自動判別して読み込めた。また、高機能化したハードウェアをサポートするBIOSがROM内に整備された。プロセッサ等、共通項はありながらこれらの実装はPC-9800シリーズとは非互換であり、MS-DOSに依存したソフトウェアなど、共用できるソフトウェアはごく一部に限られた。但し、システムプログラムを二つ持ち、PC-8800シリーズではなく、PC-9800シリーズと同じパッケージでリリースされ、V3モードで動作するソフトウェアも存在する。 拡張スロットは、PC-9800シリーズのCバスと物理的には互換性があるものに変更されたが、前述のようにBIOSはじめ、基本的な実装の相違からPC-9800シリーズ用拡張ボード上のROM及びデバイスドライバ類は利用することは不可能であり、公式には非互換の独自スロットである。但し、非公式ではあるがPC-9800シリーズ用の増設RAMボードやSASI、SCSIインタフェースを増設することができ、88VA用のデバイスドライバやMSEなどのMS-DOSエミュレータ、PC-9801用ソフトへのパッチ等のソフトウェア的な改修、改造、開発により、その一部を利用することが可能だった。 また、背面にはコンポジット映像出力端子を持ち、15kHz出力モード時限定ではあるが、ゲーム画面をビデオ録画することも可能だった。 PC-88VAの後継機PC-88VA2/VA3では、ステレオFM音源(PC-8801FA/MAと同等)が採用されサウンド機能も強化された。また、V1/V2モード動作時の互換性の向上などの改善もおこなわれた。VA3では容量9.3MBの3.5インチ2TD(2DD/2HDのディスクの読み込みも可能)ドライブを搭載(VA/VA2にはオプションで用意)した。付属ソフトには「アニメフレーマー」が追加された。なお、初代VA用には「PC-88VAソフトウェアバージョンアップボード(型番:PC-88VA-91)」が用意され、辞書ROMと追加BIOS群の追加により、PC-Engineもバージョンアップ(V1.0からV1.1)でき、数値演算コプロセッサが装着できないこと以外は「サウンドボード2(型番:PC-88VA-12)」と併せてVA2とほぼ同等の機能にすることが可能になった。 1980年代の終盤になると、日本国内ではPC-9800シリーズの普及など、ビジネスの分野だけでなくホビーユースでも16ビット機への移行が加速していた。PC-88VAは、同時期のライバル機となるX68000やPC-9800シリーズおよびその互換機と比較された。X68000(369,000円)より安いがPC-9801UxシリーズやエプソンのPC-286シリーズと同等の価格設定、CPU速度やスプライト表示性能などがライバル機に劣る、V1/V2モードでの互換性が不完全、PC-9800シリーズと非互換など、突出した部分が少なく不利な状況に置かれた。結局、その性能を発揮する16ビット専用ソフトが揃わないままシリーズは二代目のVA2/VA3で打ち止めとなったが、PC-VAN内のVA-CLUBでは前述したようなMS-DOSエミュレータやフリーソフト、PC-9800シリーズ用のパッチなどが有志によって作成、頒布され一定の使用環境を提供していた。なお、PC-88VAシリーズの半角16ドットフォント(英数字などの8×16ドットフォント)はPC-9801とは異なり、かつての電子デバイス事業グループが開発・販売していたPC-100のフォントと同じである(「A」、「p」、数字の「0」などに特徴あり)。 PC-88VAの商業的失敗の後、NECは1989年(平成元年)6月にPC-8800シリーズとPC-9800シリーズの両方のソフトウェアが利用できる PC-98DOを発売して、市場シェアの維持を試みた。98DOではPC-8801MH相当の「88モード」とPC-9801VM11相当の「98モード」をモード切替スイッチで切り替えて使用可能だった。しかし、88モードではサウンドボード2相当の音源が搭載されておらず、アタリ仕様ジョイスティックやRS-232Cが使用出来ない、98モードではCPUがV30(8MHz/10MHz)しか搭載しておらず、当時の16ビット機として非力だったなどの問題があった。また、32ビット機の普及も始まる中、PC-8801FE2/MCの発売を挟んで1990年(平成2年)10月に発売したPC-98DOでは、CPUにV33A 16MHzを採用し、EGC、サウンドボード2相当音源を搭載するなど、それらの問題も解決させたものの、これ以上PC-8800シリーズを拡張する要素はなくなっていた。 一方で、NECはPC-9800シリーズをあくまでビジネスユースと位置付けてきたこともあり、多くの変数で煩雑な計算を要するシミュレーションゲームや相当のデータ容量を要する高解像度グラフィックを多用するアドベンチャーゲーム(特にアダルトゲーム)ではPC-9800シリーズへの移行が進んでいった。ほとんどのユーザーはそのままビジネス市場でも相当のシェアを占めていたPC-9800シリーズに、一部のゲーマーはX68000などに移行していった。1991年(平成3年)に次期98シリーズの試験機といえるPC-98GSの登場及び1992年(平成4年)のPC-9821初代機を経て、1993年(平成5年)にPC-9821シリーズへ本格移行するまでの間は、8ビットパソコンでも能力が充分なコンピュータRPGやアクションゲームなどでゲームが提供され続けた。この試みで一応の完成をみて、PC-8800シリーズは完結したものとなった。 PC-8800シリーズは、新機種の発売では上位互換を持たせ、特にPC-8801mkIISR以降の機種は、基本仕様は全く変わっておらず、また機能追加が行われる毎に旧機種にもそれと同等の機能を実現するための拡張ボードが提供され、徹底した互換性対策が行われている。PC-8000シリーズ互換のN-BASICモードを全ての機種で持っている他、コストや、使用頻度を考慮した結果、2HDドライブ搭載機で廃止されたデータレコーダ端子もオプションボードとして提供している。 SRでそれまでの旧機種モードと拡張モードをV1とV2に切り分けたことや、拡張ボードでは同等にならないCPUクロックの向上など、他機種ユーザーからは旧機種を切り捨ててきたようにも言われるが、上記の通り、それらのイメージよりもソフトウェア資産の継承、互換性については気を使った設計となっている。また、8MHz機の投入やALU搭載などは、当時の競合機だったFM-7、X1、MSX等が、CPUの処理速度を据え置きにしたままグラフィックやサウンド機能を強化したことで処理が重くなってしまっていることと対照的であるともいえる。 PC-8800シリーズには、主にNECから多くの周辺機器が発売されていた。また、PC-8000シリーズやPC-6000シリーズの一部周辺機器も、接続端子が同じだったため買い替えることなくそのまま流用という形で接続して使用できた。 PC-8801は日本のロケットに深く関係している。主に、衛星追跡所などで近年まで使用され、打ち上げのロケット追尾から人工衛星の分離などの監視には欠くことのできない存在でもあった。故障率が判りにくくなおかつ故障箇所が見つけにくい最新のハイテクより、安定期に入ったローテクの方が良しとされたようである。 2007年(平成19年)1月に発売されたニンテンドーDS向けゲームソフト『世界樹の迷宮』では、前述の「イースシリーズ」『ソーサリアン』などで楽曲を提供していた古代祐三が、PC-8801FHからサンプラーで録音し、楽曲の中に組み入れる「サンプリング」という技法で録音されたFM音源の音色を中心に据えた楽曲を提供している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PC-8800シリーズは、1981年(昭和56年)から日本電気(NEC、後に日本電気ホームエレクトロニクスへ移管)が販売していた、パーソナルコンピュータ「PC-8801」及びその周辺機器のシリーズ名である。1980年代当時パソコン御三家の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シリーズの初代機であるPC-8801は、1981年(昭和56年)9月22日にPC-6001と同時に発表され、同年12月に発売された。同じNECの8ビットパソコンであるPC-8001の上位互換機種であり、縦400ライン表示可能なビジネス用途もターゲットとした最上位機種という位置付けだった。当時は『I/O』や『マイコンBASICマガジン』などプログラム投稿雑誌やエニックスの賞金付ゲームコンテストも盛んになっていた。1982年(昭和57年)にPC-9801が発売されると、PC-8001ソフトとの両活用でホビーユースに対応した人気機種というポジションにシフトし、日本電気ホームエレクトロニクスへ移管された後に発売されたPC-8801mkIISRで、その位置づけを決定的にした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "PC-8800シリーズはNECの半導体開発部門(電子デバイス事業グループパーソナルコンピュータ事業部)が開発しており、情報処理部門(情報処理事業グループ小型システム事業部)が開発した16ビットパソコンのPC-9800シリーズとは販売戦略が異なっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "累計出荷台数は、1989年(平成元年)3月末時点で約94万台、同年9月時点で約96万台出荷されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "PC-8801は別売ながら漢字ROMを用意したことで、「マイレター」、「文筆」、「ユーカラ」などのいくつかの日本語ワープロソフトがPC-8801用に開発された。これらは後にPC-9801対応版も登場し、パソコンソフト市場に日本語ワープロソフトのジャンルを確立することになった。NEC自身も「ユーカラ」を自社ブランドで「日本語ワードプロセッサ」として発売したが、こちらは失敗に終わっている。PC-8801は1983年11月までに17万台が出荷された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1983年に登場した後継機、PC-8801mkIIでは、FDDを2基本体に内蔵可能とし、縦置きも可能な新しい筐体を採用した。また、キーボードは人間工学に基づいたステップスカルプチャー方式が採用された。8801mkII以降の機種はFDDが本体内に内蔵可能となったため、内蔵FDD制御用サブCPUとしてμPD780C-1(Z80A相当、4MHz)とサブCPU用RAMが搭載された。漢字ROMが標準搭載されるようになり、ブザーがスピーカーに置換されると共に、従来のBEEP音のほかに、BASICからCMD SINGで利用可能なI/Oポートを制御することで、ソフトウェア的にパルスを生成できる単音の音源が追加され音程を奏でることが可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上記の2つの機種(後にPC-8800シリーズでは旧機種として分類される)は、テキスト画面の描画サイクルのDMA動作でメインCPUの処理が一時停止する等のハード仕様のため、動作速度やグラフィックの描画などが遅く、テキスト画面の表示を無効にし表示タイミングを無視して書き込む「高速モード」もあったものの、表示によるレスポンスを必要とするリアルタイムゲームでは、その恩恵を受けられなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "PC-8801登場時の1981年はコンピュータゲームの黎明期にあたり、アクションゲーム(略称:ACG)・ロールプレイングゲーム(略称:RPG)・シミュレーションゲーム(略称:SLG)・アドベンチャーゲーム(略称:AVG)の各ジャンルに分かれて発展していくこととなる。PC-8801の歴史はゲームの歴史でもあると言われるが、このうちアクションゲームは初期のPC-8801にとって不向きと言われた分野で、プログラマーが腕を競う激戦区ともなった。エニックスが開催したプログラムコンテストでは、ドアを開け閉めして敵を閉じ込める『ドアドア』が優秀賞を受賞している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このPC-8801mkIIからPC-8801mkIIFR/MRまで、CMキャラクターに武田鉄矢が起用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ホビーマシンとしてのPC-8800シリーズの地位を確立した後継機種が、1985年(昭和60年)1月に登場したPC-8801mkIISRである。主にグラフィック機能とサウンド機能が強化され、強化されたハードウェアに対応するために、従来のN-88BASIC(本機以降、N-88BASIC V1と呼称)を機能拡張したN-88BASIC V2が搭載された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "グラフィック機能では、640×200ドット/512色中8色のアナログRGBへと発色数が強化され、ALUを搭載し、GVRAMの論理演算を伴うRGB3プレーン同時アクセスを可能にするなど、グラフィックス処理に対するCPUの演算負荷を軽減する仕組みが用意された。GVRAM(グラフィックVRAM)は48KBのままで、従来のデジタルRGB端子も引き続き使用できた。また、テキストVRAM4KBをメインメモリから独立させ、GVRAMにサイクルスチールを採用し、旧機種ではシステム速度の負荷となっていたバス調停による速度低下を抑えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この拡張グラフィック機能はV2モードと呼ばれ、以前のものをV1モードと呼んで区別し、本体のモードスイッチでN-BASIC/V1S/V1H/V2の4つのモードを切り替えて使うようになった(V1S:互換、V1H:高速)。前述のアナログパレットの追加に伴い、初期化の状況によって、V1モードのプログラムはV2モードでは色が正しく表示されない事があったが、正しく初期化して両モード対応のソフトを書くことも可能だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "サウンド機能では、ヤマハの音源チップYM2203が搭載され、FM音源3音+SSG3音のサウンド機能を新たに標準装備。BEEP音のみだった旧機種から表現力を大幅に向上させた。旧機種用にもFM音源は「サウンドボード(型番:PC-8801-11)」として用意されたが、I/Oポートアドレスは異なり互換性は無い。内蔵音源とはI/Oポートアドレスが異なることから併用は可能になっており、ボード付属の拡張BASICでFM6重和音の演奏が可能となった。また、数は少ないが初代・mkIIでFM音源ボードに対応したソフトが発売されている。この機能拡張に伴い、ソフトウェアメーカーによって多くのソフトウェアが作られ、同人ゲームソフトやCG・サウンド集といった、在野の活動も促す形となった。しかし、V2モード専用とは別にV1モード用がリリースされたものや、V2モード用のものにパッチを当てると動作するソフトがあったものの、V1モードで動作するプログラムは市場からは早々に衰退することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同年9月発売のPC-8801mkIITRでは、SRと同一筐体の横に電話機・モデム・NCU(網制御装置)を一体化したモデム電話を装備した。ただし、このモデムの通信速度は全二重通信300bpsと低く、当時このパソコンをレビューした雑誌『ログイン』においてさえも「将来を考えると、通信速度が遅すぎるのではないか?」と指摘されるなど、実験的な要素が目立つ機種だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同年11月には、SRをマイナーチェンジしたPC-8801mkIIFR/MRが発売された。FRはSRの廉価版であり、下位の8ビット機種を廃止する代わりにこれらのユーザー層を取り込む役割があった。MRにおいては、2HDと2Dの読み書きに両対応したFDD、JIS第2水準漢字まで含んだ漢字ROMを搭載するなど、当時の8ビット機種としては高い機能が盛り込まれた。ソフトウェア的な互換性は維持されていたものの、2Dと2HD/2DDではヘッドのトラック幅の違いがあることから、2HD/2D兼用ドライブで書き込んだ2Dディスクが2D専用ドライブで読めないことや、コピープロテクト対策や極限ともいえる容量までディスクを使用することが多かったゲームソフトの中には動作しないものがあるなど注意喚起されたが、実際の市場では大きな問題になっていない。バンク切り換え方式(NEC標準バンク増設方式)の128KBの拡張メモリが標準装備されたラインナップもMRが初であり、拡張メモリが標準搭載されたモデルが発売されたことで、対応するアプリケーションも増加した。バンク切り換え方式のメモリは、純正では128KBの「増設RAM ボード(型番:PC-8801-02/PC-8801-02N)」が売られており、設計上の仕様としては、最大512KBの空間を管理できるようになっている。NEC標準バンク増設方式を拡張して最大4MB(128バンク×32KB)まで拡張できる1MBバンクRAMボード、2MBバンクRAMボードがアイ・オー・データ機器から発売されているが、実際にディスクキャッシュなどとして活用するのは標準搭載された128KB迄という実装が多く見られ、積極的に活用されたとは言い難い。88VAの互換モード時の64KB以上のメモリは、このバンクメモリとして認識する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このほか、MRには文節変換が可能なN88-日本語BASIC、FRには熟語変換が可能なN88-日本語BASICが標準搭載された(model 10は別売)。また、このFR/MRから拡張スロットの数が減らされたり、MRのデータレコーダ用インタフェース(カセットテープインタフェース)削除など、不要な機能の削減が意識されるようになった。mkII/SR/FR/FHまでは、FDD無しのmodel 10、FDD1台のみのmodel 20が用意され、NEC純正の増設FDD以外に、旧機種からFDDを移植したり、バルク品のFDDを搭載して安価にアップグレードすることもできた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)11月には、PC-8801FH/MHが登場した(型番からmkIIの文字が消えたのはこのモデルから)。CPUがZ80H相当のμPD70008AC-8に変更され、クロック周波数は4MHzと8MHzに切り替え可能となり、処理速度の更なる向上が図られた。本体とキーボードのデザインも一新され、設定用のディップスイッチは消えてメモリスイッチとなり、付属キーボードは設定メニュー表示用に「PC」キーが追加され、日本語入力用にスペースキーを三分割して変換キーに割り当てられるなど大幅に更新された。後にFHには筐体が黒色のモデルも発売された。なお、PC-8801FH/MHには、「サウンドボード2」を装着するための専用カバーと専用スロットが存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "旧機種の弱点だった部分を補強して機能と処理速度を向上させていったSR以降のシリーズは、SR発売当初に登場したアクションゲーム『テグザー』をはじめ、FM音源による音声合成を実現した『シルフィード』『ぎゅわんぶらあ自己中心派』、RPGでは『イースシリーズ」や『ハイドライド3』『ソーサリアン』『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』など、SLGでは『スーパー大戦略』や『三國志II』などのシリーズを生んだ。この頃にはPC-8800シリーズが次第に8ビットパソコン市場で一人勝ちの様相を呈するようになり、ゲームソフトが優先的に発売されるほか、PC-8801mkIISR以降用だけで発売されたタイトルも存在するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお、N-BASICモードが製品仕様から外れたことによりモードスイッチから削除され、この仕様の違いから、N-BASICモードから起動する一部のPC-8801版ゲームソフトで起動しないものがある。N-BASICモードはV1Sモードの4MHz設定でキーボードから「N80」を押してリセットすることで起動するようになった。また、他メーカー機種のAV機能の向上に合わせて、65536色(B:5ビット、R:5ビット、G:6ビット)同時表示が可能となる「ビデオアートボード(型番:PC-8801-17)」もオプションで用意された。「N80」リセットの際、グラフィックスメモリの初期化が行われないことを利用し、市販ソフトの画面を取り込むツールにも利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)3月4日のPC-88VA(後述)発売後の、同年10月15日に発売されたPC-8801FA/MAでは、音源チップをスーパーシンセサイザーIC・YM2608に変更し、サウンド機能がステレオFM音源6音+リズム6音+SSG3音+ADPCM音源1音へと大幅に強化された。同機能を、VA、FH/MHやそれ以外の旧機種に対応させるために「サウンドボード2」と呼ばれる拡張ボードが用意された。FA/MAに標準搭載されたYM2608のI/Oポートアドレスは従来のYM2203と同じアドレスだったため、V2モード専用ソフトはそのまま利用することができた。PC-8801/mkII/SR/TR/FR/MR用「サウンドボード2(型番:PC-8801-23)」のYM2608のI/Oポートアドレスは別のアドレスに割り当てられたため、一部のソフトウェアでは増設された音源が正しく認識・演奏されないものがある。FH/MH用「サウンドボード2(型番:PC-8801-24)」及びFE/FE2用「サウンドボード2(型番:PC-8801-25)」は、専用スロットに装着することで内蔵音源と置き換わるように設計されている。また、メインメモリのウェイトをOFFに設定出来るようになったほか、MAでは辞書ROMを512KB搭載して連文節変換機能を実現したほか、学習機能等を持った日本語エディタも付属した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、1987年(昭和62年)にはシャープの新世代ホビー機X68000が登場し、88の王座は揺らぎ始めた。次期主要機として投入したPC-88VAの営業的失敗もあって、PC-8800シリーズは斜陽の時代に入ることとなる(MSXとゲーム専用機を除く全ての8ビットパソコンがその役割を終えたともいえる)。ホビーユースにおいてもPC-9800シリーズの本格的なシフトを始める等、NECはPC-8800シリーズを整理し、ハイエンド志向だったPC-9800シリーズのラインアップを見直して需要に応えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)には、家庭用テレビに接続可能なビデオ出力端子を搭載したPC-8801FEが用意された。このFEでは徹底的な機能削減を図り、BASICは添付されず、汎用拡張スロットも削除され、音源もYM2203が標準となっている。一方で、これまでの流れを汲むPC-8801MA2も用意された。これらの機種では、モニタメモリの種類を選択するスイッチは起動時にキーボードを押して選択するようになり、V1/V2のモード切替スイッチはメモリスイッチに取り込まれた。このメニューにより画面がクリアされるため、MA2/FEでは、V1SモードからのN80リセットは可能だが、これを利用したV2モード時の画面取り込みは出来ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、FH/MHからFE/MA2/VA2/VA3まで、CMキャラクターに斉藤由貴が起用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)にPC-98DO(後述)を挟んで登場したPC-8801MCでは、縦置きデザインの筐体になると共に、システムの起動も可能なCD-ROMドライブが装備された。このドライブはPCエンジンのCD-ROM2と共用のものであり、CD-ROMドライブ非搭載のModel 1では流用して搭載することが可能だった。旧機種向けに「CD-ROMインタフェースセット(型番:PC-8801-31)」も用意されたが、使用のための価格的なハードルや、容量のみで解決する問題が少ないこと、BASIC等からの制御や、CD-ROMを作成する手段が当時の一般ユーザーには無いこともあり、PC-8800シリーズでは、CD-ROM自体が普及しなかった。それらの状況や、既にPC-8800シリーズ自体が末期ということもあり、実際にPC-88シリーズ用に提供されたCD-ROMの市販ソフトウェアは『MIRRORS(ミラーズ)』など数えるほどにとどまっていたが、日本ファルコムや光栄のソフトウェアの一部が、BGMにサウンドトラックのCDを使えるように対応している。同時期にPC-8801FE2も発売された。MC/FE2ではメモリアクセスノーウェイト動作の8MHzHモードが追加された。N80リセットがV2モードからも可能になり、画面の初期化が省略されることによって画面の取り込みも再度可能になった。MH以降の2HD機種ではその表記が機種名の後ろに付いた(VA3では2HD+2TD)が、MCでは表記されなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "広告には松下進のキャラクターが起用された。純粋な8800シリーズはこのMCで終了となったが、MSXを除く他社の8ビットPCに比べて1年遅くまで新製品が投入された。88アーキテクチャを持つ機種は1990年(平成2年)10月に登場したPC-98DO(後述)が最後となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "PC-8800シリーズは、他社に先駆けてCPUクロックの高速化などを行っていたものの、8ビットCPUを使用する以上、基本性能の向上はほぼ限界に達しつつあった。1987年(昭和62年)3月4日に発売された PC-88VAでは、NEC独自の16ビットCPU、μPD9002(8MHz、V50のカスタム品)を採用し、メインメモリは512KBを備え、大幅な性能向上を図った上位機種である。外観でもFDDを横並びからPC-9800同様の縦並びとし、筐体も大きくなった。このCPUはV30としての動作に加え、8ビットCPU・μPD70008AC互換のモードを持っており、従来のPC-8800シリーズのV1/V2モードのソフトウェアの大部分が互換モードで動作可能だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "VDPの搭載により640×400ドット/256色や640×200ドット/65536色、スクロール機能・複数画面の合成 といった強力なグラフィック機能、4096色中16色・サイズ最大256×256ドットで最大同時表示32枚のスプライト機能などを備えた。OSにも、MS-DOSVer.2とシステムコールが概ね互換である独自OS、NEC PC-Engineを搭載していた。このOSではN88-日本語BASIC V3が動作し、N88-DISK BASICのディスクもファイルフォーマットを自動判別して読み込めた。また、高機能化したハードウェアをサポートするBIOSがROM内に整備された。プロセッサ等、共通項はありながらこれらの実装はPC-9800シリーズとは非互換であり、MS-DOSに依存したソフトウェアなど、共用できるソフトウェアはごく一部に限られた。但し、システムプログラムを二つ持ち、PC-8800シリーズではなく、PC-9800シリーズと同じパッケージでリリースされ、V3モードで動作するソフトウェアも存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "拡張スロットは、PC-9800シリーズのCバスと物理的には互換性があるものに変更されたが、前述のようにBIOSはじめ、基本的な実装の相違からPC-9800シリーズ用拡張ボード上のROM及びデバイスドライバ類は利用することは不可能であり、公式には非互換の独自スロットである。但し、非公式ではあるがPC-9800シリーズ用の増設RAMボードやSASI、SCSIインタフェースを増設することができ、88VA用のデバイスドライバやMSEなどのMS-DOSエミュレータ、PC-9801用ソフトへのパッチ等のソフトウェア的な改修、改造、開発により、その一部を利用することが可能だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、背面にはコンポジット映像出力端子を持ち、15kHz出力モード時限定ではあるが、ゲーム画面をビデオ録画することも可能だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "PC-88VAの後継機PC-88VA2/VA3では、ステレオFM音源(PC-8801FA/MAと同等)が採用されサウンド機能も強化された。また、V1/V2モード動作時の互換性の向上などの改善もおこなわれた。VA3では容量9.3MBの3.5インチ2TD(2DD/2HDのディスクの読み込みも可能)ドライブを搭載(VA/VA2にはオプションで用意)した。付属ソフトには「アニメフレーマー」が追加された。なお、初代VA用には「PC-88VAソフトウェアバージョンアップボード(型番:PC-88VA-91)」が用意され、辞書ROMと追加BIOS群の追加により、PC-Engineもバージョンアップ(V1.0からV1.1)でき、数値演算コプロセッサが装着できないこと以外は「サウンドボード2(型番:PC-88VA-12)」と併せてVA2とほぼ同等の機能にすることが可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1980年代の終盤になると、日本国内ではPC-9800シリーズの普及など、ビジネスの分野だけでなくホビーユースでも16ビット機への移行が加速していた。PC-88VAは、同時期のライバル機となるX68000やPC-9800シリーズおよびその互換機と比較された。X68000(369,000円)より安いがPC-9801UxシリーズやエプソンのPC-286シリーズと同等の価格設定、CPU速度やスプライト表示性能などがライバル機に劣る、V1/V2モードでの互換性が不完全、PC-9800シリーズと非互換など、突出した部分が少なく不利な状況に置かれた。結局、その性能を発揮する16ビット専用ソフトが揃わないままシリーズは二代目のVA2/VA3で打ち止めとなったが、PC-VAN内のVA-CLUBでは前述したようなMS-DOSエミュレータやフリーソフト、PC-9800シリーズ用のパッチなどが有志によって作成、頒布され一定の使用環境を提供していた。なお、PC-88VAシリーズの半角16ドットフォント(英数字などの8×16ドットフォント)はPC-9801とは異なり、かつての電子デバイス事業グループが開発・販売していたPC-100のフォントと同じである(「A」、「p」、数字の「0」などに特徴あり)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "PC-88VAの商業的失敗の後、NECは1989年(平成元年)6月にPC-8800シリーズとPC-9800シリーズの両方のソフトウェアが利用できる PC-98DOを発売して、市場シェアの維持を試みた。98DOではPC-8801MH相当の「88モード」とPC-9801VM11相当の「98モード」をモード切替スイッチで切り替えて使用可能だった。しかし、88モードではサウンドボード2相当の音源が搭載されておらず、アタリ仕様ジョイスティックやRS-232Cが使用出来ない、98モードではCPUがV30(8MHz/10MHz)しか搭載しておらず、当時の16ビット機として非力だったなどの問題があった。また、32ビット機の普及も始まる中、PC-8801FE2/MCの発売を挟んで1990年(平成2年)10月に発売したPC-98DOでは、CPUにV33A 16MHzを採用し、EGC、サウンドボード2相当音源を搭載するなど、それらの問題も解決させたものの、これ以上PC-8800シリーズを拡張する要素はなくなっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方で、NECはPC-9800シリーズをあくまでビジネスユースと位置付けてきたこともあり、多くの変数で煩雑な計算を要するシミュレーションゲームや相当のデータ容量を要する高解像度グラフィックを多用するアドベンチャーゲーム(特にアダルトゲーム)ではPC-9800シリーズへの移行が進んでいった。ほとんどのユーザーはそのままビジネス市場でも相当のシェアを占めていたPC-9800シリーズに、一部のゲーマーはX68000などに移行していった。1991年(平成3年)に次期98シリーズの試験機といえるPC-98GSの登場及び1992年(平成4年)のPC-9821初代機を経て、1993年(平成5年)にPC-9821シリーズへ本格移行するまでの間は、8ビットパソコンでも能力が充分なコンピュータRPGやアクションゲームなどでゲームが提供され続けた。この試みで一応の完成をみて、PC-8800シリーズは完結したものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "PC-8800シリーズは、新機種の発売では上位互換を持たせ、特にPC-8801mkIISR以降の機種は、基本仕様は全く変わっておらず、また機能追加が行われる毎に旧機種にもそれと同等の機能を実現するための拡張ボードが提供され、徹底した互換性対策が行われている。PC-8000シリーズ互換のN-BASICモードを全ての機種で持っている他、コストや、使用頻度を考慮した結果、2HDドライブ搭載機で廃止されたデータレコーダ端子もオプションボードとして提供している。", "title": "機種一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "SRでそれまでの旧機種モードと拡張モードをV1とV2に切り分けたことや、拡張ボードでは同等にならないCPUクロックの向上など、他機種ユーザーからは旧機種を切り捨ててきたようにも言われるが、上記の通り、それらのイメージよりもソフトウェア資産の継承、互換性については気を使った設計となっている。また、8MHz機の投入やALU搭載などは、当時の競合機だったFM-7、X1、MSX等が、CPUの処理速度を据え置きにしたままグラフィックやサウンド機能を強化したことで処理が重くなってしまっていることと対照的であるともいえる。", "title": "機種一覧" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "PC-8800シリーズには、主にNECから多くの周辺機器が発売されていた。また、PC-8000シリーズやPC-6000シリーズの一部周辺機器も、接続端子が同じだったため買い替えることなくそのまま流用という形で接続して使用できた。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "PC-8801は日本のロケットに深く関係している。主に、衛星追跡所などで近年まで使用され、打ち上げのロケット追尾から人工衛星の分離などの監視には欠くことのできない存在でもあった。故障率が判りにくくなおかつ故障箇所が見つけにくい最新のハイテクより、安定期に入ったローテクの方が良しとされたようである。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)1月に発売されたニンテンドーDS向けゲームソフト『世界樹の迷宮』では、前述の「イースシリーズ」『ソーサリアン』などで楽曲を提供していた古代祐三が、PC-8801FHからサンプラーで録音し、楽曲の中に組み入れる「サンプリング」という技法で録音されたFM音源の音色を中心に据えた楽曲を提供している。", "title": "エピソード" } ]
PC-8800シリーズは、1981年(昭和56年)から日本電気(NEC、後に日本電気ホームエレクトロニクスへ移管)が販売していた、パーソナルコンピュータ「PC-8801」及びその周辺機器のシリーズ名である。1980年代当時パソコン御三家の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。
{{Information appliance | name = PC-8800シリーズ | logo = PC8800 logo.svg | image = NEC PC-8801 with keyboard.jpg | caption = PC-8801(初代機) | developer = [[日本電気]] | Type = [[パーソナルコンピューター]] | Released = {{Start date|1981|12}}(PC-8801) | unitsshipped = 約94万台(1989年3月末時点)<ref name="NEC技報247">{{Cite journal |和書 |title=12. ホームエレクトロニクス10年の歩み |journal=NEC技報 |publisher=日本電気文化センター |volume=42 |issue=12 |pages=146 |date=1989-12-29 |doi=10.11501/3259716}}</ref> | predecessor = [[PC-8000シリーズ]] | successor = [[PC-9800シリーズ]] }} '''PC-8800シリーズ'''は、1981年([[昭和]]56年)から[[日本電気]](NEC、後に[[日本電気ホームエレクトロニクス]]へ移管)が販売していた{{Sfn|佐々木|2013|p=8}}、[[パーソナルコンピュータ]]「PC-8801」及びその周辺機器の[[シリーズ (作品)|シリーズ]]名である。[[1980年代]]当時[[8ビット御三家|パソコン御三家]]の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。 == 概要 == シリーズの初代機である'''PC-8801'''は、1981年(昭和56年)9月22日に[[PC-6000シリーズ|PC-6001]]と同時に発表され<ref>{{Cite book|和書|author=日本経営史研究所 |url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=5820&query=&class=&d=all&page=244 |title=情報処理産業年表 |publisher=[[日本アイ・ビー・エム]] |date=1988-10 |ncid=BN02772848}}1981年9月22日条</ref>、同年12月に発売された。同じNECの[[8ビットパソコン]]である[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]の[[互換性|上位互換]]機種であり、縦400ライン表示可能なビジネス用途もターゲットとした最上位機種という位置付けだった。当時は『[[I/O (雑誌)|I/O]]』や『[[マイコンBASICマガジン]]』などプログラム投稿雑誌や[[エニックス#ゲーム・ホビープログラムコンテスト|エニックスの賞金付ゲームコンテスト]]も盛んになっていた。[[1982年]](昭和57年)に[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]が発売されると、PC-8001ソフトとの両活用で[[ホビーパソコン|ホビーユース]]に対応した人気機種というポジションにシフトし、日本電気ホームエレクトロニクスへ移管された後に発売されたPC-8801mkIISRで、その位置づけを決定的にした<ref>{{Cite book|和書|author=SE編集部 |title=僕らのパソコン30年史 ニッポン パソコン クロニクル |publisher=[[翔泳社]] |date=2010-05-28 |page=36 |isbn=978-4-7981-2189-5}}</ref>。 PC-8800シリーズはNECの[[半導体]]開発部門(電子デバイス事業グループパーソナルコンピュータ事業部)が開発しており、[[情報処理]]部門(情報処理事業グループ小型システム事業部)が開発した[[16ビット]]パソコンの[[PC-9800シリーズ]]とは販売戦略が異なっていた<ref>{{Cite book|和書|author=小林紀興 |title=日本電気が松下・富士通連合軍に脅える理由―パソコン戦争の読み方 |publisher=[[光文社]] |date=1985-11 |pages=117-121 |isbn=4-334-01186-1}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=富田倫生 |authorlink=富田倫生 |title=エキスパンドブック版 パソコン創世記 |url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000055/card365.html |publisher=ボイジャー |chapter=早くも揺らぎはじめた三本立てパソコン事業体制 |chapterurl=https://www.aozora.gr.jp/cards/000055/files/365_51267.html#midashi1680 |date=1995-02}}</ref>。 累計出荷台数は、[[1989年]]([[平成]]元年)3月末時点で約94万台<ref name="NEC技報247"/>、同年9月時点で約96万台出荷されている{{Efn2|1989年(平成元年)10月に開催された「PC-9800シリーズ新商品説明会」に於ける「PC-9800シリーズ、PC-8800シリーズの合計で341万台というのがこの9月までの実績でございます。(中略)このうちPC-9800シリーズは約245万台で」([[関本忠弘]]日本電気社長:当時)の発言による<ref name="情報科学209">{{Cite journal |和書 |author=関本忠弘 |authorlink=関本忠弘 |title=パソコン事業について |journal=情報科学 |publisher=情報科学研究所 |issue=209 |pages=5 |date=1989-11-25 |doi=10.11501/3273704}}</ref>。}}。 == ハードウェアの特徴 == ;基本仕様 :当時のNEC社内での開発コードは「PCX-02」で{{要出典|date=2019年9月}}、PC-8801の前身となる機種PC-8001の仕様をほぼ全て継承しつつ、新しい機能を追加する上位互換を実現していた。 :以下はPC-8801及びPC-8801mkIIの仕様である。 [[ファイル:PC-8801MemoryMap.gif|thumb|right|320px|PC-8801及びPC-8801mkIIのメモリマップ]] * [[CPU]] [[μCOMシリーズ#μCOM-82|μPD780C-1]]([[Z80]]A 4MHz相当) * 搭載[[主記憶装置|メモリ]]容量合計184[[キロバイト|KB]] ** [[Random Access Memory|RAM]](メインメモリ) 64KB(4KBの[[VRAM#テキストVRAM|テキストVRAM]]領域を含む) ** [[N88-BASIC]] [[Read Only Memory|ROM]] 40KB ** [[機械語モニタ]] ROM 8KB ** [[N-BASIC]] ROM 24KB ** [[漢字ROM]](オプション、PC-8801mkIIでは標準実装) ** グラフィック[[VRAM]] 48KB(16KB×[[RGB]]3プレーン) * グラフィック[[画面解像度]](PC-8044家庭テレビ用カラーアダプタにより[[カラーテレビ]]を使用可) ** 640×200ドット / 8色([[ドット]]単位に指定可) 1画面 ** 640×200ドット / [[モノクローム|モノクロ]] 3画面(COLOR@コマンドによりテキストキャラクター単位でカラー表示可) ** 640×400ドット / モノクロ 1画面(高解像度カラーディスプレイ使用時、COLOR@コマンドによりテキストキャラクター単位でカラー表示可) * テキスト表示 ** 80文字×25行、80文字×20行、40文字×25行、40文字×20行(いずれかを選択可) ** リバース、ブリンク、シークレット(キャラクタ単位に指定可) ** 表示領域転送には、[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラを使用し、モードごとにテキストVRAMアドレスが変更される。 * BASIC ** N88-BASIC ** N-BASICモードに切替え可 * [[インタフェース (情報技術)|インタフェース]] ** モノクロCRT([[コンポジット映像信号|コンポジット]]出力、[[ライトペン]]対応) ** カラーCRT([[8ピン角型デジタル端子|RGBセパレート出力方式]]、[[DINコネクタ]]) ** [[コンパクトカセット|オーディオカセット]](600[[ボー]] / 1200ボー) ** [[パラレルポート|プリンタポート]]([[IEEE 1284|セントロニクス]]規格に準拠) ** [[シリアルポート]]([[RS-232|RS-232C]]規格に準拠、[[D-subminiature|D-sub25ピン]]) ** [[フロッピーディスク#5.25インチ|ミニフロッピーディスク]] [[ファイル:88SRBASIC.png|thumb|起動後にLINE命令でカラー表示]] [[ファイル:88SRBASIC400.png|thumb|400ライン表示はモノクロ]] [[ファイル:NEC PC-8801 - 28655424671.jpg|thumb|PC-8801背面の拡張スロット]] [[ファイル:88SRkanji.png|thumb|PUT関数での漢字表示(緑枠は400ラインモード)]] ;メモリ構成 :搭載メモリ容量は合計184KBであり、Z80Aで直接扱えるメモリ容量(最大64KB)を越えていたため、[[バンク切り換え]]の手法が用いられた。[[N88-BASIC]]の通常モードにおいて、アドレス0000H(Hは[[十六進法|16進数]]を表す)から7FFFHまではN88-BASIC [[Read Only Memory|ROM]](容量32KB)が割り当てられた。一方0000Hから7FFFHまでのメイン[[Random Access Memory|RAM]]にはBASICプログラム(テキストエリア)が格納されていたが、ROMに隠れてCPUから直接アクセスできないため、任意の1KBを8000Hから83FFHまでの領域に割り当て直してアクセスする方法(テキストウィンドウ)が採られた。8400HからFFFFHまでの31KBにはメインRAMが割り当てられ、変数データや[[JIS X 0201|ANK文字]]表示用メモリ、N88-DISK BASICのディスクコードなどが格納された。このメモリ構成により、当時の8ビットパソコンとしては異例の最大32KBのBASICプログラムを実行することができた。ちなみに、本来のアドレス8000Hを割り当てると、隠しメモリとして使用できた。 ;200ライン表示 :[[RGB]]それぞれ0%と100%の二階調を組み合わせて8色(0:[[黒]]、1:[[青]]、2:[[赤]]、3:[[マゼンタ]]、4:[[緑]]、5:[[シアン (色)|シアン]]、6:[[黄色]]、7:[[白]])のカラー表示を行っていた。この方式は後に登場した「[[VGA端子|アナログRGB]]」との比較で「[[8ピン角型デジタル端子|デジタルRGB]]」と通称された<ref group="注">現在では「デジタルRGB」とはおおむね[[Digital Visual Interface|DVI]]をはじめとする信号がデジタル化されたディスプレイ接続のことを示す。</ref>。[[インデックスカラー|カラーパレット切り替え機能]]により8種類のパレット番号(0-7)を上記の8色から選んで任意の色に対応させることができた。また、モノクロ3ページのモードも存在し、例えば1ページ目のみを表示しながら非表示となっている2ページ目に描画をすることができた。 ;400ライン表示 :モニター出力の水平同期周波数が15kHzと24kHzに対応し、400ラインの表示が可能となった。縦横比のドットピッチ間隔がほぼ同じになったため、漢字[[フォント]]の表示でも隙間を感じないよう精細に出来るようになり、日本語表示を必要とするビジネスマシンとしても使用できるようになった。 ;文字表示 :PC-8001と同等のANK文字表示用ハードウェアが残されており、グラフィック画面の上に合成表示が可能になっていた。フォントをハードウェア的に展開するこの仕組みは文字表示について[[VRAM]]へのデータ転送量が軽減されるため、ANK文字は高速表示が可能だった。このような構成は後の[[PC-9800シリーズ]]にも継承され、日本語表示も可能な形で実装されている。 ;ROMに内蔵されたソフトウェア :内蔵の[[ROM-BASIC]]は、N88-BASICを新たに採用した。PC-8001互換の[[N-BASIC]]には、本体のモードスイッチかBASICの拡張命令(''NEW ON''命令)で本体を一旦リセットすることで切り替えて使用した。[[機械語モニタ]]には簡易的な[[アセンブリ言語|アセンブラ]]と[[逆アセンブラ]]の機能が含まれていたが、[[Z80]]ではなく[[Intel 8080]]の文法である。そのため、Z80にて追加された機械語命令は、逆アセンブル時に???と表示された。 ;キーボード :本体は[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]と本体部分のセパレート型となり、[[拡張カード|拡張ボード]]を本体に内蔵できるようになっていた。キーボードはパラレル入力で、同時押しもできたが、[[シフトキー|SHIFT]]や[[コントロールキー|CTRL]]などを除いてダイナミックスキャンの回り込み防止用の[[ダイオード]]は入っていない。 ;キーボード(オプション PC-8801-KI) :新入力方式日本語ワードプロセッサPCWORD-M<ref name=pcword-m>{{Cite web|和書|url=https://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0027.html |title=【日本電気】 日本語ワードプロセッサ用新入力方式:M式 |publisher=[[情報処理学会]] |accessdate=2022-07-18}}</ref>に同梱されているキーボード{{Sfn |ASCII 1983年11月号 |p=4}}。PCWORD-Mの動作に必要な増設RAMボード PC-8801-02N はPCWORD-M に同梱されている<ref name=pcword-m/>{{Sfn |ASCII 1983年11月号 |p=4}}。 ;フロッピーディスク :ミニフロッピーディスクインタフェースを標準装備しており、5.25インチ1D(片面倍密度)、2D(両面倍密度、約320Kバイト)の外付け[[フロッピーディスクドライブ|FDD]]が使用できた。[[DISK-BASIC]]としてN88-DISK BASICが用意されていた。また、8インチフロッピーディスクインタフェースボードを介する事で、8インチ2D(約1Mバイト)の外付けFDDが使用できた。 :PC-8001/PC-8801シリーズでは、5.25インチFDDは日本向けの「インテリジェントタイプ」と呼ばれる方式と海外向けのDMAを介してCPUで制御する方式があった。日本向けインテリジェントタイプは、ドライブ側にFDD制御用CPU(Z80系列)を搭載し、本体とFDDとの間でパラレルインタフェース([[Intel 8255|i8255]]互換)によりデータ転送を行っていた。日本向けインテリジェントタイプの純正品として PC-8031-2W/PC-80S31 などがある{{Sfn|浅野|1983|p=76-78}}。 :サブCPU側にプログラムを転送することで、FDD操作以外の計算処理も可能になっており、この特徴は後継機でも引き継がれている。FDDアクセスルーチンへのパッチ<ref group="注">MAGICAL-DOSやC-DOS等。</ref>や、演算処理の部分的な肩代わりをさせるソフトウェア<ref group="注">[[システムソフト]]のSeeNaなど。</ref>もあった。また、CPUがPIO転送を行う機種とは異なり、転送そのものに多くのメイン[[計算資源|CPUリソース]]を必要としない他、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]を止めずにアクセス処理が行えるため、音源が搭載された後継機では、[[背景音楽|BGM]]を鳴らしたままでのデータアクセスを可能にしていた。 :なお、8インチFDDは、本体CPUからDMAによる直接制御となり、より高速な転送が可能である。I/F形式はPC-9801と同一であるため、PC-9801用の5.25インチ2HDドライブや、3.5インチ2HDドライブを接続し、使用することも可能である。 ;拡張スロット :PC-8801の特徴の一つである拡張スロットの仕様が公開されていたため、個人でも拡張ボードの自作が可能であり、[[基板|ユニバーサル基板]]も販売されていた。個人でのハードウェア工作のほか、[[工作機械]]や制御機器を製造していたメーカーが専用インタフェースの拡張ボードを各々作成し、[[ロボット]]、機器などの制御用にも多く利用されていた。後に、これらの分野を視野に入れた物がFC-98シリーズへ、またRS-232Cで制御可能な物が[[PC-8200シリーズ]]へと受け継がれていくことになる。 ;オプション :[[漢字ROM]]ボードを使用することで、N88-BASICのコマンドレベルでグラフィック画面に[[漢字]]を表示できた。後にN88-漢字BASIC(後期はN88-日本語BASIC)も用意された。その他に[[MIDI]]インタフェースと[[Programmable Sound Generator|PSG]]×2(8オクターブ6重和音)を搭載した「ミュージックインタフェースボード(型番:PC-8801-10)」、[[μCOMシリーズ#μCOM-86, μCOM-88|μPD8086]]([[Intel 8086|i8086]]互換)8MHzと128KBのRAMを搭載し、[[MS-DOS]] Vwe1.25を使用できる「16ビットカード(型番:PC-8801-16)」なども販売されていた<ref>{{Cite book|和書|author=NECパソコンインフォメーションセンター監修 |title=PC110番(NEC PC-8800シリーズ編)|series=実践パソコンQ&A集1 |publisher=[[インプレス|ラジオ技術社]] |date=1985-01 |pages=112-115, 141-142, 191-192 |isbn=4-8443-0507-7}}</ref>。 == 歴史 == === 400ライン表示可能なビジネス機、PC-8801 === '''PC-8801'''は別売ながら漢字ROMを用意したことで、「マイレター」、「文筆」、「ユーカラ」などのいくつかの日本語[[ワープロソフト]]がPC-8801用に開発された。これらは後にPC-9801対応版も登場し、パソコンソフト市場に日本語ワープロソフトのジャンルを確立することになった。NEC自身も「ユーカラ」を自社ブランドで「日本語ワードプロセッサ」として発売したが、こちらは失敗に終わっている<ref>{{Cite book|和書|author=片貝孝夫 |author2=平川敬子 |title=パソコン驚異の10年史―その誕生から近未来まで |series=[[ブルーバックス]] B-721 |publisher=[[講談社]] |year=1988 |isbn=4-06-132721-6 |pages=55-85 |chapter=日本語ワードプロセッサの歴史}}</ref>。PC-8801は1983年11月までに17万台が出荷された<ref>{{Cite journal|和書|title=ASCII EXPRESS : NEC、パーソナルコンピュータ2機種を発売|journal=[[月刊アスキー|ASCII]] 1984年1月号 |volume=8|issue=1|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。 [[1983年]]に登場した後継機、'''PC-8801mkII'''では、FDDを2基本体に内蔵可能とし、縦置きも可能な新しい筐体を採用した。また、キーボードは人間工学に基づいたステップスカルプチャー方式が採用された<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1068992.html ディスクドライブが普及する過渡期に登場した「NEC PC-8801mkII」]、AKIBA PC Hotline!、2017年7月31日</ref>。8801mkII以降の機種はFDDが本体内に内蔵可能となったため、内蔵FDD制御用サブCPUとしてμPD780C-1(Z80A相当、4MHz)とサブCPU用RAMが搭載された。漢字ROMが標準搭載されるようになり、ブザーが[[スピーカー]]に置換されると共に、従来の[[ビープ音|BEEP音]]のほかに、BASICからCMD SING<ref group="注">PC-8801mkIIで追加された「タートルグラフィック拡張命令」と呼ばれるBASICの拡張[[文 (プログラミング)|ステートメント]](命令)。「CMD TURTLE」「CMD SING」「CMD [[CLS (コマンド)|CLS]]」「CMD TEXT ON/OFF」等がある。</ref>で利用可能な[[入出力ポート|I/Oポート]]を制御することで、ソフトウェア的にパルスを生成できる単音の音源が追加され音程を奏でることが可能になった。 [[ファイル:N-88BASIC_v1.0.gif|thumb|N-88BASICでのグラフィック描画(V1モードのイメージ)]] 上記の2つの機種(後にPC-8800シリーズでは旧機種として分類される)は、テキスト画面の描画サイクルのDMA動作でメインCPUの処理が一時停止する等のハード仕様のため、動作速度やグラフィックの描画などが遅く、テキスト画面の表示を無効にし表示タイミングを無視して書き込む「高速モード」もあったものの、表示によるレスポンスを必要とするリアルタイムゲームでは、その恩恵を受けられなかった。 PC-8801登場時の1981年はコンピュータゲームの黎明期にあたり、[[アクションゲーム]](略称:ACG)・[[ロールプレイングゲーム]](略称:RPG)・[[シミュレーションゲーム]](略称:SLG)・[[アドベンチャーゲーム]](略称:AVG)の各ジャンルに分かれて発展していくこととなる。PC-8801の歴史はゲームの歴史でもあると言われるが、このうちアクションゲームは初期のPC-8801にとって不向きと言われた分野で、[[プログラマー]]が腕を競う激戦区ともなった。[[エニックス]]が開催した[[プログラミングコンテスト|プログラムコンテスト]]では、ドアを開け閉めして敵を閉じ込める『[[ドアドア]]』が優秀賞を受賞している<ref>{{Cite book|和書 |author=アスキー書籍編集部 |title=蘇るPC-8801伝説 永久保存版 |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |date=2006-03-14 |isbn=4-7561-4730-5 |pages=129-161}}</ref>。 この'''PC-8801mkII'''から'''PC-8801mkIIFR/MR'''まで、CMキャラクターに[[武田鉄矢]]が起用された<ref name="FH/MH"/>。 === ホビー志向となったPC-8801mkIISR以降 === ホビーマシンとしてのPC-8800シリーズの地位を確立した後継機種が、[[1985年]](昭和60年)1月に登場した'''PC-8801mkIISR'''である。主にグラフィック機能とサウンド機能が強化され<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1086591.html パソコンの歴史において様々な意味で決定打となった名機種「NEC PC-8801mkIISR」]、AKIBA PC Hotline!、2017年10月30日</ref>、強化されたハードウェアに対応するために、従来のN-88BASIC(本機以降、'''N-88BASIC V1'''と呼称)を機能拡張した'''N-88BASIC V2'''が搭載された<ref group="注">アナログパレット機能やサウンド機能をBASICで使用する場合、BASICのモードを切り替えた後、「NEW CMD」文を実行する事で拡張命令(CMDで始まる拡張ステートメント)が使用可能となる。</ref>。 グラフィック機能では、640×200ドット/512色中8色の[[VGA端子|アナログRGB]]<ref group="注">コネクタはD-Sub15ピン。</ref>へと発色数が強化され、[[演算装置#ALU|ALU]]を搭載し、GVRAMの[[論理演算]]を伴うRGB3プレーン同時アクセスを可能にするなど、グラフィックス処理に対するCPUの演算負荷を軽減する仕組みが用意された。GVRAM(グラフィックVRAM)は48KBのままで、従来のデジタルRGB端子も引き続き使用できた。また、テキストVRAM4KBをメインメモリから独立させ、GVRAMに[[サイクルスチール]]を採用し、旧機種ではシステム速度の負荷となっていたバス調停による速度低下を抑えた。 この拡張グラフィック機能はV2モードと呼ばれ、以前のものをV1モードと呼んで区別し、本体のモードスイッチでN-BASIC/V1S/V1H/V2の4つのモードを切り替えて使うようになった(V1S:互換、V1H:高速)。前述のアナログパレットの追加に伴い、初期化の状況によって、V1モードのプログラムはV2モードでは色が正しく表示されない事があったが、正しく初期化して両モード対応のソフトを書くことも可能だった。 サウンド機能では、[[ヤマハ]]の音源チップ'''[[YM2203]]'''が搭載され、[[FM音源]]3音+[[Programmable Sound Generator|SSG]]3音のサウンド機能を新たに標準装備。BEEP音のみだった旧機種から表現力を大幅に向上させた。旧機種用にもFM音源は「サウンドボード(型番:PC-8801-11)」として用意されたが、I/Oポートアドレスは異なり[[互換性]]は無い。内蔵音源とはI/Oポートアドレスが異なることから併用は可能になっており、ボード付属の拡張BASICでFM6重和音の演奏が可能となった。また、数は少ないが初代・mkIIでFM音源ボードに対応したソフト<ref group="注">PC-8801mkII対応版『[[テグザー]]』(通称:テグザー88)や『[[太陽の神殿 アステカII|太陽の神殿]]』、『[[アルファ (ゲーム)|アルファ]]』、『[[PRODUCE]]』、『[[ロマンシア]]』等。</ref>が発売されている。この機能拡張に伴い、ソフトウェアメーカーによって多くのソフトウェアが作られ、[[同人ゲーム]]ソフトや[[コンピュータグラフィックス|CG]]・[[デスクトップミュージック|サウンド]]集といった、在野の活動も促す形となった。しかし、V2モード専用とは別にV1モード用がリリースされたものや、V2モード用のものに[[パッチ]]を当てると動作するソフトがあったものの、V1モードで動作するプログラムは市場からは早々に衰退することとなった。 同年9月発売の'''PC-8801mkIITR'''では、SRと同一筐体の横に[[電話機]]・[[モデム]]・NCU([[モデム#網制御装置|網制御装置]])を一体化したモデム電話を装備した。ただし、このモデムの通信速度は[[複信|全二重通信]]300[[ビット毎秒|bps]]と低く、当時このパソコンをレビューした雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』{{Full citation needed|date=2019年9月}}においてさえも「将来を考えると、通信速度が遅すぎるのではないか?」と指摘されるなど、実験的な要素が目立つ機種だった。 同年11月には、SRをマイナーチェンジした'''PC-8801mkIIFR/MR'''が発売された。'''FR'''はSRの廉価版であり、下位の8ビット機種を廃止する代わりにこれらのユーザー層を取り込む役割があった<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1106459.html あの名機がついに手の届く価格帯に降りてきた「PC-8801mkIIFR」]、AKIBA PC Hotline!、2018年3月12日</ref>。'''MR'''においては、2HDと2Dの読み書きに両対応したFDD<ref group="注">当時、PC-9800シリーズでは2HD/2DD両用FDDはPC-9801VM(1985年7月発売)と、ハイレゾ専用のPC-98XA(1985年5月発売)に搭載。PC-9801F/VF/Uは2DD専用、PC-9801Mは2HD専用。両用3.5インチFDDのUVは未発売(1986年5月発売)。</ref>、JIS第2水準漢字まで含んだ漢字ROMを搭載するなど、当時の8ビット機種としては高い機能が盛り込まれた。ソフトウェア的な互換性は維持されていたものの、2Dと2HD/2DDではヘッドのトラック幅の違いがあることから、2HD/2D兼用ドライブで書き込んだ2Dディスクが2D専用ドライブで読めないことや、[[コピープロテクト]]対策や極限ともいえる容量までディスクを使用することが多かったゲームソフトの中には動作しないものがあるなど注意喚起された<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1133613.html 5インチ2HDドライブを搭載し、PC-88シリーズに新たな流れを作った「NEC PC-8801mkIIMR」]、AKIBA PC Hotline!、2018年8月6日</ref>が、実際の市場では大きな問題になっていない。N-BASIC切り替えスイッチとランプが削除されたが、N88V1モードのBASIC起動後に「NEW ON 1」と入力することでN-BASICに切り替わる。バンク切り換え方式(NEC標準バンク増設方式)の128KBの拡張メモリが標準装備されたラインナップもMRが初であり、拡張メモリが標準搭載されたモデルが発売されたことで、対応するアプリケーションも増加した。バンク切り換え方式のメモリは、純正では128KBの「増設RAM ボード(型番:PC-8801-02/PC-8801-02N)」が売られており、設計上の仕様としては、最大512KBの空間を管理できるようになっている。NEC標準バンク増設方式を拡張して最大4MB(128バンク×32KB)まで拡張できる1MBバンクRAMボード、2MBバンクRAMボードが[[アイ・オー・データ機器]]から発売されているが、実際にディスクキャッシュなどとして活用するのは標準搭載された128KB迄という実装が多く見られ、積極的に活用されたとは言い難い。88VAの互換モード時の64KB以上のメモリは、このバンクメモリとして認識する。 このほか、MRには[[文節]]変換が可能なN88-日本語BASIC、FRには[[熟語 (漢字)|熟語]]変換が可能なN88-日本語BASICが標準搭載された(model 10は別売)。また、このFR/MRから拡張スロットの数が減らされたり、MRの[[データレコーダ]]用インタフェース(カセットテープインタフェース)削除など、不要な機能の削減が意識されるようになった。mkII/SR/FR/FHまでは、FDD無しのmodel 10、FDD1台のみのmodel 20が用意され、NEC純正の増設FDD以外に、旧機種からFDDを移植したり、バルク品のFDDを搭載して安価にアップグレードすることもできた。 === 更なる高速化と高機能化 === [[1986年]](昭和61年)11月には、'''PC-8801FH/MH'''が登場した(型番からmkIIの文字が消えたのはこのモデルから。)。CPUがZ80H相当のμPD70008AC-8に変更され、クロック周波数は4MHzと8MHz<ref group="注">メインメモリのウェイトのため実質6MHz程度。</ref>に切り替え可能となり、処理速度の更なる向上が図られた。本体とキーボードのデザインも一新され、設定用の[[ディップスイッチ]]は消えてメモリスイッチとなり、付属キーボードは設定メニュー表示用に「PC」キーが追加され、[[日本語入力システム|日本語入力]]用に[[スペースキー]]を三分割して[[言語入力キー#変換キー|変換キー]]に割り当てられるなど大幅に更新された。後に'''FH'''には筐体が黒色のモデルも発売された。なお、'''PC-8801FH/MH'''には、「サウンドボード2」を装着するための専用カバーと専用スロットが存在する<ref name="FH/MH">[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1149741.html 大ブレイクしたPC-8801mkIISRの流れを汲み登場した「PC-8801FH/MH」、CPU速度は倍の8MHzに]、AKIBA PC Hotline!、2018年11月20日</ref>。 旧機種の弱点だった部分を補強して機能と処理速度を向上させていったSR以降のシリーズは、SR発売当初に登場したアクションゲーム『[[テグザー]]』をはじめ、FM音源による音声合成を実現した『[[シルフィード]]』『[[ぎゅわんぶらあ自己中心派]]』、RPGでは『[[イースシリーズ]]」や『[[ハイドライドシリーズ#ハイドライド3|ハイドライド3]]』『[[ソーサリアン]]』『[[ドラゴンスレイヤー英雄伝説]]』など、SLGでは『[[大戦略シリーズ|スーパー大戦略]]』や『[[三國志シリーズ|三國志II]]』などのシリーズを生んだ。この頃にはPC-8800シリーズが次第に8ビットパソコン市場で一人勝ちの様相を呈するようになり、ゲームソフトが優先的に発売されるほか、PC-8801mkIISR以降用だけで発売されたタイトルも存在するようになった。 なお、N-BASICモードが製品仕様から外れたことによりモードスイッチから削除され、この仕様の違いから、N-BASICモードから起動する一部のPC-8801版ゲームソフトで起動しないものがある。N-BASICモードはV1Sモードの4MHz設定でキーボードから「N80」を押してリセットすることで起動するようになった。また、他メーカー機種の[[オーディオ・ビジュアル|AV]]機能の向上に合わせて、65536色(B:5ビット、R:5ビット、G:6ビット)同時表示が可能となる「ビデオアートボード(型番:PC-8801-17)」もオプションで用意された。「N80」リセットの際、グラフィックスメモリの初期化が行われないことを利用し、市販ソフトの[[スクリーンショット|画面を取り込む]]ツールにも利用された。 [[1987年]](昭和62年)3月4日の'''PC-88VA'''(後述)発売後の<ref name="情報科学193">{{Cite journal |和書 |author=日本電気 |author2=日本電気ホームエレクトロニクス |title=ホーム・パーソナル分野に最適の16ビットパーソナルコンピュータの発売について |journal=情報科学 |publisher=情報科学研究所 |issue=193 |pages=163-165 |date=1987-03-25 |doi=10.11501/3273685}}</ref>、同年10月15日に発売された'''PC-8801FA/MA'''では<ref name="情報科学197">{{Cite journal |和書 |author=日本電気 |author2=日本電気ホームエレクトロニクス |title=パーソナルコンピュータ「PC-8800シリーズ」の新製品2機種の発売について |journal=情報科学 |publisher=情報科学研究所 |issue=197 |pages=168-170 |date=1987-11-25 |doi=10.11501/3273690}}</ref>、音源チップをスーパー[[シンセサイザー]]IC・[[YM2608]]に変更し、サウンド機能が[[ステレオ]]FM音源6音+リズム6音+SSG3音+[[適応的差分パルス符号変調|ADPCM]]音源1音へと大幅に強化された。同機能を、VA、FH/MHやそれ以外の旧機種に対応させるために「サウンドボード2」と呼ばれる拡張ボードが用意された。FA/MAに標準搭載されたYM2608のI/Oポートアドレスは従来のYM2203と同じアドレスだったため、V2モード専用ソフトはそのまま利用することができた。PC-8801/mkII/SR/TR/FR/MR用「サウンドボード2(型番:PC-8801-23)」のYM2608のI/Oポートアドレスは別のアドレス<ref group="注">サウンドボード(型番:PC-8801-11)と同じアドレスのため、PC-8801-11との併用不可。</ref>に割り当てられたため、一部のソフトウェアでは増設された音源が正しく認識・演奏されないものがある。FH/MH用「サウンドボード2(型番:PC-8801-24)」及びFE/FE2用「サウンドボード2(型番:PC-8801-25)」は、専用スロットに装着することで内蔵音源と置き換わるように設計されている。また、メインメモリのウェイトをOFFに設定出来るようになったほか、MAでは辞書ROMを512KB搭載して連文節変換機能を実現したほか、学習機能等を持った日本語エディタも付属した<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1180892.html 新しい音源を搭載してPC-88シリーズの魅力がより一層高まった『PC-8801FA/MA』]、AKIBA PC Hotline!、2019年5月21日</ref>。 しかし、1987年(昭和62年)には[[シャープ]]の新世代ホビー機[[X68000]]が登場し、88の王座は揺らぎ始めた。次期主要機として投入したPC-88VAの営業的失敗もあって、PC-8800シリーズは斜陽の時代に入ることとなる([[MSX]]と[[ゲーム機|ゲーム専用機]]を除く全ての8ビットパソコンがその役割を終えたともいえる)。ホビーユースにおいてもPC-9800シリーズの本格的なシフトを始める等、NECはPC-8800シリーズを整理し、ハイエンド志向だったPC-9800シリーズのラインアップを見直して需要に応えていった。 [[1988年]](昭和63年)には、家庭用テレビに接続可能な[[コンポジット映像信号|ビデオ出力]]端子を搭載した'''PC-8801FE'''が用意された<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1199573.html テレビに接続できるPC-88シリーズが誕生「PC-8801FE」]、AKIBA PC Hotline!、2019年10月23日</ref>。この'''FE'''では徹底的な機能削減を図り、BASICは添付されず、汎用拡張スロットも削除<ref group="注">サウンドボード2は専用スロットが設置され、専用オプションが用意された。</ref>され、音源もYM2203が標準となっている。一方で、これまでの流れを汲む'''PC-8801MA2'''も用意された。これらの機種では、モニタメモリの種類を選択するスイッチは起動時にキーボードを押して選択するようになり、V1/V2のモード切替スイッチはメモリスイッチに取り込まれた。このメニューにより画面がクリアされるため、MA2/FEでは、V1SモードからのN80リセットは可能だが、これを利用したV2モード時の画面取り込みは出来ない。 なお、FH/MHからFE/MA2/VA2/VA3まで、CMキャラクターに[[斉藤由貴]]が起用された<ref name="FH/MH"/>。 [[1989年]](平成元年)に'''PC-98DO'''(後述)を挟んで登場した'''PC-8801MC'''では、縦置きデザインの筐体になると共に、システムの起動も可能な[[光学ドライブ|CD-ROMドライブ]]が装備された<ref name="ベーマガ199001">{{Cite journal|和書|author=丹治佐一|title=CD-ROMドライブを搭載した“PC-8801MC”が新登場!|journal=[[マイコンBASICマガジン]]|volume=1990年1月号(第9巻第1号)|publisher=[[電波新聞社]]|date=1990年1月1日|page=43 - 47}}</ref>。このドライブは[[PCエンジン]]の[[CD-ROM2|CD-ROM²]]と共用のものであり、CD-ROMドライブ非搭載のModel 1では流用して搭載することが可能だった<ref name="ベーマガ199001"/><ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1294386.html PC-88シリーズの最後を飾ったラストエンペラー「PC-8801MC」]、AKIBA PC Hotline!、2021年1月5日</ref>。旧機種向けに「[[CD-ROM]]インタフェースセット(型番:PC-8801-31)」も用意されたが<ref name="ベーマガ199001"/>、使用のための価格的なハードルや、容量のみで解決する問題が少ないこと、BASIC等からの制御や、CD-ROMを作成する手段が当時の一般ユーザーには無いこともあり、PC-8800シリーズでは、CD-ROM自体が普及しなかった。それらの状況や、既にPC-8800シリーズ自体が末期ということもあり、実際にPC-88シリーズ用に提供されたCD-ROMの市販ソフトウェアは『MIRRORS(ミラーズ)』など数えるほどにとどまっていたが、[[日本ファルコム]]や[[コーエー|光栄]]のソフトウェアの一部<ref group="注">『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』、『ドラゴンスレイヤー英雄伝説II』、『[[ぽっぷるメイル]]』等。</ref>が、BGMに[[サウンドトラック]]のCDを使えるように対応している。同時期に'''PC-8801FE2'''も発売された。MC/FE2ではメモリアクセスノーウェイト動作の8MHzHモードが追加された<ref name="ベーマガ199001"/><ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1274798.html メモリノーウェイト機能を搭載した「NEC PC-8801FE2」、2Dドライブ搭載PC-8800シリーズとしては最後のモデル]、AKIBA PC Hotline!、2020年9月15日</ref>。N80リセットがV2モードからも可能になり、画面の初期化が省略されることによって画面の取り込みも再度可能になった。FR/MR以降、本体前面に記載される型番表記はPC-9801シリーズと同様にゼブラ文字となったが、MHからMA2までは「2HD」表記(VA3は「2HD+2TD」)が付いたり、FA/MA/MA2では「PERSONAL COMPUTER」表記の部分が反転、FE2/MCではNEC横の縦ラインが途中で曲がるなど、9801に比べてアピール度が高いものとなっている。 広告には[[松下進]]のキャラクターが起用された。純粋な8800シリーズはこのMCで終了となったが、MSXを除く他社の8ビットPCに比べて1年遅くまで新製品が投入された。88アーキテクチャを持つ機種は[[1990年]](平成2年)10月に登場した'''PC-98DO<sup>+</sup>'''(後述)が最後となる。 === Z80互換モードを持つハイブリッドV30マシン、PC-88VA === [[ファイル:NEC PC-88 VA.jpg|thumb|PC-88VA]] PC-8800シリーズは、他社に先駆けてCPU[[クロック]]の高速化などを行っていたものの、8ビットCPUを使用する以上、基本性能の向上はほぼ限界に達しつつあった。1987年(昭和62年)3月4日に発売された '''PC-88VA'''では、NEC独自の16ビットCPU、[[NEC_Vシリーズ#その他のV30系|μPD9002]](8MHz、[[NEC Vシリーズ|V50]]のカスタム品)を採用し、メインメモリは512KBを備え、大幅な性能向上を図った上位機種である。外観でもFDDを横並びからPC-9800同様の縦並びとし、筐体も大きくなった。このCPUは[[NEC Vシリーズ#V30|V30]]としての動作に加え、8ビットCPU・μPD70008AC互換のモードを持っており、従来のPC-8800シリーズのV1/V2モードのソフトウェアの大部分が[[互換モード]]で動作可能だった<ref group="注">テキスト画面の仕様の差異などの理由もあり、一部のソフトウェアは対応外となっている。</ref><ref name="情報科学193"/><ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1314887.html 次世代88へと華々しくステップアップしたが伸び悩んだ「NEC PC-88VA」]、AKIBA PC Hotline!、2021年4月7日</ref>。 [[VDP]]の搭載により640×400ドット/256色や640×200ドット/65536色、スクロール機能・複数画面の合成 といった強力なグラフィック機能、4096色中16色・サイズ最大256×256ドットで最大同時表示32枚の[[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能などを備えた。[[オペレーティングシステム|OS]]にも、[[MS-DOS]]Ver.2と[[システムコール]]が概ね互換である独自OS、'''NEC PC-Engine'''を搭載していた。このOSでは'''N88-日本語BASIC V3'''が動作し、N88-DISK BASICのディスクも[[ファイルフォーマット]]を自動判別して読み込めた。また、高機能化したハードウェアをサポートする[[Basic Input/Output System|BIOS]]がROM内に整備された。プロセッサ等、共通項はありながらこれらの実装はPC-9800シリーズとは非互換であり、MS-DOSに依存したソフトウェアなど、共用できるソフトウェアはごく一部に限られた。但し、システムプログラムを二つ持ち、PC-8800シリーズではなく、PC-9800シリーズと同じパッケージでリリースされ、V3モードで動作するソフトウェア<ref group="注">[[マイクロキャビン]]の『[[サーク|Xak]]』、『[[サークII|XakII]]』、『[[ガゼルの塔|Xak -ガゼルの塔-]]』、『[[幻影都市]]』、『[[フレイ (ゲーム)|FRAY]]』等。</ref>も存在する。 拡張スロットは、PC-9800シリーズの[[Cバス]]と物理的には互換性があるものに変更されたが、前述のようにBIOSはじめ、基本的な[[実装]]の相違からPC-9800シリーズ用拡張ボード上のROM及び[[デバイスドライバ]]類は利用することは不可能であり、公式には非互換の独自スロットである。但し、非公式ではあるがPC-9800シリーズ用の増設RAMボードやSASI、[[Small Computer System Interface|SCSI]]インタフェースを増設することができ、88VA用のデバイスドライバやMSEなどのMS-DOS[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]、PC-9801用ソフトへのパッチ等のソフトウェア的な改修、改造、開発により、その一部を利用することが可能だった。 また、背面には[[コンポジット映像信号|コンポジット映像出力端子]]を持ち、15kHz出力モード時限定ではあるが、ゲーム画面をビデオ録画することも可能だった。 PC-88VAの後継機'''PC-88VA2/VA3'''では、ステレオFM音源(PC-8801FA/MAと同等)が採用されサウンド機能も強化された。また、V1/V2モード動作時の互換性の向上などの改善もおこなわれた。VA3では容量9.3[[メガバイト|MB]]の3.5インチ2TD(2DD/2HDのディスクの読み込みも可能)ドライブを搭載(VA/VA2にはオプションで用意)した<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1319404.html 16ビットパソコンに進化したPC-88シリーズの最終形態「NEC PC-88VA2/3」]、AKIBA PC Hotline!、2021年4月27日</ref>。付属ソフトには「アニメフレーマー」が追加された。なお、初代VA用には「PC-88VAソフトウェアバージョンアップボード(型番:PC-88VA-91)」が用意され、辞書ROMと追加BIOS群の追加により、PC-Engineもバージョンアップ(V1.0からV1.1)でき、[[FPU|数値演算コプロセッサ]]が装着できないこと以外は「サウンドボード2(型番:PC-88VA-12)」と併せてVA2とほぼ同等の機能にすることが可能になった。 1980年代の終盤になると、日本国内ではPC-9800シリーズの普及など、ビジネスの分野だけでなくホビーユースでも16ビット機への移行が加速していた。PC-88VAは、同時期のライバル機となる[[X68000]]やPC-9800シリーズおよびその互換機と比較された。X68000(369,000円)より安いがPC-9801Uxシリーズや[[EPSON PCシリーズ|エプソンのPC-286シリーズ]]と同等の価格設定、CPU速度やスプライト表示性能などがライバル機に劣る、V1/V2モードでの互換性が不完全、PC-9800シリーズと非互換など、突出した部分が少なく不利な状況に置かれた。結局、その性能を発揮する16ビット専用ソフトが揃わないままシリーズは二代目のVA2/VA3で打ち止めとなったが、[[PC-VAN]]内のVA-CLUBでは前述したようなMS-DOSエミュレータやフリーソフト、PC-9800シリーズ用のパッチなどが有志によって作成、頒布され一定の使用環境を提供していた。{{要出典|なお、PC-88VAシリーズの半角16ドットフォント(英数字などの8×16ドットフォント)はPC-9801とは異なり、かつての電子デバイス事業グループが開発・販売していたPC-100のフォントと同じである(「A」、「p」、数字の「0」などに特徴あり)。<ref>「[https://www.okqubit.net/machines/nec.html#pc100]所有マシン>NEC>PC-100」古典コンピュータ愛好会</ref>|title=https://www.okqubit.net/machines/nec.html#pc100|date=2023年10月}} === PC-98DOの発売及びPC-9800シリーズへの統合 === PC-88VAの商業的失敗の後、NECは[[1989年]](平成元年)6月にPC-8800シリーズとPC-9800シリーズの両方のソフトウェアが利用できる '''PC-98DO'''を発売して、市場シェアの維持を試みた。98DOではPC-8801MH相当<ref group="注">製品カタログには「PC-8801MA2の機能をベース」と記述されているが、実際はサウンドボード2機能を搭載していないため、PC-8801MH相当の仕様だった。</ref>の「88モード」とPC-9801VM11相当の「98モード」をモード切替スイッチで切り替えて使用可能だった。しかし、88モードではサウンドボード2相当の音源が搭載されておらず、[[アタリ仕様ジョイスティック]]やRS-232Cが使用出来ない、98モードではCPUがV30(8MHz/10MHz)しか搭載しておらず、当時の16ビット機として非力だったなどの問題があった<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1329506.html PC-88とPC-98のハイブリッド型として誕生した「NEC PC-98DO」]、AKIBA PC Hotline!、2021年6月8日</ref>。また、32ビット機の普及も始まる中、PC-8801FE2/MCの発売を挟んで[[1990年]](平成2年)10月に発売した'''PC-98DO<sup>+</sup>'''では、CPUに[[NEC Vシリーズ#V33・V33A|V33A]] 16MHzを採用し、[[EGC]]、サウンドボード2相当音源を搭載するなど、それらの問題も解決させたものの、PC-8800シリーズとして新たに拡張された部分はなく、既存ユーザーへの買い替え需要を掘り起こすに至ってはいない。 一方で、NECはPC-9800シリーズをあくまでビジネスユースと位置付けてきたこともあり、多くの変数で煩雑な計算を要するシミュレーションゲームや相当のデータ容量を要する高解像度グラフィックを多用するアドベンチャーゲーム(特に[[アダルトゲーム]])ではPC-9800シリーズへの移行が進んでいった。ほとんどのユーザーはそのままビジネス市場でも相当のシェアを占めていたPC-9800シリーズに、一部のゲーマーはX68000などに移行していった。[[1991年]](平成3年)に次期98シリーズの試験機といえる[[PC-9801シリーズ#マルチメディア指向|PC-98GS]]の登場及び[[1992年]](平成4年)のPC-9821初代機を経て、[[1993年]](平成5年)に[[PC-9821シリーズ]]へ本格移行するまでの間は、8ビットパソコンでも能力が充分な[[コンピュータRPG]]やアクションゲームなどでゲームが提供され続けた。この試みで一応の完成をみて、PC-8800シリーズは完結したものとなった。 == 機種一覧 == PC-8800シリーズは、新機種の発売では上位互換を持たせ、特にPC-8801mkIISR以降の機種は、基本仕様は全く変わっておらず、また機能追加が行われる毎に旧機種にもそれと同等の機能を実現するための拡張ボードが提供され<ref group="注">サウンドボード2、CD-ROMインタフェースなど。</ref>、徹底した互換性対策が行われている。[[PC-8000シリーズ]]互換のN-BASICモードを全ての機種で持っている他、コストや、使用頻度を考慮した結果、2HDドライブ搭載機で廃止されたデータレコーダ端子もオプションボードとして提供している。 SRでそれまでの旧機種モードと拡張モードをV1とV2に切り分けたことや、拡張ボードでは同等にならないCPUクロックの向上など、他機種ユーザーからは旧機種を切り捨ててきたようにも言われるが、上記の通り、それらのイメージよりもソフトウェア資産の継承、互換性については気を使った設計となっている。また、8MHz機の投入やALU搭載などは、当時の競合機だった[[FM-7]]、[[X1 (コンピュータ)|X1]]、[[MSX]]等が、CPUの処理速度を据え置きにしたままグラフィックやサウンド機能を強化したことで処理が重くなってしまっていることと対照的であるともいえる。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !colspan="2"|発売<br/>年月!!機種名!!モデル!!標準価格<br/>(円)!!特徴!!商品情報 |- |1981||style="text-align:right"|12||colspan="2"|PC-8801||style="text-align:right"|228,000||初代機。FDD・漢字ROMはオプション。汎用拡張スロットを4個持つ(8801では最多)。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b024-1.html] |- |rowspan="3"|1983||rowspan="3" style="text-align:right"|11||rowspan="3"|PC-8801mkII||model 10||style="text-align:right"|168,000||rowspan="3"|FDD・第一水準漢字ROM内蔵、単音の音源(CMD SING)追加。<br/>これ以降、model 10は[[フロッピーディスク|FD]]ドライブなし、model 20は[[フロッピーディスク#一般的なフォーマットの例|2D]]ドライブ1基、model 30は2Dドライブ2基搭載。<br/>左側面に縦置き用の脚があり、縦置き設置が可能。本体正面左下と右側面の2カ所にキーボード接続端子がある。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b036-1.html] |- |model 20||style="text-align:right"|225,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b037-1.html] |- |model 30||style="text-align:right"|275,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b038-1.html] |- |rowspan="8"|1985||rowspan="3" style="text-align:right"|1||rowspan="3"|PC-8801mkIISR||model 10||style="text-align:right"|168,000||rowspan="3"|グラフィック機能を拡張したV2モード、FM音源(YAMAHA YM2203:OPN)を搭載。<br/>この機種以降、背面の[[Input/Outputポート|I/Oポート]]が[[アタリ (企業)|アタリ]]規格([[D-subminiature|D-sub 9pin]])になる。<br/>縦置き設置の向きがmkIIと逆で、右側面に縦置き用の脚が付いている。FDDイジェクトレバーが左側にあるドライブを採用。<br/>キーボード接続端子は本体正面右下と左側面にある。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b043-1.html] |- |model 20||style="text-align:right"|213,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b044-1.html] |- |model 30||style="text-align:right"|258,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b045-1.html] |- |style="text-align:right"|9||colspan="2"|PC-8801mkIITR||style="text-align:right"|288,000||SR model 30に[[複信|全二重通信]]300[[ビット毎秒|bps]]の[[モデム]]電話を左側面に設置。<br/>モデム電話が付いたことにより横置き専用となり縦置き設置の脚は削除、左側面のキーボード接続端子は残っているがモデム電話に隠れて実質的に使用不可。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b046-1.html] |- |rowspan="4" style="text-align:right"|11||rowspan="3"|PC-8801mkIIFR||model 10||style="text-align:right"|99,800||rowspan="3"|SRの廉価版、モードスイッチからNモード廃止。<br/>NECの他の8ビット機種を整理(廃止)して生産面・販売面ともにコストダウンを図る。<br/>この機種以降、Fシリーズは汎用拡張スロットを1個に削減、モノクロ出力端子、側面のキーボード接続端子を削除。FDDはTEAC標準形状のものに戻る。<br/>熟語変換が可能なN88-日本語BASICを標準搭載(model 10は別売)。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b039-1.html] |- |model 20||style="text-align:right"|148,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b040-1.html] |- |model 30||style="text-align:right"|178,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b041-1.html] |- |colspan="2"|PC-8801mkIIMR||style="text-align:right"|238,000||モードスイッチからNモード廃止、[[フロッピーディスク#一般的なフォーマットの例|2HD]]ドライブ2基搭載。この機種以降の全機種に第二水準漢字ROM内蔵。<br/>この機種以降、Mシリーズは128KBの増設RAMが標準搭載され、汎用拡張スロットを2個に削減、モノクロ出力端子、側面のキーボード接続端子、[[データレコーダ|CMT]]端子が削除(拡張ボードで増設可)。<br/>文節変換が可能なN88-日本語BASICを標準搭載。日本語BASICでは128KBの増設RAM領域が使われ、BASICの高速化が図られた。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b042-1.html] |- |rowspan="4"|1986||rowspan="4" style="text-align:right"|11||rowspan="3"|PC-8801FH||model 10||style="text-align:right"|98,000||rowspan="3"|FRに4/8MHzモード切り替え追加、ディップスイッチ廃止、大型キーボード採用。メイン基板がFH/MHと共通化。<br/>4か月後にブラックカラーのmodel 30(B)を発売。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b028-1.html] |- |model 20||style="text-align:right"|138,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b029-1.html] |- |model 30||style="text-align:right"|168,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b030-1.html] |- |colspan="2"|PC-8801MH||style="text-align:right"|208,000||MRに4/8MHzモード切り替え追加、ディップスイッチ廃止、大型キーボード採用、2HDドライブ2基搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b035-1.html] |- |rowspan="3"|1987||style="text-align:right"|3||colspan="2"|PC-88VA||style="text-align:right"|298,000||16ビット機。メモリ大幅増設、V2モードからさらにグラフィック機能を拡張したV3モード、独自OSのPC-Engine搭載、2HDドライブ搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b047-1.html] |- |rowspan="2" style="text-align:right"|10||colspan="2"|PC-8801FA||style="text-align:right"|168,000||FHにサウンドボード2相当機能(YAMAHA YM2608:OPNA)搭載、メモリウエイトのOFFが可能。<br/>この機種以降、FシリーズはCMT端子が削除(拡張ボードで増設可)、デジタルRGB端子削除、かつドライブ2基搭載モデルのみ発売。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b025-1.html] |- |colspan="2"|PC-8801MA||style="text-align:right"|198,000||MHにサウンドボード2相当機能・512KBの辞書ROM搭載、メモリウエイトのOFFが可能、2HDドライブ搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b031-1.html] |- |rowspan="4"|1988||rowspan="2" style="text-align:right"|3||colspan="2"|PC-88VA2||style="text-align:right"|298,000||VAの88互換性の改善、サウンドボード2相当機能搭載、2HDドライブ搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b048-1.html] |- |colspan="2"|PC-88VA3||style="text-align:right"|398,000||VAの88互換性の改善、サウンドボード2相当機能搭載、2HDドライブに加え、3.5インチ[[フロッピーディスク#一般的なフォーマットの例|2TD]]ドライブを搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b049-1.html] |- |rowspan="2" style="text-align:right"|10||colspan="2"|PC-8801FE||style="text-align:right"|129,000||FHの廉価版、[[テレビ受像機|TV]]への出力が可能、モードスイッチ・拡張スロット廃止、サウンドボード2はオプション。8MHzHモードを追加。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b026-1.html] |- |colspan="2"|PC-8801MA2||style="text-align:right"|168,000||MAの後継機、モードスイッチ廃止、2HDドライブ搭載。この機種以降、MシリーズもデジタルRGB端子削除。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b032-1.html] |- |rowspan="3"|1989||style="text-align:right"|10||colspan="2"|PC-8801FE2||style="text-align:right"|119,000||FEの後継機、MCと同様に8MHzの高速化モードを追加。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b027-1.html] |- |rowspan="2" style="text-align:right"|11||rowspan="2"|PC-8801MC||model 1||style="text-align:right"|169,000||rowspan="2"|88シリーズ唯一のCD-ROMドライブ搭載(model 1はオプション)の縦置き専用筐体。<br/>MA相当の仕様に加え8MHzHモードを追加、2HDドライブ搭載。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b033-1.html] |- |model 2||style="text-align:right"|199,000 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b034-1.html] |- <!--- 本項は88の説明のみで98モードの記述は行わないでください ---> |colspan="7"|(その他・88機能を持つ他シリーズ) |- |1989||style="text-align:right"|6||colspan="2"|[[PC-9801シリーズ#PC-8800シリーズ互換|PC-98DO]]||style="text-align:right"|298,000||モードスイッチにより98と88の切り替えが可能。88モードはMH並の性能。88用拡張ボード使用不可。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b278-2.html] |- |1990||style="text-align:right"|10||colspan="2"|PC-98DO<sup>+</sup>||style="text-align:right"|278,000||モードスイッチにより98と88の切り替えが可能。88モードはMA並の性能。88用拡張ボード使用不可。<br/>アタリ規格の[[マウス (コンピュータ)|マウス]]や[[ジョイスティック]]はオプションのマウス変換コネクタ(PC-98DO/P-11)を装着することで使用可能。 |[https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/cpu/b280-2.html] |} == 周辺機器 == PC-8800シリーズには、主にNECから多くの周辺機器が発売されていた。また、[[PC-8000シリーズ]]や[[PC-6000シリーズ]]の一部周辺機器も、接続端子が同じだったため買い替えることなくそのまま流用という形で接続して使用できた。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !型名!!style="width:25em;" | 商品名!!機能の詳細説明 |- !{{Nowrap |PC-8801-01/01K}} |漢字ROMボード||PC-8801本体内に実装することにより、JIS第一水準の漢字2965文字と非漢字約700種が使用できる。 |- !{{Nowrap |PC-8801-02/02N}} |増設RAMボード||128KBの増設RAMを搭載。NEC標準バンク増設方式(4バンク×32KB)。 |- !PC-8801-07 |固定ディスクインタフェースボード||5インチ固定ディスクユニット([[ハードディスク]])接続用インタフェース搭載。SR以降の機種はV1Sモード(クロック周波数4MHz)のみ使用可能。 |- !PC-8801-10 |ミュージックインタフェースボード||[[MIDI]]インタフェースと[[Programmable Sound Generator|PSG]]×2を搭載。BASICの拡張命令で最大8オクターブ6重和音の演奏が可能。 |- !PC-8801-11 |サウンドボード||FM音源(YAMAHA YM2203:OPN)搭載。PC-8801/mkII本体に実装することにより、SRと同じFM音源が使用できる。PC-8801-23/24との併用不可。 |- !PC-8801-12 |モデムボード||[[複信|全二重通信]]300[[ビット毎秒|bps]]の[[モデム]]ボード。搭載することでTR相当の機能を実現。通信は添付のシステムプログラムを使用。 |- !PC-8801-16 |16ビットカード||[[μCOMシリーズ|μPD8086]]([[Intel 8086|i8086]]互換)8MHz及び128KB RAMと16ビットカード用に4KB・PC-8801用に8KBのブートROMを搭載。<br/>別売の[[MS-DOS]] Ver1.25(PS88-111)が使用可能([[PC-9800シリーズ]]のMS-DOSアプリケーションは使用不可)。 |- !PC-8801-17 |ビデオアートボード||本体の表示系とは別に320×200ドット・65536色表示が可能。また、ビデオ入力との[[スーパーインポーズ (映像編集)|スーパーインポーズ]]、ビデオ出力による表示画面の録画が可能。 |- !PC-8801-18 |ビデオデジタイズユニット||PC-8801-17に接続することで、ビデオ画像を[[デジタイズ]]してパソコン画面に取り込むことが可能。 |- !PC-8801-21 |CMTインタフェースボード||[[データレコーダ|CMT]]接続用。CMT用ケーブル(PC-8093相当)が添付。 |- !PC-8801-23 |サウンドボード2||PC-8801/mkII/SR/TR/FR/MR用。汎用拡張スロットタイプ。PC-8801-11との併用不可。 |- !PC-8801-24 |サウンドボード2||PC-8801FH/MH用。専用スロット(本体内コネクタ)に装着することで内蔵音源と置き換わる。PC-8801-11との併用不可。 |- !PC-8801-25 |サウンドボード2||PC-8801FE/FE2用。専用スロット(本体内コネクタ)に装着することで内蔵音源と置き換わる。 |- !PC-8821 |rowspan="2"|18ピン・[[プリンター#ドットインパクト方式|ドットマトリックスプリンタ]]||18ピンヘッドにより、高印字品質が得られる。また、PC-8821-02漢字ROMボード(格納されているフォントは16x16ドット{{Sfn|浅野|1983|p=54-55}})を実装することにより、高速かつ鮮明な漢字プリントが行える。 |- !PC-8822 |PC-8821に漢字ROMボードを標準搭載したもの。 |- !PC-8826 |[[プロッター|カラープロッタプリンタ]] |米沢日本電気(現・[[NECパーソナルコンピュータ]]米沢事業場)製<ref>{{Cite web |和書 |author=大河原克行 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/0116/gyokai230.htmhttps://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/0116/gyokai230.htm |title=NECの「元気な米沢!」活動に見る、PC事業を支えるDNA |website=大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」 |publisher=PC Watch |date=2008-01-16 |accessdate=2023-12-11}}</ref>。[[ボールペン]]([[サインペン]])記録方式、4色(黒・青・赤・緑)、80字/行、有効作画範囲 横199mm 縦277mm(10インチ[[スプロケット]]孔付ロール紙使用時)、横180mm 縦237mm(カット紙、[[OHPシート]]使用時)、本体148,000円{{Sfn |ASCII 1983年6月号 |p=102}}。PC-8826-P3 スプロケット孔付ロール紙1,200円、PC-8826-UM ユーザーズマニュアルが1,500円{{Sfn |ASCII 1983年6月号 |p=103}}。漢字ボード、RS-232Cインタフェース、[[IEEE 488|GP-IB]]インタフェースがオプションで用意された{{Sfn |ASCII 1983年6月号 |p=104}}。 |- !{{Nowrap |PC-8834-2W}} |PC-8031-2W用N88DISK-BASICシステムディスク||N88DISK-BASICをスタートさせるための両面倍密度システムディスクと未使用のフロッピィディスクの2枚組。 |- !PC-8851 |14インチ・モノクロ専用高解像度ディスプレイ||640×400ドットの専用高解像度モノクロ[[ディスプレイ_(コンピュータ)|ディスプレイ]]。[[ブラウン管]]を利用。重量10Kg{{Sfn |ASCII 1983年1月号 |p=11}}。 |- !PC-8853 |14インチ・カラー専用高解像度ディスプレイ||640×400ドットの専用高解像度カラーディスプレイ。ブラウン管を利用。ドットピッチ0.31mm。215,000円。重量13.5Kg{{Sfn |ASCII 1983年1月号 |p=11}}<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-8853 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d051-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-16}}</ref>。 |- !PC-8853K |14インチ・カラー専用高解像度ディスプレイ||640×400ドットの専用高解像度カラーディスプレイ。ブラウン管を利用。ドットピッチ0.31mm。168,000円。重量13.5Kg{{Sfn |ASCII 1983年5月号 |p=40}}<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-8853K |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d052-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-16}}</ref>。 |- !PC-8853N |14インチ・カラー専用高解像度ディスプレイ||640×400ドットの専用高解像度カラーディスプレイ。ブラウン管を利用。ドットピッチ0.31mm。168,000円。重量13.0Kg<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-8853N |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d053-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-16}}</ref>。 |- !PC-TV451 |15インチカラーディスプレイテレビ |1985年発売、水平640(15 - 17KHz/22 - 26KHz/29 - 34KHz)×垂直200/400(55 - 80Hz)自動切換。ドットピッチ0.31mm。マルチシンク3モード対応<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-TV451 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d112-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-10}}</ref>。 |- !PC-TV452 |15インチカラーディスプレイテレビ |1986年発売、水平640(15 - 17KHz/22 - 26KHz/29 - 34KHz)×垂直200/400(55 - 80Hz)自動切換。ドットピッチ0.39mm。マルチシンク3モード対応<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-TV452 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d114-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-10}}</ref>。 |- !PC-TV453 |15インチカラーディスプレイテレビ |1986年発売、水平640(15 - 17KHz/22 - 26KHz/29 - 34KHz)×垂直200/400(55 - 80Hz)自動切換。ドットピッチ0.35mm。マルチシンク3モード対応<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-TV453 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d115-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-10}}</ref>。 |- !PC-TV454 |15インチカラーディスプレイテレビ |1989年発売、水平640(15 - 17KHz/22 - 26KHz/29 - 34KHz)×垂直200/400(55 - 100Hz)自動切換。ドットピッチ0.35mm。マルチシンク3モード対応<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-TV454 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d117-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-10}}</ref>。 |- !PC-TV455 |15インチカラーディスプレイテレビ |1989年発売、水平640(15 - 17KHz/22 - 26KHz/29 - 34KHz)×垂直200/400(55 - 100Hz)自動切換。ドットピッチ0.31mm。マルチシンク3モード対応<ref>{{Cite web |title=型 名:PC-TV455 |url=https://support.nec-lavie.jp/support/product/data/spec/dsp/d118-1.html |website=support.nec-lavie.jp |access-date=2023-10-16}}</ref>。 |- !PC-8881 |8インチ標準フロッピィディスクユニット||2台の8インチ薄型ドライブを実装した標準フロッピィディスクユニット。1/2台目として使用する。インタフェースボードPC-8881 FDC8が付属。 |- !PC-8882 |8インチ標準フロッピィディスクユニット(増設用)||2台の8インチ薄型ドライブを実装した増設用標準フロッピィディスクユニット。3/4台目として使用する。 |- !PC-8886 |8インチフロッピィディスク||未使用の8インチフロッピィディスクが10枚入っている。 |- <!--- !SK-8204 |{{Nowrap|サウンドユニットMkII(PC-8801用社外サウンドボード)}}||PC-8801mkIIのサウンド機能をPC-8801に追加し、mkII用のソフトで音階の出力が可能になる。 |- !PCG8800 |ユーザ定義キャラクタージェネレータボード||文字を任意のデザインに置き換えることができる。PC-8001用のPCG-8100の後継機ボード。 ---> |} == エピソード == PC-8801は日本のロケットに深く関係している。主に、衛星追跡所などで近年{{いつ|date=2012年4月}}<!--See [[WP:DATED]]-->まで使用され、打ち上げのロケット追尾から人工衛星の分離などの監視には欠くことのできない存在でもあった。故障率が判りにくくなおかつ故障箇所が見つけにくい最新のハイテクより、安定期に入ったローテクの方が良しとされたようである。 [[2007年]](平成19年)1月に発売された[[ニンテンドーDS]]向けゲームソフト『[[世界樹の迷宮]]』では、前述の「[[イースシリーズ]]」『[[ソーサリアン]]』などで楽曲を提供していた[[古代祐三]]が、PC-8801FHから[[サンプラー]]で録音し、楽曲の中に組み入れる「[[サンプリング]]」という技法で録音されたFM音源の音色を中心に据えた楽曲を提供している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=佐々木潤 |title=80年代マイコン大百科 |publisher=[[総合科学出版]] |date=2013-07-25 |isbn=978-4-88181-832-9 |ref={{Sfnref|佐々木|2013}}}} * {{Cite book|和書 |author=浅野泰之、壁谷正洋、金磯善博、桑野雅彦 |title=PC-9801システム解析(下) |chapter=第3章ディスク装置 |publisher=[[メディアリーヴス|アスキー出版局]] |series=アスキー・テクニカル・バンク |date=1983-12-01 |isbn=4-87148-715-6 |doi=10.11501/12628450 |ref={{Sfnref|浅野|1983}}}} * {{Cite journal|和書 |author= |journal=[[月刊アスキー|ASCII]] 1983年1月号 |volume=7 |issue=1 |publisher=[[メディアリーヴス|株式会社アスキー出版]] |date=1983-01-01 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年1月号}} }} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年5月号 |volume=7 |issue=5 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-5-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年5月号}} }} * {{Cite journal|和書 |author= |journal=ASCII 1983年6月号 |volume=7 |issue=6 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-6-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年6月号}} }} * {{Cite journal|和書 |author= |journal=ASCII 1983年11月号 |volume=7 |issue=11 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-11-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年11月号}} }} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} * [http://pc88pc98.web.fc2.com/ PC-8800シリーズ PC-9800シリーズ 博物館] * [http://hp.vector.co.jp/authors/VA011804/pc8801.htm PC博物館 PC-8801] * [https://web.archive.org/web/20120402224015/http://www.geocities.jp/retro_zzz/machines/nec/8801/mdl88.html モデルナンバー - PC-8800 - NEC] - Retro Computer People * [https://galapagosstore.com/web/catalog/nec/top 電子書籍で復刻!レトロ家電カタログ(NEC製品)] - シャープ電子書籍ストア(COCORO BOOKS) {{NECのパソコン}} [[Category:日本電気のパーソナルコンピュータ]] [[Category:アセンブリ言語]]
2003-09-07T07:08:11Z
2023-12-27T01:32:42Z
false
false
false
[ "Template:Efn2", "Template:Cite journal", "Template:NECのパソコン", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:Full citation needed", "Template:Nowrap", "Template:いつ", "Template:Cite book", "Template:Information appliance", "Template:Sfn", "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/PC-8800%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
15,532
226年
226年(226 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "226年(226 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
226年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|226}} {{year-definition|226}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[神功皇后]]摂政26年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]886年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[魏 (三国)|魏]] : [[黄初]]7年 ** [[蜀]] : [[建興 (蜀)|建興]]4年 ** [[呉 (三国)|呉]] : [[黄武]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[山上王]]30年 ** [[新羅]] : [[奈解尼師今|奈解王]]31年 ** [[百済]] : [[仇首王]]13年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2559年 * [[仏滅紀元]] : 769年 * [[ユダヤ暦]] : 3986年 - 3987年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=226|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[パルティア]]が滅亡。[[アルダシール1世]]により[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]が建国される。 * 魏で[[曹丕|文帝]]が[[崩御]]し、[[皇太子]]の[[曹叡]]が明帝として即位する。 == 誕生 == {{see also|Category:226年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:226年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月29日]]([[黄初]]7年[[5月17日]]) - [[曹丕]]、[[魏 (三国)|魏]]の初代[[皇帝]](* [[187年]]) * [[士燮 (交阯太守) |士燮]]、[[呉 (三国)|呉]]の[[交趾郡|交阯]][[太守]](* [[137年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|226}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200}} {{デフォルトソート:226ねん}} [[Category:226年|*]]
null
2023-05-12T01:21:33Z
false
false
false
[ "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:年代ナビ", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:脚注ヘルプ", "Template:十年紀と各年", "Template:Year-definition" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/226%E5%B9%B4
15,533
651年
651年(651 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "651年(651 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
651年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|651}} {{year-definition|651}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[辛亥]] * [[日本]] ** [[白雉]]2年 ** [[皇紀]]1311年 * [[中国]] ** [[唐]] : [[永徽]]2年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]10年 ** [[百済]]:[[義慈王]]11年 ** [[新羅]]:[[真徳女王]]5年 ** [[檀紀]]2984年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=651|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[サーサーン朝]]滅亡 * 白雉2年(651年)に左大臣[[巨勢徳陀子]]が、[[倭国]]の実力者になっていた中大兄皇子(後の[[天智天皇]])に[[新羅]]征討を進言したが、採用されなかった。 == 誕生 == {{see also|Category:651年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[川島皇子]]、[[天智天皇]]の第2皇子(+ [[691年]]) == 死去 == {{see also|Category:651年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[道信]]、中国の禅僧(* [[580年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|651}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}} {{デフォルトソート:651ねん}} [[Category:651年|*]]
2003-09-07T07:13:09Z
2023-10-09T13:30:19Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:十年紀と各年", "Template:Clear", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/651%E5%B9%B4
15,534
208年
208年(208 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "208年(208 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null } ]
208年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|208}} {{year-definition|208}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[神功皇后]]摂政8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]868年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[建安 (漢)|建安]]13年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[山上王]]12年 ** [[新羅]] : [[奈解尼師今|奈解王]]13年 ** [[百済]] : [[肖古王]]43年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2541年 * [[仏滅紀元]] : 751年 * [[ユダヤ暦]] : 3968年 - 3969年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=208|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 春 - 孫権が[[黄祖]]と戦い、これを破って処刑する。 * 7月 - 曹操の南下が始まる。 * 8月 - 劉表が死去。子の[[劉琮]]が跡を継ぎ、曹操に降伏する。 * 10月 - [[長坂の戦い]] - 曹操が劉備を攻撃。劉備は敗北するが退却に成功し、[[劉琦]]と合流する。 * 11月 - [[赤壁の戦い]] - [[曹操]]が[[劉備]]・[[孫権]]連合軍に大敗し、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の端緒となる。 * 曹操、[[孔融]]を[[処刑]]する。 == 誕生 == {{see also|Category:208年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月1日]] - [[アレクサンデル・セウェルス]]、[[ローマ皇帝]](+ [[235年]]) == 死去 == {{see also|Category:208年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * 8月 - [[劉表]]、後漢末の群雄、[[荊州]]牧(* [[142年]]?) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|208}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200}} {{デフォルトソート:208ねん}} [[Category:208年|*]]
2003-09-07T07:13:28Z
2023-12-16T12:44:56Z
false
false
false
[ "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:See also", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/208%E5%B9%B4
15,535
363年
363年(363 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "363年(363 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
363年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|363}} {{year-definition|363}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[仁徳天皇]]51年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1023年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[東晋]] : [[隆和]]2年、[[興寧]]元年 ** [[前涼]] : [[升平]]7年 ** [[前燕]] : [[建熙]]4年 ** [[前秦]] : [[甘露 (前秦)|甘露]]5年 ** [[代 (五胡十六国)|代]] : [[建国 (代)|建国]]26年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[故国原王]]33年 ** [[百済]] : [[近肖古王]]18年 ** [[新羅]] : [[奈勿尼師今|奈勿王]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2696年 * [[仏滅紀元]] : 906年 * [[ユダヤ暦]] : 4123年 - 4124年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=363|Type=J|表題=可視}} == できごと == * ローマ皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]がサーサーン朝ペルシャへの遠征を開始。 * ローマ皇帝ユリアヌスがペルシャからの撤退中に戦死。 * [[ペトラ]]に巨大地震発生。 == 誕生 == {{see also|Category:363年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[劉裕]]、中国[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[宋 (南朝)|宋(劉宋)]]の初代皇帝(+ [[422年]]) == 死去 == {{see also|Category:363年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月26日]] - [[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]、ローマ皇帝、「背教者」、[[コンスタンティヌス朝]]の断絶(* [[331年]]) * [[張玄靚]]、[[五胡十六国時代]]の[[前涼]]の第8代君主(* [[350年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|363}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300}} {{デフォルトソート:363ねん}} [[Category:363年|*]]
null
2021-07-09T06:41:45Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/363%E5%B9%B4
15,536
616年
616年(616 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "616年(616 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null } ]
616年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|616}} {{year-definition|616}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丙子]] * [[日本]] ** [[推古天皇]]24年 ** [[皇紀]]1276年 * [[中国]] ** [[隋]] : [[大業]]12年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[嬰陽王]]27年 ** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]17年 ** [[新羅]]:(王)[[真平王]]38年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]33年 ** [[檀紀]]2949年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=616|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[新羅]]、[[仏像]]を貢進する。 * [[河内国]]([[大阪府]])の[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]の樋管に使われた木材が伐採される([[年輪年代学|年輪年代測定法]]で判明)。これより、狭山池の構築が同年と推定。 == 誕生 == {{see also|Category:616年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:616年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[宇文述]]、[[隋]]の[[軍人]] * [[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]、[[七王国時代]][[ブリタンニア]]の[[ケント王国]]の王(* 560年頃) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|616}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}} {{デフォルトソート:616ねん}} [[Category:616年|*]]
2003-09-07T07:13:56Z
2023-09-04T16:19:07Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/616%E5%B9%B4
15,537
626年
626年(626 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "626年(626 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
626年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|626}} {{year-definition|626}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丙戌]] * [[日本]] ** [[推古天皇]]34年 ** [[皇紀]]1286年 * [[中国]] ** [[唐]] : [[武徳]]9年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[栄留王]]9年 ** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]27年 ** [[新羅]]:(王)[[真平王]]48年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]43年 ** [[檀紀]]2959年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=626|Type=J|表題=可視}} == できごと == * この年、霖雨、大[[飢饉]]おこる。 * [[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]が即位。[[貞観の治]]はじまる。 == 誕生 == {{see also|Category:626年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)]] [[シーア派]]の3番目の[[イマーム]] *[[天智天皇]]、第38代[[天皇]](+ [[672年]]) == 死去 == {{see also|Category:626年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月19日]](推古天皇34年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[蘇我馬子]]、[[飛鳥時代]]の[[政治家]](* [[551年]]?) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|626}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}} {{デフォルトソート:626ねん}} [[Category:626年|*]]
2003-09-07T07:14:09Z
2023-09-12T16:29:25Z
false
false
false
[ "Template:Clear", "Template:脚注ヘルプ", "Template:十年紀と各年", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:年代ナビ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/626%E5%B9%B4
15,538
地形
地形(ちけい、英語:landform)は、地表面の起伏(凹凸)の形態である。 地形学では、特定の成因により形成された特定の形態的特徴をもつ部分ごとに区分して、それぞれに特定の地形分類用語を与えており、それらを地形種、地形単位という。 地形は内作用・外作用・外来作用の連続で形成される。内作用により変動地形や火山地形が、外作用により侵食地形や堆積地形が形成される。この他、外来作用により衝突地形が形成されるが、現在の地球ではほとんど見られない。 地形種(地形単位)は、規模によって巨地形、大地形、中地形、小地形、微地形、極微地形、超極微地形の7種に分類される。ただし、実際には同じ種類の地形であっても個体ごとの規模は多種多様である。分類例には多くの提案がなされているが、国際的に標準化されたものはない。ここでは鈴木(1997)の分類を示す。 すべての地形種は成因的な階層性をもつ。規模の大きい地形種はそれより規模の小さい地形種の集合で構成され、規模の大きな地形種ほど、形成に関わる営力、物質、過程が複雑であり、物質が厚く、形成時間が長く、内部の等質性が小さくなる。 巨地形(きょちけい)とは、規模がおよそ1000 km以上のものをいう。形成時間は10~10年。 大地形(だいちけい)とは、規模がおよそ100 km以上、1000 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。 中地形(ちゅうちけい)とは、規模がおよそ10 km以上、100 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。 小地形(しょうちけい)とは、規模がおよそ1 km以上、10 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。 微地形(びちけい)とは、規模がおよそ100 m以上、1 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。 極微地形(ごくびちけい)とは、規模がおよそ10 m以上、100 m未満のものをいう。形成時間は10~10年。 超極微地形(ちょうごくびちけい)とは、規模がおよそ1 m以上、10 m未満のものをいう。形成時間は10~10年。 成因ごとに、地形種の一覧を示す(成因が複数ある地形は重複あり)。 火山地形(かざんちけい、英語: volcanic landform)は、火山の火口周辺において、火山活動(噴火など)によって形成された地形のことである。火山地形や噴出物をみることによって、噴火様式や火口周辺の環境などについての情報も得ることができる。 例えば、深海底の火山帯では溶岩台地・盾状火山・溶岩湖・砕屑丘などが見られる。これはプレートの発散境界で火山活動があまり激しくないためである。一方、プレートの収束境界では火山活動が激しいことから、成層火山やカルデラが見られる。なお、環太平洋造山帯では海溝と火山帯が並行して形成されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "地形(ちけい、英語:landform)は、地表面の起伏(凹凸)の形態である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地形学では、特定の成因により形成された特定の形態的特徴をもつ部分ごとに区分して、それぞれに特定の地形分類用語を与えており、それらを地形種、地形単位という。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地形は内作用・外作用・外来作用の連続で形成される。内作用により変動地形や火山地形が、外作用により侵食地形や堆積地形が形成される。この他、外来作用により衝突地形が形成されるが、現在の地球ではほとんど見られない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地形種(地形単位)は、規模によって巨地形、大地形、中地形、小地形、微地形、極微地形、超極微地形の7種に分類される。ただし、実際には同じ種類の地形であっても個体ごとの規模は多種多様である。分類例には多くの提案がなされているが、国際的に標準化されたものはない。ここでは鈴木(1997)の分類を示す。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "すべての地形種は成因的な階層性をもつ。規模の大きい地形種はそれより規模の小さい地形種の集合で構成され、規模の大きな地形種ほど、形成に関わる営力、物質、過程が複雑であり、物質が厚く、形成時間が長く、内部の等質性が小さくなる。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "巨地形(きょちけい)とは、規模がおよそ1000 km以上のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大地形(だいちけい)とは、規模がおよそ100 km以上、1000 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中地形(ちゅうちけい)とは、規模がおよそ10 km以上、100 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小地形(しょうちけい)とは、規模がおよそ1 km以上、10 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "微地形(びちけい)とは、規模がおよそ100 m以上、1 km未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "極微地形(ごくびちけい)とは、規模がおよそ10 m以上、100 m未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "超極微地形(ちょうごくびちけい)とは、規模がおよそ1 m以上、10 m未満のものをいう。形成時間は10~10年。", "title": "規模による分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "成因ごとに、地形種の一覧を示す(成因が複数ある地形は重複あり)。", "title": "成因による分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "火山地形(かざんちけい、英語: volcanic landform)は、火山の火口周辺において、火山活動(噴火など)によって形成された地形のことである。火山地形や噴出物をみることによって、噴火様式や火口周辺の環境などについての情報も得ることができる。", "title": "成因による分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "例えば、深海底の火山帯では溶岩台地・盾状火山・溶岩湖・砕屑丘などが見られる。これはプレートの発散境界で火山活動があまり激しくないためである。一方、プレートの収束境界では火山活動が激しいことから、成層火山やカルデラが見られる。なお、環太平洋造山帯では海溝と火山帯が並行して形成されている。", "title": "成因による分類" } ]
地形は、地表面の起伏(凹凸)の形態である。 地形学では、特定の成因により形成された特定の形態的特徴をもつ部分ごとに区分して、それぞれに特定の地形分類用語を与えており、それらを地形種、地形単位という。
{{Otheruses}} {{ウィキプロジェクトリンク|地形}} [[File:Cono de Arita, Salta. (Argentina).jpg|250px|thumb|アリサロ塩原([[アルゼンチン]])]] '''地形'''(ちけい、[[英語]]:{{lang|en|landform}})は、[[地表]]面の起伏([[凹凸]])の形態である<ref name=":1">{{Cite book|author=鈴木ほか|title=地形の辞典|date=|year=|accessdate=|publisher=朝倉書店|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 [[地形学]]では、特定の成因により形成された特定の形態的特徴をもつ部分ごとに区分して、それぞれに特定の[[地形分類]]用語を与えており、それらを'''地形種'''<ref name=":0" />、'''地形単位'''<ref>{{Cite journal|和書|author=[[田村俊和]]|year=1993|title=地形研究を通してみた自然地理学|journal=地理学評論|volume=66|page=763-770|url=https://doi.org/10.4157/grj1984a.66.12_763 |doi=10.4157/grj1984a.66.12_763}}</ref>という。 == 概要 == 地形は[[内作用]]・[[外作用]]・[[外来作用]]の連続で形成される。内作用により[[変動地形]]や[[火山地形]]が、外作用により[[侵食地形]]や[[堆積地形]]が形成される。この他、外来作用により[[衝突地形]]が形成されるが、現在の地球ではほとんど見られない{{Sfn|貝塚|1998|p=3}}。 == 規模による分類 == {{節スタブ|1=中地形の説明|date=2017年12月}} 地形種(地形単位)は、規模によって巨地形、大地形、中地形、小地形、微地形、極微地形、超極微地形の7種に分類される<ref name=":0">{{Cite book|author=鈴木隆介|title=建築技術者のための地形図読図入門 第1巻 読図の基礎|date=|year=|accessdate=|publisher=古今書院|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。ただし、実際には同じ種類の地形であっても個体ごとの規模は多種多様である<ref name=":0" />。分類例には多くの提案がなされているが、国際的に標準化されたものはない<ref name=":1" />。ここでは鈴木(1997)の分類を示す。 すべての地形種は成因的な階層性をもつ<ref name=":0" />。規模の大きい地形種はそれより規模の小さい地形種の集合で構成され、<ref name=":0" />規模の大きな地形種ほど、形成に関わる営力、物質、過程が複雑であり、物質が厚く、形成時間が長く、内部の等質性が小さくなる<ref name=":0" />。 === 巨地形 === 巨地形(きょちけい)とは、規模がおよそ1000 km以上のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>8</sup>~10<sup>9</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[大陸]]、[[大洋底]] === 大地形 === 大地形(だいちけい)とは、規模がおよそ100 km以上、1000 km未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>7</sup>~10<sup>8</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[弧状列島]]、[[海溝]]、[[大陸棚縁海]]、[[海嶺]]、[[大山脈]]、[[盾状地]] * 火山地形:[[玄武岩台地]] * 河成・海成地形:大規模な[[平野]] * 風成地形:[[砂漠]] === 中地形 === 中地形(ちゅうちけい)とは、規模がおよそ10 km以上、100 km未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>5</sup>~10<sup>7</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[山地]]、[[丘陵]] * 火山地形:[[火山]] * 河成・海成地形:[[段丘]]、[[低地]] * 風成地形:[[岩石砂漠]](ハマダ)、[[砂砂漠]](エルグ)、[[礫砂漠]](レグ)、[[土砂漠]] === 小地形 === 小地形(しょうちけい)とは、規模がおよそ1 km以上、10 km未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>0</sup>~10<sup>4</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[断層崖]]、[[断層盆地|断層角盆地]]、[[地塁]]、[[地溝]] * 火山地形:[[成層火山]]、[[カルデラ]]、[[溶岩流原]] * 河成地形:[[扇状地]]、[[氾濫原]](蛇行原)、[[三角州]]、[[三角江]]、[[谷底平野]]、[[河成段丘]] * 海成地形:[[浜堤平野]]、[[潟湖跡地]]、[[海成侵食低地]]、[[海成段丘]]、[[海食崖]] * 有機成地形:[[サンゴ礁]] === 微地形 === 微地形(びちけい)とは、規模がおよそ100 m以上、1 km未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>0</sup>~10<sup>3</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[撓曲崖]] * 火山地形:[[砕屑丘]]、[[火口]]、[[マール (火山)|マール]]、[[溶岩円頂丘]] * 河成地形:[[河川敷]]、[[自然堤防]]、[[後背湿地|後背低地]]、[[旧河道]](流路跡地) * 海成地形:[[浜堤]]、[[砂嘴]]、{{仮リンク|沿岸州|en|Shoal}}、[[沿岸溝]]、{{仮リンク|波食棚|en|Wave-cut platform}} * 風成地形:[[砂丘帯]] * 集動地形:[[地すべり堆]]、[[沖積錐]]、[[崖錐]]、[[麓屑面]] * 氷河地形:[[圏谷|カール]] === 極微地形 === 極微地形(ごくびちけい)とは、規模がおよそ10 m以上、100 m未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>-2</sup>~10<sup>0</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[地割れ]] * 火山地形:[[溶岩堤防]] * 河成地形:[[網状流路]]、[[蛇行]]流路、[[分岐流路]]、[[直線流路]]、[[淵]]、[[瀬]]、[[滝]]、[[横列州]]、[[交互州]]、[[複列州]]、[[うろこ州]]、[[落掘]] * 海成地形:巨大[[カスプ]]、[[浜]]、[[磯]] * 風成地形:[[河畔砂丘]]、[[バルハン]]、[[ヤルダン]] * 集動地形:[[滑落崖]]、[[土石流堆]]、[[崩壊地]] === 超極微地形 === 超極微地形(ちょうごくびちけい)とは、規模がおよそ1 m以上、10 m未満のものをいう<ref name=":0" />。形成時間は10<sup>-3</sup>~10<sup>0</sup>年<ref name=":0" />。 * 変動地形:[[噴砂堆]] * 火山地形:[[溶岩じわ]]、[[溶岩トンネル]] * 河成地形:[[甌穴]](ポットホール)、[[侵食溝]](ガター)、[[砂漣]](リップル)、[[砂堆]](デューン)、[[反砂堆]](アンチデューン)、[[平坦河床]] * 海成地形:[[浜崖]]、砂漣、[[カスプ]]、[[波食窪|波食痕]] * 風成地形:[[風漣]]、[[風食凹地]]、[[稜石]]、[[三稜石]]、[[砂漠ワニス]]、[[砂漠舗石]] * 集動地形:[[落石穴]] == 成因による分類 == 成因ごとに、地形種の一覧を示す(成因が複数ある地形は重複あり)。 === 風成地形 === ==== 風成堆積地形 ==== * [[砂漠]] * [[岩石砂漠]](ハマダ) * [[砂砂漠]](エルグ) * [[礫砂漠]](レグ) * [[土砂漠]] * [[ドゥラ]] * [[砂丘]]([[砂丘帯]]) * Sandhill([[:en:Sandhill]]) - 灌木地帯で、数年の短い周期で[[山火事]]がおこることで植生の[[遷移 (生物学)|遷移]]が起こらず砂丘の状態が維持される地形のこと。 * [[バルハン]](三日月型砂丘) * [[河畔砂丘]] * [[砂漠ワニス]]([[:en:Desert varnish]]) * [[砂漠舗石]](砂漠石畳、[[:en:Desert pavement]]) ==== 風成侵食地形 ==== * [[ヤルダン]] * [[風食凹地]](ブロウアウト、[[:en:Blowout (geology)]]) * [[稜石]] ([[:en:Ventifact]]) * [[三稜石]](ドライカンター、[[:en:Dreikanter]]) === 雨成地形 === ==== 雨食地形 ==== * [[悪地]] * [[土柱]] * [[雨滴孔]] === 河成地形 === ==== 河成堆積地形 ==== * [[河成低地]] * ペディメント(山麓緩斜面、[[:en:Pediment (geology)]]) * [[扇状地]] *[[合流扇状地]] * [[氾濫原]] * [[三角州]](デルタ) * [[三角江]](エスチュアリー) * [[谷底平野]] * [[自然堤防]] * [[後背湿地]] * [[川原]] * [[網状河道]]([[:en:Braided river]]) * [[蛇行]]河道([[:en:Meander]]) * [[:en:Anabranch]] - 分流した後再び合流する支流。 * [[旧河道]] * [[水無川]] / [[ワジ]] * [[中州]] * [[ポイントバー]](寄州) * [[サンドスプレー]] * [[三日月湖]] * [[川床]]([[:en:Stream bed]]) * [[砂漣|リップル(砂漣)]] * [[砂堆|デューン(砂堆)]] * [[反砂堆|アンチデューン(反砂堆)]] ==== 河成侵食地形 ==== * [[V字谷|河谷、峡谷(V字谷)]] * [[侵食扇状地]] * 段丘崖(河成の) * [[滝]] * [[沢]] * [[淵]] * [[落掘]] * [[甌穴]](ポットホール) * [[侵食溝]](ガター) * [[リル (地形)|リル]](細溝) * [[ガリ (地形)|ガリー]](雨裂) ==== 河成堆積/侵食地形 ==== * [[河成段丘]] *[[開析扇状地]] * 段丘面(河成の) === 地下水成地形 === {{Main2|地下水成地形の概要|カルスト地形}} ==== 地下水成堆積地形 ==== * [[鍾乳石]] * [[鍾乳石#滴下する水で形成される鍾乳石|石筍]] * [[鍾乳石#滴下する水で形成される鍾乳石|石柱]] * [[リムストーンプール|リムストーン]](石灰華階段) * [[鍾乳石#流水で形成される鍾乳石|フローストーン]] * [[鍾乳石#滴下する水で形成される鍾乳石|カーテン]] * [[石灰岩舗石]]([[:en:Limestone pavement]]) ==== 溶食地形(地下水成侵食地形) ==== * [[カルスト台地]] * [[ウバーレ]] * [[ポリエ]] * [[ラヴァカ]] [[:en:Lavaka]] - [[地下水]]浸食による崩壊地形。 * [[石灰岩柱]]([[ピナクル]]) * [[カッレン]] * [[カッレンフェルト]] * [[鍾乳洞]] * パイプ * [[ポノール]] === 海成地形 === ==== 海成堆積地形 ==== * [[浜堤平野]]([[堤列低地]]) * [[堤間低地]] * [[浜堤]]([[:en:Beach ridge]]) * [[砂嘴]] * [[バリアー島]] * [[陸繋砂州]](トンボロ) * [[砂州]] * [[砂浜]] * [[ビーチカスプ]]([[:en:Beach cusps]]) * [[干潟]] * 海底州 * [[海底谷]] * [[海底扇状地]] ==== 海成侵食地形 ==== * [[海食崖]] * [[海食棚]] * {{仮リンク|波食棚|en|Wave-cut platform}} * [[波食窪]](ノッチ) * [[海蝕洞|海食洞]] * [[海食柱]](スタック、[[:en:Stack (geology)]]) * [[磯]] ==== 河成堆積/侵食地形 ==== * [[海岸段丘]] === 火山地形 === '''火山地形'''(かざんちけい、{{Lang-en|volcanic landform|links=no}})は、[[火山]]の[[火口]]周辺において、火山活動([[噴火]]など)によって形成された地形のことである{{sfn|町田|1985|p=136}}。火山地形や[[噴出物]]をみることによって、噴火様式や火口周辺の環境などについての情報も得ることができる{{sfn|町田|1985|pp=138&ndash;139}}。 例えば、[[深海底]]の[[火山帯]]では[[溶岩台地]]・[[盾状火山]]・[[溶岩湖]]・[[砕屑丘]]などが見られる。これは[[プレート]]の[[発散境界]]で火山活動があまり激しくないためである。一方、プレートの[[収束境界]]では火山活動が激しいことから、[[成層火山]]や[[カルデラ]]が見られる。なお、[[環太平洋造山帯]]では[[海溝]]と[[火山帯]]が並行して形成されている{{sfn|町田|1985|pp=136&ndash;137}}。 ==== 降下火砕物地形 ==== * [[火山砕屑丘]](火砕丘) * [[スコリア丘]] ==== 火砕流地形 ==== * [[火砕流台地]] ==== 溶岩地形 ==== * [[溶岩台地]] * [[溶岩流原]] * [[溶岩ドーム]]([[溶岩円頂丘]]) * [[溶岩平頂丘]] * [[火山岩尖]] * [[楯状火山]] * [[溶岩洞|溶岩洞(溶岩トンネル]]) * [[溶岩じわ]] * [[溶岩堤防]] * [[溶岩条溝]] * [[溶岩滑落崖]] * [[溶岩末端崖]] ==== 火山岩屑流地形 ==== * [[流れ山]] ==== 爆発地形 ==== * [[爆発カルデラ]] * [[火口]] * [[爆裂火口]] * [[マール (火山)|マール]] * [[環状丘]]([[ベースマージ丘]]) ==== 火山陥没地形 ==== * [[陥没カルデラ]] * [[カルデラ壁]] ==== 複合火山地形 ==== * [[複成火山]] *[[成層火山]] === 氷河地形 === {{Main2|氷河地形の概要|氷河地形|4=}} ==== 氷河成堆積地形 ==== * [[アウトウォッシュプレーン]] * [[モレーン]](堆石堤) * [[氷堆丘]](ドラムリン) * [[エスカー]] * [[ケイム段丘]] * [[ザンドル]] * [[釜状陥没地]](ケトル) * [[迷子石]] ==== 氷河成侵食地形 ==== * [[圏谷]](カール) * [[U字谷]] * [[氷食尖峰]](ホルン) * [[トリムライン]]([[:en:Trim line]]) * 氷食円頂丘 * [[アレート]] * [[羊背岩]] * [[フィヨルド]] * [[擦痕]] === 周氷河地形 === {{Main2|周氷河地形の概要|周氷河地形|4=}} * [[周氷河斜面]] * [[永久凍土丘]] * [[パルサ]] * [[リサルサ]] * ピンゴ([[:en:Pingo]]) * [[構造土]] * [[多角形土]] * ハンモック * マッドボイル * [[サーモカルスト]] * トラフ([[氷楔]]) === 雪成地形 === * [[筋状地形]] * [[アバランチシュート]] === 集動地形(マスムーブメント地形) === * [[地すべり地形]] * [[山麓堆積地形]] * [[麓屑面]] * [[崖錐]] * [[沖積錐]] * [[土石流堆]] * [[滑落崖]] * [[崩壊地]] * [[二重山稜]] * [[山上凹地]] === 変動地形 === {{Main2|変動地形|変動地形|4=}} ==== 断層変位地形 ==== * [[地塁]] * [[地溝]] * [[断層崖]] * [[低断層崖]] * [[撓曲|撓曲崖]] * [[三角末端面]] * [[閉塞丘]] * [[風隙]] ==== 裂動地形 ==== * [[大地溝帯]] * ギャオ * 地震割れ目 === 組織地形(差別削剥地形) === {{Main2|組織地形|組織地形|4=}} * [[メサ]](浸食台地) / テプイ [[:en:Tepui]] / テーブル [[:en:Table (landform)]] * [[残丘]](モナドノック、インセルバーグ) * [[ビュート (地形)|ビュート]] * [[ケスタ]] * [[岩頸]](岩栓、突岩) * [[ホッグバック]] * [[削剥高原]] * [[地層階段]] * [[同斜山稜]] * [[岩脈尾根]] * [[ホルンフェルス尾根]] * [[リニアメント]] * [[カルスト地形]] * [[石灰岩尾根]] * [[洗濯板状起伏]] === 有機成地形 === * [[サンゴ礁]] ** [[環礁]] ** [[堡礁]] ** [[裾礁]] ** [[礁湖]](礁池、ラグーン) * [[蟻塚]] * [[巣孔]] * [[鳥糞付着面]] * [[足跡]] === 人工地形 === * [[人工地盤]] * [[造成|造成地]] ** [[住宅造成地]] * [[人工改変地]] * [[盛土|盛土地]] * [[盛土斜面]] * [[切土|切土地]] * [[切土斜面]] * [[埋立地]] * [[埋土地]] * [[干拓地]] * [[堤防]] * [[天井川]] * [[掘り上げ田]] * [[築山]] * [[堀]] * [[棚田]] * [[用水路]] * [[運河]] * [[排水路]] * [[ランドアート]] == その他の分類、一般用語 == * [[崖]] ** [[:en:crag]] - ごつごつした岩石の飛び出た[[崖]]。(イングランド北部・スコットランド) * [[開析台地]] [[:en:Dissected plateau]] * [[:en:Exhumed river channel]] - 河川の流路変化や蛇行、[[三日月湖]]の切離などが連続的に起こっている[[氾濫原]]のこと。 * [[アルヴァ]] [[:en:Alvar]] - [[石灰石]]基盤岩の上に僅かな土壌があり、そこに植生がある状態。 * [[マルペイス]] [[:en:Malpaís (landform)]] - 火山岩が浸食された荒れ地。 * [[自然橋]] [[:en:Natural arch]] * [[準平原]] * [[尾根]](稜線、山稜) * [[連続崖]] [[:en:Escarpment]] * [[:en:Stone run]] - 石が敷き詰められたような地形のこと。 * [[:en:Tor]] - ぽつんと取り残された岩山、岩石群。 * [[:en:Promontory]] - 落差の大きい岬(内陸にある同様の地形も含む)。 * [[棚 (地形)]] [[:en:Bench (geology)]] * [[段丘]] [[:en:Terrace (geology)]] * [[谷]] === 海の地形 === * [[海]] * [[海洋]] * [[湾]] * [[灘]] * [[入り江]](浦) * [[海峡]] * [[水道 (地理)|水道]] * [[瀬戸]] * [[海岸]] ** [[沈水海岸]] *** [[リアス式海岸]] *** [[ダルマチア式海岸]] *** [[多島海]] ** [[離水海岸]] * [[塩沼]] * [[塩湖]] * [[潟湖]](ラグーン) * [[岩礁]] * [[潮吹き穴]] [[:en:Blowhole (geology)]] * [[半島]] * [[岬]] * [[地峡]] *[[陸繋島]] * [[島]] * [[島嶼]](諸島、群島) * [[列島]](島弧) * [[自然橋]] [[:en:Natural arch]] * [[サンゴ礁|珊瑚礁]] ** [[環礁]] ** [[堡礁]] ** [[裾礁]] ** [[礁湖]](礁池、ラグーン) * [[大陸棚]] * [[海台]] * [[海嶺]] * [[海膨]] * [[海盆]] * [[海溝]] * [[海山]] ** [[暗礁]] * [[浅瀬]] * [[堆]] * [[深海平原]] === 河川の地形 === * [[池]] * [[湖]] ** [[内陸湖]] ** [[氷河湖]] ** [[氷河跡湖]] * [[川]](渓流、[[バイユー (地形)|バイユー]]、[[急流]]) ** [[本川]] ** [[支川]] ** [[派川]] * [[泉]] * [[天井川]] * [[オアシス]] * [[洞窟]] * [[沼]] * [[堀]] * [[運河]] * [[水路]] * [[遊水池]] * [[乾燥湖]](ドライレイク)[[:en:Dry lake]] === 氷の形状 === * [[氷床]] * [[氷原]] * [[ダートコーン]] [[:en:Dirt cone]] * [[永久凍土]] * [[氷帽]] *[[溢流氷河]] *[[谷氷河]] *[[山腹氷河]] *[[雪原]] *[[岩石氷河]] *[[棚氷]] *[[氷舌]] *[[氷山]] *[[氷丘]] *[[氷丘脈]] *[[パドル]] *[[ムーラン (氷河)|ムーラン]] *[[クレバス]] *[[氷河洞窟]] [[:en:Glacier cave]] *[[氷河湖]] *[[氷河盆地]] *[[ヌナタク]] === 斜面・平面地形 === *[[山]] *[[山地]] *[[山脈]] *[[台地]] *[[高原]] *[[高地]] *[[丘]] *[[丘陵]] *[[崖]] *[[崖錐堆積物]] *[[峠]] *[[平野]] *[[堆積平野]] *[[盆地]] === 岩石 === {{main2|岩石の成因別分類|岩石}} *[[節理]] **[[柱状節理]]、放射状節理、板状節理、方状節理 *[[岩脈]](ダイク) *[[岩床]](シル) *[[餅盤]](ラコリス) *[[底盤]](バソリス)構造地質学状の分類 {{main2|地層関連の地形|地層}} *[[安定陸塊]](クラトン) *[[造山帯]] **[[古期造山帯]] **[[新期造山帯]] *[[卓状地]] *[[楯状地]] *[[傾動地塊]] *[[断層]] *[[褶曲]] **向斜、背斜 *[[撓曲]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |last=貝塚|first=爽平 |authorlink=貝塚爽平 |year=1998 |title=発達史地形学 |publisher=東京大学出版会 |isbn=4-13-060720-0 |ref=harv }} *{{Cite book|和書 |last=貝塚|first=爽平 <!-- |last2=太田|first2=陽子 |last3=小疇|first3=尚 |last4=小池|first4=一之 |last5=野上|first5=道男 |last6=町田|first6=洋 |last7=米倉|first7=伸之 --> |authorlink=貝塚爽平 |year=1985 |title=写真と図で見る地形学 |publisher=東京大学出版会 |isbn=978-4-13-062080-2 |ref=harv }}(編者は貝塚ほか、計7名。) == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{Commonscat|Landforms}} * [[ワンド (地形)]] * [[地理学]] * [[地形学]] * [[地形輪廻]] * [[世界の地理]] == 外部リンク == * [https://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_kasho.html 日本の典型地形] - 国土地理院 {{地形}} {{天体の地形の一覧 (ナビゲーション)}} {{Geo-term-stub}} {{Geo-stub|*}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちけい}} [[Category:地形|*]] [[Category:気候因子]] [[Category:景観]]
2003-09-07T07:31:26Z
2023-12-27T00:24:33Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Wiktionary", "Template:仮リンク", "Template:Main2", "Template:Lang-en", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:Geo-stub", "Template:Otheruses", "Template:Lang", "Template:節スタブ", "Template:ウィキプロジェクトリンク", "Template:天体の地形の一覧 (ナビゲーション)", "Template:Normdaten", "Template:Geo-term-stub", "Template:Sfn", "Template:Cite journal", "Template:地形" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%BD%A2
15,540
竹島 (曖昧さ回避)
竹島(たけしま、たけじま、チュクト)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "竹島(たけしま、たけじま、チュクト)", "title": null } ]
竹島(たけしま、たけじま、チュクト)
'''竹島'''(たけしま、たけじま、チュクト) == 島 == ; 竹島(たけしま) * [[竹島]] - [[日本海]]の南西部に位置する島嶼群。[[韓国]]が実効支配し、[[日本]]および[[北朝鮮]]が領有権を主張している。 * [[竹島 (宮城県)]] - [[宮城県]][[本吉郡]][[南三陸町]]の島。 * [[竹島 (愛知県)]] - [[愛知県]][[蒲郡市]]の島。 * [[竹島 (山口県)]] - [[山口県]][[山口市]]の島。 * [[竹島 (熊本県)]] - [[熊本県]][[天草市]]の島。 * [[竹島 (鹿児島県)]] - [[鹿児島県]][[鹿児島郡]][[三島村]]の島。 * 竹島 - 鹿児島県[[南さつま市]]にある[[神ノ島 (鹿児島県)|神ノ島]]の古称。 * 竹島 - [[滋賀県]][[彦根市]]にある[[多景島]]の別名。[[琵琶湖]]の島の1つ。 ; 竹島(チュクト) * 竹島 - [[韓国]][[慶尚北道]][[鬱陵郡]]の島、[[竹嶼]]の韓国名。鬱陵島の東約2.2kmに存在する。 == 行政地名 == * [[竹島 (大阪市)]] - [[大阪府]][[大阪市]][[西淀川区]]の町名。[[加島]]も参照。 * [[竹島村]] - [[茨城県]][[真壁郡]]にかつて存在した村。現:[[筑西市]]の一部。 == その他 == * [[日本人]]の姓。 ⇒ {{Prefix|竹島}}を参照。 * [[李氏朝鮮]]期の文人[[鄭汝立]]の号。 * 竹島駅 - 大阪府大阪市[[淀川区]]にある[[JR東西線]][[加島駅]]の開業前の仮称。 == 関連項目 == * {{Prefix|竹島}} * {{Intitle|竹島}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:たけしま}} [[Category:同名の島]] [[Category:同名の地名]] [[Category:日本の地名]] [[Category:大韓民国の地名|ちゆくと]] [[Category:日本語の姓]]
2003-09-07T07:41:38Z
2023-12-09T04:53:10Z
true
false
false
[ "Template:Intitle", "Template:Aimai", "Template:Prefix" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)
15,542
1638年
1638年(1638 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1638年(1638 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "フィクションのできごと" } ]
1638年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1638}} {{year-definition|1638}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]15年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2298年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]11年 ** [[清]]{{Sup|*}} : [[崇徳]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3971年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽和]]4年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]元年 * [[仏滅紀元]] : 2180年 - 2181年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1047年 - 1048年 * [[ユダヤ暦]] : 5398年 - 5399年 * [[ユリウス暦]] : 1637年12月22日 - 1638年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1638}} == できごと == * [[4月12日]](寛永15年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[原城]]陥落、[[島原の乱]]鎮圧。 * [[12月12日]](寛永15年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[土井利勝]]と[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]が[[大老]]に就任。 * [[ガリレオ・ガリレイ]]、『新科学対話』を刊行。 == 誕生 == {{see also|Category:1638年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]](寛永14年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - [[後西天皇]]、第111代[[天皇]](+ [[1685年]]) * [[1月10日]] - [[ニコラウス・ステノ]]、[[デンマーク]]の[[司祭]]、[[科学者]](+ [[1686年]]) * [[3月15日]] - [[順治帝]]、[[清]]王朝第3代[[皇帝]](+ [[1661年]]) * [[3月23日]] - [[フレデリクス・ルイシ]]、[[オランダ]]の[[植物学者]]・[[解剖学者]](+ [[1731年]]) * [[8月6日]] - [[ニコラ・ド・マルブランシュ]]、[[フランス]]の[[哲学者]](+ [[1715年]]) * [[9月5日]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、[[フランス君主一覧|フランス国王]](+ [[1715年]]) * [[9月10日]] - [[マリー・テレーズ・ドートリッシュ]]、フランス国王ルイ14世の[[王妃]](+ [[1683年]]) * [[10月31日]] - [[メインデルト・ホッベマ]]、オランダの風景[[画家]](+ [[1709年]]) * [[11月]] - [[ジェームス・グレゴリー]]、[[スコットランド]]生まれの[[数学者]]、[[天文学者]](+ [[1675年]]) * [[11月25日]] - [[キャサリン・オブ・ブラガンザ]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の王妃(+ [[1705年]]) == 死去 == {{see also|Category:1638年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月7日]](寛永15年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[島津忠恒|島津忠恒(家久)]]、[[武将]]・[[外様大名]](* [[1576年]]) * [[4月12日]](寛永15年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[天草四郎]]、[[キリシタン]]、島原の乱の指導者(* [[1621年]]?) * [[5月5日]](寛永15年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[満天姫]]、[[徳川家康]]の養女、[[津軽地方|津軽]][[弘前藩]][[藩主]]・[[津軽信枚]]の[[正室]](* [[1589年]]?) * [[5月6日]] - [[コルネリウス・ヤンセン]]、[[司教]]、[[神学者]](* [[1585年]]) * [[8月1日]] - [[ヨアヒム・ウテワール]]、[[画家]]・[[版画家]](* [[1566年]]) * [[8月5日]] - [[ピーター・ミヌイット]]([[w:Peter Minuit|Peter Minuit]])、[[ニューネーデルラント]][[植民地]][[総督]](* [[1589年]]) * [[8月28日]](寛永15年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[松倉勝家]]、島原の乱の直接の原因となった[[肥前国]][[島原藩]]藩主(* [[1597年]]) * [[10月5日]](寛永15年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[荒木又右衛門]]、剣客(* [[1599年]]) * [[ウィレム・ブラウ]]([[w:Willem Blaeu|Willem Blaeu]])、[[地図]]製作者(* [[1571年]]) == フィクションのできごと == * [[ドクター・フー]] - 誰の手にも渡らないよう、宇宙を支配できる像ネメシスをドクターが地球の周回軌道上に乗せる。 <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1638}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1638ねん}} [[Category:1638年|*]]
null
2022-03-14T13:44:13Z
false
false
false
[ "Template:他の紀年法", "Template:Sup", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:See also", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1638%E5%B9%B4