id
int64
5
471k
title
stringlengths
1
74
text
stringlengths
0
233k
paragraphs
list
abstract
stringlengths
1
4.6k
wikitext
stringlengths
22
486k
date_created
stringlengths
20
20
date_modified
stringlengths
20
20
is_disambiguation_page
bool
2 classes
is_sexual_page
bool
2 classes
is_violent_page
bool
2 classes
templates
list
url
stringlengths
31
561
15,700
岡山市
岡山市(おかやまし)は、岡山県の南東部に位置する都市。岡山県の県庁所在地および東瀬戸経済圏最多の人口を有する都市であり、政令指定都市に指定されている。当市を中心とした岡山都市圏は中四国地方最大の都市雇用圏を持つ。 全国的には桃太郎の伝説と吉備団子や西大寺会陽(裸祭り)が有名である。温暖な瀬戸内の気候により育まれたマスカット・オブ・アレキサンドリア、シャインマスカット、ニューピオーネ、桃太郎ぶどう、白桃、愛宕梨(あたご梨)、鴨梨(ヤーリー)など高級フルーツの産地としても有名な都市である。中心部には岡山城や日本三名園の一つである後楽園を擁している。岡山藩池田氏の城下町として栄えた江戸時代以来、地域の中心都市として発展してきた高層ビルの立ち並ぶ中心部と、閑静な田園や中山間地域が広がる郊外部を持っている。 また古くから学都としての趣を持ち、明治期から戦前の昭和期にかけて旧制第六高等学校(中国四国地方唯一のナンバースクール、後の岡山大学)や旧制岡山医科大学(中国・四国地方で設置された初めての大学)、旧制岡山農業専門学校、岡山農業研究所、旧制岡山師範学校、旧制清心女子専門学校などが開校された。現在でも、市街地中心部に数多くの大学や専門学校が存在し、学都としての性格をより一層強めている。 中四国のクロスポイントとして、1980年代以降、瀬戸大橋の開通やJR線の四国との直通化、山陽自動車道の開通など、交通インフラが急速に整備され、岡山都市圏は周辺都市圏と共に東瀬戸経済圏最大の都市として成長してきた。岡山駅は、山陽新幹線や山陰・四国方面への特急列車が乗り入れる中国四国地方最大級のターミナル駅である。岡山都市圏の人口は、当市が人口47万人の倉敷市と隣接することから、人口118万人を擁する広島市を中心とした広島都市圏を上回る規模を誇る。 戦後一貫して人口増加しており、2005年以降、周辺4町と合併したこともあり、人口は70万人を突破した。2009年4月1日には政令指定都市に移行し、北・中・東・南の4行政区が設置された。岡山駅や中心市街地である表町商店街、岡山県庁、岡山市役所などの主要な都市機能は、北区内に位置している。また少子高齢化社会における人口減少下に於いても岡山市の中心部を要する北区の人口は、都心回帰の影響で2045年時点でも2015年現在と同程度の人口が維持される見込みとなっている。 市の北部はなだらかな丘が続く吉備高原の一角をなしており、市民の水がめである旭川ダムや岡山空港、および近郊住宅街がある。瀬戸内海に注ぐ旭川と吉井川、2つの一級河川の運搬・堆積作用によって形成された南部の岡山平野に中心市街地が位置しており、さらに平野の南部は江戸時代以降の干拓地であり農地が広がり、穀倉地帯をなしている。その南に児島湾を挟み、瀬戸内海を望む風光明媚な児島半島の丘陵地を成す。 北を中国山地、南を四国山地に挟まれた瀬戸内海沿岸部に位置するため、典型的な瀬戸内海式気候に分類される。日照時間は年間約2,000時間と長く、年間降水量は1,100mm程度と雨・雪は全国的に見て非常に少ない。冬季は1月平均気温が4.6°Cと関東以西の太平洋沿岸ほど温暖ではなく比較的寒くなり、朝晩は氷点下まで下がることも少なくないが、積雪はない。一方、夏季は瀬戸内海の影響で酷暑となり、猛暑日になることも多く、同規模の都市の中では特に熱帯夜日数が多い。1989年(昭和64年/平成元年)以降、降水量1mm以上の降水日数が全国の県庁所在地で最少であり、岡山県のキャッチフレーズ「晴れの国おかやま」はこれに由来する。 なお、岡山地方気象台は、都市部にある官署地点の中では、1961年(昭和36年) 〜 1990年(平成2年)平年値と比べると気温の上昇が比較的緩いものの、1982年(昭和57年)10月1日の移転前は露場が岡山大学に近い北区津島桑の木町にあり、同年から2015年(平成27年)にかけての露場である北区桑田町よりもヒートアイランドの影響を受けにくく寒冷であった。露場は2015年(平成27年)3月5日、かつての観測場所に近い岡山市北区津島に33年ぶりに再び移転された。 岡山市中心部(推定)1月の平均気温6.1°C 8月の平均気温29.1°C 年平均気温17.1°C 年降水量約1000ミリ 年間日照時間約2150時間 2003年(平成15年)からは、市内北区の岡山空港に近い場所(観測地名 : 日応寺)でも観測が行われている。岡山地方気象台に比べ都市化の影響が小さく、また内陸部に位置するため夏季冬季ともに気温が1.5°Cほど低い。冬は寒冷で、夏の熱帯夜もほぼない。史上最低気温は、2021年(令和3年)1月9日の-9.1°C。 岡山市内で最も北に位置する旧建部町に置かれており、日応寺よりも更に内陸寄りであるため、気温の日較差・年較差がより大きい。 岡山市内には以下の4つの行政区が設置されている。 人口はいずれも2023年11月1日時点の推計人口 各区のページの「町丁・大字」項あるいは「境域」および岡山市の町・字一覧を参照。 「平成の大合併」で編入した御津・灘崎地区は2010年(平成22年)3月21日まで、建部・瀬戸地区は2012年(平成24年)1月21日までにそれぞれ合併特例区が設けられていた。 歴史的には倉敷市との関係は江戸時代、外様の岡山藩と天領の倉敷との関係であったものの、高度成長期以降は倉敷市で水島コンビナートが発展し、岡山市の都市圏が膨張するとともに国道2号岡山バイパスや山陽本線の高頻度ダイヤが組まれるなどインフラ整備が進み、今や買い物や仕事で行き来する日常生活圏として一体化が急速に進んでいる。倉敷市は岡山市の雇用都市圏に入っており、150万人を超える中四国最大の岡山大都市圏の一角となっている。 香川県高松市とは宇高連絡船(発着は玉野市)の時代から相互交流が盛んである。また、民放テレビは岡山県と香川県のエリアが同一のため、お互いの地域の情報が得やすい状況にある。1988年(昭和63年)の瀬戸大橋の開通以降は、マリンライナーにより岡山駅と高松駅が1時間弱で結ばれたこともあり、相互交流がより密になっている。 2009年(平成21年)7月6日に岡山市長と高松市長の会談が行われ、両市で共同の観光PRに取り組むことや、ケーブルテレビ・ホームページを活用して情報発信を行うこと、渇水時における岡山市から高松市への水の提供など、非常時の協力体制を構築することなどについて合意がなされた。 岡山駅から瀬戸大橋線で四国と直結しており、日本で唯一四国の全ての県庁所在地へ向かう特急が発着するほか、特急やくもで山陰主要部(米子・松江・出雲市)と、智頭線経由の特急スーパーいなばで鳥取市とも結ばれており、岡山駅は本州と四国を結ぶターミナル駅になっている。 高速道路は東西に山陽自動車道が貫き、岡山JCTで岡山自動車道と接続し、県北部・山陰方面と結ばれている。加えて、隣接する倉敷JCTでは瀬戸中央自動車道と接続し、四国方面と結ばれており、日本海から太平洋へ抜ける交通の結節点となっている。 中国地方または中四国地方においては、交通の結節点である岡山市は物流拠点都市としての位置付けが大きく、食品・流通業系の企業は中国・四国地方の拠点を岡山市に設置している例も多い。 市の推計人口は2021年(令和3年)現在71万人を超えており、全国の市で18番目に多い。2020年(令和2年)国勢調査確定値 では724,691人となっている。 人口増加率では2015年(平成27年)国勢調査 - 2020年(令和2年)国勢調査で(東京都区部を除く)政令指定都市20市中9位(0.73%増)となっており、現在微増傾向にある。 古代の岡山は吉備国の一角であり、弥生時代と古墳時代に、吉備は大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)の一角であった。日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した。 しかし、吉備の興隆を快く思わないヤマトに勢力を削減され、備前国・備中国・備後国・美作国に分割され、これ以後現在に至るまで、経済・文化の面で連関の強い旧吉備国の政治的な統一は達成されていない。吉備国が分割された後、備前国の国府は現在の岡山市域内に置かれたと見られる。 岡山周辺は室町時代までは農村地帯で、16世紀には金光氏が小規模な城を築いて拠点にしていた。戦国時代に岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けた宇喜多直家は1570年(元亀元年)に金光宗高を謀反の疑いありとして切腹させて、岡山城を奪った。その後城を大規模に拡張し、山陽道を岡山経由に付け替えて、備前国内外の商人を呼び寄せ、1573年(天正元年)に本拠にすべく移住した。直家が始めた城下町・岡山の振興は、秀家の代にも続けられ、これ以後、岡山は主に備前国の政治経済の中心地となった。 宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで没落すると、1601年(慶長6年)に小早川秀秋が岡山城に入った。秀秋は翌1602年(慶長7年)に死に、小早川家は断絶した。1603年(慶長8年)には池田忠継が入り、以後江戸時代を通じて、岡山は池田氏の城下町となった。 城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の綱政の代である1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。後楽園が造成されたのもこの時期である。しかるに町方人口は享保のころから漸減し、幕末の1858年(安政5年)には2万0092人となる。これは岡山藩の新田開発による農村商業の発達とは対照的であり、藩当局が農村から都市への人口流入を抑制する政策をとったことによるものとみられる。 明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県により、岡山は岡山県の県庁所在地となった。 1878年(明治11年)9月29日に郡区町村編制法が岡山県において施行され、岡山市の前身となる岡山区が発足した。同法は府県により施行日が異なっており、同法を最初に施行したのが岡山県だったことから、岡山区は全国で最初の区となった。 1889年(明治22年)6月1日に市制が施行され、岡山区は岡山市へ移行した。郡区町村編制法では最初の区となった一方、市制では最初の31市から2ヶ月遅れての施行となった。市制施行当時、面積5.77km、人口4万7564人。1920年(大正9年)には人口9万4585人を数えた。 1927年(昭和2年)2月1日、岡山市に本店を置いていた奨学貯金銀行が資本金不足を理由に業務停止命令を受け事実上倒産。 1930年(昭和5年)、岡山市歌(初代)を制定。 1939年(昭和14年)11月27日、岡山市役所本庁舎(木造2階建て)が全焼。御真影や戸籍原簿は持ち出されて焼損を免れた。後日、放火容疑で用務員が逮捕。 第二次大戦末期の1945年(昭和20年)6月29日に岡山空襲で大きな被害を受けて1000人以上が犠牲となり、10万人以上が家を失った。 混乱期を過ぎると街は順調に発展し、周辺市町村との編入合併を進めた。1960年(昭和35年)ごろには、倉敷市を含めた県南広域都市の構想を岡山県知事が提唱したが、倉敷市長の失踪に端を発する騒動により、白紙撤回された。 1958年(昭和33年)4月、岡山市民歌(2代目)を制定。 1972年(昭和47年)3月15日には山陽新幹線が岡山駅まで延伸開業、1988年(昭和63年)3月20日には瀬戸大橋線が開業し、それ以来鉄道交通の要衝となっている。 1996年(平成8年)には、国から中核市に指定された。その後の2005年(平成17年)3月22日、隣接する御津郡御津町・児島郡灘崎町の2町を編入、2007年(平成19年)1月22日、隣接する御津郡建部町・赤磐郡瀬戸町の2町を編入した。 2007年(平成19年)6月26日夕方に、市の人口が70万人を突破した。 2009年(平成21年)4月1日には新潟市・浜松市(2007年4月移行)に続いて全国で18番目、中国・四国地方では広島県広島市に次いで2番目となる政令指定都市に移行し、北区・中区・東区・南区の4つの行政区が設置された。 2012年(平成24年)6月1日には、市制123年目となるこの日に「岡山市民の日」が制定された。主に岡山商工会議所青年部が中心となり、政令市移行をきっかけにさらに市民が郷土愛を深めるために、岡山市へ働きかけたものである。 2012年(平成24年)3月まで副市長(2007年(平成19年)3月以前は助役)を2名置いていたが、2012年(平成24年)4月から試行的に1人制となった。その後、同年8月24日から、再び2人制となった。 主要な組織(局室)のみ記載(2017年(平成29年)4月1日現在) 市内の各福祉事務所は区役所の直轄組織となっている。 1961年(昭和36年)岡山県知事だった三木行治が新産業都市の受け皿として、全国6大都市(当時)に次ぐ大都市形成のため打ち出した計画で、邑久町(現・瀬戸内市)から鴨方町(現・浅口市)、南は児島半島までの33市町村による当時での人口が約90万人(その後の人口規模は約130万人に達している)の大規模な合併であった。 三木知事と自治省(現・総務省)出身の森県企画室長を中心に推し進められ、全ての関係市町村議会で合併の議決が行われ(岡山市においては1962年(昭和37年)12月17日、22対16の賛成多数で議決)、岡山市・倉敷市・児島市(現倉敷市児島)を除く首長も承認し国に合併申請をした。しかし、倉敷市長が年末年始に公印を持ったまま上京し一時失踪する騒動が発生したことで倉敷市の調印が行われず、このことで岡山・児島の二市も脱退、1964年(昭和39年)には三木知事の急逝により構想は頓挫した。 高度経済成長期に入り、岡山市は郊外へ市街地を拡大させ膨張していったことで、周辺市町村のあちこちで急速なベッドタウン化が進み社会資本整備が追いつかなくなり合併が一気に進んだ。1969年(昭和44年)に財政再建団体転落直前であった西大寺市を皮切りに一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、足守町、上道町、興除村さらに1975年(昭和50年)の藤田村に至るまで11市町村との大合併が行われ、岡山市は政令指定都市の法律要件である人口50万人を突破した。 2002年(平成14年)2月 岡山青年会議所が岡山市と玉野市との合併による政令指定都市移行の要望書を岡山市長に提出し、7月には岡山市と玉野市、灘崎町、御津町、瀬戸町による合併研究会が設置され、さらに2003年(平成15年)4月には 瀬戸町を除いた任意合併協議会が設置された。2004年(平成16年)1月に新設合併、既存の独自の行政サービスの維持などの内容で中間答申がなされるが、玉野市では議会と市民グループの反対があり2月に岡山市との合併を断念し離脱した。しかし残る灘崎町・御津町は岡山市との合併協議を続け2005年(平成17年)3月に編入合併した。(岡山県南政令市構想第一次合併) 他の町と合併協議をしていた建部町・瀬戸町は相次いで方針を転換し、政令指定都市移行を前提に岡山市に合併を申し入れ、2007年(平成19年)1月に編入合併された(岡山県南政令市構想第二次合併)(国勢調査人口69万6千、合併時推計人口69万8千人)。そして、2007年(平成19年)6月には推計人口70万人突破し(市調査の推計人口、県の月次報告では8月1日)、政令市移行のための人口要件が満たされたこととされた。 1889年(明治22年)の市制施行以来、周辺の市町村と合併を繰り返してきた現在の岡山市は御津郡(旧・御野郡・津高郡)・上道郡・吉備郡(旧・賀陽郡)・児島郡・邑久郡・都窪郡(旧・都宇郡)・赤磐郡(旧・赤坂郡・磐梨郡)・和気郡・久米郡(旧・久米南条郡・久米北条郡)と備前国・備中国・美作国の広範囲の地域に及んでいる。 ※ 1969年(昭和44年)以降に合併された旧市役所・町村役場は、岡山市の区役所・支所・地域センターとして引き継がれている。 警察署は市内に6箇所あり、政令指定都市であるため岡山県警の市警察部が統括している。管轄区域は概ね行政区の区域と一致するが、一部は合併以前の管轄のままとなっている地域がある。 ※ 詳細な管轄区域については、岡山県警察署の名称、位置及び管轄区域に関する条例において確認することができる。 消防は全域を岡山市消防局が担当し、北・中・東・西・南の5消防署・1分署・13出張所(うち1出張所は岡山市へ消防・救急業務を委託している吉備中央町に設置)・1救急ステーションが設置され、岡南飛行場には消防航空隊の基地が設置されており、北消防署には特別高度救助隊が組織されている。 2009年(平成21年)度以降の管轄区域は概ね行政区の区域と一致している。北区については北消防署と西消防署の2署が管轄する。新設の西消防署の管轄区域は、北区のうち、京山、石井、中山、高松、足守の各中学校区、御南中学校区のうち笹ヶ瀬川以西、吉備中央町である。北消防署の管轄区域は北区のうち西消防署の管轄区域を除く区域である。また、西消防署の新設により、三門出張所と庭瀬出張所は西消防署に統合という形で廃止された。2010年(平成22年)度より西消防署の高度救助隊が、政令指定都市に設置が義務付けられている特別高度救助隊へと格上げされた。2014年(平成26年)には岡山市では22年半ぶりとなる分署、番町分署が開設された。2016年(平成28年)に北消防署新築移転に伴い、西消防署から特別高度救助隊が配置転換された。2017年(平成29年)に西消防署吉備津出張所新築移転に伴い、高松出張所へ改称された。 郵便番号は以下の通りである。 岡山市は、海外の6都市・2地域と交流を行っている。 北部の高原・丘陵地帯では、全国的にもブランド力のある品目を多く抱えている果物の栽培が盛んであり、岡山市の一大産業となっている。「桃(白桃、清水白桃、黄金桃など)」や「葡萄(マスカット、シャインマスカット、ニューピオーネ、桃太郎ふどうなど)」や全国シェアトップである「愛宕梨(あたご梨)」、「鴨梨(ヤーリー)」がその主なブランド品目である。また、乳牛を中心とした畜産も盛んであり、加えて「椎茸」や全国でも珍しい「黄ニラ」の栽培が行われている。 南部の広大な児島湾干拓地に田園地帯を有るため米の生産量が8,900tにのぼり岡山県全体の四分の一を占める。品種は「朝日米」が多く、一部では酒米の「雄町米」も栽培している。その他では「蓮根」、「茄子」やビールの原料となる「二条大麦」などの栽培も行われている。かつて、冬期には「イグサ」栽培の一大産地であったが、現在は僅かになっている。また、日照時間が長い岡山県南の平野部は生花の生産が盛んなところでもある。岡山市内でも「スイートピー」、「デンドロビウム」、「ラークスパー」などが栽培され全国各地に出荷されている。 隣接する倉敷市とともに瀬戸内工業地域に属しており、製造品出荷額は8,200億円と岡山県全体の約10%を占める(50%を超える倉敷市に次ぐ2位)。機械・化学・食品・印刷などの業種が中心である。 臨海部の児島湾は旭川や吉井川などの一級河川から流出する土砂の堆積により水深が浅く、1万t級の船舶が航行可能な航路を整備することが困難なため重化学工業地帯は形成されていない。そのため、岡南工業地帯にクラレ・DOWAホールディングス・西日本ダイケンプロダクツなど、また、旭川東岸の新岡南地区と九蟠地区には、ヤンマーアグリ(ヤンマーグループ)や中四国セキスイハイム工業(セキスイツーユーホームを製造)、永谷園など全体的に軽工業系の工場が多い。 これらのことから、内陸部の工業団地開発に力を入れており、市内近郊の久米、東岡山や新岡南、などに鉄工、鋳物などに中規模の内陸工業団地が多い。また、「岡山リサーチパーク」や「西大寺新産業ゾーン企業団地」などに研究や物流に重点を置いた事業所の誘致を進めている。周辺4町の編入に伴い、2005年に御津町のカバヤ本社工場と4つの工業団地、2007年には瀬戸町のキリンビール岡山工場などが加わった。 岡山都市圏の中心都市で県内では圧倒的な集客力があり、代表的な商業地としては表町と岡山駅周辺があげられる。近年の都心商業地の流れとしては、アーケードの商店街から主要施設を結ぶ道路沿いに移行し、分散傾向にあったが、岡山駅周辺の再開発や商業施設進出が相次ぎ、近年都心回帰が起きている。 小売店舗の新規出店などは、1970年代から90年代までは郊外が中心となり、中心部は停滞傾向であった。その後、都心回帰へと流れが変わると、1998年JTが市役所筋の工場跡に建設したイトーヨーカドーとジョイポリスの複合施設「ジョイフルタウン岡山」が再開発の先駆けとなった。また、高層マンションの建設も相次ぎ、中心部の居住人口が増加傾向に転じたことも後押しになり、飲食店や雑貨、衣類などの路面店も中心部への出店が活発になっている。 岡山市および岡山県の一大商業集積地であり、中心市街地。旧・城下近くに発展した商業地である。岡山駅前からは徒歩でも行ける範囲であるが、バスや路面電車も走っている。市内バス経路の多くが表町中央部の天満屋バスステーションを経由して岡山駅に向かうことから、買い物客が集まる構造となっている。周辺には中国銀行の本店や岡山県庁なども控え、表町商店街中央部に立地する地場百貨店最大の売上を誇る地元百貨店の天満屋本店を核としてロレックスやカルティエの路面店やロフトやスターバックス、無印良品など幅広い年齢層をターゲットとした商業店舗が集積している。また、商店街北東側の「オランダ通り」が裏通りから若者の街へと変貌している。 近年の動きとしては1999年のクレド岡山や2023年の岡山芸術創造劇場を核とした複合施設などが挙げられる。一方で、北端に岡山シンフォニーホール、南端に岡山芸術創造劇場、東には旧・日銀岡山支店跡を再生したルネスホールと岡山市民会館などの劇場・音楽ホールを有し、文化的な色合いを強めている。 岡山城・後楽園などの歴史的施設、美術館や博物館などの文化施設が数多く立地する城下・天神地区などは「岡山カルチャーゾーン」とも呼ばれ、観光ゾーンにも隣接しているため、岡山県風致地区条例で建築物などの制限が課せられている。 岡山駅は広島駅とともに中国四国地方を代表するターミナル駅である。1972年の山陽新幹線・新大阪駅 〜 岡山駅間開業を挟み、髙島屋などの県外資本の大型店の出店や中四国初の本格的、かつ中四国最大の地下街である岡山一番街が開業し、市内中心部の商業地図を2極に塗り替えた比較的新しい地区である。 ここ数年は再開発が相次ぎ、西口に岡山コンベンションセンターとリットシティビル、東口では岡山駅の橋上化による商業施設さんすて岡山、成通岡山ビルに大型家電量販店のビックカメラや杜の街グレースなど、商業施設が相次いでオープンした。 かつて林原グループが所有していた岡山駅東口の南側の土地(約46,000m)は、中四国地方最大規模の複合商業施設イオンモール岡山となった。これまでの郊外型ではない初めての政令指定都市中心駅前に立地する都心型商業施設として、ハンズ、H&M、ZARAなどのテナントやシネマコンプレックス、岡山放送のスタジオ・報道部門のオフィスが併設されている。なお、市役所筋を介して向かい側には同じイオングループのファッションビル岡山ビブレがあったが、イオンモール岡山の開業に伴い、2014年(平成26年)5月11日をもって閉店した。 ※ 太字は上場企業 民放の地上波テレビ放送では、岡山県は香川県と同一の放送エリアになっており、岡山市には3局が、高松市には2局が本社を置いている。岡山・玉野市境の金甲山送信所には、岡山県と香川県のテレビ放送局の送信所の親局が設置されている。 ラジオ放送については岡山・香川の各県域放送であるが、両県の多くの地域で聴取が可能であり、岡山市においても香川県の県域放送を聴取できる。 ※ 本社が香川県高松市にあるが、岡山市も放送対象地域に含まれている放送局(ともに岡山市に岡山本社を置いている) ケーブルテレビは2局がサービスエリアであるが、2局のエリアが混合している地域は今のところない。また、この2局はoniビジョンの番組は視聴可能である。 岡山市の市外局番は次のとおりである。 2013年(平成25年)5月1日より、岡山瀬戸MA・玉野MA・福渡MAに該当する岡山市内・久米南町内の区域はすべて岡山MA(上記1. のエリア)に編入された。 岡山県内の大学と政財界により、知的資源の活用と地域社会や産業界との連携を図ることによって「時代に合った魅力ある高等教育の創造」と「活力ある人づくり・街づくりへの貢献」を目指し2006年(平成18年)4月に設立された。現在、当組織に加盟しているのは岡山県内16の4年制大学、および岡山県と岡山経済同友会で、事務局は岡山理科大学内にある。 市内に公立大学は存在しない。 嘗ては、岡山県立短期大学が存在した。現在は「岡山県 生涯学習センター」となっている。岡山県立大学及び岡山県立大学短期大学部の項も参照。 岡山市内には中学校38校(うち国立1校)が設置されている。 高等学校を併設していない中学校については、各区の記事を参照されたい。 幼稚園・小学校については、各区の記事を参照されたい。なお、市内には幼稚園80園(うち国立1園、私立9園)、小学校93校(うち国立1校、私立2校)が設置されている。 岡山駅を中心に放射状に鉄道路線が延び、市内のほとんどの主要地域と結ばれているなど、鉄道網は充実している。 特にJR発足以降は、国鉄時代の列車型ダイヤから都市圏輸送に重点を置いたものになり、合わせるように沿線人口の多い山陽本線には徐々に駅が増えている。 今後の計画として、JR吉備線のLRT化構想などがある。 中心となる駅岡山駅 民営の岡山電気軌道が運行している。岡山駅前から表町や県庁のある旧城下町を中心に2路線がある。総延長4.7kmと日本でもっとも短い路面電車だが、1日に約1万人が利用するなど市民の足として定着し、黒字経営を続けている。 今後の展望として岡山駅東口駅前広場への乗入れ、市役所筋を南下し市役所のある大供(だいく)から岡山大学病院までの延伸、また大供から東の清輝橋線・大雲寺前を結ぶ環状化などの新線計画がある。 同時に市役所筋をトランジットモール化する構想もあり、車線減少に伴う交通渋滞の影響を調査する社会実験が行われたことがある。また、LRT化を予定しているJR吉備線との相互乗り入れが岡山電気軌道とJRとの間で既に合意されている。吉備線LRTは基本合意直後のコロナ禍により一時中断中だが、路面電車の延伸計画は短期・中期・長期に分け段階的に整備を進めている。 岡山市は戦後のバス会社の統合が中断され統合が進まなかったため、同規模の都市と比べて市内を走るバス会社が非常に多く、各社がエリアを分けて運行し、公営交通(市営バス)の運行実績はない。路線は岡山駅東口のバスターミナルと天満屋バスステーションを中心に放射状に路線網が形成されている。また、岡山駅西口バス乗り場が2010年4月24日に開設、岡山駅から北西方面の路線バスと高速、観光、空港リムジンバスが発着している。 八晃運輸が乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による特殊区間制である以外は、乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による対キロ区間制である。 なお、両備バス・岡電バス・東備バス・下電バス・宇野バス・中鉄バスでは非接触ICカードであるHarecaを採用しており、共通に利用できる。一方、備北バスは備北バス専用バスカード(プリペイドカード)を発行している。Hareca導入各社(宇野バスと中鉄バスの一部路線を除く)はスルッとKANSAI協議会に加盟しているため、全国相互利用サービス対応のICカードも使用できる。 岡山市において広域的な移動軸となっている幹線道路は南北方向が国道30号と国道53号、東西方向が国道2号バイパスと旧国道2号(現国道250号、岡山県道162号岡山倉敷線)、北西方面が国道180号である。特に国道2号バイパスは岡山市を東西に貫く幹線道路のうちで唯一4車線以上の道路であり、なおかつ旭川や百間川などの大規模河川を渡っていることもあって、多い場所で一日10万台以上が通過する。 岡山市出身の人物一覧を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "岡山市(おかやまし)は、岡山県の南東部に位置する都市。岡山県の県庁所在地および東瀬戸経済圏最多の人口を有する都市であり、政令指定都市に指定されている。当市を中心とした岡山都市圏は中四国地方最大の都市雇用圏を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全国的には桃太郎の伝説と吉備団子や西大寺会陽(裸祭り)が有名である。温暖な瀬戸内の気候により育まれたマスカット・オブ・アレキサンドリア、シャインマスカット、ニューピオーネ、桃太郎ぶどう、白桃、愛宕梨(あたご梨)、鴨梨(ヤーリー)など高級フルーツの産地としても有名な都市である。中心部には岡山城や日本三名園の一つである後楽園を擁している。岡山藩池田氏の城下町として栄えた江戸時代以来、地域の中心都市として発展してきた高層ビルの立ち並ぶ中心部と、閑静な田園や中山間地域が広がる郊外部を持っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また古くから学都としての趣を持ち、明治期から戦前の昭和期にかけて旧制第六高等学校(中国四国地方唯一のナンバースクール、後の岡山大学)や旧制岡山医科大学(中国・四国地方で設置された初めての大学)、旧制岡山農業専門学校、岡山農業研究所、旧制岡山師範学校、旧制清心女子専門学校などが開校された。現在でも、市街地中心部に数多くの大学や専門学校が存在し、学都としての性格をより一層強めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中四国のクロスポイントとして、1980年代以降、瀬戸大橋の開通やJR線の四国との直通化、山陽自動車道の開通など、交通インフラが急速に整備され、岡山都市圏は周辺都市圏と共に東瀬戸経済圏最大の都市として成長してきた。岡山駅は、山陽新幹線や山陰・四国方面への特急列車が乗り入れる中国四国地方最大級のターミナル駅である。岡山都市圏の人口は、当市が人口47万人の倉敷市と隣接することから、人口118万人を擁する広島市を中心とした広島都市圏を上回る規模を誇る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦後一貫して人口増加しており、2005年以降、周辺4町と合併したこともあり、人口は70万人を突破した。2009年4月1日には政令指定都市に移行し、北・中・東・南の4行政区が設置された。岡山駅や中心市街地である表町商店街、岡山県庁、岡山市役所などの主要な都市機能は、北区内に位置している。また少子高齢化社会における人口減少下に於いても岡山市の中心部を要する北区の人口は、都心回帰の影響で2045年時点でも2015年現在と同程度の人口が維持される見込みとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "市の北部はなだらかな丘が続く吉備高原の一角をなしており、市民の水がめである旭川ダムや岡山空港、および近郊住宅街がある。瀬戸内海に注ぐ旭川と吉井川、2つの一級河川の運搬・堆積作用によって形成された南部の岡山平野に中心市街地が位置しており、さらに平野の南部は江戸時代以降の干拓地であり農地が広がり、穀倉地帯をなしている。その南に児島湾を挟み、瀬戸内海を望む風光明媚な児島半島の丘陵地を成す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "北を中国山地、南を四国山地に挟まれた瀬戸内海沿岸部に位置するため、典型的な瀬戸内海式気候に分類される。日照時間は年間約2,000時間と長く、年間降水量は1,100mm程度と雨・雪は全国的に見て非常に少ない。冬季は1月平均気温が4.6°Cと関東以西の太平洋沿岸ほど温暖ではなく比較的寒くなり、朝晩は氷点下まで下がることも少なくないが、積雪はない。一方、夏季は瀬戸内海の影響で酷暑となり、猛暑日になることも多く、同規模の都市の中では特に熱帯夜日数が多い。1989年(昭和64年/平成元年)以降、降水量1mm以上の降水日数が全国の県庁所在地で最少であり、岡山県のキャッチフレーズ「晴れの国おかやま」はこれに由来する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、岡山地方気象台は、都市部にある官署地点の中では、1961年(昭和36年) 〜 1990年(平成2年)平年値と比べると気温の上昇が比較的緩いものの、1982年(昭和57年)10月1日の移転前は露場が岡山大学に近い北区津島桑の木町にあり、同年から2015年(平成27年)にかけての露場である北区桑田町よりもヒートアイランドの影響を受けにくく寒冷であった。露場は2015年(平成27年)3月5日、かつての観測場所に近い岡山市北区津島に33年ぶりに再び移転された。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "岡山市中心部(推定)1月の平均気温6.1°C 8月の平均気温29.1°C 年平均気温17.1°C 年降水量約1000ミリ 年間日照時間約2150時間", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)からは、市内北区の岡山空港に近い場所(観測地名 : 日応寺)でも観測が行われている。岡山地方気象台に比べ都市化の影響が小さく、また内陸部に位置するため夏季冬季ともに気温が1.5°Cほど低い。冬は寒冷で、夏の熱帯夜もほぼない。史上最低気温は、2021年(令和3年)1月9日の-9.1°C。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "岡山市内で最も北に位置する旧建部町に置かれており、日応寺よりも更に内陸寄りであるため、気温の日較差・年較差がより大きい。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "岡山市内には以下の4つの行政区が設置されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "人口はいずれも2023年11月1日時点の推計人口", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "各区のページの「町丁・大字」項あるいは「境域」および岡山市の町・字一覧を参照。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「平成の大合併」で編入した御津・灘崎地区は2010年(平成22年)3月21日まで、建部・瀬戸地区は2012年(平成24年)1月21日までにそれぞれ合併特例区が設けられていた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "歴史的には倉敷市との関係は江戸時代、外様の岡山藩と天領の倉敷との関係であったものの、高度成長期以降は倉敷市で水島コンビナートが発展し、岡山市の都市圏が膨張するとともに国道2号岡山バイパスや山陽本線の高頻度ダイヤが組まれるなどインフラ整備が進み、今や買い物や仕事で行き来する日常生活圏として一体化が急速に進んでいる。倉敷市は岡山市の雇用都市圏に入っており、150万人を超える中四国最大の岡山大都市圏の一角となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "香川県高松市とは宇高連絡船(発着は玉野市)の時代から相互交流が盛んである。また、民放テレビは岡山県と香川県のエリアが同一のため、お互いの地域の情報が得やすい状況にある。1988年(昭和63年)の瀬戸大橋の開通以降は、マリンライナーにより岡山駅と高松駅が1時間弱で結ばれたこともあり、相互交流がより密になっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)7月6日に岡山市長と高松市長の会談が行われ、両市で共同の観光PRに取り組むことや、ケーブルテレビ・ホームページを活用して情報発信を行うこと、渇水時における岡山市から高松市への水の提供など、非常時の協力体制を構築することなどについて合意がなされた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "岡山駅から瀬戸大橋線で四国と直結しており、日本で唯一四国の全ての県庁所在地へ向かう特急が発着するほか、特急やくもで山陰主要部(米子・松江・出雲市)と、智頭線経由の特急スーパーいなばで鳥取市とも結ばれており、岡山駅は本州と四国を結ぶターミナル駅になっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "高速道路は東西に山陽自動車道が貫き、岡山JCTで岡山自動車道と接続し、県北部・山陰方面と結ばれている。加えて、隣接する倉敷JCTでは瀬戸中央自動車道と接続し、四国方面と結ばれており、日本海から太平洋へ抜ける交通の結節点となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中国地方または中四国地方においては、交通の結節点である岡山市は物流拠点都市としての位置付けが大きく、食品・流通業系の企業は中国・四国地方の拠点を岡山市に設置している例も多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "市の推計人口は2021年(令和3年)現在71万人を超えており、全国の市で18番目に多い。2020年(令和2年)国勢調査確定値 では724,691人となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "人口増加率では2015年(平成27年)国勢調査 - 2020年(令和2年)国勢調査で(東京都区部を除く)政令指定都市20市中9位(0.73%増)となっており、現在微増傾向にある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古代の岡山は吉備国の一角であり、弥生時代と古墳時代に、吉備は大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)の一角であった。日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、吉備の興隆を快く思わないヤマトに勢力を削減され、備前国・備中国・備後国・美作国に分割され、これ以後現在に至るまで、経済・文化の面で連関の強い旧吉備国の政治的な統一は達成されていない。吉備国が分割された後、備前国の国府は現在の岡山市域内に置かれたと見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "岡山周辺は室町時代までは農村地帯で、16世紀には金光氏が小規模な城を築いて拠点にしていた。戦国時代に岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けた宇喜多直家は1570年(元亀元年)に金光宗高を謀反の疑いありとして切腹させて、岡山城を奪った。その後城を大規模に拡張し、山陽道を岡山経由に付け替えて、備前国内外の商人を呼び寄せ、1573年(天正元年)に本拠にすべく移住した。直家が始めた城下町・岡山の振興は、秀家の代にも続けられ、これ以後、岡山は主に備前国の政治経済の中心地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで没落すると、1601年(慶長6年)に小早川秀秋が岡山城に入った。秀秋は翌1602年(慶長7年)に死に、小早川家は断絶した。1603年(慶長8年)には池田忠継が入り、以後江戸時代を通じて、岡山は池田氏の城下町となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の綱政の代である1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。後楽園が造成されたのもこの時期である。しかるに町方人口は享保のころから漸減し、幕末の1858年(安政5年)には2万0092人となる。これは岡山藩の新田開発による農村商業の発達とは対照的であり、藩当局が農村から都市への人口流入を抑制する政策をとったことによるものとみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県により、岡山は岡山県の県庁所在地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1878年(明治11年)9月29日に郡区町村編制法が岡山県において施行され、岡山市の前身となる岡山区が発足した。同法は府県により施行日が異なっており、同法を最初に施行したのが岡山県だったことから、岡山区は全国で最初の区となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)6月1日に市制が施行され、岡山区は岡山市へ移行した。郡区町村編制法では最初の区となった一方、市制では最初の31市から2ヶ月遅れての施行となった。市制施行当時、面積5.77km、人口4万7564人。1920年(大正9年)には人口9万4585人を数えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)2月1日、岡山市に本店を置いていた奨学貯金銀行が資本金不足を理由に業務停止命令を受け事実上倒産。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1930年(昭和5年)、岡山市歌(初代)を制定。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1939年(昭和14年)11月27日、岡山市役所本庁舎(木造2階建て)が全焼。御真影や戸籍原簿は持ち出されて焼損を免れた。後日、放火容疑で用務員が逮捕。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第二次大戦末期の1945年(昭和20年)6月29日に岡山空襲で大きな被害を受けて1000人以上が犠牲となり、10万人以上が家を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "混乱期を過ぎると街は順調に発展し、周辺市町村との編入合併を進めた。1960年(昭和35年)ごろには、倉敷市を含めた県南広域都市の構想を岡山県知事が提唱したが、倉敷市長の失踪に端を発する騒動により、白紙撤回された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)4月、岡山市民歌(2代目)を制定。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)3月15日には山陽新幹線が岡山駅まで延伸開業、1988年(昭和63年)3月20日には瀬戸大橋線が開業し、それ以来鉄道交通の要衝となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)には、国から中核市に指定された。その後の2005年(平成17年)3月22日、隣接する御津郡御津町・児島郡灘崎町の2町を編入、2007年(平成19年)1月22日、隣接する御津郡建部町・赤磐郡瀬戸町の2町を編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)6月26日夕方に、市の人口が70万人を突破した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)4月1日には新潟市・浜松市(2007年4月移行)に続いて全国で18番目、中国・四国地方では広島県広島市に次いで2番目となる政令指定都市に移行し、北区・中区・東区・南区の4つの行政区が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)6月1日には、市制123年目となるこの日に「岡山市民の日」が制定された。主に岡山商工会議所青年部が中心となり、政令市移行をきっかけにさらに市民が郷土愛を深めるために、岡山市へ働きかけたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)3月まで副市長(2007年(平成19年)3月以前は助役)を2名置いていたが、2012年(平成24年)4月から試行的に1人制となった。その後、同年8月24日から、再び2人制となった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "主要な組織(局室)のみ記載(2017年(平成29年)4月1日現在)", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "市内の各福祉事務所は区役所の直轄組織となっている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)岡山県知事だった三木行治が新産業都市の受け皿として、全国6大都市(当時)に次ぐ大都市形成のため打ち出した計画で、邑久町(現・瀬戸内市)から鴨方町(現・浅口市)、南は児島半島までの33市町村による当時での人口が約90万人(その後の人口規模は約130万人に達している)の大規模な合併であった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "三木知事と自治省(現・総務省)出身の森県企画室長を中心に推し進められ、全ての関係市町村議会で合併の議決が行われ(岡山市においては1962年(昭和37年)12月17日、22対16の賛成多数で議決)、岡山市・倉敷市・児島市(現倉敷市児島)を除く首長も承認し国に合併申請をした。しかし、倉敷市長が年末年始に公印を持ったまま上京し一時失踪する騒動が発生したことで倉敷市の調印が行われず、このことで岡山・児島の二市も脱退、1964年(昭和39年)には三木知事の急逝により構想は頓挫した。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "高度経済成長期に入り、岡山市は郊外へ市街地を拡大させ膨張していったことで、周辺市町村のあちこちで急速なベッドタウン化が進み社会資本整備が追いつかなくなり合併が一気に進んだ。1969年(昭和44年)に財政再建団体転落直前であった西大寺市を皮切りに一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、足守町、上道町、興除村さらに1975年(昭和50年)の藤田村に至るまで11市町村との大合併が行われ、岡山市は政令指定都市の法律要件である人口50万人を突破した。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)2月 岡山青年会議所が岡山市と玉野市との合併による政令指定都市移行の要望書を岡山市長に提出し、7月には岡山市と玉野市、灘崎町、御津町、瀬戸町による合併研究会が設置され、さらに2003年(平成15年)4月には 瀬戸町を除いた任意合併協議会が設置された。2004年(平成16年)1月に新設合併、既存の独自の行政サービスの維持などの内容で中間答申がなされるが、玉野市では議会と市民グループの反対があり2月に岡山市との合併を断念し離脱した。しかし残る灘崎町・御津町は岡山市との合併協議を続け2005年(平成17年)3月に編入合併した。(岡山県南政令市構想第一次合併)", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "他の町と合併協議をしていた建部町・瀬戸町は相次いで方針を転換し、政令指定都市移行を前提に岡山市に合併を申し入れ、2007年(平成19年)1月に編入合併された(岡山県南政令市構想第二次合併)(国勢調査人口69万6千、合併時推計人口69万8千人)。そして、2007年(平成19年)6月には推計人口70万人突破し(市調査の推計人口、県の月次報告では8月1日)、政令市移行のための人口要件が満たされたこととされた。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)の市制施行以来、周辺の市町村と合併を繰り返してきた現在の岡山市は御津郡(旧・御野郡・津高郡)・上道郡・吉備郡(旧・賀陽郡)・児島郡・邑久郡・都窪郡(旧・都宇郡)・赤磐郡(旧・赤坂郡・磐梨郡)・和気郡・久米郡(旧・久米南条郡・久米北条郡)と備前国・備中国・美作国の広範囲の地域に及んでいる。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "※ 1969年(昭和44年)以降に合併された旧市役所・町村役場は、岡山市の区役所・支所・地域センターとして引き継がれている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "警察署は市内に6箇所あり、政令指定都市であるため岡山県警の市警察部が統括している。管轄区域は概ね行政区の区域と一致するが、一部は合併以前の管轄のままとなっている地域がある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "※ 詳細な管轄区域については、岡山県警察署の名称、位置及び管轄区域に関する条例において確認することができる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "消防は全域を岡山市消防局が担当し、北・中・東・西・南の5消防署・1分署・13出張所(うち1出張所は岡山市へ消防・救急業務を委託している吉備中央町に設置)・1救急ステーションが設置され、岡南飛行場には消防航空隊の基地が設置されており、北消防署には特別高度救助隊が組織されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)度以降の管轄区域は概ね行政区の区域と一致している。北区については北消防署と西消防署の2署が管轄する。新設の西消防署の管轄区域は、北区のうち、京山、石井、中山、高松、足守の各中学校区、御南中学校区のうち笹ヶ瀬川以西、吉備中央町である。北消防署の管轄区域は北区のうち西消防署の管轄区域を除く区域である。また、西消防署の新設により、三門出張所と庭瀬出張所は西消防署に統合という形で廃止された。2010年(平成22年)度より西消防署の高度救助隊が、政令指定都市に設置が義務付けられている特別高度救助隊へと格上げされた。2014年(平成26年)には岡山市では22年半ぶりとなる分署、番町分署が開設された。2016年(平成28年)に北消防署新築移転に伴い、西消防署から特別高度救助隊が配置転換された。2017年(平成29年)に西消防署吉備津出張所新築移転に伴い、高松出張所へ改称された。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "郵便番号は以下の通りである。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "岡山市は、海外の6都市・2地域と交流を行っている。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "北部の高原・丘陵地帯では、全国的にもブランド力のある品目を多く抱えている果物の栽培が盛んであり、岡山市の一大産業となっている。「桃(白桃、清水白桃、黄金桃など)」や「葡萄(マスカット、シャインマスカット、ニューピオーネ、桃太郎ふどうなど)」や全国シェアトップである「愛宕梨(あたご梨)」、「鴨梨(ヤーリー)」がその主なブランド品目である。また、乳牛を中心とした畜産も盛んであり、加えて「椎茸」や全国でも珍しい「黄ニラ」の栽培が行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "南部の広大な児島湾干拓地に田園地帯を有るため米の生産量が8,900tにのぼり岡山県全体の四分の一を占める。品種は「朝日米」が多く、一部では酒米の「雄町米」も栽培している。その他では「蓮根」、「茄子」やビールの原料となる「二条大麦」などの栽培も行われている。かつて、冬期には「イグサ」栽培の一大産地であったが、現在は僅かになっている。また、日照時間が長い岡山県南の平野部は生花の生産が盛んなところでもある。岡山市内でも「スイートピー」、「デンドロビウム」、「ラークスパー」などが栽培され全国各地に出荷されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "隣接する倉敷市とともに瀬戸内工業地域に属しており、製造品出荷額は8,200億円と岡山県全体の約10%を占める(50%を超える倉敷市に次ぐ2位)。機械・化学・食品・印刷などの業種が中心である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "臨海部の児島湾は旭川や吉井川などの一級河川から流出する土砂の堆積により水深が浅く、1万t級の船舶が航行可能な航路を整備することが困難なため重化学工業地帯は形成されていない。そのため、岡南工業地帯にクラレ・DOWAホールディングス・西日本ダイケンプロダクツなど、また、旭川東岸の新岡南地区と九蟠地区には、ヤンマーアグリ(ヤンマーグループ)や中四国セキスイハイム工業(セキスイツーユーホームを製造)、永谷園など全体的に軽工業系の工場が多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "これらのことから、内陸部の工業団地開発に力を入れており、市内近郊の久米、東岡山や新岡南、などに鉄工、鋳物などに中規模の内陸工業団地が多い。また、「岡山リサーチパーク」や「西大寺新産業ゾーン企業団地」などに研究や物流に重点を置いた事業所の誘致を進めている。周辺4町の編入に伴い、2005年に御津町のカバヤ本社工場と4つの工業団地、2007年には瀬戸町のキリンビール岡山工場などが加わった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "岡山都市圏の中心都市で県内では圧倒的な集客力があり、代表的な商業地としては表町と岡山駅周辺があげられる。近年の都心商業地の流れとしては、アーケードの商店街から主要施設を結ぶ道路沿いに移行し、分散傾向にあったが、岡山駅周辺の再開発や商業施設進出が相次ぎ、近年都心回帰が起きている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "小売店舗の新規出店などは、1970年代から90年代までは郊外が中心となり、中心部は停滞傾向であった。その後、都心回帰へと流れが変わると、1998年JTが市役所筋の工場跡に建設したイトーヨーカドーとジョイポリスの複合施設「ジョイフルタウン岡山」が再開発の先駆けとなった。また、高層マンションの建設も相次ぎ、中心部の居住人口が増加傾向に転じたことも後押しになり、飲食店や雑貨、衣類などの路面店も中心部への出店が活発になっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "岡山市および岡山県の一大商業集積地であり、中心市街地。旧・城下近くに発展した商業地である。岡山駅前からは徒歩でも行ける範囲であるが、バスや路面電車も走っている。市内バス経路の多くが表町中央部の天満屋バスステーションを経由して岡山駅に向かうことから、買い物客が集まる構造となっている。周辺には中国銀行の本店や岡山県庁なども控え、表町商店街中央部に立地する地場百貨店最大の売上を誇る地元百貨店の天満屋本店を核としてロレックスやカルティエの路面店やロフトやスターバックス、無印良品など幅広い年齢層をターゲットとした商業店舗が集積している。また、商店街北東側の「オランダ通り」が裏通りから若者の街へと変貌している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "近年の動きとしては1999年のクレド岡山や2023年の岡山芸術創造劇場を核とした複合施設などが挙げられる。一方で、北端に岡山シンフォニーホール、南端に岡山芸術創造劇場、東には旧・日銀岡山支店跡を再生したルネスホールと岡山市民会館などの劇場・音楽ホールを有し、文化的な色合いを強めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "岡山城・後楽園などの歴史的施設、美術館や博物館などの文化施設が数多く立地する城下・天神地区などは「岡山カルチャーゾーン」とも呼ばれ、観光ゾーンにも隣接しているため、岡山県風致地区条例で建築物などの制限が課せられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "岡山駅は広島駅とともに中国四国地方を代表するターミナル駅である。1972年の山陽新幹線・新大阪駅 〜 岡山駅間開業を挟み、髙島屋などの県外資本の大型店の出店や中四国初の本格的、かつ中四国最大の地下街である岡山一番街が開業し、市内中心部の商業地図を2極に塗り替えた比較的新しい地区である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ここ数年は再開発が相次ぎ、西口に岡山コンベンションセンターとリットシティビル、東口では岡山駅の橋上化による商業施設さんすて岡山、成通岡山ビルに大型家電量販店のビックカメラや杜の街グレースなど、商業施設が相次いでオープンした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "かつて林原グループが所有していた岡山駅東口の南側の土地(約46,000m)は、中四国地方最大規模の複合商業施設イオンモール岡山となった。これまでの郊外型ではない初めての政令指定都市中心駅前に立地する都心型商業施設として、ハンズ、H&M、ZARAなどのテナントやシネマコンプレックス、岡山放送のスタジオ・報道部門のオフィスが併設されている。なお、市役所筋を介して向かい側には同じイオングループのファッションビル岡山ビブレがあったが、イオンモール岡山の開業に伴い、2014年(平成26年)5月11日をもって閉店した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "※ 太字は上場企業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "民放の地上波テレビ放送では、岡山県は香川県と同一の放送エリアになっており、岡山市には3局が、高松市には2局が本社を置いている。岡山・玉野市境の金甲山送信所には、岡山県と香川県のテレビ放送局の送信所の親局が設置されている。", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ラジオ放送については岡山・香川の各県域放送であるが、両県の多くの地域で聴取が可能であり、岡山市においても香川県の県域放送を聴取できる。", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "※ 本社が香川県高松市にあるが、岡山市も放送対象地域に含まれている放送局(ともに岡山市に岡山本社を置いている)", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ケーブルテレビは2局がサービスエリアであるが、2局のエリアが混合している地域は今のところない。また、この2局はoniビジョンの番組は視聴可能である。", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "岡山市の市外局番は次のとおりである。", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)5月1日より、岡山瀬戸MA・玉野MA・福渡MAに該当する岡山市内・久米南町内の区域はすべて岡山MA(上記1. のエリア)に編入された。", "title": "通信・生活基盤" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "岡山県内の大学と政財界により、知的資源の活用と地域社会や産業界との連携を図ることによって「時代に合った魅力ある高等教育の創造」と「活力ある人づくり・街づくりへの貢献」を目指し2006年(平成18年)4月に設立された。現在、当組織に加盟しているのは岡山県内16の4年制大学、および岡山県と岡山経済同友会で、事務局は岡山理科大学内にある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "市内に公立大学は存在しない。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "嘗ては、岡山県立短期大学が存在した。現在は「岡山県 生涯学習センター」となっている。岡山県立大学及び岡山県立大学短期大学部の項も参照。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "岡山市内には中学校38校(うち国立1校)が設置されている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "高等学校を併設していない中学校については、各区の記事を参照されたい。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "幼稚園・小学校については、各区の記事を参照されたい。なお、市内には幼稚園80園(うち国立1園、私立9園)、小学校93校(うち国立1校、私立2校)が設置されている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "岡山駅を中心に放射状に鉄道路線が延び、市内のほとんどの主要地域と結ばれているなど、鉄道網は充実している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "特にJR発足以降は、国鉄時代の列車型ダイヤから都市圏輸送に重点を置いたものになり、合わせるように沿線人口の多い山陽本線には徐々に駅が増えている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "今後の計画として、JR吉備線のLRT化構想などがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "中心となる駅岡山駅", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "民営の岡山電気軌道が運行している。岡山駅前から表町や県庁のある旧城下町を中心に2路線がある。総延長4.7kmと日本でもっとも短い路面電車だが、1日に約1万人が利用するなど市民の足として定着し、黒字経営を続けている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "今後の展望として岡山駅東口駅前広場への乗入れ、市役所筋を南下し市役所のある大供(だいく)から岡山大学病院までの延伸、また大供から東の清輝橋線・大雲寺前を結ぶ環状化などの新線計画がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "同時に市役所筋をトランジットモール化する構想もあり、車線減少に伴う交通渋滞の影響を調査する社会実験が行われたことがある。また、LRT化を予定しているJR吉備線との相互乗り入れが岡山電気軌道とJRとの間で既に合意されている。吉備線LRTは基本合意直後のコロナ禍により一時中断中だが、路面電車の延伸計画は短期・中期・長期に分け段階的に整備を進めている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "岡山市は戦後のバス会社の統合が中断され統合が進まなかったため、同規模の都市と比べて市内を走るバス会社が非常に多く、各社がエリアを分けて運行し、公営交通(市営バス)の運行実績はない。路線は岡山駅東口のバスターミナルと天満屋バスステーションを中心に放射状に路線網が形成されている。また、岡山駅西口バス乗り場が2010年4月24日に開設、岡山駅から北西方面の路線バスと高速、観光、空港リムジンバスが発着している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "八晃運輸が乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による特殊区間制である以外は、乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による対キロ区間制である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "なお、両備バス・岡電バス・東備バス・下電バス・宇野バス・中鉄バスでは非接触ICカードであるHarecaを採用しており、共通に利用できる。一方、備北バスは備北バス専用バスカード(プリペイドカード)を発行している。Hareca導入各社(宇野バスと中鉄バスの一部路線を除く)はスルッとKANSAI協議会に加盟しているため、全国相互利用サービス対応のICカードも使用できる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "岡山市において広域的な移動軸となっている幹線道路は南北方向が国道30号と国道53号、東西方向が国道2号バイパスと旧国道2号(現国道250号、岡山県道162号岡山倉敷線)、北西方面が国道180号である。特に国道2号バイパスは岡山市を東西に貫く幹線道路のうちで唯一4車線以上の道路であり、なおかつ旭川や百間川などの大規模河川を渡っていることもあって、多い場所で一日10万台以上が通過する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "岡山市出身の人物一覧を参照。", "title": "出身・関連著名人" } ]
岡山市(おかやまし)は、岡山県の南東部に位置する都市。岡山県の県庁所在地および東瀬戸経済圏最多の人口を有する都市であり、政令指定都市に指定されている。当市を中心とした岡山都市圏は中四国地方最大の都市雇用圏を持つ。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{日本の市 | 自治体名 = 岡山市 | 画像 = Okayama Montage2.jpg | 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[岡山城]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[後楽園]]<td style="width:50%>[[吉備津神社]]</tr> <tr><td style="width:50%" rowspan="2" style="vertical-align:middle">[[岡山表町商店街]]<td>[[吉備団子]]</tr> <tr><td>[[西川緑道公園]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Okayama, Okayama.svg|100px|border|岡山市旗]] | 市旗の説明 = 岡山市旗 | 市章 = [[ファイル:Emblem of Okayama, Okayama.svg|80px|岡山市章]] | 市章の説明 = 岡山市章<br />[[1900年]]([[明治]]33年)[[2月20日]]制定 | 都道府県 = 岡山県 | コード = 33100-7 | 隣接自治体 = [[倉敷市]]、[[玉野市]]、[[総社市]]、[[備前市]]、[[瀬戸内市]]、[[赤磐市]]、[[加賀郡]][[吉備中央町]]、[[久米郡]][[久米南町]]、[[美咲町]]、[[都窪郡]][[早島町]]<br />[[香川県]][[小豆郡]][[土庄町]](海上で隣接) | 木 = [[クロガネモチ]](アクラ) | 花 = [[キク]] | シンボル名 = 市の花木<br />市の鳥<br />市の歌 | 鳥など = [[サルスベリ]]<br />[[タンチョウ]]<br />[[岡山市民歌]]([[1958年]]〈昭和33年〉制定) | 郵便番号 = 700-8544 | 所在地 = 岡山市[[北区 (岡山市)|北区]][[大供]]一丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm2nd_region:JP-33|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=180|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.65|frame-longitude=133.91|text=岡山市庁舎位置}}<br />[[ファイル:The Okayama city office is faced from the north.JPG|250px|岡山市役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|33|100|image=Okayama in Okayama Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}[[ファイル:政令市区画図_33100.png|146px]] | 特記事項 = }} '''岡山市'''(おかやまし)は、[[岡山県]]の南東部に位置する[[都市]]。岡山県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]および[[東瀬戸経済圏]]最多の人口を有する都市であり、[[政令指定都市]]に指定されている。当市を中心とした[[岡山都市圏]]は[[中国・四国地方|中四国地方]]最大の[[都市雇用圏]]を持つ。 == 概要 == 全国的には[[桃太郎]]の伝説と[[吉備団子]]や[[西大寺 (岡山市)|西大寺会陽]]([[裸祭り]])が有名である。温暖な[[瀬戸内]]の気候により育まれた[[マスカット・オブ・アレキサンドリア]]、[[シャインマスカット]]、[[ニューピオーネ]]、桃太郎ぶどう、[[白桃]]、[[ナシ#その他の品種(赤梨系)|愛宕梨]](あたご梨)、[[チュウゴクナシ|鴨梨]](ヤーリー)など高級フルーツの産地としても有名な都市である。中心部には[[岡山城]]や[[日本三名園]]の一つである[[後楽園]]を擁している。[[岡山藩]][[池田氏]]の[[城下町]]として栄えた[[江戸時代]]以来、地域の中心都市として発展してきた高層ビルの立ち並ぶ中心部と、閑静な田園や中山間地域が広がる[[郊外]]部を持っている。 また古くから学都としての趣を持ち、明治期から戦前の昭和期にかけて[[第六高等学校 (旧制)|旧制第六高等学校]](中国四国地方唯一の[[ナンバースクールの一覧|ナンバースクール]]、後の[[岡山大学]])や[[岡山医科大学 (旧制)|旧制岡山医科大学]](中国・四国地方で設置された初めての[[大学]])、旧制岡山農業専門学校、岡山農業研究所、[[岡山師範学校|旧制岡山師範学校]]、[[ノートルダム清心女子大学|旧制清心女子専門学校]]などが開校された。現在でも、市街地中心部に数多くの大学や専門学校が存在し、学都としての性格をより一層強めている。 中四国のクロスポイントとして、[[1980年代]]以降、[[瀬戸大橋]]の開通や[[西日本旅客鉄道|JR]]線の[[四国]]との直通化、[[山陽自動車道]]の開通など、交通[[インフラストラクチャー|インフラ]]が急速に整備され、[[岡山都市圏]]は周辺[[都市圏]]と共に[[東瀬戸経済圏]]最大の都市として成長してきた。[[岡山駅]]は、[[山陽新幹線]]や[[山陰地方|山陰]]・[[四国]]方面への[[特別急行列車|特急列車]]が乗り入れる中国四国地方最大級の[[ターミナル駅]]である。[[岡山都市圏]]の人口は、当市が人口47万人の[[倉敷市]]と隣接することから、人口118万人を擁する[[広島市]]を中心とした[[広島都市圏]]を上回る規模を誇る。 戦後一貫して人口増加しており、[[2005年]]以降、周辺4町と合併したこともあり、人口は70万人を突破した。[[2009年]][[4月1日]]には[[政令指定都市]]に移行し、[[北区 (岡山市)|北]]・[[中区 (岡山市)|中]]・[[東区 (岡山市)|東]]・[[南区 (岡山市)|南]]の4行政区が設置された。岡山駅や[[中心市街地]]である[[岡山表町商店街|表町商店街]]、[[岡山県庁]]、[[岡山市役所]]などの主要な都市機能は、[[北区 (岡山市)|北区]]内に位置している。<br />また少子高齢化社会における人口減少下に於いても岡山市の中心部を要する北区の人口は、[[都心回帰]]の影響で[[2045年]]時点でも[[2015年]]現在と同程度の人口が維持される見込みとなっている<ref>[https://www.city.okayama.jp/cmsfiles/contents/0000013/13452/000350233.pdf]</ref>。 == 地理 == === 広袤(こうぼう) === {{Col-begin}} {{Col-break}} {{座標一覧|節=広袤(こうぼう)}} [https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/center.htm 国土地理院地理情報] によると、岡山市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは35.08km、南北の長さは47.76kmである。また、[https://www.stat.go.jp/data/kokusei/topics/topi61.html 2010年(平成22年)国勢調査] 基準による人口の重心は、岡山市北区表町3丁目10番27号付近にある。 {{Col-end}} [[ファイル:Taken from aircraft Okayama City Southern District. Dec. 2014.JPG|thumb|250px|岡山市南部空撮<br />(定期航空機より2014年(平成26年)12月6日撮影)]] {| border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="0" style="font-size:small; text-align:center;" |- | &nbsp; || 北端<br />{{Coord|34|56|57|N|133|54|20|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市最北端}}<br />↑ || |- | 西端<br />{{Coord|34|46|8|N|133|44|23|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市最西端}}← || 中心点<br />{{Coord|34|44|2|N|133|55|52.5|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市中心点}} || 東端<br /> → {{Coord|34|45|8|N|134|7|22|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市最東端}} |- | 人口重心<br />{{Coord|34|39|27.82|N|133|55|48.81|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市人口重心}} || ↓<br />南端<br />{{Coord|34|31|7|N|133|51|59|E|type:landmark_region:JP-33|name=岡山市最南端}} || |- |} === 地形 === [[ファイル:Asahi River Okayama pref02bs3872.jpg|thumb|right|200px|市中心部を流れる旭川]] [[ファイル:lake kojima landsat.jpg|200px|thumb|right|児島湖と児島湾の衛星写真]] [[File:Okayama city center area Aerial photograph.2007.jpg|thumb|280px|岡山市中心部周辺の空中写真。<br/>2007年(平成19年)8月18日撮影の80枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 市の北部はなだらかな丘が続く[[吉備高原]]の一角をなしており、市民の水がめである[[旭川ダム]]や[[岡山空港]]、および近郊住宅街がある。瀬戸内海に注ぐ[[旭川 (岡山県)|旭川]]と[[吉井川]]、2つの[[一級河川]]の運搬・堆積作用によって形成された南部の[[岡山平野]]に中心市街地が位置しており、さらに平野の南部は江戸時代以降の[[干拓]]地であり農地が広がり、穀倉地帯をなしている。その南に[[児島湾]]を挟み、瀬戸内海を望む風光明媚な[[児島半島]]の丘陵地を成す。 ==== 山地 ==== ; 主な山 * 高倉山(548m) * 金山(499.5m) * 本宮高倉山(458m) * [[金甲山]](403m) * 龍ノ口山(257m) * 芥子山(233m、別名:備前富士) * 操山(169m) ==== 河川 ==== ; 主な河川 * [[一級河川]] ** [[旭川 (岡山県)|旭川]]:市の中央部を北から南に貫流し、児島湾に注ぐ。 ** [[吉井川]]:市の東部・西大寺地区を北から南に流れ、児島湾に注ぐ。 ==== 湖沼 ==== ; 主な湖 * [[児島湖]]:[[1962年]]([[昭和]]37年)児島湾を堤防で締め切って造られた農業灌漑用の人工湖。 * [[旭川湖]]:市の北部を占める[[建部町]]にある[[旭川ダム]](旭川第1堰堤)のダム湖。旭川中流部の一部をなす。[[美咲町]]、[[吉備中央町]]と湖内で接している。 * [[白鳥湖]]:市の北部を占める建部町にある旭川ダム(旭川第2堰堤)のダム湖。旭川中流部の一部をなす。吉備中央町と湖内で接している。 ==== 島嶼部 ==== ; 主な島 * [[犬島諸島]] ** [[犬島]]:犬島諸島唯一の有人島。 === 気候 === {{climate chart|'''岡山市''' |0.1|9.6|36.2 |0.5|10.5|45.4 |3.5|14.6|82.5 |8.5|19.8|90.0 |14.8|24.8|112.6 |18.7|27.6|169.3 |23.4|31.8|177.4 |24.6|33.3|97.2 |20.0|29.1|142.2 |13.4|23.4|95.4 |6.8|17.1|53.3 |2.1|11.7|41.5 |float=right |source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=66&block_no=47768&year=&month=&day=&view= 気象庁] }} <!-- 加筆する場合は、個人の主観による独自研究は載せないこと! --> 北を[[中国山地]]、南を[[四国山地]]に挟まれた[[瀬戸内海]]沿岸部に位置するため、典型的な[[瀬戸内海式気候]]に分類される。日照時間は年間約2,000時間と長く、年間降水量は1,100mm程度と[[雨]]・[[雪]]は全国的に見て非常に少ない。冬季は1月平均気温が4.6℃と関東以西の太平洋沿岸ほど温暖ではなく比較的寒くなり、朝晩は氷点下まで下がることも少なくないが、積雪はない。一方、夏季は瀬戸内海の影響で酷暑となり、猛暑日になることも多く、同規模の都市の中では特に熱帯夜日数が多い。[[1989年]](昭和64年/[[平成]]元年)以降、降水量1mm以上の降水日数が全国の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]で最少であり、岡山県のキャッチフレーズ'''「晴れの国おかやま」'''はこれに由来する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.okayama.jp/page/detail-99639.html|title=「晴れの国おかやま」が引き続き統計的に裏付けられました|accessdate=2017-03-06|date=2011-05-26|publisher=岡山県総合政策局統計分析課}}</ref>。 なお、岡山地方気象台は、都市部にある官署地点の中では、[[1961年]](昭和36年) 〜 [[1990年]](平成2年)平年値と比べると気温の上昇が比較的緩いものの、[[1982年]](昭和57年)10月1日の移転前は露場が岡山大学に近い北区津島桑の木町にあり、同年から[[2015年]](平成27年)にかけての露場である北区桑田町よりも[[ヒートアイランド]]の影響を受けにくく寒冷であった<ref>近藤純正、「[http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kenkyu/ke42.html 都市気温と環境の短期的変化]」</ref><ref>{{PDFlink|[http://okayama-geo.jp/pdf/201211-10.pdf 地中の温度に記録されている岡山の温暖化履歴 岡山理科大学 北岡豪一]}}</ref>。露場は2015年(平成27年)3月5日、かつての観測場所に近い岡山市北区津島に33年ぶりに再び[[引越し|移転]]された<ref>{{PDFlink|[http://www.jma-net.go.jp/okayama/topix/20150226kessoku_osirase.pdf 地上気象観測地点「岡山」の移転に伴う地点名称変更及び観測データ欠測のお知らせ] [[岡山地方気象台]]。}}</ref>。 * 最高気温の最低 津島桑の木町設置時 : -2.3℃([[1981年]](昭和56年)2月26日)、桑田町移転後 : 0.5℃([[1984年]](昭和59年)2月7日) * 最低気温の最低 津島桑の木町設置時 : -9.1℃(1981年(昭和56年)2月27日)、桑田町移転後 : -5.0℃(1984年(昭和59年)2月8日) 岡山市中心部(推定)1月の平均気温6.1℃ 8月の平均気温29.1℃ 年平均気温17.1℃ 年降水量約1000ミリ 年間日照時間約2150時間 ; 日応寺の気候 [[2003年]](平成15年)からは、市内北区の岡山空港に近い場所(観測地名 : 日応寺)でも観測が行われている。岡山地方気象台に比べ都市化の影響が小さく、また内陸部に位置するため夏季冬季ともに気温が1.5℃ほど低い。冬は寒冷で、夏の熱帯夜もほぼない。史上最低気温は、2021年(令和3年)1月9日の-9.1℃<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_a.php?prec_no=66&block_no=1531&year=&month=&day=&view= 日応寺 観測史上1〜10位の値]</ref>。 ;福渡の気候 岡山市内で最も北に位置する旧[[建部|建部町]]に置かれており、日応寺よりも更に内陸寄りであるため、気温の日較差・年較差がより大きい。 {{Weather box |location = 岡山地方気象台(岡山市北区津島中、標高5m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 18.8 |Feb record high C = 22.3 |Mar record high C = 24.8 |Apr record high C = 29.6 |May record high C = 33.6 |Jun record high C = 37.0 |Jul record high C = 38.1 |Aug record high C = 39.3 |Sep record high C = 37.1 |Oct record high C = 33.4 |Nov record high C = 26.9 |Dec record high C = 21.5 |year record high C = 39.3 |Jan high C = 9.6 |Feb high C = 10.5 |Mar high C = 14.6 |Apr high C = 19.8 |May high C = 24.8 |Jun high C = 27.6 |Jul high C = 31.8 |Aug high C = 33.3 |Sep high C = 29.1 |Oct high C = 23.4 |Nov high C = 17.1 |Dec high C = 11.7 |year high C = 21.1 |Jan mean C = 4.6 |Feb mean C = 5.2 |Mar mean C = 8.7 |Apr mean C = 14.1 |May mean C = 19.1 |Jun mean C = 22.7 |Jul mean C = 27.0 |Aug mean C = 28.1 |Sep mean C = 23.9 |Oct mean C = 18.0 |Nov mean C = 11.6 |Dec mean C = 6.6 |year mean C = 15.8 |Jan low C = 0.1 |Feb low C = 0.5 |Mar low C = 3.5 |Apr low C = 8.5 |May low C = 14.8 |Jun low C = 18.7 |Jul low C = 23.4 |Aug low C = 24.6 |Sep low C = 20.0 |Oct low C = 13.4 |Nov low C = 6.8 |Dec low C = 2.1 |year low C = 11.4 |Jan record low C = -8.9 |Feb record low C = -9.1 |Mar record low C = -7.0 |Apr record low C = -3.6 |May record low C = 1.0 |Jun record low C = 7.4 |Jul record low C = 12.6 |Aug record low C = 14.8 |Sep record low C = 7.2 |Oct record low C = 1.7 |Nov record low C = -3.5 |Dec record low C = -6.5 |year record low C = -9.1 |Jan precipitation mm = 36.2 |Feb precipitation mm = 45.4 |Mar precipitation mm = 82.5 |Apr precipitation mm = 90.0 |May precipitation mm = 112.6 |Jun precipitation mm = 169.3 |Jul precipitation mm = 177.4 |Aug precipitation mm = 97.2 |Sep precipitation mm = 142.2 |Oct precipitation mm = 95.4 |Nov precipitation mm = 53.3 |Dec precipitation mm = 41.5 |year precipitation mm = 1143.1 |Jan snow cm = 0 |Feb snow cm = 1 |Mar snow cm = 0 |Apr snow cm = 0 |May snow cm = 0 |Jun snow cm = 0 |Jul snow cm = 0 |Aug snow cm = 0 |Sep snow cm = 0 |Oct snow cm = 0 |Nov snow cm = 0 |Dec snow cm = 0 |year snow cm = 1 |Jan humidity = 69 |Feb humidity = 66 |Mar humidity = 65 |Apr humidity = 60 |May humidity = 64 |Jun humidity = 71 |Jul humidity = 74 |Aug humidity = 69 |Sep humidity = 71 |Oct humidity = 71 |Nov humidity = 72 |Dec humidity = 71 |year humidity = 69 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 5.4 |Feb precipitation days = 6.9 |Mar precipitation days = 9.2 |Apr precipitation days = 9.6 |May precipitation days = 9.4 |Jun precipitation days = 11.6 |Jul precipitation days = 10.9 |Aug precipitation days = 7.7 |Sep precipitation days = 9.7 |Oct precipitation days = 7.7 |Nov precipitation days = 6.4 |Dec precipitation days = 6.3 |year precipitation days = 100.8 |Jan snow days = 8.9 |Feb snow days = 8.5 |Mar snow days = 2.7 |Apr snow days = 0.1 |May snow days = 0.0 |Jun snow days = 0.0 |Jul snow days = 0.0 |Aug snow days = 0.0 |Sep snow days = 0.0 |Oct snow days = 0.0 |Nov snow days = 0.1 |Dec snow days = 4.1 |year snow days = 24.4 |Jan sun = 149.0 |Feb sun = 145.4 |Mar sun = 177.8 |Apr sun = 192.6 |May sun = 205.9 |Jun sun = 153.5 |Jul sun = 169.8 |Aug sun = 203.2 |Sep sun = 157.5 |Oct sun = 171.5 |Nov sun = 153.7 |Dec sun = 153.8 |year sun = 2033.7 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1891年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=66&block_no=47768&year=&month=&day=&view= | title = 平年値ダウンロード | accessdate = 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=66&block_no=47768&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) | accessdate = 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref> }} <!--Infobox ends--> {{Weather box |location = 岡山(岡山市桑田町)・2021年 |collapsed=yes |metric first = Yes |single line = Yes |Jan high C = 9.7 |Feb high C = 10.2 |Mar high C = 13.8 |Apr high C = 19.6 |May high C = 24.5 |Jun high C = 27.9 |Jul high C = 31.9 |Aug high C = 33.2 |Sep high C = 29.4 |Oct high C = 22.7 |Nov high C = 17.5 |Dec high C = 12.0 |year high C = 20.7 |Jan mean C = 5.6 |Feb mean C = 6.3 |Mar mean C = 8.4 |Apr mean C = 14.2 |May mean C = 19.6 |Jun mean C = 23.8 |Jul mean C = 27.7 |Aug mean C = 28.8 |Sep mean C = 24.9 |Oct mean C = 18.4 |Nov mean C = 13.0 |Dec mean C = 7.5 |year mean C = 16.8 |Jan low C = 1.3 |Feb low C = 2.4 |Mar low C = 4.7 |Apr low C = 9.9 |May low C = 14.9 |Jun low C = 19.8 |Jul low C = 24.4 |Aug low C = 25.5 |Sep low C = 21.4 |Oct low C = 14.0 |Nov low C = 8.8 |Dec low C = 4.8 |year low C = 13.0 |source 1 = 理科年表 |date=March 2013 }}<!--Infobox ends-->{{Weather box|location=日応寺(2003年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=15.8|Feb record high C=21.0|Mar record high C=23.4|Apr record high C=28.5|May record high C=31.1|Jun record high C=34.1|Jul record high C=37.0|Aug record high C=36.8|Sep record high C=36.0|Oct record high C=30.7|Nov record high C=23.7|Dec record high C=18.9|year record high C=37.0|Jan high C=7.7|Feb high C=8.9|Mar high C=12.7|Apr high C=18.4|May high C=23.3|Jun high C=26.2|Jul high C=29.6|Aug high C=31.4|Sep high C=27.3|Oct high C=21.8|Nov high C=16.0|Dec high C=9.9|year high C=19.5|Jan mean C=2.9|Feb mean C=3.9|Mar mean C=7.1|Apr mean C=12.6|May mean C=17.7|Jun mean C=21.4|Jul mean C=25.1|Aug mean C=26.4|Sep mean C=22.5|Oct mean C=16.8|Nov mean C=10.9|Dec mean C=5.2|year mean C=14.4|Jan low C=-1.4|Feb low C=-0.8|Mar low C=1.7|Apr low C=6.9|May low C=12.2|Jun low C=17.3|Jul low C=21.7|Aug low C=22.6|Sep low C=18.7|Oct low C=12.3|Nov low C=6.2|Dec low C=0.7|year low C=9.8|Jan record low C=-9.1|Feb record low C=-8.1|Mar record low C=-4.9|Apr record low C=-2.1|May record low C=3.4|Jun record low C=9.1|Jul record low C=14.8|Aug record low C=15.4|Sep record low C=10.7|Oct record low C=4.6|Nov record low C=-2.3|Dec record low C=-5.9|year record low C=-9.1|Jan precipitation mm=30.4|Feb precipitation mm=50.6|Mar precipitation mm=85.4|Apr precipitation mm=100.8|May precipitation mm=116.5|Jun precipitation mm=170.1|Jul precipitation mm=208.3|Aug precipitation mm=104.8|Sep precipitation mm=155.8|Oct precipitation mm=96.3|Nov precipitation mm=57.3|Dec precipitation mm=52.0|year precipitation mm=1228.3|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=4.6|Feb precipitation days=6.8|Mar precipitation days=8.2|Apr precipitation days=8.9|May precipitation days=8.8|Jun precipitation days=10.7|Jul precipitation days=10.8|Aug precipitation days=7.5|Sep precipitation days=9.1|Oct precipitation days=7.3|Nov precipitation days=6.0|Dec precipitation days=5.7|year precipitation days=94.5|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=66&block_no=1531&year=&month=&day=&view= |title=日応寺 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-10-07 |publisher=気象庁}}</ref>}}<!--Infobox ends-->{{Weather box|location=福渡(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=16.8|Feb record high C=21.9|Mar record high C=24.4|Apr record high C=29.7|May record high C=32.8|Jun record high C=35.7|Jul record high C=39.0|Aug record high C=38.3|Sep record high C=36.4|Oct record high C=31.8|Nov record high C=25.0|Dec record high C=19.7|year record high C=39.0|Jan high C=8.6|Feb high C=9.8|Mar high C=13.6|Apr high C=19.6|May high C=24.6|Jun high C=27.4|Jul high C=31.1|Aug high C=32.5|Sep high C=28.3|Oct high C=22.6|Nov high C=16.5|Dec high C=10.9|year high C=20.5|Jan mean C=2.5|Feb mean C=3.3|Mar mean C=6.7|Apr mean C=12.2|May mean C=17.3|Jun mean C=21.5|Jul mean C=25.5|Aug mean C=26.3|Sep mean C=22.2|Oct mean C=15.9|Nov mean C=9.7|Dec mean C=4.5|year mean C=14.0|Jan low C=-2.3|Feb low C=-1.9|Mar low C=0.7|Apr low C=5.4|May low C=10.9|Jun low C=16.6|Jul low C=21.4|Aug low C=21.9|Sep low C=17.6|Oct low C=10.9|Nov low C=4.7|Dec low C=-0.1|year low C=8.8|Jan record low C=-10.1|Feb record low C=-9.5|Mar record low C=-6.5|Apr record low C=-3.7|May record low C=0.5|Jun record low C=6.6|Jul record low C=12.0|Aug record low C=13.9|Sep record low C=5.6|Oct record low C=0.2|Nov record low C=-3.1|Dec record low C=-7.7|year record low C=-10.1|Jan precipitation mm=40.4|Feb precipitation mm=48.5|Mar precipitation mm=91.9|Apr precipitation mm=102.1|May precipitation mm=131.0|Jun precipitation mm=171.0|Jul precipitation mm=200.3|Aug precipitation mm=111.2|Sep precipitation mm=159.2|Oct precipitation mm=95.6|Nov precipitation mm=56.5|Dec precipitation mm=46.7|year precipitation mm=1249.8|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=5.4|Feb precipitation days=6.6|Mar precipitation days=9.2|Apr precipitation days=9.1|May precipitation days=9.6|Jun precipitation days=11.0|Jul precipitation days=11.3|Aug precipitation days=8.4|Sep precipitation days=9.5|Oct precipitation days=7.2|Nov precipitation days=6.2|Dec precipitation days=6.0|year precipitation days=99.6|Jan sun=144.1|Feb sun=142.3|Mar sun=174.0|Apr sun=192.3|May sun=202.9|Jun sun=142.1|Jul sun=156.6|Aug sun=193.8|Sep sun=157.8|Oct sun=169.6|Nov sun=147.6|Dec sun=139.1|year sun=1962.1|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=66&block_no=0663&year=&month=&day=&view= |title=福渡 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-07-09 |publisher=気象庁}}</ref>}} === 地域 === ==== 行政区 ==== [[ファイル:Map of wards of Okayama city.png|thumb|right|200px|岡山市4行政区の位置]] 岡山市内には以下の4つの行政区が設置されている。 [[人口]]はいずれも{{自治体人口/岡山県|date}}時点の推計人口 {| class="wikitable sortable" style="margin: 1em;" ! [[全国地方公共団体コード|コード]] ! 区名 ! 人口<br />(人) ! 面積<br />(km<sup>2</sup>) ! 人口密度<br />(人/km<sup>2</sup>) |- !33101-5 ![[北区 (岡山市)|北区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市北区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市北区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市北区}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市北区}}round0}}}} |- !33102-3 ![[中区 (岡山市)|中区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市中区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市中区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市中区}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市中区}}round0}}}} |- !33103-1 ![[東区 (岡山市)|東区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市東区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市東区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市東区}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市東区}}round0}}}} |- !33104-0 ![[南区 (岡山市)|南区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市南区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市南区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市南区}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市南区}}round0}}}} |- | |'''合計''' |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市}}round0}}}} |} * 北区:市中心部および北西部 * 中区:おおむね旭川以東、百間川以西 * 東区:市東部(西大寺・上道・瀬戸地区) * 南区:市南西部(芳田・興除・岡南・妹尾・灘崎・藤田地区) {{see|岡山市の地域一覧}} {{岡山市の地域}} ==== 市内の町・字 ==== 各区のページの「町丁・大字」項あるいは「境域」および[[岡山市の町・字一覧]]を[[参照 (書誌学)|参照]]。 ==== かつての合併特例区 ==== 「[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]」で編入した御津・灘崎地区は[[2010年]](平成22年)3月21日まで、建部・瀬戸地区は[[2012年]](平成24年)1月21日までにそれぞれ[[合併特例区]]が設けられていた。 * 御津合併特例区:旧・[[御津]]町域(現・岡山市北区御津)。 * 灘崎町合併特例区:旧・[[灘崎]]町域(現・岡山市南区の一部。「灘崎」の[[地名]]表記を存続せず)。 * 建部町合併特例区:旧・[[建部]]町域(現・岡山市北区建部町)。 * 瀬戸町合併特例区:旧・[[瀬戸地域|瀬戸町]]域(現・岡山市東区瀬戸町)。 === 地域関係 === ==== 岡山と倉敷の関係 ==== 歴史的には[[倉敷市]]との関係は[[江戸時代]]、外様の[[岡山藩]]と天領の[[倉敷]]との関係であったものの、高度成長期以降は倉敷市で[[水島コンビナート]]が発展し、岡山市の都市圏が膨張するとともに[[国道2号]][[岡山バイパス]]や山陽本線の高頻度ダイヤが組まれるなどインフラ整備が進み、今や買い物や仕事で行き来する日常生活圏として一体化が急速に進んでいる。倉敷市は岡山市の[[都市雇用圏|雇用都市圏]]に入っており、150万人を超える中四国最大の[[岡山都市圏|岡山大都市圏]]の一角となっている。 ==== 岡山と高松(香川県)の関係 ==== [[香川県]][[高松市]]とは[[宇高連絡船]](発着は玉野市)の時代から相互交流が盛んである。また、民放テレビは[[岡山県・香川県の放送|岡山県と香川県のエリアが同一]]のため、お互いの地域の情報が得やすい状況にある。[[1988年]](昭和63年)の[[瀬戸大橋]]の開通以降は、[[マリンライナー]]により岡山駅と[[高松駅 (香川県)|高松駅]]が1時間弱で結ばれたこともあり、相互交流がより密になっている。 [[2009年]](平成21年)[[7月6日]]に岡山市長と高松市長の会談が行われ、両市で共同の観光PRに取り組むことや、ケーブルテレビ・ホームページを活用して情報発信を行うこと、渇水時における岡山市から高松市への水の提供など、非常時の協力体制を構築することなどについて合意がなされた<ref>[http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/11999.html 岡山市長とのトップ会談] 高松市公式サイト - 市長室</ref>。 ==== 中四国地方での地位 ==== {{Main|東瀬戸経済圏}} [[岡山駅]]から[[瀬戸大橋線]]で[[四国]]と直結しており、日本で唯一四国の全ての県庁所在地へ向かう特急が発着するほか、特急[[やくも]]で山陰主要部(米子・松江・出雲市)と、智頭線経由の特急スーパー[[いなば (列車)|いなば]]で[[鳥取市]]とも結ばれており、岡山駅は本州と四国を結ぶターミナル駅になっている。 高速道路は東西に山陽自動車道が貫き、[[岡山ジャンクション|岡山JCT]]で[[岡山自動車道]]と接続し、県北部・山陰方面と結ばれている。加えて、隣接する[[倉敷ジャンクション|倉敷JCT]]では[[瀬戸中央自動車道]]と接続し、四国方面と結ばれており、日本海から太平洋へ抜ける[[交通結節点|交通の結節点]]となっている。 [[中国地方]]または[[中四国地方]]においては、交通の結節点である岡山市は物流拠点都市としての位置付けが大きく、食品・流通業系の企業は中国・四国地方の拠点を岡山市に設置している例も多い。 === 人口 === 市の推計人口は[[2021年]]([[令和]]3年)[[現在]]71万人を超えており、全国の[[市]]で[[日本の市の人口順位|18番目に多い]]。2020年(令和2年)国勢調査確定値<ref name="a">[https://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/789511_7362426_misc.pdf 岡山県の人口~令和2年国勢調査結果(人口等基本集計結果)]岡山県(2021年11月30日)2022年9月22日閲覧。</ref> では724,691人となっている。 人口増加率では[[2015年]](平成27年)国勢調査 - [[2020年]](令和2年)国勢調査で(東京都区部を除く)政令指定都市20市中9位(0.73%増)となっており、現在微増傾向にある。 {{人口統計|code=33100|name=岡山市|image=Demography33100.svg}} === 隣接する自治体 === ;{{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] * [[倉敷市]] * [[玉野市]] * [[総社市]] * [[備前市]] * [[瀬戸内市]] * [[赤磐市]] * [[加賀郡]]:[[吉備中央町]] * [[久米郡]]:[[久米南町]]、[[美咲町]] * [[都窪郡]]:[[早島町]] ; {{Flagicon|香川県}}[[香川県]](海上で隣接) * [[小豆郡]]:[[土庄町]] == 歴史 == === 古代から律令時代まで === 古代の岡山は[[吉備国]]の一角であり、[[弥生時代]]と[[古墳時代]]に、吉備は[[大和国|大和]]、[[筑紫国|筑紫]]、[[古代出雲|出雲]]などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)<ref>「[https://iwasakijunichi.net/2/1/9/2/2-6.pdf 『日本旧派歌道流派総覧』P13]」</ref>の一角であった。[[日本列島]]を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した。 しかし、吉備の興隆を快く思わないヤマトに勢力を削減され、[[備前国]]・[[備中国]]・[[備後国]]・[[美作国]]に分割され、これ以後現在に至るまで、経済・文化の面で連関の強い旧吉備国の政治的な統一は達成されていない。吉備国が分割された後、備前国の[[国府]]は現在の岡山市域内に置かれたと見られる。 === 戦国時代から天正期 === 岡山周辺は[[室町時代]]までは農村地帯で、[[16世紀]]には[[金光氏]]が小規模な城を築いて拠点にしていた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けた[[宇喜多直家]]は[[1570年]]([[元亀]]元年)に[[金光宗高]]を謀反の疑いありとして切腹させて、[[岡山城]]を奪った。その後城を大規模に拡張し、[[山陽道]]を岡山経由に付け替えて、[[備前国]]内外の商人を呼び寄せ、[[1573年]]([[天正]]元年)に本拠にすべく移住した。直家が始めた城下町・岡山の振興は、[[宇喜多秀家|秀家]]の代にも続けられ、これ以後、岡山は主に備前国の政治経済の中心地となった。 === 江戸時代 === [[ファイル:Ikeda Tsunamasa.jpg|thumb|right|180px|池田綱政]] 宇喜多秀家が[[関ヶ原の戦い]]で没落すると、[[1601年]]([[慶長]]6年)に[[小早川秀秋]]が岡山城に入った。秀秋は翌[[1602年]](慶長7年)に死に、小早川家は断絶した。[[1603年]](慶長8年)には[[池田忠継]]が入り、以後[[江戸時代]]を通じて、岡山は[[池田氏]]の[[城下町]]となった。 城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の[[池田綱政|綱政]]の代である[[1707年]]([[宝永]]4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。[[後楽園]]が造成されたのもこの時期である。しかるに町方人口は[[享保]]のころから漸減し、幕末の[[1858年]]([[安政]]5年)には2万0092人となる。これは岡山藩の新田開発による農村商業の発達とは対照的であり、藩当局が農村から都市への人口流入を抑制する政策をとったことによるものとみられる。 === 明治維新から第二次世界大戦まで === [[ファイル:Okayama City Anthem.ogg|thumb|岡山市歌(初代、1938年(昭和13年) - 1958年(昭和33年)。旋律は[[著作権の保護期間|著作権保護期間]]満了)]] [[明治4年]][[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])の[[廃藩置県]]により、岡山は[[岡山県]]の県庁所在地となった。 [[1878年]]([[明治]]11年)[[9月29日]]に[[郡区町村編制法]]が岡山県において施行され、岡山市の前身となる岡山区が発足した。同法は府県により施行日が異なっており、同法を最初に施行したのが岡山県だったことから、岡山区は全国で最初の[[区 (行政区画)|区]]となった。 [[1889年]](明治22年)[[6月1日]]に[[市制]]が施行され、岡山区は岡山市へ移行した。郡区町村編制法では最初の区となった一方、市制では最初の31市から2ヶ月遅れての施行となった。市制施行当時、面積5.77km<sup>2</sup>、人口4万7564人。[[1920年]]([[大正]]9年)には人口9万4585人を数えた。 [[1927年]]([[昭和]]2年)[[2月1日]]、岡山市に本店を置いていた奨学[[貯蓄銀行|貯金銀行]]が[[資本金]]不足を理由に業務停止命令を受け<ref>貯蓄銀行の営業差し止め、資本金不足で『東京日日新聞』昭和2年2月11日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p27 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>事実上倒産。 [[1930年]](昭和5年)、[[岡山市歌]](初代)を制定。 [[1939年]](昭和14年)[[11月27日]]、[[岡山市役所]]本庁舎(木造2階建て)が全焼。[[御真影]]や[[戸籍]]原簿は持ち出されて焼損を免れた。後日、[[放火]]容疑で用務員が逮捕<ref>岡山市役所本館を全焼『合同新聞』昭和14年11月28日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p58 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 [[第二次世界大戦|第二次大戦]]末期の[[1945年]](昭和20年)[[6月29日]]に[[岡山空襲]]で大きな被害を受けて1000人以上が犠牲となり、10万人以上が家を失った。 === 終戦後 === [[ファイル:Okayama after the 1945 air raid.jpg|thumb|right|250px|空襲後の岡山市街]] 混乱期を過ぎると街は順調に発展し、周辺市町村との[[市町村合併|編入合併]]を進めた。[[1960年]](昭和35年)ごろには、[[倉敷市]]を含めた県南広域都市の構想を岡山県知事が提唱したが、倉敷市長の失踪に端を発する騒動により、白紙撤回された。 [[1958年]](昭和33年)4月、[[岡山市民歌]](2代目)を制定。 [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]には[[山陽新幹線]]が[[岡山駅]]まで延伸開業、[[1988年]](昭和63年)[[3月20日]]には[[瀬戸大橋線]]が開業し、それ以来鉄道交通の要衝となっている。 [[1996年]]([[平成]]8年)には、国から[[中核市]]に指定された。その後の[[2005年]](平成17年)[[3月22日]]、隣接する[[御津郡]][[御津町 (岡山県)|御津町]]・[[児島郡]][[灘崎町]]の2町を編入、[[2007年]](平成19年)[[1月22日]]、隣接する[[御津郡]][[建部町]]・[[赤磐郡]][[瀬戸町 (岡山県)|瀬戸町]]の2町を編入した。 2007年(平成19年)[[6月26日]]夕方に、市の人口が70万人を突破した。 [[2009年]](平成21年)[[4月1日]]には[[新潟市]]・[[浜松市]](2007年4月移行)に続いて全国で18番目、[[中国・四国地方]]では[[広島県]][[広島市]]に次いで2番目となる[[政令指定都市]]に移行し、[[北区 (岡山市)|北区]]・[[中区 (岡山市)|中区]]・[[東区 (岡山市)|東区]]・[[南区 (岡山市)|南区]]の4つの[[行政区]]が設置された。 [[2012年]](平成24年)[[6月1日]]には、市制123年目となるこの日に「'''岡山市民の日'''」が制定された。主に[[岡山商工会議所]]青年部が中心となり、政令市移行をきっかけにさらに市民が郷土愛を深めるために、岡山市へ働きかけたものである。 == 行政 == === 市長 === ; 現職市長 * [[大森雅夫]](おおもり まさお、[[2013年]](平成25年)[[10月9日]] - 。第35代・36代・37代市長。3期目) ; 副市長 * 佐々木正士郎(ささき しょうじろう) * 那須正己(なす まさみ) [[2012年]](平成24年)3月まで副市長([[2007年]](平成19年)3月以前は助役)を2名置いていたが、2012年(平成24年)4月から試行的に1人制となった<ref>[http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00299.html 岡山市副市長人事について] - 岡山市[[ウェブサイト|公式ウェブサイト]]・2012年(平成24年)3月19日記者会見</ref>。その後、同年8月24日から、再び2人制となった<ref>[http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00317.html 副市長の就任について] - 岡山市公式ウェブサイト・2012年(平成24年)8月24日記者会見</ref>。 ; 歴代市長 {| class="wikitable" |- ! style="width: 50px;"|歴代 ! style="width: 150px;"|氏名 ! 在任期間 |- | 1 | [[花房端連]] | [[1889年]]([[明治]]22年)9月17日 - 1890年(明治23年)10月30日 |- | 2 | [[新庄厚信]] | [[1890年]](明治23年)10月30日 - 1894年(明治27年)5月15日 |- | 3 | [[小田安正]] (1期) | [[1894年]](明治27年)7月4日 - 1900年(明治33年)7月3日 |- | 4 | 小田安正 (2期) | [[1900年]](明治33年)8月8日 - 1902年(明治35年)7月10日 |- | 5 | [[岡田磐]] (1期) | [[1902年]](明治35年)7月25日 - 1908年(明治41年)7月24日 |- | 6 | 岡田磐 (2期) | [[1908年]](明治41年)7月28日 - 1914年(大正3年)7月23日 |- | 7 | 岡田磐 (3期) | [[1914年]]([[大正]]3年)8月3日 - 1918年(大正7年)8月2日 |- | 8 | [[中山寛]] | [[1918年]](大正7年)10月19日 - 1922年(大正11年)10月18日 |- | 9 | [[窪谷逸次郎]] (1期) | [[1923年]](大正12年)5月10日 - 1927年(昭和2年)5月9日 |- | 10 | 窪谷逸次郎 (2期) | [[1927年]]([[昭和]]2年)5月10日 - 1928年(昭和3年)8月18日 |- | 11 | [[守屋松之助]] (1期) | [[1929年]](昭和4年)2月25日 - 1932年(昭和7年)12月12日 |- | 12 | 守屋松之助 (2期) | [[1933年]](昭和8年)3月16日 - 1933年(昭和8年)8月2日 |- | 13 | [[石原市三郎]] | [[1934年]](昭和9年)2月25日 - 1938年(昭和13年)2月24日 |- | 14 | [[時実秋穂]] | [[1938年]](昭和13年)3月19日 - 1940年(昭和15年)1月8日 |- | 15 | [[国富友次郎]] | [[1940年]](昭和15年)9月4日 - 1944年(昭和19年)9月3日 |- | 16 | [[竹内寛 (陸軍軍人)|竹内寛]] | [[1944年]](昭和19年)9月4日 - 1945年(昭和20年)10月9日 |- | 17 | [[橋本富三郎]] | [[1945年]](昭和20年)11月22日 - 1947年(昭和22年)2月22日 |- | 18 | [[田中弘道 (政治家)|田中弘道]] | [[1947年]](昭和22年)4月6日 - 1951年(昭和26年)3月24日 |- | 19 | [[横山昊太]] | [[1951年]](昭和26年)4月23日 - 1955年(昭和30年)4月12日 |- | 20 | [[田淵久]] | [[1955年]](昭和30年)5月1日 - 1959年(昭和34年)4月30日 |- | 21 | [[寺田熊雄]] | [[1959年]](昭和34年)5月1日 - 1963年(昭和38年)4月30日 |- | 22 | [[岡崎平夫|岡﨑平夫]] (1期) | [[1963年]](昭和38年)5月1日 - 1967年(昭和42年)4月30日 |- | 23 | 岡﨑平夫 (2期) | [[1967年]](昭和42年)5月1日 - 1971年(昭和46年)4月30日 |- | 24 | 岡﨑平夫 (3期) | [[1971年]](昭和46年)5月1日 - 1975年(昭和50年)4月30日 |- | 25 | 岡﨑平夫 (4期) | [[1975年]](昭和50年)5月1日 - 1979年(昭和54年)4月30日 |- | 26 | 岡﨑平夫 (5期) | [[1979年]](昭和54年)5月1日 - 1983年(昭和58年)4月30日 |- | 27 | [[松本一]] (1期) | [[1983年]](昭和58年)5月1日 - 1987年(昭和62年)4月30日 |- | 28 | 松本一 (2期) | [[1987年]](昭和62年)5月1日 - 1991年(平成3年)1月14日 |- | 29 | [[安宅敬祐]] (1期) | [[1991年]]([[平成]]3年)2月12日 - 1995年(平成7年)2月9日 |- | 30 | 安宅敬祐 (2期) | [[1995年]](平成7年)2月10日 - 1999年(平成11年)2月9日 |- | 31 | [[萩原誠司]] (1期) | [[1999年]](平成11年)2月10日 - 2003年(平成15年)2月9日 |- | 32 | 萩原誠司 (2期) | [[2003年]](平成15年)3月24日 - 2005年(平成17年)8月25日 |- | 33 | [[高谷茂男|髙谷茂男]] (1期) | [[2005年]](平成17年)10月11日 - 2009年(平成21年)10月10日 |- | 34 | 髙谷茂男 (2期) | [[2009年]](平成21年)10月11日 - 2013年(平成25年)10月8日 |- | 35 | [[大森雅夫]] (1期) | [[2013年]](平成25年)10月9日 - 2017年(平成29年)10月8日 |- | 36 | 大森雅夫 (2期) | [[2017年]](平成29年)10月9日 - 2021年(令和3年)10月8日 |- | 37 | 大森雅夫 (2期) | [[2021年]]([[令和]]3年)10月9日 - 現職 |} === 市役所組織 === 主要な組織(局室)のみ記載(2017年(平成29年)4月1日現在) * 危機管理室 * 市長公室 * 政策局 * 総務局 * 財政局 * 市民生活局 * 市民協働局 * 保健福祉局 * 岡山市保健所 * 岡山っ子育成局 * 環境局 * 産業観光局 * 都市整備局 * 下水道河川局 * 会計管理室 * 消防局 * 水道局 * 市場事業部 * 教育委員会 * 選挙管理委員会 * 人事委員会 * 監査事務局 * 農業委員会 * 議会 === 区役所・支所などの管轄地域 === * 市内は4区役所、13地域センター、4支所に編成されている。 {| class="wikitable" |- ! 名称 ! 所在地 ! 管轄地域 ! 備考 |- | '''[[岡山市役所]]''' | 北区大供一丁目1番1号 | | 市内4行政区を統括 |- | '''[[北区 (岡山市)|北区役所]]''' | 北区大供一丁目1番1号 | 岡山市北区域 | 市役所の一部に設置 |- | [[吉備 (岡山市)|吉備]]地域センター | 北区庭瀬416番地 | 岡山市北区域 | 吉備公民館1階に設置 |- | [[高松地域 (岡山市)|高松]]地域センター | 北区高松原古才247番地 | 岡山市北区域 | 旧・高松町役場 → 旧・高松支所 → 旧・高松ふれあいプラザ跡地に設置 |- | [[一宮地域|一宮]]地域センター | 北区一宮553番地1 | 岡山市北区域 | 旧・一宮町役場 |- | [[津高地域|津高]]地域センター | 北区栢谷1682番地 | 岡山市北区域 | 旧・津高町役場 |- | 足守地域センター | 北区足守718番地 | 岡山市北区域 | 足守公民館に設置 |- | [[御津]]支所 | 北区御津金川1020番地 | 旧・御津町域 | 旧・御津町役場 |- | [[建部]]支所 | 北区建部町福渡489番地 | 旧・建部町域 | 旧・建部町役場 |- | '''[[中区 (岡山市)|中区役所]]''' | 中区浜三丁目7番15号 | 岡山市中区域 | 旧・[[RSK山陽放送#本社・支社所在地|RSKメディアコム]]敷地に設置 |- | 富山地域センター | 中区円山115番地1 | 岡山市中区域 | [[天満屋ストア|ハピーズ]]円山店店舗内に設置 |- | '''[[東区 (岡山市)|東区役所]]''' | 東区[[西大寺 (旧市域)|西大寺]]南一丁目2番4号 | 岡山市東区域 | [[カネボウ (1887-2008)|カネボウ]]錦糸西大寺工場跡地に設置 |- | [[上道]]地域センター | 東区東平島161番地 | 岡山市東区域 | 上道公民館1階に設置 |- | [[瀬戸地域|瀬戸]]支所 | 東区瀬戸町瀬戸45番地 | 旧・瀬戸町域 | 旧・瀬戸町役場 |- | '''[[南区 (岡山市)|南区役所''']]''' | 南区浦安南町495番地5 | 岡山市南区域 | 浦安運動公園東側敷地に設置 |- | [[藤田 (岡山市)|藤田]]地域センター | 南区藤田508番地 | 岡山市南区域 | 藤田公民館東隣に設置 |- | [[興除]]地域センター | 南区中畦589番地1 | 岡山市南区域 | 興除公民館敷地内に設置 |- | [[妹尾地域|妹尾]]地域センター | 南区箕島1024番地8 | 岡山市南区域 | [[南消防署 (岡山市)|南消防署]]妹尾出張所西隣に設置 |- | [[福田地域 (岡山市)|福田]]地域センター | 南区古新田1186番地 | 岡山市南区域 | 福田公民館敷地内に設置 |- | 児島地域センター | 南区北浦716番地 | 岡山市南区域 | 旧・甲浦村役場敷地に設置 |- | 福浜地域センター | 南区福富中一丁目16番22号 | 岡山市南区域 | 福浜公民館敷地内に設置 |- | [[灘崎]]支所 | 南区片岡207番地 | 旧・灘崎町域 | 旧・灘崎町役場 → 旧・灘崎支所 → 旧・南区役所 |- |} === 保健センター・福祉事務所 === 市内の各福祉事務所は区役所の直轄組織となっている。 {| class="wikitable" |- ! style="width: 12em;"|保健センター名称 ! style="width: 13em;"|所在地 ! style="width: 18em;"|管轄地域 ! style="width: 16em;"|備考 |- | 北区中央保健センター<br />([[岡山市保健所]]) | 北区鹿田町一丁目1-1 | 岡山市北区の中心部 | 岡山市保健福祉会館内 |- | 北区北保健センター | 北区谷万成二丁目6-33 | 岡山市北区の北部、旧・御津町、建部町域 | 北ふれあいセンター内 |- | 中区保健センター | 中区桑野715-2 | 岡山市中区域 | 岡山ふれあいセンター内 |- | 東区保健センター | 東区西大寺中野本町4-5 | 岡山市東区域 | |- | 南区西保健センター | 南区妹尾880-1 | 岡山市南区の西部 | 西ふれあいセンター内 |- | 南区南保健センター | 南区福田690-1 | 岡山市南区の南部、旧・灘崎町域 | 南ふれあいセンター内 |- |} {| class="wikitable" |- ! style="width: 12em;"|福祉事務所名称 ! style="width: 13em;"|所在地 ! style="width: 18em;"|管轄地域 ! style="width: 16em;"|備考 |- | 北区中央[[福祉事務所]] | 北区鹿田町一丁目1-1 | 岡山市北区の中心部 | 岡山市保健福祉会館内 |- | 北区北福祉事務所 | 北区谷万成二丁目6-33 | 岡山市北区の北部、旧・御津町、建部町域 | 北ふれあいセンター内 |- | 中区福祉事務所 | 中区赤坂本町11-47 | 岡山市中区域 | 岡山市東山プール敷地内に設置 |- | 東区福祉事務所 | 東区西大寺中二丁目16-33 | 岡山市東区域 | 西大寺ふれあいセンター内 |- | 南区西福祉事務所 | 南区妹尾880-1 | 岡山市南区の西部 | 西ふれあいセンター内 |- | 南区南福祉事務所 | 南区福田690-1 | 岡山市南区の南部、旧・灘崎町域 | 南ふれあいセンター内 |- |} === 市町村合併と政令指定都市 === {{main|岡山県南政令指定都市構想}} ; 岡山県南百万都市建設計画 [[1961年]](昭和36年)岡山県知事だった[[三木行治]]が新産業都市の受け皿として、全国6大[[都市]](当時)に次ぐ大都市形成のため打ち出した[[計画]]で、[[邑久町]](現・[[瀬戸内市]])から[[鴨方町]](現・[[浅口市]])、南は[[児島半島]]までの33市町村による当時での人口が約90万人(その後の人口規模は約130万人に達している)の大規模な合併であった。 三木知事と[[自治省]](現・[[総務省]])出身の森県企画室長を中心に推し進められ、全ての関係市町村議会で合併の議決が行われ(岡山市においては[[1962年]](昭和37年)[[12月17日]]、22対16の賛成多数で議決)、岡山市・[[倉敷市]]・[[児島地域|児島市]](現倉敷市児島)を除く首長も承認し国に合併申請をした。しかし、倉敷市長が[[年末年始]]に公印を持ったまま上京し一時失踪する騒動が発生したことで[[倉敷市]]の調印が行われず、このことで岡山・児島の二市も脱退、[[1964年]](昭和39年)には三木知事の[[突然死|急逝]]により構想は頓挫した。 ; 50万都市への合併 [[高度経済成長期]]に入り、岡山市は郊外へ市街地を拡大させ膨張していったことで、周辺市町村のあちこちで急速な[[ベッドタウン]]化が進み[[社会資本]]整備が追いつかなくなり合併が一気に進んだ。[[1969年]](昭和44年)に[[財政再建団体]]転落直前であった[[西大寺市]]を皮切りに一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、足守町、上道町、興除村さらに[[1975年]](昭和50年)の藤田村に至るまで11市町村との大合併が行われ、岡山市は[[政令指定都市]]の法律要件である人口50万人を突破した。 ; 平成の大合併 [[ファイル:OkayamaShiKennai.png|thumb|200px|2005年(平成17年)3月22日合併以前の市域]] {{Wikisource|地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令 (平成20年政令第315号)|地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令}} [[2002年]](平成14年)[[2月]] 岡山[[日本青年会議所|青年会議所]]が岡山市と[[玉野市]]との合併による[[政令指定都市]]移行の要望書を岡山市長に提出し、[[7月]]には岡山市と玉野市、[[灘崎町]]、[[御津町 (岡山県)|御津町]]、[[瀬戸町 (岡山県)|瀬戸町]]による合併研究会が設置され、さらに[[2003年]](平成15年)[[4月]]には 瀬戸町を除いた[[任意合併協議会]]が設置された。[[2004年]](平成16年)[[1月]]に新設合併、既存の独自の行政サービスの維持などの内容で中間答申がなされるが、玉野市では議会と市民グループの反対があり[[2月]]に岡山市との合併を断念し離脱した。しかし残る灘崎町・御津町は岡山市との合併協議を続け2005年(平成17年)[[3月]]に編入合併した。(岡山県南政令市構想第一次合併) 他の町と合併協議をしていた建部町・瀬戸町は相次いで方針を転換し、政令指定都市移行を前提に岡山市に合併を申し入れ、2007年(平成19年)[[1月]]に編入合併された(岡山県南政令市構想第二次合併)([[国勢調査 (日本)|国勢調査]]人口69万6千、合併時[[推計人口]]69万8千人)。そして、2007年(平成19年)[[6月]]には推計人口70万人突破し(市調査の推計人口、県の月次報告では[[8月1日]])、政令市移行のための人口要件が満たされたこととされた。 ; 政令指定都市移行までの経過 * [[2006年]](平成18年)6月 - 建部町、瀬戸町との合併が市議会で議決され、県へ合併申請。 * 2006年(平成18年)9月 - 市長が市議会9月定例会の代表質問で、[[2009年]](平成21年)中に[[政令指定都市]]移行を目指すと正式に表明。 * 2006年(平成18年)10月、11月 - [[岡山県]]と権限移譲に関する研究会を設置、庁内に政令指定都市推進本部を設置。 * [[2007年]](平成19年)1月 - 建部町、瀬戸町を編入合併。 * 2007年(平成19年)6月 - [[推計人口]]が政令指定都市の人口要件(特例)の70万人を突破。 * 2007年(平成19年)7月 - 「行政区画等審議会」、「政令指定都市県市連絡会議」をそれぞれ設置。 * 2007年(平成19年)12月 - [[行政区]]を4区とし[[区役所]]位置(暫定含む)を決定、市議会で「政令指定都市に関する意見書」が議決され、県知事、県議会に提出し要望。岡山県との権限移譲に関する基本協定締結<ref>[http://www.okanichi.co.jp/20071226131903.html 政令市移行岡山市が県と基本協定締結] - 2007年(平成19年)12月26日. 岡山日日新聞社.</ref>。 * [[2008年]](平成20年)2月 - 行政区画等審議会に区名選定が諮問される。岡山市政令指定都市推進協議会が[[市長]]、市議会議長とともに[[総務省]]に要望を行う。 * 2008年(平成20年)3月 - [[総務省]]との事務協議が開始される。県議会で「政令指定都市に関する意見書」が議決され、[[内閣総理大臣]]、[[総務大臣]]、[[衆議院議長]]、[[参議院議長]]に提出。 * 2008年(平成20年)6月 - [[岡山県知事]]が市長とともに総務省を訪問し、2009年(平成21年)4月の岡山市の政令指定都市移行を県として正式に要望。岡山市は行政区画等審議会の答申を受け、4行政区の区名を、[[北区 (岡山市)|北区]]・[[中区 (岡山市)|中区]]・[[東区 (岡山市)|東区]]・[[南区 (岡山市)|南区]]とする方針を決定<ref name="区名方針">[http://www.city.okayama.jp/kikaku/seirei/ikou/shigikai/kumeihoushin.html 区名方針を発表しました] - 2008年(平成20年)6月13日. 岡山市.</ref>。 * 2008年(平成20年)9月 - 県知事、[[県議会議長]]、市長、市議会議長、岡山市政令指定都市推進協議会会長らが[[増田寛也]][[総務大臣]](当時)に[[政令]]の改正を要望。 * 2008年10月 - 10日の閣議で、2009年(平成21年)4月1日に岡山市を政令指定都市とする政令の改正が閣議決定され<ref>[http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2008/10/10/20081010dde007010086000c.html 政令改正:岡山が政令市前橋、中核市に--来年4月] - ''[[毎日新聞]]''. 2008年(平成20年)10月10日. (毎日新聞社)</ref>、16日に公布された<ref name="山陽-政令公布">[http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2008/10/16/2008101611435498029.html 岡山市役所に政令市移行決定看板 政令公布に合わせ高谷市長ら除幕] - 2008年(平成20年)10月16日. 山陽新聞社.</ref>。 * [[2009年]](平成21年)4月 - 政令指定都市に移行。4行政区が設置され、各区役所を開所。 * [[2010年]](平成22年)6月 - [[登録人口]]([[住民基本台帳]]と[[外国人登録]]の合算値)が70万人を突破し、推計人口と登録人口ともに政令指定都市の人口要件(特例)である70万人を突破した。(この時点での市の推計人口は70.5万人) ; 市域の変遷 {{see also|岡山市域の変遷}} 1889年(明治22年)の市制施行以来、周辺の市町村と合併を繰り返してきた現在の岡山市は[[御津郡]](旧・[[御野郡]]・[[津高郡]])・[[上道郡]]・[[吉備郡]](旧・[[賀陽郡]])・[[児島郡]]・[[邑久郡]]・[[都窪郡]](旧・[[都宇郡]])・[[赤磐郡]](旧・[[赤坂郡]]・[[磐梨郡]])・[[和気郡]]・[[久米郡]](旧・[[久米南条郡]]・[[久米北条郡]])と[[備前国]]・[[備中国]]・[[美作国]]の広範囲の[[地域]]に及んでいる。 {| class="wikitable" |- ! 年月日 ! 合併された市町村 |- | [[1889年]](明治22年)6月1日 | '''市制施行''' |- | [[1899年]](明治32年)8月1日 | 御野村、伊島村、石井村、鹿田村、古鹿田村、福浜村の各一部と、[[三櫂村]]全域 |- | [[1921年]](大正10年)3月1日 | [[伊島村]]、[[石井村 (岡山県)|石井村]]、[[鹿田村 (岡山県御津郡)|鹿田村]]全域と、御野村の大部分 |- | [[1931年]](昭和6年)4月1日 | [[宇野村 (岡山県)|宇野村]]、[[平井村 (岡山県)|平井村]]、[[福浜村]] |- | [[1950年]](昭和25年)12月1日 | (児島湾埋立地を編入) |- | [[1952年]](昭和27年)4月1日 | [[牧石村]]、[[大野村 (岡山県御津郡)|大野村]]、[[今村 (岡山県)|今村]]、[[芳田村 (岡山県)|芳田村]]、[[白石村]]、[[甲浦村]]、[[三蟠村]]、[[沖田村]]、[[操陽村]]、[[富山村 (岡山県上道郡)|富山村]] |- | [[1953年]](昭和28年)3月1日 | 牧山村、高月村の各一部 |- | [[1954年]](昭和29年)4月1日 | [[高島 (岡山市中区)|高島村]]、[[幡多村]]、[[財田町 (岡山県)|財田町]]、[[小串村 (岡山県)|小串村]]全域と、御津町の一部 |- | [[1969年]](昭和44年)2月18日 | [[西大寺市]] |- | [[1971年]](昭和46年)1月8日 | [[一宮町 (岡山県)|一宮町]]、[[津高町]]、[[高松町 (岡山県)|高松町]] |- | [[1971年]](昭和46年)3月8日 | [[吉備町 (岡山県)|吉備町]]、[[妹尾町]]、[[福田村 (岡山県都窪郡)|福田村]] |- | [[1971年]](昭和46年)5月1日 | [[上道町]]、[[興除村]]、[[足守町]] |- | [[1975年]](昭和50年)5月1日 | [[藤田村 (岡山県)|藤田村]] |- | [[2005年]](平成17年)3月22日 | [[御津町 (岡山県)|御津町]]、[[灘崎町]] |- | [[2007年]](平成19年)1月22日 | [[建部町]]、[[瀬戸町 (岡山県)|瀬戸町]] |} [[※]] 1969年(昭和44年)以降に合併された旧市役所・町村役場は、岡山市の区役所・支所・地域センターとして引き継がれている。 ; 住所表記の変遷(2005年(平成17年)以降) {| class="wikitable" |- style="word-break:keep-all" ! !-2005年(平成17年)3月21日 !2005年(平成17年)3月22日 - <br />2007年(平成19年)1月21日 !2007年(平成19年)1月22日 - <br />2009年(平成21年)3月31日 !2009年(平成21年)4月1日 - <br />2010年(平成22年)3月21日 !2010年(平成22年)3月22日 - <br />現在 |- |rowspan="4"|'''旧・岡山市域''' |rowspan="4" colspan="3"|岡山市○○ |colspan="2"|岡山市北区○○ |- |colspan="2"|岡山市中区○○ |- |colspan="2"|岡山市東区○○ |- |colspan="2"|岡山市南区○○ |- |'''[[御津|旧・御津町域]]''' |御津郡御津町○○ |colspan="2"|岡山市御津○○ |colspan="2"|岡山市北区御津○○ |- |'''[[灘崎|旧・灘崎町域]]''' |児島郡灘崎町○○ |colspan="2"|岡山市灘崎町○○ |岡山市南区灘崎町○○ |岡山市南区○○ |- |'''[[建部|旧・建部町域]]''' |colspan="2"|御津郡建部町○○ |岡山市建部町○○ |colspan="2"|岡山市北区建部町○○ |- |'''[[瀬戸地域|旧・瀬戸町域]]''' |colspan="2"|赤磐郡瀬戸町○○ |岡山市瀬戸町○○ |colspan="2"|岡山市東区瀬戸町○○ |- |} * 旧・灘崎町域は、編入合併([[2005年]](平成17年)3月) → 政令市移行([[2009年]](平成21年)4月) → 合併特例区終了([[2010年]](平成22年)3月)と、住所表記が3回変更されている。 * 旧・建部町域・旧瀬戸町域については、合併特例区の期限終了後も、「建部町」「瀬戸町」の表記がそれぞれ存続している。 * 旧・御津町域については、合併特例区の期限終了後、御津町の「町」を取った「御津」の表記が用いられている。 == 議会 == === 市議会 === {{Main|岡山市議会}} === 県議会 === * 定数:19名 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !選挙区!!氏名!!会派名 |- | rowspan="8" | [[北区 (岡山市)|北区]]・[[加賀郡]] (8) || 河本勉 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]岡山県議団 |- || 波多洋治 || 自由民主党岡山県議団 |- || 太田正孝 || 自由民主党岡山県議団 |- || 福田司 || 自由民主党岡山県議団 |- || 高原俊彦 || 民主・県民クラブ([[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]) |- || 大塚愛 || 民主・県民クラブ([[緑の党グリーンズジャパン|緑の党]]推薦) |- || 増川英一 || [[公明党]]岡山県議団 |- || 蜂谷弘美 || [[無所属]] |- | rowspan="4" | [[中区 (岡山市)|中区]] (4) || 小倉弘行 || 自由民主党岡山県議団 |- || 髙橋徹 || 民主・県民クラブ([[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]) |- || 笹井茂智 || 公明党岡山県議団 |- || 氏平三穂子 || [[日本共産党]]岡山県議会議員団 |- | rowspan="3" | [[東区 (岡山市)|東区]] (3) || 福島恭子 || 自由民主党岡山県議団 |- || 乙倉賢一 || 自由民主党岡山県議団 |- || 中川雅子 || 民主・県民クラブ |- | rowspan="4" | [[南区 (岡山市)|南区]] (4) || 小林孝一郎 || 自由民主党岡山県議団 |- || 大橋和明 || 自由民主党岡山県議団 |- || 荒島俊造 || 公明党岡山県議団 |- || 木口京子 || 無所属 |} === 衆議院 === ;岡山県第1区 * 選挙区:[[岡山県第1区|岡山1区]](岡山市[[北区 (岡山市)|北区]]の一部、[[南区 (岡山市)|南区]]の一部、[[吉備中央町]](旧[[加茂川町]]域)) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:364,162人 * 投票率:46.73% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[逢沢一郎]] || align="center" | 67 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 90,939票 || align="center" | ○ |- | || [[原田謙介]] || align="center" | 35 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 65,499票 || align="center" | ○ |- | || 余江雪央 || align="center" | 44 || 日本共産党 || align="center" | 新 || align="right" | 8,990票 || |} ;岡山県第2区 * 選挙区:[[岡山県第2区|岡山2区]](岡山市[[北区 (岡山市)|北区]]の一部、[[中区 (岡山市)|中区]]、[[東区 (岡山市)|東区]]の一部、[[南区 (岡山市)|南区]]の一部、[[玉野市]]、[[瀬戸内市]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:289,071人 * 投票率:50.42% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[山下貴司]] || align="center" | 56 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 80,903票 || align="center" | ○ |- | || [[津村啓介]] || align="center" | 50 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 62,555票 || align="center" | ○ |} ;岡山県第3区 * 選挙区:[[岡山県第3区|岡山3区]](岡山市[[東区 (岡山市)|東区]](旧[[瀬戸地域|瀬戸町]]の区域)、[[津山市]]、[[備前市]]、[[赤磐市]]、[[真庭市]](旧[[北房町]]域を除く)、[[美作市]]、[[和気郡]]、[[真庭郡]]、[[苫田郡]]、[[勝田郡]]、[[英田郡]]、[[久米郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:270,565人 * 投票率:57.97% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[平沼正二郎]] || align="center" | 41 || [[無所属]] || align="center" | 新 || 68,631票 || |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[阿部俊子]] || align="center" | 62 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 54,930票 || align="center" | ○ |- | || 森本栄 || align="center" | 73 || 立憲民主党 || align="center" | 新 || align="right" | 23,316票 || align="center" | ○ |- | || 尾崎宏子 || align="center" | 65 || 日本共産党 || align="center" | 新 || align="right" | 7,760票 || |} == 施設 == === 警察 === 警察署は市内に6箇所あり、政令指定都市であるため[[岡山県警察|岡山県警]]の[[岡山市警察部|市警察部]]が統括している。管轄区域は概ね行政区の区域と一致するが、一部は合併以前の管轄のままとなっている地域がある。 * [[岡山中央警察署]]:[[中区 (岡山市)|中区]]全域と[[北区 (岡山市)|北区]]のうち、概ねJR岡山駅以東の都心部を管轄 * [[岡山西警察署]]:北区のうち、概ねJR岡山駅以西の都心部を含む西部と一宮・高松・吉備・足守地区を管轄 * [[岡山北警察署]]:北区のうち、[[御津]]・[[建部]]地区を管轄 * [[岡山南警察署]]:[[南区 (岡山市)|南区]]全域を管轄 * [[岡山東警察署]]:[[東区 (岡山市)|東区]]のうち、[[西大寺 (旧市域)|西大寺]]・[[上道]]地区を管轄 * [[赤磐警察署]]:東区のうち[[瀬戸地域|瀬戸]]地区を管轄 * [[倉敷警察署]]([[倉敷市]]):北区大内田(岡山県総合流通センター吉備地区)の一部を管轄 ※ 詳細な管轄区域については、岡山県警察署の名称、位置及び管轄区域に関する条例において確認することができる。 === 消防 === 消防は全域を[[岡山市消防局]]が担当し、北・中・東・西・南の5消防署・1分署・13出張所(うち1出張所は岡山市へ消防・救急業務を委託している[[吉備中央町]]に設置)・1救急ステーションが設置され、[[岡南飛行場]]には消防航空隊の基地が設置されており、北消防署には[[特別高度救助隊]]が組織されている。 * 岡山市北消防署([[北区 (岡山市)|北区]]北東部を管轄) ** 番町分署・津高出張所・御津出張所・建部出張所・今出張所 * 岡山市中消防署([[中区 (岡山市)|中区]]を管轄) ** 旭東出張所・竜操出張所 * 岡山市東消防署([[東区 (岡山市)|東区]]を管轄) ** 可知出張所・上道出張所・瀬戸出張所 * 岡山市西消防署(北区西部を管轄) ** 高松出張所・吉備中央出張所(吉備中央町)・吉備中央出張所足守救急ステーション * 岡山市南消防署([[南区 (岡山市)|南区]]を管轄) ** 妹尾出張所・灘崎出張所 [[2009年]](平成21年)度以降の管轄区域は概ね行政区の区域と一致している。北区については北消防署と西消防署の2署が管轄する。新設の西消防署の管轄区域は、北区のうち、京山、石井、中山、高松、足守の各中学校区、御南中学校区のうち笹ヶ瀬川以西、吉備中央町である。北消防署の管轄区域は北区のうち西消防署の管轄区域を除く区域である。また、西消防署の新設により、三門出張所と庭瀬出張所は西消防署に統合という形で廃止された。[[2010年]](平成22年)度より西消防署の[[高度救助隊]]が、政令指定都市に設置が義務付けられている[[特別高度救助隊]]へと格上げされた。[[2014年]](平成26年)には岡山市では22年半ぶりとなる分署、番町分署が開設された。[[2016年]](平成28年)に北消防署新築移転に伴い、西消防署から特別高度救助隊が配置転換された。[[2017年]](平成29年)に西消防署吉備津出張所新築移転に伴い、高松出張所へ[[改名|改称]]された。 === 医療 === [[ファイル:Okayama Univ shikata.JPG|thumb|200px|岡山大学病院]] ==== 主な医療機関 ==== ; 北区(岡山市北部・中心部) * [[岡山市立市民病院]] * [[岡山市立金川病院]] * [[岡山大学病院]] * [[国立病院機構岡山医療センター]] * [[岡山赤十字病院]] * [[岡山済生会総合病院]] * [[済生会]]吉備病院 * [[川崎医科大学総合医療センター]] * [[心臓病センター榊原病院]] * 岡山市久米南町組合立[[国民健康保険]]福渡病院 * 光生病院 * 岡山中央病院 ; 中区(岡山市東部) * [[岡山協立病院]] * 岡山東中央病院 * [[岡山旭東病院]] * [[岡山博愛会病院]] * 竜操整形外科病院 ; 東区(岡山市西大寺地区) * [[岡山西大寺病院]] * 岡村一心堂病院 ; 南区(岡山市南部) * [[岡山市立せのお病院]] * [[岡山労災病院]] * 重井医学研究所付属病院 * セントラル・シティ病院 === 文化施設 === <gallery> Okayama prefectural museum01n3872.jpg|岡山県立博物館 Kibiji Literary Museum01n4000.jpg|吉備路文学館 Okayama symphony hall01s3s3300.jpg|岡山シンフォニーホール Okayama convention center seen from west side.jpg|岡山コンベンションセンター </gallery> ==== 美術館・博物館 ==== * [[岡山県立美術館]] * [[岡山県立博物館]] * [[岡山市立オリエント美術館]] * [[林原美術館]] * [[夢二郷土美術館]] * 吉備路文学館 * [[岡山シティミュージアム]] * 岡山市環境学習センター めだかの学校 ==== 図書館 ==== ; 主な図書館 * [[岡山県立図書館]] * [[岡山市立中央図書館]] ==== コンベンション・コンサート ==== * [[コンベックス岡山]] * [[岡山シンフォニーホール]] * [[岡山芸術創造劇場]] * [[岡山市民会館]] * [[岡山市立市民文化ホール]] * 三木記念ホール * 岡山市立西大寺公民館 * [[岡山コンベンションセンター]](ママカリフォーラム) * [[ルネスホール]] * [[オルガホール]] === 郵便局 === [[ファイル:Okayama central post office.jpg|thumb|200px|岡山中央郵便局]] ; 主な郵便局 [[日本の郵便番号|郵便番号]]は以下の通りである。 * [[岡山中央郵便局]]:700-00xx、700-08xx、700-09xx、700-85xx、700-86xx、700-87xx、701-01xx(701-010x~011x、0192~0195を除く)、701-11xx、701-21xx<ref group="注">「701-01xx」地域は元・[[吉備郵便局]]管轄、「701-11xx」地域は元・[[津高郵便局]]管轄、「701-21xx」地域は元・牟佐郵便局管轄。それぞれ、[[2006年]](平成18年)に牟佐郵便局、[[2015年]](平成27年)に津高郵便局、[[2018年]](平成30年)に吉備郵便局の無集配局化に伴って岡山中央郵便局へ移管。</ref> * [[妹尾郵便局]]:701-02xx、709-12xx<ref group="注">「709-12xx」地域は元・[[迫川郵便局]]管轄。[[2017年]](平成29年)に迫川郵便局の無集配局化に伴って妹尾郵便局へ移管。</ref> * 備前一宮郵便局:701-12xx * 高松郵便局:701-13xx、701-14xx、701-15xx、701-16xx<ref group="注">「701-14xx」地域は元・足守郵便局管轄、「701-15xx」地域は元・日近郵便局管轄、「701-16xx」地域は元・福谷郵便局管轄。それぞれ、[[2006年]](平成18年)に足守郵便局・日近郵便局、[[2016年]](平成28年)に福谷郵便局の無集配局化に伴って高松郵便局へ移管。</ref> * [[岡山南郵便局]]:702-80xx、702-85xx、702-86xx、702-87xx * [[岡山東郵便局]]:703-82xx、703-85xx、703-86xx、703-87xx * [[西大寺郵便局]]:704-81xx、704-85xx、704-86xx、704-87xx * [[備前瀬戸郵便局]]:709-08xx、709-06xx、701-22xx、709-07xx<ref group="注">「701-22xx」地域は元・赤坂郵便局管轄、「709-07xx」地域は元・熊山郵便局管轄。2006年(平成18年)に赤坂郵便局・熊山郵便局の無集配局化に伴って備前瀬戸郵便局へ移管。</ref> * 御津郵便局:709-21xx * 福渡郵便局:709-31xx * [[倉敷郵便局]]([[倉敷市]]):710-00xx、710-08xx、710-85xx、710-86xx、710-87xx、701-01xx(701-010x~011x、0192~0195のみ)、710-01xx、710-11xx、710-13xx<ref group="注">「701-01xx」地域は元・[[吉備郵便局]]管轄、「710-01xx」地域は元・天城郵便局管轄、「710-11xx」地域は元・[[茶屋町郵便局]]管轄、「710-13xx」地域は元・箭田郵便局管轄。それぞれ、2006年(平成18年)に天城郵便局・箭田郵便局、2015年(平成27年)に茶屋町郵便局、[[2018年]](平成30年)に吉備郵便局の無集配局化に伴って倉敷郵便局へ移管。</ref> - 南区植松のみ === 運動施設 === * [[岡山県総合グラウンド]] ** [[岡山県野球場]] ** [[岡山武道館]] ** [[岡山県総合グラウンド陸上競技場]](シティライトスタジアム) ** [[岡山県総合グラウンド体育館]](桃太郎アリーナ) * [[岡山ドーム]] * [[浦安総合公園]] ** [[岡山市総合文化体育館]] * [[岡山国際スケートリンク]] * 建部町総合スポーツセンター == 国の機関 == {{Col-begin}} {{Col-break}} === 裁判所 === * [[広島高等裁判所岡山支部]] * [[岡山地方裁判所]] * [[岡山家庭裁判所]] * [[岡山簡易裁判所]] === [[警察庁]] === * [[中国四国管区警察局]]岡山県情報通信部 === [[総務省]] === * 中国四国[[管区行政評価局]]岡山行政評監視行政相談センター === [[法務省]] === * 岡山[[地方法務局]] * [[岡山刑務所]] * 岡山[[少年院]] * 岡山[[少年鑑別所]] * 岡山[[保護観察所]] ; [[出入国在留管理庁]] * [[広島出入国在留管理局]]岡山出張所 ; [[公安調査庁]] * 中国[[公安調査局]]岡山公安調査事務所 ; [[検察庁]] * [[広島高等検察庁岡山支部]] * [[岡山地方検察庁]] * 岡山[[区検察庁]] {{Col-break}} === [[財務省]] === * [[中国財務局]]岡山財務事務所 * [[神戸税関]]宇野税関支署岡山空港出張所 ; [[国税庁]] * [[広島国税局]]岡山西税務署 * 広島国税局岡山東税務署 * 広島国税局西大寺税務署 * 広島国税局瀬戸税務署 * 広島[[国税不服審判所]]岡山支所 === [[厚生労働省]] === * [[中国四国厚生局]]岡山事務所 * [[広島検疫所]]岡山空港出張所 * [[岡山労働局]] ** 岡山[[労働基準監督署]] ** 岡山[[公共職業安定所]] ** 西大寺公共職業安定所 === [[農林水産省]] === * [[中国四国農政局]] ** 岡山県拠点 ** 土地改良技術事務所 ** 吉井川農業水利事業所 {{Col-break}} === [[国土交通省]] === * [[中国地方整備局]]岡山国道事務所 * 中国地方整備局岡山河川事務所 * 中国地方整備局岡山営繕事務所 * [[中国運輸局]][[岡山運輸支局]] ; [[気象庁]] * 岡山[[地方気象台]] === [[環境省]] === * [[中国四国地方環境事務所]] === [[防衛省]] === * [[自衛隊岡山地方協力本部]] * [[陸上自衛隊]][[三軒屋駐屯地]] {{Col-end}} == 対外関係 == === 姉妹都市・提携都市 === ==== 海外 ==== 岡山市は、海外の6都市・2地域と交流を行っている<ref name="okayama-kokusaiyuko">{{Cite web|和書| url=http://www.city.okayama.jp/shimin/kokusai/kokusai_s00028.html | title=国際友好交流都市・地域の紹介 | publisher=岡山市 | accessdate=2016-6-1 }}</ref>。 ; 国際友好交流都市<ref name="okayama-arikata">{{Cite web|和書| url=http://www.city.okayama.jp/contents/000104212.pdf | title=国際友好交流都市との交流事業のあり方| publisher=岡山市 | format=PDF | accessdate=2012-02-21 }}</ref> * {{Flagicon|USA}}[[サンノゼ|サンノゼ市]]([[アメリカ合衆国]] [[カリフォルニア州]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair">{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2016-6-1 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20121027200400/http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | archivedate=2012年10月27日 | deadlinkdate=2017年10月 }}</ref> ** [[1957年]](昭和32年)[[5月26日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" />。 : [[1956年]](昭和31年)、広島アメリカ文化センター館長から都市縁組が打診され、姉妹都市提携に至る<ref name="clair" />。なお、これは日本で3番目の海外姉妹都市提携である<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00044.html | title=市長ニュース【50周年記念サンノゼ市訪日団が来岡しました-平成20年4月7日】 | publisher=岡山市 | accessdate=2016-06-01 }}</ref>。1965年(昭和40年)にはサンノゼ市に後楽園を模した[[日本友情庭園]]が開設された。 * {{Flagicon|CRC}}[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ市]]([[コスタリカ共和国]] [[サンホセ州]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[1969年]](昭和44年)[[1月27日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : 米国サンノゼ市がサンホセ市と姉妹都市提携。サンノゼ市長が3都市による姉妹都市提携を提案したことから<ref name="clair" />。10年ごとに訪問団の受け入れ・派遣を行っており<ref name="okayama-arikata" />、2002年にはサンホセ市に「[[岡山公園]]」が岡山市民の寄付により造営された<ref name="okayama-arikata" />。 * {{Flagicon|BUL}}[[プロヴディフ|プロヴディフ市]]([[ブルガリア共和国]] [[プロヴディフ州]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[1972年]](昭和47年)[[4月28日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : [[1969年]](昭和44年)2月、駐日ブルガリア大使からプロヴディフ市との都市縁組が打診される<ref name="clair" />。 * {{Flagicon|CHN}}[[洛陽市]]([[中華人民共和国]] [[河南省]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[1981年]](昭和56年)[[4月6日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : [[吉備真備]]が遣唐副使として洛陽を訪れたことを縁とし、人口規模(当時ともに約50万人)などを共通点とする<ref name="clair" />。2003年(平成15年)[[4月29日]]に洛陽市が新竹市との提携に抗議したため提携凍結したが、2006年(平成18年)[[3月19日]]に双方の市長が交代し、締結25周年に当たるため、提携凍結を解除し復活が決まった。 * {{Flagicon|KOR}}[[富川市]]([[大韓民国]] [[京畿道]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[2002年]](平成14年)[[2月26日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : 祭りを通じた民間交流が積極的に行なわれ、議会同士の姉妹結縁締結や子供・市職員の派遣など交流が積み重ねられたことから姉妹都市提携に至る<ref name="clair" />。 * {{Flagicon|ROC}}[[新竹市]]([[中華民国]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[2003年]](平成15年)[[4月21日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : [[2000年]](平成12年)に「岡山市日台友好都市議員連盟」が結成され訪台、議員連盟と新竹市議会や市政府と友好交流に関する覚書を調印し、交流が促進される<ref name="clair" />。 ; パートナーシップ連携協定締結地域<ref name="okayama-arikata" /> * {{Flagicon|USA}} ウマティラ・インディアン居留区部族連合{{enlink|Confederated Tribes of the Umatilla Indian Reservation||a=on}}([[アメリカ合衆国]] [[オレゴン州]] [[:en:Pendleton, Oregon|ペンドルトン市]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[2005年]](平成17年)7月27日 友好提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : カイユース族{{enlink|Cayuse people}}、ウマティラ族{{enlink|Umatilla people}}、ワラワラ族{{enlink|Walla Walla people}}からなる[[インディアン居留地|居留地]]。[[1993年]](平成5年)、ワラワラ族インディアンのドン・サンプソンが「岡山あいフェスティバル」の国際交流フォーラムで講演、また伝統音楽や舞踊を披露したことが交流の契機<ref name="okayama-arikata" /><ref name="clair" />。相互に交流を深め、友好提携に至る<ref name="clair" />。 * {{Flagicon|GUM}}[[グアム]][[準州]]([[アメリカ合衆国]])<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> ** [[2010年]](平成22年)[[8月31日]] 姉妹都市提携<ref name="okayama-kokusaiyuko" /><ref name="clair" /> : [[1998年]](平成10年)3月に[[岡山空港|岡山]]-[[グアム国際空港|グアム]]間が空路で結ばれたことを契機として、民間交流が盛んとなったことから<ref name="clair" />。 ==== 国内 ==== ; 提携都市 * {{Flagicon|北海道}}[[釧路市]]([[北海道]] [[釧路総合振興局]]) ** [[1979年]](昭和54年)[[10月9日]] 観光交流都市提携<ref name="kushiro-shimaitoshi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kushiro.lg.jp/common/000017354.pdf | title=国内姉妹都市等 | publisher=釧路市 | accessdate=2016-6-1 }}</ref><ref name="kushiro-yoran2003">{{Cite web|和書| url=http://international.city.kushiro.hokkaido.jp/doc/data/195_2.pdf | title=市勢要覧2003 | publisher=釧路市 | accessdate=2016-6-1 }}</ref> : 1979年(昭和54年)、岡山市の後楽園が送ったメスの[[タンチョウ]](丹頂鶴)を釧路市の丹頂鶴自然公園が預かり、つがいを作ったことが縁<ref name="kushiro-yoran2003" />(岡山から卵を送り釧路で人工ふ化させたと記述されることもある<ref name="kushiro-shimaitoshi" />)。岡山とタンチョウについては[[岡山県自然保護センター]]も参照。 === 国際機関 === ==== 領事館 ==== ; {{Visible anchor|名誉領事館}}<ref>[https://www.navitime.co.jp/category/0502008/33/ 岡山県の領事館一覧]</ref> * {{Flagicon|BLR}}在岡山[[ベラルーシ共和国]]名誉領事館([[東区 (岡山市)|東区]]) == 経済 == [[ファイル:Okayama City Kounan industrial zone.JPG|thumb|200px|岡南工業地帯]] [[ファイル:AEON Mall Okayama.jpg|thumb|200px|都市型モール[[イオンモール岡山]]]] === 第一次産業 === 北部の高原・丘陵地帯では、全国的にもブランド力のある品目を多く抱えている果物の栽培が盛んであり、岡山市の一大産業となっている。「[[モモ|桃]](白桃、[[白桃|清水白桃]]、黄金桃など)」や「[[ブドウ|葡萄]]([[マスカット・オブ・アレキサンドリア|マスカット]]、[[シャインマスカット]]、[[ニューピオーネ]]、[[桃太郎ふどう]]など)」や全国シェアトップである「[[ナシ#その他の品種(赤梨系)|愛宕梨]](あたご梨)」、「[[チュウゴクナシ|鴨梨]](ヤーリー)」がその主なブランド品目である。また、乳牛を中心とした畜産も盛んであり、加えて「[[椎茸]]」や全国でも珍しい「黄[[ニラ]]」の栽培が行われている。 南部の広大な[[児島湾]]干拓地に田園地帯を有るため[[米]]の生産量が8,900tにのぼり岡山県全体の四分の一を占める。品種は「[[朝日米]]」が多く、一部では酒米の「[[雄町米]]」も栽培している。その他では「[[レンコン|蓮根]]」、「[[ナス|茄子]]」やビールの原料となる「二条[[大麦]]」などの栽培も行われている。かつて、冬期には「[[イグサ]]」栽培の一大産地であったが、現在は僅かになっている。また、日照時間が長い岡山県南の平野部は生花の生産が盛んなところでもある。岡山市内でも「[[スイートピー]]」、「[[デンドロビウム]]」、「ラークスパー」などが栽培され全国各地に出荷されている。 === 第二次産業 === 隣接する[[倉敷市]]とともに[[瀬戸内工業地域]]に属しており、製造品出荷額は8,200億円と岡山県全体の約10%を占める(50%を超える倉敷市に次ぐ2位)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/wagakuni/2011/pdf/ken33.pdf |title=- 輸送用機械、鉄鋼業等が盛んな岡山県 - |access-date=2023/08/01 |publisher=経済産業省}}</ref>。機械・化学・食品・印刷などの業種が中心である。 臨海部の[[児島湾]]は[[旭川 (岡山県)|旭川]]や[[吉井川]]などの[[一級河川]]から流出する土砂の堆積により水深が浅く、1万t級の船舶が航行可能な航路を整備することが困難なため重化学工業地帯は形成されていない。そのため、[[岡南]]工業地帯に[[クラレ]]・[[DOWAホールディングス]]・[[大建工業|西日本ダイケンプロダクツ]]など、また、旭川東岸の新岡南地区と九蟠地区には、[[ヤンマーアグリ]]([[ヤンマー]]グループ)や中四国[[セキスイハイム]]工業([[セキスイツーユーホーム]]を製造)、[[永谷園]]など全体的に軽工業系の工場が多い。 これらのことから、内陸部の[[工業団地]]開発に力を入れており、市内近郊の久米、[[東岡山]]や新岡南、などに鉄工、鋳物などに中規模の内陸工業団地が多い。また、「[[岡山リサーチパーク]]」や「西大寺新産業ゾーン企業団地」などに研究や物流に重点を置いた事業所の誘致を進めている。周辺4町の編入に伴い、2005年に御津町の[[カバヤ]]本社工場と4つの工業団地、[[2007年]]には瀬戸町の[[キリンビール]]岡山工場などが加わった。 === 第三次産業 === [[ファイル:Diagonal crosswalk in front of Okayama CRED.JPG|thumb|left|180px|[[中山下]]]] [[ファイル:Appearance in Okayama Station eastward exit.JPG|thumb|200px|[[岡山駅]]東口]] [[ファイル:JRW Okayama-STA Underground-mall.jpg|thumb|180px|left|[[岡山一番街]]]] [[岡山都市圏]]の中心都市で県内では圧倒的な集客力があり、代表的な商業地としては表町と岡山駅周辺があげられる。近年の都心商業地の流れとしては、[[アーケード (建築物)|アーケード]]の商店街から主要施設を結ぶ道路沿いに移行し、分散傾向にあったが、岡山駅周辺の再開発や商業施設進出が相次ぎ、近年[[都心回帰]]が起きている。 小売店舗の新規出店などは、1970年代から90年代までは[[郊外]]が中心となり、中心部は停滞傾向であった。その後、都心回帰へと流れが変わると、[[1998年]][[日本たばこ産業|JT]]が市役所筋の工場跡に建設した[[イトーヨーカドー]]と[[ジョイポリス]]の複合施設「[[ジョイフルタウン岡山]]」が再開発の先駆けとなった。また、高層マンションの建設も相次ぎ、中心部の居住人口が増加傾向に転じたことも後押しになり、飲食店や雑貨、衣類などの路面店も中心部への出店が活発になっている。 ; [[岡山表町商店街|表町]] 岡山市および岡山県の一大商業集積地であり、[[中心市街地]]。旧・城下近くに発展した商業地である。岡山駅前からは徒歩でも行ける範囲であるが、[[バス (交通機関)|バス]]や[[路面電車]]も走っている。市内バス経路の多くが表町中央部の[[天満屋バスステーション]]を経由して岡山駅に向かうことから、買い物客が集まる構造となっている。周辺には[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]の本店や[[岡山県庁]]なども控え、[[表町商店街]]中央部に立地する地場百貨店最大の売上を誇る地元[[百貨店]]の'''[[天満屋]]本店'''を核として[[ロレックス]]や[[カルティエ]]の路面店や[[ロフト]]や[[スターバックス]]、[[無印良品]]など幅広い年齢層をターゲットとした商業店舗が集積している。また、商店街北東側の「オランダ通り」が裏通りから若者の街へと変貌している。 近年の動きとしては[[1999年]]の[[クレド岡山]]や2023年の[[岡山芸術創造劇場]]を核とした複合施設などが挙げられる。一方で、北端に[[岡山シンフォニーホール]]、南端に[[岡山芸術創造劇場]]、東には旧・[[日本銀行|日銀]]岡山支店跡を再生したルネスホールと[[岡山市民会館]]などの劇場・音楽ホールを有し、[[文化|文化的]]な色合いを強めている。 岡山城・後楽園などの歴史的施設、美術館や博物館などの文化施設が数多く立地する城下・天神地区などは「[[岡山カルチャーゾーン]]」とも呼ばれ、観光ゾーンにも隣接しているため、岡山県風致地区条例で建築物などの制限が課せられている。 ; 岡山駅周辺 [[岡山駅]]は広島駅とともに中国四国地方を代表する[[ターミナル駅]]である。[[1972年]]の[[山陽新幹線]]・[[新大阪駅]] 〜 [[岡山駅]]間開業を挟み、[[髙島屋]]などの県外資本の大型店の出店や中四国初の本格的、かつ中四国最大の[[地下街]]である[[岡山一番街]]が開業し、市内中心部の商業地図を2極に塗り替えた比較的新しい地区である。 ここ数年は再開発が相次ぎ、西口に[[岡山コンベンションセンター]]と[[リットシティビル]]、東口では岡山駅の橋上化による商業施設[[サンステーションテラス岡山|さんすて岡山]]、[[成通岡山ビル]]に大型家電量販店の[[ビックカメラ]]や[[杜の街グレース]]など、商業施設が相次いでオープンした。 かつて[[林原グループ]]が所有していた岡山駅東口の南側の土地(約46,000m<sup>2</sup>)は、中四国地方最大規模の複合商業施設'''[[イオンモール岡山]]と'''なった。これまでの郊外型ではない初めての[[政令指定都市]]中心駅前に立地する都心型商業施設として、[[ハンズ (小売業)|ハンズ]]、[[H&M]]、[[ZARA]]などのテナントや[[シネマコンプレックス]]、[[岡山放送]]のスタジオ・報道部門のオフィスが併設されている。なお、市役所筋を介して向かい側には同じイオングループのファッションビル[[岡山ビブレ]]があったが、イオンモール岡山の開業に伴い、[[2014年]](平成26年)5月11日をもって閉店した。 === 岡山市に本社を置く主な企業 === [[ファイル:Benesse Holdings Headquarters.jpg|thumb|150px|right|[[ベネッセコーポレーション]]本社]] [[ファイル:Saint Marc Holdings.jpg|thumb|150px|[[サンマルクホールディングス]]本社]] [[ファイル:Chugoku Bank.jpg|thumb|150px|right|[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]本店]] [[ファイル:Tenmaya HappyTown and CinemaTown Konan.JPG|thumb|150px|[[シネマタウン岡南]]([[天満屋ストア]])]] [[ファイル:杜の街グレース第1期エリア.jpg|thumb|150px|right|[[両備ホールディングス]]本社の入居する[[杜の街グレース]]]] ※ 太字は[[上場企業]] ; 製造 * [[菅公学生服]] * [[ナカシマプロペラ]] * [[ボブソン]] * '''[[TAKISAWA]]''' * [[トンボ (企業)|トンボ]] * カーツ * オージー技研 * [[ヤンマーアグリ]]([[ヤンマー]]グループ) * '''[[岡山製紙]]''' * [[林原グループ]](林原、林原商事、林原生物化学研究所、他) * '''[[積水化学工業]]'''グループ ** 岡山積水工業 ** 中四国セキスイハイム工業 * [[サンワサプライ]] ; 食品 * [[日本カバヤ・オハヨーホールディングス]] * [[白十字 (菓子メーカー)|白十字]] * [[岡山木村屋]] * [[宗家 源吉兆庵]] * 廣榮堂本店 * [[大手饅頭伊部屋]] * 宮下酒造 ; 建築・不動産 * '''[[大本組]]''' * アイサワ工業 ; 小売 * [[天満屋]] * '''[[天満屋ストア]]''' * [[山陽マルナカ]] * '''[[はるやま商事]]''' * '''カワニシホールディングス''' * '''[[テイツー]]'''([[古本市場]]) * '''[[サンマルクホールディングス|サンマルク]]''' * [[タイム (小売業)|タイム]] * カイタックグループ * [[ザグザグ]] * [[マリンポリス]] * [[わたなべ生鮮館]] * [[ラブドラッグス]] * [[サンヨープレジャー]] * [[ストライプインターナショナル]] ; 金融 * '''[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]''' * '''[[トマト銀行]]''' * [[おかやま信用金庫]] * [[岡山市農業協同組合]] * [[全日信販]] ; サービス * '''[[アルファ (POP)|アルファ]]''' * [[イーオン]] * '''[[ウエスコ (建設コンサルタント)|ウエスコ]]''' * [[エイト日本技術開発]](本店が所在、本社は東京都中野区)'''([[E・Jホールディングス]])''' * キャリアプランニング * [[木下大サーカス]] * [[成通]] * [[ファジアーノ岡山スポーツクラブ]] ; 電気・ガス * [[岡山ガス]] ; 運輸 * '''[[岡山県貨物運送]]''' * [[両備ホールディングス]] * [[岡山電気軌道]] * [[宇野自動車]] * [[下津井電鉄]] * [[中鉄バス]] ; 情報・通信 * '''[[ベネッセコーポレーション]]''' * '''[[KG情報]]'''(本店[[高松市]]) * [[ビザビグループ]](タウン情報おかやま) * [[吉備人出版]] * [[エヌディエス]](TikiTikiインターネット) * [[両備システムズ]] ; 外食 * [[バーク・ジャパン]] == 通信・生活基盤 == === マスメディア === ==== 新聞 ==== * [[山陽新聞]] * [[中国新聞]]岡山支局 ==== テレビ・ラジオ ==== {{See also|[[岡山県・香川県の放送]]}} 民放の[[地上波]][[テレビ]]放送では、岡山県は[[香川県]]と同一の放送エリアになっており、岡山市には3局が、[[高松市]]には2局が本社を置いている。岡山・玉野市境の[[金甲山送信所]]には、岡山県と香川県のテレビ放送局の送信所の親局が設置されている。 ラジオ放送については岡山・香川の各県域放送であるが、両県の多くの地域で聴取が可能であり、岡山市においても香川県の県域放送を聴取できる。 ; [[テレビ放送局]] * [[NHK岡山放送局]] * [[RSK山陽放送]]([[TBSテレビ|TBS]]系列。親会社となる[[RSKホールディングス]]に岡山県、山陽新聞らが出資) * [[岡山放送]](OHK。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列) * [[テレビせとうち]](TSC。[[テレビ東京]]系列。山陽新聞傘下) ※ [[本社]]が香川県高松市にあるが、岡山市も放送対象地域に含まれている放送局(ともに岡山市に岡山本社を置いている) :* [[西日本放送]](RNC。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列) :* [[瀬戸内海放送]](KSB。[[テレビ朝日]]系列) ; [[ラジオ放送局]] * 山陽放送(JRN・NRN系列) * [[岡山エフエム放送]](FM岡山) * [[岡山シティエフエム]](Radio momo) * [[エフエムくらしき]] (FMくらしき)※倉敷市が本社。一部がサービスエリアに入る。 ; [[ケーブルテレビ|ケーブルテレビ局]] ケーブルテレビは2局がサービスエリアであるが、2局のエリアが混合している地域は今のところない。また、この2局はoniビジョンの番組は視聴可能である。 * [[岡山ネットワーク]](oniビジョン 北区・中区・東区・南区の一部地域) * [[倉敷ケーブルテレビ]](KCT 南区植松・西植松のみ)※ 倉敷市が本社。 === 電話 === 岡山市の[[市外局番]]は次のとおりである。 # 岡山[[単位料金区域|MA]]'''{{Color|red|086}}'''(市内局番は200 〜 299、362 〜 365、367 〜 369、722 〜 724、726、728、737、738、800 〜 809、890 〜 909、940 〜 949、952、953、959)- 市内の大部分 # [[倉敷市|倉敷]]MA'''{{Color|blue|086}}'''(同 420 〜 489、520 〜 529、552、553、691、697、698)- 南区箕島の一部と南区植松の一部 * 上記1.の地域から[[瀬戸内市]](邑久町(大富の一部、北島の一部、福中の一部、福山、向山の一部))、[[赤磐市]](岩田の一部、穂崎、馬屋、和田の一部)、[[久米南町]]へは市内料金が適用されるが、同一市外局番の他の地域(上記2.の地域と赤磐MA(市内局番600 〜 609、950、951、954 〜 958、994 〜 999) - [[赤磐市]](岩田の一部、穂崎、馬屋、和田の一部を除く)、[[美咲町]](高下、飯岡)へ相互通話は県内市外料金(隣接地域)が適用され、かつ市外局番 (086) が必要である。 * 上記2.の地域から[[倉敷市]]内、[[総社市]](清音黒田)、[[浅口市]](金光町八重の一部)、[[早島町]](市外局番086の地域に限る)へは、市内料金が適用されるが、同一市外局番の他の地域(上記1.の地域と赤磐MA)へ相互通話は県内市外料金が適用(1.の地域については隣接地域扱い)され、かつ市外局番 (086) が必要である。 ==== 岡山市内のMA統一に伴う電話番号の変更 ==== [[2013年]](平成25年)5月1日より、岡山瀬戸MA・玉野MA・福渡MAに該当する岡山市内・久米南町内の区域はすべて岡山MA(上記1. のエリア)に編入された。 * 岡山瀬戸MA(市外局番の変更はなし) ** '''958'''-FGHJ → '''908'''-FGHJ(Fコードは'''0'''・'''1''') ** '''952'''・'''953'''・'''959'''局については電話番号の変更なし。 ** 残された地域は「'''赤磐MA'''」に名称変更された。なお、赤磐市内の'''953'''局(瀬戸万富収容局)は'''995'''局(熊山収容局)に変更の上、加入者番号も大幅に変更された。赤磐市内の'''959'''局(KDDI)は'''606'''局に変更された(加入者番号の変更はなし)。 * 玉野MA ** '''08636'''-'''E'''-FGHJ → '''086'''-'''36E'''-FGHJ(Eコードは'''2'''〜'''5'''、'''7'''〜'''9''') ** '''0863'''-'''66'''(鉾立収容局)については従来通り玉野MAのまま。 * 福渡MA ** '''0867'''-'''DE'''-FGHJ → '''086'''-'''7DE'''-FGHJ(DEコードは'''22'''〜'''24'''・'''26'''・'''28'''・'''37'''・'''38''') ** 残された地域は「'''加茂川MA'''」に名称変更された。なお、'''0867'''-'''27'''(福渡旭収容局)・'''0867'''-'''34'''(加茂川収容局)・'''0867'''-'''35'''(加茂川井原収容局)については従来通り加茂川MAのまま。 === 電気 === *[[中国電力ネットワーク]] ([[一般送配電事業者]]) == 教育 == === 大学 === [[ファイル:Okayama University tsushima01.jpg|thumb|200px|[[岡山大学]] 津島キャンパス]] [[ファイル:Okayama University of Science.jpg|thumb|200px|[[岡山理科大学]]]] [[ファイル:Okayama Shoka University Garden.jpg|thumb|200px|[[岡山商科大学]]]] ; 大学コンソーシアム岡山 岡山県内の大学と政財界により、知的資源の活用と地域社会や産業界との連携を図ることによって「時代に合った魅力ある高等教育の創造」と「活力ある人づくり・街づくりへの貢献」を目指し[[2006年]](平成18年)4月に設立された。現在、当組織に加盟しているのは岡山県内16の4年制大学、および[[岡山県]]と岡山経済同友会で、事務局は岡山理科大学内にある。 ; 国立 * [[岡山大学]](津島キャンパス・鹿田キャンパス) ; 公立 市内に公立大学は存在しない。 ; 私立 * [[ノートルダム清心女子大学]](女子校) * [[岡山理科大学]] * [[岡山商科大学]] * [[山陽学園大学]] * [[就実大学]] * [[中国学園大学]] * [[吉備国際大学]](本部は高梁市だが、社会人大学院の岡山駅前キャンパスを設置) * [[環太平洋大学]] * [[岡山医療専門職大学]] === 通信制大学 === ; 私立 * [[放送大学]] 岡山学習センター === 短期大学 === ; 公立 嘗ては、岡山県立短期大学が存在した。現在{{いつ|date= 2021年2月24日 (水) 16:40 (UTC)}}は「岡山県 生涯学習センター」となっている。[[岡山県立大学]]及び[[岡山県立大学短期大学部]]の項も参照。 ; 私立 * [[山陽学園短期大学]] * [[就実短期大学]] * [[中国短期大学]] === 専修学校 === * [[岡山科学技術専門学校]] * [[旭川荘厚生専門学院]] * [[岡山済生会看護専門学校]] * [[岡山赤十字看護専門学校]] * [[聖華看護専門学校]] * [[朝日医療大学校]] * [[岡山医療技術専門学校]] * [[岡山高等歯科衛生専門学院]] * [[岡山歯科技工専門学院]] * [[下田学園岡山調理師専門学校]] * [[西日本調理製菓専門学校]] * [[岡山県理容美容専門学校]] * [[専門学校岡山ビューティモード]] * [[専門学校岡山情報ビジネス学院]] * [[専門学校岡山ビジネスカレッジ]] * [[専門学校ビーマックス]] * [[岡山商科大学専門学校]] * [[専門学校岡山ファッションスクール]] * [[岡山文化服装専門学校]] * [[中国デザイン専門学校]] * [[岡山理科大学専門学校]] * [[インターナショナル岡山歯科衛生専門学校]] * [[岡山プロフェッショナル・ビューティ専門学校]] * [[ソワニエ看護専門学校]] * [[岡山医療福祉専門学校]] * [[専門学校ワールドオプティカルカレッジ]] * [[学校法人大原学園]] ** 大原ビジネス公務員専門学校岡山校 ** 岡山情報ITクリエイター専門学校 === 中等教育学校 === ; 公立 * [[岡山県立岡山大安寺中等教育学校]] ; 私立 * [[朝日塾中等教育学校]] === 高等学校 === ; 公立 * [[岡山県立岡山朝日高等学校]] * [[岡山県立岡山操山中学校・高等学校|岡山市立岡山操山高等学校]](※ [[中学校]]も併設している) * [[岡山県立岡山芳泉高等学校]] * [[岡山県立岡山一宮高等学校]] * [[岡山県立岡山城東高等学校]] * [[岡山県立西大寺高等学校]] * [[岡山県立岡山御津高等学校]] * [[岡山県立瀬戸高等学校]] * [[岡山県立高松農業高等学校]] * [[岡山県立興陽高等学校]] * [[岡山県立瀬戸南高等学校]] * [[岡山県立岡山工業高等学校]] * [[岡山県立東岡山工業高等学校]] * [[岡山県立岡山東商業高等学校]] * [[岡山県立岡山南高等学校]] * [[岡山県立烏城高等学校]] * [[岡山市立岡山後楽館中学校・高等学校|岡山市立岡山後楽館高等学校]](※ 中学校も併設している) ; 私立 * [[岡山中学校・高等学校|岡山高等学校]](※中学校も併設している) * [[関西高等学校]](男子校) * [[岡山理科大学附属中学校・高等学校|岡山理科大学附属高等学校]](普通科、中学校も併設している) * [[就実中学校・高等学校|就実高等学校]](中学校も併設している) * [[山陽学園中学校・高等学校|山陽学園高等学校]](中学校も併設している) * [[岡山商科大学附属高等学校]] * [[岡山学芸館清秀中学校・岡山学芸館高等学校|岡山学芸館高等学校]](普通科、中学校も併設している) * [[明誠学院高等学校]] * [[創志学園高等学校]](旧・[[ベル学園高等学校]]) * [[クラーク記念国際高等学校]]岡山キャンパス * [[第一学院高等学校]]岡山キャンパス * [[日本航空高等学校]]岡山学習センター * [[屋久島おおぞら高等学校]]岡山校 * [[ルネサンス高等学校]]岡山学習センター * [[朝日塾国際高等学校]](2014年(平成26年)4月1日開校) ===義務教育学校=== ; 公立 * [[岡山市立山南学園]] === 中学校 === 岡山市内には中学校38校(うち国立1校)が設置されている。 ; 公立 * [[岡山県立岡山操山中学校・高等学校|岡山県立岡山操山中学校]](※ [[高等学校]]も併設している) * [[岡山市立岡山後楽館中学校・高等学校|岡山市立岡山後楽館中学校]](※ 高等学校も併設している) ; 私立 * [[就実中学校・高等学校|就実中学校]](※ 高等学校も併設している) * [[山陽学園中学校・高等学校|山陽学園中学校]](※ 高等学校も併設している) * [[岡山中学校・高等学校|岡山中学校]](※ 高等学校も併設している) * [[岡山理科大学附属中学校・高等学校|岡山理科大学附属中学校]](※ 高等学校も併設している) * [[岡山学芸館清秀中学校・岡山学芸館高等学校|岡山学芸館清秀中学校]](※ 高等学校も併設している) 高等学校を併設していない中学校については、各区の記事を参照されたい。 * ''[[北区 (岡山市)#中学校|北区の中学校一覧]]'' * ''[[中区 (岡山市)#中学校|中区の中学校一覧]]'' * ''[[東区 (岡山市)#中学校|東区の中学校一覧]]'' * ''[[南区 (岡山市)#中学校|南区の中学校一覧]]'' === 幼稚園・小学校 === 幼稚園・小学校については、各区の記事を参照されたい。なお、市内には幼稚園80園(うち国立1園、私立9園)、小学校93校(うち国立1校、私立2校)が設置されている。 * ''[[北区 (岡山市)#教育|北区の幼稚園・小学校一覧]]'' * ''[[中区 (岡山市)#教育|中区の幼稚園・小学校一覧]]'' * ''[[東区 (岡山市)#教育|東区の幼稚園・小学校一覧]]'' * ''[[南区 (岡山市)#教育|南区の幼稚園・小学校一覧]]'' === 特別支援学校 === * [[岡山県立岡山盲学校]] * [[岡山県立岡山聾学校]] * [[岡山県立岡山支援学校]] * 岡山県立岡山西支援学校 * 岡山県立岡山東支援学校 * 岡山県立岡山南支援学校 * 岡山県立岡山瀬戸高等支援学校 * [[岡山大学教育学部附属特別支援学校]] === 学校教育以外の教育施設 === ; 自動車教習所 * [[岡山自動車学校]] * [[岡山ももたろう自動車学校]] * [[備前自動車岡山教習所]] * [[岡山自動車教習所]] * [[稲荷自動車教習所]] * [[ダイワ自動車教習所]] ; 岡山労働局長登録教習機関 * [[おかやまオペレーティングスクール]] * [[淳風会]] == 交通 == === 航空 === [[ファイル:Okayama Airport.JPG|thumb|岡山空港]] * [[岡山空港]] ==== 国内線 ==== {{Airport-dest-list |''' [[日本航空]](JAL)'''|[[東京国際空港]] |''' [[日本トランスオーシャン航空]](JTA)'''|[[那覇空港]] |''' [[全日本空輸]](ANA)'''|東京国際空港、[[新千歳空港]]<ref group="注">2013年3月31日から2018年3月24日までは[[AIRDO]]の運航であった。</ref> }} ==== 国際線 ==== {{Airport-dest-list |''' [[大韓航空]](KE)<ref group="注">[[デルタ航空]]・[[チェコ航空]]・[[日本航空]]とコードシェア</ref>'''|{{KOR}}・[[仁川国際空港]] |''' [[中国東方航空]](MU)<ref group="注">[[日本航空]]とコードシェア</ref>'''|{{CHN}}・[[上海浦東国際空港]] |''' [[タイガーエア台湾]](IT)'''|{{ROC}}・[[台湾桃園国際空港]] |''' [[香港航空]](HX)'''|{{HKG}}・[[香港国際空港]] }} === 鉄道 === [[ファイル:岡山駅 東口 2022.jpg|thumb|JR岡山駅(東口)]] 岡山駅を中心に放射状に鉄道路線が延び、市内のほとんどの主要地域と結ばれているなど、鉄道網は充実している<ref group=注>岡山市には[[私鉄]]の鉄道(道路上を走る[[軌道法]]による[[路面電車]]ではなく[[鉄道事業法]]による[[鉄道]])が存在しないため、近郊連絡において利用可能な移動手段はJRのみとなっている。全国の[[政令指定都市]]で同じく私鉄が存在しない市としては他に[[北海道]][[札幌市]]、[[宮城県]][[仙台市]]、[[新潟県]][[新潟市]]がある。これらの都市にはいずれも[[豪雪地帯]]という共通点がある。そのうち札幌市と仙台市の各市には市交通局が運営する[[地下鉄]]が存在するが、残る新潟市と岡山市には地下鉄が存在しない。このように、JR以外の鉄道が存在しない政令市は新潟市と岡山市のみである。両市でも政令市移行以前は私鉄の鉄道が存在した時期があり、新潟市では[[新潟交通電車線]]が存在し、岡山市でも[[1984年]](昭和59年)まで[[岡山臨港鉄道]]が存在したが、いずれも輸送量の減少により廃止されている。</ref>。 特に[[JR]]発足以降は、[[日本国有鉄道|国鉄]]時代の列車型[[ダイヤグラム|ダイヤ]]から都市圏輸送に重点を置いたものになり、合わせるように沿線人口の多い[[山陽本線]]には徐々に駅が増えている。 今後の計画として、JR吉備線の[[ライトレール|LRT]]化構想などがある。 ; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) 中心となる駅岡山駅 * [[山陽新幹線]] ** [[岡山駅]] * [[山陽本線]] ** [[万富駅]] - [[瀬戸駅]] - [[上道駅 (岡山県)|上道駅]] - [[東岡山駅]] - [[高島駅]] - [[西川原駅]] - 岡山駅 - [[北長瀬駅]] - [[庭瀬駅]] * [[赤穂線]] ** [[西大寺駅]] - [[大多羅駅]] - 東岡山駅 * [[宇野線]]([[瀬戸大橋線]]・宇野みなと線) ** 岡山駅 - [[大元駅]] - [[備前西市駅]] - [[妹尾駅]] - [[備中箕島駅]] - (早島町 - 倉敷市) - [[彦崎駅]] - [[備前片岡駅]] - [[迫川駅]] * [[本四備讃線]]([[瀬戸大橋線]]) ** [[植松駅]] * [[津山線]] ** 岡山駅 - [[法界院駅]] - [[備前原駅]] - [[玉柏駅]] - [[牧山駅]] - [[野々口駅]] - [[金川駅]] - [[建部駅]] - [[福渡駅]] * [[吉備線]](桃太郎線) ** 岡山駅 - [[備前三門駅]] - [[大安寺駅]] - [[備前一宮駅]] - [[吉備津駅]] - [[備中高松駅]] - [[足守駅]] === 軌道 === [[ファイル:Okayama Electric Tramway 1011.jpg|thumb|中納言停留場付近]] 民営の[[岡山電気軌道]]が運行している。岡山駅前から[[表町商店街|表町]]や[[岡山県庁舎|県庁]]のある旧城下町を中心に2路線がある。総延長4.7kmと[[日本]]でもっとも短い[[路面電車]]だが、1日に約1万人が利用するなど市民の足として定着し、黒字経営を続けている。 今後の展望として岡山駅東口駅前広場への乗入れ、市役所筋を南下し市役所のある大供(だいく)から[[岡山大学病院]]までの延伸、また大供から東の清輝橋線・[[大雲寺前停留場|大雲寺前]]を結ぶ環状化などの[[岡山電気軌道#軌道|新線計画]]がある<ref>[https://www.city.okayama.jp/shisei/cmsfiles/contents/0000020/20369/000399495.pdf 岡山市路面電車ネットワーク計画]</ref>。 同時に市役所筋を[[トランジットモール]]化する構想もあり、車線減少に伴う交通渋滞の影響を調査する社会実験が行われたことがある。また、[[ライトレール|LRT]]化を予定しているJR吉備線との相互乗り入れが岡山電気軌道とJRとの間で既に合意されている。吉備線LRTは基本合意直後のコロナ禍により一時中断中だが、路面電車の延伸計画は短期・中期・長期に分け段階的に整備を進めている<ref>[https://www.city.okayama.jp/shisei/cmsfiles/contents/0000020/20369/000399495.pdf 岡山市路面電車ネットワーク計画]</ref>。 ; 岡山電気軌道 * [[岡山電気軌道東山本線|東山本線]] ** [[岡山駅|岡山駅前停留場]] - [[西川緑道公園停留場]] - [[柳川停留場]] - [[城下停留場]] - [[県庁通り停留場]] - [[西大寺町・岡山芸術創造劇場ハレノワ前停留場]] - [[京橋停留場]] - [[小橋停留場]] - [[中納言停留場]] - [[門田屋敷停留場]] - [[東山・おかでんミュージアム駅停留場]] * [[岡山電気軌道清輝橋線|清輝橋線]] ** 柳川停留場 - [[郵便局前停留場]] - [[田町停留場]] - [[新西大寺町筋停留場]] - [[大雲寺前停留場]] - [[東中央町停留場]] - [[清輝橋停留場]] === バス === ; 路線バス [[ファイル:Okayama station bus terminal.jpg|thumb|東口バスターミナル]] 岡山市は戦後のバス会社の統合が中断され統合が進まなかったため、同規模の都市と比べて市内を走るバス会社が非常に多く、各社がエリアを分けて運行し、公営交通(市営バス)の運行実績はない。路線は岡山駅東口のバスターミナルと[[天満屋バスステーション]]を中心に放射状に路線網が形成されている。また、岡山駅西口バス乗り場が2010年4月24日に開設、岡山駅から北西方面の路線バスと高速、観光、空港リムジンバスが発着している。 八晃運輸が乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による特殊区間制である以外は、乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券による対キロ区間制である。 なお、両備バス・岡電バス・東備バス・下電バス・宇野バス・中鉄バスでは非接触ICカードである[[Hareca]]を採用しており、共通に利用できる。一方、備北バスは[[岡山県共通バスカード|備北バス専用バスカード]]([[プリペイドカード]])を発行している。Hareca導入各社(宇野バスと中鉄バスの一部路線を除く)は[[スルッとKANSAI協議会]]に加盟しているため、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス対応のICカード]]も使用できる。 * [[両備バス]] * [[岡山電気軌道]]([[両備グループ]]) * [[東備バス]]([[両備グループ]]) * [[下津井電鉄]] * [[宇野自動車]] * [[中鉄バス]] * [[中鉄北部バス]] * [[備北バス]] * [[八晃運輸]] === 道路 === ; 高速自動車国道 * [[山陽自動車道]]:[[岡山インターチェンジ|岡山IC]] - [[吉備サービスエリア|吉備SA/SIC]] * [[岡山自動車道]]:[[岡山ジャンクション|岡山JCT]] - [[岡山総社インターチェンジ|岡山総社IC]] ; 地域高規格道路 * [[美作岡山道路]]:[[瀬戸ジャンクション (岡山県)|瀬戸JCT]](仮称) - [[瀬戸インターチェンジ (岡山県)|瀬戸IC]] * 空港津山道路 * [[岡山環状道路]] ; 一般国道 岡山市において広域的な移動軸となっている幹線道路は南北方向が[[国道30号]]と[[国道53号]]、東西方向が[[国道2号]][[岡山バイパス|バイパス]]と旧国道2号(現[[国道250号]]、[[岡山県道162号岡山倉敷線]])、北西方面が[[国道180号]]である。特に国道2号バイパスは岡山市を東西に貫く幹線道路のうちで唯一4車線以上の道路であり、なおかつ[[旭川 (岡山県)|旭川]]や[[百間川]]などの大規模河川を渡っていることもあって、多い場所で一日10万台以上が通過する。 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[国道2号]] * [[国道30号]] * [[国道53号]] * [[国道180号]] * [[国道250号]] * [[国道429号]] {{Col-break}} * [[岡山バイパス]] * 岡山外環状南線(仮称) * [[岡山北バイパス]] * [[岡山西バイパス]] {{Col-end}} ; 県道 * [[岡山ブルーライン]]:[[君津インターチェンジ (岡山県)|君津IC]] - [[西大寺インターチェンジ|西大寺IC]] === 港湾 === * [[岡山港]]([[重要港湾]]) : 定期旅客航路:[[小豆島]]([[香川県]][[小豆郡]][[土庄町]])方面 :* [[両備ホールディングス]]、[[四国フェリー]](新岡山港 - 土庄港) == 観光 == <gallery> Okayama Castle.IMG 5917.jpg|岡山城 Saijo Inari 02.JPG|[[稲荷神#日本三大稲荷|日本三大稲荷]]・最上稲荷 Kibitsu Jinja 05.JPG|吉備津神社 Kinryouzan Saidaiji 06.JPG|西大寺観音院 takebenomori-sakura.JPG|たけべの森公園 Kibidango01.JPG|[[吉備団子]] Ebimesi common.JPG|[[えびめし]] </gallery> === 観光地スポット === ; 北区 * [[竹内流]]古武道発祥の地 * [[後楽園]] * [[岡山城]](烏城公園一帯) * [[池田動物園]] * [[岡山市半田山植物園]] * [[最上稲荷]] * [[吉備路]] ** [[吉備津神社]] ** [[吉備津彦神社]] ** [[備中高松城]] ** [[造山古墳]] * [[足守地域|足守]] * RSKバラ園 * [[八幡温泉郷]]・やはたの里 * [[たけべの森公園]] ; 中区 * [[曹源寺 (岡山市)|曹源寺]] * [[湯迫温泉]] ; 東区 * [[亀石まつり|亀石神社]] * [[西大寺 (岡山市)|西大寺]]観音院 * 宝伝海水浴場 * [[犬島]] * [[石原果樹園]] ; 南区 * [[金甲山]] * おかやまファーマーズ・マーケット サウスヴィレッジ == 文化・名物 == === 祭事・催事 === * [[西大寺 (岡山市)|西大寺]][[会陽]]([[裸祭り]])(2月第3[[土曜日]]) * 岡山さくらカーニバル(4月) ** [[宗忠神社]]御神幸(4月第1または第2日曜) * [[おかやま桃太郎まつり]]・[[うらじゃ]](7月下旬または8月上旬) * 烏城灯源郷(8月) * おかやま国際音楽祭(9月) * 全国有名朝市フェア(10月) * 秋のおかやま桃太郎まつり(10月) * [[岡山レインボーフェスタ]](10月) * 備前岡山ええじゃないか大誓文払い(11月上旬) * MOMOTAROH FANTASY(12月) * 朝市 ** 京橋朝市(毎月第1日曜) ** 西大寺朝市(毎月第3日曜) === 名物・銘菓 === * [[吉備団子]] * [[大手まんぢゅう]] * [[ばら寿司]] * [[サワラ]]料理 * [[カツ丼]]([[デミカツ丼]]) * [[えびめし]] * [[ママカリ]]料理(ママカリの酢漬け、ママカリ寿司) * [[岡山ラーメン|とんかつラーメン]] * 建部ヨーグルト * [[フルーツパフェ]] === スポーツ === [[ファイル:Supporter of Fagiano Okayama.JPG|thumb|ファジアーノ岡山FCの応援風景]] ; プロスポーツチーム・社会人スポーツチーム * [[ファジアーノ岡山FC]] - [[サッカー|プロサッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] : 本拠地は[[岡山県総合グラウンド陸上競技場]](シティライトスタジアム) * [[トライフープ岡山]] - [[バスケットボール|プロバスケットボール]]・[[ジャパン・バスケットボールリーグ]](B3.LEAGUE) : 本拠地は[[岡山県総合グラウンド体育館]](ジップアリーナ岡山) * [[岡山シーガルズ]] - [[バレーボール]]・[[プレミアリーグ (バレーボール)|プレミアリーグ]]([[日本バレーボールリーグ機構|Vリーグ]]) : 本拠地は[[岡山県総合グラウンド体育館]](桃太郎アリーナ) * [[セリオスタンディングベアーズ]] - [[アメリカンフットボール]]・[[Xリーグ]] : 本拠地は[[岡山県総合グラウンド陸上競技場]](シティライトスタジアム) * [[岡山リベッツ]] - [[卓球]]・[[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]] : 本拠地は[[岡山武道館]] * [[シティライト岡山硬式野球部]] - [[社会人野球]]・企業チーム。 * [[クラレ岡山硬式野球部]] - [[社会人野球]]・企業チーム。[[1973年]](昭和48年)解散。 * [[天満屋女子陸上競技部]] - 社会人[[陸上競技|陸上]]チーム ==== 岡山市で毎年開催されるスポーツ大会 ==== * 桃太郎杯全国高等学校空手道錬成大会(1月) * 晴れの国岡山国際ユースサッカーSANWA CUP(8月) * [[おかやまマラソン]](11月) * [[山陽女子ロードレース]](12月) ==== 過去に開催された国際スポーツ大会 ==== * [[2003年ワールドカップバレーボール]](男子第3ラウンド・B会場) * [[2006年]](平成18年)[[バレーボール・ワールドグランプリ]](予選ラウンド・第3週・Iグループ) * [[2007年ワールドカップバレーボール]](男子第3ラウンド・B会場) * [[2010年バレーボール・ワールドグランプリ]](予選ラウンド・第2週・Fグループ) == 出身・関連著名人 == [[岡山市出身の人物一覧]]を参照。 == 岡山市を舞台とした作品 == ; [[漫画]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]] * [[独身アパートどくだみ荘]]([[1979年]](昭和54年) - [[1993年]](平成5年)、[[福谷たかし]]作、[[主人公]]の[[発祥|出身地]]として[[西大寺 (旧市域)|西大寺]]地区を中心にしばしば描かれる) * [[よみがえる空 -RESCUE WINGS-]]([[2006年]](平成18年)、第6話で岡山市北区大安寺地区が描かれている) * [[築地魚河岸三代目]](第12巻) * [[推しが武道館いってくれたら死ぬ]]([[2015年]]、[[平尾アウリ]]作、岡山市を舞台としており、県内の他の都市も描かれることがある) ; [[テレビドラマ]] * [[あぐり]]([[1997年]](平成9年)、[[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]、[[吉行あぐり]]原作) * [[カムカムエヴリバディ]]([[2021年]](令和3年)、[[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]、[[藤本有紀]]原作・脚本) ; [[小説]] * [[風の中の子供]]([[1936年]](昭和11年)、[[坪田譲治 (作家)|坪田譲治]]作) * わが闘争([[1967年]](昭和42年)、[[堤玲子]]作) * 森本警部シリーズ([[2006年]](平成18年)〜、Timothy Hemion作) * [[でーれーガールズ]]([[2011年]](平成23年)、[[原田マハ]]作) ; [[映画]] * [[フランケンシュタイン対地底怪獣]]([[1965年]](昭和40年)、監督:[[本多猪四郎]]、主演:[[高島忠夫]]) * [[けんかえれじい]]([[1966年]](昭和41年)、監督:[[鈴木清順]]、主演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]) * わが闘争([[1968年]](昭和43年)、監督:[[中村登]]、主演:[[佐久間良子]]) * [[関東テキヤ一家 喧嘩仁義]]([[1970年]](昭和45年)、監督:[[鈴木則文]]、主演:[[菅原文太]]) ‐ [[西大寺 (旧市域)|西大寺]]が舞台 * [[釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束]]([[2007年]](平成19年)、監督:[[朝原雄三]]、主演:[[西田敏行]]・[[三國連太郎]]) * [[ALWAYS 三丁目の夕日]]([[2005年]](平成17年)、監督:[[山崎貴]]、主演[[吉岡秀隆]]) ‐ [[西大寺 (旧市域)|西大寺]]の門前町・[[五福通り]]商店街周辺がロケ地 * [[ALWAYS 三丁目の夕日'64]]、([[2012年]](平成24年)、監督:[[山崎貴]]、主演[[吉岡秀隆]]) ‐ 上記と同様 * 岡山の娘([[2008年]](平成20年)、監督:[[福間健二]]) * [[しあわせのマスカット]]([[2021年]]5月14日公開、監督:[[吉田秋生 (ドラマ演出家)|吉田秋生]]、主演[[福本莉子]]) ; [[音楽]] * [[鉄道唱歌]]第2集山陽・九州編([[1900年]](明治33年)、作詞:[[大和田建樹]]、作曲:[[多梅稚]]・上真行) : 10.'' 播磨すぐれば焼物の 名に聞く備前の岡山に これも名物吉備団子 津山へ行くは乗りかえよ'' : 11.'' 水戸と金沢岡山と 天下に三つの公園地 後楽園も見てゆかん 国へ話のみやげには'' * 山陽線唱歌([[1909年]](明治42年)、作詞:[[大和田建樹]]、作曲:[[田村虎蔵]]) : 19.'' 瀬戸内すぎて西大寺 北条時頼入道が 手植にしたる名木の 桜は岩間の寺にあり'' : 20.'' 早くも来ぬる岡山の 後楽園は我国の 三公園の其一つ 園内広く鶴遊ぶ '' : 21.'' 三十二里の旭川 市を貫て水清く 十七師団も此土地に 置かれて賑わう一都会 '' : 22.''中国鉄道乗り換えて ゆくには二つの線路あり 作州津山に遊ぶべく 吉備津の宮にも詣ずべし'' : ''(中略)'' : 25.'' 叉岡山に立ち帰り 音に名高き備前焼 もとめてゆけば庭瀬にも 物産畳表あり'' * ボインキラー([[1995年]](平成7年)、[[THE BLUE HEARTS]]、作詞・作曲:[[甲本ヒロト]]、歌詞中で『岡山のボインキラー』と歌われている) * スタート([[2008年]](平成20年)、[[ghostnote]]、作詞:大平伸正、作曲:[[ghostnote]]、歌詞中で『表町のアーケード』と歌われている) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Multimedia|岡山市の画像}} {{Sisterlinks |commons=岡山市 |commonscat=Okayama |q=no |v=no |voy=ja:岡山市 |d=Q200078 }} {{See also|Category:岡山市}} * [[竹内流|竹内流柔術]] * [[金光氏]] * [[宇喜多氏]] * [[池田氏]] * [[岡山藩]] * [[金沢市]]([[兼六園]]) * [[水戸市]]([[偕楽園]]) == 外部リンク == * {{Osmrelation|3939644}} '''行政''' * {{Official website}} * {{Twitter|okayama_city}} '''観光''' * [https://okayama-kanko.net/ 岡山市の観光・コンベンション情報サイト] {{ja icon}} - 公益社団法人おかやま観光コンベンション協会 * {{ウィキトラベル インライン|岡山市|岡山市}} {{ja icon}} {{Geographic Location |Centre = 岡山市 |North = [[美咲町]] |Northeast = [[久米南町]] |East = [[赤磐市]]<br />[[備前市]]<br />[[瀬戸内市]] |Southeast = (海を隔てて)[[香川県]][[土庄町]] |South = [[玉野市]] |Southwest = [[早島町]]<br />倉敷市 |West = [[総社市]]<br />[[倉敷市]] |Northwest = [[吉備中央町]] |image = }} {{日本の政令指定都市}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{日本50大都市}} {{岡山県の自治体}} {{SDGs未来都市}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おかやまし}} [[Category:岡山県の市町村]] [[Category:岡山市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:政令指定都市]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
2003-09-08T05:05:18Z
2023-12-14T13:28:15Z
false
false
false
[ "Template:国土航空写真", "Template:Main", "Template:日本50大都市", "Template:SDGs未来都市", "Template:Wikisource", "Template:Twitter", "Template:Ja icon", "Template:岡山県の自治体", "Template:日本の市", "Template:Col-begin", "Template:Col-end", "Template:Climate chart", "Template:人口統計", "Template:Cite web", "Template:Multimedia", "Template:Osmrelation", "Template:Pp-vandalism", "Template:Flagicon", "Template:See also", "Template:Enlink", "Template:Color", "Template:Sisterlinks", "Template:Coord", "Template:自治体人口/岡山県", "Template:日本の都道府県庁所在地", "Template:座標一覧", "Template:See", "Template:岡山市の地域", "Template:いつ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Official website", "Template:ウィキトラベル インライン", "Template:Geographic Location", "Template:Visible anchor", "Template:Reflist", "Template:日本の政令指定都市", "Template:Normdaten", "Template:Col-break", "Template:Weather box", "Template:Airport-dest-list", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82
15,702
豊橋鉄道
豊橋鉄道株式会社(とよはしてつどう、英: Toyohashi Railroad Co., Ltd.)は、愛知県豊橋市および田原市において鉄道、豊橋市内で軌道(路面電車)を運営する鉄道事業者。名古屋鉄道(名鉄)の連結子会社である。本社は愛知県豊橋市の豊橋駅前にある豊鉄ターミナルビルに所在。愛称・略称は豊鉄(とよてつ)。 各路線の記事を参照。 本項の運賃・料金額は特記なければ2019年10月1日現在のものである。 2024年春に運賃改定予定。 発売額は廃止時点のもの。 名古屋鉄道・名鉄バス・名古屋市交通局・名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線)・名古屋ガイドウェイバスとの共通利用が可能なICカード乗車券「manaca」を、2011年2月11日に導入した。2012年からはJR東海のTOICA、2013年3月からは全国のICカードとの相互利用を開始している。 導入区間は東田本線(豊橋市内線)全線と渥美線で、東田本線は車内運賃箱を読み取り装置付の新型に更新(T1000形は当初の運賃箱をICカード導入時に他車と同等品に交換)しており、渥美線には簡易改札機を設置している。渥美線内でチャージが可能な駅は新豊橋、南栄、高師、大清水、三河田原の5駅のみである。 自動車(バス)事業を直営していたが、赤字部門のコストの削減および事業運営の迅速化による収益力強化と路線維持を図るため、2007年5月22日に自動車事業の分社を目的とした豊鉄バス株式会社を設立。各所の承認を経て同年10月1日に自動車事業を移管・分社した。 2022年3月31日現在
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "豊橋鉄道株式会社(とよはしてつどう、英: Toyohashi Railroad Co., Ltd.)は、愛知県豊橋市および田原市において鉄道、豊橋市内で軌道(路面電車)を運営する鉄道事業者。名古屋鉄道(名鉄)の連結子会社である。本社は愛知県豊橋市の豊橋駅前にある豊鉄ターミナルビルに所在。愛称・略称は豊鉄(とよてつ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "各路線の記事を参照。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項の運賃・料金額は特記なければ2019年10月1日現在のものである。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2024年春に運賃改定予定。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "発売額は廃止時点のもの。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "名古屋鉄道・名鉄バス・名古屋市交通局・名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線)・名古屋ガイドウェイバスとの共通利用が可能なICカード乗車券「manaca」を、2011年2月11日に導入した。2012年からはJR東海のTOICA、2013年3月からは全国のICカードとの相互利用を開始している。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "導入区間は東田本線(豊橋市内線)全線と渥美線で、東田本線は車内運賃箱を読み取り装置付の新型に更新(T1000形は当初の運賃箱をICカード導入時に他車と同等品に交換)しており、渥美線には簡易改札機を設置している。渥美線内でチャージが可能な駅は新豊橋、南栄、高師、大清水、三河田原の5駅のみである。", "title": "鉄道・軌道事業" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "自動車(バス)事業を直営していたが、赤字部門のコストの削減および事業運営の迅速化による収益力強化と路線維持を図るため、2007年5月22日に自動車事業の分社を目的とした豊鉄バス株式会社を設立。各所の承認を経て同年10月1日に自動車事業を移管・分社した。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年3月31日現在", "title": "連結子会社" } ]
豊橋鉄道株式会社は、愛知県豊橋市および田原市において鉄道、豊橋市内で軌道(路面電車)を運営する鉄道事業者。名古屋鉄道(名鉄)の連結子会社である。本社は愛知県豊橋市の豊橋駅前にある豊鉄ターミナルビルに所在。愛称・略称は豊鉄(とよてつ)。
{{基礎情報 会社 |社名 = 豊橋鉄道株式会社 |英文社名 = Toyohashi Railroad Co., Ltd.<ref name="英文">[https://web.archive.org/web/20220510013146/https://www.meitetsu.co.jp/eng/profile/__icsFiles/afieldfile/2021/07/16/cfs_report_032019.pdf Independent Auditor's Report], p.11, KPMG Azsa LLC, 31 July 2019</ref> |ロゴ = [[File:Toyotetsu logomark.svg|150px]] |画像 = [[File:Toyotetsuterminal.jpg|280px]] |画像説明 = 豊鉄ターミナルビル(本社所在地) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> |略称 = 豊鉄 |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 440-0888 |本社所在地 = [[愛知県]][[豊橋市]]駅前大通一丁目46番地の1 豊鉄ターミナルビル5階 |本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 45|本社緯度秒 = 45.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 137|本社経度分 = 23|本社経度秒 = 1.0|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |設立 = [[1924年]](大正13年)[[3月17日]] |業種 = 陸運業 |事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車運送事業 など |代表者 = {{Plainlist| * 代表取締役社長 小笠原敏彦 * 代表取締役常務 岩ヶ谷光晴 }} |資本金 = 1億円(2022年3月31日現在)<ref name="yuho149">{{Cite report |和書 |author=豊橋鉄道株式会社 |authorlink= |date=2022-06-29 |title=第149期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |発行済株式総数 = * 411万80株 (2022年3月31日現在)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |売上高 = * 連結: 50億9070万6000円 * 単体: 18億3693万9000円 (2022年3月期)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = * 連結: △4億7124万1000円 * 単体: △9068万6000円 (2022年3月期)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = * 連結: △8244万0000円 * 単体: 4113万6000円 (2022年3月期)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = * 連結: △2億0530万4000円 * 単体: 5035万1000円 (2022年3月期)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = * 連結: 54億1583万6000円 * 単体: 46億1824万6000円 (2022年3月31日現在)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産 = * 連結: 155億1604万2000円 * 単体: 141億0624万7000円 (2022年3月31日現在)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数 = * 連結: 676人 * 単体: 191人 (2022年3月31日現在)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |決算期 = 3月31日 |会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="yuho149" /> |主要株主 = * [[名古屋鉄道]] 52.35% (2022年3月31日現在)<ref name="yuho149" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |主要子会社 = [[#連結子会社]]参照 |関係する人物 = |外部リンク = https://www.toyotetsu.com/ |特記事項 = }} '''豊橋鉄道株式会社'''(とよはしてつどう、{{Lang-en-short|''Toyohashi Railroad Co., Ltd.''}}<ref name="英文"/>)は、[[愛知県]][[豊橋市]]および[[田原市]]において[[鉄道]]、豊橋市内で[[軌道法|軌道]]([[路面電車]])を運営する[[鉄道事業者]]。[[名古屋鉄道]](名鉄)の[[連結子会社]]である。本社は愛知県豊橋市の[[豊橋駅]]前にある豊鉄ターミナルビルに所在。愛称・略称は'''豊鉄'''(とよてつ)。 == 歴史 == * [[1924年]](大正13年)[[3月17日]] - '''豊橋電気軌道株式会社'''として設立。 * [[1925年]](大正14年)[[7月14日]] - [[豊橋鉄道東田本線|市内線]]が開業。 * [[1927年]](昭和2年)[[8月26日]] - 本社を豊橋市花田町字東郷12番地の2に移転<ref>[{{NDLDC|2956707/14}} 『官報』1927年10月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1935年]](昭和10年) - [[豊橋循環自動車]]を合併。バス事業に参入。 * [[1939年]](昭和14年)9月 - [[名古屋鉄道]]の傘下に入る。 * [[1943年]](昭和18年)[[11月1日]] - 豊橋乗合自動車を設立、同社にバス運輸事業を譲渡。 * [[1949年]](昭和24年)[[9月1日]] - 豊橋乗合自動車を合併し、'''豊橋交通株式会社'''に社名変更。<gallery>Toyoden logomark.svg|豊橋電気軌道社章 Toyoko logomark.svg|豊橋交通社章</gallery> * [[1954年]](昭和29年) **[[7月22日]] - '''豊橋鉄道株式会社'''に社名変更。 ** [[8月6日]] - [[豊鉄観光バス|豊橋観光自動車]]を設立。 ** [[10月1日]] - 名古屋鉄道から[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]の[[新豊橋駅|新豊橋]] - [[三河田原駅|三河田原]]間を譲り受ける。 * [[1956年]](昭和31年) **[[5月17日]] - 豊橋交通(2代目。現在の[[豊橋交通]]とは別)を設立。 ** 10月1日 - 田口鉄道を合併。同社線を[[豊橋鉄道田口線|田口線]]とする。 * [[1958年]](昭和33年)9月 - 本社所在地が豊橋市南松山町153番地に地番変更。 * [[1964年]](昭和39年)[[3月18日]] - 豊川観光自動車を設立。 * [[1965年]](昭和40年)[[9月17日]] - 田口線の清崎 - 三河田口間が水害で不通に。翌年から休止。 * [[1968年]](昭和43年)9月1日 - 田口線の本長篠 - 清崎間、休止中の清崎 - 三河田口間を廃止。 * [[1975年]](昭和50年) ** 10月1日 - [[豊鉄タクシー]]を設立、関連会社と[[三河観光]]のタクシー部門を統合。 ** [[10月13日]] - [[豊鉄自動車整備]]を設立、草間工場と豊鉄商事整備工場を統合。 * [[1976年]](昭和51年)[[3月7日]] - 市内線柳生橋支線を廃止<ref name="交通1976">{{Cite news |和書|title=豊橋鉄道 柳生橋支線をきょうから廃止 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1976-03-07 |page=1 }}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[9月6日]] - [[豊鉄建設|豊鉄施設工業]]を設立、鉄道技術部門を分社化。 * [[1980年]](昭和55年)[[7月29日]] - 豊鉄商事(初代)が豊鉄観光サービスに社名変更。[[豊鉄商事]](2代目)を設立。 * [[1986年]](昭和61年)7月 - 豊鉄施設工業が[[豊鉄建設]]に社名変更。 * [[1988年]](昭和63年)[[10月5日]] - [[豊鉄ターミナルホテル]]開業。 * [[2001年]](平成13年)10月1日 - 豊鉄観光サービスと[[豊橋観光旅行会]]が合併。 * [[2002年]](平成14年)[[1月1日]] - 豊橋観光自動車が豊橋鉄道の観光バス部門と統合した上で[[豊鉄観光バス]]に、豊川観光自動車を豊鉄ミディバスに社名変更。 * [[2004年]](平成16年) **[[7月1日]] - 豊鉄観光サービスが豊鉄観光バスと合併し、豊鉄観光に社名変更。 ** 10月 - [[豊鉄ミデイ]]を設立。 ** 12月 - 豊鉄ミディバス解散。 * [[2005年]](平成17年)6月下旬 - ノーネクタイによる軽装化運動を開始。 * [[2006年]](平成18年)1月1日 - 全駅・全停留所における終日禁煙を実施。 * [[2007年]](平成19年) **[[5月22日]] - [[豊鉄バス]]を設立。 ** 10月1日 - 自動車(バス)事業を豊鉄バスに移管。 * [[2009年]](平成21年) **[[3月2日]] - 東三河初となる有料自習室、豊鉄の森自習室をオープン。 ** [[6月11日]] - 豊鉄建設の社名の呼称を「ほうてつけんせつ」から「とよてつけんせつ」に変更。 * [[2011年]](平成23年) **[[2月11日]] - ICカード乗車券[[manaca]]を導入<ref name="manacatoyotetsu">{{Cite web|和書|url=http://www.toyotetsu.com/cgi/news/s_news.cgi?action=show_detail&txtnumber=log&mynum=217|title=ICカード「manaca」のサービス開始日について|date=2010-12-21|accessdate=2011-11-16|publisher=豊橋鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111116114357/http://www.toyotetsu.com/cgi/news/s_news.cgi?action=show_detail&txtnumber=log&mynum=217|archivedate=2011-11-16}}</ref> ** [[4月20日]] - 豊鉄の森自習室を閉店。 ** [[8月19日]] - 豊鉄観光から豊鉄観光サービス(2代目)が分離し、豊鉄観光は[[豊鉄観光バス]](2代目)に改称。 ** [[10月11日]] - 本社所在地を豊橋市駅前大通一丁目46番地の1に移転。 * [[2012年]](平成24年)11月 - [[豊鉄環境アシスト]]を設立。 * [[2013年]](平成25年)[[3月23日]] - JR東日本の[[Suica]]など[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始。 * [[2014年]](平成26年)- 「豊橋の路面電車(愛称「市電」)を活かしたまちづくり」で、国土交通省[[手づくり郷土賞]](地域活動部門)を受賞<ref>[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part29_H26/H26_ippan_06.pdf 豊橋の路面電車(愛称「市電」)を活かしたまちづくり] - 国土交通省大臣表彰 手づくり郷土賞 Part29(平成26年度)</ref>。 * [[2015年]](平成27年)3月 - [[岡山電気軌道]]と「路面電車を通じて互いの地域活性化に貢献する」姉妹縁組を締結。 * [[2021年]](令和3年)4月1日 - 豊鉄観光サービスが豊鉄観光バスを合併し豊鉄観光バスに社名変更<ref>{{Cite report |author=豊橋鉄道株式会社 |date=2021-06-29 |title=第148期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 関係会社の状況}}</ref>。 == 鉄道・軌道事業 == === 路線 === [[File:Toyohashi Railroad Linemap.svg|300px|thumb|right|路線図(クリックで拡大)]] ==== 営業区間 ==== * 鉄道線 ** [[豊橋鉄道渥美線|渥美線]] * 軌道線 ** [[豊橋鉄道東田本線|東田本線]](豊橋市内線) ==== 廃止区間 ==== * 鉄道線 **[[豊橋鉄道田口線|田口線]] - [[1968年]]に全線廃止。 * 軌道線 **[[豊橋鉄道東田本線|東田本線]] - 市民病院前 - 駅前間が[[1973年]]に廃止。 ** [[豊橋鉄道東田本線|柳生橋支線]] - [[1976年]]に廃止{{R|交通1976}}。 === 車両 === 各路線の記事を参照。 <gallery> ToyohashiRailwayCompanyType1800.jpg|渥美線<br />[[豊橋鉄道1800系電車 (2代)|1800系]]電車<br />2006年2月 T1000_toyohashi.jpg|東田本線<br />[[豊橋鉄道T1000形電車|T1000形]]「ほっトラム」<br />2009年1月 Toyohashi-mo801.JPG|東田本線<br />[[豊橋鉄道モ800形電車|モ800形]]電車<br />2005年8月 Toyohashi railway hana densha.ogv|東田本線<br />[[豊橋鉄道モ3100形電車|モ3100形]] 花電車 </gallery> === 運賃・切符 === {| class="wikitable" rules="all" style="width:11em; text-align:right; float:right; width:12em;" |+渥美線運賃表 |-style="text-align:center;" !キロ程!!普通運賃(円) |- |1 - 2||140 |- |3 - 4||150 |- |5||180 |- |6||200 |- |7||220 |- |8||250 |- |9||280 |- |10||310 |- |11||340 |- |12||370 |- |13||390 |- |14||420 |- |15||450 |- |16||470 |- |17||500 |- |18||520 |} 本項の運賃・料金額は特記なければ2019年10月1日現在のものである<ref>[https://www.toyotetsu.com/atsumisen/charges.html 運賃・きっぷ|豊鉄渥美線【豊橋〜田原】] - 豊橋鉄道(2019年10月11日閲覧)</ref><ref>[https://www.toyotetsu.com/shinaisen/charges.html 運賃・きっぷ|豊鉄市内線【豊橋市内】] - 豊橋鉄道(2019年10月12日閲覧)</ref><ref>[https://www.toyotetsu.com/news/000198.html 運賃の認可および運賃改定の実施について] - 豊橋鉄道、2019年9月12日(2019年10月11日閲覧)</ref>。 * 渥美線の運賃は、[[営業キロ]]によって運賃を計算する。営業キロの小数点以下は切り上げ。小児は半額、5円の端数は切り上げ。 * 東田本線(豊橋市内線)では、大人180円、小児90円の均一運賃を採用している。 <!--* 渥美線の初乗りは140円で愛知県の鉄道の中で最も安い。→運賃改定後について要確認--> * 身体障害者・知的障害者割引は運賃減算額欄に第1種の記載がある[[障害者手帳]]持参者が介護者と同伴して渥美線に乗車する場合に適用される。なお、東田本線(豊橋市内線)は身体障害者・知的障害者割引の適用はない。精神障害者割引は渥美線・東田本線(豊橋市内線)ともない。 2024年春に運賃改定予定<ref>[https://www.toyotetsu.com/ufile/library/uk2023.pdf 鉄軌道事業の旅客運賃改定申請について] - 豊橋鉄道、2023年3月27日(2023年4月7日閲覧)</ref>。 ==== 入場券 ==== * 大人140円、小児70円。新豊橋駅・南栄駅・高師駅・大清水駅・三河田原駅で発売。 ==== フリー切符 ==== * 渥美線1日フリー乗車券(大人1,100円、小児550円) * 市内線1日フリー乗車券(大人500円、小児250円) * いこまい豊橋電車・バス1日フリー乗車券(大人1,000円、小児500円) ==== 過去のフリー切符 ==== 発売額は廃止時点のもの。 * [[ワイド3・3・SUNフリーきっぷ]](大人6,000円、小児3,000円。2006年3月31日廃止) * 穂の国ワンデーフリーきっぷ(大人1,100円、小児550円。2006年12月31日廃止) * ワンデーフリーきっぷ(大人650円、小児330円。2006年12月31日廃止) ==== ICカード ==== 名古屋鉄道・[[名鉄バス]]・[[名古屋市交通局]]・[[名古屋臨海高速鉄道]]([[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]])・[[名古屋ガイドウェイバス]]との共通利用が可能な[[ICカード]]乗車券「[[manaca]]」を、[[2011年]][[2月11日]]に導入した<ref name="manacatoyotetsu" /><ref>[https://www.manaca.jp/index.html manaca公式サイト]</ref>。2012年からは[[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[TOICA]]、2013年3月からは[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国のICカードとの相互利用]]を開始している。 導入区間は[[豊橋鉄道東田本線|東田本線]](豊橋市内線)全線と[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]で、東田本線は車内運賃箱を読み取り装置付の新型に更新(T1000形は当初の運賃箱をICカード導入時に他車と同等品に交換{{efn|両替機の硬貨受け皿の形状が異なる}})しており、渥美線には簡易改札機を設置している。渥美線内で[[チャージ機|チャージ]]が可能な駅は新豊橋、南栄、高師、大清水、三河田原の5駅のみである。 == バス事業 == {{Main|豊鉄バス}} 自動車(バス)事業を直営していたが、赤字部門のコストの削減および事業運営の迅速化による収益力強化と路線維持を図るため<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070930022342/http://www.meitetsu.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2007/05/22/release070522.pdf 名古屋鉄道 適時開示情報「連結子会社の会社分割に関するお知らせ」]}}</ref>、2007年5月22日に自動車事業の分社を目的とした'''[[豊鉄バス|豊鉄バス株式会社]]'''を設立。各所の承認を経て同年10月1日に自動車事業を移管・分社した。 == 連結子会社 == 2022年3月31日現在<ref>{{Cite report |author=豊橋鉄道株式会社 |date=2022-06-29 |title=第149期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書 関係会社の状況}}</ref> * [[豊鉄バス|豊鉄バス株式会社]] * [[豊鉄観光バス|豊鉄観光バス株式会社]] * [[豊鉄建設|豊鉄建設株式会社]] * [[トヨテツオートサービス|トヨテツオートサービス株式会社]] * [[豊鉄ミデイ|豊鉄ミデイ株式会社]] - [[田原市ぐるりんバス]]等。 * 豊鉄環境アシスト株式会社 * [[豊鉄タクシー|豊鉄タクシー株式会社]] === 過去のグループ会社 === * [[豊鉄ターミナルホテル|株式会社豊鉄ターミナルホテル]] - [[2020年]]解散。 * 豊鉄観光サービス株式会社 - 2021年4月に豊鉄観光バスに吸収合併。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Toyohashi Railroad}} * [https://www.toyotetsu.com/ 豊橋鉄道ウェブサイト] {{日本の路面電車}} {{トランパス}} {{名鉄グループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とよはしてつとう}} [[Category:豊橋鉄道|*]] [[Category:名鉄グループ]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:豊橋市の企業]] [[Category:愛知県の交通]] [[Category:1924年設立の企業]]
2003-09-08T05:08:42Z
2023-12-11T13:42:33Z
false
false
false
[ "Template:Multimedia", "Template:Commonscat", "Template:トランパス", "Template:Main", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite report", "Template:PDFlink", "Template:名鉄グループ", "Template:R", "Template:Lang-en-short", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:基礎情報 会社", "Template:日本の路面電車", "Template:Normdaten", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E9%89%84%E9%81%93
15,703
頭文字D
『頭文字D』(イニシャル・ディー、英語表記: Initial D) は、しげの秀一による走り屋をテーマにした漫画作品。および、漫画を原作にしたテレビアニメ、映画。通称「イニD」。『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて、1995年30号から2013年35号まで連載された。 2022年12月時点で累計発行部数は5600万部を突破している。アニメの関連CDは70万枚、ビデオとDVDは合わせて50万本を販売している。 峠道において自動車を高速で走行させることを目的とする走り屋の若者たちを描いた作品である。 峠の走り屋を扱うしげのの漫画作品としては、『バリバリ伝説』『トンネルぬけたらスカイ☆ブルー』に続く3作品目となる。本作ではアマチュアドライバーの主人公が関東各地の走り屋との対戦を重ねながら、“公道最速”を目指していく姿が描かれている。また、主人公が属する精鋭チーム「プロジェクトD」の県外遠征を、各エリアの有力チームが迎えうつという対抗戦も本作の特徴である。 作中に登場する秋名山(あきなさん)は架空の地名であり、実在しない。そのモデルは群馬県にある上毛三山の一つ、榛名山(はるなさん)。その他の地名は実名。 作品タイトル「D」の意味は、「ドリフト(drift)のD」であると作者が発言している。一方で、プロジェクトDの「D」に関しては、作中で高橋涼介が複数の意味を持つ言葉であるように語っているが、その一つは「Dream(夢)」である。 主人公の藤原拓海が公道バトルで乗るトヨタ・スプリンタートレノ・AE86型、通称「ハチロク」は1987年に生産終了していたが、本作の人気に伴い中古車市場価格が高騰する現象を生んだ。AE86自体、本作連載以前から人気は高かったものの、その中心は兄弟車のカローラレビンであり、レビンと比べてモータースポーツ参戦も少なかったトレノは不人気車種であり、新車生産台数の少なさも相まって人気の逆転現象も生じた。後にそれらの現象の影響は、2012年にトヨタ自動車から発売された小型FRスポーツカー「トヨタ・86」を生み出したきっかけの一部ともなっている。 本作の愛読者には土屋圭市、織戸学、谷口信輝、今村陽一などのレーシングドライバーがおり、特に土屋圭市はアニメ版の監修やハチロクのエンジン音・スキール音の収録を務め、作品に深く関わっている。アニメ版終了後に公開された新劇場版においては谷口信輝が監修やハチロクのエンジン音・スキール音の収録を務め、土屋同様に作品に深く関わっている。また、2009年に刊行された増刊本『頭文字D THE MESSAGE』では前述の土屋、谷口のほか片山右京、新井敏弘、山野哲也、飯田章、石浦宏明、服部尚貴、中嶋悟らも本作の読者としてコメントを寄せている。 アニメの出演者で、藤原拓海を演じる三木眞一郎と高橋啓介を演じる関智一なども影響を受け、三木は主人公の愛車である「ハチロク」を購入し、関は当初所持していなかった自動車運転免許を取得。また、中里毅を演じた檜山修之も「この作品をもっと早く知っていたらスカイラインGT-R(R32)に乗っていたかもしれない」とコメントしている。 作中に登場する技術「溝落とし」や、「インベタのさらにイン」などを実際に真似ようとする読者や視聴者が現れるようになったため、連載途中およびテレビアニメ版では読者・視聴者に対して「道路交通法を守り、安全運転を心がけてください」と警告するメッセージが表示される。 実写映画化の際、主人公の実家の豆腐店として利用された藤野屋豆腐店は映画撮影後も「藤原豆腐店」の看板のままで営業を続けたが、店主の高齢化と土地区画整理事業により2007年頃に閉店した。建物は2009年に解体され、店舗跡地は区画整理で新興住宅地や道路へと変貌を遂げ、店舗があった頃の面影はほぼ皆無になったが、看板などは伊香保おもちゃと人形自動車博物館に移設され、同館の館内にて往時の姿が再現されている。 本作のパロディに、自動車を鉄道車両に置き換えた同人誌作品『電車でD』が存在する。2014年の新劇場版公開に際して開催されたイベント「新劇場版『頭文字D』Legend1-覚醒-公開記念86“超”夏祭りin Daiba at MEGA WEB」では、コミックマーケット86との連動企画で『電車でD』のポスターがMEGA WEBに展示された。これに際しては、講談社から了承を得たことも明らかにされている。 また、本作品の主要な舞台となった群馬県渋川市では、2020年頃からアニメや漫画のファンが舞台になった場所を訪れる「アニメツーリズム」を推進しており、本作品の絵柄が描かれたマンホールの設置、ラッピングバスの運行(群馬バス・関越交通)などを行っている。 海外でも日本車好きたちを中心に熱い支持があり、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」ではドイツ人のファンがハチロクをレンタルして本作の聖地巡りをする様子が放送された。本職のラリードライバーにも知られており、2022年のWRC(世界ラリー選手権)ラリージャパンの開催前にオリバー・ソルベルグは第一巻の表紙を自画像風にアレンジした画像を投稿している また同年に史上最年少王者となったトヨタのカッレ・ロバンペラも、SS18恵那のステージ後インタビューで「頭文字Dのように豆腐を運んだよ」と冗談混じりでコメントしている。次戦となる2023年WRC初戦ラリー・モンテカルロでは、ニコライ・グリヤジンがシュコダ・ファビア ラリー2に「藤原とうふ店(自家用)」と書いて参戦し、名所チュリニ峠で最速タイムを叩き出した。 コミックス17巻/アニメ3rd Stageをターニングポイントとして、大きく高校生時代とプロジェクトD編に分かれる。さらにアニメでは、高校生時代を1st Stageから3rd Stage、プロジェクトD編を4th StageからFinal Stageと、各3ステージに細分化される。 (〜 コミックス17巻 Vol.191/〜 アニメ3rd Stage) 藤原拓海(ふじわら たくみ)は群馬県渋川市に住む一見ごく普通の高校生だが、父が営む「藤原とうふ店」の配送を中学生時代から手伝い、秋名山の峠道で日々AE86型(ハチロク)スプリンタートレノを走らせるうちに、非凡なドライビングテクニックを身に着けていた。それは全て、かつて「伝説の走り屋」と言われていた父・藤原文太(ふじわら ぶんた)による英才教育だった。ある日、赤城山を本拠地とする走り屋チーム「赤城レッドサンズ」のNo.2である高橋啓介(たかはし けいすけ)に勝利したことで、「秋名のハチロク」の噂は群馬県内全域に広まっていく。 啓介の兄でレッドサンズの代表を務める高橋涼介(たかはし りょうすけ)に勝利し、名実共に「秋名のハチロク」の名は瞬く間に県内の走り屋達に知れ渡る。だがそれとは裏腹に、ハチロクのエンジンは限界を告げ始めていた。そんな中、栃木県日光市から、須藤京一(すどう きょういち)率いるランエボ軍団「エンペラー」が群馬県内に攻撃を仕掛けて来た。県内各地がエンペラーによって制圧され、遂に秋名にまで侵攻して来た。拓海は最新の装備で武装したランエボの挑戦を受ける事になる。一方、文太もハチロクの限界を察知し、エンジンブローに備え、非公式なルートで新たなエンジンを入手していた。 Third Stageは劇場版となる。高橋涼介に、以前より計画していた群馬県外遠征チームへの参加を要請された拓海は、自らの走りに限界を感じ始め、「速くなる為には知識が必要」との涼介の指摘に心を動かされる。これまで状況に流されるままバトルを受ける拓海だったが、手練の走り屋たちの挑戦を経て、次第に自分の才能と夢を見つめなおすようになっていった。 (コミックス17巻 Vol.192 〜/ゲームSpecial Stageストーリーモード第3部 〜 アニメFinal Stage) やがて、拓海は「頂点に立つドライバーになる」という夢を持ち、高橋涼介が設立した群馬選抜チーム「プロジェクトD」のメンバーに加わる。プロジェクトDは「1年間のみの限定活動」「関東完全制圧」を謳い、拓海がダウンヒル(下り)、啓介がヒルクライム(登り)を受け持つダブルエース体制で、県外の名だたる峠道へ遠征する。拓海は愛車ハチロクを自在に操り、誰の目にも圧倒的に速いと思える車を相手に対等な勝負を繰り広げ、公道最速伝説を築いていく。 栃木県・埼玉県・茨城県を制覇した群馬選抜チーム「プロジェクトD」の活動は、最後にして最難関の神奈川県へと舞台を移す。そこには北条豪率いる「サイドワインダー」による「4段階の防衛ライン」が敷かれていた。一方で神奈川県内には、「死神GT-R」の出没情報が多数報告されていた。その死神GT-Rの正体を知る涼介は、チームの活動とは別に、超高速コース・箱根ターンパイクでお互いの生死を賭けたバトルを計画する。 「プロジェクトD」vs「サイドワインダー」神奈川最終戦。拓海と対戦する「サイドワインダー」ダウンヒル担当ドライバー・乾信司(いぬい しんじ)もまた、ハチロクを操る強敵であった。最強の敵を相手に最後の闘いの幕が上がる。 以下作品は講談社(講談社プラチナコミックス)より刊行されている。またアンコール刊行も度々行われており、本記事では「アンコール刊行」(1回目のアンコール刊行)、「アンコール刊行!」(2回目のアンコール刊行)と表記している。 『頭文字D』のアニメ化は、これまでフジテレビ系列を主とする地上波放送で2シリーズ、CS放送のアニマックスで2シリーズが放送されたほか、劇場版1作とOVA5作(うち3つは総集編)も製作され、初放送から15年以上が経つ長期作品となっていた。原作が完結した2013年には、原作最後のバトルをアニメ化する『頭文字D Final Stage』の制作と、原作漫画の雰囲気を意識し序盤から再制作した『新劇場版 頭文字D』が2014年夏に公開されることが発表された。なお、新劇場版はテレビアニメ版からキャスト・スタッフが全て交代している。 本作品では車両のほとんどは3DCGで描かれており、車両の形状や挙動、エンジンやスキール音に至るまで忠実に再現している。回によっては実写シーンが導入されることがある。 First Stage放送当時はテレビアニメにCGが導入され始めた時期であったが、本作では毎週放送のスケジュールをこなした上で、走行シーンのカメラワークや背景描写のような手描きアニメでは難しかった表現にも効果を示した。当初はセルアニメのキャラクターとのマッチングに違和感があったが、CG技術の向上と視聴者の慣れによって解消されていった。車両の挙動もFourth Stageなどでは物理シミュレーターを用いており、回を追う毎に自然なものになっている。 ※ゲーム作品に関する詳細は「頭文字D ARCADE STAGE」を参照 First Stageではこれに加えて本放送版及びVHS版から一部BGMと効果音がSecond Stageのものに差し替えになっている。 ただし、一部の動画配信サイトでは現在でも本放送版が配信されており差し替え前のものも視聴可能である。 音楽はエイベックス関連の楽曲が数多く使用されており、激しいカーバトルのBGMに軽快なダンス・ミュージックを流して雰囲気を盛り上げている。 オープニング、エンディングテーマは1st stage以降、その殆どをm.o.v.eが歌っており、バトルシーンにはSUPER EUROBEAT(以下SEB)が使われ、劇中のSEBはサウンドトラックとは別に、「頭文字D D Selectionシリーズ」というコンピレーションアルバムとしてリリースされている。 また、2005年9月から12月にかけて4連続シングルリリースされたm.o.v.eの各曲PVは頭文字Dとのコラボレーション企画とされ、第三弾となった「雷鳴-out of kontrol-」においては、メンバー3人がアニメのキャラクターとなって拓海の操るAE86型トレノと赤いFD3S・RX-7のバトルに巻き込まれる、という内容になっている(motsuが操るFDが先行し、助手席に座るt-kimuraがmotsuのアグレッシヴな走りに悲鳴をあげ、yuriは後追いのAE86の助手席に座って拓海のドライビングに酔いしれる、という内容である)。 新劇場版からはSEBを使用せず、日本のロックバンドの楽曲が使われているが、「Battle Digest」ではSEBを再起用している。 映画の予告で使用された楽曲 ※京都・神奈川エリアにおいては、事実上の再放送となっている。 本作を元にしたアーケードゲーム・家庭用ゲームシリーズ。 2022年、トヨタ・GR86のプロモーション映像企画「GR86 FASTERCLASS」の一環として、拓海が運転するAE86トレノと、土屋圭市が運転するGR86が対決するショートアニメが制作された。本人役として土屋圭市も声優として参加している。アメリカで制作されたプロモーション映像であるため、土屋のGR86は左ハンドル仕様となっている。 『インファナル・アフェア』シリーズのスタッフ陣を中心に実写映画化され、キャストには香港および台湾、日本などアジア各地の若手俳優が起用された。撮影は全て日本で行われ、新潟県の弥彦山スカイラインや群馬県渋川市がその舞台となっている。2005年6月に香港などで公開された後、日本(ギャガ配給)では2005年9月17日から新宿ミラノ他全国で公開された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『頭文字D』(イニシャル・ディー、英語表記: Initial D) は、しげの秀一による走り屋をテーマにした漫画作品。および、漫画を原作にしたテレビアニメ、映画。通称「イニD」。『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて、1995年30号から2013年35号まで連載された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2022年12月時点で累計発行部数は5600万部を突破している。アニメの関連CDは70万枚、ビデオとDVDは合わせて50万本を販売している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "峠道において自動車を高速で走行させることを目的とする走り屋の若者たちを描いた作品である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "峠の走り屋を扱うしげのの漫画作品としては、『バリバリ伝説』『トンネルぬけたらスカイ☆ブルー』に続く3作品目となる。本作ではアマチュアドライバーの主人公が関東各地の走り屋との対戦を重ねながら、“公道最速”を目指していく姿が描かれている。また、主人公が属する精鋭チーム「プロジェクトD」の県外遠征を、各エリアの有力チームが迎えうつという対抗戦も本作の特徴である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "作中に登場する秋名山(あきなさん)は架空の地名であり、実在しない。そのモデルは群馬県にある上毛三山の一つ、榛名山(はるなさん)。その他の地名は実名。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "作品タイトル「D」の意味は、「ドリフト(drift)のD」であると作者が発言している。一方で、プロジェクトDの「D」に関しては、作中で高橋涼介が複数の意味を持つ言葉であるように語っているが、その一つは「Dream(夢)」である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "主人公の藤原拓海が公道バトルで乗るトヨタ・スプリンタートレノ・AE86型、通称「ハチロク」は1987年に生産終了していたが、本作の人気に伴い中古車市場価格が高騰する現象を生んだ。AE86自体、本作連載以前から人気は高かったものの、その中心は兄弟車のカローラレビンであり、レビンと比べてモータースポーツ参戦も少なかったトレノは不人気車種であり、新車生産台数の少なさも相まって人気の逆転現象も生じた。後にそれらの現象の影響は、2012年にトヨタ自動車から発売された小型FRスポーツカー「トヨタ・86」を生み出したきっかけの一部ともなっている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本作の愛読者には土屋圭市、織戸学、谷口信輝、今村陽一などのレーシングドライバーがおり、特に土屋圭市はアニメ版の監修やハチロクのエンジン音・スキール音の収録を務め、作品に深く関わっている。アニメ版終了後に公開された新劇場版においては谷口信輝が監修やハチロクのエンジン音・スキール音の収録を務め、土屋同様に作品に深く関わっている。また、2009年に刊行された増刊本『頭文字D THE MESSAGE』では前述の土屋、谷口のほか片山右京、新井敏弘、山野哲也、飯田章、石浦宏明、服部尚貴、中嶋悟らも本作の読者としてコメントを寄せている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アニメの出演者で、藤原拓海を演じる三木眞一郎と高橋啓介を演じる関智一なども影響を受け、三木は主人公の愛車である「ハチロク」を購入し、関は当初所持していなかった自動車運転免許を取得。また、中里毅を演じた檜山修之も「この作品をもっと早く知っていたらスカイラインGT-R(R32)に乗っていたかもしれない」とコメントしている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "作中に登場する技術「溝落とし」や、「インベタのさらにイン」などを実際に真似ようとする読者や視聴者が現れるようになったため、連載途中およびテレビアニメ版では読者・視聴者に対して「道路交通法を守り、安全運転を心がけてください」と警告するメッセージが表示される。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "実写映画化の際、主人公の実家の豆腐店として利用された藤野屋豆腐店は映画撮影後も「藤原豆腐店」の看板のままで営業を続けたが、店主の高齢化と土地区画整理事業により2007年頃に閉店した。建物は2009年に解体され、店舗跡地は区画整理で新興住宅地や道路へと変貌を遂げ、店舗があった頃の面影はほぼ皆無になったが、看板などは伊香保おもちゃと人形自動車博物館に移設され、同館の館内にて往時の姿が再現されている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本作のパロディに、自動車を鉄道車両に置き換えた同人誌作品『電車でD』が存在する。2014年の新劇場版公開に際して開催されたイベント「新劇場版『頭文字D』Legend1-覚醒-公開記念86“超”夏祭りin Daiba at MEGA WEB」では、コミックマーケット86との連動企画で『電車でD』のポスターがMEGA WEBに展示された。これに際しては、講談社から了承を得たことも明らかにされている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、本作品の主要な舞台となった群馬県渋川市では、2020年頃からアニメや漫画のファンが舞台になった場所を訪れる「アニメツーリズム」を推進しており、本作品の絵柄が描かれたマンホールの設置、ラッピングバスの運行(群馬バス・関越交通)などを行っている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "海外でも日本車好きたちを中心に熱い支持があり、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」ではドイツ人のファンがハチロクをレンタルして本作の聖地巡りをする様子が放送された。本職のラリードライバーにも知られており、2022年のWRC(世界ラリー選手権)ラリージャパンの開催前にオリバー・ソルベルグは第一巻の表紙を自画像風にアレンジした画像を投稿している また同年に史上最年少王者となったトヨタのカッレ・ロバンペラも、SS18恵那のステージ後インタビューで「頭文字Dのように豆腐を運んだよ」と冗談混じりでコメントしている。次戦となる2023年WRC初戦ラリー・モンテカルロでは、ニコライ・グリヤジンがシュコダ・ファビア ラリー2に「藤原とうふ店(自家用)」と書いて参戦し、名所チュリニ峠で最速タイムを叩き出した。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "コミックス17巻/アニメ3rd Stageをターニングポイントとして、大きく高校生時代とプロジェクトD編に分かれる。さらにアニメでは、高校生時代を1st Stageから3rd Stage、プロジェクトD編を4th StageからFinal Stageと、各3ステージに細分化される。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "(〜 コミックス17巻 Vol.191/〜 アニメ3rd Stage)", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "藤原拓海(ふじわら たくみ)は群馬県渋川市に住む一見ごく普通の高校生だが、父が営む「藤原とうふ店」の配送を中学生時代から手伝い、秋名山の峠道で日々AE86型(ハチロク)スプリンタートレノを走らせるうちに、非凡なドライビングテクニックを身に着けていた。それは全て、かつて「伝説の走り屋」と言われていた父・藤原文太(ふじわら ぶんた)による英才教育だった。ある日、赤城山を本拠地とする走り屋チーム「赤城レッドサンズ」のNo.2である高橋啓介(たかはし けいすけ)に勝利したことで、「秋名のハチロク」の噂は群馬県内全域に広まっていく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "啓介の兄でレッドサンズの代表を務める高橋涼介(たかはし りょうすけ)に勝利し、名実共に「秋名のハチロク」の名は瞬く間に県内の走り屋達に知れ渡る。だがそれとは裏腹に、ハチロクのエンジンは限界を告げ始めていた。そんな中、栃木県日光市から、須藤京一(すどう きょういち)率いるランエボ軍団「エンペラー」が群馬県内に攻撃を仕掛けて来た。県内各地がエンペラーによって制圧され、遂に秋名にまで侵攻して来た。拓海は最新の装備で武装したランエボの挑戦を受ける事になる。一方、文太もハチロクの限界を察知し、エンジンブローに備え、非公式なルートで新たなエンジンを入手していた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Third Stageは劇場版となる。高橋涼介に、以前より計画していた群馬県外遠征チームへの参加を要請された拓海は、自らの走りに限界を感じ始め、「速くなる為には知識が必要」との涼介の指摘に心を動かされる。これまで状況に流されるままバトルを受ける拓海だったが、手練の走り屋たちの挑戦を経て、次第に自分の才能と夢を見つめなおすようになっていった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "(コミックス17巻 Vol.192 〜/ゲームSpecial Stageストーリーモード第3部 〜 アニメFinal Stage)", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "やがて、拓海は「頂点に立つドライバーになる」という夢を持ち、高橋涼介が設立した群馬選抜チーム「プロジェクトD」のメンバーに加わる。プロジェクトDは「1年間のみの限定活動」「関東完全制圧」を謳い、拓海がダウンヒル(下り)、啓介がヒルクライム(登り)を受け持つダブルエース体制で、県外の名だたる峠道へ遠征する。拓海は愛車ハチロクを自在に操り、誰の目にも圧倒的に速いと思える車を相手に対等な勝負を繰り広げ、公道最速伝説を築いていく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "栃木県・埼玉県・茨城県を制覇した群馬選抜チーム「プロジェクトD」の活動は、最後にして最難関の神奈川県へと舞台を移す。そこには北条豪率いる「サイドワインダー」による「4段階の防衛ライン」が敷かれていた。一方で神奈川県内には、「死神GT-R」の出没情報が多数報告されていた。その死神GT-Rの正体を知る涼介は、チームの活動とは別に、超高速コース・箱根ターンパイクでお互いの生死を賭けたバトルを計画する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「プロジェクトD」vs「サイドワインダー」神奈川最終戦。拓海と対戦する「サイドワインダー」ダウンヒル担当ドライバー・乾信司(いぬい しんじ)もまた、ハチロクを操る強敵であった。最強の敵を相手に最後の闘いの幕が上がる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "以下作品は講談社(講談社プラチナコミックス)より刊行されている。またアンコール刊行も度々行われており、本記事では「アンコール刊行」(1回目のアンコール刊行)、「アンコール刊行!」(2回目のアンコール刊行)と表記している。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『頭文字D』のアニメ化は、これまでフジテレビ系列を主とする地上波放送で2シリーズ、CS放送のアニマックスで2シリーズが放送されたほか、劇場版1作とOVA5作(うち3つは総集編)も製作され、初放送から15年以上が経つ長期作品となっていた。原作が完結した2013年には、原作最後のバトルをアニメ化する『頭文字D Final Stage』の制作と、原作漫画の雰囲気を意識し序盤から再制作した『新劇場版 頭文字D』が2014年夏に公開されることが発表された。なお、新劇場版はテレビアニメ版からキャスト・スタッフが全て交代している。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "本作品では車両のほとんどは3DCGで描かれており、車両の形状や挙動、エンジンやスキール音に至るまで忠実に再現している。回によっては実写シーンが導入されることがある。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "First Stage放送当時はテレビアニメにCGが導入され始めた時期であったが、本作では毎週放送のスケジュールをこなした上で、走行シーンのカメラワークや背景描写のような手描きアニメでは難しかった表現にも効果を示した。当初はセルアニメのキャラクターとのマッチングに違和感があったが、CG技術の向上と視聴者の慣れによって解消されていった。車両の挙動もFourth Stageなどでは物理シミュレーターを用いており、回を追う毎に自然なものになっている。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "※ゲーム作品に関する詳細は「頭文字D ARCADE STAGE」を参照", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "First Stageではこれに加えて本放送版及びVHS版から一部BGMと効果音がSecond Stageのものに差し替えになっている。 ただし、一部の動画配信サイトでは現在でも本放送版が配信されており差し替え前のものも視聴可能である。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "音楽はエイベックス関連の楽曲が数多く使用されており、激しいカーバトルのBGMに軽快なダンス・ミュージックを流して雰囲気を盛り上げている。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "オープニング、エンディングテーマは1st stage以降、その殆どをm.o.v.eが歌っており、バトルシーンにはSUPER EUROBEAT(以下SEB)が使われ、劇中のSEBはサウンドトラックとは別に、「頭文字D D Selectionシリーズ」というコンピレーションアルバムとしてリリースされている。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、2005年9月から12月にかけて4連続シングルリリースされたm.o.v.eの各曲PVは頭文字Dとのコラボレーション企画とされ、第三弾となった「雷鳴-out of kontrol-」においては、メンバー3人がアニメのキャラクターとなって拓海の操るAE86型トレノと赤いFD3S・RX-7のバトルに巻き込まれる、という内容になっている(motsuが操るFDが先行し、助手席に座るt-kimuraがmotsuのアグレッシヴな走りに悲鳴をあげ、yuriは後追いのAE86の助手席に座って拓海のドライビングに酔いしれる、という内容である)。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "新劇場版からはSEBを使用せず、日本のロックバンドの楽曲が使われているが、「Battle Digest」ではSEBを再起用している。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "映画の予告で使用された楽曲", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "※京都・神奈川エリアにおいては、事実上の再放送となっている。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "本作を元にしたアーケードゲーム・家庭用ゲームシリーズ。", "title": "メディア展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2022年、トヨタ・GR86のプロモーション映像企画「GR86 FASTERCLASS」の一環として、拓海が運転するAE86トレノと、土屋圭市が運転するGR86が対決するショートアニメが制作された。本人役として土屋圭市も声優として参加している。アメリカで制作されたプロモーション映像であるため、土屋のGR86は左ハンドル仕様となっている。", "title": "メディア展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『インファナル・アフェア』シリーズのスタッフ陣を中心に実写映画化され、キャストには香港および台湾、日本などアジア各地の若手俳優が起用された。撮影は全て日本で行われ、新潟県の弥彦山スカイラインや群馬県渋川市がその舞台となっている。2005年6月に香港などで公開された後、日本(ギャガ配給)では2005年9月17日から新宿ミラノ他全国で公開された。", "title": "実写版" } ]
『頭文字D』 は、しげの秀一による走り屋をテーマにした漫画作品。および、漫画を原作にしたテレビアニメ、映画。通称「イニD」。『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて、1995年30号から2013年35号まで連載された。 2022年12月時点で累計発行部数は5600万部を突破している。アニメの関連CDは70万枚、ビデオとDVDは合わせて50万本を販売している。
{{出典の明記|date = 2020年11月}} {{Infobox animanga/Header |タイトル={{ruby|頭文字|イニシャル}}D |ジャンル=[[青年漫画]]、[[自動車漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者= [[しげの秀一]] |出版社= [[講談社]] |掲載誌= [[週刊ヤングマガジン]] |レーベル= [[ヤンマガKC]] |開始号= 1995年30号 |終了号= 2013年35号 |開始日= 1995年7月17日 |終了日= 2013年7月29日 |巻数= 全48巻 |話数= 全719話 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= 頭文字D<br />頭文字D Second Stage<br />頭文字D Fourth Stage<br />頭文字D Fifth Stage<br />頭文字D Final Stage |原作= しげの秀一 |監督= [[三沢伸]]{{small|(頭文字D)}}<br />[[政木伸一]]{{small|(2nd Stage)}}<br />[[冨永恒雄]]{{small|(4th Stage)}}<br />[[橋本みつお]]{{small|(5th Stage、Final Stage)}} |脚本= [[戸田博史 (脚本家)|戸田博史]]{{small|( - 2nd Stage)}}<br />[[岸間信明]]{{small|(4th Stage、5th Stage、Final Stage)}} |キャラクターデザイン= [[古瀬登]]{{small|(頭文字D)}}<br />[[佐藤正樹]]{{small|(2nd Stage、5th Stage、Final Stage)}}<br />[[加野晃]]{{small|(4th Stage)}} |メカニックデザイン= 横井秀章 |アニメーション制作= [[スタジオコメット]]、[[スタジオぎゃろっぷ]]{{small|(頭文字D)}}<br />パステル{{small|(2nd Stage)}}<br />[[エー・シー・ジー・ティー|A.C.G.T]]{{small|(4th Stage)}}<br />[[SynergySP]]{{small|(5th Stage、Final Stage)}} |製作= プライム・ディレクション{{small|( - 2nd Stage)}}<br />[[トゥーマックス]]<br />{{small|(4th Stage ACT.1 - ACT.10)}}<br />ウェッジリンク<br />{{small|(4th Stage ACT.11 - ACT.24、5th Stage、Final Stage)}}<br />[[オービー企画]]{{small|( - 4th Stage)}} |放送局= [[フジネットワーク|FNS]]系列の[[#放送局|一部の局]] / [[京都放送|KBS京都]]<br />[[アニマックス]]<br />[[パーフェクト・チョイス|パーフェクト チョイス プレミア]] |放送開始= 1998年{{small|(頭文字D)}} |放送終了= 2006年{{small|(4th Stage)}}<br />2012年11月9日<ref group="注" name="precedence">同年11月4日にアニマックスで第1話のみ先行放送。</ref> - <br />2013年5月10日<ref group="注" name="repeat">その後もリピート放送あり。ただし、放送チャンネルである[[パーフェクト・チョイス]]は2013年9月30日に全放送を終了した。</ref>{{small|(5th Stage)}}<br />2014年5月16日 - 6月22日{{small|(Final Stage)}} |話数=全81話<br /> :頭文字D:26話<br /> :2nd Stage:13話<br /> :4th Stage:24話<br /> :5th Stage:14話<br /> :Final Stage:4話 }} {{Infobox animanga/OVA |タイトル= Extra Stage インパクトブルーの彼方に… |原作= しげの秀一 |監督= 山口史嗣 |キャラクターデザイン= 佐藤正樹 |メカニックデザイン= 横井秀章 |アニメーション制作= |製作=オービー企画 |発売日= |話数=1話 }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= Third Stage -INITIAL D THE MOVIE- |監督= 山口史嗣 |脚本= 戸田博史、岸間信明 |キャラクターデザイン= 佐藤和巳 |音楽= 勝又隆一 |制作= [[スタジオディーン]] |封切日= 2001年1月13日 |上映時間= 103分 }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= [[頭文字D (映画)|頭文字D THE MOVIE(実写映画)]] |原作= しげの秀一 |監督= アンドリュー・ラウ([[劉偉強]])<br />アラン・マック([[麥兆輝]]) |脚本= フェリックス・チョン(莊文強) |音楽= コンフォート・チャン([[陳光栄]]) |制作= [[Media Asia]]({{Lang|zh-hk|寰亞電影}})/[[エイベックス]] |封切日= 2005年6月23日 |上映時間= 109分 }} {{Infobox animanga/Movie |タイトル= 新劇場版 頭文字D<br />Legend1 -覚醒-<br />Legend2 -闘走-<br />Legend3 -夢現- |原作= しげの秀一 |総監督= [[日高政光]](闘走、夢現) |監督= 日高政光(覚醒)<br />中智仁(闘走、夢現) |脚本= [[関島眞頼]] |キャラクターデザイン= [[羽田浩二]] |音楽= [[土橋安騎夫]] |制作= [[サンジゲン]]、[[ライデンフィルム]] |封切日= 2014年{{small|(覚醒)}}<br />2015年{{small|(闘走)}}<br />2016年{{small|(夢現)}} |上映時間= 62分{{small|(覚醒)}}<br />61分{{small|(闘走)}}<br />65分{{small|(夢現)}} }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]、[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]、[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''頭文字D'''』(イニシャル・ディー、[[英語]]表記: Initial D) は、[[しげの秀一]]による[[走り屋]]をテーマにした[[漫画]]作品。および、漫画を原作にした[[テレビアニメ]]、[[映画]]。通称「'''イニD'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2016/04/29/274461.html |title= 理論のヒントは「イニD」? マツダ G-VECTORING CONTROL 、“違和感ない制御”の秘密|date=2016-04-29|accessdate=2020-03-25|publisher=[[Response.]]}}</ref>。『[[週刊ヤングマガジン]]』([[講談社]])にて、1995年30号から2013年35号まで連載された。 2022年12月時点で累計発行部数は5600万部を突破している<ref>{{Cite press release|和書|title=累計発行部数5600万部超のしげの秀一氏マンガ作品『頭文字D』× JAPAN AVE.コラボ第2弾を発表|publisher=株式会社 NOQQLY|date=2022-12-22|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000018.000055666.html|accessdate=2023-01-11|work=PR TIMES}}</ref>。アニメの関連CDは70万枚、ビデオとDVDは合わせて50万本を販売している<ref>オフィシャルファンブック「頭文字D ALL ABOUT THE BATTLE」より。</ref>。 == 概要 == 峠道において自動車を高速で走行させることを目的とする[[走り屋]]の若者たちを描いた作品である。 峠の走り屋を扱うしげのの漫画作品としては、『[[バリバリ伝説]]』『[[トンネルぬけたらスカイ☆ブルー]]』に続く3作品目となる。本作ではアマチュアドライバーの主人公が[[関東地方|関東]]各地の走り屋との対戦を重ねながら、“公道最速”を目指していく姿が描かれている。また、主人公が属する精鋭チーム「プロジェクトD」の県外遠征を、各エリアの有力チームが迎えうつという対抗戦も本作の特徴である。 作中に登場する'''秋名山'''(あきなさん)は架空の地名であり、実在しない{{Efn2|[[日本郵便|日本郵便株式会社]]がインターネット上で配布している「郵便番号データダウンロード」によると、日本国内において「秋名」と表記する地名は[[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[龍郷町]]秋名が唯一である。 https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/kogaki/zip/ken_all.zip 2013年8月28日閲覧}}。そのモデルは[[群馬県]]にある[[上毛三山]]の一つ、'''[[榛名山]]'''(はるなさん)。その他の地名は実名<ref>書籍『頭文字Dの軌跡 疾走の記』内「THE SETTING OF INITIALD 走りの舞台」、他。</ref>。 作品の舞台となる年代は、第1話の冒頭に[[1990年代|199X年]]と表記されている{{Efn2|年代として明言されているのは 「[[トヨタ・スプリンタートレノ#5代目 AE91/92型(1987年 - 1991年)|AE92]]が出た(1987年)のがお前ら(当時18歳の拓海・樹)がまだ小学生低学年の頃」とする池谷のセリフがあり、初期設定では[[1996年|1996]]〜[[1999年|99年]]前後と推測できる。}}。また、[[三菱・ランサーエボリューション#ランサーエボリューションVII|三菱・ランサーエボリューションVII]](2001~)や[[日産・フェアレディZ Z33|日産・フェアレディZ(Z33型)]](2002~)など、2000年代に発売された車も登場しており、現実とは時間軸が異なる。 作品タイトル「D」の意味は、「[[ドリフト走行|ドリフト(drift)]]のD」であると作者が発言している。一方で、プロジェクトDの「D」に関しては、作中で高橋涼介が複数の意味を持つ言葉であるように語っているが、その一つは「Dream([[夢]])」である<ref group="注" name="dream" />。 == 反響 == [[ファイル:AE86.jpg|thumb|left|240px|主人公の愛車となる[[トヨタ・スプリンタートレノ]][[AE86]] 3ドア]] 主人公の[[藤原拓海]]が公道バトルで乗る[[トヨタ・スプリンタートレノ]]・AE86型、通称「'''ハチロク'''」は1987年に生産終了していたが、本作の人気に伴い中古車市場価格が高騰する現象を生んだ<ref>[https://www.webcartop.jp/2016/07/45281/ 【いきなり人気急上昇】テレビやマンガの影響で話題になったクルマ4選!] (2016年7月13日). 2021年2月28日閲覧。</ref>。AE86自体、本作連載以前から人気は高かったものの、その中心は兄弟車の[[トヨタ・カローラレビン|カローラレビン]]であり、レビンと比べてモータースポーツ参戦も少なかったトレノは不人気車種であり、新車生産台数の少なさ{{Efn2|総生産台数はレビンが約6万6千台、トレノが約3万6千台。}}も相まって人気の逆転現象も生じた。後にそれらの現象の影響は、2012年に[[トヨタ自動車]]から発売された小型FRスポーツカー「[[トヨタ・86]]」を生み出したきっかけの一部ともなっている<ref>[https://response.jp/article/2014/08/13/229889.html 【頭文字D × レスポンス】頭文字Dなくして トヨタ 86 はなかった…多田哲哉開発主査] (2014年8月13日). 2021年2月28日閲覧。</ref><ref>[https://mantan-web.jp/article/20140814dog00m200058000c.html 頭文字D:新型ハチロクは「マンガのおかげ」] (2014年08月14日). 2021年2月28日閲覧。</ref>。 本作の愛読者には[[土屋圭市]]、[[織戸学]]、[[谷口信輝]]、[[今村陽一]]{{Efn2|この4選手はいわゆる走り屋出身で、ハチロクに乗っていたこともある。}}などのレーシングドライバーがおり<ref>書籍『頭文字D 拓海伝説』内「第3部 ドリコン軍団 拓海を語る」「第6部 写真で見るドリフト理論講座 これが拓海の速いドリフトだ!」「第9部 ドリフトキング土屋圭市から藤原拓海へ」</ref>、特に土屋圭市はアニメ版の監修やハチロクのエンジン音・[[スキール音]]の収録を務め、作品に深く関わっている。アニメ版終了後に公開された新劇場版においては谷口信輝が監修やハチロクのエンジン音・[[スキール音]]の収録を務め、土屋同様に作品に深く関わっている。また、2009年に刊行された増刊本『頭文字D THE MESSAGE』では前述の土屋、谷口のほか[[片山右京]]、[[新井敏弘]]、[[山野哲也]]、[[飯田章]]、[[石浦宏明]]、[[服部尚貴]]、[[中嶋悟]]らも本作の読者としてコメントを寄せている。 アニメの出演者で、藤原拓海を演じる[[三木眞一郎]]と[[頭文字Dの登場人物#高橋 啓介|高橋啓介]]を演じる[[関智一]]なども影響を受け、三木は主人公の愛車である「ハチロク」を購入し、関は当初所持していなかった自動車運転免許を取得。また、[[頭文字Dの登場人物#中里 毅|中里毅]]を演じた[[檜山修之]]も「この作品をもっと早く知っていたら[[日産・スカイラインGT-R|スカイラインGT-R(R32)]]に乗っていたかもしれない」とコメントしている{{要出典|date=2020年11月}}。 作中に登場する技術「[[溝落とし]]」や、「インベタのさらにイン」などを実際に真似ようとする読者や視聴者が現れるようになったため、連載途中およびテレビアニメ版では読者・視聴者に対して「[[道路交通法]]を守り、安全運転を心がけてください」と警告するメッセージが表示される。 {{multiple image | align = right | direction = horizontal | footer = | image1 = 藤原豆腐店 - panoramio (cropped).jpg | width1 = 120 | alt1 = | caption1 = 藤原豆腐店、2007年 | image2 = Fujiwara Tofu 2018-12.jpg | width2 = 120 | alt2 = | caption2 = 同跡地、2018年 }} 実写映画化の際、主人公の実家の豆腐店として利用された藤野屋豆腐店は映画撮影後も「藤原豆腐店」の看板のままで営業を続けたが、店主の高齢化と[[土地区画整理事業]]により2007年頃に閉店した。建物は2009年に解体され、店舗跡地は区画整理で新興住宅地や道路へと変貌を遂げ、店舗があった頃の面影はほぼ皆無になったが、看板などは[[伊香保おもちゃと人形自動車博物館]]に移設され、同館の館内にて往時の姿が再現されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://we-love.gunma.jp/kanko/ikaho-omocha|title =「伊香保おもちゃと人形自動車博物館」は“頭文字D”ファンの聖地!|date = 2018-11-09|accessdate = 2020-03-25|publisher =群馬の情報サイトWe love 群馬}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://minkara.carview.co.jp/userid/1513861/spot/823374/ |title=伊香保おもちゃと人形自動車博物館 〜群馬県吉岡町 |publisher=[[みんカラ]] |accessdate=2020-03-25 }}</ref>。 本作のパロディに、自動車を[[鉄道車両]]に置き換えた[[同人誌]]作品『電車でD』が存在する<ref>[http://m-ex.jp/ 同人サークル ○急電鉄公式サイト]</ref>。2014年の新劇場版公開に際して開催されたイベント「新劇場版『頭文字D』Legend1-覚醒-公開記念86“超”夏祭りin Daiba at [[MEGA WEB]]」では、[[コミックマーケット]]86との連動企画で『電車でD』のポスターがMEGA WEBに展示された。これに際しては、講談社から了承を得たことも明らかにされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2014/08/12/79415.html |title =「頭文字D」と「電車でD」がついに共演?コミケ86/MEGA WEB/東京ジョイポリスが連動イベントを実施(インサイド)|date=2014-08-12|accessdate=2020-03-26}}</ref>。 また、本作品の主要な舞台となった[[群馬県]][[渋川市]]では、2020年頃から[[巡礼 (通俗)|アニメや漫画のファンが舞台になった場所を訪れる]]「アニメツーリズム」を推進しており、本作品の絵柄が描かれた[[マンホール]]の設置、ラッピングバスの運行([[群馬バス]]・[[関越交通]])などを行っている<ref>[https://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/matsuri/otherevent/p007544.html 人気漫画「頭文字D」とコラボしたアニメツーリズムを推進します!]</ref>。 海外でも日本車好きたちを中心に熱い支持があり、[[テレビ東京]]の「[[YOUは何しに日本へ?]]」ではドイツ人のファンがハチロクをレンタルして本作の聖地巡りをする様子が放送された<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/youhananishini/smp/backnumber/141027.html]</ref>。本職のラリードライバーにも知られており、[[2022年]]のWRC([[世界ラリー選手権]])[[ラリージャパン]]の開催前に[[オリバー・ソルベルグ]]は第一巻の表紙を自画像風にアレンジした画像を投稿している<ref>[https://twitter.com/OliverSolberg01/status/1590452968897531904?t=qo0r_27paeS4WMXVfsBtZw&s=19 OliverSolberg01さんのツイート]</ref> また[[2022年の世界ラリー選手権|同年]]に史上最年少王者となった[[GR_(トヨタ自動車)#GAZOO_Racing|トヨタ]]の[[カッレ・ロバンペラ]]も、SS18恵那のステージ後インタビューで「頭文字Dのように豆腐を運んだよ」と冗談混じりでコメントしている<ref>[https://twitter.com/KalleRovanpera/status/1591633450133753856?t=mGG_CvAlz_9uxbDHBlLZEw&s=19 KalleRovanperaさんのツイート]</ref>。次戦となる[[2023年の世界ラリー選手権|2023年WRC]]初戦[[ラリー・モンテカルロ]]では、[[ニコライ・グリヤジン]]が[[シュコダ・ファビアR5|シュコダ・ファビア ラリー2]]に「藤原とうふ店(自家用)」と書いて参戦し、名所チュリニ峠で最速タイムを叩き出した<ref>[http://rallyx.net/news/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%B5%E5%BA%97%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3%E3%83%80%E3%81%8C%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E5%B3%A0%E6%9C%80%E9%80%9F-22174/ 藤原とうふ店シュコダがチュリニ峠最速]</ref>。 == あらすじ == コミックス17巻/アニメ3rd Stageをターニングポイントとして、大きく高校生時代とプロジェクトD編に分かれる。さらにアニメでは、高校生時代を1st Stageから3rd Stage、プロジェクトD編を4th StageからFinal Stageと、各3ステージに細分化される。 === 高校生時代 === (〜 コミックス17巻 Vol.191/〜 アニメ3rd Stage) ==== アニメFirst Stage<ref>なおアニメ放送当時および作中では単に「頭文字D」としか表記されておらず、Firstの表記は後年パッケージや配信サイト等で追加されたもの。</ref> ==== [[藤原拓海]](ふじわら たくみ)は[[群馬県]][[渋川市]]に住む一見ごく普通の高校生だが、父が営む「藤原とうふ店」の配送を中学生時代から手伝い、秋名山の峠道で日々[[トヨタ・AE86|AE86型(ハチロク)]][[トヨタ・スプリンタートレノ|スプリンタートレノ]]を走らせるうちに、非凡なドライビングテクニックを身に着けていた。それは全て、かつて「伝説の走り屋」と言われていた父・[[頭文字Dの登場人物#藤原 文太|藤原文太(ふじわら ぶんた)]]による英才教育だった。ある日、[[赤城山]]を本拠地とする走り屋チーム「[[頭文字Dの登場人物#赤城レッドサンズ|赤城レッドサンズ]]」のNo.2である[[頭文字Dの登場人物#高橋 啓介|高橋啓介]](たかはし けいすけ)に勝利したことで、「'''秋名のハチロク'''」の噂は群馬県内全域に広まっていく。 ==== アニメSecond Stage ==== 啓介の兄でレッドサンズの代表を務める[[頭文字Dの登場人物#高橋 涼介|高橋涼介]](たかはし りょうすけ)に勝利し、名実共に「秋名のハチロク」の名は瞬く間に県内の走り屋達に知れ渡る。だがそれとは裏腹に、ハチロクのエンジンは限界を告げ始めていた。そんな中、[[栃木県]][[日光市]]から、[[頭文字Dの登場人物#須藤 京一|須藤京一(すどう きょういち)]]率いる[[三菱・ランサーエボリューション|ランエボ]]軍団「[[頭文字Dの登場人物#エンペラー|エンペラー]]」が群馬県内に攻撃を仕掛けて来た。県内各地がエンペラーによって制圧され、遂に秋名にまで侵攻して来た。拓海は最新の装備で武装したランエボの挑戦を受ける事になる。一方、文太も[[藤原拓海#搭乗車種|ハチロク]]の限界を察知し、エンジンブローに備え、非公式なルートで新たなエンジンを入手していた。 ==== アニメThird Stage ==== Third Stageは劇場版となる。高橋涼介に、以前より計画していた群馬県外遠征チームへの参加を要請された拓海は、自らの走りに限界を感じ始め、「速くなる為には知識が必要」との涼介の指摘に心を動かされる。これまで状況に流されるままバトルを受ける拓海だったが、手練の走り屋たちの挑戦を経て、次第に自分の才能と夢を見つめなおすようになっていった。 === プロジェクトD編 === (コミックス17巻 Vol.192 〜/[[頭文字D ARCADE STAGE#頭文字D STREET STAGE(ストリートステージ)|ゲームSpecial Stage]]ストーリーモード第3部 〜 アニメFinal Stage) ==== アニメFourth Stage ==== やがて、拓海は「頂点に立つドライバーになる」という夢を持ち、[[頭文字Dの登場人物#高橋 涼介|高橋涼介]]が設立した群馬選抜チーム「'''[[頭文字Dの登場人物#プロジェクトD|プロジェクトD]]'''」のメンバーに加わる。プロジェクトDは「1年間のみの限定活動」「関東完全制圧」を謳い、拓海が[[ダウンヒル]](下り)、啓介が[[ヒルクライム]](登り)を受け持つダブルエース体制で、県外の名だたる峠道へ遠征する。拓海は愛車ハチロクを自在に操り、誰の目にも圧倒的に速いと思える車を相手に対等な勝負を繰り広げ、公道最速伝説を築いていく。 ==== アニメFifth Stage ==== [[栃木県]]・[[埼玉県]]・[[茨城県]]を制覇した群馬選抜チーム「プロジェクトD」の活動は、最後にして最難関の[[神奈川県]]へと舞台を移す。そこには[[頭文字Dの登場人物#北条 豪|北条豪]]率いる「'''[[頭文字Dの登場人物#サイドワインダー|サイドワインダー]]'''」による「4段階の防衛ライン」が敷かれていた。一方で神奈川県内には、「'''[[頭文字Dの登場人物#死神GT-R|死神GT-R]]'''」の出没情報が多数報告されていた。その死神GT-Rの[[頭文字Dの登場人物#北条 凛|正体]]を知る涼介は、チームの活動とは別に、超高速コース・[[箱根ターンパイク]]でお互いの生死を賭けたバトルを計画する。 ==== アニメFinal Stage ==== 「プロジェクトD」vs「サイドワインダー」神奈川最終戦。拓海と対戦する「サイドワインダー」ダウンヒル担当ドライバー・[[頭文字Dの登場人物#乾 信司|乾信司(いぬい しんじ)]]もまた、ハチロクを操る強敵であった。最強の敵を相手に最後の闘いの幕が上がる。 == 登場人物とその愛車 == {{Main|頭文字Dの登場人物}} == 書誌情報 == === 単行本 === * しげの秀一 『頭文字D』 講談社〈ヤンマガKC〉、全48巻 *# 1995年11月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006854|title=頭文字D(1)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-323567-X}} *# 1996年2月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006870|title=頭文字D(2)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-323583-1}} *#* 巻末に主人公によるドリフト講座(前編)が収録されている。 *#* 初版本にタイトルロゴの白い3本線が黒いミスプリント本が出版された(発行部数全体の1/10程度)<ref>第3巻の巻末コメントより。</ref>。 *# 1996年5月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006885|title=頭文字D(3)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-323583-1}} *#* 巻末に主人公によるドリフト講座(後編)が収録されている。 *# 1996年8月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008297|title=頭文字D(4)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336613-8}} *# 1996年12月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008321|title=頭文字D(5)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336637-5}} *# 1997年2月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008334|title=頭文字D(6)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336650-2}} *#* 巻末にスタジオS・S・Oの制作スタッフ紹介が収録されている。 *# 1997年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008354|title=頭文字D(7)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336670-7}} *# 1997年9月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008370|title=頭文字D(8)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336686-3}} *#* 巻末にキャラクターアンケートの集計結果が収録されている。 *# 1997年12月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008386|title=頭文字D(9)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336706-1}} *# 1998年2月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008397|title=頭文字D(10)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336718-5}} *# 1998年4月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008415|title=頭文字D(11)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336736-3}} *# 1998年8月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008430|title=頭文字D(12)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336751-7}} *# 1998年11月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008444|title=頭文字D(13)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336765-7}} *#* 巻末に連載3周年150回記念の原作者インタビューが収録されている。 *# 1999年3月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008462|title=頭文字D(14)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336786-X}} *# 1999年5月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008475|title=頭文字D(15)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336799-1}} *# 1999年8月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008493|title=頭文字D(16)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336818-1}} *#* 巻末に原作者コメントが収録されている。 *# 1999年12月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008515|title=頭文字D(17)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336840-8}} *# 2000年4月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008535|title=頭文字D(18)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336860-2}} *# 2000年8月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008562|title=頭文字D(19)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336887-4}} *# 2000年12月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008592|title=頭文字D(20)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336919-6}} *# 2001年4月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008620|title=頭文字D(21)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336948-X}} *# 2001年9月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008640|title=頭文字D(22)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-336969-2}} *# 2001年12月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010373|title=頭文字D(23)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361012-8}} *# 2002年6月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010403|title=頭文字D(24)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361043-8}} *# 2002年10月31日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010433|title=頭文字D(25)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361073-X}} *# 2003年3月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010477|title=頭文字D(26)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361118-3}} *# 2003年9月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010503|title=頭文字D(27)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361145-0}} *# 2004年3月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010566|title=頭文字D(28)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361209-0}} *# 2004年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010610|title=頭文字D(29)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361253-8}} *# 2004年11月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010639|title=頭文字D(30)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361283-X}} *#* 巻末にヤングマガジンGT増刊2001年1月10日号『頭文字D番外編 ウエストゲート』が収録されている。 *# 2005年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010682|title=頭文字D(31)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361327-5}} *# 2005年11月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010736|title=頭文字D(32)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361381-X}} *# 2006年8月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010816|title=頭文字D(33)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361462-X}} *#* 巻末にヤングマガジンGT増刊2001年9月1日号『頭文字D番外編 ウエストゲート2』が収録されている。 *# 2006年11月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010842|title=頭文字D(34)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-361488-3}} *# 2007年5月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010905|title=頭文字D(35)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361552-4}} *# 2007年10月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000010951|title=頭文字D(36)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361598-2}} *# 2008年4月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011016|title=頭文字D(37)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361664-4}} *# 2008年12月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011073|title=頭文字D(38)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361723-8}} *# 2009年7月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011171|title=頭文字D(39)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361822-8}} *#* 7月6日発売の初版本に乱丁が発生し、一旦発売中止となり自主回収後<ref>『頭文字D』第39巻に関するお知らせ。</ref>、7月24日に再発売された。 *# 2009年12月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011203|title=頭文字D(40)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361854-9}} *# 2010年8月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011265|title=頭文字D(41)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361918-8}} *# 2011年1月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011327|title=頭文字D(42)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-361980-5}} *# 2011年7月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016352|title=頭文字D(43)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382048-5}} *# 2012年1月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016426|title=頭文字D(44)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382123-9}} *# 2012年6月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016484|title=頭文字D(45)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382181-9}} *# 2013年1月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015955|title=頭文字D(46)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382256-4}} *# 2013年8月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016042|title=頭文字D(47)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382344-8}} *# 2013年11月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016075|title=頭文字D(48)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-382377-6}} *#* 巻末にヤングマガジン1999年第7号、第8号『頭文字D番外編 インパクトブルーの彼方に 前後編』および月刊少年ライバル2008年6月号『頭文字D番外編 拓海外伝』が収録されている。 === 廉価版 === 以下作品は講談社(講談社プラチナコミックス)より刊行されている。またアンコール刊行も度々行われており、本記事では「アンコール刊行」(1回目のアンコール刊行)、「アンコール刊行!」(2回目のアンコール刊行)と表記している。 * 『頭文字D 伝説誕生編Vol.1』2004年9月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000009712|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.1|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-353350-6}} ** 「アンコール刊行」2007年10月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014211|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.1 アンコール刊行|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374050-9}} * 『頭文字D 伝説誕生編Vol.2』2004年10月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000009730|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-353373-5}} ** 「アンコール刊行」2007年10月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014213|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.2 アンコール刊行|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374052-3}} * 『頭文字D 伝説誕生編Vol.3』2004年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000009738|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.3|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-353383-2}} ** 「アンコール刊行」2007年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014248|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.3 アンコール刊行|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374058-5}} * 『頭文字D 伝説誕生編Vol.4』2004年11月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000009748|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.4|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-353398-0}} ** 「アンコール刊行」2007年11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014256|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.4 アンコール刊行|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374067-7}} * 『頭文字D 伝説誕生編Vol.5』2004年11月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000009756|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.5|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-353408-1}} ** 「アンコール刊行」2007年12月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014430|title=頭文字D 伝説誕生編Vol.5 アンコール刊行|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374080-6}} * 『頭文字D 群馬エリア編Vol.1』2005年7月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013137|title=頭文字D 群馬エリア編Vol.1|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371580-9}} * 『頭文字D 群馬エリア編Vol.2』2005年8月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013144|title=頭文字D 群馬エリア編Vol.2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371595-7}} * 『頭文字D 群馬エリア編Vol.3』2005年8月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013148|title=頭文字D 群馬エリア編Vol.3|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371599-X}} * 『頭文字D 群馬エリア編Vol.4』2005年9月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013156|title=頭文字D 群馬エリア編Vol.4|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371616-3}} * 『頭文字D 拓海個人遠征編Vol.1』2006年7月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013275|title=頭文字D 拓海個人遠征編Vol.1|publisher=講談社|accessdate=2020-11-87}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371772-0}} * 『頭文字D 拓海個人遠征編Vol.2』2006年7月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013281|title=頭文字D 拓海個人遠征編Vol.2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371779-8}} * 『頭文字D 拓海個人遠征編Vol.3』2006年8月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013289|title=頭文字D 拓海個人遠征編Vol.3|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371790-9}} * 『頭文字D 拓海個人遠征編Vol.4』2006年8月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013295|title=頭文字D 拓海個人遠征編Vol.4|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371798-4}} * 『頭文字D 拓海個人遠征編Vol.5』2006年9月6発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013304|title=頭文字D 拓海個人遠征編Vol.5|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|4-06-371811-5}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.1』2007年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013437|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.1|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-371987-1}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.2』2007年8月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000013445|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-371998-7}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.3』2007年8月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014174|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.3|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374007-3}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.4』2007年9月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014182|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.4|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374018-9}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.5』2007年9月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014189|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.5|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374025-7}} * 『頭文字D 走り屋誕生編Vol.1 登場! 秋名の下りスペシャリスト』2012年4月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015154|title=頭文字D 走り屋誕生編Vol.1 登場! 秋名の下りスペシャリスト|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375043-0}} ** 「アンコール刊行」2014年7月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015893|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 走り屋誕生編 登場! 秋名の下りスペシャリスト アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378038-3}} ** 「アンコール刊行!」2017年12月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000053120|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 走り屋誕生編 登場! 秋名の下りスペシャリスト アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-510902-1}} * 『頭文字D 走り屋誕生編Vol.2 決闘! 妙義ナイトキッズ』2012年4月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015155|title=頭文字D 走り屋誕生編Vol.2 決闘! 妙義ナイトキッズ|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375044-7}} ** 「アンコール刊行」2014年7月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015895|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 地元秋名の誇り編 決闘! 妙義ナイトキッズ アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378040-6}} ** 「アンコール刊行!」2018年1月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000053121|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 地元秋名の誇り編 決闘! 妙義ナイトキッズ アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-510903-8}} * 『頭文字D 走り屋誕生編Vol.3 激走! 高橋涼介&青のシルエイティ』2012年5月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015164|title=頭文字D 走り屋誕生編Vol.3 激走! 高橋涼介&青のシルエイティ|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375053-9}} ** 「アンコール刊行」2014年8月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015897|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 群馬エリアの頂点編 激走! 高橋涼介&青のシルエイティ アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378042-0}} ** 「アンコール刊行!」2018年2月7日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000053122|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 群馬エリアの頂点編 激走! 高橋涼介&青のシルエイティ アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-510904-5}} * 『頭文字D 走り屋群雄割拠編Vol.1 群馬エリア風雲急! ランエボ軍団の侵攻』2012年5月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015170|title=頭文字D 走り屋群雄割拠編Vol.1 群馬エリア風雲急! ランエボ軍団の侵攻|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375059-1}} ** 「アンコール刊行」2014年8月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015902|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 妙義山の激闘編 群馬エリア風雲急! ランエボ軍団の侵攻 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378047-5}} ** 「アンコール刊行!」2018年2月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000053123|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 妙義山の激闘編 群馬エリア風雲急! ランエボ軍団の侵攻 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-510905-2}} * 『頭文字D 走り屋群雄割拠編Vol.2 玉砕上等! ハチロク最後の戦い』2012年6月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015179|title=頭文字D 走り屋群雄割拠編Vol.1 玉砕上等! ハチロク最後の戦い|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375070-6}} ** 「アンコール刊行」2014年9月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015904|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 4WDの脅威編 玉砕上等! ハチロク最後の戦い アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378049-9}} ** 「アンコール刊行!」2018年3月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000115402|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 4WDの脅威編 玉砕上等! ハチロク最後の戦い アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511087-4}} * 『頭文字D 新生ハチロク編Vol.1 赤城山燃ゆ! 猛者たちの饗宴』2012年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015185|title=頭文字D 新生ハチロク編Vol.1 赤城山燃ゆ! 猛者たちの饗宴|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375078-2}} ** 「アンコール刊行」2014年9月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016102|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D カリスマ対決編 赤城山燃ゆ! 猛者たちの饗宴 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378054-3}} ** 「アンコール刊行!」2018年3月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000115403|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D カリスマ対決編 赤城山燃ゆ! 猛者たちの饗宴 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511088-1}} * 『頭文字D 新生ハチロク編Vol.2 拓海覚醒! 個人遠征バトル』2012年7月11日日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015195|title=頭文字D 新生ハチロク編Vol.2 拓海覚醒! 個人遠征バトル|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375090-4}} ** 「アンコール刊行」2014年10月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016280|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 新生ハチロク編 拓海覚醒! 個人遠征バトル アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378076-5}} ** 「アンコール刊行!」2018年4月11日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000115698|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 新生ハチロク編 拓海覚醒! 個人遠征バトル アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511230-4}} * 『頭文字D 新生ハチロク編Vol.3 公道の申し子! 因縁の親子対決』2012年7月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015200|title=頭文字D 新生ハチロク編Vol.3 公道の申し子! 因縁の親子対決|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375095-9}} ** 「アンコール刊行」2014年10月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016281|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 落葉! いろは坂編 公道の申し子! 因縁の親子対決 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378077-2}} ** 「アンコール刊行!」2018年4月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000115699|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 落葉! いろは坂編 公道の申し子! 因縁の親子対決 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511231-1}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.1 栃木の雄! セブンスターリーフ』2012年8月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015598|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.1 栃木の雄! セブンスターリーフ|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377607-2}} ** 「アンコール刊行」2014年11月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016284|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D プロジェクトD始動編 栃木の雄! セブンスターリーフ アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378080-2}} ** 「アンコール刊行!」2018年5月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116197|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D プロジェクトD始動編 栃木の雄! セブンスターリーフ アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511434-6}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.2 最強走り屋集団・東堂塾への挑戦!』2012年8月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015604|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.2 最強走り屋集団・東堂塾への挑戦!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377614-0}} ** 「アンコール刊行」2014年11月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016291|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 鉄壁! 東堂塾編 最強走り屋集団への挑戦 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378087-1}} ** 「アンコール刊行!」2018年5月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116199|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 鉄壁! 東堂塾編 最強走り屋集団への挑戦 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511435-3}} * 『頭文字D プロジェクトD始動編Vol.3 初めての難関! 東堂塾戦、決着!』2012年9月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014235|title=頭文字D プロジェクトD始動編Vol.3 初めての難関! 東堂塾戦、決着!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377637-9}} ** 「アンコール刊行」2014年12月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000016296|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 上り下り一本勝負編 初めての難関! 東堂塾戦、決着! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378097-0}} ** 「アンコール刊行!」2018年6月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000310132|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 上り下り一本勝負編 初めての難関! 東堂塾戦、決着! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511623-4}} *『頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.1 白熱! ダブルエースVS.連合チーム』2012年9月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014245|title=頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.1 白熱! ダブルエースVS.連合チーム|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377649-2}} ** 「アンコール刊行」2014年12月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017740|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 埼玉西北エリア編 白熱! ダブルエースVS.連合チーム アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385601-9}} ** 「アンコール刊行!」2018年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000310133|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 埼玉西北エリア編 白熱! ダブルエースVS.連合チーム アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511624-1}} * 『頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.2 啓介VS.渉、決着! 迫るエリア最終戦』2012年10月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000014867|title=頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.2 啓介VS.渉、決着! 迫るエリア最終戦|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377661-4}} ** 「アンコール刊行」2015年1月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017744|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 埼玉沸騰編 啓介VS.渉、決着! 迫るエリア最終戦 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385614-9}} ** 「アンコール刊行!」2018年7月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000311708|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 埼玉沸騰編 啓介VS.渉、決着! 迫るエリア最終戦 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511954-9}} * 『頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.3 罠に落ちた”D”、絶望の淵からの反撃!』2012年10月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015623|title=頭文字D 埼玉西北エリア編Vol.3 罠に落ちた”D”、絶望の淵からの反撃!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377670-6}} ** 「アンコール刊行」2015年1月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017747|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 啓介、絶体絶命編 罠に落ちた”D”、絶望の淵からの反撃! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385617-0}} ** 「アンコール刊行!」2018年7月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000311709|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 啓介、絶体絶命編 罠に落ちた”D”、絶望の淵からの反撃! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-511955-6}} * 『頭文字D 北関東最終エリア編Vol.1 峠の神様・パープルシャドウ降臨!』2012年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015632|title=頭文字D 北関東最終エリア編Vol.1 峠の神様・パープルシャドウ降臨!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377680-5}} ** 「アンコール刊行」2015年2月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017753|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 北関東最終エリア編 峠の神様・パープルシャドウ降臨! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385625-5}} ** 「アンコール刊行!」2018年8月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000312425|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 北関東最終エリア編 峠の神様・パープルシャドウ降臨! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512347-8}} * 『頭文字D 北関東最終エリア編Vol.2 最強の壁! パープルシャドウ、究極の走り!』2012年11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015638|title=頭文字D 北関東最終エリア編Vol.2 最強の壁! パープルシャドウ、究極の走り!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377689-8}} ** 「アンコール刊行」2015年2月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017755|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 北関東の糧編 最強の壁! パープルシャドウ、究極の走り! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385627-9}} ** 「アンコール刊行!」2018年8月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000312428|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 北関東の糧編 最強の壁! パープルシャドウ、究極の走り! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512348-5}} * 『頭文字D 突入! 神奈川エリア編Vol.1 プロジェクトD最終ステージ、開幕!』2012年12月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015644|title=頭文字D 突入! 神奈川エリア編Vol.1 プロジェクトD最終ステージ、開幕|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377706-2}} ** 「アンコール刊行」2015年3月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017763|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 突入! 神奈川エリア編 プロジェクトD最終ステージ、開幕! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385639-2}} ** 「アンコール刊行!」2018年9月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313308|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 突入! 神奈川エリア編 プロジェクトD最終ステージ、開幕! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512814-5}} * 『頭文字D 突入! 神奈川エリア編Vol.2 鉄壁! 4つの防衛ライン』2012年12月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015649|title=頭文字D 突入! 神奈川エリア編Vol.2 鉄壁! 4つの防衛ライン|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377714-7}} ** 「アンコール刊行」2015年3月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017765|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川エリアの本気編 鉄壁! 4つの防衛ライン アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385641-5}} ** 「アンコール刊行!」2018年9月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313309|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川エリアの本気編 鉄壁! 4つの防衛ライン アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512815-2}} * 『頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.1 出動! 第2防衛ライント』2013年1月09日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015653|title=頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.1 出動! 第2防衛ライント|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377721-5}} ** 「アンコール刊行」2015年4月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017772|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川エリア躍動編 出動! 第2防衛ライン アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385648-4}} ** 「アンコール刊行!」2018年10月10日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313906|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川エリア躍動編 出動! 第2防衛ライン アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-513118-3}} * 『頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.2 ゼロ理論VS.公道最速理論』2013年2月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015659|title=頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.2 ゼロ理論VS.公道最速理論|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377729-1}} ** 「アンコール刊行」2015年4月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017774|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川第3の砦編 ゼロ理論VS.公道最速理論 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385650-7}} ** 「アンコール刊行!」2018年10月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313908|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 神奈川第3の砦編 ゼロ理論VS.公道最速理論 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-513119-0}} * 『頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.3 弔鐘鳴らす死闘! 涼介VS.死神』2013年3月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015666|title=頭文字D 神奈川エリア躍動編Vol.3 弔鐘鳴らす死闘! 涼介VS.死神|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377743-7}} ** 「アンコール刊行」2015年5月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017779|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 走り屋たちの挽歌編 弔鐘鳴らす死闘! 涼介VS.死神 アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385661-3}} ** 「アンコール刊行!」2018年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000315319|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 走り屋たちの挽歌編 弔鐘鳴らす死闘! 涼介VS.死神 アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-378038-3}} * 『頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.1 ヒルクライム頂上決戦!』2013年4月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015672|title=頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.1 ヒルクライム頂上決戦!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377752-9}} ** 「アンコール刊行」2015年5月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017781|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編 ヒルクライム頂上決戦! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385664-4}} ** 「アンコール刊行!」2018年11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000315320|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編 ヒルクライム頂上決戦! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-513563-1}} * 『頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.2 最強最速! 四強激突!!』2014年2月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015807|title=頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.2 最強最速! 四強激突!!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377945-5}} ** 「アンコール刊行」2015年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017789|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! 四強激突編 最高の舞台! 最高の走り! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385677-4}} ** 「アンコール刊行!」2018年12月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000317920|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! 四強激突編 最高の舞台! 最高の走り! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-513838-0}} * 『頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.3 疾走! 伝説へのゴール!』2014年2月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015812|title=頭文字D 最終章! 関東最速プロジェクト編Vol.3 疾走! 伝説へのゴール!|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377950-9}} ** 「アンコール刊行」2015年6月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017792|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! さよならハチロク編 疾走! 伝説へのゴール! アンコール刊行}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-385680-4}} ** 「アンコール刊行!」2018年12月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000317921|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08|title=頭文字D 最終章! さよならハチロク編 疾走! 伝説へのゴール! アンコール刊行!}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-513839-7}} === 新装版 === * しげの秀一 『新装版 頭文字D』 講談社〈KCデラックス〉、全24巻 *# 2020年11月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347521|title=新装版 頭文字D/1|publisher=講談社|date=2020-11-06|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521738-2}} *# 2020年11月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347523|title=新装版 頭文字D/2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521740-5}} *# 2020年11月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347523|title=新装版 頭文字D/3|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521739-9}} *# 2020年12月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347715|title=新装版 頭文字D/4|publisher=講談社|accessdate=2020-12-07}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521810-5}} *# 2020年12月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347716|title=新装版 頭文字D/5|publisher=講談社|accessdate=2020-12-07}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521812-9}} *# 2020年12月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347717|title=新装版 頭文字D/6|publisher=講談社|accessdate=2020-12-07}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521811-2}} *# 2021年1月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348151|title=新装版 頭文字D/7|publisher=講談社|accessdate=2021-01-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522005-4}} *# 2021年1月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348152|title=新装版 頭文字D/8|publisher=講談社|accessdate=2021-01-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522006-1}} *# 2021年1月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348153|title=新装版 頭文字D/9|publisher=講談社|accessdate=2021-01-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522007-8}} *# 2021年2月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348958|title=新装版 頭文字D/10|publisher=講談社|accessdate=2021-02-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522283-6}} *# 2021年2月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348959|title=新装版 頭文字D/11|publisher=講談社|accessdate=2021-02-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522282-9}} *# 2021年2月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000348960|title=新装版 頭文字D/12|publisher=講談社|accessdate=2021-02-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522284-3}} *# 2021年3月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000349980|title=新装版 頭文字D/13|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522606-3}} *# 2021年3月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000349986|title=新装版 頭文字D/14|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522579-0}} *# 2021年3月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000349987|title=新装版 頭文字D/15|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522580-6}} *# 2021年4月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350849|title=新装版 頭文字D/16|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522921-7}} *# 2021年4月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350850|title=新装版 頭文字D/17|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522922-4}} *# 2021年4月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350851|title=新装版 頭文字D/18|publisher=講談社|accessdate=2021-04-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522923-1}} *# 2021年5月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000351723|title=新装版 頭文字D/19|publisher=講談社|accessdate=2021-05-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523342-9}} *# 2021年5月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000351724|title=新装版 頭文字D/20|publisher=講談社|accessdate=2021-05-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523341-2}} *# 2021年5月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000351725|title=新装版 頭文字D/21|publisher=講談社|accessdate=2021-05-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523343-6}} *# 2021年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000352515|title=新装版 頭文字D/22|publisher=講談社|accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523668-0}} *# 2021年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000352517|title=新装版 頭文字D/23|publisher=講談社|accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523669-7}} *# 2021年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000352518|title=新装版 頭文字D/24|publisher=講談社|accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523670-3}} === 電子書籍 === * 原作コミックス全48巻分の内容を全10巻にまとめた『頭文字D 超合本版』が2018年2月16日に提供開始となった。 *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116212|title=頭文字D 超合本版(1)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116213|title=頭文字D 超合本版(2)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116215|title=頭文字D 超合本版(3)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116216|title=頭文字D 超合本版(4)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116217|title=頭文字D 超合本版(5)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116218|title=頭文字D 超合本版(6)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116219|title=頭文字D 超合本版(7)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116220|title=頭文字D 超合本版(8)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116221|title=頭文字D 超合本版(9)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> *# 2018年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000116222|title=頭文字D 超合本版(10)|publisher=講談社|accessdate=2020-11-08}}</ref> === 公式本 === * 『頭文字D 公式ガイドブック ドリドリドライバーズテキスト』1996年8月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000031590|title=頭文字D 公式ガイドブック ドリドリドライバーズテキスト|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-319723-9}} * 『頭文字D 公式ガイドブック ドリドリドライバーズテキスト2』1997年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000031663|title=頭文字D 公式ガイドブック ドリドリドライバーズテキスト2|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-319820-0}} * 『頭文字D ペーパークラフトBook』1997年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000031669|title=頭文字D ペ-パ-クラフトBook|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-319834-0}} * 『頭文字D 拓海伝説』1998年11月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000034028|title=頭文字D 拓海伝説|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-333996-3}} * 『頭文字D ペーパークラフトBook SPECIAL VERSION』1999年7月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000034125|title=頭文字D ペーパークラフトBook SPECIAL VERSION|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334230-1}} * 『頭文字D 拓海のスーパードラテク77』1999年8月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000034120|title=頭文字D 拓海のスーパードラテク77|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334219-0}} * 『頭文字D My Drive Note』著者:[[清水草一]]2000年4月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000035244|title=頭文字D My Drive Note|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334292-1}} * 『頭文字D 画集』2001年7月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000007896|title=頭文字 D画集|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-330120-6}} * 『頭文字D プロジェクトD伝説』著者:清水草一2004年3月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000035439|title=頭文字D プロジェクトD伝説|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334847-4}} * 『頭文字D THE MOVIE 公式ビジュアルBOOK』2005年9月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000219866|title=頭文字D THE MOVIE 公式ビジュアルBOOK|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-346534-9}} * 『ANIMATION 頭文字D ALL ABOUT THE BATTLE』2006年8月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043584|title=ANIMATION 頭文字D ALL ABOUT THE BATTLE|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|4-06-372165-5}} * 『頭文字D -THE MESSAGE-』2009年7月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000044574|title=頭文字D -THE MESSAGE-|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-375742-2}} * 『頭文字Dの軌跡 挑戦の記』2014年8月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015472|title=頭文字Dの軌跡 挑戦の記|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377066-7}} ** 巻頭に単行本未収録番外編としてヤングマガジン2000年第5・6合併号『センチメンタルホワイト 前後編』を収録 * 『頭文字Dの軌跡 疾走の記』2015年5月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000015496|title=頭文字Dの軌跡 疾走の記|publisher=講談社|accessdate=2020-11-06}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-377186-2}} ** 巻頭に単行本未収録番外編としてヤングマガジン2001年第7号、8号、9号『旅立ちのグリーン 前中後編』を収録 == アニメーション == 『頭文字D』のアニメ化は、これまで[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]を主とする[[地上波|地上波放送]]で2シリーズ、[[衛星放送|CS放送]]の[[アニマックス]]で2シリーズが放送されたほか、[[アニメ映画|劇場版]]1作と[[OVA]]5作(うち3つは総集編)も製作され、初放送から15年以上が経つ長期作品となっていた。原作が完結した2013年には、原作最後のバトルをアニメ化する『頭文字D Final Stage』の制作と、原作漫画の雰囲気を意識し序盤から再制作した『新劇場版 頭文字D』が2014年夏に公開されることが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/95451 |title =「頭文字D」次号で18年の連載に幕、アニメ映画制作も決定|date=2013-07-22|publisher=コミック[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|accessdate=2020-03-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20130724/15/|date=2013-07-24|title=連載18年「頭文字D」完結 新アニメシリーズ&劇場版の制作も決定|publisher=映画.com|accessdate=2020-03-26}}</ref>。なお、新劇場版はテレビアニメ版からキャスト・スタッフが全て交代している。 本作品では車両のほとんどは[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]で描かれており、車両の形状や挙動、エンジンやスキール音に至るまで忠実に再現している{{Efn2|CG制作には、First Stageでは、[[LightWave]]、Fourth Stageでは、[[3ds Max]]が使用されている。Second Stage途中までは、車両の映像の一部、主に停車中のシーンは3DCGではなく、2Dアニメとして描かれていた。その後はほぼ全てに3DCGが採用され、Fourth Stageからは[[トゥーンレンダリング]]を使用、他シーンとの親和性が増している。}}。回によっては実写シーンが導入されることがある<ref>テレビ第1作第2話、テレビ第2作8話</ref>。 First Stage放送当時はテレビアニメにCGが導入され始めた時期であったが、本作では毎週放送のスケジュールをこなした上で、走行シーンのカメラワークや背景描写のような手描きアニメでは難しかった表現にも効果を示した。当初は[[セルアニメ]]のキャラクターとのマッチングに違和感があったが、CG技術の向上と視聴者の慣れによって解消されていった<ref>"[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20060228/buyd208.htm 帰ってきた週間買っとけ!DVD 第208回:CGなしの生“慣性ドリフト”と“溝落とし”のド迫力! 下り最速伝説「頭文字<イニシャル>D THE MOVIE」]". AV Watch編集部.(2006年2月28日)2020年3月26日閲覧。</ref>。車両の挙動もFourth Stageなどでは[[物理演算エンジン|物理シミュレーター]]を用いており、回を追う毎に自然なものになっている{{Efn2|このソフトは、安田兼盛のホームページ[http://www4.osk.3web.ne.jp/~kanemori/ カネモリ製作所]で試用版をダウンロードできる(製品版は、安田兼盛にメールで注文する必要がある)}}。 === テレビシリーズ(初代) === ; 頭文字D : 1998年4月19日から12月6日まで<ref>{{Cite web|和書|url=http://animestyle.jp/2013/03/26/4320/ |title =TVアニメ50年史のための情報整理 第36回 1998年(平成10年)|date=2013-03-26|publisher=Web[[アニメスタイル]]|accessdate=2020-03-26}}</ref>、[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]を主とする[[地上波]]各局にて放送(全26話)、以下「First Stage」と表記。[[エイベックス]]の[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]製作事業参入第一弾作品。 ; 頭文字D Second Stage : 1999年10月15日から2000年1月21日まで<ref>{{Cite web|和書|url=http://animestyle.jp/2013/04/01/4373/ |title =TVアニメ50年史のための情報整理 第37回 1999年(平成11年)|date=2013-04-01|publisher=Web[[アニメスタイル]]|accessdate=2020-03-26}}</ref>、フジテレビ系列を主とする地上波各局にて放送(全13話)。 ; 頭文字D Fourth Stage : 2004年4月17日から2006年2月18日まで<ref>{{Cite web|和書|url=http://animestyle.jp/2013/05/22/4925/ |title =TVアニメ50年史のための情報整理 第42回 2004年(平成16年)|date=2013-05-22|publisher=Web[[アニメスタイル]]|accessdate=2020-03-26}}</ref>、CS放送の[[アニマックス]][[ペイパービュー|PPV]]にて隔月2話を放送(全24話)。 ; 頭文字D Fifth Stage : 2012年11月9日より2013年5月10日まで、CS放送チャンネルのアニマックスPPV([[パーフェクト・チョイス]]・プレミア1)にて毎月2話を放送(全14話)。 : 2014年5月18日より2014年6月1日まで、CS放送チャンネルのアニマックスにてビッグサンデーズ枠3週連続で全話を放送。 ; 頭文字D Final Stage : 2014年5月16日よりVODサービス「アニマックス PLUS」で独占先行配信が決定。(全4話) === 劇場版(初代 / 二代目) === ; 頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE- : 2001年1月13日より、全国[[東映]]系で公開。上映時間103分。興行収入5億2000万円<ref>{{Cite journal|和書 |year = 2002|title = 2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 2002年2月下旬号 |pages = 138 |publisher = [[キネマ旬報社]]}}</ref>。 ; 新劇場版 頭文字D : 全三部作で配給は[[松竹]]。声優陣の一新・SEB未使用等、過去のシリーズとは一線を画している。第一作『新劇場版 頭文字D Legend1 -覚醒-』は2014年8月23日公開。ヤングマガジン35周年記念作品と銘打たれている。また、全三部作とも一部の劇場では[[4DX]]版も上映された。 : 二作目『新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-』は2015年5月23日公開。興行収入1億500万円<ref>「[[キネマ旬報]]」2016年3月下旬号 70頁</ref>。 : 三作目『新劇場版 頭文字D Legend3 -夢現-』は2016年2月6日公開。興行収入1億600万円<ref>『[[キネマ旬報]] 2017年3月下旬号』p.66</ref>。 === OVA(初代) === ; 頭文字D Extra Stage インパクトブルーの彼方に… : 2001年3月22日、[[avex trax]]より販売。収録時間54分。 : [[日産・シルエイティ|シルエイティ]]に乗る佐藤真子と沙雪を主役とした番外編で、真子の恋愛模様も描かれている。原作の番外編である、「インパクトブルーの彼方に」(時系列はSecond Stage ACT.2頃)と「センチメンタルホワイト」(時系列はThird Stageのクリスマス頃)を元とした2本立てである。 : 藤原拓海が出てこない唯一の作品(池谷や沙雪の言及のみ。愛車ハチロクは登場する)。 ; 頭文字D BATTLE STAGE : 2002年5月15日、[[エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ]]より販売。収録時間73分。 : First StageからThird Stageまでのバトルシーンの総集編。First StageのCGリメイクと、原作やSecond Stageでは描かれなかった、赤城山での啓介vs清次のバトルが追加されているが、妙義山での中里と清次、赤城山での啓介と渉のバトルは収録されなかった。FDのホイール・ウイングなど、一部のパーツの微妙な変化は描かれていないほか、全キャラクターの映像・セリフも各シリーズから流用されている。 : [[アニマックス]]で放送された際には一部のバトルを省略する代わりに、土屋・織戸・今村による三者対談解説コーナーが設けられる「特別編」構成となっていた。 : DVDでは、特典映像として土屋・織戸・今村の3人のレーサーと、エグゼクティブプロデューサーの宇佐美廉による「雑談会」が収録されている。 ; 頭文字D to the Next Stage 〜プロジェクトDへ向けて〜 : 2004年リリースのレンタルソフトおよび、2007年発売のFourth Stage DVD BOXに収録。収録時間85分。 : Fourth Stageの放送前に製作された、頭文字Dの紹介番組。ドラマパートを含むFirst StageからThird Stageの総集編と、Fourth Stage製作の様子が収録されている。 ; 頭文字D BATTLE STAGE 2 : 2007年5月30日、[[エイベックス・マーケティング]]より販売。収録時間78分。 : Fourth Stageのバトルシーンの総集編。Fourth Stageではカットされた啓介vs川井淳郎、啓介vsスマイリー酒井のバトルが追加されている(この2つのバトルにおいては、セリフや映像も新規収録されている)。車体のCGは放送時のものから変化はないが、路面の表現が若干細かくなっている。 ; 頭文字D Extra Stage 2 〜旅立ちのグリーン〜 : 2008年12月5日、エイベックス・マーケティングより販売。収録時間55分。 : アニメ化10周年記念作品。「Extra Stage」に続く番外編第2弾。原作の番外編「旅立ちのグリーン」を映像化。時系列はFourth StageのACT.3頃。「Extra Stage」同様に佐藤真子と池谷の恋愛が描かれているが、こちらは池谷を主人公としている。 : 高橋兄弟が出てこない唯一の作品(涼介の名前のみ拓海から言及される)。 ; 頭文字D BATTLE STAGE 3 : 2021年3月5日、[[エイベックス・ピクチャーズ]]より販売。 : Fifth StageとFinal Stageのバトルシーンの総集編。過去の2作と異なりバトル中の台詞は収録されておらず、バトル中のSEBのみの使用となっている{{refnest|group="注"|新劇場版における声優交代の影響とされている。また、公式twitterや通販サイトではキャラクターボイス未収録を告知しておらず、当作品は低評価となっている<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B08Q58NR5N/ INITIAL D BATTLE STAGE 3]</ref>。}}。 === スタッフ === {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" ! !! First Stage !! Second Stage !! Extra Stage !! Third Stage !! Battle Stage !! Fourth Stage !! Battle Stage 2 !! Extra Stage 2 !! Fifth Stage !! Final Stage !! Battle Stage 3 !! 新劇場版 |- ! 原作 | colspan="12"|[[しげの秀一]] |- ! 企画 | colspan="3"|庄司隆三 || 庄司隆三<br />林真司 || colspan="7"|庄司隆三 || 講談社<br />エイベックス・ピクチャーズ |- ! エグゼクティブプロデューサー | colspan="8"|宇佐美廉<ref group="注">頭文字D BATTLE STAGE 3ではSPECIAL THANKSとしてクレジット</ref> || colspan="4"|― |- ! プロデューサー | 福田佳与<br />[[茂垣弘道]] || 福田佳与 || 福田佳与<br />[[久保田光俊]]<br />浅利義美 || 福田佳与<br />長澤隆之 || colspan="6"|福田佳与 || 福田佳与<br />吉田雄哉(PACKAGE STAFF) || 吉田雄哉<br />黒田康太<br />徳村憲一<br />里見哲朗 |- ! 監督 | [[三沢伸]] || [[政木伸一]] || colspan="3"|山口史嗣 || [[冨永恒雄]] || 山口史嗣 || 冨永恒雄 || colspan="3"|[[橋本みつお]] || [[日高政光]](『覚醒』監督 / 『闘走』、『夢現』総監督)<br />中智仁(『闘走』、『夢現』監督) |- ! 脚本 | colspan="2"|[[戸田博史]]<br />[[岸間信明]]||戸田博史||戸田博史<br />岸間信明||― ||岸間信明||― || colspan="3"|岸間信明||― ||[[関島眞頼]] |- ! 監修 | colspan="10"|[[土屋圭市]]<br />[[ホットバージョン|ホットバージョン編集部]] || ― || [[グッドスマイルレーシング]] <br />([[谷口信輝]]・[[片岡龍也]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://webnewtype.com/report/article/59006/ |title =現役レーサー登場!新劇場版「頭文字D」第2弾試写会|date=2015-05-21|publisher=Web[[月刊ニュータイプ|Newtype]]|accessdate=2020-03-26}}</ref> |- ! キャラクターデザイン | [[古瀬登]] || [[佐藤正樹]] || 田中穣 || [[佐藤和巳]] || ― || 加野晃 || ― || 田中穣 || colspan="3"|佐藤正樹 || [[羽田浩二]] |- ! 総作画監督 | 古瀬登 || ― || 田中穣 || 佐藤和巳 || colspan="3"|― || 田中穣 || 小丸敏之 || ― || ― || [[羽田浩二]] |- ! メカニックデザイン | ― || 小原渉平 || ― || 小原渉平 || ― || 横井秀章 || ― || colspan="4"|横井秀章 || ― |- ! CG監督 | colspan="4"|長尾聡浩 || ― || 安田兼盛 || ― || colspan="4"|安田兼盛 || ― |- ! 美術監督 | [[高橋和博]] || 前田実 || 竹田悠介 || 宮前光春 || colspan="2"|番野雅好 || ― || 番野雅好 || 坂本信人 || 柳煥錫 || 坂本信人(Fifth Stage)<br />柳煥錫(Final Stage) || [[上原伸一]] |- ! 撮影監督 | 森下成一(奇数話、ACT.2)<br />赤沢賢二(ACT.2以外の偶数話) || 金田貞徳 || ― || 宮本逸雄<ref group="注">表記は撮影チーフ</ref> || ― || [[中村昌樹]] || ― || 中村昌樹 || colspan="2"|池上伸治 || ― || 池田新助 |- ! 音響監督 | colspan="11"|[[三間雅文]] || 清水洋史 |- ! 音楽 | colspan="2"|勝又隆一 || 勝又隆一<br />TATSUHIKO FUYUNO || 勝又隆一 || ― || [[梅堀淳]]<br />DENNIS MARTIN || ― || 勝又隆一<br />梅堀淳<br />DENNIS MARTIN<br />小倉大作<br />伊藤佳奈子 || colspan="3"|梅堀淳 || [[土橋安騎夫]] |- ! 音楽協力 | avex group || avex trax || colspan="4"|avex group || colspan="2"|avex entertainment || colspan="2"|avex group || ― || avex pictures |- ! 色彩設定 | 安斎直美 || 島貫健次 || 日比野仁 || 松本真司 || ― || 西表美智代 || ― || 西表美智代 || colspan="2"|三笠修 || ― || 大西峰代 |- ! 3DCG | colspan="3"|ネスト || colspan="7"|パステル || ― || [[サンジゲン]] |- ! アニメーション制作 | [[スタジオコメット]](奇数回、ACT.2)<br />[[ぎゃろっぷ|スタジオぎゃろっぷ]](ACT.2以外の偶数話) || パステル || ― || [[スタジオディーン]] || ― || colspan="3"|A.C.G.T. || colspan="2"|[[SynergySP]] || ― || サンジゲン<br />[[ライデンフィルム]] |- ! アニメーション制作協力 | ― || [[TYOアニメーションズ|ゆめ太カンパニー]]<br />[[ベガエンタテイメント]]<br />[[アゼータ・ピクチャーズ]]<br />[[アートランド]] || colspan="2"|[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]] || ― || [[武遊]] || ― || 武遊 || [[ぴえろプラス]]<br />[[アナザープッシュピンプランニング|A.P.P.P.]]<br />オフィスていくおふ || オフィスていくおふ(ACT.1) || ― || ― |- ! 制作 | colspan="4"|パステル || [[オービー企画]]<br />パステル || colspan="3"|オービー企画 || colspan="2"|ウェッジリンク || ― || 柴田和典 |- ! 製作 | colspan="2"|プライム・ディレクション<br />オービー企画 || colspan="3"|[[トゥーマックス]]<br />オービー企画 || トゥーマックス(ACT.11以前)<br />ウェッジリンク(ACT.11以降)<br />オービー企画 || colspan="2"|ウェッジリンク<br />オービー企画 || colspan="3"|ウェッジリンク || 新劇場版頭文字D製作委員会<ref group="注">講談社、[[エイベックス・ピクチャーズ]]、[[松竹]]、[[サミー|Sammy]]、[[ウルトラスーパーピクチャーズ]]</ref> |- |} ※ゲーム作品に関する詳細は「[[頭文字D ARCADE STAGE]]」を参照 === アニメに関する備考 === * 原作は、庄司慎吾戦の次に高橋涼介戦〜佐藤真子&沙雪戦〜ナイトキッズ交流戦〜エンペラー登場となるが、First Stageは高橋涼介戦で最終回になるように、佐藤真子&沙雪戦〜ナイトキッズ交流戦〜高橋涼介戦という構成となり、エンペラーはSecond Stageからの登場となった。 * アニメおよび新劇場版ではナレーションは一切なく、原作で見られる解説は主に高橋涼介や池谷浩一郎、立花祐一など、バトルに参加していないメンバーが代わって担当している。テレビ放送時の次回予告は、史浩役の[[細井治]]がDJ風に行っていた{{Efn2|First Stageでは他の人物とのやり取りも行われている。}}。同作品のタイトルコールやアイキャッチも、細井が多くを担当している{{Efn2|Second Stageでは、一部で作品の登場人物がアイキャッチを担当している。}}。 * First Stage及びSecond StageのDVD版ではOPに効果音が追加されている。 First Stageではこれに加えて本放送版及びVHS版から一部BGMと効果音がSecond Stageのものに差し替えになっている{{Efn2|HDリマスター版も同様。}}。 ただし、一部の動画配信サイトでは現在でも本放送版が配信されており差し替え前のものも視聴可能である。 * アニメではThird Stage以降の登場人物の喫煙シーンが大幅にカットされている。Third Stage以降で喫煙したシーンのあるキャラは藤原文太、立花祐一、東堂のみ。 ** 新劇場版では文太以外の喫煙シーンは無い。なお新劇場版を基準としたパチスロ版では中里が喫煙するシーンが存在する。 * Fourth Stage以降に登場する車種の一部は、アニメではボディカラーが変更されている。また初期に登場するチームのロゴは原作・テレビシリーズ・新劇場版で異なっているものがある。 * Second Stage以降からは、[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]が表現されている。このナンバープレートの数字は、通常の4桁の後ろにもう一桁加えた5桁の数字で構成されている<ref group="注">Fourth Stageで初登場となる車両のうち、ゲーム[[頭文字D ARCADE STAGE|Special Stage]]にナンバー付きで先行登場したものは、ナンバーをゲームより引き継いでいる。</ref>。 ** 一部マシンのナンバープレートが[[語呂合わせ]]になっている場合がある<ref group="注">高橋涼介のFC3S「群馬58 よ 13-137」→「13B (RX)7」、末次トオルのROADSTER「栃木55 を 86-596」→「ハチロクご苦労」、池田竜次のZ33「湘南301 み 69-556」→「無の心」、北条凛のR32GT-R「群馬33 ぬ 37-564」→「皆殺し」、乾信司のAE86 2ドアトレノ「相模57 い 12-186」→「いぬい ハチロク」、Final Stageラストシーンで登場した対向車の[[トヨタ・86]](オレンジメタリック)「群馬550 お 86-239」→「ハチロクにThank You」</ref>。 ** 実写版ではナンバーがフィルタ処理されているが、拡大時の3桁ナンバー<ref group="注">数字は、隠されていたアニメ版のナンバー(13-954)の数字の一部を削った物(3-95)になっている。</ref>を除くとアニメと同じ数字である。 ** 新劇場版ではナンバーが一新され、通常の4桁であるが1桁目と2桁目の間にハイフンが付加されたものとなっている<ref group="注">例として、拓海の86は「秋名50 せ 2-674」</ref>。また地名は峠の名前となっている<ref group="注">劇中では「秋名」「赤城」「妙義」「碓氷」「日光」ナンバーが登場し、パチスロ版では「いろは」ナンバーが登場した。なお、謎の男が乗るトヨタ・86はアニメ版のAE86のオマージュであるため群馬となっている。アーケードゲームでは新劇場版に登場しないキャラクターの車のナンバーはアニメ版から流用で実在する地名を用いている。</ref>。ただし、初期の告知映像ではアニメ版同様5桁のナンバープレートを用いていた。続編にあたる[[MFゴースト]]のアニメにおいても新劇場版仕様のナンバーが使われ、「藤沢」「小田原」「湾岸」などといった存在しない地名が用いられている。 * KBS京都、毎日放送、テレビ愛知、アニマックスでの放送の際、[[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]にあるAE86専門店「[http://www.carland86.com/ カーランド]」の[[コマーシャルメッセージ|CM]]が流されていた<ref group="注">同店において、専門雑誌の企画から拓海役の三木が保有するAE86型トレノの修復プロジェクトが行われている。</ref>。 * アニマックスでは、ほとんどのアニメがオープニング - 本編前半 - 本編後半 - 次回予告・エンディングの順(-にはCMが挿入される)で放送されているため、地上波放送時にエンディング・次回予告の順だった『頭文字D』もこの順番に変更されている。そのため、テレビ第1作最終話において、本編からそのまま引き続いてエンディングになる流れがCMでいったん途切れている。 * アニマックスは1つの回を同じ週に複数回放送する性質から、テレビ第1作19話『決着!スーパードリフト』の次回予告における文太のセリフ『ま、来週のお楽しみってとこだな』の冒頭部分がカットされ、『お楽しみってとこだな』となっている。 ** これらの変更は、一挙放送などの場合は必ずしもそうとは限らない。 * Fourth Stageの19〜24話の「パープルシャドウ」戦では、原作とバトルの順番が入れ替えられており、啓介vs星野戦が先に行われている{{Efn2|順番を入れ替えた影響で、21話では放送の3週間ほど前に発売された32巻の内容も一部収録している。}}。 * Final Stage最終話のタイトルが「プロジェクト・ドリーム」から「ドリーム」へ変更されている<ref group="注" name="dream" />。 * 英語・韓国語吹き替え版では、BGMや効果音が一部変更されている。また、新劇場版の英語吹き替えもアニメ版のキャストが演じている。 === 音楽 === 音楽はエイベックス関連の楽曲が数多く使用されており、激しいカーバトルのBGMに軽快な[[ダンス・ミュージック]]を流して雰囲気を盛り上げている。 オープニング、エンディングテーマは1st stage以降、その殆どを[[m.o.v.e]]が歌っており、バトルシーンには[[SUPER EUROBEAT]](以下SEB)が使われ、劇中のSEBは[[サウンドトラック]]とは別に、「[[SUPER EUROBEAT presents InitialD D Selection|頭文字D D Selectionシリーズ]]」というコンピレーションアルバムとしてリリースされている。 また、2005年9月から12月にかけて4連続シングルリリースされたm.o.v.eの各曲[[ミュージック・ビデオ|PV]]は頭文字Dとの[[コラボレーション]]企画とされ、第三弾となった「[[雷鳴-out of kontrol-]]」においては、メンバー3人がアニメのキャラクターとなって拓海の操るAE86型トレノと赤いFD3S・RX-7のバトルに巻き込まれる、という内容になっている([[motsu]]が操るFDが先行し、助手席に座る[[t-kimura]]がmotsuのアグレッシヴな走りに悲鳴をあげ、[[yuri]]は後追いのAE86の助手席に座って拓海のドライビングに酔いしれる、という内容である)<ref>{{YouTube|mfqrU5ILj20|m.o.v.e / 雷鳴 -out of kontrol-}}</ref>。 新劇場版からはSEBを使用せず、日本のロックバンドの楽曲が使われているが、「Battle Digest」ではSEBを再起用している。 ==== 主題歌 ==== * '''テレビシリーズ「頭文字D」'''(全26話) ** オープニング・テーマ1「[[around the world (moveの曲)|around the world]]」歌:[[m.o.v.e]](1話〜19話) ** オープニング・テーマ2「[[BREAK IN2 THE NITE]]」歌:m.o.v.e(20話〜26話) ** エンディング・テーマ1「[[Rage your dream]]」歌:m.o.v.e(1話〜14話) ** エンディング・テーマ2「奇蹟の薔薇(キセキノハナ)」歌:[[Galla]](15話〜26話{{Efn2|途中挿入される実写映像は18話まではMV映像で、19話以降はライブ風映像になっている。}}) * '''テレビシリーズ「頭文字D Second Stage」'''(全13話) ** オープニング・テーマ「[[Blazin' Beat]]」歌:m.o.v.e ** エンディング・テーマ「キミがいる」歌:Galla * '''映画「頭文字D Third Stage」''' ** 主題歌「[[Gamble Rumble]]」歌:m.o.v.e ** 挿入歌「strike on」歌:m.o.v.e ** エンディング・テーマ「[[Fragile/JIRENMA|JIRENMA]]」歌:[[Every Little Thing]] ** エンドロール「THE RACE IS OVER」歌:[[デイブ・ロジャース|Dave Rodgers]] * '''OVA「頭文字D Extra Stage」''' ** オープニング・テーマ「Get it All Right」歌:Chilu ** エンディング・テーマ「NEXT」歌:[[根谷美智子]]&[[かかずゆみ]] * '''衛星有線テレビシリーズ「頭文字D Fourth Stage」'''(全24話) ** オープニング・テーマ1「[[DOGFIGHT]]」歌:move(1話〜10話) ** オープニング・テーマ2「[[How To See You Again/Noizy Tribe|Noizy Tribe]]」歌:m.o.v.e(11話〜24話) ** エンディング・テーマ1「[[Blast My Desire]]」歌:m.o.v.e(1話〜10話) ** エンディング・テーマ2「[[BOULDER|Nobody reason〜ノアの方舟]]」歌:m.o.v.e(11話〜24話) * '''OVA「頭文字D Extra Stage 2」''' ** オープニング・テーマ「蒼穹のflight」歌:m.o.v.e ** エンディング・テーマ「Key Ring」歌:m.o.v.e * '''衛星有線テレビシリーズ「頭文字D Fifth Stage」''' ** オープニング・テーマ「Raise Up」歌:m.o.v.e(1話〜14話) ** エンディング・テーマ1「Flyleaf」歌:[[CLUTCHO]](1話〜6話) ** エンディング・テーマ2「夕愁想花」歌:m.o.v.e(7話〜14話) * '''衛星有線テレビシリーズ「頭文字D Final Stage」'''<ref> [https://www.animax.co.jp/special/initial-d アニマックス 頭文字D公式サイト] </ref> ** オープニングテーマ「Outsoar the Rainbow」歌:m.o.v.e ** エンディングテーマ1「Gamble Rumble」歌:m.o.v.e ** エンディングテーマ2「Rage your dream」歌:m.o.v.e ※4話目のみ * '''映画「新劇場版 頭文字D Legend1 -覚醒-」''' ** エンディング・テーマ「never fear」歌:[[河村隆一]] * '''映画「新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-」''' ** 主題歌「リザレクション」歌:[[BACK-ON]] * '''映画「新劇場版 頭文字D Legend3 -夢現-」''' ** 主題歌「Chase for Dream」歌:[[小林竜之]] ==== 作中で使用されたSUPER EUROBEATと挿入歌 ==== ==== テレビシリーズ「頭文字D」 ==== # 「究極のとうふ屋ドリフト」 #* [[SPACE BOY]] / [[デイブ・ロジャース|DAVE RODGERS]] #* NO ONE SLEEP IN TOKYO / EDO BOYS # 「リベンジ宣言!ほえるターボ」 #* BE MY BABE / JILLY #* REMEMBER ME / LESLIE PARRISH #* SPARK IN THE DARK / MAN POWER # 「ダウンヒルスペシャリスト登場」 #* DON'T STOP THE MUSIC / LOU GRANT # 「交流戦突入!」 #* DANCE AROUND THE WORLD / DELTA QUEENS #* GET ME POWER / [[MEGA NRG MAN]] #* RUNNING IN THE 90'S / MAX COVERI # 「決着!ドッグファイト!」 #* HEARTBEAT / NATHALIE #* Rage your dream / move #* BREAK THE NIGHT / TOMMY K #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN # 「新たなる挑戦者」 #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN # 「走り屋のプライド」 #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN #* Rage your dream / move #* SAVE ME / LESLIE PARRISH # 「タイムアップ寸前!」 #* MY ONLY STAR / SUSAN BELL # 「限界バトル!」 #* Rage your dream / move #* RUNNING IN THE 90'S / MAX COVERI #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN #* BURNING UP FOR YOU / SARA # 「爆裂!5連ヘアピン」 #* HEARTBEAT / NATHALIE #* LONELY LOVE / SOPHIE # 「デンジャラス慎吾登場!」 #* NIGHT FEVER / DAVE RODGERS & MEGA NRG MAN #* DANCING / VICKY VALE # 「FR殺しのデスマッチ!」 #* LOVE & MONEY / ZA-ZA #* DANCING / VICKY VALE # 「イツキの初デート」 #* DANCING / VICKY VALE #* ROCK IT DOWN / move # 「進化するドリフトの天才!」 #* DON'T STAND SO CLOSE / DR.LOVE #* DANCING QUEEN / [[キング&クイーン (音楽ユニット)|KING & QUEEN]]{{Efn2|実際に使われたのは「DANCING QUEEN 〜SK FACTORY REMIX〜」。}} # 「拓海・怒涛の激走!」{{Efn2|コンピレーションアルバムの「[[SUPER EUROBEAT presents InitialD D Selection|頭文字D D Selectionシリーズ]]」には「拓海がキレた! 怒涛の激走!」と表記している。}} #* I NEED YOUR LOVE / DAVE SIMON #* World of move / move #* Rage your dream / move #* over drive / move #* See you, my best love / move # 「碓氷峠のエンジェル」 #* 未使用 # 「サドンデス・デスマッチ」 #* MAYBE TONITE / NORMA SHEFFIELD #* LOVE IS IN DANGER / PRISCILLA # 「熱風!激走!碓氷峠」 #* LOST INTO THE NIGHT / ELISA #* STAY / VICTORIA #* WINGS OF FIRE / MAKO & SAYUKI{{Efn2|原曲は「EUROBEAT FLASH VOL.5」収録の「WINGS OF FIRE / JEE BEE」。[[根谷美智子]](真子役)&[[かかずゆみ]](沙雪役)による日本語カバー。}} # 「決着!スーパードリフト」 #* EVERYBODY'S WARMING / TENSION #* WINGS OF FIRE / MAKO & SAYUKI # 「ジ・エンド・オブ・サマー」 #* Wanna fly to be wild / move #* Rage your dream / move # 「スーパースターからの挑戦状」 #* SATURDAY NIGHT FEVER / DAVE RODGERS # 「激闘!ヒルクライム」 #* LOVE & MONEY / ZA-ZA #* ONE NIGHT IN ARABIA / GO GO GIRLS<ref group="注">実際に使われたのは「ONE NIGHT IN ARABIA〜B4 ZA 大巨人 REMIX〜」。</ref> # 「雨のダウンヒルバトル」 #* ROCK IT DOWN / move #* [[NIGHT OF FIRE]] / NIKO #* past days 〜追憶 / move #* World of move / move # 「赤城の白い彗星!」 #* SAVE ME / LESLIE PARRISH #* Bust the future wall / move # 「決戦!ラストバトル」 #* Bust the future wall / move #* World of move / move #* BOOM BOOM JAPAN / DAVE RODGERS #* BLACK OUT / OVERLOAD # 「新ダウンヒル伝説!」(最終話) #* NIGHT & DAY / MR.GROOVE #* BEAT OF THE RISING SUN / DAVE RODGERS #* take me higher / move :; その他、使用された楽曲 # 頭文字D SUPER EURO BATTLE(Vol.1 映像特典) #* KILLING MY LOVE / LESLIE PARRISH #* SPACE BOY / DAVE RODGERS #* NO ONE SLEEP IN TOKYO / EDO BOYS # 頭文字D エキサイト バトル スペシャル(1998年10月1日放送) #* ROCK ME TO THE TOP / DUSTY #* TAKE ME BACK TO TOKYO / MEGA NRG MAN #* NUMBER ONE / FASTWAY ==== テレビシリーズ「頭文字D Second Stage」 ==== # 「掟やぶりのスーパーウェポン!」 #* BURNING DESIRE / MEGA NRG MAN # 「ランエボ軍団、秋名出撃!」 #* 100 / DAVE RODGERS # 「敗北の予感」 #* MIKADO / DAVE MC LOUD #* 100 / DAVE RODGERS #* I LOVE YOU LIKE YOU ARE / VALENTINA # 「燃えない勝利」 #* MAKE MY DAY / DERRECK SIMONS #* TAKE MY SOUL / MICKEY B. #* EVER AND EVER / QUEEN OF TIMES # 「破滅へのカウントダウン」 #* SPEEDY SPEED BOY / MARKO POLO #* DON'T YOU (FORGET ABOUT MY LOVE) / SOPHIE # 「さようならハチロク」 #* GOODBYE YELLOW BRICK ROAD / WAIN L # 「赤城バトル 白と黒の閃光!」 #* MAKE MY DAY / DERRECK SIMONS # 「そのクルマ 凶暴につき」 #* STATION TO STATION / DERRECK SIMONS # 「ニューハチロク誕生」 #* BIG IN JAPAN / ROBERT PATTON # 「宣戦布告ハチロクターボ!」 #* 86 / 土屋圭市・石塚運昇{{Efn2|ドラマCD『ドリキン青春グラフティー』のテーマソング。}} # 「封印は解き放たれた」 #* 未使用 # 「ハチロク VS ハチロク 魂のバトル」 #* GIMME THE NIGHT / DAVE McLOUD #* MAKE UP YOUR MIND / WAIN L # 「移りゆく季節の中で」(最終話) #* GRAND PRIX / MEGA NRG MAN #* DEJA VU / DAVE RODGERS ==== 映画「頭文字D Third Stage」 ==== * FLY TO ME TO THE MOON & BACK / THE SPIDERS FROM MARS * SPEED LOVER / SPEEDMAN * KISS ME GOODBYE / MICHAEL BEAT{{Efn2|初期段階では「'''CRAZY NIGHT / BOYS BAND'''」であったため、エンドロールでの表記は「CRAZY NIGHT / BOYS BAND」になっている。「CRAZY NIGHT」は劇中には使用していないものの、サウンドトラックには収録されている。}} * CRAZY FOR LOVE / DUSTY * IF YOU WANNA STAY / NORMA SHEFFIELD * [[Gamble Rumble|strike on]] / move * MAX POWER / DR.LOVE feat. D.ESSEX * STREET OF FIRE / DAVE McLOUD * Gamble Rumble / move(オープニングテーマ) * JIRENMA / Every Little Thing(エンディング) * THE RACE IS OVER / DAVE RODGERS(エンドロール) 映画の予告で使用された楽曲 * TAKE ME BABY / MICKEY B. * SPACELOVE / FASTWAY * NEW LOVE / PRISCILLA * LIVE IN TOKYO / KELLY WRIGHT ==== OVA「頭文字D Battle Stage」 ==== # AE86 vs FD3S(オープニングBGM) #* SUPERSONIC FIRE / ATRIUM # AE86 vs FD3S #* THIS TIME / DERRECK SIMONS # AE86 vs R32 #* GOLDEN AGE / MAX COVERI # AE86 vs EG6 #* YOU'RE GONNA BE / STARLET # AE86 vs SILEIGHTY #* EMOTIONAL FIRE / DENISE # FD3S vs R32 #* GET READY FOR LOVING / BLACK POWER # AE86 vs S14 #* 24HOURS A DAY WITH YOU / ACE WARRIOR # AE86 vs FC3S #* JUMPING UP THE NATIONS / TOBY ASH # AE86 vs EVO4 #* LOVE KILLER / NANDO # AE86 vs EVO3 #* TAKE ME TO THE TOP / D.ESSEX # FD3S vs EVO4 #* SHE DEVIL / TRIUMPH # FC3S vs EVO3 #* DESTINATION LOVE / BLACK POWER # AE86 vs AE86 turbo #* DOCTOR LOVE / DR.LOVE # AE86 vs EVO3 #* KING OF THE NIGHT / THOMAS T. # AE86 vs SW20 #* EXPRESS LOVE / MEGA NRG MAN #* CRAZY FOR YOUR LOVE / MORRIS # AE86 vs ST205(CELICA GT-FOUR) #* DANCIN' IN MY DREAMS / J.STORM Guitar performed by OLAF THORSEN{{Efn2|作中のエンディングではアーティスト名が「J.STORM-GTR」と表記されている。}} # AE86 vs FC3S #* GENERATION / DAVE SIMON # エンディングBGM #* DON'T YOU WANNA BE FREE / WAIN L ==== OVA「頭文字D Extra Stage」 ==== * GET IT ALL RIGHT / Chilu * DON'T NEED YOU / Chilu * 蒼い風の中で / 根谷美智子 * IMPACT BLUE / 根谷美智子&かかずゆみ * NEXT / 根谷美智子&かかずゆみ ==== アニマックスPPV「頭文字D Fourth Stage」 ==== # 「プロジェクトD」 #* LET'S GO, COME ON / MANUEL # 「全開!ダウンヒルバトル」 #* GO BEAT CRAZY / FASTWAY #* WE'LL SEE HEAVEN / DIGITAL PLANET # 「東堂塾最強の男」 #* THE FIRE'S ON ME / SPOCK # 「二つのアドバイス」 #* SPEED CAR / D-TEAM #* REVOLUTION / FASTWAY # 「勝利へのスタートライン」 #* GIVE ME YOUR LOVE / dino starr #* NIGHT TRIP / SylverR # 「ブラインド・アタック」 #* DON'T GO BABY / maiko #* ALL AROUND / [[Lia]] #* SECRET LOVE / Nutty #* FOREVER YOUNG / SYMBOL #* SKY HIGH / Lia # 「嵐のハチゴーターボ」 #* SUPERTONIC LADY / MEGA NRG MAN{{Efn2|初期のクレジットではSUPERSONICと表記されている。なお、同アーティストの曲の中には実際に「SUPERSONIC」が存在するが、SUPERTONIC LADYとは異なる曲である。}} #* MIDNIGHT LOVER / DUSTY # 「運命のFDバトル」 #* FLY AWAY / DIGITAL PLANET #* RIGHT NOW / DARK ANGELS # 「恭子の告白」 #* POWER OF SOUND / ACE # 「埼玉エリア最終兵器」 #* STEEL BLADE / JEAN LOVE # 「雨のダウンヒルバトル」 #* TOKYO LIGHTS / ACE #* DRIVIN' CRAZY / ACE #* RAISING HELL / FASTWAY # 「葛藤のストレート」 #* MOVIN' UP MOVING NOW / JEAN LOVE #* ON MY WINGS / MANUEL #* I BELIEVE IN LOVIN' YOU / BRIAN ICE #* WHAT YOU NEED / MANUEL # 「モチベーション」 #* WILD REPUTATION 2005 / DAVE RODGERS{{Efn2|原曲は「SUPER EUROBEAT VOL.9」収録の「WILD REPUTATION / THE BIG BROTHER」。}} #* I WANNA BE THE NIGHT / CHRIS T # 「悲しきロンリードライバー」 #* GET THE FUTURE / maiko # 「4WDコンプレックス」 #* NO CONTROL / MANUEL # 「怒りのヒル・クライム」 #* BLOOD AND FIRE / POWERFUL T. #* KINGO KING'O BEAT / FASTWAY #* I JUST WANNA CALL YOU NOW / NORMA SHEFFIELD # 「埼玉エリア最終決戦」 #* MISSION IMPOSSIBLE / NICK MANSELL #* FLY IN THE SKY / KAREN # 「ラスト・ドライブ」 #* 円 -MADOKA- / [[SaGa]] # 「ゴッドフットとゴッドアーム」 #* CITY LOVER CITY RIDER / MATT LAND # 「超絶GT-R!」 #* GO GO MONEY (FRIDAY NIGHT Ver.) / NEO #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN #* SO FRAGILE / PAMSY # 「ドッグファイト」 #* LOOKA BOMBA / GO 2 #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN #* RIDER OF THE SKY / ACE # 「ワンハンドステアの魔術」 #* STOP TO GIVE UP / EUROFUNK # 「エンドレスバトル」 #* ELDORADO / DAVE RODGERS #* CHEMICAL LOVE / KEVIN & CHERRY #* ALL THAT I WANT / MR.M # 「終わらない挑戦」(最終話) #* LUCKY MAN / DAVE RODGERS #* TAKUMI / NEO #* Rage your dream / move ==== OVA「頭文字D BATTLE STAGE 2」 ==== # オープニング #*INITIAL D Fourth Stage - NON-STOP MEGA MIX with BATTLE DIGEST # AE86 vs ROADSTER #* FOREVER LOVE ME / SYMBOL # FD3S vs R34(25GT TURBO) #* POWER / GO 2 # AE86 vs EK9 #* TAKE ME FOREVER / DIGITAL PLANET #* SHOCK OUT / FASTWAY # FD3S vs INTEGRA #* WELCOME PEOPLE / MR.M #* DON'T STOP THE MUSIC 2006 / LOU GRANT # AE86 vs EK9(東堂塾デモカー) #* SWITCH! / MELISSA WHITE & ACE #* LET IT BURN / GO 2 # AE86 vs IMPREZA #* DISCO FIRE / DAVE RODGERS # AE85 vs S15 #* CRAZY & READY / PHIL #* IDOL / IDOL # FD3S(ツインターボ) vs FD3S(シングルタービン) #* LOVE SHINING / KASANOVA # AE86 vs ALTEZZA #* BE THE ONE / MR.M # AE86 vs CAPPUCCINO #* SUN IN THE RAIN / MANUEL #* PLAY LOUD / GO 2 # FD3S vs AE86(レビン・スーパーチャージャー) #* GETTING THE FEVER / LISA & ACE #* PROMISED LAND / ANNALISE # FD3S(シングルタービン) vs EVO V #* JUST FOR ME / VIVI # AE86 vs [[三菱・ランサーエボリューション#ランサーエボリューションVI トミ・マキネン・エディション (Tommi.Makinen Edition)|EVO VI TME]] #* LONELY NIGHT 2006 / HELENA # FD3S vs R34(GT-R Vspec II Nur) #* PRIDE / DAVE #* LOVE FOR MONEY / MONEY MAN{{Efn2|原曲は「SUPER EUROBEAT VOL.1(再発版)」収録の「LOVE FOR MONEY / FRANK TORPEDO」。}}{{Efn2|「SUPER EUROBEAT VOL.184」ではタイトル表記が「LOVE FOR MONEY 2008」となっている。}} #* BACK ON THE ROCKS / MEGA NRG MAN # AE86 vs S2000 #* LIVE FOR YOU / DAVE SIMON #* FUTURELAND / ACE ==== OVA「頭文字D Extra Stage 2」 ==== * EVERYBODY'S LOOKING / PAUL HARRIS * FALLING INTO MY HEART / TERENCE HOLLER * IT'S MY LIFE / DUSTY * WINGS OF FIRE / MAKO & SAYUKI ==== アニマックスPPV「頭文字D Fifth Stage」 ==== # 「運命の出会い」 #* GAS GAS GAS / MANUEL # 「新たなる戦場」 #* RUNAWAY / LEO RIVER # 「デッド・ライン」 #* I CAN'T STOP LOVIN' YOU / DREAM FIGHTERS #* FULL METAL CARS / DANIEL # 「因縁のリベンジバトル」 #* WHEN THE SUN GOES DOWN / KEN BLAST{{Efn2|エンドロールでは「When The Goes Down」と表記されている。}} # 「藤原ゾーン」 #* CODE:D / IGODA #* LIMOUSINE / MANUEL #* ROCKIN' HARDCORE / FASTWAY # 「啓介の意地」 #* CRAZY ON EMOTION / ACE # 「無(ゼロ)の心」 #* SPEEDY RUNNER / KING & QUEEN # 「白い悪魔」 #* I WON'T FALL APART / JAGER # 「死神」 #* THE RACE OF THE NIGHT / DAVE RODGERS # 「終止符」 #* A PERFECT HERO / CHRIS STANTON #* ON YOUR WINGS / RICH HARD # 「終止符、そして…」 #* WAIT FOR YOU / ACE{{Efn2|原曲は[[エリオット・ヤミン]]の「Wait For You」であり、作中で使用されているのはそのカヴァーにあたる「DANCEFLOOR NIGHT MIX」(「SUPER EUROBEAT VOL.192」収録)である。}} # 「ブラザーズ」 #* RAIN / MISTIKA # 「想定外バトル」 #* FACE THE RACE / POWERFUL T.{{Efn2|エンドロールでは「The Race」と表記されている。}} #* THE TOP / KEN BLAST # 「決着!極限ヒルクライム」(最終話) #* WHEELPOWER & GO! / DEJO & BON{{Efn2|エンドロールでは「Wheel Power&Go」と表記されている。}} ==== アニマックスVOD「頭文字D Final Stage」 ==== # 「ナチュラル」 #* DANCING ON THE STREET / DAVID DIMA # 「最強の敵」 #* MAGIC SUNDAY / DAVE RODGERS feat. FUTURA #* THE JUNGLE IS ON FIRE / J-STARK # 「危険な匂い」 #* Flash Light / IGODA #* strike on / m.o.v.e #* 1 FIRE / DAVE RODGERS # 「ドリーム」(最終話) #* CRAZY LITTLE LOVE / [[NUAGE]] #* WILD BOY BAD LOVE / JOE BANANA #* ADRENALINE / ACE #* Days / m.o.v.e<ref group="注">なお、アニマックスのサイトとm.o.v.eの公式サイトでは最終話のエンディングとアナウンスされていた。</ref> ==== 映画「新劇場版 頭文字D Legend1 -覚醒-」 ==== * Candle Flames / [[BACKDRAFT SMITHS]] * We'll start our race / BACKDRAFT SMITHS * Avoid / [[CLUTCHO]] * GALAVANIZE / [[THE VALVES]] * 進化論 / [[月光グリーン]] ==== 映画「新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-」 ==== * The Brave (D Version) / BACKDRAFT SMITHS * Carry on (D Version) / BACKDRAFT SMITHS * Strobe / CLUTCHO * NO MATTER / THE VALVES * MONSTER / 月光グリーン ==== 映画「新劇場版 頭文字D Legend3 -夢現-」 ==== * September's 7th Day (D Version) / BACKDRAFT SMITHS * Crank It Up / BACKDRAFT SMITHS * CUrious (D Mix) / BACKDRAFT SMITHS * The Dependence / BACKDRAFT SMITHS ==== OVA「頭文字D BATTLE STAGE 3」 ==== # オープニング #* # FD3S vs EVO VII GSR (CT9A) #* HIT ME / ワイルド # AE86 vs ROADSTER RS (NB8C) #* LASER GUN / JUNGLE BILL #* SAVING THE WORLD / EUROBEAT GIRLS # AE86 vs MR-S (ZZW30) #* AWAY / MR. M #* MILLENNIUM / ROBERT PATTON # FD3S vs Supra RZ (JZA80) #* VICTIM OF YOU / MICKEY B. #* SMOKE ON THE FIRE / P.STONE # Fairlady Z (Z33) vs Skyline BNR32(GTR) #* BACK TO THE RISING SUN / POWERFUL T. # FD3S vs Fairlady Z (Z33) #* BIG BOTHER / FASTWAY #* THE GAME OF LOVE / VICKY VALE # AE86 vs Silvia Spec R Aero (S15) #* DADDY BOY / SARAH # FC3S vs Skyline BNR32(GTR) #* ETERNITY / DENISE #* PRISON OF LOVE / THE WONDER GIRLS #* RAY LIGHT / SPIDER FROM MARS # FD3S vs NA1 NSX #* HOW YEAH / FRANZ TORNADO #* TAKE ME UP AND HIGHER / LOU LOU MARINA #* MUSIC IN YOU / DJ FORCE #* MAYA / PAUL HARRIS & CHERRY #* EASY GAME / ELENA FERRETTI # AE86 Sprinter Trueno vs AE86 Sprinter Trueno #* POWERNIGHT / ANNIE #* LOST IN TIME / MIKE DANGER #* COME BACK TO ME / ANIKA #* YOUNG & WILD / FASTWAY #* EUROHERO / NEO # エンディングBGM #* [[TAKE ME HIGHER|TAKE ME HIGHER 2020]] / DAVE RODGERS{{efn2|元々1996年に特撮番組『[[ウルトラマンティガ]]』の主題歌として[[V6 (グループ)|V6]]に提供した楽曲(日本語詞)の2度目のセルフカバー版(英語詞)。}} ==== OVA「新劇場版 頭文字D Battle Digest」 ==== #* # AE86 vs FD3S(ゲリラ) #* ANOTHER HERO / DANIEL # AE86 vs FD3S #* 1.2.3.4. FIRE! / FASTWAY #* SURRENDER MY SOUL / LOLITA # FC3S vs R32 #* FAST & FURIOUS HERE WE GO! / MARCUS D. # AE86 vs R32 #* BACH IS BACK / DANIEL & CHERRY #* BLACK OR WHITE / NANDO #* MY BABY'S GONNA BREAK MY HEART / LESLIE PARRISH # AE86 vs EG6 #* YOU TAKE ME TO THE TOP / JEE BEE #* NIGHT OF A TIGER / MR.MUSIC # AE85 vs S13 & 180SX #* YACCHAA BOI / GARCON # AE86 vs S13 #* ROCK ME OR NEVER / KEN LASZLO # FC3S(タイムアタック) #* LONELY INTO THE NIGHT / ALE # AE86 vs FC3S #* PEOPLE FOR PEOPLE / MATT LAND #* BURN ME UP / NICK MANCELL # エンディングBGM #* AE86 / DAVE RODGERS === 放送局 === ==== 第1期 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- !colspan="6"|本放送局(First Stage) |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[フジテレビジョン|フジテレビ]](CX)||1998年4月19日 - 12月6日||日曜 3:20 - 3:50(土曜深夜)||rowspan="7"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]|| |- |[[宮城県]]||[[仙台放送]](OX)|| || || |- |[[山形県]]||[[さくらんぼテレビジョン|さくらんぼテレビ]](SAY)|| || || |- |[[福島県]]||[[福島テレビ]](FTV)|| || || |- |[[広島県]]||[[テレビ新広島]](TSS)|| || || |- |[[福岡県]]||[[テレビ西日本]](TNC)|| || || |- |[[佐賀県]]||[[サガテレビ]](STS)|| ||日曜 23:00 - 23:30<ref group="注" name="saga">当時この枠で放送されていた[[ミュージックフェア]]をネットしていなかったため。深夜アニメとしては独立UHF局以外では珍しい時間に放送されていた。</ref>|| |- |[[京都府]]||[[京都放送|KBS京都]]||1998年 - 1999年3月30日||水曜 0:00 - 1:00(火曜深夜)||[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]|| |- |colspan="6"|'''本放送後に[[遅れネット]]の局''' |- |[[広域放送|近畿広域圏]]||[[毎日放送]](MBS)※||2003年9月21日 - 2004年4月18日||日曜 1:55 - 2:25(土曜深夜)||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||[[アニメシャワー]]枠 |- |[[神奈川県]]||[[テレビ神奈川]](TVK)※|| || ||独立UHF局|| |- |[[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]]||[[瀬戸内海放送]](KSB)||2001年4月 - 9月||金曜深夜||[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]|| |- |[[全国放送|日本全域]]||[[アニマックス]]|| || ||[[日本における衛星放送|CS放送]]||リピート放送あり、劇場版やOVAも繰り返し放送 |} ==== 第2期 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- !colspan="6"|本放送局(Second Stage) |- |関東広域圏||フジテレビ||1999年10月15日 - 2000年1月21日||金曜 1:45 - 2:15(木曜深夜)||rowspan="8"|フジテレビ系列|| |- |[[岩手県]]||[[岩手めんこいテレビ]](mit)|| || || |- |宮城県||仙台放送(OX)|| || || |- |山形県||さくらんぼテレビ(SAY)|| || || |- |福島県||福島テレビ(FTV)|| || || |- |広島県||テレビ新広島(TSS)|| || || |- |福岡県||テレビ西日本(TNC)|| || || |- |佐賀県||サガテレビ(STS)|| ||日曜 23:00 - 23:30<ref group="注" name="saga" />|| |- |京都府||KBS京都|| ||水曜 0:00 - 1:00(火曜深夜)||独立UHF局|| |- |colspan="6"|'''本放送後に遅れネットの局''' |- |近畿広域圏||毎日放送(MBS)※||2004年4月25日 - 8月21日||日曜 1:55 - 2:25(土曜深夜)||TBS系列||『アニメシャワー』枠 |- |神奈川県||テレビ神奈川(TVK)※|| || ||独立UHF局|| |- |日本全域||アニマックス|| || ||CS放送||リピート放送あり、劇場版やOVAも繰り返し放送 |} ※京都・神奈川エリアにおいては、事実上の[[再放送]]となっている。 === 各話リスト === ; 頭文字D {| class="wikitable" style="font-size:small" !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |ACT.1||究極のとうふ屋ドリフト||rowspan="5"|[[戸田博史 (脚本家)|戸田博史]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[三沢伸]]||[[一川孝久]]||'''1998年'''<br />4月18日 |- |ACT.2||リベンジ宣言! ほえるターボ||三沢伸||工藤進||山崎猛||4月25日 |- |ACT.3||ダウンヒルスペシャリスト登場||colspan="2" style="text-align:center"|葛谷直行||一川孝久||5月2日 |- |ACT.4||交流戦突入!||三沢伸||小滝礼||[[辻初樹]]||5月9日 |- |ACT.5||決着! ドッグファイト!||三沢伸<br />工藤進||山口美浩||山崎猛||5月16日 |- |ACT.6||新たなる挑戦者||rowspan="5"|[[岸間信明]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[波多正美]]||石井邦幸||5月23日 |- |ACT.7||走り屋のプライド||[[湖山禎崇]]||工藤進||一川孝久||6月13日 |- |ACT.8||タイムアップ寸前!||[[玉野陽美]]||鶴田寛||小林一幸<br />高成雲||6月20日 |- |ACT.9||限界バトル!||葛谷直行||山口美浩||山崎猛<br />一川孝久||6月27日 |- |ACT.10||爆裂! 5連ヘアピン||colspan="2" style="text-align:center"|小滝礼||辻初樹||7月4日 |- |ACT.11||デンジャラス慎吾登場!||rowspan="5"|戸田博史||池上和誉||西本由起夫||一川孝久<br />山崎猛||7月11日 |- |ACT.12||FR殺しのデスマッチ!||colspan="2" style="text-align:center"|波多正美||石井邦幸||8月1日 |- |ACT.13||イツキの初デート||[[牧野行洋]]||山口美浩||山崎猛<br />一川孝久||8月8日 |- |ACT.14||進化するドリフトの天才!||[[真野玲]]||鶴田寛||小林一幸<br />高成雲||8月15日 |- |ACT.15||拓海・怒涛の激走!||池上和誉||西本由起夫||一川孝久<br />山崎猛||8月22日 |- |ACT.16||碓氷峠のエンジェル||rowspan="8"|岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|小滝礼||辻初樹||8月29日 |- |ACT.17||サドンデス・デスマッチ||colspan="2" style="text-align:center"|横田和善||style="text-align:center"|-||9月12日 |- |ACT.18||熱風! 激走! 碓氷峠||colspan="2" style="text-align:center"|波多正美||石井邦幸||9月19日 |- |ACT.19||決着! スーパードリフト||葛谷直行||工藤進||一川孝久||9月26日 |- |ACT.20||ジ・エンド・オブ・サマー||[[佐藤雄三]]||鶴田寛||小林一幸<br />高成雲||10月10日 |- |ACT.21||スーパースターからの挑戦状||湖山禎崇||横田和善||一川孝久||10月17日 |- |ACT.22||激闘! ヒルクライム||colspan="2" style="text-align:center"|小滝礼||辻初樹||10月24日 |- |ACT.23||雨のダウンヒルバトル||池上和誉||工藤進||[[金沢比呂司]]||11月7日 |- |ACT.24||赤城の白い彗星!||rowspan="3"|戸田博史||colspan="2" style="text-align:center"|波多正美||佐藤正樹||11月14日 |- |ACT.25||決戦! ラストバトル||colspan="2" style="text-align:center"|池上和誉||一川孝久||11月28日 |- |ACT.26||新ダウンヒル伝説!||佐藤雄三||鶴田寛||小林一幸<br />高成雲||12月5日 |} ; 頭文字D Second Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |ACT.1||掟やぶりのスーパーウェポン||rowspan="2"|戸田博史||[[政木伸一]]||[[篠幸裕]]||[[つなきあき]]<br />佐藤正樹(総作監)||'''1999年'''<br />10月14日 |- |ACT.2||ランエボ軍団、秋名出撃!||羽生尚靖||[[山田雄三]]||丸山宏一<br />小原渉平(総作監)||10月21日 |- |ACT.3||敗北の予感||rowspan="4"|岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|津田義三||岩井優器||10月28日 |- |ACT.4||燃えない勝利||colspan="2" style="text-align:center"|花井信也||森中正春||11月4日 |- |ACT.5||破滅へのカウントダウン||政木伸一||篠幸裕||つなきあき||11月11日 |- |ACT.6||さようならハチロク||羽生尚靖<br />政木伸一||山田雄三||丸山宏一<br />小原渉平(総作監)||11月18日 |- |ACT.7||赤城バトル 白と黒の閃光!||rowspan="2"|戸田博史||colspan="2" style="text-align:center"|津田義三||岩井優器||11月25日 |- |ACT.8||そのクルマ 凶暴につき||神原敏昭||花井信也||森中正春||12月2日 |- |ACT.9||ニューハチロク誕生||岸間信明||政木伸一||篠幸裕||つなきあき||12月9日 |- |ACT.10||宣戦布告ハチロクターボ!||rowspan="2"|戸田博史||[[松尾衡]]||石田博||丸山宏一||12月16日 |- |ACT.11||封印は解き放たれた…||colspan="2" style="text-align:center"|津田義三||岩井優器||'''2000年'''<br />1月6日 |- |ACT.12||ハチロクVSハチロク魂のバトル||rowspan="2"|岸間信明||[[牛草健]]||花井信也||小原渉平||1月13日 |- |ACT.13||移りゆく季節のなかで||政木伸一||篠幸裕||つなきあき||1月20日 |} ; 頭文字D Third Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |戸田博史、岸間信明||[[影山楙倫]]||[[わたなべひろし]]||香月邦夫、河南正昭、[[外崎春雄]]||'''2001年'''<br />1月13日 |} ; 頭文字D Fourth Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!メカ作画監督!!放送日 |- |ACT.1||プロジェクトD||rowspan="24"|岸間信明||[[冨永恒雄]]||江島泰男||土方トシオ||rowspan="3"|近藤イサム||rowspan="2"|'''2004年'''<br />4月16日 |- |ACT.2||全開! ダウンヒルバトル||colspan="2" style="text-align:center"|工藤進||村井孝司 |- |ACT.3||東堂塾最強の男||冨永恒雄||中川聡||土方トシオ||rowspan="2"|6月19日 |- |ACT.4||二つのアドバイス||colspan="2" style="text-align:center"|工藤進||[[香川久]]||川原智弘 |- |ACT.5||勝利へのスタートライン||[[角銅博之|仁賀緑朗]]||三宅雄一郎||村井孝司||rowspan="3"|近藤イサム||rowspan="2"|8月21日 |- |ACT.6||ブラインド・アタック||工藤進||[[木村寛]]||土方トシオ |- |ACT.7||嵐のハチゴーターボ||rowspan="2"|冨永恒雄||清水明||[[荒木英樹]]||rowspan="2"|10月15日 |- |ACT.8||運命のFDバトル||木村寛||関口雅浩||川原智弘 |- |ACT.9||恭子の告白||工藤進||中川聡||土方トシオ||rowspan="4"|近藤イサム||rowspan="2"|12月17日 |- |ACT.10||埼玉エリア最終兵器||冨永恒雄||清水明||荒木英樹 |- |ACT.11||雨のダウンヒルバトル||rowspan="2"|工藤進||rowspan="2"|木村寛||土方トシオ||rowspan="2"|'''2005年'''<br />2月18日 |- |ACT.12||葛藤のストレート||rowspan="2"|羽田浩二 |- |ACT.13||モチベーション||colspan="2" style="text-align:center"|木村寛||rowspan="12"|横井秀章||rowspan="2"|4月15日 |- |ACT.14||悲しきロンリードライバー||colspan="2" style="text-align:center"|工藤進||小野沢雅子 |- |ACT.15||4WDコンプレックス||colspan="2" style="text-align:center"|木村寛||三宅雄一郎||rowspan="2"|6月17日 |- |ACT.16||怒りのヒル・クライム||colspan="2" style="text-align:center"|工藤進||羽田浩二 |- |ACT.17||埼玉エリア最終決戦||冨永恒雄||木村寛||三宅雄一郎||rowspan="2"|8月19日 |- |ACT.18||ラスト・ドライブ||colspan="2" style="text-align:center"|久原謙一||羽田浩二 |- |ACT.19||ゴッドフットとゴッドアーム||colspan="2" style="text-align:center"|木村寛||片岡康浩||rowspan="2"|10月14日 |- |ACT.20||超絶GT-R!||冨永恒雄||久原謙一||羽田浩二 |- |ACT.21||ドッグファイト||工藤進||木村寛||片岡康浩||rowspan="2"|12月16日 |- |ACT.22||ワンハンドステアの魔術||久原謙一<br />冨永恒雄||久原謙一||羽田浩二 |- |ACT.23||エンドレスバトル||colspan="2" style="text-align:center"|木村寛||江上夏樹||rowspan="2"|'''2006年'''<br />2月17日 |- |ACT.24||終わらない挑戦||冨永恒雄||久原謙一||羽田浩二 |} ; 頭文字D Extra Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !タイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |インパクトブルーの彼方に…||rowspan="2"|戸田博史||rowspan="2"|田中穣<br />長尾聡浩||rowspan="2"|安田賢司||田中穣||'''2000年'''<br />2月22日 |- |センチメンタルホワイト||清水恵蔵(レイアウト)<br />小林ゆかり||2月29日 |} ; 頭文字D Extra Stage2 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !タイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |旅立ちのグリーン||岸間信明||冨永恒雄||久原謙一<br />木村寛||羽田浩二、村上直樹<br />横井秀章(メカ)||'''2008年'''<br />10月3日 |} ; 頭文字D Fifth Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |ACT.1||運命の出会い||rowspan="14"|岸間信明||[[橋本みつお]]||松本マサユキ||小丸敏之||rowspan="2"|'''2012年'''<br />11月9日 |- |ACT.2||新たなる戦場||rowspan="2"|真野玲||川西泰二||Kim yoon jeong |- |ACT.3||デッド・ライン||渡辺周||小畑賢||rowspan="2"|12月14日 |- |ACT.4||因縁のリベンジバトル||NANAKO||関田修||菊池陽介 |- |ACT.5||藤原ゾーン||[[小寺勝之|こでらかつゆき]]||川西泰二||Kim yoon joung||rowspan="2"|'''2013年'''<br />1月11日 |- |ACT.6||啓介の意地(プライド)||橋本みつお||渡部周||小畑賢 |- |ACT.7||無(ゼロ)の心||こでらかつゆき||関田修||小丸敏之||rowspan="2"|2月8日 |- |ACT.8||白い悪魔||高橋成世||川西泰二||Kim Yoon Joung |- |ACT.9||死神||こでらかつゆき||渡部周||小畑賢||rowspan="2"|3月8日 |- |ACT.10||終止符||rowspan="2"|高橋成世||関田修||菊池陽介 |- |ACT.11||終止符、そして…||西村大樹||青木真理子||rowspan="2"|4月12日 |- |ACT.12||ブラザーズ||rowspan="2"|こでらかつゆき||渡部周||清水勝祐<br />西山忍 |- |ACT.13||想定外バトル||関田修||菊池陽介||rowspan="2"|5月10日 |- |ACT.14||決着!極限ヒルクライム||橋本みつお||西村大樹||青木真理子 |} ; 頭文字D Final Stage {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |ACT.1||ナチュラル||rowspan="4"|岸間信明||高橋成世||西村大樹||青木真理子||rowspan="2"|'''2014年'''<br />5月16日 |- |ACT.2||最強の敵||橋本みつお||関田修||中村純子<br />小丸敏之 |- |ACT.3||危険な匂い||高橋成世||西村大樹||青木真理子||rowspan="2"|6月22日 |- |ACT.4||ドリーム<ref group="注" name="dream">Final Stage公式サイトには、当初「プロジェクト・ドリーム」と記載されていたが、放送を前に「ドリーム」へと変更された。変更前のタイトルは[https://twitter.com/Sunma47/status/466988285361803265 音響監督である三間のツイッター]でも確認できる。</ref>||橋本みつお||関田修||菊池陽介<br />中村純子<br />小丸敏之 |} === 関連商品 === {| class="wikitable mw-collapsible" style="font-size:small;" |+ !タイトル !発売日 !収録話、枚数 !フォーマット !規格品番 |- ! colspan="5" |頭文字D |- |頭文字D volume 01"vs FD3S" |1998年12月9日 |ACT.1 - ACT.5 |VHS |AVVD-90049 |- |頭文字D volume 02"vs R32" |1999年1月13日 |ACT.6 - ACT.10 |VHS |AVVD-90050 |- |頭文字D volume 03"vs EG6" |1999年2月10日 |ACT.11 - ACT.15 |VHS |AVVD-90051 |- |頭文字D volume.04"vs SILEIGHTY" |1999年3月3日 |ACT.16 - ACT.20 |VHS |AVVD-90054 |- |頭文字D volume.05"vs FC3S" |1999年4月7日 |ACT.21 - ACT.26 |VHS |AVVD-90055 |- |頭文字D 最速LD-BOX SET |1999年9月15日 |7枚組 |LD |AVLT-80001 |- |頭文字D VOL.1 |2000年3月29日 |ACT.1 - ACT.2 |DVD |AVBA-14024 |- |頭文字D VOL.2 |2000年4月26日 |ACT.3 - ACT.6 |DVD |AVBA-14040 |- |頭文字D VOL.3 |2000年5月31日 |ACT.7 - ACT.10 |DVD |AVBA-14041 |- |頭文字D VOL.4 |2000年6月28日 |ACT.11 - ACT.14 |DVD |AVBA-14039 |- |頭文字D VOL.5 |2000年7月26日 |ACT.15 - ACT.18 |DVD |AVBA-14050 |- |頭文字D VOL.6 |2000年8月30日 |ACT.19 - ACT.22 |DVD |AVBA-14051 |- |頭文字D VOL.7 |2000年9月13日 |ACT.23 - ACT.26 |DVD |AVBA-14055 |- |頭文字D DVD BOX |2001年3月28日 |8枚組<ref group="注">本編7枚+特典1枚</ref> |DVD |AVBA-14101 |- |頭文字D フルスロットル・コレクション First Stage Vol.1 | rowspan="2" |2012年12月21日 |3枚組+CD |DVD |AVBA-62028 |- |頭文字D フルスロットル・コレクション First Stage Vol.2 |3枚組+CD |DVD |AVBA-62031 |- ! colspan="5" |頭文字D Second Stage |- | rowspan="2" |頭文字D Second Stage vol.1 |2000年5月10日 | rowspan="2" |ACT.1 - ACT.3 |VHS |AVVA-14023 |- |2000年10月25日 |DVD |AVBA-14059 |- | rowspan="2" |頭文字D Second Stage vol.2 |2000年6月7日 | rowspan="2" |ACT.5 - ACT.7 |VHS |AVVA-14028 |- |2000年11月29日 |DVD |AVBA-14066 |- | rowspan="2" |頭文字D Second Stage vol.3 |2000年7月19日 | rowspan="2" |ACT.8 - ACT.10 |VHS |AVVA-14049 |- |2000年12月13日 |DVD |AVBA-14082 |- | rowspan="2" |頭文字D Second Stage vol.4 |2000年8月2日 | rowspan="2" |ACT.11 - ACT.13 |VHS |AVVA-14052 |- |2001年1月24日 |DVD |AVBA-14096 |- |頭文字D COMPLETE BOX2 |2001年2月28日 |4枚組 |LD |AVLA-14116 |- |頭文字D フルスロットル・コレクション Second Stage |2013年2月15日 |3枚組+CD |DVD |AVBA-62095 |- ! colspan="5" |頭文字D Extra Stage |- | rowspan="2" |頭文字D Extra Stage インパクトブルーの彼方に… |2001年2月21日 | rowspan="2" |1枚組 |VHS |AVVA-14120 |- |2001年3月22日 |DVD |AVBA-14115 |- |頭文字D Extra Stage 2 旅立ちのグリーン | rowspan="2" |2008年12月5日 |1枚組 |DVD |AVBA-26992 |- |頭文字D Extra Stage BOX |2枚組<ref group="注">インパクトブルーの彼方に…+旅立ちのグリーン</ref> |DVD |AVBA-29001 |- ! colspan="5" |頭文字D Battle Stage |- | rowspan="2" |頭文字D Battle Stage |2000年12月13日 | rowspan="2" |1枚組 |DVD |AVBA-14113 |- |2002年5月15日 |DVD |AVBA-14365 |- ! colspan="5" |劇場版 頭文字D Third Stage |- |INITIAL D THE MOVE SPECIAL BOX | rowspan="2" |2001年8月29日 | rowspan="2" |2本組<ref group="注">本編1枚+特典1枚</ref> |VHS |AVVA-14198 |- | rowspan="2" |劇場版 頭文字D Third Stage |DVD |AVBA-14194 |- |2002年8月16日 |1枚組 |DVD |AVBA-14424 |- ! colspan="5" |頭文字D Fourth Stage |- |頭文字D Fourth Stage VOL.1 |2004年6月16日 |ACT.1 - ACT.2 |DVD |AVBA-14969 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.2 |2004年8月18日 |ACT.3 - ACT.4 |DVD |AVBA-14992 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.3 |2004年10月20日 |ACT.5 - ACT.6 |DVD |AVBA-14993 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.4 |2004年12月15日 |ACT.7 - ACT.8 |DVD |AVBA-14994 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.5 |2005年2月16日 |ACT.9 - ACT.10 |DVD |AVBA-14995 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.6 |2005年4月20日 |ACT.11 - ACT.12 |DVD |AVBA-14996 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.7 |2005年6月15日 |ACT.13 - ACT.14 |DVD |AVBA-14997 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.8 |2005年8月17日 |ACT.15 - ACT.16 |DVD |AVBA-22308 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.9 |2005年10月19日 |ACT.17- ACT.18 |DVD |AVBA-22309 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.10 |2005年12月21日 |ACT.19 - ACT.20 |DVD |AVBA-22310 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.11 |2006年2月15日 |ACT.21 - ACT.22 |DVD |AVBA-22311 |- |頭文字D Fourth Stage VOL.12 |2006年4月19日 |ACT.23 - ACT.24 |DVD |AVBA-22670 |- |頭文字D Fourth Stage DVD-BOX |2007年3月14日 |13枚組<ref group="注">本編12枚+特典1枚</ref> |DVD |AVBA-26201 |- |頭文字D フルスロットル・コレクション Fourth Stage Vol.1 | rowspan="2" |2013年4月19日 |2枚組+CD |DVD |AVBA-62100 |- |頭文字D フルスロットル・コレクション Fourth Stage Vol.2 |3枚組+CD |DVD |AVBA-62102 |- ! colspan="5" |頭文字D Fifth Stage |- |頭文字D Fifth Stage Vol.1 |2013年1月11日 |ACT.1 - ACT.2 |DVD |AVBA-62034 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.2 |2013年2月8日 |ACT.3 - ACT.4 |DVD |AVBA-62173 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.3 |2013年3月8日 |ACT.5 - ACT.6 |DVD |AVBA-62174 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.4 |2013年4月12日 |ACT.7 - ACT.8 |DVD |AVBA-62270 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.5 |2013年5月10日 |ACT.9 - ACT.10 |DVD |AVBA-62317 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.6 |2013年6月14日 |ACT.11 - ACT.12 |DVD |AVBA-62378 |- |頭文字D Fifth Stage Vol.7 |2013年7月12日 |ACT.13 - ACT.14 |DVD |AVBA-62450 |- ! colspan="5" |頭文字D Final Stage |- |頭文字D Final Stage vol.1 |2014年6月13日 |ACT.1 - ACT.2 |DVD |AVBA-74323 |- |頭文字D Final Stage vol.2 |2014年7月11日 |ACT.3 - ACT.4 |DVD |AVBA-74324 |- ! colspan="5" |複数シリーズ |- |頭文字D Second Stage DVD-BOX2 |2002年1月1日 |5枚組<ref group="注">本編4枚+Extra Stage</ref> |DVD |AVBA-14251 |- |頭文字D SUPER COMPLETE BOX |2003年12月25日 |14枚組<ref group="注">頭文字D、Second Stage、Third Stage、Extra Stage、Battle Stage</ref>+8CD |DVD |AVBA-14821B |- |頭文字D フルスロットル・コレクション Third Stage & Extra Stage |2013年2月15日 |2枚組+CD |DVD |AVBA-62098 |- |頭文字D Premium Blu-ray BOX Pit1 |2014年2月21日 |6枚組<ref group="注">頭文字D、Second Stage</ref>+3CD |Blu-ray |AVXA-74153 |- |頭文字D Premium Blu-ray BOX Pit2 |2014年3月21日 |7枚組<ref group="注">Third Stage、Fourth Stage、Extra Stage、Battle Stage、プロジェクトDへ向けて</ref>+3CD |Blu-ray |AVXA-74159 |- |頭文字D Premium Blu-ray BOX Pit3 |2015年3月20日 |5枚組<ref group="注">Fifth Stage、Final Stage、ダイジェスト</ref>+CD |Blu-ray |EYXA-10337B |- |頭文字D Memorial Blu-ray Collection Vol.1 | rowspan="3" |2019年2月1日 |6枚組<ref group="注">頭文字D、Second Stage</ref> |Blu-ray |EYXA-12187 |- |頭文字D Memorial Blu-ray Collection Vol.2 |7枚組<ref group="注">Third Stage、Fourth Stage、Extra Stage、Battle Stage、プロジェクトDに向けて</ref> |Blu-ray |EYXA-12193 |- |頭文字D Memorial Blu-ray Collection Vol.3 |5枚組<ref group="注">Fifth Stage、Final Stage</ref> |Blu-ray |EYXA-12200 |- ! colspan="5" |新劇場版 |- |新劇場版 頭文字D Legend1 -覚醒-<初回限定版> | rowspan="2" |2014年12月26日 | rowspan="2" |1枚組 |Blu-ray |EYXA-10261 |- |新劇場版 頭文字D Legend1 -覚醒-<通常版> |Blu-ray |EYXA-10262 |- |新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-<数量限定生産デラックス版> | rowspan="3" |2015年11月4日 | rowspan="3" |1枚組 |Blu-ray |EYXA-10631 |- |新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-<初回限定版> |Blu-ray |EYXA-10632 |- |新劇場版 頭文字D Legend2 -闘走-<通常版> |Blu-ray |EYXA-10633 |- |新劇場版 頭文字D Legend3 -夢現-<初回限定版> | rowspan="2" |2016年6月17日 | rowspan="2" |1枚組 |Blu-ray |EYXA-10994 |- |新劇場版 頭文字D Legend3 -夢現-<通常版> |Blu-ray |EYXA-10995 |- |新劇場版 頭文字D Blu-ray Collection |2019年3月1日 |3枚組 |Blu-ray |EYXA-12205 |- |新劇場版 頭文字D BATTLE DIGEST |2022年1月7日 |1枚組<ref group="注">Legend1 - 3のバトルシーンの再編集版</ref>+CD |Blu-ray |EYXA-13580B |} == メディア展開 == === 音楽CD === ; INITIAL D VOCAL BATTLE(1999年3月25日、AVCT-15000) :# SPACE BOY〜NO ONE SLEEP IN TOKYO〈TAKUMIX〉(D.RODGERS、EDO BOYS、藤原拓海:[[三木眞一郎]]) :# DON'T STOP THE MUSIC(高橋啓介:[[関智一]]) :# BACK ON THE ROCKS(中里毅:[[檜山修之]]) :# NIGHT FEVER(武内樹:[[岩田光央]]) :# DON'T STAND SO CLOSE(庄司慎吾:[[藤原啓治]]) :# MAY BE TONITE(真子:[[根谷美智子]]、沙雪:[[かかずゆみ]]) :# BLACK OUT(高橋涼介:[[子安武人]]) :# 奇蹟の薔薇(高橋兄弟:子安武人、関智一) :# Rage your dream〈lover's mix〉(池谷浩一郎:[[矢尾一樹]]、佐藤真子:根谷美智子) :# around the world〈D.RODGERS mix〉(三木眞一郎、[[川澄綾子]]) :# xxx(茂木なつき:川澄綾子) === ドラマCD === * 『頭文字D 番外編 女流最速伝説 インパクトブルーの彼方に…』1999年5月12日発売。 * 『頭文字D 番外編 ロンリードライバー伝説』1999年9月15日発売。 * 『頭文字D 番外編 ドリキン青春グラフティー』1999年10月27日発売。 * 『頭文字D 番外編 黒い稲妻・新たなる不敗伝説』1999年12月8日発売。 === ビデオゲーム === 本作を元にしたアーケードゲーム・家庭用ゲームシリーズ。 {{Main|頭文字D ARCADE STAGE}} === Webラジオ === ; 頭文字D Radio Stage : 2012年11月10日から2013年5月26日まで、[[音泉]]、[[HiBiKi Radio Station]]で毎月10日、26日に配信されていたラジオ番組。パーソナリティは、三木眞一郎(藤原拓海 役)、[[織田千穂]]。<ref>{{Cite web|和書|publisher=音泉トピックス|title=頭文字D Radio Stage 配信決定!|url=http://www.onsen.ag/blog/?p=23901|date=2012-11-8|accessdate=2020-03-26}}</ref> === プロモーション映像 === 2022年、[[トヨタ・86#2代目 GR86 ZN8型(2021年 - )|トヨタ・GR86]]のプロモーション映像企画「GR86 FASTERCLASS」の一環として、拓海が運転するAE86トレノと、土屋圭市が運転するGR86が対決するショートアニメ<ref>{{Cite web|和書|publisher=Car Watch|title=トヨタ、新型「GR86」のパフォーマンスを表現する3つの動画を公開 「頭文字D」も登場|url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1378619.html|date=2022-1-6|accessdate=2022-01-06}}}</ref>が制作された。本人役として土屋圭市も声優として参加している。アメリカで制作されたプロモーション映像であるため、土屋のGR86は左ハンドル仕様となっている。 === パチスロ === ; パチスロ頭文字D<ref>{{Cite web|和書|url=https://p-gabu.jp/guideworks/machinecontents/detail/5708|title=パチスロ頭文字D機種情報|publisher=777パチガブ|date=2021-01-12|accessdate=2023-06-28}}</ref> : 2021年1月より導入。新劇場版および原作第一部をベースにした[[パチスロ]]機。 : Sammyより発売された6号機のA+AT機。スキール音など音源にこだわり、実際にサーキットで収録を行いメイキング映像も公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=Fns-2QiyAlY |title=パチスロ「頭文字D」が凄い!! メイキング映像付き!!【Hot-Version】2020 |accessdate=2022-01-23}}</ref>。 : しかしながら権利上の問題によりAE86を含め、登場する車両は全て架空の車両となっている。 : 声優は主に新劇場版のキャスティング、キャラクターデザインには新劇場版頭文字Dで作画監督を務めた横山愛が起用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yokoyama-ai.com/works/|title=仕事 横山愛|accessdate=2023-07-04|publisher=横山愛 Official Site}}</ref>。 : 収録曲は新劇場版での主な楽曲と歴代の頭文字Dで使われたEUROBEATの楽曲の一部が収録。 === パチンコ === ; P・頭文字D<ref>{{Cite web|和書|url=https://p-gabu.jp/guideworks/machinecontents/detail/6105|title=P頭文字D機種情報|publisher=777パチガブ|date=2022-05-09|accessdate=2023-06-28}}</ref> : 2022年5月より導入。アニメのベースは[[パチスロ]]頭文字Dとほぼ同様。 : Sammyより発売された。 : 声優は主に新劇場版のキャスティングとなってる。 : 収録曲は新劇場版での主な楽曲とTVシリーズで使われたOP楽曲に歴代の頭文字Dで使われたEUROBEATの楽曲の一部が収録。<ref>{{Cite web|和書|url=https://1geki.jp/pachinko/p_initial_d/|title=P頭文字D(イニシャル)の機種概要|publisher=一撃|date=2022-06-09|accessdate=2022-07-30}}</ref> == 実写版 == {{main|頭文字D (映画)}} 『[[インファナル・アフェア]]』シリーズのスタッフ陣を中心に実写映画化され、キャストには[[香港]]および[[台湾]]、[[日本]]などアジア各地の若手俳優が起用された。撮影は全て日本で行われ、[[新潟県]]の[[新潟県道561号弥彦岩室線|弥彦山スカイライン]]や[[群馬県]][[渋川市]]がその舞台となっている。2005年6月に香港などで公開された後、日本([[ギャガ]]配給)では2005年9月17日から新宿ミラノ他全国で公開された。 == 日本国外での展開 == * 大韓民国では2003年に第1期のみケーブルテレビ局の[[XTM]]により吹替版が制作された。当時はまだ日本の大衆文化の開放が進んでおらず、人名・地名が韓国風に変更された。その後、2017年に[[トゥーニバース]]により字幕版が放送された。 * 北米では2010年代にTVアニメ第1期から第4期、新劇場版、Extra Stageの吹替版が[[ファニメーション]]よりリリースされた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[MFゴースト]] - 未来の公道レースを題材とした作品。頭文字Dの登場人物も登場している。 *[[グランツーリスモシリーズ]] - 作者が保有する仕様を忠実に再現したAE86が登場。 * [[ドリフトスピリッツ]] - コラボレーションイベントを実施。 == 外部リンク == * [https://yanmaga.jp/c/initial_d ヤングマガジン 頭文字D 公式ページ] * [http://www.yanmaga.kodansha.co.jp/ ヤングマガジン 公式サイト] * [https://www.animax.co.jp/programs/NN10001742 アニマックス 頭文字D] * [https://web.archive.org/web/20210621130627/http://initiald-movie.com/ 新劇場版 頭文字D 公式サイト](2021年6月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [https://web.archive.org/web/20010416004822/http://www.toei-group.co.jp/movie/D/index.htm 頭文字D Third Stage 公式サイト](2001年4月16日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [https://web.archive.org/web/20010331074040/http://www.eiga-portal.com/movie/d/01.shtml 頭文字D Third Stage 映画ポータル](2001年3月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [https://initiald-portal.com/ 頭文字Dポータル] * [https://initiald.bestcarweb.jp/ 【公式】頭文字D&MFゴースト] * {{Twitter|initialD_PR|『頭文字D』公式}} * {{imcdb movie|385426|Inisharu D}} (英語) {{頭文字D}} {{三沢伸監督作品}} {{Navbox |title = アニメ制作会社テンプレート |list1 = {{スタジオコメット}} {{ぎゃろっぷ}} {{A・C・G・T}} {{SynergySP}} {{スタジオディーン}} {{ウルトラスーパーピクチャーズ}}}} {{Navboxes |title= オリコン週間チャート第1位 |titlestyle= background-color:#CEE6C1 |list1= {{オリコン週間コミックチャート第1位 1997年|1997年6月30日・9月22日・29日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 1999年|1999年3月29日・5月31日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 2000年|2000年8月28日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 2001年|2001年1月22日付}} {{オリコン週間DVDアニメチャート第1位 2013年|2013年1月21日・28日・3月18日・4月22日・29日・6月24日・7月22日付}} }} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= この記事は以下のカテゴリからも参照できます |redirect1= 頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE- |1-1= 日本のアニメ映画 |1-2= 2001年のアニメ映画 }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いにしやるてい}} [[Category:頭文字D|*]] [[Category:漫画作品 い|にしやるてい]] [[Category:1995年の漫画]] [[Category:週刊ヤングマガジンの漫画作品]] [[Category:カーレース漫画]] [[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:群馬県を舞台とした漫画作品]] [[Category:関東地方を舞台とした漫画作品]] [[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]] [[Category:群馬県を舞台としたアニメ作品]] [[Category:関東地方を舞台としたアニメ作品]] [[Category:群馬県を舞台とした映画作品]] [[Category:アニメ作品 い|にしやるてい]] [[Category:1998年のテレビアニメ]] [[Category:1999年のテレビアニメ]] [[Category:2004年のテレビアニメ]] [[Category:フジテレビの深夜アニメ]] [[Category:アニマックスのアニメ]] [[Category:スタジオコメット]] [[Category:エイベックス・グループのアニメ作品]] [[Category:ヤンマガKCのアニメ作品]] [[Category:カーレースアニメ]] [[Category:日本のアニメ映画]] [[Category:エイベックス・グループのアニメ映画]] [[Category:漫画を原作とするアニメ映画]]
2003-09-08T05:15:01Z
2023-12-30T03:53:57Z
false
false
false
[ "Template:要出典", "Template:YouTube", "Template:Navbox", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Normdaten", "Template:Infobox animanga/TVAnime", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Multiple image", "Template:ISBN2", "Template:Reflist", "Template:Cite press release", "Template:Cite journal", "Template:Twitter", "Template:出典の明記", "Template:Infobox animanga/Header", "Template:Navboxes", "Template:Imcdb movie", "Template:頭文字D", "Template:Main", "Template:Infobox animanga/Manga", "Template:Efn2", "Template:Cite web", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Infobox animanga/OVA", "Template:Notelist2", "Template:Infobox animanga/Movie", "Template:三沢伸監督作品", "Template:Refnest" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%AD%97D
15,705
加越能バス
加越能バス株式会社(かえつのうバス、英: Kaetsunou Bus Co., Ltd.)は、富山県西部を中心に路線バスや高速バスを運行するバス事業者。路線バス・高速バス事業のほか、貸切バス事業や旅行業、保険代理店業、スポーツクラブ事業も行う。富山地方鉄道の連結子会社である。 旧社名は加越能鉄道株式会社(かえつのうてつどう、英: Kaetsunou Railway Co.)で、鉄道・軌道を保有・運営する鉄道事業者だった。2002年に万葉線を第三セクターの万葉線株式会社へ譲渡したのを最後に鉄軌道事業から撤退し、2012年に現行の社名へ変更した。 富山県西部の高岡市を中心に氷見市、射水市、小矢部市、砺波市、南砺市にて路線バス事業を展開し、一部は石川県金沢市にも路線を延ばしている。高岡営業所(本社)のほか、氷見営業所、砺波営業所がある。かつては小矢部市などにも営業所を有していた。 北陸新幹線の長野駅-金沢駅間延伸開業に先立つ2015年3月10日より、高岡駅南口-新高岡駅間において、高頻度の運行を行っている。 富山県西部6市と両駅を結ぶことや両停留所を毎時06、16、...、56分に発車していたことから、かつては「シャトル6」の愛称が付けられていた。実際の運行上は、高岡駅と各方面を結ぶ路線において一部の便が当該区間に乗り入れるものが大半になっている。運行経路は、高岡駅南口→新高岡駅方向が 新高岡駅→高岡駅南口方向が となっている。ただし、路線や便によっては高岡駅前-高岡駅南口間、新高岡駅-済生会高岡病院間は運行・経由しない場合がある。 このほか、2019年6月29日より瑞龍寺線シャトルバスの運行をしていたが、新型コロナウイルスの影響で運休し、2022年4月1日に廃止された。 「生活交通路線」の注記をした路線は生活交通路線の指定を受け、国・富山県・岐阜県・沿線市町村の補助を受けている。 下記に示す路線名は運賃表によるが、他が存在しない場合の経由地は省いた。また案内上の路線名と異なるものは個別に注記した。 ※高山BC = 高山濃飛バスセンター、高岡BT = 高岡バスターミナル(イルカ交通)、アウトレット = 三井アウトレットパーク北陸小矢部 前述の通り北陸新幹線延伸開業に先立って大規模なダイヤ改正があり、路線の廃止も行われた。その後も乗客の減少により収支状況が悪化して運行継続が困難となった路線を順次廃止している。特に2019年3月期には営業キロ数を約1割削減した。これは訪日外国人観光客などからの需要増加に伴う乗務員不足を解消する目的もあり、捻出した人員は貸切バスなどに振り向けている。 以下の路線はすべて2015年3月10日のダイヤ改正で廃止された。 長らく三菱ふそう・日野自動車の2社だったが、2004年に日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)、2011年にはいすゞ自動車製が加わり現在は4社体制になっている。三菱・日野で8割を占め、日産ディーゼル・いすゞは少数派である。また、全体の約9割が中型車であり、大型車は2010年現在5台のみである。また、前述のとおり瑞龍寺線シャトルバスにはワゴン車を用いている。車種はトヨタ・ハイエース。 低床型バスを積極的に導入している。1997年から1999年にワンステップバスを5台導入し、2000年以降日野HR 9m車を中心にノンステップバスを増備している。2011年8月現在コミュニティバスを含め36台である。 1999年の新車よりLED式方向幕を採用しているほか、ワンステップバス4台もLED式に改造している。 2007年には保有する一般路線車すべてにデジタルタコグラフを導入している。 カラーリングは1998年までに導入された車両および後述の中古車両(低床型バスを除く)にはクリーム色をベースに赤色と青緑色のラインを用いた西武バスに似たデザインを採用していたが、1999年に導入された新車よりライトグリーンをベースに白色と緑色のラインを用いた現在の意匠に変更された。また、2015年8月1日から南砺 - 金沢線において、南砺市に本社があるピーエーワークスが制作したテレビアニメ作品のキャラクターが描かれたラッピングバスが運行している。 同社はかつて、氷見営業所が日野車、砺波営業所が三菱車に統一されていたが、最近は氷見営業所にも三菱車・日産ディーゼル車が在籍するなど崩れつつある。なお、高岡営業所(本社)は以前より4メーカーが揃っている。 長らく日産ディーゼル(富士重工業または西日本車体工業製車体)に統一されていたが、2008年には三菱ふそうからのOEM車種であるスペースアローAが導入されたほか、同年以降は日野・セレガも増備されている。また、2006年頃には西武バスから車両1台(日産ディーゼル・スペースウイング)が移籍してきた。 いすゞを除く3社になっているが2002年以降は三菱ふそうをメインとして導入しているため、三菱車の比率が上がっている。 三菱車においては親会社の富山地方鉄道と同様、1992年までは呉羽自動車製ボディーで導入されていた。エアロバスKを所有しているほか、かつてはキュービックスタイルのサンシャインデッカーやエアロクイーンKも稼働していたが、2000年代前半ごろまでに全車引退している。前述のとおり2002年以降はエアロバスをメインに三菱車を多く導入し、2008年には新型エアロクイーン、2009年にはエアロエースが増備されている。 2006年・2007年にはリフト付き大型バス(日産ディーゼル・スペースアロー)を2台導入し多様化するニーズに応えている。 カラーリングは富山地鉄と同様、クリーム色をベースにオレンジ色と茶色のラインが入ったデザインだったが、2002年から2007年に導入された車両は独自のデザインを採用している。これは火の鳥をモチーフにしたフェニックスカラーと呼ばれるもので、スーパーハイデッカーではピンク、ハイデッカーではイエロー、中型・小型車にはパープルを採用し、在来車の一部も塗り替えられていた。なお、高速路線車も2003年の新車より同様のデザインを採用したが、こちらはオレンジ色である。 2008年4月に同社及び富山地鉄、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同年の新車2台(車種は前述)より白色とピンクを基調とした新グループ共通カラーが採用された。フェニックスカラーを含む既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年ごろまでに完了させる予定である。 同社はこれまで積極的に新車を導入してきたが、2006年以降は大手事業者からの中古車も導入されている。一般路線車では2008年秋より神奈川中央交通を中心に西武バス・ライフバスからの中古車を導入していて、2009年には明石市交通部からの日産ディーゼル・RMノンステップが導入された。また、貸切車でも2006年以降は新車と同時に他事業者からの中古車も導入している。 方向幕は前述のLED化される前は幕式が採用されていたが富山地鉄とは異なり色分けはされておらず、すべて白地で系統番号が表記されていないほか、一部を除き経由地は青字、行き先は黒字で表記されている。 加越能バス保険部が運営している。 加越能鉄道の本来の設立目的である加越能高速鉄道計画は、富山 - 金沢、高岡 - 七尾の2つの路線の計画があった。富山 - 金沢については既に北陸本線(現在のあいの風とやま鉄道線とIRいしかわ鉄道線)があったが、加越能鉄道の計画は両都市を直線状に結び、かつ北陸本線が非電化の時代に電車を使用し、国鉄の半分の時間で走るというものであった。 1953年(昭和28年)2月27日に両路線の免許を申請し、1954年(昭和29年)5月に免許が下りたが、免許されたのは富山 - 金沢のみで、高岡 - 七尾については保留とされた。富山 - 金沢間の経由地を高岡に変更した上で1959年(昭和34年)12月に工事認可が下り、電鉄富山駅 - 太閤山(小杉町(現・射水市)) - 地鉄高岡駅の路線について用地買収を開始した。 1965年(昭和40年)頃までに予定の半分まで用地買収が終わっていたが、モータリゼーションの急速な進行により加越能鉄道・富山地鉄ともに乗客が減少したことや、北陸本線が複線電化されスピードアップが行われたこと、高度経済成長による地価の高騰など情勢の変化により、1970年(昭和45年)に計画中止、翌1971年(昭和46年)に起業廃止を申請した。買収された線路用地は財団法人富山県民福祉公社に買い取られ、中央サイクリングロード(富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線の一部)として転用されている。 予定では、電鉄富山駅を起点として、富山市街地を松川右岸の高架線、安野屋を経て神通川を渡り、新富山、富山大学の南側、下野、寺町を経て呉羽丘陵をトンネルで抜け、呉羽町、花ノ木、中老田、塚越、黒河、太閤山、水戸田、庄川を渡り、蓮花寺、大野、新高岡駅というルートとなっていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "加越能バス株式会社(かえつのうバス、英: Kaetsunou Bus Co., Ltd.)は、富山県西部を中心に路線バスや高速バスを運行するバス事業者。路線バス・高速バス事業のほか、貸切バス事業や旅行業、保険代理店業、スポーツクラブ事業も行う。富山地方鉄道の連結子会社である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧社名は加越能鉄道株式会社(かえつのうてつどう、英: Kaetsunou Railway Co.)で、鉄道・軌道を保有・運営する鉄道事業者だった。2002年に万葉線を第三セクターの万葉線株式会社へ譲渡したのを最後に鉄軌道事業から撤退し、2012年に現行の社名へ変更した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "富山県西部の高岡市を中心に氷見市、射水市、小矢部市、砺波市、南砺市にて路線バス事業を展開し、一部は石川県金沢市にも路線を延ばしている。高岡営業所(本社)のほか、氷見営業所、砺波営業所がある。かつては小矢部市などにも営業所を有していた。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "北陸新幹線の長野駅-金沢駅間延伸開業に先立つ2015年3月10日より、高岡駅南口-新高岡駅間において、高頻度の運行を行っている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "富山県西部6市と両駅を結ぶことや両停留所を毎時06、16、...、56分に発車していたことから、かつては「シャトル6」の愛称が付けられていた。実際の運行上は、高岡駅と各方面を結ぶ路線において一部の便が当該区間に乗り入れるものが大半になっている。運行経路は、高岡駅南口→新高岡駅方向が", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "新高岡駅→高岡駅南口方向が", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "となっている。ただし、路線や便によっては高岡駅前-高岡駅南口間、新高岡駅-済生会高岡病院間は運行・経由しない場合がある。 このほか、2019年6月29日より瑞龍寺線シャトルバスの運行をしていたが、新型コロナウイルスの影響で運休し、2022年4月1日に廃止された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「生活交通路線」の注記をした路線は生活交通路線の指定を受け、国・富山県・岐阜県・沿線市町村の補助を受けている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "下記に示す路線名は運賃表によるが、他が存在しない場合の経由地は省いた。また案内上の路線名と異なるものは個別に注記した。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "※高山BC = 高山濃飛バスセンター、高岡BT = 高岡バスターミナル(イルカ交通)、アウトレット = 三井アウトレットパーク北陸小矢部", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "前述の通り北陸新幹線延伸開業に先立って大規模なダイヤ改正があり、路線の廃止も行われた。その後も乗客の減少により収支状況が悪化して運行継続が困難となった路線を順次廃止している。特に2019年3月期には営業キロ数を約1割削減した。これは訪日外国人観光客などからの需要増加に伴う乗務員不足を解消する目的もあり、捻出した人員は貸切バスなどに振り向けている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下の路線はすべて2015年3月10日のダイヤ改正で廃止された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "長らく三菱ふそう・日野自動車の2社だったが、2004年に日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)、2011年にはいすゞ自動車製が加わり現在は4社体制になっている。三菱・日野で8割を占め、日産ディーゼル・いすゞは少数派である。また、全体の約9割が中型車であり、大型車は2010年現在5台のみである。また、前述のとおり瑞龍寺線シャトルバスにはワゴン車を用いている。車種はトヨタ・ハイエース。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "低床型バスを積極的に導入している。1997年から1999年にワンステップバスを5台導入し、2000年以降日野HR 9m車を中心にノンステップバスを増備している。2011年8月現在コミュニティバスを含め36台である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1999年の新車よりLED式方向幕を採用しているほか、ワンステップバス4台もLED式に改造している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2007年には保有する一般路線車すべてにデジタルタコグラフを導入している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カラーリングは1998年までに導入された車両および後述の中古車両(低床型バスを除く)にはクリーム色をベースに赤色と青緑色のラインを用いた西武バスに似たデザインを採用していたが、1999年に導入された新車よりライトグリーンをベースに白色と緑色のラインを用いた現在の意匠に変更された。また、2015年8月1日から南砺 - 金沢線において、南砺市に本社があるピーエーワークスが制作したテレビアニメ作品のキャラクターが描かれたラッピングバスが運行している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同社はかつて、氷見営業所が日野車、砺波営業所が三菱車に統一されていたが、最近は氷見営業所にも三菱車・日産ディーゼル車が在籍するなど崩れつつある。なお、高岡営業所(本社)は以前より4メーカーが揃っている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "長らく日産ディーゼル(富士重工業または西日本車体工業製車体)に統一されていたが、2008年には三菱ふそうからのOEM車種であるスペースアローAが導入されたほか、同年以降は日野・セレガも増備されている。また、2006年頃には西武バスから車両1台(日産ディーゼル・スペースウイング)が移籍してきた。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "いすゞを除く3社になっているが2002年以降は三菱ふそうをメインとして導入しているため、三菱車の比率が上がっている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "三菱車においては親会社の富山地方鉄道と同様、1992年までは呉羽自動車製ボディーで導入されていた。エアロバスKを所有しているほか、かつてはキュービックスタイルのサンシャインデッカーやエアロクイーンKも稼働していたが、2000年代前半ごろまでに全車引退している。前述のとおり2002年以降はエアロバスをメインに三菱車を多く導入し、2008年には新型エアロクイーン、2009年にはエアロエースが増備されている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2006年・2007年にはリフト付き大型バス(日産ディーゼル・スペースアロー)を2台導入し多様化するニーズに応えている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "カラーリングは富山地鉄と同様、クリーム色をベースにオレンジ色と茶色のラインが入ったデザインだったが、2002年から2007年に導入された車両は独自のデザインを採用している。これは火の鳥をモチーフにしたフェニックスカラーと呼ばれるもので、スーパーハイデッカーではピンク、ハイデッカーではイエロー、中型・小型車にはパープルを採用し、在来車の一部も塗り替えられていた。なお、高速路線車も2003年の新車より同様のデザインを採用したが、こちらはオレンジ色である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2008年4月に同社及び富山地鉄、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同年の新車2台(車種は前述)より白色とピンクを基調とした新グループ共通カラーが採用された。フェニックスカラーを含む既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年ごろまでに完了させる予定である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "同社はこれまで積極的に新車を導入してきたが、2006年以降は大手事業者からの中古車も導入されている。一般路線車では2008年秋より神奈川中央交通を中心に西武バス・ライフバスからの中古車を導入していて、2009年には明石市交通部からの日産ディーゼル・RMノンステップが導入された。また、貸切車でも2006年以降は新車と同時に他事業者からの中古車も導入している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "方向幕は前述のLED化される前は幕式が採用されていたが富山地鉄とは異なり色分けはされておらず、すべて白地で系統番号が表記されていないほか、一部を除き経由地は青字、行き先は黒字で表記されている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "加越能バス保険部が運営している。", "title": "その他の事業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "加越能鉄道の本来の設立目的である加越能高速鉄道計画は、富山 - 金沢、高岡 - 七尾の2つの路線の計画があった。富山 - 金沢については既に北陸本線(現在のあいの風とやま鉄道線とIRいしかわ鉄道線)があったが、加越能鉄道の計画は両都市を直線状に結び、かつ北陸本線が非電化の時代に電車を使用し、国鉄の半分の時間で走るというものであった。", "title": "過去の事業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)2月27日に両路線の免許を申請し、1954年(昭和29年)5月に免許が下りたが、免許されたのは富山 - 金沢のみで、高岡 - 七尾については保留とされた。富山 - 金沢間の経由地を高岡に変更した上で1959年(昭和34年)12月に工事認可が下り、電鉄富山駅 - 太閤山(小杉町(現・射水市)) - 地鉄高岡駅の路線について用地買収を開始した。", "title": "過去の事業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)頃までに予定の半分まで用地買収が終わっていたが、モータリゼーションの急速な進行により加越能鉄道・富山地鉄ともに乗客が減少したことや、北陸本線が複線電化されスピードアップが行われたこと、高度経済成長による地価の高騰など情勢の変化により、1970年(昭和45年)に計画中止、翌1971年(昭和46年)に起業廃止を申請した。買収された線路用地は財団法人富山県民福祉公社に買い取られ、中央サイクリングロード(富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線の一部)として転用されている。", "title": "過去の事業" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "予定では、電鉄富山駅を起点として、富山市街地を松川右岸の高架線、安野屋を経て神通川を渡り、新富山、富山大学の南側、下野、寺町を経て呉羽丘陵をトンネルで抜け、呉羽町、花ノ木、中老田、塚越、黒河、太閤山、水戸田、庄川を渡り、蓮花寺、大野、新高岡駅というルートとなっていた。", "title": "過去の事業" } ]
加越能バス株式会社は、富山県西部を中心に路線バスや高速バスを運行するバス事業者。路線バス・高速バス事業のほか、貸切バス事業や旅行業、保険代理店業、スポーツクラブ事業も行う。富山地方鉄道の連結子会社である。 旧社名は加越能鉄道株式会社で、鉄道・軌道を保有・運営する鉄道事業者だった。2002年に万葉線を第三セクターの万葉線株式会社へ譲渡したのを最後に鉄軌道事業から撤退し、2012年に現行の社名へ変更した。
{{Pathnav|富山地方鉄道|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 加越能バス株式会社 |英文社名 = Kaetsunou Bus Co., Ltd. |ロゴ = |画像 = [[File:Kaetsuno Bus Headquarters.jpg|300px|加越能バス本社]] |画像説明 = 加越能バス本社 |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |国籍 = {{JPN}} |略称 = |本社郵便番号 = 933-0062 |本社所在地 = [[富山県]][[高岡市]]江尻字村中1243番地1 | 本社緯度度 = 36 | 本社緯度分 = 45 | 本社緯度秒 = 33.2 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 137 |本社経度分 = 1 | 本社経度秒 = 39.7 | 本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP |設立 = [[1950年]]([[昭和]]25年)[[10月23日]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/company/profile/|publisher=加越能バス|title=会社概要 {{!}} 加越能バス - 富山県のバス旅行は、加越能バスで!東京・名古屋・金沢への高速バスや富山空港への連絡バス、お手軽お得な旅行バスツアーもご紹介しています。|accessdate=2022-07-11}}</ref><br />(加越能鉄道株式会社) |業種 = 5050 |事業内容 = 自動車運送事業<br />国内旅行業 他 |代表者 = [[取締役]][[社長]] 中田邦彦<ref name="profile" /> |資本金 = 1億円<br />(2021年3月期)<ref name="profile" /> |売上高 = 17億8452万3000円<br />(2020年3月期) |経常利益 = ▲3億6715万2000円<br />(2020年3月期) |純利益 = ▲3億1682万6000円<br />(2020年3月期) |純資産 = 9885万8000円<br />(2020年3月期) |総資産 = 15億9788万8000円<br />(2020年3月期) |従業員数 = 191人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="profile" /> |決算期 = 毎年[[3月31日]] |主要株主 = [[富山地方鉄道]] 80%<br />(2020年3月31日現在) |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{Official URL}} |特記事項 = 上記経営指標は、特記なき限り富山地方鉄道株式会社 第137期(平成31年4月1日 ‐ 令和2年3月31日)[[有価証券報告書]]による{{Efn|当社は有価証券報告書提出会社ではないが、富山地方鉄道の連結売上高に占める割合が10%を超えている子会社の1社であるため、主要経営・財務指標が記載されている。}}。 }} [[ファイル:KAETSUNO-EXPRESS_Toyama230-i-705.JPG|right|thumb|250px|高速バス車両]] '''加越能バス株式会社'''(かえつのうバス、{{Lang-en-short|Kaetsunou Bus Co., Ltd.}})は、[[富山県]]西部を中心に[[路線バス]]や[[高速バス]]を運行する[[バス (交通機関)|バス事業者]]。路線バス・高速バス事業のほか、[[観光バス|貸切バス]]事業や[[旅行会社|旅行業]]、[[保険|保険代理店業]]、[[スポーツクラブ]]事業も行う。[[富山地方鉄道]]の[[連結子会社]]である。 旧社名は'''加越能鉄道株式会社'''(かえつのうてつどう、{{Lang-en-short|Kaetsunou Railway Co.|links=no}})で、[[鉄道路線|鉄道]]・[[軌道法|軌道]]を保有・運営する[[鉄道事業者]]だった。[[2002年]]に[[万葉線]]を[[第三セクター]]の[[万葉線 (企業)|万葉線株式会社]]へ譲渡したのを最後に鉄軌道事業から撤退し、[[2012年]]に現行の社名へ変更した。 == 歴史 == * [[1950年]]([[昭和]]25年)[[10月23日]]<ref>『目で見る 高岡・氷見・新湊の100年』(1993年11月27日、郷土出版社発行)163頁。</ref>:加越能三国([[石川県]]を含む旧[[加賀国]]・[[越中国]]・[[能登国]])を結ぶ鉄道を敷設する計画を遂行するために、富山地方鉄道(地鉄)の出資(後に[[北陸鉄道]]や富山県、石川県と同県[[金沢市]]も出資した)によって'''加越能鉄道株式会社'''として設立。地鉄から[[加越能鉄道加越線|加越線]]([[石動駅]] - 青島町駅(後の[[庄川町駅]]))と富山県西部のバス事業を譲受。 * [[1959年]](昭和34年)[[4月1日]]:地鉄から[[万葉線|高岡軌道線]](地鉄[[高岡駅]] - [[米島口駅]] - 新湊駅(現在の[[六渡寺駅]]))、[[加越能鉄道伏木線|伏木線]](米島口駅 - [[伏木港駅]])を譲受。 * [[1966年]](昭和41年)[[4月5日]]:[[富山新港]]の建設による[[富山地方鉄道射水線|地鉄射水線]]の分断に伴い、新港西側の[[越ノ潟駅]] - [[新湊駅]]を譲受し、[[万葉線|新湊港線]]とする。 * [[1971年]](昭和46年)[[9月1日]]:伏木線を廃止。 * [[1972年]](昭和47年)[[9月16日]]:加越線を廃止。 * [[2002年]]([[平成]]14年)[[2月1日]]:万葉線(高岡軌道線・新湊港線)を[[第三セクター]]の万葉線株式会社に譲渡し、鉄軌道事業から撤退。 * [[2012年]](平成24年)[[10月1日]]:社名を事業実態に合わせて、「'''加越能バス株式会社'''」に変更<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20120627305.htm 『北國新聞』2012年6月27日]{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月10日]]:[[北陸新幹線]]の[[長野駅]] - [[金沢駅]]間延伸開業に先立ち、路線バスの大規模なダイヤ改正を実施<ref name="kaetsuno_diagram">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/diakaisei-201503..html|publisher=加越能バス|title=乗合バス路線のダイヤ改正について|date=|accessdate=2015-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150516182914/http://www.kaetsunou.co.jp/nori/diakaisei-201503..html|archivedate=2015年5月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 == 歴代社長 == # [[佐伯宗義]] # 西泰蔵 # 武田儀八郎 # [[綿貫民輔]] # 西泰蔵 # 舟木信成 # 四十万小祐 # 高田秀穂 # 成瀬清弘 # 緒方裕 # 松原信恭 # 板谷洋(1993年 - 1999年) # 三川勝之(1999年 - 2007年) # 桑名博勝(2007年 - 2009年){{Efn|name="shacho"|親会社の富山地方鉄道の社長が兼任。}} # 川岸宏(2009年 - 2013年){{Efn|name="shacho"}} # 桑名博勝(2013年 - 2015年){{Efn|name="shacho"}}{{Efn|川岸<!-- 人名の後ろには敬称・役職名を記載しないこと(表記ガイドに反します) -->の死去に伴って再任。}} # 稲田祐治(2015年 - 2021年) # 中田邦彦(2021年 - ) == バス事業 == === 一般路線バス === 富山県西部の[[高岡市]]を中心に[[氷見市]]、[[射水市]]、[[小矢部市]]、[[砺波市]]、[[南砺市]]にて路線バス事業を展開し、一部は[[石川県]][[金沢市]]にも路線を延ばしている。高岡営業所(本社)のほか、氷見営業所、砺波営業所がある。かつては小矢部市などにも営業所を有していた。 北陸新幹線の長野駅-金沢駅間延伸開業に先立つ2015年3月10日より、高岡駅南口-[[新高岡駅]]間において、高頻度の運行を行っている。 富山県西部6市と両駅を結ぶことや両停留所を毎時06、16、…、56分に発車していたことから、かつては「シャトル6」の愛称が付けられていた<ref name="150310kaisei">{{Wayback |url=http://kaetsunou.co.jp/nori/diakaisei-201503..html |title=乗合バス路線のダイヤ改正について |date=20150315014257}}</ref>。実際の運行上は、高岡駅と各方面を結ぶ路線において一部の便が当該区間に乗り入れるものが大半になっている。運行経路は、高岡駅南口→新高岡駅方向が * 高岡駅前→高岡駅南口→[[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]]口→イオンモール口→[[新高岡駅]]→イオンモール南→[[富山県済生会高岡病院|済生会高岡病院]] 新高岡駅→高岡駅南口方向が * 済生会高岡病院→[[高岡テクノドーム]]→[[イオンモール高岡]]→新高岡駅→瑞龍寺口→高岡駅南口→高岡駅前 となっている。ただし、路線や便によっては高岡駅前-高岡駅南口間、新高岡駅-済生会高岡病院間は運行・経由しない場合がある。 このほか、2019年6月29日より瑞龍寺線シャトルバスの運行をしていたが、新型コロナウイルスの影響で運休し、2022年4月1日に廃止された。 「生活交通路線」の注記をした路線は生活交通路線の指定を受け、国・富山県・[[岐阜県]]・沿線市町村の補助を受けている<ref name="seikatsu">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/policy/seikatsu |title=生活路線 |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 下記に示す路線名は運賃表<ref name="fare">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/regular/fare/ |title=運賃表 |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>によるが、他が存在しない場合の経由地は省いた。また案内上の路線名と異なるものは個別に注記した。 ==== 高岡市内線 ==== * <span style="background-color:yellow;color:black">○1</span>:高岡駅前→[[高岡古城公園|古城公園]]→[[高岡市民病院]]→ハローワーク高岡前(4系統から直通運転) * <span style="background-color:green;color:white">○2</span>:高岡駅前←古城公園←高岡市民病院←ハローワーク高岡前(3系統に直通運転) * <span style="background-color:red;color:white">△3</span>:高岡駅前→横田本町→瑞穂町→羽広→[[厚生連高岡病院|厚生連病院]]前→博労町→高岡駅前 * <span style="background-color:blue;color:white">△4</span>:高岡駅前←横田本町←瑞穂町←羽広←厚生連病院前←博労町←高岡駅前 ==== 四ツ谷循環線 ==== * 末広町→横田本町→[[高岡第一高等学校|第一高校]]→広小路→高岡駅前(登校日の朝のみ運行) * 第一高校前→横田本町→高岡駅前(登校日の夕方のみ運行) ** 平日のみの運行で、土休日と休校日には運行されない。 ==== 高岡駅南口〜イオン線 ==== * 100:イオンモール高岡→新高岡駅→瑞龍寺口→高岡駅南口→高岡駅前 * 200:高岡駅南口→瑞龍寺口→イオンモール口→新高岡駅 * 400:高岡駅南口→瑞龍寺口→イオンモール口→新高岡駅→イオンモール高岡(土休日のみ運行) ==== 脇線 ==== * ←110/10→:高岡駅前 - 広小路 - 四ツ屋 - 新守山 - [[氷見駅]]口 - ひみ阿尾の浦温泉 - [[岩井戸温泉]] - 九殿浜 - 脇(生活交通路線) * ←310/10→:済生会高岡病院 - 新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 広小路 - 四ツ屋 - 新守山 - 氷見駅口 - ひみ阿尾の浦温泉 - 岩井戸温泉 - 九殿浜 - 脇 ** 終点の脇で、[[北鉄能登バス]]脇線(七尾駅方面)に接続している。 ** 生活交通路線の指定を受けており、自治体の補助により維持されている。 ** 氷見市街地を抜けると日本海沿いに走る路線で、{{独自研究範囲|晴天時には、立山連峰を望む絶景が楽しめる。途中、上記の温泉街も経由するため生活路線と観光路線の双方を併せ持っている|date=2022年7月}}。 ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 新守山経由氷見線 ==== * ←111/11→:高岡駅前 - 広小路 - 四ツ屋 - 新守山 - 柳田 - 氷見駅口 - 氷見中央 - 氷見営業所 - [[金沢医科大学氷見市民病院|氷見市民病院]](生活交通路線) * ←311/11→:済生会高岡病院 - 新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 広小路 - 四ツ屋 - 新守山 - 柳田 - 氷見駅口 - 氷見中央 - 氷見営業所 - 氷見市民病院(生活交通路線) ** 1989年11月6日:[[バスロケーションシステム]]を導入。 ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 伏木経由氷見線 ==== * ←320/20→:済生会高岡病院 - 新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 広小路 - ハローワーク高岡前 - 米島 - 矢田 - [[伏木駅]]前 - 国分 - [[雨晴駅]]前 - 中村記念病院 - 柳田 - 氷見駅口 - 氷見中央 - 氷見営業所 - 氷見市民病院(生活交通路線) ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ** 国分から雨晴付近にかけては、日本海・富山湾沿いを走行し、{{独自研究範囲|晴天時には立山連峰を望む絶景が楽しめる|date=2022年7月}}。 ==== 高岡ふしき病院経由氷見線 ==== * ←324/24→:済生会高岡病院 - 新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 広小路 - ハローワーク高岡前 - 米島 - 矢田神社前 - [[地域医療機能推進機構高岡ふしき病院|高岡ふしき病院]] - 古府 - 伏木一の宮 - 中村記念病院 - 柳田 - 氷見駅口 - 氷見中央 - 氷見営業所 - 氷見市民病院 ** 2014年4月1日:運行系統名を社会保険高岡病院経由氷見線から高岡ふしき病院経由氷見線に変更<ref name="140401kaisei">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/new/busstop-henkou-201404.html |title=乗合バスの運行系統名・停留所名変更のお知らせ |date=20140411011147}}</ref>。 ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ** 国分から雨晴付近にかけては、日本海・富山湾沿いを走行し、{{独自研究範囲|晴天時には立山連峰を望む絶景が楽しめる|date=2022年7月}}。 ==== 伏木循環線 ==== * 26:高岡駅前→広小路→ハローワーク高岡前→米島→矢田神社前→伏木一の宮→国分→伏木駅前→矢田→米島→(中略)→ 高岡駅前(西回り伏木循環) * 27:高岡駅前→広小路→ハローワーク高岡前→米島→矢田神社前→伏木一の宮→国分→伏木駅前→矢田(西回り伏木循環) ** 1989年11月6日:バスロケーションシステムを導入。 ** 2015年3月10日:新高岡駅着・イオンモール高岡発に変更<ref name="150310kaisei"/>。 ** 2022年4月1日:イオン~矢田線・新高岡駅~矢田神社線を廃止し高岡駅前発着に統一<ref name="220401kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/11110/ |title= 乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ** 早朝に矢田神社前始発の26系統、深夜に矢田止まりの27系統の運行がある。 ==== 古府循環線 ==== * 21:高岡駅前→広小路→ハローワーク高岡前→米島→矢田→伏木駅前→国分→伏木一の宮→高岡ふしき病院→矢田神社前→米島→(中略)→高岡駅前(東回り伏木循環) * 22:高岡駅前→広小路→高岡市民病院→ハローワーク高岡前→米島→矢田→伏木駅前→国分→伏木一の宮→高岡ふしき病院→矢田神社前→米島→(中略)→高岡駅前(東回り伏木循環) * 23:高岡駅前→広小路→高岡市民病院→ハローワーク高岡前→米島→矢田神社前→高岡ふしき病院→伏木一の宮→国分→伏木駅前→矢田→米島→(中略)→ 高岡駅前(西回り伏木循環) * 25:高岡駅前→広小路→ハローワーク高岡前→米島→矢田神社前→高岡ふしき病院→伏木一の宮→国分→伏木駅前→矢田→米島→(中略)→ 高岡駅前(西回り伏木循環) ** 伏木循環線が高岡ふしき病院経由になったものである。 ** 1989年11月6日:バスロケーションシステムを導入。 ** 2003年4月1日:イオン高岡経由で済生会病院へ延伸<ref name="030401kaisei">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/new/1new150401.html |title=高岡駅前からの初乗り運賃を引下げしました。またイオンショッピングセンターへの直行便を新設しました。 |date=20030410015319}}</ref>。 ** 2015年3月10日:済生会病院に乗り入れる系統を新高岡駅着・イオンモール高岡発に、一部便を高岡市民病院経由に変更<ref name="150310kaisei"/>。 ** 2022年4月1日:古府循環イオン線・古府循環新高岡駅線を廃止し高岡駅前発着に統一<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 仏生寺経由氷見線 ==== * ←330/30→:済生会高岡病院 - 新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 横田本町 - [[高岡商業高校]]前 - 佐加野 - 頭川 - 仏生寺 - 万尾 - 氷見駅口 - 氷見中央 - 氷見営業所 - 氷見市民病院(生活交通路線) ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 国吉線 ==== * ←131/31→:高岡駅前 - 横田本町 - 高岡商業高校前 - 佐加野 - 国吉 ** 2003年4月1日:イオン高岡経由で済生会病院へ延伸<ref name="030401kaisei"/>。 ** 2015年3月10日:済生会病院に乗り入れる系統を新高岡駅着・イオンモール高岡発に変更<ref name="150310kaisei"/>。 ** かつては勝木原まで運行する路線「西広谷線」であったが、2019年10月1日のダイヤ改正で、国吉-勝木原間が廃止された。 ** 2022年4月1日:イオンモール高岡に乗り入れる系統(イオン〜国吉線)を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 南波岡線 ==== * ←132/32→:高岡駅前 - 横田本町 - 高岡商業高校前 - 南波岡 ** 平日のみの運行。 ==== 城光寺線 ==== * ←240/40→:イオンモール高岡→新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 志貴野中学校前 - 開発町 - [[富山大学|富大]]高岡キャンパス前 - 二上団地前 - [[城光寺運動公園]] * ←241/41→:イオンモール高岡→新高岡駅 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 志貴野中学校前 - 開発町 - 富大高岡キャンパス前 - 二上団地前 ** 2015年3月10日:高岡駅前→新高岡駅・イオンモール高岡→高岡駅前間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 高岡〜石動〜アウトレットパーク線 ==== * ←350/50→:済生会高岡病院 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 横田本町 - 内島 - [[福岡町 (富山県)|福岡町]] - 大滝 - 石動駅前(生活交通路線) * ←351/51→:済生会高岡病院 - 高岡駅南口 - 高岡駅前 - 横田本町 - 内島 - 福岡町 - 大滝 - 石動駅前 - 総合会館口 - [[三井アウトレットパーク北陸小矢部]] * アウトレットシャトル:石動駅前 - 総合会館口 - 三井アウトレットパーク北陸小矢部 ** 2015年3月10日:高岡駅前 - 済生会高岡病院間を延伸<ref name="150310kaisei"/>。 ** 2015年7月13日:石動駅前 - 三井アウトレットパーク北陸小矢部間を延伸、アウトレットシャトル運行開始<ref name="150713kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/322/ |title= 『三井アウトレットパーク北陸小矢部』へのバス運行について |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ==== 庄川町線 ==== * ←160/60→:高岡駅前 - 清水町 - 関町 - 高岡駅南口 - 新高岡駅 - 二塚 - 佐野新町 - 市野瀬 - 戸出団地 - 戸出町 - 油田 - [[砺波市役所]]前 - [[砺波駅]]前 - [[砺波総合病院]]前 - [[イオンモールとなみ]]前 - 荒高屋 - 井波 - [[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|瑞泉寺]]前 - 庄川支所前 - [[庄川町]](生活交通路線) ** 2002年3月末:越中庄川荘までに短縮された。 ** 2004年2月末:越中庄川荘が閉館になったため、現在のルートになった。 ** 2015年3月10日:新高岡駅経由の「新高岡駅経由庄川町線」変更<ref name="150310kaisei"/>。 ** 2017年4月1日:砺波総合病院・イオンモールとなみ経由の「砺波総合病院経由庄川町線」に変更<ref name="20171001kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/4388/ |title= 乗合バスのダイヤ改正について(10月1日実施) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ==== 小牧線 ==== * ←161/61→:高岡駅前 - 清水町 - 関町 - 高岡駅南口 - 新高岡駅 - 二塚 - 佐野新町 - 市野瀬 - 戸出団地 - 戸出町 - 油田 - 砺波市役所前 - 砺波駅前 - 砺波総合病院前 - イオンモールとなみ前 - 荒高屋 - 井波 - 瑞泉寺前 - 庄川支所前 - [[小牧ダム|小牧]](旧・小牧堰堤) ** 小牧より庄川遊覧船に乗り換えることができる。なお、庄川中央-庄川中学校口間および庄川水記念公園前-上金屋間は、自由乗降区間になっており、バス停以外でも乗降可能である。 ** この路線は、かつて、国道156号をそのまま南下して、西赤尾まで延びていた。 ** 2015年3月10日:新高岡駅経由の「新高岡駅経由小牧線」変更<ref name="150310kaisei"/>。 ** 2017年4月1日:砺波総合病院・イオンモールとなみ経由の「砺波総合病院経由小牧線」に変更<ref name="20171001kaisei"/>。 ==== 高岡法科大学線 ==== * ←162/62→:高岡駅前 - 清水町 - 関町 - 高岡駅南口 - 新高岡駅 - 二塚 - 佐野新町 - 市野瀬 - 戸出町 - [[戸出駅]]前 - [[高岡法科大学]]前 ** 2015年3月10日:新高岡駅経由の「新高岡駅経由高岡法科大学線」変更<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 戸出東部小学校線 ==== * ←163/63→:高岡駅前 - 清水町 - 関町 - 高岡駅南口 - 新高岡駅 - 二塚 - 佐野新町 - 市野瀬 - 池田町 - [[高岡市立戸出東部小学校|戸出東部小学校]]前 ** 2015年3月10日:庄川町線の戸出東部小学校経由便に代わって運行開始<ref name="150310kaisei"/>。 ==== 中田町線 ==== * ←170/70→:高岡駅南口 - 新高岡駅 - 済生会高岡病院 - 広上北部 - 中田団地 - 中田町 - [[高岡市立中田中学校|中田中学校]]前(生活交通路線) ==== 石堤循環線 ==== * 80:高岡駅前→博労町→厚生連病院前→羽広→荒屋敷→石堤→新生苑前→荒屋敷→(中略)→高岡駅前 ==== 高岡駅前-富山高専線 ==== * 高岡駅前-大島分庁舎前-[[富山高等専門学校|富山高専]] ** 平日のみの運行で、土休日と休校日には運行されない。 ** 高岡駅前-大島分庁舎前間は富山地鉄バスの路線と重複するため、この区間のみの利用はできない。 ** 2020年4月1日:運行開始<ref name="20220401kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/8329/ |title= 乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ==== 氷見市民病院〜脇線 ==== * 氷見市民病院 - 氷見営業所 - 氷見中央 - 氷見駅口 - ひみ阿尾の浦温泉 - 岩井戸温泉 - 九殿浜 - 脇 ==== 氷見高校線 ==== * 氷見駅前 - 氷見駅口 - [[富山県立氷見高等学校|氷見高校]]前(平日のみ運行。土・日・祝日・休校日は運休) ==== ひみ番屋街線 ==== * 氷見駅前 - 氷見中央 - [[ひみ番屋街]](氷見市街地周遊バス) ** 氷見営業所の管轄である<ref name="himi-banyagai">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/regular/himi-banyagai/ |title= 乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ** 平日は市街地循環線の運行があるため運休<ref name="himi-banyagai"/>。 ** 2012年10月1日:ひみ番屋街の開業に合わせて運行開始<ref name="121001himi">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/himibanyagaisen.html |title=氷見市街地周遊バス『ひみ番屋街線』運行開始のお知らせ |date=20121003054152}}</ref>。 ==== 氷見市民病院線 ==== * 氷見駅前 - 氷見中央 - ひみ番屋街 - 加納 - 氷見営業所 - 氷見市民病院(氷見市街地周遊バス) ** 氷見営業所の管轄である<ref name="himi-banyagai"/>。 ** 日曜日・祝日は運休<ref name="himi-banyagai"/>。 ** 2012年10月1日:ひみ番屋街の開業に合わせて運行開始<ref name="121001himi"/>。 ==== 市街地循環線 ==== * 氷見市民病院 - 氷見営業所 - 氷見駅前 - 氷見中央 - ひみ番屋街 - 加納 - 氷見営業所 - 氷見市民病院(氷見市街地周遊バス) ** 氷見営業所の管轄である<ref name="himi-banyagai"/>。 ** 日曜日・祝日は運休<ref name="himi-banyagai"/>。 ** 2013年3月16日:運行開始<ref name="130401himi">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/201304-26.html |title=氷見市街地周遊バス時刻表 |date=20130704094911}}</ref>。 ==== 加越線 ==== * 石動駅前 - 薮波 - [[津沢町]] - 福野 - [[福野駅 (富山県)|福野駅]]前 - 高瀬神社前 - 井波 - 北川 ** この路線は、1972年に廃止された[[加越能鉄道加越線]]を引き継いだもので、車窓からは線路跡を見ることができる。 ** 2019年12月1日:北川-庄川町間が廃止された。 ==== くりから不動寺線 ==== * 石動駅前 - 南谷 - [[倶利迦羅不動寺|くりから不動寺]] ** 毎月28日のみ運行。土砂崩れの影響により、2020年8月より、運休中。 ==== 若林線 ==== * 砺波市役所前 - 砺波駅前 - 砺波総合病院前 - イオンモールとなみ前 - 若林農協前 - 園芸高校前 - 鷲ヶ島 - 石動駅前 ** 2017年4月1日:土日祝日運休に変更<ref name="20171001kaisei"/>。 ==== 砺波総合運動公園線 ==== * 砺波駅南 - 砺波市役所前 - 秋元 - [[砺波総合運動公園]]前 - 庄東センター - 太田 - 矢木 - アピタ前 - 砺波駅南 - 砺波総合病院前 - 砺波市役所前 ==== 南砺〜金沢線 ==== * 井波 - 安清 -(城端駅前)- 福光駅前 - ぬく森の郷 - 二俣 - [[金沢大学]]中央 - 若松 - [[金沢星稜大学]] - [[金沢駅バスターミナル#西口|金沢駅西口]] ** [[石川県道・富山県道27号金沢井波線]]を経由して、南砺市と石川県金沢市を結ぶ路線である。 ** 実証実験開始以降いずれの期間においても、[[北鉄バス]]の営業エリアである金沢大学中央-金沢駅西口間のみの乗車はできない。 ** 2015年3月1日:北陸新幹線延伸開業に伴う南砺市の社会実験として、井波〜福光駅前〜金沢駅西口間で運行開始<ref name="nanto-kanazawa150301">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/nanto-kanazawa.html |title=南砺〜金沢線 社会実験運行について |date=20150516195814}}</ref>。 ** 2015年8月1日:城端駅前〜福光駅前〜金沢駅西口間に変更<ref name="nanto-kanazawa150701">{{Wayback |url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/nanto-kanazawa.html |title=南砺〜金沢線 社会実験運行について |date=20150710121106}}</ref>。 ** 2015年12月1日:福光駅前〜金沢駅西口間に変更<ref name="20151201kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/1080/ |title= 乗合バス【南砺ー金沢線】社会実験運行について |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 ** 2016年4月1日:南砺市側の発着地を井波として本格運行を開始した<ref name="20160401kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/2168/ |title= 南砺ー金沢線の本格運行開始について(平成28年4月1日より) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。なお、社会実験時は運賃支払い時になんバス(南砺市営バス)の回数券を使用することができたが、本格運行開始に伴い使用できなくなった。 ** 2020年4月1日:一部の便を城端駅前経由の「城端駅前経由南砺〜金沢線」に振り替え<ref name="20200401kaisei">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/8329/ |title= 乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施) |publisher=加越能バス |accessdate=2022-07-06}}</ref>。 === 観光路線バス === [[ファイル:Kaetsunou world heritage bus.jpg|right|thumb|230px|世界遺産バス]]<!-- より良い写真があれば差し替えてください(撮影者より) --> [[ファイル:相倉口バス停 - panoramio.jpg|right|thumb|230px|かつての一般路線バス五箇山・白川郷線]] [[file:Kaetsuno Waku Liner.jpg|right|thumb|230px|わくライナー]] * 「世界遺産バス」:高岡駅前 - 新高岡駅 - 能作前 - ([[高岡砺波スマートインターチェンジ|高岡砺波スマートIC]] - [[北陸自動車道]] - [[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]] - [[東海北陸自動車道]] - [[福光インターチェンジ|福光IC]]) - 城端駅前 - [[五箇山トンネル]]口 - 相倉口 - 下梨 - 上梨 - 菅沼 - 西赤尾 - 成出 - 鳩ヶ谷 - [[白川郷]]<ref name="world_bus">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/company/sekaiisan/|publisher=加越能バス|title=世界遺産バス(高岡・城端・五箇山・白川郷)|date=|accessdate=2020-03-18}}</ref> ** [[県境]]を越えて岐阜県[[大野郡]][[白川村]]まで延ばしている。城端駅前 - 白川郷間は[[1979年]]に分断された[[国鉄バス]][[名金急行線]]が運行していた区間{{Efn|[[名古屋鉄道]]は城端駅前 - 白川郷間を2000年9月まで運行。}}である。高岡駅前・新高岡駅を発車すると老舗[[鋳物]]メーカ「株式会社能作」の本社前を経由し、その後高速道路を走行して城端駅前に向かう<ref name="nousaku">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/5209/|publisher=加越能バス|title=世界遺産バスの一部経路変更について(ご案内)|date=2018-03-01|accessdate=2020-02-06}}</ref>。城端から先は山岳路線になり、五箇山トンネルを抜け[[世界遺産]]に登録されている[[五箇山]]の[[白川郷・五箇山の合掌造り集落#相倉集落|相倉合掌集落]]付近や[[白川郷・五箇山の合掌造り集落#菅沼集落|菅沼合掌集落]]などの[[観光地]]を経由して白川郷に到る。下梨より[[国道156号]]に合流して[[庄川]]沿いを走行し、車窓からは[[春]]の[[新緑]]や[[秋]]の[[紅葉]]が楽しめるほか、道沿いから菅沼合掌集落を見ることができる。また、道沿いのいたるところに名金急行線で車掌を務めた[[佐藤良二]]が植えた桜並木があり、春には満開の[[桜]]を見ることができる。 ** [[中華人民共和国|中国]]や[[台湾]]などの[[春節]]の時期には、これらの地域からの観光客によって利用が急増し、バスの乗車定員(45人)を超えそうになることがある。そのため、春節期間中の1月下旬 - 2月上旬の約1週間は高岡駅前などに車両を待機させ、臨時便を運行できるようにしている<ref name="yomiuri">「春節へ受け入れ態勢 バス会社やスキー場、温泉」、『読売新聞富山版』、2017年(平成29年)1月27日、読売新聞東京本社</ref>。 ** 城端駅前 - 白川郷間は、生活交通路線の指定を受け国・富山県・岐阜県・沿線市町村の補助を受けている<ref name="seikatsu" />。 ** 高岡駅前 - 新高岡駅間のみの乗車はできない。城端駅前 - 白川郷間の区間便もあり、こちらは「世界遺産シャトル」と呼ばれ一般路線車両が使用される。下梨 - 成出間は[[フリー乗降制|自由乗降区間]]になっており[[バス停留所]]以外でも乗降可能である。 ** かつては全区間で[[一般道路|一般道]]を走る路線バス「五箇山・白川郷線」として高岡駅前 - 白川郷([[白川八幡神社|荻町神社前]])間を1日4往復運行していた。高岡 - 城端間では[[砺波駅]]や[[福光駅]]、[[越中山田駅]]などを経由し、白川郷では[[白川郷・五箇山の合掌造り集落#荻町集落|荻町合掌集落]]の中に乗り入れていた。 ** 北陸新幹線延伸開業を見据えた実証実験として、2013年10月1日より土休日限定で高岡駅前 - 城端駅前間を[[高速道路]]経由で直行する「世界遺産バス」の運行を開始(一般路線バスも1往復運行。平日は従来通り一般路線バスのみ運行)。この時のダイヤでは[[高岡インターチェンジ|高岡IC]] - [[能越自動車道]] - 小矢部砺波JCT - 東海北陸自動車道 - 福光ICの経路で高速道路を通行した。高岡発着と城端 - 白川郷間の区間便がそれぞれ4往復運行され、一般路線バスと異なり五箇山相倉集落に乗り入れる代わりに白川郷は荻町合掌集落に入らずせせらぎ公園発着となった。また、区間便2往復を除き城端 - 白川郷間では主要停留所以外は通過とした<ref name="trial_world">{{Cite web|和書|url=http://shirakawa-go.org/kankou_info/5670/|publisher=[[白川村]]|title=【加越能バス】ダイヤ改正および、世界遺産バス実証実験運行のお知らせ|date=2013-10-09|accessdate=2020-02-06}}</ref><ref name="trial_world_kaetsunou">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/new/sekaiisanbus.pdf|format=PDF|publisher=加越能バス|title=2013年3月30日まで 『高岡~白川郷 世界遺産バス』および『城端~白川郷 シャトルバス』 を運行いたします。|date=|accessdate=2014-03-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140331041421/http://www.kaetsunou.co.jp/new/sekaiisanbus.pdf|archivedate=2014年3月31日|deadlinkdate=2020年2月}}</ref>。 ** 2014年10月1日より世界遺産バスの本格運行を開始し、全区間一般道を走る路線バスは廃止された。高岡市内 - 城端駅前間は高速道路経由、城端駅前 - 白川郷間は各停留所停車となった{{Efn|五箇山相倉集落への乗り入れは取り止め。}}。白川郷は実証実験同様せせらぎ公園発着(2016年10月1日より[[白川郷バスターミナル]]発着に変更<ref name="iten">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/3085/|publisher=加越能バス|title=世界遺産バス 白川郷バスターミナルの移転について Notice of Shirakawa-go Bus Terminal Relocation|date=2016-09-07|accessdate=2020-02-06}}</ref>)となり、加越能バスの荻町合掌集落内への乗り入れを終了した<ref name="shirakawa_world">{{Cite web|和書|url=http://shirakawa-go.org/kankou_info/7911/|publisher=[[白川村]]|title=【加越能バス】世界遺産バス本格運行のお知らせ|date=2014-10-01|accessdate=2020-02-06}}</ref>。2018年4月1日に能作前停留所が新設され、運行経路が北陸自動車道経由に変更された<ref name="nousaku" />。 * 「わくライナー」:高岡駅前 - 新高岡駅 - (高岡IC - 能越自動車道 - [[氷見インターチェンジ|氷見IC]]) - [[道の駅氷見|ひみ番屋街]] - ひみ阿尾の浦温泉 - 岩井戸温泉 - ([[灘浦インターチェンジ|灘浦IC]] - 能越自動車道 - [[七尾城山インターチェンジ|七尾城山IC]]) - 七尾駅前 - [[和倉温泉]]観光協会前・和倉温泉 ** 2015年[[1月10日]]に運行を開始<ref name="hokushinetsu20150111">{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000000415|title = 和倉温泉へ「わくライナー」運行 新高岡駅利用アップに期待|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2015-01-11|accessdate = 2019-08-08}}</ref>。当初は実証実験として同日から[[3月8日]]までは土日祝日、北陸新幹線が延伸開業した同年[[3月14日]]から[[12月31日]]までは毎日運行<ref name="hokushinetsu20150111"/>。[[2016年]][[1月1日]]から本格的に運行を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url = http://www.kaetsunou.co.jp/1202/|title = 1月以降の「わくライナー」の本格運行が決定しました!!|publisher = 加越能バス|date = 2015-12-10|accessdate = 2019-08-08}}</ref>。2020年4月1日より、土曜 - 月曜と祝日および多客期などの特定日のみの運行となった<ref name="wakuliner">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/8323/|format=|publisher=加越能バス|title=令和2年4月以降 わくライナー運行について|date=2020-03-12|accessdate=2020-03-18}}</ref>。 ** 七尾駅前 - 和倉温泉観光協会前・和倉温泉間のみの乗車はできない。 ** [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が発売していた「北陸トライアングルルートきっぷ」で当路線に乗車することができた<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/09/page_7617.html|title = 北陸エリア「トクトクきっぷ」4商品の発売について|publisher = 西日本旅客鉄道|date = 2015-09-08|accessdate = 2019-08-08}}</ref>。 <gallery> ファイル:Ainokura_Bus_Stop_of_Kaetsuno_Bus_20150121.JPG|相倉口停留所 ファイル:Suganuma_Bus_Stop_of_Kaetsuno_Bus_20150121.JPG|菅沼停留所 </gallery> === 高速バス === * 「名古屋線」 {{Main|名古屋 - 高岡・砺波線}} * 「高山線」:(高岡バスターミナル(イルカ交通)) - 高岡駅前 - 新高岡駅 - (三井アウトレットパーク北陸小矢部 - 砺波駅南口 - [[三幸 (スーパーマーケット)|サンコー砺波]]) - 白川郷 - [[高山濃飛バスセンター]]([[イルカ交通]]・[[濃飛乗合自動車]]と共同運行) ** 世界遺産バスと同じく富山県と岐阜県(大野郡白川村・[[高山市]])を結ぶ路線。当初は2020年[[4月10日]]より1日5往復で運行開始予定だったが<ref name="takayama2020">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/8268/|format=|publisher=加越能バス|title=高岡市と高山市を結ぶ高速バス路線の新設について申請|date=2020-02-19|accessdate=2020-03-17}}</ref>、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]防止のため開業3日前の[[4月7日]]に延期が発表された<ref name="takayama2020enki">{{Cite web|和書|url=https://www.iruka-net.jp/archives/1402|format=|publisher=[[イルカ交通]]|title=高山~白川郷~高岡線 運行開始の延期について|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-07}}</ref>。その後、同年[[8月7日]]より1日3往復(各社1往復ずつ)での運行を開始した。需要を見て当初の5往復まで増便する予定となっている<ref name="takayama0807">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61355420Z00C20A7LB0000/|publisher=[[日本経済新聞社]]|title=加越能バスなど3社、高岡―高山線開設 8月7日から|date=2020-07-09|accessdate=2020-08-07}}</ref>。 ** 北陸鉄道・濃飛乗合自動車が運行する金沢 - 白川郷 - 高山間の高速バスが[[訪日外国人旅行|訪日外国人観光客]]の増加で予約が取りにくくなっていることを受け、高山や白川郷から北陸地方へ向かう観光客の需要に対応することを目的に開設される。また、一部の便はアウトレットや砺波駅を経由することで、前者は観光客の買い物、後者は駅近くにある砺波総合病院への白川郷周辺住民による通院需要にも対応する<ref name="takayama2020_kitanippon">{{Cite web|和書|url = https://webun.jp/item/7639154|title = 白川郷や高山へ新高速バス路線 加越能・イルカ交通など3社|publisher = [[北日本新聞]]|date = 2020-02-20|accessdate = 2020-03-17}}</ref>{{Efn|ただし、加越能バスはこれらを経由しない直行便のみ担当。}}。 ** 高岡駅前・新高岡駅 - 白川郷間の片道運賃は世界遺産バスと同額になっている<ref name="world_bus" /><ref name="takayama2020" />。 ** 便によって経由地が異なることから所要時間にも大きな差がある。新高岡駅 - 白川郷間は最速1時間で、一部の便では途中で世界遺産バスを追い越すダイヤになっている。その一方、経由地が最も多い便では2時間25分となっており、世界遺産バス(1時間55分)よりも時間がかかっている<ref name="world_bus" /><ref name="takayama2020" />。 : なお、高岡 - 高山間の高速バスは過去にも2度運行された。以下、3回の運行内容の比較と過去の運行経路を示す。 {|class="wikitable" |+3回の運行に関する比較 ! style="width:16em" |運行期間!! style="width:14em" |2012年11月17日 - <br />2013年3月31日!! style="width:14em" |2018年10月6日 - <br />2019年9月29日!! style="width:14em" |2020年8月7日 - |- |運行日||土休日||土曜・日曜||毎日 |- |1日の運行回数||2往復||1往復||5往復 |- |共同運行会社||濃飛乗合自動車||(無し)||イルカ交通・<br />濃飛乗合自動車 |- |高岡駅前・高山BC以外の停留所※||五箇山合掌の里・白川郷||瑞龍寺口・新高岡駅・<br />能作前・合掌の里(菅沼)||高岡BT・新高岡駅・<br />アウトレット・砺波駅南口・<br />サンコー砺波・白川郷 |- |白川郷での乗降扱い||高岡方面との利用のみ可||経由せず||両方向とも利用可 |} ※高山BC = 高山濃飛バスセンター、高岡BT = 高岡バスターミナル(イルカ交通)、アウトレット = 三井アウトレットパーク北陸小矢部 :* 高岡駅前 - [[白川郷・五箇山の合掌造り集落|五箇山合掌の里]] - 白川郷 - 高山濃飛バスセンター(濃飛乗合自動車と共同運行) :** 2012年11月17日 - 2013年3月31日の間、北陸新幹線延伸開業を見据えた実証実験として年末年始を除く土休日のみ運行。白川郷 - 高山間のみの乗車はできなかった。また、当路線に合わせて五箇山合掌の里と相倉および城端駅前・桜ヶ池を結ぶ「五箇山シャトルバス」を運行していた<ref name="takayama2012">{{Cite web|和書|url=http://shirakawa-go.org/kankou_info/3041/|format=|publisher=[[白川村]]|title=高速バス「高岡-高山線」実証実験運行開始|date=2012-11-19|accessdate=2020-02-06}}</ref>。 :*** 「五箇山シャトルバス」:桜ヶ池 - 城端駅前 - 相倉 - 下梨 - 上梨 - 五箇山合掌の里 :* 高岡駅前 - 瑞龍寺口 - 新高岡駅 - 能作前 - 合掌の里(菅沼) - 高山濃飛バスセンター :** 2018年10月6日より土日のみ運行。 高岡駅前 - 能作前間のみの乗車はできなかった<ref>[http://www.kaetsunou.co.jp/6048/ (高速バス) 高岡-高山線 新規路線の開設について]加越能バス(2018年8月29日)2019年2月16日閲覧。</ref>。2019年9月29日運行終了<ref name="takayama2019">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/7580/|format=|publisher=加越能バス|title=高速バス「高岡-高山線」の廃止について|date=2019-08-30|accessdate=2020-02-06}}</ref>。 * 「金沢線」:砺波市役所前 - 砺波駅南 - 高柳 - [[金沢東警察署]]前 - [[金沢駅バスターミナル|金沢駅東口]] - [[武蔵ヶ辻]] - [[南町 (金沢市)|南町]] - [[香林坊]] - [[広坂 (金沢市)|広坂]] - [[兼六園]]下 ** [[土曜日]]・[[休日]]・[[年末年始]]は一部便を除いて三井アウトレットパーク北陸小矢部を経由し、金沢方面・砺波方面どちらでも乗降が可能である。 ** 加越能鉄道時代の過去にも、[[北陸鉄道]]との相互乗り入れで1991年12月から1995年3月まで「金沢 - 高岡線」が運行されたが、週末や[[祝日]]のみの運行だったことに加え、昔の「金高急行線」を焼き直した、高岡駅 - 瑞穂町 - 福岡駅 - 石動駅 - 小矢部IC - (北陸道) - 金沢東IC - [[橋場町 (金沢市)|橋場町]] - 武蔵ヶ辻 - 金沢駅という、金沢市の繁華街を通らないルート設定により利用が低迷した。晩年は観光バスタイプではなく一般路線車で運用していた。 ** [[北鉄金沢バス]]と共同運行していたが、2019年(平成31年)4月1日ダイヤ改正で当社単独運行となった<ref>{{Cite web |title=(高速) 高岡ー金沢線の時刻変更及び金沢駅東口のりばの変更について |url=http://www.kaetsunou.co.jp/7030/ |website=加越能バス |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>{{Refnest|{{Cite web|和書|date=2019-03-12|url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/29196/takaoka.pdf|title=高岡ー金沢線時刻表|format=PDF|publisher=北陸鉄道グループ|accessdate=2019-03-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190314014754/http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/29196/takaoka.pdf|archivedate=2019-03-14}}<ref>{{Cite press release |和書 |title=北陸鉄道グループ ダイヤ改正を実施します(4/1) |publisher=[[北陸鉄道]] |date=2019-03-12 |url=http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266 |language=ja |accessdate=2019-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190312101443/http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266 |archivedate=2019-03-12}}</ref>}}。 ** [[2022年]](令和4年)[[4月25日]]以降、加越能バス本社前 - [[高岡市立志貴野中学校|志貴野中学校]]前 - [[広小路]] - 高岡駅前 - 瑞龍寺口 - イオンモール口 - 戸出四丁目 - 砺波市役所前間が全便区間運休となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/11063/ |title=高速バス金沢線 停留所休止等一部変更について(5/6~) |publisher=加越能バス |date=2022-05-18 |accessdate=2022-05-18}}</ref>。 ** [[2023年]](令和5年)4月1日ダイヤ改正で土曜日・休日・年末年始に限り一部便を除いて三井アウトレットパーク北陸小矢部を経由するようになる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/13312/ |title=高速金沢線 休日は「三井アウトレットパーク北陸小矢部」経由へ! |publisher=加越能バス |date=2023-03-07 |accessdate=2023-03-26}}</ref>。 ** 2023年(令和5年)[[7月1日]]、「高岡・砺波 - 金沢線」から「砺波 - 金沢線」へ路線名称を変更<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/14006/ |title=高速金沢線 砺波発着へ変更について(7/1~) |publisher=加越能バス |date=2023-06-14 |accessdate=2023-06-15}}</ref>。北鉄駅前センター(金沢駅東口)での[[普通乗車券]]および[[回数乗車券]]の発売を終了。 === 廃止路線 === 前述の通り北陸新幹線延伸開業に先立って大規模なダイヤ改正があり、路線の廃止も行われた<ref name="kaetsuno_diagram" />。その後も乗客の減少により収支状況が悪化して運行継続が困難<ref name="tonami_kanazawa">[http://www.kaetsunou.co.jp/3133/ 高岡-桑の院・坪池線及び砺波-金沢線の廃止について]</ref>となった路線を順次廃止している。特に2019年3月期には営業キロ数を約1割削減した。これは訪日外国人観光客などからの需要増加に伴う乗務員不足を解消する目的もあり、捻出した人員は貸切バスなどに振り向けている<ref name="chitetsu_nagoya">{{Cite web|和書|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO46017230S9A610C1962M00|publisher=[[日本経済新聞社]]|title=北陸の高速バス快走 「直通」武器に集客、訪日客にも人気|date=2019-06-13|accessdate=2020-04-07}}</ref>。 ==== 一般路線バス(廃止) ==== ===== 2015年3月10日廃止路線 ===== 以下の路線はすべて2015年3月10日のダイヤ改正で廃止された<ref name="kaetsuno_diagram" />。 * 「野村経由石瀬循環線」:高岡駅前 - 広小路 - 中川 - 城東 - 高岡自動車学校前 - 石瀬本町 - [[高岡向陵高等学校|向陵高校]]前 - 下田 - 下野村 - 野村 - (中略) - 高岡駅前 * 「出来田循環線」:高岡駅前 - 出来田 - 出来田新町 - 問屋センター - 高岡総合庁舎前 - 高岡駅前 ** 平日・休日とも16時台のみ。 * 「蓮花寺循環線」:高岡駅前 - 高岡総合庁舎前 - 問屋センター - 出来田 - 蓮花寺 - 高岡駅前 * 「問屋センター経由済生会高岡病院線」:高岡駅前 - 芳野中学校前 - 高岡総合庁舎前 - 問屋センター - 赤祖父 - イオンモール高岡 - 済生会高岡病院 * 「瑞龍寺口経由済生会高岡病院線」:職業安定所前 - 高岡市民病院 - 中川上町 - 高岡駅前 - 高岡駅南 - 瑞龍寺口 - 京田 - イオンモール高岡 - 済生会高岡病院 ** 一部は職業安定所前発着になっていたほか、職業安定所前 - 高岡駅前間の便もあった。 * 「イオンモール高岡線」:高岡駅前 - 高岡駅南 - 瑞龍寺口 - 京田 - イオンモール高岡 * 「泉ヶ丘循環線」:高岡駅前 - 芳野中学校前 - 赤祖父 - イオンモール高岡 - 済生会高岡病院前 - スポーツコア前 - 上黒田 - 泉ヶ丘 - 南星中学校前 - 南星町 - 清水町 - 白銀町 - 高岡駅前(逆ルートの便もあった) * 「小泉経由中田町線」:高岡駅前 - 末広町 - 本丸会館前 - 中川 - 野村 - 大門口 - [[東洋紡]]庄川工場前 - 大門中央 - 大門庁舎前 - 下条 - 浅井農協前 - 小泉 - 下麻生北 - 常国団地前 - 中田町 * 「水戸田経由中田町線」:高岡駅前 - 舘川町 - 蓮花寺 - 大門錦町 - 大門小学校前 - 本江 - 水戸田 - [[櫛田神社 (射水市)|櫛田神社]]前 - 常国 - 中田町 * 「中田団地経由中田町線」:高岡駅前 - 高岡総合庁舎前 - 問屋センター - 赤祖父 - (イオンモール高岡 - 高岡テクノドーム前 - 済生会高岡病院) - 広上北部 - 中田団地 - 常国団地前 - 中田町 ** 上記3路線は終点中田町到着後、高岡駅前に戻るがいずれも逆のルートになっていた。また、小泉経由の下条 - 下麻生北間は自由乗降区間になっておりバス停以外でも乗降可能であった。 ===== 伏木・氷見市方面(廃止) ===== * ※「新守山経由桑の院・坪池線」:済生会高岡病院 - (中略) - 高岡駅前 - (中略) - 氷見市民病院前 - 谷屋 - 小久米 - 触坂 - 桑の院 - 坪池 ** 2016年10月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="tonami_kanazawa" />。 * 「三尾線」:氷見駅前 - ([[道の駅氷見|氷見漁港口]]) - 氷見中央 - (中略) - 氷見市民病院 - 三尾 * 「熊無・論田線」:氷見駅前 - (氷見漁港口) - 氷見中央 - (中略) - 氷見市民病院 - 熊無 - 論田 - 氷見市民病院 - (中略) - 氷見中央 - (氷見漁港口) - 氷見駅前 ** 2路線とも2018年4月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="kaiomaru">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/5200/|publisher=加越能バス|title=三尾線、論田循環線、石瀬・牧野経由海王丸パーク線の廃止について|date=2018-02-28|accessdate=2020-02-08}}</ref>。 * 「高岡支援学校線」: :: [[末広町停留場 (富山県)|末広町]] → 広小路 → (中略) → 海老坂 → [[富山県立高岡支援学校|高岡支援学校]](8時台のみ) :: 高岡支援学校 → 海老坂 → (中略) → 高岡駅前(15時台のみ) :* 平日のみの運行で、土・日・祝日・休校日には運行されなかった。[[2019年]]10月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="nodewara">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/7588/|publisher=加越能バス|title=乗合バスのダイヤ改正について(10月1日実施) {{!}} 加越能バス - 富山県のバス旅行は、加越能バスで!東京・名古屋・金沢への高速バスや富山空港への連絡バス、お手軽お得な旅行バスツアーもご紹介しています。|date=2019-09-02|accessdate=2020-02-09}}</ref>。 * 「伏木経由磯はなび線」:イオンモール高岡 → 新高岡駅 - (中略) - 高岡駅前 - (中略) - 岩崎 - 磯はなび ** 2020年4月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="haishi20200401">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/8298/|format=|publisher=加越能バス|title=乗合バスの系統廃止について(4月1日実施)|date=2020-03-06|accessdate=2020-03-18}}</ref>。 ===== 高岡市東部・射水市・富山市方面(廃止) ===== * 「高岡周遊観光バス『まわるん』」:新高岡駅 - 瑞龍寺口 - 高岡駅前 - [[金屋町 (高岡市)|金屋町]] - 横田町 - [[高岡御車山会館]] - 菅野家 - [[高岡大仏]]前 - 高岡駅前 - 瑞龍寺口 - 新高岡駅 ** 高岡市中心部の観光地を巡る周遊バスとして2015年4月24日より毎週金 - 日曜と祝日に運行開始<ref name="chunichi">{{Cite web|和書|url=https://tabi.chunichi.co.jp/odekake/150421toyama_takaoka.html|publisher=[[中日新聞社]]|title=【富山】高岡観光は周遊バスで 関係者ら「まわるん」試乗|date=2015-04-21|accessdate=2020-02-09}}</ref>。運行開始当初は予約制だった。2016年4月2日よりリニューアルし、新高岡駅経由となり予約が不要となったが土休日のみの運行となった<ref name="koho">{{Cite web|和書|url=https://www.city.takaoka.toyama.jp/ex/koho/kou/kou2/1604/town/index2.html|publisher=[[高岡市]]|title=たかおか市民と市政 2016年4月号 No.126|date=2016-04-01|accessdate=2020-02-09}}</ref>。2018年度以降は運行されないこととなり廃止された<ref name="mawarun">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/5334/|publisher=加越能バス|title=乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施)|date=2018-03-16|accessdate=2020-02-09}}</ref>。 * 「石瀬・牧野経由海王丸パーク線」:済生会高岡病院 - (中略) - 高岡駅南口 - 大野 - 野村 - 石瀬本町 - 向陵高校前 - 美原町 - 下田 - 能町南 - 牧野 - 中曽根 - 新湊庁舎前 - 立町 - 八幡町 - [[海王丸パーク]] ** 2018年4月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="kaiomaru" />。 * 「守護町経由五十里線」:高岡駅前 - 広小路 - [[志貴野中学校前停留場|志貴野中学校前]] - 熊野町 - 開発町 - 守護町二丁目 - 守護町 - 二上 - 守山 - 須田 - 五十里東町 - 五十里 - 須田 - (中略) - 高岡駅前 * 「大門小学校経由水戸田線」:高岡駅前 - 蓮花寺 - [[射水市立大門小学校|大門小学校]]前 - 水戸田 - 水戸田口 ** かつては「水戸田・太閤山経由富大附属病院線」として職業安定所前から[[富山市]]の[[富山大学附属病院]]までを結んでいたが、2018年10月1日のダイヤ改正で高岡駅前 - 水戸田口間に短縮された<ref name="tomidai">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/6132/|publisher=加越能バス|title=富大付属病院線、氷見漁港口経由氷見市民病院線の廃止について|date=2018-08-31|accessdate=2020-02-08}}</ref>。この時の廃止区間は以下の通り。 *** 職業安定所前 - 高岡市民病院 - 中川上町 - 高岡駅前 *** 水戸田口 - [[太閤山]]パスコ前 - [[富山市ファミリーパーク|ファミリーパーク]] - 富山大学附属病院 * 「櫛田線」:[[櫛田神社 (射水市)|櫛田]] → 生源寺 → 水戸田 → 大門小学校前 → 蓮花寺 → 高岡駅前 ** 上記3路線とも2020年4月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="haishi20200401" />。 ===== 高岡市西部方面(廃止) ===== *「横田本町経由福岡高校線」:高岡駅前 - (中略) - 福岡町 - [[富山県立福岡高等学校|福岡高校]]前 *「厚生連病院経由福岡高校線」:高岡駅前 - 博労町 - 厚生連病院前 - 羽広 - (中略) - 福岡高校前 ** 上記2路線とも2019年4月1日のダイヤ改正で廃止された(最終運行日は[[3月29日]])<ref name="fukuoka">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/7061/|publisher=加越能バス|title=乗合バスのダイヤ改正について(4月1日実施)|date=2019-03-18|accessdate=2020-02-08}}</ref>。 ===== 高岡市南部・砺波市・南砺市方面(廃止) ===== [[ファイル:Kaetsuno-Bus 0121.jpg|right|thumb|230px|金沢線 砺波市役所前行き 金沢駅前にて撮影]] * 「栴檀野線」:砺波市役所前 - 市立砺波総合病院前 - 砺波駅前 - 太田 - 安川 - 砺波学園口 - 頼成新 - 頼成山 - 正権寺 - 増山 - 宮森 - 頼成新 - (中略) - 砺波市役所前 ** 2011年10月1日のダイヤ改正で廃止され<ref name="kaetsuno_sendanno">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/nori/sendanno-haisi.html|publisher=加越能バス|title=栴檀野線の廃止および砺波総合運動公園線の新設について|date=|accessdate=2015-04-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111216200815/http://www.kaetsunou.co.jp/nori/sendanno-haisi.html|archivedate=2011年12月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、代替として「砺波総合運動公園線」及び砺波市営バス「東般若・栴檀野線」が運行を開始した。 * 「金沢線」:砺波市役所前 - 砺波駅前 - 砺波総合病院前 - 高儀 - 福野 - 東石黒 - 福光駅前 - 砂子谷 - [[森本駅]]前 - 東山 - [[橋場町 (金沢市)|橋場町]] - [[武蔵ヶ辻]] - 金沢駅前 ** 県境を越えて石川県金沢市まで延ばしている。福光駅前 - 金沢駅前間は[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]名金線と並行しているが、廃止時点において加越能バス担当便ではJRバスの回数券・定期券等を使用できなかった。また、JRバスによって新設された新規停留所10か所のうち5か所(川口眼科前、[[道の駅福光|一福茶屋前]]、法林寺前、戸保家、森山)は停車せず、残りの5か所(兼六元町、[[兼六園]]下・[[金沢城]]、[[広坂 (金沢市)|広坂]]・[[金沢21世紀美術館|21世紀美術館]]、[[香林坊]]、[[南町 (金沢市)|南町]]・[[尾山神社]])は走行経路が異なるため経由しなかった。武蔵ヶ辻 - 金沢駅前間は金沢方面は六枚町を、砺波方面は本町(リファーレ前)をそれぞれ経由した。福光 - 森本間は国道304号を走行するが、前述の世界遺産バスと同様に道路沿いの至るところに佐藤良二が植えた桜並木がある。 ** 2016年10月1日のダイヤ改正で廃止された<ref name="tonami_kanazawa" />。 * 「砺波立野脇線」:砺波市役所前 - (中略) - 砺波駅前 -(中略) - 福野町 - (中略) - 福光駅前 - 福光本町 - (中略) - [[広瀬館村|広瀬舘]] - 古舘 - [[西太美村|西太美]] - 長沢 - 南才川 - [[太美山村|太美山]] - (中略) - 越中吉見 - [[福光温泉]] - 立野脇 ** この路線の福光駅前 - 立野脇間は、[[2001年]](平成13年)11月30日に撤退した[[西日本ジェイアールバス]][[太美山線]]を引き継いだものである<ref>「さよなら JRバス太美山線」、『[[富山新聞]]』(33面)、2001年(平成13年)12月1日、富山新聞社</ref><ref>「加越能鉄道が来月から代替 福光町のJRバス路線」、『[[北日本新聞]]』(25面)、2001年(平成13年)11月29日、北日本新聞社</ref>。 ** 2019年10月1日より、南砺市の区間は南砺市営バスに移管された(砺波市の区間は廃止)<ref>[https://web.archive.org/web/20190722145740/https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=21246 加越能バス(株)の「砺波立野脇線」廃止に伴う市営バス「立野脇線」の開設について] - 南砺市</ref>。 * 「井波・庄川クルーズシャトル」:[[城端駅]]前 - 交通広場 - [[道の駅井波|木彫りの里]] - [[道の駅庄川]] - 水記念公園前 - 小牧堰堤 ** 南砺市の城端・井波と砺波市の[[庄川峡]]・小牧堰堤を結ぶシャトル便として、[[2018年]][[4月1日]]より運行開始<ref name="shogawa">{{Cite web|和書|url=https://shogawakyou.com/guide/2018/03/14/post-2046/|publisher=庄川峡観光協同組合|title=井波・庄川クルーズシャトル開始のご案内|date=|accessdate=2020-02-06}}</ref>。年末年始を除く土休日のみ運行。庄川遊覧船の時刻に合わせて2往復運行するほか、城端駅前 - 木彫りの里間の区間便を1往復運行する<ref name="inami_shogawa">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/5029/|publisher=加越能バス|title=「井波・庄川クルーズ シャトル」好評運行中|date=2018-11-05|accessdate=2020-02-06}}</ref>。2020年3月29日をもって運行終了<ref name="haishi20200401" />。 <gallery> ファイル:Hutomiyama station(1).jpg|太美山停留所 ファイル:Minami-Saikawa station(2).jpg|南才川停留所 ファイル:Ettyû-Yosimi Station(1).jpg|越中吉見停留所 ファイル:Tatenowaki Station(1).jpg|立野脇停留所 </gallery> ==== 観光路線バス(廃止) ==== * 「金沢〜アウトレットパーク線」:金沢駅西口 - ([[国道8号]][[金沢バイパス]]・[[津幡バイパス]]・[[津幡北バイパス]]・[[くりからバイパス]]・[[小矢部バイパス]]) - 三井アウトレットパーク北陸小矢部 ** 高速道路は通らなかったが、観光バスタイプで運行されていた。 ** 2015年7月13日:運行開始<ref name="150713kaisei"/>。運行開始当初は[[毎日]]運行。 ** 2017年3月31日までは、[[北陸鉄道]]と共同運行を行っていた。 ** [[2023年]][[3月26日]]の運行を最後に廃止され、上記の高速バス砺波 - 金沢線と統合した。廃止前は土曜日・休日・年末年始のみの運行であった。 ==== 高速バス(廃止) ==== * 「高岡 - アウトレットパーク線(アウトレットライナー)」:新高岡駅 - 瑞龍寺口 - 高岡駅南口 - 木津 - 東六家 - (能越自動車道) - 三井アウトレットパーク北陸小矢部 ** 2017年[[3月1日]]廃止された(最終運行日は[[2月26日]])<ref name="outletliner">{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/3621/|format=|publisher=加越能バス|title=「高岡-三井アウトレットパーク北陸小矢部線」の廃止について|date=2017-02-02|accessdate=2017-07-09}}</ref>。 * 「[[東京 - 高岡・氷見線|東京線]]」:氷見営業所 - 高岡駅前 - 砺波駅南 - 練馬駅(練馬区役所前) - 池袋駅東口 - バスタ新宿(西武バスと共同運行) ** 所要時間が長めであることから、[[富山地方鉄道]]の [[東京 - 富山線]](当時)よりも先に3列シート車を導入した。 ** 2017年5月15日、上記の東京 - 富山線と統合した<ref>[http://www.kaetsunou.co.jp/3821/ 高速バス東京線の運行改編・統合について(ご案内)] - 加越能バス公式ページ、2017年4月15日、同月18日閲覧</ref>。 ** 2023年8月1日、ダイヤ改正をもって運行休止のまま同線から撤退。 ==== 空港連絡バス ==== {{Main|富山空港連絡バス#砺波・高岡方面}} ==== 受託運行 ==== [[ファイル:Takaoka_citybus_komichi.jpg|thumb|230px|[[高岡市コミュニティバス]]「こみち」]] * [[高岡市コミュニティバス]]「こみち」 ** 高岡市の財政難に伴い、2018年3月31日をもって運行を終了した<ref name="kaiomaru" /><ref>{{Cite news|url = https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/touitsu/2019/report/02.html|title = NOと言えない議会 その代償は|publisher = NHK選挙WEB|date = 2019-02-21|accessdate = 2020-08-31}}</ref>。 * [[射水市コミュニティバス]] ** 2016年9月30日で運行から撤退<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.city.imizu.toyama.jp/appupload/EDIT/060/060172.pdf|title = 射水市バス交通会議 会議録|publisher = 射水市|date = 2016-08-19|accessdate = 2019-03-16|format = PDF}}</ref>、路線は[[三島野観光]]ならびに[[海王交通]]へ運行委託を移譲している。 === 車両 === ==== 一般路線車 ==== 長らく[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]・[[日野自動車]]の2社だったが、2004年に[[UDトラックス|日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)]]、2011年には[[いすゞ自動車]]製が加わり現在は4社体制になっている。三菱・日野で8割を占め、日産ディーゼル・いすゞは少数派である。また、全体の約9割が中型車であり、大型車は2010年現在5台のみである。また、前述のとおり瑞龍寺線シャトルバスにはワゴン車を用いている。車種は[[トヨタ・ハイエース]]<ref name="wagon" />。 低床型バスを積極的に導入している。[[1997年]]から[[1999年]]に[[ワンステップバス]]を5台導入し、[[2000年]]以降[[日野・レインボー|日野HR]] 9m車を中心に[[ノンステップバス]]を増備している。[[2011年]]8月現在コミュニティバスを含め36台である。 1999年の新車より[[発光ダイオード|LED]]式[[方向幕]]を採用しているほか、ワンステップバス4台もLED式に改造している。 2007年には保有する一般路線車すべてにデジタル[[タコグラフ]]を導入している。 カラーリングは[[1998年]]までに導入された車両および後述の中古車両(低床型バスを除く)にはクリーム色をベースに[[赤色]]と[[青緑色]]のラインを用いた[[西武バス]]に似たデザインを採用していたが、1999年に導入された新車よりライトグリーンをベースに白色と[[緑色]]のラインを用いた現在の意匠に変更された。また、2015年8月1日から南砺 - 金沢線において、南砺市に本社がある[[ピーエーワークス]]が制作した[[テレビアニメ]]作品のキャラクターが描かれた[[ラッピング車両|ラッピングバス]]が運行している<ref name="wrap">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=14744|format=|publisher=[[南砺市]]|title=8月1日からは城端駅を起点に運行、披露式に大勢の住民やファンが集結|date=2015-08-01|accessdate=2015-09-11}}</ref>。 同社はかつて、氷見営業所が日野車、砺波営業所が三菱車に統一されていたが、最近は氷見営業所にも三菱車・日産ディーゼル車が在籍するなど崩れつつある。なお、高岡営業所(本社)は以前より4メーカーが揃っている。 <gallery> ファイル:Kaetsunobus 44.JPG|新塗色 ファイル:Kaetsunobus 217.JPG|旧塗色 ファイル:加越能バス ラッピング車(南砺~金沢線).JPG|ラッピングバス(南砺 - 金沢線) </gallery> ==== 高速路線車 ==== 長らく日産ディーゼル([[スバルカスタマイズ工房|富士重工業]]または[[西日本車体工業]]製車体)に統一されていたが、2008年には三菱ふそうからの[[OEM]]車種である[[日産ディーゼル・スペースアロー|スペースアローA]]が導入されたほか、同年以降は[[日野・セレガ]]も増備されている。また、2006年頃には西武バスから車両1台(日産ディーゼル・スペースウイング)が移籍してきた。 <gallery> ファイル:Kaetsunou_Railways_HINO_SELEGA_Highway_Express.jpg|高速車 日野「セレガ」 ファイル:Kaetsunobus 71.JPG|高速車 ファイル:Kaetsuno-express-toyama200ka146-20070611.jpg|高速車(元[[西武バス]]の車両) </gallery> ==== 貸切車 ==== いすゞを除く3社になっているが2002年以降は三菱ふそうをメインとして導入しているため、三菱車の比率が上がっている。 三菱車においては[[親会社]]の[[富山地方鉄道]]と同様、[[1992年]]までは[[三菱ふそうバス製造|呉羽自動車]]製ボディーで導入されていた。エアロバスKを所有しているほか、かつてはキュービックスタイルのサンシャインデッカーやエアロクイーンKも稼働していたが、2000年代前半ごろまでに全車引退している。前述のとおり2002年以降はエアロバスをメインに三菱車を多く導入し、2008年には新型[[三菱ふそう・エアロエース|エアロクイーン]]、2009年にはエアロエースが増備されている。 2006年・2007年には[[リフト]]付き大型バス(日産ディーゼル・スペースアロー)を2台導入し多様化するニーズに応えている。 カラーリングは富山地鉄と同様、クリーム色をベースにオレンジ色と[[茶色]]のラインが入ったデザインだったが、[[2002年]]から[[2007年]]に導入された車両は独自のデザインを採用している。これは[[火の鳥]]をモチーフにしたフェニックスカラーと呼ばれるもので、[[ハイデッカー|スーパーハイデッカー]]では[[ピンク]]、[[ハイデッカー]]では[[黄色|イエロー]]、中型・小型車には[[紫|パープル]]を採用し、在来車の一部も塗り替えられていた。なお、高速路線車も[[2003年]]の新車より同様のデザインを採用したが、こちらは[[オレンジ色]]である。 2008年4月に同社及び富山地鉄、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同年の新車2台(車種は前述)より[[白色]]とピンクを基調とした新グループ共通カラーが採用された。フェニックスカラーを含む既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年ごろまでに完了させる予定である。 <gallery> ファイル:Kaetsuno-Kanko-Bus toyama 230 a 106.jpg|貸切車 ファイル:Kaetsuno-bus-117.jpg|貸切車(新グループ共通カラー) ファイル:Kaetsuno kanko volvo asterope U-B10M.jpg|貸切車 [[ボルボ・アステローペ]]「ゴールデンアロー」 </gallery> ==== 車両その他 ==== 同社はこれまで積極的に新車を導入してきたが、2006年以降は大手事業者からの中古車も導入されている。一般路線車では[[2008年]]秋より[[神奈川中央交通]]を中心に西武バス・[[ライフバス]]からの中古車を導入していて、2009年には[[明石市交通部]]からの日産ディーゼル・RMノンステップが導入された。また、貸切車でも2006年以降は新車と同時に他事業者からの中古車も導入している。 方向幕は前述のLED化される前は幕式が採用されていたが富山地鉄とは異なり色分けはされておらず、すべて白地で系統番号が表記されていないほか、一部を除き経由地は青字、行き先は黒字で表記されている。 == その他の事業 == ; [[保険]]代理店 加越能バス保険部が運営している。 * 保険サービスショップ:高岡店(富山県高岡市江尻字村中、加越能バス本社内)、魚津店(富山県魚津市上村木) * [[アフラック生命保険|アフラック]]サービスショップ:富山根塚店(富山県富山市根塚町)、[[東金沢駅]]前店(石川県金沢市三池栄町、子会社の金沢ファミリーが運営) * [[平和堂]]ほけん アルプラス フューチャーシティーファボーレ(富山県富山市[[婦中町]]轡田、[[フューチャーシティ・ファボーレ]]内) - 平和堂との共同運営。 ; スポーツ施設 * スポーツドームエアーズ:富山県高岡市向野町三丁目43番地19 == 過去の事業 == [[ファイル:Kaetunou-7071.JPG|thumb|250px|加越能鉄道時代の高岡駅前停留場]] === 鉄軌道事業 === ==== 路線 ==== *[[加越能鉄道加越線|加越線]](鉄道)- 1972年廃止 *[[万葉線新湊港線|新湊港線]](鉄道)- 2002年譲渡 *[[加越能鉄道伏木線|伏木線]](軌道)- 1971年廃止 *[[万葉線高岡軌道線|高岡軌道線]](軌道)- 2002年譲渡 === 加越能高速鉄道計画 === {{出典の明記|date=2020年8月|section=1}} 加越能鉄道の本来の設立目的である加越能高速鉄道計画は、富山 - 金沢、高岡 - [[七尾市|七尾]]の2つの路線の計画があった。富山 - 金沢については既に[[北陸本線]](現在の[[あいの風とやま鉄道線]]と[[IRいしかわ鉄道線]])があったが、加越能鉄道の計画は両都市を直線状に結び、かつ北陸本線が[[非電化]]の時代に電車を使用し、国鉄の半分の時間で走るというものであった。 [[1953年]](昭和28年)2月27日に両路線の免許を申請し、[[1954年]](昭和29年)5月に免許が下りたが、免許されたのは富山 - 金沢のみで、高岡 - 七尾については保留とされた。富山 - 金沢間の経由地を高岡に変更した上で[[1959年]](昭和34年)12月に工事認可が下り、電鉄富山駅 - [[太閤山]]([[小杉町]](現・[[射水市]])) - 地鉄高岡駅の路線について用地買収を開始した。 [[1965年]](昭和40年)頃までに予定の半分まで[[用地買収]]が終わっていたが、[[モータリゼーション]]の急速な進行により加越能鉄道・富山地鉄ともに乗客が減少したことや、北陸本線が複線電化されスピードアップが行われたこと、高度経済成長による地価の高騰など情勢の変化により、[[1970年]](昭和45年)に計画中止、翌[[1971年]](昭和46年)に起業廃止を申請した。買収された線路用地は財団法人富山県民福祉公社に買い取られ、中央サイクリングロード([[富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線]]の一部)として転用されている<ref>『富山廃線紀行』(2008年7月16日、草卓人著、桂書房発行)158頁。</ref>。 予定では、電鉄富山駅を起点として、富山市街地を[[松川 (富山市)|松川]]右岸の[[高架橋|高架]]線、安野屋を経て[[神通川]]を渡り、新富山、[[富山大学]]の南側、下野、寺町を経て[[呉羽丘陵]]を[[トンネル]]で抜け、[[呉羽町]]、花ノ木、[[中老田]]、塚越、黒河、[[太閤山]]、水戸田、[[庄川]]を渡り、蓮花寺、大野、新高岡駅{{Efn|2015年(平成27年)に開業した[[新高岡駅]]ではなく高岡駅のこと。}}というルートとなっていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="wagon">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46725200Y9A620C1LB0000/|publisher=[[日本経済新聞社]]|title=加越能バス、路線バスにワゴン車両 運転手確保容易に|date=2019-06-28|accessdate=2020-02-09}}</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020年12月|section=1}} * 富山大百科事典編集事務局編 『富山大百科事典』 [[北日本新聞|北日本新聞社]]、1994年。 == 関連項目 == * [[富山地方鉄道]] * [[万葉線 (企業)|万葉線]] * [[高速化 (鉄道)]] * [[ひたちなか海浜鉄道]] - 元社員(地鉄出身)が社長を務める。 == 外部リンク == {{commonscat|Kaetsuno Railway}} * [http://www.kaetsunou.co.jp/ 加越能バス株式会社] {{リダイレクトの所属カテゴリ | redirect1 = 加越能鉄道 | 1-1 = 加越能鉄道 | 1-2 = かつて存在した日本の鉄道事業者 | 1-3 = かつて存在した日本の軌道事業者 | 1-4 = 富山県の交通史 | 1-5 = 石川県の交通史 | 1-6 = 高岡市の歴史 | 1-7 = 1950年設立の企業 }} {{デフォルトソート:かえつのうはす}} [[Category:加越能鉄道|*]] [[Category:中部地方の乗合バス事業者]] [[Category:中部地方の貸切バス事業者]] [[Category:富山地方鉄道|社かえつのうはす]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:石川県の交通]] [[Category:高岡市の企業]] [[Category:高岡市の交通]] [[Category:日本の旅行会社]] [[Category:日本のスポーツクラブ]]
2003-09-08T05:22:00Z
2023-12-20T23:39:28Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 会社", "Template:Main", "Template:Notelist", "Template:参照方法", "Template:Commonscat", "Template:Cite press release", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Lang-en-short", "Template:Refnest", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Efn", "Template:出典の明記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Pathnav", "Template:独自研究範囲", "Template:リンク切れ", "Template:Wayback" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B6%8A%E8%83%BD%E3%83%90%E3%82%B9
15,706
大相撲の決まり手一覧
大相撲の決まり手一覧(おおずもうのきまりていちらん)では、大相撲における決まり手を挙げる。日本相撲協会が定めた相撲の技(決まり手)82手と、非技(勝負結果)5つの一覧である。なお、アマチュア相撲にもこの決まり手が使用されている。このほか、反則負け(髪の毛をつかむことや、まわしがはずれる不浄負けなど)が規定されている。 2000年12月に追加された技12手、非技3つには末尾に*を付す。 長い歴史を持つ競技ゆえに数多くの決まり手やその呼称が考案された。以下はその一例である。現在これらの決まり手が使われたときは、公式には現行の決まり手もしくは反則(カッコ内の→で示したもの)に当てはめる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大相撲の決まり手一覧(おおずもうのきまりていちらん)では、大相撲における決まり手を挙げる。日本相撲協会が定めた相撲の技(決まり手)82手と、非技(勝負結果)5つの一覧である。なお、アマチュア相撲にもこの決まり手が使用されている。このほか、反則負け(髪の毛をつかむことや、まわしがはずれる不浄負けなど)が規定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2000年12月に追加された技12手、非技3つには末尾に*を付す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "長い歴史を持つ競技ゆえに数多くの決まり手やその呼称が考案された。以下はその一例である。現在これらの決まり手が使われたときは、公式には現行の決まり手もしくは反則(カッコ内の→で示したもの)に当てはめる。", "title": "現在公式の名称としては採用されていない技" } ]
大相撲の決まり手一覧(おおずもうのきまりていちらん)では、大相撲における決まり手を挙げる。日本相撲協会が定めた相撲の技(決まり手)82手と、非技(勝負結果)5つの一覧である。なお、アマチュア相撲にもこの決まり手が使用されている。このほか、反則負け(髪の毛をつかむことや、まわしがはずれる不浄負けなど)が規定されている。 2000年12月に追加された技12手、非技3つには末尾に*を付す。
'''大相撲の決まり手一覧'''(おおずもうのきまりていちらん)では、[[大相撲]]における[[決まり手]]を挙げる。[[日本相撲協会]]が定めた[[相撲]]の技(決まり手)82手と、非技(勝負結果)5つの一覧である。なお、[[アマチュア相撲]]にもこの決まり手が使用されている。このほか、反則負け([[まげ|髪の毛]]をつかむことや、まわしがはずれる'''[[不浄負け]]'''など)が規定されている。 [[2000年]]12月に追加された技12手、非技3つには末尾に*を付す。 ==基本技(7手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[突き出し]] *[[突き倒し]] *[[押し出し (相撲)|押し出し]] *[[押し倒し]] *[[寄り切り]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[寄り倒し]] *[[浴びせ倒し]] </div>{{clear}} ==投げ手(13手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[上手投げ]] *[[下手投げ]] *[[小手投げ]] *[[掬い投げ]] *[[上手出し投げ]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[下手出し投げ]] *[[腰投げ]] *[[首投げ]] *[[一本背負投#相撲|一本背負い]] *[[二丁投げ]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[櫓投げ]] *[[掛け投げ]] *[[掴み投げ]] </div>{{clear}} ==掛け手(18手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[内掛け]] *[[外掛け]] *[[ちょん掛け]] *[[切り返し]] *[[河津掛け]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[蹴返し]] *[[蹴手繰り]] *[[三所攻め]] *[[渡し込み]] *[[二枚蹴り]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[小股掬い]] *[[外小股]] *[[大股]] *[[褄取り]] *[[小褄取り]]* </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[足取り]] *[[裾取り]] *[[裾払い]] </div>{{clear}} ==反り手(6手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[居反り]] *[[撞木反り]] *[[掛け反り]] *[[襷反り]] *[[外襷反り]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[伝え反り]]* </div>{{clear}} ==捻り手(19手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[突き落とし]] *[[巻き落とし]] *[[とったり]] *[[逆とったり]] *[[肩透かし]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[外無双]] *[[内無双]] *[[頭捻り]] *[[上手捻り]] *[[下手捻り]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[網打ち]] *[[鯖折り]] *[[波離間投げ]] *[[大逆手]]* *[[腕捻り]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[合掌捻り]] *[[徳利投げ]]* *[[首捻り]] *[[小手捻り]]* </div>{{clear}} ==特殊技(19手)== <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[引き落とし]] *[[引っ掛け]] *[[叩き込み]] *[[素首落とし]]* *[[吊り出し]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[送り吊り出し]]* *[[吊り落とし]] *[[送り吊り落とし]]* *[[送り出し]] *[[送り倒し]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[送り投げ]]* *[[送り掛け]]* *[[送り引き落とし]]* *[[割り出し]] *[[うっちゃり]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; width:8em; white-space: nowrap; margin-right: 1.5em;"> *[[極め出し]] *[[極め倒し]] *[[後ろもたれ]]* *[[呼び戻し]] </div>{{clear}} ==非技(勝負結果)(5種)== *[[勇み足]] *[[腰砕け]] *[[つき手]]* *[[つきひざ]]* *[[踏み出し]]* == 現在公式の名称としては採用されていない技 == 長い歴史を持つ競技ゆえに数多くの決まり手やその呼称が考案された。以下はその一例である。現在これらの決まり手が使われたときは、公式には現行の決まり手もしくは反則(カッコ内の→で示したもの)に当てはめる。 * [[寄り出し]](→寄り切り) * [[押し切り]](→押し出し) * [[突き放し]](→突き出し) * [[矢柄投げ]](→上手投げ、上手出し投げ、掴み投げ等) * [[うつぼづけ|空穂づけ]](→下手投げ、腰投げ等) * [[押し倒し|押し落とし]](→押し倒し) * [[引き落とし|引き倒し]](→引き落とし) * [[泉川|撓め出し]](→極め出し) * [[五輪砕き]](現在は技扱いでありこれのみでは勝ちにならない) * [[不浄負け]](→反則) * [[しき小股]](→後ろもたれ) == 関連項目 == *[[四十八手]] - 旧来の決まり手。 == 外部リンク == * [http://www.sumo.or.jp/sekitorikun/index おしえて八十二手](ハッキヨイ!せきトリくん公式サイト内) * [http://www.sumo.or.jp/Kimarite 決まり手八十二手](日本相撲協会公式サイト) {{相撲の決まり手}} {{相撲}} {{DEFAULTSORT:おおすもうのきまりていちらん}} [[Category:相撲の決まり手|*]] [[Category:相撲関連一覧]]
null
2023-05-25T01:11:59Z
false
false
false
[ "Template:Clear", "Template:相撲の決まり手", "Template:相撲" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E3%81%AE%E6%B1%BA%E3%81%BE%E3%82%8A%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
15,707
ポーカー
ポーカー(poker)は、トランプを使って行うゲームのジャンルである。心理戦を特徴とするゲームである。プレイヤー達は5枚の札でハンド(役、手役)を作って役の強さを競う。 ギャンブルとしてプレイする場合は現金をチップに交換し、勝って獲得したチップが収入になる。自らプレイを行いチップを獲得する。バカラのように他のプレイヤーの勝者を予想するギャンブルではない。多くのギャンブルはプレイヤーと胴元の勝負であるが、ポーカーの場合はテーブルに座っている客同士の勝負であり、胴元は後述の「アンティ」または勝利したチップの一定の割合を手数料として受け取る。他のカジノゲームとは違い、胴元はギャンブルには参加せず、ゲスト同士の勝負のためのテーブルとゲーム進行などのサービスを提供しているという形である。 競技(トーナメント)として行われる場合は、参加費用を払い、参加者全員に同じ量のチップが配られ、最終的に残ったチップの数で順位が決まる。賞金はスポーツ競技と同様に順位によって支払われる。 ポーカーという言葉の成り立ちは「#歴史」の項目で詳細を示す。英語の突くという意味のpokeや同一の綴である火かき棒(poker)や豚肉を意味するポークとは歴史上の関連はない。 ポーカーは、ハンドの強さを競うゲームである。相手をフォールドさせれば(ゲームから降りさせれば)、ハンドの強さに関わらず勝つことができることから、ブラフ(ハッタリ。ベットすることによって弱い手を強く見せて相手をフォールドさせようとすること)に代表される心理戦の占める割合の高いゲームであるとされる。勝ち負けの数にはあまり意味がなく、勝ったときのチップを大きくし、負けたときの損失を最小にするための総合的な戦術がより重要である。また、他のプレイヤー達の仕種、表情、賭けたチップの枚数等から他のプレイヤー達のハンドの強さを予想し、自分の賭けるチップの枚数を決める。このゲームでは相手を惑わすために、わざと驚いて見せたり、嘘をついたりすることが認められている。とはいえ、実際のゲームにおいて相手の表情などを読んで自分のアクションの判断材料にする場面は、巷間で信じられているほどには多くない。 以下ではほとんどのポーカーに共通するルールを説明する。 使用するものは、トランプ一組52枚、ポーカーチップ。 通常はジョーカーは使わない(ワイルドポーカーの項を参照)。 ストレート(およびストレートフラッシュ)では、AはKとも2ともつなげることができる。すなわちA-2-3-4-5も10-J-Q-K-Aもストレートとみなされる。しかしQ-K-A-2-3のようにK-A-2を含むものはストレートとはみなされない。 また、A-2-3-4-5のストレート(別名でwheelやbicycleという場合もある)はAが入っているが、2-3-4-5-6のストレートよりも強いわけではない。wheelはストレートの中で最も弱い、5ハイストレートである。ただし、例外的にパイガオポーカーというゲームでは、A-2-3-4-5は10-J-Q-K-Aの次に強いストレートとされる。 二人のプレイヤーが同一の役を作った場合、以下のようにしてハンドの強弱を決める。カードの強さは、A>K>Q>J>10>...>2となる。 引き分けになった場合は、賭けられたチップを引き分けて同着一位になったプレイヤー達で等分する。ただし、そのときに利用されているチップ単位で割れない端数が存在する場合は、当該端数については、最初にアクションを起こすべき人間(これを「ポジションの悪い人」と表現する)に与えられるというルールが一般的である。 通常はカードのスートは考慮に入れず、ランクのみを比較するが、日本国内で古くからある解説書などにおいては、スートを比較すると記述されているものもある。また中華圏のスタッドポーカーでもスートまで比較するのが普通である(♠>♡>♣>♢の順が普通)。欧米でもカジノ以外ではスートを比較することもあるが、その強弱の順序は統一されていない。 勝敗の判断ではなく、(スタッドゲーム等で)アクションを行う順番を決定する場合等では、スートの強弱(♠>♡>♢>♣の順)までを比較する。 カジノでは、カジノ側に雇われた専属のディーラーが各ポーカーテーブルに一人ずついて、このディーラーが全てのゲームでカードを配る。 トーナメントや大規模なプライベートゲームでは「アミューズメントディーラー」がゲーム進行などを行う。 大規模ではないプライベートゲーム(一般家庭など)では、プレイヤーの一人がディーラーを兼ねることが多い。どのプレイヤーがディーラーになるのかに関して決まったルールはないが、通常は次の4通りのいずれかの方法でディーラーを決める。 どのルールでディーラーを決めるのかは、プレイヤー間で事前に話し合って決める。 またフロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、カードを配り始める基準、及び強制ベットを行わせる基準として「DEALER」と記されたプレートをゲーム毎に時計回りで動かして使用することが多い(このプレートのことを「ディーラー・ボタン」と称する)。 チップの種類と、その価値はプレーヤーの間で任意に決めればよく特にルールはないが、複数の価値のチップを用意することが便利である。海外カジノにおいては、白=1、赤=5、緑色=25、黒色=100という単位である場合が多いので、この色と価値を援用する場合も多い。 ポーカーチップの価値と色の規則に国際基準はない。 国や地域で異なるだけでなく、施設ごと、あるいは単一の施設でもイベントタイプごとに異なることがある。 チップの色と大きさの統一を図るため、その地域のカジノ規制当局による指定を受けることがある。 例えば、ニュージャージー州とイリノイ州では統一された色が指定されている。 ネバダ州では色についての規制はないため、ネバダ州のカジノ(ラスベガスとか)では1ドルチップに白、青、灰色が使われる。 アメリカ合衆国のうちカジノが合法なすべての州の政府は、縁の模様の組み合わせがカジノ店舗やチップの価値により重複することがないよう要求している。 ニュージャージー州の規則では下表の通り: ポーカーではテーブルの中央付近を、賭けたチップを置く場所として使う。このチップを置く場所をポットと呼ぶ。 プレイヤー達は、ポットの中で自分に近い場所に、他のプレイヤーが賭けたチップと区別がつくように、賭けたチップを置く。 各ディールの最後に、そのディールの勝者が受け取る時を除いて、プレイヤー達は一度賭けたチップを再び手もとに戻すことはできない。 プレイに参加する全員が、毎回ゲームが始まる前に一定の額を払わなければいけない参加費のことをアンティと呼ぶ。 アンティが必要かどうかは、あらかじめゲームによって決められている。 スタッドゲームでは、アンティを払うように設定されているのが一般的であるが、それ以外のゲームでは必ずしも必要とは限らない。 支払われたアンティはポットに集められ(アンティをコミッションとして徴収されてしまい、ポットに入らないハウスもある)、それ以降の掛け金と合わせて勝者が獲得する。 ポーカーではゲーム中、何度かベット(賭け)をするための期間がある。その各々の期間をベッティング・インターバル(あるいはベットラウンド)と呼ぶ。各ベッティング・インターバルは次のように行う。 ベッティング・インターバルはいずれかのプレイヤー(フロップゲームではディーラーボタンの左隣りのプレイヤー)から開始し、時計周りに行われる。 ポーカーでは、プレイヤーはゲーム中の任意の時にゲームから降りる(フォールドする、あるいはダウン、ドロップするとも表現する)ことができる。フォールドしたプレイヤーはそのディールで負けたものとみなされる。 ディールに参加しているプレイヤーで、まだフォールドしていないプレイヤーのことをアクティブ・プレイヤーと呼ぶ。以後そのディールはアクティブ・プレイヤーのみで行われる。 フォールドの際そのディールで賭けたチップを取り戻すことはできない。フォールドしたプレイヤーがそのディールで賭けたチップはそのまま残しておき、ディールの最後にそのディールの勝者がそのチップを得る。例:25点をベットした後に相手からレイズが入った結果降りた場合、最初のベットである25点分のチップはポットに入る。 各ベッティング・インターバルはオープニングベット以前と以後とに分かれる。 オープニングベット以前では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。 チェックとはその回のベットをパスすることである。 チェックをするプレイヤーは「チェック」と宣言する代わりにテーブルを軽く2・3回叩いても、チェックの意思を表すことができる。 オープニングベットとは、ポットにチップを賭けることである。 全員がチェックした場合、ゲームは次のステップに進む。 オープニングベットが行われた後では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。 アクティブ・プレイヤーは、自分の番が回ってきたら前のプレイヤーと同額もしくはそれ以上の金額をかけるかフォールドするかしなければならない。 前のプレイヤーと同額のチップを賭けることをコールと呼び、賭ける金額を吊り上げることをレイズと呼ぶ。 ベッティング・インターバルは、全てのアクティブ・プレイヤーがチェックするか、あるいは、全てのアクティブ・プレイヤーの出したチップの額が同額になるまで続けられる。 フロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、上記のアンティを徴収しない形でプレイを行うことが多いが、これでは勝負にならない手を全て降りるという選択が用意されてしまうため、先述のディーラー・ボタンが置かれたプレイヤーから時計回りに2名が、それぞれ1ユニット、2ユニットのチップを強制的に(カードを配る前に)賭けさせられるという決まりが存在する。このときのベットを、「ブラインド・ベット」という。 ただし、ブラインド・ベットがあったからといって、アンティがかならず存在しないということはなく、アンティとブラインド・ベットを併用した形のゲームも可能であり、存在する。 ゲームが青天井にならないように、ベットおよびレイズができる額に制限を設定しておく種類のゲームを、リミットゲームと呼ぶ。逆に上限額を全く設定しないで、無制限に行えるゲームをノー・リミットゲームと呼ぶ("NL","N/L"などと略されて表記される場合もある)。 レイズの値の制限方法には、以下のようなバリエーションがある。 ベットやレイズの額だけでなく、毎回のベットラウンドでのベットやレイズの回数にも制限が設定されている場合もある。この回数制限に達することをキャップという。 なお、ノーリミットのゲームであっても、通常は「ハンドの開始時点でテーブル上にある手持ちチップしか賭けることができない」というルール(テーブルステークスと呼ばれる)があるため、実際の上限は「自分、もしくは対戦相手の持っているチップの総額(のうち、少ない方)まで」となる。 これは、ハンドの途中でチップを買い足して不当にポットを大きくしたり、経済的に不利なプレイヤーが払いきれないベットを受けて強制的にフォールドさせられたりといった恫喝的なプレイを防止する目的で設定された制限である。 手持ちのチップ全てを賭けることを「オールイン」といい、オールインしたプレイヤーは、それ以降のラウンドをベットなしで最後まで参加できるが、その時点でアクティブプレイヤーではなくなる。オールインしたプレイヤーが受け取ることができるのは、オールインした金額に対応するベットまでで、それを超えた、あるいはそれ以降に賭けられたチップはサイドポットとして分けられ、アクティブプレイヤーのみで争われる。 逆に、自分の賭けたチップを対戦相手が受けきれない場合、対戦相手はオールインで受けることができ、その場合他にアクティブプレイヤーがいない場合は相手が受け切れなかった差額はベット不成立で返却される(他にアクティブプレイヤーがいる場合は差額がサイドポットへのベットとなる)。 各ディールの最後にアクティブ・プレイヤー達は、全員にコールされたベットまたはレイズを行ったプレイヤーが最初に、その後はコールした順に、ハンドを公開して互いにハンドを比較しあう。また最終ラウンドが全員チェックで回った場合はチェックした順にショーダウンとなる。そして最強のハンドを持っているプレイヤーがポットのチップを全て獲得する。サイドポットのある場合は、各々のポットに対する権利を持つプレイヤー同士で比較が行われる。 ハンドの公開は必須ではなく、他者が既にオープンして確定した役に対して勝利することができない場合や、どんなハンドを持っているかを見せないと戦略的に見せる場合は、フォールドするときと同じように、カードを伏せた状態にしてディーラーへ投げて非公開とすることも可能である(この行為をマック (Muck) という)。 ポーカーには主に以下の三種類がある。 最も古い形のポーカーで、各プレイヤーは自分の手札を全て隠してプレイをする。カードが配られたらまずベット(賭け)をし、次にカード交換を行う。そして再びベットをし、最後に全員がハンドを公開して勝敗を決める。 スタッド・ポーカーはオープンなポーカーである。まず初めに各プレイヤーに何枚かの手札(枚数はポーカーの種類ごとに異なる)が裏向きに配られる。プレイヤー達は自分の手札を他のプレイヤーに見せないように自分だけで見る。次に各プレイヤーに表向きにカードが一枚ずつ配られる。ここでまず一度ベットをする。ベットが終わったら再び各プレイヤーに札が表向きに一枚ずつ配られ、ベットが行われる。以下同様にカード配布とベットとが交互に行われ、最後のベットが終わったら、全員最初に配られた裏向き札を明かし、勝敗を決める。 最も新しいタイプのポーカーである。フロップ・ポーカーの特徴は、中央にフロップと呼ばれる表向きの札が置かれることである。この札は全てのプレイヤーの共通の手札とみなされる。フロップが高位の札であれば自分にとって得であるが、同時に他の人にも得になることに注意されたい。プレイヤーは裏向きの手札+フロップでハンドを作る。2020年現在のポーカーゲームの8割はこのタイプで行われる。 他にもインディアン・ポーカーのように上記のどれにも属さないポーカーがある。 ロー・ボールやロー・スタッドでは、最低の札を出した札が勝利する。このように札の強弱関係が逆転したポーカーをローポーカーと呼ぶ。 ローポーカーの高低の比較方法にはいくつかの変種がある。 ストレートやフラッシュが考慮される場合、 考慮されない場合は上記のハンドの強弱は全く逆になる。 この方式では、ショウダウンの際に、最高のハンドを作ったプレイヤーと最低のハンドを作ったプレイヤーがポットを等分する。セブンカードスタッドなどでは、配られた手札のうち、ハイハンドとローハンドを別の組み合わせで構成することができ、その結果同一人物がハイとローの両方で勝利することもあり得る。手元に5枚しか配られないポーカーでは通常はハイとローの両方で勝つことは不可能だが、ハイポーカーではストレートとフラッシュを考慮しローポーカーでは考慮しない場合は両方で勝つハンドが完成する場合がある。例えば、6-5-4-3-2のハンドはハイではストレートになりローでは6ハイのノーハンドになるのでハイでもローでも勝つ可能性が高いハンドになる。後述のデクラレーションに比べると簡単なやり方である。なお、この形式の大抵のゲームではローハンドの成立には制限があり、規定以下のハンドを作ることができなければローハンドは認められない。例えば、「7カードスタッドハイロー エイトオアベター」であれば、ローハンドの成立には「ハイカード8のノーペア」以下の手を作らなければならない。誰にもローハンドの成立がない場合、ハイハンドで勝ったプレイヤーがローポットも獲得する。 ショウダウンの前に「ハイ」「ロー」「ハイロー」のどのハンドで勝負するかを宣言するポーカーである。ハイとローの両方で勝負するプレイヤーはチップを2枚手の中に握る。ハイのみで勝負するプレイヤーはチップを1枚握る。ローのみで勝負するプレイヤーはチップを握らない。宣言はチップを握った手を同時に開くことで行う。その後ショウダウンを行うが、ポットの半分はハイを宣言したプレイヤーの中で最高のハンドを持つプレイヤー、残り半分はローを宣言したプレイヤーの中で最低のハンドを持つプレイヤーのものになる。ハイローを宣言したプレイヤーがいる場合は、そのプレイヤーは最高のハンドと最低のハンドを両方持っていれば、ポットを総取りできる。しかしハイかローのいずれかで勝利し、もう一方で敗北した場合はハイローを宣言したプレイヤーを負かしたプレイヤーがポットを総取りする。ハイローを宣言したプレイヤーが複数人いて、その中の一人がハイで勝ち、その中の別の一人がローで勝った場合はその二人でチップを等分する。どのハンドで勝負するかの判断を間違えると手に入れられるはずのポットを他人に取られてしまうこともあり、カードスピークスより難しい。 ワイルドカードを使ったポーカーをワイルドポーカーと呼ぶ。 ワイルドポーカーでは、通常のポーカーハンドの他にファイブカードと呼ばれるハンドが認められている。ファイブカードとは、同ランクの札4枚にワイルドカードを加えた5枚からなるハンドである。ファイブカードはロイヤルフラッシュより強いとするルールが一般的だが、ワイルドカードを含まないロイヤルフラッシュはファイブカードより強いというルールが用いられる場合や、ワイルドカードを含んだロイヤルフラッシュは通常のストレートフラッシュに格下げされるルールもある。 代表的なワイルドポーカーには次のようなものがある。 ワイルドカードが存在すると、ポーカーのハンドの強さを確率によって格付けすることに問題があることが知られている(Wild Card Poker Paradox)。(例えば、1枚のジョーカーを加えた時、通常のように「スリーカードがツーペアよりも強い」と決めればスリーカードの方がツーペアよりも高い確率で出現し、逆に「ツーペアがスリーカードよりも強い」と決めればツーペアの方がスリーカードよりも高い確率で出現する。これは、ジョーカーを有利な手役のパーツとして使用できる特性から起こるものである。) 他の用法で使われることがよくあるが、元はポーカーの用語。 毎回のゲームでポットに集められるチップの中から、一定額を別枠として集めておき、集まったチップをジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手を完成させたプレーヤーが獲得するというルールが語源。 通常のゲームで、集められた掛け金をポットと呼ぶが、この「ジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手」に対する別枠のポットということでジャックポットと呼ばれた。ある程度の規模のポーカールームでは、類似のルール(ポーナス)が設定されていることも多い。 詳細なルール、条件等は個々のポーカールームが独自に設定しているため普遍的なルールはないが、おおむね以下のようなパターンがある。 大人数で規定額のチップを持って同時にプレイし、チップを全て失った者(bursted)からトーナメントより排除され順位の確定が行われるルール。規定額のバイイン(参加料+手数料)を払って参加し、通常上位10~15%程度の入賞者で参加料を賞金として分配する(手数料が主催者の取り分となる)。時間ごとにブラインドが上昇し、後半はブラインドのほかにアンティを課されるようになる。ルールによっては、規定ラウンドに限り、リバイ(burstedした者が再度参加料を払うことによってチップを追加し続行可能なルール)やアドオン(リバイ締め切り時に、リバイ同様の追加の参加料を払うことでチップを追加できるルール)が認められることもある(この追加の参加料は賞金に上乗せされる)。 リバイやアドオンが認められない形式を「フリーズアウト」という。burstedしてプレイヤーが減ってくると、それに応じてプレイヤーを移動させてテーブルを整理していく通常、トーナメントチップには金銭的価値はない。 テーブル上のプレイヤーが1人になるまで続行し、テーブル移動を行わない形式を「シュートアウト」、その中で特にテーブル上のプレイヤーが1対1で開始される形式を「ヘッズアップトーナメント」という。 世界で有名なのがWSOP、WPT、EPTで、日本でのメジャータイトルはJOP、WPT JAPANが人気である。 主として、参加するプレイヤーが5人より少ないときに行われるポーカーである。 ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしディーラーは7枚カードを配る。カード交換は0~7枚まで何枚でも可能。 最後にアクティブプレイヤーは7枚の手札から5枚を選んでハンドを作り、そのハンドの強弱を比較しあう。 ロー・ポーカーの一種。 ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしより低いポーカーハンドを作ったプレイヤーが勝ち。 ロー・ボールの変種。 基本ルールと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。 ポーカーハンドが通常と違う。 このゲームには弱いほうから順に、ツー・フラッシュ、スリーフラッシュ、フォー・フラッシュ、フラッシュの4種類のポーカーハンドがあり、それぞれ同じスートのカードが2枚、3枚、4枚、5枚そろっているハンドである。ワンペアなどの通常のポーカーハンドは認められていない。 その他は基本ルールと同様。 4枚の手札で行い、特殊なポーカーハンドを用いるロー・ポーカーの一種。 ゲームの流れは基本ルールと似ているが、4枚の手札で役を作ることと、ドロー・ラウンドを3回行うことが特徴。2回目のドロー・ラウンド後のベット・ラウンドはビッグ・ベットになるルールが多い。ハウスによっては、ドローラウンドごとにドロー可能な枚数が制限されている場合もある。例えば、1回目のドローラウンドから順に3枚まで、2枚まで、1枚までドロー可能など。 4枚で手役を作るが、同じスートおよび同じランクのカードは何枚手札にあっても1枚しか手役に使うことができない。スートが被る場合は、より低位のカードで手役を作る。 通常のポーカーの手役は適用されず、手役は強い順に以下の通りである。なお、○・カードとは、通常のポーカーの手役(○・オブ・ア・カインド)とは異なる意味である。同じ手役同士では、まずハイカード同士を比較し、低い方が勝ち(Aは最低位と見なす)。同数であればその次に高位のカードのランクを比較する。手役から省かれたカードは比較しない。 高位のカードを交換する場合に、結果として手が悪くなるケースも多々ある(例えば、弱いバドージK432などを崩してドローした結果、スリー・カードに降格するなど)ため、ドローするかスタンドパット(ドローしない)かの判断が難しく、またドロー枚数で相手の手役がある程度推測できるという特徴がある。 ゲーム中各プレイヤーは、下のカードが見えるように順に重ねてカードを置く。 ゲームの流れはファイブカード・スタッドと同様。ただし最初に裏向きに2枚、表向きに1枚に配る。 以降、ベッディング・インターバルを行う毎に表向きに1枚配り、最後の7枚目は裏向きに配られる。7枚目のベッディング・インターバルが終わったら、アクティブ・プレイヤー達は裏向きのカードと表向きのカードをあわせた計7枚の全ての手札を公開し、その中から最強の組み合わせになる5枚を選び出してハンドの強弱を比較する。 ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。 ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。 セブンカード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。このルールでのカードの強さは、K>Q>J>10>...>2>Aで、低い札が勝つ。 ファイブカード・スタッドと同様。ただしフォー・ストレート、フォー・フラッシュ、フォー・ストレートフラッシュという3種類の役を認める。 フォー・ストレートとは、5枚の札のうち4枚の札のランクが連続しているハンドのこと。(例えば♣8 ♡7 ♡6 ♢5 ♢2)。 フォー・フラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートが連続しているハンドのこと。(例えば♠J ♠7 ♠4 ♠2 ♡K)。 フォー・ストレートフラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートとランクが一致しているハンドのこと。(例えば♠J ♠10 ♠9 ♠8 ♡3)。 ハンドの強さは、ツーペア<フォー・ストレート<フォー・フラッシュ<スリーカード<......<フルハウス<フォー・ストレートフラッシュ<フォーカード。 フリップ・スタッド、ファイブカード・ターンアップ、ピープ・アンド・ターンとも呼ばれる。 ラスベガス等の世界中のカジノのポーカールームでプレイすることのできる一般的なフロップゲームである。名称としては「ホールデム」や「テキサス」とも呼ばれることが多い。 2枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。手札と共有カードの組み合わせ方は自由である。 海外のカジノや、ゲームサイトで人気があり、ワールドシリーズオブポーカーという世界選手権のメインイベントの種目は、この「テキサス・ホールデム」である。 4枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。ただし制約があり、手札から2枚、共有カードから3枚の組み合わせに限られる。名称としては単にオマハとも。 テキサス・ホールデムと似たスタイルのゲームで、より高位の役が期待される。ハイローのルールを組み合わせて遊ばれることも多い。高位の役が期待されるため、賭けの総額も(参加プレイヤーが多くなるため)必然的に増加する傾向にある。 テキサス・ホールデムとは違い手札の数が4枚に変更される。4枚になるので手役はある程度できやすいといえるが、その反面必ず手札を2枚、場に出ているカード5枚から3枚を使わなくてはいけないというルールがあり、テキサス・ホールデムよりもかなり戦略性が高くなったフロップゲームといえる。 ゲームの流れは以下の通りとなる(ハイの場合のみ説明) (引き分けの場合はチップの量を可能な限り引き分けたプレイヤーで割り、それを引き分けたプレイヤー全てに渡される) 5つのポーカーゲームを組み合わせたゲームで、通常、ある一定の時間が経つとゲームが変更される。 名前の由来はH:テキサス・ホールデム、O:オマハ・ホールデム、R:Razz、S:セブンカード・スタッド、E:セブンカード・ハイロースタッド・エイトオアベターの頭文字をとったものである。 配られた5枚の手札を、自分は見えず、相手からは見えるスタイルでプレイするポーカー。 おのおのが額の部分にカードを表向きにさらす。自分の強さがわからないため、読み合いも関連しブラフに独特の味がでる。 簡便のため1枚の手札で行われることもあり、むしろそのほうがポピュラーである。 ポーカー・ソリティア、ポーカー・ペーシェンス、ポーカー・スクェアとも。 カード・ペーシェンスの一つ。通常のポーカー・ゲームと違い一人で楽しむ。 一組52枚のカードから25枚を抜き出す。そしてその25枚のカードを、5×5の正方形に並べる。どのカードをどの位置に置くのかはプレイヤーが自由に決めることができる。 正方形の縦5列、横5行で計10個のポーカー・ハンドができる。ハンドには下表のように点が割り振られている。 できたハンドの点の合計値が得点である。目標はより高い得点を目指すこと。 アメリカ式のスコアは、ランダムにカードを選んだ時のハンドのできやすい方から順に点を高くしてあるだけであるが、それに対しイギリス式のスコアはポーカー・ソリティアを行った時のハンドのできやすさに基づいて点が割り振られている。 ポーカーの役のルールを利用して、コンピューターを相手に一人で遊ぶゲーム。手札を正しく交換し、高い役を作り多くの配当を得ることを目的とする。一意に最適戦略が決定することから、シリアスプレイヤーに好まれている。ただし、日本などではパチスロと同様の方式で役フラグを抽選し、それに合わせて配られるカードを制御する方式がとられる場合もある(これは、ラスベガスなどでは許されていない方式である)。この場合、いくら最適戦略をとっても、フラグのない役は絶対に揃わないし、狙い役と違う役を狙った場合にその役を取りこぼす(完成できない)ことがある。 単にポーカーといった場合、ビデオポーカーは含まれないことが多い。 ポーカーの歴史に関しては幾分議論が必要である。ゲームの名前は、ドイツのポッヘン(pochen、「ノックする」の意)というゲームを先祖に持つ、フランスのポーク (poque) からきていると考えられている。しかしこのゲームが本当にポーカーの先祖であるのかどうかはよくわかっていない。 ポーカーはペルシャのゲームアース・ナース (ās nās) に非常によく似ている。アース・ナースがおそらくペルシャの水夫からフランス移民を通じてニュー・オリンズに入ったという説がよく行われるが、デビッド・パーレットはアース・ナースが文献上19世紀末以前に遡らないとして、この説を疑問視している。 ポーカーのもうひとつの先祖と考えられているゲームは、ルネッサンス時代のゲームであるプリメロ(primero)とフランスのブルラン(brelan)である。イギリスのブラグ(brag)はブルランにブラフの要素を取り込んだゲームである(当時すでにブラフの概念を使ったゲームは他にも存在した)。 これらのゲーム全ての影響を受けて現在のポーカーが形作られた可能性も十分ある。 イギリスの俳優ジョセフ・クロウェルが1829年にニュー・オリンズで行われたポーカーゲームのことを記している。ここに書かれているゲームは、20枚のカードを使って最も高いハンドを作ったプレイヤーが勝利するというルールで4人で行われた。1843年に出版されたJonathan H. GreenのAn Exposure of the Arts and Miseries of Gambling (G. B. Zieber、Philadelphia) に、ポーカーがニューオリンズからミシシッピの川船によって伝わり、通常ギャンブルとしてプレイされていたのだと記されている。 ポーカーが広まってすぐに、52枚のフルデックを使ってゲームされるようになり、フラッシュの役が導入された。南北戦争の間にドロー・ポーカー、スタッド・ポーカー(手札の枚数が5枚のもの)、ストレート・ポーカーなどを始めとした色々なルールのポーカーが生まれた。 その後、ポーカーはアメリカで発展を続け、1875年頃にはワイルド・ポーカーが、1900年頃にはロー・ボールとスプリット・ポット・ポーカーが生まれた。他の国、特にアジアへは、米軍基地を通じてポーカーは広まった。 1970年に行われたワールドシリーズオブポーカー以来、ポーカー・トーナメントはアメリカのカジノを通じてポピュラーになった。 日本には合法のカジノは存在しない(賭博及び富くじに関する罪により処罰の対象となる)。ババ抜きや神経衰弱のような気軽なゲームとして「ポーカー」が遊ばれることが多く、また各トランプメーカーのルール解説もそれを想定したものが多い。 現在、日本でよく遊ばれてるポーカーは「クローズド・ポーカー」(別名、ドローポーカー)である。5枚のカードを伏せてプレーヤーに配り、好きな枚数だけ取り換えて役(ハンド)をそろえていくゲームで、カードが相手に見えないために情報量が少なく、相手の表情や態度などを見て駆け引きをする「心理戦」が大きな醍醐味となる。ローカルルールではカードの交換回数を2回とするものや無制限(いち早く良い手を揃えたと思ったプレイヤーが「ストップ」と言うまで全員が何度でも交換できる)とするケースもあるが、公式にはカードの交換回数は1回が一般的である。 日本では、チップを賭けたポーカーは、コンピューターゲームや、友人同士で行われることが多い。 日本のドローポーカーでは、開始の前、あるいはカード交換の後に一度だけベット(チップの賭け)を行う場合が多い。それに対し少し前のラスベガスルールでは、カード交換の前と後の二回ベットを行う。しかし、この方式はテキサスホールデム全盛のいま、米国でこのルールでプレーをしようとしても、相手がまったく見つからないのが現状である。また、このルールでは一回目のベットではまだカード交換が行われていないので、どのプレイヤーも自分の手札が最終的にどのくらい強くなるのかを知らない状態で賭けなければならない。プレイヤー達はこのような不確かな状況で、他のプレイヤーの動きを見て、予想し、自分が勝つためには自分の手札をどのくらい強くしなければならないのかを判断する。そして、その状況判断に応じて、その手札で勝負するのか、ゲームから降りるのか、チップを賭けて勝負するのか、また、その時、賭けるチップの枚数をどうするのか、といったことを決めなければならない。 また、ドローポーカーでは、プレーヤーは高い役(ハンド)をそろえていなくても、「ベット!」、「コール!」、「レイズ!」と叫んで相手のプレーヤーたちに心理的なプレッシャーをかけることができ、それで、自分のハンドに自信をなくし、弱気になったプレーヤーを自発的に「フォールド」(ゲームから降りる)させることもできる。また、プレーヤーたちが、ベット、コール、レイズしていくと、テーブルの中央にチップがたくさん集まっていく。そして、「ショーダウン」して、高いハンド(役)を作ったプレーヤーが勝ちとなり、テーブルに集まった全てのチップを1人の勝者が獲得する。このようにドローポーカーは、人間と人間との心理的な駆け引きが要求される、戦略性とギャンブル性のあるゲームである。 しかし、日本では、このようなブラフ(ハッタリ)の戦法で相手にプレッシャーをかけてゲームに勝つことを良くないと思ってる人も多い。そこで、本来のポーカーのルールでプレイしても1回目のベットラウンドが事実上省略される(全員チェック、または、ミニマムベットで進行する)ことが多かったり、省略されているケースもある。また、このような事情を考慮して、「アンティ」(参加費)を高くして、逆に「ポットリミット」を低く設定(場合によってはポットリミットがアンティと同額=ベットラウンドを完全に省略)して、チップの賭けではなく単純に最高位の手役を作ることを競うゲームとして遊ばれることも多い。この場合、ノーチェンジが出た時点で以後のドローラウンドには進まない条件で、ドローラウンドを増やすことがある(この場合、山札がなくなったら捨札を戻すというルールもある。)。山札がなくなるまで、各プレイヤーがドローできるルールや捨て札を戻してドローできるルールもある。 この場合、ゲームの勝敗は、プレーヤーたちの最終的な手札の「ハンド」(役)の強さだけで勝負判定される。 最近のラスベガスなどではカードランクの比較までで双方同じ手であれば引き分け(スプリットポット)となるが、日本のルールでは、カードランクの比較までで同じ場合、カードのスート比較をして決着をつける場合が多い。たとえば、ツーペアの場合、海外の標準では高いほうのペアのカードランク比較→もう一方のペアのカードランク比較→キッカーのカードランク比較→スプリットポットとなっている。しかし、日本式では高いほうのペアのカードランク比較→高いほうのペアのスートを比較というルールである。これは、トランプの持つスートという属性を生かし、早くわかりやすく決着をつけられるという特長もある。日本ルールでは、ランクだけでなくスートまで考慮した戦略が求められる。 店舗やトーナメント大会などで本格的にポーカーを運営する場合には、この他に、ポーカーテーブル、カットカード、ディーラーボタンを用意してほしい。カードについては、「1回の使用でカードを破り捨て廃棄するバカラほどではないがそれなりの頻度でのカード交換が望ましく、特に新たにテーブルをオープンする際には封の切られていないカードをすべてのプレイヤーの目の前で開封することが望ましい」「カードの再利用を前提とした、カードの傷みを厭うことに起因する不十分なシャッフルでゲームを壊すことは望ましくなく、使い捨てを前提とすることによってより激しいシャッフルを行える」「客によるカードの破損によるカード消費コストを抑えるとともに、客にそれを遠慮させないように配慮する(通常、客はカードを折り曲げるといった荒い扱いを行うことも十分あり得る)」という理由により、本格的な運営をするならば使い捨て可能な安価な紙製カードを用いることが望ましいとされていたが、高品質で耐久性に優れるプラスチック製カードの普及により、前述のワールドシリーズ・オブ・ポーカーをはじめとするポーカー大会や一部のカジノではプラスチック製のものが採用されている。 最近では、ディスカウントストアや百貨店で販売しているので手軽に調達できる。 その他、通販ショップなどでもトランプ専門店、カジノ専門店などで良心的なお店が多く、手軽に安全に購入できる。 ポーカー用語の一覧(英語版) ゲーム内のミニゲームとして遊べる作品を除く。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポーカー(poker)は、トランプを使って行うゲームのジャンルである。心理戦を特徴とするゲームである。プレイヤー達は5枚の札でハンド(役、手役)を作って役の強さを競う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギャンブルとしてプレイする場合は現金をチップに交換し、勝って獲得したチップが収入になる。自らプレイを行いチップを獲得する。バカラのように他のプレイヤーの勝者を予想するギャンブルではない。多くのギャンブルはプレイヤーと胴元の勝負であるが、ポーカーの場合はテーブルに座っている客同士の勝負であり、胴元は後述の「アンティ」または勝利したチップの一定の割合を手数料として受け取る。他のカジノゲームとは違い、胴元はギャンブルには参加せず、ゲスト同士の勝負のためのテーブルとゲーム進行などのサービスを提供しているという形である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競技(トーナメント)として行われる場合は、参加費用を払い、参加者全員に同じ量のチップが配られ、最終的に残ったチップの数で順位が決まる。賞金はスポーツ競技と同様に順位によって支払われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ポーカーという言葉の成り立ちは「#歴史」の項目で詳細を示す。英語の突くという意味のpokeや同一の綴である火かき棒(poker)や豚肉を意味するポークとは歴史上の関連はない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ポーカーは、ハンドの強さを競うゲームである。相手をフォールドさせれば(ゲームから降りさせれば)、ハンドの強さに関わらず勝つことができることから、ブラフ(ハッタリ。ベットすることによって弱い手を強く見せて相手をフォールドさせようとすること)に代表される心理戦の占める割合の高いゲームであるとされる。勝ち負けの数にはあまり意味がなく、勝ったときのチップを大きくし、負けたときの損失を最小にするための総合的な戦術がより重要である。また、他のプレイヤー達の仕種、表情、賭けたチップの枚数等から他のプレイヤー達のハンドの強さを予想し、自分の賭けるチップの枚数を決める。このゲームでは相手を惑わすために、わざと驚いて見せたり、嘘をついたりすることが認められている。とはいえ、実際のゲームにおいて相手の表情などを読んで自分のアクションの判断材料にする場面は、巷間で信じられているほどには多くない。", "title": "ポーカーの特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "以下ではほとんどのポーカーに共通するルールを説明する。 使用するものは、トランプ一組52枚、ポーカーチップ。 通常はジョーカーは使わない(ワイルドポーカーの項を参照)。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ストレート(およびストレートフラッシュ)では、AはKとも2ともつなげることができる。すなわちA-2-3-4-5も10-J-Q-K-Aもストレートとみなされる。しかしQ-K-A-2-3のようにK-A-2を含むものはストレートとはみなされない。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、A-2-3-4-5のストレート(別名でwheelやbicycleという場合もある)はAが入っているが、2-3-4-5-6のストレートよりも強いわけではない。wheelはストレートの中で最も弱い、5ハイストレートである。ただし、例外的にパイガオポーカーというゲームでは、A-2-3-4-5は10-J-Q-K-Aの次に強いストレートとされる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "二人のプレイヤーが同一の役を作った場合、以下のようにしてハンドの強弱を決める。カードの強さは、A>K>Q>J>10>...>2となる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "引き分けになった場合は、賭けられたチップを引き分けて同着一位になったプレイヤー達で等分する。ただし、そのときに利用されているチップ単位で割れない端数が存在する場合は、当該端数については、最初にアクションを起こすべき人間(これを「ポジションの悪い人」と表現する)に与えられるというルールが一般的である。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "通常はカードのスートは考慮に入れず、ランクのみを比較するが、日本国内で古くからある解説書などにおいては、スートを比較すると記述されているものもある。また中華圏のスタッドポーカーでもスートまで比較するのが普通である(♠>♡>♣>♢の順が普通)。欧米でもカジノ以外ではスートを比較することもあるが、その強弱の順序は統一されていない。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "勝敗の判断ではなく、(スタッドゲーム等で)アクションを行う順番を決定する場合等では、スートの強弱(♠>♡>♢>♣の順)までを比較する。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "カジノでは、カジノ側に雇われた専属のディーラーが各ポーカーテーブルに一人ずついて、このディーラーが全てのゲームでカードを配る。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "トーナメントや大規模なプライベートゲームでは「アミューズメントディーラー」がゲーム進行などを行う。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大規模ではないプライベートゲーム(一般家庭など)では、プレイヤーの一人がディーラーを兼ねることが多い。どのプレイヤーがディーラーになるのかに関して決まったルールはないが、通常は次の4通りのいずれかの方法でディーラーを決める。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "どのルールでディーラーを決めるのかは、プレイヤー間で事前に話し合って決める。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "またフロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、カードを配り始める基準、及び強制ベットを行わせる基準として「DEALER」と記されたプレートをゲーム毎に時計回りで動かして使用することが多い(このプレートのことを「ディーラー・ボタン」と称する)。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "チップの種類と、その価値はプレーヤーの間で任意に決めればよく特にルールはないが、複数の価値のチップを用意することが便利である。海外カジノにおいては、白=1、赤=5、緑色=25、黒色=100という単位である場合が多いので、この色と価値を援用する場合も多い。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ポーカーチップの価値と色の規則に国際基準はない。 国や地域で異なるだけでなく、施設ごと、あるいは単一の施設でもイベントタイプごとに異なることがある。 チップの色と大きさの統一を図るため、その地域のカジノ規制当局による指定を受けることがある。 例えば、ニュージャージー州とイリノイ州では統一された色が指定されている。 ネバダ州では色についての規制はないため、ネバダ州のカジノ(ラスベガスとか)では1ドルチップに白、青、灰色が使われる。 アメリカ合衆国のうちカジノが合法なすべての州の政府は、縁の模様の組み合わせがカジノ店舗やチップの価値により重複することがないよう要求している。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ニュージャージー州の規則では下表の通り:", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ポーカーではテーブルの中央付近を、賭けたチップを置く場所として使う。このチップを置く場所をポットと呼ぶ。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "プレイヤー達は、ポットの中で自分に近い場所に、他のプレイヤーが賭けたチップと区別がつくように、賭けたチップを置く。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "各ディールの最後に、そのディールの勝者が受け取る時を除いて、プレイヤー達は一度賭けたチップを再び手もとに戻すことはできない。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "プレイに参加する全員が、毎回ゲームが始まる前に一定の額を払わなければいけない参加費のことをアンティと呼ぶ。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アンティが必要かどうかは、あらかじめゲームによって決められている。 スタッドゲームでは、アンティを払うように設定されているのが一般的であるが、それ以外のゲームでは必ずしも必要とは限らない。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "支払われたアンティはポットに集められ(アンティをコミッションとして徴収されてしまい、ポットに入らないハウスもある)、それ以降の掛け金と合わせて勝者が獲得する。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ポーカーではゲーム中、何度かベット(賭け)をするための期間がある。その各々の期間をベッティング・インターバル(あるいはベットラウンド)と呼ぶ。各ベッティング・インターバルは次のように行う。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ベッティング・インターバルはいずれかのプレイヤー(フロップゲームではディーラーボタンの左隣りのプレイヤー)から開始し、時計周りに行われる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ポーカーでは、プレイヤーはゲーム中の任意の時にゲームから降りる(フォールドする、あるいはダウン、ドロップするとも表現する)ことができる。フォールドしたプレイヤーはそのディールで負けたものとみなされる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ディールに参加しているプレイヤーで、まだフォールドしていないプレイヤーのことをアクティブ・プレイヤーと呼ぶ。以後そのディールはアクティブ・プレイヤーのみで行われる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "フォールドの際そのディールで賭けたチップを取り戻すことはできない。フォールドしたプレイヤーがそのディールで賭けたチップはそのまま残しておき、ディールの最後にそのディールの勝者がそのチップを得る。例:25点をベットした後に相手からレイズが入った結果降りた場合、最初のベットである25点分のチップはポットに入る。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "各ベッティング・インターバルはオープニングベット以前と以後とに分かれる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "オープニングベット以前では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "チェックとはその回のベットをパスすることである。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "チェックをするプレイヤーは「チェック」と宣言する代わりにテーブルを軽く2・3回叩いても、チェックの意思を表すことができる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "オープニングベットとは、ポットにチップを賭けることである。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "全員がチェックした場合、ゲームは次のステップに進む。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オープニングベットが行われた後では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アクティブ・プレイヤーは、自分の番が回ってきたら前のプレイヤーと同額もしくはそれ以上の金額をかけるかフォールドするかしなければならない。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前のプレイヤーと同額のチップを賭けることをコールと呼び、賭ける金額を吊り上げることをレイズと呼ぶ。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ベッティング・インターバルは、全てのアクティブ・プレイヤーがチェックするか、あるいは、全てのアクティブ・プレイヤーの出したチップの額が同額になるまで続けられる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、上記のアンティを徴収しない形でプレイを行うことが多いが、これでは勝負にならない手を全て降りるという選択が用意されてしまうため、先述のディーラー・ボタンが置かれたプレイヤーから時計回りに2名が、それぞれ1ユニット、2ユニットのチップを強制的に(カードを配る前に)賭けさせられるという決まりが存在する。このときのベットを、「ブラインド・ベット」という。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ただし、ブラインド・ベットがあったからといって、アンティがかならず存在しないということはなく、アンティとブラインド・ベットを併用した形のゲームも可能であり、存在する。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ゲームが青天井にならないように、ベットおよびレイズができる額に制限を設定しておく種類のゲームを、リミットゲームと呼ぶ。逆に上限額を全く設定しないで、無制限に行えるゲームをノー・リミットゲームと呼ぶ(\"NL\",\"N/L\"などと略されて表記される場合もある)。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "レイズの値の制限方法には、以下のようなバリエーションがある。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ベットやレイズの額だけでなく、毎回のベットラウンドでのベットやレイズの回数にも制限が設定されている場合もある。この回数制限に達することをキャップという。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、ノーリミットのゲームであっても、通常は「ハンドの開始時点でテーブル上にある手持ちチップしか賭けることができない」というルール(テーブルステークスと呼ばれる)があるため、実際の上限は「自分、もしくは対戦相手の持っているチップの総額(のうち、少ない方)まで」となる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "これは、ハンドの途中でチップを買い足して不当にポットを大きくしたり、経済的に不利なプレイヤーが払いきれないベットを受けて強制的にフォールドさせられたりといった恫喝的なプレイを防止する目的で設定された制限である。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "手持ちのチップ全てを賭けることを「オールイン」といい、オールインしたプレイヤーは、それ以降のラウンドをベットなしで最後まで参加できるが、その時点でアクティブプレイヤーではなくなる。オールインしたプレイヤーが受け取ることができるのは、オールインした金額に対応するベットまでで、それを超えた、あるいはそれ以降に賭けられたチップはサイドポットとして分けられ、アクティブプレイヤーのみで争われる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "逆に、自分の賭けたチップを対戦相手が受けきれない場合、対戦相手はオールインで受けることができ、その場合他にアクティブプレイヤーがいない場合は相手が受け切れなかった差額はベット不成立で返却される(他にアクティブプレイヤーがいる場合は差額がサイドポットへのベットとなる)。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "各ディールの最後にアクティブ・プレイヤー達は、全員にコールされたベットまたはレイズを行ったプレイヤーが最初に、その後はコールした順に、ハンドを公開して互いにハンドを比較しあう。また最終ラウンドが全員チェックで回った場合はチェックした順にショーダウンとなる。そして最強のハンドを持っているプレイヤーがポットのチップを全て獲得する。サイドポットのある場合は、各々のポットに対する権利を持つプレイヤー同士で比較が行われる。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ハンドの公開は必須ではなく、他者が既にオープンして確定した役に対して勝利することができない場合や、どんなハンドを持っているかを見せないと戦略的に見せる場合は、フォールドするときと同じように、カードを伏せた状態にしてディーラーへ投げて非公開とすることも可能である(この行為をマック (Muck) という)。", "title": "共通ルール" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ポーカーには主に以下の三種類がある。", "title": "ポーカーの種類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "最も古い形のポーカーで、各プレイヤーは自分の手札を全て隠してプレイをする。カードが配られたらまずベット(賭け)をし、次にカード交換を行う。そして再びベットをし、最後に全員がハンドを公開して勝敗を決める。", "title": "ポーカーの種類" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "スタッド・ポーカーはオープンなポーカーである。まず初めに各プレイヤーに何枚かの手札(枚数はポーカーの種類ごとに異なる)が裏向きに配られる。プレイヤー達は自分の手札を他のプレイヤーに見せないように自分だけで見る。次に各プレイヤーに表向きにカードが一枚ずつ配られる。ここでまず一度ベットをする。ベットが終わったら再び各プレイヤーに札が表向きに一枚ずつ配られ、ベットが行われる。以下同様にカード配布とベットとが交互に行われ、最後のベットが終わったら、全員最初に配られた裏向き札を明かし、勝敗を決める。", "title": "ポーカーの種類" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "最も新しいタイプのポーカーである。フロップ・ポーカーの特徴は、中央にフロップと呼ばれる表向きの札が置かれることである。この札は全てのプレイヤーの共通の手札とみなされる。フロップが高位の札であれば自分にとって得であるが、同時に他の人にも得になることに注意されたい。プレイヤーは裏向きの手札+フロップでハンドを作る。2020年現在のポーカーゲームの8割はこのタイプで行われる。", "title": "ポーカーの種類" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "他にもインディアン・ポーカーのように上記のどれにも属さないポーカーがある。", "title": "ポーカーの種類" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ロー・ボールやロー・スタッドでは、最低の札を出した札が勝利する。このように札の強弱関係が逆転したポーカーをローポーカーと呼ぶ。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ローポーカーの高低の比較方法にはいくつかの変種がある。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ストレートやフラッシュが考慮される場合、", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "考慮されない場合は上記のハンドの強弱は全く逆になる。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この方式では、ショウダウンの際に、最高のハンドを作ったプレイヤーと最低のハンドを作ったプレイヤーがポットを等分する。セブンカードスタッドなどでは、配られた手札のうち、ハイハンドとローハンドを別の組み合わせで構成することができ、その結果同一人物がハイとローの両方で勝利することもあり得る。手元に5枚しか配られないポーカーでは通常はハイとローの両方で勝つことは不可能だが、ハイポーカーではストレートとフラッシュを考慮しローポーカーでは考慮しない場合は両方で勝つハンドが完成する場合がある。例えば、6-5-4-3-2のハンドはハイではストレートになりローでは6ハイのノーハンドになるのでハイでもローでも勝つ可能性が高いハンドになる。後述のデクラレーションに比べると簡単なやり方である。なお、この形式の大抵のゲームではローハンドの成立には制限があり、規定以下のハンドを作ることができなければローハンドは認められない。例えば、「7カードスタッドハイロー エイトオアベター」であれば、ローハンドの成立には「ハイカード8のノーペア」以下の手を作らなければならない。誰にもローハンドの成立がない場合、ハイハンドで勝ったプレイヤーがローポットも獲得する。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ショウダウンの前に「ハイ」「ロー」「ハイロー」のどのハンドで勝負するかを宣言するポーカーである。ハイとローの両方で勝負するプレイヤーはチップを2枚手の中に握る。ハイのみで勝負するプレイヤーはチップを1枚握る。ローのみで勝負するプレイヤーはチップを握らない。宣言はチップを握った手を同時に開くことで行う。その後ショウダウンを行うが、ポットの半分はハイを宣言したプレイヤーの中で最高のハンドを持つプレイヤー、残り半分はローを宣言したプレイヤーの中で最低のハンドを持つプレイヤーのものになる。ハイローを宣言したプレイヤーがいる場合は、そのプレイヤーは最高のハンドと最低のハンドを両方持っていれば、ポットを総取りできる。しかしハイかローのいずれかで勝利し、もう一方で敗北した場合はハイローを宣言したプレイヤーを負かしたプレイヤーがポットを総取りする。ハイローを宣言したプレイヤーが複数人いて、その中の一人がハイで勝ち、その中の別の一人がローで勝った場合はその二人でチップを等分する。どのハンドで勝負するかの判断を間違えると手に入れられるはずのポットを他人に取られてしまうこともあり、カードスピークスより難しい。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ワイルドカードを使ったポーカーをワイルドポーカーと呼ぶ。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ワイルドポーカーでは、通常のポーカーハンドの他にファイブカードと呼ばれるハンドが認められている。ファイブカードとは、同ランクの札4枚にワイルドカードを加えた5枚からなるハンドである。ファイブカードはロイヤルフラッシュより強いとするルールが一般的だが、ワイルドカードを含まないロイヤルフラッシュはファイブカードより強いというルールが用いられる場合や、ワイルドカードを含んだロイヤルフラッシュは通常のストレートフラッシュに格下げされるルールもある。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "代表的なワイルドポーカーには次のようなものがある。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ワイルドカードが存在すると、ポーカーのハンドの強さを確率によって格付けすることに問題があることが知られている(Wild Card Poker Paradox)。(例えば、1枚のジョーカーを加えた時、通常のように「スリーカードがツーペアよりも強い」と決めればスリーカードの方がツーペアよりも高い確率で出現し、逆に「ツーペアがスリーカードよりも強い」と決めればツーペアの方がスリーカードよりも高い確率で出現する。これは、ジョーカーを有利な手役のパーツとして使用できる特性から起こるものである。)", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "他の用法で使われることがよくあるが、元はポーカーの用語。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "毎回のゲームでポットに集められるチップの中から、一定額を別枠として集めておき、集まったチップをジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手を完成させたプレーヤーが獲得するというルールが語源。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "通常のゲームで、集められた掛け金をポットと呼ぶが、この「ジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手」に対する別枠のポットということでジャックポットと呼ばれた。ある程度の規模のポーカールームでは、類似のルール(ポーナス)が設定されていることも多い。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "詳細なルール、条件等は個々のポーカールームが独自に設定しているため普遍的なルールはないが、おおむね以下のようなパターンがある。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "大人数で規定額のチップを持って同時にプレイし、チップを全て失った者(bursted)からトーナメントより排除され順位の確定が行われるルール。規定額のバイイン(参加料+手数料)を払って参加し、通常上位10~15%程度の入賞者で参加料を賞金として分配する(手数料が主催者の取り分となる)。時間ごとにブラインドが上昇し、後半はブラインドのほかにアンティを課されるようになる。ルールによっては、規定ラウンドに限り、リバイ(burstedした者が再度参加料を払うことによってチップを追加し続行可能なルール)やアドオン(リバイ締め切り時に、リバイ同様の追加の参加料を払うことでチップを追加できるルール)が認められることもある(この追加の参加料は賞金に上乗せされる)。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "リバイやアドオンが認められない形式を「フリーズアウト」という。burstedしてプレイヤーが減ってくると、それに応じてプレイヤーを移動させてテーブルを整理していく通常、トーナメントチップには金銭的価値はない。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "テーブル上のプレイヤーが1人になるまで続行し、テーブル移動を行わない形式を「シュートアウト」、その中で特にテーブル上のプレイヤーが1対1で開始される形式を「ヘッズアップトーナメント」という。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "世界で有名なのがWSOP、WPT、EPTで、日本でのメジャータイトルはJOP、WPT JAPANが人気である。", "title": "特殊なルール" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "主として、参加するプレイヤーが5人より少ないときに行われるポーカーである。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしディーラーは7枚カードを配る。カード交換は0~7枚まで何枚でも可能。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "最後にアクティブプレイヤーは7枚の手札から5枚を選んでハンドを作り、そのハンドの強弱を比較しあう。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ロー・ポーカーの一種。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしより低いポーカーハンドを作ったプレイヤーが勝ち。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ロー・ボールの変種。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "基本ルールと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ポーカーハンドが通常と違う。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "このゲームには弱いほうから順に、ツー・フラッシュ、スリーフラッシュ、フォー・フラッシュ、フラッシュの4種類のポーカーハンドがあり、それぞれ同じスートのカードが2枚、3枚、4枚、5枚そろっているハンドである。ワンペアなどの通常のポーカーハンドは認められていない。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "その他は基本ルールと同様。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "4枚の手札で行い、特殊なポーカーハンドを用いるロー・ポーカーの一種。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ゲームの流れは基本ルールと似ているが、4枚の手札で役を作ることと、ドロー・ラウンドを3回行うことが特徴。2回目のドロー・ラウンド後のベット・ラウンドはビッグ・ベットになるルールが多い。ハウスによっては、ドローラウンドごとにドロー可能な枚数が制限されている場合もある。例えば、1回目のドローラウンドから順に3枚まで、2枚まで、1枚までドロー可能など。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "4枚で手役を作るが、同じスートおよび同じランクのカードは何枚手札にあっても1枚しか手役に使うことができない。スートが被る場合は、より低位のカードで手役を作る。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "通常のポーカーの手役は適用されず、手役は強い順に以下の通りである。なお、○・カードとは、通常のポーカーの手役(○・オブ・ア・カインド)とは異なる意味である。同じ手役同士では、まずハイカード同士を比較し、低い方が勝ち(Aは最低位と見なす)。同数であればその次に高位のカードのランクを比較する。手役から省かれたカードは比較しない。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "高位のカードを交換する場合に、結果として手が悪くなるケースも多々ある(例えば、弱いバドージK432などを崩してドローした結果、スリー・カードに降格するなど)ため、ドローするかスタンドパット(ドローしない)かの判断が難しく、またドロー枚数で相手の手役がある程度推測できるという特徴がある。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ゲーム中各プレイヤーは、下のカードが見えるように順に重ねてカードを置く。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ゲームの流れはファイブカード・スタッドと同様。ただし最初に裏向きに2枚、表向きに1枚に配る。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "以降、ベッディング・インターバルを行う毎に表向きに1枚配り、最後の7枚目は裏向きに配られる。7枚目のベッディング・インターバルが終わったら、アクティブ・プレイヤー達は裏向きのカードと表向きのカードをあわせた計7枚の全ての手札を公開し、その中から最強の組み合わせになる5枚を選び出してハンドの強弱を比較する。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "セブンカード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。このルールでのカードの強さは、K>Q>J>10>...>2>Aで、低い札が勝つ。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ファイブカード・スタッドと同様。ただしフォー・ストレート、フォー・フラッシュ、フォー・ストレートフラッシュという3種類の役を認める。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "フォー・ストレートとは、5枚の札のうち4枚の札のランクが連続しているハンドのこと。(例えば♣8 ♡7 ♡6 ♢5 ♢2)。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "フォー・フラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートが連続しているハンドのこと。(例えば♠J ♠7 ♠4 ♠2 ♡K)。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "フォー・ストレートフラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートとランクが一致しているハンドのこと。(例えば♠J ♠10 ♠9 ♠8 ♡3)。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ハンドの強さは、ツーペア<フォー・ストレート<フォー・フラッシュ<スリーカード<......<フルハウス<フォー・ストレートフラッシュ<フォーカード。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "フリップ・スタッド、ファイブカード・ターンアップ、ピープ・アンド・ターンとも呼ばれる。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ラスベガス等の世界中のカジノのポーカールームでプレイすることのできる一般的なフロップゲームである。名称としては「ホールデム」や「テキサス」とも呼ばれることが多い。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。手札と共有カードの組み合わせ方は自由である。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "海外のカジノや、ゲームサイトで人気があり、ワールドシリーズオブポーカーという世界選手権のメインイベントの種目は、この「テキサス・ホールデム」である。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "4枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。ただし制約があり、手札から2枚、共有カードから3枚の組み合わせに限られる。名称としては単にオマハとも。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "テキサス・ホールデムと似たスタイルのゲームで、より高位の役が期待される。ハイローのルールを組み合わせて遊ばれることも多い。高位の役が期待されるため、賭けの総額も(参加プレイヤーが多くなるため)必然的に増加する傾向にある。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "テキサス・ホールデムとは違い手札の数が4枚に変更される。4枚になるので手役はある程度できやすいといえるが、その反面必ず手札を2枚、場に出ているカード5枚から3枚を使わなくてはいけないというルールがあり、テキサス・ホールデムよりもかなり戦略性が高くなったフロップゲームといえる。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ゲームの流れは以下の通りとなる(ハイの場合のみ説明)", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "(引き分けの場合はチップの量を可能な限り引き分けたプレイヤーで割り、それを引き分けたプレイヤー全てに渡される)", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "5つのポーカーゲームを組み合わせたゲームで、通常、ある一定の時間が経つとゲームが変更される。 名前の由来はH:テキサス・ホールデム、O:オマハ・ホールデム、R:Razz、S:セブンカード・スタッド、E:セブンカード・ハイロースタッド・エイトオアベターの頭文字をとったものである。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "配られた5枚の手札を、自分は見えず、相手からは見えるスタイルでプレイするポーカー。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "おのおのが額の部分にカードを表向きにさらす。自分の強さがわからないため、読み合いも関連しブラフに独特の味がでる。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "簡便のため1枚の手札で行われることもあり、むしろそのほうがポピュラーである。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ポーカー・ソリティア、ポーカー・ペーシェンス、ポーカー・スクェアとも。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "カード・ペーシェンスの一つ。通常のポーカー・ゲームと違い一人で楽しむ。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "一組52枚のカードから25枚を抜き出す。そしてその25枚のカードを、5×5の正方形に並べる。どのカードをどの位置に置くのかはプレイヤーが自由に決めることができる。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "正方形の縦5列、横5行で計10個のポーカー・ハンドができる。ハンドには下表のように点が割り振られている。 できたハンドの点の合計値が得点である。目標はより高い得点を目指すこと。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "アメリカ式のスコアは、ランダムにカードを選んだ時のハンドのできやすい方から順に点を高くしてあるだけであるが、それに対しイギリス式のスコアはポーカー・ソリティアを行った時のハンドのできやすさに基づいて点が割り振られている。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ポーカーの役のルールを利用して、コンピューターを相手に一人で遊ぶゲーム。手札を正しく交換し、高い役を作り多くの配当を得ることを目的とする。一意に最適戦略が決定することから、シリアスプレイヤーに好まれている。ただし、日本などではパチスロと同様の方式で役フラグを抽選し、それに合わせて配られるカードを制御する方式がとられる場合もある(これは、ラスベガスなどでは許されていない方式である)。この場合、いくら最適戦略をとっても、フラグのない役は絶対に揃わないし、狙い役と違う役を狙った場合にその役を取りこぼす(完成できない)ことがある。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "単にポーカーといった場合、ビデオポーカーは含まれないことが多い。", "title": "様々なポーカー" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "ポーカーの歴史に関しては幾分議論が必要である。ゲームの名前は、ドイツのポッヘン(pochen、「ノックする」の意)というゲームを先祖に持つ、フランスのポーク (poque) からきていると考えられている。しかしこのゲームが本当にポーカーの先祖であるのかどうかはよくわかっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "ポーカーはペルシャのゲームアース・ナース (ās nās) に非常によく似ている。アース・ナースがおそらくペルシャの水夫からフランス移民を通じてニュー・オリンズに入ったという説がよく行われるが、デビッド・パーレットはアース・ナースが文献上19世紀末以前に遡らないとして、この説を疑問視している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "ポーカーのもうひとつの先祖と考えられているゲームは、ルネッサンス時代のゲームであるプリメロ(primero)とフランスのブルラン(brelan)である。イギリスのブラグ(brag)はブルランにブラフの要素を取り込んだゲームである(当時すでにブラフの概念を使ったゲームは他にも存在した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "これらのゲーム全ての影響を受けて現在のポーカーが形作られた可能性も十分ある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "イギリスの俳優ジョセフ・クロウェルが1829年にニュー・オリンズで行われたポーカーゲームのことを記している。ここに書かれているゲームは、20枚のカードを使って最も高いハンドを作ったプレイヤーが勝利するというルールで4人で行われた。1843年に出版されたJonathan H. GreenのAn Exposure of the Arts and Miseries of Gambling (G. B. Zieber、Philadelphia) に、ポーカーがニューオリンズからミシシッピの川船によって伝わり、通常ギャンブルとしてプレイされていたのだと記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "ポーカーが広まってすぐに、52枚のフルデックを使ってゲームされるようになり、フラッシュの役が導入された。南北戦争の間にドロー・ポーカー、スタッド・ポーカー(手札の枚数が5枚のもの)、ストレート・ポーカーなどを始めとした色々なルールのポーカーが生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "その後、ポーカーはアメリカで発展を続け、1875年頃にはワイルド・ポーカーが、1900年頃にはロー・ボールとスプリット・ポット・ポーカーが生まれた。他の国、特にアジアへは、米軍基地を通じてポーカーは広まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1970年に行われたワールドシリーズオブポーカー以来、ポーカー・トーナメントはアメリカのカジノを通じてポピュラーになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "日本には合法のカジノは存在しない(賭博及び富くじに関する罪により処罰の対象となる)。ババ抜きや神経衰弱のような気軽なゲームとして「ポーカー」が遊ばれることが多く、また各トランプメーカーのルール解説もそれを想定したものが多い。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "現在、日本でよく遊ばれてるポーカーは「クローズド・ポーカー」(別名、ドローポーカー)である。5枚のカードを伏せてプレーヤーに配り、好きな枚数だけ取り換えて役(ハンド)をそろえていくゲームで、カードが相手に見えないために情報量が少なく、相手の表情や態度などを見て駆け引きをする「心理戦」が大きな醍醐味となる。ローカルルールではカードの交換回数を2回とするものや無制限(いち早く良い手を揃えたと思ったプレイヤーが「ストップ」と言うまで全員が何度でも交換できる)とするケースもあるが、公式にはカードの交換回数は1回が一般的である。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "日本では、チップを賭けたポーカーは、コンピューターゲームや、友人同士で行われることが多い。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "日本のドローポーカーでは、開始の前、あるいはカード交換の後に一度だけベット(チップの賭け)を行う場合が多い。それに対し少し前のラスベガスルールでは、カード交換の前と後の二回ベットを行う。しかし、この方式はテキサスホールデム全盛のいま、米国でこのルールでプレーをしようとしても、相手がまったく見つからないのが現状である。また、このルールでは一回目のベットではまだカード交換が行われていないので、どのプレイヤーも自分の手札が最終的にどのくらい強くなるのかを知らない状態で賭けなければならない。プレイヤー達はこのような不確かな状況で、他のプレイヤーの動きを見て、予想し、自分が勝つためには自分の手札をどのくらい強くしなければならないのかを判断する。そして、その状況判断に応じて、その手札で勝負するのか、ゲームから降りるのか、チップを賭けて勝負するのか、また、その時、賭けるチップの枚数をどうするのか、といったことを決めなければならない。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "また、ドローポーカーでは、プレーヤーは高い役(ハンド)をそろえていなくても、「ベット!」、「コール!」、「レイズ!」と叫んで相手のプレーヤーたちに心理的なプレッシャーをかけることができ、それで、自分のハンドに自信をなくし、弱気になったプレーヤーを自発的に「フォールド」(ゲームから降りる)させることもできる。また、プレーヤーたちが、ベット、コール、レイズしていくと、テーブルの中央にチップがたくさん集まっていく。そして、「ショーダウン」して、高いハンド(役)を作ったプレーヤーが勝ちとなり、テーブルに集まった全てのチップを1人の勝者が獲得する。このようにドローポーカーは、人間と人間との心理的な駆け引きが要求される、戦略性とギャンブル性のあるゲームである。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "しかし、日本では、このようなブラフ(ハッタリ)の戦法で相手にプレッシャーをかけてゲームに勝つことを良くないと思ってる人も多い。そこで、本来のポーカーのルールでプレイしても1回目のベットラウンドが事実上省略される(全員チェック、または、ミニマムベットで進行する)ことが多かったり、省略されているケースもある。また、このような事情を考慮して、「アンティ」(参加費)を高くして、逆に「ポットリミット」を低く設定(場合によってはポットリミットがアンティと同額=ベットラウンドを完全に省略)して、チップの賭けではなく単純に最高位の手役を作ることを競うゲームとして遊ばれることも多い。この場合、ノーチェンジが出た時点で以後のドローラウンドには進まない条件で、ドローラウンドを増やすことがある(この場合、山札がなくなったら捨札を戻すというルールもある。)。山札がなくなるまで、各プレイヤーがドローできるルールや捨て札を戻してドローできるルールもある。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "この場合、ゲームの勝敗は、プレーヤーたちの最終的な手札の「ハンド」(役)の強さだけで勝負判定される。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "最近のラスベガスなどではカードランクの比較までで双方同じ手であれば引き分け(スプリットポット)となるが、日本のルールでは、カードランクの比較までで同じ場合、カードのスート比較をして決着をつける場合が多い。たとえば、ツーペアの場合、海外の標準では高いほうのペアのカードランク比較→もう一方のペアのカードランク比較→キッカーのカードランク比較→スプリットポットとなっている。しかし、日本式では高いほうのペアのカードランク比較→高いほうのペアのスートを比較というルールである。これは、トランプの持つスートという属性を生かし、早くわかりやすく決着をつけられるという特長もある。日本ルールでは、ランクだけでなくスートまで考慮した戦略が求められる。", "title": "日本におけるポーカー" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "店舗やトーナメント大会などで本格的にポーカーを運営する場合には、この他に、ポーカーテーブル、カットカード、ディーラーボタンを用意してほしい。カードについては、「1回の使用でカードを破り捨て廃棄するバカラほどではないがそれなりの頻度でのカード交換が望ましく、特に新たにテーブルをオープンする際には封の切られていないカードをすべてのプレイヤーの目の前で開封することが望ましい」「カードの再利用を前提とした、カードの傷みを厭うことに起因する不十分なシャッフルでゲームを壊すことは望ましくなく、使い捨てを前提とすることによってより激しいシャッフルを行える」「客によるカードの破損によるカード消費コストを抑えるとともに、客にそれを遠慮させないように配慮する(通常、客はカードを折り曲げるといった荒い扱いを行うことも十分あり得る)」という理由により、本格的な運営をするならば使い捨て可能な安価な紙製カードを用いることが望ましいとされていたが、高品質で耐久性に優れるプラスチック製カードの普及により、前述のワールドシリーズ・オブ・ポーカーをはじめとするポーカー大会や一部のカジノではプラスチック製のものが採用されている。 最近では、ディスカウントストアや百貨店で販売しているので手軽に調達できる。 その他、通販ショップなどでもトランプ専門店、カジノ専門店などで良心的なお店が多く、手軽に安全に購入できる。", "title": "ポーカーに関連する内容" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "ポーカー用語の一覧(英語版)", "title": "ポーカーに関連する内容" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "ゲーム内のミニゲームとして遊べる作品を除く。", "title": "ポーカーに関連する内容" } ]
ポーカー(poker)は、トランプを使って行うゲームのジャンルである。心理戦を特徴とするゲームである。プレイヤー達は5枚の札でハンド(役、手役)を作って役の強さを競う。 ギャンブルとしてプレイする場合は現金をチップに交換し、勝って獲得したチップが収入になる。自らプレイを行いチップを獲得する。バカラのように他のプレイヤーの勝者を予想するギャンブルではない。多くのギャンブルはプレイヤーと胴元の勝負であるが、ポーカーの場合はテーブルに座っている客同士の勝負であり、胴元は後述の「アンティ」または勝利したチップの一定の割合を手数料として受け取る。他のカジノゲームとは違い、胴元はギャンブルには参加せず、ゲスト同士の勝負のためのテーブルとゲーム進行などのサービスを提供しているという形である。 競技(トーナメント)として行われる場合は、参加費用を払い、参加者全員に同じ量のチップが配られ、最終的に残ったチップの数で順位が決まる。賞金はスポーツ競技と同様に順位によって支払われる。 ポーカーという言葉の成り立ちは「#歴史」の項目で詳細を示す。英語の突くという意味のpokeや同一の綴である火かき棒(poker)や豚肉を意味するポークとは歴史上の関連はない。
{{出典の明記|date=2010年5月}} [[ファイル:2006_WSOP_Main_Event_Table.jpg|サムネイル]] '''ポーカー'''(poker)は、[[トランプ]]を使って行う[[ゲーム]]のジャンルである。[[心理戦]]を特徴とするゲームである。プレイヤー達は5枚の札で'''ハンド'''(役、手役)を作って役の強さを競う。 [[ギャンブル]]としてプレイする場合は現金をチップに交換し、勝って獲得したチップが収入になる。自らプレイを行いチップを獲得する。[[バカラ_(トランプゲーム)|バカラ]]のように他のプレイヤーの勝者を予想するギャンブルではない。多くのギャンブルはプレイヤーと胴元の勝負であるが、ポーカーの場合はテーブルに座っている客同士の勝負であり、胴元は後述の「アンティ」または勝利したチップの一定の割合を手数料として受け取る。他のカジノゲームとは違い、胴元はギャンブルには参加せず、ゲスト同士の勝負のためのテーブルとゲーム進行などのサービスを提供しているという形である。 [[競技]](トーナメント)として行われる場合は、参加費用を払い、参加者全員に同じ量のチップが配られ、最終的に残ったチップの数で順位が決まる。賞金はスポーツ競技と同様に順位によって支払われる。 ポーカーという言葉の成り立ちは「[[#歴史]]」の項目で詳細を示す。英語の突くという意味のpokeや同一の綴である[[火かき棒]](poker)や豚肉を意味する[[ポーク]]とは歴史上の関連はない。 ==ポーカーの特徴== ポーカーは、[[ポーカー・ハンドの一覧|ハンド]]の強さを競うゲームである。相手をフォールドさせれば(ゲームから降りさせれば)、ハンドの強さに関わらず勝つことができることから、ブラフ(ハッタリ。[[#ベット|ベット]]することによって弱い手を強く見せて相手をフォールドさせようとすること)に代表される心理戦の占める割合の高いゲームであるとされる。勝ち負けの数にはあまり意味がなく、勝ったときのチップを大きくし、負けたときの損失を最小にするための総合的な戦術がより重要である。また、他のプレイヤー達の仕種、表情、賭けたチップの枚数等から他のプレイヤー達のハンドの強さを予想し、自分の賭けるチップの枚数を決める。このゲームでは相手を惑わすために、わざと驚いて見せたり、嘘をついたりすることが認められている。とはいえ、実際のゲームにおいて相手の表情などを読んで自分のアクションの判断材料にする場面は、巷間で信じられているほどには多くない。 ==共通ルール== 以下ではほとんどのポーカーに共通するルールを説明する。 使用するものは、トランプ一組52枚、ポーカーチップ。 通常はジョーカーは使わない([[#ワイルドポーカー|ワイルドポーカー]]の項を参照)。 ===ポーカー・ハンド=== {{see|ポーカー・ハンドの一覧}} ===ポーカー・ハンドに関する注意=== ====ストレートにおけるAの取り扱い==== ストレート(およびストレートフラッシュ)では、AはKとも2ともつなげることができる。すなわちA-2-3-4-5も10-J-Q-K-Aもストレートとみなされる。しかしQ-K-A-2-3のようにK-A-2を含むものはストレートとはみなされない。 また、A-2-3-4-5のストレート(別名でwheelやbicycleという場合もある)はAが入っているが、2-3-4-5-6のストレートよりも強いわけではない。wheelはストレートの中で最も弱い、5ハイストレートである。ただし、例外的にパイガオポーカーというゲームでは、A-2-3-4-5は10-J-Q-K-Aの次に強いストレートとされる。 ====同一の役ができた場合の強弱==== 二人のプレイヤーが同一の役を作った場合、以下のようにしてハンドの強弱を決める。カードの強さは、A>K>Q>J>10>...>2となる。 # まずハンドの「主要部」(ワンペアならペアになっているカード、ツーペアならペアになっているカードのうち強い方、スリーオブアカインド・フルハウスなら三枚組になっているカード、フォーオブアカインドなら四枚組になっているカード、ノーペア・ストレート・フラッシュ・ストレートフラッシュなら最も強いカード)のランクの大小を比較する。 #(ツーペア・フルハウスのみ)主要部が同じなら、準主要部(ツーペアならペアになっているカードのうち弱い方、フルハウスなら三枚組になってない二枚組の方)のランクの大小を比較する。 # それが同じなら、キッカー(残ったカード)のうち最も高いランクのカードを比較する。 # 以下順に二番目、三番目、四番目に高い札のランクを比べる。 # これらが全て同じ場合には、引き分けとみなされる。 引き分けになった場合は、賭けられたチップを引き分けて同着一位になったプレイヤー達で等分する。ただし、そのときに利用されているチップ単位で割れない端数が存在する場合は、当該端数については、最初にアクションを起こすべき人間(これを「ポジションの悪い人」と表現する)に与えられるというルールが一般的である。 通常はカードのスートは考慮に入れず、ランクのみを比較するが、日本国内で古くからある解説書などにおいては、スートを比較すると記述されているものもある。また[[中華圏]]のスタッドポーカーでもスートまで比較するのが普通である(&#x2660;>&#x2661;>&#x2663;>&#x2662;の順が普通)。欧米でもカジノ以外ではスートを比較することもあるが、その強弱の順序は統一されていない<ref>[http://www.pagat.com/poker/rules/ranking.html#suit Rules of Card Games: Poker Hand Ranking](pagat.com) にさまざまな変種を集めてある</ref>。 勝敗の判断ではなく、(スタッドゲーム等で)アクションを行う順番を決定する場合等では、スートの強弱(&#x2660;>&#x2661;>&#x2662;>&#x2663;の順)までを比較する。 ===ディーラー=== カジノでは、カジノ側に雇われた専属のディーラーが各ポーカーテーブルに一人ずついて、このディーラーが全てのゲームでカードを配る。 トーナメントや大規模なプライベートゲームでは「アミューズメントディーラー」がゲーム進行などを行う。 大規模ではないプライベートゲーム(一般家庭など)では、プレイヤーの一人がディーラーを兼ねることが多い。どのプレイヤーがディーラーになるのかに関して決まったルールはないが、通常は次の4通りのいずれかの方法でディーラーを決める。 # 前のゲームにおけるディーラーの左隣の人が次のゲームのディーラーになる。 # 前のゲームの勝者が次のゲームのディーラーになる。 # 固定した特定のプレイヤーがディーラーになる。 # カジノと同様に、プレイをしない人がディーラーになる。 どのルールでディーラーを決めるのかは、プレイヤー間で事前に話し合って決める。 またフロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、カードを配り始める基準、及び強制ベットを行わせる基準として「DEALER」と記されたプレートをゲーム毎に時計回りで動かして使用することが多い(このプレートのことを「ディーラー・ボタン」と称する)。 ===チップの種類=== チップの種類と、その価値はプレーヤーの間で任意に決めればよく特にルールはないが、複数の価値のチップを用意することが便利である。海外カジノにおいては、白=1、赤=5、緑色=25、黒色=100という単位である場合が多いので、この色と価値を援用する場合も多い。 ====ポーカーチップの色==== ポーカーチップの価値と色の規則に国際基準はない。 国や地域で異なるだけでなく、施設ごと、あるいは単一の施設でもイベントタイプごとに異なることがある。 チップの色と大きさの統一を図るため、その地域のカジノ規制当局による指定を受けることがある。 例えば、ニュージャージー州とイリノイ州では統一された色が指定されている。 ネバダ州では色についての規制はないため、ネバダ州のカジノ(ラスベガスとか)では1ドルチップに白、青、灰色が使われる。 アメリカ合衆国のうちカジノが合法なすべての州の政府は、縁の模様の組み合わせがカジノ店舗やチップの価値により重複することがないよう要求している。 ニュージャージー州の規則では下表の通り<ref>{{cite web | title=New Jersey Casino Control Commission - Chapter 46. Gaming Equipment | website=state.nj.us | date=2006-07-30 | url=http://www.state.nj.us/casinos/actreg/reg/chapter_46.html | archive-url=https://web.archive.org/web/20060730170118/http://www.state.nj.us/casinos/actreg/reg/chapter_46.html | archive-date=2006-07-30 | url-status=dead | access-date=2019-09-17}}</ref>: {| class="wikitable" !チップの価値(ドル)!!色 |- |1||白 |- |2.5||ピンク |- |5||赤 |- |10||青 |- |20||黄色 |- |25||緑 |- |100||黒 |- |500||紫 |- |1,000||蛍光オレンジ |- |5,000||灰色 |- |20,000||マスタードイエロー |} ===ポット=== ポーカーではテーブルの中央付近を、賭けたチップを置く場所として使う。このチップを置く場所を'''ポット'''と呼ぶ。 プレイヤー達は、ポットの中で自分に近い場所に、他のプレイヤーが賭けたチップと区別がつくように、賭けたチップを置く。 各ディールの最後に、そのディールの勝者が受け取る時を除いて、プレイヤー達は一度賭けたチップを再び手もとに戻すことはできない。 ===アンティ=== プレイに参加する全員が、毎回ゲームが始まる前に一定の額を払わなければいけない参加費のことを'''アンティ'''と呼ぶ。 アンティが必要かどうかは、あらかじめゲームによって決められている。 スタッドゲームでは、アンティを払うように設定されているのが一般的であるが、それ以外のゲームでは必ずしも必要とは限らない。 支払われたアンティはポットに集められ(アンティをコミッションとして徴収されてしまい、ポットに入らないハウスもある)、それ以降の掛け金と合わせて勝者が獲得する。 ===ベット=== ポーカーではゲーム中、何度かベット(賭け)をするための期間がある。その各々の期間を'''ベッティング・インターバル'''(あるいはベットラウンド)と呼ぶ。各ベッティング・インターバルは次のように行う。 ベッティング・インターバルはいずれかのプレイヤー(フロップゲームではディーラーボタンの左隣りのプレイヤー)から開始し、時計周りに行われる。 ポーカーでは、プレイヤーはゲーム中の任意の時にゲームから降りる('''フォールド'''する、あるいは'''ダウン'''、'''ドロップ'''するとも表現する)ことができる。フォールドしたプレイヤーはそのディールで負けたものとみなされる。 ディールに参加しているプレイヤーで、まだフォールドしていないプレイヤーのことを'''アクティブ・プレイヤー'''と呼ぶ。以後そのディールはアクティブ・プレイヤーのみで行われる。 フォールドの際そのディールで賭けたチップを取り戻すことはできない。フォールドしたプレイヤーがそのディールで賭けたチップはそのまま残しておき、ディールの最後にそのディールの勝者がそのチップを得る。例:25点をベットした後に相手からレイズが入った結果降りた場合、最初のベットである25点分のチップはポットに入る。 各ベッティング・インターバルはオープニングベット以前と以後とに分かれる。 オープニングベット以前では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。 * チェックする。 * オープニングベットをする。 * フォールドする。 === チェック === '''チェック'''とはその回のベットをパスすることである。 チェックをするプレイヤーは「チェック」と宣言する代わりにテーブルを軽く2・3回叩いても、チェックの意思を表すことができる。 '''オープニングベット'''とは、ポットにチップを賭けることである。 全員がチェックした場合、ゲームは次のステップに進む。 オープニングベットが行われた後では、各アクティブ・プレイヤーは自分の番が回ってきたら次のいずれかの行動を取る。 * コールする。 * レイズする。 * フォールドする。 アクティブ・プレイヤーは、自分の番が回ってきたら前のプレイヤーと同額もしくはそれ以上の金額をかけるかフォールドするかしなければならない。 前のプレイヤーと同額のチップを賭けることを'''コール'''と呼び、賭ける金額を吊り上げることを'''レイズ'''と呼ぶ。 ベッティング・インターバルは、全てのアクティブ・プレイヤーがチェックするか、あるいは、全てのアクティブ・プレイヤーの出したチップの額が同額になるまで続けられる。 ===ブラインド・ベット=== フロップ(コミュニティカード)・ポーカーでは、上記のアンティを徴収しない形でプレイを行うことが多いが、これでは勝負にならない手を全て降りるという選択が用意されてしまうため、先述のディーラー・ボタンが置かれたプレイヤーから時計回りに2名が、それぞれ1ユニット、2ユニットのチップを強制的に(カードを配る前に)賭けさせられるという決まりが存在する。このときのベットを、「ブラインド・ベット」という。 ただし、ブラインド・ベットがあったからといって、アンティがかならず存在しないということはなく、アンティとブラインド・ベットを併用した形のゲームも可能であり、存在する。 ===ベットの上限=== ゲームが青天井にならないように、ベットおよびレイズができる額に制限を設定しておく種類のゲームを、リミットゲームと呼ぶ。逆に上限額を全く設定しないで、無制限に行えるゲームを'''ノー・リミット'''ゲームと呼ぶ("NL","N/L"などと略されて表記される場合もある)。 '''レイズ'''の値の制限方法には、以下のようなバリエーションがある。 ; フィックスドリミット (fixed limit) : あらかじめ定められた一定の額しか増額することができない。単に「リミット」と表記されている場合は、この「フィックスドリミット」を指す場合が多い。 ; スプレッドリミット (spread limit) : たとえば「$1から$5の範囲で任意の額を増額できる」といった、一定の幅を持たせた設定。(低額のマネーゲームで採用されている場合があるが、トーナメントではほとんど採用されない。) ; ポットリミット(pot limit) : ポットにある合計金額をベットできる上限金額とするルール。 ; ノーリミット(no limit) : ベットおよびレイズができる額の上限を定めないルール。 ベットやレイズの額だけでなく、毎回のベットラウンドでのベットやレイズの回数にも制限が設定されている場合もある。この回数制限に達することを'''キャップ'''という。 なお、ノーリミットのゲームであっても、通常は「ハンドの開始時点で'''テーブル上にある手持ちチップしか賭けることができない'''」というルール('''テーブルステークス'''と呼ばれる)があるため、実際の上限は「自分、もしくは対戦相手の持っているチップの総額(のうち、少ない方)まで」となる。 これは、ハンドの途中でチップを買い足して不当にポットを大きくしたり、経済的に不利なプレイヤーが払いきれないベットを受けて強制的にフォールドさせられたりといった恫喝的なプレイを防止する目的で設定された制限である。 手持ちのチップ全てを賭けることを「'''オールイン'''」といい、オールインしたプレイヤーは、それ以降のラウンドをベットなしで最後まで参加できるが、その時点でアクティブプレイヤーではなくなる。オールインしたプレイヤーが受け取ることができるのは、オールインした金額に対応するベットまでで、それを超えた、あるいはそれ以降に賭けられたチップはサイドポットとして分けられ、アクティブプレイヤーのみで争われる。 逆に、自分の賭けたチップを対戦相手が受けきれない場合、対戦相手はオールインで受けることができ、その場合他にアクティブプレイヤーがいない場合は相手が受け切れなかった差額はベット不成立で返却される(他にアクティブプレイヤーがいる場合は差額がサイドポットへのベットとなる)。 ===ショーダウン=== 各ディールの最後にアクティブ・プレイヤー達は、全員にコールされたベットまたはレイズを行ったプレイヤーが最初に、その後はコールした順に、ハンドを公開して互いにハンドを比較しあう。また最終ラウンドが全員チェックで回った場合はチェックした順にショーダウンとなる。そして最強のハンドを持っているプレイヤーがポットのチップを全て獲得する。サイドポットのある場合は、各々のポットに対する権利を持つプレイヤー同士で比較が行われる。 ハンドの公開は必須ではなく、他者が既にオープンして確定した役に対して勝利することができない場合や、どんなハンドを持っているかを見せないと戦略的に見せる場合は、フォールドするときと同じように、カードを伏せた状態にしてディーラーへ投げて非公開とすることも可能である(この行為をマック (Muck) という)。 ==ポーカーの種類== ポーカーには主に以下の三種類がある。 # クローズド・ポーカー # スタッド・ポーカー # フロップ・ポーカー ===クローズド・ポーカー(ドローポーカー)=== 最も古い形のポーカーで、各プレイヤーは自分の手札を全て隠してプレイをする。カードが配られたらまずベット(賭け)をし、次にカード交換を行う。そして再びベットをし、最後に全員がハンドを公開して勝敗を決める。 * 代表的なゲーム名 ** [[ファイブカード・ドロー]] ** デュース・トゥ・セブン ** バドージ ===スタッド・ポーカー(オープン・ポーカー)=== '''スタッド・ポーカー'''はオープンなポーカーである。まず初めに各プレイヤーに何枚かの手札(枚数はポーカーの種類ごとに異なる)が裏向きに配られる。プレイヤー達は自分の手札を他のプレイヤーに見せないように自分だけで見る。次に各プレイヤーに表向きにカードが一枚ずつ配られる。ここでまず一度ベットをする。ベットが終わったら再び各プレイヤーに札が表向きに一枚ずつ配られ、ベットが行われる。以下同様にカード配布とベットとが交互に行われ、最後のベットが終わったら、全員最初に配られた裏向き札を明かし、勝敗を決める。 * 代表的なゲーム名 ** [[セブンカード・スタッド]] ** [[ファイブスタッドポーカー|ファイブカード・スタッド]] ** ラズ ===フロップ・ポーカー=== 最も新しいタイプのポーカーである。フロップ・ポーカーの特徴は、中央に'''フロップ'''と呼ばれる表向きの札が置かれることである。この札は全てのプレイヤーの共通の手札とみなされる。フロップが高位の札であれば自分にとって得であるが、同時に他の人にも得になることに注意されたい。プレイヤーは裏向きの手札+フロップでハンドを作る。2020年現在のポーカーゲームの8割はこのタイプで行われる。 * 代表的なゲーム名 **[[テキサス・ホールデム]] ** [[オマハ・ホールデム]] ** ショートデッキ・ホールデム 他にも[[インディアン・ポーカー]]のように上記のどれにも属さないポーカーがある。 ==特殊なルール== ===ローポーカー=== [[#ロー・ボール|ロー・ボール]]や[[#ロー・スタッド|ロー・スタッド]]では、最低の札を出した札が勝利する。このように札の強弱関係が逆転したポーカーをローポーカーと呼ぶ。 ローポーカーの高低の比較方法にはいくつかの変種がある。 # A-5 ({{lang-en-short|ace-to-five low}})。ストレートやフラッシュは役とみなされない。また、Aは最低ランク(2より低い)と見なされる。したがって A-2-3-4-5 がもっとも低い(=強い)。特に断りがない場合はこれが普通である。 # A-6 ({{lang-en-short|ace-to-six low}})。ストレートやフラッシュは役とみなされるが、Aは常に最低ランク(2より低い)と見なされる。フラッシュでない A-2-3-4-6 がもっとも低い。 # 2-7 ({{lang-en-short|deuce-to-seven low}})。ストレートやフラッシュは役とみなされ、かつAは最高ランク(Kより高い、ただし A-2-3-4-5 のストレートを除く)と見なされる。すなわち普通のポーカーとちょうど強弱が逆転しているもの。フラッシュでない 2-3-4-5-7 がもっとも低い。 ストレートやフラッシュが考慮される場合、 *{{cards|5c}}-{{cards|4c}}-{{cards|3h}}-{{cards|2d}}-{{cards|as}}はストレートなので{{cards|5c}}-{{cards|4c}}-{{cards|3h}}-{{cards|2d}}-{{cards|2s}}に負ける。 *{{cards|jd}}-{{cards|9d}}-{{cards|6d}}-{{cards|4d}}-{{cards|2d}}はフラッシュなので{{cards|jd}}-{{cards|10d}}-{{cards|6d}}-{{cards|4d}}-{{cards|2s}}に負ける。 考慮されない場合は上記のハンドの強弱は全く逆になる。 ====カードスピークス==== この方式では、ショウダウンの際に、最高のハンドを作ったプレイヤーと最低のハンドを作ったプレイヤーがポットを等分する。セブンカードスタッドなどでは、配られた手札のうち、ハイハンドとローハンドを別の組み合わせで構成することができ、その結果同一人物がハイとローの両方で勝利することもあり得る。手元に5枚しか配られないポーカーでは通常はハイとローの両方で勝つことは不可能だが、ハイポーカーではストレートとフラッシュを考慮しローポーカーでは考慮しない場合は両方で勝つハンドが完成する場合がある。例えば、6-5-4-3-2のハンドはハイではストレートになりローでは6ハイのノーハンドになるのでハイでもローでも勝つ可能性が高いハンドになる。後述のデクラレーションに比べると簡単なやり方である。なお、この形式の大抵のゲームではローハンドの成立には制限があり、'''規定以下のハンドを作ることができなければローハンドは認められない'''。例えば、「7カードスタッドハイロー エイトオアベター」であれば、ローハンドの成立には「ハイカード8のノーペア」以下の手を作らなければならない。誰にもローハンドの成立がない場合、ハイハンドで勝ったプレイヤーがローポットも獲得する。 ====デクラレーション==== ショウダウンの前に「ハイ」「ロー」「ハイロー」のどのハンドで勝負するかを宣言するポーカーである。ハイとローの両方で勝負するプレイヤーはチップを2枚手の中に握る。ハイのみで勝負するプレイヤーはチップを1枚握る。ローのみで勝負するプレイヤーはチップを握らない。宣言はチップを握った手を同時に開くことで行う。その後ショウダウンを行うが、ポットの半分はハイを宣言したプレイヤーの中で最高のハンドを持つプレイヤー、残り半分はローを宣言したプレイヤーの中で最低のハンドを持つプレイヤーのものになる。ハイローを宣言したプレイヤーがいる場合は、そのプレイヤーは最高のハンドと最低のハンドを両方持っていれば、ポットを総取りできる。しかしハイかローのいずれかで勝利し、もう一方で敗北した場合はハイローを宣言したプレイヤーを負かしたプレイヤーがポットを総取りする。ハイローを宣言したプレイヤーが複数人いて、その中の一人がハイで勝ち、その中の別の一人がローで勝った場合はその二人でチップを等分する。どのハンドで勝負するかの判断を間違えると手に入れられるはずのポットを他人に取られてしまうこともあり、カードスピークスより難しい。 ===ワイルドポーカー=== [[ワイルドカード (トランプ)|ワイルドカード]]を使ったポーカーをワイルドポーカーと呼ぶ。 ワイルドポーカーでは、通常のポーカーハンドの他にファイブカードと呼ばれるハンドが認められている。ファイブカードとは、同ランクの札4枚にワイルドカードを加えた5枚からなるハンドである。ファイブカードはロイヤルフラッシュより強いとするルールが一般的だが、ワイルドカードを含まないロイヤルフラッシュはファイブカードより強いというルールが用いられる場合や、ワイルドカードを含んだロイヤルフラッシュは通常のストレートフラッシュに格下げされるルールもある。 代表的なワイルドポーカーには次のようなものがある。 * ジョーカーをワイルドカードとして加えるもの。 * ('''ワン・アイ・ジャック''')真横を向いているため目がひとつしかないジャック(すなわち{{cards|js}}{{cards|jh}})はワイルド * ('''[[デューズ・ワイルズ|デュース(デューシーズ)・ワイルド]]''')2の札が全てワイルド。 * ('''スピッド・イン・ジ・オーシャン''')アナー・カード (=10,J,Q,K,A) は全てワイルド。 ** スピッド・イン・ジ・オーシャンはディーラーズ・チョイスの際に行われる余興的なゲームである。 ワイルドカードが存在すると、ポーカーのハンドの強さを確率によって格付けすることに問題があることが知られている([http://www.curiouser.co.uk/paradoxes/wildcard.htm Wild Card Poker Paradox])。(例えば、1枚のジョーカーを加えた時、通常のように「スリーカードがツーペアよりも強い」と決めればスリーカードの方がツーペアよりも高い確率で出現し、逆に「ツーペアがスリーカードよりも強い」と決めればツーペアの方がスリーカードよりも高い確率で出現する。これは、ジョーカーを有利な手役のパーツとして使用できる特性から起こるものである。) ===ジャックポット=== 他の用法で使われることがよくあるが、元はポーカーの用語。 毎回のゲームでポットに集められるチップの中から、一定額を別枠として集めておき、集まったチップをジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手を完成させたプレーヤーが獲得するというルールが語源。 通常のゲームで、集められた掛け金をポットと呼ぶが、この「ジャックのフォー・オブ・ア・カインド以上の手」に対する別枠のポットということで'''ジャックポット'''と呼ばれた。ある程度の規模のポーカールームでは、類似のルール(ポーナス)が設定されていることも多い。 詳細なルール、条件等は個々のポーカールームが独自に設定しているため普遍的なルールはないが、おおむね以下のようなパターンがある。 * フォー・オブ・ア・カインドおよびストレートフラッシュを完成させたときに獲得できる。ハイハンドボーナス、あるいはプログレッシブボーナスと呼ばれることもある。 * フォー・オブ・ア・カインド以上の手を完成させて、かつ、他のプレイヤーに負けたときに獲得できる。バッドビートジャックポット、あるいはバッドビートボーナスと呼ばれる。極稀にしか起こらないため、積み立てられている金額も高額になることが多い。 ===ポーカー・トーナメント=== 大人数で規定額のチップを持って同時にプレイし、チップを全て失った者(bursted)からトーナメントより排除され順位の確定が行われるルール。規定額のバイイン(参加料+手数料)を払って参加し、通常上位10~15%程度の入賞者で参加料を賞金として分配する(手数料が主催者の取り分となる)。時間ごとにブラインドが上昇し、後半はブラインドのほかにアンティを課されるようになる。ルールによっては、規定ラウンドに限り、リバイ(burstedした者が再度参加料を払うことによってチップを追加し続行可能なルール)やアドオン(リバイ締め切り時に、リバイ同様の追加の参加料を払うことでチップを追加できるルール)が認められることもある(この追加の参加料は賞金に上乗せされる)。 リバイやアドオンが認められない形式を「フリーズアウト」という。burstedしてプレイヤーが減ってくると、それに応じてプレイヤーを移動させてテーブルを整理していく通常、トーナメントチップには金銭的価値はない。 テーブル上のプレイヤーが1人になるまで続行し、テーブル移動を行わない形式を「シュートアウト」、その中で特にテーブル上のプレイヤーが1対1で開始される形式を「ヘッズアップトーナメント」という。 世界で有名なのが[[ワールドシリーズオブポーカー|WSOP]]、WPT、[https://www.pokerstarslive.com/ja/ept/ EPT]で、日本でのメジャータイトルは[[ジャパンオープンポーカー|JOP]]、[https://pokerjapan.jp/wpt-japan/ WPT JAPAN]が人気である。 ==様々なポーカー== {{see also|List of poker variants}} ===クローズド・ポーカー(ドローポーカー)=== # ゲームに参加するプレイヤーはアンティを払う。 # ディーラーはアンティを払ったプレイヤーに5枚ずつ裏向きにカードを配り、残りの札は中央に裏向きに置く。 # カードを配り終わったら、プレイヤー達はカードを手に持って、役が揃ってるかどうか見極める。 # 1度目のベッディング・インターバル。 # 各アクティブ・プレイヤーは一度だけカード交換を行う。ディーラーから順に任意の枚数(0枚も可)のカードを場に裏向き捨て、捨てた枚数と同じ枚数のカードを中央の[[パイル]]から取る。 # 2度目のベッディング・インターバル。 # アクティブ・プレイヤーたちは自分の手札を公開する。ここで、勝敗が明らかになる。 # 勝者はポットのチップを全て取る。 ====セブンカード・ドロー==== 主として、参加するプレイヤーが5人より少ないときに行われるポーカーである。 ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしディーラーは7枚カードを配る。カード交換は0~7枚まで何枚でも可能。 最後にアクティブプレイヤーは7枚の手札から5枚を選んでハンドを作り、そのハンドの強弱を比較しあう。 ====ロー・ボール==== ロー・ポーカーの一種。 ゲームの流れは基本ルールとほとんど同様。ただしより低いポーカーハンドを作ったプレイヤーが勝ち。 ロー・ボールの変種。 # イギリスではAを最低の札とみなす。すなわち例えば3のワンペアよりもAのワンペアのほうが低い。 # ('''カリフォルニア・ロー・ボール''')Aを最低の札とみなし、しかもフラッシュとストレートを認めない。 ====ハイロー・ドロー==== 基本ルールと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。 ====ベスト・フラッシュ==== ポーカーハンドが通常と違う。 このゲームには弱いほうから順に、ツー・フラッシュ、スリーフラッシュ、フォー・フラッシュ、フラッシュの4種類のポーカーハンドがあり、それぞれ同じスートのカードが2枚、3枚、4枚、5枚そろっているハンドである。ワンペアなどの通常のポーカーハンドは認められていない。 その他は基本ルールと同様。 ====バドージ==== 4枚の手札で行い、特殊なポーカーハンドを用いるロー・ポーカーの一種。 ゲームの流れは基本ルールと似ているが、4枚の手札で役を作ることと、ドロー・ラウンドを3回行うことが特徴。2回目のドロー・ラウンド後のベット・ラウンドはビッグ・ベットになるルールが多い。ハウスによっては、ドローラウンドごとにドロー可能な枚数が制限されている場合もある。例えば、1回目のドローラウンドから順に3枚まで、2枚まで、1枚までドロー可能など。 4枚で手役を作るが、同じスートおよび同じランクのカードは何枚手札にあっても1枚しか手役に使うことができない。スートが被る場合は、より低位のカードで手役を作る。 通常のポーカーの手役は適用されず、手役は強い順に以下の通りである。なお、○・カードとは、通常のポーカーの手役(○・オブ・ア・カインド)とは異なる意味である。同じ手役同士では、まずハイカード同士を比較し、低い方が勝ち(Aは最低位と見なす)。同数であればその次に高位のカードのランクを比較する。手役から省かれたカードは比較しない。 # バドージ。スートもランクも異なる4枚のカードでできる役。最強形は、バドージ432A(例えば、4h 3s 2c Ad)である。 # スリー・カード。4枚の手札のうち1枚がスート被りなどで使えず、3枚で手役を作った形。例えば、5h 6h 2d Asや5h 5s 2d Ac(どちらもスリー・カード52A)などの形。 # ツー・カード。4枚の手役のうち2枚がスート被りなどで使えず、2枚で手役を作った形。例えば、5h 6h 7h 5d(ツー・カード65)などの形。 # ワン・カード。フラッシュや4・オブ・ア・カインドの形になり最低位のカード1枚でしか手役を作れない形。珍しい形だがもっとも弱い。例えば、Ks Qs Ts As(ワン・カードA)などの形。最弱形はワン・カードK (Kh Ks Kc Kd) である。 高位のカードを交換する場合に、結果として手が悪くなるケースも多々ある(例えば、弱いバドージK432などを崩してドローした結果、スリー・カードに降格するなど)ため、ドローするかスタンドパット(ドローしない)かの判断が難しく、またドロー枚数で相手の手役がある程度推測できるという特徴がある。 ===スタッド・ポーカー(オープン・ポーカー)=== ====ファイブカード・スタッド(ショート・スタッド)==== # ゲームに参加するプレイヤーはアンティを払う。 # ディーラーはアンティを払ったプレイヤーに1枚ずつ裏向きに伏せてカードを配る。 # 各プレイヤーは配られた札を秘密裏に見て元に戻す。 # 次にディーラーはアンティを払ったプレイヤーに1枚ずつ表向きにカードを配る。 # 1度目のベッディング・インターバル。 # ディーラーはアクティブ・プレイヤーに1枚ずつ表向きにカードを配る。 # 2度目のベッディング・インターバル。 # 以下同様に表向きに1枚カードを配ってはベッディング・インターバルに入る。 # 5枚目のカードを表向きに配り、最後のベッディング・インターバルを終えたら、アクティブ・プレイヤーは裏向きのカードを表にし、ハンドの強弱を比較する。 # 勝者はポットのチップを全て取る。 ゲーム中各プレイヤーは、下のカードが見えるように順に重ねてカードを置く。 ====[[セブンカード・スタッド]]==== ゲームの流れはファイブカード・スタッドと同様。ただし最初に裏向きに2枚、表向きに1枚に配る。 以降、ベッディング・インターバルを行う毎に表向きに1枚配り、最後の7枚目は裏向きに配られる。7枚目のベッディング・インターバルが終わったら、アクティブ・プレイヤー達は裏向きのカードと表向きのカードをあわせた計7枚の全ての手札を公開し、その中から最強の組み合わせになる5枚を選び出してハンドの強弱を比較する。 ====ロー・スタッド==== ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。 ====ハイロー・スタッド==== ファイブ(セブン)カード・スタッドと同様。ただし最も高いハンドを作ったプレイヤーと最も低いハンドを作ったプレイヤーがポットのチップを等分する。 ====Razz==== セブンカード・スタッドと同様。ただし最も低いハンドを作ったプレイヤーが勝ち。このルールでのカードの強さは、K>Q>J>10>...>2>Aで、低い札が勝つ。 ====カナディアン・スタッド==== ファイブカード・スタッドと同様。ただし'''フォー・ストレート'''、'''フォー・フラッシュ'''、'''フォー・ストレートフラッシュ'''という3種類の役を認める。 フォー・ストレートとは、5枚の札のうち4枚の札のランクが連続しているハンドのこと。(例えば&#x2663;8 &#x2661;7 &#x2661;6 &#x2662;5 &#x2662;2)。 フォー・フラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートが連続しているハンドのこと。(例えば&#x2660;J &#x2660;7 &#x2660;4 &#x2660;2 &#x2661;K)。 フォー・ストレートフラッシュとは、5枚の札のうち4枚の札のスートとランクが一致しているハンドのこと。(例えば&#x2660;J &#x2660;10 &#x2660;9 &#x2660;8 &#x2661;3)。 ハンドの強さは、ツーペア&lt;フォー・ストレート&lt;フォー・フラッシュ&lt;スリーカード&lt;……&lt;フルハウス&lt;フォー・ストレートフラッシュ&lt;フォーカード。 ====メキシカン・スタッド==== フリップ・スタッド、ファイブカード・ターンアップ、ピープ・アンド・ターンとも呼ばれる。 # ディーラーは各プレイヤーに札を2枚ずつ裏向きに伏せて配る。 # 各プレイヤーは配られた札を秘密裏に見て、順に2枚のうち1枚を選んで表向きにする。 # 一度目のベッティングインターバル。 # ディーラーは各プレイヤーに裏向きに札を1枚ずつ配る。 # 各プレイヤーは配られた札を秘密裏に見て、伏せられた2枚のうち1枚を選んで表向きにする。 # 二度目のベッティングインターバル。 # 各プレイヤーのカードが5枚になり、4回目のベッティングインターバルを行うまで、以下同様に繰り返す。 # ショーダウン ===フロップ・ポーカー(コミュニティカード・ポーカー)=== ====テキサス・ホールデム==== {{See also|テキサス・ホールデム}} ラスベガス等の世界中のカジノのポーカールームでプレイすることのできる一般的なフロップゲームである。名称としては「ホールデム」や「テキサス」とも呼ばれることが多い。 2枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。手札と共有カードの組み合わせ方は自由である。 海外のカジノや、ゲームサイトで人気があり、[[ワールドシリーズオブポーカー]]という世界選手権のメインイベントの種目は、この「テキサス・ホールデム」である。 ====オマハ・ホールデム==== 4枚の手札と5枚の共有カードを組み合わせて役を競うポーカー。ただし制約があり、手札から2枚、共有カードから3枚の組み合わせに限られる。名称としては単にオマハとも。 テキサス・ホールデムと似たスタイルのゲームで、より高位の役が期待される。ハイローのルールを組み合わせて遊ばれることも多い。高位の役が期待されるため、賭けの総額も(参加プレイヤーが多くなるため)必然的に増加する傾向にある。 テキサス・ホールデムとは違い手札の数が4枚に変更される。4枚になるので手役はある程度できやすいといえるが、その反面必ず手札を2枚、場に出ているカード5枚から3枚を使わなくてはいけないというルールがあり、テキサス・ホールデムよりもかなり戦略性が高くなったフロップゲームといえる。 ゲームの流れは以下の通りとなる(ハイの場合のみ説明) # ブラインドベット(ディーラーボタンと呼ばれる器具の左隣1・2番目の人が払う強制ベット額)を行う # カードをプレイヤー1名に対して4枚をディーラーボタンの左隣1番目の人から全員にディールする(配る。この時カードは1枚ずつ配るものとされている) # ベットラウンド1 #* 全員のベット額が同額になり次第ディーラーはカードを1枚捨て(バーンカードという)3枚のカード(フロップと呼ばれる)をボード上に表向きにして置く # ベットラウンド2 #* 全員のベット額が同じになり次第ディーラーはカードを1枚捨てターンと呼ばれる4枚目のカードを場に表向きにして出す # ベットラウンド3 #* 全員のベット額が同じになり次第ディーラーはカードを1枚捨てリバーと呼ばれる5枚目のカードを場に表向きにして出す # ベットラウンド4 #* 全員のベット額が同じになり次第ショーダウン(カードを明かす) # ディーラーの裁定で役の強さが決定され、一番強い手役をもっている人にチップが全て渡される (引き分けの場合はチップの量を可能な限り引き分けたプレイヤーで割り、それを引き分けたプレイヤー全てに渡される) ===その他=== ====HORSE==== 5つのポーカーゲームを組み合わせたゲームで、通常、ある一定の時間が経つとゲームが変更される。 名前の由来はH:[[テキサス・ホールデム]]、O:オマハ・ホールデム、R:Razz、S:[[セブンカード・スタッド]]、E:セブンカード・ハイロースタッド・エイトオアベターの頭文字をとったものである。 ====インディアンポーカー==== 配られた5枚の手札を、自分は見えず、相手からは見えるスタイルでプレイするポーカー。 おのおのが額の部分にカードを表向きにさらす。自分の強さがわからないため、読み合いも関連しブラフに独特の味がでる。 簡便のため1枚の手札で行われることもあり、むしろそのほうがポピュラーである。 ====ポーカー・ソリテール==== ポーカー・ソリティア、ポーカー・ペーシェンス、ポーカー・スクェアとも。 カード・[[ペーシェンス]]の一つ。通常のポーカー・ゲームと違い一人で楽しむ。 一組52枚のカードから25枚を抜き出す。そしてその25枚のカードを、5×5の正方形に並べる。どのカードをどの位置に置くのかはプレイヤーが自由に決めることができる。 正方形の縦5列、横5行で計10個のポーカー・ハンドができる。ハンドには下表のように点が割り振られている。 できたハンドの点の合計値が得点である。目標はより高い得点を目指すこと。 {| class="wikitable" |- ! 名前 !アメリカ式スコア !イギリス式スコア |- | '''ノーペア'''||0||0 |- | '''ワンペア'''||2||1 |- | '''ツーペア'''||5||3 |- | '''スリーカード'''||10||6 |- | '''ストレート'''||15||12 |- | '''フラッシュ'''||20||5 |- | '''フルハウス'''||25||10 |- | '''フォーカード'''||50||16 |- | '''ストレートフラッシュ'''||75||30 |- | '''ロイヤル・フラッシュ'''||100||30 |} アメリカ式のスコアは、ランダムにカードを選んだ時のハンドのできやすい方から順に点を高くしてあるだけであるが、それに対しイギリス式のスコアはポーカー・ソリティアを行った時のハンドのできやすさに基づいて点が割り振られている。 ; 変形ルール : いきなり25枚を抜き出すのではなく、裏向きに置かれたデックからカードを一枚ずつ表にしていく。次のカードをめくる前に今表にしたカードをどこに置くか決めなければならない。 : 地方ルールによっては、斜めの5枚カードの得点もつける。 ; コンペティティブ・ポーカー・ソリティア : [[コンペティティブ・ペーシェンス]]の一つ。2人で行う。一人25枚ずつカードを配り、各々ポーカー・ソリティアを行う。得点が高い方が勝ち。 ; 関連ゲーム : [[クリベッジ・ソリティア]]:ポーカー・ハンドの代わりの[[クリベッジ]]のハンドを使って同種の遊びを行う。 ====[[ビデオポーカー]]==== ポーカーの役のルールを利用して、コンピューターを相手に一人で遊ぶゲーム。手札を正しく交換し、高い役を作り多くの配当を得ることを目的とする。一意に最適戦略が決定することから、シリアスプレイヤーに好まれている。ただし、日本などではパチスロと同様の方式で役フラグを抽選し、それに合わせて配られるカードを制御する方式がとられる場合もある(これは、ラスベガスなどでは許されていない方式である)。この場合、いくら最適戦略をとっても、フラグのない役は絶対に揃わないし、狙い役と違う役を狙った場合にその役を取りこぼす(完成できない)ことがある。 単にポーカーといった場合、ビデオポーカーは含まれないことが多い。 ==歴史== ポーカーの歴史に関しては幾分議論が必要である。ゲームの名前は、[[ドイツ]]の'''[[ポッヘン]]'''(pochen、「ノックする」の意)というゲームを先祖に持つ、[[フランス]]の'''ポーク''' (poque) からきていると考えられている。しかしこのゲームが本当にポーカーの先祖であるのかどうかはよくわかっていない。 ポーカーは[[ペルシャ]]のゲーム'''アース・ナース''' (ās nās) に非常によく似ている。アース・ナースがおそらくペルシャの水夫からフランス移民を通じてニュー・オリンズに入ったという説がよく行われるが、デビッド・パーレットはアース・ナースが文献上19世紀末以前に遡らないとして、この説を疑問視している<ref name=":0">[http://www.davidparlett.co.uk/histocs/poker.html Parlett's Historic Card Games: Poker]</ref>。 ポーカーのもうひとつの先祖と考えられているゲームは、ルネッサンス時代のゲームである'''[[プリミエラ|プリメロ]]'''({{lang|en|primero}})とフランスの'''ブルラン'''(brelan)である。イギリスの'''[[ブラグ]]'''(brag)はブルランにブラフの要素を取り込んだゲームである(当時すでにブラフの概念を使ったゲームは他にも存在した)<ref name=":0" />。 これらのゲーム全ての影響を受けて現在のポーカーが形作られた可能性も十分ある。 [[イギリス]]の俳優ジョセフ・クロウェルが[[1829年]]にニュー・オリンズで行われたポーカーゲームのことを記している。ここに書かれているゲームは、20枚のカードを使って最も高いハンドを作ったプレイヤーが勝利するというルールで4人で行われた。[[1843年]]に出版されたJonathan H. Greenの''An Exposure of the Arts and Miseries of Gambling'' (G. B. Zieber、Philadelphia) に、ポーカーがニューオリンズからミシシッピの川船によって伝わり、通常[[ギャンブル]]としてプレイされていたのだと記されている<ref>Cowell (1844), p. 94.</ref>。 ポーカーが広まってすぐに、52枚のフルデックを使ってゲームされるようになり、'''フラッシュ'''の役が導入された。南北戦争の間に'''ドロー・ポーカー'''、'''スタッド・ポーカー'''(手札の枚数が5枚のもの)、'''ストレート・ポーカー'''などを始めとした色々なルールのポーカーが生まれた。 その後、ポーカーはアメリカで発展を続け、1875年頃には'''ワイルド・ポーカー'''が、1900年頃にはロー・ボールとスプリット・ポット・ポーカーが生まれた。他の国、特に[[アジア]]へは、米軍基地を通じてポーカーは広まった。 1970年に行われた[[ワールドシリーズオブポーカー]]以来、ポーカー・トーナメントはアメリカのカジノを通じてポピュラーになった。 == 日本におけるポーカー == === クローズド・ポーカー === 日本には合法のカジノは存在しない([[賭博及び富くじに関する罪]]により処罰の対象となる)。[[ババ抜き]]や[[神経衰弱 (トランプゲーム)|神経衰弱]]のような気軽なゲームとして「ポーカー」が遊ばれることが多く、また各トランプメーカーのルール解説もそれを想定したものが多い。 現在、日本でよく遊ばれてるポーカーは「クローズド・ポーカー」(別名、ドローポーカー)である<ref>{{Cite web|和書|title=日本人初・ポーカー世界王者「勝利の極意は株式投資」|エンタメ!|NIKKEI STYLE |url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO55819090U3A600C1000000?channel=ASH04001&page=2 |website=NIKKEI STYLE |access-date=2023-03-17 |language=ja |last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ポーカーとは |url=https://www.poker.or.jp/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AF |website=内閣府認証NPO法人日本ポーカー協会 |access-date=2023-03-17 |language=ja}}</ref>。5枚のカードを伏せてプレーヤーに配り、好きな枚数だけ取り換えて役(ハンド)をそろえていくゲームで、カードが相手に見えないために情報量が少なく、相手の表情や態度などを見て駆け引きをする「心理戦」が大きな醍醐味となる。ローカルルールではカードの交換回数を2回とするものや無制限(いち早く良い手を揃えたと思ったプレイヤーが「ストップ」と言うまで全員が何度でも交換できる)とするケースもあるが、公式にはカードの交換回数は1回が一般的である。 日本では、チップを賭けたポーカーは、[[コンピューターゲーム]]や、友人同士で行われることが多い。 日本のドローポーカーでは、開始の前、あるいはカード交換の後に一度だけベット(チップの賭け)を行う場合が多い。それに対し少し前のラスベガスルールでは、カード交換の'''前と後の二回'''ベットを行う。しかし、この方式は[[テキサスホールデム]]全盛のいま、米国でこのルールでプレーをしようとしても、相手がまったく見つからないのが現状である。<BR>また、このルールでは一回目のベットではまだカード交換が行われていないので、どのプレイヤーも自分の手札が最終的にどのくらい強くなるのかを知らない状態で賭けなければならない。プレイヤー達はこのような不確かな状況で、他のプレイヤーの動きを見て、予想し、自分が勝つためには自分の手札をどのくらい強くしなければならないのかを判断する。そして、その状況判断に応じて、その手札で勝負するのか、ゲームから降りるのか、チップを賭けて勝負するのか、また、その時、賭けるチップの枚数をどうするのか、といったことを決めなければならない。 また、ドローポーカーでは、プレーヤーは高い役(ハンド)をそろえていなくても、「ベット!」、「コール!」、「レイズ!」と叫んで相手のプレーヤーたちに心理的なプレッシャーをかけることができ、それで、自分のハンドに自信をなくし、弱気になったプレーヤーを自発的に「フォールド」(ゲームから降りる)させることもできる。また、プレーヤーたちが、ベット、コール、レイズしていくと、テーブルの中央にチップがたくさん集まっていく。そして、「ショーダウン」して、高いハンド(役)を作ったプレーヤーが勝ちとなり、テーブルに集まった全てのチップを1人の勝者が獲得する。このようにドローポーカーは、人間と人間との心理的な駆け引きが要求される、戦略性とギャンブル性のあるゲームである。 しかし、日本では、このような[[ブラフ]](ハッタリ)の戦法で相手にプレッシャーをかけてゲームに勝つことを良くないと思ってる人も多い。そこで、本来のポーカーのルールでプレイしても1回目のベットラウンドが事実上省略される(全員チェック、または、ミニマムベットで進行する)ことが多かったり、省略されているケースもある。また、このような事情を考慮して、「アンティ」(参加費)を高くして、逆に「ポットリミット」を低く設定(場合によってはポットリミットがアンティと同額=ベットラウンドを完全に省略)して、チップの賭けではなく単純に最高位の手役を作ることを競うゲームとして遊ばれることも多い。この場合、ノーチェンジが出た時点で以後のドローラウンドには進まない条件で、ドローラウンドを増やすことがある(この場合、山札がなくなったら捨札を戻すというルールもある。)。山札がなくなるまで、各プレイヤーがドローできるルールや捨て札を戻してドローできるルールもある。 この場合、ゲームの勝敗は、プレーヤーたちの最終的な手札の「ハンド」(役)の強さだけで勝負判定される。 === ルール・スートによる決着 === 最近の[[ラスベガス]]などではカードランクの比較までで双方同じ手であれば引き分け(スプリットポット)となるが、日本のルールでは、カードランクの比較までで同じ場合、カードのスート比較をして決着をつける場合が多い。たとえば、ツーペアの場合、海外の標準では高いほうのペアのカードランク比較→もう一方のペアのカードランク比較→キッカーのカードランク比較→スプリットポットとなっている。しかし、日本式では高いほうのペアのカードランク比較→高いほうのペアのスートを比較というルールである。これは、トランプの持つスートという属性を生かし、早くわかりやすく決着をつけられるという特長もある。日本ルールでは、ランクだけでなくスートまで考慮した戦略が求められる。 <!-- コメント === テキサスホールデムの普及 === 2006年以降、日本でもテキサスホールデムのポーカーがJapanPokerLeagueやDukeが基礎になって普及が始まった。2010年頃には[http://akibacc.com/ メイドカジノ・アキバギルド]がポーカーの一大拠点になり、ポーカースターズの支援を受けて[https://japanopenpoker.com/ ジャパンオープンポーカーツアー]の原型のJPTが発足した。他には[https://www.ajpc.jp/ AJPC]などがあったが無料参加型で興行的には難しくスポンサーを必要としていた。 しかしこのジャパンオープンが全国規模の大型トーナメントでの興行化に成功しアミューズメントカジノの店舗拡大に大きく貢献した。 全国のポーカートーナメントのスケジュールを紹介する[http://pokerguild.jp/ ポーカーギルド]も発足してポーカープレイヤーの流動が始まった。 大型トーナメントの普及により急速にポーカーディーラーの需要が高まり、1日で100名もディーラーが必要なイベントも生まれた。 ポーカーディーラー教育に一役買ったのがオンラインで講習を受けれる[https://dealers-guild.work/ ディーラーズギルド]である。これによりディーラー教育のコストが一気に下がりディーラーが大幅に増加した。 2016年には[https://pokerjapan.jp/wpt-japan/ ワールドポーカーツアージャパン]が開催され、2019年にはホテル雅叙園東京でポーカートーナメントが行われるようになった。 2020年3月-7月はコロナ感染の影響で国内のポーカートーナメントは中止に追い込まれた。 == 日本の主なポーカープレイヤー == *[[小倉孝]] *[[木原直哉]] *[[じぇいそる]] *[[世界のヨコサワ]] *[[當眞嗣成]] *[[堀内正人]] --> ==ポーカーに関連する内容== ===ポーカーを楽しむための用具=== : ポーカーゲームを始めるために必要な用具は、手札の強さだけの勝負の場合は、トランプのみである。ベッティングを行う場合は基本的にはトランプとチップがあれば十分運営、進行することができる。トランプは繰り返しゲームを進行しても傷みにくいプラスティック製のカードを使用することが好ましい。チップはデノミ(数字表示)の入った3種類から4種類のポーカーチップがあれば十分である。本格的な持ち運び用のポーカーチップセットには、必要となる数種類のデノミ(1,5,10,25,100,500など)のチップとディーラーボタンとトランプが含まれている。 店舗やトーナメント大会などで本格的にポーカーを運営する場合には、この他に、ポーカーテーブル、カットカード、ディーラーボタンを用意してほしい。カードについては、「1回の使用でカードを破り捨て廃棄するバカラほどではないがそれなりの頻度でのカード交換が望ましく、特に新たにテーブルをオープンする際には封の切られていないカードをすべてのプレイヤーの目の前で開封することが望ましい」「カードの再利用を前提とした、カードの傷みを厭うことに起因する不十分なシャッフルでゲームを壊すことは望ましくなく、使い捨てを前提とすることによってより激しいシャッフルを行える」「客によるカードの破損によるカード消費コストを抑えるとともに、客にそれを遠慮させないように配慮する(通常、客はカードを折り曲げるといった荒い扱いを行うことも十分あり得る)」という理由により、本格的な運営をするならば使い捨て可能な安価な紙製カードを用いることが望ましいとされていたが、高品質で耐久性に優れるプラスチック製カードの普及により、前述のワールドシリーズ・オブ・ポーカーをはじめとするポーカー大会や一部のカジノではプラスチック製のものが採用されている。 最近では、ディスカウントストアや百貨店で販売しているので手軽に調達できる。 その他、通販ショップなどでもトランプ専門店、カジノ専門店などで良心的なお店が多く、手軽に安全に購入できる。 ===ポーカーに関連する単語=== {{ill2|ポーカー用語の一覧|en|Glossary of poker terms}} ; ポーカーフェイス (poker face) : 心の動きを隠してつくった無表情な顔つきや様子のこと。とぼけ顔。ポーカーをする際、相手に持ち札の良し悪しを悟られないように表情を変えないようにすること(戦術)に由来する<ref>『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)</ref>。 ===ポーカー関係者・大会・表彰=== {{main|en:Category:Poker people}} ;大会 * {{ill2|ポーカートーナメント|en|Poker tournament}} ;表彰 * {{ill2|Poker Hall of Fame|en|Poker Hall of Fame}} - ポーカー殿堂<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2249917 |title=ポーカープレーヤーのフィル・ヘルムートJr ポーカー殿堂入りを果たす |access-date=2023-06-12 |date=2007-07-06 |website=www.afpbb.com |language=ja}}</ref>。 ===ポーカーを題材にした映画=== ==== ポーカーが主題 ==== * [[テキサスの五人の仲間]](1965) * [[シンシナティ・キッド]](1965) * [[5枚のカード]](1968)– 原題:''Five Card Stud'' * [[スティング (映画)]](1973)– 原題:''The Sting'' * [[マーヴェリック (1994年の映画)|マーヴェリック]](1994) * [[ラウンダーズ (映画)]](1998) * [[シェイド (映画)]](2003) - シルベスタ・スタローンも出演している。 * [[ラッキー・ユー]](2007) - 2003年のポーカー世界選手権をモチーフにした作品 * [[モリーズ・ゲーム]](2017) ==== 一部で登場する ==== * [[007/カジノ・ロワイヤル_(2006年の映画)|カジノ・ロワイヤル]](2006)- 長時間[[テキサス・ホールデム]]をするシーンが描かれており、少々ポーカーのルールを理解していないと理解しにくい場面もある(1967年版映画と原作はポーカーではなくバカラである。)。 * [[ターミネーター2]] - カップに五枚のカードが描かれている「Wildcard Poker」というゲーム要素がある自動販売機が登場する。警備員が購入したカップの役はフルハウスであり、運が良いと言った直後にターミネーターに殺害されるシーンがある。[[ポーカー・ハンドの一覧|ポーカーハンド]]の強さを知らないと何故運が良いのか理解しにくい場面でもある。 ===ポーカーを主題にした小説=== * カナリア殺人事件(1927年)-S・S・ヴァン・ダイン著 * 悪党どものお楽しみ(1929年) - [[パーシヴァル・ワイルド]]著 * [[偶然の音楽]](1990年) - [[ポール・オースター]]著 * 殺人カジノのポーカー世界選手権(2003年) - ジェイムズ・マクマナス著(ドキュメンタリー小説) * [[Fake (小説)|Fake]](2004年) - [[五十嵐貴久]]著 * ポーカーはやめられない ポーカー・ミステリ書下ろし傑作選(2007年) - オットー・ペンズラー編(15人の作家が書き下ろした「ポーカー・ミステリ」15編を収録) ===ポーカーを主題にした漫画=== <!-- ただプレーしただけではきりがないので、主題としている、ポーカーだけを数話にわたって続けて登場する作品のみにしました。 ---> * [[荒木飛呂彦#漫画|武装ポーカー]](1980年) - ポーカー勝負を描いた[[荒木飛呂彦]]のデビュー短編。 * [[100万$キッド]](1986-1988年) - [[石垣ゆうき]]の漫画(原案協力:[[宮崎まさる]])。全79話中、第35話まではラスベガスなどでのポーカー(クローズド・ポーカー)のトーナメントが描かれる。第64話はインディアンポーカー、第65話から第71話はファイブカード・スタッド、第72話から第79話(最終話)はクローズド・ポーカーの勝負が描かれる。 * [[スターダストクルセイダース|ジョジョの奇妙な冒険 Part3 スターダストクルセイダース]](1989-1992年) - 荒木飛呂彦の漫画。1エピソードである「ダービー・ザ・ギャンブラー」(全6話)では、超能力を利用したイカサマの指摘、レイズ、ブラフが登場する。 * [[世紀末博狼伝サガ]](1995-1998年) - [[宮下あきら]]の漫画。 * [[LIAR GAME]](2005-2015年) - [[甲斐谷忍]]の漫画。カードを17枚(絵札以上の合計16枚とジョーカーのみ)しか使わない変則ポーカー『17(セブンティーン)ポーカー』が登場するほか、必要なカードを全て入札により得る『入札ポーカー』にも登場する。 * [[嘘喰い]](2006-2018年) - [[迫稔雄]]の漫画。イカサマを利用したゲームだけでなく、通常のギャンブルとしても何度かプレーされている。 * [[賭博黙示録カイジ|賭博堕天録カイジ 和也編]](2009-2012年)および[[賭博黙示録カイジ|賭博堕天録カイジ ワン・ポーカー編]](2013-2017年) - [[福本伸行]]の漫画。1対1で、互いに1枚のカードを使って勝負する「[[賭博黙示録カイジ#ワン・ポーカー|ワン・ポーカー]]」が登場する。役はないためトランプゲームの[[戦争 (トランプゲーム)|戦争]]に近い。また、同作者の[[賭博覇王伝 零|賭博覇王伝 零 ギャン鬼編]]にて、双方1セットずつ、ジョーカーを除いた100枚のトランプを用いた変則ルールの「100枚ポーカー」が登場する。 * [[ジャンケット]](2010-2011年) - 原作:[[赤木太陽]]、作画:[[紅林直]]。テキサス・ホールデムが主題の漫画。 * [[BET]] - [[押川雲太朗]]の漫画。交換する手札を公開するクローズドポーカーや、トーナメント・チップが金銭的価値を持つ変則ルールのポーカーが登場する。 <!-- * [[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]] - 「ロマネ・コンティ1789」という物語で、クローズト・ポーカーをしている。 * テラバイト * [[銀と金]] * [[D.Gray-man]]主人公がポーカーでイカサマを働いたりする場面が小説でも漫画でもたびたび登場している * [[ダメおやじ]]バーでサングラスの男がスタッドポーカーで勝負した話をダメおやじとバーテンダーに語る。 ---> ===ポーカーを題材にしたゲーム=== ゲーム内のミニゲームとして遊べる作品を除く。 * [[逆転裁判#逆転裁判4|逆転裁判4]]ではポーカーがストーリーの鍵となっている。 * [[咎狗の血]] - トランプのスートが刻まれたドッグタグを暴力で奪い合い、特定のハンドを揃えることを目指すデスゲーム「イグラ」が物語の軸となる。 * 一億人のテキサスポーカー - 日本では馴染みの薄いテキサスホールデムをテーマにしたAndroidゲームアプリ。 * [[ドラゴンポーカー]] - [[ロールプレイングゲーム]]とポーカーが融合したiOS/Androidゲームアプリ。 *[[ポーカースタジアム]] - テキサスホールデム・ポーカーで競い合うネット対戦のアーケードゲーム。 ===ポーカーを題材にしたドラマ=== * [[仮面ライダー剣]] - 本作品で仮面ライダーはトランプを模した「ラウズカード」に怪人(アンデッド)を封印していく(ライダーのモチーフもトランプのスート)。また、ライダーたちはそれらの封印されたトランプの力で変身し、最強形態の仮面ライダーブレイドのキングフォームはポーカーのハンド名にちなんだ技を繰り出す。 === ポーカーを題材にした楽曲 === *「[[ハートで勝負]]」 - [[石野真子]]が1980年4月にリリース、通算9枚目の[[シングル]]の楽曲 *「[[ロイヤル・ストレート・フラッシュ (近藤真彦の曲)|ロイヤル・ストレート・フラッシュ]]」 - [[近藤真彦]]が1983年11月にリリース、通算12枚目のシングルの楽曲 *「closed POKER」 - [[UVERworld]]が2010年4月にリリース、5枚目のアルバム『[[LAST]]』に収録された楽曲 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連書籍 == * 「ポーカー教本 」(アレックス フィーバー (著), 安藤 福郎 (翻訳)、データハウス) (1995/6/1) * 「こんなにいっぱい トランプ・ゲーム」(保科 橋一 (著)、金園社) (2010/11/16) * 「図解入門 トランプDE遊ぼう!!」(林 虎雄 (監修)、つちや書店) (2011/11/1) * 「トランプで遊ぼう! -こどもから大人まで! ゲーム・マジック・占い」(上口 龍生 (監修), 三田 皓司 (監修), シャーリー・スー (監修)、池田書店) (2012/10/24) * 「トランプゲーム大全」(赤桐 裕二 (著)、スモール出版) (2014/11/28) * 「トランプを初めてやる人の本」(青木 光 (著)、つちや書店) (2015/10/30) ==関連項目== {{Commonscat|Poker}} * [[ワールドシリーズオブポーカー]] * [[テキサス・ホールデム]] * [[ストリップ・ポーカー]] * [[カジノ]] * [[カジノゲーム]] * [[アミューズメントカジノ]] * [[ポーカー・ハンドの一覧]] * [[ブタ]] - 役なしのクズ手をゲーム名である「ポーカー」からの連想で「[[豚肉|ポーク]]」に因んで「ブタ」と呼ぶ。 ==外部リンク== *[https://www.poker.or.jp/ NPO法人日本ポーカー協会] *[https://pokerjapan.jp/ 一般社団法人日本ポーカー連盟] *[https://www.nintendo.co.jp/others/playing_cards/howtoplay/poker/index.html ポーカー|トランプの歴史・遊びかた] - [[任天堂]] {{トランプ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほおかあ}} [[Category:ポーカー|*]] [[Category:カジノゲーム]] [[Category:頭脳ゲーム]]
2003-09-08T05:37:47Z
2023-10-30T11:53:06Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Cards", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:トランプ", "Template:Ill2", "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:See", "Template:Lang-en-short", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC
15,708
泉岳寺駅
泉岳寺駅(せんがくじえき)は、東京都港区高輪二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄(京急)の駅である。 都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、このうち京急本線は当駅が東京都側の終点である。東京都交通局と京急の共同使用駅で、東京都交通局が管轄している。駅番号は都営地下鉄に対してのみ付与されており、A 07である。 京成電鉄本線の京成上野駅、西武鉄道新宿線の西武新宿駅などと共に、山手線より内側にある数少ない私鉄の駅となっている。浅草線と山手線・京浜東北線は当駅・高輪ゲートウェイ駅 - 新橋駅間で並走する。 赤穂浪士の墓所として知られる萬松山泉岳寺に近接していることに由来する。「泉岳寺」という行政上の地名はない。 駅開業から四半世紀後の1993年(平成5年)に、泉岳寺は東京都に対して駅名に寺の名前を使うことについて間違い電話が掛かってくること等により迷惑を被っているとして、不正競争防止法、法人の氏名権、商法21条を根拠に使用差し止めを求めて東京地裁に提訴した。これに対して地裁は、「駅名に使われたからといってただちに信仰との結び付きを損なうものではない」として、寺側の訴えを退ける判決を1994年(平成6年)に下した。原告側は控訴したが、東京高裁でも駅名の公共性が高いとして控訴を棄却。その後最高裁まで争ったが、1997年(平成9年)に原告敗訴で確定した。 島式ホーム2面4線を持つ地下駅である。押上側には、主に西馬込・京急線方面からの当駅折り返し列車が使用する引き上げ線(1線)があり、全てのホームから出入りが可能である。また、2・3番線の西馬込側には片渡り線もあるが、通常時に使用されることはない。 自動券売機は都営地下鉄用と京急用が設置されているが、京急用はPASMOやSuicaといったICカードなどが利用できない。また、「みさきまぐろきっぷ」などの京急の企画乗車券も当駅では購入不可となっている。 (出典:都営地下鉄:駅構内図) 駅名標はいずれも都営地下鉄の様式となっている(1番線のみラインが水色)。開業当初は西馬込・横浜方面の次の駅が「1 品川・2 高輪台」だったが、2006年頃の更新で分離され、西馬込方面は「高輪台」、京急本線方面は「京急線 品川」に変更された。また、横浜方面の1番線側は2007年初頭から当時の京急の駅名標をイメージし、上下の水色ラインのうち下部が斜め線となっているものに変更された。その後、2013年初頭には現行の都営地下鉄の様式に変更されている。 発車標は、1992年頃に更新された際には3色LED2段式のものが設置された。2013年にフルカラーLEDに更新された際は表示スペースが小さくなった。 当駅は京急で唯一、2010年10月21日から導入された駅ナンバリングの対象外となっており、京急線の案内では都営の駅番号 (A 07) のみを用いており、京急仕様の駅番号などの表記はされていない。また、当駅における1番線の駅名標についても品川方の駅番号 (KK01) は未表記となっている。 西馬込・品川寄りにある泉岳寺・高輪方面改札と、三田寄りにある三田・芝浦方面改札の2か所 がある。ホームの両端が改札口への階段となっている。なお、両改札口を連絡するコンコースはない。 近年の1日平均乗降人員は下表の通り。 近年の1日平均乗車人員は下表の通り。 当駅からの最寄りバス停留所は、第一京浜と東京都道415号線上にある「泉岳寺前」で、以下の都営バスが発着している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "泉岳寺駅(せんがくじえき)は、東京都港区高輪二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄(京急)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、このうち京急本線は当駅が東京都側の終点である。東京都交通局と京急の共同使用駅で、東京都交通局が管轄している。駅番号は都営地下鉄に対してのみ付与されており、A 07である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "京成電鉄本線の京成上野駅、西武鉄道新宿線の西武新宿駅などと共に、山手線より内側にある数少ない私鉄の駅となっている。浅草線と山手線・京浜東北線は当駅・高輪ゲートウェイ駅 - 新橋駅間で並走する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "赤穂浪士の墓所として知られる萬松山泉岳寺に近接していることに由来する。「泉岳寺」という行政上の地名はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅開業から四半世紀後の1993年(平成5年)に、泉岳寺は東京都に対して駅名に寺の名前を使うことについて間違い電話が掛かってくること等により迷惑を被っているとして、不正競争防止法、法人の氏名権、商法21条を根拠に使用差し止めを求めて東京地裁に提訴した。これに対して地裁は、「駅名に使われたからといってただちに信仰との結び付きを損なうものではない」として、寺側の訴えを退ける判決を1994年(平成6年)に下した。原告側は控訴したが、東京高裁でも駅名の公共性が高いとして控訴を棄却。その後最高裁まで争ったが、1997年(平成9年)に原告敗訴で確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を持つ地下駅である。押上側には、主に西馬込・京急線方面からの当駅折り返し列車が使用する引き上げ線(1線)があり、全てのホームから出入りが可能である。また、2・3番線の西馬込側には片渡り線もあるが、通常時に使用されることはない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "自動券売機は都営地下鉄用と京急用が設置されているが、京急用はPASMOやSuicaといったICカードなどが利用できない。また、「みさきまぐろきっぷ」などの京急の企画乗車券も当駅では購入不可となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "(出典:都営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "駅名標はいずれも都営地下鉄の様式となっている(1番線のみラインが水色)。開業当初は西馬込・横浜方面の次の駅が「1 品川・2 高輪台」だったが、2006年頃の更新で分離され、西馬込方面は「高輪台」、京急本線方面は「京急線 品川」に変更された。また、横浜方面の1番線側は2007年初頭から当時の京急の駅名標をイメージし、上下の水色ラインのうち下部が斜め線となっているものに変更された。その後、2013年初頭には現行の都営地下鉄の様式に変更されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "発車標は、1992年頃に更新された際には3色LED2段式のものが設置された。2013年にフルカラーLEDに更新された際は表示スペースが小さくなった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当駅は京急で唯一、2010年10月21日から導入された駅ナンバリングの対象外となっており、京急線の案内では都営の駅番号 (A 07) のみを用いており、京急仕様の駅番号などの表記はされていない。また、当駅における1番線の駅名標についても品川方の駅番号 (KK01) は未表記となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "西馬込・品川寄りにある泉岳寺・高輪方面改札と、三田寄りにある三田・芝浦方面改札の2か所 がある。ホームの両端が改札口への階段となっている。なお、両改札口を連絡するコンコースはない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当駅からの最寄りバス停留所は、第一京浜と東京都道415号線上にある「泉岳寺前」で、以下の都営バスが発着している。", "title": "駅周辺" } ]
泉岳寺駅(せんがくじえき)は、東京都港区高輪二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄(京急)の駅である。
{{pp-vandalism|small=yes}} <!--{{画像提供依頼}}--> {{駅情報 |社色 = #009f40<!-- 東京都交通局の管轄駅のためこの色とする --> |文字色 = |駅名 = 泉岳寺駅 |画像 = Sengakuji Station Dec 25 2021 02-14PM.jpeg |pxl = 300px |画像説明 = A2番出入口(2021年12月) |よみがな = せんがくじ |ローマ字 = Sengakuji |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=14|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail-metro|marker2=rail|coord={{coord|35|38|19.3|N|139|44|24|E}}|title=泉岳寺駅|coord2={{coord|35|38|7.8|N|139|44|26.52|E}}|title2=高輪ゲートウェイ駅|marker-color=e83e2f|marker-color2=008000}}下は乗換駅の高輪ゲートウェイ駅 |電報略号 = 泉(駅名略称) |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])<br />[[京浜急行電鉄]](京急) |所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]二丁目16-34 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 19.3 | 経度度 = 139 |経度分 = 44 | 経度秒 = 24 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅番号 = {{駅番号r|A|07|#ec6e65|4}}<ref name="tokyosubway"/> |開業年月日 = [[1968年]]([[昭和]]43年)[[6月21日]]<ref name="aramashi2020"/> |廃止年月日 = |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面4線 |乗降人員 = {{Small|(東京都交通局)-2022年-}}<br /><ref group="都交" name="toei2022" />170,671人/日<hr />{{Small|(京急)-2021年-}}<br /><ref group="京急" name="keikyu2021" /><ref group="*" name="keikyu-subway">直通連絡人員含む。</ref>129,675 |統計年度 = |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{color|#ec6e65|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[都営地下鉄浅草線]]<ref group="*" name="keikyu-subway2"/> |前の駅1 = A 06 [[高輪台駅|高輪台]] |駅間A1 = 1.4 |駅間B1 = 1.1 |次の駅1 = [[三田駅 (東京都)|三田]] A 08 |キロ程1 = 6.9 |起点駅1 = [[西馬込駅|西馬込]] |所属路線2 = {{color|#00bfff|■}}[[京急本線]]<ref group="*" name="keikyu-subway2">両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施。</ref> |隣の駅2 = |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.2 |次の駅2 = [[品川駅|品川]] KK01 |キロ程2 = 1.2&nbsp;km([[品川駅|品川]]起点)<br />[[浦賀駅|浦賀]]から56.7 |起点駅2 = |乗換 = [[高輪ゲートウェイ駅]]<ref name="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512081618/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-05-12|accessdate=2020-07-26|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br/>([[山手線|JR山手線]]・[[京浜東北線|JR京浜東北線]]) |備考 = [[共同使用駅]](東京都交通局の管轄駅)<ref name="doboku"/> |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} '''泉岳寺駅'''(せんがくじえき)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]二丁目にある、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])・[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 都営地下鉄の[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]と、京急の[[京急本線|本線]]が乗り入れており、このうち京急本線は当駅が東京都側の終点である。東京都交通局と京急の[[共同使用駅]]で、東京都交通局が管轄している<ref name="doboku">遠藤 浩三(東京都交通局高速電車建設本部 設計課長)、佐々木 道雄(東京都交通局高速電車建設本部 設計課主任)「地下鉄泉岳寺駅の設計および工事施工計画 -都営地下鉄1号線と京浜急行線との相互乗入駅-」、『土木技術』第22巻第6号、土木技術社、1967年6月、 37-50頁。</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は都営地下鉄に対してのみ付与されており、'''A 07'''である。 [[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[京成上野駅]]、[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の[[西武新宿駅]]などと共に、山手線より内側にある数少ない私鉄の駅となっている。浅草線と[[山手線]]・[[京浜東北線]]は当駅・[[高輪ゲートウェイ駅]] - [[新橋駅]]間で並走する。 == 歴史 == * [[1968年]]([[昭和]]43年) **[[6月21日]]:1号線(現:浅草線)の[[大門駅 (東京都)|大門駅]] - 当駅延伸に伴い開業し<ref name="aramashi2020"/>、同線の終着駅となる。同時に京急本線の[[品川駅]] - 当駅も開業し、[[相互乗り入れ運転|相互乗り入れ]]を開始<ref name="aramashi2020"/>。 ** [[11月15日]]:1号線の当駅 - [[西馬込駅]]の開業に伴い<ref name="aramashi2020">{{Cite journal|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|title=都営交通のあゆみ|date=2020-09|publisher=東京都交通局|journal=都営交通のあらまし2020|format=PDF|page=35|accessdate=2020-11-09 |archivedate=2020-11-09}}</ref>、同線の中間駅となる。 * [[1969年]](昭和44年)[[11月13日]]:学生らが駅ホームおよび駅構内に停車していた[[青砥駅|青砥]]行電車車内で[[火炎瓶]]を投擲、炎上させる<ref name="asahi19691114" />。火災により運行停止<ref name="asahi19691114">{{Cite news|title=学生ゲリラ 火炎ビン市民を巻添え 通行人ら16人やけど 炎と煙に逃げまどう|newspaper=[[朝日新聞]]|date=1969-11-14|publisher=[[朝日新聞社]]|page=15 朝刊}}</ref>。 * [[2007年]]([[平成]]19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[2月22日]]:3・4番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref name="platform-gate"/>。 ** [[3月7日]]:1・2番線でホームドアの使用を開始<ref name="platform-gate">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_asakusa.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314144106/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_asakusa.html|title=浅草線へのホームドアの設置工事について|archivedate=2020-03-14|accessdate=2020-03-14|publisher=東京都交通局}}</ref>。 ** [[3月14日]]:[[高輪ゲートウェイ駅]]の開業に伴い、[[山手線]]及び[[京浜東北線]]との乗り換え業務を開始(都営地下鉄線との連絡に限る)<ref name="transfer">{{Cite web|和書|url=http://mobilesuica.okbiz.okwave.jp/info_and_news/show/24?site_domain=default|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200316225730/http://mobilesuica.okbiz.okwave.jp/info_and_news/show/24?site_domain=default|title=モバイルSuica よくあるご質問 > 高輪ゲートウェイ駅発着・経由への定期券区間変更|archivedate=2020-03-16|accessdate=2020-03-29|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-03-02}}</ref>。 === 駅名の由来 === [[赤穂浪士]]の墓所として知られる[[泉岳寺|萬松山泉岳寺]]に近接していることに由来する。「泉岳寺」という行政上の地名はない。 ==== 駅名に対するトラブル ==== 駅開業から四半世紀後の1993年(平成5年)に、泉岳寺は東京都に対して駅名に寺の名前を使うことについて[[間違い電話]]が掛かってくること等により迷惑を被っているとして、[[不正競争防止法]]、法人の氏名権、[[商法]]21条を根拠に使用差し止めを求めて[[東京地方裁判所|東京地裁]]に提訴した<ref name="高裁">地下鉄・泉岳寺駅の名称はOK、「泉岳寺」の訴え通らず--東京高裁. 毎日新聞(東京朝刊/社会)(東京都: 毎日新聞社)p.31(1996年7月25日)</ref>。これに対して地裁は、「駅名に使われたからといってただちに信仰との結び付きを損なうものではない」として、寺側の訴えを退ける判決を1994年(平成6年)に下した<ref>「泉岳寺」駅名OK、寺側の請求を棄却--東京地裁. 毎日新聞(東京朝刊/社会)(東京都:毎日新聞社)p.26(1994年10月29日)</ref>。原告側は控訴したが、[[東京高等裁判所|東京高裁]]でも駅名の[[公共]]性が高いとして控訴を棄却<ref name="高裁"/>。その後[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]まで争ったが、1997年(平成9年)に原告敗訴で確定した<ref>「泉岳寺」駅名は適法 地下鉄浅草線寺の敗訴確定. 中日新聞(中日新聞社)p.14(夕刊)(1997年2月13日)</ref>。 == 駅構造 == [[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]2面4線を持つ[[地下駅]]である<ref name="toei">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/sengakuji.html 各駅情報>泉岳寺] 東京都交通局 2017年5月24日閲覧。</ref>。押上側には、主に西馬込・京急線方面からの当駅折り返し列車が使用する[[引き上げ線]](1線)があり、全ての[[プラットホーム|ホーム]]から出入りが可能である<ref name="RJ704_29">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=29|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="doboku"/>。また、2・3番線の西馬込側には片渡り線もあるが、通常時に使用されることはない<ref name="RJ704_29" /><ref name="doboku"/>。 自動券売機は都営地下鉄用と京急用が設置されているが、京急用はPASMOやSuicaといったICカードなどが利用できない。また、「[[みさきまぐろきっぷ]]」などの京急の企画乗車券も当駅では購入不可となっている<ref group="注釈">但し、2022年7月20日からスマートフォンで購入・利用できる「デジタルみさきまぐろきっぷ」を発売開始し、これは泉岳寺駅発を購入できる。</ref>。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A07SD.html |title=泉岳寺 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-05}}</ref>!!備考 |- ! 1 |京浜急行電鉄 |[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線 |[[品川駅|品川]]・[[横浜駅|横浜]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]<!--東京国際空港ではなく駅を意味する-->方面 | |- ! 2 |rowspan="3"|東京都交通局 |rowspan="3"|[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 |[[西馬込駅|西馬込]]方面 | |- ! 3 |rowspan="2"|[[押上駅|押上]]・[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成本線|京成線]]・[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]方面 |西馬込方面からの列車 |- ! 4 |[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 京急本線からの列車 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/sengakuji.html 都営地下鉄:駅構内図]) <gallery widths="150"> Sengakuji-STA Mita-Shibaura-District-Gate.jpg|三田・芝浦方面改札口(2022年11月) Sengakuji-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年11月) Sengakuji-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年11月) Sengakuhome1.jpg|2扉車の場合は中央のホームドアは開閉しない(2020年7月) </gallery> === 案内サイン類 === {{出典の明記|section=1|date=2023年2月}} [[駅名標]]はいずれも都営地下鉄の様式となっている(1番線のみラインが水色)。開業当初は西馬込・横浜方面の次の駅が「1 品川・2 高輪台」だったが、[[2006年]]頃の更新で分離され、西馬込方面は「高輪台」、京急本線方面は「{{Smaller|京急線}} 品川」に変更された。また、横浜方面の1番線側は2007年初頭から当時の京急の駅名標をイメージし、上下の水色ラインのうち下部が斜め線となっているものに変更された。その後、2013年初頭には現行の都営地下鉄の様式に変更されている。 [[発車標]]は、[[1992年]]頃に更新された際には3色LED2段式のものが設置された。[[2013年]]にフルカラーLEDに更新された際は表示スペースが小さくなった。 <gallery widths="200"> Sengakuji-keikyustyle-plate.jpg|京急風のデザインの1番線側駅名標(2008年) Sengakuji station running in board Keikyu Corporation style 2013.JPG|更新後、都営線デザインに改められた1番線側駅名標 Sengakuji4.jpg|4番線側駅名標 </gallery> === 駅ナンバリング === 当駅は京急で唯一、[[2010年]][[10月21日]]から導入された駅ナンバリングの対象外となっており、京急線の案内では都営の駅番号 (A 07) のみを用いており、京急仕様の駅番号などの表記はされていない。また、当駅における1番線の駅名標についても品川方の駅番号 (KK01) は未表記となっている。 === 改札口 === 西馬込・品川寄りにある泉岳寺・高輪方面[[改札]]と、[[三田 (東京都港区)|三田]]寄りにある三田・芝浦方面改札の2か所<ref name="toei"/> がある。ホームの両端が改札口への階段となっている<ref name="toei"/>。なお、両改札口を連絡する[[コンコース]]はない<ref name="toei"/>。 === バリアフリー設備 === * [[エスカレーター]]:ホーム→改札階(泉岳寺・高輪方面改札)<ref name="toei"/> * 車椅子昇降装置(三田・芝浦方面改札)<ref name="toei"/> * 泉岳寺・高輪方面改札階と地上を結ぶ[[エレベーター]]が2008年秋に着工し、2011年3月31日供用開始となった<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2011/sub_i_201103311_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305011911/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2011/sub_i_201103311_h.html|language=日本語|title=浅草線 泉岳寺駅 エレベーター供用開始のお知らせ|publisher=東京都交通局|date=2011-03-31|accessdate=2020-07-01|archivedate=2016-03-05}}</ref>。ただし、改札からホームへは階段のみのため、[[車椅子]]利用者は昇降装置のある三田・芝浦方面改札を利用する必要がある。 === トイレ === * 双方の改札外コンコース部に設置されている。三田・芝浦方面改札側には「だれでもトイレ」を併設している<ref name="toei"/>。 === その他の設備 === * [[コインロッカー]](泉岳寺・高輪方面改札)、[[公衆電話]](双方の改札外) === 将来の予定 === * [[高輪ゲートウェイ駅]]開業およびグローバルゲートウェイ品川プロジェクトによって隣接する当駅の乗降客増加が見込まれており、ホーム幅員が5mと狭隘なため拡幅工事が行われる。拡幅用地捻出のため、[[国道15号]]東側の民有地を買収して再開発ビルを建設し、その地下を活用するとしている<ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201512/CK2015120702000153.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151210034425/https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201512/CK2015120702000153.html|title=泉岳寺駅のホーム拡幅 都が24年度完成目指す|newspaper=東京新聞|date=2015-12-07|accessdate=2020-07-01|archivedate=2015-12-10}}</ref>。また、高輪ゲートウェイ駅との間で歩行者デッキで接続する予定がある<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=東京都市計画事業泉岳寺駅地区第二種市街地再開発事業 特定建築者の業務に関する基本協定書を締結|publisher=東急不動産/京浜急行電鉄|date=2021-06-03|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210603HP_21014TS.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210605074426/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210603HP_21014TS.pdf|archivedate=2021-06-05}}</ref>。東京都は2018年8月1日、事業者として[[東急不動産]]を代表とする4社(他は京浜急行電鉄、[[東急建設]]、[[京急建設]])を選定したと発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/01/08.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200405155952/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/01/08.html|language=日本語|title=泉岳寺駅地区第二種市街地再開発事業の事業協力者が決定しました|publisher=東京都都市整備局|date=2018-08-01|accessdate=2020-07-01|archivedate=2020-04-05}}</ref>。 == 利用状況 == * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''170,671人'''(乗車人員:85,189人、降車人員: 85,482人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 浅草線内では押上駅に次いで第2位。京急線との直通旅客を含む。 * '''京浜急行電鉄''' - 2021年度の1日平均'''乗降'''人員は'''129,675人'''である<ref group="備考">都営地下鉄浅草線の乗り入れ旅客を含む。</ref><ref group="京急" name="keikyu2021" />。 *: 京急の駅の中では品川駅に次いで3番目に多いが、都営地下鉄との直通旅客を含むため、順位には入れていない。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|都営浅草線<br/>京急線<br/>直通人員 !colspan=2|京浜急行電鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) | || |105,954 |137,597|| |- |2003年(平成15年) |158,663|| |111,812 |144,289||4.9% |- |2004年(平成16年) |160,183||1.0% |113,497 |147,623||2.3% |- |2005年(平成17年) |164,065||2.4% |116,792 |152,026||3.0% |- |2006年(平成18年) |169,920||3.6% |120,529 |156,757||3.1% |- |2007年(平成19年) |180,061||6.0% |126,780 |162,390||3.6% |- |2008年(平成20年) |181,879||1.0% |137,654 |162,912||0.3% |- |2009年(平成21年) |179,860||&minus;1.1% |137,650 |160,320||&minus;1.6% |- |2010年(平成22年) |177,533||&minus;1.3% |136,431 |158,974||&minus;0.8% |- |2011年(平成23年) |170,261||&minus;4.1% |131,459 |153,745||&minus;3.3% |- |2012年(平成24年) |175,421||3.0% |136,949 |158,504||3.1% |- |2013年(平成25年) |184,794||5.3% |146,005 |168,009||6.0% |- |2014年(平成26年) |190,944||3.3% |151,478 |173,577||3.3% |- |2015年(平成27年) |200,276||4.9% |158,897 |182,372||5.1% |- |2016年(平成28年) |209,257||4.5% |165,696 |189,752||4.0% |- |2017年(平成29年) |218,883||4.6% |173,113 |197,333||4.0% |- |2018年(平成30年) |224,434||2.5% |178,690 |202,800||2.8% |- |2019年(令和元年) |223,574||&minus;0.4% |178,673 |201,772||&minus;0.5% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />136,738||&minus;38.8% | |<ref group="京急" name="keikyu2020">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2021-2022_all.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210925065240/https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2021-2022_all.pdf|title=京急グループ会社要覧 2021 - 2022|archivedate=2021-09-25|page=31|accessdate=2021-09-25|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>120,072||&minus;40.5% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />144,789||5.9% | |<ref group="京急" name="keikyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2022-2023_all.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2022 - 2023|archivedate=|page=28|accessdate=2023-11-03|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>129,675||8.0% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />170,671||17.9% | | |} === 年度別1日平均乗車人員(1968年 - 2000年) === 近年の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 * 都営地下鉄の数値は京浜急行電鉄からの乗り入れ旅客を含む。 <!--東京都統計年鑑、港区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366)で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度!!都営地下鉄!!京浜急行電鉄!!出典 |- |1968年(昭和43年) |<ref group="備考" name="sengakuji">1968年6月21日開業。開業日から翌年3月31日までの計285日間を集計したデータ。</ref>18,578 |<ref group="備考" name="sengakuji" />4,119 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |37,719 |5,051 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |43,462 |5,205 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |47,385 |5,421 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |48,756 |5,479 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |48,688 |5,573 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |50,630 |5,989 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |51,380 |6,082 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |50,414 |5,819 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |52,299 |6,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |52,773 |6,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |55,574 |6,525 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |60,984 |7,255 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |63,208 |7,816 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |64,863 |8,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |64,937 |8,675 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |67,332 |8,751 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |67,107 |9,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |71,142 |9,726 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |73,664 |10,096 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |75,123 |11,340 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |76,321 |12,112 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |77,238 |12,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |79,260 |13,079 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |79,323<!--東京都交通局100年史、p.716より記載--> |13,071 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |78,312 |13,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |77,123 |13,468 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |73,421 |15,645 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |71,110 |14,899 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |69,216 |14,403 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |69,071 |14,742 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |71,344 |<ref group="備考" name="Keikyu">1999年度以降の数値は都営地下鉄浅草線の乗り入れ旅客を含む。</ref>60,232 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |72,427 |<ref group="備考" name="Keikyu" />62,249 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === * 数値は相互の乗り入れ旅客を含む。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.minato.tokyo.jp/seisakukenkyu/26gyouseishiryousyuu.html 行政資料集] - 港区</ref> !年度!!都営地下鉄!!京浜急行電鉄!!出典 |- |2001年(平成13年) |76,584 |66,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |79,614 |68,288 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |80,402 |70,437 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |81,345 |71,773 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |83,405 |73,742 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |86,343 |75,745 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |90,177 |79,585 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |91,049 |81,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |89,899 |68,632 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |88,691 |78,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |84,786 |76,186 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |87,293 |78,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |91,865 |83,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |94,896 |86,501 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |99,582 |90,634 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |104,111 |94,600 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |108,960 |98,430 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |111,766 |101,088 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |111,359 |100,645 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>68,181 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>72,223 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>85,189 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|高輪|三田 (東京都港区)|芝浦|港南 (東京都港区)}} [[File:Sengakuji 201904d2.jpg|thumb|240px|right|泉岳寺本堂(2019年4月14日撮影)]] [[File:KoyasanTokyoBetsuin20120204.jpg|thumb|240px|right|高野山東京別院遍照殿]] [[File:Takanawa Okido Site 191224.jpg|thumb|240px|right|高輪大木戸跡の石垣]] === 官公庁・公共施設 === * [[芝浦水再生センター]] * [[高輪警察署|警視庁高輪警察署]] === 公館・公邸 === * [[駐日スリランカ大使館]] * [[駐日ウズベキスタン大使館]] === 教育機関 === * [[東海大学]]高輪キャンパス * [[東海大学付属高輪台高等学校・中等部]] * [[明治学院大学]]白金キャンパス * [[明治学院高等学校]] * [[高輪中学校・高等学校]] * [[港区立高松中学校]] * [[港区立高輪台小学校]] * [[港区立御田小学校]] * [[港区立芝浦小学校]] === 郵便局・金融機関 === * 泉岳寺駅前郵便局 * [[高輪郵便局]] * 高輪二郵便局 === 史跡・自然 === * [[泉岳寺]] * [[高野山東京別院]] * [[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]] * [[覚林寺]](清正公) * [[高輪神社]] * [[高輪皇族邸]](旧[[高松宮]]邸) * [[芝浦中央公園]] * [[亀塚公園]] * [[三田台公園]] * [[高輪大木戸跡]] * [[柴田錬三郎]]旧居 === 法人 === *[[NHK交響楽団]]本部 === ランドマーク === *[[センチュリー三田ビル]] === 交通 === * [[高輪ゲートウェイ駅]]([[山手線|JR山手線]]・[[京浜東北線|JR京浜東北線]]) - 当駅から300メートル程に位置する[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の駅。都営浅草線のみ定期券での[[連絡運輸]]がある<ref name="JR" />。2021年現在は直接の連絡通路はなく、地上の道路を経由しての乗り換えとなっているが、再開発に伴い、当駅との歩行者デッキによる接続を行う予定<ref name=":0" />。 * [[白金高輪駅]]([[東京メトロ南北線]]・[[都営地下鉄三田線]]) * [[国道15号]](第一京浜) * [[伊皿子坂]] * [[桂坂]] * [[洞坂]] * [[高輪橋架道橋下区道]] === バス路線 === 当駅からの最寄り[[バス停留所]]は、第一京浜と東京都道415号線上にある'''「泉岳寺前」'''で、以下の[[都営バス]]が発着している<ref name="tobus">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/sengakuji.html バスのりば>泉岳寺駅]. 東京都交通局. 2020年3月13日閲覧。</ref>。 * [[都営バス品川営業所#反96系統|反96]]:[[六本木ヒルズ]]行<ref name="tobus"/> / 五反田駅行<ref name="tobus"/>・[[都営バス品川営業所|品川車庫前]]行<ref name="tobus"/> * [[都営バス杉並支所#品97系統|品97]]:[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]行<ref name="tobus"/> - 同系統の品川駅高輪口行は高輪警察署前経由となるため、泉岳寺前及び高輪北町には停車しない。 == 未成線 == * [[都営地下鉄三田線]]の当駅 - [[三田駅 (東京都)|三田駅]]間と[[東京急行電鉄]]の泉岳寺線([[東急池上線|池上線]]の延長路線)の当駅 - 桐ヶ谷駅間を建設し、こちらも相互直通運転を行う計画もあったが、いずれも諸般の事情により中止となった。また、この経緯から[[目黒駅|目黒]]延長計画の決定前後まで三田線の起点は当駅とされていた。詳細は[[都営地下鉄三田線#建設経緯]]を参照。 * 当駅と[[押上駅]]との間を[[東京駅]]([[新東京駅]])経由で結ぶ、[[都心直結線]]の計画がある。 == 隣の駅 == ; 東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄 : [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線 :* {{Color|#049c5e|□}}「モーニング・ウィング号」終着駅 :: {{Color|#f68b1e|■}}[[エアポート快特]](羽田空港方面は品川まで、押上方面は新橋まで各駅に停車) :::[[品川駅]](京急本線) (KK01) - '''泉岳寺駅 (A 07)''' - [[三田駅 (東京都)|三田駅]](都営浅草線) (A 08) :: {{Color|#ef454a|■}}エアポート快特以外の[[列車種別]]<ref group="注釈">京急線直通の急行、特急、快特および京成線、北総線、成田スカイアクセス線、芝山鉄道線直通の快速、通勤特急、特急、快速特急、アクセス特急</ref>(地下鉄線内は各駅に停車) ::: 品川駅(京急本線) (KK01) / [[高輪台駅]] (都営浅草線)(A 06) - '''泉岳寺駅 (A 07)''' - 三田駅(都営浅草線)(A 08) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; 私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|22em}} ; 京浜急行電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京急"|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sengakuji Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/sengakuji.html 泉岳寺駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] * {{外部リンク/京浜急行電鉄駅|駅番号=A07}} {{都営地下鉄浅草線}} {{京急本線}} {{デフォルトソート:せんかくしえき}} [[Category:東京都港区の鉄道駅|せんかくし]] [[Category:日本の鉄道駅 せ|んかくし]] [[Category:京浜急行電鉄の鉄道駅|せんかくし]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅|せんかくし]] [[Category:1968年開業の鉄道駅|せんかくし]] [[Category:高輪]]
2003-09-08T05:53:49Z
2023-12-10T20:03:42Z
false
false
false
[ "Template:Color", "Template:Cite report", "Template:駅情報", "Template:Smaller", "Template:0", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:外部リンク/京浜急行電鉄駅", "Template:京急本線", "Template:都営地下鉄浅草線", "Template:Pp-vandalism", "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite press release", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Cite news", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA%E9%A7%85
15,709
電圧
電圧(でんあつ、英語: voltage)とは、電気を押し出す力を意味する。国際単位系(MKSA単位系)で電圧の高低差を表す単位として、ボルト(V)が使われる。電圧を意味する記号には、EやVがよく使われる。電圧は電位差ないしその近似によって定義される。 電圧は二点間の電位の差として定義される。しかし電位の概念は静磁場に対して定義されるものであり、交流回路などこの条件を満たさないケースでは電磁誘導による起電力が原因で経路非依存な電位差はそもそも定義できず、したがって電圧の概念も定義できない。 しかしながら少なくとも学部レベルの教科書では、準静的近似を行う事で経路依存の問題を回避している。 ここでの準静的近似とは、(交流の周期が十分長い為)電磁場の変化が十分遅い、という状況における近似である。 こうした状況では前述の電位差の経路依存性は非常に小さく無視できるので、電位差を電圧の定義として使用できる。 なお電磁気学では電磁誘導の効果を考慮して電位の概念を補正した、電磁場のスカラー・ポテンシャルという概念があり、この概念の場合は(近似をしなくとも)前述の経路依存の問題が生じない。 電圧の測定には、明示的または暗黙的な2つの測定点の指定が必要である。電圧計で電位差を測る場合、2本の導線を測定対象の2点に接続しなければならない。 3点A、B、Cについて、AC間の電位差はAB間の電位差とBC間の電位差との和である。つまり電位差は加算的である。また、電気回路の様々な点における電位差はキルヒホッフの法則を満たす。 交流の場合、ある瞬間の電圧と, 時間平均した電圧は異なる。瞬間の電圧は直流でも交流でも加算的だが、平均電圧を加算して意味があるのは、各点を流れる信号がいずれも同じ周波数と位相の場合のみである。 電気設備に関する技術基準を定める省令においては、次のような区分で電圧の大きさが定義されている。 古くは熱の仕事当量により最初にジュール熱を求めジュールの法則により電圧を求めた。 現在、電圧測定機器としては電圧計、電位差計、オシロスコープなどがある。電圧計は固定抵抗器を流れる電流を測定し、オームの法則によってその電流と電圧が比例するという原理で電圧を測定する。電位差計はブリッジ回路で未知の電圧と既知の電圧のバランスをとることで電圧を測定する。オシロスコープは、ブラウン管の電子ビームを測定対象の電圧に比例した電圧で偏向させ、交流電圧を目に見える形で示す。 電気回路における電圧は水流の類推で説明される事がある(但し、異なる点がある)。 網状に繋がったパイプを用意し、ポンプによって水を流す。この際電圧はパイプの2点間の水圧の差に相当する。水圧に差が存在すれば、水は水圧の高い点から低い点へと流れることができ、例えばタービンを回してエネルギーを取り出すことができる。同様にポンプの代わりに電池で電圧を生じさせ、電流を発生させることで仕事をさせることができる。例えば、自動車のバッテリーで電流を発生させ、スターターモーターを駆動することができる。ポンプが動作していない場合は水圧差が生じず、タービンも回せない。自動車のバッテリーが空ならスターターモーターを回せないのと同じである。 この水流による類推は、いくつかの電気的概念を理解するのに有効である。水流の仕事量は圧力と流れる水の体積の積で表せる。同様に電気回路での電子や他の電荷担体の移動による仕事量は、電圧(古くは "electric pressure" と呼んだ)と移動する電荷の量の積で表せる(電力の定義)。電圧は可能な仕事量を測る便利な手段である。2点間の圧力(水圧、電圧)の差が大きいほど、流れ(水流、電流)も大きくなる(オームの法則)。 ただし、回路における電子の運動エネルギーは、抵抗において格子振動や電磁波に変化して逃げていくエネルギーに比べてはるかに小さく、事実上無視できるが、水流の場合は無視することができないことに留意する必要がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電圧(でんあつ、英語: voltage)とは、電気を押し出す力を意味する。国際単位系(MKSA単位系)で電圧の高低差を表す単位として、ボルト(V)が使われる。電圧を意味する記号には、EやVがよく使われる。電圧は電位差ないしその近似によって定義される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "電圧は二点間の電位の差として定義される。しかし電位の概念は静磁場に対して定義されるものであり、交流回路などこの条件を満たさないケースでは電磁誘導による起電力が原因で経路非依存な電位差はそもそも定義できず、したがって電圧の概念も定義できない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "しかしながら少なくとも学部レベルの教科書では、準静的近似を行う事で経路依存の問題を回避している。 ここでの準静的近似とは、(交流の周期が十分長い為)電磁場の変化が十分遅い、という状況における近似である。 こうした状況では前述の電位差の経路依存性は非常に小さく無視できるので、電位差を電圧の定義として使用できる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお電磁気学では電磁誘導の効果を考慮して電位の概念を補正した、電磁場のスカラー・ポテンシャルという概念があり、この概念の場合は(近似をしなくとも)前述の経路依存の問題が生じない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "電圧の測定には、明示的または暗黙的な2つの測定点の指定が必要である。電圧計で電位差を測る場合、2本の導線を測定対象の2点に接続しなければならない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "3点A、B、Cについて、AC間の電位差はAB間の電位差とBC間の電位差との和である。つまり電位差は加算的である。また、電気回路の様々な点における電位差はキルヒホッフの法則を満たす。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "交流の場合、ある瞬間の電圧と, 時間平均した電圧は異なる。瞬間の電圧は直流でも交流でも加算的だが、平均電圧を加算して意味があるのは、各点を流れる信号がいずれも同じ周波数と位相の場合のみである。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "電気設備に関する技術基準を定める省令においては、次のような区分で電圧の大きさが定義されている。", "title": "日本国法令下での電気設備用途の電圧分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "古くは熱の仕事当量により最初にジュール熱を求めジュールの法則により電圧を求めた。 現在、電圧測定機器としては電圧計、電位差計、オシロスコープなどがある。電圧計は固定抵抗器を流れる電流を測定し、オームの法則によってその電流と電圧が比例するという原理で電圧を測定する。電位差計はブリッジ回路で未知の電圧と既知の電圧のバランスをとることで電圧を測定する。オシロスコープは、ブラウン管の電子ビームを測定対象の電圧に比例した電圧で偏向させ、交流電圧を目に見える形で示す。", "title": "測定方法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "電気回路における電圧は水流の類推で説明される事がある(但し、異なる点がある)。", "title": "水に例えた説明" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "網状に繋がったパイプを用意し、ポンプによって水を流す。この際電圧はパイプの2点間の水圧の差に相当する。水圧に差が存在すれば、水は水圧の高い点から低い点へと流れることができ、例えばタービンを回してエネルギーを取り出すことができる。同様にポンプの代わりに電池で電圧を生じさせ、電流を発生させることで仕事をさせることができる。例えば、自動車のバッテリーで電流を発生させ、スターターモーターを駆動することができる。ポンプが動作していない場合は水圧差が生じず、タービンも回せない。自動車のバッテリーが空ならスターターモーターを回せないのと同じである。", "title": "水に例えた説明" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この水流による類推は、いくつかの電気的概念を理解するのに有効である。水流の仕事量は圧力と流れる水の体積の積で表せる。同様に電気回路での電子や他の電荷担体の移動による仕事量は、電圧(古くは \"electric pressure\" と呼んだ)と移動する電荷の量の積で表せる(電力の定義)。電圧は可能な仕事量を測る便利な手段である。2点間の圧力(水圧、電圧)の差が大きいほど、流れ(水流、電流)も大きくなる(オームの法則)。 ただし、回路における電子の運動エネルギーは、抵抗において格子振動や電磁波に変化して逃げていくエネルギーに比べてはるかに小さく、事実上無視できるが、水流の場合は無視することができないことに留意する必要がある。", "title": "水に例えた説明" } ]
電圧とは、電気を押し出す力を意味する。国際単位系(MKSA単位系)で電圧の高低差を表す単位として、ボルト(V)が使われる。電圧を意味する記号には、EやVがよく使われる。電圧は電位差ないしその近似によって定義される。
{{Redirect|ボルテージ}} {{物理量 | 名称 = | 英語 = voltage | 画像 = | 記号 =''E, V, U'' | L = 2 | M = 1 | T = -3 | I = -1 | 階 =スカラー | SI =[[ボルト (単位)|ボルト]] (V) | CGS = | MTS = | FPS = | MKSG = | CGSG = | FPSG = | プランク =[[プランク電圧]] | 原子 = }} '''電圧'''(でんあつ、{{lang-en|voltage}})とは、'''電気を押し出す力'''を意味する<ref>{{Cite web|和書|title=ボルト・アンペア・ワット - 電気のマメ知識|中部電力 |url=https://www.chuden.co.jp/energy/ene_about/electric/chishiki/mame_bort/ |website=中部電力 |access-date=2022-06-15 |language=ja}}</ref>。[[国際単位系]]([[MKSA単位系]])で電圧の高低差を表す単位として、[[ボルト (単位)|ボルト]](V)が使われる。電圧を意味する記号には、EやVがよく使われる。電圧は[[電位|電位差]]ないし[[#準静的近似|その近似]]によって定義される。<!--詳細は「厳密な定義」の章を参照の事。--> {{main2|[[電気]]の流れに付いては「[[電流]]」を}} == 定義 == <!-- 一般に「電圧」という言葉は、抵抗器などの電気部品における[[電圧降下]]を指す。それはすなわち、共通基準点([[接地]])とその電気部品の2つの端子との電位差の差ということになる。電気回路の2点を完全な導体([[電気抵抗]]が0)で接続すれば、その間の電位差は0になる。ここで、その回路の中で電位が等しい(他の)2点を接続しても電流は流れない。 ★上の記述では電圧を電圧降下から定義しているが、英語版では電圧を出典つきで↓のように定義しており、逆に電圧降下(Voltage dropの項参照)を電圧の概念を用いて定義している為、上の記述をコメントアウトし、英語版の定義に合わせた。 -->電圧は二点間の[[電位]]の差<ref>[http://electrochem.cwru.edu/ed/dict.htm#v08 "Voltage"], ''Electrochemistry Encyclopedia''</ref>として定義される。しかし電位の概念は[[静磁場]]に対して定義されるものであり、[[交流]]回路などこの条件を満たさないケースでは[[電磁誘導]]による[[起電力]]が原因で経路非依存な電位差はそもそも定義できず、したがって電圧の概念も定義できない。 しかしながら少なくとも学部レベルの教科書<ref name="kaiteidenjiki">電子情報通信学会 大学シリーズ B-1 『改訂 電磁理論』、熊谷信昭著。ISBN:978-4-339-00068-9。9.2章</ref>では、{{Visible anchor|'''準静的近似'''}}を行う事で経路依存の問題を回避している。 ここでの準静的近似とは、(交流の周期が十分長い為)電磁場の変化が十分遅い、という状況における[[近似]]である。 こうした状況では前述の電位差の経路依存性は非常に小さく無視できるので、電位差を電圧の定義として使用できる。 なお[[電磁気学]]では電磁誘導の効果を考慮して電位の概念を補正した、[[電磁ポテンシャル|電磁場のスカラー・ポテンシャル]]という概念があり、この概念の場合は(近似をしなくとも)前述の経路依存の問題が生じない。 == 応用 == 電圧の測定には、明示的または暗黙的な2つの測定点の指定が必要である。電圧計で電位差を測る場合、2本の導線を測定対象の2点に接続しなければならない。 === 電圧の加算 === 3点A、B、Cについて、AC間の電位差はAB間の電位差とBC間の電位差との和である。つまり電位差は加算的である。また、電気回路の様々な点における電位差は[[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]]を満たす。 [[交流]]の場合、ある瞬間の電圧と, 時間平均した電圧は異なる。瞬間の電圧は[[直流]]でも交流でも加算的だが、平均電圧を加算して意味があるのは、各点を流れる信号がいずれも同じ[[周波数]]と[[位相]]の場合のみである。 == 日本国法令下での電気設備用途の電圧分類 ==<!--大きさと高さは違う--> [[ファイル:High voltage warning.svg|right|thumb|国際安全標識 "Caution, risk of electric shock"(感電注意、[[国際標準化機構|ISO]] [[ISO 3864|3864]])]] [[電気設備に関する技術基準を定める省令]]においては、次のような区分で電圧の大きさが定義されている。 ; 低圧 : 「[[直流]]にあっては750ボルト以下、[[交流]]にあっては600ボルト以下のもの」 ; [[高圧 (電気)|高圧]] : 「直流にあっては750ボルトを、交流にあっては600ボルトを超え、7000ボルト以下のもの」 ; 特別高圧 : 「7000ボルトを超えるもの」 == 測定方法 == [[ファイル:Digital Multimeter Aka.jpg|thumb|電圧測定の準備を終えた[[回路計]]]] 古くは[[熱の仕事当量]]により最初に[[ジュール熱]]を求め[[ジュールの法則]]により電圧を求めた。 現在、電圧測定機器としては[[電圧計]]、[[電位差計]]、[[オシロスコープ]]などがある。電圧計は固定抵抗器を流れる電流を測定し、[[オームの法則]]によってその電流と電圧が比例するという原理で電圧を測定する。電位差計は[[ブリッジ回路]]で未知の電圧と既知の電圧のバランスをとることで電圧を測定する。オシロスコープは、[[ブラウン管]]の電子ビームを測定対象の電圧に比例した電圧で偏向させ、交流電圧を目に見える形で示す。 == 水に例えた説明 == [[電気回路]]における電圧は[[水流モデル|水流の類推]]で説明される事がある(但し、異なる点がある)。 網状に繋がったパイプを用意し、[[ポンプ]]によって水を流す。この際電圧はパイプの2点間の[[圧力|水圧]]の差に相当する。水圧に差が存在すれば、水は水圧の高い点から低い点へと流れることができ、例えば[[タービン]]を回して[[エネルギー]]を取り出すことができる。同様にポンプの代わりに[[電池]]で電圧を生じさせ、[[電流]]を発生させることで仕事をさせることができる。例えば、[[自動車用電池|自動車のバッテリー]]で電流を発生させ、[[セルモーター|スターターモーター]]を駆動することができる。ポンプが動作していない場合は水圧差が生じず、タービンも回せない。自動車のバッテリーが空ならスターターモーターを回せないのと同じである。 この水流による類推は、いくつかの電気的概念を理解するのに有効である。水流の仕事量は[[圧力]]と流れる水の[[体積]]の積で表せる。同様に電気回路での[[電子]]や他の[[電荷担体]]の移動による仕事量は、電圧(古くは "electric pressure" と呼んだ)と移動する電荷の量の積で表せる([[電力]]の定義)。電圧は可能な仕事量を測る便利な手段である。2点間の圧力(水圧、電圧)の差が大きいほど、流れ(水流、電流)も大きくなる([[オームの法則]])。 ただし、回路における電子の[[運動エネルギー]]は、抵抗において[[格子振動]]や[[電磁波]]に変化して逃げていくエネルギーに比べてはるかに小さく、事実上無視できるが、水流の場合は無視することができないことに留意する必要がある。 == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[電位]]、[[電圧計]] * [[電流]]、[[交流]]、[[直流]]、[[電流計]] * [[電気抵抗]] * [[電力]]、[[電力計]] * [[ベクトル解析]] * [[商用電源]](電圧・周波数・プラグ、英文:[[:en:Mains power around the world]]) * [[感電]] * [[電気化学ポテンシャル]] * [[オームの法則]] * [[開放電圧]]、[[電圧降下]] * [[電圧の比較]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Wikidata property}} * [http://www.sengpielaudio.com/calculator-ohm.htm Electrical voltage ''V'', amperage ''I'', resistivity ''R'', impedance ''Z'', wattage ''P''] * [http://www.ndt-ed.org/EducationResources/HighSchool/Electricity/voltage.htm Elementary explanation of voltage at NDT Resource Center] * [http://www.yamabishi.co.jp/knowledge/voltage.htm 電気の知識 電圧篇] {{電気電力}} {{電磁気学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんあつ}} [[Category:物理量]] [[Category:電磁気学]] [[Category:電気理論]]
2003-09-08T05:55:51Z
2023-12-04T14:14:47Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Redirect", "Template:Lang-en", "Template:Main2", "Template:Wiktionary", "Template:Wikidata property", "Template:電磁気学", "Template:物理量", "Template:Visible anchor", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:電気電力" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%9C%A7
15,710
中世西洋音楽
中世西洋音楽(ちゅうせいせいようおんがく)は、中世ヨーロッパの音楽を指す。古代の音楽とルネサンス音楽の間に当たる。 西洋史における中世は、一般に4~5世紀の西ローマ帝国末期から15世紀頃までとされる。音楽における中世も概ね時期は一致するが、開始時期についてはローマ帝国のキリスト教受容を起点として4世紀とするもの、「400年から500年頃から」とするもの、5世紀半ば過ぎからとするもの、グレゴリオ聖歌を起点として9世紀から記載するもの、あえて明示しないものなどがあり、終わりに関しても「14世紀まで」「15世紀前半まで」「1450年頃まで」など様々見られる。 また、長く取れば1000年以上におよぶ音楽における中世には内部の時代区分がありうるが、これもほぼ西洋史に準拠して「初期(~900)」「盛期(900~1300)」「後期(1300~)」とするもの、様式上の区分で「初期中世(~850)」「ロマネスク(850~1150)」「ゴシック(1150~1450)」とするもの、特に区分しないが14世紀のみ「アルス・ノヴァ(フランス)」「トレチェント音楽(イタリア)」とするものなど様々見られる。 中世西洋音楽は、キリスト教聖歌、特にローマ・カトリック教会の典礼聖歌であるグレゴリオ聖歌の成立と、もともとその聖歌の敷衍・拡張として始まったポリフォニー(多声音楽)の発達を最大の特色としている。初め単旋律だった聖歌に、早くも9世紀には典礼をより荘重にするために新たに説明的な歌詞をつけたり旋律の音数を増やして拡張したり(トロープス)、同じ聖歌を異なった高さで同時に歌って重厚な響きを添えたり(オルガヌム)ということが行われ始める。やがてオルガヌムは独立性を高め、11世紀には聖歌の旋律にのせて新しい装飾的な旋律を歌うようになった。12世紀後半から13世紀前半にはパリのノートル・ダム寺院で、モード・リズムと呼ばれる明確なリズムを持つ2~4声部の華麗なオルガヌムが歌われ、14世紀のマショーの4声の「ノートルダム・ミサ曲」(ひとりの作曲家によって通作された最古の多声ミサ)や数々のモテットに至る。 その一方で、世俗音楽も盛んであったことが推察され、11世紀末以降には記録に残り始める。その担い手は、騎士歌人(宮廷歌人とも)や大道芸人や職業芸人(以前はこれらは混同され「吟遊詩人」などと呼ばれていた)、遍歴学生などであった。世俗歌曲は単旋律であったが、中世盛期以降にはこうした単旋律世俗歌曲の形式と(ラテン語ではなく)俗語による宗教歌が見られ始めたり、逆に宗教音楽に由来するポリフォニーの技法による世俗音楽が書かれるようになったりしている。先のマショーは、世俗音楽であるビルレー(単旋律)やバラード(多声音楽)を次の15世紀に流行する世俗歌曲様式で書き、時代を代表する作曲家が宗教音楽のみならず世俗音楽を書いた史上初めての例となった。このようにして、中世ヨーロッパにおいて、芸術音楽の作曲とは「広義の多声音楽をつくること」を意味するようになり、世界的に見た時の西洋音楽の特徴の一つとなった。 中世ヨーロッパにおいては、音楽は自由七科の一つとして必須の学とされたが、それは「音それ自体に即した自律的なもの」というよりも「感覚を超えた超人間的なものの啓示」「世界を調律している秩序」であるととらえられる傾向が強かった。このため中世の音楽理論においては、実際の音楽を離れた抽象的な思索が珍しくなく、古代ギリシアの音楽理論の中核をなしていた数理論、象徴論、エートス論などが、キリスト教的変容を遂げて展開されており、音組織、旋法、リズム、協和、記譜法などの音楽の実践面にも少なからぬ影響を与えていた。が、教会の権威が失墜するとともに諸民族の強力な国家体系が成立してくる14世紀以降、世俗音楽が高度に発展し、宗教音楽においても宗教性の重視よりも純音楽的要請による傾向が強くなり、次のルネサンスの萌芽が見え始める。 ここでは、記事で扱える範囲を最も広くとって4世紀から1450年までとし、時代区分は西洋史に準拠した「初期(~1000)」「盛期(1000~1300)」「後期(1300~)」を基本としつつ、別種の区分や様式上の区分を併用し、850年まではおよそ250~300年刻み、以後はおよそ150年刻みでの記載を試みる。 ローマ帝国は度々キリスト教徒を迫害したが、最終的に313年にキリスト教を公認して受け入れ、さらに392年には国教とし、ローマ帝国はキリスト教国家となった。ローマ司教は聖ペトロの後継とされ、全てのキリスト教会の頂点に立つ教皇権が形成されていく。中でもレオ1世は、西ローマ皇帝が何もできないなか、二度にわたって蛮族と直接交渉してローマを守るなど世俗面でも活躍し、カトリック教会とローマ教皇の権威を大いに高めた。 一方、376年にはゲルマン民族の大移動が始まり、395年に分裂してできた西ローマ帝国領内に侵入を繰り返し、帝国領内にゲルマン人国家を形成していく。476年にはオドアケルが西ローマ皇帝を廃位し、6世紀のゴート族や東ローマ帝国の占領と破壊はローマを廃墟同然としたが、ローマ史の伝統はローマ教皇の歴史に受け継がれていく。またゲルマン人国家のうちフランク王国は486年にシアグリウスのローマ人国家を滅ぼして以降拡大を続け、やがて西ヨーロッパの大部分の政治的統一を達成する。 キリスト教に先立つユダヤ教において既に旧約聖書の詩篇を歌う習慣があり、新約聖書にもイエスが弟子たちと共に最後の晩餐の後に(おそらく)詩篇を歌う場面がある。古代においてキリスト教の中心だったのは東方であったが、西方においてもその伝統を受け入れる形で、4世紀以降、ミラノのアンブロジオ聖歌、アルプス北方のガリア聖歌、スペインのモサラベ聖歌などの地方的な典礼が形成されていった。4~5世紀の教父アウグスティヌスの著作《告白》には〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。...この頃、東方教会の慣習にならって、会衆の心が悲しみに沈み、飽き飽きしないようにと、賛歌と詩篇の歌が採り入れられたのである〉とある。 3世紀末以降、キリスト教への改宗者の増加に伴い、キリスト教社会は緊張を欠くようになったが、一部の熱心な信者が都市から離れ荒野で過酷な貧困生活を送って修行するようになり(隠修士)、やがて彼らをまとめて宗教的な共同生活を送る集団が現れた。こうして建てられたのが修道院で、各地に多くの修道院が創設されたが、その中でも529年頃に建てられたモンテ・カッシーノ修道院は音楽においても重要な修道院である。創始者の聖ベネディクトゥスがつくった戒律では、日常の礼拝が音楽と深く関係づけられていた。また彼が創立したベネディクト会はヨーロッパの修道院の規範となった。 590年に教皇に選出されたグレゴリウス1世は、数々の業績と心の広さと共感できる人柄などによって当時の人々に大変愛され、実質的な最初のローマ教皇とされるが、音楽においては典礼音楽の発展に力を尽くし、スコラ・カントルム(「歌手の学校」の意)と呼ばれる聖歌学校を整備・拡充した。後のグレゴリオ聖歌は、彼の名にちなんでいる。 アウグスティヌスは〈歌の内容にではなくて、歌そのものに感動したときには、罪を犯したような気持になる〉という言葉を残しており、礼拝に対して音楽を使うことへの懐疑はこの後も折に触れて西方のキリスト教世界で思い出されることになる。また6世紀初頭のボエティウスの「音楽教程」は、ギリシャ時代の代表的な音楽論を伝え、音楽を「世界を調律している秩序」と捉え、音楽を「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ、四季の変化や天体の運行などを司る秩序)」「人間の音楽(ムジカ・フマーナ、人間の心身の秩序を司る秩序で乱れると病気になったり性格が曲がったりする)」「楽器の音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス、実際に鳴る音楽で、声楽も含まれる)」に分類し、実際に鳴る音楽を最も下位に置いた。これは中世を通じて広く読まれ、中世の音楽に対する基本的な考えとなった。 一方、都市と群衆が成立した古代ギリシアからローマにかけ、ヨーロッパでは各地を渡り歩く職業芸人が隆盛を示していた。軽業(かるわざ)、動物芸、奇術、音曲をはじめとして路上美術に至る、あらゆる種類の大道芸がこの時期に演じられている。好ましい大道芸とされたのは、笛やシンバルを奏する街頭音楽と踊りであった。これらは精神を健全にする効果があると信じられ、教育的にも重視されたという。以後中世を通じて世俗音楽が盛んであったことが種々の資料から推察される。 イスラム教が創始され、イスラム帝国が拡大を始める。ウマイヤ朝は711年にイベリア半島に侵入し西ゴート王国を滅亡させたが、732年のトゥール・ポアティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。また西ゴート王国の残党は722年以降イスラム教徒への反撃を始める(国土回復運動)。 一方、フランク王国ではカロリング朝の開祖ピピン3世が754年と756年にランゴバルド族を打ち破って獲得した土地を教皇に寄進し、ローマ教皇を元首とする国家(教皇領)が生まれた。次のカール1世は戦争に明け暮れ、804年にザクセン人の征服を完了してフランク王国は最大となった。また800年に西ローマ皇帝の冠を教皇レオ3世から授けられ、カール1世はカール大帝(シャルルマーニュ)となり、5世紀に滅亡した西ローマ帝国が復活した。これにより、フランク王国・ローマ教皇ともに東ローマ帝国に対抗できる勢力となり、また古典古代・ゲルマン人・キリスト教からなる西ヨーロッパ文化圏が成立した。 グレゴリオ聖歌は単旋律・無伴奏で、ラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とし、8種類の教会旋法に分類される。リズムは近代音楽における機械的拍節感とは無縁である。グレゴリオ聖歌は正式には「ローマ式典礼聖歌」と呼ぶべきものだが、グレゴリウス1世にちなんで770年頃からグレゴリオ聖歌と呼ぶ習慣が生じた。しかしグレゴリオ聖歌の形成については、「(フランク王国による西ヨーロッパ統一が進められる中で)ガリア・アイルランドの地域の聖歌やモサラベの聖歌が融合された」「グレゴリオ聖歌の主要部分は、どんなに早くとも8世紀か9世紀ごろアルプスの北のガリア・ゲルマン世界で成立したものであるという見方が有力になっている」などとされており、場所も時期もグレゴリウス1世とは一致せず、グレゴリウス1世の名は伝統性を強調するために使われてきたと考えられている。 ピピン3世は従来フランク王国で歌われていたガリア聖歌を禁止し、ローマ典礼に統一することを規定し、聖歌隊学校を設立した。カール大帝は聖歌隊学校をさらに増設し、聖職者たちに「ローマで歌うようなやり方で歌う」ように指示した。カール大帝に関しては宮廷付属学校を設立してアルクインを招き寄せたことが有名だが、789年の法令でその学生たちに「文法・算術・詩篇唱・および聖歌を学ぶこと」を指示している。こうした動きは彼らの統一運動とも、ローマ教皇と共存する政策とも一致する。7~12世紀にはローマ教会の勢力拡大のため、ローマ教会の聖歌をヨーロッパ全域に広める努力がなされ、グレゴリオ聖歌は広範囲につたわった。その活動の中心となったのは、教会、修道院、教会学校であった。 9~10世紀は政治的解体と侵略の危機の時期とされる。カール大帝の死後、フランク王国は東・西フランクとイタリアに三分裂する。このころ、北方からはヴァイキングが、ドナウ川東方からはマジャール人が侵入してくる。マジャール人を食い止めたオットー1世は、教皇領に侵入したイタリア王の討伐を行い、962年に帝冠を授けられ、事実上の機能停止に陥っていた皇帝権は以後ドイツ諸王によって担われることとなり、東フランク王国は神聖ローマ帝国となった。 9世紀には、典礼をより精緻で壮麗なものとするため、すでに存在する聖歌の拡張が盛んに試みられた。その一つの方法が、聖歌の声部と別の声部を同時に歌うもので、オルガヌムと呼ばれる。9世紀末の音楽理論書《ムシカ・エンキリアディス(音楽の手引き)》にはその最古の例が見られ、元となる聖歌の完全5度下あるいは完全4度下に平行移動する対旋律をつけて歌うことから、「平行オルガヌム」と呼ばれる。元となる聖歌の下と対旋律の上にそれぞれオクターブ離れた声部を重ね、4声の平行オルガヌムとした例も紹介されている。こうした平行オルガヌムには声部の独立性は希薄であり、ポリフォニー(多声音楽)と呼ぶことにはまだ無理がある。しかし、のちには付加された声部が独自の対旋律を持つようになっていく。こうしたオルガヌムは、ポリフォニーと呼ばれる音楽構造の第一歩であり、ポリフォニーの広範な使用を際立った特徴とする西洋音楽史上極めて重要なものである。 聖歌の拡張のもう一つの方法が、聖歌の旋律にもとから含まれていたメリスマ的な楽句に対して説明的な語句など新しい歌詞を付け加えたり、前後あるいは途中に旋律と歌詞の双方を追加したりするもので、トロープス(ギリシア語の「言い回し」に由来)と呼ばれる。全体としては旋律と歌詞の双方を追加するものが多数を占めている。こうしたトロープスのうち、アレルヤ唱に続く長いメリスマに対して歌詞を付け加えたものはセクエンツィア(続唱)と呼ばれるようになり、後に多くの曲を生み出すことになる。 また初期のトロープス《だれを捜し求めるのか》に見られる天使と3人のマリアの間のやり取りを対話形式で表したものは10世紀にはミサと切り離され、教会堂の一角にすえられた簡単な舞台装置で小規模な劇として行われるようになり、典礼劇として発展を始める。 9世紀末までは聖歌は全て口承で伝えられていた。9世紀終わりごろに「ネウマ」とよばれる記号が歌詞の上に手書きで書かれるようになり、グレゴリオ聖歌が記録に留められるようになる。しかし初期のネウマは旋律のすすむ方向(上行か下行か)や旋律パターンを大まかに指示するだけで、音価は曖昧であった。これは文法上のアクセント記号に端を発しているためで、覚え書き程度のものであり、知らない歌をそこから読み取って歌えるようなものではなかった。少し経って、ネウマをいろいろ異なった位置に置き、音高をできるだけ正確に表示しようとする音高ネウマが現れるが、リズムについてはまだ曖昧であった。 613年にスイス山中に建設された僧房は720年にザンクト・ガレン修道院として確立され、間もなくベネディクト会に転換した。図書館・学校を中心とする学問・教育活動は著しく、写本画、手工芸品、教会音楽など芸術面での功績も大きい。9世紀起源の現存する最古の聖歌譜で知られるが、古い形のネウマが暗示的に表していた微妙な音楽的要素が失われないよう、音高ネウマを避け続けたことでも知られる。トロープスやセクエンツィアの初期の作者として知られるザンクト・ガレン修道院の修道士ノトケル・バルブルス(吃音のノトケル、840頃~912)は、以前はセクエンツィアの創始者と考えられていたが、現在では既に存在していたそれらの大成者と考えられている。 神聖ローマ皇帝と教会は聖職者の叙任権を巡って対立し(叙任権闘争)、1077年のカノッサの屈辱はその頂点であった。その結果皇帝権がローマの至上権に屈し、教皇権が勝利したが、その後も緊張関係は続いた。が、1096年に派遣された第1回十字軍の成功は、12~13世紀のローマ教皇の絶頂期を出現させた。 10世紀末以降、教会が主導した騎士の私闘を抑制する「神の平和」運動や、最終的にはキリスト教徒同士の戦闘を禁止するに至った「神の休戦」運動により、騎士たちは「キリストの戦士」として教化され、異教徒や異端に対する聖戦を使命とするに至る。12世紀には騎士の規範は「騎士道」として形をなしていき、騎士の使命は十字軍で戦うこととされた。 三圃制の普及に伴い農業生産性が著しく高まり、民族移動の時代は終わり、定住人口が飛躍的に増大し、大規模な経済発展が見られるようになる。都市が復活し、商人ギルドや職人ギルドの活躍で大規模な商業も発達した。国土回復運動の結果、カスティリャ王国は1085年にトレドを奪還し、以後トレドは、イスラム圏に残された古代ギリシアの古典がヨーロッパに流入する拠点の一つとなった。 オルガヌムは11世紀になると、聖歌の声部が下声に移り、反進行や斜進行をも加え各声部が自由に動くようになり、時には声部交差をも行う「自由オルガヌム」に発展する。12世紀に入ると、聖歌の声部の1音符と対旋律の1音符という対応関係が崩れ、下声部に置かれ長く引き伸ばされた聖歌の声部1音符に対して対旋律が音をいくつもメリスマ的に連ねて歌う「メリスマ的オルガヌム」が現れる。ただし実例としては、自由オルガヌムとメリスマ的オルガヌムの中間的な形態の、聖歌1音符に対して対旋律2~4音符の様式が多く、1曲の中でメリスマ様式と中間的な形態が交互に並置されるのが普通である。 こうした実例は、イングランドのウィンチェスター大聖堂に伝わる11世紀半ばの「ウィンチェスター・トロープス集」や、当時フランス王を凌ぐ繁栄を見せていたアキテーヌ公国(フランス南西部)のリモージュにあった聖マルシアル修道院で12世紀初めにつくられた写本や、エルサレムやローマに匹敵する三大巡礼地の一つであるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラで12世紀につくられたカリクストゥス写本によって知られる。ウィンチェスター・トロープス集はイングランド独特のネウマ符で記され、実際の音の判読はほぼ不可能であるが、聖マルシアルとサンティアゴ・デ・コンポステラの曲集はアキテーヌ方式とされるネウマ符で記され、音の高さもほぼ正確に示されている。が、リズムの表示はされていない。 1000年頃には譜表記譜法(譜線を用いた記譜法)が生まれ、相対的な音高が正確に正確に表示されるようになった。11世紀初めのイタリアの音楽理論家グイード・ダレッツォは、等間隔で水平に3~4本の直線を引いて線上または線間に音符を書き入れて音高を示す記譜法を考案し、グレゴリオ聖歌を記録した。また、階名唱法を考案して楽譜の視唱を容易にし、現在のドレミのもとになるものをつくった。 11世紀末、フランス国王よりも広い所領を持っていたアキテーヌ公・ポワティエ伯のギヨーム9世は、最古のトルバドゥール(騎士歌人・宮廷歌人、以前は吟遊詩人と呼ばれた)として記録に残る。トルバドゥールとは11世紀末から13世紀末にかけて、南フランスを中心に活躍した抒情詩人兼作曲家の総称である。彼らは「抒情詩は歌謡である」と考えた古代ギリシア人に倣って詩作をした。歌詞は中世ヨーロッパの文語であるラテン語ではなく彼らの口語であるオック語で書かれ、民衆歌謡から新たな詩形・旋律・リズムを取り入れている。トルバドゥールは400人以上が知られるが、その多くは貴族であり、王侯も含まれる。背景には、騎士たちの交流が盛んとなる中、自分が単なる武人ではなく教養人であることを示す目的があったとする推測がある。歌詞の中心的な主題は宮廷風恋愛であるが、騎士道、宗教、政治、戦争、葬儀、自然におよび、約300の旋律、約2600の詩句が残っている。この時代の記譜では音の長短がはっきりつかめないが、メリスマ唱法でゆったりとしたテンポで歌われたと推測されている。名高いトルバドゥールとして、先に挙げたギョーム9世のほか、北フランスでも有名になったベルナルト・デ・ヴェンタドルンや第4回十字軍に参加したランボー・ド・ヴァケイラス、ダンテの神曲に影響を与えたアルノー・ダニエルなどが挙げられる。女性のトルバドゥールはトロバイリッツと呼ばれ、自身の愛を歌にしたベアトリッツ・デ・ディアや失意の詩人を救った恋愛討論詩が知られるマリー・ド・ヴァンタドゥールなどが挙げられる。13~14世紀に編纂された「ヴィダス(伝記)」と「ラツォス(注解)」と呼ばれる評伝や作品を伝える30ほどの写本によって知られている。 中世の職業的音楽家として、ジョングルール(大道芸人)とメネストレル(職業芸人)が挙げられる。ジョングルールは各地を巡る旅の芸人であるが、有力者の館や城で芸を披露するうちに彼らの許に留まるよう誘われ、仕えるようにもなった芸人がメネストレルである。もともと彼らが扱う世俗音楽はその場の演奏を楽しめればよく、記録する発想はなく、仮に記録したくても文字や楽譜を書き記す能力がなく、彼らの音楽はもっぱら口伝で習得・伝達されていた。が、彼らはトルバドゥールの伴奏や、遠隔地での歌や演奏を担当するようになり、トルバドゥールの歌曲をヨーロッパ各地に伝えた。彼らの中にはお抱えジョングルールからトルバドゥール身分に出世する者や逆に後者から前者に没落する者などが現れ、両者の混交が存在した。彼らの音楽には直接記録されたものはないが、先述のランボー・ド・ヴァケイラスの《五月の一日》はジョングルールが演奏する舞曲(エスタンピー)の旋律に詩をつけたと伝えられ、事実なら奇跡的に残されたジョングルールの舞曲と言うことになる。 エルサレムはイスラームに奪還され、13世紀初めの第4回十字軍は同じキリスト教徒のコンスタンティノープルを攻撃・占領し、十字軍運動は変質して経済的な目的が強くなっていく。以後の十字軍は一時を除いて聖地奪還に失敗し、教皇権の衰退につながっていく。十字軍は1270年を最後に行われなくなり、1291年には西アジア最後の十字軍拠点のアッコンが陥落し、十字軍の時代は完全に終わった。 都市の繁栄と十字軍に伴う東方からのギリシア古典文化の流入は、12世紀ルネサンスと呼ばれる知的高揚を生み出した。こうした背景のもと、都市に集まっていた教師(その多くは聖職者であった)と学生が形成していた私塾は手工業者の同業組合に倣ってギルドを形成し、大学が設立されていく。〈自生的大学〉と呼ばれるボローニャ大学、パリ大学、オックスフォード大学などは、12世紀後半から13世紀にかけて形成されている。こうした学問の世界に新風を吹き込んだのは、ギリシア思想といえばプラトン一辺倒だったところにアラブから持ち込まれたアリストテレス思想であった。 はじめ修道院を中心に発展した多声音楽は、ゴシック様式の大聖堂が次々つくられる頃になると、都市の大聖堂にその場所を移すことになった。都市の大聖堂で多数の聴衆に聴かれるようになったことで、多声音楽はそれまでの小規模な形を脱し、祝典的な構成の大楽曲に変化してゆく。その中心となったパリのノートルダム大聖堂(1163年起工)では、12世紀半ばから13世紀にかけてレオニヌスとペロティヌスといった優れた人物が現れ、ノートルダム楽派と呼ばれる。レオニヌスが〈オルガヌム大全〉で示した2声のオルガヌムでは、ラテン語のアクセントが強弱ではなく長短であることを応用し、古典詩の韻律に基づいて6つのリズム型とその表記法を定め、それらを基本として新しい楽譜の記し方を工夫している。これはモード記譜法と呼ばれる。その結果、現代の耳には6拍子と感じられるような強烈なリズムが耳に残ることになる。ただレオニヌスの作品は即興で歌ったものを後で書き記した可能性が強く、リズムの表示は必ずしも明確ではない。それに対してペロティヌスはレオニヌスの曲集を改訂し、3声や4声の作品としたため、即興というわけには行かず、最初から書き留める必要があり、リズムの表示もより明確なものとなった。このようなノートルダム楽派の音楽に関して、皆川達夫は「多声音楽の一つの頂点」としている。ペロティヌスのオルガヌムは13世紀後半のパリにおいて(おそらくそれ以後も)なお歌われ、彼らの作品は何度となく書き写され、ヨーロッパ各地(ドイツ・イタリア・スペイン・スコットランドなどに写しが残る)に伝えられた。しかしそれに続くオルガヌム作品は知られる限り存在せず、1200年の時点でオルガヌムは250年にわたる歴史の最終段階を迎えていたと言える。 もともと多声化されたオルガヌムには、オルガヌム様式(元の聖歌を長く引き伸ばした声部の上でメリスマ的な旋律が展開)とディスカントゥス様式(聖歌の声部とオルガヌムの声部がほぼ1対1に対応する)が現れていたが、ノートルダム楽派では、オルガヌム様式部分の聖歌の声部は極端に長く引き伸ばされ、ディスカントゥス様式部分では全声部にモードリズムが使われるようになった。この部分の様式はクラウスラと呼ばれる。クラウスラはやがて独立した楽曲となって単独で歌われるようになり、さらにはもともと母音で歌われていたその上声部に新たな歌詞がつけられ、新たな歌詞を得たその声部・やがては楽曲そのものがモテット(モテトゥスとも、「言葉」の意)と呼ばれるようになり、13世紀以後数多く作曲されていく。 イングランドではノルマン・コンクエストに伴い数多くの司教座聖堂が生まれ、それぞれ固有の典礼を持つに至ったが、そのうちソールズベリー教区では独自の聖歌集を編纂して用いた。現存する最古の写本は13世紀のもので、ソールズベリー聖歌(セーラム聖歌)と呼ばれる。グレゴリオ聖歌と同様の特徴を持つが、音域はより狭く、より形式的な構造を持ち、より「移調」(音高の変更)を多用する。これらは特に15~16世紀のポリフォニーに素材を提供している点でも重要である。 13世紀のイギリス音楽には同時代のフランス音楽の影響が認められ、ノートルダム楽派の技法をいち早く取り入れたのもイギリスであったが、ノートルダム楽派のレパートリーにはソールズベリー聖歌集特有の定旋律が含まれており、また当時フランスで活躍した重要な音楽理論家の中に3人のイギリス人(ガルランディア、第4無名者、オディントン)がいて、ノートルダム楽派の作品を含む最初期の写本がスコットランドで成立した事実は、イギリスとフランスの間の影響関係を物語っている。 モテットは初期においては新しい歌詞はラテン語で書かれ、その内容も元の聖歌の内容を解説・展開するようなものであったが、歌詞の内容は次第に元の聖歌を離れ、さらには全く関係ないような内容となっていき、13世紀を通じて次第に世俗化していく。言語もラテン語である必要がなくなり、フランス語でつけるようになった。また複数の対旋律に異なる歌詞をつけて歌うのが一般的となり、聞き手が歌詞を聞き取るのが難しくなった。こうしたモテットは、初期には聖職者や神学生によって書かれたものと考えられるが、ポリフォニー音楽の作法が大学での教育などを通じて教会の外部に伝えられて新たな発展を遂げ世俗化したという。実際、後述するトルヴェールの一人とされるアダン・ド・ラ・アルはパリ大学に学んで少なくとも5曲のモテットを残しており、恋の悩みや政治風刺などを歌詞に含んでいる。こうした権力批判・社会風刺的な歌詞を歌のに、歌詞を聞き取りにくいのは好都合だったという推測がある。 大学が増えた13世紀には、修学途中で脱落し、あるいは大学を出ても就職できぬまま地方を放浪した「放浪学生(ゴリアール)」が多く輩出したが、彼らは酒色におぼれ、高位聖職者、ときには教皇庁を攻撃するのみならず、聖書や祈裳文をもじった不穏な言葉をまき散らすとして、繰り返し教会から厳しい非難の対象となった。酒と女から得られる快楽を歌い、高位聖職者を風刺した詩を残しており、最も著名なのはバイエルンのボイエルン修道院に伝えられた「カルミナ・ブラーナ」である。 この時代のポリフォニーの記録としては、モンペリエ大学医学部に所蔵されているモンペリエ写本、北スペインのラス・ウエルガス修道院で筆写されたラス・ウエルガス写本、バンベルク大聖堂に長年保管されていたバンベルク写本などが名高い。これらは「異なる長さの音符は、異なる形で示す」という明快な方法で記譜され、定量記譜法と呼ばれる。が、三位一体から「完全なものは三つから成る」という考え方を反映してか、音符の分割は三分割を基本としており、表記は複雑であった。こうした初期の定量記譜法を実用に耐えるものとして体系化したのが、1280年頃に書かれたケルンのフランコの理論書「計量歌唱法 Ars cantus mensurabilis」である。 典礼劇は行われ続けており、ルペルツベルク女子修道院長で西洋音楽史上初の女性作曲家とされるヒルデガルト・フォン・ビンゲンは1158年以前に修道女全員が参加する「オルド・ウィルトゥトゥム(道徳劇『諸徳目の秩序』)」を書いている。また当初は教会堂の一角で行われていたものが教会堂全体に、さらには教会や修道院を出てその前の広場へと移り、劇の言語はラテン語から各地の口語へ、演じ手は聖職者から一般民衆へ移行し、降誕祭劇・復活祭劇・三王来朝劇などそれぞれの祝祭日に行われた劇が13世紀には集大成されて受難劇(聖史劇)となり、中世後期の一大文化財となった。12世紀末あるいは13世紀初めに、北フランスのボーヴェで上演された「ダニエル劇」は、劇的起伏に富み、楽譜も完全な形で残っている注目すべき作品である。 12世紀中葉から、トルバドゥールの強い影響下に北フランスのオイル語を用いて詩作・作曲を行うトルヴェールが現れる。アリエノール・ダキテーヌ(ギョーム9世の孫娘)とフランス王ルイ7世の結婚が大きな契機となったという。さらにアリエノールはヘンリー2世と再婚していわゆるアンジュー帝国が成立するが、それに伴ってトルバドゥールたちの活動場所もアンジュー・ノルマンディー・イングランド等の北方に移っていき、彼らもトルヴェールと呼ばれる場合がある。トルヴェールはトルバドゥール同様、愛に関して歌っているが、トルバドゥールが女性の肉体の美しさをも賛美し肉体の愛を忌避していないのに対して、トルヴェールは愛の精神性と規範への関心を強めている。またトルヴェールは英雄叙事詩にも力を入れている。およそ1400の旋律と4000の詩句が残されている。13世紀初めのアルビジョア十字軍が南フランスの宮廷を荒廃させ、トルバドゥールが衰えていく中、その影響を後に伝えた。アーサー王物語や聖杯伝説など騎士道物語の作者としても名高いクレティアン・ド・トロワや、作詞・作曲ばかりでなく劇作者としても名高く中世喜劇の傑作「葉隠れの劇」や「ロバンとマリオンの劇」が有名なアダン・ド・ラ・アルが代表的である。アリエノールの息子のリチャード1世もトルヴェールとして高名で、「囚われ人は決して」は捕囚伝説とともに有名であるが、これは後世の作のようである。女性のトルヴェールはトルヴェレス(Trouveresse)と呼ばれ、ヘンリー2世とアリエノールのイングランド宮廷のメンバーと推測されるマリー・ド・フランスなどが知られる。 12世紀末以降を盛期として、トルバドゥールの影響のもと、ドイツ語で「愛(宮廷風恋愛)の歌い手」を意味するミンネジンガーが現れる。ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ女伯)と神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の結婚が大きな契機となったという。愛の歌とは言うものの、男女に共通の恋愛感情の自然の流露ではなく、貴婦人に対する騎士の一方的求愛の理想化表現であるのが特徴であり、女性詩人がいない。ヴァーグナーの楽劇「タンホイザー」のワルトブルク城の歌の殿堂の場に登場するタンホイザー、ウォルフラム・フォン・エッシェンバッハ、ナイトハルト・フォン・ロイエンタールらは、すべて実在したミンネジンガーであり、ワルトブルク城における騎士たちの歌合戦も、1206年に実際に行われたとする説がある。既出の者の他に重要な者は、ゲーテ以前のドイツ最大の抒情詩人とされるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデなどが挙げられる。ミンネジンガーについては14世紀初頭の「大ハイデルベルク歌謡写本(マネッセ写本)」や「イェーナ歌謡写本」などで知られる。 トルバドゥールの芸術は、13世紀のイタリアでトロバトーレの活動をうながし、ダンテらもその影響を受けたようであるが、トロバトーレの歌の楽譜は全く残っていない。13世紀には、アッシジの聖フランチェスコの宗教運動と結びついた典礼外の単旋宗教歌ラウダ(賛美の意)の創作が盛んになった。ラウダの歌詞は当時の中部イタリアの俗語で書かれており、その詩形には、北フランスのトルヴェールによって形の定められたヴィルレーの影響が認められる。ルーツは聖フランチェスコの「太陽の賛歌」に行きつく。 同じ頃スペインでは、トルバドゥールの歌から派生した俗語による単旋律宗教歌カンティガ(歌)が作られた。形式的にはラウダ同様、単旋律世俗歌の一形式であるヴィルレー(スペインではビリャンシーコ)と深いかかわりをもち、聖堂外での信徒の集団的な宗教行為(悔悛の苦行など)に用いられた。中でも自身もトロバドール詩人で最後の世代のトルバドゥールの庇護者でもあった賢王アルフォンソ10世の編纂による「聖母マリアのカンティガ集」が名高く、聖母マリアを賛美した中世ガリシア語で書かれた400以上の歌曲を含む。異教の女神信仰を思わせるマリア崇拝に対してキリスト教会は否定的だったが、中世の人々はしばしば神を迫害者、マリアを擁護者とみるほど先鋭化しており、カンティガ集は中世人の願いと痛烈な権威への批判を示すものという評価がある。 キリスト教権の強かった中世には、舞踏は異教的なもの・非宗教的なものとして、その音楽も記譜されることがなかった。しかし、トルバドゥールたちの出現とともに、一定の形式をもつ輪舞形態のエスタンピー(踏み鳴らすの意)やキャロル(中世フランス舞曲)が誕生し、歌われたり楽器で奏されたりし始めた。13世紀以降は舞曲が具体的に楽曲として残り始め、続く14世紀は16世紀とともに「舞曲の世紀」と呼ばれるに至る。 14~15世紀は、ヨーロッパは増大した人口を抱えたうえ、地球の長期的な寒冷期にぶつかり、激しい飢饉に見舞われた。1315~17年にヨーロッパの広範な地域を襲った大飢饉はその代表的なものである。1348年にヨーロッパに波及したペストは、人口の1/3を死に至らしめ、ヨーロッパ荘園経済は衰微し、宗教と学問の権威は失墜し、中世的な秩序が崩壊し始める。1303年のアナーニ事件、1309年からのアヴィニョン捕囚、1378年からの教会大分裂は、教皇の権威を落とした。1339年~1453年の百年戦争は、教皇の調停力低下が引き起こし、長期化させたものでもあった。 一方、十字軍運動の影響で始まった東方貿易の拠点であった北イタリアでは商業都市が発展し、富豪が現れ新興の都市貴族として成り上がっていく傾向を見せる。都市の市民文化が成長し、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらが現れ、文芸でルネサンスが始まる。さらに14世紀初頭にマルコ・ポーロの「東方見聞録」が読まれるようになり、1310年頃には羅針盤が発見され、未知の世界に対する関心が高まった。 ヴァロア朝3代目の国王シャルル5世の弟フィリップ(大胆公)は慣例に従って1363年にブルゴーニュ公となり、結婚を通じて広い領土を獲得した。彼の3代にわたる子孫はいずれも相続や購入によって積極的な領土拡大政策を採り、フランドルからスイスに至る巨大な国をつくりあげ、本家のフランスをしのぐようになった。ホイジンガが〈中世の秋〉で描写したこのブルゴーニュ公国は歴代君主が芸術を保護したので諸文化面とりわけ音楽分野でヨーロッパの中心的存在となり、多くの優れた音楽家を輩出することとなる。 各地の領邦君主領はその基礎を固め、諸侯の宮廷が領邦の政治的・文化的中心として権威と栄光とを競うようになっていく。ブルゴーニュ公国のディジョンとヘントに置かれた宮廷はその典型である。またイタリアではフィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオ(1298建設開始)やヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮、1309建設開始)などの支配者のための居館が建設され都市のシンボルをなし、それぞれの君侯は居館に廷臣を集め芸術家を抱えて栄華を誇るようになっていく。やがてこうした大規模な宮殿建築はアルプス以北にも広がっていき、このようなイタリア諸都市の宮廷人の姿はやがて最盛期を迎える宮廷文化の模範となって行く。 1322年頃、フランスの司教フィリップ・ド・ヴィトリは理論書「アルス・ノヴァ」(「新しい技術」の意)を著し、それまでの3分割(完全分割)に加えて2分割(不完全分割)も同等に扱い、さらに細かい音符も導入することで、前時代の音楽より自由で複雑なリズムを用いた音楽の記譜が可能となった。ヴィトリの理論は現在の記譜法の基礎となったが、二拍子系のリズムの導入は当時の宗教者たちの逆鱗に触れて大論争となり、ついにはアヴィニョン教皇庁のヨハネス22世から1324/25年に禁止令が出されるに至った。が、こうした抵抗に関わらず、以後のフランスにおいては「アルス・ノヴァ」の考え方に沿ったポリフォニーの発展が見られた。そのため14世紀のフランスの音楽は「アルス・ノヴァ」と呼ばれ、それと対比して13世紀のフランスの音楽を「アルス・アンティクア」と呼ぶ場合がある。 以前は多声音楽といえばラテン語による宗教曲がほとんどだったが、14世紀に入るとフランス語やイタリア語で愛や生活感情を歌い上げる世俗多声楽曲が盛んになった。13世紀末に活躍した最後のトルヴェールのひとりアダン・ド・ラ・アルは既に3声のためのフランス語世俗歌曲を何曲か残している。アルス・ノヴァの代表的作曲家はボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハンの司祭ならびに秘書で詩人のギョーム・ド・マショーで、当時最高の作曲家・詩人として国際的に名声が高かった。ヴィルレー・ロンド―・バラードといった世俗歌曲ではトルヴェールの単旋律歌曲の伝統を受け継ぎつつ、新しいリズムと多声書法による装いを施し、歌曲定型を確立し、以後のフランス多声歌曲の方向を決定づけた。すでに世俗化していたモテットでは、アイソリズム(イソリズムとも、定型反復リズム)の技巧を推し進めた。世俗音楽、モテットとも、フランス語の歌詞はマショー自身の作と考えられている。〈心情から作らない者は、その言葉も歌も偽って作ることになる Qui desentiment non fait/son dit et son chant contre‐fait〉という韻文による言葉を遺したマショーは、「みずからの心にたしかめつつ、作品を創り上げた音楽史上最初の個性ある芸術家であった」と皆川達夫は評価している。 14世紀の宗教曲は、アヴィニョン教皇庁でつくられたもののほか、見るべきものはほとんどないとされるが、マショーの〈ノートルダム・ミサ曲〉は、ミサの通常文(キリエ:あわれみの賛歌、グロリア:栄光の賛歌、クレド:信仰宣言、サンクトゥス:感謝の賛歌、アニュス・デイ:平和の賛歌)を1人で全て作曲した最古の例であり、15世紀中葉以降一般化するミサ曲の創作を先取りしている。このように、マショーは当時用いられていたほとんどの音楽形式による曲で知られる。また、スペイン(カタルーニャ)・バルセロナ郊外の、黒い聖母で知られるモンセラート修道院に伝わる「モンセラートの朱い本」は、初期多声聖歌の発達においてスペインが他国に劣らなかったことを示す価値の高い資料である。 受難劇は、15世紀にかけてヨーロッパ中に浸透し、キリストの全生涯・旧約聖書中のエピソードや外典中の物語・さらには土着的な伝承なども付け加えるという形で大規模化・世俗化していった。劇の中では、ときに悪魔が跳梁跋扈し、舞台の袖にはグロテスクに表現された地獄が大きな口をあけていた。1452年には聖史劇の頂点であるグレバンの《受難の聖史劇》も出現した。これは初日(天地創造から受胎告知)、2日目(バプテスマのヨハネの場から最後の晩餐)、3日目(ゲッセマネから磔刑)、4日目(復活)の構成で、登場人物が数百人、詩句の総行数は3万4574行という、途方もなく大規模なものであった。世界演劇史をみても、このような形での民衆の熱中によってささえられた演劇はほとんど見られない。しかし、以後ルネサンスに入り、宗教改革の影響にもさらされ、こうした受難劇は存在するための基盤を失い、急速に衰微することとなる。 14世紀イタリアの音楽は、トレチェント音楽(300の意味。この場合は1300年代ということ)と呼ばれる。13世紀に至ってもイタリアではまだ単旋律が主流であったが、14世紀に入るとイタリアは中世都市文化が栄える中、マドリガーレ(牧歌の意か)・カッチャ(狩りの意)・バッラータ(踊り歌の意)といった世俗歌曲にフランスの多声音楽を受け入れ、愛や現世の生活感情をイタリア語でうたいあげた。トレチェント音楽はアルス・ノヴァと同時代以降であるが、彼らの記譜法はアルス・ノヴァに比べればはるかに単純で分かり易く、アルス・アンティクアの延長上にある。これは「トレチェント音楽の関心が単純な旋律の流れと効果的な装飾」にあったため、「理論より実践的傾向が強く、...リズムよりも旋律に重点を置いた作曲法が用いられていた」ためであろう。実質ヴィトリとマショーしかいないアルス・ノヴァに比べ、ペトラルカやヴィトリと交友があったヤコポ・ダ・ボローニャ、盲目の名オルガニストのフランチェスコ・ランディーニ、ランディーニの師として知られるロレンツォ・ダ・フィレンツェを始め、多くの作曲家が知られる。彼らの作品は大英図書館に保存されているロバーツブリッジ写本、鍵盤音楽最古の写本とされるファエンツァ写本、フィレンツェのロレンツォ図書館蔵でトレチェント音楽最大の一次資料とされるスクアルチャルーピ写本で知ることができる。 封建領主、貴族などの一定のパトロンに雇われ、彼らの城館でおのおの得意な楽器を演奏したり、トルバドゥールやトルヴェールの作品を歌ったり伴奏したりする人々はメネストレルと呼ばれていたが、13世紀中ごろからメネトリエとも呼ばれるようになり、14世紀に入るとこの呼称が一般化した。1321年にはパリに聖ジュリアン楽士組合(メネストランデーズ)が結成され、定期的な集会が開かれ、音楽教育を目的とした学校も設立された。イギリスではフランスの影響によって早くからミンストレル(メネストレルよりも意味が広く、宮廷歌人や大道芸人を含む)の伝統が確立し、宮廷においては特許状を受けた「国王のミンストレル」が活躍するようになり、15世紀中ごろまでには組合も成立したが、その代表的なものは都市に定着し、「市のミンストレル」と呼ばれるようになった。いずれにしても、宮廷音楽家としてのメネトリエやミンストレルの活動が盛んだったのは13~15世紀であり、その後は次第に衰退する。 14世紀後半になると、アルス・ノヴァとトレチェントの交流がアヴィニョン教皇庁の宮廷などを舞台に生まれ、音楽史上まれに見る複雑な音楽様式が展開された。以前はこれはアルス・ノヴァ後期とされたが、近年ではアルス・スブティリオル(繊細様式)として扱われるようになっている。極端にまで技巧的な作風、通常の黒符を白抜きにする・赤や青の符を用いる・拍子記号を頻繁に変化させるなど複雑極まりないリズムを表記するための記譜上の工夫、視覚効果を狙っての円形やハート形の楽譜などを特徴としている。「煙の歌」が名高いソラージュ、トレボール、フランスやイタリアで活躍した最初のフランドル人作曲家ヨハンネス・チコーニア、ハープ奏者でもあったジャコブ・ド・サンレーシュ、ハート形や円形の楽譜が有名なボード・コルディエなどが挙げられる。パリ近郊のシャンティイ城に保存されていたシャンティ写本で知られる。 ドイツでは14世紀以降、騎士階級を基盤とするミンネジンガーは、靴屋・仕立屋・織匠・金細工師等が組合を組織して詩と歌の腕を磨き合い合格するとなれたマイスタージンガーに取って代わられていく。ドイツ諸都市の勃興が背景にあるという。歌われる題材は当初は宗教的カトリック的であったが、宗教改革後はルターの福音主義を採り、16世紀に入ると宴会歌として娯楽要素が増し、時事問題、歴史もの、滑稽ものなども歌われるようになった。が、歌唱は一貫して単旋律であった。他国が優れた多声音楽を栄えさせた15-16世紀に至ってもなお単旋律歌曲に熱中しているあたりは、当時のドイツ音楽の後進性をあらわしていると皆川達夫は評している。 イングランドの15世紀以前の音楽の資料はごく限られているが、ポリフォニーが盛んに歌われていたことは明らかである。大陸では見られない3度と6度の和音の多用がイングランドの音楽の特徴で、13世紀末あるいは14世紀初めころつくられた有名な「夏のカノン」、14世紀初めにつくられた「めでたし童貞マリアの御胎 Beata Viscera」、14~15世紀に数多くつくられたキャロル(中世フランスの舞曲から派生した民衆的な宗教歌、アジャンクールの戦いの戦勝記念の「神に勝利を感謝せよ Deo gratias Anglia」がとくに有名)ではそれぞれ3度と6度の音程が極めて効果的に使われている。また聖歌を歌う際に行われたファバードンという即興演奏法は、平行オルガヌムの応用ともいえる方法で、聖歌の三度下と完全四度上の音程で並行に動く対旋律をつけるというもので、結果的に全ていわゆる6の和音となる。3度と6度の音程は中世音楽理論では否定されているが、ポリフォニーを楽譜に頼らず即興で歌ううちに理論に頼らず耳で快い響きを持つ長三度(純正三度)を見つけたのではないかという推測がある。これは15世紀に入って、初期ルネサンスの詩人や理論家が言及した「甘美な響き」の起源であり、ピタゴラス音律に代わって純正律が登場したできごとであった。 百年戦争末期、フランス北部はイングランドの占領下におかれ、イングランド国王ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンは1422年~1435年まで摂政としてフランスに滞在した。公に仕えていて同行したジョン・ダンスタブルは音楽家であると同時に数学者、天文学者でもあったが、彼の作品はフランスのアルス・ノヴァの手法を借用しながらも、より自然な旋律の流れや響きの良い音程の使用などで、フランスの同様の作品とは一線を画している。このようなイングランドの音楽作品は、大陸の音楽家に計り知れない影響を与えた。 ダンスタブルの死後20年ほど経った1477年、フランドル出身の音楽理論家ティンクトリスは、次のように記している。 ...この時代(15世紀中ごろ)にいたって、われら(大陸)の音楽は、新芸術とも呼ぶべき優れたものとなってきた。その新芸術は、ダンスタブルを代表とするイングランド人によってはじめられたものである。... また、1441年頃にブルゴーニュ公国の宮廷で活躍していた詩人マルタン・ルフランが、フィリップ善良公に献呈した詩集の中で、デュファイらの新しい歌曲の書き方には、ダンスタブルの影響をうかがわせる「イングランドの表情」が見られると言っている。 ブルゴーニュ公国の宮廷と関係を保っていた15世紀のフランドル出身の音楽家たちは、ブルゴーニュ楽派と総称される。彼らは少年期にフランドルで中世以来フランスで開発されてきた多声書法を、若い頃イタリアで活躍してかの地の音楽を、そして百年戦争末期に滞在していたイングランドの音楽家からイングランド特有の作曲法を学び、各国の音楽技法の総合化・国際化を果たした。その総合化の仕事を最も著しく、かつ最も精力的に果たしたのが、ギョーム・デュファイであった。皆川達夫は、音楽におけるルネサンスとはデュファイの創作とともに始まり、展開していったと評価している。金澤正剛は「この新しい指導者の手によって音楽史の新しい時代が展開することとなった事実には疑う余地もない」としている。一般的にはここからルネサンスが始まると考えてよいだろう。 こうしたブルゴーニュ楽派を、「〈中世の秋〉であるとともにルネサンス時代の夜明けである」「中世的要素と近世的要素を併せもつ過渡期」としている記載もある。が、その場合でも15世紀半ば以降のフランドル楽派を中世とはしない。中世西洋音楽が完全に終わるのはここと考えてよいだろう。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中世西洋音楽(ちゅうせいせいようおんがく)は、中世ヨーロッパの音楽を指す。古代の音楽とルネサンス音楽の間に当たる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西洋史における中世は、一般に4~5世紀の西ローマ帝国末期から15世紀頃までとされる。音楽における中世も概ね時期は一致するが、開始時期についてはローマ帝国のキリスト教受容を起点として4世紀とするもの、「400年から500年頃から」とするもの、5世紀半ば過ぎからとするもの、グレゴリオ聖歌を起点として9世紀から記載するもの、あえて明示しないものなどがあり、終わりに関しても「14世紀まで」「15世紀前半まで」「1450年頃まで」など様々見られる。", "title": "時期および時代区分" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、長く取れば1000年以上におよぶ音楽における中世には内部の時代区分がありうるが、これもほぼ西洋史に準拠して「初期(~900)」「盛期(900~1300)」「後期(1300~)」とするもの、様式上の区分で「初期中世(~850)」「ロマネスク(850~1150)」「ゴシック(1150~1450)」とするもの、特に区分しないが14世紀のみ「アルス・ノヴァ(フランス)」「トレチェント音楽(イタリア)」とするものなど様々見られる。", "title": "時期および時代区分" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中世西洋音楽は、キリスト教聖歌、特にローマ・カトリック教会の典礼聖歌であるグレゴリオ聖歌の成立と、もともとその聖歌の敷衍・拡張として始まったポリフォニー(多声音楽)の発達を最大の特色としている。初め単旋律だった聖歌に、早くも9世紀には典礼をより荘重にするために新たに説明的な歌詞をつけたり旋律の音数を増やして拡張したり(トロープス)、同じ聖歌を異なった高さで同時に歌って重厚な響きを添えたり(オルガヌム)ということが行われ始める。やがてオルガヌムは独立性を高め、11世紀には聖歌の旋律にのせて新しい装飾的な旋律を歌うようになった。12世紀後半から13世紀前半にはパリのノートル・ダム寺院で、モード・リズムと呼ばれる明確なリズムを持つ2~4声部の華麗なオルガヌムが歌われ、14世紀のマショーの4声の「ノートルダム・ミサ曲」(ひとりの作曲家によって通作された最古の多声ミサ)や数々のモテットに至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その一方で、世俗音楽も盛んであったことが推察され、11世紀末以降には記録に残り始める。その担い手は、騎士歌人(宮廷歌人とも)や大道芸人や職業芸人(以前はこれらは混同され「吟遊詩人」などと呼ばれていた)、遍歴学生などであった。世俗歌曲は単旋律であったが、中世盛期以降にはこうした単旋律世俗歌曲の形式と(ラテン語ではなく)俗語による宗教歌が見られ始めたり、逆に宗教音楽に由来するポリフォニーの技法による世俗音楽が書かれるようになったりしている。先のマショーは、世俗音楽であるビルレー(単旋律)やバラード(多声音楽)を次の15世紀に流行する世俗歌曲様式で書き、時代を代表する作曲家が宗教音楽のみならず世俗音楽を書いた史上初めての例となった。このようにして、中世ヨーロッパにおいて、芸術音楽の作曲とは「広義の多声音楽をつくること」を意味するようになり、世界的に見た時の西洋音楽の特徴の一つとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパにおいては、音楽は自由七科の一つとして必須の学とされたが、それは「音それ自体に即した自律的なもの」というよりも「感覚を超えた超人間的なものの啓示」「世界を調律している秩序」であるととらえられる傾向が強かった。このため中世の音楽理論においては、実際の音楽を離れた抽象的な思索が珍しくなく、古代ギリシアの音楽理論の中核をなしていた数理論、象徴論、エートス論などが、キリスト教的変容を遂げて展開されており、音組織、旋法、リズム、協和、記譜法などの音楽の実践面にも少なからぬ影響を与えていた。が、教会の権威が失墜するとともに諸民族の強力な国家体系が成立してくる14世紀以降、世俗音楽が高度に発展し、宗教音楽においても宗教性の重視よりも純音楽的要請による傾向が強くなり、次のルネサンスの萌芽が見え始める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ここでは、記事で扱える範囲を最も広くとって4世紀から1450年までとし、時代区分は西洋史に準拠した「初期(~1000)」「盛期(1000~1300)」「後期(1300~)」を基本としつつ、別種の区分や様式上の区分を併用し、850年まではおよそ250~300年刻み、以後はおよそ150年刻みでの記載を試みる。", "title": "時代区分別" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ローマ帝国は度々キリスト教徒を迫害したが、最終的に313年にキリスト教を公認して受け入れ、さらに392年には国教とし、ローマ帝国はキリスト教国家となった。ローマ司教は聖ペトロの後継とされ、全てのキリスト教会の頂点に立つ教皇権が形成されていく。中でもレオ1世は、西ローマ皇帝が何もできないなか、二度にわたって蛮族と直接交渉してローマを守るなど世俗面でも活躍し、カトリック教会とローマ教皇の権威を大いに高めた。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、376年にはゲルマン民族の大移動が始まり、395年に分裂してできた西ローマ帝国領内に侵入を繰り返し、帝国領内にゲルマン人国家を形成していく。476年にはオドアケルが西ローマ皇帝を廃位し、6世紀のゴート族や東ローマ帝国の占領と破壊はローマを廃墟同然としたが、ローマ史の伝統はローマ教皇の歴史に受け継がれていく。またゲルマン人国家のうちフランク王国は486年にシアグリウスのローマ人国家を滅ぼして以降拡大を続け、やがて西ヨーロッパの大部分の政治的統一を達成する。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "キリスト教に先立つユダヤ教において既に旧約聖書の詩篇を歌う習慣があり、新約聖書にもイエスが弟子たちと共に最後の晩餐の後に(おそらく)詩篇を歌う場面がある。古代においてキリスト教の中心だったのは東方であったが、西方においてもその伝統を受け入れる形で、4世紀以降、ミラノのアンブロジオ聖歌、アルプス北方のガリア聖歌、スペインのモサラベ聖歌などの地方的な典礼が形成されていった。4~5世紀の教父アウグスティヌスの著作《告白》には〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。...この頃、東方教会の慣習にならって、会衆の心が悲しみに沈み、飽き飽きしないようにと、賛歌と詩篇の歌が採り入れられたのである〉とある。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "3世紀末以降、キリスト教への改宗者の増加に伴い、キリスト教社会は緊張を欠くようになったが、一部の熱心な信者が都市から離れ荒野で過酷な貧困生活を送って修行するようになり(隠修士)、やがて彼らをまとめて宗教的な共同生活を送る集団が現れた。こうして建てられたのが修道院で、各地に多くの修道院が創設されたが、その中でも529年頃に建てられたモンテ・カッシーノ修道院は音楽においても重要な修道院である。創始者の聖ベネディクトゥスがつくった戒律では、日常の礼拝が音楽と深く関係づけられていた。また彼が創立したベネディクト会はヨーロッパの修道院の規範となった。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "590年に教皇に選出されたグレゴリウス1世は、数々の業績と心の広さと共感できる人柄などによって当時の人々に大変愛され、実質的な最初のローマ教皇とされるが、音楽においては典礼音楽の発展に力を尽くし、スコラ・カントルム(「歌手の学校」の意)と呼ばれる聖歌学校を整備・拡充した。後のグレゴリオ聖歌は、彼の名にちなんでいる。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アウグスティヌスは〈歌の内容にではなくて、歌そのものに感動したときには、罪を犯したような気持になる〉という言葉を残しており、礼拝に対して音楽を使うことへの懐疑はこの後も折に触れて西方のキリスト教世界で思い出されることになる。また6世紀初頭のボエティウスの「音楽教程」は、ギリシャ時代の代表的な音楽論を伝え、音楽を「世界を調律している秩序」と捉え、音楽を「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ、四季の変化や天体の運行などを司る秩序)」「人間の音楽(ムジカ・フマーナ、人間の心身の秩序を司る秩序で乱れると病気になったり性格が曲がったりする)」「楽器の音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス、実際に鳴る音楽で、声楽も含まれる)」に分類し、実際に鳴る音楽を最も下位に置いた。これは中世を通じて広く読まれ、中世の音楽に対する基本的な考えとなった。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、都市と群衆が成立した古代ギリシアからローマにかけ、ヨーロッパでは各地を渡り歩く職業芸人が隆盛を示していた。軽業(かるわざ)、動物芸、奇術、音曲をはじめとして路上美術に至る、あらゆる種類の大道芸がこの時期に演じられている。好ましい大道芸とされたのは、笛やシンバルを奏する街頭音楽と踊りであった。これらは精神を健全にする効果があると信じられ、教育的にも重視されたという。以後中世を通じて世俗音楽が盛んであったことが種々の資料から推察される。", "title": "初期中世① 4世紀~6世紀" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イスラム教が創始され、イスラム帝国が拡大を始める。ウマイヤ朝は711年にイベリア半島に侵入し西ゴート王国を滅亡させたが、732年のトゥール・ポアティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。また西ゴート王国の残党は722年以降イスラム教徒への反撃を始める(国土回復運動)。", "title": "初期中世② 7世紀~850年" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、フランク王国ではカロリング朝の開祖ピピン3世が754年と756年にランゴバルド族を打ち破って獲得した土地を教皇に寄進し、ローマ教皇を元首とする国家(教皇領)が生まれた。次のカール1世は戦争に明け暮れ、804年にザクセン人の征服を完了してフランク王国は最大となった。また800年に西ローマ皇帝の冠を教皇レオ3世から授けられ、カール1世はカール大帝(シャルルマーニュ)となり、5世紀に滅亡した西ローマ帝国が復活した。これにより、フランク王国・ローマ教皇ともに東ローマ帝国に対抗できる勢力となり、また古典古代・ゲルマン人・キリスト教からなる西ヨーロッパ文化圏が成立した。", "title": "初期中世② 7世紀~850年" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "グレゴリオ聖歌は単旋律・無伴奏で、ラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とし、8種類の教会旋法に分類される。リズムは近代音楽における機械的拍節感とは無縁である。グレゴリオ聖歌は正式には「ローマ式典礼聖歌」と呼ぶべきものだが、グレゴリウス1世にちなんで770年頃からグレゴリオ聖歌と呼ぶ習慣が生じた。しかしグレゴリオ聖歌の形成については、「(フランク王国による西ヨーロッパ統一が進められる中で)ガリア・アイルランドの地域の聖歌やモサラベの聖歌が融合された」「グレゴリオ聖歌の主要部分は、どんなに早くとも8世紀か9世紀ごろアルプスの北のガリア・ゲルマン世界で成立したものであるという見方が有力になっている」などとされており、場所も時期もグレゴリウス1世とは一致せず、グレゴリウス1世の名は伝統性を強調するために使われてきたと考えられている。", "title": "初期中世② 7世紀~850年" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ピピン3世は従来フランク王国で歌われていたガリア聖歌を禁止し、ローマ典礼に統一することを規定し、聖歌隊学校を設立した。カール大帝は聖歌隊学校をさらに増設し、聖職者たちに「ローマで歌うようなやり方で歌う」ように指示した。カール大帝に関しては宮廷付属学校を設立してアルクインを招き寄せたことが有名だが、789年の法令でその学生たちに「文法・算術・詩篇唱・および聖歌を学ぶこと」を指示している。こうした動きは彼らの統一運動とも、ローマ教皇と共存する政策とも一致する。7~12世紀にはローマ教会の勢力拡大のため、ローマ教会の聖歌をヨーロッパ全域に広める努力がなされ、グレゴリオ聖歌は広範囲につたわった。その活動の中心となったのは、教会、修道院、教会学校であった。", "title": "初期中世② 7世紀~850年" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "9~10世紀は政治的解体と侵略の危機の時期とされる。カール大帝の死後、フランク王国は東・西フランクとイタリアに三分裂する。このころ、北方からはヴァイキングが、ドナウ川東方からはマジャール人が侵入してくる。マジャール人を食い止めたオットー1世は、教皇領に侵入したイタリア王の討伐を行い、962年に帝冠を授けられ、事実上の機能停止に陥っていた皇帝権は以後ドイツ諸王によって担われることとなり、東フランク王国は神聖ローマ帝国となった。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "9世紀には、典礼をより精緻で壮麗なものとするため、すでに存在する聖歌の拡張が盛んに試みられた。その一つの方法が、聖歌の声部と別の声部を同時に歌うもので、オルガヌムと呼ばれる。9世紀末の音楽理論書《ムシカ・エンキリアディス(音楽の手引き)》にはその最古の例が見られ、元となる聖歌の完全5度下あるいは完全4度下に平行移動する対旋律をつけて歌うことから、「平行オルガヌム」と呼ばれる。元となる聖歌の下と対旋律の上にそれぞれオクターブ離れた声部を重ね、4声の平行オルガヌムとした例も紹介されている。こうした平行オルガヌムには声部の独立性は希薄であり、ポリフォニー(多声音楽)と呼ぶことにはまだ無理がある。しかし、のちには付加された声部が独自の対旋律を持つようになっていく。こうしたオルガヌムは、ポリフォニーと呼ばれる音楽構造の第一歩であり、ポリフォニーの広範な使用を際立った特徴とする西洋音楽史上極めて重要なものである。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "聖歌の拡張のもう一つの方法が、聖歌の旋律にもとから含まれていたメリスマ的な楽句に対して説明的な語句など新しい歌詞を付け加えたり、前後あるいは途中に旋律と歌詞の双方を追加したりするもので、トロープス(ギリシア語の「言い回し」に由来)と呼ばれる。全体としては旋律と歌詞の双方を追加するものが多数を占めている。こうしたトロープスのうち、アレルヤ唱に続く長いメリスマに対して歌詞を付け加えたものはセクエンツィア(続唱)と呼ばれるようになり、後に多くの曲を生み出すことになる。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また初期のトロープス《だれを捜し求めるのか》に見られる天使と3人のマリアの間のやり取りを対話形式で表したものは10世紀にはミサと切り離され、教会堂の一角にすえられた簡単な舞台装置で小規模な劇として行われるようになり、典礼劇として発展を始める。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9世紀末までは聖歌は全て口承で伝えられていた。9世紀終わりごろに「ネウマ」とよばれる記号が歌詞の上に手書きで書かれるようになり、グレゴリオ聖歌が記録に留められるようになる。しかし初期のネウマは旋律のすすむ方向(上行か下行か)や旋律パターンを大まかに指示するだけで、音価は曖昧であった。これは文法上のアクセント記号に端を発しているためで、覚え書き程度のものであり、知らない歌をそこから読み取って歌えるようなものではなかった。少し経って、ネウマをいろいろ異なった位置に置き、音高をできるだけ正確に表示しようとする音高ネウマが現れるが、リズムについてはまだ曖昧であった。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "613年にスイス山中に建設された僧房は720年にザンクト・ガレン修道院として確立され、間もなくベネディクト会に転換した。図書館・学校を中心とする学問・教育活動は著しく、写本画、手工芸品、教会音楽など芸術面での功績も大きい。9世紀起源の現存する最古の聖歌譜で知られるが、古い形のネウマが暗示的に表していた微妙な音楽的要素が失われないよう、音高ネウマを避け続けたことでも知られる。トロープスやセクエンツィアの初期の作者として知られるザンクト・ガレン修道院の修道士ノトケル・バルブルス(吃音のノトケル、840頃~912)は、以前はセクエンツィアの創始者と考えられていたが、現在では既に存在していたそれらの大成者と考えられている。", "title": "初期中世③ ロマネスク 850年~1000年" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "神聖ローマ皇帝と教会は聖職者の叙任権を巡って対立し(叙任権闘争)、1077年のカノッサの屈辱はその頂点であった。その結果皇帝権がローマの至上権に屈し、教皇権が勝利したが、その後も緊張関係は続いた。が、1096年に派遣された第1回十字軍の成功は、12~13世紀のローマ教皇の絶頂期を出現させた。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "10世紀末以降、教会が主導した騎士の私闘を抑制する「神の平和」運動や、最終的にはキリスト教徒同士の戦闘を禁止するに至った「神の休戦」運動により、騎士たちは「キリストの戦士」として教化され、異教徒や異端に対する聖戦を使命とするに至る。12世紀には騎士の規範は「騎士道」として形をなしていき、騎士の使命は十字軍で戦うこととされた。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "三圃制の普及に伴い農業生産性が著しく高まり、民族移動の時代は終わり、定住人口が飛躍的に増大し、大規模な経済発展が見られるようになる。都市が復活し、商人ギルドや職人ギルドの活躍で大規模な商業も発達した。国土回復運動の結果、カスティリャ王国は1085年にトレドを奪還し、以後トレドは、イスラム圏に残された古代ギリシアの古典がヨーロッパに流入する拠点の一つとなった。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オルガヌムは11世紀になると、聖歌の声部が下声に移り、反進行や斜進行をも加え各声部が自由に動くようになり、時には声部交差をも行う「自由オルガヌム」に発展する。12世紀に入ると、聖歌の声部の1音符と対旋律の1音符という対応関係が崩れ、下声部に置かれ長く引き伸ばされた聖歌の声部1音符に対して対旋律が音をいくつもメリスマ的に連ねて歌う「メリスマ的オルガヌム」が現れる。ただし実例としては、自由オルガヌムとメリスマ的オルガヌムの中間的な形態の、聖歌1音符に対して対旋律2~4音符の様式が多く、1曲の中でメリスマ様式と中間的な形態が交互に並置されるのが普通である。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "こうした実例は、イングランドのウィンチェスター大聖堂に伝わる11世紀半ばの「ウィンチェスター・トロープス集」や、当時フランス王を凌ぐ繁栄を見せていたアキテーヌ公国(フランス南西部)のリモージュにあった聖マルシアル修道院で12世紀初めにつくられた写本や、エルサレムやローマに匹敵する三大巡礼地の一つであるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラで12世紀につくられたカリクストゥス写本によって知られる。ウィンチェスター・トロープス集はイングランド独特のネウマ符で記され、実際の音の判読はほぼ不可能であるが、聖マルシアルとサンティアゴ・デ・コンポステラの曲集はアキテーヌ方式とされるネウマ符で記され、音の高さもほぼ正確に示されている。が、リズムの表示はされていない。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1000年頃には譜表記譜法(譜線を用いた記譜法)が生まれ、相対的な音高が正確に正確に表示されるようになった。11世紀初めのイタリアの音楽理論家グイード・ダレッツォは、等間隔で水平に3~4本の直線を引いて線上または線間に音符を書き入れて音高を示す記譜法を考案し、グレゴリオ聖歌を記録した。また、階名唱法を考案して楽譜の視唱を容易にし、現在のドレミのもとになるものをつくった。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "11世紀末、フランス国王よりも広い所領を持っていたアキテーヌ公・ポワティエ伯のギヨーム9世は、最古のトルバドゥール(騎士歌人・宮廷歌人、以前は吟遊詩人と呼ばれた)として記録に残る。トルバドゥールとは11世紀末から13世紀末にかけて、南フランスを中心に活躍した抒情詩人兼作曲家の総称である。彼らは「抒情詩は歌謡である」と考えた古代ギリシア人に倣って詩作をした。歌詞は中世ヨーロッパの文語であるラテン語ではなく彼らの口語であるオック語で書かれ、民衆歌謡から新たな詩形・旋律・リズムを取り入れている。トルバドゥールは400人以上が知られるが、その多くは貴族であり、王侯も含まれる。背景には、騎士たちの交流が盛んとなる中、自分が単なる武人ではなく教養人であることを示す目的があったとする推測がある。歌詞の中心的な主題は宮廷風恋愛であるが、騎士道、宗教、政治、戦争、葬儀、自然におよび、約300の旋律、約2600の詩句が残っている。この時代の記譜では音の長短がはっきりつかめないが、メリスマ唱法でゆったりとしたテンポで歌われたと推測されている。名高いトルバドゥールとして、先に挙げたギョーム9世のほか、北フランスでも有名になったベルナルト・デ・ヴェンタドルンや第4回十字軍に参加したランボー・ド・ヴァケイラス、ダンテの神曲に影響を与えたアルノー・ダニエルなどが挙げられる。女性のトルバドゥールはトロバイリッツと呼ばれ、自身の愛を歌にしたベアトリッツ・デ・ディアや失意の詩人を救った恋愛討論詩が知られるマリー・ド・ヴァンタドゥールなどが挙げられる。13~14世紀に編纂された「ヴィダス(伝記)」と「ラツォス(注解)」と呼ばれる評伝や作品を伝える30ほどの写本によって知られている。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中世の職業的音楽家として、ジョングルール(大道芸人)とメネストレル(職業芸人)が挙げられる。ジョングルールは各地を巡る旅の芸人であるが、有力者の館や城で芸を披露するうちに彼らの許に留まるよう誘われ、仕えるようにもなった芸人がメネストレルである。もともと彼らが扱う世俗音楽はその場の演奏を楽しめればよく、記録する発想はなく、仮に記録したくても文字や楽譜を書き記す能力がなく、彼らの音楽はもっぱら口伝で習得・伝達されていた。が、彼らはトルバドゥールの伴奏や、遠隔地での歌や演奏を担当するようになり、トルバドゥールの歌曲をヨーロッパ各地に伝えた。彼らの中にはお抱えジョングルールからトルバドゥール身分に出世する者や逆に後者から前者に没落する者などが現れ、両者の混交が存在した。彼らの音楽には直接記録されたものはないが、先述のランボー・ド・ヴァケイラスの《五月の一日》はジョングルールが演奏する舞曲(エスタンピー)の旋律に詩をつけたと伝えられ、事実なら奇跡的に残されたジョングルールの舞曲と言うことになる。", "title": "盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "エルサレムはイスラームに奪還され、13世紀初めの第4回十字軍は同じキリスト教徒のコンスタンティノープルを攻撃・占領し、十字軍運動は変質して経済的な目的が強くなっていく。以後の十字軍は一時を除いて聖地奪還に失敗し、教皇権の衰退につながっていく。十字軍は1270年を最後に行われなくなり、1291年には西アジア最後の十字軍拠点のアッコンが陥落し、十字軍の時代は完全に終わった。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "都市の繁栄と十字軍に伴う東方からのギリシア古典文化の流入は、12世紀ルネサンスと呼ばれる知的高揚を生み出した。こうした背景のもと、都市に集まっていた教師(その多くは聖職者であった)と学生が形成していた私塾は手工業者の同業組合に倣ってギルドを形成し、大学が設立されていく。〈自生的大学〉と呼ばれるボローニャ大学、パリ大学、オックスフォード大学などは、12世紀後半から13世紀にかけて形成されている。こうした学問の世界に新風を吹き込んだのは、ギリシア思想といえばプラトン一辺倒だったところにアラブから持ち込まれたアリストテレス思想であった。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "はじめ修道院を中心に発展した多声音楽は、ゴシック様式の大聖堂が次々つくられる頃になると、都市の大聖堂にその場所を移すことになった。都市の大聖堂で多数の聴衆に聴かれるようになったことで、多声音楽はそれまでの小規模な形を脱し、祝典的な構成の大楽曲に変化してゆく。その中心となったパリのノートルダム大聖堂(1163年起工)では、12世紀半ばから13世紀にかけてレオニヌスとペロティヌスといった優れた人物が現れ、ノートルダム楽派と呼ばれる。レオニヌスが〈オルガヌム大全〉で示した2声のオルガヌムでは、ラテン語のアクセントが強弱ではなく長短であることを応用し、古典詩の韻律に基づいて6つのリズム型とその表記法を定め、それらを基本として新しい楽譜の記し方を工夫している。これはモード記譜法と呼ばれる。その結果、現代の耳には6拍子と感じられるような強烈なリズムが耳に残ることになる。ただレオニヌスの作品は即興で歌ったものを後で書き記した可能性が強く、リズムの表示は必ずしも明確ではない。それに対してペロティヌスはレオニヌスの曲集を改訂し、3声や4声の作品としたため、即興というわけには行かず、最初から書き留める必要があり、リズムの表示もより明確なものとなった。このようなノートルダム楽派の音楽に関して、皆川達夫は「多声音楽の一つの頂点」としている。ペロティヌスのオルガヌムは13世紀後半のパリにおいて(おそらくそれ以後も)なお歌われ、彼らの作品は何度となく書き写され、ヨーロッパ各地(ドイツ・イタリア・スペイン・スコットランドなどに写しが残る)に伝えられた。しかしそれに続くオルガヌム作品は知られる限り存在せず、1200年の時点でオルガヌムは250年にわたる歴史の最終段階を迎えていたと言える。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "もともと多声化されたオルガヌムには、オルガヌム様式(元の聖歌を長く引き伸ばした声部の上でメリスマ的な旋律が展開)とディスカントゥス様式(聖歌の声部とオルガヌムの声部がほぼ1対1に対応する)が現れていたが、ノートルダム楽派では、オルガヌム様式部分の聖歌の声部は極端に長く引き伸ばされ、ディスカントゥス様式部分では全声部にモードリズムが使われるようになった。この部分の様式はクラウスラと呼ばれる。クラウスラはやがて独立した楽曲となって単独で歌われるようになり、さらにはもともと母音で歌われていたその上声部に新たな歌詞がつけられ、新たな歌詞を得たその声部・やがては楽曲そのものがモテット(モテトゥスとも、「言葉」の意)と呼ばれるようになり、13世紀以後数多く作曲されていく。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イングランドではノルマン・コンクエストに伴い数多くの司教座聖堂が生まれ、それぞれ固有の典礼を持つに至ったが、そのうちソールズベリー教区では独自の聖歌集を編纂して用いた。現存する最古の写本は13世紀のもので、ソールズベリー聖歌(セーラム聖歌)と呼ばれる。グレゴリオ聖歌と同様の特徴を持つが、音域はより狭く、より形式的な構造を持ち、より「移調」(音高の変更)を多用する。これらは特に15~16世紀のポリフォニーに素材を提供している点でも重要である。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "13世紀のイギリス音楽には同時代のフランス音楽の影響が認められ、ノートルダム楽派の技法をいち早く取り入れたのもイギリスであったが、ノートルダム楽派のレパートリーにはソールズベリー聖歌集特有の定旋律が含まれており、また当時フランスで活躍した重要な音楽理論家の中に3人のイギリス人(ガルランディア、第4無名者、オディントン)がいて、ノートルダム楽派の作品を含む最初期の写本がスコットランドで成立した事実は、イギリスとフランスの間の影響関係を物語っている。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モテットは初期においては新しい歌詞はラテン語で書かれ、その内容も元の聖歌の内容を解説・展開するようなものであったが、歌詞の内容は次第に元の聖歌を離れ、さらには全く関係ないような内容となっていき、13世紀を通じて次第に世俗化していく。言語もラテン語である必要がなくなり、フランス語でつけるようになった。また複数の対旋律に異なる歌詞をつけて歌うのが一般的となり、聞き手が歌詞を聞き取るのが難しくなった。こうしたモテットは、初期には聖職者や神学生によって書かれたものと考えられるが、ポリフォニー音楽の作法が大学での教育などを通じて教会の外部に伝えられて新たな発展を遂げ世俗化したという。実際、後述するトルヴェールの一人とされるアダン・ド・ラ・アルはパリ大学に学んで少なくとも5曲のモテットを残しており、恋の悩みや政治風刺などを歌詞に含んでいる。こうした権力批判・社会風刺的な歌詞を歌のに、歌詞を聞き取りにくいのは好都合だったという推測がある。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大学が増えた13世紀には、修学途中で脱落し、あるいは大学を出ても就職できぬまま地方を放浪した「放浪学生(ゴリアール)」が多く輩出したが、彼らは酒色におぼれ、高位聖職者、ときには教皇庁を攻撃するのみならず、聖書や祈裳文をもじった不穏な言葉をまき散らすとして、繰り返し教会から厳しい非難の対象となった。酒と女から得られる快楽を歌い、高位聖職者を風刺した詩を残しており、最も著名なのはバイエルンのボイエルン修道院に伝えられた「カルミナ・ブラーナ」である。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この時代のポリフォニーの記録としては、モンペリエ大学医学部に所蔵されているモンペリエ写本、北スペインのラス・ウエルガス修道院で筆写されたラス・ウエルガス写本、バンベルク大聖堂に長年保管されていたバンベルク写本などが名高い。これらは「異なる長さの音符は、異なる形で示す」という明快な方法で記譜され、定量記譜法と呼ばれる。が、三位一体から「完全なものは三つから成る」という考え方を反映してか、音符の分割は三分割を基本としており、表記は複雑であった。こうした初期の定量記譜法を実用に耐えるものとして体系化したのが、1280年頃に書かれたケルンのフランコの理論書「計量歌唱法 Ars cantus mensurabilis」である。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "典礼劇は行われ続けており、ルペルツベルク女子修道院長で西洋音楽史上初の女性作曲家とされるヒルデガルト・フォン・ビンゲンは1158年以前に修道女全員が参加する「オルド・ウィルトゥトゥム(道徳劇『諸徳目の秩序』)」を書いている。また当初は教会堂の一角で行われていたものが教会堂全体に、さらには教会や修道院を出てその前の広場へと移り、劇の言語はラテン語から各地の口語へ、演じ手は聖職者から一般民衆へ移行し、降誕祭劇・復活祭劇・三王来朝劇などそれぞれの祝祭日に行われた劇が13世紀には集大成されて受難劇(聖史劇)となり、中世後期の一大文化財となった。12世紀末あるいは13世紀初めに、北フランスのボーヴェで上演された「ダニエル劇」は、劇的起伏に富み、楽譜も完全な形で残っている注目すべき作品である。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "12世紀中葉から、トルバドゥールの強い影響下に北フランスのオイル語を用いて詩作・作曲を行うトルヴェールが現れる。アリエノール・ダキテーヌ(ギョーム9世の孫娘)とフランス王ルイ7世の結婚が大きな契機となったという。さらにアリエノールはヘンリー2世と再婚していわゆるアンジュー帝国が成立するが、それに伴ってトルバドゥールたちの活動場所もアンジュー・ノルマンディー・イングランド等の北方に移っていき、彼らもトルヴェールと呼ばれる場合がある。トルヴェールはトルバドゥール同様、愛に関して歌っているが、トルバドゥールが女性の肉体の美しさをも賛美し肉体の愛を忌避していないのに対して、トルヴェールは愛の精神性と規範への関心を強めている。またトルヴェールは英雄叙事詩にも力を入れている。およそ1400の旋律と4000の詩句が残されている。13世紀初めのアルビジョア十字軍が南フランスの宮廷を荒廃させ、トルバドゥールが衰えていく中、その影響を後に伝えた。アーサー王物語や聖杯伝説など騎士道物語の作者としても名高いクレティアン・ド・トロワや、作詞・作曲ばかりでなく劇作者としても名高く中世喜劇の傑作「葉隠れの劇」や「ロバンとマリオンの劇」が有名なアダン・ド・ラ・アルが代表的である。アリエノールの息子のリチャード1世もトルヴェールとして高名で、「囚われ人は決して」は捕囚伝説とともに有名であるが、これは後世の作のようである。女性のトルヴェールはトルヴェレス(Trouveresse)と呼ばれ、ヘンリー2世とアリエノールのイングランド宮廷のメンバーと推測されるマリー・ド・フランスなどが知られる。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "12世紀末以降を盛期として、トルバドゥールの影響のもと、ドイツ語で「愛(宮廷風恋愛)の歌い手」を意味するミンネジンガーが現れる。ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ女伯)と神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の結婚が大きな契機となったという。愛の歌とは言うものの、男女に共通の恋愛感情の自然の流露ではなく、貴婦人に対する騎士の一方的求愛の理想化表現であるのが特徴であり、女性詩人がいない。ヴァーグナーの楽劇「タンホイザー」のワルトブルク城の歌の殿堂の場に登場するタンホイザー、ウォルフラム・フォン・エッシェンバッハ、ナイトハルト・フォン・ロイエンタールらは、すべて実在したミンネジンガーであり、ワルトブルク城における騎士たちの歌合戦も、1206年に実際に行われたとする説がある。既出の者の他に重要な者は、ゲーテ以前のドイツ最大の抒情詩人とされるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデなどが挙げられる。ミンネジンガーについては14世紀初頭の「大ハイデルベルク歌謡写本(マネッセ写本)」や「イェーナ歌謡写本」などで知られる。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "トルバドゥールの芸術は、13世紀のイタリアでトロバトーレの活動をうながし、ダンテらもその影響を受けたようであるが、トロバトーレの歌の楽譜は全く残っていない。13世紀には、アッシジの聖フランチェスコの宗教運動と結びついた典礼外の単旋宗教歌ラウダ(賛美の意)の創作が盛んになった。ラウダの歌詞は当時の中部イタリアの俗語で書かれており、その詩形には、北フランスのトルヴェールによって形の定められたヴィルレーの影響が認められる。ルーツは聖フランチェスコの「太陽の賛歌」に行きつく。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同じ頃スペインでは、トルバドゥールの歌から派生した俗語による単旋律宗教歌カンティガ(歌)が作られた。形式的にはラウダ同様、単旋律世俗歌の一形式であるヴィルレー(スペインではビリャンシーコ)と深いかかわりをもち、聖堂外での信徒の集団的な宗教行為(悔悛の苦行など)に用いられた。中でも自身もトロバドール詩人で最後の世代のトルバドゥールの庇護者でもあった賢王アルフォンソ10世の編纂による「聖母マリアのカンティガ集」が名高く、聖母マリアを賛美した中世ガリシア語で書かれた400以上の歌曲を含む。異教の女神信仰を思わせるマリア崇拝に対してキリスト教会は否定的だったが、中世の人々はしばしば神を迫害者、マリアを擁護者とみるほど先鋭化しており、カンティガ集は中世人の願いと痛烈な権威への批判を示すものという評価がある。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "キリスト教権の強かった中世には、舞踏は異教的なもの・非宗教的なものとして、その音楽も記譜されることがなかった。しかし、トルバドゥールたちの出現とともに、一定の形式をもつ輪舞形態のエスタンピー(踏み鳴らすの意)やキャロル(中世フランス舞曲)が誕生し、歌われたり楽器で奏されたりし始めた。13世紀以降は舞曲が具体的に楽曲として残り始め、続く14世紀は16世紀とともに「舞曲の世紀」と呼ばれるに至る。", "title": "盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "14~15世紀は、ヨーロッパは増大した人口を抱えたうえ、地球の長期的な寒冷期にぶつかり、激しい飢饉に見舞われた。1315~17年にヨーロッパの広範な地域を襲った大飢饉はその代表的なものである。1348年にヨーロッパに波及したペストは、人口の1/3を死に至らしめ、ヨーロッパ荘園経済は衰微し、宗教と学問の権威は失墜し、中世的な秩序が崩壊し始める。1303年のアナーニ事件、1309年からのアヴィニョン捕囚、1378年からの教会大分裂は、教皇の権威を落とした。1339年~1453年の百年戦争は、教皇の調停力低下が引き起こし、長期化させたものでもあった。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方、十字軍運動の影響で始まった東方貿易の拠点であった北イタリアでは商業都市が発展し、富豪が現れ新興の都市貴族として成り上がっていく傾向を見せる。都市の市民文化が成長し、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらが現れ、文芸でルネサンスが始まる。さらに14世紀初頭にマルコ・ポーロの「東方見聞録」が読まれるようになり、1310年頃には羅針盤が発見され、未知の世界に対する関心が高まった。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ヴァロア朝3代目の国王シャルル5世の弟フィリップ(大胆公)は慣例に従って1363年にブルゴーニュ公となり、結婚を通じて広い領土を獲得した。彼の3代にわたる子孫はいずれも相続や購入によって積極的な領土拡大政策を採り、フランドルからスイスに至る巨大な国をつくりあげ、本家のフランスをしのぐようになった。ホイジンガが〈中世の秋〉で描写したこのブルゴーニュ公国は歴代君主が芸術を保護したので諸文化面とりわけ音楽分野でヨーロッパの中心的存在となり、多くの優れた音楽家を輩出することとなる。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "各地の領邦君主領はその基礎を固め、諸侯の宮廷が領邦の政治的・文化的中心として権威と栄光とを競うようになっていく。ブルゴーニュ公国のディジョンとヘントに置かれた宮廷はその典型である。またイタリアではフィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオ(1298建設開始)やヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮、1309建設開始)などの支配者のための居館が建設され都市のシンボルをなし、それぞれの君侯は居館に廷臣を集め芸術家を抱えて栄華を誇るようになっていく。やがてこうした大規模な宮殿建築はアルプス以北にも広がっていき、このようなイタリア諸都市の宮廷人の姿はやがて最盛期を迎える宮廷文化の模範となって行く。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1322年頃、フランスの司教フィリップ・ド・ヴィトリは理論書「アルス・ノヴァ」(「新しい技術」の意)を著し、それまでの3分割(完全分割)に加えて2分割(不完全分割)も同等に扱い、さらに細かい音符も導入することで、前時代の音楽より自由で複雑なリズムを用いた音楽の記譜が可能となった。ヴィトリの理論は現在の記譜法の基礎となったが、二拍子系のリズムの導入は当時の宗教者たちの逆鱗に触れて大論争となり、ついにはアヴィニョン教皇庁のヨハネス22世から1324/25年に禁止令が出されるに至った。が、こうした抵抗に関わらず、以後のフランスにおいては「アルス・ノヴァ」の考え方に沿ったポリフォニーの発展が見られた。そのため14世紀のフランスの音楽は「アルス・ノヴァ」と呼ばれ、それと対比して13世紀のフランスの音楽を「アルス・アンティクア」と呼ぶ場合がある。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "以前は多声音楽といえばラテン語による宗教曲がほとんどだったが、14世紀に入るとフランス語やイタリア語で愛や生活感情を歌い上げる世俗多声楽曲が盛んになった。13世紀末に活躍した最後のトルヴェールのひとりアダン・ド・ラ・アルは既に3声のためのフランス語世俗歌曲を何曲か残している。アルス・ノヴァの代表的作曲家はボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハンの司祭ならびに秘書で詩人のギョーム・ド・マショーで、当時最高の作曲家・詩人として国際的に名声が高かった。ヴィルレー・ロンド―・バラードといった世俗歌曲ではトルヴェールの単旋律歌曲の伝統を受け継ぎつつ、新しいリズムと多声書法による装いを施し、歌曲定型を確立し、以後のフランス多声歌曲の方向を決定づけた。すでに世俗化していたモテットでは、アイソリズム(イソリズムとも、定型反復リズム)の技巧を推し進めた。世俗音楽、モテットとも、フランス語の歌詞はマショー自身の作と考えられている。〈心情から作らない者は、その言葉も歌も偽って作ることになる Qui desentiment non fait/son dit et son chant contre‐fait〉という韻文による言葉を遺したマショーは、「みずからの心にたしかめつつ、作品を創り上げた音楽史上最初の個性ある芸術家であった」と皆川達夫は評価している。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "14世紀の宗教曲は、アヴィニョン教皇庁でつくられたもののほか、見るべきものはほとんどないとされるが、マショーの〈ノートルダム・ミサ曲〉は、ミサの通常文(キリエ:あわれみの賛歌、グロリア:栄光の賛歌、クレド:信仰宣言、サンクトゥス:感謝の賛歌、アニュス・デイ:平和の賛歌)を1人で全て作曲した最古の例であり、15世紀中葉以降一般化するミサ曲の創作を先取りしている。このように、マショーは当時用いられていたほとんどの音楽形式による曲で知られる。また、スペイン(カタルーニャ)・バルセロナ郊外の、黒い聖母で知られるモンセラート修道院に伝わる「モンセラートの朱い本」は、初期多声聖歌の発達においてスペインが他国に劣らなかったことを示す価値の高い資料である。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "受難劇は、15世紀にかけてヨーロッパ中に浸透し、キリストの全生涯・旧約聖書中のエピソードや外典中の物語・さらには土着的な伝承なども付け加えるという形で大規模化・世俗化していった。劇の中では、ときに悪魔が跳梁跋扈し、舞台の袖にはグロテスクに表現された地獄が大きな口をあけていた。1452年には聖史劇の頂点であるグレバンの《受難の聖史劇》も出現した。これは初日(天地創造から受胎告知)、2日目(バプテスマのヨハネの場から最後の晩餐)、3日目(ゲッセマネから磔刑)、4日目(復活)の構成で、登場人物が数百人、詩句の総行数は3万4574行という、途方もなく大規模なものであった。世界演劇史をみても、このような形での民衆の熱中によってささえられた演劇はほとんど見られない。しかし、以後ルネサンスに入り、宗教改革の影響にもさらされ、こうした受難劇は存在するための基盤を失い、急速に衰微することとなる。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "14世紀イタリアの音楽は、トレチェント音楽(300の意味。この場合は1300年代ということ)と呼ばれる。13世紀に至ってもイタリアではまだ単旋律が主流であったが、14世紀に入るとイタリアは中世都市文化が栄える中、マドリガーレ(牧歌の意か)・カッチャ(狩りの意)・バッラータ(踊り歌の意)といった世俗歌曲にフランスの多声音楽を受け入れ、愛や現世の生活感情をイタリア語でうたいあげた。トレチェント音楽はアルス・ノヴァと同時代以降であるが、彼らの記譜法はアルス・ノヴァに比べればはるかに単純で分かり易く、アルス・アンティクアの延長上にある。これは「トレチェント音楽の関心が単純な旋律の流れと効果的な装飾」にあったため、「理論より実践的傾向が強く、...リズムよりも旋律に重点を置いた作曲法が用いられていた」ためであろう。実質ヴィトリとマショーしかいないアルス・ノヴァに比べ、ペトラルカやヴィトリと交友があったヤコポ・ダ・ボローニャ、盲目の名オルガニストのフランチェスコ・ランディーニ、ランディーニの師として知られるロレンツォ・ダ・フィレンツェを始め、多くの作曲家が知られる。彼らの作品は大英図書館に保存されているロバーツブリッジ写本、鍵盤音楽最古の写本とされるファエンツァ写本、フィレンツェのロレンツォ図書館蔵でトレチェント音楽最大の一次資料とされるスクアルチャルーピ写本で知ることができる。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "封建領主、貴族などの一定のパトロンに雇われ、彼らの城館でおのおの得意な楽器を演奏したり、トルバドゥールやトルヴェールの作品を歌ったり伴奏したりする人々はメネストレルと呼ばれていたが、13世紀中ごろからメネトリエとも呼ばれるようになり、14世紀に入るとこの呼称が一般化した。1321年にはパリに聖ジュリアン楽士組合(メネストランデーズ)が結成され、定期的な集会が開かれ、音楽教育を目的とした学校も設立された。イギリスではフランスの影響によって早くからミンストレル(メネストレルよりも意味が広く、宮廷歌人や大道芸人を含む)の伝統が確立し、宮廷においては特許状を受けた「国王のミンストレル」が活躍するようになり、15世紀中ごろまでには組合も成立したが、その代表的なものは都市に定着し、「市のミンストレル」と呼ばれるようになった。いずれにしても、宮廷音楽家としてのメネトリエやミンストレルの活動が盛んだったのは13~15世紀であり、その後は次第に衰退する。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "14世紀後半になると、アルス・ノヴァとトレチェントの交流がアヴィニョン教皇庁の宮廷などを舞台に生まれ、音楽史上まれに見る複雑な音楽様式が展開された。以前はこれはアルス・ノヴァ後期とされたが、近年ではアルス・スブティリオル(繊細様式)として扱われるようになっている。極端にまで技巧的な作風、通常の黒符を白抜きにする・赤や青の符を用いる・拍子記号を頻繁に変化させるなど複雑極まりないリズムを表記するための記譜上の工夫、視覚効果を狙っての円形やハート形の楽譜などを特徴としている。「煙の歌」が名高いソラージュ、トレボール、フランスやイタリアで活躍した最初のフランドル人作曲家ヨハンネス・チコーニア、ハープ奏者でもあったジャコブ・ド・サンレーシュ、ハート形や円形の楽譜が有名なボード・コルディエなどが挙げられる。パリ近郊のシャンティイ城に保存されていたシャンティ写本で知られる。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ドイツでは14世紀以降、騎士階級を基盤とするミンネジンガーは、靴屋・仕立屋・織匠・金細工師等が組合を組織して詩と歌の腕を磨き合い合格するとなれたマイスタージンガーに取って代わられていく。ドイツ諸都市の勃興が背景にあるという。歌われる題材は当初は宗教的カトリック的であったが、宗教改革後はルターの福音主義を採り、16世紀に入ると宴会歌として娯楽要素が増し、時事問題、歴史もの、滑稽ものなども歌われるようになった。が、歌唱は一貫して単旋律であった。他国が優れた多声音楽を栄えさせた15-16世紀に至ってもなお単旋律歌曲に熱中しているあたりは、当時のドイツ音楽の後進性をあらわしていると皆川達夫は評している。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "イングランドの15世紀以前の音楽の資料はごく限られているが、ポリフォニーが盛んに歌われていたことは明らかである。大陸では見られない3度と6度の和音の多用がイングランドの音楽の特徴で、13世紀末あるいは14世紀初めころつくられた有名な「夏のカノン」、14世紀初めにつくられた「めでたし童貞マリアの御胎 Beata Viscera」、14~15世紀に数多くつくられたキャロル(中世フランスの舞曲から派生した民衆的な宗教歌、アジャンクールの戦いの戦勝記念の「神に勝利を感謝せよ Deo gratias Anglia」がとくに有名)ではそれぞれ3度と6度の音程が極めて効果的に使われている。また聖歌を歌う際に行われたファバードンという即興演奏法は、平行オルガヌムの応用ともいえる方法で、聖歌の三度下と完全四度上の音程で並行に動く対旋律をつけるというもので、結果的に全ていわゆる6の和音となる。3度と6度の音程は中世音楽理論では否定されているが、ポリフォニーを楽譜に頼らず即興で歌ううちに理論に頼らず耳で快い響きを持つ長三度(純正三度)を見つけたのではないかという推測がある。これは15世紀に入って、初期ルネサンスの詩人や理論家が言及した「甘美な響き」の起源であり、ピタゴラス音律に代わって純正律が登場したできごとであった。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "百年戦争末期、フランス北部はイングランドの占領下におかれ、イングランド国王ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンは1422年~1435年まで摂政としてフランスに滞在した。公に仕えていて同行したジョン・ダンスタブルは音楽家であると同時に数学者、天文学者でもあったが、彼の作品はフランスのアルス・ノヴァの手法を借用しながらも、より自然な旋律の流れや響きの良い音程の使用などで、フランスの同様の作品とは一線を画している。このようなイングランドの音楽作品は、大陸の音楽家に計り知れない影響を与えた。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ダンスタブルの死後20年ほど経った1477年、フランドル出身の音楽理論家ティンクトリスは、次のように記している。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "...この時代(15世紀中ごろ)にいたって、われら(大陸)の音楽は、新芸術とも呼ぶべき優れたものとなってきた。その新芸術は、ダンスタブルを代表とするイングランド人によってはじめられたものである。...", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また、1441年頃にブルゴーニュ公国の宮廷で活躍していた詩人マルタン・ルフランが、フィリップ善良公に献呈した詩集の中で、デュファイらの新しい歌曲の書き方には、ダンスタブルの影響をうかがわせる「イングランドの表情」が見られると言っている。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ブルゴーニュ公国の宮廷と関係を保っていた15世紀のフランドル出身の音楽家たちは、ブルゴーニュ楽派と総称される。彼らは少年期にフランドルで中世以来フランスで開発されてきた多声書法を、若い頃イタリアで活躍してかの地の音楽を、そして百年戦争末期に滞在していたイングランドの音楽家からイングランド特有の作曲法を学び、各国の音楽技法の総合化・国際化を果たした。その総合化の仕事を最も著しく、かつ最も精力的に果たしたのが、ギョーム・デュファイであった。皆川達夫は、音楽におけるルネサンスとはデュファイの創作とともに始まり、展開していったと評価している。金澤正剛は「この新しい指導者の手によって音楽史の新しい時代が展開することとなった事実には疑う余地もない」としている。一般的にはここからルネサンスが始まると考えてよいだろう。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "こうしたブルゴーニュ楽派を、「〈中世の秋〉であるとともにルネサンス時代の夜明けである」「中世的要素と近世的要素を併せもつ過渡期」としている記載もある。が、その場合でも15世紀半ば以降のフランドル楽派を中世とはしない。中世西洋音楽が完全に終わるのはここと考えてよいだろう。", "title": "後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年" } ]
中世西洋音楽(ちゅうせいせいようおんがく)は、中世ヨーロッパの音楽を指す。古代の音楽とルネサンス音楽の間に当たる。
{{Portal クラシック音楽}}'''中世西洋音楽'''(ちゅうせいせいようおんがく)は、[[中世ヨーロッパ]]の音楽を指す<ref name=":0">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E9%9F%B3%E6%A5%BD-1185372 |title=コトバンク「中世音楽」 |access-date=2023/10/14}}</ref>。[[古代の音楽]]と[[ルネサンス音楽]]の間に当たる。 == 時期および時代区分 == [[西洋史]]における[[中世]]は、一般に4~5世紀の[[西ローマ帝国]]末期から15世紀頃までとされる<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E4%B8%96-97328 |title=コトバンク「中世」 |access-date=2023/10/14}}</ref>。音楽における中世も概ね時期は一致するが、開始時期については[[ローマ帝国]]の[[キリスト教]]受容を起点として4世紀とするもの<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「中世音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、「400年から500年頃から」とするもの<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「中世音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、5世紀半ば過ぎからとするもの<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=14}}</ref>、[[グレゴリオ聖歌]]を起点として9世紀から記載するもの<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=31}}</ref>、あえて明示しないものなどがあり、終わりに関しても「14世紀まで」「15世紀前半まで」「1450年頃まで」など様々見られる。 また、長く取れば1000年以上におよぶ音楽における中世には内部の[[時代区分]]がありうるが、これもほぼ西洋史に準拠して「[[中世前期|初期]](~900)」「[[中世盛期|盛期]](900~1300)」「[[中世後期|後期]](1300~)」とするもの<ref name=":2" /><ref group="注釈">ただし、年代は一般的な西洋史の時代区分とずれている。</ref>、様式上の区分で「初期中世(~850)」「[[ロマネスク]](850~1150)」「[[ゴシック]](1150~1450)」とするもの<ref name=":1" /><ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、特に区分しないが14世紀のみ「[[アルス・ノーヴァ|アルス・ノヴァ]](フランス)」「[[トレチェント音楽]](イタリア)」とするもの<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=21}}</ref>など様々見られる。 == 概要 == 中世西洋音楽は、キリスト教[[聖歌]]、特に[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の[[典礼聖歌]]である[[グレゴリオ聖歌]]の成立と、もともとその聖歌の敷衍・拡張として始まった[[ポリフォニー]](多声音楽)の発達を最大の特色としている<ref name=":3" />。初め単旋律だった聖歌に、早くも9世紀には[[典礼]]をより荘重にするために新たに説明的な歌詞をつけたり旋律の音数を増やして拡張したり([[トロープス]])<ref name="名前なし-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=27}}</ref>、同じ聖歌を異なった高さで同時に歌って重厚な響きを添えたり([[オルガヌム]])<ref name="名前なし_2-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=28}}</ref>ということが行われ始める。やがてオルガヌムは独立性を高め、11世紀には聖歌の旋律にのせて新しい装飾的な旋律を歌うようになった<ref name=":1" />。12世紀後半から13世紀前半には[[パリ]]の[[ノートルダム聖堂|ノートル・ダム寺院]]で、[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89-1435956 モード・リズム]と呼ばれる明確なリズムを持つ2~4声部の華麗なオルガヌムが歌われ<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=28}}</ref>、14世紀の[[ギヨーム・ド・マショー|マショー]]の4声の「[[ノートルダム・ミサ曲]]」(ひとりの作曲家によって通作された最古の[[ポリフォニー|多声]][[ミサ]])や数々の[[モテット]]に至る<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC-136185#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |title=コトバンク「マショー」 |access-date=2023/10/14}}</ref>。 その一方で、世俗音楽も盛んであったことが推察され、11世紀末以降には記録に残り始める<ref name=":5">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=42}}</ref>。その担い手は、[[トルバドゥール|騎士歌人]]<ref name=":4" />(宮廷歌人とも<ref name=":29">{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |page=278 |author=上尾信也}}</ref>)や[[ジョングルール|大道芸人]]や[[ミンストレル|職業芸人]]<ref name=":5" />(以前はこれらは混同され「[[吟遊詩人]]」などと呼ばれていた)<ref name=":30">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「吟遊詩人」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、[[ゴリアール|遍歴学生]]<ref name=":0" />などであった。世俗歌曲は単旋律であったが、中世盛期以降にはこうした単旋律世俗歌曲の形式と(ラテン語ではなく)俗語による宗教歌が見られ始めたり<ref name=":1" />、逆に宗教音楽に由来するポリフォニーの技法による世俗音楽が書かれるようになったりしている<ref name=":1" />。先のマショーは、世俗音楽である[https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC-1401984 ビルレー](単旋律)や[[バラード]](多声音楽)を次の15世紀に流行する世俗歌曲様式で書き<ref name="名前なし_3-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「マショー」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、時代を代表する作曲家が宗教音楽のみならず世俗音楽を書いた史上初めての例となった<ref name=":21">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta「西洋音楽」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。このようにして、中世ヨーロッパにおいて、芸術音楽の作曲とは「広義の多声音楽をつくること」を意味するようになり、世界的に見た時の西洋音楽の特徴の一つとなった<ref name=":1" />。 中世ヨーロッパにおいては、音楽は[[リベラル・アーツ|自由七科]]の一つとして必須の学とされたが、それは「音それ自体に即した自律的なもの」というよりも「感覚を超えた超人間的なものの啓示」<ref name=":2" />「世界を調律している秩序」<ref>{{Cite book|和書 |title=西洋音楽史 |publisher=中央公論社 |page=20 |author=岡田暁生}}</ref>であるととらえられる傾向が強かった<ref name=":2" />。このため中世の[[音楽理論]]においては、実際の音楽を離れた抽象的な思索が珍しくなく、[[古代ギリシア]]の音楽理論の中核をなしていた数理論、[[象徴]]論、[[エートス]]論などが、キリスト教的変容を遂げて展開されており、音組織、[[旋法]]、[[リズム]]、[[協和音と不協和音|協和]]、[[記譜法]]などの音楽の実践面にも少なからぬ影響を与えていた<ref name=":2" />。が、教会の権威が失墜する<ref name=":1" />とともに諸民族の強力な国家体系が成立してくる14世紀以降、世俗音楽が高度に発展し、宗教音楽においても宗教性の重視よりも純音楽的要請による傾向が強くなり、次の[[ルネサンス音楽|ルネサンス]]の萌芽が見え始める<ref name=":2" />。 == 時代区分別 == ここでは、記事で扱える範囲を最も広くとって4世紀から1450年までとし、時代区分は西洋史に準拠した「初期(~1000)」「盛期(1000~1300)」「後期(1300~)」を基本としつつ、別種の区分や様式上の区分を併用し、850年まではおよそ250~300年刻み、以後はおよそ150年刻みでの記載を試みる。 == 初期中世① 4世紀~6世紀 == === 略史 === [[ローマ帝国]]は度々[[キリスト教徒]]を迫害したが<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「キリスト教」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、最終的に313年に[[キリスト教]]を公認して受け入れ<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ミラノ勅令」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、さらに392年には[[国教]]とし<ref name=":6">{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0103-146.html |title=世界史の窓「キリスト教の国教化」 |access-date=2023/10/17}}</ref>、ローマ帝国はキリスト教国家となった<ref name=":6" />。ローマ[[司教]]は[[ペトロ|聖ペトロ]]の後継とされ<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「教皇権」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、全てのキリスト教会の頂点に立つ[[教皇権]]が形成されていく<ref name="名前なし_4-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「キリスト教」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。中でも[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]は、[[ウァレンティニアヌス3世|西ローマ皇帝]]が何もできないなか、二度にわたって蛮族と直接交渉してローマを守るなど世俗面でも活躍し、[[カトリック教会]]と[[教皇|ローマ教皇]]の権威を大いに高めた<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-048_1.html |title=世界史の窓「レオ1世」 |access-date=2023/10/17}}</ref>。 一方、376年には[[ゲルマン人|ゲルマン民族の大移動]]が始まり、395年に分裂してできた[[西ローマ帝国]]領内に侵入を繰り返し、帝国領内にゲルマン人国家を形成していく<ref name=":7">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「民族大移動」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。476年には[[オドアケル]]が西ローマ皇帝を廃位し<ref name=":7" />、6世紀の[[ゴート族]]や[[東ローマ帝国]]の占領と破壊は[[ローマ]]を廃墟同然としたが<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ローマ」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、ローマ史の伝統は[[教皇|ローマ教皇]]の歴史に受け継がれていく<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ローマ史」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。またゲルマン人国家のうち[[フランク王国]]は486年に[[シアグリウス]]のローマ人国家を滅ぼして以降拡大を続け<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「メロビング朝」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、やがて西ヨーロッパの大部分の政治的統一を達成する<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「フランク王国」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 === 宗教音楽 === キリスト教に先立つ[[ユダヤ教]]において既に[[旧約聖書]]の[[詩篇]]を歌う習慣があり<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「宗教音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、[[新約聖書]]にも[[イエス・キリスト|イエス]]が弟子たちと共に[[最後の晩餐]]の後に(おそらく)詩篇を歌う場面がある<ref name=":8">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「キリスト教音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。古代においてキリスト教の中心だったのは東方であったが、西方においてもその伝統を受け入れる形で、4世紀以降、[[ミラノ]]の[[アンブロジオ聖歌]]<ref group="注釈">キリスト教公認直後に典礼に歌を導入した[[アンブロジウス|聖アンブロシウス]]の名にちなむ。</ref>、アルプス北方の[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%81%96%E6%AD%8C-47338 ガリア聖歌]、スペインの[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%99%E8%81%96%E6%AD%8C-142311 モサラベ聖歌]<ref group="注釈">[[モサラベ]]とはイスラム支配下のイベリア半島におけるキリスト教徒のこと。</ref>などの地方的な[[典礼]]が形成されていった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「キリスト教音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。4~5世紀の教父[[アウグスティヌス]]の著作《[[告白 (アウグスティヌス)|告白]]》には〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。…この頃、[[東方教会]]の慣習にならって、会衆の心が悲しみに沈み、飽き飽きしないようにと、[[イムヌス|賛歌]]と詩篇の歌が採り入れられたのである〉とある<ref name=":8" />。 3世紀末以降、キリスト教への[[改宗|改宗者]]の増加に伴い、キリスト教社会は緊張を欠くようになったが、一部の熱心な信者が都市から離れ荒野で過酷な貧困生活を送って修行するようになり<ref name=":9">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=21}}</ref>([[隠者|隠修士]])<ref name=":10">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「修道院」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、やがて彼らをまとめて宗教的な共同生活を送る集団が現れた<ref name=":10" />。こうして建てられたのが[[修道院]]で、各地に多くの修道院が創設されたが、その中でも529年頃に建てられた[[モンテ・カッシーノ|モンテ・カッシーノ修道院]]は音楽においても重要な修道院である<ref name=":9" />。創始者の[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクトゥス]]がつくった[[戒律]]では、日常の[[礼拝]]が音楽と深く関係づけられていた<ref name=":9" />。また彼が創立した[[ベネディクト会]]はヨーロッパの修道院の規範となった<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ベネディクト会」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。 590年に教皇に選出された[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]は、数々の業績と心の広さと共感できる人柄などによって当時の人々に大変愛され<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「グレゴリウス1世」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、実質的な最初のローマ教皇とされるが<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-051.html |title=世界史の窓「グレゴリウス1世」 |access-date=2023/10/17}}</ref>、音楽においては[[キリスト教音楽|典礼音楽]]の発展に力を尽くし<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「グレゴリウス1世」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、[[:en:The_Schola_Cantorum_of_Rome|スコラ・カントルム]](「歌手の学校」の意)と呼ばれる聖歌学校を整備・拡充した<ref name=":11">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「イタリア音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。後の[[グレゴリオ聖歌]]は、彼の名にちなんでいる<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「グレゴリオ聖歌」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 アウグスティヌスは〈歌の内容にではなくて、歌そのものに感動したときには、罪を犯したような気持になる〉という言葉を残しており、礼拝に対して音楽を使うことへの懐疑はこの後も折に触れて西方のキリスト教世界で思い出されることになる<ref name=":11" />。また6世紀初頭の[[ボエティウス]]の「[[:it:De_institutione_musica|音楽教程]]」は、ギリシャ時代の代表的な音楽論を伝え<ref name=":12">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=25}}</ref>、音楽を「世界を調律している秩序」と捉え、音楽を「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ、四季の変化や天体の運行などを司る秩序)」「人間の音楽(ムジカ・フマーナ、人間の心身の秩序を司る秩序で乱れると病気になったり性格が曲がったりする)」「楽器の音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス、実際に鳴る音楽で、声楽も含まれる)」に分類し、実際に鳴る音楽を最も下位に置いた<ref>{{Cite book|和書 |title=西洋音楽史 |publisher=中央公論社 |pages=19-20 |author=岡田暁生}}</ref>。これは中世を通じて広く読まれ、中世の音楽に対する基本的な考えとなった<ref name=":12" />。 === 世俗音楽 === 一方、都市と群衆が成立した古代ギリシアからローマにかけ、ヨーロッパでは各地を渡り歩く[[旅芸人|職業芸人]]が隆盛を示していた<ref name=":13">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「大道芸」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。軽業(かるわざ)、動物芸、奇術、音曲をはじめとして路上美術に至る、あらゆる種類の大道芸がこの時期に演じられている<ref name=":13" />。好ましい大道芸とされたのは、笛やシンバルを奏する街頭音楽と踊りであった。これらは精神を健全にする効果があると信じられ、教育的にも重視されたという<ref name=":13" />。以後中世を通じて世俗音楽が盛んであったことが種々の資料から推察される<ref name=":5" />。 == 初期中世② 7世紀~850年 == === 略史 === [[イスラム教]]が創始され、[[イスラム帝国]]が拡大を始める<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「イスラム帝国」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。[[ウマイヤ朝]]は711年に[[イベリア半島]]に侵入し[[西ゴート王国]]を滅亡させたが<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「西ゴート王国」 |publisher=平凡社}}</ref>、732年の[[トゥール・ポワティエ間の戦い|トゥール・ポアティエ間の戦い]]で[[フランク王国]]に敗れた<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ウマイヤ朝」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。また西ゴート王国の残党は722年以降イスラム教徒への反撃を始める([[レコンキスタ|国土回復運動]])<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「国土回復運動」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 一方、フランク王国では[[カロリング朝]]の開祖[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]が754年と756年に[[ランゴバルド人|ランゴバルド族]]を打ち破って獲得した土地を教皇に寄進し、ローマ教皇を元首とする国家([[教皇領]])が生まれた<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「教皇領」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。次の[[カール大帝|カール1世]]は戦争に明け暮れ、804年に[[ザクセン人]]の征服を完了してフランク王国は最大となった<ref name=":14">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「カール大帝」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。また800年に[[西ローマ皇帝]]の冠を教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]から授けられ、カール1世はカール大帝(シャルルマーニュ)となり、5世紀に滅亡した西ローマ帝国が復活した<ref name=":14" />。これにより、フランク王国・ローマ教皇ともに[[東ローマ帝国]]に対抗できる勢力となり、また[[古典古代]]・[[ゲルマン人]]・[[キリスト教]]からなる西ヨーロッパ文化圏が成立した<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-068.html |title=世界史の窓「カールの戴冠」 |access-date=2023/10/18}}</ref>。 === グレゴリオ聖歌成立 === [[グレゴリオ聖歌]]は単旋律・無伴奏で、ラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とし<ref name=":15">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「グレゴリオ聖歌」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、8種類の[[教会旋法]]<ref group="注釈">教会旋法に関しては、グレゴリオ聖歌よりも後に正教会の教会音楽で使われる[[八調]]を基盤としてつくられたため、実際のグレゴリオ聖歌には合致しないものがあり、教会旋法では分類困難なものもあるという。</ref>に分類される<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=23}}</ref>。リズムは近代音楽における機械的拍節感とは無縁である<ref name=":16">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「グレゴリオ聖歌」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。グレゴリオ聖歌は正式には「ローマ式典礼聖歌」と呼ぶべきものだが、グレゴリウス1世にちなんで770年頃からグレゴリオ聖歌と呼ぶ習慣が生じた<ref name=":16" />。しかしグレゴリオ聖歌の形成については、「(フランク王国による西ヨーロッパ統一が進められる中で)ガリア・アイルランドの地域の聖歌やモサラベの聖歌が融合された<ref name=":17">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=22}}</ref>」「グレゴリオ聖歌の主要部分は、どんなに早くとも8世紀か9世紀ごろアルプスの北のガリア・ゲルマン世界で成立したものであるという見方が有力になっている<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=34 |author=皆川達夫}}</ref>」などとされており、場所も時期もグレゴリウス1世とは一致せず、グレゴリウス1世の名は伝統性を強調するために使われてきたと考えられている<ref name=":17" />。 ピピン3世は従来フランク王国で歌われていたガリア聖歌を禁止し、ローマ典礼に統一することを規定し<ref name=":2" />、聖歌隊学校を設立した<ref name=":18">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=19}}</ref>。カール大帝は聖歌隊学校をさらに増設し、聖職者たちに「ローマで歌うようなやり方で歌う」ように指示した<ref name=":18" />。カール大帝に関しては宮廷付属学校を設立して[[アルクィン|アルクイン]]を招き寄せたことが有名だが、789年の法令でその学生たちに「文法・算術・詩篇唱・および聖歌を学ぶこと」を指示している<ref name=":18" />。こうした動きは彼らの統一運動とも、ローマ教皇と共存する政策とも一致する<ref name=":18" />。7~12世紀にはローマ教会の勢力拡大のため、ローマ教会の聖歌をヨーロッパ全域に広める努力がなされ、グレゴリオ聖歌は広範囲につたわった<ref name=":15" />。その活動の中心となったのは、教会、修道院、教会学校であった<ref name=":15" />。 == 初期中世③ ロマネスク 850年~1000年 == === 略史 === 9~10世紀は政治的解体と侵略の危機の時期とされる<ref name=":22">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta「ヨーロッパ」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。カール大帝の死後、フランク王国は東・西フランクとイタリアに三分裂する<ref name=":22" />。このころ、北方からはヴァイキングが、ドナウ川東方からはマジャール人が侵入してくる<ref name=":22" />。マジャール人を食い止めたオットー1世は<ref name=":23">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「オットー1世」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、教皇領に侵入したイタリア王の討伐を行い<ref name=":24">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「神聖ローマ帝国」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、962年に帝冠を授けられ<ref name=":23" />、事実上の機能停止に陥っていた皇帝権は以後ドイツ諸王によって担われることとなり<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「神聖ローマ帝国」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、東フランク王国は神聖ローマ帝国となった<ref name=":24" />。 === グレゴリオ聖歌の拡張 === 9世紀には、典礼をより精緻で壮麗なものとするため、すでに存在する聖歌の拡張が盛んに試みられた<ref name="名前なし-20231105131138"/>。その一つの方法が、聖歌の声部と別の声部を同時に歌うもので、[[オルガヌム]]と呼ばれる<ref name=":21" />。9世紀末の音楽理論書《[[:en:Musica_enchiriadis|ムシカ・エンキリアディス]](音楽の手引き)》<ref group="注釈">40通りもの手稿資料が残っており、その多くはボエティウスの「音楽教程」に続いて手写されている。</ref>にはその最古の例が見られ<ref name=":25">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ポリフォニー」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、元となる聖歌の完全5度下あるいは完全4度下に平行移動する対旋律をつけて歌うことから、「平行オルガヌム」と呼ばれる<ref name=":26">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=85-86 |author=金澤正剛}}</ref>。元となる聖歌の下と対旋律の上にそれぞれオクターブ離れた声部を重ね、4声の平行オルガヌムとした例も紹介されている<ref name=":26" />。こうした平行オルガヌムには声部の独立性は希薄であり<ref name=":25" />、[[ポリフォニー]]([[多声音楽]])と呼ぶことにはまだ無理がある<ref name=":26" />。しかし、のちには付加された声部が独自の対旋律を持つようになっていく<ref name=":21" />。こうしたオルガヌムは、ポリフォニーと呼ばれる音楽構造の第一歩であり、ポリフォニーの広範な使用を際立った特徴とする西洋音楽史上極めて重要なものである<ref name=":21" />。 聖歌の拡張のもう一つの方法が、聖歌の旋律にもとから含まれていた[[メリスマ]]的な楽句に対して説明的な語句など新しい歌詞を付け加えたり、前後あるいは途中に旋律と歌詞の双方を追加したりするもので、[[トロープス]](ギリシア語の「言い回し」に由来)と呼ばれる<ref name=":31">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「トロプス」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。全体としては旋律と歌詞の双方を追加するものが多数を占めている<ref name="名前なし_2-20231105131138"/>。こうしたトロープスのうち、[[ハレルヤ|アレルヤ]]唱に続く長いメリスマに対して歌詞を付け加えたものは[[セクエンツィア]](続唱)と呼ばれるようになり、後に多くの曲を生み出すことになる<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「セクエンツィア」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 ==== 典礼劇の起源 ==== また初期のトロープス《だれを捜し求めるのか》に見られる天使と3人のマリアの間のやり取りを対話形式で表したものは10世紀にはミサと切り離され、教会堂の一角にすえられた簡単な舞台装置で小規模な劇として行われるようになり、[[典礼劇]]として発展を始める<ref name="名前なし_2-20231105131138"/>。 ==== 最初期の記譜 ==== 9世紀末までは聖歌は全て口承で伝えられていた<ref name=":17" />。9世紀終わりごろに<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=80 |author=金澤正剛}}</ref>「[[ネウマ譜|ネウマ]]」<ref group="注釈">[[ネウマ譜|ネウマ]]に関しても、「もともと東ローマ帝国で開発された」という話がある。</ref>とよばれる記号が歌詞の上に手書きで書かれるようになり<ref name=":19">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「記譜法」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、グレゴリオ聖歌が記録に留められるようになる。しかし初期のネウマは旋律のすすむ方向(上行か下行か)や旋律パターンを大まかに指示するだけで、[[音価 (音楽)|音価]]は曖昧であった<ref name=":19" />。これは文法上のアクセント記号に端を発しているためで<ref name=":27">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「楽譜」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、覚え書き程度のものであり、知らない歌をそこから読み取って歌えるようなものではなかった<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=81 |author=金澤正剛}}</ref>。少し経って、ネウマをいろいろ異なった位置に置き、音高をできるだけ正確に表示しようとする音高ネウマが現れるが<ref name=":27" />、リズムについてはまだ曖昧であった。 ==== 有力修道院の誕生 ==== 613年にスイス山中に建設された僧房は720年に[[ザンクト・ガレン修道院]]として確立され、間もなくベネディクト会に転換した<ref name=":20">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ザンクト・ガレン修道院」 |publisher=平凡社}}</ref>。図書館・学校を中心とする学問・教育活動は著しく、写本画、手工芸品、教会音楽など芸術面での功績も大きい<ref name=":20" />。9世紀起源の現存する最古の聖歌譜で知られるが<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=24 |author=金澤正剛}}</ref>、古い形のネウマが暗示的に表していた微妙な音楽的要素が失われないよう、音高ネウマを避け続けたことでも知られる<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=22}}</ref>。トロープスやセクエンツィアの初期の作者として知られるザンクト・ガレン修道院の修道士[[:en:Notker_the_Stammerer|ノトケル・バルブルス]](吃音のノトケル、840頃~912)は<ref name=":31" /><ref name=":32">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「ノトケル・バルブルス」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、以前はセクエンツィアの創始者と考えられていたが、現在では既に存在していたそれらの大成者と考えられている<ref name=":32" />。 == 盛期中世① 前期ゴシック 1000年~1150年 == === 略史 === [[神聖ローマ皇帝]]と教会は聖職者の[[聖職叙任権|叙任権]]を巡って対立し([[叙任権闘争]])、1077年の[[カノッサの屈辱]]はその頂点であった<ref name=":28">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「カノッサの屈辱」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。その結果皇帝権がローマの至上権に屈し、[[教皇権]]が勝利したが<ref name=":28" />、その後も緊張関係は続いた<ref name="名前なし_4-20231105131138"/>。が、1096年に派遣された[[第1回十字軍]]の成功は、12~13世紀のローマ教皇の絶頂期を出現させた<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-008.html |title=世界史の窓「十字軍/十字軍運動」 |access-date=2023/10/20}}</ref>。 10世紀末以降、教会が主導した[[騎士]]の[[フェーデ|私闘]]を抑制する「[https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C-46729 神の平和]」運動や、最終的にはキリスト教徒同士の戦闘を禁止するに至った「[https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%BC%91%E6%88%A6-46712 神の休戦]」運動により、騎士たちは「キリストの戦士」として教化され、異教徒や異端に対する[[聖戦]]を使命とするに至る<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「神の平和」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。12世紀には騎士の規範は「[[騎士道]]」として形をなしていき、騎士の使命は十字軍で戦うこととされた<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「騎士道」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 三圃制の普及に伴い農業生産性が著しく高まり<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「三圃制」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、民族移動の時代は終わり、定住人口が飛躍的に増大し、大規模な経済発展が見られるようになる<ref name=":38">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「中世」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。都市が復活し、商人[[ギルド]]や職人ギルドの活躍で大規模な商業も発達した<ref name=":38" />。国土回復運動の結果、[[カスティーリャ王国|カスティリャ王国]]は1085年に[[トレド]]を奪還し<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「トレド」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、以後トレドは、イスラム圏に残された古代ギリシアの古典がヨーロッパに流入する拠点の一つとなった<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0604-024.html |title=世界史の窓「12世紀ルネサンス」 |access-date=2023/10/22}}</ref>。 === オルガヌムの発展 === オルガヌムは11世紀になると、聖歌の声部が下声に移り、反進行や斜進行をも加え各声部が自由に動くようになり、時には声部交差をも行う「自由オルガヌム」に発展する<ref name=":33">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「オルガヌム」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。12世紀に入ると、聖歌の声部の1音符と対旋律の1音符という対応関係が崩れ、下声部に置かれ長く引き伸ばされた聖歌の声部1音符に対して対旋律が音をいくつもメリスマ的に連ねて歌う「メリスマ的オルガヌム」が現れる<ref name=":33" />。ただし実例としては、自由オルガヌムとメリスマ的オルガヌムの中間的な形態の、聖歌1音符に対して対旋律2~4音符の様式<ref group="注釈">大音楽事典「オルガヌム」では「シラビックな様式」としている。</ref>が多く、1曲の中でメリスマ様式と中間的な形態が交互に並置されるのが普通である<ref name=":33" />。 こうした実例は、[[イングランド]]の[[ウィンチェスター大聖堂]]に伝わる11世紀半ばの「[[:en:Winchester_Troper|ウィンチェスター・トロープス集]]」<ref name="名前なし_5-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=93 |author=金澤正剛}}</ref>や、当時フランス王を凌ぐ繁栄を見せていた[[アキテーヌ公|アキテーヌ公国]](フランス南西部)<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「アキテーヌ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>の[[リモージュ]]にあった[[サン・マルシャル楽派|聖マルシアル修道院]]で12世紀初めにつくられた写本<ref name="名前なし_5-20231105131138"/>や、エルサレムやローマに匹敵する三大巡礼地の一つである[[スペイン]]の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ|サンティアゴ・デ・コンポステラ]]で12世紀につくられた[[カリクストゥス写本]]<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=96-97 |author=金澤正剛}}</ref>によって知られる。ウィンチェスター・トロープス集はイングランド独特のネウマ符で記され、実際の音の判読はほぼ不可能であるが、聖マルシアルとサンティアゴ・デ・コンポステラの曲集はアキテーヌ方式とされるネウマ符で記され、音の高さもほぼ正確に示されている<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=94-97 |author=金澤正剛}}</ref>。が、リズムの表示はされていない<ref name=":2" />。 ==== 譜表記譜法 ==== 1000年頃には譜表記譜法(譜線を用いた記譜法)が生まれ、相対的な音高が正確に正確に表示されるようになった<ref name=":3" />。11世紀初めのイタリアの音楽理論家[[グイード・ダレッツォ]]は、等間隔で水平に3~4本の直線を引いて線上または線間に音符を書き入れて音高を示す記譜法を考案し、グレゴリオ聖歌を記録した<ref name=":34">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「グィード・アレッツォ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。また、[[階名]]唱法を考案して楽譜の視唱を容易にし<ref name=":34" />、現在のドレミのもとになるものをつくった<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=30}}</ref>。 === トルバドゥールの誕生とジョングルールの活躍 === 11世紀末、フランス国王よりも広い所領を持っていた[[アキテーヌ公]]・[[ポワチエ|ポワティエ]]伯の[[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]は、最古の[[トルバドゥール]](騎士歌人<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=26}}</ref>・宮廷歌人<ref name=":29" />、以前は[[吟遊詩人]]<ref name=":30" />と呼ばれた)として記録に残る<ref name=":35">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「トルバドゥール」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。トルバドゥールとは11世紀末から13世紀末にかけて、南フランスを中心に活躍した抒情詩人兼作曲家の総称である<ref name=":35" />。彼らは「抒情詩は歌謡である」と考えた古代ギリシア人に倣って詩作をした<ref name=":36">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「トルバドゥール」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。歌詞は中世ヨーロッパの文語であるラテン語ではなく彼らの口語である[[オック語]]で書かれ、民衆歌謡から新たな詩形・旋律・リズムを取り入れている<ref name=":36" />。トルバドゥールは400人以上が知られるが、その多くは貴族であり、王侯も含まれる<ref name=":36" />。背景には、騎士たちの交流が盛んとなる中、自分が単なる武人ではなく教養人であることを示す目的があったとする推測がある<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=43}}</ref>。歌詞の中心的な主題は[[ミンネ|宮廷風恋愛]]であるが<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「トルバドゥール」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、[[騎士道]]、宗教、政治、戦争、葬儀、自然におよび、約300の旋律、約2600の詩句が残っている<ref name=":36" />。この時代の記譜では音の長短がはっきりつかめないが、メリスマ唱法でゆったりとしたテンポで歌われたと推測されている<ref name=":35" />。名高いトルバドゥールとして、先に挙げたギョーム9世のほか、北フランスでも有名になった[[ベルナルト・デ・ヴェンタドルン]]や第4回十字軍に参加した[[ラインバウト・デ・ヴァケイラス|ランボー・ド・ヴァケイラス]]、ダンテの神曲に影響を与えた[[アルナウト・ダニエル|アルノー・ダニエル]]などが挙げられる。女性のトルバドゥールは[[:fr:Trobairitz|トロバイリッツ]]と呼ばれ、自身の愛を歌にした[[ベアトリッツ・デ・ディア]]や失意の詩人を救った恋愛討論詩が知られる[[:fr:Marie_de_Ventadour|マリー・ド・ヴァンタドゥール]]などが挙げられる。13~14世紀に編纂された「[[:en:Vida_(Occitan_literary_form)|ヴィダス]](伝記)」と「[[:en:Razo|ラツォス]](注解)」と呼ばれる評伝や作品を伝える30ほどの[[写本]]によって知られている<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |page=13}}</ref>。 中世の職業的音楽家として、[[ジョングルール]](大道芸人)と[[ミンストレル|メネストレル]](職業芸人)が挙げられる<ref name=":5" />。ジョングルールは各地を巡る旅の芸人であるが、有力者の館や城で芸を披露するうちに彼らの許に留まるよう誘われ、仕えるようにもなった芸人がメネストレルである<ref name=":5" />。もともと彼らが扱う世俗音楽はその場の演奏を楽しめればよく、記録する発想はなく、仮に記録したくても文字や楽譜を書き記す能力がなく、彼らの音楽はもっぱら口伝で習得・伝達されていた<ref name=":5" />。が、彼らはトルバドゥールの伴奏や、遠隔地での歌や演奏を担当するようになり<ref name=":37">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ジョングルール」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、トルバドゥールの歌曲をヨーロッパ各地に伝えた<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=44}}</ref>。彼らの中にはお抱えジョングルールからトルバドゥール身分に出世する者や逆に後者から前者に没落する者などが現れ、両者の混交が存在した<ref name=":37" />。彼らの音楽には直接記録されたものはないが、先述のランボー・ド・ヴァケイラスの《五月の一日》はジョングルールが演奏する舞曲([[エスタンピー]])の旋律に詩をつけたと伝えられ、事実なら奇跡的に残されたジョングルールの舞曲と言うことになる<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |pages=44-45}}</ref>。 == 盛期中世② 後期ゴシック 1150年~1300年 == === 略史 === [[エルサレム]]はイスラームに奪還され、13世紀初めの[[第4回十字軍]]は同じキリスト教徒の[[コンスタンティノープル]]を攻撃・占領し、十字軍運動は変質して経済的な目的が強くなっていく。以後の十字軍は一時を除いて聖地奪還に失敗し、教皇権の衰退につながっていく<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-008.html |title=世界史の窓「十字軍/十字軍運動」 |access-date=2023/10/22}}</ref>。十字軍は1270年を最後に行われなくなり、1291年には西アジア最後の十字軍拠点のアッコンが陥落し、十字軍の時代は完全に終わった<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-008.html#wh0603_1-013_7 |title=世界史の窓「十字軍/十字軍運動」 |access-date=2023/10/24}}</ref>。 都市の繁栄と十字軍に伴う東方からのギリシア古典文化の流入は、[[12世紀ルネサンス]]と呼ばれる知的高揚を生み出した<ref name=":39">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=24}}</ref>。こうした背景のもと、都市に集まっていた教師(その多くは聖職者であった<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=34 |author=金澤正剛}}</ref>)と学生が形成していた私塾は手工業者の同業組合に倣ってギルドを形成し、[[大学]]が設立されていく<ref name=":39" />。〈自生的大学〉と呼ばれる[[ボローニャ大学]]、[[パリ大学]]、[[オックスフォード大学]]などは、12世紀後半から13世紀にかけて形成されている<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「大学」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。こうした学問の世界に新風を吹き込んだのは、ギリシア思想といえば[[プラトン]]一辺倒だったところにアラブから持ち込まれた[[アリストテレス]]思想であった<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=157-158 |author=金澤正剛}}</ref>。 === ノートルダム楽派 === はじめ修道院を中心に発展した多声音楽は、[[ゴシック様式]]の大聖堂が次々つくられる頃になると、都市の[[大聖堂]]にその場所を移すことになった<ref name=":1" /><ref name=":2" />。都市の大聖堂で多数の聴衆に聴かれるようになったことで、多声音楽はそれまでの小規模な形を脱し、祝典的な構成の大楽曲に変化してゆく<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=88}}</ref>。その中心となったパリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]](1163年起工<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ノートル・ダム大聖堂(パリ)」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>)では、12世紀半ばから13世紀にかけて[[レオニヌス]]と[[ペロティヌス]]といった優れた人物が現れ、[[ノートルダム楽派]]と呼ばれる<ref name=":40">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=28}}</ref>。レオニヌスが〈[[:en:Magnus_Liber|オルガヌム大全]]〉で示した2声のオルガヌムでは、ラテン語のアクセントが強弱ではなく長短であることを応用し、古典詩の韻律に基づいて<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=35}}</ref>6つのリズム型とその表記法を定め、それらを基本として新しい楽譜の記し方を工夫している<ref name=":41">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=50}}</ref>。これは[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89%E8%A8%98%E8%AD%9C%E6%B3%95-1427801 モード記譜法]と呼ばれる<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89-1435956 |title=コトバンク「リズム・モード」 |access-date=2023/10/22}}</ref>。その結果、現代の耳には6拍子と感じられるような強烈なリズムが耳に残ることになる<ref name=":41" />。ただレオニヌスの作品は即興で歌ったものを後で書き記した可能性が強く、リズムの表示は必ずしも明確ではない<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |pages=50-51}}</ref>。それに対してペロティヌスはレオニヌスの曲集を改訂し、3声や4声の作品としたため、即興というわけには行かず、最初から書き留める必要があり、リズムの表示もより明確なものとなった<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=51}}</ref>。このようなノートルダム楽派の音楽に関して、皆川達夫は「多声音楽の一つの頂点」としている<ref>{{Cite book|和書 |title=バロック音楽 |publisher=講談社 |page=18 |author=皆川達夫}}</ref>。ペロティヌスのオルガヌムは13世紀後半のパリにおいて(おそらくそれ以後も)なお歌われ、彼らの作品は何度となく書き写され、ヨーロッパ各地(ドイツ・イタリア・スペイン・スコットランドなどに写しが残る)に伝えられた<ref name=":42">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=159 |author=金澤正剛}}</ref>。しかしそれに続くオルガヌム作品は知られる限り存在せず、1200年の時点でオルガヌムは250年にわたる歴史の最終段階を迎えていたと言える<ref name=":42" />。 もともと多声化されたオルガヌムには、オルガヌム様式(元の聖歌を長く引き伸ばした声部の上でメリスマ的な旋律が展開)と[https://kotobank.jp/word/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88-100142 ディスカントゥス様式](聖歌の声部とオルガヌムの声部がほぼ1対1に対応する)が現れていたが、ノートルダム楽派では、オルガヌム様式部分の聖歌の声部は極端に長く引き伸ばされ、ディスカントゥス様式部分では全声部にモードリズムが使われるようになった<ref name=":40" />。この部分の様式は[[:en:Clausula_(music)|クラウスラ]]と呼ばれる<ref name=":40" />。クラウスラはやがて独立した楽曲となって単独で歌われるようになり<ref name=":40" />、さらにはもともと母音で歌われていたその上声部に新たな歌詞がつけられ、新たな歌詞を得たその声部・やがては楽曲そのものが[[モテット]](モテトゥスとも、「言葉」の意)と呼ばれるようになり、13世紀以後数多く作曲されていく<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%88-645952 |title=コトバンク「モテット」の項 |access-date=2023/10/22}}</ref>。 ===== イングランドの聖歌 ===== イングランドでは[[ノルマン・コンクエスト]]に伴い数多くの[[司教座聖堂]]が生まれ、それぞれ固有の典礼を持つに至ったが、そのうち[[ソールズベリー]]教区では独自の聖歌集を編纂して用いた<ref>{{Cite book|和書 |title=大百科事典「イギリス音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。現存する最古の写本は13世紀のもので、[https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%81%96%E6%AD%8C-1357197 ソールズベリー聖歌](セーラム聖歌)と呼ばれる<ref name=":58">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「イギリス音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。グレゴリオ聖歌と同様の特徴を持つが、音域はより狭く、より形式的な構造を持ち、より「移調」(音高の変更)を多用する<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/art/Sarum-chant |title=Britannica,"Sarum chant" |access-date=2023/10/26}}</ref>。これらは特に15~16世紀のポリフォニーに素材を提供している点でも重要である<ref name=":58" />。 13世紀のイギリス音楽には同時代のフランス音楽の影響が認められ、ノートルダム楽派の技法をいち早く取り入れたのもイギリスであったが、ノートルダム楽派のレパートリーにはソールズベリー聖歌集特有の定旋律が含まれており、また当時フランスで活躍した重要な音楽理論家の中に3人のイギリス人([[:en:Johannes_de_Garlandia_(music_theorist)|ガルランディア]]、[[:en:Anonymous_IV|第4無名者]]、[https://www.encyclopedia.com/arts/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/odington-walter オディントン])がいて、ノートルダム楽派の作品を含む最初期の写本が[[スコットランド]]で成立した事実は、イギリスとフランスの間の影響関係を物語っている<ref name=":58" />。 === モテットの誕生と発展と世俗化 === モテットは初期においては新しい歌詞はラテン語で書かれ、その内容も元の聖歌の内容を解説・展開するようなものであったが、歌詞の内容は次第に元の聖歌を離れ、さらには全く関係ないような内容となっていき、13世紀を通じて次第に世俗化していく<ref name=":43">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=161-162 |author=金澤正剛}}</ref>。言語もラテン語である必要がなくなり、フランス語でつけるようになった<ref name=":43" />。また複数の対旋律に異なる歌詞をつけて歌うのが一般的となり、聞き手が歌詞を聞き取るのが難しくなった<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=52}}</ref>。こうしたモテットは、初期には聖職者や神学生によって書かれたものと考えられるが<ref name=":44">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=161}}</ref>、ポリフォニー音楽の作法が大学での教育などを通じて教会の外部に伝えられて新たな発展を遂げ世俗化したという<ref name=":44" />。実際、後述する[[トルヴェール]]の一人とされる[[アダン・ド・ラ・アル]]はパリ大学に学んで少なくとも5曲のモテットを残しており、恋の悩みや政治風刺などを歌詞に含んでいる<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=166-173 |author=金澤正剛}}</ref>。こうした権力批判・社会風刺的な歌詞を歌のに、歌詞を聞き取りにくいのは好都合だったという推測がある<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=170 |author=金澤正剛}}</ref>。 ===== ゴリアール ===== 大学が増えた13世紀には、修学途中で脱落し、あるいは大学を出ても就職できぬまま地方を放浪した「放浪学生([[ゴリアール]])」が多く輩出したが、彼らは酒色におぼれ、高位聖職者、ときには教皇庁を攻撃するのみならず、聖書や祈裳文をもじった不穏な言葉をまき散らすとして、繰り返し教会から厳しい非難の対象となった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「放浪学生」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。酒と女から得られる快楽を歌い、高位聖職者を風刺した詩を残しており、最も著名なのはバイエルンの[[:en:Benediktbeuern_Abbey|ボイエルン修道院]]に伝えられた「[[カルミナ・ブラーナ]]」である<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「カルミナ・ブラーナ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 ===== 記譜法と重要写本 ===== この時代のポリフォニーの記録としては、[[モンペリエ大学]]医学部に所蔵されている[[:en:Montpellier_Codex|モンペリエ写本]]、北スペインの[[サンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院|ラス・ウエルガス修道院]]で筆写された[[:es:Codex_Las_Huelgas|ラス・ウエルガス写本]]、バンベルク大聖堂に長年保管されていた[[:en:Bamberg_Codex|バンベルク写本]]などが名高い<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=173-175 |author=金澤正剛}}</ref>。これらは「異なる長さの音符は、異なる形で示す」という明快な方法で記譜され<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=177-178 |author=金澤正剛}}</ref>、[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9A%E9%87%8F%E8%A8%98%E8%AD%9C%E6%B3%95-100535 定量記譜法]と呼ばれる<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9A%E9%87%8F%E8%A8%98%E8%AD%9C%E6%B3%95-100535 |title=コトバンク「定量記譜法」 |access-date=2023/10/22}}</ref><ref group="注釈">「計量」記譜法という訳もよく見られる。金澤正剛は「計量記譜法」とし、アルス・ノヴァ以降を「定量記譜法」としている。</ref>。が、三位一体から「完全なものは三つから成る」という考え方を反映してか、音符の分割は三分割を基本としており、表記は複雑であった<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=53}}</ref>。こうした初期の定量記譜法を実用に耐えるものとして体系化したのが、1280年頃に書かれた[[:en:Franco_of_Cologne|ケルンのフランコ]]の理論書「計量歌唱法 [[:en:Ars_cantus_mensurabilis|Ars cantus mensurabilis]]」である<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=180 |author=金澤正剛}}</ref>。 ===== 典礼劇から受難劇(聖史劇)へ ===== 典礼劇は行われ続けており、ルペルツベルク女子修道院長で西洋音楽史上初の女性作曲家とされる[[ヒルデガルト・フォン・ビンゲン]]は1158年以前に修道女全員が参加する「[[:en:Ordo_Virtutum|オルド・ウィルトゥトゥム]](道徳劇『諸徳目の秩序'''』''')」を書いている<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。また当初は教会堂の一角で行われていたものが教会堂全体に、さらには教会や修道院を出てその前の広場へと移り、劇の言語はラテン語から各地の口語へ、演じ手は聖職者から一般民衆へ移行し、[[クリスマス|降誕祭]]劇・[[復活祭]]劇・[[東方の三博士|三王来朝]]劇などそれぞれの祝祭日に行われた劇が13世紀には集大成されて[[受難劇]]([[神秘劇|聖史劇]])となり、中世後期の一大文化財となった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「宗教劇」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。12世紀末あるいは13世紀初めに、北フランスの[[ボーヴェ]]で上演された「[[ダニエル劇]]」は、劇的起伏に富み、楽譜も完全な形で残っている注目すべき作品である<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=50}}</ref>。 === トルバドゥールの影響 === ===== トルヴェール(北フランス) ===== 12世紀中葉から、[[トルバドゥール]]の強い影響下に北フランスの[[オイル語]]を用いて詩作・作曲を行う[[トルヴェール]]が現れる<ref name=":45">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「トルベール」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。[[アリエノール・ダキテーヌ]](ギョーム9世の孫娘)とフランス王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]の結婚が大きな契機となったという<ref name=":45" />。さらにアリエノールは[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]と再婚していわゆる[[アンジュー帝国]]が成立するが、それに伴ってトルバドゥールたちの活動場所も[[アンジュー]]・[[ノルマンディー]]・[[イングランド]]等の北方に移っていき<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |page=36}}</ref>、彼らもトルヴェールと呼ばれる場合がある。トルヴェールはトルバドゥール同様、愛に関して歌っているが、トルバドゥールが女性の肉体の美しさをも賛美し肉体の愛を忌避していないのに対して、トルヴェールは愛の精神性と規範への関心を強めている<ref name=":45" />。またトルヴェールは英雄叙事詩にも力を入れている<ref name=":36" />。およそ1400の旋律と4000の詩句が残されている<ref name=":36" />。13世紀初めの[[アルビジョア十字軍]]が南フランスの宮廷を荒廃させ、トルバドゥールが衰えていく中、その影響を後に伝えた<ref name=":35" />。[[アーサー王物語]]や[[聖杯伝説]]など[[騎士道物語]]の作者としても名高い<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「クレティアン・ド・トロワ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>[[クレティアン・ド・トロワ]]や、作詞・作曲ばかりでなく劇作者としても名高く中世喜劇の傑作「葉隠れの劇」や「ロバンとマリオンの劇」が有名な<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「アダン・ド・ラ・アル」の項 |publisher=平凡社}}</ref>[[アダン・ド・ラ・アル]]が代表的である<ref name=":45" />。アリエノールの息子の[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]もトルヴェールとして高名で<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽のヨーロッパ史 |publisher=講談社 |page=93}}</ref>、「囚われ人は決して」は捕囚伝説とともに有名であるが、これは後世の作のようである<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |pages=42-44}}</ref>。女性のトルヴェールはトルヴェレス([[:fr:Trouveresse|Trouveresse]])と呼ばれ、ヘンリー2世とアリエノールのイングランド宮廷のメンバーと推測される[[マリー・ド・フランス (詩人)|マリー・ド・フランス]]などが知られる。 ===== ミンネジンガー(ドイツ) ===== 12世紀末以降を盛期として<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC-140157 |title=コトバンク「ミンネジンガー」の項 |access-date=2023/10/22}}</ref>、トルバドゥールの影響のもと、ドイツ語で「愛(宮廷風恋愛)の歌い手」を意味する[[ミンネジンガー]]が現れる<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ミンネジンガー」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。[[ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯)|ベアトリス・ド・ブルゴーニュ]](ブルゴーニュ女伯)と神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の結婚が大きな契機となったという<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=58}}</ref>。愛の歌とは言うものの、男女に共通の恋愛感情の自然の流露ではなく、貴婦人に対する騎士の一方的求愛の理想化表現であるのが特徴であり、女性詩人がいない<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ミンネザング」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。ヴァーグナーの楽劇「[[タンホイザー]]」の[[ヴァルトブルク城|ワルトブルク城]]の歌の殿堂の場に登場するタンホイザー、[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ|ウォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]、[[ナイトハルト・フォン・ロイエンタール]]らは、すべて実在したミンネジンガーであり、[[:de:Sängerkrieg_auf_der_Wartburg|ワルトブルク城における騎士たちの歌合戦]]も、1206年に実際に行われたとする説がある<ref name=":46">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ミンネゼンガー」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。既出の者の他に重要な者は、ゲーテ以前のドイツ最大の抒情詩人とされる[[ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ]]などが挙げられる<ref name=":46" />。ミンネジンガーについては14世紀初頭の「[[マネッセ写本|大ハイデルベルク歌謡写本]](マネッセ写本)」や「[[:en:Jenaer_Liederhandschrift|イェーナ歌謡写本]]」などで知られる<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |page=14}}</ref>。 ===== トロバトーレとラウダ(イタリア) ===== トルバドゥールの芸術は、13世紀のイタリアでトロバトーレの活動をうながし、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]らもその影響を受けたようであるが、トロバトーレの歌の楽譜は全く残っていない<ref name=":47">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「イタリア音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。13世紀には、[[アッシジのフランチェスコ|アッシジの聖フランチェスコ]]の宗教運動と結びついた典礼外の単旋宗教歌[[:en:Lauda_(song)|ラウダ]](賛美の意)の創作が盛んになった<ref name=":47" />。ラウダの歌詞は当時の中部イタリアの俗語で書かれており、その詩形には、北フランスのトルヴェールによって形の定められた[[ヴィルレー]]の影響が認められる<ref name=":47" />。ルーツは聖フランチェスコの「[[:en:Canticle_of_the_Sun|太陽の賛歌]]」に行きつく<ref name=":48">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |pages=46-47}}</ref>。 ===== トロバドールとカンティガ(スペイン) ===== 同じ頃スペインでは、トルバドゥールの歌から派生した<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=67}}</ref>俗語による単旋律宗教歌[[カンティガ]](歌)が作られた<ref name=":1" />。形式的にはラウダ同様、単旋律世俗歌の一形式である[[ヴィルレー]](スペインでは[https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B3-121692 ビリャンシーコ])と深いかかわりをもち、聖堂外での信徒の集団的な宗教行為(悔悛の苦行など)に用いられた<ref name=":1" />。中でも自身もトロバドール詩人で<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「スペイン」の項 |publisher=平凡社}}</ref>最後の世代のトルバドゥールの庇護者でもあった<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |page=64}}</ref>賢王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]の編纂による「[[聖母マリアのカンティガ集]]」が名高く、[[聖母マリア]]を賛美した[[ガリシア・ポルトガル語|中世ガリシア語]]で書かれた400以上の歌曲を含む<ref name=":48" />。[[異教]]の[[女神]]信仰を思わせる[[マリア崇拝]]に対してキリスト教会は否定的だったが、中世の人々はしばしば神を迫害者、マリアを擁護者とみるほど先鋭化しており、カンティガ集は中世人の願いと痛烈な権威への批判を示すものという評価がある<ref>{{Cite book|和書 |title=吟遊詩人 |publisher=新紀元社 |pages=24-26}}</ref>。 ===== 舞曲 ===== キリスト教権の強かった中世には、舞踏は異教的なもの・非宗教的なものとして、その音楽も記譜されることがなかった<ref name=":61">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「舞曲」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。しかし、トルバドゥールたちの出現とともに、一定の形式をもつ輪舞形態の[[エスタンピー]](踏み鳴らすの意)や[[キャロル]](中世フランス舞曲)が誕生し、歌われたり楽器で奏されたりし始めた<ref name=":61" />。13世紀以降は舞曲が具体的に楽曲として残り始め<ref name=":61" />、続く14世紀は16世紀とともに「舞曲の世紀」と呼ばれるに至る<ref name=":2" />。 == 後期中世 アルス・ノヴァ 1300年~1450年 == === 略史 === 14~15世紀は、ヨーロッパは増大した人口を抱えたうえ、地球の長期的な[[地球寒冷化|寒冷期]]にぶつかり、激しい飢饉に見舞われた。1315~17年にヨーロッパの広範な地域を襲った[[:en:Great_Famine_of_1315–1317|大飢饉]]はその代表的なものである<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「飢饉」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。1348年にヨーロッパに波及した[[ペスト]]は、人口の1/3を死に至らしめ、ヨーロッパ荘園経済は衰微し、宗教と学問の権威は失墜し、中世的な秩序が崩壊し始める<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ペスト」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。1303年の[[アナーニ事件]]、1309年からの[[アヴィニョン捕囚]]、1378年からの[[教会大分裂]]は、教皇の権威を落とした<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-053.html#wh0603_1-109_1 |title=世界史の窓「教皇権の衰退」 |access-date=2023/10/23}}</ref>。1339年~1453年の[[百年戦争]]は、教皇の調停力低下が引き起こし、長期化させたものでもあった<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-037.html |title=世界史の窓「百年戦争」 |access-date=2023/10/23}}</ref>。 一方、十字軍運動の影響で始まった[https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-037.html 東方貿易]の拠点であった北イタリアでは商業都市が発展し<ref name=":62">{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0902-001.html |title=世界史の窓「ルネサンス」 |access-date=2023/10/28}}</ref>、富豪が現れ新興の都市貴族として成り上がっていく傾向を見せる<ref name=":63">{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=98}}</ref>。都市の市民文化が成長し、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、[[ペトラルカ]]、[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカチオ]]らが現れ、文芸で[[ルネサンス]]が始まる<ref name=":62" />。さらに14世紀初頭に[[マルコ・ポーロ]]の「[[東方見聞録]]」が読まれるようになり、1310年頃には[[方位磁針|羅針盤]]が発見され、未知の世界に対する関心が高まった<ref name=":63" />。 [[ヴァロワ朝|ヴァロア朝]]3代目の国王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の弟[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ(大胆公)]]は慣例に従って1363年に[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]となり、結婚を通じて広い領土を獲得した<ref name=":49">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ブルゴーニュ(歴史)」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。彼の3代にわたる子孫はいずれも相続や購入によって積極的な領土拡大政策を採り、[[フランドル]]から[[スイス]]に至る巨大な国をつくりあげ、本家のフランスをしのぐようになった<ref name=":49" />。[[ヨハン・ホイジンガ|ホイジンガ]]が〈[[中世の秋]]〉で描写したこの[[ブルゴーニュ公国]]<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ブルゴーニュ公国」の項 |publisher=平凡社}}</ref>は歴代君主が芸術を保護したので諸文化面とりわけ音楽分野でヨーロッパの中心的存在となり、多くの優れた音楽家を輩出することとなる<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ブルゴーニュ楽派」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 各地の領邦君主領はその基礎を固め、諸侯の[[宮廷]]が領邦の政治的・文化的中心として権威と栄光とを競うようになっていく<ref name=":67">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「宮廷」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。ブルゴーニュ公国の[[ディジョン]]と[[ヘント]]に置かれた宮廷はその典型である<ref name=":67" />。またイタリアでは[[フィレンツェ]]のパラッツォ・[[ヴェッキオ宮殿|ヴェッキオ]](1298建設開始)やヴェネツィアのパラッツォ・[[ドゥカーレ宮殿|ドゥカーレ]](総督宮、1309建設開始)などの支配者のための[[居城|居館]]が建設され都市のシンボルをなし<ref name=":68">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「宮殿」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、それぞれの君侯は居館に廷臣を集め芸術家を抱えて栄華を誇るようになっていく<ref name=":67" />。やがてこうした大規模な宮殿建築はアルプス以北にも広がっていき<ref name=":68" />、このようなイタリア諸都市の宮廷人の姿はやがて最盛期を迎える宮廷文化の模範となって行く<ref name=":67" />。 === アルス・ノヴァ === 1322年頃、フランスの司教<ref name=":21" />[https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%88%E3%83%AA%28Philippe%20de%20Vitry%29-1583518#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 フィリップ・ド・ヴィトリ]は理論書「[[アルス・ノーヴァ|アルス・ノヴァ]]」(「新しい技術」の意)を著し、それまでの3分割(完全分割)に加えて2分割(不完全分割)も同等に扱い、さらに細かい音符も導入することで、前時代の音楽より自由で複雑なリズムを用いた音楽の記譜が可能となった<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=31}}</ref>。ヴィトリの理論は現在の記譜法の基礎となったが、二拍子系のリズムの導入は当時の宗教者たちの逆鱗に触れて大論争となり、ついには[[アヴィニョン教皇庁]]の[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]から1324/25年に禁止令が出されるに至った<ref>{{Cite book|和書 |title=西洋音楽史 |publisher=中央公論社 |pages=27-28 |author=岡田暁生}}</ref>。が、こうした抵抗に関わらず、以後のフランスにおいては「アルス・ノヴァ」の考え方に沿ったポリフォニーの発展が見られた<ref name="名前なし_6-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=199 |author=金澤正剛}}</ref>。そのため14世紀のフランスの音楽は「アルス・ノヴァ」と呼ばれ、それと対比して13世紀のフランスの音楽を「[[アルス・アンティクア]]」と呼ぶ場合がある<ref name=":50">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「アルス・ノバ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 ===== ギョーム・ド・マショー ===== 以前は多声音楽といえばラテン語による宗教曲がほとんどだったが、14世紀に入るとフランス語やイタリア語で愛や生活感情を歌い上げる世俗多声楽曲が盛んになった<ref name=":2" />。13世紀末に活躍した最後のトルヴェールのひとりアダン・ド・ラ・アルは既に3声のためのフランス語世俗歌曲を何曲か残している<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=100}}</ref>。アルス・ノヴァの代表的作曲家は[[ボヘミア]]王兼[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]][[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]の司祭ならびに秘書で詩人の[[ギヨーム・ド・マショー|ギョーム・ド・マショー]]<ref name="名前なし_3-20231105131138"/><ref name=":51">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「マショー」の項 |publisher=平凡社}}</ref>で、当時最高の作曲家・詩人として国際的に名声が高かった<ref name=":52">{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=103}}</ref>。[[ヴィルレー]]・[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC-153635 ロンド―]・[[バラード]]といった世俗歌曲ではトルヴェールの単旋律歌曲の伝統を受け継ぎつつ、新しいリズムと多声書法による装いを施し<ref name=":52" />、歌曲定型を確立し、以後のフランス多声歌曲の方向を決定づけた<ref name=":53">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC-136185 |title=コトバンク「マショー」 |access-date=2023/10/24}}</ref>。すでに世俗化していたモテットでは、[[アイソリズム]]([[イソリズム]]とも、定型反復リズム)の技巧を推し進めた<ref name=":51" />。世俗音楽、モテットとも、フランス語の歌詞はマショー自身の作と考えられている<ref name=":51" />。〈心情から作らない者は、その言葉も歌も偽って作ることになる Qui desentiment non fait/son dit et son chant contre‐fait〉という韻文による言葉を遺したマショー<ref name=":51" />は、「みずからの心にたしかめつつ、作品を創り上げた音楽史上最初の個性ある芸術家であった」と皆川達夫は評価している<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=107}}</ref>。 ===== 14世紀の宗教曲 ===== 14世紀の宗教曲は、アヴィニョン教皇庁でつくられたもののほか、見るべきものはほとんどないとされる<ref name=":1" />が、マショーの〈[[ノートルダム・ミサ曲]]〉は、[[ミサ]]の通常文([[キリエ]]:あわれみの賛歌、[[ミサ曲#グローリア (Gloria)|グロリア]]:栄光の賛歌、[[ミサ曲#クレド (Credo)|クレド]]:信仰宣言、[[ミサ曲#サンクトゥス (Sanctus)|サンクトゥス]]:感謝の賛歌、[[アニュス・デイ (音楽)|アニュス・デイ]]:平和の賛歌)を1人で全て作曲した最古の例であり、15世紀中葉以降一般化する[[ミサ曲]]の創作を先取りしている<ref name=":51" />。このように、マショーは当時用いられていたほとんどの音楽形式による曲で知られる<ref name=":53" />。また、スペイン([[カタルーニャの歴史|カタルーニャ]])・[[バルセロナ]]郊外の、黒い聖母で知られるモンセラート修道院に伝わる「[[モンセラートの朱い本]]」は、初期多声聖歌の発達においてスペインが他国に劣らなかったことを示す価値の高い資料である<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「スペイン音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 ===== 受難劇(聖史劇)全盛 ===== [[受難劇]]は、15世紀にかけてヨーロッパ中に浸透し、キリストの全生涯・[[旧約聖書]]中のエピソードや[[外典]]中の物語・さらには土着的な伝承なども付け加えるという形で大規模化・世俗化していった<ref name=":59">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「宗教劇」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。劇の中では、ときに[[悪魔]]が跳梁跋扈し、舞台の袖にはグロテスクに表現された地獄が大きな口をあけていた<ref name=":59" />。1452年には聖史劇の頂点である[[:en:Arnoul_Gréban|グレバン]]の《[https://kotobank.jp/word/%E3%80%8AMyst%C3%A8re%20de%20la%20Passion%E3%80%8B-1251636 受難の聖史劇]》も出現した<ref name=":59" />。これは初日([[天地創造]]から[[受胎告知]])、2日目([[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]の場から[[最後の晩餐]])、3日目([[ゲッセマネ]]から[[キリストの磔刑|磔刑]])、4日目([[復活 (キリスト教)|復活]])の構成で、登場人物が数百人、詩句の総行数は3万4574行という、途方もなく大規模なものであった<ref name=":59" />。世界演劇史をみても、このような形での民衆の熱中によってささえられた演劇はほとんど見られない<ref name=":59" />。しかし、以後[[ルネサンス]]に入り、[[宗教改革]]の影響にもさらされ、こうした受難劇は存在するための基盤を失い、急速に衰微することとなる<ref name=":59" />。 === トレチェント音楽 === 14世紀イタリアの音楽は、[[トレチェント音楽]](300の意味。この場合は1300年代ということ)と呼ばれる<ref name="名前なし_6-20231105131138"/>。13世紀に至ってもイタリアではまだ単旋律が主流であったが、14世紀に入るとイタリアは中世都市文化が栄える中<ref name=":64">{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=110}}</ref>、[[マドリガーレ]](牧歌の意か)・[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3-45298 カッチャ](狩りの意)・[[バッラータ]](踊り歌の意)といった世俗歌曲にフランスの多声音楽を受け入れ<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=221 |author=金澤正剛}}</ref>、愛や現世の生活感情をイタリア語でうたいあげた<ref name=":64" />。トレチェント音楽はアルス・ノヴァと同時代以降であるが、彼らの記譜法はアルス・ノヴァに比べればはるかに単純で分かり易く、アルス・アンティクアの延長上にある<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |pages=223-234 |author=金澤正剛}}</ref>。これは「トレチェント音楽の関心が単純な旋律の流れと効果的な装飾」にあったため<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=231 |author=金澤正剛}}</ref>、「理論より実践的傾向が強く、…リズムよりも旋律に重点を置いた作曲法が用いられていた」<ref name=":50" />ためであろう。実質ヴィトリとマショーしかいないアルス・ノヴァに比べ、[[ペトラルカ]]やヴィトリと交友があった[[ヤコポ・ダ・ボローニャ]]、盲目の名オルガニストの[[フランチェスコ・ランディーニ]]、ランディーニの師として知られる[[ロレンツォ・ダ・フィレンツェ]]を始め、多くの作曲家が知られる<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=222 |author=金澤正剛}}</ref>。彼らの作品は大英図書館に保存されている[[:en:Robertsbridge_Codex|ロバーツブリッジ写本]]、鍵盤音楽最古の写本とされる[[ファエンツァ手稿|ファエンツァ写本]]、フィレンツェのロレンツォ図書館蔵でトレチェント音楽最大の一次資料とされる[[スクアルチャルーピ写本]]で知ることができる<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=34}}</ref>。 === メネトリエ === 封建領主、貴族などの一定のパトロンに雇われ、彼らの城館でおのおの得意な楽器を演奏したり、トルバドゥールやトルヴェールの作品を歌ったり伴奏したりする人々はメネストレルと呼ばれていたが、13世紀中ごろからメネトリエとも呼ばれるようになり、14世紀に入るとこの呼称が一般化した<ref name=":65">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ミンストレル」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。1321年にはパリに聖ジュリアン楽士組合([[:fr:Ménestrandise|メネストランデーズ]])が結成され<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=213}}</ref>、定期的な集会が開かれ、音楽教育を目的とした学校も設立された<ref name=":65" />。イギリスではフランスの影響によって早くから[[ミンストレル]](メネストレルよりも意味が広く、宮廷歌人や大道芸人を含む)の伝統が確立し、宮廷においては特許状を受けた「国王のミンストレル」が活躍するようになり、15世紀中ごろまでには組合も成立したが、その代表的なものは都市に定着し、「市のミンストレル」と呼ばれるようになった<ref name=":66">{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「ミンストレル」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。いずれにしても、宮廷音楽家としてのメネトリエやミンストレルの活動が盛んだったのは13~15世紀であり、その後は次第に衰退する<ref name=":66" />。 === アルス・スブティリオル === 14世紀後半になると、アルス・ノヴァとトレチェントの交流がアヴィニョン教皇庁の宮廷などを舞台に生まれ、音楽史上まれに見る複雑な音楽様式が展開された<ref name=":54">{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=238 |author=金澤正剛}}</ref>。以前はこれはアルス・ノヴァ後期とされたが<ref group="注釈">例えば皆川達夫は「中世・ルネサンスの音楽」の中で、この時期の音楽への記載に独立した説ではなく「アルス・ノヴァ」の節に含まれる5つの項の最後を充て、「マショーの亜流」「世紀末風のデカダンス」「マニエリスム」「技法だけが形骸化」「沈滞」などとして明らかに停滞のように扱っている。</ref>、近年では[[アルス・スブティリオル]](繊細様式<ref name=":50" />)として扱われるようになっている<ref name=":54" />。極端にまで技巧的な作風、通常の黒符を白抜きにする・赤や青の符を用いる・拍子記号を頻繁に変化させるなど複雑極まりないリズムを表記するための記譜上の工夫、視覚効果を狙っての円形やハート形の楽譜<ref>ボード・コルディエのロンドー《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ ''Belle, bonne, sage''》</ref>などを特徴としている<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |pages=108-109}}</ref>。「煙の歌」が名高い[[ソラージュ]]、[[トレボール]]、フランスやイタリアで活躍した最初のフランドル人作曲家[[ヨハンネス・チコーニア]]、ハープ奏者でもあった[[ジャコブ・ド・サンレーシュ]]、ハート形や円形の楽譜が有名な[[ボード・コルディエ]]などが挙げられる。パリ近郊の[[シャンティイ城]]に保存されていた[[シャンティー写本|シャンティ写本]]で知られる。 === ミンネジンガー === ドイツでは14世紀以降、騎士階級を基盤とする[[ミンネザング|ミンネジンガー]]は、靴屋・仕立屋・織匠・金細工師等が組合を組織して詩と歌の腕を磨き合い合格するとなれた[[マイスタージンガー]]に取って代わられていく<ref name=":55">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「マイスタージンガー」「ミンネザング」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。ドイツ諸都市の勃興が背景にあるという<ref name=":55" />。歌われる題材は当初は宗教的カトリック的であったが、宗教改革後はルターの福音主義を採り、16世紀に入ると宴会歌として娯楽要素が増し、時事問題、歴史もの、滑稽ものなども歌われるようになった<ref name=":55" />。が、歌唱は一貫して単旋律であった<ref name=":55" />。他国が優れた多声音楽を栄えさせた15-16世紀に至ってもなお単旋律歌曲に熱中しているあたりは、当時のドイツ音楽の後進性をあらわしていると皆川達夫は評している<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=70}}</ref>。 === イングランドの3度和声 === イングランドの15世紀以前の音楽の資料はごく限られているが、ポリフォニーが盛んに歌われていたことは明らかである<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=61}}</ref>。大陸では見られない3度と6度の和音の多用がイングランドの音楽の特徴で、13世紀末あるいは14世紀初めころつくられた有名な「[[:en:Sumer_is_icumen_in|夏のカノン]]」<ref name=":56">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=62}}</ref>、14世紀初めにつくられた「めでたし童貞マリアの御胎 Beata Viscera」<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=117}}</ref>、14~15世紀に数多くつくられた[[キャロル]](中世フランスの舞曲から派生した民衆的な宗教歌<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽中辞典「キャロル」の項 |publisher=音楽之友社}}</ref>、[[アジャンクールの戦い]]の戦勝記念の「[[:en:Agincourt_Carol|神に勝利を感謝せよ]] Deo gratias Anglia」がとくに有名<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=118}}</ref>)ではそれぞれ3度と6度の音程が極めて効果的に使われている<ref name=":56" />。また聖歌を歌う際に行われた[http://maucamedus.net/faburden.html ファバードン]という即興演奏法は、平行オルガヌムの応用ともいえる方法で、聖歌の三度下と完全四度上の音程で並行に動く対旋律をつけるというもので、結果的に全ていわゆる6の和音となる<ref name=":57">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=63}}</ref>。3度と6度の音程は中世音楽理論では否定されているが、ポリフォニーを楽譜に頼らず即興で歌ううちに理論に頼らず耳で快い響きを持つ長三度(純正三度)を見つけたのではないかという推測がある<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |pages=62-63}}</ref>。これは15世紀に入って、初期ルネサンスの詩人や理論家が言及した「甘美な響き」の起源であり<ref name=":57" />、[[ピタゴラス音律]]に代わって[[純正律]]が登場したできごとであった<ref name=":57" />。 ===== そしてブルゴーニュ楽派へ ===== 百年戦争末期、フランス北部はイングランドの占領下におかれ、イングランド国王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]の弟[[ジョン・オブ・ランカスター|ベッドフォード公ジョン]]は1422年~1435年まで摂政としてフランスに滞在した<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=122}}</ref>。公に仕えていて同行した[[ジョン・ダンスタブル]]は音楽家であると同時に数学者、天文学者でもあったが<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ダンスタブル」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、彼の作品はフランスのアルス・ノヴァの手法を借用しながらも、より自然な旋律の流れや響きの良い音程の使用などで、フランスの同様の作品とは一線を画している<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=64}}</ref>。このようなイングランドの音楽作品は、大陸の音楽家に計り知れない影響を与えた<ref name="名前なし_7-20231105131138">{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=125}}</ref>。 ダンスタブルの死後20年ほど経った1477年、[[フランドル]]出身の音楽理論家[[ティンクトーリス|ティンクトリス]]は、次のように記している<ref name="名前なし_7-20231105131138"/>。<blockquote>…この時代(15世紀中ごろ)にいたって、われら(大陸)の音楽は、新芸術とも呼ぶべき優れたものとなってきた。その新芸術は、ダンスタブルを代表とするイングランド人によってはじめられたものである。…</blockquote>また、1441年頃にブルゴーニュ公国の宮廷で活躍していた詩人[[マルタン・ルフラン]]が、[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]に献呈した詩集の中で、デュファイらの新しい歌曲の書き方には、ダンスタブルの影響をうかがわせる「イングランドの表情」が見られると言っている<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=67}}</ref>。 ブルゴーニュ公国の宮廷と関係を保っていた15世紀のフランドル出身の音楽家たちは、[[ブルゴーニュ楽派]]と総称される<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=126}}</ref>。彼らは少年期にフランドルで中世以来フランスで開発されてきた多声書法を、若い頃イタリアで活躍してかの地の音楽を、そして百年戦争末期に滞在していたイングランドの音楽家からイングランド特有の作曲法を学び、各国の音楽技法の総合化・国際化を果たした<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |pages=126-127}}</ref>。その総合化の仕事を最も著しく、かつ最も精力的に果たしたのが、[[ギョーム・デュファイ]]であった<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=127}}</ref>。[[皆川達夫]]は、[[ルネサンス音楽|音楽におけるルネサンス]]とはデュファイの創作とともに始まり、展開していったと評価している<ref>{{Cite book|和書 |title=中世・ルネサンスの音楽 |publisher=講談社 |page=131}}</ref>。[[金澤正剛]]は「この新しい指導者の手によって音楽史の新しい時代が展開することとなった事実には疑う余地もない」としている<ref>{{Cite book|和書 |title=中世音楽の精神史 |publisher=講談社 |page=242}}</ref>。一般的にはここからルネサンスが始まると考えてよいだろう。 こうしたブルゴーニュ楽派を、「〈[[中世の秋]]〉であるとともにルネサンス時代の夜明けである」「中世的要素と近世的要素を併せもつ過渡期」としている記載もある<ref name=":60">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。が、その場合でも15世紀半ば以降の[[フランドル楽派]]を中世とはしない<ref name=":60" />。中世西洋音楽が完全に終わるのはここと考えてよいだろう。 == 中世に使用された楽器 == === 弦楽器 === *[[レベック]](弓奏リュート。リュートもしくは[[ヴァイオリン]]属) [[:en:Rebec]] *[[中世フィドル|フィドル]](またはヴィエレ。ヴァイオリン属) [[:en:Vielle]] *[[リュート]] *ギターン(小型リュート) [[:en:Gittern]] *シトル(中世ギター) [[:en:Citole]] *[[プサルテリウム]]([[チター属|ツィター属」]]) [[:en:Psaltery]] *[[ダルシマー]] (またはドルチェ・メロス。打奏[[ツィター]]) [[:en:Hammered dulcimer]] *[[リラ (楽器)|リラ]](竪琴) *クルース(またはクロッタ。弓奏のリラ属) [[:en:Crwth]] *中世[[ハープ]] [https://www.music.iastate.edu/antiqua/instrument/harp Harp] *[[ハーディガーディ]](またはオルガニストルム、シンフォニアとも。) *[[チェンバロ]] === 管楽器 === *[[クルムホルン]]([[オーボエ]]属。リードを直接、口でくわえず、木製キャップに息を吹き込むことで振動させる。) [[:en:Crumhorn]] *[[シャルマイ]](または[[ショーム]]、[[ピッファロ]]とも。オーボエ属) [[:en:Shawm]] (日本には[[チャルメラ]]という名で伝わる) *[[リコーダー]](縦笛。[[フルート]]属) *ファイフ(横笛。フルート属) [[:en:Fife (instrument)]] *ゲムスホルン(閉管式の指孔のある角笛。円錐の底面側から息を吹き込む。発音原理的には気柱が振動する管楽器ではなく、[[ヘルムホルツ共鳴器]]とみなせる。) [[:en:Gemshorn]] *[[ツィンク]](指孔のある角笛。[[ホルン]]属) [[:en:Cornett]](角笛から木管のコルネット(cornett)が生じたが、現在の[[コルネット]](cornet)とは異なる)[https://www.music.iastate.edu/antiqua/instrument/zink Zink] *サックバット([[トロンボーン]]) [[:en:Sackbut]] *トロンバ(またはブイジーネ:中世[[ナチュラルトランペット]]) [[:en:Buisine]] , [http://www.apemutam.org/instrumentsmedievaux/pages/Tromp41.htm trompette] *中世[[ミュゼット]](あるいはコルネミュゼ。[[バグパイプ]]属) [http://pa-cabiran.instrumentsmedievaux.org/text/cornemusesmed.html pa-cabiran.instrumentsmedievaux.org : cornemuses medievales]{{リンク切れ|date=2018年12月}} *[[オルガン]] (固定式オルガン、ポシティフ・オルガン、パイプ・オルガン) *オルガネット(手持ちオルガン、ポルタティフ・オルガン) [[:de:Portativ]] === 打楽器 === *タンブラン(中世[[プロヴァンス太鼓]]) *[[タンバリン]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[グレゴリオ聖歌]] *[[イギリスの音楽|中世イギリスの音楽]] * [[クラシック音楽]] ** [[ルネサンス音楽]] * [[古楽]] * [[古楽器]] * [[古代西洋音楽]] * [[古代の音楽]] * [[バードコア]]…ポップスを中世音楽風にアレンジしたジャンル {{音楽}} {{クラシック音楽-フッター}} {{中世}} {{デフォルトソート:ちゆうせいせいようおんかく}} [[Category:中世西洋音楽|*]] [[Category:クラシック音楽史]] [[Category:中世ヨーロッパ]]
2003-09-08T05:57:44Z
2023-12-08T11:15:19Z
false
false
false
[ "Template:Portal クラシック音楽", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:音楽", "Template:クラシック音楽-フッター", "Template:中世", "Template:リンク切れ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E9%9F%B3%E6%A5%BD
15,711
国性爺合戦
こくせんやかっせん(漢名:『国姓爺合戦』、『国性爺合戦』)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。 正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の清朝からの復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。 今日歌舞伎で演じられるのは主として三段目の一部である。 明朝第17代皇帝思宋烈(崇禎帝)の妃華清は臨月。そこに華清を賜れとの韃靼王の使者が。李蹈天は賛成するが、呉三桂は反対する。李蹈天は自らの左目をくりぬいて使者に渡し、当座を切り抜ける。この功に皇帝は妹を李蹈天に与えようとするが当の栴檀皇女が承諾しない。皇帝は官女に梅と桜の花を持たせて戦わせ、梅が勝ったら承諾するようにと命ずる。 この花いくさの最中に韃靼の軍が宮廷に攻め入る。李蹈天が裏切ったのだった。皇帝は李蹈天に殺害される。華清妃は呉三桂の手引きで逃れるが、海登の湊でついに砲弾に倒れる。呉三桂は死んだ妃の腹から皇子を取りだし、代わりに殺した我が子を身代わりとして腹に入れる。栴檀皇女は呉三桂の妻、柳歌君に守られながら、海に逃れる。 栴檀皇女が小舟で平戸に打ち寄せられたのを明の元役人鄭芝龍が見つける。鄭芝龍は二十数年前に勅旨により日本に渡って、この地で漁師として老一官を名乗り、日本人の妻をめとっていた。老一官夫婦と子の和藤内は、和藤内の妻小むつに栴檀皇女を預け、明朝の復活のため、中国に渡る。 一方、鄭芝龍が大陸に残した先妻・渚との娘、錦祥女は、韃靼の将軍、甘輝の妻となっていた。3人は、甘輝に協力を求めるため、甘輝の館である獅子ヶ城へ向かう。3人は二手に分かれたが、和藤内と母は千里ヶ竹に迷い込む。ここで虎を退治した和藤内は、韃靼兵を手下にしてしまう。 3人は獅子ヶ城にたどり着く。警護は対面を許さなかったが、楼門に登った錦祥女は、3人との対面を果たす。錦祥女は老一官が父であることを確認するが、甘輝は不在であった。警護により3人が城内にはいることは拒絶されるが、3人のうち母だけは縄付きとなることを条件に館に入ることを許される。錦祥女は甘輝が味方するかどうかを、味方するなら白粉を、そうでなければ紅を堀に流すことで合図することにする。 城に帰った甘輝は、「いったん韃靼の王に忠誠を誓った者が、妻の縁で味方になっては義が立たない。そう言われないようにするためには、味方になるのなら、錦祥女を殺してからだ」と答える。しかし甘輝は妻を殺せない。錦祥女は紅を流す。 怒った和藤内は甘輝の城へ向かうが、紅と思ったものは錦祥女が自害して流した血であったと知る。さらにその母・渚(和藤内の母とするものもある)も後を追って自害した。妻の情に心を打たれた甘輝は韃靼征伐を決心し、和藤内に「延平王国性爺鄭成功」の名を与える。 神意を得た小むつは栴檀皇女とともに平戸から中国(浙江省)松江の湊に渡る。一方、呉三桂は皇子をかくまい、山中で暮らしていた。そこに鄭芝龍、小むつ、栴檀皇女が現れる。敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れる。 和藤内、甘輝、呉三桂が竜馬ヶ原で再会する。そこに鄭芝龍が韃靼を攻めに南京城に向かったという知らせが入る。一同は後を追い、南京城を攻める。ついに敵を倒して、皇子を位につける。 正徳4年9月(1714年10月)、竹本座の竹本義太夫が没し、遺言により、24歳の弟子・竹本政太夫が後を継いだ。しかし多くの年配者を差し置いてのことだったため、反発があった。そこで長老の近松門左衛門と、座長の竹田出雲は、政太夫の長所である声を活かしたこの作品を完成させる。この作品名は、当初は史実通り『国姓爺合戦』であったが、話は創作であるため、「姓」を「性」と変え『国性爺合戦』に直したともいわれるが、後づけの説明とされる。 隣国である中国に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、鎖国下において非常に人気を集め、結果的に3年越し17ヶ月続演という記録を打ち立てた。また歌舞伎化のほか、読本としても出版された。 この人気を受けて、近松は後日狂言として『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』を書いたが、いずれも前作の人気には及ばなかった。 現在は、歌舞伎・文楽ともに二段目の「千里が竹」と三段目がよく上演される。歌舞伎では錦祥女の流した血が川に流れる場面を「紅流し」と呼び、国性爺が「南無三! 紅が流れた!」と被っていた笠を脱ぎ捨て、石橋の上で大見得を切るという荒事風の演出が名高く、市川團十郎代々のお家芸となっている。また、獅子が城での国性爺と甘輝との対決は両者とも座頭級の俳優が共演して火花を散らすのが見どころである。 二段目切「千里ヶ竹」に2世杵屋勝三郎が作曲。「安達ヶ原」・「船弁慶」と並ぶ杵勝三伝の一つ。1878年初演。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "こくせんやかっせん(漢名:『国姓爺合戦』、『国性爺合戦』)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の清朝からの復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "今日歌舞伎で演じられるのは主として三段目の一部である。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "明朝第17代皇帝思宋烈(崇禎帝)の妃華清は臨月。そこに華清を賜れとの韃靼王の使者が。李蹈天は賛成するが、呉三桂は反対する。李蹈天は自らの左目をくりぬいて使者に渡し、当座を切り抜ける。この功に皇帝は妹を李蹈天に与えようとするが当の栴檀皇女が承諾しない。皇帝は官女に梅と桜の花を持たせて戦わせ、梅が勝ったら承諾するようにと命ずる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この花いくさの最中に韃靼の軍が宮廷に攻め入る。李蹈天が裏切ったのだった。皇帝は李蹈天に殺害される。華清妃は呉三桂の手引きで逃れるが、海登の湊でついに砲弾に倒れる。呉三桂は死んだ妃の腹から皇子を取りだし、代わりに殺した我が子を身代わりとして腹に入れる。栴檀皇女は呉三桂の妻、柳歌君に守られながら、海に逃れる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "栴檀皇女が小舟で平戸に打ち寄せられたのを明の元役人鄭芝龍が見つける。鄭芝龍は二十数年前に勅旨により日本に渡って、この地で漁師として老一官を名乗り、日本人の妻をめとっていた。老一官夫婦と子の和藤内は、和藤内の妻小むつに栴檀皇女を預け、明朝の復活のため、中国に渡る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方、鄭芝龍が大陸に残した先妻・渚との娘、錦祥女は、韃靼の将軍、甘輝の妻となっていた。3人は、甘輝に協力を求めるため、甘輝の館である獅子ヶ城へ向かう。3人は二手に分かれたが、和藤内と母は千里ヶ竹に迷い込む。ここで虎を退治した和藤内は、韃靼兵を手下にしてしまう。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "3人は獅子ヶ城にたどり着く。警護は対面を許さなかったが、楼門に登った錦祥女は、3人との対面を果たす。錦祥女は老一官が父であることを確認するが、甘輝は不在であった。警護により3人が城内にはいることは拒絶されるが、3人のうち母だけは縄付きとなることを条件に館に入ることを許される。錦祥女は甘輝が味方するかどうかを、味方するなら白粉を、そうでなければ紅を堀に流すことで合図することにする。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "城に帰った甘輝は、「いったん韃靼の王に忠誠を誓った者が、妻の縁で味方になっては義が立たない。そう言われないようにするためには、味方になるのなら、錦祥女を殺してからだ」と答える。しかし甘輝は妻を殺せない。錦祥女は紅を流す。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "怒った和藤内は甘輝の城へ向かうが、紅と思ったものは錦祥女が自害して流した血であったと知る。さらにその母・渚(和藤内の母とするものもある)も後を追って自害した。妻の情に心を打たれた甘輝は韃靼征伐を決心し、和藤内に「延平王国性爺鄭成功」の名を与える。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "神意を得た小むつは栴檀皇女とともに平戸から中国(浙江省)松江の湊に渡る。一方、呉三桂は皇子をかくまい、山中で暮らしていた。そこに鄭芝龍、小むつ、栴檀皇女が現れる。敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "和藤内、甘輝、呉三桂が竜馬ヶ原で再会する。そこに鄭芝龍が韃靼を攻めに南京城に向かったという知らせが入る。一同は後を追い、南京城を攻める。ついに敵を倒して、皇子を位につける。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "正徳4年9月(1714年10月)、竹本座の竹本義太夫が没し、遺言により、24歳の弟子・竹本政太夫が後を継いだ。しかし多くの年配者を差し置いてのことだったため、反発があった。そこで長老の近松門左衛門と、座長の竹田出雲は、政太夫の長所である声を活かしたこの作品を完成させる。この作品名は、当初は史実通り『国姓爺合戦』であったが、話は創作であるため、「姓」を「性」と変え『国性爺合戦』に直したともいわれるが、後づけの説明とされる。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "隣国である中国に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、鎖国下において非常に人気を集め、結果的に3年越し17ヶ月続演という記録を打ち立てた。また歌舞伎化のほか、読本としても出版された。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この人気を受けて、近松は後日狂言として『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』を書いたが、いずれも前作の人気には及ばなかった。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在は、歌舞伎・文楽ともに二段目の「千里が竹」と三段目がよく上演される。歌舞伎では錦祥女の流した血が川に流れる場面を「紅流し」と呼び、国性爺が「南無三! 紅が流れた!」と被っていた笠を脱ぎ捨て、石橋の上で大見得を切るという荒事風の演出が名高く、市川團十郎代々のお家芸となっている。また、獅子が城での国性爺と甘輝との対決は両者とも座頭級の俳優が共演して火花を散らすのが見どころである。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "二段目切「千里ヶ竹」に2世杵屋勝三郎が作曲。「安達ヶ原」・「船弁慶」と並ぶ杵勝三伝の一つ。1878年初演。", "title": "長唄「虎狩」" } ]
こくせんやかっせんは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。 正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の清朝からの復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。
{{Otheruses|近松門左衛門作の人形浄瑠璃|その他の用法|国姓爺合戦}} <!--{{Portal|文学}}--><!--文学に非ず--> [[ファイル:Komazō Ichikawa VII as Watō Nai in Kokusenya Kassen.jpg|thumb|250px|「南無三! 紅が流れた!」 ---- {{small|笠を脱ぎ、石橋の上で大見得を切る国性爺([[松本幸四郎 (7代目)|七代目松本幸四郎]])。三段目「獅子ヶ城紅流しの場」。上演年劇場等不詳。}}]] '''こくせんやかっせん'''([[漢名]]:『'''国姓爺合戦'''』、『'''国性爺合戦'''』)は、[[近松門左衛門]]作の[[人形浄瑠璃]]。のちに[[歌舞伎]]化された。全五段。 [[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])、[[大坂]]の[[竹本座]]で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、[[台湾]]を拠点に[[明|明朝]]の[[清|清朝]]からの復興運動を行った[[鄭成功]](国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。 ==あらすじ== [[File:Kokusenyakassen.jpg|thumb|250px|1859年([[安政]]6年)出版の錦絵{{sfn|市川てる世|1859|p=1}}。座元は市川照世。]] 今日[[歌舞伎]]で演じられるのは主として三段目の一部である。 ===一段目=== [[明|明朝]]第17代皇帝[[思宋烈]]([[崇禎帝]])の妃[[華清]]は臨月。そこに華清を賜れとの[[韃靼]]王の使者が。[[李蹈天]]は賛成するが、[[呉三桂]]は反対する。李蹈天は自らの左目をくりぬいて使者に渡し、当座を切り抜ける。この功に皇帝は妹を李蹈天に与えようとするが当の[[栴檀]]皇女が承諾しない。皇帝は官女に梅と桜の花を持たせて戦わせ、梅が勝ったら承諾するようにと命ずる。 この花いくさの最中に韃靼の軍が宮廷に攻め入る。李蹈天が裏切ったのだった。皇帝は李蹈天に殺害される。華清妃は呉三桂の手引きで逃れるが、[[海登の湊]]でついに砲弾に倒れる。呉三桂は死んだ妃の腹から皇子を取りだし、代わりに殺した我が子を身代わりとして腹に入れる。栴檀皇女は呉三桂の妻、[[柳歌君]]に守られながら、海に逃れる。 ===二段目=== 栴檀皇女が小舟で[[平戸]]に打ち寄せられたのを明の元役人[[鄭芝龍]]が見つける。鄭芝龍は二十数年前に[[勅旨]]により日本に渡って、この地で漁師として老一官を名乗り、日本人の妻をめとっていた。老一官夫婦と子の[[和藤内]]は、和藤内の妻[[小むつ]]に栴檀皇女を預け、明朝の復活のため、中国に渡る。 一方、鄭芝龍が大陸に残した先妻・渚との娘、[[錦祥女]]は、韃靼の将軍、[[甘輝]]の妻となっていた。3人は、甘輝に協力を求めるため、甘輝の館である獅子ヶ城へ向かう。3人は二手に分かれたが、和藤内と母は千里ヶ竹に迷い込む。ここで虎を退治した和藤内は、韃靼兵を手下にしてしまう。 ===三段目=== 3人は獅子ヶ城にたどり着く。警護は対面を許さなかったが、[[楼門]]に登った錦祥女は、3人との対面を果たす。錦祥女は老一官が父であることを確認するが、甘輝は不在であった。警護により3人が城内にはいることは拒絶されるが、3人のうち母だけは縄付きとなることを条件に館に入ることを許される。錦祥女は甘輝が味方するかどうかを、味方するなら白粉を、そうでなければ紅を堀に流すことで合図することにする。 城に帰った甘輝は、「いったん韃靼の王に忠誠を誓った者が、妻の縁で味方になっては義が立たない。そう言われないようにするためには、味方になるのなら、錦祥女を殺してからだ」と答える。しかし甘輝は妻を殺せない。錦祥女は紅を流す。 怒った和藤内は甘輝の城へ向かうが、紅と思ったものは錦祥女が自害して流した血であったと知る。さらにその母・渚(和藤内の母とするものもある)も後を追って自害した。妻の情に心を打たれた甘輝は韃靼征伐を決心し、和藤内に「延平王国性爺鄭成功」の名を与える。 ===四段目=== 神意を得た小むつは栴檀皇女とともに平戸から中国([[浙江省]])松江の湊に渡る。一方、呉三桂は皇子をかくまい、山中で暮らしていた。そこに鄭芝龍、小むつ、栴檀皇女が現れる。敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れる。 ===五段目=== 和藤内、甘輝、呉三桂が竜馬ヶ原で再会する。そこに鄭芝龍が韃靼を攻めに[[南京市|南京]]城に向かったという知らせが入る。一同は後を追い、南京城を攻める。ついに敵を倒して、皇子を位につける。 ==登場人物== [[ファイル:Actors Bando Hikosaburo V as Kokusenya and Kawarazaki Gonjuro as Watonai.jpg|thumb|250px|{{small|初代河原崎権十郎([[:市川團十郎 (9代目)|九代目團十郎]])の和藤内と[[坂東彦三郎 (5代目)|五代目坂東彦三郎]]の甘輝 ([[豊原国周]] 画)}}]] ;和藤内 :中国人を父に、日本人を母に持つ。のち国性爺。超人的活躍で[[明|明朝]]の復興に尽くす。実在の人物[[鄭成功]](国姓爺)がモデル。なお、和藤内とは、「'''和'''(日本)でも'''藤'''(唐、中国のこと)でも'''内'''(ない)」という洒落。 ;小むつ :和藤内の妻。 ;鄭芝龍 :和藤内の父。明の臣。日本に渡ってからは老一官と名乗る。 ;栴檀皇女 :明の皇帝の妹。 ;甘輝 :将軍。 ;呉三桂 :将軍。明の忠臣。敵弾に倒れた帝の寵妃華清婦人の腹の太子と自らの子を入れ替え、太子をつれて山々を逃げ九仙山に隠れる。 ;錦祥女 :甘輝の妻。鄭芝龍の先妻の娘。 ;李蹈天 :明の佞臣。左目を抉り取って韃靼にくみする。 ==作品背景== [[ファイル:Actors Kawarazaki Gonjuro I as Watonai Sankan and Sawamura Tanosuke III as Kinshojo.jpg|thumb|250px|{{small|初代河原崎権十郎の和藤内と[[:ja:澤村田之助 (3代目)|三代目澤村田之助]]の錦祥女 ([[歌川国貞|三代目豊国]] 画)}}]] 正徳4年9月([[1714年]]10月)、[[竹本座]]の[[竹本義太夫]]が没し、遺言により、24歳の弟子・[[竹本政太夫]]が後を継いだ。しかし多くの年配者を差し置いてのことだったため、反発があった。そこで長老の[[近松門左衛門]]と、座長の[[竹田出雲]]は、政太夫の長所である声を活かしたこの作品を完成させる。この作品名は、当初は史実通り『国姓爺合戦』であったが、話は創作であるため、「姓」を「性」と変え『国性爺合戦』に直したともいわれるが、後づけの説明とされる<ref>奈良修一、『鄭成功 南海を支配した一族』、84頁</ref>。 隣国である[[中国]]に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、[[鎖国]]下において非常に人気を集め、結果的に3年越し17ヶ月続演という記録を打ち立てた。また[[歌舞伎]]化のほか、[[読本]]としても出版された。 この人気を受けて、近松は後日[[狂言]]として『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』を書いたが、いずれも前作の人気には及ばなかった。 現在は、歌舞伎・[[文楽]]ともに二段目の「千里が竹」と三段目がよく上演される。歌舞伎では錦祥女の流した血が川に流れる場面を「紅流し」と呼び、国性爺が「南無三! 紅が流れた!」と被っていた笠を脱ぎ捨て、石橋の上で大見得を切るという[[立役|荒事]]風の演出が名高く、[[市川團十郎]]代々のお家芸となっている。また、獅子が城での国性爺と甘輝との対決は両者とも座頭級の俳優が共演して火花を散らすのが見どころである。 ==長唄「虎狩」== 二段目切「千里ヶ竹」に2世[[杵屋勝三郎]]が作曲。「安達ヶ原」・「船弁慶」と並ぶ杵勝三伝の一つ。1878年初演。 ==NHK人形劇== *1954年11月28日 - 1955年3月13日 日曜 18:30 - 19:00([[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]]、全15回) *脚色:[[秋月桂太郎]] *人形:[[結城座]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連文献 == {{参照方法|section=1|date=2016年3月2日 (水) 06:22 (UTC)}} * Interpreting Zheng Chenggong: The Politics of Dramatizing a Historical Figure in Japan, China, and Taiwan., Chong Wang;[[:en:VDM Publishing|VDM Verlag]], Saarbrücken 2008; ISBN 363909266X *{{Cite book|和書|author={{Anchors|市川てる世}}市川てる世| translator=| title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541981 けいせい阿国歌舞妓 三國一廓錦繪 国姓爺合戦]| page=1| publisher=本清『大阪芝居絵番附中之芝居』第17巻| location =| year=1859| isbn=| ref=harv}} == 関連項目 == {{commonscat}} *[[鄭氏政権 (台湾)]] *[[虎拳]] - 二段目「千里が竹の場」から取った遊び<!--(和藤内・老母・虎の三すくみ)-->。<!-- *[[椿三十郎]] - 隣宅とつながる水路から白椿・紅椿を合図で流すシーンがある。--><!--関連性が希薄--> *[[国姓爺合戦]] *[[ワトウナイ]] *[[虎舞]] - 三陸沿岸部に伝わる郷土芸能で本作が起源とされる。 == 外部リンク == *[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc13/sakuhin/syuyo/p5/p5-a.html 近松門左衛門(文化デジタルライブラリー)] - 日本芸術文化振興会のページ *[https://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/1802/ 歌舞伎演目案内 国性爺合戦] - 歌舞伎 on the web {{lit-stub}} {{歌舞伎の演目}} {{Portal bar|日本|中国|江戸|戦争|舞台芸術}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくせんやかつせん}} [[Category:江戸時代の文学作品]] [[Category:浄瑠璃]] [[Category:歌舞伎の演目]] [[Category:近松門左衛門]] [[Category:江戸時代の中国系文化]] [[Category:明朝を舞台とした作品]] [[Category:1710年代の戯曲]] [[Category:NHK総合テレビジョンの人形劇]] [[Category:1954年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:鄭成功]]
null
2023-07-04T11:11:59Z
false
false
false
[ "Template:Small", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:Lit-stub", "Template:Normdaten", "Template:Otheruses", "Template:Sfn", "Template:参照方法", "Template:歌舞伎の演目", "Template:Portal bar" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%80%A7%E7%88%BA%E5%90%88%E6%88%A6
15,712
システム工学
システム工学(システムこうがく、英: systems engineering)とは、システムの設計、制御、および効率などを研究する学問(工学)である。ここでの「システム」の定義としては、システムの記事(システム#JIS Z 8115)などを参照のこと。工学として応用される実社会の具体例としては、工業プラントやロボットから、コンピュータを用いたシミュレーションゲームや人工補助脳(ロボットスーツに搭載されるもの)、会社組織や行政機関に至るまで、きわめて広範囲に及ぶ。システム工学は、個々の要素からシステムを合成するということと、複雑なシステムを解析するという、大きく分けて2つの目的がある。なおシステム科学も参照のこと。 工学の一分野として扱われる理由は、単なる原理追求の学問ではなく、実際に技術として即座に使用できる知識の体系という捉え方をされる場合があるからである。 システム工学の学問的方法として、モデリングとシミュレーションは重要である。モデリングとはモデルを作ることであり、シミュレーションはモデルを用いた仮想実験のことである。例えば、航空機の開発では、想定される能力・機能を数式的に表現した数学モデルをあらかじめ作り、計算機等を用いてシミュレーションすることで、どのように飛行するか、どのような操縦性を持つか、必要な飛行性能を実現するか等のデータを得る。 シミュレーションの結果をもとに、システムを評価し、これによってシステムを改善する。これを繰り返し、システムの改善を図っていくのである。 個々の要素のサイズが大きく高価で信頼性や性能が低かった頃のシステムは比較的単純なものが多かったが、要素のダウンサイジングが進み安価になり信頼性と性能が向上した今日では、自己組織化に着目した自律的なシステムの構築が求められている。自律的秩序形成機能や、多元的な要素をフィードバックできる情報処理機構を有し、散逸構造形成による時間的・空間的構造の自己構築が可能な代謝サイクルを持ち、所望の機能を実現する複雑系を自律的に構築するシステムの実現へと方向性が変わっている。 システム工学という分野が確立したのは第二次世界大戦の頃であるが、この分野の本格的な研究は、電話システムにさかのぼることができる。 システム工学から派生する分野として、情報システム工学、機械システム工学、生産システム工学、環境システム工学、海洋システム工学、経営システム工学、社会システム工学、プロセスシステム工学などといったものがある。大学の土木工学科を建設システム工学科とするというような場合には単なる名称変更であることもあるが、結局のところ「システム工学からの派生」であるのか「単なる名称変更」であるのかは気の持ちように過ぎないと言えなくもない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "システム工学(システムこうがく、英: systems engineering)とは、システムの設計、制御、および効率などを研究する学問(工学)である。ここでの「システム」の定義としては、システムの記事(システム#JIS Z 8115)などを参照のこと。工学として応用される実社会の具体例としては、工業プラントやロボットから、コンピュータを用いたシミュレーションゲームや人工補助脳(ロボットスーツに搭載されるもの)、会社組織や行政機関に至るまで、きわめて広範囲に及ぶ。システム工学は、個々の要素からシステムを合成するということと、複雑なシステムを解析するという、大きく分けて2つの目的がある。なおシステム科学も参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "工学の一分野として扱われる理由は、単なる原理追求の学問ではなく、実際に技術として即座に使用できる知識の体系という捉え方をされる場合があるからである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "システム工学の学問的方法として、モデリングとシミュレーションは重要である。モデリングとはモデルを作ることであり、シミュレーションはモデルを用いた仮想実験のことである。例えば、航空機の開発では、想定される能力・機能を数式的に表現した数学モデルをあらかじめ作り、計算機等を用いてシミュレーションすることで、どのように飛行するか、どのような操縦性を持つか、必要な飛行性能を実現するか等のデータを得る。 シミュレーションの結果をもとに、システムを評価し、これによってシステムを改善する。これを繰り返し、システムの改善を図っていくのである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "個々の要素のサイズが大きく高価で信頼性や性能が低かった頃のシステムは比較的単純なものが多かったが、要素のダウンサイジングが進み安価になり信頼性と性能が向上した今日では、自己組織化に着目した自律的なシステムの構築が求められている。自律的秩序形成機能や、多元的な要素をフィードバックできる情報処理機構を有し、散逸構造形成による時間的・空間的構造の自己構築が可能な代謝サイクルを持ち、所望の機能を実現する複雑系を自律的に構築するシステムの実現へと方向性が変わっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "システム工学という分野が確立したのは第二次世界大戦の頃であるが、この分野の本格的な研究は、電話システムにさかのぼることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "システム工学から派生する分野として、情報システム工学、機械システム工学、生産システム工学、環境システム工学、海洋システム工学、経営システム工学、社会システム工学、プロセスシステム工学などといったものがある。大学の土木工学科を建設システム工学科とするというような場合には単なる名称変更であることもあるが、結局のところ「システム工学からの派生」であるのか「単なる名称変更」であるのかは気の持ちように過ぎないと言えなくもない。", "title": "概要" } ]
システム工学とは、システムの設計、制御、および効率などを研究する学問(工学)である。ここでの「システム」の定義としては、システムの記事などを参照のこと。工学として応用される実社会の具体例としては、工業プラントやロボットから、コンピュータを用いたシミュレーションゲームや人工補助脳(ロボットスーツに搭載されるもの)、会社組織や行政機関に至るまで、きわめて広範囲に及ぶ。システム工学は、個々の要素からシステムを合成するということと、複雑なシステムを解析するという、大きく分けて2つの目的がある。なおシステム科学も参照のこと。
{{出典の明記|date=2011年4月}} '''システム工学'''(システムこうがく、{{lang-en-short|systems engineering}})とは、[[システム]]の[[設計]]、[[制御]]、および効率などを[[研究]]する[[工学|学問]]である。ここでの「システム」の定義としては、システムの記事([[システム#JIS Z 8115]])などを参照のこと。工学として応用される実社会の具体例としては、工業[[プラント]]や[[ロボット]]から、[[コンピュータ]]を用いた[[シミュレーションゲーム]]や人工補助脳(ロボットスーツに搭載されるもの)、[[会社]]組織や[[行政]]機関に至るまで、きわめて広範囲に及ぶ。システム工学は、個々の要素からシステムを'''合成'''するということと、複雑なシステムを'''解析'''するという、大きく分けて2つの目的がある。なお[[システム科学]]も参照のこと。 == 概要 == [[工学]]の一分野として扱われる理由は、単なる原理追求の学問ではなく、実際に'''技術として即座に使用できる'''知識の体系という捉え方をされる場合があるからである<ref> 例:「システム工学を利用して問題の解決に当たる」等々 </ref>。 システム工学の学問的方法として、モデリングと[[シミュレーション]]は重要である。モデリングとは[[モデル (自然科学)|モデル]]を作ることであり、シミュレーションはモデルを用いた仮想実験のことである。例えば、航空機の開発では、想定される能力・機能を数式的に表現した数学モデルをあらかじめ作り、計算機等を用いてシミュレーションすることで、どのように飛行するか、どのような操縦性を持つか、必要な飛行性能を実現するか等のデータを得る。 シミュレーションの結果をもとに、システムを評価し、これによってシステムを改善する。これを繰り返し、システムの改善を図っていくのである。 個々の要素のサイズが大きく高価で信頼性や性能が低かった頃のシステムは比較的単純なものが多かったが、要素のダウンサイジングが進み安価になり信頼性と性能が向上した今日では、[[自己組織化]]に着目した自律的なシステムの構築が求められている。自律的秩序形成機能や、多元的な要素をフィードバックできる情報処理機構を有し、散逸構造形成による時間的・空間的構造の自己構築が可能な代謝サイクルを持ち、'''所望の機能を実現する[[複雑系]]を自律的に構築するシステム'''の実現へと方向性が変わっている。 システム工学という分野が確立したのは[[第二次世界大戦]]の頃であるが、この分野の本格的な研究は、[[電話]]システムにさかのぼることができる。 システム工学から派生する分野として、[[情報システム工学]]、機械システム工学、生産システム工学、環境システム工学、海洋システム工学、[[経営システム工学]]、社会システム工学、[[プロセスシステム工学]]などといったものがある。大学の[[土木工学科#システム|土木工学科を建設システム工学科]]とするというような場合には単なる名称変更であることもあるが、結局のところ「システム工学からの派生」であるのか「単なる名称変更」であるのかは気の持ちように過ぎないと言えなくもない。 == システム工学に関する学科 == * システム工学科 - [[和歌山大学]][[和歌山大学#学部・学科|システム工学部]]にある *[[システムデザイン学部]] - [[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]]にある。情報科学科・電子情報システム工学科・機械システム工学科・航空宇宙システム工学科・インダストリアルアート学科の各学科と大学院から成る。 * [[システムデザイン工学科]] - [[大阪工業大学ロボティクス&デザイン工学部]]に設置。主に[[IoT]]/[[人工知能|AI]]分野を学ぶ。 * システム創成工学科 - [[岩手大学]][[理工学部]]にある。また[[山形大学]][[工学部]]にもフレックスコースで設置されている。 * [[都市システム工学科]] - [[茨城大学]]工学部 * 都市システム工学科 - [[関西大学環境都市工学部]] * [[社会環境システム工学科]] - [[宮崎大学工学部]] * [[交通システム工学科]] - [[日本大学理工学部・大学院理工学研究科|日本大学理工学部]] 1961年理工学部交通工学科 1979年交通土木工学科 2001年社会交通工学科 2013年交通システム工学科 * 総合システム工学科 - [[西日本工業大学]]工学部 1936年、九州工学校設立。2003年、学科名称の変更。環境都市デザイン工学科。2007年、学科名称の変更で環境都市デザイン工学科を環境建設学科。2009年、総合システム工学科に改組 * 情報システム工学科 - [[東京電機大学システムデザイン工学部]] * 情報通信システム工学科 - [[千葉工業大学工学部]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[システムアーキテクチャ]] *[[システムエンジニア]](辞書的には関連するが、語が使われている実態としてはほぼ関連しない) *[[制御工学]] *[[経営工学]] *[[経営システム工学]] *[[インダストリアル・エンジニアリング]] *[[エンタープライズエンジニアリング]] *[[オペレーション・マネジメント]] *[[SSADM|SSADM(構造化システム分析・設計手法)]] *[[システム開発ライフサイクル]] *[[一般システム理論]] *{{仮リンク|システム・インフォメーション・モデル|en|System information modelling}} {{Systems science}} {{Systems engineering}} {{ソフトウェア工学}} {{Engineering fields}} {{Tech-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しすてむこうかく}} [[Category:工学の分野]] [[Category:システム工学|*]] [[Category:システム]]
2003-09-08T06:09:11Z
2023-11-24T23:05:34Z
false
false
false
[ "Template:Systems engineering", "Template:Tech-stub", "Template:Reflist", "Template:仮リンク", "Template:Systems science", "Template:Engineering fields", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:ソフトウェア工学" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E5%B7%A5%E5%AD%A6
15,713
水切り
水切り(みずきり)は水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせて、その回数を競ったりする遊びのこと。「水の石切り」「石切り」とも呼ばれる。世界中、ある程度の大きさを持つ水面と石のある場所であれば、どこでも見られる遊びである。英語ではStone skipping及びStone skimming。 水切りは簡単に誰にでも出来る遊びとして各地で行われており、水切りのイベントが行われることもある。日本の埼玉県熊谷市などでは市民の同好会的組織も存在している。 水切りを行う際は、投げる前方に遊泳中の人がいないかなど、周りの人にけががないように注意するとともに、水鳥などの野生動物への配慮も忘れてはならない。 2013年9月6日にアメリカのカート・スタイナー(Kurt Steiner)が88段を記録し、ギネス世界記録として登録されている。それ以前の記録は、2007年7月19日にラッセル・バイヤース(Russell Byars)が記録した51段である。カート・スタイナーは、2007年にバイヤースに抜かれるまで、2002年9月14日に "Pennsylvania Qualifying Stone Skipping Tournament" で記録した40段の記録を保持していた。 日本記録は岡坂有矢がテレビ番組「メッセンジャーの○○は大丈夫なのか?」にて出した83段である。 岡坂有矢は2016年8月、YouTubeチャンネル「moguraTV」にてギネス世界記録に挑戦し91段を記録したが、2016年9月の時点ではギネス世界記録には登録されていない。 日本各地、また、世界各国で大会が開かれている。 共通ルールのようなものはなく、形式や勝敗の基準などは大会それぞれで別々になっている。 跳ねた回数を競う大会もあれば、跳ねた距離を競う大会もある。 「水切り」、「石切り」という呼称以外にも様々な呼び名が存在する。 NHKテレビ「熱中時間 忙中"趣味"あり」で、超高速度カメラやコンピュータを使い、水切りを科学的に分析した結果が紹介された。それによると、よく跳ねるための水面との角度は、前面が10°浮き上がった状態が最もよいとされる。また、石自体が高速回転(番組中では1秒間に30回転)していることが大切で、回転が遅いと早く水没してしまう。石の形は、平型、かまぼこ型、レンズ型などがよいが、計算上はレンズ型が最も適している。 フランスの物理学者リデリック・ブーケ (Lydéric Bocquet)らや、永弘進一郎(現・仙台高専)らの研究によると、石が最も良く跳ねるには、石と水面との角度は20°が最適であるとされている。また、ブーケは、コールマンマギー (Coleman-McGhee) の元ギネス世界記録38段を達成するためには、秒速12メートルの速度と、毎秒14回転が必要であると算出している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水切り(みずきり)は水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせて、その回数を競ったりする遊びのこと。「水の石切り」「石切り」とも呼ばれる。世界中、ある程度の大きさを持つ水面と石のある場所であれば、どこでも見られる遊びである。英語ではStone skipping及びStone skimming。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水切りは簡単に誰にでも出来る遊びとして各地で行われており、水切りのイベントが行われることもある。日本の埼玉県熊谷市などでは市民の同好会的組織も存在している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "水切りを行う際は、投げる前方に遊泳中の人がいないかなど、周りの人にけががないように注意するとともに、水鳥などの野生動物への配慮も忘れてはならない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年9月6日にアメリカのカート・スタイナー(Kurt Steiner)が88段を記録し、ギネス世界記録として登録されている。それ以前の記録は、2007年7月19日にラッセル・バイヤース(Russell Byars)が記録した51段である。カート・スタイナーは、2007年にバイヤースに抜かれるまで、2002年9月14日に \"Pennsylvania Qualifying Stone Skipping Tournament\" で記録した40段の記録を保持していた。", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本記録は岡坂有矢がテレビ番組「メッセンジャーの○○は大丈夫なのか?」にて出した83段である。 岡坂有矢は2016年8月、YouTubeチャンネル「moguraTV」にてギネス世界記録に挑戦し91段を記録したが、2016年9月の時点ではギネス世界記録には登録されていない。", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本各地、また、世界各国で大会が開かれている。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "共通ルールのようなものはなく、形式や勝敗の基準などは大会それぞれで別々になっている。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "跳ねた回数を競う大会もあれば、跳ねた距離を競う大会もある。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「水切り」、「石切り」という呼称以外にも様々な呼び名が存在する。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "NHKテレビ「熱中時間 忙中\"趣味\"あり」で、超高速度カメラやコンピュータを使い、水切りを科学的に分析した結果が紹介された。それによると、よく跳ねるための水面との角度は、前面が10°浮き上がった状態が最もよいとされる。また、石自体が高速回転(番組中では1秒間に30回転)していることが大切で、回転が遅いと早く水没してしまう。石の形は、平型、かまぼこ型、レンズ型などがよいが、計算上はレンズ型が最も適している。", "title": "科学的考察" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フランスの物理学者リデリック・ブーケ (Lydéric Bocquet)らや、永弘進一郎(現・仙台高専)らの研究によると、石が最も良く跳ねるには、石と水面との角度は20°が最適であるとされている。また、ブーケは、コールマンマギー (Coleman-McGhee) の元ギネス世界記録38段を達成するためには、秒速12メートルの速度と、毎秒14回転が必要であると算出している。", "title": "科学的考察" } ]
水切り(みずきり)は水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせて、その回数を競ったりする遊びのこと。「水の石切り」「石切り」とも呼ばれる。世界中、ある程度の大きさを持つ水面と石のある場所であれば、どこでも見られる遊びである。英語ではStone skipping及びStone skimming。
{{Dablink|この項目では、水面で石を跳ねさせる遊びについて説明しています。調理器具については「[[コランダー]]」または「[[ざる]]」を、その他の用法については「[[水切り (曖昧さ回避)]]」をご覧ください。}} [[File:Cutwater (1558927762).jpg|thumb|水切りをする少年]] '''水切り'''(みずきり)は水面に向かって回転をかけた[[石]]を投げて水面で石を跳ねさせて、その回数を競ったりする[[遊び]]のこと。「'''水の石切り'''」「'''石切り'''」とも呼ばれる。世界中、ある程度の大きさを持つ水面と石のある場所であれば、どこでも見られる遊びである。[[英語]]では''Stone skipping''及び''Stone skimming''。 ==概説== [[Image:Stone skipping.jpg|thumb|350px|水切り]] 水切りは簡単に誰にでも出来る遊びとして各地で行われており、水切りのイベントが行われることもある。[[日本]]の[[埼玉県]][[熊谷市]]などでは市民の[[同好会]]的組織も存在している。 水切りを行う際は、投げる前方に[[遊泳]]中の人がいないかなど、周りの人にけががないように注意するとともに、[[水鳥]]などの[[野生動物]]への配慮も忘れてはならない。 == 記録 == ;世界 2013年9月6日にアメリカのカート・スタイナー(Kurt Steiner)が88段を記録し、[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネス世界記録]]として登録されている<ref>{{cite web|url=http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/1/most-skips-of-a-skimming-stone|title=Most skips of a skimming stone|publisher=Guinness World Records Limited|accessdate=2023-03-12}}</ref>。それ以前の記録は、2007年7月19日にラッセル・バイヤース(Russell Byars)が記録した51段<ref>{{cite web|url=http://www.post-gazette.com/pg/07273/821782-85.stm|title=A stone's throw and then some to a Guinness record|author= Jonathan D. Silver|publisher=Pittsburgh Post-Gazette|language=英語|date=2007-09-30 |accessdate=2007年10月5日 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/magazine/7022464.stm|title=How do you skim a stone 51 times?|author=BBC NEWS|language=英語|date=2007-10-02 |accessdate=2007年10月5日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『小石の水切りで「51回」の世界新、飛距離は76メートル』|url=http://cnn.co.jp/fringe/CNN200710050020.html |website=CNN.co.jp |date=2007-10-5 |deadlinkdate=2007-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011033254/http://cnn.co.jp/fringe/CNN200710050020.html |archivedate=2007-10-11 |accessdate=2022-1-4}}</ref>である。カート・スタイナーは、2007年にバイヤースに抜かれるまで、2002年9月14日に "Pennsylvania Qualifying Stone Skipping Tournament"<ref>{{cite web|url=http://www.pastoneskipping.com/|title=Pennsylvania Qualifying Stone Skipping Tournament|language=英語|accessdate=2007年8月30日}}</ref> で記録した40段<ref>{{cite web|url=http://pastoneskipping.com/steiner.htm|title=Kurt Steiner, Guinness World Record Stone Skipper|language=英語|accessdate=2007年8月30日}}</ref>の記録を保持していた。 ;日本 日本記録は岡坂有矢がテレビ番組「[[メッセンジャーの○○は大丈夫なのか?]]」にて出した83段<ref>2016年5月5日放映分</ref>である。 岡坂有矢は2016年8月、YouTubeチャンネル「moguraTV<ref>[https://www.youtube.com/user/mogura420 moguraTV 公式アカウント]</ref>」にてギネス世界記録に挑戦し91段を記録したが、2016年9月の時点ではギネス世界記録には登録されていない。 == 競技 == 日本各地、また、世界各国で大会が開かれている。 共通ルールのようなものはなく、形式や勝敗の基準などは大会それぞれで別々になっている。 跳ねた回数を競う大会もあれば、跳ねた距離を競う大会もある。 === 日本 === * [[北海道]][[中川町]]:天塩川de水切り~北海道大会~<ref>{{Cite web|和書|url=https://nakagawatourism.com/news/teshiogawa/mizukiri/|title=天塩川de水切り 北海道命名150年記念大会|accessdate=2018-12-17|date=2018-07-22|website=北海道中川町観光協会オフィシャルサイト}}</ref> * [[宮城県]][[丸森町]]:全日本石投げ選手権大会<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.miyagi-kankou.or.jp/sp/kakikomi/detail.php?id=5932|title=宮城まるごと探訪 - 宮城県の観光,イベント情報はこちら|accessdate=2018-12-17|website=www.miyagi-kankou.or.jp}}</ref> * [[愛知県]][[岡崎市]]:石ー1グランプリ岡崎水切り石選手権大会<ref>{{Cite web|和書|url=https://ishi1grandprix.wixsite.com/ishiwan|title=石-1グランプリ 岡崎水切り石選手権大会|accessdate=2018-12-17|website=石-1グランプリ 岡崎水切り石選手権大会|language=ja}}</ref> * [[高知県]][[いの町]]:仁淀川国際水切り大会<ref>{{Cite web|和書|url=http://niyodoriver.com/|title=仁淀川国際水切り大会 {{!}} 夏の終わりの真剣勝負!水切りの世界一を決めよう!|accessdate=2018-12-17|language=ja}}</ref> === アメリカ合衆国 === * [[ミシガン州]]:International stone skipping tournament<ref>{{Cite web|url=http://stoneskipping.com/|title={{!}} stoneskipping.com|accessdate=2018-12-17|language=en-US}}</ref> * [[ペンシルベニア州]]:Rock in river festival<ref>{{Cite web|url=http://www.franklinpa.gov/festivals_events/rock_in_river_festival|title=Rock in River Festival|accessdate=2018-12-17|website=www.franklinpa.gov}}</ref> === イギリス === * [[スコットランド]]:World stone skimming championships<ref>{{Cite web|url=http://www.stoneskimming.com/|title=WORLD STONE SKIMMING CHAMPIONSHIPS|accessdate=2018-12-17|website=WORLD STONE SKIMMING CHAMPIONSHIPS|language=en-GB}}</ref> == 呼称 == {{節スタブ}} === 日本語 === 「水切り」、「石切り」という呼称以外にも様々な呼び名が存在する。 *石投げ *跳ね石遊び *水面石飛ばし *チャラ<!--[[佐賀県]]南部--> *チャーリィ *チチッコ *ちょんぎり *ちょっぴん *ちょうま *飛び石 *かいかい *ちょうれん(跳連 or 丁連) *トントンミー(沖縄での呼称) === 外国語 === * 英語:ducks and drakes、stone skipping(北米)、stone skimming(イギリス) * [[中国語]]:打水漂 * [[ドイツ語]]: Steinehüpfen * ラミラミ(ナイジェリア)※「水を舐める」を意味する<ref>[https://web.archive.org/web/20190403145450/https://www.nhk.or.jp/saitama/superchamp/movie/01.html SUPER CHAMP! 跳べ!石よ]NHKさいたま放送局 2019年</ref>。 ==科学的考察== [[日本放送協会|NHK]]テレビ「[[熱中時間 忙中"趣味"あり]]」で、超高速度カメラやコンピュータを使い、水切りを科学的に分析した結果が紹介された。それによると、よく跳ねるための水面との角度は、前面が10°浮き上がった状態が最もよいとされる。また、石自体が高速回転(番組中では1秒間に30回転)していることが大切で、回転が遅いと早く水没してしまう。石の形は、平型、かまぼこ型、レンズ型などがよいが、計算上はレンズ型が最も適している。 [[フランス]]の[[物理学者]]リデリック・ブーケ (Lydéric Bocquet)<ref>{{cite web|url=http://lpmcn.univ-lyon1.fr/~lbocquet/|title=Web page of Lyderic Bocquet|language=フランス語 |accessdate=2007年8月30日 }}</ref>らや、永弘進一郎(現・[[仙台高等専門学校|仙台高専]])らの研究<ref>{{cite web|url=http://lpmcn.univ-lyon1.fr/~lbocquet/ricochet.html|title=Physics of every day life|last=Lydéric Bocquet|language=英語 |accessdate=2007年8月30日 }}</ref><ref>{{cite journal | last = | first = | author = Christophe Clanet | authorlink = | coauthors =Fabien Hersen and Lydéric Bocquet | year = 2004 | month = <!--January--> | title = Secrets of successful stone-skipping | journal = [[ネイチャー|Nature]] | volume = 427 | issue = | pages =29 | doi = 10.1038/427029a | id = | url = https://www.irphe.univ-mrs.fr/~clanet/PaperFile/Nature-stone.pdf | format = {{PDFlink}} | accessdate = <!--2007年8月30日--> | curly = }}</ref><ref>{{cite journal | author = Shin-ichiro Nagahiro | authorlink = | coauthors =Yoshinori Hayakawa | year = 2005 | month = <!--May--> | title =Theoretical and Numerical Approach to "Magic Angle" of Stone Skipping | journal = Phys. Rev. Lett. | volume = 94 | issue = | pages =174501 | doi = 10.1103/PhysRevLett.94.174501 | id = | url = http://link.aps.org/abstract/PRL/v94/e174501 | format = | accessdate = <!--2007年8月30日--> | curly = }}</ref>によると、石が最も良く跳ねるには、石と水面との角度は20°が最適であるとされている。また、ブーケは、コールマンマギー (Coleman-McGhee) の元ギネス世界記録38段を達成するためには、秒速12メートルの速度と、毎秒14回転が必要であると算出している<ref>{{cite journal | last = | first = | author = Lydéric Bocquet | authorlink = | coauthors = | year = 2002 | month = <!--September--> | title = The physics of stone skipping | journal = Am. J. Phys. | volume = 71 | issue = 2 | pages =150-155 | doi = 10.1119/1.1519232 | id = | url = http://lpmcn.univ-lyon1.fr/~lbocquet/AJPricochets.pdf | format = {{PDFlink}} | accessdate = <!--2007年8月30日--> | curly = }}</ref>。 == 反跳爆弾 == *この水切りの原理を兵器に応用したものが[[反跳爆弾]]で、第二次世界大戦中にイギリスがドイツの[[ルール地方]]にある[[ダム]]を破壊するために開発した『ダムバスターズ』が有名である。⇒[[チャスタイズ作戦]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== * [[印地]] - 戦闘での投石技術 * [[石合戦]] - 合戦での石の投げ合いを模したもの。合戦ごっこであるが、死者や負傷者、喧嘩も発生した。 ==外部リンク== *[http://www2.odn.ne.jp/~cdu32250/2taitoru/mizukiri.html 熊谷水きり倶楽部] *[http://www.stoneskimming.com/ World Stone Skimming Championships] *[http://www.yeeha.net/nassa/a1.html North American Stone Skipping Association (NASSA)] {{DEFAULTSORT:みすきり}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:野外活動]] [[Category:レジャー活動]]
2003-09-08T06:11:49Z
2023-11-26T10:42:53Z
false
false
false
[ "Template:Dablink", "Template:節スタブ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite journal" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%88%87%E3%82%8A
15,714
グルーヴ地獄V
『グルーヴ地獄V』(グルーヴじごくファイヴ)は、ソニー・ミュージックエンタテインメントから発売されたゲームソフト。 1998年1月8日にPlayStation用のオムニバスゲーム集として発売された。 テクノユニット、電気グルーヴがプロデュースし、自ら「ゲームジャンル:クソゲー」を名乗る。 キャラクターデザインは、ラバーズ・スーパーラバーズのキャラクター、PS用ゲーム『バスト・ア・ムーブ』のほか、電気グルーヴや篠原ともえのPV、テレビアニメ『OH!スーパーミルクチャン』のキャラクターデザインなどで知られる田中秀幸。 タイトル画面では、ピエール瀧が「グルーヴ地獄ファイヴ」とタイトル名を歌い上げる、書き下ろしアカペラ曲が流れる。 2005年12月22日に、ミニゲーム群をメインにした続編『バイトヘル2000』(PSP用ソフト)が発売。 ゲームの目的は「音源集め」。 バイトと呼ばれるミニゲームで稼いだ小銭をガチャガチャ(ガチャポン)に入れ、出てきた音(音源)を収集し、ターンテーブルの付いた簡易シーケンサーで組み合わせることでテクノミュージックの演奏が可能。 主なミニゲームを以下に挙げる。 ミニゲームがどれも単純作業なので、ゲームライターの中には「3分で飽きる」「ゲームをする前に取扱説明書のゲーム説明を読んでいる間が一番幸せなひと時」と酷評する者もいる。ただ、苦痛に感じるバイトをテーマにしたエキセントリックなアイデア自体は光るものがあると評価する声もある。 電撃PlayStationソフトレビューでは2人のレビュアーともに未採点で、「ゲームとしてはダメ」とした上で説明書を読めば分かるようにそれは確信犯的であり、音楽制作ソフトとしては音楽素人とした1人はその視点で見ても音の種類が豊富、エフェクト変更や組み替えが自由でDJ気分を味わいたい人向けとし、もう1人は電気グルーヴのファン向けとも言えず音楽ゲームとしては自由度が低く作曲するような出来ではなく、安物の音源付きシーケンサーの方が楽しめると言った内容で電気グルーヴらしさはあるがコメントに困るとした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『グルーヴ地獄V』(グルーヴじごくファイヴ)は、ソニー・ミュージックエンタテインメントから発売されたゲームソフト。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1998年1月8日にPlayStation用のオムニバスゲーム集として発売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "テクノユニット、電気グルーヴがプロデュースし、自ら「ゲームジャンル:クソゲー」を名乗る。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "キャラクターデザインは、ラバーズ・スーパーラバーズのキャラクター、PS用ゲーム『バスト・ア・ムーブ』のほか、電気グルーヴや篠原ともえのPV、テレビアニメ『OH!スーパーミルクチャン』のキャラクターデザインなどで知られる田中秀幸。 タイトル画面では、ピエール瀧が「グルーヴ地獄ファイヴ」とタイトル名を歌い上げる、書き下ろしアカペラ曲が流れる。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2005年12月22日に、ミニゲーム群をメインにした続編『バイトヘル2000』(PSP用ソフト)が発売。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ゲームの目的は「音源集め」。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "バイトと呼ばれるミニゲームで稼いだ小銭をガチャガチャ(ガチャポン)に入れ、出てきた音(音源)を収集し、ターンテーブルの付いた簡易シーケンサーで組み合わせることでテクノミュージックの演奏が可能。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "主なミニゲームを以下に挙げる。", "title": "収録ミニゲーム" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ミニゲームがどれも単純作業なので、ゲームライターの中には「3分で飽きる」「ゲームをする前に取扱説明書のゲーム説明を読んでいる間が一番幸せなひと時」と酷評する者もいる。ただ、苦痛に感じるバイトをテーマにしたエキセントリックなアイデア自体は光るものがあると評価する声もある。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "電撃PlayStationソフトレビューでは2人のレビュアーともに未採点で、「ゲームとしてはダメ」とした上で説明書を読めば分かるようにそれは確信犯的であり、音楽制作ソフトとしては音楽素人とした1人はその視点で見ても音の種類が豊富、エフェクト変更や組み替えが自由でDJ気分を味わいたい人向けとし、もう1人は電気グルーヴのファン向けとも言えず音楽ゲームとしては自由度が低く作曲するような出来ではなく、安物の音源付きシーケンサーの方が楽しめると言った内容で電気グルーヴらしさはあるがコメントに困るとした。", "title": "評価" } ]
『グルーヴ地獄V』(グルーヴじごくファイヴ)は、ソニー・ミュージックエンタテインメントから発売されたゲームソフト。 1998年1月8日にPlayStation用のオムニバスゲーム集として発売された。
{{コンピュータゲーム | Title = グルーヴ地獄V | Genre = [[クソゲー]] | Plat = [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] | Dev = [[オーパス (ゲーム会社)|オーパス]] | Pub = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] | producer = [[電気グルーヴ]]<br />[[田中秀幸 (アートディレクター)|田中秀幸]]<br />[[藤澤孝史]] | director = 津田純<br />勝田聡 | designer = 電気グルーヴ | programmer = 中村貴也<br />吉原雅史<br />山口 友生<br />鈴木隆志 | writer = | composer = [[山崎耕一]] | artist = 田中秀幸 | Play = 1人 | Media = [[CD-ROM]]1枚 | Date = [[1998年]][[1月8日]] | Rating = | ContentsIcon = | Device = | Sale = | etc = }} 『'''グルーヴ地獄V'''』(グルーヴじごくファイヴ)は、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]から発売された[[ゲームソフト]]。 [[1998年]][[1月8日]]に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用の[[オムニバス]]ゲーム集として発売された<ref>[https://www.jp.playstation.com/software/title/slps01205.html グルーヴ地獄V | ソフトウェアカタログ | プレイステーション® オフィシャルサイト]</ref>。 == 作品解説 == [[テクノポップ|テクノ]]ユニット、[[電気グルーヴ]]がプロデュースし、自ら「ゲームジャンル:[[クソゲー]]」を名乗る<ref>[http://www.opus.co.jp/products/groove5/menu.html opus | sweepstation | グルーヴ地獄V]</ref>。 [[キャラクターデザイン]]は、ラバーズ・スーパーラバーズのキャラクター、[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]用ゲーム『[[バスト・ア・ムーブ]]』のほか、電気グルーヴや[[篠原ともえ]]の[[ミュージックビデオ|PV]]、テレビ[[テレビアニメ|アニメ]]『[[OH!スーパーミルクチャン]]』のキャラクターデザインなどで知られる[[田中秀幸 (アートディレクター)|田中秀幸]]。 タイトル画面では、[[ピエール瀧]]が「グルーヴ地獄ファイヴ」とタイトル名を歌い上げる、書き下ろしアカペラ曲が流れる。 [[2005年]][[12月22日]]に、ミニゲーム群をメインにした続編『[[バイトヘル2000]]』([[PlayStation Portable|PSP]]用ソフト)が発売。 == システム == ゲームの目的は「[[音源]]集め」。 [[アルバイト|バイト]]と呼ばれるミニゲームで稼いだ小銭をガチャガチャ([[ガチャポン]])に入れ、出てきた音(音源)を収集し、[[ターンテーブル]]の付いた簡易[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]で組み合わせることでテクノミュージックの[[ディスクジョッキー|演奏]]が可能。 == 収録ミニゲーム == 主なミニゲームを以下に挙げる。 ; ボールペンコウジョウ : 延々と流れてくる[[ボールペン]]の本体にキャップをかぶせていく。ボールペンは上を向いているものと下を向いているものがあり、下を向いているものは上を向けてからキャップをかぶせなければならない。成績が良いと、就職を勧められる。 ; キノコ or DIE :道路を走行する車を避けながら、キャラクターを操作し道路の向かいを目指す。途中に落ちているキノコを取るとボーナス得点が入る。いわゆる[[フロッガー (ゲーム)|フロッガー]]。 ; 薪割り : 目の前に出される薪を延々と割っていく。たまに動物が出されることがあり、薪を割るのが遅いか、動物を斬ってしまうと失敗。動物にそっくりな薪もあるので注意。 ; クサイモン :四つの顔がそれぞれ順番に[[ゲップ]]を吐き、その順番通りにボタン入力する、いわゆる[[サイモン (ゲーム)|サイモンゲーム]]。 ; 崖レース : [[チキンレース]]。 ;交通量調査 :道を通り過ぎる通行人をカウントしていくゲーム。人間以外にも宇宙人や猫、戦車などが通るので、うまく人間だけをカウントしなくてはいけない。 ;心霊写真鑑定人 :次々と表示される写真が[[心霊写真]]であるか否かを判定する。[[電気グルーヴ]]メンバーの写真が多数使用されている。 ;ときめいていいとも :少女が行う花占いで、うまく「好き」に当たれば得点が得られる。稀に[[セーラー服]]を着た[[タモリ|人物]]が出て、「明日いいかな?」と聞いてくるので、「[[笑っていいとも|いいとも]]」と答えると高額なバイト代(ギャラにちなんで1並び)が得られる。 == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |state = |Fam = 23/40<ref>[https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=15310 グルーヴ地獄V まとめ (PS) / ファミ通.com]</ref> |rev1 = [[電撃PlayStation]] |rev1Score = 未採点<ref name="DPS">電撃PlayStation Vol.66 1998年2月13日号 105ページ</ref> }} ミニゲームがどれも単純作業なので、ゲームライターの中には「3分で飽きる」「ゲームをする前に取扱説明書のゲーム説明を読んでいる間が一番幸せなひと時」と酷評する者もいる。ただ、苦痛に感じるバイトをテーマにしたエキセントリックなアイデア自体は光るものがあると評価する声もある<ref>[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『プレイステーションクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118346 p10-11</ref>。 [[電撃PlayStation]]ソフトレビューでは2人のレビュアーともに未採点で、「ゲームとしてはダメ」とした上で説明書を読めば分かるようにそれは確信犯的であり、音楽制作ソフトとしては音楽素人とした1人はその視点で見ても音の種類が豊富、エフェクト変更や組み替えが自由でDJ気分を味わいたい人向けとし、もう1人は電気グルーヴのファン向けとも言えず音楽ゲームとしては自由度が低く作曲するような出来ではなく、安物の音源付きシーケンサーの方が楽しめると言った内容で電気グルーヴらしさはあるがコメントに困るとした<ref name="DPS" />。 == スタッフ == *プロデュース:電気グルーヴ === OPUS STAFF === *開発プロデューサー:清水健司 *開発ディレクター:[[津田純]]、勝田聡 *プログラマー:吉原雅史、中村貴也 *[[サウンドプログラマー]]:山口友生 *システムプログラマー:鈴木隆志 *CGデザイナー:勝田聡 *開発支援:木村哲也、羽田祐一郎、藤澤奈奈江 === SCEI STAFF === *プロデューサー:藤澤孝史 *チーフサウンドクリエイター:[[山崎耕一]] *サウンドクリエイター:西本啓一 *テストプレイヤー:岡本昭子 === EDITORIAL STAFF (MANUAL) === *アートディレクター:田中秀幸 *デザイナー:大房泰子(アトム) *編集・構成:石井誠 == 出典 == <references /> == 外部リンク == *[http://www.opus.co.jp/products/groove5/index2.html opus|sweepstation|グルーヴ地獄V](公式サイト) *[http://www.denkigroove.com/ DENKI GROOVE](電気グルーヴ公式サイト) {{電気グルーヴ}} {{video-game-stub}} {{DEFAULTSORT:くるううしこくふあいう}} [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:ミニゲーム集]] [[Category:1998年のコンピュータゲーム]] [[Category:電気グルーヴ]]
null
2022-04-18T12:39:13Z
false
false
false
[ "Template:コンピュータゲーム", "Template:コンピュータゲームレビュー", "Template:電気グルーヴ", "Template:Video-game-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E5%9C%B0%E7%8D%84V
15,716
芝山鉄道
芝山鉄道株式会社(しばやまてつどう)は、千葉県の成田国際空港付近に路線を有する第三セクター方式の鉄道会社である。 成田国際空港株式会社の連結子会社であり、千葉県、京成電鉄、日本航空、芝山町、成田市なども出資している。本社は千葉県山武郡芝山町の芝山千代田駅構内にある。 芝山鉄道は、成田空港が建設されることによって東西方向の交通が寸断され不便を被ることになる空港東側地域の住民や企業への補償として、国が当時の京成本線の(旧)成田空港駅(現在の京成東成田線の東成田駅)以遠を第三セクター方式で延伸する形で建設を約束した鉄道である。 1981年(昭和56年)5月1日に会社が設立され、1988年(昭和63年)6月24日に「芝鉄成田空港駅」(仮称、 当時の旧成田空港駅、現在の東成田駅に隣接して開業する予定だった新駅)-「整備場前駅」(仮称、現在の芝山千代田駅)間 2.0 kmの事業免許を取得した。 当初は小型電車で線内折り返し運転を計画していたが、のちに地元からの要望を容れて通常車両で(旧)成田空港駅を介して京成成田駅まで片乗り入れ直通運転することとなった。そこで、1990年(平成2年)4月13日に京成成田駅への乗り入れを運輸省(現・国土交通省)が認可し、同年12月25日に工事施工が認可された。 この間に成田新幹線計画が消滅したことを受けて、京成電鉄はすでに構築されていた同線の施設の一部を活用して空港ターミナルに直接乗り入れることになり、1991年(平成3年)3月21日に第1ターミナル真下に現在の成田空港駅が開業、こちらが京成本線となり、それまでの(旧)成田空港駅は新たに京成東成田線の東成田駅に改称された。 着工は遅れ、会社は1992年(平成4年)12月6日に開業した成田空港第2旅客ターミナルビル内で海外旅行者向け売店などの運営に進出した。 1993年(平成5年)9月20日から12回にわたって開催された隅谷調査団主宰の成田空港問題円卓会議で今後の成田空港の整備を「共生懇談会」設置などの地元住民によるチェックなどの民主的手続きで進めていくことが約束されて、1994年(平成6年)10月に国と県の他空港反対派の元熱田派などを含めて合意に達した。この合意を受けて、芝山鉄道の延伸検討委員会が1995年(平成7年)1月31日に始まり、1996年(平成8年)4月1日には延伸経路について3案に絞り込んだ。 そして、1996年(平成8年)12月27日には、京成電鉄との相互直通運転に運転計画の変更が認可され、1998年(平成10年)1月22日に着工。 しかし計画ルートに空港反対派の「一坪共有地」が含まれており、そこの元の地主が「一坪共有地」の維持を主張していたことから、地権者が全国841に及んでいたことで同意の取得が難航し、逆に芝山鉄道や芝山の住民団体は用地取得に応じるように地権者に求めるなど双方が手紙による地権者説得を争ったが、1999年(平成11年)12月8日に芝山町長が運輸省に空港反対派の「一坪共有地」を避ける路線への変更を要望するに至った。これを受けて、2000年(平成12年)3月に未買収地を半径160mのカーブで迂回する路線変更を決定し、同年6月20日にルートの一部変更とこれにともなう 0.2 km の路線延長が認可された。2001年(平成13年)4月26日にはそれまで仮称だった「整備場前駅」の正式駅名が芝山千代田駅に決定し、2002年(平成14年)10月27日に東成田駅 - 芝山千代田駅間が開業した。 なお1996年(平成8年)の段階では、現在の芝山千代田駅より先の「千代田駅(仮称)」までの0.7km区間も計画されていた。 建設にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。 旅客運輸を行う普通鉄道に限れば、自社で線路を保有し運送を行う第一種鉄道事業者としては日本一保有する路線が短い鉄道事業者であり、芝山鉄道では「日本一短い鉄道」という広報を行っている。 ただし、鋼索鉄道を含めた場合は鞍馬山鋼索鉄道0.2km(207 m)を保有する宗教法人鞍馬寺が保有路線日本最短となる。普通鉄道に限っても、貨物運輸のみ行う事業者を含めた場合は市橋線2.0 km(営業キロ1.3 km)のみを保有する西濃鉄道が、列車を運行せず線路の保有のみを行う第三種鉄道事業者を含めた場合は南海和歌山港線の一部(2.0 km)を保有する和歌山県がそれぞれ最短となる。 線内の運転業務は全て京成電鉄に委託しているため、自社配属の乗務員を有していない。 将来的には、芝山町中心部を経由して九十九里海岸(蓮沼海浜公園)方面への延伸も検討されており、それまでの代替処置として芝山鉄道延伸連絡協議会(芝山町・山武市・横芝光町で構成)による空港シャトルバスが「横芝屋形海岸」まで運行されている。 運用は京成電鉄の車両と共通である。 大人普通旅客運賃:全線200円(小児100円)(2019年10月1日改定) 直通先の京成電鉄などとは異なり、交通系ICカード乗車券は一切使用できない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "芝山鉄道株式会社(しばやまてつどう)は、千葉県の成田国際空港付近に路線を有する第三セクター方式の鉄道会社である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "成田国際空港株式会社の連結子会社であり、千葉県、京成電鉄、日本航空、芝山町、成田市なども出資している。本社は千葉県山武郡芝山町の芝山千代田駅構内にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "芝山鉄道は、成田空港が建設されることによって東西方向の交通が寸断され不便を被ることになる空港東側地域の住民や企業への補償として、国が当時の京成本線の(旧)成田空港駅(現在の京成東成田線の東成田駅)以遠を第三セクター方式で延伸する形で建設を約束した鉄道である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)5月1日に会社が設立され、1988年(昭和63年)6月24日に「芝鉄成田空港駅」(仮称、 当時の旧成田空港駅、現在の東成田駅に隣接して開業する予定だった新駅)-「整備場前駅」(仮称、現在の芝山千代田駅)間 2.0 kmの事業免許を取得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初は小型電車で線内折り返し運転を計画していたが、のちに地元からの要望を容れて通常車両で(旧)成田空港駅を介して京成成田駅まで片乗り入れ直通運転することとなった。そこで、1990年(平成2年)4月13日に京成成田駅への乗り入れを運輸省(現・国土交通省)が認可し、同年12月25日に工事施工が認可された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この間に成田新幹線計画が消滅したことを受けて、京成電鉄はすでに構築されていた同線の施設の一部を活用して空港ターミナルに直接乗り入れることになり、1991年(平成3年)3月21日に第1ターミナル真下に現在の成田空港駅が開業、こちらが京成本線となり、それまでの(旧)成田空港駅は新たに京成東成田線の東成田駅に改称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "着工は遅れ、会社は1992年(平成4年)12月6日に開業した成田空港第2旅客ターミナルビル内で海外旅行者向け売店などの運営に進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)9月20日から12回にわたって開催された隅谷調査団主宰の成田空港問題円卓会議で今後の成田空港の整備を「共生懇談会」設置などの地元住民によるチェックなどの民主的手続きで進めていくことが約束されて、1994年(平成6年)10月に国と県の他空港反対派の元熱田派などを含めて合意に達した。この合意を受けて、芝山鉄道の延伸検討委員会が1995年(平成7年)1月31日に始まり、1996年(平成8年)4月1日には延伸経路について3案に絞り込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そして、1996年(平成8年)12月27日には、京成電鉄との相互直通運転に運転計画の変更が認可され、1998年(平成10年)1月22日に着工。 しかし計画ルートに空港反対派の「一坪共有地」が含まれており、そこの元の地主が「一坪共有地」の維持を主張していたことから、地権者が全国841に及んでいたことで同意の取得が難航し、逆に芝山鉄道や芝山の住民団体は用地取得に応じるように地権者に求めるなど双方が手紙による地権者説得を争ったが、1999年(平成11年)12月8日に芝山町長が運輸省に空港反対派の「一坪共有地」を避ける路線への変更を要望するに至った。これを受けて、2000年(平成12年)3月に未買収地を半径160mのカーブで迂回する路線変更を決定し、同年6月20日にルートの一部変更とこれにともなう 0.2 km の路線延長が認可された。2001年(平成13年)4月26日にはそれまで仮称だった「整備場前駅」の正式駅名が芝山千代田駅に決定し、2002年(平成14年)10月27日に東成田駅 - 芝山千代田駅間が開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお1996年(平成8年)の段階では、現在の芝山千代田駅より先の「千代田駅(仮称)」までの0.7km区間も計画されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "建設にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "旅客運輸を行う普通鉄道に限れば、自社で線路を保有し運送を行う第一種鉄道事業者としては日本一保有する路線が短い鉄道事業者であり、芝山鉄道では「日本一短い鉄道」という広報を行っている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし、鋼索鉄道を含めた場合は鞍馬山鋼索鉄道0.2km(207 m)を保有する宗教法人鞍馬寺が保有路線日本最短となる。普通鉄道に限っても、貨物運輸のみ行う事業者を含めた場合は市橋線2.0 km(営業キロ1.3 km)のみを保有する西濃鉄道が、列車を運行せず線路の保有のみを行う第三種鉄道事業者を含めた場合は南海和歌山港線の一部(2.0 km)を保有する和歌山県がそれぞれ最短となる。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "線内の運転業務は全て京成電鉄に委託しているため、自社配属の乗務員を有していない。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "将来的には、芝山町中心部を経由して九十九里海岸(蓮沼海浜公園)方面への延伸も検討されており、それまでの代替処置として芝山鉄道延伸連絡協議会(芝山町・山武市・横芝光町で構成)による空港シャトルバスが「横芝屋形海岸」まで運行されている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "運用は京成電鉄の車両と共通である。", "title": "在籍車両" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃:全線200円(小児100円)(2019年10月1日改定)", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "直通先の京成電鉄などとは異なり、交通系ICカード乗車券は一切使用できない。", "title": "運賃" } ]
芝山鉄道株式会社(しばやまてつどう)は、千葉県の成田国際空港付近に路線を有する第三セクター方式の鉄道会社である。 成田国際空港株式会社の連結子会社であり、千葉県、京成電鉄、日本航空、芝山町、成田市なども出資している。本社は千葉県山武郡芝山町の芝山千代田駅構内にある。
{{Otheruseslist|千葉県北東部に路線を有する鉄道会社|この会社が運営している路線|芝山鉄道線|バス・タクシー等を運営している会社|芝山交通}} {{統合文字|𠮷}} {{基礎情報 会社 |社名 = 芝山鉄道株式会社 |英文社名 = Shibayama Railway Co,.Ltd. |ロゴ = [[File:Shibayama Railway Logo with Company name.svg|240px]] |画像 = [[File:SR-shibayamachiyoda-2.jpg|300px]] |画像説明 = [[芝山千代田駅]](兼本社建屋) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = 非上場 |略称 = SR、芝鉄 |国籍 = {{JPN}} |郵便番号 = 289-1601 |本社所在地 = [[千葉県]][[山武郡]][[芝山町]]香山新田148番地1 |設立 = [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月1日]] |業種 = 陸運業 |事業内容 = 第一種鉄道事業 他 |代表者 = [[代表取締役]]社長 岡本 𠮷男 |資本金 = 1億円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>) |売上高 = 2億5522万1000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |営業利益 = △2億4196万4000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |純利益 = △6098万円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |純資産 = 12億8767万9000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |総資産 = 14億239万4000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |従業員数 = 16人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |決算期 = 3月31日 |主要株主 = [[成田国際空港 (企業)|成田国際空港]] 68.40%<br />[[千葉県]] 14.59%<br />[[日本航空]] 3.73%<br />[[京成電鉄]] 3.46%<br />[[みずほ銀行]] 1.48%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>) |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = https://www.sibatetu.co.jp/ |特記事項 = |}} '''芝山鉄道株式会社'''(しばやまてつどう)は、[[千葉県]]の[[成田国際空港]]付近に路線を有する[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。 [[成田国際空港 (企業)|成田国際空港株式会社]]の[[連結子会社]]であり、千葉県、[[京成電鉄]]、[[日本航空]]、[[芝山町]]、[[成田市]]なども出資している。本社は千葉県[[山武郡]]芝山町の[[芝山千代田駅]]構内にある。 == 歴史 == 芝山鉄道は、[[成田国際空港|成田空港]]が建設されることによって東西方向の交通が寸断され不便を被ることになる空港東側地域の住民や企業への補償として、[[日本国政府|国]]が当時の[[京成本線]]の(旧)成田空港駅(現在の[[京成東成田線]]の[[東成田駅]])以遠を第三セクター方式で延伸する形で建設を約束した鉄道である。 [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月1日]]に会社が設立され<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成18年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.94</ref>、[[1988年]](昭和63年)6月24日に「芝鉄成田空港駅」(仮称、 当時の旧成田空港駅、現在の東成田駅に隣接して開業する予定だった新駅)-「整備場前駅」(仮称、現在の[[芝山千代田駅]])間 2.0 kmの[[免許|事業免許]]を取得した<ref name="chibanippo1988625">{{Cite news | title = 芝山鉄道に免許 | newspaper = [[千葉日報]]| publisher = 千葉日報社 | date = 1988-06-25}}</ref><ref name="youran" />。 当初は小型電車で線内折り返し運転を計画していたが、のちに地元からの要望を容れて通常車両で(旧)成田空港駅を介して[[京成成田駅]]まで[[直通運転|片乗り入れ直通運転]]することとなった。そこで、[[1990年]]([[平成]]2年)[[4月13日]]に京成成田駅への乗り入れを[[運輸省]](現・[[国土交通省]])が認可し<ref name="chibanippo1990414">{{Cite news| title = 京成成田駅乗り入れ 「芝山鉄道」運輸省が認可 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1990-04-14}}</ref>、同年[[12月25日]]に工事施工が認可された<ref name="chibanippo19901226">{{Cite news| title = 芝山鉄道の工事認可 93年4月末開通目指す| newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1990-12-26}}</ref>。 この間に[[成田新幹線|成田新幹線計画]]が消滅したことを受けて、[[京成電鉄]]はすでに構築されていた同線の施設の一部を活用して空港ターミナルに直接乗り入れることになり、1991年(平成3年)3月21日に第1ターミナル真下に現在の[[成田空港駅]]が開業、こちらが京成本線となり、それまでの(旧)成田空港駅は新たに京成東成田線の東成田駅に改称された<ref name="asahi1991319">{{Cite news| title = 都心と空直結 成田空港地下駅が開業 | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 1991-03-19}}</ref><ref name="chibanippo1991320">{{Cite news| title = 待望の成田高速鉄道が開業 空港と直結、都心へ1時間 新アクセス門出祝う | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1991-03-20}}</ref>。 [[ファイル:Shibayama Railway Linemap.svg|thumb|200px|left|芝山鉄道線路線図]] 着工は遅れ<ref name="chibanippo1994726">{{Cite news| title = 芝山鉄道どうなる 未開通のまま13年余 計画の見直し論も 成田空港増設絡み | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1994-7-26}}</ref>、会社は1992年(平成4年)12月6日に開業した<ref name="mainichi1992126">{{Cite news| title = 「立派」と「心配」のオープン きょう成田第二ターミナルビル | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1992-12-06}}</ref>成田空港第2旅客ターミナルビル内で海外旅行者向け売店などの運営に進出した<ref name="yomiuri19921223">{{Cite news| title = 芝山鉄道が新規事業 空港2ビル開業で | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = 読売新聞社 | date = 1992-12-23}}</ref>。 1993年(平成5年)9月20日から12回にわたって開催された[[隅谷三喜男|隅谷調査団]]主宰の[[成田空港問題円卓会議]]で今後の成田空港の整備を「共生懇談会」設置などの地元住民によるチェックなどの民主的手続きで進めていくことが約束されて、1994年(平成6年)10月に国と県の他空港反対派の元熱田派などを含めて合意に達した<ref name="chibanippo19941012">{{Cite news| title = 元熱田派、調停受け入れ 話し合いの場は共生懇に | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1994-10-12 }}</ref>。この合意を受けて、芝山鉄道の延伸検討委員会が1995年(平成7年)1月31日に始まり<ref name="chibanippo199521">{{Cite news | title = 芝山鉄道 延伸検討委が初会合 現行計画3年めどに 沿線住民らと緊密に連携 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1995-02-01}}</ref>、1996年(平成8年)4月1日には延伸経路について3案に絞り込んだ<ref name="chibanippo1996412">{{Cite news | title = 芝山鉄道延伸 3ルートから選択 東側・西側・中央区域 一年以内に決定へ| newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1996-04-12}}</ref>。 そして、1996年(平成8年)12月27日には、京成電鉄との[[直通運転|相互直通運転]]に運転計画の変更が認可され、1998年(平成10年)1月22日に着工<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 48 |issue = 4 |page = 110 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。 しかし計画ルートに空港反対派の「一坪共有地」が含まれており、そこの元の地主が「一坪共有地」の維持を主張していたことから<ref name="chibanippo1999212">{{Cite news| title = 一坪共有地維持求める 芝山鉄道ルート上 元の地主が手紙 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1999-02-12}}</ref>、地権者が全国841に及んでいたことで同意の取得が難航し<ref name="chibanippo199926">{{Cite news| title = 共有地解消求め手紙郵送 芝山鉄道建設で 芝山町が全国841地権者に | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1999-02-06}}</ref>、逆に芝山鉄道や<ref name="chibanippo199926" />芝山の住民団体は用地取得に応じるように地権者に求めるなど双方が手紙による地権者説得を争ったが<ref name="chibanippo1999223">{{Cite news| title = 一坪共有地の解消呼び掛け 芝山の住民団体が文書郵送 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1999-02-23}}</ref>、1999年(平成11年)12月8日に芝山町長が運輸省に空港反対派の「一坪共有地」を避ける路線への変更を要望するに至った<ref name="chibanippo1999129">{{Cite news | title = 一坪共有地避け建設を 芝山鉄道ルート変更など要望 町長ら運輸省に | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 1999-12-09}}</ref>。これを受けて、2000年(平成12年)3月に未買収地を半径160mのカーブで迂回する路線変更を決定し<ref name="chibanippo2000330">{{Cite news| title = 「一坪」避け東に30メートル 芝山鉄道 う回ルート決定 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 2000-03-30}}</ref>、同年6月20日にルートの一部変更とこれにともなう 0.2 km の路線延長が認可された<ref name="chibanippo2000621">{{Cite news| title = う回ルート建設認可 芝山鉄道 2002年秋開業へ | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 2000-06-21}}</ref>。2001年(平成13年)4月26日にはそれまで仮称だった「整備場前駅」の正式駅名が芝山千代田駅に決定し<ref name="chibanippo2001428">{{Cite news| title = 芝山千代田に新駅名決まる 来秋開通の芝山鉄道 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 2001-04-28}}</ref>、[[2002年]](平成14年)[[10月27日]]に東成田駅 - 芝山千代田駅間が開業した<ref name="chibanippo20021027">{{Cite news| title = 芝山鉄道きょう開業 空港を抜け都心と直結 地元待望、式典で祝う アート展 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 2002-10-27}}</ref><ref name="youran" />。 なお1996年(平成8年)の段階では、現在の芝山千代田駅より先の「千代田駅(仮称)」までの0.7km区間も計画されていた<ref name="chiba">『ちばの鉄道一世紀』{{harv|白土貞夫|1996|p=311}}</ref>。 建設にあたり、[[成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律]](成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている<ref>{{Cite web|和書|date=2014年9月 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/documents/seibikeikaku_.pdf |title=成田国際空港周辺地域整備計画 |format=PDF |publisher= |accessdate=2017-03-06}}</ref>。 == 年表 == * [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月1日]] - 会社設立<ref name="youran" />。 * [[1988年]](昭和63年)[[6月24日]] - 芝鉄成田空港駅(仮称、現・東成田駅隣接)- 整備場前駅(仮称、現・[[芝山千代田駅]])間 2.0 kmの[[免許|事業免許]]を取得<ref name="chibanippo1988625" /><ref name="youran" />。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[4月13日]] - [[運輸省]](現・[[国土交通省]])が[[京成成田駅]]への乗り入れを認可<ref name="chibanippo1990414" />。 ** [[12月25日]] - 運輸省が工事施工を認可<ref name="chibanippo19901226" />。 * [[1991年]](平成3年)[[3月21日]] - [[成田空港駅]]が開業し、(旧)成田空港駅が東成田駅に改称<ref name="asahi1991319" /><ref name="chibanippo1991320" />。 * [[1992年]](平成4年)[[12月6日]] - 成田空港第二旅客ターミナルビルが開業し<ref name="mainichi1992126" />、海外旅行者向け売店などの運営に進出<ref name="yomiuri19921223" />。 * [[1995年]](平成7年)[[1月31日]] - 芝山鉄道の第1回延伸検討委員会を開催<ref name="chibanippo199521" />。 * [[1998年]](平成10年)[[1月22日]] - 着工<ref name="chibanippo1998123">{{Cite news| title = 芝山鉄道が本格着工 地域活性化に期待 | newspaper = [[千葉日報]] | publisher = 千葉日報社 | date = 1998-01-23}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年) ** 3月 - 未買収地([[一坪地主|一坪共有地]])を迂回する路線変更を決定<ref name="chibanippo2000330" />。 ** [[6月20日]] - 路線の一部変更とこれにともなう0.2kmの路線延長が認可される<ref name="chibanippo2000621" />。 * [[2001年]](平成13年)[[4月26日]] - 仮称・整備場前駅の正式駅名が芝山千代田駅に決定<ref name="chibanippo2001428" />。 * [[2002年]](平成14年)[[10月27日]] - 開業時の上限運賃が認可される<ref name="chibanippo200297">{{Cite news | title = 芝山鉄道の上限運賃認可 国交省関東運輸局 | newspaper = 千葉日報 | publisher = 千葉日報社 | date = 2002-09-07}}</ref>。東成田駅 - 芝山千代田駅間が開業<ref name="chibanippo20021027" /><ref name="youran" />。 == 路線 == [[File:Shibayama railway the shortest railway in Japan.jpg|thumb|「日本一短い鉄道 - 芝山鉄道線」([[空港第2ビル駅]]の東成田駅連絡通路入口にある案内)]] *[[ファイル:Number prefix Shibayama.svg|20px|SR]] [[芝山鉄道線]] [[東成田駅]] - [[芝山千代田駅]]間 2.2&nbsp;km(単線・[[鉄道事業者#第1種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]) 旅客運輸を行う普通鉄道に限れば、自社で線路を保有し運送を行う第一種鉄道事業者としては[[交通に関する日本一の一覧#鉄道|日本一]]保有する路線が短い鉄道事業者であり、芝山鉄道では「'''日本一短い鉄道'''」という広報を行っている。 ただし、[[ケーブルカー|鋼索鉄道]]を含めた場合は[[鞍馬山鋼索鉄道]]0.2km(207&nbsp;m<ref>{{Cite journal|和書|year=2008|month=2|title=鉄道風景&名所800|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=58|issue=2|pages=23-111|publisher=鉄道図書刊行会|issn=00404047|naid=40015748278}}</ref>)を保有する宗教法人[[鞍馬寺]]が保有路線日本最短となる。普通鉄道に限っても、貨物運輸のみ行う事業者を含めた場合は[[西濃鉄道市橋線|市橋線]]2.0&nbsp;km(営業キロ1.3&nbsp;km)のみを保有する[[西濃鉄道]]<ref>{{Cite web |url=https://seinorailway.web.fc2.com/ |title=【公式】西濃鉄道株式会社 |accessdate=2023-05-12}}</ref>が、列車を運行せず線路の保有のみを行う第三種鉄道事業者を含めた場合は[[南海和歌山港線]]の一部(2.0&nbsp;km)を保有する[[和歌山県]]<ref>[https://trafficnews.jp/post/79744 意外? 日本一短い鉄道は「和歌山県」だった 南海和歌山港線の不思議] - 乗りものニュース、2018年3月5日</ref>がそれぞれ最短となる。 線内の運転業務は全て京成電鉄に委託しているため、自社配属の乗務員を有していない。 将来的には、芝山町中心部を経由して[[九十九里浜|九十九里海岸]]([[蓮沼海浜公園]])方面への延伸も検討されており、それまでの代替処置として'''芝山鉄道延伸連絡協議会'''(芝山町・[[山武市]]・[[横芝光町]]で構成)による[[空港シャトルバス (成田空港)|空港シャトルバス]]が「[[横芝光町|横芝]]屋形海岸」まで運行されている。 == 在籍車両 == 運用は京成電鉄の車両と共通である。 === 現有車両 === [[File:Shibayama_3500_series_20220508.jpg|250px|right|thumb|芝山鉄道3500形電車]] * [[京成3500形電車|3500形]] *: 2013年4月1日より京成電鉄からの[[リース]]車両は、従来の3600形に代わり、3500形の3540編成4両編成に変更された<ref>[http://www.sibatetu.co.jp/oshirase/2013/03/post-198.html 所属車両を変更します] - 芝山鉄道ホームページお知らせ 2013年3月28日</ref>。2013年5月より成田空港キャラクターの「[[成田国際空港 (企業)#キャラクター|クウタン]]」をデザインしたラッピング編成となっていた<ref>{{Cite web|和書|date=2013年5月13日|url=https://news.mynavi.jp/article/20130513-a040/|title=千葉県の芝山鉄道3500形を使用、成田空港35周年ラッピング電車を運行開始|publisher=マイナビニュース|accessdate=2014-11-05}}</ref>。2021年5月頃にラッピングが剥がされて運用されていたが、2022年4月に芝山鉄道開業20周年を記念し、車体カラーをかつての3618編成と同様の赤と緑の帯に変更して運用している<ref>{{Cite press release|和書|title=芝山鉄道所属車両に「芝鉄カラー」が復活!|date=2022-04-15|url=https://www.sibatetu.co.jp/news/2022/04/post-483.html|access-date=2022-04-20}}</ref>。<!-- 4両編成の運行を基本としている。よく平日81運用に入る。--> === 過去の車両 === [[File:Shibayama 3600 series 20070307.jpg|250px|right|thumb|芝山鉄道3600形電車]] * [[京成3600形電車|3600形]] *: 2013年3月末日までは京成電鉄から3618編成8両編成1本をリースしていた(その後京成に返却)。帯を京成の赤+青から芝山鉄道のイメージカラーである赤+緑<ref group="注釈">赤は[[太陽]]を、緑は芝山の緑の大地をイメージする。緑色は[[芝山町]]の色でもある。</ref><ref name="Drive2003-1">日本鉄道運転協会「運転協会誌」2003年1月号ニュース 芝山鉄道「芝山から都心へ芝山鉄道開業」記事。</ref>に換え、社名プレートは「Keisei」のロゴの上に「芝山鉄道」ステッカーを貼り、また先頭車の前面上部右側には芝山鉄道の社章を貼って運用した。 * 当初は京成電鉄で廃車となった[[京成3050形電車 (初代)|旧3050形]]が譲渡される予定だったが、耐用年数等から実現には至らなかった。 == 運賃 == 大人普通旅客運賃:全線200円(小児100円)(2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[https://www.sibatetu.co.jp/news/1e906de6aafd865975e202bbcbc11230afddbfc3.pdf 鉄道旅客運賃の改定について]}} - 芝山鉄道、2019年9月27日</ref>) 2024年3月16日に全線220円(小児110円)への値上げが予定されている<ref>{{Cite web |title=芝山鉄道の運賃値上げ「2024年3月16日」に 開業以来初、一部据え置きの運賃も {{!}} 鉄道ニュース【鉄道プレスネット】 |url=https://news.railway-pressnet.com/archives/59839 |date=2023-12-14 |access-date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>。 直通先の京成電鉄などとは異なり、[[乗車カード#日本のICカード乗車券|交通系ICカード乗車券]]は一切使用できない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | author= 小川裕夫|authorlink=小川裕夫 | title = 封印された鉄道史 | publisher = [[彩図社]] | date = 2010年6月18日 | edition = 第1刷 | isbn = 978-4883927425 | ref = 小川 (2010)}} == 外部リンク == {{Commonscat|Shibayama Railway}} * [https://www.sibatetu.co.jp/ 芝山鉄道] * {{Twitter|sibatetu_info|芝山鉄道【公式】}} * [https://www.town.shibayama.lg.jp/ 芝山町役場] * [https://www.naa.jp/jp/csr/ 成田国際空港株式会社 - 地域共生・環境] {{成田国際空港のアクセス}} {{京成グループ}} {{デフォルトソート:しはやまてつとう}} [[Category:芝山鉄道|*]] [[Category:成田国際空港の鉄道]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:芝山町の企業]] [[Category:千葉県の交通|しはやまてつとう]] [[Category:第三セクター鉄道]]
2003-09-08T06:20:42Z
2023-12-14T11:10:10Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Harv", "Template:Cite press release", "Template:Twitter", "Template:Otheruseslist", "Template:基礎情報 会社", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:京成グループ", "Template:統合文字", "Template:Commonscat", "Template:成田国際空港のアクセス", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E9%89%84%E9%81%93
15,717
運動会
運動会(うんどうかい、英:Sports day)は、学校、会社(企業)、地域団体(地域社会)(児童生徒)などの参加者および運営による協力により規定プログラムに従って遂行される体育的な活動行事。体育祭(たいいくさい)や体育大会(たいいくたいかい)などと称することもある。 イギリスやドイツの職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及したものであることから「近代日本独特の体育行事」であるとされる(歴史の節も参照)。 日本の小学校・中学校・高等学校、および特別支援学校では、学習指導要領における「特別活動」にあたり、学校行事としての「健康安全・体育的行事」に位置づけられ、学校が年間指導計画の中で実施日やその内容を策定する。その目的は、連帯感・協力・調和・団結力などを養う点にあるとされる。学習指導要領においては、児童生徒の自主的・自発的な活動が助長されるように指導を行うこととされている。「特別活動」は授業時数内で行われるため、児童生徒が参加しない場合は欠席となる。なお学校によっては、この体育祭・運動会に代えて球技大会やクラスマッチを開催する例もある。 高校の場合は学校の運動場ではなく、地元の陸上競技場や体育館等の施設で行う場合もある。 東北地方では運動会当日の朝に狼煙(花火)を鳴らして決行を知らせる風習がある。 専修学校においては、体育系の学科やクラブなどが置かれない限り運動施設を設けないことが多く、運動会を開催する場合は地元の体育施設などを借りる場合が多い。ただし行事としての開催義務はないため、学校によっては運動会自体が開催されないこともある。 職場(会社など)や地域(市区町村)などで行われることもあるが、近年は開催を取り止めたり、あるいはその規模を縮小する流れも見られる。それは職場での運動会については企業の経営状況が良好でないこと、地域での運動会については過疎やつながりの希薄化などの影響で中止される場合もある。また、「運動競技に伴う災害の業務上外の認定について」(平12.5.8 基発366号)に運動競技会に関する解釈例規がある。 運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育およびスポーツの文化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれる。日本に見られる行事形式の体育的催しは日本の他に台湾、朝鮮半島など日本統治時代から盛んになり存続している。しかし、韓国においては近年、いわゆる「日帝残滓」として、運動会を廃止する動きがある。駆け足での集合や隊列を組んだ行進、点呼や声の同期、バンカラ風の応援、軍歌「歩兵の本領」の替え歌による応援など戦時下当時の名残が定着している。 海外での運動会の始まりは、19世紀の中頃でオックスフォード大学にて行われたものとされる。 運動会が日本で行われだしたのは明治時代である。当初、運動会は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていた。 日本で最初に行われた運動会は定説によれば1874年3月21日、東京海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で行われた競闘遊戯会であるとされる(イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の東京大学予備門でも運動会を開催している)。ただし、1868年に幕府の横須賀製鉄所において技術者・職工らによって行われたものが最初であるとする説もある。 1878年5月25日には札幌農学校で「力芸会」が開催された。その後、僅か数年で北海道内の小中学校に広がったといわれる。また、1882年には明治法律学校、1883年には東京大学や東京専門学校でも運動会が開催されるようになった。 その後、初代文部大臣・森有礼が体育の集団訓練を薦めるため学校で運動会を行うようになった。 日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校にも日本時代の名残で運動会が存在している。 第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われたが、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施が不可能となった例も多いとされる。 本来、当該行事は常日頃から学習指導要領に沿った体育授業で習得した成果を発表する行事であるが、一部プログラムは学習指導要領に含まれない遊戯や演舞など地区学校の独自色や実状に合わせた演目が各自治体の裁量によって認められている。 一部演目の性質上、落下や衝撃および激突が原因による児童生徒の死亡、半身不随、難聴、視力低下、運動障害などの事故発生が判明。訴訟リスクや安全面などの理由から一部演目の実施を控えたり、行事の時間を大幅に短縮するなどの対策を行っている自治体もある。日本では国家賠償法に基づき、教員が国又は地方公共団体の公務員で、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に児童や生徒に損害を加えたときは、国又は公共団体が損害賠償責任を負う(国家賠償法第1条第1項) 猛暑日における課外活動を含む運動会の練習や実施、炎天下での屋外活動が原因による生徒の熱中症集団発症の事例が毎年、少なからず発生している。 交通事故における人身事故と違い、負傷者を極力移動させず事故現場から直接緊急要請を行うことはほぼ無く、一旦保健室などで応急処置を行ってから教員が保護者へ連絡を入れた後に病院へ搬送するという手順がとられる。 2005年の国連「体育・スポーツ国際年」ののち、NGOがカンボジアの体育・スポーツ政策の支援に動き出した。2011年、カンボジア教育省所属の行政官が、岡山での体育の研修で運動会を初めて視察し、カンボジアで運動会を取り入れるきっかけとなった。行政官の意向はカンボジアでスポーツ支援をしていた特定非営利法人(NPO)ハート・オブ・ゴールドに伝えられ、2013年にカンボジア教育省、ハート・オブ・ゴールド(HG)、岡山県、岡山大学が連携してシュムリアップ州のワットチョーク小学校で教育省主導の運動会を初めて開催した。 カンボジア教育省所属の行政官が中心となった運動会は、2014年にスヴァイリエン州の2校、2015年にバッタンバン州の4校、2016年にバッタンバン州の2校で特定非営利法人ハート・オブ・ゴールドとの協働で実施された。また、2015年にはカンポット州の1校とタケオ州の1校で教育省が独自に主導して運動会を開催した。これらの学校には学校独自の運動会の開催を継続しているところもある。 タイの運動会は保健・体育科における一つの行事として位置づけられている。日本の運動会の目的とは異なり、タイの運動会の目的は、生徒が興味を持ったスポーツや得意であるスポーツに自主的に参加させることや、体育科の時間で習ったスキルの発揮が重視されている。 また、実施種目と組分けの方法も日本の運動会とは異なり、クラス全体で参加するような種目がなく、スポーツ種目はスポーツが得意な生徒が自主的に参加するものとなっている。スポーツ種目に参加した生徒個人に対して金・銀・銅などのメダルを授与することもタイの運動会の特徴とされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "運動会(うんどうかい、英:Sports day)は、学校、会社(企業)、地域団体(地域社会)(児童生徒)などの参加者および運営による協力により規定プログラムに従って遂行される体育的な活動行事。体育祭(たいいくさい)や体育大会(たいいくたいかい)などと称することもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イギリスやドイツの職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及したものであることから「近代日本独特の体育行事」であるとされる(歴史の節も参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本の小学校・中学校・高等学校、および特別支援学校では、学習指導要領における「特別活動」にあたり、学校行事としての「健康安全・体育的行事」に位置づけられ、学校が年間指導計画の中で実施日やその内容を策定する。その目的は、連帯感・協力・調和・団結力などを養う点にあるとされる。学習指導要領においては、児童生徒の自主的・自発的な活動が助長されるように指導を行うこととされている。「特別活動」は授業時数内で行われるため、児童生徒が参加しない場合は欠席となる。なお学校によっては、この体育祭・運動会に代えて球技大会やクラスマッチを開催する例もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "高校の場合は学校の運動場ではなく、地元の陸上競技場や体育館等の施設で行う場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東北地方では運動会当日の朝に狼煙(花火)を鳴らして決行を知らせる風習がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "専修学校においては、体育系の学科やクラブなどが置かれない限り運動施設を設けないことが多く、運動会を開催する場合は地元の体育施設などを借りる場合が多い。ただし行事としての開催義務はないため、学校によっては運動会自体が開催されないこともある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "職場(会社など)や地域(市区町村)などで行われることもあるが、近年は開催を取り止めたり、あるいはその規模を縮小する流れも見られる。それは職場での運動会については企業の経営状況が良好でないこと、地域での運動会については過疎やつながりの希薄化などの影響で中止される場合もある。また、「運動競技に伴う災害の業務上外の認定について」(平12.5.8 基発366号)に運動競技会に関する解釈例規がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育およびスポーツの文化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれる。日本に見られる行事形式の体育的催しは日本の他に台湾、朝鮮半島など日本統治時代から盛んになり存続している。しかし、韓国においては近年、いわゆる「日帝残滓」として、運動会を廃止する動きがある。駆け足での集合や隊列を組んだ行進、点呼や声の同期、バンカラ風の応援、軍歌「歩兵の本領」の替え歌による応援など戦時下当時の名残が定着している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "海外での運動会の始まりは、19世紀の中頃でオックスフォード大学にて行われたものとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "運動会が日本で行われだしたのは明治時代である。当初、運動会は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本で最初に行われた運動会は定説によれば1874年3月21日、東京海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で行われた競闘遊戯会であるとされる(イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の東京大学予備門でも運動会を開催している)。ただし、1868年に幕府の横須賀製鉄所において技術者・職工らによって行われたものが最初であるとする説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1878年5月25日には札幌農学校で「力芸会」が開催された。その後、僅か数年で北海道内の小中学校に広がったといわれる。また、1882年には明治法律学校、1883年には東京大学や東京専門学校でも運動会が開催されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、初代文部大臣・森有礼が体育の集団訓練を薦めるため学校で運動会を行うようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校にも日本時代の名残で運動会が存在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われたが、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施が不可能となった例も多いとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本来、当該行事は常日頃から学習指導要領に沿った体育授業で習得した成果を発表する行事であるが、一部プログラムは学習指導要領に含まれない遊戯や演舞など地区学校の独自色や実状に合わせた演目が各自治体の裁量によって認められている。", "title": "運動会で行われる代表的な競技・遊戯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一部演目の性質上、落下や衝撃および激突が原因による児童生徒の死亡、半身不随、難聴、視力低下、運動障害などの事故発生が判明。訴訟リスクや安全面などの理由から一部演目の実施を控えたり、行事の時間を大幅に短縮するなどの対策を行っている自治体もある。日本では国家賠償法に基づき、教員が国又は地方公共団体の公務員で、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に児童や生徒に損害を加えたときは、国又は公共団体が損害賠償責任を負う(国家賠償法第1条第1項)", "title": "事故" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "猛暑日における課外活動を含む運動会の練習や実施、炎天下での屋外活動が原因による生徒の熱中症集団発症の事例が毎年、少なからず発生している。", "title": "事故" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "交通事故における人身事故と違い、負傷者を極力移動させず事故現場から直接緊急要請を行うことはほぼ無く、一旦保健室などで応急処置を行ってから教員が保護者へ連絡を入れた後に病院へ搬送するという手順がとられる。", "title": "事故" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2005年の国連「体育・スポーツ国際年」ののち、NGOがカンボジアの体育・スポーツ政策の支援に動き出した。2011年、カンボジア教育省所属の行政官が、岡山での体育の研修で運動会を初めて視察し、カンボジアで運動会を取り入れるきっかけとなった。行政官の意向はカンボジアでスポーツ支援をしていた特定非営利法人(NPO)ハート・オブ・ゴールドに伝えられ、2013年にカンボジア教育省、ハート・オブ・ゴールド(HG)、岡山県、岡山大学が連携してシュムリアップ州のワットチョーク小学校で教育省主導の運動会を初めて開催した。", "title": "東南アジアの運動会" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カンボジア教育省所属の行政官が中心となった運動会は、2014年にスヴァイリエン州の2校、2015年にバッタンバン州の4校、2016年にバッタンバン州の2校で特定非営利法人ハート・オブ・ゴールドとの協働で実施された。また、2015年にはカンポット州の1校とタケオ州の1校で教育省が独自に主導して運動会を開催した。これらの学校には学校独自の運動会の開催を継続しているところもある。", "title": "東南アジアの運動会" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "タイの運動会は保健・体育科における一つの行事として位置づけられている。日本の運動会の目的とは異なり、タイの運動会の目的は、生徒が興味を持ったスポーツや得意であるスポーツに自主的に参加させることや、体育科の時間で習ったスキルの発揮が重視されている。", "title": "東南アジアの運動会" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、実施種目と組分けの方法も日本の運動会とは異なり、クラス全体で参加するような種目がなく、スポーツ種目はスポーツが得意な生徒が自主的に参加するものとなっている。スポーツ種目に参加した生徒個人に対して金・銀・銅などのメダルを授与することもタイの運動会の特徴とされている。", "title": "東南アジアの運動会" } ]
運動会は、学校、会社(企業)、地域団体(地域社会)(児童生徒)などの参加者および運営による協力により規定プログラムに従って遂行される体育的な活動行事。体育祭(たいいくさい)や体育大会(たいいくたいかい)などと称することもある。 イギリスやドイツの職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及したものであることから「近代日本独特の体育行事」であるとされる(歴史の節も参照)。
{{Otheruses}} '''運動会'''(うんどうかい、英:''Sports day'')は、[[学校]]、[[会社]](企業)、地域団体([[地域社会]])(児童生徒)などの参加者および運営による協力により規定プログラムに従って遂行される[[体育]]的な活動行事<ref>[[日本体育協会]]監修 『最新スポーツ大事典』 p.94 [[大修館書店]] [[1987年]]</ref>。'''体育祭'''(たいいくさい)や'''体育大会'''(たいいくたいかい)などと称することもある。 [[ファイル:SWUSTStadium.jpg|サムネイル|[[中華人民共和国]]の西南科技大学における'''運動会''']] [[イギリス]]や[[ドイツ]]の職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及<ref>[http://library.nittai.ac.jp/kiyou/docs/25-1-1-13.pdf 明治期における高等女学校の体育の実際に関する史的考察 大家千枝子]</ref>したものであることから「近代日本独特の体育行事」<ref name="saishinsportsdaijiten_p96">日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.96 大修館書店 1987年</ref>であるとされる<ref>日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.94 - 96 大修館書店 1987年</ref>(歴史の節も参照)。 == 概要 == === 学校運動会 === ==== 小学校・中学校・高等学校、および特別支援学校 ==== [[ファイル:130928 Takatsuki City Nampeidai elementary school Osaka pref Japan02n.jpg|thumb|[[日本の小学校]]の運動会]] [[ファイル:Undoukai.jpg|thumb|[[日本の中学校]]の運動会]] [[日本の小学校]]・[[中学校]]・[[高等学校]]、および[[特別支援学校]]では、[[学習指導要領]]における「特別活動」にあたり、[[学校行事]]としての「健康安全・体育的行事」に位置づけられ、学校が年間指導計画の中で実施日やその内容を策定する。その目的は、連帯感・協力・調和・団結力などを養う点にあるとされる<ref>『新学校教育全集 14 学校行事』 p.156 [[ぎょうせい]] [[1995年]]</ref>。[[学習指導要領]]においては、児童生徒の自主的・自発的な活動が助長されるように指導を行うこととされている。「特別活動」は授業時数内で行われるため、児童生徒が参加しない場合は欠席となる。なお学校によっては、この体育祭・運動会に代えて球技大会やクラスマッチを開催する例もある。 [[高等学校|高校]]の場合は学校の運動場ではなく<ref group="注">高等学校の場合、運動施設については「特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合」は備える必要がないとされている(「[[高等学校設置基準]]」第16条より)。</ref>、地元の[[陸上競技場]]や[[体育館]]等の施設で行う場合もある。 東北地方では運動会当日の朝に[[狼煙]]([[花火]])を鳴らして決行を知らせる風習がある<ref>[https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201909/20190917_13039.html 早朝の花火に「やめて」の声 運動会知らせる東北の風習、仙台では見送る学校増加] - [[河北新報]]</ref>。 ; 名称 : 「運動会」や「体育祭」が一般的であるが、「体育大会」「体育会」などの名称の場合もある<ref name="aikiyoshi">[https://jslrs.jp/journal/pdf/04-12.pdf 秋吉嘉範「学校レクリエーションの研究-福岡県下の高等学校体育祭・運動会の現状と問題点について-」] 日本レジャー・レクリエーション学会</ref>。 : {{要出典範囲|[[中学校]]・[[高等学校|高校]]では「'''体育祭'''」と呼ぶ場合が多く、|date=2023年2月}}また「'''大運動会'''」<ref>[http://www.city.sapporo.jp/hokenjo/f9sonota/daiunndoukai.html 例「健康さっぽろ21」大運動会]</ref>「'''体育大会'''」「'''スポーツ大会'''」「'''スポーツフェスティバル<ref group="注">“'''スポフェス'''”と省略して呼ぶ場合もある。</ref>'''」などの呼び名もある。 ; 実施時期 : 年1回で9~10月の秋に開催される例や5~6月の初夏に実施される例が多いが、年2回実施、文化祭との隔年実施などの例もある<ref name="aikiyoshi" />。 ; 実施日程 : 実施日数は1日で完結する1日型が多いが、球技などをクラスマッチで行う数日型もある<ref name="aikiyoshi" />。また、実施する曜日については、教科体育の延長で実施する行事であるとし、あるいは教員の勤務条件に合わせて平日開催とする例がある<ref name="aikiyoshi" />。一方で家族の参加や地域社会の要望を考慮して休日開催とする例もある<ref name="aikiyoshi" />。 : また、運動会の準備や練習に割く時間の確保が難しい等の事情で、運動会の時間を短縮する傾向があり、結果的に昼食時間を取らない運動会も増えつつある。2018年の[[北海道]][[札幌市]]の小学校の例では、半数以上が昼までの開催となっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-18|url=https://www.news-postseven.com/archives/20190518_1372930.html |title=「時短運動会」広がる 廃止論まで飛び出す学校と親のホンネ |publisher=ポストセブン |accessdate=2019-05-19}}</ref>。さらに学校現場での教職員の負担軽減の観点からも、競技種目の精選や半日開催などが提言されるようになった<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20221229-OYT1T50132/ 家庭訪問・水泳指導は「廃止」、マラソン大会・運動会は「縮小」…教職員の負担軽減へ提言] 読売新聞 2023年2月17日閲覧。</ref>。 ; 種目内容 : 種目内容としては[[陸上競技]]、[[球技]]、格技、体操・[[ダンス]]・[[マスゲーム]]、レクリエーション種目、クラブ紹介、仮装行列、[[応援合戦]]などである<ref name="aikiyoshi" />。 ; 実施上の課題 * 運動会など学校行事の撮影については、不審者対策や[[個人情報]]保護の観点から制限している学校もある<ref name="news-postseven20221016p1">{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20221016_1803216.html|title=運動会「スマホ撮影禁止」問題で教師たちが苦悩 隠し撮りする親、保護者のクレームも|publisher=NEWSポストセブン|accessdate=2023-02-24|page=1}}</ref>。また、PTA会報やホームページに掲載する写真に関しても、プライバシーの観点から、解像度の低い写真や顔が特定できない写真を使用している学校もある<ref name="news-postseven20221016p1" />。また、運動会など学校行事の撮影について専門業者による撮影としたり、ライブ配信を行なう学校もある<ref name="news-postseven20221016p1" />。 * 小規模校の場合、学校行事の盛り上がりに欠けるなどデメリットもあるため、校区体育祭として合同で実施するなど工夫が必要とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000000/755/79228.pdf|title=小規模校のメリット、デメリットについての学校聞き取り調査結果|publisher=枚方市|accessdate=2023-02-24}}</ref>。 * 撮影の禁止が、日本<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20221016_1803216.html?DETAIL |title=運動会「スマホ撮影禁止」問題で教師たちが苦悩 隠し撮りする親、保護者のクレームも |access-date=2023-11-14 |website=NEWSポストセブン |language=ja}}</ref>、ウェールズ<ref>{{Cite web |url=https://www.walesonline.co.uk/news/wales-news/sports-day-picture-ban-parents-2387305 |title=Sports day picture ban on parents |access-date=2023-11-14 |last=WalesOnline |date=2005-07-02 |website=Wales Online |language=en}}</ref>などの学校で行われている。これは不審者対策、ウェブ公開による子供の肖像権・プライバシー権保護、個人情報保護、事件の未然防止目的などが名目とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bengo4.com/c_23/n_11922/ |title=YouTubeで「運動会」の動画をアップ 他人の子どもの映り込み、法的に問題ないの? - 弁護士ドットコムニュース |access-date=2023-11-14 |date=2020-11-01 |website=弁護士ドットコム |language=ja}}</ref>。 ==== 専修学校 ==== [[専修学校]]においては、体育系の学科やクラブなどが置かれない限り運動施設を設けないことが多く<ref group="注">目的次第では備えなければならないとされている(「[[専修学校設置基準]]」第45条第2項より)。</ref>、運動会を開催する場合は地元の体育施設などを借りる場合が多い。ただし行事としての開催義務はないため<ref group="注">そもそも「専修学校設置基準」→「教育課程等」には行事に関する規定が存在しない。</ref>、学校によっては運動会自体が開催されないこともある。 [[ファイル:Musashino Undokai 2006 D.jpg|thumb|地域で行われる市民参加型の大運動会<small>(2006年)</small>]] === 企業運動会・地域運動会 === 職場(会社など)や[[地域]]([[市町村|市区町村]])などで行われることもあるが、近年は開催を取り止めたり、あるいはその規模を縮小する流れも見られる。それは職場での運動会については企業の経営状況が良好でないこと、地域での運動会については過疎やつながりの希薄化などの影響で中止される場合もある。また、「運動競技に伴う災害の業務上外の認定について」(平12.5.8 基発366号)に運動競技会に関する解釈例規がある。 == 歴史 == [[File:慶應義塾運動会(明治38年秋期).jpg|thumb|[[慶應義塾]]運動会<small>(1905年秋期)</small>]] [[File:Hamamatsu GirlsHighSchool 1910 SportsDay Dance.jpg|thumb|[[浜松市立高等学校|浜松高等女学校]]運動会<small>(1910年)</small>]] [[File:国士舘大運動会(1940年10月).jpg|thumb|[[国士舘大学|国士舘]]大運動会<small>(1940年10月)</small>]] 運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育およびスポーツの文化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている<ref name="saishinsportsdaijiten_p96"/>。そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれる<ref name="saishinsportsdaijiten_p96"/>。日本に見られる行事形式の体育的催しは日本の他に[[日本統治時代の台湾|台湾]]、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮半島]]など[[日本統治時代]]から盛んになり存続している。しかし、[[大韓民国|韓国]]においては近年、<!--2015年現在-->いわゆる「[[日帝残滓]]」として、運動会を廃止する動きがある。駆け足での集合や隊列を組んだ行進、点呼や声の同期、[[バンカラ]]風の応援、軍歌「歩兵の本領」の替え歌による応援など戦時下当時の名残が定着している。 海外で<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000196956 |title=“運動会”の起源について、所蔵資料から紹介してほしい。 |access-date=2023-11-14 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref>の運動会の始まりは、19世紀の中頃でオックスフォード大学にて行われたものとされる。 運動会が日本で行われだしたのは[[明治]]時代である。当初、運動会は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていた<ref name="saishinsportsdaijiten_p95">日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.95 大修館書店 1987年</ref>。 日本で最初に行われた運動会は定説によれば[[1874年]][[3月21日]]、東京海軍兵学寮(後の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])で行われた[[競闘遊戯会]]であるとされる<ref>海軍兵学校沿革</ref><ref name="saishinsportsdaijiten_p95"/>([[イギリス人]][[英語]]教師[[フレデリック・ウィリアム・ストレンジ]]の指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|東京大学予備門]]でも運動会を開催している{{要出典|date=2017-4}})。ただし、[[1868年]]に幕府の[[横須賀製鉄所]]において技術者・職工らによって行われたものが最初であるとする説もある<ref>『スポーツの百科事典』 p.66 [[丸善]] [[2007年]]</ref>。 [[1878年]][[5月25日]]には[[札幌農学校]]で「力芸会」が開催された<ref>創基五十年記念北海道帝国大学沿革史</ref><ref name="saishinsportsdaijiten_p95"/>。その後、僅か数年で北海道内の小中学校に広がったといわれる。また、[[1882年]]には[[明治法律学校]]<ref>明治大学 『図録明治大学百年』 40-41頁</ref>、[[1883年]]には[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]<ref name="saishinsportsdaijiten_p95"/>や[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]<ref>[https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2018/11/09/53490/ 「早稲田スポーツ」以前【第1回】 – 早稲田ウィークリー]</ref>でも運動会が開催されるようになった。 その後、初代[[文部大臣]]・[[森有礼]]が体育の集団訓練を薦めるため学校で運動会を行うようになった。 [[日本統治時代|日本統治]]を経験した[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[中華民国|台湾]]や[[中国東北部]]の学校にも日本時代の名残で運動会が存在している。 第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われたが、戦争末期には食糧難から運動場が[[農地|農地化]]するなどして実施が不可能となった例も多いとされる<ref>『スポーツの百科事典』 p.67 丸善 2007年</ref>。 == 運動会で行われる代表的な競技・遊戯 == {{出典の明記| date = 2022年5月| section = 1}} 本来、当該行事は常日頃から学習指導要領に沿った体育授業で習得した成果を発表する行事であるが、一部プログラムは学習指導要領に含まれない遊戯や演舞など地区学校の独自色や実状に合わせた演目が各自治体の裁量によって認められている。 * [[徒競走]](かけっこ競走も含まれる。30m走、[[50メートル競走|50m走]]、80m走、[[100メートル競走|100m走]]、150m走、[[200メートル競走|200m走]]など) <gallery> Undoukai-1a.jpg|徒競走(2017年5月28日撮影) </gallery> * [[長距離走]](ロードレース。[[800メートル競走|800m走]]、[[1500メートル競走|1500m走]]、[[2000メートル競走|2000m走]]など) * {{ill2|卵のスプーン運び競技|en|Egg-and-spoon race}} * {{ill2|サックレース|en|Sack race}} * [[リレー走]] ** [[多人多脚リレー]] * [[障害走]]系競技 ** [[障害物競走]] ** [[借り物競走]](借り人競走) ** [[パン食い競走]](飴食い競走) ** [[二人三脚]](3人4脚、10人11脚などバリエーションがある)<ref group="注">かつてはTV番組でも取り上げられた学級対抗「三十人三十一脚」などのタイムチャレンジがあったが演舞中、連鎖的に転倒するなど負傷者が続出、間もなく下火になった。</ref> ** [[台風の目 (運動会)|台風の目]] ** [[ムカデ競走]] ** [[大球送り]](玉転がし) ** スプーンレース ** [[ぐるぐるバット]] ** [[デカパン競走]] <gallery> Undoukai-6.jpg|大球送り(2018年5月26日撮影) Sports-Fest2.jpg|大玉転がし </gallery> * 団体競技 ** [[鈴割]] ** [[棒倒し#ルール|棒倒し]] ** [[玉入れ]] ** [[騎馬戦]] ** [[綱引き]] ** [[縄跳び#長縄跳び|長縄跳び]] ** [[バケツ#バケツに関する表現|バケツリレー]](給水リレー) <gallery> Undoukai-10.jpg|玉入れ(2018年5月26日撮影) Undoukai-2.jpg|騎馬戦(2017年5月28日撮影) </gallery> * アトラクション ** [[組体操]] ** [[応援合戦]]([[大根踊り]]など) ** [[マスゲーム]]([[日本体育大学#エッサッサ|エッサッサ]]など) ** [[ガチョウ足行進]] ** [[表現種目]] ** [[フォークダンス]]および花笠踊のようなその地域独特の踊りなど <gallery> Undoukai-3a.jpg|組体操(2017年5月28日撮影) JHS Undokai (Sports Festival).jpg|組体操での上半身裸・裸足 Sports-Fest1.jpg|小学校の集団演技([[ポンポン]]を使った踊り) Undoukai-9.jpg|応援合戦(2018年5月26日撮影) UndokaiMarch.jpg|中学生の行進 </gallery> == 事故 == 一部演目の性質上、落下や衝撃および激突が原因による児童生徒の死亡、半身不随、難聴、視力低下、運動障害などの事故発生が判明。訴訟リスクや安全面などの理由から一部演目の実施を控えたり、行事の時間を大幅に短縮するなどの対策を行っている自治体もある。日本では[[国家賠償法]]に基づき、教員が国又は地方公共団体の公務員で、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に児童や生徒に損害を加えたときは、国又は公共団体が損害賠償責任を負う(国家賠償法第1条第1項)<ref name="chisai2008">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/079/080079_hanrei.pdf 損害賠償請求事件 名古屋地方裁判所] 裁判例情報</ref> {{main2|[[組体操#事故・主な事例(死亡を含む)|組み立て体操(組体操)における事故]]を}} {{main2|[[ムカデ競走#事故|ムカデ競走における事故]]を}} {{main2|[[騎馬戦#問題点|騎馬戦における事故]]を}} {{main2|[[棒倒し#事故|棒倒しにおける事故]]を}} ;熱中症 猛暑日における課外活動を含む運動会の練習や実施、炎天下での屋外活動が原因による生徒の熱中症集団発症の事例が毎年、少なからず発生している。 * [[熱中症#学校管理下|※ 学校管理下における熱中症事故事例]]を参照 ; 事故対応 交通事故における人身事故と違い、負傷者を極力移動させず事故現場から直接緊急要請を行うことはほぼ無く、一旦保健室などで応急処置を行ってから教員が保護者へ連絡を入れた後に病院へ搬送するという手順がとられる<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/eef1d5574d07f2123b68d1e03feb08d44d5c7f67 私たちは運動会の見方を変えた方が良い~組体操で我が子が大怪我をした保護者のインタビュー~]</ref>。 ; 事故予防 : [http://www.mext.go.jp/a_menu/kenko/anzen/1307567.htm 熱中症事故等の防止について(依頼)](※外部リンク)文部科学省 平成27年5月18日<!--文部科学省スポーツ・青少年局学校健康教育課長 和田勝行、文部科学省スポーツ・青少年局参事官(体育・青少年スポーツ担当)日向信和 --> : [http://www.wbgt.env.go.jp/wbgt.php 暑さ指数 (WBGT) - 環境省熱中症予防情報サイト] : [http://www.wbgt.env.go.jp/faq.php 環境省熱中症予防情報サイト お問い合わせ-よくある質問] == 定番曲 == {{出典の明記| date = 2022年5月| section = 1}} * [[レイモンド服部]] - 『[[コバルトの空]]』 * [[ジャック・オッフェンバック]] - 喜歌劇『[[地獄のオルフェ|天国と地獄]]』序曲第3部([[フレンチカンカン|カンカン]]) * [[ルロイ・アンダーソン]] - 『トランペット吹きの休日』(『ラッパ吹きの休日』)[http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=83080] * [[ドミトリー・カバレフスキー]] - 組曲『[[道化師 (カバレフスキー)|道化師]]』作品26第2曲「ギャロップ(道化師のギャロップ)」 * [[アラム・ハチャトゥリアン]] - バレエ音楽『[[ガイーヌ]]』から『[[剣の舞]]』 * イマヌエル・プガチョフ・アミラン - [[マイム・マイム]] * [[ヘルマン・ネッケ]] - 『[[クシコス・ポスト]]』(日本では『クシコスの郵便馬車』とも呼ばれる) * [[ピョートル・チャイコフスキー]] - バレエ音楽『[[くるみ割り人形]]』から『トレパック』 * [[ヨハン・シュトラウス2世]] - 『[[トリッチ・トラッチ・ポルカ]]』作品214 * [[ジョアキーノ・ロッシーニ]] - 歌劇『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』[[ウィリアム・テル序曲|序曲]]第4部(スイス軍隊の行進(終曲)) * [[越部信義]] - 『アメリカ超特急』 * 越部信義 - 『クラリネット超特急』 * [[古関裕而]] - 『[[スポーツショー行進曲]]』 * [[ヨハン・シュトラウス1世]] - 『[[ラデツキー行進曲]]』作品228 * [[ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー]] - 行進曲作品159『[[双頭の鷲の旗の下に]]』 * [[カール・タイケ]] - 『[[旧友 (行進曲)|旧友]]』 * [[ケネス・アルフォード]] - 『[[ボギー大佐]]』 * [[ジョン・フィリップ・スーザ]] - 行進曲『[[星条旗よ永遠なれ]]』 * [[フランツ・フォン・スッペ]] - 喜歌劇『[[軽騎兵 (オペレッタ)|軽騎兵]]』序曲 * [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]] - オラトリオHWV63『[[ユダス・マカベウス|マカベウスのユダ]]』第58曲「見よ、勇者は帰りぬ」※表彰式BGM * [[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]] - 『[[ジンギスカン (曲)|ジンギスカン]]』、『[[めざせモスクワ]]』 * [[T-SQUARE]] - 『[[TRUTH (T-SQUAREの曲)|TRUTH]]』 * [[国民体育大会]]歌『[[若い力 (国民体育大会歌)|若い力]]』 - 多くの場合、入場行進曲に使われたり、開会式等で歌われたりするが、[[石川県]][[金沢市]]の小学校では運動会のプログラムとして、この曲に乗せて踊る[[マスゲーム]]が行われている。 * 『[[江差追分]]』 * 『[[こきりこ節]]』 * 『[[炭坑節]]』 * 『[[北海盆唄]]』 * 『[[BOHBO No.5]]』 : これらの曲以外にも、学校向けの運動会・体育祭用に行進曲が存在する<ref group="注">市販されているCDなどを使用して競技用のBGMを放送することは一般的には非営利・無料・無報酬の目的で行われるので著作権者の了解は必要ないが、この目的を超えた利用は当然ながら著作権者の了解が必要である。ただし、定番曲の多くは著作権の保護期間をすでに超過しており、著作権は消滅している。</ref>。近年ではそれを使うことも多い。 : 開会式、閉会式での入退場時の曲は、その学校の音楽部、音楽バンドが生演奏することが多い。 == 東南アジアの運動会 == === カンボジア === 2005年の国連「体育・スポーツ国際年」ののち、NGOがカンボジアの体育・スポーツ政策の支援に動き出した<ref name="hara">[https://www.ssf.or.jp/Portals/0/resources/encourage/grant/pdf/2016/2016rs_26.pdf 原 祐一「カンボジア王国における小学校運動会政策に関する一考察 - 黎明期における教育省行政官の認識と普及課題 - 」] 公益財団法人 笹川スポーツ財団</ref>。2011年、カンボジア教育省所属の行政官が、岡山での体育の研修で運動会を初めて視察し、カンボジアで運動会を取り入れるきっかけとなった<ref name="hara" />。行政官の意向はカンボジアでスポーツ支援をしていた特定非営利法人(NPO)ハート・オブ・ゴールドに伝えられ、2013年にカンボジア教育省、ハート・オブ・ゴールド(HG)、[[岡山県]]、[[岡山大学]]が連携してシュムリアップ州のワットチョーク小学校で教育省主導の運動会を初めて開催した<ref name="hara" />。 カンボジア教育省所属の行政官が中心となった運動会は、2014年にスヴァイリエン州の2校、2015年にバッタンバン州の4校、2016年にバッタンバン州の2校で特定非営利法人ハート・オブ・ゴールドとの協働で実施された<ref name="hara" />。また、2015年にはカンポット州の1校とタケオ州の1校で教育省が独自に主導して運動会を開催した<ref name="hara" />。これらの学校には学校独自の運動会の開催を継続しているところもある<ref name="hara" />。 === タイ === タイの運動会は保健・体育科における一つの行事として位置づけられている<ref name="thailand">[https://ace-npo.org/fujikawa-lab/file/pdf/bulletin/2019/07_cookie.pdf シスワン マユリ「タイと日本における集団意識とその育成の比較考察 - 黎明期における教育省行政官の認識と普及課題 - 」] 授業実践開発研究 第12巻(2019)</ref>。日本の運動会の目的とは異なり、タイの運動会の目的は、生徒が興味を持ったスポーツや得意であるスポーツに自主的に参加させることや、体育科の時間で習ったスキルの発揮が重視されている<ref name="thailand" />。 また、実施種目と組分けの方法も日本の運動会とは異なり、クラス全体で参加するような種目がなく、スポーツ種目はスポーツが得意な生徒が自主的に参加するものとなっている<ref name="thailand" />。スポーツ種目に参加した生徒個人に対して金・銀・銅などのメダルを授与することもタイの運動会の特徴とされている<ref name="thailand" />。 == 関連項目 == {{Commons|Category:Undoukai}} {{Wiktionary|運動会}} * [[学校行事]] - [[特別活動]] * [[学校]] * [[紅白]] * [[クラスマッチ]] * [[地区運動会]] * [[スターターピストル]] * [[万国旗]] * [[ガチョウ足行進]] * [[湿球黒球温度]] - WBGT指標、暑さ指数<ref>[http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.php?id=2310136&frame=please 運動会練習期間における熱中症対策について] 一宮市立大和東小学校</ref><ref>[http://www.jpnsport.go.jp/anzen/Portals/0/anzen/branch/nagoya/pdf/nagoya_kikanshi6/naash-nagoya6_2.pdf 熱中症対策とWBGTの測定について] 特集 - 日本スポーツ振興センター</ref><ref>[http://www.jpnsport.go.jp/anzen/Portals/0/anzen/branch/tokyo/kankou/pdf/2012-3necchusho.pdf 熱中症の予防と応急処置] 日本スポーツ振興センター</ref> * [[文化祭]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[吉見俊哉]]・[[白幡洋三郎]]・平田宗史・木村吉次・入江克己・紙透雅子・共著『運動会と日本近代』青弓社ライブラリー 6 [[青弓社]] [[1999年]]12月 ISBN 4787231677 == 外部リンク == {{Sports-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うんとうかい}} [[Category:運動会|*]]
2003-09-08T06:23:21Z
2023-12-23T09:13:58Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Commons", "Template:Wiktionary", "Template:Reflist", "Template:Sports-stub", "Template:要出典範囲", "Template:要出典", "Template:Main2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:Otheruses", "Template:Ill2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A
15,720
HANA-BI
『HANA-BI』(はなび、米: Fireworks)は、1998年公開の日本映画。監督・脚本・編集・挿入画、北野武。主演はビートたけし。 妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な刑事の人生模様を描く。 第54回ヴェネツィア国際映画祭にてグランプリにあたる金獅子賞を受賞しており、日本映画のグランプリ受賞は『無法松の一生』以来39年ぶりであった。 キャッチコピーは「そのときに抱きとめてくれるひとがいますか」。 病に身体を蝕まれ余命いくばくもない妻(岸本加世子)を持つ刑事・西(ビートたけし)はある日、凶悪犯(薬師寺保栄)の自宅張り込みを同僚の堀部(大杉漣)からの提案で代わってもらい、妻の見舞いに向かう。そこで担当医(矢島健一)から妻の容体は風前の灯の状態であると聞いた西は絶望するが、更に悪いことは続き堀部が犯人に銃撃されたとの知らせを部下の中村(寺島進)から受ける。西らはその後犯人を追い詰め、捕らえようとするも抵抗する犯人が発砲し中村が重傷を負い、もう1人の部下・田中(芦川誠)が犠牲になる。西は怒りと自棄から犯人を射殺し、その死体に何発も銃弾を撃ち込むのだった。堀部は命こそ取り留めたものの車椅子を使わなければならない体になってしまい、妻子にも出ていかれてしまっていた。 刑事を退職した西はヤクザから金を借り、妻に不自由ない生活を送らせようとするが、返済が滞っていく。やがて銀行強盗を強行して得た金で借金を解消した西は、妻を連れて最後の旅に出る。一方、妻子と別れた堀部は、西から送られた金で絵を描き始める。 一方の西は妻と最後の旅を静かに楽しんでいた。しかし、西が銀行強盗で金を手に入れたことに気づいて金を更に奪おうとするヤクザと、西の行動を不審に思った嘗ての同僚である中村達が西を徐々に追い詰めていく...。 映画興行面で松竹系から独立系製作へ移行し好転することになった。また、長く日本映画の上映が禁止されていた大韓民国で、初めて映画館での封切り興行がされた。公開初日はテアトル銀座、新宿、池袋の順で舞台挨拶を敢行。北野武、岸本加世子、大杉漣、寺島進が登壇した。 北野が敬意を表明している黒澤明監督は「黒澤 明が選んだ百本の映画」に選び絶賛している。また、ジャン・リュック・ゴダールも高松宮殿下記念世界文化賞のために来日した際の会見で本作を激賞しており、ゴダールの出身であるフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で北野が表紙を飾った特集も組まれた。 2018年2月21日に大杉漣が急逝(66歳没)した際、2月25日にテレビ東京で大杉の追悼番組として、本作を「特別編集版」として放送した(14:00 - 16:00、関東ローカル。その他、地方各局でも異なる放送日時でローカル枠にて追悼特番として放送された)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『HANA-BI』(はなび、米: Fireworks)は、1998年公開の日本映画。監督・脚本・編集・挿入画、北野武。主演はビートたけし。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な刑事の人生模様を描く。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第54回ヴェネツィア国際映画祭にてグランプリにあたる金獅子賞を受賞しており、日本映画のグランプリ受賞は『無法松の一生』以来39年ぶりであった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「そのときに抱きとめてくれるひとがいますか」。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "病に身体を蝕まれ余命いくばくもない妻(岸本加世子)を持つ刑事・西(ビートたけし)はある日、凶悪犯(薬師寺保栄)の自宅張り込みを同僚の堀部(大杉漣)からの提案で代わってもらい、妻の見舞いに向かう。そこで担当医(矢島健一)から妻の容体は風前の灯の状態であると聞いた西は絶望するが、更に悪いことは続き堀部が犯人に銃撃されたとの知らせを部下の中村(寺島進)から受ける。西らはその後犯人を追い詰め、捕らえようとするも抵抗する犯人が発砲し中村が重傷を負い、もう1人の部下・田中(芦川誠)が犠牲になる。西は怒りと自棄から犯人を射殺し、その死体に何発も銃弾を撃ち込むのだった。堀部は命こそ取り留めたものの車椅子を使わなければならない体になってしまい、妻子にも出ていかれてしまっていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "刑事を退職した西はヤクザから金を借り、妻に不自由ない生活を送らせようとするが、返済が滞っていく。やがて銀行強盗を強行して得た金で借金を解消した西は、妻を連れて最後の旅に出る。一方、妻子と別れた堀部は、西から送られた金で絵を描き始める。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方の西は妻と最後の旅を静かに楽しんでいた。しかし、西が銀行強盗で金を手に入れたことに気づいて金を更に奪おうとするヤクザと、西の行動を不審に思った嘗ての同僚である中村達が西を徐々に追い詰めていく...。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "映画興行面で松竹系から独立系製作へ移行し好転することになった。また、長く日本映画の上映が禁止されていた大韓民国で、初めて映画館での封切り興行がされた。公開初日はテアトル銀座、新宿、池袋の順で舞台挨拶を敢行。北野武、岸本加世子、大杉漣、寺島進が登壇した。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北野が敬意を表明している黒澤明監督は「黒澤 明が選んだ百本の映画」に選び絶賛している。また、ジャン・リュック・ゴダールも高松宮殿下記念世界文化賞のために来日した際の会見で本作を激賞しており、ゴダールの出身であるフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で北野が表紙を飾った特集も組まれた。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2018年2月21日に大杉漣が急逝(66歳没)した際、2月25日にテレビ東京で大杉の追悼番組として、本作を「特別編集版」として放送した(14:00 - 16:00、関東ローカル。その他、地方各局でも異なる放送日時でローカル枠にて追悼特番として放送された)。", "title": "テレビ放送" } ]
『HANA-BI』は、1998年公開の日本映画。監督・脚本・編集・挿入画、北野武。主演はビートたけし。 妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な刑事の人生模様を描く。 第54回ヴェネツィア国際映画祭にてグランプリにあたる金獅子賞を受賞しており、日本映画のグランプリ受賞は『無法松の一生』以来39年ぶりであった。 キャッチコピーは「そのときに抱きとめてくれるひとがいますか」。
{{Infobox Film | 作品名 = HANA-BI | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[ビートたけし|北野武]] | 製作総指揮 = | 製作 = [[森昌行]]<br />鍋島寿夫<br />[[吉田多喜男]] | 脚本 = 北野武 | 出演者 = [[ビートたけし]]<br />[[岸本加世子]]<br />[[大杉漣]]<br />[[寺島進]] | 音楽 = [[久石譲]] | 撮影 = [[山本英夫 (映画カメラマン)|山本英夫]] | 編集 = 北野武<br />[[太田義則]] | 製作会社 = [[バンダイビジュアル]]<br />[[オフィス北野]]<br />[[エフエム東京|TOKYO FM]]<br />[[テレビ東京]] | 配給 = {{flagicon|JPN}} [[日本ヘラルド映画]]<br />{{flagicon|USA}} [[:En:Milestone Films|マイルストーン]] | 公開 = {{flagicon|ITA}} 1997年9月3日<small>([[第54回ヴェネツィア国際映画祭|VIFF]])</small><br />{{flagicon|FRA}} 1997年11月5日<br />{{flagicon|JPN}} 1998年1月24日<br />{{flagicon|USA}} 1998年3月20日 | 上映時間 = 103分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''HANA-BI'''』(はなび、{{Lang-en-us-short|''Fireworks''}})は、[[1998年の映画|1998年]]公開の[[日本映画]]。監督・脚本・編集・挿入画、[[ビートたけし|北野武]]。主演は[[ビートたけし]]。 妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な[[刑事]]の人生模様を描く。 第54回[[ヴェネツィア国際映画祭]]にてグランプリにあたる[[金獅子賞]]を受賞しており、日本映画のグランプリ受賞は『[[無法松の一生]]』以来39年ぶりであった。 キャッチコピーは「'''そのときに抱きとめてくれるひとがいますか'''」。 == あらすじ == 病に身体を蝕まれ余命いくばくもない妻([[岸本加世子]])を持つ刑事・西([[ビートたけし]])はある日、凶悪犯([[薬師寺保栄]])の自宅張り込みを同僚の堀部([[大杉漣]])からの提案で代わってもらい、妻の見舞いに向かう。そこで担当医([[矢島健一]])から妻の容体は風前の灯の状態であると聞いた西は絶望するが、更に悪いことは続き堀部が犯人に銃撃されたとの知らせを部下の中村([[寺島進]])から受ける。西らはその後犯人を追い詰め、捕らえようとするも抵抗する犯人が発砲し中村が重傷を負い、もう1人の部下・田中([[芦川誠]])が犠牲になる。西は怒りと自棄から犯人を射殺し、その死体に何発も銃弾を撃ち込むのだった。堀部は命こそ取り留めたものの[[車椅子]]を使わなければならない体になってしまい、妻子にも出ていかれてしまっていた。 刑事を退職した西は[[ヤクザ]]から金を借り、妻に不自由ない生活を送らせようとするが、返済が滞っていく。やがて銀行強盗を強行して得た金で借金を解消した西は、妻を連れて最後の旅に出る。一方、妻子と別れた堀部は、西から送られた金で絵を描き始める。 一方の西は妻と最後の旅を静かに楽しんでいた。しかし、西が銀行強盗で金を手に入れたことに気づいて金を更に奪おうとするヤクザと、西の行動を不審に思った嘗ての同僚である中村達が西を徐々に追い詰めていく…。 == キャスト == ; 西 佳敬 : 演 - ビートたけし : 刑事だったが、部下たちが銃撃を受けて死傷者を出した責任を感じて退職。以前は優秀な刑事で熱くなった堀部を抑えるような役目だったが、キレると何をしでかすか分からない凶暴な性格。殉職した田中の妻子の為に毎月仕送りの金を渡す義理堅い人物で、自分より妻の事を優先に考える愛妻家。 ; 西 美幸 : 演 - 岸本加世子 : 西の妻。不治の病に冒されている。自身の病気のこともあるが、それ以上に幼い娘を亡くしたショックで、ほとんど話せない状態。刑事を退職した西と旅行に出かける。木製のパズルを静かに楽しむ。 ; 堀部 泰助 : 演 - [[大杉漣]] : 刑事時代の西の同僚。西とは中学高校からの腐れ縁。凶悪犯に銃撃されて辛うじて一命は取り留めたものの下半身が不自由になり車椅子の生活となったことから人生が一変。退院と依願退職と同時に妻と子供に出て行かれる。仕事一筋で無趣味だったが、その後絵を描くことに興味を持ち描き始める。離婚直後にショックから睡眠薬による自殺未遂を起こしている。その生き様は西や中村にも影響しており、仕事中の愚痴で妻がナンパしたブサイクだった方の女、仕事中も娘と会話を楽しんだり家族で遊園地に行く予定があったのだが、堀部が仕事ができない体になった途端に掌を返して妻子は離婚してしまう。 === 警察 === ; 中村 靖 : 演 - [[寺島進]] : 刑事時代の西の部下。西が退職後に自身の結婚が決まるが、堀部の家庭環境の変化から結婚観が揺らぐ。退職した西と堀部とは、その後も時々連絡を取り合う。 ; 田中 : 演 - [[芦川誠]] : 刑事時代の西の部下。凶悪犯の銃弾を受け殉職する。生前は美幸の病状などを心配していた。 ; 永井刑事 : 演 - [[逸見太郎]] : 若手刑事。中村の部下でいつも行動を共にする。西の退職後に刑事になったため、現役時代の西について中村に話を聞く。 ; 刑事課長 : 演 - [[田村元治]] ; 刑事 : 演 - [[納谷真大]]、[[小西崇之]] === 西に金を貸したヤクザ === ; ヤクザの幹部 : 演 - [[西沢仁太]] : 貸金業を営んでおり、西が借金をした相手。債務者に契約時より高い利子をつけて返済するよう脅すなどあくどいやり方をしている。 ; 東条 正次 : 演 - [[白竜 (俳優)|白竜]] : 貸金業のヤクザの一味。怒ると花瓶で相手を殴ったり、銃で相手を撃ったり(借金を返さない等、露骨に反抗してきた相手だけでなく気にくわない冗談を言った仲間の組員等にも容赦しない)手荒い行動に出る武闘派。 ; チンピラ : 演 - [[鬼界浩巳]]、[[森下能幸]]、[[佐久間哲]] : 貸金業のヤクザの下っ端たち。西に取り立てをした時にバカにした発言をしたため返り討ちにあう。その後も何度か西の前に現れしつこく取り立てに来る。 === 西と関わる他の人 === ; 凶悪犯 : 演 - [[薬師寺保栄]] : 自身を捕まえようとする刑事たちを銃で襲い、ほどなくして西に銃で撃たれて死亡。終始無言・無表情で、不意をついて上に覆い被さってきた西を片手で殴り倒して逆転する腕力の持ち主。 ; 田中の妻 : 演 - [[大家由祐子]] : 刑事だった夫の死後、シングルマザーとして弁当屋で働きながら子どもを育てる。その後も責任感を感じた西と会って、生活ぶりを話す。 ; 悪ガキ : 演 - [[ショー小菅]]、[[ガンビーノ小林]] : 青い[[つなぎ]]を着た二人組。詳しくは不明だが駐車場に停めた西の車のボンネットの上で弁当を食い散らかしたのが見つかり殴られる。 ; 板前 : 演 - [[柳憂怜|柳ユーレイ]]、[[お宮の松 (お笑い芸人)|お宮の松]] : 休憩中らしく、刑事たちの張り込み現場近くの道路でキャッチボールをしていた時に西と出会う。 ; スクラップ屋の親父 : 演 - [[渡辺哲]] : 短気で気に入らないことがあるとすぐ相手に暴力を振るう。西のことを気に入り、盗難車であるため脅してタダで入手した車(タクシー)を5万円で西に譲る。 ; スクラップ屋の従業員 : 演 - 岸菜愛 : スクラップ屋で働くシンナー中毒のやる気のない従業員。 ; 銀行前にいる男 : 演 - [[無法松 (お笑い芸人)|無法松]] : 暇な建設作業員。気のいい性格で、強盗前にパトカー(タクシーを改造したもの)からモデルガンで撃つマネをする西に付き合って撃たれたフリをする。 ; 車に当て逃げされたチンピラ : 演 - [[玉袋筋太郎]] : 他の車に当て逃げされた直後に通りかかった強盗を終えた警察官に扮する西に、当て逃げされたから調査するよう訴えるが、軽くあしらわれる。 === 西夫妻が出会う人たち === ; 担当医 : 演 - [[矢島健一]] : 美幸の担当。病気の完治が難しく、また子供を亡くした精神的ショックが大きい美幸のことを考えて、入院を続けるより家で過ごすことを西に勧める。 ; 湖で水切りをするサラリーマン : 演 - [[つまみ枝豆]] : 湖らしき場所で[[水切り]]をしている男。隣でガラス瓶に挿した枯れた花に湖の水をあげる美幸を見て馬鹿にし、後ろから西に殴られる。 ; 孫を連れた男 : 演 - [[ト字たかお]] : 西夫妻と同時刻に孫とともに偶然寺社を訪れたおじいさん。孫に境内の鐘を見せ、今は鳴らないから鳴る時刻に来ようと提案して一旦帰ろうとするが、話を聞いていた西がイタズラで鐘を突然鳴らしたため、その音に驚く。 ; 旅館の女将 : 演 - [[ふくまつみ|松美里杷]] : 雪が積もる土地にある旅館で働く。訪れた西夫妻をもてなす。その後、2人を追って旅館を訪れた中村から聞き込みを受ける。 ; 凧を揚げる少女 : 演 - [[北野井子]]<ref group="注">公開時は'''松田井子'''名義で出演。</ref> : 冬の晴れた日に西夫婦が見つめる中、浜辺で一人凧を揚げる。 === その他 === ; 取調べを受ける男 : 演 - [[津田寛治]] : スナックでボーイに因縁を付けて大金をせしめようとしたため、中村から取り調べを受けるが、すぐバレるような嘘をつくために中村から制裁を受ける。 ; タクシーを売りに来る男 : 演 - [[アル北郷]] : 20歳。おそらく盗難車のタクシーをスクラップ屋に持ち込み[[第二種運転免許|普通自動車第二種免許]]を取得できる前の年齢にもかかわらず「自分のタクシーだ」と言い張り、最後には恫喝されて逃げる。不良っぽい茶髪にラフな格好をしている。 ; 田舎の親父 : 演 - [[関時男 (1944年生)|関時男]] : 軽トラを運転中に接触事故に遭い、相手(スクラップ屋)の方が悪いのに理不尽な言いがかりをつけられ、泣き寝入りする羽目になる。その後、事故の際に壊されたヘッドライトの中古部品を買いに件のスクラップ屋に偶然訪れ再度トラブルとなる。 ; 頭を撃たれるヤクザ : 演 - [[森羅万象 (俳優)|森羅万象]] : 金を借りた相手であるヤクザの幹部を挑発したため東条に銃で頭を撃たれる。 == スタッフ == *監督・脚本・編集・挿入画:北野武 *音楽:[[久石譲]] *撮影:[[山本英夫 (映画カメラマン)|山本英夫]] *照明:[[高屋齋]] *美術:磯田典宏 *録音:堀内戦治 *助監督:清水浩 *音響効果:帆苅幸雄、岡瀬昌彦 *特殊メイク:[[原口智生]] *ガンエフェクト:[[ビッグショット (特殊効果)|納富喜久男]] *プロデューサー:[[森昌行]]、柘植靖司、[[吉田多喜男]] *協力プロデューサー:石川博(テレビ東京)、古川一博(エフエム東京) == 製作 == === 制作過程 === * 当初、北野武が考えたタイトルは『たけし7作目』だったが、スタッフから当然ながらクレームが入り、仕方なくスタッフに任せることにした。すると『HANA-BI』というタイトルを提案された。「HANA(花)=生」と「HI(火)=死」という意味だと言われ、北野は「もし聞かれたら、そう答える」とスタッフに告げたという。 * 作中に登場する堀部の描いたものとして使われる絵は、北野が描いたものである。 * ラストシーンに無名の少女としてたけしの実娘である[[北野井子]]が出演した。 === 音楽 === * 音楽を担当した久石は当初、本作にどういった音楽を付けるべきか悩んでいたが、北野から「アコースティックな世界で、きれいな音楽があるといいね」「きれいな弦が流れてさ。暴力シーンもあるんだけど、関係なくきれいな音楽が流れて…」と言われ、そこから迷いなく入っていけたという。そのため、前3作では[[シンセサイザー]]や[[サンプラー|サンプリング]]を多用していたが、本作では[[ストリングス]]が主体となっている<ref>鈴木光司『天才たちのDNA』マガジンハウス、2001年、p165</ref><ref>淀川長治・編『フィルムメーカーズ2 北野武』キネマ旬報社、1998年2月、p128</ref>。久石は本作について当時のインタビューで「音楽というのはね、実は映像とやるとすごく怖いんですよ。映像が一生懸命、丁寧にきめ細やかに作ったところにドーンとペンキを塗っちゃうようなものですから」と述べている<ref>NHK「トップランナー」制作班・編『トップランナー Vol.7』KTC中央出版、1998年、p18</ref>。 == 受賞・ノミネート == *'''[[ヴェネツィア国際映画祭]] グランプリ([[金獅子賞]])''' *[[:en:Cahiers_du_cinéma's_Annual_Top_10_Lists|カイエ・デュ・シネマ年間ベストテン]]第1位 *[[ヨーロッパ映画賞]] インターナショナル映画賞 *[[ニューヨーク映画祭]]・ヨーロピアン・アカデミー賞「スクリーン・インターナショナル賞」 *サンパウロ国際映画祭・批評家賞 *オーストラリア映画批評家協会賞・外国作品賞 *[[:en:1001_Movies_You_Must_See_Before_You_Die|『1001 Movies You Must See Before You Die』]]選出 *第53回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞 *[[報知映画賞]] 邦画部門・最優秀作品賞、最優秀監督賞 *第41回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]・作品賞、監督賞、助演男優賞 *第49回芸術選奨・文部大臣賞映画部門 *[[第22回日本アカデミー賞]] **最優秀賞 - 音楽賞 **優秀賞 - 作品賞/監督賞/脚本賞/主演男優賞/主演女優賞/助演男優賞/撮影賞/編集賞/照明賞/音響賞 *第8回[[東京スポーツ映画大賞]]・作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞 *第72回[[キネマ旬報]]ベスト・テン日本映画第1位 *第20回[[ヨコハマ映画祭]]日本映画ベストテン第3位 *第42回[[三浦賞]] == 公開 == 映画興行面で松竹系から独立系製作へ移行し好転することになった。また、長く[[日本映画]]の上映が禁止されていた[[大韓民国]]で、初めて映画館での封切り興行がされた。公開初日はテアトル銀座、新宿、池袋の順で舞台挨拶を敢行。北野武、岸本加世子、大杉漣、寺島進が登壇した。 == 反響・評価 == 北野が敬意を表明している[[黒澤明]]監督は「黒澤 明が選んだ百本の映画」に選び絶賛している<ref>『黒澤明―生誕100年総特集 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)』 河出書房新社増補新版 ISBN 4309977308</ref>。また、[[ジャン・リュック・ゴダール]]も[[高松宮殿下記念世界文化賞]]のために来日した際の会見で本作を激賞しており<ref>https://eiga.com/news/20021029/15/ ゴダールが36年ぶりの来日。日本映画を語る 映画.com 2021/6/2</ref>、ゴダールの出身であるフランスの映画批評誌『[[カイエ・デュ・シネマ]]』で北野が表紙を飾った特集も組まれた。 == テレビ放送 == [[2018年]][[2月21日]]に大杉漣が急逝(66歳没)した際、[[2月25日]]に[[テレビ東京]]で大杉の追悼番組として、本作を「特別編集版」として放送した(14:00 - 16:00、[[関東ローカル]]<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/official/hana-bi/ 大杉漣さんを偲んで 映画「HANA-BI」特別編集版 ベネチア映画祭金獅子賞] テレビ東京、2018年2月24日閲覧</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/02/23/kiji/20180223s00041000324000c.html テレ東 大杉漣さん追悼 映画「HANA−BI」25日放送 北野作品の常連] スポーツニッポン、2018年2月23日</ref>。その他、地方各局でも異なる放送日時で[[ローカル枠]]にて追悼特番として放送された)。 == ロケ地 == *[[光明寺 (鎌倉市)]] *新潟県南魚沼市の温泉旅館「大沢館」 *横須賀市野比海岸周辺 *茨城県高萩市赤浜海岸(ラストシーン) *川崎地下街アゼリア(薬師寺保栄襲撃、射殺シーン) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 外部リンク == * {{Allcinema title|90300|HANA-BI}} * {{Kinejun title|31220|HANA-BI}} * {{Amg movie|158656|HANA-BI}} * {{IMDb title|0119250|HANA-BI}} {{北野武監督作品}} {{金獅子賞}} {{キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン}} {{ブルーリボン賞作品賞}} {{石原裕次郎賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はなひ}} [[Category:金獅子賞受賞作]] [[Category:1998年の映画]] [[Category:ヤクザ映画]] [[Category:日本のドラマ映画]] [[Category:北野武の監督映画]] [[Category:バンダイビジュアルの映画作品]] [[Category:テレビ東京製作の映画]] [[Category:TOKYO FM製作の映画]] [[Category:久石譲の作曲映画]] [[Category:茨城県で製作された映画作品]] [[Category:新潟県で製作された映画作品]] [[Category:横須賀市で製作された映画作品]] [[Category:鎌倉市で製作された映画作品]] [[Category:川崎市で製作された映画作品]]
null
2023-07-09T08:00:34Z
false
false
false
[ "Template:IMDb title", "Template:金獅子賞", "Template:キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン", "Template:Normdaten", "Template:Lang-en-us-short", "Template:Kinejun title", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Allcinema title", "Template:ブルーリボン賞作品賞", "Template:Notelist2", "Template:Amg movie", "Template:北野武監督作品", "Template:石原裕次郎賞", "Template:Infobox Film" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/HANA-BI
15,721
座頭市
『座頭市』(ざとういち)は、兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇。勝新太郎の映画座頭市シリーズの先駆けになったのが不知火検校という作品である。 1962年に勝新太郎主演で大映によって『座頭市物語』のタイトルで映画化されて以来、26作品というシリーズが公開されている。1974年には、同じく勝主演でテレビドラマ・シリーズが勝プロダクションによって製作された。 主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに監督業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝のライフワークとも言うべき作品になった。 子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が原作である。後年子母澤は語ったところによれば、江戸時代に活躍した房総地方の侠客である飯岡助五郎について取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に、飯岡にまつわる話の一つとして土地の古老から聞いた盲目の侠客座頭の市の話を元に記した。 『座頭市物語』が収録されている、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』は1961年に中央公論社から発売。1963年に同社から発売された子母澤寛全集へも収録、1975年には中公文庫 (ISBN 4122002435)、講談社から発売された子母澤寛全集へ収録されているなど、単行本の発売以来一貫して原作の閲覧・入手は容易である。 ところが、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』において、項目執筆者の真淵哲が、(『座頭市物語』は)原作の『ふところ手帖』に1行、2行だけ記されたものであったと誤記し(実際は10ページほどある)、この誤りが様々な文献で引用されて広く信じられるようになった。 なお、映画化の際に、三隅研次や犬塚稔といった映画人によって新たな人物像が構築され、さらに勝新太郎によってそれが脚色・肉付けされている。そのため、映画やテレビドラマを通じて流布している座頭市像と、原作とでは大幅な開きがある。 外見だけでも原作の座頭市は「もういい年配で、でっぷりとした大きな男」とされており、居合の名人なのは原作からだが「柄の長い長脇差」を差していたとされているが、最大の違いは原作では市の戦闘場面が一切なく、居合も喧嘩を止める際や助五郎の元を出ていく際に脅しに使う程度で、助五郎が天保15年に別の侠客の繁蔵一家と戦った際も「目の見えねえ片輪までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる」と出陣しなかったとされている。 生まれは常陸の国、笠間。幼少の頃に病にかかった後、目が見えなくなったと本人は言う。描写等から、完全な盲目ではなく、明暗程度は判別できる。職業は揉み療治、現在でいうところのマッサージ師である。でっぷりとした中年男といわれ、演じる勝の外見そのものである。目が見えないハンデを克服するために、居合術を修め、その腕前は凄まじく、やくざの類はまったく相手にならず、剣術を極めた侍でも敵わないほどである。ただし目の見えない恐怖からか、殺気を持って近づく者は何者であっても反射的に斬ってしまう。 目が見えないためか、視覚以外の四感は非常に鋭く、勘だけで並みの人間より遥かに器用なことを行うことができるが、落とし穴など、気配のない物には弱い。 昔ながらの強きを挫き、弱きを助けるタイプのヤクザの親分からは下にも置かない待遇を受ける兄弟分だが、悪辣なヤクザからは命を狙われることも多い。「座頭市を斬れば、その価値は千両以上、関八州に名が轟く」等の理由で狙われたりすることもあるが、大概は目に余る悪行、弱い者苛めに、座頭市の方が怒って成敗する場合も多い。その鋭い感覚で、博打のサイコロの目や、花札の札を見破ることができ、イカサマの類は一切通用しない。また博打で稼いだ金は、困窮している者に快く分け与えたりもする。物腰は誰に対しても丁寧で優しい。 現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演の映画を製作する時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝のアイデアである。 平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。 勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』に出演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていたことに大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。三船を立てるためもあって、その盟友である岡本喜八を初の社外監督として招いての大作仕立てであったが、絵コンテを切って全構図とカッティングを自分が決めるスタイルの岡本は、大映の主ともいえる宮川一夫カメラマンの口出しを一切許さず、撮影はかなり険悪な雰囲気で行われたといわれる。時間に厳格な東宝撮影所で育った岡本と三船の二人だけが定時前に出勤し、なかなか出てこない大映スタッフに苛立つ場面も見られた。キャストにもいわゆる喜八ファミリーと呼ばれる岡本作品の常連俳優が数多く並んだが、その一人岸田森はこの後、勝とも親密な関係となった。 市の仕込み杖は15作目の刀鍛冶によって「下野の高辰」という5本の指に数えられる刀鍛冶の一人の作であることが判明する。 1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。 1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。しかし、立ち回りの撮影中に勝の長男である鴈龍太郎(奥村雄大)の真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎がコカイン所持で逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の製作映画となった。 大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を製作・配給、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。 黒澤明の映画を始めとする日本の時代劇は日本国外でも高く評価され、『子連れ狼』と並んで、座頭市シリーズの影響を公言する映画監督も少なくない。こうした影響力の代表的なものが、1967年に公開された『座頭市血煙り街道』を元にして、アメリカで製作された映画『ブラインド・フューリー』である。 1970年代に香港で製作された多くのカンフー映画や武侠映画への影響力は強いものがあった。中でもその影響力を顕著に現したのが1971年に製作された『新座頭市・破れ!唐人剣』であった。この作品の劇中で座頭市が対峙する片腕の唐人剣士(ジミー・ウォング)は、武侠映画『片腕必殺剣』シリーズの人気キャラクターであり、盲目というハンデキャップを背負いながらも超人的な武術を体得した座頭市をモデルに創作されたものである。文字通り『新座頭市・破れ!唐人剣』は夢の共演を実現した作品であった。ブルース・リー主演の『ドラゴンへの道』についても座頭市からの影響を指摘する声がある。 キューバでの評価も高い。1958年のキューバ革命以後、キューバではハリウッド映画の輸入が禁じられたため、日本映画が頻繁に公開された。そのなかで1967年に初上映された『座頭市』シリーズはもっとも公開回数が多く、勝演じるハンデキャップを抱えた孤高の剣士座頭市に、キューバ国民は自らの置かれた境遇を重ね合わせ、熱狂的に支持されたという。 ※主演はいずれも勝新太郎。 ※歌唱はいずれも勝新太郎(「不思議な夢/野良犬」を除く)。 1992年、篠山紀信撮影による座頭市が週刊現代のグラビアへ掲載された。 このグラビア版・座頭市は、勝新太郎をはじめ、太地喜和子や勝の父である杵屋勝東治などらも参加したフォトセッションであり、中には東京都庁をバックに撮影されたものも含まれた。作品の数点は、篠山が2000年に発表した写真集『アイドル』に収められている。 勝新太郎主演の座頭市は、日本国外でも高い評価を得た。後に、勝がハワイで、パンツの中にコカインを隠し持って逮捕された時には、国外退去処分が決まるまでの間、マスコミ等から逃れるために、座頭市を捩ったサトイチと名乗って、雲隠れしていたといわれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『座頭市』(ざとういち)は、兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇。勝新太郎の映画座頭市シリーズの先駆けになったのが不知火検校という作品である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1962年に勝新太郎主演で大映によって『座頭市物語』のタイトルで映画化されて以来、26作品というシリーズが公開されている。1974年には、同じく勝主演でテレビドラマ・シリーズが勝プロダクションによって製作された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに監督業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝のライフワークとも言うべき作品になった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が原作である。後年子母澤は語ったところによれば、江戸時代に活躍した房総地方の侠客である飯岡助五郎について取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に、飯岡にまつわる話の一つとして土地の古老から聞いた盲目の侠客座頭の市の話を元に記した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『座頭市物語』が収録されている、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』は1961年に中央公論社から発売。1963年に同社から発売された子母澤寛全集へも収録、1975年には中公文庫 (ISBN 4122002435)、講談社から発売された子母澤寛全集へ収録されているなど、単行本の発売以来一貫して原作の閲覧・入手は容易である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ところが、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』において、項目執筆者の真淵哲が、(『座頭市物語』は)原作の『ふところ手帖』に1行、2行だけ記されたものであったと誤記し(実際は10ページほどある)、この誤りが様々な文献で引用されて広く信じられるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、映画化の際に、三隅研次や犬塚稔といった映画人によって新たな人物像が構築され、さらに勝新太郎によってそれが脚色・肉付けされている。そのため、映画やテレビドラマを通じて流布している座頭市像と、原作とでは大幅な開きがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "外見だけでも原作の座頭市は「もういい年配で、でっぷりとした大きな男」とされており、居合の名人なのは原作からだが「柄の長い長脇差」を差していたとされているが、最大の違いは原作では市の戦闘場面が一切なく、居合も喧嘩を止める際や助五郎の元を出ていく際に脅しに使う程度で、助五郎が天保15年に別の侠客の繁蔵一家と戦った際も「目の見えねえ片輪までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる」と出陣しなかったとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "生まれは常陸の国、笠間。幼少の頃に病にかかった後、目が見えなくなったと本人は言う。描写等から、完全な盲目ではなく、明暗程度は判別できる。職業は揉み療治、現在でいうところのマッサージ師である。でっぷりとした中年男といわれ、演じる勝の外見そのものである。目が見えないハンデを克服するために、居合術を修め、その腕前は凄まじく、やくざの類はまったく相手にならず、剣術を極めた侍でも敵わないほどである。ただし目の見えない恐怖からか、殺気を持って近づく者は何者であっても反射的に斬ってしまう。 目が見えないためか、視覚以外の四感は非常に鋭く、勘だけで並みの人間より遥かに器用なことを行うことができるが、落とし穴など、気配のない物には弱い。 昔ながらの強きを挫き、弱きを助けるタイプのヤクザの親分からは下にも置かない待遇を受ける兄弟分だが、悪辣なヤクザからは命を狙われることも多い。「座頭市を斬れば、その価値は千両以上、関八州に名が轟く」等の理由で狙われたりすることもあるが、大概は目に余る悪行、弱い者苛めに、座頭市の方が怒って成敗する場合も多い。その鋭い感覚で、博打のサイコロの目や、花札の札を見破ることができ、イカサマの類は一切通用しない。また博打で稼いだ金は、困窮している者に快く分け与えたりもする。物腰は誰に対しても丁寧で優しい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演の映画を製作する時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝のアイデアである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』に出演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていたことに大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。三船を立てるためもあって、その盟友である岡本喜八を初の社外監督として招いての大作仕立てであったが、絵コンテを切って全構図とカッティングを自分が決めるスタイルの岡本は、大映の主ともいえる宮川一夫カメラマンの口出しを一切許さず、撮影はかなり険悪な雰囲気で行われたといわれる。時間に厳格な東宝撮影所で育った岡本と三船の二人だけが定時前に出勤し、なかなか出てこない大映スタッフに苛立つ場面も見られた。キャストにもいわゆる喜八ファミリーと呼ばれる岡本作品の常連俳優が数多く並んだが、その一人岸田森はこの後、勝とも親密な関係となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "市の仕込み杖は15作目の刀鍛冶によって「下野の高辰」という5本の指に数えられる刀鍛冶の一人の作であることが判明する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。しかし、立ち回りの撮影中に勝の長男である鴈龍太郎(奥村雄大)の真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎がコカイン所持で逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の製作映画となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を製作・配給、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "黒澤明の映画を始めとする日本の時代劇は日本国外でも高く評価され、『子連れ狼』と並んで、座頭市シリーズの影響を公言する映画監督も少なくない。こうした影響力の代表的なものが、1967年に公開された『座頭市血煙り街道』を元にして、アメリカで製作された映画『ブラインド・フューリー』である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1970年代に香港で製作された多くのカンフー映画や武侠映画への影響力は強いものがあった。中でもその影響力を顕著に現したのが1971年に製作された『新座頭市・破れ!唐人剣』であった。この作品の劇中で座頭市が対峙する片腕の唐人剣士(ジミー・ウォング)は、武侠映画『片腕必殺剣』シリーズの人気キャラクターであり、盲目というハンデキャップを背負いながらも超人的な武術を体得した座頭市をモデルに創作されたものである。文字通り『新座頭市・破れ!唐人剣』は夢の共演を実現した作品であった。ブルース・リー主演の『ドラゴンへの道』についても座頭市からの影響を指摘する声がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "キューバでの評価も高い。1958年のキューバ革命以後、キューバではハリウッド映画の輸入が禁じられたため、日本映画が頻繁に公開された。そのなかで1967年に初上映された『座頭市』シリーズはもっとも公開回数が多く、勝演じるハンデキャップを抱えた孤高の剣士座頭市に、キューバ国民は自らの置かれた境遇を重ね合わせ、熱狂的に支持されたという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "※主演はいずれも勝新太郎。", "title": "座頭市の関連作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "※歌唱はいずれも勝新太郎(「不思議な夢/野良犬」を除く)。", "title": "座頭市の関連作品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1992年、篠山紀信撮影による座頭市が週刊現代のグラビアへ掲載された。", "title": "座頭市の関連作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このグラビア版・座頭市は、勝新太郎をはじめ、太地喜和子や勝の父である杵屋勝東治などらも参加したフォトセッションであり、中には東京都庁をバックに撮影されたものも含まれた。作品の数点は、篠山が2000年に発表した写真集『アイドル』に収められている。", "title": "座頭市の関連作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "勝新太郎主演の座頭市は、日本国外でも高い評価を得た。後に、勝がハワイで、パンツの中にコカインを隠し持って逮捕された時には、国外退去処分が決まるまでの間、マスコミ等から逃れるために、座頭市を捩ったサトイチと名乗って、雲隠れしていたといわれる。", "title": "エピソード" } ]
『座頭市』(ざとういち)は、兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇。勝新太郎の映画座頭市シリーズの先駆けになったのが不知火検校という作品である。 1962年に勝新太郎主演で大映によって『座頭市物語』のタイトルで映画化されて以来、26作品というシリーズが公開されている。1974年には、同じく勝主演でテレビドラマ・シリーズが勝プロダクションによって製作された。 主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに監督業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝のライフワークとも言うべき作品になった。
『'''座頭市'''』(ざとういち)は、兇状持ちで盲目の[[侠客]]である'''[[座頭]]'''の'''市'''が、諸国を旅しながら驚異的な[[抜刀術]]で悪人と対峙する、[[時代劇|アクション時代劇]]。勝新太郎の映画座頭市シリーズの先駆けになったのが[[不知火検校]]という作品である。 [[1962年]]に[[勝新太郎]]主演で[[大映]]によって『[[座頭市物語]]』のタイトルで映画化されて以来、26作品というシリーズが公開されている。[[1974年]]には、同じく勝主演で[[座頭市物語 (テレビドラマ)|テレビドラマ・シリーズ]]が[[勝プロダクション]]によって製作された。 主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに[[映画監督|監督]]業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝の[[ライフワーク]]とも言うべき作品になった。 == 概要 == === 原作の座頭市 === [[子母澤寛]]が[[1948年]]に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が原作である。後年子母澤は語ったところによれば、[[江戸時代]]に活躍した[[房総半島|房総地方]]の[[侠客]]である[[飯岡助五郎]]について取材するため[[千葉県]][[佐原市]]へ訪れた際に、[[飯岡町|飯岡]]にまつわる話の一つとして土地の古老から聞いた盲目の侠客'''[[座頭]]の市'''の話を元に記した。 『座頭市物語』が収録されている、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』は1961年に[[中央公論社]]から発売。1963年に同社から発売された子母澤寛全集へも収録、1975年には[[中公文庫]] (ISBN 4122002435)、[[講談社]]から発売された子母澤寛全集へ収録されているなど、単行本の発売以来一貫して原作の閲覧・入手は容易である。<!-- り、中公の文庫本は現在でも入手可能のロングセラー本となっている。(品切れのようです) --> ところが、1973年に出版された[[キネマ旬報社]]の『日本映画作品全集』において、項目執筆者の真淵哲が、(『座頭市物語』は)原作の『ふところ手帖』に1行、2行だけ記されたものであったと誤記し(実際は10ページほどある)、この誤りが様々な文献で引用されて広く信じられるようになった<ref>[[縄田一男]]『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])「総目録の名に恥じぬ大作 日本劇映画総目録」2008年10月30日号。</ref>。 なお、映画化の際に、[[三隅研次]]や[[犬塚稔]]といった映画人によって新たな人物像が構築され、さらに[[勝新太郎]]によってそれが脚色・肉付けされている。そのため、映画やテレビドラマを通じて流布している座頭市像と、原作とでは大幅な開きがある。 外見だけでも原作の座頭市は「もういい年配で、でっぷりとした大きな男」とされており、居合の名人なのは原作からだが「柄の長い長脇差」を差していたとされている<ref>『ふところ手帳』中央公論新社、2006年、ISBN 4-12-552209-X、p.130</ref>が、最大の違いは'''原作では市の戦闘場面が一切なく'''、居合も喧嘩を止める際や助五郎の元を出ていく際に脅しに使う程度で、助五郎が天保15年に別の侠客の繁蔵一家と戦った際も「目の見えねえ片輪までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる<ref>『ふところ手帳』中央公論新社、2006年、ISBN 4-12-552209-X、p.134の市のセリフより。</ref>」と出陣しなかったとされている。 === キャラクターとしての座頭市 === 生まれは常陸の国、笠間。幼少の頃に病にかかった後、目が見えなくなったと本人は言う。描写等から、完全な盲目ではなく、明暗程度は判別できる。職業は揉み療治、現在でいうところのマッサージ師である。でっぷりとした中年男といわれ、演じる勝の外見そのものである。目が見えないハンデを克服するために、居合術を修め、その腕前は凄まじく、やくざの類はまったく相手にならず、剣術を極めた侍でも敵わないほどである。ただし目の見えない恐怖からか、殺気を持って近づく者は何者であっても反射的に斬ってしまう。 目が見えないためか、視覚以外の四感は非常に鋭く、勘だけで並みの人間より遥かに器用なことを行うことができるが、落とし穴など、気配のない物には弱い。 昔ながらの強きを挫き、弱きを助けるタイプのヤクザの親分からは下にも置かない待遇を受ける兄弟分だが、悪辣なヤクザからは命を狙われることも多い。「座頭市を斬れば、その価値は千両以上、関八州に名が轟く」等の理由で狙われたりすることもあるが、大概は目に余る悪行、弱い者苛めに、座頭市の方が怒って成敗する場合も多い。その鋭い感覚で、博打のサイコロの目や、花札の札を見破ることができ、イカサマの類は一切通用しない。また博打で稼いだ金は、困窮している者に快く分け与えたりもする。物腰は誰に対しても丁寧で優しい。 === 映画・座頭市シリーズ === 現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演の映画を製作する時に作られたものである。また、原作の[[長ドス]]を[[仕込み杖]]としたのも勝のアイデアである。 [[平手造酒]]との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『[[座頭市物語]]』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わず[[ニヒリズム]]も拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。 勝の主演での劇場版最大のヒット作は[[1970年]]の『[[座頭市と用心棒]]』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には[[三船敏郎]]と[[若尾文子]]が出演している。[[黒澤明]]の『[[用心棒]]』『[[椿三十郎]]』に出演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は[[友情出演]]程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていたことに大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。三船を立てるためもあって、その盟友である[[岡本喜八]]を初の社外監督として招いての大作仕立てであったが、絵コンテを切って全構図とカッティングを自分が決めるスタイルの岡本は、大映の主ともいえる[[宮川一夫]]カメラマンの口出しを一切許さず、撮影はかなり険悪な雰囲気で行われたといわれる。時間に厳格な[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]で育った岡本と三船の二人だけが定時前に出勤し、なかなか出てこない大映スタッフに苛立つ場面も見られた。キャストにもいわゆる喜八ファミリーと呼ばれる岡本作品の常連俳優が数多く並んだが、その一人[[岸田森]]はこの後、勝とも親密な関係となった。 市の仕込み杖は15作目の刀鍛冶によって「下野の高辰」という5本の指に数えられる刀鍛冶の一人の作であることが判明する。 [[1960年代]]の映画シリーズの音楽の殆どは[[伊福部昭]]が担当した。 [[1989年]]には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。しかし、立ち回りの撮影中に勝の長男である[[鴈龍|鴈龍太郎]](奥村雄大)の真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎が[[コカイン]]所持で逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の製作映画となった。 大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。[[東映]]は、1963年に[[東千代之介]]主演の『めくら狼』を製作・配給<ref>笠原和夫『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』太田出版、2002年、p146.</ref>、[[松竹]]は、[[松山容子]]主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。 === 映画・日本国外での評価 === [[黒澤明]]の映画を始めとする日本の時代劇は日本国外でも高く評価され、『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼]]』と並んで、座頭市シリーズの影響を公言する[[映画監督]]も少なくない。こうした影響力の代表的なものが、1967年に公開された『座頭市血煙り街道』を元にして、アメリカで製作された映画『[[ブラインド・フューリー]]』である。 [[1970年代]]に[[香港]]で製作された多くの[[カンフー映画]]や[[武侠映画]]への影響力は強いものがあった<ref>[[四方田犬彦]]『日本映画史100年』集英社新書、2000年、p165.</ref><ref>轟夕起夫『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』河出書房新社、2002年、p12.</ref>。中でもその影響力を顕著に現したのが[[1971年]]に製作された『[[新座頭市・破れ!唐人剣]]』であった。この作品の劇中で座頭市が対峙する片腕の[[支那人#日本での事例|唐人]]剣士([[ジミー・ウォング]])は、武侠映画『[[片腕必殺剣]]』シリーズの人気[[キャラクター]]であり、盲目という[[ハンデキャップ]]を背負いながらも超人的な武術を体得した座頭市を[[題材|モデル]]に創作されたものである。文字通り『新座頭市・破れ!唐人剣』は夢の共演を実現した作品であった。[[ブルース・リー]]主演の『[[ドラゴンへの道]]』についても座頭市からの影響を指摘する声がある<ref>『[[映画秘宝]]Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進』[[洋泉社]]、2001年、p183。</ref>。 キューバでの評価も高い。1958年の[[キューバ革命]]以後、キューバでは[[ハリウッド映画]]の輸入が禁じられたため、[[日本映画]]が頻繁に公開された。そのなかで1967年に初上映された『座頭市』シリーズはもっとも公開回数が多く、勝演じるハンデキャップを抱えた孤高の剣士座頭市に、[[キューバ]]国民は自らの置かれた境遇を重ね合わせ、熱狂的に支持されたという。<ref>『朝日新聞』11月6日朝刊文化欄</ref> == 座頭市の関連作品 == === 劇場版作品 === * [[座頭市物語]]([[1962年]]4月18日、[[モノクロ]]) ** [[監督]]:[[三隅研次]] ** 出演:勝新太郎、[[天知茂]]、[[万里昌代]]、島田竜三、[[柳永二郎]]、[[毛利郁子]]、[[猿若清三郎|中村豊]]、[[南道郎]]、ほか * [[続・座頭市物語]](1962年10月12日、モノクロ) ** 監督:[[森一生]] ** 出演:勝新太郎、[[水谷良重]]、城健三郎([[若山富三郎]])、万里昌代、中村豊、[[澤村宗之助 (2代目)|沢村宗之助]]、[[伊達三郎]]、ほか * [[新・座頭市物語]]([[1963年]]3月15日) ** 監督:[[田中徳三]] ** 出演:勝新太郎、[[坪内ミキ子]]、[[丹羽又三郎]]、真城千都世、[[近藤美恵子]]、[[河津清三郎]]、ほか * [[座頭市兇状旅]](1963年8月10日) ** 監督:田中徳三 ** 出演:勝新太郎、[[高田美和]]、万里昌代、成田純一郎、北城寿太郎、[[名和宏]]、[[安部徹]]、[[小林勝彦]]、[[羅門光三郎]]、ほか * [[座頭市喧嘩旅]](1963年11月30日) ** 監督:[[安田公義]] ** 出演:勝新太郎、[[藤村志保]]、島田竜三、[[藤原礼子]]、丹羽又三郎、[[吉田義夫]]、ほか * [[座頭市千両首]]([[1964年]]3月14日) ** 監督:[[池広一夫]] ** 出演:勝新太郎、坪内ミキ子、[[長谷川待子]]、城健三朗(若山富三郎の別名義)、[[島田正吾]]、丹羽又三郎、ほか * [[座頭市あばれ凧]](1964年7月11日) ** 監督:池広一夫 ** 出演:勝新太郎、[[久保菜穂子]]、[[渚まゆみ]]、[[五味龍太郎]]、[[遠藤太津朗|遠藤辰雄]]、[[左卜全]]、ほか * [[座頭市血笑旅]](1964年10月17日) ** 監督:三隅研次 ** 出演:勝新太郎、[[高千穂ひづる]]、[[金子信雄]]、[[加藤嘉]]、北城寿太郎、毛利郁子、ほか * [[座頭市関所破り]](1964年12月30日) ** 監督:安田公義 ** 出演:勝新太郎、高田美和、[[滝瑛子 (1944年生)|滝瑛子]]、[[平幹二朗]]、[[上田吉二郎]]、ほか * [[座頭市二段斬り]]([[1965年]]4月3日) ** 監督:[[井上昭]] ** 出演:勝新太郎、坪内ミキ子、[[三木のり平]]、[[加藤武]]、[[春本富士夫]]、伊達三郎、[[小林幸子]]、ほか * [[座頭市逆手斬り]](1965年9月18日) ** 監督:森一生 ** 出演:勝新太郎、[[藤山寛美]]、滝瑛子、明星雅子、[[石山健二郎]]、島田竜三、ほか * [[座頭市地獄旅]](1965年12月24日) ** 監督:三隅研次 ** 出演:勝新太郎、[[成田三樹夫]]、[[高林由紀子|林千鶴]]、[[岩崎加根子]]、[[丸井太郎]]、[[山本學|山本学]]、五味龍太郎、[[戸浦六宏]]、[[須賀不二男]]、[[藤岡琢也]]、ほか * [[座頭市の歌が聞える]]([[1966年]]5月3日) ** 監督:田中徳三 ** 出演:勝新太郎、天知茂、[[小川眞由美|小川真由美]]、[[佐藤慶]]、[[浜村純]]、吉川満子、ほか * [[座頭市海を渡る]](1966年8月13日) ** 監督:池広一夫 ** 出演:勝新太郎、[[安田道代]]、[[山形勲]]、五味龍太郎、[[千波丈太郎]]、[[田中邦衛]]、[[井川比佐志]]、[[三島雅夫]]、[[東野孝彦]]、ほか * [[座頭市鉄火旅]]([[1967年]]1月3日) ** 監督:安田公義 ** 出演:勝新太郎、藤村志保、[[東野英治郎]]、[[青山良彦]]、[[水前寺清子]]、[[藤田まこと]]、[[春川ますみ]]、ほか * [[座頭市牢破り]](1967年8月12日) ** 監督:[[山本薩夫]] ** 出演:勝新太郎、[[三國連太郎]]、[[西村晃]]、[[浜田ゆう子]]、[[細川俊之]]、[[鈴木瑞穂]]、[[玉川良一]]、ほか * [[座頭市血煙り街道]](1967年12月30日) ** 監督:三隅研次 ** 出演:勝新太郎、[[近衛十四郎]]、高田美和、[[朝丘雪路]]、[[中尾ミエ]]、坪内ミキ子、[[小池朝雄]]、[[草薙幸二郎]]、ほか * [[座頭市果し状]]([[1968年]]8月10日) ** 監督:安田公義 ** 出演:勝新太郎、[[野川由美子]]、三木本賀代、[[待田京介]]、[[志村喬]]、[[小松方正]]、千波丈太郎、[[井上昭文]]、ほか * [[座頭市喧嘩太鼓]](1968年12月28日) ** 監督:三隅研次 ** 出演:勝新太郎、[[三田佳子]]、[[佐藤允]]、西村晃、藤岡琢也、[[ミヤコ蝶々]]、戸浦六宏、[[曽我町子]]、ほか * [[座頭市と用心棒]]([[1970年]]1月15日) ** 監督:[[岡本喜八]] ** 出演:勝新太郎、[[三船敏郎]]、[[若尾文子]]、[[嵐寛寿郎]]、[[岸田森]]、[[滝沢修]]、[[米倉斉加年]]、[[神山繁]]、細川俊之、[[寺田農]]、[[草野大悟]]、ほか * [[座頭市あばれ火祭り]](1970年8月12日) ** 監督:三隅研次 ** 出演:勝新太郎、[[仲代達矢]]、[[大原麗子]]、[[池畑慎之介☆|ピーター]]、西村晃、[[金田龍之介]]、[[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[なべおさみ]]、ほか * [[新座頭市・破れ!唐人剣]]([[1971年]]1月13日) ** 監督:安田公義 ** 出演:勝新太郎、[[ジミー・ウォング]]、[[浜木綿子]]、[[南原宏治]]、[[安部徹]]、[[佐々木孝丸]]、[[花沢徳衛|花澤徳衛]]、[[大前均]]、[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、[[伊東四朗]]、ほか * [[座頭市御用旅]]([[1972年]]1月15日) ** 監督:森一生 ** 出演:勝新太郎、[[森繁久彌]]、[[大谷直子]]、三國連太郎、[[高橋悦史]]、[[深江章喜]]、[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]、酒井修 (俳優)、[[明石勤]]、新條多久美、岡本健、秋山勝俊、[[石橋蓮司]]、[[蟹江敬三]]、ほか * [[新座頭市物語・折れた杖]](1972年9月2日) ** 監督:勝新太郎 ** 出演:勝新太郎、[[太地喜和子]]、[[中村賀津雄]]、[[伏見直江]]、[[吉沢京子]]、[[高城丈二]]、小池朝雄、[[大滝秀治]]、[[藤岡重慶]]、ほか * [[新座頭市物語 笠間の血祭り]]([[1973年]]4月21日) ** 監督:安田公義 ** 出演:勝新太郎、[[十朱幸代]]、[[岡田英次]]、佐藤慶、志村喬、[[横山リエ]]、[[土屋嘉男]]、[[岸部四郎|岸部シロー]]、ほか * [[座頭市 (1989年の映画)|座頭市]]([[1989年]]2月4日) ** 監督:勝新太郎 ** 出演:勝新太郎、[[緒形拳]]、[[樋口可南子]]、[[陣内孝則]]、[[内田裕也]]、[[片岡鶴太郎]]、[[鴈龍|奥村雄大]]、ほか === テレビドラマ === * [[座頭市物語 (テレビドラマ)|座頭市物語]]([[1974年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])全26話 * [[新・座頭市]] 第1シリーズ([[1976年]]、フジテレビ)全29話 * 新・座頭市 第2シリーズ([[1978年]]、フジテレビ)全19話 * 新・座頭市 第3シリーズ([[1979年]]、フジテレビ)全26話 === 舞台 === ※主演はいずれも勝新太郎。 * 「座頭市物語」([[1962年]]11月) ** 同時上演:別れ囃子、悪名、雲の別れ路 * 「座頭市物語」([[1968年]]9月1日 - 9月25日) ** 名古屋・御園座、勝新太郎・朝丘雪路特別公演。同時上演:風流深川唄 * 「座頭市喧嘩ばやし・座頭市物語」([[1972年]]9月1日 - 9月25日) ** 東京・明治座。同時上演:好食の草紙、風流深川唄 === 音楽作品 === ※歌唱はいずれも勝新太郎(「不思議な夢/野良犬」を除く)。 ==== アルバム ==== * [[座頭市子守唄]] ビクター(1977年)※未CD化 ==== シングル ==== * 座頭市の唄 * 座頭市子守唄 * おてんとさん  * 不思議な夢/野良犬([[石原裕次郎]]) === グラビア版 === [[1992年]]、[[篠山紀信]]撮影による座頭市が[[週刊現代]]の[[グラビアページ|グラビア]]へ掲載された。 このグラビア版・座頭市は、勝新太郎をはじめ、[[太地喜和子]]や勝の父である[[杵屋勝東治]]などらも参加したフォトセッションであり、中には[[東京都庁]]をバックに撮影されたものも含まれた。作品の数点は、篠山が2000年に発表した写真集『アイドル』に収められている。 === リメイク作品 === === 映画 === * 盲(めくら)坊主 対 空飛ぶギロチン 盲侠血滴子 THE BLIND SWORDSMAN'S REVENGE ([[1977年]]) ** 監督:屠忠訓 ** 脚本:林俊雄・屠忠訓 ** 出演:[[酒巻輝男|勝利太郎]](ソックリショー・勝新太郎のモノマネとして主演)、陳鴻烈、陳佩伶、江島、龍飛、山茅、田野、易原、康凱、小亮哥、歐陽雲鳳 ** 音楽:王居仁 ** 武術指導:黄龍・陳世偉 * [[ブラインド・フューリー]] Blind Fury([[1989年]]、米・[[トライスター ピクチャーズ]]) ** 監督:[[フィリップ・ノイス]]、主演:[[ルトガー・ハウアー]] * [[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]([[2003年]]) ** 監督:[[北野武]]、主演:[[ビートたけし]] * [[ICHI (映画)|ICHI]]([[2008年]]) ** 監督:[[曽利文彦]]、主演:[[綾瀬はるか]] * [[座頭市 THE LAST]]([[2010年]]) ** 監督:[[阪本順治]]、主演:[[香取慎吾]] === 舞台 === * [[三池崇史]]x[[哀川翔]]『座頭市』(2007年、[[新宿コマ劇場]]、大阪・[[梅田芸術劇場]]、[[愛知厚生年金会館]]) ** [[三池崇史]]演出、[[哀川翔]]主演。 * 舞台『座頭市』(2009年、[[名古屋市|名古屋]][[御園座]]) ** 主演は[[松平健]]。「正月開催の芸能生活35周年記念公演」として上演。 * 六本木歌舞伎『座頭市(仮)』(2017年、[[EX THEATER ROPPONGI]])<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/206523|title=六本木歌舞伎、新作は海老蔵&寺島しのぶ!三池崇史×リリー・フランキー版座頭市|newspaper=ステージナタリー|date=2016-10-23|accessdate=2016-10-24}}</ref> ** 六本木歌舞伎の第2弾作品。 ** 演出は三池崇史、脚本は[[リリー・フランキー]]、主演は[[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]]。 === その他 === ==== パチンコ ==== * [[2007年]]3月、[[ニューギン]]より「[[CR機|CR]][[泉谷しげる]]の座頭市物語」が発売された。この[[パチンコ|遊技台]]では[[泉谷しげる]]が座頭市に扮し、ヒロインは[[宮地真緒]]が演じた。 ==== 漫画 ==== * [[劇画]]家の[[平田弘史]]が描いた漫画の座頭市。 == エピソード == 勝新太郎主演の座頭市は、日本国外でも高い評価を得た。後に、勝が[[ハワイ]]で、[[パンツ]]の中に[[コカイン]]を隠し持って逮捕された時には、国外退去処分が決まるまでの間、[[報道機関|マスコミ]]等から逃れるために、座頭市を捩った'''サトイチ'''と名乗って、雲隠れしていたといわれる。 == 出典 == <references/> == 関連項目 == * [[按摩]] {{座頭市シリーズ}} {{Movie-stub}} {{tv-stub}} {{DEFAULTSORT:さとういち}} [[Category:座頭市|*]] [[Category:子母澤寛]] [[Category:日本の映画のシリーズ]] [[Category:視覚障害を扱った作品]] [[Category:日本の小説を原作とする舞台作品]] [[Category:1962年の舞台作品]] [[Category:勝新太郎]] [[Category:成田三樹夫]]
2003-09-08T06:41:11Z
2023-12-19T12:40:47Z
false
false
false
[ "Template:Tv-stub", "Template:Cite news", "Template:座頭市シリーズ", "Template:Movie-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%A0%AD%E5%B8%82
15,724
黒部峡谷鉄道本線
黒部峡谷鉄道本線(くろべきょうこくてつどうほんせん)は、富山県黒部市の宇奈月駅から欅平駅までを黒部川に沿って走る黒部峡谷鉄道の鉄道路線である。 一般旅客向けのトロッコ電車が運行される観光鉄道であるが、元々は電源開発のための専用鉄道であり、現在でも沿線にあるダム・発電所への資材運搬列車や、関西電力関係者専用列車が運行されている。 全列車が機関車牽引による客車列車で、側面がフルオープンの開放型客車、通常の客車と同様な密閉型の特別客車・リラックス客車などの客車がある。特別客車・リラックス客車には特別料金が必要で、また、後者ほど静音性(遮音性)が高い。運行ダイヤは時期により若干変動するが、宇奈月発は8時台 - 14時台、欅平発は10時台 - 16時台にかけて、毎時1 - 2本の頻度で運行している。 黒部峡谷は冬期の積雪が多く、雪崩による被害の危険性が高いことから冬期(12月 - 翌年4月中旬)は運休する。鐘釣駅上流にあるウド谷橋では沿線で唯一、雪崩対策のため運休期間中は線路と鉄橋を撤去してトンネル内に保管している。トンネル区間を除き、ほぼ全線にわたって線路沿いにコンクリート製のシェルター状のものが並行しているが、これは冬期の運休期間中に関西電力関係者がダムや発電所との間を徒歩で移動するための「冬期歩道」である。冬期歩道では「逓送さん」と呼ばれる建設会社職員らが物資輸送に当たる。 沿線途中の森石駅と黒薙駅間の南側からは中部山岳国立公園の特別地域に属し、欅平駅は特別保護地区に属する。 2008年10月10日からは、関西電力関係者専用列車を除く全旅客列車を対象に、専用チケット予約サイトでのインターネット予約(乗車日の3か月前から2日前まで可能)を実施している。2009年5月からは地元富山県出身で女優の室井滋が車内放送を担当している。 関西電力関係者専用列車には一般旅客は乗車できないが、繁忙期には一部の列車に一般旅客を乗せることもある。 1926年(昭和元年)、日本電力(日電)が黒部川沿いの電源開発を目的として宇奈月駅・猫又駅間を開通させたのが始まりである。1937年(昭和12年)に、現在の終点の欅平駅まで開通した。当初は建設用の資材や作業員を輸送するための専用鉄道だったが、登山客や一般観光客からの乗車希望が絶えなかったので、便乗という形で乗車を認めることにした。乗客に発行した「便乗証」(乗車券)には、注意事項のひとつに「便乗ノ安全ニ付テハ一切保証致シマセン」と記されていた。この鉄道は、1941年(昭和16年)10月に日本電力から日本発送電へ、1951年(昭和26年)5月に日本発送電から関西電力へと引き継がれた。 乗客の増加と地元の強い要望から、1953年(昭和28年)に地方鉄道法による免許を受けて、同年11月16日から正式な鉄道路線として営業を開始した。 1965年(昭和40年)8月8日、小屋平駅 - 四ツ平駅間で落石が発生。30 - 50 cm程度の落石が宇奈月駅行列車の客車を直撃して1人が死亡、4人が負傷した。 1971年(昭和46年)7月1日に関西電力から分社化され、黒部峡谷鉄道となった。 1981年(昭和56年)12月、宇奈月ダム建設工事により一部路線が水没する関係で新ルートへの付替え工事に着手し、1988年(昭和63年)4月29日に宇奈月 - 柳橋間約1.8 kmの区間を新山彦橋を通るルートに変更された。 1995年(平成7年)の7.11水害では甚大な被害を受け、欅平までの完全復旧は翌1996年(平成8年)7月20日となった。 すべての列車が宇奈月駅を発着する。旅客列車は時期により笹平駅で折り返す折り返し運転、宇奈月駅 - 鐘釣駅間の折り返し運転、宇奈月駅 - 欅平駅間の全線と運行区間が変わる。冬期は運行を休止する。 一般旅客が利用可能な駅は宇奈月駅、黒薙駅、鐘釣駅、欅平駅の4駅である。笹平駅で折り返す列車の場合、笹平駅ではトイレ休憩として車外に出ることはできるが、駅の外に出ることはできない。 2021年には欅平行きで黒薙駅を通過する列車が存在したが、2022年、2023年ではすべての旅客列車が黒薙駅を含め上記の4駅に停車している。 ●:全て停車、▲:一部停車、|:通過または運転停車のみ 有人駅は宇奈月駅・黒薙駅・鐘釣駅・欅平駅で、一般旅客が乗降できるのもこれらの駅のみである。他の駅は無人駅で、現在も電源開発のための専用鉄道として営業を続けているため、関西電力関係者に利用が限定されている。なお、笹平駅のホームにはトイレが設置されており、列車交換のための停車時間が長い場合のみホームに降りることができるが、駅の外に出ることはできない。 運転開始となる毎年4月下旬は、宇奈月駅 - 笹平駅・出平駅・猫又駅・鐘釣駅の折り返し運転となる。出平駅・猫又駅はこの場合も下車できず、同じ列車で乗車したまま折り返すことになる。 欅平駅より先は上部軌道(関西電力黒部専用鉄道)が繋がるが、原則として関西電力関係者以外は乗車できない。ただし、関西電力が主催し富山県が協賛する「黒部ルート見学会」に応募し、当選すれば乗車することが可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "黒部峡谷鉄道本線(くろべきょうこくてつどうほんせん)は、富山県黒部市の宇奈月駅から欅平駅までを黒部川に沿って走る黒部峡谷鉄道の鉄道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般旅客向けのトロッコ電車が運行される観光鉄道であるが、元々は電源開発のための専用鉄道であり、現在でも沿線にあるダム・発電所への資材運搬列車や、関西電力関係者専用列車が運行されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全列車が機関車牽引による客車列車で、側面がフルオープンの開放型客車、通常の客車と同様な密閉型の特別客車・リラックス客車などの客車がある。特別客車・リラックス客車には特別料金が必要で、また、後者ほど静音性(遮音性)が高い。運行ダイヤは時期により若干変動するが、宇奈月発は8時台 - 14時台、欅平発は10時台 - 16時台にかけて、毎時1 - 2本の頻度で運行している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "黒部峡谷は冬期の積雪が多く、雪崩による被害の危険性が高いことから冬期(12月 - 翌年4月中旬)は運休する。鐘釣駅上流にあるウド谷橋では沿線で唯一、雪崩対策のため運休期間中は線路と鉄橋を撤去してトンネル内に保管している。トンネル区間を除き、ほぼ全線にわたって線路沿いにコンクリート製のシェルター状のものが並行しているが、これは冬期の運休期間中に関西電力関係者がダムや発電所との間を徒歩で移動するための「冬期歩道」である。冬期歩道では「逓送さん」と呼ばれる建設会社職員らが物資輸送に当たる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "沿線途中の森石駅と黒薙駅間の南側からは中部山岳国立公園の特別地域に属し、欅平駅は特別保護地区に属する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2008年10月10日からは、関西電力関係者専用列車を除く全旅客列車を対象に、専用チケット予約サイトでのインターネット予約(乗車日の3か月前から2日前まで可能)を実施している。2009年5月からは地元富山県出身で女優の室井滋が車内放送を担当している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "関西電力関係者専用列車には一般旅客は乗車できないが、繁忙期には一部の列車に一般旅客を乗せることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1926年(昭和元年)、日本電力(日電)が黒部川沿いの電源開発を目的として宇奈月駅・猫又駅間を開通させたのが始まりである。1937年(昭和12年)に、現在の終点の欅平駅まで開通した。当初は建設用の資材や作業員を輸送するための専用鉄道だったが、登山客や一般観光客からの乗車希望が絶えなかったので、便乗という形で乗車を認めることにした。乗客に発行した「便乗証」(乗車券)には、注意事項のひとつに「便乗ノ安全ニ付テハ一切保証致シマセン」と記されていた。この鉄道は、1941年(昭和16年)10月に日本電力から日本発送電へ、1951年(昭和26年)5月に日本発送電から関西電力へと引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "乗客の増加と地元の強い要望から、1953年(昭和28年)に地方鉄道法による免許を受けて、同年11月16日から正式な鉄道路線として営業を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)8月8日、小屋平駅 - 四ツ平駅間で落石が発生。30 - 50 cm程度の落石が宇奈月駅行列車の客車を直撃して1人が死亡、4人が負傷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)7月1日に関西電力から分社化され、黒部峡谷鉄道となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)12月、宇奈月ダム建設工事により一部路線が水没する関係で新ルートへの付替え工事に着手し、1988年(昭和63年)4月29日に宇奈月 - 柳橋間約1.8 kmの区間を新山彦橋を通るルートに変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)の7.11水害では甚大な被害を受け、欅平までの完全復旧は翌1996年(平成8年)7月20日となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "すべての列車が宇奈月駅を発着する。旅客列車は時期により笹平駅で折り返す折り返し運転、宇奈月駅 - 鐘釣駅間の折り返し運転、宇奈月駅 - 欅平駅間の全線と運行区間が変わる。冬期は運行を休止する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一般旅客が利用可能な駅は宇奈月駅、黒薙駅、鐘釣駅、欅平駅の4駅である。笹平駅で折り返す列車の場合、笹平駅ではトイレ休憩として車外に出ることはできるが、駅の外に出ることはできない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2021年には欅平行きで黒薙駅を通過する列車が存在したが、2022年、2023年ではすべての旅客列車が黒薙駅を含め上記の4駅に停車している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "●:全て停車、▲:一部停車、|:通過または運転停車のみ", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "有人駅は宇奈月駅・黒薙駅・鐘釣駅・欅平駅で、一般旅客が乗降できるのもこれらの駅のみである。他の駅は無人駅で、現在も電源開発のための専用鉄道として営業を続けているため、関西電力関係者に利用が限定されている。なお、笹平駅のホームにはトイレが設置されており、列車交換のための停車時間が長い場合のみホームに降りることができるが、駅の外に出ることはできない。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "運転開始となる毎年4月下旬は、宇奈月駅 - 笹平駅・出平駅・猫又駅・鐘釣駅の折り返し運転となる。出平駅・猫又駅はこの場合も下車できず、同じ列車で乗車したまま折り返すことになる。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "欅平駅より先は上部軌道(関西電力黒部専用鉄道)が繋がるが、原則として関西電力関係者以外は乗車できない。ただし、関西電力が主催し富山県が協賛する「黒部ルート見学会」に応募し、当選すれば乗車することが可能である。", "title": "駅一覧" } ]
黒部峡谷鉄道本線(くろべきょうこくてつどうほんせん)は、富山県黒部市の宇奈月駅から欅平駅までを黒部川に沿って走る黒部峡谷鉄道の鉄道路線である。
{{画像提供依頼|路線図|date=2022年11月|cat=鉄道}} {{Infobox 鉄道路線 | 路線名 = [[File:kurobe-gorge-railway-logo.svg|20px|link=黒部峡谷鉄道]] 本線 | 路線色 = #dd793d | 画像 = Kurobe Gorge Railway EDR25 locomotive.jpg | 画像サイズ = 300px | 画像説明 = 黒部峡谷鉄道EDR形電気機関車 | 通称 = 黒部峡谷トロッコ電車 | 国 = {{JPN}} | 所在地 = [[富山県]][[黒部市]] | 起点 = [[宇奈月駅]] | 終点 = [[欅平駅]] | 駅数 = 10駅 | 開業 = [[1926年]]([[昭和]]元年)[[10月23日]] | 廃止 = | 運営者 = [[黒部峡谷鉄道]] | 使用車両 = [[黒部峡谷鉄道#車両]]を参照 | 営業キロ = 20.1 | 軌間 = {{RailGauge|762mm|lk=on}} | 線路数 = [[単線]] | 電化方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | 最高速度 = 最高25[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> | 路線図 = {{画像募集中}} }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|駅・施設・接続路線|#dd793d}} {{BS-table}} {{BS|DST|||一般旅客乗降不可駅|}} {{BS|BHF|||一般旅客乗降可能駅|}} {{BS-colspan}} ---- {{BS3|STR|||||↑[[富山地方鉄道|地鉄]]:[[富山地方鉄道本線|本線]]|}} {{BS3|KBHFe|KDSTa|||[[宇奈月温泉駅]]/車両基地|}} {{BS|BHF|0.0|[[宇奈月駅]]|}} {{BS3||eKRWgl|exKRW+r||||}} {{BS3||hKRZWae|exhKRZWae||新山彦橋|山彦橋|[[黒部川]]}} {{BS3||TUNNEL1|exTUNNEL1||}} {{BS3||eKRWg+l|exKRWr||||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|DST|2.1|[[柳橋駅 (富山県)|柳橋駅]]|}} {{BS3|KBSTaq|ABZgr|||新柳河原発電所}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|DST|5.1|[[森石駅]]|}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|BHF|6.5|[[黒薙駅]]|}} {{BS3||ABZgl|STRq|||[[関西電力黒部専用鉄道]]|}} {{BS|TUNNEL1|||[[関西電力黒部専用鉄道|黒薙支線]]→|}} {{BS|DST|7.0|[[笹平駅]]|}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|DST|9.1|[[出平駅]]|}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS3|hKRZWaeq|ABZg+r||||黒部川}} {{BS|DST|11.8|[[猫又駅]]|}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|hKRZWae|||黒部川}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|BHF|14.3|[[鐘釣駅]]|}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|DST|17.5|[[小屋平駅]]|}} {{BS3||ABZgl|KBSTeq||小屋平ダム|}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|TUNNEL1|||}} {{BS|TUNNEL2|||}} {{BS|BHF|20.1|[[欅平駅]]|}} {{BS3|STR+l|ABZgr||||}} {{BS3|tSTRa|TUNNEL2||||}} {{BS3|tSTR|KBSTe|||新黒部川第三発電所|}} {{BS3|tSTR|||||↓[[関西電力黒部専用鉄道]]|}} |} |} '''黒部峡谷鉄道本線'''(くろべきょうこくてつどうほんせん)は、[[富山県]][[黒部市]]の[[宇奈月駅]]から[[欅平駅]]までを[[黒部川]]に沿って走る[[黒部峡谷鉄道]]の[[鉄道路線]]である。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):20.1km * [[軌間]]:762mm * 駅数:10駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線単線) * 電化区間:全線(直流600V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:25km/h<ref name="terada" /> * 保安装置:[[自動列車停止装置|ATS]] == 概要 == 一般旅客向けの[[トロッコ列車]](公式愛称は「トロッコ'''電車'''」)が運行される観光鉄道であるが、元々は電源開発のための[[専用鉄道]]であり、現在でも沿線にある[[黒部ダム|ダム・発電所]]への資材運搬列車や、[[関西電力]]関係者専用列車が運行されている。 全列車が機関車牽引による客車列車で、側面がフルオープンの開放型客車、通常の客車と同様な密閉型の特別客車・リラックス客車などの客車がある。特別客車・リラックス客車には特別料金が必要で、また、後者ほど静音性(遮音性)が高い。運行ダイヤは時期により若干変動するが、宇奈月発は8時台 - 14時台、欅平発は10時台 - 16時台にかけて、毎時1 - 2本の頻度で運行している。 [[黒部峡谷]]は冬期の積雪が多く、雪崩による被害の危険性が高いことから冬期(12月 - 翌年4月中旬)は運休する。鐘釣駅上流にあるウド谷橋では沿線で唯一、雪崩対策のため運休期間中は線路と鉄橋を撤去してトンネル内に保管している<ref>[http://www.kurotetu.co.jp/maniacs/maniacs1/ 黒部峡谷鉄道 黒部峡谷マニアックス]</ref>。トンネル区間を除き、ほぼ全線にわたって線路沿いに[[コンクリート]]製のシェルター状のものが並行しているが、これは冬期の運休期間中に関西電力関係者がダムや発電所との間を徒歩で移動するための「冬期歩道」である<ref>松本典久「温泉発秘境行きV字谷を走る 黒部峡谷鉄道」(『にっぽん週刊川紀行』3号(黒部川)、学研、2004年5月11日・18日号)、25頁。</ref>。冬期歩道では「逓送さん」と呼ばれる建設会社職員らが物資輸送に当たる<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL193R8RL19PUZB005.html|title=富山)黒部峡谷の「逓送さん」と冬期歩道を歩く|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2018-01-19|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 沿線途中の[[森石駅]]と[[黒薙駅]]間の南側からは[[中部山岳国立公園]]の特別地域に属し、[[欅平駅]]は特別保護地区に属する。 2008年10月10日からは、関西電力関係者専用列車を除く全旅客列車を対象に、専用チケット予約サイトでのインターネット予約(乗車日の3か月前から2日前まで可能)を実施している。2009年5月からは地元富山県出身で女優の[[室井滋]]が車内放送を担当している。 関西電力関係者専用列車には一般旅客は乗車できないが、繁忙期には一部の列車に一般旅客を乗せることもある。 [[File:Kuronagi station.jpg|thumb|300px|none|トロッコ電車]] == 歴史 == {{See also|黒部峡谷鉄道#沿革}} [[1926年]]([[昭和]]元年)、[[日本電力]](日電)が黒部川沿いの電源開発を目的として宇奈月駅・猫又駅間を開通させたのが始まりである。[[1937年]](昭和12年)に、現在の終点の欅平駅まで開通した。当初は建設用の資材や作業員を輸送するための専用鉄道だったが、登山客や一般観光客からの乗車希望が絶えなかったので、便乗という形で乗車を認めることにした。乗客に発行した「便乗証」(乗車券)には、注意事項のひとつに「<!--原文では旧字体-->便乗ノ安全ニ付テハ一切保証致シマセン」と記されていた<ref>乗客に生命の保証をしない旨を告げていた鉄道としては、このほか[[木曽森林鉄道]]などが挙げられる。</ref>。この鉄道は、[[1941年]](昭和16年)10月に日本電力から[[日本発送電]]へ、[[1951年]](昭和26年)5月に日本発送電から[[関西電力]]へと引き継がれた。 乗客の増加と地元の強い要望から、[[1953年]](昭和28年)に[[地方鉄道法]]による免許を受けて、同年[[11月16日]]から正式な鉄道路線として営業を開始した。 [[1965年]](昭和40年)[[8月8日]]、小屋平駅 - 四ツ平駅間で落石が発生。30 - 50&nbsp;cm程度の落石が宇奈月駅行列車の客車を直撃して1人が死亡、4人が負傷した<ref>「軌道電車へ落石 一人死に四人負傷」『日本経済新聞』昭和40年8月9日.11面</ref>。 [[1971年]](昭和46年)[[7月1日]]に関西電力から分社化され、[[黒部峡谷鉄道]]となった。 [[1981年]](昭和56年)12月、[[宇奈月ダム]]建設工事により一部路線が水没する関係で新ルートへの付替え工事に着手<ref name="unazukidam">『宇奈月ダム工事誌 写真集』(2002年3月、国土交通省北陸地方整備局黒部工事事務所発行)9 - 10ページ。</ref>し、[[1988年]](昭和63年)[[4月29日]]に宇奈月 - 柳橋間約1.8&nbsp;kmの区間を新山彦橋を通るルートに変更された<ref>『[[北日本新聞]]』1988年4月30日付朝刊20面『黒部峡谷観光が幕開け 県外客ら新緑美満喫』より。</ref>。 [[1995年]]([[平成]]7年)の[[7.11水害]]では甚大な被害を受け、欅平までの完全復旧は翌[[1996年]](平成8年)[[7月20日]]となった<ref>『[[北日本新聞]]』1996年7月17日付朝刊27面『黒部峡谷鉄道 20日から全線開通 沿線旅館も営業再開』より。</ref>。 == 運行形態 == すべての列車が宇奈月駅を発着する。旅客列車は時期により笹平駅で折り返す折り返し運転、宇奈月駅 - 鐘釣駅間の折り返し運転、宇奈月駅 - 欅平駅間の全線と運行区間が変わる。冬期は運行を休止する。 一般旅客が利用可能な駅は宇奈月駅、黒薙駅、鐘釣駅、欅平駅の4駅である。笹平駅で折り返す列車の場合、笹平駅ではトイレ休憩として車外に出ることはできるが、駅の外に出ることはできない。 2021年には欅平行きで黒薙駅を通過する列車が存在したが、2022年、2023年ではすべての旅客列車が黒薙駅を含め上記の4駅に停車している。 == 駅一覧 == * 全駅[[富山県]][[黒部市]]に所在 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:5em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|駅間キロ !style="width:2.5em;"|営業キロ !style="width:1em;"|旅客列車 !接続路線・備考 |- |[[宇奈月駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|● |[[富山地方鉄道]]:[[富山地方鉄道本線|本線]]([[宇奈月温泉駅]]: T41) |- |[[柳橋駅 (富山県)|柳橋駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:center;"|| |一般旅客乗降不可 |- |<del>仏石駅</del> |style="text-align:right;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|&nbsp; |style="text-align:center;"|&nbsp; |廃止 |- |[[森石駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:center;"|| |一般旅客乗降不可 |- |[[黒薙駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|6.5 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |- |[[笹平駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|7.0 |style="text-align:center;"|▲ |一般旅客乗降不可 時期により宇奈月からの列車がここで折り返す |- |[[出平駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|9.1 |style="text-align:center;"|| |一般旅客乗降不可 |- |[[猫又駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|11.8 |style="text-align:center;"|| |一般旅客乗降不可 |- |[[鐘釣駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|14.3 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |- |<del>四平駅</del> |style="text-align:right;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|&nbsp; |style="text-align:center;"|&nbsp; |1968年以降廃止 |- |[[小屋平駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|17.5 |style="text-align:center;"|| |一般旅客乗降不可 |- |[[欅平駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|20.1 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |} ●:全て停車、▲:一部停車、|:通過または運転停車のみ [[ファイル:新山彦橋 - panoramio.jpg|300px|right|thumb|新山彦橋]] [[鉄道駅#有人駅|有人駅]]は宇奈月駅・黒薙駅・鐘釣駅・欅平駅で、一般旅客が乗降できるのもこれらの駅のみである。他の駅は無人駅で、現在も電源開発のための専用鉄道として営業を続けているため、関西電力関係者に利用が限定されている。なお、笹平駅のホームには[[便所|トイレ]]が設置されており、[[列車交換]]のための停車時間が長い場合のみホームに降りることができるが、駅の外に出ることはできない。 運転開始となる毎年4月下旬は、宇奈月駅 - 笹平駅・出平駅・猫又駅・鐘釣駅の折り返し運転となる。出平駅・猫又駅はこの場合も下車できず、同じ列車で乗車したまま折り返すことになる。 欅平駅より先は上部軌道([[関西電力黒部専用鉄道]])が繋がるが、原則として関西電力関係者以外は乗車できない。ただし、関西電力が主催し富山県が協賛する「[http://www.kepco.co.jp/info/hokuriku/koubo/index.htm 黒部ルート見学会]」に応募し、当選すれば乗車することが可能である。 == その他 == [[ファイル:New Yamabiko Bridge.jpg|240px|right|thumb|手前に山彦橋、後方に[[宇奈月温泉]]街(新山彦橋からの撮影)]] * 道中に岩が張り出している箇所がある。途中で[[ヘルメット]]を借りることができる。 * [[宇奈月温泉]]のほか、沿線には[[黒薙温泉]]、[[鐘釣温泉]]、[[名剣温泉]]といった温泉がある。<!--ただしそこにヘルメットは置いていけない。--> * 宇奈月駅を出たところにある赤い[[鋼橋|鉄橋]](写真等で有名な山彦橋)を含む区間は、[[宇奈月ダム]]建設に伴うルート変更で掛け替えられている(新山彦橋、[[1986年]]9月竣工、[[1988年]]4月運用開始<ref name="unazukidam" />)。旧ルートは当初新山彦橋供用開始後に撤去される予定であった<ref>『[[北日本新聞]]』1986年9月21日付朝刊20面『朱塗りの大橋 新山彦橋完成』より。</ref>が後に撤回され、橋を含むその一部が「詩の道散歩道 やまびこ遊歩道」として整備されており<ref>[http://www.unazuki-onsen.com/machi 宇奈月まち歩き] - 宇奈月温泉</ref><ref>『魚津・黒部・下新川写真帖』(2007年4月15日、郷土出版社発行)p64「トロッコ電車が走る山彦橋」より。</ref>、橋のほかにトンネルや使用されなくなった冬季歩道(鉄道が運行しない冬季において、徒歩で人間が移動するためのトンネルのこと)内を歩くことが可能である。 * 沿線で[[携帯電話]]が利用できるのは長らく宇奈月駅と欅平駅周辺のみであったが<ref>[http://www.kurotetu.co.jp/faq/ よくあるご質問] - 黒部峡谷鉄道(2016年7月16日閲覧)</ref>、2016年からは鐘釣駅周辺でも利用可能となった<ref>[http://www.kurotetu.co.jp/news/2016/07/ 携帯電話開通について!] - 黒部峡谷鉄道(2016年7月16日閲覧)</ref>。 * 冬季の運転休止期間中、主に週末に宇奈月駅構内にてDD形ディーゼル機関車を用いた体験運転を実施している<ref>[https://www.kurotetu.co.jp/event-detail/?post=247 トロッコ電車 冬のスペシャル企画!「黒部峡谷トロッコ電車 運転体験会」開催について]</ref>。 * [[太平洋戦争]]戦時中は、宇奈月温泉街の近くの鉱山で採掘された[[モリブデン]](兵器の強度を高める地下資源)を運搬するインフラとしても使用されていた<ref>『北日本新聞』2023年3月26日付26面『宇奈月100年ものがたり 5 戦争と大火 再建・復興へ住民結束』より。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [http://www.kurotetu.co.jp 黒部峡谷鉄道 オフィシャルサイト] {{DEFAULTSORT:くろへきようこくてつとうほんせん}} [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:黒部峡谷鉄道|路ほんせん]] [[Category:専用鉄道]] [[Category:日本の軽便鉄道]] [[Category:近代化産業遺産]] [[Category:中部山岳国立公園]]
2003-09-08T07:01:34Z
2023-11-24T10:38:20Z
false
false
false
[ "Template:BS-table", "Template:BS", "Template:BS-colspan", "Template:See also", "Template:画像提供依頼", "Template:UKrail-header2", "Template:BS3", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Infobox 鉄道路線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%83%A8%E5%B3%A1%E8%B0%B7%E9%89%84%E9%81%93%E6%9C%AC%E7%B7%9A
15,728
HP
HP、hp
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "HP、hp", "title": null } ]
HP、hp
'''HP'''、'''hp''' == 企業名・略称 == * [[HP Inc.|'''HP''' Inc.]] - [[アメリカ合衆国]]の[[電機メーカー]]。2015年に[[ヒューレット・パッカード]]の会社分割によって誕生した。社名では大文字表記だが、同社のロゴマークは小文字で「'''''hp'''''」と表記される。 ** [[日本HP]] - 上記企業の日本法人。 ** 同時に誕生した[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]]は'''HPE'''の略称を使用している。 * [[アメリカウエスト航空]] (America West Airlines) - [[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]が「'''HP'''」であった。 * [[ハンドレページ|ハンドレイ・ページ]] - 1909年に設立されたイギリスの航空機メーカー。よくハンドレページと表記される。 == 科学・技術 == * [[ヒートポンプ]] (''h''eat ''p''ump)。 * [[ヘルムホルツ面]] (''h''elmholz ''p''lain) - [[電気二重層]]におけるイオンの最近接面のこと。 * [[冬眠]]特異的[[タンパク質]](''h''ibernation-specific ''p''rotein)。[[三菱化学]]生命科学研究所主任研究員の近藤宣昭らにより発見された<ref>[https://doi.org/10.1016/j.cell.2006.03.017 10.1016/j.cell.2006.03.017 Cell 125, 161-172, 2006. DOI]</ref>。 脳で冬眠を制御するホルモンと考えられている。 * [[ホームページ]] (''h''ome''p''age) - [[ウェブサイト]]や[[ウェブページ]]のこと。 * [[馬力]] (''h''orse ''p''ower)。記号㏋。 * [[ヒューム管]](''h''ume ''p''ipe) - [[遠心力]][[鉄筋コンクリート]]管渠材 * [[ヒュームの原理]] (''H''ume's ''P''rinciple) * [[双曲放物線面]] (''h''yperbolic ''p''araboloid) - 建築におけるHP[[シェル構造|シェル]]など。 == メディア == * [[ホットペッパー (フリーペーパー)]] (''H''ot ''P''epper) - [[リクルートホールディングス|リクルート]]が発行する[[フリーペーパー]]。 * [[NHK高松放送局]]ラジオ第1放送、総合テレビ、FM放送(JO''HP'' / JO''HP''-DTV / JO''HP''-FM) == 娯楽 == * [[ハリー・ポッターシリーズ]] (''H''arry ''P''otter) - [[魔法使い]]の少年を主人公とした小説シリーズ、及び主人公。 * [[ハロー!プロジェクト]] (''H''ello! ''P''roject) - [[つんく♂]]プロデュースの女性アイドル集団。 * [[ヒットポイント]] (''h''it ''p''oint) または [[ヘルスポイント]] (''h''ealth ''p''oint) - ゲームにおけるキャラクターの生命力。 == スポーツ == * [[ハーフパイプ]] (''h''alf''p''ipe) - [[スノーボード]]、[[スケートボード]]、[[インラインスケート]]などの競技で用いられる人工設備。 * [[ホールド#ホールドポイント|ホールドポイント]] (''H''old ''P''oints) - [[野球]]で、[[ホールド]]数と[[救援勝利]]数を足したもの。 == その他 == * ホームパーティー (''H''ome ''P''arty) - [[ニフティ]]が会員向けに提供していたパーソナル掲示板サービス。 * [[病院]] (''h''os''p''ital)の英文略語。 * ハンドフォン(''H''and ''P''hone)- 韓国において[[携帯電話]]の略称に使われる。[[コングリッシュ]]の一種。 * [[FN ブローニング・ハイパワー|ハイパワー]] (Hi-Power) - ベルギー製の拳銃。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{Aimai}}
2003-09-08T07:16:19Z
2023-09-25T02:09:41Z
true
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/HP
15,729
蒸気タービン
蒸気タービン(じょうきタービン、英: steam turbine)は、蒸気のもつエネルギーを、タービン(羽根車)と軸を介して回転運動へと変換する外燃機関。 タービンは羽根の付いた回転部分をもつ原動機の一種である。蒸気タービンは機械仕事を得るため、回転部分の回転に蒸気(流体)の運動量の変化を利用する熱機関の一種である。 火力・原子力・地熱などによる発電や産業用途(発電・ポンプ駆動等)に利用される。蒸気としては一般に水蒸気が使われる。 なお、蒸気を利用する原動機としては、蒸気タービンの他に、蒸気でシリンダ内のピストンを往復運動させるレシプロ型の蒸気エンジンが存在する。レシプロ型については蒸気機関を参照のこと。 外部の熱源(ボイラー)により高温高圧となった蒸気がノズルから噴射されると、圧力や温度が低下すると同時に速度が増加する。この蒸気をタービンブレードに当てる(衝動式の場合)ことでブレードに力が加わる。この力がトルクとなって軸を回転させ、発電機やポンプを駆動する。 理想的な蒸気タービンは等エントロピー過程とみなせる。 熱力学第二法則により、熱力学的温度(絶対温度)で現わした熱力学サイクルの最高温度と最低温度との比が大きいほど理論的に到達可能な熱効率は高くなる。実用上、サイクルの最低温度を常温から大きく下げることはできないため、火力発電所の高効率化は蒸気タービン入口の蒸気温度を高めることでなされてきた。現在、事業用火力発電タービンの蒸気温度は約600°Cであるが、今以上の蒸気高温化による熱効率の上昇は、タービンやボイラーに高価な耐熱材料を使用しなければならないので難しい。 発電用蒸気タービンには大きく分けて火力発電(汽力発電)用と原子力発電用がある。いずれも効率向上が最重要であり大型のものが中心である。 火力発電用では蒸気の温度と圧力が比較的高く、原子力発電用は炉心温度の上限値や2段階に分かれる冷却水の関係から蒸気の温度と圧力はそれほど高くはない。ゴミ焼却工場での発電も自家発電の域を越えて、単機出力5万キロワット級といった規模の大型化が進んでいる。 特殊な蒸気タービンとして、海洋温度差発電やバイナリーサイクルによる地熱発電のように、アンモニアなどの水より低沸点の媒体を用いる場合もある。 産業用の蒸気タービンには大型から小型まで存在し、それぞれに多様な形式が使用されている。 石油化学プラントのように廃ガスが生じる施設や、サトウキビ加工工場での廃茎の焼却を行う施設では、ボイラーによって蒸気を作ることで蒸気タービンを駆動し、自家発電や主要な動力源として利用している。また、小型の蒸気タービンが減圧弁の代わりとして利用されることもある。 船舶で使用される蒸気タービンには、従来、後進用のタービンが前進用タービンの半分程度の大きさで同軸に備わっているものがほとんどだったが、21世紀の現在では船舶用主機関に蒸気タービンを採用するのが減った事と、蒸気タービンを採用する場合でも、可変ピッチプロペラの採用によって、後進時にも主機関側で逆回転させる必要がなくなっている。 Mk50 (魚雷)等一部の魚雷においては、閉サイクル蒸気タービン機関等が現役である。 液体燃料ロケット用ターボポンプの一部は、エキスパンダーサイクルの場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料タップオフサイクルの場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。 蒸気タービンの基本原理を利用した装置の最初の記録は、アレクサンドリアのヘロン(Hero of Alexandria)によるヘロンの回転球(ヒーロの回転球、アイオロスの球参照)とされている。このヘロンの回転球は反動タービンの原型である。なお、ヘロンの回転球の記録は紀元前100年頃ともいわれているがヘロンの生没年は定かではない。 1629年にはイタリアの技術者ジョバンニ・ブランカ (Giovanni Branca) が、蒸気を羽根車に吹き付けて回転させ歯車を介して動力を伝達し穀物をつく機械を考案している。このブランカの機械は衝動タービンの原型である。 その後、1882年にスウェーデンのグスタフ・ド・ラバル(Gustaf de Laval, 1845年 - 1913年)が衝動式タービンを開発・試作した。1884年にイギリスのチャールズ・アルジャーノン・パーソンズ(Charles Algernon Parsons, 1854年 - 1931年)が多段階反動式タービンを開発・試作し、1889年に発電用に実用化した。1895年にアメリカのチャールズ・ゴードン・カーティス (Charles Gordon Curtis) が二段階多速衝動タービンを開発し、1898年にはフランスのオーギュスト・ラトー(Auguste Rateau)が現在のものの直系の原型にあたるタービンを実用化した。 蒸気タービンは1894年のタービニア号での登場以降、舶用原動機として広く利用が進み、やがて船舶の動力源として隆盛を極めていたレシプロ式蒸気エンジンの多くを駆逐した。陸上でのレシプロ式蒸気エンジンと水上での蒸気タービンは、それぞれが動力機関としての主要な位置を占めるに至った。第二次世界大戦前からディーゼルエンジンのような内燃機関が舶用原動機として広がり始め、戦後になると徐々にディーゼルエンジンが主流となって、その後のガスタービンエンジンと共に舶用エンジンは大型から小型船でのディーゼルと大型から中型船でのガスタービンの主流2つと小型船などでのガソリンエンジンを加えたものが利用されるようになった。そういった趨勢の中、蒸気タービン機関を搭載する船舶も、その他の船舶と燃料を統一する必要から軽油を用いるようになったが、蒸気タービンと揮発性の高い軽油の組み合わせは相性が悪く、しばしば爆発事故を起こした事から、蒸気タービン機関は使用されなくなった。一方で旧ソ連・ロシアにおいては、ソヴレメンヌイ級駆逐艦に蒸気タービンを採用(燃料は重油)し、現在に至る。 一方では、電力消費の増大に応じて水力発電所に加えて火力発電所の建設が進むと、コストが安く入手の容易な石炭を燃料とする蒸気ボイラーと蒸気タービンの組合せが主流となった。産業用ではこういった大型発電用途の他にも、石油・化学プラントなどに代表される大規模な生産施設内でのポンプや、攪拌機、破砕機、ファンといった電動モーターでも代替可能な程度の駆動力として蒸気タービンが使われている。21世紀となった今では、保守の手間や制御性から徐々に電動モーターが主流となっているが、プラント内で蒸気が生じる施設ではエネルギーの有効利用の点でも蒸気タービンが新たに採用され続けている。またガスタービンを用いる発電施設においては、ガスタービンの排熱を利用して発生させた蒸気で蒸気タービンを駆動する、いわゆるコンバインドサイクル発電によりエネルギー利用効率の改善を図るといった使い方もされている。 原子力に関しては、地上での発電や船舶などの大規模な動力用としては、核分裂反応を熱源とし、蒸気タービン機関を駆動するものが、現在もほぼ唯一の現実的な選択肢となっている。1960年代後半には空気など気体を利用するものも試みられたが、成功したとは言い難く、原子炉自体は二酸化炭素によって冷却されるマグノックス炉でも、最終的には水を加熱して蒸気機関によって動力を取り出すものとしている。比較的小規模のものに限っては、核分裂反応による熱を熱電素子で電力に変換するものやα崩壊の際に出る放射線そのものを電位に変換して取り出す原子力電池などが存在している。 典型的な蒸気タービンではタービン翼の形状とそれによって生じる回転力の発生原理の違いによって2つに分かれる。 反動式は段数当りの消化熱量が衝動式の半分程度になるため、同じ供給熱量では反動式は衝動式の1.5 - 2倍の段数を持つ。単段式の反動式タービンは存在しない。また、最新のタービンにおいては、最適化を進めた結果として、衝動式か反動式かのどちらかに単純に分類することはできなくなっている。 回転軸に対する蒸気流の方向の違いから、2つの種類に分類できる。 半径流式のタービンは、欧州製のユングストロームタービンがほぼ唯一のものであったが、高速回転に向いていないことから21世紀現在では半径流式は存在せず、軸流式だけが残っている。 蒸気の利用方法による分類としては復水式と背圧式の2つに大別できる。 また、タービンに圧力の異なる蒸気が供給される混圧式と呼ばれる方式もある。地熱発電で熱水を減圧して蒸気を得るダブルフラッシュサイクルなどに用いられる。 真空式と背圧式のいずれにおいても蒸気の流路に関して以下の工夫がある。 ラトー式は1列の静翼と1列の動翼の1組で1段落が構成されたものである。多段式ではこの段落が複数回繰り返されることになる。多段式タービンでは圧倒的にラトー式が採用されるが、その場合の初段だけはカーチス式が選ばれることがある。これはカーチス式では消化熱量が大きいために後の段落の構造設計が簡単になるためである。単段ラトー式タービンは少数ながら供給蒸気が低圧低温で排気圧が高く高速回転が求められる場合に採用される。 カーチス式は1列の静翼と2列の動翼の1組より成り、動-静-動の配置で1段落が構成されたもの、又は、2列の静翼と3列の動翼の1組より成り、動-静-動-静-動の配置で1段落が構成されたものである。例えば動-静-動の配置では最初の動翼で70%の動力を発生させて次の静翼で方向を戻した後、2列目の動翼で30%の動力を発生させる。3列目の動翼がある場合でも数%の動力を生じるだけである。比較的小型の蒸気タービンである単段式タービンの多くにカーチス式が採用され、豊富な供給熱量が得られたり復水器によって排気圧力を低くできる場合には二段カーチス式タービンも作られる。 最適に設計した場合の内部効率の最大値で比べれば、ラトー式が80 - 85%であるのに比べてカーチス式では75 - 80%であり、5 - 6%程度の差がある。カーチス式は効率の面で劣るが消化熱量が大きく取れるので、1,000馬力以下で4,500回転/分以下の非常用や予備機としての需要がある。カーチス式タービンは日本のメーカーだけが製造している。 羽根車の数によって単段式と多段式に分かれる。単段や多段の「段」とは「段落」のことであり羽根車1つを指す。羽根車ごとの「節円径」は蒸気の流れる円筒状の中心部間の直径であり、蒸気タービンの大きさを表す指標の1つである。 蒸気は多段式のタービン段落を経るに従って圧力は減少し体積が増える。これに応じて後段ではタービンの直径が増して行くが、やがては遠心力に抗してタービン翼を維持するだけの工学的限界を迎える。このような制約の下で大量の高圧蒸気に対応できる大型の真空式蒸気タービンを実現するために、低圧段の一群を高圧段の一群とは別に複数設けることで低圧段の翼面積を広げたものが作られている。 大規模なタービンでは蒸気の特性に合わせて高圧と低圧の2つに分けるだけでなく、高圧、中圧、低圧と3つに分ける構成も採られるが、特に低圧のものでは2つを対向に組合せて車室の蒸気入口を中央に置き、軸に沿って2方向に蒸気を流すことで車室の蒸気出口は両端部となるものが多い。このような配置では排気の流れが2つになるため複流排気式と呼ばれ、蒸気入口と出口が1つずつのものは単流排気式と呼ばれる。 低圧タービンが複流排気式であると車室を2つ別々に設けるよりも簡素になるだけでなく、軸方向に掛かるスラスト力が相殺されてスラスト軸受への負担と摩擦ロスが減らせる。また、高圧・中圧タービンが複流排気式であると、設備の簡素化やスラスト力の相殺に有効であることに加え、圧力の高い入口蒸気がケーシングの軸貫通部から漏れるのを防ぐためのシール機構が省略可能となる利点がある。 回転軸の方向によって横置き式と縦置き式に分類できる。商用蒸気タービンの99%は横置き式である。 駆動を受ける側が求める回転数でタービン出力軸が回転する場合には、そのまま軸同士が直結されるが、タービン側が速い場合には減速機と呼ばれる歯車によって回転数が低減される。 減速機は当然なんらかのエネルギーロスを生じ、潤滑も必要となるので、これを利用しない直結式が有利である。 2016年時点で、原子力・火力・地熱発電所で主発電機を回している蒸気タービンはすべて直結式であり、接続される系統の周波数に等しい電力を発生できるよう回転数が制御されている。 日本の場合、50 Hz地域に送電する発電所のタービンは3,000 rpmで、60 Hz地域に送電するものは3,600 rpmである。 蒸気タービンへの蒸気の供給量を調整する入口弁の数で分類できる。 ただ1つの入口弁で出力の全域に渡って蒸気の供給量を調整する単弁式と呼ばれる蒸気タービンと、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と呼ばれる蒸気タービンがある。例えば4弁ある多弁式では、1つ目の弁が供給量の0 - 25%までを担当し他の弁は閉じている。2つ目の弁は供給量の25 - 50%までを担当し1つ目の弁が全開で他の弁は閉じている。3つ目の弁は供給量の50 - 75%までを担当し1つ目と2つ目の弁が全開で4つ目の弁は閉じている。4つ目の弁は供給量の75 - 100%までを担当し他の弁が全開になっている。単弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を全周送入といい、多弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を部分送入という。 ただ1つの入口弁で調整する単弁式では、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と比べて弁の通過で生じる圧力損失が大きくなり、結果として出力が減少する。これは多弁式では供給量が半分程度でも全開状態の弁が存在するためその弁での圧力損失が最小になるが、単弁式では供給量が半分程度であれば相応の圧力損失が生じるためである。これに対し、多弁式は低負荷時の損失は軽減されるが、タービンに流入する蒸気が不均一となるため、振動対策が必要となることがある。 理論上の蒸気タービンのサイクルには、次のものがある。 21世紀現在の蒸気タービンは、軸方向に蒸気が流れる軸流タービンだけが作られている。 多数の動翼(回転翼、ローター)が回転軸を囲んで取り付けられ、ほぼ同数の静翼(固定翼、ステーター、ガイドベーン)が回転軸を囲んで外部壁面から取り付けられている。ほとんどの蒸気タービンで、動翼と静翼の1組1段が多数段備えている。 温度と圧力の低下に従って、後段になるほど動翼と静翼の長さ、つまり回転面の直径が増す。 車室(ケーシング)の蒸気入口から入った高圧高温の蒸気はノズルから初段のローターに向けて噴射される。ほとんどのタービンではノズルは全周には付いておらず、部分噴出になっている。 回転側であるローターは、軸(回転軸、シャフト)、羽根車(ディスク)、動翼(ブレード)、シュラウドバンド類から構成される。多段式では複数のローターが静翼を挟んで並んでいる。 タービン翼を収めて蒸気を導入する容器をタービン車室(しゃしつ)と呼ぶ。静翼は車室のケーシングに固定されており、動翼が取り付けられた回転軸が車室両端の回転軸受けで保持される。反動タービンでは動翼と車室との隙間から蒸気が逃げないようにシーリング・ストリップと呼ばれるリング状の部品で塞いでいる。シーリング・ストリップはハニカム状の柔らかい金属か多孔質の素材で作られており、初めて動翼を動かす時に、意図的に接触することで形状の最適化が図られる。蒸気入り口には多数のノズルが取り付けられており、第一段ローターへ蒸気を吹き付ける。 蒸気タービンでは蒸気の圧力を有効利用するため、多くの段階の膨張を繰り返している。大型の蒸気タービンでは、圧力に応じていくつかの部分に分割されており、上流から順に高圧・中圧・低圧タービンと呼ばれる。また、蒸気体積が大きくなるため低圧タービンは複数台が並列に配置されることが多く、翼は、非常に長いものとなっている。 通常の蒸気の入口と出口の配管の他に、抽気や再熱、再生の蒸気配管も備わるものがある。 動翼から得た回転力を外部に出力するのが回転軸である。反動タービンでは動翼とケーシングとの隙間が小さいため、回転軸は歪みが生じないように太く剛性の高いものになっている。衝動タービンでは軸端からの蒸気漏れを少なくするために、回転軸は細く弾性のあるものになっている。 回転軸は運転時と休止時の間で伸び縮みするため、両端は固定出来ない。普通は高圧側のスラスト軸受けで固定し低圧側の軸受けには遊びが設けられる。車室の伸び縮みは設置面に対しては低圧側で固定されており、高圧側のスラスト軸受けも車室の伸び縮みに合わせてズレが生まれる。このような組み合わせによって、回転軸のズレを最小にしている。 回転軸と静翼仕切り板との隙間からの蒸気漏れを最小にするために、ラビリンス・パッキン(ラビリンスシール)と呼ばれる何段ものヒレで蒸気の流れを遮断している。 この他、回転数と蒸気流量を調節するための装置類や警報機を含む測定器類が付随する。調速方式には絞り調速方式とノズル締切調速方式がある。絞り調速方式では絞り弁で蒸気の流入を調整する。ノズル締切調速方式では車室の多数あるノズルへの蒸気の流れの開閉によって調整する。 回転速度を上げるとタービンや発電機が小型になり設備費を抑制できる。日本の火力発電用タービンの回転速度は、50Hzでは3000rpm、60Hzでは3600rpmである。原子力発電用タービンは蒸気が低温・低圧・大流量であるため動翼が長く、遠心力緩和のため50Hzでは1500rpm、60Hz機では1800rpmが採用されている。 高・中・低圧タービンを1つの軸に配置するものをタンデム・コンパウンドと呼ぶ。一方、高・中・低圧タービンをプライマリとセカンダリの2軸に振り分けて配置するものをクロス・コンパウンドと呼ぶ。タンデム・コンパウンドに比べクロス・コンパウンドは、大出力化が容易であり熱効率も高くできるが、設備コストが高い、建屋の占有面積が大きい、各軸の単独運転が不可能、運用・点検・保守が複雑などの欠点がある。 クロス・コンパウンドでは、高圧と低圧の半分をプライマリ軸とし、中圧と低圧の残り半分をセカンダリ軸とする方式と、高圧と中圧をプライマリ軸とし、低圧をセカンダリ軸とする方式がある。前者は低圧タービン及び発電機を2つの軸で同一設計にできる利点があるが、最近の大型火力ユニットのクロス・コンパウンド機では、後者が採用されることが多い。これは、セカンダリ軸の回転速度をプライマリ軸の半分とすることで低圧最終段動翼の遠心力を緩和し、40インチ以上の長い動翼を採用して低圧タービンの最終段の排気損失を低減することが可能なためである。また、この構成であれば復水器もセカンダリ側のみで良く、前者の構成に比べ設備コストの面でも有利となる。 従来、大型火力ユニットはベースロード運用が多く熱効率が重視されていたことや、高速回転に伴う低圧タービン最終段動翼の遠心力の制約などにより、500MW - 700MW以下はタンデム・コンパウンド機、それより大型のユニットはクロス・コンパウンド機とされていた。しかし、近年では原子力比率の拡大やピーク負荷の尖鋭化に伴い大型火力ユニットでも建設コストの低減や運用性向上が重視されるようになったため、軽量のチタン動翼による遠心力の緩和や材料強度の改善などにより中部電力碧南火力4号機(2001年)において国内の1000MW級火力ユニットでは初めてタンデム・コンパウンド機が採用された。 変圧運転の効率は、定圧運転と比較して向上する。 また、次の特徴もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "蒸気タービン(じょうきタービン、英: steam turbine)は、蒸気のもつエネルギーを、タービン(羽根車)と軸を介して回転運動へと変換する外燃機関。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "タービンは羽根の付いた回転部分をもつ原動機の一種である。蒸気タービンは機械仕事を得るため、回転部分の回転に蒸気(流体)の運動量の変化を利用する熱機関の一種である。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "火力・原子力・地熱などによる発電や産業用途(発電・ポンプ駆動等)に利用される。蒸気としては一般に水蒸気が使われる。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、蒸気を利用する原動機としては、蒸気タービンの他に、蒸気でシリンダ内のピストンを往復運動させるレシプロ型の蒸気エンジンが存在する。レシプロ型については蒸気機関を参照のこと。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "外部の熱源(ボイラー)により高温高圧となった蒸気がノズルから噴射されると、圧力や温度が低下すると同時に速度が増加する。この蒸気をタービンブレードに当てる(衝動式の場合)ことでブレードに力が加わる。この力がトルクとなって軸を回転させ、発電機やポンプを駆動する。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "理想的な蒸気タービンは等エントロピー過程とみなせる。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "熱力学第二法則により、熱力学的温度(絶対温度)で現わした熱力学サイクルの最高温度と最低温度との比が大きいほど理論的に到達可能な熱効率は高くなる。実用上、サイクルの最低温度を常温から大きく下げることはできないため、火力発電所の高効率化は蒸気タービン入口の蒸気温度を高めることでなされてきた。現在、事業用火力発電タービンの蒸気温度は約600°Cであるが、今以上の蒸気高温化による熱効率の上昇は、タービンやボイラーに高価な耐熱材料を使用しなければならないので難しい。", "title": "機構" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発電用蒸気タービンには大きく分けて火力発電(汽力発電)用と原子力発電用がある。いずれも効率向上が最重要であり大型のものが中心である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "火力発電用では蒸気の温度と圧力が比較的高く、原子力発電用は炉心温度の上限値や2段階に分かれる冷却水の関係から蒸気の温度と圧力はそれほど高くはない。ゴミ焼却工場での発電も自家発電の域を越えて、単機出力5万キロワット級といった規模の大型化が進んでいる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "特殊な蒸気タービンとして、海洋温度差発電やバイナリーサイクルによる地熱発電のように、アンモニアなどの水より低沸点の媒体を用いる場合もある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "産業用の蒸気タービンには大型から小型まで存在し、それぞれに多様な形式が使用されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "石油化学プラントのように廃ガスが生じる施設や、サトウキビ加工工場での廃茎の焼却を行う施設では、ボイラーによって蒸気を作ることで蒸気タービンを駆動し、自家発電や主要な動力源として利用している。また、小型の蒸気タービンが減圧弁の代わりとして利用されることもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "船舶で使用される蒸気タービンには、従来、後進用のタービンが前進用タービンの半分程度の大きさで同軸に備わっているものがほとんどだったが、21世紀の現在では船舶用主機関に蒸気タービンを採用するのが減った事と、蒸気タービンを採用する場合でも、可変ピッチプロペラの採用によって、後進時にも主機関側で逆回転させる必要がなくなっている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Mk50 (魚雷)等一部の魚雷においては、閉サイクル蒸気タービン機関等が現役である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "液体燃料ロケット用ターボポンプの一部は、エキスパンダーサイクルの場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料タップオフサイクルの場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "蒸気タービンの基本原理を利用した装置の最初の記録は、アレクサンドリアのヘロン(Hero of Alexandria)によるヘロンの回転球(ヒーロの回転球、アイオロスの球参照)とされている。このヘロンの回転球は反動タービンの原型である。なお、ヘロンの回転球の記録は紀元前100年頃ともいわれているがヘロンの生没年は定かではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1629年にはイタリアの技術者ジョバンニ・ブランカ (Giovanni Branca) が、蒸気を羽根車に吹き付けて回転させ歯車を介して動力を伝達し穀物をつく機械を考案している。このブランカの機械は衝動タービンの原型である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、1882年にスウェーデンのグスタフ・ド・ラバル(Gustaf de Laval, 1845年 - 1913年)が衝動式タービンを開発・試作した。1884年にイギリスのチャールズ・アルジャーノン・パーソンズ(Charles Algernon Parsons, 1854年 - 1931年)が多段階反動式タービンを開発・試作し、1889年に発電用に実用化した。1895年にアメリカのチャールズ・ゴードン・カーティス (Charles Gordon Curtis) が二段階多速衝動タービンを開発し、1898年にはフランスのオーギュスト・ラトー(Auguste Rateau)が現在のものの直系の原型にあたるタービンを実用化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "蒸気タービンは1894年のタービニア号での登場以降、舶用原動機として広く利用が進み、やがて船舶の動力源として隆盛を極めていたレシプロ式蒸気エンジンの多くを駆逐した。陸上でのレシプロ式蒸気エンジンと水上での蒸気タービンは、それぞれが動力機関としての主要な位置を占めるに至った。第二次世界大戦前からディーゼルエンジンのような内燃機関が舶用原動機として広がり始め、戦後になると徐々にディーゼルエンジンが主流となって、その後のガスタービンエンジンと共に舶用エンジンは大型から小型船でのディーゼルと大型から中型船でのガスタービンの主流2つと小型船などでのガソリンエンジンを加えたものが利用されるようになった。そういった趨勢の中、蒸気タービン機関を搭載する船舶も、その他の船舶と燃料を統一する必要から軽油を用いるようになったが、蒸気タービンと揮発性の高い軽油の組み合わせは相性が悪く、しばしば爆発事故を起こした事から、蒸気タービン機関は使用されなくなった。一方で旧ソ連・ロシアにおいては、ソヴレメンヌイ級駆逐艦に蒸気タービンを採用(燃料は重油)し、現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方では、電力消費の増大に応じて水力発電所に加えて火力発電所の建設が進むと、コストが安く入手の容易な石炭を燃料とする蒸気ボイラーと蒸気タービンの組合せが主流となった。産業用ではこういった大型発電用途の他にも、石油・化学プラントなどに代表される大規模な生産施設内でのポンプや、攪拌機、破砕機、ファンといった電動モーターでも代替可能な程度の駆動力として蒸気タービンが使われている。21世紀となった今では、保守の手間や制御性から徐々に電動モーターが主流となっているが、プラント内で蒸気が生じる施設ではエネルギーの有効利用の点でも蒸気タービンが新たに採用され続けている。またガスタービンを用いる発電施設においては、ガスタービンの排熱を利用して発生させた蒸気で蒸気タービンを駆動する、いわゆるコンバインドサイクル発電によりエネルギー利用効率の改善を図るといった使い方もされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "原子力に関しては、地上での発電や船舶などの大規模な動力用としては、核分裂反応を熱源とし、蒸気タービン機関を駆動するものが、現在もほぼ唯一の現実的な選択肢となっている。1960年代後半には空気など気体を利用するものも試みられたが、成功したとは言い難く、原子炉自体は二酸化炭素によって冷却されるマグノックス炉でも、最終的には水を加熱して蒸気機関によって動力を取り出すものとしている。比較的小規模のものに限っては、核分裂反応による熱を熱電素子で電力に変換するものやα崩壊の際に出る放射線そのものを電位に変換して取り出す原子力電池などが存在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "典型的な蒸気タービンではタービン翼の形状とそれによって生じる回転力の発生原理の違いによって2つに分かれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "反動式は段数当りの消化熱量が衝動式の半分程度になるため、同じ供給熱量では反動式は衝動式の1.5 - 2倍の段数を持つ。単段式の反動式タービンは存在しない。また、最新のタービンにおいては、最適化を進めた結果として、衝動式か反動式かのどちらかに単純に分類することはできなくなっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "回転軸に対する蒸気流の方向の違いから、2つの種類に分類できる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "半径流式のタービンは、欧州製のユングストロームタービンがほぼ唯一のものであったが、高速回転に向いていないことから21世紀現在では半径流式は存在せず、軸流式だけが残っている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "蒸気の利用方法による分類としては復水式と背圧式の2つに大別できる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、タービンに圧力の異なる蒸気が供給される混圧式と呼ばれる方式もある。地熱発電で熱水を減圧して蒸気を得るダブルフラッシュサイクルなどに用いられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "真空式と背圧式のいずれにおいても蒸気の流路に関して以下の工夫がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ラトー式は1列の静翼と1列の動翼の1組で1段落が構成されたものである。多段式ではこの段落が複数回繰り返されることになる。多段式タービンでは圧倒的にラトー式が採用されるが、その場合の初段だけはカーチス式が選ばれることがある。これはカーチス式では消化熱量が大きいために後の段落の構造設計が簡単になるためである。単段ラトー式タービンは少数ながら供給蒸気が低圧低温で排気圧が高く高速回転が求められる場合に採用される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カーチス式は1列の静翼と2列の動翼の1組より成り、動-静-動の配置で1段落が構成されたもの、又は、2列の静翼と3列の動翼の1組より成り、動-静-動-静-動の配置で1段落が構成されたものである。例えば動-静-動の配置では最初の動翼で70%の動力を発生させて次の静翼で方向を戻した後、2列目の動翼で30%の動力を発生させる。3列目の動翼がある場合でも数%の動力を生じるだけである。比較的小型の蒸気タービンである単段式タービンの多くにカーチス式が採用され、豊富な供給熱量が得られたり復水器によって排気圧力を低くできる場合には二段カーチス式タービンも作られる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "最適に設計した場合の内部効率の最大値で比べれば、ラトー式が80 - 85%であるのに比べてカーチス式では75 - 80%であり、5 - 6%程度の差がある。カーチス式は効率の面で劣るが消化熱量が大きく取れるので、1,000馬力以下で4,500回転/分以下の非常用や予備機としての需要がある。カーチス式タービンは日本のメーカーだけが製造している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "羽根車の数によって単段式と多段式に分かれる。単段や多段の「段」とは「段落」のことであり羽根車1つを指す。羽根車ごとの「節円径」は蒸気の流れる円筒状の中心部間の直径であり、蒸気タービンの大きさを表す指標の1つである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "蒸気は多段式のタービン段落を経るに従って圧力は減少し体積が増える。これに応じて後段ではタービンの直径が増して行くが、やがては遠心力に抗してタービン翼を維持するだけの工学的限界を迎える。このような制約の下で大量の高圧蒸気に対応できる大型の真空式蒸気タービンを実現するために、低圧段の一群を高圧段の一群とは別に複数設けることで低圧段の翼面積を広げたものが作られている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "大規模なタービンでは蒸気の特性に合わせて高圧と低圧の2つに分けるだけでなく、高圧、中圧、低圧と3つに分ける構成も採られるが、特に低圧のものでは2つを対向に組合せて車室の蒸気入口を中央に置き、軸に沿って2方向に蒸気を流すことで車室の蒸気出口は両端部となるものが多い。このような配置では排気の流れが2つになるため複流排気式と呼ばれ、蒸気入口と出口が1つずつのものは単流排気式と呼ばれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "低圧タービンが複流排気式であると車室を2つ別々に設けるよりも簡素になるだけでなく、軸方向に掛かるスラスト力が相殺されてスラスト軸受への負担と摩擦ロスが減らせる。また、高圧・中圧タービンが複流排気式であると、設備の簡素化やスラスト力の相殺に有効であることに加え、圧力の高い入口蒸気がケーシングの軸貫通部から漏れるのを防ぐためのシール機構が省略可能となる利点がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "回転軸の方向によって横置き式と縦置き式に分類できる。商用蒸気タービンの99%は横置き式である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "駆動を受ける側が求める回転数でタービン出力軸が回転する場合には、そのまま軸同士が直結されるが、タービン側が速い場合には減速機と呼ばれる歯車によって回転数が低減される。 減速機は当然なんらかのエネルギーロスを生じ、潤滑も必要となるので、これを利用しない直結式が有利である。 2016年時点で、原子力・火力・地熱発電所で主発電機を回している蒸気タービンはすべて直結式であり、接続される系統の周波数に等しい電力を発生できるよう回転数が制御されている。 日本の場合、50 Hz地域に送電する発電所のタービンは3,000 rpmで、60 Hz地域に送電するものは3,600 rpmである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "蒸気タービンへの蒸気の供給量を調整する入口弁の数で分類できる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ただ1つの入口弁で出力の全域に渡って蒸気の供給量を調整する単弁式と呼ばれる蒸気タービンと、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と呼ばれる蒸気タービンがある。例えば4弁ある多弁式では、1つ目の弁が供給量の0 - 25%までを担当し他の弁は閉じている。2つ目の弁は供給量の25 - 50%までを担当し1つ目の弁が全開で他の弁は閉じている。3つ目の弁は供給量の50 - 75%までを担当し1つ目と2つ目の弁が全開で4つ目の弁は閉じている。4つ目の弁は供給量の75 - 100%までを担当し他の弁が全開になっている。単弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を全周送入といい、多弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を部分送入という。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ただ1つの入口弁で調整する単弁式では、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と比べて弁の通過で生じる圧力損失が大きくなり、結果として出力が減少する。これは多弁式では供給量が半分程度でも全開状態の弁が存在するためその弁での圧力損失が最小になるが、単弁式では供給量が半分程度であれば相応の圧力損失が生じるためである。これに対し、多弁式は低負荷時の損失は軽減されるが、タービンに流入する蒸気が不均一となるため、振動対策が必要となることがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "理論上の蒸気タービンのサイクルには、次のものがある。", "title": "理論サイクル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "21世紀現在の蒸気タービンは、軸方向に蒸気が流れる軸流タービンだけが作られている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "多数の動翼(回転翼、ローター)が回転軸を囲んで取り付けられ、ほぼ同数の静翼(固定翼、ステーター、ガイドベーン)が回転軸を囲んで外部壁面から取り付けられている。ほとんどの蒸気タービンで、動翼と静翼の1組1段が多数段備えている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "温度と圧力の低下に従って、後段になるほど動翼と静翼の長さ、つまり回転面の直径が増す。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "車室(ケーシング)の蒸気入口から入った高圧高温の蒸気はノズルから初段のローターに向けて噴射される。ほとんどのタービンではノズルは全周には付いておらず、部分噴出になっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "回転側であるローターは、軸(回転軸、シャフト)、羽根車(ディスク)、動翼(ブレード)、シュラウドバンド類から構成される。多段式では複数のローターが静翼を挟んで並んでいる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "タービン翼を収めて蒸気を導入する容器をタービン車室(しゃしつ)と呼ぶ。静翼は車室のケーシングに固定されており、動翼が取り付けられた回転軸が車室両端の回転軸受けで保持される。反動タービンでは動翼と車室との隙間から蒸気が逃げないようにシーリング・ストリップと呼ばれるリング状の部品で塞いでいる。シーリング・ストリップはハニカム状の柔らかい金属か多孔質の素材で作られており、初めて動翼を動かす時に、意図的に接触することで形状の最適化が図られる。蒸気入り口には多数のノズルが取り付けられており、第一段ローターへ蒸気を吹き付ける。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "蒸気タービンでは蒸気の圧力を有効利用するため、多くの段階の膨張を繰り返している。大型の蒸気タービンでは、圧力に応じていくつかの部分に分割されており、上流から順に高圧・中圧・低圧タービンと呼ばれる。また、蒸気体積が大きくなるため低圧タービンは複数台が並列に配置されることが多く、翼は、非常に長いものとなっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "通常の蒸気の入口と出口の配管の他に、抽気や再熱、再生の蒸気配管も備わるものがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "動翼から得た回転力を外部に出力するのが回転軸である。反動タービンでは動翼とケーシングとの隙間が小さいため、回転軸は歪みが生じないように太く剛性の高いものになっている。衝動タービンでは軸端からの蒸気漏れを少なくするために、回転軸は細く弾性のあるものになっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "回転軸は運転時と休止時の間で伸び縮みするため、両端は固定出来ない。普通は高圧側のスラスト軸受けで固定し低圧側の軸受けには遊びが設けられる。車室の伸び縮みは設置面に対しては低圧側で固定されており、高圧側のスラスト軸受けも車室の伸び縮みに合わせてズレが生まれる。このような組み合わせによって、回転軸のズレを最小にしている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "回転軸と静翼仕切り板との隙間からの蒸気漏れを最小にするために、ラビリンス・パッキン(ラビリンスシール)と呼ばれる何段ものヒレで蒸気の流れを遮断している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この他、回転数と蒸気流量を調節するための装置類や警報機を含む測定器類が付随する。調速方式には絞り調速方式とノズル締切調速方式がある。絞り調速方式では絞り弁で蒸気の流入を調整する。ノズル締切調速方式では車室の多数あるノズルへの蒸気の流れの開閉によって調整する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "回転速度を上げるとタービンや発電機が小型になり設備費を抑制できる。日本の火力発電用タービンの回転速度は、50Hzでは3000rpm、60Hzでは3600rpmである。原子力発電用タービンは蒸気が低温・低圧・大流量であるため動翼が長く、遠心力緩和のため50Hzでは1500rpm、60Hz機では1800rpmが採用されている。", "title": "発電所での利用内容" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "高・中・低圧タービンを1つの軸に配置するものをタンデム・コンパウンドと呼ぶ。一方、高・中・低圧タービンをプライマリとセカンダリの2軸に振り分けて配置するものをクロス・コンパウンドと呼ぶ。タンデム・コンパウンドに比べクロス・コンパウンドは、大出力化が容易であり熱効率も高くできるが、設備コストが高い、建屋の占有面積が大きい、各軸の単独運転が不可能、運用・点検・保守が複雑などの欠点がある。", "title": "発電所での利用内容" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "クロス・コンパウンドでは、高圧と低圧の半分をプライマリ軸とし、中圧と低圧の残り半分をセカンダリ軸とする方式と、高圧と中圧をプライマリ軸とし、低圧をセカンダリ軸とする方式がある。前者は低圧タービン及び発電機を2つの軸で同一設計にできる利点があるが、最近の大型火力ユニットのクロス・コンパウンド機では、後者が採用されることが多い。これは、セカンダリ軸の回転速度をプライマリ軸の半分とすることで低圧最終段動翼の遠心力を緩和し、40インチ以上の長い動翼を採用して低圧タービンの最終段の排気損失を低減することが可能なためである。また、この構成であれば復水器もセカンダリ側のみで良く、前者の構成に比べ設備コストの面でも有利となる。", "title": "発電所での利用内容" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "従来、大型火力ユニットはベースロード運用が多く熱効率が重視されていたことや、高速回転に伴う低圧タービン最終段動翼の遠心力の制約などにより、500MW - 700MW以下はタンデム・コンパウンド機、それより大型のユニットはクロス・コンパウンド機とされていた。しかし、近年では原子力比率の拡大やピーク負荷の尖鋭化に伴い大型火力ユニットでも建設コストの低減や運用性向上が重視されるようになったため、軽量のチタン動翼による遠心力の緩和や材料強度の改善などにより中部電力碧南火力4号機(2001年)において国内の1000MW級火力ユニットでは初めてタンデム・コンパウンド機が採用された。", "title": "発電所での利用内容" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "変圧運転の効率は、定圧運転と比較して向上する。", "title": "発電所での利用内容" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、次の特徴もある。", "title": "発電所での利用内容" } ]
蒸気タービンは、蒸気のもつエネルギーを、タービン(羽根車)と軸を介して回転運動へと変換する外燃機関。
[[file:Dampfturbine Laeufer01.jpg|thumb|300px|蒸気タービンの動翼]] [[file:Modern Steam Turbine Generator.jpg|thumb|300px|発電用蒸気タービン]] '''蒸気タービン'''(じょうきタービン、{{lang-en-short|steam turbine}})は、[[蒸気]]のもつ[[エネルギー]]を、[[タービン]](羽根車)と[[軸 (機械要素)|軸]]を介して[[回転]]運動へと変換する[[外燃機関]]。 == 機構 == === 定義 === タービンは羽根の付いた回転部分をもつ原動機の一種である<ref name="youron1">{{Cite book |和書 |author1= 角田哲也 |author2= 斉藤朗 |year= 2005 |title= 蒸気タービン要論 |page=1 |publisher= 成山堂書店 }}</ref>。蒸気タービンは機械仕事を得るため、回転部分の回転に蒸気(流体)の運動量の変化を利用する熱機関の一種である<ref name="youron1" />。 [[火力発電|火力]]・[[原子力発電|原子力]]・[[地熱発電|地熱]]などによる[[発電]]や産業用途(発電・[[ポンプ]]駆動等)に利用される。蒸気としては一般に[[水蒸気]]が使われる。 なお、蒸気を利用する[[原動機]]としては、蒸気タービンの他に、蒸気で[[シリンダ]]内の[[ピストン]]を[[往復運動]]させる[[レシプロエンジン|レシプロ]]型の蒸気エンジンが存在する。レシプロ型については[[蒸気機関]]を参照のこと。 === 動作原理 === [[file:Aeolipile_illustration.png|thumb|250px|ヘロンの蒸気機関]] 外部の熱源([[ボイラー]])により高温高圧となった蒸気がノズルから噴射されると、圧力や温度が低下すると同時に速度が増加する。<!--これは[[エネルギー保存の法則]]により圧力や熱のエネルギーが[[運動エネルギー]]へ変換されたことに相当する。-->この蒸気をタービンブレードに当てる(衝動式の場合)ことでブレードに力が加わる。この力が[[トルク]]となって軸を回転させ、発電機やポンプを駆動する。 理想的な蒸気タービンは[[等エントロピー過程]]とみなせる。 [[熱力学第二法則]]により、[[熱力学的温度]](絶対温度)で現わした[[熱力学サイクル]]の最高[[温度]]と最低温度との比が大きいほど理論的に到達可能な[[熱効率]]は高くなる。実用上、サイクルの最低温度を常温から大きく下げることはできないため、火力発電所の高効率化は蒸気タービン入口の蒸気温度を高めることでなされてきた。現在、事業用火力発電タービンの蒸気温度は約600℃であるが、今以上の蒸気高温化による[[熱効率]]の上昇は、タービンやボイラーに高価な耐熱材料を使用しなければならないので難しい。 {{-}} == 用途 == === 発電用 === {{出典の明記|date=2023-12|section=1}} [[発電]]用蒸気タービンには大きく分けて[[火力発電]]用と[[原子力発電]]用がある。いずれも[[熱効率|効率]]向上が最重要であり大型のものが中心である。 火力発電用では蒸気の温度と圧力が比較的高く、原子力発電用は[[炉心溶融|炉心温度の上限]]値や2段階に分かれる冷却水の関係から蒸気の温度と圧力はそれほど高くはない。[[清掃工場|ゴミ焼却工場]]での発電も[[自家発電]]の域を越えて、単機出力5万キロワット級といった規模の大型化が進んでいる<ref name="蒸気タービン" />。 特殊な蒸気タービンとして、[[海洋温度差発電]]やバイナリーサイクルによる[[地熱発電]]のように、[[アンモニア]]などの水より低[[沸点]]の[[熱媒体|媒体]]を用いる場合もある。 === 産業用 === 産業用の蒸気タービンには大型から小型まで存在し、それぞれに多様な形式が使用されている。 石油化学プラントのように廃ガスが生じる施設や、サトウキビ加工工場での廃茎の焼却を行う施設では、ボイラーによって蒸気を作ることで蒸気タービンを駆動し、自家発電や主要な動力源として利用している。また、小型の蒸気タービンが減圧弁の代わりとして利用されることもある<ref name = "蒸気タービン"/>。 === 船舶用 === 船舶で使用される蒸気タービンには、従来、後進用のタービンが前進用タービンの半分程度の大きさで同軸に備わっているものがほとんどだったが、21世紀の現在では船舶用主機関に蒸気タービンを採用するのが減った事と、蒸気タービンを採用する場合でも、可変ピッチプロペラの採用によって、後進時にも主機関側で逆回転させる必要がなくなっている<ref>池田良穂著 「船の科学」 BLUE BACKS 講談社 ISBN 978-4-06-257579-9 </ref>。 [[Mk50 (魚雷)]]等一部の魚雷においては、[[非大気依存推進#閉サイクル蒸気タービン|閉サイクル蒸気タービン]]機関等が現役である。 === 液体燃料ロケットエンジンターボポンプ用 === [[液体燃料ロケット]]用[[ターボポンプ]]の一部は、[[エキスパンダーサイクル]]の場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料[[タップオフサイクル]]の場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。 == 歴史 == 蒸気タービンの基本原理を利用した装置の最初の記録は、[[アレクサンドリアのヘロン]](Hero of Alexandria)によるヘロンの回転球(ヒーロの回転球、[[アイオロスの球]]参照)とされている<ref name="nikkan">{{Cite web|和書|url=https://pub.nikkan.co.jp/uploads/book/pdf_file50ab026b10e1c.pdf |title=ガスタービンの歴史 |publisher=[[日刊工業新聞社]] |accessdate=2019-02-17}}</ref><ref name="youron1-2">{{Cite book |和書 |author1= 角田哲也 |author2= 斉藤朗 |year= 2005 |title= 蒸気タービン要論 |pages=1-2 |publisher= 成山堂書店 }}</ref>。このヘロンの回転球は反動タービンの原型である<ref name="youron2" />。なお、ヘロンの回転球の記録は紀元前100年頃ともいわれているがヘロンの生没年は定かではない<ref name="nikkan" /><ref name="youron1-2" />。 [[1629年]]にはイタリアの技術者ジョバンニ・ブランカ (Giovanni Branca) が、蒸気を羽根車に吹き付けて回転させ歯車を介して動力を伝達し穀物をつく機械を考案している<ref name="nikkan" /><ref name="youron2">{{Cite book |和書 |author1= 角田哲也 |author2= 斉藤朗 |year= 2005 |title= 蒸気タービン要論 |page=2 |publisher= 成山堂書店 }}</ref>。このブランカの機械は衝動タービンの原型である<ref name="youron2" />。 その後、[[1882年]]にスウェーデンの[[グスタフ・ド・ラバル]](Gustaf de Laval, [[1845年]] - [[1913年]])が衝動式タービンを開発・試作した。[[1884年]]にイギリスの[[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]](Charles Algernon Parsons, [[1854年]] - [[1931年]])が多段階反動式タービンを開発・試作し、[[1889年]]に発電用に実用化した。[[1895年]]にアメリカの[[チャールズ・ゴードン・カーティス]] (Charles Gordon Curtis) が二段階多速衝動タービンを開発し、[[1898年]]にはフランスの[[オーギュスト・ラトー]](Auguste Rateau)が現在のものの直系の原型にあたるタービンを実用化した。 蒸気タービンは[[1894年]]の[[タービニア]]号での登場以降、舶用原動機として広く利用が進み、やがて船舶の動力源として隆盛を極めていたレシプロ式蒸気エンジンの多くを駆逐した。陸上でのレシプロ式蒸気エンジンと水上での蒸気タービンは、それぞれが動力機関としての主要な位置を占めるに至った。第二次世界大戦前から[[ディーゼルエンジン]]のような[[内燃機関]]が舶用原動機として広がり始め<ref group="注">船舶用のエンジンとしてディーゼルエンジンと蒸気タービン+ボイラーを比べると、燃費と占有空間、重量、運用の簡便さの点でディーゼルが優れていた。</ref>、戦後になると徐々にディーゼルエンジンが主流となって、その後の[[ガスタービンエンジン]]と共に舶用エンジンは大型から小型船でのディーゼルと大型から中型船でのガスタービンの主流2つと小型船などでのガソリンエンジンを加えたものが利用されるようになった。そういった趨勢の中、蒸気タービン機関を搭載する船舶も、その他の船舶と燃料を統一する必要から{{要出典|date=2014年9月}}軽油を用いるようになったが、蒸気タービンと揮発性の高い軽油の組み合わせは相性が悪く、しばしば爆発事故を起こした事から、蒸気タービン機関は使用されなくなった。一方で旧ソ連・ロシアにおいては、[[ソヴレメンヌイ級駆逐艦]]に蒸気タービンを採用(燃料は重油)し、現在に至る。<!--一方で[[原子炉]]を熱源とする機関においては、現在に至るも蒸気機関が唯一の選択肢であるため、原子力推進の[[軍艦]]や[[砕氷船]]においては、蒸気タービンが採用されている。--> 一方では、電力消費の増大に応じて水力発電所に加えて火力発電所の建設が進むと、コストが安く入手の容易な石炭を燃料とする蒸気ボイラーと蒸気タービンの組合せが主流となった。<!--その後の[[原子力発電]]の実用化によって、原子炉と蒸気タービンの組合せも広がった。-->産業用ではこういった大型発電用途の他にも、石油・化学プラントなどに代表される大規模な生産施設内でのポンプや、攪拌機、破砕機、ファンといった電動モーターでも代替可能な程度の駆動力として蒸気タービンが使われている。21世紀となった今では、保守の手間や制御性から徐々に電動モーターが主流となっているが、プラント内で蒸気が生じる施設ではエネルギーの有効利用の点でも蒸気タービンが新たに採用され続けている<ref name = "蒸気タービン"/>。またガスタービンを用いる発電施設においては、ガスタービンの排熱を利用して発生させた蒸気で蒸気タービンを駆動する、いわゆる[[コンバインドサイクル発電]]によりエネルギー利用効率の改善を図るといった使い方もされている。 [[原子力]]に関しては、地上での発電や船舶などの大規模な動力用としては、[[核分裂反応]]を熱源とし、蒸気タービン機関を駆動するものが、現在もほぼ唯一の現実的な選択肢となっている。[[1960年代]]後半には空気など気体を利用するものも試みられたが、成功したとは言い難く、[[原子炉]]自体は[[二酸化炭素]]によって冷却される[[マグノックス炉]]でも、最終的には水を加熱して蒸気機関によって動力を取り出すものとしている。比較的小規模のものに限っては、核分裂反応による熱を[[熱電素子]]で電力に変換するものや[[アルファ崩壊|α崩壊]]の際に出る放射線そのものを電位に変換して取り出す[[原子力電池]]などが存在している。 == 分類 == === 原理別 === [[file:Turbines impulse v reaction.png|thumb|左 : 衝動式<br />右 : 反動式]] 典型的な蒸気タービンではタービン翼の形状とそれによって生じる回転力の発生原理の違いによって2つに分かれる。 ; 衝動式 : 静翼がノズルとなっており高速流蒸気を噴き出す。動翼側では蒸気の膨張などを伴わずに衝撃力だけを受けて回転する。 ; 反動式 : 静翼と動翼がほぼ同じような翼の形状を持っており、動翼側では衝撃力を受けると共に蒸気の膨張による反動も使って回転する。一般的に出力の50%を衝撃力で得て、残る50%を蒸気の膨張による反動で得ている。 反動式は段数当りの消化熱量が衝動式の半分程度になるため、同じ供給熱量では反動式は衝動式の1.5 - 2倍の段数を持つ。単段式の反動式タービンは存在しない。また、最新のタービンにおいては、最適化を進めた結果として、衝動式か反動式かのどちらかに単純に分類することはできなくなっている。 ==== 蒸気流の方向別 ==== 回転軸に対する蒸気流の方向の違いから、2つの種類に分類できる。 ; 軸流式 : 回転軸に平行な向きに蒸気が流れる間にタービン翼によってエネルギーが得られる方式である。回転翼の長手方向に遠心力が加わるため、工学的な制約が比較的少ない。 ; 半径流式(副流式) : 回転軸から遠ざかる方向に蒸気が流れる間にタービン翼によってエネルギーを得る。回転翼の横方向に遠心力が加わるため、低圧となり大直径の段落になるにつれて強度を保ったまま長く薄いタービン翼を製造することが困難になる。 半径流式のタービンは、欧州製のユングストロームタービンがほぼ唯一のものであったが、高速回転に向いていないことから21世紀現在では半径流式は存在せず、軸流式だけが残っている。 === 蒸気の利用法別 === 蒸気の利用方法による分類としては復水式と背圧式の2つに大別できる。 ; 背圧式 : [[復水器]]を持たずに大気圧より高いタービン排気を蒸気のまま他で利用するか、又は大気へ放出する方式である。復水式に比べるとタービン軸から得られる動力エネルギーは小さくなる。タービン排気を蒸気として他で利用できれば総合的なエネルギー利用効率向上が可能であるため、熱や蒸気を多量に必要とする化学工場などの自家発電用として採用される。大気へ放出する方式では排気が80 - 100m/秒と高速なため騒音防止の消音器が必要になる。 ; 真空式(復水式) : タービンから出た蒸気を復水器で冷却して[[凝縮]]して水に戻す方式である。気体である蒸気が液体である水になることで復水器内は真空に近づき、タービンの排気を引き込む働きをする。このためタービンの回転駆動力を強めて[[熱効率]]も背圧式に比べると大きくなり、真空式は背圧式に比べて1.7倍ほどの出力が得られる。真空に近い排気圧まで低圧段の蒸気を膨張させるとそれだけ車室などの構造を大きくしなければならず、しかも真空近くに保つ必要があるのでさらに強度が要求される。車室の他にも復水器や冷却水などプラントが大掛かりとなるので小型・簡便な蒸気タービンでは採用されず、効率が求められる大型プラントで用いられる。発電用や船舶用で広く用いられている。真空式は復水式とも呼ばれる。 また、タービンに圧力の異なる蒸気が供給される混圧式と呼ばれる方式もある。[[地熱発電]]で熱水を減圧して蒸気を得るダブルフラッシュサイクルなどに用いられる。 真空式と背圧式のいずれにおいても蒸気の流路に関して以下の工夫がある。 ; 抽気 : 抽気とは、タービンの段落の途中から他での利用に必要な分だけ蒸気を取り出すこと、またはその蒸気である。背圧式にはすべての段落を通過したタービン排気を利用する方式があるが、抽気ではタービン排気よりも高温高圧の蒸気を利用する<ref group="注">[[再生サイクル]]では抽気をボイラー給水の加熱に用いる。抽気によってタービン出力が落ちるが、抽気で給水をあらかじめ加熱することで総合的な熱効率の向上を図る。</ref><ref name = "蒸気タービン"/>。 ; 再熱 : タービンで膨張する蒸気を取出しボイラーで再び加熱するもの。熱効率が向上すると同時に低圧タービン蒸気の湿り度が低下するので翼の[[エロージョン]]対策としても有効である。 === 構造別 === ==== 翼列数別 ==== * ラトー式 * カーチス式 ラトー式は1列の静翼と1列の動翼の1組で1段落が構成されたものである。多段式ではこの段落が複数回繰り返されることになる。多段式タービンでは圧倒的にラトー式が採用されるが、その場合の初段だけはカーチス式が選ばれることがある。これはカーチス式では消化熱量が大きいために後の段落の構造設計が簡単になるためである。単段ラトー式タービンは少数ながら供給蒸気が低圧低温で排気圧が高く高速回転が求められる場合に採用される。 カーチス式は1列の静翼と2列の動翼の1組より成り、動-静-動の配置で1段落が構成されたもの、又は、2列の静翼と3列の動翼の1組より成り、動-静-動-静-動の配置で1段落が構成されたものである。例えば動-静-動の配置では最初の動翼で70%の動力を発生させて次の静翼で方向を戻した後、2列目の動翼で30%の動力を発生させる。3列目の動翼がある場合でも数%の動力を生じるだけである。比較的小型の蒸気タービンである単段式タービンの多くにカーチス式が採用され、豊富な供給熱量が得られたり復水器によって排気圧力を低くできる場合には二段カーチス式タービンも作られる。 最適に設計した場合の内部効率の最大値で比べれば、ラトー式が80 - 85%であるのに比べてカーチス式では75 - 80%であり、5 - 6%程度の差がある。カーチス式は効率の面で劣るが消化熱量が大きく取れるので、1,000馬力以下で4,500回転/分以下の非常用や予備機としての需要がある。カーチス式タービンは日本のメーカーだけが製造している。 ==== 羽根車の数別 ==== * 単段式 * 多段式 羽根車の数によって単段式と多段式に分かれる。単段や多段の「段」とは「段落」のことであり羽根車1つを指す。羽根車ごとの「節円径」は蒸気の流れる円筒状の中心部間の直径であり、蒸気タービンの大きさを表す指標の1つである。 * 排気の流れ別 ** 単流排気式 ** 複流排気式 蒸気は多段式のタービン段落を経るに従って圧力は減少し体積が増える。これに応じて後段ではタービンの直径が増して行くが、やがては遠心力に抗してタービン翼を維持するだけの工学的限界を迎える。このような制約の下で大量の高圧蒸気に対応できる大型の真空式蒸気タービンを実現するために、低圧段の一群を高圧段の一群とは別に複数設けることで低圧段の翼面積を広げたものが作られている。 大規模なタービンでは蒸気の特性に合わせて高圧と低圧の2つに分けるだけでなく、高圧、中圧、低圧と3つに分ける構成も採られるが、特に低圧のものでは2つを対向に組合せて車室の蒸気入口を中央に置き、軸に沿って2方向に蒸気を流すことで車室の蒸気出口は両端部となるものが多い。このような配置では排気の流れが2つになるため複流排気式と呼ばれ、蒸気入口と出口が1つずつのものは単流排気式と呼ばれる。 低圧タービンが複流排気式であると車室を2つ別々に設けるよりも簡素になるだけでなく、軸方向に掛かるスラスト力が相殺されて[[スラスト軸受]]への負担と摩擦ロスが減らせる。また、高圧・中圧タービンが複流排気式であると、設備の簡素化やスラスト力の相殺に有効であることに加え、圧力の高い入口蒸気がケーシングの軸貫通部から漏れるのを防ぐための[[シール (工学)|シール]]機構が省略可能となる利点がある。 ==== 回転軸の設置方向別 ==== * 横置き式 * 縦置き式 回転軸の方向によって横置き式と縦置き式に分類できる。商用蒸気タービンの99%は横置き式である。 ==== 減速機の有無 ==== * 直結式 * 減速式 駆動を受ける側が求める回転数でタービン出力軸が回転する場合には、そのまま軸同士が直結されるが、タービン側が速い場合には[[減速機]]と呼ばれる歯車によって回転数が低減される。<br> 減速機は当然なんらかのエネルギーロスを生じ、[[潤滑]]も必要となるので、これを利用しない直結式が有利である。<br> 2016年時点で、原子力・火力・地熱発電所で主発電機を回している蒸気タービンはすべて直結式であり、接続される[[電力系統|系統]]の[[商用電源周波数|周波数]]に等しい電力を発生できるよう回転数が制御されている。<br> 日本の場合、50 Hz地域に送電する発電所のタービンは3,000 rpmで、60 Hz地域に送電するものは3,600 rpmである。 ==== 入口弁の数別 ==== 蒸気タービンへの蒸気の供給量を調整する入口弁の数で分類できる。 * 単弁式 * 多弁式 ただ1つの入口弁で出力の全域に渡って蒸気の供給量を調整する単弁式と呼ばれる蒸気タービンと、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と呼ばれる蒸気タービンがある。例えば4弁ある多弁式では、1つ目の弁が供給量の0 - 25%までを担当し他の弁は閉じている。2つ目の弁は供給量の25 - 50%までを担当し1つ目の弁が全開で他の弁は閉じている。3つ目の弁は供給量の50 - 75%までを担当し1つ目と2つ目の弁が全開で4つ目の弁は閉じている。4つ目の弁は供給量の75 - 100%までを担当し他の弁が全開になっている。単弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を全周送入といい、多弁式で行なわれている蒸気量の調整方法を部分送入という。 ただ1つの入口弁で調整する単弁式では、3つや4つの入口弁で調整する多弁式と比べて弁の通過で生じる圧力損失が大きくなり、結果として出力が減少する。これは多弁式では供給量が半分程度でも全開状態の弁が存在するためその弁での圧力損失が最小になるが、単弁式では供給量が半分程度であれば相応の圧力損失が生じるためである<ref name = "蒸気タービン"/>。これに対し、多弁式は低負荷時の損失は軽減されるが、タービンに流入する蒸気が不均一となるため、振動対策が必要となることがある。 == 理論サイクル == 理論上の蒸気タービンの[[熱力学サイクル|サイクル]]には、次のものがある。 ; [[ランキンサイクル]] : 復水タービンの基本となるサイクル。 ; [[再熱サイクル]] : 蒸気タービンで圧力の低下した蒸気を再び加熱して使用し、[[熱効率]]を上げるもの。 ; [[再生サイクル]] : サイクルの途中から抽気した蒸気で復水を加熱して、燃料消費量を抑えるもの。 ; [[再熱・再生サイクル]] : 再熱サイクル・再生サイクルを組み合わせたもの。 ; [[カリーナサイクル]] : 非共沸混合媒体を利用した高効率サイクル。 == 構造 == 21世紀現在の蒸気タービンは、軸方向に蒸気が流れる[[軸流タービン]]だけが作られている。<ref group="注">今日生産されている、液酸液水[[ガス発生器サイクル]]ロケットエンジンや、[[エキスパンダーサイクル]]ロケットエンジン用推進剤ターボポンプ駆動用蒸気タービンは、軸流タービンとは限らない。</ref> 多数の動翼(回転翼、ローター)が回転軸を囲んで取り付けられ、ほぼ同数の静翼(固定翼、ステーター、ガイドベーン)が回転軸を囲んで外部壁面から取り付けられている。ほとんどの蒸気タービンで、動翼と静翼の1組1段が多数段備えている。 温度と圧力の低下に従って、後段になるほど動翼と静翼の長さ、つまり回転面の直径が増す<ref name = "ターボ動力工学"/>。 === ノズル === 車室(ケーシング)の蒸気入口から入った高圧高温の蒸気はノズルから初段のローターに向けて噴射される。ほとんどのタービンではノズルは全周には付いておらず、部分噴出になっている。 === 動翼・静翼など === 回転側であるローターは、軸(回転軸、シャフト)、羽根車(ディスク)、動翼(ブレード)、シュラウドバンド類から構成される。多段式では複数のローターが静翼を挟んで並んでいる。 ; 軸・羽根車 : 出力軸となる軸は剛性軸(リジッドローター)と弾性軸(フレキシブルローター)に分けられる。剛性軸は軸が太く丈夫に作られており、軸そのものの[[固有振動|固有振動数]]に相当する危険回転数が[[定格]]回転数よりも高い物を指す。運転時にも危険回転数を意識する必要はない。弾性軸は軸が比較的細く作られており、危険回転数が[[定格]]回転数よりも低い物を指す。運転時でも特に始動時には必ず危険回転数を通過するため、危険回転数付近を速やかに通過させて共振状態に陥らないよう注意が必要である。また、軸は一体構造型とはめ込み型に分けられる。一体構造型は軸と羽根車が一体で作られており高速回転にも対応できるが、はめ込み型では軸と羽根車が別々に作られ組み合されたもので6,000[[rpm (単位)|回転/分]]程度までが上限である。 ; 動翼 : 蒸気からエネルギを得て回転する[[翼]](翼列)である。初段では短い動翼も終段に近くなるに従って少しずつ長くなる。発電用のものでは翼高さが最長1mを越す<ref group="注">初段の翼の面積に対して終段の翼の面積は100倍にもなる。</ref>。動翼は[[共振]]を避けるために互いが連接して隙間を作らないようにされる。動翼のルートが羽根車に植え込まれただけでは振動に弱いため外周部でのシュラウドバンドやダンピングワイヤーで横同士がつながれる。また、大きな遠心力にも耐える必要がある<ref group="注">遠心力は、例えば100グラムの動翼が半径20cmの位置で8,000回転/分で回されると、1.4トン以上の荷重が掛かる。</ref><ref name="蒸気タービン">山岡勝巳 『蒸気タービン』 鳥影社、2001年12月5日初版第1刷発行、ISBN 488629619X</ref>。大きなローターではシュラウド・リングと回転軸の中間にもバンディング・ワイヤと呼ばれる金具が付けられる。固有振動数を高くするために先端を細く根元を太くした[[翼平面形#テーパー翼・逆テーパー翼|テーパー翼形状]]や、翼先端部と翼根元部での周速度の違いから生じる蒸気流入角度の差を最小にする「ねじれ羽根」が採用されている。低圧段の羽根には翼に付く凝集水分をタービン・ケーシングのドレン溝へ誘導する溝が掘られているものがある。 ; 静翼 : 固定されており、蒸気の流れが効率よく動翼へ流れるように導く。 ; 衝動式と反動式 : 蒸気タービンは蒸気のエネルギーの利用のしかたにより衝動式と反動式に分類され、構造にも特徴がある。 :; 衝動式: 静翼部分で蒸気の圧力エネルギーを運動エネルギーに変換し、静翼から噴出する高速の蒸気に当たる衝動力によって動力が発生する。一段落当たりの熱落差を大きく取れるので段落数は少ないが、翼は大型で幅広となる。 :; 反動式: 動翼内でも蒸気の圧力エネルギーを運動エネルギーに変換し、動翼から噴出する蒸気の反動力も利用して回転力が発生する。一段落当たりの熱落差が小さく段落数は多くなるが、翼は小型となる<ref name = "ターボ動力工学"/>。 === 車室 === タービン翼を収めて蒸気を導入する容器をタービン車室(しゃしつ)と呼ぶ。静翼は車室のケーシングに固定されており、動翼が取り付けられた回転軸が車室両端の[[軸受|回転軸受け]]で保持される。反動タービンでは動翼と車室との隙間から蒸気が逃げないようにシーリング・ストリップと呼ばれるリング状の部品で塞いでいる。シーリング・ストリップは[[ハニカム構造|ハニカム]]状の柔らかい金属か多孔質の素材で作られており、初めて動翼を動かす時に、意図的に接触することで形状の最適化が図られる。蒸気入り口には多数のノズルが取り付けられており、第一段ローターへ蒸気を吹き付ける。 蒸気タービンでは蒸気の圧力を有効利用するため、多くの段階の膨張を繰り返している。大型の蒸気タービンでは、圧力に応じていくつかの部分に分割されており、上流から順に高圧・中圧・低圧タービンと呼ばれる。また、蒸気[[体積]]が大きくなるため低圧タービンは複数台が並列に配置されることが多く、翼は、非常に長いものとなっている。 通常の蒸気の入口と出口の配管の他に、抽気や再熱、再生の蒸気配管も備わるものがある<ref name = "ターボ動力工学"/>。 === 回転軸 === 動翼から得た回転力を外部に出力するのが回転軸である。反動タービンでは動翼とケーシングとの隙間が小さいため、回転軸は歪みが生じないように太く剛性の高いものになっている。衝動タービンでは軸端からの蒸気漏れを少なくするために、回転軸は細く弾性のあるものになっている。 回転軸は運転時と休止時の間で伸び縮みするため、両端は固定出来ない。普通は高圧側のスラスト軸受けで固定し低圧側の軸受けには[[遊び (工学)|遊び]]が設けられる。車室の伸び縮みは設置面に対しては低圧側で固定されており、高圧側のスラスト軸受けも車室の伸び縮みに合わせてズレが生まれる。このような組み合わせによって、回転軸のズレを最小にしている。 回転軸と静翼仕切り板との隙間からの蒸気漏れを最小にするために、ラビリンス・パッキン([[シール (工学)#ラビリンスシール|ラビリンスシール]])と呼ばれる何段ものヒレで蒸気の流れを遮断している<ref name = "ターボ動力工学"/>。 === その他 === この他、回転数と蒸気流量を調節するための装置類や警報機を含む測定器類が付随する。調速方式には絞り調速方式とノズル締切調速方式がある。絞り調速方式では絞り弁で蒸気の流入を調整する。ノズル締切調速方式では車室の多数あるノズルへの蒸気の流れの開閉によって調整する<ref name = "ターボ動力工学"/>。 == 長所と短所 == === 一般的特徴 === ; 長所 * 燃料の選択肢が広い。高温高圧の水蒸気が得られればその方法は何でもよく、石炭、石油、[[原子力]]、[[廃棄物固形燃料]]から、ごみ[[焼却炉]]の熱も利用できる * 劣悪な燃料でも燃焼を最適化すれば比較的排気を浄化しやすい * 運転音が比較的静か ; 短所 * ボイラーや[[復水器]]などの付帯設備が必要で大空間・大重量となる * 高効率化には大規模化が必要 * 始動に時間がかかり、変動負荷運転や部分負荷運転に不適 * [[電動機]]のように回転方向を変更できない * ボイラー用精水の補給が常に必要 <!-- コロージョン/エロージョン対策が他より大変、とかは? --> === レシプロ式蒸気機関と比較して === ; 長所 * 膨張比が大きいため、[[熱効率]]が高い * 回転運動のため[[振動]]が少なく、しかも振動が[[高周波]]なので減衰させやすい * [[摺動]]部が無く回転方向が一定のため、[[信頼性]]が高い ; 短所 * 効率の良い回転域が狭い === レシプロ式内燃機関との比較 === ; 長所 * 振動が少なく、高周波振動のため減衰させやすい。 * 吸気・排気[[カム (機械要素)|カム]]や点火装置などが無く、信頼性が高い ; 短所 * 熱効率を高めたまま小型化するのは困難 * 効率の良い回転域が狭い === ガスタービンとの比較 === ; 長所 * 運転音が静かで燃料を選ばない ; 短所 * ボイラー用精水の補給が常に必要<ref name = "ターボ動力工学"/> == 発電所での利用内容 == === 日本の発電所での回転速度 === 回転速度を上げるとタービンや発電機が小型になり設備費を抑制できる。日本の火力発電用タービンの回転速度は、50Hzでは3000rpm、60Hzでは3600rpmである。原子力発電用タービンは蒸気が低温・低圧・大流量であるため動翼が長く、遠心力緩和のため50Hzでは1500rpm、60Hz機では1800rpmが採用されている。 === タンデム・コンパウンドとクロス・コンパウンド === 高・中・低圧タービンを1つの軸に配置するものをタンデム・コンパウンドと呼ぶ。一方、高・中・低圧タービンをプライマリとセカンダリの2軸に振り分けて配置するものをクロス・コンパウンドと呼ぶ。タンデム・コンパウンドに比べクロス・コンパウンドは、大出力化が容易であり熱効率も高くできるが、設備コストが高い、建屋の占有面積が大きい、各軸の単独運転が不可能、運用・点検・保守が複雑などの欠点がある。 クロス・コンパウンドでは、高圧と低圧の半分をプライマリ軸とし、中圧と低圧の残り半分をセカンダリ軸とする方式と、高圧と中圧をプライマリ軸とし、低圧をセカンダリ軸とする方式がある。前者は低圧タービン及び[[タービン発電機|発電機]]を2つの軸で同一設計にできる利点があるが、最近の大型火力ユニットのクロス・コンパウンド機では、後者が採用されることが多い。これは、セカンダリ軸の回転速度をプライマリ軸の半分とすることで低圧最終段動翼の遠心力を緩和し、40インチ以上の長い動翼を採用して低圧タービンの最終段の排気損失を低減することが可能なためである。また、この構成であれば復水器もセカンダリ側のみで良く、前者の構成に比べ設備コストの面でも有利となる。 従来、大型火力ユニットは[[ベースロード発電所|ベースロード]]運用が多く熱効率が重視されていたことや、高速回転に伴う低圧タービン最終段動翼の遠心力の制約などにより、500MW - 700MW以下はタンデム・コンパウンド機、それより大型のユニットはクロス・コンパウンド機とされていた。しかし、近年では原子力比率の拡大やピーク負荷の尖鋭化に伴い大型火力ユニットでも建設コストの低減や運用性向上が重視されるようになったため、軽量のチタン動翼による遠心力の緩和や材料強度の改善などにより[[中部電力]]碧南火力4号機(2001年)において国内の1000MW級火力ユニットでは初めてタンデム・コンパウンド機が採用された<ref name="ターボ動力工学">刑部真弘著 『ターボ動力工学』 海文堂 2001年3月30日初版発行 ISBN 4303329118</ref>。 === 発電用蒸気タービンの部分負荷運転方式 === ; 定圧運転 : 部分負荷でもボイラーの圧力を全負荷時と同じにして、加減弁を絞って蒸気の流量を変化させるものである。 ; 変圧運転 : 部分負荷時に給水圧力を下げてボイラーの圧力を低下させ、加減弁は全開としたままで蒸気の流量を変化させるものである。 変圧運転の効率は、定圧運転と比較して向上する。 * 加減弁の絞り損失がなく、部分負荷時の蒸気温度の低下がない。 * 高圧タービンの調速機が不要となり、内部効率が向上する。 * 部分負荷時に給水ポンプの必要動力が少なくなる。 * 圧力低下によるサイクル効率の低下がある。(但し、他の効率向上により発電所全体としての効率は向上することが多い) また、次の特徴もある。 * 高圧タービンの部分負荷時の温度低下がないため、負荷変動への追随に対する制約が少ない。 * 低負荷時の蒸気温度低下が無いため、停止時のケーシング温度を高くでき、再起動の時間を短くできる。また、温度変化に伴う熱応力による寿命消費も軽減できる。 * 部分負荷時に圧力を下げるため、機器の寿命を長くできる。 * 低圧タービンに供給される蒸気の湿り度が低下するため、低圧タービン翼の[[エロージョン]]が緩和される。 === 発電用蒸気タービンの付帯設備 === ; [[保安装置]] : 火力発電用などのように高速で回転する蒸気タービンは、定格回転速度より低い回転速度に共振点があるので、起動停止時に共振点付近の通過時間を短くしなければならない。また、許容最高回転速度以上で回転させると破損し、甚大な被害をもたらす。そのため、蒸気タービンには過大な振動や回転速度の異常などが発生した場合、自動的に蒸気の供給を停止させる保安装置が備えられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ボイラー]] - [[復水器]] * [[ボイラー・タービン主任技術者]] * [[火力発電]] ** [[汽力発電]] - [[タービン発電機]] ** [[コンバインドサイクル発電]] - [[コジェネレーション]] * [[原子力発電]] * [[地熱発電]] * [[地域熱供給]] * [[蒸気船]] - [[LNGタンカー|LNG船]] * [[艦本式タービン]] * [[ターボ・エレクトリック方式]] ==外部リンク== {{Commonscat}} *{{Kotobank}} *[https://www.turbo-so.jp/turbo-kids5.html ターボ機械を知ろう!蒸気タービン] - ターボ機械協会 {{発電の種類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようきたあひん}} [[Category:蒸気機関]] [[Category:流体機械]] [[Category:エネルギー技術]] [[Category:アレクサンドリアのヘロン]] [[Category:エジプトの発明]] [[Category:グスタフ・ド・ラバル]]
2003-09-08T07:20:01Z
2023-12-10T01:21:45Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Lang-en-short", "Template:-", "Template:要出典", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:Cite web", "Template:Kotobank", "Template:発電の種類" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3
15,730
ままごと
ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊びである。参加する人を、お父さん、お母さん、赤ちゃん、ペットなど家族に見立てた役を振り分ける。そして、家の炊事・食事・洗濯・買物・接客等を模倣する。 ままごとの「まま」は、英語の「mama(母)」ではなく食事を意味する「飯(まま)」からきている。現在では、食事だけに限らず食事に至るまでの光景、食卓を中心とした家庭生活一般を含めた模倣も「ままごと」と呼ばれている。 ままごと遊びの代表的な小道具として、安全面に配慮したプラスチックの包丁などままごとキッチンがあげられる。ただ、ごっこ遊びの常として、子供は身の回りの様々なものを生活用具に見立てたり、あるいは一般的な道具を家庭内から拝借して利用することもあり、前述の役割分担では、大人の使っている生活用具などもそのまま拝借してきて使われることもある。人形のような別の遊びも提供する玩具など、子供の想像力如何では様々な物品が利用される。 情報技術の発展と普及により、ままごとも電子化されクッキングママに代表されるゲームの中の仮想的な家族と炊事などの真似事が行われる環境の変化が起きている。それによって友達と遊べない夜でも一人っ子でも、ままごとで遊べるようになった。 当初、日本ではゲームによる体験は受け入れられなかったが、海外では大ヒットを記録した。ソフト開発元では「欧米では、フランス料理など伝統的な料理を除けばファーストフードがかなり多いので、元々食べ物や料理にはあまり関心がなかった」ために詳細な手順の真似を必要としなかった事と「珍しい日本食と調理法への興味」が喚起された事が原因と分析している。 この事例から、食文化の違いがままごとの密度にも影響を及ぼす事と、ままごとが食育を担っている事が確認できる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊びである。参加する人を、お父さん、お母さん、赤ちゃん、ペットなど家族に見立てた役を振り分ける。そして、家の炊事・食事・洗濯・買物・接客等を模倣する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ままごとの「まま」は、英語の「mama(母)」ではなく食事を意味する「飯(まま)」からきている。現在では、食事だけに限らず食事に至るまでの光景、食卓を中心とした家庭生活一般を含めた模倣も「ままごと」と呼ばれている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ままごと遊びの代表的な小道具として、安全面に配慮したプラスチックの包丁などままごとキッチンがあげられる。ただ、ごっこ遊びの常として、子供は身の回りの様々なものを生活用具に見立てたり、あるいは一般的な道具を家庭内から拝借して利用することもあり、前述の役割分担では、大人の使っている生活用具などもそのまま拝借してきて使われることもある。人形のような別の遊びも提供する玩具など、子供の想像力如何では様々な物品が利用される。", "title": "道具" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "情報技術の発展と普及により、ままごとも電子化されクッキングママに代表されるゲームの中の仮想的な家族と炊事などの真似事が行われる環境の変化が起きている。それによって友達と遊べない夜でも一人っ子でも、ままごとで遊べるようになった。", "title": "道具" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初、日本ではゲームによる体験は受け入れられなかったが、海外では大ヒットを記録した。ソフト開発元では「欧米では、フランス料理など伝統的な料理を除けばファーストフードがかなり多いので、元々食べ物や料理にはあまり関心がなかった」ために詳細な手順の真似を必要としなかった事と「珍しい日本食と調理法への興味」が喚起された事が原因と分析している。", "title": "道具" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この事例から、食文化の違いがままごとの密度にも影響を及ぼす事と、ままごとが食育を担っている事が確認できる。", "title": "道具" } ]
ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊びである。参加する人を、お父さん、お母さん、赤ちゃん、ペットなど家族に見立てた役を振り分ける。そして、家の炊事・食事・洗濯・買物・接客等を模倣する。
[[ファイル:Khaleh bazi in alley in Iran.jpg|thumb|right|ままごと道具の写真(イラク)]] '''ままごと'''('''飯事'''<ref name="nihonkodomonoasobidaizukan_p216">笹間良彦 『日本こどものあそび大図鑑』遊子館 p.216 2005年</ref>)とは、[[幼児]]の[[遊び]]の一種。'''おままごと'''ともいう。分類上は[[ごっこ遊び]]の一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる[[家庭]]を模した遊びである。参加する人を、[[父|お父さん]]、[[母|お母さん]]、[[赤ちゃん]]、[[ペット]]など[[家族]]に見立てた役を振り分ける。そして、家の[[炊事]]・[[食事]]・[[洗濯]]・[[買物]]・接客等を模倣する。 == 語源 == ままごとの「まま」は、英語の「mama(母)」ではなく食事を意味する「飯(まま)」からきている。現在では、食事だけに限らず食事に至るまでの光景、食卓を中心とした家庭生活一般を含めた模倣も「ままごと」と呼ばれている。 [[ファイル:Young girl entertaining Mickey Mouse and other friends at a make-believe tea party, 1930s (5141973960).jpg|thumb|200px|right|ままごと]] == 道具 == === ままごとキッチン === ままごと遊びの代表的な小道具として、安全面に配慮したプラスチックの包丁など[[ままごとキッチン]]があげられる。ただ、ごっこ遊びの常として、子供は身の回りの様々なものを生活用具に見立てたり、あるいは一般的な[[道具]]を家庭内から拝借して利用することもあり、前述の役割分担では、[[大人]]の使っている生活用具などもそのまま拝借してきて使われることもある。[[人形]]のような別の遊びも提供する玩具など、子供の想像力如何では様々な物品が利用される。 === テレビゲーム === 情報技術の発展と普及により、ままごとも電子化され[[クッキングママ]]に代表されるゲームの中の仮想的な家族と炊事などの真似事が行われる環境の変化が起きている。それによって友達と遊べない夜でも一人っ子でも、ままごとで遊べるようになった。 当初、日本ではゲームによる体験は受け入れられなかったが、海外では大ヒットを記録した。ソフト開発元では「欧米では、フランス料理など伝統的な料理を除けばファーストフードがかなり多いので、元々食べ物や料理にはあまり関心がなかった」ために詳細な手順の真似を必要としなかった事と「珍しい日本食と調理法への興味」が喚起された事が原因と分析している<ref>[http://dengekionline.com/elem/000/000/436/436716/ 海外の女の子に人気な理由とは? 3DS『クッキングママ 4』開発陣にインタビュー]</ref>。 この事例から、食文化の違いがままごとの密度にも影響を及ぼす事と、ままごとが[[食育]]を担っている事が確認できる。 ==備考== *[[クレヨンしんちゃん]]の登場人物、[[かすかべ防衛隊#桜田ネネ(さくらだ ネネ)|桜田ネネ]]の趣味でリアルおままごとがある。 *[[ドラえもん]]の登場人物、[[剛田武|ジャイアン]]のかくれた趣味である。 *[[倉橋ヨエコ]]の楽曲。二枚目の[[ミニ・アルバム]]「思ふ壺」に収録されている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[クッキングトイ]] *[[ままごとキッチン]] *[[クッキングママ]] *[[お医者さんごっこ]] *[[食育]] {{DEFAULTSORT:ままこと}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:ロールプレイ]] {{Entertainment-stub}}
null
2023-02-23T02:06:44Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Entertainment-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%94%E3%81%A8
15,731
第三セクター
第三セクター(だいさんセクター)は、第一セクター(国および地方公共団体が経営する公企業)や第二セクター(私企業)とは異なる第三的方式による法人。略称は三セク(さんセク)。 意味は以下の2つだが、日本では主に2の意味でこの語が使われることが多い。 日本では、日本国政府または地方公共団体(第一セクター)が、民間企業(第二セクター)と共同出資により、独立した事業主体として公共性・公益性が高い事業を行う法人である。多くは設立が比較的容易な株式会社・社団法人などの形態を採る、『半官半民』の中間的な形態である。 第三セクターは法的に概念が規定されているわけではないが、広義では地方公共団体が出資又は出捐を行っている民法法人及び商法法人を指す。 狭義では、地方公共団体等が25%以上の出資・出捐を行っている法人を指す。 なお総務省の『地方公社総覧』や『第三セクターに関する指針』では、広義の第三セクターに地方公社(地方住宅供給公社・地方道路公社・土地開発公社)を加えたものを、「第三セクター等」と定義している。 当初、日本国有鉄道およびJR各社の赤字ローカル線(特定地方交通線)を引き受ける事業主体としての第三セクター鉄道で知られるようになったが、それ以外にも大阪府都市開発(当時、現社名:泉北高速鉄道) など「民間活力の活用」というスローガンのもと、地域振興などを目的とした第三セクター会社が設立されており、1980年代後半以降は政策的に各地に広がった。 なお、この意味での第三セクターという用語が日本で公式文書に初めて用いられたのは、1973年(昭和48年)に第2次田中角榮内閣の元で閣議決定された「経済社会基本計画」である。 第三セクター等の数は、2015年1月現在、社団法人・財団法人が3,228法人。会社法法人が2,694法人。 宮木康夫による第三セクターの効用 国際的には、第三セクター(サードセクター)とは、NPO、市民団体その他の民間の非営利団体を示す。 英語圏(特にイギリス)では、NPOや慈善団体など、公共サービスを提供する民間団体のことを指す。 このような団体は、日本では第四セクターと表現することが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第三セクター(だいさんセクター)は、第一セクター(国および地方公共団体が経営する公企業)や第二セクター(私企業)とは異なる第三的方式による法人。略称は三セク(さんセク)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "意味は以下の2つだが、日本では主に2の意味でこの語が使われることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では、日本国政府または地方公共団体(第一セクター)が、民間企業(第二セクター)と共同出資により、独立した事業主体として公共性・公益性が高い事業を行う法人である。多くは設立が比較的容易な株式会社・社団法人などの形態を採る、『半官半民』の中間的な形態である。", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第三セクターは法的に概念が規定されているわけではないが、広義では地方公共団体が出資又は出捐を行っている民法法人及び商法法人を指す。 狭義では、地方公共団体等が25%以上の出資・出捐を行っている法人を指す。 なお総務省の『地方公社総覧』や『第三セクターに関する指針』では、広義の第三セクターに地方公社(地方住宅供給公社・地方道路公社・土地開発公社)を加えたものを、「第三セクター等」と定義している。", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初、日本国有鉄道およびJR各社の赤字ローカル線(特定地方交通線)を引き受ける事業主体としての第三セクター鉄道で知られるようになったが、それ以外にも大阪府都市開発(当時、現社名:泉北高速鉄道) など「民間活力の活用」というスローガンのもと、地域振興などを目的とした第三セクター会社が設立されており、1980年代後半以降は政策的に各地に広がった。", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、この意味での第三セクターという用語が日本で公式文書に初めて用いられたのは、1973年(昭和48年)に第2次田中角榮内閣の元で閣議決定された「経済社会基本計画」である。", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第三セクター等の数は、2015年1月現在、社団法人・財団法人が3,228法人。会社法法人が2,694法人。", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "宮木康夫による第三セクターの効用", "title": "日本での主な意味" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国際的には、第三セクター(サードセクター)とは、NPO、市民団体その他の民間の非営利団体を示す。", "title": "日本国外での意味" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "英語圏(特にイギリス)では、NPOや慈善団体など、公共サービスを提供する民間団体のことを指す。", "title": "日本国外での意味" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "このような団体は、日本では第四セクターと表現することが多い。", "title": "日本国外での意味" } ]
第三セクター(だいさんセクター)は、第一セクター(国および地方公共団体が経営する公企業)や第二セクター(私企業)とは異なる第三的方式による法人。略称は三セク(さんセク)。 意味は以下の2つだが、日本では主に2の意味でこの語が使われることが多い。 NPO・市民団体などの非営利団体。 国や地方公共団体と民間が合同で出資・経営する企業。
{{出典の明記|date=2014年2月}} {{経済システムのサイドバー}} '''第三セクター'''(だいさんセクター)は、[[第一セクター]]([[国]]および[[地方公共団体]]が経営する[[公企業]])や[[第二セクター]]([[企業|私企業]])とは異なる第三的方式による[[法人]]。略称は'''三セク'''(さんセク)。 意味は以下の2つだが、日本では主に2の意味でこの語が使われることが多い。 # [[NPO]]・[[市民団体]]などの[[非営利団体]]。 # [[国]]や[[地方公共団体]]と[[民間人|民間]]が合同で[[出資]]・[[経営学|経営]]する[[企業]]。 == 日本での主な意味 == 日本では、[[日本国政府]]または[[地方公共団体]](第一セクター)が、民間企業(第二セクター)と共同出資により、独立した事業主体として公共性・公益性が高い事業を行う[[法人]]である。多くは設立が比較的容易な[[株式会社]]・[[社団法人]]などの形態を採る、『半官半民』の中間的な形態である。 第三セクターは[[法律|法]]的に[[概念]]が規定されているわけではないが、広義では地方公共団体が出資又は出捐を行っている民法法人及び商法法人を指す<ref>「第三セクターに関する指針」(平成11年5月20日 自治政第45号自治大臣官房総務審議官通知)</ref>。 狭義では、地方公共団体等が25%以上の出資・出捐を行っている法人<ref name="soumu000667181">{{Cite web|和書|author=総務省自治財政局公営企業課長 |url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000667181.pdf |title=総財公第19号 第三セクター等の経営健全化方針の策定と取組状況の公表について |website=総務省 |publisher=総務省 |date=2019-07-23 |accessdate=2023-04-08}}</ref>を指す。 なお総務省の『地方公社総覧』や『第三セクターに関する指針』では、広義の第三セクターに地方公社([[地方住宅供給公社]]・[[地方道路公社]]・[[土地開発公社]])を加えたものを、「第三セクター等」と定義している。 当初、[[日本国有鉄道]]および[[JR]]各社の[[黒字と赤字|赤字]][[ローカル線]]([[特定地方交通線]])を引き受ける事業主体としての'''[[第三セクター鉄道]]'''で知られるようになったが、それ以外にも大阪府都市開発(当時、現社名:[[泉北高速鉄道]])<ref group="注">大阪府などが出資していたが2014年7月に保有株式すべてを[[南海電気鉄道]]および関連会社に売却し、純粋な民間企業となっている。</ref> など「民間活力の活用」という[[スローガン]]のもと、[[地域おこし|地域振興]]などを目的とした第三セクター会社が設立されており、[[1980年代]]後半以降は[[政策]]的に各地に広がった。 なお、この意味での第三セクターという[[用語]]が日本で公式文書に初めて用いられたのは、[[1973年]]([[昭和]]48年)に[[第2次田中角榮内閣]]の元で[[閣議決定]]された「[[経済社会基本計画]]」である。 === 法人数 === 第三セクター等の数は、2015年1月現在、社団法人・財団法人が3,228法人。会社法法人が2,694法人<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000330457.pdf#search='%E7%AC%AC%E4%B8%89%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC+%E6%95%B0' 総務省 第三セクター等の状況に関する調査結果 H27.1]</ref>。 === 特質 === [[宮木康夫]]による第三セクターの効用{{要出典|date=2009年4月}} * 利益追求を目的とする手法ではなく、もっぱら公共的事業をコストミニマムに実行するための手法である。 * 株式会社形態である利点を活用することにより、第一セクターに係る収支改良(多くの場合赤字軽減)が可能となる。 * 施主(自治体)から付託された仕事(公共領域)を、もっとも効果的・効率的に実行するための、自主性をもったプロ集団である。 === 主な事業分野 === * [[地域おこし|地域]]・[[都市開発]] * 水道事業 - 公共[[上水道|上]][[下水道]]の準コア業務の受託等。例) [[東京水道]]、[[東京都下水道サービス]]、[[大阪水道総合サービス]] * 農林水産 - [[農業]]・[[林業]]の作業受託、[[特産品]][[開発]]・[[製造]]など * [[運輸業|運輸]] - [[鉄道事業者|鉄道]]・[[航空会社|航空]]・[[空港ターミナルビル|空港ビル]]会社・[[ヨットハーバー|マリーナ]]・[[道の駅]]など * [[情報処理]] - 共同コンピュータ事務処理など * 放送 - [[全国独立UHF放送協議会|独立局]]、および[[ケーブルテレビ局]]など * [[産業廃棄物]]処理 * [[学校法人]] - [[加計学園グループ]]のうち順正(旧・高梁)学園、吉備高原学園など * [[観光]]・[[レジャー]]・[[リゾート]] - [[温泉]]・[[健康ランド]]・[[清掃工場]]の余熱利用施設・[[宿泊施設]]など * [[福祉]] - [[社会福祉協議会]] === 日本における第三セクターの現状 === * [[債務]]超過で[[倒産|破綻]]する第三セクターが続出。[[東京都]]や[[大阪市]]の臨海開発関連の会社がその代表格。また、[[2006年]](平成18年)に表面化した[[北海道]][[夕張市]]の[[財政再建団体]]転落には、[[観光]]開発を担う第三セクターの赤字も関係。 * 平成の[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]は、ある一面では市町村行政の総点検というべき作業でもあったが、第三セクターの点検・処理については「先送り」されることが多かった。結局、その進路を根本的に問うことにはならなかった。市町村合併は特例法に定める期限があったことから、市町村合併の成就を優先させた結果、他の自治体の事務にくちばしを挟むのを遠慮した。 * 公共施設の管理委託を受けている第三セクターも多いが、[[指定管理者]]制度の導入においても、住民のサービスの向上・低コスト化といった本質より、当面の処理として既存の委託先に第三セクターを選定した自治体も多く、行政改革が不十分な面がある。しかし、地方財政の逼迫度は増しつつ、行政改革の一つとして第三セクターについても検討が求められる。 * 第三セクターが民間から融資を受ける際、地方公共団体が[[損失補償 (財政援助)|損失補償]]をしている場合があり、破綻後[[債務]]を地方公共団体が引き受けることも。 * 自治体の三セクの整理や廃止の際、資金調達のため「[[第三セクター等改革推進債]]」(三セク債)の債券発行が認められてきたが、[[2013年]]末に[[日本国政府]]は、発行対象を「[[2014年]][[3月]]末までに抜本的改革に着手していること」を条件として追加。619法人が発行対象から外れ、うち395法人は清算も困難となる<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20140210-OYT1T01627.htm 経営不振3セクの2割、395法人が清算も困難] 読売新聞 2014年2月10日</ref>。 == 日本国外での意味 == {{Main|en:Third sector}} [[国際]]的には、第三セクター(サードセクター)とは、NPO、[[市民団体]]その他の民間の非営利団体を示す。 [[英語圏]](特に[[イギリス]])では、NPOや[[慈善団体]]など、[[公共サービス]]を提供する民間団体のことを指す。 *第一セクターが[[公共]]目的のための国や地方自治体、すなわち「'''官'''」が担う部分 *第二セクターが[[営利事業|営利目的]]の私的団体(営利企業)、すなわち「'''私'''」が担う部分 *第三セクターが[[公共]]目的のための市民レベル、すなわち「'''民'''」が担う部分 このような団体は、[[日本]]では'''第四セクター'''と表現することが多い。 == 関連項目 == * [[日本の第三セクター一覧]] * [[公共企業体]] * [[特殊会社]] * [[社団法人]] * [[財団法人]] * [[営団]] * [[PFI]] * [[第三セクター鉄道]] * [[第三セクター等改革推進債]] * [[国策会社]] * [[郷鎮企業]] - 中国版第三セクター * [[公設民営]]・[[指定管理者]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> {{日本の法人}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいさんせくたあ}} [[Category:日本の公企業|*]] [[Category:非営利組織]] [[Category:社会貢献]] [[Category:日本の行政]]
2003-09-08T07:29:09Z
2023-11-30T09:56:23Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:経済システムのサイドバー", "Template:要出典", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:日本の法人", "Template:Normdaten", "Template:Notelist2", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC
15,732
西武球場前駅
西武球場前駅(せいぶきゅうじょうまええき)は、埼玉県所沢市上山口にある、西武鉄道の駅。駅名の由来である西武ドーム(ベルーナドーム)の最寄駅である。 プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場である西武ドーム(命名権名称「ベルーナドーム」)に隣接して立地する、狭山線ならびに山口線「レオライナー」の終点駅である。 開業当初の駅名は村山公園駅(むらやまこうえんえき)であったが、村山貯水池際駅(むらやまちょすいちぎわえき)、村山駅(むらやまえき)、狭山湖駅(さやまこえき)と三度の改称を経て、西武ライオンズ球場(当時)開設に先立つ1979年(昭和54年)3月に現駅名に改称された。 西武ライオンズ球場はその後、ドーム化や命名権取得に伴って名称を複数回変更しているが、当駅の名称は「西武球場前」のまま変更されていない。 当駅は駅舎ならびに各路線のホームが地平に建造されている地上駅であるが、立地する場所の地形の関係から、狭山線における当駅手前の区間は上り勾配を伴う高架構造となっている。 駅ナンバリングは狭山線と山口線で個別に設定され、狭山線はSI41、山口線はSY03となる。 武蔵野鉄道山口線(後の西武狭山線)は、村山貯水池(多摩湖)を中心とした狭山自然公園への観光客輸送を目的として、1929年(昭和4年)5月1日に西所沢駅 - 村山公園駅間が開通し、当駅は山口線の終着駅村山公園駅として同日開業した。開業当初の当駅は西所沢駅から4.8 km地点、村山上貯水池と同下貯水池を区分する堤体寄り、現在の西武第二球場付近に所在した。 当時における都心部から日帰り可能な手軽な観光地の一つであった狭山自然公園への観光輸送を巡っては、(旧)西武鉄道が村山線(現・西武西武園線)「村山貯水池前駅」を、多摩湖鉄道(武蔵野鉄道への合併を経て、現・西武多摩湖線)が「村山貯水池駅」をそれぞれ同時期に開業しており、当時はいずれも別事業者に属した三路線は利用客獲得のため熾烈な争いを繰り広げた。 当駅は1933年(昭和8年)3月に村山貯水池際駅と改称されたのち、日中戦争に端を発する戦局の激化に伴って1941年(昭和16年)4月1日付で村山駅と改称された。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり、前述した各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道多摩湖線「村山貯水池駅」は「狭山公園前駅」にそれぞれ改称が実施された。さらに太平洋戦争勃発に伴って、各事業者が保有する鉄道路線について、軍事輸送上の重要度が低いものは鉄材供出のため不要不急線に指定される例が相次いだが、観光輸送を目的として敷設された山口線も例外ではなく、1944年(昭和19年)2月に不要不急線として休止となり、当駅も営業を休止した。 終戦後の1951年(昭和26年)10月7日付で山口線(西武鉄道の路線としては初代)は「狭山線」と名称変更の上で運行を再開し、当駅も営業を再開した。営業再開に際しては駅を西所沢方へ300 m移設の上、寺社風の重厚な外観が特徴の駅舎を新造し、駅名も狭山湖駅と改称された。なお、運行再開当初の狭山線は非電化路線として竣工し、電化以前の多摩線(現:多摩川線)などで運用された内燃動車(ディーゼルカー)によって運行されたが、翌1952年(昭和27年)3月には再び架線電圧1,500 V仕様で電化され、電車による運行が再開された。また、1959年(昭和34年)12月には当駅の至近に屋内スキー場「狭山スキー場」が開設されたが、同施設を訪れる利用客によって輸送量増加が見込まれたことからホームの拡幅ならびに有効長延長が実施された。さらに1963年(昭和38年)には当駅南方に野球用グランド「西武園球場」が開設されている。 営業再開以降、ユネスコ村や狭山スキー場といった主に近隣のレジャー施設への輸送を担った当駅であったが、1978年(昭和53年)6月に前述「西武園球場」をプロ野球公式試合が開催可能な本格的施設へ改装する工事が開始されたことに伴って、同年11月に西所沢方へさらに300 m移設され、従来の2面2線構造から球場観客輸送を念頭に置いた3面6線構造に拡大した。同球場はその後、福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ球団)を西武鉄道のグループ企業であった国土計画(後のコクド)が買収し、本拠地を福岡県福岡市から移転することが決定したことにより、クラウンライターライオンズ改め西武ライオンズ球団の本拠地球場として使用されることとなった。「西武ライオンズ球場」と命名された同球場の最寄駅となった当駅は、1979年(昭和54年)3月31日の同球場竣工に先立つ同年3月25日付で西武球場前駅と改称された。また、1985年(昭和60年)4月には多摩湖線方面から西武ライオンズ球場へのアクセス改善を目的として、山口線(2代)の新交通システムへの転換ならびに経路変更が実施され、当駅は新たに山口線(2代)の終着駅となった。 2009年(平成21年)4月7日より、1 - 6番ホームの発車メロディを埼玉西武ライオンズの球団応援歌『吠えろライオンズ』に変更した。これは同年の本拠地・西武ドームにおける公式試合開幕戦開催日に合わせ、「ライオンズが“駅をジャック!”」と銘打ったイベントの一環として実施されたものである。2022年(令和4年)7月22日より『地平を駈ける獅子を見た』に変更された。 西武ドームにおける埼玉西武ライオンズ主催の公式試合開催時、ならびに各種イベント開催時においては多数の利用客が当駅を利用する。多数の利用客を迅速かつスムーズに輸送する必要性から、改札口スペースは広く取られており、通常供用される改札口のほか臨時改札口を併設する。また、常設の自動券売機に加えて多客時に乗車券を発売する臨時窓口も設置されている。改札口正面に設置されている狭山線の発車標は、多段表示式のものが採用されている。 狭山線のホームは頭端式構造となっており、ホーム始端部に駅舎、公衆トイレならびに改札口が設置されている。催事輸送に際して増発される臨時列車運行に対応するため、3面のホームと6本の発着番線を有するが、3 - 6番ホームについては臨時ホームとして扱われ、通常ダイヤによる運行時は駅構内南端の1面2線のうち片側の1番ホームのみを使用する。臨時ホームは臨時列車運行時のほか、西武鉄道が主催する各種イベント等のための電車留置にも使用される。また、西武線駅ホームへのホームドア設置の際は、この臨時ホームにホームドア躯体を搬入し、回送されてきた輸送用電車への積み込みを行う。 なお、1 - 6番ホームの発車メロディには、埼玉西武ライオンズの球団応援歌である『吠えろライオンズ』が用いられていたが、現在は『地平を駈ける獅子を見た』に変更されている。 山口線のホームは狭山線ホーム南方に隣接しており、島式1面2線を有する。地形の都合上狭山線ホームより高い場所に位置し、改札口・狭山線ホームからスロープ状の通路を経由して山口線ホームに至る形態である。なお、山口線ホームから直接西武ドームのメインゲート付近へ出られる臨時改札口も存在するが、近年は使用していない。ホームには転落防止柵が設けられている。なお、当駅の東側に山口線の車庫である山口車両基地が存在し、駅を出てすぐに入出庫線が分岐している。 2012年度にトイレの改修工事を行い、年度末までに完了した。 2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は6,450人であり、西武鉄道全92駅中72位。 当駅は西武ドームの最寄駅であることから、埼玉西武ライオンズ主催のプロ野球公式試合開催日やコンサートなどのイベント開催日は非常に混雑する。その一方で、プロ野球のシーズンオフやイベントが全くない時は閑散としている。このため、1日平均乗降人員は同施設における試合やイベントの有無に大きく左右される。 近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。 西武ドームのほか、埼玉西武ライオンズの球団事務所、主に二軍の選手が使用する西武第二球場(命名権名称「CAR3219フィールド」)、室内練習場、選手寮「若獅子寮」など球団に関連する各種施設が数多く存在する。西武ドームの手前には公式グッズショップ「ライオンズチームストア フラッグス」がある。また、かつては当駅東側に西武第三球場も存在したが2003年(平成15年)をもって閉鎖され、設備は西武ドームの駐車場に転用された。 その他、西武ドームに隣接した人工雪による屋内スキー場「狭山スキー場」および「西武ドームテニスコート」が駅の至近に立地している。 埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線を挟んだ駅の北側には狭山不動尊・金乗院(山口観音)のほか、西武系列の植物園「ところざわのゆり園」が存在する。同地はかつて「ユネスコ村」として開園・開発されたものであるが、ユネスコ村は2006年(平成18年)9月末をもって閉園(営業休止)となり、現在はゆり園のみが毎年5月下旬から7月中旬にかけて、期間限定で開園している。 当駅の南側には開業当初の駅名の由来となった村山貯水池(多摩湖)が、西側には現駅名に改称される以前の駅名の由来となった山口貯水池(狭山湖)がそれぞれ存在する。また、これらの周りには水源かん養保安林のほか、ナショナルトラスト運動により保全された森が多く存在しており、当駅北側の「トトロの森1号地」などが代表例となっている。 多摩湖駅や西武園ゆうえんち駅と同様に当駅も都県境の近くに位置しており、西武ドームのすぐ南側は東京都東大和市である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西武球場前駅(せいぶきゅうじょうまええき)は、埼玉県所沢市上山口にある、西武鉄道の駅。駅名の由来である西武ドーム(ベルーナドーム)の最寄駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場である西武ドーム(命名権名称「ベルーナドーム」)に隣接して立地する、狭山線ならびに山口線「レオライナー」の終点駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "開業当初の駅名は村山公園駅(むらやまこうえんえき)であったが、村山貯水池際駅(むらやまちょすいちぎわえき)、村山駅(むらやまえき)、狭山湖駅(さやまこえき)と三度の改称を経て、西武ライオンズ球場(当時)開設に先立つ1979年(昭和54年)3月に現駅名に改称された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "西武ライオンズ球場はその後、ドーム化や命名権取得に伴って名称を複数回変更しているが、当駅の名称は「西武球場前」のまま変更されていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当駅は駅舎ならびに各路線のホームが地平に建造されている地上駅であるが、立地する場所の地形の関係から、狭山線における当駅手前の区間は上り勾配を伴う高架構造となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅ナンバリングは狭山線と山口線で個別に設定され、狭山線はSI41、山口線はSY03となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "武蔵野鉄道山口線(後の西武狭山線)は、村山貯水池(多摩湖)を中心とした狭山自然公園への観光客輸送を目的として、1929年(昭和4年)5月1日に西所沢駅 - 村山公園駅間が開通し、当駅は山口線の終着駅村山公園駅として同日開業した。開業当初の当駅は西所沢駅から4.8 km地点、村山上貯水池と同下貯水池を区分する堤体寄り、現在の西武第二球場付近に所在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当時における都心部から日帰り可能な手軽な観光地の一つであった狭山自然公園への観光輸送を巡っては、(旧)西武鉄道が村山線(現・西武西武園線)「村山貯水池前駅」を、多摩湖鉄道(武蔵野鉄道への合併を経て、現・西武多摩湖線)が「村山貯水池駅」をそれぞれ同時期に開業しており、当時はいずれも別事業者に属した三路線は利用客獲得のため熾烈な争いを繰り広げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当駅は1933年(昭和8年)3月に村山貯水池際駅と改称されたのち、日中戦争に端を発する戦局の激化に伴って1941年(昭和16年)4月1日付で村山駅と改称された。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり、前述した各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道多摩湖線「村山貯水池駅」は「狭山公園前駅」にそれぞれ改称が実施された。さらに太平洋戦争勃発に伴って、各事業者が保有する鉄道路線について、軍事輸送上の重要度が低いものは鉄材供出のため不要不急線に指定される例が相次いだが、観光輸送を目的として敷設された山口線も例外ではなく、1944年(昭和19年)2月に不要不急線として休止となり、当駅も営業を休止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "終戦後の1951年(昭和26年)10月7日付で山口線(西武鉄道の路線としては初代)は「狭山線」と名称変更の上で運行を再開し、当駅も営業を再開した。営業再開に際しては駅を西所沢方へ300 m移設の上、寺社風の重厚な外観が特徴の駅舎を新造し、駅名も狭山湖駅と改称された。なお、運行再開当初の狭山線は非電化路線として竣工し、電化以前の多摩線(現:多摩川線)などで運用された内燃動車(ディーゼルカー)によって運行されたが、翌1952年(昭和27年)3月には再び架線電圧1,500 V仕様で電化され、電車による運行が再開された。また、1959年(昭和34年)12月には当駅の至近に屋内スキー場「狭山スキー場」が開設されたが、同施設を訪れる利用客によって輸送量増加が見込まれたことからホームの拡幅ならびに有効長延長が実施された。さらに1963年(昭和38年)には当駅南方に野球用グランド「西武園球場」が開設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "営業再開以降、ユネスコ村や狭山スキー場といった主に近隣のレジャー施設への輸送を担った当駅であったが、1978年(昭和53年)6月に前述「西武園球場」をプロ野球公式試合が開催可能な本格的施設へ改装する工事が開始されたことに伴って、同年11月に西所沢方へさらに300 m移設され、従来の2面2線構造から球場観客輸送を念頭に置いた3面6線構造に拡大した。同球場はその後、福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ球団)を西武鉄道のグループ企業であった国土計画(後のコクド)が買収し、本拠地を福岡県福岡市から移転することが決定したことにより、クラウンライターライオンズ改め西武ライオンズ球団の本拠地球場として使用されることとなった。「西武ライオンズ球場」と命名された同球場の最寄駅となった当駅は、1979年(昭和54年)3月31日の同球場竣工に先立つ同年3月25日付で西武球場前駅と改称された。また、1985年(昭和60年)4月には多摩湖線方面から西武ライオンズ球場へのアクセス改善を目的として、山口線(2代)の新交通システムへの転換ならびに経路変更が実施され、当駅は新たに山口線(2代)の終着駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)4月7日より、1 - 6番ホームの発車メロディを埼玉西武ライオンズの球団応援歌『吠えろライオンズ』に変更した。これは同年の本拠地・西武ドームにおける公式試合開幕戦開催日に合わせ、「ライオンズが“駅をジャック!”」と銘打ったイベントの一環として実施されたものである。2022年(令和4年)7月22日より『地平を駈ける獅子を見た』に変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "西武ドームにおける埼玉西武ライオンズ主催の公式試合開催時、ならびに各種イベント開催時においては多数の利用客が当駅を利用する。多数の利用客を迅速かつスムーズに輸送する必要性から、改札口スペースは広く取られており、通常供用される改札口のほか臨時改札口を併設する。また、常設の自動券売機に加えて多客時に乗車券を発売する臨時窓口も設置されている。改札口正面に設置されている狭山線の発車標は、多段表示式のものが採用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "狭山線のホームは頭端式構造となっており、ホーム始端部に駅舎、公衆トイレならびに改札口が設置されている。催事輸送に際して増発される臨時列車運行に対応するため、3面のホームと6本の発着番線を有するが、3 - 6番ホームについては臨時ホームとして扱われ、通常ダイヤによる運行時は駅構内南端の1面2線のうち片側の1番ホームのみを使用する。臨時ホームは臨時列車運行時のほか、西武鉄道が主催する各種イベント等のための電車留置にも使用される。また、西武線駅ホームへのホームドア設置の際は、この臨時ホームにホームドア躯体を搬入し、回送されてきた輸送用電車への積み込みを行う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、1 - 6番ホームの発車メロディには、埼玉西武ライオンズの球団応援歌である『吠えろライオンズ』が用いられていたが、現在は『地平を駈ける獅子を見た』に変更されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "山口線のホームは狭山線ホーム南方に隣接しており、島式1面2線を有する。地形の都合上狭山線ホームより高い場所に位置し、改札口・狭山線ホームからスロープ状の通路を経由して山口線ホームに至る形態である。なお、山口線ホームから直接西武ドームのメインゲート付近へ出られる臨時改札口も存在するが、近年は使用していない。ホームには転落防止柵が設けられている。なお、当駅の東側に山口線の車庫である山口車両基地が存在し、駅を出てすぐに入出庫線が分岐している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2012年度にトイレの改修工事を行い、年度末までに完了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は6,450人であり、西武鉄道全92駅中72位。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当駅は西武ドームの最寄駅であることから、埼玉西武ライオンズ主催のプロ野球公式試合開催日やコンサートなどのイベント開催日は非常に混雑する。その一方で、プロ野球のシーズンオフやイベントが全くない時は閑散としている。このため、1日平均乗降人員は同施設における試合やイベントの有無に大きく左右される。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "西武ドームのほか、埼玉西武ライオンズの球団事務所、主に二軍の選手が使用する西武第二球場(命名権名称「CAR3219フィールド」)、室内練習場、選手寮「若獅子寮」など球団に関連する各種施設が数多く存在する。西武ドームの手前には公式グッズショップ「ライオンズチームストア フラッグス」がある。また、かつては当駅東側に西武第三球場も存在したが2003年(平成15年)をもって閉鎖され、設備は西武ドームの駐車場に転用された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その他、西武ドームに隣接した人工雪による屋内スキー場「狭山スキー場」および「西武ドームテニスコート」が駅の至近に立地している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線を挟んだ駅の北側には狭山不動尊・金乗院(山口観音)のほか、西武系列の植物園「ところざわのゆり園」が存在する。同地はかつて「ユネスコ村」として開園・開発されたものであるが、ユネスコ村は2006年(平成18年)9月末をもって閉園(営業休止)となり、現在はゆり園のみが毎年5月下旬から7月中旬にかけて、期間限定で開園している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当駅の南側には開業当初の駅名の由来となった村山貯水池(多摩湖)が、西側には現駅名に改称される以前の駅名の由来となった山口貯水池(狭山湖)がそれぞれ存在する。また、これらの周りには水源かん養保安林のほか、ナショナルトラスト運動により保全された森が多く存在しており、当駅北側の「トトロの森1号地」などが代表例となっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "多摩湖駅や西武園ゆうえんち駅と同様に当駅も都県境の近くに位置しており、西武ドームのすぐ南側は東京都東大和市である。", "title": "駅周辺" } ]
西武球場前駅(せいぶきゅうじょうまええき)は、埼玉県所沢市上山口にある、西武鉄道の駅。駅名の由来である西武ドーム(ベルーナドーム)の最寄駅である。
{{駅情報 |社色 = #36C |文字色 = |駅名 = 西武球場前駅 |画像 = Seibu-kyujyo-mae-STA.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2021年10月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = せいぶきゅうじょうまえ |ローマ字 = Seibuky&#363;j&#333;-mae |電報略号 = |所属事業者= [[西武鉄道]] |所在地 = [[埼玉県]][[所沢市]][[上山口]]2090-3 |座標 = {{coord|35|46|13.45|N|139|25|7.76|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日= [[1929年]]([[昭和]]4年)[[5月1日]]<ref group="注釈">当初は「狭山湖駅」として。[[1979年]](昭和54年)3月に現駅名となる。駅名はその間にも数回変わっており、本文で詳説する。</ref> |廃止年月日= |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面6線(狭山線)<br />1面2線(山口線) |乗車人員 = |乗降人員= <ref group="利用客数" name="seibu2021" />6,450 |統計年度= 2021年<!--リンク不要--> |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{color|#f60|■}}[[西武狭山線|狭山線]] |前の駅1 = SI40 [[下山口駅|下山口]] |駅間A1 = 2.4 |駅間B1 = |次の駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|SI|41|#ff6600|2}} |キロ程1 = 4.2 |起点駅1 = [[西所沢駅|西所沢]] |所属路線2 = {{color|#f33|■}}[[西武山口線|山口線]](レオライナー) |隣の駅2 = |前の駅2 = SY02 [[西武園ゆうえんち駅|西武園ゆうえんち]] |駅間A2 = 2.5 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = {{駅番号r|SY|03|#ff3333|2}} |キロ程2 = 2.8 |起点駅2 = [[多摩湖駅|多摩湖]] |乗換 = |備考 = 1944年(昭和19年)2月に営業休止、1951年(昭和26年)10月に営業再開。 }} '''西武球場前駅'''(せいぶきゅうじょうまええき)は、[[埼玉県]][[所沢市]][[上山口]]にある、[[西武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]。駅名の由来である[[西武ドーム]](ベルーナドーム)の最寄駅である<ref>[https://www.seibulions.jp/stadium/access/index.html#train ベルーナドームへのアクセス](2022年3月1日閲覧)</ref>。 == 概要 == [[日本野球機構|プロ野球]]・[[埼玉西武ライオンズ]]の本拠地球場である西武ドーム([[命名権]]名称「ベルーナドーム」)に隣接して立地する、[[西武狭山線|狭山線]]ならびに[[西武山口線|山口線]]「レオライナー」の[[終着駅|終点駅]]である。 開業当初の駅名は'''村山公園駅'''(むらやまこうえんえき)であったが、'''村山貯水池際駅'''(むらやまちょすいちぎわえき)、'''村山駅'''(むらやまえき)、'''狭山湖駅'''(さやまこえき)と三度の改称を経て、西武ライオンズ球場(当時)開設に先立つ[[1979年]]([[昭和]]54年)3月に現駅名に改称された。 西武ライオンズ球場はその後、ドーム化や命名権取得に伴って名称を複数回変更しているが<ref group="注釈">西武ライオンズ球場→西武ドーム→[[インボイス (企業)|インボイス]]SEIBUドーム→[[アドバンテージ・リソーシング・ジャパン|グッドウィル]]ドーム<!--当時の取得権者へのリンクとする-->→西武ドーム→西武[[プリンスホテル|プリンス]]ドーム→[[メットライフ生命保険|メットライフ]]ドーム→[[ベルーナ]]ドーム</ref>、当駅の名称は「西武球場前」のまま変更されていない。 当駅は駅舎ならびに各路線の[[プラットホーム|ホーム]]が地平に建造されている[[地上駅]]であるが、立地する場所の地形の関係から、狭山線における当駅手前の区間は上り勾配を伴う高架構造となっている<ref name="komatsu2004_1">[https://ci.nii.ac.jp/naid/40002501650 小松丘:西武鉄道の「廃」をさぐる]『[[鉄道ピクトリアル]]』2002年4月号 pp.151 - 153</ref>。 [[駅ナンバリング]]は狭山線と山口線で個別に設定され、狭山線は'''SI41'''、山口線は'''SY03'''となる。 == 歴史 == [[西武鉄道#武蔵野鉄道|武蔵野鉄道]]山口線(後の西武狭山線)は、[[村山貯水池]](多摩湖)を中心とした[[東京都立狭山自然公園|狭山自然公園]]への観光客輸送を目的として<ref name="aoki1992_1">「西武鉄道のあゆみ - その路線網の拡大と地域開発」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号 p.106</ref>、[[1929年]](昭和4年)5月1日に西所沢駅 - [[村山公園駅]]間が開通し、当駅は山口線の終着駅'''村山公園駅'''として同日開業した。開業当初の当駅は西所沢駅から4.8&nbsp;[[キロメートル|km]]地点、村山上貯水池と同下貯水池を区分する堤体寄り、現在の西武第二球場付近に所在した<ref name="masui1992_1">「西武鉄道 線路・駅の移り変わり」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号 pp.138 - 139</ref>。 当時における都心部から日帰り可能な手軽な観光地の一つであった狭山自然公園への観光輸送を巡っては、(旧)西武鉄道が村山線(現・[[西武西武園線]])「[[村山貯水池駅|村山貯水池前駅]]」を、多摩湖鉄道(武蔵野鉄道への合併を経て、現・[[西武多摩湖線]])が「[[多摩湖駅|村山貯水池駅]]」をそれぞれ同時期に開業しており、当時はいずれも別事業者に属した三路線は利用客獲得のため熾烈な争いを繰り広げた<ref>「西武鉄道のあゆみ - その路線網の拡大と地域開発」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号 p.111</ref>。 当駅は[[1933年]](昭和8年)3月に'''村山貯水池際駅'''と改称されたのち<ref name="komatsu2004_1"/>、[[日中戦争]]に端を発する戦局の激化に伴って[[1941年]](昭和16年)4月1日付で'''村山駅'''と改称された<ref name="komatsu2004_1"/>。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり<ref name="komatsu2004_2">[https://ci.nii.ac.jp/naid/40002501650 小松丘:西武鉄道の「廃」をさぐる]『鉄道ピクトリアル』2002年4月号 p.154</ref>、前述した各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道多摩湖線「村山貯水池駅」は「狭山公園前駅」にそれぞれ改称が実施された<ref name="komatsu2004_2"/>。さらに[[太平洋戦争]]勃発に伴って、各事業者が保有する鉄道路線について、軍事輸送上の重要度が低いものは鉄材供出のため[[不要不急線]]に指定される例が相次いだが、観光輸送を目的として敷設された山口線<ref name="aoki1992_1"/>も例外ではなく、[[1944年]](昭和19年)2月に不要不急線として休止となり<ref name="aoki1992_2">「西武鉄道のあゆみ - その路線網の拡大と地域開発」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号 pp.112 - 113</ref>、当駅も営業を休止した<ref name="komatsu2004_1"/>。 終戦後の[[1951年]](昭和26年)10月7日付で山口線(西武鉄道の路線としては初代)は「狭山線」と名称変更の上で運行を再開し、当駅も営業を再開した<ref name="aoki1992_2"/>。営業再開に際しては駅を西所沢方へ300&nbsp;[[メートル|m]]移設の上、寺社風の重厚な外観が特徴の駅舎を新造し<ref name="komatsu2004_1"/>、駅名も'''狭山湖駅'''と改称された。なお、運行再開当初の狭山線は非電化路線として竣工し<ref name="masui1960">「私鉄車両めぐり(39) 西武鉄道 1」 (1960) p.42</ref>、電化以前の多摩線(現:[[西武多摩川線|多摩川線]])などで運用された[[気動車|内燃動車]](ディーゼルカー)によって運行されたが、翌[[1952年]](昭和27年)3月には再び架線電圧1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]仕様で電化され<ref name="masui1960"/><ref group="注釈">多摩湖鉄道買収区間を除く旧武蔵野鉄道の各路線はいずれも架線電圧1,200&nbsp;V仕様で電化されており、(現)西武鉄道成立後の1950年(昭和25年)7月1日付で全線1,500&nbsp;V昇圧が実施されていることから、運行休止以前の「武蔵野鉄道山口線」は架線電圧1,200&nbsp;V仕様であったと推定される。</ref>、[[電車]]による運行が再開された。また、[[1959年]](昭和34年)12月には当駅の至近に屋内スキー場「狭山スキー場」が開設されたが、同施設を訪れる利用客によって輸送量増加が見込まれたことからホームの拡幅ならびに有効長延長が実施された<ref name="masui1992_2">「西武鉄道 線路・駅の移り変わり」『鉄道ピクトリアル』1992年5月号 p.80</ref>。さらに[[1963年]](昭和38年)には当駅南方に[[野球]]用グランド「西武園球場」が開設されている。 営業再開以降、[[ユネスコ村]]や狭山スキー場といった主に近隣のレジャー施設への輸送を担った当駅であったが、[[1978年]](昭和53年)6月に前述「西武園球場」をプロ野球公式試合が開催可能な本格的施設へ改装する工事が開始されたことに伴って、同年11月に西所沢方へさらに300&nbsp;m移設され、従来の2面2線構造から球場観客輸送を念頭に置いた3面6線構造に拡大した<ref name="komatsu2004_1"/>。同球場はその後、[[福岡野球|福岡野球株式会社]](クラウンライターライオンズ球団)を西武鉄道のグループ企業であった国土計画(後の[[コクド]])が買収し、本拠地を[[福岡県]][[福岡市]]から移転することが決定したことにより、クラウンライターライオンズ改め西武ライオンズ球団の本拠地球場として使用されることとなった。「西武ライオンズ球場」と命名された同球場の最寄駅となった当駅は、[[1979年]](昭和54年)3月31日の同球場竣工<ref>[https://web.archive.org/web/20100502031046/http://www.seibudome.jp/annai/history.html 西武ドームの歴史] - 西武ドーム公式 2012-03-04閲覧 ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存</ref>に先立つ同年3月25日付で'''西武球場前駅'''と改称された<ref name="komatsu2004_1"/>。また、[[1985年]](昭和60年)4月には多摩湖線方面から西武ライオンズ球場へのアクセス改善を目的として、[[西武山口線|山口線(2代)]]の[[新交通システム]]への転換ならびに経路変更が実施され<ref name="aoki1992_2"/>、当駅は新たに山口線(2代)の終着駅となった。 [[2009年]]([[平成]]21年)4月7日より、1 - 6番ホームの発車メロディを埼玉西武ライオンズの球団応援歌『吠えろライオンズ』に変更した。これは同年の本拠地・西武ドームにおける公式試合開幕戦開催日に合わせ、「ライオンズが“駅をジャック!”」と銘打ったイベントの一環として実施されたものである<ref name="lions09"/>。[[2022年]]([[令和]]4年)7月22日より『[[地平を駈ける獅子を見た]]』に変更された。 <gallery widths="480px" heights="236px"> Changes of the the Station in the Murayama Reservoir.gif|村山貯水池(多摩湖)周辺に展開する鉄道路線・駅の変遷<ref name="地図帳">{{Cite book|和書|author= 今尾恵介(監)|title= 日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2|publisher= 新潮社|date= 2008-08|isbn=978-4107900227|pages=52-53頁}}</ref><ref name="2021変更">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314182252/https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|language=日本語|title=西武遊園地駅、40年ぶり「多摩湖駅」に 駅そばの西武園中央口閉鎖で|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2020-03-05|accessdate=2021-11-14|archivedate=2020-03-14}}</ref> </gallery> === 年表 === * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[5月1日]]:武蔵野鉄道山口線の'''村山公園駅'''として開業。 * [[1933年]](昭和8年)[[3月1日]]:'''村山貯水池際駅'''と改称。 * [[1941年]](昭和16年)[[4月1日]]:戦局激化に伴い、'''村山駅'''と改称。 * [[1944年]](昭和19年)[[2月28日]]:山口線が[[不要不急線]]に指定され、営業休止。 * [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]:武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道を吸収合併し、(現)西武鉄道成立<ref group="注釈">当初の社名は「西武農業鉄道」。[[1946年]](昭和21年)11月15日付で現社名へ改称。</ref>。西武鉄道山口線(初代)の駅となる。 * [[1951年]](昭和26年)[[10月7日]]:営業再開。西所沢方へ300m移設の上、'''狭山湖駅'''と改称。同日付で路線名称も「狭山線」と変更。 * [[1959年]](昭和34年)[[12月22日]]:狭山スキー場の開業に合わせ、ホームの延長・拡幅を実施。 * [[1978年]](昭和53年)[[11月30日]]:西武ライオンズ球場の開業準備に伴い、西所沢方へさらに300m移設。頭端式ホーム3面6線に拡張される。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月25日]]:西武ライオンズ球場の開場を機に、'''西武球場前駅'''と改称。 * [[1985年]](昭和60年)[[4月25日]]:山口線(2代)の[[新交通システム]]転換・経路変更に伴って、山口線用の7・8番ホーム供用開始。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[6月7日]]:自動改札機導入。 * [[2002年]](平成14年)[[3月6日]]:改札口有人通路をカウンター式に改装し、売店を新設。自動改札機・自動券売機を移設。 * [[2006年]](平成18年)[[9月1日]]:特急「[[ちちぶ (列車)#ドーム|ドーム]]」運行に伴い、[[特別急行券|特急券]]の窓口発売を開始。 * [[2009年]](平成21年)[[4月7日]]:1 - 6番線の発車メロディを『吠えろライオンズ』に変更。 * [[2022年]]([[令和]]4年)[[7月22日]]:1 - 6番線の発車メロディを『[[地平を駈ける獅子を見た]]』に変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20220711_sayama_melody.pdf|title=2022年7月22日(金)より狭山線3駅の発車メロディを埼玉西武ライオンズゆかりの楽曲に変更します!|publisher=西武鉄道株式会社・株式会社西武ライオンズ|date=2022-7-11|accessdate=2022-7-22}}</ref>。 == 駅構造 == 西武ドームにおける埼玉西武ライオンズ主催の公式試合開催時、ならびに各種イベント開催時においては多数の利用客が当駅を利用する。多数の利用客を迅速かつスムーズに輸送する必要性から、[[改札|改札口]]スペースは広く取られており、通常供用される改札口のほか臨時改札口を併設する。また、常設の[[自動券売機]]に加えて多客時に[[乗車券]]を発売する臨時窓口も設置されている。改札口正面に設置されている狭山線の[[発車標]]は、多段表示式のものが採用されている。 狭山線のホームは[[頭端式ホーム|頭端式構造]]となっており、ホーム始端部に駅舎、[[便所|公衆トイレ]]ならびに改札口が設置されている<ref name="kyujomaemap">[https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/seibukyujo-mae/ 西武球場前駅 駅構内マップ] 西武鉄道公式サイト(2021年10月9日7閲覧)</ref>。催事輸送に際して増発される臨時列車運行に対応するため、3面のホームと6本の発着番線を有するが、3 - 6番ホームについては臨時ホームとして扱われ、通常ダイヤによる運行時は駅構内南端の1面2線のうち片側の1番ホームのみを使用する<ref name="kyujomaemap"/><ref>同様の駅構造は、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[志摩線]]の[[賢島駅]]においてもみられる。</ref>。臨時ホームは臨時列車運行時のほか、西武鉄道が主催する各種イベント等のための電車留置にも使用される。また、西武線駅ホームへのホームドア設置の際は、この臨時ホームにホームドア躯体を搬入し、回送されてきた輸送用電車への積み込みを行う。 なお、1 - 6番ホームの[[発車メロディ]]には、埼玉西武ライオンズの球団[[応援歌]]である『吠えろライオンズ』が用いられていたが<ref name="lions09">[http://www.seibulions.jp/news/detail/1435.html ライオンズが“駅をジャック!”]埼玉西武ライオンズ公式サイト(2009年4月5日)2021年10月9日閲覧</ref>、現在は『地平を駈ける獅子を見た』に変更されている。 山口線のホームは狭山線ホーム南方に隣接しており、[[島式ホーム|島式]]1面2線を有する。地形の都合上狭山線ホームより高い場所に位置し、改札口・狭山線ホームから[[斜路|スロープ]]状の通路を経由して山口線ホームに至る形態である<ref name="kyujomaemap"/>。なお、山口線ホームから直接西武ドーム<!--出典では「野球場」-->のメインゲート付近へ出られる臨時改札口も存在するが<ref>{{Cite journal|和書|title=西武山口線新交通システム|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1985-07-01|volume=35|issue=第7号(通巻第450号)|pages=84-85|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、近年は使用していない<!--公式サイト構内図に記載がない-->。ホームには転落防止柵が設けられている。なお、当駅の東側に山口線の車庫である[[山口車両基地]]が存在し、駅を出てすぐに入出庫線が分岐している。 2012年度にトイレの改修工事を行い<ref>[https://web.archive.org/web/20160309075617/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/05/15/20120515setsutou2012.pdf NEWS RELASE 第12‐014号:2012年度 鉄道事業設備投資計画 安全対策、サービス向上、環境対策、輸送力増強などに190億円] 西武鉄道(2012年5月15日)[[インターネットアーカイブ]]内の残存資料を2021年10月9日閲覧</ref>、年度末までに完了した。 === のりば === {| class="wikitable" ! ホーム !! 路線 !! 行先 !! 備考 |- ! 1・2 | rowspan="2"|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 狭山線 | rowspan="2"|[[西所沢駅|西所沢]]・[[所沢駅|所沢]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新木場駅|新木場]]・[[横浜駅|横浜]]方面 | |- ! 3 - 6 | 臨時ホーム |- ! 7・8 | [[File:SeibuYamaguchi.svg|18px|SY]] 山口線(レオライナー) | [[西武園ゆうえんち駅|西武園ゆうえんち]]・[[多摩湖駅|多摩湖]]方面 | |} * 通常ダイヤにおける狭山線は、[[西所沢駅]]折り返しの区間列車および[[西武池袋線|池袋線]][[池袋駅]]発着(一部[[所沢駅]]発着もあり)の直通列車のみの運行となるが、臨時列車増発時には[[西武新宿線|新宿線]]方面および[[新木場駅|新木場]]([[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])・横浜・渋谷方面([[元町・中華街駅]]発着:[[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[東急電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]])からの直通列車が運行される。 <gallery> Seibu-kyujyo-mae-STA Gate.jpg|改札口(2021年10月) Seibu-kyujyo-mae-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム(2021年10月) Seibu-kyujyo-mae-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム(2021年10月) Seibu-kyujyo-mae-STA Home5-6.jpg|5・6番線ホーム(2021年10月) Seibu-kyujyo-mae-STA Home7-8.jpg|7・8番線ホーム(2021年10月) </gallery> === 配線図 === {{駅配線図|image=Rail Tracks map Seibukyūjō-mae Station.svg |title=西武球場前駅 構内配線略図 |width=300px |left=西所沢 |left-valign=middle |right=多摩湖 |right-valign=top |source=<ref>[[電気車研究会]]、『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻第884号 2013年12月 臨時増刊号 「特集 - 西武鉄道」、巻末折込「西武鉄道線路略図」</ref><ref>{{Cite book|和書|author= 川島令三|title= 中部ライン 全線・全駅・全配線 第11巻 埼玉南部・東京多摩北部|publisher= 講談社|date= 2011-02|isbn= 978-4062700719|page=12}}</ref><ref>[https://www.seiburailway.jp/railway/station/seibukyujo-mae/ 西武球場前駅 :西武鉄道Webサイト]</ref> |note=}} == 利用状況 == [[2021年]](令和3年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''6,450人'''であり、西武鉄道全92駅中72位<ref group="利用客数" name="seibu2021" />。 当駅は西武ドームの最寄駅であることから、埼玉西武ライオンズ主催のプロ野球公式試合開催日やコンサートなどのイベント開催日は非常に混雑する。その一方で、プロ野球のシーズンオフやイベントが全くない時は閑散としている。このため、1日平均乗降人員は同施設における試合やイベントの有無に大きく左右される。 近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。 <!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right;" |- |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/data/tokei/index.html 所沢市統計書] - 所沢市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref> !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |11,286 |5,671<!--2,069,812÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 150ページ</ref>--> |- |1991年(平成{{0}}3年) |11,435 |5,718<!--2,092,879÷366--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 150ページ</ref>--> |- |1992年(平成{{0}}4年) |10,661 |5,286<!--1,929,221÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 160ページ</ref>--> |- |1993年(平成{{0}}5年) |11,027 |5,490<!--2,003,989÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 164ページ</ref>--> |- |1994年(平成{{0}}6年) |10,943 |5,498<!--2,006,857÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 164ページ</ref>--> |- |1995年(平成{{0}}7年) |9,945 |4,921<!--1,801,255÷366--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 170ページ</ref>--> |- |1996年(平成{{0}}8年) |8,947 |4,589<!--1,674,868÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 170ページ</ref>--> |- |1997年(平成{{0}}9年) |8,332 |4,359<!--1,590,914÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 176ページ</ref>--> |- |1998年(平成10年) |8,444 |4,677<!--1,706,945÷365--> |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 184ページ</ref>--> |- |1999年(平成11年) |9,369 |5,400<!--1,976,407÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |8,499 |4,752<!--1,734,412÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |8,056 |4,400<!--1,605,908÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref name="seibu2002-2006">{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121101063612/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|title= 「駅別乗降人員(一日平均)の推移」No.1 2002年度〜2006年度・池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線・山口線|archivedate=2012-11-01|accessdate=2021-07-30|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>8,334 |4,752<!--1,668,834÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref name="seibu2002-2006" />7,782 |4,207<!--1,539,829÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref name="seibu2002-2006" />8,283 |4,516<!--1,648,167÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref name="seibu2002-2006" />7,797 |4,228<!--1,543,217÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref name="seibu2002-2006" />7,970 |4,326<!--1,578,893÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |7,604 |3,979<!--1,456,368÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |7,975 |4,137<!--1,510,120÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |8,565 |4,432<!--1,617,835÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |8,723 |4,332<!--1,581,070÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |9,356 |4,682<!--1,713,731÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |10,480 |5,210<!--1,901,593÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |10,669 |5,291<!--1,931,321÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |9,964 |4,967<!--1,813,095÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |10,286 |5,112<!--1,870,845÷366--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |9,575 |4,755<!--1,735,517÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |10,874 |5,397<!--1,969,799÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |13,869 |6,905<!--2,520,351÷365--> |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |13,830 |6,872<!--2,515,151÷366--> |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="利用客数" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月20日閲覧</ref>4,419 |2,196<!--801,598÷365--> |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="利用客数" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>6,450 | | |} == 駅周辺 == {{See also|上山口}} 西武ドームのほか、埼玉西武ライオンズの球団事務所、主に二軍の選手が使用する[[西武第二球場]](命名権名称「CAR3219フィールド」)、室内練習場、選手寮「若獅子寮」など球団に関連する各種施設が数多く存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/dome_renewal/|title=球場改修|website=[[埼玉西武ライオンズ]]|accessdate=2022-08-24}}</ref>。西武ドームの手前には公式グッズショップ「ライオンズチームストア フラッグス」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/goods/lions_store/#flags|title=ライオンズストア案内|website=埼玉西武ライオンズ|accessdate=2022-08-24}}</ref>。また、かつては当駅東側に[[西武第三球場]]も存在したが[[2003年]](平成15年)をもって閉鎖され、設備は西武ドームの駐車場に転用された。 その他、西武ドームに隣接した[[雪#人工雪|人工雪]]による屋内スキー場「[[狭山スキー場]]」<ref>{{PDFlink|[http://www.sayama-ski.jp/pdf/bycar_parking.pdf 有料駐車場のご案内]}} - 狭山スキー場公式 2012-03-04閲覧</ref>および「西武ドームテニスコート」が駅の至近に立地している。 [[埼玉県道・東京都道55号所沢武蔵村山立川線|埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線]]を挟んだ駅の北側には[[狭山不動尊]]・[[金乗院 (所沢市)|金乗院]](山口観音)のほか、西武系列の植物園「[[ところざわのゆり園]]」が存在する。同地はかつて「[[ユネスコ村]]」として開園・開発されたものであるが、ユネスコ村は[[2006年]](平成18年)9月末をもって閉園(営業休止)となり、現在はゆり園のみが毎年5月下旬から7月中旬にかけて、期間限定で開園している<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/enjoy/rec/yurien/index.html ゆり園] - 西武鉄道公式Web 2012-03-04閲覧</ref>。 当駅の南側には開業当初の駅名の由来となった[[村山貯水池]](多摩湖)が、西側には現駅名に改称される以前の駅名の由来となった[[山口貯水池]](狭山湖)がそれぞれ存在する。また、これらの周りには[[水源かん養保安林]]のほか、[[ナショナルトラスト運動]]により保全された森が多く存在しており、当駅北側の「[[トトロの森]]1号地」などが代表例となっている。 [[多摩湖駅]]や[[西武園ゆうえんち駅]]と同様に当駅も都県境の近くに位置しており、西武ドームのすぐ南側は[[東京都]][[東大和市]]である。 {{multiple image | align = left | image1 = Seibu Dome baseball stadium - 01.jpg | width1 = 220 | caption1 = 西武ドーム | image2 = Unesco-Mura Yurien 0806a.jpg | width2 = 176 | caption2 = ゆり園 | image3 = Sayama Fudosōn hatsumōde 2007-01-01.jpg | width3 = 176 | caption3 = 狭山不動尊 | image4 = Sayama-lake.JPG | width4 = 201 | caption4 = 山口貯水池(狭山湖) }} {{clear}} == バス路線 == * [[西武バス]] ** ([[西武バス立川営業所#ベルーナドーム線|系統番号なし]])[[上北台駅]]・[[玉川上水駅]]経由 [[立川駅|立川駅北口]]行<ref>[http://www.seibubus.co.jp/whatsNew/news20140905/20140905.pdf 2014.09.05 西武球場前→上北台駅・立川駅北口行き運行開始のお知らせ]</ref> - 芋窪・奈良橋経由、もしくは直通便の2系統 *: 2023年シーズンの運行は、土・日祝日の一軍公式戦開催日のみの臨時運行。試合開始時刻に合わせて運行時刻が変更される。 *: 2023年シーズンより、のりばをブルーパーキング内に変更している<ref>[https://www.seibubus.co.jp/sp/news/post-456.html 西武球場線 「西武球場前」のりば変更のお知らせ]</ref>。 == 隣の駅 == ; 西武鉄道 : [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 狭山線 :* {{color|#f33|■}}臨時特急「[[ちちぶ (列車)#ドーム|ドーム]]」発着駅<!--有料特急の隣駅は記載しない--> :: {{color|#f60|■}}急行・{{color|#0cf|■}}快速・{{color|#0c9|■}}準急・{{color|#999|■}}各駅停車(急行と快速は野球開催時のみ運転) ::: [[下山口駅]] (SI40) - '''西武球場前駅 (SI41)''' : [[File:SeibuYamaguchi.svg|18px|SY]] 山口線(レオライナー) ::: [[西武園ゆうえんち駅]] (SY02) - ([[東中峯信号場]]) - '''西武球場前駅 (SY03)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"|30em}} == 参考文献 == 『[[鉄道ピクトリアル]]』[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] * 益井茂夫「私鉄車両めぐり(39) 西武鉄道 1」 1960年6月(通巻107)号 pp.41 - 48 * [[中川浩一]]「私鉄高速電車発達史 17」 1968年5月(通巻209)号 pp.35 - 38 * 中川浩一「私鉄高速電車発達史 21」1969年3月(通巻221)号 pp.39 - 42 * 中川浩一「西武鉄道の系譜」 1969年11月(通巻230)号 pp.19 - 23 * [[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]「西武鉄道のあゆみ - その路線網の拡大と地域開発」 1992年5月(通巻560)号 pp.97 - 115 * 益井茂夫「西武鉄道 線路・駅の移り変わり」 1992年5月(通巻560)号 pp.136 - 149 * 小松丘:西武鉄道の「廃」をさぐる 2002年4月(通巻716)号 pp.147 - 159 == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu-Kyūjō-mae Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[武蔵大和駅|村山貯水池駅(仮)]]・[[多摩湖駅|村山貯水池駅(初代)]] - 多摩湖鉄道によって開業した、村山貯水池(多摩湖)に隣接する駅。 * [[村山貯水池駅|村山貯水池前駅・村山貯水池駅(2代)]] - (旧)西武鉄道によって開業した、村山貯水池(多摩湖)に隣接する駅。 == 外部リンク == * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=seibukyujo-mae}} {{西武狭山線}} {{西武山口線}} {{Good article}} {{デフォルトソート:せいふきゆうしようまえ}} [[Category:所沢市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 せ|いふきゆうしようまえ]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]] [[Category:1929年開業の鉄道駅]] [[Category:埼玉西武ライオンズ|せいふきゆうしようまええき]] [[Category:狭山丘陵|せいふきゆうしようまええき]]
2003-09-08T07:33:41Z
2023-12-02T08:22:01Z
false
false
false
[ "Template:駅配線図", "Template:Clear", "Template:Color", "Template:Cite news", "Template:PDFlink", "Template:Commonscat", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Cite press release", "Template:Good article", "Template:0", "Template:See also", "Template:Multiple image", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite web", "Template:Wayback", "Template:西武狭山線", "Template:駅情報", "Template:外部リンク/西武鉄道駅", "Template:西武山口線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E7%90%83%E5%A0%B4%E5%89%8D%E9%A7%85
15,736
晴明神社
晴明神社(せいめいじんじゃ)は、京都市上京区晴明町にある神社。安倍晴明を主神とし、倉稲魂命を合祀した。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。旧社格は村社。 寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となる。また、隣接して千利休の屋敷が設けられていた。 幕末には安政元年(1854年)の京都大火と天明の大火により、社記を焼失し、神社の詳しい概要などが不明になってしまった。 幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われている。明治時代になると村社に列せられた。 1950年(昭和25年)には堀川通に面するように境内地が拡張されている。 平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年(平成17年)には安倍晴明千年祭が行われた。 2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調され、安政元年(1854年)に土御門晴雄により奉納されたものを忠実に再現したものとなった。 一の鳥居の社号額には五芒星の社紋が描かれている。 本殿の北には、晴明井といわれる井戸があり、ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力より、湧き出たといわれ、無病息災のご利益があるといわれている。 伝承によれば千利休が茶会において、この井戸から汲んだ水を沸かし、茶の湯として利用していたといわれ、豊臣秀吉もその茶を服されたと伝えられている。 この井戸は五芒星(晴明桔梗)を描き、その取水口がその星型の頂点の一つにあり、立春には、晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが、慣わしとなっている。 神木 末社の前には、周りを木製のベンチで囲われた神木があり、樹齢は300年を超えており静かに手を当て、お祈りをするとご利益にあやかれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "晴明神社(せいめいじんじゃ)は、京都市上京区晴明町にある神社。安倍晴明を主神とし、倉稲魂命を合祀した。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。旧社格は村社。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となる。また、隣接して千利休の屋敷が設けられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "幕末には安政元年(1854年)の京都大火と天明の大火により、社記を焼失し、神社の詳しい概要などが不明になってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われている。明治時代になると村社に列せられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)には堀川通に面するように境内地が拡張されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年(平成17年)には安倍晴明千年祭が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調され、安政元年(1854年)に土御門晴雄により奉納されたものを忠実に再現したものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一の鳥居の社号額には五芒星の社紋が描かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本殿の北には、晴明井といわれる井戸があり、ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力より、湧き出たといわれ、無病息災のご利益があるといわれている。", "title": "境内" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "伝承によれば千利休が茶会において、この井戸から汲んだ水を沸かし、茶の湯として利用していたといわれ、豊臣秀吉もその茶を服されたと伝えられている。", "title": "境内" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この井戸は五芒星(晴明桔梗)を描き、その取水口がその星型の頂点の一つにあり、立春には、晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが、慣わしとなっている。", "title": "境内" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "神木", "title": "境内" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "末社の前には、周りを木製のベンチで囲われた神木があり、樹齢は300年を超えており静かに手を当て、お祈りをするとご利益にあやかれる。", "title": "境内" } ]
晴明神社(せいめいじんじゃ)は、京都市上京区晴明町にある神社。安倍晴明を主神とし、倉稲魂命を合祀した。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。旧社格は村社。
{{otheruses|上京区の神社|その他の「晴明神社」|安倍晴明#安倍晴明の所縁}} {{神社 |名称=晴明神社 |画像=[[ファイル:Seimei Jinja, Worship Place and Main Sanctuary 002.jpg|250px|社殿]]<br />拝所・本殿 {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}} |所在地=[[京都府]][[京都市]][[上京区]][[堀川通]]一条上る晴明町806-1 |位置={{coord|35|01|40|N|135|45|04|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}} |祭神=[[安倍晴明]]御霊神 |創建=[[寛弘]]4年([[1007年]]) |社格=旧[[村社]] |例祭=9月[[秋分]]日(晴明祭) }} [[File:Seimei Jinja, First torii gate 001.jpg|thumb|境内入り口の一之鳥居]] '''晴明神社'''(せいめいじんじゃ)は、[[京都市]][[上京区]]晴明町にある[[神社]]。[[安倍晴明]]を[[主神]]とし、[[倉稲魂命]]を[[合祀]]した。<ref>{{Cite book|和書 |title=京都大事典 |date=11月12日 |year=昭和59年 |publisher=株式会社淡交社 |page=544}}</ref>[[一条戻橋]]のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。旧[[社格]]は村社。 == 歴史 == [[寛弘]]2年([[1005年]])に晴明が亡くなると、その時の[[天皇]][[一条天皇]]は晴明の遺業を賛え、晴明は[[稲荷神]]の生まれ変わりであるとして、寛弘4年([[1007年]])、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は[[堀川通]]、西は[[黒門通]]、北は[[元誓願寺通]]、南は[[中立売通]]まであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や[[豊臣秀吉]]の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となる。また、隣接して[[千利休]]の屋敷が設けられていた。 [[幕末]]には[[安政]]元年([[1854年]])の京都大火と[[天明の大火]]により、社記を焼失し、神社の詳しい概要などが不明になってしまった。<ref>{{Cite book|和書 |title=京都名勝誌 |year=昭和3年 |publisher=京都市 |page=315}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=京都坊目誌 上京之部 乾 上巻之六-十一 |year=大正4年 |publisher=平安考古学会 |page=12}}</ref> [[幕末]]以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われている。[[明治]]時代になると[[村社]]に列せられた。 [[1950年]]([[昭和]]25年)には堀川通に面するように境内地が拡張されている。 [[平成]]以降、[[漫画]]化・[[映画]]化もされた[[夢枕獏]]の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる[[2005年]](平成17年)には安倍晴明千年祭が行われた。 [[2017年]](平成29年)に二の鳥居の社号額が新調され、[[安政]]元年([[1854年]])に[[土御門晴雄]]により奉納されたものを忠実に再現したものとなった。 一の鳥居の社号額には五芒星の社紋が描かれている。 == 祭神 == * 主祭神 - [[安倍晴明]]御霊神 == 境内 == [[ファイル:晴明神社四神門.jpg|サムネイル|晴明神社四神門]] * 本殿 * 拝所 * 三社合祀社:斎[[稲荷社]] - 祭神:[[ウカノミタマ|宇迦之御魂大神]]、[[天満社]] - 祭神:[[菅原道真]]、地主社 - 祭神:[[地主神]] * [[安倍晴明]]の像 * 社務所 * 絵馬舎 * 四神門 * [[一条戻橋]] - [[1995年]]([[平成]]7年)に掛けなおされる以前の一条戻橋の親柱や部材を使用して作られた小さな一条戻橋。 * [[式神]]像 - 戻橋ゆかりの式神の石像。 * [[神木]] === 晴明井 === [[File:Seimei Jinja, Lantern and Main Gate wiyh Five-pointed Star of Shrine Crest 001.jpg|thumb|社紋の五芒星が描かれた提灯と四神門]]本殿の北には、晴明井といわれる[[井戸]]があり、ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の[[陰陽道]]の霊力より、湧き出たといわれ、無病息災のご利益があるといわれている<ref name="eee!?">小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.207 ISBN 9784569616186</ref>。 伝承によれば[[千利休]]が[[茶会]]において、この井戸から汲んだ水を沸かし、[[茶の湯]]として利用していたといわれ、[[豊臣秀吉]]もその[[日本茶|茶]]を服されたと伝えられている<ref name="eee!?"/>。 この井戸は[[五芒星]](晴明[[桔梗紋|桔梗]])を描き、その取水口がその[[スター (記号)|星型]]の頂点の一つにあり、[[立春]]には、晴明神社の[[神職]]がその晴明井の上部を回転させ、その年の[[恵方]]に取水口を向けるのが、慣わしとなっている。 ===神木=== [[摂末社|末社]]の前には、周りを木製のベンチで囲われた[[神木]]があり、樹齢は300年を超えており静かに手を当て、お祈りをするとご利益にあやかれる。<ref>{{Cite web |title=陰陽師を祀るパワースポット!「晴明神社」の見どころを徹底解説 {{!}} TABI CHANNEL |url=https://tabichannel.com/article/796/seimeijinja |website=tabichannel.com |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref> <gallery> ファイル:Seimei Jinja, Worship Place and Main Sanctuary 001.jpg|拝所、本殿、境内社(社殿右)、清明像(左)、厄除桃(右) ファイル:Seimei Jinja, Auxiliary Inari Shrine, Tenman-gu Shrine and Jishu Shrine 001.jpg|境内社:斎稲荷、天満社、地主社 ファイル:Seimei Jinja, Statue of Abe-no Seimei 001.jpg|安倍晴明像 ファイル:Seimei Jinja, Seimei Well 001.jpg|晴明井 ファイル:Seimei Jinja, Amulet Peach 001.jpg|厄除桃 ファイル:Seimei Jinja, Komainu and Memorial stone 001.jpg|千利休屋敷跡碑 ファイル:Seimei Shrine-3539.jpg|神木 ファイル:Seimei Jinja, Ichijo-Modori Bridge 001.jpg|一條戻橋 ファイル:Seimei Jinja, Shrine Office 001.jpg|社務所 </gallery> == 祭事 == * 1月1日:新年祭 * 2月節分:節分星祭 * 6月26日:火災除祈願祭 * 9月22・23日:晴明神社祭<ref>{{Cite book|和書 |title=京都大事典 |date=11月12日 |year=昭和59年 |publisher=株式会社淡交社 |page=544}}</ref> ** 前日:宵宮祭 ** 湯立神宮の奉納、迎え提灯の氏子町内行列 ** 当日:例祭、神幸祭 ** 少年鼓笛隊を先駆とし、菊鉾、扇鉾、清風稚児、八乙女などが供奉する神興渡御 * 9月26日:嵯峨墓所祭 * 11月23日:御火焚祭 == 交通 == * 最寄駅:[[京都市営地下鉄烏丸線]][[今出川駅]]6番出口より西に徒歩12分 * [[京福電鉄]][[北野白梅町]]より徒歩25分 * [[京阪電気鉄道|京阪電鉄]][[出町柳駅]]より徒歩30分 * [[京都市営バス]]「一条戻橋・晴明神社前」([[京都市営バス西賀茂営業所#9号系統|9]]・[[京都市営バス西賀茂営業所#12号系統|12]]・[[京都市営バス西賀茂営業所#67号系統|67]]系統)下車すぐ * 京都市営バス「堀川今出川」(51・59・101・102・201・203系統)下車、南に3分 * 駐車場:あり(有料)100円/20分 == 関連項目 == * [[稲住神社]]([[京都市]][[下京区]][[梅小路]][[梅小路石橋町|石橋町]]97-1) * [[阿倍王子神社]](大阪市[[阿倍野区]][[阿倍野元町]]9-4) ** [[安倍晴明神社]](阿倍野元町5-16) * [[信太森葛葉稲荷神社]](大阪府[[和泉市]][[葛の葉町]]) * [[安倍文殊院]](奈良県[[桜井市]][[阿部 (桜井市)|阿部]]) * [[晴明神社 (敦賀市)|晴明神社]]([[敦賀市]][[相生町 (敦賀市)|相生町]])<ref>[http://www.genbu.net/data/etizen/seimei_title.htm]</ref> * [[晴明神社 (福井市)|晴明神社]]([[福井市]][[西木田]]) – [[木田神社]]境内社<ref>[http://www.kidajinjya.or.jp/top.html 木田神社]</ref> * [[名古屋晴明神社]](名古屋市[[千種区]][[清明山]]) * [[晴明神社 (岡崎市唐沢)|晴明神社]]([[愛知県]][[岡崎市]][[唐沢町]]) * [[晴明神社 (岡崎市本町)|晴明神社]]([[愛知県]][[岡崎市]][[本町通 (岡崎市)|本町通]]) * [[晴明塚 (掛川市)|晴明塚]]([[静岡県]][[掛川市]][[大渕 (掛川市)|大渕]]) * [[水神宮 (掛川市)|水神宮]]([[静岡県]][[掛川市]][[横須賀 (掛川市)|横須賀]]) * [[晴明稲荷]]([[千葉県]][[銚子市]]) * [[陰陽五行]] * [[陰陽道]] * [[安倍晴明]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{osm box|r|6822322}} * {{Commonscat-inline}} * [http://www.seimeijinja.jp 晴明神社(公式サイト)] {{神道 横}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいめいしんしや}} [[Category:晴明神社|*]] [[Category:京都市の神社]] [[Category:陰陽道]] [[Category:安倍氏|社せいめい]] [[Category:上京区の建築物]] [[Category:上京区の歴史]] [[Category:エポニム]]
2003-09-08T07:40:45Z
2023-12-13T11:39:15Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:神社", "Template:Commonscat-inline", "Template:神道 横", "Template:Normdaten", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Osm box" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%B4%E6%98%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
15,737
多摩湖駅
多摩湖駅(たまこえき)は、東京都東村山市多摩湖町三丁目にある、西武鉄道の駅である。 多摩湖線(終点)と山口線(レオライナー、起点)の2路線が乗り入れている。駅番号は多摩湖線がST07、山口線がSY01である。 多摩湖線の前身である多摩湖鉄道は、1930年(昭和5年)1月に萩山 - 村山貯水池(仮)間を開通させたのち、懸案であった(旧)西武鉄道村山線(現・西武新宿線および西武園線)の延伸区間である通称「箱根ヶ崎線」との交差部分の調整が完了したことから、村山貯水池駅(仮)より0.9 km延伸した地点に本設の村山貯水池駅(初代)を建設し、1936年(昭和11年)12月に開業した。開業当初の同駅は築堤上に位置する1面1線構造で、付近の住宅開発は進んでおらず、需要は主に村山貯水池(多摩湖)を訪れる観光客輸送であった。なお、当駅の東方には(旧)西武村山線の「村山貯水池前駅」が1930年(昭和5年)4月に開業しており、当時は別企業の路線であった両者は観光客輸送を巡って熾烈な争いを繰り広げた。 1940年(昭和15年)4月に多摩湖鉄道は(現)西武鉄道の母体企業である武蔵野鉄道に吸収合併され、当駅も武蔵野鉄道多摩湖線の駅となったのち、日中戦争に端を発する戦局の激化に伴って1941年(昭和16年)4月1日付で狭山公園前駅と改称された。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり、村山貯水池近辺に点在する各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道山口線「村山貯水池際駅」は「村山駅」にそれぞれ改称が実施された。 1951年(昭和26年)9月に当駅は多摩湖駅と改称された。さらに1961年(昭和36年)9月には路線そのものを0.4 km延長し、当駅は西武園ゆうえんちに隣接する現在地へ移転した。これは当時萩山 - 多摩湖間において唯一列車交換設備を有した武蔵大和駅が、構造上長大編成の運用に対応することが困難であり、当駅を1線構造化すると同時に、八坂 - 武蔵大和間に回田信号場を新設して代替の交換施設を確保することとなったためである。 新たに建造された駅は現在と同様に島式ホーム1面を有する2線式で、ホーム有効長は当初1番線が125 m、2番線が85 mであったが、後年輸送力増強に伴う8両編成の列車入線に対応するため、1967年(昭和42年)12月にホーム延伸工事が施工され、1番線は177 m、2番線は167 mの有効長にそれぞれ延長された。 その後、1979年(昭和54年)3月25日付で実施された各路線の駅名改称に際して、当駅は西武遊園地駅(2代)と改称され、従来「西武遊園地駅(初代)」を称した山口線「おとぎ列車」の駅は「遊園地前駅」と改称された。1985年(昭和60年)4月には山口線の新交通システム(AGT)転換に伴う経路変更によって、多摩湖線ホームの始端側(北側)突端に山口線ホーム(3番線)が新設され、山口線の起点駅は再び「西武遊園地駅」となった。 2021年(令和3年)の西武園ゆうえんちの全面リニューアルにより、駅に隣接する中央口が閉鎖されることから、所在地名の「多摩湖町」にもちなんで1979年までの駅名である多摩湖駅に改称され、隣接する遊園地西駅が西武園ゆうえんち駅に改称されている。 地上駅で、1面2線の多摩湖線用島式ホームの始端側に、山口線の1面1線の単式ホームが配置され、両路線のホームは段差を経ることなく往来が可能である。山口線ホームには転落防止柵が設置されているほか、ホームの西武園ゆうえんち寄りはトンネルに掛かっている。 改札口は北口・南口の2か所ある。どちらも階段のみでありエレベーターやエスカレーターは無く、階段昇降機が設置されている。この構造上、ハンドル形電動車いすでは当駅の改札は利用できないが、多摩湖線と山口線の乗換は可能。 山口線ホーム隣にトイレがあるが、多機能トイレは無い。 2022年度の1日平均乗降人員は2,105人である。西武鉄道全92駅中84位であり、年々利用者の減少が続いている。近年の1日平均乗降人員、乗車人員の推移は下記の通り。なお多摩湖線と山口線を当駅で乗り換える客は含んでいない(下記の数値は両線の当駅乗降の客数)。 当駅は西武園ゆうえんち中央口の最寄駅であったが、リニューアルに伴う入口集約のため、2020年10月31日をもって中央口(および東口)は閉鎖された。駅北東には西武園ゆうえんちの駐車場(臨時駐車場A・B)が存在するが、入園の際は路線バス(土休日のみ)または山口線を利用し、西側のメインエントランスまで移動する必要がある。 なお、西武園ゆうえんち中央口と当駅北口改札は階段を介しての連絡となっていたため、ベビーカーや車いす利用者は山口線遊園地西駅(現:西武園ゆうえんち駅)最寄りの西口(現:メインエントランス)からの入園が推奨されていた。 西武園競輪場へは西武園線の西武園駅が最寄駅であり、双方の駅は約800メートル離れた位置に立地している。また、駅の西側の村山貯水池(多摩湖)一帯は東京都立狭山自然公園となっており、多摩湖自転車歩行者道などが整備されている。 西武園ゆうえんち停留所(駐車場内)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多摩湖駅(たまこえき)は、東京都東村山市多摩湖町三丁目にある、西武鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "多摩湖線(終点)と山口線(レオライナー、起点)の2路線が乗り入れている。駅番号は多摩湖線がST07、山口線がSY01である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多摩湖線の前身である多摩湖鉄道は、1930年(昭和5年)1月に萩山 - 村山貯水池(仮)間を開通させたのち、懸案であった(旧)西武鉄道村山線(現・西武新宿線および西武園線)の延伸区間である通称「箱根ヶ崎線」との交差部分の調整が完了したことから、村山貯水池駅(仮)より0.9 km延伸した地点に本設の村山貯水池駅(初代)を建設し、1936年(昭和11年)12月に開業した。開業当初の同駅は築堤上に位置する1面1線構造で、付近の住宅開発は進んでおらず、需要は主に村山貯水池(多摩湖)を訪れる観光客輸送であった。なお、当駅の東方には(旧)西武村山線の「村山貯水池前駅」が1930年(昭和5年)4月に開業しており、当時は別企業の路線であった両者は観光客輸送を巡って熾烈な争いを繰り広げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)4月に多摩湖鉄道は(現)西武鉄道の母体企業である武蔵野鉄道に吸収合併され、当駅も武蔵野鉄道多摩湖線の駅となったのち、日中戦争に端を発する戦局の激化に伴って1941年(昭和16年)4月1日付で狭山公園前駅と改称された。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり、村山貯水池近辺に点在する各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道山口線「村山貯水池際駅」は「村山駅」にそれぞれ改称が実施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)9月に当駅は多摩湖駅と改称された。さらに1961年(昭和36年)9月には路線そのものを0.4 km延長し、当駅は西武園ゆうえんちに隣接する現在地へ移転した。これは当時萩山 - 多摩湖間において唯一列車交換設備を有した武蔵大和駅が、構造上長大編成の運用に対応することが困難であり、当駅を1線構造化すると同時に、八坂 - 武蔵大和間に回田信号場を新設して代替の交換施設を確保することとなったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "新たに建造された駅は現在と同様に島式ホーム1面を有する2線式で、ホーム有効長は当初1番線が125 m、2番線が85 mであったが、後年輸送力増強に伴う8両編成の列車入線に対応するため、1967年(昭和42年)12月にホーム延伸工事が施工され、1番線は177 m、2番線は167 mの有効長にそれぞれ延長された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、1979年(昭和54年)3月25日付で実施された各路線の駅名改称に際して、当駅は西武遊園地駅(2代)と改称され、従来「西武遊園地駅(初代)」を称した山口線「おとぎ列車」の駅は「遊園地前駅」と改称された。1985年(昭和60年)4月には山口線の新交通システム(AGT)転換に伴う経路変更によって、多摩湖線ホームの始端側(北側)突端に山口線ホーム(3番線)が新設され、山口線の起点駅は再び「西武遊園地駅」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)の西武園ゆうえんちの全面リニューアルにより、駅に隣接する中央口が閉鎖されることから、所在地名の「多摩湖町」にもちなんで1979年までの駅名である多摩湖駅に改称され、隣接する遊園地西駅が西武園ゆうえんち駅に改称されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地上駅で、1面2線の多摩湖線用島式ホームの始端側に、山口線の1面1線の単式ホームが配置され、両路線のホームは段差を経ることなく往来が可能である。山口線ホームには転落防止柵が設置されているほか、ホームの西武園ゆうえんち寄りはトンネルに掛かっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "改札口は北口・南口の2か所ある。どちらも階段のみでありエレベーターやエスカレーターは無く、階段昇降機が設置されている。この構造上、ハンドル形電動車いすでは当駅の改札は利用できないが、多摩湖線と山口線の乗換は可能。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "山口線ホーム隣にトイレがあるが、多機能トイレは無い。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2022年度の1日平均乗降人員は2,105人である。西武鉄道全92駅中84位であり、年々利用者の減少が続いている。近年の1日平均乗降人員、乗車人員の推移は下記の通り。なお多摩湖線と山口線を当駅で乗り換える客は含んでいない(下記の数値は両線の当駅乗降の客数)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当駅は西武園ゆうえんち中央口の最寄駅であったが、リニューアルに伴う入口集約のため、2020年10月31日をもって中央口(および東口)は閉鎖された。駅北東には西武園ゆうえんちの駐車場(臨時駐車場A・B)が存在するが、入園の際は路線バス(土休日のみ)または山口線を利用し、西側のメインエントランスまで移動する必要がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、西武園ゆうえんち中央口と当駅北口改札は階段を介しての連絡となっていたため、ベビーカーや車いす利用者は山口線遊園地西駅(現:西武園ゆうえんち駅)最寄りの西口(現:メインエントランス)からの入園が推奨されていた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "西武園競輪場へは西武園線の西武園駅が最寄駅であり、双方の駅は約800メートル離れた位置に立地している。また、駅の西側の村山貯水池(多摩湖)一帯は東京都立狭山自然公園となっており、多摩湖自転車歩行者道などが整備されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "西武園ゆうえんち停留所(駐車場内)", "title": "バス路線" } ]
多摩湖駅(たまこえき)は、東京都東村山市多摩湖町三丁目にある、西武鉄道の駅である。 多摩湖線(終点)と山口線(レオライナー、起点)の2路線が乗り入れている。駅番号は多摩湖線がST07、山口線がSY01である。
{{駅情報 |社色 = #36C |文字色 = |駅名 = 多摩湖駅 |画像 = Tamako Station North-side.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 北口駅舎(2021年6月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = たまこ |ローマ字 = Tamako |電報略号 = |所属事業者 = [[西武鉄道]] |所在地 = [[東京都]][[東村山市]]多摩湖町三丁目15番地18号 |座標 = {{coord|35|45|57.6|N|139|26|33.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1936年]]([[昭和]]11年)[[12月30日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線(多摩湖線)<br />1面1線(山口線) |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="西武" name="seibu2022" />2,105 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#fc3|■}}[[西武多摩湖線|多摩湖線]] |隣の駅1 = |前の駅1 = ST06 [[武蔵大和駅|武蔵大和]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = |次の駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|ST|07|#ffcc33|2}} |キロ程1 = 9.2&nbsp;km([[国分寺駅|国分寺]]起点)<br/>[[西武新宿駅|西武新宿]]から28.3 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#f33|■}}[[西武山口線|山口線]](レオライナー) |隣の駅2 = |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 0.3 |次の駅2 = [[西武園ゆうえんち駅|西武園ゆうえんち]] SY02 |駅番号2 = {{駅番号r|SY|01|#ff3333|2}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 多摩湖 |乗換 = |備考 = * [[2021年]] 西武遊園地駅から改称 }} '''多摩湖駅'''(たまこえき)は、[[東京都]][[東村山市]]多摩湖町三丁目にある、[[西武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 [[西武多摩湖線|多摩湖線]](終点)と[[西武山口線|山口線]](レオライナー、起点)の2路線が乗り入れている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は多摩湖線が'''ST07'''、山口線が'''SY01'''である。 == 歴史 == {{See also|村山貯水池駅#歴史|武蔵大和駅#歴史}} 多摩湖線の前身である多摩湖鉄道は、[[1930年]](昭和5年)1月に[[萩山駅|萩山]] - 村山貯水池(仮)間を開通させたのち、懸案であった(旧)西武鉄道村山線(現・[[西武新宿線]]および西武園線)の延伸区間である通称「[[西武村山線|箱根ヶ崎線]]」との交差部分の調整が完了したことから、村山貯水池駅(仮)より0.9&nbsp;km延伸した地点に本設の'''村山貯水池駅'''(初代)を建設し、[[1936年]](昭和11年)12月に開業した<ref group="注釈">同時に村山貯水池駅(仮)については同駅西方に新設された箱根ヶ崎架動橋の西方に移転し、「[[武蔵大和駅]]」と改称された。</ref>。開業当初の同駅は[[盛土|築堤]]上に位置する1面1線構造で、付近の住宅開発は進んでおらず、需要は主に村山貯水池(多摩湖)を訪れる観光客輸送であった。なお、当駅の東方には(旧)西武村山線の「[[村山貯水池駅|村山貯水池前駅]]」が1930年(昭和5年)4月に開業しており、当時は別企業の路線であった両者は観光客輸送を巡って熾烈な争いを繰り広げた<ref group="注釈">村山線「村山貯水池前駅」は後述の通り「狭山公園駅」と改称されたのち、[[東村山駅|東村山]] - 狭山公園の区間について[[不要不急線|不要不急路線]]の指定を受け、[[1944年]](昭和19年)5月に路線もろとも営業休止となった。戦後「村山貯水池駅(2代)」として復旧されたものの、村山競輪場(現・[[西武園競輪場]])開場に伴って、[[1950年]](昭和25年)5月に経路中途に新設された[[野口信号所]]より分岐する形で新規路線が建設され、同路線の終着駅として[[西武園駅]]が開業したことを受け、翌1951年(昭和26年)3月1日付で野口信号所 - 村山貯水池(2代)間は廃止となった。</ref>。 [[1940年]](昭和15年)4月に多摩湖鉄道は(現)西武鉄道の母体企業である武蔵野鉄道に吸収合併され、当駅も武蔵野鉄道多摩湖線の駅となったのち、[[日中戦争]]に端を発する戦局の激化に伴って[[1941年]](昭和16年)4月1日付で'''狭山公園前駅'''と改称された。これは「貯水池」という軍事上重要な施設の存在を隠蔽する国防上の理由によって実施された改称であり、村山貯水池近辺に点在する各路線の駅についても、(旧)西武村山線「村山貯水池前駅」は「狭山公園駅」に、武蔵野鉄道[[西武狭山線|山口線]]「[[西武球場前駅|村山貯水池際駅]]」は「村山駅」にそれぞれ改称が実施された。 [[1951年]](昭和26年)9月に当駅は'''多摩湖駅'''と改称された。さらに[[1961年]](昭和36年)9月には路線そのものを0.4&nbsp;km延長し、当駅は[[西武園ゆうえんち]]に隣接する現在地へ移転した。これは当時[[萩山駅|萩山]] - 多摩湖間において唯一[[列車交換]]設備を有した武蔵大和駅が、構造上長大編成の運用に対応することが困難であり、当駅を1線構造化すると同時に、[[八坂駅 (東京都)|八坂]] - 武蔵大和間に[[回田信号場]]を新設して代替の交換施設を確保することとなったためである。 新たに建造された駅は現在と同様に島式ホーム1面を有する2線式で、ホーム有効長は当初1番線が125&nbsp;m、2番線が85&nbsp;mであったが、後年輸送力増強に伴う8両編成の列車入線に対応するため、[[1967年]](昭和42年)12月にホーム延伸工事が施工され、1番線は177&nbsp;m、2番線は167&nbsp;mの有効長にそれぞれ延長された。 その後、1979年(昭和54年)3月25日付で実施された各路線の駅名改称に際して、当駅は'''西武遊園地駅'''(2代)と改称され、従来「西武遊園地駅(初代)」を称した山口線「おとぎ列車」の駅は「[[遊園地前駅 (埼玉県)|遊園地前駅]]」と改称された。1985年(昭和60年)4月には山口線の[[新交通システム]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])転換に伴う経路変更によって、多摩湖線ホームの始端側(北側)突端に山口線ホーム(3番線)が新設され、山口線の起点駅は再び「西武遊園地駅」となった。 2021年(令和3年)の西武園ゆうえんちの全面リニューアルにより、駅に隣接する中央口が閉鎖されることから<ref name="mainichi20200305">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314182252/https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|language=日本語|title=西武遊園地駅、40年ぶり「多摩湖駅」に 駅そばの西武園中央口閉鎖で|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2020-03-05|accessdate=2021-01-27|archivedate=2020-03-14}}</ref>、所在地名の「[[多摩湖町]]」にもちなんで1979年までの駅名である'''多摩湖駅'''に改称され、隣接する遊園地西駅が[[西武園ゆうえんち駅]]に改称されている<ref name="press20210126">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126060308/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月13日(土)ダイヤ改正と駅名変更を実施します。夜間作業のさらなる安全性向上と効率化を目的に、終電車の繰り上げを実施「西武園ゆうえんち」のリニューアルオープンに先駆け、駅名変更を実施|publisher=西武鉄道|date=2021-01-26|accessdate=2021-01-26|archivedate=2021-01-26}}</ref><ref name="press20200226">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226102638/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西武園ゆうえんち周辺の駅名を変更します|publisher=西武鉄道|date=2020-02-26|accessdate=2020-02-26|archivedate=2020-02-26}}</ref><ref name="mainichi20200305" />。 <gallery widths="480px" heights="236px"> Changes of the the Station in the Murayama Reservoir.gif|村山貯水池(多摩湖)周辺に展開する鉄道路線・駅の変遷<ref name="地図帳">{{Cite book|和書|author= 今尾恵介(監)|title= 日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2|publisher= 新潮社|date= 2008-08|isbn=978-4107900227|pages=52-53頁}}</ref><ref name="mainichi20200305" /> </gallery> === 年表 === * [[1936年]]([[昭和]]11年)[[12月30日]] - 多摩湖鉄道多摩湖線の'''村山貯水池駅'''(初代)として開業。 * [[1940年]](昭和15年)[[3月12日]] - 武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併し、武蔵野鉄道多摩湖線の駅となる。 * [[1941年]](昭和16年)[[4月1日]] - 戦局激化に伴い、'''狭山公園前駅'''と改称。 * [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]] - 武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道を吸収合併し、(現)西武鉄道成立<ref group="注釈">当初の社名は「西武農業鉄道」。[[1946年]](昭和21年)11月15日付で現社名へ改称。</ref>。西武鉄道多摩湖線の駅となる。 * [[1951年]](昭和26年)[[9月1日]] - '''多摩湖駅'''(初代)と改称。 * [[1961年]](昭和36年)[[9月20日]] - 路線を北方へ0.4&nbsp;km延伸し、現在地に移転。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月25日]] - '''西武遊園地駅'''(2代)と改称。 * [[1985年]](昭和60年)[[4月25日]] - 山口線の経路変更に伴い、多摩湖線・山口線の乗換駅となる。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[10月4日]] - [[自動改札機]]使用開始。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月13日]] - 駅名を「'''多摩湖駅'''」に再度改称<ref name="press20210126" /><ref name="press20200226" /><ref name="mainichi20200305" />。 <gallery> Murayamachosuichi sta new.jpg|旧駅(村山貯水池→狭山公園前→旧・多摩湖)跡<br />(武蔵大和 - 西武遊園地・2007年4月) Seibu-yuenchi Sta.-north entrance 20160322.jpg|西武遊園地駅時代の北口駅舎(2016年3月) </gallery> == 駅構造 == [[地上駅]]で、1面2線の多摩湖線用[[島式ホーム]]の始端側に、山口線の1面1線の[[単式ホーム]]が配置され、両路線のホームは段差を経ることなく往来が可能である。山口線ホームには転落防止柵が設置されているほか、ホームの西武園ゆうえんち寄りはトンネルに掛かっている。 改札口は北口・南口の2か所ある。どちらも階段のみでありエレベーターやエスカレーターは無く、階段昇降機が設置されている。この構造上、ハンドル形電動車いすでは当駅の改札は利用できないが、多摩湖線と山口線の乗換は可能。 山口線ホーム隣にトイレがあるが、多機能トイレは無い。 {|class="wikitable" !ホーム!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.seiburailway.jp/railway/station/tamako/|title=多摩湖駅 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2022-04-17}}</ref> |- !1・2 |[[File:SeibuTamako.svg|18px|ST]] 多摩湖線 |[[萩山駅|萩山]]・[[国分寺駅|国分寺]]・[[小平駅|小平]]方面 |- !3 |[[File:SeibuYamaguchi.svg|18px|SY]] 山口線(レオライナー) |[[西武園ゆうえんち駅|西武園ゆうえんち]]・[[西武球場前駅|西武球場前]]方面 |} * 2022年[[3月12日]]実施のダイヤ改正で、小平・西武新宿方面の定期列車は平日ダイヤの朝に上下1本運転されるのみとなり、臨時列車としてはイベント時などで残る不定期列車を除いては原則萩山発着列車と国分寺発着列車のみとなった。このため、上記の列車以外で当駅から小平・西武新宿方面へ向かう場合は、必ず[[萩山駅]]での乗り換えを要する。 <gallery> Seibu Yuenchi Station south 20121209.jpg|南口駅舎(2012年9月) Tamako-STA Gate.jpg|改札口(2021年10月) Tamako-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム(2021年10月) Tamako-STA Home3.jpg|3番線ホーム(2021年10月) </gallery> == 利用状況 == 2022年度の1日平均乗降人員は'''2,105人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。西武鉄道全92駅中84位であり、年々利用者の減少が続いている。近年の1日平均乗降人員、乗車人員の推移は下記の通り。なお多摩湖線と山口線を当駅で乗り換える客は含んでいない(下記の数値は両線の当駅乗降の客数)。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !rowspan=2|年度 !colspan=3|1日平均<br />乗降人員<ref name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !colspan=3|1日平均<br />乗車人員<ref name="tokyo-toukei">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref> |- !多摩湖線!!山口線!!合計!!多摩湖線!!山口線!!出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) | | | |2,912 |378 |<ref group="*" name="toukei1990">東京都統計年鑑(平成2年)224,225ページ</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | | | |2,861 |347 |<ref group="*" name="toukei1991">東京都統計年鑑(平成3年)230,231ページ</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | | | |2,732 |329 |<ref group="*" name="toukei1992">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | | | |2,592 |321 |<ref group="*" name="toukei1993">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | | | |2,490 |326 |<ref group="*" name="toukei1994">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | | | |2,429 |292 |<ref group="*" name="toukei1995">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | | | |2,241 |389 |<ref group="*" name="toukei1996">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | | | |2,093 |299 |<ref group="*" name="toukei1997">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | | |<ref group="*" name="joukou1999">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/year/__icsFiles/afieldfile/2009/11/06/11joukou.pdf]}}</ref>4,132 |1,923 |203 |<ref group="*" name="toukei1998">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | | |<ref group="*" name="joukou1999" />3,968 |1,861 |205 |<ref group="*" name="toukei1999">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | | |<ref group="西武" name="jouou2000-2004">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2010/05/19/shin2000-2004.pdf]}}</ref>3,859 |1,803 |200 |<ref group="*" name="toukei2000">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | | |<ref group="西武" name="jouou2000-2004" />3,770 |1,770 |181 |<ref group="*" name="toukei2001">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | | |<ref group="西武" name="joukou2002-2006">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No3_shin2002-2006.pdf]}}</ref>3,556 |1,668 |162 |<ref group="*" name="toukei2002">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |3,097 |361 |<ref group="西武" name="joukou2002-2006" />3,458 |1,604 |172 |<ref group="*" name="toukei2003">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |3,032 |356 |<ref group="西武" name="joukou2002-2006" />3,388 |1,564 |170 |<ref group="*" name="toukei2004">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |3,091 |340 |<ref group="西武" name="joukou2002-2006" />3,431 |1,597 |167 |<ref group="*" name="toukei2005">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |3,045 |314 |<ref group="西武" name="joukou2002-2006" />3,359 |1,562 |153 |<ref group="*" name="toukei2006">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |2,913 |287 |<ref group="西武" name="joukou2007-2011">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No4_shin2007-2011.pdf]}}</ref>3,200 |1,481 |142 |<ref group="*" name="toukei2007">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |2,831 |271 |<ref group="西武" name="joukou2007-2011" />3,102 |1,438 |129 |<ref group="*" name="toukei2008">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |2,799 |274 |<ref group="西武" name="joukou2007-2011" />3,073 |1,433 |137 |<ref group="*" name="toukei2009">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |2,765 |235 |<ref group="西武" name="joukou2007-2011" />3,000 |1,422 |121 |<ref group="*" name="toukei2010">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |2,794 |285 |<ref group="西武" name="joukou2007-2011" />3,079 | | | |- |2012年(平成24年) |2,774 |275 |3,049 | | | |- |2013年(平成25年) |2,489 |207 |2,696 | | | |- |2014年(平成26年) |2,390 |202 |2,592 | | | |- |2015年(平成27年) |2,383 |206 |2,589 | | | |- |2016年(平成28年) |2,365 |203 |2,568 | | | |- |2017年(平成29年) |2,421 |213 |2,634 | | | |- |2018年(平成30年) |2,453 |242 |2,695 | | | |- |2019年(令和元年) |2,386 |201 |2,587 | | | |- |2020年(令和{{0}}2年) | | |<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月20日閲覧</ref>1,812 | | | |- |2021年(令和{{0}}3年) | | |<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>1,924 | | | |- |2022年(令和{{0}}4年) | | |<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>2,105 | | |} == 駅周辺 == 当駅は[[西武園ゆうえんち]]中央口の最寄駅であったが、リニューアルに伴う入口集約のため、2020年10月31日をもって中央口(および東口)は閉鎖された。駅北東には西武園ゆうえんちの駐車場(臨時駐車場A・B)が存在するが、入園の際は路線バス(土休日のみ)または山口線を利用し、西側のメインエントランスまで移動する必要がある。 なお、西武園ゆうえんち中央口と当駅北口改札は階段を介しての連絡となっていたため、ベビーカーや車いす利用者は山口線遊園地西駅(現:西武園ゆうえんち駅)最寄りの西口(現:メインエントランス)からの入園が推奨されていた。 [[西武園競輪場]]へは[[西武西武園線|西武園線]]の[[西武園駅]]が最寄駅であり、双方の駅は約800メートル離れた位置に立地している。また、駅の西側の[[村山貯水池]](多摩湖)一帯は[[東京都立狭山自然公園]]となっており、[[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線|多摩湖自転車歩行者道]]などが整備されている。 <gallery> Seibu-yuenchi Sta.-north side 20160322.jpg|北口改札と西武園ゆうえんち旧中央口を直結する階段(2016年3月) Seibu_yuenchi_entrance.JPG|西武園ゆうえんち旧中央口(2006年12月) </gallery> == バス路線 == '''西武園ゆうえんち停留所'''(駐車場内) *[[西武バス]] ** [[西武バス所沢営業所#所沢駅西口 - 松が丘中央 - 西武園駅方面|所18-1]]:西武園駅・[[松が丘 (所沢市)|松が丘]]中央経由、[[所沢駅]]西口ゆき(土曜・休日、長期休暇時のみ運行) **: なお、所18-1系統は[[2020年]][[11月1日]]より西武園ゆうえんちの休園に伴い、西武園駅 - 西武園ゆうえんち間を区間運休していたが、2021年5月22日より運行を再開<ref name="seibubus">{{Cite web|和書|url=https://www.seibubus.co.jp/news/52218-1.html | title=5月22日(土)~ 所18-1系統「西武園ゆうえんち」行き運行再開について | publisher=西武バス | date=2021-05-14 | accessdate=2021-05-17}}</ref>。 **: 当駐車場・バス停から遊園地のメインゲートまでは約1.5&nbsp;km離れており、多摩湖駅から山口線で西武園ゆうえんち駅まで移動するか、連絡シャトルバスを利用<ref name="seibubus"/>。 == 隣の駅 == ; 西武鉄道 : [[File:SeibuTamako.svg|18px|ST]] 多摩湖線 :: {{Color|#f60|■}}急行(多摩湖線内は各駅に停車)・{{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[武蔵大和駅]] (ST06) - '''多摩湖駅 (ST07)''' : [[File:SeibuYamaguchi.svg|18px|SY]] 山口線(レオライナー) ::: '''多摩湖駅 (SY01)''' - [[西武園ゆうえんち駅]] (SY02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="西武"|3}} == 参考文献 == * 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] ** [[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]] 「西武鉄道のあゆみ - その路線網の拡大と地域開発」 1992年5月(通巻560)号 pp.97 - 115 ** 益井茂夫 「西武鉄道 線路・駅の移り変わり」 1992年5月(通巻560)号 pp.136 - 149 ** 高嶋修一 「西武鉄道のあゆみ - 路線の役割と経営の歴史過程」 2002年4月(通巻716)号 pp.97 - 112 ** 小松丘 「西武鉄道の『廃』をさぐる」 2002年4月(通巻716)号 pp.147 - 159 ** [[中川浩一]] 「昭和20年代半ばの多摩湖線 -半世紀前への回想-」 2002年4月(通巻716)号 pp.160 - 164 == 関連項目 == {{commonscat|Tamako Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=tamako}} {{西武多摩湖線}} {{西武山口線}} {{DEFAULTSORT:たまこ}} [[Category:東村山市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 た|まこ]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]] [[Category:多摩湖鉄道|たまこえき]] [[Category:狭山丘陵|たまこえき]] [[Category:1936年開業の鉄道駅]]
2003-09-08T07:43:53Z
2023-11-17T09:26:17Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:外部リンク/西武鉄道駅", "Template:西武多摩湖線", "Template:西武山口線", "Template:Color", "Template:Reflist", "Template:PDFlink", "Template:Wayback", "Template:See also", "Template:0", "Template:Cite book", "Template:駅情報", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E6%B9%96%E9%A7%85
15,739
スターリングラード攻防戦
スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。 スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。 緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。 死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。 バルバロッサ作戦に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都モスクワの攻略タイフーン作戦を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、ノブゴロド、スモレンスク、ハリコフといった重要拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。 雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、ブラウ作戦を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断するフレデリクス計画を策定していた。 両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍(セミョーン・チモシェンコ元帥)は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の第6軍と第1装甲軍による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍はドン河を目指して撤退を開始することとなった。 ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、コーカサス地方を南下して、マイコープ、グローズヌイ付近の油田を占領し、最終的にはバクー油田を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。 そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐が、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜されたうえ、機密文書の回収に失敗するという事件が起きた。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。 南方軍集団は6月28日にクルスク方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始した。まず、ドイツ第2軍と第4装甲軍、およびハンガリー第2軍が左翼となってドン川をめざし、30日には第6軍がドネツ川を渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日からイリューシン設計局の航空機工場があるヴォロネジを2個師団の兵力により攻撃した。 一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかしスターリンは、ドイツ軍はヴォロネジからオリョール、さらにモスクワに向けて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、フィリップ・ゴリコフ中将のブリャンスク方面軍は、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領することができた。この影響で南方軍集団は足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかるが、その間にチモシェンコ元帥は残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。そもそも作戦の第一段階での目標は、ドン川西岸でソ連軍を捕捉し殲滅することだった。ドイツ軍はドン川東岸に侵攻することはできたものの、その間に得られた捕虜や鹵獲装備は思いのほか少なく、敵が秩序だった撤退を行っていることが推察された。ヴォロネジでの独ソ別々の思惑による停滞は、その後の展開に思わぬ影響を及ぼすこととなる。 こうしたおり、ヒトラーはドン川→コーカサス地方という二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、急きょ二方面同時攻勢に変更させた。7月7日、この指令に応じるかたちで南方軍集団は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカースの油田地帯を攻略する「A軍集団」(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など)と、チモシェンコ元帥のソ連軍を追撃・撃破しつつドン河沿いに進み、さらにスターリングラードでヴォルガ河を封鎖するという「B軍集団」(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍)に分割される。撤退中のソ連軍を多方面で追撃しつつ占領域を広げるという方策だが、こうした兵力分割は、結果的に機動力の確保と補給を困難にさせた。 7月13日のヴォロネジ占領と同時に、B軍集団司令官のボック元帥は、ヴォロネジでの時間の空費を追及されて更迭となった。その後任としてヒトラーが任用したのは、第2軍司令官のマクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将だった。また、ヒトラーは第4装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)に対し、ドン河方面での左翼から主力部隊を一旦離脱させ、A軍集団のドン河渡河を支援するため、ノヴォチェルカースク付近のドン河に向わせた。 しかし、スターリンが「一歩も下がるな!」とのスローガンをのちに発したことで有名な、ソ連国防人民委員令第227号を発出する契機となったほど、ロストフでのソ連軍の抵抗は微弱で、A軍集団は第4装甲軍の助力を必要とはしなかった。むしろ、この用兵は限られた数しかない進撃路での渋滞をもたらし、結果的には燃料と時間の浪費を生んだだけに終わった。 上述の通り、ドイツ軍がヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍はチモシェンコ元帥の指揮のもと、スターリングラードに向けて計画的に後退した。これを追うドイツ軍は、夏の大草原(ステップ)で1年前を彷彿とさせる進撃を始めたが、前年と異なり捕虜や鹵獲した重装備はわずかであった。ともあれ、作戦の第一段階を達成したと認識したヒトラーは、7月23日に「総統指令第45号」を発した。 「総統指令第45号」は、A軍集団はバクー、B軍集団はスターリングラードと二つの重要都市の占領を命じ、さらに二つの軍集団の間を連携するため、第16自動車化歩兵師団をプロレタルスカヤからカルムイク自治共和国の首都エリスタを経てヴォルガ河口、カスピ海沿岸のアストラハンに向かうよう命じている。ソ連軍がこの方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は無人に近い草原を難なく突破し、チベット仏教の寺院が建つエリスタを占領することができた。ドイツ兵たちは地の果てまで到達した感があった。しかし、アスタラハンに達するための補給は限界に達し、しかもソ連はバクーからカスピ海を経てアストラハンからヴォルガ川を遡行するという水運ルートとは別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートをいち早く設定したため、アストラハンやスターリングラードを占拠されても、ソ連の命脈を絶つことにはならなかった。結局、第16自動車化歩兵師団の攻勢は無意味に終わった。 ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は装甲師団と自動車化歩兵師団の主力が引き抜かれ、さらに燃料補給もA軍集団が優先されたため、スターリングラードへ向けた追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍に再編のための時間を提供する結果となった。 予想より早くロストフが陥落すると、ヒトラーは第4装甲軍主力を再びスターリングラード方面に向わせた。一方、セヴァストポリ包囲戦を終えてクリミア半島からケルチ海峡を渡ってA軍集団に加わる予定だったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍に対しては、セヴァストポリ要塞攻略の経験を活かすことを目的にレニングラード戦線への移動を命じた。 こうした総統指令が相次ぐなか、8月7日になってドイツ第4装甲軍先鋒はスターリングラード南西130kmのコテリニコボに南側から回り込んだ。さらに翌8日、第6軍はドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻勢の開始は補給と兵力の集結を待たねばならなかった。 フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、グスタフ・アントン・フォン・ヴィッテルスハイム歩兵大将(英語版)のXIV装甲軍団とヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将のLI軍団を先頭に、スターリングラード市街に迫った。 当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者ヨシフ・スターリンが革命時のロシア内戦においてデニーキン将軍の白衛軍に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは五カ年計画において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。 特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車T-34の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34はハリコフ機関車工場、重戦車KV-1はレニングラードのキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場(ゴーリキー市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもあるウラル戦車工場(ニジニ・タギル市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。 市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年のコムソモール(共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵、さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、ロストフ奪回の策源地にもなりえた。 8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように日曜日の朝を迎えていた。しかしこの日、ゲルニカ爆撃以来、絨毯爆撃を主導してきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の第4航空艦隊は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンに上る猛爆撃を加えた。続いてB軍集団による総攻撃が開始された。ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。 まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃したハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm高射砲を使ったトラクター工場の女性労働者たち(コムソモールの少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物を形成し、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。 スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した北西方面軍へ異動となり、ワシーリー・ゴルドフ中将が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日にアンドレイ・エリョーメンコ大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われたデミャンスク包囲戦の際、第4打撃軍を指揮してトロペツを攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。 スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、軍司令官はアントーン・ロパーチン中将であった。ロパーチンは前年におけるロストフの防衛戦に加え、ドン川からの撤退戦でも能力を発揮していた。しかし、戦線の相次ぐ崩壊で心身ともに消耗し、スターリングラード市街の防衛に悲観的になっていたため更迭され、代わりに、第64軍司令官代理のワシーリー・チュイコフ中将が9月12日に新たに司令官に任命された。また、参謀長には、後に対日参戦で活躍することとなるニコライ・クルイロフ少将が就いている。パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフはつねに最前線近くに司令部を置いて指揮を行った。 9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団の兵力で、砲爆撃とともに、ツァリーツァ渓谷から市街地への突入を開始した。攻撃の重点が置かれたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、2つの駅とフェリー乗り場のある市街地南部だった。ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した廃墟を効果的に使って防衛するソ連第62軍の抵抗に遭う。建物一つ、部屋一つを奪い合う市街戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍がコンクリートの塊となった廃墟に突入しても、ソ連兵は上階で頑強に抵抗し、完全に占拠しても地下道や下水道を使って逆襲をかけてきた。地下壕は発見されるや否や、負傷兵や避難民ごと火炎放射器で焼き尽くされたが、後方の建物や窪地、瓦礫の中にはソ連の狙撃兵がいつの間にか入り込んだ。狙撃兵は、なるべく高い階級の敵の将校、あるいは伝令や斥候、補給要員、工兵に照準を合わせ、集中的に狙った。こうした狙撃兵の中からは、シベリアから派遣されたパチェク大佐の第284狙撃師団に属し、149人のドイツ軍将兵を射殺してソ連邦英雄となるヴァシリ・ザイツェフのような人物も現れる。 あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。 悪臭や煙が充満する中で、風にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。 9月に入って、ルジェフ付近における中央軍集団の正面ではソ連赤軍の新たな部隊が現れて散発的に攻撃を加えては後退するという現象が続き、冬季に向けて大規模な予備兵力が蓄積されつつある兆候が窺えた。陸軍総司令部 (OKH) 参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はかねてよりヒトラーと意見が衝突していたが、上記のようなソ連赤軍の動きへの対応をめぐって両者は決裂し、9月24日にハルダーが更迭される。後任にはハルダーと違ってヒトラーに従順な、西部軍参謀長のクルト・ツァイツラー少将が、ドイツ陸軍史上最年少の47歳で大将に一足飛びに昇格した上任命された。 スターリングラードに攻め込んだドイツ第6軍は、決戦の勝利が間近であると確信していたヒトラーの命により、市街戦に装甲部隊や貴重な工兵部隊を惜しげもなく投入した。 装甲部隊は市街地には不向きである。市街地は車輛にとって死角が多く、速度・機動力が生かせないことから反撃する側からは格好の標的であり、近距離からの攻撃によって小さい火力でも効果的な攻撃を加えることができた。実際、瓦礫で身動きを奪われた戦車の多くが弱点である上面をさらし、上方からの対戦車銃や火炎瓶で攻撃され損害を出した。第14装甲軍団長のヴィータースハイム大将はこうした用兵に最初から異論を唱えていたが、ヒトラーの逆鱗に触れた結果、市街地突入翌日の9月14日に解任される。後任には、ヒトラーお気に入りの第16装甲師団長フーベ中将が当てられた。 一方、火炎放射器や爆薬を扱いなれた突撃工兵部隊は、こうした市街戦のプロフェッショナルであり、重点的に派遣された。しかし、ソ連軍狙撃兵にとって格好の標的となり、急速に数を減らしていった。 「手榴弾や拳銃の弾丸が届く50ヤード以内で敵と向かい合え」と抱擁戦を命令したチュイコフ中将が意図したように、両軍が狭い空間に入り乱れて対峙した結果、ドイツ軍は電撃戦の強さの秘訣であった小火器による弾幕、機甲部隊による機動、空軍によるユンカース急降下爆撃機からの効果的な支援を放棄してしまったとも言える。廃墟と化した都市の瓦礫のなかで敵と味方が近距離に相対する状況という市街戦は、第一次世界大戦の塹壕戦にも似た消耗戦となりドイツ軍の優位性が失われた状況で戦闘による死亡者は膨大な数になった。 なお、主力部隊を突出部の先端であるスターリングラードに密集させ、弱体なルーマニア軍に第6軍の両翼を守らせるという戦略の危険性については、第4歩兵軍団長ヴィクトル・フォン・シュベドラー大将がヒトラーに率直に進言したが、「敗北主義者」と罵倒されて10月に解任される。しかし、シュベドラーの危惧は約1ヵ月後に、ものの見事に的中する。 シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官であるペトレ・ドゥミトレスク大将も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していた。しかしヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まる9日前の11月10日のことであった。 こうしたヒトラーの無能な指示に基づくドイツ軍内の混乱が続く中、ソ連赤軍はスターリングラード防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにし、予備兵力の訓練と展開の時間を稼いだ。共産党中央からは、のちに首相となるゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記やニキータ・フルシチョフ軍事会議委員らが派遣され、政治委員として督戦にあたった。また、ラヴレンチー・ベリヤが統括する内務人民委員部 (NKVD) は厭戦的な将兵の摘発や逃亡阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団を上回る1万3千人に達している。 ワシーリー・チュイコフ中将の指揮下で、ソ連軍第62軍は徹底した持久戦、接近戦、および白兵戦を行った。経験を重ねた赤軍将兵は、自動小銃や拳銃、ナイフ、刃を入れたスコップなどを携えてドイツ兵に忍び寄り、執拗に近接戦を展開した。また、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉じんの中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうというチュイコフ中将が立てた戦術はドイツ軍将兵に心理的ストレスを与えた。こうした戦術は、戦後に多くの国の特殊部隊で採用されたほど制圧効果があった。 9月12日~13日にスターリンとソ連軍最高指揮官代理ゲオルギー・ジューコフ上級大将と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将はスターリングラードを防衛するための方策について協議した。この結果、スターリングラード市から離れた地域を起点として反攻を開始し、第6軍を大規模に逆包囲するという方針が決定される。これは3人だけの極秘事項とされた。以上の方針に基づき、ウラヌス作戦(天王星作戦)の準備が開始される。作戦は2ヶ月かけて準備した後、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両でスターリングラードの北西および南の側面に配置されていたルーマニア軍に向けて開始された。各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖の下で、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。加えて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻はドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、第二次ルジェフ会戦を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策に過ぎなかった。 スターリングラードの北西地域で密かに編成を終えたニコライ・ヴァトゥーチン大将の南西方面軍および、コンスタンチン・ロコソフスキー中将のドン方面軍により、重砲3500門による猛砲撃が午前7時30分から80分間続けられたのち、ロマネンコ中将の第5戦車軍とチスチャコフ中将の第21軍が、ドン川に面したクレツカヤ=ラスホピンスカヤ地区を守るドゥミトレスク大将のルーマニア第3軍を攻撃して包囲行動を開始した。ルーマニア兵は対戦車兵器がなく、戦車隊の攻撃を受け混乱状態に陥る。ルーマニア軍の後方には予備としてドイツ第22装甲師団が配置されていたが、大部分が旧式のチェコ製38(t)戦車だった上、燃料不足のため2ヵ月近くエンジンをかけずにワラを被せて待機するうちに、電極をネズミにかじられる問題が発生し、行動可能な戦車は20両余りに過ぎなかった。38(t)戦車より格段に高性能のT-34戦車200両からなる第5戦車軍はペスチャヌイ付近で第22装甲師団の反撃を退け、この日だけで吹雪の草原を50キロほど前進している。 翌20日にはスターリングラードの南側地域に集結していたアンドレイ・エリョーメンコ大将のスターリングラード方面軍が、シュミロフ中将の第64軍、トルファノフ中将の第57軍、トルブーヒン中将の第51軍による攻勢を開始し、コンスタンチネスク大将のルーマニア第4軍を突破した。唯一の強力な予備兵力で、長砲身のIV号戦車を装備したレイザー少将率いるドイツ第29自動車化師団は、第51軍に属する第13機械化師団に反撃して大損害を与える。しかし、パウルスが予備の兵力を追加しなかった上、他の地区のソ連赤軍は味方の損害をあえて無視して進撃の続行を優先したため、ドイツ軍の反撃の効果は局地的なものとなった。 第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信設備が整備されたニジネ・チルスカヤへの移転準備がちょうど進められていた。そうした折に、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日にパウルスは急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、やむなくスターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動により、パウルス司令官の所在がたびたび不明になったことが第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく、無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、ヴィテプスクにあったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発する。 午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団は要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、これにより両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時には、ソヴィエツキーで南西方面軍に属するアンドレイ・クラフチェンコ少将の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属するワシーリー・ヴォリスキー少将の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人に上った。ミハイ・ラスカル中将のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気づいた第6軍パウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。 ドイツ・バイエルン州のベルヒテスガーデンから東プロイセンのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とするヘルマン・ゲーリング国家元帥や、それに追従するハンス・イェションネク空軍参謀総長の主張もあり、空中補給による戦線維持は可能と彼は判断していた。7月26日深夜のハンブルク空襲以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日にロンメル元帥の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコ・アルジェリアに上陸した結果(トーチ作戦)、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。一方、この日に55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着する。出迎えたヴァイクス司令官がもたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀のテオドーア・ブッセ大佐も、ソ連軍の消耗に期待し、まだ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。 マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代にドン・コサックの拠点が置かれたノヴォチェルカッスクの旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路は貧弱で、鉄道はパルチザンの破壊工作による脅威に直面しており、レニングラード全面から5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化されていた。マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍のヴァルター・ヴェンク参謀長が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる第6装甲師団はフランスからの到着を待たなければならないという状況だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ! 総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を上級大将に昇格させた。 ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍は約120万人とされている。全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者(ヒヴィ)として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。戦前には60万を数えたスターリングラードの住民は、攻防戦が終結した時点でわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。 包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した。捕虜の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で発疹チフスが大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。 生存者はその後、中央アジアやシベリアの収容所に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった。捕虜となった将校の中にはザイトリッツのように、「ドイツ将校同盟」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。 コーカサス地方の制圧を目指した第1装甲軍などはソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の指揮に加え、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将の第1装甲軍などは、クバン橋頭堡を除いて、ミウス河まで撤退することができ、東部戦線南翼の崩壊という事態をなんとか逃れることができた。 ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサス地方からの撤収に成功したクライスト上級大将の第1装甲軍も膨大な重火器と車両を遺棄しており、ドイツにとっては数ヶ月分の生産量に相当する損失となった。 1941年開戦時における戦線全域における攻勢の失敗、1942年における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。 また、工業生産能力の限界からこれ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いになっている。もはやドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。 枢軸同盟国は、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出した。特にイタリアは北アフリカ戦線で劣勢になっており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。 なおフランス、パリのメトロにはこの攻防戦での赤軍の勝利を記念して命名されたスターリングラード駅がある。 緒戦の段階では、ドイツ空軍は第4航空艦隊がメッサーシュミット Bf109戦闘機によってソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握した上で、陸空協調という戦略の下銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え打撃を与えていたが、陸軍同様に次第に消耗していった。 包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官のヘルマン・ゲーリング国家元帥が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると主張したことが挙げられる。これは、同年春におけるデミャンスク包囲戦の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いた末、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦より深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング国家元帥が軽々に請け負ったことは、大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較して大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していた上に悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しない上、敵軍の兵力は大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機操縦士は次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、Bf 109にも劣らない性能を持つYak-1を駆使するセルゲイ・ルジェーンコ空軍大将の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目されたリディア・リトヴァクのような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装のJu 52輸送機は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。 第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後に過ぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。併せて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった飛行場も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持は落下傘による補給品投下に頼らざるを得なかった。このような方法によって十分な量の補給は困難であり、さらに投下された補給品の多くは、ドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収された。 ヒトラーから直接総統命令を受けたことで無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括したエアハルト・ミルヒ元帥は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵によるサボタージュすら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越える操縦士が失われた。多くの輸送機を喪失したことは結果として更なる輸送力の低下につながることとなり、戦線を拡大しすぎたドイツ国防軍にとって大きな痛手となった。特に、Ju 52は飛行学校の訓練機としても用いられていた上に飛行学校の教官が操縦士を担っていたため、これらを多数失ったことは、ドイツ空軍が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング国家元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって損なわれ、ナチス党率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在は空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。 第6軍(6. Armee)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "バルバロッサ作戦に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都モスクワの攻略タイフーン作戦を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、ノブゴロド、スモレンスク、ハリコフといった重要拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、ブラウ作戦を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断するフレデリクス計画を策定していた。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍(セミョーン・チモシェンコ元帥)は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の第6軍と第1装甲軍による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍はドン河を目指して撤退を開始することとなった。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、コーカサス地方を南下して、マイコープ、グローズヌイ付近の油田を占領し、最終的にはバクー油田を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐が、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜されたうえ、機密文書の回収に失敗するという事件が起きた。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "南方軍集団は6月28日にクルスク方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始した。まず、ドイツ第2軍と第4装甲軍、およびハンガリー第2軍が左翼となってドン川をめざし、30日には第6軍がドネツ川を渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日からイリューシン設計局の航空機工場があるヴォロネジを2個師団の兵力により攻撃した。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかしスターリンは、ドイツ軍はヴォロネジからオリョール、さらにモスクワに向けて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、フィリップ・ゴリコフ中将のブリャンスク方面軍は、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領することができた。この影響で南方軍集団は足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかるが、その間にチモシェンコ元帥は残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。そもそも作戦の第一段階での目標は、ドン川西岸でソ連軍を捕捉し殲滅することだった。ドイツ軍はドン川東岸に侵攻することはできたものの、その間に得られた捕虜や鹵獲装備は思いのほか少なく、敵が秩序だった撤退を行っていることが推察された。ヴォロネジでの独ソ別々の思惑による停滞は、その後の展開に思わぬ影響を及ぼすこととなる。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "こうしたおり、ヒトラーはドン川→コーカサス地方という二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、急きょ二方面同時攻勢に変更させた。7月7日、この指令に応じるかたちで南方軍集団は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカースの油田地帯を攻略する「A軍集団」(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など)と、チモシェンコ元帥のソ連軍を追撃・撃破しつつドン河沿いに進み、さらにスターリングラードでヴォルガ河を封鎖するという「B軍集団」(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍)に分割される。撤退中のソ連軍を多方面で追撃しつつ占領域を広げるという方策だが、こうした兵力分割は、結果的に機動力の確保と補給を困難にさせた。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "7月13日のヴォロネジ占領と同時に、B軍集団司令官のボック元帥は、ヴォロネジでの時間の空費を追及されて更迭となった。その後任としてヒトラーが任用したのは、第2軍司令官のマクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将だった。また、ヒトラーは第4装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)に対し、ドン河方面での左翼から主力部隊を一旦離脱させ、A軍集団のドン河渡河を支援するため、ノヴォチェルカースク付近のドン河に向わせた。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、スターリンが「一歩も下がるな!」とのスローガンをのちに発したことで有名な、ソ連国防人民委員令第227号を発出する契機となったほど、ロストフでのソ連軍の抵抗は微弱で、A軍集団は第4装甲軍の助力を必要とはしなかった。むしろ、この用兵は限られた数しかない進撃路での渋滞をもたらし、結果的には燃料と時間の浪費を生んだだけに終わった。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "上述の通り、ドイツ軍がヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍はチモシェンコ元帥の指揮のもと、スターリングラードに向けて計画的に後退した。これを追うドイツ軍は、夏の大草原(ステップ)で1年前を彷彿とさせる進撃を始めたが、前年と異なり捕虜や鹵獲した重装備はわずかであった。ともあれ、作戦の第一段階を達成したと認識したヒトラーは、7月23日に「総統指令第45号」を発した。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「総統指令第45号」は、A軍集団はバクー、B軍集団はスターリングラードと二つの重要都市の占領を命じ、さらに二つの軍集団の間を連携するため、第16自動車化歩兵師団をプロレタルスカヤからカルムイク自治共和国の首都エリスタを経てヴォルガ河口、カスピ海沿岸のアストラハンに向かうよう命じている。ソ連軍がこの方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は無人に近い草原を難なく突破し、チベット仏教の寺院が建つエリスタを占領することができた。ドイツ兵たちは地の果てまで到達した感があった。しかし、アスタラハンに達するための補給は限界に達し、しかもソ連はバクーからカスピ海を経てアストラハンからヴォルガ川を遡行するという水運ルートとは別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートをいち早く設定したため、アストラハンやスターリングラードを占拠されても、ソ連の命脈を絶つことにはならなかった。結局、第16自動車化歩兵師団の攻勢は無意味に終わった。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は装甲師団と自動車化歩兵師団の主力が引き抜かれ、さらに燃料補給もA軍集団が優先されたため、スターリングラードへ向けた追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍に再編のための時間を提供する結果となった。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "予想より早くロストフが陥落すると、ヒトラーは第4装甲軍主力を再びスターリングラード方面に向わせた。一方、セヴァストポリ包囲戦を終えてクリミア半島からケルチ海峡を渡ってA軍集団に加わる予定だったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍に対しては、セヴァストポリ要塞攻略の経験を活かすことを目的にレニングラード戦線への移動を命じた。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "こうした総統指令が相次ぐなか、8月7日になってドイツ第4装甲軍先鋒はスターリングラード南西130kmのコテリニコボに南側から回り込んだ。さらに翌8日、第6軍はドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻勢の開始は補給と兵力の集結を待たねばならなかった。", "title": "戦いの背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、グスタフ・アントン・フォン・ヴィッテルスハイム歩兵大将(英語版)のXIV装甲軍団とヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将のLI軍団を先頭に、スターリングラード市街に迫った。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者ヨシフ・スターリンが革命時のロシア内戦においてデニーキン将軍の白衛軍に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは五カ年計画において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車T-34の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34はハリコフ機関車工場、重戦車KV-1はレニングラードのキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場(ゴーリキー市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもあるウラル戦車工場(ニジニ・タギル市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年のコムソモール(共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵、さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、ロストフ奪回の策源地にもなりえた。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように日曜日の朝を迎えていた。しかしこの日、ゲルニカ爆撃以来、絨毯爆撃を主導してきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の第4航空艦隊は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンに上る猛爆撃を加えた。続いてB軍集団による総攻撃が開始された。ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃したハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm高射砲を使ったトラクター工場の女性労働者たち(コムソモールの少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物を形成し、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した北西方面軍へ異動となり、ワシーリー・ゴルドフ中将が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日にアンドレイ・エリョーメンコ大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われたデミャンスク包囲戦の際、第4打撃軍を指揮してトロペツを攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、軍司令官はアントーン・ロパーチン中将であった。ロパーチンは前年におけるロストフの防衛戦に加え、ドン川からの撤退戦でも能力を発揮していた。しかし、戦線の相次ぐ崩壊で心身ともに消耗し、スターリングラード市街の防衛に悲観的になっていたため更迭され、代わりに、第64軍司令官代理のワシーリー・チュイコフ中将が9月12日に新たに司令官に任命された。また、参謀長には、後に対日参戦で活躍することとなるニコライ・クルイロフ少将が就いている。パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフはつねに最前線近くに司令部を置いて指揮を行った。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団の兵力で、砲爆撃とともに、ツァリーツァ渓谷から市街地への突入を開始した。攻撃の重点が置かれたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、2つの駅とフェリー乗り場のある市街地南部だった。ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した廃墟を効果的に使って防衛するソ連第62軍の抵抗に遭う。建物一つ、部屋一つを奪い合う市街戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍がコンクリートの塊となった廃墟に突入しても、ソ連兵は上階で頑強に抵抗し、完全に占拠しても地下道や下水道を使って逆襲をかけてきた。地下壕は発見されるや否や、負傷兵や避難民ごと火炎放射器で焼き尽くされたが、後方の建物や窪地、瓦礫の中にはソ連の狙撃兵がいつの間にか入り込んだ。狙撃兵は、なるべく高い階級の敵の将校、あるいは伝令や斥候、補給要員、工兵に照準を合わせ、集中的に狙った。こうした狙撃兵の中からは、シベリアから派遣されたパチェク大佐の第284狙撃師団に属し、149人のドイツ軍将兵を射殺してソ連邦英雄となるヴァシリ・ザイツェフのような人物も現れる。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "悪臭や煙が充満する中で、風にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "9月に入って、ルジェフ付近における中央軍集団の正面ではソ連赤軍の新たな部隊が現れて散発的に攻撃を加えては後退するという現象が続き、冬季に向けて大規模な予備兵力が蓄積されつつある兆候が窺えた。陸軍総司令部 (OKH) 参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はかねてよりヒトラーと意見が衝突していたが、上記のようなソ連赤軍の動きへの対応をめぐって両者は決裂し、9月24日にハルダーが更迭される。後任にはハルダーと違ってヒトラーに従順な、西部軍参謀長のクルト・ツァイツラー少将が、ドイツ陸軍史上最年少の47歳で大将に一足飛びに昇格した上任命された。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "スターリングラードに攻め込んだドイツ第6軍は、決戦の勝利が間近であると確信していたヒトラーの命により、市街戦に装甲部隊や貴重な工兵部隊を惜しげもなく投入した。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "装甲部隊は市街地には不向きである。市街地は車輛にとって死角が多く、速度・機動力が生かせないことから反撃する側からは格好の標的であり、近距離からの攻撃によって小さい火力でも効果的な攻撃を加えることができた。実際、瓦礫で身動きを奪われた戦車の多くが弱点である上面をさらし、上方からの対戦車銃や火炎瓶で攻撃され損害を出した。第14装甲軍団長のヴィータースハイム大将はこうした用兵に最初から異論を唱えていたが、ヒトラーの逆鱗に触れた結果、市街地突入翌日の9月14日に解任される。後任には、ヒトラーお気に入りの第16装甲師団長フーベ中将が当てられた。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方、火炎放射器や爆薬を扱いなれた突撃工兵部隊は、こうした市街戦のプロフェッショナルであり、重点的に派遣された。しかし、ソ連軍狙撃兵にとって格好の標的となり、急速に数を減らしていった。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「手榴弾や拳銃の弾丸が届く50ヤード以内で敵と向かい合え」と抱擁戦を命令したチュイコフ中将が意図したように、両軍が狭い空間に入り乱れて対峙した結果、ドイツ軍は電撃戦の強さの秘訣であった小火器による弾幕、機甲部隊による機動、空軍によるユンカース急降下爆撃機からの効果的な支援を放棄してしまったとも言える。廃墟と化した都市の瓦礫のなかで敵と味方が近距離に相対する状況という市街戦は、第一次世界大戦の塹壕戦にも似た消耗戦となりドイツ軍の優位性が失われた状況で戦闘による死亡者は膨大な数になった。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、主力部隊を突出部の先端であるスターリングラードに密集させ、弱体なルーマニア軍に第6軍の両翼を守らせるという戦略の危険性については、第4歩兵軍団長ヴィクトル・フォン・シュベドラー大将がヒトラーに率直に進言したが、「敗北主義者」と罵倒されて10月に解任される。しかし、シュベドラーの危惧は約1ヵ月後に、ものの見事に的中する。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官であるペトレ・ドゥミトレスク大将も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していた。しかしヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まる9日前の11月10日のことであった。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "こうしたヒトラーの無能な指示に基づくドイツ軍内の混乱が続く中、ソ連赤軍はスターリングラード防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにし、予備兵力の訓練と展開の時間を稼いだ。共産党中央からは、のちに首相となるゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記やニキータ・フルシチョフ軍事会議委員らが派遣され、政治委員として督戦にあたった。また、ラヴレンチー・ベリヤが統括する内務人民委員部 (NKVD) は厭戦的な将兵の摘発や逃亡阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団を上回る1万3千人に達している。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ワシーリー・チュイコフ中将の指揮下で、ソ連軍第62軍は徹底した持久戦、接近戦、および白兵戦を行った。経験を重ねた赤軍将兵は、自動小銃や拳銃、ナイフ、刃を入れたスコップなどを携えてドイツ兵に忍び寄り、執拗に近接戦を展開した。また、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉じんの中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうというチュイコフ中将が立てた戦術はドイツ軍将兵に心理的ストレスを与えた。こうした戦術は、戦後に多くの国の特殊部隊で採用されたほど制圧効果があった。", "title": "攻防戦の展開" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "9月12日~13日にスターリンとソ連軍最高指揮官代理ゲオルギー・ジューコフ上級大将と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将はスターリングラードを防衛するための方策について協議した。この結果、スターリングラード市から離れた地域を起点として反攻を開始し、第6軍を大規模に逆包囲するという方針が決定される。これは3人だけの極秘事項とされた。以上の方針に基づき、ウラヌス作戦(天王星作戦)の準備が開始される。作戦は2ヶ月かけて準備した後、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両でスターリングラードの北西および南の側面に配置されていたルーマニア軍に向けて開始された。各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖の下で、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。加えて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻はドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、第二次ルジェフ会戦を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策に過ぎなかった。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スターリングラードの北西地域で密かに編成を終えたニコライ・ヴァトゥーチン大将の南西方面軍および、コンスタンチン・ロコソフスキー中将のドン方面軍により、重砲3500門による猛砲撃が午前7時30分から80分間続けられたのち、ロマネンコ中将の第5戦車軍とチスチャコフ中将の第21軍が、ドン川に面したクレツカヤ=ラスホピンスカヤ地区を守るドゥミトレスク大将のルーマニア第3軍を攻撃して包囲行動を開始した。ルーマニア兵は対戦車兵器がなく、戦車隊の攻撃を受け混乱状態に陥る。ルーマニア軍の後方には予備としてドイツ第22装甲師団が配置されていたが、大部分が旧式のチェコ製38(t)戦車だった上、燃料不足のため2ヵ月近くエンジンをかけずにワラを被せて待機するうちに、電極をネズミにかじられる問題が発生し、行動可能な戦車は20両余りに過ぎなかった。38(t)戦車より格段に高性能のT-34戦車200両からなる第5戦車軍はペスチャヌイ付近で第22装甲師団の反撃を退け、この日だけで吹雪の草原を50キロほど前進している。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "翌20日にはスターリングラードの南側地域に集結していたアンドレイ・エリョーメンコ大将のスターリングラード方面軍が、シュミロフ中将の第64軍、トルファノフ中将の第57軍、トルブーヒン中将の第51軍による攻勢を開始し、コンスタンチネスク大将のルーマニア第4軍を突破した。唯一の強力な予備兵力で、長砲身のIV号戦車を装備したレイザー少将率いるドイツ第29自動車化師団は、第51軍に属する第13機械化師団に反撃して大損害を与える。しかし、パウルスが予備の兵力を追加しなかった上、他の地区のソ連赤軍は味方の損害をあえて無視して進撃の続行を優先したため、ドイツ軍の反撃の効果は局地的なものとなった。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信設備が整備されたニジネ・チルスカヤへの移転準備がちょうど進められていた。そうした折に、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日にパウルスは急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、やむなくスターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動により、パウルス司令官の所在がたびたび不明になったことが第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく、無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、ヴィテプスクにあったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発する。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団は要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、これにより両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時には、ソヴィエツキーで南西方面軍に属するアンドレイ・クラフチェンコ少将の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属するワシーリー・ヴォリスキー少将の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人に上った。ミハイ・ラスカル中将のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気づいた第6軍パウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ドイツ・バイエルン州のベルヒテスガーデンから東プロイセンのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とするヘルマン・ゲーリング国家元帥や、それに追従するハンス・イェションネク空軍参謀総長の主張もあり、空中補給による戦線維持は可能と彼は判断していた。7月26日深夜のハンブルク空襲以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日にロンメル元帥の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコ・アルジェリアに上陸した結果(トーチ作戦)、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。一方、この日に55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着する。出迎えたヴァイクス司令官がもたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀のテオドーア・ブッセ大佐も、ソ連軍の消耗に期待し、まだ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代にドン・コサックの拠点が置かれたノヴォチェルカッスクの旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路は貧弱で、鉄道はパルチザンの破壊工作による脅威に直面しており、レニングラード全面から5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化されていた。マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍のヴァルター・ヴェンク参謀長が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる第6装甲師団はフランスからの到着を待たなければならないという状況だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ! 総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を上級大将に昇格させた。", "title": "ソ連軍の大反攻" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍は約120万人とされている。全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者(ヒヴィ)として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。戦前には60万を数えたスターリングラードの住民は、攻防戦が終結した時点でわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。", "title": "死傷者数" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した。捕虜の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で発疹チフスが大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。", "title": "捕虜" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "生存者はその後、中央アジアやシベリアの収容所に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった。捕虜となった将校の中にはザイトリッツのように、「ドイツ将校同盟」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。", "title": "捕虜" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "コーカサス地方の制圧を目指した第1装甲軍などはソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の指揮に加え、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将の第1装甲軍などは、クバン橋頭堡を除いて、ミウス河まで撤退することができ、東部戦線南翼の崩壊という事態をなんとか逃れることができた。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサス地方からの撤収に成功したクライスト上級大将の第1装甲軍も膨大な重火器と車両を遺棄しており、ドイツにとっては数ヶ月分の生産量に相当する損失となった。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1941年開戦時における戦線全域における攻勢の失敗、1942年における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、工業生産能力の限界からこれ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いになっている。もはやドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "枢軸同盟国は、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出した。特にイタリアは北アフリカ戦線で劣勢になっており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なおフランス、パリのメトロにはこの攻防戦での赤軍の勝利を記念して命名されたスターリングラード駅がある。", "title": "スターリングラード攻防戦の影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "緒戦の段階では、ドイツ空軍は第4航空艦隊がメッサーシュミット Bf109戦闘機によってソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握した上で、陸空協調という戦略の下銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え打撃を与えていたが、陸軍同様に次第に消耗していった。", "title": "スターリングラードとドイツ空軍" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官のヘルマン・ゲーリング国家元帥が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると主張したことが挙げられる。これは、同年春におけるデミャンスク包囲戦の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いた末、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦より深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング国家元帥が軽々に請け負ったことは、大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較して大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していた上に悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しない上、敵軍の兵力は大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機操縦士は次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、Bf 109にも劣らない性能を持つYak-1を駆使するセルゲイ・ルジェーンコ空軍大将の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目されたリディア・リトヴァクのような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装のJu 52輸送機は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。", "title": "スターリングラードとドイツ空軍" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後に過ぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。併せて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった飛行場も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持は落下傘による補給品投下に頼らざるを得なかった。このような方法によって十分な量の補給は困難であり、さらに投下された補給品の多くは、ドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収された。", "title": "スターリングラードとドイツ空軍" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ヒトラーから直接総統命令を受けたことで無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括したエアハルト・ミルヒ元帥は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵によるサボタージュすら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越える操縦士が失われた。多くの輸送機を喪失したことは結果として更なる輸送力の低下につながることとなり、戦線を拡大しすぎたドイツ国防軍にとって大きな痛手となった。特に、Ju 52は飛行学校の訓練機としても用いられていた上に飛行学校の教官が操縦士を担っていたため、これらを多数失ったことは、ドイツ空軍が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング国家元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって損なわれ、ナチス党率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在は空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。", "title": "スターリングラードとドイツ空軍" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第6軍(6. Armee)", "title": "枢軸軍の編成" } ]
スターリングラード攻防戦は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。 スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。 緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。 死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。
{{複数の問題| |出典の明記=2013年10月 |独自研究=2013年10月 |参照方法 = 2013年10月 }} {{Battlebox |battle_name = スターリングラード攻防戦 |campaign = 独ソ戦 |colour_scheme = background:#ffccaa |image = [[File:Фонтан «Детский хоровод».jpg|300px]] |caption = 荒廃したスターリングラード市街と[[バルマレイの泉]] |conflict = [[独ソ戦]]([[第二次世界大戦]]) |date=1942年6月28日 - 1943年2月2日 |place = [[ソビエト連邦]]・[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]] |result = ソ連の決定的勝利<ref name="Bellamy2007">Bellamy, (2007)</ref> *[[第6軍 (ドイツ軍)|ドイツ陸軍 第6軍]]の壊滅 *[[東部戦線 (第二次世界大戦)|東部戦線]]での戦略的主導権の損失<ref>{{Cite web |last1=Andrews |first1=Evan |url=http://www.history.com/news/history-lists/8-things-you-should-know-about-wwiis-eastern-front |title=8 Things You Should Know About WWII's Eastern Front |work=HISTORY.com |accessdate=2015-11-19}}</ref> |combatant1 = '''{{DEU1935}}'''<br />{{ROM1881}}<br />{{ITA1861}}<br />{{HUN1920}}<br />{{HRV1941}} |combatant2 = '''{{SSR1923}}''' |commander1 = {{flagicon|DEU1935}} [[アドルフ・ヒトラー]]<br/>{{flagicon|DEU1935}} [[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[フリードリヒ・パウルス]][[File:White flag icon.svg|16px]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[ヘルマン・ホト]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]<br />{{flagicon|ROM1881}} [[ペトレ・ドゥミトレスク]]<br />{{flagicon|ROM1881}} [[コンスタンチン・コンスタンチネスク・クラップス]]<br />{{flagicon|ITA1861}} [[イータロ・ガリボルディ]]<br />{{Flagicon|HUN1918}} [[ヤーニ・グスターフ]]<br />{{flagicon|HRV1941}} [[ヴィクトル・パヴィチッチ]] |commander2 = {{flagicon|SSR1923}} [[ヨシフ・スターリン]]<br/>{{flagicon|SSR1923}} [[ゲオルギー・ジューコフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニコライ・ヴォロノフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[アンドレイ・エリョーメンコ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニキータ・フルシチョフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ハジ・アスラノフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}}[[コンスタンチン・ロコソフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニコライ・ヴァトゥーチン]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ワシーリー・チュイコフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ロディオン・マリノフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[セミョーン・チモシェンコ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ミハイル・シュミロフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ワシーリー・ゴルドフ]] |strength1 = [[B軍集団]]<br />戦闘開始時 270,000戦車500大砲3,000航空機600~1600<br />赤軍反撃時 1,040,000(ドイツ軍400,000+イタリア軍220,000+ハンガリー軍200,000+ルーマニア軍143,296+ロシア解放軍40,000) |strength2 = [[スターリングラード戦線 (ソ連軍)|スターリングラード戦線]]<br />戦闘開始時 187,000<br />赤軍反撃時 1,700,000 |casualties1 = ドイツ<br />戦死 ・戦傷・捕虜400,000<br />ハンガリー<br />戦死・戦傷・捕虜 105,000<br />ルーマニア<br/>戦死・戦傷・捕虜109,000 <br />イタリア<br />戦死・戦傷・捕虜114,000<br />計 728,000<br />航空機 900<br />戦車1500<br />大砲6000<ref>Bergström, Christer, (2007), Stalingrad - The Air Battle: 1942 through January 1943, Chevron Publishing Limited</ref> |casualties2 = 戦死・行方不明 478,741<br />負傷 650,878<br />民間人死者 40,000<br />計 1,129,619<br />航空機 2,769<br /><ref>Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Russia and USSR in wars of the XX century - Losses of armed forces, Moskow, Olma-Press, 2001.</ref> |}} '''スターリングラード攻防戦'''(スターリングラードこうぼうせん、{{Lang-en|Battle of Stalingrad}}, [[1942年]][[6月28日]] - [[1943年]][[2月2日]])は、[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]において、[[ソビエト連邦]]領内の[[ヴォルガ川]]西岸に広がる工業都市[[ヴォルゴグラード|スターリングラード(現ヴォルゴグラード)]]を巡り繰り広げられた、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、および[[クロアチア独立国|クロアチア]]からなる[[枢軸軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]の戦いである。 スターリングラードは元来[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ブラウ作戦]]における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]の名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の[[市街戦]]に発展、やがては[[日露戦争]]の[[奉天会戦]]や[[第一次世界大戦]]の[[ヴェルダンの戦い]]を上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす[[野戦]]に拡大した。 緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、[[第6軍 (ドイツ軍)|ドイツ第6軍]]を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「[[ミッドウェイ海戦]]、[[エル・アラメインの戦い]]、[[第三次ソロモン海戦]]」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている<ref>[[#ワシントン]]p.180</ref>。 死傷者数は[[ソンムの戦い]]などの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「[[バグダードの戦い|バグダッド包囲殲滅戦]]」([[モンゴル帝国]])などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。 == 戦いの背景 == [[バルバロッサ作戦]]に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都[[モスクワ]]の攻略[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、[[ノブゴロド]]、[[スモレンスク]]、[[ハルキウ|ハリコフ]]といった重要拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。 雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、[[ブラウ作戦]]を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断する[[フレデリクス計画]]を策定していた。 両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍([[セミョーン・チモシェンコ|セミョーン・チモシェンコ元帥]])は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]と[[第1装甲軍]]による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した([[第二次ハリコフ攻防戦]])。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍は[[ドン河]]を目指して撤退を開始することとなった。 === ブラウ作戦発動 === {{main|ブラウ作戦}} ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、[[コーカサス]]地方を南下して、マイコープ、グローズヌイ付近の油田を占領し、最終的には[[バクー油田]]を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。 そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐が、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜されたうえ、機密文書の回収に失敗するという事件が起きた。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。 === ヴォロネジでの停滞 === 南方軍集団は6月28日に[[クルスク]]方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始した。まず、[[第2軍 (ドイツ軍)|ドイツ第2軍]]と[[第4装甲軍]]、およびハンガリー第2軍が左翼となってドン川をめざし、30日には[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]がドネツ川を渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日から[[イリューシン設計局]]の航空機工場がある[[ヴォロネジ]]を2個師団の兵力により攻撃した。 一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかし[[スターリン]]は、ドイツ軍はヴォロネジから[[オリョール]]、さらに[[モスクワ]]に向けて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、[[フィリップ・ゴリコフ|フィリップ・ゴリコフ中将]]の[[ブリャンスク戦線|ブリャンスク方面軍]]は、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領することができた。この影響で南方軍集団は足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかるが、その間にチモシェンコ元帥は残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。そもそも作戦の第一段階での目標は、ドン川西岸でソ連軍を捕捉し殲滅することだった。ドイツ軍はドン川東岸に侵攻することはできたものの、その間に得られた捕虜や鹵獲装備は思いのほか少なく、敵が秩序だった撤退を行っていることが推察された。ヴォロネジでの独ソ別々の思惑による停滞は、その後の展開に思わぬ影響を及ぼすこととなる。 こうしたおり、ヒトラーはドン川→[[カフカース|コーカサス地方]]という二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、急きょ二方面同時攻勢に変更させた。7月7日、この指令に応じるかたちで南方軍集団は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカースの油田地帯を攻略する「[[A軍集団]]」([[ヴィルヘルム・リスト|ヴィルヘルム・リスト元帥]]指揮。[[第17軍 (ドイツ軍)|第17軍]]、[[第1装甲軍]]など)と、チモシェンコ元帥のソ連軍を追撃・撃破しつつドン河沿いに進み、さらにスターリングラードでヴォルガ河を封鎖するという「[[B軍集団]]」(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、[[イタリア・ロシア戦域軍|イタリア第8軍]]、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍)に分割される。撤退中のソ連軍を多方面で追撃しつつ占領域を広げるという方策だが、こうした兵力分割は、結果的に機動力の確保と補給を困難にさせた<ref>山崎雅弘「戦略分析・ブラウ作戦」(『歴史群像』122、2013年11月)</ref>。 [[画像:Eastern Front 1942-05 to 1942-11.png|300px|thumb|ドイツ軍の進撃。1942年5月から1942年11月にかけての前線の推移]] === B軍集団 === 7月13日のヴォロネジ占領と同時に、B軍集団司令官のボック元帥は、ヴォロネジでの時間の空費を追及されて更迭となった。その後任としてヒトラーが任用したのは、第2軍司令官の[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス|マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将]]だった。また、ヒトラーは第4装甲軍([[ヘルマン・ホト|ヘルマン・ホト上級大将]])に対し、ドン河方面での左翼から主力部隊を一旦離脱させ、A軍集団のドン河渡河を支援するため、[[ノヴォチェルカースク]]付近のドン河に向わせた。 しかし、スターリンが「一歩も下がるな!」とのスローガンをのちに発したことで有名な、[[ソ連国防人民委員令第227号]]を発出する契機となったほど、ロストフでのソ連軍の抵抗は微弱で、A軍集団は第4装甲軍の助力を必要とはしなかった。むしろ、この用兵は限られた数しかない進撃路での渋滞をもたらし、結果的には燃料と時間の浪費を生んだだけに終わった。 [[画像:Bundesarchiv Bild 101I-217-0494-34, Russland-Süd, Schützenpanzer.jpg|250px|thumb|left|草原を進撃するドイツ軍]] 上述の通り、ドイツ軍がヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍はチモシェンコ元帥の指揮のもと、スターリングラードに向けて計画的に後退した。これを追うドイツ軍は、夏の大草原([[ステップ (地形)|ステップ]])で1年前を彷彿とさせる進撃を始めたが、前年と異なり捕虜や鹵獲した重装備はわずかであった。ともあれ、作戦の第一段階を達成したと認識したヒトラーは、7月23日に「総統指令第45号」を発した。 「総統指令第45号」は、A軍集団はバクー、B軍集団はスターリングラードと二つの重要都市の占領を命じ、さらに二つの軍集団の間を連携するため、第16自動車化歩兵師団をプロレタルスカヤから[[カルムイク自治ソビエト社会主義共和国|カルムイク自治共和国]]の首都[[エリスタ]]を経てヴォルガ河口、[[カスピ海]]沿岸の[[アストラハン]]に向かうよう命じている。ソ連軍がこの方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は無人に近い草原を難なく突破し、チベット仏教の寺院が建つエリスタを占領することができた。ドイツ兵たちは地の果てまで到達した感があった。しかし、アスタラハンに達するための補給は限界に達し、しかもソ連はバクーからカスピ海を経てアストラハンからヴォルガ川を遡行するという水運ルートとは別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートをいち早く設定したため、アストラハンやスターリングラードを占拠されても、ソ連の命脈を絶つことにはならなかった。結局、第16自動車化歩兵師団の攻勢は無意味に終わった。 ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は[[装甲師団]]と[[自動車化歩兵|自動車化歩兵師団]]の主力が引き抜かれ、さらに燃料補給もA軍集団が優先されたため、スターリングラードへ向けた追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍に再編のための時間を提供する結果となった。 予想より早くロストフが陥落すると、ヒトラーは第4装甲軍主力を再びスターリングラード方面に向わせた。一方、[[セヴァストポリ包囲戦 (1941年-1942年)|セヴァストポリ包囲戦]]を終えて[[クリミア半島]]から[[ケルチ海峡]]を渡ってA軍集団に加わる予定だった[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥]]の第11軍に対しては、セヴァストポリ要塞攻略の経験を活かすことを目的にレニングラード戦線への移動を命じた。 こうした総統指令が相次ぐなか、8月7日になってドイツ第4装甲軍先鋒はスターリングラード南西130kmのコテリニコボに南側から回り込んだ。さらに翌8日、第6軍はドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻勢の開始は補給と兵力の集結を待たねばならなかった。 == 攻防戦の展開 == [[画像:Bundesarchiv Bild 146-1971-070-73, Russland, Paulus und v. Seydlitz-Kurzbach.jpg|thumb|パウルス第6軍司令官とザイトリッツ大将(左)]] [[フリードリヒ・パウルス|フリードリヒ・パウルス大将]]率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、{{仮リンク|グスタフ・アントン・フォン・ヴィッテルスハイム|label=グスタフ・アントン・フォン・ヴィッテルスハイム歩兵大将|en|Gustav Anton von Wietersheim}}のXIV装甲軍団と[[ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ|ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将]]のLI軍団を先頭に、スターリングラード市街に迫った。 === スターリングラードの価値 === 当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]が革命時の[[ロシア内戦]]において[[デニーキン]]将軍の[[白衛軍]]に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは[[五カ年計画]]において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していた[[ティターン・バリカディ|バリカドイ(バリケード)兵器工場]]、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。 特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車[[T-34]]の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34は[[V・O・マールィシェウ記念工場|ハリコフ機関車工場]]、重戦車[[KV-1]]は[[レニングラード]]のキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場([[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー]]市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもあるウラル戦車工場([[ニジニ・タギル]]市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。 市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年の[[コムソモール]](共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵、さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]奪回の策源地にもなりえた<ref group="注釈">[[朝鮮戦争]]中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた[[白善燁]]大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録』(草思社、2000年)によると、1941年に[[満州国軍官学校]]で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の[[甲谷悦雄]]中佐は、「間もなくヴォルガ川畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。</ref>。 === ドイツ軍の攻撃開始 === 8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように日曜日の朝を迎えていた。しかしこの日、[[ゲルニカ爆撃]]以来、絨毯爆撃を主導してきた[[ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン|ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将]]の第4航空艦隊は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンに上る猛爆撃を加えた。続いてB軍集団による総攻撃が開始された。ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。 [[画像:Bundesarchiv Bild 183-B22081, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff.jpg|thumb|ドイツ軍機の爆撃に曝される市街地]] まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃した[[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ|ハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将]]の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm[[高射砲]]を使ったトラクター工場の女性労働者たち([[コムソモール]]の少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物を形成し、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。 スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した[[北西戦線 (ソ連軍)|北西方面軍]]へ異動となり、[[ワシーリー・ゴルドフ|ワシーリー・ゴルドフ中将]]が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日に[[アンドレイ・エリョーメンコ]]大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われた[[デミャンスク包囲戦]]の際、第4打撃軍を指揮して[[トロペツ]]を攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。 [[画像:Bundesarchiv Bild 116-168-618, Russland, Kampf um Stalingrad, Soldat mit MPi.jpg|thumb|left|[[CQC|近接戦]]下のドイツ兵]] スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、軍司令官は[[アントーン・ロパーチン|アントーン・ロパーチン中将]]であった。ロパーチンは前年におけるロストフの防衛戦に加え、ドン川からの撤退戦でも能力を発揮していた。しかし、戦線の相次ぐ崩壊で心身ともに消耗し、スターリングラード市街の防衛に悲観的になっていたため更迭され、代わりに、第64軍司令官代理の[[ワシーリー・チュイコフ|ワシーリー・チュイコフ中将]]が9月12日に新たに司令官に任命された。<!--チュイコフは、のちに第8親衛軍司令官としてベルリン攻撃の主力となり、防衛軍司令官[[ヘルムート・ヴァイトリンク|ヘルムート・ヴァイトリンク砲兵大将]]の降伏を受け入ることとなる。-->また、参謀長には、後に[[ソ連対日参戦|対日参戦]]で活躍することとなる[[ニコライ・クルイロフ|ニコライ・クルイロフ少将]]が就いている。パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフはつねに最前線近くに司令部を置いて指揮を行った。 === 総攻撃と市街戦突入 === [[画像:Streetfight Stralingrad01.jpg|thumb|廃墟で戦うソ連兵]] 9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団の兵力で、砲爆撃とともに、ツァリーツァ渓谷から市街地への突入を開始した。攻撃の重点が置かれたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、2つの駅とフェリー乗り場のある市街地南部だった。<!-- ソ連は同日増援部隊の準備が整うまで、ドイツ軍をスターリングラードに釘付けにすることを決定した(他説として、ドイツ側の指導者であるヒトラーが「ソ連の指導者の名前を冠した都市」に目を付けたという説もある。また、ソ連側の指揮官が「ソ連の指導者の名前が付いた都市であり、それを死守しなければ、国民の士気に影響する」という考えがあったという説もある)。-->ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した廃墟を効果的に使って防衛するソ連第62軍の抵抗に遭う。建物一つ、部屋一つを奪い合う市街戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍がコンクリートの塊となった廃墟に突入しても、ソ連兵は上階で頑強に抵抗し、完全に占拠しても地下道や下水道を使って逆襲をかけてきた。地下壕は発見されるや否や、負傷兵や避難民ごと火炎放射器で焼き尽くされたが、後方の建物や窪地、瓦礫の中にはソ連の狙撃兵がいつの間にか入り込んだ。狙撃兵は、なるべく高い階級の敵の将校、あるいは伝令や斥候、補給要員、工兵に照準を合わせ、集中的に狙った。こうした狙撃兵の中からは、シベリアから派遣されたパチェク大佐の第284狙撃師団に属し、149人のドイツ軍将兵を射殺して[[ソ連邦英雄]]となる[[ヴァシリ・ザイツェフ]]のような人物も現れる<ref group="注釈">ザイツェフは映画『[[スターリングラード (2001年の映画)|スターリングラード]]』のモデルとなった。彼の狙撃銃は市内の戦争記念館に保管されている。</ref>。 あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。 {{Cquote|スターリングラードはもはや街ではない。日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ河に飛び込み、必死に泳いで対岸にたどり着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い石でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。 神よ、なぜわれらを見捨て給うたのか。<ref>映像の世紀より</ref><ref>Joachim Stempel(Will Fowler: Schlacht um Stalingrad. Die Eroberung der Stadt – Oktober 1942. Wien 2006, S. 83.)</ref>}} 悪臭や煙が充満する中で、風にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。 === ドイツ軍の人事的混乱 === [[画像:Bundesarchiv Bild 183-B28822, Russland, Kampf um Stalingrad, Infanterie.jpg|thumb|歩兵と[[III号突撃砲]]]] [[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-107-40, Russland, Kampf um Stalingrad, Infanterie.jpg|thumb|ドイツ軍の歩兵部隊(1942年9月23日)]] 9月に入って、ルジェフ付近における[[中央軍集団]]の正面ではソ連赤軍の新たな部隊が現れて散発的に攻撃を加えては後退するという現象が続き、冬季に向けて大規模な予備兵力が蓄積されつつある兆候が窺えた。[[陸軍総司令部]] (OKH) 参謀総長[[フランツ・ハルダー|フランツ・ハルダー上級大将]]はかねてよりヒトラーと意見が衝突していたが、上記のようなソ連赤軍の動きへの対応をめぐって両者は決裂し、9月24日にハルダーが更迭される。後任にはハルダーと違ってヒトラーに従順な、西部軍参謀長の[[クルト・ツァイツラー|クルト・ツァイツラー少将]]が、ドイツ陸軍史上最年少の47歳で大将に一足飛びに昇格した上任命された。 スターリングラードに攻め込んだドイツ第6軍は、決戦の勝利が間近であると確信していたヒトラーの命により、市街戦に[[機甲部隊|装甲部隊]]や貴重な[[工兵]]部隊を惜しげもなく投入した。 装甲部隊は市街地には不向きである。市街地は車輛にとって死角が多く、速度・機動力が生かせないことから反撃する側からは格好の標的であり、近距離からの攻撃によって小さい火力でも効果的な攻撃を加えることができた。実際、瓦礫で身動きを奪われた戦車の多くが弱点である上面をさらし、上方からの対戦車銃や火炎瓶で攻撃され損害を出した。第14装甲軍団長のヴィータースハイム大将はこうした用兵に最初から異論を唱えていたが、ヒトラーの逆鱗に触れた結果、市街地突入翌日の9月14日に解任される。後任には、ヒトラーお気に入りの第16装甲師団長フーベ中将が当てられた。 一方、火炎放射器や爆薬を扱いなれた突撃工兵部隊は、こうした市街戦のプロフェッショナルであり、重点的に派遣された。しかし、ソ連軍狙撃兵にとって格好の標的となり、急速に数を減らしていった。 「手榴弾や拳銃の弾丸が届く50ヤード以内で敵と向かい合え」と抱擁戦を命令したチュイコフ中将が意図したように、両軍が狭い空間に入り乱れて対峙した結果、ドイツ軍は[[電撃戦]]の強さの秘訣であった小火器による弾幕、機甲部隊による機動、空軍による[[Ju87|ユンカース急降下爆撃機]]からの効果的な支援を放棄してしまったとも言える。廃墟と化した都市の瓦礫のなかで敵と味方が近距離に相対する状況という市街戦は、第一次世界大戦の[[塹壕戦]]にも似た消耗戦となりドイツ軍の優位性が失われた状況で戦闘による死亡者は膨大な数になった。 なお、主力部隊を突出部の先端であるスターリングラードに密集させ、弱体なルーマニア軍に第6軍の両翼を守らせるという戦略の危険性については、第4歩兵軍団長[[ヴィクトル・フォン・シュベドラー]]大将がヒトラーに率直に進言したが、「敗北主義者」と罵倒されて10月に解任される。しかし、シュベドラーの危惧は約1ヵ月後に、ものの見事に的中する。 シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官である[[ペトレ・ドゥミトレスク|ペトレ・ドゥミトレスク大将]]も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していた。しかしヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まる9日前の11月10日のことであった。 こうしたヒトラーの無能な指示に基づくドイツ軍内の混乱が続く中、ソ連赤軍はスターリングラード防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにし、予備兵力の訓練と展開の時間を稼いだ。共産党中央からは、のちに首相となる[[ゲオルギー・マレンコフ|ゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記]]や[[ニキータ・フルシチョフ|ニキータ・フルシチョフ軍事会議委員]]らが派遣され、政治委員として[[督戦隊|督戦]]にあたった。また、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]が統括する[[内務人民委員部]] (NKVD) は厭戦的な将兵の摘発や逃亡阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団を上回る1万3千人に達している。 === ソ連第62軍の抵抗 === [[画像:Cujkov.jpg|thumb|left|チュイコフ中将]] [[ワシーリー・チュイコフ|ワシーリー・チュイコフ中将]]の指揮下で、ソ連軍第62軍は徹底した持久戦、接近戦、および白兵戦を行った。経験を重ねた赤軍将兵は、自動小銃や拳銃、ナイフ、刃を入れたスコップなどを携えてドイツ兵に忍び寄り、執拗に近接戦を展開した。また、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉じんの中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうというチュイコフ中将が立てた戦術はドイツ軍将兵に心理的ストレスを与えた。こうした戦術は、戦後に多くの国の特殊部隊で採用されたほど制圧効果があった。 * [[9月14日]] - フォン・ハルトマン中将のドイツ[[第71歩兵師団 (ドイツ国防軍)|第71歩兵師団]]が市街南部の中央駅(第一停車場)を攻撃。以後、[[スペイン内戦]]における[[グアダラハラ (スペイン)|グアダラハラ]]の戦いで活躍した[[アレクサンドル・ロジムツェフ|アレクサンドル・ロジムツェフ少将]]の率いる第13親衛狙撃師団との間で、数日間15回も取りつ取られつの激戦となった。 * [[9月16日]] - コルフェス少将のドイツ第295歩兵師団が市街を見下ろす標高102メートルの丘[[ママエフ・クルガン]]を占拠するも、ゴリシュヌイ少将の第45狙撃師団との間で10月まで争奪が続く。頂上は両軍の砲弾が着弾して無人化し、冬になっても積雪しなかったといわれる<ref group="注釈">現在、ママエフ・クルガンにはソ連の戦勝を記念した、巨大な「[[母なる祖国像|母なる祖国の像]]」が立つ。</ref>。 * [[9月18日]] - 中央駅周辺が占拠され、ソ連第62軍は南北に分断される。チュイコフ中将はフェリー乗り場近くの地下壕から北部の工場地区にある石油備蓄施設の地下室に司令部を移した。しかし、市街南部を見下ろす巨大な穀物サイロには、第35親衛師団兵および北極海艦隊水兵からなる50名弱のソ連兵が籠城し、1個大隊のドイツ軍を引きつけて抵抗を続けた。 * [[9月22日]] - ドイツ軍は装甲師団の応援を得て、手こずったすえに穀物サイロのソ連兵を全滅させて「赤の広場」に進出した。これで、ソ連赤軍の補給拠点であるフェリー乗り場を機銃で射撃することが可能となった。その結果、市の中心である南部地区はほぼ制圧され、以後は北部の工場地区が攻防の焦点となる。しかし、4階建てのアパートを地雷と機銃を駆使して最後まで守り抜いた第42親衛連隊の[[ヤコブ・パブロフ|ヤコブ・パブロフ軍曹]]の一隊のような、後方に残存して抗戦する小部隊も少なくなかった<ref group="注釈">パブロフが立てこもった建物は、「[[パブロフの家]]」として[[ヴォルゴグラード]]市内に[[戦争遺跡]]として保存されている。</ref>。 [[画像:Bundesarchiv Bild 146-1974-107-66, Russland, Kampf um Stalingrad, Infanterie.jpg|thumb|倒壊した工場プラントを塹壕代わりに待機するドイツ歩兵]] * [[9月27日]] - レンスキー中将のドイツ軍第24装甲師団とマグヌス少将の第389歩兵師団を主力とする部隊が、市街戦中も戦車を作り続けていた、赤い10月製鉄工場への攻撃を開始する。ソ連軍もシベリアからの増援部隊を送りこみ抵抗した。 * [[10月14日]] - ドイツ軍第14装甲師団と3個歩兵師団が支援爆撃とともにトラクター工場に対する総攻撃を開始した。市街への攻撃開始以来最大の激戦となり、ジョルデフ少将の第37親衛狙撃師団を壊滅させてヴォルガ川に達したが、ドイツ軍も1日で3,000人近い戦死者を出した。ソ連軍を全滅させたドイツ軍部隊が河岸に到達するや、対岸のソ連軍は重砲や[[カチューシャ (兵器)|カチューシャロケット砲]]で集中砲火を浴びせたので、ドイツ兵の消耗も著しかった。 * [[10月23日]] - バリカドイ兵器工場のほとんどがドイツ軍の手に落ちる。前日には初雪が降ったが、市街の9割はドイツ軍の支配下となった。 * [[10月27日]] - 赤い10月製鉄工場にドイツ第79歩兵師団が突入。ソ連兵は火を落とした溶鉱炉などで食い止める。いまや第62軍は、工場の一郭に潜伏するか、ヴォルガ川に幅数百メートルで張り付いた帯状の陣地に立てこもる状態となった。しかし、ほとんど増援を得られない中で、将兵は頑強に抵抗した。ドイツ軍も補給に苦しみ、また空軍の支援も漸減し、冬を迎えつつある市街のわずか数パーセントをめぐり際限のない市街戦が続いた。 * [[11月1日]] - 第79歩兵師団による「赤い10月」工場奪還の失敗後、第6軍は最後の大規模な攻勢として、突撃工兵による[[突撃大隊|特攻戦術]] (Stoßtrupptaktik) を中核とした「[[フーベルトゥス作戦]]」を発動。目標は「バリケード」兵器工廠及び「ラズール」化学工場など工場群、さらに特徴的な周回線路から「テニスラケット」と呼ばれた操車場占拠であった。作戦は18日頃まで実施されたが、第6軍は大きな損害を被り、作戦は最終的には失敗に終わった。 * [[11月8日]] - [[ロシア革命]]25周年を記念して、この日にソ連軍が何らかの攻勢を仕掛けるだろうという懸念があったが何事もなく、ソ連の兵力も限界に近づいているとの楽観論がドイツ軍側に漂う。翌日、ヒトラーはスターリンの名を冠したスターリングラードを時間のいかんに関わらず必ず制圧し、[[ヴェルダンの戦い|ヴェルダン]]の二の舞にはしないとラジオで演説した。 * [[11月11日]] - 午前6時30分、ドイツ軍は7個師団で工場地区に残る第62軍の掃討を開始した。激烈な白兵戦が展開された末、「テニスラケット」は第62軍が何とか確保したが、ドイツ軍は赤い10月製鉄工場を突破して数百メートル幅でヴォルガ川に到達し、第62軍は三つに分断される。さらに浮氷がヴォルガ川に流れ出し、ただでさえ困難だった対岸からの補給を阻害した。しかし、市内のほとんどを確保したとはいえドイツ軍の消耗も激しく、日ごとに寒気が強くなる中で、戦線は再び膠着状態となってしまう。結局、これが第6軍にとって最後の総攻撃となった。一方、第62軍は今回も激しい爆撃を受けたが、彼らの頭上には爆弾に交じって鉄片や瓦礫、犂まで落とされた。これを見てチュイコフは、自らのみならず敵も限界に近づきつつあることを悟った。 == ソ連軍の大反攻 == [[画像:Map Battle of Stalingrad-en.svg|300px|thumb|'''ソ連軍の反撃'''{{small|(灰矢印)}}'''と前線の推移''' 11月19日、ウラヌス作戦開始時点の前線(赤)、12月12日、冬の嵐作戦開始時点の前線(オレンジ)、この時点でスターリングラードのドイツ軍は孤立している。12月24日、第6軍救出断念の時点の前線(緑)]] 9月12日~13日にスターリンとソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]はスターリングラードを防衛するための方策について協議した。この結果、スターリングラード市から離れた地域を起点として反攻を開始し、第6軍を大規模に逆包囲するという方針が決定される。これは3人だけの極秘事項とされた<ref>スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p.269</ref>。以上の方針に基づき、[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)の準備が開始される。作戦は2ヶ月かけて準備した後、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両でスターリングラードの北西および南の側面に配置されていたルーマニア軍に向けて開始された。<!-- ソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]の下で、9月12日にスターリンの許可を得て極秘裏に2ヵ月にわたり準備された、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するという[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)が発動される。-->各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖の下で、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。加えて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻はドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、[[第二次ルジェフ会戦]]を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策に過ぎなかった。 === ウラヌス作戦 === {{main|ウラヌス作戦}} [[画像:Bundesarchiv Bild 101I-218-0501-27, Russland-Süd, rumänische Soldaten.jpg|thumb|left|スターリングラードでのルーマニア兵]] ; [[11月19日]] (北部からの攻勢開始) スターリングラードの北西地域で密かに編成を終えた[[ニコライ・ヴァトゥーチン|ニコライ・ヴァトゥーチン大将]]の[[南西戦線 (ソ連軍)|南西方面軍]]および、[[コンスタンチン・ロコソフスキー|コンスタンチン・ロコソフスキー中将]]の[[ドン戦線 (ソ連軍)|ドン方面軍]]により、重砲3500門による猛砲撃が午前7時30分から80分間続けられたのち、ロマネンコ中将の第5戦車軍とチスチャコフ中将の第21軍が、ドン川に面したクレツカヤ=ラスホピンスカヤ地区を守るドゥミトレスク大将のルーマニア第3軍を攻撃して包囲行動を開始した。ルーマニア兵は対戦車兵器がなく、戦車隊の攻撃を受け混乱状態に陥る。ルーマニア軍の後方には予備としてドイツ第22装甲師団が配置されていたが、大部分が旧式のチェコ製[[LT-38|38(t)]]戦車だった上、燃料不足のため2ヵ月近くエンジンをかけずにワラを被せて待機するうちに、電極をネズミにかじられる問題が発生し、行動可能な戦車は20両余りに過ぎなかった。38(t)戦車より格段に高性能の[[T-34]]戦車200両からなる第5戦車軍はペスチャヌイ付近で第22装甲師団の反撃を退け、この日だけで吹雪の草原を50キロほど前進している。 ; [[11月20日]] (南部からの攻勢開始) 翌20日にはスターリングラードの南側地域に集結していた[[アンドレイ・エリョーメンコ|アンドレイ・エリョーメンコ大将]]のスターリングラード方面軍が、シュミロフ中将の第64軍、トルファノフ中将の第57軍、[[フョードル・トルブーヒン|トルブーヒン中将]]の第51軍による攻勢を開始し、コンスタンチネスク大将のルーマニア第4軍を突破した。唯一の強力な予備兵力で、長砲身の[[IV号戦車]]を装備したレイザー少将率いるドイツ第29自動車化師団は、第51軍に属する第13機械化師団に反撃して大損害を与える。しかし、パウルスが予備の兵力を追加しなかった上、他の地区のソ連赤軍は味方の損害をあえて無視して進撃の続行を優先したため、ドイツ軍の反撃の効果は局地的なものとなった。 ; [[11月21日]] 第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信設備が整備されたニジネ・チルスカヤへの移転準備がちょうど進められていた。そうした折に、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日にパウルスは急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、やむなくスターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動により、パウルス司令官の所在がたびたび不明になったことが第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく、無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、[[ヴィチェプスク|ヴィテプスク]]にあった[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥]]の[[第11軍 (ドイツ軍)|第11軍]]司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発する。 ; [[11月23日]] (包囲の完了) 午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団は要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、これにより両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時には、ソヴィエツキーで南西方面軍に属する[[アンドレイ・クラフチェンコ|アンドレイ・クラフチェンコ少将]]の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属する[[ワシーリー・ヴォリスキー|ワシーリー・ヴォリスキー少将]]の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人に上った{{efn|23万余りという説もあるが、参謀本部のエーバハルト・フィンク大佐は30万4000人という数値をマンシュタインに示している<ref>アレクサンダー・シュタールベルク『回想の第三帝国』下巻 59頁</ref>。}}。[[ミハイ・ラスカル|ミハイ・ラスカル中将]]のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気づいた第6軍パウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。 ; [[11月24日]] (ヒトラーの対応) ドイツ・バイエルン州の[[ベルヒテスガーデン]]から東プロイセンのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とする[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]や、それに追従する[[ハンス・イェションネク|ハンス・イェションネク空軍参謀総長]]の主張もあり、空中補給による戦線維持は可能と彼は判断していた。7月26日深夜の[[ハンブルク空襲]]以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日に[[ロンメル|ロンメル元帥]]の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコ・アルジェリアに上陸した結果([[トーチ作戦]])、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。一方、この日に55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着する。出迎えたヴァイクス司令官がもたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀の[[テオドーア・ブッセ|テオドーア・ブッセ大佐]]も、ソ連軍の消耗に期待し、まだ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。 ; [[11月26日]] マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代に[[ドン・コサック]]の拠点が置かれた[[ノヴォチェルカッスク]]の旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路は貧弱で、鉄道は[[赤軍パルチザン|パルチザン]]の破壊工作による脅威に直面しており、レニングラード全面から5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化されていた。マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍の[[ヴァルター・ヴェンク|ヴァルター・ヴェンク参謀長]]が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる[[第6装甲師団 (ドイツ国防軍)|第6装甲師団]]はフランスからの到着を待たなければならないという状況だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ! 総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を[[上級大将]]に昇格させた。 [[画像:Soviet marines-in the battle of stalingrad volga banks.jpg|thumb|ヴォルガ川から上陸するソ連水兵]] === 冬の嵐作戦 === {{main|冬の嵐作戦}} * [[12月12日]] - 予定より1週間ほど遅れてドン軍集団による包囲解除攻撃「[[冬の嵐作戦]]」がスターリングラード南西約130kmのコテルニコスキーを起点に開始され、戦車233両を集めたフリードリッヒ・キルヒナー大将のLVII装甲軍団を主力にアクサイ川を突破した。作戦二日目から、この時期には珍しく豪雨となり、硬い雪原は一転して泥濘と化した。しかし、第6装甲師団([[エアハルト・ラウス|エアハルト・ラウス少将]])は、ベルフネクネスキー村付近の谷で反撃のため進んでいたソ連赤軍の戦車部隊を挟撃し、大損害を与えている。 * [[12月16日]] - ソ連側はドイツ軍のドン軍集団への対応として、ドン軍集団の後方へ進撃するマールイ・サトゥルン(小土星)作戦を決定する(サトゥルン(土星)作戦はコーカサスへの関門で交通の要衝の[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]の奪回を目的として計画されていたので、これの修正版を決定した)<ref>スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p..358</ref>。この決定により12月16日にスターリングラードの西方から南西方面軍(ヴァトゥーチン大将)および[[ヴォロネジ戦線 (ソ連軍)|ヴォロネジ方面軍]](ゴリコフ中将)が南に向けて進撃を開始した。再び吹雪となった平原を進撃したソ連赤軍第6軍と第1親衛軍は[[イタリア・ロシア戦域軍|イタリア第8軍]]を撃破し、ドイツ軍の後方支援部隊や兵站基地を襲撃しながらドネツ川に向かって南下し、ドン軍集団の側面を牽制した。この結果、マンシュタインは第6軍救出を図りつつロストフを維持するため兵力を割るという、難しい局面に立たされる。この日、急激な気温の低下でヴォルガ川が完全に凍結し、スターリングラード市街の第62軍への補給が容易になり、補充兵や重火器が送られたが、冬季用の衣類や機材が欠乏したドイツ軍将兵からは凍傷患者が続出するようになった。 * [[12月19日]] - ソ連赤軍のマールイ・サトゥルン(小土星)作戦により西のチル川方面からの側面の圧迫が増しつつも、ドン軍集団は夜間には互いの照明弾が視認できる距離まで第6軍に近づいた。しかし、第6軍は一向に動こうとしなかった。しびれを切らしたマンシュタイン元帥は情報参謀アイスマン少佐を空路第6軍司令部に派遣し、救援に向かう「冬の嵐」(ヴィンター・ゲヴィッター)に呼応して包囲環の突破を図る「雷鳴」(ドンナー・シュラーク)作戦の実施を強く求めたが、ヒトラーの死守命令に忠実なパウルス司令官と、十分な補給があれば復活祭まで戦い続けられるとし、燃料の不足を言い立てて撤退に消極的な参謀長[[アルトゥール・シュミット|アルトゥール・シュミット少将]]に拒否される<ref group="注釈">ヒ トラーはこの作戦の成功によってスターリングラードへの回廊を確保して第6軍に補給を送り、ヴォルガへのくさびを維持するつもりだった。一方、第6軍の越冬が不可能であることを十分に知っていたマンシュタインは、せめて動ける将兵だけでも自軍に合流させようとし、ヴォルガの戦線維持はあきらめていた。</ref>。パウルスは心労から体調を崩し、第6軍の作戦指揮は実際にはシュミット参謀長が握っていた。第6軍が動かせる戦車は、わずか70両だった。 * [[12月20日]] - マンシュタインはパウルスに「雷鳴」実行を厳命したが、燃料不足で動けないと回答された。マンシュタインはさらにヒトラーに死守命令の変更を要請したが、パウルスの主張をヒトラーは追認し、変更を認めなかった。 * [[12月23日]] - マールイ・サトゥルン(小土星)作戦で南に進撃していたソ連赤軍第6軍に属するバダーノフ少将の第24戦車軍団がタツィンスカヤのドイツ空軍基地を襲撃した。ドイツ空軍の全輸送機の1割に当たる72機を戦車で破壊して飛行場を占領し、ただでさえ困難だったスターリングラードへの空中補給に打撃を与えた。一方、ドン軍集団は、一足先に拠点を確保した[[ロディオン・マリノフスキー|ロディオン・マリノフスキー中将]]の指揮する総予備のソ連[[親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)|第2親衛軍]]に、第6軍の陣地まで約50キロのムイシコワ川で進撃を完全に阻まれた。さらに第6軍が「雷鳴」を実行しないため、マンシュタイン元帥は作戦を中止し、以後はコーカサスのA軍集団の退路をロストフで封鎖して南方軍集団全体を殲滅に追い込もうとするソ連軍のサトゥルン([[土星]])作戦の阻止に努める。A軍集団の撤退は12月27日にヒトラーが許可し、最終的には危ういところで成功するが、もはや第6軍の救援は絶望的となった。 * [[12月24日]] - ドン軍集団の砲声や照明弾はしだいに遠ざかり、絶望的状況のなかで第6軍の将兵はささやかな補給品でクリスマス・イブを迎える。第16装甲師団の軍医中尉兼牧師で[[アルベルト・シュヴァイツァー]]博士の友人でもあったクルト・ロイバーは、ソ連軍から奪った地図の裏に木炭で聖母像を描き、『[[ヨハネの福音書]]』にある「光・命・愛」という言葉を書き添えた。疲れ果てて塹壕に戻った将兵たちは、妻子をしのび敬虔な祈りを捧げた。ロイバーは捕虜となった後、1944年1月に[[エラブガ]]の収容所で病死し、多くの手紙を送った妻子の待つ自宅に帰ることはなかったが、彼の描いた聖母像は最後の手紙とともに息子に届き、戦後になって「塹壕の聖母」(スターリングラードの聖母 [[:en:Stalingrad Madonna|Stalingrad Madonna]]とも呼ばれる)として、ベルリンの[[カイザー・ヴィルヘルム記念教会]]に飾られている。ドイツではスターリングラードから意気軒昂にメッセージを伝える将兵の声がラジオで放送され<ref group="注釈">放送された実際の音声https://www.youtube.com/watch?v=jU51ax4j374</ref>、将兵らによる『[[きよしこの夜]]』の合唱の後、放送の最後には[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[われらが神は堅き砦]]』(Ein feste Burg ist unser Gott)BWV80の第5曲コラール『悪魔が世に満ちて』(Und wenn die Welt voll Teufel wär)が流されたが<ref>Ansgar Diller: ''Die Weihnachtsringsendung 1942. Der Produktionsfahrplan der RRG.'' In: ''Rundfunk und Geschichte. Mitteilungen des Studienkreises Rundfunk und Geschichte – Informationen aus dem Deutschen Rundfunkarchiv.'' Jahrgang&nbsp;29&nbsp;(2003), Heft&nbsp;1/2, S.&nbsp;47 (51); Wilhelm Bartholdy: ''Deutsche Kriegsweihnacht 1942. Eine Rückschau auf die Weihnachtsringsendung.'' In: ''Reichsrundfunk.'' Jahrgang&nbsp;1942/43, Heft&nbsp;21 (10.&nbsp;Januar 1943), S.&nbsp;401 (405).</ref>、それは実はベルリンのスタジオで録音されたものであった。一方、ソ連側はドイツ軍にむけ「スターリングラードでは7秒に一人ドイツ兵が死んでいる」と一日中ラジオで宣伝した。 === 第6軍の降伏 === [[画像:RIAN archive 44732 Soviet soldiers attack house.jpg|320px|thumb|left|突入するソ連兵(1943年)]] * [[1943年]][[1月8日]] - スターリングラードの戦いを決着させ、すみやかにサトゥルン作戦に移行すべく、ソ連赤軍大本営代表の[[ニコライ・ヴォロノフ|ヴォロノフ砲兵大将]]とドン方面軍のロコソフスキー司令官が、ドイツ第6軍に幹部の帯剣を認めた「名誉ある降伏」を勧告。パウルス司令官は軍使との接触すら拒否する。 * [[1月10日]] - ソ連赤軍はドイツ第6軍をスターリングラード市内に圧縮するコリツォー(「鉄環」)作戦を開始。7個軍で西方より進撃して包囲環の縮小を図る。作戦の主導権は、攻防戦開始以来の方面軍司令官だったエリョーメンコではなく、ジューコフに抜擢されたロコソフスキーが握った。彼は[[赤軍大粛清]]の際に[[内務人民委員部|NKVD]]に逮捕された経験を持つが、新しい世代の有用性をスターリンもようやく認めるようになった。 * [[1月16日]] - <!-- マリノフカの突出部に攻め込んだ-->ソ連赤軍がピトムニク飛行場を占領。ドイツ軍の保持している地域は1400平方キロから650平方キロに縮小した。ただし、ソ連赤軍の損失も甚大で、数日間進撃が停止される。この日、ドイツ政府は第6軍が包囲されていることを国民に初めて公表した。 * [[1月20日]] - ヒトラーが必要な人材と認めた第14装甲軍団司令官フーベ中将など装甲軍の幹部や、重傷を負った第4歩兵軍団長の[[エルヴィン・イェーネッケ|エルヴィン・イェーネッケ工兵大将]]、一部の技術者や職人からなる有技兵が、最後の救出機でグムラクから脱出した。最終的に空路で脱出した兵士の数は2万5千人だった<ref name = "stahl59">[[#シュタールベルク|シュタールベルク(1995年)]]、59頁。</ref>。一方、軍医は全員残され、2万人の傷病兵が積み残された。彼らはスターリングラード市街に徒歩で戻ったが、動けない者は病院ごとソ連兵に焼き払われるか、極寒の雪原に放置された。 * [[1月21日]] - ソ連赤軍がグムラク飛行場を占領。第6軍への補給はもちろん、ジャーナリストなど民間人や傷病者の脱出も全く不可能となる。 * [[1月22日]] - ソ連赤軍が最終攻勢を開始。第6軍は市内の防衛線に追い込まれる。零下35度という厳寒の廃墟や雪原で、ドイツ軍将兵は戦死、さもなければ凍死か餓死、あるいは自決に迫られた。ヒトラーはパウルス以下が「[[フィンブルの冬|英雄叙事詩]]」のごとく全員戦死することを切望し、正規軍としての降伏を許さなかった。 * [[1月26日]] - ロジムツェフ少将の第13親衛狙撃師団が、ドン方面軍に属するチスチャーコフ中将の第21軍とママエフ・クルガンで合流し、第62軍は5ヵ月ぶりにドイツ軍の包囲から解放される。自らチーズとなり、ドイツ軍を篭に引き込むというチュイコフ中将の作戦は成功した。一方、ドイツ第6軍は南北に分断される。この頃から、第6軍の幹部たちの間にも絶望的雰囲気が漂い出した<ref group="注釈">軍医部長レノルディーのように投降する将軍が現れる一方、第371歩兵師団長シュテンベル中将のように自決する者も相次いだ。フーベの後任となった第14装甲軍団司令官シュレーマー中将や第16装甲師団長アルゲン中将のように戦死する将官も増えた。こうした状況を見た第51軍団のフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ大将は、配下の師団長たちに降伏の権限を委ねたため、憤ったパウルスに任務を解かれている。ザイトリッツはソ連赤軍に投降したが、ソ連兵に連行される際に第8軍団の[[ヴァルター・ハイッツ|ハイッツ中将]]から降伏する者を撃つよう命令を受けたドイツ兵の機銃掃射を受けて仲間を失った。しかし、ハイッツ中将も秘かに投降用の白旗がわりにテーブルクロスを部下に保管させていたという。</ref>。 [[画像:Stalingrad-dead bodies.jpg|thumb|市街に転がる兵士の遺体]] * [[1月30日]] - ナチス政権発足10周年の記念日に、ヒトラーはパウルスを[[元帥]]に昇格させる。ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいないという史実でパウルスにプレッシャーをかけた。また、ゲーリング国家元帥は、第6軍を[[ペルシア戦争]]の際に[[テルモピュライの戦い]]で全滅した[[レオニダス1世]]の[[スパルタ]]軍になぞらえた演説をラジオで流したが、伝説的な玉砕を要望された第6軍の将兵は冷たく受け止めた。 * [[1月31日]] - パウルス司令官とシュミット参謀長以下の幕僚がウニヴェルマーク・デパートの地下室に置かれた司令部を出て、ソ連第64軍司令官シュミロフ中将に降伏する。第6軍全体の降伏ではなく、司令部のみの投降という手段でヒトラーの厳命に応じた。このため、第6軍の各部隊は師団単位で個別に降伏する。シュミロフ中将は、[[バルバロッサ作戦]]の立案に参画したパウルス元帥ほどの大物が投降するとは思っておらず、司令部に案内されてきたパウルスに身分証明書の提示を求めたほどだった。パウルスは長期間のストレスのため悄然としていたが、シュミロフが軍人に対する礼儀と名誉を尊重する姿勢を示すとしだいに上機嫌になり、グラスに[[ウォッカ]]が注がれると「我々を打ち負かしたソ連赤軍および諸君に」と乾杯の音頭を取ったという。 * [[2月2日]] - トラクター工場を中心に抵抗を続けていたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降し、ドイツ第6軍の抗戦は終わった。ソ連赤軍は勝利宣言を行い、ここにスターリングラード攻防戦は終結する。モスクワでは[[クレムリン]]から祝砲が轟いたが、ドイツではラジオが「彼らは死んだ。ドイツが生きていくために」と第6軍の将兵が全員戦死したと報じ、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番『運命』]]を放送した。[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]は3日間の服喪を発表する<ref group="注釈">こうしたプロパガンダをソ連政府は逆用し、膨大な数の捕虜がいることを海外放送で発信し、モスクワ駐在の外国人記者の前にパウルスと将軍たちを引き出して撮影させ、さらには捕虜に家族宛ての書簡を書かせたうえでドイツ軍陣地に散布した。当然、司令部はそれらの回収と焼却に奔走したが、ドイツで帰りを待っている家族に夫や父親、息子が現時点では生存していることを知らせようと配慮して投函した将兵も少なくはなかった。</ref>。 == 死傷者数 == ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍は約120万人とされている。全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者([[ヒヴィ]])として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。戦前には60万を数えたスターリングラードの住民は、攻防戦が終結した時点でわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。 [[画像:Bundesarchiv Bild 183-E0406-0022-011, Russland, deutscher Kriegsgefangener.jpg|thumb|left|赤軍兵に連行されるドイツ兵]] == 捕虜 == 包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した<ref name = "stahl59"/>。[[捕虜]]の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で[[発疹チフス]]が大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。 生存者はその後、中央アジアや[[シベリア]]の[[強制収容所|収容所]]に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった<ref group="注釈">ヒトラーの甥(姉の子)である[[レオ・ラウバル|レオ・ルドルフ・ラウバル]](ヒトラーの愛人と噂された[[ゲリ・ラウバル]]の弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、[[アルベルト・シュペーア|アルベルト・シュペーア軍需相]]の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。</ref>。捕虜となった将校の中にはザイトリッツのように、「[[ドイツ将校同盟]]」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。 [[画像:Disfatta.jpg|thumb|捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。一列10人としても10万人に近い捕虜の列がいかに長いかを物語るであろう。落伍した兵は射殺された。]] == スターリングラード攻防戦の影響 == コーカサス地方の制圧を目指した第1装甲軍などはソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|マンシュタイン元帥]]の指揮に加え、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将の第1装甲軍などは、クバン橋頭堡を除いて、ミウス河まで撤退することができ、東部戦線南翼の崩壊という事態をなんとか逃れることができた。 [[画像:RIAN archive 602161 Center of Stalingrad after liberation.jpg|thumb|left|終結後の市街中心部]] ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサス地方からの撤収に成功したクライスト上級大将の第1装甲軍も膨大な重火器と車両を遺棄しており、ドイツにとっては数ヶ月分の生産量に相当する損失となった。 1941年開戦時における戦線全域における攻勢の失敗、1942年における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。 また、工業生産能力の限界からこれ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いになっている。もはやドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。 枢軸同盟国は、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出した。特にイタリアは[[北アフリカ戦線]]で劣勢になっており、ドイツからの離反を図った[[ガレアッツォ・チャーノ|ガレアッツォ・チャーノ外相]]が更迭されるなど[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。 なお[[フランス]]、[[パリ]]の[[メトロ (パリ) |メトロ]]にはこの攻防戦での赤軍の勝利を記念して命名された[[スターリングラード駅 (パリ)|スターリングラード駅]]がある。 == スターリングラードとドイツ空軍 == 緒戦の段階では、ドイツ空軍は第4航空艦隊が[[メッサーシュミット Bf109]]戦闘機によってソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握した上で、陸空協調という戦略の下銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え打撃を与えていたが、陸軍同様に次第に消耗していった。 [[画像:Bundesarchiv Bild 183-J20510, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff crop.jpg|thumb|市街上空を飛ぶドイツ軍の[[急降下爆撃機]]「[[Ju 87 (航空機)|スツーカ]]」]] 包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官の[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると主張したことが挙げられる。これは、同年春における[[デミャンスク包囲戦]]の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いた末、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦より深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング国家元帥が軽々に請け負ったことは、大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較して大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していた上に悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しない上、敵軍の兵力は大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機操縦士は次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、Bf 109にも劣らない性能を持つ[[Yak-1 (航空機)|Yak-1]]を駆使する[[セルゲイ・ルジェーンコ|セルゲイ・ルジェーンコ空軍大将]]の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目された[[リディア・リトヴァク]]のような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装の[[Ju 52 (航空機)|Ju 52輸送機]]は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。 第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後に過ぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。併せて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった[[飛行場]]も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持は[[落下傘]]による補給品投下に頼らざるを得なかった。このような方法によって十分な量の補給は困難であり、さらに投下された補給品の多くは、ドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収された。 ヒトラーから直接総統命令を受けたことで無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括した[[エアハルト・ミルヒ|エアハルト・ミルヒ元帥]]は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵による[[サボる|サボタージュ]]すら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越える[[操縦士 (航空)|操縦士]]が失われた。多くの輸送機を喪失したことは結果として更なる輸送力の低下につながることとなり、戦線を拡大しすぎた[[ドイツ国防軍]]にとって大きな痛手となった。特に、Ju 52は飛行学校の訓練機としても用いられていた上に飛行学校の教官が操縦士を担っていたため、これらを多数失ったことは、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング国家元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって損なわれ、[[ナチス党]]率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在は空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。 ==枢軸軍の編成== *参考文献<ref name=Haupt211_212>{{cite book|last=Haupt|first=Werner|title=Army Group South: The Wehrmacht in Russia 1941-1945|year=1998|publisher=[[Schiffer Publishing]]|location=Atglen, PA|isbn=0-7643-0385-6|pages=211–212}}</ref> [[File:Stalingrad Encirclement it.png|thumb|right|180px|[[ウラヌス作戦]]発動後の独ソ両軍の状況]] [[File:Stamp Croatian Legion.jpg|thumb|right|180px|スターリングラードで戦う[[クロアチア独立国]]第369強歩兵連隊を描いた切手]] === ドイツ軍 === [[File:6th Army Logo.svg|50px]] '''[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]](6. Armee)''' ;司令官 : [[フリードリヒ・パウルス]][[上級大将]] ;参謀長 : [[アルトゥール・シュミット]][[中将]] * [[File:IV Armeekorps emblem.svg|50px]] '''[[第4軍団 (ドイツ国防軍)|第IV軍団]](IV. Armeekorps)''' ― [[エルヴィン・イェーネッケ]][[工兵大将]]<br />1月17日より[[マックス・プフェッファー]]([[:de:Max Pfeffer|de]])[[砲兵大将 (ドイツ)|砲兵大将]] ** [[File:29th Infanterie Division Logo.svg|45px]] 第29(自動車化)歩兵師団([[:de:29. Infanterie-Division (mot.) (Wehrmacht)|29. Infanterie-Division (mot.)]]) – ハンス・ゲオルク=ライザー([[:de:Hans-Georg Leyser|de]])[[少将]] ** [[File:297. Inf Div.png|45px]] 第297歩兵師団([[:de:297. Infanterie-Division (Wehrmacht)|297. Infanterie-Division]]) – マックス・プフェッファー砲兵大将<br />1月16日以降 – モーリッツ・フォン・ドレッバー([[:de:Moritz von Drebber|de]])少将 ** [[File:371st Infanterie Division Logo 1.svg|30px]] 第371歩兵師団([[:de:371. Infanterie-Division (Wehrmacht)|371. Infanterie-Division]]) – リヒャルト・シュテンペル中将 * '''第VIII軍団([[:de:VIII. Armeekorps (Wehrmacht)|VIII. Armeekorps]])''' – [[ヴァルター・ハイッツ]]砲兵大将([[1943年]]1月より[[上級大将]]) ** [[File:76th Infanterie Division Logo.svg|30px]] 第76歩兵師団([[:de:76. Infanterie-Division (Wehrmacht)|76. Infanterie-Division]]) – カール・ローデンブルク([[:de:Carl Rodenburg|de]])中将 ** [[File:113th Infanterie Division Logo.svg|30px]] 第113歩兵師団([[:de:113. Infanterie-Division (Wehrmacht)|113. Infanterie-Division]]) – ハンス=ハインリッヒ・ジークト・フォン・アーミン([[:de:Hans-Heinrich Sixt von Armin|de]])中将 * [[File:XI Armee-Korps unit marking Unternehmen Zitadelle.png|50px]] '''第XI軍団([[:de:XI. Armeekorps (Wehrmacht)|XI. Armeekorps]])''' – カール・シュトレッカー([[Karl Strecker (General)|de]])[[歩兵大将 (ドイツ)|歩兵大将]] ** [[File:44th Infanterie Division Logo.svg|30px]] 第44歩兵師団([[:de:44. Infanterie-Division (Wehrmacht)|44. Infanterie-Division]]) – ハインリッヒ=アントン・デーヴォイ([[:de:Heinrich-Anton Deboi|de]])中将 ** [[File:376th Infanterie-Division Logo.svg|30px]] 第376歩兵師団([[:de:376. Infanterie-Division (Wehrmacht)|376. Infanterie-Division]]) – [[アレクサンダー・エドラー・フォン・ダニエルス]]中将 ** [[File:384th Infanterie Division Logo 2.svg|30px]] 第384歩兵師団([[:de:384. Infanterie-Division (Wehrmacht)|384. Infanterie-Division]]) – エッカート・フライヒャー・フォン・ガブレンツ([[:de:Eccard Freiherr von Gablenz|de]])中将<br />1月16日よりハンス・デール少将 * '''第XIV装甲軍団([[:de:XIV. Panzerkorps (Wehrmacht)|XIV. Panzerkorps]])''' – [[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ]][[装甲兵大将]]<br />1月17日よりヘルムート・シュレーマー([[:de:Helmuth Schlömer|de]])中将 ** [[File:3.Infanterie-Division(Wehrmacht).svg|30px]] 第3(自動車化)歩兵師団([[:de:3. Panzer-Grenadier-Division|3. Infanterie-Division (mot.)]]) – ヘルムート・シュレーマー少将<br />1月18日よりヨープスト・フライヘーア・フォン・ハンシュタイン[[大佐]] ** [[File:60th Motorised Division Logo.svg|30px]] 第60(自動車化)歩兵師団([[:de:60. Infanterie-Division (mot.) (Wehrmacht)|60. Infanterie-Division (mot.)]]) – ハンス=アドルフ・フォン・アーレンストルフ少将 ** [[File:Ww2 GermanDivision Panzer 16.svg|30px]] 第16装甲師団([[:de:16. Panzer-Division (Wehrmacht)|16. Panzer-Division]]) – ギュンター・アンゲルン([[:de:Günther Angern|de]])中将 * '''第LI軍団([[:de:LI. Armeekorps (Wehrmacht)|LI. Armeekorps]])''' – [[ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ]]砲兵大将 ** [[File:71st Infanterie Division Logo.svg|30px]] [[第71歩兵師団 (ドイツ国防軍)|第71歩兵師団]](71. Infanterie-Division) – アレクサンダー・フォン・ハルトマン([[:de:Alexander von Hartmann|de]])中将<br />1月25日よりフリッツ・ロシケー少将 ** [[File:79th Infantry Division Insignia.svg|30px]] 第79歩兵師団([[:de:79. Infanterie-Division (Wehrmacht)|79. Infanterie-Division]]) – リヒャルト・グラーフ・フォン・シュヴェーリン中将 ** [[File:94th Infanterie Division Logo 1.svg|30px]] 第94歩兵師団([[:de:94. Infanterie-Division (Wehrmacht)|94. Infanterie-Division]]) – ゲオルク・プファイファー([[:de:Georg Pfeiffer|de]])中将 ** [[File:100th Jaeger Division Logo 2.svg|30px]] [[第100猟兵師団]](100. Jäger-Division) – ヴェルナー・ザンネ([[:de:Werner Sanne|de]])中将 ** [[File:295th Infanterie Division Logo.svg|30px]] 第295歩兵師団([[:de:295. Infanterie-Division (Wehrmacht)|295. Infanterie-Division]]) – オットー・コルフェス少将 ** [[File:305th Infantry Division Logo 3.svg|30px]] 第305歩兵師団([[:de:305. Infanterie-Division (Wehrmacht)|305. Infanterie-Division]]) – ベルンハルト・シュタインメッツ中将 ** [[File:389th Infanterie Division Logo 1.svg|30px]] 第389歩兵師団([[:de:389. Infanterie-Division (Wehrmacht)|389. Infanterie-Division]]) – エーリッヒ・マクヌス少将<br />1月19日よりマルティン・ラッツマン少将 ** [[File:4th Infanterie Division and 14nd Panzer Division logo.svg|30px]] 第14装甲師団([[:de:14. Panzer-Division (Wehrmacht)|14. Panzer-Division]]) – マルティン・ラッツマン少将 ** [[File:24th Panzer Division logo 2.svg|30px]] [[第24装甲師団 (ドイツ国防軍)|第24装甲師団]](24. Panzer-Division) – アルノ・フォン・レンスキー([[:de:Arno von Lenski|de]])少将 * '''[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]](Luftwaffe)''' ** 第9高射砲師団([[:de:9. Flak-Division|9. Flak-Division]]) – ヴォルフガング・ピッケルト([[:de:Wolfgang Pickert|de]])少将 ** [[File:JG3-Emblem.svg|30px]] 第3戦闘航空団『[[エルンスト・ウーデット|ウーデット]]』([[:de:Jagdgeschwader 3 „Udet“|Jagdgeschwader 3 „Udet“]]) – [[ヴォルフ=ディートリッヒ・ヴィルケ]]大佐 === ルーマニア王国軍 === * '''第3軍([[:ro:Armata a 3-a Română|Armata a 3-a Română]])''' – [[ペトレ・ドゥミトレスク]]陸軍大将 ** 第Ⅰ軍団(Corpul I Armată) – *** 第7歩兵師団(Diviziei 7 Infanterie.) *** 第11歩兵師団(Diviziei 11 Infanterie.) ** 第II軍団(Corpul II Armată) – [[ニコラエ・ダスカレスク]]中将 *** 第9歩兵師団(Diviziei 9 Infanterie.) *** 第14歩兵師団(Diviziei 14 Infanterie.) *** 第7騎兵師団(Diviziei a 1-a Cavalerie.) ** 第Ⅳ軍団(Corpul II Armată) *** 第1騎兵師団(Diviziei a 1 Cavalerie.) *** 第13歩兵師団(Diviziei 13 Infanterie.) *** 第15歩兵師団(Diviziei 15 Infanterie.) ** 第Ⅴ軍団(Corpul Ⅴ Armată) *** 第5歩兵師団(Diviziei 5 Infanterie.) *** 第6歩兵師団(Diviziei 6 Infanterie.) ** 予備部隊 *** 第1装甲師団 *** 混成砲兵連隊 *'''第4軍(Armata a 4-a Română) ** 第Ⅵ軍団(Corpul Ⅵ Armată) *** 第1歩兵師団(Diviziei 1 Infanterie.) *** 第2歩兵師団(Diviziei 2 Infanterie.) *** 第18歩兵師団(Diviziei 18 Infanterie.) *** 第20歩兵師団(Diviziei 20 Infanterie.) ** 第Ⅶ軍団(Corpul Ⅶ Armată) *** 第4歩兵師団(Diviziei 4 Infanterie.) *** 第5騎兵師団(Diviziei a 5 Cavalerie.) *** 第8騎兵師団(Diviziei a 8 Cavalerie.) === クロアチア独立国軍 === * 第369強歩兵連隊([[:hr:369. pojačana pješačka pukovnija|369. pojačana pješačka pukovnija]]) == スターリングラード攻防戦を題材とした諸作品 == * 書籍 ノンフィクション ** コロミーエツ,マキシム(研究書):『ドン河の戦い:スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか』、大日本絵画、2004年 ** Beevor, Antony (Non-fictions) :『スターリングラード:運命の攻囲戦 1942-1943』、2002年 ** アントニー・ビーヴァー:『スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-43』、堀たほ子訳、朝日文庫、2005年 ISBN 4-02-261477-3 ** アントニー・ビーヴァー:『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45』、川上洸訳、白水社、2007年 ** バム、ペーター:『目に見えぬ旗:ある従軍外科医の記録』、桜井 正寅訳、南江堂、1961年 ** アダム、ヴィルヘルム(第6軍副官の回顧録):''Der schwere Entschluß'', Verlag der Nation, Berlin, 1965 ** ジュークス、ジェフリー (Pictorials) :『スタリングラード:ヒトラー 野望に崩る』、サンケイ新聞出版局、1971年 * 書籍 フィクション ** Plievier, Theodor (記録小説):『死のスターリングラード』、角川書店、1952年 ** Robbins, David L.(スターリングラード 市街戦のソ連軍狙撃兵を題材の小説):『鼠たちの戦争(全2巻)』、新潮社、2001年 ** コンサリク、ハインツ・G(小説):『第6軍の心臓:1942-1943年スターリングラード地下野戦病院』、フジ出版社、1984年 ** [[高橋慶史]]:『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』、2001年第I部第5章、第II部第1章 ** [[逢坂冬馬]]:『[[同志少女よ、敵を撃て]]』 早川書房、2021年 * 映画 ** [[ゲツァ・フォン・ラドヴァニ]]監督(西ドイツ映画):『[[スターリングラードからの医者]]』、1958年 ** [[フランク・ヴィスパー]]監督(西ドイツ映画):『[[壮烈第六軍!最後の戦線]]』、1959年 ** [[ニキータ・クリーヒン]]+[[レオニード・メナケル]]監督(ソ連映画):『[[鬼戦車T-34]]』、1964年 ** [[ヴィットリオ・デ・シーカ]]監督(イタリア・ソ連合作映画):『[[ひまわり (1970年の映画)|ひまわり]]』、1970年 ** [[ガブリール・エギアザーロフ]]監督(ソ連映画):『[[白銀の戦場 スターリングラード大攻防戦]]』、1972年 ** [[セルゲイ・ボンダルチュク]]監督(ソ連映画):『[[祖国のために]]』、1975年 ** [[ヨゼフ・フィルステンマイヤー]]監督(独米合作映画):『[[スターリングラード (1993年の映画)|スターリングラード]]』、1993年 ** [[ジャン=ジャック・アノー]]監督(アメリカ映画、Robbins作の小説を原作とする):『[[スターリングラード (2001年の映画)|スターリングラード]]』、2001年 ** [[フョードル・ボンダルチューク]]監督(ロシア映画):『[[スターリングラード 史上最大の市街戦]]』、2013年 ** [[セルゲイ・ポポフ (映画監督)|セルゲイ・ポポフ]]監督(ロシア映画):『[[スターリングラード大進撃 ヒトラーの蒼き野望]]』、2015年 * ラジオドラマ ** [[押井守]]:『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬]]』、2006年 - 2007年 * ゲーム: ** 『[[Call of Duty]]』(ゲーム) ** 『[[メダル・オブ・オナー ヨーロッパ強襲]]』(ゲーム) ** ゲームジャーナルNo.19 『スターリングラード強襲』[http://www.gamejournal.net/item_list/gj_019/index.html](ボードゲーム) ** ゲームジャーナルNo.47 『激闘!スターリングラード電撃戦』[http://www.gamejournal.net/item_list/gj_047/index.html](ボードゲーム) * 音楽: ** [[アクセプト (バンド)|アクセプト]]:アルバム『[[スターリングラード (アルバム)|スターリングラード]]』(2012年)に収録された表題曲。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * アントニー・ビーヴァー 著、堀たほ子 訳、『スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」』、朝日新聞社、2002年、ISBN 4-02-257682-0 *{{Cite book|和書|author=アレクサンダー・シュタールベルク著|translator=鈴木直|year=1995|title=回想の第三帝国〈下〉―反ヒトラー派将校の証言1932‐1945|publisher=[[平凡社]]|ISBN=978-4582373363|ref=シュタールベルク}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すたありんくらあとこうほうせん}} [[Category:スターリングラードの戦い|*]] [[Category:第二次世界大戦下のロシア]] [[Category:1942年のソビエト連邦]] [[Category:1943年のソビエト連邦]] [[Category:イタリアの戦闘]] [[Category:ハンガリーの戦闘]] [[Category:ルーマニアの戦闘]] [[Category:1942年6月]] [[Category:1942年7月]] [[Category:1942年8月]] [[Category:1942年9月]] [[Category:1942年10月]] [[Category:1942年11月]] [[Category:1942年12月]] [[Category:1943年1月]] [[Category:1943年2月]] [[Category:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]] [[Category:ゲオルギー・ジューコフ]] [[Category:イータロ・ガリボルディ]]
null
2023-05-22T02:59:46Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:複数の問題", "Template:Battlebox", "Template:Main", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Lang-en", "Template:仮リンク", "Template:Cquote", "Template:Small", "Template:Notelist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6
15,740
西武ドーム
西武ドーム(せいぶドーム)は、埼玉県所沢市にあるドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の埼玉西武ライオンズが専用球場(本拠地)として使用している。 埼玉県南西部の狭山丘陵に立地し、周囲を緑に囲まれたロケーションの中に位置している。2022年3月からは埼玉県上尾市に本社を置く通信販売企業のベルーナが命名権を取得しており、名称をベルーナドームとしている。 施設は西武鉄道が所有し、株式会社西武ライオンズが運営管理を行っている(一部の施設運営・管理・警備・清掃業務は協栄などに外部委託)。 当初は屋根が無い西武ライオンズ球場(せいぶライオンズきゅうじょう)だったが、のちに屋根を架設してドーム球場となった。ドーム架設以前は西武球場の通称表記が多用されており、最寄駅の駅名はドーム架設後も変わらずに西武球場前駅である。 平地にスタンドなどの構造物を建設するのではなく、丘陵地を掘り下げて構造物を設置する手法が用いられており、掘り下げ部の斜面を利用してスタンドが設けられている。掘り下げ式のため、観客は外野バックスクリーン後方の中央口から入場し、外野スタンド外周のスロープ状の通路を経由して、各座席へ誘導する動線が取られている。そのため、バックネット周辺の座席へ向かうにはスタンドを概ね半周することになるが、ネット裏のボックスシートを利用する観客には専用の出入口が別途設置されている。 現存するドーム球場の中で最も低コストで造られ、最も環境に配慮した球場として、西武グループでは「自然環境共存型スタジアム」としてPRを行っている。また、狭山丘陵の豊かな自然を活かした部分などが評価され、埼玉県庁が優れた景観の建造物等を表彰する「彩の国景観賞」を1999年に受賞している。 壁面が無いため、日本で唯一「場外ホームランの出るドーム球場」である。(開閉式の屋根のあるドーム球場を除く)2001年から2007年まで西武ライオンズに所属していたアレックス・カブレラは、しばしば場外弾を打っていた。また天候条件によっては上段の客席まで雨が吹き込み、雷鳴も屋外と変わらない大きさで聞こえる他、ナイターの試合では虫が多く集まってくるという。2013年にはカラスに襲われた鳩がグラウンドに落下し、試合が中断したこともある。 内陸の狭山丘陵に位置する立地条件から春先や秋口は寒く、夏場はナイトゲームでも蒸し暑い。ドーム化によって日差しが遮られ、熱気や湿気がこもりやすくなったため、この傾向はより顕著になった。春先や秋口、降雨時には寒さ対策、夏場には熱中症対策が必要になる。強制的に換気を行う設備が設けられていない(外気を取り入れる大型扇風機を複数設置しているが、効果は限定的である)ことから、降水時には湿気がこもり、時にはフィールド内に霧が立ち込める。壁面がないため、デーゲーム時には日が差し込む。暑さが厳しいことから、他の全天候型のドームと異なり、夏場にはデーゲームの開催をしていない。 分煙面では2021年に喫煙所は獅子ビル屋上に移動し、分煙状況は改善された。ただ、以前はドームの屋根内には消防法上の規定により、喫煙所を設置できないため、内外野共に屋根に覆われない部分に喫煙所を設置していた。しかし、喫煙室など空調を備えた別棟は設けておらず、露天のまま灰皿を設置しただけの簡素な形式のため、風向きによってはタバコの煙が通路やスタンドに流れ込むこともあり、完全分煙化には至っていなかった。 2008年度までは他の多くの球場と同じく一塁側ベンチをホームチーム用としていたが、2009年度からは球団事務所、練習場、合宿所等の諸施設に近い三塁側をホーム用として使用している。このベンチ変更に関し、元西武の選手で球団職員の髙木大成も前述のように各種施設が三塁側寄りに集中していることや観客の入退場時の動線を確保する点、各種店舗・設備が一塁側より充実している点などライオンズファンに対するサービス改善に加え、三塁側ベンチ裏に西武の選手用サブロッカールームを新設することが主な目的だった旨を説明している。西武のメインロッカールームはバックネット裏上段の棟内に設けられているためベンチから遠く、選手からもベンチ裏にロッカールームの設置を求める要望がかねてから寄せられていたものの、スタンドの構造上の問題で一塁側ベンチ付近はスペースの確保が困難なことから、構造的に余裕があった三塁側ベンチに各種設備を設けることになった。 元々は「西武園球場」という小規模の球場(1963年竣工)で、主にアマチュア野球の試合で使用されていたほか、日本プロ野球(NPB)の二軍戦(イースタン・リーグの公式戦)もわずかながら開催されていた。 以下は空撮写真による比較。 1978年6月から、西武園球場の改築工事に着手。当初は、NPBの一軍公式戦も開催できる貸し球場に変えることを目的に置いていた。 その一方、堤義明が代表取締役社長を務める国土計画では、当時の関連会社であったプリンスホテルに社会人野球チーム(プリンスホテル硬式野球部)の結成を計画。改築後の球場を、同部の活動拠点に使用することも視野に入れていた。しかし、経営難に喘いでいた福岡野球(クラウンライターライオンズ)からライオンズの保有権を取得することを1978年10月にNPBコミッショナー(当時)の金子鋭などから要請されたことを受けて、球場の利用構想を変更。実際に保有権を買収した後に、チーム名を「西武ライオンズ」に変更したうえで、本拠地を福岡市中央区の平和台球場から改築後の新球場へ移転することを発表した。堤は実父(西武グループ創業者の堤康次郎)からプロ野球の球団経営に手を出さないことを厳命されていたが、「既存のNPB球団を誘致するだけの貸し球場ではシーズンを通じて試合を開催できないので、クラウン球団の買収を通じて自前で球団を保有したうえで、本拠地として活用した方が利益率が高い」という判断で球団の保有に踏み切ったという。 球場のモデルはドジャースタジアムで、池原義郎が設計を担当。早稲田大学野球部へ監督として出向していた国土計画社員(当時)の石山建一が、堤から設計アドバイザーを委嘱された。石山は堤の西武園球場視察へ同行した際に、内野スタンドから望む外野方向の景観が良いことに着目。「内野スタンドからは狭山の山(並み)もユネスコ村も目に入るので、(西武園球場を解体した後に)新しい球場を建設するのなら、このような景観を生かす意味でも球場を西武園球場と逆の向きに配置した方が良い。向きを変えればデーゲームで野手の目に太陽の光が入りやすくなるが、野手がサングラスを掛けていれば大丈夫」と堤に進言したところ、実際に新球場のレイアウトへ反映された。 また、石山は早稲田大学野球部の監督として臨んだ1978年のアメリカ遠征中に、野球関連の施設と一体になった球場の建設現場を目撃。さらに、西武園球場の改築工事を請け負っていた西武建設からの依頼でドジャースタジアムまで足を伸ばすと、ロサンゼルス・ドジャース職員(当時)のアイク生原から同スタジアムの設計図を入手した。堤から球場設計アドバイザーを委嘱された時点では「堤が球団を保有する計画を進めていたことを知らなかった」とのことだが、実際には堤にその意思があることを委嘱の人事から察していた。そこで、アメリカ遠征での経験を踏まえて、サブグラウンド・合宿所・室内練習場を完備した施設のアイデアを池原に持ち掛けた。また、「観客は監督になった気分で試合を見ているので、救援投手の練習風景から監督の戦略を推理する楽しみを、目に見える形で残しておきたい」という理由で、一・三塁側の内野スタンドとファウルゾーンの間を金網で区切ったうえでブルペンに使用することを堤に提言。「サブグラウンドにブルペンを作ったうえで、試合の展開に応じて、救援投手をスクーターに乗せて移動させれば良い」と主張していた堤を翻意させた。 一方の堤は、「身長180cmの外野手が飛び上がって本塁打性の打球をもぎ取ることも野球の醍醐味」として、外野フェンスの高さを2mに抑えることを、石山を通じて池原に要望。大相撲の枡席のような4人1組のボックスシートをネット裏に設けることも石山に指示した。結局、池原は以上のアイデアを、球場の設計にすべて反映。サブグラウンドは西武第二球場・西武第三球場、合宿所は「西武ライオンズ(初代)若獅子寮」として建設された。ちなみに、西武グループは一連の工事に対して、総額で50億円規模の巨費を投じている。 西武ライオンズは、堤義明をオーナーに据えたうえで、1978年のシーズン終了後にNPB一軍のパシフィック・リーグへ加盟。改築後の新球場は、西武球団の本拠地として、西武ライオンズ球場という名称で1979年に開業した。ただし、竣工がNPBレギュラーシーズンの開幕直前にまでずれ込んだ関係で、オープン戦での使用は見送られた。こけら落としの試合は4月14日の同リーグ公式戦(西武対日本ハムのデーゲーム)で、元内閣総理大臣の福田赳夫(堤の結婚の媒酌人)が始球式に登場。西武では新人(ドラフト1位入団)の森繁和投手に先発のマウンドを託したが、野手陣が7失策を記録した末に、1対7で日本ハムに大敗した。なお、開業当初は場内へ掲示される広告に厳しい制限を設けていたため、グラウンド内からはスコアボードを除いて企業の広告が一切見られなかった。 2018年10月21日に松井稼頭央が現役を引退したことにより、本屋外球場時代の西武に在籍したプロ野球選手が全員引退した。 2019年9月23日に福浦和也が現役を引退したことにより、本屋外球場でプレーしたプロ野球選手が全員引退した。 西武ライオンズ球場は屋外球場として開場したが、設計の段階で屋根を付けることを想定していた。球場アドバイザーの石山によれば、球場の周囲に山口貯水池(狭山湖)や村山貯水池(多摩湖)が存在することから、球場の上空が雨雲の通り道になることを予見したうえで想定したという。 その一方で、西武ライオンズ球団では一時、ドーム球場をお台場(東京都港区の埋立地)へ建設することを条件に本拠地を西武球場から移転させる構想を立てていた。しかし、当時の東京23区内にはNPBの3球団が既に一軍の本拠地を置いていたことから、上記球団の了承を得る必要性、地元ファンからの反発、多額の建設費用の捻出、新球場が西武沿線外になることによるグループ企業の西武鉄道の減収に対する懸念が相次いで生じた。結局、西武ライオンズ球場の設計上の想定に沿って、「既存の屋外施設に屋根を架設する」という日本では異例の工事で対応することになった。 1997年度と1998年度のNPBオフシーズン中に、2期にわたって工事を実施。1997年度の第1次工事で観客席の上にステンレスの金属屋根を付けたことから、工事の完了を機に西武ドームと改称した。ただし、第1次工事ではフィールド部分を屋根で覆っていなかったため、1998年シーズンの試合では「ドーム」を名乗っていながら雨天での中止が相次いだ。 1998年度の第2次工事で膜屋根がフィールドの上にも取り付けられたため、1999年に、日本で5球場目のドーム球場として再スタート。開場以来両翼95 m・中堅120 mだったフィールドも、この工事に伴って両翼100 m・中堅122 mに拡張された。ちなみに、ドーム球場化後の第1号本塁打は、同年3月20日に開催された西武対読売ジャイアンツ(巨人)のオープン戦で、巨人の松井秀喜が記録している。 直径145 mの膜屋根は、重さが2100 tあり、約3日かけて37.3 mの高さまで100本のワイヤーでリフトアップして設置された。この時の設計監修は建築家池原義郎が行った。 ドーム球場化後の膜屋根はスタンドの最上段から伸ばした柱で支えられているが、屋根とスタンドの隙間に壁を造らない設計で架設されたため、他のドーム球場と違って隙間から自然の空気を取り込めるようになっている。そのため、ドーム球場としては珍しく、場内に空調設備を取り付けていない。また、開催予定の試合が雨天で中止される可能性は、第2次工事の完了を機に消滅した。ただし、台風などの異常気象が見込まれる日に組まれていた試合を、特段の理由(選手・観客の安全面への配慮や交通機関の運行休止)によって中止することはある。 ドーム化こそされたものの、観客向けの設備は開場以来、抜本的な改修が行われてこなかった。掘り下げ式スタンドのために、売店や化粧室などは全てスタンド最上段の通路沿いに集中して設けられており、スタンド内部にはこうした設備が一切設置されていなかった。そのため観客が各種設備を利用するには階段の上り下りが必要で、バリアフリーの立ち遅れが長年指摘され続けてきた。他球団の本拠地では新球場が建設された他、既存球場でも新たな設備が相次いで整備され、それぞれ特色を活かした誘客策を導入しているのに比べ、西武球団の対応は遅れ、観客動員数も伸び悩んでいた。 そんな中、西武球団はコンプライアンスや地域密着型の球団経営の理念などを掲げた「西武ライオンズ憲章」を2007年8月26日に制定。その中で球場施設について“スタジアムを快適な「感動空間」へと創造します”と定めた。これに従って施設改修に本格的に着手することが決まり、同年オフから大規模な改修工事を開始した。なお結局、同年の年間観客動員数はチーム成績の低迷もあり、12球団ワーストという結果に終わっている。改修の内容は以下の通りである(細部に関しては後述)。第一期改修後の2008年シーズンはチームの好調もあって前年比29.3%増という観客動員の大幅な伸びを記録することに成功した。 2008年3月までに、スコアボードの全面フルカラー化や新型人工芝「アストロステージMJ」への張替え、ラバーフェンスの変更が行われ、また観客が使用する化粧室もリニューアルされた。音響設備も新型の中型ラインアレイスピーカーに改められ、遠くまでクリアな音が聞こえるようになっている。総工費は13億円。また第2期工事でのフィールドシート設置の準備としてファウルエリアとブルペンが改修されている。 続いて、2008年11月中旬から第2期工事に着工した。内野スタンドの一部を開削して、中段内部にレストラン、売店、化粧室、授乳室が設置された。また、エレベーターを設置するなど、バリアフリー化も図られている。テラスシートやフィールドシートも設置された。この第2期工事は総工費17億円をかけて行われた。翌2009年3月27日に行われた巨人とのオープン戦で改修後の球場が初披露されたが、フィールドシートとテラスシートの供用は4月7日のレギュラーシーズン本拠地開幕以後となった。また、一塁側と三塁側の両方のベンチのシートも住江工業製のものに交換された。 この第2期工事に先行して、前述の各種設備等の増設に向けた準備工事が同年5月下旬から行われ、内野スタンドのうち1、3塁側上段部分の一部(内野指定B席約2,400席分)を閉鎖して盛り土部分を開削した。これに伴って同年5月31日のセ・パ交流戦・対中日ドラゴンズ戦から同年シーズン終了までの間、工事を実施している箇所のチケットは発券されなかった。 西武ライオンズの創設40周年を2018年に迎えたことを記念する事業として、2017年末から2021年春にかけて、グラウンドレベルの観客席、球場周辺の店舗や通路、第二球場や二軍施設、選手寮などの大規模な再整備を実施。その一環として、開場以来外野スタンドの大半を占めてきた芝生エリア(芝生席)に、2021年シーズンから椅子を常設している(詳細後述)。日本国内で「AKRacing」(中華人民共和国で開発されたゲーミングチェア)の販売を独占的に担うテックウインド株式会社が2021年から埼玉西武ライオンズとパートナー契約を結んだことを背景に、パ・リーグ公式戦で両チームの監督用チェアとして設置。 国際規格を満たす球場としては日本では一般的な両翼100m、中堅122mの大きさである。開場当初は両翼95m、中堅120mで、1979年当時としては最も広い球場であったが、1990年代には他球場が続々と国際規格を満たす様になったためにドーム化工事に伴ってスタンドが削られ、1999年から現在の大きさに拡張された。ファウルポール際のスタンドにその名残がある。 グラウンドは開場当初より全面人工芝である。当初はパイル長が短く、フィールドの色も「いかにも人工芝」という鮮やかな一面のグリーンであった。またホームベース後方には英筆記体のLionsのロゴ、一塁側ファウルゾーンにはペットマークの「レオ」が描かれ長年ファンに親しまれていた。2008年に人工芝の全面張替えを実施し、新型人工芝「アストロステージMJ」が採用された。これは長さの違う二種類の芝を組み合わせ、より景観や機能を天然芝に近づけたもので、一見天然芝のような自然な雰囲気に落ち着いた。この張替えの際、ベンチ変更が検討されていたこともあって球団ロゴとレオマークのペイントが一旦廃止されたが、このうち球団ロゴのみが2009年からホームベース後方に、ライオンズのユニフォームスポンサーであるナイキのロゴマークと横並びで復活した。三塁寄りが球団ロゴとなっていたがこれもすぐに廃止されている。2015年現在は三塁ベンチ上に球団ロゴがデザインされている。なお、外野フェンスにあったナイキのロゴは、2015年シーズンからは廃止されている。2015年12月中旬より人工芝の全面張替えを実施。日本プロ野球チームの本拠地としては初となる、ミズノ社と積水樹脂社の共同開発による野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」が採用された。これは形状の経年劣化が少なく、ボールのバウンドの際の充填剤の飛散を従来より抑えたもので、色は内野部分を土色にしたツートーンカラータイプである。2023年シーズンより、人工芝を国内球場では初となる環境配慮型「MS CRAFT BASEBALL TURF-V」に全面張替え。衝撃吸収性などの向上、光の反射の抑制などが図られたほか、耐久性向上により人工芝のちぎれが抑制され、マイクロプラスチックの飛散を抑えられるとしている。 ブルペンは外野側のファウルグラウンドの外側にあり、プレイングフィールドとはフェンスで仕切られている。かつてこのフェンスは金網のみであったが、2001年に平尾博嗣がファウルフライの処理の際に、スパイクシューズの歯を金網に引っ掛けたことが要因となって大怪我を負ったために下部にラバーが追加された。また位置も2007年以前はホーム寄りであった。 開場当初のブルペンの方式はほっともっとフィールド神戸(神戸総合運動公園野球場)や長野オリンピックスタジアム(南長野運動公園野球場)でも採用されている。ほっともっとフィールド神戸はフィールドシートの採用の際に位置が変わったが、これに追随するような形で西武ドームも似た位置に移動している。 2008年からはファウルグラウンドが規定値の近くまで狭められ、2009年からグラウンド面積は12,631.29mになったが、この数値は2009年現在、日本プロ野球球団の本拠地球場のなかで最小である。 外野フェンスはラバーと金網の組み合わせで、中堅付近は高さが3.2mとなっている。両翼ファウルポールそばの座席部分に向かうにつれてラバー部分が少しずつ高くなっているが、これはフィールドの拡張でスタンドが削られた際に、その断面の高さに合わせてフェンスの高さを変えているためである。 2008年シーズン前の改修時、内外野フェンスの緩衝材にアメリカ・プロマット社製の「スカイデックス ウォールパッド」が採用された。2種類のウレタン素材(軟質ポリウレタンフォームとサーモプラスティックウレタン)を組み合わせたもので、従来のポリウレタンパッドと比較して約5倍の衝撃吸収力を確保している。 内野フェンスでは、2020年シーズンまで、ラバーフェンスの上方に高さ5mの防球ネットを設置していた。しかし、同年オフシーズンの改修工事で、防球ネットの高さを20mにまで伸ばした。西武球団では、改修計画を立案する段階で、打者が打席から放ったライナー性の打球がスタンドへ向かった場合のシミュレーションを実施。シミュレーションを基に、打球の速度や打球にかかる重力・空気抵抗のデータを解析した。その結果、防球ネットの高さを20mまで伸ばした場合には、内野席の観客がライナー性の打球の直撃を避けられる確率が、従来の5mネットの設置を続けた場合に比べて96%上昇することが判明したという。 建設の頃のアメリカでは、円形兼用球場全盛で同時期の横浜スタジアムも円形となったが、この球場は従来型の扇形となっている。掘り下げ式のためにスタンド内部には施設が存在しなかったが、2009年より内部にも施設が増設されている。 入場ゲートは開場当初より1塁側と3塁側に独立して設置され、再入場が認められていた(1塁側および3塁側のどちらかにしかない売店・商品があり、バックネット裏のエリアは対応するチケット購入者以外は通行できないため)。2020年シーズン終了後に両ゲートが撤去され、2021年より新たにメインゲートが設けられた。同年は再入場が認められなかったが、翌2022年よりサブゲート経由で再入場が再開された。 内野席はほぼ全ての席にカップホルダーがついている。前述のように掘り下げ式のため、外周通路や内野スタンド中段、下段にある通路を通り試合を見ながらアクセスできる。外周通路には白線によって立見席スペースが設定されており、混雑時には専用チケットが用意されることがある。バックネット裏はスペシャルシートとされており、座席が革張りであり、入り口が別に存在し、勝利時はビクトリーロードを通る選手と直接触れ合えるなど他の観客席とは一線を画している。この席は1席ではなく2席単位で販売されている。また、ベンチサイドシートとバックネット裏は年間チケットが発売されている。バックネット裏は4席単位でのボックスシートとしての販売となっている。これ以外にも特別観覧席として事前予約が必要なスイートルームがある。2009年より「ダグアウトテラス」(テラスシート)と「フィールドビューシート」(フィールドシート)を追加。2020年からは、野球場の観戦スペースとしては珍しい「ステンレスカウンター」(ステンレス製のカウンター付き立ち見席)を、一塁側内野スタンドの上段に設置している。 2019年まで、西武が勝利すると選手たちはバックネット裏の「ビクトリーロード」と呼ばれる階段を通ってロッカーに引き上げており、ファンにとっては選手とふれあうチャンスの場でもあった。2021年からはバックネット裏に後述のプレミアムラウンジが建造されたことに伴い、ビクトリーロードもラウンジの一角を通る形式に変わった(2020 - 2022年は新型コロナウイルスの流行のため、ファンと選手の接触を防ぐべく、西武の勝利時もビクトリーロードは使われなかった)。なお、ビジターチームおよび勝てなかった時の西武はベンチ裏にある108段の階段を登らなければならなかったが、ラウンジの開設により階段は消失した。 外野エリアについては、開場から2020年までの42年間にわたって、スペースの大半を芝生席に充てていた。残りのスペースには長椅子による座席が設けられていたが、席数が少ないうえに、西武戦の開催日には私設応援団が応援のために陣取っていた。ドーム化前の芝生席は天然芝だったが、ドーム化以降は人工芝に変わっている。 ドーム化前の芝生席は、天然芝の保護を優先する関係で、一般客への開放を公式戦開催期間中の週末・祝日、学生の夏季休暇期間、西武または対戦球団のパ・リーグ優勝が決まる可能性のある試合、日本シリーズに限っていた。観客席をドーナッツ状に覆う金属屋根が完成した1998年も外野席は天然芝だったが、屋根により日陰となった観客席の日照量が著しく落ちたため芝生が枯れ果ててしまった。このため、外野席へ持参したシートをテープで固定する場合には、養生テープの使用しか認めていなかった。しかし、2020年オフシーズン中の改修工事で、芝生席を椅子席へ全面的に転換。ライト側の後方には、「ライトパノラマテラス」と称するカウンター付きの座席(140席)を新設した。 この工事では、「ライトパノラマテラス」に加えて、バックネット裏に常設される観戦スペースとしてはNPB12球団の本拠地球場で最も広い「ライオンズ プレミアムラウンジ」(483人まで同時に収容できるスペース)をバックネット裏スタンド席の地下部分、「プレミアムエキサイトシート」(砂かぶり席)203席をラウンジの前方、「ネット裏テーブル4」(グループ席)「ネット裏カウンターシート」(カウンター付きの座席)「ネット裏指定席」をバックネット裏のスタンド、「ダグアウトトップシート」を一・三塁側ダッグアウトの真上、「ライオンズユニバーサルデッキ」を左翼エリアの上方(スコアボード左支柱の土台付近)、「ビジターユニバーサルデッキ」を右翼エリアの上方(スコアボード右支柱の土台付近)、「ステンレスカウンター」を三塁側内野スタンドの上段にそれぞれ新設した。「ユニバーサルデッキ」は車椅子の搭乗者・同伴者だけが入場できる打球防御板付きの観戦スペースで、「プレミアムエキサイトシート」や「L'sテラスシート」にも同様のスペースを設けたことによって、車椅子に乗ったまま観戦できる席を工事前から大幅に増やしている。 なお、西武球団では2021年から、サーモス(THERMOS)との間で「ステンレスカウンター」、名糖産業(ホームランバーの製造元)との間で「ライトパノラマテラス」の施設命名権スポンサー契約を締結。契約期間中にはそれぞれ、「THERMOS ステンレスカウンター」「メイトーホームランバー ライトパノラマテラス」として稼働させている。同年7月16日(金曜日)には第71回NPBオールスターゲーム第1戦が開催されたが、新型コロナウイルス感染症のまん延防止等重点措置が日本政府から埼玉県内へ発出されていたことに伴って、入場券(チケット)の販売数を1万枚までに制限。オールスターゲームの開催自体が2019年の第2戦(阪神甲子園球場)以来2年振りであったにもかかわらず、有料入場者の総数は8,992人で、オールスターゲーム史上最も少なかった。 売店は上段通路外側に点在している。2018年までは、バックスクリーン裏の入場口からバックネット裏に向かって順に席のグレードが上がっていく関係上、境目でチケットチェックがあるため、席種によっては利用できない売店があった(内野指定席エリアの売店は自由席券では利用できないが、内野指定席の券ならば自由席エリアの売店は利用できるなど)。2019年よりチケットチェックが廃止され(外野芝生エリアやフィールドビューシートなどに入る際のチェックは継続)、席種による制限は大部分でなくなった(プレミアムシート限定ショップは引き続き存在)。 2009年からは内野スタンド中段内部に「L’s Dining(エルズダイニング)」と呼ばれる売店も追加されている。同時期に一部を除いた売店で電子マネーPASMO(および相互利用可能なIC乗車カード)が利用できるようになった。2019年までは、グルメワゴンと称される移動販売車での売店が球場外で営業していた。 また、グルメワゴンを含むほぼ全ての売店でライオンズファンクラブ向けのポイントサービスである「Lポイント」の加算を受けることができる。売り子は非対応であったが、2020年より購入時に「Lポイント補助券」が配布され、球団公式アプリかファンクラブマイページより情報を送信すると加算されるようになった。 当球場には、2008年まではクレジットカードによる支払い対応ができるビールの売り子が少数ながら存在していた。ハンディタイプのCATクレジットカード処理端末を持ち歩いており、帽子にはクレディセゾン、ビザ、マスターカードの3つのロゴが入っていた。なお前述の売店PASMO対応に伴い、売り子のクレジットカード対応は終了した。 球場開き以後、1997年までスコアボードの広告以外、フェンス・スタンドの広告は一切排除されてきた。1998年にスタンド(観客席)の屋根部分に初めて広告看板が設置され、1999年の完全ドーム化でレフト・ライトのポール際のフェンスにそれぞれ4枚ずつの広告が貼り付けられるようになった(その後増加)。 なお、通常のドーム球場の外野席に設置される巨大な広告看板は、鉛直方向に設置できないために一般的な横長サイズの看板を2009年まで設置していたが、2010年から他のドームのような巨大看板を斜め方向にした状態で掲出している。かつて左翼側スタンド上の天井に設置されていた文化放送(JOQR)の看板に打球を直撃させた選手には、同社から1000万円の賞金が出ることになっていたが、達成した選手はいなかった。 2009年には屋根部分ホームベース側の看板が、広告から西武が日本一(西鉄時代を含む、2008年はアジアシリーズ制覇)となったシーズンを記念するパネルに変更された。優勝年表示は全てその年使用のユニホームの番号のロゴを使用。2012年からはその右側に稲尾和久の永久欠番「24」を顕彰するパネルを設置していた。これらのパネルはいずれも2020年までの掲示で、同年シーズンオフに撤去された。 スコアボードは開場から2020年まで、躯体はそのままで表示部分などを改修しながら使用し続けた。スコアボードの支柱には、命名権を使用するシーズンに関してはそのスポンサーの広告が掲示された。 1978年の起工時、最初に完成したのがスコアボード棟であり、更地にスコアボードのみ完成していた状態で新生西武ライオンズの写真撮影が行われた。 完成当初の発光部分は単色のHIDランプで左側に縦書きの選手表示、真ん中に大型映像装置(縦6.5m、横幅8.5m)、右にスコア(10回まで表示可能で、11回以降は、1 - 10回データをクリアして1回から入力)や審判団などの表示があった。大型映像装置は白黒であったが1987年にカラーのソニー製ジャンボトロンに変更され、さらに1995年には東芝ライテック製のスーパーカラービジョンに取り替えられている。また、チーム名表示がアルファベット1文字からチームのロゴに変更された。 選手表示は横スクロール形式が採られていた。西武ライオンズ球場だった時代、南海ホークス(当時)・河埜敬幸の「埜」の文字データがなかったため、選手名に「河の」と表示されたことがあった。また2007年までは北海道日本ハムファイターズ(当時)・MICHEALの表記が「MICHEL」になっていた。 2007年オフから2008年春まで行われた改修工事ではスコアボード表示部が全面改修され、全面フルカラーLEDの松下電器(現:パナソニック)製アストロビジョンとなった。画面の寸法は縦6.528m、横幅49.152mという長大なもので、フルデジタルハイビジョン映像による一画面のフル表示や最大4画面の分割表示に対応している。 スコア表示にはコンピューターグラフィックスを使用しており、野球の試合中は、一画面フル表示の演出を行うとき以外は3画面に分割して使用している。メンバー表は左画面に横書き表記で、スコアは右画面に表示される。中央画面は映像効果などで使用する。また、球速表示も中央画面に表示している。なおバックネット裏のサブスコアボードは改修されず従来の表示のままであった(基本的なイニング表示は9回まで。プロ野球仕様の延長戦であれば、延長12回までを追記できるようになっている)。 球団が同年3月16日から1か月間にわたって一般公募でこの大型ビジョンの愛称を募集した結果、2,514通のうち最多の254件の応募があったL Vision(エルビジョン)を採用、4月26日に命名された。同年の改修ではこの他、サブスコアボード下に縦1.152m × 幅30.72mのリボン状の新型映像装置が設置された。 2011年からは他の球場同様、ボールカウント表示を「SBO」から国際標準規格の「BSO」に変更することが同年3月18日に発表され、実施された。 2014年よりデザインが変更されて現在の打者の顔写真(西武のみ)を表示するようになり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。またサブスコアボードも発光部分がLEDに交換され、球速表示も追加された。2016年シーズンからはレイアウトはそのままながら、演出などをリニューアルしている。 2020年の練習試合の楽天戦において、スコアボード表示が2008-13年仕様に戻る不具合があった。チーム名はカタカナで「イーグルス」、「ライオンズ」と当時のものは異なった。 2020年オフにスコアボードは一旦解体され、2021年シーズンよりパナソニック製の新たなスコアボードが設置された(名称は「Lビジョン」で変わらず)。新ビジョンは高さ13m×横幅46m、面積約600mと従来の約2倍の大きさに拡大。なお支柱はそのまま引き継がれている。またバックネット裏のセンタービル屋上に、幅10.2m×高さ5.6m、約57mのサブビジョンを新設。これにともない、リボン状ビジョンは撤去された。 開場当初、スコアボードには球団旗などを掲げるポールがあった。ドーム化の際には屋根に干渉しないところまでポールの高さを下げ、風でなびいているような形に旗を固定して掲揚していた。スコアボードが改修された2008年からは他のドーム球場と同じバトン方式に変更されている。 バックスクリーンは5枚の横長のパネルで構成されており、その内の4枚が上部に引き上げられるようになっている(劇場などで使う緞帳とほぼ同じ)。また外野フェンスの中堅部分も左右に開くことができる。この中堅部分がフィールドへの搬入口となっており、打撃練習などに使用する機材などはこの搬入口から出し入れを行う。また両チームの用具・荷物等もここから出し入れを行っており、連戦最終日の試合終了後には、トラックが集荷のため直接フィールド内に乗り付けることもある。またコンサートなどのイベント時にも、ここから機材・展示物の搬入を行っている。時間帯によってはこの搬入口後方から、場内をフィールドレベルで見渡すことができる。試合終了後にグラウンドに入場できるイベントでは一般客の入退場口となる。 2014年からはバックスクリーン部分の外野フェンスの金網部分には網目の細かいネットが張られている。因果関係は不明だが2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスのリーグ優勝を取材するテレビスタッフが、バックスクリーン前に侵入して試合進行を妨害するということがあった。 ドーム全体を覆う屋根の直径は223mで、スタンド外周に設けられた24本のV字型柱によって支えられている。ドーナツ状の外周部は鉄骨組みのステンレス製で、総重量約8,000tを有する。中心部は直径145m、面積17,000m、総重量約2,000tを有する膜屋根部で、鉄骨で組まれた一重のテフロン膜によって耐候性や不燃性がありながらも自然光を取り入れることができる構造となっている。但しデーゲームでも自然光だけでは照度が低く打球などが見えにくいため、野球開催時にはデーゲームにおいても照明を併用して照度を補っている。 天井最高部はグラウンド面から64.5mで、ドーム化後はグラウンドルールにより、天井に接触した打球はボールインプレイ(プレイ続行)の扱いとなり、落下点もしくは野手が触れた地点を基にフェアかファウルかを判定し、野手が直接捕球した場合はフライアウトとして扱われる。また打球が天井や懸垂物、鉄柱に挟まった場合、フェア地域の場合はエンタイトル二塁打、ファウル地域の場合はファウルボールとして扱われる。しかしアレックス・カブレラが本塁打性の天井直撃の打球を連発したことが契機となってグラウンドルールが一部変更され、外野のフェア地域の天井に当たった場合に限り「認定本塁打」が適用されることになった。その後、カブレラは新ルール適用第1号となる本塁打を放ち、レフトの天井に記念フラッグが設置されている。 屋根の下には中興化成工業が製造したメッシュ膜材が鳥避けの化粧材として設置されている。 照明は金属屋根内側の上部に、球場を一周するように取り付けられている。ただしプレイの妨げとなるホームベースとスコアボードの直上には最初から取り付けられていない。またファウルポールの延長線上も判定しやすいように照明の数が少なくなっている。全てメタルハライドランプであり、高演色性のものと高効率のものを組み合わせて使用している。2010年にリニューアルされ、以前より白色が強いものに変更された。 ドーム化(1997年)以前は照明塔が6基(内野側4基、外野側2基)設置されていた。ドーム化の際に内野側は全て撤去されたが、外野側のものは場外通路の照明用として2010年シーズン終了時まで残されていたが2010年オフに撤去された。なお不要な分のランプは取り外されていた。 2020年からフィールド照明がLED化された。メタルハライドランプよりも点灯が速く、光量の調節も容易であることから、ホームチーム(西武)の選手が本塁打を打った際はダイヤモンドを一周する選手に合わせた演出が行われたり、ヒーローインタビュー中は選手の頭上以外の照明を消灯する試みが行われている。 2009年度までの西武主催試合の場内アナウンスは女性スタッフが担当していた。 2010年からは男性スタッフを採用し、スタジアムDJがスタメン発表以後大部分のアナウンスをした。 2011年 - 2012年は男性スタッフのみが担当。 2013年シーズンからはビジターチームの選手紹介や注意喚起などは鈴木あずさが、ホームチーム(西武)はスタジアムDJのRISUKE(久米理介)が担当している。 屋外球場の時代から当球場の恒例行事とされたのが、ホソヤエンタープライズによる花火の打ち上げである。これは西武ライオンズの選手がホームランを放つか、ホームラン時に打ち上げる花火が試合終了後も残っていた場合で試合に勝利した場合、西武第三球場のグラウンドから花火を打ち上げて祝福するというものだった。 ドーム球場となった1999年以後は、一旦この花火打ち上げが中止された。2002年 - 2009年シーズンまで西武が試合に勝利した場合、ドーム内のバックスクリーン前で紙テープとともに花火の打ち上げによる演出が行われている。以前はホームランの際も花火の打ち上げがあったが、現在のドームで試合中に花火を打ち上げるとドーム内に煙がこもり、試合進行の妨げになるため、後にゲームセット時のみになった。2010年からは経費削減の為スコアボードに花火が映し出される演出となり、実物の花火ではなくなった。 1983年6月3日、阪急ブレーブス・福本豊による盗塁世界新記録がこの球場で達成された際、西武以外の球団の選手でありながら例外的に花火を打ち上げ、快挙を祝福した。また、オールスターゲームの際は、全パの選手のホームランおよび勝利を祝って花火を打ち上げ、という形が取られた。 なお、昭和天皇の容体が急変した1988年9月下旬から同年のシーズン終了までは、全国的な祭祀を自粛する風潮の中、それに従う形で花火の打ち上げは一切中止された。 西武球場としての開場を機に、電子オルガンを三塁側スタンド上段(2019年の時点では中段のL'sダイニングシート真下)のオープンスペースに設置。西武主管試合や球団イベントの開催日には、ハーモニーミュージック(音楽教室などの運営会社)から西武球団に派遣された複数のオルガン奏者が交代で演奏している。 オルガン奏者は試合前に、当日が誕生日の選手や表彰式を控えた選手(いずれも西武)の登場曲などを生で演奏。試合中には、観客に対してファウルボールへの注意を促す音(3種類)や、西武の得点に合わせた音を奏でている。演奏のレパートリーは十数種類で、選手交代などによって試合の進行が止まった時や、イニングの合間にもBGMを演奏。得点の際に奏でる音を点数に応じて変えたり、オルガンの内部にハモンドオルガンの音を取り入れたり、応援団の演奏や声援と重ならないように配慮したりするなどの工夫も為されている。 西武ドーム時代の2010年からは、外装にウォールナットを使用したローランド製の「AT-90S」(2001年発売の上位モデル)を導入。ドジャースタジアムでもかつて使用されていたモデルであることから、既に生産を終了していたにもかかわらず、西武球団が購入を決めたという。 ちなみに、西武球場が開場した1970年代後半以降のNPBでは、一部の球団が電子オルガンを本拠地の球場に常設。電子オルガンの製造元である楽器メーカーの宣伝を兼ねたもので、MLBやマイナーリーグの本拠地で電子オルガンによる演出が定着していることを背景に、選手の登場曲やBGMの演奏などに使用していた。しかし、阪神タイガースが1990年代の後半に阪神甲子園球場で選手の登場曲をCDから流し始めたことをきっかけに、西武を除く他球団も阪神に追随。2000年代の前半には、当球場と同じ首都圏の本拠地球場のうち、横浜スタジアム(1978年開場)・東京ドーム(1988年開場)・ZOZOマリンスタジアム(1990年開場→1992年からロッテの本拠地)の公式戦から(球団主催の復刻・記念イベントの開催日を除いて)電子オルガンや生演奏が消えた。このような事情から、2019年ポストシーズン時点のNPBにおいて、本拠地の球場で電子オルガンを常設・常用している球団は西武だけになった。球団の関係者によれば、「BGMをCDで流すのも良いが、西武球団としては、生の臨場感を大切にしたい。電子オルガンは臨機応変に演出できるので、球場の雰囲気作りに最も適している」という。 西武グループは2004年、経営改善策の一環として西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権(ネーミングライツ)を売却することを決定。取得に名乗りを上げたのは、インボイス。まず同年12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意し、翌2005年シーズンから球団名を「インボイス」とすることを発表、1月25日にプロ野球実行委員会で承認された。インボイス社は同日、西武ドームの命名権についても2005年シーズンからの2年契約で合意。3月1日から名称を「インボイスSEIBUドーム」(インボイスセイブドーム)に改称した。 当初「ドーム名を“インボイスドーム”としたい」としていたが、西武側は「“西武”の文字を入れてほしい」としてこれを却下。また、西武球場前駅についても「“インボイスSEIBUドーム前駅”に改称してほしい」と申し入れたが、鉄道駅の名称変更には様々な事務手続きなどを行わねばならず経費も掛かるなど煩雑なため、これも受け入れられなかった。 改称を機に、ドーム内の各所や球場スタッフの制服などに「INVOICE」の社名ロゴが入れられた。またインボイス社は株主優待策のひとつに、西武ライオンズのパ・リーグ主催試合のチケット引換券を設けるなどした。また、プロ野球の公式記録や各種報道機関に於いては「インボイスドーム」や「インボイス西武」などと略する形で称されていた。 インボイス社は当初、これらの命名権について10年以上の長期契約を望んでおり、2007年以降も命名権を取得したいとして、契約が切れる2006年シーズン中からその旨を西武側に申し入れていたが、西武側は「契約満了で、2007年以降は更新しない」とインボイス社側に通告。結局2006年9月8日、インボイス社は契約更新を断念。二軍の契約も1年を残し解除する事を決定し、これら「インボイス」を冠する名称は同年いっぱいで使用を終了することになった。 西武はインボイス社に代わる命名権の新たな契約先について検討を進めてきたが、2006年12月2日、グッドウィル・グループと2007年1月1日からの5年総額25億円(金額は推定)契約に合意。年末までに隣接する西武球場前駅の誘導看板やドーム看板など変更の準備を進めて、同日から「インボイスSEIBUドーム」を「グッドウィルドーム」に、二軍を「インボイス」から「グッドウィル」に改称した。 これに伴い、西武ライオンズ球場としての開場以来初めて球場名から「西武」の名前が消えた。日本放送協会(NHK)では「グッドウィル西武ドーム」と一時呼称されたこともある。 ところが2007年12月、グッドウィルが違法な派遣業務を行っていたことが発覚し、厚生労働省から事業停止命令を受けた(詳細は別項)。このため、同社は西武球団に命名権の契約解除を申請。同球場を所有する西武鉄道と西武球団側もそれを受け入れ、わずか1年で球場と二軍の名称から「グッドウィル」が消えることとなった。 これを受け、西武側では命名権の新規契約については2008年シーズンの導入を見送る方針を決定。2008年1月9日付で球場名が「西武ドーム」に戻り、二軍チーム名も一軍と同じ「埼玉西武ライオンズ」に改められた。西武の後藤高志オーナーは、命名権導入再開について「契約先のイメージが球団にかかわってくるリスクが生じる」と慎重に検討する姿勢をとっており、以降2014年シーズン終了まで再開は見送られていた。 2014年12月15日、来シーズンの球場命名権をプリンスホテルが取得し、球場名を「西武プリンスドーム」に改称することを発表した。契約期間は2015年3月1日から2016年の2月29日までの1年間で、その後も翌年まで自動更新された。契約額は非公表。 これ以降は前の2社と異なり、球場名称の命名権のみの取得であり、二軍チーム名は「埼玉西武ライオンズ」のまま変更されていない。 2017年1月16日、メットライフ生命保険が同年3月から2022年2月末までの5年間の球場命名権を取得することで合意したと発表した。これにより球場名が「メットライフドーム」に変更された。 2022年1月17日、同年3月から埼玉県上尾市に本社を置く通販会社ベルーナが球場命名権を取得すると発表した。契約期間は2027年2月末までの5年間。これにより球場名が「ベルーナドーム」に変更された。 設計アドバイザー石山建一の提言により、現存する日本プロ野球の本拠地野球場としては唯一、周辺にサブグラウンド、屋内練習場、合宿所といった施設が揃っている。 西武球場のオープン当初より、球場に隣接して建てられたビル。 エントランスホールからは地階 - 2階までアクセス可能(2階は一軍公式戦非開催日の営業時のみ)。一軍公式戦開催日、2 - 3階は球場側から「DAZNデッキ」を通って入る。 2017年3月3日に、横浜アリーナの運営会社について西武鉄道の子会社となることが発表された際に、子会社となった理由として、横浜アリーナの営業力を活用し、西武ドームにコンサートおよびスポーツイベントの誘致を行うこととされている。 西武ドームではアマチュア野球の公式戦も行われている。 社会人野球は球場のオープンと同年に創部されたプリンスホテル硬式野球部が近くに合宿所を構えたこともあり、関東地区の主要球場として利用された。毎年3月中旬に行われるJABA東京スポニチ大会の開催球場のひとつとなっていた。また全日本クラブ野球選手権大会の本大会が、1979年から1995年までは西武球場・西武第三球場で開催。その後は一時隔年となるも再び固定となった。都市対抗野球東京都の予選が行われることもある(前記のプリンスホテルが東京都加盟であったためか、埼玉を含む南関東予選は未実施)。草野球では、ストロングリーグにより、2004年から全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの全国大会に使用されている。 高校野球では、1981年から1991年までは全国高等学校野球選手権埼玉大会の開催球場の一つとして使用された。これは、埼玉大会の参加校が急増していたことが背景にあり、埼玉県内の高校野球でメイン球場として使用する埼玉県営大宮球場では、当時フィールドが狭隘の上に老朽化していたため開会式を行うのが困難になったのがその理由である。初年度の1981年、西武球場では開会式とその直後の試合のみが行われ、翌1982年からは準々決勝(1984年からは準決勝)以降の試合も西武球場で行われた。 県営大宮球場が1992年に改修されてからは、西武球場・西武ドームが高校野球公式戦で使用されたケースはないが、2020年の第102回選手権の中止に伴う代替大会(夏季埼玉県高等学校野球大会)では、西武球団の提供により本球場で準決勝・決勝が行われた。また、2016年春には東都大学野球2部リーグが大学野球のリーグ戦としては初めて使用した。 事例は少ないがフィールドに観客席を設けた場合最大4万人まで収容可能である。 1982年にはクイーンが「Hot Space Tour」の公演の1つを行った。 1983年7月25日に長渕剛が、『SUPER LIVE IN西武球場』を開催。雨の中でのコンサートとなった。 1984年に『SUPER ROCK '84 IN JAPAN』でホワイトスネイク、スコーピオンズ、マイケル・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィ、アンヴィルが出演。 1986年から2005年まで、毎年夏に行われていた渡辺美里のスタジアムライブが良く知られる。ライブ開催当日には西武鉄道による特別電車も運行されたほどである。 2000年にPIERROTがライブで使用、メジャーデビュー2年足らずでドーム公演するのは当時の最短記録であった。 2009年に水樹奈々が声優として初めて日本国内での単独ドーム公演を当会場で開催。2015年以降は、アニメ・ゲーム作品に関連する公演も数多く行われている。西武鉄道自身がアニメ作品とのタイアップに積極的であることから、公演に合わせてラッピング電車を走らせることもある。 関東地方では東京ドームがあることから「ドームツアー」に組み込まれないことが一般的ではあるが、アーティストによっては使用料が高く、日程など制約の多い東京ドームを非開催としたうえで西武ドームを使用し「ドームツアー」に組み込まれる事例がある。 2002年以降に当会場でコンサートを開催した著名なアーティスト・イベントに限定して記載。赤色の年は開催予定を表す。 『全国高等学校クイズ選手権』の関東大会は、1984年の第2回大会から西武ライオンズ球場で開催されてきた。西武ドームとなっても一部の年を除き、2010年の第30回大会までは関東大会の会場として使用された。 1996年に真夏の祭典・『FNSの日・10周年記念 1億2500万人の超夢リンピック』のゴルフ予選会として開催した「ゴルフ・池ポチャアプローチ選手権」の会場として、また決勝のフジリンクス8番ホール行きを目指し211名が凌ぎあって使用された。 2020年のシーズンオフには、ももいろクローバーZの歩みや衣装などを展示するイベント『ももクロ・ライオンZ EXPO』を開催。これは、西武が野球以外ではじめて自主興業したイベントとなり、コロナ禍ではあったものの開催期間18日間で約1万人が来場した。 その他、CMやテレビ番組の撮影、握手会などのイベントでもよく使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西武ドーム(せいぶドーム)は、埼玉県所沢市にあるドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の埼玉西武ライオンズが専用球場(本拠地)として使用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "埼玉県南西部の狭山丘陵に立地し、周囲を緑に囲まれたロケーションの中に位置している。2022年3月からは埼玉県上尾市に本社を置く通信販売企業のベルーナが命名権を取得しており、名称をベルーナドームとしている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "施設は西武鉄道が所有し、株式会社西武ライオンズが運営管理を行っている(一部の施設運営・管理・警備・清掃業務は協栄などに外部委託)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当初は屋根が無い西武ライオンズ球場(せいぶライオンズきゅうじょう)だったが、のちに屋根を架設してドーム球場となった。ドーム架設以前は西武球場の通称表記が多用されており、最寄駅の駅名はドーム架設後も変わらずに西武球場前駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "平地にスタンドなどの構造物を建設するのではなく、丘陵地を掘り下げて構造物を設置する手法が用いられており、掘り下げ部の斜面を利用してスタンドが設けられている。掘り下げ式のため、観客は外野バックスクリーン後方の中央口から入場し、外野スタンド外周のスロープ状の通路を経由して、各座席へ誘導する動線が取られている。そのため、バックネット周辺の座席へ向かうにはスタンドを概ね半周することになるが、ネット裏のボックスシートを利用する観客には専用の出入口が別途設置されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現存するドーム球場の中で最も低コストで造られ、最も環境に配慮した球場として、西武グループでは「自然環境共存型スタジアム」としてPRを行っている。また、狭山丘陵の豊かな自然を活かした部分などが評価され、埼玉県庁が優れた景観の建造物等を表彰する「彩の国景観賞」を1999年に受賞している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "壁面が無いため、日本で唯一「場外ホームランの出るドーム球場」である。(開閉式の屋根のあるドーム球場を除く)2001年から2007年まで西武ライオンズに所属していたアレックス・カブレラは、しばしば場外弾を打っていた。また天候条件によっては上段の客席まで雨が吹き込み、雷鳴も屋外と変わらない大きさで聞こえる他、ナイターの試合では虫が多く集まってくるという。2013年にはカラスに襲われた鳩がグラウンドに落下し、試合が中断したこともある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "内陸の狭山丘陵に位置する立地条件から春先や秋口は寒く、夏場はナイトゲームでも蒸し暑い。ドーム化によって日差しが遮られ、熱気や湿気がこもりやすくなったため、この傾向はより顕著になった。春先や秋口、降雨時には寒さ対策、夏場には熱中症対策が必要になる。強制的に換気を行う設備が設けられていない(外気を取り入れる大型扇風機を複数設置しているが、効果は限定的である)ことから、降水時には湿気がこもり、時にはフィールド内に霧が立ち込める。壁面がないため、デーゲーム時には日が差し込む。暑さが厳しいことから、他の全天候型のドームと異なり、夏場にはデーゲームの開催をしていない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "分煙面では2021年に喫煙所は獅子ビル屋上に移動し、分煙状況は改善された。ただ、以前はドームの屋根内には消防法上の規定により、喫煙所を設置できないため、内外野共に屋根に覆われない部分に喫煙所を設置していた。しかし、喫煙室など空調を備えた別棟は設けておらず、露天のまま灰皿を設置しただけの簡素な形式のため、風向きによってはタバコの煙が通路やスタンドに流れ込むこともあり、完全分煙化には至っていなかった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2008年度までは他の多くの球場と同じく一塁側ベンチをホームチーム用としていたが、2009年度からは球団事務所、練習場、合宿所等の諸施設に近い三塁側をホーム用として使用している。このベンチ変更に関し、元西武の選手で球団職員の髙木大成も前述のように各種施設が三塁側寄りに集中していることや観客の入退場時の動線を確保する点、各種店舗・設備が一塁側より充実している点などライオンズファンに対するサービス改善に加え、三塁側ベンチ裏に西武の選手用サブロッカールームを新設することが主な目的だった旨を説明している。西武のメインロッカールームはバックネット裏上段の棟内に設けられているためベンチから遠く、選手からもベンチ裏にロッカールームの設置を求める要望がかねてから寄せられていたものの、スタンドの構造上の問題で一塁側ベンチ付近はスペースの確保が困難なことから、構造的に余裕があった三塁側ベンチに各種設備を設けることになった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "元々は「西武園球場」という小規模の球場(1963年竣工)で、主にアマチュア野球の試合で使用されていたほか、日本プロ野球(NPB)の二軍戦(イースタン・リーグの公式戦)もわずかながら開催されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下は空撮写真による比較。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1978年6月から、西武園球場の改築工事に着手。当初は、NPBの一軍公式戦も開催できる貸し球場に変えることを目的に置いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その一方、堤義明が代表取締役社長を務める国土計画では、当時の関連会社であったプリンスホテルに社会人野球チーム(プリンスホテル硬式野球部)の結成を計画。改築後の球場を、同部の活動拠点に使用することも視野に入れていた。しかし、経営難に喘いでいた福岡野球(クラウンライターライオンズ)からライオンズの保有権を取得することを1978年10月にNPBコミッショナー(当時)の金子鋭などから要請されたことを受けて、球場の利用構想を変更。実際に保有権を買収した後に、チーム名を「西武ライオンズ」に変更したうえで、本拠地を福岡市中央区の平和台球場から改築後の新球場へ移転することを発表した。堤は実父(西武グループ創業者の堤康次郎)からプロ野球の球団経営に手を出さないことを厳命されていたが、「既存のNPB球団を誘致するだけの貸し球場ではシーズンを通じて試合を開催できないので、クラウン球団の買収を通じて自前で球団を保有したうえで、本拠地として活用した方が利益率が高い」という判断で球団の保有に踏み切ったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "球場のモデルはドジャースタジアムで、池原義郎が設計を担当。早稲田大学野球部へ監督として出向していた国土計画社員(当時)の石山建一が、堤から設計アドバイザーを委嘱された。石山は堤の西武園球場視察へ同行した際に、内野スタンドから望む外野方向の景観が良いことに着目。「内野スタンドからは狭山の山(並み)もユネスコ村も目に入るので、(西武園球場を解体した後に)新しい球場を建設するのなら、このような景観を生かす意味でも球場を西武園球場と逆の向きに配置した方が良い。向きを変えればデーゲームで野手の目に太陽の光が入りやすくなるが、野手がサングラスを掛けていれば大丈夫」と堤に進言したところ、実際に新球場のレイアウトへ反映された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、石山は早稲田大学野球部の監督として臨んだ1978年のアメリカ遠征中に、野球関連の施設と一体になった球場の建設現場を目撃。さらに、西武園球場の改築工事を請け負っていた西武建設からの依頼でドジャースタジアムまで足を伸ばすと、ロサンゼルス・ドジャース職員(当時)のアイク生原から同スタジアムの設計図を入手した。堤から球場設計アドバイザーを委嘱された時点では「堤が球団を保有する計画を進めていたことを知らなかった」とのことだが、実際には堤にその意思があることを委嘱の人事から察していた。そこで、アメリカ遠征での経験を踏まえて、サブグラウンド・合宿所・室内練習場を完備した施設のアイデアを池原に持ち掛けた。また、「観客は監督になった気分で試合を見ているので、救援投手の練習風景から監督の戦略を推理する楽しみを、目に見える形で残しておきたい」という理由で、一・三塁側の内野スタンドとファウルゾーンの間を金網で区切ったうえでブルペンに使用することを堤に提言。「サブグラウンドにブルペンを作ったうえで、試合の展開に応じて、救援投手をスクーターに乗せて移動させれば良い」と主張していた堤を翻意させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方の堤は、「身長180cmの外野手が飛び上がって本塁打性の打球をもぎ取ることも野球の醍醐味」として、外野フェンスの高さを2mに抑えることを、石山を通じて池原に要望。大相撲の枡席のような4人1組のボックスシートをネット裏に設けることも石山に指示した。結局、池原は以上のアイデアを、球場の設計にすべて反映。サブグラウンドは西武第二球場・西武第三球場、合宿所は「西武ライオンズ(初代)若獅子寮」として建設された。ちなみに、西武グループは一連の工事に対して、総額で50億円規模の巨費を投じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "西武ライオンズは、堤義明をオーナーに据えたうえで、1978年のシーズン終了後にNPB一軍のパシフィック・リーグへ加盟。改築後の新球場は、西武球団の本拠地として、西武ライオンズ球場という名称で1979年に開業した。ただし、竣工がNPBレギュラーシーズンの開幕直前にまでずれ込んだ関係で、オープン戦での使用は見送られた。こけら落としの試合は4月14日の同リーグ公式戦(西武対日本ハムのデーゲーム)で、元内閣総理大臣の福田赳夫(堤の結婚の媒酌人)が始球式に登場。西武では新人(ドラフト1位入団)の森繁和投手に先発のマウンドを託したが、野手陣が7失策を記録した末に、1対7で日本ハムに大敗した。なお、開業当初は場内へ掲示される広告に厳しい制限を設けていたため、グラウンド内からはスコアボードを除いて企業の広告が一切見られなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2018年10月21日に松井稼頭央が現役を引退したことにより、本屋外球場時代の西武に在籍したプロ野球選手が全員引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2019年9月23日に福浦和也が現役を引退したことにより、本屋外球場でプレーしたプロ野球選手が全員引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "西武ライオンズ球場は屋外球場として開場したが、設計の段階で屋根を付けることを想定していた。球場アドバイザーの石山によれば、球場の周囲に山口貯水池(狭山湖)や村山貯水池(多摩湖)が存在することから、球場の上空が雨雲の通り道になることを予見したうえで想定したという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その一方で、西武ライオンズ球団では一時、ドーム球場をお台場(東京都港区の埋立地)へ建設することを条件に本拠地を西武球場から移転させる構想を立てていた。しかし、当時の東京23区内にはNPBの3球団が既に一軍の本拠地を置いていたことから、上記球団の了承を得る必要性、地元ファンからの反発、多額の建設費用の捻出、新球場が西武沿線外になることによるグループ企業の西武鉄道の減収に対する懸念が相次いで生じた。結局、西武ライオンズ球場の設計上の想定に沿って、「既存の屋外施設に屋根を架設する」という日本では異例の工事で対応することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1997年度と1998年度のNPBオフシーズン中に、2期にわたって工事を実施。1997年度の第1次工事で観客席の上にステンレスの金属屋根を付けたことから、工事の完了を機に西武ドームと改称した。ただし、第1次工事ではフィールド部分を屋根で覆っていなかったため、1998年シーズンの試合では「ドーム」を名乗っていながら雨天での中止が相次いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1998年度の第2次工事で膜屋根がフィールドの上にも取り付けられたため、1999年に、日本で5球場目のドーム球場として再スタート。開場以来両翼95 m・中堅120 mだったフィールドも、この工事に伴って両翼100 m・中堅122 mに拡張された。ちなみに、ドーム球場化後の第1号本塁打は、同年3月20日に開催された西武対読売ジャイアンツ(巨人)のオープン戦で、巨人の松井秀喜が記録している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "直径145 mの膜屋根は、重さが2100 tあり、約3日かけて37.3 mの高さまで100本のワイヤーでリフトアップして設置された。この時の設計監修は建築家池原義郎が行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ドーム球場化後の膜屋根はスタンドの最上段から伸ばした柱で支えられているが、屋根とスタンドの隙間に壁を造らない設計で架設されたため、他のドーム球場と違って隙間から自然の空気を取り込めるようになっている。そのため、ドーム球場としては珍しく、場内に空調設備を取り付けていない。また、開催予定の試合が雨天で中止される可能性は、第2次工事の完了を機に消滅した。ただし、台風などの異常気象が見込まれる日に組まれていた試合を、特段の理由(選手・観客の安全面への配慮や交通機関の運行休止)によって中止することはある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ドーム化こそされたものの、観客向けの設備は開場以来、抜本的な改修が行われてこなかった。掘り下げ式スタンドのために、売店や化粧室などは全てスタンド最上段の通路沿いに集中して設けられており、スタンド内部にはこうした設備が一切設置されていなかった。そのため観客が各種設備を利用するには階段の上り下りが必要で、バリアフリーの立ち遅れが長年指摘され続けてきた。他球団の本拠地では新球場が建設された他、既存球場でも新たな設備が相次いで整備され、それぞれ特色を活かした誘客策を導入しているのに比べ、西武球団の対応は遅れ、観客動員数も伸び悩んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "そんな中、西武球団はコンプライアンスや地域密着型の球団経営の理念などを掲げた「西武ライオンズ憲章」を2007年8月26日に制定。その中で球場施設について“スタジアムを快適な「感動空間」へと創造します”と定めた。これに従って施設改修に本格的に着手することが決まり、同年オフから大規模な改修工事を開始した。なお結局、同年の年間観客動員数はチーム成績の低迷もあり、12球団ワーストという結果に終わっている。改修の内容は以下の通りである(細部に関しては後述)。第一期改修後の2008年シーズンはチームの好調もあって前年比29.3%増という観客動員の大幅な伸びを記録することに成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2008年3月までに、スコアボードの全面フルカラー化や新型人工芝「アストロステージMJ」への張替え、ラバーフェンスの変更が行われ、また観客が使用する化粧室もリニューアルされた。音響設備も新型の中型ラインアレイスピーカーに改められ、遠くまでクリアな音が聞こえるようになっている。総工費は13億円。また第2期工事でのフィールドシート設置の準備としてファウルエリアとブルペンが改修されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "続いて、2008年11月中旬から第2期工事に着工した。内野スタンドの一部を開削して、中段内部にレストラン、売店、化粧室、授乳室が設置された。また、エレベーターを設置するなど、バリアフリー化も図られている。テラスシートやフィールドシートも設置された。この第2期工事は総工費17億円をかけて行われた。翌2009年3月27日に行われた巨人とのオープン戦で改修後の球場が初披露されたが、フィールドシートとテラスシートの供用は4月7日のレギュラーシーズン本拠地開幕以後となった。また、一塁側と三塁側の両方のベンチのシートも住江工業製のものに交換された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この第2期工事に先行して、前述の各種設備等の増設に向けた準備工事が同年5月下旬から行われ、内野スタンドのうち1、3塁側上段部分の一部(内野指定B席約2,400席分)を閉鎖して盛り土部分を開削した。これに伴って同年5月31日のセ・パ交流戦・対中日ドラゴンズ戦から同年シーズン終了までの間、工事を実施している箇所のチケットは発券されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "西武ライオンズの創設40周年を2018年に迎えたことを記念する事業として、2017年末から2021年春にかけて、グラウンドレベルの観客席、球場周辺の店舗や通路、第二球場や二軍施設、選手寮などの大規模な再整備を実施。その一環として、開場以来外野スタンドの大半を占めてきた芝生エリア(芝生席)に、2021年シーズンから椅子を常設している(詳細後述)。日本国内で「AKRacing」(中華人民共和国で開発されたゲーミングチェア)の販売を独占的に担うテックウインド株式会社が2021年から埼玉西武ライオンズとパートナー契約を結んだことを背景に、パ・リーグ公式戦で両チームの監督用チェアとして設置。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国際規格を満たす球場としては日本では一般的な両翼100m、中堅122mの大きさである。開場当初は両翼95m、中堅120mで、1979年当時としては最も広い球場であったが、1990年代には他球場が続々と国際規格を満たす様になったためにドーム化工事に伴ってスタンドが削られ、1999年から現在の大きさに拡張された。ファウルポール際のスタンドにその名残がある。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "グラウンドは開場当初より全面人工芝である。当初はパイル長が短く、フィールドの色も「いかにも人工芝」という鮮やかな一面のグリーンであった。またホームベース後方には英筆記体のLionsのロゴ、一塁側ファウルゾーンにはペットマークの「レオ」が描かれ長年ファンに親しまれていた。2008年に人工芝の全面張替えを実施し、新型人工芝「アストロステージMJ」が採用された。これは長さの違う二種類の芝を組み合わせ、より景観や機能を天然芝に近づけたもので、一見天然芝のような自然な雰囲気に落ち着いた。この張替えの際、ベンチ変更が検討されていたこともあって球団ロゴとレオマークのペイントが一旦廃止されたが、このうち球団ロゴのみが2009年からホームベース後方に、ライオンズのユニフォームスポンサーであるナイキのロゴマークと横並びで復活した。三塁寄りが球団ロゴとなっていたがこれもすぐに廃止されている。2015年現在は三塁ベンチ上に球団ロゴがデザインされている。なお、外野フェンスにあったナイキのロゴは、2015年シーズンからは廃止されている。2015年12月中旬より人工芝の全面張替えを実施。日本プロ野球チームの本拠地としては初となる、ミズノ社と積水樹脂社の共同開発による野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」が採用された。これは形状の経年劣化が少なく、ボールのバウンドの際の充填剤の飛散を従来より抑えたもので、色は内野部分を土色にしたツートーンカラータイプである。2023年シーズンより、人工芝を国内球場では初となる環境配慮型「MS CRAFT BASEBALL TURF-V」に全面張替え。衝撃吸収性などの向上、光の反射の抑制などが図られたほか、耐久性向上により人工芝のちぎれが抑制され、マイクロプラスチックの飛散を抑えられるとしている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ブルペンは外野側のファウルグラウンドの外側にあり、プレイングフィールドとはフェンスで仕切られている。かつてこのフェンスは金網のみであったが、2001年に平尾博嗣がファウルフライの処理の際に、スパイクシューズの歯を金網に引っ掛けたことが要因となって大怪我を負ったために下部にラバーが追加された。また位置も2007年以前はホーム寄りであった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "開場当初のブルペンの方式はほっともっとフィールド神戸(神戸総合運動公園野球場)や長野オリンピックスタジアム(南長野運動公園野球場)でも採用されている。ほっともっとフィールド神戸はフィールドシートの採用の際に位置が変わったが、これに追随するような形で西武ドームも似た位置に移動している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2008年からはファウルグラウンドが規定値の近くまで狭められ、2009年からグラウンド面積は12,631.29mになったが、この数値は2009年現在、日本プロ野球球団の本拠地球場のなかで最小である。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "外野フェンスはラバーと金網の組み合わせで、中堅付近は高さが3.2mとなっている。両翼ファウルポールそばの座席部分に向かうにつれてラバー部分が少しずつ高くなっているが、これはフィールドの拡張でスタンドが削られた際に、その断面の高さに合わせてフェンスの高さを変えているためである。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2008年シーズン前の改修時、内外野フェンスの緩衝材にアメリカ・プロマット社製の「スカイデックス ウォールパッド」が採用された。2種類のウレタン素材(軟質ポリウレタンフォームとサーモプラスティックウレタン)を組み合わせたもので、従来のポリウレタンパッドと比較して約5倍の衝撃吸収力を確保している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "内野フェンスでは、2020年シーズンまで、ラバーフェンスの上方に高さ5mの防球ネットを設置していた。しかし、同年オフシーズンの改修工事で、防球ネットの高さを20mにまで伸ばした。西武球団では、改修計画を立案する段階で、打者が打席から放ったライナー性の打球がスタンドへ向かった場合のシミュレーションを実施。シミュレーションを基に、打球の速度や打球にかかる重力・空気抵抗のデータを解析した。その結果、防球ネットの高さを20mまで伸ばした場合には、内野席の観客がライナー性の打球の直撃を避けられる確率が、従来の5mネットの設置を続けた場合に比べて96%上昇することが判明したという。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "建設の頃のアメリカでは、円形兼用球場全盛で同時期の横浜スタジアムも円形となったが、この球場は従来型の扇形となっている。掘り下げ式のためにスタンド内部には施設が存在しなかったが、2009年より内部にも施設が増設されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "入場ゲートは開場当初より1塁側と3塁側に独立して設置され、再入場が認められていた(1塁側および3塁側のどちらかにしかない売店・商品があり、バックネット裏のエリアは対応するチケット購入者以外は通行できないため)。2020年シーズン終了後に両ゲートが撤去され、2021年より新たにメインゲートが設けられた。同年は再入場が認められなかったが、翌2022年よりサブゲート経由で再入場が再開された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "内野席はほぼ全ての席にカップホルダーがついている。前述のように掘り下げ式のため、外周通路や内野スタンド中段、下段にある通路を通り試合を見ながらアクセスできる。外周通路には白線によって立見席スペースが設定されており、混雑時には専用チケットが用意されることがある。バックネット裏はスペシャルシートとされており、座席が革張りであり、入り口が別に存在し、勝利時はビクトリーロードを通る選手と直接触れ合えるなど他の観客席とは一線を画している。この席は1席ではなく2席単位で販売されている。また、ベンチサイドシートとバックネット裏は年間チケットが発売されている。バックネット裏は4席単位でのボックスシートとしての販売となっている。これ以外にも特別観覧席として事前予約が必要なスイートルームがある。2009年より「ダグアウトテラス」(テラスシート)と「フィールドビューシート」(フィールドシート)を追加。2020年からは、野球場の観戦スペースとしては珍しい「ステンレスカウンター」(ステンレス製のカウンター付き立ち見席)を、一塁側内野スタンドの上段に設置している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2019年まで、西武が勝利すると選手たちはバックネット裏の「ビクトリーロード」と呼ばれる階段を通ってロッカーに引き上げており、ファンにとっては選手とふれあうチャンスの場でもあった。2021年からはバックネット裏に後述のプレミアムラウンジが建造されたことに伴い、ビクトリーロードもラウンジの一角を通る形式に変わった(2020 - 2022年は新型コロナウイルスの流行のため、ファンと選手の接触を防ぐべく、西武の勝利時もビクトリーロードは使われなかった)。なお、ビジターチームおよび勝てなかった時の西武はベンチ裏にある108段の階段を登らなければならなかったが、ラウンジの開設により階段は消失した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "外野エリアについては、開場から2020年までの42年間にわたって、スペースの大半を芝生席に充てていた。残りのスペースには長椅子による座席が設けられていたが、席数が少ないうえに、西武戦の開催日には私設応援団が応援のために陣取っていた。ドーム化前の芝生席は天然芝だったが、ドーム化以降は人工芝に変わっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ドーム化前の芝生席は、天然芝の保護を優先する関係で、一般客への開放を公式戦開催期間中の週末・祝日、学生の夏季休暇期間、西武または対戦球団のパ・リーグ優勝が決まる可能性のある試合、日本シリーズに限っていた。観客席をドーナッツ状に覆う金属屋根が完成した1998年も外野席は天然芝だったが、屋根により日陰となった観客席の日照量が著しく落ちたため芝生が枯れ果ててしまった。このため、外野席へ持参したシートをテープで固定する場合には、養生テープの使用しか認めていなかった。しかし、2020年オフシーズン中の改修工事で、芝生席を椅子席へ全面的に転換。ライト側の後方には、「ライトパノラマテラス」と称するカウンター付きの座席(140席)を新設した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この工事では、「ライトパノラマテラス」に加えて、バックネット裏に常設される観戦スペースとしてはNPB12球団の本拠地球場で最も広い「ライオンズ プレミアムラウンジ」(483人まで同時に収容できるスペース)をバックネット裏スタンド席の地下部分、「プレミアムエキサイトシート」(砂かぶり席)203席をラウンジの前方、「ネット裏テーブル4」(グループ席)「ネット裏カウンターシート」(カウンター付きの座席)「ネット裏指定席」をバックネット裏のスタンド、「ダグアウトトップシート」を一・三塁側ダッグアウトの真上、「ライオンズユニバーサルデッキ」を左翼エリアの上方(スコアボード左支柱の土台付近)、「ビジターユニバーサルデッキ」を右翼エリアの上方(スコアボード右支柱の土台付近)、「ステンレスカウンター」を三塁側内野スタンドの上段にそれぞれ新設した。「ユニバーサルデッキ」は車椅子の搭乗者・同伴者だけが入場できる打球防御板付きの観戦スペースで、「プレミアムエキサイトシート」や「L'sテラスシート」にも同様のスペースを設けたことによって、車椅子に乗ったまま観戦できる席を工事前から大幅に増やしている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、西武球団では2021年から、サーモス(THERMOS)との間で「ステンレスカウンター」、名糖産業(ホームランバーの製造元)との間で「ライトパノラマテラス」の施設命名権スポンサー契約を締結。契約期間中にはそれぞれ、「THERMOS ステンレスカウンター」「メイトーホームランバー ライトパノラマテラス」として稼働させている。同年7月16日(金曜日)には第71回NPBオールスターゲーム第1戦が開催されたが、新型コロナウイルス感染症のまん延防止等重点措置が日本政府から埼玉県内へ発出されていたことに伴って、入場券(チケット)の販売数を1万枚までに制限。オールスターゲームの開催自体が2019年の第2戦(阪神甲子園球場)以来2年振りであったにもかかわらず、有料入場者の総数は8,992人で、オールスターゲーム史上最も少なかった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "売店は上段通路外側に点在している。2018年までは、バックスクリーン裏の入場口からバックネット裏に向かって順に席のグレードが上がっていく関係上、境目でチケットチェックがあるため、席種によっては利用できない売店があった(内野指定席エリアの売店は自由席券では利用できないが、内野指定席の券ならば自由席エリアの売店は利用できるなど)。2019年よりチケットチェックが廃止され(外野芝生エリアやフィールドビューシートなどに入る際のチェックは継続)、席種による制限は大部分でなくなった(プレミアムシート限定ショップは引き続き存在)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2009年からは内野スタンド中段内部に「L’s Dining(エルズダイニング)」と呼ばれる売店も追加されている。同時期に一部を除いた売店で電子マネーPASMO(および相互利用可能なIC乗車カード)が利用できるようになった。2019年までは、グルメワゴンと称される移動販売車での売店が球場外で営業していた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、グルメワゴンを含むほぼ全ての売店でライオンズファンクラブ向けのポイントサービスである「Lポイント」の加算を受けることができる。売り子は非対応であったが、2020年より購入時に「Lポイント補助券」が配布され、球団公式アプリかファンクラブマイページより情報を送信すると加算されるようになった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "当球場には、2008年まではクレジットカードによる支払い対応ができるビールの売り子が少数ながら存在していた。ハンディタイプのCATクレジットカード処理端末を持ち歩いており、帽子にはクレディセゾン、ビザ、マスターカードの3つのロゴが入っていた。なお前述の売店PASMO対応に伴い、売り子のクレジットカード対応は終了した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "球場開き以後、1997年までスコアボードの広告以外、フェンス・スタンドの広告は一切排除されてきた。1998年にスタンド(観客席)の屋根部分に初めて広告看板が設置され、1999年の完全ドーム化でレフト・ライトのポール際のフェンスにそれぞれ4枚ずつの広告が貼り付けられるようになった(その後増加)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "なお、通常のドーム球場の外野席に設置される巨大な広告看板は、鉛直方向に設置できないために一般的な横長サイズの看板を2009年まで設置していたが、2010年から他のドームのような巨大看板を斜め方向にした状態で掲出している。かつて左翼側スタンド上の天井に設置されていた文化放送(JOQR)の看板に打球を直撃させた選手には、同社から1000万円の賞金が出ることになっていたが、達成した選手はいなかった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2009年には屋根部分ホームベース側の看板が、広告から西武が日本一(西鉄時代を含む、2008年はアジアシリーズ制覇)となったシーズンを記念するパネルに変更された。優勝年表示は全てその年使用のユニホームの番号のロゴを使用。2012年からはその右側に稲尾和久の永久欠番「24」を顕彰するパネルを設置していた。これらのパネルはいずれも2020年までの掲示で、同年シーズンオフに撤去された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "スコアボードは開場から2020年まで、躯体はそのままで表示部分などを改修しながら使用し続けた。スコアボードの支柱には、命名権を使用するシーズンに関してはそのスポンサーの広告が掲示された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1978年の起工時、最初に完成したのがスコアボード棟であり、更地にスコアボードのみ完成していた状態で新生西武ライオンズの写真撮影が行われた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "完成当初の発光部分は単色のHIDランプで左側に縦書きの選手表示、真ん中に大型映像装置(縦6.5m、横幅8.5m)、右にスコア(10回まで表示可能で、11回以降は、1 - 10回データをクリアして1回から入力)や審判団などの表示があった。大型映像装置は白黒であったが1987年にカラーのソニー製ジャンボトロンに変更され、さらに1995年には東芝ライテック製のスーパーカラービジョンに取り替えられている。また、チーム名表示がアルファベット1文字からチームのロゴに変更された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "選手表示は横スクロール形式が採られていた。西武ライオンズ球場だった時代、南海ホークス(当時)・河埜敬幸の「埜」の文字データがなかったため、選手名に「河の」と表示されたことがあった。また2007年までは北海道日本ハムファイターズ(当時)・MICHEALの表記が「MICHEL」になっていた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2007年オフから2008年春まで行われた改修工事ではスコアボード表示部が全面改修され、全面フルカラーLEDの松下電器(現:パナソニック)製アストロビジョンとなった。画面の寸法は縦6.528m、横幅49.152mという長大なもので、フルデジタルハイビジョン映像による一画面のフル表示や最大4画面の分割表示に対応している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "スコア表示にはコンピューターグラフィックスを使用しており、野球の試合中は、一画面フル表示の演出を行うとき以外は3画面に分割して使用している。メンバー表は左画面に横書き表記で、スコアは右画面に表示される。中央画面は映像効果などで使用する。また、球速表示も中央画面に表示している。なおバックネット裏のサブスコアボードは改修されず従来の表示のままであった(基本的なイニング表示は9回まで。プロ野球仕様の延長戦であれば、延長12回までを追記できるようになっている)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "球団が同年3月16日から1か月間にわたって一般公募でこの大型ビジョンの愛称を募集した結果、2,514通のうち最多の254件の応募があったL Vision(エルビジョン)を採用、4月26日に命名された。同年の改修ではこの他、サブスコアボード下に縦1.152m × 幅30.72mのリボン状の新型映像装置が設置された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2011年からは他の球場同様、ボールカウント表示を「SBO」から国際標準規格の「BSO」に変更することが同年3月18日に発表され、実施された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2014年よりデザインが変更されて現在の打者の顔写真(西武のみ)を表示するようになり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。またサブスコアボードも発光部分がLEDに交換され、球速表示も追加された。2016年シーズンからはレイアウトはそのままながら、演出などをリニューアルしている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2020年の練習試合の楽天戦において、スコアボード表示が2008-13年仕様に戻る不具合があった。チーム名はカタカナで「イーグルス」、「ライオンズ」と当時のものは異なった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2020年オフにスコアボードは一旦解体され、2021年シーズンよりパナソニック製の新たなスコアボードが設置された(名称は「Lビジョン」で変わらず)。新ビジョンは高さ13m×横幅46m、面積約600mと従来の約2倍の大きさに拡大。なお支柱はそのまま引き継がれている。またバックネット裏のセンタービル屋上に、幅10.2m×高さ5.6m、約57mのサブビジョンを新設。これにともない、リボン状ビジョンは撤去された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "開場当初、スコアボードには球団旗などを掲げるポールがあった。ドーム化の際には屋根に干渉しないところまでポールの高さを下げ、風でなびいているような形に旗を固定して掲揚していた。スコアボードが改修された2008年からは他のドーム球場と同じバトン方式に変更されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "バックスクリーンは5枚の横長のパネルで構成されており、その内の4枚が上部に引き上げられるようになっている(劇場などで使う緞帳とほぼ同じ)。また外野フェンスの中堅部分も左右に開くことができる。この中堅部分がフィールドへの搬入口となっており、打撃練習などに使用する機材などはこの搬入口から出し入れを行う。また両チームの用具・荷物等もここから出し入れを行っており、連戦最終日の試合終了後には、トラックが集荷のため直接フィールド内に乗り付けることもある。またコンサートなどのイベント時にも、ここから機材・展示物の搬入を行っている。時間帯によってはこの搬入口後方から、場内をフィールドレベルで見渡すことができる。試合終了後にグラウンドに入場できるイベントでは一般客の入退場口となる。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2014年からはバックスクリーン部分の外野フェンスの金網部分には網目の細かいネットが張られている。因果関係は不明だが2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスのリーグ優勝を取材するテレビスタッフが、バックスクリーン前に侵入して試合進行を妨害するということがあった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ドーム全体を覆う屋根の直径は223mで、スタンド外周に設けられた24本のV字型柱によって支えられている。ドーナツ状の外周部は鉄骨組みのステンレス製で、総重量約8,000tを有する。中心部は直径145m、面積17,000m、総重量約2,000tを有する膜屋根部で、鉄骨で組まれた一重のテフロン膜によって耐候性や不燃性がありながらも自然光を取り入れることができる構造となっている。但しデーゲームでも自然光だけでは照度が低く打球などが見えにくいため、野球開催時にはデーゲームにおいても照明を併用して照度を補っている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "天井最高部はグラウンド面から64.5mで、ドーム化後はグラウンドルールにより、天井に接触した打球はボールインプレイ(プレイ続行)の扱いとなり、落下点もしくは野手が触れた地点を基にフェアかファウルかを判定し、野手が直接捕球した場合はフライアウトとして扱われる。また打球が天井や懸垂物、鉄柱に挟まった場合、フェア地域の場合はエンタイトル二塁打、ファウル地域の場合はファウルボールとして扱われる。しかしアレックス・カブレラが本塁打性の天井直撃の打球を連発したことが契機となってグラウンドルールが一部変更され、外野のフェア地域の天井に当たった場合に限り「認定本塁打」が適用されることになった。その後、カブレラは新ルール適用第1号となる本塁打を放ち、レフトの天井に記念フラッグが設置されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "屋根の下には中興化成工業が製造したメッシュ膜材が鳥避けの化粧材として設置されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "照明は金属屋根内側の上部に、球場を一周するように取り付けられている。ただしプレイの妨げとなるホームベースとスコアボードの直上には最初から取り付けられていない。またファウルポールの延長線上も判定しやすいように照明の数が少なくなっている。全てメタルハライドランプであり、高演色性のものと高効率のものを組み合わせて使用している。2010年にリニューアルされ、以前より白色が強いものに変更された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ドーム化(1997年)以前は照明塔が6基(内野側4基、外野側2基)設置されていた。ドーム化の際に内野側は全て撤去されたが、外野側のものは場外通路の照明用として2010年シーズン終了時まで残されていたが2010年オフに撤去された。なお不要な分のランプは取り外されていた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2020年からフィールド照明がLED化された。メタルハライドランプよりも点灯が速く、光量の調節も容易であることから、ホームチーム(西武)の選手が本塁打を打った際はダイヤモンドを一周する選手に合わせた演出が行われたり、ヒーローインタビュー中は選手の頭上以外の照明を消灯する試みが行われている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2009年度までの西武主催試合の場内アナウンスは女性スタッフが担当していた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2010年からは男性スタッフを採用し、スタジアムDJがスタメン発表以後大部分のアナウンスをした。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2011年 - 2012年は男性スタッフのみが担当。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2013年シーズンからはビジターチームの選手紹介や注意喚起などは鈴木あずさが、ホームチーム(西武)はスタジアムDJのRISUKE(久米理介)が担当している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "屋外球場の時代から当球場の恒例行事とされたのが、ホソヤエンタープライズによる花火の打ち上げである。これは西武ライオンズの選手がホームランを放つか、ホームラン時に打ち上げる花火が試合終了後も残っていた場合で試合に勝利した場合、西武第三球場のグラウンドから花火を打ち上げて祝福するというものだった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ドーム球場となった1999年以後は、一旦この花火打ち上げが中止された。2002年 - 2009年シーズンまで西武が試合に勝利した場合、ドーム内のバックスクリーン前で紙テープとともに花火の打ち上げによる演出が行われている。以前はホームランの際も花火の打ち上げがあったが、現在のドームで試合中に花火を打ち上げるとドーム内に煙がこもり、試合進行の妨げになるため、後にゲームセット時のみになった。2010年からは経費削減の為スコアボードに花火が映し出される演出となり、実物の花火ではなくなった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1983年6月3日、阪急ブレーブス・福本豊による盗塁世界新記録がこの球場で達成された際、西武以外の球団の選手でありながら例外的に花火を打ち上げ、快挙を祝福した。また、オールスターゲームの際は、全パの選手のホームランおよび勝利を祝って花火を打ち上げ、という形が取られた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "なお、昭和天皇の容体が急変した1988年9月下旬から同年のシーズン終了までは、全国的な祭祀を自粛する風潮の中、それに従う形で花火の打ち上げは一切中止された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "西武球場としての開場を機に、電子オルガンを三塁側スタンド上段(2019年の時点では中段のL'sダイニングシート真下)のオープンスペースに設置。西武主管試合や球団イベントの開催日には、ハーモニーミュージック(音楽教室などの運営会社)から西武球団に派遣された複数のオルガン奏者が交代で演奏している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "オルガン奏者は試合前に、当日が誕生日の選手や表彰式を控えた選手(いずれも西武)の登場曲などを生で演奏。試合中には、観客に対してファウルボールへの注意を促す音(3種類)や、西武の得点に合わせた音を奏でている。演奏のレパートリーは十数種類で、選手交代などによって試合の進行が止まった時や、イニングの合間にもBGMを演奏。得点の際に奏でる音を点数に応じて変えたり、オルガンの内部にハモンドオルガンの音を取り入れたり、応援団の演奏や声援と重ならないように配慮したりするなどの工夫も為されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "西武ドーム時代の2010年からは、外装にウォールナットを使用したローランド製の「AT-90S」(2001年発売の上位モデル)を導入。ドジャースタジアムでもかつて使用されていたモデルであることから、既に生産を終了していたにもかかわらず、西武球団が購入を決めたという。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ちなみに、西武球場が開場した1970年代後半以降のNPBでは、一部の球団が電子オルガンを本拠地の球場に常設。電子オルガンの製造元である楽器メーカーの宣伝を兼ねたもので、MLBやマイナーリーグの本拠地で電子オルガンによる演出が定着していることを背景に、選手の登場曲やBGMの演奏などに使用していた。しかし、阪神タイガースが1990年代の後半に阪神甲子園球場で選手の登場曲をCDから流し始めたことをきっかけに、西武を除く他球団も阪神に追随。2000年代の前半には、当球場と同じ首都圏の本拠地球場のうち、横浜スタジアム(1978年開場)・東京ドーム(1988年開場)・ZOZOマリンスタジアム(1990年開場→1992年からロッテの本拠地)の公式戦から(球団主催の復刻・記念イベントの開催日を除いて)電子オルガンや生演奏が消えた。このような事情から、2019年ポストシーズン時点のNPBにおいて、本拠地の球場で電子オルガンを常設・常用している球団は西武だけになった。球団の関係者によれば、「BGMをCDで流すのも良いが、西武球団としては、生の臨場感を大切にしたい。電子オルガンは臨機応変に演出できるので、球場の雰囲気作りに最も適している」という。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "西武グループは2004年、経営改善策の一環として西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権(ネーミングライツ)を売却することを決定。取得に名乗りを上げたのは、インボイス。まず同年12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意し、翌2005年シーズンから球団名を「インボイス」とすることを発表、1月25日にプロ野球実行委員会で承認された。インボイス社は同日、西武ドームの命名権についても2005年シーズンからの2年契約で合意。3月1日から名称を「インボイスSEIBUドーム」(インボイスセイブドーム)に改称した。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "当初「ドーム名を“インボイスドーム”としたい」としていたが、西武側は「“西武”の文字を入れてほしい」としてこれを却下。また、西武球場前駅についても「“インボイスSEIBUドーム前駅”に改称してほしい」と申し入れたが、鉄道駅の名称変更には様々な事務手続きなどを行わねばならず経費も掛かるなど煩雑なため、これも受け入れられなかった。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "改称を機に、ドーム内の各所や球場スタッフの制服などに「INVOICE」の社名ロゴが入れられた。またインボイス社は株主優待策のひとつに、西武ライオンズのパ・リーグ主催試合のチケット引換券を設けるなどした。また、プロ野球の公式記録や各種報道機関に於いては「インボイスドーム」や「インボイス西武」などと略する形で称されていた。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "インボイス社は当初、これらの命名権について10年以上の長期契約を望んでおり、2007年以降も命名権を取得したいとして、契約が切れる2006年シーズン中からその旨を西武側に申し入れていたが、西武側は「契約満了で、2007年以降は更新しない」とインボイス社側に通告。結局2006年9月8日、インボイス社は契約更新を断念。二軍の契約も1年を残し解除する事を決定し、これら「インボイス」を冠する名称は同年いっぱいで使用を終了することになった。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "西武はインボイス社に代わる命名権の新たな契約先について検討を進めてきたが、2006年12月2日、グッドウィル・グループと2007年1月1日からの5年総額25億円(金額は推定)契約に合意。年末までに隣接する西武球場前駅の誘導看板やドーム看板など変更の準備を進めて、同日から「インボイスSEIBUドーム」を「グッドウィルドーム」に、二軍を「インボイス」から「グッドウィル」に改称した。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "これに伴い、西武ライオンズ球場としての開場以来初めて球場名から「西武」の名前が消えた。日本放送協会(NHK)では「グッドウィル西武ドーム」と一時呼称されたこともある。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ところが2007年12月、グッドウィルが違法な派遣業務を行っていたことが発覚し、厚生労働省から事業停止命令を受けた(詳細は別項)。このため、同社は西武球団に命名権の契約解除を申請。同球場を所有する西武鉄道と西武球団側もそれを受け入れ、わずか1年で球場と二軍の名称から「グッドウィル」が消えることとなった。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "これを受け、西武側では命名権の新規契約については2008年シーズンの導入を見送る方針を決定。2008年1月9日付で球場名が「西武ドーム」に戻り、二軍チーム名も一軍と同じ「埼玉西武ライオンズ」に改められた。西武の後藤高志オーナーは、命名権導入再開について「契約先のイメージが球団にかかわってくるリスクが生じる」と慎重に検討する姿勢をとっており、以降2014年シーズン終了まで再開は見送られていた。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2014年12月15日、来シーズンの球場命名権をプリンスホテルが取得し、球場名を「西武プリンスドーム」に改称することを発表した。契約期間は2015年3月1日から2016年の2月29日までの1年間で、その後も翌年まで自動更新された。契約額は非公表。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "これ以降は前の2社と異なり、球場名称の命名権のみの取得であり、二軍チーム名は「埼玉西武ライオンズ」のまま変更されていない。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2017年1月16日、メットライフ生命保険が同年3月から2022年2月末までの5年間の球場命名権を取得することで合意したと発表した。これにより球場名が「メットライフドーム」に変更された。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2022年1月17日、同年3月から埼玉県上尾市に本社を置く通販会社ベルーナが球場命名権を取得すると発表した。契約期間は2027年2月末までの5年間。これにより球場名が「ベルーナドーム」に変更された。", "title": "命名権" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "設計アドバイザー石山建一の提言により、現存する日本プロ野球の本拠地野球場としては唯一、周辺にサブグラウンド、屋内練習場、合宿所といった施設が揃っている。", "title": "周辺の付属施設" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "西武球場のオープン当初より、球場に隣接して建てられたビル。", "title": "周辺の付属施設" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "エントランスホールからは地階 - 2階までアクセス可能(2階は一軍公式戦非開催日の営業時のみ)。一軍公式戦開催日、2 - 3階は球場側から「DAZNデッキ」を通って入る。", "title": "周辺の付属施設" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2017年3月3日に、横浜アリーナの運営会社について西武鉄道の子会社となることが発表された際に、子会社となった理由として、横浜アリーナの営業力を活用し、西武ドームにコンサートおよびスポーツイベントの誘致を行うこととされている。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "西武ドームではアマチュア野球の公式戦も行われている。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "社会人野球は球場のオープンと同年に創部されたプリンスホテル硬式野球部が近くに合宿所を構えたこともあり、関東地区の主要球場として利用された。毎年3月中旬に行われるJABA東京スポニチ大会の開催球場のひとつとなっていた。また全日本クラブ野球選手権大会の本大会が、1979年から1995年までは西武球場・西武第三球場で開催。その後は一時隔年となるも再び固定となった。都市対抗野球東京都の予選が行われることもある(前記のプリンスホテルが東京都加盟であったためか、埼玉を含む南関東予選は未実施)。草野球では、ストロングリーグにより、2004年から全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの全国大会に使用されている。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "高校野球では、1981年から1991年までは全国高等学校野球選手権埼玉大会の開催球場の一つとして使用された。これは、埼玉大会の参加校が急増していたことが背景にあり、埼玉県内の高校野球でメイン球場として使用する埼玉県営大宮球場では、当時フィールドが狭隘の上に老朽化していたため開会式を行うのが困難になったのがその理由である。初年度の1981年、西武球場では開会式とその直後の試合のみが行われ、翌1982年からは準々決勝(1984年からは準決勝)以降の試合も西武球場で行われた。 県営大宮球場が1992年に改修されてからは、西武球場・西武ドームが高校野球公式戦で使用されたケースはないが、2020年の第102回選手権の中止に伴う代替大会(夏季埼玉県高等学校野球大会)では、西武球団の提供により本球場で準決勝・決勝が行われた。また、2016年春には東都大学野球2部リーグが大学野球のリーグ戦としては初めて使用した。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "事例は少ないがフィールドに観客席を設けた場合最大4万人まで収容可能である。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1982年にはクイーンが「Hot Space Tour」の公演の1つを行った。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1983年7月25日に長渕剛が、『SUPER LIVE IN西武球場』を開催。雨の中でのコンサートとなった。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1984年に『SUPER ROCK '84 IN JAPAN』でホワイトスネイク、スコーピオンズ、マイケル・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィ、アンヴィルが出演。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1986年から2005年まで、毎年夏に行われていた渡辺美里のスタジアムライブが良く知られる。ライブ開催当日には西武鉄道による特別電車も運行されたほどである。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2000年にPIERROTがライブで使用、メジャーデビュー2年足らずでドーム公演するのは当時の最短記録であった。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2009年に水樹奈々が声優として初めて日本国内での単独ドーム公演を当会場で開催。2015年以降は、アニメ・ゲーム作品に関連する公演も数多く行われている。西武鉄道自身がアニメ作品とのタイアップに積極的であることから、公演に合わせてラッピング電車を走らせることもある。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "関東地方では東京ドームがあることから「ドームツアー」に組み込まれないことが一般的ではあるが、アーティストによっては使用料が高く、日程など制約の多い東京ドームを非開催としたうえで西武ドームを使用し「ドームツアー」に組み込まれる事例がある。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2002年以降に当会場でコンサートを開催した著名なアーティスト・イベントに限定して記載。赤色の年は開催予定を表す。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "『全国高等学校クイズ選手権』の関東大会は、1984年の第2回大会から西武ライオンズ球場で開催されてきた。西武ドームとなっても一部の年を除き、2010年の第30回大会までは関東大会の会場として使用された。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "1996年に真夏の祭典・『FNSの日・10周年記念 1億2500万人の超夢リンピック』のゴルフ予選会として開催した「ゴルフ・池ポチャアプローチ選手権」の会場として、また決勝のフジリンクス8番ホール行きを目指し211名が凌ぎあって使用された。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2020年のシーズンオフには、ももいろクローバーZの歩みや衣装などを展示するイベント『ももクロ・ライオンZ EXPO』を開催。これは、西武が野球以外ではじめて自主興業したイベントとなり、コロナ禍ではあったものの開催期間18日間で約1万人が来場した。", "title": "プロ野球以外での使用" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "その他、CMやテレビ番組の撮影、握手会などのイベントでもよく使われている。", "title": "プロ野球以外での使用" } ]
西武ドーム(せいぶドーム)は、埼玉県所沢市にあるドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の埼玉西武ライオンズが専用球場(本拠地)として使用している。 埼玉県南西部の狭山丘陵に立地し、周囲を緑に囲まれたロケーションの中に位置している。2022年3月からは埼玉県上尾市に本社を置く通信販売企業のベルーナが命名権を取得しており、名称をベルーナドームとしている。 施設は西武鉄道が所有し、株式会社西武ライオンズが運営管理を行っている(一部の施設運営・管理・警備・清掃業務は協栄などに外部委託)。 当初は屋根が無い西武ライオンズ球場(せいぶライオンズきゅうじょう)だったが、のちに屋根を架設してドーム球場となった。ドーム架設以前は西武球場の通称表記が多用されており、最寄駅の駅名はドーム架設後も変わらずに西武球場前駅である。
{{野球場情報ボックス | スタジアム名称 = 西武ドーム<br />(ベルーナドーム) | 愛称 = | 画像 = [[File:Seibu Dome feb 23 2021 various 16 59 23 418000.jpeg|300px]]<br />外観<br />[[File:Moment of Saitama Seibu Lions Victory at MetLife Dome.jpg|300px]]<br />フィールド全景 | 所在地 = {{flag|埼玉県}}<br>[[ファイル:Flag_of_Tokorozawa,_Saitama.svg|border|25px]] [[所沢市]]大字[[上山口]]2135番地 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 46 | 緯度秒 = 6.6 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 |経度分 = 25 | 経度秒 = 13.8 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP-11 | 起工 = [[1978年]](昭和53年)[[6月]] | 開場 = [[1979年]](昭和54年)[[4月14日]] | 所有者 = [[File:SeibuRailway_mark.svg|20px]] [[西武鉄道]] | 管理・運用者 = 株式会社西武ライオンズ | グラウンド = 野球専用[[人工芝]]「MS Craft Baseball Turf」 | ダグアウト=ホーム - 三塁側 <br /> ビジター - 一塁側 | 照明 = 照度 - バッテリー間:2500ルクス<br/>内野:2000ルクス<br/>外野:1500ルクス | 設計者 = [[早稲田大学]][[池原義郎|池原研究室]](球場建設)、<br/>[[石山建一]](設計アドバイザー)、<br/>[[鹿島建設]](ドーム化工事) | 建設者 = 西武建設、鹿島建設(ドーム化工事) | 旧称 = 西武ライオンズ球場(開場 - 1997年)<br/>インボイスSEIBUドーム(2005年3月1日 - 2006年12月31日)<br/>グッドウィルドーム(2007年1月1日 - 2008年1月8日) <br/>西武プリンスドーム(2015年3月1日 - 2017年2月28日)<br/>メットライフドーム(2017年3月1日 - 2022年2月28日) | 使用チーム、大会 = [[埼玉西武ライオンズ]](開場 - 現在) | 収容能力 = 31,552人(2022年)<br/>(コンサート時は最大40,000人) | 規模 = グラウンド面積 - 12,631.29[[平方メートル|m<sup>2</sup>]] <br/> 両翼 - 100 m(約328.1 ft)<br/> 中堅 - 122 m(約400.3 ft) <br/>左右中間 - 116 m(約380.6 ft) | フェンスの高さ = 3.2 m(約10.5 ft)- 4.37 m(約14.3 ft) | pushpin_map = Japan Saitama }} [[画像:Seibu Dome baseball stadium - 26.jpg|thumb|right|200px|2007年セ・パ交流戦・横浜ベイスターズとの1回戦の様子]] '''西武ドーム'''(せいぶドーム)は、[[埼玉県]][[所沢市]]{{efn|バックネット側スタンドのすぐ外に[[東京都]][[東大和市]]との都県境がある。}}にある[[ドーム球場]]。[[日本野球機構|プロ野球]]・[[パシフィック・リーグ]](パ・リーグ)の[[埼玉西武ライオンズ]]が[[専用球場]](本拠地)として使用している。 埼玉県南西部の[[狭山丘陵]]に立地し、周囲を緑に囲まれたロケーションの中に位置している。2022年3月からは[[埼玉県]][[上尾市]]に本社を置く通信販売企業の[[ベルーナ]]が[[命名権]]を取得しており、名称を'''ベルーナドーム'''としている。 施設は[[西武鉄道]]が所有し、株式会社西武ライオンズが運営管理を行っている(一部の施設運営・管理・警備・清掃業務は[[協栄]]などに外部[[委託]])。 当初は屋根が無い'''西武ライオンズ球場'''(せいぶライオンズきゅうじょう)だったが、のちに屋根を架設してドーム球場となった。ドーム架設以前は'''西武球場'''の通称表記が多用されており、最寄駅の駅名はドーム架設後も変わらずに[[西武球場前駅]]である。 == 特徴 == 平地にスタンドなどの構造物を建設するのではなく、[[丘陵|丘陵地]]を掘り下げて構造物を設置する手法が用いられており、掘り下げ部の斜面を利用してスタンドが設けられている。掘り下げ式のため、観客は外野バックスクリーン後方の中央口から入場し、外野スタンド外周のスロープ状の通路を経由して、各座席へ誘導する動線が取られている。そのため、バックネット周辺の座席へ向かうにはスタンドを概ね半周することになるが、ネット裏のボックスシートを利用する観客には専用の出入口が別途設置されている。 現存するドーム球場の中で最も低コストで造られ、最も環境に配慮した球場として、[[西武グループ]]では「自然環境共存型スタジアム」としてPRを行っている。また、狭山丘陵の豊かな自然を活かした部分などが評価され、[[埼玉県庁]]が優れた景観の建造物等を表彰する「[[彩の国]]景観賞」を[[1999年]]に受賞している。 壁面が無いため、日本で唯一「'''場外[[本塁打|ホームラン]]の出るドーム球場'''」である。(開閉式の屋根のあるドーム球場を除く)[[2001年]]から[[2007年]]まで西武ライオンズに所属していた[[アレックス・カブレラ]]は、しばしば場外弾を打っていた。また天候条件によっては上段の客席まで雨が吹き込み、雷鳴も屋外と変わらない大きさで聞こえる他、ナイターの試合では虫が多く集まってくるという。2013年には[[カラス]]に襲われた[[鳩]]がグラウンドに落下し、試合が中断したこともある<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.youtube.com/watch?v=Zgvxl4PCFIY |title= 【襲撃事件で場内騒然】ドーム内で突如発生し、異例の試合中断 |date=2013-07-22|accessdate=2022-05-27|publisher=[[YouTube]]}}</ref>。 内陸の狭山丘陵に位置する立地条件から春先や秋口は寒く、夏場はナイトゲームでも蒸し暑い。ドーム化によって日差しが遮られ、熱気や湿気がこもりやすくなったため、この傾向はより顕著になった。春先や秋口、降雨時には寒さ対策、夏場には[[熱中症]]対策が必要になる。強制的に換気を行う設備が設けられていない(外気を取り入れる大型扇風機を複数設置しているが、効果は限定的である)ことから、降水時には湿気がこもり、時にはフィールド内に[[霧]]が立ち込める。壁面がないため、デーゲーム時には日が差し込む。暑さが厳しいことから、他の全天候型のドームと異なり、夏場にはデーゲームの開催をしていない。 分煙面では[[2021年]]に喫煙所は獅子ビル屋上に移動し、分煙状況は改善された。ただ、以前はドームの屋根内には消防法上の規定により、喫煙所を設置できないため、内外野共に屋根に覆われない部分に喫煙所を設置していた。しかし、喫煙室など空調を備えた別棟は設けておらず、露天のまま灰皿を設置しただけの簡素な形式のため、風向きによってはタバコの煙が通路やスタンドに流れ込むこともあり、完全分煙化には至っていなかった。 [[2008年]]度までは他の多くの球場と同じく一塁側ベンチをホームチーム用としていたが、[[2009年]]度からは球団事務所、練習場、合宿所等の諸施設に近い三塁側をホーム用として使用している{{efn|日本プロ野球で三塁側をホームとするのは[[札幌ドーム]]・[[宮城球場]](楽天モバイルパーク宮城)に続き3例目である。この他、西武が主催公式戦を開催する[[埼玉県営大宮公園野球場]]も三塁側をホームとしている。}}。このベンチ変更に関し、元西武の選手で球団職員の[[髙木大成]]も前述のように各種施設が三塁側寄りに集中していることや観客の入退場時の動線を確保する点、各種店舗・設備が一塁側より充実している点などライオンズファンに対するサービス改善に加え、三塁側ベンチ裏に西武の選手用サブロッカールームを新設することが主な目的だった旨を説明している。西武のメインロッカールームはバックネット裏上段の棟内に設けられているためベンチから遠く、選手からもベンチ裏にロッカールームの設置を求める要望がかねてから寄せられていたものの、スタンドの構造上の問題で一塁側ベンチ付近はスペースの確保が困難なことから、構造的に余裕があった三塁側ベンチに各種設備を設けることになった<ref>髙木が「埼玉西武ライオンズTV」([[J:COM]]コミュニティーチャンネル)出演の際に説明した旨を要約。</ref>。 == 歴史 == 元々は「西武園球場」<ref>出典・「ライオンズ60年史」 [[ベースボール・マガジン社]]</ref>という小規模の[[野球場|球場]]([[1963年]]竣工)で、主に[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球の試合]]で使用されていたほか、[[NPB|日本プロ野球(NPB)]]の二軍戦([[イースタン・リーグ]]の公式戦)もわずかながら開催されていた。 === 改築 === [[Image:Seibukyujo-931023-3.jpg|thumb|right|200px|屋根のない開業当時の「西武ライオンズ球場」<br />1993年日本シリーズ第1戦]] 以下は[[空中写真|空撮写真]]による比較。 * [[国土地理院]]地図・空中写真閲覧サービスによる[https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=1011973&dispType=1 1974年当時の西武園球場] * 国土地理院地図・空中写真閲覧サービスによる[https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=1050775&dispType=1 1989年当時の西武球場] [[1978年]]6月から、西武園球場の改築工事に着手。当初は、NPBの一軍公式戦も開催できる貸し球場に変えることを目的に置いていた。 その一方、[[堤義明]]が代表取締役社長を務める[[コクド|国土計画]]では、当時の関連会社であった[[プリンスホテル]]に[[社会人野球]]チーム([[プリンスホテル硬式野球部]])の結成を計画。改築後の球場を、同部の活動拠点に使用することも視野に入れていた。しかし、経営難に喘いでいた[[福岡野球]]([[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]])からライオンズの保有権を取得することを1978年10月に[[プロ野球コミッショナー|NPBコミッショナー]](当時)の[[金子鋭]]などから要請されたことを受けて、球場の利用構想を変更。実際に保有権を買収した後に、チーム名を「西武ライオンズ」に変更したうえで、[[本拠地]]を[[中央区 (福岡市)|福岡市中央区]]の[[平和台球場]]から改築後の新球場へ移転することを発表した<ref>西武「クラウン」を買収 所沢新球場に本拠地『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月13日朝刊、13版、23面</ref>。堤は実父(西武グループ創業者の[[堤康次郎]])からプロ野球の球団経営に手を出さないことを厳命されていた{{efn|堤義明は康次郎からの厳命を、「プロ野球の球団経営は道楽になりがちで、(本業の)経営の足を引っ張りかねない」と解釈していたという。ただし実際には、[[横浜市]]から西武建設への要請を経て[[横浜スタジアム]]([[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]の本拠地として1978年に開業)の建設に協力した縁で、1976年から大洋球団の株式を保有。福岡野球の買収に際して[[野球協約]]へ抵触する可能性があったことから、買収を前に保有株をすべて売却した。}}が、「既存のNPB球団を誘致するだけの貸し球場ではシーズンを通じて試合を開催できないので、クラウン球団の買収を通じて自前で球団を保有したうえで、本拠地として活用した方が利益率が高い」という判断で球団の保有に踏み切ったという<ref name="prince" />。 球場のモデルは[[ドジャースタジアム]]で、[[池原義郎]]が設計を担当。[[早稲田大学野球部]]へ監督として出向していた国土計画社員(当時)の[[石山建一]]{{efn|早稲田大学や[[ENEOS野球部|日本石油]]で内野手として活躍した後に、引退・退社後の1978年から監督として早稲田大学野球部へ復帰。復帰に際して、堤の先輩に当たる[[樫山欽四郎]]部長からの要請で国土計画へ入社した。同社からの出向期間満了を理由に、監督職を1978年限りで退任。「野球部で指導した選手と共に[[社会人野球]]のチームを作って欲しい」という堤からの要望でプリンスホテルに硬式野球部が創設されたことを受けて、創設1年目の1979年から助監督や監督を務めた。}}が、堤から設計アドバイザーを委嘱された。石山は堤の西武園球場視察へ同行した際に、内野スタンドから望む外野方向の景観が良いことに着目。「内野スタンドからは狭山の山(並み)も[[ユネスコ村]]も目に入るので、(西武園球場を解体した後に)新しい球場を建設するのなら、このような景観を生かす意味でも球場を西武園球場と逆の向きに配置した方が良い。向きを変えればデーゲームで野手の目に太陽の光が入りやすくなるが、野手がサングラスを掛けていれば大丈夫」と堤に進言したところ、実際に新球場のレイアウトへ反映された<ref name="prince" /><ref name="ishiyama">{{wayback|url=http://shizuko-kanto.com/osirase/osirase.htm|title=静中・静高関東同窓会・お知らせ 15.第30回関東同窓会総会・懇親会開催 (2004.7.9)|date=20200129033323}}</ref>。 また、石山は早稲田大学野球部の監督として臨んだ1978年のアメリカ遠征{{efn|遠征へ同行した選手に、卒業後の1980年に[[阪神タイガース|阪神]]へ入団した[[岡田彰布]]や、プリンスホテル硬式野球部を経て1982年に西武へ入団(後に阪神へ移籍)した[[金森栄治]]などがいる。}}中に、野球関連の施設と一体になった球場の建設現場を目撃。さらに、西武園球場の改築工事を請け負っていた[[西武建設]]からの依頼で[[ドジャースタジアム]]まで足を伸ばすと、[[ロサンゼルス・ドジャース]]職員(当時)の[[生原昭宏|アイク生原]]から同スタジアムの設計図を入手した。堤から球場設計アドバイザーを委嘱された時点では「堤が球団を保有する計画を進めていたことを知らなかった」とのことだが、実際には堤にその意思があることを委嘱の人事から察していた。そこで、アメリカ遠征での経験を踏まえて、サブグラウンド・合宿所・室内練習場を完備した施設のアイデアを池原に持ち掛けた。また、「観客は監督になった気分で試合を見ているので、救援投手の練習風景から監督の戦略を推理する楽しみを、目に見える形で残しておきたい」という理由で、一・三塁側の内野スタンドとファウルゾーンの間を金網で区切ったうえで[[ブルペン]]に使用することを堤に提言。「サブグラウンドにブルペンを作ったうえで、試合の展開に応じて、救援投手をスクーターに乗せて移動させれば良い」と主張していた堤を翻意させた{{efn|堤の主張を実現させた場合に、投手交代の宣告から交代後の投手の登板まで、5 - 10分程度の試合の中断を余儀なくされる事態を懸念したことによる。}}。 一方の堤は、「身長180cmの外野手が飛び上がって本塁打性の打球をもぎ取ることも野球の醍醐味」として、外野フェンスの高さを2mに抑えることを、石山を通じて池原に要望。大相撲の[[枡席]]のような4人1組のボックスシートをネット裏に設けることも石山に指示した。結局、池原は以上のアイデアを、球場の設計にすべて反映。サブグラウンドは[[西武第二球場]]・[[西武第三球場]]、合宿所は「西武ライオンズ(初代)若獅子寮」として建設された<ref name="prince">[[ベースボール・マガジン社]]『ベースボールマガジン2021年4月号 1979 - 1985 西武ライオンズ創世記』pp.67 - 68「石山健一氏が語るプリンスホテルと西武球場と堤義明オーナーと」</ref>。ちなみに、西武グループは一連の工事に対して、総額で50億円規模の巨費を投じている<ref name="open" />。 西武ライオンズは、堤義明をオーナーに据えたうえで、1978年のシーズン終了後にNPB一軍の[[パシフィック・リーグ]]へ加盟。改築後の新球場は、西武球団の本拠地として、'''西武ライオンズ球場'''という名称で[[1979年]]に開業した。ただし、竣工がNPBレギュラーシーズンの開幕直前にまでずれ込んだ関係で、[[オープン戦]]での使用は見送られた{{efn|この年の西武ライオンズは、1月24日に[[静岡県]][[下田市]]の春季1次キャンプで始動した後に、2月9日から[[サラソータ郡 (フロリダ州)|プラデントン(アメリカ合衆国フロリダ州)]]で2次キャンプを実施。ナインは、2次キャンプに続いてアメリカ国内でMLB球団とのオープン戦19試合へ臨んだ後に、NPBレギュラーシーズン開幕の4日前(4月3日)に日本へ帰国した。}}。こけら落としの試合は4月14日の同リーグ公式戦(西武対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]のデーゲーム)で、元[[内閣総理大臣]]の[[福田赳夫]](堤の結婚の媒酌人)が始球式に登場。西武では新人(ドラフト1位入団)の[[森繁和]]投手に先発のマウンドを託したが、野手陣が7失策を記録した末に、1対7で日本ハムに大敗した<ref name="open">[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170414-01 西武球場のこけら落としの先発だった中日・森繁和監督【1979年4月14日】](『[[週刊ベースボール|週刊ベースボールONLINE]]』[[2017年]][[4月14日]]付記事)</ref>。なお、開業当初は場内へ掲示される広告に厳しい制限を設けていたため、グラウンド内からはスコアボードを除いて企業の広告が一切見られなかった。 [[2018年]]10月21日に[[松井稼頭央]]が現役を引退したことにより、本屋外球場時代の西武に在籍したプロ野球選手が全員引退した。 [[2019年]]9月23日に[[福浦和也]]が現役を引退した{{Efn|[[藤井寺球場]]における最後のプレー経験者でもある。}}ことにより、本屋外球場でプレーしたプロ野球選手が全員引退した。 === ドーム球場化 === [[Image:Seibu Dome baseball stadium - 19.jpg|thumb|right|200px|架設されたドームの屋根]] 西武ライオンズ球場は屋外球場として開場したが、設計の段階で屋根を付けることを想定していた。球場アドバイザーの石山によれば、球場の周囲に[[狭山湖|山口貯水池(狭山湖)]]や[[多摩湖|村山貯水池(多摩湖)]]が存在することから、球場の上空が雨雲の通り道になることを予見したうえで想定したという<ref name="prince" />。 その一方で、西武ライオンズ球団では一時、ドーム球場を[[お台場]]([[港区 (東京都)|東京都港区]]の埋立地)へ建設することを条件に本拠地を西武球場から移転させる構想を立てていた。しかし、当時の東京23区内にはNPBの3球団が既に一軍の本拠地を置いていた{{efn|[[読売ジャイアンツ]](巨人)、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の3球団であった。日本ハムが本拠地を[[札幌ドーム]]に移転した2004年以降、東京都内に一軍の本拠地を置く球団は、セ・リーグの巨人とヤクルトだけである。}}ことから、上記球団の了承を得る必要性、地元ファンからの反発、多額の建設費用の捻出、新球場が西武沿線外になることによるグループ企業の西武鉄道の減収{{Efn|実際に西武と同じパ・リーグの鉄道会社系球団であった[[大阪近鉄バファローズ]](1998年まで「近鉄バファローズ」)は、1997年に本拠地を近鉄沿線の[[藤井寺球場]]から沿線外の[[大阪ドーム]]に移転して以来、親会社である[[近畿日本鉄道]](近鉄)にとって乗客動員効果が期待できなくなり、観客数の伸び悩みや選手年俸の高騰<ref>『[[日本経済新聞]]』2004年6月15日朝刊地方経済面(京都・滋賀)45頁「近鉄とオリックス球団合併−−近鉄、複合経営モデルが崩壊、鉄道へ集客効果小さく」([[日本経済新聞大阪本社]])</ref><ref>『[[毎日新聞]]』2004年6月15日大阪朝刊経済面8頁「プロ野球:近鉄・オリックス合併合意 赤字折半「渡りに船」−−近鉄 「再建の道筋見えた」 1リーグなら放映権料、増収も」([[毎日新聞大阪本社]]【田畑悦郎】)</ref>、大阪ドームの高額な使用料(年間約10億円)も相まって最終的にオリックスとの球団合併の一因となった<ref>『[[朝日新聞]]』2014年6月12日東京朝刊第二スポーツ面24頁「(球界再編10年)パの隆盛、近鉄とファン犠牲に [[佐野正幸]]さんインタビュー」([[朝日新聞東京本社]] 聞き手・篠原大輔、村上尚史)</ref>。}}に対する懸念が相次いで生じた。結局、西武ライオンズ球場の設計上の想定に沿って、「既存の屋外施設に屋根を架設する」という日本では異例の工事で対応することになった。 1997年度と1998年度のNPBオフシーズン中に、2期にわたって工事を実施。1997年度の第1次工事で観客席の上にステンレスの金属屋根を付けたことから、工事の完了を機に'''西武ドーム'''と改称した。ただし、第1次工事ではフィールド部分を屋根で覆っていなかったため、1998年シーズンの試合では「ドーム」を名乗っていながら雨天での中止が相次いだ{{efn|1998年には[[エルニーニョ現象]]の影響で日本列島が例年以上の多雨に見舞われたため、「西武ドーム」でありながら、NPB本拠地球場での公式戦における雨天中止試合数の最多記録を樹立。[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]との[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも、第3戦が雨天中止によって翌日に順延された。}}。 1998年度の第2次工事で膜屋根がフィールドの上にも取り付けられたため、[[1999年]]に、日本で5球場目のドーム球場として再スタート。開場以来両翼95 m・中堅120 mだったフィールドも、この工事に伴って両翼100 m・中堅122 mに拡張された{{sfn|ファンブック|1999|p=8-9}}。ちなみに、ドーム球場化後の第1号本塁打は、同年3月20日に開催された西武対[[読売ジャイアンツ]](巨人)の[[オープン戦]]で、巨人の[[松井秀喜]]が記録している。 直径145 mの膜屋根は、重さが2100 [[トン|t]]あり、約3日かけて37.3 mの高さまで100本のワイヤーでリフトアップして設置された{{sfn|ファンブック|1999|p=8-9}}。この時の設計監修は建築家[[池原義郎]]が行った{{sfn|ファンブック|1999|p=8-9}}。 ドーム球場化後の膜屋根はスタンドの最上段から伸ばした柱で支えられているが、屋根とスタンドの隙間に壁を造らない設計で架設されたため、他のドーム球場と違って隙間から自然の空気を取り込めるようになっている。そのため、ドーム球場としては珍しく、場内に空調設備を取り付けていない{{efn|ただし、1塁側3塁側売店部分に巨大スプリンクラーはそれぞれある。}}。また、開催予定の試合が雨天で中止される可能性は、第2次工事の完了を機に消滅した。ただし、[[台風]]などの異常気象が見込まれる日に組まれていた試合を、特段の理由(選手・観客の安全面への配慮や交通機関の運行休止)によって中止することはある{{efn|[[2004年]][[10月20日]]に予定されていた[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]対[[中日ドラゴンズ]]の第4戦が台風の影響で中止、1日順延となっている。ドーム球場での[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]試合中止はこの時が初めてだった。}}。 === 2007年 - 2008年の改修 === [[画像:new-seibu-dome.jpg|thumb|right|200px|人工芝の張替、フィールドシート、テラスシート、中段レストランの設置など新装されたドームの様子]] ドーム化こそされたものの、観客向けの設備は開場以来、抜本的な改修が行われてこなかった。掘り下げ式スタンドのために、売店や化粧室などは全てスタンド最上段の通路沿いに集中して設けられており、スタンド内部にはこうした設備が一切設置されていなかった。そのため観客が各種設備を利用するには階段の上り下りが必要で、[[バリアフリー]]の立ち遅れが長年指摘され続けてきた。他球団の本拠地では新球場が建設された他、既存球場でも新たな設備が相次いで整備され、それぞれ特色を活かした誘客策を導入しているのに比べ、西武球団の対応は遅れ、観客動員数も伸び悩んでいた。 そんな中、西武球団はコンプライアンスや地域密着型の球団経営の理念などを掲げた「西武ライオンズ憲章」を2007年[[8月26日]]に制定。その中で球場施設について“スタジアムを快適な「感動空間」へと創造します”と定めた。これに従って施設改修に本格的に着手することが決まり、同年オフから大規模な改修工事を開始した。なお結局、同年の年間観客動員数はチーム成績の低迷もあり、12球団ワーストという結果に終わっている。改修の内容は以下の通りである(細部に関しては[[#施設概要|後述]])。第一期改修後の2008年シーズンはチームの好調もあって前年比29.3%増という観客動員の大幅な伸びを記録することに成功した。 ;第1期工事 [[2008年]]3月までに、スコアボードの全面フルカラー化や新型人工芝「アストロステージMJ」への張替え、ラバーフェンスの変更が行われ、また観客が使用する[[便所|化粧室]]もリニューアルされた。音響設備も新型の中型ラインアレイスピーカーに改められ、遠くまでクリアな音が聞こえるようになっている。総工費は13億円。また第2期工事での[[フィールドシート]]設置の準備としてファウルエリアとブルペンが改修されている。 ;第2期工事 続いて、2008年11月中旬から第2期工事に着工した。内野スタンドの一部を開削して、中段内部にレストラン、売店、化粧室、授乳室が設置された。また、[[エレベーター]]を設置するなど、バリアフリー化も図られている。テラスシートや[[フィールドシート]]も設置された。この第2期工事は総工費17億円をかけて行われた<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/76.html 西武ドーム 第2期改修工事について]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。翌2009年3月27日に行われた巨人とのオープン戦で改修後の球場が初披露されたが、フィールドシートとテラスシートの供用は4月7日のレギュラーシーズン本拠地開幕以後となった。また、一塁側と三塁側の両方のベンチのシートも[[住江工業]]製のものに交換された<ref>[http://www.suminoekogyo.co.jp/topics/whatsnew.html#topics090302 2009/03/02 西武ドーム改修工事に伴い、1塁側、3塁側ベンチシートを納入しました。] - 住江工業公式ホームページ 2009年3月2日発信、2017年12月18日閲覧。</ref>。 この第2期工事に先行して、前述の各種設備等の増設に向けた準備工事が同年5月下旬から行われ、内野スタンドのうち1、3塁側上段部分の一部(内野指定B席約2,400席分)を閉鎖して盛り土部分を開削した。これに伴って同年[[5月31日]]の[[セ・パ交流戦]]・対[[中日ドラゴンズ]]戦から同年シーズン終了までの間、工事を実施している箇所のチケットは発券されなかった。 === 2017年 - 2021年の改修・再整備 === 西武ライオンズの創設40周年を2018年に迎えたことを記念する事業として、2017年末から2021年春にかけて、グラウンドレベルの観客席、球場周辺の店舗や通路、第二球場や二軍施設、選手寮などの大規模な再整備を実施<ref>[https://www.seibulions.jp/40th/ 株式会社西武ライオンズ 40 周年記念事業]</ref><ref>[https://www.seibulions.jp/news/detail/00001133.html 株式会社西武ライオンズ 40周年事業の実施を発表 メットライフドームエリアの改修計画・周年イベントの内容が決定! ~過去最大規模となる改修を実施、2021年春完成へ~]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23511570V11C17A1X12000/ 西武HD、ライオンズの本拠地を改修]</ref>。その一環として、開場以来外野スタンドの大半を占めてきた芝生エリア(芝生席)に、2021年シーズンから椅子を常設している([[#スタンド|詳細後述]])。日本国内で「[[AKRacing]]」([[中華人民共和国]]で開発された[[ゲーミングチェア]])の販売を独占的に担うテックウインド株式会社が2021年から埼玉西武ライオンズとパートナー契約を結んだことを背景に、パ・リーグ公式戦で両チームの監督用チェアとして設置。 == 施設概要 == === 球場データ === [[Image:Seibu Dome baseball stadium - 28.jpg|thumb|right|250px|西武ドームのフィールド(2007年までの仕様)]] * 所在地 : 埼玉県所沢市大字上山口2135 * 収容人数 : 31,552人<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015042100674&g=spo 本拠地の収容人数を変更=プロ野球・西武]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 * 延床面積 : 42,541m<sup>2</sup> * 両翼 : 100 m、中堅 : 122 m(1999年 - ) *: (1998年までは両翼 : 95 m、中堅 : 120 m) * 外野フェンスの高さ : 3.2 m(中堅) - 4.37m(両翼)(1999年 - ) * グラウンド面積 : 12,631.29m<sup>2</sup>(2009年 - ) *: (1998年まで13,300m<sup>2</sup>、1999年から2007年までは13,860m<sup>2</sup>、2008年は12,686m<sup>2</sup>) * 内外野 : 野球専用人工芝([[ミズノ]]社製 MS CRAFT BASEBALL TURF-V)(2023年 - ) * スコアボード : 全面フルカラー[[発光ダイオード|LED]]([[パナソニック]]製、高さ13m×横幅46m×1面)(2021年 - ) === フィールド === [[画像:Seibu Dome baseball stadium - 27.jpg|thumb|right|200px|一塁側ブルペン(2007年)]] 国際規格を満たす球場としては日本では一般的な両翼100m、中堅122mの大きさである。開場当初は両翼95m、中堅120mで、1979年当時としては最も広い球場であったが、1990年代には他球場が続々と国際規格を満たす様になったためにドーム化工事に伴ってスタンドが削られ、[[1999年]]から現在の大きさに拡張された。ファウルポール際のスタンドにその名残がある。 グラウンドは開場当初より全面人工芝である。当初はパイル長が短く、フィールドの色も「いかにも人工芝」という鮮やかな一面のグリーンであった。またホームベース後方には英筆記体の'''''Lions'''''のロゴ、一塁側ファウルゾーンにはペットマークの「レオ」が描かれ長年ファンに親しまれていた。[[2008年]]に人工芝の全面張替えを実施し、新型人工芝「アストロステージMJ」が採用された。これは長さの違う二種類の芝を組み合わせ、より景観や機能を天然芝に近づけたもので、一見天然芝のような自然な雰囲気に落ち着いた。この張替えの際、ベンチ変更が検討されていたこともあって球団ロゴとレオマークのペイントが一旦廃止されたが、このうち球団ロゴのみが2009年からホームベース後方に、ライオンズのユニフォームスポンサーである[[ナイキ]]のロゴマークと横並びで復活した。三塁寄りが球団ロゴとなっていたがこれもすぐに廃止されている。2015年現在は三塁ベンチ上に球団ロゴがデザインされている。なお、外野フェンスにあった[[ナイキ]]のロゴは、2015年シーズンからは廃止されている。[[2015年]]12月中旬より人工芝の全面張替えを実施。日本プロ野球チームの本拠地としては初となる、[[ミズノ]]社と[[積水樹脂]]社の共同開発による野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」が採用された<ref>[https://www.seibulions.jp/news/detail/10797.html 日本プロ野球界初!野球専用人工芝を導入!! 2016シーズンに向けて西武プリンスドームの人工芝を張り替え] 埼玉西武ライオンズ公式サイト 2015年11月4日配信</ref>。これは形状の経年劣化が少なく、ボールのバウンドの際の充填剤の飛散を従来より抑えたもので、色は内野部分を土色にしたツートーンカラータイプである。[[2023年]]シーズンより、人工芝を国内球場では初となる環境配慮型「MS CRAFT BASEBALL TURF-V」に全面張替え。衝撃吸収性などの向上、光の反射の抑制などが図られたほか、耐久性向上により人工芝のちぎれが抑制され、マイクロプラスチックの飛散を抑えられるとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tokorozawanavi.com/news_bellunadome20230112/|title=ベルーナドームの人工芝が7年ぶりに張り替え!国内球場初の環境配慮型の人工芝を使用|date=2023-01-12|website=所沢なび|accessdate=2023-03-08}}</ref>。 [[ブルペン]]は外野側のファウルグラウンドの外側にあり、プレイングフィールドとはフェンスで仕切られている。かつてこのフェンスは金網のみであったが、[[2001年]]に[[平尾博嗣]]がファウルフライの処理の際に、[[スパイクシューズ]]の歯を金網に引っ掛けたことが要因となって大怪我を負ったために下部にラバーが追加された。また位置も[[2007年]]以前はホーム寄りであった。 開場当初のブルペンの方式は[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸(神戸総合運動公園野球場)]]や[[長野オリンピックスタジアム|長野オリンピックスタジアム(南長野運動公園野球場)]]でも採用されている。ほっともっとフィールド神戸は[[フィールドシート]]の採用の際に位置が変わったが、これに追随するような形で西武ドームも似た位置に移動している。 2008年からはファウルグラウンドが規定値の近くまで狭められ、2009年からグラウンド面積は12,631.29m<sup>2</sup>になったが、この数値は2009年現在、日本プロ野球球団の本拠地球場のなかで最小である。 ==== フェンス ==== 外野フェンスはラバーと金網の組み合わせで、中堅付近は高さが3.2mとなっている。両翼ファウルポールそばの座席部分に向かうにつれてラバー部分が少しずつ高くなっているが、これはフィールドの拡張でスタンドが削られた際に、その断面の高さに合わせてフェンスの高さを変えているためである。 [[2008年]]シーズン前の改修時、内外野フェンスの緩衝材にアメリカ・プロマット社製の「スカイデックス ウォールパッド」が採用された。2種類のウレタン素材(軟質ポリウレタンフォームとサーモプラスティックウレタン)を組み合わせたもので、従来のポリウレタンパッドと比較して約5倍の衝撃吸収力を確保している<ref>[http://www.sanei-net.co.jp/stadium/skydex.html 衝撃吸収材Skydexウォールパッド(三英)]</ref>。 内野フェンスでは、[[2020年]]シーズンまで、ラバーフェンスの上方に高さ5mの防球ネットを設置していた。しかし、同年オフシーズンの改修工事で、防球ネットの高さを20mにまで伸ばした。西武球団では、改修計画を立案する段階で、打者が打席から放ったライナー性の打球がスタンドへ向かった場合のシミュレーションを実施。シミュレーションを基に、打球の速度や打球にかかる重力・空気抵抗のデータを解析した。その結果、防球ネットの高さを20mまで伸ばした場合には、内野席の観客がライナー性の打球の直撃を避けられる確率が、従来の5mネットの設置を続けた場合に比べて96%上昇することが判明したという<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/202103180000592.html 西武本拠地改修工事が完了 防球ネットが安心保つ](『[[日刊スポーツ]]』[[2021年]][[3月19日]]付記事)</ref>。 === スタンド === [[画像:Seibu Dome baseball stadium - 08.jpg|thumb|right|100px|バックネット裏の通路(ビクトリーロード)]] [[画像:カブレラ地蔵.jpg|thumb|right|100px|球場外にあった、カブレラ地蔵(2008年開幕前に撤去)]] 建設の頃の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、[[野球場#多目的施設としての野球場|円形兼用球場]]全盛で同時期の[[横浜スタジアム]]も円形となったが、この球場は従来型の扇形となっている。掘り下げ式のためにスタンド内部には施設が存在しなかったが、[[2009年]]より内部にも施設が増設されている。 入場ゲートは開場当初より1塁側と3塁側に独立して設置され、再入場が認められていた(1塁側および3塁側のどちらかにしかない売店・商品があり、バックネット裏のエリアは対応するチケット購入者以外は通行できないため)。2020年シーズン終了後に両ゲートが撤去され、2021年より新たにメインゲートが設けられた<ref name="travelwatch">{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1311437.html|title=メットライフドームの3年にわたる改修が完了。新設シートや各施設を一気に紹介!|date=2021-03-12|author=ゆきぴゅー|website=[[Impress Watch|トラベル Watch]]|publisher=[[インプレス]]|accessdate=2021-05-01}}</ref>。同年は再入場が認められなかったが、翌2022年よりサブゲート経由で再入場が再開された。 内野席はほぼ全ての席にカップホルダーがついている。前述のように掘り下げ式のため、外周通路や内野スタンド中段、下段にある通路を通り試合を見ながらアクセスできる。外周通路には白線によって立見席スペースが設定されており、混雑時には専用チケットが用意されることがある。バックネット裏はスペシャルシートとされており、座席が革張りであり、入り口が別に存在し、勝利時はビクトリーロードを通る選手と直接触れ合えるなど他の観客席とは一線を画している。この席は1席ではなく2席単位で販売されている。また、ベンチサイドシートとバックネット裏は年間チケットが発売されている。バックネット裏は4席単位でのボックスシートとしての販売となっている。これ以外にも特別観覧席として事前予約が必要なスイートルームがある。2009年より「ダグアウトテラス」(テラスシート)と「フィールドビューシート」(フィールドシート)を追加。2020年からは、野球場の観戦スペースとしては珍しい「ステンレスカウンター」(ステンレス製のカウンター付き立ち見席)を、一塁側内野スタンドの上段に設置している<ref name="THERMOS">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/03/04/kiji/20210304s00001173266000c.html メットライフドームが立ち見席を増設](『スポーツニッポン』2021年3月4日付記事)</ref>。 2019年まで、西武が勝利すると選手たちはバックネット裏の「ビクトリーロード」と呼ばれる階段を通ってロッカーに引き上げており、ファンにとっては選手とふれあうチャンスの場でもあった。2021年からはバックネット裏に後述のプレミアムラウンジが建造されたことに伴い、ビクトリーロードもラウンジの一角を通る形式に変わった(2020 - 2022年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の流行のため、ファンと選手の接触を防ぐべく、西武の勝利時もビクトリーロードは使われなかった)<ref>[https://about.americanexpress.com/all-news/news-details/2020/seibu-lions-and-american-express-sign-facility-naming-rights-and-partnershipt-agreement-japan/default.aspx 西武ライオンズとアメリカン・エキスプレスが「施設命名権およびパートナーシップ契約」を締結]</ref>。なお、[[ビジターチーム]]および勝てなかった時の西武はベンチ裏にある108段の階段を登らなければならなかったが、ラウンジの開設により階段は消失した<ref>{{cite news|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/20006|title=カブレラに教えてあげたい! 西武ドーム108段の地獄階段…エスカレーターになったよ|date=2021-03-19|author=[[楊枝秀基]]|newspaper=東京スポーツ|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2021-03-21}}</ref>。 外野エリアについては、開場から[[2020年]]までの42年間にわたって、スペースの大半を芝生席に充てていた。残りのスペースには長椅子による座席が設けられていたが、席数が少ないうえに、西武戦の開催日には[[私設応援団]]が応援のために陣取っていた。ドーム化前の芝生席は[[芝#野球場|天然芝]]だったが、ドーム化以降は[[人工芝]]に変わっている。 ドーム化前の芝生席は、天然芝の保護を優先する関係で、一般客への開放を公式戦開催期間中の週末・祝日、学生の夏季休暇期間、西武または対戦球団のパ・リーグ優勝が決まる可能性のある試合、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に限っていた。観客席をドーナッツ状に覆う金属屋根が完成した[[1998年]]も外野席は天然芝だったが、屋根により日陰となった観客席の日照量が著しく落ちたため芝生が枯れ果ててしまった。このため、外野席へ持参したシートをテープで固定する場合には、[[マスキングテープ|養生テープ]]の使用しか認めていなかった。しかし、2020年オフシーズン中の改修工事<ref name="travelwatch" />で、芝生席を椅子席へ全面的に転換。ライト側の後方には、「ライトパノラマテラス」と称するカウンター付きの座席(140席)を新設した<ref name="meito" />。 この工事では、「ライトパノラマテラス」に加えて、バックネット裏に常設される観戦スペースとしてはNPB12球団の本拠地球場で最も広い「ライオンズ プレミアムラウンジ」(483人まで同時に収容できるスペース)をバックネット裏スタンド席の地下部分、「プレミアムエキサイトシート」(砂かぶり席)203席をラウンジの前方、「ネット裏テーブル4」(グループ席)「ネット裏カウンターシート」(カウンター付きの座席)「ネット裏指定席」をバックネット裏のスタンド<ref>[https://www.seibulions.jp/news/detail/00003966.html 12球団最大「ライオンズ プレミアムラウンジ」2021年3月誕生!2021シーズンから稼働する4席種決定](埼玉西武ライオンズ2020年9月17日付プレスリリース)</ref>、「ダグアウトトップシート」を一・三塁側ダッグアウトの真上、「ライオンズユニバーサルデッキ」を左翼エリアの上方(スコアボード左支柱の土台付近)、「ビジターユニバーサルデッキ」を右翼エリアの上方(スコアボード右支柱の土台付近)、「ステンレスカウンター」を三塁側内野スタンドの上段<ref name="THERMOS" />にそれぞれ新設した。「ユニバーサルデッキ」は車椅子の搭乗者・同伴者だけが入場できる打球防御板付きの観戦スペースで、「プレミアムエキサイトシート」や「L'sテラスシート」にも同様のスペースを設けたことによって、車椅子に乗ったまま観戦できる席を工事前から大幅に増やしている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/03/02/kiji/20210302s00001173235000c.html メットライフドーム外野エリアにユニバーサルデッキが新設](『[[スポーツニッポン]]』2021年3月2日付記事)</ref>。 なお、西武球団では[[2021年]]から、[[サーモス|サーモス(THERMOS)]]との間で「ステンレスカウンター」、[[名糖産業]]([[ホームランバー]]の製造元)との間で「ライトパノラマテラス」の施設命名権スポンサー契約を締結。契約期間中にはそれぞれ、「THERMOS ステンレスカウンター」「メイトーホームランバー ライトパノラマテラス」として稼働させている<ref name="travelwatch" /><ref name="meito">[https://www.seibulions.jp/news/detail/00004287.html 「ホームランバー」でおなじみの協同乳業株式会社と施設命名権スポンサー契約を締結! 2021シーズン新席種「ライトパノラマテラス」の名称は「メイトー ホームランバーパノラマテラス」に決定!](埼玉西武ライオンズ2021年2月8日付ニュースリリース)</ref><ref name="THERMOS" />。同年[[7月16日]]([[金曜日]])には[[2021年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#第1戦|第71回NPBオールスターゲーム第1戦]]が開催されたが、[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置#まん延防止等重点措置|新型コロナウイルス感染症のまん延防止等重点措置]]が日本政府から埼玉県内へ発出されていたことに伴って、入場券(チケット)の販売数を1万枚までに制限。オールスターゲームの開催自体が[[2019年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#第2戦|2019年の第2戦(阪神甲子園球場)]]以来2年振りであったにもかかわらず、有料入場者の総数は8,992人で、オールスターゲーム史上最も少なかった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210716/k00/00m/050/414000c 2年ぶりの球宴 全セが接戦制し1勝 MVPは広島・菊池涼](『[[毎日新聞]]』2021年7月16日付記事)</ref>。 ==== 売店・売り子 ==== 売店は上段通路外側に点在している。2018年までは、バックスクリーン裏の入場口からバックネット裏に向かって順に席のグレードが上がっていく関係上、境目でチケットチェックがあるため、席種によっては利用できない売店があった(内野指定席エリアの売店は自由席券では利用できないが、内野指定席の券ならば自由席エリアの売店は利用できるなど)。2019年よりチケットチェックが廃止され(外野芝生エリアやフィールドビューシートなどに入る際のチェックは継続)、席種による制限は大部分でなくなった(プレミアムシート限定ショップは引き続き存在)。 2009年からは内野スタンド中段内部に「L’s Dining(エルズダイニング)」と呼ばれる売店も追加されている。同時期に一部を除いた売店で電子マネー[[PASMO]](および相互利用可能なIC乗車カード)が利用できるようになった。2019年までは、グルメワゴンと称される移動販売車での売店が球場外で営業していた。 また、グルメワゴンを含むほぼ全ての売店でライオンズファンクラブ向けのポイントサービスである「Lポイント」の加算を受けることができる。売り子は非対応であったが、2020年より購入時に「Lポイント補助券」が配布され、球団公式アプリかファンクラブマイページより情報を送信すると加算されるようになった。 当球場には、2008年までは[[クレジットカード (日本)|クレジットカード]]による支払い対応ができるビールの売り子が少数ながら存在していた。ハンディタイプの[[信用照会端末|CAT]]クレジットカード処理端末を持ち歩いており、帽子には[[クレディセゾン]]、[[Visa|ビザ]]、[[マスターカード]]の3つのロゴが入っていた。なお前述の売店PASMO対応に伴い、売り子のクレジットカード対応は終了した。 === 球場広告 === <!--球場広告スポンサー企業をすべて箇条書きで個別に記載する必要性はありません。Wikipediaは西武ドームの広告提供企業を掲載する場所ではありません。この件で異論ある方はこのページのノートにコメントお願いします--> [[画像:seibu-dome-left-stand.JPG|thumb|right|200px|2010年より外野席上部に設置された巨大広告]] 球場開き以後、[[1997年]]までスコアボードの広告以外、フェンス・スタンドの[[広告]]は一切排除されてきた。[[1998年]]にスタンド(観客席)の屋根部分に初めて広告看板が設置され、[[1999年]]の完全ドーム化でレフト・ライトのポール際のフェンスにそれぞれ4枚ずつの広告が貼り付けられるようになった(その後増加)。 なお、通常のドーム球場の外野席に設置される巨大な広告看板は、鉛直方向に設置できないために一般的な横長サイズの看板を[[2009年]]まで設置していたが、[[2010年]]から他のドームのような巨大看板を斜め方向にした状態で掲出している。かつて左翼側スタンド上の天井に設置されていた[[文化放送]](JOQR)の看板に打球を直撃させた選手には、同社から1000万円の賞金が出ることになっていたが、達成した選手はいなかった。 2009年には屋根部分ホームベース側の看板が、広告から西武が日本一(西鉄時代を含む、2008年はアジアシリーズ制覇)となったシーズンを記念するパネルに変更された。優勝年表示は全てその年使用のユニホームの番号のロゴを使用。2012年からはその右側に[[稲尾和久]]の[[永久欠番]]「24」を顕彰するパネルを設置していた。これらのパネルはいずれも2020年までの掲示で、同年シーズンオフに撤去された。 === スコアボード・ビジョン === [[Image:Seibukyujo-931023-1.jpg|thumb|right|220px|1993年時のスコアボード(中央部はジャンボトロン) 日本シリーズ第1戦]] [[Image:Seibu Dome baseball stadium - 31.jpg|thumb|right|220px|2007年時のスコアボード(中央部はスーパーカラービジョン)]] [[Image:Seibu L Vision.jpg|thumb|right|220px|2008年から2020年まで使用されていたL Vision(全面がアストロビジョン)]] [[File:Vision prince.jpg|thumb|西武プリンスドームのスコアボード|219x219ピクセル]] スコアボードは開場から[[2020年]]まで、躯体はそのままで表示部分などを改修しながら使用し続けた。スコアボードの支柱には、命名権を使用するシーズンに関してはそのスポンサーの広告が掲示された。 [[1978年]]の起工時、最初に完成したのがスコアボード棟であり、更地にスコアボードのみ完成していた状態で新生西武ライオンズの写真撮影が行われた<ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190924-13 1978~2019埼玉西武ライオンズ球団小史] - 週刊ベースボールONLINE(2019年9月24日)</ref>。 完成当初の発光部分は単色の[[HIDランプ]]で左側に縦書きの選手表示、真ん中に大型映像装置(縦6.5m、横幅8.5m)、右にスコア(10回まで表示可能で、11回以降は、1 - 10回データをクリアして1回から入力)や審判団などの表示があった。大型映像装置は白黒であったが[[1987年]]にカラーの[[ソニー]]製[[ジャンボトロン]]<!--発光体は不明。RGBというのは表現法の一種で、現在のLEDでも採用されています。-->に変更され、さらに[[1995年]]には[[東芝ライテック]]製の[[スーパーカラービジョン]]に取り替えられている。また、チーム名表示がアルファベット1文字からチームのロゴに変更された。 選手表示は横スクロール形式が採られていた。西武ライオンズ球場だった時代、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]](当時)・[[河埜敬幸]]の「埜」の文字データがなかったため、選手名に「河の」と表示されたことがあった。また2007年までは[[北海道日本ハムファイターズ]](当時)・[[マイケル中村|MICHEAL]]の表記が「MICHEL」になっていた{{efn|2012年の西武在籍時はカタカナの「マイケル」表記だった。}}。 2007年オフから[[2008年]]春まで行われた改修工事ではスコアボード表示部が全面改修され、全面フルカラー[[発光ダイオード|LED]]の[[パナソニック|松下電器(現:パナソニック)]]製[[アストロビジョン]]となった。画面の寸法は縦6.528m、横幅49.152mという長大なもので、フルデジタル[[ハイビジョン|ハイビジョン映像]]による一画面のフル表示や最大4画面の分割表示に対応している。 スコア表示にはコンピューターグラフィックスを使用しており、野球の試合中は、一画面フル表示の演出を行うとき以外は3画面に分割して使用している。メンバー表は左画面に横書き表記で、スコアは右画面に表示される。中央画面は映像効果などで使用する。また、球速表示も中央画面に表示している。なおバックネット裏のサブスコアボードは改修されず従来の表示のままであった(基本的なイニング表示は9回まで。プロ野球仕様の延長戦であれば、延長12回までを追記できるようになっている)。 球団が同年[[3月16日]]から1か月間にわたって一般公募でこの大型ビジョンの愛称を募集した結果、2,514通のうち最多の254件の応募があった'''L Vision'''(エルビジョン)を採用、[[4月26日]]に命名された。同年の改修ではこの他、サブスコアボード下に縦1.152m × 幅30.72mのリボン状の新型映像装置が設置された<ref name="example">[http://www.seibulions.jp/news/detail/74.html 西武ドーム 第1期改修工事完了について]</ref>。 [[2011年]]からは他の球場同様、ボールカウント表示を「SBO」から国際標準規格の「BSO」に変更することが同年3月18日に発表され、実施された。 2014年よりデザインが変更されて現在の打者の顔写真(西武のみ)を表示するようになり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。またサブスコアボードも発光部分がLEDに交換され、球速表示も追加された。2016年シーズンからはレイアウトはそのままながら、演出などをリニューアルしている。 [[ファイル:Belluna Dome Scoreboard.jpg|サムネイル|216x216ピクセル|2021年より大型化された現在のL Vision]] 2020年の練習試合の楽天戦において、スコアボード表示が2008-13年仕様に戻る不具合があった。チーム名はカタカナで「イーグルス」、「ライオンズ」と当時のものは異なった。 2020年オフにスコアボードは一旦解体され、[[2021年]]シーズンよりパナソニック製<ref>[https://connect.panasonic.com/jp-ja/case-studies/seibulions 株式会社西武ライオンズ様メットライフドーム大型映像・総合演出システム] パナソニック システムソリューションズ ジャパン株式会社</ref>の新たなスコアボードが設置された(名称は「Lビジョン」で変わらず)。新ビジョンは高さ13m×横幅46m、面積約600m<sup>2</sup>と従来の約2倍の大きさに拡大。なお支柱はそのまま引き継がれている。またバックネット裏のセンタービル屋上に、幅10.2m×高さ5.6m、約57m<sup>2</sup>のサブビジョンを新設<ref name="travelwatch" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00004215.html|title=2021シーズンに新Lビジョン誕生!新たなボールパークエンターテインメントを提供します!|date=2021-01-01|website=埼玉西武ライオンズ公式サイト|accessdate=2021-05-01}}</ref>。これにともない、リボン状ビジョンは撤去された。 開場当初、スコアボードには球団旗などを掲げるポールがあった。ドーム化の際には屋根に干渉しないところまでポールの高さを下げ、風でなびいているような形に旗を固定して掲揚していた。スコアボードが改修された2008年からは他のドーム球場と同じ[[バトン#舞台機構におけるバトン|バトン]]方式に変更されている。 === バックスクリーン === [[バックスクリーン]]は5枚の横長のパネルで構成されており、その内の4枚が上部に引き上げられるようになっている(劇場などで使う[[緞帳]]とほぼ同じ)。また外野フェンスの中堅部分も左右に開くことができる。この中堅部分がフィールドへの搬入口となっており、打撃練習などに使用する機材などはこの搬入口から出し入れを行う。また両チームの用具・荷物等もここから出し入れを行っており、連戦最終日の試合終了後には、トラックが集荷のため直接フィールド内に乗り付けることもある{{efn|[[2005年]]シーズン後半、体調を崩していた[[オリックス・バファローズ]]監督の[[仰木彬]]はダッグアウト裏の階段を自力で登ることができなくなり、やむを得ず中堅の搬入口から徒歩とタクシーで出入りしていたという。}}。またコンサートなどのイベント時にも、ここから機材・展示物の搬入を行っている。時間帯によってはこの搬入口後方から、場内をフィールドレベルで見渡すことができる。試合終了後にグラウンドに入場できるイベントでは一般客の入退場口となる。 2014年からはバックスクリーン部分の外野フェンスの金網部分には網目の細かいネットが張られている。因果関係は不明だが2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスのリーグ優勝を取材するテレビスタッフが、バックスクリーン前に侵入して試合進行を妨害するということがあった<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/189236/ 楽天がCS前に4位西武を異常警戒するワケ]東スポweb</ref>。 === 屋根 === [[File:MetLife Dome.jpg|thumb|right|250px|スコアボード周辺の屋根]] [[画像:Seibu Dome baseball stadium - 01.jpg|thumb|right|250px|ドーム遠景]] ドーム全体を覆う屋根の直径は223m{{sfn|ファンブック|1999|p=8-9}}で、スタンド外周に設けられた24本のV字型柱によって支えられている。ドーナツ状の外周部は鉄骨組みのステンレス製で、総重量約8,000tを有する。中心部は直径145m{{sfn|ファンブック|1999|p=8-9}}、面積17,000m<sup>2</sup>、総重量約2,000tを有する膜屋根部で、鉄骨で組まれた一重の[[ポリテトラフルオロエチレン|テフロン]]膜によって耐候性や不燃性がありながらも自然光を取り入れることができる構造となっている。但しデーゲームでも自然光だけでは照度が低く打球などが見えにくいため、野球開催時にはデーゲームにおいても照明を併用して照度を補っている。 天井最高部はグラウンド面から64.5mで、ドーム化後は[[ドーム球場#ドーム球場での野球の特別ルール|グラウンドルール]]により、天井に接触した打球はボールインプレイ(プレイ続行)の扱いとなり、落下点もしくは野手が触れた地点を基にフェアかファウルかを判定し、野手が直接捕球した場合はフライアウトとして扱われる。また打球が天井や懸垂物、鉄柱に挟まった場合、フェア地域の場合はエンタイトル二塁打、ファウル地域の場合はファウルボールとして扱われる。しかしアレックス・カブレラが本塁打性の天井直撃の打球を連発したことが契機となってグラウンドルールが一部変更され、外野のフェア地域の天井に当たった場合に限り「認定本塁打」が適用されることになった。その後、カブレラは新ルール適用第1号となる本塁打を放ち、レフトの天井に記念フラッグが設置されている。 屋根の下には[[中興化成工業]]が製造したメッシュ膜材が鳥避けの化粧材として設置されている。 === 照明 === 照明は金属屋根内側の上部に、球場を一周するように取り付けられている。ただしプレイの妨げとなるホームベースとスコアボードの直上には最初から取り付けられていない。またファウルポールの延長線上も判定しやすいように照明の数が少なくなっている。全て[[メタルハライドランプ]]であり、高演色性のものと高効率のものを組み合わせて使用している。[[2010年]]にリニューアルされ、以前より白色が強いものに変更された。 ドーム化(1997年)以前は照明塔が6基(内野側4基、外野側2基)設置されていた。ドーム化の際に内野側は全て撤去されたが、外野側のものは場外通路の照明用として2010年シーズン終了時まで残されていたが2010年オフに撤去された。なお不要な分のランプは取り外されていた。 2020年からフィールド照明が[[発光ダイオード|LED]]化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00003537.html|title=メットライフドーム フィールド照明を2020シーズンよりLED化します!|accessdate=2020年3月12日|publisher=}}</ref>。メタルハライドランプよりも点灯が速く、光量の調節も容易であることから、ホームチーム(西武)の選手が本塁打を打った際はダイヤモンドを一周する選手に合わせた演出が行われたり<ref>{{Cite tweet |title=ダイヤモンドを周る中村選手に合わせて球場ではLED照明による演出のお披露目✨ 試合前練習中にテストが始まり、ナインもキョロキョロしていたのですが、HR用の演出だったとは😳|user=joqrlions |number=1285509706790785025 |date=2020-07-21 |accessdate=2022-08-14}}</ref>、ヒーローインタビュー中は選手の頭上以外の照明を消灯する試みが行われている。 === 場内アナウンス === 2009年度までの西武主催試合の場内アナウンスは女性スタッフが担当していた。 2010年からは男性スタッフを採用し、スタジアムDJがスタメン発表以後大部分のアナウンスをした。 2011年 - 2012年は男性スタッフのみが担当。 [[2013年]]シーズンからはビジターチームの選手紹介や注意喚起などは[[鈴木あずさ]]が、ホームチーム(西武)はスタジアムDJの[[RISUKE]](久米理介)が担当している。 === 西武球場・西武ドームと花火 === [[画像:Seibu Dome baseball stadium - 23.jpg|thumb|right|220px|2007年セ・パ交流戦 西武対横浜1回戦 西武の勝利による打ち上げ花火]] {{Double image aside|right|Seibukyujo-931023-2.jpg|180|Seibu Dome baseball stadium - 24.jpg|180|1993年日本シリーズ第1戦の応援風景 屋根のない西武ライオンズ球場|2007年 7回裏・西武のラッキーセブン攻撃前に実施するジェット風船を使う応援風景 }} 屋外球場の時代から当球場の恒例行事とされたのが、ホソヤエンタープライズによる[[花火]]の打ち上げである。これは西武ライオンズの選手がホームランを放つか、ホームラン時に打ち上げる花火が試合終了後も残っていた場合で試合に勝利した場合、西武第三球場のグラウンドから花火を打ち上げて祝福するというものだった。 ドーム球場となった[[1999年]]以後は、一旦この花火打ち上げが中止された。[[2002年]] - [[2009年]]シーズンまで西武が試合に勝利した場合、ドーム内のバックスクリーン前で[[紙テープ]]とともに花火の打ち上げによる演出が行われている。以前はホームランの際も花火の打ち上げがあったが、現在のドームで試合中に花火を打ち上げるとドーム内に煙がこもり、試合進行の妨げになるため、後にゲームセット時のみになった。[[2010年]]からは経費削減の為スコアボードに花火が映し出される演出となり、実物の花火ではなくなった。 [[1983年]][[6月3日]]、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[福本豊]]による盗塁世界新記録がこの球場で達成された際、西武以外の球団の選手でありながら例外的に花火を打ち上げ、快挙を祝福した。また、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の際は、全パの選手のホームランおよび勝利を祝って花火を打ち上げ、という形が取られた。 なお、[[昭和天皇]]の容体が急変した[[1988年]]9月下旬から同年のシーズン終了までは、全国的な[[祭祀]]を自粛する風潮の中、それに従う形で花火の打ち上げは一切中止された。 === 日本のプロ野球本拠地球場で唯一電子オルガンを常設=== 西武球場としての開場を機に、[[電子オルガン]]を三塁側スタンド上段(2019年の時点では中段のL'sダイニングシート真下)のオープンスペースに設置<ref name="organ2">[https://www.sanspo.com/article/20160323-HMSKQION2RPRRHJUWJRIFJ3XIQ/2/ 西武ドームにだけ残る昭和の風物詩、球場の「生」を伝える電子オルガン(2)](『[[サンケイスポーツ]]』[[2016年]][[3月23日]]付記事)</ref><ref name="chunichi" />。西武主管試合や球団イベントの開催日には、ハーモニーミュージック(音楽教室などの運営会社)から西武球団に派遣された複数のオルガン奏者が交代で演奏している<ref name="chunichi">[https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/tokai-news/CK2019100502000097.html 生演奏で勝利後押し ローランド製の球場オルガン](『[[中日新聞]]』静岡版[[2019年]][[10月5日]]付記事)</ref>。 オルガン奏者は試合前に、当日が誕生日の選手や表彰式を控えた選手(いずれも西武)の登場曲などを生で演奏。試合中には、観客に対してファウルボールへの注意を促す音(3種類)や、西武の得点に合わせた音を奏でている。演奏のレパートリーは十数種類で、選手交代などによって試合の進行が止まった時や、イニングの合間にも[[BGM]]を演奏。得点の際に奏でる音を点数に応じて変えたり、オルガンの内部に[[ハモンドオルガン]]の音を取り入れたり<ref name="organ2" />、応援団の演奏や声援と重ならないように配慮したりするなどの工夫も為されている<ref name="chunichi" />。 西武ドーム時代の2010年からは、外装に[[ウォールナット]]を使用した[[ローランド]]製の「AT-90S」(2001年発売の上位モデル)を導入。[[ドジャースタジアム]]でもかつて使用されていたモデルであることから、既に生産を終了していたにもかかわらず、西武球団が購入を決めたという<ref name="organ2" /><ref name="chunichi" />。 ちなみに、西武球場が開場した1970年代後半以降の[[NPB]]では、一部の球団が電子オルガンを本拠地の球場に常設。電子オルガンの製造元である楽器メーカーの宣伝を兼ねたもので、[[MLB]]や[[マイナーリーグ]]の本拠地で電子オルガンによる演出が定着していることを背景に、選手の登場曲やBGMの演奏などに使用していた<ref name="organ4">[https://www.sanspo.com/article/20160323-HMSKQION2RPRRHJUWJRIFJ3XIQ/4/ 西武ドームにだけ残る昭和の風物詩、球場の「生」を伝える電子オルガン(4)](『[[サンケイスポーツ]]』[[2016年]][[3月23日]]付記事)</ref>。しかし、[[阪神タイガース]]が1990年代の後半に[[阪神甲子園球場]]で選手の登場曲を[[CD]]から流し始めたことをきっかけに、西武を除く他球団も阪神に追随<ref name="organ2" />。2000年代の前半には、当球場と同じ首都圏の本拠地球場のうち、[[横浜スタジアム]](1978年開場)・[[東京ドーム]](1988年開場)・[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]](1990年開場→1992年からロッテの本拠地)の公式戦から(球団主催の復刻・記念イベントの開催日を除いて)電子オルガンや生演奏が消えた<ref name="chunichi" /><ref name="organ3">[https://www.sanspo.com/article/20160323-HMSKQION2RPRRHJUWJRIFJ3XIQ/3/ 西武ドームにだけ残る昭和の風物詩、球場の「生」を伝える電子オルガン(3)](『[[サンケイスポーツ]]』[[2016年]][[3月23日]]付記事)</ref>。このような事情から、2019年ポストシーズン時点のNPBにおいて、本拠地の球場で電子オルガンを常設・常用している球団は西武だけになった<ref name="chunichi" />。球団の関係者によれば、「BGMをCDで流すのも良いが、西武球団としては、生の臨場感を大切にしたい。電子オルガンは臨機応変に演出できるので、球場の雰囲気作りに最も適している」という<ref name="organ2" />。 == 命名権 == ; 命名権による名称の変遷 * インボイスSEIBUドーム(2005年3月1日 - 2006年12月31日) * グッドウィルドーム(2007年1月1日 - 2008年1月8日) * 西武プリンスドーム(2015年3月1日 - 2017年2月28日) * メットライフドーム(2017年3月1日 - 2022年2月28日) * ベルーナドーム(2022年3月1日 - 2027年2月28日予定) === インボイスSEIBUドーム === [[画像:Invoice Seibu Dome exterior 2006-12-18 2.jpg|thumb|right|160px|インボイスSEIBUドーム]] [[西武グループ]]は2004年、経営改善策の一環として西武ドームの施設名称と[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|二軍]]のチーム名称について[[命名権]](ネーミングライツ)を売却することを決定。取得に名乗りを上げたのは、[[インボイス (企業)|インボイス]]。まず同年[[12月29日]]に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意し、翌2005年シーズンから球団名を「インボイス」とすることを発表、1月25日にプロ野球実行委員会で承認された。インボイス社は同日、西武ドームの命名権についても2005年シーズンからの2年契約で合意。3月1日から名称を「'''インボイスSEIBUドーム'''」(インボイスセイブドーム)に改称した。 当初「ドーム名を“インボイスドーム”としたい」としていたが、西武側は「“西武”の文字を入れてほしい」としてこれを却下。また、[[西武球場前駅]]についても「“インボイスSEIBUドーム前駅”に改称してほしい」と申し入れたが、[[鉄道駅]]の名称変更には様々な事務手続きなどを行わねばならず経費も掛かるなど煩雑なため、これも受け入れられなかった。 改称を機に、ドーム内の各所や球場スタッフの制服などに「INVOICE」の社名ロゴが入れられた。またインボイス社は株主優待策のひとつに、西武ライオンズのパ・リーグ主催試合のチケット引換券を設けるなどした。また、プロ野球の公式記録や各種報道機関に於いては「インボイスドーム」や「インボイス西武」などと略する形で称されていた。 インボイス社は当初、これらの命名権について10年以上の長期契約を望んでおり、2007年以降も命名権を取得したいとして、契約が切れる2006年シーズン中からその旨を西武側に申し入れていたが、西武側は「契約満了で、2007年以降は更新しない」とインボイス社側に通告。結局2006年9月8日、インボイス社は契約更新を断念。二軍の契約も1年を残し解除する事を決定し、これら「インボイス」を冠する名称は同年いっぱいで使用を終了することになった。 === グッドウィルドーム === [[画像:Goodwill Dome (Seibu Dome) 2007-03-04 exterior 1.jpg|thumb|right|160px|グッドウィルドーム]] 西武はインボイス社に代わる命名権の新たな契約先について検討を進めてきたが、2006年12月2日、[[グッドウィル・グループ]]と[[2007年]][[1月1日]]からの5年総額25億円(金額は推定)契約に合意。年末までに隣接する西武球場前駅の誘導看板やドーム看板など変更の準備を進めて、同日から「インボイスSEIBUドーム」を「'''グッドウィルドーム'''」に、二軍を「インボイス」から「グッドウィル」に改称した。 これに伴い、西武ライオンズ球場としての開場以来初めて球場名から「西武」の名前が消えた。[[日本放送協会]](NHK)では「グッドウィル西武ドーム」と一時呼称されたこともある。 ところが2007年[[12月]]、[[グッドウィル (人材派遣会社)|グッドウィル]]が違法な派遣業務を行っていたことが発覚し、[[厚生労働省]]から事業停止命令を受けた(詳細は[[グッドウィル (人材派遣会社)#行政処分|別項]])。このため、同社は西武球団に命名権の契約解除を申請。同球場を所有する西武鉄道と西武球団側もそれを受け入れ、わずか1年で球場と二軍の名称から「グッドウィル」が消えることとなった。 これを受け、西武側では命名権の新規契約については[[2008年]]シーズンの導入を見送る方針を決定。2008年[[1月9日]]付で球場名が「西武ドーム」に戻り、二軍チーム名も一軍と同じ「埼玉西武ライオンズ」に改められた。西武の[[後藤高志]]オーナーは、命名権導入再開について「契約先のイメージが球団にかかわってくるリスクが生じる」と慎重に検討する姿勢をとっており、以降[[2014年]]シーズン終了まで再開は見送られていた。 === 西武プリンスドーム === [[File:Seibuprince shomen.jpeg|thumb|right|160px|西武プリンスドーム]] 2014年12月15日、来シーズンの球場命名権を[[プリンスホテル]]{{efn|2006年から2008年までの間、西武球団の親会社でもあった。}}が取得し、球場名を「'''西武プリンスドーム'''」に改称することを発表した<ref>[https://www.seibulions.jp/news/detail/9637.html 2015年3月から「西武プリンスドーム」に名称を変更 プリンスホテルが西武ドームのネーミングライツを取得]埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト 2014年12月15日配信</ref>。契約期間は2015年3月1日から2016年の2月29日までの1年間で、その後も翌年まで自動更新された。契約額は非公表。 これ以降は前の2社と異なり、球場名称の命名権のみの取得であり、二軍チーム名は「埼玉西武ライオンズ」のまま変更されていない。 === メットライフドーム === [[File:MetLife Dome.jpg|thumb|right|160px|メットライフドーム]] 2017年1月16日、[[メットライフ生命保険]]が同年3月から[[2022年]]2月末までの5年間の球場命名権を取得することで合意したと発表した。これにより球場名が「'''メットライフドーム'''」に変更された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/01/16/kiji/20170116s00001173154000c.html 西武D名称は「メットライフドーム」に!命名権5年間取得],スポーツニッポン,2017年1月16日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.metlife.co.jp/about/press/2017/pdf/170116.pdf メットライフ生命、西武ドームネーミングライツ(命名権)を取得 西武ドームは「メットライフドーム」に名称を変更]}},メットライフ生命保険・西武ライオンズ,2017年1月16日</ref>。 === ベルーナドーム === [[File:ベルーナドーム.jpg|thumb|right|160px|ベルーナドーム]] 2022年1月17日、同年3月から埼玉県[[上尾市]]に本社を置く[[通信販売|通販]]会社[[ベルーナ]]が球場命名権を取得すると発表した<ref name="fc20220117">{{Cite news|title=西武本拠地、2022年3月から「ベルーナドーム」に改称 辻監督「変わらなければいけない年」 |url=https://full-count.jp/2022/01/17/post1176556/ |newspaper=Full-Count |date=2022-01-17 |accessdate=2022-01-17}}</ref>。契約期間は2027年2月末までの5年間<ref name="fc20220117"/>。これにより球場名が「'''ベルーナドーム'''」に変更された<ref name="fc20220117"/>。 == 周辺の付属施設 == [[画像:Seibu Lions baseball club HQ 2006-12-18.jpg|thumb|right|160px|獅子ビル]] [[画像:Seibu Stadium No2 - 01.jpg|thumb|right|160px|西武第二球場]] 設計アドバイザー石山建一の提言により、現存する日本プロ野球の本拠地野球場としては唯一、周辺にサブグラウンド、屋内練習場、合宿所といった施設が揃っている<ref name="ishiyama" /><ref>{{cite news|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/52916|title=ミスターが惚れ込んだ名伯楽・石山建一氏の今 教え子に岡田、金森、宮本|date=2017-10-09|newspaper=東京スポーツ|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2021-02-04}}</ref>{{efn|かつて存在した[[阪急西宮スタジアム]]、[[藤井寺球場]]にも合宿所・屋内練習場が併設されており、西宮にはサブグラウンドもあった。}}。 === 獅子ビル === 西武球場のオープン当初より、球場に隣接して建てられたビル。 エントランスホールからは地階 - 2階までアクセス可能(2階は一軍公式戦非開催日の営業時のみ)。一軍公式戦開催日、2 - 3階は球場側から「[[DAZN]]デッキ」を通って入る<ref>{{Cite web|和書|url=https://baseballking.jp/ns/236358|title=メットライフドームの三塁側に「DAZNデッキ」と大型フードエリア&新グッズショップがオープン|date=2020-07-07|website=BASEBALL KING|publisher=[[フロムワン]]|accessdate=2021-03-22}}</ref>。 * 地階:[[狭山スキー場]]ロッカー室・更衣室(ビル南側のスキー場に直結) * 1階:エントランスホール、多目的ルーム、獅子ビル事務所 * 2階:大型フードエリア「グリーンフォレスト デリ&カフェ(2020年7月21日 - <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00003822.html|title=“緑の森”のリラックス空間「グリーンフォレスト デリ&カフェ」が7/21(火)オープン!|date=2020-07-20|website=埼玉西武ライオンズ|accessdate=2021-03-22}}</ref>)」、獅子通用口(獅子ビル2階と球場左翼側の通路を結ぶ通用口、一軍公式戦開催日に屋上との行き来のみ開放) * 3階:ライオンズ チームストア 獅子ビル(2020年7月21日 - <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00003792.html|title=7/21(火)〜ライオンズ チームストア 獅子ビル オープン!|date=2020-07-15|website=埼玉西武ライオンズ|accessdate=2021-03-22}}</ref>)、子供向け施設「[[帝京大学|テイキョウ]]キッズルーム(2020年8月1日 - <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/pressrelease/695902/|title=屋内こども広場「テイキョウキッズルーム」8月11日(火)オープン!学校法人帝京大学と施設命名権スポンサー契約を締結|date=2020-08-11|website=[[オリコン|ORICON NEWS]]|accessdate=2021-03-22}}</ref>)」、放送用スタジオ「Lスタジオ」(ドーム前広場から移転) * 屋上:喫煙所 ==== 過去の獅子ビル施設 ==== * 球団事務所 *: 1980年から2019年のシーズン途中まで1階に所在。2階には球団が記者会見を開く際などに使用するプレスルームがあった。 * カレーショップ「シエール」 *: 1階にて1986年11月開店、2010年6月15日閉店。 * ライオンズストア フラッグス *: 「シエール」跡地にて2011年4月9日開店、2019年6月30日閉店。 * 中国料理「獅子」西武ドーム店 *: 球場オープンより2階にて営業、2012年5月21日より諸般の事情により営業を休止、同年9月14日閉店。なお3階は「獅子」宴会場で、西武ドームで優勝を決定した際にはビール掛けの会場として使用された。 * レストラン「DOME RESTAURANT CANTON TABLE」 *: 「獅子」跡地にて2012年9月15日開店<!--ソース http://www.seibudome.jp/pdf/20120914_shishi_results.pdf 「中国料理 獅子 西武ドーム店」の営業終了ならびに新店舗オープンのお知らせ-->、2017年1月29日閉店。 * ライオンズキッズパーク *: レストラン跡地にて2017年4月4日営業開始、2019年6月30日営業終了。 * 多目的スペース *: 「獅子」宴会場跡地。ユニフォーム圧着や、ファン感謝イベントにおける展示などに活用された。 === その他の周辺施設 === * 西武ライオンズ オフィス棟(球団事務所) *: 3階建て。40周年記念事業により、2019年に獅子ビルの北側の場所に新築。獅子ビルとは一体化している。 * [[西武第二球場]](2020年3月1日から5年間の名称は「CAR3219フィールド」) *: 西武二軍の本拠地で、一軍もドームでの試合前などに練習で使うことがある。 * 若獅子寮(2代目) *: 球団の40周年記念事業の一環で、B駐車場の敷地内に4階建てで建設。居住スペースや食堂などの寮設備のほか、監督室やNPBの球団施設としては初めてMLB仕様のロッカー(全選手用)を導入。 * ライオンズトレーニングセンター *: 2代目若獅子寮と同時に建設。NPB12球団が所有するトレーニング施設としては面積が最も広く(50m×50m)、ブルペン用に5つ、バッティング用に4つのレーンを設置。北端はシャッターが開閉でき、ファンが練習を見学できる「ファンデッキ」として開放。2020年からは、[[埼玉西武ライオンズ・レディース]]の練習でも使用する。 * ライオンズ チームストア フラッグス *: 2階建て。40周年記念事業により、2019年に新たなメインゲートの場所に新築した上で、獅子ビル1階から移転して開店。 * テイキョウキッズフィールド *: 2021年にオープンした子供向け屋外遊戯施設。一軍公式戦開催日のみ営業。 * 西武ドームテニスコート ==== 現存しないその他の周辺施設 ==== * [[西武第三球場]] ** 主に練習用。2003年限りで閉鎖し、観客サービス改善のため[[2004年]]に約550台収容の駐車場が設けられた。 * 西武ドームサッカーパーク(元西武第三球場) ** 駐車場に人工芝を張り、ドームで試合やイベントがない日にサッカーコートとして貸し出し。2018年営業終了。 * 西武ライオンズ合宿所(初代若獅子寮)、室内練習場 *: 西武第二球場の場外にあった平屋の建物で、1980年から2019年のシーズン途中まで使用。室内練習場はその隣に所在。どちらも2019年に解体され、跡地は第二球場のサブグラウンドとブルペンに転用された。 == プロ野球以外での使用 == {{出典の明記|date=2015年5月19日 (火) 03:35 (UTC)|section=1}} === 横浜アリーナとの関係 === 2017年3月3日に、[[横浜アリーナ]]の運営会社について西武鉄道の子会社となることが発表された際に、子会社となった理由として、横浜アリーナの営業力を活用し、西武ドームにコンサートおよびスポーツイベントの誘致を行うこととされている<ref>{{Cite press release|和書|title= 株式会社横浜アリーナの株式取得(子会社化)に関するお知らせ|publisher= 西武ホールディングス|date= 2017-3-3|url= http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1448655|format= PDF|language= 日本語|accessdate= 2017-3-3}}</ref>。 === アマチュア野球 === 西武ドームではアマチュア野球の公式戦も行われている。 [[社会人野球]]は球場のオープンと同年に創部された[[プリンスホテル硬式野球部]]が近くに合宿所を構えたこともあり、関東地区の主要球場として利用された。毎年3月中旬に行われる[[JABA東京スポニチ大会]]の開催球場のひとつとなっていた。また[[全日本クラブ野球選手権大会]]の本大会が、1979年から1995年までは西武球場・西武第三球場で開催。その後は一時隔年となるも再び固定となった。[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]東京都の予選が行われることもある(前記のプリンスホテルが東京都加盟であったためか、埼玉を含む南関東予選は未実施)。草野球では、[[ストロングリーグ]]により、2004年から[[全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップ]]の全国大会に使用されている。 [[高校野球]]では、1981年から1991年までは[[全国高等学校野球選手権埼玉大会]]の開催球場の一つとして使用された。これは、埼玉大会の参加校が急増していたことが背景にあり、埼玉県内の高校野球でメイン球場として使用する[[埼玉県営大宮公園野球場|埼玉県営大宮球場]]では、当時フィールドが狭隘の上に老朽化していたため開会式を行うのが困難になったのがその理由である。初年度の1981年、西武球場では開会式とその直後の試合のみが行われ、翌1982年からは準々決勝(1984年からは準決勝)以降の試合も西武球場で行われた。 県営大宮球場が1992年に改修されてからは、西武球場・西武ドームが高校野球公式戦で使用されたケースはないが、2020年の[[第102回全国高等学校野球選手権大会|第102回選手権]]の中止に伴う代替大会(夏季埼玉県高等学校野球大会)では、西武球団の提供により本球場で準決勝・決勝が行われた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202008230000067.html|title= 準決勝メットライフドーム開催、西武無償提供/埼玉|publisher=日刊スポーツ|date=2020-08-23|accessdate=2020-08-23}}</ref>。また、2016年春には[[東都大学野球]]2部リーグが大学野球のリーグ戦としては初めて使用した<ref>{{Cite web|和書|url= https://baseballking.jp/ns/61277|title= 東都2部の春季リーグ戦が西武プリンス、神宮で開催!|publisher=BASEBALL KING|date=2016-03-08|accessdate=2020-08-28}}</ref>。 === コンサート === 事例は少ないがフィールドに観客席を設けた場合最大4万人まで収容可能である。 1982年には[[クイーン (バンド)|クイーン]]が「[[Hot Space Tour]]」の公演の1つを行った。 1983年7月25日に長渕剛が、『SUPER LIVE IN西武球場』を開催。雨の中でのコンサートとなった。 1984年に『[[SUPER ROCK '84 IN JAPAN]]』で[[ホワイトスネイク]]、[[スコーピオンズ]]、[[マイケル・シェンカー・グループ]]、[[ボン・ジョヴィ]]、[[アンヴィル]]が出演。 [[1986年]]から[[2005年]]まで、毎年夏に行われていた[[渡辺美里]]のスタジアムライブが良く知られる。ライブ開催当日には[[西武鉄道]]による特別電車も運行されたほどである。 [[2000年]]に[[PIERROT]]がライブで使用、メジャーデビュー2年足らずでドーム公演するのは当時の最短記録であった。 [[2009年]]に[[水樹奈々]]が[[声優]]として初めて日本国内での単独ドーム公演を当会場で開催。[[2015年]]以降は、アニメ・ゲーム作品に関連する公演も数多く行われている。西武鉄道自身がアニメ作品とのタイアップに積極的であることから、公演に合わせてラッピング電車を走らせることもある。 関東地方では東京ドームがあることから「ドームツアー」に組み込まれないことが一般的ではあるが、アーティストによっては使用料が高く、日程など制約の多い東京ドームを非開催としたうえで西武ドームを使用し「ドームツアー」に組み込まれる事例がある。 ==== コンサートを開催した主なアーティスト・イベント ==== <!--基本開催順だが、個人を除く同系列のアーティストグループ及び同系列のアニメコンサートイベント等はそれに集約する。--> 2002年以降に当会場でコンサートを開催した著名なアーティスト・イベントに限定して記載。{{Color|red|赤色}}の年は開催予定を表す。 * [[サザンオールスターズ]]{{Small|(1985年、1988年、1991年、1996年、2019年)}} * [[Mr.Children]]{{Small|(1995年、2012年)}} * [[GLAY]]{{Small|(1998年、2019年)}} * [[THE ALFEE]]{{Small|(2002年)}} * [[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]]{{Small|(2005年)}} * [[水樹奈々]]{{Small|(2009年、2010年、2013年、2015年、2018年)}} * [[AKB48]]{{Small|(2011年)}} * [[EXILE TRIBE]]{{Small|(2012年、2014年)}} ** [[三代目 J Soul Brothers]]{{Small|(2015年)}} ** [[EXILE ATSUSHI]]{{Small|(2016年)}} * [[ももいろクローバーZ]]{{Small|(2012年、2013年、2016年、2019年、2022年)}} * [[BIGBANG]]{{Small|(2013年)}} * [[乃木坂46]]{{Small|(2015年)}} * [[アイドルマスターシリーズ]] ** [[THE IDOLM@STERの登場人物|765PRO ALLSTARS]]、[[アイドルマスター シンデレラガールズ|CINDERELLA GIRLS]]、[[アイドルマスター ミリオンライブ!|MILLIONSTARS]]{{Small|(2015年[合同ライブ])}} ** CINDERELLA GIRLS{{Small|(2018年、2022年)}} * [[うたの☆プリンスさまっ♪]]{{Small|(2017年、2021年)}} * [[ラブライブ!シリーズ]] ** [[Aqours]]{{Small|(2017年、2018年、2019年、2022年)}} ** [[虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]{{Small|(2021年)}} ** [[Liella!]]{{Small|(2023年)}} * [[アイドリッシュセブン]]{{Small|(2018年、2019年)}} * [[Kis-My-Ft2]]{{Small|(2018年{{efn|[[ジャニーズ事務所]]所属として初めて開催された西武ドームコンサートとなる。}}、2019年、2021年{{efn|無観客生配信ライブとして開催。}}、2022年)}} * [[WANIMA]]{{Small|(2018年)}} * [[ケツメイシ]]{{Small|(2018年、{{color|red|2023年}})}} * [[Kiramune]]{{Small|(2019年)}} * [[まふまふ]]{{Small|(2019年)}} * [[BUMP OF CHICKEN]]{{Small|(2019年)}} * [[すとぷり]]{{Small|(2019年、2022年)}} * [[AAA (音楽グループ)|AAA]]{{Small|(2021年)}} ** [[西島隆弘|Nissy]]{{Small|(2022年)}} * [[レディー・ガガ]]{{Small|(2022年)}} * [[ウマ娘 プリティーダービー]]{{Small|(2022年)}} * [[ブシロード]]{{Small|(2022年[合同ライブ])}} ** [[BanG Dream!]]{{Small|(2019年、2022年)}} * [[戦姫絶唱シンフォギア]]{{Small|(2022年)}} * [[SUPER JUNIOR]]{{Small|(2023年)}} * [[EXO]]{{Small|(2023年)}} * [[ONE OK ROCK]]{{Small|(2023年)}} * [[Mrs. GREEN APPLE]]{{Small|(2023年)}} * [[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]]{{Small|({{color|red|2023年}})}} * [[ミュージックバンク|MUSIC BANK]] GLOBAL FESTIVAL{{Small|({{color|red|2023年}})}} === 高校生クイズ === 『[[全国高等学校クイズ選手権]]』の関東大会は、[[1984年]]の第2回大会から西武ライオンズ球場で開催されてきた。西武ドームとなっても一部の年を除き、[[2010年]]の第30回大会までは関東大会の会場として使用された。 === ゴルフ === [[1996年]]に真夏の祭典・『[[FNSの日]]・10周年記念 1億2500万人の超夢リンピック』のゴルフ予選会として開催した「ゴルフ・池ポチャアプローチ選手権」の会場として、また決勝のフジリンクス8番ホール行きを目指し211名が凌ぎあって使用された。 === 格闘技 === * [[PRIDE.10]](2000年) * [[新日本プロレス]] ** [[G1 CLIMAX]] 24優勝決定戦(2014年) ** [[WRESTLE GRAND SLAM]](2021年) === その他のイベント === 2020年のシーズンオフには、[[ももいろクローバーZ]]の歩みや衣装などを展示するイベント『ももクロ・ライオンZ EXPO』を開催。これは、西武が野球以外ではじめて自主興業したイベントとなり、[[コロナ禍]]ではあったものの開催期間18日間で約1万人が来場した<ref>{{Cite web|和書|title=【今日開幕】西武が目指す新時代のボールパーク「メットライフドーム」の全貌|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社|url=https://newswitch.jp/p/26532|website=ニュースイッチ Newswitch|accessdate=2021-03-27|language=ja}}</ref>。 * 国際[[バラ]]と[[ガーデニング]]ショウ(1999年 - 2018年) * スーパードッグカーニバル(1999年) * [[フリーマーケット]] in 西武ドーム(2001年) * [[進撃の巨人]]×[[リアル脱出ゲーム]]『'''ある城塞都市からの脱出'''』埼玉公演(2014年) * リアル脱出ゲーム10周年記念『'''リアル脱出ゲーム大パーティー'''』(2017年) * ももクロ・ライオンZ EXPO 2020 * [[狭山ヶ丘高等学校・付属中学校|狭山ヶ丘高等学校]]が毎年6月上旬または中旬頃にドームを貸し切って体育祭を実施している。 その他、CMやテレビ番組の撮影、握手会などのイベントでもよく使われている。 == 交通機関 == [[画像:西武10000系電車 ニューレッドアロー スタジアムエクスプレス-2.jpg|thumb|right|130px|「スタジアムエクスプレス」[[西武10000系電車|10000系]]]] * [[西武狭山線]]・[[西武山口線|山口線(レオライナー)]][[西武球場前駅]]下車すぐ *: 狭山線は、定期列車として西所沢駅発着列車が運転されているほか、[[西武池袋線|池袋線]]直通[[池袋駅]]発着列車も運転されている。山口線は[[多摩湖駅]]発着であるが、同駅で[[西武多摩湖線|多摩湖線]][[国分寺駅]]方面と連絡している。試合当日は狭山線・山口線・多摩湖線とも増発されるほか、狭山線は土日祝を中心に池袋線所沢駅方面(西武新宿線内発着列車および地下鉄有楽町線新木場駅始発列車・みなとみらい線元町・中華街駅始発列車を含む)から臨時直通列車が多数運転される。また、池袋駅・[[所沢駅]]・西武球場前駅のみに停車する臨時特急'''「スタジアムエクスプレス(ドーム)」'''が運転される。 *: 野球以外のイベントにおいても「ローズエクスプレス」(国際バラとガーデニングショウ)、「MISATO TRAIN」([[渡辺美里]][[コンサート]]、[[2005年]]まで)などの臨時特急列車が運転されることがある。 *: コンサート時の臨時ダイヤの時には野球開催日に比べ、早い時間帯より池袋線からの直通運転が実施され、池袋線定期列車を補完する形で狭山線区間運用の運行間隔が短縮される。なお、新宿線からの直通列車は運転されない。 *:試合終了後の池袋方面行きの一部列車は、試合が終了する時間帯に合わせたパターン輸送を行っている。これは、沿線に[[阪神甲子園球場]]がある[[阪神電気鉄道]]の輸送方法を模範としており、西武グループの球団取得直後に観客輸送のノウハウを阪神から学んでいる。また、コンサート終了時のパターンダイヤも存在している。 * [[立川駅]]・[[玉川上水駅]]・[[上北台駅]]よりプロ野球公式戦のうち、土・日・祝日の一軍公式戦開催日のみ臨時バス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibubus.co.jp/news/2023.html |title=2023年シーズン 西武球場線の運行について |access-date=2023-03-17 |publisher=西武バス}}</ref>を運行([[西武バス]]、[[立川バス]]){{efn|2022年シーズンまでは平日の試合でも運行されていた。}}。なお、往路は最初の3便だけ立川駅北口始発、復路は全便上北台駅、玉川上水駅北口経由での立川駅北口行きとなる。2023年シーズンより、帰りのバスのりばをブルーパーキング内に変更している<ref>[https://www.seibubus.co.jp/sp/news/post-456.html 西武球場線 「西武球場前」のりば変更のお知らせ]</ref>。 * 東京都内から車の場合、[[青梅街道]]([[東京都道5号新宿青梅線]])芋窪交差点から北方2 km。 * 埼玉県内から車の場合、[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]][[入間インターチェンジ]]から10 km。[[関越自動車道]][[所沢インターチェンジ]]から12 km<ref>{{Cite web|和書|title=メットライフドームへのアクセス |url=https://www.seibulions.jp/stadium/access/index.html |website=埼玉西武ライオンズ |accessdate=2022-01-22}}</ref>。 *: 有料駐車場はA・ブルー(旧B)・レッド(旧C)・グリーン(旧D)の4つがあるが、プロ野球開催時はA駐車場は球団及び報道関係者専用となっており一般利用不可。ブルーパーキングはボックスシート購入者の特典駐車場となっているため、そのためのスペースを予め確保した状態で開放される。そのほか民間の駐車場もある。 {{clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} * {{cite book|和書 |author=株式会社西武ライオンズ |title=西武ライオンズファンブック’99年度版 |publisher=[[毎日新聞社]] |pages=7-9 |year=1999 |isbn= |ref={{sfnref|ファンブック|1999}} }} == 関連項目 == * [[日本の野球場一覧]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Seibu Dome|西武ドーム}} * [https://bellunadome.seibulions.co.jp/ ベルーナドーム] - 西武ドーム * [https://www.seibulions.jp/stadium/ スタジアム] - 埼玉西武ライオンズ * [https://www.google.co.jp/maps?hl&q=%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0&rlz=1B7GGLL_enJP400JP402&ie=UTF8&hq=%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0&hnear=%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0&brcurrent=3,0x6018de3ad062cd41:0xdae1321bc34b403d,0&layer=c&cbll=35.76883,139.420396&panoid=FaVruTBd3FvO8U05uByVDQ&cbp=12,147.22,,0,-3.72&ll=35.769199,139.420103&spn=0.001802,0.004128&source=embed&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 西武ドーム ストリートビュー] {{S-start}} {{本拠地の変遷|[[平和台野球場]]|1951|1978|[[埼玉西武ライオンズ]]|1979|現在|n/a| | }} {{S-end}} {{日本プロ野球の本拠地野球場}} {{埼玉西武ライオンズの本拠地}} {{西武グループ}} {{アメリカ横断ウルトラクイズ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=グッドウィルドーム |1-1=テクノプログループ |redirect2=西武プリンスドーム |2-1=プリンスホテル |redirect3=ベルーナドーム |3-1=ベルーナ }} {{DEFAULTSORT:せいふとおむ}} [[Category:関東地方の野球場]] [[Category:日本プロ野球の本拠地野球場]] [[Category:埼玉県のスポーツ施設]] [[Category:所沢市のスポーツ]] [[Category:所沢市の建築物]] [[Category:埼玉西武ライオンズ]] [[Category:埼玉県のコンサート会場]] [[Category:狭山丘陵]] [[Category:第41回BCS賞]] [[Category:全国高等学校クイズ選手権]] [[Category:1979年竣工の日本の建築物]] [[Category:1999年竣工の日本の建築物]] [[Category:1979年開設のスポーツ施設]] [[Category:日本野球聖地・名所150選]]
2003-09-08T08:04:11Z
2023-12-02T08:17:41Z
false
false
false
[ "Template:Cite book", "Template:本拠地の変遷", "Template:埼玉西武ライオンズの本拠地", "Template:西武グループ", "Template:Double image aside", "Template:出典の明記", "Template:Color", "Template:Clear", "Template:Sfn", "Template:Wayback", "Template:リンク切れ", "Template:日本プロ野球の本拠地野球場", "Template:Commons", "Template:S-end", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:Small", "Template:Notelist", "Template:Cite press release", "Template:野球場情報ボックス", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:アメリカ横断ウルトラクイズ", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Cite tweet", "Template:S-start" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0
15,745
ボイラー
ボイラー(英: boiler)は、水を沸かし、湯や水蒸気をつくりだす設備や装置のことである。日本産業規格(JIS)や学術用語集ではボイラと表記されるほか、汽缶(きかん、汽罐)、あるいは単に缶やカマともいう。 ボイラーには、水蒸気を利用するためのボイラーと、湯を利用するためのボイラーがある。 古くは薪などを燃料として燃焼させるタイプしかなかったが、ガスが供給されるようになってからはガス式のボイラもあり、現代では電気式のボイラもある。 燃料を用いるタイプはたいてい、燃焼室(火室)と、その燃焼で得た熱を水に伝える熱交換装置を持つ。 初期の蒸気機関はボイラーの爆発事故が多発したため、機械の安全性や製造者責任のような考え方も生まれ、製造所や製造年などを明示するボイラープレートという手法も考案された。また同時期にはスターリングエンジンのような熱機関も考案された。 温水を作るためのボイラーを温水ボイラーと分類することがある。湯を利用するためのボイラーを(高圧蒸気を発生させないもの、ととらえて)無圧ボイラーと分類することもある。ヨーロッパや北米など、気温の比較的低い地域では、集合住宅でも戸建て住宅でもセントラルヒーティングがかなり普及しており、人々に馴染まれているものである。特に寒いロシアでは、ひとつの市のレベルでセントラルヒーティング方式が大規模に行われている場合があり、街中に配管がはりめぐらされ、各住宅(ロシアは街中は集合住宅が多い)に届けられている場合もある。温水暖房や給湯のために使われる。 蒸気を発生させるためのボイラーを蒸気ボイラーと分類することがある。蒸気機関車に大きな(蒸気)ボイラーが組み込まれており、ボイラーが発生させる水蒸気がシリンダーに送り込まれピストンを押すことが車輪を回転させる動力となっている。火力発電所では、ボイラーで発生させた水蒸気で蒸気タービンを回転させ発電機を動かし発電を行っており、ボイラーは発電設備のひとつである。原子力発電所は熱源を原子力に置き換えた発電所であるが、原子力の特性もあり異なる発電方法と見なされている。 伝熱部が水管になっているもので、循環方法により以下のように分類される。 鋼鉄製の水を満たした缶を主体としたボイラー。保有水量が比較的多く、負荷の変動に強い。その反面、立ち上がりが遅く、万一爆発事故が起きれば被害は甚大である。構造上中小規模のものが多い。また、ボイラーにもよるが缶内に人が入ってスケールの除去が可能で、水管ボイラー程は給水に神経質になる必要もない。 鋳鉄を構造として用いたもので、鋼鉄に比べて耐食性に優れる。強度は低く、急速な加熱・冷却を行うと破損することがある。暖房、給湯用として建築設備によく用いられる。 高温高圧の気体・液体を封入する圧力容器であるので、各種保安装置が設置される。 労働安全衛生法施行令第1条第4号に定めるボイラー(法令上「小型ボイラー」として定義されている) 簡易ボイラー、小型ボイラーのいずれにも該当しない大型のボイラーを、日本の法律では(修飾語の無い)「ボイラー」と呼んでいる。 なお、ボイラーのうち労働安全衛生法施行令第20条第5号において「次に掲げるボイラー」として定められているもの。取扱うための資格などの関係から、整理上、次に該当するもの(小型ボイラー及び簡易ボイラーに該当するものを除く)は通称として「小規模ボイラー」と呼ばれている(法令上の名称ではない)。 ボイラーの取扱いの業務、溶接の業務については、労働基準法第62条、年少者労働基準規則第8条により18歳未満の者を従事させることができない。同様に労働基準法第64条の3、女性労働基準規則第2条により妊娠中の女性を従事させることができず、出産後1年を経過しない女性がこの業務に従事しない旨を申し出た場合も従事させることができない。 労働安全衛生法に基づくボイラー及び圧力容器安全規則により、設置・定期検査・取扱いが規制されている。 一定以上の伝熱面積・最高圧力のものの取扱い・保安監督は、ボイラー技士免許所持者・ボイラー取扱技能講習修了者・ボイラー取扱業務特別教育修了者が行うこととなっている。また、整備はボイラー整備士が行うこととなっている。 また、発電所に設置されるボイラーは電気事業法に基づき技術基準・設置認可・使用前検査・定期検査などが定められており、また、保安責任者としてボイラー・タービン主任技術者を選任することとなっている。 旧国鉄で蒸気機関車が現役(定期列車)として使用されていた時代は、国鉄の内規による資格者育成やボイラー検査が行われていたが、現在のJRや私鉄でイベント用として運転される蒸気機関車では、機関士に対する上記ボイラー技士免許の取得勧奨や、法に基づく定期検査が行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボイラー(英: boiler)は、水を沸かし、湯や水蒸気をつくりだす設備や装置のことである。日本産業規格(JIS)や学術用語集ではボイラと表記されるほか、汽缶(きかん、汽罐)、あるいは単に缶やカマともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ボイラーには、水蒸気を利用するためのボイラーと、湯を利用するためのボイラーがある。 古くは薪などを燃料として燃焼させるタイプしかなかったが、ガスが供給されるようになってからはガス式のボイラもあり、現代では電気式のボイラもある。 燃料を用いるタイプはたいてい、燃焼室(火室)と、その燃焼で得た熱を水に伝える熱交換装置を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "初期の蒸気機関はボイラーの爆発事故が多発したため、機械の安全性や製造者責任のような考え方も生まれ、製造所や製造年などを明示するボイラープレートという手法も考案された。また同時期にはスターリングエンジンのような熱機関も考案された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "温水を作るためのボイラーを温水ボイラーと分類することがある。湯を利用するためのボイラーを(高圧蒸気を発生させないもの、ととらえて)無圧ボイラーと分類することもある。ヨーロッパや北米など、気温の比較的低い地域では、集合住宅でも戸建て住宅でもセントラルヒーティングがかなり普及しており、人々に馴染まれているものである。特に寒いロシアでは、ひとつの市のレベルでセントラルヒーティング方式が大規模に行われている場合があり、街中に配管がはりめぐらされ、各住宅(ロシアは街中は集合住宅が多い)に届けられている場合もある。温水暖房や給湯のために使われる。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "蒸気を発生させるためのボイラーを蒸気ボイラーと分類することがある。蒸気機関車に大きな(蒸気)ボイラーが組み込まれており、ボイラーが発生させる水蒸気がシリンダーに送り込まれピストンを押すことが車輪を回転させる動力となっている。火力発電所では、ボイラーで発生させた水蒸気で蒸気タービンを回転させ発電機を動かし発電を行っており、ボイラーは発電設備のひとつである。原子力発電所は熱源を原子力に置き換えた発電所であるが、原子力の特性もあり異なる発電方法と見なされている。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "伝熱部が水管になっているもので、循環方法により以下のように分類される。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "鋼鉄製の水を満たした缶を主体としたボイラー。保有水量が比較的多く、負荷の変動に強い。その反面、立ち上がりが遅く、万一爆発事故が起きれば被害は甚大である。構造上中小規模のものが多い。また、ボイラーにもよるが缶内に人が入ってスケールの除去が可能で、水管ボイラー程は給水に神経質になる必要もない。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "鋳鉄を構造として用いたもので、鋼鉄に比べて耐食性に優れる。強度は低く、急速な加熱・冷却を行うと破損することがある。暖房、給湯用として建築設備によく用いられる。", "title": "種類、分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "高温高圧の気体・液体を封入する圧力容器であるので、各種保安装置が設置される。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "労働安全衛生法施行令第1条第4号に定めるボイラー(法令上「小型ボイラー」として定義されている)", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "簡易ボイラー、小型ボイラーのいずれにも該当しない大型のボイラーを、日本の法律では(修飾語の無い)「ボイラー」と呼んでいる。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、ボイラーのうち労働安全衛生法施行令第20条第5号において「次に掲げるボイラー」として定められているもの。取扱うための資格などの関係から、整理上、次に該当するもの(小型ボイラー及び簡易ボイラーに該当するものを除く)は通称として「小規模ボイラー」と呼ばれている(法令上の名称ではない)。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ボイラーの取扱いの業務、溶接の業務については、労働基準法第62条、年少者労働基準規則第8条により18歳未満の者を従事させることができない。同様に労働基準法第64条の3、女性労働基準規則第2条により妊娠中の女性を従事させることができず、出産後1年を経過しない女性がこの業務に従事しない旨を申し出た場合も従事させることができない。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "労働安全衛生法に基づくボイラー及び圧力容器安全規則により、設置・定期検査・取扱いが規制されている。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一定以上の伝熱面積・最高圧力のものの取扱い・保安監督は、ボイラー技士免許所持者・ボイラー取扱技能講習修了者・ボイラー取扱業務特別教育修了者が行うこととなっている。また、整備はボイラー整備士が行うこととなっている。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、発電所に設置されるボイラーは電気事業法に基づき技術基準・設置認可・使用前検査・定期検査などが定められており、また、保安責任者としてボイラー・タービン主任技術者を選任することとなっている。", "title": "日本における分類と法的規制" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "旧国鉄で蒸気機関車が現役(定期列車)として使用されていた時代は、国鉄の内規による資格者育成やボイラー検査が行われていたが、現在のJRや私鉄でイベント用として運転される蒸気機関車では、機関士に対する上記ボイラー技士免許の取得勧奨や、法に基づく定期検査が行われている。", "title": "日本における分類と法的規制" } ]
ボイラーは、水を沸かし、湯や水蒸気をつくりだす設備や装置のことである。日本産業規格(JIS)や学術用語集ではボイラと表記されるほか、汽缶(きかん、汽罐)、あるいは単に缶やカマともいう。
[[File:Heatmaster Outdoor Wood Boiler.jpg|thumb|薪ボイラー]] '''ボイラー'''({{Lang-en-short|boiler}})は、[[水]]を沸かし、[[湯]]や[[水蒸気]]をつくりだす設備や装置のことである<ref>[https://www.samson.co.jp/product/boiler/entry-376.html]</ref>。[[日本産業規格]](JIS)や[[学術用語集]]では'''ボイラ'''と表記されるほか、'''汽缶'''(きかん、'''汽罐''')、あるいは単に'''缶'''や'''カマ'''ともいう。 == 概要 == ボイラーには、水蒸気を利用するためのボイラーと、湯を利用するためのボイラーがある。 <!--特筆性に難 {{独自研究範囲|date=2022年9月|英語の辞書では、湯を利用するためにボイラーをまず1番目に挙げており<ref name="cambridge">[https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/boiler ]</ref>、水蒸気を利用するためのボイラーは2番目以降に挙げているか<ref>[https://www.lexico.com/definition/boiler Oxford, Lexico]</ref>、言及していないものもある<ref name="cambridge" />。 百科事典では水蒸気を利用するためのボイラーの説明を主にしているものが多い}}。 --> 古くは[[薪]]などを[[燃料]]として[[燃焼]]させるタイプしかなかったが、ガスが供給されるようになってからは[[ガス燃料|ガス]]式のボイラもあり、現代では[[電気]]式のボイラもある。 燃料を用いるタイプはたいてい、燃焼室(火室)と、その燃焼で得た[[熱]]を[[水]]に伝える[[熱交換器|熱交換装置]]を持つ。 初期の[[蒸気機関]]はボイラーの爆発事故が多発したため、機械の安全性や製造者責任のような考え方も生まれ、製造所や製造年などを明示する[[ボイラープレート]]という手法も考案された。また同時期には[[スターリングエンジン]]のような[[熱機関]]も考案された。 == 種類、分類 == === 媒質による分類 === ==== 温水ボイラー ==== 温水を作るためのボイラーを'''温水ボイラー'''と分類することがある。湯を利用するためのボイラーを(高圧蒸気を発生させないもの、ととらえて)'''無圧ボイラー'''と分類することもある。ヨーロッパや北米など、気温の比較的低い地域では、集合住宅でも戸建て住宅でも[[セントラルヒーティング]]がかなり普及しており、人々に馴染まれているものである。特に寒い[[ロシア]]では、ひとつの市のレベルでセントラルヒーティング方式が大規模に行われている場合があり、街中に配管がはりめぐらされ、各住宅(ロシアは街中は集合住宅が多い)に届けられている場合もある。[[温水暖房]]や[[給湯設備|給湯]]のために使われる。 ==== 蒸気ボイラー ==== 蒸気を発生させるためのボイラーを'''蒸気ボイラー'''と分類することがある。[[蒸気機関車]]に大きな(蒸気)ボイラーが組み込まれており、ボイラーが発生させる水蒸気が[[シリンダー]]に送り込まれ[[ピストン]]を押すことが車輪を回転させる[[動力]]となっている。[[火力発電所]]では、ボイラーで発生させた水蒸気で[[蒸気タービン]]を回転させ[[発電機]]を動かし発電を行っており、ボイラーは発電設備のひとつである。[[原子力発電所]]は熱源を原子力に置き換えた発電所であるが<ref name="denkijigyou">[https://www.fepc.or.jp/enterprise/hatsuden/nuclear/ 電気事業連合会]</ref>、原子力の特性もあり異なる発電方法と見なされている<ref>{{Cite web|和書|title=ボイラーの燃料 |url=https://www.maedatekkou.co.jp/boiler/fuel |website=www.maedatekkou.co.jp |date=2023-01-11 |access-date=2023-06-25 |language=ja}}</ref>。 === 構造による分類 === ==== 水管ボイラー ==== 伝熱部が水管になっているもので、循環方法により以下のように分類される。 ; 貫流ボイラー : 水を水管の一方から押し込み循環させること無く蒸気に変えるもの。水と蒸気の比重の差がない超[[臨界点|臨界]]ボイラーや、急速起動が必要な小型ボイラーに用いられる。保有水量が少ないため起動性に優れるが、負荷追従性に劣る。蒸気量や蒸気温度を安定させるためには水や蒸気の出入りと熱の供給をバランスさせる必要があり、高度な制御技術が必要である。また、純度の高い給水が必要である。 ; 強制循環ボイラー : 水を循環ポンプで強制的に循環させるもの。運転圧力が[[臨界点|臨界圧]]に近いと水と蒸気の比重差が小さくなるため、必然的に強制循環ボイラーとなる。 ; 自然循環ボイラー : 水の温度による比重の差で循環させるもの。 {{clear}} ==== 丸ボイラー ==== 鋼鉄製の水を満たした缶を主体としたボイラー。保有水量が比較的多く、負荷の変動に強い。その反面、立ち上がりが遅く、万一爆発事故が起きれば被害は甚大である。構造上中小規模のものが多い。また、ボイラーにもよるが缶内に人が入ってスケールの除去が可能で、水管ボイラー程は給水に神経質になる必要もない。 ; 煙管ボイラー : 水缶に多数配置した煙管に燃焼室の燃焼ガスを通すことにより熱するもの。比較的掃除しにくく、構造が複雑であるが、比較的効率よく、炉の形状が自由であるので、粗悪燃料にも適応し、木屑炊きや廃熱回収ボイラーとして少数ながら新造されている。陸用としては煉瓦組みの炉を持つものが多いが、四角い箱型の炉を組み込んだものもある。代表例が[[蒸気機関車]]のボイラーである。 ; 炉筒ボイラー : 水缶内に炉筒(円筒形の燃焼室)を設けたもの。炉筒が一本の物をコルニッシュボイラーといい、二本の物をランカシャーボイラーという。構造が簡単で掃除し易く古くは普及したが、その効率の悪さから今は新造を見ない。伝熱面積と効率を稼ぐ為に、大掛かりな煉瓦組みを持つ。 ; [[炉筒煙管ボイラー]] : 炉筒と煙管とがあるもの。丸ボイラーとしては最も効率よく据付面積も少なく、現在主流のボイラーである。古くは蒸気船用ボイラー(スコッチボイラー)として活躍したが、陸用としては通風抵抗が大きく、構造も複雑で掃除も困難であるので、給水処理装置や電動通風機や自動制御装置、重油炊きが一般的になってから普及を見た。使用蒸気圧力は10kgf/[[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]]程度で、大容量ビルに用いられる。 ; 立ボイラー : 縦型の水缶内に炉を設けたもの。炉を横切るように管を出したもの、煙管ボイラーの様な縦方向の煙管を持つもの、横方向に煙管を持つコックランボイラーがある。効率が低く掃除もし難いが、据付け面積が小さく、煉瓦組みも不要なので移動用や小工場用として普及した。小規模の温水暖房・給湯用、船舶補機用を除き、新造は稀である。 ==== 鋳鉄ボイラー ==== [[鋳鉄]]を構造として用いたもので、鋼鉄に比べて[[耐食性]]に優れる。[[強度]]は低く、急速な加熱・冷却を行うと破損することがある。暖房、給湯用として建築設備によく用いられる。 ; 鋳鉄セクショナルボイラー : セクションごとに分割しての搬入や、修理が可能である。高圧力には適さない。 {{Gallery|width = 250px |File:Flammrohrrauchrohkessel.jpg|炉筒煙管ボイラー |File:Water_tube_boiler_schematic.png|船舶用水管ボイラー模式図(自然循環ボイラー) |Locomotive fire tube boiler schematic hu.png|機関車のボイラーの構造図 |File:C12 Boiler.JPG|蒸気機関車の罐焚口の一例([[国鉄C12形蒸気機関車]]) |File:Rotary-boilers.1873-77.jpg|ロータリー式ボイラー(1873年) }} == 用途 == ;業種ごとのボイラーの用途の例 <ref name="samson">https://www.samson.co.jp/product/boiler/entry-376.html</ref> * [[クリーニング]]業 : [[洗濯|洗浄]]・[[乾燥]]・プレス・[[アイロン]]など * [[ホテル]]、[[旅館]]業:給湯・厨房・風呂・暖房など * [[製菓]]業 : [[蒸し器]]・練り器 * [[給食センター]] : 炊飯・洗浄・給湯・[[消毒]] * 自動車 : 洗浄・乾燥 * [[縫製]]業 : アイロン・プレス * [[木工]]業 : 加圧昇温[[接着]]・乾燥 * [[病院]] : 給湯・[[厨房]]・暖房・消毒・[[殺菌]]・乾燥 * [[発電]] : [[火力発電]]・[[バイオマス発電]]・[[原子力発電]] == 水の流れ == # [[水処理]]装置で硬度分を除去し、給水[[ポンプ]]で圧力を上げる。水位検出器で水位が調整される。特に貫流ボイラーは純度の高い水が必要である。 # 給水予熱器(節炭器)で給水を予熱する。 # 主伝熱部の蒸発器で燃焼ガスと熱交換を行い、[[水蒸気|飽和蒸気]]を発生する。 # [[汽水分離器]]で[[蒸気]]と[[液体]]とを分離し、蒸気は次段に送り、液体はボイラーに戻す。[[臨界点|超臨界圧]]ボイラーの場合は汽水分離器はない。 # 飽和蒸気を[[過熱蒸気発生装置|過熱器]]で更に加熱し、過熱蒸気とする。 == 空気・排ガスの流れ == # [[空気予熱器]]で燃焼用空気の予熱を行う。 # 燃焼室へ[[送風機]](押込通風機)で圧力を上げて供給する。 # 燃焼室で[[燃料]]と混合し燃焼・発熱させる。 # 伝熱部で燃焼ガスから水に熱を与える。 # 給水予熱器(節炭器)で燃焼ガスから給水に熱を与える。 # 空気予熱器で燃焼ガスの熱を回収し、燃焼用空気を予熱する。 # 誘引通風機でボイラーから燃焼ガスを吸い出す。(ボイラー内の燃焼圧力を大気圧とほぼ等しく保つ平衡通風の場合に、押込通風機とともに設置される) # 排煙処理装置(電気集塵器・バグフィルタ、脱硝装置、[[脱硫]]装置など)で、[[すす|煤]][[ごみ|塵]]、[[窒素酸化物]]、[[硫黄酸化物]]を除去し、[[有害物質]]の排出[[濃度]]を[[環境基準]]や[[地方公共団体|自治体]]等との協定に適合させる。 # [[煙突]]から[[排出ガス|排ガス]]を排出する。(排ガスを広範囲に拡散させる場合は高い煙突が設置される) == 燃料・燃え殻の流れ == # [[燃料タンク|燃料貯蔵タンク]]・[[ボンベ]]、貯炭場・[[サイロ]]など # 燃料輸送管または[[ベルトコンベア]] # 微[[粉炭]]機 : [[石炭]]を微粉炭として燃焼する場合に必要 # [[バーナー]] : 完全燃焼により効率の向上を図るとともに、二段燃焼・緩慢燃焼などにより窒素酸化物の発生を抑制する # [[灰]]処理装置 : [[重油]]灰、[[フライアッシュ|石炭灰]]などを回収し、[[リサイクル]]や[[産業廃棄物|産廃]]として適した処理を行う == 保安装置 == 高温高圧の[[気体]]・[[液体]]を封入する[[圧力容器]]であるので、各種[[保安装置]]が設置される。 ; [[水位計|水位検出器]] : 水位が低い状態で燃焼を行うと[[爆発]]・破裂の危険がある。そのため起動時などに必ず試験が行われる。また、動作不良に備えて複数個設けられる。 ; [[圧力計|圧力検出器]] : 圧力が一定となるように制御するために使用される。 ; [[安全弁]] : 缶の圧力が使用圧を超えた場合に蒸気を放出する。複数個設けられる。 ; [[炎検出器]] : [[失火]]し未燃焼ガスが缶内に充満すると爆発の恐れがあるため、炎が消えると速やかに燃料供給が停止され、強制[[換気]]が行われる。係員が常駐する場合や、石炭焚き等の場合は省略される場合がある。 ; [[爆発戸]] : 失火等により未燃焼ガスが充満し、引火・爆発した場合に内圧によって開き、人的被害や[[ダクト|煙道]]等の損傷を軽減させる。 ; [[消防設備]] : [[火災報知器]]・[[ガス漏れ警報機]]・[[消火器]]・[[スプリンクラー設備|水噴霧消火装置]] == 日本における分類と法的規制== === 日本の法規上の分類や運用上の分類 === ;簡易ボイラー : 労働安全衛生法施行令第13条第25号に定めるボイラーの通称<ref name="jba">{{Cite web|和書|url=https://www.jbanet.or.jp/examination/classification/boiler/ |title=ボイラー(小型ボイラー)の適用区分|publisher=日本ボイラ協会|accessdate=2023-12-24}}</ref>。 ;小型ボイラー 労働安全衛生法施行令第1条第4号に定めるボイラー(法令上「小型ボイラー」として定義されている) # ゲージ圧力0.1MPa以下で使用する蒸気ボイラーで、伝熱面積が1平方メートル以下のもの又は胴の内径が300mm以下で、かつ、その長さが600mm以下のもの # 伝熱面積が3.5平方メートル以下の蒸気ボイラーで、大気に開放した内径が25mm以上の蒸気管を取り付けたもの又はゲージ圧力0.05MPa以下で、かつ、内径が25mm以上のU形立管を蒸気部に取り付けたもの # ゲージ圧力0.1MPa以下の温水ボイラーで、伝熱面積が8平方メートル以下のもの # ゲージ圧力0.2MPa以下の温水ボイラーで、伝熱面積が2平方メートル以下のもの # ゲージ圧力1MPa以下で使用する貫流ボイラー(管寄せの内径が150mmを超える多管式のものを除く)で、伝熱面積が10平方メートル以下のもの(気水分離器を有するものにあっては、当該気水分離器の内径が300mm以下で、かつ、その内容積が0.07立方メートル以下のものに限る。) ;「ボイラー」 簡易ボイラー、小型ボイラーのいずれにも該当しない大型のボイラー<ref name="jba"/>を、日本の法律では(修飾語の無い)「ボイラー」と呼んでいる。 なお、ボイラーのうち労働安全衛生法施行令第20条第5号において「次に掲げるボイラー」として定められているもの。取扱うための資格などの関係から、整理上、次に該当するもの(小型ボイラー及び簡易ボイラーに該当するものを除く)は通称として「'''小規模ボイラー'''」と呼ばれている(法令上の名称ではない)<ref name="jba"/>。 # 胴の内径が750mm以下で、かつ、その長さが1300mm以下の蒸気ボイラー # 伝熱面積が3平方メートル以下の蒸気ボイラー # 伝熱面積が14平方メートル以下の温水ボイラー # 伝熱面積が30平方メートル以下の貫流ボイラー(気水分離器を有するものにあっては、当該気水分離器の内径が400mm以下で、かつ、その内容積が0.4立方メートル以下のものに限る。) === 日本における法的規制 === ;労働基準法関係 ボイラーの取扱いの業務、[[溶接]]の業務については、[[労働基準法]]第62条、[[年少者労働基準規則]]第8条により18歳未満の者を従事させることができない。同様に労働基準法第64条の3、[[女性労働基準規則]]第2条により[[妊娠]]中の女性を従事させることができず、[[出産]]後1年を経過しない女性がこの業務に従事しない旨を申し出た場合も従事させることができない。 ;労働安全衛生法関係 [[労働安全衛生法]]に基づく[[ボイラー及び圧力容器安全規則]]により、設置・定期検査・取扱いが規制されている。 一定以上の伝熱面積・最高圧力のものの取扱い・保安監督は、[[ボイラー技士]]免許所持者・ボイラー取扱技能講習修了者・ボイラー取扱業務特別教育修了者が行うこととなっている。また、整備は[[ボイラー整備士]]が行うこととなっている。 また、発電所に設置されるボイラーは電気事業法に基づき技術基準・設置認可・使用前検査・定期検査などが定められており、また、保安責任者としてボイラー・タービン主任技術者を選任することとなっている。 旧[[日本国有鉄道|国鉄]]で蒸気機関車が現役([[定期列車]])として使用されていた時代は、国鉄の内規による資格者育成やボイラー検査が行われていたが、現在の[[JR]]や[[私鉄]]でイベント用として[[運転]]される蒸気機関車では、[[機関士]]に対する上記ボイラー技士免許の取得勧奨や、法に基づく定期検査が行われている。 {{Gallery|width = 250px |Image:梅ヶ枝湯ボイラー室P5130451.jpg|兵庫県[[高砂市]]にある[[梅ヶ枝湯]]([[銭湯]])のボイラー(銭湯用のボイラーは密閉構造でないため安全規則は適用されない) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == '''理論・構造・取扱い''' * {{ill2|ボイラーの爆発|en|Boiler explosion}} * [[蒸気機関]] * [[蒸気タービン]] * [[燃焼管理]] * [[空焚き]] * [[埋め火]] * [[熱媒体]] * [[ポンプ]] * [[シーケンス制御]] * [[蒸気機関車]] ** [[蒸気機関車の構成要素]] * [[給湯器]] * [[ソーダ回収ボイラー]] * [[原子炉圧力容器]] '''資格''' * [[ボイラー取扱者]] * [[ボイラー技士]] * [[ボイラー溶接士]] * [[ボイラー整備士]] * [[ボイラー取扱作業主任者]] * [[ボイラー・タービン主任技術者]] * [[第一種圧力容器取扱作業主任者]] '''その他''' * [[ボイラープレート]] - 原義はボイラーを製作するための[[鋼板|圧延鋼板]]だが、様々な意味に派生した。 *[[火夫]] * [[ボイラー・メーカー]] - [[カクテル]]の一種 == 外部リンク == * [https://www.jbanet.or.jp/ (一社)日本ボイラ協会] * [https://www.bcsa.or.jp/ (公社)ボイラ・クレーン安全協会] * [https://www.boseikyo.or.jp/ (一社)日本ボイラ整備据付協会] {{発電の種類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほいらあ}} [[Category:ボイラー|*]] [[Category:炉・燃焼機器]] [[Category:空気調和設備]] [[Category:加熱]] [[Category:産業機械]] [[Category:機械工学]] [[Category:蒸気機関車の構造]]
2003-09-08T08:30:46Z
2023-12-24T09:24:01Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Clear", "Template:Notelist2", "Template:Cite web", "Template:発電の種類", "Template:Normdaten", "Template:Gallery", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Wayback" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC
15,746
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。 「出雲」という国名は歴史的仮名遣では「いづも」である。古事記(712年)や日本書紀(720年)に「出雲」の表記が見えるほか、須佐之男命が歌を詠む場面では「伊豆毛」(古事記)、「伊弩毛」(日本書紀)といった表記も使用されている。 文字の初見は鰐淵寺が所有する「銅造観世音菩薩立像」の台座に見える「壬辰年(692年)五月出雲国若倭部」の銘文である。また、天平5年(733年)に編纂された『出雲国風土記』の冒頭部分に出雲と名付けられた由来が語られており、これが出雲の由来を記した最古の文献とされている。しかし、風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が「八雲立つ」と発したことを出雲と名付けた根拠として記すのみで、出雲と名付けるに至った歴史的経緯については一切の記載が無い。このことから定説となるには至っておらず、現在も様々な説が議論されている。 所以号出雲者、八束水臣津野命、詔八雲立詔之。故云、八雲立出雲。 出雲と号くる所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく「八雲立つ」と詔りたまひき。 故、八雲立つ出雲と云ふ。 出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。 古くから出雲の語源を解明しようとする試みがなされている。代表的な解釈として以下のような説がある。 昭和時代の軍人、言語学者である松岡静雄の説。「イツ」は神聖な意を現し、「モ」は「藻」の形容である。即ち海松や黒珊瑚といった装飾品の材料を数多く産出した出雲国の海岸から国名を得たものであると主張した。 第82代出雲国造、千家尊統の説。「イツ」は霊威や神威を現し、「モ」とは「モノ」のモである。このモノの観念を表すために雲の漢字を当てたのではないか。このように考えた場合、出雲とは文字通り霊威の国であり神の国という意味になる、と推測している。 地理学者、藤田元春の説。イツモとは五面(イツオモ)のことでオモとは地域のことを指す。国引き神話において八束水臣津野命が引いてきた土地とされる杵築(きづき)、狭田(さだ)、闇見(くらみ)、三穂(みほ)の四地域と出雲平野を合わせると五面となる。つまり出雲国とはこれらの五つの地域から成り立つ国という意味があると考察した。 アイヌ語では岬のことを「エツ」と言い、静かな所もしくは湾港のことを「モイ」と言う。この二つの言葉が合わさってエツモイとなりイツモに変化したとする説。島根半島には十六島(うっぷるい)や恵曇(えとも)といったアイヌ語の語感に近いとされる地名が残されている。また、アイヌ語の権威、金田一京助はアイヌ語で岬のことを「エンムル」と呼ぶためこれがイツモに変化したと見るべきだと主張している。 歴史学者、白鳥庫吉の説。古くから東国はアヅマと呼ばれているがそれは「朝つ方」という意味であり、イツモは「夕つ方」で西という意味になると解釈した。 明治維新の直前の領域は、島根県松江市、安来市、雲南市および出雲市の大部分(多伎町神原を除く)、大田市の一部(山口町山口・山口町佐津目)、仁多郡の大部分(奥出雲町八川字三井野を除く)、飯石郡の大部分(飯南町塩谷・井戸谷・畑田を除く)にあたる。 古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。 日本神話によれば、神逐された須佐之男命が(日本書紀では息子五十猛神とともに)出雲に降りたって八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売命との間に八島士奴美神を生んだ。その5世孫にあたる大国主神が少名毘古那神や大物主神と共に出雲国を開拓した。『出雲国風土記』に須佐社として掲載されている須佐神社が建立され、大国主神を祭神とする出雲大社も建立された。 この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、皇室と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。 崇神天皇60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』 その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。 7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。 平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。 鎌倉時代には、承久3年(1221年)6月の承久の乱の功により宇多源氏佐々木氏の佐々木義清が封ぜられて以降、その子・佐々木泰清に引き継がれ、泰清の三男にあたる塩冶氏が代々守護を務めた。出雲守護の武将塩冶高貞は、元弘の乱で後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。 南北朝時代/室町時代初頭には、出雲守護の塩冶高貞は北朝・室町幕府についたが、興国2年/暦応4年(1341年)に初代将軍足利尊氏の弟足利直義から謀反の疑いをかけられて誅殺され、塩冶氏は没落した。しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い京極氏が出雲守護として入り、室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。 東部出雲は荘園守護の管轄下となり、戦国時代には、月山富田城(現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。 江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。 伝統産業であった製鉄で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、現在も島根県下の実力者である。 『和名抄』によれば国府は意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)周辺という説もあった)。『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され、松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされている。発掘調査で、多数の掘立柱建物跡、「大原評□磯部安□」と記された木簡、「駅」・「少目」などと記された墨書土器、硯・分銅・瓦などが出土した。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁のもっとも古い例の一つだとされている。 尼寺跡は国分寺跡の東にあり、建物の礎石や築地が設置されていたであろう跡、溝などの遺構が検出されている。 二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。 10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。 1565年 - 1565年:第二次月山富田城の戦い、毛利(毛利元就、吉川元春、小早川隆景等35,000人の軍勢) x 尼子(尼子義久、尼子倫久、尼子秀久等10,000人の軍勢)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「出雲」という国名は歴史的仮名遣では「いづも」である。古事記(712年)や日本書紀(720年)に「出雲」の表記が見えるほか、須佐之男命が歌を詠む場面では「伊豆毛」(古事記)、「伊弩毛」(日本書紀)といった表記も使用されている。", "title": "「出雲」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "文字の初見は鰐淵寺が所有する「銅造観世音菩薩立像」の台座に見える「壬辰年(692年)五月出雲国若倭部」の銘文である。また、天平5年(733年)に編纂された『出雲国風土記』の冒頭部分に出雲と名付けられた由来が語られており、これが出雲の由来を記した最古の文献とされている。しかし、風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が「八雲立つ」と発したことを出雲と名付けた根拠として記すのみで、出雲と名付けるに至った歴史的経緯については一切の記載が無い。このことから定説となるには至っておらず、現在も様々な説が議論されている。", "title": "「出雲」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "所以号出雲者、八束水臣津野命、詔八雲立詔之。故云、八雲立出雲。", "title": "「出雲」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "出雲と号くる所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく「八雲立つ」と詔りたまひき。 故、八雲立つ出雲と云ふ。", "title": "「出雲」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。", "title": "「出雲」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古くから出雲の語源を解明しようとする試みがなされている。代表的な解釈として以下のような説がある。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "昭和時代の軍人、言語学者である松岡静雄の説。「イツ」は神聖な意を現し、「モ」は「藻」の形容である。即ち海松や黒珊瑚といった装飾品の材料を数多く産出した出雲国の海岸から国名を得たものであると主張した。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第82代出雲国造、千家尊統の説。「イツ」は霊威や神威を現し、「モ」とは「モノ」のモである。このモノの観念を表すために雲の漢字を当てたのではないか。このように考えた場合、出雲とは文字通り霊威の国であり神の国という意味になる、と推測している。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地理学者、藤田元春の説。イツモとは五面(イツオモ)のことでオモとは地域のことを指す。国引き神話において八束水臣津野命が引いてきた土地とされる杵築(きづき)、狭田(さだ)、闇見(くらみ)、三穂(みほ)の四地域と出雲平野を合わせると五面となる。つまり出雲国とはこれらの五つの地域から成り立つ国という意味があると考察した。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アイヌ語では岬のことを「エツ」と言い、静かな所もしくは湾港のことを「モイ」と言う。この二つの言葉が合わさってエツモイとなりイツモに変化したとする説。島根半島には十六島(うっぷるい)や恵曇(えとも)といったアイヌ語の語感に近いとされる地名が残されている。また、アイヌ語の権威、金田一京助はアイヌ語で岬のことを「エンムル」と呼ぶためこれがイツモに変化したと見るべきだと主張している。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "歴史学者、白鳥庫吉の説。古くから東国はアヅマと呼ばれているがそれは「朝つ方」という意味であり、イツモは「夕つ方」で西という意味になると解釈した。", "title": "「出雲」の語源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "明治維新の直前の領域は、島根県松江市、安来市、雲南市および出雲市の大部分(多伎町神原を除く)、大田市の一部(山口町山口・山口町佐津目)、仁多郡の大部分(奥出雲町八川字三井野を除く)、飯石郡の大部分(飯南町塩谷・井戸谷・畑田を除く)にあたる。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本神話によれば、神逐された須佐之男命が(日本書紀では息子五十猛神とともに)出雲に降りたって八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売命との間に八島士奴美神を生んだ。その5世孫にあたる大国主神が少名毘古那神や大物主神と共に出雲国を開拓した。『出雲国風土記』に須佐社として掲載されている須佐神社が建立され、大国主神を祭神とする出雲大社も建立された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、皇室と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "崇神天皇60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鎌倉時代には、承久3年(1221年)6月の承久の乱の功により宇多源氏佐々木氏の佐々木義清が封ぜられて以降、その子・佐々木泰清に引き継がれ、泰清の三男にあたる塩冶氏が代々守護を務めた。出雲守護の武将塩冶高貞は、元弘の乱で後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "南北朝時代/室町時代初頭には、出雲守護の塩冶高貞は北朝・室町幕府についたが、興国2年/暦応4年(1341年)に初代将軍足利尊氏の弟足利直義から謀反の疑いをかけられて誅殺され、塩冶氏は没落した。しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い京極氏が出雲守護として入り、室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東部出雲は荘園守護の管轄下となり、戦国時代には、月山富田城(現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "伝統産業であった製鉄で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、現在も島根県下の実力者である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『和名抄』によれば国府は意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)周辺という説もあった)。『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され、松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされている。発掘調査で、多数の掘立柱建物跡、「大原評□磯部安□」と記された木簡、「駅」・「少目」などと記された墨書土器、硯・分銅・瓦などが出土した。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁のもっとも古い例の一つだとされている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "尼寺跡は国分寺跡の東にあり、建物の礎石や築地が設置されていたであろう跡、溝などの遺構が検出されている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1565年 - 1565年:第二次月山富田城の戦い、毛利(毛利元就、吉川元春、小早川隆景等35,000人の軍勢) x 尼子(尼子義久、尼子倫久、尼子秀久等10,000人の軍勢)", "title": "出雲国の合戦" } ]
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 出雲国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|出雲国}} |別称 = 雲州(うんしゅう)<ref group="注釈">[[出羽国]]との重複を避けるため2文字目を用いる。</ref> |所属 = [[山陰道]] |領域 = [[島根県]]東部 |国力 = [[上国]] |距離 = [[中国 (令制国)|中国]] |郡 = 10郡78郷 |国府 = 島根県[[松江市]]([[出雲国府跡]]) |国分寺 = 島根県松江市(出雲国分寺跡) |国分尼寺 = 島根県松江市 |一宮 = [[出雲大社]](島根県[[出雲市]])<br/>[[熊野大社]](島根県松江市) }} '''出雲国'''(いずものくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。 == 「出雲」の名称と由来 == 「[[出雲]]」という国名は[[歴史的仮名遣]]では「いづも」である。[[古事記]]([[712年]])や[[日本書紀]]([[720年]])に「出雲」の表記が見えるほか、[[スサノオ|須佐之男命]]が歌を詠む場面では「伊豆毛」<ref>太安万侶『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/23 古事記 巻上]』古典保存会、1924年、38頁。</ref>(古事記)、「伊弩毛」<ref>舎人親王『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286872/42?tocOpened=1 日本書紀 巻一 神代上]』後陽成天皇勅版、1599年、81頁。</ref>(日本書紀)といった表記も使用されている。 文字の初見は[[鰐淵寺]]が所有する「銅造観世音菩薩立像」の台座に見える「壬辰年([[692年]])五月出雲国若倭部」の銘文である<ref>『出雲鰐淵寺埋蔵文化財調査報告書』出雲市教育委員会、2015年、25頁。</ref>。また、[[天平]]5年([[733年]])に編纂された『[[出雲国風土記]]』の冒頭部分に出雲と名付けられた由来が語られており、これが出雲の由来を記した最古の文献とされている。しかし、風土記では[[淤美豆奴神|八束水臣津野命]](やつかみずおみつぬのみこと)が「[[八雲|八雲立つ]]」と発したことを出雲と名付けた根拠として記すのみで、出雲と名付けるに至った歴史的経緯については一切の記載がない。このことから定説となるには至っておらず、現在も様々な説が議論されている。{{Quotation|'''<原文>''' '''所以号出雲者、八束水臣津野命、詔八雲立詔之。故云、八雲立出雲。'''<ref>神宅臣金太理 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533538/4 出雲國風土記]』讀書室世龍、1793年、2頁。</ref> <hr /><訓み下し文> {{Ruby|出雲|いづも}}と{{Ruby|号|なづ}}くる{{Ruby|所以|ゆゑ}}は、{{Ruby|八束水臣津野命|やつかみづおみづののみこと}}、{{Ruby|詔|の}}りたまひしく「{{Ruby|八雲立|やくもた}}つ」と{{Ruby|詔|の}}りたまひき。 <br />{{Ruby|故|かれ}}、{{Ruby|八雲立|やくもた}}つ{{Ruby|出雲|いづも}}と{{Ruby|云|い}}ふ。<ref>萩原千鶴『出雲国風土記 全訳注』講談社学術文庫、1999年、21頁。</ref> <hr /><現代語訳> 出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。 だから、「八雲立つ出雲」という。}} == 「出雲」の語源 == 古くから出雲の語源を解明しようとする試みがなされている。代表的な解釈として以下のような説がある<ref>千家尊統『出雲大社』学生社、1969年、27-31頁。</ref>。 === 厳藻(イツモ)説 === [[昭和時代]]の軍人、[[言語学者]]である[[松岡静雄]]の説。「イツ」は神聖な意を現し、「モ」は「藻」の形容である。即ち海松や黒珊瑚といった装飾品の材料を数多く産出した出雲国の海岸から国名を得たものであると主張した<ref>松岡静雄『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145583/106 日本古語大辞典]』刀江書院、1929年、183-184頁。</ref>。 === 厳雲(イツモ)説 === 第82代[[出雲国造]]、千家尊統の説。「イツ」は霊威や神威を現し、「モ」とは「モノ」のモである。このモノの観念を表すために雲の漢字を当てたのではないか。このように考えた場合、出雲とは文字通り霊威の国であり神の国という意味になる、と推測している。 === 五面(イツオモ)説 === 地理学者、[[藤田元春]]の説。イツモとは五面(イツオモ)のことでオモとは地域のことを指す。[[国引き神話]]において八束水臣津野命が引いてきた土地とされる杵築(きづき)、狭田(さだ)、闇見(くらみ)、三穂(みほ)の四地域と[[出雲平野]]を合わせると五面となる。つまり出雲国とはこれらの五つの地域から成り立つ国という意味があると考察した。 === エツモイ説(アイヌ語説) === [[アイヌ語]]では岬のことを「エツ」と言い、静かな所もしくは湾港のことを「モイ」と言う。この二つの言葉が合わさってエツモイとなりイツモに変化したとする説。[[島根半島]]には[[十六島 (出雲市)|十六島]](うっぷるい)や恵曇(えとも)といったアイヌ語の語感に近いとされる地名が残されている<ref>「[https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/kodai/bookH27.html 第3回古代歴史文化賞決定記念イベント(島根会場)]」くにびきメッセ国際会議場、2016年</ref>。また、アイヌ語の権威、[[金田一京助]]はアイヌ語で岬のことを「エンムル」と呼ぶためこれがイツモに変化したと見るべきだと主張している。 === 夕つ方説 === 歴史学者、[[白鳥庫吉]]の説。古くから東国はアヅマと呼ばれているがそれは「朝つ方」という意味であり、イツモは「夕つ方」で西という意味になると解釈した。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は、[[島根県]][[松江市]]、[[安来市]]、[[雲南市]]および[[出雲市]]の大部分(多伎町神原を除く)、[[大田市]]の一部(山口町山口・山口町佐津目)、[[仁多郡]]の大部分([[奥出雲町]]八川字[[三井野原|三井野]]を除く)、[[飯石郡]]の大部分([[飯南町]]塩谷・井戸谷・畑田を除く)にあたる。 == 沿革 == === 古代の沿革 === [[古代出雲]]は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県[[出雲市]]付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県[[安来市]]、[[鳥取県]][[米子市]]、[[大山町]])との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、[[日本海]]を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう[[伯耆国]]まで連続的な文化的つながりがあったため、特に[[弥生時代|弥生期]]では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。[[考古学]]的見地からは、[[古墳]]が発達する以前の特徴的埋葬様式[[弥生時代の墓制#四隅突出型墳丘墓|四隅突出墳丘墓]]の分布状況からすると、[[北陸地方]]なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環[[日本海]]への版図拡大の逸話は[[国引き神話]]として『[[出雲国風土記]]』に記されているとの見方も有力である。 [[日本神話]]によれば、[[神逐]]された[[須佐之男命]]が([[日本書紀]]では息子[[五十猛神]]とともに)出雲に降りたって[[八俣遠呂智]]を退治し、[[櫛名田比売命]]との間に[[八島士奴美神]]を生んだ。その5世孫にあたる[[大国主神]]が[[少名毘古那神]]や[[大物主神]]と共に出雲国を開拓した{{efn|『[[古事記]]』の大国主神、『[[日本書紀]]』の大已貴命(おおあなむちのみこと)、『[[出雲国風土記]]』の所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)・大穴持命(おおなもち)は同じ人物である。}}。『[[出雲国風土記]]』に須佐社として掲載されている[[須佐神社_(出雲市)|須佐神社]]が建立され、大国主神を祭神とする[[出雲大社]]も建立された。 この律令以前の出雲国の影響力は[[日本神話]]の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがては[[ヤマト王権]]に下ることとなり、それが有名な[[葦原中国平定|国譲り]]神話として『[[日本書紀]]』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された[[出雲大社]]は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う[[出雲国造]](北島氏、千家氏)は、[[天照大神]]の第二子[[アメノホヒ|天穂日命]]の裔孫として、皇室と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。 [[崇神天皇]]60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)([[建比良鳥命]](古事記))([[アメノホヒ|天穂日命]]の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、[[武諸隅]](タケモロスミ)を遣わしたところ、[[飯入根]](いいいりね)が、当時の当主で兄の[[出雲振根]]に無断で[[出雲大社|出雲]]の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』 その後[[律令制]]の下では出雲国造の領域を元に、[[7世紀]]に設置された。 7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』[[斉明天皇|斉明]]5年([[659年]])には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。 [[平安時代|平安期]]には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。 === 中近世の沿革 === [[鎌倉時代]]には、[[承久]]3年([[1221年]])[[6月 (旧暦)|6月]]の[[承久の乱]]の功により[[宇多源氏]][[佐々木氏]]の[[佐々木義清]]が封ぜられて以降、その子・[[佐々木泰清]]に引き継がれ、泰清の三男にあたる[[塩冶氏]]が代々[[守護]]を務めた。出雲守護の武将[[塩冶高貞]]は、[[元弘の乱]]で[[後醍醐天皇]]を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。 [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]/[[室町時代]]初頭には、出雲守護の塩冶高貞は[[北朝 (日本)|北朝]]・[[室町幕府]]についたが、[[興国]]2年/[[暦応]]4年([[1341年]])に初代将軍[[足利尊氏]]の弟[[足利直義]]から謀反の疑いをかけられて誅殺され、塩冶氏は没落した。しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い[[京極氏]]が出雲守護として入り、室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。 東部出雲は[[荘園 (日本)|荘園]][[守護]]の管轄下となり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[月山富田城]](現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた[[戦国大名]][[尼子氏]]を生み出すこととなる。 [[江戸時代|江戸期]]に入ると、[[松江藩]]が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では[[明治|明治期]]に見られた[[廃仏毀釈]]の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。 伝統産業であった[[鉄#製錬|製鉄]]で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、現在も[[島根県]]下の実力者である。 === 近世以降の沿革 === * 「[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り<ref group="注釈">「[[旧高旧領取調帳]]」は出雲国分が欠けているため、[[木村礎]]の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書16 旧高旧領取調帳 中国四国編」(近藤出版社、[[1978年]])に掲載されたデータが[[国立歴史民俗博物館]]によりデータベース化されている。</ref>(504村・304,726石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。 ** [[島根郡]](51村・26,930石余) - '''[[松江藩]]''' ** [[秋鹿郡]](20村・11,308石余) - 松江藩 ** [[楯縫郡]](23村・15,835石余) - 松江藩 ** [[出雲郡]](19村・23,437石余) - 松江藩 ** [[神門郡]](93村・75,195石余) - 松江藩、広瀬藩 ** [[飯石郡]](53村・23,724石余) - 松江藩、広瀬藩 ** [[仁多郡]](72村・21,557石余) - 松江藩 ** [[大原郡]](58村・26,844石余) - 松江藩 ** [[能義郡]](77村・45,591石余) - 松江藩、'''[[広瀬藩]]'''、'''[[母里藩]]''' ** [[意宇郡]](38村・34,299石余) - 松江藩、広瀬藩 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[松江県]]'''、'''[[広瀬県]]'''、'''[[母里県]]'''の管轄となる。 ** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[島根県]]'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 国府 === 『[[和名抄]]』によれば国府は[[意宇郡]]にあり、[[松江市]]大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)周辺という説もあった)。『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され、松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされている。発掘調査で、多数の[[掘立柱建物]]跡、「大原評□磯部安□」と記された木簡、「駅」・「少目」などと記された墨書土器、硯・分銅・瓦などが出土した。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁のもっとも古い例の一つだとされている。 === 国分寺・国分尼寺 === ; 出雲国分寺跡 : 国府跡北東の[[松江市]]竹矢町に存在する遺跡から南門・中門・金堂・講堂・僧坊などの遺構が発見され、東大寺式伽藍配置であることが判明した。 尼寺跡は国分寺跡の東にあり、建物の礎石や築地が設置されていたであろう跡、溝などの遺構が検出されている。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社2座2社・小社185座の計187座が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも[[名神大社]]である。[[出雲国の式内社一覧]]を参照。 * [[意宇郡]] 熊野坐神社 (現 [[熊野大社]]、松江市八雲町熊野) * [[出雲郡]] 杵築大社 (現 [[出雲大社]]、出雲市大社町杵築東) ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 [[六所神社 (松江市)|六所神社]] (松江市大草町) * 一宮 '''[[出雲大社]]''' - 古代には熊野大社の方が上位で[[一宮]]とされていたが、中世に逆転し、出雲大社が一宮とされるようになった。 二宮以下は存在しないとみられるが、[[佐太神社]](松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。 [[10月]]の異称の「'''[[神無月]]'''」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の[[御師]]が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「'''神在月'''」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。 == 地域 == === 郡 === * [[意宇郡]] 「おうぐん」と読む。初期には「いう」とも発音された。 * [[能義郡]] 「のぎぐん」と読む。意宇郡から分かれて成立した。 * [[島根郡]] 「しまねぐん」と読む。 * [[秋鹿郡]] 「あいかぐん」と読む。 * [[楯縫郡]] 「たでぬいぐん」と読む。 * [[出雲郡]] 「いずもぐん」と読む。中世には「出東郡(しゅっとうぐん)」と書かれた。 * [[神門郡]] 「かんどぐん」と読む。 * [[飯石郡]] 「いいしぐん」と読む。古くは「いひし」と表記。 * [[仁多郡]] 「にたぐん」と読む。 * [[大原郡]] 「おおはらぐん」と読む。 === 江戸時代の藩 === *[[松江藩]]、堀尾家(24万石)→[[京極氏|京極家]](24万石)→[[越前松平家]](18.6万石) *[[松江藩#広瀬藩領|広瀬藩]](松平松江藩支藩、3万石→1万5千石→2万石→3万石) *[[松江藩#母里藩領|母里藩]](松平松江藩支藩、1万石) *[[松江藩#松江新田藩|松江新田藩]](松平松江藩支藩、1万石)→本藩に戻る == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 出雲守 ==== *[[忌部子人]]:[[和銅]]3年([[710年]])任官 *[[船秦勝]]:[[霊亀]]2年([[716年]])任官 *[[百済王敬福]]:[[天平宝字]]元年([[757年]])任官 *[[藤原清縄]]:[[弘仁]]3年([[812年]])任官 *[[凡河内広恒]]:[[延喜]]14年([[914年]])任官 *[[内蔵時景]]:[[承平 (日本)|承平]]6年([[936年]])任官 *[[十市有象]]:[[天暦]]2年([[948年]])任官 *[[浅井守行]]:[[天徳 (日本)|天徳]]元年([[957年]])任官 *[[多治文正]]:天徳2年([[958年]])任官 *[[橘秦胤]]:[[応和]]2年([[962年]])任官 *[[藤原登任]]:1015年頃 *[[藤原成親]]:[[治安 (元号)|治安]]3年([[1022年]])任官 *[[橘孝親]]:[[万寿]]2年([[1025年]])任官 *[[大中臣頼宣]]:[[天喜]]元年([[1053年]])任官 *[[藤原章俊]]:[[治暦]]元年([[1065年]])任官 *[[藤原宗実]]:治暦3年([[1067年]])任官 *[[源経仲]]:[[承暦]]元年([[1077年]])任官 *[[高階重仲]]:[[寛治]]六年([[1092年]])任官 *[[藤原忠清]]:[[承徳]]元年([[1097年]])任官 *[[藤原家保]]:[[長治]]元年([[1104年]])任官 *[[藤原顕頼]]:[[天仁]]元年([[1108年]])任官 *[[藤原隆頼]]:[[永久 (元号)|永久]]二年([[1114年]])任官 *[[藤原憲方]]:[[保安 (元号)|保安]]二年([[1121年]])任官 *[[藤原経陸]]:[[大治 (日本)|大治]]三年([[1128年]])任官 *[[源光保]]:[[久寿]]元年([[1154年]])任官 *[[佐々木義清]]:[[嘉禄]]元年([[1225年]])任官 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[安達親長]]([[1190年]] - [[1199年]]) *不明(1199年 - [[1225年]]) *[[佐々木義清]](1225年 - [[1233年]]) *[[佐々木政義]](1233年 - [[1248年]]) *[[佐々木泰清]](1248年 - [[1278年]]) *[[塩冶頼泰]]([[1284年]] - [[1288年]]) *[[塩冶貞清]]([[1303年]] - [[1326年]]) *[[塩冶高貞]](1326年 - [[1336年]]) ==== 室町幕府 ==== *塩冶高貞(1336年 - [[1341年]]) *[[山名時氏]](1341年 - [[1343年]]) *[[佐々木道誉|京極高氏]](1343年 - [[1349年]]) *山名時氏(1349年 - [[1352年]]) *京極高氏(1352年 - [[1365年]]) *不明(1365年 - [[1366年]]) *京極高氏(1366年 - [[1368年]]) *[[佐々木高秀|京極高秀]](1368年 - [[1379年]]) *[[山名義幸]](1379年 - [[1385年]]) *[[山名満幸]](1385年 - [[1391年]]) *不明(1391年 - [[1392年]]) *[[京極高詮]](1392年 - [[1401年]]) *[[京極高光]](1401年 - [[1413年]]) *[[京極持高]](1413年 - [[1439年]]) *[[京極高数]](1439年 - [[1441年]]) *[[京極持清]](1441年 - [[1470年]]) *[[京極孫童子丸]](1470年 - [[1471年]]) *[[京極高清|京極乙童子丸]](1472年 - [[1473年]]) *[[京極政経]](1473年 - [[1508年]]) *[[京極吉童子丸]](1508年 - [[1551年]]以前) *[[尼子晴久]](1551年 - [[1560年]]) *[[尼子義久]](1560年 - [[1566年]]) ===国人=== {{節スタブ}} *[[塩冶氏]] - 佐々木氏庶流。室町幕府奉公衆。 *[[三沢氏]] - 西遷御家人。本姓飯嶋氏。 *[[三刀屋氏]] - 西遷御家人。満快流信濃源氏。 *[[赤穴氏]] - [[石見国|石見]]佐波氏派生。 *[[神西氏]] *[[宍道氏]] *[[末次氏]] *[[大西氏]] *[[湯原氏]] *[[牛尾氏]] *[[米原氏]] === 戦国大名 === *[[尼子氏]] *[[毛利氏]] ===織豊大名=== *[[毛利輝元]] === 武家官位の出雲守 === ==== 江戸時代以前 ==== *[[石川数正]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名 *[[吉田重賢]]:戦国時代の武将・弓術家。近世[[弓術]]の主流となった吉田流([[日置流]])弓術の祖 ==== 江戸時代 ==== *[[丹波国|丹波]][[柏原藩]][[織田氏|織田家]] **[[織田信朝]]:第2代藩主 **[[織田信憑]]:第4代藩主 **[[織田信貞 (丹波柏原藩主)|織田信貞]]:第7代藩主 **[[織田信敬]]:第8代藩主 **[[織田信親]]:第10代藩主、柏原藩知事 *[[伊予国|伊予]][[新谷藩]][[加藤氏|加藤家]] **[[加藤泰觚]]:第2代藩主 **[[加藤泰賢]]:第6代藩主 **[[加藤泰令]]:第9代藩主。新谷藩知事 *[[飛騨国|飛騨]][[飛騨高山藩|高山藩]][[金森氏|金森家]] **[[金森可重]]:第2代藩主 **[[金森重頼]]:第3代藩主 **[[金森頼旹]]:第6代藩主 *[[筑後国|筑後]][[三池藩]][[立花氏|立花家]] **[[立花貫長]]:第4代藩主 **[[立花種周]]:第6代藩主 **[[立花種恭]]:[[陸奥国|陸奥]][[下手渡藩]]第3代藩主、三池藩再封初代藩主 *[[越後国|越後]][[新発田藩]][[溝口氏|溝口家]] **[[溝口宣直]]:第3代藩主 **[[溝口直温]]:第7代藩主 **[[溝口直侯]]:第9代藩主 *その他 **[[池田長常]]:[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]第2代藩主 **[[板倉重泰]]:陸奥[[福島藩]]第2代藩主 **[[大岡忠光]]:[[上総国|上総]][[勝浦藩]]主、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]初代藩主。第9代将軍徳川家重の側近 **[[大久保教義]]:[[相模国|相模]][[荻野山中藩]]第3代藩主 **[[大田原友清]]:[[下野国|下野]][[大田原藩]]第8代藩主 **[[大田原広清]]:大田原藩第12代藩主 **[[織田信武]]:[[大和国|大和]][[宇陀松山藩]]第4代藩主 **[[久世広周]]:[[下総国|下総]][[関宿藩]]第7代藩主 **[[久世広文]]:関宿藩第8代藩主 **[[久留島通同]]:[[豊後国|豊後]][[森藩]]第7代藩主 **[[津軽承保]]:陸奥[[黒石藩]]第3代藩主 **[[戸田忠位]]:下野[[足利藩]]第3代藩主 **[[堀直旧]]:越後[[椎谷藩]]第4代藩主 **[[堀之敏]]:椎谷藩第12代藩主 **[[堀尾忠氏]]:出雲[[松江藩]]第2代藩主 **[[本多忠朝]]:上総[[大多喜藩]]第2代藩主 **[[本多政利]]:大和[[郡山藩]]、[[播磨国|播磨]][[明石藩]]、陸奥[[大久保藩]]主 **[[松平勝隆]]:上総[[佐貫藩]]初代藩主 **[[松平重治]]:佐貫藩第2代藩主 **[[松平斉恒]]:松江藩第8代藩主 **[[松平定安]]:松江藩第10代藩主 **[[松平直春]]:越後[[糸魚川藩]]第6代藩主 **[[松平義昌]]:陸奥[[梁川藩]]初代藩主 **[[松平義方]]:梁川藩第2代藩主 **[[森忠興]]:播磨[[赤穂藩]]第6代藩主 == 出雲国の合戦 == *[[1107年]] - [[1108年]]:[[源義親の乱]]、追討軍([[平正盛]]) x [[源義親]] *[[1542年]]:[[月山富田城の戦い#第一次月山富田城の戦い|第一次月山富田城の戦い]]、[[尼子晴久]](約20,000人の軍勢) x [[大内義隆]]・[[毛利元就]](戦力不明) *[[1562年]] - [[1563年]]:[[月山富田城の戦い#白鹿城の戦い|白鹿城の戦い]]、毛利(毛利元就、[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]等20,000人の軍勢) x 尼子([[尼子倫久]]等12,000人の軍勢) [[1565年]] - [[1565年]]:[[月山富田城の戦い#第二次月山富田城の戦い|第二次月山富田城の戦い]]、毛利(毛利元就、吉川元春、小早川隆景等35,000人の軍勢) x 尼子([[尼子義久]]、尼子倫久、[[尼子秀久]]等10,000人の軍勢) *[[1570年]]:[[布部山の戦い]]、毛利([[毛利輝元]]、吉川元春、小早川隆景等13,020人の軍勢) x 尼子旧臣([[尼子勝久]]、[[山中幸盛]]、[[立原久綱]]等6,800人の軍勢) ==出雲国の戦国大名== *[[尼子経久]] *[[尼子晴久]] *[[尼子義久]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * 西ヶ谷恭弘編集『国別守護・戦国大名辞典』(東京堂出版、1998年) * 『[[角川日本地名大辞典]] 32 島根県』 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Izumo Province}} * [[令制国一覧]] * [[日本神話#出雲神話|出雲神話]] * [[古代出雲]] * [[出雲国造]] * [[出雲国風土記]] * [[出雲市]] * [[八雲]] * [[出雲 (装甲巡洋艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[装甲巡洋艦]]。[[出雲型装甲巡洋艦]]の1番艦。艦名は出雲国に因む。 * [[いずも (護衛艦)]]‐[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。[[いずも型護衛艦]]の1番艦。 * [[サンライズ出雲]] * [[やくも]] * [[中海・宍道湖・大山圏域]] * [[山陰自動車道]] {{令制国一覧}} {{出雲国の郡}} {{Japanese-history-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いすものくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陰道|国いすも]] [[Category:島根県の歴史]] [[Category:出雲国|*]]
2003-09-08T08:32:51Z
2023-12-30T05:57:30Z
false
false
false
[ "Template:Japanese-history-stub", "Template:基礎情報 令制国", "Template:Quotation", "Template:節スタブ", "Template:Commonscat", "Template:令制国一覧", "Template:Normdaten", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:出雲国の郡" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD
15,747
隠岐国
隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。 平城宮(平城京)木簡には「隠伎国」と表記されている。六国史の表記過程では、『続日本紀』(794年)に、「隠伎」や「隠岐」と表記され、『日本後紀』(840年)以降は、「隠岐」に統一されている(佐藤信 『日本古代の宮都と木簡』 日本史学研究叢書 1997年 pp.369 - 370)。 隠岐諸島(おきしょとう)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。西ノ島、中ノ島、知夫里島と島後(どうご)の4島に人が住み、島後に対して前3島を島前(どうぜん)と呼ぶ。 古墳時代(応神天皇朝)に天八現津彦命の後裔が意岐国造に任命され、その支配領域は7世紀の律令制隠岐国に引き継がれた。 『和名類聚抄』によれば、国府は周吉郡にあった。現在の隠岐郡隠岐の島町で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺構は発見されていない。 延喜式内社 総社・一宮以下 『大日本国一宮記』では由良比女神社を一宮とするが、実態から言って水若酢神社が一宮であったとされる。二宮以下はなし。 隠岐は配流地であり、後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された。 元弘2年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。 尼子氏は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。その後、三男の吉川経言に隠岐一国が分与されたが、後に経言(広家と改名)が吉川氏を相続したために再び吉川宗家の所領に吸収された。 隠岐は松江藩(堀尾家、京極家)の分国となったが、寛永15年(1638年)以降は天領となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "平城宮(平城京)木簡には「隠伎国」と表記されている。六国史の表記過程では、『続日本紀』(794年)に、「隠伎」や「隠岐」と表記され、『日本後紀』(840年)以降は、「隠岐」に統一されている(佐藤信 『日本古代の宮都と木簡』 日本史学研究叢書 1997年 pp.369 - 370)。", "title": "「隠岐」の名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "隠岐諸島(おきしょとう)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。西ノ島、中ノ島、知夫里島と島後(どうご)の4島に人が住み、島後に対して前3島を島前(どうぜん)と呼ぶ。", "title": "隠岐諸島" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古墳時代(応神天皇朝)に天八現津彦命の後裔が意岐国造に任命され、その支配領域は7世紀の律令制隠岐国に引き継がれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『和名類聚抄』によれば、国府は周吉郡にあった。現在の隠岐郡隠岐の島町で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺構は発見されていない。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "延喜式内社", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "総社・一宮以下", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『大日本国一宮記』では由良比女神社を一宮とするが、実態から言って水若酢神社が一宮であったとされる。二宮以下はなし。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "隠岐は配流地であり、後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "元弘2年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "尼子氏は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。その後、三男の吉川経言に隠岐一国が分与されたが、後に経言(広家と改名)が吉川氏を相続したために再び吉川宗家の所領に吸収された。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "隠岐は松江藩(堀尾家、京極家)の分国となったが、寛永15年(1638年)以降は天領となった。", "title": "地域" } ]
隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 隠岐国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|隠岐国}} |別称 = 隠州(おんしゅう、いんしゅう) |所属 = [[山陰道]] |領域 = [[島根県]]隠岐郡([[隠岐諸島]]) |国力 = [[下国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 4郡12郷 |国府 = 島根県[[隠岐郡]][[隠岐の島町]] |国分寺 = 島根県隠岐郡隠岐の島町 |国分尼寺 = 島根県隠岐郡隠岐の島町([[隠岐国分尼寺跡]]) |一宮 = [[水若酢神社]](島根県隠岐郡隠岐の島町) }} '''隠岐国'''(おきのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。 == 「隠岐」の名称 == 平城宮(平城京)[[木簡]]には「隠伎国」と表記されている。六国史の表記過程では、『続日本紀』(794年)に、「隠伎」や「隠岐」と表記され、『日本後紀』(840年)以降は、「隠岐」に統一されている(佐藤信 『日本古代の宮都と木簡』 日本史学研究叢書 1997年 pp.369 - 370)。 == 隠岐諸島 == [[隠岐諸島]](おきしょとう)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。[[西ノ島]]、[[中ノ島 (島根県)|中ノ島]]、[[知夫里島]]と[[島後]](どうご)の4島に人が住み、島後に対して前3島を[[島前]](どうぜん)と呼ぶ。 == 沿革 == [[古墳時代]]([[応神天皇]]朝)に[[天八現津彦命]]の後裔が[[億岐氏|意岐国造]]に任命され、その支配領域は[[7世紀]]の律令制隠岐国に引き継がれた。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点で全域が[[天領|幕府領]]([[松江藩]][[預地]])であった。(61村・12,559石余) ** [[海士郡]](8村・2,465石余)、[[知夫郡]](5村・3,204石余)、[[穏地郡]](16村・2,982石余)、[[周吉郡]](32村・3,906石余) * [[慶応]]4年([[1868年]]) ** [[3月20日]]([[1868年]][[4月12日]]) - [[隠岐騒動]]により島民自治となる。 ** [[11月6日]](1868年[[12月19日]]) - [[鳥取藩]]預地となる。 * 明治2年([[1869年]]) ** [[2月25日]]([[1869年]][[4月6日]]) - '''[[隠岐県]]'''の管轄となる。 ** [[8月2日]](1869年[[9月7日]]) - '''[[大森県]]'''の管轄となる。 * 明治4年([[1871年]]) ** [[6月25日]]([[1871年]][[8月11日]]) - '''[[浜田県]]'''の管轄となる。 ** [[11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により'''[[島根県]]'''の管轄となる。 ** [[12月20日]]([[1872年]][[1月29日]]) - '''[[鳥取県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''島根県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === 『[[和名類聚抄]]』によれば、[[国府]]は周吉郡にあった。現在の[[隠岐郡]][[隠岐の島町]]で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺構は発見されていない。 === 国分寺 === [[File:Oki Kokubunji sekihi.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[隠岐国分寺]]境内 史跡碑<br />([[隠岐の島町]]池田)}}]] [[File:Oki Kokubun-niji-ato gaikan.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[隠岐国分尼寺跡]] 説明板<br />(隠岐の島町有木)}}]] * [[隠岐国分寺|隠岐国分寺跡]](所在未詳) *: 後継寺院の[[隠岐国分寺|禅尾山国分寺]](隠岐郡隠岐の島町池田、{{Coord|36|13|27.65|N|133|18|26.52|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=禅尾山国分寺(隠岐国分寺後継寺院)}})境内に位置すると推測されるが、詳らかではない。[[2009年]]度(平成21年度)からの発掘調査で根巻き瓦を有する柱穴列が検出されており、これが旧国分寺の遺構になる可能性がある<ref>禅尾山国分寺 境内説明板。</ref>。また現国分寺境内には旧国分寺のものという礎石が伝世される。法燈は禅尾山国分寺が伝承し、禅尾山国分寺の境内域は「隠岐国分寺境内」として国の[[史跡]]に指定されている。 * [[隠岐国分尼寺跡]](隠岐郡隠岐の島町有木、{{Coord|36|13|16.76|N|133|18|37.98|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=隠岐国分尼寺跡}}) *: 島根県指定史跡。現国分寺の南東方約500メートルに位置する。寺域は1町(約109メートル)四方と推定される。金堂・講堂・中門と見られる建物跡などが検出されているが、金堂・講堂が東西に並ぶという通常とは異なる伽藍配置であり、国分尼寺ではないとする説もある<ref>隠岐国分尼寺跡 説明板。</ref>。後継寺院はない。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社4座4社・小社12座11社の計16座15社が記載されている(「[[隠岐国の式内社一覧]]」参照)。大社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。 * [[知夫郡]] 由良比女神社 ** 比定社:[[由良比女神社]](隠岐郡[[西ノ島町]]浦郷、{{Coord|36|5|31.01|N|132|59|16.26|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=名神大社:由良比女神社}}) * [[海士郡|海部郡]] 宇受加命神社 ** 比定社:[[宇受賀命神社]](隠岐郡[[海士町]]宇受賀、{{Coord|36|6|58.08|N|133|6|32.17|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=名神大社:宇受賀命神社}}) * [[穏地郡]] 水若酢命神社 ** 比定社:[[水若酢神社]](隠岐郡隠岐の島町郡) * 穏地郡 伊勢命神社 ** 比定社:[[伊勢命神社]](隠岐郡隠岐の島町久見、{{Coord|36|19|11.62|N|133|14|7.61|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=名神大社:伊勢命神社}}) [[File:Mizuwakasu-jinja shaden.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[水若酢神社]](隠岐の島町郡)}}]] '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">中世諸国一宮制研究会編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年、pp. 440-442。</ref>。 * 総社:[[玉若酢命神社]](隠岐郡隠岐の島町下西、{{Coord|36|12|25.59|N|133|18|45.22|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=隠岐国総社:玉若酢命神社}}) * 一宮:[[水若酢神社]](隠岐郡隠岐の島町郡、{{Coord|36|16|48.82|N|133|14|56.55|E|region:JP-32_type:landmark|display=inline|name=隠岐国一宮、名神大社:水若酢神社}}) 『[[大日本国一宮記]]』では由良比女神社を一宮とするが、実態から言って水若酢神社が一宮であったとされる<ref name="一宮制"/>。二宮以下はなし。 === 後醍醐天皇の行在所 === 隠岐は[[流罪|配流地]]であり、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]や[[後醍醐天皇]]などが流された。 [[元弘]]2年([[1332年]])に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の[[行在所]]と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる[[黒木御所|黒木御所址]]や黒木神社、寵姫の[[阿野廉子]]の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方[[国分寺]]の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。 == 地域 == === 郡 === * [[海士郡]](海部郡) * [[知夫郡]](知夫里郡) * [[穏地郡]](隠地郡) * [[周吉郡]] === 戦国時代 === [[尼子氏]]は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は[[毛利氏]]一門の[[吉川元春]]の支配となった。その後、三男の[[吉川経言]]に隠岐一国が分与されたが、後に経言(広家と改名)が吉川氏を相続したために再び吉川宗家の所領に吸収された。 === 江戸時代 === 隠岐は[[松江藩]](堀尾家、京極家)の分国となったが、[[寛永]]15年([[1638年]])以降は天領となった。 == 人物 == === 国司 === * [[犬養大万侶]]:[[天平]]5年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[733年]][[3月13日 (旧暦)|3月13日]])見 * [[民古麻呂]]:天平5年2月19日(733年3月13日)見 * [[日下部乙万呂]]:[[天平宝字]]元年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[757年]][[8月28日]])見 * [[下道黒麻呂]]:天平宝字6年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[762年]][[5月3日]])任 * [[坂本男足]]:天平宝字8年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]([[764年]][[11月10日]])任 * [[石川永年]]:[[天平神護]]元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[765年]][[8月25日]])任 * [[越智貞厚]]:[[貞観 (日本)|貞観]]11年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[869年]][[12月7日]])見 * [[伴有世]]:[[仁和]]2年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[886年]][[3月16日]])見 * (姓欠)良宗:[[延喜]]16年([[916年]])見 * [[吉備忠常]]:延喜16年(916年)見 * [[八木雅光]]:[[長徳]]2年([[996年]])任 * 語(名欠):[[長保]]2年([[1000年]])任 * 滋野(名欠):[[寛弘]]4年([[1007年]])任 * [[藤原親通]]:寛弘6年([[1009年]])任終 * [[藤原実雅]]:寛弘7年1月([[1010年]]1月)任、[[長和]]3年1月([[1014年]]2月)得替 *(姓欠)遠晴:長和3年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]](1014年[[3月4日]])見 *(姓欠)時重:[[治安 (日本)|治安]]1年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]([[1022年]][[1月26日]])見 * [[源道成]]:[[長元]]4年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]([[1031年]][[2月25日]])見 * [[宗岡国任]]:長元7年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1034年]][[2月26日]])任 * [[八木元蔭]]:長元8年1月([[1035年]]2月)任、[[長暦]]2年1月([[1038年]]2月)停 * [[平兼基]]:[[承暦]]4年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[1080年]][[8月25日]])見 * [[卜部兼経]]:[[永保]]元年([[1081年]])見 * [[源成経]]:永保元年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]([[1082年]][[1月23日]])功過 * [[平資季]]:[[応徳]]元年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]([[1084年]][[3月2日]])見 * (姓欠)経直:[[寛治]]7年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1093年]][[7月11日]])見 * [[橘為重]]:[[嘉保]]元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1094年]][[3月17日]])任 * [[紀成久]]:嘉保元年12月([[1095年]]1月)任 * [[平正盛]]:[[承徳]]元年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1097年]][[10月9日]])任 * (姓欠)延行:[[嘉承]]元年([[1106年]])任 * [[藤原実盛]]:[[元永]]元年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1118年]][[2月17日]])任 * [[藤原資定]]:[[大治 (日本)|大治]]元年2月([[1126年]]3月)任 * [[中原師遠]]:大治5年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[1130年]][[3月16日]])任 * [[大江行重]]:[[長承]]元年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]([[1132年]][[12月16日]])見 * (大江?)遠兼:[[保延]]元年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1135年]][[8月14日]])見 * [[藤原資憲]]:保延4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[1138年]][[6月17日]])見 * [[藤原光忠]]:保延5年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1139年]][[3月3日]])任隠岐権介、※下国の隠岐に介は無いため讃岐権介か? * [[藤原信盛]]:[[久安]]3年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[1147年]][[3月8日]])任 * [[平繁賢]]:久安3年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]](1147年[[8月23日]])見 * [[藤原家輔]]:[[仁平]]2年1月28日([[1152年]][[3月13日]])任 * (姓欠)宗輔:[[久寿]]元年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1154年]][[2月23日]])見 * [[源雅範]]:[[保元]]2年1月24日([[1157年]]3月13日)任 * [[源光保|源光泰]]:[[平治]]元年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1160年]][[1月27日]])任 * [[秦松国]]:平治元年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1159年]][[2月25日]])任 * [[佐々木義清]]:嘉禄3年3月21日([[1227年]][[4月8日]]<ref>『明月記』嘉禄3年3月21日條</ref>) === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *1193年 - 1205年:[[佐々木定綱]] *1205年 - 1221年:[[佐々木広綱]]<ref>『隠岐古記集』に「承久三年、隠岐地頭・(佐々木)広綱、定綱嫡子。(広綱は)佐々木判官民部大輔山城守左衛門尉従五位下、元久二年より承久三年迄地頭たり、後島羽院に従て関東を討、依之地頭職を失ふ」とあり。</ref> *1221年 - 1227年:[[佐々木義清]] *1233年 - 1251年:[[佐々木政義]]<ref>佐々木政義、無断出家により家督から外される。(『[[吾妻鏡]]』第40巻、建長2年12月29日庚申([[1251年]][[1月22日]])條</ref> *1251年 - 1276年 - [[佐々木泰清]] *1277年 - ?:[[高岡宗泰|佐々木宗泰]] * ? - 1305年:[[隠岐時清|佐々木時清]] *1305年 - 1332年:[[佐々木宗清]] *1332年 - 1333年:[[佐々木清高]] ==== 室町幕府 ==== *1336年 - 1341年:[[塩冶高貞]] *1341年 - 1343年:[[山名時氏]] *1343年 - 1349年:[[佐々木道誉|京極高氏]] *1351年 - 1352年:山名時氏 *1352年 - ?:京極高氏 *1365年 - ?:佐々木氏 *1366年 - 1368年:京極高氏 *1368年 - 1379年:[[佐々木高秀|京極高秀]] *1379年 - 1381年:[[山名義幸]] *1385年 - 1391年:[[山名満幸]] *1392年 - 1401年:[[京極高詮]] *1401年 - 1413年:[[京極高光]] *1413年 - 1434年:[[京極持高|京極持光]] *1435年 - 1439年:[[京極持高]] *1439年 - 1441年:[[京極高数]] *1441年 - 1470年:[[京極持清]] *1470年 - 1471年:京極氏 *1471年 - 1508年:[[京極政経|京極政高]] *1508年 - ?:京極氏 *1552年 - 1561年:[[尼子晴久]] === 武家官位としての隠岐守 === *江戸時代以前 **[[石田正継]]:[[石田三成]]の父 **[[垣屋恒総]]:室町時代末期から安土桃山時代の武将、[[豊臣政権]]の大名 **[[後藤基次]]:江戸時代初期の武将。後藤又兵衛として有名 **[[佐々木義清]]:平安時代末期から鎌倉時代初期の佐々木一族の武将。鎌倉幕府御家人。出雲源氏の祖 **[[佐々木清高]]:鎌倉時代末期の武将。隠岐守護 **[[佐藤秀方]]:戦国時代、安土桃山時代の武将。織豊政権の大名 **[[土岐光定]]:鎌倉時代後期の武将。美濃源氏嫡流の土岐氏 **[[山名氏之]]:南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。[[伯耆国|伯耆]]守護 **[[龍造寺家氏]]:室町時代から戦国時代にかけての[[肥前国|肥前]]の国人領主、[[龍造寺氏]]第12代当主 *江戸時代[[石見国|石見]][[津和野藩]]亀井家 **[[亀井茲親]]:第3代藩主 **[[亀井茲胤]]:第6代藩主 **[[亀井矩賢]]:第8代藩主 **[[亀井茲監]]:第11代藩主 *江戸時代[[下総国|下総]][[関宿藩]]久世家 **[[久世暉之]]:の第3代藩主 **[[久世広周]]:第7代藩主 **[[久世広文]]:第8代藩主 **[[久世広誉]]:第5代藩主 *江戸時代[[遠江国|遠江]][[横須賀藩]]西尾家 **[[西尾吉次]]:西尾家初代。[[武蔵国|武蔵]][[原市藩]]主 **[[西尾忠成]]:同4代。[[駿河国|駿河]][[田中藩]]第2代藩主、[[信濃国|信濃]][[小諸藩]]主、[[横須賀藩]]初代藩主 **[[西尾忠尚]]:同5代。横須賀藩第2代藩主 **[[西尾忠移]]:同7代。横須賀藩第4代藩主 **[[西尾忠善]]:同8代。横須賀藩第5代藩主 **[[西尾忠固]]:同9代。横須賀藩第6代藩主 **[[西尾忠受]]:同10代。横須賀藩第7代藩主 **[[西尾忠篤]]:同11代。横須賀藩第8代藩主、[[安房国|安房]][[花房藩]]主 *江戸時代[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]定勝系久松松平家宗家 **[[松平定勝]]:定勝系久松松平家宗家初代。遠江[[掛川藩]]主、[[山城国|山城]][[伏見藩]]主、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]初代藩主 **[[松平定行]]:同2代。遠江掛川藩主、伊勢桑名藩主、伊予松山藩初代藩主 **[[松平定頼]]:同3代。伊予松山藩第2代藩主 **[[松平定長]]:同4代。伊予松山藩第3代藩主 **[[松平定直]]:同5代。伊予松山藩4代藩主 **[[松平定英]]:同6代。伊予松山藩5代藩主 **[[松平定喬]]:同7代。伊予松山藩6代藩主 **[[松平定功]]:同8代。伊予松山藩7代藩主 **[[松平定静]]:同9代。伊予松山藩8代藩主 **[[松平定国]]:同10代。伊予国松山藩第9代藩主 **[[松平定通]]:同12代。伊予松山藩11代藩主 **[[松平勝善]]:同13代。伊予松山藩12代藩主 **[[松平勝成]]:同14代・16代。伊予松山藩13代および15代(再勤)の藩主 *江戸時代その他 **[[板倉重常]]:下総[[関宿藩]]第3代藩主、伊勢[[伊勢亀山藩|亀山藩]]初代藩主。板倉家宗家4代 **[[板倉勝従]]:[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]第3代藩主。板倉家宗家9代 **[[大久保忠増]]:[[相模国|相模]][[小田原藩]]第2代藩主・老中 **[[朽木昌綱]]:[[丹波国|丹波]][[福知山藩]]第8代藩主 **[[朽木綱条]]:福知山藩の第11代藩主 **[[新庄直時]]:[[常陸国|常陸]][[麻生藩]]第4代藩主、再任して第6代藩主 **[[田村宗良]]:[[陸奥国|陸奥]][[岩沼藩]]初代藩主 **[[田村村顕]]:陸奥[[一関藩]]第3代藩主 **[[蜂須賀宗員]]:[[阿波国|阿波]][[徳島藩]]第6代藩主 **[[本多康慶]]:[[近江国|近江]][[膳所藩]]第4代藩主 **[[本多康桓]]:膳所藩第7代藩主 **[[水野勝長]]:[[能登国|能登]][[西谷藩]]主、下総[[結城藩]]初代藩主 ==隠岐に流された人物== *[[藤原田麻呂]] *[[船王]] *[[藤原刷雄]] *[[小野篁]] *[[伴健岑]] *[[平致頼]] *[[源義親]] *[[藤原経憲]] *[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]] *[[後醍醐天皇]] *[[飛鳥井雅賢]] ==脚注== {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 32 島根県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Oki Province}} * [[隠岐の歴史]] * [[隠岐騒動]] * [[隠岐諸島]] * [[隠岐空港]] * [[隠岐の島町]] * [[国道485号]] * [[隠岐郡]] * [[令制国一覧]] {{令制国一覧}} {{隠岐国の郡}} {{デフォルトソート:おきのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陰道|国おき]] [[Category:島根県の歴史]] [[Category:隠岐国|*]]
2003-09-08T08:35:28Z
2023-12-22T16:34:10Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 令制国", "Template:座標一覧", "Template:Center", "Template:Coord", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:令制国一覧", "Template:隠岐国の郡" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%B2%90%E5%9B%BD
15,752
汽力発電
汽力発電(きりょくはつでん,Steam power generation)とは、高圧の水蒸気でタービン発電機を回し、電力へ変換する発電方法である。火力発電のほか、原子力発電、地熱発電、太陽熱発電などでも利用される。 ランキンサイクル機関であるため、4つの基本的な要素に発電機を加えた次のものから構成される。 汽力発電で用いる熱媒体には水が用いられる。用いる水の圧力と温度によって、発電システムは亜臨界圧、超臨界圧、超々臨界圧などに分けられる(超臨界圧以降は超臨界水)。火力発電においては超臨界水を用いるものが存在するものの、2022年現在、地熱発電や原子力発電においては超臨界水を用いる商業発電所は存在せず、実用研究が行われている状況である(超臨界圧軽水冷却炉を参照)。 類似の発電システムには水以外の作動流体を用いたものも存在する。構成要素としては熱源と作動流体以外は汽力発電とほぼ同様である。 海洋温度差発電においてはアンモニア、冷熱発電においては液化天然ガスなどの沸点の低い媒体が使用される。 熱媒体を超臨界状態の二酸化炭素とした発電システムも実用化に向けた研究が行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "汽力発電(きりょくはつでん,Steam power generation)とは、高圧の水蒸気でタービン発電機を回し、電力へ変換する発電方法である。火力発電のほか、原子力発電、地熱発電、太陽熱発電などでも利用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ランキンサイクル機関であるため、4つの基本的な要素に発電機を加えた次のものから構成される。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "汽力発電で用いる熱媒体には水が用いられる。用いる水の圧力と温度によって、発電システムは亜臨界圧、超臨界圧、超々臨界圧などに分けられる(超臨界圧以降は超臨界水)。火力発電においては超臨界水を用いるものが存在するものの、2022年現在、地熱発電や原子力発電においては超臨界水を用いる商業発電所は存在せず、実用研究が行われている状況である(超臨界圧軽水冷却炉を参照)。", "title": "蒸気の種類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "類似の発電システムには水以外の作動流体を用いたものも存在する。構成要素としては熱源と作動流体以外は汽力発電とほぼ同様である。 海洋温度差発電においてはアンモニア、冷熱発電においては液化天然ガスなどの沸点の低い媒体が使用される。 熱媒体を超臨界状態の二酸化炭素とした発電システムも実用化に向けた研究が行われている。", "title": "蒸気の種類" } ]
汽力発電とは、高圧の水蒸気でタービン発電機を回し、電力へ変換する発電方法である。火力発電のほか、原子力発電、地熱発電、太陽熱発電などでも利用される。
{{Pathnav|発電|frame=1}} {{Otheruses2|水蒸気を用いた発電システム|火力発電の一形式|火力発電所#汽力発電所|火力発電#汽力発電}} [[File:Modern Steam Turbine Generator.jpg|thumb|発電用蒸気タービン]] '''汽力発電'''(きりょくはつでん,Steam power generation)とは、高圧の[[水蒸気]]で[[タービン発電機]]を回し、[[電力]]へ変換する[[発電]]方法である<ref name="fepc">{{Cite web|和書|url=https://www.fepc.or.jp/enterprise/hatsuden/fire/kiryoku/|title=汽力発電 - 火力発電 | 電気事業連合会|accessdate=2022-09-13}}</ref>{{efn|'''汽力発電'''は原義としては水蒸気を用いる発電方法一般を指すものの<ref>{{cite book|pages=85-95|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210327|title=工業通論|author=工業常識普及会 編|date=1933年}}</ref><!-- この文献では汽力原動機の定義として蒸気レシプロ機関と蒸気タービンの両方を含めている -->、21世紀現在では蒸気往復機関は廃れており蒸気タービンによるものを指す。}}。[[火力発電]]のほか{{efn|用例上は火力発電の一方式とされることが多い<ref name="fepc" />。[[火力発電所#汽力発電所]]も参照。}}、[[原子力発電]]、[[地熱発電]]、[[太陽熱発電]]などでも利用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.softbank.jp/energy/special/shizen-denki/column/vol-004/|title=発電方法の種類・しくみ | でんき | ソフトバンク|accessdate=2022-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyuden.co.jp/press_h200901-1.html|title=九州電力 大岳地熱発電所の発電を開始しました -2020年9月1日から試運転による発電を開始-|accessdate=2022-09-13}}</ref>。 == 構成要素 == [[ランキンサイクル]]機関であるため、4つの基本的な要素に[[発電機]]を加えた次のものから構成される。 * [[ボイラー]](蒸気を作るための熱源) ** 原子力発電の場合は[[蒸気発生器 (原子力)|蒸気発生器]]とも呼ばれる。 ** 追加で[[過熱蒸気発生装置]]が用いられる場合もある。 * [[蒸気タービン]] * [[復水器]] - 水を使って冷却する方式が多く用いられるものの、乾燥地域では空冷式の復水器もある。 * 給水[[ポンプ]] * [[発電機]] == 蒸気の種類 == 汽力発電で用いる熱媒体には水が用いられる。用いる水の圧力と温度によって、発電システムは亜臨界圧、超臨界圧、超々臨界圧などに分けられる(超臨界圧以降は[[超臨界水]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/hikouritu_sekitankaryoku.html|title=非効率石炭火力発電をどうする?フェードアウトへ向けた取り組み|スペシャルコンテンツ|資源エネルギー庁|accessdate=2022-09-14}}</ref>。火力発電においては超臨界水を用いるものが存在するものの、2022年現在、地熱発電や原子力発電においては超臨界水を用いる商業発電所は存在せず<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nef.or.jp/keyword/ta/articles_chi_08.html|title=超臨界地熱発電への期待 | 新エネルギー「最近の話題・キーワード」解説コーナ- | 一般財団法人 新エネルギー財団 | WIRED.jp|accessdate=2022-09-14}}</ref>、実用研究が行われている状況である([[超臨界圧軽水冷却炉]]を参照)。 類似の発電システムには水以外の作動流体を用いたものも存在する。構成要素としては熱源と作動流体以外は汽力発電とほぼ同様である。 [[海洋温度差発電]]においては[[アンモニア]]、[[冷熱発電]]においては[[液化天然ガス]]などの沸点の低い媒体が使用される。 熱媒体を超臨界状態の[[二酸化炭素]]とした発電システムも実用化に向けた研究が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2017/07/04/carbon-dioxide-powered-turbines/|title=水蒸気の10倍のエネルギーで発電する「超臨界CO2タービン」技術:米研究者が開発 | WIRED.jp|accessdate=2022-09-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ted-corp.co.jp/co2.html|title= 超臨界CO2ガスタービン発電システム開発|TED 熱技術開発株式会社|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 == 歴史 == * 1887年 - 日本初の発電所が営業開始、発電方式は[[レシプロ蒸気エンジン|蒸気往復機関]]である(広義の汽力発電)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/power/edisondynamo.html|title=理工電子資料館:エジソンダイナモ|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 * 1904年 - 現在の汽力発電の主流である蒸気タービン式発電が日本で初めて稼働<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/heritage_004_jp.html|title=機械遺産Mechanical Engineering Heritage|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 * 1943年 - 汽力発電ではない火力発電の方式として、日本初の発電用[[ガスタービン]]が開発された<ref>{{Cite web|和書|url=https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1949gas/index_j.htm|title=東芝未来科学館:日本初の発電用ガスタービンを完成|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 <!-- おそらく正しいが要出典: この頃まで汽力発電は火力発電と同義であったが、従前の蒸気タービン式の発電方法を指すようになる。 --> * 1966年 - 日本初の商用原子力発電所が運転を開始(火力以外の熱源)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/tokushu/nuclear/nihonnonuclear.html|title=日本における原子力の平和利用のこれまでとこれから|原子力|スペシャルコンテンツ|資源エネルギー庁|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 * 1966年 - 日本初の地熱発電所が運転を開始(火力以外の熱源)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tohoku-epco.co.jp/enviro/ecolog/re_energy/150807.html|title=日本で最初に運転を開始した地熱発電所|東北電力|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 * 1981年 - 研究([[サンシャイン計画]])用の太陽熱発電施設が建設(火力以外の熱源)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1302/19/news009.html|title=日本最小の県が30年前に挑んだメガソーラー、技術の進化で再生:日本列島エネルギー改造計画(37)香川 - スマートジャパン|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 * 1993年 - 日本国内で初の[[超臨界水|超臨界圧発電]]が稼働<ref>{{Cite web|和書|url=http://koueki.jiii.or.jp/innovation100/innovation_detail.php?eid=00101&age=present-day|title=戦後日本のイノベーション100選 現代まで 高効率石炭火力発電|accessdate=2022-09-14}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[火力発電]] * [[熱力学サイクル]] * [[海洋温度差発電]] * [[冷熱発電]] {{発電の種類}} {{tech-stub}} {{DEFAULTSORT:きりよくはつてん}} [[Category:発電]] [[Category:火力発電]]
2003-09-08T08:54:40Z
2023-11-26T18:27:52Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses2", "Template:Efn", "Template:Cite web", "Template:発電の種類", "Template:Tech-stub", "Template:Pathnav" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BD%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB
15,753
立山黒部アルペンルート
立山黒部アルペンルート(たてやまくろべアルペンルート)は、富山県中新川郡立山町の立山駅(立山黒部貫光)と、長野県大町市の扇沢駅(関電トンネル電気バス)とを結ぶ交通路で、総延長37.2 km、世界有数の大規模な山岳観光ルートである。1971年(昭和46年)6月1日に全線が開通した。 富山県の立山駅から東に30.5 km、長野県の扇沢駅から西に6.1 kmの位置に「黒部ダム」がある。 なお、富山地方鉄道の電鉄富山駅から東日本旅客鉄道(JR東日本)大糸線信濃大町駅までとされる場合もある。 立山駅から扇沢駅までは、ほぼ西から東に 25 km 足らずの直線距離だが、最大高低差は 1,975 m(最高2450 m、最低475 m)あり、ルート内の交通機関として、立山連峰の景観を望む立山ロープウェイ、全線地下式のケーブルカー、黒部ダム建設に用いられたトンネルを通る電気バス、日本国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動する。そのほぼ全区間が中部山岳国立公園内にあり、飛騨山脈・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通る。途中駅にはホテル立山などの宿泊施設もあり、それぞれが登山、散策、トレッキング、その他の観光コースの基点にもなっている。本ルートは4月半ばから開通し、11月半ばに閉鎖される(天候によりやや前後する)。 最高地点は、立山登山の基点ともなる室堂で標高 2,450 m。富山県側の立山から黒部湖までの区間は山岳観光や立山登山客の便を図るために作られた。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬のために建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放された。 立山黒部アルペンルートは、富山県と長野県とを最短距離で結ぶ交通路である。しかし、自然保護の観点などから運賃が高額に設定されている、多くの乗り物を乗り継がなければならない(特に黒部湖駅から黒部ダム駅への乗り継ぎでは600 mほど歩く必要がある)、距離の割に所要時間が長いといった理由から、富山・長野間の移動を主目的として用いられることは少ない。利用者の大半は山岳や黒部ダムの観光を目的とする両県外からの観光客である。また、富山空港に韓国や中国、台湾、タイからの国際線が乗り入れるようになってから、これらの国々からの観光客が目立つようになった(英語、中国語、韓国語による旅客案内の整備も行われている)。 なお、桂台料金所 - 美女平間および追分 - 室堂間の立山有料道路(富山県道6号富山立山公園線の一部)は、マイカー規制として路線バス、観光バスや公安委員会の許可を受けた車両、緊急自動車しか通行できない。 当初は富山と長野を結ぶ全線自動車道路が計画されていたが、自然保護団体からの反対を受けて、現在の形で計画されることになった。また、昭和40年代の開通当初には一般車両を通行させる計画もあり、小型乗用車12,800円・普通乗用車18,900円の料金設定がなされたが、交通渋滞や自然環境悪化といった問題も生じるため、実際に一般車両を通行させることなく現在に至っている。最近では乗用車やバスで立山黒部アルペンルートを訪問する観光客に対し、立山駅と扇沢駅の間で運送業者によるマイカー回送のサービスがある。なお、富山県側の道路の室堂までの延長の歴史は「地獄谷 (立山町)#歴史」を参照。 冬季でも設備維持のため扇沢から室堂ターミナルまでは点検・稼動している。 観光の中心は室堂であるが、4月から5月にかけての観光の中心は「雪の大谷」の「雪の大谷ウォーク」(無料)(2019年度より雪の大谷フェスティバルに名称変更)である。1994年に期間3日で始まり、2004年に4月の全線開通から5月末まで、2008年に大型連休中も開放し、2009年に100万人、2014年に200万人を突破した。これは室堂から麓の方へ歩いたところにあり、15メートルから20メートルの雪の壁を目の当たりにすることができる。室堂平では6メートルほどの積雪だが、雪の大谷は国見岳からのびる稜線の風下にあたり、吹きだまりとなってこのような積雪が見られる。 3月頃からGPSで位置を確認しながら除雪が行われる。降雪が少ない台湾や韓国、タイ、マレーシア、シンガポールなどの国からの観光客に大人気のスポットとなっている。立山少年自然の家の研修の中に「雪の大谷」見学を入れる学校も多い。2021年からは富山地方鉄道が日の丸自動車興業のオープントップバス「スカイバス東京」を借り入れ、車窓から雪の大谷を楽しむツアーが5月中旬から下旬まで運行される。 立山駅から扇沢駅まで、乗り換え時間を含めない合計移動時間は2時間弱。ただし繁忙期は各々の交通機関の待ち時間が1 - 2時間に及び、出発時刻によっては同日中の通り抜けができなくなることもある。なお、運行ダイヤについては時刻表に記載の便の他にも待ち具合によっては臨時便の増発・増便があるため、繁忙期であっても比較的スムーズに乗り継げることがある。 黒部ケーブルカーは日本で唯一の全線トンネル内運行。また、立山ロープウェイは途中に支柱を1本も設けていないワンスパン方式で、全長1,710 mと同方式では日本一の長さとなっている。これらは景観保護やなだれによる被害を防ぐためでもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "立山黒部アルペンルート(たてやまくろべアルペンルート)は、富山県中新川郡立山町の立山駅(立山黒部貫光)と、長野県大町市の扇沢駅(関電トンネル電気バス)とを結ぶ交通路で、総延長37.2 km、世界有数の大規模な山岳観光ルートである。1971年(昭和46年)6月1日に全線が開通した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "富山県の立山駅から東に30.5 km、長野県の扇沢駅から西に6.1 kmの位置に「黒部ダム」がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、富山地方鉄道の電鉄富山駅から東日本旅客鉄道(JR東日本)大糸線信濃大町駅までとされる場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "立山駅から扇沢駅までは、ほぼ西から東に 25 km 足らずの直線距離だが、最大高低差は 1,975 m(最高2450 m、最低475 m)あり、ルート内の交通機関として、立山連峰の景観を望む立山ロープウェイ、全線地下式のケーブルカー、黒部ダム建設に用いられたトンネルを通る電気バス、日本国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動する。そのほぼ全区間が中部山岳国立公園内にあり、飛騨山脈・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通る。途中駅にはホテル立山などの宿泊施設もあり、それぞれが登山、散策、トレッキング、その他の観光コースの基点にもなっている。本ルートは4月半ばから開通し、11月半ばに閉鎖される(天候によりやや前後する)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最高地点は、立山登山の基点ともなる室堂で標高 2,450 m。富山県側の立山から黒部湖までの区間は山岳観光や立山登山客の便を図るために作られた。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬のために建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "立山黒部アルペンルートは、富山県と長野県とを最短距離で結ぶ交通路である。しかし、自然保護の観点などから運賃が高額に設定されている、多くの乗り物を乗り継がなければならない(特に黒部湖駅から黒部ダム駅への乗り継ぎでは600 mほど歩く必要がある)、距離の割に所要時間が長いといった理由から、富山・長野間の移動を主目的として用いられることは少ない。利用者の大半は山岳や黒部ダムの観光を目的とする両県外からの観光客である。また、富山空港に韓国や中国、台湾、タイからの国際線が乗り入れるようになってから、これらの国々からの観光客が目立つようになった(英語、中国語、韓国語による旅客案内の整備も行われている)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、桂台料金所 - 美女平間および追分 - 室堂間の立山有料道路(富山県道6号富山立山公園線の一部)は、マイカー規制として路線バス、観光バスや公安委員会の許可を受けた車両、緊急自動車しか通行できない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初は富山と長野を結ぶ全線自動車道路が計画されていたが、自然保護団体からの反対を受けて、現在の形で計画されることになった。また、昭和40年代の開通当初には一般車両を通行させる計画もあり、小型乗用車12,800円・普通乗用車18,900円の料金設定がなされたが、交通渋滞や自然環境悪化といった問題も生じるため、実際に一般車両を通行させることなく現在に至っている。最近では乗用車やバスで立山黒部アルペンルートを訪問する観光客に対し、立山駅と扇沢駅の間で運送業者によるマイカー回送のサービスがある。なお、富山県側の道路の室堂までの延長の歴史は「地獄谷 (立山町)#歴史」を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "冬季でも設備維持のため扇沢から室堂ターミナルまでは点検・稼動している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "観光の中心は室堂であるが、4月から5月にかけての観光の中心は「雪の大谷」の「雪の大谷ウォーク」(無料)(2019年度より雪の大谷フェスティバルに名称変更)である。1994年に期間3日で始まり、2004年に4月の全線開通から5月末まで、2008年に大型連休中も開放し、2009年に100万人、2014年に200万人を突破した。これは室堂から麓の方へ歩いたところにあり、15メートルから20メートルの雪の壁を目の当たりにすることができる。室堂平では6メートルほどの積雪だが、雪の大谷は国見岳からのびる稜線の風下にあたり、吹きだまりとなってこのような積雪が見られる。", "title": "雪の大谷" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "3月頃からGPSで位置を確認しながら除雪が行われる。降雪が少ない台湾や韓国、タイ、マレーシア、シンガポールなどの国からの観光客に大人気のスポットとなっている。立山少年自然の家の研修の中に「雪の大谷」見学を入れる学校も多い。2021年からは富山地方鉄道が日の丸自動車興業のオープントップバス「スカイバス東京」を借り入れ、車窓から雪の大谷を楽しむツアーが5月中旬から下旬まで運行される。", "title": "雪の大谷" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "立山駅から扇沢駅まで、乗り換え時間を含めない合計移動時間は2時間弱。ただし繁忙期は各々の交通機関の待ち時間が1 - 2時間に及び、出発時刻によっては同日中の通り抜けができなくなることもある。なお、運行ダイヤについては時刻表に記載の便の他にも待ち具合によっては臨時便の増発・増便があるため、繁忙期であっても比較的スムーズに乗り継げることがある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "黒部ケーブルカーは日本で唯一の全線トンネル内運行。また、立山ロープウェイは途中に支柱を1本も設けていないワンスパン方式で、全長1,710 mと同方式では日本一の長さとなっている。これらは景観保護やなだれによる被害を防ぐためでもある。", "title": "構成" } ]
立山黒部アルペンルート(たてやまくろべアルペンルート)は、富山県中新川郡立山町の立山駅(立山黒部貫光)と、長野県大町市の扇沢駅(関電トンネル電気バス)とを結ぶ交通路で、総延長37.2 km、世界有数の大規模な山岳観光ルートである。1971年(昭和46年)6月1日に全線が開通した。 富山県の立山駅から東に30.5 km、長野県の扇沢駅から西に6.1 kmの位置に「黒部ダム」がある。 なお、富山地方鉄道の電鉄富山駅から東日本旅客鉄道(JR東日本)大糸線信濃大町駅までとされる場合もある。
{{参照方法|date=2012年4月14日 (土) 00:14 (UTC)}} {{Photomontage | position = right | size = 210 | color = | border = 10 | color_border = white | spacing = 8 | text = | photo1a = DaikanboView.jpg | photo2a = 20090503yukinoohtani02.JPG | photo2b = MurododairaToRaichoso.JPG | photo3a = Kurobe dam.jpg | photo3b = Mount Bessan from Murodō1994-10-09.jpg | photo4a = Inside Tateyama Tunnel, passing trolleybus.jpg | photo4b = Kurobe-daira04s4592.jpg }} '''立山黒部アルペンルート'''(たてやまくろべアルペンルート)は、[[富山県]][[中新川郡]][[立山町]]の[[立山駅]]([[立山黒部貫光]])と、[[長野県]][[大町市]]の[[扇沢駅]]([[関電トンネル電気バス]])とを結ぶ交通路で、総延長37.2&nbsp;[[キロメートル|km]]<ref name="kurobe-rute">[https://www.alpen-route.com/about/ 立山黒部アルペンルート 北アルプスを貫き、富山と長野を結ぶ山岳観光ルート]</ref>、世界有数の大規模な山岳観光ルートである。[[1971年]]([[昭和]]46年)[[6月1日]]に全線が開通した{{sfn|地鉄|1979|p=134}}<ref>{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/426082|title = 立山黒部アルペンルート、1日に50周年 一日限りガイド復帰 元室堂営業所長・82歳松島さん 節目の日、思い出の地で|newspaper = 富山新聞|archiveurl = |date = 2021-05-31|archivedate = |accessdate = 2021-10-24}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASP6M76K3P6MPISC003.html|title = 立山黒部全線開業50周年を記念した企画展示|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210620105454/https://www.asahi.com/articles/ASP6M76K3P6MPISC003.html|date = 2021-06-20|archivedate = 2021-06-20|accessdate = 2021-10-24}}</ref>。 富山県の[[立山駅]]から東に30.5&nbsp;km、長野県の[[扇沢駅]]から西に6.1&nbsp;kmの位置に「[[黒部ダム]]」がある<ref name="kurobe-rute"/>。 なお、富山地方鉄道の[[富山駅#電鉄富山駅|電鉄富山駅]]から[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[大糸線]][[信濃大町駅]]までとされる場合もある。 == 概要 == [[File:Mount Harinoki from Daikanbō 1995-08-19.jpg|thumb|大観望から望む<br />赤沢岳、針ノ木岳、黒部湖]] 立山駅から扇沢駅までは、ほぼ西から東に 25&nbsp;[[キロメートル|km]] 足らずの直線距離だが、最大高低差は 1,975&nbsp;[[メートル|m]](最高2450 m、最低475 m)あり、ルート内の交通機関として、[[立山連峰]]の景観を望む[[立山ロープウェイ]]<ref name="sankei20210422">{{Cite news|url = https://www.sankei.com/article/20210422-KXNLGEUTENJRZM4D4ELKOW4NXU/|title = 4月に軽装で行ける標高2450メートルの絶景 立山黒部アルペンルートを支える技|newspaper = 産経ニュース|date = 2021-04-22|accessdate = 2021-06-13}}</ref>、全線地下式の[[ケーブルカー]]<ref name="sankei20210422"/>、[[黒部ダム]]建設に用いられた[[トンネル]]を通る[[電気バス]]、日本国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動する。そのほぼ全区間が[[中部山岳国立公園]]内にあり、[[飛騨山脈]]・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通る。途中駅には[[ホテル立山]]などの宿泊施設もあり、それぞれが登山、散策、トレッキング、その他の観光コースの基点にもなっている。本ルートは4月半ばから開通し、11月半ばに閉鎖される(天候によりやや前後する)。 最高地点は、[[立山]]登山の基点ともなる[[室堂駅|室堂]]で標高 2,450&nbsp;m<ref name="sankei20210422"/>。富山県側の立山から黒部湖までの区間は山岳観光や立山登山客の便を図るために作られた。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬のために建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放された。 立山黒部アルペンルートは、富山県と長野県とを最短距離で結ぶ交通路である。しかし、自然保護の観点などから運賃が高額に設定されている、多くの乗り物を乗り継がなければならない(特に黒部湖駅から黒部ダム駅への乗り継ぎでは600&nbsp;mほど歩く必要がある)、距離の割に所要時間が長いといった理由から、富山・長野間の移動を主目的として用いられることは少ない。利用者の大半は山岳や黒部ダムの観光を目的とする両県外からの観光客である。また、[[富山空港]]に[[大韓民国|韓国]]や[[中華人民共和国|中国]]、[[台湾]]、[[タイ王国|タイ]]からの国際線が乗り入れるようになってから、これらの国々からの観光客が目立つようになった([[英語]]、[[中国語]]、[[朝鮮語|韓国語]]による旅客案内の整備も行われている)。 なお、桂台料金所 - [[美女平駅|美女平]]間および追分 - 室堂間の[[立山有料道路]]([[富山県道6号富山立山公園線]]の一部)は、[[マイカー規制]]として[[路線バス]]、[[観光バス]]や[[公安委員会]]の許可を受けた車両、[[緊急自動車]]しか通行できない。 当初は富山と長野を結ぶ全線自動車道路が計画されていたが、自然保護団体からの反対を受けて、現在の形で計画されることになった<ref>『富山のトリセツ』(2021年7月15日、昭文社発行)54頁『立山の観光ルートじゃ1つだけじゃない? 一般開放が待ち遠しい黒部ルート』より。</ref>。また、昭和40年代の開通当初には一般車両を通行させる計画もあり、小型乗用車12,800円・普通乗用車18,900円の料金設定がなされたが、交通渋滞や自然環境悪化といった問題も生じるため、実際に一般車両を通行させることなく現在に至っている。最近では乗用車やバスで立山黒部アルペンルートを訪問する観光客に対し、立山駅と扇沢駅の間で運送業者によるマイカー回送のサービスがある。なお、富山県側の道路の室堂までの延長の歴史は「[[地獄谷 (立山町)#歴史]]」を参照。 冬季でも設備維持のため扇沢から室堂ターミナルまでは点検・稼動している。 == 雪の大谷 == <!-- 北日本新聞のウェブ版の記事は、購読者以外はほとんど閲覧できませんので、出典引用しないように願います(記事内容が検証できないため) --> [[File:国立公園立山 雪の大谷.jpg|thumb|立山高原道路 雪の大谷]] 観光の中心は室堂であるが、4月から5月にかけての観光の中心は「雪の大谷」の「雪の大谷ウォーク」(無料)(2019年度より雪の大谷フェスティバルに名称変更)である。[[1994年]]に期間3日で始まり、[[2004年]]に4月の全線開通から5月末まで、[[2008年]]に大型連休中も開放し、[[2009年]]に100万人、[[2014年]]に200万人を突破した。これは室堂から麓の方へ歩いたところにあり、15メートルから20メートルの雪の壁を目の当たりにすることができる。室堂平では6メートルほどの積雪だが、雪の大谷は国見岳からのびる稜線の風下にあたり、吹きだまりとなってこのような積雪が見られる<ref>{{Cite journal |和書|author =島田 亙 |title =立山に積る雪 |date =2018 |publisher =[[富山市科学博物館]] |journal =とやまと自然 |volume=40 |issue =4 |naid =120006633916 |pages =1-8 |url=http://repo.tsm.toyama.toyama.jp/itm/1922 }}</ref>。 3月頃から[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]で位置を確認しながら除雪が行われる<ref>{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASP547KNPP4ZPISC01F.html|title = 誇りと情熱を胸に除雪 富山・アルペンルート|newspaper = 朝日新聞デジタル|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210505150318/https://www.asahi.com/articles/ASP547KNPP4ZPISC01F.html|date = 2021-05-05|archivedate = 2021-05-05|accessdate = 2021-06-13}}</ref>。降雪が少ない台湾や韓国、タイ、マレーシア、シンガポールなどの国からの観光客に大人気のスポットとなっている。立山少年自然の家の研修の中に「雪の大谷」見学を入れる学校も多い。[[2021年]]からは[[富山地方鉄道]]が[[日の丸自動車興業]]の[[オープントップバス]]「スカイバス東京」を借り入れ、車窓から雪の大谷を楽しむツアーが5月中旬から下旬まで運行される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/8548890e4d76555cbcf9e58de9a63792.pdf|title=スカイバス富山「アルペンルートコース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2021-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/106876|title = 立山黒部アルペンルートを「屋根なし2階建てバス」で5月中運行 「雪の大谷」も大迫力|website = 乗りものニュース|date = 2021-05-07|accessdate = 2021-10-24}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.yomiuri.co.jp/local/toyama/news/20210512-OYTNT50071/|title = 絶景までもうすぐ スカイバス21日から|newspaper = [[読売新聞オンライン]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210512223240/https://www.yomiuri.co.jp/local/toyama/news/20210512-OYTNT50071/|date = 2021-05-13|archivedate = 2021-05-12|accessdate = 2021-10-24}}</ref>。 == 構成 == [[File:Tateyama Kurobe Alpine Route, Map (Japanese).jpg|800px]] {|border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable" !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 駅・ターミナル !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 標高 !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 自治体 !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 交通手段 !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 名称 !! style="border-bottom:3px solid blue;" | 距離 |- | rowspan=2 | [[立山駅|立山]] || rowspan=2 align=right | 475 m || rowspan=14 | 富山県<br />[[中新川郡]]<br />[[立山町]] |- | rowspan=2 | ケーブルカー || rowspan=2 | [[立山黒部貫光立山ケーブルカー|立山ケーブルカー]] <small>([[立山黒部貫光]])</small> || rowspan=2 align=right | 1.3&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[美女平駅|美女平]] || rowspan=2 align=right | 977 m |- | rowspan=2 | バス || rowspan=2 | [[立山高原バス]] <small>(立山黒部貫光)</small>|| rowspan=2 align=right | 23&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[室堂駅|室堂]] || rowspan=2 align=right | 2,450 m |- | rowspan=2 | トロリーバス || rowspan=2 | [[立山黒部貫光無軌条電車線|立山トンネルトロリーバス]] <small>(立山黒部貫光)</small> || rowspan=2 align=right | 3.7&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[大観峰駅|大観峰]] || rowspan=2 align=right | 2,316 m |- | rowspan=2 | ロープウェイ || rowspan=2 | [[立山ロープウェイ]] <small>(立山黒部貫光)</small>|| rowspan=2 align=right | 1.7&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[黒部平駅|黒部平]] || rowspan=2 align=right | 1,828 m |- | rowspan=2 | ケーブルカー || rowspan=2 | [[立山黒部貫光黒部ケーブルカー|黒部ケーブルカー]] <small>(立山黒部貫光)</small>|| rowspan=2 align=right | 0.8&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[黒部湖駅|黒部湖]] || rowspan=2 align=right | 1,455 m |- | rowspan=2 | 徒歩 || rowspan=2 | 黒部ダムの[[天端]] || rowspan=2 align=right | 0.6&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[黒部ダム駅|黒部ダム]] || rowspan=2 align=right | 1,470 m |- | rowspan=2 | 電気バス || rowspan=2 | [[関電トンネル電気バス]] <small>([[関西電力]])</small>|| rowspan=2 align=right | 6.1&nbsp;km |- | rowspan=2 | [[扇沢駅|扇沢]] || rowspan=2 align=right | 1,433 m || rowspan=3 | [[長野県]]<br />[[大町市]] |- | colspan=6 style="background-color:#ddf" | ※なお、美女平~室堂間には'''[[弥陀ヶ原 (立山)|弥陀ヶ原]]バス停''' (標高1,930 m)と、'''[[天狗平]]バス停'''(標高2,300 m)がある。 |} 立山駅から扇沢駅まで、乗り換え時間を含めない合計移動時間は2時間弱。ただし繁忙期は各々の交通機関の待ち時間が1 - 2時間に及び、出発時刻によっては同日中の通り抜けができなくなることもある。なお、運行ダイヤについては時刻表に記載の便の他にも待ち具合によっては臨時便の増発・増便があるため、繁忙期であっても比較的スムーズに乗り継げることがある。 黒部ケーブルカーは日本で唯一の全線トンネル内運行。また、立山ロープウェイは途中に支柱を1本も設けていないワンスパン方式で、全長1,710&nbsp;mと同方式では日本一の長さとなっている<ref name="sankei20210422"/>。これらは景観保護や[[雪崩|なだれ]]による被害を防ぐためでもある<ref name="sankei20210422"/>。 <!-- 運賃は変動しやすいため記載しないこと(情報が古くなります) --> === ギャラリー === <gallery mode="packed-hover"><!-- 立山駅からどういう体験ができるかの順で並べてあります --> File:Bijodaira03nt3200.jpg|立山ケーブルカー File:Murodoh.jpg|室堂ターミナル ファイル:20 Tateyama from Mikurigaike 1998-7-17.jpg|室堂の[[ミクリガ池]] File:Tateyama tunnel trolley bus 02.jpg|立山トンネルトロリーバスで ファイル:Tateyama ropeway 01.jpg|立山ロープウェイ ファイル:Lake Kurobe01s4592.jpg|大観峰からの眺望([[スバリ岳]]、[[針ノ木岳]]、黒部湖) File:Tateyama from Kurobedaira 1994-10-9.jpg|黒部平から望む立山 File:KurobeCablecarInterchange.JPG|黒部ケーブルカーで ファイル:Kurobe dam 01.jpg|黒部ダム ファイル:KurobeDamObservatoryFromOtherside.JPG|黒部平側からの黒部ダム File:Ogisawa Station 1-1.jpg|[[扇沢駅]] </gallery> ==その他== *[[1974年]]、[[田中角栄]]は[[第10回参議院議員通常選挙]]の遊説の際、長野から富山への移動手段である[[ヘリコプター]]が天候悪化のため動けなくなり、急遽、本人発案でアルペンルートを利用しての富山入りとなった。この際、長野側の関電トンネルを車列を組んだまま通り抜けた記録が残る<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-02 |url=https://bunshun.jp/articles/-/12453 |title=「来るなと言われても田中角栄は行く!」 “選挙の神様”が挑んだ史上最大の作戦 |publisher=文春オンライン |accessdate=2019-07-04}}</ref>。 *[[1978年]][[4月30日]] - 大町有料道路で大規模な[[雪崩]]が発生。当時、富山県側は冬季閉鎖が解除されておらず、扇沢や黒部ダム周辺に数百人の観光客が閉じ込められる状態となった<ref>連休ドライブに雪崩直撃 大学生ら三人が死傷 脱出したら・・・また発生 数百人帰れず『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月1日朝刊、13版、23面</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016年4月|section=1}} * 立山開発鉄道企画・編集『立山・黒部 : アルペンルート』(立山開発鉄道) * 福田芳文堂企画編集『立山・黒部アルペンルート』(富山観光出版社) * 『立山・黒部のすべて:アルペンルート』(富山観光出版社) * 立山黒部貫光編集『立山黒部アルペンルート』(立山黒部貫光) * {{Cite book|和書|title = 写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み|publisher = 富山地方鉄道|date = 1979-07-17|ref = {{sfnref|地鉄|1979}} }} == 関連項目 == <!-- 水曜どうでしょうの記述は不要(単なるロケで使用した番組は際限がないため記載しないこと) --> * [[立山黒部貫光]] * [[山岳鉄道]] * [[佐伯有頼]] * [[佐伯宗義]] * [[関西電力]] == 外部リンク == {{commonscat|Tateyama Kurobe Alpine Route}} * [https://www.alpen-route.com/ 立山黒部アルペンルート] * {{Twitter|tateyamakurobe_}} * {{Facebook|tateyamakurobeofficial}} * {{Instagram|tateyamakurobe_official}} * {{YouTube|user = alpineroute1971}} {{立山黒部アルペンルート}} {{デフォルトソート:たてやまくろへあるへんるうと}} [[Category:立山黒部アルペンルート|*]] [[Category:中部山岳国立公園]]
2003-09-08T09:04:43Z
2023-11-30T01:21:22Z
false
false
false
[ "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:Twitter", "Template:立山黒部アルペンルート", "Template:Photomontage", "Template:Sfn", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:参照方法", "Template:Reflist", "Template:Facebook", "Template:Instagram", "Template:YouTube", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E9%BB%92%E9%83%A8%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88
15,754
大逆事件
大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)は、明治15年(1882年)に施行された旧刑法の116条、および明治41年(1908年)に施行された現行刑法の73条(昭和22年の刑法改正の際に同条削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子、皇太孫、皇太后、太皇太后を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外でも皇帝や王に叛逆し、また謀叛を企てたことに対する犯罪を大逆罪と訳すことがある。 旧刑法でも現刑法でも大逆罪には死刑が法定刑として定められていた。大逆罪を含む皇室に対する罪、および内乱罪は大審院(現・最高裁判所)が第一審にして終結審とされていた。 これまでに知られている大逆事件には、 の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。虎ノ門事件と桜田門事件は現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく検察・犯人の双方の政治的意図から大逆罪を犯す犯意があったとし有罪とされた。 いずれも詳細は、各事件の項目を参照のこと。 前述のとおり、単に「大逆事件」と言えば一般的にはこの事件を意味する。 堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。戦後はもっぱら政府のでっち上げ部分を批判する視点で言及される事がほとんどで、「暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであった」など実際の暗殺計画に対しては軽く扱われる事がほとんどである。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。) 信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。 赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出も1914年(大正3年)に35歳の若さで急逝している。 社会主義運動はこの事件で数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。 徳冨蘆花も秋水らの死刑を阻止するため、蘆花の兄である徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。 大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆した。永井荷風も『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。 また秋水が法廷で、「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。 翌明治45年(1912年)6月には、上杉慎吉が天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山縣有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。 大石誠之助の甥である西村伊作も、大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏が「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している。 1923年12月27日、難波大助が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた侍従長が顔に負傷した。難波は1924年11月13日に大審院で死刑判決が下され、15日に難波の死刑が執行された。この事件により第2次山本内閣が総辞職、警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎らが懲戒免官、難波の出身地でもある山口県の知事が2か月間の減給となった。衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進も即日議員を辞職し、同県熊毛郡周防村(現・同県光市)の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず餓死した。 1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキストの朴烈とその愛人である金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴が、5月4日に文子がそれぞれ大逆罪にあたるとされた事件。 1926年3月25日に死刑判決が下され、4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死して果てた。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により、取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ、獄内での待遇が数か月政治問題化した。朴は敗戦後の1945年10月27日に出獄し、いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動した。 朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が1932年1月8日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件。李奉昌事件、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は李奉昌不敬事件と呼んだ。時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9月30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932年10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日韓国・朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)は、明治15年(1882年)に施行された旧刑法の116条、および明治41年(1908年)に施行された現行刑法の73条(昭和22年の刑法改正の際に同条削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子、皇太孫、皇太后、太皇太后を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外でも皇帝や王に叛逆し、また謀叛を企てたことに対する犯罪を大逆罪と訳すことがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧刑法でも現刑法でも大逆罪には死刑が法定刑として定められていた。大逆罪を含む皇室に対する罪、および内乱罪は大審院(現・最高裁判所)が第一審にして終結審とされていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これまでに知られている大逆事件には、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。虎ノ門事件と桜田門事件は現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく検察・犯人の双方の政治的意図から大逆罪を犯す犯意があったとし有罪とされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "いずれも詳細は、各事件の項目を参照のこと。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "前述のとおり、単に「大逆事件」と言えば一般的にはこの事件を意味する。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。戦後はもっぱら政府のでっち上げ部分を批判する視点で言及される事がほとんどで、「暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであった」など実際の暗殺計画に対しては軽く扱われる事がほとんどである。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出も1914年(大正3年)に35歳の若さで急逝している。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "社会主義運動はこの事件で数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "徳冨蘆花も秋水らの死刑を阻止するため、蘆花の兄である徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆した。永井荷風も『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また秋水が法廷で、「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "翌明治45年(1912年)6月には、上杉慎吉が天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山縣有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大石誠之助の甥である西村伊作も、大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏が「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1923年12月27日、難波大助が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた侍従長が顔に負傷した。難波は1924年11月13日に大審院で死刑判決が下され、15日に難波の死刑が執行された。この事件により第2次山本内閣が総辞職、警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎らが懲戒免官、難波の出身地でもある山口県の知事が2か月間の減給となった。衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進も即日議員を辞職し、同県熊毛郡周防村(現・同県光市)の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず餓死した。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキストの朴烈とその愛人である金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴が、5月4日に文子がそれぞれ大逆罪にあたるとされた事件。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1926年3月25日に死刑判決が下され、4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死して果てた。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により、取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ、獄内での待遇が数か月政治問題化した。朴は敗戦後の1945年10月27日に出獄し、いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動した。", "title": "四件の事件" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が1932年1月8日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件。李奉昌事件、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は李奉昌不敬事件と呼んだ。時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9月30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932年10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日韓国・朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。", "title": "四件の事件" } ]
大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)は、明治15年(1882年)に施行された旧刑法の116条、および明治41年(1908年)に施行された現行刑法の73条(昭和22年の刑法改正の際に同条削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子、皇太孫、皇太后、太皇太后を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外でも皇帝や王に叛逆し、また謀叛を企てたことに対する犯罪を大逆罪と訳すことがある。
{{otheruses|大逆罪が適用される事件一般|[[宮下太吉]]らによる[[明治天皇]]暗殺計画を企てた事件|幸徳事件}} '''大逆事件'''(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん{{refnest|group="注" |NHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「たいぎゃくじけん」ではなく「だいぎゃくじけん」と読むと解説されている<ref name="nhkkotobanohandbook_p121">NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.121 2005年</ref>。}})は、明治15年([[1882年]])に施行された[[刑法 (日本)#旧・刑法|旧刑法]]の116条、および明治41年([[1908年]])に施行された現行[[刑法]]の73条(昭和22年の刑法改正の際に同条削除)が規定していた、[[天皇]]、[[皇后]]、[[皇太子]]、[[皇太孫]]、[[皇太后]]、[[太皇太后]]を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる'''[[大逆罪]]'''<ref name=":0">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%80%86%E7%BD%AA-556705 精選版 日本国語大辞典]</ref>が適用され、訴追された事件の総称。日本以外でも[[皇帝]]や[[王]]に叛逆し、また[[謀叛]]を企てたことに対する犯罪を大逆罪と訳すことがある。 == 概要 == [[画像:Shingu-taigyaku-1024.jpg|thumb|280px|right|大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」([[和歌山県]][[新宮市]])]] 旧刑法でも現刑法でも大逆罪には[[死刑]]が法定刑として定められていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%80%86%E7%BD%AA-556705#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア]</ref>。大逆罪を含む皇室に対する罪、および内乱罪は[[大審院]](現・[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]])が第一審にして終結審とされていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%AF%A9%E9%99%A2-91397 百科事典マイペディア 大審院]</ref>。 これまでに知られている大逆事件には、 * [[1910年]]([[1911年]]) - [[幸徳事件]](検察によるでっちあげがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もいる) * [[1923年]] - [[虎ノ門事件]](虎の門事件とも表記される) * [[1925年]] - [[朴烈事件]](「朴烈、[[金子文子|文子]]事件」とも呼ばれる) * [[1932年]] - [[桜田門事件]](李奉昌事件とも呼ばれる) の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。虎ノ門事件と桜田門事件は現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく検察・犯人の双方の政治的意図から大逆罪を犯す犯意があったとし有罪とされた。 === 参照条文 === ;旧刑法第116条 :[[天皇]][[三后]][[皇太子]]ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ[[死刑]]ニ処ス ;1947年改正前の刑法第73条 :天皇、[[太皇太后]]、[[皇太后]]、[[皇后]]、[[皇太子]]又ハ[[皇太孫]]ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス == 四件の事件 == いずれも詳細は、各事件の項目を参照のこと。 === 幸徳事件 === {{Main|幸徳事件}} 前述のとおり、単に「大逆事件」と言えば一般的にはこの事件を意味する<ref>{{Cite book |和書 |author=佐木隆三|authorlink=佐木隆三 |title=小説 大逆事件 |url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163570006 |publisher=[[文藝春秋]] |series=文春文庫 |date=2001-01 |isbn=4-16-357000-4}}</ref>。 [[堺利彦]]や[[片山潜]]らが「[[平民新聞]]」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、{{要出典|date=2022年8月|範囲=民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった}}中の[[1910年]](明治43年)[[5月25日]]、[[長野県|信州]]の社会主義者[[宮下太吉]]ら4名による[[明治天皇]][[暗殺]]計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府が[[捏造|フレームアップ]](政治的でっち上げ)により、[[幸徳秋水]]をはじめとする全ての[[社会主義]]者、[[アナキスト]](無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。戦後はもっぱら政府のでっち上げ部分を批判する視点で言及される事がほとんどで、「暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名'''だけ'''であった」など実際の暗殺計画に対しては軽く扱われる事がほとんどである。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は[[1967年]]に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、[[免訴]]の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。) 信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の[[逮捕]]・[[検挙]]が始まり、[[検察]]は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した<ref>[[荻野富士夫]]『思想検事』岩波新書(2000年)p.11</ref>。[[松室致]]検事総長、[[平沼騏一郎]]大審院次席検事、[[小山松吉]]神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は[[論告求刑]]で「動機は信念なり」とした<ref>荻野富士夫前掲書p.12</ref>。検挙されたひとりである[[大石誠之助]]の友人であった[[与謝野鉄幹]]が、文学者で弁護士の[[平出修]]に弁護を頼んだ。 [[1911年]][[1月18日]]に[[死刑]]24名、[[有期刑]]2名の判決([[鶴丈一郎]]裁判長)。[[1月24日]]に秋水、[[森近運平]]、[[宮下太吉]]、[[新村忠雄]]、[[古河力作]]、[[奥宮健之]]、[[大石誠之助]]、[[成石平四郎]]、[[松尾卯一太]]、[[新美卯一郎]]、[[内山愚童]]の11名が、[[1月25日]]に1名([[管野スガ]])が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、[[高木顕明]]、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。 [[赤旗事件]]で有罪となって獄中にいた[[大杉栄]]、[[荒畑寒村]]<ref>『寒村茶話』朝日選書(1979)所収「一月二十四日の謀殺」で事件を回想している。</ref>、[[堺利彦]]、[[山川均]]は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出も1914年(大正3年)に35歳の若さで急逝している。 ==== 大逆事件以後 ==== 社会主義運動はこの事件で数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈[[冬の時代]]〉である。 [[徳冨蘆花]]も秋水らの死刑を阻止するため、蘆花の兄である[[徳富蘇峰]]を通じて[[桂太郎]]首相へ嘆願したが果たせず、明治44年([[1911年]])1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の弁論部[[河上丈太郎]]と[[森戸辰男]]の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。 大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、[[石川啄木]]は事件前後に[[ピョートル・クロポトキン]]の著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。[[木下杢太郎]]は[[1911年]]3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆した。[[永井荷風]]も『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。 また秋水が法廷で、「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、[[南北朝正閏論]]が起こった<ref>[[岩城之徳]]「啄木と南北朝正閏論問題」『石川啄木と幸徳秋水事件』(近藤典彦編・吉川弘文館、平成八年)所収。[[滝川政次郎]]「誰も知らない幸徳事件の裏面」『人物往来』昭和三十一年十二月号。また池島信平編「歴史よもやま話し」、花田清輝『室町小説集』講談社pp.10-11.も参照。</ref>。[[帝国議会]][[衆議院]]で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の[[喜田貞吉]]が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「[[大日本史]]」を根拠に、[[三種の神器]]を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。 翌明治45年([[1912年]])6月には、[[上杉慎吉]]が[[天皇主権説]]を発表した一方、[[美濃部達吉]]が[[天皇機関説]]を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた[[山縣有朋]]はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく<ref>NHKスペシャル2009年5月3日放送「シリーズJAPAN 第二回 天皇と憲法</ref>。 [[大石誠之助]]の甥である[[西村伊作]]も、大石の遺産の一部で[[文化学院]]を創設した。このことについて[[柄谷行人]]氏が「[[大正デモクラシー]]、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している<ref>『国文学』学燈社、2005年12月号(特集 歴史家・坂口安吾)、64頁</ref>。 === 虎ノ門事件 === {{Main|虎ノ門事件}} [[1923年]][[12月27日]]、[[難波大助]]が虎ノ門で第48[[帝国議会]]の開院式に向かう[[摂政]]・[[皇太子]]裕仁親王(後の[[昭和天皇]])の車に向けてステッキ状の[[拳銃|銃]]を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた[[侍従|侍従長]]が顔に負傷した。難波は[[1924年]][[11月13日]]に[[大審院]]で死刑判決が下され、[[11月15日|15日]]に難波の死刑が執行された。この事件により[[第2次山本内閣]]が[[総辞職]]、[[警視総監]]・[[湯浅倉平]]、[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警務部]]長・[[正力松太郎]]らが[[懲戒免職|懲戒免官]]、難波の出身地でもある[[山口県]]の[[都道府県知事|知事]]が2か月間の減給となった。[[衆議院議員]]で[[庚申倶楽部]]だった大助の父[[難波作之進]]も即日議員を辞職し、同県[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[周防村]](現・同県[[光市]])の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず[[餓死]]した。 === 朴烈事件 === {{Main|朴烈事件}} [[1923年]][[9月1日]]に起きた[[関東大震災]]の2日後、[[戒厳令]]下に[[朝鮮民族|朝鮮人]]が民衆によって[[私刑]]を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキストの[[朴烈]]とその愛人である[[金子文子]]が、翌[[1924年]][[2月15日]]に爆発物取締罰則違反で起訴され、[[1925年]][[5月2日]]に朴が、[[5月4日]]に文子がそれぞれ大逆罪にあたるとされた事件。 [[1926年]][[3月25日]]に死刑判決が下され、4月5日に[[恩赦]]で[[懲役|無期懲役]]に減刑されるが文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年[[7月22日]]に栃木女囚刑務所で、文子は[[刑務官|看守]]の目を盗んで[[縊死]]して果てた。同年7月には内閣転覆を狙った[[北一輝]]により、取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ、獄内での待遇が数か月政治問題化した。朴は敗戦後の1945年[[10月27日]]に出獄し、いまや徹底した[[反共主義|反共思想]]の持ち主であった朴は[[在日本朝鮮人連盟]](朝連、[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]の前身)への参加を避け、[[1946年]]10月に[[在日本大韓民国民団|韓国民団]]の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を[[1949年]]2月まで勤めた。帰国後[[李承晩]]政権の国務委員を勤めるが[[朝鮮戦争]]の際、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動した。 === 桜田門事件 === {{Main|桜田門事件}} [[朝鮮独立運動]]の活動家・[[李奉昌]](イ・ボンチャン)が[[1932年]][[1月8日]]、桜田門外において陸軍始[[観兵式]]を終えて帰途についていた[[昭和天皇]]の[[馬車]]に向かって[[手榴弾]]を投げつけ、[[近衛兵]]一人を負傷させた事件。'''李奉昌事件'''、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は'''李奉昌不敬事件'''と呼んだ。時の首相[[犬養毅]]は辞表を提出するも慰留された。[[9月30日]]、李は大審院により[[死刑]]判決を受け、1932年[[10月10日]]に市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に[[在日韓国・朝鮮人]]が<!--何処から?-->遺骨を発掘、故国である[[朝鮮]]において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、[[尹奉吉]]らと共に[[ソウル特別市|ソウル]]の孝昌公園に埋葬されている。 == 大逆事件を素材にした作品 == * [[瀬戸内晴美]]著『遠い声』[[新潮文庫]](管野スガの伝記小説) * 瀬戸内晴美著『余白の春』[[中公文庫]](金子文子の伝記小説) * [[福田善之]]『魔女伝説』[[三一書房]], 1969 * 鎌田慧『残夢』坂本清馬の生涯[講談社文庫]2015 * コミックス『「坊っちゃん」の時代 第四部 明治流星雨(谷口ジロー作。双葉文庫) * [[平出修]]『計画』 * [[木々康子]]『陽が昇るとき』[[筑摩書房]], 1984年 *: 主人公の一人、フランス法学者[[磯部四郎]]の生涯を記した作品だが、明治13年「刑事弁護制度」を実現させた磯部は生涯、人権の擁護と無辜の罪人を作らぬことを信条とした。明治43年、大逆事件で48人の社会主義者が逮捕された時誰もが尻込みした大事件の弁護を、弁護団長格で引き受け、検察と戦った。弁護側からの事件の経緯を詳述している。 * 『100年の谺(こだま)〜大逆事件は生きている』 ([[ドキュメンタリー映画]]、[[2013年]])<ref>{{cite news|title=大逆事件の真実を映画に|newspaper=[[中国新聞]]|publisher=[[中国新聞社]]|date=2013-04-12|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201304120020.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130416040840/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201304120020.html|archivedate=2013年4月16日|accessdate=2014-02-03|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> * [[辻原登]]『許されざる者』 2007-2009年 毎日新聞連載、毎日新聞社2009年 978-4620107356、集英社文庫(上)(下)2012年 :::大逆事件で処刑された[[新宮市]]の医師「大石誠之助」をモデルに、森宮市の医師「槇隆光」として描いた。話は大逆事件前夜で終わっている<ref>「私は一介の町医者に過ぎん。」文学周遊第383回、日本経済新聞2013年10月19日夕刊10面</ref><ref>[http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_i_tsujiharanoboru.html インタビュー『許されざる者』辻原登さん]e-hon(「新刊ニュース 2009年8月号」より抜粋)</ref>。(第51回[[毎日芸術賞]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2008年7月}} <!--ノートにも参考文献あり--> * [[伊藤整]]『日本文壇史』(幸徳事件に関して概観) * 原敬吾著『難波大助の生と死』[[国文社]]、[[1973年]] * [[近藤富枝]]著『快然と絞首台に散った「大逆事件」のヒロイン 管野すが』 ** 瀬戸内晴美責任編集『反逆の女のロマン』(『人物近代女性史 女の一生』6)、[[講談社]]、[[1981年]]2月所収 * 瀬戸内晴美著『薄幸な生い立ちを充実した「生」に変えたアナーキストの恋 金子文子』 ** 瀬戸内晴美責任編集『反逆の女のロマン』(『人物近代女性史 女の一生』6)、講談社、1981年2月所収 * [[江刺昭子]]著『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』[[大月書店]]、[[1980年]] * [[神崎清]]『大逆事件-幸徳秋水と明治天皇』1 - 4、あゆみ出版、[[1976年]]12月 - [[1977年]]5月(『革命伝説』の改題) **2010年に『革命伝説 大逆事件』のタイトルで子ども未来社から新装版を刊行。 * 鈴木裕子編著『女性 反逆と革命と抵抗と』(『思想の海へ[解放と変革]』21)、社会評論社、[[1990年]] * 中村文雄『大逆事件の全体像』、[[三一書房]]、[[1997年]]6月 * [[絲屋寿雄]]『増補改訂大逆事件』 三一書房、1970年 * [[野口存彌]]著『[[沖野岩三郎]]』(踏青社・1990年刊) * Joseph Cronin (ジョセフ・クローニン) 『The Life of Seinosuke:Dr. Oishi and The High Treason Incident: Second Edition―誠之助の生涯:ドクトル大石と大逆事件: 改訂版』 White Tiger Press [[2014年]]、入手:[[編集グループSURE]]より可能 == 関連項目 == * [[アナキズム]] * [[国家]] * [[潮恒太郎]] * [[奥崎謙三#昭和天皇パチンコ狙撃事件|昭和天皇パチンコ狙撃事件]] * [[虹作戦]] - [[東アジア反日武装戦線]]による昭和天皇暗殺計画。 * [[ひめゆりの塔事件]] * [[オウム真理教の国家転覆計画]] - [[オウム真理教]]による[[上皇明仁]](第125代天皇)暗殺計画についての記述あり。 == 外部リンク == * [http://www.shinguu.jp/modules/guide/index.php?lid=39&cid=1 大逆事件と大石誠之助] * {{Wayback|url=http://www1.ocn.ne.jp/~jyosenji/taigiyakujiken.htm |title=真宗大谷派「高木顕明師の名誉回復に向けて」 |date=20010502025632}} * [http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/miyashita.html 大逆事件 大逆罪・爆発物取締罰則弾圧による国家テロリズム] {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:たいきやくしけん}} [[Category:日本の公安]] [[Category:明治時代の事件]] [[Category:天皇制]]
2003-09-08T09:48:13Z
2023-10-23T01:03:17Z
false
false
false
[ "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:参照方法", "Template:要出典", "Template:Refnest", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Wayback", "Template:Japanese-history-stub", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6
15,757
欠史八代
欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。 古代の天皇の系譜は『古事記』、『日本書紀』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である。 『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった。 欠史八代の議論が本格化するのは第二次世界大戦終結後である。戦前、『記紀』の研究には皇統や国体といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者津田左右吉は、『記紀』の研究を巡って原理日本社から攻撃を受け出版法違反容疑によって逮捕された(津田事件)。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた。日本古代史の研究者直木孝次郎は伝聞情報として「京都大学在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて喜田貞吉教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている。日本の敗戦によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね天武朝、即ち7世紀末頃のことと考えられている。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。 欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の安寧、懿徳、孝昭の和風諡号の構成要素である「ヒコ」は、「カミヤマトイワレヒコ(神武天皇)」と共通するものであるとともに、応神天皇以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『延喜式』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「ヤマトネコ」が第10代崇神天皇以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である持統(オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、文武(ヤマトネコトヨオホチ)、元明(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、元正(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している。さらに、第6代孝安天皇の諡号に含まれる「タラシ」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)と共通する。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている。 欠史八代を含む初代神武から第13代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。 古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。義江明子によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「A娶B生子C(AがBと娶いて生む子C)」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『天寿国繡帳』の聖徳太子系譜、群馬県高崎市の山ノ上碑(681年)記載の系譜などがある。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった。地位継承次第系譜の代表的なものが海部氏系図である。これは海部氏の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ。同様の形式の系図には『下鴨系図』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった。 現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が稲荷山古墳出土鉄剣銘である。稲荷山古墳出土鉄剣は、1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に雄略天皇とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が孝元天皇の第一皇子大彦命に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の雄略朝に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される。 こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね継体天皇から欽明天皇の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『続日本紀』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる。義江明子は、一系的な父系系譜を要求する情勢の中で「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられたり、「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の系譜が父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったのだとする。 『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和地方を本拠地とする県主(あがたぬし)家から出ている者が多いことである。 これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた。代表的な『日本書紀』の研究者である坂本太郎は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている。坂本に師事した井上光貞もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる。 一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において連(ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている尾張連、および事代主神は壬申の乱(672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した乳母などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた。 欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に近親婚を行っているが、天智朝以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、允恭天皇の息子である木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持った例を除いてなかった。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される。しかし、天武朝期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子草壁皇子が天智天皇の娘である阿部皇女(元明天皇)を娶り、同じく大津皇子も天智天皇の娘山辺皇女を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代崇神天皇以前の時代にも見られる。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている。 以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない。 欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることはこの系譜の作為性を示すものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。 以下に示すのは若井敏明がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。 県主家出身后妃の世代 『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第5代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第6代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる。 古代日本の氏(ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に臣(オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている。前述の孝元天皇の皇子大彦命は阿倍氏、膳氏など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である武内宿禰(建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて蘇我氏、巨勢氏、平群氏など27氏の祖とされる。 直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い。 皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失ってヤマト王権に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる。君姓氏族の過半数は崇神、垂仁、景行、応神の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる。国造姓氏族が神武天皇(の皇子神八井耳命)及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる。これらに対して、臣姓氏族であった葛城氏や蘇我氏などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また大臣などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった大化の改新以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる。 『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の別名である「御肇國天皇」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる。 欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「歴史」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある。『記紀』は史書として編纂されているにもかかわらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する。 原初的な歴史は系図によってまとめられるとも言われ、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった。このことを示すのが『風土記』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇(欽明天皇)の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える。 『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代の天皇の系譜は『古事記』、『日本書紀』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "欠史八代の議論が本格化するのは第二次世界大戦終結後である。戦前、『記紀』の研究には皇統や国体といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者津田左右吉は、『記紀』の研究を巡って原理日本社から攻撃を受け出版法違反容疑によって逮捕された(津田事件)。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた。日本古代史の研究者直木孝次郎は伝聞情報として「京都大学在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて喜田貞吉教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている。日本の敗戦によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね天武朝、即ち7世紀末頃のことと考えられている。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の安寧、懿徳、孝昭の和風諡号の構成要素である「ヒコ」は、「カミヤマトイワレヒコ(神武天皇)」と共通するものであるとともに、応神天皇以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『延喜式』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「ヤマトネコ」が第10代崇神天皇以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である持統(オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、文武(ヤマトネコトヨオホチ)、元明(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、元正(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している。さらに、第6代孝安天皇の諡号に含まれる「タラシ」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)と共通する。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "欠史八代を含む初代神武から第13代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。義江明子によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「A娶B生子C(AがBと娶いて生む子C)」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『天寿国繡帳』の聖徳太子系譜、群馬県高崎市の山ノ上碑(681年)記載の系譜などがある。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった。地位継承次第系譜の代表的なものが海部氏系図である。これは海部氏の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ。同様の形式の系図には『下鴨系図』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が稲荷山古墳出土鉄剣銘である。稲荷山古墳出土鉄剣は、1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に雄略天皇とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が孝元天皇の第一皇子大彦命に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の雄略朝に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね継体天皇から欽明天皇の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『続日本紀』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる。義江明子は、一系的な父系系譜を要求する情勢の中で「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられたり、「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の系譜が父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったのだとする。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和地方を本拠地とする県主(あがたぬし)家から出ている者が多いことである。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた。代表的な『日本書紀』の研究者である坂本太郎は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている。坂本に師事した井上光貞もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において連(ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている尾張連、および事代主神は壬申の乱(672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した乳母などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に近親婚を行っているが、天智朝以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、允恭天皇の息子である木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持った例を除いてなかった。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される。しかし、天武朝期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子草壁皇子が天智天皇の娘である阿部皇女(元明天皇)を娶り、同じく大津皇子も天智天皇の娘山辺皇女を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代崇神天皇以前の時代にも見られる。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることはこの系譜の作為性を示すものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以下に示すのは若井敏明がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "県主家出身后妃の世代", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第5代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第6代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "古代日本の氏(ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に臣(オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている。前述の孝元天皇の皇子大彦命は阿倍氏、膳氏など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である武内宿禰(建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて蘇我氏、巨勢氏、平群氏など27氏の祖とされる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失ってヤマト王権に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる。君姓氏族の過半数は崇神、垂仁、景行、応神の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる。国造姓氏族が神武天皇(の皇子神八井耳命)及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる。これらに対して、臣姓氏族であった葛城氏や蘇我氏などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また大臣などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった大化の改新以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の別名である「御肇國天皇」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「歴史」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある。『記紀』は史書として編纂されているにもかかわらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する。", "title": "『記紀』の歴史意識と「欠史」" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "原初的な歴史は系図によってまとめられるとも言われ、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった。このことを示すのが『風土記』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇(欽明天皇)の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える。", "title": "『記紀』の歴史意識と「欠史」" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った。", "title": "『記紀』の歴史意識と「欠史」" } ]
欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。
[[画像:Emperor family tree1-10.png|thumb|天皇系図 初代 - 10代]] '''欠史八代'''(けっしはちだい、'''闕史八代'''、'''缺史八代''')は、第2代[[綏靖天皇]]から第9代[[開化天皇]]までの8代の[[天皇]]を指す、[[歴史学]]の用語。『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる<ref name="吉村2020p85">[[#吉村 2020|吉村 2020]], p. 85</ref><ref name="大津2017p125-132">[[#大津 2017|大津 2017]], 125-132</ref>。 == 概要 == 古代の天皇の系譜は『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する<ref name="木下1993p263">[[#木下 1993|木下 1993]], p. 263</ref>。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である<ref name="木下1993p263"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''欠史八代と前後の天皇''' ! 代 !! 漢風諡号 !! 和風諡号<ref group="注釈">複数の異名や訓み方があるが、表記は[[#直木 2005|直木 2005]] 掲載の表に依った</ref> !! 没年齢(記:古事記、紀:日本書紀) !! 后妃の氏姓(古事記<ref group="注釈">后妃のまとめは[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219掲載の表に依った。括弧書きしてあるものは「氏姓であることの明確でないもの、または神を示す。」</ref>) !! 后妃の氏姓(日本書紀本文) !! 后妃の氏姓(日本書紀一書) |- |1|| [[神武天皇|神武]] ||| カミヤマトイハレヒコホホデミ || 記:127歳、紀:137歳 || || || |-style="background:#fdd" |2|| [[綏靖天皇|綏靖]] ||| カミヌナカハミミ || 記:45歳、紀:84歳 || 師木県主 || (事代主神) || 磯城県主、春日県主 |-style="background:#fdd" |3|| [[安寧天皇|安寧]] ||| シキツヒコタマテミ || 記:49歳、紀:57歳 || 師木県主 || (事代主神) || 磯城県主、大間宿祢 |-style="background:#fdd" |4|| [[懿徳天皇|懿徳]] ||| オホヤマトヒコスキトモ || 記:45歳、紀:77歳 || 師木県主 || (息石耳命) || 磯城県主、磯城県主 |-style="background:#fdd" |5|| [[孝昭天皇|孝昭]] ||| ミマツヒコカエシネ || 記:93歳、紀:114歳 || 尾張連 || 尾張連 || 磯城県主、(倭国豊秋狭太雄) |-style="background:#fdd" |6|| [[孝安天皇|孝安]] ||| オホヤマトタラシヒコクニオシヒト || 記:123歳、紀:137歳 || (姪) || (姪) || 磯城県主、十市県主 |-style="background:#fdd" |7|| [[孝霊天皇|孝霊]] ||| オホヤマトネコヒコフトニ || 記:106歳、紀:128歳 || 十市県主、春日、(意富夜麻登)、(意富夜麻登<ref group="注釈">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219 掲載の表に(意富夜麻登)が2列並べられていることからそれに従っている。</ref>) || 磯城県主 || 春日、十市県主 |-style="background:#fdd" |8|| [[孝元天皇|孝元]] ||| オホヤマトネコヒコクニクル || 記:57歳、紀:116歳 || 穂積臣、穂積臣、(河内) || 穂積臣 || - |-style="background:#fdd" |9|| [[開化天皇|開化]] ||| ワカヤマトネコヒコオホヒヒ || 記:63歳、紀:115歳 || 旦波之大県主、穂積臣、丸邇臣、葛城 || 物部 || - |- |10||[[崇神天皇|崇神]] ||| ミマキイリヒコイニエ || 記:168歳、紀:120歳 || || || |} 『記紀』の原史料として重要なものとして『[[帝紀]]』や『[[旧辞]]』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所<ref name="坂本1970pp68_70">[[#坂本 1970|坂本 1970]], pp. 68-70</ref>、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている<ref name="坂本1970p70">[[#坂本 1970|坂本 1970]], p. 70</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、『帝紀』を系譜、『旧辞』を物語とする通説は現在では見直されつつある。遠藤慶太によれば『[[上宮聖徳法王帝説]]』など古史料のなかには『帝紀』を引く形で具体的な歴史的事件の記録を伝えているものがあり、『帝紀』の内容が系譜情報のみに留まるものではないことは明らかであるという<ref name="遠藤2018p120">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 120</ref>。}}。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる<ref name="直木2005p3">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 3</ref>。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった<ref name="直木2005p3"/>。 欠史八代の議論が本格化するのは[[第二次世界大戦]]終結後である。[[戦前]]、『記紀』の研究には[[皇統]]や[[国体]]といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった<ref name="直木2005p3"/><ref name="遠藤2015p14">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 14</ref>。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者[[津田左右吉]]は、『記紀』の研究を巡って[[原理日本社]]から攻撃を受け[[出版法]]違反容疑によって逮捕された(津田事件)<ref name="遠藤2015p14"/>。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた<ref name="直木2005p3"/><ref name="遠藤2015p15">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 15</ref>。日本古代史の研究者[[直木孝次郎]]は伝聞情報として「[[京都大学]]在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて[[喜田貞吉]]教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている<ref name="直木2005p3"/>{{refnest|group="注釈"|直木孝次郎によれば、公刊された限りでは[[肥後和男]]「大和闕史時代の一考察」(1935)が欠史八代の実在の問題について戦前に論じた数少ないものの1つである。ただし、直木孝次郎は欠史八代の研究史について網羅的な調査を行ったわけではないことを断っている<ref name="直木2005p3"/>。}}。[[日本の降伏|日本の敗戦]]によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり<ref name="遠藤2015p15"/>、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね[[天武天皇|天武朝]]、即ち[[7世紀]]末頃のことと考えられている<ref name="木下1993p263"/><ref name="直木2015p9">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 9</ref>。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。 == 名前 == 欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の[[安寧天皇|安寧]]、[[懿徳天皇|懿徳]]、[[孝昭天皇|孝昭]]の和風諡号の構成要素である「'''ヒコ'''」は、「カミヤマトイワレヒコ([[神武天皇]])」と共通するものであるとともに、[[応神天皇]]以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『[[延喜式]]』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる<ref name="直木2015p9"/><ref name="直木2005p5">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 5</ref>。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「'''ヤマトネコ'''」が第10代[[崇神天皇]]以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である[[持統天皇|持統]](オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、[[文武天皇|文武]](ヤマトネコトヨオホチ)、[[元明天皇|元明]](ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、[[元正天皇|元正]](ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している<ref name="直木2005p3"/>。さらに、第6代[[孝安天皇]]の諡号に含まれる「'''タラシ'''」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される[[景行天皇|景行]](オホタラシヒコオシロワケ)、[[成務天皇|成務]](ワカタラシヒコ)と共通する<ref name="直木2015p8">[[#直木 2005|直木 2015]], p. 8</ref>。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている<ref name="木下1993p263"/><ref name="井上1973pp269_270">[[#井上 1973|井上 1973]], pp. 269-270</ref>。 == 系譜 == 欠史八代を含む初代神武から第13代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い<ref name="遠藤2018p118">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 118</ref><ref name="直木2005p8">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 8</ref><ref name="若井2010pp58_68">[[#若井 2010|若井 2010]], pp. 58-68</ref>。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた<ref name="直木2005p5"/>。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。 === 古代日本の系譜と天皇系譜 === 古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある<ref name="義江2011">[[#義江 2011|義江 2011]]</ref><ref name="関根2017p19">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 19</ref>。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。[[義江明子]]によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した<ref name="義江2011pp3_5">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 3-5</ref>{{refnest|group="注釈"|義江は「おやのこ(於夜乃子)」「うみのこ(宇美乃古)」という用語自体は『[[万葉集]]』巻18-4094番と巻20-4465番の[[大伴家持]]の歌から得ている<ref name="義江2011pp3_5"/>。}}。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「'''A娶B生子C'''(AがBと娶いて生む子C{{refnest|group="注釈"|「娶」字は通常、「メトリテ」「メトシテ」と訓むが、ここでは義江明子の訓みに従って「ミアイテ」としている。義江によれば「メトル」即ち「女(め)を取る」という読みは漢語の語義に従った訓ではあるが、古代日本における一般的な婚姻形態は妻問婚であり、男が女を取るという意味合いの訓みは当時の実態にそぐわず行われなかったであろうという。その上で[[本居宣長]]が「娶」字に対して「米志弖(メシテ)」、「伊礼弖(イレテ)」、「美阿比坐弖(ミアヒマシテ)」という訓みの候補を挙げていることを参考として、「ミアヒ」という訓みが当時の言葉として適切であるという<ref name="義江2011pp8_9">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 8-9</ref>。これは、[[人類学]]・[[家族史]]研究の潮流を受けて、古代日本社会が[[東南アジア]]・環太平洋地域で広く見られる双系的(子供が父系あるいは母系ではなく、父母双方から社会的地位を受け継ぐ可能性のある)社会であったという理解に基づくものである<ref name="義江2007ツマトヒ">[[#義江 2007|義江 2007]], pp, 63-64, pp, 148-150 pp. 164-165</ref>。7世紀頃までの日本社会が、父系または母系ではなく、双系的社会であったという理解は概ね定説となっている<ref name~溝口2009p45">[[#溝口 2009|溝口 2009]], p. 45</ref>。家制度が未発達かつ、男女いずれか(多くの場合は男)が相手側の家に通うことで婚姻関係とみなされる社会にあって、「女を取る」ことは原理的に成立し得ないと義江は指摘する。当時の婚姻とは単純な男女関係の事実によって裏打ちされており、奈良時代の法律注釈書『[[令集解]]』の戸令結婚条には「同里」内で、「男女が三か月以上行き来しなかったならば、離婚とみなす」とされている<ref name="義江2007pp63_64">[[#義江 2007|義江 2007]], pp. 63-64</ref>。また義江は傍証として、国生み神話において、([[イザナギ]]と[[イザナミ]]が)'''御合て'''(ミアヒテ)生む子、淡路のホノサワケ島、次ぎに伊予のフタナ島を生む、という表現が用いられていることを挙げる<ref name="義江2011pp9_10">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 9-10</ref>。これらのことから、古代の日本において男女は「メトリテ」子を成すのではなく「ミアヒテ」子を成すのであり、訓もその観念に準じたものと考えられる。}})」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『[[天寿国繡帳]]』の[[聖徳太子]]系譜、[[群馬県]][[高崎市]]の[[山ノ上碑]](681年)記載の系譜などがある<ref name="義江2011pp6_8">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 6-8</ref>。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011pp13_14">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 13-14</ref>。地位継承次第系譜の代表的なものが[[海部氏系図]]である。これは[[海部氏]]の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ<ref name="義江2011pp13_14"/>。同様の形式の系図には『[[賀茂県主氏|下鴨系図]]<ref group="注釈">賀茂御祖皇大神神宮禰宜河合神職鴨県主系図</ref>』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている<ref name="義江2011p15">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 15</ref>。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011p15"/>。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった<ref name="義江2011p16">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 16</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、稲荷山鉄剣銘を始めとした古代の地位継承次第系譜については、義江が古代において父系出自集団の存在は想定し難いとするのに対し、[[溝口睦子]]は鉄剣銘が現実の父子関係を意味するものではない点に同意しつつも、あくまで「父から息子へ」という父系観念に基づいて作成された系譜であるとする。[[篠川賢]]は溝口の見解を妥当であるとする<ref name="篠川2015p22">[[#篠川 2015|篠川 2015]], p. 22</ref>。溝口は古代日本における理念としての父系観念の存在と、親族関係や氏の実際の在り方は必ずしも一致するものではなく、別個に考察することが必要ではないかという<ref name="溝口2009p46">[[#溝口 2009|溝口 2009]], p. 46</ref>。また、[[平林章仁]]は稲荷山鉄剣銘について「『其児』で結ばれていることは職位あるいは首長位継承の系譜ではなく、血縁系譜を意図していたことを物語る」とする<ref name="平林2016p10">[[#平林 2016|平林 2016]], p. 10</ref>。}}。 現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が[[稲荷山古墳出土鉄剣]]銘である。[[稲荷山古墳出土鉄剣]]は、[[1978年]]に[[埼玉県]][[行田市]]の[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に[[雄略天皇]]とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた<ref name="直木1990p226"/>。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が[[孝元天皇]]の第一皇子[[大彦命]]に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の[[雄略天皇|雄略朝]]に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている<ref name="直木1990p226">[[#直木 1990|直木 1990]], p. 226</ref>。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011pp26_31">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 26-31</ref>。 こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね[[継体天皇]]から[[欽明天皇]]の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている<ref name="義江2011p131">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 131</ref><ref name="関根2017p21">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 21</ref>。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った<ref name="義江2011p21">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 21</ref>。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している<ref name="義江2011p20">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 20</ref>。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『[[続日本紀]]』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる<ref name="義江2011p20"/>。義江明子は、一系的な父系系譜を要求する情勢の中で「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられたり、「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の系譜が父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったのだとする<ref name="義江2011p171">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 171</ref>。 === 欠史八代の后妃 === ==== 后妃の出自 ==== 『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、[[磯城]](師木)県主、[[春日]]県主、十市県主といった[[大和]]地方を本拠地とする[[県主]](あがたぬし)家から出ている者が多いことである{{refnest|group="注釈"|具体的には『古事記』において綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃の氏姓は師木(シキ)県主であり、孝霊天皇の后妃は十市県主である。『日本書紀』本文では綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃は[[事代主神]]、[[息石耳命]]から出ているが、引用されている「一書」の異伝においては[[磯城]]県主、[[春日]]県主などから出ている。また『日本書紀』の本文および異伝では他にも、孝昭、孝安、孝霊天皇の后妃も磯城、十市、春日県主から出ていることが伝えられている<ref name="直木1964p219">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219</ref>。}}。 これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた<ref name="直木2005p5"/>。代表的な『日本書紀』の研究者である[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた<ref name="直木2005p5"/>。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている<ref name="坂本1970pp92_93">[[#坂本 1970|坂本 1970]], pp. 92-93</ref>。坂本に師事した[[井上光貞]]もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる<ref name="直木2005p5"/>{{refnest|group="注釈"|ただし、井上は後に自説を撤回している<ref name="直木2005p5"/>}}。 一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において[[連]](ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である<ref name="直木1964p221">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 221</ref>。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている[[尾張連]]、および[[事代主神]]は[[壬申の乱]](672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている<ref name="直木1964p219"/>。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した[[乳母]]などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる{{refnest|group="注釈"|例えば、天智天皇の息子[[施基皇子]](志貴県)、娘[[山辺皇女]](山辺県)、天武天皇の息子[[高市皇子]](高市県)、娘[[十市皇女]](十市県)、息子[[磯城皇子]](志貴県)など<ref name="直木2005p7">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 7</ref>}}。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた<ref name="直木2005p7"/><ref name="直木1964pp216_238">[[#直木 1964|直木 1964]], pp. 216-238</ref>。 ==== 母系系譜の問題 ==== 欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に[[近親婚]]を行っているが、[[天智天皇|天智朝]]以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、[[允恭天皇]]の息子である[[木梨軽皇子]]が同母妹の[[軽大娘皇女]]と関係を持った例を除いてなかった<ref name="笠井1957p38">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 38</ref>。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される<ref name="笠井1957p38"/>。しかし、[[天武天皇|天武朝]]期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子[[草壁皇子]]が天智天皇の娘である阿部皇女([[元明天皇]])を娶り、同じく[[大津皇子]]も天智天皇の娘[[山辺皇女]]を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代[[崇神天皇]]以前の時代にも見られる<ref name="笠井1957p42">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 42</ref>。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている<ref name="笠井1957p42"/>{{refnest|group="注釈"|笠井の見解に対し、[[笹川尚紀]]は6世紀の[[用明天皇]]の息子、[[当麻皇子]]とその妻[[舎人皇女]]が母系で同一の祖先、[[堅塩媛]]に行きつく(彼女は当麻皇子の祖母かつ、舎人皇女の母にあたる)ことから、笠井倭人が指摘する同母系親族婚は天武朝期に始められたものではなく、少なくとも推古朝(6世紀半ば)には行われていたとする。このことから、欠史八代の同母系親族婚系譜が創り出されたのは天武朝期とは断言できず、その造作が行われたのは6世紀頃まで遡り得るとする見解を出している<ref name="笹川2016pp45_53">[[#笹川 2016|笹川 2016]], pp. 45-53</ref>。本文では[[木下礼仁]]のまとめ<ref name="木下1993p263"/>を参考に、天武朝期の成立とする笠井倭人の見解を基本とした。}}。 以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない<ref name="笠井1957">[[#笠井 1957|笠井 1957]]</ref>。 {| style="border-collapse: collapse; overflow: auto; font-size: smaller;" ! style="padding-left: 20px; text-align: left; border-right:1px dotted;" | '''天武朝前後に見られる同母系親族婚(7世紀)'''<ref name="笠井1957p41">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 41</ref> ! style="padding-left: 20px; text-align: left; border-right:1px dotted;" | '''6世紀以前に典型的な異母系親族婚'''<ref name="笠井1957p40">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 40</ref> ! style="padding-left: 20px; text-align: left;" | '''欠史八代の同母系親族婚'''<ref name="笠井1957p41ps">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 41. 笹川尚紀「『帝紀』・『旧辞』成立論序説」『史林』(史学研究会、2000年5月)に従い一部改めた.</ref> |- | style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top; border-right:1px dotted;" | {{familytree/start}} {{familytree|border=0| }} {{familytree|border=2px outset black;| | | 000 |y| 001 | | | 000 =宝皇女<br>(斉明天皇)|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =舒明天皇}} {{familytree|border=2px outset black;| |,|-|-|-|^|-|.| | | }} {{familytree|border=2px outset black;| |!| | | | | 002 | | | 002 =天智天皇}} {{familytree|border=2px outset black;| |!| | | |,|-|^|-|.| }} {{familytree|border=2px outset black;| 003 |~| 004 | | 005 | 003 =天武天皇| 004 =鸕野皇女<br>(持統天皇)|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;| 005 =大田皇女|boxstyle_ 005 =color: red; border-radius: 30px;}} {{familytree|border=2px outset black;| |L|~|~|~|~|~|~|~|J| }} {{familytree|border=0| }} {{familytree/end}} | style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top; border-right:1px dotted;" | {{familytree/start}} {{familytree|border=0| }} {{familytree|border=2px outset black;| 000 |y| 001 |y| 002 | 000 =堅塩媛|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =欽明天皇| 002 =石姫|boxstyle_ 002 =color: red; border-radius: 30px;}} {{familytree|border=2px outset black;| | | |!| | | |!| | | }} {{familytree|border=2px outset black;| | | 003 | | 004 | | | 003 =用明天皇| 004 =敏達天皇}} {{familytree|border=2px outset black;| | | |!| | | |!| | | }} {{familytree|border=2px outset black;| | | 005 |~| 006 | | | 005 =厩戸皇子| 006 =菟道貝鮹|boxstyle_ 006 =color: red; border-radius: 30px;}} {{familytree|border=0| }} {{familytree/end}} | style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top;" | {{familytree/start}} {{familytree|border=0| }} {{familytree|border=2px outset black;| 000 |y| 001 | 000 =渟名底仲媛|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =安寧天皇}} {{familytree|border=2px outset black;| |,|-|^|-|.| }} {{familytree|border=2px outset black;| |!| | | 002 | 002 =息石耳命}} {{familytree|border=2px outset black;| |!| | | |!| }} {{familytree|border=2px outset black;| 003 |~| 004 | 003 =懿徳天皇| 004 =天豊津媛命|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;}} {{familytree|border=0| }} {{familytree/end}} |} ==== 后妃の世代 ==== 欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることは[[#系譜|この系譜の作為性を示す]]ものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する<ref name="若井2010pp62_66">[[#若井 2010|若井 2010]], pp. 62-66</ref>。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。 以下に示すのは[[若井敏明]]がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである<ref name="若井2010p65">[[#若井 2010|若井 2010]], p. 65</ref>。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。 <div style="overflow: auto; font-size: smaller;"> '''県主家出身后妃の世代'''<ref name="若井2010p65">[[#若井 2010|若井 2010]], p. 65</ref> {{familytree/start}} {{familytree|border=0| }} {{familytree|border=2px outset black;| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 000 | 000 =春日県主<br>大日諸}} {{familytree|border=2px outset black;| | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | |!| }} {{familytree|border=2px outset black;| 016 | | | | | | 013 | | 011 | | | | | | | | | | | | | | 006 | | 004 |~| 002 |~| 001 | 001 =糸織媛|boxstyle_ 001 =color: red; border-radius: 30px;| 002 =第2代<br>'''綏靖天皇'''| 004 =川派媛|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;| 006 =磯城県主<br>葉江| 011 =十市県主<br>五十坂彦| 013 =猪手| 016 =太真稚彦}} {{familytree|border=2px outset black;| |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | | | | | }} {{familytree|border=2px outset black;| 017 |~| 015 |~| 014 | | 012 |~| 010 |~| 009 | | 008 |~| 007 | | 005 |~| 003 | | | | | 003 =第3代<br>'''安寧天皇'''| 005 =川津媛|boxstyle_ 005 =color: red; border-radius: 30px;| 007 =渟名城津媛|boxstyle_ 007 =color: red; border-radius: 30px;| 008 =第5代<br>'''孝昭天皇'''| 009 =長媛|boxstyle_ 009 =color: red; border-radius: 30px;| 010 =第6代<br>'''孝安天皇'''| 012 =五十坂媛|boxstyle_ 012 =color: red; border-radius: 30px;| 014 =泉媛|boxstyle_ 014 =color: red; border-radius: 30px;| 015 =第4代<br>'''懿徳天皇'''| 017 =飯日媛|boxstyle_ 017 =color: red; border-radius: 30px;}} {{familytree|border=0| }} {{familytree/end}} </div> 『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第5代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第6代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない<ref name="若井2010pp62_66"/>。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる<ref name="遠藤2018p118"/><ref name="若井2010pp62_66"/>{{refnest|group="注釈"|古代日本の系譜が直系継承、あるいはそのような形に見えるようになっていることについて、しばしば参考にされるのが[[川田順造]]による[[西アフリカ]]の[[モシ族]]を中心としたフィールドワーク調査報告である。川田によれば西アフリカの無文字社会の口承伝承に語られる首長の系譜は、比較的新しい時代については傍系継承が多いのに対し、「より古い時代の、名と継承順位だけが知られているにすぎないような首長は、ひとまとめに、直系継承とされている例が多いのである。」という<ref name="川田1976p83">[[#川田 1976|川田 1976]], p, 83</ref>。川田はさらにこうした続柄が不明な首長について「父から子への継承とした方が、王朝の歴史が長く、したがって王朝の起源も古くなるという点も、みすごされてはならないだろう。」と述べる<ref name="川田1976p83"/>。遠藤慶太は若井敏明による欠史八代の系譜情報の形成過程の推定と、川田による西アフリカの調査を引き、天皇(大王)自体の伝承とその系譜の伝承の形成過程に時間差が存在することを指摘する<ref name="遠藤2018p118"/>。}}。 === 皇別氏族と欠史八代 === 古代日本の[[氏]](ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される<ref name="大津2017p120">[[#大津 2017|大津 2017]], 120</ref>。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に[[臣]](オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている<ref name="大津2017p120"/><ref name="直木2015p17">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 17</ref><ref name="義江2011p170">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 170</ref>。前述の孝元天皇の皇子大彦命は[[阿倍氏]]、[[膳氏]]など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)<ref name="直木2015p20">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 20</ref>。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である[[武内宿禰]](建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて[[蘇我氏]]、[[巨勢氏]]、[[平群氏]]など27氏の祖とされる<ref name="大津2017p120"/>。 直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ<ref name="直木2015p21">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 21</ref>。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める<ref name="直木2015pp22_24">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 22-24</ref>。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に[[天照大御神]]などに由来を持つ神別氏族であるものが多い<ref name="直木2015pp24_25">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 24-25</ref>。 皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失って[[ヤマト王権]]に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる<ref name="直木2015p26">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 26</ref>。君姓氏族の過半数は[[崇神天皇|崇神]]、[[垂仁天皇|垂仁]]、[[景行天皇|景行]]、[[応神天皇|応神]]の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる<ref name="直木2015p26"/>。国造姓氏族が神武天皇(の皇子[[神八井耳命]])及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる<ref name="直木2015p27">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 27</ref>{{refnest|group="注釈"|直木孝次郎は国造姓氏族のうち神武裔とされる氏族の大半が神八井耳命を祖とすることについて、「神八井耳命裔の氏族には国造姓五氏のほかに、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣と地方豪族がはなはだ多いことと併せて考える必要がある。」としている<ref name="直木2015p27"/>。}}。これらに対して、臣姓氏族であった[[葛城氏]]や[[蘇我氏]]などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また[[大臣]]などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった[[大化の改新]]以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる<ref name="直木2015p27"/>。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる<ref name="直木2015p28">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 28</ref>{{refnest|group="注釈"|『日本書紀』の持統5年(681年)条には18氏が墓記を進上したことが記載されているが、直木孝次郎によればこのうち11氏が臣姓氏族である。そしてこの11氏の系譜全てが『古事記』に記載があり、9氏が欠史八代の天皇の後裔である<ref name="直木2015p28"/>。}}。 === 神武天皇と崇神天皇 === 『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代[[崇神天皇]]の別名である「御肇國天皇<ref group="注釈">『古事記』では所知初國御眞木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)。</ref>」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる<ref name="直木1990p20">[[#直木 1990|直木 1990]], p. 20</ref><ref name="直木1964p217">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 217</ref><ref name="河内2018p187">[[#河内 2018|河内 2018]], p. 187</ref>。 == 『記紀』の歴史意識と「欠史」 == 欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年<ref name="矢嶋2008p93">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]], p. 93</ref>」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い<ref name="矢嶋2008p93"/>。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「[[歴史]]」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある<ref name="矢嶋2008pp92_94">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]], pp. 92-94</ref>。『記紀』は史書として編纂されているにもかかわらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から[[推古天皇]]までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない<ref name="矢嶋2008pp92_94"/>。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる<ref name="矢嶋2008pp92_94"/>。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する<ref name="遠藤2012pp28_30">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 28-30</ref>。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する<ref name="矢嶋2008pp92_94"/><ref name="遠藤2012pp28_30"/>。 原初的な歴史は[[系図]]によってまとめられるとも言われ<ref name="遠藤2018p118">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 118</ref>{{refnest|group="注釈"|関根淳は「日本書紀『欠史八代』に示されるように、系譜は〈歴史〉であり、史書の原型は系譜である。」と指摘する<ref name="関根2017p18">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 18</ref>。}}、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった{{refnest|group="注釈"|関根淳は「天皇とは人々に時間、すなわち『歴史』を与える存在」であったと描写する<ref name="関根2020p12">[[#関根 2020|関根 2020]], p. 12</ref>。}}。このことを示すのが『[[風土記]]』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇([[欽明天皇]])の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた<ref name="関根2020p12"/>。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる<ref name="関根2020p12"/>。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える<ref name="矢嶋2008">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]]</ref><ref name="遠藤2012">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]]</ref><ref name="関根2020">[[#関根 2020|関根 2020]]</ref>。 『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが<ref name="吉村2020p85"/>、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である<ref name="義江2011p170"/>。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる<ref name="義江2011p170"/>。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011p171"/>。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った<ref name="直木2005p25_29">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 25-29</ref><ref name="木下1993p263"/><ref name="義江2011pp183_229">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 183-229</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=井上光貞|authorlink=井上光貞 |title=日本国家の起源 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]]| date=1960-4|isbn=978-4-00-413090-1 |ref=井上 1960}} * {{Cite book |和書 |author=井上光貞|authorlink=井上光貞 |title=日本の歴史1 神話から歴史へ|series=[[中公文庫]] |date=1973-10 |publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4-12-200041-4|ref=井上 1973}} * {{Cite book |和書 |author=遠藤慶太|authorlink=遠藤慶太 |title=東アジアの日本書紀 歴史書の誕生 |series=歴史文化ライブラリー 349|date=2012-8 |publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-05749-3|ref=遠藤 2012}} * {{Cite book |和書 |author=遠藤慶太|authorlink=遠藤慶太 |title=日本書紀の形成と諸資料|date=2015-2 |publisher=[[塙書房]] |isbn=978-4-8273-1272-0|ref=遠藤 2015}} * {{Cite book |和書 |author=遠藤慶太|authorlink=遠藤慶太 |chapter=Ⅱ部 日本書紀の前史 2 古事記と帝紀|title=日本書紀の誕生 -編纂と受容の歴史- |date=2018-4 |publisher=[[八木書店]]|isbn=978-4-8406-2225-7|ref=遠藤 2018}} * {{Cite book |和書 |author=大津透|authorlink=大津透 |title=天皇の歴史 1 神話から歴史へ |series=[[講談社学術文庫]] |publisher=[[講談社]] |date=2017-12|isbn=978-4-06-292481-8 |ref=大津 2017}} * {{Cite journal |和書 |author=[[笠井倭人]] |title =記紀系譜の成立過程について |journal =[[史林]] |publisher=[[京都大学|史学研究会]]|date=1957-3 |naid=120006818077 |ref=笠井 1957}} * {{Cite book |和書 |author=川田順造|authorlink=川田順造 |title=無文字社会の歴史 |publisher=[[岩波書店]] |date=1976-12|isbn=978-4-00-002211-8 |ref=川田 1976}} * {{Cite book |和書 |author=木下礼仁|authorlink=木下礼仁 |title=日本書紀と古代朝鮮 |date=1993-10 |publisher=[[塙書房]] |isbn=978-4-8273-1101-3 |ref=木下 1993}} * {{Cite book |和書 |author=河内春人|authorlink=河内春人 |title=倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]]| date=2018-1|isbn=978-4-12-102470-1 |ref=河内 2018}} * {{Cite book |和書 |author=坂本太郎|authorlink=坂本太郎 (歴史学者) |title=六国史 |series=日本歴史叢書 |date=1970-11 |publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-06602-0 |ref=坂本 1970}} * {{Cite book |和書 |author=笹川尚紀|authorlink=笹川尚紀 |title=日本書紀成立史攷 |date=2016-3 |publisher=[[塙書房]] |isbn=978-4-8273-1281-2 |ref=笹川 2016}} * {{Cite book |和書 |author=篠川賢|authorlink=篠川賢 |title=物部氏の研究 【第二版】 |series=日本古代氏族研究叢書 1 |publisher=[[雄山閣]] |date=2015-9|isbn=978-4-639-02375-3 |ref=篠川 2015}} * {{Cite journal |和書 |author=[[関根淳]] |title=古代国家の形成と史書 |journal=歴史評論 |volume=809 |date=2017-9 |publisher=[[校倉書房]] |pages=18-27 |naid=40021289543 |ref=関根 2017}} * {{Cite book |和書 |author=関根淳|authorlink=関根淳 |title=六国史以前 日本書紀への道のり |series=歴史文化ライブラリー 502|date=2020-7 |publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-08385-0|ref=関根 2020}} * {{Cite book |和書 |author=直木孝次郎|authorlink=直木孝次郎 |title=日本古代の氏族と天皇 |publisher=[[塙書房]] |date=1964-12|isbn=978-4-8273-1012-2 |ref=直木 1964}} * {{Cite book |和書 |author=直木孝次郎|authorlink=直木孝次郎 |title=日本神話と古代国家 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |date=1990-6|isbn=978-4-06-158928-5 |ref=直木 1990}} * {{Cite book |和書 |author=直木孝次郎|authorlink=直木孝次郎 |title=日本古代の氏族と国家 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2005-12|isbn=978-4-642-02442-6 |ref=直木 2005}} * {{Cite book |和書 |author=直木孝次郎|authorlink=直木孝次郎 |title=日本古代史と応神天皇 |publisher=[[塙書房]] |date=2015-1|isbn=978-4-8273-1270-6 |ref=直木 2015}} * {{Cite book |和書 |author=若井敏明|authorlink=若井敏明 |title=邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争 |series=歴史文化ライブラリー 294 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2010-4|isbn=978-4-642-05694-6 |ref=若井 2010}} * {{Cite book |和書 |author=平林章仁|authorlink=平林章仁 |title=蘇我氏の研究 |series=日本古代氏族研究叢書 5 |publisher=[[雄山閣]] |date=2016-11|isbn=978-4-639-02446-0 |ref=平林 2016}} * {{Cite book |和書 |author=溝口睦子|authorlink=溝口睦子 |title=アマテラスの誕生 -古代王権の源流を探る|date=2009-1 |series=[[岩波新書]]| publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-431171-3|ref=溝口 2009}} * {{Cite book |和書 |author=矢嶋泉|authorlink=矢嶋泉 |title=古事記の歴史意識 |series=歴史文化ライブラリー 260 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2008-9|isbn=978-4-642-05660-1 |ref=矢嶋 2008}} * {{Cite book |和書 |author=義江明子|authorlink=義江明子 |title=古代女性史への招待 〈妹の力〉を越えて|date=2004-10 |publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-07937-2|ref=義江 2007}} * {{Cite book |和書 |author=義江明子|authorlink=義江明子 |title=古代王権論 神話・歴史感覚・ジェンダー|date=2011-4 |publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-022910-4|ref=義江 2011}} * {{Cite book |和書 |author=吉村武彦|authorlink=吉村武彦 |title=新版 古代史の基礎知識 |series=角川選書 |date=2020-11 |publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-703672-7|ref=吉村 2020}} == 関連項目 == * [[天皇の一覧]] * [[外戚]] * [[成務天皇]]、[[仲哀天皇]]、[[武烈天皇]] - 欠史八代の天皇同様、実在に疑いが持たれている。 {{日本神話}} {{DEFAULTSORT:けつしはちたい}} [[Category:日本神話]] [[Category:古墳時代以前の天皇|*けつしはちたい]] [[Category:日本の名数8]]
2003-09-08T10:00:03Z
2023-10-19T11:27:54Z
false
false
false
[ "Template:Familytree/start", "Template:Familytree", "Template:Familytree/end", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Refnest", "Template:Notelist", "Template:Cite journal", "Template:日本神話" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3
15,758
トゥルナン寺
トゥルナン寺(トゥルナンじ)は、中華人民共和国チベット自治区の首府ラサにあるチベット仏教の寺院である。中国名は大昭寺。一般的には本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多い。また、本堂という意味のツクラカンをつけて、トゥルナン・ツクラカンと呼ばれることもある。 正門前では、五体投地で祈る熱心なチベット仏教徒を多く見ることができる。 内部には多くのマニ車を備えた回廊があり、コルラすることが出来る。 本尊は、ソンツェン・ガンポに嫁した唐の玄宗皇帝の娘、文成公主が中国から持参したとされる釈迦牟尼像である。 チベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポ王に中国より嫁いできた文成公主により、7世紀に建立された。2000年に世界遺産、ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群に追加登録されている。中国の5A級観光地(2013年認定)でもある。 2018年2月17日午後6時40分頃、火災が発生し、呉英傑党委書記が対応の指揮に当たった。同日深夜までに消火され、怪我人は無いと伝えられた。なお、消火作業を撮影した画像が微博に投稿されたが、すぐに削除されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トゥルナン寺(トゥルナンじ)は、中華人民共和国チベット自治区の首府ラサにあるチベット仏教の寺院である。中国名は大昭寺。一般的には本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多い。また、本堂という意味のツクラカンをつけて、トゥルナン・ツクラカンと呼ばれることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正門前では、五体投地で祈る熱心なチベット仏教徒を多く見ることができる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "内部には多くのマニ車を備えた回廊があり、コルラすることが出来る。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本尊は、ソンツェン・ガンポに嫁した唐の玄宗皇帝の娘、文成公主が中国から持参したとされる釈迦牟尼像である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "チベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポ王に中国より嫁いできた文成公主により、7世紀に建立された。2000年に世界遺産、ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群に追加登録されている。中国の5A級観光地(2013年認定)でもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2018年2月17日午後6時40分頃、火災が発生し、呉英傑党委書記が対応の指揮に当たった。同日深夜までに消火され、怪我人は無いと伝えられた。なお、消火作業を撮影した画像が微博に投稿されたが、すぐに削除されている。", "title": "歴史" } ]
トゥルナン寺(トゥルナンじ)は、中華人民共和国チベット自治区の首府ラサにあるチベット仏教の寺院である。中国名は大昭寺。一般的には本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多い。また、本堂という意味のツクラカンをつけて、トゥルナン・ツクラカンと呼ばれることもある。 正門前では、五体投地で祈る熱心なチベット仏教徒を多く見ることができる。 内部には多くのマニ車を備えた回廊があり、コルラすることが出来る。 本尊は、ソンツェン・ガンポに嫁した唐の玄宗皇帝の娘、文成公主が中国から持参したとされる釈迦牟尼像である。
{{Infobox Tibetan Buddhist monastery |name = ジョカン寺 |image = Gilt roof of the Jokhang.JPG |image size = 250px |alt = Gilt roof of the Jokhang |caption = ジョカン寺の金箔の屋根 |t= ཇོ་ཁང་ |w= Jo-khang |to = |ipa= |z= Qo-kang |thdl= |e= |tc= 大昭寺 |s= 大昭寺 |p= Dàzhāosì |pushpin_map = China Tibet#China |latd = 29 | latm = 39 | lats = 11 | latNS = N |longd= 91 | longm=07 | longs =53| longEW = E |map_caption = |mapsize = 250 |location_country = 中華人民共和国 |location = ラサ |coordinates_display = |founded_by = |date_founded = |date_renovated = |sect = [[ゲルク派]] |dedicated_to = |head_lama = |no._of_monks = |architecture = |footnotes = }} '''トゥルナン寺'''(トゥルナンじ)は、[[中華人民共和国]][[チベット自治区]]の首府[[ラサ]]にある[[チベット仏教]]の[[寺院]]である<ref>アンソニー・テイラー『世界の聖地バイブル : パワースポット&スピリチュアルスポットのガイド決定版』ガイアブックス、産調出版、217ページ、2011年、ISBN 978-4-88282-780-1</ref>。[[中国]]名は'''大昭寺'''。一般的には本堂に相当する部分の名称である'''ジョカン'''と呼ばれることが多い。また、本堂という意味の'''ツクラカン'''をつけて、トゥルナン・ツクラカンと呼ばれることもある。 正門前では、[[五体投地]]で祈る熱心なチベット仏教徒を多く見ることができる。 内部には多くの[[マニ車]]を備えた回廊があり、[[コルラ (巡礼)|コルラ]]することが出来る。 [[本尊]]は、ソンツェン・ガンポに嫁した[[唐]]の[[太宗 (唐)|玄宗]]皇帝の娘、[[文成公主]]が中国から持参したとされる[[釈迦牟尼仏|釈迦牟尼]]像である。 [[File:Jokhang Square, the first destination or drop-off for most tourists.jpg|left|thumb|480px]] == 歴史 == [[チベット]]を統一した[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]第33代の[[ソンツェン・ガンポ]]王に中国より嫁いできた[[文成公主]]により、[[7世紀]]に建立された。[[2000年]]に[[世界遺産]]、[[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]に追加登録されている。[[中国の観光地等級AAAAA|中国の5A級観光地]](2013年認定)でもある<ref>{{Cite web |title=拉萨市大昭寺 |url=https://www.mct.gov.cn/tourism/#/view?id=12135&drid=4&page=1 |website=www.mct.gov.cn |access-date=2023-02-03 |publisher=[[中華人民共和国文化観光部]] |date=2021-07-22}}</ref>。 [[2018年]][[2月17日]]午後6時40分頃、火災が発生し、[[呉英傑]]党委書記が対応の指揮に当たった。<ref>{{Cite news |title=ラサの世界文化遺産寺院「ジョカン寺」で火災 |newspaper=[[産経新聞]]|date=2018-2-18|author=西見由章|url=https://www.sankei.com/article/20180218-2DMEAWIFUVPUVJOQ2LIWK2K32M/|accessdate=2018-03-02}}</ref>同日深夜までに消火され、怪我人は無いと伝えられた。なお、消火作業を撮影した画像が[[微博]]に投稿されたが、すぐに削除されている。<ref>{{Cite news |title=チベットのジョカン寺で火災=世界遺産、けが人なし-中国|newspaper=[[時事通信]]|date=2018-2-18|url=https://web.archive.org/web/20180303050614/https://www.jiji.com/sp/article?k=2018021800242&g=int|accessdate=2018-03-02}}</ref> == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons|Jokhang}} * [[ポタラ宮]] * [[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]] * [[ノルブリンカ]] * [[強巴林]] {{DEFAULTSORT:とうるなんし}} [[Category:ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]] [[Category:チベット仏教寺院]] [[Category:ラサの寺]] [[Category:城関区 (ラサ市)]] [[Category:チベット自治区の全国重点文物保護単位]] [[Category:仏教建築物の世界遺産]] [[Category:中国の観光地等級AAAAA]]
2003-09-08T10:08:05Z
2023-12-02T20:23:18Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Tibetan Buddhist monastery", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Commons" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E5%AF%BA
15,759
ピアノロール
ピアノロールとは、オルガン式オルゴールや自動ピアノに取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された紙製のロール(巻き紙)のこと。 空気圧をかけ、穿孔部を通してハンマー等を動作させる仕組み。19世紀末からつくられ、専用の機械を用いればピアノ演奏をある程度正確に記録することができたため、SPレコード普及前の一時期、家庭用の音楽再生手段として広く使われ、ロールは現在のレコードと同様に商業販売された。20世紀初頭の作曲家自らが演奏した(とされる)ピアノロールなどがいくつか残っている。 20世紀後半の作曲家コンロン・ナンカロウは、自動ピアノの未知なる可能性を開拓した一人で、音の長さを計算して自らロールに穴開け(パンチング)を行い、自動ピアノのための複雑な作品を数多く残した。 コンピュータ音楽では、シーケンスソフト上での演奏情報の視覚化として、楽譜表示に並んでピアノロール式の表示が用いられることがある。 これについては、様々に議論されている。 SP78回転時代の演奏家が音階も危なっかしいほどの間違いだらけなのに、ロールが完全無欠のノーミスなのはおかしいという議論である。ガブリエル・フォーレの本人のロール(グラン・カプリス)はありえないほどの演奏の速さであり、パーシー・グレンジャーのロール(アニトラの踊り)は連弾でしか達成できない付け加えられた音符が弾きこまれている。実際にはこれは「ピアノリスト(Pianolist、pianola専門奏者、という意味)」と呼ばれる専門の技術者が本人のパンチングをもとにミスタッチを消して、実際の演奏よりも速く演奏したかのように編集を行っていたのである。これはLPやCD時代の演奏技術の編集にも大いに影響を与えている。このプロのピアノリストはレックス・ローソンがとくに有名な存在として知られている。 SP時代はそのようなことが出来なくなったので、ミスタッチは不可抗力で残ってしまった。しかし「実際の演奏されている速度より速く」演奏して、素人を驚かせるという編集行為は続いていた。ジェルジ・リゲティはこの「ピアノリスト」とのコラボレーションにユルゲン・ホッカーを起用し、いくつかの録音がYouTubeで聴ける。イーゴリ・ストラヴィンスキーの「火の鳥」も同様の処理を作曲者自らが行っていた。これについては、本人のピアノの78回転も残されているので、ロールの編集がどの程度だったかを想定できる貴重な例である。 特に困ったのは「同音を連打する」ことである。アップライトピアノはただでさえ同音が連打できないのだから、19世紀のピアノ音楽の再現には非常に不適な存在であった。しかし、スケールは生のピアニストより速く弾けるため、その手の演奏曲目は好んで収録された。ピアノリストも、演奏家の解釈まではさほど修正していなかったので、当時のピアニストがまったくもってイン・テンポでは演奏できておらず、その上速くなったり遅くなったりといった演奏家の性能はそのまま収録された。 これは現在YamahaのDisklavierでもその同音再現能力は疑問視されており、Yamahaが自動ピアノのプロモーションを行ったときも同音連打を行う曲目はカットされ、代わりに「トリル」なら大丈夫だったというありさまだった。ヤニス・クセナキスの「エヴリアリ」も現在のDisklavierの性能をもってしても遅延が生じる。2016年のテクノロジーをもってしても、同じ個所を素早く連打するというピアニストの性能は実現できていないのである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ピアノロールとは、オルガン式オルゴールや自動ピアノに取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された紙製のロール(巻き紙)のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "空気圧をかけ、穿孔部を通してハンマー等を動作させる仕組み。19世紀末からつくられ、専用の機械を用いればピアノ演奏をある程度正確に記録することができたため、SPレコード普及前の一時期、家庭用の音楽再生手段として広く使われ、ロールは現在のレコードと同様に商業販売された。20世紀初頭の作曲家自らが演奏した(とされる)ピアノロールなどがいくつか残っている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20世紀後半の作曲家コンロン・ナンカロウは、自動ピアノの未知なる可能性を開拓した一人で、音の長さを計算して自らロールに穴開け(パンチング)を行い、自動ピアノのための複雑な作品を数多く残した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コンピュータ音楽では、シーケンスソフト上での演奏情報の視覚化として、楽譜表示に並んでピアノロール式の表示が用いられることがある。", "title": "DTMにおけるピアノロール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これについては、様々に議論されている。", "title": "ピアノロールは本当に演奏家の生演奏なのか" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "SP78回転時代の演奏家が音階も危なっかしいほどの間違いだらけなのに、ロールが完全無欠のノーミスなのはおかしいという議論である。ガブリエル・フォーレの本人のロール(グラン・カプリス)はありえないほどの演奏の速さであり、パーシー・グレンジャーのロール(アニトラの踊り)は連弾でしか達成できない付け加えられた音符が弾きこまれている。実際にはこれは「ピアノリスト(Pianolist、pianola専門奏者、という意味)」と呼ばれる専門の技術者が本人のパンチングをもとにミスタッチを消して、実際の演奏よりも速く演奏したかのように編集を行っていたのである。これはLPやCD時代の演奏技術の編集にも大いに影響を与えている。このプロのピアノリストはレックス・ローソンがとくに有名な存在として知られている。", "title": "ピアノロールは本当に演奏家の生演奏なのか" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "SP時代はそのようなことが出来なくなったので、ミスタッチは不可抗力で残ってしまった。しかし「実際の演奏されている速度より速く」演奏して、素人を驚かせるという編集行為は続いていた。ジェルジ・リゲティはこの「ピアノリスト」とのコラボレーションにユルゲン・ホッカーを起用し、いくつかの録音がYouTubeで聴ける。イーゴリ・ストラヴィンスキーの「火の鳥」も同様の処理を作曲者自らが行っていた。これについては、本人のピアノの78回転も残されているので、ロールの編集がどの程度だったかを想定できる貴重な例である。", "title": "ピアノロールは本当に演奏家の生演奏なのか" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "特に困ったのは「同音を連打する」ことである。アップライトピアノはただでさえ同音が連打できないのだから、19世紀のピアノ音楽の再現には非常に不適な存在であった。しかし、スケールは生のピアニストより速く弾けるため、その手の演奏曲目は好んで収録された。ピアノリストも、演奏家の解釈まではさほど修正していなかったので、当時のピアニストがまったくもってイン・テンポでは演奏できておらず、その上速くなったり遅くなったりといった演奏家の性能はそのまま収録された。", "title": "再現性" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これは現在YamahaのDisklavierでもその同音再現能力は疑問視されており、Yamahaが自動ピアノのプロモーションを行ったときも同音連打を行う曲目はカットされ、代わりに「トリル」なら大丈夫だったというありさまだった。ヤニス・クセナキスの「エヴリアリ」も現在のDisklavierの性能をもってしても遅延が生じる。2016年のテクノロジーをもってしても、同じ個所を素早く連打するというピアニストの性能は実現できていないのである。", "title": "再現性" } ]
ピアノロールとは、オルガン式オルゴールや自動ピアノに取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された紙製のロール(巻き紙)のこと。
{{Portal クラシック音楽}} [[File:Player Piano Rolls.JPG|thumb|right|箱入りのものも、箱なしのものも見える様々なピアノロール。]] '''ピアノロール'''とは、[[オルガン]]式[[オルゴール]]や[[自動ピアノ]]に取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された[[紙]]製のロール(巻き紙)のこと。 ==仕様== 空気圧をかけ、穿孔部を通してハンマー等を動作させる仕組み。19世紀末からつくられ、専用の機械を用いればピアノ演奏をある程度正確に記録することができたため、SP[[レコード]]普及前の一時期、家庭用の音楽再生手段として広く使われ、ロールは現在のレコードと同様に商業販売された。20世紀初頭の[[作曲家]]自らが演奏した(とされる)ピアノロールなどがいくつか残っている。 20世紀後半の作曲家[[コンロン・ナンカロウ]]は、自動ピアノの未知なる可能性を開拓した一人で、音の長さを計算して自らロールに穴開け(パンチング)を行い、自動ピアノのための複雑な作品を数多く残した。 ==DTMにおけるピアノロール== [[ファイル:Computer music piano roll.png|thumb|[[ミュージックシーケンサー|シーケンスソフト]]に用いられるピアノロール表示の典型的な例。]] [[コンピュータ音楽]]では、[[ミュージックシーケンサー|シーケンスソフト]]上での[[演奏]]情報の[[視覚]]化として、[[楽譜]]表示に並んでピアノロール式の表示が用いられることがある。 ==ピアノロールは本当に演奏家の生演奏なのか== これについては、様々に議論されている。 [[SPレコード|SP]]78回転時代の演奏家が音階も危なっかしいほどの間違いだらけなのに、ロールが完全無欠のノーミスなのはおかしいという議論である。[[ガブリエル・フォーレ]]の本人のロール([[グラン・カプリス]])はありえないほどの演奏の速さであり、[[パーシー・グレンジャー]]のロール([[アニトラの踊り]])は連弾でしか達成できない付け加えられた音符が弾きこまれている。実際にはこれは「[[ピアノリスト]](Pianolist、pianola専門奏者、という意味)」と呼ばれる専門の技術者が本人のパンチングをもとにミスタッチを消して、実際の演奏よりも速く演奏したかのように編集を行っていたのである。これはLPやCD時代の演奏技術の編集にも大いに影響を与えている。このプロのピアノリストは[[レックス・ローソン]]がとくに有名な存在として知られている。 SP時代はそのようなことが出来なくなったので、ミスタッチは不可抗力で残ってしまった。しかし「実際の演奏されている速度より速く」演奏して、素人を驚かせるという編集行為は続いていた。ジェルジ・リゲティはこの「ピアノリスト」とのコラボレーションに[[ユルゲン・ホッカー]]を起用し、いくつかの録音がYouTubeで聴ける。[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の「火の鳥」も同様の処理<ref>{{Cite web |url = https://www.youtube.com/watch?v=oE2GOUT1J6U|title = Stravinsky Plays Stravinsky|website = www.youtube.com|publisher = youtube|date = |accessdate = 2021-09-09}}</ref>を作曲者自らが行っていた。これについては、本人のピアノの78回転も残されているので、ロールの編集がどの程度だったかを想定できる貴重な例である。 ==再現性== 特に困ったのは「同音を連打する」ことである。[[アップライトピアノ]]はただでさえ同音が連打できないのだから、19世紀のピアノ音楽の再現には非常に不適な存在であった。しかし、スケールは生のピアニストより速く弾けるため、その手の演奏曲目は好んで収録された。ピアノリストも、演奏家の解釈まではさほど修正していなかったので、当時のピアニストがまったくもってイン・テンポでは演奏できておらず、その上速くなったり遅くなったりといった演奏家の性能はそのまま収録された。 これは現在YamahaのDisklavierでもその同音再現能力は疑問視されており、Yamahaが自動ピアノのプロモーションを行ったとき<ref group="注釈">スタニスラフ・ブーニンのハイドンの演奏が収録されていると評判だった</ref>も同音連打を行う曲目はカットされ、代わりに「トリル」なら大丈夫だったというありさまだった。ヤニス・クセナキスの「エヴリアリ」も現在のDisklavierの性能をもってしても遅延が生じる。2016年のテクノロジーをもってしても、同じ個所を素早く連打するというピアニストの性能は実現できていないのである。 ==ピアノロールを使用した人々== *QRS Company — James P Johnson, Fats Waller, Zez Confrey, J. Lawrence Cook, Pete Wendling and Victor Arden *Mastertouch Piano Roll Co Australia *US Music Roll Company; Lee Sims, Robert Billings *Imperial — Charley Straight, Roy Bargy *Vocalstyle — Jelly Roll Morton, Walter Davison, Clarence Jones, Luckey Roberts, Cow Cow Davenport *Capitol/Columbia; Jimmy Blythe, Clarence Johnson ==関連文献== *Elaine Obenchain: The complete catalog of Ampico Reproducing Piano rolls. New York: American Piano Co., ca.. 1977. ISBN 0-9601172-1-0; (out of print). *Charles Davis Smith: Duo-Art piano music: a complete classified catalog of music recorded for the Duo-Art reproducing piano compiled and annotated by Charles Davis Smith. Monrovia, California, ca. 1987; (out of print). *Charles David Smith and Richard James Howe: The Welte-Mignon, its music and musicians; complete catalogue of Welte-Mignon reproducing piano recordings 1905–1932, historical overview of companies and individuals, biographical essays on the recording artists and composers. Vestal, NY: Vestal Press, 1994. ISBN 1-879511-17-7; (out of print). *Gerhard Dangel und Hans-W. Schmitz: Welte-Mignon-Reproduktionen / Welte-Mignon Reproductions. Gesamtkatalog der Aufnahmen für das Welte-Mignon Reproduktions-Piano 1905-1932 / Complete Library Of Recordings For The Welte-Mignon Reproducing Piano 1905-1932. Stuttgart 2006. ISBN 3-00-017110-X *Barbara Bryner: The piano roll: a valuable recording medium of the twentieth century. Dept. of Music, University of Utah, 2002. OCLC 50482085 *William Braid White: The player-piano up-to-date: a comprehensive treatise on the principles, construction, adjustment, regulation and use of pneumatic mechanisms for piano-playing: together with a description of the leading mechanisms now in use and some hints on the playing thereof. New York, Edward Lyman Bill, 1914 (The date of convention is given wrongly as 1909). ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[自動演奏]] *[[コンロン・ナンカロウ]] *[[デスクトップミュージック|DTM]] *[[パンチカード]] *[[スペクトラム拡散]] *[[ピアノリスト]] == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20041230020523/http://www.themodist.com/ music rolls, scores + info] *[http://www.78rpm.net/column06.html ピアノロール考・その1] *[http://www.rprf.org/ The Reproducing Piano Roll Foundation] *[http://www.pianolasociety.com The Player Piano Group : the main UK society] *[http://pianola.forumer.com The Pianola Forum - online discussion group] *[http://www.qrsmusic.com QRS Piano Rolls] *[http://www.pianorolls.co.uk Julian Dyer Piano Rolls - new Duo-Art 100% accurate music rolls] *[http://www.pianola.co.nz Pianola.co.nz - Listen to MIDI files created by scanning player piano rolls] *[https://web.archive.org/web/20060227052014/http://welte.ub.uni-freiburg.de/en/index.html Information about Welte-Mignon] *[http://www.trachtman.org/rollscans/index.htm Warren Trachtman's Piano Roll Scanning Information Page] *[http://wiscasset.net/artcraft/studio.htm L. D. Henderson tells a modern roll-arranger's story.] *[http://www.maesto.com/US/welcomeatmaesto..html Maesto - Recuts of music- and piano-rolls] *[http://www.welte-mignon.de/cgi-bin/mignon.cgi?action=List%20of%20WELTE%20MIGNON%20Piano%20Rolls&spracheZumLesen=english Complete listing of all Welte-Mignon-Rolls] {{Normdaten}} {{デスクトップミュージック}} {{Music-stub}} {{DEFAULTSORT:ひあのろる}} [[category:ピアノ]] [[Category:歴史上の機器]] [[Category:記録デバイス]]
null
2023-05-16T04:28:56Z
false
false
false
[ "Template:Portal クラシック音楽", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:デスクトップミュージック", "Template:Music-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB
15,761
ブリュメール18日のクーデター
ブリュメール18日のクーデター(ブリュメール18にちのクーデター、フランス語: 18 Brumaire)は、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール(霧月)18日)、ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は統領政府を樹立、ナポレオンが第1コンスルとなった。 テルミドール9日のクーデターによって、総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。 このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。 シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして第1コンスルとなってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の1804年に帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブリュメール18日のクーデター(ブリュメール18にちのクーデター、フランス語: 18 Brumaire)は、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール(霧月)18日)、ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は統領政府を樹立、ナポレオンが第1コンスルとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "テルミドール9日のクーデターによって、総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして第1コンスルとなってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の1804年に帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。", "title": "概要" } ]
ブリュメール18日のクーデターは、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)、ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は統領政府を樹立、ナポレオンが第1コンスルとなった。
{{出典の明記|date=2023年8月3日 (木) 16:00 (UTC)}} {{Infobox 事件・事故 | 名称 = ブリュメール18日のクーデター | 画像 = Bouchot - Le general Bonaparte au Conseil des Cinq-Cents.jpg | 脚注 = [[サン=クルー]]でクーデターを起こす[[ナポレオン・ボナパルト]] | 場所 = {{FRA1792}} [[サン=クルー]] | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = | 日付 = [[1799年]][[11月9日]] | 時間 = | 開始時刻 = | 終了時刻 = | 時間帯 = | 概要 = [[総裁政府]]の打倒 | 原因 = | 手段 = [[クーデター]] | 武器 = | 攻撃人数 = | 標的 = [[ポール・バラス]]、[[ルイ=ジェローム・ゴイエ]]ら総裁政府 | 死亡 = | 負傷 = | 行方不明 = | 被害者 = | 損害 = | 犯人 = [[ナポレオン・ボナパルト]]他 | 容疑 = | 動機 = | 関与 = | 防御 = | 対処 = [[統領政府]]の成立 | 謝罪 = | 賠償 = }} '''ブリュメール18日のクーデター'''(ブリュメール18にちのクーデター、{{lang-fr|18 Brumaire}})は、[[1799年]][[11月9日]]([[フランス革命暦|共和暦]]8年ブリュメール(霧月)18日)、[[ナポレオン・ボナパルト]]らが[[総裁政府]]を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は[[統領政府]]を樹立、ナポレオンが[[第1コンスル]]となった。 == 概要 == [[テルミドール9日のクーデター]]によって、総裁政府の実権を握った[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]は政局を安定させるべく、強力な[[政府]]を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する[[元老会]]を通過させることはできても、憲法擁護派の多い[[五百人会]]を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。 このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身には[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。 シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして[[第1コンスル]]となってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の[[1804年]]に[[フランス第一帝政|帝政]]を敷き、'''ナポレオン1世'''として皇帝に即位した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|18 Brumaire}} * [[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]] * [[統領政府]] {{フランス革命}} {{History-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふりゆめえる18にちのくうてたあ}} [[Category:1799年のフランス]] [[Category:フランス革命期の出来事]] [[Category:フランスにおけるクーデター]] [[Category:シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール]]
2003-09-08T10:51:36Z
2023-11-26T13:50:16Z
false
false
false
[ "Template:フランス革命", "Template:History-stub", "Template:Infobox 事件・事故", "Template:Lang-fr", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB18%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
15,763
日本の道100選
日本の道100選(にほんのみちひゃくせん)は、道の日の制定を記念して、1986年度および1987年度に、建設省と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた道路104本である。 1986年度(昭和61年度)に歴史性および親愛性を基準に53本、1987年度(昭和62年度)に美観性および機動性を基準に51本の道路が選定された。日本の道100選の選定基準は、文化庁が選定した「歴史の道百選」や、国土交通省が選定した「歴史国道」とは異なり、必ずしも歴史や文化的価値にこだわっておらず、地域の人々にどれだけ親しまれた道路であるかが最大の選定基準となっている。そこに、景観に優ることや周辺環境と調和することも選定基準の一つとなっているところから、その地域のシンボルロードであることが多い。 選定にあたっては、各年度、各都道府県がそれぞれ3本の道路を推薦し、その中から「道の日」実行委員会および有識者からなる「道の日」選定委員会によって行われた。選定委員には、渡辺文雄(俳優)、斎藤茂太(旅行作家協会会長)、生内玲子(評論家)、尾之内由紀夫(「道の日」実行委員会会長)、北村廣太郎(建設省都市局長)、鈴木道雄(建設省道路局長)で組織された。 選定された道路は、各年の「道の日」に建設大臣から顕彰されるとともに、亀倉雄策がデザインした顕彰プレートが交付された。 (出典:『日本の道100選』〈新版〉2002年、ぎょうせい)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の道100選(にほんのみちひゃくせん)は、道の日の制定を記念して、1986年度および1987年度に、建設省と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた道路104本である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1986年度(昭和61年度)に歴史性および親愛性を基準に53本、1987年度(昭和62年度)に美観性および機動性を基準に51本の道路が選定された。日本の道100選の選定基準は、文化庁が選定した「歴史の道百選」や、国土交通省が選定した「歴史国道」とは異なり、必ずしも歴史や文化的価値にこだわっておらず、地域の人々にどれだけ親しまれた道路であるかが最大の選定基準となっている。そこに、景観に優ることや周辺環境と調和することも選定基準の一つとなっているところから、その地域のシンボルロードであることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "選定にあたっては、各年度、各都道府県がそれぞれ3本の道路を推薦し、その中から「道の日」実行委員会および有識者からなる「道の日」選定委員会によって行われた。選定委員には、渡辺文雄(俳優)、斎藤茂太(旅行作家協会会長)、生内玲子(評論家)、尾之内由紀夫(「道の日」実行委員会会長)、北村廣太郎(建設省都市局長)、鈴木道雄(建設省道路局長)で組織された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "選定された道路は、各年の「道の日」に建設大臣から顕彰されるとともに、亀倉雄策がデザインした顕彰プレートが交付された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "(出典:『日本の道100選』〈新版〉2002年、ぎょうせい)", "title": "一覧" } ]
日本の道100選(にほんのみちひゃくせん)は、道の日の制定を記念して、1986年度および1987年度に、建設省と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた道路104本である。
[[ファイル:Nihon_no_michi100.jpg|thumb|120px|right|日本の道100選]] [[ファイル:Michi5924.jpg|thumb|200px|日本の道100選の顕彰プレート、京都・哲学の道]] '''日本の道100選'''(にほんのみちひゃくせん)は、[[道の日]]の制定を記念して、[[1986年]]度および[[1987年]]度に、[[建設省]]と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた[[道路]]104本である。 == 概要 == 1986年度([[昭和]]61年度)に歴史性および親愛性を基準に53本、1987年度(昭和62年度)に美観性および機動性を基準に51本の道路が選定された。日本の道100選の選定基準は、[[文化庁]]が選定した「[[歴史の道百選]]」や、[[国土交通省]]が選定した「[[歴史国道]]」とは異なり、必ずしも歴史や文化的価値にこだわっておらず、地域の人々にどれだけ親しまれた道路であるかが最大の選定基準となっている{{sfn|浅井建爾|2015|p=144}}。そこに、景観に優ることや周辺環境と調和することも選定基準の一つとなっているところから、その地域のシンボルロードであることが多い{{sfn|浅井建爾|2015|p=144}}。 選定にあたっては、各年度、各都道府県がそれぞれ3本の道路を推薦し、その中から「道の日」実行委員会および有識者からなる「道の日」選定委員会によって行われた<ref name="gyousei">建設省道路局監修『日本の道100選』ぎょうせい、1988年8月1日。</ref>。選定委員には、[[渡辺文雄 (俳優)|渡辺文雄]](俳優)、[[斎藤茂太]](旅行作家協会会長)、[[生内玲子]](評論家)、[[尾之内由紀夫]](「道の日」実行委員会会長)、北村廣太郎(建設省都市局長)、鈴木道雄(建設省道路局長)で組織された<ref name="gyousei2002">「日本の道100選」研究会『日本の道100選〈新版〉』ぎょうせい、2002年、13頁。</ref>。 選定された道路は、各年の「道の日」に建設大臣から顕彰されるとともに、[[亀倉雄策]]がデザインした顕彰プレートが交付された<ref name="gyousei" />。 == 一覧 == #[[大通公園|札幌大通]]([[北海道]][[札幌市]]) - <small>札幌の道路公園(昭和62年度選定)</small> #[[函館市#道路|大三坂通]](北海道[[函館市]]) - <small>函館のエキゾチックな坂道(昭和62年度選定)</small> #[[国道5号|赤松並木]](北海道[[七飯町]]) - <small>赤松並木の道(昭和61年度選定)</small> #[[新ひだか町#道路|二十間道路]](北海道[[新ひだか町]]) - <small>二十間道路桜並木(昭和61年度選定)</small> #[[中町こみせ通り|こみせ]]([[青森県]][[黒石市]]) - <small>「こみせ」の町並み(昭和62年度選定)</small> #[[十和田市#道路|官庁街通り]](青森県[[十和田市]]) - <small>桜と赤松並木のコミュニケーションロード(昭和61年度選定)</small> #[[一関市#市道|一関市道金沢線・岩が崎線]]([[岩手県]][[一関市]]) - <small>芭蕉行脚の道(昭和61年度選定)</small> #[[盛岡市#市道|寺町通り]](岩手県[[盛岡市]]) - <small>現代と調和する歴史的道(昭和62年度選定)</small> #[[定禅寺通り]]([[宮城県]][[仙台市]]) - <small>杜の都のケヤキ並木(昭和62年度選定)</small> #[[仙台西道路]](宮城県仙台市) - <small>都市近郊型幹線道路(昭和62年度選定)</small> #[[宮城県道・福島県道46号白石国見線|七ヶ宿街道]](宮城県[[白石市]]) - <small>奥羽一三藩参勤交代の道(昭和61年度選定)</small> #[[広小路 (秋田市)|広小路]]([[秋田県]][[秋田市]]) - <small>やすらぎのシンボル道路(昭和62年度選定)</small> #[[武家屋敷通り (仙北市)|武家屋敷通り]](秋田県[[仙北市]]) - <small>みちのくの小京都(昭和61年度選定)</small> #[[山形県道25号寒河江村山線#通称・愛称|ひな市通り]]([[山形県]][[河北町]]) - <small>ひな市でしのぶ往時の賑わい(昭和61年度選定)</small> #[[月山花笠ライン]](山形県[[西川町]]ほか) - <small>山形を代表する景勝道路(昭和62年度選定)</small> #[[磐梯吾妻道路|磐梯吾妻スカイライン]]([[福島県]][[福島市]]) - <small>吾妻八景を望む道(昭和62年度選定)</small> #[[二本松市#交通|旧奥州街道]](福島県[[二本松市]]) - <small>霞ケ城と菊人形の道(昭和61年度選定)</small> #[[学園東大通り]]([[茨城県]][[つくば市]]) - <small>筑波研究学園都市の大動脈(昭和61年度選定)</small> #[[つくば道]](茨城県つくば市) - <small>筑波山への信仰の道(昭和62年度選定)</small> #[[いろは坂]]([[栃木県]][[日光市]]) - <small>四十八のカーブ(昭和62年度選定)</small> #[[日光杉並木|日光街道・例幣使街道・会津西街道]](栃木県日光市) - <small>日光杉並木(昭和61年度選定)</small> #[[碓氷峠#近世|旧中山道]]([[群馬県]][[安中市]]) - <small>「江戸」の情調、碓氷峠(昭和61年度選定)</small> #[[大泉町#道路|ハナミズキ通り]](群馬県[[大泉町]]) - <small>工業都市の自然と緑の散歩道(昭和62年度選定)</small> #[[草加松原|日光街道]]([[埼玉県]][[草加市]]) - <small>松並木の遊歩道(昭和62年度選定)</small> #[[秩父往還道|国道140号]](埼玉県[[秩父市]]) - <small>秩父往還道(昭和61年度選定)</small> #[[房総フラワーライン]]([[千葉県]][[館山市]]) - <small>四季の草花とマラソンの道(昭和61年度選定)</small> #[[常盤平さくら通り]](千葉県[[松戸市]]) - <small>桜花のトンネル通り(昭和62年度選定)</small> #[[内堀通り]]([[東京都]][[千代田区]]) - <small>城郭と高層ビルの道(昭和61年度選定)</small> #[[中央通り (東京都)|中央通り]](東京都[[中央区 (東京都)|中央区]]) - <small>明治近代化のシンボル・銀座の道(昭和61年度選定)</small> #[[東京都の都道一覧#副都心|新宿副都心街路]](東京都[[新宿区]]) - <small>首都東京の新しい顔(昭和62年度選定)</small> #[[東京湾岸道路|湾岸道路]](東京都[[江東区]]ほか) - <small>「未来」を走る虹の道(昭和62年度選定)</small> #[[山下公園通り]]・[[山手本通り]]([[神奈川県]][[横浜市]]) - <small>港町ヨコハマのエキゾチックな道(昭和62年度選定)</small> #[[若宮大路]](神奈川県[[鎌倉市]]) - <small>鎌倉幕府の遺跡(昭和61年度選定)</small> #[[台ヶ原宿|甲州街道]]([[山梨県]][[北杜市]]) - <small>宿場街・台ヶ原宿のたたずまい(昭和61年度選定)</small> #[[富士山有料道路|富士スバルライン]]・[[河口湖大橋]](山梨県[[富士河口湖町]]ほか) - <small>雄大な富士の道(昭和62年度選定)</small> #[[並木通り (長野県飯田市)|並木通り]]([[長野県]][[飯田市]]) - <small>リンゴの実が輝く道(昭和61年度選定)</small> #[[海野宿|北国街道]](長野県[[東御市]]) - <small>歴史かおる街・海野宿(昭和61年度選定)</small> #[[白馬村#道路|白馬山麓線]]<!--村道0105号線-->(長野県[[白馬村]]) - <small>「白馬連峰」の山岳美を望む道(昭和62年度選定)</small> #[[国道148号]]([[新潟県]][[糸魚川市]]) - <small>豪雪・雪崩地帯を貫く道(昭和62年度選定)</small> #[[天険親不知線]](新潟県糸魚川市) - <small>親不知・子不知の道(昭和61年度選定)</small> #[[富山市#道路|八尾町道諏訪町本通り線]]{{efn|八尾町は[[平成の大合併]]により消滅。現在は、富山県[[富山市]]の市道}}([[富山県]][[富山市]]) - <small>雪流しの道(昭和61年度選定)</small> #[[五箇山トンネル|国道304号]](富山県[[南砺市]]) - <small>五箇山トンネル(昭和62年度選定)</small> #[[百間堀通り]]・[[百万石通り]]([[石川県]][[金沢市]]) - <small>兼六園を取り巻く道(昭和61年度選定)</small> #[[能登有料道路]]{{efn|現在は無料化され、道路名称も「[[のと里山海道]]」と改称している。}}(石川県[[穴水町]]・金沢市ほか) - <small>日本海を望む風光明媚な快適路(昭和62年度選定)</small> #[[板取街道]]([[岐阜県]][[関市]])(別名:アジサイロード) - <small>フラワーロード(昭和61年度選定)</small> #[[愛知県道・岐阜県道・三重県道125号佐屋多度線|木曽三川パークウェイ]](岐阜県[[海津市]]) - <small>木曽三川を渡る三橋(昭和62年度選定)</small> #[[表富士周遊道路|富士山スカイライン]]([[静岡県]][[富士宮市]]ほか) - <small>大自然を貫く道(昭和62年度選定)</small> #[[天城峠|天城路]](静岡県[[河津町]]ほか) - <small>自然と文学の道(昭和61年度選定)</small> #[[久屋大通]]([[愛知県]][[名古屋市]]) - <small>名古屋のシンボルロード(昭和61年度選定)</small> #[[渥美サイクリングロード]](愛知県[[田原市]]ほか) - <small>史跡と伝説の中のサイクリングロード(昭和62年度選定)</small> #[[関宿|旧東海道]]([[三重県]][[亀山市]]) - <small>東海道の宿場町・関宿(昭和61年度選定)</small> #[[国道260号]]賢島〜長島線(三重県[[賢島]] - 長島)(三重県[[志摩市]]・[[英虞湾]]周回 - [[紀北町]]) - <small>「真珠の海」を一望する道(昭和62年度選定)</small> #[[平泉寺白山神社|中宮平泉寺]]参道([[福井県]][[勝山市]]) - <small>中宮平泉寺参道(昭和61年度選定)</small> #[[三方五湖]]周遊道路(福井県[[若狭町]]) - <small>五色の湖をめぐる道(昭和62年度選定)</small> #[[瀬田の唐橋|唐橋]]([[滋賀県]][[大津市]]) - <small>歴史をきざむ日本の名橋(昭和61年度選定)</small> #[[滋賀県道18号大津草津線|琵琶湖岸道路]](滋賀県[[草津市]]ほか) - <small>さざなみきらめく湖周の道(昭和62年度選定)</small> #[[哲学の道]]([[京都府]][[京都市]]) - <small>哲学の道(昭和61年度選定)</small> #[[京都府道607号天の橋立線|天の橋立線]](京都府[[宮津市]]) - <small>名勝天橋立の道(昭和62年度選定)</small> #[[御堂筋]]([[大阪府]][[大阪市]]) - <small>緑と散策の大通り(昭和62年度選定)</small> #[[フェニックス通り (大阪府堺市)|フェニックス通り]](大阪府[[堺市]]) - <small>不死鳥の道(昭和61年度選定)</small> #[[富田林寺内町|寺内町<!--富田林市道6号(城之門筋)-->]](大阪府[[富田林市]]) - <small>近世の自治都市(昭和61年度選定)</small> #[[大手前通り (姫路市)|大手前通り]]([[兵庫県]][[姫路市]]) - <small>城下町のシンボルロード(昭和61年度選定)</small> #[[橘通り (尼崎市)|橘通り]](兵庫県[[尼崎市]]) - <small>愛される都市の顔(昭和62年度選定)</small> #[[神戸淡路鳴門自動車道]]<!--[[大鳴門橋]]-->(兵庫県[[南あわじ市]]) - <small>景勝・渦潮を越えて 大鳴門橋(昭和62年度選定)</small> #[[暗越奈良街道]]([[奈良県]][[奈良市]]ほか) - <small>平城京の道(昭和61年度選定)</small> #[[奈良県道161号畝傍御陵前停車場四条線|畝傍御陵前停車場四条線]]・[[奈良県道125号橿原神宮公苑線|橿原神宮公苑線]](奈良県[[橿原市]]) - <small>畝傍山山麓の市民の集いの場(昭和62年度選定)</small> #[[高野山道路]]([[和歌山県]][[高野町]]ほか) - <small>霊場高野山への道(昭和62年度選定)</small> #[[大門坂|那智勝浦町大門坂線]](和歌山県[[那智勝浦町]]) - <small>熊野参詣道大門坂の杉並木(昭和61年度選定)</small> #[[若桜街道]]・本通り([[鳥取県]][[鳥取市]]) - <small>しゃんしゃん傘踊りの道(昭和61年度選定)</small> #[[鳥取県道24号米子大山線|大山道路]](鳥取県[[大山町]]) - <small>大山探勝のメインルート(昭和62年度選定)</small> #<!--[[島根県道37号松江鹿島美保関線|主要地方道松江鹿島美保関線]] -->[[塩見縄手]]([[島根県]][[松江市]]) - <small>塩見家栄進の記念道(昭和61年度選定)</small> #[[出雲市#道路|みゆきの道]](島根県[[出雲市]]) - <small>みゆきの道(昭和62年度選定)</small> #[[高梁市#道路|高梁市道本町楢井線・下町薬師院線]]([[岡山県]][[高梁市]]) - <small>紺屋川を挟む道(昭和62年度選定)</small> #[[岡山県道700号岡山総社自転車道線|吉備路自転車道]](岡山県[[岡山市]]ほか) - <small>史跡を走るサイクリングロード(昭和61年度選定)</small> #[[平和大通り]]([[広島県]][[広島市]]) - <small>平和への道(昭和61年度選定)</small> #[[美術館通り (呉市)|美術館通り]](広島県[[呉市]]) - <small>芸術と歴史の道(昭和62年度選定)</small> #[[山口県道203号厳島早間田線|パークロード]]([[山口県]][[山口市]]) - <small>文化ゾーンを貫く道(昭和62年度選定)</small> #[[菊屋横丁]](山口県[[萩市]]) - <small>萩藩御用達の商家通り(昭和61年度選定)</small> #[[吉野川バイパス]]([[徳島県]][[徳島市]]) - <small>地域開発の主役道路(昭和62年度選定)</small> #[[うだつの町並み]](徳島県[[美馬市]]) - <small>「うだつ」土蔵造りの町並み(昭和61年度選定)</small> #[[中央通り (高松市)|中央通り]]([[香川県]][[高松市]]) - <small>高松市のシンボルゾーン(昭和61年度選定)</small> #[[香川県道29号寒霞渓公園線|ブルーライン]](香川県[[小豆島町]]) - <small>小豆島・寒霞渓へ向かう道(昭和62年度選定)</small> #[[内子町#町道|八日市道路]]([[愛媛県]][[内子町]]) - <small>旅情をかきたてる「市」の道(昭和61年度選定)</small> #[[愛媛県道37号宇和島下波津島線#別名|南レク街路]](愛媛県[[宇和島市]]) - <small>リゾート地へのアクセス道路(昭和62年度選定)</small> #[[高知市#道路|追手筋]]([[高知県]][[高知市]]) - <small>「市」と祭りの道(昭和61年度選定)</small> #[[国道321号|足摺サニーロード]](高知県[[土佐清水市]]ほか) - <small>黒潮の道(昭和62年度選定)</small> #[[国道197号]](高知県[[檮原町]]ほか) - <small>土佐勤王の志士脱藩の道(昭和61年度選定)</small> #[[明治通り (福岡市)|東西軸トランジットモール]]([[福岡県]][[福岡市]]) - <small>官庁街・オフィス街を走るモール(昭和62年度選定)</small> #[[北九州市#市道|槻田あおぞら通り]](福岡県[[北九州市]]) - <small>地域住民に守られるコミュニティ道路(昭和61年度選定)</small> #[[柳川市#市道|水辺の散歩道]](福岡県[[柳川市]]) - <small>水辺の散歩道(昭和61年度選定)</small> #[[佐賀県道347号虹の松原線|県道虹の松原線]]([[佐賀県]][[唐津市]]ほか) - <small>歴史ロマンの虹のトンネル(昭和62年度選定)</small> #[[佐賀県道281号大木有田線|県道大木有田線]](佐賀県[[有田町]]) - <small>陶磁の道(昭和61年度選定)</small> #[[オランダ坂]]([[長崎県]][[長崎市]]) - <small>異国情緒を伝える石畳(昭和61年度選定)</small> #[[国道384号]](長崎県[[五島市]]ほか) - <small>五島を支える循環道路(昭和62年度選定)</small> #[[熊本県道337号熊本菊陽線|大津街道]]([[熊本県]][[菊陽町]]ほか) - <small>歴史を語る杉並木(昭和61年度選定)</small> #[[天草五橋|天草パールライン]](熊本県[[上天草市]]ほか) - <small>明日に架ける天草五橋(昭和62年度選定)</small> #[[佐伯市道山際線]]([[大分県]][[佐伯市]]) - <small>歴史と文学のみち(昭和61年度選定)</small> #[[北滝ロマン道路]](大分県[[竹田市]]) - <small>阿蘇を眺望する高原の道(昭和62年度選定)</small> #[[日南フェニックスロード]]([[宮崎県]][[宮崎市]]) - <small>ハネムーン街道(昭和61年度選定)</small> #[[橘公園通り]](宮崎県宮崎市) - <small>フェニックスの並木道(昭和62年度選定)</small> #[[武家屋敷通り (南九州市)|武家屋敷通り]]([[鹿児島県]][[南九州市]]) - <small>一新された武家屋敷通り(昭和61年度選定)</small> #[[国道223号]](鹿児島県[[霧島市]]) - <small>神域霧島の観光道路(昭和62年度選定)</small> #[[那覇市道金城2号]]([[沖縄県]][[那覇市]]) - <small>古都首里の石畳道(昭和62年度選定)</small> #[[沖縄県道213号黒島港線|県道黒島港線]](沖縄県[[竹富町]][[黒島 (沖縄県竹富町)|黒島]]) - <small>南海の島の景観道(昭和61年度選定)</small> (出典:『日本の道100選』〈新版〉2002年、[[ぎょうせい]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=「日本の道100選」研究会|title=日本の道100選〈新版〉|publisher=[[ぎょうせい]]|editor=国土交通省道路局 監修|date=2002-06-20|isbn=4-324-06810-0|ref=harv}} == 関連項目 == *[[日本の通り一覧]] *[[日本の道路一覧]] *[[百選]] <!-- http://archive.hp.infoseek.co.jp/100_road.html から転載 --> {{DEFAULTSORT:にほんのみちひやくせん}} [[Category:日本の道路一覧|みちひやくせん]] [[Category:日本の道100選|*]]
null
2023-07-13T03:50:58Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Sfn", "Template:Efn" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%81%93100%E9%81%B8
15,765
燃料
燃料(ねんりょう)とは、化学反応・原子核反応を外部から起こすことなどによってエネルギーを発生させるもののことである。古くは火をおこすために用いられ、次第にその利用の幅を広げ、現在では火をおこさない燃料もある。 人間は火を利用することで文明を発展させたと言われるほど、火の利用は人類の文明にとって重要である。したがって、それを得る材料となる燃料は、人類の進歩を支えてきたと言っていい。人類の最初の燃料は、ほぼ間違いなく植物であった。主力は材木であるが、枯葉や小枝、あるいは綿毛までもが火種や点火の補助などに用いられた。後に火力を増すために木炭に加工する方法が開発される。 燃料は火を得るために用いられる。そのもっとも初期の利用目的は熱と光である。 暖房と調理のための熱源として火が求められ、そのために燃料が使用された。おそらく当初はたき火がその両方に用いられた。その後調理のためには竈などが開発されるが、暖房にも利用された。暖房のためにはストーブなどが発明された。ストーブは調理に使用することもある。 当初はたき火がその目的で使用されたであろうが、できれば高い位置にあることが望ましい。例えば映画などの原始人の描写には、火のついた木の棒を片手にかざす姿がよく描かれる。より効果的にするためにたいまつなどが工夫され、さらにはランプや行灯などが作られ、次第に液体燃料への依存が進む。 蒸気機関の開発以降、燃料は動力として利用されるようになった。蒸気機関においては燃料は熱源であり、何でも良かったが、内燃機関では気化した液体燃料などを利用し、流体の燃料の利点がはっきりしている。 もう一つは、電気エネルギーへの変換である。発電機を介するものは動力への利用に近いが、燃料電池ではより直接に電気エネルギーへの変換が行われる。 燃焼前の段階で、固体であるものを固体燃料、液体であるものを液体燃料、気体であるものを気体燃料という。このうち固体燃料は取り扱いが簡単であり、最初に使われた。これに対して液体燃料や気体燃料は保管にしても燃焼装置にしてもやや技術が必要とされるので、後の時代に使われるようになった。しかし、技術が向上すれば、流体は管を通じて流すことができ、その量を調節しやすいなど、応用の幅が広い。 燃料の由来によって現在の植物から得られるもの(木炭など)を植物性燃料、動物から得られるもの(動物性脂肪など)を動物性燃料、過去の生物に由来するもの(石炭・石油など)を鉱物性燃料(化石燃料)という。これについてははじめの2つの利用が古く、化石燃料の使用は後の時代からである。化石燃料は蓄積量が多く、これを利用することで多大なエネルギーの利用が可能になった反面、現在の地球の生態系でのエネルギーの流れを上回る量を消費することで、地球環境に多大な負荷をかけるようになった。そのため、前2者への転換が検討されている。 代替燃料とは従来の化石燃料(主に石油)に代わる物として生物資源や廃棄物から製造される燃料である。古くは第二次世界大戦中に木炭から出来るガスで木炭バスを走らせたり松根油を内燃機関の燃料として使用が検討された。その後、石油等の化石燃料の供給が安定すると顧られなくなったが、オイルショックを機にバイオマス等の非化石燃料の研究が進められたが、オイルショックが去ると再び顧られなくなった。その後、化石燃料の供給が不透明になり始め近年再び研究が盛んに行われつつある。これには石油や石炭の価格が高騰した事により従来採算が取れなかったこれらの非化石燃料の採算がとれるようになったこともその背景にある。石炭液化やGTLも代替燃料として扱われる。 代替燃料とは恒久的、或いは供給状況や必要に応じて随時、本来の燃料と可逆的に切り替えて使用する事が前提の燃料(バイオエタノール等)であるのに対して、代用燃料とは本来の燃料の供給が逼迫した事により不本意ながら状況が打開されるまでの間使用を続けざるを得ない燃料(木炭ガスや松根油等)である。 太平洋戦争直前の1941年9月11日より、日本では営業用タクシー車両は原則代用燃料仕様車とされ、既存のガソリンエンジン搭載車から改造が進められた。改造に要する補助金対象は燃料別とされ石炭、コーライト(低温コークス)、木炭、薪、天然ガス、液化ガス、アセチレンの順で奨励された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "燃料(ねんりょう)とは、化学反応・原子核反応を外部から起こすことなどによってエネルギーを発生させるもののことである。古くは火をおこすために用いられ、次第にその利用の幅を広げ、現在では火をおこさない燃料もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人間は火を利用することで文明を発展させたと言われるほど、火の利用は人類の文明にとって重要である。したがって、それを得る材料となる燃料は、人類の進歩を支えてきたと言っていい。人類の最初の燃料は、ほぼ間違いなく植物であった。主力は材木であるが、枯葉や小枝、あるいは綿毛までもが火種や点火の補助などに用いられた。後に火力を増すために木炭に加工する方法が開発される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "燃料は火を得るために用いられる。そのもっとも初期の利用目的は熱と光である。", "title": "利用目的" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "暖房と調理のための熱源として火が求められ、そのために燃料が使用された。おそらく当初はたき火がその両方に用いられた。その後調理のためには竈などが開発されるが、暖房にも利用された。暖房のためにはストーブなどが発明された。ストーブは調理に使用することもある。", "title": "利用目的" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初はたき火がその目的で使用されたであろうが、できれば高い位置にあることが望ましい。例えば映画などの原始人の描写には、火のついた木の棒を片手にかざす姿がよく描かれる。より効果的にするためにたいまつなどが工夫され、さらにはランプや行灯などが作られ、次第に液体燃料への依存が進む。", "title": "利用目的" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "蒸気機関の開発以降、燃料は動力として利用されるようになった。蒸気機関においては燃料は熱源であり、何でも良かったが、内燃機関では気化した液体燃料などを利用し、流体の燃料の利点がはっきりしている。", "title": "利用目的" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "もう一つは、電気エネルギーへの変換である。発電機を介するものは動力への利用に近いが、燃料電池ではより直接に電気エネルギーへの変換が行われる。", "title": "利用目的" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "燃焼前の段階で、固体であるものを固体燃料、液体であるものを液体燃料、気体であるものを気体燃料という。このうち固体燃料は取り扱いが簡単であり、最初に使われた。これに対して液体燃料や気体燃料は保管にしても燃焼装置にしてもやや技術が必要とされるので、後の時代に使われるようになった。しかし、技術が向上すれば、流体は管を通じて流すことができ、その量を調節しやすいなど、応用の幅が広い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "燃料の由来によって現在の植物から得られるもの(木炭など)を植物性燃料、動物から得られるもの(動物性脂肪など)を動物性燃料、過去の生物に由来するもの(石炭・石油など)を鉱物性燃料(化石燃料)という。これについてははじめの2つの利用が古く、化石燃料の使用は後の時代からである。化石燃料は蓄積量が多く、これを利用することで多大なエネルギーの利用が可能になった反面、現在の地球の生態系でのエネルギーの流れを上回る量を消費することで、地球環境に多大な負荷をかけるようになった。そのため、前2者への転換が検討されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "代替燃料とは従来の化石燃料(主に石油)に代わる物として生物資源や廃棄物から製造される燃料である。古くは第二次世界大戦中に木炭から出来るガスで木炭バスを走らせたり松根油を内燃機関の燃料として使用が検討された。その後、石油等の化石燃料の供給が安定すると顧られなくなったが、オイルショックを機にバイオマス等の非化石燃料の研究が進められたが、オイルショックが去ると再び顧られなくなった。その後、化石燃料の供給が不透明になり始め近年再び研究が盛んに行われつつある。これには石油や石炭の価格が高騰した事により従来採算が取れなかったこれらの非化石燃料の採算がとれるようになったこともその背景にある。石炭液化やGTLも代替燃料として扱われる。", "title": "代替燃料" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "代替燃料とは恒久的、或いは供給状況や必要に応じて随時、本来の燃料と可逆的に切り替えて使用する事が前提の燃料(バイオエタノール等)であるのに対して、代用燃料とは本来の燃料の供給が逼迫した事により不本意ながら状況が打開されるまでの間使用を続けざるを得ない燃料(木炭ガスや松根油等)である。 太平洋戦争直前の1941年9月11日より、日本では営業用タクシー車両は原則代用燃料仕様車とされ、既存のガソリンエンジン搭載車から改造が進められた。改造に要する補助金対象は燃料別とされ石炭、コーライト(低温コークス)、木炭、薪、天然ガス、液化ガス、アセチレンの順で奨励された。", "title": "代替燃料" } ]
燃料(ねんりょう)とは、化学反応・原子核反応を外部から起こすことなどによってエネルギーを発生させるもののことである。古くは火をおこすために用いられ、次第にその利用の幅を広げ、現在では火をおこさない燃料もある。
{{複数の問題 |出典の明記=2017年9月5日 (火) 00:45 (UTC) |独自研究=2017年9月5日 (火) 00:45 (UTC) }} [[画像:Buying fuelwood.jpeg|thumb|230px|木は最も古くから利用されてきた燃料の1つである]] '''燃料'''(ねんりょう)とは、[[化学反応]]・[[原子核反応]]を外部から起こすことなどによって[[エネルギー]]を発生させるもののことである。古くは[[火]]をおこすために用いられ、次第にその利用の幅を広げ、現在では火をおこさない燃料もある。 == 歴史 == 人間は[[火]]を利用することで[[文明]]を発展させたと言われるほど、火の利用は人類の文明にとって重要である。したがって、それを得る材料となる燃料は、人類の進歩を支えてきたと言っていい。人類の最初の燃料は、ほぼ間違いなく植物であった。主力は[[木材|材木]]であるが、枯葉や小枝、あるいは綿毛までもが[[火種]]や点火の補助などに用いられた。後に火力を増すために[[木炭]]に加工する方法が開発される。 == 利用目的 == 燃料は火を得るために用いられる。そのもっとも初期の利用目的は[[熱]]と[[光]]である。 === 熱源 === [[暖房]]と[[調理]]のための[[熱源]]として火が求められ、そのために燃料が使用された。おそらく当初は[[たき火]]がその両方に用いられた。その後調理のためには[[竈]]などが開発されるが、暖房にも利用された。暖房のためには[[ストーブ]]などが発明された。ストーブは調理に使用することもある。 === 光源 === 当初はたき火がその目的で使用されたであろうが、できれば高い位置にあることが望ましい。例えば映画などの原始人の描写には、火のついた木の棒を片手にかざす姿がよく描かれる。より効果的にするために[[たいまつ]]などが工夫され、さらには[[ランプ (照明器具)|ランプ]]や[[行灯]]などが作られ、次第に[[液体燃料]]への依存が進む。 === 動力源 === [[蒸気機関]]の開発以降、燃料は[[動力]]として利用されるようになった。蒸気機関においては燃料は熱源であり、何でも良かったが、[[内燃機関]]では気化した[[液体燃料]]などを利用し、[[流体]]の燃料の利点がはっきりしている。 === 電気 === もう一つは、[[電気]]エネルギーへの変換である。発電機を介するものは動力への利用に近いが、[[燃料電池]]ではより直接に電気エネルギーへの変換が行われる。 == 分類 == {{雑多|section=1|date=2017年9月5日 (火) 00:45 (UTC)}} === 固体燃料・液体燃料・気体燃料 === 燃焼前の段階で、[[固体]]であるものを[[固体燃料]]、[[液体]]であるものを液体燃料、[[気体]]であるものを[[ガス燃料|気体燃料]]という。このうち固体燃料は取り扱いが簡単であり、最初に使われた。これに対して[[液体燃料]]や[[気体燃料]]は保管にしても燃焼装置にしてもやや技術が必要とされるので、後の時代に使われるようになった。しかし、技術が向上すれば、[[流体]]は[[管]]を通じて流すことができ、その量を調節しやすいなど、応用の幅が広い。 ==== 固体燃料 ==== * [[泥炭]] * [[石炭]] ** [[褐炭]] ** [[瀝青炭]] ** [[無煙炭]] ** [[コークス]] * [[練炭]] * [[薪]](まき) * [[木質ペレット]] ** [[オガライト]]([[オガクズ]]を固形にしたもの) *** [[オガ炭]](オガライトを炭化させたもの) * [[木炭]] * [[蝋]] * [[固形燃料]](主にアルコールを固形化したもの) * [[廃棄物固形燃料]] ([[ごみ固形燃料]]) (RDF) ==== 液体燃料 ==== * [[石油]] ** [[原油]] ** [[軽質油]] *** [[ガソリン]] *** [[灯油]] *** [[軽油]] ** [[重質油]] *** [[重油]] *** [[アスファルト]] * 植物油 ** [[菜種油|ナタネ油]] ** 廃食用油 ** [[松根油]] * [[アルコール]]類 ([[メタノール]]、[[エタノール]]など) * その他 ** [[エマルジョン燃料]] ==== 気体燃料 ==== * [[天然ガス]] * [[液化石油ガス]] * [[水素]] * [[ジメチルエーテル]] === 植物性燃料・動物性燃料・鉱物性燃料 === 燃料の由来によって現在の[[植物]]から得られるもの(木炭など)を[[バイオ燃料|植物性燃料]]、動物から得られるもの(動物性脂肪など)を動物性燃料、過去の生物に由来するもの(石炭・石油など)を鉱物性燃料([[化石燃料]])という。これについてははじめの2つの利用が古く、化石燃料の使用は後の時代からである。化石燃料は蓄積量が多く、これを利用することで多大なエネルギーの利用が可能になった反面、現在の地球の[[生態系]]でのエネルギーの流れを上回る量を消費することで、地球環境に多大な負荷をかけるようになった。そのため、前2者への転換が検討されている。 == 代替燃料 == {{See also|代替燃料}} 代替燃料とは従来の化石燃料(主に[[石油]])に代わる物として生物資源や[[廃棄物]]から製造される燃料である。古くは[[第二次世界大戦]]中に木炭から出来るガスで[[木炭自動車|木炭バス]]を走らせたり[[松根油]]を内燃機関の燃料として使用が検討された。その後、石油等の[[化石燃料]]の供給が安定すると顧られなくなったが、[[オイルショック]]を機に[[バイオマス]]等の非化石燃料の研究が進められたが、オイルショックが去ると再び顧られなくなった。その後、化石燃料の供給が不透明になり始め近年再び研究が盛んに行われつつある。これには石油や石炭の価格が高騰した事により従来採算が取れなかったこれらの非化石燃料の採算がとれるようになったこともその背景にある。[[石炭液化]]や[[GTL]]も代替燃料として扱われる。 === 代替燃料と代用燃料の違いに関して === 代替燃料とは恒久的、或いは供給状況や必要に応じて随時、本来の燃料と可逆的に切り替えて使用する事が前提の燃料([[バイオエタノール]]等)であるのに対して、代用燃料とは本来の燃料の供給が逼迫した事により不本意ながら状況が打開されるまでの間使用を続けざるを得ない燃料(木炭ガスや松根油等)である。 [[第二次世界大戦|太平洋戦争]]直前の[[1941年]][[9月11日]]より、日本では営業用[[タクシー]]車両は原則代用燃料仕様車とされ、既存の[[ガソリンエンジン]]搭載車から改造が進められた。改造に要する補助金対象は燃料別とされ石炭、コーライト(低温[[コークス]])、木炭、薪、天然ガス、[[GTL|液化ガス]]、[[アセチレン]]の順で奨励された<ref>釣り船、遊覧船も石油使用禁止『東京日日新聞』昭和16年8月22日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p82 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 == インターネットスラングとしての「燃料」 == * 燃料という言葉は、[[2ちゃんねる]]などの[[電子掲示板]]での[[祭り]]や、[[ブログ]]などの[[炎上 (ネット用語)|炎上]]などをより加速、激化させるような、いわば「火に油を注ぐ」ネタのことを指す[[インターネットスラング]]としても使われる。<ref>鈴木伸元「加害者家族」(幻冬舎新書)、131ページ</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[バイオ燃料]] * [[化石燃料]] * [[核燃料]] * [[エネルギー貯蔵]] == 外部リンク == * {{wiktionary-inline|燃料}} * {{commonscat-inline|Fuels}} {{発電の種類}} {{森林破壊}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねんりよう}} [[Category:燃料|*]] [[Category:化学物質]] [[Category:大気汚染]] [[Category:技術]] [[Category:資源]] [[Category:エネルギー]] [[Category:物質]]
2003-09-08T11:29:39Z
2023-09-07T01:14:40Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:雑多", "Template:See also", "Template:Wiktionary-inline", "Template:発電の種類", "Template:複数の問題", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat-inline", "Template:森林破壊" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E6%96%99
15,766
T-34
T-34/T-34-85(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車、主力戦車の一つ。 1930年代前半に導入されたBTシリーズは、スペイン内戦(1936年~1939年)やノモンハン事件(1939年)の戦訓で機動力は申し分ないが、防御力に問題のあることが浮き彫りとなり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車が求められるようになった。そこで開発されたのがT-34である。 1939年の時点で、ソ連軍で最も数が多かった戦車はT-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は、動きの遅い歩兵戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために非常に快速の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、対戦車ライフルや PaK 36 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製のヴィッカース 6トン戦車、BTはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーの戦車が原型であった。 1937年、ソ連軍は技師のミハイル・コーシュキンをBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業はハルキウのハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。 A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45 mm 砲 M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい軽油を用いたV型12気筒の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた(Zheltov 1999)。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速85キロメートルでの走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。 A-20には、先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から傾斜装甲を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、徹甲弾を弾いて逸らしやすい。 日ソ国境紛争の1938年7月の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件で、ソ連軍は日本陸軍に対してBT-5、BT-7等多数の戦車を使用した。当時のソ連戦車は、日本軍の対戦車砲である九四式三十七粍砲によって容易に撃破された。従来のソ連戦車は、日本歩兵の火炎瓶攻撃を受けると容易に火災をおこした。当時のソ連戦車はガソリンエンジンを装備しており、被弾でガソリンに引火して火災を起こしやすく、 (Zaloga & Grandsen 1984:111)また車体塗装のペンキは可燃性で、火炎瓶攻撃で引火炎上しやすかった。スペイン内戦においても、共和派に供与されたT-26がフランコ派の火炎瓶攻撃や対戦車砲撃で大きな打撃を被った。さらには、装甲板をリベット留めした部分も脆弱であることが分かった。リベット留めの装甲板は「破砕」(spalling)の問題につながった。これは、敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。 この戦訓から、赤軍指導部は以後戦車の塗料を不燃性のものとし、装甲板に電気溶接を採用し、ディーゼルエンジンを搭載するようになった。これらの戦訓はT-34開発に生かされることになった。また歩兵支援を重視する守旧派から、独立した戦車部隊の集中運用を主張する、トハチェフスキーやゲオルギー・ジューコフが赤軍内部で主導権を握り、のちの独ソ戦における戦車用兵思想に影響を与えた。 コーシュキン技師は、ソ連の指導者スターリンを説得して別の試作戦車を開発する許可を得た。それはT-26 および BT戦車のいずれの後継戦車にもなりうるようなより重武装・重装甲の「万能戦車」を開発するという計画であった。コーシュキン技師は二番目の試作戦車を、32 mm の前面装甲にちなんでA-32と命名した。A-32には、45 mm 砲 M1938または76.2 mm 砲 L-10を採用し、A-20と同じV-2ディーゼルエンジンを採用した(Zaloga 1994:5)。なお、構造が複雑な割に実用性が低いクリスティー式戦車譲りのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点で廃止されている。 A-20とA-32は、1939年にクビンカで性能試験を受けた。試験の結果は両車とも良好で、より重装備のA-32がA-20と同等の機動性を持っている事が証明された。そして、スターリンの裁定でA-32がT-32として正式採用されることになった。 しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45mmにするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11に強化することとなった。 この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されてグリゴリー・オルジョニキーゼが戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである(Zaloga 1994:6)。 コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月にハリコフからモスクワまでの2000キロメートルの走行試験を行って、クレムリンの指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドのマンネルハイム線まで行き、ミンスクとキエフを経由してハリコフに戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの冬戦争において露呈したソ連戦車の性能の低さや、ドイツの電撃戦の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔のT-28中戦車の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に、試験走行により悪化していた肺炎で亡くなった。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師が指名された。 T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリングを用いたクリスティー式サスペンションを採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち駆動輪は後輪とし、ソ連の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては、優れた傾斜装甲であった。武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔を備えている。 T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月のバルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲に撃破されたりもした。 T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲はそれまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場が供給し、レニングラードのキーロフスキー工場(前身はプティロフ工場)が76.2 mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワのダイナモ工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は第183ハリコフ機関車工場のみで作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場がこれに加わり、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されたL-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、ゴーリキーの第92工場にあったワシリー・グラビン技師の設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲を設計した。官僚たちは生産を認めなかったが、第92工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンのソ連国家防衛委員会から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。 ソ連陸軍の保守派からは「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあったKV-1戦車やIS-2戦車の開発グループが吹聴したものであった(Sewell 1998)。 1941年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦が開始された(独ソ戦の始まり。)。これを受けてソ連軍は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。 ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場をウラル山脈へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場はニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場はエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40パーセントを生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場はスターリングラード攻防戦の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。 スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化を自動化する方法が開発された。F-34 76mm戦車砲は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500ルーブルから、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50パーセントが女性・15パーセントが少年・15パーセントが身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。 1942年になって、既に放棄されていたT-34M計画において考えられていた六角形の砲塔を生産に移す事になった。この新型砲塔は砲塔内の窮屈さを解消すると共に、車長が全方向を見渡せるように、車長席にコマンダーズキューポラも付けられる事になった。ゴムの供給量が限られていたため、転輪は鋼鉄製であった。この頃から、改良された5段変速の変速機とエンジン、そして新型クラッチが採用された。 1942年には、長砲身の優れた貫徹力を持つ 75 mm 砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場した。モロゾフ技師の設計チームはT-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。これは、装甲を更に強化する一方で、トーションバーサスペンションや三人式の砲塔といった最新の特徴を取り入れる狙いを設計に持たせていた。T-43はT-34ばかりでなくKV-1重戦車の代替にもなりうるような万能戦車として計画されたため、KV-1重戦車を開発していたチェリャビンスクの重戦車設計チームによるKV-13計画と真正面から競争する事になった(Zaloga et al. 1997:5)。 1943年になると、ソ連軍は新型のドイツ軍戦車ティーガー戦車やパンター戦車と戦わねばならなくなった。クルスクの戦いにおける経験により、T-34の76.2 mm 砲ではもはや十分に戦えないという報告が前線から届いていた。また、既にあった85 mm 高射砲は新型ドイツ軍戦車にも有効であるという事も分かったので、この砲を戦車に搭載する事になった(Russian Battlefield 1998b)。しかし、より厚くしたT-43試作車の装甲でさえもティーガーの88 mm 砲に対しては十分ではなく、また機動性の面でみても、より重い85 mm 砲を搭載する前の状態であったにもかかわらずT-34の機動性よりも劣っていた。T-43の部品は70パーセント以上がT-34と共通であったが、T-43の生産も並行して行うと、生産の速度はかなり低下する事が予想された(Zaloga et al. 1997:5)。 結局T-43計画は中止される事になり、ソ連の司令部はT-34の新型を製造するように工場を再改装するという難しい決断をした。T-34の新型では砲塔を嵌め込むターレットリングの径を1425mmから1600mmに広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソルモヴォ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。もう一つ重要な点はポーランドで戦前に設計され、イギリスでライセンス生産されていたものをコピーしたヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV(戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。 T-34は85mm砲を装備したT-34-85になっても依然としてティーガー戦車やパンター戦車に不利な戦いを強いられたが、それでも火力が増したことにより500メートル前後にまで接近出来ればティーガー戦車やパンター戦車に正面から有効打を与えられる様になったため、正面からの撃破がほぼ不可能だったそれまでよりは格段に戦いやすくなった。また、ドイツ軍機甲戦力の実質的な主力であったIV号戦車やIII号突撃砲に対して優位に立った事がそれ以上に大きな意味を持った。ソ連側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソ連は性能の差が問題にならなくなる程の、大量の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、ドイツ国防軍は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソ連は1200輌/月というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである (Zaloga et al. 1997:6)。 T-34-85の生産コストは当初、16万4000ルーブルで、これは1943年型より30パーセント高かったが1945年までに14万2000ルーブルまで下がった(Harrison 2002:181)。戦争期間中に、T-34の価格は1941年の27万ルーブルからほぼ半分に下がった(Harrison 2002:181)。しかもこの間、戦車の最高速度は同じまま保たれ、主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の厚みはいずれもほぼ2倍になったのである(Zaloga 1984:113, 184, 225)。 1945年末までに、5万7,000輌以上のT-34が作られた。このうち3万4780輌は1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は1944年から1945年に掛けて作られたT-34-85である(1998a, 1998b)。 最も生産量の多かったのは当初ハリコフ、その後ニジニ・タギルに移転した第183工場 (KhUTZ) で、1941年から1945年にかけて、T-34とT-34-85を合わせて2万8,952輌製造している。次に多かったのはゴーリキーの第112工場(クラスノエ・ソルモヴォ)で、同時期に1万2,604輌製造している(Michulec & Zientarzewski 2006:220)。戦後の1946年には2701輌が製造され、大規模な生産はそこで打ち切られた。 その後、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアで生産が再開され、1956年までの集計でそれぞれ1951~1955年に1,380輌、1951~1958年に3,185輌のT-34-85が製造された。その後、T-54/55やT-72もまたソ連の外で製造された。 1960年代後半には、ソ連のT-34-85は輸出用と予備役用とするために近代化改修を受け(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインを組み込まれた。この事実もソ連の戦車設計の標準化の水準の高さを示す一つの証拠となるものであった。 T-34は合わせて8万4,070輌が製造されたと推定され、この他にT-34の車台を用いて作られた1万3,170門の自走砲がある(Zaloga & Grandsen 1996:18)。これらの内のいくらかは冷戦下で起こった、朝鮮戦争など世界各地の軍事衝突の中で失われた。 T-34の特徴は、 である。 T-34を調査したドイツ軍は、既存戦車の改良と共に新型戦車(ティーガー、パンター)の開発を促進することになる。特にパンター戦車の設計にはこのT-34の構造が非常に強い影響を与えた。ダイムラー・ベンツ社によるVK3002(DB)はT-34に似たシルエットであったが、実際に採用されたのはT-34の影響はうかがえるものの、大分異なった形状のMAN社製のVK3002(M)であった。 さまざまな部分において当時のドイツ戦車を圧倒していたこの戦車であるが、同時に多くの欠点を有していた。その多くは工作精度と人間工学的な問題である。これはドイツとソ連の技術的な問題と同時に、戦車による地上戦の戦術・思想に対しての差であったといえるであろう。 T-34は非常に高い生産性を誇り、損害を上回る数が次々に戦場へ投入された。 T-34は大戦中だけで3万5,000輌あまり、T-34-85は2万9,480輌が生産され、合計すると6万輌以上に上り、アメリカ軍のM4シャーマンの生産数をも上回る当時世界最多の生産数を誇った。このため生産数だけを見て最優秀戦車であるという意見もある。しかしながら当時のソ連はレンドリースによってアメリカなどから戦車、ジープ、トラックなどの提供を受け、生産力を主力兵器に全て振向けることができた。このことがこの生産数の大きな要因であったといわれる。 第二次世界大戦後、T-34-85はチェコやポーランドでも生産され、共産圏諸国や中東諸国等に輸出された。これら東欧製は1944年型の製造ラインを受け継いで作られたが、表面仕上げや工作精度が大戦中のソ連製より良く、また鋳型が変更されたため砲塔の形状などに微妙な違いが見られる。 1941年6月22日、ドイツは対ソ侵攻作戦、バルバロッサ作戦を開始した。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソ連軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により心理的なショックを受けた(T-34ショック)。T-34は当時就役していたドイツ軍戦車のどれよりも優れており、ドイツ軍は当初T-34を撃破するのにかなり苦労した。当時のドイツ軍の標準的な対戦車砲ではT-34の分厚い傾斜装甲には有効打を与えられなかったからである。アルフレート・ヨードルの日記でも、リガにT-34が現れたときは驚いたようである。そのため、T-34はしばしば独ソ戦におけるソ連軍反撃の象徴とされる。。また、現代の歩兵戦闘車のようにT-34の車上にタンクデサントとして歩兵を乗せて移動することがあった。この例はスターリングラードなどで見られる。 1941年はT-34はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができた。しかし新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。初期のPomonフィルターにはほとんど防塵効果が無く、塵や砂がエンジンに入り故障させた。変速機とクラッチにも深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)。修理用の器材が不足したため初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。 1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。IV号戦車は性能の劣るリーフ式サスペンションと狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった。 当時のドイツ歩兵部隊は大部分がPaK 36(37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 は最も薄い部類の装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らはソ連軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考え、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0 cm 砲PaK 38、新型でより強力な7.5 cm 砲PaK 40、88ミリ高射砲などがあるが、88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソ連軍の戦車乗員の練度が低く、ソ連軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったからだった。当時のソ連は戦車戦術の理解度、洗練度の点でドイツ軍より劣っていた。 1942年から1943年にかけて、ソ連軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソ連の設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した。これはドイツの1ヶ月当たりの戦車生産量よりかなり多い。しかしながら、ソ連軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。 圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は砲口初速の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになり、これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力なティーガー重戦車およびパンター中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85 mm 戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでのF-34 76mm戦車砲に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。 それまでの数年の戦いの中では、ソ連軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソ連軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍のIV号戦車やIII号突撃砲よりも装甲や機動性において優れていたが、パンターの砲や装甲よりは劣っていた。ソ連側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少なく稼動率が低い点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。 開戦当初、T-34はソ連戦車の内のわずか数パーセントに過ぎなかったが、終戦時までにソ連の膨大な戦車生産台数の少なくとも55パーセントを占めるまでになっている(の図より。Zheltov 2001はより大きな数字を挙げている。)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。攻撃力や防御力ではパンター、ティーガーらドイツ軍新鋭戦車に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。 1945年8月9日未明、機甲部隊の通過は不可能な地形と日本軍側が考えていた地帯を通ってソ連軍は日本占領下の満州に侵攻した。赤軍の諸兵科連合部隊は完全な奇襲に成功し、古典的な二重包囲戦形の中で、T-34-85、IS-2、IS-3とISU-152を先鋒とする強力な長距離貫入攻撃を展開した。対する日本軍は、既に精鋭部隊を他の戦線に引き抜かれた後で兵力が減少しており、再配備の途上であった。日本軍に残されていた戦車は全て後方に留め置かれ、戦闘には使用されなかった。日本軍は陸軍飛行戦隊、工兵、通信兵からの支援もあまり得られなかった。日本軍はある程度の抵抗は示したが、数と質共に圧倒された。これを受け、昭和天皇は8月14日に降伏を伝達したが、関東軍は8月17日まで正式な停戦命令を受け取っていなかった。 ソ連軍では後継のT-54が1950年に正式採用されるまで、主力戦車であり続けた。T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソ連から輸出されて各地で使用された。 例えば、1950年6月の朝鮮戦争における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は、約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた。 T-34はM24軽戦車、M4中戦車、M26パーシング中戦車、M46パットン中戦車と戦ったが、国連軍のセンチュリオン戦車とは、いずれも戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチバズーカを依然として使っていたが、これはT-34には無力であった。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された3.5インチ・スーパー・バズーカを使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。 共に第二次世界大戦で連合国を代表する存在となったM4中戦車との戦いにおいては、主力となった52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)と59回の戦車戦を戦い、T-34が47輌撃破されたのに対して、M4中戦車の完全損失は10輌(他10輌が損傷したが修理復帰)であり、圧倒されている。他、M26パーシングやM46パットンなども含めた、T-34対アメリカ軍戦車の戦いのキルレシオとしては、T-34が97輌撃破されたのに対してアメリカ軍戦車の損失は34輌(うち半数は修理復帰)であり、アメリカ軍側の圧勝に終わっている。 一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の仁川上陸作戦によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌のSU-76が失われた。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった。 フィンランド軍は攻撃してきたソ連軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。 また多くの東欧諸国(後のワルシャワ条約機構)の陸軍でも採用され、1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起や1956年のハンガリー動乱の鎮圧に使用された。 T-34は、中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使われ、1974年のキプロス紛争では、キプロス国家守備隊がユーゴスラビアから供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは、民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれたマカリオス3世(ギリシャ・キプロス合邦運動の中心人物と目されていた)が(ギリシャ軍事政権にとって。)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシャ(及び西側諸国)との関係が急速に悪化した。孤立化したキプロスは、武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシャ軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日のキオネリ(英語版)やキュレニア(英語版)の二つの戦いである(Drousiotis 2006)。 冷戦終結後のユーゴスラビア紛争におけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいてセルビア人のT-34が国際連合保護軍のイギリス陸軍王立工兵(Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた。クロアチアはユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。コソボ紛争ではユーゴスラビア陸軍がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。 アフガニスタンでもT-34は時々利用されている(T-34が有志連合軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。イラク軍は1990年代初期までT-34を使用していた。アンゴラやソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。キューバのT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。 レバノン内戦では、PLOやイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織がイスラエルから供給されたM50スーパーシャーマン等と共に使用していた。 21世紀に入っても実働するT-34-85が実戦で使われている例が存在しており、2011年のリビア内戦でも前線で活用されたとの情報が多数入っている。 2006年、ハンガリーでのデモ活動で市民側が展示されていたT-34-85を稼働させたという情報もある。 2015年には内戦状態に陥ったイエメンにおいて、T-34-85がSU-100と共に用いられているのが目撃されている。イエメンのT-34-85は、主砲弾に、戦中に使われていた徹甲弾よりも遥かに強力な、戦後開発の3UBK1翼安定成形炸薬弾を使用しており、T-55程度は余裕で貫徹可能であり、こうした新型弾薬を使えば、大戦期の戦車でも十分脅威となる。 2019年1月10日には、ラオス人民軍に配備されていた30両が退役し、ロシアに返還された。 2020年、ロシア陸軍第4親衛戦車師団「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車大隊が設立された。 2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるリシチャンシクの戦いでも、公園でモニュメントとして飾られていたT-34-85がウクライナ軍により稼働させられたものの放棄され、ロシア軍に鹵獲されて検問所でかかしとして使用されている。 T-34は、その生産工場の違いと改良により細部の異なる数多くのバリエーションがある。主砲の口径により、T-34-76とT-34-85に大別され、さらに(主に西側の研究家により)主な生産年、製造工場名で細分される。 なお、T-34-76はソ連ではもともと単にT-34と呼称、85 mm 砲搭載型登場後、区別のためにT-34-76と呼称されるようになった。かつて、西側ではT-34/76、T-34/85等と表記するのが普通だったが、ソ連の崩壊以降に公表されているロシア発の資料ではT-34-76、T-34-85等となっている。 その形状から、「ピロシキ」と呼ばれた背の低い1940/41年型砲塔は当初は圧延鋼板の溶接型のみであったが、直に量産性の優れた鋳造製砲塔が並行生産されるようになった。当時、ソ連は大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており、以後のT-34改良型やIS-2などに積極的に鋳造製砲塔を採用した。 しかし鋳造装甲は製法上、同じ厚さの圧延鍛造装甲より一割ほど強度が劣り、鋳造砲塔に被弾すると、割れることも少なくなかった。また大戦中の粗製濫造のため鋳巣(空洞)が装甲の中に発生し、更に強度を落としていた例もある。このため、当時の乗員は「鋳造砲塔は37 mm 高射機関砲弾程度の被弾ですら安全ではなかったと」証言している。一方、圧延鍛造の傾斜装甲を採用している車体前面装甲は乗員達から多くの信頼を得ている。 1942年型以降では「チェリャビンスク砲塔」と呼ばれる六角形状の新型砲塔が使用された。この砲塔は試作戦車T-34Mの砲塔を元に設計され、鋳造製の外周部と圧延鋼板からなる天板を組み合わせた構造をしていた。また、「チェリャビンスク砲塔」に似た形状であるものの、外周部と上面との間に継ぎ目なく、一体に成型された「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔がウラルマシ(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM)で生産されていた。 「フォルモチカ」砲塔に関しては、昔からの鋳造一体成型説とプレス機での熱間鍛造説があった。後者は1994年にスティーヴン・ザロガの著書により発表された。当初は 5000トンフォージングプレス機を用いたとされたが、側面で52 mm もある装甲の成型は不可能と指摘され、ザロガも翌年、1万トンプレス機であると訂正した。しかし、当時ソ連に存在しない 2万トンプレスでないと不可能とする異論、また現代のプレス業者から見ても不合理な工程であるとの意見もあり、未だ真相はハッキリしていない。一説では52 mm厚というのは鋳造製ナット型砲塔での数値であり、実際にはより薄い25~30 mm程度の鋼板をプレスしたもので、ウラジオストックで記念碑として展示されている砲塔 のように、薄い装甲が主砲発射の反動に耐えられず、次第に下端部に特徴的なたわみが発生するのではないか、と言われている。一方、他所でもこの砲塔にキューポラ付きのT-34 が展示されているが、こちらには下端部のたわみ具合が小さい。 ドイツ軍でも独自に1940年型をT-34A、1941年型をT-34B、1941年戦時簡易型をT-34C、1942年型をT-34D、1943年型をT-34E、そして1942年型で砲塔上面まで一体成型されたタイプをT-34Fと分類した。もっとも、前述の通りソ連では76.2 mm 砲搭載型の全てが単に"T-34"であり、細かい分類はされなかった。またソ連軍が新型戦車を開発していることを知ったドイツ軍は、新たに現れたT-34-85を誤って(別の戦車である)T-43と呼んだ。 ドイツ軍は鹵獲したT-34をPanzerkampfwagen T-34 747(r)と名づけ使用した(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記する場合もある)。そのまま使用しただけでなく、車長用キューポラやサイドスカートを増設したり、対空戦車などにも改造して使用した例もあった。 大戦中にもT-34M、T-43(この二種の戦車は全くの別物だが、古い資料では混同されている)といった装甲強化型の試作が行われたが、それ以上に火力の増強が必要とされて却下され、代わってT-34-85や後継戦車として開発されたT-44が生産された。 ソ連では派生車として、下記の自走砲他が生産されている(形式番号は搭載火砲の口径を示している)。SU-85やSU-100は対戦車戦闘を目した駆逐戦車の性格が強いが、ソ連ではまとめてSU(СУ)=自走砲と分類されている。 戦後、エジプト、シリアなどでも、ソ連製やチェコ製のT-34-85を独自に自走砲や対空自走砲を改造し、製作、使用した。 なお、大戦中のソ連軍にも、T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め、試験的に100 mm 戦車砲を搭載した「T-34-100」が存在する。また、1942年にU-12 122mm榴弾砲を搭載した車両が計画・試作され、これは「T-34Г(T-34G)」もしくは「T-34щ(T-34Sh)」の名称で計画されたが、“T-34-122”と通称されていた。 独ソ戦によるドイツ軍のソ連領内侵攻で、工場は大規模な疎開を行って生産を続けることとなった。これら数カ所あった工場によって砲塔、車体の構成などが異なることがわかっている。 第二次世界大戦後、「友好国」に生産ラインの設備が譲渡され、ライセンス生産もおこなわれている。 なお、59式戦車の完成後は59式用の装備品が58式戦車にも追加で装備され、サーチライトとその架台、新型の照準器などが装着されている。それらの改修車両は西側の分類では“Type58-IIM”と呼称されている。 これらの他、T-34-Tがソ連より供与、及び購入されて使用されており、58式戦車の一部も同様の戦車回収車に改装されて使用された。 T-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。第三世界の軍において第二線級の兵器として保管されている車両(主にT-34-85)は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。 2010年のモスクワにおけるロシア対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34やSU-100などがパレードに自走参加した。2015年10月に北朝鮮の平壌で開催された朝鮮労働党70週年記念の軍事パレードでも、起動輪と履帯をT-54/55のものに換装したT-34-85の近代化改修型が参加している。 より古いT-34-76に関しては、現存する有名なものとしてはアメリカ・メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵する1941年型のT-34がある。これは旧西側に現存する車輛としては最古級のものだった。更に古い76mm L-11砲を搭載した1940年型のT-34は、ロシア、ベラルーシに少なくとも各1輌、1941年型および1941年戦時簡易型は最近になって昔の戦場から回収されたものを含め少なくとも10輌以上が現存する。フランスのソミュールにある「Musée des Blindés(ソミュール戦車博物館)」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。フィンランドが継続戦争中に鹵獲した1941年型(Ps.231-1)も走行可能な状態となっている。ナット砲塔を搭載した1942年型・1943年型はさらに多く、走行可能状態までレストアされたものも多い。 T-34の耐久性は、最近の修復作業においても示された。エストニアで56年間にわたって沼の底にあった1943年型のT-34が、2000年に復活した。その戦車はドイツ軍によって鹵獲され、退却中のドイツ軍が使用したが、その燃料が切れた所でドイツ軍が沼の中へ投棄したものであった。油漏れ・錆・その他水による機械系統への損傷の徴候は見られなかった。エンジンは完全に稼働する状態に回復した。 2019年1月10日にはラオスで稼働状態だった30輌のT-34/85が退役し、協定によりロシアに返還されると報じられた。戦後にチェコスロバキアで生産・輸出された型式でベトナムに納入後、ラオスに引き渡された物という。ロシアでは博物館展示のほか、戦争映画や軍事パレードで用いられる予定。その後2020年6月24日にロシアの戦勝記念パレードで自走する大量のT-34-85が各メディアで報道された。 2023年5月のモスクワで行われたパレードには、この内の1輌のみが、本パレード唯一の戦車として登場したと報道されており、未確認ながらT-34-85がウクライナへの軍事侵攻に使用されている可能性が示されている(一方、他の地域でのパレードには複数の戦車が登場したという報道もあり、本当にロシアがT-34-85をウクライナに出撃させているのかについては不明な点が多い)。 T-34の各型は、世界各地の軍事博物館で収蔵品として展示されている他、100輛以上が戦争記念のモニュメントとして展示されている。コレクターやマニアの私有物として保有されている車両もあり、非武装化されて運転可能な状態の戦車は、2万から4万米ドルの間で取引されている。 その他に、民間で主に映画製作に使用されているものもある。第二次世界大戦を題材とした多くの映画(例えば『ネレトバの戦い』『戦略大作戦』『誓いの休暇』『プライベート・ライアン』など)では、T-34-85戦車をティーガーI戦車に見えるように改装して使用した。これは実働するティーガーIを撮影用に用いることが難しかったためである。 これらの改造ティーガーは改造の度合いにもよるが、ティーガーIにそれなりに似ている。しかし車体の幅の狭さ、砲塔の位置(T-34の砲塔は車体のかなり前寄りにある。)、転輪や履帯の形状などから見分けられる。 別の有名な例として、マンデラ・ウェイのT-34戦車がある。これは個人所有のT-34-85で、それが置かれている通りの名にちなんで、こう呼ばれている。マンデラ・ウェイはロンドンのBermondsey近くにある。このT-34は画家や落書き芸術家たちによって、頻繁に塗り変えられている。 T-34は、第二次世界大戦におけるソ連軍の主力戦車の1つであり、第二次世界大戦を扱った作品には頻繁に登場している。 T-34は現存車両が多いこともあり、第二次世界大戦を扱った戦争映画には数多く登場する。ソ連軍の戦車としての他に、外観はそのままにドイツ軍の国籍標識を描かれて「ドイツ戦車」として登場する例も多い。「現存する車輛」の項で述べたように、大改造を施されてティーガーIその他のドイツ戦車を模した外観に改装されて登場している例もある。 これらの作品以外にもT-34の登場する映像作品は多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "T-34/T-34-85(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車、主力戦車の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1930年代前半に導入されたBTシリーズは、スペイン内戦(1936年~1939年)やノモンハン事件(1939年)の戦訓で機動力は申し分ないが、防御力に問題のあることが浮き彫りとなり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車が求められるようになった。そこで開発されたのがT-34である。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1939年の時点で、ソ連軍で最も数が多かった戦車はT-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は、動きの遅い歩兵戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために非常に快速の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、対戦車ライフルや PaK 36 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製のヴィッカース 6トン戦車、BTはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーの戦車が原型であった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1937年、ソ連軍は技師のミハイル・コーシュキンをBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業はハルキウのハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45 mm 砲 M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい軽油を用いたV型12気筒の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた(Zheltov 1999)。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速85キロメートルでの走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "A-20には、先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から傾斜装甲を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、徹甲弾を弾いて逸らしやすい。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日ソ国境紛争の1938年7月の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件で、ソ連軍は日本陸軍に対してBT-5、BT-7等多数の戦車を使用した。当時のソ連戦車は、日本軍の対戦車砲である九四式三十七粍砲によって容易に撃破された。従来のソ連戦車は、日本歩兵の火炎瓶攻撃を受けると容易に火災をおこした。当時のソ連戦車はガソリンエンジンを装備しており、被弾でガソリンに引火して火災を起こしやすく、 (Zaloga & Grandsen 1984:111)また車体塗装のペンキは可燃性で、火炎瓶攻撃で引火炎上しやすかった。スペイン内戦においても、共和派に供与されたT-26がフランコ派の火炎瓶攻撃や対戦車砲撃で大きな打撃を被った。さらには、装甲板をリベット留めした部分も脆弱であることが分かった。リベット留めの装甲板は「破砕」(spalling)の問題につながった。これは、敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この戦訓から、赤軍指導部は以後戦車の塗料を不燃性のものとし、装甲板に電気溶接を採用し、ディーゼルエンジンを搭載するようになった。これらの戦訓はT-34開発に生かされることになった。また歩兵支援を重視する守旧派から、独立した戦車部隊の集中運用を主張する、トハチェフスキーやゲオルギー・ジューコフが赤軍内部で主導権を握り、のちの独ソ戦における戦車用兵思想に影響を与えた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "コーシュキン技師は、ソ連の指導者スターリンを説得して別の試作戦車を開発する許可を得た。それはT-26 および BT戦車のいずれの後継戦車にもなりうるようなより重武装・重装甲の「万能戦車」を開発するという計画であった。コーシュキン技師は二番目の試作戦車を、32 mm の前面装甲にちなんでA-32と命名した。A-32には、45 mm 砲 M1938または76.2 mm 砲 L-10を採用し、A-20と同じV-2ディーゼルエンジンを採用した(Zaloga 1994:5)。なお、構造が複雑な割に実用性が低いクリスティー式戦車譲りのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点で廃止されている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "A-20とA-32は、1939年にクビンカで性能試験を受けた。試験の結果は両車とも良好で、より重装備のA-32がA-20と同等の機動性を持っている事が証明された。そして、スターリンの裁定でA-32がT-32として正式採用されることになった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45mmにするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11に強化することとなった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されてグリゴリー・オルジョニキーゼが戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである(Zaloga 1994:6)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月にハリコフからモスクワまでの2000キロメートルの走行試験を行って、クレムリンの指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドのマンネルハイム線まで行き、ミンスクとキエフを経由してハリコフに戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの冬戦争において露呈したソ連戦車の性能の低さや、ドイツの電撃戦の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔のT-28中戦車の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に、試験走行により悪化していた肺炎で亡くなった。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師が指名された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリングを用いたクリスティー式サスペンションを採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち駆動輪は後輪とし、ソ連の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては、優れた傾斜装甲であった。武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔を備えている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月のバルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲に撃破されたりもした。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲はそれまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場が供給し、レニングラードのキーロフスキー工場(前身はプティロフ工場)が76.2 mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワのダイナモ工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は第183ハリコフ機関車工場のみで作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場がこれに加わり、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されたL-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、ゴーリキーの第92工場にあったワシリー・グラビン技師の設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲を設計した。官僚たちは生産を認めなかったが、第92工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンのソ連国家防衛委員会から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ソ連陸軍の保守派からは「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあったKV-1戦車やIS-2戦車の開発グループが吹聴したものであった(Sewell 1998)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1941年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦が開始された(独ソ戦の始まり。)。これを受けてソ連軍は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場をウラル山脈へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場はニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場はエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40パーセントを生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場はスターリングラード攻防戦の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化を自動化する方法が開発された。F-34 76mm戦車砲は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500ルーブルから、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50パーセントが女性・15パーセントが少年・15パーセントが身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1942年になって、既に放棄されていたT-34M計画において考えられていた六角形の砲塔を生産に移す事になった。この新型砲塔は砲塔内の窮屈さを解消すると共に、車長が全方向を見渡せるように、車長席にコマンダーズキューポラも付けられる事になった。ゴムの供給量が限られていたため、転輪は鋼鉄製であった。この頃から、改良された5段変速の変速機とエンジン、そして新型クラッチが採用された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1942年には、長砲身の優れた貫徹力を持つ 75 mm 砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場した。モロゾフ技師の設計チームはT-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。これは、装甲を更に強化する一方で、トーションバーサスペンションや三人式の砲塔といった最新の特徴を取り入れる狙いを設計に持たせていた。T-43はT-34ばかりでなくKV-1重戦車の代替にもなりうるような万能戦車として計画されたため、KV-1重戦車を開発していたチェリャビンスクの重戦車設計チームによるKV-13計画と真正面から競争する事になった(Zaloga et al. 1997:5)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1943年になると、ソ連軍は新型のドイツ軍戦車ティーガー戦車やパンター戦車と戦わねばならなくなった。クルスクの戦いにおける経験により、T-34の76.2 mm 砲ではもはや十分に戦えないという報告が前線から届いていた。また、既にあった85 mm 高射砲は新型ドイツ軍戦車にも有効であるという事も分かったので、この砲を戦車に搭載する事になった(Russian Battlefield 1998b)。しかし、より厚くしたT-43試作車の装甲でさえもティーガーの88 mm 砲に対しては十分ではなく、また機動性の面でみても、より重い85 mm 砲を搭載する前の状態であったにもかかわらずT-34の機動性よりも劣っていた。T-43の部品は70パーセント以上がT-34と共通であったが、T-43の生産も並行して行うと、生産の速度はかなり低下する事が予想された(Zaloga et al. 1997:5)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "結局T-43計画は中止される事になり、ソ連の司令部はT-34の新型を製造するように工場を再改装するという難しい決断をした。T-34の新型では砲塔を嵌め込むターレットリングの径を1425mmから1600mmに広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソルモヴォ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。もう一つ重要な点はポーランドで戦前に設計され、イギリスでライセンス生産されていたものをコピーしたヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV(戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "T-34は85mm砲を装備したT-34-85になっても依然としてティーガー戦車やパンター戦車に不利な戦いを強いられたが、それでも火力が増したことにより500メートル前後にまで接近出来ればティーガー戦車やパンター戦車に正面から有効打を与えられる様になったため、正面からの撃破がほぼ不可能だったそれまでよりは格段に戦いやすくなった。また、ドイツ軍機甲戦力の実質的な主力であったIV号戦車やIII号突撃砲に対して優位に立った事がそれ以上に大きな意味を持った。ソ連側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソ連は性能の差が問題にならなくなる程の、大量の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、ドイツ国防軍は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソ連は1200輌/月というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである (Zaloga et al. 1997:6)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "T-34-85の生産コストは当初、16万4000ルーブルで、これは1943年型より30パーセント高かったが1945年までに14万2000ルーブルまで下がった(Harrison 2002:181)。戦争期間中に、T-34の価格は1941年の27万ルーブルからほぼ半分に下がった(Harrison 2002:181)。しかもこの間、戦車の最高速度は同じまま保たれ、主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の厚みはいずれもほぼ2倍になったのである(Zaloga 1984:113, 184, 225)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1945年末までに、5万7,000輌以上のT-34が作られた。このうち3万4780輌は1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は1944年から1945年に掛けて作られたT-34-85である(1998a, 1998b)。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "最も生産量の多かったのは当初ハリコフ、その後ニジニ・タギルに移転した第183工場 (KhUTZ) で、1941年から1945年にかけて、T-34とT-34-85を合わせて2万8,952輌製造している。次に多かったのはゴーリキーの第112工場(クラスノエ・ソルモヴォ)で、同時期に1万2,604輌製造している(Michulec & Zientarzewski 2006:220)。戦後の1946年には2701輌が製造され、大規模な生産はそこで打ち切られた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その後、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアで生産が再開され、1956年までの集計でそれぞれ1951~1955年に1,380輌、1951~1958年に3,185輌のT-34-85が製造された。その後、T-54/55やT-72もまたソ連の外で製造された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1960年代後半には、ソ連のT-34-85は輸出用と予備役用とするために近代化改修を受け(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインを組み込まれた。この事実もソ連の戦車設計の標準化の水準の高さを示す一つの証拠となるものであった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "T-34は合わせて8万4,070輌が製造されたと推定され、この他にT-34の車台を用いて作られた1万3,170門の自走砲がある(Zaloga & Grandsen 1996:18)。これらの内のいくらかは冷戦下で起こった、朝鮮戦争など世界各地の軍事衝突の中で失われた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "T-34の特徴は、", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "T-34を調査したドイツ軍は、既存戦車の改良と共に新型戦車(ティーガー、パンター)の開発を促進することになる。特にパンター戦車の設計にはこのT-34の構造が非常に強い影響を与えた。ダイムラー・ベンツ社によるVK3002(DB)はT-34に似たシルエットであったが、実際に採用されたのはT-34の影響はうかがえるものの、大分異なった形状のMAN社製のVK3002(M)であった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "さまざまな部分において当時のドイツ戦車を圧倒していたこの戦車であるが、同時に多くの欠点を有していた。その多くは工作精度と人間工学的な問題である。これはドイツとソ連の技術的な問題と同時に、戦車による地上戦の戦術・思想に対しての差であったといえるであろう。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "T-34は非常に高い生産性を誇り、損害を上回る数が次々に戦場へ投入された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "T-34は大戦中だけで3万5,000輌あまり、T-34-85は2万9,480輌が生産され、合計すると6万輌以上に上り、アメリカ軍のM4シャーマンの生産数をも上回る当時世界最多の生産数を誇った。このため生産数だけを見て最優秀戦車であるという意見もある。しかしながら当時のソ連はレンドリースによってアメリカなどから戦車、ジープ、トラックなどの提供を受け、生産力を主力兵器に全て振向けることができた。このことがこの生産数の大きな要因であったといわれる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、T-34-85はチェコやポーランドでも生産され、共産圏諸国や中東諸国等に輸出された。これら東欧製は1944年型の製造ラインを受け継いで作られたが、表面仕上げや工作精度が大戦中のソ連製より良く、また鋳型が変更されたため砲塔の形状などに微妙な違いが見られる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1941年6月22日、ドイツは対ソ侵攻作戦、バルバロッサ作戦を開始した。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソ連軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により心理的なショックを受けた(T-34ショック)。T-34は当時就役していたドイツ軍戦車のどれよりも優れており、ドイツ軍は当初T-34を撃破するのにかなり苦労した。当時のドイツ軍の標準的な対戦車砲ではT-34の分厚い傾斜装甲には有効打を与えられなかったからである。アルフレート・ヨードルの日記でも、リガにT-34が現れたときは驚いたようである。そのため、T-34はしばしば独ソ戦におけるソ連軍反撃の象徴とされる。。また、現代の歩兵戦闘車のようにT-34の車上にタンクデサントとして歩兵を乗せて移動することがあった。この例はスターリングラードなどで見られる。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1941年はT-34はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができた。しかし新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。初期のPomonフィルターにはほとんど防塵効果が無く、塵や砂がエンジンに入り故障させた。変速機とクラッチにも深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)。修理用の器材が不足したため初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。IV号戦車は性能の劣るリーフ式サスペンションと狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "当時のドイツ歩兵部隊は大部分がPaK 36(37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 は最も薄い部類の装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らはソ連軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考え、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0 cm 砲PaK 38、新型でより強力な7.5 cm 砲PaK 40、88ミリ高射砲などがあるが、88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソ連軍の戦車乗員の練度が低く、ソ連軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったからだった。当時のソ連は戦車戦術の理解度、洗練度の点でドイツ軍より劣っていた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1942年から1943年にかけて、ソ連軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソ連の設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した。これはドイツの1ヶ月当たりの戦車生産量よりかなり多い。しかしながら、ソ連軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は砲口初速の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになり、これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力なティーガー重戦車およびパンター中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85 mm 戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでのF-34 76mm戦車砲に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "それまでの数年の戦いの中では、ソ連軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソ連軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍のIV号戦車やIII号突撃砲よりも装甲や機動性において優れていたが、パンターの砲や装甲よりは劣っていた。ソ連側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少なく稼動率が低い点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "開戦当初、T-34はソ連戦車の内のわずか数パーセントに過ぎなかったが、終戦時までにソ連の膨大な戦車生産台数の少なくとも55パーセントを占めるまでになっている(の図より。Zheltov 2001はより大きな数字を挙げている。)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。攻撃力や防御力ではパンター、ティーガーらドイツ軍新鋭戦車に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1945年8月9日未明、機甲部隊の通過は不可能な地形と日本軍側が考えていた地帯を通ってソ連軍は日本占領下の満州に侵攻した。赤軍の諸兵科連合部隊は完全な奇襲に成功し、古典的な二重包囲戦形の中で、T-34-85、IS-2、IS-3とISU-152を先鋒とする強力な長距離貫入攻撃を展開した。対する日本軍は、既に精鋭部隊を他の戦線に引き抜かれた後で兵力が減少しており、再配備の途上であった。日本軍に残されていた戦車は全て後方に留め置かれ、戦闘には使用されなかった。日本軍は陸軍飛行戦隊、工兵、通信兵からの支援もあまり得られなかった。日本軍はある程度の抵抗は示したが、数と質共に圧倒された。これを受け、昭和天皇は8月14日に降伏を伝達したが、関東軍は8月17日まで正式な停戦命令を受け取っていなかった。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ソ連軍では後継のT-54が1950年に正式採用されるまで、主力戦車であり続けた。T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソ連から輸出されて各地で使用された。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "例えば、1950年6月の朝鮮戦争における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は、約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "T-34はM24軽戦車、M4中戦車、M26パーシング中戦車、M46パットン中戦車と戦ったが、国連軍のセンチュリオン戦車とは、いずれも戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチバズーカを依然として使っていたが、これはT-34には無力であった。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された3.5インチ・スーパー・バズーカを使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "共に第二次世界大戦で連合国を代表する存在となったM4中戦車との戦いにおいては、主力となった52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)と59回の戦車戦を戦い、T-34が47輌撃破されたのに対して、M4中戦車の完全損失は10輌(他10輌が損傷したが修理復帰)であり、圧倒されている。他、M26パーシングやM46パットンなども含めた、T-34対アメリカ軍戦車の戦いのキルレシオとしては、T-34が97輌撃破されたのに対してアメリカ軍戦車の損失は34輌(うち半数は修理復帰)であり、アメリカ軍側の圧勝に終わっている。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の仁川上陸作戦によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌のSU-76が失われた。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "フィンランド軍は攻撃してきたソ連軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また多くの東欧諸国(後のワルシャワ条約機構)の陸軍でも採用され、1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起や1956年のハンガリー動乱の鎮圧に使用された。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "T-34は、中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使われ、1974年のキプロス紛争では、キプロス国家守備隊がユーゴスラビアから供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは、民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれたマカリオス3世(ギリシャ・キプロス合邦運動の中心人物と目されていた)が(ギリシャ軍事政権にとって。)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシャ(及び西側諸国)との関係が急速に悪化した。孤立化したキプロスは、武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシャ軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日のキオネリ(英語版)やキュレニア(英語版)の二つの戦いである(Drousiotis 2006)。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "冷戦終結後のユーゴスラビア紛争におけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいてセルビア人のT-34が国際連合保護軍のイギリス陸軍王立工兵(Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた。クロアチアはユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。コソボ紛争ではユーゴスラビア陸軍がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アフガニスタンでもT-34は時々利用されている(T-34が有志連合軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。イラク軍は1990年代初期までT-34を使用していた。アンゴラやソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。キューバのT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "レバノン内戦では、PLOやイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織がイスラエルから供給されたM50スーパーシャーマン等と共に使用していた。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "21世紀に入っても実働するT-34-85が実戦で使われている例が存在しており、2011年のリビア内戦でも前線で活用されたとの情報が多数入っている。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2006年、ハンガリーでのデモ活動で市民側が展示されていたT-34-85を稼働させたという情報もある。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2015年には内戦状態に陥ったイエメンにおいて、T-34-85がSU-100と共に用いられているのが目撃されている。イエメンのT-34-85は、主砲弾に、戦中に使われていた徹甲弾よりも遥かに強力な、戦後開発の3UBK1翼安定成形炸薬弾を使用しており、T-55程度は余裕で貫徹可能であり、こうした新型弾薬を使えば、大戦期の戦車でも十分脅威となる。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2019年1月10日には、ラオス人民軍に配備されていた30両が退役し、ロシアに返還された。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2020年、ロシア陸軍第4親衛戦車師団「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車大隊が設立された。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるリシチャンシクの戦いでも、公園でモニュメントとして飾られていたT-34-85がウクライナ軍により稼働させられたものの放棄され、ロシア軍に鹵獲されて検問所でかかしとして使用されている。", "title": "戦闘の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "T-34は、その生産工場の違いと改良により細部の異なる数多くのバリエーションがある。主砲の口径により、T-34-76とT-34-85に大別され、さらに(主に西側の研究家により)主な生産年、製造工場名で細分される。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、T-34-76はソ連ではもともと単にT-34と呼称、85 mm 砲搭載型登場後、区別のためにT-34-76と呼称されるようになった。かつて、西側ではT-34/76、T-34/85等と表記するのが普通だったが、ソ連の崩壊以降に公表されているロシア発の資料ではT-34-76、T-34-85等となっている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "その形状から、「ピロシキ」と呼ばれた背の低い1940/41年型砲塔は当初は圧延鋼板の溶接型のみであったが、直に量産性の優れた鋳造製砲塔が並行生産されるようになった。当時、ソ連は大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており、以後のT-34改良型やIS-2などに積極的に鋳造製砲塔を採用した。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし鋳造装甲は製法上、同じ厚さの圧延鍛造装甲より一割ほど強度が劣り、鋳造砲塔に被弾すると、割れることも少なくなかった。また大戦中の粗製濫造のため鋳巣(空洞)が装甲の中に発生し、更に強度を落としていた例もある。このため、当時の乗員は「鋳造砲塔は37 mm 高射機関砲弾程度の被弾ですら安全ではなかったと」証言している。一方、圧延鍛造の傾斜装甲を採用している車体前面装甲は乗員達から多くの信頼を得ている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1942年型以降では「チェリャビンスク砲塔」と呼ばれる六角形状の新型砲塔が使用された。この砲塔は試作戦車T-34Mの砲塔を元に設計され、鋳造製の外周部と圧延鋼板からなる天板を組み合わせた構造をしていた。また、「チェリャビンスク砲塔」に似た形状であるものの、外周部と上面との間に継ぎ目なく、一体に成型された「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔がウラルマシ(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM)で生産されていた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "「フォルモチカ」砲塔に関しては、昔からの鋳造一体成型説とプレス機での熱間鍛造説があった。後者は1994年にスティーヴン・ザロガの著書により発表された。当初は 5000トンフォージングプレス機を用いたとされたが、側面で52 mm もある装甲の成型は不可能と指摘され、ザロガも翌年、1万トンプレス機であると訂正した。しかし、当時ソ連に存在しない 2万トンプレスでないと不可能とする異論、また現代のプレス業者から見ても不合理な工程であるとの意見もあり、未だ真相はハッキリしていない。一説では52 mm厚というのは鋳造製ナット型砲塔での数値であり、実際にはより薄い25~30 mm程度の鋼板をプレスしたもので、ウラジオストックで記念碑として展示されている砲塔 のように、薄い装甲が主砲発射の反動に耐えられず、次第に下端部に特徴的なたわみが発生するのではないか、と言われている。一方、他所でもこの砲塔にキューポラ付きのT-34 が展示されているが、こちらには下端部のたわみ具合が小さい。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ドイツ軍でも独自に1940年型をT-34A、1941年型をT-34B、1941年戦時簡易型をT-34C、1942年型をT-34D、1943年型をT-34E、そして1942年型で砲塔上面まで一体成型されたタイプをT-34Fと分類した。もっとも、前述の通りソ連では76.2 mm 砲搭載型の全てが単に\"T-34\"であり、細かい分類はされなかった。またソ連軍が新型戦車を開発していることを知ったドイツ軍は、新たに現れたT-34-85を誤って(別の戦車である)T-43と呼んだ。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ドイツ軍は鹵獲したT-34をPanzerkampfwagen T-34 747(r)と名づけ使用した(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記する場合もある)。そのまま使用しただけでなく、車長用キューポラやサイドスカートを増設したり、対空戦車などにも改造して使用した例もあった。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "大戦中にもT-34M、T-43(この二種の戦車は全くの別物だが、古い資料では混同されている)といった装甲強化型の試作が行われたが、それ以上に火力の増強が必要とされて却下され、代わってT-34-85や後継戦車として開発されたT-44が生産された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ソ連では派生車として、下記の自走砲他が生産されている(形式番号は搭載火砲の口径を示している)。SU-85やSU-100は対戦車戦闘を目した駆逐戦車の性格が強いが、ソ連ではまとめてSU(СУ)=自走砲と分類されている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "戦後、エジプト、シリアなどでも、ソ連製やチェコ製のT-34-85を独自に自走砲や対空自走砲を改造し、製作、使用した。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお、大戦中のソ連軍にも、T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め、試験的に100 mm 戦車砲を搭載した「T-34-100」が存在する。また、1942年にU-12 122mm榴弾砲を搭載した車両が計画・試作され、これは「T-34Г(T-34G)」もしくは「T-34щ(T-34Sh)」の名称で計画されたが、“T-34-122”と通称されていた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "独ソ戦によるドイツ軍のソ連領内侵攻で、工場は大規模な疎開を行って生産を続けることとなった。これら数カ所あった工場によって砲塔、車体の構成などが異なることがわかっている。", "title": "主要生産工場" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、「友好国」に生産ラインの設備が譲渡され、ライセンス生産もおこなわれている。", "title": "主要生産工場" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "なお、59式戦車の完成後は59式用の装備品が58式戦車にも追加で装備され、サーチライトとその架台、新型の照準器などが装着されている。それらの改修車両は西側の分類では“Type58-IIM”と呼称されている。", "title": "主要生産工場" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "これらの他、T-34-Tがソ連より供与、及び購入されて使用されており、58式戦車の一部も同様の戦車回収車に改装されて使用された。", "title": "主要生産工場" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "", "title": "主要生産工場" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "T-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。第三世界の軍において第二線級の兵器として保管されている車両(主にT-34-85)は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2010年のモスクワにおけるロシア対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34やSU-100などがパレードに自走参加した。2015年10月に北朝鮮の平壌で開催された朝鮮労働党70週年記念の軍事パレードでも、起動輪と履帯をT-54/55のものに換装したT-34-85の近代化改修型が参加している。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "より古いT-34-76に関しては、現存する有名なものとしてはアメリカ・メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵する1941年型のT-34がある。これは旧西側に現存する車輛としては最古級のものだった。更に古い76mm L-11砲を搭載した1940年型のT-34は、ロシア、ベラルーシに少なくとも各1輌、1941年型および1941年戦時簡易型は最近になって昔の戦場から回収されたものを含め少なくとも10輌以上が現存する。フランスのソミュールにある「Musée des Blindés(ソミュール戦車博物館)」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。フィンランドが継続戦争中に鹵獲した1941年型(Ps.231-1)も走行可能な状態となっている。ナット砲塔を搭載した1942年型・1943年型はさらに多く、走行可能状態までレストアされたものも多い。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "T-34の耐久性は、最近の修復作業においても示された。エストニアで56年間にわたって沼の底にあった1943年型のT-34が、2000年に復活した。その戦車はドイツ軍によって鹵獲され、退却中のドイツ軍が使用したが、その燃料が切れた所でドイツ軍が沼の中へ投棄したものであった。油漏れ・錆・その他水による機械系統への損傷の徴候は見られなかった。エンジンは完全に稼働する状態に回復した。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2019年1月10日にはラオスで稼働状態だった30輌のT-34/85が退役し、協定によりロシアに返還されると報じられた。戦後にチェコスロバキアで生産・輸出された型式でベトナムに納入後、ラオスに引き渡された物という。ロシアでは博物館展示のほか、戦争映画や軍事パレードで用いられる予定。その後2020年6月24日にロシアの戦勝記念パレードで自走する大量のT-34-85が各メディアで報道された。 2023年5月のモスクワで行われたパレードには、この内の1輌のみが、本パレード唯一の戦車として登場したと報道されており、未確認ながらT-34-85がウクライナへの軍事侵攻に使用されている可能性が示されている(一方、他の地域でのパレードには複数の戦車が登場したという報道もあり、本当にロシアがT-34-85をウクライナに出撃させているのかについては不明な点が多い)。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "T-34の各型は、世界各地の軍事博物館で収蔵品として展示されている他、100輛以上が戦争記念のモニュメントとして展示されている。コレクターやマニアの私有物として保有されている車両もあり、非武装化されて運転可能な状態の戦車は、2万から4万米ドルの間で取引されている。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "その他に、民間で主に映画製作に使用されているものもある。第二次世界大戦を題材とした多くの映画(例えば『ネレトバの戦い』『戦略大作戦』『誓いの休暇』『プライベート・ライアン』など)では、T-34-85戦車をティーガーI戦車に見えるように改装して使用した。これは実働するティーガーIを撮影用に用いることが難しかったためである。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "これらの改造ティーガーは改造の度合いにもよるが、ティーガーIにそれなりに似ている。しかし車体の幅の狭さ、砲塔の位置(T-34の砲塔は車体のかなり前寄りにある。)、転輪や履帯の形状などから見分けられる。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "別の有名な例として、マンデラ・ウェイのT-34戦車がある。これは個人所有のT-34-85で、それが置かれている通りの名にちなんで、こう呼ばれている。マンデラ・ウェイはロンドンのBermondsey近くにある。このT-34は画家や落書き芸術家たちによって、頻繁に塗り変えられている。", "title": "運用国" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "T-34は、第二次世界大戦におけるソ連軍の主力戦車の1つであり、第二次世界大戦を扱った作品には頻繁に登場している。", "title": "登場作品" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "T-34は現存車両が多いこともあり、第二次世界大戦を扱った戦争映画には数多く登場する。ソ連軍の戦車としての他に、外観はそのままにドイツ軍の国籍標識を描かれて「ドイツ戦車」として登場する例も多い。「現存する車輛」の項で述べたように、大改造を施されてティーガーIその他のドイツ戦車を模した外観に改装されて登場している例もある。", "title": "登場作品" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "これらの作品以外にもT-34の登場する映像作品は多い。", "title": "登場作品" } ]
T-34/T-34-85は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車、主力戦車の一つ。
{{Otheruses|ソ連の中戦車|その他|T34}} {{混同|x1=試作のみのソ連の軽戦車|T-34 (試作)|x2=試作のみのアメリカの重戦車|T29重戦車#T34}} {{戦車 | 名称=T-34/T-34-85 | 画像=[[ファイル:Char T-34.jpg|300px]] | 説明=T-34-85<br />[[ソミュール戦車博物館]]展示の戦後チェコ生産型。 | 全長=8.15 m | 車体長=6.10 m | 全幅=3.00 m | 全高=2.72 m | 重量=32 t | 懸架方式=[[ジョン・W・クリスティー|クリスティー方式]] | 速度= | 整地時速度=50 [[キロメートル毎時|km/h]] | 不整地時速度=30 km/h | 行動距離=300 [[キロメートル|km]] | 主砲=54.6口径85mm戦車砲 S-53またはZiS-S-53(56発) | 副武装=[[DP28軽機関銃|7.62 mm DT機銃]]×2(1890発) | 装甲=;砲塔 *前面 90 mm(曲面) *側面 75 mm 傾斜 20 ° *後面 52 mm 傾斜 10 ° ;車体 *前面 45 mm 傾斜 60 ° *側面 45 mm 傾斜 50 ° *後面 45 mm 傾斜 47 ° *上面 20 mm | エンジン名=[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[水冷]][[ディーゼルエンジン|ディーゼル]] | 出力=500 [[馬力]] | 乗員=5 名 | 備考=諸元は'''T-34-85(1944年型)'''のもの }} '''T-34/T-34-85'''({{ru|Т-34}} {{small|テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ}})は、1939年に開発され[[第二次世界大戦]]から[[冷戦]]時代にかけて[[ソビエト連邦]]を中心に使用された[[中戦車]]、[[主力戦車]]の一つ<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2023/05/09/0016333103.shtml|title=ロシア戦勝記念日パレード唯一の戦車はT-34 大戦中の主力1両にネット「大洗町に負けてる」|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2023-05-09|accessdate=2023-05-09}}</ref>。 == 開発 == === 背景 === 1930年代前半に導入された[[BT戦車|BT]]シリーズは、[[スペイン内戦]](1936年~1939年)や[[ノモンハン事件]](1939年)の戦訓で機動力は申し分ないが、防御力に問題のあることが浮き彫りとなり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車が求められるようになった。そこで開発されたのがT-34である。 1939年の時点で、ソ連軍で最も数が多かった戦車は[[T-26 (戦車)|T-26]]軽戦車と、[[BT戦車|BTシリーズ]]の快速戦車であった。T-26は、動きの遅い[[歩兵戦車]]で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は[[巡航戦車]]で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために非常に快速の軽戦車として設計されていた。少数の[[T-35重戦車|T-35]]などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、[[対戦車ライフル]]や [[3.7 cm PaK 36|PaK 36]] 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製の[[ヴィッカース 6トン戦車]]、BTはアメリカ人技術者[[ジョン・W・クリスティー]]の戦車が原型であった。 === A-20 === [[ファイル:T-34 prototypes.jpg|thumb|300px|left|左から[[BT-7|BT-7M]]、A-20、T-34 1940年式、T-34 1941年式。年を追うごとの車幅拡大が見て取れる。]] 1937年、ソ連軍は技師の[[ミハイル・コーシュキン]]をBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業は[[ハルキウ]]<ref group="注釈">「ハルキウ」とは、[[ウクライナ語]]に基づくカタカナ表記。日本では、ソ連時代では標準的だった[[ロシア語]]発音に基づく「ハリコフ」の呼称が用いられることが多い。</ref>のハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。 A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45&nbsp;mm 砲 M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい[[軽油]]を用いた[[V型12気筒]]の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には[[無限軌道|履帯]]を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた([[#Reference-Zheltov-1999|Zheltov 1999]])。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速85キロメートルでの走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:66, 111]])。 A-20には、先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から[[避弾経始|傾斜装甲]]を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、[[徹甲弾]]を弾いて逸らしやすい<ref>Yaziv, D.; Chocron, S.; Anderson, Jr., C.E.; Grosch, D.J. “Oblique Penetration in Ceramic Targets”. ''Proceedings of the 19th International Symposium on Ballistics IBS 2001'', Interlaken, Switzerland, 1257?64</ref>。 === スペイン内戦やノモンハン事件の戦訓=== [[日ソ国境紛争]]の1938年7月の[[張鼓峰事件]]や1939年の[[ノモンハン事件]]で、ソ連軍は日本陸軍に対してBT-5、BT-7等多数の戦車を使用した。当時のソ連戦車は、日本軍の対戦車砲である[[九四式三十七粍砲]]<ref>マクシム・コロミーエツ 著、小松徳仁 訳、鈴木邦宏 編『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦 ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』大日本絵画、2005年</ref>によって容易に撃破された。従来のソ連戦車は、日本歩兵の[[火炎瓶]]攻撃<ref>[[#Reference-Coox|Coox 1990:311]]</ref>を受けると容易に火災をおこした。当時のソ連戦車はガソリンエンジンを装備しており、被弾で[[ガソリン]]に引火して火災を起こしやすく、 ([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:111]])また車体塗装のペンキは可燃性で、火炎瓶攻撃で引火炎上しやすかった。スペイン内戦においても、共和派に供与されたT-26がフランコ派の火炎瓶攻撃や対戦車砲撃で大きな打撃を被った。さらには、装甲板を[[リベット]]留めした部分も脆弱であることが分かった<ref>[[#Reference-Coox|Coox 1990:309]]</ref>。リベット留めの装甲板は「破砕」(spalling)の問題につながった。これは、敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。 この戦訓から、赤軍指導部は以後戦車の塗料を不燃性のものとし、装甲板に電気[[溶接]]を採用し、[[ディーゼルエンジン]]を搭載するようになった。これらの戦訓はT-34開発に生かされることになった。また歩兵支援を重視する守旧派から、独立した戦車部隊の集中運用を主張する、[[トハチェフスキー]]や[[ゲオルギー・ジューコフ]]が赤軍内部で主導権を握り、のちの独ソ戦における戦車用兵思想に影響を与えた。 === A-32 === コーシュキン技師は、ソ連の指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]を説得して別の試作戦車を開発する許可を得た。それはT-26 および BT戦車のいずれの後継戦車にもなりうるようなより重武装・重装甲の「万能戦車」を開発するという計画であった<ref name="infantry-tank" group="注釈">[[レニングラード]]のチームも T-26 の後継となる戦車の開発に取り組んでいたが、技術的問題や政治的な改革により開発は進んでいなかった。最終的に1941年の冬になって、[[シベリア]]の[[オムスク]]で[[T-50 (戦車)|T-50]]軽歩兵戦車が約69輌製造されたが、その頃には何千輌ものT-34が戦場に出て行っており、[[歩兵戦車]]のコンセプトは放棄された ([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga 1984:114]])</ref>。コーシュキン技師は二番目の試作戦車を、32&nbsp;mm の前面装甲にちなんでA-32と命名した。A-32には、45&nbsp;mm 砲 M1938または76.2&nbsp;mm 砲 L-10を採用し、A-20と同じV-2ディーゼルエンジンを採用した([[#Reference-Zaloga-1994|Zaloga 1994:5]])。なお、構造が複雑な割に実用性が低い[[ジョン・W・クリスティー#クリスティー式戦車|クリスティー式戦車]]譲りのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点で廃止されている。 A-20とA-32は、1939年に[[クビンカ]]で性能試験を受けた。試験の結果は両車とも良好で、より重装備のA-32がA-20と同等の機動性を持っている事が証明された。そして、スターリンの裁定でA-32が[[T-32 (戦車)|T-32]]として正式採用されることになった。 === A-34/T-34の誕生 === [[ファイル:T-34 Model 1940.jpg|thumb|250px|left|試作戦車A-34。後に砲塔などを改良され、1940年型として量産された。]] しかし、[[冬戦争]]でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45mmにするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11に強化することとなった。 この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されて[[グリゴリー・オルジョニキーゼ]]が戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである([[#Reference-Zaloga-1994|Zaloga 1994:6]])。 コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月に[[ハルキウ|ハリコフ]]から[[モスクワ]]までの2000キロメートルの走行試験を行って、[[クレムリン]]の指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドの[[マンネルハイム線]]まで行き<ref group="注釈">実戦運用試験のためにフィンランド戦線に1輌が送られたが、冬戦争の終結によりモスクワに送り返されている</ref>、[[ミンスク]]と[[キエフ]]を経由してハリコフに戻った([[#Reference-Zaloga-1994|Zaloga 1994:6]])。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された([[#Reference-Zaloga-1983|Zaloga & Grandsen 1983:6]])。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの[[冬戦争]]において露呈したソ連戦車の性能の低さや、ドイツの[[電撃戦]]の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔の[[T-28中戦車]]の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に、試験走行により悪化していた[[肺炎]]で亡くなった。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者である[[アレクサンドル・モロゾフ]]技師が指名された。 T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだ[[ばね|コイルスプリング]]を用いた[[ジョン・W・クリスティー#クリスティー式サスペンション|クリスティー式サスペンション]]を採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち[[駆動輪]]は後輪とし、ソ連の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては、優れた傾斜装甲であった。武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔を備えている。 T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月の[[バルバロッサ作戦]]からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲<ref group="注釈">バルバロッサ作戦開始時におけるドイツ機甲部隊の[[主力戦車]]は、戦闘の中核となるように開発された主力戦車である [[III号戦車]](E~J型)と、その支援用に開発された [[IV号戦車]](D~F型)であった。もっともより古いIV号戦車A~C型も未だに使われており、本来は訓練用として作られたI号、II号戦車やチェコ製の35(t)、38(t)軽戦車も全体の半分近くを占めていた。</ref>に撃破されたりもした。 === 生産体制の確立と維持 === T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲はそれまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは[[V・O・マールィシェウ記念工場|第75ハリコフディーゼル工場]]が供給し、レニングラードの[[キーロフスキー工場]](前身はプティロフ工場)が76.2&nbsp;mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワの[[ダイナモ]]工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は[[第183ハリコフ機関車工場]]のみで作られたが、1941年初期からは[[スターリングラード・トラクター工場]]がこれに加わり、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現[[ニジニ・ノヴゴロド]])の[[国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場]]でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった([[#Reference-Zaloga-1983|Zaloga 1983:6]])。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式の[[ミクーリン M-17]]航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた([[#Reference-Zheltov-2001|Zheltov 2001:40-42]])。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されたL-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、ゴーリキーの[[第92工場]]にあった[[ワシリー・グラビン]]技師の設計チームはより優れた[[F-34 76mm戦車砲]]を設計した。[[官僚]]たちは生産を認めなかったが、第92工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンの[[ソ連国家防衛委員会]]から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:130]])。 ソ連陸軍の保守派からは「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあった[[KV-1]]戦車や[[IS-2]]戦車の開発グループが吹聴したものであった<ref group="注釈">同じ仕様要件を満たそうとして、異なる戦車を設計・開発している設計グループや工場が複数あったため、これら相互の間の軋轢は戦後になっても長い間続いた。T-55、T-64、T-72、T-80の時代に至ってもなお、ソ連の最高評議会の中の別々の政治的な支援者らをバックとして、別の戦車が生産され続けていた</ref>([[#Reference-Sewell-1998|Sewell 1998]])。 1941年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃した[[バルバロッサ作戦]]が開始された([[独ソ戦]]の始まり。)。これを受けてソ連軍は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。 ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場を[[ウラル山脈]]へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場は[[ニジニ・タギル]]のジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共に[[チェリャビンスク]]の[[スターリン・トラクター工場]]となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場は[[エカテリンブルク]]のオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40パーセントを生産していた([[#Reference-Zaloga-1983|Zaloga & Grandsen 1983:13]])。この工場は[[スターリングラード攻防戦]]の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある([[#Reference-Zaloga-1994|Zaloga & Sarson 1994:23]])。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。 スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。[[エフゲニー・パトン]]教授による技術革新などにより、板の[[溶接]]および[[硬化]]を自動化する方法が開発された<ref>“[http://www.paton.kiev.ua/eng/inst/person/patoneo.html Paton Evgeny Oscarovich]”, at the E.O. Paton Electric Welding Institute, retrieved November 17, 2008.</ref>。[[F-34 76mm戦車砲]]は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:131]])。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500[[ソビエト連邦ルーブル|ルーブル]]から、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:131]])。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50パーセントが女性・15パーセントが少年・15パーセントが身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった([[#Reference-Zaloga-1983|Zaloga & Grandsen 1983:17]])。 === 改良 === 1942年になって、既に放棄されていたT-34M計画において考えられていた六角形の砲塔を生産に移す事になった。この新型砲塔は砲塔内の窮屈さを解消すると共に、車長が全方向を見渡せるように、車長席に[[キューポラ (曖昧さ回避)|コマンダーズキューポラ]]も付けられる事になった。[[ゴム]]の供給量が限られていたため、転輪は鋼鉄製であった。この頃から、改良された5段変速の変速機とエンジン、そして新型クラッチが採用された。 1942年には、長砲身の優れた貫徹力を持つ [[7.5 cm KwK 40|75 mm 砲]]を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場した。モロゾフ技師の設計チームはT-34を発展させた[[T-43 (戦車)|T-43]]戦車の開発を計画した。これは、装甲を更に強化する一方で、[[トーションバー・スプリング|トーションバーサスペンション]]や三人式の砲塔といった最新の特徴を取り入れる狙いを設計に持たせていた。T-43はT-34ばかりでなく[[KV-1]]重戦車の代替にもなりうるような万能戦車として計画されたため、KV-1重戦車を開発していたチェリャビンスクの重戦車設計チームによるKV-13計画と真正面から競争する事になった([[#Reference-Zaloga-1997|Zaloga et al. 1997:5]])。 1943年になると、ソ連軍は新型のドイツ軍戦車[[ティーガーI|ティーガー]]戦車や[[V号戦車パンター|パンター]]戦車と戦わねばならなくなった。[[クルスクの戦い]]における経験により、T-34の76.2&nbsp;mm 砲ではもはや十分に戦えないという報告が前線から届いていた。また、既にあった[[52-K 85mm高射砲|85 mm 高射砲]]は新型ドイツ軍戦車にも有効であるという事も分かったので、この砲を戦車に搭載する事になった([[#Reference-Russian Battlefield-1998b|Russian Battlefield 1998b]])。しかし、より厚くしたT-43試作車の装甲でさえもティーガーの88 mm 砲に対しては十分ではなく、また機動性の面でみても、より重い85 mm 砲を搭載する前の状態であったにもかかわらずT-34の機動性よりも劣っていた。T-43の部品は70パーセント以上がT-34と共通であったが、T-43の生産も並行して行うと、生産の速度はかなり低下する事が予想された([[#Reference-Zaloga-1997|Zaloga et al. 1997:5]])。 結局T-43計画は中止される事になり、ソ連の司令部はT-34の新型を製造するように工場を再改装するという難しい決断をした。T-34の新型では砲塔を嵌め込むターレットリングの径を1425mmから1600mmに広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソルモヴォ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga 1984:166]])。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。もう一つ重要な点はポーランドで戦前に設計され、イギリスでライセンス生産されていたものをコピーした[[ヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV]](戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。 T-34は85mm砲を装備したT-34-85になっても依然としてティーガー戦車やパンター戦車に不利な戦いを強いられたが、それでも火力が増したことにより500メートル前後にまで接近出来ればティーガー戦車やパンター戦車に正面から有効打を与えられる様になったため、正面からの撃破がほぼ不可能だったそれまでよりは格段に戦いやすくなった。また、ドイツ軍機甲戦力の実質的な主力であったIV号戦車やIII号突撃砲に対して優位に立った事がそれ以上に大きな意味を持った。ソ連側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソ連は性能の差が問題にならなくなる程の、大量の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、[[ドイツ国防軍]]は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソ連は1200輌/月というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである ([[#Reference-Zaloga-1997|Zaloga et al. 1997:6]])。 === 生産効率 === T-34-85の生産コストは当初、16万4000ルーブルで、これは1943年型より30パーセント高かったが1945年までに14万2000ルーブルまで下がった([[#Reference-Harrison-2002|Harrison 2002:181]])。戦争期間中に、T-34の価格は1941年の27万ルーブルからほぼ半分に下がった([[#Reference-Harrison-2002|Harrison 2002:181]])。しかもこの間、戦車の最高速度は同じまま保たれ、主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の厚みはいずれもほぼ2倍になったのである([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga 1984:113, 184, 225]])。 === 生産台数 === 1945年末までに、5万7,000輌以上のT-34が作られた。このうち3万4780輌は1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は1944年から1945年に掛けて作られたT-34-85である([[#Reference-Russian Battlefield-1998a|1998a]], [[#Reference-Russian Battlefield-1998a|1998b]])。 最も生産量の多かったのは当初ハリコフ、その後ニジニ・タギルに移転した第183工場 (KhUTZ) で、1941年から1945年にかけて、T-34とT-34-85を合わせて2万8,952輌製造している。次に多かったのはゴーリキーの第112工場(クラスノエ・ソルモヴォ)で、同時期に1万2,604輌製造している([[#Reference-Michulec & Zientarzewski-2006|Michulec & Zientarzewski 2006:220]])。戦後の1946年には2701輌が製造され、大規模な生産はそこで打ち切られた。 その後、[[ポーランド人民共和国]]や[[チェコスロバキア]]で生産が再開され、1956年までの集計でそれぞれ1951~1955年に1,380輌、1951~1958年に3,185輌のT-34-85が製造された。その後、T-54/55やT-72もまたソ連の外で製造された。 1960年代後半には、ソ連のT-34-85は輸出用と予備役用とするために近代化改修を受け(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインを組み込まれた。この事実もソ連の戦車設計の[[標準化]]の水準の高さを示す一つの証拠となるものであった。 T-34は合わせて8万4,070輌が製造されたと推定され、この他にT-34の車台を用いて作られた1万3,170門の自走砲がある([[#Reference-Zaloga-1996|Zaloga & Grandsen 1996:18]])。これらの内のいくらかは[[冷戦]]下で起こった、[[朝鮮戦争]]など世界各地の軍事衝突の中で失われた。 == 特徴 == {{出典の明記|section=1|date=2018-03-06}} T-34の特徴は、 ;攻撃力において :当時としては、強力な戦車砲を装備している。さまざまな時代を通して、ソ連・ロシアは砲を重視する傾向にある。常に他国の戦車よりも大口径の砲を装備する傾向があり、冷戦時代の主力戦車も常に西側諸国の主力戦車の口径よりも大きかった。 ;防御面において :防御上有利となる[[避弾経始]]を考慮した傾斜装甲(砲塔のサイズと車体とのフォルム含む)であった。 ;駆動方式において :被弾したときにガソリンエンジンに比べて炎上しにくい、燃費の上でも有利な高性能[[アルミニウムエンジン|アルミ合金製]][[ディーゼルエンジン]]の使用 :高速走行に適したクリスティー式サスペンションを用いた大型転輪…必要十分で複雑化を避けた無難な設計 :ソ連国内での戦闘に適していた、幅広で接地圧の低い[[無限軌道|履帯]] ;生産性において :設計が時期を追うごとに徹底的に簡略化され、結果としての生産性の高さはソ連の工業力を鑑みても驚くほどの数量の生産を可能とした である。 T-34を調査したドイツ軍は、既存戦車の改良と共に新型戦車([[VI号戦車|ティーガー]]、[[V号戦車パンター|パンター]])の開発を促進することになる。特にパンター戦車の設計にはこのT-34の構造が非常に強い影響を与えた。[[ダイムラー・ベンツ]]社による[[VK3002(DB)]]はT-34に似たシルエットであったが、実際に採用されたのはT-34の影響はうかがえるものの、大分異なった形状の[[MAN (企業)|MAN]]社製のVK3002(M)であった。 さまざまな部分において当時のドイツ戦車を圧倒していたこの戦車であるが、同時に多くの欠点を有していた。その多くは工作精度と[[人間工学]]的な問題である。これはドイツとソ連の技術的な問題と同時に、戦車による地上戦の戦術・思想に対しての差であったといえるであろう。 === 設計上の問題 === * 大きさが限られている問題について、 ** 傾斜した装甲を用いるということは全体的な容積の減少に加え、デッドスペースが増えることで利用可能容積を減らすことになる。前面の傾斜は前方にいる操縦手や機銃手に影響を与え、側面の傾斜は装備面での制限をもうける要因となった。これにより大小さまざまな運用上の影響を与えた。 ** 低いシルエットの砲塔は防御の点においては有利だが、居住性が悪く、砲弾が床下に収納されていたので砲塔バスケットは採用されていなかった。特に1940/41年型では砲塔内が狭いため主砲を操作するハンドルは腕を交差させて回すという使いにくい配置であった。この問題は1942/43年型砲塔で改善された。砲塔における2人・3役(車長・砲手・装填手)体制と戦車長の非独立性については、3名用大型砲塔を採用したT-34-85で解消された。 ** ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに比べサイズが大きく、車体サイズに占めるエンジン・変速機スペースが大きくなり、同時代のほぼ同サイズのⅣ号戦車やM4中戦車に比べて乗員が搭乗する戦闘室のスペースは狭かった(エンジンサイズに影響を受けた前後幅に加え、クリスティー式サスペンションのコイルスプリングスペースにより左右幅も狭かった)。 * 主砲の俯角がほとんどつけられず、近距離においては背の低い[[対戦車砲]]や[[突撃砲]]、歩兵の[[パンツァーファウスト]]などを使った肉薄攻撃<ref group="注釈">パンツァーファウストなどの成形炸薬弾対策として、大戦末期には現地調達で金網やベッドスプリングを車体周辺に設置している例が多く見られる。中にはIV号戦車J後期型の金網製シュルツェンであるトーマ・シールドを鹵獲して装着したものまであった。</ref>に対抗できなかった。また車体前方機銃の視界や射界は狭く、あまり効果的ではなかったという。 * シンプルな乾式クラッチ・ブレーキ式操行装置は、生産と整備が楽である反面、特に前期の4段変速型は操作が大変重く操縦手を疲労させる。片腕の力だけでは動かせず、同時に片膝で押しながら動かさなくてはいけないほどだった。長時間の行軍の際は、隣の無線手がギアチェンジの時に手を貸してやったほどであり、疲労で体重が2~3&nbsp;kg も減るとまで言われた。特にバックに入れる時はハンマーでレバーを打撃して入れたという証言もある。また直進速度は確かに速いが、構造的に左右に細かく機動するのは苦手で、大回りになりがちであった。高速走行しながら滑らかに曲がるという機動は不可能である。更にクラッチ接続のタイミングも難しく、性急な操作により破損する危険も大きかった。しかしこれは、ドイツ戦車同様に[[シンクロメッシュ]]機構を取り入れた5段変速型の登場により、かなり改善されている。 * 排気管に[[マフラー (原動機)|マフラー]]の類は無く、ディーゼルエンジンはラバーマウントを介さず直接車体に固定され振動と騒音がひどい。また、下向きの排気管により乾燥した場所では激しく土埃が発生する。 * [[ディーゼルエンジン]]は炎上し難いというふれこみで採用され、事実乗員もそう考えていたが、実際の統計ではガソリンエンジンの戦車に比べ、燃料の爆発はおこさないまでも特に燃えにくいということはなかった。確かにガソリンエンジンと比較すると漏れとそれに対して火炎瓶などによる攻撃に対しては軽油・ディーゼルエンジンは安全であったといえる。しかしながら、徹甲榴弾のような対戦車火器による攻撃では容易に着火したし、一度炎上すると砲弾の[[誘爆]]をおこしやすく、乗員は直ちに退避する必要があった。[[朝鮮戦争]]では、T-34-85の乗員の死因の実に75パーセントが車輌火災による。 * [[ラジエーター]]が虚弱で、被弾や衝撃で簡単に冷却水漏れをおこしやすく、また[[エアフィルター]]の性能が低く塵を除去しきれず、エンジンの寿命を縮めている。 === 運用上の問題 === * 当時のソ連軍は装備・人員共に不足しており、1938年に入隊した[[AK-47]]の設計者として著名な[[ミハイル・カラシニコフ]]も操縦士兼整備士として訓練を受けていたが、1941年の独ソ戦開始によりすぐに戦車長に任命されるなど、多くの部隊では経験不足の新兵が主体となって運用することになった<ref group="注釈">カラシニコフはハッチから身を乗り出して周囲の様子を伺っていた時、至近距離に着弾した砲弾の破片で負傷している</ref>。 * 戦車長が砲手を兼ねるため、周囲の監視や戦車全体の指揮に専念しにくかった<ref group="注釈">クルスクでの[[プロホロフカ戦車戦]]において、1輌のIV号戦車が突破してきたT-34の只中に取り残され、共にドイツ軍側を向きながら前進、このIV号戦車は後ろからT-34を順に撃破していったが、前しか見ていないT-34側はこれに全く気づかなかった。</ref>。なお、T-34を鹵獲使用した[[フィンランド軍]]では、戦車長が(通常は一番経験の浅い兵士の役割であった)装填手を兼ねるように役割を変えていた。ソ連軍でも、操縦手あがりの戦車長が砲塔乗員の死傷率の高さを嫌って、戦車長兼操縦手という変則的な配置を選んだ例もある。だが、砲塔での三人体制というのはドイツ軍が各国に先立って取り組んだことであり、特に時代遅れということでもなかった。この問題は砲塔が大型化されたT-34-85では戦車長と砲手に分かれるように改善された。 * 独ソ戦初期には[[無線機]]が小隊長車まで、あるいは中隊長車にしか装備されていない場合もあった。しかも乗員が訓練不足でこれに習熟しておらず、連携した行動は一列縦隊で突進するのがやっとだった。後に無線は常設となるが、兵員不足で無線手が搭乗していないことも多かった<ref group="注釈">これはソ連軍の編成上の問題であるが、同一部隊内でもロシア語を解さない少数民族出身の乗員も多かったため、車輌ごとに[[伝言ゲーム]]のように命令を伝えることもある有様だった。</ref>。しかし大戦後期にアメリカから部品が供給されるようになると無線機はほぼ全車両に普及し、ソ連版[[電撃戦]]である[[バグラチオン作戦]]の成功にT-34の高い機動性と共に一役買う事になった。 === 製造技術上の問題 === * [[潜望鏡|ペリスコープ]]は質が悪くレンズに気泡が入っている場合があった。また前期の型には周辺監視用のコマンダーズ・キューポラも無い。主砲交換と燃料タンク取り出し用に巨大化した砲塔上面ハッチが前方の視界を塞いでしまうため、周囲確認のため乗り出した戦車長は格好の標的として狙撃された。またこのハッチは極めて重いため、負傷すると開けられず脱出が大変困難であった。1942年型からハッチが戦車長兼砲手用と装填手用別々に分かれ、後には直視型の[[防弾ガラス]]入りスリットのあるキューポラを装備した1943年型も生産され、視界はある程度改善されたが、それでもハッチが重いので現地ではロック機構のスプリングを取り外すなどしている。 * 精密機器として見た場合、多くの問題があった。[[トランスミッション]]が故障しやすく寿命が短かったり、防水加工が不十分で砲弾を濡らしたり電気系が漏電する危険があり、砲塔回転用のモーターが過負荷で火花を噴いたり、砲塔回転ギアの材質や工作精度が悪く破損したりした。これらの問題点はアメリカに1輌提供され、現在もアバディーンに展示されている1941年戦時簡易型の調査でも明らかになり、アメリカ軍により記録されている。しかしながら、後にアメリカから提供された[[工作機械]]などにより改善された部分もある。 * 敵弾の口径によっては被弾すると、敵弾が貫通してもしなくても[[ホプキンソン効果]]により装甲内壁が剥離して飛び散り、乗員を殺傷する危険があった。これは、[[レンドリース法|レンドリース]]された米英製戦車の[[ニッケル]]を多く含む装甲と比較して顕著であった。当時の乗員の話によると、特に砲塔の乗員の死傷率が高かったという。大戦期に製造されたT-34のほとんどが戦況が逼迫する中で急造されたものであり、製造に使用された素材も[[スクラップ]]にされた旧式戦車や自動車等の機械類をいったん溶かしてから再利用されるのがほとんどであったことが理由として挙げられる。新しくニッケル等の素材を調合して装甲材を製造する余裕が、戦時下のソ連では大戦後期を除いて与えられなかったためだからこそである。 === 生産性 === T-34は非常に高い生産性を誇り、損害を上回る数が次々に戦場へ投入された。 T-34は大戦中だけで3万5,000輌あまり、T-34-85は2万9,480輌が生産され、合計すると6万輌以上に上り、アメリカ軍の[[M4中戦車|M4シャーマン]]の生産数をも上回る当時世界最多の生産数を誇った。このため生産数だけを見て最優秀戦車であるという意見もある。しかしながら当時のソ連はレンドリースによってアメリカなどから戦車、[[ジープ]]、トラックなどの提供を受け、生産力を主力兵器に全て振向けることができた。このことがこの生産数の大きな要因であったといわれる。 第二次世界大戦後、T-34-85は[[チェコ]]や[[ポーランド]]でも生産され、[[共産圏]]諸国や[[中東]]諸国等に輸出された。これら東欧製は1944年型の製造ラインを受け継いで作られたが、表面仕上げや工作精度が大戦中のソ連製より良く、また鋳型が変更されたため砲塔の形状などに微妙な違いが見られる。 == 戦闘の歴史 == === 第二次世界大戦 === ==== 独ソ戦 ==== 1941年6月22日、ドイツは対ソ侵攻作戦、バルバロッサ作戦を開始した。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソ連軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により心理的なショックを受けた(T-34ショック)。T-34は当時就役していたドイツ軍戦車のどれよりも優れており、ドイツ軍は当初T-34を撃破するのにかなり苦労した。当時のドイツ軍の標準的な対戦車砲ではT-34の分厚い傾斜装甲には有効打を与えられなかったからである。[[アルフレート・ヨードル]]の日記でも、[[リガ]]にT-34が現れたときは驚いたようである。そのため、T-34はしばしば独ソ戦におけるソ連軍反撃の象徴とされる。<ref name="Zaloga & Grandsen 1984:127">Zaloga & Grandsen 1984:127</ref>。また、現代の歩兵戦闘車のようにT-34の車上にタンクデサントとして歩兵を乗せて移動することがあった。この例はスターリングラードなどで見られる。 1941年はT-34はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができた。しかし新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。初期のPomonフィルターにはほとんど防塵効果が無く、塵や砂がエンジンに入り故障させた。変速機とクラッチにも深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)<ref name="Zaloga & Grandsen 1984:127"/>。修理用の器材が不足したため初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。 1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。[[IV号戦車]]は性能の劣る[[リーフ式サスペンション]]と狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった<ref>Perrett 1999</ref>。 当時のドイツ歩兵部隊は大部分が[[3.7 cm PaK 36|PaK 36]](37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|バトル・オブ・フランス]]では、PaK 36 は最も薄い部類の装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らはソ連軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考え、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0&nbsp;cm 砲[[5 cm PaK 38|PaK 38]]、新型でより強力な7.5&nbsp;cm 砲[[7.5 cm PaK 40|PaK 40]]、[[8.8 cm FlaK 18/36/37|88ミリ高射砲]]などがあるが、88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソ連軍の戦車乗員の練度が低く、ソ連軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったからだった。当時のソ連は戦車戦術の理解度、洗練度の点でドイツ軍より劣っていた。 1942年から1943年にかけて、ソ連軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソ連の設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した<ref>Zaloga 1984:225</ref>。これはドイツの1ヶ月当たりの戦車生産量よりかなり多い。しかしながら、ソ連軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。 圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は[[砲口初速]]の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになり、これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力な[[ティーガーI|ティーガー]]重戦車および[[V号戦車パンター|パンター]]中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85&nbsp;mm 戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでの[[F-34 76mm戦車砲]]に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。 それまでの数年の戦いの中では、ソ連軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソ連軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった<ref>Zaloga & Grandsen 1984:223</ref>。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍の[[IV号戦車]]や[[III号突撃砲]]よりも装甲や機動性において優れていたが、[[V号戦車パンター|パンター]]の[[7.5 cm KwK 42|砲]]や装甲よりは劣っていた。ソ連側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少なく稼動率が低い点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。 開戦当初、T-34はソ連戦車の内のわずか数パーセントに過ぎなかったが、終戦時までにソ連の膨大な戦車生産台数の少なくとも55パーセントを占めるまでになっている(<ref>Zaloga 1984:125?6, 225</ref>の図より。[[#Reference-Zheltov-2001|Zheltov 2001]]はより大きな数字を挙げている。)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。攻撃力や防御力ではパンター、ティーガーらドイツ軍新鋭戦車に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。 ====ソ連満州侵攻 (1945年8月)==== {{Main|ソ連対日参戦|ソビエト連邦による満州侵攻}} 1945年8月9日未明、機甲部隊の通過は不可能な地形と日本軍側が考えていた地帯を通ってソ連軍は日本占領下の満州に侵攻した。赤軍の諸兵科連合部隊は完全な奇襲に成功し、古典的な二重包囲戦形の中で、T-34-85、[[IS-2]]、[[IS-3]]と[[ISU-152]]を先鋒とする強力な長距離貫入攻撃を展開した。対する日本軍は、既に精鋭部隊を他の戦線に引き抜かれた後で兵力が減少しており、再配備の途上であった。日本軍に残されていた戦車は全て後方に留め置かれ、戦闘には使用されなかった。日本軍は[[陸軍飛行戦隊]]、工兵、通信兵からの支援もあまり得られなかった。日本軍はある程度の抵抗は示したが、数と質共に圧倒された。これを受け、[[昭和天皇]]は8月14日に降伏を伝達したが、関東軍は8月17日まで正式な停戦命令を受け取っていなかった<ref name=GlobalSecurity>Marine Corps University Command and Staff College (1986) [http://www.globalsecurity.org/military/library/report/1986/RMF.htm "The Soviet Army Offensive: Manchuria, 1945."] Global Security website.</ref>。 === 第二次世界大戦後 === [[ファイル:General Dean's Kill!.jpg|thumb|250px|第24歩兵師団の[[ウィリアム・F・ディーン]]将軍自らが[[バズーカ|M20スーパー・バズーカ]]で撃破した北朝鮮軍のT-34-85。]] ソ連軍では後継の[[T-54]]が1950年に正式採用されるまで、主力戦車であり続けた。T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソ連から輸出されて各地で使用された。 例えば、1950年6月の[[朝鮮戦争]]における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は、約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた<ref>Perrett 1987:134?5</ref>。 T-34は[[M24軽戦車]]、[[M4中戦車]]、[[M26パーシング]]中戦車、[[M46パットン]]中戦車と戦ったが、国連軍の[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン戦車]]とは、いずれも戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチ[[バズーカ]]を依然として使っていたが、これはT-34には無力であった<ref name="Perrett 1987:135">Perrett 1987:135</ref>。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された[[バズーカ|3.5インチ・スーパー・バズーカ]]を使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。 共に第二次世界大戦で連合国を代表する存在となったM4中戦車との戦いにおいては、主力となった52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)と59回の戦車戦を戦い、T-34が47輌撃破されたのに対して、M4中戦車の完全損失は10輌(他10輌が損傷したが修理復帰)であり、圧倒されている。他、M26パーシングやM46パットンなども含めた、T-34対アメリカ軍戦車の戦いの[[キルレシオ]]としては、T-34が97輌撃破されたのに対してアメリカ軍戦車の損失は34輌(うち半数は修理復帰)であり、アメリカ軍側の圧勝に終わっている<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2011|loc=電子版, 位置No.1750}}</ref>。 一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の[[仁川上陸作戦]]によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌の[[SU-76 (自走砲)#SU-76のバリエーション|SU-76]]が失われた<ref name="Perrett 1987:135"/>。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった<ref>Zaloga & Kinnear 1996:34?3」日本語版「T-35/85中戦車 1944-1994」(スティーブン・ザロガ+ジム・キニア/著 大日本絵画)</ref>。 [[ファイル:T-34-76 1943 Parola.jpg|thumb|250px|フィンランド・[[パロラ戦車博物館]]に展示されているT-34-76(手前)とT-34-85(奥)。<br />両者の砲塔横部には、継続戦争当時のフィンランド軍の[[国籍マーク]]であった[[卍|ハカリスティ]]が描かれている。]] [[フィンランド軍]]は攻撃してきたソ連軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。 また多くの東欧諸国(後の[[ワルシャワ条約機構]])の陸軍でも採用され、[[東ベルリン暴動|1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起]]や1956年の[[ハンガリー動乱]]の鎮圧に使用された。 [[ファイル:T-34 Vietnam.jpg|サムネイル|243x243ピクセル|[[ベトナム]]の軍事博物館に展示されているT-34-85。]] T-34は、[[中東戦争]]や[[ベトナム戦争]]、[[チェコ事件]]、[[ソマリア紛争]]、[[中越戦争]]などでも使われ、1974年の[[キプロス紛争]]では、[[キプロス国家守備隊]]が[[ユーゴスラビア]]から供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは、民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれた[[マカリオス3世]]([[ギリシャ]]・[[キプロス]][[合邦]]運動の中心人物と目されていた)が([[ギリシャ軍事政権]]にとって。)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシャ(及び西側諸国)との関係が急速に悪化した。孤立化したキプロスは、武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシャ軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日の{{仮リンク|キオネリ|en|Kioneli}}や{{仮リンク|キュレニア|en|Kyrenia}}の二つの戦いである(Drousiotis 2006)。 [[ファイル:T-37 Serbia.jpg|thumb|250px|1996年、[[ユーゴスラビア紛争]]で使われたセルビア人勢力のT-34-85。]] [[冷戦]]終結後のユーゴスラビア紛争における[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいて[[セルビア人]]のT-34が[[国際連合保護軍]]のイギリス陸軍[[イギリス陸軍の編成#工兵|王立工兵]](Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた<ref>“[http://www.publications.parliament.uk/pa/ld199900/ldjudgmt/jd000406/walker-1.htm#prof Regina v. Ministry of Defence Ex Parte Walker]” (judgment), 6 April 2000, retrieved November 17, 2008.</ref>。[[クロアチア]]はユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。[[コソボ紛争]]では[[ユーゴスラビア陸軍]]がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。 [[アフガニスタン]]でもT-34は時々利用されている(T-34が[[有志連合]]軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。[[イラク軍]]は1990年代初期までT-34を使用していた。[[アンゴラ]]や[[ソマリア]]などのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。[[キューバ]]のT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。 [[レバノン内戦]]では、[[パレスチナ解放機構|PLO]]やイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織が[[イスラエル]]から供給された[[スーパーシャーマン|M50スーパーシャーマン等]]と共に使用していた。 21世紀に入っても実働するT-34-85が実戦で使われている例が存在しており、2011年の[[リビア内戦]]でも前線で活用されたとの情報が多数入っている{{要出典|date=2011年11月|title=この記述には信頼できる情報源の提示が求められています。}}。 2006年、ハンガリーでのデモ活動で市民側が展示されていたT-34-85を稼働させたという情報もある。 2015年には[[イエメン内戦 (2015年-)|内戦]]状態に陥った[[イエメン]]において、T-34-85がSU-100と共に用いられているのが目撃されている<ref>http://www.uskowioniran.com/2015/04/wwii-era-soviet-armor-engaged-in-yemen.html "WWII era Soviet armor engaged in Yemen conflict"</ref>。イエメンのT-34-85は、主砲弾に、戦中に使われていた徹甲弾よりも遥かに強力な、戦後開発の3UBK1翼安定成形炸薬弾を使用しており、[[T-55]]程度は余裕で貫徹可能であり、こうした新型弾薬を使えば、大戦期の戦車でも十分脅威となる。 2019年1月10日には、[[ラオス人民軍]]に配備されていた30両が退役し、ロシアに返還された<ref>{{cite news|url=https://tass.ru/armiya-i-opk/5980835 |title=Россия приняла от Лаоса 30 танков Т-34|author= |date=2019-01-10|publisher=[[タス通信|ТАСС]]|accessdate=2021-12-04}}</ref><ref>{{cite news|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00010001-aptsushinv-eurp |title=【映像】旧ソ連製T-34/85中戦車 露との協定でラオスが返還|author= |date=2019-01-10|publisher=[[AP通信]]|accessdate=2019-01-11}}</ref>。 2020年、ロシア陸軍第4親衛戦車師団「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車大隊が設立された。 [[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]における[[リシチャンシクの戦い]]でも、公園でモニュメントとして飾られていたT-34-85がウクライナ軍により稼働させられたものの放棄され、ロシア軍に鹵獲されて検問所で[[かかし]]として使用されている<ref>https://www.19fortyfive.com/2022/07/ukraine-is-turning-dead-russian-tanks-into-monuments/</ref>。 == バリエーション == T-34は、その生産工場の違いと改良により細部の異なる数多くのバリエーションがある。主砲の口径により、'''T-34-76'''と'''T-34-85'''に大別され、さらに(主に西側の研究家により)主な生産年、製造工場名で細分される。 なお、T-34-76はソ連ではもともと単に'''T-34'''と呼称、85&nbsp;mm 砲搭載型登場後、区別のためにT-34-76と呼称されるようになった。かつて、西側ではT-34/76、T-34/85等と表記するのが普通だったが、ソ連の崩壊以降に公表されているロシア発の資料ではT-34-76、T-34-85等となっている。 {|class="wikitable" style="border:1px solid #999; border-collapse:collapse; text-align:center; margin: 1en 1en 1en 0;" |+ 各車の比較<ref name="Zaloga 2006">[[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen (1984:113, 184)]], [[#Reference-Harrison-2002|Harrison (2002:181)]], [[#Reference-KMDB-2006|KMDB (2006)]].</ref> |- ! 形式 ! T-34<br />1940年型 ! T-34<br />1941年型 ! T-34<br />1942年型 ! T-34<br />1943年型 ! [[T-43 (戦車)|T-43]](試作) ! T-34-85 ! [[T-44]] |- ! 重量 | 26トン | 26.5トン | 28.5トン | 30.9トン | 34トン | 32トン | 31.9トン |- ! 主砲 | 76.2&nbsp;mm L-11 | colspan="4"|76.2&nbsp;mm F-34 | colspan="2"|85&nbsp;mm ZiS-S-53 |- ! 搭載弾数 | 76発 | 77発 | 77発 | 100発 | | 60発 | 58発 |- ! 燃料 | 460リットル | 460リットル | 610リットル | 790リットル | | 810リットル | 642リットル |- ! 航続距離 | 300&nbsp;km | 400&nbsp;km | 400&nbsp;km | 465&nbsp;km | 300&nbsp;km | 340&nbsp;km | 300&nbsp;km |- ! 装甲 | 15 – 45&nbsp;mm | 20 – 52&nbsp;mm | 20 – 65&nbsp;mm | 20 – 70&nbsp;mm | 16 – 90&nbsp;mm | 20 – 90&nbsp;mm | 15 – 120&nbsp;mm |- ! 生産コスト | | 27万 ルーブル | 19万3,000 ルーブル | 13万5,000 ルーブル | | 16万4,000 ルーブル | |} === 1940年 - 1941年 === [[ファイル:T34-76 4.jpg|thumb|250px|アバディーンの[[アメリカ陸軍兵器博物館]]に展示されているT-34-76 1941年型。ドイツ軍が鹵獲して、フランスで訓練用に用いていた物をアメリカ軍が再鹵獲し持ち帰った。後方にソ連から贈られた1941年戦時簡易型も見える。]] その形状から、「[[ピロシキ]]」と呼ばれた背の低い1940/41年型砲塔は当初は圧延鋼板の溶接型のみであったが、直に量産性の優れた[[鋳造]]製[[砲塔]]が並行生産されるようになった。当時、ソ連は大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており、以後のT-34改良型や[[IS-2]]などに積極的に鋳造製砲塔を採用した。 しかし鋳造装甲は製法上、同じ厚さの圧延鍛造装甲より一割ほど強度が劣り、鋳造砲塔に被弾すると、割れることも少なくなかった。また大戦中の粗製濫造のため鋳巣(空洞)が装甲の中に発生し、更に強度を落としていた例もある。このため、当時の乗員は「鋳造砲塔は37 mm 高射機関砲弾程度の被弾ですら安全ではなかったと」証言している。一方、圧延鍛造の傾斜装甲を採用している車体前面装甲は乗員達から多くの信頼を得ている。 ; T-34 1940年型 : 1940年9月より、ハリコフ機関車工場(第183工場)で最初に量産された型で、30.5口径76.2 mm L-11戦車砲を搭載する。当初は溶接砲塔のみだったが、後にほぼ同様のスタイルの鋳造砲塔搭載型も並行生産されるようになる。 ; T-34 1941年型 : 1940年型と略同型の車体・砲塔に41.6口径[[F-34 76mm戦車砲]](初期の一部の車両はF-32)を搭載したタイプで、当初は指揮官車として1940年型と並行生産、後に完全に切り替わった。生産途上、新型操縦手ハッチの導入など各部の小改良が逐次導入された。特に新型操縦手用ハッチ導入後の車体については、従来1942年型と呼ばれることが多かったが、最近の(特にロシア・ソースの)資料では1941年型に含める。これらは主に生産簡略化のための改修であったので、これを特に1941年戦時簡易型と呼ぶことがある。ハリコフ機関車工場に続き、スターリングラードトラクター工場、さらに第112工場などでも生産が行われるようになった。 ; T-34駆逐戦車(T-34-57) : 高初速のZIS-4 57 mm 対戦車砲([[ZiS-2 57mm対戦車砲]]の戦車搭載型)を41年型の砲塔に搭載した'''T-34駆逐戦車'''(資料によってはT-34-57とされるが、ソ連軍における正式な名称ではない)が1941年10月から少数量産され、第21戦車旅団に配備されその冬の[[モスクワの戦い]]に投入されたが、戦果を挙げつつも11月中に全滅している。1943年には改良型57mm砲を六角砲塔に搭載し、推定100輌以上が第183ウラル戦車工場で再生産され、8月に実戦投入されたが、T-34-85の量産に伴い生産終了した。 === 1942年 - 1943年 === [[ファイル:T-34-76-1943 on Panzermuseum Munster.jpg|thumb|250px|T-34-76(1943年型)。]] 1942年型以降では「チェリャビンスク砲塔」と呼ばれる六角形状の新型砲塔が使用された。この砲塔は試作戦車T-34Mの砲塔を元に設計され、鋳造製の外周部と圧延鋼板からなる天板を組み合わせた構造をしていた。また、「チェリャビンスク砲塔」に似た形状であるものの、外周部と上面との間に継ぎ目なく、一体に成型された「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔がウラルマシ(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM<ref group="注釈">古い資料での説に基づいた[[タミヤ]]の1/35スケールプラモデルの商品名では「チェリヤビンスク」砲塔型になっている。</ref>)で生産されていた。 「フォルモチカ」砲塔に関しては、昔からの鋳造一体成型説と[[プレス機械|プレス機]]での熱間鍛造説があった。後者は1994年にスティーヴン・ザロガの著書により発表された。当初は 5000トンフォージングプレス機を用いたとされたが、側面で52 mm もある装甲の成型は不可能と指摘され、ザロガも翌年、1万トンプレス機であると訂正した。しかし、当時ソ連に存在しない 2万トンプレスでないと不可能とする異論、また現代のプレス業者から見ても不合理な工程であるとの意見もあり、未だ真相はハッキリしていない。一説<ref>ホビージャパン「ミリタリーモデリングマニュアル22」の記事・高田裕久「MODEL WORLD OF OTHER SIDE:16」</ref>では52 mm厚というのは鋳造製ナット型砲塔での数値であり、実際にはより薄い25~30 mm程度の鋼板をプレスしたもので、ウラジオストックで記念碑として展示されている砲塔 [http://legion-afv.narod.ru/T-34-76_Vladivostok.html] のように、薄い装甲が主砲発射の反動に耐えられず、次第に下端部に特徴的なたわみが発生するのではないか、と言われている。一方、他所でもこの砲塔にキューポラ付きのT-34 [http://pblinov.narod.ru/galleries/tanks/3476/form2/sambatuksa.html] が展示されているが、こちらには下端部のたわみ具合が小さい。 ; T-34 1942年型 : それまでの背の低い、[[避弾経始]]には優れるものの狭すぎた「ピロシキ」型砲塔に代わり、背が高く砲耳部が別体となった「ナット」砲塔を搭載するタイプである。砲塔上面の大きな1枚ハッチは2枚の小さな丸ハッチに改められ、それを開けた姿からドイツ軍には"[[ミッキーマウス]]"砲塔と通称された。1942年中にフィンランドやドイツ軍側の夏季攻勢である[[ブラウ作戦]]時から姿を現している。なお、「ナット」砲塔搭載型を(下記の1943年型と合わせて)1943年型とする分類法もあり、現在でもこの呼称を採用している資料も多いので、混同に留意する必要がある。 ; T-34 1943年型 : それまでのT-34の車長視界の悪さを改めるため、「チェリャビンスク砲塔」砲塔に上面左側にキューポラを装着したタイプ。 === 1943年以降 === [[ファイル:T-34-85 góra RB.jpg|thumb|250px|T-34-85。]] [[File:Paine Field-Lake Stickney, WA, USA - panoramio (110).jpg|thumb|250px|T-34-85の後部([[フライング・ヘリテージ・コレクション]])]] ; T-34-85 1943年型 : 1943年12月に試作完成した最初の 85 mm 戦車砲搭載型で、試作中戦車T-43の砲塔を基に更に改良した大型3人用砲塔を持つ。搭載砲は予定のZiS-53が完成せず、暫定的にD-5Tが搭載された。1944年1月から3月頃までの短い期間、第112工場で生産された。 ; T-34-85 1944年型 : T-34-85の戦中型の主量産型で、ZiS-53の改良型、85 mm 戦車砲ZiS-S-53を搭載。1944年3月頃から年末まで、第183工場を中心に多くの工場で生産された。 ; T-34-85 1945年型 : 1944年から45年にかけて生産された、戦中型では最終型。砲塔旋回が電動化された他、車長用ハッチが大型の一枚の物になり、フロントフェンダーが角型になった。また、車体後部に煙幕展開用のタンクが装備されるようになった。 {{-}} === 1946年以降 === [[ファイル:T-34-85 01.jpg|thumb|250px|T-34-85M(スターフィッシュホイール装備)]] ; T-34-85 1946年型 : エンジンを V-2-34M に改良等。 ; T-34-85 1960年型 : エンジンを V-2-3411 に改良等。 ; T-34-85 1969年型 : T-34-85Mとも呼称される。T-54/T-55系と似た形状のスターフィッシュホイールの採用等。 {{-}} === ドイツ軍での分類 === ドイツ軍でも独自に1940年型をT-34A、1941年型をT-34B、1941年戦時簡易型をT-34C、1942年型をT-34D、1943年型をT-34E、そして1942年型で砲塔上面まで一体成型されたタイプをT-34Fと分類した。もっとも、前述の通りソ連では76.2&nbsp;mm 砲搭載型の全てが単に"T-34"であり、細かい分類はされなかった。またソ連軍が新型戦車を開発していることを知ったドイツ軍は、新たに現れたT-34-85を誤って(別の戦車である)[[T-43 (戦車)|T-43]]と呼んだ<ref group="注釈">ティーガー戦車のエースである[[オットー・カリウス]]は戦後のインタビューでT-34-85をT-43と呼んでおり、前線のドイツ軍兵士の間では間違った呼称が改められず使われていた可能性もある。</ref>。 ドイツ軍は[[鹵獲]]したT-34を'''Panzerkampfwagen T-34 747(r)'''と名づけ使用した(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記する場合もある)[http://www.achtungpanzer.com/t34.htm]。そのまま使用しただけでなく、車長用キューポラやサイドスカートを増設したり、[[対空戦車]]などにも改造して使用した例もあった。 ; Panzerkampfwagen T-34 747(r) : ドイツ軍内での鹵獲T-34の呼称。 ; Flakpanzer T-34(r) : T-34-76車体に破損した対空ハーフトラックに搭載されていた[[2cm Flakvierling38]] 4連装対空砲を搭載した現地改修モデル。[[第653重戦車駆逐大隊]]によって製作され、大隊本部で運用された。 === 派生型 === 大戦中にも'''T-34M'''、'''T-43'''(この二種の戦車は全くの別物だが、古い資料では混同されている)といった装甲強化型の試作が行われたが、それ以上に火力の増強が必要とされて却下され、代わってT-34-85や後継戦車として開発された'''[[T-44]]'''が生産された。 {{main|T-44}} ソ連では派生車として、下記の[[自走砲]]他が生産されている(形式番号は搭載火砲の口径を示している)。SU-85やSU-100は対戦車戦闘を目した[[駆逐戦車]]の性格が強いが、ソ連ではまとめてSU(СУ)=自走砲と分類されている。 ; [[SU-122 (自走砲)|SU-122]] : SU-85以前に開発された、[[M-30 122mm榴弾砲|122 mm 榴弾砲 M-30]]を搭載した自走榴弾砲。 {{main|SU-122 (自走砲)}} ; [[SU-85 (自走砲)|SU-85]] : 85 mm 対戦車砲D-5Sを搭載する[[駆逐戦車]]。 {{main|SU-85 (自走砲)}} ; [[SU-100 (自走砲)|SU-100]] : 強力な100 mm 対戦車砲D-10Sを搭載するため、SU-85の戦闘室を改良した物。SU-100の車体を流用し85 mm 砲を搭載した車両はSU-85Mと呼ばれる。 {{main|SU-100 (自走砲)}} ; OT-34火焔放射戦車 : T-34の車体機銃の代わりにATO-41[[火炎放射器|火焔放射器]](後にATO-42)を搭載したもの。ベース車体は1941年型(戦時簡易型)から1943年型まで各種ある。1回あたり10リットルの燃料を用いて10分間に3回と、あまり多く放射できるものではなかった。 ; OT-34-85火焔放射戦車 : OT-34同様、T-34-85にATO-42火焔放射器を搭載したもの。 ; PT-34 : T-34やT-34-85の車体前面にアタッチメントを装着、PT-3ローラーを取り付けた地雷処理車。 [[ファイル:Тягач Т-34Т.jpg|thumb|250px|T-34-T<br />戦闘室上面に荷台のあるタイプ。]] ; T-34-T(TT-34) : T-34の砲塔を取り外した牽引・回収車両。一部は重砲牽引車としても用いられた。 : なお、“T-34-T”の名で呼ばれる牽引・回収車両にはいくつかのタイプがあり、単に砲塔を外しただけのものから、砲塔を外してターレットリングの開口部を塞ぎキューポラを設置したもの(キューポラのないタイプもある)、荷台を設置したものなど、多種類のバリエーションがある。 : 東ドイツ軍ではT-34-Tの戦闘室上にウィンチを装備した改良型を独自に開発し、「T-34-TB」の名称で装備した。 :; T-34-TO(TO-34) :: T-34-Tの派生形で、各種整備機材を搭載し、機関室上面にデッキを新設、組み立て式のデリッククレーンを標準装備とした整備支援車両。 1958年より余剰となったT-34-85を改装して装備された。 {{-}} ; SPK-5 [[ファイル:T-34-ARV-batey-haosef-1.jpg|thumb|250px|SPK-5]] : T-54/55の部隊装備開始後に余剰となったT-34-85を改装したもので、砲塔を撤去し全周旋回可能なジブ式クレーン(吊り上げ能力10トン)を搭載した装軌式自走クレーン車。1955年より既存車を改装、装備された。 :; SPK-5/10M :: SPK-5のクレーンを電気油圧制御式とした改良型。 {{-}} ; AT-42 : T-34の車体部を流用した[[砲牽引車]]。操縦席部分を含む戦闘室を大型化し、機関室上に砲員と砲弾を搭載するために荷台を増設している。 : 自重は17トンで、最大牽引重量は15トン、更に3トンまでの砲弾及び貨物を搭載して時速33キロで走行可能であった。 : 1940年より開発が開始され、1941年には試作車が完成、実用試験が開始されたが、独ソ戦の開戦により「T-34の生産を担当する工場の生産力を戦車の生産以外に用いるべきではない」と結論されたため、試作のみに終わった。 {{-}} ; AT-45 : AT-42同様T-34の車体部を流用した砲牽引車。AT-42とは異なり、ソ連の他の非装甲型の砲牽引車と同じく、ボンネットトラック様の操縦席キャビン部と荷台部を持つ。エンジンはT-34と異なり350馬力のディーゼルエンジンが搭載されている。自重19トンで、最大牽引重量22トン、貨物搭載量は6トンで、最高時速35キロで720kmの走行が可能であった。 : [[ニジニ・タギル]]に疎開していた[[V・O・マールィシェウ記念工場|ハリコフ蒸気機関車工場(ハリコフ機関車工場、KhPZ)]]において1944年より開発され、1945年、奪還され復興した[[ハルキウ]]の第75工場において量産が開始される計画であったが、T-44の開発完了に伴い生産体制がT-34からT-44に全面的に切り替わることが決定したため、T-34の派生型である本車の量産は中止され、やはり試作のみに終わった。 {{-}} ; BLG-34 : 東ドイツ軍が独自に開発した[[架橋戦車]]。T-34の車体に大型の二つ折り式(シザース式)の戦車橋を搭載している。試作のみ。 {{-}} 戦後、[[エジプト]]、[[シリア]]などでも、ソ連製やチェコ製のT-34-85を独自に[[自走砲]]や[[自走式対空砲|対空自走砲]]を改造し、製作、使用した。 ; T-34-100 (T-100) [[ファイル:T-100-latrun-2.jpg|thumb|250px|T-34-100(T-100)]] : エジプト軍が、余剰となったT-34-85の砲塔を大きく切り欠いて、ソ連製の[[BS-3 100mm野砲|BS-3/M1944 100 mm 野砲]]を搭載した対戦車車輌([[駆逐戦車]])。砲塔はオリジナルのT-34-85に対して前後逆になっている。 :; T-34-122 (T-122) :: T-34-100同様、エジプト軍が余剰となったT-34-85の砲塔側面・後面を切断し、溶接箱組みの戦闘室を付け足して[[D-30 122mm榴弾砲]]を搭載した自走砲。砲塔の容積はオリジナルの2倍近くに拡大している。 {{-}} [[ファイル:D-30-T-34-batey-haosef-4.jpg|thumb|250px|T-34/D-30<br />シリア軍の車両]] ; T-34/122(T-34/D-30) : シリア軍では砲塔を完全に撤去し、D-30 122 mm榴弾砲を車体上に後ろ向きに搭載した自走砲が作られている。キューバでは、T-34-85の砲塔前半部を切り欠いて、同砲を前向きに搭載した自走砲が作られている。前面防弾板も、D-30榴弾砲の物がそのまま使われている。これらは“T-34/122”もしくは“T-34/D-30”と呼称されている。  {{-}} なお、大戦中のソ連軍にも、T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め、試験的に100 mm 戦車砲を搭載した「T-34-100」が存在する。また、1942年にU-12 122mm榴弾砲を搭載した車両が計画・試作され、これは「{{lang|ru|T-34Г}}(T-34G)」もしくは「{{lang|ru|T-34щ}}(T-34Sh)」の名称で計画されたが、“T-34-122”と通称されていた。 {{-}} == 主要生産工場 == 独ソ戦によるドイツ軍のソ連領内侵攻で、工場は大規模な疎開を行って生産を続けることとなった。これら数カ所あった工場によって砲塔、車体の構成などが異なることがわかっている。 ; 第183工場 : [[ハルキウ|ハリコフ]]にあったハリコフ機関車工場(現[[V・O・マールィシェウ記念工場]])でT-34の設計・試作が行われ、初期のT-34/1940年式の生産も行われた。この国営第183ハリコフ機関車工場(別名 コミンテルン、KhPZ)が[[独ソ戦]]開始後、[[ウラル山脈]]東方の[[ニジニ・タギル]]に疎開して現地のウラル貨車工場(ウラルヴァゴンザヴォート)と併合し国営第183ウラル戦車工場(別名 ヨシフ・スターリン、UTZ)に改名して操業。T-34の開発工場であり、戦中を通しT-34生産の中核を担った。 ; スターリングラード・トラクター工場(別名 F.ジェルジンスキー、STZ) : スターリングラード(現[[ヴォルゴグラード]])にあった。立地条件の問題か、独自形状の起動輪や緩衝ゴム内蔵の鋼製リム転輪<ref group="注釈">後にほぼ同型の緩衝ゴム内蔵転輪が、第183工場製1942年型でも(主に第2~第4転輪として)使われている。</ref>、独特の装甲板構成を持つ砲塔や車体など、生産が進むに連れ独特の仕様が多い車両を生産した。他の工場が疎開のため生産ラインが閉じてしまい、一時期はT-34を生産している唯一の工場となった。このため[[スターリングラード攻防戦]]の最中にも生産が続けられ、塗装もされていないT-34が工員の手により直接前線に向かったとの説もある。結局施設は灰燼に帰し、生産を再開したのは戦後になってからであった。 ; 第112工場(国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場) : [[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー(現ニジニー・ノヴゴロト)]]にあった。なお、この工場で生産されたT-34(1941年戦時簡易型)の初期638輌は、折り悪くV-2ディーゼルエンジンの製造工場が疎開中で入手が困難だったため、やむを得ず[[ミクーリン M-17|M-17Tガソリンエンジン]]([[BT-7]]用にライセンス生産していた、[[BMW]]の航空機用エンジンを戦車用に改造したもの)を搭載している。外見上は後部の丸い点検ハッチが標準型よりやや小径で車体中央に寄っており、ハッチを固定するボルトが4つしかないことで識別できる。最も遅くまで「ピロシキ」型砲塔搭載の1941年戦時簡易型を生産した一方で、最初にT-34-85を生産した工場でもある。 ; 第100工場(国営第100キーロフスキー工場) : [[レニングラード]](現[[サンクトペテルブルク]])にあった。独ソ戦開始後、ウラル山脈東方の[[チェリャビンスク]]に疎開。もともと現地にあったトラクター工場と合体し、巨大戦車生産コンビナート'''タンコグラード'''を形成する。 ; 第9工場(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM) : [[スヴェルドロフスク]](現[[エカテリンブルク]])にあった。当初はシャーシ、砲塔のみの製造を行う工場だったが、後に独自生産。 ; 第174工場(国営第174工場ヴォロシーロフ製造所) : レニングラードの工場が[[オムスク]]に疎開して成立。 === ライセンス生産 === 第二次世界大戦後、「友好国」に生産ラインの設備が譲渡され、ライセンス生産もおこなわれている。 ==== 生産国 ==== [[ファイル:Pomorskie Muzeum Wojskowe - czołg.jpg|thumb|250px|ポーランドの生産型、T-34-85M2]] ;[[ポーランド]] :T-34-85の1944年型が1951年から1955年にかけて生産され、多くがワルシャワ条約の同盟国に売却された。ソ連製のT-34のかなりの数が戦時急増による粗製乱造品であったため、それらに比べて戦後生産型であるポーランド製車両の質は高く、設計本来の性能を発揮できた、と評価されている。ポーランド製の車両は、ソ連製のどの工場製とも微妙に異なる外形の砲塔を持ち、砲塔表面の鋳造肌も滑らかになっている。 :;T-34-85M1 ::T-34-85 1960年型に準じた型。スパイダーホイールが使用されている。 :;T-34-85-M2 ::T-34-85 1969年型に準じた型。渡渉能力が追加されており、T-54/55系と似たツールボックスやシュノーケルを装備するなど、改良が施されている。T-54/T-55系と似た形状のスターフィッシュホイールが採用された。 {{-}} [[ファイル:WPT-34.JPG|thumb|250px|WPT-34]] :;CW-34 ::後述のチェコスロバキア製回収車型、VT-34に準じてポーランドで製造された戦車回収車。 :;WPT-34 ::CW-34の能力向上型として1960年より装備された戦車回収車。より大型の固定式戦闘室とシュノーケル装置を装備している。大半の車両はSU-85及びSU-100を改造して生産された。 {{-}} ;[[チェコスロバキア]] [[ファイル:T-34 - back.JPG|thumb|250px|チェコ生産型のT-34-85の車体後部]] :1958年までポーランドより多数を生産、中東に輸出された。特に[[シリア軍]]が[[中東戦争]]で使用したT-34-85はほぼ全てがチェコ生産型である。ポーランド製の車両と同様に、ソ連製のものに比べて工業的品質が高いと評価された。ポーランド製の車両と同様、チェコ生産型もソ連製のどの工場製とも微妙に異なる外形の砲塔を持ち、砲塔表面の鋳造肌も滑らかになっている。 :チェコスロバキアの生産型はT-34-85CZと通称されており、車体リアパネルのヒンジが、ソ連の第174工場と同様の大きな物で、排気管カバーは通称「柏葉型」等と呼ばれる、ボルト取付部のみが突出している形状の物を使用している(柏葉型排気管カバーは戦時中のソ連生産型にも見られるバリエーション)。 {{-}} :;MT-34 ::T-34の車体に二つ折り式(シザース式)のPM-34戦車橋を搭載した[[架橋戦車]]。1950年より生産。 [[ファイル:Svidnik vojenska technika2.jpg|thumb|250px|JT-34]] :;JT-34 ::大戦後チェコスロバキアが独自に開発した装軌式自走クレーン車。砲塔の代わりに全周旋回可能なブーム式クレーンを搭載している。1957年より開発計画が始まり、1963年から1966年にかけて約80両が生産された。チェコスロバキアの他インドとモロッコにも少数が輸出されて使用された。 {{-}} [[ファイル:Czechoslovak recovery tank VT-34 pic1.JPG|thumb|250px|VT-34]] :;VT-34 ::チェコスロバキアが独自開発した戦車回収車。大型の固定式戦闘室を増設、車内にはウィンチを装備し、車体後面には作業時に車体を安定させるための大型の駐鋤を装備している。 {{-}} ;[[中華人民共和国]] :中国ではソ連の技術指導の元にT-34-85をフルコピーしたものを'''58式戦車'''として生産した。中華人民共和国建国の当初であり、工業技術の基盤整備が未発達であったため、ソ連製よりも工作精度の低いものが多く、工業製品としての信頼性に問題があるものが多かった。にもかかわらず、[[人民解放軍]]の主力戦車とするべく大量生産が企画され、独自改良型も生産されたが、制式化の翌年には[[T-54|T-54A]]戦車のコピー生産品である[[59式戦車]]が完成したため、58式の生産は程なく中止され、生産ラインは59式に切り替えられた。 :;58式戦車(Type58) ::T-34-85 1945年型のフルコピー生産型。後に大多数はII型に改装された。 :;58式戦車I型(Type58-I) ::車長用ハッチをドーム型のものとし、12.7mm機関銃のマウントを標準装備とした型。 [[ファイル:T-34-85 at Jianchuan Museum.jpg|thumb|250px|58式戦車II型]] :;58式戦車II型(Type58-II) ::装填手用ハッチも車長用と同じく12.7mm機関銃マウントを装備したキューポラ型とした型。 なお、59式戦車の完成後は59式用の装備品が58式戦車にも追加で装備され、サーチライトとその架台、新型の照準器などが装着されている。それらの改修車両は西側の分類では“Type58-IIM”と呼称されている。 {{-}} :;65式対空自走砲 [[ファイル:Type 65 37mm Air Defense Gun.jpg|thumb|250px|アバディーンの[[アメリカ陸軍兵器博物館]]に展示されている65式対空自走砲]] ::[[中国人民解放軍|中国軍]]が58式戦車の車体に65式対空砲(ソ連の[[61-K 37mm対空砲]]の国産発展型)を搭載した対空自走砲。[[ベトナム戦争]]に投入された。古い文献では「[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]が現地改修の形で独自に製作した」と記述されているが、中国軍の制式装備である。 これらの他、T-34-Tがソ連より供与、及び購入されて使用されており、58式戦車の一部も同様の戦車回収車に改装されて使用された。 {{-}} ==== 生産中止国 ==== * [[ユーゴスラビア]] - T-34-85を供与されたユーゴスラビアでは、これを[[リバースエンジニアリング]]の上参考にした「Teski Tenk Vozilo A(重戦車A型)<ref group="注釈">[[:commons:Category:Teški Tenk Vozilo A tank in the Belgrade Military Museum]]</ref>」を製作し、量産する予定であったが、ソ連との関係悪化で9輌を試作したところで中止された。しばしばT-34-85と間違われる事もあるが、車体前面左右の傾斜や砲塔の形状、主砲のマズルブレーキなどが異なる、ユーゴスラビアが独自に製造した唯一の戦車である。かわりにアメリカから[[M4中戦車|M4シャーマン]]の供与を受けている。T-34-85の装備自体はその後も長らく続けられた。 * [[北朝鮮]]では朝鮮戦争後もT-34の装備を継続したが、自国での生産は一切行っていない。 == 運用国 == === 現在の運用国 === [[ファイル:T-34 Operators.png|サムネイル|431x431px|現在の運用国(青)と過去の運用国(赤)]] {{Col|*{{PRK}} *{{YEM}} *{{Flagicon|ボスニア・ヘルツェゴビナ}} [[ボスニアヘルツェゴビナ]] *{{Flagicon|マリ}} [[マリ共和国]] *{{Flagicon|モルディブ}} [[モルディブ共和国]] *{{Flagicon|ギニア}} [[ギニア]] *{{Flagicon|ギニアビサウ}} [[ギニアビサウ]]}} *{{CUB}} === 現存する車両 === [[ファイル:2018_Moscow_Victory_Day_Parade_45.jpg|thumb|250px|モスクワにおける独ソ戦戦勝記念パレード(2018年)]] T-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。[[第三世界]]の軍において第二線級の兵器として保管されている車両(主にT-34-85)は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。 2010年のモスクワにおけるロシア対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34や[[SU-100]]などがパレードに自走参加した。2015年10月に北朝鮮の平壌で開催された朝鮮労働党70週年記念の軍事パレードでも、起動輪と履帯をT-54/55のものに換装したT-34-85の近代化改修型が参加している。 より古いT-34-76に関しては、現存する有名なものとしてはアメリカ・[[メリーランド州]][[アバディーン (メリーランド州)|アバディーン]]の[[アメリカ陸軍兵器博物館]]が所蔵する1941年型のT-34がある。これは旧西側に現存する車輛としては最古級のものだった。更に古い76mm L-11砲を搭載した1940年型のT-34は、ロシア、ベラルーシに少なくとも各1輌、1941年型および1941年戦時簡易型は最近になって昔の戦場から回収されたものを含め少なくとも10輌以上が現存する。[[フランス]]の[[ソミュール]]にある「[[ソミュール戦車博物館|Musée des Blindés(ソミュール戦車博物館)]]」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。フィンランドが継続戦争中に鹵獲した1941年型(Ps.231-1)も走行可能な状態となっている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=pWYVgq15G14 Panssarimuseo / Finnish Armour Museum - T-34 Soviet Tank In Action - MG Fire And Car Wrecking]</ref>。ナット砲塔を搭載した1942年型・1943年型はさらに多く、走行可能状態までレストアされたものも多い。 T-34の耐久性は、最近の修復作業においても示された。[[エストニア]]で56年間にわたって沼の底にあった1943年型のT-34が、2000年に復活した<ref>[http://www.mil.hiiumaa.ee/2000_09_14_kurtna_T-34-36/ Tanki T34-76 valjatombamine Kurtna jarvest (WWII Trophy tank)]. ''Militaarne Hiiumaa'' web site, text republished from ''Komatsu Times'' vol 3 no 1. English and Estonian language, retrieved on February 3, 2007.</ref>。その戦車はドイツ軍によって鹵獲され、退却中のドイツ軍が使用したが、その燃料が切れた所でドイツ軍が沼の中へ投棄したものであった。油漏れ・錆・その他水による機械系統への損傷の徴候は見られなかった。エンジンは完全に稼働する状態に回復した<ref>[http://www.diving.ee/articles/art035.html Подъем танка (pulling tank) T-34]. ''Otsing Club'' web site. Russian language, retrieved on February 3, 2007. なお、エストニアの沼底は泥炭であり、戦車は無酸素状態におかれ状態が保たれていた。</ref>。 2019年1月10日には[[ラオス]]で稼働状態だった30輌のT-34/85が退役し、協定によりロシアに返還されると報じられた<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00010001-aptsushinv-eurp] 【映像】旧ソ連製T-34/85中戦車 露との協定でラオスが返還 1/10(木) 13:24配信 Yahoo!ニュース</ref>。戦後にチェコスロバキアで生産・輸出された型式でベトナムに納入後、ラオスに引き渡された物という<ref> https://www.afpbb.com/articles/-/3271019</ref>。ロシアでは博物館展示のほか、戦争映画や軍事パレードで用いられる予定。その後2020年6月24日にロシアの戦勝記念パレードで自走する大量のT-34-85が各メディアで報道された。 2023年5月のモスクワで行われたパレードには、この内の1輌のみが、本パレード唯一の戦車として登場したと報道されており、未確認ながらT-34-85がウクライナへの軍事侵攻に使用されている可能性が示されている(一方、他の地域でのパレードには複数の戦車が登場したという報道もあり、本当にロシアがT-34-85をウクライナに出撃させているのかについては不明な点が多い)。 === 民間における現存車両 === T-34の各型は、世界各地の[[軍事博物館]]で収蔵品として展示されている他、100輛以上が戦争記念のモニュメントとして展示されている。コレクターやマニアの私有物として保有されている車両もあり、非武装化されて運転可能な状態の戦車は、2万から4万[[米ドル]]の間で取引されている。 その他に、民間で主に映画製作に使用されているものもある。第二次世界大戦を題材とした多くの映画(例えば『[[ネレトバの戦い (映画)|ネレトバの戦い]]』『[[戦略大作戦]]』『[[誓いの休暇]]』『[[プライベート・ライアン]]』など)では、T-34-85戦車を[[ティーガーI]]戦車に見えるように改装して使用した。これは実働するティーガーIを撮影用に用いることが難しかったためである。 これらの改造ティーガーは改造の度合いにもよるが、ティーガーIにそれなりに似ている。しかし車体の幅の狭さ、砲塔の位置(T-34の砲塔は車体のかなり前寄りにある。)、転輪や履帯の形状などから見分けられる。 別の有名な例として、マンデラ・ウェイのT-34戦車がある。これは個人所有のT-34-85で、それが置かれている通りの名にちなんで、こう呼ばれている。マンデラ・ウェイは[[ロンドン]]のBermondsey近くにある。このT-34は画家や落書き芸術家たちによって、頻繁に塗り変えられている。 == 登場作品 == T-34は、第二次世界大戦におけるソ連軍の主力戦車の1つであり、第二次世界大戦を扱った作品には頻繁に登場している。 === 映画 === T-34は現存車両が多いこともあり、第二次世界大戦を扱った[[戦争映画]]には数多く登場する。ソ連軍の戦車としての他に、外観はそのままにドイツ軍の国籍標識を描かれて「ドイツ戦車」として登場する例も多い。「[[T-34#現存する車両|現存する車輛]]」の項で述べたように、大改造を施されて[[ティーガーI]]その他のドイツ戦車を模した外観に改装されて登場している例もある。 ==== 邦画 ==== ; 『[[ゴジラvsモスラ]]』 : 怪獣[[バトラ (ゴジラシリーズ)|バトラ]]と陸上自衛隊が[[名古屋市]]で交戦するシーンで、なぜか1両が[[74式戦車]]や[[61式戦車]]などの自衛隊戦車に交じって一瞬だけ登場。登場しているのは砲塔形状より76で、撮影は実物ではなく模型を使用した[[特撮]]となっている。同シーンをよく見ると自衛隊戦車ではない[[レオパルト1]]や[[M48パットン]]らしき戦車も混じっていることから、T-34も含めて数合わせで登場させられたとみられる。 ; 『[[戦争と人間]]』 : 第三部『完結篇』において[[ノモンハン事件|ノモンハン事変]]のシーンに登場。なお、登場しているのは85だが、ノモンハン事変の時点でT-34自体がまだ実戦投入されていないので、歴史考証的には誤りである。 : このシーンは[[モスフィルム]]との提携により、ソ連ロケを敢行してソ連軍全面協力の下に撮影された。『[[ヨーロッパの解放]]』のフィルムからも映像が流用されている。 ==== 外国映画 ==== ; 『[[:pl:Czterej pancerni i pies (serial telewizyjny)|{{lang|pl|Czterej pancerni i pies}}]]』(『4人の戦車兵と1匹の犬』) : [[ポーランド]]のテレビ映画。1966年・1969年・1970年に渡り3シリーズ、計21話が制作されて放映された。 : 主人公たちの乗る戦車として85が全編にわたって登場する。原作ストーリーでは、102号車「RUDY」号は、当初は76mm砲型(乗員4名)であるが、テレビ映画では、当時手配が容易だった85mm砲型が、全編にわたり「RUDY」号を演じている。 : なお、この作品で主人公の乗車する「RUDY」号として、車体と[[砲塔]]の各所を切り開いたカットモデルも撮影用に使われており、現在もポーランドの博物館に現存している<ref group="注釈">[[:File:Rudy_102_RB1.JPG]]</ref>。 : また、[[ティーガーI]]重戦車に改造されたものが主に第3話で用いられる。この改造ティーガーは[[ツィンメリット・コーティング]]が施されている他、車体側面のフェンダー(泥除け)を下方へ垂れる形状にアレンジして転輪を大部分隠しているので、T-34の改造だということが一見では判りづらいものとなっている(第3シリーズには改造の程度が小規模(85であることがはっきりと判るもの)も登場している)。第1シリーズには[[V号戦車パンター|パンター]]中戦車に改造されたものも登場する。 ; 『[[アントマン]]』 : 縮小した85をハンクがキーチェーンで携帯していた。クライマックスで、ピム親娘が拡大させて搭乗し、爆薬の爆破時間が迫るピム・テック本社屋から脱出する。 ; 『[[サンチャゴに雨が降る]]<ref group="注釈">日本での初ビデオソフト化時のタイトルは『特攻要塞都市』</ref>』 : [[チリ・クーデター]]を題材とした[[フランス]]・[[ブルガリア]]合作映画。ロケ地の[[ブルガリア軍]]の車両を[[チリの軍事|チリ軍]]の装備していた[[M41軽戦車]]に似せて改造した車両が登場。 : 戦闘シーンのフィルムは[[松竹]]映画『[[皇帝のいない八月]]』にも流用されている。 ; 『[[戦争のはらわた]]』 : ソ連軍戦車として85が登場。ロケ地の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#ユーゴスラビア人民軍|ユーゴスラビア軍]]所属の戦後製車両である。 ; 『[[地下水道 (映画)|地下水道]]』 : ポーランド映画。外観を改装されドイツ軍戦車として登場。作中の台詞では「タイガー戦車」と呼ばれている。 ; 『[[ナバロンの嵐]]』 : ドイツ軍戦車として登場。『戦争のはらわた』と同じく、ロケ地のユーゴスラビア軍の車両である。 ; 『[[橋 (1959年の西ドイツ映画)|橋]]』 : 外観を改装され「[[M4中戦車|M4 シャーマン]]」として登場。 ; 『[[:zh:紫日|紫日]]』 : [[ソ連対日参戦|満州侵攻]]を舞台とした[[中国映画]]。58式戦車II型がソ連軍の85として登場。 ===== ソ連・ロシア映画 ===== ;『[[T-34 ナチスが恐れた最強戦車]]』 :主任設計者の[[ミハイル・コーシュキン]]を主人公にした作品。 ;『[[T-34 レジェンド・オブ・ウォー]]』 : 冒頭に主人公らが駆る76が一両登場。多数のドイツ戦車相手に奮戦するが戦闘不能となり、主人公らもドイツ軍の捕虜となる。その後、捕虜となった主人公らがドイツ軍の鹵獲した85に乗せられ、ドイツ軍の戦車演習の標的役となる中で、85とともに収容所を脱出。演習相手だった士官候補生車両や、主人公らを追撃するドイツの[[V号戦車パンター]]を撃破する活躍を見せる。 ; 『[[鬼戦車T-34]]』 : 76が登場。フィルム流用の関係上、カットによっては85が登場する。 ; 『[[ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火]]』 : 76および85が登場。 ; 『モスクワ大攻防戦』 : 76が登場。1940年型および1941年型が登場するが、これらは85、それも戦後型の生産車の車体の砲塔だけを換装したもので、本来の1940/1941年型の車両とは車体の各所が異なっている。また、T-34を大改造したBT-5も登場している。 ; 『[[ヨーロッパの解放]]』 : 76および85が登場。なお、[[クルスクの戦い]]のシーンに85が大挙登場しているが、歴史考証的には誤りである。 これらの作品以外にもT-34の登場する映像作品は多い。 === ゲーム === ; 『[[ARMA 2]]』 : [[ゲリラ]]陣営の戦闘車両の1つとして登場し、プレイヤーや[[人工知能|AI]]が操作可能。 ; 『[[War Thunder]]』 : ソ連陸軍中戦車ツリーに登場。通常ツリーにT-34-76は1940年型, 1941年型及びその装甲強化型のT-34 STZ・1942年型・T-34-85(D-5T)・T-34-85・T-34-57(1941)、プレミア車両に、試作型・T-34E・T-34-57(1942)・T-34-85E(スペースドアーマ一として金網を取り付けたもの)・T-34-100などが実装されている。ドイツ陸軍プレミアム車両にT-34 747(r)として42年型の装甲強化型に車長用キューポラを付けたものが購入可能。中国陸軍通常ツリーにT-34(1943)・T-34-85 Gai([[DShK38重機関銃|12.7mmDshk重機関銃]]をキューポラに取り付けたもの)・T-34-85(S-53)・対空戦車としてT-34の車体を使用したType 65 SPAAがプレミアム車両にT-34-85(No.215)が購入可能。開発または購入することでプレイヤーが操作可能になる。 ; 『[[World of Tanks]]』 : ソ連中戦車としてT-34・T-34-85のほか、派生車両のA-43・[[T-43 (戦車)|T-43]]、ソ連軽戦車として原型車両のA-20が開発可能。開発することで使用できる。他に「Rudy」(前記『Czterej pancerni i pies』参照)・ソ連中戦車T-34-85M(装甲強化型)が販売されており、購入することで使用できる。 : このほかに[[人民解放軍陸軍|中国]]中戦車としてType T-34・Type 58(前記58式戦車参照)、[[チェコスロバキア]]中戦車としてKonŠtrukta T-34/100が開発可能で、こちらも開発することで使用できる。 <!-- ゲーム内では、中国Type T-34は、デフォルトで赤星をつけているので、共産党の軍隊の車両と位置付けられていることは間違いありません。Type 58にいたっては、中華人民共和国がライセンス生産した車両です。--> ; 『[[グランド・セフト・オートV]]』 : 85がオブジェクトとして登場。スクラップ置き場に置かれている。オブジェクトなので操縦は出来ず、外観も全体的に錆びている。 ; 『[[コール オブ デューティシリーズ]]』 :; 『[[コール オブ デューティ|CoD]]』 :: ソ連軍の戦車として登場。一部ステージではプレイヤーも操縦できる。 :; 『[[コール オブ デューティ:ユナイテッド オフェンシブ|CoD:UO]]』 :: ソ連軍の戦車として85が多数登場する。 :; 『[[コール オブ デューティ ファイネストアワー|CoD:FH]]』 :: ソ連軍の主人公ニコライが搭乗。[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]でドイツ軍と戦火を交える。 :; 『[[コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー|CoD:WaW]]』 :: ソ連軍が使用。85が登場。プレイヤーも1つのミッションで操縦可能だが、機銃ではなく火炎放射器搭載のため、厳密にはOT-34-85と思われる。 ; 『[[大戦略シリーズ]]』 : 85が登場。 ; 『[[トータル・タンク・シミュレーター]]』 : 1941年型が中戦車T-34として、85が改中戦車T-34-85として登場。 ; 『[[トロピコ5]]』 ; 『[[バトルフィールド1942]]』 : ソ連軍の中戦車として85が、重戦車として76が登場する。何故か性能が76と85で入れ替わっている他、車載機銃として[[グロスフスMG42機関銃|MG42]]が搭載されている。 ; 『[[パンツァーフロント]]』 : 76および85が登場。76は1941型と1942型がそれぞれ登場。また、架空の車両としてT-34をベースに122mm砲を搭載した駆逐戦車SU-122Sが登場する([[SU-122 (自走砲)|SU-122]]とは別物)。 :; 『[[パンツァーフロント#PANZER FRONT Ausf.B|パンツァーフロント Ausf.B]]』 :: 76が登場。フランス戦線と[[北アフリカ戦線]]が舞台の作品なので、おまけとしての意味合いが強い。 ; 『[[GUILD SERIES#虫けら戦車|虫けら戦車]]』 : 76および85が登場し、アリほどの大きさになったドイツ軍のプレイヤーがフィールド上に落ちている車両を見つけることで使用可能になる。85の解説では前述の映画『鬼戦車T-34』を意識したと思われる解説がされている(ただ、前述の通り『鬼戦車T-34』に85はフィルム流用で登場するだけで主役は76である)。 : また、小さくなった[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]は76を装備している。 ; 『[[メダル・オブ・オナー ヨーロッパ強襲]]』 : ソ連軍兵器として登場。 ; 『[[メタルサーガニューフロンティア]]』 : プレイヤーの搭乗戦車の1台として登場。 === 小説 === ; 『[[:pl:Czterej pancerni i pies (powieść)|{{lang|pl|Czterej pancerni i pies}}]]』(『四人の戦車兵と一匹の犬』) : ソ連軍に志願し、[[ポーランド軍]][[大佐]]などの経歴を持つポーランドの作家、[[:pl:Janusz Przymanowski|{{lang|pl|Janusz Przymanowski}}]]による小説で、同名のテレビ映画シリーズの原作。T-34の102号車「[[:pl:Rudy (czołg)|{{lang|pl|Rudy}}]]」号に搭乗するポーランド人戦車兵らが主要登場人物。 ; 『[[鏖殺の凶鳥]]』(文庫名:『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』) : ソ連軍の戦車として85が登場。ドイツ領内に墜落した[[空飛ぶ円盤|国籍不明機]]の回収に派遣された[[武装親衛隊]]のティーゲル戦闘団と遭遇・交戦し、多数が撃破される。さらに米軍の[[B-17 (航空機)|B-17]]による不明機への爆撃に巻き込まれたり、不明機からの攻撃で多大な被害を出す。序盤でも主人公を含むドイツ国防軍と交戦し、主人公側勢力に多大な損害を与えつつも、被害が大きかったため撤退している。 ; 『[[砧大蔵#作品リスト|機動要塞「大和」]]』 : [[第二次世界大戦]]時に[[タイムトラベル|タイムスリップ]]した現代の[[日本列島]]の[[北海道]]に上陸したり、[[関東軍]]攻撃のため[[満州]]に派遣される。 ; 『[[征途]]』 : 戦後日本が[[分断国家]]になった世界で、ソ連から[[東側諸国|東側陣営]]の日本民主主義人民共和国(北日本)に供与された85が人民赤軍戦車として登場。1950年代の北海道戦争にて、[[西側諸国|西側陣営]]の日本国(南日本)[[警察予備隊]]の[[M4中戦車|M4A3E8シャーマン・イージー・エイト特車]]と交戦する。 ; 『[[ねじまき鳥クロニクル]]』 : 第3部「鳥刺し男編」にて、登場人物の1人の間宮徳太郎により言及される。 === アニメ・漫画 === <!--ちらっと写ってても何でもかんでも追記するのはやめてください。--> ; 『[[滝沢聖峰#漫画|ウクライナ混成旅団]]』 : 単行本「幻の豹 The Panther in Ukraina 1950」または「独立戦車隊」収録作品。[[ラーゲリ]]に3両配備されており、[[ウクライナ蜂起軍|UPA]]の[[暴動]]の際に出撃するが、1両は[[火炎瓶]]による攻撃で無力化され、残る2両は[[V号戦車パンター]]の攻撃を受けて撃破される。 : その後、V号戦車を丘まで5両で追撃するが、返り討ちに合い、全車撃破される。 ; 『[[ガールズ&パンツァー]]』 : TVアニメ版、[[ガールズ&パンツァー 劇場版|劇場版]]、劇場版最終章、漫画(プラウダ戦記)にプラウダ高校の主力戦車として76 1942年型と85が登場。85はカチューシャとクラーラが乗車している。プラウダ戦記ではT-34-Tも保有している。 ; 『[[旭日の艦隊]]』『[[紺碧の艦隊]]』 : 後世世界に登場。コミック版では[[インド]]派遣の[[イギリス軍]]として登場。コミック版・[[OVA]]版では[[タンクデサント|跨乗兵]]を乗せた状態でドイツ戦車に破壊されるほか、[[ティーガーII]]への零距離射撃を行うも弾かれてしまう。 ; 『[[銀河英雄伝説#アニメ版|銀河英雄伝説]]』 : 作中の「歴史資料」の映像に85が登場する。 ; 『[[ココロ図書館]]』 : アニメ版第11話に敵軍戦車隊として2両が登場。 ; 『[[宮崎駿の雑想ノート]]』シリーズ : 『豚の虎』で76、『ハンスの帰還』で85、『泥まみれの虎』で76と85が登場。 ; 『[[みりたり!]]』 : メインキャラの1人、ルトガルニコフの愛車として登場。大きくデフォルメされて描かれているため特徴がわかりづらいが、設定上は85とされている。 ; [[小林源文]]作品 : 代表作『パンツァーフォー!』『[[黒騎士物語]]』他、[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]が舞台の作品には必ず登場している。『[[オメガ7]]』でも[[セルビア]]勢力のものらしき85が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *『[[月刊グランドパワー]]』 1995年6月号、1997年9月号([[デルタ出版]])、2004年11月号、2004年12月号([[ガリレオ出版]]) *「T-34/76中戦車 1941-1945」「T-35/85中戦車 1944-1994」([[スティーブン・ザロガ]]+[[ジム・キニア]]/著 [[大日本絵画]]) *"Я дрался на Т-34"(『私はT-34で戦った』 [[アルチョーム・ドラプキン]]/編)日本語訳のあるサイト [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/tankist.html] *ウェブサイト"RUSSIAN BATTLEFIELD" [http://www.iremember.ru/] *ウェブサイト"T-34 maniacs" [http://homepage3.nifty.com/tsaoki/maniacs/t34/index2.htm] * {{wikicite | id= | reference= Drousiotis, Makarios (2006). ''Cyprus 1974: The Greek coup and the Turkish invasion''. Bibliopolis. ISBN 3-933925-76-2. }} * {{wikicite | id= Harrison-2002 | reference= Harrison, Mark (2002). ''Accounting for War: Soviet Production, Employment, and the Defence Burden, 1940–1945'', Cambridge University Press. ISBN 0-521-89424-7. }} * {{wikicite | id= Russian_Battlefield-1998b | reference= Russian Battlefield (1998b). [http://www.battlefield.ru/index.php?option=com_content&task=view&id=87&Itemid=50&lang=en “T-34-85: Development History”] ''The Russian Battlefield'', URL accessed on December 27, 2005. }} * {{wikicite | id= Sewell-1998 | reference= Sewell, Stephen ‘Cookie’ (1998). [http://www.knox.army.mil/center/ocoa/ArmorMag/ja98/4sewell98.pdf “Why Three Tanks?”] in ''Armor'' vol. 108, no. 4, p. 21. Fort Knox, KY: US Army Armor Center. ISSN 0004-2420. — describes the politics surrounding the introduction of the T-34 (PDF format) }} * {{wikicite | id= Perrett-1987 | reference= Perrett, Bryan (1987). ''Soviet Armour Since 1945'', London: Blandford. ISBN 0-7137-1735-1. }} * {{wikicite | id= Perrett-1999 | reference= Perrett, Bryan and Jim Laurier (1999). ''Panzerkampfwagen IV Medium Tank, 1936–45'' (New Vanguard 28). Oxford: Osprey Publishing. ISBN 1-85532-843-7. }} * {{wikicite | id= Von_Mellenthin-1956 | reference= [[Friedrich von Mellenthin|Von Mellenthin, Major General F. W.]] (1956). ''Panzer Battles: A Study of the Employment of Armor in the Second World War'', First Ballantine Books Edition, 1971. New York: Ballantine Books. ISBN 0-345-24440-0. }} * {{wikicite | id= Zaloga-1983 | reference= [[Steven Zaloga|Zaloga, Steven J.]], James Grandsen (1983). ''T-34 in Action'', Carrollton, Texas: Squadron/Signal. ISBN 0-89747-112-1. ? includes many photographs and drawings demonstrating the detailed differences between T-34 models }} * {{wikicite | id= Zaloga-1984 | reference= Zaloga, Steven J., James Grandsen (1984). ''Soviet Tanks and Combat Vehicles of World War Two'', London: Arms and Armour Press. ISBN 0-85368-606-8. }} * {{wikicite | id= Zaloga-1994 | reference= Zaloga, Steven J., Peter Sarson (1994). ''T-34 Medium Tank 1941?45'', Oxford: Osprey Publishing. ISBN 1-85532-382-6. }} * {{wikicite | id= Zaloga-1996 | reference= Zaloga, Steven J., Jim Kinnear (1996). ''T-34-85 Medium Tank 1944–94'', Oxford: Osprey Publishing. ISBN 1-85532-535-7. }} * {{wikicite | id= Zaloga-1997 | reference= Zaloga, Steven J., Jim Kinnear, Andrey Aksenov & Aleksandr Koshchavtsev (1997). ''Soviet Tanks in Combat 1941–45: The T-28, T-34, T-34-85, and T-44 Medium Tanks'', Hong Kong: Concord Publication. ISBN 962-361-615-5. }} * {{wikicite | id= Zheltov-1999 | reference= Zheltov, I., M. Pavlov, I. Pavlov (1999). “Tanki BT. chast 3. Kolyosno-gusenychny tank BT-7” (“BT Tanks, part 3: BT-7 wheeled/tracked tank”), in ''Armada'' no. 17, p.13. Moscow. }} * {{wikicite | id= Zheltov-2001 | reference= Zheltov, I., M. Pavlov, I. Pavlov (2001). ''Neizvestnyy T-34'' (''The Unknown T-34''). Moscow: Eksprint. ISBN 5-94038-013-1 }} * {{cite book |洋書|last =Zaloga|first= Steven |year=2015|title=Armored Champion: The Top Tanks of World War II |location=Mechanicsburg, PA |publisher=Stackpole Books|isbn=978-0-8117-1437-2|ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2015}} }} == 関連項目 == * [[戦車一覧]] * [[T-24 (戦車)]] - T-34以前のソ連製単砲塔中戦車 * [[ミハイル・コーシュキン]] - T-34の設計者 == 外部リンク == {{Commons|Category:T-34 tanks|T-34全般}} {{Commons|T-34|T-34-76/T-34-85}} * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/tankist.html |title=ソ連軍戦車兵の回想 |date=20051124061214}} :T-34の技術的側面についての記述、T-34搭乗戦車兵の体験記など。 * {{YouTube|CUzSetbZ7xE|T-34}}革命後~第2次世界大戦終了までT-34の開発と活動動画 {{第二次世界大戦のソ連の装甲戦闘車両}} {{インドの装甲戦闘車両}} {{中華人民共和国の装甲戦闘車両}} {{朝鮮民主主義人民共和国の装甲戦闘車両}} {{第二次世界大戦後のドイツの装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:T-34-85}} [[Category:ソ連の戦車|T-034]] [[Category:中戦車]] __インデックス__ __新しい節リンク__
2003-09-08T11:31:10Z
2023-12-09T06:26:33Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:-", "Template:Commons", "Template:第二次世界大戦のソ連の装甲戦闘車両", "Template:Normdaten", "Template:Lang", "Template:Col", "Template:混同", "Template:CUB", "Template:YouTube", "Template:Wikicite", "Template:Cite book", "Template:要出典", "Template:Cite news", "Template:Harvnb", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Wayback", "Template:インドの装甲戦闘車両", "Template:Otheruses", "Template:Ru", "Template:Small", "Template:戦車", "Template:Main", "Template:中華人民共和国の装甲戦闘車両", "Template:脚注ヘルプ", "Template:朝鮮民主主義人民共和国の装甲戦闘車両", "Template:第二次世界大戦後のドイツの装甲戦闘車両" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-34
15,769
国鉄207系電車
国鉄207系電車(こくてつ207けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1986年(昭和61年)に製造した直流通勤形電車。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に伴い、全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。 国鉄では1984年(昭和59年)から北陸新幹線での本格採用を目標としたVVVFインバータ制御の研究を進め、101系を改造して試験を行いデータを取得した。次の段階として、量産に向けその結果を反映した車両を新規に製造することとなり、投入路線としては常磐緩行線が選定された。 常磐緩行線は帝都高速度交通営団(営団、現・東京地下鉄)千代田線との相互直通運転を行っており、協定を満たす高い加減速性能と、車両使用料の関係から営団車両と同等の省エネルギー性能が要求される路線であり、また同線にはすでに103系1000番台に代わって電機子チョッパ制御を採用した203系が投入されていたことから、性能の比較検討もできるので投入するに適当であるとされ、1986年11月1日国鉄ダイヤ改正での同線の所要車両数の増加に合わせて製造・投入された。製造後は同線および千代田線の営業運転にて運用し、経過を見ることにした。 この経緯から、試作車900番台の10両編成1本が投入された。 当時製造中の205系に準じたステンレス製軽量車体としている。地下鉄対策で前面中央部に非常用貫通扉を設け、各部の装備品がA-A基準に対応したものとなっており、側面も電動車の電動機冷却風取り入れ用の通風口がないなど、205系と異なる点がある。 203系などと同様、登場当時は先頭車の前面右上と各車の側面幕板部(片面につき2箇所)にJNRマークを掲出していたが、分割民営化時に前面はJRマークに差し替えられ、側面は消去されて両先頭車のみ別の位置にJRマークが掲出されている。また、前面の運行番号表示器は当初は巻き取り式であったが、2004年ごろにLED式に改造されている。 室内はクリーム色系の内装板、床敷物は薄茶色と205系のほぼそのままの内装カラーを踏襲している。 座席はロングシートで、205系に準じた構造である。座席モケットも新造時は205系と同様に7人掛けの中央1人分が薄茶色で、他は茶色であったが、203系と同様に後年1人ごとの着座位置を示す印が入った青色ベースのものに取り替えている。 乗務員室背面仕切壁は、203系ではATC装置などの機器スペースとしていたが、本系列では205系同様にこれらを床下艤装としたため、仕切壁には窓が設けられた。 台車は、205系が採用しているものと同等の軽量ボルスタレス台車DT50E(電動車)とTR235F(制御車・付随車)が採用されている。 後述するが、性能比較のため、別々のメーカーのインバータ装置(SC20形)を搭載したが、本系列のインバータユニットは東芝、ゲート制御部については日立製作所が設計を担当するOEM方式を採用している。このため、磁励音は製造メーカーが違うものであってもほぼ同一であり、また日立製作所製のものをベースとしていることから、先に登場した東急9000系に類似している。インバータ装置の使用素子はGTOサイリスタ(4,500V-2,000A)である。 各電動車はモハ207形(M1車)とモハ206形(M2車)で2両ペアとなっているが、各車毎に制御装置とインバータ装置を搭載している(1C4M制御)。ただし、パンタグラフとフィルタ装置はM1車に集約搭載している。 富士電機製の制御装置は、在来線での以後の採用例は209系900番台(製造当初はパワートランジスタを採用。2001年のD-ATC導入に伴い三菱電機製GTOに交換)や山陽電気鉄道5030系(富士電機製IGBT)など、一部に限られている。MT63形主電動機の基本性能は定格出力150kW(端子電圧1,100V、電流100A、定格回転数2,200rpm、すべり率2.5%)で統一されている。1時間定格速度は48.0km/hである。駆動装置は国鉄の車両としては唯一、TD平行カルダン駆動方式が採用されている。 VVVFインバータ制御は203系の電機子チョッパ制御よりも高い加減速性能を発揮することが可能だが、常磐緩行線で電動車比率を下げても問題ないとの結論は出せず、電動車 (M) と付随車 (T) の比率(MT比)は203系と同一の6M4Tとされた。 ブレーキ装置は205系と同等の回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキだが、本番台区分ではVVVF車の特性を生かし、遅れ込め制御を採用している。 東京支社松戸車両センター(東マト)71編成 1986年11月上旬に川崎重工業において6両編成で落成し、山陽本線、東海道本線で試運転を行った。数日後、関東へ回送して東急車輛製造に入場し、中間車4両を組み込んで約1か月半もの期間、各路線で試運転を継続した。各種試験終了後の同年12月29日から営業運転に入った。 1本のみが試験的に製造され、営業運転をしながらの試験が続けられたが、悪天候時は空転が多いなどの欠点がある上に、製造コストが203系より高く、常磐緩行線における必要編成数も既に充足していたことから、製造は1編成のみに留まった。 1980年代後半の時点ではVVVFインバータ制御の車両は製造費が非常に高価であり、当時山手線で運用されていた205系10両編成 (6M4T) 並みのコストにするには4M6Tまで電動車比率を下げなければならなかったが、比率を下げると営団との乗り入れ協定において要求される加速性能を満たせなくなる。このコストと性能の問題点は、国鉄→JR東日本だけでなく乗り入れ先の営団にも影響を与えた。営団はインバータ制御を用いた車両の導入を検討していたが、電機子チョッパ制御や独自に開発した改良型の高周波分巻チョッパ制御を用いて6000系などを追加新製している。 本系列以降、常磐緩行線と千代田線の直通運用にVVVFインバータ車が新規導入されたのは、営団は1993年(平成5年)の06系、JR東日本では1999年(平成11年)の209系1000番台となる。 その後、常磐緩行線には2008年(平成20年)に千代田線直通用のE233系2000番台が新製されることが発表され、翌2009年(平成21年)5月に第1編成が落成した。 これにより、203系とともに本系列は置き換えられる事となり、同年9月上旬までに定期営業運転から離脱する予定と報道された。その後、同年12月5日にさよなら運転を実施することが報道された。当日は「ありがとう 207系 松戸車両センター 2009.12.5」と表記された三角形のヘッドマークが両先頭車貫通扉部分に装着され、団体専用列車として常磐緩行線松戸 - 取手間を1往復し、その後松戸車両センター内において当該列車の乗客を対象とした車両撮影会が実施された。 2010年1月5日に長野総合車両センターへ配給輸送され、翌6日付で廃車された。 西日本旅客鉄道(JR西日本)が1991年(平成3年)から2003年(平成15年)にかけて導入した同名の207系は、4ドアのVVVFインバータ制御車であることを除き設計が大きく異なるものの、『鉄道ファン』や『鉄道ゼミナール』等の鉄道趣味媒体では同系列として扱われている。これは、国鉄時代の形式を継承しつつも民営化後にJR西日本が別設計で導入した183系や211系、415系と同様のケースであった。 このため、『鉄道ファン』で毎年特集が組まれる「JR車両ファイル」では2021年4月1日現在の残存率が4800%となっている。 なお、JR西日本の207系には900番台が存在しないため、車両番号の重複は発生していない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国鉄207系電車(こくてつ207けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1986年(昭和61年)に製造した直流通勤形電車。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に伴い、全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国鉄では1984年(昭和59年)から北陸新幹線での本格採用を目標としたVVVFインバータ制御の研究を進め、101系を改造して試験を行いデータを取得した。次の段階として、量産に向けその結果を反映した車両を新規に製造することとなり、投入路線としては常磐緩行線が選定された。", "title": "投入の経緯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "常磐緩行線は帝都高速度交通営団(営団、現・東京地下鉄)千代田線との相互直通運転を行っており、協定を満たす高い加減速性能と、車両使用料の関係から営団車両と同等の省エネルギー性能が要求される路線であり、また同線にはすでに103系1000番台に代わって電機子チョッパ制御を採用した203系が投入されていたことから、性能の比較検討もできるので投入するに適当であるとされ、1986年11月1日国鉄ダイヤ改正での同線の所要車両数の増加に合わせて製造・投入された。製造後は同線および千代田線の営業運転にて運用し、経過を見ることにした。", "title": "投入の経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この経緯から、試作車900番台の10両編成1本が投入された。", "title": "投入の経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当時製造中の205系に準じたステンレス製軽量車体としている。地下鉄対策で前面中央部に非常用貫通扉を設け、各部の装備品がA-A基準に対応したものとなっており、側面も電動車の電動機冷却風取り入れ用の通風口がないなど、205系と異なる点がある。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "203系などと同様、登場当時は先頭車の前面右上と各車の側面幕板部(片面につき2箇所)にJNRマークを掲出していたが、分割民営化時に前面はJRマークに差し替えられ、側面は消去されて両先頭車のみ別の位置にJRマークが掲出されている。また、前面の運行番号表示器は当初は巻き取り式であったが、2004年ごろにLED式に改造されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "室内はクリーム色系の内装板、床敷物は薄茶色と205系のほぼそのままの内装カラーを踏襲している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "座席はロングシートで、205系に準じた構造である。座席モケットも新造時は205系と同様に7人掛けの中央1人分が薄茶色で、他は茶色であったが、203系と同様に後年1人ごとの着座位置を示す印が入った青色ベースのものに取り替えている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "乗務員室背面仕切壁は、203系ではATC装置などの機器スペースとしていたが、本系列では205系同様にこれらを床下艤装としたため、仕切壁には窓が設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "台車は、205系が採用しているものと同等の軽量ボルスタレス台車DT50E(電動車)とTR235F(制御車・付随車)が採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "後述するが、性能比較のため、別々のメーカーのインバータ装置(SC20形)を搭載したが、本系列のインバータユニットは東芝、ゲート制御部については日立製作所が設計を担当するOEM方式を採用している。このため、磁励音は製造メーカーが違うものであってもほぼ同一であり、また日立製作所製のものをベースとしていることから、先に登場した東急9000系に類似している。インバータ装置の使用素子はGTOサイリスタ(4,500V-2,000A)である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "各電動車はモハ207形(M1車)とモハ206形(M2車)で2両ペアとなっているが、各車毎に制御装置とインバータ装置を搭載している(1C4M制御)。ただし、パンタグラフとフィルタ装置はM1車に集約搭載している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "富士電機製の制御装置は、在来線での以後の採用例は209系900番台(製造当初はパワートランジスタを採用。2001年のD-ATC導入に伴い三菱電機製GTOに交換)や山陽電気鉄道5030系(富士電機製IGBT)など、一部に限られている。MT63形主電動機の基本性能は定格出力150kW(端子電圧1,100V、電流100A、定格回転数2,200rpm、すべり率2.5%)で統一されている。1時間定格速度は48.0km/hである。駆動装置は国鉄の車両としては唯一、TD平行カルダン駆動方式が採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "VVVFインバータ制御は203系の電機子チョッパ制御よりも高い加減速性能を発揮することが可能だが、常磐緩行線で電動車比率を下げても問題ないとの結論は出せず、電動車 (M) と付随車 (T) の比率(MT比)は203系と同一の6M4Tとされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ブレーキ装置は205系と同等の回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキだが、本番台区分ではVVVF車の特性を生かし、遅れ込め制御を採用している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東京支社松戸車両センター(東マト)71編成", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1986年11月上旬に川崎重工業において6両編成で落成し、山陽本線、東海道本線で試運転を行った。数日後、関東へ回送して東急車輛製造に入場し、中間車4両を組み込んで約1か月半もの期間、各路線で試運転を継続した。各種試験終了後の同年12月29日から営業運転に入った。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1本のみが試験的に製造され、営業運転をしながらの試験が続けられたが、悪天候時は空転が多いなどの欠点がある上に、製造コストが203系より高く、常磐緩行線における必要編成数も既に充足していたことから、製造は1編成のみに留まった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1980年代後半の時点ではVVVFインバータ制御の車両は製造費が非常に高価であり、当時山手線で運用されていた205系10両編成 (6M4T) 並みのコストにするには4M6Tまで電動車比率を下げなければならなかったが、比率を下げると営団との乗り入れ協定において要求される加速性能を満たせなくなる。このコストと性能の問題点は、国鉄→JR東日本だけでなく乗り入れ先の営団にも影響を与えた。営団はインバータ制御を用いた車両の導入を検討していたが、電機子チョッパ制御や独自に開発した改良型の高周波分巻チョッパ制御を用いて6000系などを追加新製している。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "本系列以降、常磐緩行線と千代田線の直通運用にVVVFインバータ車が新規導入されたのは、営団は1993年(平成5年)の06系、JR東日本では1999年(平成11年)の209系1000番台となる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、常磐緩行線には2008年(平成20年)に千代田線直通用のE233系2000番台が新製されることが発表され、翌2009年(平成21年)5月に第1編成が落成した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これにより、203系とともに本系列は置き換えられる事となり、同年9月上旬までに定期営業運転から離脱する予定と報道された。その後、同年12月5日にさよなら運転を実施することが報道された。当日は「ありがとう 207系 松戸車両センター 2009.12.5」と表記された三角形のヘッドマークが両先頭車貫通扉部分に装着され、団体専用列車として常磐緩行線松戸 - 取手間を1往復し、その後松戸車両センター内において当該列車の乗客を対象とした車両撮影会が実施された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年1月5日に長野総合車両センターへ配給輸送され、翌6日付で廃車された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西日本旅客鉄道(JR西日本)が1991年(平成3年)から2003年(平成15年)にかけて導入した同名の207系は、4ドアのVVVFインバータ制御車であることを除き設計が大きく異なるものの、『鉄道ファン』や『鉄道ゼミナール』等の鉄道趣味媒体では同系列として扱われている。これは、国鉄時代の形式を継承しつつも民営化後にJR西日本が別設計で導入した183系や211系、415系と同様のケースであった。", "title": "JR西日本の207系との関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このため、『鉄道ファン』で毎年特集が組まれる「JR車両ファイル」では2021年4月1日現在の残存率が4800%となっている。", "title": "JR西日本の207系との関係" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、JR西日本の207系には900番台が存在しないため、車両番号の重複は発生していない。", "title": "JR西日本の207系との関係" } ]
国鉄207系電車(こくてつ207けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1986年(昭和61年)に製造した直流通勤形電車。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に伴い、全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。
{{otheruses||西日本旅客鉄道(JR西日本)が導入した207系|JR西日本207系電車}} {{鉄道車両 | 車両名 = 国鉄207系電車 | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = JNR-207-EMU.jpg | 画像説明 = 207系900番台<br />(2006年5月29日 [[松戸駅]]) | 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[東日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]<small>(1・5・6・8・9・10号車)</small><br />[[東急車輛製造]]<small>(2・3・4・7号車)</small> | 製造年 = 1986年 | 製造数 = 1編成10両 | 運用開始 = 1986年11月29日 | 引退 = 2009年12月5日 | 廃車 = 2010年1月6日 | 投入先 = [[常磐緩行線]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]]直通) | 編成 = 10両編成 | 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]]) | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V<br />([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 90 km/h(常磐緩行線)<br />80 km/h(千代田線) | 設計最高速度 = 100 km/h<ref name="Fan1987-1"/> | 起動加速度 = 3.3 km/h/s<ref name="Fan1987-1">交友社「鉄道ファン」1987年1月号新車ガイド2「VVVFインバータ国電207系デビュー」207系主要諸元50頁記事。</ref> | 常用減速度 = 3.7 km/h/s<ref name="Fan1987-1"/> | 非常減速度 = 4.7 km/h/s<ref name="Fan1987-1"/> | 編成定員 = 座席528・立席896(計) | 車両定員 = 先頭車: 座席48・立席88<br />中間車: 座席54・立席90 | 自重 = クハ207形: 25.9 t<br />モハ207形: 32.5 t<br />モハ206形: 34.5 t<br />サハ207形: 23.6 t<br />クハ206形: 25.8 t | 編成重量 = 299.9 t | 全長 = 20,000 mm | 全幅 = | 全高 = 4,140 mm | 車体長 = 19,500 mm | 車体幅 = 2,800 mm | 車体高 = | 車体材質 = [[ステンレス鋼]] | 台車 = 円錐積層ゴム式ボルスタレス台車<br />DT50E・TR235F | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />MT63 | 主電動機出力 = 150 kW × 4基 | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 99:14 (7.07) | 編成出力 = 3,600 kW(6M4T) | 制御方式 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = SC20 | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]], [[自動列車制御装置#ATC-10型|ATC-10(新CS-ATC)]] | 備考 = }} '''国鉄207系電車'''(こくてつ207けいでんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[1986年]]([[昭和]]61年)に製造した[[直流電化|直流]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]に伴い、全車が[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)に承継された。 == 投入の経緯 == 国鉄では[[1984年]](昭和59年)から[[北陸新幹線]]での本格採用を目標とした[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の研究を進め、[[国鉄101系電車|101系]]を改造して試験を行いデータを取得した。次の段階として、量産に向けその結果を反映した車両を新規に製造することとなり、投入路線としては[[常磐緩行線]]が選定された。 常磐緩行線は[[帝都高速度交通営団]](営団、現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]との[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、協定を満たす高い加減速性能と、車両使用料の関係から営団車両と同等の[[省エネルギー]]性能が要求される路線であり、また同線にはすでに[[国鉄103系電車#1000番台|103系1000番台]]に代わって[[電機子チョッパ制御]]を採用した[[国鉄203系電車|203系]]が投入されていたことから、性能の比較検討もできるので投入するに適当であるとされ、[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]での同線の所要車両数の増加に合わせて製造・投入された。製造後は同線および千代田線の営業運転にて運用し、経過を見ることにした。 この経緯から、[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車]]900番台の10両編成1本が投入された。 == 車両概説 == === 車体 === 当時製造中の[[国鉄205系電車|205系]]に準じた[[ステンレス鋼|ステンレス]]製軽量車体としている。[[地下鉄等旅客車|地下鉄対策]]で前面中央部に非常用[[貫通扉]]を設け、各部の装備品がA-A基準に対応したものとなっており、側面も電動車の電動機冷却風取り入れ用の通風口がないなど、205系と異なる点がある。 203系などと同様、登場当時は先頭車の前面右上と各車の側面幕板部(片面につき2箇所)にJNRマークを掲出していたが、分割民営化時に前面はJRマークに差し替えられ、側面は消去されて両先頭車のみ別の位置にJRマークが掲出されている。また、前面の[[列車番号|運行番号]]表示器は当初は巻き取り式であったが、2004年ごろに[[発光ダイオード|LED]]式に改造されている。 === 車内設備 === 室内はクリーム色系の内装板、床敷物は薄茶色と205系のほぼそのままの内装カラーを踏襲している。 座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]で、205系に準じた構造である。座席モケットも新造時は205系と同様に7人掛けの中央1人分が薄茶色で、他は茶色であったが、203系と同様に後年1人ごとの着座位置を示す印が入った青色ベースのものに取り替えている。 乗務員室背面仕切壁は、203系ではATC装置などの機器スペースとしていたが、本系列では205系同様にこれらを床下艤装としたため、仕切壁には窓が設けられた。 <gallery> File:JNR207-interior.JPG|207系900番台車内 File:Jre207 crewroom.jpg|乗務員室<br />(2009年8月16日) File:Jre207 cab.jpg|運転台<br />(2009年8月16日) </gallery> === 機器類 === [[鉄道車両の台車|台車]]は、205系が採用しているものと同等の軽量[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]DT50E([[動力車|電動車]])とTR235F([[制御車]]・[[付随車]])が採用されている。 後述するが、性能比較のため、別々のメーカーのインバータ装置(SC20形)を搭載したが、本系列のインバータユニットは[[東芝]]、ゲート制御部については[[日立製作所]]が設計を担当するOEM方式を採用している<ref>レールアンドテック出版「インバータ制御電車 開発の物語」p.77</ref>。このため、[[磁励音]]は製造メーカーが違うものであってもほぼ同一であり、また日立製作所製のものをベースとしていることから、先に登場した[[東急9000系電車|東急9000系]]に類似している。インバータ装置の使用[[半導体素子|素子]]は[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]](4,500V-2,000A)である。 各電動車はモハ207形(M1車)とモハ206形(M2車)で2両ペアとなっているが、各車毎に制御装置とインバータ装置を搭載している(1C4M制御)。ただし、[[集電装置|パンタグラフ]]とフィルタ装置はM1車に集約搭載している。  [[富士電機]]製の制御装置は、在来線での以後の採用例は[[JR東日本209系電車#900番台|209系900番台]](製造当初は[[トランジスタ|パワートランジスタ]]を採用。2001年のD-ATC導入に伴い[[三菱電機]]製GTOに交換)や[[山陽電気鉄道]][[山陽電気鉄道5030系電車|5030系]](富士電機製[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]])など、一部に限られている。MT63形主電動機の基本性能は定格出力150kW(端子電圧1,100V、電流100A、定格回転数2,200rpm、すべり率2.5%)で統一されている。1時間定格速度は48.0km/hである。駆動装置は国鉄の車両としては唯一、[[TD平行カルダン駆動方式]]が採用されている。 {{Sound|JRE Joban line Local moha207-901.ogg|モハ207-901の走行音|2008年4月20日 北柏 - 柏}} VVVFインバータ制御は203系の電機子チョッパ制御よりも高い加減速性能を発揮することが可能だが、常磐緩行線で電動車比率を下げても問題ないとの結論は出せず、電動車 (M) と付随車 (T) の比率([[MT比]])は203系と同一の6M4Tとされた。 ブレーキ装置は205系と同等の[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ]]だが、本番台区分ではVVVF車の特性を生かし、[[遅れ込め制御]]を採用している。 == 編成表 == [[東日本旅客鉄道東京支社|東京支社]][[松戸車両センター]](東マト)71編成 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" |- !style="background-color:#7d9;"|号車 !style="background-color:#7d9;"|形式 !style="background-color:#7d9;"|メーカー !style="background-color:#7d9;"|解説 |- !10 |クハ207-901 (Tc) | rowspan="3"|[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]] |[[取手駅|取手]]方の先頭に連結される制御車。 |- !9 |style="background-color:#dff;"|モハ207-901 (M1) |[[集電装置|パンタグラフ]]・[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) と[[東芝]]製<ref>東芝『東芝レビュー』1987年3月号「国鉄207系VVVF車制御電車用品」p.302。東芝はVVVFインバータ装置、制御装置、主電動機などを納入。</ref>のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ206-901とペアを組む。 |- !8 |style="background-color:#dff;"|モハ206-901 (M2) |[[電動発電機]] (MG) と[[三菱電機]]製<ref name="MITSUBISHI-EL1987-01">三菱電機『三菱電機技報』1987年1月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1987(vol61)/Vol61_01.pdf 日本国有鉄道向け車両用電機品」]}}」p74。</ref>のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ207-901とペアを組む。 |- !7 |サハ207-901 (T1) |[[東急車輛製造]] |付随車。 |- !6 |style="background-color:#dff;"|モハ207-902 (M1) | rowspan="2"|川崎重工業 |パンタグラフ・CPと[[富士電機]]製<ref>富士電機『富士時報』1987年1月号{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/60-01/FEJ-60-01-051-1987.pdf 「日本国有鉄道207系電車用電気機器」]}}p.54。</ref>のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ206-902とペアを組む。 |- !5 |style="background-color:#dff;"|モハ206-902 (M2) |MGと[[日立製作所]]製のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ207-902とペアを組む。 |- !4 |サハ207-902 (T2) | rowspan="3"|東急車輛製造 |付随車。 |- !3 |style="background-color:#dff;"|モハ207-903 (M1) |パンタグラフ・CPと東芝製のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ206-903とペアを組む。 |- !2 |style="background-color:#dff;"|モハ206-903 (M2) |MGと[[東洋電機製造]]製<ref>東洋電機製造『東洋電機技報』第68号(1987年5月)「61年総集編」p.3。東洋電機製造はVVVFインバータ装置、主電動機4台、駆動装置、電動発電機、パンタグラフなどを納入。</ref>のインバータ装置を搭載する中間電動車。モハ207-903とペアを組む。 |- !1 |クハ206-901 (Tc') |川崎重工業 |[[代々木上原駅|代々木上原]]方の先頭に連結される制御車。 |} == 運用 == 1986年11月上旬に川崎重工業において6両編成で落成し、[[山陽本線]]、[[東海道本線]]で[[試運転]]を行った。数日後、関東へ回送して東急車輛製造に入場し、中間車4両を組み込んで約1か月半もの期間、各路線で試運転を継続した。各種試験終了後の同年[[12月29日]]から営業運転に入った<ref>交友社「鉄道ファン」2008年3月号「気になる希少車 207系900番台」。</ref>。 1本のみが試験的に製造され、営業運転をしながらの試験が続けられたが、悪天候時は[[空転]]が多いなどの欠点がある上に、製造コストが203系より高く、常磐緩行線における必要編成数も既に充足していたことから、製造は1編成のみに留まった。 [[1980年代]]後半の時点ではVVVFインバータ制御の車両は製造費が非常に高価であり、当時[[山手線]]で運用されていた205系10両編成 (6M4T) 並みのコストにするには4M6Tまで電動車比率を下げなければならなかったが、比率を下げると営団との乗り入れ協定において要求される加速性能を満たせなくなる。このコストと性能の問題点は、国鉄→JR東日本だけでなく乗り入れ先の営団にも影響を与えた。営団はインバータ制御を用いた車両の導入を検討していたが、[[電機子チョッパ制御]]や独自に開発した改良型の高周波分巻チョッパ制御を用いて[[営団6000系電車|6000系]]などを追加新製している。 本系列以降、常磐緩行線と千代田線の直通運用にVVVFインバータ車が新規導入されたのは、営団は[[1993年]]([[平成]]5年)の[[営団06系電車|06系]]、JR東日本では[[1999年]](平成11年)の209系1000番台となる<ref group="注">一方、同様に千代田線に乗り入れる[[小田急電鉄]]では、[[1988年]]よりインバータ制御車である[[小田急1000形電車|1000形]]を小田原線と千代田線の直通用に製造し、[[1990年]]に直通運用に投入、同年には90両あった自社の直通運用車両([[小田急9000形電車|9000形]])をすべて1000形に置き換えている。</ref>。 その後、常磐緩行線には[[2008年]](平成20年)に千代田線直通用の[[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]]が新製されることが発表され<ref>JR東日本のプレスリリース [http://www.jreast.co.jp/press/2006_2/20070303.pdf]</ref>、翌[[2009年]](平成21年)5月に第1編成が落成した。 これにより、203系とともに本系列は置き換えられる事となり、同年9月上旬までに定期営業運転から離脱する予定と報道された<ref>{{cite news |url = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090530/trd0905301300008-n1.htm |title = E233系がメトロ初登場 たった1両のレア車両207系は引退へ |work = [[MSN|MSN産経ニュース]] |publisher = [[産経新聞社]] |date = 2009-05-30 |accessdate = 2009-05-31 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090602092215/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090530/trd0905301300008-n1.htm |archivedate = 2009年6月2日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/090905/sty0909052002003-n1.htm |title=常磐緩行線E233系、9日導入 |work=[[MSN|MSN産経ニュース]] |publisher=[[産経新聞社]] |date=2009年9月5日 |accessdate=2009-09-07 }}</ref>。その後、同年12月5日に[[さよなら運転]]を実施することが報道された<ref>{{cite news |url = http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/091118/sty0911181637002-n1.htm |title = 来月5日に常磐線「207系」のさよなら運転 |work = [[MSN|MSN産経ニュース]] |publisher = [[産経新聞社]] |date = 2009年11月18日 |accessdate = 2009-11-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20091122222010/http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/091118/sty0911181637002-n1.htm |archivedate = 2009年11月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。当日は「ありがとう 207系 松戸車両センター 2009.12.5」と表記された三角形の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]<ref group="注">新製試運転時に川崎重工業が装着したヘッドマークを模したもの。</ref>が両先頭車貫通扉部分に装着され、[[団体専用列車]]として常磐緩行線松戸 - 取手間を1往復し<ref>{{cite news |url=http://railf.jp/news/2009/12/05/201200.html |title=「ありがとう207系の旅」開催 |work=『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |date=2009年12月5日 |accessdate=2009-12-07 }}</ref>、その後松戸車両センター内において当該列車の乗客を対象とした車両撮影会が実施された<ref>{{cite news |url=http://railf.jp/news/2009/12/05/201300.html |title=「ありがとう207系の旅」ツアーにあわせて松戸車両センターで撮影会 |work=『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |date=2009年12月5日 |accessdate=2009-12-07 }}</ref>。 [[2010年]]1月5日に[[長野総合車両センター]]へ配給輸送され<ref>「[http://railf.jp/news/2010/01/06/194000.html 207系900番台が長野総合車両センターへ]」交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース、2010年1月5日</ref>、翌6日付で廃車された<ref>『鉄道ファン』2010年7月号 JR車両のデータバンク</ref>。 == JR西日本の207系との関係 == [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が[[1991年]](平成3年)から[[2003年]](平成15年)にかけて導入した同名の[[JR西日本207系電車|207系]]は、4ドアのVVVFインバータ制御車であることを除き設計が大きく異なるものの、『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』や『[[鉄道ゼミナール]]』等の鉄道趣味媒体では同系列として扱われている。これは、国鉄時代の形式を継承しつつも民営化後にJR西日本が別設計で導入した[[JR西日本183系電車|183系]]や[[国鉄211系電車#スーパーサルーンゆめじ|211系]]、[[JR西日本415系電車|415系]]と同様のケースであった。 このため、『鉄道ファン』で毎年特集が組まれる「JR車両ファイル」では2021年4月1日現在の残存率が'''4800%'''となっている<ref>{{Cite journal |和書 | journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] | author = | title = 現在も活躍するJR旅客会社の国鉄形車両 | year = 2021 | month = 8 |volume = No.724 | issue = | pages = pp. 64-71 |publisher= [[交友社]] |ref= RF2108 }}</ref>。 なお、JR西日本の207系には900番台が存在しないため、車両番号の重複は発生していない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国鉄205系電車]] - ベースとなった車両。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20150511071505/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2009/12/post_1162.html 編集長敬白アーカイブ「さようなら207系900番台」](インターネットアーカイブ) {{commonscat|JNR 207}} {{国鉄の新性能電車}} {{JR東日本の車両リスト}} {{DEFAULTSORT:こくてつ207けいてんしや}} [[Category:日本国有鉄道の新性能電車|207]] [[Category:東日本旅客鉄道の電車|207]] [[Category:1986年製の鉄道車両]] [[Category:川崎重工業製の電車]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:試作車 (鉄道)]]
2003-09-08T11:42:41Z
2023-12-31T03:40:08Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:国鉄の新性能電車", "Template:JR東日本の車両リスト", "Template:Otheruses", "Template:Sound", "Template:Cite journal", "Template:鉄道車両", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84207%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,771
ダイアー・ストレイツ
ダイアー・ストレイツ(Dire Straits)は、イギリスのロックバンド。1970年代末から90年代初頭に掛けて、ポップシーンにありながらも流行とは一線を画した音楽で世界的な人気を誇ったグループである。1983年に来日。 1976年ロンドンにて結成される。オリジナル・メンバーは、マーク・ノップラー(リードギター&ボーカル)と弟のデヴィッド・ノップラー(リズムギター)、ジョン・イルズリー(ベース)、ピック・ウィザース(ドラム)の4人構成で、当初のグループ名は「カフェ・レーサーズ(Cafe Racers)」。当時、音楽で生計を立てていたのはセッションマンのウィザースのみで、マークは成人教育カレッジの講師、デヴィッドは民生委員、ジョンは大学に通う傍ら銀行に勤めて収入を得て、それをそっくり音楽活動に注ぎ込んでいた。ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」("dire"は「ひどい、無残な、差し迫った」、"strait"は「断崖、苦境、困窮」の意)の名称に落ち着く。ようやく1977年に、ヴァーティゴ・レコードと契約したバンドは、1978年にトーキング・ヘッズのイギリス・ツアーでオープニングアクトを務めた後、マフ・ウィンウッド(元スペンサー・デイヴィス・グループのベーシストで、スティーヴ・ウィンウッドの兄)のプロデュースで、ファースト・アルバムの録音に入った。また、同年にはワーナー・ブラザース・レコードと米国及びカナダの北米地区における契約を得ている。 1978年にファースト・アルバム『悲しきサルタン』をリリースする。ルーツ・ミュージックに独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、当時のトレンドである音楽ジャンルとは異質であり、直ちにチャート・アクションには反映されなかった。しかし、オランダのVPROラジオでファースト・シングルの「悲しきサルタン」がヘヴィー・ローテーションされた頃から風向きが変わりチャートを上昇、その後ヨーロッパとアメリカに飛び火した人気が本国も刺激し、ツアーの効果もあってアルバムは全米で2位、全英で8位を記録し、全世界で1,500万枚を売り上げる。また、ロサンゼルスでダイアー・ストレイツのライヴを観たボブ・ディランは、ノップラーとウィザースをアルバム『スロー・トレイン・カミング』のレコーディング・メンバーに起用した。 1979年にはセカンド・アルバム『コミュニケ』も成功を収めるが、1980年、アルバム『メイキング・ムーヴィーズ』制作中にデヴィッド・ノップラーが脱退し、Eストリート・バンドのロイ・ビタンが代役を務める。その後ハル・リンデスとアラン・クラークが加入し、バンドは5人編成となった。 1982年、アルバム『ラヴ・オーヴァー・ゴールド』が全英アルバムチャートで1位を獲得し、同作からの先行シングル「哀しみのダイアリー」がイギリスやオランダ等で大ヒットするが、同アルバムを最後にピック・ウィザースが脱退し、元ロックパイルのテリー・ウィリアムズが加入。1983年には、最初で最後の日本公演も行った。同年にはノップラーとクラークがボブ・ディランのアルバム『インフィデル』のレコーディングに参加し、ノップラーは共同プロデューサーも務めた。その後ハル・リンデスが脱退しガイ・フレッチャーが加入。 1985年に発表したアルバム『ブラザーズ・イン・アームス』では、スティングをフィーチャーしたシングル曲「マネー・フォー・ナッシング」の3DCG(当時としては最新鋭の技術であった)を取り入れたミュージック・ビデオが、MTVで大量にオンエアされた(ちなみに、元々はMTVに対する不満などを述べた曲なのだが、MTVによってヒットしたという皮肉な結果に終わっている)効果で全米1位を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げるセールスを達成し、英国内での歴代アルバムセールスランキングでも、クイーンの『グレイテスト・ヒッツ』、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、ABBAの『アバ・ゴールド』、オアシスの『モーニング・グローリー』、アデルの『21』、マイケル・ジャクソンの『スリラー』に次ぐ歴代7位を記録(2012年5月時点)。また、並行して敢行された2度のワールド・ツアーの効果も相まって、最終的に全世界で3,000万枚を超えるセールスを上げる。なお、このアルバムはLPからCDへの移行期にあたり、大ヒットしたアルバムということもあり、売り上げ内訳で、LPよりもCDが売れたことでも話題になった。 1988年9月、マーク・ノップラーはダイアー・ストレイツの解散を発表し、10月にベスト・アルバム『マネー・フォー・ナッシング』が発表される。ノップラーとガイ・フレッチャーはノッティング・ヒルビリーズのメンバーとして活動。 1991年にはノップラー、イルズリー、クラーク、フレッチャーが再結集し、ジェフ・ポーカロやマヌ・カチェ等のセッション・ミュージシャンを迎えて制作したアルバム『オン・エヴリー・ストリート』をリリース。更に、同アルバム発表後のライヴを収録した『オン・ザ・ナイト〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ』と、過去のスタジオ・ライヴ音源を発掘した『ライヴ・アット・ザ・BBC』をリリースするが、世界的グループとして大規模な公演を行うことに疲れを感じたマーク・ノップラーの判断で、1995年に再び解散が発表された。2018年度『ロックの殿堂』入り。 バンドのアイデンティティのほぼすべてを、フロントマンのノップラーに負っており、彼が書いた楽曲以外の曲は、アルバムでもステージでもほとんど取り上げられていない(ごく例外的に、最初期のライヴではマークとデヴィッドが共作した What's The Matter, Baby? がセット・リストに入っていた)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイアー・ストレイツ(Dire Straits)は、イギリスのロックバンド。1970年代末から90年代初頭に掛けて、ポップシーンにありながらも流行とは一線を画した音楽で世界的な人気を誇ったグループである。1983年に来日。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1976年ロンドンにて結成される。オリジナル・メンバーは、マーク・ノップラー(リードギター&ボーカル)と弟のデヴィッド・ノップラー(リズムギター)、ジョン・イルズリー(ベース)、ピック・ウィザース(ドラム)の4人構成で、当初のグループ名は「カフェ・レーサーズ(Cafe Racers)」。当時、音楽で生計を立てていたのはセッションマンのウィザースのみで、マークは成人教育カレッジの講師、デヴィッドは民生委員、ジョンは大学に通う傍ら銀行に勤めて収入を得て、それをそっくり音楽活動に注ぎ込んでいた。ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」(\"dire\"は「ひどい、無残な、差し迫った」、\"strait\"は「断崖、苦境、困窮」の意)の名称に落ち着く。ようやく1977年に、ヴァーティゴ・レコードと契約したバンドは、1978年にトーキング・ヘッズのイギリス・ツアーでオープニングアクトを務めた後、マフ・ウィンウッド(元スペンサー・デイヴィス・グループのベーシストで、スティーヴ・ウィンウッドの兄)のプロデュースで、ファースト・アルバムの録音に入った。また、同年にはワーナー・ブラザース・レコードと米国及びカナダの北米地区における契約を得ている。", "title": "結成" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1978年にファースト・アルバム『悲しきサルタン』をリリースする。ルーツ・ミュージックに独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、当時のトレンドである音楽ジャンルとは異質であり、直ちにチャート・アクションには反映されなかった。しかし、オランダのVPROラジオでファースト・シングルの「悲しきサルタン」がヘヴィー・ローテーションされた頃から風向きが変わりチャートを上昇、その後ヨーロッパとアメリカに飛び火した人気が本国も刺激し、ツアーの効果もあってアルバムは全米で2位、全英で8位を記録し、全世界で1,500万枚を売り上げる。また、ロサンゼルスでダイアー・ストレイツのライヴを観たボブ・ディランは、ノップラーとウィザースをアルバム『スロー・トレイン・カミング』のレコーディング・メンバーに起用した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1979年にはセカンド・アルバム『コミュニケ』も成功を収めるが、1980年、アルバム『メイキング・ムーヴィーズ』制作中にデヴィッド・ノップラーが脱退し、Eストリート・バンドのロイ・ビタンが代役を務める。その後ハル・リンデスとアラン・クラークが加入し、バンドは5人編成となった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1982年、アルバム『ラヴ・オーヴァー・ゴールド』が全英アルバムチャートで1位を獲得し、同作からの先行シングル「哀しみのダイアリー」がイギリスやオランダ等で大ヒットするが、同アルバムを最後にピック・ウィザースが脱退し、元ロックパイルのテリー・ウィリアムズが加入。1983年には、最初で最後の日本公演も行った。同年にはノップラーとクラークがボブ・ディランのアルバム『インフィデル』のレコーディングに参加し、ノップラーは共同プロデューサーも務めた。その後ハル・リンデスが脱退しガイ・フレッチャーが加入。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1985年に発表したアルバム『ブラザーズ・イン・アームス』では、スティングをフィーチャーしたシングル曲「マネー・フォー・ナッシング」の3DCG(当時としては最新鋭の技術であった)を取り入れたミュージック・ビデオが、MTVで大量にオンエアされた(ちなみに、元々はMTVに対する不満などを述べた曲なのだが、MTVによってヒットしたという皮肉な結果に終わっている)効果で全米1位を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げるセールスを達成し、英国内での歴代アルバムセールスランキングでも、クイーンの『グレイテスト・ヒッツ』、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、ABBAの『アバ・ゴールド』、オアシスの『モーニング・グローリー』、アデルの『21』、マイケル・ジャクソンの『スリラー』に次ぐ歴代7位を記録(2012年5月時点)。また、並行して敢行された2度のワールド・ツアーの効果も相まって、最終的に全世界で3,000万枚を超えるセールスを上げる。なお、このアルバムはLPからCDへの移行期にあたり、大ヒットしたアルバムということもあり、売り上げ内訳で、LPよりもCDが売れたことでも話題になった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1988年9月、マーク・ノップラーはダイアー・ストレイツの解散を発表し、10月にベスト・アルバム『マネー・フォー・ナッシング』が発表される。ノップラーとガイ・フレッチャーはノッティング・ヒルビリーズのメンバーとして活動。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1991年にはノップラー、イルズリー、クラーク、フレッチャーが再結集し、ジェフ・ポーカロやマヌ・カチェ等のセッション・ミュージシャンを迎えて制作したアルバム『オン・エヴリー・ストリート』をリリース。更に、同アルバム発表後のライヴを収録した『オン・ザ・ナイト〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ』と、過去のスタジオ・ライヴ音源を発掘した『ライヴ・アット・ザ・BBC』をリリースするが、世界的グループとして大規模な公演を行うことに疲れを感じたマーク・ノップラーの判断で、1995年に再び解散が発表された。2018年度『ロックの殿堂』入り。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バンドのアイデンティティのほぼすべてを、フロントマンのノップラーに負っており、彼が書いた楽曲以外の曲は、アルバムでもステージでもほとんど取り上げられていない(ごく例外的に、最初期のライヴではマークとデヴィッドが共作した What's The Matter, Baby? がセット・リストに入っていた)。", "title": "略歴" } ]
ダイアー・ストレイツは、イギリスのロックバンド。1970年代末から90年代初頭に掛けて、ポップシーンにありながらも流行とは一線を画した音楽で世界的な人気を誇ったグループである。1983年に来日。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = ダイアー・ストレイツ | 画像 = Dire straits 22101985 23 800.jpg | 画像説明 = ノルウェー・ドラメン公演の様子(1985年10月22日) | 画像サイズ = 250px<!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = yes<!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = band | 出身地 = {{ENG}} [[ロンドン]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[パブロック]]<ref name="AM">{{Cite web |first=Stephen Thomas |last=Erlewine |authorlink=スティーヴン・トマス・アールワイン |title=Dire Straits Biography, Songs & Albums |url=https://www.allmusic.com/artist/dire-straits-mn0000167517/biography |website=[[オールミュージック|AllMusic]] |publisher=All Media Network |accessdate=2021-09-29 }}</ref>|[[ルーツ・ロック]]<ref>{{cite book |last= Abjorensen |first= Norman |year= 2017 |title= Historical Dictionary of Popular Music |location= Lanham, Maryland: Rowman & Littlefield |page= 141 |isbn= 978-1-538-10215-2 }}</ref>|[[スタジアム・ロック]]<ref>{{cite book |editor1-last= Hoad |editor1-first= Catherine |editor2-last= Stahl |editor2-first= Geoff |editor3-last= Wilson |editor3-first= Oli |year= 2022 |title= Mixing Pop and Politics: Political Dimensions of Popular Music in the 21st Century |location= Oxfordshire |publisher= [[テイラーアンドフランシス|Taylor & Francis]] |page= 145 |isbn= 978-1-000-55665-0 }}</ref>}} | 活動期間 = {{Plainlist| * [[1976年]] - [[1988年]] * [[1991年]] - [[1995年]]}} | レーベル = {{Hlist-comma|[[ヴァーティゴ]]|[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]|[[ワーナー・レコード|ワーナー・ブラザース]]}} | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[マーク・ノップラー]] * デヴィッド・ノップラー * ジョン・イルズリー * ピック・ウィザース * アラン・クラーク * ハル・リンデス * テリー・ウィリアムズ * ガイ・フレッチャー * ジャック・ソンニ * クリス・ホワイト * フィル・パーマー * クリス・ウィッティン}} }} '''ダイアー・ストレイツ'''(''{{lang|en|Dire Straits}}'')は、[[イギリス]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]。1970年代末から90年代初頭に掛けて、ポップシーンにありながらも流行とは一線を画した音楽で世界的な人気を誇ったグループである<ref>{{Cite web|和書|author=河崎直人 |date=2018-01-19 |url=https://okmusic.jp/news/239887 |title=時代に媚びなかったがゆえに大ヒットしたダイアー・ストレイツのデビュー作『悲しきサルタン』 |website=[[OKWAVE#OKMusic|OKMusic]] |publisher=JAPAN MUSIC NETWORK |accessdate=2018-05-30}}</ref>。1983年に来日。 == 結成 == [[1976年]][[ロンドン]]にて結成される。オリジナル・メンバーは、[[マーク・ノップラー]](リードギター&ボーカル)と弟のデヴィッド・ノップラー(リズムギター)、ジョン・イルズリー(ベース)、ピック・ウィザース(ドラム)の4人構成で、当初のグループ名は「カフェ・レーサーズ(Cafe Racers)」。当時、音楽で生計を立てていたのはセッションマンのウィザースのみで、マークは成人教育カレッジの講師、デヴィッドは民生委員、ジョンは大学に通う傍ら銀行に勤めて収入を得て、それをそっくり音楽活動に注ぎ込んでいた。ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」("dire"は「ひどい、無残な、差し迫った」、"strait"は「断崖、苦境、困窮」の意)の名称に落ち着く。ようやく[[1977年]]に、[[ヴァーティゴ|ヴァーティゴ・レコード]]と契約したバンドは、[[1978年]]に[[トーキング・ヘッズ]]のイギリス・ツアーで[[オープニングアクト]]を務めた後、マフ・ウィンウッド(元[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]の[[ベーシスト]]で、[[スティーヴ・ウィンウッド]]の兄)のプロデュースで、ファースト・アルバムの録音に入った<ref name="erlewine">[http://www.allmusic.com/artist/dire-straits-mn0000167517/biography Dire Straits | Biography | AllMusic] - Artist Biography by Stephen Thomas Erlewine</ref>。また、同年には[[ワーナー・ブラザース・レコード]]と[[アメリカ合衆国|米国]]及び[[カナダ]]の北米地区における契約を得ている<ref name="erlewine" />。 == 略歴 == 1978年にファースト・[[アルバム]]『[[悲しきサルタン (アルバム)|悲しきサルタン]]』をリリースする。[[ルーツ・ミュージック]]に独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、当時のトレンドである音楽ジャンルとは異質であり、直ちにチャート・アクションには反映されなかった。しかし、[[オランダ]]の[[:en:VPRO|VPRO]]ラジオでファースト・シングルの「[[悲しきサルタン]]」が[[ヘヴィー・ローテーション]]された頃から風向きが変わり<ref>アルバム『悲しきサルタン』リマスターCD(UICY-25010)ライナーノーツ(チャーリー・ジレット、1996年)</ref>チャートを上昇、その後ヨーロッパとアメリカに飛び火した人気が本国も刺激し、ツアーの効果もあってアルバムは全米で2位、全英で8位を記録し、全世界で1,500万枚を売り上げる。また、[[ロサンゼルス]]でダイアー・ストレイツのライヴを観た[[ボブ・ディラン]]は、ノップラーとウィザースをアルバム『[[スロー・トレイン・カミング]]』のレコーディング・メンバーに起用した<ref>[http://www.goldminemag.com/article/bob-dylan-gets-religion-in-the-gospel-years-part-2 Bob Dylan gets religion in the "gospel years" part 2 - Goldmine Magazine] - 2014年7月30日閲覧</ref>。 [[1979年]]にはセカンド・アルバム『[[コミュニケ (アルバム)|コミュニケ]]』も成功を収めるが、[[1980年]]、アルバム『[[メイキング・ムーヴィーズ]]』制作中にデヴィッド・ノップラーが脱退し、Eストリート・バンドのロイ・ビタンが代役を務める<ref name="rollingstone">[http://www.rollingstone.com/music/artists/dire-straits/biography Dire Straits Biography | Rolling Stone] - 2014年7月30日閲覧</ref>。その後ハル・リンデスとアラン・クラークが加入し、バンドは5人編成となった。 [[1982年]]、アルバム『[[ラヴ・オーヴァー・ゴールド]]』が[[全英アルバムチャート]]で1位を獲得し、同作からの先行シングル「[[哀しみのダイアリー]]」がイギリスやオランダ等で大ヒットするが、同アルバムを最後にピック・ウィザースが脱退し、元[[ロックパイル]]のテリー・ウィリアムズが加入<ref name="rollingstone" />。[[1983年]]には、最初で最後の日本公演も行った。同年にはノップラーとクラークがボブ・ディランのアルバム『[[インフィデル]]』のレコーディングに参加し、ノップラーは共同プロデューサーも務めた。その後ハル・リンデスが脱退しガイ・フレッチャーが加入。 [[1985年]]に発表したアルバム『[[ブラザーズ・イン・アームス]]』では、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]をフィーチャーしたシングル曲「[[マネー・フォー・ナッシング]]」の[[コンピュータグラフィックス|3DCG]](当時としては最新鋭の技術であった)を取り入れた[[ミュージック・ビデオ]]が、[[MTV]]で大量にオンエアされた(ちなみに、元々はMTVに対する不満などを述べた曲なのだが、MTVによってヒットしたという皮肉な結果に終わっている)効果で全米1位を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げるセールスを達成し、英国内での歴代アルバムセールスランキングでも、[[クイーン (バンド)|クイーン]]の『[[グレイテスト・ヒッツ (クイーンのアルバム)|グレイテスト・ヒッツ]]』、[[ビートルズ]]の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』、[[ABBA]]の『アバ・ゴールド』、[[オアシス (バンド)|オアシス]]の『[[モーニング・グローリー]]』、[[アデル (歌手)|アデル]]の『[[21 (アデルのアルバム)|21]]』、[[マイケル・ジャクソン]]の『[[スリラー (アルバム)|スリラー]]』に次ぐ歴代7位を記録(2012年5月時点)<ref>[http://www.officialcharts.com/chart-news/adele-is-now-officially-bigger-than-michael-jackson-1374/ Adele 21's outsells Michael Jackson's Thriller and Bad] - 2012年6月19日閲覧</ref>。また、並行して敢行された2度のワールド・ツアーの効果も相まって、最終的に全世界で3,000万枚を超えるセールスを上げる。なお、このアルバムはLPからCDへの移行期にあたり、大ヒットしたアルバムということもあり、売り上げ内訳で、LPよりもCDが売れたことでも話題になった。 [[1988年]]9月、マーク・ノップラーはダイアー・ストレイツの解散を発表し<ref>[http://ultimateclassicrock.com/dire-straits-break-up/ 25 Years Ago: Dire Straits Break Up - ultimateclassicrock] - 2014年7月30日閲覧</ref>、10月にベスト・アルバム『[[マネー・フォー・ナッシング (アルバム)|マネー・フォー・ナッシング]]』が発表される。ノップラーとガイ・フレッチャーは[[ノッティング・ヒルビリーズ]]のメンバーとして活動。 [[1991年]]にはノップラー、イルズリー、クラーク、フレッチャーが再結集し、[[ジェフ・ポーカロ]]や[[マヌ・カチェ]]等のセッション・ミュージシャンを迎えて制作したアルバム『[[オン・エヴリー・ストリート]]』をリリース。更に、同アルバム発表後のライヴを収録した『[[オン・ザ・ナイト〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ]]』と、過去のスタジオ・ライヴ音源を発掘した『ライヴ・アット・ザ・BBC』をリリースするが、世界的グループとして大規模な公演を行うことに疲れを感じたマーク・ノップラーの判断で、[[1995年]]に再び解散が発表された。2018年度『[[ロックの殿堂]]』入り。 バンドのアイデンティティのほぼすべてを、フロントマンのノップラーに負っており、彼が書いた楽曲以外の曲は、アルバムでもステージでもほとんど取り上げられていない(ごく例外的に、最初期のライヴではマークとデヴィッドが共作した ''What's The Matter, Baby?'' がセット・リストに入っていた)。 == メンバー == *[[マーク・ノップラー]] - ボーカル、ギター(1977年 - 1995年) *ジョン・イルズリー - ベース、バッキング・ボーカル(1977年 - 1995年) *デヴィッド・ノップラー - リズムギター、キーボード、バッキング・ボーカル(1977年 - 1980年) *ピック・ウィザース - ドラムス(1977年 - 1982年) *アラン・クラーク - キーボード(1980年 - 1995年) *ハル・リンデス - リズムギター、バッキング・ボーカル(1980年 - 1985年) *テリー・ウィリアムズ - ドラムス(1982年 - 1989年) *ガイ・フレッチャー - キーボード(1984年 - 1995年) *ジャック・ソンニ - リズムギター(1985年 - 1988年、ツアーのみ) == ディスコグラフィ == === スタジオ・アルバム === {|class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! rowspan="2"| 年 ! rowspan="2" style="width:14em;"| タイトル ! rowspan="2" style="width:14em;"| アルバム詳細 ! colspan="10"| チャート最高位 ! rowspan="2" style="width:14em;"| [[ゴールド・ディスク|認定]] |- style="font-size:smaller;" ! width=40| [[全英アルバムチャート|UK]]<br><ref name="UK">{{cite web|url=http://www.officialcharts.com/artist/16752/dire%20straits/ |title=UK chart peaks |publisher=Official Charts Company |accessdate=15 October 2016}}</ref> ! width=40| [[ARIAチャート|AUS]]<br><ref name="aus">Australian chart peaks: *Top 100 ([[Kent Music Report]]) peaks to 19 June 1988: {{cite book|last=Kent|first=David|title=Australian Chart Book 1970–1992|edition=Illustrated|publisher=Australian Chart Book|location=St Ives, N.S.W.|year=1993|page=90|isbn=0-646-11917-6}} N.B. The Kent Report chart was licensed by [[Australian Recording Industry Association|ARIA]] between mid-1983 and 19 June 1988. *Top 50 ([[ARIA Charts|ARIA Chart]]) peaks from 26 June 1988: {{cite web|url=http://australian-charts.com/showinterpret.asp?interpret=Dire+Straits|title=australian-charts.com > Dire Straits in Australian Charts|publisher=Hung Medien|accessdate=3 November 2016}} *Top 100 (ARIA Chart) peaks from January 1990 to December 2010: {{cite book|last=Ryan|first=Gavin|title=Australia's Music Charts 1988–2010|year=2011|publisher=Moonlight Publishing|location=Mt. Martha, VIC, Australia}}</ref> ! width=40| [[エードライ・アオストリア・トップ40|AUT]]<br><ref name="AUT">{{cite web|url=http://austriancharts.at/artist/Dire_Straits |title=Austrian chart peaks |publisher=austriancharts.at |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| CAN<br><ref>Canadian studio albums: * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.4742a.pdf |title=Dire Straits |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.4486a.pdf |title=Communiqué |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.0273.pdf |title=Making Movies |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.6187a.pdf |title=Love over Gold |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.0575.pdf |title=Brothers in Arms |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.1641.pdf |title=On Every Street |publisher=RPM |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| [[全国音楽出版組合 (フランス)|FRA]]<br><ref name="FRA">{{cite web|url=http://www.infodisc.fr/ |title=French chart peaks |language=French |publisher=infodisc.fr |accessdate=18 October 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131031130105/http://www.infodisc.fr/ |archivedate=31 October 2013 |df=dmy }}</ref> ! width=40| [[メーディア・コントロール・ゲーエフカー・インターナツィオナール|GER]]<br><ref>German studio albums: * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-5499 |title=Dire Straits |language=German |publisher=GfK Entertainment Charts |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-5641 |title=Communiqué |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-8037 |title=Making Movies |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-6217 |title=Love Over Gold |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-260 |title=Brothers in Arms |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-1294 |title=On Every Street |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| NLD<br><ref name="NED">{{cite web|url=http://dutchcharts.nl/artist/Dire_Straits |title=Dutch chart peaks |publisher=dutchcharts.nl |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| [[ニュージーランド・レコード産業協会|NZ]]<br><ref name="NZ">{{cite web|url=http://charts.org.nz/showinterpret.asp?interpret=Dire+Straits |title=New Zealand chart peaks |publisher=charts.org.nz |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| [[シュヴァイツァー・ヒットパラーデ|SWI]]<br><ref name="SWI">{{cite web|url=http://hitparade.ch/artist/Dire_Straits |title=Swiss chart peaks |publisher=hitparade.ch |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://books.google.com/books?id=PyQEAAAAMBAJ&pg=PA65 |title=Dire Straits |publisher=Billboard |accessdate=22 October 2016}} * {{cite web|url=https://books.google.com/books?id=KCQEAAAAMBAJ&pg=PA69 |title=Communiqué |publisher=Billboard |accessdate=22 October 2016}}</ref> ! width=40| [[Billboard 200|US]]<br><ref name="US Albums">{{cite web|url=http://www.billboard.com/artist/300978/dire-straits/chart?sort=date&f=305 |title=US album chart peaks |publisher=[[Billboard (magazine)|Billboard]] |accessdate=18 October 2016}}</ref> |- | 1978 | align="left"| [[悲しきサルタン (アルバム)|悲しきサルタン]]<br />''Dire Straits''<small> | align="left"| * 発売日: 1978年10月7日 * レーベル: [[ヴァーティゴ・レコード|Vertigo]]</small> | 5 || 1 || 17 || 2 || 1 || 3 || 3 || 2 || 7 || 2 | *<div align="left">[[英国レコード産業協会|UK]]: 2× プラチナ<ref name="UK CERT">{{cite web|url=http://www.bpi.co.uk/certified-awards.aspx |title=BPI Certification |publisher=[[British Phonographic Industry]] |accessdate=19 October 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140625075145/http://www.bpi.co.uk/certified-awards.aspx |archivedate=25 June 2014 |df=dmy }}</ref></div> *<div align="left">CAN: 4× プラチナ<ref name="CAN CERT">{{cite web|url=https://musiccanada.com/gold-platinum/?fwp_gp_search=dire%20straits |title=Canadian Certification |publisher=Music Canada |accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">FRA: プラチナ<ref name="FRA CERT">{{cite web|url=http://www.infodisc.fr/Album_Certification_Liste.php |title=French Certification |publisher=Syndicat National de l'Édition Phonographique |accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">[[音楽産業連邦協会 (ドイツ)|GER]]: プラチナ<ref name="GER CERT">{{cite web|url=http://www.musikindustrie.de/nc/datenbank/#topSearch |title=German Certification |language=German |publisher=Bundesverband Musikindustrie |accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3205 |title=New Zealand Certification - Dire Straits |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: 2× プラチナ<ref name="SWI CERT">{{cite web|url=http://www.swisscharts.com/search_certifications.asp?search=dire+straits |title=Swiss Certification |publisher=Hitparade.ch. Hung Medien |language=German |accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">[[アメリカレコード協会|US]]: 2× プラチナ<ref name="US CERT">{{cite web|url=https://www.riaa.com/gold-platinum/?tab_active=default-award&se=dire+straits#search_section |title=RIAA Certification |publisher=[[Recording Industry Association of America]] |accessdate=21 October 2016}}</ref></div> |- | 1979 | align="left"| [[コミュニケ (アルバム)|コミュニケ]]<br />''Communiqué''<small> | align="left"| * 発売日: 1979年6月15日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 30万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 5 || 5 || 7 || 14 || 3 || 1 || 3 || 1 || 2 || 11 | *<div align="left">UK: プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">CAN: 2× プラチナ<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: 2× プラチナ<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: ゴールド<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3206 |title=New Zealand Certification - Communiqué |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: 3× プラチナ<ref name="SWI CERT"/></div> *<div align="left">US: ゴールド<ref name="US CERT"/></div> |- | 1980 | align="left"| [[メイキング・ムーヴィーズ]]<br />''Making Movies''<small> | align="left"| * 発売日: 1980年10月17日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 60万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 4 || 6 || 15 || 21 || 6 || 7 || 6 || 3 || — || 19 | *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">CAN: 2× プラチナ<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: ゴールド<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: ゴールド<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3210 |title=New Zealand Certification - Making Movies |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: ゴールド<ref name="SWI CERT"/></div> *<div align="left">US: プラチナ<ref name="US CERT"/></div> |- | 1982 | align="left"| [[ラヴ・オーヴァー・ゴールド]]<br />''Love Over Gold''<small> | align="left"| * 発売日: 1982年9月20日 * レーベル: Vertigo</small> | 1 || 1 || 1 || 6 || 2 || 4 || 1 || 1 || — || 19 | *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">CAN: 2× プラチナ<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: プラチナ<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3210 |title=New Zealand Certification - Love Over Gold |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">US: ゴールド<ref name="US CERT"/></div> |- | 1985 | align="left"| [[ブラザーズ・イン・アームス]]<br />''Brothers in Arms''<small> | align="left"| * 発売日: 1985年5月13日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 430万枚<ref>{{cite news|url=http://www.musicweek.com/talent/read/uk-s-60-biggest-selling-albums-of-all-time-revealed/065239|title=UK's 60 Biggest Selling Albums of All Time|last=Gumble|first=Daniel|date=5 July 2016|work=Music Week|publisher=Intent Media|accessdate=11 August 2016}}</ref></small> | 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 | *<div align="left">UK: 14× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">[[オーストラリアレコード産業協会|AUS]]: 17× プラチナ<ref name="auscert">Australian ([[Australian Recording Industry Association|ARIA]]) certifications: * certifications awarded between 1988 and 2010: {{cite book|last=Ryan|first=Gavin|title=Australia's Music Charts 1988–2010|year=2011|publisher=Moonlight Publishing|location=Mt. Martha, VIC, Australia}} * ''Sultans of Swing: The Very Best of Dire Straits'': {{cite web |url=http://www.aria.com.au/pages/AlbumAccreds2015.htm |title=ARIA Charts – Accreditations – 2015 Albums |publisher=ARIA |accessdate=3 November 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://webcitation.org/6YnfYZxjp?url=http://www.aria.com.au/pages/AlbumAccreds2015.htm |archivedate=25 May 2015 |df=dmy}} * ''Private Investigations'' (album): {{cite web |url=http://www.aria.com.au/pages/httpwww.aria.com.aupagesaria-charts-accreditations-albums-2013.htm |title=ARIA Charts – Accreditations – 2013 Albums |publisher=ARIA |accessdate=3 November 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140205035615/http://www.aria.com.au/pages/httpwww.aria.com.aupagesaria-charts-accreditations-albums-2013.htm |archivedate=5 February 2014 |df=dmy }}</ref></div> *<div align="left">AUT: 4× プラチナ<ref name="AUT CERT">{{cite web|url=http://www.ifpi.at/?section=goldplatin |title=Austrian Certifications |publisher=IFPI Austria |accessdate=19 October 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511092844/http://www.ifpi.at/?section=goldplatin |archivedate=11 May 2011 |df=dmy }}</ref></div> *<div align="left">CAN: ダイヤモンド<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: ダイヤモンド<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3328 |title=New Zealand Certification - Brothers In Arms |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: ダイヤモンド<ref name="SWI CERT"/></div> *<div align="left">US: 9× プラチナ<ref name="US CERT"/></div> |- | 1991 | align="left"| [[オン・エヴリー・ストリート]]<br />''On Every Street''<small> | align="left"| * 発売日: 1991年9月9日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 60万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 1 || 1 || 1 || 3 || 1 || 1 || 1 || 1 || 1 || 12 | *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">AUS: 2× プラチナ<ref name="auscert"/></div> *<div align="left">AUT: プラチナ<ref name="AUT CERT"/></div> *<div align="left">CAN: 2× プラチナ<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: ダイヤモンド<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3494 |title=New Zealand Certification - On Every Street |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: 4× プラチナ<ref name="SWI CERT"/></div> *<div align="left">US: プラチナ<ref name="US CERT"/></div> |- |colspan="14" style="font-size:90%;"| "—"は未発売またはチャート圏外を意味する。 |} === ライブ・アルバム === *『[[アルケミィ〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ]]』 - ''Alchemy: Dire Straits Live'' (1984年) ※CD化の際に 「[[:en:Love over Gold (Dire Straits song)|Love over Gold]]」を追加収録し、曲順変更も含む再編集。 *『[[オン・ザ・ナイト〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ]]』 - ''On The Night'' (1993年) *『ライヴ・アット・ザ・BBC』 - ''[[:en:Live at the BBC (Dire Straits album)|Live at the BBC]]'' (1995年) === コンピレーション・アルバム === {|class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! rowspan="2"| 年 ! rowspan="2" style="width:18em;"| タイトル ! rowspan="2" style="width:14em;"| アルバム詳細 ! colspan="10"| チャート最高位 ! rowspan="2" style="width:14em;"| [[ゴールド・ディスク|認定]] |- style="font-size:smaller;" ! width=40| UK<br><ref name="UK"/> ! width=40| AUS<br><ref name="aus"/> ! width=40| AUT<br><ref name="AUT"/> ! width=40| CAN<br><ref>Canadian compilation albums: * {{cite web|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/obj/028020/f2/nlc008388.6990.pdf |title=Sultans of Swing: The Very Best of Dire Straits |publisher=RPM |accessdate=19 October 2016}}</ref> ! width=40| FRA<br><ref name="FRA"/> ! width=40| [[メーディア・コントロール・ゲーエフカー・インターナツィオナール|GER]]<br><ref>German compilation albums: * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-789 |title=Money for Nothing |language=German |publisher=GfK Entertainment Charts |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-2865 |title=Sultans of Swing - The Very Best of |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}} * {{cite web|url=https://www.offiziellecharts.de/album-details-24617 |title=Private Investigations |language=German |publisher=Gfk |accessdate=18 October 2016}}</ref> ! width=40| NLD<br><ref name="NED"/> ! width=40| NZ<br><ref name="NZ"/> ! width=40| SWI<br><ref name="SWI"/> ! width=40| US<br><ref name="US Albums"/> |- | 1988 | align="left"| [[マネー・フォー・ナッシング (アルバム)|マネー・フォー・ナッシング]]<br />''Money for Nothing''<small> | align="left"| * 発売日: 1988年10月17日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 120万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 1 || 3 || 3 || — || 1 || 2 || 4 || 2 || 1 || 62 | *<div align="left">UK: 4× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">AUS: 3× プラチナ<ref name="auscert"/></div> *<div align="left">CAN: プラチナ<ref name="CAN CERT"/></div> *<div align="left">FRA: ダイヤモンド<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=3350 |title=New Zealand Certification - Money for Nothing |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: 3× プラチナ<ref name="SWI CERT"/></div> *<div align="left">US: プラチナ<ref name="US CERT"/></div> |- | 1998 | align="left"| ''Sultans of Swing:The Very Best of Dire Straits''<small> | align="left"| * 発売日: 1998年10月19日 * レーベル: Vertigo * 全英売上: 60万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 6 || 4 || 5 || 60 || 1 || 6 || 6 || 6 || 3 || — | *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">AUS: 6× プラチナ<ref name="auscert"/></div> *<div align="left">AUT: ゴールド<ref name="AUT CERT"/></div> *<div align="left">FRA: プラチナ<ref name="FRA CERT"/></div> *<div align="left">GER: ゴールド<ref name="GER CERT"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=1021 |title=New Zealand Certification - Sultans of Swing |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> *<div align="left">SWI: プラチナ<ref name="SWI CERT"/></div> |- | 2005 | align="left"| ''Private Investigations''<small> | align="left"| * 発売日: 2005年11月7日 * レーベル: [[マーキュリー・レコード|Mercury]] * 全英売上: 60万枚<ref name="UK CERT"/></small> | 20 || 35 || 44 || — || 4 || 36 || 23 || 17 || 15 || — | *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK CERT"/></div> *<div align="left">AUS: プラチナ<ref name="auscert"/></div> *<div align="left">NZ: プラチナ<ref>{{cite web|url=http://nztop40.co.nz/chart/albums?chart=1362 |title=New Zealand Certification - Private Investigations |publisher=Recorded Music NZ|accessdate=21 October 2016}}</ref></div> |- |colspan="14" style="font-size:90%;"| "—"は未発売またはチャート圏外を意味する。 |} == 日本公演 == *[[1983年]] **4月2.3.4日 東京 [[日本青年館]] **4月5日 大阪 [[万国博ホール]] == 関連項目 == * [[チェット・アトキンス]] * [[スティング (ミュージシャン)|スティング]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} {{ダイアー・ストレイツ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいああすとれいつ}} [[Category:イングランドのロック・バンド]] [[Category:ユニバーサル ミュージック グループのアーティスト]] [[Category:ワーナー・ミュージック・グループのアーティスト]] [[Category:ロックの殿堂入りの人物]] [[Category:ブリット・アワード受賞者]] [[Category:1977年に結成した音楽グループ]] [[Category:1988年に解散した音楽グループ]] [[Category:1991年に再結成した音楽グループ]] [[Category:1995年に解散した音楽グループ]]
2003-09-08T11:52:02Z
2023-11-09T07:44:21Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Lang", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:ダイアー・ストレイツ", "Template:Normdaten", "Template:Infobox Musician" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%84
15,772
パワープレイ
パワープレイ、パワープレー(英語:Power play、powerplay)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パワープレイ、パワープレー(英語:Power play、powerplay)", "title": null } ]
パワープレイ、パワープレー アイスホッケーの試合中、相手チームより人数が多い状態。アイスホッケー#パワープレーを参照。 パワープレイ (サッカー) - サッカーの戦術の一つ。 フットサルにおいて、ゴレイロ(GK)のポジションにフィールドプレイヤーを交代で入れること。 クリケットの試合中、外野の守備に配置できる人数に制限を設けるルール。 ヘヴィー・ローテーションの別名。一推しの楽曲を一日の放送時間中に繰り返し(概ね30分に一度の割合で)放送すること。ラジオ局でタイトルとして使われる。 パワープレイ (TRPGプレースタイル) - テーブルトークRPGのプレイスタイル。 パワープレイ (TRPG) - ホビージャパンから販売されたテーブルトークRPG製品。 パワープレイ (映画) - 1978年のイギリス・カナダ映画。 細かな戦術やテクニックなどのいわゆる「搦め手」に頼らず、正面突破の力押しで物事を打開しようとする方法を俗にパワープレイと呼ぶことがある。
'''パワープレイ'''、'''パワープレー'''([[英語]]:[[Power]] [[play]]、powerplay) {{wikt|en:power play|power|play}} * アイスホッケーの試合中、相手チームより人数が多い状態。[[アイスホッケー#パワープレー]]を参照。 * [[パワープレイ (サッカー)]] - サッカーの戦術の一つ。 * [[フットサル]]において、ゴレイロ(GK)のポジションにフィールドプレイヤーを交代で入れること。 * [[クリケット]]の試合中、外野の守備に配置できる人数に制限を設けるルール。 * [[ヘヴィー・ローテーション]]の別名。一推しの楽曲を一日の放送時間中に繰り返し(概ね30分に一度の割合で)放送すること。[[ラジオ局]]でタイトルとして使われる。 * [[パワープレイ (TRPGプレースタイル)]] - テーブルトークRPGのプレイスタイル。 * [[パワープレイ (TRPG)]] - [[ホビージャパン]]から販売されたテーブルトークRPG製品。 * [[パワープレイ (映画)]] (原題:''[[:en:Power Play (1978 film)|Power Play]]'')[https://filmarks.com/movies/20125] [https://eiga.com/movie/48208/] - 1978年のイギリス・カナダ映画。 *細かな戦術やテクニックなどのいわゆる「搦め手」に頼らず、正面突破の力押しで物事を打開しようとする方法を俗にパワープレイと呼ぶことがある。 == 外部リンク == * [https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC/ goo辞書「パワープレー」]([[goo辞書]]) *[https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC-605918 コトバンク「パワープレー」]([[コトバンク]]) {{aimai}} {{デフォルトソート:はわあふれい}} [[da:Powerplay]] [[fr:Supériorité numérique (hockey sur glace)]] [[nl:Powerplay]] [[ru:Большинство (спорт)]] [[sv:Powerplay]]
2003-09-08T12:02:26Z
2023-11-01T00:05:31Z
true
false
false
[ "Template:Wikt", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4
15,773
常磐快速線
常磐快速線(じょうばんかいそくせん)は、東京都台東区の上野駅から茨城県取手市の取手駅までの東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の運転系統及び旅客案内名称である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJJ。路線案内上では「常磐線(快速)」と表示される。 運転系統上の「常磐線快速」は東北本線上野駅 - 日暮里駅間と常磐線日暮里駅 - 取手駅間を直通する上野駅 - 取手駅間の系統を指している。成田線の我孫子支線である我孫子駅 - 成田駅間や、2015年3月14日からは、一部列車が上野東京ラインを経由して東海道本線(東海道線)品川駅まで乗り入れており、品川駅 - 上野駅間や我孫子駅 - 成田駅間も系統上の一区間として扱われる場合もある。綾瀬駅 - 取手駅間は複々線化されており、緩行線は「常磐緩行線」と呼ばれ、綾瀬駅からは東京メトロ千代田線と相互直通運転を行なっている。 本記事では、「常磐線快速」および品川駅 - 取手駅間の「常磐線(中距離列車、中電)」の運行形態について記述する。 東京都心から北千住、千葉県北西部(東葛地域)の松戸市や柏市、我孫子市天王台といった東京のベッドタウンを経由して、茨城県南部の取手市へ延びる。全区間が東京への通勤・通学路線としての役割をもつ。 常磐線は北千住駅から取手駅までが線路別複々線で、快速線は綾瀬駅 - 金町駅間では緩行線の南側、金町駅 - 取手駅間では緩行線の北側に配置されている。常磐線快速はこの複々線の快速線を走行する。緩行線との乗り換えにはホーム間の移動を要する。 常磐線は日本国有鉄道(国鉄)時代の1971年に、通勤五方面作戦の一環として、綾瀬駅 - 我孫子駅間が複々線化された。同時にそれまで各駅停車として上野駅 - 取手駅間で運転されていた電車との緩急分離が行われ、以降は、各駅停車が走行する線路が常磐緩行線、中距離列車・特急や急行などの優等列車・貨物列車とこの時新設された快速電車が走行する線路が常磐快速線と呼ばれるようになった。その後1982年には複々線区間が取手駅まで延伸されている。常磐線が複々線になったことにより、千葉県北西部からの通勤アクセスが向上した。 上野駅から取手駅までは直流電化だが、取手駅の隣にある藤代駅より北は沿線の茨城県石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所の観測に直流電化方式が影響を及ぼすという事情から交流電化が採用され、取手駅と藤代駅の間にデッドセクションが設けられている。そのため、取手駅止まりの一般型列車や我孫子駅から直流区間の成田線に直通する列車には緑色のラインをまとった直流電車のE231系が用いられるが、藤代駅以北の交流区間にまで乗り入れる一般型の中距離列車には青色のラインをまとった交直流電車のE531系を用いる必要があり、交直流電車は車両コストが高いことから使い分けがなされている。 2009年度における松戸駅→北千住駅間のピーク1時間(ラッシュ時)の輸送量は、快速電車が34,480人、中距離列車が32,240人で合計66,720人である。同時間帯・同区間の混雑率は快速電車が173%、中距離列車が179%であり、両者の平均は176%となっている。これはおおよそ「体が触れ合うが新聞は読める」程度の目安とされている180%に近い数字である。 常磐快速線の旅客列車は、大きく分けて、特急、上野駅 - 取手駅間で運転される快速電車と、取手駅を越えて土浦・水戸方面に直通する中距離列車(“普通”と“特別快速”)の3系統がある。常磐快速線では北千住駅 - 取手駅間を緩行線経由で運行する列車は設定されていない。 2015年3月14日現在、快速電車と中距離列車(普通)の停車駅は統一され、案内も「快速」に統一されているが、車両運用は区別されており、快速電車はエメラルドグリーンと黄緑の2色(■■)の帯が巻かれたグリーン車のない車両、中距離列車はグリーン車を組み込んだ青一色(■)の帯が巻かれた車両が使用されている。前者は直流電化区間のみで運用されることから直流電車、後者は取手駅を越えて土浦・水戸・勝田方面の交流電化区間に乗り入れることから交直流電車が用いられている。 以下、本記事では快速電車と中距離列車(普通)で特に区別する必要がない場合は「快速」と記述する。 上野駅 - 取手駅間の快速の標準的な所要時間は約40分、最速は快速で39分、普通で38分となっている。2006年3月18日のダイヤ改正で、日中時間帯(11時台から14時台)のダイヤが不等間隔ながらもパターン化され、上野駅 - 我孫子駅間では快速が1時間に6本(快速電車と中距離列車が3本ずつ)、特別快速が1本の運転となった。2022年3月12日のダイヤ改正で特別快速の運転が大幅に削減され、快速電車と中距離列車3本ずつの運転となった。我孫子駅 - 取手駅間は成田線直通電車が抜けるため、昼間の快速は合わせて5本であり、その部分は運転間隔も上りで13 - 17分、下りで20分開く。日中時間帯や土休日夜間は快速電車と中距離列車がほぼ交互に運転されるが、それ以外の時間帯では快速電車の運転比率が高い。 この節では、品川駅・上野駅 - 取手駅間を走る快速電車(かつての国電、のちのE電)について解説する。 1971年4月20日の複々線化によって上野駅 - 取手駅間を運転していた各駅停車がすべて地下鉄千代田線直通となり、上野駅発着列車の輸送力不足を解消するために新設された系統である。列車番号の末尾は「H」。エメラルドグリーン一色の車体を持つ103系電車が主力だった頃は、国鉄監修・JTB時刻表の常磐快速線のページには「青色の電車」と記載があり、「青電」と呼ばれることもあった。 停車駅は1972年10月2日に柏駅が追加されて以降、変更はない。1982年11月15日の我孫子駅 - 取手駅間の複々線化の際、当初は天王台駅を通過する予定であったが、利用者の反発により停車することになった。 日中時間帯(11 - 14時台)は1時間に2 - 3本運行されており、この時間帯の発車時刻は上野発は毎時02分・22分(いずれも取手行き)・42分(成田行き)に統一されている。取手発は毎時03分・27分で、もう1本が成田線からの直通電車である(我孫子発は毎時57分)。朝夕時間帯は本数が多くなる。 一部電車は我孫子駅から成田線に乗り入れ、成田駅まで直通運転している(一時期は朝夕のみだったが、2006年3月18日のダイヤ改正で日中の時間帯の直通運転が再開された)。我孫子駅で連結・切り離し作業をする列車では、同駅で停車時間が長めに取られている列車もある。 途中駅のうち始発・終点となる電車の設定があるのは松戸駅と我孫子駅で、いずれも上野駅との間の運行が主体である。かつては下り方より途中駅(主に我孫子駅)で折り返す電車の設定もあったが、現在は設定されていない。 朝の上り5本(土休日は2本)と夕方 - 夜間の一部(16・17時台 - 21・22時台まで、1時間に2 - 3本)は品川駅発着で運転されている。また、朝の品川行きの折り返し電車は運転せず、一部を夕方まで車両基地に留置するようになったため、朝の下り電車と夕方の松戸駅・我孫子駅の出庫電車が削減された。 大晦日から元日にかけての終夜運転は実施されず、常磐線各駅停車のみ(我孫子駅発着・東京メトロ千代田線直通)の運転となる(2020年は運転計画は立てられたものの中止となり、2021年度は運転計画自体が立てられなかった)。 常磐線は、複々線化される前は各駅に停まる「電車」(国電)と、一部の駅にしか停まらない「普通列車」(中距離列車)が設定されていた。列車番号の末尾は「M」。かつてはアズキ色の塗装が施されていたため、快速電車の「青電」との対比において「赤電」や、中距離電車の略で「中電」とも呼ばれることもあった。なお、その後塗装は国際科学技術博覧会の開催決定(1985年に茨城県で開催)を機に白地に青帯に変更されている。 1971年(昭和46年)に綾瀬駅 - 我孫子駅間が複々線化され、上野駅発着の常磐快速線と、営団地下鉄千代田線(現在の東京メトロ千代田線)に乗り入れる常磐緩行線が分離された。このとき、従来の「電車」(各駅停車)は、複々線区間においては緩行線を走行し、綾瀬駅から千代田線へ直通させることとなった。この「常磐緩行線上を走行する電車」は各駅停車と呼ばれるようになり、取手駅を越えて土浦駅・水戸駅方面へ行く中距離普通列車と区別する際に使われる言葉となった。そして中距離列車は、複々線区間においては快速線上を走行することになった。 現在、中距離列車は“普通”のほか、2005年7月9日より設定された“特別快速”の2種別が運行されている。前者は前述の快速電車と停車駅を統一したことから、常磐快速線内の案内名称が「快速」に変更されている。日中時間帯(11 - 14時台)の上野発は12分・32分・52分(全て品川発)に、取手発品川行は毎時21分・42分・59分(11時台は56分)に統一されている。上野東京ライン直通はほぼ終日に渡り設定されている(上野東京ライン開業時から2017年10月ダイヤ改正までは日中から夕方にかけてのみ設定されていた)。また、朝の下りと終電の各1本ずつ我孫子駅発着列車があり、上りの終電は直後の快速電車上野行きに接続している。さらにこの快速電車から松戸駅で北千住行き最終各駅停車にも接続している。 特別快速は、2005年7月9日の設定当初は5.5往復で、2006年3月18日から2022年3月11日までは6往復が運転されていた。上野駅 - 取手駅間では日暮里駅・松戸駅・柏駅のみに停車し、取手駅以北は各駅に停車するダイヤとなった。最高速度は首都圏の普通列車で初の130km/hとされ、標準の所要時間は上野駅 - 土浦駅間55分、当線内の停車駅と上野駅間の所要時間は松戸駅15分、柏駅23分、取手駅31分であった。2015年3月14日のダイヤ改正より北千住駅に停車するようになり、所要時間はやや延びている(上野駅発着の所要時間は、北千住駅9分、松戸駅17分、柏駅25分、取手駅33分)。2022年3月12日のダイヤ改正で、上りは取手発9・10時台、下りは上野発15・16時台の2往復のみの運転となった。特別快速の運行開始の背景には並行路線となった首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開業が挙げられる。つくばエクスプレスが高速運転を行ったのに対抗して設定され、当時新型のE531系が充当された。 1991年3月16日の改正より、平日の朝の上りと毎日夕方の下りに通勤快速が運行されていた。本数は朝上り最大3本・夕方下り1本であったが、2005年7月9日より朝上り2本のみに削減され、2006年3月18日改正をもって普通列車に置き換えられ、すべて廃止された。上野駅 - 土浦駅間の停車駅は日暮里駅・松戸駅・柏駅・取手駅・牛久駅であった。 このほか、2019年まで8月にひたちなか市の国営ひたち海浜公園で開催されたROCK IN JAPAN FESTIVALの観客の帰宅の足として臨時快速列車が運転されていた。2011年までの当線内の停車駅は、上りは取手駅・我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅・日暮里駅・上野駅である。2012年は、天王台駅・南千住駅・三河島駅にも停車した(2013年からは取手止まり)。2008年と2009年に運転された下り列車は、快速と同じ停車駅であった。 常磐快速線は当初、中距離列車(普通列車)と快速電車の停車駅に相違があり、上野駅 - 取手駅間では普通列車の通過駅が快速電車よりも多く、さらに各駅停車も運行されているという、利用客にとっては紛らわしい状況であった。 中距離列車は1971年4月20日の複々線化当初、三河島駅・南千住駅・北千住駅・柏駅・天王台駅を通過していた。柏駅の快速線ホームが設置された1972年10月2日から日中は上下とも柏駅停車となり、1980年10月1日からは全列車が柏駅停車に、さらに1985年3月14日からは北千住駅停車となった。1985年3月13日までは、我孫子駅や松戸駅の待避設備を利用し快速電車を追い越すことがあったほか、1982年11月14日まで存在した客車による普通列車については柏駅・北千住駅は通過であった。 民営化後の1988年3月13日より中距離列車が天王台駅に全列車停車となって、日中のみ三河島駅・南千住駅にも停車するようになり、日中時間帯は上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅が同一になった。その後2004年3月13日より中距離列車が南千住駅と三河島駅に全列車停車するようになり、上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅の差異がなくなった。これを受けて同年10月16日から土浦・水戸方面に直通する中距離列車も、上野駅 - 取手駅間では“快速”と案内されるようになり、従前の「快速電車」と案内の上でも差がなくなり、取手以南において「各駅停車」と「普通列車」の停車駅が異なるという利用者にとってわかりにくい状態も解消されることになった。 ただし、『JR時刻表』や『JTB時刻表』では、快速電車と中距離列車が別系統として掲載されている。また、JR東日本のプレスリリースでは、案内呼称統一後も中距離列車は「快速」ではなく「普通電車(中距離電車)」や「普通列車」「中距離電車(列車)」と呼ばれている。取手駅以北の常磐線を管轄するJR東日本水戸支社の公式サイトなどでは、IR情報やイベント案内などでも一部を除いて特に「上野・取手間快速運転」などの注釈はされておらず、たとえ上野駅の時刻を掲載する場合でも「普通列車」と案内しており、場合によっては「各駅停車」になっているなど、支社によって対応が異なっている。 凡例 ●:停車 △:朝上り(上野駅行)のみ停車 ◇:日中のみ停車 ―:通過 東京都心と茨城県・福島県浜通りなどの常磐線沿線地区を結ぶ特急列車「ひたち」・「ときわ」も快速線上を走行する。常磐快速線内では、柏駅に「ときわ」が朝の通勤時間帯の上り列車及び夜の下り1本を除き停車する。詳細は「ひたち (列車)」の項を参照。 日本貨物鉄道(JR貨物)によって運行される貨物列車も、常磐快速線を走行する。比較的本数が多い。ただし、馬橋駅 - 金町駅間では千葉方面へのコンテナ列車とガソリン輸送車扱貨物列車は、南流山駅 - 蘇我駅間の武蔵野線・京葉線経由に変更した列車が設定されたため、本数が削減された。ただし、東京メトロ関連の甲種輸送については、綾瀬駅発着として、綾瀬駅 - 松戸駅間を線路閉鎖して輸送が行われる。 上野駅 - 取手駅間のもの。 全線が首都圏本部の管轄である。このうち三河島駅 - 取手駅間が「松戸地区」と呼ばれる区間に当たる。 2016年度までは快速電車と中距離列車を別に算出していたが、2017年度から合算値とした。2020年度最混雑区間(松戸 → 北千住間)の混雑率は91%である。 上野駅 - 取手駅間の快速線上に設置されている旅客駅と直通運転区間の上野東京ライン(品川駅-上野駅間)の特別快速停車駅・接続路線・所在地を以下に一覧形式で示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "常磐快速線(じょうばんかいそくせん)は、東京都台東区の上野駅から茨城県取手市の取手駅までの東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の運転系統及び旅客案内名称である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJJ。路線案内上では「常磐線(快速)」と表示される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "運転系統上の「常磐線快速」は東北本線上野駅 - 日暮里駅間と常磐線日暮里駅 - 取手駅間を直通する上野駅 - 取手駅間の系統を指している。成田線の我孫子支線である我孫子駅 - 成田駅間や、2015年3月14日からは、一部列車が上野東京ラインを経由して東海道本線(東海道線)品川駅まで乗り入れており、品川駅 - 上野駅間や我孫子駅 - 成田駅間も系統上の一区間として扱われる場合もある。綾瀬駅 - 取手駅間は複々線化されており、緩行線は「常磐緩行線」と呼ばれ、綾瀬駅からは東京メトロ千代田線と相互直通運転を行なっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本記事では、「常磐線快速」および品川駅 - 取手駅間の「常磐線(中距離列車、中電)」の運行形態について記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京都心から北千住、千葉県北西部(東葛地域)の松戸市や柏市、我孫子市天王台といった東京のベッドタウンを経由して、茨城県南部の取手市へ延びる。全区間が東京への通勤・通学路線としての役割をもつ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "常磐線は北千住駅から取手駅までが線路別複々線で、快速線は綾瀬駅 - 金町駅間では緩行線の南側、金町駅 - 取手駅間では緩行線の北側に配置されている。常磐線快速はこの複々線の快速線を走行する。緩行線との乗り換えにはホーム間の移動を要する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "常磐線は日本国有鉄道(国鉄)時代の1971年に、通勤五方面作戦の一環として、綾瀬駅 - 我孫子駅間が複々線化された。同時にそれまで各駅停車として上野駅 - 取手駅間で運転されていた電車との緩急分離が行われ、以降は、各駅停車が走行する線路が常磐緩行線、中距離列車・特急や急行などの優等列車・貨物列車とこの時新設された快速電車が走行する線路が常磐快速線と呼ばれるようになった。その後1982年には複々線区間が取手駅まで延伸されている。常磐線が複々線になったことにより、千葉県北西部からの通勤アクセスが向上した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上野駅から取手駅までは直流電化だが、取手駅の隣にある藤代駅より北は沿線の茨城県石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所の観測に直流電化方式が影響を及ぼすという事情から交流電化が採用され、取手駅と藤代駅の間にデッドセクションが設けられている。そのため、取手駅止まりの一般型列車や我孫子駅から直流区間の成田線に直通する列車には緑色のラインをまとった直流電車のE231系が用いられるが、藤代駅以北の交流区間にまで乗り入れる一般型の中距離列車には青色のラインをまとった交直流電車のE531系を用いる必要があり、交直流電車は車両コストが高いことから使い分けがなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2009年度における松戸駅→北千住駅間のピーク1時間(ラッシュ時)の輸送量は、快速電車が34,480人、中距離列車が32,240人で合計66,720人である。同時間帯・同区間の混雑率は快速電車が173%、中距離列車が179%であり、両者の平均は176%となっている。これはおおよそ「体が触れ合うが新聞は読める」程度の目安とされている180%に近い数字である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "常磐快速線の旅客列車は、大きく分けて、特急、上野駅 - 取手駅間で運転される快速電車と、取手駅を越えて土浦・水戸方面に直通する中距離列車(“普通”と“特別快速”)の3系統がある。常磐快速線では北千住駅 - 取手駅間を緩行線経由で運行する列車は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2015年3月14日現在、快速電車と中距離列車(普通)の停車駅は統一され、案内も「快速」に統一されているが、車両運用は区別されており、快速電車はエメラルドグリーンと黄緑の2色(■■)の帯が巻かれたグリーン車のない車両、中距離列車はグリーン車を組み込んだ青一色(■)の帯が巻かれた車両が使用されている。前者は直流電化区間のみで運用されることから直流電車、後者は取手駅を越えて土浦・水戸・勝田方面の交流電化区間に乗り入れることから交直流電車が用いられている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以下、本記事では快速電車と中距離列車(普通)で特に区別する必要がない場合は「快速」と記述する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "上野駅 - 取手駅間の快速の標準的な所要時間は約40分、最速は快速で39分、普通で38分となっている。2006年3月18日のダイヤ改正で、日中時間帯(11時台から14時台)のダイヤが不等間隔ながらもパターン化され、上野駅 - 我孫子駅間では快速が1時間に6本(快速電車と中距離列車が3本ずつ)、特別快速が1本の運転となった。2022年3月12日のダイヤ改正で特別快速の運転が大幅に削減され、快速電車と中距離列車3本ずつの運転となった。我孫子駅 - 取手駅間は成田線直通電車が抜けるため、昼間の快速は合わせて5本であり、その部分は運転間隔も上りで13 - 17分、下りで20分開く。日中時間帯や土休日夜間は快速電車と中距離列車がほぼ交互に運転されるが、それ以外の時間帯では快速電車の運転比率が高い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この節では、品川駅・上野駅 - 取手駅間を走る快速電車(かつての国電、のちのE電)について解説する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1971年4月20日の複々線化によって上野駅 - 取手駅間を運転していた各駅停車がすべて地下鉄千代田線直通となり、上野駅発着列車の輸送力不足を解消するために新設された系統である。列車番号の末尾は「H」。エメラルドグリーン一色の車体を持つ103系電車が主力だった頃は、国鉄監修・JTB時刻表の常磐快速線のページには「青色の電車」と記載があり、「青電」と呼ばれることもあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "停車駅は1972年10月2日に柏駅が追加されて以降、変更はない。1982年11月15日の我孫子駅 - 取手駅間の複々線化の際、当初は天王台駅を通過する予定であったが、利用者の反発により停車することになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日中時間帯(11 - 14時台)は1時間に2 - 3本運行されており、この時間帯の発車時刻は上野発は毎時02分・22分(いずれも取手行き)・42分(成田行き)に統一されている。取手発は毎時03分・27分で、もう1本が成田線からの直通電車である(我孫子発は毎時57分)。朝夕時間帯は本数が多くなる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一部電車は我孫子駅から成田線に乗り入れ、成田駅まで直通運転している(一時期は朝夕のみだったが、2006年3月18日のダイヤ改正で日中の時間帯の直通運転が再開された)。我孫子駅で連結・切り離し作業をする列車では、同駅で停車時間が長めに取られている列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "途中駅のうち始発・終点となる電車の設定があるのは松戸駅と我孫子駅で、いずれも上野駅との間の運行が主体である。かつては下り方より途中駅(主に我孫子駅)で折り返す電車の設定もあったが、現在は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "朝の上り5本(土休日は2本)と夕方 - 夜間の一部(16・17時台 - 21・22時台まで、1時間に2 - 3本)は品川駅発着で運転されている。また、朝の品川行きの折り返し電車は運転せず、一部を夕方まで車両基地に留置するようになったため、朝の下り電車と夕方の松戸駅・我孫子駅の出庫電車が削減された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大晦日から元日にかけての終夜運転は実施されず、常磐線各駅停車のみ(我孫子駅発着・東京メトロ千代田線直通)の運転となる(2020年は運転計画は立てられたものの中止となり、2021年度は運転計画自体が立てられなかった)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "常磐線は、複々線化される前は各駅に停まる「電車」(国電)と、一部の駅にしか停まらない「普通列車」(中距離列車)が設定されていた。列車番号の末尾は「M」。かつてはアズキ色の塗装が施されていたため、快速電車の「青電」との対比において「赤電」や、中距離電車の略で「中電」とも呼ばれることもあった。なお、その後塗装は国際科学技術博覧会の開催決定(1985年に茨城県で開催)を機に白地に青帯に変更されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)に綾瀬駅 - 我孫子駅間が複々線化され、上野駅発着の常磐快速線と、営団地下鉄千代田線(現在の東京メトロ千代田線)に乗り入れる常磐緩行線が分離された。このとき、従来の「電車」(各駅停車)は、複々線区間においては緩行線を走行し、綾瀬駅から千代田線へ直通させることとなった。この「常磐緩行線上を走行する電車」は各駅停車と呼ばれるようになり、取手駅を越えて土浦駅・水戸駅方面へ行く中距離普通列車と区別する際に使われる言葉となった。そして中距離列車は、複々線区間においては快速線上を走行することになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現在、中距離列車は“普通”のほか、2005年7月9日より設定された“特別快速”の2種別が運行されている。前者は前述の快速電車と停車駅を統一したことから、常磐快速線内の案内名称が「快速」に変更されている。日中時間帯(11 - 14時台)の上野発は12分・32分・52分(全て品川発)に、取手発品川行は毎時21分・42分・59分(11時台は56分)に統一されている。上野東京ライン直通はほぼ終日に渡り設定されている(上野東京ライン開業時から2017年10月ダイヤ改正までは日中から夕方にかけてのみ設定されていた)。また、朝の下りと終電の各1本ずつ我孫子駅発着列車があり、上りの終電は直後の快速電車上野行きに接続している。さらにこの快速電車から松戸駅で北千住行き最終各駅停車にも接続している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "特別快速は、2005年7月9日の設定当初は5.5往復で、2006年3月18日から2022年3月11日までは6往復が運転されていた。上野駅 - 取手駅間では日暮里駅・松戸駅・柏駅のみに停車し、取手駅以北は各駅に停車するダイヤとなった。最高速度は首都圏の普通列車で初の130km/hとされ、標準の所要時間は上野駅 - 土浦駅間55分、当線内の停車駅と上野駅間の所要時間は松戸駅15分、柏駅23分、取手駅31分であった。2015年3月14日のダイヤ改正より北千住駅に停車するようになり、所要時間はやや延びている(上野駅発着の所要時間は、北千住駅9分、松戸駅17分、柏駅25分、取手駅33分)。2022年3月12日のダイヤ改正で、上りは取手発9・10時台、下りは上野発15・16時台の2往復のみの運転となった。特別快速の運行開始の背景には並行路線となった首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開業が挙げられる。つくばエクスプレスが高速運転を行ったのに対抗して設定され、当時新型のE531系が充当された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1991年3月16日の改正より、平日の朝の上りと毎日夕方の下りに通勤快速が運行されていた。本数は朝上り最大3本・夕方下り1本であったが、2005年7月9日より朝上り2本のみに削減され、2006年3月18日改正をもって普通列車に置き換えられ、すべて廃止された。上野駅 - 土浦駅間の停車駅は日暮里駅・松戸駅・柏駅・取手駅・牛久駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このほか、2019年まで8月にひたちなか市の国営ひたち海浜公園で開催されたROCK IN JAPAN FESTIVALの観客の帰宅の足として臨時快速列車が運転されていた。2011年までの当線内の停車駅は、上りは取手駅・我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅・日暮里駅・上野駅である。2012年は、天王台駅・南千住駅・三河島駅にも停車した(2013年からは取手止まり)。2008年と2009年に運転された下り列車は、快速と同じ停車駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "常磐快速線は当初、中距離列車(普通列車)と快速電車の停車駅に相違があり、上野駅 - 取手駅間では普通列車の通過駅が快速電車よりも多く、さらに各駅停車も運行されているという、利用客にとっては紛らわしい状況であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "中距離列車は1971年4月20日の複々線化当初、三河島駅・南千住駅・北千住駅・柏駅・天王台駅を通過していた。柏駅の快速線ホームが設置された1972年10月2日から日中は上下とも柏駅停車となり、1980年10月1日からは全列車が柏駅停車に、さらに1985年3月14日からは北千住駅停車となった。1985年3月13日までは、我孫子駅や松戸駅の待避設備を利用し快速電車を追い越すことがあったほか、1982年11月14日まで存在した客車による普通列車については柏駅・北千住駅は通過であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "民営化後の1988年3月13日より中距離列車が天王台駅に全列車停車となって、日中のみ三河島駅・南千住駅にも停車するようになり、日中時間帯は上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅が同一になった。その後2004年3月13日より中距離列車が南千住駅と三河島駅に全列車停車するようになり、上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅の差異がなくなった。これを受けて同年10月16日から土浦・水戸方面に直通する中距離列車も、上野駅 - 取手駅間では“快速”と案内されるようになり、従前の「快速電車」と案内の上でも差がなくなり、取手以南において「各駅停車」と「普通列車」の停車駅が異なるという利用者にとってわかりにくい状態も解消されることになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ただし、『JR時刻表』や『JTB時刻表』では、快速電車と中距離列車が別系統として掲載されている。また、JR東日本のプレスリリースでは、案内呼称統一後も中距離列車は「快速」ではなく「普通電車(中距離電車)」や「普通列車」「中距離電車(列車)」と呼ばれている。取手駅以北の常磐線を管轄するJR東日本水戸支社の公式サイトなどでは、IR情報やイベント案内などでも一部を除いて特に「上野・取手間快速運転」などの注釈はされておらず、たとえ上野駅の時刻を掲載する場合でも「普通列車」と案内しており、場合によっては「各駅停車」になっているなど、支社によって対応が異なっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "凡例 ●:停車 △:朝上り(上野駅行)のみ停車 ◇:日中のみ停車 ―:通過", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東京都心と茨城県・福島県浜通りなどの常磐線沿線地区を結ぶ特急列車「ひたち」・「ときわ」も快速線上を走行する。常磐快速線内では、柏駅に「ときわ」が朝の通勤時間帯の上り列車及び夜の下り1本を除き停車する。詳細は「ひたち (列車)」の項を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本貨物鉄道(JR貨物)によって運行される貨物列車も、常磐快速線を走行する。比較的本数が多い。ただし、馬橋駅 - 金町駅間では千葉方面へのコンテナ列車とガソリン輸送車扱貨物列車は、南流山駅 - 蘇我駅間の武蔵野線・京葉線経由に変更した列車が設定されたため、本数が削減された。ただし、東京メトロ関連の甲種輸送については、綾瀬駅発着として、綾瀬駅 - 松戸駅間を線路閉鎖して輸送が行われる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上野駅 - 取手駅間のもの。", "title": "データ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "全線が首都圏本部の管轄である。このうち三河島駅 - 取手駅間が「松戸地区」と呼ばれる区間に当たる。", "title": "データ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2016年度までは快速電車と中距離列車を別に算出していたが、2017年度から合算値とした。2020年度最混雑区間(松戸 → 北千住間)の混雑率は91%である。", "title": "データ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上野駅 - 取手駅間の快速線上に設置されている旅客駅と直通運転区間の上野東京ライン(品川駅-上野駅間)の特別快速停車駅・接続路線・所在地を以下に一覧形式で示す。", "title": "駅一覧" } ]
常磐快速線(じょうばんかいそくせん)は、東京都台東区の上野駅から茨城県取手市の取手駅までの東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の運転系統及び旅客案内名称である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJJ。路線案内上では「常磐線(快速)」と表示される。 運転系統上の「常磐線快速」は東北本線上野駅 - 日暮里駅間と常磐線日暮里駅 - 取手駅間を直通する上野駅 - 取手駅間の系統を指している。成田線の我孫子支線である我孫子駅 - 成田駅間や、2015年3月14日からは、一部列車が上野東京ラインを経由して東海道本線(東海道線)品川駅まで乗り入れており、品川駅 - 上野駅間や我孫子駅 - 成田駅間も系統上の一区間として扱われる場合もある。綾瀬駅 - 取手駅間は複々線化されており、緩行線は「常磐緩行線」と呼ばれ、綾瀬駅からは東京メトロ千代田線と相互直通運転を行なっている。 本記事では、「常磐線快速」および品川駅 - 取手駅間の「常磐線(中距離列車、中電)」の運行形態について記述する。
{{Pathnav|常磐線|frame=1}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 常磐快速線 |路線色=#00b261 |ロゴ=File:JR JJ line symbol.svg |ロゴサイズ=40px |画像=E231系0番台マト101編成.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=快速線区間で運用される[[JR東日本E231系電車|E231系電車]]<br /><small>(2019年3月20日 [[松戸駅]] - [[金町駅]]間)</small> |通称=[[上野東京ライン]](上野駅発着を除く) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]]、[[千葉県]]、[[茨城県]] |起点=[[上野駅]](一部[[東京駅]]経由[[品川駅]]) |終点=[[取手駅]] |駅数=10駅 |路線記号=JJ(品川駅 - 東京駅はJT) |経由路線=([[東北本線]])、[[常磐線]]、([[成田線]]) |開業= |休止= |廃止= |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本) |車両基地= |使用車両=[[JR東日本E231系電車|E231系]], [[JR東日本E531系電車|E531系]], [[JR東日本E657系電車|E657系]] |路線距離=39.6 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]] |最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]]{{Refnest|group="注"|[[JR東日本E991系電車|E991系電車]]を使用した試験では160km/hでの運転実績がある <ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1508/21/news031.html 杉山淳一の「週刊鉄道経済」:信州特急「あずさ」に新車が入ると伊豆特急「踊り子」が快適に? (1/4) - ITmedia ビジネスオンライン]</ref>。}} |路線図= }} '''常磐快速線'''(じょうばんかいそくせん)は、[[東京都]][[台東区]]の[[上野駅]]から[[茨城県]][[取手市]]の[[取手駅]]までの[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]の運転系統及び旅客案内名称である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''JJ'''。路線案内上では「'''常磐線(快速)'''」と表示される。 運転系統上の「'''常磐線快速'''」は[[東北本線]]上野駅 - [[日暮里駅]]間と常磐線日暮里駅 - 取手駅間を直通する上野駅 - 取手駅間の系統を指している<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/map/pdf/map_tokyo.pdf 路線ネットワーク](東京近郊路線図)}} 東日本旅客鉄道</ref>。[[成田線]]の我孫子支線である[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] - [[成田駅]]間や、[[2015年]][[3月14日]]からは、一部列車が[[上野東京ライン]]を経由して[[東海道本線]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]])[[品川駅]]まで乗り入れており<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-30 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141022.pdf |format=PDF |title=「上野東京ライン」開業により、南北の大動脈が動き出します〜開業時期、直通運転の概要について〜 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2014-11-05}}</ref>、品川駅 - 上野駅間や我孫子駅 - 成田駅間も系統上の一区間として扱われる場合もある。[[綾瀬駅]] - 取手駅間は[[複々線]]化されており、緩行線は「'''[[常磐緩行線]]'''」と呼ばれ、綾瀬駅からは[[東京メトロ千代田線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行なっている。 本記事では、「常磐線快速」および品川駅 - 取手駅間の「常磐線(中距離列車、中電)」の運行形態について記述する。 == 概要 == 東京都心から[[千住|北千住]]、[[千葉県]]北西部([[東葛地域]])の[[松戸市]]や[[柏市]]、[[我孫子市]][[天王台 (我孫子市)|天王台]]といった東京の[[ベッドタウン]]を経由して、[[茨城県]]南部の[[取手市]]へ延びる。全区間が東京への通勤・通学路線としての役割をもつ。 常磐線は[[北千住駅]]から[[取手駅]]までが[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]で、[[急行線|快速線]]は[[綾瀬駅]] - [[金町駅]]間では緩行線の南側、金町駅 - 取手駅間では緩行線の北側に配置されている。常磐線快速はこの複々線の快速線を走行する。緩行線との乗り換えにはホーム間の移動を要する。 常磐線は[[日本国有鉄道]](国鉄)時代の[[1971年]]に、[[通勤五方面作戦]]の一環として、綾瀬駅 - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間が複々線化された。同時にそれまで[[各駅停車]]として上野駅 - 取手駅間で運転されていた電車との緩急分離が行われ<ref name="rf201005-025">{{Cite_journal|和書||title=特集・短絡線ミステリー10 都心を貫く直通運転をさぐる|date=2010-05|publisher=交友社|journal=鉄道ファン|volume=50|number=5|pages=25-27}}</ref>、以降は、各駅停車が走行する線路が[[常磐緩行線]]、[[中距離電車|中距離列車]]・特急や急行などの[[優等列車]]・[[貨物列車]]とこの時新設された快速電車が走行する線路が常磐快速線と呼ばれるようになった。その後[[1982年]]には複々線区間が取手駅まで延伸されている<ref name="rf201005-025" />。常磐線が複々線になったことにより、千葉県北西部からの通勤アクセスが向上した。 [[上野駅]]から取手駅までは[[直流電化]]だが、取手駅の隣にある[[藤代駅]]より北は沿線の茨城県[[石岡市]]柿岡にある[[気象庁地磁気観測所]]の観測に直流電化方式が影響を及ぼすという事情から[[交流電化]]が採用され、取手駅と藤代駅の間に[[デッドセクション]]が設けられている。そのため、取手駅止まりの[[一般形車両 (鉄道)|一般型列車]]や我孫子駅から直流区間の[[成田線]]に直通する列車には緑色のラインをまとった直流電車の[[JR東日本E231系電車|E231系]]が用いられるが、藤代駅以北の交流区間にまで乗り入れる一般型の中距離列車には青色のラインをまとった[[交直流電車]]の[[JR東日本E531系電車|E531系]]を用いる必要があり、交直流電車は車両コストが高いことから使い分けがなされている。 2009年度における[[松戸駅]]→北千住駅間のピーク1時間([[ラッシュ時]])の輸送量は、快速電車が34,480人、中距離列車が32,240人で合計66,720人である。同時間帯・同区間の[[乗車率|混雑率]]は快速電車が173%、中距離列車が179%であり、両者の平均は176%となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/jre_youran_all.pdf JR東日本 会社要覧2010]}} - 東日本旅客鉄道 p.32</ref>。これはおおよそ「体が触れ合うが新聞は読める」程度の目安とされている180%<ref>[http://www.mintetsu.or.jp/word/Individual/151.html 混雑率-民鉄用語辞典] - 日本民営鉄道協会</ref>に近い数字である。 == 歴史 == {{Main2|複々線化までの沿革|常磐緩行線#複々線化の沿革と問題|<br />複々線化後の停車駅の変遷|#「快速」への呼称統一}} == 運行形態 == [[File:JR常磐線 停車駅案内図.svg|none|640px|停車駅表]] 常磐快速線の旅客列車は、大きく分けて、'''[[特別急行列車|特急]]'''、上野駅 - 取手駅間で運転される'''[[快速列車|快速電車]]'''と、取手駅を越えて土浦・[[水戸駅|水戸]]方面に直通する'''[[中距離電車|中距離列車]]'''(“[[普通列車|普通]]”と“[[特別快速#常磐線|特別快速]]”)の3系統がある。常磐快速線では北千住駅 - 取手駅間を緩行線経由で運行する列車は設定されていない。 2015年3月14日現在、快速電車と中距離列車(普通)の停車駅は統一され、案内も「快速」に統一されているが、車両運用は区別されており、快速電車はエメラルドグリーンと黄緑の2色({{Color|#339999|■}}{{Color|#33dd22|■}})の帯が巻かれた[[グリーン車]]のない車両、中距離列車はグリーン車を組み込んだ青一色({{Color|#33f|■}})の帯が巻かれた車両が使用されている。前者は[[直流電化]]区間のみで運用されることから直流電車、後者は取手駅を越えて[[土浦駅|土浦]]・水戸・[[勝田駅|勝田]]方面の[[交流電化]]区間に乗り入れることから[[交直流電車]]が用いられている。 以下、本記事では快速電車と中距離列車(普通)で特に区別する必要がない場合は「快速」と記述する。 [[上野駅]] - [[取手駅]]間の快速の標準的な所要時間は約40分、最速は快速で39分、普通で38分となっている。[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正で、日中時間帯(11時台から14時台)のダイヤが不等間隔ながらもパターン化され、上野駅 - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間では快速が1時間に6本(快速電車と中距離列車が3本ずつ)、特別快速が1本の運転となった<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2005_2/20051209.pdf 2006年3月 ダイヤ改正について] - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2005年12月9日付、2013年4月29日閲覧}}</ref>。2022年3月12日のダイヤ改正で特別快速の運転が大幅に削減され、快速電車と中距離列車3本ずつの運転となった。我孫子駅 - 取手駅間は[[成田線]]直通電車が抜けるため、昼間の快速は合わせて5本であり、その部分は運転間隔も上りで13 - 17分、下りで20分開く。日中時間帯や土休日夜間は快速電車と中距離列車がほぼ交互に運転されるが、それ以外の時間帯では快速電車の運転比率が高い。 <!-- 現在のダイヤと合致しませんので修正して下さい。 {| class="wikitable" style="font-size:95%;" |+日中の運行パターン |- !colspan="2"|路線名 !rowspan="2"|上野東京ライン !colspan="8"|常磐快速線 !rowspan="2"|常磐線<br/>水戸方面 |- !colspan="2"|駅名\種別 !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|上野}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|我孫子}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|取手}} |- style="text-align:center;" !rowspan="9" style="width:1em;"|運行本数 |style="background:tomato;" rowspan="2"|特急 |rowspan="5" style="text-align:right"|←品川||colspan="8" style="background:tomato;"| 1本||style="text-align:left"|→いわき・仙台 |- style="text-align:center;" |colspan="8" style="background:tomato;"| 1本||style="text-align:left"|→勝田 |- style="text-align:center;" |style="background:pink;"|特別快速 |colspan="8" style="background:pink;"| 1本||style="text-align:left"|→土浦 |- style="text-align:center;" |style="background:lightblue;" rowspan="3"|快速 |- style="text-align:center;" |colspan="8" style="background:lightblue;"| 3本||style="text-align:left"rowspan="2"|→土浦・水戸・勝田 |- style="text-align:center;" |colspan="2"rowspan="4"|&nbsp;||colspan="7" style="background:lightblue;"| 2本 |- style="text-align:center;" |style="background:lightgreen;" rowspan="3"|快速 |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:lightgreen;"| 2本||colspan="2"|&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:lightgreen;"| 1本||colspan="6"style="text-align:left"|→成田 |}--> === 快速電車 === この節では、品川駅・上野駅 - 取手駅間を走る'''快速電車'''(かつての[[国電]]、のちの[[E電]])について解説する。 [[1971年]][[4月20日]]の複々線化によって上野駅 - 取手駅間を運転していた各駅停車がすべて地下鉄千代田線直通となり、上野駅発着列車の輸送力不足を解消するために新設された系統である。[[列車番号]]の末尾は「H」。エメラルドグリーン一色の車体を持つ103系電車が主力だった頃は、国鉄監修・JTB時刻表の常磐快速線のページには「青色の電車」と記載があり、「'''青電'''」と呼ばれることもあった。 停車駅は[[1972年]][[10月2日]]に[[柏駅]]が追加されて以降、変更はない。[[1982年]][[11月15日]]の我孫子駅 - 取手駅間の複々線化の際、当初は[[天王台駅]]を通過する予定であったが、利用者の反発により停車することになった<ref name="rp200309-014">RP2003-09 pp.14-15 「大都市圏での快速運転の発達 ―国鉄時代を中心に―」</ref>。 日中時間帯(11 - 14時台)は1時間に2 - 3本運行されており、この時間帯の発車時刻は上野発は毎時02分・22分(いずれも取手行き)・42分(成田行き)に統一されている。取手発は毎時03分・27分で、もう1本が成田線からの直通電車である(我孫子発は毎時57分)。朝夕時間帯は本数が多くなる。 一部電車は[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]から[[成田線]]に乗り入れ、[[成田駅]]まで直通運転している(一時期は朝夕のみだったが、[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正で日中の時間帯の直通運転が再開された)。我孫子駅で連結・切り離し作業をする列車では、同駅で停車時間が長めに取られている列車もある。 途中駅のうち始発・終点となる電車の設定があるのは[[松戸駅]]と我孫子駅で、いずれも[[上野駅]]との間の運行が主体である。かつては下り方より途中駅(主に我孫子駅)で折り返す電車の設定もあったが、現在は設定されていない。 朝の上り5本(土休日は2本)と夕方 - 夜間の一部(16・17時台 - 21・22時台まで、1時間に2 - 3本)は品川駅発着で運転されている。また、朝の品川行きの折り返し電車は運転せず、一部を夕方まで車両基地に留置するようになったため、朝の下り電車と夕方の松戸駅・我孫子駅の出庫電車が削減された。 大晦日から元日にかけての[[終夜運転]]は実施されず、常磐線各駅停車のみ(我孫子駅発着・[[東京メトロ千代田線]]直通)の運転となる(2020年は運転計画は立てられたものの中止となり、2021年度は運転計画自体が立てられなかった)。 === 中距離列車 === 常磐線は、複々線化される前は'''各駅に停まる「電車」'''(国電)と、'''一部の駅にしか停まらない「普通列車」'''(中距離列車)が設定されていた。列車番号の末尾は「M」。かつてはアズキ色の塗装が施されていたため、快速電車の「青電」との対比において「'''赤電'''」や、中距離電車の略で「'''中電'''」とも呼ばれることもあった。なお、その後塗装は[[国際科学技術博覧会]]の開催決定([[1985年]]に茨城県で開催)を機に白地に青帯に変更されている<ref>{{Cite_journal|和書|date=1984-03|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=205|publisher=[[鉄道ジャーナル社]]|page=21|title=東京・大阪 国鉄電車 運転の現状}}</ref>。 [[1971年]]([[昭和]]46年)に[[綾瀬駅]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間が複々線化され、上野駅発着の'''常磐快速線'''と、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]千代田線(現在の[[東京メトロ千代田線]])に乗り入れる[[常磐緩行線]]が分離された。このとき、従来の「電車」([[各駅停車]])は、複々線区間においては緩行線を走行し、綾瀬駅から千代田線へ[[直通運転|直通]]させることとなった。この「常磐緩行線上を走行する電車」は'''各駅停車'''と呼ばれるようになり、取手駅を越えて[[土浦駅]]・[[水戸駅]]方面へ行く中距離'''普通列車'''と区別する際に使われる言葉となった。そして中距離列車は、複々線区間においては快速線上を走行することになった。 現在、中距離列車は“普通”のほか、[[2005年]][[7月9日]]より設定された“[[特別快速]]”の2種別が運行されている。前者は前述の快速電車と停車駅を統一したことから、常磐快速線内の案内名称が「'''快速'''」に変更されている<ref name="RJ200701-043">RJ2007-01 p.43「大都市圏輸送の花形 快速電車考」</ref>。日中時間帯(11 - 14時台)の上野発は12分・32分・52分(全て品川発)に、取手発品川行は毎時21分・42分・59分(11時台は56分)に統一されている。上野東京ライン直通はほぼ終日に渡り設定されている(上野東京ライン開業時から[[2017年]]10月ダイヤ改正までは日中から夕方にかけてのみ設定されていた)。また、朝の下りと[[終電]]の各1本ずつ我孫子駅発着列車があり、上りの終電は直後の快速電車上野行きに接続している。さらにこの快速電車から松戸駅で北千住行き最終各駅停車にも接続している。 '''特別快速'''は、2005年7月9日の設定当初は5.5往復で<ref name="jreast20050407">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050407.pdf 2005年7月 ダイヤ改正について] - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2005年4月12日付、2013年4月29日閲覧}}</ref>、2006年3月18日から2022年3月11日までは6往復が運転されていた。上野駅 - 取手駅間では[[日暮里駅]]・松戸駅・柏駅のみに停車し、取手駅以北は各駅に停車するダイヤとなった。<!--このため、成田線との乗換駅であり大半の緩行線電車が発着する我孫子駅を通過することが特徴となっている。 ←特記するほどの特徴といえない。-->最高速度は首都圏の普通列車で初の130km/hとされ、標準の所要時間は上野駅 - 土浦駅間55分、当線内の停車駅と上野駅間の所要時間は松戸駅15分、柏駅23分、取手駅31分であった<ref name="jreast20050407" />。2015年3月14日のダイヤ改正より北千住駅に停車するようになり、所要時間はやや延びている(上野駅発着の所要時間は、北千住駅9分、松戸駅17分、柏駅25分、取手駅33分)。2022年3月12日のダイヤ改正で、上りは取手発9・10時台、下りは上野発15・16時台の2往復のみの運転となった。特別快速の運行開始の背景には並行路線となった[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の開業が挙げられる。つくばエクスプレスが高速運転を行ったのに対抗して設定され、当時新型のE531系が充当された。 [[1991年]]3月16日の改正より、平日の朝の上りと毎日夕方の下りに'''[[列車種別#通勤種別|通勤快速]]'''が運行されていた<ref name="RP200309-035">RP2003-09 pp.34-35「JR東日本 東京圏の「通勤快速」」</ref>。本数は朝上り最大3本・夕方下り1本であった<ref name="RP200309-035" />が、2005年7月9日より朝上り2本のみに削減され、2006年3月18日改正をもって普通列車に置き換えられ、すべて廃止された。上野駅 - 土浦駅間の停車駅は日暮里駅・松戸駅・柏駅・取手駅・[[牛久駅]]であった<ref name="RP200309-035" />。 このほか、2019年まで8月に[[ひたちなか市]]の[[国営ひたち海浜公園]]で開催された[[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]]の観客の帰宅の足として[[臨時列車|臨時]][[快速列車]]が運転されていた。2011年までの当線内の停車駅は、上りは取手駅・我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅・日暮里駅・上野駅である<ref>{{PDFlink|[http://www.jrmito.com/press/110620/20110620_press02.pdf 夏の臨時列車のお知らせ] - 東日本旅客鉄道水戸支社プレスリリース 2011年6月20日}}</ref>。2012年は、天王台駅・南千住駅・三河島駅にも停車した(2013年からは取手止まり)。2008年と2009年に運転された下り列車は、快速と同じ停車駅であった。 {{-}} ==== 「快速」への呼称統一 ==== 常磐快速線は当初、中距離列車(普通列車)と快速電車の停車駅に相違があり、上野駅 - 取手駅間では'''普通列車'''の通過駅が快速電車よりも多く、さらに'''各駅停車'''も運行されているという、利用客にとっては紛らわしい状況であった<ref name="RJ200701-043" />。 中距離列車は[[1971年]][[4月20日]]の複々線化当初、三河島駅・南千住駅・北千住駅・柏駅・天王台駅を通過していた。柏駅の快速線ホームが設置された1972年10月2日から日中は上下とも柏駅停車となり、[[1980年]][[10月1日]]からは全列車が柏駅停車に、さらに[[1985年]][[3月14日]]からは北千住駅停車となった。1985年3月13日までは、我孫子駅や松戸駅の待避設備を利用し快速電車を追い越すことがあったほか、1982年11月14日まで存在した客車による普通列車については柏駅・北千住駅は通過<ref group="注">上野駅・日暮里駅・松戸駅・我孫子駅・取手駅から先の各駅に停車。</ref>であった。 民営化後の[[1988年]][[3月13日]]より中距離列車が天王台駅に全列車停車となって、日中のみ三河島駅・南千住駅にも停車するようになり、日中時間帯は上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅が同一になった。その後[[2004年]]3月13日より中距離列車が南千住駅と三河島駅に全列車停車するようになり<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2003_2/20031207_3.pdf 2004年3月ダイヤ改正について III.首都圏輸送] - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2003年12月7日付、2013年4月29日閲覧}}</ref>、上野駅 - 取手駅間で快速電車と停車駅の差異がなくなった。これを受けて同年[[10月16日]]から土浦・水戸方面に直通する中距離列車も、上野駅 - 取手駅間では“快速”と案内されるようになり、従前の「快速電車」と案内の上でも差がなくなり、取手以南において「各駅停車」と「普通列車」の停車駅が異なるという利用者にとってわかりにくい状態も解消されることになった<ref name="RJ200701-043" />。 ただし、『JR時刻表』や『JTB時刻表』では、快速電車と中距離列車が別系統として掲載されている。また、JR東日本のプレスリリースでは、案内呼称統一後も中距離列車は「快速」ではなく「普通電車(中距離電車)」<ref name="jreast20060303">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2005_2/20060303.pdf 常磐線普通電車(中距離電車)におけるグリーン車サービス開始及び宇都宮線・高崎線におけるグリーン車サービス拡大について] - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2006年3月7日}}</ref>や「普通列車」「中距離電車(列車)」と呼ばれている。取手駅以北の常磐線を管轄する[[東日本旅客鉄道水戸支社|JR東日本水戸支社]]の公式サイトなどでは、IR情報やイベント案内などでも一部を除いて特に「上野・取手間快速運転」などの注釈はされておらず、たとえ上野駅の時刻を掲載する場合でも「普通列車」と案内しており、場合によっては「各駅停車」になっているなど、支社によって対応が異なっている。 {| class="wikitable" style="margin:0; font-size:85%;" |+ '''1971年複々線化以後の停車駅の変遷''' |- !colspan="2"|停車駅 !style="width:1em;"|上野 !style="width:1em;"|日暮里 !style="width:1em;"|三河島 !style="width:1em;"|南千住 !style="width:1em;"|北千住 !style="width:1em;"|松戸 !style="width:1em;"|柏 !style="width:1em;"|我孫子 !style="width:1em;"|天王台 !style="width:1em;"|取手 !style="background-color:#ddd;"|備考 |- style="background-color:#6fc;" !rowspan="2"|{{Nowrap|快速電車}} |{{Nowrap|1971年}} |●||●||●||●||●||●||―||●||●||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|&nbsp; |- style="background-color:#6fc;" |1972年 |●||●||●||●||●||●||●||●||●||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|柏駅停車 |- style="background-color:#eab;" !rowspan="6"|普通 |1971年 |●||●||―||―||△||●||―||●||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|北千住駅は朝上りのみ停車 |- style="background-color:#eab;" |1972年 |●||●||―||―||△||●||◇||●||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|日中のみ柏駅停車 |- style="background-color:#eab;" |1980年 |●||●||―||―||△||●||●||●||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|終日柏駅停車 |- style="background-color:#9df;" |1985年 |●||●||―||―||●||●||●||●||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|終日北千住駅停車 |- style="background-color:#9df;" |1988年 |●||●||◇||◇||●||●||●||●||●||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|終日天王台駅停車、日中のみ三河島駅・南千住駅停車となり、快速と停車駅が同じになる。 |- style="background-color:#9df;" |2004年 |●||●||●||●||●||●||●||●||●||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|終日三河島駅・南千住駅停車、完全に快速と停車駅が同じになる。 |- style="background-color:#6bd;" !rowspan="2"|特別快速 |2005年 |●||●||―||―||―||●||●||―||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|&nbsp; |- style="background-color:#6bd;" |2015年 |●||●||―||―||●||●||●||―||―||● |style="text-align:left; background-color:#eee;"|北千住駅停車 |- style="background-color:#6bd;" |} 凡例 ●:停車 △:朝上り(上野駅行)のみ停車 ◇:日中のみ停車 ―:通過 === 特急 === 東京都心と[[茨城県]]・[[福島県]][[浜通り]]などの常磐線沿線地区を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]「ひたち」・「ときわ」も快速線上を走行する。常磐快速線内では、柏駅に「ときわ」が朝の通勤時間帯の上り列車及び夜の下り1本を除き停車する。詳細は「[[ひたち (列車)]]」の項を参照。 === 貨物列車 === [[日本貨物鉄道]](JR貨物)によって運行される[[貨物列車]]も、常磐快速線を走行する。比較的本数が多い。ただし、[[馬橋駅]] - [[金町駅]]間では千葉方面への[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]列車と[[ガソリン]]輸送[[車扱貨物]]列車は、[[南流山駅]] - [[蘇我駅]]間の[[武蔵野線]]・[[京葉線]]経由に変更した列車が設定されたため、本数が削減された。ただし、東京メトロ関連の[[車両輸送|甲種輸送]]については、綾瀬駅発着として、綾瀬駅 - 松戸駅間を[[線路閉鎖]]して輸送が行われる。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === ; 特急 :* [[JR東日本E657系電車|E657系]]([[勝田車両センター]]所属) : ; 快速電車 :* [[JR東日本E231系電車|E231系]]([[松戸車両センター]]所属) :** [[直流電化]]区間である取手駅以南や成田線直通列車に用いられる[[直流電車|直流]][[一般形車両 (鉄道)|一般形電車]]で、車体に緑色のラインをまとっている。10両または15両編成(成田線内では10両または5両編成)で運転されるが、E531系と異なりグリーン車は連結していない。<!--また、2015年3月13日までは、他の路線で運用されているE231系とは異なり、車外[[発光ダイオード|LED]]式表示器に路線名「常磐線(または成田線)」や「快速」の種別などは通常は表示されなかった(路線名・種別のみを表示させることはできた)が、翌14日のダイヤ改正により上野東京ラインでの運用が開始され、路線名(「常磐線」や「上野東京ライン東海道線直通」など)と行先を交互に表示するようになった。種別を単独でしか表示できないことに変化はない。--> : ; 中距離列車 :* [[JR東日本E531系電車|E531系]]([[勝田車両センター]]所属) :** [[藤代駅]]以北の[[交流電化]]区間への直通運用として用いられる[[交直流電車|交直流]]一般形電車で、車体に青色のラインをまとっている。10両または15両編成で運用され、[[2007年]][[3月18日]]のダイヤ改正より[[グリーン車]]2両が営業している。なおグリーン車の車両は2007年1月6日より連結されていたが、同年3月17日の終電までは普通車扱いとされた。 :** 当区間内は「快速」と案内されるが、車両の方向幕や種別表示部に「快速」と表示されることはない。[[2005年]][[7月9日]]の運用開始時点では通勤快速の運用にも就いていたが、翌年3月のダイヤ改正で通勤快速自体がなくなっている。 <gallery> ファイル:JREast-E231-Mato111.jpg|E231系 ファイル:Jreast e531 green10.jpg|E531系 </gallery> {|style="margin:1em 0; border:solid 1px #999; text-align:center;" |- |colspan="2" style="background-color:#eee; border-bottom:solid 3px #3d2;"|快速電車用 E231系の編成 |- |colspan="2" style="border-bottom:solid 5px #399;"| |- |colspan="2" style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|上野・東京・品川|取手・成田}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;" |+基本編成 |1||2||3||4||5||6||7||style="background-color:#dff;"|8||9||10 |} | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;" |+付属編成 |11||12||13||style="background-color:#dff;"|14||15 |} |- |colspan="2" style="font-size:80%; text-align:left;"| * 数字は号車番号を表す。 * 全車普通車 * 8・14号車は弱冷房車 |- |colspan="2" style="background-color:#eee; border-top:solid 4px #eee; border-bottom:solid 4px #33f;"|中距離列車用 E531系の編成 |- |colspan="2" style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|上野・東京・品川|水戸・勝田・高萩}} |- | {| class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;" |+ 基本編成 |1||2||3||style="background-color:#cf9;"|4||style="background-color:#cf9;"|5||6||7||style="background-color:#dff;"|8||9||10 |} | {| class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;" |+ 付属編成 |11||12||13||style="background-color:#dff;"|14||15 |} |- |colspan="2" style="text-align:left; font-size:80%;"| * 数字は号車番号を表す。 * 4・5号車はグリーン車 * 8・14号車は弱冷房車 * 1・2・10・13・14・15号車はセミクロスシート、3・6・7・8・11・12号車はロングシート。 :9号車は編成により異なる。 |} === 過去の使用車両 === ; 特急 :* [[国鉄485系電車|485系]] - 「ひたち」で運用されていたが、1998年10月のダイヤ改正で当路線での定期運用を終了。 :* [[JR東日本651系電車|651系]] - 主に「スーパーひたち」で運用されたが、2013年3月のダイヤ改正でE657系に置き換えられ、一度定期運用から撤退した。その後2013年10月から2015年3月まで、E657系に指定席発売状況を表示するLEDランプを取り付ける工事を行うことによる車両不足を解消するため、一時的に「フレッシュひたち」で定期運用に復帰していた。 :* [[JR東日本E653系電車|E653系]] - 主に「フレッシュひたち」で運用された。2013年3月のダイヤ改正でE657系に置き換えられ、当路線での定期運用を終了した。 : ; 快速電車 :* [[国鉄103系電車|103系]] :*: 1967年から投入され、後に緩行線での運用を失った1000番台も加わった。民営化後の1987年12月には15両編成の運転を開始した。2002年からE231系への置き換えが開始され、最後まで残っていた10両編成1本と5両編成2本は[[2006年]][[3月17日]]をもって定期運用を終了した。 : ; 中距離列車 :* [[国鉄415系電車|401系・403系・415系]] :*: 交流区間直通用の[[交直流電車]]。401系は1961年に、415系は1971年に投入された。運行終了時点では11両または15両編成で運転されていたが、2005年7月8日までは7・8・12両編成での運用も存在した。2007年3月17日に上野口での営業運転を終了した。2004年10月16日に普通列車の当区間内での案内が「快速」となって以降は、車両前後の種別幕は空白となっていた。 :* [[JR東日本E501系電車|E501系]] :*: 1995年に投入された交直流電車。15両編成(基本編成10両と付属編成5両)で、この系列のみ車体の帯の色はエメラルドグリーンと白の2色だった。2007年3月18日のダイヤ改正を前にした運用変更に伴い、同年[[2月21日]]をもって上野口での定期営業運転から離脱したが、ダイヤ改正前日の[[3月17日]]に、改正後の運用に移行する関係で上野口で運転された。 <gallery> File:JNR-415.JPG|415系 File:Jreast e501.jpg|E501系 </gallery> == データ == === 路線データ === <!--図の横幅を可能な限り狭く保つため、1行の表示文字数を10文字以下にしています(キロ程除く、アイコンは1文字換算)。加筆の際はご配慮下さい。--> {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00b261}} |- |colspan="2" style="font-size:85%;"|<!-- 固定幅は無改行の保証がないのでやめます --> * 上野駅付近の地下鉄線は経路を省略、記号のみ表記 * メトロ=[[東京地下鉄]](東京メトロ) {{BS-table}} {{BS3|||STR|||[[上野東京ライン]]|}} {{BS7||tSTR||KRW+l|KRWgr|STR|tKBHFa|||[[京成上野駅]]|}} {{BS7||tBHF|O2=HUBaq|KBHFa|O3=HUBq|BHF|O4=HUBq|BHF|O5=HUBq|BHF|O6=HUBeq|tSTR|2.2|JJ 01 [[上野駅]]|{{rint|tokyo|g}} {{rint|tokyo|h}} {{rint|tokyo|toden}}''[[東京都電車|都電]]''|}} {{BS7||tSTR|ABZg2u|STR3+c2|STR3|STR|tSTR||||}} {{BS7||tSTR|ABZg+1|STR+4u|O4=STR+1|STRc4|HST|tSTR|||[[鶯谷駅]]|}} {{BS7||tSTRl|KRZt|KRZt|tSTR+r|STR|tSTRe||||}} {{BS7||STR+l|KRZu|KRZu|tKRZ|KRZu|STRr|||[[京成電鉄|京成]]:[[京成本線|本線]]|}} {{BS7|uKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|STR|O4=HUBq|tSTRe|O5=HUBq|BHF|O6=HUBeq||0.0|JJ 02 [[日暮里駅]]||}} {{BS7|uSTR|STR|STR|STR|STR|STRl||||[[山手線]]・[[京浜東北線]]|}} {{BS7|uSTR|STR|STR|STR|STRl|STRq||||[[東北新幹線]]|}} {{BS7|uSTR|STR|STR|STR||STR+l|DSTq||[[田端信号場駅]]||}} {{BS7|uSTR|STR|STR|STRl|STRq|KRZu|STRq|||[[東北本線]]列車線|}} {{BS7|uSTR|STRl|KRZu|STRq|STR+r|STR|||| ([[宇都宮線]]・[[高崎線]])|}} {{BS7|uSTRl|uSTRq|mKRZu|uSTRq|mKRZu|mKRZu||||[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]|}} {{BS5|STR+l|KRZo|ABZq+l|KRZo|STRr|O5=POINTERg@fq||田端貨物線||}} {{BS5|STR|BHF|STR|LSTR||1.2|JJ 03 [[三河島駅]]||}} {{BS5|KRWgl|KRWg+lr|KRWr||||||}} {{BS5|STR|eDST||||2.6|''三ノ輪信号場''||}} {{BS5|STR|STR2|STRc3||||||}} {{BS5|KRZt|tSTR+r|O2=STRc1|STR+4|||||[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]|}} {{BS7|tSTR+4e|STR|tSTR|STR||||||メトロ{{rint|tokyo|h}}[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]|}} {{BS7|STR2|STR3u|tSTR|STR|||||隅田川貨物線||}} {{BS7|STR+1u|STR+4|tSTR|STR|||||||}} {{BS7|STR|BHF|O2=HUBaq|tBHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq||||3.4|JJ 04 [[南千住駅]]|{{rint|tokyo|toden}}''都電''|}} {{BS7|ABZgl|KRZo|tKRZ|ABZg+r|||||||}} {{BS7|KDSTe|STR|tSTRe|STR|||||[[隅田川駅]]||}} {{BS5|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|LSTR|||墨田川橋梁|[[隅田川]]|}} {{BS5|KRZu|KRZu|KRZu|STRr||||京成本線|}} {{BS5|STR|STR|STR|tSTR+l||||メトロ{{rint|tokyo|c}}[[東京メトロ千代田線|千代田線]]|}} {{BS5|ABZg+r|STR|STR|tSTR||||[[東武鉄道|東武]]:[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]|}} {{BS5|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|tBHF|O4=HUBeq||5.2|JJ 05 [[北千住駅]]|{{rint|tokyo|toden}}''都電''|}} {{BS5|STR|STR|STR|tSTRe|||||}} {{BS5|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|||荒川橋梁|[[荒川 (関東)|荒川]]|}} {{BS5|HST|tSTRa|STR|STR||||[[小菅駅]]|}} {{BS5|STRl|tKRZ|KRZu|KRZu||||東武伊勢崎線|}} {{BS3|tSTRl|KRZt|KRZt|||つくばエクスプレス|}} {{BS3||STR|HST+GRZq|(7.7)||[[綾瀬駅]]|}} {{BS3||STR|ABZgl|||メトロ{{rint|tokyo|c}}千代田線支線|}} {{BS3||STR|STR|O3=POINTERg@fq|||[[常磐緩行線]]|}} {{BS3||STR|O2=POINTERg@fq|STR||'''常磐快速線'''||}} {{BS3||STR|HST|(9.9)||[[亀有駅]]|}} {{BS3||hKRZWae|hKRZWae||中川橋梁|[[中川]]|}} {{BS3||ABZg+r|STR|||[[新金貨物線]]|}} {{BS3||DST|HST|11.8|[[金町駅]]||}} {{BS3||hKRZWae|O2=GRZq|hKRZWae|O3=GRZq||江戸川橋梁|[[江戸川]]|}} {{BS3|STR+l|KRZu|STRr|||[[東京都]]/[[千葉県]]|}} {{BS5|KDSTaq|ABZg+r|STR||||[[松戸車両センター]]||}} {{BS3|KRWgl|KRWg+r|||||}} {{BS5|KBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||15.7|JJ 06 [[松戸駅]]||}} {{BS5|STRr|STR|STR|||||[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]|}} {{BS3|HST|STR||(17.8)||[[北松戸駅]]|}} {{BS3|HST|DST|KHSTa|19.1|[[馬橋駅]]||}} {{BS5||STR|ABZgl|KRZu|STR+r|O5=POINTERg@fq|||武蔵野線貨物支線|}} {{BS7|||THSTu|KRZu|KRZu|KRZu|ABZq+l|(20.7)||[[新松戸駅]]|}} {{BS7|||STR|STR|STR|STR|STR|||←[[武蔵野線]]→|}} {{BS7|||STR|STR|HST|ABZl+l|STRr|||[[幸谷駅]]|}} {{BS5||STR|ABZg+l|KRZu|STRr|O5=POINTERg@fq|||武蔵野線貨物支線|}} {{BS3|STR|STR|STRl|||[[流鉄]]:[[流鉄流山線|流山線]]|}} {{BS3|HST|STR||(22.0)||[[北小金駅]]|}} {{BS3|HST|STR||(24.5)||[[南柏駅]]|}} {{BS3|KRZu|KRZu|ABZ+lr|||東武:[[東武野田線|野田線]]|}} {{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFxe|O3=HUBeq|26.9|JJ 07 [[柏駅]]||}} {{BS3|STR|eABZg+l|exSTRr||''貨物連絡線''|}} {{BS3|HST|DST||29.2|[[北柏駅]]||}} {{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||31.3|JJ 08 [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]||}} {{BS3|KRZu|ABZgr|||[[成田線]]||}} {{BS4|BS2+l|BS2+lr|BS2+r|||[[松戸車両センター]]||}} {{BS4|BS2l|KDSTe|O2=BS2c23|BS2r||| 我孫子派出所||}} {{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||34.0|JJ 09 [[天王台駅]]||}} {{BS3|hKRZWae|O1=GRZq|hKRZWae|O2=GRZq|||[[利根川橋梁 (常磐線)|利根川橋梁]]|[[利根川]]|}} {{BS3|STR|STR||||千葉県/[[茨城県]]|}} {{BS3|KBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFa|O3=HUBeq|37.4|JJ 10 [[取手駅]]||}} {{BS3||STR|STRl|||[[関東鉄道]]:[[関東鉄道常総線|常総線]]|}} {{BS|STR||[[常磐線]]||}} |} |} 上野駅 - 取手駅間のもの。 * 路線距離([[営業キロ]]):39.6km(品川駅 - 取手駅間では50.0km) * 管轄(事業種別) **[[東日本旅客鉄道]]([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):39.6km(全線) ** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]):36.2km(三河島駅 - 取手駅間) * [[軌間]]:1,067mm * 駅数:10(起終点駅を含む、快速線上にホームのない駅は除く) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[閉塞 (鉄道)|自動閉塞式]] * 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]] * 最高速度:130km/h<ref group="注">実際には快速線において上野駅 - 綾瀬駅近辺で表記よりも大幅に低い最高速度が設定されている。</ref> * [[運転指令所]]:東京総合指令室 **準運転取扱駅(異常時、入換時は駅が信号を制御):上野駅・北千住駅・松戸駅・我孫子駅・取手駅 * [[列車運行管理システム]]:[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) * [[車両基地]](所在駅):[[松戸車両センター]](松戸駅)・[[松戸車両センター|松戸車両センター我孫子派出所]](我孫子駅) * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[Suica]]首都圏エリア) 全線が[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]の管轄である。このうち[[三河島駅]] - 取手駅間が「松戸地区」と呼ばれる区間に当たる。 === 混雑率の推移 === 2016年度までは快速電車と中距離列車を別に算出していたが、2017年度から合算値とした。2020年度最混雑区間(松戸 → 北千住間)の混雑率は'''91%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=1|format=PDF}}</ref>。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="3"|年度 !colspan="8"|最混雑区間輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/koukei/tetsudou/konzatsu.html 路線別のラッシュ時における混雑率の推移] - 千葉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="3"|特記事項 |- ! colspan="4"|松戸 → 北千住間(中電) !! colspan="4"|松戸 → 北千住間(快速) |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1971年(昭和46年) | || || || ''' ''' | 11 || 12,320 || 27,700 || '''225''' | |- |1972年(昭和47年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 28,400 || '''203''' | |- |1973年(昭和48年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 29,300 || '''210''' | |- |1974年(昭和49年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 30,200 || '''216''' | |- |1980年(昭和55年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 37,700 || '''269''' | |- |1981年(昭和56年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || || ''' ''' | |- |1982年(昭和57年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 38,790 || '''277''' | |- |1983年(昭和58年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 39,450 || '''282''' | |- |1984年(昭和59年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 39,740 || style="background-color: #ffcccc;"|'''284''' | |- |1985年(昭和60年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 37,500 || '''268''' | |- |1986年(昭和61年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 37,940 || '''271''' | |- |1987年(昭和62年) | || || || ''' ''' | 10 || 14,000 || 39,080 || '''279''' | |- |1988年(昭和63年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 39,700 || '''189''' | |- |1989年(平成元年) | 7 || 12,670 || 29,140 || style="background-color: #ffcccc;"|'''230''' | 10 || 21,000 || 45,900 || '''219''' | |- |1990年(平成{{0}}2年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 46,450 || '''221''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 47,600 || '''227''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 49,030 || '''233''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || style="background-color: #ffcccc;"|49,100 || '''234''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 48,700 || '''232''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 48,740 || '''232''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 9 || 17,480 || style="background-color: #ffcccc;"|37,950 || '''217''' | 10 || 21,000 || 46,150 || '''220''' | |- |1997年(平成{{0}}9年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 45,400 || '''216''' | |- |1998年(平成10年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 44,400 || '''211''' | |- |1999年(平成11年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 43,730 || '''208''' | |- |2000年(平成12年) | || || || '''189''' | 10 || 21,000 || 43,120 || '''205''' | |- |2001年(平成13年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,000 || 41,530 || '''203''' | |- |2002年(平成14年) | 10 || 20,160 || 37,090 || '''184''' | 10 || 21,360 || 41,530 || '''196''' | |- |2003年(平成15年) | || || || ''' ''' | 10 || 21,840 || 41,530 || '''190''' | |- |2004年(平成16年) | 9 || || 36,300 || '''183''' | 10 || 22,200 || 41,100 || '''185''' | |- |2005年(平成17年) | 10 || || 34,600 || '''167''' | 10 || 22,200 || 37,600 || '''169''' |style="text-align:left;"|つくばエクスプレス開業年度 |- |2006年(平成18年) | 10 || || 35,000 || '''169''' | 9 || 19,980 || 35,300 || '''177''' | |- |2007年(平成19年) | 10 || 18,040 || 32,850 || '''182''' | 9 || 19,980 || 35,080 || '''176''' | |- |2008年(平成20年) | 10 || 18,040 || || ''' ''' | 9 || 19,980 || 34,990 || '''175''' | |- |2009年(平成21年) | 10 || 18,040 || 32,240 || '''179''' | 9 || 19,980 || 34,480 || '''173''' | |- |2010年(平成22年) | 10 || 18,040 || 31,860 || '''177''' | 9 || 19,980 || 34,070 || '''171''' | |- |2011年(平成23年) | 10 || 18,040 || 31,580 || '''175''' | 9 || 19,980 || 33,920 || '''170''' | |- |2012年(平成24年) | 10 || 18,040 || 31,200 || '''173''' | 9 || 19,980 || 33,480 || '''168''' | |- |2013年(平成25年) | 10 || 18,040 || 31,080 || '''172''' | 9 || 19,980 || 33,350 || '''167''' | |- |2014年(平成26年) | 10 || 18,040 || 30,300 || '''168''' | 9 || 19,980 || style="background-color: #ccffff;"|32,520 || '''163''' |style="text-align:left;"|上野東京ライン開業年度 |- |2015年(平成27年) | 9 || 16,236 || 26,230 || '''162''' | 10 || 22,200 || 35,680 || '''161''' | |- |2016年(平成28年) | 9 || 16,236 || style="background-color: #ccffff;"|25,990 || style="background-color: #ccffff;"|'''160''' | 10 || 22,200 || 35,460 || style="background-color: #ccffff;"|'''160''' | |- |2017年(平成29年) | | | | | | | | | |- |2018年(平成30年) | | | | | | | | | |- |2019年(令和元年) | | | | | | | | | |- |2020年(令和{{0}}2年) | | | | |19 |38,852 |35,540 |'''91''' | |} == 駅一覧 == 上野駅 - 取手駅間の快速線上に設置されている旅客駅と直通運転区間の[[上野東京ライン]](品川駅-上野駅間)の特別快速停車駅・接続路線・所在地を以下に一覧形式で示す。 * [[特定都区市内]]制度適用範囲の駅 : {{JR特定都区市内|山}}=[[東京山手線内]]、{{JR特定都区市内|区}}=東京都区内 * 停車駅 ** 快速電車:下表のすべての駅に停車 ** 中距離列車:“普通”は下表のすべての駅に、“特別快速”は●印の駅にのみ停車 ** 特急:「[[ひたち (列車)]]」参照 * 接続路線 : 東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。 * 各駅停車は「[[常磐緩行線#駅一覧]]」、貨物線および貨物取扱駅については「[[常磐線#駅一覧]]」を参照 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b261;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !style="width:4em; border-bottom:3px solid #00b261;"|駅番号 !style="width:7.5em; border-bottom:3px solid #00b261;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b261;"|駅間<br />営業キロ !style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|{{Nowrap|<small>日暮里<br />からの</small><br />営業<br />キロ}} !style="width:1em; background:#ffcccc; border-bottom:3px solid #00b261;"|{{縦書き|特別快速|height=5em}} !style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|接続路線・備考 !style="border-bottom:solid 3px #00b261;"colspan="2"|所在地 |- |rowspan="3" style="width:1em;"|{{縦書き|[[東海道本線]]|height=6em}} !JT 03 |[[品川駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|12.6 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]〈[[横浜駅|横浜]]・[[熱海駅|熱海]]方面〉 (JT 03)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] (JY 25)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 20)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 17)<br />[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br />[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|本線]] (KK 01) |rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}} |rowspan="2"|[[港区 (東京都)|港区]] |- !JT 02 |[[新橋駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|7.7 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 (JT 02)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 (JY 29)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 (JK 24)<ref name="keihintohoku" group="*" />・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線 (JO 18)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-08)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-10)<br />[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]:[[ファイル:Yurikamome_line_symbol.svg|15px|U]] [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]] (U-01) |- style="height:8em;" !rowspan="2" style="text-align:center;"|JT 01<br>JU 01 |rowspan="2"|[[東京駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |rowspan="2" style="text-align:right;"|1.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|5.8 |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; background:#ffcccc;"|● |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[ファイル:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 (JT 01)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[宇都宮線]]([[東北本線|東北線]])・[[高崎線]] (JU 01)・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC 01)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 (JY 01)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 (JK 26)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀・総武線(快速) (JO 19)・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)<br />東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-17)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] ⇒[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] (T-09) |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]] |- |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東北本線]]|height=5em}} |- !JU 02<br>JJ 01 |[[上野駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen-E.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線|北陸新幹線(長野経由)]]・[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] (JY 05)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 30)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[宇都宮線]]([[東北本線|東北線]])・[[高崎線]] (JU 02)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-18)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成本線|本線]] ⇒[[京成上野駅]] (KS01) |[[台東区]] |- style="height:3em;" !rowspan="2" style="text-align:center;"|JJ 02 |rowspan="2"|[[日暮里駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.2 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |rowspan="2" style="text-align:left;"|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 (JY 07)・[[ファイル:JR JK line_symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 (JK 32)<ref group="*" name="keihintohoku">日中の快速運転時間帯は通過。</ref><br />京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線 (KS02)<br />[[東京都交通局]]:[[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]] (NT 01) |rowspan="4"|[[荒川区]] |- |rowspan="9" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[常磐線]]|height=4em}} |- !JJ 03 |[[三河島駅]] {{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|| | |- !JJ 04 |[[南千住駅]] {{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 (H-21){{Refnest|group="*"|name="transfer"|連絡運輸は行っていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://appsuica.okbiz.okwave.jp/faq/show/4126?site_domain=default |title=Suica連絡定期券のJR東日本/私鉄・地下鉄「接続駅」 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2021-11-09}}</ref>。}}<br />[[首都圏新都市鉄道]]:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|15px|TX]] [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (TX04) |- !JJ 05 |[[北千住駅]] {{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|5.2 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]( [[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]][[亀有駅|亀有]]・[[金町駅|金町]]方面)(C-18)<ref group="*" name="chiyoda">北千住 - 綾瀬間に関係する運賃計算については「[[常磐緩行線#運賃計算の特例]]」を参照。</ref>・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 (H-22)<br />東武鉄道:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]](TS-09)<br />首都圏新都市鉄道:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|15px|TX]] つくばエクスプレス (TX05) |[[足立区]] |- !JJ 06 |[[松戸駅]] |style="text-align:right;"|10.5 |style="text-align:right;"|15.7 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)(JL 22)<br />[[新京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]] (SL01) |rowspan="4" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[千葉県]]|height=4em}} |[[松戸市]] |- !JJ 07 |[[柏駅]] |style="text-align:right;"|11.2 |style="text-align:right;"|26.9 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)(JL 28)<br />東武鉄道:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-24) |[[柏市]] |- !JJ 08 |[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|31.3 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|| |東日本旅客鉄道:{{Color|#00b261|■}}[[成田線]]〈成田方面と直通運転〉・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)(JL 30)<ref group="*" name="joubankankou">平日の日中時間帯および土休日は我孫子駅 - 取手駅間には運行されない。</ref> |rowspan="2"|[[我孫子市]] |- !JJ 09 |[[天王台駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|34.0 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|| |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)(JL 31)<ref group="*" name="joubankankou" /> |- !JJ 10 |[[取手駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|37.4 |style="text-align:center; background:#ffcccc;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]〈[[土浦駅|土浦]]方面〉・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)(JL 32)<ref group="*" name="joubankankou" /><br />[[関東鉄道]]:[[関東鉄道常総線|常総線]] |colspan="2"|[[茨城県]]<br>[[取手市]] |} * 2019年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/|title=各駅の乗車人員|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-12-15}}</ref>の対象となっている。 * 松戸駅 - 北千住駅で[[葛飾区]]を通るが、同区内は全て緩行線のみの駅であり、快速停車駅はない。また、松戸駅 - 柏駅で[[流山市]]を通るが、同市内に駅はない。 {{Reflist|group="*"}} == 参考文献 == * {{Cite_journal|和書|date=2003-09|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=736|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}(RP2003-09と表記) * {{Cite_journal|和書|date=2007-01|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=483|publisher=[[鉄道ジャーナル社]]}}(RJ2007-01と表記) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 動画 == * [[:File:Jobanline-video2011.ogv|亀有駅付近の前面展望(2011年11月5日撮影)]] == 関連項目 == * [[常磐線]] * [[常磐緩行線]] * [[通勤五方面作戦]] * [[上野東京ライン]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=33=1=%8f%ed%94%d6%90%fc%89%f5%91%ac%81E%90%ac%93c%90%fc 検索結果(常磐線快速・成田線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}} * [https://jobansenknow.jp/ 常磐線の___! 知らない、だからおもしろい:JR東日本] {{東京近郊区間}} {{東日本旅客鉄道東京支社}} {{デフォルトソート:しようはんかいそくせん}} [[Category:常磐線|*しようはんかいそく]] [[Category:関東地方の鉄道路線|しようはんかいそく]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線|しようはんかいそく]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線|しようはんかいそく]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:千葉県の交通]] [[Category:茨城県の交通]]
2003-09-08T12:03:50Z
2023-12-28T07:23:45Z
false
false
false
[ "Template:縦書き", "Template:PDFlink", "Template:東京近郊区間", "Template:BS7", "Template:BS", "Template:BS-table", "Template:0", "Template:JR特定都区市内", "Template:Cite web", "Template:リンク切れ", "Template:Pathnav", "Template:Color", "Template:UKrail-header2", "Template:BS3", "Template:BS4", "Template:Refnest", "Template:Cite journal", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Nowrap", "Template:TrainDirection", "Template:-", "Template:BS5", "Template:Reflist", "Template:東日本旅客鉄道東京支社", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:Main2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E5%BF%AB%E9%80%9F%E7%B7%9A
15,774
JR東日本E501系電車
E501系電車(E501けいでんしゃ)は、1995年(平成7年)に登場した東日本旅客鉄道(JR東日本)の交直流通勤形電車である。 常磐線の輸送改善用として、日本初の交流直流両用の通勤形電車として製造された。209系電車を基本に設計した車両で、常磐線の交流電化区間では初の4扉車である。使用線区の性格や交流直流両用のため、209系とは装備する電装品などに違いがある。 当初は、403系・415系のほかに上野 - 取手間で運用されていた103系の置き換えも視野に入れて開発されたが、1997年に常磐線取手以北の大幅な減便がなされ、製造が終了した。 常磐線では、東京への通勤圏が取手駅からさらに牛久、土浦方面に伸び、取手以北の利用者が増え続けてきたが、取手以北は石岡市にある気象庁地磁気観測所への観測障害を避けるために交流電化となっており、当時快速電車で使用されていた4扉ロングシートの103系は直流専用のため使用できなかった。直流電化区間を北に伸ばすことは前記した理由から不可能であり、既存の403系・415系は1982年(昭和57年)以降にロングシート車である415系500番台や1500番台(ステンレス車)を導入したものの、ともに3扉車であるため、混雑時の対応には限界があった。 さらに、土浦市や牛久市の商工会議所や選出国会議員などが中心となった「県南常磐線輸送力増強期成同盟会」が常磐線「快速電車」の延伸という要望を当時の運輸省などに継続的に行っていた。これは沿線のイメージアップのために近郊形電車ではなく4扉の通勤形電車を投入して欲しいという要望であった。これらの問題を総合的に解決するために導入されたのが本形式である。 当時取手以北で使用されていた、403系・415系などの老朽化した3扉セミクロスシート車と比べ、E501系は4扉ロングシート車のため、ラッシュ時に混雑緩和など一定の効果はあったものの、通勤型として導入した経緯からトイレを設置しなかったことで、限定的な区間での運用に就くことになっていた。 本項では落成当時の仕様について述べる。 車体は、先頭部と台枠の一部を除いてステンレス鋼を使用した、209系と同様の軽量ステンレス構造を採用した。相違点としては、交直流両用で増える床下機器のための艤装スペースが必要になることから台車間距離を 13,300 mm から 13,800 mm に延長し、強度確保のため外板厚を 1.2 mm から 1.5 mm に変更した点である。先頭車後位の連結器はE217系と同様の衝撃吸収タイプを用いる。 車体帯は103系電車と同じ青緑1号で、腰板上部には白の帯が入っている。 客室部の側窓は209系各区分と同様、車端部を除き固定窓を用いた。2006年(平成18年)9月から10月にかけて窓を開閉可能にする改造工事が施工された。 客用扉は片側4か所に両開き式引き戸を設け、片側1か所を残して締め切ることが可能な「3/4扉閉」スイッチを装備する。1995年製の編成は営業開始後に後付け改造したが、1997年製の編成は落成時から装備している。 内装は209系と変わらないが、座席表地の配色が異なり、一般席は常磐線のラインカラーである中距離電車の青色を座面部分に、快速電車の緑色を背もたれ部分にそれぞれ採用している。 また、川崎重工業製の編成では車端部の座席脇にドア部分にある仕切りと同様のくぼみがある。つり革も209系と同一のものであるが、1997年製の編成以降は若干丸みを帯びた形状に変更された。 車内照明は直流電源による。デッドセクション通過時には自動的に蓄電池供給に切り替わるため、基本的に消灯しない(交直流切り替えが手動で行われる場合は、この限りではない)。また、電源切り替え時はドア上の電光掲示板が消灯する。製造年を示すものはシール式で全編成が和暦での表記とされている。 直流区間と交流区間を隔てるデッドセクションでの主回路の切り替えはATS-P地上子により自動で行われる。手動切り替えも可能である。 基本的に電動車2両に主要機器を分散搭載するM1M2ユニットを採用し、M1車(モハE501形)には主変圧器、主変換装置、集電装置といった主回路機器を、M2車(モハE500形)には主変換装置の他に補助電源装置などの補機類を搭載するが、床下機器スペースの都合上で空気圧縮機はユニット上り側の付随車(クハE500形、サハE500形)に搭載される。 制御装置はVVVFインバータを採用し、ドイツ・シーメンス製GTOサイリスタ素子によるCI3形主変換装置を採用していた。JRの在来線向け電車では唯一の採用例で、発車・停車時の磁励音は音階を奏でるような独特なものであった。また、停車時にも音階を奏でるような磁励音を出す車両は国内ではこの車両のみであった。本系列の起動加速度は2.0km/h/sである(資料によっては2.05km/h/s)。 主電動機は かご形三相誘導電動機 を用い、出力は209系の 95 kW から 120 kW に向上した。これは交流関連機器の搭載による自重増に対応するためである。最高速度120km/h を達成するため、歯車比はE217系と同じく16:97(≒1:6.06)である。 補機用の電源として、5両給電が可能な静止形インバータ(SC45、定格容量 210 kVA、AC 440 V)を5両あたり1基搭載する。補助電源装置の電源は主変圧器の3次巻線とすることが多いが、本形式の場合は主変換装置のコンバータ出力を電源としている。 空気圧縮機は209系と同様のものであるMH3096-C1600Sスクリュー式を採用する。吐き出し容量は1,600L/minである。 パンタグラフはひし形のPS29を採用した。但し後年にシングルアーム型に更新された。 台車は軸梁式の軸箱支持機構をもつボルスタレス台車で、枕ばねに空気ばねを用いたJR東日本一般形電車の標準的な仕様である。209系で採用されたDT61・TR246をベースに、自重の増加による車軸の変更、歯車比の変更による駆動装置の変更(電動台車のみ)が施されたDT61C(電動台車)およびTR246D(付随台車)を装着する。基礎ブレーキは片押し式踏面ブレーキ(ユニットブレーキ)、付随台車のみ踏面ブレーキに加えて1軸1枚のディスクブレーキを併用する。ヨーダンパは準備工事のみとしている。 1995年に基本10両編成と付属5両編成各1本が、1997年に基本10両編成と付属5両編成各3本の計60両がそれぞれ川崎重工業で10両編成が3本と5両編成が2本、東急車輛製造で10両編成が1本と5両編成が2本製造され、勝田電車区(当時)に配置された。1995年12月1日から、常磐線の上野 - 土浦間で営業運転を開始し、普通列車(取手 - 上野間は快速)のみに使用された。日中の運用は10両編成での運転だった。 上野 - 土浦間の行先表示器には2006年(平成18年)3月17日まで運転されていた通勤快速の表示は用意されていたが、2005年(平成17年)7月9日から運転を開始した特別快速はE531系限定運用とされたこともあり、用意されなかった。また、快速の表示も用意していたが、定期列車としては取手以南の快速運転区間でも通常は終着駅名を表示していた。また、土浦以北の駅名は神立、友部、水戸、勝田の表示が用意されていた。 車内の停車駅案内図は、上野 - 土浦間の普通列車の停車駅と、取手 - 北千住間の各駅停車の駅を掲示していた。この当時は、「■普通」と「■各駅停車」が並んで掲載されるものだった。2004年(平成16年)10月16日以降は、取手以南で「快速」と案内されることになったため、「■土浦 - 取手間 普通 取手 - 上野間 快速」としたものに取り替えられた。 朝ラッシュの最混雑時間帯である土浦駅発上り6 - 7時台の列車には、2005年7月9日のダイヤ改正から運用を開始した同じ4扉車であるE531系とともにほぼ集中的に投入され、取手駅からのE231系とともに乗車位置の統一や収容力向上、および列車遅延の防止が図られた。 10両+5両の分割編成であるが、着席サービスの向上を図るため、本系列の運用列車は検査時の415系・E531系による代走も含め(営業運転開始当時を除き、後のダイヤ改正以降)終日15両編成で運転されていた。ただし、検査などで勝田車両センターに回送される際は、土浦 - 勝田間の構内有効長の関係から、10両編成と5両編成に分割して回送されていた。 予備編成がないため、取手駅以北で 120 km/h 運転可能な本系列の限定運用と403系・415系で代走可能な運用とに分けられていた。実際に検査や整備などで403系・415系が代走する際は、交流区間の各駅では代走期間と該当する時刻の4扉車が3扉車に変更される旨が表示されていた。同じ4扉車で 130 km/h 運転が可能なE531系が2005年に登場したことや転用対応の改造工事開始に伴いE531系による代走の機会が増加し、本系列は2007年2月21日を最後に常磐線土浦以南での所定運用を終了した。 2007年(平成19年)3月18日のダイヤ改正後、上野駅発着の常磐線中距離列車は全列車がグリーン車を連結したE531系で運行されるようになった。それに伴い、この時点で本系列の運用区間は以下のように変更された。 基本編成と付属編成は別運用となった。車内の停車駅案内図はE531系と同じものに交換された。実際には改正に先立つ2月27日から、K752編成が水戸線および常磐線友部 - 勝田間で営業運転を開始した。行先表示器は、従来前面が黒地白文字・側面が白地黒文字の幕式のものであったが、運用区間の変更に伴い青地白文字の幕に交換された。また、同時に車内自動放送はほぼE531系に準じたものに変更された(ただし出口の案内は追加されておらず、乗り換え案内のみのままである)ほか、後に車内LEDの表示変更などの更新(駅接近時の「まもなく ○○」の表示や、運行障害情報の表示)が実施されている。 2016年3月26日のダイヤ改正において付属編成(5両)の運用が見直され、付属編成に関しては水戸線(小山 - 友部 - 勝田間)のみの運用となったが、2017年10月14日のダイヤ改正で朝の1往復のみ水戸 - いわき間での運用が復活した。その後、2018年になって水戸線内の小山 - 小田林間の交直セクションで本系列の故障が頻発したことにより、9月5日から水戸線での運用を全てE531系に変更し、本系列は水戸駅以北での常磐線のE531系付属編成の運用を置き換えるようになった。これにより、新たに草野 - 富岡間での営業運転を開始した。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で水戸線並びにいわき - 富岡間での運用を終了した(いわき - 草野間の回送は引き続き継続)。なお、常磐線は2020年3月14日に富岡 - 浪江間が再開し全線復旧したが、本系列はE531系と異なり半自動ドア装置がないため、引き続き土浦 - いわき間のみで運用されている。 2022年4月23-24日にはももいろクローバーZのイベントに合わせ、いわき - Jヴィレッジ間の臨時快速が本系列に設定された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "E501系電車(E501けいでんしゃ)は、1995年(平成7年)に登場した東日本旅客鉄道(JR東日本)の交直流通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "常磐線の輸送改善用として、日本初の交流直流両用の通勤形電車として製造された。209系電車を基本に設計した車両で、常磐線の交流電化区間では初の4扉車である。使用線区の性格や交流直流両用のため、209系とは装備する電装品などに違いがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当初は、403系・415系のほかに上野 - 取手間で運用されていた103系の置き換えも視野に入れて開発されたが、1997年に常磐線取手以北の大幅な減便がなされ、製造が終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "常磐線では、東京への通勤圏が取手駅からさらに牛久、土浦方面に伸び、取手以北の利用者が増え続けてきたが、取手以北は石岡市にある気象庁地磁気観測所への観測障害を避けるために交流電化となっており、当時快速電車で使用されていた4扉ロングシートの103系は直流専用のため使用できなかった。直流電化区間を北に伸ばすことは前記した理由から不可能であり、既存の403系・415系は1982年(昭和57年)以降にロングシート車である415系500番台や1500番台(ステンレス車)を導入したものの、ともに3扉車であるため、混雑時の対応には限界があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "さらに、土浦市や牛久市の商工会議所や選出国会議員などが中心となった「県南常磐線輸送力増強期成同盟会」が常磐線「快速電車」の延伸という要望を当時の運輸省などに継続的に行っていた。これは沿線のイメージアップのために近郊形電車ではなく4扉の通勤形電車を投入して欲しいという要望であった。これらの問題を総合的に解決するために導入されたのが本形式である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当時取手以北で使用されていた、403系・415系などの老朽化した3扉セミクロスシート車と比べ、E501系は4扉ロングシート車のため、ラッシュ時に混雑緩和など一定の効果はあったものの、通勤型として導入した経緯からトイレを設置しなかったことで、限定的な区間での運用に就くことになっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本項では落成当時の仕様について述べる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "車体は、先頭部と台枠の一部を除いてステンレス鋼を使用した、209系と同様の軽量ステンレス構造を採用した。相違点としては、交直流両用で増える床下機器のための艤装スペースが必要になることから台車間距離を 13,300 mm から 13,800 mm に延長し、強度確保のため外板厚を 1.2 mm から 1.5 mm に変更した点である。先頭車後位の連結器はE217系と同様の衝撃吸収タイプを用いる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "車体帯は103系電車と同じ青緑1号で、腰板上部には白の帯が入っている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "客室部の側窓は209系各区分と同様、車端部を除き固定窓を用いた。2006年(平成18年)9月から10月にかけて窓を開閉可能にする改造工事が施工された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "客用扉は片側4か所に両開き式引き戸を設け、片側1か所を残して締め切ることが可能な「3/4扉閉」スイッチを装備する。1995年製の編成は営業開始後に後付け改造したが、1997年製の編成は落成時から装備している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "内装は209系と変わらないが、座席表地の配色が異なり、一般席は常磐線のラインカラーである中距離電車の青色を座面部分に、快速電車の緑色を背もたれ部分にそれぞれ採用している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、川崎重工業製の編成では車端部の座席脇にドア部分にある仕切りと同様のくぼみがある。つり革も209系と同一のものであるが、1997年製の編成以降は若干丸みを帯びた形状に変更された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "車内照明は直流電源による。デッドセクション通過時には自動的に蓄電池供給に切り替わるため、基本的に消灯しない(交直流切り替えが手動で行われる場合は、この限りではない)。また、電源切り替え時はドア上の電光掲示板が消灯する。製造年を示すものはシール式で全編成が和暦での表記とされている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "直流区間と交流区間を隔てるデッドセクションでの主回路の切り替えはATS-P地上子により自動で行われる。手動切り替えも可能である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "基本的に電動車2両に主要機器を分散搭載するM1M2ユニットを採用し、M1車(モハE501形)には主変圧器、主変換装置、集電装置といった主回路機器を、M2車(モハE500形)には主変換装置の他に補助電源装置などの補機類を搭載するが、床下機器スペースの都合上で空気圧縮機はユニット上り側の付随車(クハE500形、サハE500形)に搭載される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "制御装置はVVVFインバータを採用し、ドイツ・シーメンス製GTOサイリスタ素子によるCI3形主変換装置を採用していた。JRの在来線向け電車では唯一の採用例で、発車・停車時の磁励音は音階を奏でるような独特なものであった。また、停車時にも音階を奏でるような磁励音を出す車両は国内ではこの車両のみであった。本系列の起動加速度は2.0km/h/sである(資料によっては2.05km/h/s)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "主電動機は かご形三相誘導電動機 を用い、出力は209系の 95 kW から 120 kW に向上した。これは交流関連機器の搭載による自重増に対応するためである。最高速度120km/h を達成するため、歯車比はE217系と同じく16:97(≒1:6.06)である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "補機用の電源として、5両給電が可能な静止形インバータ(SC45、定格容量 210 kVA、AC 440 V)を5両あたり1基搭載する。補助電源装置の電源は主変圧器の3次巻線とすることが多いが、本形式の場合は主変換装置のコンバータ出力を電源としている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "空気圧縮機は209系と同様のものであるMH3096-C1600Sスクリュー式を採用する。吐き出し容量は1,600L/minである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "パンタグラフはひし形のPS29を採用した。但し後年にシングルアーム型に更新された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "台車は軸梁式の軸箱支持機構をもつボルスタレス台車で、枕ばねに空気ばねを用いたJR東日本一般形電車の標準的な仕様である。209系で採用されたDT61・TR246をベースに、自重の増加による車軸の変更、歯車比の変更による駆動装置の変更(電動台車のみ)が施されたDT61C(電動台車)およびTR246D(付随台車)を装着する。基礎ブレーキは片押し式踏面ブレーキ(ユニットブレーキ)、付随台車のみ踏面ブレーキに加えて1軸1枚のディスクブレーキを併用する。ヨーダンパは準備工事のみとしている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1995年に基本10両編成と付属5両編成各1本が、1997年に基本10両編成と付属5両編成各3本の計60両がそれぞれ川崎重工業で10両編成が3本と5両編成が2本、東急車輛製造で10両編成が1本と5両編成が2本製造され、勝田電車区(当時)に配置された。1995年12月1日から、常磐線の上野 - 土浦間で営業運転を開始し、普通列車(取手 - 上野間は快速)のみに使用された。日中の運用は10両編成での運転だった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "上野 - 土浦間の行先表示器には2006年(平成18年)3月17日まで運転されていた通勤快速の表示は用意されていたが、2005年(平成17年)7月9日から運転を開始した特別快速はE531系限定運用とされたこともあり、用意されなかった。また、快速の表示も用意していたが、定期列車としては取手以南の快速運転区間でも通常は終着駅名を表示していた。また、土浦以北の駅名は神立、友部、水戸、勝田の表示が用意されていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "車内の停車駅案内図は、上野 - 土浦間の普通列車の停車駅と、取手 - 北千住間の各駅停車の駅を掲示していた。この当時は、「■普通」と「■各駅停車」が並んで掲載されるものだった。2004年(平成16年)10月16日以降は、取手以南で「快速」と案内されることになったため、「■土浦 - 取手間 普通 取手 - 上野間 快速」としたものに取り替えられた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "朝ラッシュの最混雑時間帯である土浦駅発上り6 - 7時台の列車には、2005年7月9日のダイヤ改正から運用を開始した同じ4扉車であるE531系とともにほぼ集中的に投入され、取手駅からのE231系とともに乗車位置の統一や収容力向上、および列車遅延の防止が図られた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "10両+5両の分割編成であるが、着席サービスの向上を図るため、本系列の運用列車は検査時の415系・E531系による代走も含め(営業運転開始当時を除き、後のダイヤ改正以降)終日15両編成で運転されていた。ただし、検査などで勝田車両センターに回送される際は、土浦 - 勝田間の構内有効長の関係から、10両編成と5両編成に分割して回送されていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "予備編成がないため、取手駅以北で 120 km/h 運転可能な本系列の限定運用と403系・415系で代走可能な運用とに分けられていた。実際に検査や整備などで403系・415系が代走する際は、交流区間の各駅では代走期間と該当する時刻の4扉車が3扉車に変更される旨が表示されていた。同じ4扉車で 130 km/h 運転が可能なE531系が2005年に登場したことや転用対応の改造工事開始に伴いE531系による代走の機会が増加し、本系列は2007年2月21日を最後に常磐線土浦以南での所定運用を終了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)3月18日のダイヤ改正後、上野駅発着の常磐線中距離列車は全列車がグリーン車を連結したE531系で運行されるようになった。それに伴い、この時点で本系列の運用区間は以下のように変更された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "基本編成と付属編成は別運用となった。車内の停車駅案内図はE531系と同じものに交換された。実際には改正に先立つ2月27日から、K752編成が水戸線および常磐線友部 - 勝田間で営業運転を開始した。行先表示器は、従来前面が黒地白文字・側面が白地黒文字の幕式のものであったが、運用区間の変更に伴い青地白文字の幕に交換された。また、同時に車内自動放送はほぼE531系に準じたものに変更された(ただし出口の案内は追加されておらず、乗り換え案内のみのままである)ほか、後に車内LEDの表示変更などの更新(駅接近時の「まもなく ○○」の表示や、運行障害情報の表示)が実施されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2016年3月26日のダイヤ改正において付属編成(5両)の運用が見直され、付属編成に関しては水戸線(小山 - 友部 - 勝田間)のみの運用となったが、2017年10月14日のダイヤ改正で朝の1往復のみ水戸 - いわき間での運用が復活した。その後、2018年になって水戸線内の小山 - 小田林間の交直セクションで本系列の故障が頻発したことにより、9月5日から水戸線での運用を全てE531系に変更し、本系列は水戸駅以北での常磐線のE531系付属編成の運用を置き換えるようになった。これにより、新たに草野 - 富岡間での営業運転を開始した。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で水戸線並びにいわき - 富岡間での運用を終了した(いわき - 草野間の回送は引き続き継続)。なお、常磐線は2020年3月14日に富岡 - 浪江間が再開し全線復旧したが、本系列はE531系と異なり半自動ドア装置がないため、引き続き土浦 - いわき間のみで運用されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2022年4月23-24日にはももいろクローバーZのイベントに合わせ、いわき - Jヴィレッジ間の臨時快速が本系列に設定された。", "title": "運用" } ]
E501系電車(E501けいでんしゃ)は、1995年(平成7年)に登場した東日本旅客鉄道(JR東日本)の交直流通勤形電車である。
{{鉄道車両 | 車両名 = JR東日本E501系電車 | 背景色 = #008000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Series-E501-K701.jpg | 画像幅 = 300px | 画像説明 = 常磐線で運用に就くE501系<br>(2020年1月15日 友部駅 - 内原駅間) | 運用者 = [[東日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[川崎車両|川崎重工業]]<br />[[東急車輛製造]] | 製造年 = 1995年 - 1997年 | 製造数 = 60両 | 運用開始 = 1995年12月1日<ref group="新聞" name="交通950919" /> | 運用終了 = | 編成 = 10両編成 ([[MT比|4M6T]])<br />5両編成 (2M3T) | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br />[[交流電化|交流]]20,000V (50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]) | 最高運転速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]] | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 2.0 [[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]<ref name="R-M1996-2" /><br />(資料によっては2.05km/h/s<ref name="Cyber1995" />) | 減速度 = 4.2km/h/s<ref name="Cyber1995"/> | 編成定員 = 1,540名(基本編成)<br />760名(付属編成) | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 274.5 [[トン|t]](基本編成 - 4M6T)<br />140.1 t(付属編成 - 2M3T) | 全長 = 制御車:20,420 [[ミリメートル|mm]]<br />中間車:20,000 mm | 全幅 = 2,800 mm | 全高 = 3,690 mm | 車体材質 = [[ステンレス鋼|ステンレス]] | 台車 = 軸梁式ボルスタレス台車 DT61C(電動台車)・TR246D(付随台車) | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] MT70 | 主電動機出力 = 120 [[ワット|kW]] | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 16:97(1:6.06) | 編成出力 = 1,920 kW(基本編成 - 4M6T)<br />960 kW(付属編成 - 2M3T) | 制御方式 = コンバータ+[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]・[[シーメンス]]製 CI3(落成時)<br />[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子・[[東芝]]製 CI17(更新後) | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S{{Smaller|N}}]], [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]], [[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]](一部) | 備考 = }} '''E501系電車'''(E501けいでんしゃ)は、[[1995年]]([[平成]]7年)に登場<ref name="jreast/train/e501" />した[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[交直流電車|交直流]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 == 概要 == [[常磐線]]の輸送改善用として、[[日本]]初の交流直流両用の通勤形電車として製造された。[[JR東日本209系電車|209系電車]]を基本に設計した車両で、常磐線の[[交流電化]]区間では初の4扉車である。使用線区の性格や交流直流両用のため、209系とは装備する電装品などに違いがある。 当初は、[[国鉄415系電車|403系・415系]]のほかに上野 - 取手間で運用されていた[[国鉄103系電車|103系]]の置き換えも視野に入れて開発されたが、[[1997年]]に常磐線[[取手市|取手]]以北の大幅な減便がなされ、製造が終了した。 === 導入の経緯 === 常磐線では、[[東京都|東京]]への通勤圏が[[取手駅]]からさらに[[牛久駅|牛久]]、[[土浦駅|土浦]]方面に伸び、取手以北の利用者が増え続けてきたが、取手以北は[[石岡市]]にある[[気象庁]][[気象庁地磁気観測所|地磁気観測所]]への観測障害を避けるために交流電化となっており、当時[[常磐快速線|快速電車]]で使用されていた4扉[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]の[[国鉄103系電車|103系]]は直流専用のため使用できなかった。[[直流電化]]区間を北に伸ばすことは前記した理由から不可能であり、既存の403系・415系は[[1982年]]([[昭和]]57年)以降にロングシート車である415系500番台や1500番台(ステンレス車)を導入したものの、ともに3扉車であるため、混雑時の対応には限界があった。 さらに、[[土浦市]]や[[牛久市]]の[[商工会議所]]や選出[[国会議員]]などが中心となった「県南常磐線輸送力増強期成同盟会」が常磐線「快速電車」の延伸という要望を当時の[[運輸省]]などに継続的に行っていた。これは沿線のイメージアップのために[[近郊形車両|近郊形電車]]ではなく4扉の通勤形電車を投入して欲しいという要望であった。これらの問題を総合的に解決するために導入されたのが本形式である。 === 減便以外の増備停止の理由 === 当時取手以北で使用されていた、403系・415系などの老朽化した3扉セミクロスシート車と比べ、E501系は4扉ロングシート車のため、ラッシュ時に混雑緩和など一定の効果はあったものの、通勤型として導入した経緯からトイレを設置しなかったことで、限定的な区間での運用に就くことになっていた。 == 構造 == 本項では落成当時の仕様について述べる。 === 車体 === 車体は、先頭部と台枠の一部を除いて[[ステンレス鋼]]を使用した、209系と同様の軽量ステンレス構造を採用した<ref name="RF411_111" />。相違点としては、交直流両用で増える床下機器のための艤装スペースが必要になることから台車間距離を 13,300 mm から 13,800 mm に延長し、強度確保のため外板厚を 1.2 mm から 1.5 mm に変更した点である<ref name="RF411_112" />。先頭車後位の[[連結器]]は[[JR東日本E217系電車|E217系]]と同様の衝撃吸収タイプを用いる<ref name="RF411_114" />。 車体帯は103系電車と同じ[[青緑1号]]で、腰板上部には白の帯が入っている。 客室部の側窓は209系各区分と同様、車端部を除き固定窓を用いた。[[2006年]](平成18年)9月から10月にかけて窓を開閉可能にする改造工事が施工された。 客用扉は片側4か所に両開き式引き戸を設け、片側1か所を残して締め切ることが可能な「[[ドアカット#車内保温|3/4扉閉]]」スイッチを装備する。1995年製の編成は営業開始後に後付け改造したが、1997年製の編成は落成時から装備している。 === 車内 === 内装は209系と変わらないが、座席表地の配色が異なり、一般席は常磐線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]である[[中距離電車]]の青色を座面部分に、快速電車の緑色を背もたれ部分にそれぞれ採用している。 また、川崎重工業製の編成では車端部の座席脇にドア部分にある仕切りと同様のくぼみがある。つり革も209系と同一のものであるが、[[1997年]]製の編成以降は若干丸みを帯びた形状に変更された。 車内[[照明]]は直流電源による。デッドセクション通過時には自動的に[[二次電池|蓄電池]]供給に切り替わるため、基本的に消灯しない(交直流切り替えが手動で行われる場合は、この限りではない)。また、電源切り替え時はドア上の電光掲示板が消灯する。製造年を示すものはシール式で全編成が和暦での表記とされている。 <gallery> Kuha-E500-1002 Inside.jpg|車内(クハE500-1002) Saha-E501-6 Priority-seat.jpg|優先席付近(サハE501-6) Kuha-E501-2 Free-space.jpg|トイレと車椅子スペース付近(クハE501-2) Kuha-E501-2 7-seat.jpg|ロングシート(クハE501-2) Kuha-E500-1002 Inside-LED.jpg|LED式の車内案内表示器(クハE500-1002) </gallery> === 主要機器 === [[File:L25_ME501-7.jpg|thumb|240px|モハE501形のパンタグラフ搭載部分は屋根が少し低くなっている]] 直流区間と交流区間を隔てる[[デッドセクション]]での主回路の切り替えは[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]地上子により自動で行われる。手動切り替えも可能である。 基本的に[[電動車]]2両に主要機器を分散搭載するM1M2ユニットを採用し、M1車(モハE501形)には主[[変圧器]]、[[主変換装置]]、[[集電装置]]といった主回路機器を、M2車(モハE500形)には主変換装置の他に補助電源装置などの補機類を搭載するが、床下機器スペースの都合上で空気圧縮機はユニット上り側の[[付随車]](クハE500形、サハE500形)に搭載される<ref name="RF411_112" /><ref name="RF411_113" />。 制御装置は[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]を採用し、[[ドイツ]]・[[シーメンス]]製[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]によるCI3形[[可変電圧可変周波数制御|主変換装置]]<ref group="注">シーメンス社の装置は[[京浜急行電鉄]]の[[京急2100形電車|2100形]]や[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]の一部にも採用されていた。</ref>を採用していた<ref name="RF411_116" />。JRの在来線向け電車では唯一の採用例で、発車・停車時の[[磁励音]]は音階を奏でるような独特なものであった。また、停車時にも音階を奏でるような磁励音を出す車両は国内ではこの車両のみであった。本系列の起動加速度は2.0km/h/sである<ref name="R-M1996-2"/>(資料によっては2.05km/h/s<ref name="Cyber1995" />)。 [[主電動機]]は [[かご形三相誘導電動機]] を用い、出力は209系の 95 [[ワット|kW]] から 120 kW に向上した。これは交流関連機器の搭載による自重増に対応するためである。最高速度120[[キロメートル毎時|km/h]] を達成するため、歯車比はE217系と同じく16:97(≒1:6.06)である。 補機用の電源として、5両給電が可能な[[静止形インバータ]](SC45、定格容量 210 kVA、AC 440 V)を5両あたり1基搭載する<ref name="RF411_115" />。補助電源装置の電源は主変圧器の3次巻線とすることが多いが、本形式の場合は主変換装置のコンバータ出力を電源としている<ref name="RF411_114" />。 空気[[圧縮機]]は209系と同様のものであるMH3096-C1600Sスクリュー式を採用する<ref name="RF411_116" />。吐き出し容量は1,600L/minである<ref name="RF411_115" />。 パンタグラフはひし形のPS29を採用した。但し後年にシングルアーム型に更新された。 台車は軸梁式の軸箱支持機構をもつ[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]で、枕ばねに[[空気ばね]]を用いたJR東日本一般形電車の標準的な仕様である<ref name="CartTech207">日本鉄道車両工業会「車両技術」207号(1995年6月)「JR東日本E501系通勤形交直流電車」pp.20 - 31。</ref>。209系で採用されたDT61・TR246をベースに、自重の増加による車軸の変更、歯車比の変更による駆動装置の変更(電動台車のみ)が施されたDT61C(電動台車)およびTR246D(付随台車)を装着する<ref name="RF411_114" />。基礎ブレーキは片押し式[[踏面ブレーキ]](ユニットブレーキ)、付随台車のみ踏面ブレーキに加えて1軸1枚の[[ディスクブレーキ]]を併用する<ref name="CartTech207"/>。[[蛇行動#ヨーダンパ|ヨーダンパ]]は準備工事のみとしている。 == 編成表 == {| class="wikitable" summary="方面別編成表" style="text-align: center; font-size:80%;" |-style="border-bottom:solid 5px #0c9;" |colspan="2" style="background:#ccc;"|&nbsp; |colspan="10"|{{TrainDirection|<!--- 原ノ町 --->富岡|小山・土浦}} |- !rowspan="8"|10両編成<br />(基本編成) !号車 | 10 || 9 || 8 || 7 || 6 || 5 || 4 || 3 || 2 || 1 |- !形式 |&nbsp;<br />クハE501<br />(Tc) |&nbsp;<br />サハE501<br />(T) |><br />モハE501<br />(M1) |&nbsp;<br />モハE500<br />(M2) |&nbsp;<br />サハE500<br />(T) |&nbsp;<br />サハE501<br />(T) |&nbsp;<br />サハE501<br />(T) |><br />モハE501<br />(M1) |&nbsp;<br />モハE500<br />(M2) |&nbsp;<br />クハE500<br />(Tc') |- !搭載機器 | BT || &nbsp; || MTr,CI || CI,SIV || CP || &nbsp; || &nbsp; || MTr,CI || CI,SIV || CP,BT |- ! 車両重量 | 25.5t || 22.5t || 34.2t || 31.8t || 23.4t || 22.5t || 22.5t || 34.2t || 31.8t || 26.1t |- ! K701 | 1 || 2 || 2 || 2 || 1 || 3 || 4 || 3 || 3 || 1001 |- ! K702 | 2 || 6 || 5 || 5 || 2 || 7 || 8 || 6 || 6 || 1002 |- ! K703 | 3 || 10 || 8 || 8 || 3 || 11 || 12 || 9 || 9 || 1003 |- ! K704 | 4 || 14 || 11 || 11 || 4 || 15 || 16 || 12 || 12 || 1004 |-style="border-top:solid 3px #666;" !rowspan="8"|5両編成<br />(付属編成) !号車 | 5 || 4 || 3 || 2 || 1 | style="background-color:#ddd;" rowspan="8" colspan="5" |&nbsp; |- !形式 |&nbsp;<br />クハE501<br />(Tc) |&nbsp;<br />サハE501<br />(T) |><br />モハE501<br />(M1) |&nbsp;<br />モハE500<br />(M2) |&nbsp;<br />クハE500<br />(Tc') |- !搭載機器 | BT || &nbsp; || MTr,CI || CI,SIV || CP,BT |- ! 車両重量 | 25.5t || 22.5t || 34.2t || 31.8t || 26.1t |- ! K751 | 1001 || 1 || 1 || 1 || 1 |- ! K752 | 1002 || 5 || 4 || 4 || 2 |- ! K753 | 1003 || 9 || 7 || 7 || 3 |- ! K754 | 1004 || 13 || 10 || 10 || 4 |} * 先頭車は基本編成の10号車と付属編成の1号車は電気連結器付きで0番台であるが、基本編成の1号車と付属編成の5号車は電気連結器なしで1000番台に区分されている。 * 車両重量は落成時のものである。 * MTr (Main-Transformer) :主変圧器 * CI (Converter・Inverter) :主変換装置(コンバータ装置+VVVFインバータ装置) * SIV:補助電源装置(静止形インバータ) * CP:空気圧縮機 * BT:蓄電池 == 改造 == ; 自動放送の設置 :[[2003年]](平成15年)10月より[[車内放送|車内自動放送]]が導入され<ref name="RAIL FAN_200310" /><ref name="jr-hensei-2022summer_43" />、[[2007年]]3月までに[[JR東日本E531系電車|E531系]]に準じる放送に変更されるなど数度の更新が行われている。 ; トイレの設置工事 [[File:JREast-E501car11-car12.JPG|thumb|240px|車端のトイレ設置部<br />側窓を埋めている]] :全編成ともトイレは設置されていなかったが、2007年3月ダイヤ改正での運用区間変更に伴い、2006年10月 - 2007年2月にかけて基本編成の1・10号車および付属編成の1号車に[[バリアフリー]]対応トイレが設置された<ref name="jr-hensei-2022summer_43" />。循環式トイレである。 ; 制御装置の交換 :前述の通り落成当時はシーメンス製のVVVFインバータを搭載していたが、信頼性の問題から、5両の付属編成は[[2007年]]に、10両の基本編成は[[2012年]]に[[東芝]]製[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子の装置に[[ASSY]]交換した。 ; パンタグラフの交換 :[[2014年]](平成26年)12月から[[2015年]](平成27年)1月にかけて全ての付属編成がシングルアーム形のPS37Aに交換されており、基本編成も2015年2月より交換工事が進められ、基本・付属編成の交換が完了した<ref name="jr-hensei-2022summer_43" />。 ; 方向幕のLED化 [[File:E501led.gif|thumb|240px|K752編成の側面LED]] :[[2019年]](平成31年)3月から、K701・K752編成の行先表示器が幕式から3色LED式となった。同時に側面の行先表示器は行先に加えて路線名を表示するようになった<ref name="railf-20190314" />。 ;SAKIGAKE化改造 :[[2023年]](令和5年)10月にJR東日本は本形式を改造し、「E501 SAKIGAKE」として運用を開始すると発表した<ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20231025 />。側面の色は紅梅や[[白梅]]をイメージさせる[[ピンク]]や[[白]]色を用いたほか<ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20231025 />、車内での飲食に配慮してテーブルを設置している。また、車内で冷たい飲み物を提供するために[[冷蔵庫]]を装備する<ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20231025 />。 == 車歴表 == * 製造…川重:[[川崎車両|川崎重工業]]、東急:[[東急車輛製造]] * 配置…勝田:[[勝田車両センター]]<ref group="注">2004年(平成16年)3月31日までは「勝田電車区」、同年4月1日より「勝田車両センター」。</ref> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">車歴表(E501系10両編成〈基本編成〉)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成<br />番号 !製造 !落成日 !落成<br />配置 !備考 |- !K701 |rowspan="3"|川重 |1995年{{0}}5月23日<ref name="RF423_80" /> |rowspan="4"|勝田 |&nbsp; |- !K702 |1997年{{0}}2月20日<ref name="RF435_76" /> |&nbsp; |- !K703 |1997年{{0}}3月{{0}}6日<ref name="RF435_76" /><ref name="RF435_77" /> |&nbsp; |- !K704 |東急 |1997年{{0}}3月18日<ref name="RF435_76" /><ref name="RF435_77" /> |&nbsp; |}</div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">車歴表(E501系5両編成〈付属編成〉)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成<br />番号 !製造 !落成日 !落成<br />配置 !備考 |- !K751 |東急 |1995年{{0}}3月28日<ref name="RF411_82" /> |rowspan="4"|勝田 |&nbsp; |- !K752 |rowspan="2"|川重 |1997年{{0}}2月21日<ref name="RF435_76" /> |&nbsp; |- !K753 |1997年{{0}}3月{{0}}7日<ref name="RF435_76" /> |&nbsp; |- !K754 |東急 |1997年{{0}}3月19日<ref name="RF435_76" /><ref name="RF435_77" /> |&nbsp; |}</div></div> == 改造歴 == <!--改造所については、出典に記載があるもののみ掲載しています。--> * 改造所…郡山:[[郡山総合車両センター]] <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">トイレ設備取付工事</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成<br />番号 !改造日 |- !K701 |2007年{{0}}2月21日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K702 |2006年10月26日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K703 |2006年11月20日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K704 |2006年10月{{0}}3日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K751 |2007年{{0}}1月31日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K752 |2006年11月{{0}}9日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K753 |2006年12月{{0}}6日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K754 |2007年{{0}}1月22日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |}</div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">機器更新</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成<br />番号 !改造日 !改造所 |- !K701 |2012年{{0}}1月20日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |rowspan="8"|郡山 |- !K702 |2012年11月{{0}}5日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K703 |2012年{{0}}3月27日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K704 |2011年{{0}}1月26日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K751 |2011年{{0}}8月21日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K752 |2011年{{0}}5月21日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K753 |2011年{{0}}4月25日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K754 |2011年{{0}}9月{{0}}1日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |}</div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">パンタグラフシングルアーム化</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成<br />番号 !改造日 |- !K701 |2015年11月27日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K702 |2015年10月29日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K703 |2015年12月24日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K704 |2015年{{0}}2月13日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K751 |2014年12月25日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K752 |2014年12月27日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K753 |2014年12月{{0}}5日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |- !K754 |2014年12月24日<ref name="jr-hensei-2022summer_43" /> |}</div></div> == 運用 == === 2007年3月改正まで === [[File:Jreast e501.jpg|thumb|240px|right|上野 - 土浦間で運用されていた頃の基本・付属編成を繋いだ15両編成<br /> (2003年4月26日 [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]])]] 1995年に基本10両編成<ref group="注">1995年に川崎重工業で製造された基本10両編成は[[阪神・淡路大震災]]の影響で納車が遅れた。</ref>と付属5両編成各1本が、1997年に基本10両編成と付属5両編成各3本の計60両<ref group="注">1997年に増備された車両の一部は老朽化した403系一部編成の置き換え用である。</ref>がそれぞれ[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]で10両編成が3本と5両編成が2本、[[東急車輛製造]]で10両編成が1本と5両編成が2本製造され、[[勝田車両センター|勝田電車区]](当時)に配置された。1995年[[12月1日]]から、[[常磐線]]の[[上野駅|上野]] - [[土浦駅|土浦]]間で営業運転を開始し、[[普通列車]](取手 - 上野間は[[快速列車|快速]])のみに使用された<ref group="新聞" name="交通950919" />。日中の運用は10両編成での運転だった。 上野 - 土浦間の[[方向幕|行先表示器]]には[[2006年]](平成18年)[[3月17日]]まで運転されていた[[列車種別#通勤種別|通勤快速]]の表示は用意されていたが、[[2005年]](平成17年)[[7月9日]]から運転を開始した[[特別快速]]はE531系限定運用とされたこともあり、用意されなかった。また、快速の表示も用意していたが、定期列車としては取手以南の快速運転区間でも通常は終着駅名を表示していた。また、土浦以北の駅名は[[神立駅|神立]]、[[友部駅|友部]]、[[水戸駅|水戸]]、[[勝田駅|勝田]]の表示が用意されていた。 車内の停車駅案内図は、上野 - 土浦間の普通列車の停車駅と、取手 - 北千住間の各駅停車の駅を掲示していた。この当時は、「{{Color|seagreen|■}}普通」と「{{Color|gray|■}}各駅停車」が並んで掲載されるものだった。[[2004年]](平成16年)10月16日以降は、取手以南で「快速」と案内されることになったため、「{{Color|seagreen|■}}土浦 - 取手間 普通 取手 - 上野間 快速」としたものに取り替えられた。 [[ラッシュ時|朝ラッシュ]]の最混雑時間帯である土浦駅発上り6 - 7時台の列車には、2005年7月9日のダイヤ改正から運用を開始した同じ4扉車であるE531系とともにほぼ集中的に投入され、取手駅からのE231系とともに乗車位置の統一や収容力向上、および列車遅延の防止が図られた。 10両+5両の分割編成であるが、着席サービスの向上を図るため、本系列の運用列車は検査時の415系・E531系による代走も含め(営業運転開始当時を除き、後のダイヤ改正以降)終日15両編成で運転されていた。ただし、[[日本の鉄道車両検査|検査]]などで[[勝田車両センター]]に[[回送]]される際は、土浦 - 勝田間の構内有効長の関係から、10両編成と5両編成に分割して回送されていた。 予備編成がないため、取手駅以北で 120 km/h 運転可能な本系列の限定運用と403系・415系で代走可能な運用とに分けられていた。実際に検査や整備などで403系・415系が代走する際は、交流区間の各駅では代走期間と該当する時刻の4扉車が3扉車に変更される旨が表示されていた。同じ4扉車で 130 km/h 運転が可能なE531系が2005年に登場したことや転用対応の改造工事開始に伴いE531系による代走の機会が増加し、本系列は2007年2月21日を最後に常磐線土浦以南での所定運用を終了した。 === 2007年3月改正以降 === [[File:JRE Series-E501-K752.jpg|thumb|240px|5両で運用される更新後の付属編成<br />(2023年1月9日 [[常陸多賀駅]] - [[大甕駅]]間)]] [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]のダイヤ改正後、上野駅発着の常磐線中距離列車は全列車が[[グリーン車]]を連結したE531系で運行されるようになった。それに伴い、この時点で本系列の運用区間は以下のように変更された。 ;基本編成 :* 常磐線(土浦 - 水戸 - いわき - [[草野駅 (福島県)|草野]]) ;付属編成 :* 常磐線(土浦 - 水戸 - いわき) :* [[水戸線]]([[小山駅|小山]] - 友部) :: 2017年10月14日のダイヤ改正以前の本系列による日中の土浦駅始発列車は、1番線に入線させる都合上、付属編成は[[荒川沖駅]]、基本編成は[[龍ケ崎市駅|佐貫駅(現在の龍ケ崎市駅)]]まで回送列車として乗り入れていた<ref group="注">基本編成の運用をE531系付属編成2本で代用する場合、荒川沖駅の貨物列車待避線では乗務員の車内移動ができないため、本系列による運転時も含めてホームに降りて移動できる佐貫駅を使用していた。</ref>。2017年10月14日のダイヤ改正でこの回送は廃止され、同時に付属編成は水戸線乗り入れを除く友部以南の運用が消滅した<ref group="注">その後、日中の土浦駅始発列車はE531系付属編成による列車が1本あったほか、付属編成2本連結した10両編成の列車が土浦駅で折り返す運用も設定されていた。2022年3月12日のダイヤ改正で日中の土浦駅以北の列車は直接土浦駅で折り返すダイヤに変更された。</ref>。 基本編成と付属編成は別運用となった。車内の停車駅案内図はE531系と同じものに交換された。実際には改正に先立つ[[2月27日]]から、K752編成が水戸線および常磐線友部 - 勝田間で営業運転を開始した。行先表示器は、従来前面が黒地白文字・側面が白地黒文字の幕式のものであったが、運用区間の変更に伴い青地白文字の幕に交換された。また、同時に車内自動放送はほぼE531系に準じたものに変更された(ただし出口の案内は追加されておらず、乗り換え案内のみのままである)ほか、後に車内[[発光ダイオード|LED]]の表示変更などの更新(駅接近時の「まもなく ○○」の表示や、運行障害情報の表示)が実施されている。 [[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正において付属編成(5両)の運用が見直され、付属編成に関しては水戸線(小山 - 友部 - 勝田間)のみの運用となったが、[[2017年]][[10月14日]]のダイヤ改正で朝の1往復のみ水戸 - いわき間での運用が復活した。その後、[[2018年]]になって水戸線内の小山 - 小田林間の交直セクションで本系列の故障が頻発したことにより、[[9月5日]]から水戸線での運用を全てE531系に変更し、本系列は水戸駅以北での常磐線のE531系付属編成の運用を置き換えるようになった。これにより、新たに草野 - [[富岡駅|富岡]]間での営業運転を開始した<ref name="railf-20180919" />。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で水戸線並びにいわき - 富岡間での運用を終了した<ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20181214 />(いわき - 草野間の回送は引き続き継続)。なお、常磐線は2020年3月14日に富岡 - 浪江間が再開し全線復旧したが、本系列はE531系と異なり半自動ドア装置がないため、引き続き土浦 - いわき間のみで運用されている。 2022年4月23-24日には[[ももいろクローバーZ]]のイベント<ref name=momoclo />に合わせ、いわき - [[Jヴィレッジ駅|Jヴィレッジ]]間の臨時快速が本系列に設定された<ref name=trafficnews20220309 /><ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20220307 />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="RF411_82">[[#RF411_80-90|『鉄道ファン』通巻411号 p.82]]</ref> <ref name="RF411_111">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.111]]</ref> <ref name="RF411_112">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.112]]</ref> <ref name="RF411_113">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.113]]</ref> <ref name="RF411_114">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.114]]</ref> <ref name="RF411_115">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.115]]</ref> <ref name="RF411_116">[[#RF411_110-117|『鉄道ファン』通巻411号 p.116]]</ref> <ref name="RF423_80">[[#RF423|『鉄道ファン』通巻423号 p.80]]</ref> <ref name="RF435_76">[[#RF435|『鉄道ファン』通巻435号 p.76]]</ref> <ref name="RF435_77">[[#RF435|『鉄道ファン』通巻435号 p.77]]</ref> <ref name="jreast/train/e501">[https://www.jreast.co.jp/train/local/e501.html E501系] - JR東日本</ref> <ref name="Cyber1995">日本鉄道サイバネティクス協議会「鉄道サイバネ・シンポジウム論文集」第32回(1995年)「PWMコンバータ方式交直流電車システム」論文番号510。</ref> <ref name="R-M1996-2">{{Cite journal |和書 |author=新井静男 |title=JR東日本E501系交直流電車の主回路システム(解説) |date=1996-02 |journal=R&M : ROLLING STOCK & MACHINERY |volume=4 |issue=2 |publisher=日本鉄道車両機械技術協会 |pages=17 - 23}}</ref> <ref name="RAIL FAN_200310">{{Cite journal|和書|date=2004-01-01|title=鉄道記録帳2003年10月|journal=RAIL FAN|volume=51|issue=1|page=18|publisher=鉄道友の会}}</ref> <ref name="railf-20180919">{{Cite news |和書 |title=E501系の運用範囲が広がる |newspaper=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース |author=豊田正人 |date=2018-09-19 |url=https://railf.jp/news/2018/09/13/170000.html |accessdate=2022-01-13}}</ref> <ref name="railf-20190314">{{Cite news|和書|title=E501系の行先表示器がLED化される|newspaper=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース|author=阿部大和|date=2019-03-14|url=https://railf.jp/news/2019/03/14/170000.html|accessdate=2022-01-13}}</ref> <ref name="jr-hensei-2022summer_43">{{Cite book|和書|author=ジェー・アール・アール編|title=JR電車編成表|volume=2022夏|date=2022-05-19|publisher=交通新聞社|page=43|isbn=978-4-330-02822-4}}</ref> <ref name=momoclo>{{Cite web|和書|url=https://www.momoclo.net/haruichidaiji2022/|title=ももクロ春の一大事2022 〜笑顔のチカラ つなげるオモイ In 楢葉・広野・浪江 三町合同大会〜|publisher=ももいろクローバーZ|accessdate=2022-07-17}}</ref> <ref name=trafficnews20220309>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/116367|title=E501系、10両「快速」でいわき以北へ JR常磐線に臨時列車 Jヴィレッジ行き登場|publisher=[[メディア・ヴァーグ]]|website=乗りものニュース|date=2022-03-09|accessdate=2022-07-17}}</ref> }} ==== JR東日本 ==== {{Reflist|group=JR東|refs= <ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20181214>{{Cite press release|和書|title=2019年3月ダイヤ改正について |publisher=[[東日本旅客鉄道水戸支社]] |date=2018-12-14 |url=http://www.jrmito.com/press/181214/press_01.pdf |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181217014817/http://www.jrmito.com/press/181214/press_01.pdf |archivedate=2018-12-17}}</ref> <ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20220307>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/mito/20220307_mt01.pdf|title=イベント開催に伴う特急列車の臨時停車などについて|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|format=PDF|page=2|date=2022-03-07|accessdate=2022-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220312113635/https://www.jreast.co.jp/press/2021/mito/20220307_mt01.pdf|archivedate=2022-03-12}}</ref> <ref group=JR東 name=jreast/mito/press/20231025>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/mito/20231025_mt01.pdf|title=JR東日本ニュース「E501系電車を活用した新しいイベント専用車両 「E501 SAKIGAKE(さきがけ)」がデビューします!」|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|format=PDF|date=2023-10-25|accessdate=2023-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231025093553/https://www.jreast.co.jp/press/2023/mito/20231025_mt01.pdf|archivedate=2023-10-25}}</ref> }} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"|refs= <ref name="交通950919">{{Cite news |和書|title=JR東日本が12月1日ダイヤ改正 東北新幹線抜本見直し |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-09-19 |page=1 }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=編集部|title=JRグループ 車両のデータ・バンク94/95|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|year=|date=1995-07-01|volume=35|issue=第7号(通巻411号)|publisher=[[交友社]]|page=|pages=pp.80-90|isnn=|ref=RF411_80-90}} * {{Cite journal|和書|author=東日本旅客鉄道株式会社運輸車両部車両課|title=新車ガイド2:今秋の営業運転開始が待ち遠しい E501系通勤形交直流電車|journal=鉄道ファン|year=|date=1995-07-01|volume=35|issue=第7号(通巻411号)|publisher=交友社|page=|pages=pp.110-117|isnn=|ref=RF411_110-117}} * {{Cite journal|和書|author=編集部|title=JRグループ 車両のデータ・バンク95/96|journal=鉄道ファン|year=|date=1996-07-01|volume=36|issue=第7号(通巻423号)|publisher=交友社|page=|pages=pp.79-89|isnn=|ref=RF423}} * {{Cite journal|和書|author=編集部|title=JRグループ 車両のデータ・バンク96/97|journal=鉄道ファン|year=|date=1997-07-01|volume=37|issue=第7号(通巻435号)|publisher=交友社|page=|pages=pp.75-90|isnn=|ref=RF435}} == 関連項目 == * [[JR東日本209系電車]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/local/e501.html JR東日本:車両図鑑&gt;在来線 E501系] - 東日本旅客鉄道 {{commonscat|JR East E501}} {{JR東日本の車両リスト|電車限定=1}} {{デフォルトソート:しえいああるひかしにほんE501けいてんしや}} [[Category:東日本旅客鉄道の電車|501]] [[Category:1995年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:川崎重工業製の電車]]
2003-09-08T12:06:03Z
2023-10-30T09:30:12Z
false
false
false
[ "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:鉄道車両", "Template:TrainDirection", "Template:Color", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:JR東日本の車両リスト" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%ACE501%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
15,776
熱力学サイクル
熱力学サイクル(ねつりきがくサイクル、英: thermodynamic cycle)あるいは単にサイクルは、ヒートポンプを含む熱機関の作業物質が行う循環的な動作を理想化(単純化)したものである。 実際の熱機関の動作は多少なりとも不可逆変化を伴っており、理論上の熱力学サイクルとは異なっているが、熱力学サイクルは熱機関の原理的理解や基本設計には必要なものである。 内燃機関の実際の動作は、作業物質自身の燃焼、組成変化、排気の残留、成分の解離・結合、弁の開閉等のために、かなり複雑なものとなる。このため、これを次のように理想化したサイクル(空気標準サイクル)を考える。 以下のサイクルは、この仮定に基づいた空気標準サイクルである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "熱力学サイクル(ねつりきがくサイクル、英: thermodynamic cycle)あるいは単にサイクルは、ヒートポンプを含む熱機関の作業物質が行う循環的な動作を理想化(単純化)したものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "実際の熱機関の動作は多少なりとも不可逆変化を伴っており、理論上の熱力学サイクルとは異なっているが、熱力学サイクルは熱機関の原理的理解や基本設計には必要なものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "内燃機関の実際の動作は、作業物質自身の燃焼、組成変化、排気の残留、成分の解離・結合、弁の開閉等のために、かなり複雑なものとなる。このため、これを次のように理想化したサイクル(空気標準サイクル)を考える。", "title": "内燃機関の熱力学サイクル" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下のサイクルは、この仮定に基づいた空気標準サイクルである。", "title": "内燃機関の熱力学サイクル" } ]
熱力学サイクルあるいは単にサイクルは、ヒートポンプを含む熱機関の作業物質が行う循環的な動作を理想化(単純化)したものである。 実際の熱機関の動作は多少なりとも不可逆変化を伴っており、理論上の熱力学サイクルとは異なっているが、熱力学サイクルは熱機関の原理的理解や基本設計には必要なものである。
{{出典の明記|date=2011年10月}} '''熱力学サイクル'''(ねつりきがくサイクル、{{lang-en-short|thermodynamic cycle}})あるいは単にサイクルは、[[ヒートポンプ]]を含む[[熱機関]]の作業物質<ref group="注">[[シリンダー]]内に[[ピストン]]で閉じ込められた気体のような、熱や仕事を外部とやり取りする物質。</ref>が行う循環的な動作を理想化(単純化)したものである。 実際の熱機関の動作は多少なりとも[[可逆|不可逆変化]]を伴っており、理論上の熱力学サイクルとは異なっているが、熱力学サイクルは熱機関の原理的理解や基本設計には必要なものである。 == 理想サイクル == * [[カルノーサイクル]] == 外燃機関の熱力学サイクル == {{See also|外燃機関}} * [[蒸気タービン]] ** [[ランキンサイクル]] ** [[再熱サイクル]] ** [[再生サイクル]] ** [[再熱・再生サイクル]] ** [[カリーナサイクル]] * [[スターリングエンジン]] - 冷凍機としても使用される。 ** [[スターリングサイクル]](カークサイクル) *** 分離型スターリングサイクル ** [[ヴィルマイアーサイクル]] ** [[ギフォードマクマホンサイクル]](G.Mサイクル) == 内燃機関の熱力学サイクル == {{See also|内燃機関}} [[内燃機関]]の実際の動作は、作業物質自身の燃焼、組成変化、排気の残留、成分の解離・結合、弁の開閉等のために、かなり複雑なものとなる。このため、これを次のように理想化したサイクル(空気標準サイクル)を考える<ref name="柘植">柘植盛男、『機械熱力学』(1967)、朝倉書店</ref>。 # 動作物質は純粋な空気とする # 空気は[[比熱]]が一定の(狭義の)[[理想気体]]とする # 閉じたサイクルを行い、燃焼と排気・吸気に代えて外部熱源との間で熱の授受を行う(外燃式) # 変化は全て可逆的に行われるものとする 以下のサイクルは、この仮定に基づいた空気標準サイクルである。 * [[オットーサイクル]] - 火花点火エンジン * [[サバテサイクル]] - 高速[[ディーゼルエンジン]] * [[ディーゼルサイクル]] - 低速ディーゼルエンジン * [[アトキンソンサイクル]] * [[ミラーサイクル]] * [[ブレイトンサイクル]] - [[ガスタービンエンジン]] * [[エリクソンサイクル]] == 冷凍機の熱力学サイクル== {{See also|冷凍機}} {{See also|冷凍サイクル}} * 理想サイクル ** [[逆カルノーサイクル]] * [[蒸気圧縮冷凍機]] - 一般的な冷凍サイクル。 ** [[蒸気圧縮冷凍サイクル]] - [[エア・コンディショナー]]、[[冷蔵庫]] *** [[蒸気圧縮冷凍サイクル#ローレンツサイクル|ローレンツサイクル]] - 非共沸混合冷媒を利用した高効率サイクル ** [[蒸気圧縮冷凍サイクル#多段圧縮サイクル|多段蒸気圧縮冷凍サイクル]] - 極低温用冷凍機 ** [[多元冷凍サイクル]] - [[天然ガス]]液化、ドライアイス・液体空気製造 * [[吸収式冷凍機]] ** [[単効用吸収冷凍サイクル]] ** [[二重効用吸収冷凍サイクル]] ** [[三重効用吸収冷凍サイクル]] ** [[第二種吸収ヒートポンプサイクル]] ** [[アンモニア吸収冷凍機]] * 極低温冷凍サイクル ** [[リンデサイクル]]([[ジュール=トムソン効果]]) ** [[クロウドサイクル]] ** [[パルス管冷凍サイクル]] * [[ヘリウム]]冷凍 ** [[ヘリウム希釈冷凍サイクル]] ** [[ポメランチック冷凍サイクル]] ** [[断熱消磁冷凍サイクル]] * その他の冷凍サイクル ** [[吸着冷凍サイクル]] *** 水素吸着合金利用ヒートポンプ ** [[ペルティエ効果]](電子冷却) ** [[空気冷凍サイクル]] ** [[蒸気噴射冷凍サイクル]] ** [[ボルテックスチューブ冷凍サイクル]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === <references /> == 参考文献 == * 佐藤俊、国友孟、熱力学、丸善 == 関連項目 == * [[熱機関]] * [[熱力学]] * [[ヒートポンプ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねつりきかくさいくる}} [[Category:熱機関]] [[Category:熱力学サイクル|*]] {{熱力学サイクル}}
2003-09-08T12:31:49Z
2023-09-05T04:54:33Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:熱力学サイクル", "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB
15,778
金光教
金光教(こんこうきょう)は、日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。 安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。 現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。 祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。 教主は金光浩道(六代金光様)、教務総長は岩﨑道與である。日本を中心に約1500の教会・布教所、約37.5万人の信者を有する。 従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという思想を持つ。文化人の信者も多いが、こうした性格から布教活動的な言論は少なく、比較的最近の関連著作であるかんべむさし『理屈は理屈 神は神』などもかなりニュートラル、分析的な内容となっている。なお信者が日々唱える言葉は「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」である。 信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。(本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金光教(こんこうきょう)は、日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "教主は金光浩道(六代金光様)、教務総長は岩﨑道與である。日本を中心に約1500の教会・布教所、約37.5万人の信者を有する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという思想を持つ。文化人の信者も多いが、こうした性格から布教活動的な言論は少なく、比較的最近の関連著作であるかんべむさし『理屈は理屈 神は神』などもかなりニュートラル、分析的な内容となっている。なお信者が日々唱える言葉は「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」である。", "title": "教え" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。(本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)", "title": "特徴" } ]
金光教(こんこうきょう)は、日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。
{{Infobox 組織 | 名称 =金光教(こんこうきょう) | 画像 = Konkokyo.png | 画像サイズ = 100px | 画像説明 = 金光教の紋 | 画像2 =Konkokyo Headquarters Central Worship Hall.jpg | 画像サイズ2 = 280px | 画像説明2 = 金光教本部広前会堂 | 地図2 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=11|frame-align=center|frame-width=280|coord={{coord|34|32|20.7|N|133|37|32.7|E}}}} | 略称 = | 設立 = 1859年(安政6年) | 解散 = | 種類 = [[宗教法人]] | 地位 = | 目的 = | 本部 = [[岡山県]][[浅口市]]金光町大谷320 |coords = {{ウィキ座標2段度分秒|34|32|20.7|N|133|37|32.7|E|display=inline,title}} | 位置 = | 言語 = | 設立者 =赤沢文治(川手文治郎)、後の[[金光大神]] | 人物 = | 関連組織 = | 機関 = |leader_title=教主 |leader_name=[[金光浩道]] | website= [https://www.konkokyo.jp/ 公式サイト] }} '''金光教'''(こんこうきょう)は、日本の[[新宗教]]。[[教派神道]]連合会に属し、戦前の[[神道十三派]]の一つ。 == 概要 == [[File:Fujin-Seikatsu-1953-December-1.jpg|thumb|170px|三代[[金光様]]の[[金光攝胤]]]] [[安政]]6年([[1859年]])、[[備中国]][[浅口郡]]大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の[[金光大神]](こんこうだいじん)が開いた[[創唱宗教]]である。同じ江戸時代末期に開かれた[[黒住教]]、[[天理教]]と共に[[日本三大一覧#宗教|幕末三大新宗教]]の一つに数えられる。 現在の本拠地は[[岡山県]][[浅口市]]金光町大谷である(旧町名由来の[[金光町]]という地名は金光教の本部があることから付けられた)。 祭神は[[天地金乃神]](てんちかねのかみ)と生神[[金光大神]](いきがみこんこうだいじん)である。 教主は[[金光浩道]](六代[[金光様]])<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.sanyonews.jp/article/1113639|title=金光教 6代教主に金光浩道氏 生前継承は立教以来初|accessdate=2021-03-29|publisher=山陽新聞社|date=2021-03-27}}</ref>、[[教務総長]]は岩﨑道與<ref>{{Cite web|和書|url=http://web-konkokyo.info/guide/kyodan/r3_html|title=教団活動 基本・活動方針|accessdate=2021-03-29|publisher=金光教}}</ref>である。日本を中心に約1500の教会・布教所、約37.5万人の信者を有する<ref>文化庁『宗教年鑑 令和4年版』 P61</ref>。 == 教え == 従来の[[金神]]思想では日柄や方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「'''あいよかけよ'''」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという思想を持つ。文化人の信者も多いが、こうした性格から布教活動的な言論は少なく、比較的最近の関連著作である[[かんべむさし]]『[[#かんべ2005|理屈は理屈 神は神]]』などもかなりニュートラル、分析的な内容となっている。なお信者が日々唱える言葉は「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」である。 == 特徴 == 信者は、本部および各教会の広前に設けられた[[結界]]の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる[[取次者]]を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「[[生神金光大神取次|取次]]」といい、金光教の特徴とされる。(本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。) == 本部施設 == <gallery> 画像:Gate in the Konkokyo Headquarters.jpg|金光教本部の門 画像:Konkokyo Headquarters Grand Service Hall.jpg|金光教本部広前祭場 画像:Konkokyo Headquarters Faith Training Center.jpg|金光教本部修徳殿講堂 </gallery> == 金光教の歴史(主として日本国内) == {| class="wikitable" style="width:100%;" |- !style="width:10em"|西暦年(和暦)||style="width:10em"|月日||事項 |- |[[1814年]](文化11年)|| 8月16日<br/>太陽暦9月29日||教祖生誕、幼名香取源七。 |- |[[1825年]](文政8年)|| 11月26日||川手家の養子へ、文治郎と改名。 |- |[[1830年]](文政13年)|| 7月15日より||[[小野四右衛門]]らと[[伊勢神宮|伊勢参宮]]。 |- |[[1836年]](天保7年)|| 12月13日||文治、古川八百蔵娘[[とせ]]と結婚。 |- |[[1846年]](弘化3年)|| 2月22日から3月26日||文治、[[四国八十八カ所]]巡拝。 |- |[[1855年]](安政2年)|| 4月29日||25日頃より、教祖大患。古川治郎祈祷時に[[石鎚山]]神降臨、金神への無礼の指摘と病気平癒の神示。 |- |[[1857年]](安政4年)|| 10月13日||教祖実弟[[香取繁右衛門]]金神降臨し文治神命にそって普請の手伝いを行う。 |- |[[1857年]](安政4年)|| 11月9日||香取繁右衛門、金神の奉祭者となり文治は参拝する。 |- |[[1858年]](安政5年)|| 7月13日||文治、[[盂蘭盆会]]にて祖先の霊神の降臨と金神より種々の神示をうける。 |- |[[1859年]](安政6年)|| 10月21日<br/>太陽暦11月15日||農作業後、教祖に[[立教神伝]]が下る、金光教立教の日とされる。 |- |[[1864年]](元治1年)|| 4月9日||[[白川伯王家|白川神祇伯王家]]より、神拝式許状ならびに金神の宮建築許可を得る。 |- |[[1864年]](元治1年)|| 9月21・22日||初めての神祭りを仕える。(年に一度奉行する金神への感謝の祭、以降毎年) |- |[[1866年]](慶応2年)|| 10月2日||神祇伯より、神拝の節・冠・布斎服・差貫着用の許可、ならびに『金光河内』と名乗ることを許される。 |- |[[1867年]](慶応3年)|| 2月22日||金神社神主の補任状を得る。 |- |[[1869年]](明治2年)|| 7月||[[神仏分離令]]施行により、大谷村の神社([[寂光院]]が管轄していた社祠)の神事を執り行うことになる。 |- |[[1869年]](明治2年)|| 9月9日・10日||金光大神祭りを仕える。身内親類を集めての先祖祭りを仕える。(以降毎年) |- |[[1870年]](明治3年)|| 9月1日||[[浅尾藩]]庁より出社神号さしとめの指令出る。 |- |[[1871年]](明治4年)|| 4月 ||[[白神新一郎]]『御道案内』を著す。 |- |[[1871年]](明治4年)|| 10月15日||浅尾藩庁より 神職廃止命令。 |- |[[1872年]](明治5年)|| 11月26日||[[小田県]]庁より 神勤廃止命令。 |- |[[1873年]](明治6年)|| 2月13日||神前の撤去。 |- |[[1873年]](明治6年)|| 4月11日||『[[天地書附]]』定まる。 |- |[[1876年]](明治9年)|| 10月19日||「敬神教育之儀」願書を[[岡山県]]令に提出26日に認可、官憲の弾圧がおさまる。 |- |[[1879年]](明治12年)|| 7月28日||[[金光萩雄]]「教導職試補」となり、国家資格を得る。 |- |[[1881年]](明治14年)|| 1月30日<br/>(旧暦の正月)||神命により「八つ波に金の文字」の紋章を定める。 |- |[[1882年]](明治15年)|| 8月 ||[[佐藤範雄]]教団組織を志し、備後[[沼名前神社]]宮司[[吉岡徳明]]の助言により、金光教祖の元で、金光萩雄と共に、信条(神戒神訓の元)の記録を始める。(翌年9月8日終える) |- |[[1883年]](明治16年)|| 6月10日||[[白神新一郎(二代目)|白神新一郎]]・[[近藤藤守]]、佐藤範雄を訪ね、道の将来に渡り協議。(この三人を金光教では後に[[三直信]]と呼ぶ。) |- |[[1883年]](明治16年)|| 10月10日||教祖死去(諡名は金光大神人力威命)。 |- |[[1883年]](明治16年)|| 11月28日||教祖五十日祭、遺業継承の旨。金光萩雄と三直信の4人が教団創設について打ち合せ。この日から[[金光宅吉]]が神前奉仕。 |- |[[1885年]](明治18年)|| 3月15日||[[神道本局|神道]]備中事務分局長・[[井上泰憲]]に「教会講社開設進達御願」を添えて「金光教会講社結収之件御願」の願書提出。 |- |[[1885年]](明治18年)|| 6月2日||神道管長[[稲葉正邦]]による認可。 |- |[[1885年]](明治18年)|| 6月10日||「金光教会所設置願」を岡山県令[[千坂高雅]]代理[[高津暉]]に提出。 |- |[[1885年]](明治18年)|| 6月13日||神道備中事務分局附属金光教会として教団創設。 |- |[[1888年]](明治21年)|| 3月1日||神道金光教会規約改正 神名「[[天地金乃神]]」が公認される。 |- |[[1888年]](明治21年)|| 5月21日||[[畑徳三郎]] 東京四ッ谷にて取次開始(正式な東京布教の開まり)。 |- |[[1889年]](明治22年)|| 7月4日||金光萩雄・佐藤範雄「[[日本赤十字社]]」に入社。金光教での赤十字運動の開始。 |- |[[1890年]](明治23年)|| 10月||教祖大祭に初めて「[[吉備楽]]」が祭典音楽として採用され演奏される。 |- |[[1891年]](明治24年)|| 7月||[[山陽鉄道]][[倉敷駅|倉敷]] - [[笠岡駅|笠岡]]間開通、祭典時の[[金光駅|金神仮駅]]開設。 |- |[[1892年]](明治25年)|| 7月10日||金光萩雄、金光大陣と戸籍名を変更。 |- |[[1893年]](明治26年)|| 12月20日||金光宅吉死去(二代金光様、金光四神貫行君)。 |- |[[1893年]](明治26年)|| 12月29日||[[金光攝胤]]14歳で神前奉仕を継承。 |- |[[1894年]](明治27年)|| 11月29日||神道金光教会学問所開設 ([[金光教学院]]と[[金光学園中学・高等学校]]の創立記念日)。 |- |[[1897年]](明治30年)|| 4月1日||神道金光教会学問所を神道金光教会中学部と改称。 |- |[[1898年]](明治31年)|| 4月10日||神道金光教会が神道本局一等直轄教会となる。 |- |[[1898年]](明治31年)|| 4月15日||神道金光教会中学部は、金光中学として内務大臣の認可を得て、公認学校となる。 |- |[[1899年]](明治32年)|| 4月||畑徳三郎主唱により令徳会(婦人会)を結成。7月、[[長谷川まつ]]らを中心に日本初の婦人雑誌『[[令徳]]』創刊。 |- |[[1900年]](明治33年)|| 6月16日||金光教団として神道本局から別派独立<ref>[{{NDLDC|2948380/1}} 「内務省告示第61号」『官報』1900年6月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 |- |[[1901年]](明治34年)|| 8月4日||[[金光駅|金神駅]]営業開始。 |- |[[1901年]](明治34年)|| 10月||[[斉藤俊三郎]]台湾布教。 |- |[[1902年]](明治35年)|| 秋||[[釜山]]教会所設立認可。 |- |[[1906年]](明治39年)|| 2月25日||金光教教師養成の専門機関として、金光中学の組織改編により[[教義講究所]]設置。 |- |[[1906年]](明治39年)|| 5月||[[高橋正雄 (宗教家)|高橋正雄]]、[[佐藤金造(金光教)|佐藤金造]]ら金光中学卒業の学生、東京にて「[[金光教青年会]]」を組織する。 |- |[[1906年]](明治39年)|| 12月17日||信奉者の信念修養の場として[[修徳殿]]を設置。 |- |[[1907年]](明治40年)|| 7月1日||[[布教興学基本財団]]設立(2008年8月8日解散)。 |- |[[1907年]](明治40年)|| 9月30日||[[松山成三]][[満州]]布教開始。 |- |[[1910年]](明治43年)|| 6月から7月||金光教監佐藤範雄、満州・朝鮮布教視察。 |- |[[1912年]](大正1年)|| 4月10日||管長世襲制および[[金光教維持財団]]設立(2008年8月8日解散)。 |- |[[1913年]](大正2年)|| 10月4日||『金光教祖理解』を刊行(教祖三十年祭)。 |- |[[1915年]](大正4年)|| 4月||[[尾原音人]]創始の「[[中正楽]]」が大祭の祭典楽として採用される。 |- |[[1919年]](大正8年)|| 2月||[[平山文次郎]]北米布教開始。 |- |[[1919年]](大正8年)|| 12月17日||金光大陣死去(第一世管長、諡名は金光山神大道立別命)。 |- |[[1920年]](大正9年)|| 3月19日||[[金光家邦]]管長を襲職(第二世管長)。 |- |[[1921年]](大正10年)|| 2月22日||[[大教会所]]新築落成祝祭。 |- |[[1925年]](大正14年)|| 4月14日||大教会所ならびに付属舎、炎上。 |- |[[1928年]](昭和3年)|| 10月10日||『[[#金光教本部1928|金光教教典]]』(教祖四十五年祭)。 |- |[[1934年]] - [[1935年]]<br/>(昭和9年 - 10年)||||教団自覚運動(国が定めた管長の命より結界奉仕者の[[金光攝胤|三代金光様]]の御取次を信仰の中心ととらえる運動)「昭和九年十年事件」。 |- |[[1941年]](昭和16年)|| 4月16日||宗教団体法に基づく金光教団となる。管長は世襲制から選挙制へ。 |- |[[1941年]](昭和16年)|| 8月1日||[[金光攝胤]]管長選挙により管長就任。 |- |[[1946年]](昭和21年)|| 4月1日||宗教法人令施行にともなう組織変更『[[天地書附]]』を奉斎の神儀と定める。 |- |[[1947年]](昭和22年)|| 5月5日||公共事業として[[私立図書館]]の「[[金光図書館]]」を開設。 |- |[[1949年]](昭和24年)|| 4月1日||信仰活動として「御取次成就信心生活運動(おんとりつぎじょうじゅしんじんせいかつうんどう)」が始められる。 |- |[[1953年]](昭和28年)|| 10月1日||教祖伝記『金光大神』刊行(教祖七十年祭)。 |- |[[1953年]](昭和28年)|| 10月8日||金光教のラジオ放送開始。 |- |[[1954年]](昭和29年)|| 4月1日||金光教規改正。『天地書附』を『金光教教典』に掲載。 |- |[[1954年]](昭和29年)|| 11月1日||金光教学研究所設置。 |- |[[1959年]](昭和34年)|| 8月5日||本部広前祭場竣工報告祭(金光攝胤の誕生日と少年少女全国大会に併せて)。 |- |[[1959年]](昭和34年)|| 10月||立教百年教祖大祭が4回に分けて行われる。 |- |[[1959年]](昭和34年)|| 11月||立教百年祭が4回に分けて行われる。 |- |[[1960年]](昭和35年)|| 8月||[[シカゴ]]・[[ミッドビル神学校]]との交流で留学生(後の国際センター所長)派遣。 |- |[[1963年]](昭和38年)|| 4月13日||教主金光攝胤死去 (三代金光様)。 |- |[[1963年]](昭和38年)|| 7月9日||[[金光鑑太郎]]教主就任。 |- |[[1964年]](昭和39年)|| 3月11日||南米[[ブラジル]]ビリグイでの布教開始。 |- |[[1969年]](昭和44年)|| 10月1日||『金光大神覚(こんこうだいじんおぼえ)』刊行 金光教祖の書いた自伝の公表。 |- |[[1972年]](昭和47年)|| 4月1日||『概説金光教』刊行 金光教の教義の概説書。 |- |[[1973年]](昭和48年)|| 7月20日||本部広前会堂竣工 天地書附を正面奉掲する形式になる。 |- |[[1976年]](昭和51年)|| 7月24日||ラジオ放送番組の安定制作のため、大阪に金光教電波布教センターを設置(現・金光教放送センター)。 |- |[[1981年]](昭和56年)|| 1月1日||金光教東京布教センターを設置。 |- |[[1983年]](昭和58年)|| 1月1日||金光教独自の新儀式,拝詞,服制の施行。 |- |[[1983年]](昭和58年)|| 10月||9月29日から5回に分けて金光教祖百年祭が行われる。 |- |[[1983年]](昭和58年)|| 10月10日||『金光教教典』刊行 教祖の信仰日記や多くの弟子達が書き残した教祖の教えが公刊された。 |- |[[1989年]](平成元年)|| 6月10日||信仰活動として「よい話をしていく運動」が始められる。 |- |[[1991年]](平成3年)|| 1月10日||教主金光鑑太郎死去(四代金光様)。 |- |[[1991年]](平成3年)|| 3月27日||[[金光平輝]]教主就任。 |- |[[1993年]](平成5年)|| 7月1日||東京に金光教国際センター設置。 |- |[[2000年]](平成12年)|| 2月1日||金光教[[ソウル特別市|ソウル]]活動センター設置。 |- |[[2000年]](平成12年)|| 6月10日||教団独立百年記念祭が、翌11日と2回に分けて行われる。 |- |[[2001年]](平成13年)|| 1月1日||『金光教宣言』発表。 |- |[[2001年]](平成13年)|| 6月10日||信仰活動として「あいよかけよの生活運動」がはじまる。 |- |[[2003年]](平成15年)|| 9月28日||教祖伝『金光大神』刊行 昭和28年版が全面的に書き換えられた。 |- |[[2008年]](平成20年)|| 8月8日||旧三財団法人(宿泊施設、出版、学生寮を管理)を解散し、宗教法人『金光教』へ事業を集約。 |- |[[2008年]](平成20年)|| 12月1日||新公益法人制度よる一般財団法人『金光財団』設立し、旧三財団法人の行ってきた収益事業を移管。 |- |[[2012年]](平成24年)|| 1月1日||信仰活動として「神人あいよかけよの生活運動」がはじまる。 |- |[[2021年]](令和3年) |3月26日 |教主金光平輝退任(五代金光様)、生前継承は立教以来初めて。<ref name=":0" /> |- |[[2021年]](令和3年) |3月27日 |[[金光浩道]]教主就任。<ref>{{Cite news |title=金光平輝教主、退任へ 初の生前代替わり 金光教 |url=https://www.chugainippoh.co.jp/article/news/20210303-001.html |date=2021-03-03 |newspaper=中外日報 |publisher=中外日報社 |accessdate=2021-04-05}}</ref> |} == 教育 == ; [[学校法人金光学園]] * [[金光学園中学・高等学校]] * [[金光学園こども園]] ; [[学校法人関西金光学園]] * [[関西福祉大学]] * [[金光藤蔭高等学校]] * [[金光大阪中学校・高等学校]] * [[金光八尾中学校・高等学校]] == 著名人の信徒 == <!--項目名の50音順--> * [[池貝庄太郎]] * [[伊藤昌哉]](政治評論家) * [[小川洋子]] * [[小田原大造]] * [[片岡孝太郎]] (歌舞伎役者) * [[かんべむさし]] * [[サトウサンペイ]] * [[杉田二郎]] * [[鈴木清一 (実業家)|鈴木清一]] 株式会社ダスキン創業者 * [[砂川しげひさ]] * [[中村鴈治郎 (初代)|中村鴈治郎]] * [[松木安太郎]] == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 ==<!--項目名の50音順--> === 金光教と関係ないもの === * {{Cite book|和書|editor=井上順孝ほか|editor-link=井上順孝|year=1990|month=3|title=新宗教事典|publisher=弘文堂|isbn=4-335-16018-6|ref=井上ほか1990}} === 金光教または信徒によるもの === * {{Cite book|和書|author=かんべむさし|authorlink=かんべむさし|date=2005-04-15|title=理屈は理屈 神は神|publisher=講談社|isbn=4-06-212885-3|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000182686|ref=かんべ2005}} * {{Cite book|和書|editor=金光家邦|editor-link=金光家邦|title=金光教教典|date=1928-10-10|publisher=金光教本部|id={{近代デジタルライブラリー|1103656}}|ref=金光教本部1928}} ** {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|editor-link=金光教本部教庁|title=金光教教典|year=1929|publisher=金光教本部|ref=金光教本部教庁1929}} ** {{Cite book|和書|title=金光教教典|edition=改訂版|year=1941|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1941}} - 大和綴活版。 ** {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典 附・金光教教規前文|year=1969|month=3|publisher=金光図書館|ref=金光教本部教庁1969}} - 点訳:上坂文雄。 ** {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典|year=1983|month=10|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1983}} - 付録(51頁)。 * {{Cite book|和書|year=1960|title=金光教年表|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1960}} ** {{Cite book|和書|year=1986|month=4|title=金光教年表 昭和61年|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1986}} * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典 用語索引|year=1987|month=10|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1987}} - 付録(2枚):検索ガイド。 * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典 お知らせ事覚帳注釈|year=1989|month=10|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1989}} * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=天地は語る 金光教教典抄|year=1989|month=6|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1989}} - 付録(1枚):『金光教教典』対照表。 * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典 人物誌|year=1994|month=12|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁1994}} * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光教教典 用語辞典|year=2001|publisher=金光教本部教庁|ref=金光教本部教庁2001}} * {{Cite book|和書|editor=金光教本部教庁|title=金光大神|year=2003|publisher=金光教本部教庁|isbn=4-906088-15-5|ref=金光教本部教庁2003}} * {{Cite book|和書|editor=金光教教学研究所|editor-link=金光教教学研究所|year=2001|month=12|title=教団史基本資料集成|volume=上巻・下巻|publisher=金光教教学研究所|issn=0285-8339|ref=金光教教学研究所2001}} - 紀要『金光教学』別冊。 * {{Cite book|和書|author=佐藤範雄 編・著|year=1970-1971|title=信仰回顧六十五年|volume=上・下|publisher=「信仰回顧六十五年」刊行会|ref=佐藤1970-1971}} * {{Cite book|和書|author=吉川信雄 編・著|year=2008|month=|title=金光教満州布教史|publisher=CiNii|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB19809540|ref=吉川2008}} == 関連項目 ==<!--項目名の50音順--> * [[金光駅]] * [[金光教学院]] * [[金光教の時間]] * [[金光饅頭]] * [[三直信]] * [[団体専用列車]] - 祭礼の際金光駅発着の列車(通称「金光臨」)が運転される。 == 外部リンク == {{Commonscat|Konkokyo}} * [http://web-konkokyo.info/ 金光教本部] 金光教本部の公式ページ * [http://www.konko-library.jp/ 金光図書館蔵書検索] * [http://tengaku.konko.jp 金光教典楽会] 金光教の祭典音楽 * [http://www.konkokyo.com 金光教ポータル] 金光教関連へのリンクが豊富 * [http://www.konko.jp 金光ネットワーク] 金光教系WEBサーバーサービス、教会検索あり * [http://dmoz.org/World/Japanese/%e7%a4%be%e4%bc%9a/%e5%ae%97%e6%95%99%e3%83%bb%e7%b2%be%e7%a5%9e%e4%b8%96%e7%95%8c/%e7%a5%9e%e9%81%93/%e6%95%99%e6%b4%be%e7%a5%9e%e9%81%93/%e9%87%91%e5%85%89%e6%95%99/ オープン・ディレクトリ 社会: 宗教・精神世界: 神道: 教派神道: 金光教 ] {{戦前までに日本で発祥した新宗教}} {{新宗教}} {{デフォルトソート:こんこうきよう}} [[Category:日本の新宗教]] [[Category:神道の教派]] [[Category:神道系新宗教]] [[Category:金光教|*]] [[Category:浅口市]] [[Category:19世紀の日本の設立]]
2003-09-08T12:47:06Z
2023-12-26T15:09:32Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:戦前までに日本で発祥した新宗教", "Template:一次資料", "Template:Infobox 組織", "Template:Commonscat", "Template:新宗教" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99
15,782
中国医学
中国医学(ちゅうごくいがく)、また中医薬学(ちゅういやくがく)とは、中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学であり、中国周辺の伝統医学(日本の漢方医学や朝鮮半島の韓医学など)も中国医学から大きな影響を受けた。 以下のような点が中医薬学の特徴として挙げられる。 近年は欧米でもTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で、補完・代替医療として広く行われている。アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)と共に三大伝統医学に数えられ、相互に影響を与えたと考えられている。 中国における歴史について記す。 殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。 こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。 前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略』(正式名称は金匱要略方論)として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。 ただし、現在に伝わる傷寒論は宋の林億が改訂し明の趙開美がさらに注釈をつけたもので、宋以前の傷寒論がいかなるものであったかについては種々の議論はあるものの定まっていない。所謂中華文明全体に及ぶ「宋改」が医学の分野ではかなり大胆に行われており、今我々が目にすることが出来る傷寒論や黄帝内経は、あくまで宋改を経たもの、と言うことになる(https://www.amazon.co.jp/宋以前傷寒論考-岡田-研吉/dp/4924954950)。 唐代の孫思邈は、医学全書である『備急千金要方』などを著すが、これまでの医学思想に神仙系の医学思想や仏教医学の思想を加味した。『傷寒論』の薬方を取り入れて『千金翼法』を著した。 金・元代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素・張従正・李杲・朱震亨らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元代にも継承された。 また、明代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。 中国においては、戦後、国民党政府の伝統医学廃止運動に反発する形で、共産党政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ、「中医学」としてまとめられた。現在、西洋医学を行なう通常の医師と、伝統学を行なう「中医師」の二つの医師資格が併設されている。 中華人民共和国成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけであった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、伝統医学が整理・統一され「中医学」理論が設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1956年を皮切りとし、文化大革命の時期を中心として展開されたもので、これ以前の中国医学を「中国医学」、以降を「中医学」として区別する考え方もある。 1958年の南京中医学院が編纂した教科書『中医学概論』では、五臓六腑ごとに病証が展開されており、病証も『千金方』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『千金方』には「腎実熱」などまで含まれる。 鍼灸を例にすれば、現在の中医理論は経絡治療と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気鬱逆」(「肝鬱気滞」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、脈診を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである。 中医学は、中華人民共和国において、多様な中国伝統医学を整理・統合して作られた医学体系である。診療は、基本的に中医師が行う。ただし、日本においては中医師の資格は使えないため、これを行うのは日本国で有効な医師免許を持つ者、または一部の鍼灸師が行う中医針灸である。中医師の免許は米国などでは認可されているが、日本では現在未認可であるため、中医師免許のみでは診療行為を行うことができない。このため中国は中医師資格の認可を日本政府に働きかけている。 現代中国の中医学は、西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医婦人科、中医小児科などに細かく分類され複雑化している。中国の中医師の資格種類は次のとおりに分けられる。 その他に医師は西洋医があるが、西医学部を卒業後に中医学研修を受け、西洋医学も中医学も理解する「中西医結合」治療を行う医師(中医学部では西洋医学も同様に学習するため、両方の処方が可能である)もいる。この際、診察や処方において「西洋医学の薬にしますか、中薬にしますか」などと聞かれることがある。 日本の漢方医学と同根ではあるが、日本と中国の社会的事情、歴史的経緯、生活習慣、風土などの違いから、漢方医学と中国医学は診察方法などが大きく異なる。例えば以下のようなものである。 近年は欧米では、中医学がTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で普及し、補完・代替医療として治療・研究が広く行われている。 香港では1999年より香港中医薬管理委員会(中国語版)(Chinese Medicine Council of Hong Kong)により規制されており、すべての中医家は委員会に登録されなければならない。登録には5年間の専門教育を受けた上で30週間の臨床実習を積み、さらに試験に通過する必要がある。登録資格は3年間有効で、更新にあたっては登録された専門家から60日間の教育を受ける必要がある。 漢方医学(和漢方・和方):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。 日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学は鍼灸も含む場合もあるが、現在は漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。 朝鮮半島の医学は、日本にも影響を与えた。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中国医学(ちゅうごくいがく)、また中医薬学(ちゅういやくがく)とは、中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学であり、中国周辺の伝統医学(日本の漢方医学や朝鮮半島の韓医学など)も中国医学から大きな影響を受けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "以下のような点が中医薬学の特徴として挙げられる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近年は欧米でもTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で、補完・代替医療として広く行われている。アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)と共に三大伝統医学に数えられ、相互に影響を与えたと考えられている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中国における歴史について記す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略』(正式名称は金匱要略方論)として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、現在に伝わる傷寒論は宋の林億が改訂し明の趙開美がさらに注釈をつけたもので、宋以前の傷寒論がいかなるものであったかについては種々の議論はあるものの定まっていない。所謂中華文明全体に及ぶ「宋改」が医学の分野ではかなり大胆に行われており、今我々が目にすることが出来る傷寒論や黄帝内経は、あくまで宋改を経たもの、と言うことになる(https://www.amazon.co.jp/宋以前傷寒論考-岡田-研吉/dp/4924954950)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "唐代の孫思邈は、医学全書である『備急千金要方』などを著すが、これまでの医学思想に神仙系の医学思想や仏教医学の思想を加味した。『傷寒論』の薬方を取り入れて『千金翼法』を著した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "金・元代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素・張従正・李杲・朱震亨らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元代にも継承された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、明代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "中国においては、戦後、国民党政府の伝統医学廃止運動に反発する形で、共産党政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ、「中医学」としてまとめられた。現在、西洋医学を行なう通常の医師と、伝統学を行なう「中医師」の二つの医師資格が併設されている。 中華人民共和国成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけであった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、伝統医学が整理・統一され「中医学」理論が設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1956年を皮切りとし、文化大革命の時期を中心として展開されたもので、これ以前の中国医学を「中国医学」、以降を「中医学」として区別する考え方もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1958年の南京中医学院が編纂した教科書『中医学概論』では、五臓六腑ごとに病証が展開されており、病証も『千金方』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『千金方』には「腎実熱」などまで含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "鍼灸を例にすれば、現在の中医理論は経絡治療と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気鬱逆」(「肝鬱気滞」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、脈診を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "中医学は、中華人民共和国において、多様な中国伝統医学を整理・統合して作られた医学体系である。診療は、基本的に中医師が行う。ただし、日本においては中医師の資格は使えないため、これを行うのは日本国で有効な医師免許を持つ者、または一部の鍼灸師が行う中医針灸である。中医師の免許は米国などでは認可されているが、日本では現在未認可であるため、中医師免許のみでは診療行為を行うことができない。このため中国は中医師資格の認可を日本政府に働きかけている。", "title": "中医学" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現代中国の中医学は、西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医婦人科、中医小児科などに細かく分類され複雑化している。中国の中医師の資格種類は次のとおりに分けられる。", "title": "中医学" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その他に医師は西洋医があるが、西医学部を卒業後に中医学研修を受け、西洋医学も中医学も理解する「中西医結合」治療を行う医師(中医学部では西洋医学も同様に学習するため、両方の処方が可能である)もいる。この際、診察や処方において「西洋医学の薬にしますか、中薬にしますか」などと聞かれることがある。", "title": "中医学" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本の漢方医学と同根ではあるが、日本と中国の社会的事情、歴史的経緯、生活習慣、風土などの違いから、漢方医学と中国医学は診察方法などが大きく異なる。例えば以下のようなものである。", "title": "中医学" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近年は欧米では、中医学がTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で普及し、補完・代替医療として治療・研究が広く行われている。", "title": "中医学" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "香港では1999年より香港中医薬管理委員会(中国語版)(Chinese Medicine Council of Hong Kong)により規制されており、すべての中医家は委員会に登録されなければならない。登録には5年間の専門教育を受けた上で30週間の臨床実習を積み、さらに試験に通過する必要がある。登録資格は3年間有効で、更新にあたっては登録された専門家から60日間の教育を受ける必要がある。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "漢方医学(和漢方・和方):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。", "title": "派生・影響" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学は鍼灸も含む場合もあるが、現在は漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。", "title": "派生・影響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "朝鮮半島の医学は、日本にも影響を与えた。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている。", "title": "派生・影響" } ]
中国医学(ちゅうごくいがく)、また中医薬学(ちゅういやくがく)とは、中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学であり、中国周辺の伝統医学(日本の漢方医学や朝鮮半島の韓医学など)も中国医学から大きな影響を受けた。
{{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=穴}} {{東洋医学}} [[ファイル:Kanzou2012.jpg|thumb|right|160px|[[生薬]]([[薬用植物]]など)を用いる。図は[[甘草]]。]] [[ファイル:Chinese meridians.JPG|thumb|right|160px|[[経絡]]図の一例]] [[ファイル:Five elements.png|thumb|right|160px|[[五行]]による[[相互作用]]の分析図]] '''中国医学'''(ちゅうごくいがく)、また'''中医薬学'''(ちゅういやくがく)とは、[[中国]]を中心とする[[東アジア]]で行われてきた[[伝統医学]]であり、中国周辺の伝統医学(日本の[[漢方医学]]や朝鮮半島の[[韓医学]]など)も中国医学から大きな影響を受けた。 == 定義と呼称 == === 中国語 === *'''中医''':昔の中国では自分たちの医学に対して、統一的な呼び名をつけなかった。現代の[[中華人民共和国]]の政府はこれを気付き、30年にもかけてその定義や系統も細かく整理し、[[2017年]]にはやっと「'''中医'''」という名をつけた<ref>{{Cite web |url=http://www.guancha.cn/YiLiao/2016_12_26_386078.shtml |title=中医药法公布 首部中医药综合性法律酝酿30年终出台 |accessdate=2016-12-26 |archive-date=2020-11-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201116110547/https://www.guancha.cn/YiLiao/2016_12_26_386078.shtml |dead-url=no }}</ref>。この中医は中国の伝統医学に対する最も公式的な呼称となり、日本のように「学」の文字をつけない。中医の定義は中国に存在しているあらゆる漢方薬・治療法・病理学・医学理論・医学文化の総称であり、また中国の伝統医者・伝統病院にも一括する言葉である。しかし、中医の範疇は中国の[[漢民族]]が発明したものと限定されて、中国領土の中のチベット族・モンゴル族・ウィグル族の伝統医学はこの定義に入らない。 *'''中医薬学''':中国語で「中医薬学」を称する時は、主に医学院の教材の中に使い、または学術界向けの論文の中に使う。「西洋医学」や「現代医学」などの「学付き」の呼称を真似し、また漢方薬の重要性を強調する為、便宜上で作られた言葉である<ref name="幸井">幸井俊高 『漢方的スローライフ』〈ちくまプリマ―新書〉、筑摩書房、2005年。</ref>。 * 疾医(内科)、瘍医(外科)、食医(栄養学)、獣医([[獣医学]])が、周王朝の官位などが記された『[[周礼]]』にあり、王の食事を担当した食医、次に疾医、瘍医、獣医の順で位が高かった<ref>[https://www.kitasato-u.ac.jp/toui-ken/dl/public/faq_19.pdf 「医食同源」は日本での造語] 北里大学</ref> === 日本語 === *'''中国医学と中医薬学の違い''':前述の通り、いま中国側が使っている「中医」という言葉は2017年から初めて系統化され、命名してきたものである。日本の漢方業界はいままでの中国漢方と区別しやすい為、古代の中国から日本に伝わった漢方を「中国医学」と称し、現代の中国でまとめた漢方を「中医薬学」と称する。中国医学という呼び名も本稿のタイトルとなり、本稿は主に日本語の定義に合わせて、古代中国の漢方について詳述する。 *'''中国医学と漢方医学の違い''':現代の日本語において、中国からの漢方は「中国医学」をと称し、日本独自の漢方は「[[漢方医学]]」と称する。中国医学と漢方医学を同じものと捉える日本人も多いが、実は漢方医学というものが日本で独自に発展したものである<ref name="幸井"/>。漢方医学は中国から伝来した中国医学を基づくことは確かにだが、採用する理論・診断法・使い手・[[生薬]]の量などの面ではそれぞれの違いがあり、例えば中国医学が極めて大事にする「[[陰陽五行]]」の診断法は、日本の漢方医学ではほとんど使えず、むしろ批判されている。さらに、中国医学における最も参考になる医学書『[[本草綱目]]』も、日本の漢方では常用の参考書にならない<ref name="大塚岩波">大塚恭男『東洋医学』 岩波書店、1996年。</ref><ref name="松本3">松本克彦編著『[http://www.yukon.co.jp/kiso/kiso-003.html 今日の医療用漢方製剤-理論と解説]』メディカルユーコン、1997年。</ref><ref name="小髙">小髙修司 『中国三千年の知恵 中国医学のひみつ なぜ効き、治るのか』〈講談社ブルーバックス〉講談社、1991年。</ref>。 === 英語圏 === *'''東洋医学'''、'''東方医学'''、'''東亜医学''':中医薬学が東アジアの伝統医学への影響を尊重するため、総じて「東洋医学」と呼ぶことが多い。古代の東アジア世界において、中国と同じ[[漢文]]を用いた日本や朝鮮半島は書籍の翻訳がとても簡単的な事であり、医学書の分野で中国の周辺国と中国の交流は断絶なく盛んでいた<ref>真柳誠「[http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper01/MedJpKrVn.html 「日韓越の医学と中国医書] 」『日本医史学雑誌』56巻2号、151-159頁、2010年</ref>。こうして日本・朝鮮半島・ベトナム・モンゴルは中国の漢方体系を取り入れつつ、自分の国の医学理論を立ち上げた。 == 特徴 == 以下のような点が中医薬学の特徴として挙げられる。 * 全身を見て治療を行う。西洋近代医学とは異なり、複数ある症状をもって「[[証 (東洋医学)|証]]」という概念で治療方針を決める<ref group="注">ただし、この「証」も古くは症状の「症」と同じ。例としては、[[中風]]証、[[腰痛]]証など。現代の[[鍼灸]]の流派によっては古体字の「證」を用いることも多い。例として、「肝虚證」「気虚證」など。</ref>。 * 人間の心身が持っている[[自然治癒力]]を高めることで治癒に導くことを特徴としている。そのために[[生薬]]などを用いる。 * 診断も、'''[[四診]]'''によって行う。西洋近代医学のように機械や[[採血]]の検査結果を用いることはない。よって、体を侵襲することがなく、害が少ないとされる<ref group="注">診断は、機械のない環境でも行えるというのが特徴である。医院はともかくとして、[[鍼灸院]]のような小さな環境でも東洋医学は可能である。ただし、診断にも技術が必要であり、数年の勉強と訓練が求められる。鍼灸師も学校や国家試験だけでは満足な量の勉強ができないため、多くは鍼灸の勉強会や[[鍼灸院]]で修行を積む。また、漢方も同様で、学校主体の教育で満足な[[臨床]]能力が身につくかどうかは疑問とされており、中国での研修に行く例も少なくない。</ref>。 近年は欧米でもTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で、補完・[[代替医療]]として広く行われている。[[アーユルヴェーダ]](インド伝統医学)・[[ユナニ医学]](ギリシャ・アラビア医学)と共に三大伝統医学に数えられ、相互に影響を与えたと考えられている。 == 書物 == === 医書 === {{Main|医学書の一覧#中国}} * 『[[黄帝内経]]』(作者不明、[[前漢]]):現存する中国最古の医学書。[[陰陽]]論と[[五行]]論を参考に著されている。生理・養生・環境衛生、養生などを気候・季節などとの関係で述べる哲学的・理論的な「素問」と、解剖・生理を説いた上で[[鍼灸]]などの臨床医学を実践的に論じた「霊枢」からなる<ref name="長濱">長濱善夫『東洋医学概説』1961年、創元社</ref>。 * 『[[傷寒論]]』([[張仲景]]、[[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国]]):伝染性の病気に対する治療法が中心。すでに[[四診]]、八綱弁証([[証 (東洋医学)|証]])、八法(八つの治療法)の原則と具体的な方法が説明されている<ref name="小髙"/>。 * 『[[難経]]』(作者不明・後漢以降):『[[黄帝内経]]』を問答形式で解説。独自の内容もあり、鍼灸術や日本の後世派に影響を与えた<ref name="長濱"/>。 === 本草書 === * 『[[神農本草経]]』(作者不明、後漢から三国):365種の薬物を上品(養命薬)・中品(養性薬)・下品(治病薬)の三品に分類して記述する<ref name="小髙"/>。 * 『[[本草綱目]]』(李時珍、[[明]]):中国の本草学史上内容が最も充実した本草書。全52巻。 == 歴史 == 中国における歴史について記す。 === 古代 === [[殷]]代の[[甲骨文]]などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて[[巫祝]](ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「[[薬物療法]]」や、[[鍼灸]]の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。 こうして秦以前にも[[扁鵲]](へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は[[六不治]]の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。 === 中古 === [[前漢]]([[紀元前202年]]~紀元[[8年]])の時代には『[[黄帝内経]]』という現在知られている最古の医書が編纂されている。[[後漢]]([[25年]]~[[220年]])の時代に[[張仲景]]により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『[[傷寒論]]』だけが残り、[[孫思邈]]の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『[[金匱要略]]』(正式名称は金匱要略方論)として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『[[黄帝内経]]』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での[[流行性感冒]]と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。 ただし、現在に伝わる傷寒論は宋の林億が改訂し明の趙開美がさらに注釈をつけたもので、宋以前の傷寒論がいかなるものであったかについては種々の議論はあるものの定まっていない。所謂中華文明全体に及ぶ「宋改」が医学の分野ではかなり大胆に行われており、今我々が目にすることが出来る傷寒論や黄帝内経は、あくまで宋改を経たもの、と言うことになる(https://www.amazon.co.jp/宋以前傷寒論考-岡田-研吉/dp/4924954950<nowiki/>)。 唐代の[[孫思邈]]は、医学全書である『備急千金要方』などを著すが、これまでの医学思想に[[仙人|神仙]]系の医学思想や仏教医学の思想を加味した。『傷寒論』の薬方を取り入れて『千金翼法』を著した<ref>汪正仁『東洋医学の真髄』成山堂書店、2011年4月。ISBN 978-4425982318。</ref>。 === 中世 === [[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]代([[960年]]~[[1367年]])には[[金元四大家]]と呼ばれた[[劉完素]]・[[張従正]]・[[李杲]]・[[朱震亨]]らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方[[南宋]]では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、[[宋慈]]が『[[洗冤集録]]』という世界初の本格的な[[法医学]]書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元代にも継承された。 また、[[明]]代に医師の[[李時珍]]が『'''[[本草綱目]]'''』を著して[[薬学]]・[[本草学]]の分野でも大きな進歩があった。 === 近世・近代 === {{節スタブ}} === 現代 === 中国においては、[[戦後]]、[[国民党政府]]の伝統医学廃止運動に反発する形で、[[中国共産党|共産党]]政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ{{fact|date=2014年8月}}、「中医学」としてまとめられた。現在、[[西洋医学]]を行なう通常の医師と、伝統学を行なう「[[中医師]]」の二つの医師資格が併設されている。 [[中華人民共和国]]成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけであった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、伝統医学が整理・統一され「中医学」理論が設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1956年を皮切りとし、[[文化大革命]]の時期を中心として展開されたもので、これ以前の中国医学を「中国医学」、以降を「中医学」として区別する考え方もある。 1958年の[[南京中医学院]]が編纂した教科書『[[中医学概論]]』では、[[五臓六腑]]ごとに病証が展開されており、病証も『[[千金方]]』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『[[千金方]]』には「腎実熱」などまで含まれる。 [[鍼灸]]を例にすれば、現在の中医理論は[[経絡治療]]と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気鬱逆」(「[[肝鬱気滞]]」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、[[脈診]]を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである<ref>DENG Yu et al,Ration of Qi with Modern Essential on Traditional Chinese Medicine Qi: Qi Set, Qi Element, JOURNAL OF MATHEMATICAL MEDICINE (Chinese), 2003, 16(4)</ref>。 == 中医学 == 中医学は、中華人民共和国において、多様な中国伝統医学を整理・統合して作られた医学体系である。診療は、基本的に[[中医師]]が行う。ただし、日本においては中医師の資格は使えないため、これを行うのは日本国で有効な[[医師]]免許を持つ者、または一部の[[鍼灸師]]が行う[[中医針灸]]である。中医師の免許は[[アメリカ合衆国|米国]]などでは認可されているが、日本では現在未認可であるため、中医師免許のみでは診療行為を行うことができない。このため中国は中医師資格の認可を日本政府に働きかけている。 現代中国の中医学は、西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医婦人科、中医小児科などに細かく分類され複雑化している。中国の中医師の資格種類は次のとおりに分けられる。 * 中医師(生薬処方を中心とする湯液治療を専門とする) * 針灸、推拿(中国整体)治療中心の中医師 その他に医師は西洋医があるが、西医学部を卒業後に中医学研修を受け、西洋[[医学]]も中医学も理解する「中西医結合」治療を行う医師(中医学部では西洋医学も同様に学習するため、両方の処方が可能である)もいる。この際、診察や処方において「西洋医学の薬にしますか、中薬にしますか」などと聞かれることがある。 日本の[[漢方医学]]と同根ではあるが、日本と中国の社会的事情、歴史的経緯、生活習慣、風土などの違いから、漢方医学と中国医学は診察方法などが大きく異なる。例えば以下のようなものである。 * 中薬(日本でいう[[漢方薬]]) * [[薬食同源]]([[医食同源]])、[[薬膳]] * [[鍼灸]]([[針]]、[[灸]]) * [[推拿]]:中国における手技療法、マッサージ。古くは按摩とも。日本の[[按摩]]とは、その形態が異なる。 * [[気功]] === 欧米への普及 === 近年は欧米では、中医学がTraditional Chinese medicine ([[:en:TCM|TCM]]、伝統中国医学)の名で普及し、補完・[[代替医療]]として治療・研究が広く行われている。 == 法的規制 == === 香港 === [[香港]]では1999年より{{仮リンク|香港中医薬管理委員会|zh|香港中醫藥管理委員會}}(Chinese Medicine Council of Hong Kong)により規制されており、すべての中医家は委員会に登録されなければならない。登録には5年間の専門教育を受けた上で30週間の臨床実習を積み、さらに試験に通過する必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cmchk.org.hk/cmp/chi/idx_rcmp02.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年7月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120202162833/http://www.cmchk.org.hk/cmp/chi/idx_rcmp02.htm |archivedate=2012年2月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }} 香港中醫執業資格試</ref>。登録資格は3年間有効で、更新にあたっては登録された専門家から60日間の教育を受ける必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cmchk.org.hk/cmp/eng/idx_rcmp04.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年7月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110518044445/http://cmchk.org.hk/cmp/eng/idx_rcmp04.htm |archivedate=2011年5月18日 |deadlinkdate=2017年9月 }} 香港註冊中醫師持續進修的要求</ref>。 == 派生・影響 == === 漢方医学 === {{Main|漢方医学}} 漢方医学(和漢方・[[和方]]):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。 日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に[[蘭方]]に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学は[[鍼灸]]も含む場合もあるが、現在は[[漢方薬]]による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は[[医師]]・[[鍼灸師]]がおこない、漢方薬は医師・[[薬剤師]]がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。 === 朝鮮半島 === {{Main|韓医学}} 朝鮮半島の医学は、日本にも影響を与えた。「一鍼二灸三薬」と言われるほど[[鍼灸]]が重んじられており<ref name="吉冨">吉冨誠, 「1.韓国伝統医学の今昔 : 日本との交流も含めて(韓国伝統医学への理解)(第54回日本東洋医学会学術総会)」『日本東洋醫學雜誌』54(6)、2003年、1046-1048頁, {{naid|10016195720}}。</ref>、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている<ref name="鍼灸">曹基湖、徐廷徹、李源哲、金甲成「[https://ssl.jsam.jp/activity/pdf/19korea.pdf 韓国韓医学会の現状と鍼灸分野における近代韓日交流史-鍼灸学を中心に]」『全日本鍼灸学会雑誌』第52巻5号、2002年、601-609頁。</ref>。 * 東医:朝鮮半島で発達した中国医学系伝統医学の呼称。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では[[1992年]]までこのように称していた。 * 高麗医学:北朝鮮での呼称。[[1993年]]に東医から改称した。 * 韓医学:[[大韓民国|韓国]]における呼称。韓方医学とも呼ばれた。 === ベトナム === * 南医学:[[ベトナム]]化された中国医学系伝統医学<ref>[[津谷喜一郎]]「[http://www.f.u-tokyo.ac.jp/~utdpm/paper2/older/1991_kokusai-koryu_traditional-med.pdf 生きている伝統医学 東アジアの現状]」『国際交流』56号、1991年。59-66頁。</ref> * 北医学:ベトナム化されていないそのままの中国医学 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{col-begin}} {{col-break}} * [[中医師]] * [[漢方医学]] * [[東洋医学]] * [[漢方医]] * [[漢方薬]] * [[薬膳]] * [[鍼]] {{col-break}} * [[灸]] * [[鍼灸]] * [[はり師]] * [[きゅう師]] * [[鍼灸師]] {{col-break}} * [[按摩]] * [[整体]] * [[陰陽]] * [[五行]] * [[陰陽五行思想]] {{col-break}} * [[内治法]] * [[外治法]] * [[気功]] * [[屠呦呦]] * [[アンドルー・ワイル]] {{col-end}} * [[アーユルヴェーダ]] - 北インドの伝統医学。脈診や薬物などを中国医学から取り入れている * [[チベット医学]] - アーユルヴェーダに強く影響を受けているが、中国医学を取り入れている部分もある * [[獣医学]] * [[中国学]] * [[中国の科学技術史]] {{ウィキポータルリンク|医学と医療|[[画像:Star_of_life2.svg|34px|Portal:医学と医療]]}} == 外部リンク == {{Commons category|Chinese medicine}} * 大野修嗣, 「[https://doi.org/10.3937/kampomed.58.427 中医学概論 : 中医学の理論体系・治療の実際]」『日本東洋医学雑誌』 日本東洋医学会, 2007年 58巻 3号 p.427-432, {{doi|10.3937/kampomed.58.427}} * 酒谷薫, 「[https://doi.org/10.3937/kampomed.59.181 伝統医学と先端医学の融合に向けて]」『日本東洋医学雑誌』 日本東洋医学会, 2008年 59巻 2号 p.181-191, {{doi|10.3937/kampomed.59.181}} * [http://www.cmchk.org.hk/ 香港中醫藥管理委員會] {{Medical-stub}} {{デフォルトソート:ちゆうこくいかく}} [[Category:伝統中国医学|*]] [[Category:中国の科学技術]] [[Category:伝統医学]] [[Category:東洋医学]] [[Category:東洋文化]] [[Category:薬学]] [[Category:健康]]
2003-09-08T13:00:50Z
2023-11-15T03:32:45Z
false
false
false
[ "Template:節スタブ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Col-end", "Template:仮リンク", "Template:Cite web", "Template:Col-begin", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:Medical-stub", "Template:Col-break", "Template:Doi", "Template:出典の明記", "Template:東洋医学", "Template:Fact", "Template:Reflist", "Template:Naid", "Template:Main", "Template:Commons category" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%BB%E5%AD%A6
15,783
マーク・ノップラー
マーク・ノップラー OBE(Mark Freuder Knopfler OBE、1949年8月12日 - )は、イギリス、スコットランドのグラスゴーに生まれたミュージシャン、ギタリスト、ソングライター、音楽プロデューサー。 音楽的には、ボブ・ディラン、J・J・ケイル、ハンク・マーヴィン等から強い影響を受けている。 ポップカルチャー情報誌『ローリング・ストーン』の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第27位となった。2011年の改訂版では第44位。 父は、ユダヤ系ハンガリー人のエルヴィーン・クノップフラー (Erwin Knopfler. 1908-1993)。建築家であり、チェスプレーヤーとしても名を知られていた。「#サーネーム」と「#父」も参照のこと。母はルイーザ・マリー (Louisa Mary Laidler Knopfler )。イギリス人(あるいはアイルランド人)である。 1939年、故郷ミシュコルツで暮らしていたエルヴィーンの家族は、ナチスの弾圧から逃れるため、ハンガリーからオランダを経てスコットランドのグラスゴーに移住した。第1子の長女ルース・セルマ (Ruth Selma. 1947–2020) 、第2子で長男のマーク・フロイダー (Mark Freuder. 1949- )、そして第3子で次男のデヴィッド(英語版)(David. 1952- ) の3姉弟は、共にこの待避地で生まれている。 マークが7歳か8歳の時、家族はグラスゴーからイングランド北東部の都市ニューカッスル・アポン・タインへと転居した。それからしばらく経って、マークはギターを独学で学び始めた。 大学卒業後は新聞記者や教師をしつつ複数のバンドを掛け持ちしてパブに出入りするようになる。なお、生来左利きであるが、ギターを弾く時は右手で爪弾く。1970年代半ばにロックバンド「ダイアー・ストレイツ」を結成。その後、リーダーとして活動休止までバンドを牽引し、スターダムに押し上げる。 ダイアー・ストレイツでの活動を通して、その独特のフィンガー・ピッキング奏法によるギタープレイや、トータルな楽曲プロデュース能力が、他の多くのミュージシャンの目にとまることとなり、数多くのセッションに参加。ボブ・ディランを筆頭に、スティーリー・ダン、エルトン・ジョン、スティング、エリック・クラプトン、ブライアン・フェリー、ジュールズ・ホランド(英語版)など、数多くのミュージシャンと親交を深める。また、ほぼ同時期に映画音楽にも参入し、『ローカル・ヒーロー』『CAL』『プリンセス・ブライド』『ワグ・ザ・ドッグ』などを手がける。 1988年からはダイアー・ストレイツとしての活動を一度停止し、1990年には、ノッティング・ヒルビリーズ名義のアルバム『ミッシング』や、チェット・アトキンスと連名のアルバム『ネック&ネック』を発表した。 1995年、ノップラー達はダイアー・ストレイツを解散させる。翌1996年、ノップラーはサウンドトラックを除けば初のソロ・アルバム『ゴールデン・ハート』をリリースした。続く2枚目の『セイリング・トゥ・フィラデルフィア』は全世界で400万枚を超える大ヒットとなる。2004年秋にはアルバム『シャングリ・ラ』を発売。2006年には数年来レコーディングを続けてきたカントリー歌手エミルー・ハリスとのデュエットアルバム『オール・ザ・ロードランニング』の発売と、プロモーションツアーを敢行した。 その後も、『Kill To Get Crimson』(2007年)、『Get Lucky』(2009年)、『Privateering』(2012年)といったソロ・アルバムを全英アルバムチャートのトップ10に送り込み、2015年に発売された8作目のソロ・アルバム『Tracker』では、ソロで初、バンド時代も含めれば24年ぶりとなる全英トップ3入りを果たしている。 "Knopfler(日本語音写例: ノップラー、クノップフラー)" というサーネームは、父方のもので、起源は12世紀バイエルン貴族のサーネームに求められる。「ボタン(締め具・留め具としてのボタン)」を意味する古高ドイツ語 "knopf" (cf. wikt: Knopf) から生じている。ただし、現代のドイツ語圏ではすっかり廃れており、英語圏(多いほうから米・英)とその次にアルゼンチンに多く分布するサーネームとなっている。 父はユダヤ系ハンガリー人で、その名を Erwin Knöpfler (Erwin Knopfler) といった。人名の読み(日本語音写形)は、ハンガリー語準拠で「エルヴィーン・クノップフラー」、英語準拠で「エルヴィン・ノップラー」が慣習的表記と言える。 1908年12月2日にハンガリー北東部の都市ミシュコルツで生まれ、イングランドの[資料1]ロンドンあるいは[資料2]ブリストルで1993年に亡くなっている。建築家で、チェスプレーヤーとしても知られている。 エルヴィーンの父は、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人、ヨージェフ・クノップフラー (József Knöpfler, Joseph Knopfler) 。1874年生まれ。米国マサチューセッツ州ニューベッドフォードで1952年に亡くなっている。 イギリスの学術雑誌『ネイチャー』の2001年1月25日発売号に新属新種の恐竜(小型獣脚類)が記載された。その学名は Masiakasaurus knopfleri、和名を「マシアカサウルス・クノプフレリ(表記揺れ: ノップレリ、ほか)」というが、"knopfleri" は "Mark Knopfler" の名にちなんで命名されたもので、「ノップラー氏にちなんだ」「ノップラー氏にゆかりある」などといった意味をもつ献名である。 これは、化石発掘チームが、大好きなノップラーの音楽を聴きながら作業をしていた時に限ってこの恐竜の化石が幾つも見付かり、他の音楽を聴きながら作業していた時には何も見付からなかったというエピソードに由来している。思いがけず恐竜の名前に採用されることとなったノップラーは、『ネイチャー』の発売前日に日刊タブロイド紙『ザ・サン』の取材を受けており、ウィットに富んだ感想を述べている。それについては、該当項目で詳説している。 中国語圏の分類学では、「悪意ある恐竜」「凶暴な恐竜」などといった語意をもつ Masiakasaurus を「惡龍」と漢訳し、knopfleri には "Mr. Knopfler" の漢訳名である「諾弗勒氏」の省略形「諾氏」を当てている。このことから、Masiakasaurus knopfleri は「諾氏惡龍(簡体字: 诺氏恶龙)」と綴る。ほかには「諾弗勒惡龍(簡体字: 诺弗勒恶龙)」という異表記が多く見られる。 ジ・オーブのアレックス・パターソンはこの話題を触れ、イラストも描いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マーク・ノップラー OBE(Mark Freuder Knopfler OBE、1949年8月12日 - )は、イギリス、スコットランドのグラスゴーに生まれたミュージシャン、ギタリスト、ソングライター、音楽プロデューサー。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "音楽的には、ボブ・ディラン、J・J・ケイル、ハンク・マーヴィン等から強い影響を受けている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ポップカルチャー情報誌『ローリング・ストーン』の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第27位となった。2011年の改訂版では第44位。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "父は、ユダヤ系ハンガリー人のエルヴィーン・クノップフラー (Erwin Knopfler. 1908-1993)。建築家であり、チェスプレーヤーとしても名を知られていた。「#サーネーム」と「#父」も参照のこと。母はルイーザ・マリー (Louisa Mary Laidler Knopfler )。イギリス人(あるいはアイルランド人)である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1939年、故郷ミシュコルツで暮らしていたエルヴィーンの家族は、ナチスの弾圧から逃れるため、ハンガリーからオランダを経てスコットランドのグラスゴーに移住した。第1子の長女ルース・セルマ (Ruth Selma. 1947–2020) 、第2子で長男のマーク・フロイダー (Mark Freuder. 1949- )、そして第3子で次男のデヴィッド(英語版)(David. 1952- ) の3姉弟は、共にこの待避地で生まれている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マークが7歳か8歳の時、家族はグラスゴーからイングランド北東部の都市ニューカッスル・アポン・タインへと転居した。それからしばらく経って、マークはギターを独学で学び始めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大学卒業後は新聞記者や教師をしつつ複数のバンドを掛け持ちしてパブに出入りするようになる。なお、生来左利きであるが、ギターを弾く時は右手で爪弾く。1970年代半ばにロックバンド「ダイアー・ストレイツ」を結成。その後、リーダーとして活動休止までバンドを牽引し、スターダムに押し上げる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ダイアー・ストレイツでの活動を通して、その独特のフィンガー・ピッキング奏法によるギタープレイや、トータルな楽曲プロデュース能力が、他の多くのミュージシャンの目にとまることとなり、数多くのセッションに参加。ボブ・ディランを筆頭に、スティーリー・ダン、エルトン・ジョン、スティング、エリック・クラプトン、ブライアン・フェリー、ジュールズ・ホランド(英語版)など、数多くのミュージシャンと親交を深める。また、ほぼ同時期に映画音楽にも参入し、『ローカル・ヒーロー』『CAL』『プリンセス・ブライド』『ワグ・ザ・ドッグ』などを手がける。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1988年からはダイアー・ストレイツとしての活動を一度停止し、1990年には、ノッティング・ヒルビリーズ名義のアルバム『ミッシング』や、チェット・アトキンスと連名のアルバム『ネック&ネック』を発表した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1995年、ノップラー達はダイアー・ストレイツを解散させる。翌1996年、ノップラーはサウンドトラックを除けば初のソロ・アルバム『ゴールデン・ハート』をリリースした。続く2枚目の『セイリング・トゥ・フィラデルフィア』は全世界で400万枚を超える大ヒットとなる。2004年秋にはアルバム『シャングリ・ラ』を発売。2006年には数年来レコーディングを続けてきたカントリー歌手エミルー・ハリスとのデュエットアルバム『オール・ザ・ロードランニング』の発売と、プロモーションツアーを敢行した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後も、『Kill To Get Crimson』(2007年)、『Get Lucky』(2009年)、『Privateering』(2012年)といったソロ・アルバムを全英アルバムチャートのトップ10に送り込み、2015年に発売された8作目のソロ・アルバム『Tracker』では、ソロで初、バンド時代も含めれば24年ぶりとなる全英トップ3入りを果たしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "\"Knopfler(日本語音写例: ノップラー、クノップフラー)\" というサーネームは、父方のもので、起源は12世紀バイエルン貴族のサーネームに求められる。「ボタン(締め具・留め具としてのボタン)」を意味する古高ドイツ語 \"knopf\" (cf. wikt: Knopf) から生じている。ただし、現代のドイツ語圏ではすっかり廃れており、英語圏(多いほうから米・英)とその次にアルゼンチンに多く分布するサーネームとなっている。", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "父はユダヤ系ハンガリー人で、その名を Erwin Knöpfler (Erwin Knopfler) といった。人名の読み(日本語音写形)は、ハンガリー語準拠で「エルヴィーン・クノップフラー」、英語準拠で「エルヴィン・ノップラー」が慣習的表記と言える。", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1908年12月2日にハンガリー北東部の都市ミシュコルツで生まれ、イングランドの[資料1]ロンドンあるいは[資料2]ブリストルで1993年に亡くなっている。建築家で、チェスプレーヤーとしても知られている。", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "エルヴィーンの父は、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人、ヨージェフ・クノップフラー (József Knöpfler, Joseph Knopfler) 。1874年生まれ。米国マサチューセッツ州ニューベッドフォードで1952年に亡くなっている。", "title": "一族" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "", "title": "関連事象" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イギリスの学術雑誌『ネイチャー』の2001年1月25日発売号に新属新種の恐竜(小型獣脚類)が記載された。その学名は Masiakasaurus knopfleri、和名を「マシアカサウルス・クノプフレリ(表記揺れ: ノップレリ、ほか)」というが、\"knopfleri\" は \"Mark Knopfler\" の名にちなんで命名されたもので、「ノップラー氏にちなんだ」「ノップラー氏にゆかりある」などといった意味をもつ献名である。", "title": "関連事象" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これは、化石発掘チームが、大好きなノップラーの音楽を聴きながら作業をしていた時に限ってこの恐竜の化石が幾つも見付かり、他の音楽を聴きながら作業していた時には何も見付からなかったというエピソードに由来している。思いがけず恐竜の名前に採用されることとなったノップラーは、『ネイチャー』の発売前日に日刊タブロイド紙『ザ・サン』の取材を受けており、ウィットに富んだ感想を述べている。それについては、該当項目で詳説している。", "title": "関連事象" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国語圏の分類学では、「悪意ある恐竜」「凶暴な恐竜」などといった語意をもつ Masiakasaurus を「惡龍」と漢訳し、knopfleri には \"Mr. Knopfler\" の漢訳名である「諾弗勒氏」の省略形「諾氏」を当てている。このことから、Masiakasaurus knopfleri は「諾氏惡龍(簡体字: 诺氏恶龙)」と綴る。ほかには「諾弗勒惡龍(簡体字: 诺弗勒恶龙)」という異表記が多く見られる。", "title": "関連事象" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ジ・オーブのアレックス・パターソンはこの話題を触れ、イラストも描いている。", "title": "関連事象" } ]
マーク・ノップラー OBEは、イギリス、スコットランドのグラスゴーに生まれたミュージシャン、ギタリスト、ソングライター、音楽プロデューサー。 音楽的には、ボブ・ディラン、J・J・ケイル、ハンク・マーヴィン等から強い影響を受けている。 ポップカルチャー情報誌『ローリング・ストーン』の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第27位となった。2011年の改訂版では第44位。
{{Infobox Musician | name = マーク・ノップラー<br />[[大英帝国勲章|OBE]] | image = Mar-Knopfler-Pensa-Blue.jpg | caption = 2015年({{年数|1949|08|12|2015|06|02}}歳時)撮影 | background = solo_singer | birth_name = Mark Freuder Knopfler | birth_date = {{Birth date and age|1949|08|12|df=y}} | birth_place = {{GBR}} [[スコットランド]] [[グラスゴー]] | origin = {{GBR}} [[イングランド]] [[ニューカッスル・アポン・タイン]] | instrument = [[ヴォーカル]]、[[ギター]] | genre = {{Flatlist|[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ロックンロール]]、{{仮リンク|ケルティックロック|en|Celtic rock}}<!--※ケルトロック-->、[[ブルースロック]]、[[カントリーロック]]}} | occupation = [[映画音楽]][[作曲家]]、マルチ・インストゥルメンタリスト([[マルチプレイヤー (音楽)|マルチプレイヤー]])、[[音楽プロデューサー]]、[[シンガーソングライター]] | years_active = [[1965年]] - 現在 | label = [[ヴァーティゴ]]、[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]、[[ワーナー・レコード|ワーナー]]、[[リプリーズ・レコード|リプリーズ]]、[[ヴァーヴ・レコード|ヴァーヴ]]、{{仮リンク|ヴァージンEMIレコード|label=ヴァージンEMI|en|Virgin EMI Records}}、[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]] | associated_acts = [[ダイアー・ストレイツ]]、[[ノッティング・ヒルビリーズ]]、[[チェット・アトキンス]]、[[ボブ・ディラン]]、[[エリック・クラプトン]]、[[エミルー・ハリス]]、[[サニー・ランドレス]]、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]、{{仮リンク|ブリューワーズ・ドループ|en|Brewers Droop}}、[[ジェームス・テイラー]] | website = {{URL|markknopfler.com}} }} [[ファイル:Mark Knopfler - 1979.jpg|thumb|200px|1979年({{年数|1949|08|12|1979|12|02}}歳時)撮影]] [[ファイル:Dire Straits 1.jpg|thumb|200px|1981年({{年数|1949|08|12|1981|01|01}}歳時)撮影]] [[ファイル:Markknopfler20061.jpg|thumb|200px|2006年({{年数|1949|08|12|2006|07|08}}歳時)撮影]] '''マーク・ノップラー [[大英帝国勲章|OBE]]'''('''Mark Freuder Knopfler OBE'''、[[1949年]][[8月12日]]{{Sfn|Geni: Mark}} - )は、[[イギリス]]、[[スコットランド]]の[[グラスゴー]]に生まれた[[ミュージシャン]]、[[ギタリスト]]、[[ソングライター]]、[[音楽プロデューサー]]。 音楽的には、[[ボブ・ディラン]]、[[J・J・ケイル]]、[[ハンク・マーヴィン]]等から強い影響を受けている<ref name=MusicRadar_20150216read>{{Cite web |date= |title=35 Fender Stratocaster stars: part 1 |url=https://www.musicradar.com/news/guitars/35-fender-stratocaster-stars-part-1-217316 |publisher={{仮リンク|MusicRadar|en|MusicRadar}} |language=English |accessdate=2015-02-16 }}</ref>。 [[ポップカルチャー]]情報[[雑誌|誌]]『[[ローリング・ストーン]]』の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第27位となった{{R|MUSICANDY_20200817ed|RollingStone_20101203}}。2011年の改訂版では第44位{{R|NoizeTV_201110|MUSICANDY_20200817ed|RollingStone_20151218}}。 == 来歴 == 父は、[[ユダヤ系]][[ハンガリー人]]のエルヴィーン・クノップフラー (Erwin Knopfler. 1908-1993)。[[建築家]]であり、[[チェス]]プレーヤーとしても名を知られていた{{Refnest|group="注"|{{仮リンク|スコティッシュ・チェス選手権|en|Scottish Chess Championship}}1953年大会準優勝{{Sfn|PHPwh: Erwin}}、ほか{{Sfn|ChessScotland}}。}}{{Sfn|PHPwh: Erwin}}。「[[#サーネーム]]」と「[[#父]]」も参照のこと。母はルイーザ・マリー (Louisa Mary Laidler Knopfler {{R|DireStraits-blog_20200716|AHF}}{{Refnest|group="注"|結婚前はルイーザ・マリー・レイドラー (Louisa Mary Laidler)。}})。[[イギリス人]]{{R|AHF}}(あるいは[[アイルランド]]人)である。 [[1939年]]、故郷ミシュコルツで暮らしていたエルヴィーンの家族は、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[弾圧]]から逃れるため、ハンガリーから[[オランダ]]を経て[[スコットランド]]の[[グラスゴー]]に移住した。第1子の長女ルース・セルマ (Ruth Selma. 1947–2020) {{R|DireStraits-blog_20200716|AHF}}、第2子で長男のマーク・フロイダー (Mark Freuder. 1949- )、そして第3子で次男の{{仮リンク|デヴィッド・ノップラー|label=デヴィッド|en|David Knopfler}}(David. 1952- ) の3[[姉弟]]{{Sfn|Geni: Erwin}}は、共にこの待避地で生まれている。 マークが7歳か8歳の時{{R|AHF}}、家族はグラスゴーから[[イングランド]]北東部の都市[[ニューカッスル・アポン・タイン]]へと転居した{{R|AHF}}。それからしばらく経って、マークは[[ギター]]を[[独学]]で学び始めた。 大学卒業後は[[新聞]][[記者]]や[[教員|教師]]をしつつ複数のバンドを掛け持ちして[[パブ]]に出入りするようになる。なお、生来[[左利き]]であるが、ギターを弾く時は右手で爪弾く。[[1970年代]]半ばに[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]「[[ダイアー・ストレイツ]]」を結成。その後、リーダーとして活動休止までバンドを牽引し、スターダムに押し上げる。 ダイアー・ストレイツでの活動を通して、その独特の[[フィンガー・ピッキング]]奏法によるギタープレイや、トータルな楽曲プロデュース能力が、他の多くのミュージシャンの目にとまることとなり、数多くのセッションに参加。[[ボブ・ディラン]]を筆頭に、[[スティーリー・ダン]]、[[エルトン・ジョン]]、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]、[[エリック・クラプトン]]、[[ブライアン・フェリー]]、{{仮リンク|ジュールズ・ホランド|en|Jools Holland}}など、数多くのミュージシャンと親交を深める。また、ほぼ同時期に[[映画音楽]]にも参入し、『[[ローカル・ヒーロー (映画)|ローカル・ヒーロー]]』『CAL』『プリンセス・ブライド』『ワグ・ザ・ドッグ』などを手がける。 [[1988年]]からはダイアー・ストレイツとしての活動を一度停止し、[[1990年]]には、[[ノッティング・ヒルビリーズ]]名義のアルバム『ミッシング』や、[[チェット・アトキンス]]と連名のアルバム『[[ネック&ネック]]』を発表した。 [[1995年]]、ノップラー達はダイアー・ストレイツを解散させる。翌[[1996年]]、ノップラーは[[サウンドトラック]]を除けば初のソロ・アルバム『ゴールデン・ハート』をリリースした。続く2枚目の『セイリング・トゥ・フィラデルフィア』は全世界で400万枚を超える大ヒットとなる。[[2004年]]秋にはアルバム『[[シャングリ・ラ (マーク・ノップラーのアルバム)|シャングリ・ラ]]』を発売。[[2006年]]には数年来レコーディングを続けてきた[[カントリー・ミュージック|カントリー]][[歌手]][[エミルー・ハリス]]とのデュエットアルバム『[[オール・ザ・ロードランニング]]』の発売と、プロモーションツアーを敢行した。 その後も、『Kill To Get Crimson』([[2007年]])、『Get Lucky』([[2009年]])、『Privateering』([[2012年]])といったソロ・アルバムを[[全英アルバムチャート]]のトップ10に送り込み<ref>[http://www.officialcharts.com/artist/_/mark%20knopfler/ MARK KNOPFLER | Artist | Official Charts] - 「Albums」をクリックすれば表示される。</ref>、[[2015年]]に発売された8作目のソロ・アルバム『Tracker』では、ソロで初、バンド時代も含めれば24年ぶりとなる全英トップ3入りを果たしている。 == ディスコグラフィ == === ダイアー・ストレイツ === {{see|ダイアー・ストレイツ}} === ソロ・アルバム === ==== スタジオ・アルバム ==== * ゴールデン・ハート - "Golden Heart" - [[1996年]] * セイリング・トゥ・フィラデルフィア - "Sailing to Philadelphia" - [[2000年]] * ラグピッカーズ・ドリーム - "The Ragpicker's Dream" - [[2002年]] * [[シャングリ・ラ (マーク・ノップラーのアルバム)|シャングリ・ラ]] - "Shangri-La" - [[2004年]] * "Kill to Get Crimson" - [[2007年]] * "Get Lucky" - [[2009年]] * プライベティアリング - "Privateering" - [[2012年]] * "Tracker" - [[2015年]] * "Down the Road Wherever" - [[2018年]] ==== サウンドトラック ==== * [[ローカル・ヒーロー (映画)|ローカル・ヒーロー/夢に生きた男]] - "Local Hero" - [[1983年]] * [[キャル (映画)|キャル]] - "Cal" - [[1984年]] * [[プリンセス・ブライド・ストーリー]] - "The Princess Bride" - [[1987年]] * [[ブルックリン最終出口]] - "Last Exit to Brooklyn" - [[1989年]] * "Metroland" - [[1998年]] * [[ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ|ワグ・ザ・ドッグ/ウワサの真相]] - "Wag the Dog" - [[1997年]] * [[栄光のストライカー/スコットランド・カップの奇跡]] - "A Shot at Glory" - [[2000年]] * "Seeing in the Dark" - [[2007年]] === その他のアルバム === * ミッシング - "Missing...Presumed Having a Good Time" - 1990年。[[ノッティング・ヒルビリーズ]]名義。 * [[ネック&ネック]] - "Neck and Neck" - 1990年。[[チェット・アトキンス]]との共演。 * [[オール・ザ・ロードランニング]] - "All the Roadrunning" - 2006年。[[エミルー・ハリス]]との共演。 * [[リアル・ライブ・ロードランニング]] - "Real Live Roadrunning" - 2006年。[[エミルー・ハリス]]との共演ライブ・アルバム。 == 一族 == {{Anchors|Knopfler}} === サーネーム === "'''Knopfler'''({{Small|[[日本語]][[Wikt:音写|音写]]例}}: ノップラー、クノップ{{Small|フ}}ラー)" という{{仮リンク|サーネーム|en|Surname}}は、父方のもので、起源は[[12世紀]][[バイエルン州|バイエルン]][[貴族]]のサーネームに求められる<ref name=House-of-Names>{{Cite web |title=Knopfler History, Family Crest & Coats of Arms |url=https://www.houseofnames.com/knopfler-family-crest |location=Kingston, Ontario |work=House of Names (HouseOfNames.com) |language=English |accessdate=2021-05-08 }}</ref>。「[[ボタン (服飾)|ボタン]](締め具・留め具としてのボタン)」を意味する[[古高ドイツ語]] "{{Lang|goh|knopf}}" (''cf.'' {{Lang|de|[[Wikt:en:Knopf#Etymology|wikt: Knopf]]}}) から生じている{{R|House-of-Names}}。ただし、現代のドイツ語圏ではすっかり廃れており、[[英語圏]](多いほうから[[米英|米・英]])とその次に[[アルゼンチン]]に多く分布するサーネームとなっている<ref name=Forebears>{{Cite web |title=Knopfler Surname |url=https://forebears.io/surnames/knopfler |publisher=Forebears.io |work=Forebears |language=English |accessdate=2021-05-08 }}</ref>。 {{Anchors|Erwin}} === 父 === 父は[[ユダヤ系]][[ハンガリー人]]で、その名を '''{{Lang|hu|Erwin Kn&ouml;pfler}}''' ('''{{Lang|en|Erwin Knopfler}}''') といった。人名の読み(日本語音写形)は、[[ハンガリー語]]準拠で「エルヴィーン・クノップフラー<ref name=Forvo_Knopfler(hu)>{{Cite web|和書|title=Knopfler の発音 ハンガリー語 |url=https://ja.forvo.com/word/knopfler/ |work=Forvo |accessdate=2021-05-08 }}</ref>」、英語準拠で「エルヴィン・ノップラー」が慣習的表記と言える。 [[1908年]][[12月2日]]に[[ハンガリー]]北東部の都市[[ミシュコルツ]]で生まれ{{Sfn|Geni: Erwin}}、イングランドの[資料1][[ロンドン]]{{Sfn|Geni: Erwin}}あるいは[資料2][[ブリストル]]{{Sfn|ChessScotland}}で[[1993年]]に亡くなっている{{Sfn|Geni: Erwin}}。[[建築家]]で、[[チェス]]プレーヤーとしても知られている。<!--[[マルクス主義]]者。|※正確性が不足しているので伏せておきます。--> エルヴィーンの父は、[[ブダペスト]]生まれのユダヤ系ハンガリー人、ヨージェフ・クノップフラー ({{Lang|hu|J&oacute;zsef Kn&ouml;pfler}}, {{Lang|en|Joseph Knopfler}}) {{Sfn|Geni: Joseph}}。[[1874年]]生まれ{{Sfn|Geni: Joseph}}。[[アメリカ合衆国|米国]][[マサチューセッツ州]][[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード]]で[[1952年]]に亡くなっている{{Sfn|Geni: Joseph}}。 == 関連事象 == {{multiple image | align = right | direction = vertical | footer = [上]''M. knopfleri'' の骨格図<br />[下]''M. knopfleri'' の全身骨格ディスプレイ | footer_align = left | width = 280 | image1 = Masiakasaurus knopfleri.jpg | image2 = Masiakasaurus.JPG }} {{Wikispecies|Masiakasaurus knopfleri|''Masiakasaurus knopfleri''}} {{Anchors|Masiakasaurus}} === ノップラー氏の悪竜 === イギリスの[[学術雑誌]]『[[ネイチャー]]』の[[2001年]][[1月25日]]発売号に新[[属 (分類学)|属]]新[[種 (分類学)|種]]の[[恐竜]](小型[[獣脚類]])が[[記載]]された。その[[学名]]は '''''{{Lang|la|[[:en:Masiakasaurus|Masiakasaurus]] knopfleri}}'''''、[[和名]]を「'''[[マシアカサウルス]]・クノプフレリ'''({{Small|[[Wikt:表記揺れ|表記揺れ]]}}: ノップレリ、ほか)」というが、"'''''knopfleri'''''" は "Mark '''Knopfler'''" の名にちなんで命名されたもので{{R|Sampson...2001_Etymology}}、「ノップラー氏にちなんだ」「ノップラー氏にゆかりある」などといった意味をもつ[[献名]]である。 これは、[[化石]]発掘チームが、大好きなノップラーの音楽{{Refnest|group="注"|[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の『[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]』は代表曲として「[[マネー・フォー・ナッシング]]」{{Sfn|Dire Straits (YouTube Official Channel) - Money For Nothing}}([[1985年]]リリース)を挙げている{{R|ABCN_20060107}}が、この曲を聴いていたのかどうかは言及されていない。}}を聴きながら作業をしていた時に限ってこの恐竜の化石が幾つも見付かり、他の音楽を聴きながら作業していた時には何も見付からなかったというエピソードに由来している{{R|ABCN_20060107}}。思いがけず恐竜の名前に採用されることとなったノップラーは、『ネイチャー』の発売前日に[[逐次刊行物#日刊|日刊]][[タブロイド|タブロイド紙]]『[[ザ・サン]]』の取材を受けており、[[ウィット]]に富んだ感想を述べている{{R|ABCN_20060107}}。それについては、該当項目で詳説している。 {{Main|マシアカサウルス#knopfler-i}} [[中国語]]圏の[[分類学]]では、「悪意ある恐竜」「凶暴な恐竜」などといった語意をもつ ''Masiakasaurus'' を「{{Lang|zh|惡龍}}」と[[漢訳]]し、''knopfleri'' には "[[ミスター|Mr.]] Knopfler" の漢訳名である「{{Lang|zh|諾弗勒氏}}」の省略形「{{Lang|zh|諾氏}}」を当てている。このことから、''Masiakasaurus knopfleri'' は「{{Lang|zh|諾氏惡龍}}({{Small|[[簡体字]]}}: {{Lang|zh|诺氏恶龙}})」と綴る。ほかには「{{Lang|zh|諾弗勒惡龍}}({{Small|簡体字}}: {{Lang|zh|诺弗勒恶龙}})」という異表記が多く見られる。 [[ジ・オーブ]]の[[アレックス・パターソン]]はこの話題を触れ、イラストも描いている<ref name=Paterson_20170322>{{Cite tweet |author=Alex Paterson |user=alexrjpaterson |number=844589846572216321 |title=When you see the dinosaur that got named after Mark Knopfler it makes the #DavidAttenborough shrimp seem a little bit melancholy |date=22 March 2017 |accessdate=2021年5月8日 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=RollingStone_20101203>{{Cite news |last=Fricke |first=David |author=David Fricke |date=03 December 2010 |title=100 Greatest Guitarists: David Fricke’s Picks |url=https://www.rollingstone.com/music/music-lists/100-greatest-guitarists-david-frickes-picks-146383/kim-thayil-227804/ |publisher=[[:en:Penske Media Corporation|Penske Media Corporation]] (PMC) |newspaper=[[ローリング・ストーン|Rolling Stone]] |language=English |accessdate=2021-05-09 }}</ref> <ref name=RollingStone_20151218>{{Cite news |author=Rolling Stone |date=18 December 2015 |title=100 Greatest Guitarists |url=https://www.rollingstone.com/music/music-lists/100-greatest-guitarists-153675/ritchie-blackmore-52823/ |publisher=Penske Media Corporation (PMC) |newspaper=Rolling Stone |language=English |accessdate=2021-05-09 }}</ref> <ref name=MUSICANDY_20200817ed>{{Cite web|和書|date=2014年10月18日作成、2020年8月17日更新 |title=ローリング・ストーン誌が選ぶ最も偉大な100人のギタリストランキング |url=https://billboard-rock.com/ローリングストーン誌が選ぶ最も偉大な/post-73/ |publisher= |work=MUSICANDY |accessdate=2021-05-09 }}</ref> <ref name=NoizeTV_201110>{{Cite web|和書|date=2011-10 |title=ローリング・ストーン誌の選ぶ最も偉大な 100人のギタリスト |url=https://noize.tv/special/2011/10/hrhm.php |publisher=Noize TV |work=Move & Music |accessdate=2021-05-09 }}</ref> <ref name=AHF>{{Cite web |title=Mark Knopfler - Dire StraitsMark (b. 8/12/1949, Glasgow) and David Knopfler (b. 12/27/1951) < Film, the Arts, & Media |url=http://www.americanhungarianfederation.org/FamousHungarians/filmartsandmedia.htm |publisher=Bryan Dawson |work=The American Hungarian Federation |language=English |accessdate=2021-05-08 }}</ref> <ref name=DireStraits-blog_20200716>{{Cite web |date=16 July 2020 |title=Rest in Peace – Ruth Selma Knopfler has Died on 73 (1947 – 2020) |url=https://direstraitsblog.com/blog/rest-in-peace-ruth-selma-knopfler-has-died-on-73-1947-2020/|work=DireStraits blog.com |language=English |accessdate=2021-05-08 }}</ref> <ref name=Sampson...2001_Etymology>{{Harvnb|Sampson, Carrano ''et'' Forster|2001|p=504|loc=<br />{{Spaces|3}}"'''Etymology'''. From ''masiaka'' (Malagasy, meaning vicious), ''sauros'' (Greek, meaning lizard) and '''''knopferi'' (after singer/songwriter Mark Knopfer, whose music inspired expedition crews)'''."}}</ref> <ref name=ABCN_20060107>{{Cite news |last=Lawson |first=Willow |author=Willow Lawson |date=7 January 2006 |title=Dinosaur Named for Rock Star |url=https://abcnews.go.com/Technology/story?id=99049&page=1 |publisher=[[ウォルト・ディズニー・テレビジョン|Walt Disney Television]] |newspaper=[[ABCニュース (アメリカ)|ABC News]] (ABCN) |language=English |accessdate=2021-05-08 }}</ref> }} == 参考文献 == <!--; 書籍、ムック--> ; 雑誌、広報、論文、ほか * <!--Sampson-->{{Cite journal |last1=Sampson |first1=Scott D. |author1=Scott D. Sampson |authorlink1=:en:Scott D. Sampson |last2=Carrano |first2=Matthew T. |author2=Matthew T. Carrano |authorlink2= |last3=Forster |first3=Catherine A. |author3=Catherine A. Forster |authorlink3=:en:Catherine A. Forster |date=25 January 2001 |title=A bizarre predatory dinosaur from the Late Cretaceous of Madagascar |url=https://www.nature.com/articles/35054046 |publisher=[[:en:Nature Research|Nature Publishing Group]] (NPG) |journal=[[ネイチャー|Nature]] |volume=409 |issue=6819 |pages=504–506 |language=English |doi=10.1038/35054046 |pmid=11206544 |ref={{SfnRef|Sampson, Carrano ''et'' Forster|2001}} }} ** {{Cite journal |title=A bizarre predatory dinosaur from the Late Cretaceous of Madagascar |url=https://www.researchgate.net/publication/12123798_A_bizarre_predatory_dinosaur_from_the_Late_Cretaceous_of_Madagascar |publisher=[[ResearchGate]] |language=English |ref={{SfnRef|ResearchGate: Sampson, Carrano ''et'' Forster (2001)}} }} == 関連項目 == * {{仮リンク|Voices That Care|en|Voices That Care}} * {{仮リンク|デヴィッド・ノップラー|en|David Knopfler}} == 外部リンク == {{Wikiquote|:en:Mark Knopfler}} {{Commonscat|Mark Knopfler}} ; 当事者発信 * {{Cite web |title=Mark Knopfler |url=http://www.markknopfler.com/ |website=official website |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|official}} }} ** {{Cite web |title=About |url=https://www.markknopfler.com/about/ |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|about}} }} ** {{Cite web |title=News |url=https://www.markknopfler.com/news/ |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|news}} }} * {{Twitter|markknopfler|Mark Knopfler}} * {{Cite video |people=Dire Straits |date=24 February 2010 |title=Dire Straits - Money For Nothing |url=https://www.youtube.com/watch?v=wTP2RUD_cL0 |medium=[[動画共有サービス]] |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|Dire Straits (YouTube Official Channel) - Money For Nothing}} }} : ※恐竜 [[#Masiakasaurus|''Masiakasaurus knopfleri'']] の由来名となったマーク・ノップラー、その代表曲である[[ダイアー・ストレイツ]]「[[マネー・フォー・ナッシング]]」の[[ミュージック・ビデオ]](公式チャンネル動画)。 ; 他者発信 * {{Cite web |title=Mark Knopfler |url=https://www.geni.com/people/Mark-Knopfler/6000000009145257834 |publisher=[[MyHeritage|MyHeritage Ltd.]] |work=Geni (Geni.com) |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|Geni: Mark}} }} * {{Cite web |title=Erwin Knopfler |url=https://www.geni.com/people/Erwin-Knopfler/6000000009145294977 |publisher=MyHeritage Ltd. |work=Geni (Geni.com) |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|Geni: Erwin}} }} * {{Cite web |title=Joseph Knopfler |url=https://www.geni.com/people/Joseph-Knopfler/6000000009145467301 |publisher=MyHeritage Ltd. |work=Geni (Geni.com) |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|Geni: Joseph}} }} * {{Cite web |title=Erwin Knopfler |url=http://billwall.phpwebhosting.com/articles/erwin_knopfler.htm |publisher=phpwebhosting.com, LLC. |work=PHPwebhosting.com |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|PHPwh: Erwin}} }} * {{Cite web |last=McGowan |first=Alan |author=Alan McGowan |title=Erwin Knopfler [Ernö Knöpfler] |url=https://www.chessscotland.com/documents/history/biographies/knopfler.htm |publisher= |work=Chess Scotland (ChessScotland.com) |language=English |accessdate=2021-05-08 |ref={{SfnRef|ChessScotland}} }} {{ダイアー・ストレイツ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のつふらあ まあく}} [[Category:イギリスのギタリスト]] [[Category:イギリスの音楽プロデューサー]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:ブリット・アワード受賞者]] [[Category:ユダヤ系イギリス人]] [[Category:ハンガリー系イギリス人]] [[Category:グラスゴー出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
2003-09-08T13:01:37Z
2023-10-31T07:29:21Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Musician", "Template:R", "Template:Wikispecies", "Template:Commonscat", "Template:Twitter", "Template:ダイアー・ストレイツ", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite tweet", "Template:Cite video", "Template:Normdaten", "Template:Refnest", "Template:Small", "Template:Cite web", "Template:年数", "Template:仮リンク", "Template:See", "Template:Anchors", "Template:Lang", "Template:Multiple image", "Template:Cite journal", "Template:Wikiquote" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
15,785
按摩
按摩(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。現在の日本では業として継続して他者にあんま行為を、あん摩マッサージ指圧師国家資格者以外が行うことは違法である(後述の「日本」の項を参照のこと)。 按摩は中国発祥の手技療法である。按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味である。 按摩は西洋発祥のマッサージなどとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている。 先史時代に人々の生活において、自然環境の中で生きていく上で様々な理由によって負傷して瘀痛(疼痛)や腫痛に苦しむ事も少なくなかったと考えられる。そんなときに、人々は自分あるいは仲間の患部を手で撫でたり擦ったりすることによって、外傷による瘀痛を散らして腫れをひかせて痛みを和らげる効果があることを発見した。当時においてはこれも有効な外科治療の一環であり、これが按摩術のルーツであると考えられる。 世界最古の医学書である黄帝内経には、いくつかの部位に按摩の文字が書かれているが、具体的な手法については記載がない。「導引按蹻は中央より出ず」とあり、この導引按蹻が按摩とする人がいるが誤りである。他にも「導引とは筋骨を揺がし支節を動かすを謂う。按は皮肉を抑え按ずるを謂う。蹻とは手足を捷挙するを謂う」ともあるように、これは現在でいう気功のことであり、按摩そのものを指す記述ではないと思われる。また、骨折・脱臼の治療などの今日の外科・整形外科の分野に属する治療や包帯法などに関する分野も扱っていたと考えられている。 中国においては隋の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。北宋以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『宋史』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。明以後には医学における按摩行為を特に「推拿(すいな)」とも称されるようになった。 日本には養老令において、唐王朝をまねて典薬寮に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる(ただし、法制だけを継受しただけで、実際に古代日本に按摩そのものが伝来したか疑問視する見方もある)。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。 日本において按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからである。宮脇仲策『導引口訣鈔』や寛政11年(1799年)藤林良伯『按摩手引』、文政10年(1827年)太田晋斎『按腹図解』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。 按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた。一方、関西ではこのような流派はない。 『守貞謾稿』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24文、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)。 GHQは「按摩・鍼灸は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案としてあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律が作られた。 現代の各種法令では、流派を名乗る事は許されていないので、コマーシャル的に意味が無い状態である。 按摩の基本手技は以下の7つに分類される。また、以下に基本手技の代表的手技を記載する。 術手を患部に密着させ、同一圧で同一速度で同一方向に遠心性で「なで」「さする」手技。作用としては弱い軽擦法は知覚神経の刺激による反射作用を起こし、爽快な感覚を起こさせる。強い軽擦法の場合は循環系の流通を良くし新陳代謝を盛んにし、また鎮静効果を期待する。 軽擦という用語は新しく、明治初期の文献ではまだ確定されておらず、按撫、摩擦などという用語が使われている。元々はマッサージ手技のひとつである強擦に対比するマッサージ用語で、按摩のことばではない。従って、強擦という手技を持たない按摩で使うべきかどうかは疑問である。 術手を患部へ密着させ、垂直に圧をかけ、その圧を抜かずに筋組織を動かす手技。作用としては主として筋肉に作用を及ぼし、組織の新陳代謝を盛んにする。また腹部におこなう時は、胃腸の蠕動機能を高め、便通をよくする。 身体の表面を術者の手指ですばやく打ち、叩く方法である。力が深部に達するような叩き方は避け、関節を滑らかに動かして弾力をつけて左右の手で交互に叩くことが重要である。作用としては断続刺激がリズミカルに作用するので筋、神経の興奮性を高め、血行をよくし、機能を亢進させる。 圧がある頂点に達したらそれを減圧する方法である。圧を漸増、漸減に施す。漸増、漸減であるから急激に力を加えてはならない。作用としては機能の抑制である。神経痛などの痛みを鎮め、痙攣を押さえるなどの効果がある。 施術部へ術手を密着させ術手を固定し、肘関節を少し屈曲し、前腕伸筋屈筋、上腕伸筋屈筋を同時に収縮させアイソメトリックを起こし振動させ、その振動を患部へ伝える。作用としては細かい断続的刺激により神経、筋の興奮性を高め、また快い感覚を覚えさせる。本来は按摩の手技ではなく、マッサージの手技と思われる。 患者の関節を十分弛緩させて術者がこれを動かす方法である。各関節の運動方向及び生理的可動域に注意する。作用としては関節内の血行を良くし、関節滑液の分泌を促し、関節運動を円滑にして関節の拘縮などを予防する。 中国の推拿の手法に類似しているので、その影響もあると見られる。江戸時代の鍼医杉山和一検校が普及させたものとする人もいるが、文献的にも根拠はない。按摩師自体には手技の安易さから研究を怠り医療行為と言うより、疲労回復や、その気持ちよさを愉しむ慰安の目的で施術が行われていた。一方、按摩術を復興しようとする一部の努力も素人の真似出来ぬ曲手(曲芸の曲)に重きを置き、治病効果を薄れさす傾向を助長したため政策的にも盲人救済の社会的便法に用いられるようになっては、按摩は盲人の別名のような印象を世間に与えてしまい、もはや本来の療術としての意義を殆んど失った状態で現行、按摩に受けつがれている。一部の術者の熟練度を愉しむパフォーマンスとしての意味が強いと謳われている理由である。文献的には按腹鍼術按摩手引に記載されているのみである。 名称はマッサージであるが、その手技は按摩に近い。一般人がサービス内容を理解しやすい名称としてよく使われている。例としては西洋式リフレクソロジや東洋式(台湾式)リフレクソロジや整足式リフレクソロジ等がある。しかしながら、あん摩マッサージ指圧師国家資格者で足裏マッサージを生業とする者はほとんどいない。 中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と言うようになった。これは日本では中国整体と呼称しているものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。 日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。 「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・推拿医師という資格がある。 日本では1947年(昭和22年)に「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」が成立して免許制度がスタートした。1964年(昭和39年)には指圧が追加され「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」となった。1970年(昭和45年)には柔道整復師法が独立した法律となったため「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」となった。同法は1988年(昭和63年)に大幅改正され知事認可免許から大臣認可免許に変更された。 日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ按摩を業として行う事が出来ない。しかし、按摩の手技定義が法的に明文化されておらず、また医業類似行為においては患者に害のある行為だと立証されない限り「職業選択の自由」の観点から法的に禁止出来ないとの最高裁判断もあり、国家資格でない各種民間療法は禁止の対象とならない。 なお、最高裁判決は医業類似行為に関する判断であり、あん摩、マッサージ、指圧については判断しておらず、無免許でそれらの行為を行えば健康に害を及ぼす虞の有無にかかわらず違法になる(昭和三五年三月三〇日 医発第二四七号の一各都道府県知事あて厚生省医務局長通知)。 上記の案件には国会でも度々、法改正の質疑応答がなされている。 尚法的には、従来通り按摩と表記して無資格者が按摩を行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、国家資格保持者と民間資格保持者や無資格者を混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。 戦中までの文学作品には、杖・黒めがね・あんま笛を身につけて街を流して歩く視覚障害者の按摩がステレオタイプとして登場していた。 かつては、「按摩」が視覚障害者の盲人を指す際に使われることがあった。そのため、実際には自宅などで按摩をしていても、看板や広告には、「マッサージ」と表記する人が多い。また按摩という言葉自体も放送禁止用語扱いされており、『三つで五百円』(西条ロック)のように「歌詞にあんまという言葉が含まれている」ことが理由となって民放連の要注意歌謡曲指定制度における「要注意歌謡曲」となり、事実上テレビ・ラジオでのオンエアが不可能になった曲も存在する。 番付下位力士が上位力士の稽古相手をすること。実力が違い過ぎて、下位力士との稽古は体をほぐす按摩のようなものという意味からきている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "按摩(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。現在の日本では業として継続して他者にあんま行為を、あん摩マッサージ指圧師国家資格者以外が行うことは違法である(後述の「日本」の項を参照のこと)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "按摩は中国発祥の手技療法である。按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "按摩は西洋発祥のマッサージなどとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "先史時代に人々の生活において、自然環境の中で生きていく上で様々な理由によって負傷して瘀痛(疼痛)や腫痛に苦しむ事も少なくなかったと考えられる。そんなときに、人々は自分あるいは仲間の患部を手で撫でたり擦ったりすることによって、外傷による瘀痛を散らして腫れをひかせて痛みを和らげる効果があることを発見した。当時においてはこれも有効な外科治療の一環であり、これが按摩術のルーツであると考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "世界最古の医学書である黄帝内経には、いくつかの部位に按摩の文字が書かれているが、具体的な手法については記載がない。「導引按蹻は中央より出ず」とあり、この導引按蹻が按摩とする人がいるが誤りである。他にも「導引とは筋骨を揺がし支節を動かすを謂う。按は皮肉を抑え按ずるを謂う。蹻とは手足を捷挙するを謂う」ともあるように、これは現在でいう気功のことであり、按摩そのものを指す記述ではないと思われる。また、骨折・脱臼の治療などの今日の外科・整形外科の分野に属する治療や包帯法などに関する分野も扱っていたと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国においては隋の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。北宋以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『宋史』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。明以後には医学における按摩行為を特に「推拿(すいな)」とも称されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本には養老令において、唐王朝をまねて典薬寮に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる(ただし、法制だけを継受しただけで、実際に古代日本に按摩そのものが伝来したか疑問視する見方もある)。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本において按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからである。宮脇仲策『導引口訣鈔』や寛政11年(1799年)藤林良伯『按摩手引』、文政10年(1827年)太田晋斎『按腹図解』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた。一方、関西ではこのような流派はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『守貞謾稿』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24文、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "GHQは「按摩・鍼灸は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案としてあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律が作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現代の各種法令では、流派を名乗る事は許されていないので、コマーシャル的に意味が無い状態である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "按摩の基本手技は以下の7つに分類される。また、以下に基本手技の代表的手技を記載する。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "術手を患部に密着させ、同一圧で同一速度で同一方向に遠心性で「なで」「さする」手技。作用としては弱い軽擦法は知覚神経の刺激による反射作用を起こし、爽快な感覚を起こさせる。強い軽擦法の場合は循環系の流通を良くし新陳代謝を盛んにし、また鎮静効果を期待する。 軽擦という用語は新しく、明治初期の文献ではまだ確定されておらず、按撫、摩擦などという用語が使われている。元々はマッサージ手技のひとつである強擦に対比するマッサージ用語で、按摩のことばではない。従って、強擦という手技を持たない按摩で使うべきかどうかは疑問である。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "術手を患部へ密着させ、垂直に圧をかけ、その圧を抜かずに筋組織を動かす手技。作用としては主として筋肉に作用を及ぼし、組織の新陳代謝を盛んにする。また腹部におこなう時は、胃腸の蠕動機能を高め、便通をよくする。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "身体の表面を術者の手指ですばやく打ち、叩く方法である。力が深部に達するような叩き方は避け、関節を滑らかに動かして弾力をつけて左右の手で交互に叩くことが重要である。作用としては断続刺激がリズミカルに作用するので筋、神経の興奮性を高め、血行をよくし、機能を亢進させる。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "圧がある頂点に達したらそれを減圧する方法である。圧を漸増、漸減に施す。漸増、漸減であるから急激に力を加えてはならない。作用としては機能の抑制である。神経痛などの痛みを鎮め、痙攣を押さえるなどの効果がある。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "施術部へ術手を密着させ術手を固定し、肘関節を少し屈曲し、前腕伸筋屈筋、上腕伸筋屈筋を同時に収縮させアイソメトリックを起こし振動させ、その振動を患部へ伝える。作用としては細かい断続的刺激により神経、筋の興奮性を高め、また快い感覚を覚えさせる。本来は按摩の手技ではなく、マッサージの手技と思われる。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "患者の関節を十分弛緩させて術者がこれを動かす方法である。各関節の運動方向及び生理的可動域に注意する。作用としては関節内の血行を良くし、関節滑液の分泌を促し、関節運動を円滑にして関節の拘縮などを予防する。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国の推拿の手法に類似しているので、その影響もあると見られる。江戸時代の鍼医杉山和一検校が普及させたものとする人もいるが、文献的にも根拠はない。按摩師自体には手技の安易さから研究を怠り医療行為と言うより、疲労回復や、その気持ちよさを愉しむ慰安の目的で施術が行われていた。一方、按摩術を復興しようとする一部の努力も素人の真似出来ぬ曲手(曲芸の曲)に重きを置き、治病効果を薄れさす傾向を助長したため政策的にも盲人救済の社会的便法に用いられるようになっては、按摩は盲人の別名のような印象を世間に与えてしまい、もはや本来の療術としての意義を殆んど失った状態で現行、按摩に受けつがれている。一部の術者の熟練度を愉しむパフォーマンスとしての意味が強いと謳われている理由である。文献的には按腹鍼術按摩手引に記載されているのみである。", "title": "按摩の基本手技" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "名称はマッサージであるが、その手技は按摩に近い。一般人がサービス内容を理解しやすい名称としてよく使われている。例としては西洋式リフレクソロジや東洋式(台湾式)リフレクソロジや整足式リフレクソロジ等がある。しかしながら、あん摩マッサージ指圧師国家資格者で足裏マッサージを生業とする者はほとんどいない。", "title": "足裏マッサージ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と言うようになった。これは日本では中国整体と呼称しているものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。", "title": "中国(推拿)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。", "title": "中国(推拿)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・推拿医師という資格がある。", "title": "中国(推拿)" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本では1947年(昭和22年)に「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」が成立して免許制度がスタートした。1964年(昭和39年)には指圧が追加され「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」となった。1970年(昭和45年)には柔道整復師法が独立した法律となったため「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」となった。同法は1988年(昭和63年)に大幅改正され知事認可免許から大臣認可免許に変更された。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ按摩を業として行う事が出来ない。しかし、按摩の手技定義が法的に明文化されておらず、また医業類似行為においては患者に害のある行為だと立証されない限り「職業選択の自由」の観点から法的に禁止出来ないとの最高裁判断もあり、国家資格でない各種民間療法は禁止の対象とならない。 なお、最高裁判決は医業類似行為に関する判断であり、あん摩、マッサージ、指圧については判断しておらず、無免許でそれらの行為を行えば健康に害を及ぼす虞の有無にかかわらず違法になる(昭和三五年三月三〇日 医発第二四七号の一各都道府県知事あて厚生省医務局長通知)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "上記の案件には国会でも度々、法改正の質疑応答がなされている。 尚法的には、従来通り按摩と表記して無資格者が按摩を行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、国家資格保持者と民間資格保持者や無資格者を混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦中までの文学作品には、杖・黒めがね・あんま笛を身につけて街を流して歩く視覚障害者の按摩がステレオタイプとして登場していた。", "title": "視覚障害者と按摩" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "かつては、「按摩」が視覚障害者の盲人を指す際に使われることがあった。そのため、実際には自宅などで按摩をしていても、看板や広告には、「マッサージ」と表記する人が多い。また按摩という言葉自体も放送禁止用語扱いされており、『三つで五百円』(西条ロック)のように「歌詞にあんまという言葉が含まれている」ことが理由となって民放連の要注意歌謡曲指定制度における「要注意歌謡曲」となり、事実上テレビ・ラジオでのオンエアが不可能になった曲も存在する。", "title": "視覚障害者と按摩" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "番付下位力士が上位力士の稽古相手をすること。実力が違い過ぎて、下位力士との稽古は体をほぐす按摩のようなものという意味からきている。", "title": "相撲用語として" } ]
按摩(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。現在の日本では業として継続して他者にあんま行為を、あん摩マッサージ指圧師国家資格者以外が行うことは違法である(後述の「日本」の項を参照のこと)。
{{東洋医学}} '''按摩'''(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ[[恒常性]]維持機能を反応させて健康を増進させる[[手技療法]]である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。現在の日本では業として継続して他者にあんま行為を、あん摩マッサージ指圧師国家資格者以外が行うことは違法である(後述の「日本」の項を参照のこと)。 == 概要 == 按摩は[[中国]]発祥の[[手技療法]]である<ref name="toyo20">東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、20頁</ref>。按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味である<ref name="toyo20" />。 按摩は西洋発祥の[[マッサージ]]などとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う<ref name="toyo20" />。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが<ref name="toyo20" />、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている<ref>東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、25頁</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:C20 Chinese medical illustration in trad. style; Hand massage Wellcome L0039666.jpg|thumb|right|中国文献に記されたハンドマッサージ]] 先史時代に人々の生活において、自然環境の中で生きていく上で様々な理由によって負傷して瘀痛(疼痛)や腫痛に苦しむ事も少なくなかったと考えられる。そんなときに、人々は自分あるいは仲間の患部を手で撫でたり擦ったりすることによって、外傷による瘀痛を散らして腫れをひかせて痛みを和らげる効果があることを発見した。当時においてはこれも有効な外科治療の一環であり、これが按摩術のルーツであると考えられる。 世界最古の医学書である[[黄帝内経]]には、いくつかの部位に按摩の文字が書かれているが、具体的な手法については記載がない。「導引按蹻は中央より出ず」とあり、この導引按蹻が按摩とする人がいるが誤りである。他にも「導引とは筋骨を揺がし支節を動かすを謂う。按は皮肉を抑え按ずるを謂う。蹻とは手足を捷挙するを謂う」ともあるように、これは現在でいう[[気功]]のことであり、按摩そのものを指す記述ではないと思われる。また、[[骨折]]・[[脱臼]]の治療などの今日の外科・整形外科の分野に属する治療や包帯法などに関する分野も扱っていたと考えられている。 中国においては[[隋]]の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。[[北宋]]以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『[[宋史]]』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。[[明]]以後には医学における按摩行為を特に「'''推拿'''(すいな)」とも称されるようになった。 日本には[[養老令]]において、[[唐王朝]]をまねて[[典薬寮]]に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる(ただし、法制だけを継受しただけで、実際に古代日本に按摩そのものが伝来したか疑問視する見方もある<ref>丸山裕美子「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)</ref>)。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。 {{右|<gallery widths="180px" heights="180px"> ファイル:Ijl no3 1906 3ed 10 amma-1.jpg|明治時代の按摩師 ファイル:Adolfo Farsari - Blind Shampoonier.JPG|盲人の按摩風景 </gallery>}} 日本において按摩が本格的に興隆するのは[[江戸時代]]に入ってからである。[[宮脇仲策]]『[[導引口訣鈔]]』や[[寛政]]11年([[1799年]])[[藤林良伯]]『[[按摩手引]]』、[[文政]]10年([[1827年]])[[太田晋斎]]『[[按腹図解]]』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。 按摩の[[流派]]には、江戸期の関東において[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の病を治したと伝えられている[[杉山和一]]を祖とする[[杉山流按摩術]]<ref>遠藤元男「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)</ref>と[[吉田久庵]]を祖とする[[吉田流按摩術]]<ref>西山松之助「按摩」『国史大辞典 1』(吉川弘文館)</ref>が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた<ref>加藤康昭「按摩」『日本歴史大事典 1』(小学館)</ref>。一方、関西ではこのような流派はない。 『[[守貞謾稿]]』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24[[文 (通貨単位)|文]]、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)<ref>遠藤元男「按摩」『[[日本史大事典]] 1』([[平凡社]])・西山松之助「按摩」『[[国史大辞典_(昭和時代)|国史大辞典]] 1』([[吉川弘文館]])・加藤康昭「按摩」『[[日本歴史大事典]] 1』([[小学館]])</ref>。 [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は「按摩・[[鍼灸]]は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案として[[あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律]]が作られた。 現代の各種法令では、流派を名乗る事は許されていないので、コマーシャル的に意味が無い状態である。 == 按摩の基本手技 == 按摩の基本手技は以下の7つに分類される。また、以下に基本手技の代表的手技を記載する。 ===軽擦法(按撫法)=== 術手を患部に密着させ、同一圧で同一速度で同一方向に遠心性で「なで」「さする」手技。作用としては弱い軽擦法は知覚神経の刺激による反射作用を起こし、爽快な感覚を起こさせる。強い軽擦法の場合は循環系の流通を良くし新陳代謝を盛んにし、また鎮静効果を期待する。 軽擦という用語は新しく、明治初期の文献ではまだ確定されておらず、按撫、摩擦などという用語が使われている。元々はマッサージ手技のひとつである強擦に対比するマッサージ用語で、按摩のことばではない。従って、強擦という手技を持たない按摩で使うべきかどうかは疑問である。 ;手掌軽擦法 :手掌全体で軽擦する手技で、大部分はこの軽擦法を使用する。 ===揉捏法(揉撚法)=== 術手を患部へ密着させ、垂直に圧をかけ、その圧を抜かずに筋組織を動かす手技。作用としては主として筋肉に作用を及ぼし、組織の新陳代謝を盛んにする。また腹部におこなう時は、胃腸の蠕動機能を高め、便通をよくする。 ;把握揉捏法 :四指と母指により筋肉を強く握って筋肉の走行に従って絞り揉む手技。 ;母指揉捏法 :按摩の代表とされる手技で、施術部に母指腹を以って加圧し、その加圧した状態で筋線維に対して垂直方向に揉捏する方法。このとき、母指のみに力を加え、四指には力を入れてはならない。その他、輪状に行う方法もある。 ;手根揉捏法 :手根部または母指球をあてて輪状に揉む手技。肩甲骨棘下部など硬い部位に用いる。 ;櫓漕(ろとう)揉捏 :両手掌を重ねて、あたかも「舟の櫓」を漕ぐような動きで、主に腹部に施術する。 === 叩打法 === 身体の表面を術者の手指ですばやく打ち、叩く方法である。力が深部に達するような叩き方は避け、関節を滑らかに動かして弾力をつけて左右の手で交互に叩くことが重要である。作用としては断続刺激がリズミカルに作用するので筋、神経の興奮性を高め、血行をよくし、機能を亢進させる。 ;手拳打法 :軽く握った拳で叩く手技。 ;切打法 :開いた手の小指側の縁で叩く手技。多くの場合、両手を交互に動かしてほぼ同一の部位に行う。 ;指頭叩打法 :四指の指頭で叩く手技。頭部などに用いる。 ;合掌打法 :両手掌を合わせ、その小指側の縁で叩く手技。肩上部などで用いる。 ;含気打法 :左右の手掌を交差してあわせ、中に空気を蓄えるようにして一方の手背で叩く手技。古名は袋手の術。肩上部などで用いる。 === 圧迫法 === 圧がある頂点に達したらそれを減圧する方法である。圧を漸増、漸減に施す。漸増、漸減であるから急激に力を加えてはならない。作用としては機能の抑制である。神経痛などの痛みを鎮め、痙攣を押さえるなどの効果がある。 ;母指圧迫法 :母指揉捏法と共に按摩の代表手技。母指にて徐々に圧を加え抜く手技。あらゆるところで使用する。 === 振せん法 === 施術部へ術手を密着させ術手を固定し、肘関節を少し屈曲し、前腕伸筋屈筋、上腕伸筋屈筋を同時に収縮させ[[アイソメトリック]]を起こし振動させ、その振動を患部へ伝える。作用としては細かい断続的刺激により神経、筋の興奮性を高め、また快い感覚を覚えさせる。本来は按摩の手技ではなく、マッサージの手技と思われる。 ;牽引振せん法 :患者の上肢や下肢を引っ張りながら振るわせる手技。 === 運動法 === 患者の関節を十分弛緩させて術者がこれを動かす方法である。各関節の運動方向及び生理的可動域に注意する。作用としては関節内の血行を良くし、関節滑液の分泌を促し、関節運動を円滑にして関節の拘縮などを予防する。 === 曲手 === 中国の推拿の手法に類似しているので、その影響もあると見られる。江戸時代の[[鍼医]][[杉山和一]][[検校]]が普及させたものとする人もいるが、文献的にも根拠はない。按摩師自体には手技の安易さから研究を怠り医療行為と言うより、疲労回復や、その気持ちよさを愉しむ慰安の目的で施術が行われていた。一方、按摩術を復興しようとする一部の努力も素人の真似出来ぬ曲手(曲芸の曲)に重きを置き、治病効果を薄れさす傾向を助長したため政策的にも盲人救済の社会的便法に用いられるようになっては、按摩は盲人の別名のような印象を世間に与えてしまい、もはや本来の療術としての意義を殆んど失った状態で現行、按摩に受けつがれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://doi.org/10.14868/kampomed1950.17.66 |title=東洋医学に於ける指圧療法の立場|accessdate=2018/07/07|author=増永静人|date=|year=1966|work=日本東洋醫學會誌|publisher=|doi=10.14868/kampomed1950.17.66 }}</ref>。一部の術者の熟練度を愉しむパフォーマンスとしての意味が強いと謳われている理由である。文献的には[[按腹鍼術按摩手引]]に記載されているのみである。 ;車手(二指の曲) :四指を軽く丸めて体表の上を関節ごとに当て転がす手技。 ;挫手 :指頭を当てて第一関節を屈曲、過伸展を反復するように動かす手技。四指挫き、母指挫きがある。 ;横手(鳴骨の術) :開いた手の小指側の縁を体表に当てて手根を素早く前後に動かし筋肉の走行に滑らすように動かす手技である。この時、関節がコツコツと鳴るようにするために鳴骨の術とも呼ばれる。 == 足裏マッサージ == 名称は[[マッサージ]]であるが、その手技は按摩に近い。一般人がサービス内容を理解しやすい名称としてよく使われている。例としては西洋式リフレクソロジや東洋式(台湾式)リフレクソロジや整足式リフレクソロジ等がある。しかしながら、{{要出典範囲|あん摩マッサージ指圧師国家資格者で足裏マッサージを生業とする者はほとんどいない。|date=2022年1月}}<!--経穴(いわゆるツボ)も足の裏には[[湧泉]]しか正確には存在しない。--> == 中国(推拿) == {{Chinese|c=推拿|p=tuī ná|j=teoi<sup>1</sup> naa<sup>4</sup>|l=Push and grasp<ref>{{cite web |url=http://www.acchs.edu/programs/tui-na-mtcp/ |title=Tui Na MTCP |author= |date= |work= |publisher=Academy of Chinese Culture and Health Sciences |accessdate=24 July 2012 }}</ref>|showflag=p|pic=|piccap=Tui na treatment}} 中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は'''推拿'''(すいな)と言うようになった。これは日本では'''[[中国整体]]'''と呼称しているものであり、現在の[[中華人民共和国|中国政府]]も公式な[[中医学]]の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の'''推拿'''は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。 日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。 「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の[[按摩#按摩の基本手技|按摩の基本手技]]と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・推拿医師という資格がある。 == 日本 == === 法令 === [[日本]]では[[1947年]](昭和22年)に「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」が成立して免許制度がスタートした<ref name="toyo24">東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、24頁</ref>。[[1964年]](昭和39年)には[[指圧]]が追加され「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」となった<ref name="toyo24" />。[[1970年]](昭和45年)には[[柔道整復師法]]が独立した法律となったため「[[あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律]]」となった<ref name="toyo24" />。同法は[[1988年]](昭和63年)に大幅改正され知事認可免許から大臣認可免許に変更された<ref name="toyo24" />。 === 免許制 === [[日本]]では、[[あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律]]([[1947年|昭和22年]][[12月20日]]公布)において、[[あん摩マッサージ指圧師]]免許もしくは[[医師]]免許(共に国家資格)がなければ按摩を業として行う事が出来ない。しかし、按摩の手技定義が法的に明文化されておらず、また医業類似行為においては患者に害のある行為だと立証されない限り「職業選択の自由」の観点から法的に禁止出来ないとの最高裁判断もあり、国家資格でない各種民間療法は禁止の対象とならない。 なお、最高裁判決は医業類似行為に関する判断であり、あん摩、マッサージ、指圧については判断しておらず、無免許でそれらの行為を行えば健康に害を及ぼす虞の有無にかかわらず違法になる(昭和三五年三月三〇日 医発第二四七号の一各都道府県知事あて厚生省医務局長通知)。 上記の案件には国会でも度々、法改正の質疑応答がなされている。 尚法的には、従来通り按摩と表記して無資格者が按摩を行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、国家資格保持者と民間資格保持者や無資格者を混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。 {{see also|マッサージ#無資格者と名称問題|[[無資格マッサージ士問題]]}} == 視覚障害者と按摩 == 戦中までの文学作品には、杖・黒めがね・あんま笛を身につけて街を流して歩く視覚障害者の按摩が[[ステレオタイプ]]として登場していた。 かつては、「按摩」が視覚障害者の盲人を指す際に使われることがあった。そのため、実際には自宅などで按摩をしていても、看板や広告には、「'''マッサージ'''」と表記する人が多い。また按摩という言葉自体も[[放送禁止用語]]扱いされており、『[[三つで五百円]]』([[西条ロック]])のように「歌詞にあんまという言葉が含まれている」ことが理由となって[[日本民間放送連盟|民放連]]の[[要注意歌謡曲指定制度]]における「要注意歌謡曲」となり、事実上テレビ・ラジオでのオンエアが不可能になった曲も存在する<ref>[[東京中日スポーツ]]・2009年8月27日付 16面。ただし「[[放送禁止歌]]」([[森達也]]著、[[光文社]]文庫、[[2003年]])pp.70 - 71に収録されている要注意歌謡曲リストには曲名がない。</ref>。 == 相撲用語として == 番付下位力士が上位力士の稽古相手をすること。実力が違い過ぎて、下位力士との稽古は体をほぐす按摩のようなものという意味からきている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 傅維康/呉鴻州 著 川井正久/川合重孝/山本恒久 訳『中国医学の歴史』(東洋学術出版社、1997年) ISBN 978-4-924-95434-2 * 公益財団法人日本相撲協会監修『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲ガイド 寄り切り編』41p == 関連項目 == ; 性質 *[[手技療法]] *[[医業類似行為]] ; 資格 *[[あん摩マッサージ指圧師]] (あん摩、[[マッサージ]]、[[指圧]]) *[[養成施設]] ; 雑学 *[[座頭]] - 江戸時代に下ると、按摩の代名詞ともなる。 ; 異なるもの *[[整体]] *[[カイロプラクティック]] *[[オステオパシー]] *[[リフレクソロジー]] *[[柔道整復術]] ; その他 *[[電気マッサージ器]] == 外部リンク == *[http://www13.plala.or.jp/sugiyamakengyou/ 公益財団法人杉山検校遺徳顕彰会] *[http://www.sugiyamawaichi-hari9.jp/ 公益財団法人杉山検校遺徳顕彰会 杉山鍼按治療所] *[https://www.tokyoiryoufukushi.ac.jp/ 東京医療福祉専門学校] *[https://www.tokyoiryoufukushi.ac.jp/om/ 東京医療福祉専門学校附属接骨院・鍼灸マッサージ院] *[http://kyuan.org/ 久庵] *[https://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20120802_1.html 手技による医業類似行為の危害-整体、カイロプラクティック、マッサージ等で重症事例も-] 国民生活センター {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あんま}} [[Category:伝統中国医学]] [[Category:診断と治療]] [[Category:マッサージ]] [[Category:身体技法]] [[Category:東洋医学]]
2003-09-08T13:07:07Z
2023-11-22T14:40:21Z
false
false
false
[ "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:右", "Template:要出典範囲", "Template:Chinese", "Template:Reflist", "Template:Normdaten", "Template:東洋医学" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E6%91%A9
15,786
薬理学
薬理学(やくりがく、英: Pharmacology)は生体内外の物質と生体の相互作用を、種々の研究方法により個体、臓器、組織、細胞、分子のレベルを貫いて総合的に研究し、さらに創薬・育薬などの薬物の疾病治療への応用を視野に入れ、薬物治療の基盤を確立する科学であると定義される。薬物と生体の相互作用の結果生じた現象の解析には解剖学、生理学、生化学、分子生物学、遺伝学、機能形態学などの基礎医学の知識が要求される。解析に用いる手法や対象により薬理学は様々な分野に細分化される。 人類は太古より天然の植物などを経験的に「くすり」として使用してきた。その知識・経験は子孫へと代々受け継がれていき、やがて蓄積されて体系化されるに至った。中国の本草学・湯液医学において発展した伝統的医薬(日本でいう漢方薬)はそのひとつと言える。1世紀頃にはギリシア人のペダニオス・ディオスコリデスがおよそ900種にもわたる薬を整理して『薬物誌』(De materia medica)という書物を記した。 時代が近代ヘ移ると、生理学や生化学の発展とともに薬理学が誕生した。実験生理学の父と呼ばれるフランスの生理学者クロード・ベルナールが19世紀後半にクラーレの骨格筋弛緩作用を明らかにしたことはよく知られている。その後、ドイツのシュミーデベルクは薬理学を医学の一分野として独立させ、彼の元へは多くの留学生が訪れた。 当初の薬理学は天然物由来成分の薬効解析が主であったが、合成化学的手法の進歩とともに解析対象は人工的な合成化合物へと変遷していく。20世紀に入ると生理活性物質の本体が明らかとなり、分子生物学やゲノム科学の進展により近代薬理学として発展した。 広義には毒性学や化学療法学なども薬理学の一分野として含まれる。 薬物の分類には、ATC分類(解剖治療化学分類法:Anatomical Therapeutic Chemical Classification System)を含めて様々な分類法がある。 制酸薬、抗ドパミン薬、抗痙攣薬、プロトンポンプ阻害薬 (PPI)、プロスタグランジン、緩下剤、便秘薬、胆汁酸 ACE阻害薬、アンギオテンシンII受容体拮抗薬、強心配糖体,ホスホジエステラーゼ阻害薬、硝酸薬、抗不整脈薬、β遮断薬、抗狭心症薬、利尿薬、降圧薬、カルシウム拮抗薬、α遮断薬、血管拡張薬、抗ヒスタミン薬、抗凝固薬、ヘパリン、抗血小板薬、血栓溶解薬、止血薬、抗脂血症薬、スタチン 麻酔薬、睡眠薬、抗不安薬、抗精神病薬、抗うつ薬、SSRI、SNRI、制吐薬、抗痙攣薬、中枢神経刺激薬、 バルビツレート、三環系抗うつ薬、ベンゾジアゼピン、ドパミン拮抗薬、抗ヒスタミン薬、抗コリン薬、カンナビノイド、アンフェタミン、MAO阻害薬、リチウム塩 解熱薬、頭痛薬、NSAIDs、オピオイド鎮痛薬 NSAIDs、筋弛緩薬、コリンエステラーゼ阻害薬 アンドロゲン、抗アンドロゲン薬、ゴナドトロピン、副腎皮質ステロイド、成長ホルモン、インスリン、経口血糖降下薬、甲状腺ホルモン、抗甲状腺薬、カルシトニン、バソプレッシン 抗真菌薬、キノロン、抗生物質、コリン作動薬、抗コリン薬、抗痙攣薬、5-αリダクターゼ阻害薬、α1遮断薬 抗生物質、抗真菌薬、抗結核薬、抗マラリア薬、駆虫薬、抗アメーバ薬、抗ウイルス薬 ワクチン、免疫グロブリン、免疫抑制薬 鉄剤、電解質、ビタミン剤 気管支拡張薬、NSAIDs、抗アレルギー薬、鎮咳薬、去痰薬 β遮断薬、抗コリン薬、ステロイド 抗ヒスタミン薬、抗コリン薬、NSAIDs、ステロイド、局所麻酔薬、抗真菌薬 抗生物質、NSAIDs、縮瞳薬、交感神経遮断薬、炭酸脱水酵素阻害薬、散瞳薬 抗アレルギー薬、抗ヒスタミン薬、NSAIDs 抗真菌薬、消毒薬、殺シラミ薬、ビタミンA誘導体、ビタミンD類似体、抗生物質、ホルモン、遮光剤、制汗薬 経口避妊薬、避妊器具、殺精子薬 NSAIDs、抗コリン薬、抗線維素溶解薬、ホルモン補充療法 (HRT)、β作動薬、黄体形成ホルモン、LHRH プロゲステロン、ドパミン作動薬、エストロゲン、プロスタグランジン、ゴナドレリン、クロミフェン、タモキシフェン 細胞毒性性薬物、性ホルモン、インターロイキン 造影剤
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "薬理学(やくりがく、英: Pharmacology)は生体内外の物質と生体の相互作用を、種々の研究方法により個体、臓器、組織、細胞、分子のレベルを貫いて総合的に研究し、さらに創薬・育薬などの薬物の疾病治療への応用を視野に入れ、薬物治療の基盤を確立する科学であると定義される。薬物と生体の相互作用の結果生じた現象の解析には解剖学、生理学、生化学、分子生物学、遺伝学、機能形態学などの基礎医学の知識が要求される。解析に用いる手法や対象により薬理学は様々な分野に細分化される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人類は太古より天然の植物などを経験的に「くすり」として使用してきた。その知識・経験は子孫へと代々受け継がれていき、やがて蓄積されて体系化されるに至った。中国の本草学・湯液医学において発展した伝統的医薬(日本でいう漢方薬)はそのひとつと言える。1世紀頃にはギリシア人のペダニオス・ディオスコリデスがおよそ900種にもわたる薬を整理して『薬物誌』(De materia medica)という書物を記した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "時代が近代ヘ移ると、生理学や生化学の発展とともに薬理学が誕生した。実験生理学の父と呼ばれるフランスの生理学者クロード・ベルナールが19世紀後半にクラーレの骨格筋弛緩作用を明らかにしたことはよく知られている。その後、ドイツのシュミーデベルクは薬理学を医学の一分野として独立させ、彼の元へは多くの留学生が訪れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当初の薬理学は天然物由来成分の薬効解析が主であったが、合成化学的手法の進歩とともに解析対象は人工的な合成化合物へと変遷していく。20世紀に入ると生理活性物質の本体が明らかとなり、分子生物学やゲノム科学の進展により近代薬理学として発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "広義には毒性学や化学療法学なども薬理学の一分野として含まれる。", "title": "薬理学の主な分野" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "薬物の分類には、ATC分類(解剖治療化学分類法:Anatomical Therapeutic Chemical Classification System)を含めて様々な分類法がある。", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "制酸薬、抗ドパミン薬、抗痙攣薬、プロトンポンプ阻害薬 (PPI)、プロスタグランジン、緩下剤、便秘薬、胆汁酸", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ACE阻害薬、アンギオテンシンII受容体拮抗薬、強心配糖体,ホスホジエステラーゼ阻害薬、硝酸薬、抗不整脈薬、β遮断薬、抗狭心症薬、利尿薬、降圧薬、カルシウム拮抗薬、α遮断薬、血管拡張薬、抗ヒスタミン薬、抗凝固薬、ヘパリン、抗血小板薬、血栓溶解薬、止血薬、抗脂血症薬、スタチン", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "麻酔薬、睡眠薬、抗不安薬、抗精神病薬、抗うつ薬、SSRI、SNRI、制吐薬、抗痙攣薬、中枢神経刺激薬、 バルビツレート、三環系抗うつ薬、ベンゾジアゼピン、ドパミン拮抗薬、抗ヒスタミン薬、抗コリン薬、カンナビノイド、アンフェタミン、MAO阻害薬、リチウム塩", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "解熱薬、頭痛薬、NSAIDs、オピオイド鎮痛薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "NSAIDs、筋弛緩薬、コリンエステラーゼ阻害薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アンドロゲン、抗アンドロゲン薬、ゴナドトロピン、副腎皮質ステロイド、成長ホルモン、インスリン、経口血糖降下薬、甲状腺ホルモン、抗甲状腺薬、カルシトニン、バソプレッシン", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "抗真菌薬、キノロン、抗生物質、コリン作動薬、抗コリン薬、抗痙攣薬、5-αリダクターゼ阻害薬、α1遮断薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "抗生物質、抗真菌薬、抗結核薬、抗マラリア薬、駆虫薬、抗アメーバ薬、抗ウイルス薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ワクチン、免疫グロブリン、免疫抑制薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "鉄剤、電解質、ビタミン剤", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "気管支拡張薬、NSAIDs、抗アレルギー薬、鎮咳薬、去痰薬 β遮断薬、抗コリン薬、ステロイド", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "抗ヒスタミン薬、抗コリン薬、NSAIDs、ステロイド、局所麻酔薬、抗真菌薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "抗生物質、NSAIDs、縮瞳薬、交感神経遮断薬、炭酸脱水酵素阻害薬、散瞳薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "抗アレルギー薬、抗ヒスタミン薬、NSAIDs", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "抗真菌薬、消毒薬、殺シラミ薬、ビタミンA誘導体、ビタミンD類似体、抗生物質、ホルモン、遮光剤、制汗薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "経口避妊薬、避妊器具、殺精子薬", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "NSAIDs、抗コリン薬、抗線維素溶解薬、ホルモン補充療法 (HRT)、β作動薬、黄体形成ホルモン、LHRH プロゲステロン、ドパミン作動薬、エストロゲン、プロスタグランジン、ゴナドレリン、クロミフェン、タモキシフェン", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "細胞毒性性薬物、性ホルモン、インターロイキン", "title": "医薬品の分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "造影剤", "title": "医薬品の分類" } ]
薬理学は生体内外の物質と生体の相互作用を、種々の研究方法により個体、臓器、組織、細胞、分子のレベルを貫いて総合的に研究し、さらに創薬・育薬などの薬物の疾病治療への応用を視野に入れ、薬物治療の基盤を確立する科学であると定義される。薬物と生体の相互作用の結果生じた現象の解析には解剖学、生理学、生化学、分子生物学、遺伝学、機能形態学などの基礎医学の知識が要求される。解析に用いる手法や対象により薬理学は様々な分野に細分化される。
[[ファイル:Pharmacologyprism.jpg|thumb|180px|薬理学は様々な学問分野とリンクしている。]] '''薬理学'''(やくりがく、{{lang-en-short|Pharmacology}})は生体内外の<!--化学-->物質と生体の[[相互作用]]を、種々の研究方法により個体、臓器、組織、細胞、分子のレベルを貫いて総合的に研究し、さらに創薬・育薬などの薬物の疾病治療への応用を視野に入れ、薬物治療の基盤を確立する科学であると定義される。薬物と生体の相互作用の結果生じた現象の解析には[[解剖学]]、[[生理学]]、[[生化学]]、[[分子生物学]]、[[遺伝学]]、[[形態学 (生物学)|機能形態学]]などの基礎医学の知識が要求される。解析に用いる手法や対象により薬理学は様々な分野に細分化される。 == 歴史 == [[ファイル:Koehler1887-PimpinellaAnisum.jpg|180px|thumb|人類は紀元前の時代から植物を薬と認識し、治療に用いてきた。(→[[薬草]])]] 人類は太古より[[薬用植物|天然の植物などを経験的に「くすり」として使用]]してきた。その知識・経験は子孫へと代々受け継がれていき、やがて蓄積されて体系化されるに至った。中国の[[本草学]]・[[湯液医学]]において発展した伝統的医薬(日本でいう[[漢方薬]])はそのひとつと言える。1世紀頃には[[ギリシア]]人の[[ペダニウス・ディオスコリデス|ペダニオス・ディオスコリデス]]がおよそ900種にもわたる薬を整理して『薬物誌』(''De materia medica'')という書物を記した。 時代が近代ヘ移ると、生理学や生化学の発展とともに薬理学が誕生した。実験生理学の父と呼ばれるフランスの生理学者[[クロード・ベルナール]]が19世紀後半に[[クラーレ]]の[[骨格筋]]弛緩作用を明らかにしたことはよく知られている。その後、[[ドイツ]]の[[オスヴァルト・シュミーデベルク|シュミーデベルク]]は薬理学を医学の一分野として独立させ、彼の元へは多くの留学生が訪れた。 当初の薬理学は天然物由来成分の薬効解析が主であったが、[[合成化学]]的手法の進歩とともに解析対象は人工的な[[合成化合物]]へと変遷していく。20世紀に入ると[[生理活性物質]]の本体が明らかとなり、[[分子生物学]]や[[ゲノミクス|ゲノム科学]]の進展により近代薬理学として発展した。 == 薬理学の主な分野 == *[[行動薬理学]]( Behavioral Pharmacology) *[[分子薬理学]] (Molecular Pharmacology) *[[神経薬理学]] (Neuropharmacology) *[[精神薬理学]] (Psychopharmacology) *[[免疫薬理学]] (Immunopharmacology) *[[歯科薬理学]] (Dental Pharmacology) *[[臨床薬理学]] (Clinical Pharmacology) *[[腫瘍薬理学]] (Tumor Pharmacology) *[[時間薬理学]] (Chronopharmacology) *[[薬力学]] (Pharmacodynamics) *[[薬物動態学]] (Pharmacokinetics) *[[家畜薬理学]] (Veterinary Pharmacology) *[[比較薬理学]] (Comparative Pharmacology) 広義には[[毒性学]]や[[化学療法学]]なども薬理学の一分野として含まれる。 == 医薬品の分類 == 薬物の分類には、ATC分類([[解剖治療化学分類法]]:Anatomical Therapeutic Chemical Classification System)を含めて様々な分類法がある。 ===消化器系に作用する薬物=== [[制酸薬]]、抗ドパミン薬、[[抗痙攣薬]]、[[プロトンポンプ阻害薬]] (PPI)、[[プロスタグランジン]]、緩下剤、[[便秘薬]]、[[胆汁酸]] ===心血管系に作用する薬物=== [[ACE阻害薬]]、[[アンギオテンシンII受容体拮抗薬]]、強心配糖体,[[ホスホジエステラーゼ阻害薬]]、硝酸薬、抗不整脈薬、[[β遮断薬]]、[[抗狭心症薬]]、[[利尿薬]]、[[降圧薬]]、[[カルシウム拮抗薬]]、[[α遮断薬]]、[[血管拡張薬]]、[[抗ヒスタミン薬]]、[[抗凝固薬]]、[[ヘパリン]]、抗血小板薬、血栓溶解薬、[[止血薬]]、抗脂血症薬、[[スタチン]] ===中枢神経系に作用する薬物=== 麻酔薬、[[睡眠薬]]、[[抗不安薬]]、[[抗精神病薬]]、[[抗うつ薬]]、[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬|SSRI]]、[[セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬|SNRI]]、[[制吐薬]]、[[抗痙攣薬]]、[[中枢神経刺激薬]]、<br> [[バルビツレート]]、[[三環系抗うつ薬]]、[[ベンゾジアゼピン]]、ドパミン拮抗薬、[[抗ヒスタミン薬]]、[[抗コリン薬]]、<br>カンナビノイド、[[アンフェタミン]]、[[MAO阻害薬]]、[[リチウム塩]] ===鎮痛薬=== [[解熱薬]]、[[頭痛薬]]、[[NSAID]]s、[[オピオイド鎮痛薬]] ===筋骨格系疾患の薬物=== [[NSAID]]s、[[筋弛緩薬]]、[[コリンエステラーゼ阻害薬]] ===内分泌疾患の薬物=== [[アンドロゲン]]、[[抗アンドロゲン剤|抗アンドロゲン薬]]、[[ゴナドトロピン]]、[[副腎皮質ステロイド]]、[[成長ホルモン]]、[[インスリン]]、[[経口血糖降下薬]]、[[甲状腺ホルモン]]、[[抗甲状腺薬]]、[[カルシトニン]]、[[バソプレッシン]] ===泌尿器系に作用する薬物=== [[抗真菌薬]]、[[キノロン]]、[[抗生物質]]、[[コリン作動薬]]、[[抗コリン薬]]、[[抗痙攣薬]]、5-αリダクターゼ阻害薬、α1遮断薬 ===感染症=== [[抗生物質]]、[[抗真菌薬]]、[[抗結核薬]]、[[抗マラリア薬]]、[[駆虫薬]]、[[抗アメーバ薬]]、[[抗ウイルス薬]] ===免疫系に作用する薬物=== [[ワクチン]]、[[抗体|免疫グロブリン]]、[[免疫抑制薬]] ===栄養=== [[鉄]]剤、[[電解質]]、[[ビタミン]]剤 ===呼吸器系に作用する薬物=== [[気管支拡張薬]]、[[NSAID]]s、抗アレルギー薬、[[鎮咳薬]]、去痰薬<br> β遮断薬、[[抗コリン薬]]、[[ステロイド]] ===耳鼻咽喉疾患の薬物=== [[抗ヒスタミン薬]]、[[抗コリン薬]]、[[NSAID]]s、[[ステロイド]]、[[局所麻酔薬]]、[[抗真菌薬]] ===眼科疾患の薬物=== [[抗生物質]]、[[NSAID]]s、縮瞳薬、交感神経遮断薬、炭酸脱水酵素阻害薬、散瞳薬 ===抗アレルギー薬=== [[抗アレルギー薬]]、[[抗ヒスタミン薬]]、[[NSAID]]s ===皮膚に作用する薬物=== [[抗真菌薬]]、[[消毒薬]]、殺シラミ薬、ビタミンA誘導体、ビタミンD類似体、[[抗生物質]]、[[ホルモン]]、遮光剤、制汗薬 ===避妊薬=== [[経口避妊薬]]、[[避妊器具]]、[[殺精子薬]] ===産婦人科領域の薬物=== [[NSAID]]s、抗コリン薬、抗線維素溶解薬、ホルモン補充療法 (HRT)、β作動薬、黄体形成ホルモン、LHRH<br> [[プロゲステロン]]、ドパミン作動薬、[[エストロゲン]]、[[プロスタグランジン]]、ゴナドレリン、[[クロミフェン]]、[[タモキシフェン]] ===抗腫瘍薬=== [[細胞毒性性薬物]]、[[性ホルモン]]、[[インターロイキン]] ===診断用の薬物=== [[造影剤]] <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> * 田中千賀子、加藤隆一編集 『NEW薬理学 第4版』 南江堂 2002年 ISBN 9784524220830 == 関連項目 == {{Wikibooks}} {{Commonscat|Pharmacology}} * [[薬学]]/[[医学]]/[[歯学]]([[歯科薬理学]]) * [[薬]]/[[抗生物質]]/[[薬物治療]]/[[化学療法]]/[[漢方]]/[[薬草]]/[[医薬品]]/[[医薬部外品]] * [[薬剤師]]/[[医師]]/[[歯科医師]] * [[日本薬局方]] == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> * [http://plaza.umin.ac.jp/JPS1927/ 日本薬理学会] * [http://www.jscpt.jp/ 日本臨床薬理学会] {{Major drug groups}} {{生物学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やくりかく}} [[Category:薬理学|*]]
2003-09-08T13:46:42Z
2023-12-25T14:27:35Z
false
false
false
[ "Template:Major drug groups", "Template:生物学", "Template:Normdaten", "Template:Lang-en-short", "Template:Wikibooks", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E7%90%86%E5%AD%A6
15,790
風俗
風俗(ふうぞく、ふぞく) 風俗の定義、意味は主として次から成る。 元来の「風俗」の意味は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す(1)である。しかし、現在では単に「風俗」というと(5)の「性風俗」を意味することが多く「風営法」や「風俗嬢」という言葉もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "風俗(ふうぞく、ふぞく)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "風俗の定義、意味は主として次から成る。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元来の「風俗」の意味は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す(1)である。しかし、現在では単に「風俗」というと(5)の「性風俗」を意味することが多く「風営法」や「風俗嬢」という言葉もある。", "title": null } ]
風俗(ふうぞく、ふぞく) 風俗の定義、意味は主として次から成る。 ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活のしきたりや習わし、風習のこと。広く、世相や生活文化の特色をいう場合もある。類似語に世俗や習俗(習慣と風俗)がある。用例としては「明治時代の風俗」「下町の風俗」などがある。 日常生活上の風俗を絵画にしたものを風俗画と呼ぶ。特定の階層、特に一般市民の日常の様子を主題としたものが多い。西欧においては、ルネサンス期以降、市民社会の発達に伴って一ジャンルを築くようになっていった。風俗画を残した代表的な画家には、ピーテル・ブリューゲルやヨハネス・フェルメールなどがいる。日本においてもジャンルとして広まったのは近世以降である。江戸時代には、市民の風俗を題材にした浮世絵が多数残されている。 世相や風俗を社会的な広がりでとらえて描いた小説を風俗小説と呼ぶ。同様に、庶民の世相や風俗を描いた喜劇を風俗劇といい、ヨーロッパでは17世紀にモリエール(仏)やコングリーブ(英)らに始まっている。 雅楽の一種。くにぶり。日本の各地、主に東国で流行した歌舞を宮廷用に選集・編曲したもの。大嘗会などの朝廷の儀式の際に演じられた。舞を風俗舞(ふぞくまい)、歌謡を風俗歌(ふぞくうた)と呼ぶ。 性的な習慣や嗜好。本来、そのような分野は「性風俗」と呼ぶ。性的サービスを提供する業種の動向を指して「性風俗」、またその産業(風俗店)そのものを指して「性風俗」や「風俗」と称する事がある。 元来の「風俗」の意味は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す(1)である。しかし、現在では単に「風俗」というと(5)の「性風俗」を意味することが多く「風営法」や「風俗嬢」という言葉もある。
'''風俗'''(ふうぞく、ふぞく) 風俗の定義、意味は主として次から成る。 # ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など[[日常生活]]のしきたりや習わし、風習のこと。広く、世相や生活文化の特色をいう場合もある。類似語に'''世俗'''や'''習俗'''([[習慣]]と風俗)がある。用例としては「明治時代の風俗」「下町の風俗」などがある。 # 日常生活上の風俗を絵画にしたものを[[風俗画]]と呼ぶ。特定の階層、特に一般市民の日常の様子を主題としたものが多い。西欧においては、[[ルネサンス]]期以降、市民社会の発達に伴って一ジャンルを築くようになっていった。風俗画を残した代表的な画家には、[[ピーテル・ブリューゲル]]や[[ヨハネス・フェルメール]]などがいる。日本においてもジャンルとして広まったのは近世以降である。江戸時代には、市民の風俗を題材にした[[浮世絵]]が多数残されている。 # 世相や風俗を社会的な広がりでとらえて描いた小説を[[風俗小説]]と呼ぶ。同様に、庶民の世相や風俗を描いた喜劇を[[風俗劇]]といい、[[ヨーロッパ]]では17世紀に[[モリエール]](仏)や[[コングリーブ]](英)らに始まっている。 # [[雅楽]]の一種。くにぶり。日本の各地、主に[[東国]]で流行した[[歌舞]]を[[宮廷]]用に選集・編曲したもの。[[大嘗会]]などの[[朝廷 (日本)|朝廷]]の儀式の際に演じられた。[[日本舞踊|舞]]を{{Ruby|風俗舞|ふぞくまい}}、[[歌謡]]を{{Ruby|風俗歌|ふぞくうた}}と呼ぶ。 # 性的な習慣や嗜好。本来、そのような分野は「[[性風俗]]」と呼ぶ。性的サービスを提供する業種の動向を指して「性風俗」、またその産業([[風俗店]])そのものを指して「性風俗」や「風俗」と称する事がある。 元来の「風俗」の意味は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す(1)である。しかし、現在では単に「風俗」というと(5)の「性風俗」を意味することが多く「[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]」や「[[風俗嬢]]」という言葉もある。 == 関連項目 == * [[民俗学]] * [[社会学]] * [[風俗営業]] - [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]] ; 「性風俗」の関連項目 * [[性科学]] * [[性風俗産業]] * [[性風俗産業に対する差別]] * [[性風俗用語一覧]] * [[性風俗関連特殊営業]] * [[風俗店]] == 参考文献 == * [[日本風俗史学会]]編『日本風俗史事典』弘文堂、[[1994年]]3月、ISBN 4335250541 * [[林美一]]『時代風俗考証事典』河出書房新社、[[2001年]]1月、ISBN 4309223672 {{Normdaten}} [[Category:社会|ふうぞく]] [[Category:風俗|*]]
2003-09-08T14:13:18Z
2023-11-14T15:11:52Z
false
false
false
[ "Template:Ruby", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%97
15,793
変電
変電(へんでん)とは、狭義には交流の電圧変換を指し、広義には無効電力の調整による電圧の調整、周波数変換、交流と直流との相互変換、直流の電圧変換など、電力の変換・調整操作全般を意味する。 発電施設から需要家へ電力を供給する場合、送電による電力損失を抑えるため送電線に高電圧を印加し、需要家の近傍で降圧することにより、需要家が必要とする電力を供給している。その際の変電所や変電設備による昇圧や降圧のことが一般的には変電として知られる。交流電圧変換には主に変圧器が用いられる。交流の場合には、送電線路の分布容量によるキャパシタンス成分(対地容量)や変圧器のインダクタンス成分によって無効電力が発生する。特に送電線路として電力ケーブルを使用した系統では対地容量が大きく、夜間や休日などの軽負荷時には送電端よりも負荷端の電圧が上昇するフェランチ効果が発生しやすい。無効電力の調整は、コンデンサを用いてインダクタンス成分をキャンセルしたり、リアクトルを用いてキャパシタンス成分をキャンセルする。コンデンサ、リアクトル以外にも同期調相機のような回転機(ロータリーコンデンサ)なども使用することがある。 周波数の変換には電動発電機が使用されていたが、半導体素子の進歩に伴い、静止型周波数変換装置が用いられるようになってきた。交流から直流への変換を行うものを整流器またはコンバータ、直流から交流への変換を行うものをインバータ、直流電圧を変換するものをDC-DCコンバータと呼ぶ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "変電(へんでん)とは、狭義には交流の電圧変換を指し、広義には無効電力の調整による電圧の調整、周波数変換、交流と直流との相互変換、直流の電圧変換など、電力の変換・調整操作全般を意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "発電施設から需要家へ電力を供給する場合、送電による電力損失を抑えるため送電線に高電圧を印加し、需要家の近傍で降圧することにより、需要家が必要とする電力を供給している。その際の変電所や変電設備による昇圧や降圧のことが一般的には変電として知られる。交流電圧変換には主に変圧器が用いられる。交流の場合には、送電線路の分布容量によるキャパシタンス成分(対地容量)や変圧器のインダクタンス成分によって無効電力が発生する。特に送電線路として電力ケーブルを使用した系統では対地容量が大きく、夜間や休日などの軽負荷時には送電端よりも負荷端の電圧が上昇するフェランチ効果が発生しやすい。無効電力の調整は、コンデンサを用いてインダクタンス成分をキャンセルしたり、リアクトルを用いてキャパシタンス成分をキャンセルする。コンデンサ、リアクトル以外にも同期調相機のような回転機(ロータリーコンデンサ)なども使用することがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "周波数の変換には電動発電機が使用されていたが、半導体素子の進歩に伴い、静止型周波数変換装置が用いられるようになってきた。交流から直流への変換を行うものを整流器またはコンバータ、直流から交流への変換を行うものをインバータ、直流電圧を変換するものをDC-DCコンバータと呼ぶ。", "title": null } ]
変電(へんでん)とは、狭義には交流の電圧変換を指し、広義には無効電力の調整による電圧の調整、周波数変換、交流と直流との相互変換、直流の電圧変換など、電力の変換・調整操作全般を意味する。 発電施設から需要家へ電力を供給する場合、送電による電力損失を抑えるため送電線に高電圧を印加し、需要家の近傍で降圧することにより、需要家が必要とする電力を供給している。その際の変電所や変電設備による昇圧や降圧のことが一般的には変電として知られる。交流電圧変換には主に変圧器が用いられる。交流の場合には、送電線路の分布容量によるキャパシタンス成分(対地容量)や変圧器のインダクタンス成分によって無効電力が発生する。特に送電線路として電力ケーブルを使用した系統では対地容量が大きく、夜間や休日などの軽負荷時には送電端よりも負荷端の電圧が上昇するフェランチ効果が発生しやすい。無効電力の調整は、コンデンサを用いてインダクタンス成分をキャンセルしたり、リアクトルを用いてキャパシタンス成分をキャンセルする。コンデンサ、リアクトル以外にも同期調相機のような回転機(ロータリーコンデンサ)なども使用することがある。 周波数の変換には電動発電機が使用されていたが、半導体素子の進歩に伴い、静止型周波数変換装置が用いられるようになってきた。交流から直流への変換を行うものを整流器またはコンバータ、直流から交流への変換を行うものをインバータ、直流電圧を変換するものをDC-DCコンバータと呼ぶ。
{{出典の明記|date=2013年11月}} '''変電'''(へんでん)とは、狭義には[[交流]]の[[電圧]]変換を指し、広義には[[無効電力]]の調整による電圧の調整、[[周波数]]変換、交流と[[直流]]との相互変換、直流の電圧変換など、[[電力]]の変換・調整操作全般を意味する。 [[発電]]施設から需要家へ電力を供給する場合、[[送電]]による電力損失を抑えるため[[送電線]]に高電圧を[[印加]]し、需要家の近傍で降圧することにより、需要家が必要とする電力を供給している。その際の[[変電所]]や変電設備による昇圧や降圧のことが一般的には変電として知られる。交流電圧変換には主に[[変圧器]]が用いられる。交流の場合には、送電線路の[[分布容量]]による[[キャパシタンス]]成分([[対地容量]])や変圧器の[[インダクタンス]]成分によって無効電力が発生する。特に送電線路として[[電力ケーブル]]を使用した系統では対地容量が大きく、夜間や休日などの軽負荷時には送電端よりも負荷端の電圧が上昇する[[フェランチ効果]]が発生しやすい。無効電力の調整は、[[コンデンサ]]を用いてインダクタンス成分をキャンセルしたり、[[リアクトル]]を用いてキャパシタンス成分をキャンセルする。コンデンサ、リアクトル以外にも[[電磁石同期電動機|同期調相機]]のような回転機([[ロータリーコンデンサ]])なども使用することがある。 周波数の変換には[[電動発電機]]が使用されていたが、[[半導体素子]]の進歩に伴い、[[静止型周波数変換装置]]が用いられるようになってきた。交流から直流への変換を行うものを[[整流器]]またはコンバータ、直流から交流への変換を行うものを[[インバータ]]、直流電圧を変換するものを[[電源回路#直流入力直流出力電源(DC to DC)|DC-DCコンバータ]]と呼ぶ。 == 関連項目 == * [[電源回路]] {{Tech-stub}} {{電気電力}} {{DEFAULTSORT:へんてん}} [[Category:電力流通]] [[Category:電力変換|*]] [[Category:変電設備|*]]
null
2022-11-16T10:03:16Z
false
false
false
[ "Template:Tech-stub", "Template:電気電力", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E9%9B%BB
15,794
トール
トールとは、北欧神話に登場する神である。神話の中でも主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦神として活躍するほか、考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。 アーサソール(アースたちのソール)や、オクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる。 北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Þórr (再建音: [θoːrː], 推定音に近い日本語表記はソール)であり、トールという日本語表記は英語化・ドイツ語化の過程で þ を t で代用した形 Tor や、現代の正書法では þ を用いないノルウェー語・スウェーデン語での表記 Tor などに由来するカナ転写表記である。北欧神話が日本に紹介された初期の書籍でこの表記が用いられていたことから広まった。 英語などで一般的な、þ を th に置き換えた形 Thor の英語読みに由来するソー、ソアの表記も見られる。例えばトールを主人公としたアメリカン・コミックス『マイティ・ソー (The Mighty Thor) 』など。またドイルのホームズシリーズ『ソア橋 (The Problem of Thor Bridge) 』には「トール橋」の日本語題もある。 トールは北欧神話のみならずゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、古英語の文献に見られる Þunor や古高ドイツ語での Donar もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの民話ではドンナー (Donner) の名で現れ、19世紀の作曲家ワーグナーの歌劇でもこの名称が使用されている。これらの語はいずれもゲルマン祖語の *þunraz まで遡ることができると考えられており、その意味は「雷」と推定されている。 同じく北欧神話に登場する神テュール (Týr) やソール (Sól) とはそれぞれ別の神である。 アース神族の一員。雷の神にして北欧神話最強の戦神。農民階級に信仰された神であり、元来はオーディンと同格以上の地位があった。 スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの3神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている。 やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、木曜日を意味する英語 Thursday やドイツ語 Donnerstag などはトールと同一語源である。 雷神であることからギリシア神話のゼウスやローマ神話のユーピテルと同一視された。 外見は燃えるような目と赤髪を持つ、赤髭の大男。 砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニルを使いながら脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢。 武器は稲妻を象徴するミョルニルといわれる柄の短い槌。 雷、天候、農耕などを司り、力はアースガルズのほかのすべての神々を合わせたものより強いとされる。フルングニル、スリュム、ゲイルロズといった霜の巨人たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており、エッダにも彼の武勇は数多く語られている。 父にオーディン。母にヨルズ。妻にシヴ、ヤールンサクサ。息子にモージとマグニ、娘にスルーズ、シヴの連れ子のウル。 『古エッダ』の『巫女の予言』においては、おそらくはヴァン神族との戦争で破壊されたアースガルズの城壁をアース神族が巨人の鍛冶屋(工匠)に修理させた後、巨人への報酬にフレイヤを渡すことに怒ったトールが、誓いを破って巨人を殺すエピソードが語られる。『巫女の予言』では、ヴァン神族がアース神族の城壁を破壊する節と神々がフレイヤの譲渡を協議する節との間に欠落が見られる。シーグルズル・ノルダルは『巫女の予言 エッダ詩校訂本』(日本語訳176-178頁)にて、本来あった1-2の詩節が失われた、あるいは、詩の聞き手がここで語られるべき内容を知識として持っているから省かれた可能性を挙げ、前者を欠落の理由に挙げている。そして本来語られるべきだった内容が、『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第42章での巨人による砦の建設と神々による報酬の誓いの破棄であるとする。さらにノルダルは、『ギュルヴィたぶらかし』でのアース神族は鍛冶屋の正体が巨人と判明したためトールを呼び、トールが巨人を殺害しているが、『巫女の予言』では神々は相手を巨人と知った上で約束を交わし、その上でトールが巨人を殺しただろうと推定している。 『ヒュミルの歌(Hymiskviða )』では、エーギルに酒宴の開催を依頼したところ鍋の用意を求められたため、テュールと共に彼の父ヒュミルを訪ねて巨大な鍋を入手した。その際、ヒュミルと共に海に出て、牡牛の頭を餌にヨルムンガンドを釣り上げてミョルニルで一撃したものの取り逃がしている。 『スリュムの歌(Þrymskviða )』では、ミョルニルが巨人スリュムに盗まれ、スリュムがその返還の条件にフレイヤとの結婚を要求したことから、フレイヤに変装してヨトゥンヘイムに行き、スリュムが花嫁の祝福のためにと持ち出したミョルニルを奪い取って彼と一族を全滅させている。 『ハールバルズルの唄(Hárbarðsljóð )』では、ハールバルズル(ハールバルズ)という偽名を名乗って川の渡し守をしていたオーディンとの口論が語られている。 アース神族がことごとくロキにこき下ろされる『ロキの口論』では、トールは最初はその場にいなかったが、やがて会場に行き、ロキを激しく咎めて退散させた。 『アルヴィースの言葉』においては、娘のスルーズがドワーフのアルヴィースに結婚させられそうになると、トールはアルヴィースに朝まで次々に質問を出して答えさせ、朝の光を浴びせて石にした。 ラグナロクにおいては大蛇(ヨルムンガンド)に致命傷を与えるが、そのあと「9歩退く」。これは一般に「大蛇の毒を受けたために9歩下がった後に死んだ」と解釈される。 『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第42章では、神々に作られて間もないミズガルズを巨人から守るための砦を作った鍛冶屋の正体が山の巨人と知り、鍛冶屋をミョルニルで倒すエピソードが語られる。神々と鍛冶屋は、フレイヤと太陽と月を砦の報酬にと約束していたが、破られることとなった。 同第44-47章によると、巨人ウートガルザ・ロキの宮廷に招かれた時は魔術にはまってしまった。まず宮廷に着く前に巨人スクリューミル(実はウートガルザ・ロキの変身した姿)と出会い、食糧の入った袋を開けられなくされ、スクリューミルの手袋を小屋と思わされてそこで休息した。さらに宮廷で行われた飲み比べで杯(実は大海とつながっている)を飲み干せず馬鹿にされる、エリ(en)という老婆(実は「老い」の化身。神といえど寄る年波には勝てない)との相撲に敗れるなど散々な目にあっている。。なお、この時の出来事は『ロキの口論』でロキに蒸し返されている。 同第48章では、『ヒュミルの歌』でも語られているヨルムンガンドとの対決が再び語られる。若者の姿となって1人でヒュミルを訪ねたトールは、ヒュミルが船で海に出るのに同行した。ヒュミルの飼う牛のうち最も大きいヒミンフリョートの首を餌にし、ヨルムンガンドをうまく釣り上げたものの、ヨルムンガンドが抵抗し、トールは舟板を破って海底に足が着くほど強く踏ん張り、ヨルムンガンドを引き上げた。トールがミョルニルで蛇を粉砕しようとした瞬間、この光景に恐れをなしたヒュミルが餌切りナイフで釣り糸を切った。ヨルムンガンドは海中に逃れ、怒ったトールはヒュミルを殴りつけ船の外に飛ばしたという。 トールの短気ぶりを語るエピソードが同第49章で紹介されている。バルドルと妻ナンナの葬儀の際、遺体を乗せた船が大きすぎて動かせず、女巨人ヒュロッキンが来て勢いよく海に進めたとき、トールは怒ってヒュロッキンを殺そうとしたため神々がとりなした。また、ミョルニルで火葬用の薪を清めていたところに小人リト(en)が飛び出してくると、トールは彼を火の中に蹴って入れてしまった。 ロキにとって神々で最も仲が良かったのがトールと推定される。しかし、激情家であるトールはロキの悪戯に対して真っ先に怒りを見せることも多く、『スノッリのエッダ』第二部『詩語法』の伝えるところでは、トールの妻のシヴの自慢の金髪をロキに切られて丸坊主にされた時、トールは怒りのままに彼を追い回した。シヴのものと全く同じ金髪を小人に作らせることをロキに約束させてトールは怒りを収めたが、これが小人の鍛冶勝負に発展し、神々は大切な宝具を手に入れることとなった。それがすなわちミョルニル、ドラウプニル、金のたてがみの猪であり、グングニル、スキーズブラズニルである。また、ウートガルズへのトール遠征時にロキが同行を申し出た際、その理由を聞かれ「トールは頭が鈍いから、(頭の切れる)自分がいたほうが安全」という旨を言っているがトールは怒りを見せず、寝床に使える場所が見つからず野宿になるのかと不安がるロキに対してトールは「フェンリルの親なのにオオカミが怖いのか」と笑う等、堂々と皮肉を言い合えるほどの仲だったという描写も確かに存在している。 『詩語法』では、巨人の中で最強のフルングニルを倒すエピソードも語られている。フルングニルは、トールと共に決闘場所に来たシャールヴィの嘘を真に受けて無防備な状態となった。トールはミョルニルを、フルングニルは武器の砥石を投げつけたが、ミョルニルは砥石を2つに割り、さらに飛んでフルングニルの頭蓋骨を粉砕した。破壊された砥石の一方がトールの頭に刺さり彼は転倒した。そこへ死亡したフルングニルの巨体が倒れて下敷きとなった。動けなくなったトールを助けたのが生後3日目の息子マグニで、トールはフルングニルの駿馬をマグニに与えたという(詳細は「フルングニル」の記事を参照)。 『詩語法』は続いてゲイルロズとその一族をトールが滅ぼした経過を語る。ロキの奸計にはまり、ミョルニルもメギンギョルズも持たずにゲイルロズの館に向かったトールは、途中で女巨人グリーズから、力帯、鉄製の手袋、「グリーズの棒」と呼ばれる杖を借りた。途中、ゲイルロズの娘ギャールプの尿で増水していた川を渡った際、岸に上がるときにナナカマドを掴んだことが、慣用句の「ナナカマドはトールの救い」の由来となったという。ゲイルロズの家に着くと、トールはまずグリーズの杖を利用してギャールプとグレイプの背骨を折った。さらにゲイルロズが投げつけてきた熱せられた鉄の塊を、鉄の手袋で受け止めて投げ返し、柱の陰に隠れたゲイルロズを倒した。なお、後述の詩『トール讃歌』ではトールはゲイルロズの元にシャールヴィを同行させているが、『詩語法』では連れの存在に言及されるもののそれがシャールヴィかははっきりしていない(詳細は「ゲイルロズ」の記事を参照)。 なお、前述のフルングニルとの戦いの際に頭に食い込んだ砥石の欠片がトールにむず痒さ、痛みを与え、苦痛により彼が叫ぶのが雷光となる。トールは嫌でたまらなくなり、巫女グローアを呼び出した。彼女が魔法の歌を歌うと、砥石が抜け落ち始めた。痛みは完全に無くなり、もうすぐ石がなくなるだろうと思っていたトールは、お礼に彼女を喜ばしてやりたくなった。「お前の夫アウルヴァンディル(英語版)は、生きているんだ。お前は死んでいると思い込んでいるけどね。俺が夫を助け出したのだ。しかも夫はヨトゥンヘイムにいたよ、あそこは危険極まりないからな。まぁそれはいいとして、もうすぐ夫が帰ってくるよ」これを聞いたグローアは喜びのあまり狂喜乱舞し、魔法の歌を忘れてしまった。したがってトールの頭の中には砥石が入ったままになっている。 『ユングリング家のサガ』にもトールの名が見られる。第5章においてトールは、ログ湖(現在のスウェーデン・メーラレン湖)のほとりの古シグトゥーナ(英語版)にあるスルーズヴァンダをオーディンから与えられた。また第7章においては、人々がオーディンやトールをはじめとする首長らを神として崇め、トール(ソール)にあやかった「ソーリル」「ソーラリン」「ステインソール」「ハヴソール」という名前ができたと語られている。 詩人エイリーフル・ゴズルーナルソン(英語版)によるスカルド詩『トール讃歌(ソール頌歌)』においては、トールはシャールヴィと共にゲイルロズの館に行き、一族を倒している。 サクソ・グラマティクスが記した歴史書『デンマーク人の事績』では邪神として登場する。ホテルス(ヘズ)と対決したトールはミョルニルで応戦するが、彼の持つ魔剣の前にミョルニルを柄から真っ二つにされる。 トールの呼び名としては などが挙げられる。 北欧諸国では男性名として定着している。スペルはThorとTorの二種類、カタカナ表記は「トール」か「トル」が多く「ソー」と表記されることは少ない。また「トールの石(Ðórsteinn)」を意味するトルステン(Torsten,Torstein)は北欧諸国とドイツ語圏で、英語に転訛したダスティン(Dustin)も男性名として定着している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トールとは、北欧神話に登場する神である。神話の中でも主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦神として活躍するほか、考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アーサソール(アースたちのソール)や、オクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Þórr (再建音: [θoːrː], 推定音に近い日本語表記はソール)であり、トールという日本語表記は英語化・ドイツ語化の過程で þ を t で代用した形 Tor や、現代の正書法では þ を用いないノルウェー語・スウェーデン語での表記 Tor などに由来するカナ転写表記である。北欧神話が日本に紹介された初期の書籍でこの表記が用いられていたことから広まった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語などで一般的な、þ を th に置き換えた形 Thor の英語読みに由来するソー、ソアの表記も見られる。例えばトールを主人公としたアメリカン・コミックス『マイティ・ソー (The Mighty Thor) 』など。またドイルのホームズシリーズ『ソア橋 (The Problem of Thor Bridge) 』には「トール橋」の日本語題もある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "トールは北欧神話のみならずゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、古英語の文献に見られる Þunor や古高ドイツ語での Donar もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの民話ではドンナー (Donner) の名で現れ、19世紀の作曲家ワーグナーの歌劇でもこの名称が使用されている。これらの語はいずれもゲルマン祖語の *þunraz まで遡ることができると考えられており、その意味は「雷」と推定されている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同じく北欧神話に登場する神テュール (Týr) やソール (Sól) とはそれぞれ別の神である。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アース神族の一員。雷の神にして北欧神話最強の戦神。農民階級に信仰された神であり、元来はオーディンと同格以上の地位があった。 スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの3神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている。 やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、木曜日を意味する英語 Thursday やドイツ語 Donnerstag などはトールと同一語源である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "雷神であることからギリシア神話のゼウスやローマ神話のユーピテルと同一視された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "外見は燃えるような目と赤髪を持つ、赤髭の大男。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニルを使いながら脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "武器は稲妻を象徴するミョルニルといわれる柄の短い槌。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "雷、天候、農耕などを司り、力はアースガルズのほかのすべての神々を合わせたものより強いとされる。フルングニル、スリュム、ゲイルロズといった霜の巨人たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており、エッダにも彼の武勇は数多く語られている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "父にオーディン。母にヨルズ。妻にシヴ、ヤールンサクサ。息子にモージとマグニ、娘にスルーズ、シヴの連れ子のウル。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『古エッダ』の『巫女の予言』においては、おそらくはヴァン神族との戦争で破壊されたアースガルズの城壁をアース神族が巨人の鍛冶屋(工匠)に修理させた後、巨人への報酬にフレイヤを渡すことに怒ったトールが、誓いを破って巨人を殺すエピソードが語られる。『巫女の予言』では、ヴァン神族がアース神族の城壁を破壊する節と神々がフレイヤの譲渡を協議する節との間に欠落が見られる。シーグルズル・ノルダルは『巫女の予言 エッダ詩校訂本』(日本語訳176-178頁)にて、本来あった1-2の詩節が失われた、あるいは、詩の聞き手がここで語られるべき内容を知識として持っているから省かれた可能性を挙げ、前者を欠落の理由に挙げている。そして本来語られるべきだった内容が、『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第42章での巨人による砦の建設と神々による報酬の誓いの破棄であるとする。さらにノルダルは、『ギュルヴィたぶらかし』でのアース神族は鍛冶屋の正体が巨人と判明したためトールを呼び、トールが巨人を殺害しているが、『巫女の予言』では神々は相手を巨人と知った上で約束を交わし、その上でトールが巨人を殺しただろうと推定している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『ヒュミルの歌(Hymiskviða )』では、エーギルに酒宴の開催を依頼したところ鍋の用意を求められたため、テュールと共に彼の父ヒュミルを訪ねて巨大な鍋を入手した。その際、ヒュミルと共に海に出て、牡牛の頭を餌にヨルムンガンドを釣り上げてミョルニルで一撃したものの取り逃がしている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『スリュムの歌(Þrymskviða )』では、ミョルニルが巨人スリュムに盗まれ、スリュムがその返還の条件にフレイヤとの結婚を要求したことから、フレイヤに変装してヨトゥンヘイムに行き、スリュムが花嫁の祝福のためにと持ち出したミョルニルを奪い取って彼と一族を全滅させている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "『ハールバルズルの唄(Hárbarðsljóð )』では、ハールバルズル(ハールバルズ)という偽名を名乗って川の渡し守をしていたオーディンとの口論が語られている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アース神族がことごとくロキにこき下ろされる『ロキの口論』では、トールは最初はその場にいなかったが、やがて会場に行き、ロキを激しく咎めて退散させた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『アルヴィースの言葉』においては、娘のスルーズがドワーフのアルヴィースに結婚させられそうになると、トールはアルヴィースに朝まで次々に質問を出して答えさせ、朝の光を浴びせて石にした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ラグナロクにおいては大蛇(ヨルムンガンド)に致命傷を与えるが、そのあと「9歩退く」。これは一般に「大蛇の毒を受けたために9歩下がった後に死んだ」と解釈される。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第42章では、神々に作られて間もないミズガルズを巨人から守るための砦を作った鍛冶屋の正体が山の巨人と知り、鍛冶屋をミョルニルで倒すエピソードが語られる。神々と鍛冶屋は、フレイヤと太陽と月を砦の報酬にと約束していたが、破られることとなった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同第44-47章によると、巨人ウートガルザ・ロキの宮廷に招かれた時は魔術にはまってしまった。まず宮廷に着く前に巨人スクリューミル(実はウートガルザ・ロキの変身した姿)と出会い、食糧の入った袋を開けられなくされ、スクリューミルの手袋を小屋と思わされてそこで休息した。さらに宮廷で行われた飲み比べで杯(実は大海とつながっている)を飲み干せず馬鹿にされる、エリ(en)という老婆(実は「老い」の化身。神といえど寄る年波には勝てない)との相撲に敗れるなど散々な目にあっている。。なお、この時の出来事は『ロキの口論』でロキに蒸し返されている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同第48章では、『ヒュミルの歌』でも語られているヨルムンガンドとの対決が再び語られる。若者の姿となって1人でヒュミルを訪ねたトールは、ヒュミルが船で海に出るのに同行した。ヒュミルの飼う牛のうち最も大きいヒミンフリョートの首を餌にし、ヨルムンガンドをうまく釣り上げたものの、ヨルムンガンドが抵抗し、トールは舟板を破って海底に足が着くほど強く踏ん張り、ヨルムンガンドを引き上げた。トールがミョルニルで蛇を粉砕しようとした瞬間、この光景に恐れをなしたヒュミルが餌切りナイフで釣り糸を切った。ヨルムンガンドは海中に逃れ、怒ったトールはヒュミルを殴りつけ船の外に飛ばしたという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "トールの短気ぶりを語るエピソードが同第49章で紹介されている。バルドルと妻ナンナの葬儀の際、遺体を乗せた船が大きすぎて動かせず、女巨人ヒュロッキンが来て勢いよく海に進めたとき、トールは怒ってヒュロッキンを殺そうとしたため神々がとりなした。また、ミョルニルで火葬用の薪を清めていたところに小人リト(en)が飛び出してくると、トールは彼を火の中に蹴って入れてしまった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ロキにとって神々で最も仲が良かったのがトールと推定される。しかし、激情家であるトールはロキの悪戯に対して真っ先に怒りを見せることも多く、『スノッリのエッダ』第二部『詩語法』の伝えるところでは、トールの妻のシヴの自慢の金髪をロキに切られて丸坊主にされた時、トールは怒りのままに彼を追い回した。シヴのものと全く同じ金髪を小人に作らせることをロキに約束させてトールは怒りを収めたが、これが小人の鍛冶勝負に発展し、神々は大切な宝具を手に入れることとなった。それがすなわちミョルニル、ドラウプニル、金のたてがみの猪であり、グングニル、スキーズブラズニルである。また、ウートガルズへのトール遠征時にロキが同行を申し出た際、その理由を聞かれ「トールは頭が鈍いから、(頭の切れる)自分がいたほうが安全」という旨を言っているがトールは怒りを見せず、寝床に使える場所が見つからず野宿になるのかと不安がるロキに対してトールは「フェンリルの親なのにオオカミが怖いのか」と笑う等、堂々と皮肉を言い合えるほどの仲だったという描写も確かに存在している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『詩語法』では、巨人の中で最強のフルングニルを倒すエピソードも語られている。フルングニルは、トールと共に決闘場所に来たシャールヴィの嘘を真に受けて無防備な状態となった。トールはミョルニルを、フルングニルは武器の砥石を投げつけたが、ミョルニルは砥石を2つに割り、さらに飛んでフルングニルの頭蓋骨を粉砕した。破壊された砥石の一方がトールの頭に刺さり彼は転倒した。そこへ死亡したフルングニルの巨体が倒れて下敷きとなった。動けなくなったトールを助けたのが生後3日目の息子マグニで、トールはフルングニルの駿馬をマグニに与えたという(詳細は「フルングニル」の記事を参照)。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『詩語法』は続いてゲイルロズとその一族をトールが滅ぼした経過を語る。ロキの奸計にはまり、ミョルニルもメギンギョルズも持たずにゲイルロズの館に向かったトールは、途中で女巨人グリーズから、力帯、鉄製の手袋、「グリーズの棒」と呼ばれる杖を借りた。途中、ゲイルロズの娘ギャールプの尿で増水していた川を渡った際、岸に上がるときにナナカマドを掴んだことが、慣用句の「ナナカマドはトールの救い」の由来となったという。ゲイルロズの家に着くと、トールはまずグリーズの杖を利用してギャールプとグレイプの背骨を折った。さらにゲイルロズが投げつけてきた熱せられた鉄の塊を、鉄の手袋で受け止めて投げ返し、柱の陰に隠れたゲイルロズを倒した。なお、後述の詩『トール讃歌』ではトールはゲイルロズの元にシャールヴィを同行させているが、『詩語法』では連れの存在に言及されるもののそれがシャールヴィかははっきりしていない(詳細は「ゲイルロズ」の記事を参照)。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、前述のフルングニルとの戦いの際に頭に食い込んだ砥石の欠片がトールにむず痒さ、痛みを与え、苦痛により彼が叫ぶのが雷光となる。トールは嫌でたまらなくなり、巫女グローアを呼び出した。彼女が魔法の歌を歌うと、砥石が抜け落ち始めた。痛みは完全に無くなり、もうすぐ石がなくなるだろうと思っていたトールは、お礼に彼女を喜ばしてやりたくなった。「お前の夫アウルヴァンディル(英語版)は、生きているんだ。お前は死んでいると思い込んでいるけどね。俺が夫を助け出したのだ。しかも夫はヨトゥンヘイムにいたよ、あそこは危険極まりないからな。まぁそれはいいとして、もうすぐ夫が帰ってくるよ」これを聞いたグローアは喜びのあまり狂喜乱舞し、魔法の歌を忘れてしまった。したがってトールの頭の中には砥石が入ったままになっている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『ユングリング家のサガ』にもトールの名が見られる。第5章においてトールは、ログ湖(現在のスウェーデン・メーラレン湖)のほとりの古シグトゥーナ(英語版)にあるスルーズヴァンダをオーディンから与えられた。また第7章においては、人々がオーディンやトールをはじめとする首長らを神として崇め、トール(ソール)にあやかった「ソーリル」「ソーラリン」「ステインソール」「ハヴソール」という名前ができたと語られている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "詩人エイリーフル・ゴズルーナルソン(英語版)によるスカルド詩『トール讃歌(ソール頌歌)』においては、トールはシャールヴィと共にゲイルロズの館に行き、一族を倒している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "サクソ・グラマティクスが記した歴史書『デンマーク人の事績』では邪神として登場する。ホテルス(ヘズ)と対決したトールはミョルニルで応戦するが、彼の持つ魔剣の前にミョルニルを柄から真っ二つにされる。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "トールの呼び名としては", "title": "トールの呼称" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "などが挙げられる。", "title": "トールの呼称" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "北欧諸国では男性名として定着している。スペルはThorとTorの二種類、カタカナ表記は「トール」か「トル」が多く「ソー」と表記されることは少ない。また「トールの石(Ðórsteinn)」を意味するトルステン(Torsten,Torstein)は北欧諸国とドイツ語圏で、英語に転訛したダスティン(Dustin)も男性名として定着している。", "title": "トールの名を持つ著名人" } ]
トールとは、北欧神話に登場する神である。神話の中でも主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦神として活躍するほか、考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。 アーサソール(アースたちのソール)や、オクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる。
{{Otheruses}} {{Infobox deity | type = Norse | name = トール | image = Thor.jpg | image_size = 250px | alt = | caption = {{small|モルテン・エスキル・ヴィンゲ作<br/>『トールと巨人の戦い』(1872年)<br/>[[スウェーデン国立美術館]]所蔵}} | deity_of = {{small|[[雷霆神]] [[軍神]] [[農耕|農耕神]]}} | Old_Norse = Þórr | abode = [[ビルスキルニル]] | world = | weapon = [[ミョルニル]]<br/>[[メギンギョルズ]]<br/>[[ヤールングレイプル]] | symbol = | parents = [[オーディン]], [[ヨルズ]] | siblings = | consort = [[シヴ]] | children = [[マグニ]]、[[モージ (北欧神話)|モージ]], [[スルーズ]] | mount = [[タングリスニとタングニョースト]]が牽く戦車 }} [[File:Ring16.jpg|right|thumb|200px|[[アーサー・ラッカム]]が描いた、ワーグナーの歌劇に登場するドンナー。]] '''トール'''とは、[[北欧神話]]に登場する[[神]]である。神話の中でも主要な神の一柱であり、神々の敵である[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]と対決する戦神として活躍するほか、考古学的史料などから、[[雷神]]・農耕神として北欧を含む[[ゲルマン人|ゲルマン]]地域で広く信仰されたと推定されている。 '''アーサソール'''(アースたちのソール)や、'''オクソール'''(車を駆るソール)とも呼ばれる<ref>北欧神話(東京書籍){{ASIN|B000J7225K}} P133より<!-- 1984年に出版された本ですが、ISBNが適用されていません。 -->。</ref>。 == 名称 == 北欧神話の原典に主に用いられている[[古ノルド語]]での表記は '''[[:en:wikt:Þórr|Þórr]]''' ([[再構 (言語学)|再建]]音: {{IPA|θoːrː}}, 推定音に近い[[日本語]]表記は'''ソール''')であり、'''トール'''という日本語表記は[[英語]]化・[[ドイツ語]]化の過程で [[þ]] を t で代用した形 {{lang|de|'''Tor'''}} や、現代の正書法では þ を用いない[[ノルウェー語]]・[[スウェーデン語]]での表記 [[:en:wikt:Tor|Tor]] などに由来するカナ転写表記である。北欧神話が日本に紹介された初期の書籍でこの表記が用いられていたことから広まった{{efn|『[[古エッダ]]』の日本語訳本である[[谷口幸男]]訳『エッダ 古代北欧歌謡集』(1973年)でも、「凡例」で「固有名詞はなるべく原音に近づけようとしたが、すでに本邦(日本)でよく用いられているオーディン、トールは、そのままにしておいた」と但し書きがなされた上で「トール」表記が用いられている。}}。 英語などで一般的な、þ を th に置き換えた形 '''[[:en:wikt:Thor#English|Thor]]''' の英語読みに由来する'''ソー'''、'''ソア'''の表記も見られる。例えばトールを主人公とした[[アメリカン・コミックス]]『[[マイティ・ソー]] ({{lang|en|The Mighty Thor}}) 』など。また[[アーサー・コナン・ドイル|ドイル]]のホームズシリーズ『[[ソア橋]] ({{lang|en|The Problem of Thor Bridge}}) 』には「トール橋」の日本語題もある。 トールは北欧神話のみならずゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、[[古英語]]の文献に見られる '''[[:en:wikt:þunor|Þunor]]''' や[[古高ドイツ語]]での '''[[:en:wikt:donar#Old High German|Donar]]''' もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの[[民話]]では'''ドンナー''' ('''[[:en:wikt:Donner|Donner]]''') の名で現れ、19世紀の作曲家[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の歌劇でもこの名称が使用されている。これらの語はいずれも[[ゲルマン祖語]]の '''[[:en:wikt:Appendix:Proto-Germanic/þunraz|*þunraz]]''' まで遡ることができると考えられており、その意味は「[[雷]]」と推定されている。 同じく北欧神話に登場する神[[テュール]] ({{lang|no|Týr}}) や[[ソール (北欧神話)|ソール]] ({{lang|no|Sól}}) とはそれぞれ別の神である。 == 概要 == [[アース神族]]の一員。[[雷神|雷の神]]にして[[北欧神話]]最強の戦神。[[農民]]階級に信仰された神であり、元来は[[オーディン]]と同格以上の地位があった。 [[スウェーデン]]にかつて存在していた[[ウプサラの神殿]]には、トール、[[オーディン]]、[[フレイ]]の3神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている<ref>『北欧の神話』39頁。</ref>。 やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。[[北ヨーロッパ|北欧]]だけではなく[[ゲルマン人|ゲルマン]]全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、[[木曜日]]を意味する[[英語]] {{lang|en|''Thursday''}} や[[ドイツ語]] {{lang|de|''Donnerstag''}} などはトールと同一語源である<ref>{{Cite book|和書|author=S・ベアリング=グールド|authorlink=セイバイン・ベアリング=グールド|translator=今泉忠義|year=1955|title=民俗学の話|publisher=角川文庫|page=64}}</ref>。 雷神であることから[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]]や[[ローマ神話]]の[[ユーピテル]]と同一視された。 外見は燃えるような目と赤髪を持つ<ref>『ヴィーナスの片思い』120頁。</ref>、赤髭の大男<ref name="yamamuro59">『北欧の神話』59頁。</ref>。 [[砥石]](他の文献では[[火打石]]の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけて[[ミョルニル]]を使いながら脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢。 武器は[[稲妻]]を象徴する[[ミョルニル]]といわれる柄の短い槌<ref>『北欧の神話』60頁。</ref>。 雷、天候、農耕などを司り、力は[[アースガルズ]]のほかのすべての神々を合わせたものより強いとされる。[[フルングニル]]、[[スリュム]]、[[ゲイルロズ]]といった[[霜の巨人]]たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており、エッダにも彼の武勇は数多く語られている。 == 家族 == 父に[[オーディン]]。母に[[ヨルズ]]。妻に[[シヴ]]、[[ヤールンサクサ]]。息子に[[マグニ|モージとマグニ]]、娘に[[スルーズ]]、シヴの連れ子の[[ウル (北欧神話)|ウル]]。 == 財産 == ; [[タングリスニとタングニョースト]] : トールの戦車を牽く二頭の[[ヤギ]]。トールが空腹になると彼らは食べられるが、骨と皮さえ無傷であればその2つから再び戦車を牽かせるために再生される。 : なおこの戦車が走る際に立てる轟音が雷鳴とされている<ref name="yamamuro59" />。 ; [[シャールヴィ]]と[[レスクヴァ]] : 二人の従者。 ; [[ミョルニル]] : 「打ち砕くもの」という意味をもつ鎚。[[トールハンマー]]、ムジョルニアとも呼ばれる。敵を倒す以外に、物や人を清める作用があり、しばしばトールは結婚式や葬式で、この槌を使用している。本来はその重い槌部分に見合う長い柄が付くはずであったが、ロキの妨害のせいで柄は短いままであり、少々バランスの悪いものとなっている。 ; [[メギンギョルズ]] : 力を倍加させる力帯。ミョルニルを振るうために必要。その名前は「力の帯」を意味する。 ; [[ヤールングレイプル]] : ミョルニルを握るための鉄製の籠手。その名前は「鉄の手袋」を意味する。 ; [[ビルスキルニル]] : トールの宮殿。[[スルーズヴァンガル]]に所在する。 == エピソード == === 古エッダ === [[File:Faroe stamps 477-478 tor and ran.jpg|thumb|300px|[[フェロー諸島]]で2004年に発行された切手に描かれた、トールがヨルムンガンドを釣り上げる場面(左半分)。]] 『[[古エッダ]]』の『[[巫女の予言]]』においては、おそらくは[[ヴァン神族]]との戦争で破壊された[[アースガルズ]]の城壁をアース神族が巨人の鍛冶屋(工匠)に修理させた後、巨人への報酬に[[フレイヤ]]を渡すことに怒ったトールが、誓いを破って巨人を殺すエピソードが語られる<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』11頁。</ref>。『巫女の予言』では、ヴァン神族がアース神族の城壁を破壊する[[スタンザ|節]]と神々がフレイヤの譲渡を協議する節との間に欠落が見られる。[[シーグルズル・ノルダル]]は『巫女の予言 エッダ詩校訂本』(日本語訳176-178頁)にて、本来あった1-2の詩節が失われた、あるいは、詩の聞き手がここで語られるべき内容を知識として持っているから省かれた可能性を挙げ、前者を欠落の理由に挙げている。そして本来語られるべきだった内容が、『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第42章での巨人による砦の建設と神々による報酬の誓いの破棄であるとする。さらにノルダルは、『ギュルヴィたぶらかし』でのアース神族は鍛冶屋の正体が巨人と判明したためトールを呼び、トールが巨人を殺害しているが、『巫女の予言』では神々は相手を巨人と知った上で約束を交わし、その上でトールが巨人を殺しただろうと推定している。 『[[ヒュミルの歌]]({{lang|non|''[[:en:Hymiskviða|Hymiskviða]]'' }})』では、[[エーギル]]に酒宴の開催を依頼したところ鍋の用意を求められたため、[[テュール]]と共に彼の父[[ヒュミル]]を訪ねて巨大な鍋を入手した。その際、ヒュミルと共に海に出て、[[ウシ|牡牛]]の頭を餌に[[ヨルムンガンド]]を釣り上げてミョルニルで一撃したものの取り逃がしている<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』75-80頁。</ref>。 『[[スリュムの歌]]({{lang|non|''[[:en:Þrymskviða|Þrymskviða]]'' }})』では、ミョルニルが巨人[[スリュム]]に盗まれ、スリュムがその返還の条件にフレイヤとの結婚を要求したことから、フレイヤに変装してヨトゥンヘイムに行き、スリュムが花嫁の祝福のためにと持ち出したミョルニルを奪い取って彼と一族を全滅させている<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』89-92頁。</ref>。 『[[ハールバルズルの唄]]({{lang|non|''[[:en:Hárbarðsljóð|Hárbarðsljóð]]'' }})』では、ハールバルズル(ハールバルズ)という偽名を名乗って川の渡し守をしていたオーディンとの口論が語られている<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』69-75頁。</ref>。 アース神族がことごとく[[ロキ]]にこき下ろされる『[[ロキの口論]]』では、トールは最初はその場にいなかったが、やがて会場に行き、ロキを激しく咎めて退散させた<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』80-88頁。</ref>。 『[[アルヴィースの言葉]]』においては、娘の[[スルーズ]]が[[ドワーフ]]の[[アルヴィース]]に結婚させられそうになると、トールはアルヴィースに朝まで次々に質問を出して答えさせ、朝の光を浴びせて石にした<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』98-102頁。</ref>。 [[ラグナロク]]においては[[蛇|大蛇]](ヨルムンガンド)に致命傷を与えるが、そのあと「9歩退く」。これは一般に「大蛇の毒を受けたために9歩下がった後に死んだ」と解釈される<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』14、26頁。</ref>。 === スノッリのエッダ === ==== ギュルヴィたぶらかし ==== [[File:Louis Huard - Giant Skrymir and Thor.jpg|thumb|170px|right|トールとスクリューミルが出会う場面。]] [[File:Thor and Hymir.jpg|thumb|170px|right|18世紀の写本『[[SÁM 66]]』に描かれた、トールがヨルムンガンドを釣り上げる場面。ヒュミルの手に釣り糸を切るナイフが見える。]] [[File:Thor kicks Litr.jpg|thumb|170px|right|リトを火の中に蹴り入れるトール。[[エミール・デープラー]]による(1905年)。]] 『[[スノッリのエッダ]]』第一部『[[ギュルヴィたぶらかし]]』第42章では、神々に作られて間もない[[ミズガルズ]]を巨人から守るための砦を作った鍛冶屋の正体が[[山の巨人]]と知り、鍛冶屋をミョルニルで倒すエピソードが語られる。神々と鍛冶屋は、フレイヤと太陽と月を砦の報酬にと約束していたが、破られることとなった<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』258-259頁。</ref>。 同第44-47章によると、巨人[[ウートガルザ・ロキ]]の宮廷に招かれた時は魔術にはまってしまった。まず宮廷に着く前に巨人[[スクリューミル]](実はウートガルザ・ロキの変身した姿)と出会い、食糧の入った袋を開けられなくされ、スクリューミルの手袋を小屋と思わされてそこで休息した。さらに宮廷で行われた飲み比べで杯(実は大海とつながっている)を飲み干せず馬鹿にされる、[[エリ (北欧神話)|エリ]]([[:en:Elli|en]])という老婆(実は「老い」の化身。神といえど寄る年波には勝てない)との相撲に敗れるなど散々な目にあっている。<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』260-268頁。</ref>。なお、この時の出来事は『ロキの口論』でロキに蒸し返されている。 同第48章では、『ヒュミルの歌』でも語られているヨルムンガンドとの対決が再び語られる。若者の姿となって1人でヒュミルを訪ねたトールは、ヒュミルが船で海に出るのに同行した。ヒュミルの飼う牛のうち最も大きいヒミンフリョートの首を餌にし、ヨルムンガンドをうまく釣り上げたものの、ヨルムンガンドが抵抗し、トールは舟板を破って海底に足が着くほど強く踏ん張り、ヨルムンガンドを引き上げた。トールがミョルニルで蛇を粉砕しようとした瞬間、この光景に恐れをなしたヒュミルが餌切りナイフで釣り糸を切った。ヨルムンガンドは海中に逃れ、怒ったトールはヒュミルを殴りつけ船の外に飛ばしたという<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』268-270頁。</ref>。 トールの短気ぶりを語るエピソードが同第49章で紹介されている。[[バルドル]]と妻[[ナンナ (北欧神話)|ナンナ]]の葬儀の際、遺体を乗せた船が大きすぎて動かせず、女巨人[[ヒュロッキン]]が来て勢いよく海に進めたとき、トールは怒ってヒュロッキンを殺そうとしたため神々がとりなした。また、ミョルニルで火葬用の薪を清めていたところに小人リト([[:en:Litr|en]])が飛び出してくると、トールは彼を火の中に蹴って入れてしまった<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』271-272頁。</ref>。 ==== 詩語法 ==== ロキにとって神々で最も仲が良かったのがトールと推定される。しかし、激情家であるトールはロキの悪戯に対して真っ先に怒りを見せることも多く、『スノッリのエッダ』第二部『[[詩語法]]』の伝えるところでは、トールの妻の[[シヴ]]の自慢の金髪をロキに切られて丸坊主にされた時、トールは怒りのままに彼を追い回した。シヴのものと全く同じ金髪を小人に作らせることをロキに約束させてトールは怒りを収めたが、これが小人の鍛冶勝負に発展し、神々は大切な宝具を手に入れることとなった。それがすなわちミョルニル、[[ドラウプニル]]、[[グリンブルスティ|金のたてがみの猪]]であり、[[グングニル]]、[[スキーズブラズニル]]である<ref>『「詩語法」訳注』41-43頁、『北欧の神話』177-184頁。</ref>。また、[[ウートガルズ]]へのトール遠征時にロキが同行を申し出た際、その理由を聞かれ「トールは頭が鈍いから、(頭の切れる)自分がいたほうが安全」という旨を言っているがトールは怒りを見せず、寝床に使える場所が見つからず野宿になるのかと不安がるロキに対してトールは「[[フェンリル]]の親なのにオオカミが怖いのか」と笑う等、堂々と皮肉を言い合えるほどの仲だったという描写も確かに存在している<ref>『北欧神話物語』青土社</ref>。 『詩語法』では、巨人の中で最強のフルングニルを倒すエピソードも語られている。フルングニルは、トールと共に決闘場所に来たシャールヴィの嘘を真に受けて無防備な状態となった。トールはミョルニルを、フルングニルは武器の[[砥石]]を投げつけたが、ミョルニルは砥石を2つに割り、さらに飛んでフルングニルの[[頭蓋骨]]を粉砕した。破壊された砥石の一方がトールの頭に刺さり彼は転倒した。そこへ死亡したフルングニルの巨体が倒れて下敷きとなった。動けなくなったトールを助けたのが生後3日目の息子マグニで、トールはフルングニルの駿馬をマグニに与えたという<ref>『「詩語法」訳注』24-27頁。</ref>(詳細は「[[フルングニル]]」の記事を参照)。 『詩語法』は続いてゲイルロズとその一族をトールが滅ぼした経過を語る。ロキの奸計にはまり、ミョルニルもメギンギョルズも持たずにゲイルロズの館に向かったトールは、途中で女巨人[[グリーズ]]から、力帯、鉄製の手袋、「グリーズの棒」と呼ばれる杖を借りた。途中、ゲイルロズの娘[[ギャールプとグレイプ|ギャールプ]]の尿で増水していた川を渡った際、岸に上がるときに[[ナナカマド]]を掴んだことが、[[慣用句]]の「ナナカマドはトールの救い」の由来となったという。ゲイルロズの家に着くと、トールはまずグリーズの杖を利用して[[ギャールプとグレイプ]]の[[背骨]]を折った。さらにゲイルロズが投げつけてきた熱せられた鉄の塊を、鉄の手袋で受け止めて投げ返し、柱の陰に隠れたゲイルロズを倒した<ref>『「詩語法」訳注』27-28頁。</ref>。なお、後述の詩『[[ソール頌歌|トール讃歌]]』ではトールはゲイルロズの元にシャールヴィを同行させているが、『詩語法』では連れの存在に言及されるもののそれがシャールヴィかははっきりしていない(詳細は「[[ゲイルロズ]]」の記事を参照)。 なお、前述のフルングニルとの戦いの際に頭に食い込んだ砥石の欠片がトールにむず痒さ、痛みを与え、苦痛により彼が叫ぶのが雷光となる。トールは嫌でたまらなくなり、巫女[[グローア]]を呼び出した。彼女が魔法の歌を歌うと、砥石が抜け落ち始めた。痛みは完全に無くなり、もうすぐ石がなくなるだろうと思っていたトールは、お礼に彼女を喜ばしてやりたくなった。「お前の夫{{仮リンク|アウルヴァンディル|en|Aurvandil}}は、生きているんだ。お前は死んでいると思い込んでいるけどね。俺が夫を助け出したのだ。しかも夫は[[ヨトゥンヘイム]]にいたよ、あそこは危険極まりないからな。まぁそれはいいとして、もうすぐ夫が帰ってくるよ」これを聞いたグローアは喜びのあまり狂喜乱舞し、魔法の歌を忘れてしまった。したがってトールの頭の中には砥石が入ったままになっている<ref>『「詩語法」訳注』27頁。</ref>。 === ユングリング家のサガ === 『[[ユングリング家のサガ]]』にもトールの名が見られる。第5章においてトールは、ログ湖(現在の[[スウェーデン]]・[[メーラレン湖]])のほとりの{{仮リンク|古シグトゥーナ|en|Fornsigtuna}}にある[[スルーズヴァンガル|スルーズヴァンダ]]を[[オーディン]]から与えられた<ref>『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -(一)』41-42頁。</ref>。また第7章においては、人々がオーディンやトールをはじめとする首長らを神として崇め、トール(ソール)にあやかった「ソーリル」「ソーラリン」「ステインソール」「ハヴソール」という名前ができたと語られている<ref>『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -(一)』46頁。</ref>。 === トール讃歌 === {{main|ソール頌歌}} 詩人{{仮リンク|エイリーフル・ゴズルーナルソン|en|Eilífr Goðrúnarson}}による[[スカルド詩]]『トール讃歌(ソール頌歌)』においては、トールはシャールヴィと共にゲイルロズの館に行き、一族を倒している。 === デンマーク人の事績 === [[サクソ・グラマティクス]]が記した歴史書『[[デンマーク人の事績]]』では邪神として登場する。ホテルス([[ヘズ]])と対決したトールはミョルニルで応戦するが、彼の持つ魔剣の前にミョルニルを柄から真っ二つにされる。 == トールの呼称 == トールの呼び名としては {{div col}} * あらゆる神の首領 * 車のトール<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』260頁。</ref>、戦車を駆る者 * 轟く者 * 広くさすらうもの * オーディンの子<ref name="kayou69">『エッダ 古代北欧歌謡集』69頁。</ref>、ユッグ<small>(オーディン)</small>の子<ref name="kayou75">『エッダ 古代北欧歌謡集』75頁。</ref>、シーズグラニ<small>(オーディン)</small>の子<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』99、102頁。</ref>、[[ヴィーザル]]の身内<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』14頁。</ref> * [[フィヨルギュン]]の子<ref name="kayou14-26">『エッダ 古代北欧歌謡集』14、26頁。</ref>、[[フィヨルギュン|フロージュン]]の音の聞こえた息子<ref name="kayou14-26" /> * シヴの夫<ref name="kayou75" />、メイリの兄<ref name="kayou69" />、マグニの父<ref name="kayou69" />、モージの父<ref name="kayou79">『エッダ 古代北欧歌謡集』79頁。</ref>、スルーズの父<ref name="shigoho18">『「詩語法」訳注』18頁。</ref>、ウルの父<ref name="shigoho18" /> * ミズガルズの尊い守護者 * 国土の神 * 大地の子<ref name="kayou89-92" /> * 人間たちの友<ref name="kayou76">『エッダ 古代北欧歌謡集』76頁。</ref> * フロールリジ<ref name="kayou75" /> * ヴェーオル<ref name="kayou76" /> * ヴィングトール<small>(「ヴィング」は「(武器を)ふるう者」の意か)</small><ref name="kayou89-92">『エッダ 古代北欧歌謡集』89、92頁。</ref> * フローズ<small>(巨人)</small>の敵<ref name="kayou76-79">『エッダ 古代北欧歌謡集』76、79頁。</ref>、女巨人泣かし<small>(殺された巨人の妻が泣くため)</small><ref name="kayou76-79" />、巨人殺し<ref name="kayou77">『エッダ 古代北欧歌謡集』77頁。</ref> * 山羊の主人<ref name="kayou77" /> * ビルスキールニルの侯<ref name="shigoho18" /> {{div col end}} などが挙げられる。 == トールの名を持つ著名人 == 北欧諸国では男性名として定着している。スペルは'''Thor'''と'''Tor'''の二種類、カタカナ表記は「トール」か「トル」が多く「ソー」と表記されることは少ない。また「トールの石(Ðórsteinn)」を意味する'''[[トルステン]]'''(Torsten,Torstein)は北欧諸国とドイツ語圏で、英語に転訛した'''[[ダスティン]]'''(Dustin)も男性名として定着している。 * [[トル・フースホフト]](Thor Hushovd) - [[ノルウェー]]出身の[[自転車]]プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手。名前に引っかけて「雷神」と呼ばれることもある。 * [[トル・ホグネ・オーロイ]](Tor Hushovd) - ノルウェー出身のプロ[[サッカー選手]]。 * [[トール・ヘイエルダール]](Thor Heyerdahl) - ノルウェー出身の人類学者、探検家。 * [[トール・ベルシェロン]](Tor Harold Perciva)- [[スウェーデン]]国籍(イギリス生まれ)の気象学者。 * [[トール・アウリン]](Tor Aulin)- スウェーデン出身の[[作曲家]]。 * [[トール・ヴィルヘルムソン]](Thor Vilhjálmsson) - [[アイスランド]]の[[詩人]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * [[ケビン・クロスリー=ホランド|キーヴィン・クロスリイ-ホランド]]『北欧神話物語』[[山室静]]、[[米原まり子]]訳、[[青土社]]、1991年新版、ISBN 978-4-7917-5149-5 * 視覚デザイン研究所編『ヴィーナスの片思い 神話の名シーン集』視覚デザイン研究所、1995年、ISBN 4-88108-112-8 * 「[[スノッリ・ストゥルルソン|スノリ]]『エッダ』「詩語法」訳注」[[谷口幸男]]訳、『[[広島大学]]文学部紀要』第43巻No.特輯号3、1983年 * スノッリ・ストゥルルソン『[[ヘイムスクリングラ]] - 北欧王朝史 -(一)』谷口幸男訳、プレスポート・北欧文化通信社、2008年、ISBN 978-4938409029 * V.G.ネッケル他編 『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、[[新潮社]]、1973年、ISBN 978-4103137016 * [[シーグルズル・ノルダル]]『巫女の予言 エッダ詩校訂本』[[菅原邦城]]訳、[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1993年、ISBN 978-4486012252 * 山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』[[筑摩書房]]、1982年、ISBN 978-4480329080 == 関連項目 == {{Commonscat|Thor}} * [[PGM-17 (ミサイル)|PGM-17 ソー]] - [[アメリカ軍]]の[[中距離弾道ミサイル]]。名称がトールに由来する。なおソーの発展型「[[ソー・デルタ]]」が後に[[人工衛星]]打ち上げ機として知られる[[デルタロケット]]となった。 * [[マイティ・ソー]] - [[マーベル・コミック]]の1作品。トール自らがヒーローとして活躍する。タイトル・名称のソーは「Thor」の英語読み。 * [[トリウム]] - トールに由来する[[元素]]名。 * [[三洋電機レッドソア]] - [[日本]]の[[バレーボール]]チーム。 * [[Thunar]] - [[X Window System]]用[[ファイルマネージャ]]。トールにちなんで名付けられた。 * [[木曜日]] - 英語Thursdayは「トールの日」を意味する。 * [[ダイハツ・トール]] - [[ダイハツ工業]]の[[リッターカー]]クラスの[[小型自動車|小型車]]に属する[[トールワゴン|ハイトールワゴン]]。 * [[小林さんちのメイドラゴン|小林さんちのメイドラゴン・トール]] クール教信者による漫画の登場人物。 *[[アルシング]]、[[国連総会]]:議長は、「アルシング」に倣い「トールのハンマー」(アイスランドより寄贈)と呼ばれるハンマーを使用する伝統がある。 *[[トーラ (小惑星)]] - トールにちなんで名付けられた。 {{北欧神話}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:とおる}} [[Category:北欧神話の神]] [[Category:雷神]] [[Category:農耕神]]
null
2023-06-01T08:02:09Z
false
false
false
[ "Template:Div col", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:Lang", "Template:Div col end", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:北欧神話", "Template:Authority control", "Template:Otheruses", "Template:IPA", "Template:Main", "Template:ASIN", "Template:Infobox deity", "Template:Efn", "Template:仮リンク" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB
15,795
四條畷市
四條畷市(しじょうなわてし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。 大阪市から約15kmほどの近郊に位置しており、奈良県と接する。市域の3分の2は生駒山地の一部である北生駒山地であり、市の中心部は生駒山地の西麓に広がる。 市東部の田原地区(「田原地域」とも呼称)は大阪府では唯一、生駒山地の東麓に位置しており、下述する奈良県域としばしば混同される。ただし往古は「田原郷」として文化的に一体であった。 当市の田原地区は奈良県生駒市北田原町・南田原町と隣接しており、四條畷市域側を「西田原」、生駒市域側が「東田原」とそれぞれ呼ばれることがある(これも往古の呼称区分と同じである)。 市中心部では国道163号と国道170号が交差しており、かつJR片町線の沿線でもあり、四條畷地区の東側は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。反対に生駒山地の東側は農業地帯・新興住宅地である。 遺跡が多く、貝塚跡があり古墳も少なくない。飛鳥時代までには馬飼を行う渡来人の定住があったと伝わる。白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたと伝わる正法寺の大伽藍が聳え立ち、平安時代には荘園、延喜式神名帳には市域内の神社3社(忍陵、国中、御机)が記載され、1000年以上経た現在も残っている。また、1000年以上の歴史のある寺院(正法寺、龍尾寺)も存在している。南北朝時代には四條畷の戦いの舞台となり、戦国時代には飯盛山城の攻防戦が幾度かあり、キリシタン教会も存在した。江戸時代には天領となり農業地帯であった。 明治時代に入ると、南朝が正統な王朝とされるようになったことから、南朝を助けた楠木正成が神格化され、その息子である楠木正行も「小楠公」として崇拝されるようになった。正行が没した四條畷の戦いの故地で、正行の墓(小楠公御墓所)もあるこの地に、楠木氏を祀る神社を設けようとする機運が高まった結果、1890年(明治23年)、飯盛山山麓に別格官幣社・四條畷神社が創建された。1895年には浪速鉄道が四条畷駅まで延伸し、この地は人の集まる繁華な町へと一躍発展した。北河内地区に中学が開設されるにあたっては、忠君愛国教育の中心である四條畷神社があり、鉄道駅もあって交通の便利なこの地に四条畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)が開校し、北河内の教育の中心となった。この地は1889年の町村制施行の際に甲可村となったが、次第に四條畷の名の方が通りがよくなり、1932年には甲可村は四條畷村へと改名した。 第二次世界大戦以降は「住宅都市」を目標とし、1955年頃から大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進み、大阪外環状線の開通・JR片町線が四条畷駅まで複線化され、都市化が進んだ。その結果、1970年7月1日に市制を施行するにまで至った。市制施行後は、田原地区が関西文化学術研究都市に指定されると、それに則った開発が進められ、田原台などの新興住宅地が誕生した。 面積の変遷 国土地理院地理情報 によると四條畷市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは7.3 km、南北の長さは5.4kmである。 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 ・2008年(平成20年)四条畷市イメージキャラクター「くっすん」 市の固有名詞としては、四條畷村以来一貫して「四條畷」と表記するのが正式である。「条」は「條」の略字であるが、戦後「条」が当用漢字(現・常用漢字)に指定されたため、「四条畷」と表記されることがある。 現在でも新聞や道路標識などでは「四条畷市」と書かれることがあり、2003年度末までは四條畷市内の郵便局は「四条畷」表記だった(現在は「四條畷」表記となっている)。 JR西日本の四条畷駅は「条」の字を使っている。1895年に北河内郡四条村に開業した当初は、四条畷駅および所在地の四条村(のち町制を施行して四条町)ともに、「條」の字を使っていた。しかし、四条町は1956年の町村合併によって大東市となり廃止され、当時の国鉄が当用漢字の使用を推進していたこともあって、「条」の字を使うようになった。四條畷市はJR西日本に駅名の変更を申し入れているが、JR西日本側が「駅名変更は地元からの要望で行うが費用は自治体の全額負担」としており、さらに費用は数億円かかるため市側での負担が困難な状態なことから、現在も駅名の変更はされていない。 一方、四条畷駅と同様に大東市に所在する四條畷警察署は「條」の字を使っている。これは1978年に現在地へ移転するまで四條畷市内に庁舎があった名残で、移転後も変更されることなく現在に至る。 2003年の大阪府議会において、四條畷の表記に関する条例が可決された。大阪府庁ホームページ 大阪府議会だよりNo.119。四條畷市及び大阪府は、表記について次のように定義している。四條畷市役所ホームページ 四條畷市の、「じょう」の漢字について 以上の歴史的経緯から、四條畷市・大阪府の地方自治体は、官公庁関連の施設に関しては「條」を使用し、民間施設に関しては「条」を使用している。 奈良県五條市にも、四條畷市と類似の表記問題がある。 人口の内訳 四條畷市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 四條畷地区 田原村を編入する前の四條畷町の範囲であり、大阪平野の一部である。大阪市の近郊都市として、国道163号と国道170号が交差しておりかつJR片町線の沿線である。また、農地や史跡が残されている地域もあり、地区の東側は生駒山地の北側に位置しており、金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。また、旧大阪府立四條畷北高等学校・第二京阪道路の近隣地帯である砂地区の開発も進められている。 田原地区 旧田原村の範囲であり、奈良県の県境に位置する地区である。生駒山地の一部である北生駒山地の麓の農業地帯であるが、1969年5月20日に都市計画区域に指定され、その後は関西文化学術研究都市に指定されるとそれらに似合った開発し、1978年10月に土地区画整理事業の計画を終えてから、1984年10月に田原ニュータウンの起工が行われ、宅地として開発された。その結果、1990年5月11日にパークヒルズ田原が街開きされ、田原台などの新興住宅地が点在しており、それまで減少傾向であった市内の人口が増加した。 1912年に竣工した庁舎であり、老朽化・第二室戸台風に伴う被害・急激な人口増加に対する対応・田原村との合併に伴う行政の向上のために当町の建設計画事業の一環として建設され、1964年11月5日に新築移転され、現在の場所で業務を開始している。 田原村と編入合併した結果、田原村役場跡に田原支所を設置した。 定数は12人。任期は2019年5月1日 - 2023年4月30日。 2020年12月28日時点での会派構成は以下の通り。 大阪府議会(大東市及び四條畷市選挙区) 国政選挙 かつては警察署は市内にあったが、1978年1月9日に大東市にある四條畷警察署に移転し、それ以降は市内にはない。 消防は四條畷市消防本部として市内に消防本部と消防署を設置していたが、消防広域化に伴って大東市消防本部と統合し大東・四條畷消防組合で本部は大東市内となり、市内には四條畷消防署と田原分署がある。 長らく大阪府下の市では珍しく、大型スーパーマーケットがないため隣接市などのショッピングセンター(SC)へ向かう流れが強かったが、2015年10月23日に寝屋川市にまたがる形でイオンモール四條畷がオープンした。 オープン以前の人の流れは、清滝峠以西の住民は守口市のイオンモール大日や大阪市鶴見区のイオンモール鶴見緑地、大東市のポップタウン住道、寝屋川市のイオンモール寝屋川、ビバモール寝屋川または平和堂アル・プラザ香里園店への商圏になっていた。 清滝峠以東にある上田原・下田原・田原台・緑風台・さつきヶ丘地区の住民は奈良県生駒市にある近鉄百貨店生駒店やイオン奈良登美ヶ丘SC(現:イオンモール奈良登美ヶ丘)、2007年5月1日に開業した京都府木津川市のイオン高の原SC(現:イオンモール高の原)への商圏になっていた。 現在は、隣接する奈良県側からも買い物に来る車が多数見受けられる様になった。 購買DX・契約DX・請求DXの「Pro-Sign」を提供する株式会社プロレド・パートナーズと、大阪府四條畷市は、企業や自治体の購買活動・管理を効率化するクラウドサービス 「Pro-Sign(プロサイン)」を活用した実証実験を開始した。今回の実証実験では、株式会社プロレド・パートナーズが提供する「Pro-Sign(プロサイン)」の見積取得機能を活用したもので、クラウド上で複数の企業から見積を取得できるサービス。一度の依頼で複数社からの見積をクラウド上で取得でき、その後の連絡もチャット上で行えることから、業務効率化を図るとともに、見積の取得のために何度も来庁してもらう必要がなくなり、見積提供事業者の時間的負担および経済的負担も軽減することができる。 (2012年12月現在) ※四條畷市内各区域の郵便番号は「575-00xx」(四條畷郵便局の集配担当)となっている。 四條畷市の中心駅でもある四条畷駅は、駅としては隣の大東市に立地している。なお田原地区の住民は、奈良交通バスで奈良県生駒市にある近鉄生駒駅へ出る場合が多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "四條畷市(しじょうなわてし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大阪市から約15kmほどの近郊に位置しており、奈良県と接する。市域の3分の2は生駒山地の一部である北生駒山地であり、市の中心部は生駒山地の西麓に広がる。 市東部の田原地区(「田原地域」とも呼称)は大阪府では唯一、生駒山地の東麓に位置しており、下述する奈良県域としばしば混同される。ただし往古は「田原郷」として文化的に一体であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当市の田原地区は奈良県生駒市北田原町・南田原町と隣接しており、四條畷市域側を「西田原」、生駒市域側が「東田原」とそれぞれ呼ばれることがある(これも往古の呼称区分と同じである)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "市中心部では国道163号と国道170号が交差しており、かつJR片町線の沿線でもあり、四條畷地区の東側は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。反対に生駒山地の東側は農業地帯・新興住宅地である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "遺跡が多く、貝塚跡があり古墳も少なくない。飛鳥時代までには馬飼を行う渡来人の定住があったと伝わる。白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたと伝わる正法寺の大伽藍が聳え立ち、平安時代には荘園、延喜式神名帳には市域内の神社3社(忍陵、国中、御机)が記載され、1000年以上経た現在も残っている。また、1000年以上の歴史のある寺院(正法寺、龍尾寺)も存在している。南北朝時代には四條畷の戦いの舞台となり、戦国時代には飯盛山城の攻防戦が幾度かあり、キリシタン教会も存在した。江戸時代には天領となり農業地帯であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "明治時代に入ると、南朝が正統な王朝とされるようになったことから、南朝を助けた楠木正成が神格化され、その息子である楠木正行も「小楠公」として崇拝されるようになった。正行が没した四條畷の戦いの故地で、正行の墓(小楠公御墓所)もあるこの地に、楠木氏を祀る神社を設けようとする機運が高まった結果、1890年(明治23年)、飯盛山山麓に別格官幣社・四條畷神社が創建された。1895年には浪速鉄道が四条畷駅まで延伸し、この地は人の集まる繁華な町へと一躍発展した。北河内地区に中学が開設されるにあたっては、忠君愛国教育の中心である四條畷神社があり、鉄道駅もあって交通の便利なこの地に四条畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)が開校し、北河内の教育の中心となった。この地は1889年の町村制施行の際に甲可村となったが、次第に四條畷の名の方が通りがよくなり、1932年には甲可村は四條畷村へと改名した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦以降は「住宅都市」を目標とし、1955年頃から大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進み、大阪外環状線の開通・JR片町線が四条畷駅まで複線化され、都市化が進んだ。その結果、1970年7月1日に市制を施行するにまで至った。市制施行後は、田原地区が関西文化学術研究都市に指定されると、それに則った開発が進められ、田原台などの新興住宅地が誕生した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "面積の変遷", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国土地理院地理情報 によると四條畷市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは7.3 km、南北の長さは5.4kmである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1970年代", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1980年代", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年代", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2000年代", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "・2008年(平成20年)四条畷市イメージキャラクター「くっすん」", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "市の固有名詞としては、四條畷村以来一貫して「四條畷」と表記するのが正式である。「条」は「條」の略字であるが、戦後「条」が当用漢字(現・常用漢字)に指定されたため、「四条畷」と表記されることがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在でも新聞や道路標識などでは「四条畷市」と書かれることがあり、2003年度末までは四條畷市内の郵便局は「四条畷」表記だった(現在は「四條畷」表記となっている)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "JR西日本の四条畷駅は「条」の字を使っている。1895年に北河内郡四条村に開業した当初は、四条畷駅および所在地の四条村(のち町制を施行して四条町)ともに、「條」の字を使っていた。しかし、四条町は1956年の町村合併によって大東市となり廃止され、当時の国鉄が当用漢字の使用を推進していたこともあって、「条」の字を使うようになった。四條畷市はJR西日本に駅名の変更を申し入れているが、JR西日本側が「駅名変更は地元からの要望で行うが費用は自治体の全額負担」としており、さらに費用は数億円かかるため市側での負担が困難な状態なことから、現在も駅名の変更はされていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方、四条畷駅と同様に大東市に所在する四條畷警察署は「條」の字を使っている。これは1978年に現在地へ移転するまで四條畷市内に庁舎があった名残で、移転後も変更されることなく現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2003年の大阪府議会において、四條畷の表記に関する条例が可決された。大阪府庁ホームページ 大阪府議会だよりNo.119。四條畷市及び大阪府は、表記について次のように定義している。四條畷市役所ホームページ 四條畷市の、「じょう」の漢字について", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以上の歴史的経緯から、四條畷市・大阪府の地方自治体は、官公庁関連の施設に関しては「條」を使用し、民間施設に関しては「条」を使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "奈良県五條市にも、四條畷市と類似の表記問題がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "人口の内訳", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "四條畷市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "四條畷地区", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "田原村を編入する前の四條畷町の範囲であり、大阪平野の一部である。大阪市の近郊都市として、国道163号と国道170号が交差しておりかつJR片町線の沿線である。また、農地や史跡が残されている地域もあり、地区の東側は生駒山地の北側に位置しており、金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。また、旧大阪府立四條畷北高等学校・第二京阪道路の近隣地帯である砂地区の開発も進められている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "田原地区", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "旧田原村の範囲であり、奈良県の県境に位置する地区である。生駒山地の一部である北生駒山地の麓の農業地帯であるが、1969年5月20日に都市計画区域に指定され、その後は関西文化学術研究都市に指定されるとそれらに似合った開発し、1978年10月に土地区画整理事業の計画を終えてから、1984年10月に田原ニュータウンの起工が行われ、宅地として開発された。その結果、1990年5月11日にパークヒルズ田原が街開きされ、田原台などの新興住宅地が点在しており、それまで減少傾向であった市内の人口が増加した。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1912年に竣工した庁舎であり、老朽化・第二室戸台風に伴う被害・急激な人口増加に対する対応・田原村との合併に伴う行政の向上のために当町の建設計画事業の一環として建設され、1964年11月5日に新築移転され、現在の場所で業務を開始している。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "田原村と編入合併した結果、田原村役場跡に田原支所を設置した。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "定数は12人。任期は2019年5月1日 - 2023年4月30日。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2020年12月28日時点での会派構成は以下の通り。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大阪府議会(大東市及び四條畷市選挙区)", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国政選挙", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "かつては警察署は市内にあったが、1978年1月9日に大東市にある四條畷警察署に移転し、それ以降は市内にはない。", "title": "警察署・消防署" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "消防は四條畷市消防本部として市内に消防本部と消防署を設置していたが、消防広域化に伴って大東市消防本部と統合し大東・四條畷消防組合で本部は大東市内となり、市内には四條畷消防署と田原分署がある。", "title": "警察署・消防署" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "長らく大阪府下の市では珍しく、大型スーパーマーケットがないため隣接市などのショッピングセンター(SC)へ向かう流れが強かったが、2015年10月23日に寝屋川市にまたがる形でイオンモール四條畷がオープンした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オープン以前の人の流れは、清滝峠以西の住民は守口市のイオンモール大日や大阪市鶴見区のイオンモール鶴見緑地、大東市のポップタウン住道、寝屋川市のイオンモール寝屋川、ビバモール寝屋川または平和堂アル・プラザ香里園店への商圏になっていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "清滝峠以東にある上田原・下田原・田原台・緑風台・さつきヶ丘地区の住民は奈良県生駒市にある近鉄百貨店生駒店やイオン奈良登美ヶ丘SC(現:イオンモール奈良登美ヶ丘)、2007年5月1日に開業した京都府木津川市のイオン高の原SC(現:イオンモール高の原)への商圏になっていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現在は、隣接する奈良県側からも買い物に来る車が多数見受けられる様になった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "購買DX・契約DX・請求DXの「Pro-Sign」を提供する株式会社プロレド・パートナーズと、大阪府四條畷市は、企業や自治体の購買活動・管理を効率化するクラウドサービス 「Pro-Sign(プロサイン)」を活用した実証実験を開始した。今回の実証実験では、株式会社プロレド・パートナーズが提供する「Pro-Sign(プロサイン)」の見積取得機能を活用したもので、クラウド上で複数の企業から見積を取得できるサービス。一度の依頼で複数社からの見積をクラウド上で取得でき、その後の連絡もチャット上で行えることから、業務効率化を図るとともに、見積の取得のために何度も来庁してもらう必要がなくなり、見積提供事業者の時間的負担および経済的負担も軽減することができる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "(2012年12月現在)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "※四條畷市内各区域の郵便番号は「575-00xx」(四條畷郵便局の集配担当)となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "四條畷市の中心駅でもある四条畷駅は、駅としては隣の大東市に立地している。なお田原地区の住民は、奈良交通バスで奈良県生駒市にある近鉄生駒駅へ出る場合が多い。", "title": "交通" } ]
四條畷市(しじょうなわてし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{日本の市 |画像 = ShoNanko-GoBosho_2018.jpg |画像の説明 = [[小楠公御墓所]] |市旗 = [[ファイル:Flag of Shijōnawate, Osaka.svg|100px|border]] |市旗の説明 = 四條畷[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:Emblem of Shijōnawate, Osaka.svg|75px]] |市章の説明 = 四條畷[[市町村章|市章]]<br />[[1970年]][[7月1日]]制定 |自治体名 = 四條畷市 |都道府県 = 大阪府 |コード = 27229-9 |隣接自治体 = [[寝屋川市]]、[[交野市]]、[[大東市]]<br />[[奈良県]][[生駒市]] |木 = [[クスノキ]] |花 = [[サツキ]] |シンボル名 = 市のキャラクター<hr /> |鳥など = くっすん <ref> https://www.city.shijonawate.lg.jp/site/citypromotion/17361.html</ref> |郵便番号 = 575-8501 |所在地 = 四條畷市中野本町1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-27|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Shijonawate city-office.jpg|250px|四條畷市役所]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|27|229|image=Shijonawate in Osaka Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} |特記事項 = }} '''四條畷市'''(しじょうなわてし)は、[[大阪府]]の[[北河内 (大阪府)|北河内]]地域に位置する[[市]]。 == 概要 == [[大阪市]]から約15kmほどの近郊に位置しており、[[奈良県]]と接する。市域の3分の2は[[生駒山地]]の一部である北生駒山地であり、市の中心部は生駒山地の西麓に広がる。 市東部の田原地区(「田原地域」とも呼称)は大阪府では唯一、生駒山地の東麓に位置しており、下述する奈良県域としばしば混同される<ref group="注釈">電話のMA地域でも実際に奈良MA(市外局番0743、市の大部分は072 (旧0720)枚方MA)であり、大部分の有線放送の営業エリアも配線の都合上奈良県扱いになっている。<!--また、市役所の代表電話は本庁舎がある「072(8)」と田原地区用の「0743(7)」の2つの番号を設けている。(近隣では門真市も本庁舎がある「06」と大和田用の「072」がある) --></ref>。ただし往古は「田原郷」として文化的に一体であった。 当市の田原地区は奈良県[[生駒市]][[北田原町]]・[[南田原町 (生駒市)|南田原町]]と隣接しており、四條畷市域側を「西田原」、生駒市域側が「東田原」とそれぞれ呼ばれることがある(これも往古の呼称区分と同じである)。 市中心部では[[国道163号]]と[[国道170号]]が交差しており、かつJR[[片町線]]の沿線でもあり、四條畷地区の東側は[[金剛生駒紀泉国定公園]]に指定されている。反対に生駒山地の東側は農業地帯・[[新興住宅地]]である。 遺跡が多く、貝塚跡があり古墳も少なくない。[[飛鳥時代]]までには馬飼を行う渡来人の定住があったと伝わる。[[白鳳時代]]には[[持統天皇]]が幼少期を過ごしたと伝わる正法寺の大伽藍が聳え立ち、[[平安時代]]には[[荘園 (日本)|荘園]]、[[延喜式神名帳]]には市域内の神社3社(忍陵、国中、御机)が記載され、1000年以上経た現在も残っている。また、1000年以上の歴史のある寺院(正法寺、龍尾寺)も存在している。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[四條畷の戦い]]の舞台となり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[飯盛山城]]の攻防戦が幾度かあり、キリシタン教会も存在した。[[江戸時代]]には[[天領]]となり農業地帯であった。 [[明治時代]]に入ると、南朝が正統な王朝とされるようになったことから、南朝を助けた[[楠木正成]]が神格化され、その息子である[[楠木正行]]も「小楠公」として崇拝されるようになった。正行が没した四條畷の戦いの故地で、正行の墓(小楠公御墓所)もあるこの地に、楠木氏を祀る神社を設けようとする機運が高まった結果、[[1890年]](明治23年)、飯盛山山麓に別格官幣社・[[四條畷神社]]が創建された。[[1895年]]には[[浪速鉄道]]が四条畷駅まで延伸し、この地は人の集まる繁華な町へと一躍発展した。北河内地区に中学が開設されるにあたっては、忠君愛国教育の中心である四條畷神社があり、鉄道駅もあって交通の便利なこの地に四条畷中学(現在の[[大阪府立四條畷高等学校]])が開校し、北河内の教育の中心となった。この地は[[1889年]]の町村制施行の際に甲可村となったが、次第に四條畷の名の方が通りがよくなり、[[1932年]]には甲可村は四條畷村へと改名した。 [[第二次世界大戦]]以降は「住宅都市」を目標とし、[[1955年]]頃から大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進み、[[大阪外環状線]]の開通・JR片町線が[[四条畷駅]]まで複線化され、都市化が進んだ。その結果、[[1970年]][[7月1日]]に[[市制]]を施行するにまで至った。市制施行後は、田原地区が[[関西文化学術研究都市]]に指定されると、それに則った開発が進められ、[[田原台]]などの新興住宅地が誕生した<ref name="概要">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 四條畷市の概要| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="序論">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s05/03/s050301/2nd_half_plan/03.pdf|title= 第5次四條畷市総合計画【後期計画】 序論| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="近世">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 近世| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="現状">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/pdf/01/03/03060601.pdf|title= 地域の現状| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="田原地区地区計画">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/10/10/101001/tahara/01.pdf|title= 田原地区地区計画| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref><ref name="町だより 101号"/><ref name="町だより 57号"/><ref name="町だより 57号"/>。 == 地理 == [[ファイル:Shijonawate city center area Aerial photograph.1985.jpg|thumb|400px|四條畷市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の3枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。]] * 市域の3分の2は[[生駒山地]]の一部である北生駒山地である。標高は最高標高が361.0mで最低標高が3.0mであり、周囲が25.1kmである<ref name="概要"/><ref name="市の位置">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s07/02/01/001-001.xls|title= 市の位置| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref>。 **山:[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]] **川:[[天野川 (大阪府)|天野川]]・[[岡部川]]・[[清滝川 (大阪府)|清滝川]]・[[権現川]] **池:[[室池]] **峠:[[清滝峠]] === 面積 === * 18.74[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="市域の変遷">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/12/001-002.xls|title= 市域の変遷| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref> ** 四條畷地区 - 10.766&nbsp;km<sup>2</sup><ref name="町丁字別面積">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/12/001-008.xls|title= 町丁字別面積 | publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref> ** 田原地区 - 7.974&nbsp;km<sup>2</sup><ref name="町丁字別面積"/> '''面積の変遷''' * [[1890年]][[8月1日]] - 町村制施行して、10.85&nbsp;km<sup>2</sup>になる。<ref name="市域の変遷"/> * [[1961年]][[6月25日]] - 田原村を編入して18.90&nbsp;km<sup>2</sup>になる。<ref name="市域の変遷"/> * [[1988年]][[10月1日]] - 国土地理院による面積を改定して0.16&nbsp;km<sup>2</sup>狭くなって、18.74&nbsp;km<sup>2</sup>になる。<ref name="市域の変遷"/> === 広袤(こうぼう) === [https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/center.htm 国土地理院地理情報] によると四條畷市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは7.3&nbsp;km、南北の長さは5.4kmである。<ref name="序論"/><ref name="現状"/> === 隣接している自治体 === * [[交野市]]、[[大東市]]、[[寝屋川市]]、[[奈良県]][[生駒市]] == 歴史 == === 紋章 === * 町章は[[1961年]]に田原村の編入合併を記念して2回にわたって公募で募集して同年[[12月]]に議会によって制定された<ref name="町だより 5号">町だより 5号</ref><ref name="町だより 5号">町だより 5号</ref><ref name="町だより 10号">町だより 10号</ref><ref name="広報 10号">広報 10号</ref>。 市章は市制施行に合わせて住民意識の向上のために公募で募集し、募集した結果、「し」と畷の「ナ」を鳩に図案化したもので未来に向かって羽ばたく姿を意味して、[[1970年]][[7月1日]]の市制施行の日に合わせて制定された<ref name="序論"/><ref name="市章"/><ref name="財政"/><ref name="市章・市民憲章"/><ref name="町だより 特別号">町だより 特別号</ref> 。 <gallery> ファイル:Shijonawate-town Osaka chapter.JPG|四條畷町章 ファイル:Emblem of Shijōnawate, Osaka.svg|四條畷市章 </gallery> === 市制施行前 === * [[1348年]]([[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年) - [[四條畷の戦い]]<ref name="概要"/>([[讃良郡]]四條村 (現:大東市)) * [[1889年]](明治22年)4月1日 - [[町村制]]施行により、[[讃良郡]]砂村・岡山村・中野村・清滝村・逢阪村・蔀屋村・南野村の区域をもって'''甲可村'''が発足。 * [[1896年]](明治29年)[[4月1日]] - 讃良郡甲可村の所属郡が[[北河内郡]]に変更。 * [[1925年]](大正14年)[[7月1日]] - [[四條畷警察署]]が設置される<ref name="序論"/>。 * [[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月1日]] - 甲可村が改称して'''四條畷村'''となる。 * [[1947年]](昭和22年)[[7月1日]] - 北河内郡四條畷村が[[町制]]施行して'''四條畷町'''となる<ref name="序論"/>。 * [[1953年]](昭和28年)[[5月1日]] - [[片町線]][[忍ケ丘駅]]が開業する<ref name="序論"/>。 * [[1959年]](昭和34年)[[7月]] - 上下水道が完成する<ref name="序論"/>。 * [[1961年]](昭和36年)[[6月25日]] - 北河内郡四條畷町が[[田原村 (大阪府)|田原村]]を編入<ref name="設置">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.osaka.jp/shijonawate/reiki/reiki_honbun/ak23100021.html|title= 四條畷町の設置| publisher= 四條畷市例規集| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="町だより 4号"/>。 ** [[9月16日]] - [[第二室戸台風]]により被害を受け、同年[[9月18日]]に[[災害救助法]]の適用を受ける<ref name="町だより 7号">町だより 7号</ref><ref name="町だより 7号">町だより 7号</ref>。 * [[1963年]](昭和38年) - [[国道163号]]が開通する<ref name="序論"/>。 * [[1964年]](昭和39年)[[11月5日]] - 役場の新庁舎が完成し、業務を開始する。<ref name="序論"/><ref name="町だより 21号">町だより 21号</ref><ref name="町だより 21号">町だより 21号</ref> * [[1966年]](昭和41年)[[7月1日]] - 水道局庁舎が完成する<ref name="序論"/>。 * [[1967年]](昭和42年)[[7月1日]] - 四條畷町上下水道局が完成する<ref name="序論"/>。 * [[1969年]](昭和44年)[[5月20日]] - 田原地区がこれまで都市計画区域に非指定されていたが、[[建設省]]によって指定される<ref name="町だより 101号">町だより 101号</ref><ref name="町だより 7号">町だより 7号</ref>。 * [[地方自治法]]の一部改正により、3万人以上の人口を擁していれば市制施行が可能となったため、当自治体では3万人以上の人口を擁していることから、市制施行が可能となった。すでに、[[大阪市]]のベッドタウンとなり、急激な人口増加をしたことから、行政の質の向上を目的として早急な市制施行を目標とした。[[1970年]][[5月26日]]に当町で議会臨時会を開催し、同年[[6月20日]]に[[官報告示]]をし、同年[[7月1日]]に四條畷町から四條畷市へと市制を施行した<ref name="町だより 110号">町だより 110号</ref><ref name="町だより 111号">町だより 111号</ref><ref name="市制"/><ref name="広報 110号">広報 110号</ref><ref name="広報 111号">広報 111号</ref>。 === 市制施行後 === '''1970年代''' * [[1970年]](昭和45年)[[7月1日]] - 北河内郡四條畷町が[[市制]]施行して'''四條畷市'''となる([[泉南市]]と同日)<ref name="市制">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.osaka.jp/shijonawate/reiki/reiki_honbun/ak23100031.html|title= 四條畷町を市とする処分| publisher= 四條畷市例規集| accessdate=2012-8-11}}</ref>。大阪府下32番目の市となり、市制施行当時は人口35,833人であった<ref name="序論"/>。同時に市章を制定する<ref name="序論"/><ref name="市章">図典日本の市町村章 p154</ref><ref name="財政"/><ref name="市章・市民憲章">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/gyosei/shijonawateshinitsuite/shinogaiyou/1408439248200.html|title= 市章・市民憲章| publisher= 四條畷市| accessdate=2015-11-16}}</ref><ref name="1970年以降">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 市制施行(昭和45年)以降| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref>。 ** [[9月]] - 市の木・市の花を制定する<ref name="1970年以降"/>。 * [[1971年]](昭和46年)[[6月]] - 大阪府営清滝団地が完成する<ref name="1970年以降"/>。 ** [[7月1日]] - [[四條畷市消防本部]]が完成する<ref name="序論"/>。 * [[1975年]](昭和50年)[[3月]] - 生活環境条例を制定する<ref name="1970年以降"/>。 ** [[11月2日]] - 市民憲章を制定する<ref name="序論"/><ref name="市章"/><ref name="市章・市民憲章"/><ref name="1970年以降"/>。 * [[1976年]](昭和51年)[[4月1日]] - 四條畷市立老人福祉センターが開所する<ref name="序論"/>。 * [[1979年]](昭和54年)[[10月]] - [[片町線]]が[[四条畷駅]]から[[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]]まで複線化する<ref name="1970年以降"/>。 '''1980年代''' * [[1980年]](昭和55年)[[10月]] - 市制施行10周年記念式典を開催する<ref name="1970年以降"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[4月1日]] - [[大阪府立四條畷北高等学校]]が開校する<ref name="1970年以降"/>。 * [[1984年]](昭和59年)[[3月23日]] - 非核平和都市・青少年健全育成都市を宣言する<ref name="序論"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 非核平和都市宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 青少年健全育成都市宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> ** [[10月]] - 田原ニュータウンが起工する。<ref name="田原地区地区計画"/><ref name="1970年以降"/>。 * [[1985年]](昭和60年)[[11月15日]] - [[四條畷市立歴史民俗資料館]]が開館する<ref name="序論"/>。 * [[1986年]](昭和61年)[[3月25日]] - 健康づくり都市を宣言する<ref name="序論"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 健康づくり都市宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref>。 * 1987年(昭和62年)[[10月1日]] - [[大阪電気通信大学]]四條畷学舎が開校する<ref name="序論"/>。 '''1990年代''' * [[1990年]](平成2年)[[5月]] - [[国道163号]][[清滝トンネル]]が開通する<ref name="1970年以降"/>。 ** [[5月11日]] - パークヒルズ田原が街びらきする。<ref name="序論"/><ref name="田原地区地区計画"/> ** [[7月1日]] - [[四條畷市立野外活動センター]]が開園する。また、市歌<ref group="注釈">作詞・[[金堀則夫]]、補作詞・[[島田陽子 (詩人)|島田陽子]]、作曲・[[キダ・タロー]]、編曲・大前成之(毎日、正午に防災無線を通じて<!--1コーラス(歌なし)を終戦記念日などでも-->この曲が流れている。)</ref> を制定する。<ref name="序論"/> * [[1991年]](平成3年)[[4月1日]] - [[四條畷市立田原中学校]]が開校する。<ref name="1970年以降"/><ref name="田原中沿革">{{Cite web|和書| url= http://web1.kcn.jp/tawara-jhs/|title= 沿革| publisher= 四條畷市立田原中学校| accessdate=2012-8-11}}</ref> * [[1993年]](平成5年)[[4月1日]] - グリーンホール田原が開館する。<ref name="序論"/><ref name="1970年以降"/> ** [[12月21日]] - 人権擁護都市を宣言する。<ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 人権擁護都市宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> * [[1995年]](平成7年)[[4月1日]] - 四條畷市立市民総合体育館(サン・アリーナ25<!--愛称、「25」は市制施行25周年記念事業(下記)の一つ。-->)が開所する。<ref name="序論"/><ref name="1970年以降"/> ** [[7月1日]] - 市制25周年を記念して[[三重県]][[紀伊長島町]](現:[[紀北町]])と友好都市提携を宣言する。<ref name="序論"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 四條畷市・紀北町友好都市提携宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> ** [[10月1日]] - ふれあいの森が開園する。<ref name="序論"/><ref name="1970年以降"/> * [[1999年]](平成11年) - 当市と[[守口市]]・[[門真市]]の3市でくすのき広域連合を設立する。<ref name="1970年以降"/> '''2000年代''' [[ファイル:Hannan samatreum.JPG|thumb|160px|2002年2月14日にこの建物の駐車場建設地に日本最古のキリシタン墓碑が発見される。]] * [[2002年]](平成14年)[[2月14日]] - [[阪奈サナトリウム]]駐車場建設中に日本最古のキリシタン墓碑が発見される。<ref name="序論"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.shijonawate-rekishi.jp/iseki/kirisitan/1.htm|title= 千光寺跡 キリシタン墓碑| publisher= 四條畷市立歴史民俗資料館| accessdate=2016-02-12}}</ref> ** [[7月23日]] - 同市発注の学校給食センター新築工事をめぐる入札妨害事件で、森本稔市長が300万円の現金を受け取ったとして警察に逮捕される。<ref>[http://nawate.info/2005/07/%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%97%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%93%E6%97%A5%E3%80%8D%E3%80%80%E6%B1%9A%E8%81%B7%E9%80%AE/ '''忘れられない「2002年7月23日」 汚職逮捕''' ]</ref> * [[2007年]](平成19年)[[3月31日]] - 当市と[[寝屋川市]]・[[枚方市]]・[[交野市]]で北河内4市リサイクル施設組合を開設する。<ref name="序論"/><ref name="1970年以降"/> * [[2008年]](平成20年)[[2月29日]] - [[2007年]][[12月]]からの調査で[[教育委員会]]で、[[文部科学省]]が負担する[[地方公共団体|自治体]]への委託費用の委託費について、最低でも685万円の使途不明金があることが明らかになる。この問題の責任を取り、当時の[[教育長]]が[[2月26日|26日]]に辞表を提出。<ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s46/02/s460201.htm|title= 「地域子ども教室推進事業」について| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s01/01/0804/2-3.pdf|title= 広報四條畷 2008年4月号 p2 - 3| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref> * [[2010年]](平成22年)[[3月20日]] - [[第二京阪道路]]が開通する。<ref name="序論"/> ** [[3月31日]] - [[大阪府立四條畷北高等学校]]が閉校する。<ref name="序論"/> * [[2011年]](平成23年)[[3月20日]] - 男女共同参画都市を宣言をする。<ref name="序論"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 男女共同参画都市宣言| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> *[[2014年]](平成26年)大東市と消防機能を合併し[[大東四條畷消防組合|大東・四條畷消防組合]]設立。本部は大東市。 === ご当地キャラクター === ・2008年(平成20年)四条畷市イメージキャラクター「くっすん」 === 「四條畷」と「四条畷」 === [[ファイル:Kamitahara Shijonawatecity Osakapref Osakapref and Narapref 701 Nakagaito Minamitahara line.JPG|thumb|250px|貼りなおされた四條畷市の[[カントリーサイン]]]] 市の固有名詞としては、四條畷村以来一貫して「四'''條'''畷」と表記するのが正式である。「条」は「條」の[[略字]]であるが、戦後「条」が[[当用漢字]](現・[[常用漢字]])に指定されたため、「四'''条'''畷」と表記されることがある。 現在でも新聞や[[道路標識]]などでは「四条畷市」と書かれることがあり、[[2003年]]度末までは四條畷市内の[[郵便局]]は「四条畷」表記だった(現在は「四條畷」表記となっている)。 JR西日本の[[四条畷駅]]は「条」の字を使っている。[[1895年]]に北河内郡四条村に開業した当初は、四条畷駅および所在地の四条村(のち町制を施行して[[四条町]])ともに、「條」の字を使っていた。しかし、四条町は[[1956年]]の町村合併によって[[大東市]]となり廃止され、当時の国鉄が当用漢字の使用を推進していたこともあって、「条」の字を使うようになった。四條畷市はJR西日本に駅名の変更を申し入れているが、JR西日本側が「駅名変更は地元からの要望で行うが費用は自治体の全額負担」としており、さらに費用は数億円かかるため市側での負担が困難な状態なことから、現在も駅名の変更はされていない。 一方、四条畷駅と同様に大東市に所在する[[四條畷警察署]]は「條」の字を使っている。これは[[1978年]]に現在地へ移転するまで四條畷市内に庁舎があった名残で、移転後も変更されることなく現在に至る。 2003年の大阪府議会において、四條畷の表記に関する条例が可決された。[http://www.pref.osaka.jp/gikai/dayori/119/index.html 大阪府庁ホームページ 大阪府議会だよりNo.119]{{deadlink|date=2018年3月}}。四條畷市及び大阪府は、表記について次のように定義している。[http://www.city.shijonawate.lg.jp/faq/gyoseijoho/shijonawateshinituite/1409643599308.html 四條畷市役所ホームページ 四條畷市の、「じょう」の漢字について] 以上の歴史的経緯から、四條畷市・大阪府の[[地方公共団体|地方自治体]]は、官公庁関連の施設に関しては「條」を使用し、民間施設に関しては「条」を使用している。 [[奈良県]][[五條市]]にも、四條畷市と類似の表記問題がある。 === 市町村合併 === ==== 田原村との合併 ==== * 四條畷町(当時)は当村との合併を[[1961年]]初頭に活発な動きをし、編入合併を目指し、[[6月25日]]に発足を予定していた。その結果、合併が可決され、同年[[5月19日]]に合併調印式を開催し、同年[[5月22日]]に議会臨時会で議決され、同年[[5月23日]]に合併申請書を提出し、[[5月31日]]に定例府会で議決された。そして、予定通りに同年6月25日に編入された。そして、同年[[7月1日]]に合併を記念した祝賀式を開催した。<ref name="設置"/><ref name="町だより 4号">町だより 4号</ref><ref name="町だより 3号">町だより 3号</ref> ==== 大東市との合併 ==== * 勉強会は設置しているが、具体的な実現には至っていない。<ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 大東市・四條畷市広域行政等勉強会調査報告書| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> == 人口 == * [[1965年]]から[[1975年]]までは大幅な増加を示しており、1960年の国勢調査では10,779人であり、1965年の国勢調査では19,314人であったが、1970年の国勢調査では37,893人であり、住宅開発をしていた四條畷地区の岡山・雁屋(雁屋北町・雁屋南町)を中心に増加し、1960年から1965年の増加率は[[大阪府]]下の自治体では1番である79.6%を記録した。そして、1975年の国勢調査では52,368人であり、一旦ピークを迎えた。その後は減少し、1980年・1985年・1990年の国勢調査では5万人を少し上回る人口で推移してきた。しかし、田原地区が[[関西文化学術研究都市]]に指定されると、開発が進みその後は増加し、2003年には57,000人を突破した。その後は57000人台で推移しているが、市内の西部の再開発と田原地区の新興住宅地の開発でこれからも増加すると予測されている<ref name="近世"/><ref name="現状"/><ref name="町だより 57号">町だより 57号</ref><ref name="町だより 57号">町だより 57号</ref><ref name="基本構想">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s05/03/s050301/2nd_half_plan/05.pdf|title= 第5次四條畷市総合計画【後期計画】 基本構想| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s07/census/h22/h22.htm|title= 平成22年国勢調査 結果| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref><ref name="町だより 61号">町だより 61号</ref><ref name="町だより 61号">町だより 61号</ref>。 * 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.37%増の57,554人であり、増減率は府下43市町村中17位、72行政区域中35位。 {{人口統計|code=27229|name=四條畷市|image=Population distribution of Shijonawate, Osaka, Japan.svg}} '''人口の内訳''' {| class="wikitable" !調査名<ref name="年齢(5歳階級)、男女別人口">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s07/02/03/003-003.xls|title=年齢(5歳階級)、男女別人口 | publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref>!!総数<ref name="年齢(5歳階級)、男女別人口"/>!!15歳未満<ref name="年齢(5歳階級)、男女別人口"/>!!15歳から64歳まで<ref name="年齢(5歳階級)、男女別人口"/>!!65歳以上<ref name="年齢(5歳階級)、男女別人口"/> |- |2005年国勢調査 |57,342人 |9,330人 |38,597人 |8,991人 |- |2010年国勢調査 |57,561人 |8,721人 |34,629人 |11,623人 |} == 地域 == 四條畷市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 <!-- 町名の順序は、四條畷市統計書等公的資料の順序による。 --> {|class="wikitable" style="width:100%" style="font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |大字南野 |みなみの |1889年4月1日 |未実施 | | |- |南野一〜六丁目 |みなみの |1976年11月1日 |1976年11月1日 |大字南野、大字清瀧の各一部 | |- |江瀬美町 |えせびちょう |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |雁屋北町 |かりやきたまち |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |雁屋南町 |かりやみなみまち |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |雁屋西町 |かりやにしまち |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |北出町 |きたでちょう |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |二丁通町 |にちょうどおりちょう |1974年10月7日 |1974年10月7日 |大字南野の一部 | |- |楠公一・二丁目 |なんこう |1975年10月20日 |1975年10月20日 |大字南野の一部 | |- |米崎町 |こめざきちょう |1975年10月20日 |1975年10月20日 |大字南野の一部 | |- |塚脇町 |つかわきちょう |1976年11月1日 |1976年11月1日 |大字南野の一部 | |- |大字中野 |なかの |1889年4月1日 |未実施 | | |- |rowspan="2"|中野一〜三丁目 |rowspan="2"|なかの |1976年11月1日(一・二) |1976年11月1日 |大字中野、大字南野、大字清瀧の各一部 | |- |1979年10月1日(三) |1979年10月1日 |大字中野の一部 | |- |中野新町 |なかのしんまち |1975年10月20日 |1975年10月20日 |大字中野の一部 | |- |中野本町 |なかのほんまち |1977年10月1日 |1977年10月1日 |大字中野の一部 | |- |美田町 |みたちょう |1975年10月20日 |1975年10月20日 |大字蔀屋、大字中野の各一部 | |- |大字蔀屋 |しとみや |1889年4月1日 |未実施 | | |- |蔀屋本町 |しとみやほんまち |1975年10月20日 |1975年10月20日 |大字蔀屋の一部 | |- |蔀屋新町 |しとみやしんまち |1979年10月1日 |1979年10月1日 |大字蔀屋の一部 | |- |大字清瀧 |きよたき |1889年4月1日 |未実施 | | |- |清滝中町 |きよたきなかまち |1979年10月1日 |1979年10月1日 |大字清瀧の一部 | |- |清滝新町 |きよたきしんまち |1979年10月1日 |1979年10月1日 |大字清瀧の一部 |<!--市内唯一の-->大阪府営清滝住宅などがある |- |大字岡山 |おかやま |1889年4月1日 |未実施 | | |- |岡山一〜五丁目 |おかやま |1977年10月1日 |1977年10月1日 |大字岡山、大字中野の各一部 | |- |岡山東一〜五丁目 |おかやまひがし |1979年10月1日 |1979年10月1日 |大字岡山、大字清瀧の各一部 | |- |砂一〜四丁目 |すな |2013年11月5日 |2013年11月5日 |大字砂の全部 | |- |大字逢坂 |おうさか |1889年4月1日 |未実施 | | |- |大字下田原 |しもたわら |1961年6月25日 |未実施 | | |- |大字上田原 |かみたわら |1961年6月25日 |未実施 | | |- |[[田原台]]一〜九丁目 |たわらだい |1989年7月1日 |1989年7月1日 |大字下田原、大字上田原の各一部 | |- |rowspan="2"|さつきヶ丘 |rowspan="2"|さつきがおか |rowspan="2"|2000年8月1日 |2000年9月1日 |さつきヶ丘の一部 | |- |2001年2月1日 |さつきヶ丘のうち住居表示未実施区域の全部 | |- |緑風台 |りょくふうだい |2003年3月1日 |2003年3月1日 |大字上田原の一部 | |- |} '''四條畷地区''' [[ファイル:Shijonawate Shijonawatecity Osakapref area.JPG|thumb|250px|四條畷地区の範囲]] 田原村を編入する前の四條畷町の範囲であり、[[大阪平野]]の一部である。[[大阪市]]の近郊都市として、[[国道163号]]と[[国道170号]]が交差しておりかつJR[[片町線]]の沿線である。また、農地や史跡が残されている地域もあり、地区の東側は[[生駒山地]]の北側に位置しており、[[金剛生駒紀泉国定公園]]に指定されている。また、旧[[大阪府立四條畷北高等学校]]・[[第二京阪道路]]の近隣地帯である[[砂 (四條畷市)|砂]]地区の開発も進められている。<ref name="序論"/><ref name="現状"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/10/10/101001/suna1/01.pdf|title= 砂第1地区地区計画| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> '''田原地区''' [[ファイル:Tahara Shijonawatecity Osakapref area.JPG|thumb|250px|田原地区の範囲]] 旧田原村の範囲であり、[[奈良県]]の県境に位置する地区である。[[生駒山地]]の一部である北生駒山地の麓の農業地帯であるが、[[1969年]][[5月20日]]に都市計画区域に指定され、その後は[[関西文化学術研究都市]]に指定されるとそれらに似合った開発し、[[1978年]][[10月]]に土地区画整理事業の計画を終えてから、[[1984年]][[10月]]に田原ニュータウンの起工が行われ、宅地として開発された。その結果、[[1990年]][[5月11日]]にパークヒルズ田原が街開きされ、[[田原台]]などの新興住宅地が点在しており、それまで減少傾向であった市内の人口が増加した<ref name="序論"/><ref name="田原地区地区計画"/><ref name="町だより 101号"/><ref name="田原中沿革"/><ref>{{Cite web|和書| url= http://web1.kcn.jp/tawara-elm/kigen.htm|title= 田原の起源| publisher= 四條畷市立田原小学校| accessdate=2012-8-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url= http://web1.kcn.jp/tawara-elm/gakouannai.htm|title= 学校案内| publisher= 四條畷市立田原小学校| accessdate=2012-8-12}}</ref>。 <gallery> ファイル:Kamitahara Shijonawatecity Osakapref Osakapref and Narapref 701 Nakagaito Minamitahara line No,2.JPG|田原地区の古くから残る既存集落<br />上田原で撮影 ファイル:Taharadai5 Shijonawate Osakapref.JPG|田原地区の新興住宅地<br />田原台4丁目で撮影 </gallery> == 行政 == [[ファイル:Shijonawate city-office.jpg|thumb|160px|四條畷市役所]] === 市役所 === * 四條畷市役所 [[1912年]]に竣工した庁舎であり、老朽化・[[第二室戸台風]]に伴う被害・急激な人口増加に対する対応・田原村との合併に伴う行政の向上のために当町の建設計画事業の一環として建設され、[[1964年]][[11月5日]]に新築移転され、現在の場所で業務を開始している。<ref name="序論"/><ref name="町だより 21号"/><ref name="町だより 21号"/><ref name="町だより 37号">町だより 37号</ref><ref name="町だより 37号">町だより 37号</ref><ref name="町だより 44号">町だより 44号</ref><ref name="町だより 44号">町だより 44号</ref> * 田原支所 田原村と編入合併した結果、田原村役場跡に田原支所を設置した。<ref name="町だより 3号"/> === 財政 === * 市税収入は減ってきているため[[1998年]]から[[2007年]]度まで赤字を出していたが、人件費を削減したりと対策した結果、[[2008年]]度から3年連続で黒字を維持している。<ref name="財政">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/pdf/01/03/03060602.pdf|title= 行財政の現状| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref><ref name="総説">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s05/03/s050301/2nd_half_plan/04.pdf|title= 第5次四條畷市総合計画【後期計画】 総説| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref> *住民税の半分以上を収めるにもかかわらず、田原台・さつきが丘・緑風台・大字上田原、下田原への税金投資はほぼない。そのため、かなり発展が遅れていると言える。 === 歴代市長 === {| class="wikitable" !代<ref name="三役">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/12/017-001.xls|title= 歴代三役 | publisher= 四條畷市| accessdate=2015-11-18}}</ref>!!氏名<ref name="三役"/>!!就任日<ref name="三役"/>!!退任日<ref name="三役"/>!!備考 |- |初代市長 |[[三牧信知]] |[[1967年]][[10月15日]] |[[1972年]][[10月14日]] |四條畷町長から継承 |- |二代目 |[[森本稔]] |[[1972年]][[10月15日]] |[[2002年]][[7月31日]] |汚職事件で逮捕され辞職 |- |市長職務代理者 |ーーー |[[2002年]][[8月1日]] |[[2002年]][[9月8日]] | |- |三代目 |[[田中夏木]] |[[2002年]][[9月8日]] |[[2012年]][[11月30日]] |健康状態を理由に辞職 |- |市長職務代理者 |[[大井俊道]] |[[2012年]][[12月1日]] |[[2013年]][[1月19日]] |[[副市町村長|副市長]] |- |四代目 |[[土井一憲]] |[[2013年]][[1月20日]] |[[2017年]][[1月19日]] | |- |五代目 |[[東修平]] |[[2017年]][[1月20日]] |現職 |[[2024年]][[12月]]に、[[市長]][[選挙]]を、年内実施の予定。選挙期日は現時点で未定で、[[2025年]][[1月19日]]に任期満了となる。前回は、[[2020年]][[12月27日]]に投・開票が実施された。 |} == 立法 == === 市議会 === 定数は12人。任期は2019年5月1日 - 2023年4月30日。 [[2020年]][[12月28日]]時点での会派構成は以下の通り。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" !会派名!!議席数!!所属党派 |- |なわて葵風会||3|| |- |公明党||3||[[公明党]] |- |大阪維新の会||2||[[大阪維新の会]] |- |畷ビジョンの会||2|| |- |無所属||2|| |} ''' [[大阪府議会]](大東市及び四條畷市選挙区)''' * 定数:2名 (2015年の府議選より、大東市と合区) * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 * 橋本和昌(大阪維新の会) * 内海久子(公明党) '''国政選挙 ''' * [[衆議院]][[衆議院小選挙区制選挙区一覧|小選挙区]]では、寝屋川市、大東市と共に[[大阪府第12区]]を構成する。 * [[藤田文武]]([[日本維新の会]]) == 警察署・消防署 == かつては<!--四條畷-->[[警察署]]は市内<!--場所としては現在の楠公交番がある所-->にあったが、[[1978年]][[1月9日]]に[[大東市]]にある[[四條畷警察署]]に移転し、それ以降は市内にはない。 消防は[[四條畷市消防本部]]として市内に[[消防本部]]と[[消防署]]を設置していたが、消防広域化に伴って[[大東市消防本部]]と統合し[[大東四條畷消防組合|大東・四條畷消防組合]]で本部は大東市内となり、市内には四條畷消防署と田原分署がある<ref name="施設">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/|title= 主な公共施設・機関等一覧| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-11}}</ref>。 == 施設 == === 図書館 === * 四條畷市立四條畷図書館<ref name="施設"/> * 四條畷市立田原図書館<ref name="施設"/> === 公園 === * 戎公園 * 北谷公園<ref name="序論"/> <!--読みはそのまま「きたたに」公園である。--> * 雁屋北公園<ref name="序論"/> === 病院 === * [[畷生会脳神経外科病院]] * 北河内藤井病院 * 阪奈サナトリウム === 福祉施設 === * ハニコウム園芸<ref name="施設"/> * なわて更生園<ref name="施設"/> * 四條畷市立老人福祉センター<ref name="施設"/> * 四條畷市立福祉コミュニティーセンター<ref name="施設"/> === その他の施設 === * グリーンホール田原<ref name="施設"/> * 四條畷市民センター<ref name="施設"/> * 四條畷市立市民総合体育館<ref name="施設"/> * 四條畷市立野外活動センター<ref name="施設"/> * 四條畷市シルバー人材センター<ref name="施設"/> * [[四條畷市立歴史民俗資料館]]<ref name="序論"/> * 飯盛霊園<ref name="施設"/> * 大阪生駒霊園 * [[寝屋川市野外活動センター]] * 大阪パブリックゴルフクラブ * TRUE MAN RACING - (トゥルーマンレーシング) == 姉妹都市・友好都市 == *{{JPN}} [[三重県]][[北牟婁郡]][[紀北町]] **[[1995年]][[7月1日]]に旧紀伊長島町と友好都市提携を結ぶ。[[2005年]][[12月12日]]に合併後の紀北町と友好都市提携を結ぶ。 *{{DEU}} [[ノルトライン=ヴェストファーレン州]] [[ライン・ノイス郡]] [[メアブッシュ]] (''Meerbusch'') **[[2010年]][[12月13日]]に両市創立40周年を祝って現地において友好都市提携を結ぶ。メアブッシュ市はドイツで唯一外国人住民中日本人の割合が最も高い事が特徴であるが、四條畷市が日本における初めての友好都市となった。 == 経済 == === 産業人口 === {| class="wikitable" !調査名<ref name="産業(3部門)別就業者数及び就業者割合">{{Cite web|和書| url= http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/s07/02/03/003-026.xls|title= 産業(3部門)別就業者数及び就業者割合| publisher= 四條畷市| accessdate=2012-8-12}}</ref>!!総数<ref name="産業(3部門)別就業者数及び就業者割合"/>!!第1次産業<ref name="産業(3部門)別就業者数及び就業者割合"/>!!第2次産業<ref name="産業(3部門)別就業者数及び就業者割合"/>!!第3次産業<ref name="産業(3部門)別就業者数及び就業者割合"/> |- |2010年国勢調査 |23,404人 |106人 |6,431人 |15,793人 |} === 商業施設 === 長らく大阪府下の市では珍しく、大型[[スーパーマーケット]]がないため隣接市などの[[ショッピングセンター]](SC)へ向かう流れが強かったが、[[2015年]][[10月23日]]に[[寝屋川市]]にまたがる形で[[イオンモール四條畷]]がオープンした。 オープン以前の人の流れは、[[清滝峠]]以西の住民は[[守口市]]の[[イオンモール大日]]や[[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]の[[イオンモール鶴見緑地]]、[[大東市]]の[[ポップタウン住道]]、[[寝屋川市]]の[[イオンモール寝屋川]]<!--2016年8月末に閉店予定-->、[[ビバホーム|ビバモール]]寝屋川または[[平和堂]]アル・プラザ香里園店への商圏になっていた。 清滝峠以東にある上田原・下田原・[[田原台]]・緑風台・さつきヶ丘地区の住民は[[奈良県]][[生駒市]]にある[[近鉄百貨店]]生駒店やイオン奈良登美ヶ丘SC(現:[[イオンモール奈良登美ヶ丘]])、[[2007年]][[5月1日]]に開業した[[京都府]][[木津川市]]のイオン高の原SC(現:[[イオンモール高の原]])への商圏になっていた。 現在は、隣接する奈良県側からも買い物に来る車が多数見受けられる様になった。 === 業務効率化とコスト削減の取り組み === 購買DX・契約DX・請求DXの「Pro-Sign」を提供する[[株式会社プロレド・パートナーズ]]と、大阪府四條畷市は、企業や自治体の購買活動・管理を効率化するクラウドサービス 「Pro-Sign(プロサイン)」を活用した実証実験を開始した。今回の実証実験では、[[株式会社プロレド・パートナーズ]]が提供する「Pro-Sign(プロサイン)」の見積取得機能を活用したもので、クラウド上で複数の企業から見積を取得できるサービス。一度の依頼で複数社からの見積をクラウド上で取得でき、その後の連絡もチャット上で行えることから、業務効率化を図るとともに、見積の取得のために何度も来庁してもらう必要がなくなり、見積提供事業者の時間的負担および経済的負担も軽減することができる。[https://www.prored-p.com/news/public_220818/] === 四條畷市に本社を置く主な企業 === * [[平山産業]] * [[トーアミ]] * [[サン電子工業株式会社]] === 金融機関 ===<!-- 有人店舗のみ、その町名と〇丁目まで記載(郵便局も同様) --> <!-- りそな銀行四條畷支店(市の指定金融機関且つ公金取り纏め店)は令和3年3月22日から関西みらい銀行の同支店(大東市学園町)内に移転。但し、旧支店地(楠公1丁目)と市役所本庁内に店舗外ATMあり。https://resona-map.jp/detail.php?id=554 --> *[[三井住友銀行]] 四条畷支店(雁屋(かりや)南町) *[[関西みらい銀行]] 忍ケ丘支店(岡山2丁目) *[[大阪信用金庫]] 四条畷支店(米崎町) *[[大阪厚生信用金庫]] 四条畷支店(雁屋南町) *[[枚方信用金庫]] 忍ケ丘支店(岡山東2丁目) *大阪東部[[農業協同組合]] 四條畷支店(中野3丁目)、田原支店(下田原) <!-- 他に、イオン銀行がイオンモール内に有人出張所を設置。(なお、田原地区にはJA以外の有人支店は存在せず、南都銀行の店舗外ATMがサンパルコ田原(田原台4丁目)にある。) --> === 日本郵政グループ === (2012年12月現在) *[[日本郵便|日本郵便株式会社]] ** [[四條畷郵便局]](中野本町) - 集配局。★ ** 四條畷楠公(なんこう)郵便局(雁屋南町) ★ ** 四條畷岡山郵便局(岡山東2丁目) ★ ** 四條畷南野(みなみの)郵便局(南野4丁目) ** 四條畷二丁通(にちょうどおり)郵便局(二丁通町) ** 田原(たわら)簡易郵便局(田原台5丁目) :田原簡易郵便局を除く各郵便局に[[ゆうちょ銀行]]のATMが設置されており、★印の郵便局ではホリデーサービスを実施。 ※四條畷市内各区域の郵便番号は「'''575-00xx'''」(四條畷郵便局の集配担当)となっている。 == 教育 == === 幼稚園 === * [[四條畷市立忍ケ丘あおぞらこども園]] * [[星子学園 星子幼稚園]](旧・若松幼稚園)四條畷市 * [[山本栄学園 畷幼稚園]] === 小学校 === * [[四條畷市立四條畷小学校]] * [[四條畷市立四條畷東小学校]] * [[四條畷市立四條畷南小学校]] * [[四條畷市立岡部小学校]] * [[四條畷市立くすのき小学校]] * [[四條畷市立忍ヶ丘小学校]] * [[四條畷市立田原小学校]] === 中学校 === * [[四條畷市立四條畷中学校]] * [[四條畷市立四條畷西中学校]] * [[四條畷市立田原中学校]] * [[四條畷市立四條畷南中学校]] === 高等学校 === * [[大阪府立四條畷高等学校]] === 大学 === * [[大阪電気通信大学]]四條畷キャンパス === 特別支援学校 === * [[大阪府立交野支援学校|大阪府立交野支援学校四條畷校]] == 交通 == === 鉄道 === * [[西日本旅客鉄道]] ** [[片町線|片町線(JR学研都市線)]] - [[忍ケ丘駅]] 四條畷市の中心駅でもある'''[[四条畷駅]]'''は、駅としては隣の[[大東市]]に立地している。なお田原地区の住民は、[[奈良交通]]バスで奈良県生駒市にある[[近畿日本鉄道|近鉄]][[生駒駅]]へ出る場合が多い。 === バス === * [[京阪バス]]:四条畷駅から[[寝屋川市駅]]、京阪[[大和田駅 (大阪府)|大和田駅]]、イオンモール四條畷へと伸びるが、イオンモール四條畷行きを除き、本数は少ない。またコミュニティバス(下記)を運行する。 * [[近鉄バス]]:四条畷駅から清滝団地および[[大阪電気通信大学]]四條畷キャンパス、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[東花園駅]]([[新石切駅]]経由)への路線がある。また、お彼岸やお盆の季節などに四条畷駅と飯盛霊園を結ぶ直通バスを臨時運行している。 * [[奈良交通|奈良交通バス]]:奈良県生駒市にある[[近畿日本鉄道|近鉄]][[生駒駅]](南口)から田原台地区への路線がある。 * [[四條畷市コミュニティバス]] === 道路 === [[ファイル:Shimotahara Shijonawatecity Osakapref Route 163 No,2.JPG|thumb|160px|田原地区を縦断する国道163号<br />下田原で撮影]] *[[高速自動車国道]] **市内には路線なし *[[一般国道]] **[[国道1号]]([[第二京阪道路]])- 市内に第二京阪道路のICはない。 **[[国道163号]]([[清滝生駒道路]])- 清滝第1トンネル・第2トンネルの二本のトンネルで、大阪市中心部と、けいはんな地区を直結している。飯盛霊園側は、片側1車線しかないので、頻繁に渋滞する。 **[[国道170号]](大阪外環状線、旧道=東高野街道) *[[主要地方道]] **[[大阪府道・奈良県道8号大阪生駒線]]([[阪奈道路]]) **[[大阪府道20号枚方富田林泉佐野線]] *[[都道府県道|一般府道]] **[[大阪府道160号四條畷停車場線]] **[[大阪府道162号大東四條畷線]] **[[大阪府道・奈良県道701号中垣内南田原線]] == 名所・旧跡 == [[ファイル:小楠公墓所 02.JPG|thumb|160px|小楠公(御墓所)の楠]] [[ファイル:和田賢秀墓.jpg|thumb|160px|和田賢秀公の墓]] * [[小楠公御墓所]]([[楠木正行]]の墓([[大阪府指定文化財一覧|大阪府指定文化財]] 史跡)) ** 小楠公(御墓所)の[[楠]](大阪府指定文化財 天然記念物) * [[四條畷神社]](桜や楓の名所) * [[飯盛山城]] * [[室池]] * [[権現の滝 (大阪府)|権現の滝]] * [[忍陵神社]] * [[和田賢秀]]墓(大阪府指定文化財 史跡) * [[忍岡古墳]]([[石室]]/大阪府指定文化財 史跡) * 龍尾寺 * [[四條畷高等学校本館]](国登録有形文化財) == 出身有名人 == === 著名な出身者 === * [[角淳一]] - [[フリーアナウンサー]]。 * [[山口智充]] - [[お笑いタレント|お笑い芸人]] [[DonDokoDon]]、[[俳優]]、ミュージシャン * [[稲田直樹]] - お笑い芸人、[[アインシュタイン (お笑いコンビ)|アインシュタイン]]のボケ担当。 * [[宇治原史規]] - お笑い芸人、[[ロザン]]のツッコミ担当。 * [[なるみ]] - [[タレント]]。 * [[田中さなえ]] - タレント。 * [[泉ゆうこ]] - タレント。 * [[福岡サヤカ]] - タレント。 * [[高橋幸慈]] - [[漫画家]]、『[[押忍!!空手部]]』の著者。 * [[石川優吾]] - 漫画家、『[[格闘美神 武龍]]』の著者。 * [[俵万智]] - [[詩人]]。中学時代まで四條畷市に在住。 * [[高畑耕治]] - 詩人。 * [[山脇光治]] - [[プロ野球選手]]。 * [[谷口功一 (野球)|谷口功一]] - プロ野球選手。 * [[順風秀一]] - プロ野球選手。 * [[今村信貴]] - プロ野球選手。 * [[井上朋也]] - プロ野球選手。 * [[山下裕史]] - [[ラグビー日本代表]]選手。 * [[谷口智則]] - [[絵本作家]]。 * [[相原裕介]] - [[アグレッシブインラインスケート|プロインラインスケート]]選手。 * [[佐川翔吾]] -競輪選手。 * [[鳥居充子]]<ref name="町だより 49号">町だより 49号</ref><ref name="町だより 49号">町だより 49号</ref> - [[陸上競技]]選手。 * [[岡山絵里]] - [[プロゴルファー]]。 * [[愛乙女☆DOLL#概要|早田有為子]] - [[音楽プロデューサー]]、[[愛乙女☆DOLL]]初代プロデュサー、[[Fortune Doll]]初代プロデューサー * [[朝紅龍琢馬]] - [[大相撲]][[力士]]。 === ゆかりのある人物 === * [[桂南光 (3代目)|3代目桂南光]] - [[落語家]]。四條畷市在住。 * [[桂南天 (2代目)|2代目桂南天]] - 落語家、上記桂南光の弟子。四條畷市在住。 * [[河島英五]] - [[シンガーソングライター]]。晩年は四條畷市に住んでいた。 * [[石川優子]] - シンガーソングライター。[[大阪府立四條畷高等学校|府立四條畷高校]]に在学。 * [[村井美樹]] - [[俳優|女優]]。四條畷高校に在学していた。 * [[井田由美]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]編成局アナウンス専門部長。[[福岡県]][[北九州市]]の生まれであるが、大阪府への転居後に府立四條畷高校に在学。 * [[安岡正篤]] - [[陽明学|陽明学者]]。[[大阪府立四條畷高等学校#概要|旧制四條畷中学校]]に在学。 * [[伊與田覺]] - [[成人教学研修所]]学監。 * [[持統天皇]] - 字名を鸕野讚良皇女(ウノノササラノオオキミ)という。幼少時を当市域内にあった大寺院・正法寺で過ごした(四條畷市史より)。 * [[楠木正行]] - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[南朝 (日本)|南朝]]方の武将、[[楠木正成]]の長男。1348年([[貞和]]4年)、四條畷の戦いにて敗れる。享年22。 * [[和田賢秀]] - 楠木正成の甥であり、「新発意」(しんぼち)とも呼ばれる。一族での武勇の誉れ高く、常に楠木正行とともに参戦。1348年(貞和4年)1月5日(旧暦)、四條畷の戦いにおいて敵本陣への潜入を試みるが発見され、敵兵を道連れに最期を遂げる。死亡時の年齢は不詳だが、20歳くらいと考えられている。 * [[行基]] - 当市を東西に走る[[清滝街道]]を開いたと言われる。また、[[龍尾寺]]の開祖とも伝わる(「[[雨を降らせて殺された竜#大阪府]]」を参照)。 * [[星原健太]] - [[プロサッカー選手]]。四条畷FC出身。 * [[三好長慶]] - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期の飯盛山城城主。[[織田信長]]の登場までは、一時畿内の覇者であった。城下の市域内に[[キリシタン]]布教の許可を与えた。 * [[徳川秀忠]] - [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]で[[大坂城]]に前進する前、[[忍陵神社]]境内に陣を構えた。 * [[徳川家康]] - [[本能寺の変]]の直後、遊覧先の[[堺]](大阪府)から[[三河国|三河]]([[愛知県]])へ逃避する際に飯盛山に登っている。 * [[青木豊彦]] - 株式会社アオキ取締役会長、民間初の人工衛星「[[宇宙開発協同組合SOHLA|まいど1号]]」製作者の1人。四條畷市観光大使を務める。 === その他 === * [[Fortune Doll]] - 四條畷市のご当地アイドル == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=小学館辞典編集部|edition= 初版第1刷 |date=2007-01-10|title=図典 日本の市町村章 |publisher=[[小学館]]|isbn=4095263113}} * {{Cite book|和書|editor=|edition= 初版第1刷 |date=|title= 四條畷町広報 1号 - 111号 1961 - 70|publisher=四條畷市|isbn=}} * {{Cite book|和書|editor=|edition= 初版第1刷 |date=|title= 四條畷町広報 町だより 1 - 111 1961 - 70|publisher=四條畷市|isbn=}} == 関連項目 == * [[大阪みどりの百選]] * [[:Category:大阪府の自然景勝地|大阪府の自然景勝地]] == 注釈 == {{Reflist|group="注釈"}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} {{Geographic Location |Northwest = [[寝屋川市]] |North = [[交野市]] |Northeast = |West = |Centre = 四條畷市 |East = [[生駒市]] |Southwest = |South = [[大東市]] |Southeast = }} {{大阪府の自治体}} {{四條畷市の町・字}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ししようなわてし}} [[Category:大阪府の市町村]] [[Category:四條畷市|*]]
2003-09-08T14:50:05Z
2023-12-21T01:36:34Z
false
false
false
[ "Template:Pp-vandalism", "Template:Official website", "Template:大阪府の自治体", "Template:Cite web", "Template:四條畷市の町・字", "Template:日本の市", "Template:人口統計", "Template:JPN", "Template:Cite book", "Template:Deadlink", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Normdaten", "Template:国土航空写真", "Template:DEU", "Template:Commonscat", "Template:Geographic Location" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%A2%9D%E7%95%B7%E5%B8%82
15,797
99
99(九十九、きゅうじゅうく、きゅうじゅうきゅう、ここのそじあまりここのつ、つくも)は自然数、また整数において、98の次で100の前の数である。 漢数字の百から一を取り除くと「白」という字になることから 99 を意味する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "99(九十九、きゅうじゅうく、きゅうじゅうきゅう、ここのそじあまりここのつ、つくも)は自然数、また整数において、98の次で100の前の数である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "漢数字の百から一を取り除くと「白」という字になることから 99 を意味する。", "title": "その他 99 に関連すること" } ]
99(九十九、きゅうじゅうく、きゅうじゅうきゅう、ここのそじあまりここのつ、つくも)は自然数、また整数において、98の次で100の前の数である。
{{otheruses|数字の99|算数で掛け算などを覚える方法|九九}} {{整数|Decomposition=3{{sup|2}} × 11}} '''99'''('''九十九'''、きゅうじゅうく、きゅうじゅうきゅう、ここのそじあまりここのつ、つくも)は自然数、また整数において、[[98]]の次で[[100]]の前の数である。 == 性質 == * 99は[[合成数]]であり、[[約数]]は[[1]], [[3]], [[9]], [[11]], [[33]], 99である。 ** [[約数の和]]は[[156]]。 * 二桁最大の[[自然数]]である。 * 5番目の[[カプレカ数]]であり 99{{sup|2}} = 9801 、98 + 1 = 99 となる。1つ前は[[55]]、次は[[297]]。 * 99{{sup|3}} = 970299 になり下2桁が99になる。''n'' と ''n''{{sup|3}} の下2桁が同じになる8番目の数である。1つ前は[[76]]、次は[[100]]。 ** この性質をもつ数は偶数乗においても下2桁が等しくなる。 **: 例.99{{sup|2}} = 98{{underline|01}}、99{{sup|4}} = 960596{{underline|01}} ** この性質をもつ2桁の数字列は、他に00, 01, [[24]], [[25]], [[49]], [[51]], [[75]], [[76]]がある。({{OEIS|A008856}}) * [[ハーシャッド数]]でない9の倍数のうち最小の数である。 * {{sfrac|1|99}} = 0.{{underline|01}}… (下線部は[[循環節]]で長さは2) ** [[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が2になる8番目の数である。1つ前は[[88]]、次は[[110]]。({{OEIS|A070022}}) * 19番目の[[回文数]]である。1つ前は[[88]]、次は[[101]]。 ** 1桁の数を除くと9番目の[[回文数]]である。 ** 9が2つ並ぶ[[ゾロ目]]である。1つ前は[[88]]、次は[[111]]。 ** 3つの回文数の積で表せる5番目の回文数である。1つ前は[[88]]、次は[[242]]。({{OEIS|A078895}}) ** [[二進法|二進数]]で回文数になる数である。1つ前は[[93]]、次は[[107]]。({{OEIS|A006995}}) * 99 = 2{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 4{{sup|3}} ** 3連続整数の[[立方和]]になる数である。1つ前は[[36]]、次は[[216]]。 ** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる15番目の数である。1つ前は[[92]]、次は[[118]]。({{OEIS|A025395}}) ** 異なる3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる4番目の数である。1つ前は[[92]]、次は[[134]]。({{OEIS|A025399}}) ** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[29]]、次は[[353]]。({{OEIS|A074526}}) ** 99 = ({{sfrac|3+1|2}}){{sup|3}} + ({{sfrac|5+1|2}}){{sup|3}} + ({{sfrac|7+1|2}}){{sup|3}} * 99 = (9 + 9) + (9 × 9) ** [[各位の和]]と各位の積を加えてできる最大の数である。1つ前は[[89]]。({{OEIS|A038364}}) * [[各位の和]]が18になる最小の数である。次は[[189]]。 ** 各位の和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の17は[[89]]、次の19は[[199]]。({{OEIS|A051885}}) * 各位の[[平方和]]が162になる最小の数である。次は[[778]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の161は[[489]]、次の163は[[199]]。({{OEIS|A055016}}) * [[1]]~[[11]]までの[[約数]]の和である。1から連続する整数の約数の和とみたとき、1つ前は[[87]]、次は[[127]]。 * 99 = 10{{sup|2}} &minus; 1 ** ''n'' = 2 のときの 10{{sup|''n''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[999]]。({{OEIS|A002283}}) ** ''n'' = 10 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[80]]、次は[[120]]。({{OEIS|A005563}}) * 99 = 4 × 5{{sup|2}} &minus; 1 ** ''n'' = 5 のときの 4''n''{{sup|''2''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[63]]、次は[[143]]。({{OEIS|A000466}}) * 99 = 1{{sup|2}} + 7{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 3{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 9{{sup|2}} = 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和3通りで表せる6番目の数である。1つ前は[[89]]、次は[[101]]。({{OEIS|A025323}}) * 99 = 3{{sup|2}} × 11 ** ''n'' = 2 のときの 11 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[33]]、次は[[297]]。({{OEIS|A120354}}) ** 2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる15番目の数である。1つ前は[[98]]、次は[[116]]。({{OEIS|A054753}}) * 同じ数を2つ並べてできる9番目の数である。1つ前は[[88]]、次は[[1010]]。({{OEIS|A020338}}) * 99 = 18{{sup|2}} &minus; 225 ** ''n'' = 18 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 15{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[64]]、次は[[136]]。({{OEIS|A132772}}) * 円周上に異なる8つの点をとってそれぞれを結んだとき99個の領域に分けることができる。1つ前の7点は[[57]]、次の9点は[[163]]。({{OEIS|A000127}}) ** この数は ''n'' = 8 のときの {{sfrac|''n''{{sup|4}} &minus; 6''n''{{sup|3}} + 23''n''{{sup|2}} &minus; 18''n'' + 24|24}} の値である。 == その他 99 に関連すること == === 99番目 === * [[原子番号]] 99 の[[元素]]は[[アインスタイニウム]] (Es) である。 * 第99代[[天皇]]は[[後亀山天皇]]である。 * [[日本]]の第99代[[内閣総理大臣]]は[[菅義偉]]である。 * 第99代[[教皇|ローマ教皇]]は[[エウゲニウス2世 (ローマ教皇)|エウゲニウス2世]](在位:[[824年]][[6月]]~[[827年]][[8月]])である。 * [[STS-99]]:[[アメリカ合衆国]]の[[スペースシャトル]]のミッション。 === 漢字による表現 === ==== 九十九 ==== * [[九九]](くく)は[[乗算]]の暗算での覚え方。 * 九十九は、つくもと読む。九十九は、{{読み仮名|[[九十九髪]]|つくもがみ|}}の略称であり、また、[[フトイ]]という植物の古名でもある。 * 九十九は、「つづら」とも読む。旧来の「[[葛籠]]」(つづら)の織り目が九十九に見えることから、葛籠の隠語として九十九をつづらと読ませたとされる。織り目が九十九に見える旧来の葛籠は、平織りと違って縁の折れ目部分でも繊維が斜めに交差するため、壊れにくく丈夫なのが特徴。 * [[九十九電機]]屋号の愛称。 *『九十九』(つくも)は[[森田修平]]監督の短編アニメ作品。→ [[SHORT PEACE]] ==== 「白」 ==== [[漢数字]]の百から一を取り除くと「白」という字になることから 99 を意味する。 * [[白寿]]:99歳のお祝い。百から一を取り除くと「白」という字になることから。 * {{読み仮名|九十九髪|つくもがみ}}:[[老女]]の[[白髪]]や、老女を指す。ツクモ(江浦草、[[フトイ]]の異名)は植物名で、白髪をこれに喩えたもの。またツクモが「次百(つぐもも)」に通ずるからであるともいう。 ==== 地理 ==== * [[九十九里浜]](くじゅうくりはま):[[千葉県]]の[[太平洋]]岸に広がる海浜。 * [[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]](くじゅうくしま):[[佐世保市]]から[[平戸市]]にかけての沿岸の島々の総称。 * [[九十九島 (島原市)|九十九島]](つくもしま):[[島原市]]沖に浮かぶ島々の総称。 * [[九十九湾]](つくもわん):[[石川県]]の[[能登半島国定公園]]にあるリアス式海岸。入り江の数が多いことから。 * [[つづら折り|九十九折(り)]](つづらおり):幾つも折れ曲がりが延々と続いている坂道・山道。 === 芸能・スポーツ === * [[ナインティナイン]] (99、NINETY-NINE):[[吉本興業]]に所属する[[お笑い芸人|お笑いコンビ]]。メンバーは[[岡村隆史]]と[[矢部浩之]]。 *『99』:[[TOTO (バンド)|TOTO]] が[[1979年]]に発表したアルバム「[[ハイドラ (アルバム)|ハイドラ]]」の曲。 *『"99"』:[[B'z]] の[[松本孝弘]]が[[1988年]]に発表したアルバム「[[Thousand Wave]]」の4曲目に収録されている曲。 * [[99番目の夜]]:[[PENICILLIN]]のシングル(1997年)。 * [[GOLDFINGER'99]]:[[郷ひろみ]]のシングル(1999年)。 * {{interlang|en|The 99}}:[[イスラム教]]における神の99の名前をモチーフにした[[漫画]]。<!--2007年--> * 99 -NINETY NINE-:[[宗我部としのり]]の漫画。<!--2009年--> *『99』:[[福山雅治]]が[[2009年]]に発表したアルバム『[[残響 (福山雅治のアルバム)|残響]]』の15曲目に収録されている曲。 * [[僕とスターの99日]]:[[2011年]][[10月23日]]から[[12月25日]]まで[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列の『[[ドラマチック・サンデー]]』枠にて放送された[[テレビドラマ]]。 * [[99は終わらない]]:郷ひろみのシングル(2014年)。 * [[99 (Superflyの曲)]]:[[Superfly]]のシングル(2016年)。 * [[超逆境クイズバトル!! 99人の壁]]:[[2017年]]から[[2021年]]まで[[フジテレビ系列]]より放送されていた、[[佐藤二朗]]司会の[[クイズ番組|クイズ]][[バラエティ番組]]。 * [[99 (MUCCの曲)]]:[[MUCC]]の会場限定シングル(2023年)。 * プロ[[アイスホッケー]]リーグ、[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]のスーパースター、[[ウェイン・グレツキー]]の現役時代の背番号。現在、背番号「99」はNHL全30チームを通じての[[永久欠番]]となっている。 * [[日本プロ野球]]では、[[支配下選手登録|支配下選手]]が付けることのできる背番号の中で最大の数。なお、日本プロ野球で初めて99番を付けた選手は[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の[[鳥坂九十九]]<ref>出野哲也「日米比較プロ野球背番号を楽しむ小事典」彩流社、P219</ref>。 === 宗教 === * [[付喪神]](つくもがみ):[[妖怪]]の一種で、使われなくなった道具を[[供養]]せずに99年間放置すると[[魂]]が宿り、化けて出るという伝説がある。[[怪談]]の類に比較的よく登場する。 * [[イスラム教]]では神([[アッラーフ]])が持つ 99 の名前([[アッラーフの99の美名]])が語られている。 * [[クルアーン]]における第99番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[地震 (クルアーン)|地震]]である。 === その他 === * “100 &minus; 1”である点から、「ほぼ完全」という意味で使われることが多い。例:「99%確実」 * 99 はしばしば、具体的な数を意味せず「多い」の意味で使われる。 * 救急車:[[大富豪]]では、9のカードを2枚出すと、場を流せるルール。 * [[NINETY-NINE NIGHTS]]:[[Xbox 360]]対応の[[アクションゲーム]]。 * 99 の平方は 9801。99.1 の平方 (9820.81) の小数点以下を[[四捨五入]]すると 9821。→ [[PC-9800シリーズ]]、[[PC-9821シリーズ]]。 * [[SHOP99]]:99円の[[100円ショップ]]。 * [[ソフト99コーポレーション]]:日本のカーワックスメーカー。 * [[サーブ・99|99]]:[[スウェーデン]]の[[自動車]]製造会社の[[サーブ・オートモービル]]社が1968年から84年まで製造、販売していた中型乗用車。 *「ヨヨ」は、[[みかか]]のように日本の[[パソコン通信]]の[[スラング]]で、99 を意味する。 * [[閏年]]を考慮しない場合、[[4月9日]]は1月1日から数えて99日目にあたる。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|9|}} * [[9月9日]] * [[イレブンナイン]] - 99.999999999% {{自然数}} {{リダイレクトの所属カテゴリ | collapse = | header = この記事は以下のカテゴリでも参照できます | redirect1 = 九十九 | 1-1 = 熟字訓 }}
null
2023-06-06T14:28:30Z
false
false
false
[ "Template:自然数", "Template:リダイレクトの所属カテゴリ", "Template:Otheruses", "Template:整数", "Template:OEIS", "Template:読み仮名", "Template:数字2桁", "Template:Sup", "Template:Underline", "Template:Sfrac", "Template:Interlang", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/99
15,798
スノッリのエッダ
スノッリのエッダ(古ノルド語: Snorra Edda、略記号: SnE)とは、1222年ごろにアイスランドの詩人スノッリ・ストゥルルソンが著した詩の教本である。 若手の詩人たちに北欧神話と詩の技法を教授する目的で書かれた。大変よくまとまっている上に、失われたエッダ詩(古エッダ)やスカルド詩も数多く含まれており、この本なくして北欧神話、ひいてはゲルマン神話を現代に復元することはほぼ不可能であると言ってよい。 元々は単なる「エッダ」という名前であったが、この作品に引用される歌謡の形式もエッダと呼ばれるようになったため、区別して「スノッリのエッダ」あるいは「新エッダ」「散文のエッダ」などと呼ばれるようになった。 『エッダ』という題名、および作者がスノッリ・ストゥルルソンであるという事実は、『エッダ』の写本の一つ『ウプサラ写本』の記述に基づいている。 序文(英語版)、および3部のそれぞれ完全に独立した作品からなる。 各部は異なる年に書かれており、最初に書かれた第三部は、1222年ないし3年、第一部、第二部は早くても1225年である。 序文ではスノッリの神話観が語られているが、随所にキリスト教の影響が見られ、またオーディンをトローヤ出身の人間の王とするなど、エウヘメロス的解釈が垣間見られる。ただし、この序文がスノッリの手によるものか、疑問視する声もある。 魔術王ギュルヴィが変装してアースガルズに赴き、そこでオーディン神らから古代の伝承や予言を語られる、という筋立て。古エッダや民間伝承に基き、世界創世や人間の創造、神々の一覧、未来に起こるであろう最終戦争ラグナロクなどのことがまとめられている。 詩の神ブラギがエーギル神に詩の技法の説明をするという筋立て。完全に若手のスカルド(詩人)のための作品で、昔のスカルド詩の引用や、ケニングという技巧の説明などに終始する。だが、途中で神代の興味深い挿話が何篇か紹介されており、神話の資料としても欠かせない。 著者スノッリがさまざまな詩形を織り込んで作った詩で、いわば詩の手本とも言うべきものである。ノルウェー滞在時の厚遇に対し、スノッリがノルウェー王ホーコン4世とスクーリ公の偉業を讃えて贈ったものであるが、全102聯(れん)の各聯全てが別の韻律と詩形を用いられており、著者スノッリが教育者としてだけではなく、詩人としても天才的であることが示されている。 『スノッリのエッダ』には主に以下の4種の写本が存在する。 また以下の断片的な写本が参照されることがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スノッリのエッダ(古ノルド語: Snorra Edda、略記号: SnE)とは、1222年ごろにアイスランドの詩人スノッリ・ストゥルルソンが著した詩の教本である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "若手の詩人たちに北欧神話と詩の技法を教授する目的で書かれた。大変よくまとまっている上に、失われたエッダ詩(古エッダ)やスカルド詩も数多く含まれており、この本なくして北欧神話、ひいてはゲルマン神話を現代に復元することはほぼ不可能であると言ってよい。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元々は単なる「エッダ」という名前であったが、この作品に引用される歌謡の形式もエッダと呼ばれるようになったため、区別して「スノッリのエッダ」あるいは「新エッダ」「散文のエッダ」などと呼ばれるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『エッダ』という題名、および作者がスノッリ・ストゥルルソンであるという事実は、『エッダ』の写本の一つ『ウプサラ写本』の記述に基づいている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "序文(英語版)、および3部のそれぞれ完全に独立した作品からなる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "各部は異なる年に書かれており、最初に書かれた第三部は、1222年ないし3年、第一部、第二部は早くても1225年である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "序文ではスノッリの神話観が語られているが、随所にキリスト教の影響が見られ、またオーディンをトローヤ出身の人間の王とするなど、エウヘメロス的解釈が垣間見られる。ただし、この序文がスノッリの手によるものか、疑問視する声もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "魔術王ギュルヴィが変装してアースガルズに赴き、そこでオーディン神らから古代の伝承や予言を語られる、という筋立て。古エッダや民間伝承に基き、世界創世や人間の創造、神々の一覧、未来に起こるであろう最終戦争ラグナロクなどのことがまとめられている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "詩の神ブラギがエーギル神に詩の技法の説明をするという筋立て。完全に若手のスカルド(詩人)のための作品で、昔のスカルド詩の引用や、ケニングという技巧の説明などに終始する。だが、途中で神代の興味深い挿話が何篇か紹介されており、神話の資料としても欠かせない。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "著者スノッリがさまざまな詩形を織り込んで作った詩で、いわば詩の手本とも言うべきものである。ノルウェー滞在時の厚遇に対し、スノッリがノルウェー王ホーコン4世とスクーリ公の偉業を讃えて贈ったものであるが、全102聯(れん)の各聯全てが別の韻律と詩形を用いられており、著者スノッリが教育者としてだけではなく、詩人としても天才的であることが示されている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『スノッリのエッダ』には主に以下の4種の写本が存在する。", "title": "写本" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また以下の断片的な写本が参照されることがある。", "title": "写本" } ]
スノッリのエッダとは、1222年ごろにアイスランドの詩人スノッリ・ストゥルルソンが著した詩の教本である。 若手の詩人たちに北欧神話と詩の技法を教授する目的で書かれた。大変よくまとまっている上に、失われたエッダ詩(古エッダ)やスカルド詩も数多く含まれており、この本なくして北欧神話、ひいてはゲルマン神話を現代に復元することはほぼ不可能であると言ってよい。 元々は単なる「エッダ」という名前であったが、この作品に引用される歌謡の形式もエッダと呼ばれるようになったため、区別して「スノッリのエッダ」あるいは「新エッダ」「散文のエッダ」などと呼ばれるようになった。 『エッダ』という題名、および作者がスノッリ・ストゥルルソンであるという事実は、『エッダ』の写本の一つ『ウプサラ写本』の記述に基づいている。
[[File:Edda.jpg|thumb|right|300px|『エッダ』の表紙。[[18世紀]][[アイスランド]]の[[写本]]『ÍB 299 4to』({{仮リンク|アイスランド国立大学図書館|en|National and University Library of Iceland}}所蔵)より。]] '''スノッリのエッダ'''({{lang-non|'''Snorra Edda'''}}、略記号: '''SnE''')とは、[[1222年]]ごろに[[アイスランド]]の[[詩人]][[スノッリ・ストゥルルソン]]が著した[[詩]]の教本である。 若手の詩人たちに[[北欧神話]]と[[詩]]の技法を教授する目的で書かれた。大変よくまとまっている上に、失われたエッダ詩([[古エッダ]])や[[スカルド詩]]も数多く含まれており、この本なくして[[北欧神話]]、ひいては[[ゲルマン神話]]を現代に復元することはほぼ不可能であると言ってよい。 元々は単なる「'''[[エッダ]]'''」という名前であったが、この作品に引用される歌謡の形式もエッダと呼ばれるようになったため、区別して「スノッリのエッダ」あるいは「新エッダ」「散文のエッダ」などと呼ばれるようになった。 『エッダ』という題名、および作者がスノッリ・ストゥルルソンであるという事実は、『エッダ』の写本の一つ『ウプサラ写本』の記述に基づいている<ref>H.パウルソン、68頁。</ref>{{Sfn|Faulkes|2005|p=xiii|ps=(Introduction)}}。 {{Wikisourcelang|is|Snorra Edda|スノッリのエッダ}} {{Wikisourcelang|en|Prose Edda|スノッリのエッダの英語訳}} == 内容 == {{仮リンク|序文 (スノッリのエッダ)|en|Prologue (Prose Edda)|label=序文}}、および3部のそれぞれ完全に独立した作品からなる。 # '''[[ギュルヴィたぶらかし]]''' ('''Gylfaginning''') # '''[[詩語法]]''' ('''Skáldskaparmál''') - 『詩人の言葉』とも。 # '''{{仮リンク|韻律一覧|en|Háttatal}}''' ('''Háttatal''') 各部は異なる年に書かれており、最初に書かれた第三部は、1222年ないし3年、第一部、第二部は早くても1225年である<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』解説、谷口、304頁。</ref>。 === 序文 === 序文ではスノッリの神話観が語られているが、随所に[[キリスト教]]の影響が見られ、また[[オーディン]]を[[トロイ|トローヤ]]出身の人間の王とするなど、[[エウヘメリズム|エウヘメロス的解釈]]が垣間見られる。ただし、この序文がスノッリの手によるものか、疑問視する声もある<ref>{{Cite journal |author=谷口幸男 |year=2002 |title=スノッリ・ストゥルルソン『エッダ』「序文」と「ハッタタル(韻律一覧)」訳注(1) |journal=[[大阪学院大学]]国際学論集 |volume=13 |issue=1 |pages=203-230 |issn=0917-0561}}</ref>。 === ギュルヴィたぶらかし === {{main|ギュルヴィたぶらかし}} 魔術王[[ギュルヴィ]]が変装して[[アースガルズ]]に赴き、そこで[[オーディン]]神らから古代の伝承や予言を語られる、という筋立て。[[古エッダ]]や[[民間伝承]]に基き、[[創造神話|世界創世]]や[[人間]]の創造、神々の一覧、未来に起こるであろう最終戦争[[ラグナロク]]などのことがまとめられている。 === 詩語法 === {{main|詩語法}} [[詩]]の神[[ブラギ]]が[[エーギル]]神に詩の技法の説明をするという筋立て。完全に若手の[[スカルド]]([[詩人]])のための作品で、昔の[[スカルド詩]]の引用や、[[ケニング]]という技巧の説明などに終始する。だが、途中で神代の興味深い挿話が何篇か紹介されており、[[神話]]の資料としても欠かせない。 === 韻律一覧 === 著者スノッリがさまざまな詩形を織り込んで作った詩で、いわば詩の手本とも言うべきものである。ノルウェー滞在時の厚遇に対し、スノッリがノルウェー王[[ホーコン4世 (ノルウェー王)|ホーコン4世]]とスクーリ公の偉業を讃えて贈ったものであるが、全102聯(れん)の各聯全てが別の韻律と詩形を用いられており<ref>山室、144頁。</ref>、著者スノッリが教育者としてだけではなく、詩人としても天才的であることが示されている。 == 写本 == [[File:Snorra edda stemma.svg|thumb|right|『スノッリのエッダ』の写本の系統樹]] 『スノッリのエッダ』には主に以下の4種の[[写本]]が存在する<ref>H.パウルソン、69頁。</ref>。 # '''{{仮リンク|ウップサーラ写本|sv|Codex Upsaliensis}}'''(Codex Upsaliensis、写本番号: DG 11、略記号: U.) - 4つの内最も古い写本で、[[1300年]]頃に成立。[[ウプサラ大学図書館]]所蔵<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=384 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: DG 11 (U) - Codex Upsaliensis]</ref>。 # '''[[王の写本|(スノッリのエッダの)王の写本]]'''(Codex Regius、写本番号: GkS 2367 4to、略記号: R.) - 最も保存状態の良い写本で、おそらく[[1325年]]頃に成立しただろうと考えられている。{{仮リンク|アールニ・マグヌスソン研究所|en|Arni Magnusson Institute for Icelandic Studies}}所蔵<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=394 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: GKS 2367 4° (R) - Codex Regius]</ref>。 # '''[[ヴォルム写本]]'''(Codex Wormianus、写本番号: AM 242 fol、略記号: W.) - [[1350年]]頃に成立。[[コペンハーゲン]]の図書館にて保管<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=136 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: AM 242 fol (W) - Codex Wormianus]</ref>。 # '''{{仮リンク|ユトレヒト写本|es|Codex Trajectinus}}'''(Codex Trajectinus、写本番号: Traj 1374<sup>x</sup> または Utrecht 1374、略記号: T.) - [[1600年]]頃の紙写本。元は[[13世紀]]ごろの[[羊皮紙|皮]]写本ではないかと考えられている。[[ユトレヒト]]の大学図書館にて保管<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=542 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: Traj 1374x (Tx) - Codex Trajectinus]</ref>。 また以下の断片的な写本が参照されることがある{{Sfnm|1a1=Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. I.|2a1=Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. II.|3a1=Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. III.}}。 # '''[[AM 748 I b 4to]]''' (略記号: A.)<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=342 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: AM 748 I b 4° (A)]</ref> # '''AM 757 a 4to''' (略記号: B.)<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=346 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: AM 757 a 4° (B)]</ref> # '''AM 748 II 4to''' (略記号: C.)<ref>[https://skaldic.org/m.php?p=ms&i=343 Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages :: AM 748 II 4° (C)]</ref> == 日本語訳 == * [[谷口幸男]]訳『エッダ 古代北欧歌謡集』[[新潮社]]、1973年 ISBN 4103137010 ** スノッリのエッダは第一部「ギュルヴィたぶらかし」のみ。 * 谷口幸男訳「スノリ『エッダ』「詩語法」訳注」、『[[広島大学]]文学部紀要 特輯号』第43巻3号(1983年12月) ** 第二部「詩語法」の全文訳注。 * ステブリン・カーメンスキイ著、[[菅原邦城]]、坂内徳明訳『神話学入門』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] ISBN 4486005848 ** 巻末に第二部「詩語法」の抜粋訳。 * 谷口幸男訳注「スノッリ・ストゥルルソン『エッダ』「序文」と「ハッタタル(韻律一覧)」」(一)~(三)、『大阪学院大学国際学論集』13(1) (2002年7月)pp. 203-30; 13(2)(2002年12月)pp. 125-54;14(1)(2003年6月) pp. 99-130. ** 「序文」および第三部「韻律一覧」の全文訳注。 == 校訂版・日本語以外の翻訳 == === 校訂版 === {{wikisourcelang|is|Snorra Edda}} *{{citation | editor-first = Sveinbjörn | editor-last = Egilsson | editor-link = :en:Sveinbjörn Egilsson | url = https://archive.org/stream/eddasnorrasturl00egilgoog | title = Edda Snorra Sturlusonar: eða Gylfaginníng, Skáldskaparmál og Háttatal | year = 1848 | publisher = Prentuð i prentsmiðjulandsins, af prentara H. Helgasyni }} * {{citation | title = Edda Snorra Sturlusonar: með skáldatali | editor-first = Guðni | editor-last = Jónsson | editor-link = :en:Guðni Jónsson | publisher = Reykjavík: S. Kristjánsson | year = 1935 | language = is | url = http://www.heimskringla.no/wiki/Edda_Snorra_Sturlusonar }} * {{citation | editor-last = Faulkes | editor-first = Anthony | title = Edda }}, Norse text and English notes. **{{citation | title = Prologue and Gylfaginning | orig-year = 1982 | edition = 2nd | year = 2005 | url =http://www.vsnrweb-publications.org.uk/Edda-1.pdf | isbn = 978-0-903521-64-2 | author = Snorri Sturluson }} **{{citation | title = Skáldskaparmál 1: Introduction, text and notes | year = 1998 | url = http://www.vsnrweb-publications.org.uk/Edda-2a.pdf | isbn = 978-0-903521-36-9 | author = Snorri Sturluson | publisher = Viking Society for Northern Research }} **{{citation | title = Skáldskaparmál 2: Glossary and index of names | year = 1998 | url =http://www.vsnrweb-publications.org.uk/Edda-2b.pdf | isbn = 978-0-903521-38-3 | author = Snorri Sturluson | publisher = Viking Society for Northern Research }} **{{citation | title = Háttatal | orig-year = 1991 | edition = 2nd | year = 2007 | url = http://www.vsnrweb-publications.org.uk/Edda-3.pdf | isbn = 978-0-903521-68-0 | author = Snorri Sturluson }} === 英語訳 === {{wikisourcepar|en:Prose Edda}} * {{cite book | translator-last = Dasent | translator-first = George Webbe |translator-link= :en:George Webbe Dasent | title = The Prose or Younger Edda commonly ascribed to Snorri Sturluson | url = https://archive.org/details/Theproseoryounge000365777v0SnorReyk | year = 1842 | publisher = Norstedt and Sons }} * {{cite book | translator-last = Anderson | translator-first = Rasmus B. | translator-link = :en:Rasmus B. Anderson | title = The Younger Edda: Also Called Snorre's Edda, or the Prose Edda | publisher = Chicago: Griggs | year = 1880 | url = https://archive.org/details/youngereddaalsoc00snoruoft }} ([https://www.gutenberg.org/ebooks/18947 Project Gutenberg e-text], 1901 ed.; [[s:en:The Younger Edda (tr. Anderson)|Wikisource edition]].) * {{cite book | title = The Elder Eddas of Saemund Sigfusson; and the Younger Eddas of Snorre Sturleson | translator-first = Benjamin | translator-last = Thorpe | translator-link = :en:Benjamin Thorpe | translator-first2 = I. A. | translator-last2 = Blackwell | year = 1906 | url = http://www.gutenberg.org/ebooks/14726 }} Compilation of two translations made earlier; Blackwell's translation of the Prose Edda is from 1847. * {{cite wikisource |title=The Prose Edda |wslink=The Prose Edda (1916) |translator-last=Brodeur |translator-first=Arthur Gilchrist |translator-link= :en:Arthur Gilchrist Brodeur |date=1916 |publisher=The American-Scandinavian Foundation |location= |ref={{harvid|Brodeur|1916}}}} * {{cite book |title=The Prose Edda of Snorri Sturluson; Tales from Norse Mythology | translator-first = Jean | translator-last = Young |year=1954 |publisher=Bowes & Bowes }} * {{cite book |translator-last=Faulkes |translator-first=Anthony |date=1995 |title=Edda |url = http://vsnrweb-publications.org.uk/EDDArestr.pdf |location= |publisher=Everyman |isbn=0-460-87616-3 }} * {{cite book |translator-last=Byock |translator-first=Jesse |translator-link= :en:Jesse Byock |date=2006 |title=The Prose Edda |location= |publisher=[[:en:Penguin Classics|Penguin Classics]] |isbn=978-0-141-91274-5 }} * {{cite book | editor-first = Heimir | editor-last = Pálsson | translator-first = Anthony | translator-last = Faulkes | title = Snorri Sturluson: The Uppsala Edda, DG 11 4to | publisher = London: The Viking Society for Northern Research | year = 2012 | isbn = 978-0-903521-85-7 | url = http://vsnrweb-publications.org.uk/Uppsala%20Edda.pdf }} A version based strictly on the Codex Upsaliensis (DG 11) document; includes both Old Norse and English translation. === 日本語・英語以外の翻訳 === *{{cite book | translator-last = Cnattingius | translator-first = Andreas Jacobus | title = Snorre Sturlesons Edda samt Skalda | trans-title =Snorre Sturleson's Edda and Skalda | url = https://archive.org/details/SnorreSturlesons000365828v0SnorReyk | year = 1819 | language = sv }} *{{cite book | translator-last = Egilsson | translator-first = Sveinbjörn | translator-link = :en:Sveinbjörn Egilsson | translator-last2 = Sigurðsson | translator-first2 = Jón | translator-link2 = :en:Jón Sigurðsson | translator-last3 = Jónsson | translator-first3 = Finnur | translator-link3 = :en:Finnur Jónsson | title = Edda Snorra Sturlusonar - Edda Snorronis Sturlaei | language = la }} 3 volumes: [https://archive.org/details/eddasnorrasturlu01hafnuoft Vol. 1: Formali, Gylfaginning, Bragaraedur, Skaldskarparmal et Hattatal] (1848), [https://archive.org/details/eddasnorrasturlu02hafnuoft Vol. 2: Tractatus Philologicos et Additamenta ex Codicibus Manuscripts] (1852), [https://archive.org/details/EddaSnorraSturlu000365811v3SnorReyk Vol. 3: Praefationem, Commmentarios in Carmina, Skaldatal cum Commentario, Indicem Generalem] (1880–1887) *{{cite book | translator-last = Wilken | translator-first = Ernst | title = Die prosaische Edda im Auszuge nebst Vǫlsunga-saga und Nornagests-þáttr | trans-title = The Prose Edda in excerpt along with Völsunga saga and Norna-Gests þáttr | series = Bibliothek der ältesten deutschen Literatur-Denkmäler. XI. Band | language = de }} **{{citation | title = Teil I: Text | url = https://archive.org/details/dieprosaischeedd01snor | orig-year = 1877 | year = 1912 | publisher = Paderborn F. Schöningh }} **{{citation | title = Teil II: Glossar | url = https://archive.org/details/dieprosaischeedd02snor | orig-year = 1877 | year = 1913 | publisher = Paderborn F. Schöningh }} * {{cite book | translator-last = Grape | translator-first = Anders | year = 1977 | title = Snorre Sturlusons Edda: Uppsala-Handskriften DH II | oclc = 2915588 | language = is }} , 2 volumes : 1 facsimile; 2 translation and notes * {{cite book | translator-last = Grape | translator-first = Anders | translator-last2 = Kallstenius | translator-first2 = Gottfrid | translator-last3 = Thorell | translator-first3 = Olod | year = 1977 | title = Snorre Sturlusons Edda: Uppsala-Handskriften DH II | language = sv | oclc = 774703003 }} , 2 volumes : 1 facsimile; 2 translation and notes * {{cite book | translator-last = Lerate | translator-first = Luis | title = Edda Menor | trans-title = Younger Edda | publisher = [[:en:Alianza Editorial|Alianza Editorial]] | year = 1984 | isbn = 978-84-206-3142-4 |language = es }} * {{cite book | translator-last = Dillmann | translator-first = François-Xavier | translator-link = :en:François-Xavier Dillmann | title = L'Edda: Récits de mythologie nordique | trans-title = The Edda : Stories of Norse Myth | year = 1991 | work = L'Aube des peuples | publisher = Gallimard | isbn = 2-07-072114-0 | language = fr }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == *{{cite book|和書 | editor = G. ネッケル他 | others = [[谷口幸男]]訳 | title = エッダ 古代北欧歌謡集 | year = 1973 | publisher = [[新潮社]] | id = ISBN 4-10-313701-0 }} *{{cite book|和書 | author = ヘルマン・パウルソン | others = 大塚光子、西田郁子、水野知昭、菅原邦城訳 | title = オージンのいる風景 オージン教とエッダ | edition = 初版 | date = 1995-02-25 | publisher = 東海大学出版会 | id = ISBN 4-486-01318-2 }} *{{cite book|和書 | editor = 山室静 | others = | title = 北欧文学ノート | year = 1980 | publisher = 東海大学出版会 | id = }} * {{Cite web |url=https://skaldic.org/m.php?p=doc&i=783 |title=Vol. I. Poetry for Scandinavian Rulers 1: From Mythological Times to c. 1035 > 8. Volume Introduction > 3. Sources for skaldic poetry cited in the kings’ sagas: manuscripts, facsimiles and editions > 3.3. Other sources > 1. Snorra Edda (SnE) |website={{仮リンク|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages|en|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages}} |language=en |accessdate=2023-08-05 |ref={{SfnRef|Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. I.}} }} * {{Cite web |url=https://skaldic.org/m.php?p=doc&i=578 |title=Vol. II. Poetry from the Kings’ Sagas 2: from c. 1035 to c. 1300 > 8. Introduction > 4. Sources for Skaldic Poetry Cited in the Kings' Sagas > 3. Other sources > 1. Snorra Edda (SnE) |website={{仮リンク|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages|en|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages}} |language=en |accessdate=2023-08-05 |ref={{SfnRef|Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. II.}} }} * {{Cite web |url=https://skaldic.org/m.php?p=doc&i=1015 |title=Vol. III. Poetry from Treatises on Poetics > 7. Introduction > 4. Sources > 4.2. The Works > 4.2.1. Snorra Edda (Prologue, Gylfaginning, Skáldskaparmál) |website={{仮リンク|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages|en|Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages}} |language=en |accessdate=2023-08-05 |ref={{SfnRef|Snorra Edda - Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages Vol. III.}} }} * {{Cite book |editor-last=Faulkes |editor-first=Anthony |year=2005 |title=Edda: Prologue and Gylfaginning |publisher=Viking Society for Northern Research |url=http://www.vsnrweb-publications.org.uk/Edda-1.pdf |format=PDF |ref={{SfnRef|Faulkes|2005}} }} == 関連項目 == * [[北欧神話]] * [[古エッダ]] * [[サガ]] * [[スカルド詩]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20060906005755/http://www.cybersamurai.net/Mythology/nordic_gods/LegendsSagas/Edda/ProseEdda/ContentsIcelandic.htm cybersamurai.net] - [[古ノルド語]]。 * [http://skaldic.arts.usyd.edu.au/db.php?table=texts&id=3 skaldic :: texts :: snorra edda]{{リンク切れ|date=2022年2月}} - 各写本を参照できる。 * [http://wayback.vefsafn.is/wayback/20070508133411/http://www.heimskringla.no/original/snorre/index.php Edda Snorra Sturlusonar] - 古ノルド語。Guðni Jónsson の版。 * [http://www.sacred-texts.com/neu/pre/index.htm The Prose Edda at sacred-texts.com] - Arthur Gilchrist Brodeur による英訳(1916年)。 * [https://web.archive.org/web/20061006035037/http://www.cybersamurai.net/Mythology/nordic_gods/LegendsSagas/Edda/ProseEdda/ContentsEnglish.htm Prose Edda] - 同上。Arthur G. Brodeur による英訳(1916年)。 * [https://www.alvin-portal.org/alvin/view.jsf?pid=alvin-record%3A54179&dswid=-1602 Alvin - DG 11 - Uppsala-Eddan] - ウップサーラ写本(DG 11、写本U)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Alvin (電子図書館)|en|Alvin (digital cultural heritage platform)|label=}}) * [https://www.manuscripta.se/ms/101032 Manuscripta.se: A Digital Catalogue of Manuscripts in Sweden — Uppsala University Library, DG 11] - ウップサーラ写本(DG 11、写本U)のデジタルコレクション * [https://handrit.is/manuscript/view/is/GKS04-2367 GKS 2367 4to - Handrit.is] - スノッリのエッダの王の写本(GKS 2367 4to、写本R)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Handrit.is|en|Handrit.is}}) * [https://handrit.is/manuscript/view/en/AM02-0242 AM 242 fol. - Handrit.is] - ヴォルム写本(AM 242 fol、写本W)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Handrit.is|en|Handrit.is}}) * [https://handrit.is/manuscript/view/is/AM04-0748-Ib AM 748 I b 4to - Handrit.is] - AM 748 I b 4to(写本A)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Handrit.is|en|Handrit.is}}) * [https://handrit.is/manuscript/view/is/AM04-0757a AM 757 a 4to - Handrit.is] - AM 757 a 4to(写本B)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Handrit.is|en|Handrit.is}}) * [https://handrit.is/manuscript/view/is/AM04-0748-II AM 748 II 4to - Handrit.is] - AM 748 II 4to(写本C)のデジタルコレクション ({{仮リンク|Handrit.is|en|Handrit.is}}) {{スノッリのエッダ}} {{北欧神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すのつりのえつた}} [[Category:スノッリのエッダ|*]] [[Category:中世の北欧]] [[Category:中世ヨーロッパ文学]] [[Category:13世紀の書籍]] [[Category:スノッリ・ストゥルルソン]]
2003-09-08T15:22:50Z
2023-08-06T04:09:48Z
false
false
false
[ "Template:Wikisourcelang", "Template:Cite web", "Template:Sfnm", "Template:Wikisourcepar", "Template:Lang-non", "Template:Main", "Template:Cite book", "Template:リンク切れ", "Template:北欧神話", "Template:Normdaten", "Template:スノッリのエッダ", "Template:仮リンク", "Template:Sfn", "Template:Citation", "Template:Cite wikisource", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite journal" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%AA%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%80
15,800
98
98(九十八、きゅうじゅうはち、ここそじあまりやつ)は自然数、また整数において、97の次で99の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "98(九十八、きゅうじゅうはち、ここそじあまりやつ)は自然数、また整数において、97の次で99の前の数である。", "title": null } ]
98(九十八、きゅうじゅうはち、ここそじあまりやつ)は自然数、また整数において、97の次で99の前の数である。
{{整数|Decomposition=2 × 7{{sup|2}}}} '''98'''('''九十八'''、きゅうじゅうはち、ここそじあまりやつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[97]]の次で[[99]]の前の数である。 == 性質 == * 98 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[7]], [[14]], [[49]], 98 である。 **[[約数の和]]は[[171]]。 ***[[約数]]の和が奇数になる16番目の数である。1つ前は[[81]]、次は[[100]]。 *** 約数の和が[[回文数]]になる10番目の数である。1つ前は[[96]]、次は[[130]]。({{OEIS|A028980}}) **約数を6個もつ15番目の数である。1つ前は[[92]]、次は[[99]]。 *98 = 1{{sup|4}} + 2{{sup|4}} + 3{{sup|4}} **3連続整数の4乗和で表せる数である。自然数の範囲では最小、0を含むとき1つ前は[[17]]、次は[[353]]。 **98 = 0{{sup|4}} + 1{{sup|4}} + 2{{sup|4}} + 3{{sup|4}} ***0を含めた4連続整数の4乗和とみたとき最小、ただし負の数を含むとき1つ前は[[18]]、次は[[354]]。 **自然数の4乗和とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[354]]。 **''n'' = 4 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[36]]、次は[[276]]。 *{{sfrac|1|98}} = 0.0{{underline|102040816326530612244897959183673469387755}}… (下線部は循環節で長さは42) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が42になる2番目の数である。1つ前は[[49]]、次は[[127]]。 *[[約数]]の和が98になる数は2個ある。([[52]], [[97]]) [[約数]]の和2個で表せる8番目の数である。1つ前は[[80]]、次は[[104]]。 *[[偶数]]の[[ノントーシェント]]である。1つ前は[[94]]、次は[[114]]。 *[[各位の和]]が17になる2番目の数である。1つ前は[[89]]、次は[[179]]。 ** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が17になる最小の数である。 * 98 = 2 × 7{{sup|2}} **''n'' = 2 のときの ''n'' × 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は1029。({{OEIS|A036293}}) **''n'' = 2 のときの 2 × 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[686]]。({{OEIS|A109808}}) **''n'' = 7 のときの 2''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[72]]、次は[[128]]。({{OEIS|A001105}}) **2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる14番目の数である。1つ前は[[92]]、次は[[99]]。({{OEIS|A054753}}) *98 = 1<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> = 3<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる16番目の数である。1つ前は[[94]]、次は[[102]]。({{OEIS|A025322}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる9番目の数である。1つ前は[[94]]、次は[[105]]。({{OEIS|A025340}}) **98 = 1<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 4<sup>''n''</sup> + 9<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[794]]。({{OEIS|A074515}}) **98 = 3<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 3<sup>''n''</sup> + 5<sup>''n''</sup> + 8<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[664]]。({{OEIS|A074553}}) * 98 = 5{{sup|3}} − 3{{sup|3}} ** 連続[[素数]]の[[立方数]]の差で表せる2番目の数である。1つ前は[[19]]、次は[[218]]。({{OEIS|A129701}}) * 98 = 10{{sup|2}} − 2 ** ''n'' = 2 のときの 10{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[997]]。({{OEIS|A024115}}) ** 素数 ''p'' = 2 のときの 10{{sup|''p''}} − ''p'' の値とみたとき最小、次は[[997]]。({{OEIS|A088736}}) == その他 98 に関連すること == *年始([[1月1日]])から98日目は[[平年]]では[[4月8日]]、[[閏年]]では[[4月7日]]。 *[[原子番号]] 98 の[[元素]]は[[カリホルニウム]] (Cf)。 *[[硫酸]]の[[分子量]]は 98g/mol。 *第98代[[天皇]]は[[長慶天皇]]である。 *第98代[[教皇|ローマ教皇]]は[[パスカリス1世 (ローマ教皇)|パスカリス1世]](在位:[[817年]][[1月25日]]~[[824年]][[2月11日]])である。 *[[日本]]の第98代[[内閣総理大臣]]は[[安倍晋三]]である。 *[[日本電気|NEC]] のパーソナルコンピュータに、一世を風靡したものとして、通称 '''98'''(キューハチ/キュッパチ)とも呼ばれる[[PC-9800シリーズ]]がある。現在はAT互換機の 98NX としてその名が残っている。 *[[オペレーティングシステム]]「[[Windows 98]]」は[[マイクロソフト]]が[[1998年]]に発売した。 *[[BEMANIシリーズ]]に楽曲提供をしているユニット、98は[[黒沢ダイスケ|96]]と[[肥塚良彦]]によるユニット。名称の由来は96に肥塚の愛称である王子(の数字による語呂合わせの02)を足したことによる。 *[[クルアーン]]における第98番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[明証 (クルアーン)|明証]]である。 == 関連項目 == {{数字2桁|9|}} *[[9月8日]] {{自然数}}
null
2023-02-18T23:37:28Z
false
false
false
[ "Template:Sup", "Template:Sfrac", "Template:Underline", "Template:数字2桁", "Template:自然数", "Template:整数", "Template:OEIS" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/98
15,802
座頭
座頭()は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。 元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校()」、「別当()」、「勾当()」、「座頭()」に由来する。 古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。 江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家や、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。 当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "座頭()は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校()」、「別当()」、「勾当()」、「座頭()」に由来する。", "title": "由来 - 当道座" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。", "title": "由来 - 当道座" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家や、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。", "title": "由来 - 当道座" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。", "title": "由来 - 当道座" } ]
座頭は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。
{{Otheruses|'''ざとう'''と読む[[江戸期]]における[[盲人]]の[[階級]]|'''ざがしら'''と読む[[舞台]]・[[興行]]・[[一座]]・[[劇団]]を統率する最高位の役者を意味する[[芝居]]用語|座頭 (芝居)}} {{出典の明記|date=2018-01-27}} {{Wikidatabox}} '''座頭'''(ざとう)は、[[江戸期]]における[[盲人]]の[[階級]]の一つ。またこれより転じて[[按摩]]、[[鍼灸]]、[[琵琶法師]]などへの呼びかけとしても用いられた。今日のような[[社会保障制度]]が整備されていなかった[[江戸時代]]、[[江戸幕府|幕府]]は[[障害者]]保護政策として職能組合「[[座]]」(一種の[[ギルド]])を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。 == 由来 - 当道座 == 元々は[[平曲]]を演奏する[[琵琶法師]]の称号として呼ばれた「{{読み仮名|[[検校]]|けんぎょう}}」、「{{読み仮名|[[別当]]|べっとう}}」、「{{読み仮名|[[勾当]]|こうとう}}」、「{{読み仮名|座頭|ざとう}}」に由来する。 古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『[[平家物語]]』を語る職業人として[[鎌倉時代]]頃から「[[当道座]]」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの[[座]](組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。 [[江戸時代]]に入ると当道座は盲人団体として[[江戸幕府|幕府]]の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え[[地歌]][[三味線]]、[[箏曲]]、[[胡弓]]等の演奏家、作曲家や、[[鍼灸]]、[[按摩]]が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、[[元禄]]頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。 当道に対する保護は、明治元年([[1868年]])に廃止されたという。 == 参考文献 == * [http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15749/?lang=0&mode=0&opkey=R143338694130563&idx=3&srch_flflg=1 近世の座頭にみる職業素描 ]原田信一 、駒澤社会学研究29、1997 == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[当道座]] * [[座頭市]] * [[不知火検校]] * [[八橋検校]] * [[米山検校]] * [[ザトウクジラ]] * [[ザトウムシ]] * [[海座頭]] {{DEFAULTSORT:さとう}} [[Category:視覚障害]] [[Category:江戸時代]]
2003-09-08T15:37:59Z
2023-10-20T01:47:48Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Wikidatabox", "Template:読み仮名", "Template:Commonscat", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%A0%AD
15,803
走査型プローブ顕微鏡
走査型プローブ顕微鏡 (そうさがたプローブけんびきょう、Scanning Probe Microscope; SPM) は、プローブを用いた顕微鏡観察手法の総称である。先端を尖らせた探針を用いて、物質の表面をなぞるように動かして表面状態を拡大観察する。実際の例としては、表面を観察する際、微少な電流(トンネル電流)を利用する走査型トンネル顕微鏡(STM)、原子間力を利用する原子間力顕微鏡(AFM)をはじめ、数多くの種類がある。 基本的な構成は、測定対象を固定し移動させる試料ステージと、試料表面に近づけ局所的な相互作用を検出する探針、そしてこれらを制御するコントローラからなる。これに加えて、試料に電場や磁場を印加したり光を照射、または冷却・加熱により試料温度を変化させる機構、真空用のチャンバー・ポンプなどが目的に応じて付設される。 光の波長に依存する光学顕微鏡に比べて空間分解能が非常に高く、超高真空中では、AFMやSTMは原子以下のレベルの表面凹凸を観察できる。また、大気中での測定を目的としたものは電子顕微鏡などに比べて装置が特に小型で、机上に設置できるものもある。実際の場面では、簡便に測定できて安価な、超高真空を必要としない装置も広く用いられており、表面形状のみの測定にはAFMが使われる事が多い。 試料ステージにはnmレベルでステップを制御できるピエゾステージが主に用いられており、この場合の試料の測定可能領域は数十μm以下、高さは10μm以下である。モータステージなどを組み合わせ4インチウェーハ内の数十μm領域を測定できる装置もある。 最初の走査型プローブ顕微鏡は、IBMでゲルト・ビーニッヒ(Gerd Binnig)により開発されたSTMとされる。しかしSTMはトンネル電流を利用するため、絶縁体の観察を行うことが出来ない。そのため、同じくビーニッヒにより原子間力を利用するAFMが開発され(1986年)、測定対象が広がった。また、これらをベースに表面形状だけでなく、様々な局所的な表面物性を評価するSPMが開発された。 現在では、AFMは磁気ディスクの表面粗さ(ひょうめんあらさ)測定、DVDのスタンパーなど0.1μm前後の凹凸を測定する用途には不可欠な測定機器となっている。また、絶縁性の試料や水分を含んだ生体試料などの評価にも用いられる。 AFM、STM以外のSPMとして以下のようなものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "走査型プローブ顕微鏡 (そうさがたプローブけんびきょう、Scanning Probe Microscope; SPM) は、プローブを用いた顕微鏡観察手法の総称である。先端を尖らせた探針を用いて、物質の表面をなぞるように動かして表面状態を拡大観察する。実際の例としては、表面を観察する際、微少な電流(トンネル電流)を利用する走査型トンネル顕微鏡(STM)、原子間力を利用する原子間力顕微鏡(AFM)をはじめ、数多くの種類がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "基本的な構成は、測定対象を固定し移動させる試料ステージと、試料表面に近づけ局所的な相互作用を検出する探針、そしてこれらを制御するコントローラからなる。これに加えて、試料に電場や磁場を印加したり光を照射、または冷却・加熱により試料温度を変化させる機構、真空用のチャンバー・ポンプなどが目的に応じて付設される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "光の波長に依存する光学顕微鏡に比べて空間分解能が非常に高く、超高真空中では、AFMやSTMは原子以下のレベルの表面凹凸を観察できる。また、大気中での測定を目的としたものは電子顕微鏡などに比べて装置が特に小型で、机上に設置できるものもある。実際の場面では、簡便に測定できて安価な、超高真空を必要としない装置も広く用いられており、表面形状のみの測定にはAFMが使われる事が多い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "試料ステージにはnmレベルでステップを制御できるピエゾステージが主に用いられており、この場合の試料の測定可能領域は数十μm以下、高さは10μm以下である。モータステージなどを組み合わせ4インチウェーハ内の数十μm領域を測定できる装置もある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最初の走査型プローブ顕微鏡は、IBMでゲルト・ビーニッヒ(Gerd Binnig)により開発されたSTMとされる。しかしSTMはトンネル電流を利用するため、絶縁体の観察を行うことが出来ない。そのため、同じくビーニッヒにより原子間力を利用するAFMが開発され(1986年)、測定対象が広がった。また、これらをベースに表面形状だけでなく、様々な局所的な表面物性を評価するSPMが開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在では、AFMは磁気ディスクの表面粗さ(ひょうめんあらさ)測定、DVDのスタンパーなど0.1μm前後の凹凸を測定する用途には不可欠な測定機器となっている。また、絶縁性の試料や水分を含んだ生体試料などの評価にも用いられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "AFM、STM以外のSPMとして以下のようなものがある。", "title": "SPMの種類" } ]
走査型プローブ顕微鏡 は、プローブを用いた顕微鏡観察手法の総称である。先端を尖らせた探針を用いて、物質の表面をなぞるように動かして表面状態を拡大観察する。実際の例としては、表面を観察する際、微少な電流(トンネル電流)を利用する走査型トンネル顕微鏡(STM)、原子間力を利用する原子間力顕微鏡(AFM)をはじめ、数多くの種類がある。
{{出典の明記|date=2019年4月}} '''走査型プローブ顕微鏡''' (そうさがたプローブけんびきょう、'''Scanning Probe Microscope'''; SPM) は、プローブを用いた顕微鏡観察手法の総称である<ref name="Nakamoto">{{Cite journal|和書|author=中本圭一|title=走査型プローブ顕微鏡の基礎と応用|publisher=日本画像学会|journal=日本画像学会誌|date=2011|volume=50|issue=5|pages=432-438|doi=10.11370/isj.50.432}} </ref>。先端を尖らせた[[探針]]を用いて、物質の表面をなぞるように動かして表面状態を拡大観察する。実際の例としては、表面を観察する際、微少な[[電流]](トンネル電流)を利用する[[走査型トンネル顕微鏡]](STM)、[[原子間力]]を利用する[[原子間力顕微鏡]](AFM)をはじめ、数多くの種類がある<ref name="Nakamoto"/>。 ==特徴== 基本的な構成は、測定対象を固定し移動させる試料ステージと、試料表面に近づけ局所的な相互作用を検出する探針、そしてこれらを制御するコントローラからなる。これに加えて、試料に[[電場]]や[[磁場]]を印加したり光を照射、または冷却・加熱により試料温度を変化させる機構、[[真空]]用の[[チャンバー]]・[[ポンプ]]などが目的に応じて付設される。 光の波長に依存する[[光学顕微鏡]]に比べて空間[[分解能]]が非常に高く、超高真空中では、[[原子間力顕微鏡|AFM]]や[[走査型トンネル顕微鏡|STM]]は[[原子]]以下のレベルの表面凹凸を観察できる。また、大気中での測定を目的としたものは[[電子顕微鏡]]などに比べて装置が特に小型で、机上に設置できるものもある。実際の場面では、簡便に測定できて安価な、超高真空を必要としない装置も広く用いられており、表面形状のみの測定には[[原子間力顕微鏡|AFM]]が使われる事が多い。 試料ステージには[[ナノメートル|nm]]レベルでステップを制御できるピエゾステージが主に用いられており、この場合の試料の測定可能領域は数十&micro;m以下、高さは10&micro;m以下である。モータステージなどを組み合わせ4インチウェーハ内の数十&micro;m領域を測定できる装置もある。 == 歴史 == 最初の走査型プローブ顕微鏡は、[[IBM]]で[[ゲルト・ビーニッヒ]](Gerd Binnig)により開発された[[走査型トンネル顕微鏡|STM]]とされる。しかしSTMはトンネル電流を利用するため、[[絶縁体]]の観察を行うことが出来ない。そのため、同じく[[ゲルト・ビーニッヒ|ビーニッヒ]]により原子間力を利用するAFMが開発され(1986年)、測定対象が広がった。また、これらをベースに表面形状だけでなく、様々な局所的な表面物性を評価するSPMが開発された。 現在では、[[原子間力顕微鏡|AFM]]は[[磁気ディスク]]の[[表面粗さ]](ひょうめんあらさ)測定、[[DVD]]のスタンパーなど0.1[[マイクロメートル|&micro;m]]前後の凹凸を測定する用途には不可欠な測定機器となっている。また、絶縁性の試料や水分を含んだ生体試料などの評価にも用いられる。 ==SPMの種類== [[原子間力顕微鏡|AFM]]、[[走査型トンネル顕微鏡|STM]]以外のSPMとして以下のようなものがある。 #磁気的な局所物性評価SPM #;[[磁気力顕微鏡|走査型磁気力顕微鏡]](MFM)<ref name="Nakamoto"/> : [[強磁性]][[探針]]と試料間の磁気力から磁区構造を評価する。 #;[[走査型SQUID顕微鏡]] : [[超伝導量子干渉計]](SQUID)をプローブとし、試料表面の[[磁束]]を評価する。 #;[[走査型ホール素子顕微鏡]](SHPM) : [[ホール効果|ホール素子]]をプローブとし、試料表面の[[磁場]]を検出する。 #電気な局所物性評価SPM #;[[ケルビンプローブフォース顕微鏡|走査型ケルビンプローブフォース顕微鏡]](KPFM)<ref name="Nakamoto"/> : 電圧を印加して表面電位を評価する。 #;[[走査型マクスウェル応力顕微鏡]](SMM) : プローブに交流電圧を印加し、表面電位を評価する。 #;[[静電気力顕微鏡]] : [[パルス]]電圧を印加し、静電気力を評価する。 #;[[走査型圧電応答顕微鏡]](PFM) : 試料に交番[[電界]]を印加した時の微小な変形から[[圧電]]特性を評価する。 #;[[走査型非線形誘電率顕微鏡]](SNDM) : プローブに[[共振回路]]を接続し、試料に交番[[電界]]を印加した時の[[共振]][[周波数]]の変化から非線形[[誘電率]]を評価する。 #光学的な局所物性評価SPM #;[[走査型近接場光顕微鏡]](SNOM) : プローブ先端から[[エバネッセント場|近接場光]]を印加して複素透過率を評価する。 ==出典== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[表面物理]] * [[走査型トンネル顕微鏡]] * [[原子間力顕微鏡]] * [[ケルビンプローブフォース顕微鏡]] * [[磁気力顕微鏡]] * [[スピン偏極STM]] == 外部リンク == * [http://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/hyoujun_gijutsu/spm/01_mokuji.htm 特許庁標準技術集「表面構造の原子領域分析」]{{リンク切れ|date=2019年4月}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そうさかたふろおふけんひきよう}} [[Category:顕微鏡]] [[Category:ナノテクノロジー]] [[Category:走査型プローブ顕微鏡|*]]
null
2021-11-06T23:32:37Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:リンク切れ", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E6%9F%BB%E5%9E%8B%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%96%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1
15,804
97
97(九十七、きゅうじゅうしち、きゅうじゅうなな、ここのそじあまりななつ)は自然数、また整数において、96の次で98の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "97(九十七、きゅうじゅうしち、きゅうじゅうなな、ここのそじあまりななつ)は自然数、また整数において、96の次で98の前の数である。", "title": null } ]
97(九十七、きゅうじゅうしち、きゅうじゅうなな、ここのそじあまりななつ)は自然数、また整数において、96の次で98の前の数である。
{{整数|Decomposition=([[素数]])}} '''97'''('''九十七'''、きゅうじゅうしち、きゅうじゅうなな、ここのそじあまりななつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[96]]の次で[[98]]の前の数である。 ==性質== *97は25番目の[[素数]]である。1つ前は [[89]]、次は [[101]]。 **2桁の整数では最大の素数である。1つ前の1桁は[[7]]、次の3桁は[[997]]。({{OEIS|A003618}}) **[[約数の和]]は[[98]]。 *97、907、 9007、90007、900007 はいずれも素数である。9000007 は 277 × 32491 となる[[合成数]]である。({{OEIS|A100998}}) *10進数表記において前後の数字を入れ替えても素数になる8番目の[[エマープ]]である。(97 ←→ [[79]]) 1つ前は[[79]]、次は[[107]]。 * 8番目の[[素数|オイラー素数]]である。1つ前は[[83]]、次は[[113]]。 * 7 と 9 を使った2番目の素数である。1つ前は[[79]]、次は[[797]]。({{OEIS|A020471}}) ** 97…7 の形の最小の素数である。次は977。({{OEIS|A093944}}) ** 9…97 の形の最小の素数である。次は[[997]]。({{OEIS|A093172}}) * (''p'', ''p'' + 4, ''p'' + 6, ''p'' + 10, ''p'' + 12)が素数になる2番目の素数 ''p'' である。1つ前は[[7]]、次は[[1867]]。({{OEIS|A022007}}) * 素数と前の素数[[89]]の間隔(8)が以前の数よりも大きくなる5番目の素数である。1つ前は[[23]]-[[29]](間隔は6)、次は[[113]]-[[127]](間隔は14)({{OEIS2C|A002386}}-{{OEIS2C|A000101}}) *[[円周率|{{π}}]]{{sup|4}} = 97.409091…を小数点以下第1位で[[四捨五入]]すると、97になる。 *97 = 2{{sup|4}} + 3{{sup|4}} **連続[[素数]]の4乗和で表せる数である。1つ前は[[16]]、ただし連続と考えると最小、次は722。 ** ''n'' = 4 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[35]]、次は[[275]]。({{OEIS|A007689}}) *** 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} で表せる4番目でかつ最大の素数と考えられている。1つ前は[[13]]。({{OEIS|A082101}}) ** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|4}} + (''n'' + 1){{sup|4}} の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[337]]。({{OEIS|A008514}}) ***''n''{{sup|4}} + (''n'' + 1){{sup|4}} で表せる2番目の素数である。1つ前は[[17]]、次は[[337]]。({{OEIS|A152913}}) ** ''n'' からの ''n'' 連続整数の4乗和で表せる数である。1つ前は[[1]]、次は962。({{OEIS|A262925}}) **97 = 4<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> *** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる28番目の数である。1つ前は[[90]]、次は[[100]]。({{OEIS|A004431}}) *** ''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''}} + 9{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は793。({{OEIS|A074614}}) **97 = 3<sup>4</sup> + 4<sup>2</sup> *** 3{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|2}} で表せる2番目の素数である。1つ前は[[13]]、次は59149。({{OEIS|A075899}}) *[[素数#連続素数和|3連続素数の和]]で表せる10番目の数である。1つ前は[[83]]、次は[[109]]。<br>97 = 29 + 31 + 37 **[[素数#連続素数和|3連続素数の和]]で表せる7番目の素数である。1つ前は[[83]]、次は[[109]]。 *[[各位の和]]が16になる3番目の数である。1つ前は[[88]]、次は[[169]]。 **各位の和が16になる数で[[素数]]になる2番目の数である。1つ前は[[79]]、次は[[277]]。({{OEIS|A106757}}) *{{sfrac|1|97}} = 0.{{underline|010309278350515463917525773195876288659793814432989690721649484536082474226804123711340206185567}}… (下線部は循環節で長さは96) **最初の数字の並び (01 03 09 27) は3の累乗数になっている。 **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が96になる最小の数である。次は[[194]]。 ***2桁の整数の[[逆数]]の中では最長の循環節をもつ。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の95は[[191]]、次の97は12004721。({{OEIS|A003060}}) **循環節が ''n'' &minus; 1 である[[巡回数]]を作る9番目の素数である。1つ前は[[61]]、次は [[109]]。 * 97 = 3 × 2{{sup|5}} + 1 **13番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[81]]、次は[[113]]。 ***6番目の[[プロス数#プロス素数|プロス素数]]である。1つ前は[[41]]、次は[[113]]。 ** 97 = 2{{sup|5}} × 3{{sup|1}} + 1より、10番目の[[ピアポント素数]]である。1つ前は[[73]]、次は[[109]]。({{OEIS|A005109}}) *97 = 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる44番目の数である。1つ前は[[96]]、次は[[104]]。({{OEIS|A025321}}) * 97 = 8 &times; 2{{sup|4}} &minus; 8 &times; 2{{sup|2}} + 1 ** ''x'' = 2 のときの [[チェビシェフ多項式]]''T''{{sub|4}}(''x'') = 8''x''{{sup|4}} &minus; 8''x''{{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[577]]。({{OEIS|A144130}}) == その他 97 に関すること == *年始から数えて97日目は[[4月7日]]、ただし閏年の場合は[[4月6日]]。 *[[原子番号]] 97 の[[元素]]は[[アクチノイド]]の[[バークリウム]] (Bk)。 *第97代[[天皇]]は[[後村上天皇]]である。 *第97代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ステファヌス4世 (ローマ教皇)|ステファヌス4世]](在位:[[816年]]~[[817年]][[1月24日]])である。 *[[日本]]の第97代[[内閣総理大臣]]は[[安倍晋三]]である。 *[[グレゴリオ暦]]では400年ごとに97回の閏年がある。これは[[西暦]]年数が100の倍数の年で400の倍数でない年は、4の倍数の年だが閏年でないからである。 *[[JR東海キヤ97系気動車]]は[[東海旅客鉄道]](JR東海)の事業用気動車の一系列。 *[[私鉄沿線97分署]]は[[テレビ朝日]]系列で放映された[[テレビドラマ|ドラマ]]。 *[[クルアーン]]における第97番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[みいつ (クルアーン)|みいつ]]である。 == 関連項目 == {{数字2桁|9|}} *[[名数一覧]] *[[西暦]][[97年]] - [[紀元前97年]] - [[1997年]] *[[9月7日]] {{自然数}}
2003-09-08T15:42:37Z
2023-12-07T14:09:44Z
false
false
false
[ "Template:Sub", "Template:自然数", "Template:整数", "Template:OEIS", "Template:Sup", "Template:Underline", "Template:数字2桁", "Template:OEIS2C", "Template:Π", "Template:Sfrac" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/97
15,805
院政
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す。 摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という(院という場所で政治を行ったから院政というとする説もある)。 1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。 本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の生前譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。 平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与することがあった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。 だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。 このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美、三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条天皇の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。 その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。 次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信(異母兄頼通とは反目していた)の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、御堂流嫡流摂関家の藤原師実を関白をに任じつつ後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。 ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女藤原茂子を母親、同じく御堂流の関白藤原師実の養女藤原賢子(御堂流と親密な村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前の後三条天皇および反摂関家の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び摂関家を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。佐々木宗雄の研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白藤原師通が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、師通の働き盛りの年齢での急逝と若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い鳥羽天皇が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。 直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。 また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。従来の学説では院庁において実際の政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、橋本義彦がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世の起点とする事もある。 平安後期以降に院政が定着した背景として、岡野友彦は財政面の理由を指摘している。公地公民制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は律令国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって皇室領となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である。 ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は王権を構成する相互補完的な関係であり続けたのである。 白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の後白河天皇(母、待賢門院)が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。 後白河天皇は保元3年(1158年)に二条天皇へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い二条天皇は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされた。したがって二条天皇の時代、後白河院政は強固なものとはとうていいえなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165年)6月25日に幼い六条天皇に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、平治の乱と平氏政権の隆盛およびその崩壊、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となった。 ただ、後白河法皇と平清盛とが対立し始めた後、治承3年(1179年)11月の治承三年の政変によって鳥羽殿に幽閉され、後白河法皇は院政を停止されてしまった。ここで一旦高倉天皇の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に安徳天皇に譲位、ここに高倉院政が成立した。高倉院政下では福原への「遷都」などが行われたが、もともと病弱であった高倉上皇は福原で病を得、平安京に還御した直後の養和元年(1181年)1月14日に崩じてしまった。まもなく清盛も世を去ったため、清盛の後継者であった平宗盛は後白河院政を復活させた。 後白河院政の後は、その孫の後鳥羽上皇が院政を行った。後鳥羽院は、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷に執権北条氏の介入を招いてしまった。乱後、後堀河天皇が即位するとその父親である行助入道親王が例外的に皇位を経ずして院政を行う(後高倉院)という事態も発生している。 院政は承久の乱以降も存続し、公家政権の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた後嵯峨院政期に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事(弁官や蔵人による奏上)を取り次ぐ役職である伝奏の制度化、そして院が評定衆とともに相論(訴訟)裁許に当たる院評定を確立し、院政の機能強化に努めた。院評定は当時の課題であった徳政の興行のために訴訟の裁許を円滑化する役目を担った。 後嵯峨院以後の両統迭立期には、実際の院政を行う治天の君は天皇の父(あるいは祖父・曽祖父)である必要性が特に強調されるようになる。持明院統の伏見天皇が即位した際に実父である後深草院が院政を行うものとされ、前天皇である大覚寺統の後宇多院がこれに抗議したものの顧みられず、反対に後宇多院の子である後二条天皇が即位した際には同時に前天皇である後伏見院の代で院政を行っていた伏見院の院政も停止されて後宇多院の院政が開始されている。なお、この際に伏見院の皇子で後伏見院の弟にあたる富仁親王(後の花園天皇)が立太子された際に後伏見院の猶子とされた(『皇年代略記』・『神皇正統記』)。花園天皇即位後は当初は伏見院が院政を行ったものの、正和2年(1313年)10月17日に治天の君位が後伏見院に譲られ(『一代要記』)、4年後に伏見院が崩じた時には花園天皇は実父の崩御にもかかわらず祖父の喪の形式を採った(『増鏡』)。これは本来は花園天皇の兄である後伏見院が同天皇の治世における治天の資格を得るために、花園天皇と猶子関係を結んだために本来は「父と子」の関係である伏見院と花園天皇の関係も「祖父と孫」の関係に擬制されたことによる。大覚寺統の事例(長慶院と後亀山天皇)は不明であるものの、以後の持明院統においては治天の君に予定された者と皇位継承予定者が猶子関係を結び、治天の君と天皇の間で親子関係が擬制されるようになった(光厳院と光明天皇及び直仁親王(廃太子)、後小松院と後花園天皇)。 建武新政期には後醍醐天皇が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活した。室町時代に入ってからも院政は継続したが、治天の後円融院が自暴自棄な行動で権威を喪失すると、足利義満が院の権限を代行するようになり、これは後円融院の崩御後も継続した。この時期の義満を治天であったとみなす学者もいる。 義満の没後に後小松天皇が譲位し院政を復興するが、応永25年(1418年)から将軍足利義持が院宣の事前審査を行うようになる。そして永享5年(1433年)に後小松院が崩御すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院が相伝してきた荘園に対する武家による横領がやまず、院政を支える経済基盤が失われていった。後小松の次に上皇になった後花園院の譲位後に程なく応仁の乱が生じ、院の所領は有名無実と化した。ただし院庁はその後も存続し、後花園院の崩御後も院の仏事を行うために院庁や職員が存在していたことが確認できる。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。 江戸時代に入ると、『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の対朝廷介入は本格化した。幕府は摂政・関白を中心とした朝廷秩序を求めた。しかし後水尾上皇による院政が敷かれたため、明正天皇が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。だが、江戸時代に入ってからの院政は、室町時代までの院政とは本質的に異なるものとなった。江戸時代の院は公家社会以外への支配権を持たず、仙洞御料も上皇が存在する時に限ってその都度幕府からあてがわれ、その管理は全て幕府に委ねられていたためである。 霊元上皇が院政を行うと、親幕府派であった近衛基熙との間に確執を生んだ。霊元院政の終了後、桜町天皇が上皇となって院政を行ったが、わずか3年で崩御、後桜町上皇は後桃園天皇・光格天皇が幼い時期には院政を行ったが、光格天皇は成人後に親政を行っている。光格天皇は、息子の仁孝天皇に譲位して院政を行ったが、これが最後の院政である。 明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の譲位は禁止され、天皇の崩御によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。 院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の朱子学者(例:新井白石『読史余論』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「朝廷」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。 そして昭和22年(1947年)に法律として制定された現行の皇室典範でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなった。また天皇を象徴とする日本国憲法の成立により、天皇が内閣の承認と助言を受けた上で行う国事行為以外に政治に関与することはできなくなった。 その後、平成28年(2016年)に明仁(第125代天皇)が、天皇の位を生前に次期皇位継承者である皇太子徳仁に譲る「生前退位(譲位)」の意向を示した。これにより平成29年(2017年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、同法に基づき、令和元年(2019年)5月1日に明仁は光格上皇以来202年ぶり、かつ憲政史上初めて「上皇」となった。この生前退位の場合は、「上皇(ならびに上皇陛下)」が正式称号となっており、上皇が行う国事行為及び政治に関与する権限は定められていないため、院政を執ることはできなくなっている。 基本の意味の院政の具体例の一覧は以下のとおりである。 注: 皇位譲渡者が後継君主の後見として実質的な政務を行う政治体制は、日本独自の家督制度に由来している。当主が存命中から隠居して、家督を次代に譲って、家の実権を掌握し続ける、というもので、この制度がいつ頃から始まったかは、かなり古くからとされており、詳しくはわかっていない。日本人の思想に国家ならびに家の概念が固まりつつあった弥生時代に確立された、とする説も存在する。 鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府それぞれの征夷大将軍職において、将軍職を退いて大御所となることも、院政の変形と言える。『武家社会の大名家、公家や神官職、さらには一般庶民の家庭においても隠居制度は浸透していた。だから、院政自体が隠居制度の延長線上に存在していた、と見做すことも可能である』 既述の通り明治年間以降は、皇室典範の施行に伴い、天皇が隠退して上皇になることは一旦途絶えた。また、明治以降西洋文化の流入に伴って、家督制度に対する日本人の思考にも変化が表れた影響から、隠居制度は急速に廃れていき、日本国憲法によって法的に家督制度と共に隠居制度は廃止された。 日本の院政のように、名目上の最高権力者と実質的な最高権力者の分離が常態化したものは、ベトナムの陳朝に類例が見られるものの、他にはほぼ存在しない。一時的に院政に類似する政治形態が成立することはあるものの、それが制度化されることはなかったといえる。 中国において、趙の武霊王、南宋の孝宗、清の乾隆帝などは、君主の位を後継者に譲った後も権力を握っていた。しかし、それが恒久化することはなかった。 ヨーロッパでは、実権を保持したまま後継者を君主位に就ける場合には共同統治者(英語版)に据える方法が取られた。複数の君主が並び立つこの方法は、形式上は世襲制ではないローマ帝国で特にしばしば用いられた。神聖ローマ帝国が選挙王制になると、在位中の「皇帝兼ローマ王」が嫡子を "共同のローマ王" に選出させる方法を採用し、これによりハプスブルク家による長期の事実上の世襲がなされた。 カスティーリャ女王ベレンゲラは、フェルナンド3世を王位に即けた後、その"後見人"となった。しかし女性君主の即位自体が恒常的でないこともあり、制度化はしなかった。 一般的には、君主の位を後継者に譲れば、実権も手放すことになる。ローマ皇帝ディオクレティアヌスは退位により完全引退し、アラゴン王ラミロ2世や神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)は余生を修道院で送った。アラゴン女王ペトロニラは自らの息子に譲位した。近代のオランダやルクセンブルクでも、君主は譲位すれば実権も手放している。 現職を引退した人が、引退後も実権を握っていること。「会長が院政を敷く」などと使う。ある人がトップの役職から退いたのに実権を握り続けていることを、「院政」と喩える。企業運営や政治の世界で行われることがある。 代表取締役社長の役職(法規で会社を代表すると明確に定められている)を退任し、別の人を代表取締役社長に就任させた後も、 "会長" と呼ぶ存在となり、企業運営の実権を握り続けることを「院政」ということがある。 企業や団体では、忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより、実権の更なる強化を図る意味合いが強いとも。 国際政治においても院政という言葉が使われている。ロシア連邦における2008年から2012年までのタンデム体制は、当時の大統領であるドミートリー・メドヴェージェフではなく、前大統領であるウラジーミル・プーチン首相が実権を握っているとされ、「プーチンによる院政」という表現が日本のメディアで使用された。また、江沢民が2002年から2003年にかけて共産党総書記・国家主席のポストを胡錦濤に譲っても、軍トップの党中央軍事委員会主席を務めていた2年間は重大問題について江沢民の裁定を仰ぐ合意が共産党指導部内にあったため、2002年から2004年までは「江沢民の院政」という表現が日本のメディアで使用された。 近年の日本では、内閣総理大臣だった人が総理大臣を辞めても、なお(与党内において)最も強力な影響力を保持している場合に「院政」と喩えられる。例えば、竹下登が政権退陣した後の宇野宗佑政権・海部俊樹政権が「竹下院政」と、安倍晋三が政権退陣した後の菅義偉政権・岸田文雄政権が「安倍院政」とそれぞれ称された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という(院という場所で政治を行ったから院政というとする説もある)。 1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の生前譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与することがあった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美、三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条天皇の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信(異母兄頼通とは反目していた)の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、御堂流嫡流摂関家の藤原師実を関白をに任じつつ後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女藤原茂子を母親、同じく御堂流の関白藤原師実の養女藤原賢子(御堂流と親密な村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前の後三条天皇および反摂関家の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び摂関家を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。佐々木宗雄の研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白藤原師通が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、師通の働き盛りの年齢での急逝と若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い鳥羽天皇が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。従来の学説では院庁において実際の政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、橋本義彦がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世の起点とする事もある。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "平安後期以降に院政が定着した背景として、岡野友彦は財政面の理由を指摘している。公地公民制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は律令国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって皇室領となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は王権を構成する相互補完的な関係であり続けたのである。", "title": "白河院政" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の後白河天皇(母、待賢門院)が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "後白河天皇は保元3年(1158年)に二条天皇へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い二条天皇は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされた。したがって二条天皇の時代、後白河院政は強固なものとはとうていいえなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165年)6月25日に幼い六条天皇に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、平治の乱と平氏政権の隆盛およびその崩壊、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となった。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただ、後白河法皇と平清盛とが対立し始めた後、治承3年(1179年)11月の治承三年の政変によって鳥羽殿に幽閉され、後白河法皇は院政を停止されてしまった。ここで一旦高倉天皇の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に安徳天皇に譲位、ここに高倉院政が成立した。高倉院政下では福原への「遷都」などが行われたが、もともと病弱であった高倉上皇は福原で病を得、平安京に還御した直後の養和元年(1181年)1月14日に崩じてしまった。まもなく清盛も世を去ったため、清盛の後継者であった平宗盛は後白河院政を復活させた。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "後白河院政の後は、その孫の後鳥羽上皇が院政を行った。後鳥羽院は、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷に執権北条氏の介入を招いてしまった。乱後、後堀河天皇が即位するとその父親である行助入道親王が例外的に皇位を経ずして院政を行う(後高倉院)という事態も発生している。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "院政は承久の乱以降も存続し、公家政権の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた後嵯峨院政期に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事(弁官や蔵人による奏上)を取り次ぐ役職である伝奏の制度化、そして院が評定衆とともに相論(訴訟)裁許に当たる院評定を確立し、院政の機能強化に努めた。院評定は当時の課題であった徳政の興行のために訴訟の裁許を円滑化する役目を担った。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "後嵯峨院以後の両統迭立期には、実際の院政を行う治天の君は天皇の父(あるいは祖父・曽祖父)である必要性が特に強調されるようになる。持明院統の伏見天皇が即位した際に実父である後深草院が院政を行うものとされ、前天皇である大覚寺統の後宇多院がこれに抗議したものの顧みられず、反対に後宇多院の子である後二条天皇が即位した際には同時に前天皇である後伏見院の代で院政を行っていた伏見院の院政も停止されて後宇多院の院政が開始されている。なお、この際に伏見院の皇子で後伏見院の弟にあたる富仁親王(後の花園天皇)が立太子された際に後伏見院の猶子とされた(『皇年代略記』・『神皇正統記』)。花園天皇即位後は当初は伏見院が院政を行ったものの、正和2年(1313年)10月17日に治天の君位が後伏見院に譲られ(『一代要記』)、4年後に伏見院が崩じた時には花園天皇は実父の崩御にもかかわらず祖父の喪の形式を採った(『増鏡』)。これは本来は花園天皇の兄である後伏見院が同天皇の治世における治天の資格を得るために、花園天皇と猶子関係を結んだために本来は「父と子」の関係である伏見院と花園天皇の関係も「祖父と孫」の関係に擬制されたことによる。大覚寺統の事例(長慶院と後亀山天皇)は不明であるものの、以後の持明院統においては治天の君に予定された者と皇位継承予定者が猶子関係を結び、治天の君と天皇の間で親子関係が擬制されるようになった(光厳院と光明天皇及び直仁親王(廃太子)、後小松院と後花園天皇)。", "title": "院政の最盛と転換" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "建武新政期には後醍醐天皇が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活した。室町時代に入ってからも院政は継続したが、治天の後円融院が自暴自棄な行動で権威を喪失すると、足利義満が院の権限を代行するようになり、これは後円融院の崩御後も継続した。この時期の義満を治天であったとみなす学者もいる。", "title": "院政の形骸化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "義満の没後に後小松天皇が譲位し院政を復興するが、応永25年(1418年)から将軍足利義持が院宣の事前審査を行うようになる。そして永享5年(1433年)に後小松院が崩御すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院が相伝してきた荘園に対する武家による横領がやまず、院政を支える経済基盤が失われていった。後小松の次に上皇になった後花園院の譲位後に程なく応仁の乱が生じ、院の所領は有名無実と化した。ただし院庁はその後も存続し、後花園院の崩御後も院の仏事を行うために院庁や職員が存在していたことが確認できる。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。", "title": "院政の形骸化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "江戸時代に入ると、『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の対朝廷介入は本格化した。幕府は摂政・関白を中心とした朝廷秩序を求めた。しかし後水尾上皇による院政が敷かれたため、明正天皇が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。だが、江戸時代に入ってからの院政は、室町時代までの院政とは本質的に異なるものとなった。江戸時代の院は公家社会以外への支配権を持たず、仙洞御料も上皇が存在する時に限ってその都度幕府からあてがわれ、その管理は全て幕府に委ねられていたためである。", "title": "江戸時代の院政" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "霊元上皇が院政を行うと、親幕府派であった近衛基熙との間に確執を生んだ。霊元院政の終了後、桜町天皇が上皇となって院政を行ったが、わずか3年で崩御、後桜町上皇は後桃園天皇・光格天皇が幼い時期には院政を行ったが、光格天皇は成人後に親政を行っている。光格天皇は、息子の仁孝天皇に譲位して院政を行ったが、これが最後の院政である。", "title": "江戸時代の院政" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の譲位は禁止され、天皇の崩御によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。", "title": "皇位継承の法制化と院政の禁止" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の朱子学者(例:新井白石『読史余論』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「朝廷」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。", "title": "皇位継承の法制化と院政の禁止" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そして昭和22年(1947年)に法律として制定された現行の皇室典範でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなった。また天皇を象徴とする日本国憲法の成立により、天皇が内閣の承認と助言を受けた上で行う国事行為以外に政治に関与することはできなくなった。", "title": "皇位継承の法制化と院政の禁止" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、平成28年(2016年)に明仁(第125代天皇)が、天皇の位を生前に次期皇位継承者である皇太子徳仁に譲る「生前退位(譲位)」の意向を示した。これにより平成29年(2017年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、同法に基づき、令和元年(2019年)5月1日に明仁は光格上皇以来202年ぶり、かつ憲政史上初めて「上皇」となった。この生前退位の場合は、「上皇(ならびに上皇陛下)」が正式称号となっており、上皇が行う国事行為及び政治に関与する権限は定められていないため、院政を執ることはできなくなっている。", "title": "皇位継承の法制化と院政の禁止" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "基本の意味の院政の具体例の一覧は以下のとおりである。", "title": "院政一覧" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "注:", "title": "院政一覧" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "皇位譲渡者が後継君主の後見として実質的な政務を行う政治体制は、日本独自の家督制度に由来している。当主が存命中から隠居して、家督を次代に譲って、家の実権を掌握し続ける、というもので、この制度がいつ頃から始まったかは、かなり古くからとされており、詳しくはわかっていない。日本人の思想に国家ならびに家の概念が固まりつつあった弥生時代に確立された、とする説も存在する。", "title": "院政と隠居制度" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府それぞれの征夷大将軍職において、将軍職を退いて大御所となることも、院政の変形と言える。『武家社会の大名家、公家や神官職、さらには一般庶民の家庭においても隠居制度は浸透していた。だから、院政自体が隠居制度の延長線上に存在していた、と見做すことも可能である』", "title": "院政と隠居制度" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "既述の通り明治年間以降は、皇室典範の施行に伴い、天皇が隠退して上皇になることは一旦途絶えた。また、明治以降西洋文化の流入に伴って、家督制度に対する日本人の思考にも変化が表れた影響から、隠居制度は急速に廃れていき、日本国憲法によって法的に家督制度と共に隠居制度は廃止された。", "title": "院政と隠居制度" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本の院政のように、名目上の最高権力者と実質的な最高権力者の分離が常態化したものは、ベトナムの陳朝に類例が見られるものの、他にはほぼ存在しない。一時的に院政に類似する政治形態が成立することはあるものの、それが制度化されることはなかったといえる。", "title": "世界各国の最高権力に関する類例と相違点" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中国において、趙の武霊王、南宋の孝宗、清の乾隆帝などは、君主の位を後継者に譲った後も権力を握っていた。しかし、それが恒久化することはなかった。", "title": "世界各国の最高権力に関する類例と相違点" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは、実権を保持したまま後継者を君主位に就ける場合には共同統治者(英語版)に据える方法が取られた。複数の君主が並び立つこの方法は、形式上は世襲制ではないローマ帝国で特にしばしば用いられた。神聖ローマ帝国が選挙王制になると、在位中の「皇帝兼ローマ王」が嫡子を \"共同のローマ王\" に選出させる方法を採用し、これによりハプスブルク家による長期の事実上の世襲がなされた。", "title": "世界各国の最高権力に関する類例と相違点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "カスティーリャ女王ベレンゲラは、フェルナンド3世を王位に即けた後、その\"後見人\"となった。しかし女性君主の即位自体が恒常的でないこともあり、制度化はしなかった。", "title": "世界各国の最高権力に関する類例と相違点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一般的には、君主の位を後継者に譲れば、実権も手放すことになる。ローマ皇帝ディオクレティアヌスは退位により完全引退し、アラゴン王ラミロ2世や神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)は余生を修道院で送った。アラゴン女王ペトロニラは自らの息子に譲位した。近代のオランダやルクセンブルクでも、君主は譲位すれば実権も手放している。", "title": "世界各国の最高権力に関する類例と相違点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "現職を引退した人が、引退後も実権を握っていること。「会長が院政を敷く」などと使う。ある人がトップの役職から退いたのに実権を握り続けていることを、「院政」と喩える。企業運営や政治の世界で行われることがある。", "title": "比喩表現" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "代表取締役社長の役職(法規で会社を代表すると明確に定められている)を退任し、別の人を代表取締役社長に就任させた後も、 \"会長\" と呼ぶ存在となり、企業運営の実権を握り続けることを「院政」ということがある。", "title": "比喩表現" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "企業や団体では、忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより、実権の更なる強化を図る意味合いが強いとも。", "title": "比喩表現" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国際政治においても院政という言葉が使われている。ロシア連邦における2008年から2012年までのタンデム体制は、当時の大統領であるドミートリー・メドヴェージェフではなく、前大統領であるウラジーミル・プーチン首相が実権を握っているとされ、「プーチンによる院政」という表現が日本のメディアで使用された。また、江沢民が2002年から2003年にかけて共産党総書記・国家主席のポストを胡錦濤に譲っても、軍トップの党中央軍事委員会主席を務めていた2年間は重大問題について江沢民の裁定を仰ぐ合意が共産党指導部内にあったため、2002年から2004年までは「江沢民の院政」という表現が日本のメディアで使用された。", "title": "比喩表現" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "近年の日本では、内閣総理大臣だった人が総理大臣を辞めても、なお(与党内において)最も強力な影響力を保持している場合に「院政」と喩えられる。例えば、竹下登が政権退陣した後の宇野宗佑政権・海部俊樹政権が「竹下院政」と、安倍晋三が政権退陣した後の菅義偉政権・岸田文雄政権が「安倍院政」とそれぞれ称された。", "title": "比喩表現" } ]
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す。
{{参照方法|date=2021年9月}} '''院政'''(いんせい)は、[[太上天皇|上皇(太上天皇)]]または出家した上皇である[[太上法皇|法皇(太上法皇)]]が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする<ref>『日本大百科全書』「院政」</ref>。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す<ref>『デジタル大辞泉』「院政」</ref>。 == 概要 == [[摂関政治]]が衰えた[[平安時代]]末期から、[[鎌倉時代]]すなわち[[武家政治]]が始まるまでの間に見られた政治の方針である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると[[法皇]]となるが<ref>『[[NHK高校講座]] 日本史』第9回「院政と荘園」2017年6月9日放送</ref>、上皇は「[[院]]」とも呼ばれたので、院政という(院という場所で政治を行ったから院政というとする説もある)。 [[1086年]]に[[白河天皇]]が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の[[1185年]]頃までを「'''院政時代'''」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に[[頼山陽]]が『[[日本外史]]』の中でこうした政治形態を「政在上皇」<ref>『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏([[平治の乱]]後):「この時に当たり、'''政、(後白河)上皇に在り'''。[[藤原経宗]]、[[藤原惟方]]、帝([[二条天皇]])に勧めて政を親らせしむ。両宮交々(こもごも)悪(にく)む」。</ref>として「院政」<ref>『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏「平氏論賛」:「是に由りて之を観れば、平宗を延いて以て相門に抗するは、'''院政'''・廟論、相伝承する所、其れ猶を寛平の菅氏を擢任するが如きか」(大意: これらの歴史的事例から察するに、平氏の一族の力を借りて藤原氏に対向するのは、天皇家において代々相伝されたことであり、[[寛平]]年間に[[菅原道真]]を抜擢任用したようなものだろうか)</ref>と表現し、[[明治政府]]によって編纂された『[[国史眼]]』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は'''[[治天の君]]'''とも呼ばれた。 == 前史 == 本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。[[斉明天皇|皇極天皇]]以降、[[持統天皇]]・[[元正天皇]]・[[聖武天皇]]など、皇位の生前[[譲位]]が行われるようになった。当時は[[皇位継承]]が安定していなかったため([[大兄]]制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった[[東大寺]]建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。 平安時代に入っても[[嵯峨天皇]]や[[宇多天皇]]や、[[円融天皇]]などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与することがあった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく{{efn|奈良時代には聖武天皇([[紫香楽宮]])と元正上皇([[難波宮]])のもとで短期間ながら宮廷が分裂し、平安時代には天皇の[[内侍宣]]を掌る[[尚侍]][[藤原薬子]]が[[平城天皇|平城上皇]]の復位を画策したために、[[嵯峨天皇]]が命令系統を一時的に喪失する危機にさらされた[[薬子の変]]などの教訓から[[蔵人所]]の設置など天皇権力の強化が行われた影響もある<ref>筧、2002年{{要ページ番号|date=2021年9月}}</ref>。また、薬子の変を教訓として太上天皇は天皇が居住する内裏には立ち入れない慣習が成立し、院政の成立後もその原則は守られ続けた<ref>樋口、2018年、P58-61</ref>。}}。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた[[藤原北家]]が天皇の職務・権利を代理・代行する[[摂関政治]]が隆盛していくことになる。 だが、[[治暦]]4年([[1068年]])の[[後三条天皇]]の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて[[皇位継承]]の安定が大きな政治課題とされており、皇統を[[一条天皇]]系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、[[宇多天皇]]以来藤原北家([[摂家|摂関家]])を[[外戚]]に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、[[延久の荘園整理令]]([[1069年]])などより積極的な政策展開を行った。[[延久]]4年([[1072年]])に後三条天皇は第一皇子貞仁親王([[白河天皇]])へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。 === 後三条天皇譲位の意図についての諸学説 === このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が[[慈円]]により主張されて(『[[愚管抄]]』)以来、[[北畠親房]](『[[神皇正統記]]』)、[[新井白石]](『[[読史余論]]』)、[[黒板勝美]]、[[三浦周行]]などにより主張されていたが、[[和田英松]]が、災害異変、後三条天皇の病気、[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、[[平泉澄]]が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では[[吉村茂樹]]が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら[[美川圭]]のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。 その一方で、近年では宇多天皇が[[醍醐天皇]]に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、[[円融天皇]]が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である[[摂政]][[藤原兼家]]と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。 == 白河院政 == 次の白河天皇の母も[[御堂流]][[摂家|摂関家]]ではない[[閑院流]]出身で[[中納言]][[藤原公成]]の娘、[[春宮坊|春宮大夫]][[藤原能信]](異母兄[[藤原頼通|頼通]]とは反目していた)の養女である[[女御]][[藤原茂子]]であったため、白河天皇は、御堂流嫡流摂関家の[[藤原師実]]を[[関白]]をに任じつつ後三条天皇と同様に[[親政]]を行った。白河天皇は[[応徳]]3年([[1086年]])に当時8歳の善仁皇子([[堀河天皇]])へ譲位し[[太上天皇]](上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。[[嘉承]]2年([[1107年]])に堀河天皇が没するとその皇子([[鳥羽天皇]])が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は'''[[治天の君]]'''、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮([[皇太子]])のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。 ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女[[藤原茂子]]を母親、同じく御堂流の関白藤原師実の養女[[藤原賢子]](御堂流と親密な[[村上源氏]]中院流出身)を[[中宮]]としており、生前の後三条天皇および反摂関家の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・[[輔仁親王]](摂関家に冷遇された[[三条源氏]]の系譜)への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び摂関家を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。[[佐々木宗雄 (歴史学者)|佐々木宗雄]]の研究によれば、『[[中右記]]』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白[[藤原師通]]が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、師通の働き盛りの年齢での急逝と若年で政治経験の乏しい[[藤原忠実]]の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い[[鳥羽天皇]]が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、[[樋口健太郎]]は白河法皇の院政の前提として[[藤原彰子]](上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場<ref group="注釈">本来は父院である一条上皇の役目であるが、上皇は既に死去している。なお、彰子は道長の娘、頼通の姉にあたる。</ref>から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の[[令旨]]などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与<ref group="注釈">母后である[[藤原賢子]]の関与の可能性も考えられるが、賢子は既に死去している。なお、賢子は師実の養女にあたる。</ref>を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の[[行幸]]に公卿を動員し、院御所の造営に[[諸国所課]]を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた{{efn|摂関政治全盛期である上東門院と藤原道長・頼通親子の先例を範として成立した白河天皇(上皇・法皇)と摂関(大殿)藤原師実の先例は後世の摂関家においては「吉例」として考えられていたのである<ref>樋口、2011年{{要ページ番号|date=2021年9月}}</ref>。}}。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。 直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。 また、外戚関係を媒介に摂政[[関白]]として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として'''[[院庁]]'''を設置し、[[院宣]]・[[院庁下文]]などの命令文書を発給した。従来の学説では[[院庁]]において実際の政務が執られたとされていたが、[[鈴木茂男]]が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、[[橋本義彦]]がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて[[朝廷 (日本)|朝廷]]に圧力をかけ、院独自の側近を[[院の近臣]]として[[太政官]]内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として[[北面武士]]を置くなど、[[平氏]]を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって[[中世]]の起点とする事もある。 平安後期以降に院政が定着した背景として、[[岡野友彦]]は[[財政]]面の理由を指摘している。[[公地公民]]制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は[[律令]]国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって[[皇室財産|皇室領]]となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である<ref>岡野、2013年、序章 院政と荘園制 p.212(kindle版)</ref>。 ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は[[王権]]を構成する相互補完的な関係であり続けたのである<ref>樋口、2018年、P23-24・34-35.</ref>。 == 院政の最盛と転換 == 白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子([[崇徳天皇]])を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ{{efn|『[[古事談]]』によると崇徳天皇は白河天皇の実子であるとされており、両者の疎遠な関係の傍証とされてきたが、近年の研究では信憑性は疑問とされている<ref>美川圭 2006</ref>。}}、第九皇子である[[近衛天皇]](母、[[藤原得子|美福門院]])へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の[[後白河天皇]](母、[[藤原璋子|待賢門院]])が継いだ)。そして、[[保元]]元年([[1156年]])に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した([[保元の乱]])。 後白河天皇は保元3年(1158年)に[[二条天皇]]へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い[[二条天皇]]は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされた。したがって二条天皇の時代、後白河院政は強固なものとはとうていいえなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165年)6月25日に幼い[[六条天皇]]に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、[[平治の乱]]と平氏政権の隆盛およびその崩壊、[[治承・寿永の乱]]の勃発、[[源頼朝]]の[[鎌倉幕府]]成立など、[[武士]]が一気に台頭する時代となった。 ただ、[[後白河天皇|後白河法皇]]と[[平清盛]]とが対立し始めた後、治承3年(1179年)11月の[[治承三年の政変]]によって[[鳥羽殿]]に幽閉され、後白河法皇は院政を停止されてしまった。ここで一旦[[高倉天皇]]の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に[[安徳天皇]]に譲位、ここに高倉院政が成立した。高倉院政下では[[福原京|福原]]への「遷都」などが行われたが、もともと病弱であった高倉上皇は福原で病を得、平安京に還御した直後の養和元年(1181年)1月14日に崩じてしまった。まもなく清盛も世を去ったため、清盛の後継者であった[[平宗盛]]は後白河院政を復活させた。 後白河院政の後は、その孫の[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が院政を行った。後鳥羽院は、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗([[承久の乱]])、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷に執権[[北条氏]]の介入を招いてしまった。乱後、[[後堀河天皇]]が即位するとその父親である[[守貞親王|行助入道親王]]が例外的に皇位を経ずして院政を行う([[守貞親王|後高倉院]])という事態も発生している。 院政は承久の乱以降も存続し、[[公家政権]]の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた[[後嵯峨天皇|後嵯峨院政期]]に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事([[弁官]]や[[蔵人]]による奏上)を取り次ぐ役職である[[伝奏]]の制度化、そして院が[[評定衆]]とともに相論(訴訟)裁許に当たる[[院評定]]を確立し、院政の機能強化に努めた。院評定は当時の課題であった徳政の興行のために訴訟の裁許を円滑化する役目を担った{{efn|当時の社会において、訴訟とりわけ所領関係の紛争の解決が期待されていたが、天皇に代わって上皇が裁許する形式が取られたのは、天皇が直接裁許することで敗訴した側の怨恨が天皇に向けられるのを回避する意図があったとも考えられている<ref>近藤、2016年、P520</ref>。なお、同様の流れは同じ時期に将軍が直接裁許することを回避して執権が裁許を行う仕組を完成させた鎌倉幕府にも見受けられる<ref>近藤、2016年、P512</ref>。}}。 後嵯峨院以後の[[両統迭立]]期には、実際の院政を行う治天の君は天皇の父(あるいは祖父・曽祖父)である必要性が特に強調されるようになる。[[持明院統]]の[[伏見天皇]]が即位した際に実父である[[後深草天皇|後深草院]]が院政を行うものとされ、前天皇である[[大覚寺統]]の[[後宇多天皇|後宇多院]]がこれに抗議したものの顧みられず、反対に後宇多院の子である[[後二条天皇]]が即位した際には同時に前天皇である[[後伏見天皇|後伏見院]]の代で院政を行っていた伏見院の院政も停止されて後宇多院の院政が開始されている。なお、この際に伏見院の皇子で後伏見院の弟にあたる富仁親王(後の[[花園天皇]])が立太子された際に後伏見院の[[猶子]]とされた(『[[皇年代略記]]』・『[[神皇正統記]]』)。花園天皇即位後は当初は伏見院が院政を行ったものの、正和2年([[1313年]])10月17日に治天の君位が後伏見院に譲られ(『[[一代要記]]』)、4年後に伏見院が崩じた時には花園天皇は実父の崩御にもかかわらず祖父の喪の形式を採った(『[[増鏡]]』)。これは本来は花園天皇の兄である後伏見院が同天皇の治世における治天の資格を得るために、花園天皇と猶子関係を結んだために本来は「父と子」の関係である伏見院と花園天皇の関係も「祖父と孫」の関係に擬制されたことによる。大覚寺統の事例([[長慶天皇|長慶院]]と[[後亀山天皇]])は不明であるものの、以後の持明院統においては治天の君に予定された者と皇位継承予定者が猶子関係を結び、治天の君と天皇の間で親子関係が擬制されるようになった([[光厳天皇|光厳院]]と[[光明天皇]]及び[[直仁親王]](廃太子){{efn|直仁親王の本当の父親は光厳院であるとする見解がある<ref> 岩佐美代子『光厳院御集全釈』風間書房、2000年ほか</ref>。}}、[[後小松天皇|後小松院]]と[[後花園天皇]])。 == 院政の形骸化 == [[建武の新政|建武新政]]期には[[後醍醐天皇]]が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活した。[[室町時代]]に入ってからも院政は継続したが、治天の[[後円融天皇|後円融院]]が自暴自棄な行動で権威を喪失すると、[[足利義満]]が院の権限を代行するようになり、これは後円融院の崩御後も継続した。この時期の義満を治天であったとみなす学者もいる<ref>岡野、2013年、第四章 足利義満の「院政」と院政の終焉 p.2007(kindle版)</ref>。 義満の没後に[[後小松天皇]]が譲位し院政を復興するが、[[応永]]25年([[1418年]])から将軍[[足利義持]]が院宣の事前審査を行うようになる<ref>[[桃崎有一郎]]『室町の覇者 足利義満―朝廷と幕府はいかに統一されたか』(筑摩書房、2020年)第十章 義持の試行錯誤の終着点―直義的正義感と義満的強権のバランス p.4005(kindle版)</ref>。そして[[永享]]5年([[1433年]])に後小松院が崩御すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院が相伝してきた荘園に対する武家による横領がやまず、院政を支える経済基盤が失われていった。後小松の次に上皇になった後花園院の譲位後に程なく[[応仁の乱]]が生じ、院の所領は有名無実と化した。ただし院庁はその後も存続し{{efn|[[甘露寺親長]]の『親長卿記』や[[甘露寺家]]に伝わっていた「案文書類巻」([[国立歴史民俗博物館]]所蔵)より、親長が院司として作成した院宣の存在(応仁2年12月25日付庭田中納言(雅行)宛・文明2年10月18日付備前国薬師寺宛、ともに所領安堵)が確認できる。}}、後花園院の崩御後も院の仏事を行うために院庁や職員が存在していたことが確認できる<ref>井原今朝男『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)P166-168</ref>。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。 == 江戸時代の院政 == [[江戸時代]]に入ると、『[[禁中並公家諸法度]]』に基づいて[[江戸幕府]]の対朝廷介入は本格化した。幕府は[[摂政]]・[[関白]]を中心とした朝廷秩序を求めた。しかし[[後水尾天皇|後水尾上皇]]による院政が敷かれたため、明正天皇が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。だが、江戸時代に入ってからの院政は、室町時代までの院政とは本質的に異なるものとなった。江戸時代の院は公家社会以外への支配権を持たず、仙洞御料も上皇が存在する時に限ってその都度幕府からあてがわれ、その管理は全て幕府に委ねられていたためである<ref>岡野、2013年 第四章 足利義満の「院政」と院政の終焉 p.2033(kindle版)</ref>。 [[霊元天皇|霊元上皇]]が院政を行うと、親幕府派であった[[近衛基熙]]との間に確執を生んだ。霊元院政の終了後、[[桜町天皇]]が上皇となって院政を行ったが、わずか3年で崩御、[[後桜町天皇|後桜町上皇]]は[[後桃園天皇]]・[[光格天皇]]が幼い時期には院政を行ったが、光格天皇は成人後に親政を行っている。光格天皇は、息子の[[仁孝天皇]]に譲位して院政を行ったが、これが最後の院政である。 == 皇位継承の法制化と院政の禁止 == [[明治]]22年([[1889年]])に制定された[[旧皇室典範]]第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の[[譲位]]は禁止され、天皇の[[崩御]]によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。 院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の[[朱子学者]](例:[[新井白石]]『[[読史余論]]』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「[[朝廷 (日本)|朝廷]]」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった{{efn|これは摂関政治や武家政治(幕府)に対する理解にも影響を与えることとなった。本来[[君臣共治]]を基本としていた朝廷概念からすれば、摂関政治や武家政治なども朝廷への参画の形態の1つであって、貴族や武家は一時的な対立はあっても根本においては天皇権力と対立する存在ではないとされる<ref>河内 1986年{{要ページ番号|date=2021年9月}}</ref><ref>河内 2007年{{要ページ番号|date=2021年9月}}</ref>。}}。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。 そして[[昭和]]22年([[1947年]])に法律として制定された現行の[[皇室典範]]でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなった。また天皇を象徴とする[[日本国憲法]]の成立により、天皇が[[内閣 (日本)|内閣]]の承認と助言を受けた上で行う[[国事行為]]以外に政治に関与することはできなくなった。 その後、[[平成]]28年([[2016年]])に[[明仁]](第125代天皇)が、天皇の位を生前に次期皇位継承者である皇太子[[徳仁]]に譲る「生前退位(譲位)」の意向を示した。これにより平成29年([[2017年]])6月9日に[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]が成立し、同法に基づき、[[令和]]元年([[2019年]])[[5月1日]]に明仁は[[光格天皇|光格上皇]]以来202年ぶり、かつ憲政史上初めて「[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]」となった。この生前退位の場合は、「上皇(ならびに上皇陛下)」が正式称号となっており、上皇が行う国事行為及び政治に関与する権限は定められていないため、院政を執ることはできなくなっている。 == 院政一覧 == 基本の意味の院政の具体例の一覧は以下のとおりである。 === 平安時代・鎌倉時代 === * [[白河天皇|白河上皇]] - [[堀河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[崇徳天皇]] * 鳥羽上皇 - [[近衛天皇]]、[[後白河天皇]] * 後白河上皇 - [[二条天皇]]、[[六条天皇]]、[[高倉天皇]]、[[安徳天皇]]、[[後鳥羽天皇]] * 高倉上皇 - 安徳天皇 * 後鳥羽上皇 - [[土御門天皇]]、[[順徳天皇]]、[[仲恭天皇]] * [[守貞親王|後高倉法皇]] - [[後堀河天皇]] * 後堀河上皇 - [[四条天皇]] * [[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]] - [[後深草天皇]]、[[亀山天皇]] * 後深草上皇 - [[伏見天皇]] * 亀山上皇 - [[後宇多天皇]] * 後宇多上皇 - [[後二条天皇]]、[[後醍醐天皇]] * 伏見上皇 - [[後伏見天皇]]、[[花園天皇]] * 後伏見上皇 - 花園天皇、[[光厳天皇]] === 南北朝時代 === ==== 北朝 ==== * [[光厳天皇|光厳上皇]] - [[光明天皇]]、[[崇光天皇]] * [[後光厳天皇|後光厳上皇]] - [[後円融天皇]] * [[後円融天皇|後円融上皇]] - [[後小松天皇]] ==== 南朝 ==== * [[長慶天皇|長慶上皇]] - [[後亀山天皇]](院政を執ったと推定されているが、異説もある) === 室町時代 === * [[後小松天皇|後小松上皇]] - [[称光天皇]]、[[後花園天皇]] * 後花園上皇 - [[後土御門天皇]] === 江戸時代 === * [[後水尾天皇|後水尾上皇]] - [[明正天皇]]、[[後光明天皇]]、[[後西天皇]]、[[霊元天皇]] * 霊元上皇 - [[東山天皇]]、[[中御門天皇]] * 東山上皇 - 中御門天皇 * [[桜町天皇|桜町上皇]] - [[桃園天皇]] * [[光格天皇|光格上皇]] - [[仁孝天皇]] 注: *[[太上天皇|上皇]]の中には後に[[出家]]して[[太上法皇|法皇]]となった者が多い。 *白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇その他多数の上皇(及びごく一部の皇族)は[[治天の君]]として君臨した。 == 院政と隠居制度 == {{複数の問題 | section = 1 | 出典の明記 = 2021年9月4日 (土) 23:40 (UTC) | 独自研究 = 2021年9月4日 (土) 23:40 (UTC) }} {{See also|隠居}} {{要出典範囲|皇位譲渡者が後継君主の後見として実質的な政務を行う政治体制は、日本独自の[[家督]]制度に由来している。当主が存命中から隠居して、家督を次代に譲って、家の実権を掌握し続ける、というもので、この制度がいつ頃から始まったかは、かなり古くからとされており、詳しくはわかっていない。日本人の思想に国家ならびに家の概念が固まりつつあった[[弥生時代]]に確立された、とする説も存在する。|date=2023年1月}} [[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]それぞれの[[征夷大将軍]]職において、将軍職を退いて[[大御所]]となることも、院政の変形と言える{{要出典|date=2023年1月}}。『{{要出典範囲|武家社会の大名家、公家や神官職、さらには一般庶民の家庭においても隠居制度は浸透していた。だから、院政自体が隠居制度の延長線上に存在していた、と見做すことも可能である|date=2023年1月}}』 既述の通り明治年間以降は、皇室典範の施行に伴い、天皇が隠退して上皇になることは一旦途絶えた。また、明治以降西洋文化の流入に伴って、家督制度に対する日本人の思考にも変化が表れた影響から、隠居制度は急速に廃れていき、日本国憲法によって法的に家督制度と共に隠居制度は廃止された。 == 世界各国の最高権力に関する類例と相違点 == 日本の院政のように、名目上の最高権力者と実質的な最高権力者の分離が常態化したものは、[[ベトナム]]の[[陳朝]]に類例が見られるものの、他にはほぼ存在しない。一時的に院政に類似する政治形態が成立することはあるものの、それが制度化されることはなかったといえる。 中国において、[[趙 (戦国)|趙]]の[[武霊王]]、[[南宋]]の[[孝宗 (宋)|孝宗]]、[[清]]の[[乾隆帝]]などは、君主の位を後継者に譲った後も権力を握っていた。しかし、それが恒久化することはなかった。 ヨーロッパでは、実権を保持したまま後継者を君主位に就ける場合には{{ill|共同統治者|en|Coregency}}に据える方法が取られた。複数の君主が並び立つこの方法は、形式上は世襲制ではない[[ローマ帝国]]で特にしばしば用いられた。[[神聖ローマ帝国]]が[[選挙王制]]になると、在位中の「[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]兼[[ローマ王]]」が嫡子を "共同のローマ王" に選出させる方法を採用し、これにより[[ハプスブルク家]]による長期の事実上の世襲がなされた。 [[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[ベレンゲラ (カスティーリャ女王)|ベレンゲラ]]は、[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]を王位に即けた後、その"後見人"となった。しかし女性君主の即位自体が恒常的でないこともあり、制度化はしなかった<ref group="注釈">[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]が神聖ローマ皇帝に即位後も母[[マリア・テレジア]]が統治権を持っていた事例については、マリア・テレジア自身が終生[[オーストリア大公]]・[[ハンガリー王]]・[[ボヘミア王]]の君主位を保持しており、夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]在世時と変化はない。</ref>。 一般的には、君主の位を後継者に譲れば、実権も手放すことになる。ローマ皇帝[[ディオクレティアヌス]]は退位により完全引退し、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ラミロ2世 (アラゴン王)|ラミロ2世]]や[[神聖ローマ皇帝]]と[[スペイン]]王を兼ねた[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](カルロス1世)は余生を修道院で送った。アラゴン女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ]]は自らの息子に譲位した。近代の[[オランダ]]や[[ルクセンブルク]]でも、君主は譲位すれば実権も手放している。 == 比喩表現 == 現職を引退した人が、引退後も実権を握っていること<ref name="DAIJISEN">『デジタル大辞泉』「院政」の、2番めの定義。</ref>。「会長が院政を敷く」などと使う<ref name="DAIJISEN" />。ある人がトップの役職から退いたのに実権を握り続けていることを、「院政」と喩える。企業運営や政治の世界で行われることがある。 ;企業運営 [[代表取締役]][[社長]]の役職(法規で会社を代表すると明確に定められている)を退任し、別の人を代表取締役社長に就任させた後も、 "[[会長]]" と呼ぶ存在となり、企業運営の実権を握り続けることを「院政」ということがある。 企業や団体では、忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより、実権の更なる強化を図る意味合いが強いとも<ref>[http://wjn.jp/article/detail/3565828/ “お家騒動の血”が騒ぐ! NEC矢野新会長院政のムリクリトップ人事(1)] - [[週刊実話]] 2010年3月11日</ref>。 ;政治権力 国際政治においても院政という言葉が使われている。[[ロシア連邦]]における2008年から2012年までの[[タンデム体制]]は、当時の大統領である[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]ではなく、前大統領である[[ウラジーミル・プーチン]]首相が実権を握っているとされ、「プーチンによる院政」という表現が日本のメディアで使用された。また、[[江沢民]]が2002年から2003年にかけて共産党総書記・国家主席のポストを[[胡錦濤]]に譲っても、[[中国人民解放軍|軍]]トップの[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会主席]]を務めていた2年間は重大問題について江沢民の裁定を仰ぐ合意が共産党指導部内にあったため、2002年から2004年までは「江沢民の院政」という表現が日本のメディアで使用された<ref>[https://web.archive.org/web/20090904041708/http://www.47news.jp/CN/200502/CN2005020701003054.html 2年間は江沢民院政で合意 02年党大会で指導部] 共同通信 2005年2月7日</ref>。 近年の[[日本]]では、[[内閣総理大臣]]だった人が総理大臣を辞めても、なお([[与党]]内において)最も強力な影響力を保持している場合に「院政」と喩えられる。例えば、[[竹下登]]が政権退陣した後の[[宇野宗佑]]政権・[[海部俊樹]]政権が「竹下院政<ref>{{Cite news|title=宇野首相、足元固めへ長老めぐり 「粉骨砕身」と協力要請 派閥解消へ声高く|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1989-06-15}}</ref><ref>{{Cite news|title=[90総選挙 話題の人最前線] リクルート事件みそぎへ執念(連載)|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1989-12-26}}</ref>」と、[[安倍晋三]]が政権退陣した後の[[菅義偉]]政権・[[岸田文雄]]政権が「安倍院政」とそれぞれ称された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * [[宮内庁]]「皇室制度史料(太上天皇(三)」[[吉川弘文館]]、1980年。因みに、同書のP66~P69に院政対象者の一覧が掲載されている。 * [[美川圭]]『院政の研究』([[臨川書店]]、1996年) ISBN 465303284X * 美川圭『院政 <small>もうひとつの天皇制</small>』([[中公新書]]、2006年) ISBN 4121018672 * [[元木泰雄]]『院政期政治史研究』(思文閣、1996年) ISBN 4784209018 * 槙道雄『院政時代史論集』([[続群書類従完成会]]、1993年) ISBN 4797106522 * [[白根靖大]]『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4642027874 * 佐々木宗雄『平安時代国制史研究』([[校倉書房]]、2001年) ISBN 4751732005 * [[河内祥輔]]『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年) ISBN 4642021612 * 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642028633 * 筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年) ISBN 475173380X * 樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年) ISBN 4751742809 * 樋口健太郎『中世王権の成立と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 9784642029483 * [[近藤成一]]『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 9784751746509 * [[岡野友彦]]『院政とは何であったか ―「権門体制論」を見直す』(PHP新書、2013年) ISBN 9784569810652 == 関連項目 == * [[院司]] * [[院宣]] * [[院近臣]] * [[院庁下文]] * [[院宮王臣家]] * [[女院]] * [[黒幕]] * [[傀儡政権]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いんせい}} [[Category:院政|*]] [[Category:平安時代の仏教]] [[Category:鎌倉時代の仏教]]
2003-09-08T15:45:48Z
2023-11-14T15:06:42Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Kotobank", "Template:参照方法", "Template:Efn", "Template:複数の問題", "Template:要出典", "Template:Normdaten", "Template:See also", "Template:要出典範囲", "Template:Ill", "Template:Notelist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
15,809
枕草子
『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。 執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされている。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。また日本三大随筆の一つである。 「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。このような3種の分類は、池田亀鑑によって提唱された(『全講枕草子』解説、1957年)。もっとも、分類の仕方が曖昧な章段もある。 平仮名を中心とした和文で綴られ、総じて軽妙な筆致の短編が多いが、中関白家の没落と清少納言の仕えた中宮定子の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情の吐露もある。作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、『源氏物語』の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。総じて簡潔な文で書かれ、一段の長さも短く、現代日本人にとっても読みやすい内容である。 ただし、後述するように『枕草子』の内容は伝本によって相違しており、現在ではそれら伝本はおおよそ雑纂形態(三巻本・能因本)と類纂形態(堺本・前田本)の2系統に分けられている。雑纂形態の本は上で述べた3種の章段をばらばらに並べているが、類纂形態の本はそれらを区別整理して編集したものであり、この編集は作者の清少納言よりのちの人物の手によってなされたという。しかし雑纂形態の伝本である三巻本と能因本においても、それぞれ章段の順序や本文にかなりの相違があり、清少納言が書いたという『枕草子』の原形がどのようなものであったのかは明らかではない。 「枕草子」という書名全体についていえば、この作品がこの書名で呼ばれるようになった当時において「枕草子」は一般名詞であった。『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上したとき、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜されたと記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。 田中重太郎は日本古典全書『枕冊子』の解説で、枕の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。 ほかにも漢詩文に出典を求めた池田亀鑑や、「言の葉の枕」を書く草子であるとした折口信夫など異説が多い。また、『栄花物語』に美しいかさね色を形容するのに普通名詞としての「枕草子」が用いられたことも指摘されている。 近年(2014年)歴史学の五味文彦は、当時、唐風・唐様に対し和風・和様のものが意識されて多くの作品が生まれていることから、これは「史記=しき」を「四季」と連想し、定子に対して清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、「唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その『しき』にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したもの」とする新説を唱えている。すなわち『枕草子』が「春はあけぼの」から始まるのは、まず最初の話題として春夏秋冬の四季を取り上げたということである。 なお、萩谷朴は本文の解釈から、上記の定子より紙を賜ったという話は清少納言の作った虚構であるとしている。 『源氏物語』に比肩する中古文学の双璧として、後世の連歌・俳諧・仮名草子に大きな影響を与えた。鴨長明の『方丈記』、兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。 『枕草子』の成立についてはその跋文に、長徳2年(996年)のころ、左中将だった源経房が作者の家から持ち出して世上に広めたと記しているが、その後も絶えず加筆され、寛弘末年ごろに執筆されたとみられる文もある。『源氏物語』の古註『紫明抄』に引かれる『枕草子』の本文には現存本にないものもあり、複雑な成立過程を思わせる。現在、『枕草子』の伝本は以下の4系統が知られている。 これらも伝本間の相異はすこぶる大きく、たとえば「三巻本と能因本とでは、作者を別人とするしかないほどの違いがある」(石田穣二『鑑賞日本古典文学8』「枕草子」総説)という。 古典文学の本文校訂は、できる限り古い写本を底本(基準とする本文)に用いる。『枕草子』の伝本のなかで最古とされるのは前田本であるが、現在『枕草子』においては三巻本を底本としそれが読まれている。前田本の類纂形態の内容が作者の清少納言の手によるものではなく、後人の手によってまとめられたものとされているからである。堺本も同様の理由により、一般に読まれる本文として使われることはまずない。 能因本は江戸時代の古活字本に底本として利用されたことにより、『枕草子傍注』や『枕草子春曙抄』(北村季吟註)といった注釈書とセットになって近代まで『枕草子』の本文として主流を占めた。しかし大正14年(1925年)、三巻本系統の伝本(桂宮本)を底本とした『清少納言枕草子』が刊行されると、古活字本の本文に対する批判が起こる。さらに昭和3年(1928年)、池田亀鑑が「清少納言枕草子の異本に関する研究」と題した論文において各系統の伝本について紹介し、流布本(『春曙抄』本文)に対する安貞二年奥書本(三巻本)の優位性を唱えた。このとき三巻本が第一類と第二類の二つに分けられる。昭和10年(1935年)には楠道隆が堺本との比較により、三巻本の中で第一類の本文が第二類のものよりも純正であると評価した。 以後も能因本と三巻本との間で本文の優劣論争が繰り広げられた結果、三巻本は各系統の中でもっとも古態に近いとされ、能因本の本文は三巻本よりも劣るものとされている。これは堺本、前田本についても同様である。よって三巻本による本文が教科書にも採用されており、能因本、堺本、前田本による本文の出版は三巻本と比べてごく少数となっている。 ただしこれは『枕草子』に限らず、古い時代に成立した仮名の文学作品のほとんどについて言えることであるが、現在と違って本を作るのに人の手で書き写すしかなかった時代には、作者の手から離れた作品は書写を重ねるごとに誤写誤脱が加わり、また意図的に表現や内容を書き替えるということが普通に行われていた。現在、『枕草子』において善本とされる三巻本についても、作者とされる清少納言の原作から見れば幾度となく書写を繰り返した結果成立したものであり、その間に多くの改変の手が加わっていると考えられる。これは三巻本よりも本文の上で劣るとされている能因本や堺本、前田本も同様であるが、要するにいずれの系統の伝本であっても、書写の過程で本文に少なからぬ改変が加えられており、三巻本においてもそれは例外ではないということである。「個々の章段については、彼此優劣が錯綜していて、必ずしも常に三巻本本文が能因本本文に立ちまさっているとは断じ切れない」という意見もある。 以下、各系統の大略について述べる。 雑纂形態をとり、三巻からなる。「耄及愚翁」という藤原定家と思しき人物による安貞2年(1228年)の奥書を持つ系統の伝本で、池田亀鑑が昭和3年に命名した。もともとは上下二巻だったのをさらに2冊ずつに分けて4冊にしたものが、そのうちの第一冊を失った結果三巻(3冊)になったものである。三巻本はこの第一冊にあった章段がない本(第一類)と、それを補った本(第二類)の2種類に分けられる。「耄及愚翁」による奥書には2部の『枕草子』を人から借り、これらをもとに本文を写したとしているが、それらがいかなる素性の本であったかは触れておらず、また「依無証本不散不審」(証本〈拠りどころとすべき伝本〉がなく、本文に不審なところがあっても解決できない)と述べている。室町時代以前にさかのぼる完本は見出されていない。 現行で読まれる三巻本の本文は、第二類本の第1段から75段までを底本として用い、そのあとは第一類本を底本とする形をとっている。なお、鎌倉時代後期成立の枕草子絵詞七段分が現存しており、白描の絵巻物で詞書は三巻本系統の本文を使用したものと見られる。 これも雑纂形態の伝本で通常上下二巻として伝わるが、その章段の順序は同じ雑纂形態の三巻本とはかなり相違し、また内容にも相互に出入りがある。清少納言と姻戚関係にあった能因法師(その姉妹の一人が清少納言の実子橘則長の妻)が所持していた本であるという奥書があることにより、能因本と呼ばれる。 類纂形態をとる。上下二巻で、堺に住む道巴という人物が所持した本を、元亀元年(1570年)に清原枝賢が書写したとの奥書より「堺本」と呼ばれるが、現在この系統で近世以前にさかのぼる写本は確認されていない。回想章段と跋文を欠く。その伝本は2種類に分けられている。 類纂形態の伝本で四巻。第一巻に107段、第二巻に89段、第三巻に102段、第四巻に32段を収めるが、さらに第五巻があって紛失したものとみられる。上記の三巻本、能因本、堺本にはない章段を含み、同じ類纂形態の堺本とは章段の順序が異なっている。この系統の伝本は加賀前田家伝来本(前田育徳会蔵)があるのみである。金蒔絵の箱に入っており、その蓋には金象嵌で「清少納言枕草子」とある。鎌倉時代中期の書写で『枕草子』の伝本の中では最古のものとされ、重要文化財に指定されている。寛永6年(1629年)4月に徳川秀忠が江戸の前田邸を訪れた折、この前田本『枕草子』を蒔絵の箱とともに床の間脇の棚に飾ったとの記録があり、これ以前に前田家に入っていたと見られる。本文は『前田家本枕冊子新註』に翻刻がある。 底本について注記のないものは、三巻本の本文による。 枕草子を平易に理解する入門編としては、現代語訳された小説、漫画などがある。 ピーター・グリーナウェイ監督による1996年公開の映画『ピーター・グリーナウェイの枕草子(The Pillow Book)』は、「現代の清少納言(清原諾子)」の話を標榜している。とはいえ、ストーリーはエロチックであり、ヒロインに日本人でなく中国出身の女優ヴィヴィアン・ウーを起用し、物語の舞台は京都と香港に跨って展開されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされている。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。また日本三大随筆の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。このような3種の分類は、池田亀鑑によって提唱された(『全講枕草子』解説、1957年)。もっとも、分類の仕方が曖昧な章段もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "平仮名を中心とした和文で綴られ、総じて軽妙な筆致の短編が多いが、中関白家の没落と清少納言の仕えた中宮定子の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情の吐露もある。作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、『源氏物語』の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。総じて簡潔な文で書かれ、一段の長さも短く、現代日本人にとっても読みやすい内容である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ただし、後述するように『枕草子』の内容は伝本によって相違しており、現在ではそれら伝本はおおよそ雑纂形態(三巻本・能因本)と類纂形態(堺本・前田本)の2系統に分けられている。雑纂形態の本は上で述べた3種の章段をばらばらに並べているが、類纂形態の本はそれらを区別整理して編集したものであり、この編集は作者の清少納言よりのちの人物の手によってなされたという。しかし雑纂形態の伝本である三巻本と能因本においても、それぞれ章段の順序や本文にかなりの相違があり、清少納言が書いたという『枕草子』の原形がどのようなものであったのかは明らかではない。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「枕草子」という書名全体についていえば、この作品がこの書名で呼ばれるようになった当時において「枕草子」は一般名詞であった。『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上したとき、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜されたと記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。", "title": "書名の由来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "田中重太郎は日本古典全書『枕冊子』の解説で、枕の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。", "title": "書名の由来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ほかにも漢詩文に出典を求めた池田亀鑑や、「言の葉の枕」を書く草子であるとした折口信夫など異説が多い。また、『栄花物語』に美しいかさね色を形容するのに普通名詞としての「枕草子」が用いられたことも指摘されている。", "title": "書名の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年(2014年)歴史学の五味文彦は、当時、唐風・唐様に対し和風・和様のものが意識されて多くの作品が生まれていることから、これは「史記=しき」を「四季」と連想し、定子に対して清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、「唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その『しき』にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したもの」とする新説を唱えている。すなわち『枕草子』が「春はあけぼの」から始まるのは、まず最初の話題として春夏秋冬の四季を取り上げたということである。", "title": "書名の由来" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、萩谷朴は本文の解釈から、上記の定子より紙を賜ったという話は清少納言の作った虚構であるとしている。", "title": "書名の由来" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『源氏物語』に比肩する中古文学の双璧として、後世の連歌・俳諧・仮名草子に大きな影響を与えた。鴨長明の『方丈記』、兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『枕草子』の成立についてはその跋文に、長徳2年(996年)のころ、左中将だった源経房が作者の家から持ち出して世上に広めたと記しているが、その後も絶えず加筆され、寛弘末年ごろに執筆されたとみられる文もある。『源氏物語』の古註『紫明抄』に引かれる『枕草子』の本文には現存本にないものもあり、複雑な成立過程を思わせる。現在、『枕草子』の伝本は以下の4系統が知られている。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらも伝本間の相異はすこぶる大きく、たとえば「三巻本と能因本とでは、作者を別人とするしかないほどの違いがある」(石田穣二『鑑賞日本古典文学8』「枕草子」総説)という。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古典文学の本文校訂は、できる限り古い写本を底本(基準とする本文)に用いる。『枕草子』の伝本のなかで最古とされるのは前田本であるが、現在『枕草子』においては三巻本を底本としそれが読まれている。前田本の類纂形態の内容が作者の清少納言の手によるものではなく、後人の手によってまとめられたものとされているからである。堺本も同様の理由により、一般に読まれる本文として使われることはまずない。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "能因本は江戸時代の古活字本に底本として利用されたことにより、『枕草子傍注』や『枕草子春曙抄』(北村季吟註)といった注釈書とセットになって近代まで『枕草子』の本文として主流を占めた。しかし大正14年(1925年)、三巻本系統の伝本(桂宮本)を底本とした『清少納言枕草子』が刊行されると、古活字本の本文に対する批判が起こる。さらに昭和3年(1928年)、池田亀鑑が「清少納言枕草子の異本に関する研究」と題した論文において各系統の伝本について紹介し、流布本(『春曙抄』本文)に対する安貞二年奥書本(三巻本)の優位性を唱えた。このとき三巻本が第一類と第二類の二つに分けられる。昭和10年(1935年)には楠道隆が堺本との比較により、三巻本の中で第一類の本文が第二類のものよりも純正であると評価した。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以後も能因本と三巻本との間で本文の優劣論争が繰り広げられた結果、三巻本は各系統の中でもっとも古態に近いとされ、能因本の本文は三巻本よりも劣るものとされている。これは堺本、前田本についても同様である。よって三巻本による本文が教科書にも採用されており、能因本、堺本、前田本による本文の出版は三巻本と比べてごく少数となっている。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ただしこれは『枕草子』に限らず、古い時代に成立した仮名の文学作品のほとんどについて言えることであるが、現在と違って本を作るのに人の手で書き写すしかなかった時代には、作者の手から離れた作品は書写を重ねるごとに誤写誤脱が加わり、また意図的に表現や内容を書き替えるということが普通に行われていた。現在、『枕草子』において善本とされる三巻本についても、作者とされる清少納言の原作から見れば幾度となく書写を繰り返した結果成立したものであり、その間に多くの改変の手が加わっていると考えられる。これは三巻本よりも本文の上で劣るとされている能因本や堺本、前田本も同様であるが、要するにいずれの系統の伝本であっても、書写の過程で本文に少なからぬ改変が加えられており、三巻本においてもそれは例外ではないということである。「個々の章段については、彼此優劣が錯綜していて、必ずしも常に三巻本本文が能因本本文に立ちまさっているとは断じ切れない」という意見もある。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以下、各系統の大略について述べる。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "雑纂形態をとり、三巻からなる。「耄及愚翁」という藤原定家と思しき人物による安貞2年(1228年)の奥書を持つ系統の伝本で、池田亀鑑が昭和3年に命名した。もともとは上下二巻だったのをさらに2冊ずつに分けて4冊にしたものが、そのうちの第一冊を失った結果三巻(3冊)になったものである。三巻本はこの第一冊にあった章段がない本(第一類)と、それを補った本(第二類)の2種類に分けられる。「耄及愚翁」による奥書には2部の『枕草子』を人から借り、これらをもとに本文を写したとしているが、それらがいかなる素性の本であったかは触れておらず、また「依無証本不散不審」(証本〈拠りどころとすべき伝本〉がなく、本文に不審なところがあっても解決できない)と述べている。室町時代以前にさかのぼる完本は見出されていない。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現行で読まれる三巻本の本文は、第二類本の第1段から75段までを底本として用い、そのあとは第一類本を底本とする形をとっている。なお、鎌倉時代後期成立の枕草子絵詞七段分が現存しており、白描の絵巻物で詞書は三巻本系統の本文を使用したものと見られる。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これも雑纂形態の伝本で通常上下二巻として伝わるが、その章段の順序は同じ雑纂形態の三巻本とはかなり相違し、また内容にも相互に出入りがある。清少納言と姻戚関係にあった能因法師(その姉妹の一人が清少納言の実子橘則長の妻)が所持していた本であるという奥書があることにより、能因本と呼ばれる。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "類纂形態をとる。上下二巻で、堺に住む道巴という人物が所持した本を、元亀元年(1570年)に清原枝賢が書写したとの奥書より「堺本」と呼ばれるが、現在この系統で近世以前にさかのぼる写本は確認されていない。回想章段と跋文を欠く。その伝本は2種類に分けられている。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "類纂形態の伝本で四巻。第一巻に107段、第二巻に89段、第三巻に102段、第四巻に32段を収めるが、さらに第五巻があって紛失したものとみられる。上記の三巻本、能因本、堺本にはない章段を含み、同じ類纂形態の堺本とは章段の順序が異なっている。この系統の伝本は加賀前田家伝来本(前田育徳会蔵)があるのみである。金蒔絵の箱に入っており、その蓋には金象嵌で「清少納言枕草子」とある。鎌倉時代中期の書写で『枕草子』の伝本の中では最古のものとされ、重要文化財に指定されている。寛永6年(1629年)4月に徳川秀忠が江戸の前田邸を訪れた折、この前田本『枕草子』を蒔絵の箱とともに床の間脇の棚に飾ったとの記録があり、これ以前に前田家に入っていたと見られる。本文は『前田家本枕冊子新註』に翻刻がある。", "title": "伝本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "底本について注記のないものは、三巻本の本文による。", "title": "研究・受容" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "枕草子を平易に理解する入門編としては、現代語訳された小説、漫画などがある。", "title": "研究・受容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ピーター・グリーナウェイ監督による1996年公開の映画『ピーター・グリーナウェイの枕草子(The Pillow Book)』は、「現代の清少納言(清原諾子)」の話を標榜している。とはいえ、ストーリーはエロチックであり、ヒロインに日本人でなく中国出身の女優ヴィヴィアン・ウーを起用し、物語の舞台は京都と香港に跨って展開されている。", "title": "研究・受容" } ]
『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。 執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされている。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。また日本三大随筆の一つである。
{{otheruses|[[平安時代]]中期、[[清少納言]]により執筆された[[随筆]]|枕絵、枕草紙<!--枕草子でも春画を意味する-->などと呼ばれた絵画|春画}} [[ファイル:Sei Shonagon3.jpg|thumb|200px|「[[枕草子絵詞]]」(部分) 五月頃の夜、宮中に住む定子の所に「女房はいらっしゃいますか」と声がするので、定子が誰なのか見てくるよう言いつけ、清少納言が声をかけると[[ハチク|呉竹]]が差し入れられた。それを見た清少納言は「おいこのきみにこそ」(おや「このきみ」でしたよ)と言う('''三巻本130段''')。「このきみ」とは[[中国の書家一覧#王徽之|王子猷]]([[王羲之]]の子)が竹を「此君」と呼んだことにちなむ。]]  『'''枕草子'''』(まくらのそうし)とは、[[平安時代]]中期に[[中宮]][[藤原定子|定子]]に仕えた[[女房]]、[[清少納言]]により執筆されたと伝わる[[随筆]]。ただし本来は、[[助詞]]の「の」を入れずに「'''まくらそうし'''」と呼ばれたという。 執筆時期は正確には判明していないが、[[長保]]3年([[1001年]])にはほぼ完成したとされている。「'''枕草紙'''」「'''枕冊子'''」「'''枕双紙'''」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。また日本三大随筆の一つである。 == 内容 == [[ファイル:Pillow Book illustrated6.JPG|thumb|280px|「枕草子絵詞」 [[一条天皇]]が「無名」という[[琵琶]]を持って中宮定子のもとを訪れ、琵琶の名を問うと定子は「ただいとはかなく、名もなし」と答えた('''三巻本89段''')。]] 「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「'''類聚章段'''」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「'''随想章段'''」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記'''章段'''」(日記章段)など多彩な文章からなる。このような3種の分類は、[[池田亀鑑]]によって提唱された(『全講枕草子』解説、1957年)。もっとも、分類の仕方が曖昧な章段もある{{Efn2|たとえば第一段「春は曙」は、通説では随想章段に入るが異論あり。}}。 [[平仮名]]を中心とした[[和文]]で綴られ、総じて軽妙な筆致の短編が多いが、[[中関白家]]の没落と清少納言の仕えた中宮定子の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情の吐露もある。作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、『[[源氏物語]]』の心情的な「[[もののあはれ]]」に対し、知性的な「[[をかし]]」の美世界を現出させた。総じて簡潔な文で書かれ、一段の長さも短く、現代日本人にとっても読みやすい内容である。 ただし、後述するように『枕草子』の内容は伝本によって相違しており、現在ではそれら伝本はおおよそ雑纂形態([[三巻本 (枕草子)|三巻本]]・[[能因本]])と類纂形態([[堺本]]・[[前田本 (枕草子)|前田本]])の2系統に分けられている<ref>池田亀鑑「枕草子の形態に関する一考察」 『岩波講座日本文学 10』 岩波書店、1932年。</ref>。雑纂形態の本は上で述べた3種の章段をばらばらに並べているが、類纂形態の本はそれらを区別整理して編集したものであり、この編集は作者の清少納言よりのちの人物の手によってなされたという。しかし雑纂形態の伝本である三巻本と能因本においても、それぞれ章段の順序や本文にかなりの相違があり、清少納言が書いたという『枕草子』の原形がどのようなものであったのかは明らかではない。 == 書名の由来 == [[ファイル:Pillow Book Illustrated2.JPG|thumb|280px|「枕草子絵詞」(部分) 二月十一日の早朝、定子の暮らす宮中の登花殿に妹の[[藤原原子|原子]]と父[[藤原道隆]]、道隆の夫人貴子が訪れ定子に対面する('''三巻本100段''')。]] 「枕草子」という書名全体についていえば、この作品がこの書名で呼ばれるようになった当時において「枕草子」は一般名詞であった<ref>『枕草子』(『新編日本古典文学全集』18、小学館 1997/10)494 - 495頁</ref>。『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、[[内大臣]][[藤原伊周|伊周]]が妹中宮定子と[[一条天皇]]に当時まだ高価だった[[料紙]]を献上したとき、「帝の方は『[[史記]]』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「'''枕'''にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜されたと記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、肝心の'''枕'''とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。 [[田中重太郎]]は日本古典全書『枕冊子』の解説で、'''枕'''の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。 #備忘録説:備忘録として枕元にも置くべき草子という意味{{Efn2|[[顕昭]]所引[[藤原教長|教長卿]]註で説かれたのをはじめ、近世の[[契沖]]・[[村田春海]]らに継承され[[明治時代|明治]]まで広く支持された。}} #題詞説:[[歌枕]]・名辞を羅列した章段が多いため{{Efn2|「枕」を「[[枕詞]]」「歌枕」などの「枕」と同じく見て、内容によって書名を推量した説で、『[[加藤磐斎|磐斎抄]]』『[[枕草子春曙抄|春曙抄]]』などに見える。}} #秘蔵本説:枕のごとく人に見すまじき秘蔵の草子{{Efn2|[[関根正直]]らが説いた。}} #寝具説:「'''しき'''(史記→敷布団)たへの'''枕'''」という詞を踏まえた洒落 ほかにも漢詩文に出典を求めた[[池田亀鑑]]や、「言の葉の枕」を書く草子であるとした[[折口信夫]]など異説が多い。また、『[[栄花物語]]』に美しい[[襲の色目|かさね色]]を形容するのに普通名詞としての「枕草子」が用いられたことも指摘されている<ref>[[石田穣二]]、角川文庫『枕草子』解説</ref>。 近年([[2014年]])[[歴史学]]の[[五味文彦]]は、当時、唐風・唐様に対し和風・和様のものが意識されて多くの作品が生まれていることから、これは「史記=しき」を「[[四季]]」と連想し、定子に対して清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、「唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その『しき』にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したもの」とする新説を唱えている<ref name=makureki>五味『「枕草子」の歴史学』(2014)pp.16-20</ref><ref>五味『人物史の手法』(2014)pp.65-73</ref>。すなわち『枕草子』が「春はあけぼの」から始まるのは、まず最初の話題として春夏秋冬の四季を取り上げたということである<ref name=makureki/>。 なお、[[萩谷朴]]は本文の解釈から、上記の定子より紙を賜ったという話は清少納言の作った虚構であるとしている。 == 評価 == [[ファイル:Pillow Book Illustrated5.JPG|thumb|280px|「枕草子絵詞」(部分) [[長徳]]元年(995年)十月、一条帝が[[岩清水八幡宮]]に行幸することがあった。その帰り、一条帝の生母[[藤原詮子|詮子]]が還幸の様子を桟敷から見物していたのを、一条帝が[[輿]]をとどめて詮子に挨拶をする('''三巻本122段''')。]] 『[[源氏物語]]』に比肩する[[中古文学]]の双璧として、後世の[[連歌]]・[[俳諧]]・[[仮名草子]]に大きな影響を与えた。[[鴨長明]]の『[[方丈記]]』、[[卜部兼好|兼好]]の『[[徒然草]]』と並んで[[日本三大一覧#三大随筆|日本三大随筆]]と称される。 ;肯定的評価 *枕草子こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。さばかり、をかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることも、残らず書き記したる中に、宮のめでたく盛りにときめかせ給ひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせ給ひ、内の大臣流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどの、いみじき心ばせなりけむ ::(さまざまな回想を記した中に、ただ中宮がめでたく栄えておられ、風雅をたしなみ、しみじみと情け深く、配慮にすぐれた素晴らしい様子を描き、伊周・[[藤原隆家|隆家]]兄弟の左遷や実家の衰退にともなう中宮の悲境について、いささかも言及しないのは、清少納言の「いみじき心ばせ」であった、とする『[[無名草子]]』作者の見解)。 *枕草子は人間存在、自然を共に深く愛した故に、それを、それぞれの位相において、多種多彩の美として享受・形成した([[目加田さくを]])。 *次から次へと繰り出される連想の糸筋によって、各個の章段内部においても、類想・随想・回想の区別なく、豊富な素材が、天馬空をゆくが如き自在な表現によって、縦横に綾なされている([[萩谷朴]])。 *「季節-時刻」の表現(春は曙など)は、当時古今集に見られる「春-花-朝」のような通念的連環に従いつつ、和歌的伝統に慣れ親しんだ読者の美意識の硬直性への挑戦として中間項である風物を省いた斬新なものである([[藤本宗利]])。 *中宮定子への敬慕の念の現れである。道隆一族が衰退していく不幸の最中、崩じた定子の魂を静めるために書かれたものである。故に道隆一族衰退の様子が書かれていないのは当然である(同上)。 *自賛談のようにみえる章段も、(中略)中宮と中宮を取り巻く人々が失意の時代にあっても、天皇の恩寵を受けて政治とは無縁に美と好尚の世界に生きたことを主張している([[上野理]])。 ;批判的評価 *清少納言の出身階級を忘れひたすら上流に同化しようとした浅薄な様の現れである([[秋山虔]]){{Efn2|自分の親族身分のみならず、身分が高い者に対しても敬語がないため}}。 *「定子後宮の文明の記録」に過ぎず、「個」の資格によって書かれたものではない([[石田穣二]])。 == 伝本 == 『枕草子』の成立についてはその跋文に、[[長徳]]2年([[996年]])のころ、左中将だった[[源経房]]が作者の家から持ち出して世上に広めたと記しているが、その後も絶えず加筆され、[[寛弘]]末年ごろに執筆されたとみられる文もある。『源氏物語』の古註『[[紫明抄]]』に引かれる『枕草子』の本文には現存本にないものもあり、複雑な成立過程を思わせる。現在、『枕草子』の伝本は以下の4系統が知られている。 *'''三巻本'''(雑纂形態) *'''能因本'''(雑纂形態) *'''堺本'''(類纂形態) *'''前田本'''(類纂形態) これらも伝本間の相異はすこぶる大きく、たとえば「三巻本と能因本とでは、作者を別人とするしかないほどの違いがある」(石田穣二『鑑賞日本古典文学8』「枕草子」総説)という。 古典文学の本文校訂は、できる限り古い写本を底本(基準とする本文)に用いる。『枕草子』の伝本のなかで最古とされるのは前田本であるが、現在『枕草子』においては三巻本を底本としそれが読まれている。前田本の類纂形態の内容が作者の清少納言の手によるものではなく、後人の手によってまとめられたものとされているからである。堺本も同様の理由により、一般に読まれる本文として使われることはまずない。 能因本は[[江戸時代]]の[[古活字本]]に底本として利用されたことにより、『枕草子傍注』や『[[枕草子春曙抄]]』([[北村季吟]]註)といった注釈書とセットになって近代まで『枕草子』の本文として主流を占めた。しかし大正14年(1925年)、三巻本系統の伝本(桂宮本)を底本とした『清少納言枕草子』{{Efn2|『校註日本文学大系』第三巻所収[{{NDLDC|1018057}}]。三巻本系統の伝本を底本にした注釈書は、本書がはじめてであった。}}が刊行されると、古活字本の本文に対する批判が起こる。さらに昭和3年(1928年)、[[池田亀鑑]]が「清少納言枕草子の異本に関する研究」と題した論文において各系統の伝本について紹介し、流布本(『春曙抄』本文)に対する安貞二年奥書本(三巻本)の優位性を唱えた<ref>『国語と国文学』第五巻第一号(昭和三年一月特別号)、明治書院</ref>。このとき三巻本が第一類と第二類の二つに分けられる。昭和10年(1935年)には楠道隆が堺本との比較により、三巻本の中で第一類の本文が第二類のものよりも純正であると評価した<ref>光明道隆<small>(楠道隆)</small>「枕草子三巻本両類本考」 『国語国文』第五巻第六号(昭和10年6月)、臨川書店</ref>。 以後も能因本と三巻本との間で本文の優劣論争が繰り広げられた結果、三巻本は各系統の中で<!--「文意あざやかにて」解読しやすく、-->もっとも古態に近いとされ、能因本の本文は三巻本よりも劣るものとされている。これは堺本、前田本についても同様である。よって三巻本による本文が教科書にも採用されており、能因本、堺本、前田本による本文の出版は三巻本と比べてごく少数となっている。 ただしこれは『枕草子』に限らず、古い時代に成立した仮名の文学作品のほとんどについて言えることであるが、現在と違って本を作るのに人の手で書き写すしかなかった時代には、作者の手から離れた作品は書写を重ねるごとに誤写誤脱が加わり、また意図的に表現や内容を書き替えるということが普通に行われていた<ref>橋本不美男『原典をめざして―古典文学のための書誌―』(笠間書院、1983年)、「平安時代における作品享受と本文(片桐洋一)」(172頁)</ref>。現在、『枕草子』において善本とされる三巻本についても、作者とされる清少納言の原作から見れば幾度となく書写を繰り返した結果成立したものであり、その間に多くの改変の手が加わっていると考えられる。これは三巻本よりも本文の上で劣るとされている能因本や堺本、前田本も同様であるが、要するにいずれの系統の伝本であっても、書写の過程で本文に少なからぬ改変が加えられており、三巻本においてもそれは例外ではないということである。「個々の章段については、彼此優劣が錯綜していて、必ずしも常に三巻本本文が能因本本文に立ちまさっているとは断じ切れない」という意見もある<ref>『枕草子』(『新編日本古典文学全集』18、小学館)479頁</ref>。 以下、各系統の大略について述べる。 === 三巻本 === {{Main|三巻本 (枕草子)}} 雑纂形態をとり、三巻からなる。「耄及愚翁」という[[藤原定家]]と思しき人物による[[安貞]]2年([[1228年]])の奥書を持つ系統の伝本で、池田亀鑑が昭和3年に命名した。もともとは上下二巻だったのをさらに2冊ずつに分けて4冊にしたものが、そのうちの第一冊を失った結果三巻(3冊)になったものである。三巻本はこの第一冊にあった章段がない本(第一類)と、それを補った本(第二類)の2種類に分けられる。「耄及愚翁」による奥書には2部の『枕草子』を人から借り、これらをもとに本文を写したとしているが、それらがいかなる素性の本であったかは触れておらず、また「依無証本不散不審」(証本〈拠りどころとすべき伝本〉がなく、本文に不審なところがあっても解決できない)と述べている。[[室町時代]]以前にさかのぼる完本は見出されていない。 *第一類本(甲類) - 「春は曙」の冒頭第1段から75段までがなく、76段「ここちよげなるもの」から始まる伝本。298段以降に「一本」すなわち書写した本にはもともとなく、他本からの転載として29段を書き加える。「一本」と跋文もあわせて253段。第一類本で第1段から75段までの本文のあるものは見つかっていない。 ::[[陽明文庫]]蔵本、[[宮内庁書陵部]]図書寮蔵本、[[高松宮]]家蔵本 *第二類本(乙類) - 328段。第一類本(甲類)に欠けている第1段から75段までを補うが、その本文は堺本のものと校合されているといわれる。 ::弥富破摩雄旧蔵本、刈谷図書館蔵本、伊達家旧蔵本、[[勧修寺家]]旧蔵本、中邨秋香旧蔵本、古梓堂文庫蔵本 現行で読まれる三巻本の本文は、第二類本の第1段から75段までを底本として用い、そのあとは第一類本を底本とする形をとっている。なお、鎌倉時代後期成立の[[枕草子絵詞]]七段分が現存しており、白描の[[絵巻物]]で詞書は三巻本系統の本文を使用したものと見られる。 === 能因本 === {{Main|能因本}} これも雑纂形態の伝本で通常上下二巻として伝わるが、その章段の順序は同じ雑纂形態の三巻本とはかなり相違し、また内容にも相互に出入りがある。清少納言と姻戚関係にあった[[能因法師]](その姉妹の一人が清少納言の実子[[橘則長]]の妻)が所持していた本であるという奥書があることにより、能因本と呼ばれる。 *[[学習院大学]]蔵本 - もと[[三条西家]]蔵で上下二巻の冊子本。室町時代の書写本で筆者は[[三条西実隆]]とも、またはその子[[三条西公条|公条]]ともいわれる。 *野坂元定蔵本 - これも室町期の伝本。下巻のみの零本であるが、ほかの能因本にはない[[観応]]元年([[1350年]])の奥書があり、能因本の存在がこの時期にまでさかのぼることのできるものとして貴重とされる。 *古活字本 - [[慶長]]から[[慶安]]にかけて出版されたもので4種類あり、冊数は5冊または7冊となっている。ただしその本文は三巻本も用いて改めたり、また版に写す際に誤刻したりしたところが多くあり、本来の能因本の本文から見れば不純なものであるという。 === 堺本 === {{Main|堺本}} 類纂形態をとる。上下二巻で、[[堺]]に住む道巴という人物が所持した本を、[[元亀]]元年([[1570年]])に清原枝賢が書写したとの奥書より「堺本」と呼ばれるが、現在この系統で近世以前にさかのぼる写本は確認されていない。回想章段と跋文を欠く。その伝本は2種類に分けられている。 *第一類 - 282段を所収し元亀元年の奥書がある。[[高野辰之]]旧蔵本、朽木文庫旧蔵本など。朽木文庫旧蔵本は、『堺本枕草子評釈』(速水博司、[[有朋堂]]、1990年)の底本となっている。 *第二類 - 208段を収める。[[後光厳天皇|後光厳院]]が書写したとの奥書がある本で、宸翰本と呼ばれる。第一類と比べると下巻後半の本文を欠いており、本来第一類であったものの残欠本と見られるが、本文は第一類よりも古態を伝えているという。『[[群書類従]]』第二十七輯には『枕草紙<small>異本</small>』としてこの宸翰本が収録されている。『新校群書類従』は第二十一輯に収めるが、これは校異および下巻後半に欠けた本文の補填を高野辰之旧蔵本で行ったものである。 === 前田本 === {{Main|前田本 (枕草子)}} 類纂形態の伝本で四巻。第一巻に107段、第二巻に89段、第三巻に102段、第四巻に32段を収めるが、さらに第五巻があって紛失したものとみられる。上記の三巻本、能因本、堺本にはない章段を含み、同じ類纂形態の堺本とは章段の順序が異なっている。この系統の伝本は[[加賀国|加賀]][[前田家]]伝来本([[前田育徳会]]蔵)があるのみである。金[[蒔絵]]の箱に入っており、その蓋には金[[象嵌]]で「清少納言枕草子」とある。[[鎌倉時代]]中期の書写で『枕草子』の伝本の中では最古のものとされ、[[重要文化財]]に指定されている。[[寛永]]6年(1629年)4月に[[徳川秀忠]]が江戸の前田邸を訪れた折、この前田本『枕草子』を蒔絵の箱とともに床の間脇の棚に飾ったとの記録があり、これ以前に前田家に入っていたと見られる<ref>『前田家本枕冊子新註』解説、29頁</ref>。本文は『前田家本枕冊子新註』に翻刻がある。 == 研究・受容 == === 注釈書・研究書 === 底本について注記のないものは、三巻本の本文による。 ==== 明治時代以前の注釈書 ==== *[[清少納言枕草紙抄]]([[加藤磐斎]]・1674年)(能因本) *[[枕草子春曙抄]]([[北村季吟]]・1674年以後)(能因本) *[[枕草紙旁註]](岡西惟中・1681年)(能因本) ==== 写本・校注 ==== *『枕冊子』日本古典全書、[[田中重太郎]]校注 *『枕草子』[[日本古典文学大系]]、池田亀鑑・岸上慎二校注 *『枕草子』新日本古典文学大系、渡辺実校注 *『枕草子(上・下)』[[新潮日本古典集成]]、萩谷朴校注 *『枕草子』[[日本古典文学全集]](1974年)[[松尾聰]]・[[永井和子 (国文学者)|永井和子]]校注(能因本) *『枕草子』新編日本古典文学全集(1997年)松尾聰・永井和子校注 *『完訳日本の古典 枕草子(上・下)』小学館、松尾聰・永井和子校注(能因本) *『枕草子』笠間文庫―原文&現代語訳シリーズ、松尾聰・永井和子校注(能因本) *『日本の文学 枕草子(上・下)』[[ほるぷ出版]]、[[鈴木日出男]]校注 *『枕草子春曙抄杠園抄』[[日本図書センター]](春曙抄) *『新校本枕草子』[[笠間書院]]、根来司校訂 *[http://www.nihon-u.ac.jp/nunews/koho/issue30.htm 『三巻本枕草子本文集成』]笠間書院、杉山重行編、ISBN 4-305-70191-X *『前田家本枕冊子新註』古典文庫、田中重太郎校注(非売品、前田本) ==== 評釈 ==== *『枕草子評釈』[[明治書院]]、金子元臣(能因本) *『枕草子精講』[[學燈社]]、[[五十嵐力]]・[[岡一男]](能因本) *『全講枕草子』[[至文堂]]、池田亀鑑 *『枕草子評釈』[[清水書院]]、増渕恒吉 *『枕冊子全注釈』[[角川書店]]、田中重太郎 *『枕草子講座1〜4』[[有精堂]] *『鑑賞日本古典文学8 枕草子』角川書店、石田穣二 *『補訂 枕草子集註』[[思文閣出版]]、関根正直(能因本) *『枕草子解環1〜5』[[同朋舎出版]]、萩谷朴 *『堺本枕草子評釈』[[有朋堂]]、速水博司(堺本) ==== 文庫で読む枕草子 ==== *『枕草子』[[岩波文庫]]、池田亀鑑校訂 *『新版 枕草子(上・下)』[[角川ソフィア文庫]]、石田穣二訳注 *『枕草子(上・下)』[[講談社文庫]]、[[川瀬一馬]]訳注(能因本) *『枕草子(上・中・下)』[[講談社学術文庫]]、上坂信男・[[神作光一]]ほか訳注 *『枕草子(上・下)』[[ちくま学芸文庫]]、[[島内裕子]]校訂・訳 *『枕冊子(上・下)』[[旺文社]]、田中重太郎訳注 *『校本枕冊子』古典文庫、田中重太郎校訂(非売品) ==== 枕草子論攷 ==== * {{Cite book|和書|author=池田亀鑑 |title=枕草子に關する論考 |publisher=目黒書店 |year=1947 |series=中古國文學叢考 |url=https://books.google.co.jp/books?id=gU1Zd9_n3h0C&ots=TLmvyUBfq3&dq=%E5%89%8D%E7%94%B0%E3%80%80%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90&lr&pg=PA46#v=onepage&q&f=false}} *『清少納言枕冊子研究』笠間書院、田中重太郎著 *『枕草子研究』岸上慎二著 *『枕草子研究 続編』笠間書院、岸上慎二著 *『枕草子の研究 増補版』右文書院、林和比古著 *『枕草子論』笠間書院、目加田さくを著 *『枕草子論考』[[教育出版センター]]、榊原邦彦著 *『枕草子研究』風間書房、藤本宗利著 *『新しい枕草子論』[[新典社]]、圷美奈子著 *『枕草子の新研究』新典社、浜口俊裕・古瀬雅義編 ==== 枕草子周辺 ==== *『清少納言伝記攷』新生社、岸上慎二著 *『人物叢書 清少納言』吉川弘文館、岸上慎二著 *『日本の作家11 清少納言 感性のきらめき』新典社、藤本宗利著 *『清少納言』笠間選書、村井順著 *『清少納言をめぐる人々』笠間選書、村井順著 *『枕草子幻想 定子皇后』思文閣出版、下玉利百合子著 *『枕草子周辺論』笠間書院、下玉利百合子著 *『枕草子周辺論 続編』笠間書院、下玉利百合子著 *『東西女流文芸サロン-中宮定子と[[ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ|ランブイエ侯爵夫人]]-』笠間選書、目加田さくを・百田みち子著 *『平安朝サロン文芸史論』風間書房、目加田さくを著 *『枕草子の婦人服飾』思文閣、安谷ふじゑ著 *『枕草子の美意識』笠間書院、沢田正子著 ==== 講義 ==== *『枕草子 女房たちの世界』[[日本エディタースクール]]、谷川良子著 *『岩波古典講読シリーズ 枕草子』岩波セミナーブックス、渡辺実著 ==== 事典・資料 ==== *『日本文学研究資料叢書 枕草子』有精堂、日本文学研究資料刊行会 *『枕草子大事典』[[勉誠出版]]、枕草子研究会編 *『枕草子必携』学燈社、岸上慎二著 *『図説日本の古典6 蜻蛉日記・枕草子』[[集英社]]、木村正中・[[土田直鎮]]ほか編 *『枕草子・紫式部日記』新潮古典文学アルバム、鈴木日出男著 === 現代語訳など === 枕草子を平易に理解する入門編としては、現代語訳された[[小説]]、[[漫画]]などがある。 ==== 入門書 ==== *『枕草子入門』有斐閣新書、[[稲賀敬二]]ほか著 *『これなら読めるやさしい古典 枕草子』汐文社、[[長尾剛]] ==== 現代語訳 ==== *『桃尻語訳 枕草子(上・中・下)』[[河出書房新社]]、[[橋本治]]著 ==== エッセイ ==== *『「枕草子」を旅しよう』[[講談社]]、[[田中澄江]]著 *『イラスト古典 枕草子』[[Gakken|学研]]、文・[[紀野恵]]、画・[[大和和紀]] *『枕草子REMIX』[[新潮社]](のち[[新潮文庫]])、[[酒井順子]]著 *『リンボウ先生のうふふ枕草子』[[祥伝社]]、[[林望]]著 *『王朝ガールズトーク×イラストエッセイ 超訳 枕草子』[[中央公論新社]]、[[森千章]]著 *『ヘタな人生論より枕草子』[[河出文庫]]、[[荻野文子]]著 ==== 小説 ==== *『むかし・あけぼの―小説枕草子』[[角川書店]](のち[[角川文庫]])、[[田辺聖子]]著 ==== 漫画 ==== *『[[日本放送協会|NHK]]まんがで読む古典 枕草子(1, 2)』角川書店、面堂かずき著 *『[[日本放送協会|NHK]]まんがで読む古典 枕草子』集英社、面堂かずき著 *『枕草子』[[秋田書店]]、[[河村恵利]]著 *『赤塚不二夫の古典入門 枕草子』学研、[[赤塚不二夫]]著 *『[[暴れん坊少納言]]』[[ワニブックス]]、[[かかし朝浩]]著 ==== 参考書 ==== *『枕草子と徒然草を7日で制覇する』[[ダイヤモンド社]]、板野博行著 *『イラスト古典全訳 枕草子』[[日栄社]]、[[橋本武]]著、イラスト・永井文明 === 外国語訳 === * [[アーサー・ウェイリー]]による[[英語]]抄訳(1928年) * [[周作人]]による[[中国語]]全訳(1961年) * アンドレ・ボージャールによる[[フランス語]]抄訳(1985年)Sei Shônagon "Notes de chevet" traduction et commentaires par André Beaujard - Connaissance de l'Orient Gallimard / Unesco(ISBN 2-07-070533-1) * 林文月による[[中国語]]全訳(1989年) * [[アイヴァン・モリス]]による加工全訳(1991年)最近の英訳でもっとも親しみやすいといわれる。 * [[Iván Pinto Román]]、Oswaldo Gavidia Cannonと[[Hiroko Izumi Shimono]](下野泉)による[[スペイン語]]全訳(2002年)''El libro de la almohada'' - Fondo Editorial de la Pontificia Universidad de Católica del Perú(ISBN 9972-42-458-8)。初めて日本語の原文から直接スペイン語に翻訳された完全訳。 === その他 === [[ピーター・グリーナウェイ]]監督による[[1996年]]公開の映画『[[ピーター・グリーナウェイの枕草子]](''The Pillow Book'')』は、「現代の清少納言(清原諾子)」の話を標榜している。とはいえ、ストーリーはエロチックであり、ヒロインに日本人でなく[[中国]]出身の女優[[ヴィヴィアン・ウー]]を起用し、物語の舞台は京都と香港に跨って展開されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikiquote|清少納言}} {{Wikisource|枕草子}} {{Portal|文学}} * [[清少納言]] * [[藤原定子]] * [[清少納言集]] * [[枕草子絵詞]] * [[源氏物語]] * [[方丈記]] * [[徒然草]] * [[松島日記]] * [[犬枕]] - [[慶長]]年間([[1596年]]-[[1615年]])頃成立、作者は[[近衛信尹]]他とされる。枕草子を翻案した[[滑稽本]]。 == 外部リンク == * [http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/~nakajima/waka/data/makura4.html 『枕草子』三巻本能因本章段配列対照表] * [http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/~nakajima/waka/data/makura1.html 『枕草子』章段対照表(三巻本基準)] * [http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/~nakajima/waka/data/makura3.html 『枕草子』章段対照表(能因本基準)] * [http://hgonzaemon.g1.xrea.com/makurasakai.html 『枕草子(堺本)』] - 個人校訂による堺本の電子テキスト(底本:『群書類従第27輯』および[[速水博司]]『堺本枕草子評釈』) * [https://web.archive.org/web/20050122113217/http://www.cc.kurume-nct.ac.jp/lib/kiyou/kiyou19-1.2/IMAI2.PDF (PDF)枕草子の跋文から推定した作品の基盤と成立過程における転換期] * [https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00010889/explanation/makura#:~:text=『枕草子』は、清少納言によって,つに分けられます%E3%80%82 京都大学所蔵資料でたどる文学史年表: 枕草子] ※江戸時代初期に刊行された、「谷村文庫」(古活字版)の画像を閲覧できる。 * [https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja 九州大学附属図書館] ※『十三行古活字版』、『慶安二年版』、『清少納言枕双紙抄』などの画像あり。 ** [https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774839&p=5560044 貴重資料(九大コレクション): 枕草子] ** [https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774839&p=5560044 貴重資料(九大コレクション): 枕草子] ** 清少納言, [https://hdl.handle.net/2324/411397 枕草子 慶安二年版 1] 九大コレクション 九州大学附属図書館 * [http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/~nakajima/waka/data/makura2.html 『枕草子』の校本・注釈書(一部)] * [http://zaco.no.coocan.jp/text/ 国語の先生の為のテキストファイル集-古文-枕草子] ※三巻本全文がある。 * [http://etext.lib.virginia.edu/japanese/sei/makura/SeiMaku.html バージニア大学図書館「日本語テキスト・イニシアティヴ」] ※枕草子全文のテキスト。昭和四年(1929年)有朋堂刊の能因本系本文を底本とする。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まくらのそうし}} [[Category:枕草子|!]] [[Category:10世紀の書籍]] [[Category:平安時代の文学]] [[Category:清少納言]]
2003-09-08T16:05:29Z
2023-12-20T02:47:03Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Wikiquote", "Template:Portal", "Template:Otheruses", "Template:Efn2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Normdaten", "Template:Main", "Template:Notelist2", "Template:Wikisource" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90
15,810
708年
708年(708 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "708年(708 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null } ]
708年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|708}} {{year-definition|708}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[戊申]] * [[日本]] ** [[慶雲]]5年、[[和銅]]元年 ** [[皇紀]]1368年 * [[中国]] ** [[唐]] : [[景龍 (唐)|景龍]]2年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 1251年 - 1252年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=708|Type=J|表題=可視}} == できごと == {{seealso|708年の日本}} * [[8月29日]](和銅元年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[和同開珎]]を鋳造([[皇朝十二銭]]の最初。[[富本銭]]をのぞく[[日本]]最古の[[貨幣]]) * [[出羽]]に[[出羽柵]]を築く == 誕生 == {{see also|Category:708年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[杜鴻漸]]、[[唐]]代の[[政治家]](+ [[769年]]) == 死去 == {{see also|Category:708年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[伊福吉部徳足比売]]、[[飛鳥時代]]の豪族、[[伊福部氏]]の[[女性|女]]、[[采女]](* 生年未詳) * [[但馬皇女]]、[[天武天皇]]の皇女、[[歌人]](* 生年未詳) * [[杜審言]]、[[唐]]代の[[詩人]](* [[645年]]) * [[美努王]]、飛鳥時代の皇族(* 生年未詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|708}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=8|年代=700}} {{デフォルトソート:708ねん}} [[Category:708年|*]]
null
2021-09-11T05:55:23Z
false
false
false
[ "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:Seealso", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/708%E5%B9%B4
15,812
ラリー・ニーヴン
ラリー・ニーヴン(Larry Niven、早川書房での表記はラリイ・ニーヴン)ことローレンス・ヴァン・コット・ニーヴン(Laurence van Cott Niven、1938年4月30日 - )は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家。代表作は『リングワールド』(1970) で、ヒューゴー賞、ローカス賞、ネビュラ賞を受賞した。大胆なアイデアのハードSFを得意とし、しばしば推理小説と冒険小説の要素もある。ファンタジーとしては『魔法の国が消えていく』を代表とするシリーズがある。 ニーヴンは石油王 Edward L. Doheny の子孫である。カリフォルニア工科大学にも通ったが、カンザス州トピカのウォッシュバーン大学で数学(と心理学を少し)学び1962年に卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で数学の修士課程で1年だけ学んだ。以降ロサンゼルス近郊に住み、専業作家となった。同じくSF作家の Marilyn Joyce Wisowaty と1969年に結婚した。 ニーヴンは非常に多くのSF短編・長編を著している。デビュー作は「イフ」誌に1964年に掲載された短編「いちばん寒い場所」 (The Coldest Place)。 代表作は『リングワールド』(Ringworld, 1970年)。この作品で1970年度のネビュラ賞 長編小説部門、1971年のローカス賞 長篇部門とヒューゴー賞 長編小説部門を受賞している。また、「中性子星」では1967年のヒューゴー賞 短編小説部門を受賞し、1972年には「無常の月」でも同賞を受賞した。1976年には「太陽系辺境空域」でヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。 ニーヴンは Land of the Lost やアニメ版スタートレックなど様々なSFテレビ番組の脚本を書いている。また、「無常の月」は『新アウターリミッツ』でドラマ化されている。 ニーヴン作品の一部は「ノウンスペース(既知宇宙)」を舞台としている。このノウンスペースで人類は10を超える異星人種と太陽近辺の星々を共有統治している。なかでも「クジン人」や「ピアスンのパペッティア人」はよく登場する。 近年はジェリー・パーネルやスティーヴン・バーンズらと共作している。 また、グレッグ・ベアの長編『天空の劫火』(The Forge of God) のローレンス・ヴァン・コット (Lawrence Van Cott) は、ニーヴンをモデルにしている。 地球の公転軌道とほぼ同じ直径の巨大な環状の構造物である。ニーヴンがダイソン球を効率化しようと考えて生み出した。回転させることで擬似重力を発生することができる。回転するダイソン球の場合、回転軸と赤道付近では擬似重力に大きな違いが生じるため大気が偏ってしまうが、リングワールドであればそのような問題はなく建設に要する資材も少ない。後にリングワールドは力学的に不安定であることが指摘された。一度リングの中心が恒星とずれてしまった場合、恒星の重力によってずれが大きくなっていく。ニーヴンはこれを続編『リングワールドふたたび』のプロットの要素とした。 イアン・M・バンクスはこれを発展させた Orbital というより小さな構造体を小説に登場させた。アレステア・レナルズも2008年の小説 House of Suns にリングワールド的構造体を登場させている。 オリジナルのマジック:ザ・ギャザリングには「ネビニラルの円盤」というカードがあったが、"Nevinyrral" とは "Larry Niven" を逆に綴ったものである。これは「魔法の国が消えていく」のシリーズに登場する、周囲のマナを消費し尽くして魔法を無効化する回転する円盤がアイデアになっている。 2007年、ジェリー・パーネルを代表とするSIGMAというSF作家集団がアメリカ国土安全保障省に対して今後のテロの傾向などを予測するといった助言を行い始めた。これにニーヴンも参加している。 ニーヴンはロナルド・レーガンが戦略防衛構想(スターウォーズ計画)を立案する際のアドバイザーだった。このことはBBCのドキュメンタリー Pandora's Box で明かされている。 「スーパーマンの子孫存続に関する考察」でニーヴンは、スーパーマンと人間の女性が子を持つことの困難さを現実世界の物理学の範囲で解説している。 エドワード・M・ラーナーと共著 インフェルノ・シリーズ モート・シリーズ Golden Road Series スティーヴン・バーンズと共著 ファンタジー グレゴリー・ベンフォードと共著
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラリー・ニーヴン(Larry Niven、早川書房での表記はラリイ・ニーヴン)ことローレンス・ヴァン・コット・ニーヴン(Laurence van Cott Niven、1938年4月30日 - )は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家。代表作は『リングワールド』(1970) で、ヒューゴー賞、ローカス賞、ネビュラ賞を受賞した。大胆なアイデアのハードSFを得意とし、しばしば推理小説と冒険小説の要素もある。ファンタジーとしては『魔法の国が消えていく』を代表とするシリーズがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ニーヴンは石油王 Edward L. Doheny の子孫である。カリフォルニア工科大学にも通ったが、カンザス州トピカのウォッシュバーン大学で数学(と心理学を少し)学び1962年に卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で数学の修士課程で1年だけ学んだ。以降ロサンゼルス近郊に住み、専業作家となった。同じくSF作家の Marilyn Joyce Wisowaty と1969年に結婚した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ニーヴンは非常に多くのSF短編・長編を著している。デビュー作は「イフ」誌に1964年に掲載された短編「いちばん寒い場所」 (The Coldest Place)。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "代表作は『リングワールド』(Ringworld, 1970年)。この作品で1970年度のネビュラ賞 長編小説部門、1971年のローカス賞 長篇部門とヒューゴー賞 長編小説部門を受賞している。また、「中性子星」では1967年のヒューゴー賞 短編小説部門を受賞し、1972年には「無常の月」でも同賞を受賞した。1976年には「太陽系辺境空域」でヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ニーヴンは Land of the Lost やアニメ版スタートレックなど様々なSFテレビ番組の脚本を書いている。また、「無常の月」は『新アウターリミッツ』でドラマ化されている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ニーヴン作品の一部は「ノウンスペース(既知宇宙)」を舞台としている。このノウンスペースで人類は10を超える異星人種と太陽近辺の星々を共有統治している。なかでも「クジン人」や「ピアスンのパペッティア人」はよく登場する。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近年はジェリー・パーネルやスティーヴン・バーンズらと共作している。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、グレッグ・ベアの長編『天空の劫火』(The Forge of God) のローレンス・ヴァン・コット (Lawrence Van Cott) は、ニーヴンをモデルにしている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地球の公転軌道とほぼ同じ直径の巨大な環状の構造物である。ニーヴンがダイソン球を効率化しようと考えて生み出した。回転させることで擬似重力を発生することができる。回転するダイソン球の場合、回転軸と赤道付近では擬似重力に大きな違いが生じるため大気が偏ってしまうが、リングワールドであればそのような問題はなく建設に要する資材も少ない。後にリングワールドは力学的に不安定であることが指摘された。一度リングの中心が恒星とずれてしまった場合、恒星の重力によってずれが大きくなっていく。ニーヴンはこれを続編『リングワールドふたたび』のプロットの要素とした。", "title": "リングワールド" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イアン・M・バンクスはこれを発展させた Orbital というより小さな構造体を小説に登場させた。アレステア・レナルズも2008年の小説 House of Suns にリングワールド的構造体を登場させている。", "title": "リングワールド" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "オリジナルのマジック:ザ・ギャザリングには「ネビニラルの円盤」というカードがあったが、\"Nevinyrral\" とは \"Larry Niven\" を逆に綴ったものである。これは「魔法の国が消えていく」のシリーズに登場する、周囲のマナを消費し尽くして魔法を無効化する回転する円盤がアイデアになっている。", "title": "リングワールド" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2007年、ジェリー・パーネルを代表とするSIGMAというSF作家集団がアメリカ国土安全保障省に対して今後のテロの傾向などを予測するといった助言を行い始めた。これにニーヴンも参加している。", "title": "政策への関与" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ニーヴンはロナルド・レーガンが戦略防衛構想(スターウォーズ計画)を立案する際のアドバイザーだった。このことはBBCのドキュメンタリー Pandora's Box で明かされている。", "title": "政策への関与" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「スーパーマンの子孫存続に関する考察」でニーヴンは、スーパーマンと人間の女性が子を持つことの困難さを現実世界の物理学の範囲で解説している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "エドワード・M・ラーナーと共著", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "インフェルノ・シリーズ", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "モート・シリーズ", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Golden Road Series", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スティーヴン・バーンズと共著", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ファンタジー", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "グレゴリー・ベンフォードと共著", "title": "作品一覧" } ]
ラリー・ニーヴンことローレンス・ヴァン・コット・ニーヴンは、アメリカ合衆国の小説家、SF作家。代表作は『リングワールド』(1970) で、ヒューゴー賞、ローカス賞、ネビュラ賞を受賞した。大胆なアイデアのハードSFを得意とし、しばしば推理小説と冒険小説の要素もある。ファンタジーとしては『魔法の国が消えていく』を代表とするシリーズがある。
{{Infobox 作家 | name = ラリー・ニーヴン<br />Larry Niven | image = LarryNiven.jpg | caption = | birth_name = Laurence van Cott Niven | birth_date = {{生年月日と年齢|1938|4|30}} | birth_place = {{USA}}・[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]] | death_date = | death_place = | occupation = [[小説家]]、[[SF作家]] | nationality = {{USA}} | period = | genre = [[ハードSF]] | subject = | movement = | notable_works = [[リングワールド]] | awards = [[ヒューゴー賞]]<br />[[ネビュラ賞]]<br />[[ローカス賞]] | debut_works = | website = [https://web.archive.org/web/20090707070412/http://larryniven.org/ Known Space: The Future Worlds of Larry Niven] }} [[File:Larry Niven admiring SAGE console.jpeg|thumb|マウンテンビュー市の[[Computer History Museum]]でのラリー・ニーブン]] '''ラリー・ニーヴン'''(Larry Niven、[[早川書房]]での表記は'''ラリイ・ニーヴン'''<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000013838&search=%A5%CB%A1%BC%A5%F4%A5%F3&sort= | title=『無常の月──ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』|accessdate=2020/03/31}}</ref>)こと'''ローレンス・ヴァン・コット・ニーヴン'''(Laurence van Cott Niven、[[1938年]][[4月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[小説家]]、[[SF作家]]。代表作は『[[リングワールド]]』(1970) で、[[ヒューゴー賞 長編小説部門|ヒューゴー賞]]、[[ローカス賞]]、[[ネビュラ賞 長編小説部門|ネビュラ賞]]を受賞した。大胆なアイデアの[[ハードSF]]を得意とし、しばしば[[推理小説]]と[[冒険小説]]の要素もある。[[ファンタジー]]としては『[[魔法の国が消えていく]]』を代表とするシリーズがある。 == 経歴 == ニーヴンは石油王 [[:en:Edward L. Doheny|Edward L. Doheny]] の子孫である。[[カリフォルニア工科大学]]にも通ったが、[[カンザス州]][[トピカ (カンザス州)|トピカ]]の[[ウォッシュバーン大学]]で[[数学]](と[[心理学]]を少し)学び1962年に卒業。[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]で数学の修士課程で1年だけ学んだ。以降ロサンゼルス近郊に住み、専業作家となった。同じくSF作家の Marilyn Joyce Wisowaty と1969年に結婚した。 == 作品解説 == ニーヴンは非常に多くのSF短編・長編を著している。デビュー作は「イフ」誌に1964年に掲載された短編「いちばん寒い場所」 (The Coldest Place)。 代表作は『[[リングワールド]]』(''Ringworld'', 1970年)。この作品で1970年度の[[ネビュラ賞 長編小説部門]]<ref name="WWE1970">[http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1970 1970 Award Winners & Nominees | WWEnd]</ref>、1971年の[[ローカス賞 長篇部門]]と[[ヒューゴー賞 長編小説部門]]<ref name="WWE1971">[http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1971 1971 Award Winners & Nominees | WWEnd]</ref>を受賞している。また、「中性子星」では1967年の[[ヒューゴー賞 短編小説部門]]を受賞し、1972年には「無常の月」でも同賞を受賞した。1976年には「太陽系辺境空域」で[[ヒューゴー賞 中編小説部門]]を受賞した。 ニーヴンは ''[[:en:Land of the Lost (1974 TV series)|Land of the Lost]]'' やアニメ版[[スタートレック]]など様々なSFテレビ番組の脚本を書いている。また、「無常の月」は『[[新アウターリミッツ]]』でドラマ化されている。 ニーヴン作品の一部は「[[ノウンスペース]](既知宇宙)」を舞台としている。このノウンスペースで人類は10を超える異星人種と太陽近辺の星々を共有統治している。なかでも「[[クジン人]]」や「[[ピアスンのパペッティア人]]」はよく登場する。 近年は[[ジェリー・パーネル]]や[[スティーヴン・バーンズ]]らと共作している。 また、[[グレッグ・ベア]]の長編『天空の劫火』(''The Forge of God'') のローレンス・ヴァン・コット (Lawrence Van Cott) は、ニーヴンをモデルにしている。 == リングワールド == [[File:Ringworld.jpg|thumb|リングワールド]] 地球の公転軌道とほぼ同じ直径の巨大な環状の構造物である。ニーヴンが[[ダイソン球]]を効率化しようと考えて生み出した。回転させることで擬似重力を発生することができる。回転するダイソン球の場合、回転軸と赤道付近では擬似重力に大きな違いが生じるため大気が偏ってしまうが、リングワールドであればそのような問題はなく建設に要する資材も少ない。後にリングワールドは力学的に不安定であることが指摘された。一度リングの中心が恒星とずれてしまった場合、恒星の重力によってずれが大きくなっていく。ニーヴンはこれを続編『[[リングワールドふたたび]]』のプロットの要素とした。 [[イアン・バンクス|イアン・M・バンクス]]はこれを発展させた Orbital というより小さな構造体を小説に登場させた。[[アレステア・レナルズ]]も2008年の小説 ''House of Suns'' にリングワールド的構造体を登場させている。 オリジナルの[[マジック:ザ・ギャザリング]]には「ネビニラルの円盤」というカードがあったが、"Nevinyrral" とは "Larry Niven" を逆に綴ったものである。これは「魔法の国が消えていく」のシリーズに登場する、周囲のマナを消費し尽くして魔法を無効化する回転する円盤がアイデアになっている。 == 政策への関与 == 2007年、[[ジェリー・パーネル]]を代表とするSIGMAというSF作家集団が[[アメリカ国土安全保障省]]に対して今後のテロの傾向などを予測するといった助言を行い始めた<ref>{{cite news | first=Mimi | last=Hall | title=Sci-fi writers join war on terror | date=May 31, 2007 | url= http://www.usatoday.com/tech/science/2007-05-29-deviant-thinkers-security_N.htm | work=USA Today | accessdate=2008-04-30}}</ref>。これにニーヴンも参加している。 ニーヴンは[[ロナルド・レーガン]]が[[戦略防衛構想]](スターウォーズ計画)を立案する際のアドバイザーだった。このことは[[英国放送協会|BBC]]のドキュメンタリー ''[[:en:Pandora's Box (television documentary series)|Pandora's Box]]'' で明かされている<ref>[[:en:Pandora's Box (television documentary series)#To The Brink of Eternity|Pandora's Box (television documentary series)]]</ref>。 == その他 == 「スーパーマンの子孫存続に関する考察」でニーヴンは、[[スーパーマン]]と人間の女性が子を持つことの困難さを現実世界の物理学の範囲で解説している。 == 作品一覧 == === ノウンスペース === * プタヴの世界 (''World of Ptavvs'', 1966) * 地球からの贈り物 (''A Gift from the Earth'', 1968) * [[中性子星 (短編集)|中性子星]] (''Neutron Star'', 1967) - 短編集 – [[ヒューゴー賞 短編小説部門|ヒューゴー賞の短編小説部門]]を受賞した「中性子星」を収録 * ''The Shape of Space'' (1969) - 短編集 - 未訳 * プロテクター (''Protector'', 1973) * [[太陽系辺境空域]] (''Tales of Known Space'', 1975) - 短編集 * 不完全な死体 (''The Long Arm of Gil Hamilton'', 1976) - 短編集 * パッチワーク・ガール (''The Patchwork Girl'', 1980) ====リングワールド・シリーズ==== * [[リングワールド]] (''Ringworld'', 1970) – [[ネビュラ賞]]<ref name="WWE1970"/>、[[ヒューゴー賞 長編小説部門|ヒューゴー賞の長編小説部門]]、[[ローカス賞]]を受賞<ref name="WWE1971"/> * [[リングワールドふたたび]] (''The Ringworld Engineers'', 1980) * [[リングワールドの玉座]] (''The Ringworld Throne'', 1996) * [[リングワールドの子供たち]] (''Ringworld's Children'', 2004) ====リングワールド・コンパニオン・シリーズ==== エドワード・M・ラーナーと共著 * ''Fleet of Worlds'' (2007) - 未訳 * ''Juggler of Worlds'' (2008) - 未訳 * ''Destroyer of Worlds'' (2009) - 未訳 * ''Betrayer of Worlds'' (2010) - 未訳 * ''Fate of Worlds'' (2012) - 未訳 ====Man-Kzin War アンソロジー ==== * ''Man-Kzin Wars'' (1988) - 未訳 * ''Man-Kzin Wars II'' (1989)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars III'' (1990)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars IV'' (1991)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars V'' (1992)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars VI'' (1994)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars VII'' (1995)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars VIII'' (1998)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars IX'' (2002)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars X'' (2003)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars XI'' (2005)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars XII'' (2009)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars XIII'' (2012)- 未訳 * ''Man-Kzin Wars XIV'' (2013)- 未訳 ====Man-Kzin 小説==== * ''Cathouse: A Novel of the Man Kzin-Wars'' (1990、Dean Ingと共著) - 未訳 * ''The Children's Hour: A Novel of the Man-Kzin Wars'' (1991, [[ジェリー・パーネル]]、 S. M. スターリングと共著) - 未訳 * ''Inconstant Star'' (1991、[[ポール・アンダースン]]と共著) - 未訳 * ''A Darker Geometry'' (1996、 Mark O. Martin、[[グレゴリー・ベンフォード]]と共著) - 未訳 * ''The Houses of the Kzinti'' (2002、Dean Ing、ジェリー・パーネル、 S. M. スターリングと共著) - 未訳 * ''Destiny's Forge: A Man-Kzin Wars Novel'' (2007、 Paul Chafeと共著) - 未訳 ===アヴァロン・シリーズ === * アヴァロンの闇 (''The Legacy of Heorot'', 1989) - [[ジェリー・パーネル]]、スティーヴン・バーンズと共著 * アヴァロンの戦塵 (''Beowulf's Children'', 1995) - ジェリー・パーネル、スティーヴン・バーンズと共著 * ''The Secret of Black Ship Island"" (2012) - 未訳、バーンズおよびパーネルと共著の中編 * ''Destiny's Road'' (1997) - 未訳、ニーヴンによる単著。アヴァロン・シリーズと同一宇宙だが、別の惑星が舞台となる * ''Starborn & Godsons'' (2020) - 未訳、バーンズおよびパーネルと共著 ===その他 ジェリー・パーネルと共著=== * 悪魔のハンマー (''Lucifer's Hammer'', 1977) * 忠誠の誓い (''Oath of Fealty'', 1981) * [[降伏の儀式]] (''Footfall'', 1985) * ''Lucifer's Anvil or Samael's Forge'' (2013 in progress) - 未訳 インフェルノ・シリーズ * インフェルノ -SF[[神曲|地獄篇]]- (''Inferno'', 1976) * ''Escape from Hell'' (2009, インフェルノの続編) - 未訳 モート・シリーズ * 神の目の小さな塵 (''The Mote in God's Eye'', 1975) * 神の目の凱歌 (''The Gripping Hand'', 1994) Golden Road Series * ''The Burning City'' (2000) - 未訳 * ''Burning Tower'' (2005) - 未訳 * ''Burning Mountain'' (2016年末時点でin progress) ===ドリーム・パーク シリーズ === スティーヴン・バーンズと共著 * ドリーム・パーク (''Dreampark'', 1981) * ''The Barsoom Project'' (1989) - 未訳 * ''The California Voodoo Game'' (1992, UK: The Voodoo Game) - 未訳 * ''The Moon Maze Game'' (2011) - 未訳 ===その他 スティーブン・バーンズと共著 === * アナンシ号の降下 (''The Descent of Anansi'', 1982) * ''Achilles' Choice'' (1991) - 未訳 * ''Saturn's Race'' (2001) - 未訳 ===ザ・ステート シリーズ === * 時間外世界 (''A World out of Time'', 1976) * インテグラル・ツリー (''The Integral Trees'', 1984) - ローカス賞受賞<ref>[http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1985 1985 Award Winners & Nominees | WWEnd]</ref> * スモークリング (''The Smoke Ring'', 1987) === 魔法の国が消えていくシリーズ === ファンタジー * [[魔法の国が消えていく|ガラスの短剣]] (''Flight of the Horse'', 1973) - 短編集 * [[魔法の国が消えていく]](''The Magic Goes Away'') * [[魔法の国が消えていく|魔法の国がよみがえる]](''The Magic May Return'')共著 - 短編集 * [[魔法の国が消えていく|魔法の国よ永遠なれ]](''More Magic'')共著 - 短編集 * ''More Magic'' (1984) - 未訳 * ''The Time of the Warlock'' (1984) - 未訳 === Bowl of Heaven シリーズ === [[グレゴリー・ベンフォード]]と共著 * ''Bowl of Heaven'' (2012) - 未訳 * ''Shipstar'' (2014) - 未訳 * ''Glorious'' (2020) - 未訳 === その他 === *''The Flying Sorcerers'' (1971, デイヴィッド ジェロルドと共著) - 未訳 * [[巨大な世界]] (''Bigger Than Worlds'', 1973) - 居住可能な超巨大構造物を紹介したSFエッセイ。SFマガジン1977年4月号掲載。 *''Berserker Base: A Collaborative Novel'' (1984, [[ポール・アンダースン]]、エドワード・ブライアント、 [[ステファン・ドナルドソン]]、[[フレッド・セイバーヘーゲン]]、[[コニー・ウィリス]]、[[ロジャー・ゼラズニー]]と共著) - 未訳 * 天使墜落 (1991) マイケル・フリン、[[ジェリー・パーネル]]と共著 1992年[[プロメテウス賞]]受賞 *''Rainbow Mars'' (1999) - 未訳 *''Building Harlequin's Moon'' (2005, Brenda Cooperと共著) - 未訳 *''The Goliath Stone'' (2013, Matthew Joseph Harringtonと共著) - 未訳 *''The Moon Bowl'' (2016年末でin progress、マイケル・フリン、ジェリー・パーネルと共著) === 短編集 === * 無常の月 (''All The Myriad Ways'', 1971) - 短編集、[[ヒューゴー賞 短編小説部門|ヒューゴー賞の短編小説部門]]受賞「無常の月」収録 * ''The Flight of the Horse'' (1973) - 未訳 * ''Inconstant Moon'' (1973)- 未訳 * ''A Hole in Space'' (1974) - 短編集、ヒューゴー賞の短編小説部門受賞「ホール・マン」収録 * ''Convergent Series'' (1979)- 未訳 * ''Niven's Laws'' (1984)- 未訳 * ''Limits'' (1985)- 未訳 * ''N-Space'' (1990)- 未訳 * ''Playgrounds of the Mind'' (1991)- 未訳 * ''Bridging the Galaxies'' (1993)- 未訳 * ''Scatterbrain'' (2003)- 未訳 * ''Larry Niven Short Stories Volume 1'' (2003)- 未訳 * ''Larry Niven Short Stories Volume 2'' (2003)- 未訳 * ''Larry Niven Short Stories Volume 3'' (2003)- 未訳 * ''The Draco Tavern'' (2006)- 未訳 * ''Stars and Gods'' (2010)- 未訳 * ''The Best of Larry Niven'' (2010)- 未訳 * 『無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』日本オリジナル短編集 2018 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat | Larry Niven}} * [http://larryniven.net Larryniven dot net]:公式ウェブサイト * {{Isfdb name|id=Larry_Niven}} * {{imdb|0633122}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:にいうん らりい}} [[Category:ラリー・ニーヴン|*]] [[Category:アメリカ合衆国のSF作家]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:ヒューゴー賞作家]] [[Category:ネビュラ賞作家]] [[Category:ローカス賞作家]] [[Category:E・E・スミス記念賞の受賞者]]<!-- 1973年 --> [[Category:デーモン・ナイト記念グランド・マスター賞の受賞者]]<!-- 2015年 --> [[Category:星雲賞の受賞者]]<!-- 1979年 --> [[Category:ロサンゼルス出身の人物]] [[Category:1938年生]] [[Category:存命人物]]
2003-09-08T16:21:58Z
2023-11-01T06:47:03Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:Imdb", "Template:Infobox 作家", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:典拠管理", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Isfdb name" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3
15,814
寒露
寒露(かんろ)は、二十四節気の第17。九月節(旧暦8月後半から9月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から19/24年(約289.15日)後で10月7日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。 露が冷気によって凍りそうになるころ。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き始めるころ。『暦便覧』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。 定気法による寒露の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での寒露日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の寒露は表のとおり。 2023年の寒露は10月8日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(寒露は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1797年から2011年までは10月8日、10月9日のいずれか。 2012年から10月8日が2047年まで続く。 2048年以降は10月7日、10月8日、10月9日のいずれかとなる。 寒露の期間の七十二候は以下のとおり。 秋分 → 寒露 → 霜降
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "寒露(かんろ)は、二十四節気の第17。九月節(旧暦8月後半から9月前半)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から19/24年(約289.15日)後で10月7日ごろ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "露が冷気によって凍りそうになるころ。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き始めるころ。『暦便覧』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "定気法による寒露の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での寒露日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の寒露は表のとおり。 2023年の寒露は10月8日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(寒露は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1797年から2011年までは10月8日、10月9日のいずれか。 2012年から10月8日が2047年まで続く。 2048年以降は10月7日、10月8日、10月9日のいずれかとなる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "寒露の期間の七十二候は以下のとおり。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "秋分 → 寒露 → 霜降", "title": "前後の節気" } ]
寒露(かんろ)は、二十四節気の第17。九月節(旧暦8月後半から9月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から19/24年(約289.15日)後で10月7日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。
{{節気}} '''寒露'''(かんろ)は、[[二十四節気]]の第17。九月節([[旧暦8月]]後半から[[旧暦9月|9月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が195[[度 (角度)|度]]のときで[[10月8日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から19/24[[年]](約289.15日)後で[[10月7日]]ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[霜降]]前日までである。 ==季節== [[露]]が冷気によって凍りそうになるころ<ref> 「年中行事事典」p243 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>。[[雁]]などの[[冬鳥]]が渡ってきて、[[キク|菊]]が咲き始め、[[コオロギ|蟋蟀]](こおろぎ)などが鳴き始めるころ。『[[暦便覧]]』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。 ==日付== {{節気時刻説明|寒露}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|10|08|17|57}} {{節気の日付|1967|10|08|23|41}} {{節気の日付|1968|10|08|05|34}} {{節気の日付|1969|10|08|11|17}} {{節気の日付|1970|10|08|17|02}} {{節気の日付|1971|10|08|22|59}} {{節気の日付|1972|10|08|04|42}} {{節気の日付|1973|10|08|10|27}} {{節気の日付|1974|10|08|16|15}} {{節気の日付|1975|10|08|22|02}} {{節気の日付|1976|10|08|03|58}} {{節気の日付|1977|10|08|09|44}} {{節気の日付|1978|10|08|15|31}} {{節気の日付|1979|10|08|21|30}} {{節気の日付|1980|10|08|03|19}} {{節気の日付|1981|10|08|09|10}} {{節気の日付|1982|10|08|15|02}} {{節気の日付|1983|10|08|20|51}} {{節気の日付|1984|10|08|02|43}} {{節気の日付|1985|10|08|08|25}} {{節気の日付|1986|10|08|14|07}} {{節気の日付|1987|10|08|20|00}} {{節気の日付|1988|10|08|01|45}} {{節気の日付|1989|10|08|07|27}} {{節気の日付|1990|10|08|13|14}} {{節気の日付|1991|10|08|19|01}} {{節気の日付|1992|10|08|00|51}} {{節気の日付|1993|10|08|06|40}} {{節気の日付|1994|10|08|12|29}} {{節気の日付|1995|10|08|18|27}} {{節気の日付|1996|10|08|00|19}} {{節気の日付|1997|10|08|06|05}} {{節気の日付|1998|10|08|11|56}} {{節気の日付|1999|10|08|17|48}} {{節気の日付|2000|10|07|23|38}} {{節気の日付|2001|10|08|05|25}} {{節気の日付|2002|10|08|11|09}} {{節気の日付|2003|10|08|17|01}} {{節気の日付|2004|10|07|22|49}} {{節気の日付|2005|10|08|04|33}} {{節気の日付|2006|10|08|10|21}} {{節気の日付|2007|10|08|16|12}} {{節気の日付|2008|10|07|21|57}} {{節気の日付|2009|10|08|03|40}} {{節気の日付|2010|10|08|09|26}} {{節気の日付|2011|10|08|15|19}} {{節気の日付|2012|10|07|21|12}} {{節気の日付|2013|10|08|02|58}} {{節気の日付|2014|10|08|08|48}} {{節気の日付|2015|10|08|14|43}} {{節気の日付|2016|10|07|20|33}} {{節気の日付|2017|10|08|02|22}} {{節気の日付|2018|10|08|08|15}} {{節気の日付|2019|10|08|14|05}} {{節気の日付|2020|10|07|19|55}} {{節気の日付|2021|10|08|01|39}} {{節気の日付|2022|10|08|07|22}} {{節気の日付|2023|10|08|13|15}} {{節気の日付|2024|10|07|19|00}} {{節気の日付|2025|10|08|00|41}} {{節気の日付|2026|10|08|06|29}} {{節気の日付|2027|10|08|12|17}} {{節気の日付|2028|10|07|18|08}} {{節気の日付|2029|10|07|23|57}} {{節気の日付|2030|10|08|05|44}} {{節気の日付|2031|10|08|11|42}} {{節気の日付|2032|10|07|17|29}} {{節気の日付|2033|10|07|23|13}} {{節気の日付|2034|10|08|05|06}} {{節気の日付|2035|10|08|10|56}} {{節気の日付|2036|10|07|16|48}} {{節気の日付|2037|10|07|22|36}} {{節気の日付|2038|10|08|04|20}} {{節気の日付|2039|10|08|10|16}} {{節気の日付|2040|10|07|16|04}} {{節気の日付|2041|10|07|21|45}} {{節気の日付|2042|10|08|03|39}} {{節気の日付|2043|10|08|09|26}} {{節気の日付|2044|10|07|15|12}} {{節気の日付|2045|10|07|20|59}} {{節気の日付|2046|10|08|02|41}} {{節気の日付|2047|10|08|08|36}} {{節気の日付|2048|10|07|14|25}} {{節気の日付|2049|10|07|20|03}} {{節気の日付|2050|10|08|01|59}} {{節気の日付|2051|10|08|07|49}} {{節気の日付|2052|10|07|13|38}} {{節気の日付|2053|10|07|19|34}} {{節気の日付|2054|10|08|01|21}} {{節気の日付|2055|10|08|07|17}} {{節気の日付|2056|10|07|13|08}} {{節気の日付|2057|10|07|18|45}} {{節気の日付|2058|10|08|00|40}} {{節気の日付|2059|10|08|06|29}} {{節気の日付|2060|10|07|12|12}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|寒露|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1797年]]から[[2011年]]までは[[10月8日]]、[[10月9日]]のいずれか。 [[2012年]]から[[10月8日]]が[[2047年]]まで続く。 [[2048年]]以降は[[10月7日]]、[[10月8日]]、[[10月9日]]のいずれかとなる。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1627}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1628|1659}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1660|1691}} || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |8日 || 1660(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1692|1699}} || bgcolor=yellow|7日 || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1723}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1724|1755}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1756|1791}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || 1788(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1792|1799}} || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1823}} || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || 1821(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1824|1851}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1852|1883}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || 1854(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1884|1899}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1919}} || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || 1916(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1920|1951}} || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1952|1983}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || 1982(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1984|2011}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2012|2047}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2048|2079}} || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2080|2099}} || bgcolor=yellow|7日 || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2107}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2108|2139}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || 2110(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2140|2175}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || 2172(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2176|2199}} || bgcolor=yellow|7日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2203}} || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2204|2235}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || 2234(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2236|2267}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || 2267(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2268|2299}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2331}} || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || 2329(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2332|2359}} || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || bgcolor=cyan|9日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2360|2391}} || |8日 || |8日 || |8日 || bgcolor=cyan|9日 || 2362(8-9日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2392|2399}} || |8日 || |8日 || |8日 || |8日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 寒露の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。 ;初候 :'''鴻雁来'''(こうがん きたる):[[雁]]が飛来し始める(日本) :'''鴻雁来賓'''(こうがん らいひんす):雁が多数飛来して客人となる(中国) ;次候 :'''菊花開'''(きくのはな ひらく):[[キク|菊]]の花が咲く(日本) :'''雀入大水為蛤'''(すずめ たいすいにいり はまぐりとなる):[[スズメ|雀]]が海に入って[[ハマグリ|蛤]]になる(中国) ;末候 :'''蟋蟀在戸'''(きりぎりす とにあり):[[蟋蟀]]が戸の辺りで鳴く(日本) :'''菊有黄華'''(きくに こうかあり):菊の花が咲き出す(中国) == 前後の節気 == [[秋分]] → '''寒露''' → [[霜降]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:かんろ}} [[Category:節気]] [[Category:10月]] [[Category:秋の季語]]
null
2021-02-03T07:17:39Z
false
false
false
[ "Template:節気", "Template:節気時刻説明", "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明", "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E9%9C%B2
15,815
霜降
霜降(そうこう)は、二十四節気の第18。九月中(旧暦9月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が210度のとき(黄道十二宮では天蠍宮の原点に相当)で10月23日・24日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から10/12年(約304.37日)後で10月22日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立冬前日までである。 露が冷気によって霜となって降り始めるころ。『暦便覧』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。 楓や蔦が紅葉し始めるころ。この日から立冬までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶ。 定気法による霜降の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での霜降日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の霜降は表のとおり。 2023年の霜降は10月24日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(霜降は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 2027年までは10月23日、10月24日のいずれか(稀に10月22日)。 2028年から10月23日が2063年まで続く。 2064年以降は10月22日、10月23日、10月24日のいずれかとなる。 霜降の期間の七十二候は以下のとおり。 寒露 → 霜降 → 立冬
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "霜降(そうこう)は、二十四節気の第18。九月中(旧暦9月内)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が210度のとき(黄道十二宮では天蠍宮の原点に相当)で10月23日・24日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から10/12年(約304.37日)後で10月22日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立冬前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "露が冷気によって霜となって降り始めるころ。『暦便覧』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "楓や蔦が紅葉し始めるころ。この日から立冬までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶ。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "定気法による霜降の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での霜降日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の霜降は表のとおり。 2023年の霜降は10月24日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(霜降は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 2027年までは10月23日、10月24日のいずれか(稀に10月22日)。 2028年から10月23日が2063年まで続く。 2064年以降は10月22日、10月23日、10月24日のいずれかとなる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "霜降の期間の七十二候は以下のとおり。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "寒露 → 霜降 → 立冬", "title": "前後の節気" } ]
霜降(そうこう)は、二十四節気の第18。九月中(旧暦9月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が210度のとき(黄道十二宮では天蠍宮の原点に相当)で10月23日・24日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から10/12年(約304.37日)後で10月22日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立冬前日までである。
{{otheruses|節気「そうこう」|「しもふり」|霜降り}} {{節気}} '''霜降'''(そうこう)は、[[二十四節気]]の第18。九月中([[旧暦9月]]内)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が210[[度 (角度)|度]]のとき([[黄道十二宮]]では[[天蠍宮]]の原点に相当)で[[10月23日]]・[[10月24日|24日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[平気法]]では[[冬至]]から10/12[[年]](約304.37日)後で[[10月22日]]ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[立冬]]前日までである。 ==季節== [[露]]が冷気によって[[霜]]となって降り始めるころ。『[[暦便覧]]』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。 [[カエデ|楓]]や[[ツタ|蔦]]が[[紅葉]]し始めるころ。この日から[[立冬]]までの間に吹く寒い[[北風]]を[[木枯らし]]と呼ぶ。 ==日付== {{節気時刻説明|霜降}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|10|23|20|51}} {{節気の日付|1967|10|24|02|44}} {{節気の日付|1968|10|23|08|30}} {{節気の日付|1969|10|23|14|11}} {{節気の日付|1970|10|23|20|04}} {{節気の日付|1971|10|24|01|53}} {{節気の日付|1972|10|23|07|41}} {{節気の日付|1973|10|23|13|30}} {{節気の日付|1974|10|23|19|11}} {{節気の日付|1975|10|24|01|06}} {{節気の日付|1976|10|23|06|58}} {{節気の日付|1977|10|23|12|41}} {{節気の日付|1978|10|23|18|37}} {{節気の日付|1979|10|24|00|28}} {{節気の日付|1980|10|23|06|18}} {{節気の日付|1981|10|23|12|13}} {{節気の日付|1982|10|23|17|58}} {{節気の日付|1983|10|23|23|54}} {{節気の日付|1984|10|23|05|46}} {{節気の日付|1985|10|23|11|22}} {{節気の日付|1986|10|23|17|14}} {{節気の日付|1987|10|23|23|01}} {{節気の日付|1988|10|23|04|44}} {{節気の日付|1989|10|23|10|35}} {{節気の日付|1990|10|23|16|14}} {{節気の日付|1991|10|23|22|05}} {{節気の日付|1992|10|23|03|57}} {{節気の日付|1993|10|23|09|37}} {{節気の日付|1994|10|23|15|36}} {{節気の日付|1995|10|23|21|32}} {{節気の日付|1996|10|23|03|19}} {{節気の日付|1997|10|23|09|15}} {{節気の日付|1998|10|23|14|59}} {{節気の日付|1999|10|23|20|52}} {{節気の日付|2000|10|23|02|47}} {{節気の日付|2001|10|23|08|26}} {{節気の日付|2002|10|23|14|18}} {{節気の日付|2003|10|23|20|08}} {{節気の日付|2004|10|23|01|49}} {{節気の日付|2005|10|23|07|42}} {{節気の日付|2006|10|23|13|26}} {{節気の日付|2007|10|23|19|15}} {{節気の日付|2008|10|23|01|09}} {{節気の日付|2009|10|23|06|43}} {{節気の日付|2010|10|23|12|35}} {{節気の日付|2011|10|23|18|30}} {{節気の日付|2012|10|23|00|14}} {{節気の日付|2013|10|23|06|10}} {{節気の日付|2014|10|23|11|57}} {{節気の日付|2015|10|23|17|47}} {{節気の日付|2016|10|22|23|46}} {{節気の日付|2017|10|23|05|27}} {{節気の日付|2018|10|23|11|22}} {{節気の日付|2019|10|23|17|20}} {{節気の日付|2020|10|22|22|59}} {{節気の日付|2021|10|23|04|51}} {{節気の日付|2022|10|23|10|35}} {{節気の日付|2023|10|23|16|21}} {{節気の日付|2024|10|22|22|14}} {{節気の日付|2025|10|23|03|51}} {{節気の日付|2026|10|23|09|37}} {{節気の日付|2027|10|23|15|33}} {{節気の日付|2028|10|22|21|13}} {{節気の日付|2029|10|23|03|07}} {{節気の日付|2030|10|23|08|59}} {{節気の日付|2031|10|23|14|48}} {{節気の日付|2032|10|22|20|45}} {{節気の日付|2033|10|23|02|27}} {{節気の日付|2034|10|23|08|15}} {{節気の日付|2035|10|23|14|15}} {{節気の日付|2036|10|22|19|57}} {{節気の日付|2037|10|23|01|48}} {{節気の日付|2038|10|23|07|39}} {{節気の日付|2039|10|23|13|24}} {{節気の日付|2040|10|22|19|18}} {{節気の日付|2041|10|23|01|00}} {{節気の日付|2042|10|23|06|48}} {{節気の日付|2043|10|23|12|45}} {{節気の日付|2044|10|22|18|25}} {{節気の日付|2045|10|23|00|11}} {{節気の日付|2046|10|23|06|02}} {{節気の日付|2047|10|23|11|47}} {{節気の日付|2048|10|22|17|41}} {{節気の日付|2049|10|22|23|24}} {{節気の日付|2050|10|23|05|10}} {{節気の日付|2051|10|23|11|08}} {{節気の日付|2052|10|22|16|54}} {{節気の日付|2053|10|22|22|46}} {{節気の日付|2054|10|23|04|43}} {{節気の日付|2055|10|23|10|32}} {{節気の日付|2056|10|22|16|24}} {{節気の日付|2057|10|22|22|07}} {{節気の日付|2058|10|23|03|53}} {{節気の日付|2059|10|23|09|49}} {{節気の日付|2060|10|22|15|32}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|霜降|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[2027年]]までは[[10月23日]]、[[10月24日]]のいずれか(稀に[[10月22日]])。 [[2028年]]から[[10月23日]]が[[2063年]]まで続く。 [[2064年]]以降は[[10月22日]]、[[10月23日]]、[[10月24日]]のいずれかとなる。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1603}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1604|1635}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1636|1671}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1672|1699}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1703}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1704|1735}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1736|1767}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1768|1799}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1803}} || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1804|1835}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1836|1867}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1868|1899}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 1899(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1935}} || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 1932(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1936|1967}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 1965(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1968|1995}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1996|2027}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 1998(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2028|2063}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2064|2095}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2096|2099}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2127}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2128|2155}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2156|2191}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2159(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2192|2199}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2192(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2223}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2224|2255}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 2225(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2256|2287}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2288|2299}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2323}} || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2324|2355}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 2353(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2356|2383}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2384|2399}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 霜降の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。 ;初候 :'''霜始降'''(しも はじめて ふる):霜が降り始める(日本) :'''豺乃祭獣'''(さい すなわち けものをまつる):山犬が捕らえた獣を並べて食べる(中国) ;次候 :'''霎時施'''(こさめ ときどき ふる):小雨がしとしと降る(日本) :'''草木黄落'''(そうもく こうらくす):草木の葉が黄ばんで落ち始める(中国) ;末候 :'''楓蔦黄'''(もみじ つた きばむ):もみじや[[蔦]]が黄葉する(日本) :'''蟄虫咸俯'''(ちっちゅう ことごとく ふす):虫がみな穴に潜って動かなくなる(中国) == 前後の節気 == [[寒露]] → '''霜降''' → [[立冬]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:そうこう}} [[Category:節気]] [[Category:10月]] [[Category:旧暦9月]] [[Category:秋の季語]]
null
2022-12-04T13:27:50Z
false
false
false
[ "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明", "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Otheruses", "Template:節気", "Template:節気時刻説明" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C%E9%99%8D
15,816
立冬
立冬(りっとう)は、二十四節気の第19。十月節(旧暦9月後半から10月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日ごろ。恒気法では冬至から7/8年(約319.59日)後で11月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気である小雪前日までである。 秋が極まり冬の気配が立ち始める日。『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明している。言い換えれば秋の極みといえ、実際多くの地域(北日本を除く)ではまだ秋らしい気配で紅葉の見時はまだ。 秋分と冬至の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立春の前日までが冬となる。 定気法による立冬の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での立冬日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の立冬は表のとおり。 2023年の立冬は11月8日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(立冬は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 殆ど11月7日か11月8日。 1668年~1696年、2068年~2096年には400年の間隔をおいて11月6日が出現する(2064年、2097年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。 立冬の期間の七十二候は以下のとおり。 霜降 → 立冬 → 小雪
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "立冬(りっとう)は、二十四節気の第19。十月節(旧暦9月後半から10月前半)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日ごろ。恒気法では冬至から7/8年(約319.59日)後で11月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "期間としての意味もあり、この日から、次の節気である小雪前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "秋が極まり冬の気配が立ち始める日。『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明している。言い換えれば秋の極みといえ、実際多くの地域(北日本を除く)ではまだ秋らしい気配で紅葉の見時はまだ。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "秋分と冬至の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立春の前日までが冬となる。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "定気法による立冬の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での立冬日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の立冬は表のとおり。 2023年の立冬は11月8日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(立冬は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 殆ど11月7日か11月8日。 1668年~1696年、2068年~2096年には400年の間隔をおいて11月6日が出現する(2064年、2097年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "立冬の期間の七十二候は以下のとおり。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "霜降 → 立冬 → 小雪", "title": "前後の節気" } ]
立冬(りっとう)は、二十四節気の第19。十月節(旧暦9月後半から10月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日ごろ。恒気法では冬至から7/8年(約319.59日)後で11月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気である小雪前日までである。
{{節気}} '''立冬'''(りっとう)は、[[二十四節気]]の第19。十月節([[旧暦9月]]後半から[[旧暦10月|10月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が225[[度 (角度)|度]]のときで[[11月7日]]ごろ。[[恒気法]]では[[冬至]]から7/8年(約319.59日)後で[[11月6日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気である[[小雪]]前日までである。 ==季節== 秋が極まり冬の気配が立ち始める日<ref name=":0">天体観測ハンドブック―「天文年鑑」を100%活用するために, 誠文堂新光社 (たとえば1970年)</ref>。『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明している。言い換えれば秋の極み<ref name=":0" />といえ、実際多くの地域(北日本を除く)ではまだ秋らしい気配で紅葉の見時はまだ。 [[秋分]]と[[冬至]]の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から[[立春]]の前日までが[[冬]]となる。 ==日付== {{節気時刻説明|立冬}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|11|07|20|55}} {{節気の日付|1967|11|08|02|37}} {{節気の日付|1968|11|07|08|29}} {{節気の日付|1969|11|07|14|11}} {{節気の日付|1970|11|07|19|58}} {{節気の日付|1971|11|08|01|57}} {{節気の日付|1972|11|07|07|39}} {{節気の日付|1973|11|07|13|28}} {{節気の日付|1974|11|07|19|18}} {{節気の日付|1975|11|08|01|03}} {{節気の日付|1976|11|07|06|59}} {{節気の日付|1977|11|07|12|46}} {{節気の日付|1978|11|07|18|34}} {{節気の日付|1979|11|08|00|33}} {{節気の日付|1980|11|07|06|18}} {{節気の日付|1981|11|07|12|09}} {{節気の日付|1982|11|07|18|04}} {{節気の日付|1983|11|07|23|52}} {{節気の日付|1984|11|07|05|46}} {{節気の日付|1985|11|07|11|29}} {{節気の日付|1986|11|07|17|13}} {{節気の日付|1987|11|07|23|06}} {{節気の日付|1988|11|07|04|49}} {{節気の日付|1989|11|07|10|34}} {{節気の日付|1990|11|07|16|23}} {{節気の日付|1991|11|07|22|08}} {{節気の日付|1992|11|07|03|57}} {{節気の日付|1993|11|07|09|46}} {{節気の日付|1994|11|07|15|36}} {{節気の日付|1995|11|07|21|36}} {{節気の日付|1996|11|07|03|27}} {{節気の日付|1997|11|07|09|15}} {{節気の日付|1998|11|07|15|08}} {{節気の日付|1999|11|07|20|58}} {{節気の日付|2000|11|07|02|48}} {{節気の日付|2001|11|07|08|37}} {{節気の日付|2002|11|07|14|22}} {{節気の日付|2003|11|07|20|13}} {{節気の日付|2004|11|07|01|59}} {{節気の日付|2005|11|07|07|42}} {{節気の日付|2006|11|07|13|35}} {{節気の日付|2007|11|07|19|24}} {{節気の日付|2008|11|07|01|11}} {{節気の日付|2009|11|07|06|56}} {{節気の日付|2010|11|07|12|42}} {{節気の日付|2011|11|07|18|35}} {{節気の日付|2012|11|07|00|26}} {{節気の日付|2013|11|07|06|14}} {{節気の日付|2014|11|07|12|07}} {{節気の日付|2015|11|07|17|59}} {{節気の日付|2016|11|06|23|48}} {{節気の日付|2017|11|07|05|38}} {{節気の日付|2018|11|07|11|32}} {{節気の日付|2019|11|07|17|24}} {{節気の日付|2020|11|06|23|14}} {{節気の日付|2021|11|07|04|59}} {{節気の日付|2022|11|07|10|45}} {{節気の日付|2023|11|07|16|35}} {{節気の日付|2024|11|06|22|20}} {{節気の日付|2025|11|07|04|04}} {{節気の日付|2026|11|07|09|51}} {{節気の日付|2027|11|07|15|38}} {{節気の日付|2028|11|06|21|26}} {{節気の日付|2029|11|07|03|16}} {{節気の日付|2030|11|07|09|07}} {{節気の日付|2031|11|07|15|04}} {{節気の日付|2032|11|06|20|53}} {{節気の日付|2033|11|07|02|40}} {{節気の日付|2034|11|07|08|32}} {{節気の日付|2035|11|07|14|22}} {{節気の日付|2036|11|06|20|13}} {{節気の日付|2037|11|07|02|03}} {{節気の日付|2038|11|07|07|49}} {{節気の日付|2039|11|07|13|41}} {{節気の日付|2040|11|06|19|28}} {{節気の日付|2041|11|07|01|12}} {{節気の日付|2042|11|07|07|06}} {{節気の日付|2043|11|07|12|54}} {{節気の日付|2044|11|06|18|40}} {{節気の日付|2045|11|07|00|28}} {{節気の日付|2046|11|07|06|13}} {{節気の日付|2047|11|07|12|06}} {{節気の日付|2048|11|06|17|55}} {{節気の日付|2049|11|06|23|37}} {{節気の日付|2050|11|07|05|32}} {{節気の日付|2051|11|07|11|21}} {{節気の日付|2052|11|06|17|08}} {{節気の日付|2053|11|06|23|05}} {{節気の日付|2054|11|07|04|55}} {{節気の日付|2055|11|07|10|51}} {{節気の日付|2056|11|06|16|42}} {{節気の日付|2057|11|06|22|21}} {{節気の日付|2058|11|07|04|16}} {{節気の日付|2059|11|07|10|04}} {{節気の日付|2060|11|06|15|47}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|立冬|{{CURRENTYEAR-JST}}}} 殆ど[[11月7日]]か[[11月8日]]。 [[1668年]]~[[1696年]]、[[2068年]]~[[2096年]]には400年の間隔をおいて[[11月6日]]が出現する(2064年、2097年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1631}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 1631(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1632|1667}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1668|1699}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1731}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1732|1763}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1764|1799}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1831}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 1800(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1832|1863}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 1833(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1864|1895}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 1866(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1896|1899}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1931}} || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1932|1967}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 1965(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1968|1999}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 1998(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2000|2031}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 2031(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2032|2067}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || 2064(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2068|2099}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || 2097(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2131}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 2130(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2132|2163}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 2163(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2164|2195}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2196|2199}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2227}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2228|2263}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 2229(7-8日), 2262(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2264|2291}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2292|2299}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || 2295(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2327}} || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2328|2359}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2360|2391}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2392|2399}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |} {{clear}} == 七十二候== 立冬の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。 ;初候 :'''山茶始開'''(つばき はじめて ひらく) : [[サザンカ|山茶花]]が咲き始める(日本) :'''水始氷'''(みず はじめて こおる) : 水が凍り始める(中国) ;次候 :'''地始凍'''(ち はじめて こおる) : 大地が凍り始める(日本・中国) ;末候 :'''金盞香'''(きんせんか さく) : [[スイセン|水仙]]の花が咲く(日本) :'''雉入大水為蜃'''(きじ たいすいにいり おおはまぐりと なる) : [[キジ|雉]]が海に入って大[[ハマグリ|蛤]]になる(中国) == 前後の節気 == [[霜降]] → '''立冬''' → [[小雪]] == 記念日 == *[[1985年]]に全国米菓工業組合が立冬を「あられ・おせんべいの日」として制定している。 *[[2016年]]に[[森永製菓]]が立冬を「ココアの日」として制定、[[日本記念日協会]]に登録されている<ref>[https://www.morinaga.co.jp/public/newsrelease/web/fix/file580d5c0d3def5.pdf 一般社団法人日本記念日協会に登録制定 立冬の日(11月7日)は「ココアの日」 冬のはじまり立冬※からココアは一層おいしくなります],森永製菓株式会社,2016年10月24日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:りつとう}} [[Category:節気]] [[Category:11月]] [[Category:旧暦9月]] [[Category:旧暦10月]] [[Category:冬の季語]]
2003-09-08T17:05:30Z
2023-11-09T12:40:17Z
false
false
false
[ "Template:節気時刻説明", "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明", "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:節気" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%86%AC
15,817
小雪
小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20。十月中(通常旧暦10月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が240度のとき(黄道十二宮では人馬宮の原点に相当)で11月22日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から11/12年(約334.81日)後で11月21日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大雪前日までである。 わずかながら雪が降り始めるころ。『暦便覧』では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明している。 定気法による小雪の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での小雪日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の小雪は表のとおり。 2023年の小雪は11月22日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(小雪は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1797年から2015年までは11月22日、11月23日のいずれか。 2016年から11月22日が2051年まで続く(2019年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。 2052年以降は11月21日、11月22日、11月23日のいずれかとなる。 小雪の期間の七十二候は以下のとおり。 立冬 → 小雪 → 大雪
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20。十月中(通常旧暦10月内)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が240度のとき(黄道十二宮では人馬宮の原点に相当)で11月22日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から11/12年(約334.81日)後で11月21日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大雪前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "わずかながら雪が降り始めるころ。『暦便覧』では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明している。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "定気法による小雪の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での小雪日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の小雪は表のとおり。 2023年の小雪は11月22日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(小雪は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1797年から2015年までは11月22日、11月23日のいずれか。 2016年から11月22日が2051年まで続く(2019年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。 2052年以降は11月21日、11月22日、11月23日のいずれかとなる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "小雪の期間の七十二候は以下のとおり。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "立冬 → 小雪 → 大雪", "title": "前後の節気" } ]
小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20。十月中(通常旧暦10月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が240度のとき(黄道十二宮では人馬宮の原点に相当)で11月22日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から11/12年(約334.81日)後で11月21日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大雪前日までである。
{{otheruses|節気}} {{節気}} '''小雪'''(しょうせつ)は、[[二十四節気]]の第20。十月中(通常[[旧暦10月]]内)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が240[[度 (角度)|度]]のとき([[黄道十二宮]]では[[人馬宮]]の原点に相当)で[[11月22日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[平気法]]では[[冬至]]から11/12[[年]](約334.81日)後で[[11月21日]]ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[大雪]]前日までである。 ==季節== わずかながら[[雪]]が降り始めるころ。『[[暦便覧]]』では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明している。 ==日付== {{節気時刻説明|小雪}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|11|22|18|14}} {{節気の日付|1967|11|23|00|04}} {{節気の日付|1968|11|22|05|49}} {{節気の日付|1969|11|22|11|31}} {{節気の日付|1970|11|22|17|25}} {{節気の日付|1971|11|22|23|14}} {{節気の日付|1972|11|22|05|03}} {{節気の日付|1973|11|22|10|54}} {{節気の日付|1974|11|22|16|38}} {{節気の日付|1975|11|22|22|31}} {{節気の日付|1976|11|22|04|22}} {{節気の日付|1977|11|22|10|07}} {{節気の日付|1978|11|22|16|05}} {{節気の日付|1979|11|22|21|54}} {{節気の日付|1980|11|22|03|41}} {{節気の日付|1981|11|22|09|36}} {{節気の日付|1982|11|22|15|23}} {{節気の日付|1983|11|22|21|18}} {{節気の日付|1984|11|22|03|11}} {{節気の日付|1985|11|22|08|51}} {{節気の日付|1986|11|22|14|44}} {{節気の日付|1987|11|22|20|29}} {{節気の日付|1988|11|22|02|12}} {{節気の日付|1989|11|22|08|05}} {{節気の日付|1990|11|22|13|47}} {{節気の日付|1991|11|22|19|36}} {{節気の日付|1992|11|22|01|26}} {{節気の日付|1993|11|22|07|07}} {{節気の日付|1994|11|22|13|06}} {{節気の日付|1995|11|22|19|01}} {{節気の日付|1996|11|22|00|49}} {{節気の日付|1997|11|22|06|48}} {{節気の日付|1998|11|22|12|34}} {{節気の日付|1999|11|22|18|25}} {{節気の日付|2000|11|22|00|19}} {{節気の日付|2001|11|22|06|00}} {{節気の日付|2002|11|22|11|54}} {{節気の日付|2003|11|22|17|43}} {{節気の日付|2004|11|21|23|22}} {{節気の日付|2005|11|22|05|15}} {{節気の日付|2006|11|22|11|02}} {{節気の日付|2007|11|22|16|50}} {{節気の日付|2008|11|21|22|44}} {{節気の日付|2009|11|22|04|23}} {{節気の日付|2010|11|22|10|15}} {{節気の日付|2011|11|22|16|08}} {{節気の日付|2012|11|21|21|50}} {{節気の日付|2013|11|22|03|48}} {{節気の日付|2014|11|22|09|38}} {{節気の日付|2015|11|22|15|25}} {{節気の日付|2016|11|21|21|22}} {{節気の日付|2017|11|22|03|04}} {{節気の日付|2018|11|22|09|01}} {{節気の日付|2019|11|22|14|59}} {{節気の日付|2020|11|21|20|40}} {{節気の日付|2021|11|22|02|33}} {{節気の日付|2022|11|22|08|20}} {{節気の日付|2023|11|22|14|02}} {{節気の日付|2024|11|21|19|56}} {{節気の日付|2025|11|22|01|35}} {{節気の日付|2026|11|22|07|23}} {{節気の日付|2027|11|22|13|16}} {{節気の日付|2028|11|21|18|54}} {{節気の日付|2029|11|22|00|48}} {{節気の日付|2030|11|22|06|43}} {{節気の日付|2031|11|22|12|31}} {{節気の日付|2032|11|21|18|30}} {{節気の日付|2033|11|22|00|15}} {{節気の日付|2034|11|22|06|04}} {{節気の日付|2035|11|22|12|02}} {{節気の日付|2036|11|21|17|44}} {{節気の日付|2037|11|21|23|37}} {{節気の日付|2038|11|22|05|30}} {{節気の日付|2039|11|22|11|11}} {{節気の日付|2040|11|21|17|04}} {{節気の日付|2041|11|21|22|48}} {{節気の日付|2042|11|22|04|36}} {{節気の日付|2043|11|22|10|34}} {{節気の日付|2044|11|21|16|14}} {{節気の日付|2045|11|21|22|02}} {{節気の日付|2046|11|22|03|55}} {{節気の日付|2047|11|22|09|37}} {{節気の日付|2048|11|21|15|32}} {{節気の日付|2049|11|21|21|18}} {{節気の日付|2050|11|22|03|05}} {{節気の日付|2051|11|22|09|01}} {{節気の日付|2052|11|21|14|44}} {{節気の日付|2053|11|21|20|37}} {{節気の日付|2054|11|22|02|37}} {{節気の日付|2055|11|22|08|25}} {{節気の日付|2056|11|21|14|19}} {{節気の日付|2057|11|21|20|05}} {{節気の日付|2058|11|22|01|49}} {{節気の日付|2059|11|22|07|44}} {{節気の日付|2060|11|21|13|27}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|小雪|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1797年]]から[[2015年]]までは[[11月22日]]、[[11月23日]]のいずれか。 [[2016年]]から[[11月22日]]が[[2051年]]まで続く(2019年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。 [[2052年]]以降は[[11月21日]]、[[11月22日]]、[[11月23日]]のいずれかとなる。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1611}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || 1611(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1612|1647}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1648|1679}} || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1680|1699}} || bgcolor=yellow|21日 || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1711}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1712|1747}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || 1747(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1748|1783}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1784|1799}} || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1815}} || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1816|1847}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1848|1879}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1880|1899}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || 1883(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1915}} || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1916|1951}} || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || 1916(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1952|1983}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1984|2015}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2016|2051}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || 2019(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2052|2083}} || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2084|2099}} || bgcolor=yellow|21日 || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2115}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2116|2151}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || 2118(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2152|2187}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2188|2199}} || bgcolor=yellow|21日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2219}} || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2220|2251}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2252|2283}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2284|2299}} || |22日 || |22日 || |22日 || |22日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2319}} || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2320|2351}} || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2352|2383}} || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || bgcolor=cyan|23日 || 2353(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2384|2399}} || |22日 || |22日 || |22日 || bgcolor=cyan|23日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 小雪の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。 ;初候 :'''虹蔵不見'''(にじ かくれて みえず) : [[虹]]を見かけなくなる(日本・中国) ;次候 :'''朔風払葉'''(きたかぜ このはを はらう) : 北風が木の葉を払い除ける(日本) :'''天気上騰地気下降'''(てんき じょうしょうし ちき かこうす) : 天地の寒暖が逆になる(中国) ;末候 :'''橘始黄'''(たちばな はじめて きばむ) : [[タチバナ|橘]]の実が黄色くなり始める(日本) :'''閉塞而成冬'''(へいそくして ふゆをなす) : 天地の気が塞がって冬となる(中国) == 前後の節気 == [[立冬]] → '''小雪''' → [[大雪]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:しようせつ}} [[Category:節気]] [[Category:11月]] [[Category:旧暦10月]] [[Category:冬の季語]]
null
2020-11-29T23:19:49Z
false
false
false
[ "Template:節気", "Template:節気時刻説明", "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明", "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%9B%AA
15,818
大雪
大雪(たいせつ)は、二十四節気の第21。十一月節(旧暦10月後半から11月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が255度のときで12月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から23/24年(約350.02日)後で12月7日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の冬至前日までである。 雪が激しく降り始めるころ。『暦便覧』では「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明している。 鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付くころ。 定気法による大雪の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での大雪日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の大雪は表のとおり。 2023年の大雪は12月7日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(大雪は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1798年から1987年までは12月7日、12月8日のいずれか、稀に12月6日(1892年、1896年)。 1988年から12月7日が2027年まで続く。 2028年から2102年までは12月6日、12月7日のいずれかとなる。 2103年から2127年までは4年毎に12月8日が現れるが、2127年は日の変わり目に近いため不確実。 大雪の期間の七十二候は以下のとおり。 小雪 → 大雪 → 冬至
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大雪(たいせつ)は、二十四節気の第21。十一月節(旧暦10月後半から11月前半)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が255度のときで12月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から23/24年(約350.02日)後で12月7日ごろ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "期間としての意味もあり、この日から、次の節気の冬至前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "雪が激しく降り始めるころ。『暦便覧』では「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明している。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付くころ。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "定気法による大雪の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での大雪日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の大雪は表のとおり。 2023年の大雪は12月7日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(大雪は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1798年から1987年までは12月7日、12月8日のいずれか、稀に12月6日(1892年、1896年)。 1988年から12月7日が2027年まで続く。 2028年から2102年までは12月6日、12月7日のいずれかとなる。 2103年から2127年までは4年毎に12月8日が現れるが、2127年は日の変わり目に近いため不確実。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大雪の期間の七十二候は以下のとおり。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "小雪 → 大雪 → 冬至", "title": "前後の節気" } ]
大雪(たいせつ)は、二十四節気の第21。十一月節(旧暦10月後半から11月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が255度のときで12月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から23/24年(約350.02日)後で12月7日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の冬至前日までである。
{{otheruses|節気|[[雪]]が大量に降ること|豪雪|その他の用法|大雪 (曖昧さ回避)}} {{節気}} {{wiktionary|大雪}} '''大雪'''(たいせつ)は、[[二十四節気]]の第21。十一月節([[旧暦10月]]後半から[[旧暦11月|11月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が255[[度 (角度)|度]]のときで[[12月7日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から23/24[[年]](約350.02日)後で[[12月7日]]ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[冬至]]前日までである。 ==季節== [[雪]]が激しく降り始めるころ<ref>学ぼうBOSAI 地球の声を聞こう「大雪災害に備えよう!」より。</ref>。『[[暦便覧]]』では「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明している。 [[ブリ|鰤]]などの冬の魚の漁が盛んになり、[[クマ|熊]]が冬眠に入り、[[ナンテン|南天]]の実が赤く色付くころ。 ==日付== {{節気時刻説明|大雪}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|12|07|13|38}} {{節気の日付|1967|12|07|19|18}} {{節気の日付|1968|12|07|01|08}} {{節気の日付|1969|12|07|06|51}} {{節気の日付|1970|12|07|12|37}} {{節気の日付|1971|12|07|18|36}} {{節気の日付|1972|12|07|00|19}} {{節気の日付|1973|12|07|06|10}} {{節気の日付|1974|12|07|12|05}} {{節気の日付|1975|12|07|17|46}} {{節気の日付|1976|12|06|23|41}} {{節気の日付|1977|12|07|05|31}} {{節気の日付|1978|12|07|11|20}} {{節気の日付|1979|12|07|17|18}} {{節気の日付|1980|12|06|23|01}} {{節気の日付|1981|12|07|04|51}} {{節気の日付|1982|12|07|10|48}} {{節気の日付|1983|12|07|16|34}} {{節気の日付|1984|12|06|22|28}} {{節気の日付|1985|12|07|04|16}} {{節気の日付|1986|12|07|10|01}} {{節気の日付|1987|12|07|15|52}} {{節気の日付|1988|12|06|21|34}} {{節気の日付|1989|12|07|03|21}} {{節気の日付|1990|12|07|09|14}} {{節気の日付|1991|12|07|14|56}} {{節気の日付|1992|12|06|20|44}} {{節気の日付|1993|12|07|02|34}} {{節気の日付|1994|12|07|08|23}} {{節気の日付|1995|12|07|14|22}} {{節気の日付|1996|12|06|20|14}} {{節気の日付|1997|12|07|02|05}} {{節気の日付|1998|12|07|08|02}} {{節気の日付|1999|12|07|13|47}} {{節気の日付|2000|12|06|19|37}} {{節気の日付|2001|12|07|01|29}} {{節気の日付|2002|12|07|07|14}} {{節気の日付|2003|12|07|13|05}} {{節気の日付|2004|12|06|18|49}} {{節気の日付|2005|12|07|00|33}} {{節気の日付|2006|12|07|06|27}} {{節気の日付|2007|12|07|12|14}} {{節気の日付|2008|12|06|18|02}} {{節気の日付|2009|12|06|23|52}} {{節気の日付|2010|12|07|05|38}} {{節気の日付|2011|12|07|11|29}} {{節気の日付|2012|12|06|17|19}} {{節気の日付|2013|12|06|23|09}} {{節気の日付|2014|12|07|05|04}} {{節気の日付|2015|12|07|10|53}} {{節気の日付|2016|12|06|16|41}} {{節気の日付|2017|12|06|22|32}} {{節気の日付|2018|12|07|04|26}} {{節気の日付|2019|12|07|10|18}} {{節気の日付|2020|12|06|16|09}} {{節気の日付|2021|12|06|21|57}} {{節気の日付|2022|12|07|03|46}} {{節気の日付|2023|12|07|09|33}} {{節気の日付|2024|12|06|15|17}} {{節気の日付|2025|12|06|21|04}} {{節気の日付|2026|12|07|02|52}} {{節気の日付|2027|12|07|08|37}} {{節気の日付|2028|12|06|14|24}} {{節気の日付|2029|12|06|20|13}} {{節気の日付|2030|12|07|02|06}} {{節気の日付|2031|12|07|08|02}} {{節気の日付|2032|12|06|13|52}} {{節気の日付|2033|12|06|19|44}} {{節気の日付|2034|12|07|01|35}} {{節気の日付|2035|12|07|07|24}} {{節気の日付|2036|12|06|13|15}} {{節気の日付|2037|12|06|19|06}} {{節気の日付|2038|12|07|00|55}} {{節気の日付|2039|12|07|06|44}} {{節気の日付|2040|12|06|12|29}} {{節気の日付|2041|12|06|18|14}} {{節気の日付|2042|12|07|00|08}} {{節気の日付|2043|12|07|05|56}} {{節気の日付|2044|12|06|11|44}} {{節気の日付|2045|12|06|17|34}} {{節気の日付|2046|12|06|23|20}} {{節気の日付|2047|12|07|05|09}} {{節気の日付|2048|12|06|10|59}} {{節気の日付|2049|12|06|16|45}} {{節気の日付|2050|12|06|22|40}} {{節気の日付|2051|12|07|04|27}} {{節気の日付|2052|12|06|10|14}} {{節気の日付|2053|12|06|16|10}} {{節気の日付|2054|12|06|22|02}} {{節気の日付|2055|12|07|03|57}} {{節気の日付|2056|12|06|09|49}} {{節気の日付|2057|12|06|15|33}} {{節気の日付|2058|12|06|21|26}} {{節気の日付|2059|12|07|03|12}} {{節気の日付|2060|12|06|08|56}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|大雪|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1798年]]から[[1987年]]までは[[12月7日]]、[[12月8日]]のいずれか、稀に[[12月6日]]([[1892年]]、[[1896年]])。 [[1988年]]から[[12月7日]]が[[2027年]]まで続く。 [[2028年]]から[[2102年]]までは[[12月6日]]、[[12月7日]]のいずれかとなる。 [[2103年]]から[[2127年]]までは4年毎に[[12月8日]]が現れるが、2127年は日の変わり目に近いため不確実。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1615}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1616|1647}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1648|1683}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || 1649(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1684|1699}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1715}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1716|1751}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1752|1787}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || 1752(6-7日), 1785(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1788|1799}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1819}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1820|1855}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 1855(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1856|1891}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1892|1899}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1923}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1924|1955}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || 1925(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1956|1987}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1988|2027}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || 1991(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2028|2059}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2060|2095}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || 2061(6-7日), 2094(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2096|2099}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2127}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 2127(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2128|2163}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || 2160(6-7日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2164|2195}} || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2196|2199}} || bgcolor=yellow|6日 || bgcolor=yellow|6日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2227}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2228|2263}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || 2263(7-8日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2264|2299}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2331}} || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2332|2363}} || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2364|2395}} || |7日 || |7日 || |7日 || bgcolor=cyan|8日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2396|2399}} || |7日 || |7日 || |7日 || |7日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 大雪の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。 ;初候 :'''閉塞成冬'''(そら さむく ふゆとなる) : 天地の気が塞がって冬となる(日本) :'''鶡鴠不鳴'''(かつたん なかず) : [[ミミキジ]]が鳴かなくなる(中国) ;次候 :'''熊蟄穴'''(くま あなに こもる) : [[クマ|熊]]が[[冬眠]]のために穴に隠れる(日本) :'''虎始交'''(とら はじめて つるむ) : [[トラ|虎]]が交尾を始める(中国) ;末候 :'''鱖魚群'''(さけのうお むらがる) : [[サケ|鮭]]が群がり川を上る(日本) :'''茘挺出'''(れいてい いずる) : [[ネジアヤメ]]が芽を出し始める(中国) == 前後の節気 == [[小雪]] → '''大雪''' → [[冬至]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:たいせつ}} [[Category:節気]] [[Category:12月]] [[Category:冬の季語]]
null
2022-12-06T07:30:07Z
false
false
false
[ "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Otheruses", "Template:Wiktionary", "Template:節気の日付", "Template:節気日付パターン説明", "Template:節気", "Template:節気時刻説明", "Template:Clear" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9B%AA
15,820
アミバ
アミバは、漫画『北斗の拳』に登場する架空の人物。 元南斗聖拳の修練者にして北斗神拳の非正統の使い手。 自身をどんな拳法でも誰よりも早く習得できる「天才」だと称する。しかし、どこからも奥義を授けられることはなく、トキの評判を落とすため、彼に変装して悪事を行っていた。 自分が天才であることを誇示する、その自信過剰な性格をうかがわせる台詞を多数発しており、最期まで自分を「天才」と信じて疑わなかった。 かつては、レイと共に南斗聖拳を学んでいた男であり、『蒼黒の餓狼 -北斗の拳 レイ外伝-』ではレイと共にロフウに師事し南斗水鳥拳の継承を争ったとされる。『天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝』では流派北蛇鍼拳を自称している。 『銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝』では、本編に加えてその悪辣さが浮き彫りとなり、ジャギの甘言もあってトキを貶めるために様々な悪行を働いている(老人の足を治そうとしたのも単に木人形を見つけただけに過ぎず、失敗した後はそのまま悪態をついて見捨てていた。また、トキに叩かれた報復とばかりにZEEDをけしかけて奇跡の村を蹂躙させようとしたが、トキと村人たち、さらにはたまたま村にいたジュウザに阻まれて失敗に終わっている)。作中では奇跡の村を襲った盗賊を全滅させたエピソードも、実はアミバが仕組んだものとされており、村をある程度蹂躙させた後で口封じに全滅させるというのが計画したシナリオそのものであった。その直後に正体を看破した長老も抹殺し、トキの従者ラモを木人形(デク)にするため拘束した(ただし、この時ラモや長老と同じく自分の正体に気付いたルカを取り逃がしてしまったため、トキになりすましていたことがケンシロウやレイに発覚する遠因となってしまう)。 外伝漫画『北斗の拳外伝 天才アミバの異世界覇王伝説』では主人公を務める。 「奇跡の村」で北斗神拳を医術に応用して病人の治療を行なうトキの評判を聞き、自分も同様のことができると老人の足に秘孔治療を行なうが、失敗した所をトキに発見される。制止する際にトキに顔を軽くぶたれた上に生兵法を咎められ、自尊心を傷つけられたアミバは、トキに対し異常なまでの恨みを抱く。しかしトキとの力の差が大きいことも悟ったため、彼になりすまして悪事を働き、罪と悪名をなすりつけようと企む。後に拳王ことラオウの部下として働いていたことが判明したが、ラオウの命令だけでなく、トキに対する恨みもアミバの行動の動機となっていた。 トキを騙り、「奇跡の村」の村人たちを木人形(デク)と呼び実験台にし、新秘孔究明のための研究を続けており、「木人形(デク)狩り」と称して近隣からも民を拉致していた。 北斗四兄弟末弟にあたるケンシロウをして、トキと信じ込ませたほどに彼の身体的特徴である傷跡を再現した完璧な変装を果たし、また付焼刃ながらに北斗神拳を「この技の切れは、トキ!」と思わせるほど巧みに使いこなすなど、「模倣の才覚」という点で天賦のものがあった。 闘いの序盤こそ再現度の高い北斗神拳でケンシロウを苦戦させたが、ケンシロウが兄としてのトキへの遠慮をなくしたことから次第に不利になっていく。これに対し、女性を盾にする卑劣な作戦に出てケンシロウに秘孔戦癰を突き、体を不動にすることに成功する。その後レイが現れ、トキが偽者であることを伝えるとケンシロウの怒りが爆発、奥義「秘孔封じ」で反撃され、立場は一気に逆転。さらには、本物のトキだと信じていた部下たちにも見捨てられる。 最期はアミバ流北斗神拳をもって巨大化して反撃を試みるが失敗し、両手の指(アニメでは手全体)が膨張して破裂し体も萎んでいく。指がなくなったことで秘孔を突けなくなり、必死の命乞いも叶わず、北斗神拳奥義「残悔積歩拳」を受けて後ろ向きに歩かされた先で高層ビルから転落すると同時に肉体を四散させて死亡する。断末魔は「うわらば」(アニメでは「拳王様〜!」)。 原作やアニメでは秘孔による爆死だったが、『真・北斗無双』では転落死である。 死後、かつてアミバの部下であった男が拳王軍長槍騎兵隊長のヤコブ(アニメオリジナルキャラクター)に、「アミバの部下だった」と伝えるが、「アミバ? 誰だそりゃあ!?」と言われている。 トキと一人二役のキャストは太字で表記。 土師孝也が演じたテレビアニメ『北斗の拳』放映時では、エンドクレジットでは最後まで「トキ」として表記されており、土師は後にそのまま本物のトキの声も継続して担当することになった。土師が演じたアニメ版のアミバは、本物のトキと同じ口調で喋っていたが、後年の『世紀末救世主伝説』以降の作品では、口調を変えて両キャラクターを演じ分け、渋いトキに対してアミバは鼻にかかった声色になり、より両者の区別が明確なものになった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アミバは、漫画『北斗の拳』に登場する架空の人物。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元南斗聖拳の修練者にして北斗神拳の非正統の使い手。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "自身をどんな拳法でも誰よりも早く習得できる「天才」だと称する。しかし、どこからも奥義を授けられることはなく、トキの評判を落とすため、彼に変装して悪事を行っていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "自分が天才であることを誇示する、その自信過剰な性格をうかがわせる台詞を多数発しており、最期まで自分を「天才」と信じて疑わなかった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつては、レイと共に南斗聖拳を学んでいた男であり、『蒼黒の餓狼 -北斗の拳 レイ外伝-』ではレイと共にロフウに師事し南斗水鳥拳の継承を争ったとされる。『天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝』では流派北蛇鍼拳を自称している。 『銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝』では、本編に加えてその悪辣さが浮き彫りとなり、ジャギの甘言もあってトキを貶めるために様々な悪行を働いている(老人の足を治そうとしたのも単に木人形を見つけただけに過ぎず、失敗した後はそのまま悪態をついて見捨てていた。また、トキに叩かれた報復とばかりにZEEDをけしかけて奇跡の村を蹂躙させようとしたが、トキと村人たち、さらにはたまたま村にいたジュウザに阻まれて失敗に終わっている)。作中では奇跡の村を襲った盗賊を全滅させたエピソードも、実はアミバが仕組んだものとされており、村をある程度蹂躙させた後で口封じに全滅させるというのが計画したシナリオそのものであった。その直後に正体を看破した長老も抹殺し、トキの従者ラモを木人形(デク)にするため拘束した(ただし、この時ラモや長老と同じく自分の正体に気付いたルカを取り逃がしてしまったため、トキになりすましていたことがケンシロウやレイに発覚する遠因となってしまう)。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "外伝漫画『北斗の拳外伝 天才アミバの異世界覇王伝説』では主人公を務める。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「奇跡の村」で北斗神拳を医術に応用して病人の治療を行なうトキの評判を聞き、自分も同様のことができると老人の足に秘孔治療を行なうが、失敗した所をトキに発見される。制止する際にトキに顔を軽くぶたれた上に生兵法を咎められ、自尊心を傷つけられたアミバは、トキに対し異常なまでの恨みを抱く。しかしトキとの力の差が大きいことも悟ったため、彼になりすまして悪事を働き、罪と悪名をなすりつけようと企む。後に拳王ことラオウの部下として働いていたことが判明したが、ラオウの命令だけでなく、トキに対する恨みもアミバの行動の動機となっていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トキを騙り、「奇跡の村」の村人たちを木人形(デク)と呼び実験台にし、新秘孔究明のための研究を続けており、「木人形(デク)狩り」と称して近隣からも民を拉致していた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北斗四兄弟末弟にあたるケンシロウをして、トキと信じ込ませたほどに彼の身体的特徴である傷跡を再現した完璧な変装を果たし、また付焼刃ながらに北斗神拳を「この技の切れは、トキ!」と思わせるほど巧みに使いこなすなど、「模倣の才覚」という点で天賦のものがあった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "闘いの序盤こそ再現度の高い北斗神拳でケンシロウを苦戦させたが、ケンシロウが兄としてのトキへの遠慮をなくしたことから次第に不利になっていく。これに対し、女性を盾にする卑劣な作戦に出てケンシロウに秘孔戦癰を突き、体を不動にすることに成功する。その後レイが現れ、トキが偽者であることを伝えるとケンシロウの怒りが爆発、奥義「秘孔封じ」で反撃され、立場は一気に逆転。さらには、本物のトキだと信じていた部下たちにも見捨てられる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最期はアミバ流北斗神拳をもって巨大化して反撃を試みるが失敗し、両手の指(アニメでは手全体)が膨張して破裂し体も萎んでいく。指がなくなったことで秘孔を突けなくなり、必死の命乞いも叶わず、北斗神拳奥義「残悔積歩拳」を受けて後ろ向きに歩かされた先で高層ビルから転落すると同時に肉体を四散させて死亡する。断末魔は「うわらば」(アニメでは「拳王様〜!」)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "原作やアニメでは秘孔による爆死だったが、『真・北斗無双』では転落死である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "死後、かつてアミバの部下であった男が拳王軍長槍騎兵隊長のヤコブ(アニメオリジナルキャラクター)に、「アミバの部下だった」と伝えるが、「アミバ? 誰だそりゃあ!?」と言われている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "トキと一人二役のキャストは太字で表記。", "title": "声優" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "土師孝也が演じたテレビアニメ『北斗の拳』放映時では、エンドクレジットでは最後まで「トキ」として表記されており、土師は後にそのまま本物のトキの声も継続して担当することになった。土師が演じたアニメ版のアミバは、本物のトキと同じ口調で喋っていたが、後年の『世紀末救世主伝説』以降の作品では、口調を変えて両キャラクターを演じ分け、渋いトキに対してアミバは鼻にかかった声色になり、より両者の区別が明確なものになった。", "title": "声優" } ]
アミバは、漫画『北斗の拳』に登場する架空の人物。
{{Pathnav|北斗の拳|[[北斗の拳の登場人物一覧|登場人物一覧]]|frame=1}} '''アミバ'''は、漫画『[[北斗の拳]]』に登場する架空の人物。 == 人物 == 元[[南斗聖拳]]の修練者にして[[北斗神拳]]の非正統の使い手。 自身をどんな拳法でも誰よりも早く習得できる「天才」だと称する。しかし、どこからも奥義を授けられることはなく、[[トキ (北斗の拳)|トキ]]の評判を落とすため、彼に変装して悪事を行っていた。 自分が天才であることを誇示する、その自信過剰な性格をうかがわせる台詞を多数発しており、最期まで自分を「天才」と信じて疑わなかった。 かつては、[[レイ (北斗の拳)|レイ]]と共に南斗聖拳を学んでいた男であり<ref>アニメ版の設定ではネバダという親衛隊長がおり、レイいわく「修行時代は2人(アミバとネバダ)でいつも悪さばかりしていた」とのこと。</ref>、『[[蒼黒の餓狼 -北斗の拳 レイ外伝-]]』ではレイと共にロフウに師事し南斗水鳥拳の継承を争ったとされる。『[[天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝]]』では流派'''北蛇鍼拳'''を自称している。 『[[銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝]]』では、本編に加えてその悪辣さが浮き彫りとなり、[[ジャギ]]の甘言もあってトキを貶めるために様々な悪行を働いている(老人の足を治そうとしたのも単に木人形を見つけただけに過ぎず、失敗した後はそのまま悪態をついて見捨てていた。また、トキに叩かれた報復とばかりにZEEDをけしかけて奇跡の村を蹂躙させようとしたが、トキと村人たち、さらにはたまたま村にいた[[南斗五車星#ジュウザ|ジュウザ]]に阻まれて失敗に終わっている)。作中では奇跡の村を襲った盗賊を全滅させたエピソードも、実はアミバが仕組んだものとされており、村をある程度蹂躙させた後で口封じに全滅させるというのが計画したシナリオそのものであった。その直後に正体を看破した長老も抹殺し、トキの従者ラモを木人形(デク)にするため拘束した(ただし、この時ラモや長老と同じく自分の正体に気付いたルカを取り逃がしてしまったため、トキになりすましていたことがケンシロウやレイに発覚する遠因となってしまう)。 外伝漫画『[[北斗の拳外伝 天才アミバの異世界覇王伝説]]』では主人公を務める。 == 来歴 == 「奇跡の村」で北斗神拳を医術に応用して病人の治療を行なうトキの評判を聞き、自分も同様のことができると老人の足に秘孔治療を行なうが、失敗した所をトキに発見される<ref>その老人はトキの処置により、助かる。</ref>。制止する際にトキに顔を軽くぶたれた上に生兵法を咎められ、自尊心を傷つけられたアミバは、トキに対し異常なまでの恨みを抱く。しかしトキとの力の差が大きいことも悟ったため、彼になりすまして悪事を働き、罪と悪名をなすりつけようと企む。後に拳王こと[[ラオウ]]の部下として働いていたことが判明したが<ref>アミバの初登場場面では、部下からジャギがケンシロウに倒されたと報告を受けている。</ref>、ラオウの命令だけでなく、トキに対する恨みもアミバの行動の動機となっていた。 トキを騙り、「奇跡の村」の村人たちを木人形(デク)と呼び実験台にし、新[[経絡秘孔|秘孔]]究明のための研究を続けており、「木人形(デク)狩り」と称して近隣からも民を拉致していた<ref>アニメ版独自のエピソードとして、木人形狩り隊の隊長・ゴウムとその部下がケンシロウに立ち向かった末全滅しているが、それぞれスポーツ競技でケンシロウに挑む場面がある。</ref>。 北斗四兄弟末弟にあたる[[ケンシロウ]]をして、トキと信じ込ませたほどに彼の身体的特徴である傷跡<ref>少年時代のケンシロウが滝に打たれる修行中、落ちてきた流木に潰されそうになったところを、身を挺してかばったことにより負った背中の大きな傷跡。結果としてケンシロウを完全にトキ本人であると信じこませる。</ref>を再現した完璧な変装を果たし、また付焼刃ながらに北斗神拳を「この技の切れは、トキ!」と思わせるほど巧みに使いこなすなど、「模倣の才覚」という点で天賦のものがあった。 闘いの序盤こそ再現度の高い北斗神拳でケンシロウを苦戦させたが、ケンシロウが兄としてのトキへの遠慮をなくしたことから次第に不利になっていく。これに対し、女性を盾にする卑劣な作戦に出てケンシロウに秘孔戦癰を突き、体を不動にすることに成功する。その後レイが現れ<ref>原作ではレイのみであるが、テレビアニメ版ではレイ以外にマミヤ、バット、リンも同行(元々はアニメオリジナルでリンがケンシロウを想う一心で駆け付けようとしたために、バットとマミヤが彼女を追う形でレイと同行する形となっている)しておりこの場面に立ち会っている。</ref>、トキが偽者であることを伝えるとケンシロウの怒りが爆発、奥義「秘孔封じ」で反撃され、立場は一気に逆転。さらには、本物のトキだと信じていた部下たちにも見捨てられる。 最期はアミバ流北斗神拳をもって巨大化して反撃を試みるが失敗し、両手の指(アニメでは手全体)が膨張して破裂し体も萎んでいく。指がなくなったことで秘孔を突けなくなり、必死の命乞いも叶わず、北斗神拳奥義「残悔積歩拳」を受けて後ろ向きに歩かされた先で高層ビルから転落すると同時に肉体を四散させて死亡する<ref>原作ではアミバの最期を見届けたのはケンシロウとレイの2人のみであるが、テレビアニメ版ではそれに加えマミヤ(「あなたは確か天才だったわね?自分で秘孔を突いて止めたらどう?」というアニメオリジナルの台詞もある)、バット、リンも加わって計5人がアミバの最期を見届けている。</ref>。断末魔は「うわらば」(アニメでは「拳王様〜!」)。 原作やアニメでは秘孔による爆死だったが、『[[真・北斗無双]]』では転落死である。 死後、かつてアミバの部下であった男が拳王軍長槍騎兵隊長のヤコブ(アニメオリジナルキャラクター)に、「アミバの部下だった」と伝えるが、「アミバ? 誰だそりゃあ!?」と言われている。 == 声優 == トキと一人二役のキャストは'''太字'''で表記。 * '''[[土師孝也]]''' - [[北斗の拳 (テレビアニメ)|テレビアニメ版]]、[[北斗の拳 世紀末救世主伝説|世紀末救世主伝説]]、パチスロ([[北斗の拳 (パチスロ)|4号機]])、『激打』シリーズ(『3』以降)、[[CR北斗の拳|CR北斗の拳(2005年)]] * [[佐々木誠 (俳優)|佐々木誠]] - [[パンチマニア 北斗の拳|パンチマニア]] * '''[[堀内賢雄]]''' - パチンコ([[ぱちんこCR北斗の拳|2008年]]以降)、パチスロ(5号機以降)、『LEGENDS ReVIVE』 * [[興津和幸]] - [[天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝|PSP版『天の覇王』]] * '''[[関智一]]''' - 『[[北斗無双]]』シリーズ、『[[DD北斗の拳]]』シリーズ 土師孝也が演じたテレビアニメ『[[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]]』放映時では、エンドクレジットでは最後まで「トキ」として表記されており<ref>土師はアミバ登場回において、回想シーンでの本物のトキも演じている。</ref>、土師は後にそのまま本物の[[トキ (北斗の拳)|トキ]]の声も継続して担当することになった。土師が演じたアニメ版のアミバは、本物のトキと同じ口調で喋っていたが、後年の『世紀末救世主伝説』以降の作品では、口調を変えて両キャラクターを演じ分け、渋いトキに対してアミバは鼻にかかった声色になり、より両者の区別が明確なものになった。 == その他 == * [[サミー]]から発売されているパチンコ・パチスロでは、ケンシロウの敵としては最弱であり、対戦が確定した時点で勝利(大当たり濃厚)という役割で登場。トキを思わせるシルエットが現れた際は、それがトキならば大当たり濃厚、アミバならば逃走あるいは対戦という分岐が存在する。ただし、[[ぱちんこCR北斗の拳|2008年のパチンコ]]ではアミバと戦っても大当たり濃厚とはならないケースが存在する。それは通常時のアミバリーチで、後半に発展する事でようやく大当たり濃厚となる(そのためカットインは前半に挿入される)。 * [[2010年]]10月にはレッカ社編著・[[PHP研究所]]発行による『アミバ天才[[手帳]] 2011 ん!? スケジュールをまちがったかな…』が発売された。手帳の1ページごとにアミバの台詞が入るなどの仕様となっている。 * 『北斗の拳』の連載35周年を記念して行われた人気投票「北斗の拳 国民総選挙」では、第10位にランクインしている。 == 脚注 == {{Reflist}} {{北斗の拳}} {{DEFAULTSORT:あみは}} [[Category:北斗の拳の登場人物]]
null
2023-04-18T08:11:29Z
false
false
false
[ "Template:Pathnav", "Template:Reflist", "Template:北斗の拳" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%90
15,821
小寒
小寒(しょうかん)は、二十四節気の第23。十二月節(旧暦11月後半から12月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大寒前日までである。 暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半。『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。 この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。暦の上では冬の寒さが一番厳しい時期となる。この日から寒中見舞いを出し始める。 定気法による小寒の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での小寒日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の小寒は表のとおり。 2023年の小寒は1月6日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(小寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1917年から2092年までは1月5日、1月6日のいずれか。1916年までは1月7日もあった。2093年、2097年には1月4日が現れる。 小寒の期間の七十二候は以下の通り。 冬至 → 小寒 → 大寒
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "小寒(しょうかん)は、二十四節気の第23。十二月節(旧暦11月後半から12月前半)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大寒前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半。『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。暦の上では冬の寒さが一番厳しい時期となる。この日から寒中見舞いを出し始める。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "定気法による小寒の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での小寒日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の小寒は表のとおり。 2023年の小寒は1月6日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(小寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1917年から2092年までは1月5日、1月6日のいずれか。1916年までは1月7日もあった。2093年、2097年には1月4日が現れる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小寒の期間の七十二候は以下の通り。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "冬至 → 小寒 → 大寒", "title": "前後の節気" } ]
小寒(しょうかん)は、二十四節気の第23。十二月節(旧暦11月後半から12月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大寒前日までである。
{{節気}} '''小寒'''(しょうかん)は、[[二十四節気]]の第23。十二月節([[旧暦11月]]後半から[[旧暦12月|12月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が285[[度 (角度)|度]]のときで[[1月5日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から1/24[[年]](約15.22日)後で[[1月6日]]ごろである。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[大寒]]前日までである。 ==季節== 暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半。『[[暦便覧]]』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。 この日から[[節分]]([[立春]]の前日)までを「[[寒]](かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。暦の上では冬の寒さが一番厳しい時期となる。この日から[[寒中見舞い]]を出し始める。 ==日付== {{節気時刻説明|小寒}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|01|05|18|54}} {{節気の日付|1967|01|06|00|48}} {{節気の日付|1968|01|06|06|26}} {{節気の日付|1969|01|05|12|17}} {{節気の日付|1970|01|05|18|02}} {{節気の日付|1971|01|05|23|45}} {{節気の日付|1972|01|06|05|42}} {{節気の日付|1973|01|05|11|25}} {{節気の日付|1974|01|05|17|20}} {{節気の日付|1975|01|05|23|18}} {{節気の日付|1976|01|06|04|57}} {{節気の日付|1977|01|05|10|51}} {{節気の日付|1978|01|05|16|43}} {{節気の日付|1979|01|05|22|32}} {{節気の日付|1980|01|06|04|29}} {{節気の日付|1981|01|05|10|13}} {{節気の日付|1982|01|05|16|03}} {{節気の日付|1983|01|05|21|59}} {{節気の日付|1984|01|06|03|41}} {{節気の日付|1985|01|05|09|35}} {{節気の日付|1986|01|05|15|28}} {{節気の日付|1987|01|05|21|13}} {{節気の日付|1988|01|06|03|04}} {{節気の日付|1989|01|05|08|46}} {{節気の日付|1990|01|05|14|33}} {{節気の日付|1991|01|05|20|28}} {{節気の日付|1992|01|06|02|09}} {{節気の日付|1993|01|05|07|57}} {{節気の日付|1994|01|05|13|48}} {{節気の日付|1995|01|05|19|34}} {{節気の日付|1996|01|06|01|31}} {{節気の日付|1997|01|05|07|24}} {{節気の日付|1998|01|05|13|18}} {{節気の日付|1999|01|05|19|17}} {{節気の日付|2000|01|06|01|01}} {{節気の日付|2001|01|05|06|49}} {{節気の日付|2002|01|05|12|43}} {{節気の日付|2003|01|05|18|28}} {{節気の日付|2004|01|06|00|19}} {{節気の日付|2005|01|05|06|03}} {{節気の日付|2006|01|05|11|47}} {{節気の日付|2007|01|05|17|40}} {{節気の日付|2008|01|05|23|25}} {{節気の日付|2009|01|05|05|14}} {{節気の日付|2010|01|05|11|09}} {{節気の日付|2011|01|05|16|55}} {{節気の日付|2012|01|05|22|44}} {{節気の日付|2013|01|05|04|34}} {{節気の日付|2014|01|05|10|24}} {{節気の日付|2015|01|05|16|21}} {{節気の日付|2016|01|05|22|08}} {{節気の日付|2017|01|05|03|56}} {{節気の日付|2018|01|05|09|49}} {{節気の日付|2019|01|05|15|39}} {{節気の日付|2020|01|05|21|30}} {{節気の日付|2021|01|05|03|23}} {{節気の日付|2022|01|05|09|14}} {{節気の日付|2023|01|05|15|05}} {{節気の日付|2024|01|05|20|49}} {{節気の日付|2025|01|05|02|32}} {{節気の日付|2026|01|05|08|23}} {{節気の日付|2027|01|05|14|10}} {{節気の日付|2028|01|05|19|54}} {{節気の日付|2029|01|05|01|41}} {{節気の日付|2030|01|05|07|29}} {{節気の日付|2031|01|05|13|22}} {{節気の日付|2032|01|05|19|15}} {{節気の日付|2033|01|05|01|07}} {{節気の日付|2034|01|05|07|03}} {{節気の日付|2035|01|05|12|54}} {{節気の日付|2036|01|05|18|42}} {{節気の日付|2037|01|05|00|33}} {{節気の日付|2038|01|05|06|25}} {{節気の日付|2039|01|05|12|15}} {{節気の日付|2040|01|05|18|02}} {{節気の日付|2041|01|04|23|47}} {{節気の日付|2042|01|05|05|34}} {{節気の日付|2043|01|05|11|24}} {{節気の日付|2044|01|05|17|11}} {{節気の日付|2045|01|04|23|01}} {{節気の日付|2046|01|05|04|54}} {{節気の日付|2047|01|05|10|41}} {{節気の日付|2048|01|05|16|28}} {{節気の日付|2049|01|04|22|17}} {{節気の日付|2050|01|05|04|06}} {{節気の日付|2051|01|05|10|01}} {{節気の日付|2052|01|05|15|47}} {{節気の日付|2053|01|04|21|34}} {{節気の日付|2054|01|05|03|31}} {{節気の日付|2055|01|05|09|21}} {{節気の日付|2056|01|05|15|14}} {{節気の日付|2057|01|04|21|08}} {{節気の日付|2058|01|05|02|57}} {{節気の日付|2059|01|05|08|48}} {{節気の日付|2060|01|05|14|32}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|小寒|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1917年]]から[[2092年]]までは[[1月5日]]、[[1月6日]]のいずれか。[[1916年]]までは[[1月7日]]もあった。[[2093年]]、[[2097年]]には[[1月4日]]が現れる。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 1 !! 2 !! 3 !! 0 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1601|1604}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1605|1640}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || 1607(5-6日), 1640(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1641|1676}} || |5日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1677|1700}} || bgcolor=yellow|4日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1701|1708}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1709|1744}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 1710(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1745|1780}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || 1780(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1781|1800}} || |5日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1801|1816}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1817|1848}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1849|1884}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 1850(5-6日), 1883(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1885|1900}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1901|1916}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=lime|7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1917|1956}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 1953(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1957|1988}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1989|2024}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 2023(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2025|2056}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2057|2092}} || |5日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2093|2100}} || bgcolor=yellow|4日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2101|2124}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2125|2160}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 2159(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2161|2192}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2193|2200}} || |5日 || |5日 || |5日 || |5日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2201|2228}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2229|2264}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 2229(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2265|2296}} || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2297|2300}} || |5日 || |5日 || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2301|2328}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=lime|7日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2329|2368}} || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || 2332(6-7日), 2365(5-6日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2369|2400}} || |5日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || bgcolor=cyan|6日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 小寒の期間の[[七十二候]]は以下の通り。 ;初候 :'''芹乃栄'''(せり すなわち さかう) : [[セリ|芹]]がよく生育する(日本) :'''雁北郷'''(かり きたにむかう) : [[雁]]が北に渡り始める(中国) ;次候 :'''水泉動'''(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(日本) :'''鵲始巣'''(かささぎ はじめて すくう) : [[カササギ|鵲]]が巣を作り始める(中国) ;末候 :'''雉始雊'''(きじ はじめて なく) : 雄の[[キジ|雉]]が鳴き始める(日本・中国) == 前後の節気 == [[冬至]] → '''小寒''' → [[大寒]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:しようかん}} [[Category:節気]] [[Category:冬の季語]] [[Category:1月]]
null
2022-04-21T05:57:03Z
false
false
false
[ "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明", "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:節気", "Template:節気時刻説明" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%92
15,823
大寒
大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。十二月節(旧暦12月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のとき(黄道十二宮では宝瓶宮の原点に相当)で1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立春前日までである。 寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際、気象庁やウェザーニューズなどが提供する観測データによれば、この大寒の意味するところが概ね的を射ていることは推測可能である。 寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。武道ではこのころ寒稽古が行われる。 定気法による大寒の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での大寒日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の大寒は表のとおり。 2023年の大寒は1月20日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(大寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1801年から2052年までは1月20日、1月21日のいずれか。2017年からしばらく1月20日が続く。2053年からは1月19日が現れる(2020年、2053年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。3104年からは1月22日が現れる。 大寒の期間の七十二候は以下の通り。 小寒 → 大寒 → 立春
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。十二月節(旧暦12月内)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のとき(黄道十二宮では宝瓶宮の原点に相当)で1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立春前日までである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際、気象庁やウェザーニューズなどが提供する観測データによれば、この大寒の意味するところが概ね的を射ていることは推測可能である。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。武道ではこのころ寒稽古が行われる。", "title": "季節" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "定気法による大寒の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での大寒日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の大寒は表のとおり。 2023年の大寒は1月20日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(大寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1801年から2052年までは1月20日、1月21日のいずれか。2017年からしばらく1月20日が続く。2053年からは1月19日が現れる(2020年、2053年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。3104年からは1月22日が現れる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大寒の期間の七十二候は以下の通り。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小寒 → 大寒 → 立春", "title": "前後の節気" } ]
大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。十二月節(旧暦12月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のとき(黄道十二宮では宝瓶宮の原点に相当)で1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の立春前日までである。
{{節気}} '''大寒'''(だいかん)は、[[二十四節気]]の第24。十二月節([[旧暦12月]]内)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が300[[度 (角度)|度]]のとき([[黄道十二宮]]では[[宝瓶宮]]の原点に相当)で[[1月20日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[平気法]]では[[冬至]]から1/12[[年]](約30.44日)後で[[1月20日]]ごろである。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[立春]]前日までである。 ==季節== 寒さが最も厳しくなるころ。『[[暦便覧]]』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際、[[気象庁]]や[[ウェザーニューズ]]などが提供する観測データによれば、この大寒の意味するところが概ね的を射ていることは推測可能である。 [[寒]]([[小寒]] - [[立春]]前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。[[武道]]ではこのころ[[寒稽古]]が行われる。 ==日付== {{節気時刻説明|大寒}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|01|20|12|20}} {{節気の日付|1967|01|20|18|08}} {{節気の日付|1968|01|20|23|54}} {{節気の日付|1969|01|20|05|38}} {{節気の日付|1970|01|20|11|24}} {{節気の日付|1971|01|20|17|13}} {{節気の日付|1972|01|20|22|59}} {{節気の日付|1973|01|20|04|48}} {{節気の日付|1974|01|20|10|46}} {{節気の日付|1975|01|20|16|36}} {{節気の日付|1976|01|20|22|25}} {{節気の日付|1977|01|20|04|14}} {{節気の日付|1978|01|20|10|04}} {{節気の日付|1979|01|20|16|00}} {{節気の日付|1980|01|20|21|49}} {{節気の日付|1981|01|20|03|36}} {{節気の日付|1982|01|20|09|31}} {{節気の日付|1983|01|20|15|17}} {{節気の日付|1984|01|20|21|05}} {{節気の日付|1985|01|20|02|58}} {{節気の日付|1986|01|20|08|46}} {{節気の日付|1987|01|20|14|40}} {{節気の日付|1988|01|20|20|24}} {{節気の日付|1989|01|20|02|07}} {{節気の日付|1990|01|20|08|02}} {{節気の日付|1991|01|20|13|47}} {{節気の日付|1992|01|20|19|33}} {{節気の日付|1993|01|20|01|23}} {{節気の日付|1994|01|20|07|07}} {{節気の日付|1995|01|20|13|00}} {{節気の日付|1996|01|20|18|52}} {{節気の日付|1997|01|20|00|42}} {{節気の日付|1998|01|20|06|46}} {{節気の日付|1999|01|20|12|37}} {{節気の日付|2000|01|20|18|23}} {{節気の日付|2001|01|20|00|16}} {{節気の日付|2002|01|20|06|02}} {{節気の日付|2003|01|20|11|53}} {{節気の日付|2004|01|20|17|42}} {{節気の日付|2005|01|19|23|22}} {{節気の日付|2006|01|20|05|15}} {{節気の日付|2007|01|20|11|01}} {{節気の日付|2008|01|20|16|44}} {{節気の日付|2009|01|19|22|40}} {{節気の日付|2010|01|20|04|28}} {{節気の日付|2011|01|20|10|19}} {{節気の日付|2012|01|20|16|10}} {{節気の日付|2013|01|19|21|52}} {{節気の日付|2014|01|20|03|51}} {{節気の日付|2015|01|20|09|43}} {{節気の日付|2016|01|20|15|27}} {{節気の日付|2017|01|19|21|23}} {{節気の日付|2018|01|20|03|09}} {{節気の日付|2019|01|20|08|59}} {{節気の日付|2020|01|20|14|54}} {{節気の日付|2021|01|19|20|40}} {{節気の日付|2022|01|20|02|39}} {{節気の日付|2023|01|20|08|29}} {{節気の日付|2024|01|20|14|07}} {{節気の日付|2025|01|19|19|59}} {{節気の日付|2026|01|20|01|44}} {{節気の日付|2027|01|20|07|29}} {{節気の日付|2028|01|20|13|21}} {{節気の日付|2029|01|19|19|00}} {{節気の日付|2030|01|20|00|53}} {{節気の日付|2031|01|20|06|47}} {{節気の日付|2032|01|20|12|30}} {{節気の日付|2033|01|19|18|32}} {{節気の日付|2034|01|20|00|26}} {{節気の日付|2035|01|20|06|13}} {{節気の日付|2036|01|20|12|10}} {{節気の日付|2037|01|19|17|52}} {{節気の日付|2038|01|19|23|47}} {{節気の日付|2039|01|20|05|42}} {{節気の日付|2040|01|20|11|20}} {{節気の日付|2041|01|19|17|12}} {{節気の日付|2042|01|19|22|59}} {{節気の日付|2043|01|20|04|40}} {{節気の日付|2044|01|20|10|36}} {{節気の日付|2045|01|19|16|21}} {{節気の日付|2046|01|19|22|14}} {{節気の日付|2047|01|20|04|08}} {{節気の日付|2048|01|20|09|46}} {{節気の日付|2049|01|19|15|40}} {{節気の日付|2050|01|19|21|32}} {{節気の日付|2051|01|20|03|17}} {{節気の日付|2052|01|20|09|13}} {{節気の日付|2053|01|19|14|58}} {{節気の日付|2054|01|19|20|49}} {{節気の日付|2055|01|20|02|47}} {{節気の日付|2056|01|20|08|31}} {{節気の日付|2057|01|19|14|29}} {{節気の日付|2058|01|19|20|24}} {{節気の日付|2059|01|20|02|05}} {{節気の日付|2060|01|20|07|57}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|大寒|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1801年]]から[[2052年]]までは[[1月20日]]、[[1月21日]]のいずれか。[[2017年]]からしばらく[[1月20日]]が続く。[[2053年]]からは[[1月19日]]が現れる(2020年、2053年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。[[3104年]]からは[[1月22日]]が現れる。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 1 !! 2 !! 3 !! 0 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1601|1640}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || 1604(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1641|1672}} || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1673|1700}} || bgcolor=yellow|19日 || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1701|1708}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1709|1740}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1741|1780}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || 1777(19-20日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1781|1800}} || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1801|1812}} || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1813|1844}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1845|1880}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || 1847(20-21日), 1880(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1881|1900}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1901|1916}} || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1917|1948}} || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1949|1984}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || 1950(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1985|2016}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2017|2052}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || 2020(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2053|2088}} || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |20日 || 2053(19-20日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2089|2100}} || bgcolor=yellow|19日 || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2101|2120}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2121|2156}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || 2156(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2157|2192}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2193|2200}} || bgcolor=yellow|19日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2201|2228}} || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || 2226(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2229|2260}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2261|2292}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || 2292(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2293|2300}} || |20日 || |20日 || |20日 || |20日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2301|2328}} || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2329|2360}} || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2361|2396}} || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || bgcolor=cyan|21日 || 2362(20-21日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2397|2400}} || |20日 || |20日 || |20日 || bgcolor=cyan|21日 || |} {{clear}} == 七十二候 == 大寒の期間の[[七十二候]]は以下の通り。 ;初候 :'''款冬華'''(ふきのはな さく) : [[蕗]]の薹(ふきのとう)が蕾を出す(日本) :'''鶏始乳'''(にわとり はじめて にゅうす) : [[ニワトリ|鶏]]が卵を産み始める(中国) ;次候 :'''水沢腹堅'''(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる(日本) :'''鷙鳥厲疾'''(しちょう れいしつす) : [[鷲]]・[[鷹]]などが空高く速く飛び始める(中国) ;末候 :'''鶏始乳'''(にわとり はじめて とやにつく) : [[ニワトリ|鶏]]が卵を産み始める(日本) :'''水沢腹堅'''(すいたく あつく かたし) : 沢に氷が厚く張りつめる(中国) == 前後の節気 == [[小寒]] → '''大寒''' → [[立春]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:たいかん}} [[Category:節気]] [[Category:1月]] [[Category:旧暦12月]] [[Category:冬の季語]]
null
2023-01-20T07:03:47Z
false
false
false
[ "Template:EqJSTYRangeMark", "Template:脚注ヘルプ", "Template:節気", "Template:節気時刻説明", "Template:節気の日付", "Template:Clear", "Template:節気日付パターン説明" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%92
15,824
春(はる)は、四季の1つ。冬の次、夏の前である。 北半球では(南半球では半年ずれる): 春は、寒い冬から気温が上がり始め、朝晩はまだ肌寒さがあるが、日中が次第に暖かくなる時期。秋と並んで一年の中では最も気候の良い穏やかな季節とも言われる。雪や氷が溶け、植物が芽を出す時期である。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になる。日が永くなり、地中の虫が動き始める。桜が散り、次第に木々の緑が濃さを増し、暑い日が増え、やがて終わりを迎える。 日本では毎年3月が年度替わりとされ、さまざまな区切りとなる(年によって若干異なるが、テレビ・ラジオにおいて改編、法律・制度が実施されたり、政令指定都市・中核市などに移行され、合併などが多く行われ、この時期は大きな節目となる)。また、卒業式や入学・入社式、あるいは人事異動など、一般的には、出会いと別れの季節でもある。花見などはこれに重ねて扱われる。 春に採れるものは旬を参照。 冬の寒さが和らぐことによって、春になると一般に生物の活動が活発になる。また、豪雪地帯での雪解け水は貴重な水資源であり、日本においては田植えと密接な関連がある。その一方で地域によっては雪崩や融雪洪水をもたらす場合もある。この他、発達した低気圧が太平洋側を通り且つ気温が低い(地上の気温が0°C未満の場合、地上の気温が0°C以上であっても上空1500mで-6°C未満または上空5500mで-30°C未満の場合)と太平洋側に大雪(春の大雪)をもたらし、日本海側を通ると春一番と呼ばれる南風が吹くことでも知られている。 日本においては特に桜の開花が文化と密接な関わりをもち、桜の開花宣言が地域ごとに出され、桜前線が北上する。 サマータイムが実施される国・地域では、春の半ば頃から時計を1時間進めることとなる。 四季の1つ。冬の1つ後の季節。言葉としては正月を新春というように、現在の感覚的には冬の事象にも使われる事がある。旧暦では一月は春となるためであろう。その関わりもあって、春という言葉には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合がある。 西洋でもイタリア語の「プリマヴェーラ(Primavera)」やフランス語の「プランタン(Printemps)」「第一の」を意味する接頭語「プリ(pri-)」を使用しているように「第1の季節」と考えられる。これは農耕暦であるローマ暦において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春が年のはじめとしたことに由来する。 春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されることから、春の語は「雪どけ」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用される(諸国民の春、プラハの春、アラブの春)。 また、春から初夏にかけてを木の芽時とも言い、性的活動が盛んになるものとされている。「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがある。不思議の国のアリスには、「三月ウサギ」が頭のおかしいものとして登場する。 他にも春(しゅん)と言った場合には、性的なことを示す場合が多く、たとえば春画・売買春・思春期などの語がある。 枕詞は「あづさゆみ」。「弓を張る(はる)」にかけた。 ・春分のひ 春は生物の動き始める時期である。温度が上がり、日差しが強くなり、植物の活動が始まる時期である。 日本では主要作物であるイネの植え付け準備に当たる時期である。初冬から水田ではレンゲが緑肥として栽培され(現在ではほとんど見ない)、田起こし、苗代作りなどが続く。田植えは初夏の行事であるが、早いところでは本州でも四月に始まる。 梅や桃の開花も春である。他に、菜の花も代表的な春の畑の風景である。 多くの植物はこの時期から葉を伸ばし、栄養を蓄えてから繁殖を始める。花の時期は植物によって様々ではあるが、特に春はほとんど花のない冬の後であることもあり花の季節との印象がある。特に、この季節にだけ発生する植物・昆虫類を総称してスプリング・エフェメラルと呼ぶことがある。 日本では梅・桜・桃が春の花の代表であり、それぞれを対象として花見が行われる。フクジュソウの花は現在では冬と位置づけていい時期に咲くが、これも新春の花と認識されていた。 現在では園芸植物では球根系のチューリップ・ヒヤシンス・アネモネなども春の花の代表と認識されているが、これらは元来はヨーロッパのスプリング・エフェメラルであった。 なお、実際の開花時期は当然ながら地域によって異なる。特に寒冷地ではそれが遅くなる。たとえばミズバショウは「夏の思い出」に唄われるが、これは現地では春早くに当たる。また、単に遅くなるだけでなく、その期間が圧縮される。先の例では梅、桃、桜は本州南部では順に2月、3月、4月に咲くが、これらは東北地方ではほぼ同時に咲く。 他に杉などの花粉は健康被害をもたらすことがあり、花粉症として知られている。春はまた、新芽の伸び始める季節でもあり、常緑樹の場合、落葉はこの季節にも多い。 このように柔らかな植物や花が多いことから、またそれを食べる昆虫などの活動も盛んであることから、多くの鳥もこの季節に繁殖を行う。それに伴って鳥がさえずるので、野外はにぎやかになる。ツバメなど、南方から渡ってくる鳥もある。ほ乳類の育児もこの時期に行われる例が多い。 なお、猛禽類や大型肉食獣の場合、冬から育児が始まる例があり、これは子供がやや大きくなって食欲が増した時期が小型動物の育児や繁殖の時期にぶつかるよう適応したと考えられる。 他に、直接には春に言及しないが、サクラ、チューリップ、チョウ(蝶)などにかかわるものは春を題材にしているものが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "春(はる)は、四季の1つ。冬の次、夏の前である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北半球では(南半球では半年ずれる):", "title": "期間" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "春は、寒い冬から気温が上がり始め、朝晩はまだ肌寒さがあるが、日中が次第に暖かくなる時期。秋と並んで一年の中では最も気候の良い穏やかな季節とも言われる。雪や氷が溶け、植物が芽を出す時期である。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になる。日が永くなり、地中の虫が動き始める。桜が散り、次第に木々の緑が濃さを増し、暑い日が増え、やがて終わりを迎える。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では毎年3月が年度替わりとされ、さまざまな区切りとなる(年によって若干異なるが、テレビ・ラジオにおいて改編、法律・制度が実施されたり、政令指定都市・中核市などに移行され、合併などが多く行われ、この時期は大きな節目となる)。また、卒業式や入学・入社式、あるいは人事異動など、一般的には、出会いと別れの季節でもある。花見などはこれに重ねて扱われる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "春に採れるものは旬を参照。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "冬の寒さが和らぐことによって、春になると一般に生物の活動が活発になる。また、豪雪地帯での雪解け水は貴重な水資源であり、日本においては田植えと密接な関連がある。その一方で地域によっては雪崩や融雪洪水をもたらす場合もある。この他、発達した低気圧が太平洋側を通り且つ気温が低い(地上の気温が0°C未満の場合、地上の気温が0°C以上であっても上空1500mで-6°C未満または上空5500mで-30°C未満の場合)と太平洋側に大雪(春の大雪)をもたらし、日本海側を通ると春一番と呼ばれる南風が吹くことでも知られている。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本においては特に桜の開花が文化と密接な関わりをもち、桜の開花宣言が地域ごとに出され、桜前線が北上する。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "サマータイムが実施される国・地域では、春の半ば頃から時計を1時間進めることとなる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "四季の1つ。冬の1つ後の季節。言葉としては正月を新春というように、現在の感覚的には冬の事象にも使われる事がある。旧暦では一月は春となるためであろう。その関わりもあって、春という言葉には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "西洋でもイタリア語の「プリマヴェーラ(Primavera)」やフランス語の「プランタン(Printemps)」「第一の」を意味する接頭語「プリ(pri-)」を使用しているように「第1の季節」と考えられる。これは農耕暦であるローマ暦において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春が年のはじめとしたことに由来する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されることから、春の語は「雪どけ」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用される(諸国民の春、プラハの春、アラブの春)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、春から初夏にかけてを木の芽時とも言い、性的活動が盛んになるものとされている。「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがある。不思議の国のアリスには、「三月ウサギ」が頭のおかしいものとして登場する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "他にも春(しゅん)と言った場合には、性的なことを示す場合が多く、たとえば春画・売買春・思春期などの語がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "枕詞は「あづさゆみ」。「弓を張る(はる)」にかけた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "・春分のひ", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "春は生物の動き始める時期である。温度が上がり、日差しが強くなり、植物の活動が始まる時期である。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本では主要作物であるイネの植え付け準備に当たる時期である。初冬から水田ではレンゲが緑肥として栽培され(現在ではほとんど見ない)、田起こし、苗代作りなどが続く。田植えは初夏の行事であるが、早いところでは本州でも四月に始まる。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "梅や桃の開花も春である。他に、菜の花も代表的な春の畑の風景である。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "多くの植物はこの時期から葉を伸ばし、栄養を蓄えてから繁殖を始める。花の時期は植物によって様々ではあるが、特に春はほとんど花のない冬の後であることもあり花の季節との印象がある。特に、この季節にだけ発生する植物・昆虫類を総称してスプリング・エフェメラルと呼ぶことがある。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本では梅・桜・桃が春の花の代表であり、それぞれを対象として花見が行われる。フクジュソウの花は現在では冬と位置づけていい時期に咲くが、これも新春の花と認識されていた。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在では園芸植物では球根系のチューリップ・ヒヤシンス・アネモネなども春の花の代表と認識されているが、これらは元来はヨーロッパのスプリング・エフェメラルであった。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、実際の開花時期は当然ながら地域によって異なる。特に寒冷地ではそれが遅くなる。たとえばミズバショウは「夏の思い出」に唄われるが、これは現地では春早くに当たる。また、単に遅くなるだけでなく、その期間が圧縮される。先の例では梅、桃、桜は本州南部では順に2月、3月、4月に咲くが、これらは東北地方ではほぼ同時に咲く。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "他に杉などの花粉は健康被害をもたらすことがあり、花粉症として知られている。春はまた、新芽の伸び始める季節でもあり、常緑樹の場合、落葉はこの季節にも多い。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このように柔らかな植物や花が多いことから、またそれを食べる昆虫などの活動も盛んであることから、多くの鳥もこの季節に繁殖を行う。それに伴って鳥がさえずるので、野外はにぎやかになる。ツバメなど、南方から渡ってくる鳥もある。ほ乳類の育児もこの時期に行われる例が多い。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、猛禽類や大型肉食獣の場合、冬から育児が始まる例があり、これは子供がやや大きくなって食欲が増した時期が小型動物の育児や繁殖の時期にぶつかるよう適応したと考えられる。", "title": "生物的自然" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "他に、直接には春に言及しないが、サクラ、チューリップ、チョウ(蝶)などにかかわるものは春を題材にしているものが多い。", "title": "春を題材にした作品" } ]
春(はる)は、四季の1つ。冬の次、夏の前である。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2021年11月}} [[画像:Prunus serrulata 2005 spring 025.jpg|thumb|春の風物詩の一つ、[[サクラ|桜]]]] [[ファイル:2019-05-04 Kirsikkapuisto 1.jpg|thumb|[[フィンランド]]、[[ヘルシンキ]]の{{ill|チェリーツリーパーク|en|Kirsikkapuisto}}(Kirsikkapuisto)の春の景色]] [[ファイル:Botticelli-primavera.jpg|thumb|250px|right|[[ボッティチェルリ]]の絵画『春([[プリマヴェーラ]])』]] '''春'''(はる)は、[[四季]]の1つ。[[冬]]の次、[[夏]]の前である。 == 期間 == === 暦による期間 === [[北半球]]では([[南半球]]では半年ずれる): *[[日本]]の[[会計年度|年度]]での四半期ごとの区分では4月・5月・[[6月]]。英語ではこの3か月を {{lang|en|spring [[四半期|quarter]]}} という。 *社会通念・[[気象学]]では[[3月]]・[[4月]]・[[5月]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201207_1617587.html?DETAIL|title=温暖化で日本の四季に変化 「梅雨」が季節になる可能性も|publisher=NEWSポストセブン|date=2020-12-07|accessdate=2021-01-04}}</ref>。 *天文学上は[[春分]]から[[夏至]]まで。ここでの「春分」「夏至」は、「[[春分の日]]」「夏至の日」ではなく[[太陽]][[黄経]]が0°、90°になった瞬間。 *[[二十四節気]]に基づく[[節切り]]では[[立春]]から[[立夏]]の前日まで *[[旧暦]]による[[月切り]]では[[1月]]・[[2月]]・[[3月]]。上に近いが、最大半月ずれる。 *[[JR|JRグループ]]の[[臨時列車]]運行上の区切りは、3 - 6月の4ヶ月間としている<ref>{{Cite press release|和書|title=“春”の臨時列車のお知らせ|publisher=[[東海旅客鉄道]]|date=2018-01-19|url=http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000036163.pdf|format=PDF|accessdate=2018-08-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180826032201/http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000036163.pdf|archivedate=2018-08-26}}</ref>。 *西洋<ref>http://www.almanac.com/content/spring-equinox-2017-first-day-spring</ref>(特に米国、ドイツなど)では一般的に春分の日から夏至の日までとすることがある。 === 気候による期間 === *[[赤道]]付近では「1年中夏」、極地では「1年中冬」とされ、春がないとされることがある。 *[[北極]]や[[南極]]では、融雪や解氷を春の始まりとすることがある。 === 三春 === ; 初春(孟春) : [[旧暦1月]]、または、[[立春]]から[[啓蟄]]の前日まで。 ; 仲春(仲陽) : [[旧暦2月]]、または、啓蟄から[[清明]]の前日まで。 ; 晩春(季春) : [[旧暦3月]]、または、清明から立夏の前日まで。 == 気候 == 春は、寒い[[冬]]から気温が上がり始め、朝晩はまだ肌寒さがあるが、日中が次第に暖かくなる時期。[[秋]]と並んで一年の中では最も気候の良い穏やかな[[季節]]とも言われる。[[雪]]や[[氷]]が溶け、[[植物]]が[[芽]]を出す時期である。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になる。日が永くなり、地中の虫が動き始める。桜が散り、次第に木々の緑が濃さを増し、暑い日が増え、やがて終わりを迎える。 [[日本]]では毎年[[3月]]が[[年度]]替わりとされ、さまざまな区切りとなる(年によって若干異なるが、[[テレビ]]・[[ラジオ]]において[[改編]]、[[法律]]・[[制度]]が実施されたり、[[政令指定都市]]・[[中核市]]などに移行され、[[合併 (企業)|合併]]などが多く行われ、この時期は大きな節目となる)。また、卒業式や入学・入社式、あるいは人事異動など、一般的には、出会いと別れの季節でもある。[[花見]]などはこれに重ねて扱われる。 春に採れるものは[[旬#旬の食材一覧|旬]]を参照。 [[冬]]の寒さが和らぐことによって、春になると一般に[[生物]]の活動が活発になる。また、[[豪雪地帯]]での[[雪解け水]]は貴重な水資源であり、日本においては[[田植え]]と密接な関連がある。その一方で地域によっては[[雪崩]]や融雪[[洪水]]をもたらす場合もある。この他、発達した[[低気圧]]が太平洋側を通り且つ気温が低い(地上の気温が0℃未満の場合、地上の気温が0℃以上であっても上空1500mで-6℃未満または上空5500mで-30℃未満の場合)と太平洋側に[[大雪]](春の大雪)をもたらし、日本海側を通ると[[春一番]]と呼ばれる[[南風]]が吹くことでも知られている。 日本においては特に[[サクラ|桜]]の開花が[[日本の文化|文化]]と密接な関わりをもち、桜の開花宣言が地域ごとに出され、[[桜前線]]が北上する。 [[夏時間|サマータイム]]が実施される国・地域では、春の半ば頃から時計を1時間進めることとなる。 == 文化 == === 順序 === 四季の1つ。冬の1つ後の季節。言葉としては[[正月]]を新春というように、現在の感覚的には[[冬]]の事象にも使われる事がある。旧暦では一月は春となるためであろう。その関わりもあって、春という言葉には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合がある。 西洋でも[[イタリア語]]の「[[プリマヴェーラ]]({{lang|it|Primavera}})」や[[フランス語]]の「プランタン({{lang|fr|Printemps}})」「第一の」を意味する接頭語「プリ({{lang|la|pri-}})」を使用しているように「第1の季節」と考えられる。これは農耕暦である[[ローマ暦]]において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春が年のはじめとしたことに由来する。 === シンボリズム === 春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されることから、春の語は「[[雪どけ]]」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用される([[諸国民の春]]、[[プラハの春]]、[[アラブの春]])。 また、春から初夏にかけてを木の芽時とも言い、性的活動が盛んになるものとされている。「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがある。[[不思議の国のアリス]]には、「三月ウサギ」が頭のおかしいものとして登場する。 他にも'''春'''(しゅん)と言った場合には、[[性的]]なことを示す場合が多く、たとえば[[春画]]・[[売春|売買春]]・[[思春期]]などの語がある。 === 枕詞 === 枕詞は「あづさゆみ」。「弓を張る(はる)」にかけた。 ===春の行事=== [[画像:Tatibana-park2,katori-city,japan.JPG|thumb|[[鯉のぼり]]]] [[Image:菜の花畑2.JPG |thumb|菜の花畑]] [[画像:Sakura Zensen.jpg|thumb|桜前線、[[2007年]](平成19年)3月14日、気象庁発表]]・[[春分の日|春分のひ]] *[[花見]] *[[雛祭り]]([[桃の節句]]) *[[ホワイトデー]] *[[卒園式]]・[[卒業式]](3月) *[[入園式]]・[[入学式]]・[[入社式]](4月) *[[灌仏会]](花祭り、とも) [[釈迦]]の生誕を祝う祭 *[[端午の節句]]、[[こどもの日]](5月) *[[イースター]] *[[ゴールデンウィーク]] *[[母の日]] *[[父の日]](6月) == 生物的自然 == 春は生物の動き始める時期である。温度が上がり、日差しが強くなり、植物の活動が始まる時期である。 === 農業 === 日本では主要作物である[[イネ]]の植え付け準備に当たる時期である。初冬から水田では[[ゲンゲ|レンゲ]]が[[緑肥]]として栽培され(現在ではほとんど見ない)、田起こし、苗代作りなどが続く。[[田植え]]は初夏の行事であるが、早いところでは本州でも四月に始まる。 梅や桃の開花も春である。他に、[[アブラナ|菜の花]]も代表的な春の畑の風景である。 === 植物 === 多くの植物はこの時期から葉を伸ばし、栄養を蓄えてから繁殖を始める。花の時期は植物によって様々ではあるが、特に春はほとんど花のない冬の後であることもあり花の季節との印象がある。特に、この季節にだけ発生する植物・昆虫類を総称して[[スプリング・エフェメラル]]と呼ぶことがある。 日本では[[ウメ|梅]]・[[サクラ|桜]]・[[モモ|桃]]が春の花の代表であり、それぞれを対象として花見が行われる。[[フクジュソウ]]の花は現在では冬と位置づけていい時期に咲くが、これも新春の花と認識されていた。 現在では園芸植物では球根系の[[チューリップ]]・[[ヒヤシンス]]・[[アネモネ]]なども春の花の代表と認識されているが、これらは元来はヨーロッパのスプリング・エフェメラルであった。 なお、実際の開花時期は当然ながら地域によって異なる。特に寒冷地ではそれが遅くなる。たとえばミズバショウは「夏の思い出」に唄われるが、これは現地では春早くに当たる。また、単に遅くなるだけでなく、その期間が圧縮される。先の例では梅、桃、桜は本州南部では順に2月、3月、4月に咲くが、これらは東北地方ではほぼ同時に咲く。 他に[[スギ|杉]]などの花粉は健康被害をもたらすことがあり、[[花粉症]]として知られている。春はまた、新芽の伸び始める季節でもあり、常緑樹の場合、[[落葉]]はこの季節にも多い。 === 動物 === このように柔らかな植物や花が多いことから、またそれを食べる[[昆虫]]などの活動も盛んであることから、多くの[[鳥類|鳥]]もこの季節に繁殖を行う。それに伴って鳥がさえずるので、野外はにぎやかになる。[[ツバメ]]など、南方から渡ってくる鳥もある。ほ乳類の育児もこの時期に行われる例が多い。 なお、[[猛禽類]]や大型肉食獣の場合、冬から育児が始まる例があり、これは子供がやや大きくなって食欲が増した時期が小型動物の育児や繁殖の時期にぶつかるよう適応したと考えられる。 ==春を題材にした作品== [[Image:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Return of Spring (1886).jpg|thumb|"[[春の再来]]"[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]]] ===文学=== *[[清少納言]]『[[枕草子]]』:春は曙 *[[島崎藤村]]『[[春 (小説)|春]]』 *[[宮沢賢治]]『[[春と修羅]]』 *[[ゲアハルト・ハウプトマン|ハウプトマン]]『希臘の春』岩波文庫 1929年 *[[三島由紀夫]]『[[豊饒の海|春の雪]]』 ==== 和歌など ==== *[[山上憶良]]『[[万葉集]]』:春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ ===音楽=== ==== 日本の古典 ==== {{div col}} * 『春鶯囀』[[雅楽]](唐楽) * 『春庭楽』 雅楽(唐楽) * 『春過(はるすぎ)』 雅楽(朗詠) * 市川[[検校]] 『春風』 長歌物[[地歌]]曲 * [[松浦検校]] 『里の春』[[手事物]]地歌、[[箏曲]] * 松浦検校 『嵯峨の春』 手事物地歌、箏曲 * [[菊岡検校]] 『長等の春』 手事物地歌曲 * 菊山検校『春の曙』 手事物地歌、箏曲 * 幾山検校 『春の契』 手事物地歌、箏曲 * 幾山検校 『磯の春』 手事物地歌、箏曲 * [[吉沢検校]] 『春の曲』(箏曲。古今組の一曲) * 古川龍斎 『春重ね』 手事物地歌、箏曲 * 富崎春昇 『春の江ノ島』 箏曲 * [[宮城道雄]]『春の海』[[箏]]、[[尺八]]二重奏曲 * 宮城道雄 『春の夜』箏曲 * 宮城道雄 『春の訪れ』 箏、尺八二重奏曲 * 久本玄智 『春興』 箏二重奏曲 * 久本玄智 『春の恵』 箏、尺八二重奏曲 * 久本玄智 『春の初花』 箏曲 * 『春雨』 端唄 * 『梅にも春』 端唄 * 杵屋正邦 『春興』 [[三弦]]二重奏曲 * [[長沢勝俊]]『萌春』 箏、三弦二重奏曲 {{div col end}} ==== クラシック音楽 ==== * [[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]:協奏曲集『[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]』 - 「春」 * [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:歌曲『春』『[[春への憧れ]]』 * [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:[[ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第5番 『春』]] * [[ロベルト・シューマン|シューマン]]:[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番 『春』]] * [[ヨハン・シュトラウス2世]]:ワルツ『[[春の声]]』 * [[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]:[[春 (ドビュッシー)|交響組曲 『春』]] * [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]:バレエ音楽『[[春の祭典]]』 * [[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]:『春に寄す』(ピアノ曲集「[[抒情小曲集]]」第3集 作品43の第6曲) * [[ベンジャミン・ブリテン]]:『[[春の交響曲]]』(作品44) * [[アストル・ピアソラ|ピアソラ]]:『ブエノスアイレスの四季』 - 「ブエノスアイレスの春」 ==== 童謡 ==== *『[[春が来た]]』:[[高野辰之]]作詞・[[岡野貞一]]作曲 *『[[春の小川]]』:高野辰之作詞・岡野貞一作曲 *『[[春よ来い (童謡)|春よ来い]]』:[[相馬御風]]作詞・[[弘田龍太郎]]作曲 *『[[早春賦]]』:[[吉丸一昌]]作詞・[[中田章]]作曲 *『春のうた』:[[野口雨情]]作詞・[[草川信]]作曲<ref>{{Cite web|和書|title=春のうた(詞:野口雨情/曲草川信)/Hoick楽曲検索~童謡・こどものうたを検索!~ |url=http://hoick.jp/mdb/detail/11016 |website=Hoick[ホイック] ~保育士・幼稚園教諭のためのWebサイト~ |access-date=2023-09-25 |language=ja}}</ref> *『[[花 (瀧廉太郎)|花]]』:[[竹島羽衣]]作詞・[[瀧廉太郎]]作曲 *『春を呼ぶマーチ』:[[阪田寛夫]]作詞・[[大中恩]]作曲<ref>{{Cite web|和書|title=春を呼ぶマーチ |url=https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN197002_04 |website=NHK みんなのうた |access-date=2023-09-25 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref> *『春の川で』:[[青木爽]]作詞・[[エミール・ワルトトイフェル]]作曲<ref>{{Cite web|和書|title=春の川で |url=https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN196502_05 |website=NHK みんなのうた |access-date=2023-10-24 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref> 他に、直接には春に言及しないが、[[サクラ]]、[[チューリップ]]、[[チョウ]](蝶)などにかかわるものは春を題材にしているものが多い。 ==== 流行歌 ==== *[[有島通男]] 「春まだ浅く」 *[[岡晴夫]] 「国境の春」 *[[菊池章子]] 「春の舞妓」 *[[霧島昇]]・[[二葉あき子]] 「春小袖」 *[[楠木繁夫]]・菊池章子 「戦いの街に春が来る」 *[[志村道夫]] 「春は朗らか」 *千早淑子([[松島詩子]]の変名) 「泪の春」 *[[月村光子]] 「春の唄」 *藤山一郎・二葉あき子 「春よいずこ」 *藤山一郎・[[渡辺はま子]] 「春を呼ぶ自転車」 *藤山一郎 「春の花束」 ==== ポピュラー系 ==== {{main|Category:春を題材とした楽曲}} ===絵画=== * [[サンドロ・ボッティチェッリ]] 『[[プリマヴェーラ]]』 === 発車メロディ === *JR東日本 ** 春(正式名称は「周辺3番」。[[ユニペックス]]製作) ** 春〜NewVer〜([[サウンドファクトリー]]製作) ** 春一番([[櫻井音楽工房]]製作) ** 春待ち風(櫻井音楽工房製作) == 脚注 == {{脚注ヘルプ|https://spring.vequinox.net=Spring Equinox 2020}} {{Reflist}} ==関連項目== {{Sisterlinks|commons=Spring|commonscat=Spring|d=Q1312}} * [[夏]]・[[秋]]・[[冬]] * [[季節]] * [[四季]] * {{Prefix}} * {{intitle}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{季節}} {{Authority_control}} [[Category:春|*]]
2003-09-08T17:35:32Z
2023-11-23T15:55:39Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Div col", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:季節", "Template:Authority control", "Template:Ill", "Template:Lang", "Template:Cite press release", "Template:Sisterlinks", "Template:Prefix", "Template:Intitle", "Template:Otheruses", "Template:Div col end", "Template:Main", "Template:Kotobank" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5
15,825
夏(なつ)は、四季のひとつで、春と秋にはさまれた季節。天文学的には夏至から秋分まで。太陽暦では6月から9月を指し、陰暦では4月から6月となる。 四季の区分のある土地では最も気温の高い、3か月程度の期間である。北半球ではグレゴリオ暦の6月 - 8月ごろ、南半球では12月 - 2月ごろである。 夏の期間にはいくつかの定義がある。以下は北半球での定義で、南半球では半年ずれる。 日本における「夏(なつ)」の定義は、中国暦の「夏(xià)」の定義の強い影響を受けた上、近代においてグレゴリオ暦に付随する欧米の文化的影響も受けて複雑な様相を呈している。 中国暦以外の暦法を知らなかった前近代の時期には、中国暦の「夏(xià)」の定義を日本人もそのまま受け入れざるを得なかった。しかし、海洋性気候であり、肝心の夏至の時期には梅雨により日射が遮られる日本では、前述の昼間の長さと気温のズレは中国より著しく大きくなる。日本列島においては、気温のピークは立秋の時期にずれこむため、気温がピークになる頃には、夏が終わって秋が始まってしまっているという現象が生じることになる。このギャップが、現在でも「暦の上では...夏(秋)ですが...(気温の実感は全く違います)」というフレーズが天気予報などで頻繁に用いられる原因となっている。 近代に入り、グレゴリオ暦を採用してからは、この矛盾からは建前上は解放された。しかし、日本人は曲がりなりにも中国暦の定義に千年以上馴染んできたため、欧米型の定義では季節の到来があまりにも遅すぎ、日本においては、6月・7月・8月の3か月を夏であるとすることが一般的である。日本においては気象学においても、この独自の定義が用いられている。気象庁では最高気温が25°C以上の日を夏日(なつび)、30°C以上の日を真夏日(まなつび)と呼んでいる。気象庁は地球温暖化やヒートアイランドなどの影響で最高気温が35°C以上になる日が増えているという背景から、2007年(平成19年)より新たに35°C以上の日を猛暑日(もうしょび)という呼称を使うことに決めた。比較的寒冷である北海道・東北北部以外では、このような日は毎年7・8月を中心に6月から9月頃にかけて生じる(年や地域によっては、5月でも生じる場合もある)から、この時期のあたりが夏の範囲に入ることになろう。 西アジアから西ヨーロッパ、北アメリカにかけての広い地域では、夏とは夏至から秋分までの1年の1/4の期間を指すのが伝統的な定義である。これはメソポタミア文明において成立した西洋占星術の伝統を受け継ぐもので、西欧占星術においては、太陽が春分点を通過する(太陽黄経0度)時期を春の始まりとし、これを新年として祝っていた(正確には太陽太陰暦により、春分に近い新月の日を新年とした。ユダヤ暦を参照)。この考え方によれば、夏とは、太陽が黄経90度から180度に至るまでの期間、すなわち巨蟹宮から処女宮を通過する期間となる。近代の天文学における「北半球の夏」の正式な定義も、やはりこれに従っている。 なお、ケルト人など西ヨーロッパの他の民族は、別の暦を持っていたらしいことが知られている。 これに対して、中華文明においては、夏 (xià) とは立夏から立秋までの1年の 1⁄4 の期間として一貫して定義されてきた。これは、中国の暦法においては、太陽の南中高度が最も低くなる冬至を、「冬」の中央であると定義して、十二支最初の子月の基準点(朔旦冬至)としたことに由来する。この考え方によれば、夏とは、夏至を「夏」の中央とする1年の 1⁄4 の期間ということになる。なお、中国式の太陽太陰暦(いわゆる旧暦)においては、立夏から立秋の期間に最も近い3か月または4か月(閏月の場合)の間、すなわち4月から6月までの間が夏となる。 しかし、太陽エネルギーを最大に受ける時期は夏至であっても、地球が暖まるまでには時間がかかるので、この定義によれば、「夏」が気温の最も高い時期とずれる問題が生じる。しかし、黄河文明発祥の地である華北地方は暖まりやすく冷めやすい大陸性気候であって、立秋よりやや前に気温のピークが来て(小暑、大暑)立秋には気温の低下を実感できるため、中国北部においては、辛うじて語義の矛盾は免れている。 (北半球の)夏には、太陽エネルギーの放射が北半球に偏るため、ハドレー循環、フェレル循環を中心とする大気循環も全体として大きく北側に移動することになる。中緯度地帯においては、亜熱帯高気圧が北上することになるが、そのもたらす気候は、大陸西岸と大陸東岸で対照的な様相を示す。大陸西岸では、亜熱帯の砂漠地帯を形成する亜熱帯高気圧がそのまま北上して、地中海性気候の地域に高温と乾燥をもたらす。都市によっては、亜熱帯高気圧が西岸海洋性気候の地域まで北上することがあり、西ヨーロッパなどに猛暑と旱魃をもたらす。他方、大陸東岸では、夏期のモンスーンが北上して、熱帯地方の海上から大量の湿気を運び、温暖冬季少雨気候や温暖湿潤気候の地域に高温多湿と多雨をもたらすのが一般的である。日本の多くの地域では、8月を中心に、亜熱帯高気圧の一つである太平洋高気圧に広く覆われてしまい、高温多湿ながら晴天が持続することが通常である。日本における稲作は、この太平洋高気圧による高温と晴天の到来を前提として成立しているため、太平洋高気圧が十分に北上しない場合には、東日本の太平洋側を中心に稲作が大打撃をうける(冷夏)。また、南アメリカを除く大陸東岸においては、晩夏を中心に、亜熱帯高気圧の縁に沿って移動する台風やハリケーン、サイクロンに襲われることがある。 このように、大陸東岸の夏は高温多雨の時期であり、動植物の活動が最も盛んな時期となる。東アジアや北アメリカ東部を原産とする植物は、夏を生育の中心時期とするものが大変に多い。他方、大陸西岸においては、夏は高温であるが乾燥に襲われる時期でもあり、特に小さな植物にとっては生育の難しい時期でもある。地中海沿岸や西アジア、アフリカ南端部のケープタウン周辺を原産とする草本を中心に、夏を休眠時期とする植物も多い。 農業従事者以外(もしくは主にその人々で構成される社会=主に都市社会)にとっては夏は別の意味を持つ。主に休息の時期(その暑熱な気候の回避または逆に享受)であるが、それ以外の意味を夏に持たせる例も多い。詳細は「人の生活との関わり」で後述。 夏にとれるものは旬を参照。 夏は日長が長くなる時期でもある。南中高度も高くなるから、日照も強くなり、気温が高くなるのもそのためである。極地方では白夜が見られる。 中高緯度の多くの国にとって、夏は最も活動的な時期である。 農業面でも重要な季節である。温帯では「実りの季節」とは夏を終えた秋を指すことが通例である。ただし、大陸東岸においては穀物・果実を含めたほとんどすべての作物の「収穫の時期」となるが、大陸西岸では秋とはもっぱら果物の収穫時期であり(フランス革命暦「葡萄月」)、夏の初めが麦類の収穫を祝い感謝する時期である(キリスト教、ユダヤ教の「ペンテコステ」) 一般には、他の季節に比べて人々が行動的になり、戸外活動などを積極的に行う時期であるが、真夏の過酷な暑さを避け屋内に籠もる人々もいる。全般的には、夏の初期を中心に消費活動も盛んになるとされるが、晩夏の時期は消費が鈍る時期であるとされる。 屋外活動・旅行などは、梅雨の時期には、その悪天候から著しく制約されるものの、九州以北で梅雨が明け、学校が夏休みに入る7月下旬から活発になり、一般のサラリーマンの多くが休暇を取る時期である8月中旬(東京以外の大半の地域で月遅れのお盆の時期となる)を中心にピークを迎える。8月中旬を中心として、交通機関も激しく混雑する。 衣類のファッションについても、高温のため不可避的に肌の露出が増えることから、婦人服を中心に世間から注目されることが多く、その露出・開放感ゆえのアピール力から、後世に記憶が残るファッションが生まれることもある。 しかし、休暇を勉強に費やす必要がある受験生など、その熱気から距離を置かざるを得ない人もいる。日本企業の夏期休暇は西ヨーロッパ諸国より短い上に、関東地方から西では、夏期休暇にはまだ遠い7月半ば過ぎには梅雨が明け、酷暑の時期が到来してしまうことから、社会人にとっては「暑い中で仕事をしなければならない時期である」というイメージもまた強い。平成後期頃からクールビズなど勤務中の涼しい服装が奨励されており、徐々に国内に浸透しつつあるものの、未だそれとは無縁で真夏の戸外でもスーツ・ネクタイ着用を余儀なくされる人も少なからずいる。 短い夏期休暇の時期を、子どもの世話に追われる父母もまた多い。高温と日照に恵まれる夏は、作物の生長と同時に雑草の繁茂が著しく、除草技術や除草手段が未発達であった時代の稲作農家にとっては炎天下での除草作業に追われる厳しい季節であった。 農業においては、農閑期と農繁期の両方の側面を持つ季節である。稲作では梅雨期の苗の成長から盛夏期の稲の開花に至るまで重要で、冷害・干害に警戒を怠れないが、「田植え」と「稲刈り」の間の期間にも位置する。イネの光合成が最も盛んな時期でもある。この時期次第で収穫が決まるとも言える。害虫に対しては虫送りの行事を行う地域があり、これを七夕の行事として行っている場合も多い。水不足も危険であるため、雨乞いの儀式は、七夕やお盆の行事として行われた。 夏野菜の収穫期である。農業主体の地域の夏の行事の時期や内容は、この農作業のサイクルに影響を受けたところが大きい。 などがある。 ヨーロッパの人々は特に夏を渇望する。高緯度のため冬期には著しく昼間の短い上に悪天候の続く西ヨーロッパ・北ヨーロッパの諸国では、夏は唯一の「太陽の季節」であり、20世紀以降、西ヨーロッパ諸国の労働者は、長い夏期休暇(バカンス)をとることが通例となった。アルプス以北の諸国民は、公園などで日光浴をしたり、更に太陽と高温を求めて地中海方面などへ旅行に出かける者も大変に多い。地中海性気候の南ヨーロッパにおいても、冬は比較的温暖ではあるが雨が多く日照の少ない季節でもあるため、夏は太陽を求める重要な季節となる。スペインやイタリアなどでも、夏はバカンスの季節であり、労働者は休みをとって浜辺に繰り出す。また、スペインのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)やイタリアの馬術の祭りなど、熱狂的な夏祭りも一部で見られる。 アメリカ合衆国の場合、労働者の夏期休暇はヨーロッパほど長くないが、休暇の季節であることに変わりは無い。また、学校は年度末にあたり、しかも6月には終業してしまうので、学校の夏休みは正真正銘の長期休暇となる。この時期に高校生から大学院生まで、エクスターン、アルバイト、ボランティア活動などの多彩な社会経験を行うことが通例とされている。欧米の大半のスポーツは秋に始まり初夏に終わるシーズンを採用しており、アメリカにおいても(野球を除く)多くのスポーツがシーズンオフになる。ヨーロッパにおいても共通であるが、このシーズンオフを使って、スポーツの国際大会が開かれることが多い。近年の夏季オリンピックが7・8月に開催される事が多いのは、こうした事情による。 夏にかけて気温が上昇するにつれ犯罪は増える傾向があるが、アメリカの場合は銃の発砲がからむ、治安の悪い都市では若者のギャング集団同士の縄張り争いが激化するといった特徴が加わる。これは、暑くなると路上や歩道で過ごす時間が増え、若者同士の口論がエスカレートして銃撃や殺人が起きやすくなるとする説がある。 西アジアの夏は極度に暑く、人々は昼間は家に籠もって、夜に交際や買い物を楽しむ生活を送る。日中の気温は40°Cから50°Cに達することもあり、湿度も高く、夜になっても30°Cを下回らないことも多い。しかもほとんど雨が降らず、乾燥地帯では砂嵐が頻繁に発生するため、夏に不用意に出歩くことは,生命の危険と直結する。 インドなど南アジア・東南アジアでは、夏はモンスーンによる雨季となり、雨期直前の酷暑期より気温が低下する。この雨季の降雨は南アジア・東南アジアの農業にとって生命線であり、国民にとっての気象に関する最重要関心事である。インドでは気象局がモンスーンがインド半島のどこまで到来しているかを詳細に実況・予測して国民に提供している。その実況図はあたかも日本における桜前線のような形で描かれる。 南半球の場合、クリスマスを夏の行事として行う(オーストラリア他各国)・カーニバルが軽装の服装で行われる(ブラジルなど)など、ヨーロッパでの冬の行事を夏の行事として祝うことになる。 北半球では、夏の夜空で目立つのは、天の川を隔てて向かい合うこと座とわし座、その間にあるはくちょう座である。それぞれに含まれる一等星であるベガ・アルタイル・デネブを結んだものを夏の大三角という。このベガを織女、アルタイルを牽牛として両者を夫婦と見なし、年に一度だけ出会える、という伝説が七夕のいわれである。 南の空ではさそり座が姿を現す。これは冬のオリオン座と入れ替えに出入りすることで有名である。 日本で炎天下に咲く花としてはヒマワリやサルスベリが有名。夏の風物詩としてはアサガオも代表格。日本で夏本番といわれる7月・8月はすでに日長が短くなり始める時期に当たり、そのころに咲く植物は往々にして短日植物である。 高山では高山植物が一斉に花を咲かせる。夏の終わりには実をつけ、短い活動期間を終える。「夏の思い出」という詩にはミズバショウがでるが、春の花であり、夏には2mにもなる大きな葉をつけている。 また、夏後半には高温と水不足のために植物の衰弱を起こす場合があり、時には落葉が起こる場合がある。 日本の夏(盛夏)にもっとも目立つのはセミである。大部分のセミが夏に出現し、それぞれに鳴き声を響かせる。鳴く虫は秋のものと考えられがちだが、キリギリスも夏が最盛期である。 カブトムシやクワガタムシも夏のものと考えられている。クワガタムシには成虫で年を越すものが多いが、カブトムシは夏だけ成虫が現れる。ほかにもスズメバチやカナブンなど、様々な昆虫が樹液の醗酵したものに集まるので、昆虫の場所取り合戦が見られる。子供の昆虫採集の目当ての一つでもある。もっとも、夏の盛りには昆虫は少なくなり、昆虫採集家はこれを俗に夏枯れという。昆虫の一番多い時期は初夏である。 また、ホタルやカも夏の風物詩である。 夏は海岸がやや寂れる。海藻類は主として春から初夏に盛りを迎え、その後は衰える。これは、温度が上昇して活動が盛んになるにつれ、肥料分があっという間に消費されてそれが乏しくなるためと言われる。ホンダワラ類は根元で切れて海面に漂いでて、流れ藻となる。 他方、日本では黒潮の影響が強くなり、初夏にはカツオが盛りとなる。夏後半にはさらにカツオノエボシなどが沿岸に近寄るようになる。また、ウミガメが産卵のために海岸にやってくる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "夏(なつ)は、四季のひとつで、春と秋にはさまれた季節。天文学的には夏至から秋分まで。太陽暦では6月から9月を指し、陰暦では4月から6月となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "四季の区分のある土地では最も気温の高い、3か月程度の期間である。北半球ではグレゴリオ暦の6月 - 8月ごろ、南半球では12月 - 2月ごろである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "夏の期間にはいくつかの定義がある。以下は北半球での定義で、南半球では半年ずれる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本における「夏(なつ)」の定義は、中国暦の「夏(xià)」の定義の強い影響を受けた上、近代においてグレゴリオ暦に付随する欧米の文化的影響も受けて複雑な様相を呈している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中国暦以外の暦法を知らなかった前近代の時期には、中国暦の「夏(xià)」の定義を日本人もそのまま受け入れざるを得なかった。しかし、海洋性気候であり、肝心の夏至の時期には梅雨により日射が遮られる日本では、前述の昼間の長さと気温のズレは中国より著しく大きくなる。日本列島においては、気温のピークは立秋の時期にずれこむため、気温がピークになる頃には、夏が終わって秋が始まってしまっているという現象が生じることになる。このギャップが、現在でも「暦の上では...夏(秋)ですが...(気温の実感は全く違います)」というフレーズが天気予報などで頻繁に用いられる原因となっている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "近代に入り、グレゴリオ暦を採用してからは、この矛盾からは建前上は解放された。しかし、日本人は曲がりなりにも中国暦の定義に千年以上馴染んできたため、欧米型の定義では季節の到来があまりにも遅すぎ、日本においては、6月・7月・8月の3か月を夏であるとすることが一般的である。日本においては気象学においても、この独自の定義が用いられている。気象庁では最高気温が25°C以上の日を夏日(なつび)、30°C以上の日を真夏日(まなつび)と呼んでいる。気象庁は地球温暖化やヒートアイランドなどの影響で最高気温が35°C以上になる日が増えているという背景から、2007年(平成19年)より新たに35°C以上の日を猛暑日(もうしょび)という呼称を使うことに決めた。比較的寒冷である北海道・東北北部以外では、このような日は毎年7・8月を中心に6月から9月頃にかけて生じる(年や地域によっては、5月でも生じる場合もある)から、この時期のあたりが夏の範囲に入ることになろう。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西アジアから西ヨーロッパ、北アメリカにかけての広い地域では、夏とは夏至から秋分までの1年の1/4の期間を指すのが伝統的な定義である。これはメソポタミア文明において成立した西洋占星術の伝統を受け継ぐもので、西欧占星術においては、太陽が春分点を通過する(太陽黄経0度)時期を春の始まりとし、これを新年として祝っていた(正確には太陽太陰暦により、春分に近い新月の日を新年とした。ユダヤ暦を参照)。この考え方によれば、夏とは、太陽が黄経90度から180度に至るまでの期間、すなわち巨蟹宮から処女宮を通過する期間となる。近代の天文学における「北半球の夏」の正式な定義も、やはりこれに従っている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、ケルト人など西ヨーロッパの他の民族は、別の暦を持っていたらしいことが知られている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これに対して、中華文明においては、夏 (xià) とは立夏から立秋までの1年の 1⁄4 の期間として一貫して定義されてきた。これは、中国の暦法においては、太陽の南中高度が最も低くなる冬至を、「冬」の中央であると定義して、十二支最初の子月の基準点(朔旦冬至)としたことに由来する。この考え方によれば、夏とは、夏至を「夏」の中央とする1年の 1⁄4 の期間ということになる。なお、中国式の太陽太陰暦(いわゆる旧暦)においては、立夏から立秋の期間に最も近い3か月または4か月(閏月の場合)の間、すなわち4月から6月までの間が夏となる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、太陽エネルギーを最大に受ける時期は夏至であっても、地球が暖まるまでには時間がかかるので、この定義によれば、「夏」が気温の最も高い時期とずれる問題が生じる。しかし、黄河文明発祥の地である華北地方は暖まりやすく冷めやすい大陸性気候であって、立秋よりやや前に気温のピークが来て(小暑、大暑)立秋には気温の低下を実感できるため、中国北部においては、辛うじて語義の矛盾は免れている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(北半球の)夏には、太陽エネルギーの放射が北半球に偏るため、ハドレー循環、フェレル循環を中心とする大気循環も全体として大きく北側に移動することになる。中緯度地帯においては、亜熱帯高気圧が北上することになるが、そのもたらす気候は、大陸西岸と大陸東岸で対照的な様相を示す。大陸西岸では、亜熱帯の砂漠地帯を形成する亜熱帯高気圧がそのまま北上して、地中海性気候の地域に高温と乾燥をもたらす。都市によっては、亜熱帯高気圧が西岸海洋性気候の地域まで北上することがあり、西ヨーロッパなどに猛暑と旱魃をもたらす。他方、大陸東岸では、夏期のモンスーンが北上して、熱帯地方の海上から大量の湿気を運び、温暖冬季少雨気候や温暖湿潤気候の地域に高温多湿と多雨をもたらすのが一般的である。日本の多くの地域では、8月を中心に、亜熱帯高気圧の一つである太平洋高気圧に広く覆われてしまい、高温多湿ながら晴天が持続することが通常である。日本における稲作は、この太平洋高気圧による高温と晴天の到来を前提として成立しているため、太平洋高気圧が十分に北上しない場合には、東日本の太平洋側を中心に稲作が大打撃をうける(冷夏)。また、南アメリカを除く大陸東岸においては、晩夏を中心に、亜熱帯高気圧の縁に沿って移動する台風やハリケーン、サイクロンに襲われることがある。", "title": "気候と自然" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このように、大陸東岸の夏は高温多雨の時期であり、動植物の活動が最も盛んな時期となる。東アジアや北アメリカ東部を原産とする植物は、夏を生育の中心時期とするものが大変に多い。他方、大陸西岸においては、夏は高温であるが乾燥に襲われる時期でもあり、特に小さな植物にとっては生育の難しい時期でもある。地中海沿岸や西アジア、アフリカ南端部のケープタウン周辺を原産とする草本を中心に、夏を休眠時期とする植物も多い。", "title": "気候と自然" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "農業従事者以外(もしくは主にその人々で構成される社会=主に都市社会)にとっては夏は別の意味を持つ。主に休息の時期(その暑熱な気候の回避または逆に享受)であるが、それ以外の意味を夏に持たせる例も多い。詳細は「人の生活との関わり」で後述。", "title": "気候と自然" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "夏にとれるものは旬を参照。", "title": "気候と自然" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "夏は日長が長くなる時期でもある。南中高度も高くなるから、日照も強くなり、気温が高くなるのもそのためである。極地方では白夜が見られる。", "title": "気候と自然" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中高緯度の多くの国にとって、夏は最も活動的な時期である。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "農業面でも重要な季節である。温帯では「実りの季節」とは夏を終えた秋を指すことが通例である。ただし、大陸東岸においては穀物・果実を含めたほとんどすべての作物の「収穫の時期」となるが、大陸西岸では秋とはもっぱら果物の収穫時期であり(フランス革命暦「葡萄月」)、夏の初めが麦類の収穫を祝い感謝する時期である(キリスト教、ユダヤ教の「ペンテコステ」)", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一般には、他の季節に比べて人々が行動的になり、戸外活動などを積極的に行う時期であるが、真夏の過酷な暑さを避け屋内に籠もる人々もいる。全般的には、夏の初期を中心に消費活動も盛んになるとされるが、晩夏の時期は消費が鈍る時期であるとされる。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "屋外活動・旅行などは、梅雨の時期には、その悪天候から著しく制約されるものの、九州以北で梅雨が明け、学校が夏休みに入る7月下旬から活発になり、一般のサラリーマンの多くが休暇を取る時期である8月中旬(東京以外の大半の地域で月遅れのお盆の時期となる)を中心にピークを迎える。8月中旬を中心として、交通機関も激しく混雑する。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "衣類のファッションについても、高温のため不可避的に肌の露出が増えることから、婦人服を中心に世間から注目されることが多く、その露出・開放感ゆえのアピール力から、後世に記憶が残るファッションが生まれることもある。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、休暇を勉強に費やす必要がある受験生など、その熱気から距離を置かざるを得ない人もいる。日本企業の夏期休暇は西ヨーロッパ諸国より短い上に、関東地方から西では、夏期休暇にはまだ遠い7月半ば過ぎには梅雨が明け、酷暑の時期が到来してしまうことから、社会人にとっては「暑い中で仕事をしなければならない時期である」というイメージもまた強い。平成後期頃からクールビズなど勤務中の涼しい服装が奨励されており、徐々に国内に浸透しつつあるものの、未だそれとは無縁で真夏の戸外でもスーツ・ネクタイ着用を余儀なくされる人も少なからずいる。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "短い夏期休暇の時期を、子どもの世話に追われる父母もまた多い。高温と日照に恵まれる夏は、作物の生長と同時に雑草の繁茂が著しく、除草技術や除草手段が未発達であった時代の稲作農家にとっては炎天下での除草作業に追われる厳しい季節であった。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "農業においては、農閑期と農繁期の両方の側面を持つ季節である。稲作では梅雨期の苗の成長から盛夏期の稲の開花に至るまで重要で、冷害・干害に警戒を怠れないが、「田植え」と「稲刈り」の間の期間にも位置する。イネの光合成が最も盛んな時期でもある。この時期次第で収穫が決まるとも言える。害虫に対しては虫送りの行事を行う地域があり、これを七夕の行事として行っている場合も多い。水不足も危険であるため、雨乞いの儀式は、七夕やお盆の行事として行われた。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "夏野菜の収穫期である。農業主体の地域の夏の行事の時期や内容は、この農作業のサイクルに影響を受けたところが大きい。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "などがある。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの人々は特に夏を渇望する。高緯度のため冬期には著しく昼間の短い上に悪天候の続く西ヨーロッパ・北ヨーロッパの諸国では、夏は唯一の「太陽の季節」であり、20世紀以降、西ヨーロッパ諸国の労働者は、長い夏期休暇(バカンス)をとることが通例となった。アルプス以北の諸国民は、公園などで日光浴をしたり、更に太陽と高温を求めて地中海方面などへ旅行に出かける者も大変に多い。地中海性気候の南ヨーロッパにおいても、冬は比較的温暖ではあるが雨が多く日照の少ない季節でもあるため、夏は太陽を求める重要な季節となる。スペインやイタリアなどでも、夏はバカンスの季節であり、労働者は休みをとって浜辺に繰り出す。また、スペインのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)やイタリアの馬術の祭りなど、熱狂的な夏祭りも一部で見られる。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の場合、労働者の夏期休暇はヨーロッパほど長くないが、休暇の季節であることに変わりは無い。また、学校は年度末にあたり、しかも6月には終業してしまうので、学校の夏休みは正真正銘の長期休暇となる。この時期に高校生から大学院生まで、エクスターン、アルバイト、ボランティア活動などの多彩な社会経験を行うことが通例とされている。欧米の大半のスポーツは秋に始まり初夏に終わるシーズンを採用しており、アメリカにおいても(野球を除く)多くのスポーツがシーズンオフになる。ヨーロッパにおいても共通であるが、このシーズンオフを使って、スポーツの国際大会が開かれることが多い。近年の夏季オリンピックが7・8月に開催される事が多いのは、こうした事情による。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "夏にかけて気温が上昇するにつれ犯罪は増える傾向があるが、アメリカの場合は銃の発砲がからむ、治安の悪い都市では若者のギャング集団同士の縄張り争いが激化するといった特徴が加わる。これは、暑くなると路上や歩道で過ごす時間が増え、若者同士の口論がエスカレートして銃撃や殺人が起きやすくなるとする説がある。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "西アジアの夏は極度に暑く、人々は昼間は家に籠もって、夜に交際や買い物を楽しむ生活を送る。日中の気温は40°Cから50°Cに達することもあり、湿度も高く、夜になっても30°Cを下回らないことも多い。しかもほとんど雨が降らず、乾燥地帯では砂嵐が頻繁に発生するため、夏に不用意に出歩くことは,生命の危険と直結する。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "インドなど南アジア・東南アジアでは、夏はモンスーンによる雨季となり、雨期直前の酷暑期より気温が低下する。この雨季の降雨は南アジア・東南アジアの農業にとって生命線であり、国民にとっての気象に関する最重要関心事である。インドでは気象局がモンスーンがインド半島のどこまで到来しているかを詳細に実況・予測して国民に提供している。その実況図はあたかも日本における桜前線のような形で描かれる。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "南半球の場合、クリスマスを夏の行事として行う(オーストラリア他各国)・カーニバルが軽装の服装で行われる(ブラジルなど)など、ヨーロッパでの冬の行事を夏の行事として祝うことになる。", "title": "人の生活との関わり" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "北半球では、夏の夜空で目立つのは、天の川を隔てて向かい合うこと座とわし座、その間にあるはくちょう座である。それぞれに含まれる一等星であるベガ・アルタイル・デネブを結んだものを夏の大三角という。このベガを織女、アルタイルを牽牛として両者を夫婦と見なし、年に一度だけ出会える、という伝説が七夕のいわれである。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南の空ではさそり座が姿を現す。これは冬のオリオン座と入れ替えに出入りすることで有名である。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本で炎天下に咲く花としてはヒマワリやサルスベリが有名。夏の風物詩としてはアサガオも代表格。日本で夏本番といわれる7月・8月はすでに日長が短くなり始める時期に当たり、そのころに咲く植物は往々にして短日植物である。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "高山では高山植物が一斉に花を咲かせる。夏の終わりには実をつけ、短い活動期間を終える。「夏の思い出」という詩にはミズバショウがでるが、春の花であり、夏には2mにもなる大きな葉をつけている。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、夏後半には高温と水不足のために植物の衰弱を起こす場合があり、時には落葉が起こる場合がある。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本の夏(盛夏)にもっとも目立つのはセミである。大部分のセミが夏に出現し、それぞれに鳴き声を響かせる。鳴く虫は秋のものと考えられがちだが、キリギリスも夏が最盛期である。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "カブトムシやクワガタムシも夏のものと考えられている。クワガタムシには成虫で年を越すものが多いが、カブトムシは夏だけ成虫が現れる。ほかにもスズメバチやカナブンなど、様々な昆虫が樹液の醗酵したものに集まるので、昆虫の場所取り合戦が見られる。子供の昆虫採集の目当ての一つでもある。もっとも、夏の盛りには昆虫は少なくなり、昆虫採集家はこれを俗に夏枯れという。昆虫の一番多い時期は初夏である。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、ホタルやカも夏の風物詩である。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "夏は海岸がやや寂れる。海藻類は主として春から初夏に盛りを迎え、その後は衰える。これは、温度が上昇して活動が盛んになるにつれ、肥料分があっという間に消費されてそれが乏しくなるためと言われる。ホンダワラ類は根元で切れて海面に漂いでて、流れ藻となる。", "title": "夏の天文・自然" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "他方、日本では黒潮の影響が強くなり、初夏にはカツオが盛りとなる。夏後半にはさらにカツオノエボシなどが沿岸に近寄るようになる。また、ウミガメが産卵のために海岸にやってくる。", "title": "夏の天文・自然" } ]
夏(なつ)は、四季のひとつで、春と秋にはさまれた季節。天文学的には夏至から秋分まで。太陽暦では6月から9月を指し、陰暦では4月から6月となる。 四季の区分のある土地では最も気温の高い、3か月程度の期間である。北半球ではグレゴリオ暦の6月 - 8月ごろ、南半球では12月 - 2月ごろである。
{{Otheruses}} {{混同|redirect=真夏|まなつ|茉夏}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年6月9日 (水) 13:02 (UTC) | 独自研究 = 2017-08 }} [[ファイル:Ono-himawarino-oka-park6226180●.jpg|thumb|260px|right|夏のシンボルのひとつ「[[ヒマワリ]]」]] [[ファイル:真夏の海P7302255.JPG |thumbnail|260px|真夏の海辺 7月30日]] [[ファイル:Glass windchime.JPG|thumb|right|260px|夏の風物詩である風鈴]] [[ファイル:Hiyashi-tyuka,Restaurant-GUSTO,冷やし中華8139560.JPG|thumb|260px|right|夏の食べ物「[[冷やし中華]]」]] '''夏'''(なつ)は、[[四季]]のひとつで、[[春]]と[[秋]]にはさまれた[[季節]]。[[天文学]]的には[[夏至]]から[[秋分]]まで。[[太陽暦]]では[[6月]]から[[9月]]を指し、[[陰暦]]では[[4月]]から[[6月]]となる<ref name="gogen">{{Cite web|和書|url=https://gogen-yurai.jp/natsu/|title=夏(なつ) - 語源由来辞典|website=gogen-allguide.com|access-date=05 August 2019}}</ref>。 四季の区分のある土地では最も気温の高い、3か月程度の期間である。[[北半球]]では[[グレゴリオ暦]]の6月 - 8月ごろ、[[南半球]]では[[12月]] - [[2月]]ごろである。 == 定義 == [[ファイル:Darwin thunderstorm.jpg|thumb|[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]](オーストラリア)の夏の[[雷雨]]]] [[ファイル:Fig tree.jpg|thumb|夏に実った[[イチジク]]]] 夏の期間にはいくつかの定義がある。以下は北半球での定義で、南半球では半年ずれる。 === 日本における定義 === 日本における「夏(なつ)」の定義は、[[中国暦]]の「夏(xià)」の定義の強い影響を受けた上、近代において[[グレゴリオ暦]]に付随する欧米の文化的影響も受けて複雑な様相を呈している。 [[中国暦]]以外の[[暦法]]を知らなかった[[前近代]]の時期には、中国暦の「夏(xià)」の定義を日本人もそのまま受け入れざるを得なかった。しかし、[[海洋性気候]]であり、肝心の夏至の時期には[[梅雨]]により日射が遮られる日本では、前述の昼間の長さと気温のズレは中国より著しく大きくなる。日本列島においては、気温のピークは[[立秋]]の時期にずれこむため、気温がピークになる頃には、夏が終わって秋が始まってしまっているという現象が生じることになる。このギャップが、現在でも「暦の上では…夏(秋)ですが…(気温の実感は全く違います)」というフレーズが天気予報などで頻繁に用いられる原因となっている。 近代に入り、[[グレゴリオ暦]]を採用してからは、この矛盾からは建前上は解放された。しかし、日本人は曲がりなりにも中国暦の定義に千年以上馴染んできたため、欧米型の定義では季節の到来があまりにも遅すぎ、日本においては、[[6月]]・[[7月]]・[[8月]]の3か月を夏であるとすることが一般的である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201207_1617587.html?DETAIL|title=温暖化で日本の四季に変化 「梅雨」が季節になる可能性も|publisher=NEWSポストセブン|date=2020-12-07|accessdate=2021-01-04}}</ref>。日本においては[[気象学]]においても、この独自の定義が用いられている。気象庁では最高[[気温]]が25℃以上の日を'''夏日'''(なつび)、30℃以上の日を'''真夏日'''(まなつび)と呼んでいる。気象庁は[[地球温暖化]]や[[ヒートアイランド]]などの影響で最高気温が35℃以上になる日が増えているという背景から、[[2007年]](平成19年)より新たに35℃以上の日を'''[[猛暑|猛暑日]]'''(もうしょび)という呼称を使うことに決めた。比較的寒冷である北海道・東北北部以外では、このような日は毎年7・8月を中心に6月から9月頃にかけて生じる(年や地域によっては、[[5月]]でも生じる場合もある)から、この時期のあたりが夏の範囲に入ることになろう。 === 欧米・西アジアにおける定義 === 西アジアから西ヨーロッパ、北アメリカにかけての広い地域では、夏とは[[夏至]]から[[秋分]]までの1年の1/4の期間を指すのが伝統的な定義である。これは[[メソポタミア文明]]において成立した[[西洋占星術]]の伝統を受け継ぐもので、西欧占星術においては、[[太陽]]が[[春分点]]を通過する(太陽[[黄経]]0度)時期を[[春]]の始まりとし、これを[[新年]]として祝っていた(正確には[[太陽太陰暦]]により、春分に近い[[新月]]の日を新年とした。[[ユダヤ暦]]を参照)。この考え方によれば、夏とは、太陽が黄経90度から180度に至るまでの期間、すなわち[[巨蟹宮]]から[[処女宮]]を通過する期間となる。近代の[[天文学]]における「北半球の夏」の正式な定義も、やはりこれに従っている。 なお、[[ケルト人]]など西ヨーロッパの他の民族は、別の暦を持っていたらしいことが知られている。 === 中国における定義 === これに対して、[[中華文明]]においては、夏 (xià) とは[[立夏]]から[[立秋]]までの1年の {{分数|1|4}} の期間として一貫して定義されてきた。これは、中国の暦法においては、太陽の南中高度が最も低くなる[[冬至]]を、「冬」の中央であると定義して、[[十二支]]最初の[[子 (十二支)|子]]月の基準点([[朔旦冬至]])としたことに由来する。この考え方によれば、夏とは、[[夏至]]を「夏」の中央とする1年の {{分数|1|4}} の期間ということになる。なお、中国式の[[太陽太陰暦]](いわゆる[[旧暦]])においては、[[立夏]]から[[立秋]]の期間に最も近い3か月または4か月(閏月の場合)の間、すなわち4月から6月までの間が夏となる。 しかし、太陽エネルギーを最大に受ける時期は夏至であっても、地球が暖まるまでには時間がかかるので、この定義によれば、「夏」が気温の最も高い時期とずれる問題が生じる。しかし、[[黄河文明]]発祥の地である[[華北地方]]は暖まりやすく冷めやすい[[大陸性気候]]であって、[[立秋]]よりやや前に気温のピークが来て([[小暑]]、[[大暑]])[[立秋]]には気温の低下を実感できるため、中国北部においては、辛うじて語義の矛盾は免れている<ref>{{Cite web|和書|url=http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0702.htm|title=なぜずれる? 二十四節気と季節感(No.0702)|website=koyomi8.com|accessdate=05 August 2019}}</ref>。 == 気候と自然 == [[ファイル:夏のラベンダー畑P6280659.JPG|thumbnail|220px|夏の[[ラベンダー]]畑(富田ファーム)]] [[ファイル:Morning glory,アサガオ,朝顔、牽牛花、蕣、学名:Ipomoea nil,海野宿P8150757.JPG|thumb|150px|right|夏を代表する風物のひとつ[[アサガオ]]([[海野宿]])]] (北半球の)夏には、太陽エネルギーの放射が北半球に偏るため、[[ハドレー循環]]、[[フェレル循環]]を中心とする[[大気循環]]も全体として大きく北側に移動することになる。[[中緯度]]地帯においては、[[亜熱帯高気圧]]が北上することになるが、そのもたらす気候は、大陸西岸と大陸東岸で対照的な様相を示す。大陸西岸では、亜熱帯の砂漠地帯を形成する亜熱帯高気圧がそのまま北上して、[[地中海性気候]]の地域に高温と乾燥をもたらす。都市によっては、亜熱帯高気圧が[[西岸海洋性気候]]の地域まで北上することがあり、西ヨーロッパなどに猛暑と旱魃をもたらす。他方、大陸東岸では、夏期の[[モンスーン]]が北上して、[[熱帯地方]]の海上から大量の湿気を運び、[[温暖冬季少雨気候]]や[[温暖湿潤気候]]の地域に高温多湿と多雨をもたらすのが一般的である。日本の多くの地域では、[[8月]]を中心に、亜熱帯高気圧の一つである[[太平洋高気圧]]に広く覆われてしまい、高温多湿ながら晴天が持続することが通常である。日本における[[稲作]]は、この太平洋高気圧による高温と晴天の到来を前提として成立しているため、太平洋高気圧が十分に北上しない場合には、[[東日本]]の[[太平洋側]]を中心に稲作が大打撃をうける([[冷夏]])。また、[[南アメリカ]]を除く大陸東岸においては、晩夏を中心に、亜熱帯高気圧の縁に沿って移動する[[台風]]や[[ハリケーン]]、[[サイクロン]]に襲われることがある。 このように、大陸東岸の夏は高温多雨の時期であり、動植物の活動が最も盛んな時期となる。[[東アジア]]や[[北アメリカ]]東部を原産とする[[植物]]は、夏を生育の中心時期とするものが大変に多い。他方、大陸西岸においては、夏は高温であるが乾燥に襲われる時期でもあり、特に小さな植物にとっては生育の難しい時期でもある。[[地中海]]沿岸や[[西アジア]]、[[アフリカ]]南端部の[[ケープタウン]]周辺を原産とする[[草本]]を中心に、夏を休眠時期とする植物も多い。 農業従事者以外(もしくは主にその人々で構成される社会=主に都市社会)にとっては夏は別の意味を持つ。主に休息の時期(その暑熱な気候の回避または逆に享受)であるが、それ以外の意味を夏に持たせる例も多い。詳細は「人の生活との関わり」で後述。 夏にとれるものは[[旬#旬の食材一覧|旬]]を参照。 === 日長との関係 === 夏は日長が長くなる時期でもある。[[南中]]高度も高くなるから、[[日照]]も強くなり、気温が高くなるのもそのためである。極地方では白夜が見られる。 == 人の生活との関わり == [[ファイル:SunsetBeach.jpg|thumb|220px|夏の海]] [[ファイル:Natsuyasai_P8150016.jpg|thumbnail|220px|収穫された夏野菜]] 中高緯度の多くの国にとって、夏は最も活動的な時期である。 農業面でも重要な季節である。温帯では「実りの季節」とは夏を終えた秋を指すことが通例である。ただし、大陸東岸においては穀物・果実を含めたほとんどすべての作物の「収穫の時期」となるが、大陸西岸では秋とはもっぱら果物の収穫時期であり([[フランス革命暦]]「葡萄月」)、夏の初めが麦類の収穫を祝い感謝する時期である([[キリスト教]]、[[ユダヤ教]]の「[[ペンテコステ]]」) === {{JPN}} === 一般には、他の季節に比べて人々が行動的になり、戸外活動などを積極的に行う時期であるが、真夏の過酷な暑さを避け屋内に籠もる人々もいる。全般的には、夏の初期を中心に消費活動も盛んになるとされるが、晩夏の時期は消費が鈍る時期であるとされる。 屋外活動・旅行などは、[[梅雨]]の時期には、その悪天候から著しく制約されるものの、[[九州]]以北で[[梅雨]]が明け、学校が[[夏休み]]に入る7月下旬から活発になり、一般の[[サラリーマン]]の多くが休暇を取る時期である8月中旬([[東京]]以外の大半の地域で[[月遅れ]]の[[お盆]]の時期となる)を中心にピークを迎える。8月中旬を中心として、交通機関も激しく混雑する。 衣類のファッションについても、高温のため不可避的に肌の露出が増えることから、[[婦人服]]を中心に世間から注目されることが多く、その露出・開放感ゆえのアピール力から、後世に記憶が残るファッションが生まれることもある。 しかし、休暇を勉強に費やす必要がある受験生など、その熱気から距離を置かざるを得ない人もいる。日本企業の夏期休暇は西ヨーロッパ諸国より短い上に、関東地方から西では、夏期休暇にはまだ遠い7月半ば過ぎには梅雨が明け、酷暑の時期が到来してしまうことから、社会人にとっては「暑い中で仕事をしなければならない時期である」というイメージもまた強い。[[平成]]後期頃から[[クールビズ]]など勤務中の涼しい服装が奨励されており、徐々に国内に浸透しつつあるものの、未だそれとは無縁で真夏の戸外でも[[スーツ]]・[[ネクタイ]]着用を余儀なくされる人も少なからずいる。 短い夏期休暇の時期を、子どもの世話に追われる父母もまた多い。高温と日照に恵まれる夏は、作物の生長と同時に雑草の繁茂が著しく、除草技術や除草手段が未発達であった時代の稲作農家にとっては炎天下での[[除草]]作業に追われる厳しい季節であった。 === 農業・伝統行事 === [[農業]]においては、農閑期と農繁期の両方の側面を持つ季節である。[[稲作]]では梅雨期の苗の成長から盛夏期の稲の開花に至るまで重要で、冷害・干害に警戒を怠れないが、「田植え」と「稲刈り」の間の期間にも位置する。イネの光合成が最も盛んな時期でもある。この時期次第で収穫が決まるとも言える。[[害虫]]に対しては[[虫送り]]の行事を行う地域があり、これを[[七夕]]の行事として行っている場合も多い。水不足も危険であるため、[[雨乞い]]の儀式は、七夕や[[お盆]]の行事として行われた。 夏野菜の収穫期である。農業主体の地域の夏の行事の時期や内容は、この農作業のサイクルに影響を受けたところが大きい。 ==== 夏の行事 ==== [[ファイル:積丹半島の花火P7020527.JPG|thumbnail|220px|夏の風物 [[打ち上げ花火]]([[積丹半島]])]] * [[天神祭]]や[[祇園祭]]など各地の祭礼 * [[七夕]] * [[お盆]] * [[海開き]]・[[海水浴]]・[[スイカ割り]] * [[夏休み]] * [[夏祭り]]([[盆踊り]]・[[金魚すくい]]・[[浴衣]]・[[花火]]) * [[肝試し]] * プロ野球の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]] * [[花火大会]] * [[高校野球]] などがある。 === ヨーロッパ === [[ヨーロッパ]]の人々は特に夏を渇望する。高緯度のため冬期には著しく昼間の短い上に悪天候の続く[[西ヨーロッパ]]・[[北ヨーロッパ]]の諸国では、夏は唯一の「太陽の季節」であり、20世紀以降、西ヨーロッパ諸国の[[労働者]]は、長い夏期休暇([[バカンス]])をとることが通例となった。[[アルプス]]以北の諸国民は、公園などで日光浴をしたり、更に太陽と高温を求めて[[地中海]]方面などへ旅行に出かける者も大変に多い。[[地中海性気候]]の[[南ヨーロッパ]]においても、冬は比較的温暖ではあるが雨が多く日照の少ない季節でもあるため、夏は太陽を求める重要な季節となる。[[スペイン]]や[[イタリア]]などでも、夏はバカンスの季節であり、労働者は休みをとって浜辺に繰り出す。また、スペインの[[サン・フェルミン祭]](牛追い祭り)やイタリアの馬術の祭りなど、熱狂的な夏祭りも一部で見られる。 === {{USA}} === [[アメリカ合衆国]]の場合、労働者の夏期休暇はヨーロッパほど長くないが、休暇の季節であることに変わりは無い。また、学校は年度末にあたり、しかも6月には終業してしまうので、学校の夏休みは正真正銘の長期休暇となる。この時期に高校生から大学院生まで、[[エクスターン]]、[[アルバイト]]、[[ボランティア]]活動などの多彩な社会経験を行うことが通例とされている。欧米の大半の[[スポーツ]]は秋に始まり初夏に終わるシーズンを採用しており、アメリカにおいても([[野球]]を除く)多くのスポーツがシーズンオフになる。ヨーロッパにおいても共通であるが、このシーズンオフを使って、スポーツの国際大会が開かれることが多い。近年の[[夏季オリンピック]]が7・8月に開催される事が多いのは、こうした事情による。 夏にかけて気温が上昇するにつれ犯罪は増える傾向があるが、アメリカの場合は銃の発砲がからむ、治安の悪い都市では若者のギャング集団同士の縄張り争いが激化するといった特徴が加わる。これは、暑くなると路上や歩道で過ごす時間が増え、若者同士の口論がエスカレートして銃撃や殺人が起きやすくなるとする説がある<ref>{{Cite web |date= 2018-06-21|url= https://www.cnn.co.jp/usa/35121540.html|title= 1日で21人が銃撃の被害、2人死亡 治安改善したはずのシカゴで|publisher= CNN|accessdate=2018-06-28}}</ref>。 === 西アジア === [[西アジア]]の夏は極度に暑く、人々は昼間は家に籠もって、夜に交際や買い物を楽しむ生活を送る。日中の気温は40℃から50℃に達することもあり、湿度も高く、夜になっても30℃を下回らないことも多い。しかもほとんど雨が降らず、乾燥地帯では砂嵐が頻繁に発生するため、夏に不用意に出歩くことは,生命の危険と直結する。 === 南アジア・東南アジア === [[インド]]など[[南アジア]]・[[東南アジア]]では、夏は[[モンスーン]]による[[雨季]]となり、雨期直前の酷暑期より気温が低下する。この雨季の降雨は南アジア・東南アジアの農業にとって生命線であり、国民にとっての気象に関する最重要関心事である。インドでは[[インド気象局|気象局]]がモンスーンがインド半島のどこまで到来しているかを詳細に実況・予測して国民に提供している。その実況図はあたかも日本における[[桜前線]]のような形で描かれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imd.gov.in/section/nhac/dynamic/Monsoon_frame.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2011年3月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101224191959/http://imd.gov.in/section/nhac/dynamic/Monsoon_frame.htm |archivedate=2010年12月24日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 === 南半球 === [[南半球]]の場合、[[クリスマス]]を夏の行事として行う([[オーストラリア]]他各国)・[[謝肉祭|カーニバル]]が軽装の服装で行われる([[ブラジル]]など)など、ヨーロッパでの冬の行事を夏の行事として祝うことになる。 == 夏の天文・自然 == === 星座 === [[ファイル:Summer triangle and constellations.png|right|thumb|300px|夏の大三角]] 北半球では、夏の夜空で目立つのは、天の川を隔てて向かい合う[[こと座]]と[[わし座]]、その間にある[[はくちょう座]]である。それぞれに含まれる一等星である[[ベガ]]・[[アルタイル]]・[[デネブ]]を結んだものを[[夏の大三角]]という。このベガを'''織女'''、アルタイルを'''牽牛'''として両者を夫婦と見なし、年に一度だけ出会える、という伝説が[[七夕]]のいわれである。 南の空では[[さそり座]]が姿を現す。これは冬の[[オリオン座]]と入れ替えに出入りすることで有名である。 * [[二百十日]] - [[台風]]の襲来 * [[入道雲]] === 植物 === [[ファイル:水芭蕉雨竜沼P7020123.JPG|thumbnail|180px|[[ミズバショウ]]([[雨竜沼湿原]])]] 日本で炎天下に咲く花としては[[ヒマワリ]]や[[サルスベリ]]が有名。夏の風物詩としては[[アサガオ]]も代表格。日本で夏本番といわれる7月・8月はすでに[[日長]]が短くなり始める時期に当たり、そのころに咲く植物は往々にして[[短日植物]]である。 高山では[[高山植物]]が一斉に花を咲かせる。夏の終わりには実をつけ、短い活動期間を終える。「夏の思い出」という詩には[[ミズバショウ]]がでるが、春の花であり、夏には2mにもなる大きな葉をつけている。 また、夏後半には高温と水不足のために植物の衰弱を起こす場合があり、時には[[落葉]]が起こる場合がある。 === 昆虫 === 日本の夏(盛夏)にもっとも目立つのは[[セミ]]である。大部分のセミが夏に出現し、それぞれに鳴き声を響かせる。[[鳴く虫]]は[[秋]]のものと考えられがちだが、[[キリギリス]]も夏が最盛期である。 [[カブトムシ]]や[[クワガタムシ]]も夏のものと考えられている。クワガタムシには成虫で年を越すものが多いが、カブトムシは夏だけ成虫が現れる。ほかにも[[スズメバチ]]や[[カナブン]]など、様々な昆虫が樹液の醗酵したものに集まるので、昆虫の場所取り合戦が見られる。子供の[[昆虫採集]]の目当ての一つでもある。もっとも、夏の盛りには昆虫は少なくなり、昆虫採集家はこれを俗に夏枯れという。昆虫の一番多い時期は初夏である。 また、[[ホタル]]や[[カ]]も夏の[[風物詩]]である。 === 海の生物 === 夏は海岸がやや寂れる。[[海藻]]類は主として春から初夏に盛りを迎え、その後は衰える。これは、温度が上昇して活動が盛んになるにつれ、肥料分があっという間に消費されてそれが乏しくなるためと言われる。[[ホンダワラ]]類は根元で切れて海面に漂いでて、[[流れ藻]]となる。 他方、日本では黒潮の影響が強くなり、初夏には[[カツオ]]が盛りとなる。夏後半にはさらに[[カツオノエボシ]]などが沿岸に近寄るようになる。また、[[ウミガメ]]が[[産卵]]のために海岸にやってくる。 == 夏を題材にした作品 == === 文学 === * [[湯本香樹実]]『[[夏の庭 The Friends]]』 * [[ウィリアム・シェイクスピア]]『[[夏の夜の夢]]』[[夏至]]の[[フェアリー]]騒ぎである。<!--夏を題材で良かったかなぁ?--> * [[三島由紀夫]]『[[真夏の死]]』 * [[枕草子]] 夏は夜 * 春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天香具山 ([[持統天皇]]・[[万葉集]]) * 夏山に恋しき人や入りにけむ 声振り立てて鳴くほととぎす ([[古今和歌集]] 夏の部) === 音楽 === ==== 和楽、唱歌、童謡など ==== * 山田検校 『夏やせ』山田流箏曲 * [[吉沢検校]] 『夏の曲』[[箏曲]]。「古今組」の一曲。 * 吉沢検校 『夏衣』 地歌・箏曲 * 作曲者不詳 『夏景色』[[地歌]]曲<ref>{{Cite web|和書|title=夏景色 |url=https://kiyuumi.com/archives/2010/02/post_175.php |website=東京小唄・清元・三味線教室 |date=2010-02-13 |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref> * 『納涼』:[[東くめ]]作詞・[[瀧廉太郎]]作曲<ref>{{Cite web|和書|title=「納涼/童謡・唱歌」の歌詞 って「イイネ!」 |url=https://www.uta-net.com/song/249137/ |website=www.uta-net.com |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref>。組歌「四季」の一曲<ref>{{Cite web|和書|title=瀧廉太郎による混声合唱曲集「組歌 四季」 瀧 廉太郎 |url=https://www.panamusica.co.jp/ja/product/30104/ |website=合唱楽譜のパナムジカ |access-date=2023-10-26}}</ref>。 * 『ほたるこい』:三上留吉作詞・作曲<ref>{{Cite web|和書|title=ほたるこい/とりネット/鳥取県公式サイト |url=https://www.pref.tottori.lg.jp/90045.htm#:~:text=%E6%97%A7%E4%B8%8A%E7%A7%81%E9%83%BD%E6%9D%91,%E3%81%93%E3%81%84%E3%80%8D%E3%82%92%E4%BD%9C%E8%A9%9E%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 |website=www.pref.tottori.lg.jp |access-date=2023-10-26}}</ref> * 『[[夏の思い出]]』:江間章子作詞・[[中田喜直]]作曲 * 『せみのうた』:[[佐藤義美]]作詞:中田喜直作曲<ref>{{Cite web|和書|title=童謡「せみのうた」歌詞 |url=https://kashinavi.com/song_view.html?15079 |website=kashinavi.com |access-date=2023-10-26}}</ref> * 『[[夏は来ぬ]]』:[[佐佐木信綱]]作詞、[[小山作之助]]作曲 ==== クラシック ==== * [[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]:協奏曲集『[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]』 - 「夏」 * [[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]:『[[夏の牧歌]]』 * [[フレデリック・ディーリアス|ディーリアス]]:『[[川の上の夏の夜]]』 * [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:歌曲集『[[夏の夜 (ベルリオーズ)|夏の夜]]』 * [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]:『[[夏の夜の夢 (メンデルスゾーン)|夏の夜の夢]]』 * [[アストル・ピアソラ|ピアソラ]]: 『ブエノスアイレスの四季』 - 「ブエノスアイレスの夏」 * グリーグ:『[[抒情小曲集]]』第10集 - 第2曲「夏の夕べ」 ==== ポピュラー系 ==== {{main|Category:夏を題材とした楽曲}} == 参照 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Summer}} * [[春]]・[[秋]]・[[冬]] * [[季節]] * [[四季]] * [[冷夏]] * {{Prefix}} * {{intitle}} == 外部リンク == * {{Kotobank|夏(なつ)}} {{季節}} {{Normdaten}} [[Category:夏|*]] [[Category:夏の季語|なつ]]
2003-09-08T17:38:30Z
2023-11-17T06:31:48Z
false
false
false
[ "Template:JPN", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Intitle", "Template:混同", "Template:季節", "Template:Main", "Template:Sisterlinks", "Template:Prefix", "Template:Kotobank", "Template:Normdaten", "Template:Otheruses", "Template:複数の問題", "Template:分数", "Template:USA", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F
15,826
秋(あき)は、四季の1つであり夏の後、冬の前に位置する。 北半球ではグレゴリオ暦の1年の後半、南半球では1年の前半に秋がある。夏時間実施国では夏時間が終了し、時計の針を1時間戻すこととなる。 中緯度の温帯地方では広葉樹が葉を落とし、草が枯れるなど冬へと向かう季節である。稲などの穀物や果物が実る時期であり、成熟などを意味する。 このような日は10月を中心に前後の毎年9月から11月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、8月・12月でも生じる場合もある)、この時期のあたりが秋の範囲に入る。 北半球での定義には以下のようなものがある。南半球では半年ずれる。 日本では夏の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚える。また、吹く風に爽やかさを感じる。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、運動会や文化祭がある。稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾る。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が長く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には露が置き、木々は紅葉してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。 秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、果実が生じる。これは夏ほど暑くなく好適な気温の季節であること、それに冬を迎えるために多年生の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして生活史の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。 秋の花としては秋の七草が有名である。園芸植物では菊が代表格であり、野草では彼岸花、コスモス、芒などが秋を代表する草花として知られる。また、果実が生産されるのも目を引く。冬への準備としては落葉やそれに先立つ紅葉、冬芽、休眠芽や球根、根茎の形成などがある。 ほ乳類の場合、秋は冬への準備として、栄養を蓄積しなければならない時期である。植物における果実、あるいはキノコの生産はこれを支えるものとなっている。動物はこれによって皮下脂肪を蓄積する。「天高く馬肥ゆる秋」もこれにちなむものと考えられる。秋の果実の生産が少ないとこれらの動物の冬期における死亡率が高くなる。クマが人里に出る年は、その前の秋に果実が不作であった年である。また、大型ほ乳類では往々にして秋から冬が繁殖期である。これはこの時期に妊娠が始まる。 秋が深まるにつれ、夏の高い湿度から解放され、大陸の乾燥した空気が、日本を覆う。大陸育ちの秋の移動性高気圧は、青や紫など波長が短い光を強く散乱する分子(酸素分子や窒素分子)を多く含み、空は青さを増す。雲は低い高度から湧き上がる入道雲に代わり、高い高度にできる積雲やいわし雲(巻積雲)など秋特有の雲が多くなり、空が高く見えるようになる。中国の諺である「天高く馬肥ゆる秋」の表現がしばしば使われる。 天文における秋の夜空は、一等星を持つ星座は一つ(みなみのうお座のフォーマルハウトだけ)しかないため、他の季節と比較して物寂しい印象を受ける。しかしながら、秋の夜空は天体観測、天体観望に適しており、年中を通して黄砂、天の川、その他の影響が少ないため、暗い星も含め、澄み切って見える。また、ギリシア神話で知られる英雄ペルセウスの冒険にまつわる星座が多い。 日本では旧暦8月15日の月を中秋の名月と呼び、月見の行事が行われる。 初秋は夏からの残暑が厳しいが次第に気温が下がり始める。気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。 中国では旧暦8月15日の中秋節に親族一同が会して月餅を食べる風習がある。月餅は小麦粉を練った皮で木の実入りの餡を包み、満月の形にしてから天火で焼いたものである。月餅の表面にはウサギなどの絵柄を焼印する。月見の行事は唐の時代には既にあり、高楼で月を眺めながら酒食を楽しむ風習が存在し、元や明の時代には月は祀られる存在になった。月餅が食べる風習は明の時代からといわれている。 韓国でも旧暦8月15日の秋夕に親族一同が会して松餅を食べる風習がある。一般的な松餅は小豆餡や白胡麻などを包んだ親指ほどの大きさの団子餅で松葉を敷いて蒸したものである。また、韓国には秋夕に新穀や新果を祖先にお供えしたり墓参りをする風習がある。 などがある。 小倉百人一首より 三夕(さんせき)とは、下の句が「秋の夕暮れ」で終わる有名な三首の和歌のこと。 秋の季語については秋の季語を参照のこと。 秋を含む季語には次のような物がある。 実りの秋から転じて、季節に関わらず収穫時期を秋と呼ぶことがある。 日本プロ野球等の春秋制のスポーツでは、優勝・プレーオフ進出の可能性が消滅または絶望的となったチームや、そのシーズン限りでの解雇が濃厚な選手のことを「秋風」などと表現することがある。 東方風神録 ~ Mountain of Faith.
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "秋(あき)は、四季の1つであり夏の後、冬の前に位置する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北半球ではグレゴリオ暦の1年の後半、南半球では1年の前半に秋がある。夏時間実施国では夏時間が終了し、時計の針を1時間戻すこととなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中緯度の温帯地方では広葉樹が葉を落とし、草が枯れるなど冬へと向かう季節である。稲などの穀物や果物が実る時期であり、成熟などを意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "このような日は10月を中心に前後の毎年9月から11月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、8月・12月でも生じる場合もある)、この時期のあたりが秋の範囲に入る。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北半球での定義には以下のようなものがある。南半球では半年ずれる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では夏の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚える。また、吹く風に爽やかさを感じる。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、運動会や文化祭がある。稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾る。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が長く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には露が置き、木々は紅葉してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、果実が生じる。これは夏ほど暑くなく好適な気温の季節であること、それに冬を迎えるために多年生の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして生活史の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "秋の花としては秋の七草が有名である。園芸植物では菊が代表格であり、野草では彼岸花、コスモス、芒などが秋を代表する草花として知られる。また、果実が生産されるのも目を引く。冬への準備としては落葉やそれに先立つ紅葉、冬芽、休眠芽や球根、根茎の形成などがある。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ほ乳類の場合、秋は冬への準備として、栄養を蓄積しなければならない時期である。植物における果実、あるいはキノコの生産はこれを支えるものとなっている。動物はこれによって皮下脂肪を蓄積する。「天高く馬肥ゆる秋」もこれにちなむものと考えられる。秋の果実の生産が少ないとこれらの動物の冬期における死亡率が高くなる。クマが人里に出る年は、その前の秋に果実が不作であった年である。また、大型ほ乳類では往々にして秋から冬が繁殖期である。これはこの時期に妊娠が始まる。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "秋が深まるにつれ、夏の高い湿度から解放され、大陸の乾燥した空気が、日本を覆う。大陸育ちの秋の移動性高気圧は、青や紫など波長が短い光を強く散乱する分子(酸素分子や窒素分子)を多く含み、空は青さを増す。雲は低い高度から湧き上がる入道雲に代わり、高い高度にできる積雲やいわし雲(巻積雲)など秋特有の雲が多くなり、空が高く見えるようになる。中国の諺である「天高く馬肥ゆる秋」の表現がしばしば使われる。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "天文における秋の夜空は、一等星を持つ星座は一つ(みなみのうお座のフォーマルハウトだけ)しかないため、他の季節と比較して物寂しい印象を受ける。しかしながら、秋の夜空は天体観測、天体観望に適しており、年中を通して黄砂、天の川、その他の影響が少ないため、暗い星も含め、澄み切って見える。また、ギリシア神話で知られる英雄ペルセウスの冒険にまつわる星座が多い。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本では旧暦8月15日の月を中秋の名月と呼び、月見の行事が行われる。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "初秋は夏からの残暑が厳しいが次第に気温が下がり始める。気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。", "title": "日本の秋" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中国では旧暦8月15日の中秋節に親族一同が会して月餅を食べる風習がある。月餅は小麦粉を練った皮で木の実入りの餡を包み、満月の形にしてから天火で焼いたものである。月餅の表面にはウサギなどの絵柄を焼印する。月見の行事は唐の時代には既にあり、高楼で月を眺めながら酒食を楽しむ風習が存在し、元や明の時代には月は祀られる存在になった。月餅が食べる風習は明の時代からといわれている。", "title": "中国大陸の秋" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "韓国でも旧暦8月15日の秋夕に親族一同が会して松餅を食べる風習がある。一般的な松餅は小豆餡や白胡麻などを包んだ親指ほどの大きさの団子餅で松葉を敷いて蒸したものである。また、韓国には秋夕に新穀や新果を祖先にお供えしたり墓参りをする風習がある。", "title": "朝鮮半島の秋" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "などがある。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "小倉百人一首より", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "三夕(さんせき)とは、下の句が「秋の夕暮れ」で終わる有名な三首の和歌のこと。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "秋の季語については秋の季語を参照のこと。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "秋を含む季語には次のような物がある。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "実りの秋から転じて、季節に関わらず収穫時期を秋と呼ぶことがある。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本プロ野球等の春秋制のスポーツでは、優勝・プレーオフ進出の可能性が消滅または絶望的となったチームや、そのシーズン限りでの解雇が濃厚な選手のことを「秋風」などと表現することがある。", "title": "言葉" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東方風神録 ~ Mountain of Faith.", "title": "秋を題材にした作品" } ]
秋(あき)は、四季の1つであり夏の後、冬の前に位置する。 北半球ではグレゴリオ暦の1年の後半、南半球では1年の前半に秋がある。夏時間実施国では夏時間が終了し、時計の針を1時間戻すこととなる。 中緯度の温帯地方では広葉樹が葉を落とし、草が枯れるなど冬へと向かう季節である。稲などの穀物や果物が実る時期であり、成熟などを意味する。 このような日は10月を中心に前後の毎年9月から11月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、8月・12月でも生じる場合もある)、この時期のあたりが秋の範囲に入る。
{{Otheruses}} {{複数の問題 |出典の明記 = 2014年11月3日 |独自研究 = 2018年4月 }} [[ファイル:Cosmos and girl 120122.jpg|thumb|240px|right|秋を代表する花、[[コスモス]]]] [[ファイル:Fagus sylvatica Purpurea JPG4a.jpg|thumb|240px|ツリー秋]] [[ファイル:Momiji 紅葉するヤマモミジ B221212.JPG|thumb|right|240px|秋を彩る[[紅葉]]した[[落ち葉]]]] [[ファイル:Kari-ire 9100232.jpg|thumb|240px|right|秋は[[稲]]の刈り入れの季節]] [[ファイル:Autumn in Turku.jpg|thumb|240px|[[フィンランド]]、[[トゥルク]]の{{仮リンク|アウラ川|en|Aura River (Finland)}}沿いの秋の景色]] '''秋'''(あき)は、[[四季]]の1つであり[[夏]]の後、[[冬]]の前に位置する。 [[北半球]]では[[グレゴリオ暦]]の1年の後半、[[南半球]]では1年の前半に秋がある。[[夏時間]]実施国では夏時間が終了し、時計の針を1時間戻すこととなる。 中緯度の[[温帯]]地方では[[広葉樹]]が葉を落とし、草が枯れるなど[[冬]]へと向かう[[季節]]である。[[イネ|稲]]などの[[穀物]]や[[果物]]が実る時期であり、成熟などを意味する。 このような日は10月を中心に前後の毎年9月から11月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、8月・12月でも生じる場合もある)、この時期のあたりが秋の範囲に入る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201207_1617587.html?DETAIL|title=温暖化で日本の四季に変化 「梅雨」が季節になる可能性も|publisher=NEWSポストセブン|date=2020-12-07|accessdate=2021-01-04}}</ref>。 == 定義 == 北半球での定義には以下のようなものがある。南半球では半年ずれる。 * 社会通念・[[気象学]]では[[9月]]・[[10月]]・[[11月]]。 * [[二十四節気]]に基づく[[節切り]]では[[立秋]]から[[立冬]] の前日まで。 * [[旧暦]](太陰暦)による[[月切り]]では七月・八月・九月である{{r|散歩}}。 * [[年度]]では10月・11月・[[12月]]。英語ではこの3か月をfall [[四半期|quarter]](米)またはautumn quarter(英)という。 * [[天文学]]上は[[秋分]]から[[冬至]]まで。ここでの「秋分」「冬至」は「[[秋分の日]]」「冬至の日」ではなく[[太陽]][[黄経]]が180度、270度になった瞬間。 * 西洋では伝統的に、秋分(の日)から冬至(の日)の前日までとすることがある。 * 熱帯地方では「1年中夏」、極地では「1年中冬」とされ、秋がないとされることがある。 * 積雪や海の凍結がある地方では、その始まりを秋の終わりとすることがある。 *[[JR|JRグループ]]の[[臨時列車]]運行上の秋は、10・11月の2箇月間で、9月は夏に区分される<ref>{{Cite press release|和書|title=“秋”の臨時列車のお知らせ|publisher=[[東海旅客鉄道]]|date=2018-08-24|url=http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000038042.pdf|format=PDF|accessdate=2018-08-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180826032132/http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000038042.pdf|archivedate=2018-08-26}}</ref>。 * 三秋 ** 初秋 立秋から[[白露]]の前日までの期間をいい、孟秋ともいう。 ** 仲秋 白露から[[寒露]]の前日までの期間をいう。 ** 晩秋 寒露から立冬の前日までの期間をいい、季秋ともいう。 == 日本の秋 == 日本では[[夏]]の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚える。また、吹く風に爽やかさを感じる。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、[[赤とんぼ]]の群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、[[運動会]]や[[文化祭]]がある。[[イネ|稲]]が黄金に色付き、[[栗]]、[[ナシ|梨]]、[[葡萄]]などとりどりの果実が店頭を飾る。[[台風]]がしばしば日本を襲い、[[秋雨]]が長く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、[[月]]や[[天体|星]]を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には[[露]]が置き、木々は[[紅葉]]してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。 === 自然 === [[ファイル:Japanese pampas grass ススキの穂波PB080105.jpg|thumb|240px|right|秋の風物、斜陽を浴びるススキの穂波]] 秋は[[春]]と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、[[果実]]が生じる。これは[[夏]]ほど暑くなく好適な気温の[[季節]]であること、それに[[冬]]を迎えるために[[多年生]]の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして[[生活史]]の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。 ==== 植物 ==== 秋の花としては[[七草#秋の七草|秋の七草]]が有名である。園芸植物では菊が代表格であり、野草では[[彼岸花]]、[[コスモス]]、[[ススキ|芒]]などが秋を代表する草花として知られる。また、果実が生産されるのも目を引く。冬への準備としては[[落葉]]やそれに先立つ[[紅葉]]、冬芽、休眠芽や[[球根]]、根茎の形成などがある。 ==== 動物 ==== [[ほ乳類]]の場合、秋は冬への準備として、栄養を蓄積しなければならない時期である。植物における果実、あるいは[[キノコ]]の生産はこれを支えるものとなっている。動物はこれによって[[皮下脂肪]]を蓄積する。「天高く馬肥ゆる秋」もこれにちなむものと考えられる。秋の果実の生産が少ないとこれらの動物の冬期における死亡率が高くなる。[[クマ]]が人里に出る年は、その前の秋に果実が不作であった年である。また、大型ほ乳類では往々にして秋から冬が繁殖期である。これはこの時期に妊娠が始まる。 ==== 気象 ==== [[ファイル:Enjugahama sea and sky 961104 Img383.jpg|thumb|240px|right|秋に発生する[[いわし雲]]([[煙樹ヶ浜]])]] 秋が深まるにつれ、夏の高い湿度から解放され、大陸の乾燥した空気が、日本を覆う{{r|秋空}}。大陸育ちの秋の[[移動性高気圧]]は、青や紫など波長が短い光を強く散乱する分子([[酸素分子]]や[[窒素分子]])を多く含み、空は青さを増す{{r|秋空}}。雲は低い高度から湧き上がる[[入道雲]]に代わり、高い高度にできる[[積雲]]や[[いわし雲]]([[巻積雲]])など秋特有の[[雲]]が多くなり、空が高く見えるようになる{{r|秋空}}。[[中国]]の[[諺]]である「天高く馬肥ゆる秋」の表現がしばしば使われる<ref name="秋空">[https://weathernews.jp/s/topics/201809/170105/ 【お天気雑学】秋の空はなぜ高い?] ウェザーニュース、2018年9月17日</ref>。 ==== 天文 ==== 天文における秋の夜空は、一等星を持つ星座は一つ([[みなみのうお座]]の[[フォーマルハウト]]だけ)しかないため、他の季節と比較して物寂しい印象を受ける。しかしながら、秋の夜空は天体観測、天体観望に適しており、年中を通して[[黄砂]]、[[天の川]]、その他の影響が少ないため、暗い星も含め、澄み切って見える。また、[[ギリシア神話]]で知られる英雄[[ペルセウス]]の冒険にまつわる星座が多い。 日本では旧暦8月15日の月を中秋の名月と呼び、[[月見]]の行事が行われる<ref name="散歩">{{Cite web|和書|url=https://san-tatsu.jp/articles/126162/|title= 「十五夜」っていつ? 実は毎月あった? なかでも“中秋の名月”が重視される理由とは|publisher=交通新聞社|author=小越建典|date=2021-9-20|accessdate=2021/11/20}}</ref><ref name="world">{{Cite book |和書 |author=呉善花|year=2012|title=なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか |pages=176-179}}</ref>。 === 行事 === 初秋は夏からの残暑が厳しいが次第に気温が下がり始める。気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。 * スポーツの秋 ** 運動会(体育祭、体育大会) - 祝日「[[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]]」(旧・[[体育の日]])があり、その前後に多くの学校で運動会や体育祭、体育大会が開かれる。校内と地区ブロック内の年2回する学校は春と秋に実施することが多い。 * [[文化_(代表的なトピック)|文化]](読書、芸術)の秋 ** 学芸会 ** [[文化祭]] ** 音楽会 ** [[大学祭]] - 多くの大学で秋に行われる。 * [[衣替え]] * [[七夕]](旧) * [[中元]](旧) * [[お盆]](旧) * [[月見]] ** [[十五夜]]、[[中秋の名月]] : 旧暦[[8月15日 (旧暦)|八月十五日]]。 ** [[十三夜]]、後の月見 : 旧暦[[9月13日 (旧暦)|九月十三日]]。 * 秋[[彼岸]] * [[重陽]] * [[紅葉#紅葉にまつわる文化|紅葉狩り]] * [[菊人形]] == 中国大陸の秋 == 中国では旧暦8月15日の[[中秋節]]に親族一同が会して[[月餅]]を食べる風習がある<ref name="world" />。月餅は小麦粉を練った皮で木の実入りの餡を包み、満月の形にしてから天火で焼いたものである<ref name="world" />。月餅の表面にはウサギなどの絵柄を焼印する<ref name="world" />。月見の行事は唐の時代には既にあり、高楼で月を眺めながら酒食を楽しむ風習が存在し、元や明の時代には月は祀られる存在になった<ref name="world" />。月餅が食べる風習は明の時代からといわれている<ref name="world" />。 == 朝鮮半島の秋 == 韓国でも旧暦8月15日の秋夕に親族一同が会して松餅を食べる風習がある<ref name="world" />。一般的な松餅は小豆餡や白胡麻などを包んだ親指ほどの大きさの団子餅で松葉を敷いて蒸したものである<ref name="world" />。また、韓国には秋夕に新穀や新果を祖先にお供えしたり墓参りをする風習がある<ref name="world" />。 == 言葉 == === 文字 === * 「秋」の文字の成り立ちは、[[会意文字]]である。[[穀物]]を表す[[禾部]](のぎへん)と「穀物を乾かす」という意の「火」から成る。 === 別名 === * 高秋(コウシュウ:空が高く澄みわたる秋) * 素秋・白秋(ソシュウ・ハクシュウ:[[五行思想]]で秋=金=白より) * 白帝(ハクテイ:秋を掌る神のこと) * 金秋(キンシュウ:秋=金) * 三秋(サンシュウ:初秋、仲秋、晩秋の三つの秋) * 九秋(秋の九十日間=三か月のこと) などがある。 === ことわざ === * 天高く馬肥ゆる秋(四字熟語の「天高馬肥」もしくは「秋高馬肥」、あるいは六字熟語の「天高馬肥之節」(秋に[[匈奴]]が[[漢]]に侵入・略奪してくる故事に由来)を借用したもの) * 秋風が吹く * 秋を吹かす * 一日三秋 * 一日千秋 * 一刻千秋 * 千秋晩成 * 春秋の争い * 春秋に富む * 春秋高し * 物言えば唇寒し秋の風 * 一葉落ちて天下の秋を知る * 秋の夜と男の心は七度変わる * [[暑さ寒さも彼岸まで]] * 女心と秋の空(関連:「男心と春の空」) * 秋の日は[[釣瓶]](つるべ)落とし:日がどんどん短くなっていく実感がこもる * 秋[[茄子]]は嫁に食わすな、秋[[サバ]]は嫁に食わすな : 「秋ナス-」は、ナスは身体を冷やすから食べさせるなと言う意味と、うまいものだから嫁に食わせるのはもったいないという意味と二通り伝えられている。また、元来は嫁ではなく夜目であり、[[ネズミ]]を指したとの説もある。 * 秋の[[扇子|扇]] * 秋の[[鹿]]は笛に寄る * 柿が赤らむと医者が青くなる、[[サンマ]]が出るとあんまが引込む : いずれも旬のおいしいものを食べると健康になるという意味 === 和歌 === [[百人一首|小倉百人一首]]より * 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(第1番:[[天智天皇]]) : (解釈) 秋、田に実った稲の穂を刈る季節――田の側の掘っ建て小屋は屋根の[[苫]]の目が荒いから、私の袖は落ちてくる露でぬれ続けていることだよ。 * 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき(第5番:[[猿丸大夫]]) : (解釈) 山の奥深くで、積もったもみじを踏み分けて妻を恋い慕って憐れに鳴いている鹿の声を聞くときには、何にもまして秋が悲しく感じられる。 * み吉野の 山の秋風 さ夜更けて ふるさと寒く 衣打つなり(第94番:[[飛鳥井雅経|参議雅経]]) : (解釈) 吉野の山から冷たい秋風が吹き降ろし、夜も更けて、かつて都であったこの吉野の里は更に寒くなり、砧で衣を打つ音が寒々と聞こえてくることだよ。 <!--* 千早振る 神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは ** 吹くからに 秋の草木のしおるれば むべ山風を嵐といふらむ ** 月見れば 千々に物こそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど ** この度はぬさもとりあえず手向山 紅葉のにしき 神のまにまに ** 小倉山 峯のもみじ葉 心あらば 今一度のみゆきまたなむ ** 山川に風のかけたる柵は 流れもあへぬ 紅葉なりけり ** 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける ** 嵐吹く 三室の山のもみぢ葉は 龍田の川のにしきなりけり ** 淋しさに宿を立ち出でてながむれば いづこもおなじ秋の夕暮れ ** 夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに 秋風ぞふく * 秋風に棚引く雲の絶間より もれいずる月の影のさやけさ--> ====三夕==== 三夕(さんせき)とは、<!-- いずれも上の句が「なかりけり」、← 西行は「知られけり」ですが -->下の句が「秋の夕暮れ」で終わる有名な三首の和歌のこと。 * 寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ ([[寂蓮|寂蓮法師]]) * 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ ([[西行|西行法師]]) * 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ ([[藤原定家]]) === 季語 === 秋の[[季語]]については[[季語一覧#秋の季語|秋の季語]]を参照のこと。 '''秋'''を含む季語には次のような物がある。 ==== 夏 ==== * [[麦秋]] * 秋近し * 秋を待つ * 夜の秋 ==== 秋 ==== * [[仲秋]] * 行秋 * 秋めく === 実りの秋 === 実りの秋から転じて、季節に関わらず収穫時期を秋と呼ぶことがある。 * [[麦秋|麦秋(ばくしゅう)]]:麦の穂が色づく初夏を指す。 * 南国[[高知県|高知]]では盛夏8月に[[早場米]]の取り入れをするが、[[炎天|炎天下]]の稲刈り作業も『アキ』と呼ばれる。 === 比喩表現 === [[日本プロ野球]]等の春秋制のスポーツでは、[[優勝]]・[[プレーオフ]]進出の可能性が消滅または絶望的となったチームや、そのシーズン限りでの解雇が濃厚な選手のことを「秋風」などと表現することがある<ref>{{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200307/bt2003070904.html |title=巨人悪夢のサヨナラ負け…虎にM点灯でしみる“秋風”|date=20030814232149 }} - サンケイスポーツ(2003年7月9日)</ref>。 == 秋を題材にした作品 == === 文学 === * [[芥川龍之介]]:『[[秋 (芥川龍之介)|秋]]』 * [[大岡信]]:詩集「秋をたたむ紐」 * [[ボリス・パステルナーク]]:詩「秋」(『[[ドクトル・ジバゴ]]』の「[[ドクトル・ジバゴ#ユーリー・ジバゴの詩編|ジバゴの詩集]]」) * [[アレクサンドル・プーシュキン]]:詩「秋」(詩劇『[[エヴゲーニー・オネーギン]]』第7章29、未完詩「秋」) === 音楽 === ==== クラシック ==== * [[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]:協奏曲集『[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]』 - 「秋」 * [[アストル・ピアソラ|ピアソラ]]:『ブエノスアイレスの四季』 - 「ブエノスアイレスの秋」 * [[武満徹]]:「ア・ストリング・アラウンド・オータム」(大岡信「秋をたたむ紐」が題材)「[[ノヴェンバー・ステップス]]」「秋」「[[秋庭歌|秋庭歌一具]]」 * [[細井博之]] : 「ヴァイオリンとピアノのためのロンド『秋』」 ==== 童謡・唱歌 ==== * 『[[ちいさい秋みつけた]]』(作詞:[[サトウハチロー]] 作曲:[[中田喜直]]) * 『[[もみじ (曲)|もみじ]]』(作詞:[[高野辰之]] 作曲:[[岡野貞一]]) * 『[[まっかな秋]]』(作詞:[[薩摩忠]] 作曲:[[小林秀雄 (作曲家)|小林秀雄]]) * 『[[夕焼け小焼け]]』(作詞:[[中村雨紅]] 作曲:[[草川信]]) * 『[[赤とんぼ (童謡)|赤とんぼ]]』(作詞:[[三木露風]] 作曲:[[山田耕筰]]) * 『[[里の秋]]』(作詞:[[斎藤信夫]] 作曲:[[海沼實]]) * 『[[虫のこえ]]』(作詞・作曲:不詳) * 『[[どんぐりころころ]]』(作詞:[[青木存義]] 作曲:[[梁田貞]]) * 『[[秋の子]]』(作詞:サトウハチロー 作曲:[[末広恭雄]]) * 『[[村祭り]]』(作詞:[[葛原しげる]] 作曲:[[南能衛]])  * 『[[秋の月]]』(作詞・作曲:[[瀧廉太郎]])<ref>{{Cite web|和書|title=「秋の月/童謡・唱歌」の歌詞 って「イイネ!」 |url=https://www.uta-net.com/song/249127/ |website=www.uta-net.com |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref> 『月』とも言う。組歌「四季」の一曲。<ref>{{Cite web|和書|title=月 瀧廉太郎 歌詞と視聴 |url=https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/tsuki-taki.htm |website=世界の民謡・童謡 |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref> ==== ポピュラー系 ==== {{main|Category:秋を題材とした楽曲}} === 絵画 === * [[雪舟]]:『秋冬山水図』(秋景) * [[酒井抱一]]:『[[夏秋草図屏風]]』 * [[黒田清輝]]:『秋景色』 === ゲーム === 東方風神録 ~ Mountain of Faith. == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Autumn|commonscat=Autumn|d=Q1314}} * [[春]]・[[夏]]・[[冬]] * [[紅葉]] * [[季節]] * [[四季]] * {{Prefix}} * {{intitle}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{季節}} {{Authority_control}} {{DEFAULTSORT:あき}} [[Category:秋|*]]
2003-09-08T17:42:53Z
2023-11-29T19:57:13Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:R", "Template:Wayback", "Template:Prefix", "Template:季節", "Template:Authority control", "Template:複数の問題", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite press release", "Template:Intitle", "Template:仮リンク", "Template:Main", "Template:Sisterlinks" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B
15,827
冬(ふゆ)は、四季の一つであり、一年の中で最も寒い期間・季節を指す。 秋と春に挟まれた季節。二十四節気や旧暦のように、一年中で最も太陽の高度が低く夜が長い期間を指すこともある。 北半球では冬至後の1月-2月頃に気温が低いことが多く、南半球では夏至後の7月‐8月頃にあたる。 日本の気象庁では一日の日最低気温が0°C以下の日を冬日(ふゆび)、また、日最高気温が0°C以下の日を真冬日(まふゆび)と呼んでいる。このような日は1月を中心に前後の毎年12月から翌年3月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、11月・4月でも生じる場合もある)、日本においてはこの時期辺りが冬の範囲に入る。 北半球が冬のときは南半球は太陽高度が高くなるため夏となり、南半球が冬のときは同様に北半球は夏となる。 冬という季節が生まれるのは、太陽高度の差によって気温が変わることが大きな原因である。地球が地軸を傾けて公転しているために、同じ地点でも季節により太陽高度が変わり、太陽高度が低くなると冬になる。赤道に近い低緯度地域では、季節による太陽高度の差が小さいので冬に目立った気象の変化はない。また、極地や高緯度地域では冬に太陽が昇らない極夜という現象が起こる。 また、その土地の標高や気団、海流、風などが冬の気候に影響を与えるため、同じ緯度にあっても冬の気候に差が出る。例えば、北緯43°付近にあるモナコでは1月の最低気温は8°C前後だが、同じ緯度にある旭川では同じ月に-14°C前後まで下がる。 日本では秋から次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬である。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなる。 シベリア高気圧が張り出し、西高東低の気圧配置になると、これを冬型の気圧配置といって、北西の季節風(北風)が強く吹き、日本海側では雪、太平洋側では空気が乾燥して晴れとなる。 寒さが弱い冬を暖冬(だんとう)という。反対に、寒さが厳しい冬・寒さが強い冬を、厳冬(げんとう)や寒冬と言う。 生物にとって、冬は直接に命の危険にさらされる季節である。それにつれて生物は活動を控えたり、様々な方法で冬眠や越冬に入る。落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らす。人間は防寒を主目的とした冬服に着替え、さらに襟巻きなどの防寒具を着用するが、霜焼け・凍傷を起こす事や凍死する者もいる。暖房器具を使用するのも冬のことであり、こたつやストーブに体を寄せる楽しみもあるが、それに起因する一酸化炭素中毒も冬に度々発生している。 気温は、植物にとっても重要である。特に平たくて薄い葉はその影響を受けやすい。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えるが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てる(落葉)。 一年草の場合、冬は種子などの耐久性の構造で耐える。この場合、春になって発芽することになるが、春の成長においてイニシアチブを取るべく、秋から冬に発芽するものがあり、これを越年草、あるいは二年草という。この場合、冬には葉をつけて過ごすが、寒さに対する対策として、地表に密着するように葉を広げる姿を取るものが多い。多年草の冬の姿にもこのようなものがあり、これをロゼットという。 なお、春になると様々な植物の活動が始まるが、その開始時期はそれぞれで、中にはほとんど冬のうちに始まる場合もある。特にフクジュソウや梅は冬の終わり(晩冬)に咲くので往々にして花自体が雪や氷をかぶることが多い。稀に、春本番を告げる桜や桃やチューリップ・ヒヤシンスなどの花も強い寒の戻りや花冷えが原因で季節外れの雪や氷をかぶることもある。 冬には、多くの動物が凍結しない場所で活動を停止しじっとしている。これを冬眠(とうみん)と言い、トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜る。ほ乳類のコウモリやヤマネは体温を下げて冬眠する。シカやサルなどのように、冬眠しない動物もいるが、それらの場合、餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぐ例も知られる。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われる。 冬に特別な活動が見られる例もある。サンショウウオやアカガエルなどで、真冬に繁殖活動を行なうものがあり、天敵が寒さで動けない時期であるためとも考えられている。イヌワシなども冬に繁殖を開始する。これは、雛が食べ盛りになるのが、他の鳥の繁殖時期に重なるようにとの適応とも言われる。 冬は昆虫採集に向かない季節であり、冬に進んで活動する昆虫はフユシャクなどごく一部である。それでも方法はあるもので、たとえばオサムシ類は地下に隠れて越冬しているので、地上を走り回っているときより探しやすく、マニアはここだという所を掘り起こして採集する。これを俗にオサ掘りという由。なお、河川の指標生物として有名なカワゲラなどの水生昆虫に関しては、その採集は冬の方が都合がよい。これは、彼らの大部分が幼虫であり、春から秋には成虫になるために小さい幼虫しかいない場合があるのに対して、冬はすべて比較的よく育った幼虫の姿だからである。 冬は年の終わりの時期(年末)で、一年間の終盤である。北半球においての農業では、春から秋にかけて生産が行われ、冬は翌年の生産への準備に当たるからであろう。その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多い。 以下は主な日本の冬の行事である。 冬という厳しい季節を乗り越えるための準備や手当の行事もある。 また、冬の気候を生かしたウィンタースポーツも行われる。冬のレジャーとして楽しまれたり、競技として行われたりする。 日本では、亜熱帯と熱帯気候に属する南西諸島や小笠原諸島以外は、冬は雪氷の存在に象徴される季節である。西日本(日本海側の北近畿・山陰以外)や南関東では冬にたまに生じる物として珍しがり、東日本の山間部や北日本では冬の間中人々と共存する。 雪は降雪量の少ない地域では子供の楽しみであるが、多い地域では大変な問題を起こす。特に日本の本州日本海側は世界的にも多雪地帯である。地域によっては数mも積もってしまうので、そのようなとき家は埋まってしまう。いわゆる雪国あるいは豪雪地帯であって、他の地方にはない様々な危険があり、人々の生活や建築などに様々な対策が練られる。 日本では、天文の上では、冬は星空がもっとも美しい季節である。冬の大三角を構成する明るい星などが見える。また知名度の高い星座が多い。 気温の低さや生物活動の停滞になぞらえ、活動・成績などが低調・苦境にあることは「冬の時代」と表現される。 また、災害などで起きた地球寒冷化も冬と呼ばれ、火山噴火による火山灰で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する火山の冬、核兵器で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する核の冬、隕石衝突で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する隕石の冬などがある。 冬の擬人化として、冬将軍、Old Man Winter(英語版)など季節の擬人化と神(英語版)が作られた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "冬(ふゆ)は、四季の一つであり、一年の中で最も寒い期間・季節を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "秋と春に挟まれた季節。二十四節気や旧暦のように、一年中で最も太陽の高度が低く夜が長い期間を指すこともある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北半球では冬至後の1月-2月頃に気温が低いことが多く、南半球では夏至後の7月‐8月頃にあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本の気象庁では一日の日最低気温が0°C以下の日を冬日(ふゆび)、また、日最高気温が0°C以下の日を真冬日(まふゆび)と呼んでいる。このような日は1月を中心に前後の毎年12月から翌年3月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、11月・4月でも生じる場合もある)、日本においてはこの時期辺りが冬の範囲に入る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北半球が冬のときは南半球は太陽高度が高くなるため夏となり、南半球が冬のときは同様に北半球は夏となる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "冬という季節が生まれるのは、太陽高度の差によって気温が変わることが大きな原因である。地球が地軸を傾けて公転しているために、同じ地点でも季節により太陽高度が変わり、太陽高度が低くなると冬になる。赤道に近い低緯度地域では、季節による太陽高度の差が小さいので冬に目立った気象の変化はない。また、極地や高緯度地域では冬に太陽が昇らない極夜という現象が起こる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、その土地の標高や気団、海流、風などが冬の気候に影響を与えるため、同じ緯度にあっても冬の気候に差が出る。例えば、北緯43°付近にあるモナコでは1月の最低気温は8°C前後だが、同じ緯度にある旭川では同じ月に-14°C前後まで下がる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では秋から次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬である。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "シベリア高気圧が張り出し、西高東低の気圧配置になると、これを冬型の気圧配置といって、北西の季節風(北風)が強く吹き、日本海側では雪、太平洋側では空気が乾燥して晴れとなる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "寒さが弱い冬を暖冬(だんとう)という。反対に、寒さが厳しい冬・寒さが強い冬を、厳冬(げんとう)や寒冬と言う。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "生物にとって、冬は直接に命の危険にさらされる季節である。それにつれて生物は活動を控えたり、様々な方法で冬眠や越冬に入る。落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らす。人間は防寒を主目的とした冬服に着替え、さらに襟巻きなどの防寒具を着用するが、霜焼け・凍傷を起こす事や凍死する者もいる。暖房器具を使用するのも冬のことであり、こたつやストーブに体を寄せる楽しみもあるが、それに起因する一酸化炭素中毒も冬に度々発生している。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "気温は、植物にとっても重要である。特に平たくて薄い葉はその影響を受けやすい。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えるが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てる(落葉)。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一年草の場合、冬は種子などの耐久性の構造で耐える。この場合、春になって発芽することになるが、春の成長においてイニシアチブを取るべく、秋から冬に発芽するものがあり、これを越年草、あるいは二年草という。この場合、冬には葉をつけて過ごすが、寒さに対する対策として、地表に密着するように葉を広げる姿を取るものが多い。多年草の冬の姿にもこのようなものがあり、これをロゼットという。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、春になると様々な植物の活動が始まるが、その開始時期はそれぞれで、中にはほとんど冬のうちに始まる場合もある。特にフクジュソウや梅は冬の終わり(晩冬)に咲くので往々にして花自体が雪や氷をかぶることが多い。稀に、春本番を告げる桜や桃やチューリップ・ヒヤシンスなどの花も強い寒の戻りや花冷えが原因で季節外れの雪や氷をかぶることもある。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "冬には、多くの動物が凍結しない場所で活動を停止しじっとしている。これを冬眠(とうみん)と言い、トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜る。ほ乳類のコウモリやヤマネは体温を下げて冬眠する。シカやサルなどのように、冬眠しない動物もいるが、それらの場合、餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぐ例も知られる。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われる。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "冬に特別な活動が見られる例もある。サンショウウオやアカガエルなどで、真冬に繁殖活動を行なうものがあり、天敵が寒さで動けない時期であるためとも考えられている。イヌワシなども冬に繁殖を開始する。これは、雛が食べ盛りになるのが、他の鳥の繁殖時期に重なるようにとの適応とも言われる。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "冬は昆虫採集に向かない季節であり、冬に進んで活動する昆虫はフユシャクなどごく一部である。それでも方法はあるもので、たとえばオサムシ類は地下に隠れて越冬しているので、地上を走り回っているときより探しやすく、マニアはここだという所を掘り起こして採集する。これを俗にオサ掘りという由。なお、河川の指標生物として有名なカワゲラなどの水生昆虫に関しては、その採集は冬の方が都合がよい。これは、彼らの大部分が幼虫であり、春から秋には成虫になるために小さい幼虫しかいない場合があるのに対して、冬はすべて比較的よく育った幼虫の姿だからである。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "冬は年の終わりの時期(年末)で、一年間の終盤である。北半球においての農業では、春から秋にかけて生産が行われ、冬は翌年の生産への準備に当たるからであろう。その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多い。", "title": "冬の行事" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下は主な日本の冬の行事である。", "title": "冬の行事" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "冬という厳しい季節を乗り越えるための準備や手当の行事もある。", "title": "冬の行事" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、冬の気候を生かしたウィンタースポーツも行われる。冬のレジャーとして楽しまれたり、競技として行われたりする。", "title": "冬の行事" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本では、亜熱帯と熱帯気候に属する南西諸島や小笠原諸島以外は、冬は雪氷の存在に象徴される季節である。西日本(日本海側の北近畿・山陰以外)や南関東では冬にたまに生じる物として珍しがり、東日本の山間部や北日本では冬の間中人々と共存する。", "title": "天文・自然" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "雪は降雪量の少ない地域では子供の楽しみであるが、多い地域では大変な問題を起こす。特に日本の本州日本海側は世界的にも多雪地帯である。地域によっては数mも積もってしまうので、そのようなとき家は埋まってしまう。いわゆる雪国あるいは豪雪地帯であって、他の地方にはない様々な危険があり、人々の生活や建築などに様々な対策が練られる。", "title": "天文・自然" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本では、天文の上では、冬は星空がもっとも美しい季節である。冬の大三角を構成する明るい星などが見える。また知名度の高い星座が多い。", "title": "天文・自然" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "気温の低さや生物活動の停滞になぞらえ、活動・成績などが低調・苦境にあることは「冬の時代」と表現される。", "title": "比喩的な用法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、災害などで起きた地球寒冷化も冬と呼ばれ、火山噴火による火山灰で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する火山の冬、核兵器で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する核の冬、隕石衝突で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する隕石の冬などがある。", "title": "比喩的な用法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "冬の擬人化として、冬将軍、Old Man Winter(英語版)など季節の擬人化と神(英語版)が作られた。", "title": "比喩的な用法" } ]
冬(ふゆ)は、四季の一つであり、一年の中で最も寒い期間・季節を指す。
{{出典の明記|date=2021年11月}} '''冬'''(ふゆ)は、[[四季]]の一つであり、一年の中で最も寒い期間・[[季節]]を指す。 ==概要== [[秋]]と[[春]]に挟まれた季節。[[二十四節気]]や[[旧暦]]のように、一年中で最も[[太陽]]の[[高度]]が低く[[夜]]が長い期間を指すこともある。 [[北半球]]では[[冬至]]後の1月-2月頃に[[気温]]が低いことが多く、[[南半球]]では[[夏至]]後の7月‐8月頃にあたる。 [[日本]]の[[気象庁]]では一日の日最低気温が0℃以下の日を'''冬日'''(ふゆび)、また、日最高気温が0℃以下の日を'''真冬日'''(まふゆび)と呼んでいる。このような日は1月を中心に前後の毎年12月から翌年3月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、[[11月]]・[[4月]]でも生じる場合もある)、日本においてはこの時期辺りが冬の範囲に入る。 {{main2|冬が特別・特有とされる日本の事物(特に収穫物)に付いては[[旬#旬の食材一覧]]を}} == 定義 == [[ファイル:Earth-lighting-winter-solstice EN.png|thumb|地球と太陽の光の模式図。この図では北半球が冬となる。]] 北半球が冬のときは南半球は太陽高度が高くなるため夏となり、南半球が冬のときは同様に北半球は夏となる。 * 社会通念・[[気象学]]では[[1月]]・[[2月]]・[[12月]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201207_1617587.html?DETAIL|title=温暖化で日本の四季に変化 「梅雨」が季節になる可能性も|publisher=NEWSポストセブン|date=2020-12-07|accessdate=2021-01-04}}</ref>。たとえば「暖冬」「厳冬」などはこの3か月の平均気温で判断する。 * 寒候年・1年間の間で1月、2月、12月とすると1シーズンとしての冬を評価できない。そのため1月、2月を含む年をそのシーズンで括る。例えば「2009年の冬」といった場合、2008年の12月、2009年の1月、2月である。また、「2008/2009年冬」や学校・企業年度に例えて「2008年度の冬」という書き方をする。[[初雪]]・[[終雪]]の日など[[11月]]以前、[[3月]]以降になることのあるようなものもこの定義による。 * [[二十四節気]]に基づく[[節切り]]では[[立冬]]から[[立春]]の前日まで。 * [[旧暦]]による[[月切り]]では十月・十一月・十二月。上に近いが、最大半月ずれる。 * [[年度]]では1月・2月・3月。英語ではこの3か月をwinter [[四半期|quarter]]と呼ぶ。 * 天文学上は[[冬至]]から[[春分]]まで。ここでの「冬至」「春分」は、「冬至の日」「[[春分の日]]」ではなく[[太陽]][[黄経]]が270°、0°になった瞬間。 * 西洋では伝統的に、冬至(の日)から春分(の日)の前日までとすることがある。登山界での冬期登頂記録はこの慣例に基づいて判定されることが多い。 * 熱帯地方では「冬がない」、極地方では「1年中が冬」とされることがある。 * 積雪や海の凍結がある地方では、その始まりを冬の始まりとし、融雪や解氷を冬の終わりとすることがある * 三冬 ** 初冬→立冬から[[大雪]]の前日までの期間をいい、孟冬ともいう。 ** 仲冬→大雪から[[小寒]]の前日までの期間をいう。 ** 晩冬→小寒から立春の前日までの期間をいい、季冬ともいう。 == 気候 == [[ファイル:Satellite image of Hokkaido, Japan in January 2003.jpg|thumb|冬によく見られる筋状の雲、北海道付近(2003年1月撮影, NASAより)]] 冬という季節が生まれるのは、太陽高度の差によって[[気温]]が変わることが大きな原因である。地球が[[地軸]]を傾けて[[公転]]しているために、同じ地点でも季節により太陽高度が変わり、太陽高度が低くなると冬になる。赤道に近い[[低緯度地域]]では、季節による太陽高度の差が小さいので冬に目立った気象の変化はない。また、極地や高緯度地域では冬に太陽が昇らない[[極夜]]という現象が起こる。 また、その土地の標高や[[気団]]、[[海流]]、[[風]]などが冬の気候に影響を与えるため、同じ緯度にあっても冬の気候に差が出る。例えば、[[北緯]]43°付近にある[[モナコ]]では1月の最低気温は8℃前後だが、同じ緯度にある[[旭川市|旭川]]では同じ月に-14℃前後まで下がる。 日本では秋から次第に寒くなり、やがて野外で[[霜]]や[[雪]]など[[氷]]に関わる現象が見られるのが冬である。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなる。 [[シベリア高気圧]]が張り出し、[[西高東低]]の気圧配置になると、これを冬型の気圧配置といって、北西の[[季節風]]([[北風]])が強く吹き、日本海側では雪、太平洋側では空気が乾燥して晴れとなる。 寒さが弱い冬を[[暖冬]](だんとう)という。反対に、寒さが厳しい冬・寒さが強い冬を、[[厳冬]](げんとう)や寒冬と言う。 == 生物 == 生物にとって、冬は直接に命の危険にさらされる季節である。それにつれて生物は活動を控えたり、様々な方法で[[冬眠]]や[[越冬]]に入る。[[落葉樹]]は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らす。人間は防寒を主目的とした冬服に着替え、さらに[[襟巻き]]などの[[防寒具]]を着用するが、[[霜焼け]]・[[凍傷]]を起こす事や[[凍死]]する者もいる。[[暖房器具]]を使用するのも冬のことであり、[[こたつ]]や[[ストーブ]]に体を寄せる楽しみもあるが、それに起因する[[一酸化炭素中毒]]も冬に度々発生している。 === 植物 === 気温は、植物にとっても重要である。特に平たくて薄い葉はその影響を受けやすい。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えるが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てる([[落葉]])。 一年草の場合、冬は種子などの耐久性の構造で耐える。この場合、春になって発芽することになるが、春の成長においてイニシアチブを取るべく、秋から冬に発芽するものがあり、これを越年草、あるいは二年草という。この場合、冬には葉をつけて過ごすが、寒さに対する対策として、地表に密着するように葉を広げる姿を取るものが多い。多年草の冬の姿にもこのようなものがあり、これを[[ロゼット]]という。 なお、春になると様々な植物の活動が始まるが、その開始時期はそれぞれで、中にはほとんど冬のうちに始まる場合もある。特に[[フクジュソウ]]や[[ウメ|梅]]は冬の終わり(晩冬)に咲くので往々にして花自体が[[雪]]や[[氷]]をかぶることが多い。稀に、春本番を告げる[[サクラ|桜]]や[[モモ|桃]]や[[チューリップ]]・[[ヒヤシンス]]などの花も強い[[寒の戻り]]や花冷えが原因で季節外れの雪や氷をかぶることもある。 <gallery> ファイル:Windbuchencom.jpg|ドイツの樹氷 ファイル:P1010220哲学の木.jpg|[[北海道]][[美瑛町]]の冬(哲学の木) </gallery> === 動物 === 冬には、多くの動物が凍結しない場所で活動を停止しじっとしている。これを'''[[冬眠]]'''(とうみん)と言い、[[トカゲ]]や[[カエル]]は土中に、[[カメ]]や[[ドジョウ]]は水中の底に潜る。[[ほ乳類]]の[[コウモリ]]や[[ヤマネ]]は体温を下げて冬眠する。[[シカ]]や[[サル]]などのように、冬眠しない動物もいるが、それらの場合、餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や[[樹皮]]などを食べてしのぐ例も知られる。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われる。 冬に特別な活動が見られる例もある。[[サンショウウオ]]や[[アカガエル]]などで、真冬に繁殖活動を行なうものがあり、天敵が寒さで動けない時期であるためとも考えられている。[[イヌワシ]]なども冬に繁殖を開始する。これは、雛が食べ盛りになるのが、他の鳥の繁殖時期に重なるようにとの適応とも言われる。 冬は[[昆虫採集]]に向かない季節であり、冬に進んで活動する昆虫は[[フユシャク]]などごく一部である。それでも方法はあるもので、たとえば[[オサムシ]]類は地下に隠れて越冬しているので、地上を走り回っているときより探しやすく、[[マニア]]はここだという所を掘り起こして採集する。これを俗に'''オサ掘り'''という由。なお、[[河川]]の[[指標生物]]として有名な[[カワゲラ]]などの[[水生昆虫]]に関しては、その採集は冬の方が都合がよい。これは、彼らの大部分が幼虫であり、春から秋には成虫になるために小さい幼虫しかいない場合があるのに対して、冬はすべて比較的よく育った幼虫の姿だからである。 == 冬の行事 == 冬は[[年]]の終わりの時期([[年末]])で、一年間の終盤である。北半球においての農業では、春から秋にかけて生産が行われ、冬は翌年の生産への準備に当たるからであろう。その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多い。 以下は主な日本の冬の行事である。 <!-- * [[神戸ルミナリエ]]・[[東京ミレナリオ]]([[イルミネーション]]) 行事にあらず。風物詩。--> * [[クリスマス]]:日本においては、本来の宗教的意味は薄れ、[[キリスト教徒]]であるかどうかに関わらず、クリスマス会をし、プレゼント交換をするものが多い。街は[[イルミネーション]]に彩られ、[[クリスマス・ソング]]が市街地のあちこちで流れる。 <!--行事--> * [[大祓]] * [[針供養]] * [[歳暮|お歳暮]] * [[忘年会]] * [[誓文払い]] * [[ゆず湯]] * [[餅つき]]([[正月飾り]]、[[鏡餅]]) - [[大掃除]] * [[年越しそば]] - [[除夜の鐘]] * [[正月]] - [[元日]] * [[初売り]] * [[初詣]] - [[二年参り]] * [[お年玉]] * [[お節料理]] * [[新年会]] * [[七草|七草粥]] * [[左義長]] - [[どんど焼き]] * [[寒]](寒中) - [[寒中見舞い]] - [[寒稽古]] * [[講書始]] - [[歌会始]] * [[初午]] * [[うけらの神事|うけら餅]] * [[節分|節分の豆まき]] * [[余寒見舞い]] * [[涅槃会|涅槃]] * [[バレンタインデー]] <gallery> ファイル:Mochituki3.jpg|餅つき ファイル:Nanakusa gayu on Nanakusa no sekku.jpg|七草粥 </gallery> 冬という厳しい季節を乗り越えるための準備や手当の行事もある。 * [[冬囲い]]・[[雪囲い]] * 冬の祭り ** [[十日町市|十日町]]雪まつり ** [[雪だるま祭り]] ** [[さっぽろ雪まつり]] ** [[旭川冬祭り]] ** [[かまくら]]祭り ** [[なかしべつ冬まつり]] <gallery> ファイル:Yukimatsuri2004-2-8.jpg|さっぽろ雪まつり会場の雪像 </gallery> また、冬の気候を生かした[[ウィンタースポーツ]]も行われる。冬のレジャーとして楽しまれたり、競技として行われたりする。 * [[スキー]] * [[スノーボード]] * [[スケート]] * [[カーリング]] <gallery> ファイル:Ice skating rink.jpg|[[スケートリンク]] </gallery> == 天文・自然 == [[File:Cyanocitta-cristata-004.jpg|thumb|[[アオカケス]]]] [[File:Icicles.jpg|thumb|[[氷柱|つらら]]]] 日本では、[[亜熱帯]]と[[熱帯]]気候に属する[[南西諸島]]や[[小笠原諸島]]以外は、冬は雪氷の存在に象徴される季節である。西日本(日本海側の[[北近畿]]・[[山陰]]以外)や[[南関東]]では冬にたまに生じる物として珍しがり、東日本の山間部や北日本では冬の間中人々と共存する。 * [[雪]] * [[吹雪]] * [[木枯らし]] * [[霜]] * [[霜柱]] * [[氷柱]](つらら) * [[樹氷]] * [[霧氷]] * [[流氷]] * [[御神渡り]] * [[細氷|ダイヤモンドダスト]] * {{ill2|ウィンターストーム|en|Winter storm}}、{{ill2|アイスストーム|en|Ice storm}} [[File:Children in the snow H2969 Koululaisia lumikasassa C.jpg|thumb|子供の雪遊び]] [[File:RhB Xrotd 9213 am Lago Bianco 3.jpg|thumb|除雪列車]] 雪は降雪量の少ない地域では子供の楽しみであるが、多い地域では大変な問題を起こす。特に日本の本州日本海側は世界的にも多雪地帯である。地域によっては数mも積もってしまうので、そのようなとき家は埋まってしまう。いわゆる雪国あるいは[[豪雪地帯]]であって、他の地方にはない様々な危険があり、人々の生活や建築などに様々な対策が練られる。 * [[除雪]] ** [[除雪車]] ** [[雪下ろし]] ** [[雪かき]] * [[雪遊び]] ** [[雪合戦]] * [[雪崩]] [[File:20160130-精進湖からの星空.jpg|thumb|冬の星空]] 日本では、天文の上では、冬は星空がもっとも美しい季節である。[[冬の大三角]]を構成する明るい星などが見える。また知名度の高い星座が多い。 * [[オリオン座]] * [[シリウス]]([[おおいぬ座]]) * [[プロキオン]]([[こいぬ座]]) * [[プレアデス星団]]([[おうし座]]) * [[カストル (恒星)|カストル]]、[[ポルックス (恒星)|ポルックス]]([[ふたご座]]) == 比喩的な用法 == 気温の低さや生物活動の停滞になぞらえ、活動・成績などが低調・苦境にあることは「'''[[冬の時代]]'''」と表現される。 また、災害などで起きた[[地球寒冷化]]も冬と呼ばれ、[[火山噴火]]による火山灰で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する[[火山の冬]]、[[核兵器]]で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する[[核の冬]]、隕石衝突で巻き上がった塵で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化する[[隕石の冬]]などがある。 冬の擬人化として、[[冬将軍]]、{{ill2|Old Man Winter|en|Old Man Winter}}など{{ill2|季節の擬人化と神|en|Deities and personifications of seasons}}が作られた。 == 冬を題材にした作品 == === 文学 === * [[雪国 (小説)|雪国]]([[川端康成]]) * [[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]([[ウィリアム・シェイクスピア]]) === 音楽 === ==== クラシック ==== * [[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]:協奏曲集『[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]』 - 「冬」 * [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:歌曲集『[[冬の旅]]』 * [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:[[交響曲第1番 (チャイコフスキー)|交響曲第一番「冬の日の幻想」]] * [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]:組曲『冬のかがり火』 * [[武満徹]]:「冬」 ==== 唱歌、童謡 ==== * 『[[ウィンター・ワンダーランド]]』(作曲:[[フェリックス・バーナード]]、作詞:[[ディック・スミス]]) * 『[[北風小僧の寒太郎]]』(作詞:[[井出隆夫]] 作曲:[[福田和禾子]]) * 『[[冬景色]]』([[文部省唱歌]]) * 『[[冬の行進]]』([[日本童謡唱歌大系]] 作詞:[[薩摩忠]] 作曲:[[越部信義]]) * 『[[冬の星座 (文部省唱歌)|冬の星座]]』(文部省唱歌 作詞:[[堀内敬三]] 作曲:[[ウィリアム・ヘイス]] ) * 『[[冬の夜]]』(文部省唱歌) * 『雪』(作詞:[[中村秋香]] 作曲:[[瀧廉太郎]])組歌「四季」の一曲<ref>{{Cite web|和書|title=瀧廉太郎による混声合唱曲集「組歌 四季」 瀧 廉太郎 |url=https://www.panamusica.co.jp/ja/product/30104/ |website=合唱楽譜のパナムジカ |access-date=2023-10-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=雪(四季)/うたごえサークルおけら |url=https://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_sengo/ch3_siki_yuki.htm |website=bunbun.boo.jp |access-date=2023-10-26}}</ref>。 * 『[[雪 (童謡)|雪]]』(文部省唱歌 作詞:[[武笠三]] 作曲:不明)<ref>{{Cite web|和書|title=雪やこんこ 童謡・唱歌 歌詞と試聴 |url=https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yuki.htm |website=世界の民謡・童謡 |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref> ==== ポピュラー系 ==== {{main|Category:冬を題材とした楽曲}} == 注釈 == ===出典=== <references/> == 関連項目 == {{Sisterlinks|commons=Winter|commonscat=Winter|d=Q1311}} * [[春]]・[[夏]]・[[秋]] * [[暖冬]] * [[季語一覧#冬の季語|冬の季語]]  <!-- * [[今冬]] --> * [[放射冷却]] * [[西高東低]] * [[季節]] * [[四季]] * [[フィンブルの冬]] * {{Prefix}} * {{intitle}} {{季節}} {{Authority_control}} {{DEFAULTSORT:ふゆ}} [[Category:冬|*]] [[Category:冬の季語|*]]
2003-09-08T17:45:06Z
2023-11-14T02:59:44Z
false
false
false
[ "Template:Authority control", "Template:Ill2", "Template:Main", "Template:Sisterlinks", "Template:Intitle", "Template:季節", "Template:出典の明記", "Template:Main2", "Template:Cite web", "Template:Prefix" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC
15,828
応用物理学会
公益社団法人応用物理学会(こうえきしゃだんほうじん おうようぶつりがっかい、英語: The Japan Society of Applied Physics)は、1946年に創立された応用物理学に関する学会である。略称はJSAP。応用物理学という学問分野の特徴により、扱う領域は広く多岐に渡る。 会員数は2011年8月現在で約24,000名。春と秋に学術講演会を開いており、6,000人から9,000人近い参加者を集める。 応用物理学会は他の多くの学会と異なり、学会誌が設立以前の1932年7月1日から発行されている。なお、当初の発行主体は長岡半太郎らが主催する応用物理談話会であった。1946年12月26日に応用物理学会の設立総会が開かれ、初代会長に眞島正市が就任した。これに伴って同年の7号から『応用物理』が学会誌となり、翌1947年6月28日から第1回講演会が東京大学工学部で開催された。1948年には社団法人としての認可が下りたため、出願した1946年10月25日が学会設立の日となった。 また、次第に各地に支部が増加し、 がそれぞれ設立されている。 1950年からはそれまでの春季に加えて秋季にも講演会が行なわれ、年2回の開催が定着していく。一方で1952年4月1日に発足した光学懇話会は後に日本光学会となり、応用物理学会内の分科会の第1号となった。これに続いて1957年3月31日に放射線分科会、1960年4月に電子放射分科会(現・応用電子物性分科会)、1970年4月には結晶工学分科会と薄膜・表面分科会が設立されている。 なお、事務所は当初東京帝国大学応用物理教室にあったが、以下のように移転を繰り返した。 公益法人制度改革に伴い、2011年に公益社団法人への移行を申請し認められたため、同年6月1日に新法人登記を行い「公益社団法人応用物理学会」となった 。 1962年7月には日本物理学会と共同で英文学術雑誌 Japanese Journal of Applied Physics(略称JJAP)を創刊した。1980年1月にはLetter(速報)部門も新設され、さらに1982年1月には Part 1(Regular Papers & Short Notes)と Part 2(Letters)に分冊化し、A4サイズとしている。2008年からは、さらなる速報性を確保するために Part 2 を廃止し、それを継承する形で、英文学術雑誌 Applied Physics Express (略称APEX)を創刊した。JJAP、APEXの2019年のインパクトファクターは、それぞれ1.376、3.086。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "公益社団法人応用物理学会(こうえきしゃだんほうじん おうようぶつりがっかい、英語: The Japan Society of Applied Physics)は、1946年に創立された応用物理学に関する学会である。略称はJSAP。応用物理学という学問分野の特徴により、扱う領域は広く多岐に渡る。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "会員数は2011年8月現在で約24,000名。春と秋に学術講演会を開いており、6,000人から9,000人近い参加者を集める。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "応用物理学会は他の多くの学会と異なり、学会誌が設立以前の1932年7月1日から発行されている。なお、当初の発行主体は長岡半太郎らが主催する応用物理談話会であった。1946年12月26日に応用物理学会の設立総会が開かれ、初代会長に眞島正市が就任した。これに伴って同年の7号から『応用物理』が学会誌となり、翌1947年6月28日から第1回講演会が東京大学工学部で開催された。1948年には社団法人としての認可が下りたため、出願した1946年10月25日が学会設立の日となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、次第に各地に支部が増加し、", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "がそれぞれ設立されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1950年からはそれまでの春季に加えて秋季にも講演会が行なわれ、年2回の開催が定着していく。一方で1952年4月1日に発足した光学懇話会は後に日本光学会となり、応用物理学会内の分科会の第1号となった。これに続いて1957年3月31日に放射線分科会、1960年4月に電子放射分科会(現・応用電子物性分科会)、1970年4月には結晶工学分科会と薄膜・表面分科会が設立されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、事務所は当初東京帝国大学応用物理教室にあったが、以下のように移転を繰り返した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "公益法人制度改革に伴い、2011年に公益社団法人への移行を申請し認められたため、同年6月1日に新法人登記を行い「公益社団法人応用物理学会」となった 。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1962年7月には日本物理学会と共同で英文学術雑誌 Japanese Journal of Applied Physics(略称JJAP)を創刊した。1980年1月にはLetter(速報)部門も新設され、さらに1982年1月には Part 1(Regular Papers & Short Notes)と Part 2(Letters)に分冊化し、A4サイズとしている。2008年からは、さらなる速報性を確保するために Part 2 を廃止し、それを継承する形で、英文学術雑誌 Applied Physics Express (略称APEX)を創刊した。JJAP、APEXの2019年のインパクトファクターは、それぞれ1.376、3.086。", "title": "出版物" } ]
公益社団法人応用物理学会は、1946年に創立された応用物理学に関する学会である。略称はJSAP。応用物理学という学問分野の特徴により、扱う領域は広く多岐に渡る。 会員数は2011年8月現在で約24,000名。春と秋に学術講演会を開いており、6,000人から9,000人近い参加者を集める。
{{Infobox 組織 |名称 = 公益社団法人応用物理学会 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |画像2 = |画像サイズ2 = |画像説明2 = |画像3 = |画像サイズ3 = |画像説明3 = |略称 = |標語 = |前身 = |後継 = |設立 = [[1946年]] |解散 = |種類 = [[公益社団法人]] |地位 = |目的 = [[応用物理学]]および関連学術分野の研究の促進ならびに成果の普及に関する事業を行い、もって社会の発展に寄与すること<ref>[http://www.jsap.or.jp/profile/article.html 公益社団法人応用物理学会 定款]、第3条</ref> |本部 = 〒113-0031<br>[[東京都]][[文京区]]根津1-21-5<br>応物会館 |位置 = | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |origins = 応用物理談話会 |area_served = {{JPN}} |会員数 = 24,119<ref name=members>2011年8月31日現在。「[http://www.jsap.or.jp/profile/members_organization.html 会員・組織]」応用物理学会</ref> |言語 = |会長 = |理事長 = |人物 = |機関 = |subsidiaries = 7支部、12分科会、18研究会 |提携 = |設立者 = |関連組織 = |スタッフ = |ボランティア = |予算 = |ウェブサイト = https://www.jsap.or.jp/ |旧称 = |補足 = |logo=The Japan Society of Applied Physics Logo.svg}} '''公益社団法人応用物理学会'''(こうえきしゃだんほうじん おうようぶつりがっかい、{{lang-en|The Japan Society of Applied Physics}})<ref>「[http://www.jsap.or.jp/profile/article.html 公益社団法人応用物理学会 定款]」2011年9月1日閲覧</ref>は、[[1946年]]に創立された[[応用物理学]]に関する[[学会]]である。略称は'''JSAP'''。[[応用物理学]]という学問分野の特徴により、扱う領域は広く多岐に渡る。 会員数は2011年8月現在で約24,000名<ref name=members/>。春と秋に学術講演会を開いており、6,000人から9,000人近い参加者を集める。 == 沿革 == 応用物理学会は他の多くの学会と異なり、学会誌が設立以前の[[1932年]][[7月1日]]から発行されている。なお、当初の発行主体は[[長岡半太郎]]らが主催する応用物理談話会であった。[[1946年]][[12月26日]]に'''応用物理学会'''の設立総会が開かれ、初代会長に[[真島正市|眞島正市]]が就任した。これに伴って同年の7号から『応用物理』が学会誌となり、翌[[1947年]][[6月28日]]から第1回講演会が[[東京大学工学部]]で開催された。[[1948年]]には[[社団法人]]としての認可が下りたため、出願した1946年[[10月25日]]が学会設立の日となった。 また、次第に各地に支部が増加し、 *[[1947年]][[11月8日]]-[[関西地方|関西支部]] *[[1951年]][[7月3日]]-[[東北地方|東北支部]] *[[1953年]][[5月9日]]-[[九州地方|九州支部]] *[[1954年]][[4月29日]]-[[中国四国地方|中国四国支部]] *[[1963年]][[6月8日]]-[[北海道|北海道支部]] *[[1965年]][[6月1日]]-[[東海地方|東海支部]] *1965年[[12月4日]]-[[北陸地方|北陸支部]] がそれぞれ設立されている。 [[1950年]]からはそれまでの春季に加えて秋季にも講演会が行なわれ、年2回の開催が定着していく。一方で[[1952年]][[4月1日]]に発足した光学懇話会は後に[[日本光学会]]となり、応用物理学会内の分科会の第1号となった。これに続いて[[1957年]][[3月31日]]に放射線分科会、[[1960年]]4月に電子放射分科会(現・応用電子物性分科会)、[[1970年]]4月には結晶工学分科会と薄膜・表面分科会が設立されている。 なお、事務所は当初[[東京大学|東京帝国大学]]応用物理教室にあったが、以下のように移転を繰り返した。 *1962年3月1日、[[文京区]]木屋ビル *1967年11月16日、[[港区_(東京都)|港区]]機械振興会館 *1984年12月15日、[[千代田区]]国松ビル *1992年4月、千代田区[[九段北]] *2011年7月25日、文京区[[湯島]] 湯島アーバンビル<ref>「[http://www.jsap.or.jp/news/news20110624.html 応用物理学会事務局移転のお知らせ]」 応用物理学会</ref> *2017年6月26日、文京区根津 応物会館(現在地)[https://www.jsap.or.jp/docs/news/news20170518_officemove.pdf] [[公益法人制度改革]]に伴い、2011年に[[公益社団法人]]への移行を申請し認められたため、同年6月1日に新法人登記を行い「公益社団法人応用物理学会」となった<ref>「[http://www.jsap.or.jp/headline/headline_20110609.html 公益社団法人応用物理学会の発足に際して]」HEADLINE NEWS、応用物理学会</ref> <ref>「[https://www.koeki-info.go.jp/pictis_portal/common/index.do?contentsKind=120&gyouseiNo=00&contentsNo=00003&syousaiUp=0&procNo=houjindetail&renNo=1&contentsType=&houjinSerNo=5000008375&oshiraseNo=undefined&bunNo=0&meiNo=0&seiriNo=undefined&edaNo=undefined&iinkaiNo=undefined&topFlg=0 公益社団法人応用物理学会]」『公益法人information』内閣府。法人コードはA007611。</ref>。 == 歴代会長 == # [[真島正市]](1946年度 - 1951年度) # [[辻二郎 (機械工学者)|辻二郎]](1952年度 - 1959年度) # [[谷安正]](1960年度 - 1961年度) # [[菅義夫]](1962年度 - 1963年度) # [[篠田軍治]](1964年度 - 1965年度) # [[平田森三]](1966年度) # [[神山雅英]](1966年度 - 1967年度) # [[木下是雄]](1968年度 - 1969年度) # [[古賀正三]](1970年度 - 1971年度) # [[和田八三久]](1972年度 - 1973年度) # [[吉永弘]](1974年度 - 1975年度) # [[岡田利弘]](1976年度 - 1977年度) # [[青木昌治]](1978年度 - 1979年度) # [[兵藤申一]](1980年度 - 1981年度) # [[田幸敏治]](1982年度 - 1983年度) # [[三石明善]](1984年度 - 1985年度) # [[菅野卓雄]](1986年度 - 1987年度) # [[辻内順平]](1988年度 - 1989年度) # [[金原粲]](1990年度 - 1991年度) # [[川久保達之]](1992年度 - 1993年度) # [[南茂夫]](1994年度 - 1995年度) # [[多田邦雄]](1996年度 - 1997年度) # [[伊藤良一 (物理学者)|伊藤良一]](1998年度 - 1999年度) # [[松村正清]](2000年度 - 2001年度) # [[後藤俊夫 (工学者)|後藤俊夫]](2002年度 - 2003年度) # [[榊裕之]](2004年度 - 2005年度) # [[尾浦憲治郎]](2006年度 - 2007年度) # [[石原宏]](2008年度 - 2009年度) # [[白木靖寛]](2010年度 - 2011年度) # [[小長井誠]](2012年度 - 2013年度) # [[河田聡]](2014年度 - 2015年度) # [[保立和夫]](2016年度 - 2017年度) # [[財満鎭明]](2018年度 - 2019年度) # [[波多野睦子]](2020年度 - 2021年度) # [[平本俊郎]](2022年度 - 現任) == 分科会 == *フォトニクス分科会 *放射線分科会 *応用電子物性分科会 *結晶工学分科会 *薄膜・表面分科会 *応用物理教育分科会 *有機分子・バイオエレクトロニクス分科会 *超伝導分科会 *プラズマエレクトロニクス分科会 *シリコンテクノロジー分科会 *先進パワー半導体分科会 *次世代リソグラフィ技術研究会 == 出版物 == [[1962年]]7月には[[日本物理学会]]と共同で英文[[学術雑誌]] ''[[Japanese Journal of Applied Physics]]''(略称JJAP)を創刊した。[[1980年]]1月にはLetter(速報)部門も新設され、さらに[[1982年]]1月には Part 1(Regular Papers & Short Notes)と Part 2(Letters)に分冊化し、[[紙の寸法#A列|A4サイズ]]としている。2008年からは、さらなる速報性を確保するために Part 2 を廃止し、それを継承する形で、英文[[学術雑誌]] ''[[Applied Physics Express]]'' (略称APEX)を創刊した。JJAP、APEXの2019年の[[インパクトファクター]]は、それぞれ1.376<ref>{{Cite web|url=https://iopscience.iop.org/journal/1347-4065|title=JJAP: Japanese Journal of Applied Physics|accessdate=2011-09-01|language=英語|publisher=}}</ref>、3.086<ref>{{Cite web|url=https://iopscience.iop.org/journal/1882-0786|title=APEX: Applied Physics Express|accessdate=2011-09-01|language=英語|publisher=}}</ref>。 * [[応用物理]] * [[JSAP International]] * [[Japanese Journal of Applied Physics]] ('''JJAP'''; Jpn. J. Appl. Phys.) * [[Applied Physics Express]] ('''APEX'''; ''Appl. Phys. Express'') * [[OPTICAL REVIEW]] == 賞 == * [[応用物理学会業績賞]] * [[応用物理学会フェロー表彰]] * [[応用物理学会論文賞]] * [[応用物理学会講演奨励賞]] * 研究分野業績賞 **[[光・量子エレクトロニクス業績賞(宅間宏賞)]] ** 化合物半導体エレクトロニクス業績賞([[赤﨑勇]]賞) ** [[女性研究者研究業績・人材育成賞(小舘香椎子賞)]] **光工学業績賞・功績賞(高野榮一賞) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |author = 田島道夫 |authorlink = |coauthors = |year = 1996 |month = |title = 応用物理学会の沿革 |journal = 応用物理 |volume = 65 |issue = 12 |pages = |publisher = |issn = |doi = |id = |url = |format = }} == 関連項目 == * [[学会]] * [[日本物理学会]] == 外部リンク == * [https://www.jsap.or.jp/ 公益社団法人応用物理学会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おうようふつりかつかい}} [[Category:物理学系学会]] [[Category:応用物理学と学際物理学|学]] [[Category:日本の工学]] [[Category:公益社団法人 (内閣総理大臣認定)]] [[Category:公益社団法人 (学術団体)]] [[Category:日本学術会議協力学術研究団体]] [[Category:千代田区の公益法人|歴おうようふつりかつかい]] [[Category:文京区の公益法人]] [[Category:1946年設立の組織]]
2003-09-08T18:10:31Z
2023-11-29T15:17:25Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Infobox 組織", "Template:Lang-en", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite journal" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%94%A8%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E4%BC%9A
15,829
JSAP
JSAP
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "JSAP", "title": null } ]
JSAP 応用物理学会 日本動物心理学会
'''JSAP''' * [[応用物理学会]](The '''J'''apan '''S'''ociety of '''A'''pplied '''P'''hysics) * [[日本動物心理学会]]('''J'''apanese '''S'''ociety For '''A'''nimal '''P'''sychology) {{aimai}}
null
2021-06-18T00:56:45Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/JSAP
15,830
四季
四季()は、四つの季節(春・夏・秋・冬)のこと。世界中の温暖大陸性気候、温暖海洋性気候、季風気候の多くの国々で存在している自然現象の一つ。 地球は太陽の周りを公転しているが、地軸が約23.4°傾いた状態で公転している。そのため南北の半球ごとに太陽の高さが一番高い位置にあるときと一番低い位置にあるときが生じる。夏至には太陽の高さは北半球で一番高く、南半球では一番低くなる。反対に冬至には太陽の高さは北半球で一番低く、南半球では一番高くなる。 地球はほぼ球体であるから、地球上での位置と公転軌道上の位置によって日照角度と日照時間に違いが出てくる。日照角度とは太陽光が地表に照射する角度のことである。同一の光量の場合、照射角が90°に近いほど面積あたりの受光量は大きくなる。つまり太陽が高く昇るときほど地表は強く暖められる。また、地軸の傾きは日照時間も変化させる。夏至には昼間の時間が最大に、冬至には最小になり、その差は高緯度ほど大きくなる。なお、気温の上下変動は太陽の高さよりも若干遅れて生じるため、真夏は夏至から1か月から2か月、真冬は冬至から1か月から2か月程度の期間になる。 世界には四季の変化が顕著で分かりやすい地域と、四季の変化が分かりにくい地域がある。気候の変化は緯度や海陸分布の影響を大きく受けるためである。 中緯度にある温帯や冷帯では、1年の中の気温の変化域が生物活動の変化と対応している部分が多いため、季節変化が感じられやすい。四季が顕著ではっきりと区別できるのは、中緯度にあって、かつ気団の勢力変化が大きい地域(おもに内陸や大陸辺縁部)である。例えば、日本は概ね北緯25度から45度に位置し、小笠原気団(夏)、シベリア気団(冬)、オホーツク海気団(梅雨)、揚子江気団(春・秋)という複数の気団の影響を受ける。 近年は地球温暖化により世界的に気候変動が起こり、日本では「春と秋がなくなって夏と冬だけになった」などとまことしやかに語られることがあるが、現実の気象データを見ると、2023年現在も春と秋は存在している。 一方、砂漠地帯、熱帯地方、極地などでは一般的に四季の変化が少ない。 赤道を挟む熱帯の地域は気温が年間を通して極端に高く、極地を含む寒帯の地域は気温が年間を通して極端に低いため、1年の中で気温が上下しても生物の活動等に及ぼす変化があまり大きくない。熱帯地域では四季は感じられにくいほか、高緯度の地域では生物の活動に好適な温暖な期間が短い。 赤道付近では日照時間の変化が小さい上、年間を通して太陽高度が高く、かつ熱帯では気温差の小さい均質な気団が横たわっているため、ほとんど無いに等しい。いわゆる常夏の状態だが、雨季と乾季という季節の変化がみられる地域もある。 極地域、特に北極圏や南極圏では夏には白夜、冬に極夜となり日照時間の変化は非常に激しいが、年間を通して太陽高度が低いため、日照時間で考えるほど気温の変化は大きくない。また、緯度が高くなるにつれて、内陸にあるほど気温変化が大きく海洋に近いほど小さい、という海陸分布の影響を強く受ける傾向がある。 以上は文化的・気候学的な定義であり、天文学的には太陽高度(日照角度)の変化をもとに、地域に関係なく(北半球・南半球の区分はあるが)四季を定義している。 北アメリカの気候は極めて多様で、四季性が明確な地域もある。豊富な自然資源のある土地を有し、世界一の生物多様性も有しながら、自然災害も頻繁に発生するのが特徴である。アメリカ本土の四季は、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、春は暖かい・夏は雨が多くて暑い・秋は乾燥で涼しい・冬は結構寒い。この気候影響で果物の育ちやすい自然環境となっている。リンゴ・オレンジ・ブドウ・パイナップル・イチゴ・モモ・スモモ・サクランボ・スイカなど、ほぼ地球中全種類の果物が栽培できる。 東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダと米国の国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多い。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコと米国の国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。 ブリテン諸島(イギリス全域・アイルランド)の気候は西岸海洋性気候が卓越し、四季を持ちながら全体的な降水量が多く、一年中雨が降る形になっている。冬季、特に風のない日には霧が発生し易く、雪と雨が共に降るのが特徴である。夏季においては熱い雨が人々の体に打ち下り、雨からの火傷の防止策として一年中の傘持ちが常態化している。この傾向が強く当てはまる都市としてロンドンが挙げられ、イギリス紳士の傘文化を生じた理由にもなった。 水の蒸散量が多い夏季に東部が高温になることから、年間を通じて東部が比較的乾燥し、西部が湿潤となる。東部においては、降水量は一年を通じて平均しており、かつ、一日当たりの降水量が少なく、緯度と気温の関連が強くなり、比較的な高温になる。西部においては降水量が2500mmを超えることがある。 フランス・ベルギー・ルクセンブルク・オランダの気候は四季性が明らかである。夏30°C以下・冬季0°Cの温暖さが多彩な農産物を生み出した。果物以外、花・家具用の木・魚介類・ワイン・チーズ・家畜の肉も高級品満載。特にフランスは大陸性・海洋性・地中海性の三種類の気候が共存していて、このような例はヨーロッパの中でもフランスだけである。この恵まれた四季の御陰で、国土の面積はそれほど大きくないのに、世界第二の農業大国となっている。 フランス国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候はフランス全国より西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。 ドイツから始め、オーストリア・スイス・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーの四季は比較的に涼しい。冬-5°C以上、夏季は20°Cを越えない程度である。だが、降水量には差があり、夏になると降雨は多く、冬になると降雪が多く、春と秋は降水が少ない。 ドイツの大部分は温暖な偏西風と北大西洋海流の暖流によって比較的温和である。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は海洋性気候となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30°Cを越えることもあるが)冷涼になる傾向がある。東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性まで様々である。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる。 北欧(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・アイスランド)での年中平均温度はほかの地域と比べると全体的に寒冷である。緯度が高いため日照時間の差が大きく、特に緯度の高い地域では夏は白夜、冬は極夜となる。 南欧の国々(イタリア・スペイン・ギリシャ・ポルトガル)は地中海性気候に属し、この気候は冬以外は温暖である。緯度でみるとローマは札幌市などに近いが、一年中顕著的に温暖であり 、特に夏になると40°Cを超える猛暑が定番である。しかしその反面、イタリアでの冬は寒くなり、-10°Cになることもある。降水量は、地中海周辺諸国では夏は極端に乾燥・冬は極端に湿潤で、春と秋は平均的なものである。 オーストラリア大陸は広大で、気候に地域差があって 全体的に大陸北部は熱帯気候・大陸南部は温帯気候・全域は海洋性気候に囲まれているため、四季が明確性持ちの特徴になっている。南半球に位置しているため、一般には11月から1月が春、2月から4月が夏、5月から8月が秋、9月から10月が冬となる。南部地域では冬でも温暖な日が多いがニューサウスウェールズ州がある地域の山岳部では積雪がみられる。オーストラリアでは年間を通して暑い気候であり、1月から3月には雨季があって、内陸部は日の気温差が大きい砂漠地帯となっている ニュージーランドは日本と同じ島国で、南半球に位置するため、四季が日本と正反対である。 中国大陸にもはっきりとした四季があり、四季・季節・春夏秋冬等の漢字を発明した本家である。今の日本でも使われている「二十四節気」は紀元前4世紀、戦国時代の中国に発祥し、宋王朝の時代に日本に伝わった。 中国大陸は名の通りに大陸性気候を基準として、季風気候・砂漠気候・寒帯気候を加えたものである。今から3000年前の『春秋左氏伝』から始め、僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春・立夏・立秋・立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。立秋の時期までが暑さのピークであり、立春までの時期が寒さのピークとなる。 なお、古代中国人は一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。2400年前の周の頃に「二十四節気」は定着した。冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。 台湾は中央部と北部が亜熱帯、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低く四季は明瞭だが、南部は冬季を除けば気温が30度(摂氏)を超えることが多くて四季が不明瞭である。台湾の夏はおおよそ9月から11月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、10月の平均気温は28度である。台風の襲来が圧倒的に多く、毎年平均3 - 4個の台風に襲われる。平均降雨量は年間およそ2,515mmであり、雨期に多く、また降雨量は季節・位置・標高によって大きく異なっている。 朝鮮半島に位置しているものの顕著な大陸性気候・海洋性気候の融合であり、諸外国の中で日本の四季に一番近いものである。半島にも梅雨(朝鮮語で「チャンマ」)があり、寒暖の差が激しく気温の年較差・日較差が大きい。夏はやや湿潤である。ソウルの夏の気温は30度を超えることもよくあり、また内陸の盆地にある大邱は韓国で最も暑いとされるが、湿気が少なく、また熱帯夜になる事はほとんどない。 冬は大陸からの冷たく乾燥した季節風の影響を受け寒冷であるが 非常に乾燥し積雪は少ない。例えばソウルは新潟県長岡市付近と同緯度にあるが、1月の平均気温は-2.4度で、冬には、強烈なシベリア寒気団に覆われると、ソウルでも最低気温が-10〜-15度前後になり、郊外では-15度を下回ることもある。また、釜山の1月の平均気温は3.2度である。ケッペンの気候区分によると、ソウル、春川、堤川などの北部や内陸部、山岳地帯は亜寒帯冬季少雨気候、それ以外の地域は温帯夏雨気候および温暖湿潤気候に属する。 日本列島では3月上旬頃までは北日本や山間部を中心に余寒()と呼ばれる冬の寒さが残り、まだ降雪と積雪や路面凍結も残る。初春の3月中旬から気温は急激に上がり北日本と山間部を除いて、気温は16~20°Cまで上がる日が増え、暖かくなる。冬枯れの雑草が緑色に変色し若草が生え、樹木に新芽が出始める。 また冬の各季節現象が終わりを告げ、雪が完全に止む終雪、霜が降りなくなる終霜、氷が張らなくなる終氷の時期ともなり、春の訪れを感じさせるようになる。ただし、年によっては寒気の南下や南岸低気圧の影響で季節外れの遅い降雪や凍結になることがある。また、北日本や北信越地方を中心に春分以降も寒の戻り等で降雪が観測される年もある。そして、3月後半には南日本からサクラの花が咲き始める。春本番の仲春から晩春の4月から5月前半にかけてはチューリップ、ツツジ、フジ等といった多種多様な春の花が咲き始め、樹木・雑草が緑で青々とし始める新緑の時期となる。 日本列島の夏は湿度が高く蒸し暑い。日中の気温はおおむね30~35°C程度だが、湿度が高いため体感気温は高い。なお、湿度が高い理由は太平洋高気圧によるもので、太平洋上から蒸発した水蒸気が高気圧に混じり高湿度の状態で日本列島をすっぽり覆うために起こる。近年では7月になると猛暑日と呼ばれる最高気温が35°C以上の日がある。内陸部でフェーン現象が起こると40°C以上の危険な暑さになることもある。一方で北海道や東北北部の太平洋沿岸部(三陸海岸以北)にはしばしば冷たく湿ったやませが吹き付ける。 夏は次の四つの節に分けられる。 日本列島では9月上旬頃まで残暑()と呼ばれる夏の暑さがまだ残り、まだ真夏日・猛暑日・熱帯夜も残る。9月中旬頃になると気温と湿度が下がりはじめ、初秋となる。この時期は、大きな台風が上陸しやすい季節でもあり、10月初め頃まで台風が上陸することがある。9月下旬から11月上旬にかけては秋本番の仲秋で、涼やかな季節である。 11月になると朝の冷え込みが一段と厳しくなり北日本から次第に紅葉の季節となる。日本列島の紅葉はカエデ・ハゼなどの赤く染まる落葉樹が多いのが特徴で、色とりどりの鮮やかな紅葉を見せる。 11月も中旬になり「晩秋」の時期になると、北日本や日本海側・山間部や内陸部では冬の訪れが早く、最低気温が初めて氷点下まで下がり初雪が降り始める。落葉樹の樹木は紅葉が見ごろを過ぎて落葉し始め、荒涼とした枯れ枝のみの茶色い冬枯れになる。動物や虫類が冬眠に入るようになる。また、関東以西でも西日本の太平洋側と南西諸島を除く太平洋側の地域にその冬初めて氷が張り、この時期に霜が降り始める。 冬は日本海側から冷たく湿った風が吹きつけ、北日本はほぼ毎日気温が0°C以下の冬日や真冬日になる。北日本の日本海側は世界屈指の豪雪地帯であり、多いところで2~3mもの雪が積もる。一方、関東以西の太平洋側では、山間部や内陸を除くと冬は比較的穏やかで、沿岸部では積雪がないことが多く、気温もそれほど低くはならない。空気も乾燥しており、晴れた日も多い。 12月に入ると東海地方以西の太平洋側では初雪が降る。 1月から2月初め頃までは、一年で最も寒い時期の「真冬」となる。寒さのピークであり、大陸から寒波が断続的に流れ込み、日本海側や北日本では大雪の日が多い。北日本や山間部では最高気温0°C以下の真冬日が多くなり、特に北海道内陸部は-20°C未満の極寒に見舞われることがある。太平洋側の平地でもこの時期の最高気温は4~10°Cと寒く、冷たく乾燥したからっ風が吹くため体感温度はさらに低い。 2月になると北日本でも真冬日が減り、日平均気温は太平洋側平野部では6°C前後、厳しい寒さだった真冬に比べると寒さは和らぐ。そして南日本では梅が開花し、南寄りの風が吹き荒れる。一方で、東北から関東地方にかけての太平洋側は降雪が最も多い時期でもあり、この時期に多く発生する南岸低気圧によって雪を降らせている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "四季()は、四つの季節(春・夏・秋・冬)のこと。世界中の温暖大陸性気候、温暖海洋性気候、季風気候の多くの国々で存在している自然現象の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地球は太陽の周りを公転しているが、地軸が約23.4°傾いた状態で公転している。そのため南北の半球ごとに太陽の高さが一番高い位置にあるときと一番低い位置にあるときが生じる。夏至には太陽の高さは北半球で一番高く、南半球では一番低くなる。反対に冬至には太陽の高さは北半球で一番低く、南半球では一番高くなる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地球はほぼ球体であるから、地球上での位置と公転軌道上の位置によって日照角度と日照時間に違いが出てくる。日照角度とは太陽光が地表に照射する角度のことである。同一の光量の場合、照射角が90°に近いほど面積あたりの受光量は大きくなる。つまり太陽が高く昇るときほど地表は強く暖められる。また、地軸の傾きは日照時間も変化させる。夏至には昼間の時間が最大に、冬至には最小になり、その差は高緯度ほど大きくなる。なお、気温の上下変動は太陽の高さよりも若干遅れて生じるため、真夏は夏至から1か月から2か月、真冬は冬至から1か月から2か月程度の期間になる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "世界には四季の変化が顕著で分かりやすい地域と、四季の変化が分かりにくい地域がある。気候の変化は緯度や海陸分布の影響を大きく受けるためである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中緯度にある温帯や冷帯では、1年の中の気温の変化域が生物活動の変化と対応している部分が多いため、季節変化が感じられやすい。四季が顕著ではっきりと区別できるのは、中緯度にあって、かつ気団の勢力変化が大きい地域(おもに内陸や大陸辺縁部)である。例えば、日本は概ね北緯25度から45度に位置し、小笠原気団(夏)、シベリア気団(冬)、オホーツク海気団(梅雨)、揚子江気団(春・秋)という複数の気団の影響を受ける。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "近年は地球温暖化により世界的に気候変動が起こり、日本では「春と秋がなくなって夏と冬だけになった」などとまことしやかに語られることがあるが、現実の気象データを見ると、2023年現在も春と秋は存在している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方、砂漠地帯、熱帯地方、極地などでは一般的に四季の変化が少ない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "赤道を挟む熱帯の地域は気温が年間を通して極端に高く、極地を含む寒帯の地域は気温が年間を通して極端に低いため、1年の中で気温が上下しても生物の活動等に及ぼす変化があまり大きくない。熱帯地域では四季は感じられにくいほか、高緯度の地域では生物の活動に好適な温暖な期間が短い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "赤道付近では日照時間の変化が小さい上、年間を通して太陽高度が高く、かつ熱帯では気温差の小さい均質な気団が横たわっているため、ほとんど無いに等しい。いわゆる常夏の状態だが、雨季と乾季という季節の変化がみられる地域もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "極地域、特に北極圏や南極圏では夏には白夜、冬に極夜となり日照時間の変化は非常に激しいが、年間を通して太陽高度が低いため、日照時間で考えるほど気温の変化は大きくない。また、緯度が高くなるにつれて、内陸にあるほど気温変化が大きく海洋に近いほど小さい、という海陸分布の影響を強く受ける傾向がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以上は文化的・気候学的な定義であり、天文学的には太陽高度(日照角度)の変化をもとに、地域に関係なく(北半球・南半球の区分はあるが)四季を定義している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "北アメリカの気候は極めて多様で、四季性が明確な地域もある。豊富な自然資源のある土地を有し、世界一の生物多様性も有しながら、自然災害も頻繁に発生するのが特徴である。アメリカ本土の四季は、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、春は暖かい・夏は雨が多くて暑い・秋は乾燥で涼しい・冬は結構寒い。この気候影響で果物の育ちやすい自然環境となっている。リンゴ・オレンジ・ブドウ・パイナップル・イチゴ・モモ・スモモ・サクランボ・スイカなど、ほぼ地球中全種類の果物が栽培できる。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダと米国の国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多い。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコと米国の国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ブリテン諸島(イギリス全域・アイルランド)の気候は西岸海洋性気候が卓越し、四季を持ちながら全体的な降水量が多く、一年中雨が降る形になっている。冬季、特に風のない日には霧が発生し易く、雪と雨が共に降るのが特徴である。夏季においては熱い雨が人々の体に打ち下り、雨からの火傷の防止策として一年中の傘持ちが常態化している。この傾向が強く当てはまる都市としてロンドンが挙げられ、イギリス紳士の傘文化を生じた理由にもなった。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "水の蒸散量が多い夏季に東部が高温になることから、年間を通じて東部が比較的乾燥し、西部が湿潤となる。東部においては、降水量は一年を通じて平均しており、かつ、一日当たりの降水量が少なく、緯度と気温の関連が強くなり、比較的な高温になる。西部においては降水量が2500mmを超えることがある。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "フランス・ベルギー・ルクセンブルク・オランダの気候は四季性が明らかである。夏30°C以下・冬季0°Cの温暖さが多彩な農産物を生み出した。果物以外、花・家具用の木・魚介類・ワイン・チーズ・家畜の肉も高級品満載。特にフランスは大陸性・海洋性・地中海性の三種類の気候が共存していて、このような例はヨーロッパの中でもフランスだけである。この恵まれた四季の御陰で、国土の面積はそれほど大きくないのに、世界第二の農業大国となっている。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "フランス国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候はフランス全国より西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ドイツから始め、オーストリア・スイス・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーの四季は比較的に涼しい。冬-5°C以上、夏季は20°Cを越えない程度である。だが、降水量には差があり、夏になると降雨は多く、冬になると降雪が多く、春と秋は降水が少ない。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ドイツの大部分は温暖な偏西風と北大西洋海流の暖流によって比較的温和である。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は海洋性気候となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30°Cを越えることもあるが)冷涼になる傾向がある。東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性まで様々である。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "北欧(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・アイスランド)での年中平均温度はほかの地域と比べると全体的に寒冷である。緯度が高いため日照時間の差が大きく、特に緯度の高い地域では夏は白夜、冬は極夜となる。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "南欧の国々(イタリア・スペイン・ギリシャ・ポルトガル)は地中海性気候に属し、この気候は冬以外は温暖である。緯度でみるとローマは札幌市などに近いが、一年中顕著的に温暖であり 、特に夏になると40°Cを超える猛暑が定番である。しかしその反面、イタリアでの冬は寒くなり、-10°Cになることもある。降水量は、地中海周辺諸国では夏は極端に乾燥・冬は極端に湿潤で、春と秋は平均的なものである。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "オーストラリア大陸は広大で、気候に地域差があって 全体的に大陸北部は熱帯気候・大陸南部は温帯気候・全域は海洋性気候に囲まれているため、四季が明確性持ちの特徴になっている。南半球に位置しているため、一般には11月から1月が春、2月から4月が夏、5月から8月が秋、9月から10月が冬となる。南部地域では冬でも温暖な日が多いがニューサウスウェールズ州がある地域の山岳部では積雪がみられる。オーストラリアでは年間を通して暑い気候であり、1月から3月には雨季があって、内陸部は日の気温差が大きい砂漠地帯となっている", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは日本と同じ島国で、南半球に位置するため、四季が日本と正反対である。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中国大陸にもはっきりとした四季があり、四季・季節・春夏秋冬等の漢字を発明した本家である。今の日本でも使われている「二十四節気」は紀元前4世紀、戦国時代の中国に発祥し、宋王朝の時代に日本に伝わった。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中国大陸は名の通りに大陸性気候を基準として、季風気候・砂漠気候・寒帯気候を加えたものである。今から3000年前の『春秋左氏伝』から始め、僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春・立夏・立秋・立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。立秋の時期までが暑さのピークであり、立春までの時期が寒さのピークとなる。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、古代中国人は一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。2400年前の周の頃に「二十四節気」は定着した。冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "台湾は中央部と北部が亜熱帯、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低く四季は明瞭だが、南部は冬季を除けば気温が30度(摂氏)を超えることが多くて四季が不明瞭である。台湾の夏はおおよそ9月から11月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、10月の平均気温は28度である。台風の襲来が圧倒的に多く、毎年平均3 - 4個の台風に襲われる。平均降雨量は年間およそ2,515mmであり、雨期に多く、また降雨量は季節・位置・標高によって大きく異なっている。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "朝鮮半島に位置しているものの顕著な大陸性気候・海洋性気候の融合であり、諸外国の中で日本の四季に一番近いものである。半島にも梅雨(朝鮮語で「チャンマ」)があり、寒暖の差が激しく気温の年較差・日較差が大きい。夏はやや湿潤である。ソウルの夏の気温は30度を超えることもよくあり、また内陸の盆地にある大邱は韓国で最も暑いとされるが、湿気が少なく、また熱帯夜になる事はほとんどない。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "冬は大陸からの冷たく乾燥した季節風の影響を受け寒冷であるが 非常に乾燥し積雪は少ない。例えばソウルは新潟県長岡市付近と同緯度にあるが、1月の平均気温は-2.4度で、冬には、強烈なシベリア寒気団に覆われると、ソウルでも最低気温が-10〜-15度前後になり、郊外では-15度を下回ることもある。また、釜山の1月の平均気温は3.2度である。ケッペンの気候区分によると、ソウル、春川、堤川などの北部や内陸部、山岳地帯は亜寒帯冬季少雨気候、それ以外の地域は温帯夏雨気候および温暖湿潤気候に属する。", "title": "いろいろな地域の四季" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本列島では3月上旬頃までは北日本や山間部を中心に余寒()と呼ばれる冬の寒さが残り、まだ降雪と積雪や路面凍結も残る。初春の3月中旬から気温は急激に上がり北日本と山間部を除いて、気温は16~20°Cまで上がる日が増え、暖かくなる。冬枯れの雑草が緑色に変色し若草が生え、樹木に新芽が出始める。 また冬の各季節現象が終わりを告げ、雪が完全に止む終雪、霜が降りなくなる終霜、氷が張らなくなる終氷の時期ともなり、春の訪れを感じさせるようになる。ただし、年によっては寒気の南下や南岸低気圧の影響で季節外れの遅い降雪や凍結になることがある。また、北日本や北信越地方を中心に春分以降も寒の戻り等で降雪が観測される年もある。そして、3月後半には南日本からサクラの花が咲き始める。春本番の仲春から晩春の4月から5月前半にかけてはチューリップ、ツツジ、フジ等といった多種多様な春の花が咲き始め、樹木・雑草が緑で青々とし始める新緑の時期となる。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本列島の夏は湿度が高く蒸し暑い。日中の気温はおおむね30~35°C程度だが、湿度が高いため体感気温は高い。なお、湿度が高い理由は太平洋高気圧によるもので、太平洋上から蒸発した水蒸気が高気圧に混じり高湿度の状態で日本列島をすっぽり覆うために起こる。近年では7月になると猛暑日と呼ばれる最高気温が35°C以上の日がある。内陸部でフェーン現象が起こると40°C以上の危険な暑さになることもある。一方で北海道や東北北部の太平洋沿岸部(三陸海岸以北)にはしばしば冷たく湿ったやませが吹き付ける。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "夏は次の四つの節に分けられる。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本列島では9月上旬頃まで残暑()と呼ばれる夏の暑さがまだ残り、まだ真夏日・猛暑日・熱帯夜も残る。9月中旬頃になると気温と湿度が下がりはじめ、初秋となる。この時期は、大きな台風が上陸しやすい季節でもあり、10月初め頃まで台風が上陸することがある。9月下旬から11月上旬にかけては秋本番の仲秋で、涼やかな季節である。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "11月になると朝の冷え込みが一段と厳しくなり北日本から次第に紅葉の季節となる。日本列島の紅葉はカエデ・ハゼなどの赤く染まる落葉樹が多いのが特徴で、色とりどりの鮮やかな紅葉を見せる。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "11月も中旬になり「晩秋」の時期になると、北日本や日本海側・山間部や内陸部では冬の訪れが早く、最低気温が初めて氷点下まで下がり初雪が降り始める。落葉樹の樹木は紅葉が見ごろを過ぎて落葉し始め、荒涼とした枯れ枝のみの茶色い冬枯れになる。動物や虫類が冬眠に入るようになる。また、関東以西でも西日本の太平洋側と南西諸島を除く太平洋側の地域にその冬初めて氷が張り、この時期に霜が降り始める。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "冬は日本海側から冷たく湿った風が吹きつけ、北日本はほぼ毎日気温が0°C以下の冬日や真冬日になる。北日本の日本海側は世界屈指の豪雪地帯であり、多いところで2~3mもの雪が積もる。一方、関東以西の太平洋側では、山間部や内陸を除くと冬は比較的穏やかで、沿岸部では積雪がないことが多く、気温もそれほど低くはならない。空気も乾燥しており、晴れた日も多い。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "12月に入ると東海地方以西の太平洋側では初雪が降る。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1月から2月初め頃までは、一年で最も寒い時期の「真冬」となる。寒さのピークであり、大陸から寒波が断続的に流れ込み、日本海側や北日本では大雪の日が多い。北日本や山間部では最高気温0°C以下の真冬日が多くなり、特に北海道内陸部は-20°C未満の極寒に見舞われることがある。太平洋側の平地でもこの時期の最高気温は4~10°Cと寒く、冷たく乾燥したからっ風が吹くため体感温度はさらに低い。", "title": "日本列島の四季" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2月になると北日本でも真冬日が減り、日平均気温は太平洋側平野部では6°C前後、厳しい寒さだった真冬に比べると寒さは和らぐ。そして南日本では梅が開花し、南寄りの風が吹き荒れる。一方で、東北から関東地方にかけての太平洋側は降雪が最も多い時期でもあり、この時期に多く発生する南岸低気圧によって雪を降らせている。", "title": "日本列島の四季" } ]
四季は、四つの季節(春・夏・秋・冬)のこと。世界中の温暖大陸性気候、温暖海洋性気候、季風気候の多くの国々で存在している自然現象の一つ。
{{otheruses}} {{複数の問題 | 言葉を濁さない = 2017年9月 | 内容過剰 = 2017年9月 | 出典の明記 = 2022年11月 }} {{読み仮名|'''四季'''|しき}}は、四つの[[季節]]([[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]])のこと。世界中の温暖大陸性気候、温暖海洋性気候、季風気候の多くの国々で存在している自然現象の一つ。<!--ウィキペディアの他の言語の版ではほとんどが「四季」を単独の項目とせず、[[季節]]という項目に収束させている。--> == 概説 == [[File:Bäume_Jahreszeit_2013.jpg|thumb|300px|四季。冬、春、夏、秋。]] === 四季が起こる主な要因 === [[地球]]は[[太陽]]の周りを[[公転]]しているが、[[地軸]]が約23.4°傾いた状態で公転している<ref name="kumo90">[[森田正光]]『雲・天気』学研教育出版、2015年、90頁</ref>。そのため南北の半球ごとに太陽の高さが一番高い位置にあるときと一番低い位置にあるときが生じる。[[夏至]]には太陽の高さは北半球で一番高く、南半球では一番低くなる<ref name="kumo90" />。反対に[[冬至]]には太陽の高さは北半球で一番低く、南半球では一番高くなる<ref name="kumo90" />。 地球はほぼ球体であるから、地球上での位置と公転軌道上の位置によって日照角度と日照時間に違いが出てくる。日照角度とは太陽光が地表に照射する角度のことである。同一の光量の場合、照射角が90°に近いほど面積あたりの受光量は大きくなる。つまり太陽が高く昇るときほど地表は強く暖められる。また、地軸の傾きは日照時間も変化させる。夏至には昼間の時間が最大に、冬至には最小になり、その差は高緯度ほど大きくなる。なお、気温の上下変動は太陽の高さよりも若干遅れて生じるため、真夏は夏至から1か月から2か月、真冬は冬至から1か月から2か月程度の期間になる<ref name="kumo90" />。 === 気候と四季の関係 === 世界には四季の変化が顕著で分かりやすい地域と、四季の変化が分かりにくい地域がある<ref name="kumo90" />。気候の変化は[[緯度]]や[[海陸分布]]の影響を大きく受けるためである。 中緯度にある[[温帯]]や[[亜寒帯|冷帯]]では、1年の中の気温の変化域が生物活動の変化と対応している部分が多いため、季節変化が感じられやすい。四季が顕著ではっきりと区別できるのは、中緯度にあって、かつ気団の勢力変化が大きい地域(おもに内陸や大陸辺縁部)である。例えば、[[日本]]は概ね北緯25度から45度に位置し、小笠原気団(夏)、シベリア気団(冬)、[[オホーツク海気団]]([[梅雨]])、揚子江気団(春・秋)という複数の気団の影響を受ける。 近年は地球温暖化により世界的に気候変動が起こり、日本では「春と秋がなくなって夏と冬だけになった」などとまことしやかに語られることがあるが、現実の気象データを見ると、2023年現在も春と秋は存在している。 一方、砂漠地帯、熱帯地方、極地などでは一般的に四季の変化が少ない<ref name="kumo90" />。 [[赤道]]を挟む[[熱帯]]の地域は気温が年間を通して極端に高く、[[極地]]を含む[[寒帯]]の地域は気温が年間を通して極端に低いため、1年の中で気温が上下しても生物の活動等に及ぼす変化があまり大きくない。熱帯地域では四季は感じられにくいほか、高緯度の地域では生物の活動に好適な温暖な期間が短い。 赤道付近では日照時間の変化が小さい上、年間を通して太陽高度が高く、かつ熱帯では気温差の小さい均質な[[気団]]が横たわっているため、ほとんど無いに等しい。いわゆる常夏の状態だが、[[雨季]]と[[乾季]]という季節の変化がみられる地域もある。 極地域、特に[[北極圏]]や[[南極圏]]では夏には[[白夜]]、冬に[[極夜]]となり日照時間の変化は非常に激しいが、年間を通して太陽高度が低いため、日照時間で考えるほど気温の変化は大きくない。また、緯度が高くなるにつれて、内陸にあるほど気温変化が大きく海洋に近いほど小さい、という海陸分布の影響を強く受ける傾向がある。 以上は[[文化的]]・[[気候学]]的な定義であり、[[天文学]]的には太陽高度(日照角度)の変化をもとに、地域に関係なく([[北半球]]・[[南半球]]の区分はあるが)四季を定義している。 ==いろいろな地域の四季== <!--季節は自然現象であり、政治とは関係ないものなので、できる限り国ではなく地理によって分けるべきです。--> ===北アメリカの四季=== 北アメリカの気候は極めて多様で、四季性が明確な地域もある。豊富な自然資源のある土地を有し、世界一の生物多様性も有しながら、自然災害も頻繁に発生するのが特徴である<ref>Raven, Peter H. & Linda R. Berg. Environment, 5th Edition. John Wiley & Sons, Inc., Hoboken, NJ, US. ISBN 978-0-47-170438-6.</ref>。アメリカ本土の四季は、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、春は暖かい・夏は雨が多くて暑い・秋は乾燥で涼しい・冬は結構寒い。この気候影響で果物の育ちやすい自然環境となっている。[[リンゴ]]・[[オレンジ]]・[[ブドウ]]・[[パイナップル]]・[[イチゴ]]・[[モモ]]・[[スモモ]]・[[サクランボ]]・[[スイカ]]など、ほぼ地球中全種類の果物が栽培できる。 東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダと米国の国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多い。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコと米国の国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある<ref name="climate">{{cite web|title=Climate in Germany|url=http://www.germanculture.com.ua/library/facts/bl_climate.htm|publisher=GermanCulture|accessdate=26 March 2011}}</ref>。 === 西欧の四季 === ==== ブリテン諸島 ==== ブリテン諸島(イギリス全域・アイルランド)の気候は[[西岸海洋性気候]]が卓越し、四季を持ちながら全体的な降水量が多く、一年中雨が降る形になっている。冬季、特に風のない日には霧が発生し易く、雪と雨が共に降るのが特徴である。夏季においては熱い雨が人々の体に打ち下り、雨からの火傷の防止策として一年中の傘持ちが常態化している。この傾向が強く当てはまる都市として[[ロンドン]]が挙げられ、イギリス紳士の傘文化を生じた理由にもなった<ref name="ikeuchi47">池内(1992),p.47.</ref>。 水の蒸散量が多い夏季に東部が高温になることから、年間を通じて東部が比較的乾燥し、西部が湿潤となる。東部においては、降水量は一年を通じて平均しており、かつ、一日当たりの降水量が少なく、緯度と気温の関連が強くなり、比較的な高温になる。西部においては降水量が2500mmを超えることがある。 ====フランス地方==== フランス・ベルギー・ルクセンブルク・オランダの気候は四季性が明らかである。夏30℃以下・冬季0℃の温暖さが多彩な農産物を生み出した。果物以外、[[花]]・家具用の木・[[魚介類]]・[[ワイン]]・[[チーズ]]・[[家畜]]の肉も高級品満載。特にフランスは大陸性・海洋性・地中海性の三種類の気候が共存していて、このような例はヨーロッパの中でもフランスだけである<ref name="『川と文化:欧米の歴史を旅する』" />。この恵まれた四季の御陰で、国土の面積はそれほど大きくないのに、世界第二の農業大国となっている<ref name="『川と文化:欧米の歴史を旅する』">[https://books.google.co.jp/books?id=99awWMgx_K4C&pg=PA14 『川と文化:欧米の歴史を旅する』] 玉川大学出版部, 2004, p14</ref>。 フランス国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の[[大陸性気候]]はフランス全国より西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。 === 中欧の四季 === ドイツから始め、オーストリア・スイス・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーの四季は比較的に涼しい。冬-5℃以上、夏季は20℃を越えない程度である。だが、降水量には差があり、夏になると[[降雨]]は多く、冬になると[[降雪]]が多く、春と秋は降水が少ない<ref>Michael Kotulla: ''Deutsches Verfassungsrecht 1806–1918. Eine Dokumentensammlung nebst Einführungen. 1. Band: Gesamtdeutschland, Anhaltische Staaten und Baden.'' Springer, Berlin 2006, pp. 231, 246</ref><ref name="Germany">{{Cite web|和書|title=ドイツ|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年7月15日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 ドイツの大部分は温暖な偏西風と[[北大西洋海流]]の暖流によって比較的温和である<ref name="Germany" />。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は[[海洋性気候]]となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30℃を越えることもあるが)冷涼になる傾向がある<ref name="climate" /><ref name="ikeuchi47" />。東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる<ref name="ikeuchi47" /><ref name="Germany" />。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性まで様々である。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる<ref name="climate" />。 === 北欧の四季 === 北欧([[デンマーク]]・[[スウェーデン]]・[[ノルウェー]]・[[フィンランド]]・[[アイスランド]])での年中平均温度はほかの地域と比べると全体的に寒冷である。緯度が高いため日照時間の差が大きく、特に緯度の高い地域では夏は[[白夜]]、冬は[[極夜]]となる。 ===南欧の四季=== 南欧の国々([[イタリア]]・[[スペイン]]・[[ギリシャ]]・[[ポルトガル]])は[[地中海性気候]]に属し、この気候は冬以外は温暖である。緯度でみると[[ローマ]]は[[札幌市]]などに近いが、一年中顕著的に温暖であり<ref>JTB『るるぶイタリア'17』8頁</ref> 、特に夏になると40℃を超える猛暑が定番である<ref>JTB『るるぶイタリア'17』9頁</ref>。しかしその反面、イタリアでの冬は寒くなり、-10℃になることもある。降水量は、[[地中海]]周辺諸国では夏は極端に乾燥・冬は極端に湿潤で、春と秋は平均的なものである。 ===オセアニアの四季=== ====オーストラリア==== オーストラリア大陸は広大で、気候に地域差があって<ref name="Australia138">JTB『るるぶオーストラリア(2016年版)』138頁</ref> 全体的に大陸北部は熱帯気候・大陸南部は温帯気候・全域は海洋性気候に囲まれているため、四季が明確性持ちの特徴になっている。南半球に位置しているため、一般には11月から1月が春、2月から4月が夏、5月から8月が秋、9月から10月が冬となる。南部地域では冬でも温暖な日が多いが[[ニューサウスウェールズ州]]がある地域の山岳部では積雪がみられる。オーストラリアでは年間を通して暑い気候であり、1月から3月には雨季があって<ref name="Australia138" />、内陸部は日の気温差が大きい砂漠地帯となっている ====ニュージーランド諸島==== ニュージーランドは日本と同じ島国で、南半球に位置するため、四季が日本と正反対である。 ===極東地域の四季=== ====中国大陸の四季==== {{main|二十四節気}} 中国大陸にもはっきりとした四季があり、四季・季節・春夏秋冬等の[[漢字]]を発明した本家である。今の日本でも使われている「[[二十四節気]]」は紀元前4世紀、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の中国に発祥し、[[宋 (王朝)|宋王朝]]の時代に日本に伝わった<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/0510/TKY201105100099.html|title=日本版の二十四節気つくります 気象協会、意見公募も|publisher=[[asahi.com]])|date=2011-05-10|accessdate=2011-05-10}}</ref>。 中国大陸は名の通りに大陸性気候を基準として、季風気候・砂漠気候・寒帯気候を加えたものである。今から3000年前の『[[春秋左氏伝]]』から始め、僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春・立夏・立秋・立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。立秋の時期までが暑さのピークであり、立春までの時期が寒さのピークとなる。 なお、古代中国人は一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、[[1月 (旧暦)|正月]](一月)・[[2月 (旧暦)|二月]]・[[3月 (旧暦)|三月]]を春、[[4月 (旧暦)|四月]]・[[5月 (旧暦)|五月]]・[[6月 (旧暦)|六月]]を夏、[[7月 (旧暦)|七月]]・[[8月 (旧暦)|八月]]・[[9月 (旧暦)|九月]]を秋、[[10月 (旧暦)|十月]]・[[11月 (旧暦)|十一月]]・[[12月 (旧暦)|十二月]]を冬とした。2400年前の[[周]]の頃に「二十四節気」は定着した。冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする[[夏正]]([[夏暦]])が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。 ====台湾の四季==== 台湾は中央部と北部が[[亜熱帯]]、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低く四季は明瞭だが、南部は冬季を除けば気温が30度([[摂氏]])を超えることが多くて四季が不明瞭である。台湾の夏はおおよそ9月から11月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、10月の平均気温は28度である。[[台風]]の襲来が圧倒的に多く、毎年平均3 - 4個の台風に襲われる。平均降雨量は年間およそ2,515mmであり、雨期に多く、また降雨量は季節・位置・標高によって大きく異なっている。 ====朝鮮半島の四季==== 朝鮮半島に位置しているものの顕著な大陸性気候・海洋性気候の融合であり、諸外国の中で日本の四季に一番近いものである。半島にも[[梅雨]](朝鮮語で「チャンマ」)があり、寒暖の差が激しく気温の年較差・日較差が大きい。夏はやや湿潤である。ソウルの夏の気温は30度を超えることもよくあり、また内陸の盆地にある[[大邱広域市|大邱]]は韓国で最も暑いとされるが、湿気が少なく、また[[熱帯夜]]になる事はほとんどない。 冬は大陸からの冷たく乾燥した季節風の影響を受け寒冷であるが<ref group="注">ただ、朝鮮半島にある都市は一部([[仁川広域市|仁川]]や[[釜山]]、[[浦項]]など)を除けば大多数が内陸部に位置しているため内陸性、盆地型気候で朝晩の冷え込みが厳しい。</ref> 非常に乾燥し積雪は少ない。例えばソウルは[[新潟県]][[長岡市]]付近と同緯度にあるが、1月の平均気温は-2.4度で、冬には、強烈なシベリア寒気団に覆われると、ソウルでも最低気温が-10〜-15度前後になり、郊外では-15度を下回ることもある。また、[[釜山広域市|釜山]]の1月の平均気温は3.2度である。[[ケッペンの気候区分]]によると、[[ソウル特別市|ソウル]]、[[春川市|春川]]、[[堤川市|堤川]]などの北部や内陸部、山岳地帯は[[亜寒帯冬季少雨気候]]、それ以外の地域は[[温帯夏雨気候]]および[[温暖湿潤気候]]に属する。 ==日本列島の四季== {{See also|日本の気候#季節}} ===日本の春=== 日本列島では3月上旬頃までは[[北日本]]や山間部を中心に{{読み仮名|'''余寒'''|よかん}}と呼ばれる冬の寒さが残り、まだ降雪と[[積雪]]や[[路面凍結]]も残る。初春の{{要出典範囲|3月中旬から気温は急激に上がり北日本と山間部を除いて、気温は16~20℃まで上がる日が増え、暖かくなる。|date=2017年9月}}[[冬枯れ]]の[[雑草]]が緑色に変色し若草が生え、[[樹木]]に[[新芽]]が出始める。 また冬の各季節現象が終わりを告げ、雪が完全に止む[[終雪]]、霜が降りなくなる[[終霜]]、氷が張らなくなる[[終氷]]の時期ともなり、春の訪れを感じさせるようになる。ただし、年によっては寒気の南下や[[南岸低気圧]]の影響で季節外れの遅い降雪や凍結になることがある。また、北日本や[[北信越地方]]を中心に春分以降も[[寒の戻り]]等で降雪が観測される年もある。そして、3月後半には[[南日本]]から[[サクラ]]の[[花]]が咲き始める。春本番の仲春から晩春の4月から5月前半にかけては[[チューリップ]]、[[ツツジ]]、[[フジ (植物)|フジ]]等といった多種多様な春の花が咲き始め、樹木・雑草が緑で青々とし始める[[新緑]]の時期となる。 ===日本の夏=== 日本列島の夏は湿度が高く蒸し暑い。日中の気温はおおむね30~35℃程度だが、湿度が高いため体感気温は高い。なお、湿度が高い理由は太平洋高気圧によるもので、太平洋上から蒸発した水蒸気が高気圧に混じり高湿度の状態で日本列島をすっぽり覆うために起こる。近年では7月になると[[猛暑日]]と呼ばれる最高気温が35℃以上の日がある。内陸部で[[フェーン現象]]が起こると40℃以上の危険な暑さになることもある。一方で北海道や東北北部の太平洋沿岸部([[三陸海岸]]以北)にはしばしば冷たく湿った[[やませ]]が吹き付ける。 夏は次の四つの節に分けられる。 ;初夏 :5月中旬から梅雨入りするまでは初夏と呼ばれる。気温は24~30℃、湿度は盛夏ほど高くなく過ごしやすいと言える。初夏になると植物は繁茂し始め、動物類は餌を求め活発に動き回るようになる。 ;梅雨 :6月ごろ、本州島以南の島々での雨季。平均して6月中頃から7月中頃まで約1か月程続く。梅雨の後期はしばしば豪雨となる。同時期、北海道は[[やませ]]の影響もあり梅雨は不明瞭であり、かつては6月は比較的雨が少ない時期であった。ところが近年では降雨量が増え豪雨が降ることさえある。 ;盛夏 :この時期、気温は東北地方中部以南の地域では35℃以上の猛暑日になることも多い。盛夏は8月中旬頃を境に晩夏へと移行する。なお、近年の日本列島では8月を過ぎても暑さが緩まず猛暑日になることがしばしばである。 ;晩夏 :8月下旬から9月上旬頃までとされている場合も多い。 ===日本の秋=== 日本列島では{{要出典範囲|9月上旬頃|date=2017年9月}}まで{{読み仮名|'''残暑'''|ざんしょ}}と呼ばれる夏の暑さがまだ残り、まだ[[真夏日]]・猛暑日・熱帯夜も残る。9月中旬頃になると気温と湿度が下がりはじめ、初秋となる。この時期は、大きな台風が上陸しやすい季節でもあり、10月初め頃まで台風が上陸することがある。9月下旬から11月上旬にかけては秋本番の仲秋で、涼やかな季節である。 11月になると朝の冷え込みが一段と厳しくなり北日本から次第に紅葉の季節となる。日本列島の紅葉は[[カエデ]]・[[ハゼ]]などの赤く染まる[[落葉樹]]が多いのが特徴で、色とりどりの鮮やかな紅葉を見せる。 11月も中旬になり「晩秋」の時期になると、北日本や日本海側・山間部や内陸部では冬の訪れが早く、最低気温が初めて[[氷点下]]まで下がり[[初雪]]が降り始める。落葉樹の樹木は紅葉が見ごろを過ぎて落葉し始め、荒涼とした枯れ枝のみの茶色い冬枯れになる。動物や虫類が冬眠に入るようになる。また、関東以西でも西日本の太平洋側と南西諸島を除く太平洋側の地域にその冬初めて氷が張り、この時期に霜が降り始める。 ===日本の冬=== 冬は日本海側から冷たく湿った風が吹きつけ、北日本はほぼ毎日気温が0℃以下の[[冬日]]や[[真冬日]]になる。北日本の日本海側は世界屈指の[[豪雪地帯]]であり、多いところで2~3mもの雪が積もる。一方、関東以西の太平洋側では、山間部や内陸を除くと冬は比較的穏やかで、沿岸部では積雪がないことが多く、気温もそれほど低くはならない。空気も乾燥しており、晴れた日も多い。 12月に入ると[[東海地方]]以西の太平洋側では初雪が降る。 1月から2月初め頃までは、一年で最も寒い時期の「真冬」となる。寒さのピークであり、大陸から寒波が断続的に流れ込み、日本海側や北日本では大雪の日が多い。北日本や山間部では最高気温0℃以下の真冬日が多くなり、特に北海道内陸部は-20℃未満の極寒に見舞われることがある。太平洋側の平地でもこの時期の最高気温は4~10℃と寒く、冷たく乾燥した[[からっ風]]が吹くため体感温度はさらに低い。 2月になると北日本でも真冬日が減り、日平均気温は太平洋側平野部では6℃前後、厳しい寒さだった真冬に比べると寒さは和らぐ。そして南日本では[[梅]]が開花し、南寄りの風が吹き荒れる。一方で、東北から関東地方にかけての太平洋側は降雪が最も多い時期でもあり、この時期に多く発生する南岸低気圧によって雪を降らせている。 ==四季をテーマにした作品== ===音楽=== {{seealso|Category:四季を題材とした楽曲}} *{{仮リンク|パスカル・コラス|en|Pascal Collasse}}と[[ジャン=バティスト・リュリ]]のバレエ『四季』(1661年、フランス) *[[四季 (ヴィヴァルディ)]](1725年、イタリア) *[[四季 (ハイドン)]](1800年、オーストリア) *[[交響曲第9番 (シュポーア)]](1849年、ドイツ)- 「四季」の題を持つ。冬から始まる。 *[[四季 (チャイコフスキー)]](1885年、ロシア)- 1月から始まる。 *[[四季 (グラズノフ)]](1899年、ロシア)- 冬から始まる。 *{{仮リンク|四季 (ケージ)|en|The Seasons (Cage)}}(1947年、アメリカ)- 冬から始まる。なお1950年の弦楽四重奏曲{{enlink|String Quartet in Four Parts}}も四季にもとづくが、夏から始まる。 *{{仮リンク|ブエノスアイレスの四季|en|Estaciones Porteñas}} - [[アストル・ピアソラ]]のタンゴ。夏、冬、春、秋の順。 *[[四季の歌]] *[[四季 (w-inds.の曲)]](2004年、日本) ===文学=== *[[スコットランド]]の[[ジェームズ・トムソン (1700年生の詩人)|ジェームズ・トムソン]]による1730年の詩『四季』{{enlink|The Seasons (Thomson)}} - 冬から始まる。 *[[リトアニア]]の[[クリスティヨナス・ドネライティス]]の代表作である1818年の叙事詩『四季』(Metai) *日本の小説家、[[有栖川有栖]]の競作小説『まほろ市の殺人』、春・夏・秋・冬の4作から成っている。 *日本の小説家、[[暁佳奈]]の小説『春夏秋冬代行者』シリーズ ===映画=== *フランスの映画人[[エリック・ロメール]]の連作、[[春のソナタ]](1990年)・[[冬物語 (1992年の映画)|冬物語]](1992年)・[[夏物語 (1996年の映画)|夏物語]](1996年)・[[恋の秋]](1998年)の4部を創作した。 ===テレビドラマ=== *韓国のドラマ監督[[ユン・ソクホ]]の連作、[[秋の童話]](2000年)・[[冬のソナタ]](2002年)・[[夏の香り]](2003年)・[[春のワルツ]](2006年)の4部を創作した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> ==関連項目== {{Commonscat|Seasons}} {{Commonscat|Seasons in Japan|日本の四季}} {{Wiktionary|四季}} *[[二十四節気]] *[[七十二候]] *[[赤道傾斜角]] [[Category:四季|*]] [[Category:名数4|き]]
2003-09-08T18:23:26Z
2023-11-16T18:15:22Z
false
false
false
[ "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:Main", "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:複数の問題", "Template:See also", "Template:Seealso", "Template:Notelist2", "Template:リンク切れ", "Template:Wiktionary", "Template:読み仮名", "Template:要出典範囲", "Template:仮リンク", "Template:Enlink", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%AD%A3
15,831
ワイドギャップ半導体
ワイドギャップ半導体(ワイドギャップはんどうたい)とは、バンドギャップの大きい半導体を指す。ここでいう「大きい」は相対的なものではっきりとはしないが、シリコンのバンドギャップが1.12eVであることから、その2倍程度である2.2eV程度以上のバンドギャップを持つ場合にワイドギャップと呼ぶことが多い。 主に、III-V族半導体、特に窒化物半導体は大きなバンドギャップを持ち、ワイドギャップ半導体となる。例えば窒化ガリウムでは、バンドギャップは3.39eVである。また、炭化ケイ素(2.20~3.02eV)、ダイヤモンド(5.47eV)などもワイドギャップ半導体である。 用途としては、発光ダイオードなどの光半導体、液晶ディスプレーに使われる透明電極のほかに低損失のパワーデバイスなどへの応用がある。 ワイドバンドギャップ半導体により、デバイスはシリコンやヒ化ガリウムなどの従来の半導体材料よりもはるかに高い電圧、周波数、温度で動作できる。 それらは緑と青のLEDとレーザーを作るために使用される重要なコンポーネントであり、特定の無線周波数アプリケーション、特に軍用レーダーでも使用される。 それらの本質的な特性により、他の幅広いアプリケーションに適している。また、一般的な半導体用の次世代デバイスの有力候補の1つである。 デバイスが300°Cのオーダーのはるかに高い温度で動作できるようにするためにもバンドギャップの広さは重要である。また、高温耐性は、これらのデバイスが通常の条件下ではるかに高い電力レベルで動作できることを意味する。 さらに、ほとんどのワイドバンドギャップ材料は、従来の半導体の10倍のオーダーのはるかに高い臨界電界密度も持っている。 これらの特性を組み合わせることで、はるかに高い電圧と電流で動作できるようになり、軍事、無線、およびエネルギー変換の設定で非常に貴重になる。 米国エネルギー省は、新しい電気グリッドと代替エネルギーデバイスの基礎技術であると同時に、 電車からプラグイン 電気自動車までの高エネルギー車両で使用される堅牢で効率的なパワーコンポーネントになると考えている。 ほとんどのワイドバンドギャップ材料は高い自由電子速度を持っているため、より高いスイッチング速度で動作でき、無線アプリケーションでの価値が高まる。 単一のワイドギャップ半導体デバイスを使用して完全な無線システムを作成することができ、より高い周波数と電力レベルで動作しながら、個別の信号と無線周波数コンポーネントの必要性を排除する。 ワイドバンドギャップ材料の研究開発は、1970年代以来大規模な投資を受けてきた従来の半導体の研究開発よりも遅れている。 しかし、多くのアプリケーションでの明確な固有の利点は、従来の半導体では見られないいくつかのユニークな特性と相まって、シリコンに代わる日常の電子デバイスでの使用への関心を高めている。 従来の技術が密度プラトーに達しているように見えるので、より高いエネルギー密度を処理する能力は、 ムーアの法則に従うことを続ける試みにとって特に魅力的である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワイドギャップ半導体(ワイドギャップはんどうたい)とは、バンドギャップの大きい半導体を指す。ここでいう「大きい」は相対的なものではっきりとはしないが、シリコンのバンドギャップが1.12eVであることから、その2倍程度である2.2eV程度以上のバンドギャップを持つ場合にワイドギャップと呼ぶことが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主に、III-V族半導体、特に窒化物半導体は大きなバンドギャップを持ち、ワイドギャップ半導体となる。例えば窒化ガリウムでは、バンドギャップは3.39eVである。また、炭化ケイ素(2.20~3.02eV)、ダイヤモンド(5.47eV)などもワイドギャップ半導体である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "用途としては、発光ダイオードなどの光半導体、液晶ディスプレーに使われる透明電極のほかに低損失のパワーデバイスなどへの応用がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ワイドバンドギャップ半導体により、デバイスはシリコンやヒ化ガリウムなどの従来の半導体材料よりもはるかに高い電圧、周波数、温度で動作できる。 それらは緑と青のLEDとレーザーを作るために使用される重要なコンポーネントであり、特定の無線周波数アプリケーション、特に軍用レーダーでも使用される。 それらの本質的な特性により、他の幅広いアプリケーションに適している。また、一般的な半導体用の次世代デバイスの有力候補の1つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "デバイスが300°Cのオーダーのはるかに高い温度で動作できるようにするためにもバンドギャップの広さは重要である。また、高温耐性は、これらのデバイスが通常の条件下ではるかに高い電力レベルで動作できることを意味する。 さらに、ほとんどのワイドバンドギャップ材料は、従来の半導体の10倍のオーダーのはるかに高い臨界電界密度も持っている。 これらの特性を組み合わせることで、はるかに高い電圧と電流で動作できるようになり、軍事、無線、およびエネルギー変換の設定で非常に貴重になる。 米国エネルギー省は、新しい電気グリッドと代替エネルギーデバイスの基礎技術であると同時に、 電車からプラグイン 電気自動車までの高エネルギー車両で使用される堅牢で効率的なパワーコンポーネントになると考えている。 ほとんどのワイドバンドギャップ材料は高い自由電子速度を持っているため、より高いスイッチング速度で動作でき、無線アプリケーションでの価値が高まる。 単一のワイドギャップ半導体デバイスを使用して完全な無線システムを作成することができ、より高い周波数と電力レベルで動作しながら、個別の信号と無線周波数コンポーネントの必要性を排除する。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ワイドバンドギャップ材料の研究開発は、1970年代以来大規模な投資を受けてきた従来の半導体の研究開発よりも遅れている。 しかし、多くのアプリケーションでの明確な固有の利点は、従来の半導体では見られないいくつかのユニークな特性と相まって、シリコンに代わる日常の電子デバイスでの使用への関心を高めている。 従来の技術が密度プラトーに達しているように見えるので、より高いエネルギー密度を処理する能力は、 ムーアの法則に従うことを続ける試みにとって特に魅力的である。", "title": null } ]
ワイドギャップ半導体(ワイドギャップはんどうたい)とは、バンドギャップの大きい半導体を指す。ここでいう「大きい」は相対的なものではっきりとはしないが、シリコンのバンドギャップが1.12eVであることから、その2倍程度である2.2eV程度以上のバンドギャップを持つ場合にワイドギャップと呼ぶことが多い。 主に、III-V族半導体、特に窒化物半導体は大きなバンドギャップを持ち、ワイドギャップ半導体となる。例えば窒化ガリウムでは、バンドギャップは3.39eVである。また、炭化ケイ素(2.20~3.02eV)、ダイヤモンド(5.47eV)などもワイドギャップ半導体である。 用途としては、発光ダイオードなどの光半導体、液晶ディスプレーに使われる透明電極のほかに低損失のパワーデバイスなどへの応用がある。 ワイドバンドギャップ半導体により、デバイスはシリコンやヒ化ガリウムなどの従来の半導体材料よりもはるかに高い電圧、周波数、温度で動作できる。 それらは緑と青のLEDとレーザーを作るために使用される重要なコンポーネントであり、特定の無線周波数アプリケーション、特に軍用レーダーでも使用される。 それらの本質的な特性により、他の幅広いアプリケーションに適している。また、一般的な半導体用の次世代デバイスの有力候補の1つである。 デバイスが300°Cのオーダーのはるかに高い温度で動作できるようにするためにもバンドギャップの広さは重要である。また、高温耐性は、これらのデバイスが通常の条件下ではるかに高い電力レベルで動作できることを意味する。 さらに、ほとんどのワイドバンドギャップ材料は、従来の半導体の10倍のオーダーのはるかに高い臨界電界密度も持っている。 これらの特性を組み合わせることで、はるかに高い電圧と電流で動作できるようになり、軍事、無線、およびエネルギー変換の設定で非常に貴重になる。 米国エネルギー省は、新しい電気グリッドと代替エネルギーデバイスの基礎技術であると同時に、 電車からプラグイン 電気自動車までの高エネルギー車両で使用される堅牢で効率的なパワーコンポーネントになると考えている。 ほとんどのワイドバンドギャップ材料は高い自由電子速度を持っているため、より高いスイッチング速度で動作でき、無線アプリケーションでの価値が高まる。 単一のワイドギャップ半導体デバイスを使用して完全な無線システムを作成することができ、より高い周波数と電力レベルで動作しながら、個別の信号と無線周波数コンポーネントの必要性を排除する。 ワイドバンドギャップ材料の研究開発は、1970年代以来大規模な投資を受けてきた従来の半導体の研究開発よりも遅れている。 しかし、多くのアプリケーションでの明確な固有の利点は、従来の半導体では見られないいくつかのユニークな特性と相まって、シリコンに代わる日常の電子デバイスでの使用への関心を高めている。 従来の技術が密度プラトーに達しているように見えるので、より高いエネルギー密度を処理する能力は、 ムーアの法則に従うことを続ける試みにとって特に魅力的である。
{{出典の明記|date=2020年2月}} '''ワイドギャップ半導体'''(ワイドギャップはんどうたい)とは、[[バンドギャップ]]の大きい[[半導体]]を指す。ここでいう「大きい」は相対的なものではっきりとはしないが、[[シリコン]]のバンドギャップが1.12[[電子ボルト|eV]]であることから、その2倍程度である2.2eV程度以上のバンドギャップを持つ場合にワイドギャップと呼ぶことが多い。 主に、[[III-V族半導体]]、特に[[窒化物半導体]]は大きなバンドギャップを持ち、ワイドギャップ半導体となる。例えば[[窒化ガリウム]]では、バンドギャップは3.39eVである。また、[[炭化ケイ素]](2.20~3.02eV)、[[ダイヤモンド]](5.47eV)などもワイドギャップ半導体である。 用途としては、[[発光ダイオード]]などの光半導体、液晶ディスプレーに使われる透明電極のほかに低損失の[[パワーデバイス]]などへの応用がある。 ワイドバンドギャップ半導体により、デバイスはシリコンやヒ化ガリウムなどの従来の半導体材料よりもはるかに高い電圧、周波数、温度で動作できる。 それらは緑と青のLEDとレーザーを作るために使用される重要なコンポーネントであり、特定の無線周波数アプリケーション、特に軍用レーダーでも使用される。 それらの本質的な特性により、他の幅広いアプリケーションに適している。また、一般的な半導体用の次世代デバイスの有力候補の1つである。 デバイスが300°Cのオーダーのはるかに高い温度で動作できるようにするためにもバンドギャップの広さは重要である。また、高温耐性は、これらのデバイスが通常の条件下ではるかに高い電力レベルで動作できることを意味する。 さらに、ほとんどのワイドバンドギャップ材料は、従来の半導体の10倍のオーダーのはるかに高い臨界電界密度も持っている。 これらの特性を組み合わせることで、はるかに高い電圧と電流で動作できるようになり、軍事、無線、およびエネルギー変換の設定で非常に貴重になる。 米国エネルギー省は、新しい電気グリッドと代替エネルギーデバイスの基礎技術であると同時に、 電車からプラグイン 電気自動車までの高エネルギー車両で使用される堅牢で効率的なパワーコンポーネントになると考えている。 ほとんどのワイドバンドギャップ材料は高い自由電子速度を持っているため、より高いスイッチング速度で動作でき、無線アプリケーションでの価値が高まる。 単一のワイドギャップ半導体デバイスを使用して完全な無線システムを作成することができ、より高い周波数と電力レベルで動作しながら、個別の信号と無線周波数コンポーネントの必要性を排除する。 ワイドバンドギャップ材料の研究開発は、1970年代以来大規模な投資を受けてきた従来の半導体の研究開発よりも遅れている。 しかし、多くのアプリケーションでの明確な固有の利点は、従来の半導体では見られないいくつかのユニークな特性と相まって、シリコンに代わる日常の電子デバイスでの使用への関心を高めている。 従来の技術が密度プラトーに達しているように見えるので、より高いエネルギー密度を処理する能力は、 ムーアの法則に従うことを続ける試みにとって特に魅力的である。 == 適用分野 == 広帯域半導体の高い絶縁破壊電圧は、大きな電界を必要とする大電力用途において有用な特性である<ref>{{cite web|title=A Survey of Wide Bandgap Power Semiconductor Devices|url=https://www.researchgate.net/publication/260419009_A_Survey_of_Wide_Bandgap_Power_Semiconductor_Devices|accessdate=2023-11-1|work=www.researchgate.net}}</ref><ref>{{cite web|title=ARPA-E_Power_Electronics_Paper-April2018|url=https://arpa-e.energy.gov/sites/default/files/documents/files/ARPA-E_Power_Electronics_Paper-April2018.pdf|accessdate=2023-11-1|work=arpa-e.energy.gov}}</ref>。 デバイスは高出力、高温アプリケーション用に開発されている<ref>{{cite web|title=High-Temperature Electronics|url=https://books.google.com/books?vid=ISBN0780334779|accessdate=2023-11-1|work=books.google.com}}</ref>。である。窒化ガリウムと炭化ケイ素はどちらも、このような用途に適した強力な材料です。シリコン・カーバイド半導体は、その信頼性と製造の容易さにより、ハイブリッド車や電気自動車の充電効率の簡素化と向上、エネルギー損失の低減、太陽光や風力エネルギー・コンバータの長寿命化、かさばる送電網変電所の不要化など、幅広い利用が期待されている<ref>{{cite web|title=Silicon carbide: smaller, faster, tougher|url=https://spectrum.ieee.org/silicon-carbide-smaller-faster-tougher|accessdate=2023-11-1|work=spectrum.ieee.org}}</ref>。それらのほとんどは、宇宙計画や軍事システムなどの特殊用途向けに設計されている。これらの製品は、パワー半導体市場全体におけるシリコンの主導的地位を奪うまでには至っていない。 WBGSは、電子の価電子帯と伝導帯との間に大きな距離を必要とするユニークな材料から作られている、1200-1700V以上の電流を流す。その結果、パワー・コンバータのスイッチ、トランジスタ、パワー・ダイオード、その他のパワー・エレクトロニクス・コンポーネントが進化し、より効率的なパワー・エレクトロニクス・システムが可能になった<ref>{{cite web|title=How Advanced Semiconductor Materials Are Shaping the Future of Power Electronics|url=https://partstack.com/blog/how-advanced-semiconductor-materials-are-shaping-future-power-electronics/|accessdate=2023-11-1|work=partstack.com}}</ref>。 より高輝度で長寿命の白色 LED は、多くの状況で白熱電球に取って代わりました。次世代のDVDプレーヤー(Blu-rayおよびHD DVDフォーマット)は、GaNをベースとした紫外レーザーを使用しています<ref>{{cite web|title=Best Practices for Cataloging DVD-Video and Blu-ray Discs Using RDA and MARC21 Version 1.1|url=https://digitalscholarship.unlv.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1737&context=lib_articles|accessdate=2023-11-1|work=digitalscholarship.unlv.edu}}</ref> ==関連項目== *[[半導体物理学]] *[[エレクトロニクス用語一覧]] == 出典・脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} [[category:半導体|わいときやつふはんとうたい]]
2003-09-08T18:30:47Z
2023-10-31T15:21:17Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93
15,833
ピッツィカート
ピッツィカート(伊: pizzicato)は、ヴァイオリン属などの本来は弓でひく弦楽器(擦弦楽器)の弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法である。日本語の片仮名表記は古くからピチカートが用いられたが、より元の言語の発音に近い表記にした場合は「ピッツィカート」となり、現在は後者も使われている。 歴史的に初めてピッツィカートを求めたのはバロック時代のオペラ作曲家モンテヴェルディだと言われている(『四季』の「冬」では冬の日の冷たい雨だれをピッツィカートで表現している)。しかし当時の演奏者は「ヴァイオリンは弓で弾く楽器として高度に発展しているのに、なぜ野蛮な民俗楽器のような撥弦奏法をしなければいけないのか」と猛反発したという。同様にモンテヴェルディが開発したトレモロ奏法も酷評だったという。どちらも今日ではヴァイオリン属の弦楽器の基本的な奏法の一つとして欠かせない。 いわゆるクラシックで使われる楽譜では、ピッツィカートで演奏を始める箇所に「pizz.」と書かれる。その後で弓による通常の演奏に戻る場合には、その箇所に「arco」(アルコ=弓)と書く必要があるが、前後関係や他の楽器との関係でピッツィカートが一音のみであることが明白な場合はその一音に「pizz.」と書かれるだけの場合もある。 コントラバスにおいては、ポップスやジャズなどで低音部のリズム音源(「ジャズ・ベース:Jazz Bass」と呼ばれることが多い)として多用され、特に曲全体を通して用いられる場合はピッツィカートの指示表記そのものが略され、むしろ逆に、曲の一部で意図的に弓奏法を使う場合にその指示(「arco」もしくは「bow」)がなされる。(「コントラバス」・「フィンガー・ピッキング」の項参照) ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通である。 しかし、イタリアのヴァイオリニストであり作曲家のパガニーニは、本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという「左手のピッツィカート」を導入した。これにより左手のピッツィカートを伴奏に右手で弓で弾くという高度なヴァイオリンの奏法が誕生した。右手のピッツィカートよりも固めの音色である。素早い速さで連続して左手ピッツィカートをしながら滝のように下降するアルペッジョ・ディ・ピッツィカーティと呼ばれる奏法もある。隣接した指ではじくことにより音高は開放弦に限らず自由に得られるが、連続した素早い上行はほぼ不可能である。楽譜上の左手のピッツィカートの記譜はまず「pizz.」を書いた上で音符の上に+印をつける。 バルトークが好んで書いた奏法の俗称で、弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけることである。硬質なアタックを伴う「バチン」という音になる。マーラー「交響曲第7番」に聴かれるように、奏法自体はバルトーク以前からあったが、この指示のために専用の記号を発明してよく使ったため、以後、他の作曲家によってもこの指示が用いられるようになった。音符の直上または直下にその記号が書かれることが多いが、稀に「bartok pizz.」と書かれることもある。 コントラバスにおいてはスラップ奏法と混同されることもあるが、厳密には同じではない。ただし、音響的な効果としては似ているため、代用されることもある。 また、バルトークはピッツィカートとグリッサンドを組み合わせた奏法も生み出し、「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」などで用いた。 左手で弦を押さえた状態でのピッツィカートは音の持続が非常に短く音量も限られるが、開放弦の状態では比較的長く持続する豊かな響きが得られる。特殊な調弦をする場合は別として一定の音程しか得られないが、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」(第2部冒頭、または第1組曲の最終曲)では効果的に使われている。 撥弦楽器は、普段よりヴァイオリン属のピッツィカートに相当する奏法をする楽器である。しかし楽器によっては、ピッツィカート的な音が出る特殊奏法をピッツィカートと呼ぶ。 日本の箏において、大正時代以後の新日本音楽ではピッツィカートと呼ばれる奏法を用いることがある(稀に訛って「ピヂカット」と呼ぶ記述もある)。通常では箏は右手の親指・人差し指・中指に義爪をつけて演奏するが、義爪を嵌めていない薬指(稀に小指)や左手で弦を弾くことを指す。これによりやわらかい音色が得られる。 ギターやハープ、マンドリンでは、右手で弦をはじくとして、左手の指や右手の手のひらで弦に軽く触れた状態で弦をはじくことで、余韻のない音が出る。これをピッツィカートと呼ぶ(ミュート奏法とも呼ばれる)。 クラシックギターでは、さらに近代・現代にこれを煮詰めた奏法が開発され、バイオリン同様にバルトーク奏法も存在する。手法は、バイオリンのそれと近似しており、弦の裏側から指を強くひっかけ、弦がフィンガーボードに反発力でヒットする音を利用する。主に打楽器、ドラムスを模した奏法として活用される。ローラン・ディアンスの「リブラソナチネ」が有名である。 エレキギターでは、ピッツィカートに似たミュート奏法が開発され、様様に分化されている。主なものとして、セーハ(バレー)した左手を意図的に若干浮かせることで、音量を抑え、硬質な音を出す(ブラッシング奏法)、右手の腹部分を弦の尾部にあて流れ適度に消音することで、クリスピーな音を出す(ミュート奏法)などが存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ピッツィカート(伊: pizzicato)は、ヴァイオリン属などの本来は弓でひく弦楽器(擦弦楽器)の弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法である。日本語の片仮名表記は古くからピチカートが用いられたが、より元の言語の発音に近い表記にした場合は「ピッツィカート」となり、現在は後者も使われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "歴史的に初めてピッツィカートを求めたのはバロック時代のオペラ作曲家モンテヴェルディだと言われている(『四季』の「冬」では冬の日の冷たい雨だれをピッツィカートで表現している)。しかし当時の演奏者は「ヴァイオリンは弓で弾く楽器として高度に発展しているのに、なぜ野蛮な民俗楽器のような撥弦奏法をしなければいけないのか」と猛反発したという。同様にモンテヴェルディが開発したトレモロ奏法も酷評だったという。どちらも今日ではヴァイオリン属の弦楽器の基本的な奏法の一つとして欠かせない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "いわゆるクラシックで使われる楽譜では、ピッツィカートで演奏を始める箇所に「pizz.」と書かれる。その後で弓による通常の演奏に戻る場合には、その箇所に「arco」(アルコ=弓)と書く必要があるが、前後関係や他の楽器との関係でピッツィカートが一音のみであることが明白な場合はその一音に「pizz.」と書かれるだけの場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コントラバスにおいては、ポップスやジャズなどで低音部のリズム音源(「ジャズ・ベース:Jazz Bass」と呼ばれることが多い)として多用され、特に曲全体を通して用いられる場合はピッツィカートの指示表記そのものが略され、むしろ逆に、曲の一部で意図的に弓奏法を使う場合にその指示(「arco」もしくは「bow」)がなされる。(「コントラバス」・「フィンガー・ピッキング」の項参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通である。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし、イタリアのヴァイオリニストであり作曲家のパガニーニは、本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという「左手のピッツィカート」を導入した。これにより左手のピッツィカートを伴奏に右手で弓で弾くという高度なヴァイオリンの奏法が誕生した。右手のピッツィカートよりも固めの音色である。素早い速さで連続して左手ピッツィカートをしながら滝のように下降するアルペッジョ・ディ・ピッツィカーティと呼ばれる奏法もある。隣接した指ではじくことにより音高は開放弦に限らず自由に得られるが、連続した素早い上行はほぼ不可能である。楽譜上の左手のピッツィカートの記譜はまず「pizz.」を書いた上で音符の上に+印をつける。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "バルトークが好んで書いた奏法の俗称で、弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけることである。硬質なアタックを伴う「バチン」という音になる。マーラー「交響曲第7番」に聴かれるように、奏法自体はバルトーク以前からあったが、この指示のために専用の記号を発明してよく使ったため、以後、他の作曲家によってもこの指示が用いられるようになった。音符の直上または直下にその記号が書かれることが多いが、稀に「bartok pizz.」と書かれることもある。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コントラバスにおいてはスラップ奏法と混同されることもあるが、厳密には同じではない。ただし、音響的な効果としては似ているため、代用されることもある。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、バルトークはピッツィカートとグリッサンドを組み合わせた奏法も生み出し、「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」などで用いた。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "左手で弦を押さえた状態でのピッツィカートは音の持続が非常に短く音量も限られるが、開放弦の状態では比較的長く持続する豊かな響きが得られる。特殊な調弦をする場合は別として一定の音程しか得られないが、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」(第2部冒頭、または第1組曲の最終曲)では効果的に使われている。", "title": "特殊な奏法" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "撥弦楽器は、普段よりヴァイオリン属のピッツィカートに相当する奏法をする楽器である。しかし楽器によっては、ピッツィカート的な音が出る特殊奏法をピッツィカートと呼ぶ。", "title": "撥弦楽器のピッツィカート" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本の箏において、大正時代以後の新日本音楽ではピッツィカートと呼ばれる奏法を用いることがある(稀に訛って「ピヂカット」と呼ぶ記述もある)。通常では箏は右手の親指・人差し指・中指に義爪をつけて演奏するが、義爪を嵌めていない薬指(稀に小指)や左手で弦を弾くことを指す。これによりやわらかい音色が得られる。", "title": "撥弦楽器のピッツィカート" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ギターやハープ、マンドリンでは、右手で弦をはじくとして、左手の指や右手の手のひらで弦に軽く触れた状態で弦をはじくことで、余韻のない音が出る。これをピッツィカートと呼ぶ(ミュート奏法とも呼ばれる)。", "title": "撥弦楽器のピッツィカート" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "クラシックギターでは、さらに近代・現代にこれを煮詰めた奏法が開発され、バイオリン同様にバルトーク奏法も存在する。手法は、バイオリンのそれと近似しており、弦の裏側から指を強くひっかけ、弦がフィンガーボードに反発力でヒットする音を利用する。主に打楽器、ドラムスを模した奏法として活用される。ローラン・ディアンスの「リブラソナチネ」が有名である。", "title": "撥弦楽器のピッツィカート" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "エレキギターでは、ピッツィカートに似たミュート奏法が開発され、様様に分化されている。主なものとして、セーハ(バレー)した左手を意図的に若干浮かせることで、音量を抑え、硬質な音を出す(ブラッシング奏法)、右手の腹部分を弦の尾部にあて流れ適度に消音することで、クリスピーな音を出す(ミュート奏法)などが存在する。", "title": "撥弦楽器のピッツィカート" } ]
ピッツィカートは、ヴァイオリン属などの本来は弓でひく弦楽器(擦弦楽器)の弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法である。日本語の片仮名表記は古くからピチカートが用いられたが、より元の言語の発音に近い表記にした場合は「ピッツィカート」となり、現在は後者も使われている。
{{出典の明記|date=2017年12月4日 (月) 15:26 (UTC)}} {{Redirect|ピチカート|[[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]]のアルバム|ピチカート (アルバム)}} {{Sound|Violin_pizzicato.ogg|ヴァイオリンのピッツィカート}} '''ピッツィカート'''({{lang-it-short|pizzicato}})は、[[ヴァイオリン属]]などの本来は[[弓 (楽器)|弓]]でひく[[弦楽器]]([[擦弦楽器]])の弦を指ではじくことによって音を出す[[奏法|演奏技法]]である。日本語の[[片仮名]]表記は古くから'''ピチカート'''が用いられたが、より元の言語の発音に近い表記にした場合は「ピッツィカート」となり、現在は後者も使われている。 == 概要 == 歴史的に初めてピッツィカートを求めたのは[[バロック音楽|バロック時代]]の[[オペラ]]作曲家[[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]だと言われている(『[[四季_(ヴィヴァルディ)|四季]]』の「冬」では冬の日の冷たい雨だれをピッツィカートで表現している)。しかし当時の演奏者は「ヴァイオリンは弓で弾く楽器として高度に発展しているのに、なぜ野蛮な民俗楽器のような撥弦奏法をしなければいけないのか」と猛反発したという。同様にモンテヴェルディが開発した[[トレモロ]]奏法も酷評だったという。どちらも今日ではヴァイオリン属の弦楽器の基本的な奏法の一つとして欠かせない。 いわゆる[[クラシック音楽|クラシック]]で使われる[[楽譜]]では、ピッツィカートで演奏を始める箇所に「pizz.」と書かれる。その後で弓による通常の演奏に戻る場合には、その箇所に「arco」(アルコ=弓)と書く必要があるが、前後関係や他の楽器との関係でピッツィカートが一音のみであることが明白な場合はその一音に「pizz.」と書かれるだけの場合もある。 [[コントラバス]]においては、[[ポピュラー音楽|ポップス]]や[[ジャズ]]などで低音部のリズム音源(「ジャズ・ベース:Jazz Bass」と呼ばれることが多い)として多用され、特に曲全体を通して用いられる場合はピッツィカートの指示表記そのものが略され、むしろ逆に、曲の一部で意図的に弓奏法を使う場合にその指示(「arco」もしくは「bow」)がなされる。(「[[コントラバス]]」・「[[フィンガー・ピッキング]]」の項参照) == 特殊な奏法 == === 左手のピッツィカート === ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通である。 しかし、[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]であり作曲家の[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]は、本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという「左手のピッツィカート」を導入した。これにより左手のピッツィカートを伴奏に右手で弓で弾くという高度なヴァイオリンの奏法が誕生した。右手のピッツィカートよりも固めの音色である。素早い速さで連続して左手ピッツィカートをしながら滝のように下降するアルペッジョ・ディ・ピッツィカーティと呼ばれる奏法もある。隣接した指ではじくことにより音高は開放弦に限らず自由に得られるが、連続した素早い上行はほぼ不可能である。楽譜上の左手のピッツィカートの記譜はまず「pizz.」を書いた上で[[音符]]の上に+印をつける。 === バルトーク・ピッツィカート === [[File:Bartok pizzicato.svg|150px|thumb|バルトーク・ピッツィカートの記号]] [[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]が好んで書いた奏法の俗称で、弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけることである。硬質なアタックを伴う「バチン」という音になる。[[グスタフ・マーラー|マーラー]]「[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番]]」に聴かれるように、奏法自体はバルトーク以前からあったが、この指示のために専用の記号を発明してよく使ったため、以後、他の作曲家によってもこの指示が用いられるようになった。音符の直上または直下にその記号が書かれることが多いが、稀に「bartok pizz.」と書かれることもある。 コントラバスにおいては[[スラップ奏法]]と混同されることもあるが、厳密には同じではない。ただし、音響的な効果としては似ているため、代用されることもある。 また、バルトークはピッツィカートと[[グリッサンド]]を組み合わせた奏法も生み出し、「[[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽]]」などで用いた。 === 開放弦のピッツィカート === 左手で弦を押さえた状態でのピッツィカートは音の持続が非常に短く音量も限られるが、[[開放弦]]の状態では比較的長く持続する豊かな響きが得られる。特殊な調弦をする場合は別として一定の音程しか得られないが、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の「[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]」(第2部冒頭、または第1組曲の最終曲)では効果的に使われている。 == 撥弦楽器のピッツィカート == [[撥弦楽器]]は、普段よりヴァイオリン属のピッツィカートに相当する奏法をする楽器である。しかし楽器によっては、ピッツィカート的な音が出る特殊奏法をピッツィカートと呼ぶ。 === 箏 === 日本の[[箏]]において、[[大正]]時代以後の[[新日本音楽]]ではピッツィカートと呼ばれる奏法を用いることがある(稀に訛って「ピヂカット」と呼ぶ記述もある)。通常では箏は右手の親指・人差し指・中指に義爪をつけて演奏するが、義爪を嵌めていない薬指(稀に小指)や左手で弦を弾くことを指す。これによりやわらかい音色が得られる。 === ギター、ハープ、マンドリン === [[ギター]]や[[ハープ]]、[[マンドリン]]では、右手で弦をはじくとして、左手の指や右手の手のひらで弦に軽く触れた状態で弦をはじくことで、余韻のない音が出る。これをピッツィカートと呼ぶ(ミュート奏法とも呼ばれる)。 クラシックギターでは、さらに近代・現代にこれを煮詰めた奏法が開発され、バイオリン同様にバルトーク奏法も存在する。手法は、バイオリンのそれと近似しており、弦の裏側から指を強くひっかけ、弦がフィンガーボードに反発力でヒットする音を利用する。主に打楽器、ドラムスを模した奏法として活用される。[[ローラン・ディアンス]]の「[[リブラソナチネ]]」が有名である。 エレキギターでは、ピッツィカートに似たミュート奏法が開発され、様様に分化されている。主なものとして、セーハ(バレー)した左手を意図的に若干浮かせることで、音量を抑え、硬質な音を出す([[ブラッシング奏法]])、右手の腹部分を弦の尾部にあて流れ適度に消音することで、クリスピーな音を出す(ミュート奏法)などが存在する。 == 関連項目 == * [[フィンガー・ピッキング]] * [[ピツィカート・ポルカ]](全曲がピッツィカートで演奏される曲、[[ヨハン・シュトラウス2世]]と[[ヨーゼフ・シュトラウス]]合作) * [[新ピチカートポルカ|新ピツィカート・ポルカ]](ヨハン・シュトラウス2世単独作品) * [[クロンチョン]] {{DEFAULTSORT:ひついかあと}} [[Category:演奏技法]] [[Category:弦楽器]] [[Category:イタリア語の語句]]
null
2021-05-04T12:46:06Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Redirect", "Template:Sound", "Template:Lang-it-short" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
15,834
フラジオレット
フラジオレットまたはフラジョレット (flageolet, flagioletto) は、西洋音楽において、各種の楽器の特殊奏法の一つ、あるいはその特殊な奏法により出される音である。 特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで、楽器のフラジオレットの特徴ある音色に似せた柔和な音を出す。フラジオレットに似せた音からこの名となった。倍音が発生するよう発音していることから、英語ではハーモニクス、日本語では倍音奏法・ハーモニクス奏法とも言う。 様々な楽器においてそれぞれ独特のフラジオレットがあり、それは古くから、楽器の表情を多彩にするための基本的な特殊奏法だった。したがって、奏者が必ず身に着けなければならない基本的な奏法として普及し定着し、特殊奏法とは呼ばないほどだった。 英語ではハーモニクス、日本語では倍音奏法とも言うほか、オーバーブロー(overblow)とも言う。 パイプオルガンでよく使用されるストップ(音色)に「フラジオレット」がある。これは、管の中央に風が抜ける穴を開けてあり、管長に対して第二倍音を聞かせるような発音がなされる意匠のストップである。これと同様に、フルート属でのフラジオレットは、一般的には吹き方を変えて第二倍音を聞かせる手法であるが、第二倍音よりも高い倍音を聞かせる場合も多種あり、その表情は、強音で多くの噪音を含むものもある。 金管楽器においては、通常聞いている音は倍音であり、基音は英語でペダル・ノートと称され、逆にペダル・ノートの方が珍しい位置づけのようにされているが、実際にはペダル・ノートが楽器本来の音であり、様々な倍音を奏することで金管楽器からあらゆる音が得られるようになっている。金管楽器においてはハーモニクスが通常の音であることから、金管楽器でフラジオレットやハーモニクスと呼ぶ特殊な奏法はない。 弦を指板にまで押さえつけず軽く触れる程度で弾くと、触れた箇所を節とする倍音だけが鳴る(触れた箇所が腹となる振動が抑制される)。これがフラジオレット奏法である。音によっては、高次倍音が通常の奏法より発生せず純音に近い音になるものも見受けられる。中音と高音におけるフラジオレットの特色は異なり、中音におけるフラジオレットは噪音の領域ともみなされるサラサラという高次倍音を僅かに含む柔和な音色が特徴であるが、高音におけるフラジオレットは通常の奏法による高音よりも柔和な音色で、中音におけるフラジオレットのようには多くの噪音を含まず、透明感のある魅惑的な美音を聴く者に印象づける表現力を有している。この奏法を楽譜上で示す記号は、○を音符の「玉」の「棒」とは反対側に添える。 開放弦の2等分点、3等分点、4等分点(のうち、2等分点と重なるところを除く)(並びに、希に5等分点)に軽く触れて出すフラジオレットを自然フラジオレットという。 開放弦ではなく、指を押さえた上で、余った指で弦の4等分点に触れる奏法を人工フラジオレットと呼ぶ。普通、(左手の)人差し指で弦を強く押さえ、強く押さえればその完全4度上の音が出る部分に、小指で軽く触れる。出る音は、強く押さえた指の音の2オクターブ上の音である。楽譜では、強く押さえる音を普通の音符で書き、その完全4度上の音に相当する音を◇で表示する(実際に出る音は書かない)。 まれに、弦の3等分点に触れる奏法が用いられる。完全5度上に軽く触れることで1オクターブと完全5度上の音が出る。 主にナチュラル・ハーモニクスと、アーティフィシャル・ハーモニクスを同時に弾いて、ハーモニクスで重音をつくる奏法。綺麗に演奏するには指や手のサイズの影響する所が大きい上に、演奏環境によっては、完璧に決まらない事がある等、ヴァイオリンにおける超高難易度の奏法。 ギターの場合、フラジオレットではなくハーモニクスとよばれる。 弦長の1/n(nは任意の正整数)の位置にあるフレットに軽く触れた状態で弾弦するとハーモニクス音を出すことができる。例えば弦長の1/2は12フレット(以下f)、1/3は7fと19f、1/4は5fと24fである。フレット位置が異なってもnが同じ場合(例えば7fと19fや、5fと24f)、倍音は同音高になる。 クラシックギター、アコースティックギターで主に使われるのは5f、7f、12fでの倍音であり、4f、9fでの倍音も比較的よく使われる。エレキギターでは他のギターと比べてフレット数が多いため更にさまざまな位置が使われる。 正しく設計されたギターでは、12fのハーモニクス音と12fを押さえた音は多少音質が違うもののほぼ同音高になる(ギターのフレット位置の良否の目安となる)。 エレキギターの奏法。弦を弾く際にピックを持った親指を弦に一瞬触れさせて、倍音を出す。押さえたフレットからブリッジまでの間の1/nの位置で弾くと倍音を出しやすい。ジャズにおいては押さえたフレットとブリッジの中間点を弾き、正確に1オクターブ上の音を出す奏法が好まれ、ロック、ヘヴィーメタルにおいてはネックに近いポジションを押弦し、ブリッジに近いポジションを弾き、音階を意識せず高音を出す奏法が好まれる。 主にエレキギターで使われる奏法。任意のフレットを押さえて(開放弦でも可)発音した後に、右手の中指などで弦に軽く触れて倍音を出す。タッピング奏法の派生技といえる。1/2の位置を軽く触れるのが最も弦の振動を弱めずに済み、倍音を出しやすい。 ハーモニクスをアーミングの前後に用いることも可能である。また、ピッキング・ハーモニクスやタッチ・ハーモニクスはチョーキングの前後にも用いることができる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フラジオレットまたはフラジョレット (flageolet, flagioletto) は、西洋音楽において、各種の楽器の特殊奏法の一つ、あるいはその特殊な奏法により出される音である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで、楽器のフラジオレットの特徴ある音色に似せた柔和な音を出す。フラジオレットに似せた音からこの名となった。倍音が発生するよう発音していることから、英語ではハーモニクス、日本語では倍音奏法・ハーモニクス奏法とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "様々な楽器においてそれぞれ独特のフラジオレットがあり、それは古くから、楽器の表情を多彩にするための基本的な特殊奏法だった。したがって、奏者が必ず身に着けなければならない基本的な奏法として普及し定着し、特殊奏法とは呼ばないほどだった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語ではハーモニクス、日本語では倍音奏法とも言うほか、オーバーブロー(overblow)とも言う。", "title": "木管楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "パイプオルガンでよく使用されるストップ(音色)に「フラジオレット」がある。これは、管の中央に風が抜ける穴を開けてあり、管長に対して第二倍音を聞かせるような発音がなされる意匠のストップである。これと同様に、フルート属でのフラジオレットは、一般的には吹き方を変えて第二倍音を聞かせる手法であるが、第二倍音よりも高い倍音を聞かせる場合も多種あり、その表情は、強音で多くの噪音を含むものもある。", "title": "木管楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "金管楽器においては、通常聞いている音は倍音であり、基音は英語でペダル・ノートと称され、逆にペダル・ノートの方が珍しい位置づけのようにされているが、実際にはペダル・ノートが楽器本来の音であり、様々な倍音を奏することで金管楽器からあらゆる音が得られるようになっている。金管楽器においてはハーモニクスが通常の音であることから、金管楽器でフラジオレットやハーモニクスと呼ぶ特殊な奏法はない。", "title": "金管楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "弦を指板にまで押さえつけず軽く触れる程度で弾くと、触れた箇所を節とする倍音だけが鳴る(触れた箇所が腹となる振動が抑制される)。これがフラジオレット奏法である。音によっては、高次倍音が通常の奏法より発生せず純音に近い音になるものも見受けられる。中音と高音におけるフラジオレットの特色は異なり、中音におけるフラジオレットは噪音の領域ともみなされるサラサラという高次倍音を僅かに含む柔和な音色が特徴であるが、高音におけるフラジオレットは通常の奏法による高音よりも柔和な音色で、中音におけるフラジオレットのようには多くの噪音を含まず、透明感のある魅惑的な美音を聴く者に印象づける表現力を有している。この奏法を楽譜上で示す記号は、○を音符の「玉」の「棒」とは反対側に添える。", "title": "ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "開放弦の2等分点、3等分点、4等分点(のうち、2等分点と重なるところを除く)(並びに、希に5等分点)に軽く触れて出すフラジオレットを自然フラジオレットという。", "title": "ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開放弦ではなく、指を押さえた上で、余った指で弦の4等分点に触れる奏法を人工フラジオレットと呼ぶ。普通、(左手の)人差し指で弦を強く押さえ、強く押さえればその完全4度上の音が出る部分に、小指で軽く触れる。出る音は、強く押さえた指の音の2オクターブ上の音である。楽譜では、強く押さえる音を普通の音符で書き、その完全4度上の音に相当する音を◇で表示する(実際に出る音は書かない)。", "title": "ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "まれに、弦の3等分点に触れる奏法が用いられる。完全5度上に軽く触れることで1オクターブと完全5度上の音が出る。", "title": "ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "主にナチュラル・ハーモニクスと、アーティフィシャル・ハーモニクスを同時に弾いて、ハーモニクスで重音をつくる奏法。綺麗に演奏するには指や手のサイズの影響する所が大きい上に、演奏環境によっては、完璧に決まらない事がある等、ヴァイオリンにおける超高難易度の奏法。", "title": "ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ギターの場合、フラジオレットではなくハーモニクスとよばれる。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "弦長の1/n(nは任意の正整数)の位置にあるフレットに軽く触れた状態で弾弦するとハーモニクス音を出すことができる。例えば弦長の1/2は12フレット(以下f)、1/3は7fと19f、1/4は5fと24fである。フレット位置が異なってもnが同じ場合(例えば7fと19fや、5fと24f)、倍音は同音高になる。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "クラシックギター、アコースティックギターで主に使われるのは5f、7f、12fでの倍音であり、4f、9fでの倍音も比較的よく使われる。エレキギターでは他のギターと比べてフレット数が多いため更にさまざまな位置が使われる。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "正しく設計されたギターでは、12fのハーモニクス音と12fを押さえた音は多少音質が違うもののほぼ同音高になる(ギターのフレット位置の良否の目安となる)。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "エレキギターの奏法。弦を弾く際にピックを持った親指を弦に一瞬触れさせて、倍音を出す。押さえたフレットからブリッジまでの間の1/nの位置で弾くと倍音を出しやすい。ジャズにおいては押さえたフレットとブリッジの中間点を弾き、正確に1オクターブ上の音を出す奏法が好まれ、ロック、ヘヴィーメタルにおいてはネックに近いポジションを押弦し、ブリッジに近いポジションを弾き、音階を意識せず高音を出す奏法が好まれる。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "主にエレキギターで使われる奏法。任意のフレットを押さえて(開放弦でも可)発音した後に、右手の中指などで弦に軽く触れて倍音を出す。タッピング奏法の派生技といえる。1/2の位置を軽く触れるのが最も弦の振動を弱めずに済み、倍音を出しやすい。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ハーモニクスをアーミングの前後に用いることも可能である。また、ピッキング・ハーモニクスやタッチ・ハーモニクスはチョーキングの前後にも用いることができる。", "title": "ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)" } ]
フラジオレットまたはフラジョレット は、西洋音楽において、各種の楽器の特殊奏法の一つ、あるいはその特殊な奏法により出される音である。 特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで、楽器のフラジオレットの特徴ある音色に似せた柔和な音を出す。フラジオレットに似せた音からこの名となった。倍音が発生するよう発音していることから、英語ではハーモニクス、日本語では倍音奏法・ハーモニクス奏法とも言う。 様々な楽器においてそれぞれ独特のフラジオレットがあり、それは古くから、楽器の表情を多彩にするための基本的な特殊奏法だった。したがって、奏者が必ず身に着けなければならない基本的な奏法として普及し定着し、特殊奏法とは呼ばないほどだった。
{{otheruseslist|弦楽器の奏法|木管楽器|フラジオレット (楽器)|声楽の唱法|ファルセット#声種的適用}} {{独自研究|date=2009年4月}} {{出典の明記|date=2015年4月}} '''フラジオレット'''または'''フラジョレット''' ({{fr|flageolet}}, {{it|flagioletto}}) は、[[西洋音楽]]において、各種の[[楽器]]の[[特殊奏法]]の一つ、あるいはその特殊な奏法により出される音である。 特定の[[倍音]]が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで、[[楽器]]の[[フラジオレット (楽器)|フラジオレット]]の特徴ある音色に似せた柔和な音を出す。<!--特殊な奏法、あるいはその特殊な奏法により出される音である-->[[フラジオレット (楽器)|フラジオレット]]に似せた音からこの名となった。[[倍音]]が発生するよう発音していることから、[[英語]]では[[ハーモニクス奏法|ハーモニクス]]、日本語では倍音奏法・ハーモニクス奏法とも言う。 様々な楽器においてそれぞれ独特のフラジオレットがあり、それは古くから、楽器の表情を多彩にするための基本的な[[特殊奏法]]だった。したがって、奏者が必ず身に着けなければならない基本的な奏法として普及し定着し、特殊奏法とは呼ばないほどだった。 == 木管楽器でのフラジオレット == [[英語]]では[[ハーモニクス奏法|ハーモニクス]]、日本語では倍音奏法とも言うほか、オーバーブロー(overblow)とも言う。 === フルート属でのフラジオレット === [[パイプオルガン]]でよく使用される[[ストップ (オルガン)|ストップ]](音色)に「フラジオレット」がある。これは、管の中央に風が抜ける穴を開けてあり、管長に対して第二倍音を聞かせるような発音がなされる意匠のストップである。これと同様に、フルート属でのフラジオレットは、一般的には吹き方を変えて第二倍音を聞かせる手法であるが、第二倍音よりも高い倍音を聞かせる場合も多種あり、その表情は、強音で多くの[[ノイズ|噪音]]を含むものもある。 == 金管楽器でのフラジオレット == [[金管楽器]]においては、通常聞いている音は倍音であり、基音は[[英語]]で[[ペダル・ノート]]と称され、逆に[[ペダル・ノート]]の方が珍しい位置づけのようにされているが、実際には[[ペダル・ノート]]が楽器本来の音であり、様々な倍音を奏することで金管楽器からあらゆる音が得られるようになっている。[[金管楽器]]においてはハーモニクスが通常の音であることから、[[金管楽器]]でフラジオレットやハーモニクスと呼ぶ特殊な奏法はない。 == ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット == 弦を[[指板]]にまで押さえつけず軽く触れる程度で弾くと、触れた箇所を節とする倍音だけが鳴る(触れた箇所が腹となる振動が抑制される)。これがフラジオレット奏法である。音によっては、高次倍音が通常の奏法より発生せず[[純音]]に近い音になるものも見受けられる。中音と高音におけるフラジオレットの特色は異なり、中音におけるフラジオレットは[[ノイズ|噪音]]の領域ともみなされるサラサラという高次[[倍音]]を僅かに含む柔和な音色が特徴であるが、高音におけるフラジオレットは通常の奏法による高音よりも柔和な音色で、中音におけるフラジオレットのようには多くの[[ノイズ|噪音]]を含まず、透明感のある魅惑的な美音を聴く者に印象づける表現力を有している。この奏法を[[楽譜]]上で示す記号は、[[丸印|○]]を音符の「玉」の「棒」とは反対側に添える。 === 自然フラジオレット(ナチュラル・ハーモニクス) === 開放弦の2等分点、3等分点、4等分点(のうち、2等分点と重なるところを除く)(並びに、希に5等分点)に軽く触れて出すフラジオレットを自然フラジオレットという。 ; 2等分点 : 開放弦の第2倍音、すなわち開放弦の1オクターブ上の音が出る。触れるところは、強く押さえると開放弦の1オクターブ上の音が出る部分である。(実際には軽く触れるだけで、指の位置が駒の方に若干移動する。以下同じ) ; 3等分点 : 開放弦の第3倍音、すなわち開放弦の[[音程|1オクターブと完全5度]]上の音が出る。触れるところは、強く押さえると開放弦の1オクターブと完全5度上の音が出る部分、または開放弦の完全5度上の音が出る部分である。後者の場合、楽譜では完全5度上の音に相当する音を[[ダイヤ (シンボル)|◇]]で表示する(実際に出る音は書かない)。 ; 4等分点 : 開放弦の第4倍音、すなわち開放弦の2オクターブ上の音が出る。触れるところは、強く押さえると開放弦の2オクターブ上の音が出る部分、または開放弦の完全4度上の音が出る部分である。後者の場合、楽譜では完全4度上の音に相当する音を◇で表示する(実際に出る音は書かない)。 ; 5等分点 : あまり使われない。開放弦の第5倍音、すなわち開放弦の[[音程|2オクターブと長3度]]上の音が出る。触れるところは、強く押さえると開放弦の2オクターブと長3度上の音が出る部分、または開放弦の長3度上の音が出る部分である。理論上、他にも2点あるが、使うことは滅多にない。 === 人工フラジオレット(アーティフィシャル・ハーモニクス) === 開放弦ではなく、指を押さえた上で、余った指で弦の4等分点に触れる奏法を人工フラジオレットと呼ぶ。普通、(左手の)人差し指で弦を強く押さえ、強く押さえればその完全4度上の音が出る部分に、小指で軽く触れる。出る音は、強く押さえた指の音の2オクターブ上の音である。楽譜では、強く押さえる音を普通の音符で書き、その完全4度上の音に相当する音を◇で表示する(実際に出る音は書かない)。 まれに、弦の3等分点に触れる奏法が用いられる。完全5度上に軽く触れることで1オクターブと完全5度上の音が出る。 === ダブル・ハーモニクス === 主にナチュラル・ハーモニクスと、アーティフィシャル・ハーモニクスを同時に弾いて、ハーモニクスで重音をつくる奏法。綺麗に演奏するには指や手のサイズの影響する所が大きい上に、演奏環境によっては、完璧に決まらない事がある等、ヴァイオリンにおける超高難易度の奏法。 == ギターでのフラジオレット(ハーモニクス) == ギターの場合、フラジオレットではなく'''ハーモニクス'''とよばれる。 弦長の1/n(nは任意の正整数)の位置にあるフレットに軽く触れた状態で弾弦するとハーモニクス音を出すことができる。例えば弦長の1/2は12フレット(以下f)、1/3は7fと19f、1/4は5fと24fである。フレット位置が異なってもnが同じ場合(例えば7fと19fや、5fと24f)、倍音は同音高になる。 [[クラシックギター]]、[[アコースティックギター]]で主に使われるのは5f、7f、12fでの倍音であり、4f、9fでの倍音も比較的よく使われる。エレキギターでは他のギターと比べてフレット数が多いため更にさまざまな位置が使われる。 正しく設計されたギターでは、12fのハーモニクス音と12fを押さえた音は多少音質が違うもののほぼ同音高になる(ギターのフレット位置の良否の目安となる)。 === ハーモニクス・エフェクト(ピッキング・ハーモニクス) === [[エレキギター]]の奏法。弦を弾く際にピックを持った親指を弦に一瞬触れさせて、倍音を出す。押さえたフレットからブリッジまでの間の1/nの位置で弾くと倍音を出しやすい。ジャズにおいては押さえたフレットとブリッジの中間点を弾き、正確に1オクターブ上の音を出す奏法が好まれ、ロック、ヘヴィーメタルにおいてはネックに近いポジションを押弦し、ブリッジに近いポジションを弾き、音階を意識せず高音を出す奏法が好まれる。 === タッチ・ハーモニクス === 主にエレキギターで使われる奏法。任意のフレットを押さえて([[開放弦]]でも可)発音した後に、右手の中指などで弦に軽く触れて倍音を出す。[[タッピング奏法]]の派生技といえる。1/2の位置を軽く触れるのが最も弦の振動を弱めずに済み、倍音を出しやすい。 ハーモニクスを[[アーミング]]の前後に用いることも可能である。また、ピッキング・ハーモニクスやタッチ・ハーモニクスは[[チョーキング]]の前後にも用いることができる。 == 関連項目 == * [[フラジオレット (楽器)]] * [[ハーモニクス]] * [[倍音]] * [[特殊奏法]] * [[さわり]]([[三味線]]) * {{仮リンク|ジュワリ|en|Jivari}}([[シタール]]) * [https://www.asahi.com/articles/ASR8H747BR66UKJH003.html バイオリンの音色を数理的に研究、国際大会で受賞 札幌の田中さん(朝日新聞2023年8月17日)] {{DEFAULTSORT:ふらしおれつと}} [[Category:演奏技法]] [[Category:ギターの奏法]] [[Category:管楽器]] [[Category:弦楽器]]
2003-09-08T18:51:12Z
2023-08-17T13:06:55Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Fr", "Template:It", "Template:仮リンク", "Template:Otheruseslist", "Template:独自研究" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88
15,835
ポルタメント
ポルタメント (portamento) は、ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法である。旋律を情感豊かに歌うために使用される。 イタリア語の"portar la voce "、フランス語の"port de voix "(いずれも「声を運ぶ」の意味)に由来し、声楽やヴァイオリンなど擦弦楽器の表現方法であった。現在は管楽器や電子楽器でも使用される。 近年では抑制される傾向があり、乱用は悪趣味であるとされる。 技術的にはグリッサンドと全く同じである。 トロンボーンでは呼気を切らずにスライドを伸縮したり、尺八では徐々に指孔を拡げることで、弦楽器ではバイオリン、三味線、一絃琴などは弦の上で指を滑らせたり、または箏やシタールなどでは指で押さえる張力を変えて、行うことができる。管楽器は指を滑らす、もしくは息やアンブシュアをコントロールして行う事が可能である。ただし技術的に不可能な音域もある。ギターではチョーキング、スライドギターなどの奏法を使う。シンセサイザーでは、ほとんどの機種に搭載されオンオフで切り替えられる。 特に邦楽、インド音楽、中国音楽などアジアの芸術音楽では多用され、重要な音楽表現技法である。 グリッサンドと同一視されることも多いが、区別すれば、グリッサンドがおおむね、2音間を等速に移行するのに対し、ポルタメントでは、次の音に移る寸前に渡りをつけるようにして移行する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポルタメント (portamento) は、ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法である。旋律を情感豊かに歌うために使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イタリア語の\"portar la voce \"、フランス語の\"port de voix \"(いずれも「声を運ぶ」の意味)に由来し、声楽やヴァイオリンなど擦弦楽器の表現方法であった。現在は管楽器や電子楽器でも使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近年では抑制される傾向があり、乱用は悪趣味であるとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "技術的にはグリッサンドと全く同じである。 トロンボーンでは呼気を切らずにスライドを伸縮したり、尺八では徐々に指孔を拡げることで、弦楽器ではバイオリン、三味線、一絃琴などは弦の上で指を滑らせたり、または箏やシタールなどでは指で押さえる張力を変えて、行うことができる。管楽器は指を滑らす、もしくは息やアンブシュアをコントロールして行う事が可能である。ただし技術的に不可能な音域もある。ギターではチョーキング、スライドギターなどの奏法を使う。シンセサイザーでは、ほとんどの機種に搭載されオンオフで切り替えられる。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "特に邦楽、インド音楽、中国音楽などアジアの芸術音楽では多用され、重要な音楽表現技法である。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "グリッサンドと同一視されることも多いが、区別すれば、グリッサンドがおおむね、2音間を等速に移行するのに対し、ポルタメントでは、次の音に移る寸前に渡りをつけるようにして移行する。", "title": "グリッサンドとの区別" } ]
ポルタメント (portamento) は、ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法である。旋律を情感豊かに歌うために使用される。 イタリア語の"portar la voce "、フランス語の"port de voix "(いずれも「声を運ぶ」の意味)に由来し、声楽やヴァイオリンなど擦弦楽器の表現方法であった。現在は管楽器や電子楽器でも使用される。 近年では抑制される傾向があり、乱用は悪趣味であるとされる。
'''ポルタメント''' (''portamento'') は、ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法である。旋律を情感豊かに歌うために使用される。 イタリア語の"'''''portar la voce''''' "、フランス語の"'''''port de voix '''''"(いずれも「'''声を運ぶ'''」の意味)に由来し、[[声楽]]や[[ヴァイオリン]]など[[擦弦楽器]]の表現方法であった。現在は管楽器や電子楽器でも使用される。 {{いつ範囲|date=2023年3月|近年では}}抑制される傾向があり、乱用は悪趣味であるとされる<ref name=jiten>『標準音楽辞典』音楽之友社、1966年</ref>。 ==奏法== 技術的には[[グリッサンド]]と全く同じである。 [[トロンボーン]]では呼気を切らずにスライドを伸縮したり、[[尺八]]では徐々に指孔を拡げることで、[[弦楽器]]では[[ヴァイオリン|バイオリン]]、[[三味線]]、[[一絃琴]]などは弦の上で指を滑らせたり、または[[箏]]や[[シタール]]などでは指で押さえる張力を変えて、行うことができる。管楽器は指を滑らす、もしくは息やアンブシュアをコントロールして行う事が可能である。ただし技術的に不可能な音域もある。ギターでは[[チョーキング]]、[[スライドギター]]などの奏法を使う。[[シンセサイザー]]では、ほとんどの機種に搭載されオンオフで切り替えられる。 特に[[邦楽]]、インド音楽、中国音楽などアジアの芸術音楽では多用され、重要な音楽表現技法である。 ==グリッサンドとの区別== [[グリッサンド]]と同一視されることも多いが、区別すれば、グリッサンドがおおむね、2音間を等速に移行するのに対し、ポルタメントでは、次の音に移る寸前に渡りをつけるようにして移行する<ref>『音楽通論』教育芸術社、1994年、63~64ページ</ref>。 ==関連項目== *[[グリッサンド]] *[[ピッチベンド]] ==脚注== <references/> {{DEFAULTSORT:ほるためんと}} [[Category:演奏技法]] [[Category:弦楽器]]
null
2023-03-15T08:52:22Z
false
false
false
[ "Template:いつ範囲" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
15,836
国姓爺合戦
国姓爺合戦(こくせんやかっせん)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国姓爺合戦(こくせんやかっせん)", "title": null } ]
国姓爺合戦(こくせんやかっせん) 正徳5年 (1715) に大坂竹本座で初演された、近松門左衛門作の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目の、原案の時点における題。物語は実在の国姓爺こと鄭成功の生涯に沿いながらも、その結末は史実とは大幅に異なるものとなったため、初演直前に「国姓爺」を「国性爺」と直したとされている。 →『国性爺合戦』の項を参照。 昭和15年 (1940) に公開された、木村恵吾監督、市川右太衛門主演の新興キネマ 京都撮影所製作の映画。→『国姓爺合戦 (1940年の映画)』の項を参照。 平成13年 (2001) に公開された、呉子牛監督、チウ・マンチェク主演の日中合作映画の劇場公開時タイトル。DVDタイトルは『英雄 国姓爺合戦』。 →『国姓爺合戦 (2001年の映画)』の項を参照。
'''国姓爺合戦'''(こくせんやかっせん) *[[正徳 (日本)|正徳]]5年 (1715) に[[大坂]][[竹本座]]で初演された、[[近松門左衛門]]作の[[人形浄瑠璃]]および[[歌舞伎]]の演目の、原案の時点における題。物語は実在の国姓爺こと[[鄭成功]]の生涯に沿いながらも、その結末は史実とは大幅に異なるものとなったため、初演直前に「国'''姓'''爺」を「国'''性'''爺」と直したとされている。 →『[[国性爺合戦]]』の項を参照。 *[[昭和]]15年 (1940) に公開された、[[木村恵吾]]監督、[[市川右太衛門]]主演の[[新興キネマ]] [[新興キネマ京都撮影所|京都撮影所]]製作の映画。→『[[国姓爺合戦 (1940年の映画)]]』の項を参照。 *[[平成]]13年 (2001) に公開された、[[呉子牛]]監督、[[チウ・マンチェク]]主演の日中合作映画の劇場公開時タイトル。DVDタイトルは『英雄 国姓爺合戦』。 →『[[国姓爺合戦 (2001年の映画)]]』の項を参照。 {{aimai}} {{デフォルトソート:こくせんやかつせん}}
null
2020-11-25T05:13:39Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A7%93%E7%88%BA%E5%90%88%E6%88%A6
15,839
伯爵
伯爵(はくしゃく、仏: comte、英: count, earl、独: Graf)は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第3位。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳にも使われる。 1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。 1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。伯爵は公侯爵に次ぐ第三位であり、位階では従二位相当である。叙爵内規では伯爵の叙爵基準について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」と定めていた。伯爵家の数は1884年時点では76家(華族家の総数509家)、1907年には100家(同903家)、1928年時に108家(同954家)、1947年時には105家(889家)だった。 中間の爵位である伯爵は様々な面で分岐点になっていた。例えば後に詳述するが貴族院議員は公侯爵が無選挙・無給・終身、伯爵以下が互選・有給・任期7年となっていた。新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた。宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより伯爵位を含めた華族制度は廃止された。 1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵議員17人、子爵議員70人、男爵議員56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人以内、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には伯爵議員の議席数は18議席となった。 伯爵以下議員は同爵者間の互選になっていたため貴族院内は爵位ごとに院内会派が形成されるようになり、伯爵議員たちははじめ伯爵会を形成。さらに1908年には扶桑会を形成した。 叙爵内規上では皇族の臣籍降下に伴って与えられる爵位は公爵となっているが、実際には侯爵または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。 叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家」のことである。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである。具体的には以下の旧公家華族が伯爵に叙された。 上記のうち東久世家は代々中納言、参議まで昇進したが大納言まで進んだことはないので本来は子爵だったが、東久世通禧の幕末の尊皇攘夷運動への貢献と政府で要職を歴任した勲功により当初から伯爵位を与えられた。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである。叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない。 叙爵内規は旧大名華族から伯爵になる者について「徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上」と定めている。5万石以上の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。現米15万石以上は侯爵となるので、現米15万石未満から同5万石以上の旧大名家が伯爵である。具体的には以下の旧大名家が伯爵に叙された(一応表高も表記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。 平戸藩松浦家と対馬藩宗家は現米5万石以上の要件を満たしていないが、松浦詮は明治天皇の又従兄弟にあたるため、太政大臣三条実美の計らいで1870年(明治3年)に平戸藩に吸収されて廃藩した平戸新田藩の領地をあわせて5万石以上あったことにされて伯爵になった。宗家が伯爵になった理由は不明だが、この家は国主格だったため、他の国主大名が侯爵か伯爵になっている中、唯一の子爵家とすると宗家から不満が出そうだったので内規に基づかない特例措置で伯爵になったのではという推測がある(現に宗家は本来もらえない伯爵位すら不満があり、三条実美に侯爵位を要求する請願書を提出している) 叙爵内規上彼らに関する特別な定めは無いので「国家二勲功アル者」として伯爵になっていると思われる。 叙爵内規は他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」を伯爵位の対象に定めている。以下の家が勲功により伯爵に叙された。 日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名あり、うち伯爵に叙されたのは李址鎔、閔泳璘、李完用の3名である。後に李完用は侯爵に陞爵し、閔泳璘は刑により爵位をはく奪された。当初子爵だった宋秉畯(野田秉畯)は原敬の推挙で伯爵に陞爵した。また高羲敬も伯爵に陞爵している。 殷の時代に姫昌が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。 西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。 漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。 南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。 竹林の七賢の一人である山濤は、武帝受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬亮、司馬伷らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった。 古代ローマ帝国においては、帝国の高官。 欧州のロマンス語圏、つまりイタリア、フランス、スペインなど巨大な古代ローマ帝国の本国および属州であった国々の伯爵相当の語は、古代ローマ帝国の「comes コメス」(複数形は「comitis コミティス」)、つまり、ラテン語でローマ帝国属州の政務官の補佐役を指した語に起源を持つ爵位であり、初期のローマ皇帝による各地の統治に起源を持つ爵位である。英語には「count」と訳される。 中世においては、土木行政や軍事に責任を持つ高官。 ドイツ(神聖ローマ帝国)においては「Graf」が「伯爵」にあたる。 なお、ドイツではGrafと付く爵位は下記のように多数あるが、地位はそれぞれ異なる。 貴族の爵位の原形はエドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の代にはすでに存在しており、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えた。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった。 確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた。 ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒュー(英語版)に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている。 14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった。 イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても伯爵位は第3位として存在する。 侯爵から男爵までの貴族は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord)」と呼ぶことができる(公爵のみは卿で呼ぶことはできず「○○公 Duke of ○○」のみ)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する。 伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord(卿、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonorable(オナラブル)がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。 英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。 有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "伯爵(はくしゃく、仏: comte、英: count, earl、独: Graf)は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第3位。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳にも使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。伯爵は公侯爵に次ぐ第三位であり、位階では従二位相当である。叙爵内規では伯爵の叙爵基準について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」と定めていた。伯爵家の数は1884年時点では76家(華族家の総数509家)、1907年には100家(同903家)、1928年時に108家(同954家)、1947年時には105家(889家)だった。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中間の爵位である伯爵は様々な面で分岐点になっていた。例えば後に詳述するが貴族院議員は公侯爵が無選挙・無給・終身、伯爵以下が互選・有給・任期7年となっていた。新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた。宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより伯爵位を含めた華族制度は廃止された。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵議員17人、子爵議員70人、男爵議員56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人以内、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には伯爵議員の議席数は18議席となった。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "伯爵以下議員は同爵者間の互選になっていたため貴族院内は爵位ごとに院内会派が形成されるようになり、伯爵議員たちははじめ伯爵会を形成。さらに1908年には扶桑会を形成した。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "叙爵内規上では皇族の臣籍降下に伴って与えられる爵位は公爵となっているが、実際には侯爵または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家」のことである。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである。具体的には以下の旧公家華族が伯爵に叙された。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "上記のうち東久世家は代々中納言、参議まで昇進したが大納言まで進んだことはないので本来は子爵だったが、東久世通禧の幕末の尊皇攘夷運動への貢献と政府で要職を歴任した勲功により当初から伯爵位を与えられた。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである。叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "叙爵内規は旧大名華族から伯爵になる者について「徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上」と定めている。5万石以上の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。現米15万石以上は侯爵となるので、現米15万石未満から同5万石以上の旧大名家が伯爵である。具体的には以下の旧大名家が伯爵に叙された(一応表高も表記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "平戸藩松浦家と対馬藩宗家は現米5万石以上の要件を満たしていないが、松浦詮は明治天皇の又従兄弟にあたるため、太政大臣三条実美の計らいで1870年(明治3年)に平戸藩に吸収されて廃藩した平戸新田藩の領地をあわせて5万石以上あったことにされて伯爵になった。宗家が伯爵になった理由は不明だが、この家は国主格だったため、他の国主大名が侯爵か伯爵になっている中、唯一の子爵家とすると宗家から不満が出そうだったので内規に基づかない特例措置で伯爵になったのではという推測がある(現に宗家は本来もらえない伯爵位すら不満があり、三条実美に侯爵位を要求する請願書を提出している)", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "叙爵内規上彼らに関する特別な定めは無いので「国家二勲功アル者」として伯爵になっていると思われる。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "叙爵内規は他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」を伯爵位の対象に定めている。以下の家が勲功により伯爵に叙された。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名あり、うち伯爵に叙されたのは李址鎔、閔泳璘、李完用の3名である。後に李完用は侯爵に陞爵し、閔泳璘は刑により爵位をはく奪された。当初子爵だった宋秉畯(野田秉畯)は原敬の推挙で伯爵に陞爵した。また高羲敬も伯爵に陞爵している。", "title": "日本の伯爵" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "殷の時代に姫昌が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。", "title": "中国の伯爵" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。", "title": "中国の伯爵" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。", "title": "中国の伯爵" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。", "title": "中国の伯爵" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "竹林の七賢の一人である山濤は、武帝受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬亮、司馬伷らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった。", "title": "中国の伯爵" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古代ローマ帝国においては、帝国の高官。", "title": "ロマンス語圏の伯爵" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "欧州のロマンス語圏、つまりイタリア、フランス、スペインなど巨大な古代ローマ帝国の本国および属州であった国々の伯爵相当の語は、古代ローマ帝国の「comes コメス」(複数形は「comitis コミティス」)、つまり、ラテン語でローマ帝国属州の政務官の補佐役を指した語に起源を持つ爵位であり、初期のローマ皇帝による各地の統治に起源を持つ爵位である。英語には「count」と訳される。", "title": "ロマンス語圏の伯爵" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "中世においては、土木行政や軍事に責任を持つ高官。", "title": "ロマンス語圏の伯爵" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ドイツ(神聖ローマ帝国)においては「Graf」が「伯爵」にあたる。", "title": "ドイツ語圏の伯爵" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、ドイツではGrafと付く爵位は下記のように多数あるが、地位はそれぞれ異なる。", "title": "ドイツ語圏の伯爵" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "貴族の爵位の原形はエドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の代にはすでに存在しており、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号\"Eorl\"を与えた。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒュー(英語版)に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である。伯爵は大陸では\"Count\"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の\"Eorl\"を意識して\"Earl\"とした。ところが伯爵夫人たちには\"Earless\"ではなく大陸と同じ\"Countess\"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても伯爵位は第3位として存在する。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "侯爵から男爵までの貴族は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord)」と呼ぶことができる(公爵のみは卿で呼ぶことはできず「○○公 Duke of ○○」のみ)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord(卿、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonorable(オナラブル)がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。", "title": "イギリスの伯爵" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない。", "title": "イギリスの伯爵" } ]
伯爵は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第3位。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳にも使われる。
{{Redirect|伯'''」および「'''伯国|国|ブラジル|その他の用法|伯 (曖昧さ回避)}} '''伯爵'''(はくしゃく、{{Lang-fr-short|comte}}、{{Lang-en-short|count, earl}}、{{Lang-de-short|Graf}})は、近代[[日本]]で用いられた[[爵位]](五爵)の第3位。[[侯爵]]の下位、[[子爵]]の上位に相当する。[[ヨーロッパ]]諸国の[[貴族]]の爵位の[[日本語]]訳にも使われる。 ==日本の伯爵== === 華族の伯爵 === [[1869年]](明治2年)[[6月17日]]の行政官達543号において[[公家]]と武家の最上層の[[大名家]]を「[[皇室]]の藩屏」として統合した[[華族]]身分が誕生した{{sfn|小田部雄次|2006|p=13}}。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の[[尾崎三良]]と同少書記官の[[桜井能監]]が[[1878年]](明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。 [[1884年]](明治17年)5月頃に賞勲局総裁[[柳原前光]]らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ{{sfn|浅見雅男|1994|p=71-76}}、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり{{sfn|小田部雄次|2006|p=26}}、同年[[7月7日]]に発せられた[[華族令]]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。伯爵は公侯爵に次ぐ第三位であり、[[位階]]では[[従二位]]相当である{{sfn|居相正広|1925|page=45}}。叙爵内規では伯爵の叙爵基準について「[[大納言]]迄宣任ノ例多キ旧[[堂上家|堂上]] [[御三卿|徳川旧三卿]] 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」と定めていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。伯爵家の数は1884年時点では76家(華族家の総数509家)、1907年には100家(同903家)、1928年時に108家(同954家)、1947年時には105家(889家)だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。 中間の爵位である伯爵は様々な面で分岐点になっていた。例えば後に詳述するが[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員は公侯爵が無選挙・無給・終身、伯爵以下が互選・有給・任期7年となっていた。[[新年歌会始]]の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=49}}。[[宮中]][[女官]]は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は[[堂上家|平堂上]]の公家の娘が務めており([[摂家]]・[[清華家]]・[[大臣家]]の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=156-157}}。女官には[[典侍]]、[[掌侍]]、[[命婦]]、[[女嬬]]といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=158}}。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は[[差押]]ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は[[宮内大臣]]が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない{{sfn|百瀬孝|1990|p=243-244}}。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった{{sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。 [[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより伯爵位を含めた華族制度は廃止された。 ==== 貴族院における伯爵 ==== [[1889年]](明治22年)の[[貴族院令]]により貴族院議員の種別として[[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]]が設けられた(ほかに[[皇族議員]]と[[貴族院 (日本)#勅任議員|勅任議員]]がある){{sfn|百瀬孝|1990|p=37}}。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった{{sfn|百瀬孝|1990|p37/38/243}}。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=195-196}}。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる{{sfn|浅見雅男|1994|p=116}}。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており{{sfn|百瀬孝|1990|p=38}}、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が[[帝国議会|議会]]に提出されては政治論争となった。その最初のものは[[桂太郎]]内閣下の[[1905年]]に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵議員17人、子爵議員70人、男爵議員56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年([[寺内正毅]]内閣下)に伯爵20人以内、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には伯爵議員の議席数は18議席となった{{sfn|小田部雄次|2006|p=184/191-195}}。 伯爵以下議員は同爵者間の互選になっていたため貴族院内は爵位ごとに院内会派が形成されるようになり、伯爵議員たちははじめ[[伯爵会]]を形成。さらに1908年には[[扶桑会]]を形成した{{sfn|小田部雄次|2006|p=196-198}}。 ==== 伯爵家の一覧 ==== {{出典の明記|date=2015年12月|section=1}} ===== 皇族の臣籍降下による伯爵家 ===== 叙爵内規上では皇族の[[臣籍降下]]に伴って与えられる爵位は[[公爵]]となっているが、実際には[[侯爵]]または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]制定前に様々な事象により離脱した[[皇族]]は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された([[清棲家教|家教王]]は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は[[北白川宮能久親王]]の[[落胤]]だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四[[世襲親王家]]当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により[[永世皇族制]]が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された[[1899年]](明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された[[1920年]](大正9年)以降、降下前の[[宮家]]から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。 *'''[[伏見宮]]'''系 - '''[[清棲家]]'''([[清棲家教]])、'''[[伏見家 (伯爵家)|伏見家]]'''([[伏見博英]]) *'''[[北白川宮]]'''系 - '''[[上野家 (伯爵家)|上野家]]'''([[上野正雄]])、'''[[二荒家]]'''([[二荒芳之]]) *'''[[山階宮]]'''系 - '''[[鹿島家 (伯爵家)|鹿島家]]'''([[鹿島萩麿]])、'''[[葛城家 (伯爵家)|葛城家]]'''([[葛城茂麿]]) *'''[[久邇宮]]'''系([[多嘉王]]家含む) - '''[[東伏見家 (伯爵家)|東伏見家]]'''([[東伏見慈洽|東伏見邦英]])、'''[[宇治家]]'''([[宇治家彦]])、'''[[龍田家]]'''([[梨本徳彦|龍田徳彦]]) ===== 旧公家の伯爵家 ===== 叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「[[大納言]]迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家{{#tag:ref|[[嵯峨家]]、[[三条西家]]、[[中院家]]|group="注釈"}}」「四位より[[参議]]に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家{{#tag:ref|[[油小路家]]、[[正親町家]]、[[勧修寺家]]、[[烏丸家]]、[[甘露寺家]]、[[滋野井家]]、[[清水谷家]]、[[清閑寺家]]、[[園家]]、[[中御門家]]、[[中山家]](中山家は結局伯爵を経ずに侯爵になっている)、[[庭田家]]、[[橋本家]]、[[葉室家]]、[[日野家]]、[[広橋家]]、[[坊城家]]、[[松木家]]、[[万里小路家]]、[[室町家]]、[[柳原家]]、[[鷲尾家]]|group="注釈"}}」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家{{#tag:ref|[[飛鳥井家]]、[[四条家]]、[[冷泉家]]|group="注釈"}}」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家{{#tag:ref|[[姉小路家]]、[[山科家]]|group="注釈"}}」のことである{{sfn|浅見雅男|1994|pp=117-118}}。直任とは[[中納言]]からそのまま[[大納言]]に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである{{sfn|浅見雅男|1994|p=118-119}}。具体的には以下の旧公家華族が伯爵に叙された{{sfn|浅見雅男|1994|p=118}}。 *'''旧大臣家''' - '''[[正親町三条家|嵯峨家]]'''(大納言宣任数16回。後[[侯爵]])、'''[[三条西家]]'''(同12回)、'''[[中院家]]'''(同10回) *'''旧堂上家''' - '''[[飛鳥井家]]'''(同14回)、'''[[姉小路家]]'''(同5回)、'''[[油小路家]]'''(同6回)、'''[[正親町家]]'''(同14回)、'''[[勧修寺家]]'''(同8回)、'''[[冷泉家]]'''(同14回)、'''[[烏丸家]]'''(同7回)、'''[[甘露寺家]]'''(同11回)、'''[[滋野井家]]'''(同7回。後失爵)、'''[[四条家]]'''(同13回。後侯爵)、'''[[清水谷家]]'''(同10回)、'''[[清閑寺家]]'''(同8回)、'''[[園家]]'''(同4回)、'''[[中御門家]]'''(同11回。後侯爵)、'''[[庭田家]]'''(同13回)、'''[[橋本家]]'''(同5回)、'''[[葉室家]]'''(同15回)、'''[[東久世家]]'''(同0回)、'''[[日野家]]'''(同15回)、'''[[広橋家]]'''(同5回)、'''[[坊城家]]'''(同9回)、'''[[松木家]]'''(同4回)、'''[[万里小路家]]'''(同9回)、'''[[室町家]]'''(同12回)、'''[[柳原家]]'''(同14回)、'''[[山科家]]'''(同5回)、'''[[鷲尾家]]'''(同8回) *'''陞爵''' - '''[[大原家]]'''([[大原重朝]])、'''[[澤家|沢家]]'''([[澤宣量|沢宣量]])、'''[[壬生家 (中御門流)|壬生家]]'''([[壬生基修]]) 上記のうち[[東久世家]]は代々中納言、参議まで昇進したが大納言まで進んだことはないので本来は子爵だったが、[[東久世通禧]]の幕末の尊皇攘夷運動への貢献と政府で要職を歴任した勲功により当初から伯爵位を与えられた{{sfn|浅見雅男|1994|pp=121}}。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである{{sfn|浅見雅男|1994|p=119}}。叙爵内規は[[羽林家]]・[[名家]]・[[半家]]、あるいは[[旧家]]・[[新家]]の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非[[藤原氏]]であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=120}}。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない{{sfn|浅見雅男|1994|p=120}}。 ===== 旧大名家の伯爵家 ===== 叙爵内規は旧大名華族から伯爵になる者について「[[御三卿|徳川旧三卿]] 旧中藩知事即チ現米五万石以上」と定めている。5万石以上の基準は[[表高]]や[[内高]]といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88/111}}。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88}}。現米15万石以上は侯爵となるので、現米15万石未満から同5万石以上の旧大名家が伯爵である。具体的には以下の旧大名家が伯爵に叙された(一応表高も表記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。 *'''旧[[御三卿]]''' - '''[[清水徳川家]]'''(1899年伯爵位返上1928年男爵)、'''[[田安徳川家]]'''、'''[[一橋徳川家]]''' *'''旧中藩知事''' -'''[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]]'''(備後[[備後福山藩|福山藩]]現米5万5583石{{small|(表高11万石)}})、'''[[摂津有馬氏|有馬家]]'''(筑後[[久留米藩]]現米11万8819石{{small|(表高21万石)}})、'''[[井伊氏|井伊家]]'''(近江[[彦根藩]]現米9万4030石{{small|(表高20万石)}})、'''[[上杉氏|上杉家]]'''(出羽[[米沢藩]]現米6万190石{{small|(表高14万7248石)}})、'''[[小笠原氏|小笠原家]]'''(豊前[[小倉藩]]現米8万8170石{{small|(表高15万石)}})、'''[[奥平氏|奥平家]]'''(豊前[[中津藩]]現米5万3000石{{small|(表高10万石)}})、'''[[酒井氏#雅楽頭酒井家|酒井家]]'''(播磨[[姫路藩]])、'''[[酒井氏#左衛門尉酒井家|酒井家]]'''(出羽[[庄内藩|大泉藩]]現米6万9370石{{small|(表高12万石)}})、'''[[酒井氏#雅楽頭酒井家|酒井家]]'''(若狭[[小浜藩]]現米5万5730石{{small|(表高10万3558石)}})、'''[[立花氏|立花家]]'''(筑後[[柳河藩]]現米6万6890石{{small|(表高11万9600石)}})、'''[[伊達氏|伊達家]]'''(伊予[[宇和島藩]]現米5万2420石{{small|(表高10万石)}}。後侯爵)、'''[[伊達氏|伊達家]]'''(陸奥[[仙台藩]]現米6万7740石{{small|(表高28万石)}})、'''[[津軽氏|津軽家]]'''(陸奥[[弘前藩]]現米14万1345石{{small|(表高10万石)}})、'''[[藤堂氏|藤堂家]]'''(伊勢[[津藩]]現米12万4270石{{small|(表高32万3950石)}})、'''[[戸田氏|戸田家]]'''(美濃[[大垣藩]]現米5万320石{{small|(表高10万石)}})、'''[[中川氏|中川家]]'''(豊後[[岡藩]]現米5万2400石{{small|(表高7万440石)}})、'''[[南部氏|南部家]]'''(陸奥[[盛岡藩]]現米6万8580石{{small|(表高13万石)}})、'''[[久松氏|久松家]]'''([[伊予松山藩]]現米11万748石{{small|(表高15万石)}})、'''[[堀田氏|堀田家]]'''(下総[[佐倉藩]]現米5万100石{{small|(表高11万石)}})、'''[[前田氏|前田家]]'''(越中[[富山藩]]現米6万6010石{{small|(表高10万石)}})、'''[[越前松平家|松平家]]'''(越前[[福井藩]]現米11万1010石{{small|(表高32万石)}}。後侯爵)、'''[[越前松平家|松平家]]'''(出雲[[松江藩]]現米14万5340石{{small|(表高18万6000石)}})、'''[[越前松平家|松平家]]'''(上野[[前橋藩]]現米5万4450石{{small|(表高17万石)}})、'''[[高松松平家|松平家]]'''(讃岐[[高松藩]]現米10万5760石{{small|(表高12万石)}})、'''[[溝口氏|溝口家]]'''(越後[[新発田藩]]現米7万920石{{small|(表高10万石)}})、'''[[柳沢家]]'''([[大和郡山藩]]現米5万9490石{{small|(表高15万1288石)}})、 *'''旧小藩知事だが特例で伯爵''' - '''[[宗氏|宗家]]'''(対馬[[対馬府中藩|厳原藩]]現米3万5413石{{small|(表高5万2174石)}})、'''[[松浦氏|松浦家]]'''(肥前[[平戸藩]]現米4万6410石{{small|(表高6万1700石)}}) *'''子爵から陞爵''' - '''[[大村氏|大村家]]'''(肥前[[大村藩]]現米2万3060石{{small|(表高2万7294石)}})、'''[[亀井氏|亀井家]]'''(石見[[津和野藩]]現米3万753石{{small|(表高4万3000石)}})、'''[[真田氏|真田家]]'''(信濃[[松代藩]]現米3万7150石{{small|(表高10万石)}})、'''[[島津氏|島津家]]'''(日向[[薩摩藩#支藩|佐土原藩]]現米1万8130石{{small|(表高2万7070石)}})、'''[[大給家]]'''(信濃[[田野口藩|龍岡藩]]現米5140石{{small|(表高1万6000石)}}) [[平戸藩]][[松浦氏|松浦家]]と[[対馬藩]][[宗氏|宗家]]は現米5万石以上の要件を満たしていないが、[[松浦詮]]は[[明治天皇]]の又従兄弟にあたるため、太政大臣[[三条実美]]の計らいで1870年(明治3年)に平戸藩に吸収されて廃藩した[[平戸新田藩]]の領地をあわせて5万石以上あったことにされて伯爵になった{{sfn|浅見雅男|1994|p=125-129}}。宗家が伯爵になった理由は不明だが、この家は国主格だったため、他の国主大名が侯爵か伯爵になっている中、唯一の子爵家とすると宗家から不満が出そうだったので内規に基づかない特例措置で伯爵になったのではという推測がある{{sfn|浅見雅男|1994|p=131-132}}(現に宗家は本来もらえない伯爵位すら不満があり、三条実美に侯爵位を要求する請願書を提出している{{sfn|浅見雅男|1994|p=113-114}}) ===== 僧家の伯爵家 ===== 叙爵内規上彼らに関する特別な定めは無いので「国家二勲功アル者」として伯爵になっていると思われる。 *'''僧侶'''(世襲[[門跡]]家) - '''[[大谷家]]'''([[東本願寺]])、'''大谷家'''([[西本願寺]]) ===== 勲功による伯爵家 ===== 叙爵内規は他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」を伯爵位の対象に定めている。以下の家が勲功により伯爵に叙された。 *'''最初の叙爵で伯爵に叙された勲功華族''' - '''[[伊地知正治|伊地知家]]'''、'''[[板垣家 (伯爵家)|板垣家]]'''、'''[[伊藤氏#伊藤家 (公爵)|伊藤家]]'''(後[[公爵]])、'''[[井上氏#安芸井上氏|井上家]]'''(後侯爵)、'''[[大木喬任|大木家]]'''、'''[[大隈家]]'''(後侯爵)、'''[[大山氏#宇多源氏佐々木氏族の薩摩大山氏|大山家]]'''(後公爵)、'''[[勝氏|勝家]]'''、'''[[川村純義|川村家]]'''、'''[[黒田家 (伯爵家)|黒田家]]'''、'''[[後藤象二郎|後藤象二郎家]]'''、'''[[小松家 (伯爵家)|小松家]]'''、'''[[西郷氏#薩摩西郷氏|西郷家]]'''(後侯爵)、'''[[佐佐木家 (侯爵家)|佐佐木家]]'''(後侯爵)、'''[[副島家]]'''、'''[[寺島宗則|寺島家]]'''、'''[[東郷氏#東郷氏 (薩摩国)|東郷家]]'''(後侯爵)、'''[[広沢真臣|広沢家]]'''、'''[[松方氏|松方家]]'''(後公爵)、'''[[山県氏#安芸山県氏|山形家]]'''(後公爵)、'''[[山田家 (伯爵家)|山田家]]'''、'''[[吉井友実|吉井家]]''' *'''陞爵した勲功華族''' - '''[[樺山資紀|樺山家]]'''、'''[[野津家 (侯爵家)|野津家]]'''(後侯爵)、'''[[陸奥宗光|陸奥家]]'''、'''[[土方家 (伯爵家)|土方家]]'''、'''[[佐野常民|佐野家]]'''、'''[[桂氏#大江姓桂氏|桂家]]'''(後公爵)、'''[[林董|林家]]'''、'''[[伊東祐亨|伊東家]]'''、'''[[小村家]]'''(後侯爵)、'''[[奥家 (伯爵家)|奥家]]'''、'''[[黒木為楨|黒木家]]'''、'''[[佐久間左馬太|佐久間家]]'''、'''[[乃木家 (伯爵家)|乃木家]]'''、'''[[山本家 (伯爵家)|山本家]]'''、'''[[芳川顕正|芳川家]]'''、'''[[香川敬三|香川家]]'''、'''[[田中家 (伯爵家)|田中家]]'''、'''[[児玉氏#児玉源太郎伯爵家|児玉家]]'''、'''[[林友幸|林家]]'''、'''[[寺内家]]'''、'''[[渡辺千秋|渡辺家]]'''、'''[[長谷川好道|長谷川家]]'''、'''[[内田康哉|内田家]]'''、'''[[珍田捨巳|珍田家]]'''、'''[[伊東巳代治|伊東家]]'''、'''[[平田家 (伯爵家)|平田家]]'''、'''[[牧野伸顕|牧野家]]'''、'''[[加藤家 (伯爵家)|加藤家]]'''、'''[[清浦奎吾|清浦家]]'''、'''[[後藤新平|後藤新平家]]'''、'''[[金子家 (伯爵家)|金子家]]''' === 朝鮮貴族の伯爵 === [[日韓併合]]後の[[1910年]](明治43年)の[[朝鮮貴族令]](皇室令第14号)により華族に準じた[[朝鮮貴族]]の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった[[両班]]出身者で占められた{{sfn|小田部雄次|2006|p=163/166}}。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名あり、うち伯爵に叙されたのは[[李址鎔]]、[[閔泳璘]]、[[李完用]]の3名である{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。後に李完用は侯爵に陞爵し、閔泳璘は刑により爵位をはく奪された{{sfn|小田部雄次|2006|p=173}}。当初子爵だった[[宋秉畯]](野田秉畯)は[[原敬]]の推挙で伯爵に陞爵した{{sfn|小田部雄次|2006|p=172}}。また[[高羲敬]]も伯爵に陞爵している{{sfn|小田部雄次|2006|p=173}}。 == 中国の伯爵 == {{see also|{{仮リンク|中国の爵位|zh|中国爵位}}}} [[殷]]の時代に[[文王 (周)|姫昌]]が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。 [[周|西周]]時代に設置された爵について、『[[礼記]]』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=2-3}}。一方で『[[孟子 (書物)|孟子]]』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、[[天子]]を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。また『[[春秋公羊伝]]』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=5}}。金文史料が検討されるようになって[[傅期年]]、[[郭沫若]]、[[楊樹達]]といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=4}}。[[王世民]]が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=6}}。 [[漢]]代においては[[二十等爵]]制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。[[魏 (三国)|魏]]の[[咸熙]]元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は[[列侯]]や[[亭侯]]の上位に置かれ、[[諸侯王]]の下の地位となる{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。[[食邑]]は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。その後[[西晋]]および[[東晋]]でも爵位は存続している{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}。 [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]においても晋の制度に近い叙爵が行われている。[[隋]]においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、[[唐]]においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。 === 主要な中国の伯爵 === [[竹林の七賢]]の一人である[[山濤]]は、[[司馬炎|武帝]]受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している{{sfn|袴田郁一|2014|p=125}}。また当時の晋王[[司馬昭]]の弟であった[[司馬亮]]、[[司馬伷]]らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった{{sfn|袴田郁一|2014|p=100}}。 == ロマンス語圏の伯爵 == [[古代ローマ帝国]]においては、帝国の高官<ref name="Larousse_comte">[https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/comte/17838 Larousse, comte.</ref>。 欧州の[[ロマンス語]]圏、つまりイタリア、フランス、スペインなど巨大な[[古代ローマ帝国]]の本国および属州であった国々の伯爵相当の語は、古代ローマ帝国の「[[:fr:Comes (Rome antique)|comes]] コメス」(複数形は「comitis コミティス」)、つまり、[[ラテン語]]でローマ帝国[[属州]]の[[政務官 (ローマ)|政務官]]の補佐役を指した語に起源を持つ爵位であり、初期の[[ローマ皇帝]]による各地の統治に起源を持つ爵位である。英語には「count」と訳される。 [[中世]]においては、土木行政や軍事に責任を持つ高官<ref name="Larousse_comte" />。 * [[イタリア]]における「[[:it:conte|conte]] コンテ」 * [[フランス]]における「[[:fr:comte|comte]] コント」 *: 爵位としては、maquisと[[:fr:vicomte|vicomte]]の間に位置する<ref name="Larousse_comte" />。世界的に有名な作品『[[モンテクリスト伯]]』のモンテクリスト伯爵も「comte」である。なお、伯爵夫人や伯爵の未亡人はフランス語では「comtesse コンテス」と言う。 * [[スペイン]]における「[[:es:conde|conde]] コンデ」 == ドイツ語圏の伯爵 == {{Main|グラーフ (称号)}} {{出典の明記|date=2015年12月|section=1}} ドイツ([[神聖ローマ帝国]])においては「Graf」が「伯爵」にあたる。 なお、ドイツではGrafと付く爵位は下記のように多数あるが、地位はそれぞれ異なる。 * [[辺境伯]] Markgraf * [[宮中伯]] Pfalzgraf * [[方伯]] Landgraf * [[城伯]] Burggraf == イギリスの伯爵 == === 歴史 === [[File:Coronet of a British Earl.svg|180px|thumb|伯爵の紋章上の冠]] 貴族の爵位の原形は[[エドワード懺悔王]]<small>(在位:[[1042年]]-[[1066年]])</small>の代にはすでに存在しており、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族に[[デーン人]]が使っていた称号"Eorl"を与えた。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった<ref name="森(1987)22">[[伯爵#森(1987)|森(1987)]] p.2</ref>。 確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]]<small>(在位:[[1066年]]-[[1087年]])</small>である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた<ref name="小林(1991)16-17">[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.16-17</ref>。 ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、[[1072年]]にウィリアム1世の甥にあたる{{仮リンク|ヒュー・ド・アブランシュ (初代チェスター伯爵)|label=ヒュー|en|Hugh d'Avranches, 1st Earl of Chester}}に与えられた[[チェスター伯爵]]({{Lang|en|Earl of Chester}})がその最初の物である{{#tag:ref|ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、[[1254年]]に[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](<small>在位:[[1216年]]-[[1272年]]</small>)が皇太子エドワード([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]])に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている<ref name="森(1987)3">[[#森(1987)|森(1987)]] p.3</ref>。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号である[[コーンウォール公爵]]位よりも上位に書かれる<ref name="森(1987)4">[[#森(1987)|森(1987)]] p.4</ref>。|group="注釈"}}。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている<ref name="森(1987)2">[[#森(1987)|森(1987)]] p.2</ref><ref name="小林(1991)17">[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.17</ref>。 [[14世紀]]初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron([[男爵]])だけだった<ref name="近藤(1970)上161">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.161</ref>。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった<ref name="近藤(1970)上161" /><ref>[[#マリ(1914)|マリオット(1914)]] p.174-175</ref>。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった<ref name="近藤(1970)上164">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.164</ref>。ヨーロッパ大陸から輸入された[[公爵]](Duke)、[[侯爵]](Marquess)、[[子爵]](Viscount)が[[特許状|国王勅許状]]で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった<ref name="近藤(1970)上164">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.164</ref>。 [[イングランド王国]]、[[スコットランド王国]]、[[アイルランド王国]]それぞれに貴族制度があり、それぞれを[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[アイルランド貴族]]という。イングランド王国とスコットランド王国が[[グレートブリテン王国]]として統合された後は新設爵位は[[グレートブリテン貴族]]として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国が[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]として統合された後には新設爵位は[[連合王国貴族]]として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても伯爵位は第3位として存在する。 侯爵から男爵までの貴族は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○[[卿]](Lord)」と呼ぶことができる(公爵のみは卿で呼ぶことはできず「○○公 Duke of ○○」のみ)。例えば[[カーナーヴォン伯爵]]の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男<!-- 法定相続人が貴族でない場合は相続までは平民扱いとなる -->は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を[[儀礼称号]]として称する<ref name="森(1987)15">[[#森(1987)|森(1987)]] p.15</ref>。 伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord([[卿]]、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonorable([[オナラブル]])がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。 英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、[[1963年]]の[[1963年貴族法|貴族法]]制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。 有爵者は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員になりえる。かつては原則として全[[世襲貴族]]が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、[[1999年]]以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279/290}}。 === 現存する伯爵家一覧 === ==== [[イングランド貴族]] ==== #[[Image:Talbot arms.svg|25px]] '''[[シュルーズベリー伯爵]]'''<small>([[1442年]])</small>・'''[[タルボット伯爵]]'''<small>([[1784年]][[グレートブリテン貴族]])</small>・'''ウォーターフォード伯爵'''<small>([[1446年]][[アイルランド貴族]])</small>:チェットウィンド=タルボット家 #[[File:Stanley arms.svg|25px]] '''[[ダービー伯爵]]'''<small>([[1485年]])</small>:{{仮リンク|オードリー=スタンリー家|label=スタンリー家|en|Audley-Stanley family}} #[[File:Blason fam uk Hastings (selon Gelre).svg|25px]] '''{{仮リンク|ハンティンドン伯爵|en|Earl of Huntingdon}}'''<small>([[1529年]])</small>:ヘイスティング=バス家 #[[File:Herbert arms.svg|25px]] '''[[ペンブルック伯爵]]'''<small>([[1551年]])</small>・'''{{仮リンク|モンゴメリー伯爵|en|Earl of Montgomery}}'''<small>([[1605年]])</small>:{{仮リンク|ハーバート家|en|Herbert family}} #[[File:Courtenay-Earl of Devon COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|デヴォン伯爵|en|Earl of Devon}}'''<small>([[1553年]])</small>:{{仮リンク|コートネイ家|en|House of Courtenay}} #[[File:Earl of Lincoln(Fiennes-Clinton) COA.svg|25px]] '''[[リンカン伯爵]]'''<small>([[1572年]])</small>:ファインズ=クリントン家 #[[File:Earl of Suffolk COA.svg|25px]] '''[[サフォーク伯爵]]'''<small>([[1603年]])</small>・'''[[バークシャー伯爵]]'''<small>([[1626年]])</small>:[[ハワード家]] #[[File:Feilding arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|デンビー伯爵|en|Earl of Denbigh}}'''<small>(1622年)</small>・'''{{仮リンク|デズモンド伯爵|en|Earl of Desmond}}'''<small>(1628年アイルランド貴族)</small>:フィールディング家 #[[File:FaneArms.PNG|25px]] '''[[ウェストモーランド伯爵]]'''<small>([[1624年]])</small>:{{仮リンク|フェーン家|en|Fane family}} #[[File:Earl of Lindsey COA.svg|25px]] '''[[リンジー伯爵 (イングランド貴族)|リンジー伯爵]]'''<small>([[1626年]])</small>・'''[[アビンドン伯爵]]'''<small>([[1682年]])</small>:バーティ家 #[[File:Earl of Winchilsea Nottingham COA.svg|25px]] '''[[ウィンチルシー伯爵]]'''<small>([[1628年]])</small>・'''[[ノッティンガム伯爵]]'''<small>([[1681年]])</small>:フィンチ=ハットン家 #[[File:Earl of Sandwich COA.svg|25px]] '''[[サンドウィッチ伯爵]]'''<small>([[1660年]])</small>:モンタギュー家 #[[File:Earl of Essex COA.svg|25px]] '''[[エセックス伯爵]]'''<small>([[1661年]])</small>:カペル家 #[[File:Earl of Carlisle COA.svg|25px]] '''[[カーライル伯爵]]'''<small>(1661年)</small>:[[ハワード家]] #[[File:Earl of Shaftesbury.svg|25px]] '''[[シャフツベリ伯爵]]'''<small>([[1672年]])</small>:アシュリー=クーパー家 #[[File:Aldenburg-Bentinck.PNG|25px]] '''[[ポートランド伯爵]]'''<small>([[1689年]])</small>:{{仮リンク|ベンティンク家|en|Bentinck family}} #[[File:Earl of Scarbrough COA.svg|25px]] '''[[スカーバラ伯爵]]'''<small>([[1690年]])</small>:ラムリー家 #[[File:Keppel arms.svg|25px]] '''[[アルベマール伯爵]]'''<small>([[1697年]])</small>:ケッペル家 #[[File:Arms of Coventry.svg|25px]] '''{{仮リンク|コヴェントリー伯爵|en|Earl of Coventry}}'''<small>(1697年)</small>:コヴェントリー家 #[[File:Arms of Villiers.svg|25px]] '''[[ジャージー伯爵]]'''<small>(1697年)</small>:[[ヴィリアーズ家]] ==== [[スコットランド貴族]] ==== #[[File:Arms of Lindsay (Earl Crawford).svg|25px]] '''[[クロフォード伯爵]]'''<small>([[1398年]])</small>・'''[[バルカレス伯爵]]'''<small>([[1651年]])</small>:{{仮リンク|リンジー氏族|label=リンジー家|en|Clan Lindsay}} #[[File:Coat of Arms of Hay.svg|25px]] '''[[エロル伯爵]]'''<small>([[1453年]])</small>:{{仮リンク|ヘイ氏族|label=ヘイ家|en|Clan Hay}} #[[File:Arms of Countess of Sutherland.svg|25px]] '''[[サザーランド伯爵]]'''<small>([[1230年]]or[[1275年]]or[[1347年]])</small>:サザーランド家 #[[File:Blason Comtes de Mar.svg|25px]] '''[[マー伯爵]]'''<small>([[1114年]]頃)</small>:{{仮リンク|マー氏族|label=マー家|en|Clan Mar}} #[[File:Arms of Leslie, Earl of Rothes.svg|25px]] '''[[ロシズ伯爵]]'''<small>([[1458年]])</small>:{{仮リンク|レズリー氏族|label=レズリー家|en|Clan Leslie}} #[[File:Earl of Morton COA.svg|25px]] '''[[モートン伯爵]]'''<small>(1458年)</small>:{{仮リンク|ダグラス氏族|label=ダグラス家|en|Clan Douglas}} #[[File:Earl of Buchan(Erskine) COA.svg|25px]] '''[[バカン伯爵]]'''<small>([[1469年]])</small>:{{仮リンク|アースキン・クラン|label=アースキン家|en|Clan Erskine}} #[[Image:Earl of Eglinton and Winton arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|エグリントン伯爵|en|Earl of Eglinton}}'''<small>([[1508年]])</small>・'''{{仮リンク|ウィントン伯爵|en|Earl of Winton}}'''<small>([[1859年]][[連合王国貴族]])</small>:{{仮リンク|モンゴメリー氏族|label=モンゴメリー家|en|Clan Montgomery}} #[[Image:Earl of Caithness arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ケイスネス伯爵|en|Earl of Caithness}}'''<small>([[1455年]])</small>:{{仮リンク|シンクレア氏族|label=シンクレア家|en|Clan Sinclair}} #[[Image:Earl of Mar and Kellie COA.svg|25px]] '''[[マー伯爵]]'''<small>([[1565年]])</small>・'''[[ケリー伯爵 (スコットランド)|ケリー伯爵]]'''<small>(1619年)</small>:{{仮リンク|アースキン氏族|label=アースキン家|en|Clan Erskine}} #[[File:Moray Coat of Arms.svg|25px]] '''[[マリ伯爵]]'''<small>([[1562年]])</small>:[[スチュアート氏族|ステュアート家]] #[[Image:Arms of Douglas-Home, Earl of Home.svg|25px]] '''[[ヒューム伯爵]]'''<small>([[1605年]])</small>:{{仮リンク|ヒューム氏族|label=ダグラス=ヒューム家|en|Clan Home}} #[[Image:Earl of Perth arms.svg|25px]] '''[[パース伯爵]]'''<small>(1605年)</small>:{{仮リンク|ドラモンド氏族|label=ドラモンド家|en|Clan Drummond}} #[[File:Bowes-Lyon Arms.svg|25px]] '''[[ストラスモア=キングホーン伯爵]]'''<small>([[1606年]])</small>:{{仮リンク|ボーズ=ライアン家|en|Bowes-Lyon}} #[[File:Arms of Baillie-Hamilton, Earl of Haddington.svg|25px]] '''{{仮リンク|ハディントン伯爵|en|Earl of Haddington}}'''<small>([[1619年]])</small>:バイリー=ハミルトン家 #[[File:Stewart (Earl of Galloway) arms.svg|25px]] '''[[ギャロウェイ伯爵]]'''<small>([[1623年]])</small>:[[スチュワート氏族|ステュワート家]] #[[File:Earl of Lauderdale arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ローダーデール伯爵|en|Earl of Lauderdale}}'''<small>([[1624年]])</small>:{{仮リンク|メイトランド氏族|label=メイトランド家|en|Clan Maitland}} #[[File:Arms of Earl of Lindsay (11th Earl).svg|25px]] '''[[リンジー伯爵 (スコットランド貴族)|リンジー伯爵]]'''<small>([[1633年]])</small>:{{仮リンク|リンジー氏族|label=リンジー=ベテューヌ家|en|Clan Lindsay}} #[[File:Earl of Loundoun (Abney-Hastings) COA.svg|25px]] '''[[ラウドン伯爵]]'''<small>(1633年)</small>:アベニュー=ヘイスティングス家 #[[File:Arms of Hay, Earl of Kinnoull.svg|25px]] '''{{仮リンク|キノール伯爵|en|Earl of Kinnoull}}'''<small>(1633年)</small>:{{仮リンク|ヘイ氏族|label=ヘイ家|en|Clan Hay}} #[[File:Arms of Bruce, Earl of Elgin.svg|25px]] '''[[エルギン伯爵]]'''<small>(1633年)</small>・'''[[キンカーディン伯爵]]'''<small>([[1643年]]</small>:[[ブルース氏族|ブルース家]] #[[File:Arms of Charteris-Wemyss, Earls of Wemyss and March.svg|25px]] '''[[ウィームズ伯爵]]'''<small>(1633年)</small>・'''[[マーチ伯爵]]'''<small>([[1697年]])</small>:{{仮リンク|チャータリス氏族|label=チャータリス家|en|Clan Charteris}} #[[File:Earl of Dalhousie arms.svg|25px]] '''[[ダルハウジー伯爵]]'''<small>(1633年)</small>:{{仮リンク|ラムゼイ氏族|label=ラムゼイ家|en|Clan Ramsay}} #[[File:Arms of the earl of Airlie.svg|25px]] '''{{仮リンク|エアリー伯爵|en|Earl of Airlie}}'''<small>([[1639年]])</small>:{{仮リンク|オグルヴィ氏族|label=オグルヴィ家|en|Clan Ogilvy}} #[[File:Earl of Leven COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|リーブン伯爵|en|Earl of Leven}}'''<small>([[1641年]])</small>・'''{{仮リンク|メルヴィル伯爵|en|Earl of Melville}}'''<small>([[1690年]])</small>:{{仮リンク|レズリー氏族|label=レズリー|en|Clan Leslie}}={{仮リンク|メルヴィル家|en|Melville family}} #[[File:Earl of Dysart COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ディザート伯爵|en|Earl of Dysart}}'''<small>([[1643年]])</small>:{{仮リンク|グラント氏族|label=グラント家|en|Clan Grant}} #[[File:Earl of Selkirk COA.svg|25px]] '''[[セルカーク伯爵]]'''<small>([[1646年]])</small>:ダグラス=ハミルトン家 #[[File:Earl of Northesk COA.svg|25px]] '''[[ノーセスク伯爵]]'''<small>([[1647年]])</small>:{{仮リンク|カーネギー氏族|label=カーネギー家|en|Clan Carnegie}} #[[File:Scrymgeour CoA.png|25px]] '''{{仮リンク|ダンディー伯爵|en|Earl of Dundee}}'''<small>([[1660年]])</small>:{{仮リンク|スクリームジョア氏族|label=スクリームジョア家|en|Clan Scrymgeour}} #[[File:Coa fam ITA rospigliosi.jpg|25px]] '''{{仮リンク|ニューバラ伯爵|en|Earl of Newburgh}}'''<small>(1660年)</small>:{{仮リンク|ロスピリョージ家|it|Rospigliosi}}(イタリア貴族ロスピリョージ公爵) #[[File:Johnstone arms.svg|25px]] '''[[アナンデイル=ハートフェル伯爵]]'''<small>([[1662年]])</small>:{{仮リンク|ジョンストン氏族|label=ホープ=ジョンストン家|en|Clan Johnstone}} #[[File:Dundonald new.svg|25px]] '''[[ダンドナルド伯爵]]'''<small>([[1669年]])</small>:{{仮リンク|コクラン氏族|label=コクラン家|en|Clan Cochrane}} #[[File:Earl of Kintore COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|キントーア伯爵|en|Earl of Kintore}}'''<small>([[1677年]])</small>:{{仮リンク|キース氏族|label=キース家|en|Clan Keith}} #[[File:Earl of Dunmore COA.svg|25px]] '''[[ダンモア伯爵]]'''<small>([[1686年]])</small>:{{仮リンク|マレー氏族|label=マレー家|en|Clan Murray}} #[[File:Earl of Orkney COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|オークニー伯爵|en|Earl of Orkney}}'''<small>([[1696年]])</small>:セント・ジョン家 #[[File:Earl of Seafield arms.svg|25px]] '''[[シーフィールド伯爵]]'''<small>([[1701年]])</small>:スタッドリー家 #[[File:Earl of Stair COA.svg|25px]] '''[[ステア伯爵]]'''<small>([[1703年]])</small>:ダーリンプル家 #[[File:Earl of Rosebery COA.svg|25px]] '''[[ローズベリー伯爵]]'''<small>(1703年)</small>・'''ミッドロージアン伯爵'''<small>([[1911年]]連合王国貴族)</small>:{{仮リンク|プリムローズ氏族|label=プリムローズ家|en|Clan Primrose}} #[[File:Earl of glasgow.svg|25px]] '''{{仮リンク|グラスゴー伯爵|en|Earl of Glasgow}}'''<small>(1703年)</small>:{{仮リンク|ボイル氏族|label=ボイル家|en|Clan Boyle}} ==== [[グレートブリテン貴族]] ==== #[[File:Shirley arms.svg|25px]] '''[[フェラーズ伯爵]]'''<small>([[1711年]])</small>:シャーリー家 #[[File:Earl of Dartmouth COA.svg|25px]] '''[[ダートマス伯爵]]'''<small>(1711年)</small>:レッグ家 #[[File:Earl of Tankerville COA.svg|25px]] '''[[タンカーヴィル伯爵]]'''<small>([[1714年]])</small>:ベネット家 #[[File:Earl of Aylesford COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|アイルズフォード伯爵|en|Earl of Aylesford}}'''<small>(1714年)</small>:フィンチ=ナイトレイ家 #[[ファイル:Arms_of_Parker.svg|27x27ピクセル]] '''[[マクルズフィールド伯爵]]'''<small>([[1721年]])</small>:パーカー家 #[[File:Waldegrave arms.svg|25px]] '''[[ウォルドグレイヴ伯爵]]'''<small>([[1729年]])</small>:{{仮リンク|ウォルドグレイヴ家|en|Waldegrave family}} #[[ File:Earl of Harrington COA.svg|25px]] '''[[ハリントン伯爵]]'''<small>([[1742年]])</small>:スタンホープ家 #[[File:Wallop arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ポーツマス伯爵|en|Earl of Portsmouth}}'''<small>([[1743年]])</small>:ウォロップ家 #[[File:Greville arms.svg|25px]] '''[[ウォリック伯爵]]'''<small>(1759年)</small>・'''ブルック伯爵'''<small>([[1746年]])</small>:グレヴィル家 #[[File:Coat of Arms of the Earl of Buckinghamshire.svg|25px]] '''[[バッキンガムシャー伯爵]]'''<small>(1746年)</small>:ホバート=ハムデン家 #[[File:Arms of North of Guilford.svg|25px]] '''[[ギルフォード伯爵]]'''<small>([[1752年]])</small>:ノース家 #[[File:Yorke arms.svg|25px]] '''[[ハードウィック伯爵]]'''<small>([[1754年]])</small>:ヨーク家 #[[File:Earl of Ilchester COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|イルチェスター伯爵|en|Earl of Ilchester}}'''<small>([[1756年]])</small>:フォックス=ストラングウェイズ家 #[[File:Arms of Earl de la Warr.svg|25px]] '''{{仮リンク|デ・ラ・ウェア伯爵|en|Earl De La Warr}}'''<small>([[1761年]])</small>:ウェスト家 #[[File:Earl of Radnor COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ラドナー伯爵|en|Earl of Radnor}}'''<small>([[1765年]]</small>):プリーデル・ブーベリー家 #[[File:Spencer Arms.svg|25px]] '''[[スペンサー伯爵]]'''<small>(1765年)</small>:[[スペンサー家]] #[[File:Charles Bathurst Arms.svg|25px]] '''[[バサースト伯爵]]'''<small>(1772年)</small>:バサースト家 #[[File:Arms of Villiers.svg|25px]] '''[[クラレンドン伯爵]]'''<small>([[1776年]])</small>:[[ヴィリアーズ家]] #[[File:Murray-Barclay arms.svg|25px]] '''[[マンスフィールド伯爵]]'''<small>(1776年)</small>・'''[[マンスフィールド伯爵]]'''<small>(1792年)</small>:マレー家 #[[File:Earl of Mount Edgcumbe COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|マウント・エッジカム伯爵|en|Earl of Mount Edgcumbe}}'''<small>([[1789年]])</small>:エッジカム家 #[[File:Fortescue arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|フォーテスキュー伯爵|en|Earl Fortescue}}'''<small>(1789年)</small>:フォーテスキュー家 #[[File:Herbert arms.svg|25px]] '''[[カーナーヴォン伯爵]]'''<small>([[1793年]])</small>:{{仮リンク|ハーバート家|en|Herbert family}} #[[File:Arms of Cadogan.svg|25px]] '''[[カドガン伯爵]]'''<small>([[1800年]])</small>:カドガン家 #[[File:Earl of Malmesbury COA.svg|25px]] '''[[マームズベリー伯爵]]'''<small>(1800年)</small>:ハリス家 ==== [[アイルランド貴族]] ==== #[[File:Boyle arms.svg|25px]] '''[[コーク伯爵]]'''<small>([[1620年]])</small>・'''{{仮リンク|オレリー伯爵|en|Earl of Orrery}}'''<small>(1660年)</small>:ボイル家 #[[File:Nugent arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ウェストミーズ伯爵|en|Earl of Westmeath}}'''<small>([[1621年]])</small>:ニュージェント家 #[[File:Brabazon arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ミーズ伯爵|en|Earl of Meath}}'''<small>([[1627年]])</small>:ブラバゾン家 #'''{{仮リンク|キャバン伯爵|en|Earl of Cavan}}'''<small>([[1647年]])</small>:ランバート家 #[[File:Arms of Moore of Drogheda.svg|25px]] '''[[ドロヘダ伯爵]]'''<small>([[1661年]])</small>:ムーア家 #[[File:Lord Forbes arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|グラナード伯爵|en|Earl of Granard}}'''<small>([[1684年]])</small>:フォーブス家 #[[File:Earl of Darnley COA.svg|25px]] '''[[ダーンリー伯爵]]'''<small>([[1725年]])</small>:ブライ家 #[[File:Arms of Ponsonby.svg|25px]] '''[[ベスバラ伯爵]]'''<small>([[1739年]])</small>:ポンソンビー家 #[[File:Butler arms (Earl of Carrick).svg|25px]] '''[[キャリック伯爵 (アイルランド)|キャリック伯爵]]'''<small>([[1748年]])</small>:{{仮リンク|バトラー家|en|Butler dynasty}} #[[File:COA of Boyle, Earl of Shannon.svg|25px]] '''{{仮リンク|シャノン伯爵|en|Earl of Shannon}}'''<small>([[1756年]])</small>:ボイル家 #[[File:Gore arms.svg|25px]] '''[[アラン伯爵 (アイルランド貴族)|アラン伯爵]]'''<small>([[1762年]])</small>:ゴア家 #[[File:Stopford arms.svg|25px]] '''[[コータウン伯爵]]'''<small>(1762年)</small>:ストップフォード家 #[[File:Earl of Mexborough COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|メクスバラ伯爵|en|Earl of Mexborough}}'''<small>([[1766年]])</small>:サヴィル家 #[[File:Earl of Winterton COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ウィンタートン伯爵|en|Earl Winterton}}'''<small>(1766年)</small>:ターナー家 #[[File:Earl of Kingston COA.svg|25px]] '''[[キングストン伯爵]]'''<small>([[1768年]])</small>:テニソン家 #[[File:Earl of Roden COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ローデン伯爵|en|Earl of Roden}}'''<small>([[1771年]])</small>:ジョスリン家 #[[File:Vaughan arms.svg|25px]] '''[[リズバーン伯爵]]'''<small>([[1776年]])</small>:ヴォーン家 #[[File:Earl of Clanwilliam COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|クランウィリアム伯爵|en|Earl of Clanwilliam}}'''<small>(1776年)</small>:ミード家 #[[File:Earl of Antrim.svg|25px]] '''[[アントリム伯爵]]'''<small>([[1785年]])</small>:マクドネル家 #[[File:Earl of Longford COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ロングフォード伯爵|en|Earl of Longford}}'''<small>(1785年)</small>:パケナム家 #[[File:Earl of Portarlington COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ポーターリントン伯爵|en|Earl of Portarlington}}'''<small>(1785年)</small>:ドーソン=ダマー家 #[[File:Arms of Bourke of Mayo.svg|25px]] '''[[メイヨー伯爵]]'''<small>(1785年)</small>:バーク家 #[[File:Annesley arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|アンズリー伯爵|en|Earl Annesley}}'''<small>([[1789年]])</small>:アンズリー家 #[[File:Earl of Enniskillen COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|エニスキレン伯爵|en|Earl of Enniskillen}}'''<small>(1789年)</small>:コール家 #[[File:Crichton arms.svg|25px]] '''[[アーン伯爵]]'''<small>(1789年)</small>:クライトン家 #[[File:Bingham arms.svg|25px]] '''[[ルーカン伯爵]]'''<small>([[1795年]])</small>:ビンガム家 #[[File:Earl of Belmore COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ベルモア伯爵|en|Earl Belmore}}'''<small>([[1797年]])</small>:ローリー=コリー家 #[[File:Earl of Castle Stewart COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|キャッスル・ステュアート伯爵|en|Earl Castle Stewart}}'''<small>([[1800年]])</small>:ステュアート家 #[[File:Earl of Donoughmore COA.svg|25px]] '''[[ドナウモア伯爵]]'''<small>(1800年)</small>:ヒーリー=ハッチンソン家 #[[File:Arms of Alexander of Caledon.svg|25px]] '''{{仮リンク|カレドン伯爵|en|Earl of Caledon}}'''<small>(1800年)</small>:アレクサンダー家 #[[File:Earl of Limerick COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|リメリック伯爵|en|Earl of Limerick}}'''<small>([[1803年]])</small>:ペリー家 #[[File:Earl of Clancarty COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|クランカーティ伯爵|en|Earl of Clancarty}}'''<small>(1803年)</small>:ル・プア・トレンチ家 #[[File:Earl of Gosford COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ゴスフォード伯爵|en|Earl of Gosford}}'''<small>([[1806年]])</small>:{{仮リンク|アチソン家|en|Acheson (surname)}} #[[File:Earl of Rosse COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ロス伯爵 (アイルランド)|en|Earl of Rosse|label=ロス伯爵}}'''<small>(1806年)</small>:パーソンズ家 #[[File:Agar arms.svg|25px]] '''[[ノーマントン伯爵]]'''<small>(1806年)</small>:エイガー家 #[[File:Needham arms (Earl of Kilmorey).svg|25px]] '''{{仮リンク|キルモリー伯爵|en|Earl of Kilmorey}}'''<small>([[1822年]])</small>:ニーダム家 #[[File:Hare arms.svg|25px]] '''[[リストーエル伯爵]]'''<small>(1822年)</small>:ヘア家 #[[File:Earl of Norbury COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ノーベリー伯爵|en|Earl of Norbury}}'''<small>([[1827年]])</small>:グラハム=トーラー家 #[[ファイル:Earl_of_Ranfurly_coat_of_arms.svg|28x28ピクセル]]'''{{仮リンク|ランファーリ伯爵|en|Earl of Ranfurly}}'''<small>([[1831年]])</small>:ノックス家 ==== [[連合王国貴族]] ==== #[[File:Arms of St Clair-Erskine, Earl of Rosslyn.svg|25px]] '''{{仮リンク|ロスリン伯爵|en|Earl of Rosslyn}}'''<small>([[1801年]])</small>:セント・クレア=アースキン家 #[[File:Craven arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|クレイヴェン伯爵|en|Earl of Craven}}'''<small>(1801年)</small>:クレイヴェン家 #[[File:Onslow arms.svg|25px]] '''[[オンズロー伯爵]]'''<small>(1801年)</small>:オンズロー家 #[[File:Earl of Romney COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ロムニー伯爵|en|Earl of Romney}}'''<small>(1801年)</small>:マーシャム家 #[[File:Arms of Pelham, Earls of Chichester.svg|25px]] '''[[チチェスター伯爵]]'''<small>(1801年)</small>:ペラム家 #[[File:Earl of Wilton COA.svg|25px]] '''[[ウィルトン伯爵]]'''<small>(1801年)</small>:グローヴナー家 #[[File:Herbert arms.svg|25px]] '''[[ポウィス伯爵]]'''<small>([[1804年]])</small>:{{仮リンク|ハーバート家|en|Herbert family}} #[[File:Earl of Nelson (sans augmentation) COA.svg|25px]] '''[[ネルソン伯爵]]'''<small>([[1805年]])</small>:ネルソン家 #[[File:Arms of Grey, Earl Grey.svg|25px]] '''[[グレイ伯爵]]'''<small>([[1806年]])</small>:グレイ家 #[[File:Lowther arms.svg|25px]] '''[[ロンズデール伯爵]]'''<small>([[1807年]])</small>:{{仮リンク|ラウザー家|en|Lowther family}} #[[File:Earl of Harrowby COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ハロービー伯爵|en|Earl of Harrowby}}'''<small>([[1809年]])</small>:ライダー家 #[[File:Lascelles arms.svg|25px]] '''[[ハーウッド伯爵]]'''<small>([[1812年]])</small>:ラッセルズ家 #[[File:Earl of Minto COA.svg|25px]] '''[[ミントー伯爵]]'''<small>([[1813年]])</small>:エリオット=マーレイ=キニンマウンド家 #[[File:Cathcart arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|カスカート伯爵|en|Earl Cathcart}}'''<small>([[1814年]])</small>:カスカート家 #[[File:Earl of Verulam COA.svg|25px]] '''[[ヴェルラム伯爵]]'''<small>([[1815年]])</small>:グリムストン家 #[[File:Eliot arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|セント・ジャーマンズ伯爵|en|Earl of St Germans}}'''<small>(1815年)</small>:エリオット家 #[[File:COA of Parker, Earls of Morley.svg|25px]] '''{{仮リンク|モーレイ伯爵|en|Earl of Morley}}'''<small>(1815年)</small>:パーカー家 #[[File:Earl of Bradford COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ブラッドフォード伯爵|en|Earl of Bradford}}'''<small>(1815年)</small>:ブリッジマン家 #[[File:Earl of Eldon COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|エルドン伯爵|en|Earl of Eldon}}'''<small>([[1821年]])</small>:スコット家 #[[File:Earl Howe COA.svg|25px]] '''[[ハウ伯爵]]'''<small>(1821年)</small>:カーゾン家 #[[File:Earl of Stradbroke COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ストラドブルック伯爵|en|Earl of Stradbroke}}'''<small>(1821年)</small>:ラウス家 #[[File:Earl Temple of Stowe COA.svg|25px]] '''[[ストーのテンプル伯爵]]'''<small>(1821年)</small>:テンプル=ゴア=ラントン家 #[[File:Earl of Cawdor COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|コーダー伯爵|en|Earl Cawdor}}'''<small>([[1827年]])</small>:{{仮リンク|コーダーのキャンベル氏族|label=キャンベル家|en|Clan Campbell of Cawdor}} #[[File:Earl of Lichfield COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|リッチフィールド伯爵|en|Earl of Lichfield}}'''<small>([[1831年]])</small>:アンソン家 #[[File:Earl of Durham COA.svg|25px]] '''[[ダラム伯爵]]'''<small>([[1833年]])</small>:ラムトン家 #[[File:LevesonGowerEarlGranvilleArms.png|25px]] '''[[グランヴィル伯爵]]'''<small>(1833年)</small>:{{仮リンク|ルーソン=ゴア家|en|Leveson-Gower}} #[[File:Thomas Howard Arms.svg|25px]] '''[[エフィンガム伯爵]]'''<small>([[1837年]])</small>:[[ハワード家]] #[[File:Earl of Ducie COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|デュシー伯爵|en|Earl of Ducie}}'''<small>(1837年)</small>:モートン家 #[[File:Earl of Yarborough COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|ヤーバラ伯爵|en|Earl of Yarborough}}'''<small>(1837年)</small>:ペラム家 #[[File:Arms of Coke, Earls of Leicester.svg|25px]] '''[[レスター伯爵]]'''<small>(1837年)</small>:コーク家 #[[File:Noel arms, Earl of Gainsborough.svg|25px]] '''[[ゲインズバラ伯爵]]'''<small>([[1841年]])</small>:ノエル家 #[[File:Arms of Byng, Earl of Strafford.svg|25px]] '''[[ストラフォード伯爵]]'''<small>([[1847年]])</small>:ビング家 #[[File:Earl of Cottenham COA.svg|25px]] '''[[コッテナム伯爵]]'''<small>([[1850年]])</small>:ペピス家 #[[File:Earl of Cowley COA.svg|25px]] '''{{仮リンク|カウリー伯爵|en|Earl Cowley}}'''<small>([[1857年]])</small>:ウェルズリー家 #[[File:COA - Ward, Earl of Dudley.svg|25px]] '''{{仮リンク|ダドリー伯爵|en|Earl of Dudley}}'''<small>([[1860年]])</small>:ウォード家 #[[Image:Russell arms (Earl Russell).svg|25px]] '''[[ラッセル伯爵]]'''<small>([[1861年]])</small>:ラッセル家 #[[Image:Earl of Cromartie COA.svg|25px]] '''[[クロマーティ伯爵]]'''<small>(1861年)</small>:{{仮リンク|マッケンジー氏族|label=マッケンジー家|en|Clan Mackenzie}} #[[Image:Wodehouse arms, Earl of Kimberley.svg|25px]] '''[[キンバリー伯爵]]'''<small>([[1866年]])</small>:ウッドハウス家 #[[Image:Earl of Wharncliffe COA.svg|25px]] '''[[ウォーンクリフ伯爵]]'''<small>([[1876年]])</small>:モンタギュー=ステュアート=ウォートリー家 #[[Image:Cairns arms.svg|25px]] '''[[ケアンズ伯爵]]'''<small>([[1878年]])</small>:ケアンズ家 #[[Image:COA of Bulwer-Lytton.svg|25px]] '''[[リットン伯爵]]'''<small>([[1880年]])</small>:リットン家 #[[Image:Arms of Palmer, Earl of Selborne.svg|25px]] '''[[セルボーン伯爵]]'''<small>([[1882年]])</small>:パーマー家 #[[Image:Northcote arms.svg|25px]] '''[[イデスリー伯爵]]'''<small>([[1885年]])</small>:ノースコート家 #[[Image:Earl of Cranbrook COA.svg|25px]] '''[[クランブルック伯爵]]'''<small>([[1892年]])</small>:ゲイソン=ハーディ家 #[[Image:Earl of Cromer COA.svg|25px]] '''[[クローマー伯爵]]'''<small>([[1901年]])</small>:[[ベアリング家]] #[[Image:Earl of Plymouth COA.svg|25px]] '''[[プリマス伯爵]]'''<small>([[1905年]])</small>:ウィンザー=クライヴ家 #[[Image:Foljambe E of Liverpool.svg|25px]] '''[[リヴァプール伯爵]]'''<small>(1905年)</small>:フォジャム家 #[[Image:Earl of Saint Aldwyn COA.svg|25px]] '''[[セント・アルドウィン伯爵]]'''<small>([[1915年]])</small>:ヒックス=ビーチ家 #[[Image:Earl of Beatty COA.svg|25px]] '''[[ビーティー伯爵]]'''<small>([[1919年]])</small>:ビーティー家 #[[Image:Earl of Haig arms.svg|25px]] '''{{仮リンク|ヘイグ伯爵|en|Earl Haig}}'''<small>(1919年)</small>:ヘイグ家 #[[Image:Arms of Guinness, Earl of Iveagh.svg|25px]] '''[[アイヴァー伯爵]]'''<small>(1919年)</small>:[[ギネス家]] #[[Image:Arms of Balfour (Earl of Balfour).svg|25px]] '''[[バルフォア伯爵]]'''<small>([[1922年]])</small>:バルフォア家 #[[Image:Asquith arms.svg|25px]] '''[[オックスフォード=アスキス伯爵]]'''<small>([[1925年]])</small>:{{仮リンク|アスキス家|en|Asquith family}} #[[Image:John Jellicoe Arms.svg|25px]] '''[[ジェリコー伯爵]]'''<small>(1925年)</small>:ジェリコー家 #[[Image:Earl of Inchcape COA.svg|25px]] '''[[インチケープ伯爵]]'''<small>([[1929年]])</small>:マッカイ家 #[[Image:Earl Peel COA.svg|25px]] '''[[ピール伯爵]]'''<small>(1929年)</small>:ピール家 #[[Image:Earl of Baldwin of Bewdley.svg|25px]] '''[[ビュードリーのボールドウィン伯爵]]'''<small>([[1937年]])</small>:ボールドウィン家 #[[Image:Earl of Halifax COA.svg|25px]] '''[[ハリファックス伯爵]]'''<small>([[1944年]])</small>:ウッド家 #[[Image:Arms of Ruthven (ancient).svg|25px]] '''{{仮リンク|ゴーリー伯爵|en|Earl of Gowrie}}'''<small>([[1945年]])</small>:{{仮リンク|リヴァン氏族|label=リヴァン家|en|Clan Ruthven}} #[[Image:Earl Lloyd George of Dwyfor arms.svg|25px]] '''[[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]]'''<small>(1945年)</small>:ロイド・ジョージ家 #[[Image:Lord Mountbatten of Burma-CoA-Knatchbull-Shield.svg|25px]] '''[[ビルマのマウントバッテン伯爵]]'''<small>([[1947年]])</small>:ナッチブル家 #[[Image:Arms of Alexander of Caledon.svg|25px]] '''[[チュニスのアレグザンダー伯爵]]'''<small>([[1952年]])</small>:アレクサンダー家 #[[Image:Earl of Swinton COA.svg|25px]] '''[[スウィントン伯爵]]'''<small>([[1955年]])</small>:カンリフ=リスター家 #[[Image:Arms of Clement Attlee.svg|25px]] '''[[アトリー伯爵]]'''<small>(1955年)</small>:アトリー家 #[[Image:Earl of Woolton COA.svg|25px]] '''[[ウォールトン伯爵]]'''<small>([[1956年]])</small>:マーキス家 #[[Image:Earl of Snowdon Arms.svg|25px]] '''[[スノードン伯爵]]'''<small>([[1961年]])</small>:アームストロング=ジョーンズ家 #[[Image:Earl of Stockton COA.svg|25px]] '''[[ストックトン伯爵]]'''<small>([[1984年]])</small>:マクミラン家 ※2015年現在、臣民に対して与えられた最後の世襲貴族爵位 #[[Image:Arms of Edward, Earl of Wessex.svg|25px]] '''[[ウェセックス伯爵]]'''<small>([[1999年]])</small>・'''[[フォーファー伯爵]]'''<small>([[2019年]])</small>:王族[[エドワード (ウェセックス伯爵)|エドワード王子]]の爵位 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}} *{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|chapter=明治四年衆華族ヲ便殿ニ召シ賜リタル 勅諭|title=華族要覧|number=第1輯|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I1018502-00|website=ndlonline.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-20|publisher=東京:居相正広|work=国立国会図書館デジタルコレクション|author=居相正広|date=1925年(大正13年8月編輯)|doi=10.11501/1018502|ref=harv|pages=1-44|quote=コマ番号0005.jp2-0028.jp2}}{{全国書誌番号|43045309}}。 * {{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991年(平成3年)|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=小林(1991)}} * {{Cite book|和書|author=近藤申一|authorlink=近藤申一|date=1970年(昭和45年)|title=イギリス議会政治史 上 |publisher=[[敬文堂]]|isbn=978-4767001715|ref=近藤(1970)上}} * {{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}} * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョン・マリオット|en|John Marriott (British politician)}}|date =1914年(大正3年)|title=英国の憲法政治|translator=[[占部百太郎]]|url={{NDLDC|980830}}|asin=B0098TWQW4|publisher=[[慶応義塾出版局]]|ref=マリ(1914)}} *{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=田中嘉彦 |title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能 |journal=一橋法学 |ISSN=13470388 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2009 |month=mar |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |naid=110007620135 |doi=10.15057/17144 |url=https://hdl.handle.net/10086/17144 |ref=harv}} * 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X * 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059 * {{Cite journal|和書|title=「五等爵制」再考|author=[[石黒ひさ子]] |url=https://hdl.handle.net/10291/1569|date=2006-12-25| journal=駿台史學|volume=129|pages=1-20|naid=120001439019|ISSN=05625955|publisher=明治大学史学地理学会|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=袴田郁一 |title=両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として |journal=論叢アジアの文化と思想 |issn=1340-3370 |publisher=アジアの文化と思想の会 |year=2014 |month=dec |issue=23 |pages=79-134 |naid=120005819881 |url=https://hdl.handle.net/2065/49020 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=今堀誠二 |title=唐代封爵制拾遺 |doi=10.20624/sehs.12.4_419 |issn=0038-0113 |issue=4 |journal=社会経済史学 |naid=110001212961 |pages=419-451 |publisher=社会経済史学会 |volume=12 |year=1942 |url=https://doi.org/10.20624/sehs.12.4_419 |ref=harv}} ==関連項目== {{貴族階級}} * [[貴族院 (日本)#伯爵議員・子爵議員・男爵議員]] * [[貴族]] * [[爵位]] * [[大公]] * [[公爵]] * [[侯爵]] * [[子爵]] * [[男爵]] {{日本の旧華族}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はくしやく}} [[Category:伯爵|!]] [[Category:日本の爵位]] [[Category:中国の爵位]] [[Category:フランスの爵位|*はくしやく]] [[Category:イギリスの爵位|*はくしやく]] [[Category:ドイツの爵位|*はくしやく]]
2003-09-08T20:21:29Z
2023-12-25T15:00:06Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:日本の旧華族", "Template:Lang-de-short", "Template:Sfn", "Template:貴族階級", "Template:Normdaten", "Template:Redirect", "Template:Lang-fr-short", "Template:Main", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:全国書誌番号", "Template:Lang-en-short", "Template:Small", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E7%88%B5
15,840
子爵
子爵(ししゃく、英: Viscount [ˈvaɪkaʊnt])は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。 1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層たる大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、華族身分設置当初から華族内の序列付けをしようという意見があり、様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。 1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令(明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)と華族授爵ノ詔勅により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。なおこの際に旧華族にあった終身華族(一代限りの華族)の制度は廃止され、華族はすべて世襲制となった。 子爵は公爵、侯爵、伯爵に次ぐ第4位(正従三位)に位置づけられた。男爵の上位である。叙爵内規では子爵の叙爵基準について「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」と定めていた。 子爵家の数は明治17年(1884年)時点では324家(華族家の総数509家)、1902年時点では362家(同789家)、1920年時点では381家(同947家)と漸次増えていったが、これをピークとして、1947年時点では351家(同889家)に減っていた。制度発足時の明治17年(1884年)の段階では子爵家は華族全体の63.7%を占め、男爵家よりもはるかに数が多かったが、その後男爵が急増し、明治40年(1907年)になって子爵家と男爵家の数が同数に並び、この後は男爵家の方が多くなり、上に行くほど少なく下に行くほど多いという綺麗なピラミッド構造となった。 宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない。 旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより子爵位を含めた華族制度は廃止された。 1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。特に子爵の場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態が芳しくないことが多く議席を欲する者が多かった。研究会幹部だった貴族院議員酒井忠亮子爵も「大学を卒業して傾いていた家運を挽回するのにどうし様かと思った。安月給取りではやっていけない。結局早く(貴族院に入って)研究会の幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦は激しいものがあった。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)には伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出された。さらに1925年の加藤高明内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的には子爵議員の数は66名となった。 貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、子爵議員たちは「研究会」という会派を形成した。「研究会」には勅選議員も多数参加し、院内における最大会派となり、1920年代に大きな力を持った。特に華族議員制度の解体を目指していた加藤高明内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対し続けた。 叙爵内規では「一新前家ヲ興シタル旧堂上」を公家からの子爵位の対象者に定めていた。ただし伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。具体的には摂家(公爵)と清華家(侯爵)を除く堂上家について「大納言迄宣任の例多き」堂上家であれば伯爵位を与えられ、それに該当しない堂上家が子爵位を与えられた。「大納言迄宣任の例多き」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家」のことを指す。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当する。そしてこれらに該当しない堂上家が子爵である。以下の家が該当せず堂上家から子爵になった家である。 阿野家(羽林家・旧家・1944年継承者欠く)、綾小路家(羽林家・旧家)、池尻家(名家・新家)、石山家(羽林家・新家)、五辻家(羽林家・旧家)、今城家(羽林家・新家)、入江家(羽林家・新家)、石井家(半家・半家)、石野家(羽林家・新家)、植松家(羽林家・新家)、梅小路家(名家・新家)、梅園家(羽林家・新家)、梅溪家(羽林家・旧家)、裏辻家(羽林家・新家)、裏松家(名家・新家)、大宮家(羽林家・新家)、大原家(羽林家・新家・後に伯爵)、岡崎家(名家・新家)、小倉家(羽林家・旧家)、押小路家(羽林家・新家)、愛宕家(羽林家・新家)、風早家(羽林家・新家)、交野家(名家・新家)、勘解由小路家(名家・新家)、唐橋家(半家・旧家)、河鰭家(羽林家・旧家)、北小路家(藤原北家)(名家・新家)、北小路家(大江氏)(半家・新家)、清岡家(半家・新家)、櫛笥家(羽林家・旧家)、久世家(羽林家・新家)、倉橋家(半家・新家・1919年に女戸主)、桑原家(半家・新家・1919年返上)、五条家(半家・旧家)、桜井家(羽林家・新家)、澤家(半家・新家・後に伯爵)、慈光寺家(半家・旧家)、七条家(羽林家・新家)、芝山家(名家・新家)、持明院家(羽林家・旧家)、白川家(半家・旧家)、園池家(羽林家・新家)、高丘家(羽林家・新家)、高倉家(半家・旧家)、高辻家(半家・旧家)、高野家(羽林家・新家・1912年返上)、高松家(羽林家・新家)、竹内家(半家・旧家)、竹屋家(名家・旧家)、千種家(羽林家・新家)、土御門家(半家・旧家)、堤家(名家・新家)、富小路家(半家・旧家)、外山家(名家・新家)、豊岡家(名家・新家)、中園家(羽林家・新家)、長谷家(名家・新家)、難波家(羽林家・旧家)、西大路家(羽林家・旧家)、錦織家(半家・新家)、錦小路家(半家・旧家)、西洞院家(半家・旧家)、西四辻家(羽林家・新家)、野宮家(羽林家・新家)、萩原家(半家・新家)、八条家(羽林家・新家)、花園家(羽林家・新家)、東園家(羽林家・新家)、東坊城家(半家・旧家)、樋口家(半家・新家)、日野西家(名家・新家)、平松家(名家・新家)、藤井家(半家・新家)、藤谷家(羽林家・新家)、藤波家(半家・旧家)、伏原家(半家・新家)、舟橋家(半家・旧家)、穂波家(名家・新家・1905年返上)、堀河家(半家・新家・1944年継承者欠く)、町尻家(羽林家・新家)、水無瀬家(羽林家・旧家)、壬生家(羽林家・新家・後伯爵)、三室戸家(名家・新家)、武者小路家(羽林家・新家)、藪家(羽林家・旧家)、山井家(羽林家・新家)、山本家(羽林家・新家)、吉田家(半家・旧家)、冷泉家(羽林家・旧家)、六条家(羽林家・旧家)、六角家(羽林家・新家) 羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである。叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない。 叙爵内規では「旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた。5万石未満の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。この基準に基づき、以下の家が旧小藩知事として子爵家に列せられた(念のため表高も併記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。 青木家(摂津麻田藩現米4792石・表高1万0000石)、青山家(丹波篠山藩現米3万6320石・表高6万石)、青山家(美濃郡上藩現米1万5970石・表高4万8000石)、秋田家(陸奥三春藩現米1万2580石・表高5万石)、秋月家(日向高鍋藩現米1万6770石・表高2万7000石)、秋元家(上野館林藩現米3万7450石・表高6万石)、足利家(下野喜連川藩現米1930石・表高5000石)、阿部家(陸奥棚倉藩現米1万140石・表高6万石)、阿部家(上総佐貫藩現米4470石・表高1万6000石)、有馬家(下野吹上藩現米3530石・表高1万石、1943年返上)、有馬家(越前丸岡藩現米1万7360石・表高5万石)、安藤家(陸奥磐城平藩現米6760石・表高3万石)、安部家(武蔵半原藩現米5940石・表高2万250石、1946年継嗣襲爵せず)、井伊家(越後与板藩現米7190石・表高2万石)、池田家(備中生坂藩現米5680石・表高1万5000石)、池田家(備中鴨方藩現米9220石・表高2万5000石)、池田家(因幡鹿奴藩現米1万3250石・表高3万石)、池田家(因幡若桜藩現米8830石・表高1万5000石)、石川家(伊勢亀山藩現米2万4450石・表高6万石。1887年返上・1899年再叙爵)、石川家(常陸下館藩現米7910石・表高2万石)、板倉家(備中高梁藩現米8570石・表高2万石)、板倉家(上野安中藩)、板倉家(三河重原藩現米8880石・表高2万8000石)、板倉家(備中庭瀬藩現米1万470石・表高2万石)、市橋家(近江西大路藩現米6710石・表高1万8000石)、伊東家(日向飫肥藩現米2万3340石・表高5万1080石)、伊東家(備中岡田藩現米7750石・表高1万343石)、稲垣家(志摩鳥羽藩現米1万2920石・表高3万石)、稲垣家(近江山上藩表高1万3000石)、稲葉家(豊後臼杵藩現米3万5270石・表高5万60石)、稲葉家(山城淀藩現米4万3780石・表高10万2000石)、稲葉家(安房館山藩現米3498石・表高1万石)、井上家(遠江鶴舞藩現米2万4150石・表高6万石)、井上家(常陸下妻藩現米2090石・表高1万石)、井上家(下総高岡藩現米3540石・表高1万石)、岩城家(出羽亀田藩現米1万2200石・表高1万8000石)、上杉家(出羽米沢新田藩現米2926石・表高1万石。1944年継嗣襲爵せず)、植村家(大和高取藩現米1万2700石・表高2万5000石)、内田家(下総小見川藩現米2710石・表高1万石)、大岡家(三河西大平藩現米3250石・表高1万石)、大岡家(武蔵岩槻藩現米8880石・表高2万3000石)、大久保家(相模小田原藩現米2万3410石・表高7万5000石)、大久保家(相模荻野山中藩現米4660石・表高1万3000石)、大久保家(下野烏山藩現米7530石・表高3万石)、大河内家(上総大多喜藩現米7280石・表高2万2294石)、大河内家(三河豊橋藩現米2万6200石・表高7万石)、大河内家(上野高崎藩現米3万3110石・表高8万2000石)、大関家(下野黒羽藩現米5340石・表高1万8000石)、太田家(遠江松尾藩現米1万9540石・表高5万37石)、大田原家(下野大田原藩現米2528石・表高1万1400石)、大村家(肥前大村藩現米2万3060石・表高2万7977石。後伯爵)、小笠原家(播磨安志藩現米4560石・表高1万石)、小笠原家(豊前千束藩現米4800石・表高1万石)、小笠原家(肥前唐津藩現米2万9423石・表高6万石)、小笠原家(越前勝山藩現米7260石・表高2万2777石)、岡部家(和泉岸和田藩現米3万4090石・表高5万3000石)、大給家(豊後府内藩現米1万4160石・表高2万1200石)、大給家(信濃龍岡藩現米5140石・表高1万6000石。後伯爵)、奥田家(越後村松藩現米2万690石・表高3万石)、奥田家(信濃須坂藩現米4330石・表高1万53石)、奥田家(越後椎谷藩現米4390石・表高1万石)、織田家(出羽天童藩現米7650石・表高1万8000石)、織田家(丹波柏原藩現米9190石・表高2万石)、織田家(大和芝村藩現米5210石・表高1万石)、織田家(大和柳本藩現米6600石・表高1万石)、片桐家(大和小泉藩現米5590石・表高1万1100石)、加藤家(近江水口藩現米1万1710石・表高2万石)、加藤家(伊予大洲藩現米3万476石・表高6万石)、加藤家(伊予新谷藩現米4890石・表高1万石)、加納家(上総一宮藩現米5470石・表高1万3000石)、亀井家(石見津和野藩現米3万753石・表高4万3000石。後伯爵)、吉川家(周防岩国藩。男爵から陞爵)、木下家(備中足守藩現米1万520石・表高2万5000石)、木下家(豊後日出藩現米1万280石・表高2万5000石)、京極家(讃岐丸亀藩現米3万3120石・表高5万1512石)、京極家(讃岐多度津藩現米7400石・表高1万石)、京極家(但馬豊岡藩現米5380石・表高1万5000石)、京極家(丹後峰山藩現米6030石・表高1万1144石)、九鬼家(摂津三田藩現米1万5290石・表高3万6000石)、九鬼家(丹波綾部藩現米7160石・表高1万9500石)、久世家(下総関宿藩現米1万5550石・表高4万3000石)、朽木家(丹波福知山藩現米1万3330石・表高3万2000石)、久留島家(豊後森藩現米6100石・表高1万2500石)、黒田家(筑前秋月藩現米2万800石・表高5万石)、黒田家(上総久留里藩現米1万1126石・表高3万石)、小出家(丹波園部藩現米1万3530石・表高2万6711石)、五島家(肥前福江藩現米6460石・表高1万2500石。1945年襲爵せず)、酒井家(出羽松山藩)、酒井家(上野伊勢崎藩現米5510石・表高2万石)、酒井家(安房加知山藩現米4280石・表高1万2000石。1899年返上)、酒井家(越前鞠山藩現米4950石・表高1万石)、榊原家(越後高田藩現米4万8410石・表高15万石)、相良家(肥後人吉藩現米2万5090石・表高2万2100石。1946年返上)、桜井家(摂津尼崎藩現米2万7670石・表高4万石)、佐竹家(出羽久保田新田藩現米1万1910石・表高2万石)、真田家(信濃松代藩現米3万7150石・表高10万石。後伯爵)、島津家(日向佐土原藩現米1万8130石・表高2万7070石。後伯爵)、新庄家(常陸麻生藩現米4710石・表高1万石)、諏訪家(信濃高島藩現米1万6070石・表高3万石)、関家(備中新見藩現米6510石・表高1万8000石)、仙石家(但馬出石藩現米1万3840石・表高3万石)、相馬家(陸奥中村藩現米3万4610石・表高6万石)、高木家(河内丹南藩現米6600石・表高1万石)、滝脇家(駿河小島藩現米3560石・表高1万石)、建部家(播磨林田藩現米6420石・表高1万石。1947年返上)、立花家(陸奥三池藩現米4130石・表高1万石)、伊達家(伊予吉田藩現米1万4730石・表高3万石)、谷家(丹波山家藩現米4389石)、田沼家(遠江小久保藩現米4400石・表高1万石。1920年返上)、田村家(陸奥一関藩現米1万1210石・表高2万7000石)、津軽家(陸奥黒石藩現米8020石・表高1万石)、土屋家(常陸土浦藩現米2万8380石・表高9万5000石)、土井家(下総古河藩現米2万5710石・表高8万石)、土井家(三河刈谷藩現米7090石・表高2万3000石。1946年継嗣襲爵せず)、土井家(越前大野藩現米1万2630石・表高4万石)、東家(近江三上藩現米5200石・表高1万2000石)、藤堂家(伊勢久居藩現米2万3240石・表高5万3000石、1947年継嗣襲爵せず)、遠山家(美濃苗木藩現米4920石・表高1万21石)、土岐家(上野沼田藩現米1万5110石・表高3万5000石)、戸沢家(出羽新庄藩現米2万6070石・表高6万8200石)、戸田家(信濃松本藩現米3万6850石・表高6万石)、戸田家(下野宇都宮藩・現米1万8830石・表高7万850石)、戸田家(下野足利藩現米2700石・表高1万1000石)、戸田家(下野曾我野藩現米3720石・表高1万1139石)、戸田家(三河野村藩現米3900石)、鳥居家(下野壬生藩現米1万170石・表高3万石)、内藤家(越後村上藩現米2万9480石・表高5万90石)、内藤家(信濃高遠藩現米1万5330石・表高3万3000石)、内藤家(信濃岩村田藩現米4300石・表高1万5000石)、内藤家(日向延岡藩現米2万8906石・表高7万石)、内藤家(三河挙母藩現米6710石・表高2万石)、内藤家(陸奥湯長谷藩現米3260石・表高1万4000石)、永井家(大和櫛羅藩現米4550石・表高1万石)、永井家(摂津高槻藩現米1万7440石・表高3万6000石)、永井家(美濃加納藩現米1万3050石・表高3万2000石)、成瀬家(尾張犬山藩。男爵から陞爵)、鍋島家(肥前蓮池藩現米2万430石・表高5万2600石)、鍋島家(肥前小城藩現米2万7372石・表高7万3253石)、鍋島家(肥前鹿島藩現米9895石・表高2万石。1947年返上)、南部家(陸奥八戸藩現米9440石・表高2万石)、南部家(陸奥七戸藩現米1620石・表高1万384石)、西尾家(遠江横須賀藩現米1万4570石・表高3万5000石)、丹羽家(陸奥二本松藩現米1万2860石・表高5万石)、丹羽家(播磨三草藩現米4840石・表高1万石。1940年女戸主)、久松家(下総多古藩現米2750石・表高1万2000石)、久松家(伊予今治藩現米2万2720石・表高3万5000石)、土方家(伊勢菰野藩現米5720石・表高1万1000石)、一柳家(播磨小野藩現米5280石・表高1万石)、一柳家(伊予小松藩現米4830石・表高1万石)、北条家(河内狭山藩現米5470石・表高1万石)、保科家(上総飯野藩現米7500石・表高2万石)、細川家(肥後宇土藩現米1万2990石・表高3万石)、細川家(肥後高瀬藩現米1万3570石・表高3万5000石。1946年継嗣襲爵せず)、細川家(常陸茂木藩現米3850石・表高1万6300石)、堀田家(近江宮川藩現米4830石・表高1万3000石)、堀田家(下野佐野藩現米5290石・表高1万6000石)、堀家(信濃飯田藩現米1万40石・表高1万7000石)、本庄家(美濃高富藩現米3220石・表高1万石)、本庄家(丹後宮津藩現米2万7160石・表高7万石)、本多家(三河岡崎藩現米2万1351石・表高5万石)、本多家(陸奥泉藩現米4550石・表高1万8000石)、本多家(播磨山崎藩現米6680石・表高1万石)、本多家(近江膳所藩・現米2万5300石・表高6万石)、本多家(三河西端藩現米3280石・表高1万500石)、本多家(伊勢神戸藩現米6670石・表高1万5000石)、本多家(阿波長尾藩現米1万8939石・表高4万石)、本多家(信濃飯山藩現米1万1970石・表高2万石。1943年継嗣襲爵せず)、蒔田家(備中浅尾藩現米4140石・表高1万石)、前田家(加賀大聖寺藩現米2万8730石・表高10万石)、前田家(上野七日市藩現米2600石・表高1万14石)、牧野家(越後長岡藩現米1万500石・表高2万4000石)、牧野家(越後嶺岡藩)、牧野家(常陸笠間藩現米2万5180石・表高8万石)、牧野家(丹後舞鶴藩現米1万6750石・表高3万5000石)、牧野家(信濃小諸藩現米1万20石・表高1万5000石)、増山家(伊勢長島藩現米7390石・表高2万石)、松井家(武蔵川越藩現米2万1660石・表高8万400石)、松平家(丹波亀岡藩現米2万8380石・表高5万石)、松平家(肥前島原藩現米4万5120石・表高6万5900石)、松平家(豊後杵築藩現米2万1040石・表高3万2000石)、松平家(出羽上山藩現米1万480石・表高2万7000石。1908年返上)、松平家(信濃上田藩現米2万2808石・表高5万3000石)、松平家(三河西尾藩現米2万3190石・表高6万石)、松平家(美濃岩村藩現米1万3270石・表高3万石)、松平家(伊勢桑名藩現米2万3450石・表高6万石)、松平家(美作津山藩現米4万3120石・表高10万石)、松平家(越後清崎藩現米5520石・表高1万石)、松平家(出雲広瀬藩現米1万4390石・表高3万石)、松平家(出雲母里藩現米5353石・表高1万石)、松平家(播磨明石藩現米4万3470石・表高8万石)、松平家(陸奥斗南藩現米7380石・表高3万石)、松平家(美作鶴田藩現米2万660石・表高6万10000石)、松平家(美濃高須藩現米6630石・表高3万石。1947年継嗣襲爵せず)、松平家(伊予西条藩現米1万8190石・表高3万石)、松平家(陸奥松川藩)、松平家(常陸石岡藩現米5260石・表高2万石。1945年継嗣襲爵せず)、松平家(常陸宍戸藩現米1890石・表高1万石)、松平家(武蔵忍藩現米4万2070石・表高10万石)、松平家(上野小幡藩現米4170石・表高2万石)、松前家(蝦夷渡島館藩現米2万3300石・表高3万石。1944年継承者欠く)、松浦家(肥前平戸新田藩)、間部家(越前鯖江藩現米1万4960石・表高4万石。1943年返上)、三浦家(美作勝山藩現米1万1930石・表高2万3000石)、水野家(下総結城藩現米4840石・表高1万7000石)、水野家(上総菊間藩現米1万9260石・表高5万石)、水野家(上総鶴牧藩現米7040石・表高1万5000石)、水野家(出羽朝日山藩現米1万7500石・表高5万石)、三宅家(三河田原藩現米5740石・表高1万2072石)、毛利家(長門長府藩現米3万9972石・表高5万石)、毛利家(長門清末藩現米7600石・表高1万石)、毛利家(周防徳山藩現米2万1410石・表高4万10石)、毛利家(豊後佐伯藩現米1万2210石・表高2万石)、森家(播磨赤穂藩現米1万730石・表高2万石)、森家(播磨三日月藩現米8390石・表高1万5000石)、森川家(下総生実藩現米4030石・表高1万石)、柳生家(大和柳生藩現米5710石・表高1万石)、柳沢家(越後黒川藩現米4760石・表高1万石)、柳沢家(越後三日市藩現米4810石・表高1万石)、山内家(土佐高知新田藩現米4720石・表高1万3000石)、山口家(常陸牛久藩現米3700石・表高1万17石)、吉井家(上野吉井藩現米2160石・表高1万石)、米津家(常陸龍ヶ崎藩現米3320石・表高1万1000石)、米倉家(武蔵六浦藩現米2700石・表高1万2000石。1937年女戸主)、六郷家(出羽本荘藩現米1万3270石・表高2万21石。1941年返上)、脇坂家(播磨龍野藩現米2万7776石・表高5万1089石)、分部家(近江大溝藩現米6730石・表高2万石。1902年返上)、渡辺家(和泉伯太藩現米6070石・表高1万3520石) 1869年(明治2年)の華族制度発足の際の大名からの華族取り立ての判断基準は表高1万石以上の知行地を持つ者のことだったが、下野国喜連川藩足利家(旧喜連川家)は表高5000石だったのにもかかわらず、江戸時代には大名扱いだったため華族に列していた。子爵の内規に付けられている「一新前旧諸侯タリシ家」という文言は足利家を入れるために付けられたものである。御三家付家老や周防国岩国藩吉川家は陪臣扱いだったため、当初は男爵だったが、吉川家と成瀬家については1891年(明治24年)に子爵に陞爵している。また現米算出の領地範囲は明治2年時が基準であり、戊辰戦争等で減封となった藩は少なくなった領地範囲の現米を出すため、陸奥会津藩表高23万石から陸奥斗南藩表高3万石(現米7380石)に減知転封となった松平家も子爵家に含まれる。減封がなければ恐らく現米5万石以上で伯爵家だったと思われるが、賊藩であることからストレートに子爵になったわけではない点に注意を要する。つまり「賊藩→罰として子爵」ではなく「賊藩→罰として減封→現米減少→子爵」である。爵位基準はあくまで現米のみによって機械的に決定されるもので、罰の要素が入り込む余地はない。他の旧大名子爵家の中にも戊辰戦争の結果減封になった家はあるが、それらは減封がなくとも現米5万石以上に達するのはまず無理なので、どっちにしても子爵家だったと思われる。例外として上総請西藩林家は戊辰戦争後に表高1万石から300石に減知となって大名の地位を失ったため当初は叙爵がなく、1893年(明治26年)になってから特旨により男爵を受けている。また、安芸広島新田藩浅野家は華族になった後に本藩の広島藩に合併され、その際に当主が華族の地位を返上したため華族令が出た際には華族でなくなっていた。そのため叙爵がなかった。石高偽装がばれて華族身分を剥奪された元高家旗本の堀江藩大沢家も当然叙爵はなかった。1869年(明治2年)の華族制度発足から1884年(明治17年)の華族令公布までの間に華族でなくなっていたのはこの2家のみである。 叙爵内規で他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」が受爵対象に定められていた。以下の家が勲功により子爵に叙された。 青木家、石井家(男爵から陞爵)、石黒家(男爵から陞爵・1941年継嗣襲爵せず)、伊集院家、伊東祐麿家、伊東祐了家(後に伯爵)、伊東巳代治家(男爵から陞爵・後に伯爵)、井上毅家、井上勝家、井上良馨家(男爵から陞爵)、岩下家、上原家(男爵から陞爵)、内田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、榎本家、大浦家(男爵から陞爵)、大久保家、大迫貞清家、大迫尚敏家(男爵から陞爵)、大島久直家(男爵から陞爵)、大島義昌家(男爵から陞爵)、大村家、岡沢家(男爵から陞爵)、小川家(男爵から陞爵)、海江田家、香川家(後に伯爵)、桂家(後に公爵)、加藤高明家(男爵から陞爵・後に伯爵)、加藤友三郎家(男爵から陞爵)、金子家(男爵から陞爵・後に伯爵)、樺山家(後に伯爵)、川上家(1934年女戸主)、河瀬家、河田家、河野家(1922年継承者欠く)、川村家(男爵から陞爵)、清浦家(男爵から陞爵・後に伯爵)、清岡家、栗野家(男爵から陞爵)、黒田家、米田家(男爵から陞爵)、児玉家(男爵から陞爵・後に伯爵。1947年継嗣襲爵せず)、後藤家(男爵から陞爵・後に伯爵)、斎藤家(男爵から陞爵)、阪谷家(男爵から陞爵)、税所家、実吉家(男爵から陞爵)、佐野家(後に伯爵)、佐久間家(男爵から陞爵・後伯爵)、滋野家(1924年継嗣襲爵せず)、宍戸家、品川家、渋沢家(男爵から陞爵)、杉家、末松家(男爵から陞爵)、曾我家、曾禰家(男爵から陞爵)、高島家(1943年継承者欠く)、高橋家(男爵から陞爵)、田尻家(男爵から陞爵)、立見家(男爵から陞爵)、田中不二麿家、田中光顕家(後伯爵・1946年返上)、谷家、珍田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、寺内家(後に伯爵)、鳥尾家、中牟田家、西家(男爵から陞爵)、仁礼家(1945年継嗣襲爵せず)、野津家(後に侯爵)、野村家、橋本家(男爵から陞爵)、長谷川家(男爵から陞爵・後に伯爵)、波多野家(男爵から陞爵)、花房家(男爵から陞爵)、浜尾家(男爵から陞爵)、林董家(男爵から陞爵・後に伯爵)、林友幸家(後に伯爵)、土方家(後に伯爵・1934年返上)、平田家(男爵から陞爵・後に伯爵)、福岡家、福羽家、本野家(男爵から陞爵)、牧野家(男爵から陞爵・後に伯爵)、三浦家、三島家、陸奥家(後に伯爵・1947年返上)、森家、三好家、山尾家、山岡家(1943年女戸主)、山口家(男爵から陞爵)、山地家(男爵から陞爵)、由利家、芳川家(後に伯爵)、吉田家、渡辺国武家、渡辺千秋家(男爵から陞爵・後に伯爵)、渡辺昇家(1944年継嗣襲爵せず) 明治以降に分家した華族は「一新後華族に列せられたる者」という叙爵内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例として子爵位が与えられることがあった(ただし公侯爵の分家でも大半は男爵である)。子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家分家)、徳川武定家(松戸徳川家)(侯爵水戸徳川家分家)、松平慶民家(侯爵越前松平家分家)の3家がある。また、岩倉具経家(公爵岩倉家分家)、長岡護美家(侯爵細川家分家(長岡家))、山内豊尹家(侯爵山内家分家)の3家も陞爵して子爵が与えられている。 日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち子爵に叙されたのは李完鎔、李埼鎔、朴斉純、高永喜、趙重応、閔丙奭、李容稙、金允植、権重顕、李夏栄、李根沢、宋秉畯、任善準、李載崐、尹徳栄、趙民煕、李秉武、李根命、閔泳韶、閔泳徽、金声根の22名である。現代韓国で「親日売国奴」の代名詞となっている「乙巳五賊」のうち4人、「丁未七賊」のうち6人が子爵に叙されている。中でも宋秉畯は最大の親日反民族主義者として併合後も日本とのパイプ役を務め続け、その功績で伯爵に陞爵。野田姓に創氏改名し「野田伯」と称された(朝鮮貴族で創氏改名する者は稀だった)。一方、李容稙と金允植は併合後、反日民族主義者となり、1919年の三・一独立運動で韓国独立を請願したために爵位剥奪処分となった。彼らや受爵を拒絶したり返却した者らはたとえ日韓併合時に「親日売国」行為があったとしても現代韓国で高く評価される傾向がある。 1944年時点で朝鮮貴族の子爵家の数は当初の22家から17家に減っていた(朝鮮貴族家の総数も当初の76家から59家に減少していた)。 西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「子」は五つある爵の下から二番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている。 漢代においては二十等爵制が敷かれ、「子」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、子の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら八百戸、五十里四方の土地、次国なら六百戸、四十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。 南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。 咸熙元年の叙爵では、陳羣・高柔・荀彧といった魏時代の功臣の子孫が「子」の爵を受けている。また羊祜もこの際に子の爵位(鋸平子)を受けている。 イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドに持ち込まれるようになったのが誕生のきっかけである。 子爵(Viscount)は爵位の中でも最後に生まれたものであり、1440年に第6代ボーモント男爵(英語版)ジョン・ボーモント(英語版)にボーモント子爵(英語版)位が与えられたのが最初である。 イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても子爵位は第4位として存在する。スコットランド貴族以外の子爵位は他の爵位と違って爵位名にofがつかないという特徴がある(例えばヘレフォード子爵は「Viscount Hereford」であり「Viscount of Hereford」ではない)。 五爵のうち最上位の公爵のみ「閣下(Your Grace)」で、侯爵以降の貴族は全て「卿(Lord)」と尊称される。子爵の息子及び娘にはHonorable(オナラブル)が敬称として付けられる。 英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。 有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない 王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、子爵は第4位である。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない。子爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる。 伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。 歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。 1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。 スペイン貴族には現在141個の子爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "子爵(ししゃく、英: Viscount [ˈvaɪkaʊnt])は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層たる大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、華族身分設置当初から華族内の序列付けをしようという意見があり、様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令(明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)と華族授爵ノ詔勅により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。なおこの際に旧華族にあった終身華族(一代限りの華族)の制度は廃止され、華族はすべて世襲制となった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "子爵は公爵、侯爵、伯爵に次ぐ第4位(正従三位)に位置づけられた。男爵の上位である。叙爵内規では子爵の叙爵基準について「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」と定めていた。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "子爵家の数は明治17年(1884年)時点では324家(華族家の総数509家)、1902年時点では362家(同789家)、1920年時点では381家(同947家)と漸次増えていったが、これをピークとして、1947年時点では351家(同889家)に減っていた。制度発足時の明治17年(1884年)の段階では子爵家は華族全体の63.7%を占め、男爵家よりもはるかに数が多かったが、その後男爵が急増し、明治40年(1907年)になって子爵家と男爵家の数が同数に並び、この後は男爵家の方が多くなり、上に行くほど少なく下に行くほど多いという綺麗なピラミッド構造となった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより子爵位を含めた華族制度は廃止された。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。特に子爵の場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態が芳しくないことが多く議席を欲する者が多かった。研究会幹部だった貴族院議員酒井忠亮子爵も「大学を卒業して傾いていた家運を挽回するのにどうし様かと思った。安月給取りではやっていけない。結局早く(貴族院に入って)研究会の幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦は激しいものがあった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)には伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出された。さらに1925年の加藤高明内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的には子爵議員の数は66名となった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、子爵議員たちは「研究会」という会派を形成した。「研究会」には勅選議員も多数参加し、院内における最大会派となり、1920年代に大きな力を持った。特に華族議員制度の解体を目指していた加藤高明内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対し続けた。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "叙爵内規では「一新前家ヲ興シタル旧堂上」を公家からの子爵位の対象者に定めていた。ただし伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。具体的には摂家(公爵)と清華家(侯爵)を除く堂上家について「大納言迄宣任の例多き」堂上家であれば伯爵位を与えられ、それに該当しない堂上家が子爵位を与えられた。「大納言迄宣任の例多き」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家」のことを指す。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当する。そしてこれらに該当しない堂上家が子爵である。以下の家が該当せず堂上家から子爵になった家である。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "阿野家(羽林家・旧家・1944年継承者欠く)、綾小路家(羽林家・旧家)、池尻家(名家・新家)、石山家(羽林家・新家)、五辻家(羽林家・旧家)、今城家(羽林家・新家)、入江家(羽林家・新家)、石井家(半家・半家)、石野家(羽林家・新家)、植松家(羽林家・新家)、梅小路家(名家・新家)、梅園家(羽林家・新家)、梅溪家(羽林家・旧家)、裏辻家(羽林家・新家)、裏松家(名家・新家)、大宮家(羽林家・新家)、大原家(羽林家・新家・後に伯爵)、岡崎家(名家・新家)、小倉家(羽林家・旧家)、押小路家(羽林家・新家)、愛宕家(羽林家・新家)、風早家(羽林家・新家)、交野家(名家・新家)、勘解由小路家(名家・新家)、唐橋家(半家・旧家)、河鰭家(羽林家・旧家)、北小路家(藤原北家)(名家・新家)、北小路家(大江氏)(半家・新家)、清岡家(半家・新家)、櫛笥家(羽林家・旧家)、久世家(羽林家・新家)、倉橋家(半家・新家・1919年に女戸主)、桑原家(半家・新家・1919年返上)、五条家(半家・旧家)、桜井家(羽林家・新家)、澤家(半家・新家・後に伯爵)、慈光寺家(半家・旧家)、七条家(羽林家・新家)、芝山家(名家・新家)、持明院家(羽林家・旧家)、白川家(半家・旧家)、園池家(羽林家・新家)、高丘家(羽林家・新家)、高倉家(半家・旧家)、高辻家(半家・旧家)、高野家(羽林家・新家・1912年返上)、高松家(羽林家・新家)、竹内家(半家・旧家)、竹屋家(名家・旧家)、千種家(羽林家・新家)、土御門家(半家・旧家)、堤家(名家・新家)、富小路家(半家・旧家)、外山家(名家・新家)、豊岡家(名家・新家)、中園家(羽林家・新家)、長谷家(名家・新家)、難波家(羽林家・旧家)、西大路家(羽林家・旧家)、錦織家(半家・新家)、錦小路家(半家・旧家)、西洞院家(半家・旧家)、西四辻家(羽林家・新家)、野宮家(羽林家・新家)、萩原家(半家・新家)、八条家(羽林家・新家)、花園家(羽林家・新家)、東園家(羽林家・新家)、東坊城家(半家・旧家)、樋口家(半家・新家)、日野西家(名家・新家)、平松家(名家・新家)、藤井家(半家・新家)、藤谷家(羽林家・新家)、藤波家(半家・旧家)、伏原家(半家・新家)、舟橋家(半家・旧家)、穂波家(名家・新家・1905年返上)、堀河家(半家・新家・1944年継承者欠く)、町尻家(羽林家・新家)、水無瀬家(羽林家・旧家)、壬生家(羽林家・新家・後伯爵)、三室戸家(名家・新家)、武者小路家(羽林家・新家)、藪家(羽林家・旧家)、山井家(羽林家・新家)、山本家(羽林家・新家)、吉田家(半家・旧家)、冷泉家(羽林家・旧家)、六条家(羽林家・旧家)、六角家(羽林家・新家)", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである。叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "叙爵内規では「旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた。5万石未満の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。この基準に基づき、以下の家が旧小藩知事として子爵家に列せられた(念のため表高も併記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "青木家(摂津麻田藩現米4792石・表高1万0000石)、青山家(丹波篠山藩現米3万6320石・表高6万石)、青山家(美濃郡上藩現米1万5970石・表高4万8000石)、秋田家(陸奥三春藩現米1万2580石・表高5万石)、秋月家(日向高鍋藩現米1万6770石・表高2万7000石)、秋元家(上野館林藩現米3万7450石・表高6万石)、足利家(下野喜連川藩現米1930石・表高5000石)、阿部家(陸奥棚倉藩現米1万140石・表高6万石)、阿部家(上総佐貫藩現米4470石・表高1万6000石)、有馬家(下野吹上藩現米3530石・表高1万石、1943年返上)、有馬家(越前丸岡藩現米1万7360石・表高5万石)、安藤家(陸奥磐城平藩現米6760石・表高3万石)、安部家(武蔵半原藩現米5940石・表高2万250石、1946年継嗣襲爵せず)、井伊家(越後与板藩現米7190石・表高2万石)、池田家(備中生坂藩現米5680石・表高1万5000石)、池田家(備中鴨方藩現米9220石・表高2万5000石)、池田家(因幡鹿奴藩現米1万3250石・表高3万石)、池田家(因幡若桜藩現米8830石・表高1万5000石)、石川家(伊勢亀山藩現米2万4450石・表高6万石。1887年返上・1899年再叙爵)、石川家(常陸下館藩現米7910石・表高2万石)、板倉家(備中高梁藩現米8570石・表高2万石)、板倉家(上野安中藩)、板倉家(三河重原藩現米8880石・表高2万8000石)、板倉家(備中庭瀬藩現米1万470石・表高2万石)、市橋家(近江西大路藩現米6710石・表高1万8000石)、伊東家(日向飫肥藩現米2万3340石・表高5万1080石)、伊東家(備中岡田藩現米7750石・表高1万343石)、稲垣家(志摩鳥羽藩現米1万2920石・表高3万石)、稲垣家(近江山上藩表高1万3000石)、稲葉家(豊後臼杵藩現米3万5270石・表高5万60石)、稲葉家(山城淀藩現米4万3780石・表高10万2000石)、稲葉家(安房館山藩現米3498石・表高1万石)、井上家(遠江鶴舞藩現米2万4150石・表高6万石)、井上家(常陸下妻藩現米2090石・表高1万石)、井上家(下総高岡藩現米3540石・表高1万石)、岩城家(出羽亀田藩現米1万2200石・表高1万8000石)、上杉家(出羽米沢新田藩現米2926石・表高1万石。1944年継嗣襲爵せず)、植村家(大和高取藩現米1万2700石・表高2万5000石)、内田家(下総小見川藩現米2710石・表高1万石)、大岡家(三河西大平藩現米3250石・表高1万石)、大岡家(武蔵岩槻藩現米8880石・表高2万3000石)、大久保家(相模小田原藩現米2万3410石・表高7万5000石)、大久保家(相模荻野山中藩現米4660石・表高1万3000石)、大久保家(下野烏山藩現米7530石・表高3万石)、大河内家(上総大多喜藩現米7280石・表高2万2294石)、大河内家(三河豊橋藩現米2万6200石・表高7万石)、大河内家(上野高崎藩現米3万3110石・表高8万2000石)、大関家(下野黒羽藩現米5340石・表高1万8000石)、太田家(遠江松尾藩現米1万9540石・表高5万37石)、大田原家(下野大田原藩現米2528石・表高1万1400石)、大村家(肥前大村藩現米2万3060石・表高2万7977石。後伯爵)、小笠原家(播磨安志藩現米4560石・表高1万石)、小笠原家(豊前千束藩現米4800石・表高1万石)、小笠原家(肥前唐津藩現米2万9423石・表高6万石)、小笠原家(越前勝山藩現米7260石・表高2万2777石)、岡部家(和泉岸和田藩現米3万4090石・表高5万3000石)、大給家(豊後府内藩現米1万4160石・表高2万1200石)、大給家(信濃龍岡藩現米5140石・表高1万6000石。後伯爵)、奥田家(越後村松藩現米2万690石・表高3万石)、奥田家(信濃須坂藩現米4330石・表高1万53石)、奥田家(越後椎谷藩現米4390石・表高1万石)、織田家(出羽天童藩現米7650石・表高1万8000石)、織田家(丹波柏原藩現米9190石・表高2万石)、織田家(大和芝村藩現米5210石・表高1万石)、織田家(大和柳本藩現米6600石・表高1万石)、片桐家(大和小泉藩現米5590石・表高1万1100石)、加藤家(近江水口藩現米1万1710石・表高2万石)、加藤家(伊予大洲藩現米3万476石・表高6万石)、加藤家(伊予新谷藩現米4890石・表高1万石)、加納家(上総一宮藩現米5470石・表高1万3000石)、亀井家(石見津和野藩現米3万753石・表高4万3000石。後伯爵)、吉川家(周防岩国藩。男爵から陞爵)、木下家(備中足守藩現米1万520石・表高2万5000石)、木下家(豊後日出藩現米1万280石・表高2万5000石)、京極家(讃岐丸亀藩現米3万3120石・表高5万1512石)、京極家(讃岐多度津藩現米7400石・表高1万石)、京極家(但馬豊岡藩現米5380石・表高1万5000石)、京極家(丹後峰山藩現米6030石・表高1万1144石)、九鬼家(摂津三田藩現米1万5290石・表高3万6000石)、九鬼家(丹波綾部藩現米7160石・表高1万9500石)、久世家(下総関宿藩現米1万5550石・表高4万3000石)、朽木家(丹波福知山藩現米1万3330石・表高3万2000石)、久留島家(豊後森藩現米6100石・表高1万2500石)、黒田家(筑前秋月藩現米2万800石・表高5万石)、黒田家(上総久留里藩現米1万1126石・表高3万石)、小出家(丹波園部藩現米1万3530石・表高2万6711石)、五島家(肥前福江藩現米6460石・表高1万2500石。1945年襲爵せず)、酒井家(出羽松山藩)、酒井家(上野伊勢崎藩現米5510石・表高2万石)、酒井家(安房加知山藩現米4280石・表高1万2000石。1899年返上)、酒井家(越前鞠山藩現米4950石・表高1万石)、榊原家(越後高田藩現米4万8410石・表高15万石)、相良家(肥後人吉藩現米2万5090石・表高2万2100石。1946年返上)、桜井家(摂津尼崎藩現米2万7670石・表高4万石)、佐竹家(出羽久保田新田藩現米1万1910石・表高2万石)、真田家(信濃松代藩現米3万7150石・表高10万石。後伯爵)、島津家(日向佐土原藩現米1万8130石・表高2万7070石。後伯爵)、新庄家(常陸麻生藩現米4710石・表高1万石)、諏訪家(信濃高島藩現米1万6070石・表高3万石)、関家(備中新見藩現米6510石・表高1万8000石)、仙石家(但馬出石藩現米1万3840石・表高3万石)、相馬家(陸奥中村藩現米3万4610石・表高6万石)、高木家(河内丹南藩現米6600石・表高1万石)、滝脇家(駿河小島藩現米3560石・表高1万石)、建部家(播磨林田藩現米6420石・表高1万石。1947年返上)、立花家(陸奥三池藩現米4130石・表高1万石)、伊達家(伊予吉田藩現米1万4730石・表高3万石)、谷家(丹波山家藩現米4389石)、田沼家(遠江小久保藩現米4400石・表高1万石。1920年返上)、田村家(陸奥一関藩現米1万1210石・表高2万7000石)、津軽家(陸奥黒石藩現米8020石・表高1万石)、土屋家(常陸土浦藩現米2万8380石・表高9万5000石)、土井家(下総古河藩現米2万5710石・表高8万石)、土井家(三河刈谷藩現米7090石・表高2万3000石。1946年継嗣襲爵せず)、土井家(越前大野藩現米1万2630石・表高4万石)、東家(近江三上藩現米5200石・表高1万2000石)、藤堂家(伊勢久居藩現米2万3240石・表高5万3000石、1947年継嗣襲爵せず)、遠山家(美濃苗木藩現米4920石・表高1万21石)、土岐家(上野沼田藩現米1万5110石・表高3万5000石)、戸沢家(出羽新庄藩現米2万6070石・表高6万8200石)、戸田家(信濃松本藩現米3万6850石・表高6万石)、戸田家(下野宇都宮藩・現米1万8830石・表高7万850石)、戸田家(下野足利藩現米2700石・表高1万1000石)、戸田家(下野曾我野藩現米3720石・表高1万1139石)、戸田家(三河野村藩現米3900石)、鳥居家(下野壬生藩現米1万170石・表高3万石)、内藤家(越後村上藩現米2万9480石・表高5万90石)、内藤家(信濃高遠藩現米1万5330石・表高3万3000石)、内藤家(信濃岩村田藩現米4300石・表高1万5000石)、内藤家(日向延岡藩現米2万8906石・表高7万石)、内藤家(三河挙母藩現米6710石・表高2万石)、内藤家(陸奥湯長谷藩現米3260石・表高1万4000石)、永井家(大和櫛羅藩現米4550石・表高1万石)、永井家(摂津高槻藩現米1万7440石・表高3万6000石)、永井家(美濃加納藩現米1万3050石・表高3万2000石)、成瀬家(尾張犬山藩。男爵から陞爵)、鍋島家(肥前蓮池藩現米2万430石・表高5万2600石)、鍋島家(肥前小城藩現米2万7372石・表高7万3253石)、鍋島家(肥前鹿島藩現米9895石・表高2万石。1947年返上)、南部家(陸奥八戸藩現米9440石・表高2万石)、南部家(陸奥七戸藩現米1620石・表高1万384石)、西尾家(遠江横須賀藩現米1万4570石・表高3万5000石)、丹羽家(陸奥二本松藩現米1万2860石・表高5万石)、丹羽家(播磨三草藩現米4840石・表高1万石。1940年女戸主)、久松家(下総多古藩現米2750石・表高1万2000石)、久松家(伊予今治藩現米2万2720石・表高3万5000石)、土方家(伊勢菰野藩現米5720石・表高1万1000石)、一柳家(播磨小野藩現米5280石・表高1万石)、一柳家(伊予小松藩現米4830石・表高1万石)、北条家(河内狭山藩現米5470石・表高1万石)、保科家(上総飯野藩現米7500石・表高2万石)、細川家(肥後宇土藩現米1万2990石・表高3万石)、細川家(肥後高瀬藩現米1万3570石・表高3万5000石。1946年継嗣襲爵せず)、細川家(常陸茂木藩現米3850石・表高1万6300石)、堀田家(近江宮川藩現米4830石・表高1万3000石)、堀田家(下野佐野藩現米5290石・表高1万6000石)、堀家(信濃飯田藩現米1万40石・表高1万7000石)、本庄家(美濃高富藩現米3220石・表高1万石)、本庄家(丹後宮津藩現米2万7160石・表高7万石)、本多家(三河岡崎藩現米2万1351石・表高5万石)、本多家(陸奥泉藩現米4550石・表高1万8000石)、本多家(播磨山崎藩現米6680石・表高1万石)、本多家(近江膳所藩・現米2万5300石・表高6万石)、本多家(三河西端藩現米3280石・表高1万500石)、本多家(伊勢神戸藩現米6670石・表高1万5000石)、本多家(阿波長尾藩現米1万8939石・表高4万石)、本多家(信濃飯山藩現米1万1970石・表高2万石。1943年継嗣襲爵せず)、蒔田家(備中浅尾藩現米4140石・表高1万石)、前田家(加賀大聖寺藩現米2万8730石・表高10万石)、前田家(上野七日市藩現米2600石・表高1万14石)、牧野家(越後長岡藩現米1万500石・表高2万4000石)、牧野家(越後嶺岡藩)、牧野家(常陸笠間藩現米2万5180石・表高8万石)、牧野家(丹後舞鶴藩現米1万6750石・表高3万5000石)、牧野家(信濃小諸藩現米1万20石・表高1万5000石)、増山家(伊勢長島藩現米7390石・表高2万石)、松井家(武蔵川越藩現米2万1660石・表高8万400石)、松平家(丹波亀岡藩現米2万8380石・表高5万石)、松平家(肥前島原藩現米4万5120石・表高6万5900石)、松平家(豊後杵築藩現米2万1040石・表高3万2000石)、松平家(出羽上山藩現米1万480石・表高2万7000石。1908年返上)、松平家(信濃上田藩現米2万2808石・表高5万3000石)、松平家(三河西尾藩現米2万3190石・表高6万石)、松平家(美濃岩村藩現米1万3270石・表高3万石)、松平家(伊勢桑名藩現米2万3450石・表高6万石)、松平家(美作津山藩現米4万3120石・表高10万石)、松平家(越後清崎藩現米5520石・表高1万石)、松平家(出雲広瀬藩現米1万4390石・表高3万石)、松平家(出雲母里藩現米5353石・表高1万石)、松平家(播磨明石藩現米4万3470石・表高8万石)、松平家(陸奥斗南藩現米7380石・表高3万石)、松平家(美作鶴田藩現米2万660石・表高6万10000石)、松平家(美濃高須藩現米6630石・表高3万石。1947年継嗣襲爵せず)、松平家(伊予西条藩現米1万8190石・表高3万石)、松平家(陸奥松川藩)、松平家(常陸石岡藩現米5260石・表高2万石。1945年継嗣襲爵せず)、松平家(常陸宍戸藩現米1890石・表高1万石)、松平家(武蔵忍藩現米4万2070石・表高10万石)、松平家(上野小幡藩現米4170石・表高2万石)、松前家(蝦夷渡島館藩現米2万3300石・表高3万石。1944年継承者欠く)、松浦家(肥前平戸新田藩)、間部家(越前鯖江藩現米1万4960石・表高4万石。1943年返上)、三浦家(美作勝山藩現米1万1930石・表高2万3000石)、水野家(下総結城藩現米4840石・表高1万7000石)、水野家(上総菊間藩現米1万9260石・表高5万石)、水野家(上総鶴牧藩現米7040石・表高1万5000石)、水野家(出羽朝日山藩現米1万7500石・表高5万石)、三宅家(三河田原藩現米5740石・表高1万2072石)、毛利家(長門長府藩現米3万9972石・表高5万石)、毛利家(長門清末藩現米7600石・表高1万石)、毛利家(周防徳山藩現米2万1410石・表高4万10石)、毛利家(豊後佐伯藩現米1万2210石・表高2万石)、森家(播磨赤穂藩現米1万730石・表高2万石)、森家(播磨三日月藩現米8390石・表高1万5000石)、森川家(下総生実藩現米4030石・表高1万石)、柳生家(大和柳生藩現米5710石・表高1万石)、柳沢家(越後黒川藩現米4760石・表高1万石)、柳沢家(越後三日市藩現米4810石・表高1万石)、山内家(土佐高知新田藩現米4720石・表高1万3000石)、山口家(常陸牛久藩現米3700石・表高1万17石)、吉井家(上野吉井藩現米2160石・表高1万石)、米津家(常陸龍ヶ崎藩現米3320石・表高1万1000石)、米倉家(武蔵六浦藩現米2700石・表高1万2000石。1937年女戸主)、六郷家(出羽本荘藩現米1万3270石・表高2万21石。1941年返上)、脇坂家(播磨龍野藩現米2万7776石・表高5万1089石)、分部家(近江大溝藩現米6730石・表高2万石。1902年返上)、渡辺家(和泉伯太藩現米6070石・表高1万3520石)", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)の華族制度発足の際の大名からの華族取り立ての判断基準は表高1万石以上の知行地を持つ者のことだったが、下野国喜連川藩足利家(旧喜連川家)は表高5000石だったのにもかかわらず、江戸時代には大名扱いだったため華族に列していた。子爵の内規に付けられている「一新前旧諸侯タリシ家」という文言は足利家を入れるために付けられたものである。御三家付家老や周防国岩国藩吉川家は陪臣扱いだったため、当初は男爵だったが、吉川家と成瀬家については1891年(明治24年)に子爵に陞爵している。また現米算出の領地範囲は明治2年時が基準であり、戊辰戦争等で減封となった藩は少なくなった領地範囲の現米を出すため、陸奥会津藩表高23万石から陸奥斗南藩表高3万石(現米7380石)に減知転封となった松平家も子爵家に含まれる。減封がなければ恐らく現米5万石以上で伯爵家だったと思われるが、賊藩であることからストレートに子爵になったわけではない点に注意を要する。つまり「賊藩→罰として子爵」ではなく「賊藩→罰として減封→現米減少→子爵」である。爵位基準はあくまで現米のみによって機械的に決定されるもので、罰の要素が入り込む余地はない。他の旧大名子爵家の中にも戊辰戦争の結果減封になった家はあるが、それらは減封がなくとも現米5万石以上に達するのはまず無理なので、どっちにしても子爵家だったと思われる。例外として上総請西藩林家は戊辰戦争後に表高1万石から300石に減知となって大名の地位を失ったため当初は叙爵がなく、1893年(明治26年)になってから特旨により男爵を受けている。また、安芸広島新田藩浅野家は華族になった後に本藩の広島藩に合併され、その際に当主が華族の地位を返上したため華族令が出た際には華族でなくなっていた。そのため叙爵がなかった。石高偽装がばれて華族身分を剥奪された元高家旗本の堀江藩大沢家も当然叙爵はなかった。1869年(明治2年)の華族制度発足から1884年(明治17年)の華族令公布までの間に華族でなくなっていたのはこの2家のみである。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "叙爵内規で他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」が受爵対象に定められていた。以下の家が勲功により子爵に叙された。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "青木家、石井家(男爵から陞爵)、石黒家(男爵から陞爵・1941年継嗣襲爵せず)、伊集院家、伊東祐麿家、伊東祐了家(後に伯爵)、伊東巳代治家(男爵から陞爵・後に伯爵)、井上毅家、井上勝家、井上良馨家(男爵から陞爵)、岩下家、上原家(男爵から陞爵)、内田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、榎本家、大浦家(男爵から陞爵)、大久保家、大迫貞清家、大迫尚敏家(男爵から陞爵)、大島久直家(男爵から陞爵)、大島義昌家(男爵から陞爵)、大村家、岡沢家(男爵から陞爵)、小川家(男爵から陞爵)、海江田家、香川家(後に伯爵)、桂家(後に公爵)、加藤高明家(男爵から陞爵・後に伯爵)、加藤友三郎家(男爵から陞爵)、金子家(男爵から陞爵・後に伯爵)、樺山家(後に伯爵)、川上家(1934年女戸主)、河瀬家、河田家、河野家(1922年継承者欠く)、川村家(男爵から陞爵)、清浦家(男爵から陞爵・後に伯爵)、清岡家、栗野家(男爵から陞爵)、黒田家、米田家(男爵から陞爵)、児玉家(男爵から陞爵・後に伯爵。1947年継嗣襲爵せず)、後藤家(男爵から陞爵・後に伯爵)、斎藤家(男爵から陞爵)、阪谷家(男爵から陞爵)、税所家、実吉家(男爵から陞爵)、佐野家(後に伯爵)、佐久間家(男爵から陞爵・後伯爵)、滋野家(1924年継嗣襲爵せず)、宍戸家、品川家、渋沢家(男爵から陞爵)、杉家、末松家(男爵から陞爵)、曾我家、曾禰家(男爵から陞爵)、高島家(1943年継承者欠く)、高橋家(男爵から陞爵)、田尻家(男爵から陞爵)、立見家(男爵から陞爵)、田中不二麿家、田中光顕家(後伯爵・1946年返上)、谷家、珍田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、寺内家(後に伯爵)、鳥尾家、中牟田家、西家(男爵から陞爵)、仁礼家(1945年継嗣襲爵せず)、野津家(後に侯爵)、野村家、橋本家(男爵から陞爵)、長谷川家(男爵から陞爵・後に伯爵)、波多野家(男爵から陞爵)、花房家(男爵から陞爵)、浜尾家(男爵から陞爵)、林董家(男爵から陞爵・後に伯爵)、林友幸家(後に伯爵)、土方家(後に伯爵・1934年返上)、平田家(男爵から陞爵・後に伯爵)、福岡家、福羽家、本野家(男爵から陞爵)、牧野家(男爵から陞爵・後に伯爵)、三浦家、三島家、陸奥家(後に伯爵・1947年返上)、森家、三好家、山尾家、山岡家(1943年女戸主)、山口家(男爵から陞爵)、山地家(男爵から陞爵)、由利家、芳川家(後に伯爵)、吉田家、渡辺国武家、渡辺千秋家(男爵から陞爵・後に伯爵)、渡辺昇家(1944年継嗣襲爵せず)", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "明治以降に分家した華族は「一新後華族に列せられたる者」という叙爵内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例として子爵位が与えられることがあった(ただし公侯爵の分家でも大半は男爵である)。子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家分家)、徳川武定家(松戸徳川家)(侯爵水戸徳川家分家)、松平慶民家(侯爵越前松平家分家)の3家がある。また、岩倉具経家(公爵岩倉家分家)、長岡護美家(侯爵細川家分家(長岡家))、山内豊尹家(侯爵山内家分家)の3家も陞爵して子爵が与えられている。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち子爵に叙されたのは李完鎔、李埼鎔、朴斉純、高永喜、趙重応、閔丙奭、李容稙、金允植、権重顕、李夏栄、李根沢、宋秉畯、任善準、李載崐、尹徳栄、趙民煕、李秉武、李根命、閔泳韶、閔泳徽、金声根の22名である。現代韓国で「親日売国奴」の代名詞となっている「乙巳五賊」のうち4人、「丁未七賊」のうち6人が子爵に叙されている。中でも宋秉畯は最大の親日反民族主義者として併合後も日本とのパイプ役を務め続け、その功績で伯爵に陞爵。野田姓に創氏改名し「野田伯」と称された(朝鮮貴族で創氏改名する者は稀だった)。一方、李容稙と金允植は併合後、反日民族主義者となり、1919年の三・一独立運動で韓国独立を請願したために爵位剥奪処分となった。彼らや受爵を拒絶したり返却した者らはたとえ日韓併合時に「親日売国」行為があったとしても現代韓国で高く評価される傾向がある。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1944年時点で朝鮮貴族の子爵家の数は当初の22家から17家に減っていた(朝鮮貴族家の総数も当初の76家から59家に減少していた)。", "title": "日本の子爵" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「子」は五つある爵の下から二番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている。", "title": "中国の子爵" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "漢代においては二十等爵制が敷かれ、「子」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、子の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら八百戸、五十里四方の土地、次国なら六百戸、四十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。", "title": "中国の子爵" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。", "title": "中国の子爵" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "咸熙元年の叙爵では、陳羣・高柔・荀彧といった魏時代の功臣の子孫が「子」の爵を受けている。また羊祜もこの際に子の爵位(鋸平子)を受けている。", "title": "中国の子爵" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドに持ち込まれるようになったのが誕生のきっかけである。", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "子爵(Viscount)は爵位の中でも最後に生まれたものであり、1440年に第6代ボーモント男爵(英語版)ジョン・ボーモント(英語版)にボーモント子爵(英語版)位が与えられたのが最初である。", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても子爵位は第4位として存在する。スコットランド貴族以外の子爵位は他の爵位と違って爵位名にofがつかないという特徴がある(例えばヘレフォード子爵は「Viscount Hereford」であり「Viscount of Hereford」ではない)。", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "五爵のうち最上位の公爵のみ「閣下(Your Grace)」で、侯爵以降の貴族は全て「卿(Lord)」と尊称される。子爵の息子及び娘にはHonorable(オナラブル)が敬称として付けられる。", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない", "title": "イギリスの子爵" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、子爵は第4位である。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない。子爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる。", "title": "スペインの子爵" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。", "title": "スペインの子爵" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。", "title": "スペインの子爵" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。", "title": "スペインの子爵" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スペイン貴族には現在141個の子爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。", "title": "スペインの子爵" } ]
子爵は、近代日本で用いられた爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。
'''子爵'''(ししゃく、{{Lang-en-short|Viscount}} {{IPA-en|ˈvaɪkaʊnt|}})は、近代[[日本]]で用いられた[[爵位]](五爵)の第4位。[[伯爵]]の下位、[[男爵]]の上位に相当する{{Refnest|新村出{{sfn|新村出|2011|page=1124}}および松村明{{sfn|松村明|2006|page=1093}}参照。}}。[[ヨーロッパ]]諸国の[[貴族]]の爵位の[[日本語]]訳に使われる。 == 日本の子爵 == === 華族の子爵 === [[1869年]](明治2年)[[6月17日]]の行政官達543号において[[公家]]と武家の最上層たる[[大名家]]を「[[皇室]]の藩屏」として統合した[[華族]]身分が誕生した{{sfn|小田部雄次|2006|p=13}}{{sfn|浅見雅男|1994|p=24/86}}。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、華族身分設置当初から華族内の序列付けをしようという意見があり、様々な華族等級案が提起されたが、最終的には[[法制局]]大書記官の[[尾崎三良]]と同少書記官の[[桜井能監]]が[[1878年]](明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。 [[1884年]](明治17年)5月頃に[[賞勲局]]総裁[[柳原前光]]らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ{{sfn|浅見雅男|1994|p=71-76}}、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり{{sfn|小田部雄次|2006|p=26}}、同年[[7月7日]]に発せられた[[華族令]]{{sfn|居相正広|1925|page=21}}{{#tag:ref|『華族令要覧』によると、主な内容は次のとおり(表記は常用漢字)。<br />*「第一 総規&nbsp;§公卿諸侯ノ称ヲ廃シ改テ華族ト称ス/21p」「同&nbsp;§華族令/21p」「同&nbsp;§戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ関スル法律/42p」<br />*「第二&nbsp;授爵叙位 §授爵の詔勅/44p」「同&nbsp;§授爵ノ順序/44p」「同&nbsp;§叙位条例/44p」。<br />以下、「第三&nbsp;華族戒飭(かいちょく)令&nbsp;(0029.jp2-)」「第四&nbsp;華族世襲財産法/(0031.jp2)-」「第五&nbsp;華族就学規則/(0054.jp2-)」、「第六&nbsp;宗秩寮審議会並學習院評議会官規/(0063.jp2-)」。|group="注釈"}}(明治17年宮内省達、明治40年[[皇室令]]第2号)と[[華族授爵ノ詔勅]]{{sfn|居相正広|1925|page=44}}により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。なおこの際に旧華族にあった[[終身華族]](一代限りの華族)の制度は廃止され、華族はすべて世襲制となった{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。 子爵は[[公爵]]、[[侯爵]]、[[伯爵]]に次ぐ第4位([[正三位|正]][[従三位]]{{sfn|居相|1925|page=45|ps=「第二 授爵叙位 §授爵ノ順序」}})に位置づけられた。[[男爵]]の上位である。叙爵内規では子爵の叙爵基準について「[[明治維新|一新]]前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」と定めていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。 子爵家の数は明治17年(1884年)時点では324家(華族家の総数509家)、1902年時点では362家(同789家)、1920年時点では381家(同947家)と漸次増えていったが、これをピークとして、1947年時点では351家(同889家)に減っていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。制度発足時の明治17年(1884年)の段階では子爵家は華族全体の63.7%を占め、男爵家よりもはるかに数が多かったが、その後男爵が急増し、明治40年(1907年)になって子爵家と男爵家の数が同数に並び、この後は男爵家の方が多くなり、上に行くほど少なく下に行くほど多いという綺麗なピラミッド構造となった{{sfn|浅見雅男|1994|p=153}}。 [[宮中]][[女官]]は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は[[堂上家|平堂上]]の公家の娘が務めており([[摂家]]・[[清華家]]・[[大臣家]]の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=156-157}}。女官には[[典侍]]、[[掌侍]]、[[命婦]]、[[女嬬]]といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=158}}。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は[[差押]]ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は[[宮内大臣]]が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない{{sfn|百瀬孝|1990|p=243-244}}。 旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった{{sfn|浅見雅男|1994|p=34}}。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった{{sfn|浅見雅男|1994|p=116-117}}。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった{{sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。 [[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより子爵位を含めた華族制度は廃止された。 ==== 貴族院における子爵 ==== [[1889年]](明治22年)の[[貴族院令]]により貴族院議員の種別として[[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]]が設けられた(ほかに[[皇族議員]]と[[貴族院 (日本)#勅任議員|勅任議員]]がある){{sfn|百瀬孝|1990|p=37}}。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった{{sfn|百瀬孝|1990|p37/38/243}}。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=195-196}}。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる{{sfn|浅見雅男|1994|p=116}}。特に子爵の場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態が芳しくないことが多く議席を欲する者が多かった。研究会幹部だった貴族院議員[[酒井忠亮]]子爵も「大学を卒業して傾いていた家運を挽回するのにどうし様かと思った。安月給取りではやっていけない。結局早く(貴族院に入って)研究会の幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦は激しいものがあった{{sfn|内藤一成|2008|p=109-110}}。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており{{sfn|百瀬孝|1990|p=38}}、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が[[帝国議会|議会]]に提出されては政治論争となった。その最初のものは[[桂太郎]]内閣下の[[1905年]]に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年([[寺内正毅]]内閣下)には伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出された。さらに1925年の[[加藤高明]]内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的には子爵議員の数は66名となった{{sfn|小田部雄次|2006|p=184/191-195}}。 貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、子爵議員たちは「[[研究会 (貴族院)|研究会]]」という会派を形成した。「研究会」には勅選議員も多数参加し、院内における最大会派となり、[[1920年代]]に大きな力を持った{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。特に華族議員制度の解体を目指していた[[加藤高明]]内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対し続けた{{sfn|小田部雄次|2006|p=195}}。 ==== 子爵家の一覧 ==== ===== 旧公家の子爵家 ===== 叙爵内規では「[[明治維新|一新]]前家ヲ興シタル旧[[堂上家|堂上]]」を公家からの子爵位の対象者に定めていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。ただし伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。具体的には[[摂家]]([[公爵]])と[[清華家]]([[侯爵]])を除く堂上家について「[[大納言]]迄宣任の例多き」堂上家であれば伯爵位を与えられ、それに該当しない堂上家が子爵位を与えられた。「大納言迄宣任の例多き」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家{{#tag:ref|[[嵯峨家]]、[[三条西家]]、[[中院家]]|group="注釈"}}」「四位より[[参議]]に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家{{#tag:ref|[[油小路家]]、[[正親町家]]、[[勧修寺家]]、[[烏丸家]]、[[甘露寺家]]、[[滋野井家]]、[[清水谷家]]、[[清閑寺家]]、[[園家]]、[[中御門家]]、[[中山家]](中山家は結局伯爵を経ずに侯爵になっている)、[[庭田家]]、[[橋本家]]、[[葉室家]]、[[日野家]]、[[広橋家]]、[[坊城家]]、[[松木家]]、[[万里小路家]]、[[室町家]]、[[柳原家]]、[[鷲尾家]]|group="注釈"}}」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家{{#tag:ref|[[飛鳥井家]]、[[四条家]]、[[冷泉家]]|group="注釈"}}」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家{{#tag:ref|[[姉小路家]]、[[山科家]]|group="注釈"}}」のことを指す{{sfn|浅見雅男|1994|pp=117-118}}。直任とは[[中納言]]からそのまま[[大納言]]に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当する{{sfn|浅見雅男|1994|p=118}}。そしてこれらに該当しない堂上家が子爵である。以下の家が該当せず堂上家から子爵になった家である{{sfn|小田部雄次|2006|p=327-339}}。 '''[[阿野家]]'''([[羽林家]]・[[旧家]]・1944年継承者欠く)、'''[[綾小路家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[池尻家]]'''([[名家 (公家)|名家]]・[[新家]])、'''[[石山家]]'''(羽林家・新家)、'''[[五辻家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[今城家]]'''(羽林家・新家)、'''[[入江家]]'''(羽林家・新家)、'''[[石井家]]'''([[半家]]・半家)、'''[[石野家]]'''(羽林家・新家)、'''[[植松家]]'''(羽林家・新家)、'''[[梅小路家]]'''(名家・新家)、'''[[梅園家]]'''(羽林家・新家)、'''[[梅溪家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[裏辻家]]'''(羽林家・新家)、'''[[裏松家]]'''(名家・新家)、'''[[大宮家 (閑院流)|大宮家]]'''(羽林家・新家)、'''[[大原家]]'''(羽林家・新家・後に伯爵)、'''[[岡崎家]]'''(名家・新家)、'''[[小倉家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[押小路家 (閑院流)|押小路家]]'''(羽林家・新家)、'''[[愛宕家]]'''(羽林家・新家)、'''[[風早家]]'''(羽林家・新家)、'''[[交野家]]'''(名家・新家)、'''[[勘解由小路家 (日野流)|勘解由小路家]]'''(名家・新家)、'''[[唐橋家]]'''(半家・旧家)、'''[[河鰭家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[日野流北小路家|北小路家(藤原北家)]]'''(名家・新家)、'''[[大江姓北小路家|北小路家(大江氏)]]'''(半家・新家)、'''[[清岡家]]'''(半家・新家)、'''[[櫛笥家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[久世家]]'''(羽林家・新家)、'''[[倉橋家]]'''(半家・新家・1919年に女戸主)、'''[[桑原家]]'''(半家・新家・1919年返上)、'''[[五条家 (菅原氏)|五条家]]'''(半家・旧家)、'''[[桜井家]]'''(羽林家・新家)、'''[[澤家]]'''(半家・新家・後に伯爵)、'''[[慈光寺家]]'''(半家・旧家)、'''[[七条家]]'''(羽林家・新家)、'''[[芝山家]]'''(名家・新家)、'''[[持明院家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[白川家]]'''(半家・旧家)、'''[[園池家]]'''(羽林家・新家)、'''[[高丘家]]'''(羽林家・新家)、'''[[高倉家]]'''(半家・旧家)、'''[[高辻家]]'''(半家・旧家)、'''[[高野家]]'''(羽林家・新家・1912年返上)、'''[[高松家]]'''(羽林家・新家)、'''[[竹内家]]'''(半家・旧家)、'''[[竹屋家]]'''(名家・旧家)、'''[[千種家]]'''(羽林家・新家)、'''[[土御門家]]'''(半家・旧家)、'''[[堤家]]'''(名家・新家)、'''[[富小路家]]'''(半家・旧家)、'''[[外山家]]'''(名家・新家)、'''[[豊岡家]]'''(名家・新家)、'''[[中園家]]'''(羽林家・新家)、'''[[長谷家]]'''(名家・新家)、'''[[難波家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[西大路家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[錦織家]]'''(半家・新家)、'''[[錦小路家]]'''(半家・旧家)、'''[[西洞院家]]'''(半家・旧家)、'''[[西四辻家]]'''(羽林家・新家)、'''[[野宮家]]'''(羽林家・新家)、'''[[萩原家]]'''(半家・新家)、'''[[八条家]]'''(羽林家・新家)、'''[[花園家]]'''(羽林家・新家)、'''[[東園家]]'''(羽林家・新家)、'''[[東坊城家]]'''(半家・旧家)、'''[[樋口家]]'''(半家・新家)、'''[[日野西家]]'''(名家・新家)、'''[[平松家]]'''(名家・新家)、'''[[藤井家]]'''(半家・新家)、'''[[藤谷家]]'''(羽林家・新家)、'''[[藤波家 (大中臣氏)|藤波家]]'''(半家・旧家)、'''[[伏原家]]'''(半家・新家)、'''[[舟橋家]]'''(半家・旧家)、'''[[穂波家]]'''(名家・新家・1905年返上)、'''[[堀河家]]'''(半家・新家・1944年継承者欠く)、'''[[町尻家]]'''(羽林家・新家)、'''[[水無瀬家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[壬生家 (中御門流)|壬生家]]'''(羽林家・新家・後伯爵)、'''[[三室戸家]]'''(名家・新家)、'''[[武者小路家]]'''(羽林家・新家)、'''[[藪家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[山井家]]'''(羽林家・新家)、'''[[山本家]]'''(羽林家・新家)、'''[[吉田家]]'''(半家・旧家)、'''[[冷泉家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[六条家]]'''(羽林家・旧家)、'''[[六角家]]'''(羽林家・新家) 羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである{{sfn|浅見雅男|1994|p=119}}。叙爵内規は[[羽林家]]・[[名家]]・[[半家]]、あるいは[[旧家]]・[[新家]]の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非[[藤原氏]]であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=120}}。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない{{sfn|浅見雅男|1994|p=120}}。 ===== 旧大名の子爵家 ===== 叙爵内規では「旧小藩[[知藩事|知事]]即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。5万石未満の基準は[[表高]]や[[内高]]といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88/111}}。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88}}。この基準に基づき、以下の家が旧小藩知事として子爵家に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=327-339}}{{sfn|浅見雅男|1994|p=150-152}}(念のため表高も併記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。 '''[[青木氏|青木家]]'''(摂津[[麻田藩]]現米4792石・表高1万0000石)、'''[[青山氏|青山家]]'''(丹波[[篠山藩]]現米3万6320石・表高6万石)、'''青山家'''(美濃[[郡上藩]]現米1万5970石・表高4万8000石)、'''[[秋田氏|秋田家]]'''(陸奥[[三春藩]]現米1万2580石・表高5万石)、'''[[秋月氏|秋月家]]'''(日向[[高鍋藩]]現米1万6770石・表高2万7000石)、'''[[秋元氏|秋元家]]'''(上野[[館林藩]]現米3万7450石・表高6万石)、'''[[喜連川氏|足利家]]'''(下野[[喜連川藩]]現米1930石・表高5000石)、'''[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]]'''(陸奥[[棚倉藩]]現米1万140石・表高6万石)、'''阿部家'''(上総[[佐貫藩]]現米4470石・表高1万6000石)、'''[[摂津有馬氏|有馬家]]'''(下野[[吹上藩]]現米3530石・表高1万石、1943年返上)、'''[[肥前有馬氏|有馬家]]'''(越前[[丸岡藩]]現米1万7360石・表高5万石)、'''[[三河安藤氏|安藤家]]'''(陸奥[[磐城平藩]]現米6760石・表高3万石)、'''[[安部氏|安部家]]'''(武蔵[[岡部藩|半原藩]]現米5940石・表高2万250石、1946年継嗣襲爵せず)、'''[[井伊氏|井伊家]]'''(越後[[与板藩]]現米7190石・表高2万石)、'''[[池田氏|池田家]]'''(備中[[生坂藩]]現米5680石・表高1万5000石)、'''池田家'''(備中[[鴨方藩]]現米9220石・表高2万5000石)、'''池田家'''(因幡[[鹿奴藩]]現米1万3250石・表高3万石)、'''池田家'''(因幡[[若桜藩]]現米8830石・表高1万5000石)、'''[[石川氏|石川家]]'''(伊勢[[伊勢亀山藩|亀山藩]]現米2万4450石・表高6万石。1887年返上・1899年再叙爵)、'''石川家'''(常陸[[下館藩]]現米7910石・表高2万石)、'''[[板倉氏|板倉家]]'''(備中[[備中松山藩|高梁藩]]現米8570石・表高2万石)、'''板倉家'''(上野[[安中藩]])、'''板倉家'''(三河[[重原藩]]現米8880石・表高2万8000石)、'''板倉家'''(備中[[庭瀬藩]]現米1万470石・表高2万石)、'''[[市橋氏|市橋家]]'''(近江[[仁正寺藩|西大路藩]]現米6710石・表高1万8000石)、'''[[伊東氏|伊東家]]'''(日向[[飫肥藩]]現米2万3340石・表高5万1080石)、'''[[河津氏|伊東家]]'''(備中[[岡田藩]]現米7750石・表高1万343石)、'''[[三河稲垣氏|稲垣家]]'''(志摩[[鳥羽藩]]現米1万2920石・表高3万石)、'''稲垣家'''(近江[[山上藩]]表高1万3000石)、'''[[稲葉氏|稲葉家]]'''(豊後[[臼杵藩]]現米3万5270石・表高5万60石)、'''稲葉家'''(山城[[淀藩]]現米4万3780石・表高10万2000石)、'''稲葉家'''(安房[[館山藩]]現米3498石・表高1万石)、'''[[井上氏|井上家]]'''(遠江[[浜松藩|鶴舞藩]]現米2万4150石・表高6万石)、'''井上家'''(常陸[[下妻藩]]現米2090石・表高1万石)、'''井上家'''(下総[[高岡藩]]現米3540石・表高1万石)、'''[[岩城氏|岩城家]]'''(出羽[[亀田藩]]現米1万2200石・表高1万8000石)、'''[[上杉氏|上杉家]]'''(出羽[[米沢新田藩]]現米2926石・表高1万石。1944年継嗣襲爵せず)、'''[[植村氏|植村家]]'''(大和[[高取藩]]現米1万2700石・表高2万5000石)、'''[[内田氏|内田家]]'''(下総[[小見川藩]]現米2710石・表高1万石)、'''[[大岡氏|大岡家]]'''(三河[[西大平藩]]現米3250石・表高1万石)、'''大岡家'''(武蔵[[岩槻藩]]現米8880石・表高2万3000石)、'''[[大久保氏|大久保家]]'''(相模[[小田原藩]]現米2万3410石・表高7万5000石)、'''大久保家'''(相模[[荻野山中藩]]現米4660石・表高1万3000石)、'''大久保家'''(下野[[烏山藩]]現米7530石・表高3万石)、'''[[大河内氏|大河内家]]'''(上総[[大多喜藩]]現米7280石・表高2万2294石)、'''大河内家'''(三河[[三河吉田藩|豊橋藩]]現米2万6200石・表高7万石)、'''大河内家'''(上野[[高崎藩]]現米3万3110石・表高8万2000石)、'''[[大関氏|大関家]]'''(下野[[黒羽藩]]現米5340石・表高1万8000石)、'''[[太田氏|太田家]]'''(遠江[[掛川藩|松尾藩]]現米1万9540石・表高5万37石)、'''[[大田原氏|大田原家]]'''(下野[[大田原藩]]現米2528石・表高1万1400石)、'''[[大村氏|大村家]]'''(肥前[[大村藩]]現米2万3060石・表高2万7977石。後伯爵)、'''[[小笠原氏|小笠原家]]'''(播磨[[安志藩]]現米4560石・表高1万石)、小笠原家(豊前[[小倉新田藩|千束藩]]現米4800石・表高1万石)、'''小笠原家'''(肥前[[唐津藩]]現米2万9423石・表高6万石)、'''小笠原家'''(越前[[越前勝山藩|勝山藩]]現米7260石・表高2万2777石)、'''[[岡部氏 (藤原南家)|岡部家]]'''(和泉[[岸和田藩]]現米3万4090石・表高5万3000石)、'''[[大給松平家|大給家]]'''(豊後[[府内藩]]現米1万4160石・表高2万1200石)、'''大給家'''(信濃[[奥殿藩|龍岡藩]]現米5140石・表高1万6000石。後伯爵)、'''[[堀氏|奥田家]]'''(越後[[村松藩]]現米2万690石・表高3万石)、'''奥田家'''(信濃[[須坂藩]]現米4330石・表高1万53石)、'''奥田家'''(越後[[椎谷藩]]現米4390石・表高1万石)、'''[[織田氏|織田家]]'''(出羽[[天童藩]]現米7650石・表高1万8000石)、'''織田家'''(丹波[[柏原藩]]現米9190石・表高2万石)、'''織田家'''(大和[[芝村藩]]現米5210石・表高1万石)、'''織田家'''(大和[[柳本藩]]現米6600石・表高1万石)、'''[[片桐氏|片桐家]]'''(大和[[小泉藩]]現米5590石・表高1万1100石)、'''[[加藤氏|加藤家]]'''(近江[[水口藩]]現米1万1710石・表高2万石)、'''加藤家'''(伊予[[大洲藩]]現米3万476石・表高6万石)、'''加藤家'''(伊予[[新谷藩]]現米4890石・表高1万石)、'''[[加納氏|加納家]]'''(上総[[一宮藩]]現米5470石・表高1万3000石)、'''[[亀井氏|亀井家]]'''(石見[[津和野藩]]現米3万753石・表高4万3000石。後伯爵)、'''[[吉川氏|吉川家]]'''(周防[[岩国藩]]。男爵から陞爵)、'''[[木下氏|木下家]]'''(備中[[足守藩]]現米1万520石・表高2万5000石)、'''木下家'''(豊後[[日出藩]]現米1万280石・表高2万5000石)、'''[[京極氏|京極家]]'''(讃岐[[丸亀藩]]現米3万3120石・表高5万1512石)、'''京極家'''(讃岐[[多度津藩]]現米7400石・表高1万石)、'''京極家'''(但馬[[豊岡藩]]現米5380石・表高1万5000石)、'''京極家'''(丹後[[峰山藩]]現米6030石・表高1万1144石)、'''[[九鬼氏|九鬼家]]'''(摂津[[三田藩]]現米1万5290石・表高3万6000石)、'''九鬼家'''(丹波[[綾部藩]]現米7160石・表高1万9500石)、'''[[久世氏|久世家]]'''(下総[[関宿藩]]現米1万5550石・表高4万3000石)、'''[[朽木氏|朽木家]]'''(丹波[[福知山藩]]現米1万3330石・表高3万2000石)、'''[[来島氏|久留島家]]'''(豊後[[森藩]]現米6100石・表高1万2500石)、'''[[黒田氏#福岡藩主・黒田氏|黒田家]]'''(筑前[[秋月藩]]現米2万800石・表高5万石)、'''[[黒田氏#武蔵七党の一つ丹党の流れをくむ中山氏流が養子入りした黒田氏|黒田家]]'''(上総[[久留里藩]]現米1万1126石・表高3万石)、'''[[小出氏|小出家]]'''(丹波[[園部藩]]現米1万3530石・表高2万6711石)、'''[[宇久氏|五島家]]'''(肥前[[福江藩]]現米6460石・表高1万2500石。1945年襲爵せず)、'''[[酒井氏|酒井家]]'''(出羽[[出羽松山藩|松山藩]])、'''酒井家'''(上野[[伊勢崎藩]]現米5510石・表高2万石)、'''酒井家'''(安房[[安房勝山藩|加知山藩]]現米4280石・表高1万2000石。1899年返上)、'''酒井家'''(越前[[敦賀藩|鞠山藩]]現米4950石・表高1万石)、'''[[榊原氏|榊原家]]'''(越後[[高田藩]]現米4万8410石・表高15万石)、'''[[相良氏|相良家]]'''(肥後[[人吉藩]]現米2万5090石・表高2万2100石。1946年返上)、'''[[桜井松平家|桜井家]]'''(摂津[[尼崎藩]]現米2万7670石・表高4万石)、'''[[佐竹氏|佐竹家]]'''(出羽[[岩崎藩|久保田新田藩]]現米1万1910石・表高2万石)、'''[[真田氏|真田家]]'''(信濃[[松代藩]]現米3万7150石・表高10万石。後伯爵)、'''[[島津氏|島津家]]'''(日向[[佐土原藩]]現米1万8130石・表高2万7070石。後伯爵)、'''[[新庄氏|新庄家]]'''(常陸[[麻生藩]]現米4710石・表高1万石)、'''[[諏訪氏|諏訪家]]'''(信濃[[諏訪藩|高島藩]]現米1万6070石・表高3万石)、'''[[関氏|関家]]'''(備中[[新見藩]]現米6510石・表高1万8000石)、'''[[仙石氏|仙石家]]'''(但馬[[出石藩]]現米1万3840石・表高3万石)、'''[[相馬氏|相馬家]]'''(陸奥[[相馬中村藩|中村藩]]現米3万4610石・表高6万石)、'''高木家'''(河内[[丹南藩]]現米6600石・表高1万石)、'''[[滝脇松平家|滝脇家]]'''(駿河[[小島藩]]現米3560石・表高1万石)、'''[[建部氏|建部家]]'''(播磨[[林田藩]]現米6420石・表高1万石。1947年返上)、'''[[立花氏|立花家]]'''(陸奥[[三池藩]]現米4130石・表高1万石)、'''[[伊達氏|伊達家]]'''([[伊予吉田藩]]現米1万4730石・表高3万石)、'''[[谷氏|谷家]]'''(丹波[[山家藩]]現米4389石)、'''[[田沼氏|田沼家]]'''(遠江[[小久保藩]]現米4400石・表高1万石。1920年返上)、'''[[田村氏|田村家]]'''(陸奥[[一関藩]]現米1万1210石・表高2万7000石)、'''[[津軽氏|津軽家]]'''(陸奥[[黒石藩]]現米8020石・表高1万石)、'''[[土屋氏|土屋家]]'''(常陸[[土浦藩]]現米2万8380石・表高9万5000石)、'''[[土井氏|土井家]]'''(下総[[古河藩]]現米2万5710石・表高8万石)、'''土井家'''(三河[[刈谷藩]]現米7090石・表高2万3000石。1946年継嗣襲爵せず)、'''土井家'''(越前[[大野藩]]現米1万2630石・表高4万石)、'''[[遠藤氏|東家]]'''(近江[[三上藩]]現米5200石・表高1万2000石)、'''[[藤堂氏|藤堂家]]'''(伊勢[[久居藩]]現米2万3240石・表高5万3000石、1947年継嗣襲爵せず)、'''[[遠山氏|遠山家]]'''(美濃[[苗木藩]]現米4920石・表高1万21石)、'''[[土岐氏|土岐家]]'''(上野[[沼田藩]]現米1万5110石・表高3万5000石)、'''[[戸沢氏|戸沢家]]'''(出羽[[新庄藩]]現米2万6070石・表高6万8200石)、'''[[戸田氏|戸田家]]'''(信濃[[松本藩]]現米3万6850石・表高6万石)、'''戸田家'''(下野[[宇都宮藩]]・現米1万8830石・表高7万850石)、'''戸田家'''(下野[[足利藩]]現米2700石・表高1万1000石)、'''戸田家'''(下野[[曾我野藩]]現米3720石・表高1万1139石)、'''戸田家'''(三河[[野村藩]]現米3900石)、'''[[鳥居氏|鳥居家]]'''(下野[[壬生藩]]現米1万170石・表高3万石)、'''[[内藤家 (信成系)|内藤家]]'''(越後[[村上藩]]現米2万9480石・表高5万90石)、'''[[内藤氏|内藤家]]'''(信濃[[高遠藩]]現米1万5330石・表高3万3000石)、'''内藤家'''(信濃[[岩村田藩]]現米4300石・表高1万5000石)、'''内藤家'''(日向[[延岡藩]]現米2万8906石・表高7万石)、'''内藤家'''(三河[[挙母藩]]現米6710石・表高2万石)、'''内藤家'''(陸奥[[湯長谷藩]]現米3260石・表高1万4000石)、'''[[永井氏|永井家]]'''(大和[[櫛羅藩]]現米4550石・表高1万石)、'''永井家'''(摂津[[高槻藩]]現米1万7440石・表高3万6000石)、'''永井家'''(美濃[[加納藩]]現米1万3050石・表高3万2000石)、'''[[成瀬氏|成瀬家]]'''(尾張[[犬山藩]]。男爵から陞爵)、'''[[鍋島氏|鍋島家]]'''(肥前[[蓮池藩]]現米2万430石・表高5万2600石)、'''鍋島家'''(肥前[[小城藩]]現米2万7372石・表高7万3253石)、'''鍋島家'''(肥前[[鹿島藩]]現米9895石・表高2万石。1947年返上)、'''[[南部氏|南部家]]'''(陸奥[[八戸藩]]現米9440石・表高2万石)、'''南部家'''(陸奥[[七戸藩]]現米1620石・表高1万384石)、'''[[西尾氏|西尾家]]'''(遠江[[横須賀藩]]現米1万4570石・表高3万5000石)、'''[[丹羽氏#児玉丹羽氏|丹羽家]]'''(陸奥[[二本松藩]]現米1万2860石・表高5万石)、'''[[丹羽氏#一色丹羽氏|丹羽家]]'''(播磨[[三草藩]]現米4840石・表高1万石。1940年女戸主)、'''[[久松氏|久松家]]'''(下総[[多古藩]]現米2750石・表高1万2000石)、'''久松家'''(伊予[[今治藩]]現米2万2720石・表高3万5000石)、'''[[土方氏|土方家]]'''(伊勢[[菰野藩]]現米5720石・表高1万1000石)、'''[[一柳氏|一柳家]]'''(播磨[[小野藩]]現米5280石・表高1万石)、'''一柳家'''(伊予[[小松藩]]現米4830石・表高1万石)、'''[[後北条氏|北条家]]'''(河内[[狭山藩]]現米5470石・表高1万石)、'''[[保科氏|保科家]]'''(上総[[飯野藩]]現米7500石・表高2万石)、'''[[細川氏|細川家]]'''(肥後[[宇土藩]]現米1万2990石・表高3万石)、'''細川家'''(肥後[[肥後新田藩|高瀬藩]]現米1万3570石・表高3万5000石。1946年継嗣襲爵せず)、'''細川家'''(常陸[[谷田部藩|茂木藩]]現米3850石・表高1万6300石)、'''[[堀田氏|堀田家]]'''(近江[[近江宮川藩|宮川藩]]現米4830石・表高1万3000石)、'''堀田家'''(下野[[佐野藩]]現米5290石・表高1万6000石)、'''[[堀氏|堀家]]'''(信濃[[信濃飯田藩|飯田藩]]現米1万40石・表高1万7000石)、'''[[本庄氏|本庄家]]'''(美濃[[高富藩]]現米3220石・表高1万石)、'''本庄家'''(丹後[[宮津藩]]現米2万7160石・表高7万石)、'''[[本多氏|本多家]]'''(三河[[岡崎藩]]現米2万1351石・表高5万石)、'''本多家'''(陸奥[[泉藩]]現米4550石・表高1万8000石)、'''本多家'''(播磨[[山崎藩]]現米6680石・表高1万石)、'''本多家'''(近江[[膳所藩]]・現米2万5300石・表高6万石)、'''本多家'''(三河[[西端藩]]現米3280石・表高1万500石)、'''本多家'''(伊勢[[神戸藩]]現米6670石・表高1万5000石)、'''本多家'''(阿波[[長尾藩]]現米1万8939石・表高4万石)、'''本多家'''(信濃[[飯山藩]]現米1万1970石・表高2万石。1943年継嗣襲爵せず)、'''[[蒔田氏|蒔田家]]'''(備中[[浅尾藩]]現米4140石・表高1万石)、'''[[前田氏|前田家]]'''(加賀[[大聖寺藩]]現米2万8730石・表高10万石)、'''前田家'''(上野[[七日市藩]]現米2600石・表高1万14石)、[[三河牧野氏|牧野家]](越後[[越後長岡藩|長岡藩]]現米1万500石・表高2万4000石)、'''牧野家'''(越後[[三根山藩|嶺岡藩]])、'''牧野家'''(常陸[[笠間藩]]現米2万5180石・表高8万石)、'''牧野家'''(丹後[[丹後田辺藩|舞鶴藩]]現米1万6750石・表高3万5000石)、'''牧野家'''(信濃[[小諸藩]]現米1万20石・表高1万5000石)、'''[[増山氏|増山家]]'''(伊勢[[長島藩]]現米7390石・表高2万石)、'''[[三河松井氏|松井家]]'''(武蔵[[川越藩]]現米2万1660石・表高8万400石)、'''[[形原松平家|松平家]]'''(丹波[[丹波亀山藩|亀岡藩]]現米2万8380石・表高5万石)、'''[[深溝松平家|松平家]]'''(肥前[[島原藩]]現米4万5120石・表高6万5900石)、'''[[能見松平家|松平家]]'''(豊後[[杵築藩]]現米2万1040石・表高3万2000石)、'''[[藤井松平家|松平家]]'''(出羽[[上山藩]]現米1万480石・表高2万7000石。1908年返上)、'''松平家'''(信濃[[上田藩]]現米2万2808石・表高5万3000石)、'''[[大給松平家|松平家]]'''(三河[[西尾藩]]現米2万3190石・表高6万石)、'''松平家'''(美濃[[岩村藩]]現米1万3270石・表高3万石)、'''[[久松氏|松平家]]'''(伊勢[[桑名藩]]現米2万3450石・表高6万石)、'''[[越前松平家|松平家]]'''(美作[[津山藩]]現米4万3120石・表高10万石)、'''松平家'''(越後[[糸魚川藩|清崎藩]]現米5520石・表高1万石)、'''松平家'''(出雲[[広瀬藩]]現米1万4390石・表高3万石)、'''松平家'''(出雲[[母里藩]]現米5353石・表高1万石)、'''松平家'''(播磨[[明石藩]]現米4万3470石・表高8万石)、'''[[会津松平家|松平家]]'''(陸奥[[会津藩|斗南藩]]現米7380石・表高3万石)、'''[[越智松平家|松平家]]'''(美作[[浜田藩|鶴田藩]]現米2万660石・表高6万10000石)、'''[[尾張徳川家|松平家]]'''(美濃[[高須藩]]現米6630石・表高3万石。1947年継嗣襲爵せず)、'''[[紀州徳川家|松平家]]'''(伊予[[西条藩]]現米1万8190石・表高3万石)、[[水戸徳川家|松平家]](陸奥[[守山藩|松川藩]])、'''松平家'''(常陸[[常陸府中藩|石岡藩]]現米5260石・表高2万石。1945年継嗣襲爵せず)、'''松平家'''(常陸[[常陸宍戸藩|宍戸藩]]現米1890石・表高1万石)、'''[[奥平松平家|松平家]]'''(武蔵[[忍藩]]現米4万2070石・表高10万石)、'''松平家'''(上野[[小幡藩]]現米4170石・表高2万石)、'''[[蠣崎氏|松前家]]'''(蝦夷[[松前藩|渡島館藩]]現米2万3300石・表高3万石。1944年継承者欠く)、'''[[松浦氏|松浦家]]'''(肥前[[平戸新田藩]])、[[間部氏|間部家]](越前[[鯖江藩]]現米1万4960石・表高4万石。1943年返上)、'''[[三浦氏|三浦家]]'''(美作[[美作勝山藩|勝山藩]]現米1万1930石・表高2万3000石)、'''[[水野氏|水野家]]'''(下総[[結城藩]]現米4840石・表高1万7000石)、'''水野家'''(上総[[沼津藩|菊間藩]]現米1万9260石・表高5万石)、'''水野家'''(上総[[鶴牧藩]]現米7040石・表高1万5000石)、'''水野家'''(出羽[[山形藩|朝日山藩]]現米1万7500石・表高5万石)、'''[[三宅氏|三宅家]]'''(三河[[田原藩]]現米5740石・表高1万2072石)、'''[[毛利氏|毛利家]]'''(長門[[長府藩]]現米3万9972石・表高5万石)、'''毛利家'''(長門[[清末藩]]現米7600石・表高1万石)、'''毛利家'''(周防[[徳山藩]]現米2万1410石・表高4万10石)、'''[[毛利氏 (藤原氏)|毛利家]]'''(豊後[[佐伯藩]]現米1万2210石・表高2万石)、'''[[森氏|森家]]'''(播磨[[赤穂藩]]現米1万730石・表高2万石)、'''森家'''(播磨[[三日月藩]]現米8390石・表高1万5000石)、'''[[森川氏|森川家]]'''(下総[[生実藩]]現米4030石・表高1万石)、'''[[柳生氏|柳生家]]'''(大和[[柳生藩]]現米5710石・表高1万石)、'''[[柳沢氏|柳沢家]]'''(越後[[黒川藩]]現米4760石・表高1万石)、'''柳沢家'''(越後[[三日市藩]]現米4810石・表高1万石)、'''[[土佐山内氏|山内家]]'''(土佐[[高知新田藩]]現米4720石・表高1万3000石)、'''[[山口氏|山口家]]'''(常陸[[牛久藩]]現米3700石・表高1万17石)、'''[[鷹司松平家|吉井家]]'''(上野[[吉井藩]]現米2160石・表高1万石)、'''[[米津氏|米津家]]'''(常陸[[長瀞藩|龍ヶ崎藩]]現米3320石・表高1万1000石)、'''[[米倉氏|米倉家]]'''(武蔵[[六浦藩]]現米2700石・表高1万2000石。1937年女戸主)、'''[[六郷氏|六郷家]]'''(出羽[[本荘藩]]現米1万3270石・表高2万21石。1941年返上)、'''[[脇坂氏|脇坂家]]'''(播磨[[龍野藩]]現米2万7776石・表高5万1089石)、'''[[分部氏|分部家]]'''(近江[[大溝藩]]現米6730石・表高2万石。1902年返上)、'''[[渡辺氏|渡辺家]]'''(和泉[[伯太藩]]現米6070石・表高1万3520石) 1869年(明治2年)の華族制度発足の際の大名からの華族取り立ての判断基準は[[表高]]1万石以上の知行地を持つ者のことだったが、[[下野国]][[喜連川藩]][[喜連川氏|足利家]](旧喜連川家)は表高5000石だったのにもかかわらず、[[江戸時代]]には大名扱いだったため華族に列していた。子爵の内規に付けられている「一新前旧諸侯タリシ家」という文言は足利家を入れるために付けられたものである{{sfn|小田部雄次|2006|p=147}}。[[御三家]][[付家老]]や[[周防国]][[岩国藩]][[吉川家]]は[[陪臣]]扱いだったため、当初は男爵だったが、吉川家と[[成瀬氏|成瀬家]]については[[1891年]](明治24年)に子爵に陞爵している{{sfn|浅見雅男|1994|p=35-36}}。また現米算出の領地範囲は明治2年時が基準であり、[[戊辰戦争]]等で[[減封]]となった藩は少なくなった領地範囲の現米を出すため、陸奥[[会津藩]]表高23万石から陸奥[[斗南藩]]表高3万石(現米7380石)に減知転封となった[[会津松平家|松平家]]も子爵家に含まれる。減封がなければ恐らく現米5万石以上で伯爵家だったと思われるが、賊藩であることからストレートに子爵になったわけではない点に注意を要する。つまり「賊藩→罰として子爵」ではなく「賊藩→罰として減封→現米減少→子爵」である。爵位基準はあくまで現米のみによって機械的に決定されるもので、罰の要素が入り込む余地はない{{sfn|浅見雅男|1994|pp=112/147-150}}。他の旧大名子爵家の中にも戊辰戦争の結果減封になった家はあるが、それらは減封がなくとも現米5万石以上に達するのはまず無理なので、どっちにしても子爵家だったと思われる{{sfn|浅見雅男|1994|p=149}}。例外として上総[[請西藩]]林家は戊辰戦争後に表高1万石から300石に減知となって大名の地位を失ったため当初は叙爵がなく、[[1893年]](明治26年)になってから特旨により男爵を受けている{{sfn|小田部雄次|2006|p=346}}。また、安芸[[広島新田藩]]浅野家は華族になった後に本藩の広島藩に合併され、その際に当主が華族の地位を返上したため華族令が出た際には華族でなくなっていた。そのため叙爵がなかった。石高偽装がばれて華族身分を剥奪された元[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]]の[[堀江藩]][[大沢家]]も当然叙爵はなかった。1869年(明治2年)の華族制度発足から1884年(明治17年)の華族令公布までの間に華族でなくなっていたのはこの2家のみである{{sfn|浅見雅男|1994|p=66}}。 ===== 勲功による子爵家 ===== 叙爵内規で他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」が受爵対象に定められていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。以下の家が勲功により子爵に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=327-339}}。 '''[[青木周蔵|青木家]]'''、'''[[石井菊次郎|石井家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[石黒忠悳|石黒家]]'''(男爵から陞爵・1941年継嗣襲爵せず)、'''[[伊集院兼寛|伊集院家]]'''、'''[[伊東祐麿|伊東祐麿家]]'''、'''[[伊東祐亨|伊東祐了家]]'''(後に伯爵)、'''[[伊東巳代治|伊東巳代治家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[井上毅|井上毅家]]'''、'''[[井上勝|井上勝家]]'''、'''[[井上良馨|井上良馨家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[岩下方平|岩下家]]'''、'''[[上原勇作|上原家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[内田康哉|内田家]]'''(男爵から陞爵。後に伯爵)、'''[[榎本家#榎本武揚家(御家人→旗本→子爵家)|榎本家]]'''、'''[[大浦兼武|大浦家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[大久保忠寛|大久保家]]'''、'''[[大迫貞清|大迫貞清家]]'''、'''[[大迫尚敏|大迫尚敏家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[大島久直|大島久直家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[大島義昌|大島義昌家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[大村益次郎|大村家]]'''、'''[[岡沢精|岡沢家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[小川又次|小川家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[海江田信義|海江田家]]'''、'''[[香川敬三|香川家]]'''(後に伯爵)、'''[[桂氏#大江姓桂氏|桂家]]'''(後に公爵)、'''[[加藤高明|加藤高明家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[加藤友三郎|加藤友三郎家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[金子堅太郎|金子家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[樺山資紀|樺山家]]'''(後に伯爵)、'''[[川上操六|川上家]]'''(1934年女戸主)、'''[[河瀬真孝|河瀬家]]'''、'''[[河田景与|河田家]]'''、'''[[河野敏鎌|河野家]]'''(1922年継承者欠く)、'''[[川村景明|川村家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[清浦奎吾|清浦家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[清岡公張|清岡家]]'''、'''[[栗野慎一郎|栗野家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[黒田清綱|黒田家]]'''、'''[[米田家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[児玉氏#安芸児玉氏|児玉家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵。1947年継嗣襲爵せず)、'''[[後藤新平|後藤家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[斎藤実|斎藤家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[阪谷芳郎|阪谷家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[税所篤|税所家]]'''、'''[[実吉安純|実吉家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[佐野常民|佐野家]]'''(後に伯爵)、'''[[佐久間左馬太|佐久間家]]'''(男爵から陞爵・後伯爵)、'''[[滋野清彦|滋野家]]'''(1924年継嗣襲爵せず)、'''[[宍戸璣|宍戸家]]'''、'''[[品川弥二郎|品川家]]'''、'''[[渋沢家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[杉孫七郎|杉家]]'''、'''[[末松謙澄|末松家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[曾我祐準|曾我家]]'''、'''[[曾禰荒助|曾禰家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[高島鞆之助|高島家]]'''(1943年継承者欠く)、'''[[高橋是清|高橋家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[田尻稲次郎|田尻家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[立見豊丸|立見家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[田中不二麿|田中不二麿家]]'''、'''[[田中光顕|田中光顕家]]'''(後伯爵・1946年返上)'''、[[谷干城|谷家]]'''、'''[[珍田捨巳|珍田家]]'''(男爵から陞爵。後に伯爵)、'''[[寺内正毅|寺内家]]'''(後に伯爵)、'''[[鳥尾小弥太|鳥尾家]]'''、'''[[中牟田倉之助|中牟田家]]'''、'''[[西寛二郎|西家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[仁礼景範|仁礼家]]'''(1945年継嗣襲爵せず)、'''[[野津道貫|野津家]]'''(後に侯爵)、'''[[野村靖|野村家]]'''、'''[[橋本綱常|橋本家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[長谷川好道|長谷川家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[波多野敬直|波多野家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[花房義質|花房家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[浜尾新|浜尾家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[林董|林董家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[林友幸|林友幸家]]'''(後に伯爵)、'''[[土方久元|土方家]]'''(後に伯爵・1934年返上)、'''[[平田東助|平田家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)'''、[[福岡孝弟|福岡家]]'''、'''[[福羽美静|福羽家]]'''、'''[[本野一郎|本野家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[牧野伸顕|牧野家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[三浦梧楼|三浦家]]'''、'''[[三島通庸|三島家]]'''、'''[[陸奥宗光|陸奥家]]'''(後に伯爵・1947年返上)、'''[[森有礼|森家]]'''、'''[[三好重臣|三好家]]'''、'''[[山尾庸三|山尾家]]'''、'''[[山岡鉄太郎|山岡家]]'''(1943年女戸主)、'''[[山口素臣|山口家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[山地元治|山地家]]'''(男爵から陞爵)、'''[[由利公正|由利家]]'''、'''[[芳川顕正|芳川家]]'''(後に伯爵)、'''[[吉田清成|吉田家]]'''、'''[[渡辺国武|渡辺国武家]]'''、'''[[渡辺千秋|渡辺千秋家]]'''(男爵から陞爵・後に伯爵)、'''[[渡邊昇|渡辺昇家]]'''(1944年継嗣襲爵せず) ===== 高位華族の分家の子爵家 ===== 明治以降に分家した華族は「一新後華族に列せられたる者」という叙爵内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例{{sfn|居相|1925|pages=42-43|ps=「第一 總規 §戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ關スル法律」}}として子爵位が与えられることがあった(ただし公侯爵の分家でも大半は男爵である)。子爵を与えられた分家華族としては、'''[[近衛秀麿]]家'''(公爵[[近衛家]]分家)、'''[[徳川武定]]家([[松戸徳川家]])'''(侯爵[[水戸徳川家]]分家)、'''[[松平慶民]]家'''(侯爵[[越前松平家]]分家)の3家がある。また、'''[[岩倉具経]]家'''(公爵[[岩倉家]]分家)、'''[[長岡護美]]家'''(侯爵[[細川氏|細川家]]分家([[長岡氏|長岡家]]))、'''[[山内豊尹]]家'''(侯爵[[山内氏|山内家]]分家)の3家も陞爵して子爵が与えられている{{sfn|小田部雄次|2006|p=339-341}}。 ==== 主な日本の子爵 ==== * [[青木周蔵]] - 第5代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]ほか。 * [[石井菊次郎]] - 第30代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]ほか。 * [[井上毅]] - 第10代[[文部大臣]]ほか。 * [[上原勇作]] - 第19代[[陸軍大臣]]ほか。[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]。日本工兵の父。 * [[榎本武揚]] - 初代[[逓信大臣]]ほか。旧[[幕府海軍]]副総裁、[[蝦夷共和国]]総裁。 * [[大久保一翁]] - 第5代[[東京府知事]]。旧幕府[[若年寄]]。 * [[岡沢精]] - [[陸軍大将]]。 * [[海江田信義]] - [[枢密院顧問官]]ほか。 * [[加藤友三郎]] - 第21代[[内閣総理大臣]]ほか。[[海軍大将]]。 * [[川上操六]] - [[陸軍大将]]。 * [[川村景明]] - [[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]。 * [[児玉源太郎]] - [[陸軍大将]]。 * [[近衛秀麿]] - [[指揮者]]、[[作曲家]]。日本のオーケストラのパイオニア的存在。 * [[斎藤実]] - 第30代[[内閣総理大臣]]ほか。[[海軍大将]]。 * [[阪谷芳郎]] - 第3代[[東京市長]]、第11代[[大蔵大臣]]ほか。 * [[佐野常民]] - 第3代[[元老院 (日本)|元老院議長]]ほか。[[佐賀の七賢人]]の一人。 * [[品川弥二郎]] - 第6代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]ほか。 * [[渋沢栄一]] - [[第一国立銀行]]頭取ほか。日本資本主義の父 * [[末松謙澄]] - 第19代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]ほか。 * [[高橋是清]] - 第20代[[内閣総理大臣]]ほか。 * [[田中光顕]] - 第3代[[宮内大臣]]ほか。[[陸軍少将]]。[[陸援隊]]副隊長。 * [[谷干城]] - 初代[[農商務大臣]]ほか。[[陸軍中将]]。 * [[濱尾実]] - [[東宮侍従]]ほか。 * [[福岡孝弟]] - 第6代[[文部卿]]ほか。旧[[土佐藩]]家老。 * [[三浦梧楼]] - [[枢密院顧問官]]ほか。[[陸軍中将]]。 * [[三島通庸]] - 第5代[[警視総監]]ほか。 * [[森有礼]] - 初代[[文部大臣]]ほか。[[明治六大教育家]]の一人。 * [[山岡鉄舟]] - [[宮内少輔]]ほか。旧幕府[[若年寄]]。 * [[渡辺国武]] - 第2代[[大蔵大臣]]ほか。 === 朝鮮貴族の子爵 === [[日韓併合]]後の[[1910年]](明治43年)の[[朝鮮貴族令]](皇室令第14号)により華族に準じた[[朝鮮貴族]]の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった[[両班]]出身者で占められた{{sfn|小田部雄次|2006|p=163/166}}。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち子爵に叙されたのは[[李完鎔]]、[[李埼鎔]]、[[朴斉純]]、[[高永喜]]、[[趙重応]]、[[閔丙奭]]、[[李容稙]]、[[金允植]]、[[権重顕]]、[[李夏栄]]、[[李根沢]]、[[宋秉畯]]、[[任善準]]、[[李載崐]]、[[尹徳栄]]、[[趙民煕]]、[[李秉武]]、[[李根命]]、[[閔泳韶]]、[[閔泳徽]]、[[金声根]]の22名である{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。現代韓国で「親日売国奴」の代名詞となっている「[[乙巳五賊]]」のうち4人、「[[丁未七賊]]」のうち6人が子爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。中でも宋秉畯は最大の親日反民族主義者として併合後も日本とのパイプ役を務め続け、その功績で伯爵に陞爵。野田姓に[[創氏改名]]し「野田伯」と称された{{sfn|小田部雄次|2006|p=172}}(朝鮮貴族で創氏改名する者は稀だった{{sfn|百瀬孝|1990|p=245}})。一方、李容稙と金允植は併合後、反日民族主義者となり、[[1919年]]の[[三・一独立運動]]で韓国独立を請願したために爵位剥奪処分となった。彼らや受爵を拒絶したり返却した者らはたとえ日韓併合時に「親日売国」行為があったとしても現代韓国で高く評価される傾向がある{{sfn|小田部雄次|2006|p=164-171}}。 1944年時点で朝鮮貴族の子爵家の数は当初の22家から17家に減っていた(朝鮮貴族家の総数も当初の76家から59家に減少していた){{sfn|小田部雄次|2006|p=173}}。 == 中国の子爵 == {{see also|{{仮リンク|中国の爵位|zh|中国爵位}}}} [[周|西周]]時代に設置された爵について、『[[礼記]]』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「子」は五つある爵の下から二番目に位置づけている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=2-3}}。一方で『[[孟子 (書物)|孟子]]』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、[[天子]]を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。また『[[春秋公羊伝]]』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=5}}。金文史料が検討されるようになって[[傅期年]]、[[郭沫若]]、[[楊樹達]]といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=4}}。[[王世民]]が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=6}}。[[貝塚茂樹]]は『[[春秋左氏伝]]』を検討し、五等爵は[[春秋時代]]末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=9}}。 [[漢]]代においては[[二十等爵]]制が敷かれ、「子」の爵位は存在しなかった。[[魏 (三国)|魏]]の[[咸熙]]元年(264年)、爵制が改革され、子の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は[[列侯]]や[[亭侯]]の上位に置かれ、[[諸侯王]]の下の地位となる{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。[[食邑]]は大国なら八百戸、五十里四方の土地、次国なら六百戸、四十五里四方の土地が与えられることとなっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。その後[[西晋]]および[[東晋]]でも爵位は存続している{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}。 [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]においても晋の制度に近い叙爵が行われている。[[隋]]においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、[[唐]]においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。 === 主要な中国の子爵 === 咸熙元年の叙爵では、[[陳羣]]・[[高柔]]・[[荀彧]]といった魏時代の功臣の子孫が「子」の爵を受けている{{sfn|袴田郁一|2014|p=85}}。また[[羊祜]]もこの際に子の爵位(鋸平子)を受けている{{sfn|袴田郁一|2014|p=85}}。 == イギリスの子爵 == [[File:Coronet of a British Viscount.svg|thumb|200px|right|英国子爵の紋章上の冠。]] [[イングランド王国|イングランド]]に確固たる貴族制度を最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](<small>在位:[[1066年]]-[[1087年]]</small>)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったが、[[エドワード懺悔王]](<small>在位:[[1042年]]-[[1066年]]</small>)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドに持ち込まれるようになったのが誕生のきっかけである<ref name="小林(1991)16-17">[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.16-17</ref>。 子爵(Viscount)は爵位の中でも最後に生まれたものであり、[[1440年]]に第6代{{仮リンク|ボーモント男爵|en|Baron Beaumont}}{{仮リンク|ジョン・ボーモント (初代ボーモント子爵)|label=ジョン・ボーモント|en|John Beaumont, 1st Viscount Beaumont}}に{{仮リンク|ボーモント子爵|en|Baron Beaumont#Viscounts Beaumont (1432)}}位が与えられたのが最初である<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.5-6</ref>。 [[イングランド王国]]、[[スコットランド王国]]、[[アイルランド王国]]それぞれに貴族制度があり、それぞれを[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[アイルランド貴族]]という。イングランド王国とスコットランド王国が[[グレートブリテン王国]]として統合された後は新設爵位は[[グレートブリテン貴族]]として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国が[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]として統合された後には新設爵位は[[連合王国貴族]]として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても子爵位は第4位として存在する。スコットランド貴族以外の子爵位は他の爵位と違って爵位名にofがつかないという特徴がある(例えば[[ヘレフォード子爵]]は「Viscount Hereford」であり「Viscount of Hereford」ではない)。 五爵のうち最上位の公爵のみ「閣下(Your Grace)」で、侯爵以降の貴族は全て「卿(Lord)」と尊称される<ref name="森(1987)15">[[#森(1987)|森(1987)]] p.15</ref>。子爵の息子及び娘にはHonorable([[オナラブル]])が敬称として付けられる。 英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、[[1963年]]の[[1963年貴族法|貴族法]]制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。 有爵者は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員になりえる。かつては原則として全[[世襲貴族]]が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、[[1999年]]以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279/290}} === 現存する子爵家 === ==== イングランド貴族 ==== #[[ヘレフォード子爵]] (1550年) デヴァルー家 ==== スコットランド貴族 ==== #[[フォークランド子爵]] (1620年) ケーリー家 #[[アーバスノット子爵]] (1641年) アーバスノット家 #{{仮リンク|オックスファード子爵|en|Viscount of Oxfuird}} (1651年) マクギル家 ==== グレートブリテン貴族 ==== #[[ボリングブルック子爵]] (1712年)/[[シンジョン子爵]] (1716年) シンジョン家 #[[コバム子爵]] (1718年) リトルトン家 #[[ファルマス子爵]] (1720年) ボスコーエン家 #[[トリントン子爵]] (1721年) ビング家 #[[フッド子爵]] (1796年) フッド家 ==== アイルランド貴族 ==== {{Div col}} #{{仮リンク|ゴーマンストン子爵|en|Viscount Gormanston}} (1478年) プレストン家 #{{仮リンク|マウントガーレット子爵|en|Viscount Mountgarret}} (1550年) {{仮リンク|バトラー家|en|Butler dynasty}} #[[ヴァレンティア子爵]] (1622年) アンズリー家 #{{仮リンク|ディロン子爵|en|Viscount Dillon}} (1622年) ディロン家 #{{仮リンク|マセリーン子爵|en|Viscount Massereene}} (1660年)/{{仮リンク|フェラード子爵|en|Viscount Ferrard}} (1797年) スケフィントン家 #{{仮リンク|シャールモント子爵|en|Viscount Charlemont}} (1665年) コールフィールド家 #{{仮リンク|ダウン子爵|en|Viscount Downe}} (1680年) ドーネイ家 #{{仮リンク|モールスワース子爵|en|Viscount Molesworth}} (1716年) モールスワース家 #{{仮リンク|チェットウィンド子爵|en|Viscount Chetwynd}} (1717年) チェットウィンド家 #[[ミドルトン子爵]] (1717年) ブロデリク家 #[[ボイン子爵]] (1717年) {{仮リンク|ハミルトン家|label=ハミルトン=ラッセル家|en|Clan Hamilton}} #{{仮リンク|ゲージ子爵|en|Viscount Gage}} (1720年) ゲージ家 #[[ゴールウェイ子爵]] (1727年) モンクトン=アランデル家 #[[ポーズコート子爵]] (1744年) ウィンフィールド家 #{{仮リンク|アシュブロック子爵|en|Viscount Ashbrook}} (1751年) フラワー家 #{{仮リンク|サウスウェル子爵|en|Viscount Southwell}} (1776年) サウスウェル家 #[[ド・ヴェシー子爵]] (1776年) ヴィジー家 #{{仮リンク|リフォード子爵|en|Viscount Lifford}} (1781年) ヒューイット家 #{{仮リンク|バンガー子爵|en|Viscount Bangor}} (1781年) ウォード家 #{{仮リンク|ドナレイル子爵|en|Viscount Doneraile}} (1785年) {{仮リンク|セント・レジャー家|en|St. Leger family}} #{{仮リンク|ハーバートン子爵|en|Viscount Harberton}} (1791年) {{仮リンク|ポメロイ家|en|Pomeroy (surname)}} #[[ハワーデン子爵]] (1793年) モード家 #[[マンク子爵]] (1801年1月) マンク家 #[[ゴート子爵]] (1816年) ヴェレカー家 {{Div col end}} ==== 連合王国貴族 ==== {{Div col}} #[[セント・ヴィンセント子爵]] (1801) ジャービス家 #[[メルヴィル子爵]] (1802) ダンダス家 #[[シドマス子爵]] (1805年) アディントン家 #[[エクスマス子爵]] (1816) ペルー家 #{{仮リンク|コンバーミア子爵|en|Viscount Combermere}} (1827) ステイプルトン=コットン家 #{{仮リンク|ヒル子爵|en|Viscount Hill}} (1842) クレッグ=ヒル家 #[[ハーディング子爵]] (1846) ハーディング家 #[[ゴフ子爵]] (1849年) ゴフ家 #[[ブリッドポート子爵]] (1868) ネルソン・フッド家 #[[ポートマン子爵]] (1873) ポートマン家 #{{仮リンク|ハムデン子爵|en|Viscount Hampden}} (1884) ブランド家 #{{仮リンク|ハンブルデン子爵|en|Viscount Hambleden}} (1891) スミス家 #{{仮リンク|ナッツフォード子爵|en|Viscount Knutsford}} (1895) ホランド=ヒバート家 #[[イーシャー子爵]] (1897) ブレット家 #[[ゴッシェン子爵]] (1900年) ゴッシェン家 #[[リドレー子爵]] (1900) リドレー家 #[[クーロスのコルヴィル子爵]] (1902) コルヴィル家 #{{仮リンク|セルビー子爵|en|Viscount Selby}} (1905) ガリー家 #[[ノールズ子爵]] (1911) {{仮リンク|ノールズ家|en|Knollys family}} #{{仮リンク|アレンデール子爵|en|Viscount Allendale}} (1911) {{仮リンク|ボーモント家|en|House of Beaumont}} #{{仮リンク|チルストン子爵|en|Viscount Chilston}} (1911)エイカーズ=ダグラス家 #[[スカーズデール子爵]] (1911) カーゾン家 #[[マージー子爵]] (1916) ビンガム家 #[[カウドレー子爵]] (1917) ピアソン家 #[[デヴォンポート子爵]] (1917) キアリー家 #[[アスター子爵]] (1917) [[アスター家]] #{{仮リンク|ウィンボーン子爵|en|Viscount Wimborne}} (1918) {{仮リンク|ゲスト家|en|Guest family}} #[[セント・デイヴィッズ子爵]] (1918) フィリップス家 #[[ロザミア子爵]] (1919) ハームズワース家 #[[アレンビー子爵]] (1919) アレンビー家 #[[チェルムスファド子爵]] (1921) セシジャー家 #{{仮リンク|ロング子爵|en|Viscount Long}} (1921) ロング家 #[[アルスウォーター子爵]] (1921) {{仮リンク|ラウザー家|en|Lowther family}} #[[レッキーのヤンガー子爵]] (1923) ヤンガー家 #{{仮リンク|ベアーステッド子爵|en|Viscount Bearsted}} (1925) サミュエル家 #{{仮リンク|クレイガヴォン子爵|en|Viscount Craigavon}} (1927) クレイグ家 #[[ブリッジマン子爵]] (1929) ブリッジマン家 #[[ヘイルシャム子爵]] (1929) ホッグ家 #{{仮リンク|ブレントフォード子爵|en|Viscount Brentford}} (1929) ジョインソン=ヒックス家 #{{仮リンク|バックマスター子爵|en|Viscount Buckmaster}} (1932) バックマスター家 #[[ブレディスロー子爵]] (1935) バサースト家 #[[ハンワース子爵]] (1936) {{仮リンク|ポロック氏族|label=ポロック家|en|Clan Pollock}} #[[トレンチャード子爵]] (1936) トレンチャード家 #[[サミュエル子爵]] (1937) サミュエル家 #{{仮リンク|ドックスフォードのランシマン子爵|en|Viscount Runciman of Doxford}} (1937) ランシマン家 #{{仮リンク|デイヴィッドソン子爵|en|Viscount Davidson}} (1937) デイヴィッドソン家 #{{仮リンク|ヴィアー子爵|en|Viscount Weir}} (1938) ヴィアー家 #{{仮リンク|カルデコート子爵|en|Viscount Caldecote}} (1939) インスキップ家 #[[キャムローズ子爵]] (1941) ベリー家 #[[スタンズゲート子爵]] (1942) ベン家 #[[マーゲッソン子爵]] (1942) マーゲッソン家 #[[ダヴェントリー子爵]] (1943) フィッツロイ家 #[[アディソン子爵]] (1945) アディソン家 #[[ケムズリー子爵]] (1945) ベリー家 #{{仮リンク|マーチウッド子爵|en|Viscount Marchwood}} (1945) ペニー家 #[[アラメインのモントゴメリー子爵]] (1946) モントゴメリー家 #[[ウェイヴァーリー子爵]] (1952) {{仮リンク|アンダーソン氏族|label=アンダーソン家|en|Clan Anderson}} #[[サーソー子爵]] (1952) {{仮リンク|シンクレアー氏族|label=シンクレアー家|en|Clan Sinclair}} #[[ブルックバラ子爵]] (1952) ブルック家 #{{仮リンク|ノリッジ子爵|en|Viscount Norwich}} (1952) クーパー家 #{{仮リンク|レザーズ子爵|en|Viscount Leathers}} (1954) レザーズ家 #[[ソウルベリー子爵]] (1954) ラムザバザム家 #[[シャンドス子爵]] (1954) リトルトン家 #{{仮リンク|マルバーン子爵|en|Viscount Malvern}} (1955) ハギンズ家 #[[ド・リール子爵]] (1956) シドニー家 #{{仮リンク|ブレンチリーのモンクトン子爵|en|Viscount Monckton of Brenchley}} (1957) モンクトン家 #[[テンビー子爵]] (1957) ロイド・ジョージ家 #{{仮リンク|ハリファックスのマッキントッシュ子爵|en|Viscount Mackintosh of Halifax}} (1957) マッキントッシュ家 #[[ダンロッシル子爵]] (1959) モリソン家 #{{仮リンク|フィンドホーンのステュアート子爵|en|Viscount Stuart of Findhorn}} (1959) ステュアート家 #{{仮リンク|ロッチデール子爵|en|Viscount Rochdale}} (1960) ケンプ家 #[[スリム子爵]] (1960) スリム家 #{{仮リンク|ヘッド子爵|en|Viscount Head}} (1960) ヘッド家 #{{仮リンク|マートンのボイド子爵|en|Viscount Boyd of Merton}} (1960) レノックス=ボイド家 #{{仮リンク|ミルズ子爵|en|Viscount Mills}} (1962) ミルズ家 #[[ブレイクナム子爵]] (1963) ヘア家 #[[エクルズ子爵]] (1964)エクルズ家 #[[ディルホーン子爵]] (1964) マニンガム=ブラー家 {{Div col end}} === 伯爵以上の貴族が従属爵位として持つ子爵位 === {{Div col}} * [[アーレイ子爵]]<small>([[レディング侯爵]])</small> * [[アンバーレイ子爵]]<small>([[ラッセル伯爵]])</small> * [[イプスウィッチ子爵]]<small>([[グラフトン公爵]])</small> * [[インヴァーカイシング子爵]]<small>([[ローズベリー伯爵]])</small> * [[ヴィリアーズ子爵]]<small>([[ジャージー伯爵]])</small> * [[ウォルマー子爵]]<small>([[セルボーン伯爵]])</small> * [[エリントン子爵]]<small>([[クローマー伯爵]])</small> * [[オールトラップ子爵]]<small>([[スペンサー伯爵]])</small> * [[カスルリー子爵]]<small>([[ビュート侯爵]])</small> * [[キャルネ及びキャルストン子爵]]<small>([[ランズダウン侯爵]])</small> * [[グウィネズ子爵]]<small>([[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]])</small> * [[クランボーン子爵]]<small>([[ソールズベリー侯爵]])</small> * [[クランモーリス子爵]]<small>([[ランズダウン侯爵]])</small> * [[クローマー子爵]]<small>([[クローマー伯爵]])</small> * [[ゴードン子爵]]<small>([[アバディーン=テメイア侯爵]])</small> * [[ストラバーン子爵]]<small>([[アバコーン公爵]])</small> * [[スペンサー子爵]]<small>([[スペンサー伯爵]])</small> * [[ダンダフ子爵]]<small>([[モントローズ公爵]])</small> * [[チャムリー子爵]]<small>([[チャムリー侯爵]])</small> * [[トレンタム子爵]]<small>([[サザーランド公爵]])</small> * [[ハーウィック子爵]]<small>([[グレイ伯爵]])</small> * [[ハリファックス子爵]]<small>([[ハリファックス伯爵]])</small> * [[フィッツモーリス子爵]]<small>([[ランズダウン侯爵]])</small> * [[フォーマーティーン子爵]]<small>([[アバディーン=テメイア侯爵]])</small> * [[プレストウッド子爵]]<small>([[アトリー伯爵]])</small> * [[ベルグレイヴ子爵]]<small>([[ウェストミンスター公爵]])</small> * [[マクミラン子爵]]<small>([[ストックトン伯爵]])</small> * [[マルパス子爵]]<small>([[チャムリー侯爵]])</small> * [[メルガンド子爵]]<small>([[ミントー伯爵]])</small> * [[メントモア子爵]]<small>([[ローズベリー伯爵]])</small> * [[モーペスのハワード子爵]]<small>([[カーライル伯爵]])</small> * [[ローズベリー子爵]]<small>([[ローズベリー伯爵]])</small> * [[ロチェスター子爵]]<small>([[サマセット公爵]])</small> * [[ロッコウ=グレニーレ子爵]]<small>([[アーガイル公爵]])</small> {{Div col end}} === 廃絶した子爵位 === {{Div col}} * [[サックヴィル子爵]] *{{仮リンク|ウィンブルドン子爵|en|Viscount Wimbledon}} * [[ウェーヴェル子爵]] * [[カードウェル子爵]] * {{仮リンク|カンタベリー子爵|en|Viscount Canterbury}} * [[チェルウッドのセシル子爵]] * [[パーマストン子爵]] * [[ヒューエンデン子爵]] * [[クロス子爵]] * [[ファラドンのグレイ子爵]] * [[アランブルック子爵]] * [[ミルナー子爵]] * [[メルバーン子爵]] * [[ランダッフ子爵]] * [[サイモン子爵]] * [[チャップリン子爵]] {{Div col end}} == スペインの子爵 == [[File:Heraldic Crown of the Spanish Viscounts.svg|250px|thumb|スペインの子爵の紋章上の冠]] 王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、[[スペイン貴族]]の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、子爵は第4位である{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}<ref name="chivalricorders">[https://web.archive.org/web/20080515235058/http://www.chivalricorders.org/nobility/spanoble.htm Noble Titles in Spain and Spanish Grandees]</ref>。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}。子爵位には[[グランデ]]の格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる<ref name="chivalricorders"/>。 伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる<ref name="chivalricorders"/>。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない<ref name="chivalricorders"/>。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる<ref name="chivalricorders"/>。爵位の継承には所定の料金がかかる<ref name="chivalricorders"/>。 歴史的にはスペインの前身である[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン連合王国]]、[[ナバーラ王国]]にそれぞれ爵位貴族制度があり{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=315}}、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、[[フェリペ3世]]時代以降に爵位貴族が急増した{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。 [[1931年]]の革命で王位が廃されて[[スペイン第二共和政|第二共和政]]になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが<ref>https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf</ref>、[[1948年]]に総統[[フランシスコ・フランコ]]が貴族制度を復活させ<ref name="chivalricorders"/><ref>https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512</ref>、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった<ref name="chivalricorders"/>。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。 === 現存する子爵位 === {{main|{{仮リンク|スペイン子爵の一覧|es|Anexo:Vizcondados de España}}}} スペイン貴族には現在141個の子爵位が存在し、うち2個が[[グランデ]]の格式を有する。 == 欧州との対応 == {{seealso|ヴァイカウント}} * 子爵と訳されることがあるヨーロッパの爵位 ** [[:fr:Vicomte|vicomte]] - [[:fr:Liste historique des vicomtés de France|フランスの歴史的子爵家の一覧]]{{fr icon}} ** [[:en:Viscount|viscount]]{{en icon}} **[[:fr:Vidame|vidame]]{{fr icon}} 封建制の領主でフランス、[[神聖ローマ帝国]]からスイスにかけて存在{{#tag:ref|聖職者である教会や修道院、司教区が踏みこめない世俗的な行為(軍事行動ほか)を任されたり、それらの機関に用地を貸したりした領主。[[:wikt:fr:vidame|ウィクショナリー]]{{fr icon}}参照。|group="注釈"}}。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == 主な執筆者名の50音順 * {{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|chapter=明治四年衆華族ヲ便殿ニ召シ賜リタル 勅諭|title=華族要覧|number=第1輯|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I1018502-00|website=ndlonline.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-20|publisher=東京:居相正広|work=国立国会図書館デジタルコレクション|author=居相正広|date=1925年(大正13年8月編輯)|doi=10.11501/1018502|ref=harv|pages=1-44 (コマ番号0005.jp2-0028.jp2)}}{{全国書誌番号|43045309}}。 * {{Cite journal|和書|title=「五等爵制」再考|author=[[石黒ひさ子]] |url=https://hdl.handle.net/10291/1569|date=2006-12-25| journal=駿台史學|volume=129|pages=1-20|naid=120001439019|ISSN=05625955|publisher=明治大学史学地理学会|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|title=唐代封爵制拾遺|author=今堀誠二 |authorlink=今堀誠二|naid=110001212961|date= 1942| journal=社会経済史学|publisher=社会経済史学会|volume=12|issue=4|pages=419-451|url=https://doi.org/10.20624/sehs.12.4_419|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991年(平成3年)|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=小林(1991)}} * {{Cite journal|和書|author=田中嘉彦 |title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能 |journal=一橋法学 |ISSN=13470388 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2009 |month=mar |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |naid=110007620135 |doi=10.15057/17144 |url=https://hdl.handle.net/10086/17144 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=2008年(平成20年)|title=貴族院|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|publisher=[[同成社]]|series=同成社近現代史叢書|isbn= 978-4886214188|ref=harv}} * {{Cite book|和書|Author1=[[新村出]](編)|title=[[広辞苑|広辞苑 第六版]]|publisher=[[岩波書店]]|date=2011年|page=1224|ref=harv}}{{ISBN2|400080121X}} * {{Cite journal|和書|author=袴田郁一 |title=両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として |journal=論叢アジアの文化と思想 |issn=1340-3370 |publisher=アジアの文化と思想の会 |year=2014 |month=dec |issue=23 |pages=79-134 |naid=120005819881 |url=https://hdl.handle.net/2065/49020 |ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=松村明|editor-link=松村明|title=[[大辞林|大辞林 第三版]]|publisher=[[三省堂]]|date=2006|page= 1094|ref=harv}}{{ISBN2|4385139059}}。 *{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}} *{{Cite book|和書|author=坂東省次|authorlink=坂東省次|year=2013|title=現代スペインを知るための60章|series=エリアスタディーズ116|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750337838 |ref=harv}} == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[貴族院 (日本)#伯爵議員・子爵議員・男爵議員]] * [[貴族]] * [[爵位]] * [[大公]] * [[公爵]] * [[侯爵]] * [[伯爵]] * [[男爵]] }} {{History-stub}} {{日本の旧華族}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ししやく}} [[Category:子爵|!]] [[Category:中国の爵位]] [[Category:日本の爵位]] [[Category:イギリスの爵位|*ししやく]] [[Category:フランスの爵位|*ししやく]] [[Category:ドイツの爵位|*ししやく]] [[Category:スペインの爵位|*ししやく]]
2003-09-08T20:22:48Z
2023-10-09T05:55:54Z
false
false
false
[ "Template:History-stub", "Template:Div col", "Template:Main", "Template:Seealso", "Template:ISBN2", "Template:Fr icon", "Template:Reflist", "Template:Columns-list", "Template:日本の旧華族", "Template:Refnest", "Template:Sfn", "Template:See also", "Template:仮リンク", "Template:Normdaten", "Template:En icon", "Template:Cite book", "Template:全国書誌番号", "Template:Cite journal", "Template:Lang-en-short", "Template:IPA-en", "Template:Div col end", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E7%88%B5
15,841
男爵
男爵(だんしゃく、英: baron)は、爵位の一つである。近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に準男爵という世襲称号があるが、準男爵は貴族ではなく平民である。 1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。 1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。 男爵は華族の最下位の爵位であり、叙爵内規では男爵の叙爵基準について「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められている。男爵家の数は制度発足時の1884年時には74家(華族家総数509家)であり、76家の伯爵家や324家の子爵家より数が少なかった。しかし日清戦争直後に戦功のあった軍人への大規模な叙爵があり、それによって最初の男爵急増現象が発生し、1896年までに194家(華族家総数689家)に達した。ついで男爵軍人急増への反動で、日清戦争後から日露戦争前の間に官僚、財界人、華族の分家、旧大藩家老家など非軍人男爵の急増現象が発生しており、これにより1902年時に男爵家の数は290家(華族家総数789家)に達していた。ついで日露戦争後に同戦争で戦功をあげた軍人への叙爵が大規模に行われ、再び男爵軍人が急増し、1907年時には376家(華族家総数903家)に達した。この年に男爵家と子爵家の数は並び、1912年以降は男爵家の数が最も多くなった。この後は急増現象は見られず、男爵家の数は1920年時の409家(華族家総数947家)をピークとして1947年時には378家(同889家)に減っていた。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎず、特に男爵は少なく7%しか設定しなかった。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。 明治45年(1912年)には旧堂上華族保護資金令(皇室令第3号)が制定され、男爵華族恵恤資金恩賜内則により、家計上保護を必要とする男爵に年間300円の援助が行われるようになった。主に奈良華族がこれを受けた。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより男爵位を含めた華族制度は廃止された。 1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には男爵議員の議席数は64議席だった。 貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていた。男爵議員は子爵議員たちが中心となって形成していた最大会派「研究会」に対抗して1919年に「公正会」を結成した。 衆議院議員選挙法に基づき男爵含む有爵者は衆議院議員になることはできなかった。 叙爵内規は男爵の叙爵基準として「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定めており、以下のような人々が男爵位を与えられた。 1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族制度に準じた朝鮮貴族の制度が創設された。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在したが、朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち男爵に叙されたのは45名である。下級朝鮮貴族には反日派も多く、男爵に叙された45名のうち20%にあたる9名が叙爵を拒絶あるいは返却している。著名な者には第二次日韓協約に怒り「乙巳五賊」の処刑を訴え併合後の男爵叙爵に恥辱と憤り自決した金奭鎮(1843-1910)。男爵を返上した後、上海で韓国独立運動に参加し、大韓民国臨時政府要人として活躍した金嘉鎮(1846-1923)。1905年に内閣を組閣したが日本側の乙巳条約締結強要に憤り抵抗して免職となり、併合後は叙爵を拒否して蟄居し、朝鮮教育会の創設に携わった韓圭卨(1856-1930)などがいる。彼らは現代韓国で反日愛国者として高く評価されている。 朝鮮貴族は創始改名しない家が多かった。昭和期には朝鮮貴族の貧窮ぶりが相当なものになっていた。 西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、五つある爵の最下級に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている。 漢代においては二十等爵制が敷かれ、「男」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、男の爵位が復活した。食邑は四百戸、四十里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。 南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。 昭公13年には晋による平丘の会が開かれ、鄭の君主も招かれた。鄭の君主は本来は「伯」であったが、本来下位にある許と同列の「男」を称して覇者に対する貢納の負担を免れようとした。 男爵と訳される貴族称号を英語ではバロン(baron)という。バロンの女性形はバロネス(baroness)で、イギリスの制度では男爵の妻(男爵夫人)や男爵の爵位をもつ女性(女男爵)に用いる。 イングランドでは13世紀頃までbaronという言葉は、貴族称号ではなく直属受封者(英語版)(国王から直接に封土を受ける臣下)を意味する言葉だった。そのためその数は非常に多かったが、13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状(英語版)を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった。 さらにヨーロッパ大陸から輸入された公爵(duke)、侯爵(marquess)、子爵(viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく国王勅許状(letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質のもの)へと変化した。勅許状による称号としての男爵(baron)位を最初に受けたのは1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙されたジョン・ド・ビーチャム(英語版)である。 スコットランド貴族では、ロード・オブ・パーラメント(議会の卿)がイングランドにおける男爵位に相当する。スコットランドにおいてはbaronという言葉はずっと直属受封者の意味であり続け、国王から貴族称号をもらっていない地主を含んだ。ジェームズ1世の治世下の1428年に小baronはスコットランド議会に招集されなくなり、同じ頃から裕福なbaronがロード・オブ・パーラメントに叙されて議席を持つようになったのがその始まりである。 1958年の一代貴族法によって制定された一代貴族は、全員が男爵位である。ただしその男爵位は世襲できない。 イギリスでは男爵を通常「Baron ○○(○○男爵)」とは呼ばず、「Lord ○○(○○卿)」と呼ぶが(子爵、伯爵、侯爵も同様に称することができるが、男爵はそれ以上に多くそう呼ばれる)、これはbaronがもともと直接受封者を意味する言葉だったことによる。その「○○」は家名(姓・名字)ではなく爵位名である。例えばアシュバートン男爵の現当主は第8代アシュバートン男爵マーク・ベアリングであるが、家名はベアリング家なのである。ただしロスチャイルド男爵ロスチャイルド家のように、爵位名と家名が同一である例も少なくはない。 また、日本の華族と違い、欧州貴族は同一人が複数の爵位を持つ場合が多い。その場合、所持する爵位のうち最高位のものを名乗り、他は「従属爵位」とされる。男爵の場合当てはまらないが、嫡男(法定推定相続人)が従属爵位のうち一つを儀礼称号として名乗る。 男爵の妻はLady(レディ)を冠して呼ばれる。女男爵はBaroness(バロネス)あるいはLadyを冠して呼ばれる。女男爵の夫には何も敬称は冠せられない。男爵の息子および娘はThe Honourable のあとにファーストネーム+ラストネームをつけて呼ばれる。 なお、貴族には当たらないが男爵より下位の世襲の称号として準男爵位が設けられている。 ヴィアー男爵(セント・オールバンズ公)、キャリクファーガス男爵(ケンブリッジ公)、グリニッジ男爵(エディンバラ公)、サドバリー男爵(グラフトン公)、アッシュのシーモア男爵(サマセット公)、ウォームレイトンのスペンサー男爵(マールバラ公)、チェルムスフォード男爵(チェルムスフォード子爵)、サンドリッジのチャーチル男爵(マールバラ公)、ギルスランドのデイカー男爵(カーライル伯)、トーボルトン卿(リッチモンド公)、ブラボーン男爵(英語版)(ビルマのマウントバッテン伯爵)、バーモント男爵(英語版)(ノーフォーク公)、バーリー男爵(エクセター侯)、グロソップのハワード男爵(ノーフォーク公)、フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵(ノーフォーク公)、ヘッディントン男爵(セント・オールバンズ公)、ホウランド男爵(ベッドフォード公)、マルトレイヴァース男爵(ノーフォーク公)、フリーランドのラスヴェン卿(英語版)(カーライル伯)、ラッセル男爵(ベッドフォード公)、ビーヴァーのルース男爵(ラトランド公) アゼンリー男爵(英語版)、アームストロング男爵、アンソン男爵、イスメイ男爵、エイドリアン男爵(英語版)、ガードナー男爵、カーリングフォード男爵、グイディル男爵、グラッドウィン男爵、クレアモント男爵(英語版)、ケインズ男爵、ケルヴィン男爵、スードリーのシーモア男爵、ブラックミーアのストレンジ男爵(英語版)、ノーマン男爵、バーデット=クーツ男爵、ファーニヴァル男爵(英語版)、ブレイニー男爵(英語版)、ボルティモア男爵(英語版)、マコーリー男爵、メルチェット男爵(英語版)、ライエル男爵(英語版)、リスター男爵、レイトン男爵、ローリー男爵(英語版)、グリーンヒル男爵(英語版) 王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、男爵は第5位である。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない。男爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる。 貴族称号は放棄が可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。 歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。 1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。 スペイン貴族には現在169個の男爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。 ヨーロッパのその他の国はロシアを含めて、ほとんどがバロン系統の称号を男爵の爵位に用いているが、ドイツのみ男爵に相当する爵位はフライヘア (Freiherr)という。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "男爵(だんしゃく、英: baron)は、爵位の一つである。近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に準男爵という世襲称号があるが、準男爵は貴族ではなく平民である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "男爵は華族の最下位の爵位であり、叙爵内規では男爵の叙爵基準について「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められている。男爵家の数は制度発足時の1884年時には74家(華族家総数509家)であり、76家の伯爵家や324家の子爵家より数が少なかった。しかし日清戦争直後に戦功のあった軍人への大規模な叙爵があり、それによって最初の男爵急増現象が発生し、1896年までに194家(華族家総数689家)に達した。ついで男爵軍人急増への反動で、日清戦争後から日露戦争前の間に官僚、財界人、華族の分家、旧大藩家老家など非軍人男爵の急増現象が発生しており、これにより1902年時に男爵家の数は290家(華族家総数789家)に達していた。ついで日露戦争後に同戦争で戦功をあげた軍人への叙爵が大規模に行われ、再び男爵軍人が急増し、1907年時には376家(華族家総数903家)に達した。この年に男爵家と子爵家の数は並び、1912年以降は男爵家の数が最も多くなった。この後は急増現象は見られず、男爵家の数は1920年時の409家(華族家総数947家)をピークとして1947年時には378家(同889家)に減っていた。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎず、特に男爵は少なく7%しか設定しなかった。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "明治45年(1912年)には旧堂上華族保護資金令(皇室令第3号)が制定され、男爵華族恵恤資金恩賜内則により、家計上保護を必要とする男爵に年間300円の援助が行われるようになった。主に奈良華族がこれを受けた。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより男爵位を含めた華族制度は廃止された。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には男爵議員の議席数は64議席だった。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていた。男爵議員は子爵議員たちが中心となって形成していた最大会派「研究会」に対抗して1919年に「公正会」を結成した。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "衆議院議員選挙法に基づき男爵含む有爵者は衆議院議員になることはできなかった。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "叙爵内規は男爵の叙爵基準として「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定めており、以下のような人々が男爵位を与えられた。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族制度に準じた朝鮮貴族の制度が創設された。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在したが、朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち男爵に叙されたのは45名である。下級朝鮮貴族には反日派も多く、男爵に叙された45名のうち20%にあたる9名が叙爵を拒絶あるいは返却している。著名な者には第二次日韓協約に怒り「乙巳五賊」の処刑を訴え併合後の男爵叙爵に恥辱と憤り自決した金奭鎮(1843-1910)。男爵を返上した後、上海で韓国独立運動に参加し、大韓民国臨時政府要人として活躍した金嘉鎮(1846-1923)。1905年に内閣を組閣したが日本側の乙巳条約締結強要に憤り抵抗して免職となり、併合後は叙爵を拒否して蟄居し、朝鮮教育会の創設に携わった韓圭卨(1856-1930)などがいる。彼らは現代韓国で反日愛国者として高く評価されている。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "朝鮮貴族は創始改名しない家が多かった。昭和期には朝鮮貴族の貧窮ぶりが相当なものになっていた。", "title": "日本の男爵" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、五つある爵の最下級に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている。", "title": "中国の男爵" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "漢代においては二十等爵制が敷かれ、「男」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、男の爵位が復活した。食邑は四百戸、四十里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。", "title": "中国の男爵" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。", "title": "中国の男爵" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "昭公13年には晋による平丘の会が開かれ、鄭の君主も招かれた。鄭の君主は本来は「伯」であったが、本来下位にある許と同列の「男」を称して覇者に対する貢納の負担を免れようとした。", "title": "中国の男爵" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "男爵と訳される貴族称号を英語ではバロン(baron)という。バロンの女性形はバロネス(baroness)で、イギリスの制度では男爵の妻(男爵夫人)や男爵の爵位をもつ女性(女男爵)に用いる。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イングランドでは13世紀頃までbaronという言葉は、貴族称号ではなく直属受封者(英語版)(国王から直接に封土を受ける臣下)を意味する言葉だった。そのためその数は非常に多かったが、13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状(英語版)を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "さらにヨーロッパ大陸から輸入された公爵(duke)、侯爵(marquess)、子爵(viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく国王勅許状(letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質のもの)へと変化した。勅許状による称号としての男爵(baron)位を最初に受けたのは1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙されたジョン・ド・ビーチャム(英語版)である。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スコットランド貴族では、ロード・オブ・パーラメント(議会の卿)がイングランドにおける男爵位に相当する。スコットランドにおいてはbaronという言葉はずっと直属受封者の意味であり続け、国王から貴族称号をもらっていない地主を含んだ。ジェームズ1世の治世下の1428年に小baronはスコットランド議会に招集されなくなり、同じ頃から裕福なbaronがロード・オブ・パーラメントに叙されて議席を持つようになったのがその始まりである。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1958年の一代貴族法によって制定された一代貴族は、全員が男爵位である。ただしその男爵位は世襲できない。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イギリスでは男爵を通常「Baron ○○(○○男爵)」とは呼ばず、「Lord ○○(○○卿)」と呼ぶが(子爵、伯爵、侯爵も同様に称することができるが、男爵はそれ以上に多くそう呼ばれる)、これはbaronがもともと直接受封者を意味する言葉だったことによる。その「○○」は家名(姓・名字)ではなく爵位名である。例えばアシュバートン男爵の現当主は第8代アシュバートン男爵マーク・ベアリングであるが、家名はベアリング家なのである。ただしロスチャイルド男爵ロスチャイルド家のように、爵位名と家名が同一である例も少なくはない。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、日本の華族と違い、欧州貴族は同一人が複数の爵位を持つ場合が多い。その場合、所持する爵位のうち最高位のものを名乗り、他は「従属爵位」とされる。男爵の場合当てはまらないが、嫡男(法定推定相続人)が従属爵位のうち一つを儀礼称号として名乗る。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "男爵の妻はLady(レディ)を冠して呼ばれる。女男爵はBaroness(バロネス)あるいはLadyを冠して呼ばれる。女男爵の夫には何も敬称は冠せられない。男爵の息子および娘はThe Honourable のあとにファーストネーム+ラストネームをつけて呼ばれる。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、貴族には当たらないが男爵より下位の世襲の称号として準男爵位が設けられている。", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヴィアー男爵(セント・オールバンズ公)、キャリクファーガス男爵(ケンブリッジ公)、グリニッジ男爵(エディンバラ公)、サドバリー男爵(グラフトン公)、アッシュのシーモア男爵(サマセット公)、ウォームレイトンのスペンサー男爵(マールバラ公)、チェルムスフォード男爵(チェルムスフォード子爵)、サンドリッジのチャーチル男爵(マールバラ公)、ギルスランドのデイカー男爵(カーライル伯)、トーボルトン卿(リッチモンド公)、ブラボーン男爵(英語版)(ビルマのマウントバッテン伯爵)、バーモント男爵(英語版)(ノーフォーク公)、バーリー男爵(エクセター侯)、グロソップのハワード男爵(ノーフォーク公)、フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵(ノーフォーク公)、ヘッディントン男爵(セント・オールバンズ公)、ホウランド男爵(ベッドフォード公)、マルトレイヴァース男爵(ノーフォーク公)、フリーランドのラスヴェン卿(英語版)(カーライル伯)、ラッセル男爵(ベッドフォード公)、ビーヴァーのルース男爵(ラトランド公)", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アゼンリー男爵(英語版)、アームストロング男爵、アンソン男爵、イスメイ男爵、エイドリアン男爵(英語版)、ガードナー男爵、カーリングフォード男爵、グイディル男爵、グラッドウィン男爵、クレアモント男爵(英語版)、ケインズ男爵、ケルヴィン男爵、スードリーのシーモア男爵、ブラックミーアのストレンジ男爵(英語版)、ノーマン男爵、バーデット=クーツ男爵、ファーニヴァル男爵(英語版)、ブレイニー男爵(英語版)、ボルティモア男爵(英語版)、マコーリー男爵、メルチェット男爵(英語版)、ライエル男爵(英語版)、リスター男爵、レイトン男爵、ローリー男爵(英語版)、グリーンヒル男爵(英語版)", "title": "イギリスの男爵" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、男爵は第5位である。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない。男爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる。", "title": "スペインの男爵" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "貴族称号は放棄が可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。", "title": "スペインの男爵" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。", "title": "スペインの男爵" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。", "title": "スペインの男爵" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スペイン貴族には現在169個の男爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。", "title": "スペインの男爵" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ヨーロッパのその他の国はロシアを含めて、ほとんどがバロン系統の称号を男爵の爵位に用いているが、ドイツのみ男爵に相当する爵位はフライヘア (Freiherr)という。", "title": "その他の国の男爵" } ]
男爵は、爵位の一つである。近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に準男爵という世襲称号があるが、準男爵は貴族ではなく平民である。
{{Otheruses||ジャガイモの品種|ジャガイモ#男爵薯}} '''男爵'''(だんしゃく、{{Lang-en-short|baron}})は、[[爵位]]の一つである。近代[[日本]]で用いられ、[[子爵]]の下位に相当する<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])1774頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]]) 1589頁参照。</ref>。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の[[日本語]]にも用いられ、[[イギリス]]の[[バロン (称号)|baron]]の訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に[[準男爵]]という[[世襲]][[称号]]があるが、準男爵は貴族ではなく平民である{{sfn|小川賢治|2009|p=90}}。 == 日本の男爵 == === 華族の男爵 === [[1869年]](明治2年)[[6月17日]]の行政官達543号において[[公家]]と[[武家]]の最上層である[[大名家]]を「[[皇室]]の藩屏」として統合した[[華族]]身分が誕生した{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-18}}。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の[[尾崎三良]]と同少書記官の[[桜井能監]]が[[1878年]](明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。 [[1884年]](明治17年)5月頃に賞勲局総裁[[柳原前光]]らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ{{sfn|浅見雅男|1994|p=71-76}}、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり{{sfn|小田部雄次|2006|p=26}}、同年[[7月7日]]に発せられた[[華族令]]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。 男爵は華族の最下位の爵位であり、叙爵内規では男爵の叙爵基準について「[[明治維新|一新]]後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められている{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。男爵家の数は制度発足時の1884年時には74家(華族家総数509家)であり、76家の伯爵家や324家の子爵家より数が少なかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。しかし[[日清戦争]]直後に戦功のあった軍人への大規模な叙爵があり、それによって最初の男爵急増現象が発生し、1896年までに194家(華族家総数689家)に達した{{sfn|小田部雄次|2006|p=56/124-126}}。ついで男爵軍人急増への反動で、日清戦争後から日露戦争前の間に官僚、財界人、華族の分家、旧大藩家老家など非軍人男爵の急増現象が発生しており、これにより1902年時に男爵家の数は290家(華族家総数789家)に達していた{{sfn|小田部雄次|2006|p=126-127}}。ついで[[日露戦争]]後に同戦争で戦功をあげた軍人への叙爵が大規模に行われ、再び男爵軍人が急増し、[[1907年]]時には376家(華族家総数903家)に達した。この年に男爵家と子爵家の数は並び、1912年以降は男爵家の数が最も多くなった{{sfn|小田部雄次|2006|p=56/128-129}}。この後は急増現象は見られず、男爵家の数は1920年時の409家(華族家総数947家)をピークとして1947年時には378家(同889家)に減っていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。 明治19年(1886年)の華族世襲財産法により華族は[[差押]]ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は[[宮内大臣]]が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎず、特に男爵は少なく7%しか設定しなかった{{sfn|百瀬孝|1990|p=243-244}}。 明治40年(1907年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった{{sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。 明治45年(1912年)には旧堂上華族保護資金令(皇室令第3号)が制定され、男爵華族恵恤資金恩賜内則により、家計上保護を必要とする男爵に年間300円の援助が行われるようになった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。主に[[奈良華族]]がこれを受けた{{sfn|浅見雅男|1994|pp=57-58}}。 [[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより男爵位を含めた華族制度は廃止された。 ==== 貴族院における男爵議員 ==== [[1889年]](明治22年)の[[貴族院令]]により貴族院議員の種別として[[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]]が設けられた(ほかに[[皇族議員]]と[[貴族院 (日本)#勅任議員|勅任議員]]がある){{sfn|百瀬孝|1990|p=37}}。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった{{sfn|百瀬孝|1990|p37/38/243}}。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=195-196}}。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる{{sfn|浅見雅男|1994|p=116}}。 伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており{{sfn|百瀬孝|1990|p=38}}、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が[[帝国議会|議会]]に提出されては政治論争となった。その最初のものは[[桂太郎]]内閣下の[[1905年]]に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年([[寺内正毅]]内閣下)に伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には男爵議員の議席数は64議席だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=184/191-195}}。 貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていた。男爵議員は子爵議員たちが中心となって形成していた最大会派「[[研究会 (貴族院)|研究会]]」に対抗して1919年に「[[公正会]]」を結成した{{sfn|小田部雄次|2006|p=198}}。 衆議院議員選挙法に基づき男爵含む有爵者は[[衆議院]]議員になることはできなかった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 ==== 男爵家の一覧 ==== 叙爵内規は男爵の叙爵基準として「[[明治維新|一新]]後[[華族]]二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定めており、以下のような人々が男爵位を与えられた。 *一新後華族二列セラレタル者 **明治以降の華族の分家(89家) 明治以降に華族から分家した家が叙爵される場合は「一新後華族二列セラレタル者」の内規に基づき基本的に男爵位が与えられた。ただし[[子爵#高位華族の分家の子爵家|ごく一部は子爵]]になっており、また[[玉里島津家]]と[[徳川慶喜家]]については特例的に[[公爵]]に叙された。本家の方で華族の体面を汚さない程度の財産を用意してやれることが分家が華族に列せられる条件だったので裕福ではない旧公家華族や旧小大名華族には分家華族を作るのは難しかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=54}}。華族に叙されなかった場合の明治以降の華族の分家は[[平民]]となる{{sfn|百瀬孝|1990|p=243}}([[士族]]ではない。士族は江戸時代に武家等だった家に与えられる身分であるため、華族の分家であろうと明治以降に創設された家は平民になる)。つまり華族の次男以下は当初は華族の戸籍に入っている無爵華族であるが(爵位を持つのは戸主のみ){{sfn|浅見雅男|1994|p=12}}、分家して独立した戸主になる際、華族の体面を汚さない財産を確保できれば分家華族として男爵に叙され、確保できず爵位が認められなければ平民ということである{{sfn|浅見雅男|1994|p=54}}{{sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。以下の家が分家華族として男爵位を与えられた家である。 **:'''[[浅野養長]]家'''{{small|([[浅野氏|浅野侯爵家]]分家)}}、'''[[有馬頼多]]家'''{{small|([[摂津有馬氏|有馬伯爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[伊江御殿|伊江家]]|いえ}}'''{{small|([[第二尚氏|尚侯爵家]]分家)}}、'''[[土佐一条家|一条家(土佐一条家)]]'''{{small|([[一条家|一条公爵家]]分家)}}、'''[[伊藤文吉 (男爵)|伊藤文吉]]家'''{{small|([[伊藤氏#伊藤家 (公爵)|伊藤公爵家]]分家)}}、'''[[岩倉具経]]家'''{{small|([[岩倉家|岩倉公爵家]]分家)}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''[[岩倉具徳]]家'''{{small|([[岩倉家|岩倉公爵家]]分家)}}、'''[[岩倉道倶]]家'''{{small|([[岩倉家|岩倉公爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[正親町季董]]家|おおぎまち}}'''{{small|([[正親町家|正親町伯爵家]]分家)}}、'''[[大村武純]]家'''{{small|([[大村氏|大村伯爵家]]分家)}}、'''[[北小路俊昌]]家'''{{small|([[大江姓北小路家|北小路子爵家]]分家)}}、'''[[北畠家]]'''{{small|([[久我家|久我侯爵家]]分家)}}、'''[[吉川重吉]]家'''{{small|([[吉川氏|吉川子爵家]]分家)}}、'''[[九条良致]]家'''{{small|([[九条家|九条公爵家]]分家)}}、'''[[九条良政]]家'''{{small|([[九条家|九条公爵家]]分家)}}、'''[[黒田長和]]家'''{{small|([[黒田氏|黒田侯爵家]]分家)}}、'''[[久我通保]]家'''{{small|([[久我家|久我侯爵家]]分家)}}、'''[[小早川氏|小早川家]]'''{{small|([[毛利氏|毛利公爵家]]分家)}}、'''[[酒井忠積]]家'''{{small|([[酒井氏|姫路酒井伯爵家]]分家)}}、'''[[酒井忠惇]]家'''{{small|(姫路酒井伯爵家分家)}}、'''[[佐竹義脩]]家'''{{small|([[佐竹氏|岩崎佐竹子爵家]]分家)}}、'''[[真田幸世]]家'''{{small|([[真田氏|真田伯爵家]]分家)}}、'''[[澤宣元]]家'''{{small|([[澤家|澤伯爵家]]分家)}}、'''[[三条公輝]]家'''{{small|([[三条家|三条公爵家]]分家)}}、'''[[四条隆平]]家'''{{small|([[四条家|四条侯爵家]]分家)}}、'''[[島津健之助]]家'''{{small|([[島津氏|佐土原島津伯爵家]]分家)}}、'''[[島津忠欽]]家'''{{small|([[玉里島津家|玉里島津公爵家]]分家)}}、'''[[島津忠弘]]家'''{{small|([[島津氏|島津公爵家]]分家)}}、'''[[島津忠備]]家'''{{small|([[島津氏|島津公爵家]]分家)}}、'''[[尚寅]]家'''{{small|([[第二尚氏|尚侯爵家]]分家)}}、'''[[尚順]]家'''{{small|([[第二尚氏|尚侯爵家]]分家)}}、'''[[鷹司信熙]]家'''{{small|([[鷹司家|鷹司公爵家]]分家)}}、'''[[伊達宗敦]]家'''{{small|([[伊達氏|宇和島伊達侯爵家及び仙台伊達伯爵家]]分家)}}、'''[[伊達宗倫]]家'''{{small|([[伊達氏|宇和島伊達侯爵家]]分家)}}、'''[[玉松家]]'''{{small|([[山本家|山本子爵家]]分家)}}、'''[[津軽楢麿]]家'''{{small|([[津軽氏|津軽伯爵家]]分家)}}、'''[[鶴殿家]]'''{{small|([[九条家|九条公爵家]]分家)}}、'''[[徳川厚]]家'''{{small|([[徳川宗家|徳川公爵家]]分家)}}、'''[[徳川誠]]家'''{{small|([[徳川慶喜家|徳川慶喜公爵家]]分家)}}、'''[[徳川義恕]]家'''{{small|([[尾張徳川家|尾張徳川侯爵家]]分家)}}、'''[[徳大寺則麿]]家'''{{small|([[徳大寺家|徳大寺公爵家]]分家)}}、'''[[長岡護美]]家'''{{small|([[細川氏|細川侯爵家]]分家)}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''{{Ruby|[[今帰仁御殿|今帰仁家]]|なきじん}}'''{{small|([[第二尚氏|尚侯爵家]]分家)}}、'''[[中御門経隆]]家'''{{small|([[中御門家|中御門侯爵家]]分家)}}、'''[[鍋島貞次郎]]家'''{{small|([[鍋島氏|鍋島侯爵家]]分家)}}、'''[[二条正麿]]家'''{{small|([[二条家|二条公爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[若王子家]]|にゃくおうじ}}'''{{small|([[山科家|山科伯爵家]]分家)}}、'''[[東久世秀雄]]家'''{{small|([[東久世家|東久世伯爵家]]分家)}}、'''[[東三条家]]'''{{small|([[三条家|三条公爵家]]分家)}}、'''[[坊城俊延]]家'''{{small|([[坊城家|坊城伯爵家]]分家)}}、'''[[細川護晃]]家'''{{small|([[細川氏|細川侯爵家]]分家)}}、'''[[前田利武]]家'''{{small|([[前田氏|前田侯爵家]]分家)}}、'''[[松崎万長]]家'''{{small|([[堤家|堤子爵家]]分家)}}、'''[[松平斉]]家'''{{small|([[津山松平氏|津山松平子爵家]]分家)}}、'''[[松前隆広]]家'''{{small|([[蠣崎氏|松前子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[万里小路正秀]]家|までのこうじ}}'''{{small|([[万里小路家|万里小路伯爵家]]分家)}}、'''[[毛利五郎]]家'''{{small|([[毛利氏|毛利公爵家]]分家)}}、'''[[山縣有光]]家'''{{small|([[山県氏#安芸山県氏|山縣公爵家]]分家)}}、'''[[山内豊尹]]家'''{{small|([[土佐山内氏|山内侯爵家]]分家)}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''[[鷲尾隆順]]家'''{{small|([[鷲尾家|鷲尾伯爵家]]分家)}} ***[[奈良華族]] - 旧[[公家]]の分家で[[興福寺]]の[[僧侶]]になったが、維新後に[[勅令]]で[[還俗]]して華族に列していた家は俗称でこう呼ばれた<ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8F%AF%E6%97%8F-589970#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 奈良華族 (コトバンク)]</ref>。彼らも明治以降の華族の分家として男爵位を与えられた。旧公家華族自体貧しい家が多かったが、その分家である奈良華族はさらに貧しい家が多く、明治45年に制定された男爵華族救恤資金(年間300円の援助)の対象は主に奈良華族だった{{sfn|浅見雅男|1994|pp=57-58}}。 ***:'''{{Ruby|[[粟田口家]]|あわたぐち}}'''{{small|([[葉室家|葉室伯爵家]]分家)}}、'''[[今園家]]'''{{small|([[芝山家|芝山子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[太秦家]]|うずまさ}}'''{{small|([[桜井家|桜井子爵家]]分家)}}、'''[[梶野家]]'''{{small|([[石井家|石井子爵家]]分家)}}、'''[[河辺家 (奈良華族)|河辺家]]'''{{small|([[油小路家|油小路伯爵家]]分家)}}、'''[[北大路家]]'''{{small|([[阿野家|阿野子爵家]]分家)}}、'''[[北河原家]]'''{{small|([[室町家|室町伯爵家]]分家)}}、'''[[小松行正|小松家]]'''{{small|([[石井家|石井子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[相楽家]]|さがら}}'''{{small|([[富小路家|富小路子爵家]]分家)}}、'''[[鷺原家]]'''{{small|([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家)}}、'''[[鹿園家]]'''{{small|([[三条家|三条公爵家]]分家)}}、'''[[芝小路家]]'''{{small|([[芝山家|芝山子爵家]]分家)}}、'''[[芝亭家]]'''{{small|([[裏辻家|裏辻子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[杉渓家]]|すぎたに}}'''{{small|([[山科家|山科伯爵家]]分家)}}、'''[[竹園家]]'''{{small|([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家)}}、'''[[長尾家 (男爵家)|長尾家]]'''{{small|([[勧修寺家|勧修寺伯爵家]]分家)}}、'''[[中川興長|中川家]]'''{{small|([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[西五辻家]]|にしいつつじ}}'''{{small|([[五辻家|五辻子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[藤枝家]]|ふじえ}}'''{{small|([[飛鳥井家|飛鳥井伯爵家]]分家)}}、'''[[藤大路家]]'''{{small|([[堀河家|堀河子爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[穂穙家]]|ほづみ}}'''{{small|([[坊城家|坊城伯爵家]]分家)}}、'''[[松林家]]'''{{small|([[上冷泉家|上冷泉伯爵家]]分家)}}、'''[[松園家]]'''{{small|([[二条家|二条公爵家]]分家)}}、'''[[南家 (男爵家)|南家]]'''{{small|([[広橋家|広橋伯爵家]]分家)}}、'''[[南岩倉家]]'''{{small|([[岩倉家|岩倉公爵家]]分家)}}、'''{{Ruby|[[水谷川家]]|みやがわ}}'''{{small|([[近衛家|近衛公爵家]]分家)}} **旧[[地下家]]だった華族(2家) - 基本的に地下家は士族になっていたが、'''{{Ruby|[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]|おしこうじ}}'''と'''{{Ruby|[[壬生家 (小槻氏)|壬生家]]|みぶ}}'''は地下家の中でも家格が高く、他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「大外記、官務」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列していた{{sfn|浅見雅男|1994|p=43}}。しかし旧公卿の華族たちとは区別され「一新後華族二列セラレタル者」として男爵に叙された。押小路家と壬生家の華族取り立てを見て自分たちにも資格があると華族取り立て運動を行った旧地下家の士族([[地下家の一覧|藤島家や細川家]]など)もあったが、結局押小路家と壬生家以外には華族の地位は認められなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=43}}(旧地下家で勲功によって華族になった家はある)。 **旧[[交代寄合]]だった旧大名華族(6家) - 江戸時代に交代寄合だった家のうち以下の6家は、1868年(慶応4年・明治元年)6月20日から11月20日の間に戊辰戦争で官軍に協力した功績で加増されたり、「高直し」で石高が万石以上になったことを政府に申告して認めてもらったことなどにより大名として立藩して華族に列していた{{sfn|浅見雅男|1994|p=37-38}}{{#tag:ref|交代寄合ではないが、[[高家 (江戸時代)|高家]]旗本の[[大沢家]]も3550石(実高5485石)の家禄を1万6石に「高直し」したことを政府に申告して[[堀江藩]]を立藩し華族に列していたが、明治4年に大沢家が増えたと主張していた4521石は[[浜名湖]]の水面だったことが発覚。大沢家は「浜名湖では魚が採れる」と弁明したが、認められず同年11月29日に華族の身分を剥奪されて士族に落とされ、当主[[大沢基寿]]は禁固1年、関与した3人の家臣が禁固1年半に処された{{sfn|浅見雅男|1994|p=39}}。|group="注釈"}}。しかし彼らは江戸時代から大名だった家とは区別されて「一新後華族二列セラレタル者」として男爵位を与えられた。数字は江戸時代の交代寄合としての家禄と立藩した後の藩名と家禄である。 **:'''[[池田氏#近世大名→華族の池田家|池田家]]'''{{small|(6000石→播磨[[福本藩]]1万573石)}}<ref group="注釈" name="注釈2"/>、'''[[生駒氏|生駒家]]'''{{small|(8000石→出羽[[矢島藩]]1万5200石)}}、'''[[平野氏#北条氏族|平野家]]'''{{small|(5000石→大和[[田原本藩]]1万1石)}}、'''[[本堂氏|本堂家]]'''{{small|(8000石→常陸[[志筑藩]]1万110石)}}、'''[[山崎氏|山崎家]]'''{{small|(5000石→備中[[成羽藩]]1万2746石)}}、'''[[山名氏|山名家]]'''{{small|(6700石→但馬[[村岡藩]]1万1000石)}} **[[陪臣]]だった旧大名華族(7家) - 江戸時代を通じて[[御附家老|付家老]]たちは独立諸侯として認められない立場に不満を持ち続け、その独立意識は旺盛で主家をないがしろにする行動が多かった。幕末の王政復古は彼らにとって独立諸侯となる千載一遇のチャンスであり、また権力基盤が不安定だった新政府にとっても彼らを味方に付ける意味は大きく、利害が一致して慶応4年1月24日に彼らは政府により独立諸侯と認められた([[維新立藩]]。なお、[[本多副元|本多副元家]]([[福井藩]]付家老)は維新立藩されず、遅れて明治12年に華族。){{sfn|浅見雅男|1994|p=36}}{{sfn|浅見雅男|1994|p=36}}。吉川家は付家老ではないが、江戸時代を通じて正式な大名としては扱われず、長州藩主毛利家の家臣として扱われてきたが、王政復古に際して勲功があったので慶応4年3月13日に独立諸侯と認められたという似た経緯があった。ただしこれら旧陪臣系諸侯は旧交代寄合系諸侯と同様、江戸時代から諸侯だった家とは区別されて「一新後華族二列セラレタル者」として男爵位を与えられた(吉川家と成瀬家については維新の功績により1891年に子爵に陞爵){{sfn|浅見雅男|1994|p=36/262}}。 **:'''[[三河安藤氏#嫡流(紀州藩付家老→田辺藩主→男爵家)|安藤家]]'''{{small|([[紀州藩]]付家老→[[紀伊田辺藩]])}}、'''[[吉川氏|吉川家]]'''{{small|([[長州藩]]一門→周防[[岩国藩]])}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''{{Ruby|[[竹腰氏|竹腰家]]|たけのこし}}'''{{small|([[尾張藩]]付家老→美濃[[今尾藩]])}}、'''[[中山氏#水戸藩附家老の中山氏|中山家]]'''{{small|([[水戸藩]]付家老→[[常陸松岡藩]])}}、'''[[成瀬氏|成瀬家]]'''{{small|(尾張藩付家老→尾張[[犬山藩]])}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''[[本多氏#福井本多男爵家|本多家{{small|(福井)}}]]'''{{small|([[福井藩]]付家老)}}、'''[[水野氏#新宮水野男爵家|水野家]]'''{{small|(紀州藩付家老→[[紀伊新宮藩]])}} *国家二勲功アル者 **旧大藩の藩主一門および家老家。旧大名家の家臣は維新後士族に編入されていたが、『叙爵内規』の前の案である『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)(『爵位発行順序』所収)では旧万石以上陪臣家が'''男爵'''に含まれており、旧万石以上陪臣を男爵にする案は華族令制定前からあったことが分かるが、最終的な『叙爵内規』では対象外となったため、華族令制定後も明治後期まで彼らは士族のままだった{{sfn|松田敬之|2015|p=68}}。しかし明治30年代から旧万石以上陪臣家の叙爵が開始される{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。彼らの叙爵は概ね日清戦争後から日露戦争前の間に行われた{{sfn|小田部雄次|2006|p=126-127}}。ただし旧万石以上陪臣家は内規上に規定されているわけではないので全家が叙されたわけではない。華族の体面を汚さない財産、具体的には年間500円以上を生じる財本を所持していることが条件に付されていた{{sfn|松田敬之|2015|p=68}}。この条件をクリアできず叙爵されなかった旧万石以上陪臣家が13家{{#tag:ref|具体的には[[志水家]](旧尾張藩家老)、[[山野辺家]](旧水戸藩家老)、[[久野家]](旧紀州藩家老)、[[横山氏|横山分家]](旧加賀藩家老)、[[本多氏#その他|本多分家]](同)、[[登米伊達家]](旧仙台藩一門)、[[亘理家]](同)、[[陸奥石川氏|石川家]](同藩家老)、[[留守氏|留守家]](同)、[[茂庭氏|茂庭家]](同)、[[須古鍋島家]](旧佐賀藩一門)、[[村田氏|村田家]](同)、[[神代氏|神代家]](同)の13家{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。|group="注釈"}}存在する{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。 **:'''[[三原浅野家|浅野家{{small|(三原)}}]]'''{{small|([[広島藩]]一門)}}、'''[[東城浅野家|浅野家{{small|(東城)}}]]'''{{small|(広島藩一門)}}、'''[[荒尾氏|荒尾家{{small|(米子)}}]]'''{{small|([[鳥取藩]]家老)}}、'''[[荒尾氏|荒尾家{{small|(倉吉)}}]]'''{{small|(鳥取藩家老)}}、'''[[有吉家]]'''{{small|([[熊本藩]]家老)}}、'''[[伊賀家 (男爵家)|伊賀家]]'''{{small|([[土佐藩]]家老)}}、'''[[伊木家]]'''{{small|([[岡山藩]]家老)}}、'''[[天城池田家|池田家{{small|(天城)}}]]'''{{small|(岡山藩一門)}}、'''[[片桐池田家|池田家{{small|(片桐)}}]]'''{{small|(岡山藩一門)}}、'''[[建部池田家|池田家{{small|(建部)}}]]'''{{small|(岡山藩一門)}}、'''{{Ruby|[[諫早家]]|いさはや}}'''{{small|([[佐賀藩]]家老)}}、'''{{Ruby|[[石河家]]|いしこ}}'''{{small|([[尾張藩]]家老)}}、'''[[稲田家]]'''{{small|([[徳島藩]]家老)}}、'''[[今枝家]]'''{{small|([[加賀藩]]家老)}}、'''[[上田氏#広島藩家老家→男爵家の上田家|上田家]]'''{{small|(広島藩家老)}}、'''[[奥村氏|奥村家{{small|(宗家)}}]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[奥村氏|奥村家{{small|(支家)}}]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[小原適|小原家]]'''{{small|([[大垣藩]]家老)}}、'''[[賀島家]]'''{{small|(徳島藩家老)}}、'''[[片倉氏|片倉家]]'''{{small|([[仙台藩]]家老)}}、'''[[木俣家]]'''{{small|([[彦根藩]]家老)}}、'''[[国司氏|国司家]]'''{{small|([[長州藩]]家老)}}、'''[[三奈木黒田家|黒田家{{small|(三奈木)}}]]'''{{small|([[福岡藩]]一門)}}、'''{{Ruby|[[米田家]]|こめだ}}'''{{small|(熊本藩家老)}}<ref group="注釈" name="注釈1"/>、'''[[佐竹北家|佐竹家{{small|(北)}}]]'''{{small|([[久保田藩|秋田藩]]一門)}}、'''[[佐竹西家|佐竹家{{small|(西)}}]]'''{{small|(秋田藩一門)}}、'''[[佐竹東家|佐竹家{{small|(東)}}]]'''{{small|(秋田藩家老)}}、'''[[佐竹南家|佐竹家{{small|(南)}}]]'''{{small|(秋田藩一門)}}、'''[[沢村家]]'''{{small|(熊本藩家老)}}、'''[[宍戸氏#安芸国の宍戸氏|宍戸家]]'''{{small|(長州藩家老)}}、'''[[斯波氏|斯波家]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[今和泉島津家|島津家{{small|(今和泉)}}]]'''{{small|([[薩摩藩]]一門)}}、'''[[加治木島津家|島津家{{small|(加治木)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[重富島津家|島津家{{small|(重富)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[垂水島津家|島津家{{small|(垂水)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[日置島津家|島津家{{small|(日置)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[北郷氏#都城島津家|島津家{{small|(都城)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[宮之城島津家|島津家{{small|(宮之城)}}]]'''{{small|(薩摩藩一門)}}、'''[[清水氏#備中国の清水氏|清水家]]'''{{small|(長州藩家老)}}、'''[[後多久氏|多久家]]'''{{small|(佐賀藩家老)}}、'''[[岩出山伊達家|伊達家{{small|(岩出山)}}]]'''{{small|(仙台藩一門)}}、'''[[亘理伊達家|伊達家{{small|(亘理)}}]]'''{{small|(仙台藩一門)}}、'''[[種子島氏|種子島家]]'''{{small|(薩摩藩家老)}}、'''{{Ruby|[[長氏|長家]]|ちょう}}'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[名張藤堂家|藤堂家{{small|(名張)}}]]'''{{small|([[津藩]]一門)}}、'''[[土倉家]]'''{{small|(岡山藩家老)}}、'''[[白石鍋島家|鍋島家{{small|(白石)}}]]'''{{small|(佐賀藩一門)}}、'''[[武雄鍋島家|鍋島家{{small|(武雄)}}]]'''{{small|(佐賀藩一門)}}、'''[[八戸氏|南部家]]'''{{small|([[盛岡藩]]家老)}}、'''{{Ruby|[[金川日置家|日置家]]|ひき}}'''{{small|(岡山藩家老)}}、'''[[深尾家]]'''{{small|([[土佐藩]]家老)}}、'''[[安芸福原氏|福原家]]'''{{small|(長州藩家老)}}、'''[[細川氏#長岡(細川)刑部家|細川家{{small|(刑部)}}]]'''{{small|(熊本藩一門)}}、'''[[細川氏#長岡(細川)内膳家|細川家{{small|(内膳)}}]]'''{{small|(熊本藩家老)}}、'''[[本多氏#加賀本多男爵家|本多家{{small|(加賀)}}]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[前田孝|前田家{{small|(対馬守)}}]]'''{{small|(加賀藩一門)}}、'''[[前田土佐守家|前田家{{small|(土佐守)}}]]'''{{small|(加賀藩一門)}}、'''[[益田氏|益田家]]'''{{small|(長州藩家老)}}、'''[[松井氏#細川氏家臣一族|松井家]]'''{{small|(熊本藩家老)}}、'''[[三浦氏#正木三浦氏|三浦家]]'''{{small|([[紀州藩]]家老)}}、'''[[村井家]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[吉敷毛利家|毛利家{{small|(吉敷)}}]]'''{{small|(長州藩一門)}}、'''[[右田毛利家|毛利家{{small|(右田)}}]]'''{{small|(長州藩一門)}}、'''[[南邸山内家|山内家{{small|(南邸)}}]]'''{{small|(土佐藩一門)}}、'''[[横山家]]'''{{small|(加賀藩家老)}}、'''[[渡辺綱聡|渡辺家{{small|(半蔵)}}]]'''{{small|(尾張藩家老)}} **忠臣華族(5家) [[南朝 (日本)|南朝]]の功臣の子孫にあたる'''[[菊池氏|菊池家]]'''{{small|(旧[[交代寄合]])}}、'''[[五条家 (清原氏)|五条家]]'''{{small|(旧[[柳川藩]]士)}}、'''[[名和氏|名和家]]'''{{small|(旧[[柳川藩]]士)}}、'''[[八戸氏|南部家]]'''{{small|(旧[[盛岡藩]]士)}}、'''[[新田氏|新田家]]'''{{small|(旧交代寄合)}}の5家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位が与えられた。[[後醍醐天皇]]の忠臣の中でも武勲第一だった[[楠木正成]](大楠公)を出した[[楠木氏|楠木家]]は嫡流子孫がはっきりしなかったため華族とはならなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=60}}。 **神職・僧侶華族(18家) 由緒ある神社の[[神職]]のうち古い家柄の[[社家]]と[[浄土真宗]]10派の総本山たる門跡寺院・准門跡寺院の住職を世襲している僧家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位を与えられた([[東本願寺|東]][[西本願寺]]の両[[大谷家]]は[[伯爵]])。門跡寺院は浄土真宗以外の宗派にも存在するが、浄土真宗のみが華族となったのは真宗だけ世襲でやっていた<ref group="注釈">明治維新後に僧侶の妻帯は自由とされたが、それ以前には「無戒」の立場が広く公認された真宗を除き、[[具足戒]]により僧侶が公に妻子を持つことはできなかった。</ref>からである。華族とは世襲身分なので世襲住職であることは必須だった{{sfn|浅見雅男|1994|p=58}}。 **:'''[[阿蘇氏#苗字氏族としての阿蘇氏|阿蘇家]]'''{{small|([[阿蘇神社]]神職)}}、'''[[荒木田家]]'''{{small|([[伊勢神宮]]神職)}}、'''{{Ruby|[[到津家]]|いとうづ}}'''{{small|([[宇佐神宮]]神職)}}、'''[[小野氏 (社家)|小野家]]'''{{small|([[日御碕神社]]神職)}}、'''[[金子家 (男爵家)|金子家]]'''{{small|([[物部神社 (大田市)|物部神社]]神職)}}、'''[[河辺家 (大中臣氏)|河辺家]]'''{{small|([[伊勢神宮]]神職)}}、'''{{Ruby|[[紀伊国造#紀氏|紀家]]|きい}}'''{{small|([[日前神宮・國懸神宮|日前・国懸両神宮]]神職)}}、'''[[出雲国造#北島家|北島家]]'''{{small|([[出雲大社]]神職)}}、'''[[木辺家]]'''{{small|([[浄土真宗]][[真宗木辺派|木辺派]]総本山[[錦織寺]]住職)}}、'''{{Ruby|[[渋谷家]]|しぶたに}}'''{{small|([[浄土真宗]][[真宗仏光寺派|渋谷派]]総本山[[仏光寺]]住職)}}、'''[[出雲国造#千家家|千家家]]'''{{small|([[出雲大社]]神職)}}、'''{{Ruby|[[千秋家]]|せんしゅう}}'''{{small|([[熱田神宮]]神職)}}、'''[[高千穂家]]'''{{small|([[英彦山神社]]神職)}}、'''{{Ruby|[[津守氏|津守家]]|つもり}}'''{{small|([[住吉大社]]神職)}}、'''{{Ruby|[[常磐井家]]|ときわい}}'''{{small|([[浄土真宗]][[真宗高田派|高田派]]総本山[[専修寺]]住職)}}、'''[[華園家]]'''{{small|([[浄土真宗]][[真宗興正派|興正派]]総本山[[興正寺]]住職)}}、'''[[松木朝彦|松木家]]'''{{small|([[伊勢神宮]]神職)}}、'''[[宮成公矩|宮成家]]'''{{small|([[宇佐神宮]]神職)}} **実業界(18家) 著名な実業家には経済発展の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位が与えられることがあった{{sfn|小田部雄次|2006|p=349-363}}。 **:'''[[岩崎弥之助|岩崎弥之助家]]'''(1896)、'''[[岩崎久弥|岩崎久弥家]]'''(1896)、'''[[大倉喜八郎|大倉家]]'''(1915)、'''[[神戸川崎財閥|川崎家]]'''(1920叙爵・1946襲爵せず)、'''{{Ruby|[[鴻池家]]|こうのいけ}}'''(1911)、'''[[近藤廉平|近藤家]]'''(1911)、'''[[渋沢財閥|渋沢家]]'''(正確には1900年の男爵叙爵は維新の功で1920年の子爵陞爵が経済発展の功{{sfn|小田部雄次|2006|p=352}})、'''[[住友家]]'''(1911)、'''[[園田孝吉|園田家]]'''(1918)、'''[[団琢磨|団家]]'''(1928)、'''[[藤田財閥|藤田家]]'''(1911)、'''[[古河財閥|古河家]]'''(1915)、'''[[三井八郎右衛門#10代高棟|三井高棟家]]'''(1896)、'''[[三井高弘|三井高弘家]]'''(1911)、'''[[三井家|三井高保家]]'''(1915)、'''[[森岡昌純|森岡家]]'''(1898)、'''[[森村財閥|森村家]]'''(1915)、'''[[安川敬一郎|安川家]]'''(1920) **その他の勲功者 **:その他[[政治家]]・[[官僚]]・[[軍人]]・[[学者]]などに叙爵がみられる{{sfn|小田部雄次|2006|p=322-364}}。とりわけ日清日露戦争後の軍人の戦功叙爵で男爵が急増している{{sfn|浅見雅男|1994|p=149}}。政治家系の勲功華族は、華族令当初に遅れた場合も、男爵を飛ばして子爵などから叙爵されたケースも多い([[桂太郎]]、[[陸奥宗光]]ら)。また特殊な事例として江戸時代に上総[[請西藩]]藩主だった[[林氏#三河林氏|林家]]は戊辰戦争で1万石から300石に減封となり大名の地位を失ったため、華族に列してなかったが、1893年に特旨により男爵に列している{{sfn|小田部雄次|2006|p=346}}。 ==== 主な日本の男爵 ==== * [[青山胤通]] - [[東京大学|東京帝国大学]]医科大学長 * [[伊丹重賢]] - [[錦鶏間祗候]]・[[勲一等瑞宝章]] * [[渡辺清 (政治家)|渡辺清]] - 錦鶏間祗候・勲一等瑞宝章 * [[幣原喜重郎]] - 第44代[[内閣総理大臣]]、第40代[[衆議院議長]]、従一位[[勲一等旭日桐花大綬章]] * [[橋本綱常]] - [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍医総監]]、[[陸軍省]]医務局長、[[東京大学]][[教授]]。[[医学博士]]。 * [[小池正直]] - 陸軍軍医総監、貴族院議員。 * [[高木兼寛]] - 海軍軍医総監、海軍省医務局長。[[東京慈恵会医科大学]]の創設者。[[脚気]]の撲滅に尽力し、「'''麦飯男爵'''」と呼ばれた。 * [[福原実]] - [[陸軍少将]]、勲一等瑞宝章・錦鶏間祗候 * [[西竹一]] - [[陸軍大佐]]、戦車第21連隊長、[[硫黄島の戦い]]で戦死。[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック(1932年)]][[馬術]][[障害飛越競技]]金メダリスト。「'''バロン西'''」と呼ばれ、親しまれた。 * [[前田正名]] - [[パルプ]]会社の[[前田製紙]]を設立したほか、阿寒湖畔3,859ha、富士朝霧高原300ha、宮崎200haを所有し、国立公園の設立維持保全に貢献。現在の財団法人前田一歩園財団に至る。 * [[村田経芳]] - 薩摩藩士、[[陸軍少将]]、日本陸軍の最初の国産小銃「[[村田銃]]」発明者。 * [[藤井包總]] - [[陸軍中将]]、[[陸地測量部]]長、[[勲一等旭日大綬章]]、貴族院議員。 * [[本庄繁]] - [[陸軍大将]]、[[侍従武官長]]、[[満洲事変]]当時の[[関東軍]]司令官。 * [[大角岑生]] - [[海軍大将]]、[[五・一五事件]]、[[二・二六事件]]当時の[[海軍大臣]]。 * [[北里柴三郎]] - [[医学者の一覧|医学者]]・[[細菌学|細菌学者]]。[[北里大学]]の創設者。医療行政や衛生行政の面でも大きな業績を残す。 * [[鈴木貫太郎]] - 第42代[[内閣総理大臣]]、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長、[[侍従長]]、[[海軍軍令部長]]、[[連合艦隊司令長官]]、[[海軍大将]] * [[鮫島具重]] - [[海軍中将]]、戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]艦長。 * [[大倉喜七郎]] - [[ホテルオークラ]]創業者 * [[滋野清武]] - 日本人初の[[エース・パイロット]]。[[第一次世界大戦]]で[[フランス陸軍]]航空隊に所属。「'''バロン滋野'''」と呼ばれる。 === 朝鮮貴族の男爵 === [[1910年]](明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族制度に準じた[[朝鮮貴族]]の制度が創設された。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在したが、朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった[[両班]]出身者で占められた{{sfn|小田部雄次|2006|p=163/166}}。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち男爵に叙されたのは45名である{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。下級朝鮮貴族には反日派も多く、男爵に叙された45名のうち20%にあたる9名が叙爵を拒絶あるいは返却している。著名な者には第二次日韓協約に怒り「[[乙巳五賊]]」の処刑を訴え併合後の男爵叙爵に恥辱と憤り自決した[[金奭鎮]](1843-1910)。男爵を返上した後、上海で韓国独立運動に参加し、大韓民国臨時政府要人として活躍した[[金嘉鎮]](1846-1923)。1905年に内閣を組閣したが日本側の乙巳条約締結強要に憤り抵抗して免職となり、併合後は叙爵を拒否して蟄居し、朝鮮教育会の創設に携わった[[韓圭ソル|韓圭卨]](1856-1930)などがいる。彼らは現代韓国で反日愛国者として高く評価されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=170-171}}。 朝鮮貴族は創始改名しない家が多かった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。昭和期には朝鮮貴族の貧窮ぶりが相当なものになっていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 == 中国の男爵 == {{see also|{{仮リンク|中国の爵位|zh|中国爵位}}}} [[周|西周]]時代に設置された爵について、『[[礼記]]』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、五つある爵の最下級に位置づけている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=2-3}}。一方で『[[孟子 (書物)|孟子]]』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、[[天子]]を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。また『[[春秋公羊伝]]』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=5}}。金文史料が検討されるようになって[[傅期年]]、[[郭沫若]]、[[楊樹達]]といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=4}}。[[王世民]]が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=6}}。[[貝塚茂樹]]は『[[春秋左氏伝]]』を検討し、五等爵は[[春秋時代]]末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=9}}。 [[漢]]代においては[[二十等爵]]制が敷かれ、「男」の爵位は存在しなかった。[[魏 (三国)|魏]]の[[咸熙]]元年(264年)、爵制が改革され、男の爵位が復活した。[[食邑]]は四百戸、四十里四方の土地が与えられることとなっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。その後[[西晋]]および[[東晋]]でも爵位は存続している{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}。 [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]においても晋の制度に近い叙爵が行われている。[[隋]]においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、[[唐]]においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。 === 主要な中国の男爵 === [[昭公 (魯)|昭公]]13年には[[晋 (春秋)|晋]]による平丘の会が開かれ、[[鄭]]の君主も招かれた。鄭の君主は本来は「伯」であったが、本来下位にある[[許 (春秋)|許]]と同列の「男」を称して[[覇者]]に対する貢納の負担を免れようとした{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=9}}。 == イギリスの男爵 == [[File:Coronet of a British Baron.svg|200px|thumb|イギリス男爵の紋章の冠]] 男爵と訳される貴族称号を英語では[[バロン (称号)|バロン]](baron)という。バロンの女性形はバロネス(baroness)で、イギリスの制度では男爵の妻(男爵夫人)や男爵の爵位をもつ女性(女男爵)に用いる。 イングランドでは13世紀頃までbaronという言葉は、貴族称号ではなく{{仮リンク|直属受封者|en|tenant-in-chief}}(国王から直接に封土を受ける臣下)を意味する言葉だった。そのためその数は非常に多かったが、13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から{{仮リンク|議会招集令状|en|Writ of summons}}を受けて[[イングランド議会]]に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった{{sfn|近藤申一|1970|p=161-163}}{{sfn|中村英勝|1959|p=51}}。 さらにヨーロッパ大陸から輸入された[[デューク (称号)|公爵]](duke)、侯爵(marquess)、[[ヴァイカウント|子爵]](viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく[[特許状|国王勅許状]](letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質のもの)へと変化した{{sfn|近藤申一|1970|p=164}}{{sfn|中村英勝|1959|p=51}}。勅許状による称号としての男爵(baron)位を最初に受けたのは[[1387年]]にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙された{{仮リンク|ジョン・ド・ビーチャム (初代ビーチャム男爵)|label=ジョン・ド・ビーチャム|en|John de Beauchamp, 1st Baron Beauchamp (fourth creation)}}である{{sfn|近藤申一|1970|p=164}}。 [[スコットランド貴族]]では、[[ロード・オブ・パーラメント]](議会の卿)がイングランドにおける男爵位に相当する。スコットランドにおいてはbaronという言葉はずっと直属受封者の意味であり続け、国王から貴族称号をもらっていない地主を含んだ<ref name="CP PS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/Peerage%20of%20Scotland.htm|title=The Peerage of Scotland|accessdate= 2016-3-4 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]の治世下の[[1428年]]に小baronはスコットランド議会に招集されなくなり、同じ頃から裕福なbaronがロード・オブ・パーラメントに叙されて議席を持つようになったのがその始まりである<ref name="CP LS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/Lords%20of%20Scotland.htm|title=Lords of Scotland|accessdate= 2016-2-21 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。 [[1958年]]の[[一代貴族法]]によって制定された[[一代貴族]]は、全員が男爵位である。ただしその男爵位は世襲できない{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=420}}。 イギリスでは男爵を通常「Baron ○○(○○男爵)」とは呼ばず、「Lord ○○(○○[[卿]])」と呼ぶが(子爵、伯爵、侯爵も同様に称することができるが、男爵はそれ以上に多くそう呼ばれる)、これはbaronがもともと直接受封者を意味する言葉だったことによる{{sfn|近藤申一|1970|p=164}}。その「○○」は家名([[姓]]・[[名字]])ではなく爵位名である。例えば[[アシュバートン男爵]]の現当主は第8代アシュバートン男爵[[マーク・ベアリング (第8代アシュバートン男爵)|マーク・ベアリング]]であるが、家名は[[ベアリング家]]なのである。ただし[[ロスチャイルド男爵]][[ロスチャイルド家]]のように、爵位名と家名が同一である例も少なくはない。 また、日本の華族と違い、欧州貴族は同一人が複数の爵位を持つ場合が多い。その場合、所持する爵位のうち最高位のものを名乗り、他は「従属爵位」とされる。男爵の場合当てはまらないが、[[嫡男]]([[法定推定相続人]])が従属爵位のうち一つを[[儀礼称号]]として名乗る。 男爵の妻はLady(レディ)を冠して呼ばれる。女男爵はBaroness(バロネス)あるいはLadyを冠して呼ばれる。女男爵の夫には何も敬称は冠せられない。男爵の息子および娘はThe Honourable のあとにファーストネーム+ラストネームをつけて呼ばれる{{sfn|田中亮三|2009|p=61}}。 なお、貴族には当たらないが男爵より下位の世襲の称号として[[準男爵]]位が設けられている。 === 現存する世襲男爵家 === ==== イングランド貴族 ==== {{Div col}} #'''[[ド・ルース男爵]]''' (1264年) マクスウェル家 #'''[[モウブレー男爵]]''' (1283年), '''[[セグレイブ男爵]]''' (1295年) '''[[ストートン男爵]]''' (1448年) ストートン家 #'''{{仮リンク|ヘイスティングス男爵|en|Baron Hastings}}''' (1295年) アストレイ家 #'''{{仮リンク|フィッツウォーター男爵|en|Baron FitzWalter}}''' (1295年) プランプター家 #'''[[クリントン男爵]]''' (1299年) クリントン家 #'''{{仮リンク|ド・クリフォード男爵|en|Baron de Clifford}}''' (1299年) ラッセル家 #'''{{仮リンク|ゾウチ男爵|en|Baron Zouche}}''' (1308年) フランクランド家 #'''[[ウィロビー・ド・アーズビー男爵]]''' (1313年) ヒースコート=ドラモンド=ウィロウビー家 #'''{{仮リンク|ストラボルギー男爵|en|Baron Strabolgi}}''' (1318年) ケンワージー家 #'''{{仮リンク|デイカー男爵|en|Baroness Dacre}}''' (1321年) ダグラス=ヒューム家 #'''[[ネイスのダーシー男爵]]''' (1332年) イングラムズ家 #'''[[クロムウェル男爵]]''' (1375年) ベウィッケ=コプリー家 #'''{{仮リンク|カモイズ男爵|en|Baron Camoys}}''' (1383年) ストーナー家 #'''{{仮リンク|コッドナーのグレイ男爵|en|Baron Grey of Codnor}}''' (1397年) コーンウォール=リー家 #'''{{仮リンク|バークリー男爵|en|Baron Berkeley}}''' (1421年) ギーターボック家 #'''{{仮リンク|ラティマー男爵|en|Baron Latymer}}''' (1432年) マネー=クーツ #'''[[ダドリー男爵]]''' (1440年) ウォレス家 #'''{{仮リンク|セイ=セレ男爵|en|Baron Saye and Sele}}''' (1447年) ファインズ家 #'''[[バーナーズ男爵]]''' (1455年) カーカム家 #'''[[ハーバート男爵]]''' (1461年) サイフリッド=ハーバート家 #'''{{仮リンク|ウィロウビー・ド・ブローク男爵|en|Baron Willoughby de Broke}}''' (1491年) {{仮リンク|ヴァーニー家|en|Verney family}} #'''{{仮リンク|ハロウデンのヴォークス男爵|en|Baron Vaux of Harrowden}}''' (1523年) ギルビー家 #'''{{仮リンク|ブレイ男爵|en|Baron Braye}}''' (1529年) オーブリー=フレッチャー家 #'''{{仮リンク|バーグ男爵|en|Baron Burgh}}''' (1529年) バーグ家 #'''[[ウォートン男爵]]''' (1544年) ロバートソン家 #'''{{仮リンク|ブレットソーのセント・ジョン男爵|en|Baron St John of Bletso}}''' (1559年) セント・ジョン家 #'''[[ハワード・ド・ウォルデン男爵]]''' (1597年) チェルニン家 #'''[[ピーター男爵]]''' (1603年) ピーター家 #'''{{仮リンク|ドーマー男爵|en|Baron Dormer}}''' (1615年) ドーマー家 #'''{{仮リンク|ティナム男爵|en|Baron Teynham}}''' (1616年) ローパー=カーゾン家 #'''[[ストレンジ男爵]]''' (1628年) ドラモンド家 #'''{{仮リンク|スタッフォード男爵|en|Baron Stafford}}''' (1640年) フィッツハーバート家 #'''[[バイロン男爵]]''' (1643年) バイロン家 #'''[[ルーカス男爵]]''' (1663年) '''[[ディンゴール卿]]''' (1609年、[[スコットランド貴族|スコットランド]]) パーマー家 #'''[[アーリントン男爵]]''' (1664年) フォーウッド家 #'''{{仮リンク|チャッドリーのクリフォード男爵|en|Baron Clifford of Chudleigh}}''' (1672年) クリフォード家 #'''{{仮リンク|バーナード男爵|en|Baron Barnard}}''' (1698年) ヴェイン家 {{Div col end}} ==== スコットランド貴族 ==== {{Div col}} #'''{{仮リンク|フォーブス卿|en|Lord Forbes}}''' (1442年) {{仮リンク|フォーブス氏族|label=フォーブス家|en|Clan Forbes}} #'''{{仮リンク|グレイ卿|en|Lord Gray}}''' (1444年) キャンベル=グレイ家 #'''[[ソルトーン卿]]''' (1445年) {{仮リンク|フレイザー氏族|label=フレイザー家|en|Clan Fraser}} #'''{{仮リンク|シンクレア卿|en|Lord Sinclair}}''' (1449年) {{仮リンク|シンクレア氏族|label=シンクレア家|en|Clan Sinclair}} #'''{{仮リンク|ボースウィック卿|en|Lord Borthwick}}''' (1452年) {{仮リンク|ボースウィック氏族|label=ボースウィック家|en|Clan Borthwick}} #'''[[ラヴァト卿]]''' (1464年) フレイザー家 #'''[[センピル卿]]''' (1488年) {{仮リンク|センピル氏族|label=センピル家|en|Clan Sempill}} #'''{{仮リンク|テレグルズのヘリーズ卿|en|Lord Herries of Terregles}}''' (1490年) マンフォード家 #'''{{仮リンク|エルフィンストン卿|en|Lord Elphinstone}}''' (1510年)/エルフィンストン男爵([[連合王国貴族|連合王国]]、1885年) {{仮リンク|エルフィンストン氏族|label=エルフィンストン家|en|Clan Elphinstone}} #'''[[トフィチェン卿]]''' (1564年) {{仮リンク|サンディランズ氏族|label=サンディランズ家|en|Clan Sandilands}} #'''[[キンロス卿]]''' (1602年) フリーマン=グレンヴィル家 #'''{{仮リンク|バーリーのバルフォア卿|en|Lord Balfour of Burleigh}}''' (1607年) ブルース家 #'''[[ネイピア卿]]''' (1627年)/'''[[エトリック男爵]]''' ([[連合王国貴族|連合王国]], 1872年) {{仮リンク|ネイピア氏族|label=ネイピア家|en|Clan Napier}} #'''[[キャメロンのフェアファクス卿]]''' (1627年) フェアファクス家 #'''[[レイ卿]]''' (1628年) {{仮リンク|マッカイ氏族|label=マッカイ家|en|Clan Mackay}} #'''{{仮リンク|エリバンク卿|en|Lord Elibank}}''' (1643年) アースキン=マレー家 #'''{{仮リンク|ベルハーヴェン=スティントン卿|en|Lord Belhaven and Stenton}}''' (1647年) {{仮リンク|ハミルトン氏族|label=ハミルトン家|en|Clan Hamilton|redirect=1}} #'''{{仮リンク|ロロ卿|en|Lord Rollo}}''' (1651年) {{仮リンク|ロロ氏族|label=ロロ家|en|Clan Rollo}} #'''{{仮リンク|ポルワース卿|en|Lord Polwarth}}''' (1690年) ヘプバーン=スコット家 {{Div col end}} ==== グレートブリテン貴族 ==== {{Div col}} #'''{{仮リンク|ミドルトン男爵|en|Baron Middleton}}''' (1712年) ウィロビー家 #'''[[ウォルポール男爵]]''' (1723年) {{仮リンク|ウォルポール家|en|Walpole family}} #'''{{仮リンク|モンソン男爵|en|Baron Monson}}''' (1728年) モンソン家 #'''{{仮リンク|ボストン男爵|en|Baron Boston}}''' (1761年) ボテラー家 #'''{{仮リンク|ヴァーノン男爵|en|Baron Vernon}}''' (1762年) ヴァーノン=ハーコート家 #'''{{仮リンク|ディグビー男爵|en|Baron Digby}}''' (1765年) ディグビー家 #'''[[ホーク男爵]]''' (1776年) ホーク家 #'''{{仮リンク|ブラウンロー男爵|en|Baron Brownlow}}''' (1776年) カスト家 #'''{{仮リンク|フォーリー男爵|en|Baron Foley}}''' (1776年) フォーリー家 #'''{{仮リンク|ディネヴァー男爵|en|Baron Dynevor}}''' (1780年) リース家 #'''{{仮リンク|ウィルシンガム男爵|en|Baron Walsingham}}''' (1780年) ド・グレイ家 #'''{{仮リンク|バゴット男爵|en|Baron Bagot}}''' (1780年) バゴット家 #'''[[サウサンプトン男爵]]''' (1780年) フィッツロイ家 #'''{{仮リンク|グラントリー男爵|en|Baron Grantley}}''' (1782年) ノートン家 #'''[[ロドニー男爵]]''' (1782年) ロドニー家 #'''{{仮リンク|サマーズ男爵|en|Baron Somers}}''' (1784年) サマーズ=コックス家 #'''{{仮リンク|サフィールド男爵|en|Baron Suffield}}''' (1786年) ハーバード=ハモンド家 #'''{{仮リンク|ケニオン男爵|en|Baron Kenyon}}''' (1788年) ティレル=ケニオン家 #'''{{仮リンク|ブレイブルック男爵|en|Baron Braybrooke}}''' (1788年) [[ネヴィル家]] #'''{{仮リンク|サーロー男爵|en|Baron Thurlow}}''' (1792年) サーロー=カミング=ブルース家 #'''[[オークランド男爵]]''' (1793年) イーデン家 #'''[[キャリントン男爵]]''' (1796年) キャリントン家 #'''{{仮リンク|ボルトン男爵|en|Baron Bolton}}''' (1797年) オード=ポーレット家 #'''{{仮リンク|リルフォード男爵|en|Baron Lilford}}''' (1797年) ポウィス家 {{Div col end}} ==== アイルランド貴族 ==== {{Div col}} #'''{{仮リンク|キングセール男爵|en|Baron Kingsale}}''' (1340年?) ド・クルシー家 #'''{{仮リンク|ダンセイニ男爵|en|Baron Dunsany}}''' (1439年?) プランケット家 #'''{{仮リンク|トリムレストン男爵|en|Baron Trimlestown}}''' (1462年) バーンウェル家 #'''{{仮リンク|ダンボイン男爵|en|Baron Dunboyne}}''' (1541年) {{仮リンク|バトラー家|en|Butler dynasty}} #'''{{仮リンク|ラウス男爵|en|Baron Louth}}''' (1541年) プランケット家 #'''[[インチクィン男爵]]''' (1543年) [[オブライエン|オブライエン家]] #'''{{仮リンク|ディグビー男爵|en|Baron Digby}}''' (1620年) ディグビー家 #'''{{仮リンク|カーベリー男爵|en|Baron Carbery}}''' (1715年) エヴァンズ=フリーク家 #'''{{仮リンク|エイルマー男爵|en|Baron Aylmer}}''' (1718年) エイルマー家 #'''{{仮リンク|ファーンハム男爵|en|Baron Farnham}}''' (1756年) マクスウェル家 #'''{{仮リンク|ライル男爵|en|Baron Lisle}}''' (1758年) ライソート家 #'''{{仮リンク|ニューバラ男爵|en|Baron Newborough}}''' (1776年) ウィン家 #'''[[マクドナルド男爵]]''' (1776年) マクドナルド家 #'''{{仮リンク|ケンジントン男爵|en|Baron Kensington}}''' (1776年) エドワーディス家 #'''{{仮リンク|マシー男爵|en|Baron Massy}}''' (1776年) マシー家 #'''{{仮リンク|マスケリー男爵|en|Baron Muskerry}}''' (1781年) ディーン家 #'''{{仮リンク|シェフィールド男爵|en|Baron Sheffield}}''' (1783年), '''{{仮リンク|アルダリーのスタンリー男爵|en|Baron Stanley of Alderley}}''' ([[連合王国貴族|連合王国]], 1839年)/'''{{仮リンク|エディスベリー男爵|en|Baron Eddisbury}}''' ([[連合王国貴族|連合王国]], 1848年) {{仮リンク|オードリー=スタンリー家|label=スタンリー家|en|Audley-Stanley family}} #'''{{仮リンク|キルメイン男爵|en|Baron Kilmaine}}''' (1789年) ブラウン家 #'''[[ウォーターパーク男爵]]''' (1792年) [[キャヴェンディッシュ家]] #'''{{仮リンク|グレイヴス男爵|en|Baron Graves}}''' (1794年) グレイヴス家 #'''{{仮リンク|ハンティングフィールド男爵|en|Baron Huntingfield}}''' (1796年) バンネック家 #'''{{仮リンク|ロスモア男爵|en|Baron Rossmore}}''' (1796年) ウェステンラ家 #'''{{仮リンク|ハザム男爵|en|Baron Hotham}}''' (1797年) ハザム家 #'''{{仮リンク|クロフトン男爵|en|Baron Crofton}}''' (1797年) {{仮リンク|クロフトン家|en|Crofton family}} #'''[[フレンチ男爵]]''' (1798年) フレンチ家 #'''[[ヘンリー男爵]]''' (1799年)/'''{{仮リンク|ノーシントン男爵|en|Baron Northington}}''' ([[連合王国貴族|連合王国]],1885年) イーデン家 #'''{{仮リンク|ラングフォード男爵|en|Baron Langford}}''' (1800年) ローリー=コンウェイ家 #'''[[ダファリン=クランボイ男爵]]''' (1800年) ブラックウッド家 #'''{{仮リンク|ヘニカー男爵|en|Baron Henniker}}''' (1800年)/'''{{仮リンク|ハーティスミア男爵|en|Baron Hartismere}}''' ([[連合王国貴族|連合王国]],1886年) ヘニカー=メージャー家 #'''{{仮リンク|ヴェントリー男爵|en|Baron Ventry}}''' (1800年) モリンズ家 #'''{{仮リンク|ダンオーリー男爵|en|Baron Dunalley}}''' (1800年) プリティー家 #'''{{仮リンク|クランモリス男爵|en|Baron Clanmorris}}''' (1800年) ビンガム家 #'''[[アシュタウン男爵]]''' (1800年) トレンチ家 #'''{{仮リンク|レンドルシャム男爵|en|Baron Rendlesham}}''' (1806年) テルソン家 #'''{{仮リンク|カスルメーン男爵|en|Baron Castlemaine}}''' (1812年) ハンコック家 #'''{{仮リンク|デシーズ男爵|en|Baron Decies}}''' (1812年) ベレスフォード家 #'''{{仮リンク|ガーバー男爵|en|Baron Garvagh}}''' (1818年) カニング家 #'''[[マラハイドのタルボット男爵]]''' (1831年) アランデル家 #'''{{仮リンク|カリュー男爵|en|Baron Carew}}''' (1834年, 連合王国 1838年) コノリー=カリュー家 #'''{{仮リンク|オレンモア=ブラウン男爵|en|Baron Oranmore and Browne}}''' (1836年)/'''{{仮リンク|ミアワース男爵|en|Baron Mereworth}}''' ([[連合王国貴族|連合王国]], 1926年) ブラウン家 #'''{{仮リンク|ベリュー男爵|en|Baron Bellew}}''' (1847年) ベリュー家 #'''[[ファーモイ男爵]]''' (1856年) ロッシュ家 #'''{{仮リンク|ラスドネル男爵|en|Baron Rathdonnell}}''' (1868年) マクリントック=バンバリー家 {{Div col end}} ==== 連合王国貴族 ==== {{Div col}} #'''[[エレンバラ男爵]]''' (1802年) ロー家 #'''{{仮リンク|マナーズ男爵|en|Baron Manners}}''' (1807年) マナーズ家 #'''[[チャーチル男爵 (連合王国貴族)|チャーチル男爵]]'''(1815年) [[スペンサー家]] #'''{{仮リンク|ハリス男爵|en|Baron Harris}}''' (1815年) ハリス家 #'''{{仮リンク|レイヴンズワース男爵|en|Baron Ravensworth}}''' (1821年) リデル家 #'''[[ディラミア男爵]]''' (1821年) チヤムリー家 #'''{{仮リンク|フォレスター男爵|en|Baron Forester}}''' (1821年) ウェルド=フォレスター家 #'''[[レイリー男爵]]''' (1821年) ストラット家 #'''{{仮リンク|ギフォード男爵|en|Baron Gifford}}''' (1824年) ギフォード家 #'''{{仮リンク|フェバーシャム男爵|en|Baron Feversham}}''' (1826年) ダンクーム家 #'''[[シーフォード男爵]]''' (1826年) エリス家 #'''[[プランケット男爵]]''' (1827年) プランケット家 #'''{{仮リンク|ヘイティーズベリー男爵|en|Baron Heytesbury}}''' (1828年) ア・コート家 #'''{{仮リンク|スケルマーズデール男爵|en|Baron Skelmersdale}}''' (1828年) ブートル=ウィルブラハム家 #'''{{仮リンク|ウィンフォード男爵|en|Baron Wynford}}''' (1829年) ベスト家 #'''[[キルマーノック男爵]]''' (1831年) {{仮リンク|ボイド氏族|label=ボイド家|en|Clan Boyd}} #'''{{仮リンク|ポルティモア男爵|en|Baron Poltimore}}''' (1831年) バンプフィルド家 #'''[[モスティン男爵]]''' (1831年) モスティン家 #'''{{仮リンク|ド・ソーマレズ男爵|en|Baron de Saumarez}}''' (1831年) ソーマレズ家 #'''[[デンマン男爵]]'''(1834年) デンマン家 #'''{{仮リンク|アビンガー男爵|en|Baron Abinger}}''' (1835年) スカーレット家 #'''[[アシュバートン男爵]]''' (1835年) [[ベアリング家]] #'''{{仮リンク|ハザートン男爵|en|Baron Hatherton}}''' (1835年) リトルトン家 #'''{{仮リンク|ストラセデン男爵|label=ストラセデン=キャンベル男爵|en|Baron Stratheden}}''' (1836年) キャンベル家 #'''[[ド・モーリー男爵]]''' (1838年) ポンソンビー家 #'''[[ロッテスリー男爵]]''' (1838年) ロッテスリー家 #'''{{仮リンク|サドリー男爵|en|Baron Sudeley}}''' (1838年) ハンブリー=トレーシー家 #'''{{仮リンク|マスーアン男爵|en|Baron Methuen}}''' (1838年) マスーアン=キャンベル家 #'''[[リー男爵 (Leigh)|リー男爵]]''' (1839年) リー家 #'''{{仮リンク|ブランドンのモンティーグル男爵|en|Baron Monteagle of Brandon}}''' (1839年) スプリング=ライス家 #'''{{仮リンク|コングルトン男爵|en|Baron Congleton}}''' (1841年) パーネル家 #'''{{仮リンク|ヴィヴィアン男爵|en|Baron Vivian}}''' (1841年) {{仮リンク|ヴィヴィアン家|en|Vyvyan family}} #'''{{仮リンク|ロンデスバラ男爵|en|Baron Londesborough}}''' (1850年) デニソン家 #'''{{仮リンク|ド・フレイン男爵|en|Baron de Freyne}}''' (1851年) フレンチ家 #'''[[ラグラン男爵]]''' (1852年) サマセット家 #'''{{仮リンク|ベロッパー男爵|en|Baron Belper}}''' (1856年) ストラット家 #'''[[チェシャム男爵]]''' (1858年) [[キャヴェンディッシュ家]] #'''{{仮リンク|チャーストン男爵|en|Baron Churston}}''' (1858年) ヤード=ブラー家 #'''[[ルコンフィールド男爵]]''' (1859年)/'''[[エグルモント男爵]]''' (1963年) ウィンダム家 #'''{{仮リンク|ライヴデン男爵|en|Baron Lyveden}}''' (1859年) ヴァーノン家 #'''[[ブルーム=ヴォークス男爵]]''' (1860年) ブルーム家 #'''{{仮リンク|ウェストベリー男爵|en|Baron Westbury}}''' (1861年) ベセル家 #'''{{仮リンク|アナリー男爵|en|Baron Annaly}}''' (1863年) ホワイト家 #'''[[ノースブルック男爵]]''' (1866年) [[ベアリング家]] #'''{{仮リンク|ヒルトン男爵|en|Baron Hylton}}''' (1866年) ジョリフ家 #'''{{仮リンク|ペンリン男爵|en|Baron Penrhyn}}''' (1866年) ダグラス=ペナント家 #'''{{仮リンク|オニール男爵|en|Baron O'Neill}}''' (1868年) チチェスター家 #'''[[マグダラのネイピア男爵]]''' (1868年) ネイピア家 #'''[[ローレンス男爵]]''' (1869年) ローレンス家 #'''{{仮リンク|アクトン男爵|en|Baron Acton}}''' (1869年) ライオン=ダルバーグ=アクトン家 #'''{{仮リンク|ウォルヴァートン男爵|en|Baron Wolverton}}''' (1869年) グリン家 #'''{{仮リンク|オハーガン男爵|en|Baron O'Hagan}}''' (1870年) ストレイチー家 #'''{{仮リンク|サンドハースト男爵|en|Baron Sandhurst}}''' (1871年) マンスフィールド家 #'''[[アバーデア男爵]]''' (1873年) ブルース家 #'''{{仮リンク|モンクリフ男爵|en|Baron Moncreiff}}''' (1874年) モンクリフ家 #'''{{仮リンク|コールリッジ男爵|en|Baron Coleridge}}''' (1874年) コールリッジ家 #'''{{仮リンク|コッテルロー男爵|en|Baron Cottesloe}}''' (1874年) フレマントル家 #'''{{仮リンク|ハンプトン男爵|en|Baron Hampton}}''' (1874年) {{仮リンク|パッキントン家|en|Pakington family}} #'''{{仮リンク|ハーレック男爵|en|Baron Harlech}}''' (1876年) オームズビー=ゴア家 #'''{{仮リンク|トルマッシュ男爵|en|Baron Tollemache}}''' (1876年) {{仮リンク|トルマッシュ家|en|Tollemache family}} #'''{{仮リンク|ジェラルド男爵|en|Baron Gerard}}''' (1876年) ジェラルド家 #'''{{仮リンク|サックヴィル男爵|en|Baron Sackville}}''' (1876年) サックヴィル=ウェスト家 #'''{{仮リンク|ノートン男爵|en|Baron Norton}}''' (1878年) アダレイ家 #'''{{仮リンク|トレヴァー男爵|en|Baron Trevor}}''' (1880年) ヒル=トレヴァー家 #'''[[アムトヒル男爵]]''' (1881年) ラッセル家 #'''{{仮リンク|ダーウェント男爵|en|Baron Derwent}}''' (1881年) ヴァンデン=ベンデ=ジョンストン家 #'''{{仮リンク|ホスフィールド男爵|en|Baron Hothfield}}''' (1881年) タフトン家 #'''[[テニソン男爵]]''' (1884年) テニソン家 #'''[[ストラスペイ男爵]]''' (1884年) {{仮リンク|グラント氏族|label=グラント家|en|Clan Grant}} #'''{{仮リンク|モンク・ブレットン男爵|en|Baron Monk Bretton}}''' (1884年) ドッドソン家 #'''{{仮リンク|ノースボーン男爵|en|Baron Northbourne}}''' (1884年) ジェイムズ家 #'''[[ロスチャイルド男爵]]''' (1885年) [[ロスチャイルド家]] #'''[[レヴェルストーク男爵]]''' (1885年) [[ベアリング家]] #'''[[モンクスウェル男爵]]''' (1885年) コリアー家 #'''[[アシュボーン男爵]]''' (1885年) ギブソン家 #'''{{仮リンク|セント・オズヴァルド男爵|en|Baron St Oswald}}''' (1885年) ウィン家 #'''{{仮リンク|ボーリューのモンタギュー男爵|en|Baron Montagu of Beaulieu}}''' (1885年) {{仮リンク|スコット氏族|label=ダグラス=スコット=モンタギュー家|en|Clan Scott}} #'''{{仮リンク|ヒンドリップ男爵|en|Baron Hindlip}}''' (1886年) オールソップ家 #'''{{仮リンク|グリムソープ男爵|en|Baron Grimthorpe}}''' (1886年) ベケット家 #'''[[ディーエルのハミルトン男爵]]''' (1886年) ハミルトン家 #'''[[セント・レヴァン男爵]]''' (1887年) セント・オービン家 #'''{{仮リンク|ベイジング男爵|en|Baron Basing}}''' (1887年) スクレーター=ボース家 #'''[[ド・ラムジー男爵]]''' (1887年) エイルウィン=フェローズ家 #'''[[アディントン男爵]]''' (1887年) ハバード家 #'''{{仮リンク|サヴィル男爵|en|Baron Savile}}''' (1888年) ラムリー=サヴィル家 #'''[[アシュコーム男爵]]''' (1892年) キュービット家 #'''{{仮リンク|クローショー男爵|en|Baron Crawshaw}}''' (1892年) ブルックス家 #'''[[ハックニーのアマースト男爵]]''' (1892年) [[セシル家]] #'''[[ニュートン男爵]]''' (1892年) {{仮リンク|ライムのリー家|label=リー家|en|Leghs of Lyme}} #'''{{仮リンク|ダンリース男爵|en|Baron Dunleath}}''' (1892年) マルホランド家 #'''{{仮リンク|スウォンジー男爵|en|Baron Swansea}}''' (1893年) {{仮リンク|ヴィヴィアン家|en|Vyvyan family}} #'''{{仮リンク|ハンズドンのアルデンハム男爵|en|Baron Aldenham}}''' (1896年) ギブス家 #'''{{仮リンク|ホルムパトリック男爵|en|Baron HolmPatrick}}''' (1897年) ハミルトン家 #'''{{仮リンク|バートン男爵|en|Baron Burton}}''' (1897年) ベイリー家 #'''{{仮リンク|グレイナスク男爵|en|Baron Glanusk}}''' (1899年) ベイリー家 #'''{{仮リンク|クランワース男爵|en|Baron Cranworth}}''' (1899年) ガードン家 #'''[[エイヴベリー男爵]]''' (1900年) ラボック家 #'''[[キラニン男爵]]''' (1900年) モリス家 #'''{{仮リンク|マウント・ロイヤルのストラスコーナ男爵|en|Baron Strathcona and Mount Royal}}''' (1900年) ハワード家 #'''{{仮リンク|キンロス男爵|en|Baron Kinross}}''' (1902年) バルフォア家 #'''[[シャトルワース男爵]]''' (1902年) ケイ=シャトルワース家 #'''{{仮リンク|グレンフェル男爵|en|Baron Grenfell}}''' (1902年) グレンフェル家 #'''[[リーズデイル男爵|リーズデール男爵]]''' (1902年) [[ミットフォード姉妹|ミットフォード家]] #'''{{仮リンク|バーナム男爵|en|Baron Burnham}}''' (1903年) ローソン家 #'''{{仮リンク|ビダルフ男爵|en|Baron Biddulph}}''' (1903年) ビダルフ家 #'''{{仮リンク|ダンビーのリッチー男爵|en|Baron Ritchie of Dundee}}''' (1905年) リッチー家 #'''{{仮リンク|ヘムヒル男爵|en|Baron Hemphill}}''' (1906年) マーティン=ヘムヒル家 #'''{{仮リンク|ジョイシー男爵|en|Baron Joicey}}''' (1906年) ジョイシー家 #'''{{仮リンク|ナンバーンホルム男爵|en|Baron Nunburnholme}}''' (1906年) ウィルソン家 #'''[[スウェイスリング男爵]]''' (1907年) モンタギュー家 #'''{{仮リンク|ブライス男爵|en|Baron Blyth}}''' (1907年) ブレイス家 #'''{{仮リンク|マーチャムリー男爵|en|Baron Marchamley}}''' (1908年) ホワイトリー家 #'''{{仮リンク|ゴーエル男爵|en|Baron Gorell}}''' (1909年) バーンズ家 #'''[[フィッシャー男爵]]''' (1909年) フィッシャー家 #'''{{仮リンク|キルブラッケン男爵|en|Baron Kilbracken}}''' (1909年) ゴドリー家 #'''[[ペンズハーストのハーディング男爵]]''' (1910年) ハーディング家 #'''{{仮リンク|ド・ヴィリアーズ男爵|en|Baron de Villiers}}''' (1910年) ド・ヴィリアーズ家 #'''{{仮リンク|グレンコナー男爵|en|Baron Glenconner}}''' (1911年) テナント家 #'''{{仮リンク|アバーコンウェイ男爵|en|Baron Aberconway}}''' (1911年) マクラーレン家 #'''{{仮リンク|マーサー男爵|en|Baron Merthyr}}''' (1911年) トレヴァー=ルイス家 #'''{{仮リンク|ロワーレン男爵|en|Baron Rowallan}}''' (1911年) コーベット家 #'''[[ハイドのアシュトン男爵]]''' (1911年) アシュトン家 #'''[[レイブンズデール男爵]]''' (1911年) モズレー家 #'''{{仮リンク|ホレンデン男爵|en|Baron Hollenden}}''' (1912年) ホープ=モーレイ家 #'''{{仮リンク|パーモア男爵|en|Baron Parmoor}}''' (1914年) クリップス家 #'''{{仮リンク|カンリフ男爵|en|Baron Cunliffe}}''' (1914年) カンリフ家 #'''{{仮リンク|レンベリー男爵|en|Baron Wrenbury}}''' (1915年) バックリー家 #'''{{仮リンク|ファーリンドン男爵|en|Baron Faringdon}}''' (1916年) ヘンダーソン家 #'''{{仮リンク|ショーネシー男爵|en|Baron Shaughnessy}}''' (1916年) ショーネシー家 #'''{{仮リンク|ラスクリーダン男爵|en|Baron Rathcreedan}}''' (1916年) ノートン家 #'''{{仮リンク|サマーレイトン男爵|en|Baron Somerleyton}}''' (1916年) クロスリー家 #'''[[カーノック男爵]]''' (1916年) {{仮リンク|ニコルソン氏族|label=ニコルソン家|en|Clan Nicolson}} #'''[[ビーヴァーブルック男爵]]''' (1917年) エイトケン家 #'''{{仮リンク|ゲインフォード男爵|en|Baron Gainford}}''' (1917年) {{仮リンク|ピース家|en|Pease family}} #'''{{仮リンク|フォーティヴィオット男爵|en|Baron Forteviot}}''' (1917年) {{仮リンク|デュワー氏族|label=デュワー家|en|Clan Dewar}} #'''[[コルウィン男爵]]''' (1917年) ハミルトン=スミス家 #'''{{仮リンク|ジスバラ男爵|en|Baron Gisborough}}''' (1917年) シャロナー家 #'''{{仮リンク|モリス男爵|en|Baron Morris}}''' (1918年) モリス家 #'''{{仮リンク|カウリー男爵|en|Baron Cawley}}''' (1918年) カウリー家 #'''{{仮リンク|テリントン男爵|en|Baron Terrington}}''' (1918年) ウッドハウス家 #'''[[グレナーサー男爵]]''' (1918年) アーサー家 #'''{{仮リンク|フィリモア男爵|en|Baron Phillimore}}''' (1918年) フィリモア家 #'''{{仮リンク|インヴァーフォース男爵|en|Baron Inverforth}}''' (1919年) ヴィアー家 #'''{{仮リンク|シンハ男爵|en|Baron Sinha}}''' (1919年) シンハ家 #'''{{仮リンク|カルツのコクラン男爵|en|Baron Cochrane of Cults}}''' (1919年) コクラン家 #'''{{仮リンク|クルーイド男爵|en|Baron Clwyd}}''' (1919年) ロバーツ家 #'''[[リヴァプールのラッセル男爵]]''' (1919年) ラッセル家 #'''[[スウィンフェン男爵]]''' (1919年) スウィンフェン=イーディ家 #'''{{仮リンク|メストン男爵|en|Baron Meston}}''' (1919年) メストン家 #'''[[アシュボーンのカレン男爵]]''' (1920年) コケイン家 #'''[[トレヴェシン及びオークシー男爵|トレヴェシン男爵]]''' (1921年)/'''[[トレヴェシン及びオークシー男爵|オークシー男爵]]''' (1947年) ローレンス家 #'''{{仮リンク|グレンディーネ男爵|en|Baron Glendyne}}''' (1922年) ニヴィソン家 #'''{{仮リンク|マントン男爵|en|Baron Manton}}''' (1922年) ワトソン家 #'''{{仮リンク|フォレス男爵|en|Baron Forres}}''' (1922年) ウィリアムソン家 #'''{{仮リンク|ヴェスティー男爵|en|Baron Vestey}}''' (1922年) ヴェスティー家 #'''[[ボーウィック男爵]]''' (1922年) ボーウィック家 #'''{{仮リンク|マクレイ男爵|en|Baron Maclay}}''' (1922年) マクレイ家 #'''[[ベセル男爵]]''' (1922年) ベセル家 #'''{{仮リンク|ダーリング男爵|en|Baron Darling}}''' (1924年) ダーリング家 #'''{{仮リンク|バンベリー男爵|label=ソウザンのバンベリー男爵|en|Baron Banbury}}''' (1924年) バンベリー家 #'''{{仮リンク|メリベール男爵|en|Baron Merrivale}}''' (1925年) デューク家 #'''{{仮リンク|ブラッドベリー男爵|en|Baron Bradbury}}''' (1926年) ブラッドベリー家 #'''{{仮リンク|グリーンウェイ男爵|en|Baron Greenway}}''' (1927年) グリーンウェイ家 #'''{{仮リンク|ヘイター男爵|en|Baron Hayter}}''' (1927年) チャブ家 #'''[[コーンウォリス男爵]]''' (1927年) コーンウォリス家 #'''{{仮リンク|デアズベリー男爵|en|Baron Daresbury}}''' (1927年) グリーンオール家 #'''[[ラクソール男爵]]''' (1928年) ギブズ家 #'''{{仮リンク|レムナント男爵|en|Baron Remnant}}''' (1928年) レムナント家 #'''[[モイニハン男爵]]''' (1929年) モイニハン家 #'''{{仮リンク|クレイグマイル男爵|en|Baron Craigmyle}}''' (1929年) ショー家 #'''{{仮リンク|ダルヴァートン男爵|en|Baron Dulverton}}''' (1929年) ウィリス家 #'''{{仮リンク|ルーク男爵|en|Baron Luke}}''' (1929年) ジョンストン家 #'''{{仮リンク|アルビンガム男爵|en|Baron Alvingham}}''' (1929年) ヤーバーグ家 #'''[[ベーデン=パウエル男爵]]''' (1929年) ベーデン=パウエル家 #'''[[シュールブリードのポンソンビー男爵|シュールブレードのポンソンビー男爵]]''' (1930年) ポンソンビー家 #'''{{仮リンク|ディキンソン男爵|en|Baron Dickinson}}''' (1930年) ディキンソン家 #'''{{仮リンク|ノエル=バクストン男爵|en|Baron Noel-Buxton}}''' (1930年) ノエル=バクストン家 #'''[[ペンリスのハワード男爵]]''' (1930年) [[ハワード家]] #'''[[ロチェスター男爵]]''' (1931年) ラム家 #'''[[セルズドン男爵]]''' (1932年) ミッチェル=トムソン家 #'''[[モイン男爵]]''' (1932年) [[ギネス家]] #'''{{仮リンク|デイヴィーズ男爵|en|Baron Davies}}''' (1932年) デイヴィーズ家 #'''{{仮リンク|ランケイラー男爵|en|Baron Rankeillour}}''' (1932年) ホープ家 #'''{{仮リンク|ブロケット男爵|en|Baron Brocket}}''' (1933年) ノール=ケイン家 #'''{{仮リンク|ミルン男爵|en|Baron Milne}}''' (1933年) ミルン家 #'''[[レネル男爵]]''' (1933年) ロッド家 #'''{{仮リンク|モティストン男爵|en|Baron Mottistone}}''' (1933年) シーリー家 #'''{{仮リンク|アイリフ男爵|en|Baron Iliffe}}''' (1933年) アイリフ家 #'''[[パーマー男爵]]''' (1933年) パーマー家 #'''[[ロックリー男爵]]''' (1934年) [[セシル家]] #'''[[エルトン男爵]]''' (1934年) エルトン家 #'''[[ウェイクハースト男爵]]''' (1934年) ローダー家 #'''{{仮リンク|ヘスケス男爵|en|Baron Hesketh}}''' (1935年) ファーマー・ヘスケス家 #'''[[トウィーズミュア男爵]]''' (1935年) バカン家 #'''{{仮リンク|ウィグラム男爵|en|Baron Wigram}}''' (1935年) ウィグラム家 #'''{{仮リンク|リヴァーデール男爵|en|Baron Riverdale}}''' (1935年) バルフォア家 #'''{{仮リンク|メイ男爵|en|Baron May}}''' (1935年) メイ家 #'''{{仮リンク|ケネット男爵|en|Baron Kennet}}''' (1935年) ヤング家 #'''{{仮リンク|ストラスカーロン男爵|en|Baron Strathcarron}}''' (1936年) マクファーソン家 #'''[[カットー男爵]]''' (1936年) カットー家 #'''[[ウィンドルシャム男爵]]''' (1937年) ヘネシー家 #'''[[マンクロフト男爵]]''' (1937年) マンクロフト家 #'''{{仮リンク|マクゴワン男爵|en|Baron McGowan}}''' (1937年) {{仮リンク|マクゴワン家|en|McGowan family}} #'''[[デナム男爵]]''' (1937年) ボウヤー家 #'''[[リー男爵_(Rea)|リー男爵]]''' (1937年) リー家 #'''{{仮リンク|カドマン男爵|en|Baron Cadman}}''' (1937年) カドマン家 #'''{{仮リンク|ケニルワース男爵|en|Baron Kenilworth}}''' (1937年) シドレー家 #'''{{仮リンク|ペンダー男爵|en|Baron Pender}}''' (1937年) デニソン=ペンダー家 #'''{{仮リンク|ロボロー男爵|en|Baron Roborough}}''' (1938年) ロペス家 #'''{{仮リンク|アペソープのブラッシー男爵|en|Baron Brassey of Apethorpe}}''' (1938年) ブラッシー家 #'''{{仮リンク|スタンプ男爵|en|Baron Stamp}}''' (1938年) スタンプ家 #'''{{仮リンク|ビスター男爵|en|Baron Bicester}}''' (1938年) スミス家 #'''{{仮リンク|ミルフォード男爵|en|Baron Milford}}''' (1939年) フィリップス家 #'''{{仮リンク|ハンキー男爵|en|Baron Hankey}}''' (1939年) ハンキー家 #'''[[ハームズワース男爵]]''' (1939年) ハームズワース家 #'''[[ロザーウィック男爵]]''' (1939年) ケイザー家 #'''{{仮リンク|グレントラン男爵|en|Baron Glentoran}}''' (1939年) ディクソン家 #'''[[トライオン男爵]]''' (1940年) トライオン家 #'''{{仮リンク|クロフト男爵|en|Baron Croft}}''' (1940年) クロフト家 #'''[[テヴィオット男爵]]''' (1940年) カー家 #'''{{仮リンク|ネイサン男爵|en|Baron Nathan}}''' (1940年) ネイサン家 #'''[[リース男爵]]''' (1940年) リース家 #'''{{仮リンク|キンダースリー男爵|en|Baron Kindersley}}''' (1941年) キンダースリー家 #'''[[アイアンサイド男爵]]''' (1941年) アイアンサイド家 #'''{{仮リンク|レイサム男爵|en|Baron Latham}}''' (1942年) レイサム家 #'''{{仮リンク|ウェッジウッド男爵|en|Baron Wedgwood}}''' (1942年) {{仮リンク|ダーウィン=ウェッジウッド家|label=ウェッジウッド家|en|Darwin-Wedgwood family}} #'''[[ゲッディス男爵]]''' (1942年) ゲッディス家 #'''{{仮リンク|ブランティスフィールド男爵|en|Baron Bruntisfield}}''' (1942年) ウォレンダー家 #'''[[タラのブラバゾン男爵]]''' (1942年) ムーア=ブラバゾン家 #'''{{仮リンク|キーズ男爵|en|Baron Keyes}}''' (1943年) キーズ家 #'''{{仮リンク|ヘイミングフォード男爵|en|Baron Hemingford}}''' (1943年) ハーバート家 #'''{{仮リンク|モラン男爵|en|Baron Moran}}''' (1943年) ウィルソン家 #'''[[キラーン男爵]]''' (1943年) ランプソン家 #'''[[ダウディング男爵]]''' (1943年) ダウディング家 #'''{{仮リンク|グレットン男爵|en|Baron Gretton}}''' (1944年) グレットン家 #'''{{仮リンク|ウェストウッド男爵|en|Baron Westwood}}''' (1944) ウェストウッド家 #'''{{仮リンク|ヘーズルリッグ男爵|en|Baron Hazlerigg}}''' (1945年) ヘーズルリッグ家 #'''{{仮リンク|ハッキング男爵|en|Baron Hacking}}''' (1945年) ハッキング家 #'''{{仮リンク|チェットウッド男爵|en|Baron Chetwode}}''' (1945年) チェットウッド家 #'''{{仮リンク|サンドフォード男爵|en|Baron Sandford}}''' (1945年) エドモンドソン家 #'''[[オルトリナム男爵]]''' (1945年) グリッグ家 #'''{{仮リンク|ブロードブリッジ男爵|en|Baron Broadbridge}}''' (1945年) ブロードブリッジ家 #'''[[マウントエヴァンズ男爵]]''' (1945年) エヴァンズ家 #'''{{仮リンク|バイカー男爵|en|Baron Lindsay of Birker}}''' (1945年) リンゼイ家 #'''{{仮リンク|ピアシー男爵|en|Baron Piercy}}''' (1945年) ピアシー家 #'''{{仮リンク|チョーリー男爵|en|Baron Chorley}}''' (1945年) チョーリー家 #'''{{仮リンク|カルバーリー男爵|en|Baron Calverley}}''' (1945年) マフ家 #'''{{仮リンク|テダー男爵|en|Baron Tedder}}''' (1946年) テダー家 #'''[[コルグレイン男爵]]''' (1946年) キャンベル家 #'''{{仮リンク|ダーウェン男爵|en|Baron Darwen}}''' (1946年) デイヴィーズ家 #'''[[チルワースのルーカス男爵]]''' (1946年) ルーカス家 #'''[[シェパード男爵]]''' (1946年) シェパード家 #'''{{仮リンク|ニューオール男爵|en|Baron Newall}}''' (1946年) ニューオール家 #'''{{仮リンク|ラグビー男爵|en|Baron Rugby}}''' (1947年) マッフィー家 #'''{{仮リンク|レイトン男爵|en|Baron Layton}}''' (1947年) レイトン家 #'''{{仮リンク|ウィゼンショウウのサイモン男爵|en|Baron Simon of Wythenshawe}}''' (1947年) サイモン家 #'''{{仮リンク|カーショウ男爵|en|Baron Kershaw}}''' (1947年) カーショウ家 #'''[[トレフガン男爵]]''' (1947年) トレフガン家 #'''{{仮リンク|クローク男爵|en|Baron Crook}}''' (1947年) クローク家 #'''{{仮リンク|アムウェル男爵|en|Baron Amwell}}''' (1947年) モンタギュー家 #'''{{仮リンク|ミルヴァートン男爵|en|Baron Milverton}}''' (1947年) リチャーズ家 #'''[[クライズミュア男爵]]''' (1948年) コルヴィル家 #'''{{仮リンク|バーデン男爵|en|Baron Burden}}''' (1950年) バーデン家 #'''[[ヘイデン=ゲスト男爵]]''' (1950年) ヘイデン=ゲスト家 #'''[[シルキン男爵]]''' シルキン家(爵位一代放棄中) #'''{{仮リンク|ハイブス男爵|en|Baron Hives}}''' (1950年) ハイブス家 #'''{{仮リンク|オグモア男爵|en|Baron Ogmore}}''' (1950年) リーズ=ウィリアムズ家 #'''{{仮リンク|ケンウッドのモリス男爵|en|Baron Morris of Kenwood}}''' (1950年) モリス家 #'''{{仮リンク|ドルモッチャーのマクファーソン男爵|en|Baron Macpherson of Drumochter}}''' (1951年) マクファーソン家 #'''{{仮リンク|ケンズウッド男爵|en|Baron Kenswood}}''' (1951年) ホイットフィールド家 #'''[[フレイバーグ男爵]]''' (1951年) フレイバーグ家 #'''{{仮リンク|リーズのミルナー男爵|en|Baron Milner of Leeds}}''' (1951年) ミルナー家 #'''{{仮リンク|カークウッド男爵|en|Baron Kirkwood}}''' (1951年) カークウッド家 #'''{{仮リンク|ワイズ男爵|en|Baron Wise}}''' (1951年) ワイズ家 #'''{{仮リンク|ジェフリーズ男爵|en|Baron Jeffreys}}''' (1952年) ジェフリーズ家 #'''{{仮リンク|ラスカヴァン男爵|en|Baron Rathcavan}}''' (1953年) オニール家 #'''{{仮リンク|ベイルー男爵|en|Baron Baillieu}}''' (1953年) ベイルー家 #'''[[グランチェスター男爵]]''' (1953年) スエンソン=テイラー家 #'''{{仮リンク|コールレーン男爵|en|Baron Coleraine}}''' (1954年) ロウ家 #'''{{仮リンク|タズバーグのハーヴィー男爵|en|Baron Harvey}}''' (1954年) ハーヴィー家 #'''{{仮リンク|グライドリー男爵|en|Baron Gridley}}''' (1955年) グライドリー家 #'''{{仮リンク|ストラサモンド男爵|en|Baron Strathalmond}}''' (1955年) フレイザー家 #'''[[ストラスクライド男爵]]''' (1955年) ガルブレイス家 #'''{{仮リンク|クリザーロー男爵|en|Baron Clitheroe}}''' (1955年) アシュトン家 #'''{{仮リンク|マクネイア男爵|en|Baron McNair}}''' (1955年) マクネイア家 #'''{{仮リンク|コリトン男爵|en|Baron Colyton}}''' (1956年) ホプキンソン家 #'''[[ヒーヴァーのアスター男爵]]''' (1956年) [[アスター家]] #'''{{仮リンク|クリーヴのシンクレアー男爵|en|Baron Sinclair of Cleeve}}''' (1957) シンクレアー家 #'''[[ブリッジズ男爵]]''' (1957年) ブリッジズ家 #'''{{仮リンク|ノリー男爵|en|Baron Norrie}}''' (1957年) ノリー家 #'''[[バーケット男爵]]''' (1958年) バーケット家 #'''{{仮リンク|ペザートンのハーディング男爵|en|Baron Harding of Petherton}}''' (1958年) ハーディング家 #'''{{仮リンク|プール男爵|en|Baron Poole}}''' (1958年) プール家 #'''{{仮リンク|ルーツ男爵|en|Baron Rootes}}''' (1959年) ルーツ家 #'''{{仮リンク|ネザーホープ男爵|en|Baron Netherthorpe}}''' (1959年) ターナー家 #'''[[クラットホーン男爵]]''' (1959年) ダグデール家 #'''{{仮リンク|スペンズ男爵|en|Baron Spens}}''' (1959年) {{仮リンク|スペンズ氏族|label=スペンズ家|en|Clan Spens}} #'''{{仮リンク|マックアンドリュー男爵|en|Baron MacAndrew}}''' (1959年) マックアンドリュー家 #'''{{仮リンク|ストラフォードのネルソン男爵|en|Baron Nelson of Stafford}}''' (1960年) ネルソン家 #'''[[グレンデールのホウィック男爵]]''' (1960年) [[ベアリング家]] #'''[[アヨットのサンダーソン男爵]]''' (1960年) サンダーソン家 (爵位一代放棄中) #'''[[コボールド男爵]]''' (1960年) リットン=コボルド家 #'''{{仮リンク|オークリッジのロバートソン男爵|en|Baron Robertson of Oakridge}}''' (1961年) ロバートソン家 #'''[[ブロートンのマークス男爵]]''' (1961年) マークス家 #'''{{仮リンク|フェアヘイヴン男爵|en|Baron Fairhaven}}''' (1961年) ブロートン家 #'''{{仮リンク|セント・メロンズのレイトン男爵|en|Baron Leighton of St Mellons}}''' (1962年) シーガー家 #'''{{仮リンク|ブレイン男爵|en|Baron Brain}}''' (1962年) ブレイン家 #'''{{仮リンク|オルディントン男爵|en|Baron Aldington}}''' (1962年) ロウ家 #'''{{仮リンク|インチャイラ男爵|en|Baron Inchyra}}''' (1962年) ミラー家 #'''{{仮リンク|シルソー男爵|en|Baron Silsoe}}''' (1963年) エヴァ家 #'''[[フリートのトムソン男爵]]''' (1964年) トムソン家 #'''{{仮リンク|マートンミア男爵|en|Baron Martonmere}}''' (1964年) ロビンソン家 #'''{{仮リンク|シェフィールド男爵|en|Baron Sherfield}}''' (1964年) マーキンズ家 #'''[[イングルウッド男爵]]''' (1964年) フレッチャー=ヴェーン家 #'''{{仮リンク|グレンデヴォン男爵|en|Baron Glendevon}}''' (1964年) ホープ家 #'''[[ウェストバリーのグリムストン男爵]]''' (1964年) グリムストン家 #'''{{仮リンク|レンウィック男爵|en|Baron Renwick}}''' (1964年) レンウィック家 #'''{{仮リンク|セント・ヘレンズ男爵|en|Baron St Helens}}''' (1964年) ヒューズ=ヤング家 #'''{{仮リンク|マーガデール男爵|en|Baron Margadale}}''' (1965年) {{仮リンク|モリソン氏族|label=モリソン家|en|Clan Morrison}} {{Div col end}} === カナダにおけるフランス貴族 === # '''[[ロンゲール男爵]]'''(1700年)グラント家 === 子爵以上の貴族が持つ世襲男爵位 === {{未完成の一覧}}<br> '''[[ヴィアー男爵]]'''<small>([[セント・オールバンズ公]])</small>、'''[[キャリクファーガス男爵]]'''<small>([[ケンブリッジ公]])</small>、'''[[グリニッジ男爵]]'''<small>([[エディンバラ公]])</small>、'''[[サドバリー男爵]]'''<small>(グラフトン公)</small>、'''[[アッシュのシーモア男爵]]'''<small>([[サマセット公]])</small>、'''[[ウォームレイトンのスペンサー男爵]]'''<small>([[マールバラ公]])</small>、'''[[チェルムスフォード男爵]]'''<small>([[チェルムスフォード子爵]])</small>、'''[[サンドリッジのチャーチル男爵]]'''<small>(マールバラ公)</small>、'''[[ギルスランドのデイカー男爵]]'''<small>([[カーライル伯]])</small>、'''[[トーボルトン卿]]'''<small>([[リッチモンド公]])</small>、'''{{仮リンク|ブラボーン男爵|en|Baron Brabourne}}'''<small>([[ビルマのマウントバッテン伯爵]])</small>、'''{{仮リンク|バーモント男爵|en|Baron Beaumont}}'''<small>([[ノーフォーク公]])</small>、'''[[バーリー男爵]]'''<small>([[エクセター侯]])</small>、'''[[グロソップのハワード男爵]]'''<small>(ノーフォーク公)</small>、'''[[フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵]]'''<small>(ノーフォーク公)</small>、'''[[ヘッディントン男爵]]'''<small>(セント・オールバンズ公)</small>、'''[[ホウランド男爵]]'''<small>(ベッドフォード公)</small>、'''[[マルトレイヴァース男爵]]'''<small>(ノーフォーク公)</small>、'''{{仮リンク|フリーランドのラスヴェン卿|en|Lord Ruthven of Freeland}}'''<small>(カーライル伯)</small>、'''[[ラッセル男爵]]'''<small>(ベッドフォード公)</small>、'''[[ビーヴァーのルース男爵]]'''<small>([[ラトランド公]])</small> === かつて存在した世襲男爵位 === {{未完成の一覧}}<br> <!--廃絶・休止・保持者不在などになってる爵位。五十音順--> '''{{仮リンク|アゼンリー男爵|en|Baron Athenry}}'''、'''[[ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)|アームストロング男爵]]'''、'''[[ジョージ・アンソン (初代アンソン男爵)|アンソン男爵]]'''、'''[[ヘイスティングス・イスメイ|イスメイ男爵]]'''、'''{{仮リンク|エイドリアン男爵|en|Baron Adrian}}'''、'''[[ガードナー男爵]]'''、'''[[カーリングフォード男爵]]'''、'''[[グイディル男爵]]'''、'''[[グラッドウィン男爵]]'''、'''{{仮リンク|クレアモント男爵|en|Baron Clermont}}'''、'''[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ男爵]]'''、'''[[ウィリアム・トムソン|ケルヴィン男爵]]'''、'''[[トマス・シーモア|スードリーのシーモア男爵]]'''、'''{{仮リンク|ブラックミーアのストレンジ男爵|en|Baron Strange of Blackmere}}'''、'''[[モンタギュー・ノーマン|ノーマン男爵]]'''、'''[[アンジェラ・バーデット=クーツ|バーデット=クーツ男爵]]'''、'''{{仮リンク|ファーニヴァル男爵|en|Baron Furnivall}}'''、'''{{仮リンク|ブレイニー男爵|en|Baron Blayney}}'''、'''{{仮リンク|ボルティモア男爵|en|Baron Baltimore}}'''、'''[[トーマス・マコーリー|マコーリー男爵]]'''、'''{{仮リンク|メルチェット男爵|en|Baron Melchett}}'''、'''{{仮リンク|ライエル男爵|en|Baron Lyell}}'''、'''[[ジョゼフ・リスター|リスター男爵]]'''、'''[[フレデリック・レイトン|レイトン男爵]]'''、'''{{仮リンク|ローリー男爵|en|Baron Rolle}}'''、{{仮リンク|グリーンヒル男爵|en|Baron_Greenhill|label='''グリーンヒル男爵'''}} == スペインの男爵 == [[File:Heraldic Crown of Spanish Barons.svg|250px|thumb|スペインの男爵の紋章上の冠]] 王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、[[スペイン貴族]]の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、男爵は第5位である{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}<ref name="chivalricorders">[https://web.archive.org/web/20080515235058/http://www.chivalricorders.org/nobility/spanoble.htm Noble Titles in Spain and Spanish Grandees]</ref>。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}。男爵位には[[グランデ]]の格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる<ref name="chivalricorders"/>。 貴族称号は放棄が可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない<ref name="chivalricorders"/>。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる<ref name="chivalricorders"/>。爵位の継承には所定の料金がかかる<ref name="chivalricorders"/>。 歴史的にはスペインの前身である[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン連合王国]]、[[ナバーラ王国]]にそれぞれ爵位貴族制度があり{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=315}}、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、[[フェリペ3世]]時代以降に爵位貴族が急増した{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。 [[1931年]]の革命で王位が廃されて[[スペイン第二共和政|第二共和政]]になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが<ref>https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf</ref>、[[1948年]]に総統[[フランシスコ・フランコ]]が貴族制度を復活させ<ref name="chivalricorders"/><ref>https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512</ref>、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった<ref name="chivalricorders"/>。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。 === 現存する男爵位 === {{main|{{仮リンク|スペイン男爵の一覧|es|Anexo:Baronías de España}}}} スペイン貴族には現在169個の男爵位が存在し、うち2個が[[グランデ]]の格式を有する。 == その他の国の男爵 == ヨーロッパのその他の国はロシアを含めて、ほとんどがバロン系統の称号を男爵の爵位に用いているが、ドイツのみ男爵に相当する爵位はフライヘア (Freiherr)という。 == 男爵にちなんだ命名 == ; [[男爵いも]] : [[ジャガイモ]]の品種の一つ。[[高知県]]出身の男爵・[[川田龍吉]]が[[北海道]][[上磯町]](現・[[北斗市]])でアイリッシュ・コブラーという品種の芋を試験栽培し、普及させたことに由来する。 ; [[バロネス・オルツィ]] : ハンガリー出身でイギリスで活躍した女性作家の筆名。父親がハンガリーの男爵だったことに由来する。 ; [[空気男爵]] : 漫画家[[さいとう・たかを]]のデビュー作。 ; [[髭男爵]] : [[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]所属の漫才コンビ。 ; エロ男爵 : 俳優[[沢村一樹]]の別名。本人は爵位が上位の"エロ公爵"か"エロ伯爵"を希望している。 ; [[URBANO BARONE]](SOY03) : [[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]製[[Au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]])向け携帯電話のひとつ。"都会的な男爵"という意味合いがこめられている。 ; 暖爵 : [[パナソニックホールディングス|松下電器産業]]製のFF/FE式石油フラットラジアントヒーター。凍えた男爵がその場に倒れるCMが放映されたが、後に[[パナソニックホールディングス#ナショナルFF式石油暖房機の欠陥による死亡事故|大規模リコール]]の対象となったことで「男爵が倒れた原因は実は[[一酸化炭素中毒]]だった」との噂が流れた。 ; 床暖爵 : [[東北電力]]グループの北日本電線の[[床暖房]]システム。松下電器の暖爵とは無関係。 ; バロン(フンベルト・フォン・ジッキンゲン、Humbert von Gikkingen) : 『[[猫の恩返し]]』の登場キャラクター。「男爵」という設定で、身の丈30センチほどの、二足歩行で歩く猫の獣人。 ; ぼったくり男爵 : [[国際オリンピック委員会]]会長[[トーマス・バッハ]]を批判する呼び名<ref name="times">{{cite news|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000215349.html|title= バッハ会長は「ぼったくり男爵」米紙がIOC批判|publisher=[[テレビ朝日]] |date=2021年5月7日|accessdate=2021年7月24日}}</ref>。 ; '''上田バロン'''  : 日本のイラストレーター。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|refs=<ref group="注釈" name="注釈1">後に子爵に陞爵。</ref><ref group="注釈" name="注釈2">明治27年に爵位返上</ref>}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X * 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059 *{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=田中亮三|authorlink=田中亮三|date=2009|title=図説 英国貴族の暮らし|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761268|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=近藤申一|authorlink=近藤申一|date=1970|title=イギリス議会政治史 上 |publisher=[[敬文堂]]|isbn=978-4767001715|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=中村英勝|authorlink=中村英勝|date=1959年(昭和34年)|title=イギリス議会史|publisher=[[有斐閣]]|asin=B000JASYVI|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author1=松村赳|authorlink1=松村赳|author2=富田虎男|authorlink2=富田虎男|date=2000年(平成12年)|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|title=「五等爵制」再考|author=[[石黒ひさ子]] |url=https://hdl.handle.net/10291/1569|date=2006-12-25| journal=駿台史學|volume=129|pages=1-20|naid=120001439019|ISSN=05625955|publisher=明治大学史学地理学会|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=袴田郁一 |title=両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として |journal=論叢アジアの文化と思想 |issn=1340-3370 |publisher=アジアの文化と思想の会 |year=2014 |month=dec |issue=23 |pages=79-134 |naid=120005819881 |url=https://hdl.handle.net/2065/49020 |ref=harv}} * {{Cite journal|title=唐代封爵制拾遺|author=今堀誠二 |authorlink=今堀誠二|url=https://doi.org/10.20624/sehs.12.4_419 |doi=10.20624/sehs.12.4_419 |naid=110001212961|date= 1942| journal=社会経済史学|publisher=社会経済史学会 |volume=12 |issue=4 |pages=419-451|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=坂東省次|authorlink=坂東省次|year=2013|title=現代スペインを知るための60章|series=エリアスタディーズ116|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750337838 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=小川賢治|authorlink=小川賢治|date=2009年(平成21年)|title=勲章の社会学|publisher=[[晃洋書房]]|id=ISBN 978-4771020399|ref=harv}} *{{Cite book|和書|date=2015年(平成27年)|title=〈華族爵位〉請願人名辞典 |author=松田敬之|authorlink=松田敬之|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn= 978-4642014724|ref=harv}} == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[貴族院 (日本)#伯爵議員・子爵議員・男爵議員|貴族院 (日本)]] * [[貴族]] * [[爵位]] * [[大公]] * [[公爵]] * [[侯爵]] * [[伯爵]] * [[理容]] * [[子爵]] }} {{日本の旧華族}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たんしやく}} [[Category:男爵|*]] [[Category:中国の爵位]] [[Category:日本の爵位]] [[Category:理容]] [[Category:イギリスの爵位|*たんしやく]] [[Category:フランスの爵位|*たんしやく]] [[Category:ドイツの爵位|*たんしやく]] [[Category:スペインの爵位|*たんしやく]]
2003-09-08T20:24:16Z
2023-10-09T10:35:22Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Lang-en-short", "Template:Div col", "Template:Columns-list", "Template:未完成の一覧", "Template:Cite book", "Template:日本の旧華族", "Template:Sfn", "Template:Ruby", "Template:Div col end", "Template:仮リンク", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:Otheruses", "Template:Small", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E7%88%B5
15,845
爵位
爵位(しゃくい、仏語:titre de noblesse、英語: Royal and noble ranks、Title、伊語:titoli nobiliari)とは、主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。 爵位とは貴族の称号を序列化したものであり、国家が賦与する特権や栄典の制度である。 中国およびその影響圏における爵位は古くは中国の周にさかのぼり諸侯の封号として爵位が授けられ、その慣行は清代まで続いた。また近代の日本の華族でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語としてヨーロッパ・ロシアの貴族についても用いられた。五爵(ごしゃく)あるいは五等爵(ごとうしゃく)、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、タイの爵位制度に関してはラーチャウォンを参照。有爵者への敬称は「閣下」または「卿」。天から授かった徳を天爵というのに対して、爵位や位階官禄のことを人爵という。 君主の称号を爵位とみなすかどうかについては、その国の伝統や文化、さらに爵位に対する考え方の違いによって、差異がある。日本の天皇の場合、天皇は爵位を与える(または認定する)主体であり、爵位を受ける側ではない。隋の九等爵の場合、その筆頭は「国王」(君主としての「国王」とは異なる)であるがそれを与える者は隋の皇帝であり、皇帝は爵位を受ける側ではない。一方、「王爵」「帝爵」という言葉が使われることもあり、「王」や「皇帝」といった君主の称号即ち君主号も広義では爵位の一種とみなすこともある。中国の場合、皇帝が朝貢国の君主に「国王」を認定することがあり、その場合には「国王」もまた皇帝の下にある爵位のひとつとみなされる。ヨーロッパの国においては歴史的な成立事情から公国、大公国、侯国といった名称を名乗るものがあり、そこでは有爵者を君主や国家元首とされている。このように、爵位が君主号の役割を果たしている場合もある。 今日、君主制ではない、いわゆる共和国ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引くフランスや現在も君主国である日本などでも貴族制度、華族制度が廃止となるなど公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制あるいは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には寄付により爵位を贈呈する国や自称国家もある。 日本における序列は概ね以下のとおりである(英語名は青色が男性、赤色が女性)。 但し、あくまで日本語と、それに対応する英訳の一例であり、このような序列が国際的に共有されているわけではない。また法王はその宗教的性格、および複数の王国の長という意味がないことなどから別格とされる。princeは王子と訳されることが多いが女王の夫(王配)をprince、姉妹をprincessと呼ぶなど、親王が完全に対応するわけではないが近い訳である。また、王のうち君主を意味する国王ではない爵位としての王はKingではなくPrinceと訳される。 日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは明治時代以降のことである。しかし古くは氏姓制度の中で大臣や大連、臣、連など豪族の氏に対して与えられる称号であるカバネが日本独自の爵位制度として存在していた。しかし飛鳥時代に入ると中国王朝への朝貢と服属によらず対等な国づくりを目指した聖徳太子により十七条憲法と行政機構の整備が進められ国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として冠位十二階が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。まさにこの冠位こそ中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たした。ただし、中国の爵位制度や古代日本の八色の姓が冠位十二階と異なるのは前者が有力氏族の血筋を階級化する人爵であったのに対し後者の冠位は孟子の唱えた天爵、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ五行思想に基づくものであった。冠位十二階は、冠位への登用は氏族の出自によらず人物の器識徳量に応じて登用するという今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが701年(大宝元年)の大宝令、718年(養老2年)の養老令で冠位制度に代わり位階や勲位がしかれていく中で出自により細分化されていたカバネも次第にほぼ朝臣の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性格は次第に失われていった。 制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では皇親たる親王の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付けられ、従五位下を別称して松爵、栄爵といわれるようになり従五位下に叙せられることを叙爵と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが蔭位の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者の推薦枠が保障される氏爵が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する年爵や一門を順送りに叙位任官させる巡爵といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な院宮王臣家に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも嫡流庶流の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり鎌倉時代以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。 平安時代から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に清華家、大臣家、羽林家、名家、半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち特に認められた者を門葉と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老は井伊氏、酒井氏、堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代や若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。 一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方や篠川御所、稲村御所など公方号や御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに安土桃山時代に豊臣秀吉から豊臣氏や羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。 一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。1868年(明治2年)の王政復古で新政府が発足した後、1869年(明治2年)の版籍奉還により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は知藩事として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、1871年(明治4年)の廃藩置県により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、1869年7月25日(明治2年6月17日)、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。 1877年(明治10年)には、民事裁判上勅奏任官華族喚問方(司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない(華族家人職員に出廷を代理させることができる)ことが定められた。 1884年(明治17年)7月7日、明治天皇の華族授爵ノ詔勅、また宮内卿伊藤博文の華族令(宮内省達無号)が公布され五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。 華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現われるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である。この法律により華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)。 明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった。 衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬は立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している。 日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝・皇太子・前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した。また1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった。 1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した。1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)。1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。 1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)。1947年(昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる。 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による)。 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月9日 官報に記載された順による)。 叙爵の基準について華族叙爵内規では「公爵ハ親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」、侯爵は「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」、伯爵は「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」、子爵は「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」、男爵は「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められていた。ただし内規と実際の運用が異なっていたケースとして、内規では皇族が臣籍降下して華族になると公爵に列せられるはずだが、実際には臣籍降下で公爵に叙せられた者はなく、侯爵か伯爵だったことなどがある。 旧公家や旧武家の叙爵については、特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や室町幕府由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。また爵位の授与対象として検討されながらその恩典に与らなかった士族については族称のみ相続が許され、反対に士族授産や廃刀令により逆に身分的特権が剥奪されていくことになり国内各地で士族反乱が発生することとなった。 華族の財産状況については家ごとに様々であるが、一般に旧大名華族は裕福で旧公家華族は貧しい傾向があった。旧大名華族は数多くの不動産を所有し、使用人の数も多く、豪勢な生活を送っている者が多かった。しかし彼らの日本国内における所得面の比重も時代を経るごとに徐々に減っていき、相対的な地位としては低下していった。1887年(明治20年)当時には全国所得番付上位30人のうち大名華族が15人を占めていたが、1933年(昭和8年)の同番付ではわずか3人に減っていることからもそれがうかがえる。これに対して公家華族は家計が逼迫している者が多く、明治45年皇室令第三号旧堂上華族保護令により旧公家華族には一定の配分が行われるようになった。昭和期には朝鮮貴族に貧窮状態に陥っている者が多かった。 華族は世間から「皇室の藩屏」として尊ばれはしたが、その特権はささやかな物であり、貴族院議員になりえること、差し押さえができない世襲財産を設定できること、爵位に相当する礼遇を受けることができること、家範(家憲)に法定効力をもたせることができることなどに限られる。プロイセン貴族などにみられるような軍役免除、免税特権、地域支配的諸権利といった平民に比べて圧倒的に有利になる特権は日本の華族には存在しなかった。日本の華族とイギリスの世襲貴族との共通点としては爵位家の戸主にのみ与えられたこと、貴族院議員になることができるが、衆議院議員(庶民院議員)になることができないことなどがあった。ただしイギリスでは1999年貴族院法以前は全世襲貴族が自動的に貴族院議員に列していたので爵位の等級による選出方法の違いはなかった。また1999年貴族院法制定により世襲貴族の議席数が制限された後のイギリスでは貴族院議員にならなければ庶民院議員になることが可能となっている。 21世紀現在の日本において「爵位」は、様々な物語の設定として欠かせないものとなっている。 大半が「西洋の爵位」に基づき身分や階級、特権階級と庶民の対比など現代日本には存在しない(とされる)社会制度をバックボーンとして用いている。とりわけライトノベルにカテゴライズされる物語分野では、ファンタジーと並ぶ定番要素となっている。 琉球国には身分序列に応じて王子(おーじ)・按司(あじ・あんじ)・親方(うぇーかた)・親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)・里之子(さとぅぬし)・筑登之(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。女性については王妃を佐敷按司加那志(さしきあじがなし)、側室を阿護母志良礼(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を阿母志良礼(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は翁主(おうしゅ)と呼んだ。琉球国の称号および位階については、詳しくは琉球の位階を参照されたい。 中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる。『孟子』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し天爵と呼び、社会的地位である通常の爵位を人爵と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり周代には再び五等となったとされる。また『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて公と自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう公は爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて子の爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内では公または王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「禄位」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは公・卿・大夫・士であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)分かれたりした。 しかし甲骨文、金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている。 実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、いわゆる爵位に該当または類似したものとして、 の存在が知られている。 秦では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。 前漢には秦の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された。 二十等爵とは第二十級の徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級の関内侯、第十八級の大庶長、第十七級の駟車庶長、第十六級の大上造と続き以下少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級の公乗以下、公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士までを民爵といい民に与えられた。これらの上に諸侯王、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である。 漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級の軍衛を筆頭に第十級の政戻庶長、第九級の執戎、第八級の楽卿と続き以下千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、閒輿衛、造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。 後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに県侯、郷侯、亭侯などに細分された。 曹魏に至ると秦漢以来の二十等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年(黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝の232年(太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。 晋の武帝の275年(咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった。 南朝の梁では、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。陳では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。 北魏の道武帝の396年(皇始元年)に五等爵が定められたが、404年(天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年(景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。 北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。 北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。 隋の文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。 中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり唐・宋代に完成した。その後金・元を経て、徐々に簡素化し明代には殷や周のころのように五等や三等であった。清代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。 明代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。 一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。 清代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のものとに分かれていた。宗室のものは和碩親王(hošoi cin wang、ホショイしんのう)・多羅郡王(doroi giyūn wang、ドロイぐんおう)・多羅貝勒(doroi beile、ドロイベイレ)・固山貝子(gūsai beise、グサイベイセ)・奉恩鎮国公(kesi be tuwakiyara gurun be dalire gung、ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(kesi be tuwakiyara gurun de aisilara gung、ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung、ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be aisilara gung、ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍(gurun be dalire janggin)・輔国将軍(gurun be aisilara janggin)・奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin)・奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin)があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。 ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等 - 四等台吉(taiji、タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。 下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。 女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。 唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻には妃が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。 宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人)・安人・孺人に分けるようになった。 明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。 なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。 朝鮮では主に王族、外戚、功臣に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の嫡出子は大君、庶子は君。王婿には尉の爵号が授けられた。また国王の実父は大院君の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には府院君、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。 タイでは国王、王族、外戚を対象とした複雑な階級とそれに伴う称号があり、それをラーチャウォンと呼ぶ。 カンボジアでは国家の経済発展に貢献した経済人に対し、勛爵の爵位を授けている。この爵位獲得には、最低でも10万米ドルの寄付を要件としている。 マレーシアでは、各州のスルターン一族、および州ないしは国家の発展に貢献した人物(外国人も対象となる)に対し、勲章に伴う称号を授けるダルジャー・クブサラン(Darjah Kebesaran)という制度がある。称号を授けるのは、アゴンおよび各州のスルターンである。そのため、各州と連邦政府からそれぞれ称号を授与された結果、一人で複数の称号を持つに至る人物もいる。 スルターン一族に対する称号を除き、称号は一代限りで世襲されない。ただしムスリムの場合は、父親の名前の前(自分の名前の後)に父親に授けられた称号をつけることができる。また、夫が称号を授与された場合、その妻は夫と同じ称号を名乗ることはできないもの、その称号を保持する者の妻であることを示す称号が別途あるため、それを名乗ることができる。 ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する官職が、中世に地方分権の過程で世襲化されたものである。その中にはローマ帝国の官職に由来する場合(公爵、伯爵など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合(辺境伯、男爵など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまったことによって成立したものが多い(フランク王国の設置したバルセロナ伯を独断で世襲化したギフレー1世(スペイン語版)(多毛伯)などが典型例であろう)。 和訳に際しては中国や日本の爵位に相当する名称を当てているが、厳密には、ヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち、ヨーロッパの爵位に対し、東洋の爵位の上下の序列を踏襲したおおよその訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げたものに過ぎず、同じ国の爵位であっても時代と共に変化してもいるので、ある国のある爵位が別の国のどの爵位と同じかということは一概には言えない(プリンス、公、侯も参照のこと)ので注意を要する。 元来、欧州においては、「爵位」という名誉は家系に対してのみ与えられているのではなく、爵位(官職)が担当する地域の領主権(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に紐づいたものだった。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を支配する特権を王や皇帝の封建的臣下として承認された人物こそが爵位を名乗ることになる。もっとも封建制が廃された近現代以降はこのような封建領主としての特権は名目的なものに過ぎなくなっている。例えばビルマのマウントバッテン伯爵がビルマの封建領主としての権利を行使したことはない。名目上ある地域の支配権と紐づいている称号という意味では伝統的な欧州の爵位に近いのは日本の国司と言える。また近現代以降に貴族に封じられたケースであれば従前の家名を爵位名とすることも多い。 こうした点は家柄に与えられる格付に過ぎず、名目上も領主権と切り離されている日本の華族制度における爵位とは異なる。例えば華族制度ではある一つの家がもつ爵位が上下することがあっても、複数の爵位を保持することはありえない。しかしヨーロッパでは所領が複数あり、それらに爵位が付随していれば、一つの家が複数の爵位を持つことがありえ、別段珍しいことではない。また、こうした複数の爵位を保持する家の場合、最も重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることもできる。このような違いは欧州の貴族は封建諸侯が近代以降その封建的特権を喪失しつつも従前の名誉称号を保ったものであるのに対して、日本の華族制度が封建的特権を失った諸侯に対する救済、慰撫措置として創設されたという歴史的沿革の相違に原因を求めることができる。 なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった古代ローマや西欧とは異なる歴史を歩んだ東ローマ帝国などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた(Royal and noble ranksを参照)。 フランスの爵位は13世紀、国王フィリップ3世が貴族身分を制定したのが始まりで18世紀に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。フランス革命で爵位制度は一度廃絶されたが1814年の王政復古により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる名誉称号と化した。第三共和政以後は私的に用いる以外その効果を失った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "爵位(しゃくい、仏語:titre de noblesse、英語: Royal and noble ranks、Title、伊語:titoli nobiliari)とは、主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "爵位とは貴族の称号を序列化したものであり、国家が賦与する特権や栄典の制度である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中国およびその影響圏における爵位は古くは中国の周にさかのぼり諸侯の封号として爵位が授けられ、その慣行は清代まで続いた。また近代の日本の華族でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語としてヨーロッパ・ロシアの貴族についても用いられた。五爵(ごしゃく)あるいは五等爵(ごとうしゃく)、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、タイの爵位制度に関してはラーチャウォンを参照。有爵者への敬称は「閣下」または「卿」。天から授かった徳を天爵というのに対して、爵位や位階官禄のことを人爵という。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "君主の称号を爵位とみなすかどうかについては、その国の伝統や文化、さらに爵位に対する考え方の違いによって、差異がある。日本の天皇の場合、天皇は爵位を与える(または認定する)主体であり、爵位を受ける側ではない。隋の九等爵の場合、その筆頭は「国王」(君主としての「国王」とは異なる)であるがそれを与える者は隋の皇帝であり、皇帝は爵位を受ける側ではない。一方、「王爵」「帝爵」という言葉が使われることもあり、「王」や「皇帝」といった君主の称号即ち君主号も広義では爵位の一種とみなすこともある。中国の場合、皇帝が朝貢国の君主に「国王」を認定することがあり、その場合には「国王」もまた皇帝の下にある爵位のひとつとみなされる。ヨーロッパの国においては歴史的な成立事情から公国、大公国、侯国といった名称を名乗るものがあり、そこでは有爵者を君主や国家元首とされている。このように、爵位が君主号の役割を果たしている場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "今日、君主制ではない、いわゆる共和国ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引くフランスや現在も君主国である日本などでも貴族制度、華族制度が廃止となるなど公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制あるいは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には寄付により爵位を贈呈する国や自称国家もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本における序列は概ね以下のとおりである(英語名は青色が男性、赤色が女性)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "但し、あくまで日本語と、それに対応する英訳の一例であり、このような序列が国際的に共有されているわけではない。また法王はその宗教的性格、および複数の王国の長という意味がないことなどから別格とされる。princeは王子と訳されることが多いが女王の夫(王配)をprince、姉妹をprincessと呼ぶなど、親王が完全に対応するわけではないが近い訳である。また、王のうち君主を意味する国王ではない爵位としての王はKingではなくPrinceと訳される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは明治時代以降のことである。しかし古くは氏姓制度の中で大臣や大連、臣、連など豪族の氏に対して与えられる称号であるカバネが日本独自の爵位制度として存在していた。しかし飛鳥時代に入ると中国王朝への朝貢と服属によらず対等な国づくりを目指した聖徳太子により十七条憲法と行政機構の整備が進められ国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として冠位十二階が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。まさにこの冠位こそ中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たした。ただし、中国の爵位制度や古代日本の八色の姓が冠位十二階と異なるのは前者が有力氏族の血筋を階級化する人爵であったのに対し後者の冠位は孟子の唱えた天爵、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ五行思想に基づくものであった。冠位十二階は、冠位への登用は氏族の出自によらず人物の器識徳量に応じて登用するという今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが701年(大宝元年)の大宝令、718年(養老2年)の養老令で冠位制度に代わり位階や勲位がしかれていく中で出自により細分化されていたカバネも次第にほぼ朝臣の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性格は次第に失われていった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では皇親たる親王の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付けられ、従五位下を別称して松爵、栄爵といわれるようになり従五位下に叙せられることを叙爵と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが蔭位の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者の推薦枠が保障される氏爵が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する年爵や一門を順送りに叙位任官させる巡爵といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な院宮王臣家に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも嫡流庶流の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり鎌倉時代以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "平安時代から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に清華家、大臣家、羽林家、名家、半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち特に認められた者を門葉と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老は井伊氏、酒井氏、堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代や若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方や篠川御所、稲村御所など公方号や御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに安土桃山時代に豊臣秀吉から豊臣氏や羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。1868年(明治2年)の王政復古で新政府が発足した後、1869年(明治2年)の版籍奉還により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は知藩事として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、1871年(明治4年)の廃藩置県により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、1869年7月25日(明治2年6月17日)、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1877年(明治10年)には、民事裁判上勅奏任官華族喚問方(司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない(華族家人職員に出廷を代理させることができる)ことが定められた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)7月7日、明治天皇の華族授爵ノ詔勅、また宮内卿伊藤博文の華族令(宮内省達無号)が公布され五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現われるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である。この法律により華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬は立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝・皇太子・前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した。また1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した。1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)。1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)。1947年(昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による)。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月9日 官報に記載された順による)。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "叙爵の基準について華族叙爵内規では「公爵ハ親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」、侯爵は「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」、伯爵は「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」、子爵は「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」、男爵は「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められていた。ただし内規と実際の運用が異なっていたケースとして、内規では皇族が臣籍降下して華族になると公爵に列せられるはずだが、実際には臣籍降下で公爵に叙せられた者はなく、侯爵か伯爵だったことなどがある。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "旧公家や旧武家の叙爵については、特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や室町幕府由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。また爵位の授与対象として検討されながらその恩典に与らなかった士族については族称のみ相続が許され、反対に士族授産や廃刀令により逆に身分的特権が剥奪されていくことになり国内各地で士族反乱が発生することとなった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "華族の財産状況については家ごとに様々であるが、一般に旧大名華族は裕福で旧公家華族は貧しい傾向があった。旧大名華族は数多くの不動産を所有し、使用人の数も多く、豪勢な生活を送っている者が多かった。しかし彼らの日本国内における所得面の比重も時代を経るごとに徐々に減っていき、相対的な地位としては低下していった。1887年(明治20年)当時には全国所得番付上位30人のうち大名華族が15人を占めていたが、1933年(昭和8年)の同番付ではわずか3人に減っていることからもそれがうかがえる。これに対して公家華族は家計が逼迫している者が多く、明治45年皇室令第三号旧堂上華族保護令により旧公家華族には一定の配分が行われるようになった。昭和期には朝鮮貴族に貧窮状態に陥っている者が多かった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "華族は世間から「皇室の藩屏」として尊ばれはしたが、その特権はささやかな物であり、貴族院議員になりえること、差し押さえができない世襲財産を設定できること、爵位に相当する礼遇を受けることができること、家範(家憲)に法定効力をもたせることができることなどに限られる。プロイセン貴族などにみられるような軍役免除、免税特権、地域支配的諸権利といった平民に比べて圧倒的に有利になる特権は日本の華族には存在しなかった。日本の華族とイギリスの世襲貴族との共通点としては爵位家の戸主にのみ与えられたこと、貴族院議員になることができるが、衆議院議員(庶民院議員)になることができないことなどがあった。ただしイギリスでは1999年貴族院法以前は全世襲貴族が自動的に貴族院議員に列していたので爵位の等級による選出方法の違いはなかった。また1999年貴族院法制定により世襲貴族の議席数が制限された後のイギリスでは貴族院議員にならなければ庶民院議員になることが可能となっている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "21世紀現在の日本において「爵位」は、様々な物語の設定として欠かせないものとなっている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "大半が「西洋の爵位」に基づき身分や階級、特権階級と庶民の対比など現代日本には存在しない(とされる)社会制度をバックボーンとして用いている。とりわけライトノベルにカテゴライズされる物語分野では、ファンタジーと並ぶ定番要素となっている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "琉球国には身分序列に応じて王子(おーじ)・按司(あじ・あんじ)・親方(うぇーかた)・親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)・里之子(さとぅぬし)・筑登之(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。女性については王妃を佐敷按司加那志(さしきあじがなし)、側室を阿護母志良礼(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を阿母志良礼(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は翁主(おうしゅ)と呼んだ。琉球国の称号および位階については、詳しくは琉球の位階を参照されたい。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる。『孟子』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し天爵と呼び、社会的地位である通常の爵位を人爵と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり周代には再び五等となったとされる。また『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて公と自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう公は爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて子の爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内では公または王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「禄位」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは公・卿・大夫・士であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)分かれたりした。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし甲骨文、金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、いわゆる爵位に該当または類似したものとして、", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "の存在が知られている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "秦では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "前漢には秦の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "二十等爵とは第二十級の徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級の関内侯、第十八級の大庶長、第十七級の駟車庶長、第十六級の大上造と続き以下少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級の公乗以下、公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士までを民爵といい民に与えられた。これらの上に諸侯王、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級の軍衛を筆頭に第十級の政戻庶長、第九級の執戎、第八級の楽卿と続き以下千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、閒輿衛、造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに県侯、郷侯、亭侯などに細分された。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "曹魏に至ると秦漢以来の二十等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年(黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝の232年(太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "晋の武帝の275年(咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "南朝の梁では、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。陳では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "北魏の道武帝の396年(皇始元年)に五等爵が定められたが、404年(天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年(景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "隋の文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり唐・宋代に完成した。その後金・元を経て、徐々に簡素化し明代には殷や周のころのように五等や三等であった。清代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "明代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "清代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のものとに分かれていた。宗室のものは和碩親王(hošoi cin wang、ホショイしんのう)・多羅郡王(doroi giyūn wang、ドロイぐんおう)・多羅貝勒(doroi beile、ドロイベイレ)・固山貝子(gūsai beise、グサイベイセ)・奉恩鎮国公(kesi be tuwakiyara gurun be dalire gung、ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(kesi be tuwakiyara gurun de aisilara gung、ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung、ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be aisilara gung、ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍(gurun be dalire janggin)・輔国将軍(gurun be aisilara janggin)・奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin)・奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin)があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等 - 四等台吉(taiji、タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻には妃が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人)・安人・孺人に分けるようになった。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "朝鮮では主に王族、外戚、功臣に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の嫡出子は大君、庶子は君。王婿には尉の爵号が授けられた。また国王の実父は大院君の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には府院君、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "タイでは国王、王族、外戚を対象とした複雑な階級とそれに伴う称号があり、それをラーチャウォンと呼ぶ。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "カンボジアでは国家の経済発展に貢献した経済人に対し、勛爵の爵位を授けている。この爵位獲得には、最低でも10万米ドルの寄付を要件としている。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "マレーシアでは、各州のスルターン一族、および州ないしは国家の発展に貢献した人物(外国人も対象となる)に対し、勲章に伴う称号を授けるダルジャー・クブサラン(Darjah Kebesaran)という制度がある。称号を授けるのは、アゴンおよび各州のスルターンである。そのため、各州と連邦政府からそれぞれ称号を授与された結果、一人で複数の称号を持つに至る人物もいる。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "スルターン一族に対する称号を除き、称号は一代限りで世襲されない。ただしムスリムの場合は、父親の名前の前(自分の名前の後)に父親に授けられた称号をつけることができる。また、夫が称号を授与された場合、その妻は夫と同じ称号を名乗ることはできないもの、その称号を保持する者の妻であることを示す称号が別途あるため、それを名乗ることができる。", "title": "東洋の爵位" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する官職が、中世に地方分権の過程で世襲化されたものである。その中にはローマ帝国の官職に由来する場合(公爵、伯爵など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合(辺境伯、男爵など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまったことによって成立したものが多い(フランク王国の設置したバルセロナ伯を独断で世襲化したギフレー1世(スペイン語版)(多毛伯)などが典型例であろう)。", "title": "西洋の爵位" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "和訳に際しては中国や日本の爵位に相当する名称を当てているが、厳密には、ヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち、ヨーロッパの爵位に対し、東洋の爵位の上下の序列を踏襲したおおよその訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げたものに過ぎず、同じ国の爵位であっても時代と共に変化してもいるので、ある国のある爵位が別の国のどの爵位と同じかということは一概には言えない(プリンス、公、侯も参照のこと)ので注意を要する。", "title": "西洋の爵位" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "元来、欧州においては、「爵位」という名誉は家系に対してのみ与えられているのではなく、爵位(官職)が担当する地域の領主権(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に紐づいたものだった。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を支配する特権を王や皇帝の封建的臣下として承認された人物こそが爵位を名乗ることになる。もっとも封建制が廃された近現代以降はこのような封建領主としての特権は名目的なものに過ぎなくなっている。例えばビルマのマウントバッテン伯爵がビルマの封建領主としての権利を行使したことはない。名目上ある地域の支配権と紐づいている称号という意味では伝統的な欧州の爵位に近いのは日本の国司と言える。また近現代以降に貴族に封じられたケースであれば従前の家名を爵位名とすることも多い。", "title": "西洋の爵位" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "こうした点は家柄に与えられる格付に過ぎず、名目上も領主権と切り離されている日本の華族制度における爵位とは異なる。例えば華族制度ではある一つの家がもつ爵位が上下することがあっても、複数の爵位を保持することはありえない。しかしヨーロッパでは所領が複数あり、それらに爵位が付随していれば、一つの家が複数の爵位を持つことがありえ、別段珍しいことではない。また、こうした複数の爵位を保持する家の場合、最も重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることもできる。このような違いは欧州の貴族は封建諸侯が近代以降その封建的特権を喪失しつつも従前の名誉称号を保ったものであるのに対して、日本の華族制度が封建的特権を失った諸侯に対する救済、慰撫措置として創設されたという歴史的沿革の相違に原因を求めることができる。", "title": "西洋の爵位" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった古代ローマや西欧とは異なる歴史を歩んだ東ローマ帝国などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた(Royal and noble ranksを参照)。", "title": "西洋の爵位" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "フランスの爵位は13世紀、国王フィリップ3世が貴族身分を制定したのが始まりで18世紀に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。フランス革命で爵位制度は一度廃絶されたが1814年の王政復古により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる名誉称号と化した。第三共和政以後は私的に用いる以外その効果を失った。", "title": "西洋の爵位" } ]
爵位とは、主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。
{{脚注の不足|date=2018年7月}} '''爵位'''(しゃくい、{{lang-fr-short|[[:fr:Titre de noblesse|titre de noblesse]]}}、{{Lang-en-short|Royal and noble ranks、Title}}、{{lang-it-short|[[:it:Titoli nobiliari|titoli nobiliari]]}})とは、主に[[古代]]から[[中世]]にかけての[[国家]]や現代における[[君主制]]に基づく国家において、[[貴族]]の[[血統]]による[[世襲]]または国家功労者への[[恩賞]]に基づき授与される[[栄誉称号]]のことである{{efn|栄誉称号は栄称ともいう。日中辞典では「栄称 (爵位・学位等的)栄誉称号。えいしょう」と解説される(大连外国语学院・新日汉辞典编写组編『新日汉辞典』(生活・讀書・新知三联书店、1980年)208頁)。また、爵位を貴号と形容する例もある。また、栄称の類似語に貴号がある。日本語の辞書等では貴号を「栄誉を表す称号。爵位や学位」などと解説している<ref>新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)670頁、松村明『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)596頁。松村明監修・小学館『大辞泉』編集部編『大辞泉 増補・新装版』(小学館、1998年)634頁参照。</ref>}}<ref group="注釈">例えば、ナイト爵は「元来は、封建時代のヨーロッパで甲冑等で重装した騎乗戦士で、社会の支柱的存在であったが、転じて栄誉称号となり、イギリスでは爵位の最下位をさす」とされる(田中英夫著『英米法辞典 5版』(東京大学出版会、1991年)492頁参照)</ref>。別称として'''勲爵'''、'''爵号'''など。[[官職]]と爵位を総称して'''官爵'''ということもある<ref>[[尾形勇]][[編集|編]]『歴史学事典10 身分と共同体』([[弘文堂]]、2003年(平成]5年))299頁および301頁、[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、2011年(平成23年))1297頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、2006年(平成18年))1156頁参照。{{harv|篠川賢|2007}}</ref>。 == 概要 == 爵位とは貴族の称号を序列化したものであり、国家が賦与する特権や栄典の制度である<ref name="daihyakka313">[[相賀徹夫]]編著『[[日本大百科全書|日本大百科全書11]]』([[小学館]]、1986年(昭和61年))313頁、314頁参照。</ref>。 [[中国]]およびその影響圏における爵位は古くは中国の[[周]]にさかのぼり[[諸侯]]の[[封号]]として爵位が授けられ、その慣行は[[清]]代まで続いた。また近代の[[日本]]の[[華族]]でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語として[[ヨーロッパ]]・[[ロシア]]の貴族についても用いられた。'''五爵'''(ごしゃく)あるいは'''五等爵'''(ごとうしゃく)、'''公・侯・伯・子・男'''(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、[[タイ王国|タイ]]の爵位制度に関しては[[ラーチャウォン]]を参照。有爵者への敬称は「[[閣下]]」または「[[卿]]」。天から授かった徳を'''天爵'''というのに対して、爵位や位階官禄のことを'''人爵'''という。 君主の称号を爵位とみなすかどうかについては、その国の伝統や文化、さらに爵位に対する考え方の違いによって、差異がある。日本の[[天皇]]の場合、天皇は爵位を与える(または認定する)主体であり、爵位を受ける側ではない。[[隋]]の九等爵の場合、その筆頭は「[[諸侯王|国王]]」(君主としての「[[国王]]」とは異なる)であるがそれを与える者は隋の皇帝であり、皇帝は爵位を受ける側ではない。一方、「'''王爵'''」「'''帝爵'''」という言葉が使われることもあり、「[[王]]」や「皇帝」といった君主の称号即ち[[君主号]]も広義では爵位の一種とみなすこともある。中国の場合、皇帝が朝貢国の君主に「国王」を認定することがあり、その場合には「国王」もまた皇帝の下にある爵位のひとつとみなされる。ヨーロッパの国においては歴史的な成立事情から[[公国]]、[[大公国]]、[[侯国]]といった名称を名乗るものがあり、そこでは有爵者を[[君主]]や[[国家元首]]とされている。このように、爵位が君主号の役割を果たしている場合もある。 今日、君主制ではない、いわゆる[[共和国]]ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引く[[フランス]]や現在も君主国である日本などでも貴族制度、華族制度が廃止となるなど公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制あるいは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には[[寄付]]により爵位を贈呈する国や[[ミクロネーション|自称国家]]もある。 === 爵位等級 === 日本における序列は概ね以下のとおりである(英語名は男性、女性の順で表記)。 {| class="wikitable" !称号!!英語名 |- |[[皇帝]]<br />[[天皇]]||Emperor, Empress |- |[[国王|王]]||King, Queen |- |[[親王]]<br />王子||Prince, Princess |} {| class="wikitable" !称号!!英語名 |- |[[大公]]||Archduke, Archduchess<br />Grand Prince, Grand Princess<br />Grand Duke, Grand Duchess<br />Prince, Princess |- |[[公爵]]||Prince, Princess<br />Duke, Duchess |- |[[侯爵]]||Marquess/Marquis, Marchioness |- |[[伯爵]]||Earl/Count, Countess |- |[[子爵]]||Viscount, Viscountess |- |[[男爵]]||Baron, Baroness |} 但し、あくまで日本語と、それに対応する英訳の一例であり、このような序列が国際的に共有されているわけではない。また[[法王]]はその宗教的性格、および複数の王国の長という意味がないことなどから別格とされる。[[プリンス|prince]]は王子と訳されることが多いが女王の夫([[王配]])をprince、姉妹を[[プリンセス|princess]]と呼ぶなど、親王が完全に対応するわけではないが近い訳である。また、王のうち君主を意味する国王ではない爵位としての王はKingではなくPrinceと訳される。 == 東洋の爵位 == === 日本における爵位 === ==== 古代の爵位:カバネ ==== 日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは[[明治]]時代以降のことである。しかし古くは[[氏姓制度]]の中で[[大臣 (古代日本)|大臣]]や[[大連 (古代日本)|大連]]、[[臣]]、[[連]]など[[豪族]]の[[氏]]に対して与えられる称号である[[カバネ]]が日本独自の爵位制度として存在していた{{sfn|篠川賢|2007|p=35}}。しかし[[飛鳥時代]]に入ると中国王朝への朝貢と服属によらず対等な国づくりを目指した[[聖徳太子]]により[[十七条憲法]]と行政機構の整備が進められ国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として[[冠位十二階]]が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。まさにこの冠位こそ中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たした<ref group="注釈">[[聖徳太子]]の伝記である『[[上宮聖徳法王帝説]]』によれば冠位十二階について「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」と解説し、さらに『日本書紀』でも冠位を爵位、官位を官爵と別称している</ref>。ただし、中国の爵位制度や古代日本の[[八色の姓]]が冠位十二階と異なるのは前者が有力氏族の血筋を階級化する'''人爵'''であったのに対し後者の冠位は孟子の唱えた'''天爵'''、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ[[五行思想]]に基づくものであった。冠位十二階は、冠位への登用は氏族の出自によらず人物の器識徳量に応じて登用するという今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝律令|大宝令]]、[[718年]]([[養老]]2年)の養老令で冠位制度に代わり[[位階]]や[[勲等|勲位]]がしかれていく中で出自により細分化されていたカバネも次第にほぼ[[朝臣]]の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性格は次第に失われていった。 ==== カバネの形骸化:位階制と家格 ==== 制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では[[皇親]]たる[[親王]]の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付けられ、従五位下を別称して'''松爵'''、'''栄爵'''といわれるようになり[[従五位|従五位下]]に叙せられることを[[叙爵]]と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが[[蔭位]]の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者の推薦枠が保障される[[氏爵]]が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する[[年爵]]や一門を順送りに叙位任官させる[[巡爵]]といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な[[院宮王臣家]]に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも[[嫡流]][[庶家|庶流]]の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり[[鎌倉時代]]以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。 [[平安時代]]から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は[[藤原摂関家]]の子孫を中心とした[[摂家]]を筆頭に[[清華家]]、[[大臣家]]、[[羽林家]]、[[名家 (公家)|名家]]、[[半家 (公家)|半家]]に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ[[清和源氏]]の一門のうち特に認められた者を[[門葉]]と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は[[家門大名]]と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の[[連枝]]として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が[[執権]]職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり[[室町時代]]は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。[[江戸時代]]以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を[[大名]]、将軍御目見え以上を[[旗本]]、御目見え以下の直参を[[御家人]]といい、大名の家臣を[[陪臣]]といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる[[譜代大名]]、それ以外の[[外様大名]]に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる[[大老]]は[[井伊氏]]、[[酒井氏]]、[[堀田氏]]などに限られ、[[老中]]には幕府の中で[[京都所司代]]や[[若年寄]]など重職を経た譜代大名が登用されたのである。 一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る[[偏諱|将軍偏諱]]という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は[[鎌倉公方]]や[[足利満直|篠川御所]]、[[足利満貞|稲村御所]]など[[公方|公方号]]や[[御所|御所号]]を称するようになり、また有力守護に対しては[[屋形|屋形号]]および[[白傘袋毛氈鞍覆]]の使用が与えられ守護代には[[唐傘袋毛氈鞍覆]]の他、[[塗輿]]などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに[[安土桃山時代]]に[[豊臣秀吉]]から[[豊臣氏]]や[[羽柴氏|羽柴姓]]が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し[[松平氏|松平姓]]が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ[[伺候席]]が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの[[大廊下]]を筆頭に[[大広間]]、[[溜間]]、[[帝鑑の間|帝鑑間]]、[[柳間]]、[[雁間]]、[[菊間広縁]]に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。 ==== 近代における華族制度 ==== {{See also|華族}} 一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、[[明治維新]]である。[[1868年]]([[明治]]2年)の[[王政復古 (日本)|王政復古]]で新政府が発足した後、[[1869年]](明治2年)の[[版籍奉還]]により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は[[知藩事]]として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を[[四民平等]]の下で廃止する一方、1869年[[7月25日]](明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]])、[[太政官|太政官達]]「[[公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す]]」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。 [[1877年]](明治10年)には、[[民事裁判上勅奏任官華族喚問方]](司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない([[:s:宮並ニ華族家人ノ職員ヲ定ム|華族家人職員]]に出廷を代理させることができる)ことが定められた。 [[1884年]](明治17年)[[7月7日]]、明治天皇の[[華族授爵ノ詔勅]]、また宮内卿[[伊藤博文]]の[[華族令]](宮内省達無号)が公布され五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。 {{Quotation|華族授爵の詔勅<br/>朕惟ふに華族勲冑は国の瞻望なり 宜しく授くるに榮爵を以てし用て寵光を示すへし<br/>文武諸臣中興の偉業を翼賛し國に大勞ある者宜しく均しく優列に陞し用て殊典を昭かにすへし<br/>玆に五爵を叙て其有禮を秩す卿等益す爾の子孫をして世々其の美を濟さしめよ|[[柴田勇之助]]|『明治詔勅全集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759508/284 「華族授爵の詔勅」](皇道館事務所、1907年([[明治]]40年)){{NDLJP|759508/284}}}} [[華族]]に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に与えられた'''公・侯・伯・子・男'''の五爵が法文の中に現われるのは、[[1886年]](明治19年)の[[華族世襲財産法]]の中である<ref>{{Wikisource-inline|華族世襲財産法}}</ref>。この法律により華族は[[差押]]ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は[[宮内大臣]]が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、[[1909年]](明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%){{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 [[大日本帝国憲法|明治憲法]]制定により[[貴族院 (日本)|貴族院]]が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに[[皇族議員]]と[[勅任議員]]がある){{Sfn|百瀬孝|1990|p=37}}。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる{{Sfn|百瀬孝|1990|p=37,38,243}}。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた{{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=38}}。 [[衆議院議員選挙法]]に基づき、有爵者は[[衆議院]]議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば[[原敬]]は[[立憲政友会]]総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある){{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。また[[高橋是清]]は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している{{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 [[日韓併合]]後には旧[[大韓帝国|韓国]]皇室が日本の[[皇族]]に準じる礼遇を受ける[[王公族]]となった。[[純宗 (朝鮮)|皇帝]]・[[李垠|皇太子]]・[[高宗 (朝鮮)|前皇帝]]が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した{{Sfn|百瀬孝|1990|p=240}}。また[[1910年]](明治43年)の朝鮮貴族令により[[朝鮮貴族]]の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 [[1906年]](明治39年)には[[宮内省]]達第二号華族就学規則が制定され、[[宮内大臣]]が監督した{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。[[1907年]](明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった){{Sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。[[1910年]](明治43年)には、華族戒飭令が定められ{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243}}、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する[[:s:宗秩寮審議会規則(明治43年宮内省令第11号)|宗秩寮審議会]]が設置された。 1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった<ref group="注釈">[[#内務省1911|内務省]]。当時は総人口が3814万981名(無籍在監人1536名を除く)で、華族の外は[[士族]]が194万8283名、[[平民]]が3619万3423名</ref>。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く){{Sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。[[1947年]]([[昭和]]22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。 1947年(昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243}}。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは[[軽犯罪法]]第1条15号に禁ずる行為となる<ref group="注釈">軽犯罪法第1条15号「官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは、外国におけるこれらに準ずるものを詐称又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作つた物を用いた者」は拘留又は科料の対象となる</ref>。 ===== 1884年(明治17年)7月7日の叙任 ===== 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り({{Small|1884年(明治17年)[[7月8日]] [[官報]]に記載された順による}}<ref>{{Cite book|和書|editor=大蔵省印刷局|title=官報|date=1884年7月8日|publisher=日本マイクロ写真|year=1884|pages=1-5|url={{NDLDC|2943511}}|id={{近代デジタルライブラリー|2943511|}}|location=華族ヘ榮爵ヲ賜ル(明治十七年七月七日/叙任(明治十七年七月七日))}}</ref>)。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" ![[公爵]]!!colspan="2"|[[侯爵]]!!colspan="3"|[[伯爵]]!![[子爵]] |- style="vertical-align:top" | ;授公爵 {{Small|従一位勲一等}} :[[九条道孝]] {{Small|正五位}} :[[鷹司熙通]] {{Small|従五位}} :[[二条基弘]] :[[近衛篤麿]] :[[一条実輝]] {{Small|従三位}} :[[徳川家達]] ;{{Small|依偉勲特授公爵}} {{Small|従一位大勲位}} :[[三条実美]] {{Small|正二位勲一等}} :[[島津久光]] {{Small|従二位勲二等}} :[[毛利元徳]] :[[島津忠義]] | ;授侯爵 {{Small|正二位}} :[[広幡忠礼]] :[[醍醐忠順]] {{Small|正二位勲一等}} :[[徳大寺実則]] {{Small|正二位勲二等}} :[[浅野長勲]] {{Small|正二位}} :[[徳川茂承]] {{Small|従二位勲三等}} :[[蜂須賀茂韶]] {{Small|正三位勲四等}} :[[久我通久]] {{Small|正三位勲三等}} :[[西園寺公望]] {{Small|従三位勲三等}} :[[佐竹義堯]] :[[細川護久]] :[[鍋島直大]] :[[山内豊範]] :[[池田章政]] | {{Small|従四位}} :[[前田利嗣]] :[[菊亭脩季]] {{Small|正五位}} :[[池田輝知]] {{Small|従五位}} :[[徳川篤敬]] :[[黒田長成]] :[[徳川義礼]] {{Small|(位階なし)}} :[[花山院忠遠]] :[[大炊御門幾麿]] ;{{Small|依勲功特授侯爵}} {{Small|従一位勲一等}} :[[中山忠能]] ;{{Small|依父[[木戸孝允|孝允]]勲功<br/>特授侯爵}} {{Small|従五位}} :[[木戸正二郎|木戸正次郎]] ;{{Small|依父[[大久保利通|利通]]勲功<br/>特授侯爵}} {{Small|従五位}} :[[大久保利和]] | ;授伯爵 {{Small|正二位}} :[[中院通富]] {{Small|正三位}} :[[山科言縄]] :[[飛鳥井雅望]] {{Small|従三位}} :[[油小路隆晃]] :[[三条西公允]] :[[園基祥]] {{Small|従三位勲四等}} :[[橋本実梁]] {{Small|従三位勲二等}} :[[柳原前光]] {{Small|正四位}} :[[松平茂昭]] :[[滋野井公寿]] {{Small|正四位勲二等}} :[[四条隆謌]] {{Small|正四位}} :[[鷲尾隆聚]] :[[津軽承昭]] {{Small|従四位}} :[[井伊直憲]] :[[松平頼聡]] :[[冷泉為紀]] :[[葉室長邦]] :[[正親町実正]] :[[伊達宗徳]] :[[藤堂高潔]] :[[上杉茂憲]] :[[柳沢保申]] {{Small|従四位勲五等}} :[[万里小路通房]] | {{Small|従四位}} :[[坊城俊章]] :[[清閑寺盛房]] :[[前田利同]] :[[甘露寺義長]] :[[勧修寺顕允]] :[[中御門経明]] :[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]] :[[溝口直正]] {{Small|正五位}} :[[嵯峨公勝]] :[[姉小路公義]] :[[室町公康]] :[[南部利恭]] :[[戸田氏共]] {{Small|従五位}} :[[堀田正倫]] :[[奥平昌邁]] :[[烏丸光亨]] :[[阿部正桓]] :[[中川久成]] :[[小笠原忠忱]] :[[伊達宗基]] {{Small|従五位勲六等}} :[[広橋賢光]] {{Small|従五位}} :[[清水篤守]] :[[酒井忠道 (伯爵)|酒井忠道]] :[[立花寛治]] :[[日野資秀]] :[[徳川達孝]] :[[有馬頼万]] :[[久松定謨]] :[[松平直亮]] :[[清水谷実英]] :[[徳川達道]] | {{Small|(位階なし)}} :[[松木宗隆|松木保丸]] :[[庭田重直]] :[[松平基則]] ;{{Small|依勲功特授伯爵}} {{Small|正三位勲二等}} :[[東久世通禧]] {{Small|従三位勲一等}} :[[黒田清隆]] {{Small|正四位勲一等}} :[[大木喬任]] :[[寺島宗則]] :[[山縣有朋|山県有朋]] :[[伊藤博文]] :[[井上馨]] :[[西郷従道]] :[[川村純義]] :[[山田顕義]] :[[松方正義]] :[[大山厳]] :[[佐々木高行]] ;{{Small|依父[[広沢真臣|真臣]]勲功<br/>特授伯爵}} {{Small|(位階なし)}} :[[廣澤金次郎|広沢金次郎]] | ;{{Small|依勲功特授子爵}} {{Small|正四位勲一等}} :[[福岡孝弟]] {{Small|従四位勲二等}} :[[鳥尾小弥太]] :[[三浦梧楼]] :[[中牟田倉之助]] :[[谷干城]] :[[伊東祐麿]] :[[三好重臣]] :[[曾我祐準]] :[[高島鞆之助]] :[[樺山資紀]] {{Small|正五位勲二等}} :[[野津道貫]] :[[仁礼景範]] |- |colspan="8"|※[[男爵]]は、この官報に掲載されていない。 |} ===== 1884年(明治17年)7月8日の叙任 ===== 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り({{Small|1884年(明治17年)[[7月9日]] [[官報]]に記載された順による}}</small><ref>{{Cite book|和書|editor=大蔵省印刷局|title=官報|date=1884年7月9日|location=華族ヘ榮爵ヲ賜ル(明治十七年七月八日/叙任(明治十七年七月八日))}}</ref>)。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" ![[公爵]]!!colspan="2"|[[伯爵]] |- style="vertical-align:top" | ;{{Small|依贈太政大臣[[岩倉具視|具視]]偉勲特授公爵}} {{Small|従四位勲四等}} :[[岩倉具定]] | ;授伯爵 {{Small|正四位}} :[[松浦詮]] | {{Small|従四位}} :[[宗義達|宗重正]] |- |colspan="3"|※子爵および男爵は、叙任者数過多により、ここでは省略する。 |} ===== 叙爵基準 ===== 叙爵の基準について華族叙爵内規では「公爵ハ親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧[[摂家]] [[徳川宗家]] 国家二偉功アル者」、侯爵は「旧[[清華家]] [[徳川御三家|徳川旧三家]] 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧[[琉球王|琉球藩王]] 国家二勲功アル者」、伯爵は「[[大納言]]迄宣任ノ例多キ旧[[堂上家|堂上]] [[徳川御三卿|徳川旧三卿]] 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」、子爵は「[[明治維新|一新]]前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」、男爵は「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められていた。ただし内規と実際の運用が異なっていたケースとして、内規では皇族が臣籍降下して華族になると公爵に列せられるはずだが、実際には臣籍降下で公爵に叙せられた者はなく、侯爵か伯爵だったことなどがある{{Sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。 旧公家や旧武家の叙爵については、特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や[[室町幕府]]由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。また爵位の授与対象として検討されながらその恩典に与らなかった士族については族称のみ相続が許され、反対に[[士族授産]]や[[廃刀令]]により逆に身分的特権が剥奪されていくことになり国内各地で[[士族反乱]]が発生することとなった<ref>[[浅見雅男]]著『華族誕生 名誉と体面の明治』([[中央公論]]、[[1999年]](平成11年))71〜74頁参照。</ref>。 ===== 財産状況 ===== 華族の財産状況については家ごとに様々であるが、一般に旧大名華族は裕福で旧公家華族は貧しい傾向があった。旧大名華族は数多くの不動産を所有し、使用人の数も多く、豪勢な生活を送っている者が多かった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243-244}}。しかし彼らの日本国内における所得面の比重も時代を経るごとに徐々に減っていき、相対的な地位としては低下していった。[[1887年]](明治20年)当時には全国所得番付上位30人のうち大名華族が15人を占めていたが、[[1933年]](昭和8年)の同番付ではわずか3人に減っていることからもそれがうかがえる{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243-244}}。これに対して公家華族は家計が逼迫している者が多く、明治45年皇室令第三号旧堂上華族保護令により旧公家華族には一定の配分が行われるようになった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。昭和期には[[朝鮮貴族]]に貧窮状態に陥っている者が多かった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=244}}。 ===== ヨーロッパ貴族との比較 ===== 華族は世間から「皇室の藩屏」として尊ばれはしたが、その特権はささやかな物であり、貴族院議員になりえること、差し押さえができない世襲財産を設定できること、爵位に相当する礼遇を受けることができること、家範(家憲)に法定効力をもたせることができることなどに限られる。プロイセン貴族などにみられるような軍役免除、免税特権、地域支配的諸権利といった平民に比べて圧倒的に有利になる特権は日本の華族には存在しなかった{{Sfn|百瀬孝|1990|p=243/244}}。日本の華族と[[イギリス]]の[[世襲貴族]]との共通点としては爵位家の戸主にのみ与えられたこと、貴族院議員になることができるが、衆議院議員([[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員)になることができないことなどがあった。ただしイギリスでは[[1999年貴族院法]]以前は全世襲貴族が自動的に貴族院議員に列していたので爵位の等級による選出方法の違いはなかった。また1999年貴族院法制定により世襲貴族の議席数が制限された後のイギリスでは貴族院議員にならなければ庶民院議員になることが可能となっている{{Sfn|田中嘉彦|1990|p=241}}。 === 現代日本における爵位 === 21世紀現在の日本において「爵位」は、様々な[[物語]]の[[設定 (物語)|設定]]として欠かせないものとなっている。 大半が「西洋の爵位」に基づき[[身分]]や[[階級]]、[[特権階級]]と[[庶民]]の対比など現代日本には存在しない(とされる)[[社会制度]]をバックボーンとして用いている。とりわけ[[ライトノベル]]にカテゴライズされる物語分野では、[[ファンタジー]]と並ぶ[[定番]][[要素]]となっている。 === 琉球国の爵位 === 琉球国には身分序列に応じて'''[[王子]]'''(おーじ)・'''[[按司]]'''(あじ・あんじ)・'''[[親方 (沖縄)|親方]]'''(うぇーかた)・'''[[親雲上]]'''(ぺーちん・ぺーくみー)・'''[[里之子]]'''(さとぅぬし)・'''[[筑登之]]'''(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。女性については王妃を'''[[佐敷按司加那志]]'''(さしきあじがなし)、側室を'''阿護母志良礼'''(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を'''阿母志良礼'''(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は'''翁主'''(おうしゅ)と呼んだ。琉球国の称号および位階については、詳しくは[[琉球の位階]]を参照されたい。 === 中国における爵位 === {{See also|二十等爵}} ==== 秦以前の爵位 ==== 中国語における[[:zh:爵|爵]]とは中国古代の温[[酒器]]を意味し、三本足の[[青銅器]]であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は[[氏族制]]の時代に宴席での[[席次]]を定める習俗にあるとされる<ref name="daihyakka313"/>。『[[孟子 (書物)|孟子]]』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し'''天爵'''と呼び、社会的地位である通常の爵位を'''人爵'''と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると[[夏 (三代)|夏]]王朝には'''公'''・'''侯'''・'''伯'''・'''子'''・'''男'''の五等があり、それが[[殷]]代には'''公'''・'''侯'''・'''伯'''の三等となり[[周]]代には再び五等となったとされる。また『[[書経]]』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて'''公'''と自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう'''公'''は爵位ではなく「[[領主]]」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に[[周礼]]によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて'''子'''の爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内では'''公'''または王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「[[禄位]]」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは'''公'''・'''卿'''・'''大夫'''・'''士'''であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)分かれたりした。 しかし[[甲骨文]]、[[金文]]等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した[[都市国家]]支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は[[春秋戦国時代|戦国時代]]に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために[[諸子百家]]により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている<ref name="daihyakka313"/>。 実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、いわゆる爵位に該当または類似したものとして、 *'''婦'''(殷爵。女性の爵位で[[巫女]]的な存在。最高位だったが周代では格下げされ[[士]]階層の配偶女性をさす言葉になった。例:[[婦好]]) *'''子'''(殷周共通。殷では王族(王子)の意味で「婦」に次ぐ高位の都市の領主。周代には格下げされ都市共同体の[[大夫]]階層をさした。例:[[微子啓]]、[[孔子]]) *'''公'''(周爵。「侯」の中の特別に格付けされたもの。例:[[周公旦]]、[[召公奭]]) *'''侯'''(殷周共通。[[都市国家]]の首長) *'''伯'''(殷周共通。殷では王権の親衛隊的存在だったが、周では都市国家に従属する小都市の長。例:[[西伯昌]]、[[伯邑考]]) *'''叔'''(周爵。諸侯の兄弟の意で、都市国家に従属する小都市の長。例:[[蔡叔度]]、[[唐叔虞]]) *'''亜'''(殷爵。亜の字は王を取り囲む者の意味で、殷王の親衛隊的存在) *'''男'''(殷周共通。殷の下層首長を管理する徴税官的存在。周では都市共同体の[[大夫]]階層) *'''田'''(殷爵。「男」の下位の首長層) *'''方'''(殷爵だが『[[周礼]]』における子爵に該当。「邦」の語源で、外国の王や異民族の首長をいう。例:[[鬼方]]) の存在が知られている。 ==== 秦・漢の爵位 ==== [[秦]]では[[商鞅]]の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、[[二十等爵]]制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。 [[前漢]]には[[秦]]の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に'''王爵'''を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された<ref name="daihyakka313"/>。 二十等爵とは'''第二十級'''の'''徹侯'''(後に[[武帝 (漢)|武帝]]の[[避諱]]から'''通侯'''・'''[[列侯]]'''と呼ばれた)を筆頭に'''第十九級'''の'''[[関内侯]]'''、'''第十八級'''の'''大庶長'''、'''第十七級'''の'''駟車庶長'''、'''第十六級'''の'''大上造'''と続き以下'''少上造'''、'''右更'''、'''中更'''、'''左更'''、'''右庶長'''、'''左庶長'''、'''五大夫'''と続いた。ここまでが'''官爵'''であり十二等に分かれることから'''十二等爵'''ともいい、官吏に与えられた。'''第八級'''の'''公乗'''以下、'''公大夫'''、'''官大夫'''、'''大夫'''、'''不更'''、'''簪裊'''、'''上造'''、'''公士'''までを'''民爵'''といい民に与えられた。これらの上に[[諸侯王]]<ref name="daihyakka313"/>、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である<ref name="daihyakka313"/>。 漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは'''第十一級'''の'''軍衛'''を筆頭に'''第十級'''の'''政戻庶長'''、'''第九級'''の'''執戎'''、'''第八級'''の'''楽卿'''と続き以下'''千夫'''、'''秉鐸'''、'''官首'''、'''元戎士'''、'''良士'''、'''閒輿衛'''、'''造士'''といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。 [[後漢]]代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに'''県侯'''、'''郷侯'''、'''亭侯'''などに細分された<ref name="daihyakka313"/>。 ==== 魏晋南北朝の爵位 ==== [[魏 (三国)|曹魏]]に至ると秦[[漢]]以来の二十等爵を廃止して、儒教経典の'''公・侯・伯・子・男'''を擬古的に復活させた。[[曹丕|文帝]]の黄初年間に'''王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯'''(最初'''郷侯'''の下に'''亭侯'''が置かれていたが後に省かれる)'''・関内侯'''の九等の爵制が定められた。[[222年]]([[黄初]]3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後[[224年]](黄初5年)には諸王の爵位が皆'''県王'''に改められ、[[曹叡|明帝]]の[[232年]]([[太和 (魏)|太和]]6年)に再調整されて'''郡王'''となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、'''関内侯'''の下には'''名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯'''が創立された。 [[西晋|晋]]の[[司馬炎|武帝]]の[[275年]]([[咸寧 (晋)|咸寧]]3年)に'''王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯'''の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず[[宗室]]には'''公・侯・伯・子・男'''(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には'''開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯'''等があり、亭侯以上には封邑が与えられた<ref name="daihyakka313"/>。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは[[西晋]]では少なかったが、[[東晋]]になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった<ref name="daihyakka313"/>。 南朝の[[梁 (南朝)|梁]]では、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。[[陳 (南朝)|陳]]では'''郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯'''の十二等があった。 [[北魏]]の[[道武帝]]の[[396年]]([[皇始 (北魏)|皇始]]元年)に五等爵が定められたが、[[404年]]([[天賜 (北魏)|天賜]]元年)に五等から'''王・公・侯・子'''の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び'''伯・男'''の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。[[500年]]([[景明]]元年)には'''王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男'''の十一等の爵制が定められた。[[九品官人法|官品]]との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。 [[北斉]]では'''王・公・侯・伯・子・男'''の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。 [[北周]]の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は'''王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男'''の十一等が定められた。 ==== 隋・唐・宋・遼・金・元の爵位 ==== [[隋]]の[[楊堅|文帝]]の開皇年間に'''国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男'''の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・[[朝貢貿易]]の相手国の君主に対して与える[[封号]]としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、'''郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯'''なども見られる。 中国の爵位は隋代以降基本的には'''王・公・侯・伯・子・男'''をベースにしたものとなり[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]代に完成した。その後[[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]を経て、徐々に簡素化し[[明]]代には殷や周のころのように五等や三等であった。[[清]]代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto" !官品!!日本<sup>1</sup>!!北魏!!北斉!!隋<sup>2</sup>!!唐・遼<sup>3</sup>!!宋<sup>4</sup>!!金!!元 |- |正一品||||開国郡公||||colspan="5"|王 |- |従一品||公||開国県公・散公||開国郡公||郡王・国公・開国郡公・開国県公||colspan="2"|嗣王・郡王・国公||郡王|| |- |正二品||侯||開国県侯||散郡公・開国県公||開国侯||開国郡公||郡公・開国郡公||rowspan="2"|郡公||国公 |- |従二品||伯||散侯||散県公・開国県侯||||colspan="2"|開国県公||郡公 |- |正三品||rowspan="2"|子||開国県伯||散県侯・開国県伯||開国伯||colspan="2"|&nbsp;||rowspan="2" colspan="2"|郡侯 |- |従三品||散伯||散県伯||||開国県侯||開国侯 |- |正四品||rowspan="2"|男||colspan="2"|開国県子||開国子||開国県伯||開国伯||rowspan="2"|郡伯・県伯||rowspan="2"|郡伯 |- |従四品||散子||散県子||colspan="3"|&nbsp; |- |正五品||rowspan="2"|&nbsp;||colspan="2"|開国県男||開国男||開国県子||開国子||colspan="2"|県子 |- |従五品||散男||開国郷男・散県男||||開国県男||開国男||colspan="2"|県男 |- |colspan="9" style="text-align:left"|<small> ;Notes: :1) 日本については品階ではなく[[位階]]であるが、類似した制度なため参考として載せた。この爵位と位階の対応は'''位階令'''([[1926年|大正15年]]勅令第325号)による。 :2) 煬帝の時代には王・公・侯は保留された。 :3) 遼は唐の制度をそのまま用いた。 :4) その後、嗣王・郡公・開国公は保留された。</small> |} ==== 明代の爵位 ==== [[明]]代になると[[皇族]]たる宗室と功臣や[[外戚]]との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に'''子・男'''は保留されて'''公・侯・伯'''の三等となった。 一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は'''親王'''に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は'''王世子'''に立てられ嫡長孫は'''王世孫'''に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は'''郡王'''に封ぜられ郡王の嫡長子は'''長子'''に、嫡長孫には'''長孫'''に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には'''鎮国将軍'''が授けられ従一品が与えられ孫には'''輔国将軍'''と従二品、曾孫には'''奉国将軍'''と従二品、玄孫には'''鎮国中尉'''と従四品、来孫には'''輔国中尉'''と従五品、六世以下には皆'''奉国中尉'''と従六品が授けられた。 ==== 清代の爵位 ==== [[清]]代の爵位も明代と同様に宗室のものと[[モンゴル]]貴族のものと功臣・外戚のものとに分かれていた。宗室のものは'''和碩親王'''(hošoi cin wang、ホショイしんのう)・'''多羅郡王'''(doroi giyūn wang、ドロイぐんおう)・'''多羅貝勒'''(doroi beile、ドロイベイレ)・'''固山貝子'''(gūsai beise、グサイベイセ)・'''奉恩鎮国公'''(kesi be tuwakiyara gurun be dalire gung、ほうおんちんこくこう)・'''奉恩輔国公'''(kesi be tuwakiyara gurun de aisilara gung、ほうおんほこくこう)・'''不入八分鎮国公'''(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung、ふにゅうはちぶんちんこくこう)・'''不入八分輔国公'''(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be aisilara gung、ふにゅうはちぶんほこくこう)・'''鎮国将軍'''(gurun be dalire janggin)・'''輔国将軍'''(gurun be aisilara janggin)・'''奉国将軍'''(gurun be tuwakiyara janggin)・'''奉恩将軍'''(kesi be tuwakiyara janggin)があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。 [[ハーン]]やモンゴル貴族には'''親王'''・'''郡王'''・'''貝勒'''・'''貝子'''・'''公'''・'''一等 - 四等台吉'''(taiji、タイジ)・'''一等-四等塔布嚢'''(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は'''太子'''の意で[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。 下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:95%" |-style="white-space:nowrap" !官品!![[1620年]]([[天命 (後金)|天命]]5年)!![[1634年]]([[天聡]]8年)!![[1643年]]([[順治]]元年)!![[1736年]]([[乾隆]]元年)!![[1751年]](乾隆16年) |- |rowspan="3"|超品<br>(jergici lakcaha)||五備御之総兵官||一等公<br>(uju jergi gung)||colspan="3"|一等 - 三等公<br>(<uju, jai, ilaci> jergi gung) |- |rowspan="2" colspan="2"|&nbsp;||一等 - 三等侯<br>(<uju, jai, ilaci> heo)||colspan="2"|一等侯兼一雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 三等侯<br>(<uju, jai, ilaci> jergi heo) |- |一等 - 三等伯<br>(<uju, jai, ilaci> be)||colspan="2"|一等伯兼一雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 三等伯<br>(<uju, jai, ilaci> jergi be) |- |正一品<br>(jingkini uju jergi)||一等 - 三等総兵官<br>(<uju, jai, ilaci> jergi dzung bing guwan<br>/jergi uheri kadalara da)||一等 - 三等昂邦章京<br>(<uju, jai, ilaci> jergi amban janggin)||一等 - 三等精奇尼哈番<br>(<uju, jai, ilaci> jergi jingkini hafan)||colspan="2"|一等子兼雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 三等子<br>(<uju, jai, ilaci> jergi jingkini hafan)<sup>1</sup> |- |正二品<br>(jingkini jai jergi)||一等 - 三等副将<br>(<uju, jai, ilaci> jergi fujiyang<br>/jergi aililame kadalara da)||一等 - 三等梅勒章京<br>(<uju, jai, ilaci> jergi meilen janggin)||一等 - 三等阿思哈尼哈番<br>(<uju, jai, ilaci> jergi ashan i hafan)||colspan="2"|一等男兼一雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 三等男<br>(<uju, jai, ilaci> jergi ashan i hafan)<sup>1</sup> |- |rowspan="2"|正三品<br>(jingkini ilaci jergi)||一等-二等参将<br>(<uju, jai, ilaci> jergi ts'anjiyang<br>/jergi adaha kadalara da)||rowspan="2"|一等 - 三等甲喇章京<br>(<uju, jai, ilaci> jergi jalan janggin)||rowspan="2"|一等 - 三等阿達哈哈番<br>(<uju, jai, ilaci> jergi adaha hafan)||rowspan="2" colspan="2"|一等軽車都尉<br>(uju jergi adaha hafan)<br>兼一雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 三等軽車都尉<br>(<uju, jai, ilaci> jergi adaha hafan)<sup>1</sup> |- |游撃<br>(iogi<br>/dasihire hafan) |- |正四品<br>(jingkini duici jergi)||備御<br>(beiguwan)||一等 - 二等牛録章京<br>(<uju, jai> jergi niru janggin)||一等 - 二等拜他喇布勒哈番<br>(<uju, jai> jergi baitalabure hafan)||colspan="2"|一等騎都尉<br>(uju jergi baitalabure hafan)<br>兼一雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<br>・一等 - 二等騎都尉<br>(<uju, jai> jergi baitalabure hafan)<sup>1</sup> |- |正五品<br>(jingkini sunjaci jergi)||colspan="2"|&nbsp;||拖沙喇哈番<br>(tuwašara hafan)||colspan="2"|雲騎尉<br>(tuwašara hafan)<sup>1</sup> |- |正七品<br>(jingkini nadaci jergi)||colspan="4"|&nbsp;||恩騎尉<br>(kesingge hafan) |- |colspan="9" style="text-align:left"|<small> ;Notes: :1) [[満州語]]での名称は順治元年と同じ。</small> |} ==== 外命婦の封号(女性の爵位) ==== 女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。 唐代には皇伯叔母に'''大長公主'''、皇姉妹には'''長公主'''、皇女には'''[[公主]]'''、皇太子の娘には'''郡主'''、王の娘には'''県主'''、王の母や妻には'''妃'''が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には'''国夫人'''が、三品以上の母・妻には'''郡夫人'''が、四品以上の母・妻には'''郡君'''が、五品以上の母・妻には'''県君'''が、散官や同職事には'''郷君'''がそれぞれ封ぜられた。 宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から'''帝姫'''に一時期変更されていたことがあった。また郡君を'''淑人・碩人・令人・恭人'''に、県君を'''室人'''(後更に'''宜人''')'''・安人・孺人'''に分けるようになった。 明代では公の母・妻は'''国夫人'''、侯の母・妻は'''侯夫人'''、伯の母・妻は'''伯夫人'''が授けられた。また、一品は'''夫人'''が授けられていたが、後には'''一品夫人'''と呼ぶようになった。二品は'''夫人'''、三品は'''淑人'''、四品は'''恭人'''、五品は'''宜人'''、六品は'''安人'''、七品は'''孺人'''がそれぞれ授けられた。 なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。 === 朝鮮における爵位 === 朝鮮では主に[[王族]]、[[外戚]]、[[功臣]]に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の[[嫡出子]]は[[大君]]、[[庶子]]は[[君]]。王婿には[[尉]]の爵号が授けられた。また国王の実父は[[大院君]]の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には[[府院君]]、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。 === タイにおける爵位 === {{Main|タイの階級}} [[タイ王国|タイ]]では国王、王族、外戚を対象とした複雑な階級とそれに伴う称号があり、それを'''ラーチャウォン'''と呼ぶ。 === カンボジアにおける爵位 === [[カンボジア]]では国家の経済発展に貢献した経済人に対し、[[勛爵]]の爵位を授けている。この爵位獲得には、最低でも10万米ドルの寄付を要件としている<ref>{{Cite journal|和書 |author=野澤知弘 |year=2006 |url=https://doi.org/10.24765/ajiakeizai.47.12_23 |title=カンボジアの華人社会――プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告―― |journal=アジア経済 |volume=47 |issue=12 |page=32 |doi=10.24765/ajiakeizai.47.12_23 |publisher=日本貿易振興機構アジア経済研究}}</ref>。 === マレーシアにおける爵位 === [[マレーシア]]では、各州の[[スルターン]]一族、および州ないしは国家の発展に貢献した人物(外国人も対象となる)に対し、勲章に伴う称号を授ける'''ダルジャー・クブサラン'''('''Darjah Kebesaran''')という制度がある。称号を授けるのは、[[マレーシアの国王|アゴン]]および各州のスルターンである。そのため、各州と連邦政府からそれぞれ称号を授与された結果、一人で複数の称号を持つに至る人物もいる。 スルターン一族に対する称号を除き、称号は一代限りで世襲されない。ただしムスリムの場合は、父親の名前の前(自分の名前の後)に父親に授けられた称号をつけることができる。また、夫が称号を授与された場合、その妻は夫と同じ称号を名乗ることはできないもの、その称号を保持する者の妻であることを示す称号が別途あるため、それを名乗ることができる。 ;称号を授与された主な日本人 *立花聡<ref>[http://www.tachibana.asia/?p=3089]</ref> == 西洋の爵位 == === ヨーロッパにおける爵位 === ==== 成立過程 ==== ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する[[官職]]が、[[中世]]に[[地方分権]]の過程で世襲化されたものである。その中には[[ローマ帝国]]の官職に由来する場合([[公爵]]、[[伯爵]]など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合([[辺境伯]]、[[男爵]]など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまったことによって成立したものが多い([[フランク王国]]の設置した[[バルセロナ伯]]を独断で世襲化した{{仮リンク|ギフレー1世|es|Wifredo el Velloso}}(多毛伯)などが典型例であろう)。 [[和訳]]に際しては中国や日本の爵位に相当する名称を当てているが、厳密には、ヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち、ヨーロッパの爵位に対し、東洋の爵位の上下の序列を踏襲したおおよその訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げたものに過ぎず、同じ国の爵位であっても時代と共に変化してもいるので、ある国のある爵位が別の国のどの爵位と同じかということは一概には言えない([[プリンス]]、[[公]]、[[侯]]も参照のこと)ので注意を要する。 ==== 日本の華族制度における爵位との違い ==== 元来、欧州においては、「爵位」という名誉は家系に対してのみ与えられているのではなく、爵位(官職)が担当する地域の領主権(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に紐づいたものだった。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を支配する特権を王や皇帝の封建的臣下として承認された人物こそが爵位を名乗ることになる。もっとも封建制が廃された近現代以降はこのような封建領主としての特権は名目的なものに過ぎなくなっている。例えば[[ビルマのマウントバッテン伯爵]]がビルマの封建領主としての権利を行使したことはない。名目上ある地域の支配権と紐づいている称号という意味では伝統的な欧州の爵位に近いのは日本の[[国司]]と言える。また近現代以降に貴族に封じられたケースであれば従前の家名を爵位名とすることも多い。 こうした点は家柄に与えられる[[格付]]に過ぎず、名目上も領主権と切り離されている日本の華族制度における爵位とは異なる。例えば華族制度ではある一つの家がもつ爵位が上下することがあっても、複数の爵位を保持することはありえない。しかしヨーロッパでは所領が複数あり、それらに爵位が付随していれば、一つの家が複数の爵位を持つことがありえ、別段珍しいことではない。また、こうした複数の爵位を保持する家の場合、最も重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることもできる<ref group="注釈">例えば、[[ガストン・ルルー]]の小説『[[オペラ座の怪人]]』に主要人物としてくるラウル('''Vicomte''' Raoul de Chagny)は'''子爵'''だが、彼の兄のフィリップ('''Comte''' Phillipe de Chagny)は'''伯爵'''であるが、これは実際の世襲のあり方を反映している</ref>。このような違いは欧州の貴族は封建諸侯が近代以降その封建的特権を喪失しつつも従前の名誉称号を保ったものであるのに対して、日本の華族制度が封建的特権を失った諸侯に対する救済、慰撫措置として創設されたという歴史的沿革の相違に原因を求めることができる。 なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった[[古代ローマ]]や西欧とは異なる歴史を歩んだ[[東ローマ帝国]]などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた([[:en:Royal and noble ranks|Royal and noble ranks]]を参照)。 ==== 言語ごとの爵位表記 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:85%" !日本語!!英語!!フランス語!!イタリア語!!スペイン語!!ドイツ語!!デンマーク語!!ノルウェー語!!スウェーデン語!!フィンランド語!!colspan="2"|ロシア語!!ラテン語<sup>9</sup> |- |rowspan="3"|[[大公]]||Grand duke||Grand-duc||Granduca||Gran duque||Großherzog||style="white-space:nowrap"|Storhertug||colspan="3"|&nbsp;||style="white-space:nowrap"|{{Lang|ru|Великий герцог}}||style="white-space:nowrap"|Velikiy gertsog||style="white-space:nowrap"|Magnus dux |- |style="white-space:nowrap"|Archduke<sup>6</sup>||Archiduc<sup>6</sup>||Arciduca<sup>6</sup>||Archiduque<sup>6</sup>||Erzherzog<sup>6</sup>||colspan="4"|&nbsp;||style="white-space:nowrap"|{{Lang|ru|Эрцгерцог}}<sup>6</sup>||||Archidux<sup>6</sup> |- |style="white-space:nowrap"|Grand prince<br />Grand duke||style="white-space:nowrap"|Grand-prince||style="white-space:nowrap"|Gran principe||style="white-space:nowrap"|Gran príncipe||Großfürst||Storfyrste||colspan="3"|&nbsp;||{{Lang|ru|Великий князь}}||Velikiy kniaz||Magnus princeps |- |大公<br />[[公爵]]||Duke<sup>1</sup>||Duc||Duca||Duque||Herzog<sup>1</sup>||colspan="2"|Hertug||Hertig||Herttua<sup>3</sup>||{{Lang|ru|Герцог}}||Gertsog||[[ドゥクス|Dux]] |- |style="white-space:nowrap"|([[プリンス|大公<br />公爵<br />侯爵]])||rowspan="2"|Prince<sup>1</sup>||rowspan="2"|Prince||rowspan="2"|Principe||Príncipe||Fürst<sup>1</sup>||Fyrste||Furst<sup>3</sup>||Furste<sup>3</sup>||Ruhtinas<sup>3</sup>||{{Lang|ru|Князь<br />Фюрст}}||Kniaz<sup>4</sup><br />Furst||rowspan="2"|[[プリンケプス|Princeps]] |- |style="white-space:nowrap"|([[親王]]<br />[[王子]]<br />[[公子]]<br />など)||Príncipe<br />Infante<sup>10</sup>||Prinz||colspan="3"|Prins||Prinssi||{{Lang|ru|Принц}}|| |- |[[侯爵]]||style="white-space:nowrap"|Marquess<br />Marquis<sup>7</sup>||Marquis||Marchese||Marqués||Marquis||Markis||style="white-space:nowrap"|Marki||style="white-space:nowrap"|Markis<sup>3</sup>||style="white-space:nowrap"|Markiisi<sup>3</sup>||{{Lang|ru|Маркиз}}||Markiz||rowspan="2"|Marchio |- |[[辺境伯]]||Margrave<sup>7</sup>||Margrave||Margravio||Margrave||Markgraf<sup>2</sup>||colspan="3"|Markgreve||Rajakreivi||{{Lang|ru|Маркграф}}|| |- |[[伯爵]]||Earl<br />Count||Comte||Conte||Conde||Graf||Jarl<br />Greve<sup>8</sup>||colspan="2"|Greve||Kreivi||{{Lang|ru|Боярин}}||Boyar<sup>4</sup>||[[Comes]] |- |[[子爵]]<br />[[副伯]]||Viscount||Vicomte||Visconte||Vizconde||Vizegraf||Vicomte||Visegreve||Vicomte||Varakreivi||{{Lang|ru|Виконт}}||||Vicecomes |- |[[男爵]]||colspan="2"|Baron||Barone||Barón||style="white-space:nowrap"|Baron<br />Freiherr||colspan="2"|Baron||Baron<br />Friherre||Paroni||{{Lang|ru|Барон}}||||Baro |- |[[準男爵]]||Baronet<sup>5</sup>||Baronnet||Baronetto||colspan="3"|Baronet||||Bronet||Baronetti||{{Lang|ru|Баронет}}||colspan="2"|&nbsp; |- |[[ナイト|勲功爵]]<br />勲爵士<br />[[騎士]]||Knight<sup>5</sup>||Chevalier||Cavaliere||Caballero||Ritter||colspan="2"|Ridder||Riddare<sup>3</sup>||Ritari||{{Lang|ru|Рыцарь}}||||Miles<br />[[エクイテス|Eques]] |- |colspan="13" style="text-align:left"| ;Notes: :1) ドイツやデンマークではHerzogやHertugは、FürstやFyrsteより上位である。イギリスでは封号としてのPrince(Prince of Walesのみ)も王族の称号としてのPrinceも、いずれも当然ながらDukeよりも上位である。また日本の「公爵」もPrinceと英訳されることが多いが、同じくPrinceと訳される親王や王との混乱が生じるもととなっている。 :2) 和訳は辺境伯。英訳はMargrave。ドイツではLandgraf([[方伯]])、Pfalzgraf([[宮中伯]])とほぼ等しい地位で時にはFürstよりもさらに上位と見なされることもあった。 :3) 現在、国内では用いられていない。 :4) ロシア国内の貴族向けに2つの爵位、公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられ、それ以外の爵位は他国の爵位のロシア語訳である。公(Kniaz)は、元は[[ルーシの諸公国]]の君主号であった。 :5) イギリスでは厳密には貴族に含めない。 :6) [[ハプスブルク家]]の用いた称号。詳細は[[オーストリア大公]]を参照。 :7) 語源が同じ爵位であるが、多くの言語においてMarquessやMarquisとMargraveとは区別される。 :8) イギリス以外のCountやGrafなどはGreveと訳される。イギリス国内でもスコットランドの侯爵はMarquisと綴る。 :9) [[ラテン語]]の部分は由来となったか、あるいは対応するとされるローマの[[官職]]・[[称号]]である場合が多い。ローマ時代には世襲化されていなかった(≠爵位)ものである。 :10) Príncipeはスペイン王位継承者の王子の称号、Infanteは王位継承権のない王子の称号。 |} ==== 各爵位 ==== ;Duke :語源は古代ローマの有力者に与えられる称号で、後に地方司令官を指す言葉となったラテン語の[[ドゥクス]](Dux)。帝政後期に入ると[[ローマ帝国]]は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになった。[[4世紀]]には文官と武官が分かれ、Duxはそれぞれの軍団の司令官の職名に使われた。同様のComes mei militarisはduxの部下であり、のちCountとなる。 :この事象の一端であった[[フランク人]]はローマの影響を受けてDux/Duces(将軍)を用いるようになった。Duxは軍団の司令官であり、同時に郡の執政となった。[[シャルルマーニュ]]が辺境を平定したのち諸[[氏族]]の氏族長にもDux/Ducesの称号が与えられ、フランク王国の宗主権を認めさせた。これらの称号は世襲され、公爵領となった。いっぽうでDux/Ducesは王子にも用いられる習慣も広がった。この制度はフランク以外の地域にも広がり、[[イングランド]]では[[エドワード黒太子]]が初の公爵([[コーンウォール公]])となった。 ;Marquess :Marquessはゲルマン語の称号Markgraf(marka 境界線+Graf 伯)に由来し、しばしば「[[辺境伯]]」と訳される。英語ではMargraveと綴る。はじめは[[カロリング朝]]フランクで辺境を守る武将の役職名でフランク王国東部の[[ローマ帝国]]との国境線に多く配された。しだいに貴族の称号となってゆきDukeの次、CountないしEarlの上という序列がつくられた。その後ヨーロッパ各国もこれを導入し、[[13世紀]]から[[14世紀]]にかけてMargrave/Marquessは貴族の称号として一般的に定着していった。 ;Earl :[[9世紀]]、[[スカンジナビア]]の[[デーン人]]が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは[[北欧神話]]の神・Rígの伝説([[リーグルの詩]])に端を発する。 :Rígは旅の途中で農民の老夫婦の家に泊まり、老夫婦はRígに粗末な食事を出した。9ヶ月後に夫婦の間に子ができ、褐色の肌を持つ子はThrall/serfと名付けられた。これが[[奴隷]](slave)の祖先である。次に辿りついたのは工芸職人の家で彼らはRígにより上質な食事を提供した。やはり9ヶ月後に職人夫婦の間に子が生まれ、Karlと呼ばれるようになった。赤毛で赤ら顔のKarlは[[農民]]・[[職人]]の始祖となった。最後に泊まったのは豪邸で豪邸の若夫婦はすばらしい食事を出した。その後同様に子ができた。その赤子は金髪碧眼でJarlと名付けられ、[[貴族]]の祖先とされた。 :デーン人は[[イングランド]]に移住してからもEarlを用いた。「太守」もしくは「伯」と訳され、各州に配置されて州の統治が任務だった。当初は一代かぎりの役職だったが、すぐに世襲されるようになった。のちにヨーロッパ各国のCountと同じように用いられるようになり、[[12世紀]]以降は役職名ではなく称号として用いられた。 ;Count :ローマ帝国のComesは廷臣の階級のひとつであった。文官のComesと武官のComesがあり、Duxが部下として指名した。 :中世のフランク王国やゲルマン地域ではCount Palatine([[パラティン]]とよばれる自治州を領有し、そのなかではほぼ完全な自治権を有していた)、Comes Sacrarum Largitionum(王室財政を管掌する職)などがあった。当初は任命制だったが、その強大な権力により次第に世襲されるようになった。中世になると伯爵領はCountyと呼ばれるようになり、これが現在の州「[[カウンティ]]」に受け継がれている。領主としての伯爵の地位は近世以降しだいに称号化し、他の爵位をあわせて社会の序列をあらわす名称へと変化していった。 ;Viscount :「副伯」というニュアンスでフランス、スペイン等で使われていた。イングランドでは[[シェリフ]]相当の爵位として14世紀に創設された。ドイツ語圏では[[城伯]](都市伯)''Burggraf''がこれに相当すると言える。またドイツ貴族であっても、フランス王による[[冊封]]を受けViscount(Vizegraf)の爵位を持つ例もある。 ;Baron :自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位([[男爵]])となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。 === フランスの爵位 === フランスの爵位は13世紀、国王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]が貴族身分を制定したのが始まりで[[18世紀]]に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。[[フランス革命]]で爵位制度は一度廃絶されたが[[1814年]]の[[フランス復活王政|王政復古]]により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる[[名誉称号]]と化した。[[フランス第三共和政|第三共和政]]以後は私的に用いる以外その効果を失った<ref name="daihyakka313"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Anchors|内務省1911}}[[内務省 (日本)|内務省]]『[{{NDLDC|805947/16}} 明治二十年五月編纂 国勢一班]』(内務省、1911年(明治44年)) *大连外国语学院・新日汉辞典编写组編『新日汉辞典』(生活・讀書・新知三联书店、1980年(昭和55年)) *相賀徹夫編著『日本大百科全書11』(小学館、1986年(昭和61年))ISBN 4095261110 *{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}} *田中英夫著『英米法辞典 5版』(東京大学出版会、1991年(平成3年))ISBN 9784130311397 *松村明監修・小学館『大辞泉』編集部編『大辞泉 増補・新装版』(小学館、1998年(平成10年)) ISBN 4095012129 *浅見雅男著『華族誕生 名誉と体面の明治』(中央公論社、1999年(平成11年))ISBN 4122035422 *尾形勇編『歴史学事典10 身分と共同体』(弘文堂、2003年(平成15年))ISBN 433521040X *{{Cite journal|和書|author=篠川賢 |date=2007-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00000478/ |title=カバネ「連」の成立について |journal=日本常民文化紀要 |ISSN=02869071 |publisher=成城大学大学院文学研究科 |volume=26 |pages=35-59 |id={{CRID|1050564287424624512}} |ref={{harvid|篠川賢|2007}}}} *松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年(平成18年)) ISBN 4385139059 *{{Cite journal|和書|author=田中嘉彦|year=2009|title=英国ブレア政権下の貴族院改革:第二院の構成と機能|url=https://doi.org/10.15057/17144 |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |journal=一橋法学 |publisher=一橋大学大学院法学研究科|ref=harv}} *新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年(平成23年)) ISBN 400080121X *野澤知弘著「カンボジアの華人社会 --プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告--」日本貿易振興機構アジア経済研究所編(2012年(平成24年)2月 第53巻第2号) == 関連項目 == *[[貴族]] *[[華族]] *[[士族]] *[[騎士]] *[[称号]] *[[身分制度]] *[[儀礼称号]] *[[学位]] *[[コロネット (装身具)]] - 爵位に応じた冠。[[王冠]]より爵位に応じて装飾が減るなどのランクがある。 == 外部リンク == *{{Citation|和書| last = 野澤| first = 知弘| url = https://doi.org/10.11479/asianstudies.54.1_40| title = カンボジアの華人社会| periodical = アジア研究| publisher = [[アジア政経学会]]| volume = 54| issue = 1| date = 2008-1-31| pages = 40-61| doi = 10.11479/asianstudies.54.1_40| issn = 0044-9237 }} *{{Kotobank}} {{日本の旧華族}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやくい}} [[Category:爵位|*]] [[Category:位階]] <!--{{Link FA en}}--> <!-- change peerage to Royal and noble ranks [[de:Peer (Adel)]] [[en:Peerage]] [[es:Títulos Nobiliarios Británicos]] [[fr:Pair]] [[ru:Пэрство]]-->
2003-09-08T21:58:44Z
2023-12-20T14:57:05Z
false
false
false
[ "Template:Quotation", "Template:Small", "Template:Harv", "Template:Cite journal", "Template:脚注の不足", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:Notelist", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:Lang-en", "Template:Efn", "Template:Color", "Template:仮リンク", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Anchors", "Template:Citation", "Template:Kotobank", "Template:日本の旧華族", "Template:See also", "Template:Wikisource-inline" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D
15,848
送電
送電(そうでん、英語: power transmission)とは、 送電とは、ある長さの電線(伝導体)の両端に電圧差を発生させて電流を流すこと(通電)であり、電力を供給することである。家屋内のコンセントから電気器具の間の配線や鉄道・工場・病院などでの自家発電機からの配電もこの原理ではあるが、特に長距離の場合を送電と呼ぶ。 19世紀半ばの電気事業の黎明期には、発電所は需要の多い都市部に建設され直流や交流の電力が消費者に販売されていた。後に大規模水力発電や交流電流の長距離送電の技術が確立し大規模な送電網が張り巡らされていった。 電力の供給元である一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費者から離れた場所に設置されている。特に大規模水力発電所はその適所が山間部であり消費者の多い平野部とは距離があり、また原子力発電所は水力発電所のような地形的制約は無く人口密集地への設置も可能ではあるがリスク回避の為に人口密集地から離れた所に設置される。長距離の送電では電線の抵抗により送電ロス(ジュール熱)が発生するため、より高電圧で低電流に変換して送電ロスを低減させている。発電所内の変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが電力最終消費者への送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、日本の一般家庭向けには100ボルトまで変圧される。 以上が電力供給の経路であるが、発電所から配電用変電所までを「送電」、以降を「配電網」と呼んでいる。 通常、送電は送電経路での電力損失を抑えるため、数万ないし数十万ボルトの特別高圧で行う。近年はスマートグリッドと呼ばれるより効率的な送電方法が開発されつつある。 送電系統の過負荷・地絡・短絡・落雷などは、多数の需要家の供給支障事故につながる。 なお、規模は小さくても、例えば商用配電線と接続して売買電を行う家庭用太陽光発電システムでは、太陽電池パネルからパワーコンディショナーまでが送電系統となる。 無線送電を試みようとする取り組みの中で、初期のものとしてはニコラ・テスラの「世界ワイヤレスシステム(英語版)」が知られている。 現在はマイクロ波やレーザー光を用いて発電衛星から送電する計画が進行中である。既に基礎的な実験が各国で進められている (「宇宙太陽光発電」の項も参照) 。電磁場の強度は距離の二乗に反比例するので、指向性の高いレクテナを用いて受電回路は送信周波数と同調する定数に設定される。 Wi-Fiの電波を利用してテレビ用のリモコンを充電する技術が確立している。 洋上風力発電など消費地から離れた場所からの送電法として、二次電池に蓄電し電池を運搬するという手法もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "送電(そうでん、英語: power transmission)とは、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "送電とは、ある長さの電線(伝導体)の両端に電圧差を発生させて電流を流すこと(通電)であり、電力を供給することである。家屋内のコンセントから電気器具の間の配線や鉄道・工場・病院などでの自家発電機からの配電もこの原理ではあるが、特に長距離の場合を送電と呼ぶ。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "19世紀半ばの電気事業の黎明期には、発電所は需要の多い都市部に建設され直流や交流の電力が消費者に販売されていた。後に大規模水力発電や交流電流の長距離送電の技術が確立し大規模な送電網が張り巡らされていった。 電力の供給元である一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費者から離れた場所に設置されている。特に大規模水力発電所はその適所が山間部であり消費者の多い平野部とは距離があり、また原子力発電所は水力発電所のような地形的制約は無く人口密集地への設置も可能ではあるがリスク回避の為に人口密集地から離れた所に設置される。長距離の送電では電線の抵抗により送電ロス(ジュール熱)が発生するため、より高電圧で低電流に変換して送電ロスを低減させている。発電所内の変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが電力最終消費者への送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、日本の一般家庭向けには100ボルトまで変圧される。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以上が電力供給の経路であるが、発電所から配電用変電所までを「送電」、以降を「配電網」と呼んでいる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "通常、送電は送電経路での電力損失を抑えるため、数万ないし数十万ボルトの特別高圧で行う。近年はスマートグリッドと呼ばれるより効率的な送電方法が開発されつつある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "送電系統の過負荷・地絡・短絡・落雷などは、多数の需要家の供給支障事故につながる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、規模は小さくても、例えば商用配電線と接続して売買電を行う家庭用太陽光発電システムでは、太陽電池パネルからパワーコンディショナーまでが送電系統となる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "無線送電を試みようとする取り組みの中で、初期のものとしてはニコラ・テスラの「世界ワイヤレスシステム(英語版)」が知られている。", "title": "送電方法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現在はマイクロ波やレーザー光を用いて発電衛星から送電する計画が進行中である。既に基礎的な実験が各国で進められている (「宇宙太陽光発電」の項も参照) 。電磁場の強度は距離の二乗に反比例するので、指向性の高いレクテナを用いて受電回路は送信周波数と同調する定数に設定される。", "title": "送電方法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Wi-Fiの電波を利用してテレビ用のリモコンを充電する技術が確立している。", "title": "送電方法" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "洋上風力発電など消費地から離れた場所からの送電法として、二次電池に蓄電し電池を運搬するという手法もある。", "title": "送電方法" } ]
送電とは、 電力(電気)を送ること。 発電所で発電した電力(電気)を配電網に供給するため、送電網システムの構築とその運用を行うこと(電気事業における送電)。電線路の一部を形成する。
[[ファイル:Hv chemnitz1.jpg|代替文=キャプション|サムネイル|267x267ピクセル|ドイツの送電線]] '''送電'''(そうでん、{{Lang-en|power transmission}})とは、 *[[電力]]([[電気]])を送ること。 *[[発電所]]で[[発電]]した[[電力]]([[電気]])を[[配電]]網に供給するため、送電網システムの構築とその運用を行うこと([[電気事業]]における送電)。[[電線路]]の一部を形成する。 == 概説 == 送電とは、ある長さの[[電線]]([[電気伝導体|伝導体]])の両端に[[電圧]]差を発生させて[[電流]]を流すこと(通電)であり、電力を供給することである。[[家屋]]内の[[コンセント]]から[[電気器具]]の間の[[配線]]や[[鉄道]]・[[工場]]・[[病院]]などでの自家[[発電機]]からの[[配電]]もこの原理ではあるが、特に長距離の場合を送電と呼ぶ。 19世紀半ばの[[電気事業]]の黎明期には、[[発電所]]は需要の多い[[都市]]部に建設され[[直流]]や[[交流]]の[[電力]]が[[消費者]]に販売されていた。後に大規模[[水力発電]]や[[交流電流]]の[[長距離送電]]の技術が確立し大規模な[[送電網]]が張り巡らされていった。 電力の供給元である[[一般電気事業者]]([[電力会社]])の発電所は多くの場合、電力消費者から離れた場所に設置されている。特に大規模[[水力発電]]所はその適所が[[山間部]]であり消費者の多い[[平野部]]とは距離があり、また[[原子力発電所]]は水力発電所のような地形的制約は無く[[人口密集地]]への設置も可能ではあるが[[リスク管理|リスク回避]]の為に人口密集地から離れた所に設置される。長距離の送電では[[電線]]の[[電気抵抗|抵抗]]により[[送電ロス]]([[ジュール熱]])が発生するため、より[[高電圧]]で低電流に変換して送電ロスを低減させている。発電所内の[[変電所]]で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが電力最終消費者への送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、日本の一般家庭向けには100ボルトまで変圧される<ref name="denki-keiro">[[電気事業連合会]] [http://www.fepc.or.jp/enterprise/souden/keiro/ 「電気が伝わる経路」] </ref>。 ; 送電経路内の施設と設備<ref name="denki-keiro" /> ; 発電所 : 発電所の出力は数千から2万ボルトの電圧であり、発電所内または隣接した変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送り出される。 ; 超高圧変電所 : 超高圧変電所は発電所から最初の変電所で、より電力消費者に近くに立地し、15.4万ボルトへ変電され1次変電所へ送電される。 ; 1次変電所 : 1次変電所では一部は15.4万ボルトのまま大工場や鉄道へ電力供給され、残りは6.6万ボルトへと変電され中間変電所へ送電される。 ; 中間変電所 : 中間変電所では6.6万ボルトから2.2万ボルトへ変電され、一部は工場へ供給され、残りは配電用変電所へ送電される。 ; 配電用変電所 : 配電用変電所では2.2万ボルトから6600ボルトへ変電され一部はオフィスや工場へ供給され、残りは柱上変圧器へと送り出される。 ; 柱上変圧器 : 柱上変圧器では100ボルト、200ボルトへ変電され家庭や小規模事業所などへ供給される。 ; [[電線路]] : 発電所と変電所、変電所間、電柱に取り付けられたトランスと最終電力消費者の間は鉄塔や電柱で支持された電線(架空電線路)や地中電線路で結ばれている。 以上が電力供給の経路であるが、発電所から配電用変電所までを「送電」、以降を「配電網」と呼んでいる<ref>前川幸一郎・荒井聰明『送配電』東京電機大学出版局 はしがき。</ref>。 通常、送電は[[電線路|送電経路]]での電力損失を抑えるため、数万ないし数十万[[ボルト (単位)|ボルト]]の特別高圧で行う。近年は[[スマートグリッド]]と呼ばれるより効率的な送電方法が開発されつつある。 送電系統の[[過負荷]]・[[地絡]]・[[短絡]]・[[落雷]]などは、多数の需要家の供給支障事故につながる。 なお、規模は小さくても、例えば商用配電線と接続して[[売買電]]を行う家庭用[[太陽光発電]]システムでは、太陽電池パネルから[[パワーコンディショナー]]までが送電系統となる。 == 送電方法 == * [[直流送電]] * [[交流送電]] * [[マイクロ波送電]] * [[スマートグリッド]] === 無線送電 === 無線送電を試みようとする取り組みの中で、初期のものとしては[[ニコラ・テスラ]]の「{{仮リンク|世界ワイヤレスシステム|en|World Wireless System}}」が知られている。 現在は[[マイクロ波]]や[[レーザー]]光を用いて発電衛星から送電する計画が進行中である。既に基礎的な実験が各国で進められている (「[[宇宙太陽光発電]]」の項も参照) 。電磁場の強度は距離の[[自乗|二乗]]に[[反比例]]するので、[[指向性]]の高い[[レクテナ]]を用いて受電回路は送信周波数と[[同調]]する定数に設定される。 [[Wi-Fi]]の電波を利用してテレビ用のリモコンを充電する技術が確立している<ref>{{Cite web|和書|title=Wi-Fi充電できるサムスンのTVリモコン、モバイル機器への応用に期待 |url=https://ascii.jp/elem/000/004/082/4082135/ |website=ASCII.jp |accessdate=2022-02-12 |language=ja |last=ASCII}}</ref>。 === 蓄電池の運搬 === [[洋上風力発電]]など消費地から離れた場所からの送電法として、[[二次電池]]に蓄電し電池を運搬するという手法もある<ref>{{Cite web|和書|title=世界初「電気を運ぶ船」建造へ 船を海底ケーブルの代わりに 目指すは自然エネの“爆発的普及”|url=https://trafficnews.jp/post/109926|website=乗りものニュース|accessdate=2021-08-20|language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 前川幸一郎・荒井聰明『送配電』東京電機大学出版局,1987年(第5版:初版発行1967年) ISBN 4-501-10240-3 == 関連項目 == * [[宇宙太陽光発電]] * [[ブラックアウト]] == 外部リンク == * {{科学映像館|genre=industrial|id=334|name=電気を送る}} * {{Kotobank}} {{Electronics-stub}} {{発電の種類}} {{電気電力}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そうてん}} [[Category:送電|*]] [[Category:電気工学]] [[Category:電気回路]] [[Category:独占]] [[bg:Електрически далекопровод]]
2003-09-08T22:44:51Z
2023-12-03T03:15:35Z
false
false
false
[ "Template:電力供給", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:科学映像館", "Template:Electronics-stub", "Template:発電の種類", "Template:Lang-en", "Template:仮リンク", "Template:Kotobank", "Template:電気電力", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E9%9B%BB
15,849
配電
配電(はいでん)とは、電気を配る(分配する)ことであるが、電気事業における配電とは、送電網から変電所を通して受電した電力(電気)を需要家に供給するため、配電網システムの構築とその運用を行うことである。電線路の一部を形成する。 通常、発電所で発電された電力はオフィスや一般家庭などに直接送電されず、変電所で電圧を落としてから送り届けられる。この変電した電力を最終的に各需要家まで配る仕組みを配電という。変電所までの送電が高電圧なのは、経路における電力損失を低減するためである。 配電系統は各需要家の受電設備と直接接続されているため、一つの需要家の事故が他の需要家の供給支障につながらないように構築されていなければならない。 各電力会社の配電部門は緊急自動車を有しており、配電線事故及び、天災や事故による大規模停電が発生した場合に、この原因を解消、排除すべく緊急出動している。また、配電線事故の原因探査・復旧を迅速に行うため、配電線上に遠方制御可能な自動開閉器を設け、その制御信号は配電線に重畳している(配電線搬送方式)。 大規模な施設(オフィスビルや工場、病院、ホテルなど)に引き込まれる。 住宅地などの架空電線路・50kVAを超え2000kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。 一戸建住宅などの、50kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "配電(はいでん)とは、電気を配る(分配する)ことであるが、電気事業における配電とは、送電網から変電所を通して受電した電力(電気)を需要家に供給するため、配電網システムの構築とその運用を行うことである。電線路の一部を形成する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "通常、発電所で発電された電力はオフィスや一般家庭などに直接送電されず、変電所で電圧を落としてから送り届けられる。この変電した電力を最終的に各需要家まで配る仕組みを配電という。変電所までの送電が高電圧なのは、経路における電力損失を低減するためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "配電系統は各需要家の受電設備と直接接続されているため、一つの需要家の事故が他の需要家の供給支障につながらないように構築されていなければならない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "各電力会社の配電部門は緊急自動車を有しており、配電線事故及び、天災や事故による大規模停電が発生した場合に、この原因を解消、排除すべく緊急出動している。また、配電線事故の原因探査・復旧を迅速に行うため、配電線上に遠方制御可能な自動開閉器を設け、その制御信号は配電線に重畳している(配電線搬送方式)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大規模な施設(オフィスビルや工場、病院、ホテルなど)に引き込まれる。", "title": "特別高圧配電線路" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "住宅地などの架空電線路・50kVAを超え2000kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。", "title": "高圧配電線路" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一戸建住宅などの、50kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。", "title": "低圧配電線路" } ]
配電(はいでん)とは、電気を配る(分配する)ことであるが、電気事業における配電とは、送電網から変電所を通して受電した電力(電気)を需要家に供給するため、配電網システムの構築とその運用を行うことである。電線路の一部を形成する。
'''配電'''(はいでん)とは、[[電気]]を配る(分配する)ことであるが、[[電気事業]]における配電とは、[[送電]]網から[[変電所]]を通して受電した[[電力]](電気)を需要家に供給するため、配電網システムの構築とその運用を行うことである<ref>前川幸一郎・荒井聰明『送配電』東京電機大学出版局 はしがき。</ref>。[[電線路]]の一部を形成する。 == 概要 == [[File:Polemount-singlephase-closeup.jpg|thumb|150px|[[電柱]]に設置されている変圧器]] 通常、[[発電所]]で[[発電]]された電力はオフィスや一般家庭などに直接送電されず、変電所で[[電圧]]を落としてから送り届けられる。この[[変電]]した電力を最終的に各需要家まで配る仕組みを配電という。変電所までの送電が高電圧なのは、経路における電力損失を低減するためである。 配電系統は各需要家の[[受電設備]]と直接接続されているため、一つの需要家の事故が他の需要家の供給支障につながらないように構築されていなければならない。 各[[電力会社]]の配電部門は[[緊急自動車]]を有しており、[[配電線事故]]及び、[[自然災害|天災]]や[[事故]]による大規模[[停電]]が発生した場合に、この原因を解消、排除すべく緊急出動している。また、配電線事故の原因探査・復旧を迅速に行うため、配電線上に遠方制御可能な自動開閉器を設け、その制御信号は配電線に重畳している(配電線搬送方式)。 == 特別高圧配電線路 == 大規模な施設(オフィスビルや工場、病院、ホテルなど)に引き込まれる。 === 電気方式 === ; 20kV/30kV級[[三相3線式]]配電線路 : [[1990年代]]より、配電系統の損失の低減・都市部での需要密度の増大に伴う地下[[電線路]]の有効活用・国際的な規格品の利用による費用低減などのために利用されるようになった。 ; 11.4kV Y結線[[三相4線式]]配電線路 : 6.6kV Δ結線[[三相3線式]][[高圧]]配電線路に中性線1本を架設して特別高圧に昇圧したもの。 === 配電網構成方式 === * [[スポットネットワーク方式]] * [[レギュラーネットワーク方式]] * [[本予備線方式]](環状方式) * [[樹枝状方式]](放射状方式) == 高圧配電線路 == 住宅地などの架空電線路・50kVAを超え2000kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。 === 電気方式 === * [[三相3線式]]非接地方式 === 配電網構成方式 === * [[樹枝状方式]](放射状方式) * [[本予備線方式]](環状方式) == 低圧配電線路 == 一戸建住宅などの、50kVA以下の引込み線として一般的に使用されている。 === 電気方式 === * [[三相4線式]]415/240V 中性点接地方式 : [[1990年代]]より、電線路の地中化などとともに需要密度の高い都市部を中心に使用され始めた。 * [[三相3線式]]200V(三相動力専用) : 小規模店舗などの三相200V負荷を利用する需要家向け引込み線として利用される。 * [[電灯・動力共用三相4線式]]200V/100V(電灯動力共用[[変圧器]]または異容量V結線を使用) * [[単相3線式]]200/100V : 電灯負荷を利用する小規模需要家に使用される。1980年代以降の一般家庭用の主流。 * [[単相2線式]]100V : ごく小容量の引込み線のみに使用される。かつては家庭用にはこの方式が主流であった。 === 配電網構成方式 === * [[樹枝状方式]](放射状方式) * [[低圧バンキング方式]] * [[レギュラーネットワーク方式]](低圧ネットワーク方式) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * 前川幸一郎・荒井聰明『送配電』東京電機大学出版局,1987年(第5版:初版発行1967年) ISBN 4-501-10240-3 == 関連項目 == * [[電力系統]] - [[発電]] - [[送電]] - [[変電]] - [[配電自動化システム]] * [[電線路]] * [[接地]] - [[中性点接地方式]] - [[医用接地]] - [[等電位接地]] - [[接地工事の種類]] * [[受電設備]] - [[借室電気室]] * [[商用電源]] == 外部リンク == {{電気電力}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいてん}} [[Category:配電|*]] [[Category:電気]] [[Category:電気工学]] [[Category:電気回路]] [[Category:独占]] [[de:Stromnetz#Verbundnetz]] [[sv:Elektricitet#Överföring]]
2003-09-08T22:51:46Z
2023-08-27T17:39:10Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:電気電力", "Template:電力供給", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%8D%E9%9B%BB
15,850
センサ
センサまたはセンサー(英: sensor)は、自然現象や人工物の機械的・電磁気的・熱的・音響的・化学的性質あるいはそれらで示される空間情報・時間情報を、何らかの科学的原理を応用して、人間や機械が扱い易い別媒体の信号に置き換える装置のことをいい、センサを利用した計測・判別を行うことを「センシング」という。検知器(英: detector)とも呼ばれる。 センサはトランスデューサーの一種と言えるが、明確な定義はされていない。センサという言葉は、トランスデューサーのみを指す場合もあれば、トランスデューサーに増幅・演算・制御・出力等の機能を合わせた装置を指す場合もある。 センサによる測定は、出力信号の処理によって以下の方式に分けられる。 多くのセンサは、電気的・電子的な機能、構造になっており、測定器、電子・電気機器、制御機器等に組み込まれることで機能が発揮される。MEMS技術の進歩により、多くのセンサが従来よりもはるかに高い感度に達している。 センサは現代社会のあらゆる分野で活用されている。自動車・鉄道・船舶・航空宇宙などの交通システム、機械・化学・農業・土木・エネルギーなどの産業ビジネス、医療・防災・住宅・防犯などの生活環境、宇宙・ロボットなどのハイテク領域において、普及が進んでいる。 目的とする物理情報・検出原理・センサの形態によって、多種多様なセンサが存在する。 目的とする物理情報が同一であっても、検出原理として様々な手段がありうる。条件に適った最適なセンサを選び出すには、測定対象とセンサの性質をよく考慮する必要がある。 また、センサはその目的上、厳しい物理的環境下に晒されながら使用されるケースもある。実用の際は、ノイズによる誤検出や故障が起きないように、検出方法を吟味し、適切な使用環境・防護形態の下で使用する。 スマートセンサ(smart sensor)、あるいはインテリジェントセンサ(intelligent sensor)は解析、情報処理の能力が付加されたセンサである。スマートセンサには測定対象に複数のセンサでもって測定を行う。一度に複数のデータを取得し、異常な値や例外値を取り除き、データを処理しそれを蓄積する。これにより、自動校正機能、自動補償機能が備わっているといえる。また、その他の種類のセンサとセンサネットワーク通信機能で組み合わせて統合されたデータの測定も可能である。 センサフュージョン(英: sensor fusion)、あるいはセンサ融合は、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などの多くの種類の感覚情報から融合した知覚を用いてセンシングすることである。 センサフュージョンは、複合、統合、融合、連合の4つに分類することができる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "センサまたはセンサー(英: sensor)は、自然現象や人工物の機械的・電磁気的・熱的・音響的・化学的性質あるいはそれらで示される空間情報・時間情報を、何らかの科学的原理を応用して、人間や機械が扱い易い別媒体の信号に置き換える装置のことをいい、センサを利用した計測・判別を行うことを「センシング」という。検知器(英: detector)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "センサはトランスデューサーの一種と言えるが、明確な定義はされていない。センサという言葉は、トランスデューサーのみを指す場合もあれば、トランスデューサーに増幅・演算・制御・出力等の機能を合わせた装置を指す場合もある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "センサによる測定は、出力信号の処理によって以下の方式に分けられる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多くのセンサは、電気的・電子的な機能、構造になっており、測定器、電子・電気機器、制御機器等に組み込まれることで機能が発揮される。MEMS技術の進歩により、多くのセンサが従来よりもはるかに高い感度に達している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "センサは現代社会のあらゆる分野で活用されている。自動車・鉄道・船舶・航空宇宙などの交通システム、機械・化学・農業・土木・エネルギーなどの産業ビジネス、医療・防災・住宅・防犯などの生活環境、宇宙・ロボットなどのハイテク領域において、普及が進んでいる。", "title": "応用分野" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "目的とする物理情報・検出原理・センサの形態によって、多種多様なセンサが存在する。", "title": "選定" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "目的とする物理情報が同一であっても、検出原理として様々な手段がありうる。条件に適った最適なセンサを選び出すには、測定対象とセンサの性質をよく考慮する必要がある。", "title": "選定" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、センサはその目的上、厳しい物理的環境下に晒されながら使用されるケースもある。実用の際は、ノイズによる誤検出や故障が起きないように、検出方法を吟味し、適切な使用環境・防護形態の下で使用する。", "title": "選定" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "スマートセンサ(smart sensor)、あるいはインテリジェントセンサ(intelligent sensor)は解析、情報処理の能力が付加されたセンサである。スマートセンサには測定対象に複数のセンサでもって測定を行う。一度に複数のデータを取得し、異常な値や例外値を取り除き、データを処理しそれを蓄積する。これにより、自動校正機能、自動補償機能が備わっているといえる。また、その他の種類のセンサとセンサネットワーク通信機能で組み合わせて統合されたデータの測定も可能である。", "title": "先進的センサ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "センサフュージョン(英: sensor fusion)、あるいはセンサ融合は、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などの多くの種類の感覚情報から融合した知覚を用いてセンシングすることである。", "title": "先進的センサ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "センサフュージョンは、複合、統合、融合、連合の4つに分類することができる。", "title": "先進的センサ" } ]
センサまたはセンサーは、自然現象や人工物の機械的・電磁気的・熱的・音響的・化学的性質あるいはそれらで示される空間情報・時間情報を、何らかの科学的原理を応用して、人間や機械が扱い易い別媒体の信号に置き換える装置のことをいい、センサを利用した計測・判別を行うことを「センシング」という。検知器とも呼ばれる。
{{出典の明記|date=2013年5月15日 (水) 04:38 (UTC)}} [[File:Smart sensor PS-SMT-W01.jpg|thumb|[[IoT]]で利用されるスマートセンサ(人や動物の動きを検出する)]] '''センサ'''または'''センサー'''({{lang-en-short|sensor}})は、自然現象や人工物の[[物理量|機械的]]・[[電磁波|電磁気的]]・[[温度|熱的]]・[[音|音響的]]・[[化学|化学的]]性質あるいはそれらで示される空間情報・時間情報を、何らかの科学的原理を応用して、人間や機械が扱い易い別媒体の[[信号 (電気工学)|信号]]に置き換える装置のことをいい、センサを利用した計測・判別を行うことを「センシング」という。'''検知器'''({{lang-en-short|detector}})とも呼ばれる。 == 定義 == センサは[[トランスデューサー]]の一種と言えるが、明確な定義はされていない。センサという言葉は、トランスデューサーのみを指す場合もあれば、トランスデューサーに増幅・演算・制御・出力等の機能を合わせた装置を指す場合もある。 === 構成 === センサによる[[測定]]は、出力信号の処理によって以下の方式に分けられる。 #センサが変換した物理量を人間が直接判読するケース(Direct Indicator) #:人間が認識可能な媒体([[光]]や[[音]]など)に置き換える必要がある。 #:*水銀温度計は、周囲温度を、[[水銀]]の[[熱膨張係数|熱膨張]]を用いて、視覚情報に置き換える。 #:*[[やかん|ケトル]]の笛吹は、お湯の温度を、[[蒸気圧]]の性質を用いて、聴覚情報に置き換える。 #センサが一旦変換した物理量を、人間が判読可能なように更に変換し直すケース #:センサからの情報を、[[電子回路]]が処理できるように、一旦[[電気信号]]に置き換える。電子回路が取得した信号は、[[AD変換器]]を使用したり、[[コンピュータ]]および[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]を通して測定結果を読むなど人間が読めるように変換する必要がある。 #センサが変換した物理量を人間が判読しないケース #:センサからの情報を[[電気信号]]に置き換えて、処理・蓄積し、システムをコントロールするために使う。人間の関知しないシステム内部で、システムの性能・安定性・安全性を向上する。 多くのセンサは、[[電気]]的・[[電子工学|電子]]的な機能、構造になっており、測定器、電子・電気機器、制御機器等に組み込まれることで機能が発揮される。[[MEMS]]技術の進歩により、多くのセンサが従来よりもはるかに高い感度に達している。 === 具体例 === *[[電力量計|電気メーター]]は、電気の使用量を、電磁回転板などのトランスデューサを用いて、デジタル表示に置き換える。 === センサと似たもの === *[[太陽電池]]は、光を電気に置き換える[[トランスデューサ]]ではあるが、物理情報ではなくエネルギー取得を目的とする場合はセンサと呼ばない。昔、セレン光電池を[[露出計]]や[[AEカメラ]](当時はEEと称した)でセンサとして使っていた例や、昼間太陽電池で充電し夜になると光り出すような装置で発電力の低下を検出しトリガーにしている、など例外もある。 == 応用分野 == センサは現代社会のあらゆる分野で活用されている。[[自動車]]・[[鉄道]]・[[船舶]]・[[航空宇宙]]などの交通システム、[[機械]]・[[化学]]・[[農業]]・[[土木]]・[[エネルギー]]などの産業ビジネス、[[医療]]・[[防災]]・[[住宅]]・[[防犯]]などの生活環境、[[宇宙]]・[[ロボット]]などのハイテク領域において、普及が進んでいる。 == 分類 == === 原理による分類 === ==== 機械量 ==== * 加速度 ** [[加速度センサ]] * 力 ** [[ひずみゲージ]](ストレインゲージ) ** ロードセル(荷重による変位量がわかっている物体とひずみゲージを組み合わせた荷重センサ) ** [[半導体]]圧力センサ ** [[トルクセンサ]] * [[振動]] ** 音波 - [[マイクロフォン]] ** 超音波 ==== 熱 ==== * 温度 ** 接触式 *** [[サーミスタ]] *** [[抵抗測温体]] *** [[熱電対]] ** 非接触式 *** [[放射温度計]] ==== 光・放射線 ==== * 光 ** [[光センサ]] ** [[光電素子]] ** フォト[[ダイオード]] * [[赤外線]] * [[放射線]] ==== 電気 ==== * [[電場]] * [[電流]] * [[電圧]] * [[電力]] ==== 磁気 ==== * [[磁気センサ]] ==== 化学 ==== * [[におい]] * [[イオン]]濃度 * [[気体|ガス]]濃度 === 時空間による分類 === * [[時間]]:[[時計]] * 位置 ** [[光位置センサ]] (PSD) ** [[リミットスイッチ]] * 距離 ** [[超音波距離計]] ** [[静電容量変位計]] ** [[光波測距儀|光学式測距]] ** [[電磁波測距]] * 変位 ** [[差動トランス]] ** [[リニアエンコーダ]] ** [[光位置センサ]] * 速度 ** レーザードップラー振動速度計 ** [[レーザドップラー流速計]] * 回転角 ** [[ポテンショメータ]] ** [[回転角センサ]] * 回転数 ** [[タコジェネレータ]] ** [[ロータリエンコーダ]] * 角速度 ** [[ジャイロセンサ]] * 一次元画像 ** リニアイメージセンサ * 二次元画像 ** [[CCDイメージセンサ]] ** [[CMOSイメージセンサ]] === 用途による分類 === * 液 ** [[漏液センサ]](リークセンサ) (読み:ろうえき) ** [[液検知センサ]](レベルセンサ) * [[硬度]] * [[湿度]] * [[流量]] * [[傾斜]] * 地震センサ == 選定 == 目的とする物理情報・検出原理・センサの形態によって、多種多様なセンサが存在する。 目的とする物理情報が同一であっても、検出原理として様々な手段がありうる。条件に適った最適なセンサを選び出すには、測定対象とセンサの性質をよく考慮する必要がある。 また、センサはその目的上、厳しい物理的環境下に晒されながら使用されるケースもある。実用の際は、ノイズによる誤検出や故障が起きないように、検出方法を吟味し、適切な使用環境・防護形態の下で使用する。 == 先進的センサ == === スマートセンサ === スマートセンサ([[:en:smart sensor|smart sensor]])、あるいはインテリジェントセンサ([[:en:intelligent sensor|intelligent sensor]])は解析、[[情報処理]]の能力が付加されたセンサである。スマートセンサには測定対象に複数のセンサでもって測定を行う。一度に複数のデータを取得し、異常な値や例外値を取り除き、データを処理しそれを蓄積する。これにより、自動校正機能、自動補償機能が備わっているといえる。また、その他の種類のセンサと[[センサネットワーク]]通信機能で組み合わせて統合されたデータの測定も可能である。 === センサフュージョン === センサフュージョン({{lang-en-short|sensor fusion}})、あるいはセンサ融合は、[[視覚]]、[[聴覚]]、[[触覚]]、[[嗅覚]]、[[味覚]]などの多くの種類の感覚情報から融合した知覚を用いてセンシングすることである。 センサフュージョンは、複合、統合、融合、連合の4つに分類することができる。 ; 複合({{lang-en-short|multisensor}}) : 複数のセンサから得られた情報を並列的・相補的に組み合わせた出力を得ることを複合的処理という。 ; 統合({{lang-en-short|integration}}) : それぞれのセンサから得られた情報に演算処理を行い、まとまった情報を得ることを統合的処理という。 ; 融合({{lang-en-short|fusion}}) : ある現象に対して、それを測定する複数のセンサの出力から、データ同士の処理を行い、1つの知覚を得ることを融合的処理という。 ; 連合({{lang-en-short|association}}) : センサから得た情報間の関係を調べ、出力を得ることを連合的処理という。 == 関連項目 == * [[感覚]] - 生物、心理学 * [[信号 (電気工学)]] * [[電子工学]] * [[計測工学]] * [[制御工学]] * [[ロボット工学]] * [[オートメーション]] * [[安全装置]] * [[フェイルセーフ]] * [[MEMS]] * [[バイオセンサ]] * [[無線センサネットワーク]] * [[ビッグデータ]] * 電化製品 == 脚注 == <references/> {{Tech-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せんさ}} [[Category:センサ|*]] [[Category:制御工学]] [[Category:ロボット工学]]
null
2022-09-19T01:28:02Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:Tech-stub", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B5
15,851
内燃力発電
内燃力発電(ないねんりょくはつでん、英語: internal combustion power generation)は、燃料の燃焼で放出される熱エネルギーを内燃機関で運動エネルギー(回転運動)に変換し発電を行う火力発電方式の一つである。短時間で始動できるのが特徴。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "内燃力発電(ないねんりょくはつでん、英語: internal combustion power generation)は、燃料の燃焼で放出される熱エネルギーを内燃機関で運動エネルギー(回転運動)に変換し発電を行う火力発電方式の一つである。短時間で始動できるのが特徴。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "その他" } ]
内燃力発電は、燃料の燃焼で放出される熱エネルギーを内燃機関で運動エネルギー(回転運動)に変換し発電を行う火力発電方式の一つである。短時間で始動できるのが特徴。
{{出典の明記|date=2023年10月}} {{Vertical_images_list |幅=250px |画像1=Gas Turbine Generation 01-ja.svg |説明1='''ガスタービン式発電の模式図'''<br>燃焼ガスでガスタービンを回すことにより発電を行う |画像2=Internal Combustion Power Generation (Diesel-Fired Generation) 01-ja.svg |説明2='''レシプロエンジン式発電の模式図'''<br>ピストンの往復運動でクランクシャフトを回転させることにより発電を行う }} '''内燃力発電'''(ないねんりょくはつでん、{{lang-en|internal combustion power generation}})は、[[燃料]]の[[燃焼]]で放出される[[熱エネルギー]]を[[内燃機関]]で[[運動エネルギー]](回転運動)に変換し発電を行う[[火力発電]]方式の一つである。短時間で始動できるのが特徴。 == 内燃機関の種類による分類 == * [[ガスタービンエンジン]]:主に大規模な[[工場]]などで、[[コジェネレーション]][[システム]]として使用される。 * [[レシプロエンジン]](往復動機関){{efn|ここでは内燃式のものを指す。レシプロエンジンは[[蒸気往復機関]]のように[[外燃機関]]でも用いられる。}} ** 火花点火機関(ガスエンジンなど):[[都市]]部のビルなどでコジェネレーションシステムとして使用されるほか、個人でも購入が可能な小型[[汎用エンジン]]との組み合わせによる可搬式(発動発電機 = 発発)が普及している。 ** 圧縮着火機関([[ディーゼルエンジン]]など):非常用電源や、[[電源車]]、[[島|離島]]などの小規模[[火力発電所]]などに利用される。[[ガソリンエンジン]]のものより重量は大きいが、可搬式や[[車輪]]が付いた移動式(夜間工事の[[照明]]用や[[アーク溶接|電気溶接]]用などで普及)もある。 == その他 == * 内燃機関に対して[[外燃機関]]による発電方法は[[汽力発電]]やそれに類する[[海洋温度差発電]]、[[冷熱発電]]がある。 * [[コンバインドサイクル]]は内燃機関(ガスタービンエンジン)と外燃機関(汽力発電)を組み合わせた発電方法である。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> == 関連項目 == * [[熱力学サイクル]] * [[パワーバージ]] * [[ターボ・エレクトリック方式]] * [[ディーゼル・エレクトリック方式]] * [[可搬形発電設備専門技術者]] * [[自家用発電設備専門技術者]] * {{仮リンク|発動発電機|en|engine-generator}} == 外部リンク == *{{kotobank|内燃力発電-1191191|[[世界大百科事典]] 第2版|内燃力発電}} **{{kotobank|エンジン発電機-38187|[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|エンジン発電機}} *[http://www.nega.or.jp/ 一般社団法人 日本内燃力発電設備協会] - [[日本内燃力発電設備協会]]の公式サイト *[http://www.power-academy.jp/sp/learn/glossary/id/1295 内燃力発電]|電気工学用語集|電気工学を学ぶ|パワーアカデミー *[https://www.cdc.gov/disasters/elecgenerators.html Electrical Safety and Generators]{{en icon}}|Natural Disasters and Severe Weather {{発電の種類}} [[Category:火力発電|ないねんりよくはつてん]]
2003-09-08T23:36:39Z
2023-10-06T17:14:58Z
false
false
false
[ "Template:発電の種類", "Template:Vertical images list", "Template:Lang-en", "Template:Efn", "Template:仮リンク", "Template:Kotobank", "Template:En icon" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%87%83%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB
15,852
コンバインドサイクル発電
コンバインドサイクル発電(コンバインドサイクルはつでん、英: combined cycle, CC)は、内燃力発電の排熱で汽力発電を行う複合発電である。内燃機関としては主にガスタービンエンジンが使用される。この場合狭義においてはガスタービンコンバインドサイクル発電という。 燃焼ガス温度をさらに高め、省エネルギー性、耐久性、環境適合性などを向上させた改良型に、1,300 °C級のACC (Advanced Combined Cycle)、1,500 °C級のMACC (More Advanced Combined Cycle)、1,600 °C級のMACC IIがある。 コンバインドサイクル発電には、次のような特徴がある。 圧力容器内に収納した流動床ボイラーから発生した高温・高圧の蒸気により蒸気タービンを回して発電するとともに、ボイラーの排ガスによりガスタービンを回して発電する方式を加圧流動床複合発電 (PFBC) と呼ぶ。加圧流動床複合発電方式は、コンバインド発電方式のため、高い発電効率を得ることができ、さらにガスタービン空気圧縮機を使用することで大型補機が不要となり、所内動力が低減されるため、従来型の微粉炭発電に比べ、送電端効率は約2%高くなる。さらに、燃料を加圧下で燃焼させるため、ボイラーを小型化できるほか、ボイラー内部で硫黄酸化物を除去する炉内脱硫方式により、排煙脱硫装置が不要となることなどから、発電所をコンパクトにつくることができる。 配管の摩耗や損傷が多く、低い稼働率や高い補修費が問題となった。そのため苫東厚真発電所3号機は2005年に廃止、大崎発電所1-1号機も2011年に休止となった。また同方式の予定だった大崎発電所1-2号機は建設計画が撤回され、別方式の実証設備とされた。 燃料のガス化とコンバインドサイクル発電を組み合わせた発電形式を石炭ガス化複合発電 (IGCC) と呼ぶ。低質な石炭や重質油、廃棄物などは硫黄や塩素、重金属を含むことがあり、そのまま燃焼させて発電を行うとその環境負荷物質が大気中に排出されて問題となる。ガス化複合発電では、燃料をガス化したときにそれらの不純物を除去することができ、そうして生成したクリーンなガスを用いて発電を行うことで、環境負荷物質の少ない発電を行うことができる。また、従来の方式に比べて二酸化炭素排出量を削減することができ、石炭を燃料とした発電で石油発電並の二酸化炭素排出量を達成することができる。空気吹きと酸素吹きの2種類のガス化方式があり、2022年時点で空気吹きの勿来と広野の2基の発電所が商用運転中である。酸素吹きのIGCCは大崎発電所で試験実証中である。 石炭をガス化させた際に含まれる水素を燃料電池の燃料とし、燃料電池、ガスタービン、蒸気タービンを組み合わせた発電形式を石炭ガス化燃料電池複合発電 (IGFC) と呼ぶ。IGCCと比較し更なる高効率発電が可能となり、二酸化炭素排出量の低減も図ることができる。大崎発電所にある酸素吹きIGCC実証機に組み合わせて2022年4月から試験実証中である。 コンバインドサイクル内に太陽熱を利用した発電方式を太陽熱複合発電 (ISCC) と呼ぶ。太陽熱発電の一種であり、太陽熱を補助熱源とし、蒸気サイクルの出力を増加させることで、発電能力の向上や燃料の使用量の低減を行うことができる。2010年にイタリアのアルキメデス複合発電所で世界初のISCC発電設備が建設された。他にもアメリカ、エジプト、イラン、モロッコ、アルジェリアなどで運転が開始されている。 1940年代後半から開発は開始された。黒鉛炉・溶融塩炉・液体金属炉を1000度近い高温で操業して、ヘリウムで冷却し、ヘリウムをガスタービンで膨張・温度低下させたあと、廃熱ボイラで冷却して、原子炉に戻す。基本的にガスタービン複合発電であり、原子力発電の熱効率を向上させる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コンバインドサイクル発電(コンバインドサイクルはつでん、英: combined cycle, CC)は、内燃力発電の排熱で汽力発電を行う複合発電である。内燃機関としては主にガスタービンエンジンが使用される。この場合狭義においてはガスタービンコンバインドサイクル発電という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "燃焼ガス温度をさらに高め、省エネルギー性、耐久性、環境適合性などを向上させた改良型に、1,300 °C級のACC (Advanced Combined Cycle)、1,500 °C級のMACC (More Advanced Combined Cycle)、1,600 °C級のMACC IIがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コンバインドサイクル発電には、次のような特徴がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "圧力容器内に収納した流動床ボイラーから発生した高温・高圧の蒸気により蒸気タービンを回して発電するとともに、ボイラーの排ガスによりガスタービンを回して発電する方式を加圧流動床複合発電 (PFBC) と呼ぶ。加圧流動床複合発電方式は、コンバインド発電方式のため、高い発電効率を得ることができ、さらにガスタービン空気圧縮機を使用することで大型補機が不要となり、所内動力が低減されるため、従来型の微粉炭発電に比べ、送電端効率は約2%高くなる。さらに、燃料を加圧下で燃焼させるため、ボイラーを小型化できるほか、ボイラー内部で硫黄酸化物を除去する炉内脱硫方式により、排煙脱硫装置が不要となることなどから、発電所をコンパクトにつくることができる。", "title": "加圧流動床複合発電 (PFBC)" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "配管の摩耗や損傷が多く、低い稼働率や高い補修費が問題となった。そのため苫東厚真発電所3号機は2005年に廃止、大崎発電所1-1号機も2011年に休止となった。また同方式の予定だった大崎発電所1-2号機は建設計画が撤回され、別方式の実証設備とされた。", "title": "加圧流動床複合発電 (PFBC)" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "燃料のガス化とコンバインドサイクル発電を組み合わせた発電形式を石炭ガス化複合発電 (IGCC) と呼ぶ。低質な石炭や重質油、廃棄物などは硫黄や塩素、重金属を含むことがあり、そのまま燃焼させて発電を行うとその環境負荷物質が大気中に排出されて問題となる。ガス化複合発電では、燃料をガス化したときにそれらの不純物を除去することができ、そうして生成したクリーンなガスを用いて発電を行うことで、環境負荷物質の少ない発電を行うことができる。また、従来の方式に比べて二酸化炭素排出量を削減することができ、石炭を燃料とした発電で石油発電並の二酸化炭素排出量を達成することができる。空気吹きと酸素吹きの2種類のガス化方式があり、2022年時点で空気吹きの勿来と広野の2基の発電所が商用運転中である。酸素吹きのIGCCは大崎発電所で試験実証中である。", "title": "石炭ガス化複合発電 (IGCC)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "石炭をガス化させた際に含まれる水素を燃料電池の燃料とし、燃料電池、ガスタービン、蒸気タービンを組み合わせた発電形式を石炭ガス化燃料電池複合発電 (IGFC) と呼ぶ。IGCCと比較し更なる高効率発電が可能となり、二酸化炭素排出量の低減も図ることができる。大崎発電所にある酸素吹きIGCC実証機に組み合わせて2022年4月から試験実証中である。", "title": "石炭ガス化燃料電池複合発電 (IGFC)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コンバインドサイクル内に太陽熱を利用した発電方式を太陽熱複合発電 (ISCC) と呼ぶ。太陽熱発電の一種であり、太陽熱を補助熱源とし、蒸気サイクルの出力を増加させることで、発電能力の向上や燃料の使用量の低減を行うことができる。2010年にイタリアのアルキメデス複合発電所で世界初のISCC発電設備が建設された。他にもアメリカ、エジプト、イラン、モロッコ、アルジェリアなどで運転が開始されている。", "title": "太陽熱複合発電 (ISCC)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1940年代後半から開発は開始された。黒鉛炉・溶融塩炉・液体金属炉を1000度近い高温で操業して、ヘリウムで冷却し、ヘリウムをガスタービンで膨張・温度低下させたあと、廃熱ボイラで冷却して、原子炉に戻す。基本的にガスタービン複合発電であり、原子力発電の熱効率を向上させる。", "title": "超高温原子炉" } ]
コンバインドサイクル発電は、内燃力発電の排熱で汽力発電を行う複合発電である。内燃機関としては主にガスタービンエンジンが使用される。この場合狭義においてはガスタービンコンバインドサイクル発電という。 燃焼ガス温度をさらに高め、省エネルギー性、耐久性、環境適合性などを向上させた改良型に、1,300 ℃級のACC、1,500 ℃級のMACC、1,600 ℃級のMACC IIがある。
[[File:Trianel Kraftwerk HammU.jpg|thumb|220 px|[[:de:GuD-Kraftwerk Hamm-Uentrop|Trianel Kraftwerk HammU発電所]]]] '''コンバインドサイクル発電'''(コンバインドサイクルはつでん、{{lang-en-short|combined cycle, CC}})は、[[内燃力発電]]の排熱で[[汽力発電]]を行う複合発電である。[[内燃機関]]としては主に[[ガスタービンエンジン]]が使用される。この場合狭義においては'''ガスタービンコンバインドサイクル発電'''<ref>{{lang-en-short|combined cycle gas turbine (CCGT)}}</ref>という。 [[燃焼ガス]]温度をさらに高め、[[省エネルギー]]性、耐久性、[[環境]]適合性などを向上させた改良型に、1,300 ℃級のACC ({{lang|en|Advanced Combined Cycle}})、1,500 ℃級のMACC ({{lang|en|More Advanced Combined Cycle}})、1,600 ℃級のMACC IIがある<ref>[http://www.tepco.co.jp/fp/thermal-power/type/index-j.html 汽力発電] - [[東京電力ホールディングス]](2016年10月18日閲覧)</ref>。 == 特徴 == コンバインドサイクル発電には、次のような特徴がある。 ; 始動時間が短い : ガスタービンエンジンの特徴として、同じ出力の蒸気タービンよりも始動時間が短い。 ; 熱効率が高い。 : ガスタービンの排気から熱を回収し、回収熱でさらに発電を行うため、[[エネルギー効率]]が高い。 ; 冷却水量・温排水量が少ない。 : 熱効率が上昇する分、廃棄される熱エネルギーも少なくなる。 ; 気温によって出力が変動する。 : 気温が低くなると空気の密度が増加し投入できる燃料が増えることからガスタービンの出力が増大する。近年ではミスト水噴霧装置をガスタービン吸気口に設置して、温度上昇による出力低下を抑えている<ref>初期に建設された発電所を中心に全体の出力とユニット毎の出力の合計が一致しないことがあるが、その場合は全体の出力は比較的高温時のスペックを、ユニットの出力は最良の条件下でのスペックを記載している場合が多く注意する必要がある。</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:smaller;" summary="コンバインドサイクル発電の効率の表。" |+発電効率 !rowspan=2|発電方式 !rowspan=2|温度条件 (℃) !colspan=2|発電端発熱量基準熱効率 (%) !rowspan=2|備考 |- !高位 !低位 |- |rowspan=6 align=left|コンバインドサイクル (CC<ref>{{lang-en-short|combined cycle}}</ref>) |1100 |44 |49 |align=left| |- |1300 |49 |55 |align=left|[[再熱サイクル|再熱]]ボイラ 再熱蒸気タービン 改良型コンバインドサイクル発電 (ACC<ref>{{lang-en-short|advanced combined cycle}}</ref>) |- |1400 |51 |57 |align=left|再熱ボイラ 再熱蒸気タービン 蒸気冷却式燃焼器 |- |1500 |53 |59 |align=left|再熱ボイラ 再熱蒸気タービン 蒸気冷却式燃焼器 (MACC<ref>{{lang-en-short|more advanced combined cycle}}</ref>) |- |1600 |55 |61 |align=left|再熱ボイラ 再熱蒸気タービン 蒸気冷却式燃焼器 (MACCII<ref>{{lang-en-short|more advanced combined cycle II}}</ref>) |- |1700 |60 |66 |align=left|再熱ボイラ [[再熱・再生サイクル|再熱再生]]蒸気タービン 蒸気冷却式燃焼器 水素燃料 |- |rowspan=2|汽力(参考) | |40 |42 |align=left|主蒸気温度538℃ [[臨界点|超臨界圧]]再熱ボイラ 再熱再生蒸気タービン (SC<ref>{{lang-en-short|super critical}}</ref>) |- | |43 |45 |align=left|主蒸気温度600℃ 超々臨界圧再熱ボイラ 再熱再生蒸気タービン (USC<ref>{{lang-en-short|ultra super critical}}</ref>) |} === 温度条件別採用例 === * 1,100℃級CC ** [[東北電力]] [[東新潟火力発電所]]:3号系列(121万kW) ** [[JERA]] [[富津火力発電所]]:1、2号系列(各100万kW) ** JERA [[四日市火力発電所]]:4号系列(58.5万kW) * 1,200℃級CC ** [[九州電力]] [[新大分発電所]]:1号系列(69万kW) ** [[沖縄電力]] [[吉の浦火力発電所]]:1 - 4号機(各25.1万kW)※建設中 * 1,250℃級CC ** [[中国電力]] [[柳井発電所]]:1号系列(70万kW) * 1,300℃級ACC ** JERA [[横浜火力発電所]]:7、8号系列(各140万kW) ** JERA [[鹿島火力発電所]]:7号系列(各42万kW) ** JERA [[川越火力発電所]]:3、4号系列(各170.1万kW) ** [[関西電力]] [[姫路第一発電所]]:5号機(72.9万kW)、6号機(71.3万kW) ** 中国電力 柳井発電所:2号系列(70万kW) ** 九州電力 新大分発電所:2号系列(87万kW)、3-1号系列(73.5万kW) * 1,400℃級ACC ** 東北電力 [[仙台火力発電所]]:4号機(44.6万kW) ** 中国電力 [[水島発電所]]:1号機(28.5万kW) * 1,450℃級MACC ** 東北電力 東新潟火力発電所:4号系列(175万kW) * 1,500℃級MACC ** JERA [[川崎火力発電所]]:1号系列(150万kW)、2-1号系列(50万kW) ** JERA 富津火力発電所:4号系列(152万kW) ** JERA [[新名古屋火力発電所]]:8号系列(160万kW) ** 関西電力 [[堺港発電所]]:1 - 5号機(各40万kW) * 1,600℃級MACCII ** JERA [[川崎火力発電所]]:2-2号、2-3号系列(各71万kW) ** JERA [[西名古屋火力発電所]]:7号系列(231.6万kW) ** 関西電力 [[姫路第二発電所]]:1 - 6号機(各48.65万kW) ** 九州電力 新大分発電所:3-2号系列(48万kW) * 1,650℃級MACCII ** JERA [[五井火力発電所]]:新1号 - 3号機(214万kW)※建設中 ** JERA [[姉崎火力発電所]]:新1号 - 3号機(195万kW) == 構成要素 == [[File:COGES diagram.svg|thumb|220px|コンバインドサイクル発電の基本的構造(多軸型)。1-発電機。2-蒸気タービン。3-復水器。4-ポンプ。5-排熱回収ボイラ。6-ガスタービン。]] ;[[ガスタービンエンジン|ガスタービン]] :[[都市ガス]]、[[天然ガス]]、[[軽油]]等を[[燃料]]として[[動力]]を得る。 ;[[圧縮機|空気圧縮機]] :ガスタービンへ供給する圧縮空気を作る。 ;[[減速機]] :ガスタービンの動力を発電機に適した回転数に減速する。 :<small>(事業用発電所では減速機を用いずガスタービンエンジンと発電機を直結する場合が多い)</small> ;[[発電機]] :ガスタービンと蒸気タービンを動力として[[発電]]を行う。 ;[[排熱回収ボイラ]] (HRSG) :ガスタービンからの高温排気を取り入れ、[[蒸気]]を発生する[[ボイラー]]。 ;[[蒸気タービン]] :蒸気から動力を取り出す。 ;[[復水器]] :蒸気タービンから排出された蒸気を冷却し、水に戻す。 ;<!--変圧器--> ;<!--開閉器--> == 系統構成 ==<!--概念図検討中--> {|class="wikitable" style="font-size:smaller;" summary="コンバインドサイクル発電の構成の表。構成と特徴とを示している。" |+コンバインドサイクル発電の構成と特徴 !rowspan=2|構成!!rowspan=2|概要!!colspan=2|熱効率!!colspan=2|単独運転!!rowspan=2|整備!!rowspan=2|備考 |- !定格負荷!!部分負荷!!ガスタービン!!蒸気タービン |- |排熱回収(一軸型) |それぞれの構成要素を1台ずつ1つの軸に直結したユニットを並列設置 |2 |1 |可 |不可 |1つの系統(軸)ごとに行うことができる |ピークロード用 |- |排熱回収(多軸型) |ガスタービンによる発電部、排熱回収ボイラー、蒸気タービンによる発電部を適宜組み合わせる<ref>例えばガスタービン発電部2台+排熱回収ボイラー1台+蒸気タービン発電部各1台のように、蒸気タービンよりもガスタービン系の方が多い場合が通例である。</ref> |1 |2 |可 |不可 |1つの機器の停止が全体の停止につながる |ベースロード用 |- |排気助燃 |排熱回収ボイラへの配管の途中のバーナーで助燃を行う |4 |3 |可 |不可 | |蒸気タービンの出力分担を大きくすることで出力あたりの建設費を低減できる |- |排気再燃 |ガスタービン排気をボイラーの燃焼用空気として利用 |3 |4 |可 |可(押込み通風機を別置で) |ガスタービン単独が可 |既存の汽力発電所の出力増強 |- |給水加熱 |ガスタービン排気で蒸気タービンの給水を加熱 |5 |5 |可 |不可 |ガスタービン単独が可 |既存の汽力発電所の出力増強 |- |過給ボイラ |圧縮機からの空気でボイラを加圧燃焼させ、その排気の圧力でガスタービンを回してその排熱でボイラ給水を加熱 | | |可 |不可 | |固体燃料の利用が容易 |} === 系統構成別採用例 === * 排熱回収一軸型 ** [[東北電力]] [[仙台火力発電所]]:4号機(44.6万kW) ** [[JERA]] [[富津火力発電所]]:1、2号系列(各100万kW)、3、4号系列(各152万kW) ** JERA [[四日市火力発電所]]:4号系列(58.5万kW) ** [[関西電力]] [[堺港発電所]]:1 - 5号機(各40万kW) ** [[中国電力]] [[柳井発電所]]:1、2号系列(各70万kW) ** [[四国電力]] [[坂出発電所]]:1号機(29.6万kW) ** [[九州電力]] [[新大分発電所]]:1号系列(69万kW)、2号系列(87万kW)、3-1号系列(73.5万kW) ** [[沖縄電力]] [[吉の浦火力発電所]]:1 - 4号機(各25.1万kW) * 排熱回収一軸型(ガスタービン・蒸気タービン別軸構成) ** 中国電力 [[水島発電所]]:1号機(28.5万kW) * 排熱回収多軸型 ** 東北電力 [[東新潟火力発電所]]:3号系列(121万kW)、4号系列(170万kW) ** JERA [[上越火力発電所]]:1、2号系列(各119万kW) ** JERA [[西名古屋火力発電所]]:7号系列(231.6万kW)※建設中 ** 関西電力 [[姫路第一発電所]]:5号機(72.9万kW)、6号機(71.3万kW) * 排気再燃型(高温ウィンドボックス方式) ** JERA [[五井火力発電所]]:6号機(47.6万kW) * 排気再燃型(ガス給水加熱器方式) ** JERA [[知多火力発電所]]:1、2号機(各52.9万kW)、5、6号機(各85.4万kW) ** JERA [[知多第二火力発電所]]:1、2号機(各85.4万kW) == 加圧流動床複合発電 (PFBC) == 圧力容器内に収納した[[流動床]]ボイラーから発生した高温・高圧の蒸気により蒸気タービンを回して発電するとともに、ボイラーの排ガスによりガスタービンを回して発電する方式を加圧流動床複合発電 (PFBC<ref>{{lang-en-short|pressurized fluidized bed combustion}}</ref>) と呼ぶ。加圧流動床複合発電方式は、コンバインド発電方式のため、高い発電効率を得ることができ、さらにガスタービン空気圧縮機を使用することで大型補機が不要となり、所内動力が低減されるため、従来型の微粉炭発電に比べ、送電端効率は約2%高くなる。さらに、燃料を加圧下で燃焼させるため、ボイラーを小型化できるほか、ボイラー内部で硫黄酸化物を除去する炉内脱硫方式により、排煙脱硫装置が不要となることなどから、発電所をコンパクトにつくることができる。 === 営業運転機 === {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !運営会社!!発電所名!!号機!!出力<br>(万kW)!!熱効率<br>(%)!!蒸気圧力<br>(MPa)!!主蒸気温度<br>(℃)!!再熱蒸気温度<br>(℃)!!ガスタービン<br>入口温度<br>(℃)!!営業運転開始!!備考 |- |[[北海道電力]]||[[苫東厚真発電所]]||3号機||align=right|8.5||40.1||16.6||566||538||約830||1998年3月||2005年10月廃止 |- |[[中国電力]]||[[大崎発電所]]||1-1号機||align=right|25.9||41.5||16.6||566||593||約840||2000年11月||2011年10月休止 |- |[[九州電力]]||[[苅田発電所]]||新1号機||align=right|36||42.8||24.1||566||593||約850||2001年7月|| |} * 熱効率はいずれも高位発熱量基準。 === 問題点 === 配管の摩耗や損傷が多く<ref name="nikkei445"/>、低い稼働率や高い補修費が問題となった<ref name="nikkei445">中国電力、大崎発電所を来年12月に休止 日本経済新聞 2010年4月23日 1:26配信 2013年11月23日閲覧</ref>。そのため苫東厚真発電所3号機は2005年に廃止、大崎発電所1-1号機も2011年に休止となった<ref name="nikkei445"/>。また同方式の予定だった大崎発電所1-2号機は建設計画が撤回され、別方式の実証設備とされた<ref name="nikkei445"/>。 == 石炭ガス化複合発電 (IGCC) == 燃料のガス化とコンバインドサイクル発電を組み合わせた発電形式を'''[[石炭ガス化複合発電]]''' (IGCC<ref>{{lang-en-short|integratefd gasification combined cycle}}</ref>) と呼ぶ<ref name=":0">次世代火力発電の早期実現に向けた協議会「[https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/energy_environment/jisedai_karyoku/pdf/004_02_00.pdf 次世代火力発電に係る技術ロードマップ 技術参考資料集]」, 2015年7月</ref>。低質な石炭や重質油、廃棄物などは硫黄や塩素、重金属を含むことがあり、そのまま燃焼させて発電を行うとその環境負荷物質が大気中に排出されて問題となる。ガス化複合発電では、燃料をガス化したときにそれらの不純物を除去することができ、そうして生成したクリーンなガスを用いて発電を行うことで、環境負荷物質の少ない発電を行うことができる<ref name=":0" />。また、従来の方式に比べて二酸化炭素排出量を削減することができ、石炭を燃料とした発電で石油発電並の二酸化炭素排出量を達成することができる。空気吹きと酸素吹きの2種類のガス化方式があり、2022年時点で空気吹きの勿来と広野の2基の発電所が商用運転中である<ref name="nakoso-igcc">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20211103130243/http://www.nakoso-igcc.co.jp/topics/%E5%8B%BF%E6%9D%A5%EF%BD%89%EF%BD%87%EF%BD%83%EF%BD%83%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E3%81%AE%E5%96%B6%E6%A5%AD%E9%81%8B%E8%BB%A2%E3%82%92%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97/|title=勿来IGCC発電所の営業運転を開始いたしました。|date=2021-4-19|accessdate=2021-4-19|publisher=勿来IGCCパワー合同会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220423070650/http://www.hirono-igcc.co.jp/topics/%E5%BA%83%E9%87%8Eigcc%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E3%81%AE%E5%96%B6%E6%A5%AD%E9%81%8B%E8%BB%A2%E3%82%92%E9%96%8B%E5%A7%8B%E8%87%B4%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82/|title=広野IGCC発電所の営業運転を開始いたしました。|accessdate=2022-4-23|date=2021-11-19|publisher=広野IGCCパワー合同会社}}</ref>。酸素吹きのIGCCは[[大崎発電所]]で試験実証中である。 === 営業運転機 === {|class="wikitable" style="font-size:small;" !運営会社!!発電所名!!号機!!出力<br>(万kW)!!熱効率<br>(%)!!ガスタービン<br>入口温度<br>(℃)!!営業運転期間!!備考 |- |[[常磐共同火力]]||[[勿来発電所]]||10号機||align:right|25||42.4||1,250||2013年4月-2020年11月||元はクリーンコールパワー研究所所有の実証機で、2007年2月に実証運転を開始し<ref>[http://www.ccpower.co.jp/press/080918.html 2008年9月18日付クリーンコールパワー研究所プレスリリース]</ref>、2020年11月に運転を終了した<ref name="decom10">{{PDFlink|[http://www.joban-power.co.jp/wp/wp-content/uploads/2020/11/50669e6b33e5099c8bfccaa96a880057.pdf 勿来発電所10号機の廃止について]}} 2020年11月16日 常磐共同火力株式会社</ref>。 |- |勿来IGCCパワー合同会社||[[勿来発電所|勿来IGCC発電所]]||-||align:right|52.5||48||1,400||2021年4月-|| |- |広野IGCCパワー合同会社||[[広野火力発電所|広野IGCC発電所]]||-||align:right|54.3||48||1,400||2021年11月-|| |} * 熱効率は低位発熱量基準。 == 石炭ガス化燃料電池複合発電 (IGFC) == 石炭をガス化させた際に含まれる水素を燃料電池の燃料とし、燃料電池、ガスタービン、蒸気タービンを組み合わせた発電形式を[[石炭ガス化燃料電池複合発電]] (IGFC<ref>{{lang-en-short|integrated gasification fuel cell cycle}}</ref>) と呼ぶ<ref name=":0" />。IGCCと比較し更なる高効率発電が可能となり、二酸化炭素排出量の低減も図ることができる<ref name=":0" />。[[大崎発電所]]にある酸素吹きIGCC実証機に組み合わせて2022年4月から試験実証中である<ref>[https://web.archive.org/web/20220419013909/https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_101534.html 石炭ガス化燃料電池複合発電(IGFC)の実証試験を開始] NEDO2022年4月19日</ref>。 == 太陽熱複合発電 (ISCC) == {{See also|太陽熱発電#アルキメデスプラント}} コンバインドサイクル内に太陽熱を利用した発電方式を[[太陽熱複合発電]] (ISCC<ref>{{lang-en-short|integrated solar combined cycle}}</ref>) と呼ぶ。[[太陽熱発電]]の一種であり、太陽熱を補助熱源とし、蒸気サイクルの出力を増加させることで、発電能力の向上や燃料の使用量の低減を行うことができる。2010年にイタリアの[[太陽熱発電#アルキメデスプラント|アルキメデス複合発電所]]で世界初のISCC発電設備が建設された。他にもアメリカ、エジプト、イラン、モロッコ、アルジェリアなどで運転が開始されている。 == 超高温原子炉 == {{Main|超高温原子炉}} 1940年代後半から開発は開始された。黒鉛炉・[[溶融塩炉]]・[[液体金属炉]]を1000度近い高温で操業して、ヘリウムで冷却し、ヘリウムをガスタービンで膨張・温度低下させたあと、廃熱ボイラで冷却して、原子炉に戻す。基本的にガスタービン複合発電であり、原子力発電の熱効率を向上させる。 == 歴史 == * 日本では、[[1981年]]に[[日本国有鉄道]](現在は[[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道株式会社]]が所有)の[[JR東日本川崎火力発電所|川崎火力発電所]]1号機に初めて導入された。 * [[2000年]][[大阪府]][[枚方市]]にある[[大阪広域水道企業団]][[村野浄水場]]では沈殿池などから出る汚泥を[[ガスタービン]]発電機から出る排熱により乾燥することで減量・減容させ、余熱でさらに蒸気タービンを稼働させて発電している。これにより第5回「新エネ大賞」新エネルギー財団会長賞を受賞している<ref>[http://www.nef.or.jp/award/kako/h12/00syo14.htm 第5回「新エネ大賞」新エネルギー財団会長賞『村野浄水場』]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [http://www.mhi.co.jp/technology/review/index.html 三菱重工技報] 原動機特集、新技術特集 *[http://www.hitachihyoron.com/jp/index.html 日立評論デジタルアーカイブ] 最近の火力・水力発電技術、電力・エネルギー分野の最新技術 * [http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/index.html 産業技術史資料情報センター] 技術の系統化調査報告書(電気・電力関連、自動車・船・一般機械関連) == 関連項目 == {{Commonscat|Combined cycle}} * [[熱力学サイクル]] * [[コジェネレーション]] * [[COGES]] - コンバインドサイクル発電と同じ構造で[[船舶]]の推進に使用される {{発電の種類}} {{電力供給}} {{Tech-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こんはいんとさいくるはつてん}} [[Category:火力発電]] [[Category:石炭技術]] [[Category:発電所技術]] [[Category:コジェネレーション]]
2003-09-08T23:56:38Z
2023-12-19T05:48:07Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:電力供給", "Template:Lang-en-short", "Template:See also", "Template:Main", "Template:発電の種類", "Template:Tech-stub", "Template:Normdaten", "Template:Lang", "Template:Reflist", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E7%99%BA%E9%9B%BB
15,853
ワイワイカード
ワイワイカードは、かつて九州旅客鉄道(JR九州)と福岡市交通局(福岡市営地下鉄)が発行していた、両社局で共通使用が可能な磁気式乗車カード(ストアードフェアシステムのプリペイドカード)である。 JR九州・福岡市地下鉄ともに2001年(平成13年)4月1日からサービスが開始された。2011年(平成23年)3月31日をもって発売終了、同年10月31日をもって利用終了となった(後述)。 首都圏でかつて使われていたイオカードやパスネットなどと同様に、自動改札機に直接投入。入場時に初乗り運賃が差し引かれ、出場時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれる。ただし、カードの性質上、精算されるのは大人の券所持者本人の普通運賃のみであり、以下の場合は券売機やみどりの窓口で乗車券を購入する必要がある。 自動券売機や自動精算機などでも使用できるが、対応する機器が設置されていない駅があるので一部の駅での使用に限られる。そのため、残額が少ない場合や改札機・券売機・精算機が本カード非対応の駅で乗降する場合及び特急列車を利用する場合は注意が必要である。JR九州線のワイワイカード対応自動改札機では乗車券・定期券・回数券・他のワイワイカードと最大3枚まで組み合わせて利用可能である。ただしワイワイカード自体は残額不足のカードと合わせて2枚までとなる。SUGOCA、オレンジカードとの併用は不可。 2010年3月13日時点では以下の通り。これ以外の駅では自動改札機設置駅でも使用できない。 JR九州では2009年3月1日にICカード乗車券「SUGOCA」を、福岡市地下鉄では2009年3月7日にICカード乗車券「はやかけん」を導入し、さらに2010年3月13日から、これらと西日本鉄道などで導入されている「nimoca」、東日本旅客鉄道(JR東日本)などで導入されている「Suica」との相互利用を開始した。 これによりワイワイカード利用対象駅全駅でICカードの利用が可能となり、JR九州と福岡市地下鉄でのICカードの共通利用も可能となったことからワイワイカードのサービスは終了することとなった。2011年3月31日限りでワイワイカードの発売を終了し、同年10月31日限りで自動改札機・自動券売機・自動精算機での利用を全面的に終了した。残額のあるカードについては翌11月1日から2022年3月31日まで手数料なしで残額を全額払い戻す。払い戻し後のカードはいかなる理由があっても一切返却しない。 2009年からSUGOCA・オレンジカード対応、ワイワイカード非対応の自動券売機も設置されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワイワイカードは、かつて九州旅客鉄道(JR九州)と福岡市交通局(福岡市営地下鉄)が発行していた、両社局で共通使用が可能な磁気式乗車カード(ストアードフェアシステムのプリペイドカード)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "JR九州・福岡市地下鉄ともに2001年(平成13年)4月1日からサービスが開始された。2011年(平成23年)3月31日をもって発売終了、同年10月31日をもって利用終了となった(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "首都圏でかつて使われていたイオカードやパスネットなどと同様に、自動改札機に直接投入。入場時に初乗り運賃が差し引かれ、出場時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれる。ただし、カードの性質上、精算されるのは大人の券所持者本人の普通運賃のみであり、以下の場合は券売機やみどりの窓口で乗車券を購入する必要がある。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "自動券売機や自動精算機などでも使用できるが、対応する機器が設置されていない駅があるので一部の駅での使用に限られる。そのため、残額が少ない場合や改札機・券売機・精算機が本カード非対応の駅で乗降する場合及び特急列車を利用する場合は注意が必要である。JR九州線のワイワイカード対応自動改札機では乗車券・定期券・回数券・他のワイワイカードと最大3枚まで組み合わせて利用可能である。ただしワイワイカード自体は残額不足のカードと合わせて2枚までとなる。SUGOCA、オレンジカードとの併用は不可。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2010年3月13日時点では以下の通り。これ以外の駅では自動改札機設置駅でも使用できない。", "title": "対応エリア" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR九州では2009年3月1日にICカード乗車券「SUGOCA」を、福岡市地下鉄では2009年3月7日にICカード乗車券「はやかけん」を導入し、さらに2010年3月13日から、これらと西日本鉄道などで導入されている「nimoca」、東日本旅客鉄道(JR東日本)などで導入されている「Suica」との相互利用を開始した。", "title": "発売終了" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これによりワイワイカード利用対象駅全駅でICカードの利用が可能となり、JR九州と福岡市地下鉄でのICカードの共通利用も可能となったことからワイワイカードのサービスは終了することとなった。2011年3月31日限りでワイワイカードの発売を終了し、同年10月31日限りで自動改札機・自動券売機・自動精算機での利用を全面的に終了した。残額のあるカードについては翌11月1日から2022年3月31日まで手数料なしで残額を全額払い戻す。払い戻し後のカードはいかなる理由があっても一切返却しない。", "title": "発売終了" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2009年からSUGOCA・オレンジカード対応、ワイワイカード非対応の自動券売機も設置されている。", "title": "発売終了" } ]
ワイワイカードは、かつて九州旅客鉄道(JR九州)と福岡市交通局(福岡市営地下鉄)が発行していた、両社局で共通使用が可能な磁気式乗車カード(ストアードフェアシステムのプリペイドカード)である。 JR九州・福岡市地下鉄ともに2001年(平成13年)4月1日からサービスが開始された。2011年(平成23年)3月31日をもって発売終了、同年10月31日をもって利用終了となった(後述)。
'''ワイワイカード'''は、かつて[[九州旅客鉄道]](JR九州)と[[福岡市交通局]]([[福岡市営地下鉄]])が発行していた、両社局で[[共通乗車制度|共通使用]]が可能な磁気式[[乗車カード]]([[ストアードフェアシステム]]の[[プリペイドカード]])である。 JR九州・福岡市地下鉄ともに[[2001年]]([[平成]]13年)[[4月1日]]からサービスが開始された<ref>{{Cite journal ja-jp |year=2001 |month=04 |title=RAILWAY TOPICS - JR九州と福岡市営地下鉄がカード共通化 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻414号 |page= 92 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。[[2011年]](平成23年)[[3月31日]]をもって発売終了、同年[[10月31日]]をもって利用終了となった([[#発売終了|後述]])。 == 使用方法 == 首都圏でかつて使われていた[[イオカード]]や[[パスネット]]などと同様に、[[自動改札機]]に直接投入。入場時に初乗り運賃が差し引かれ、出場時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれる。ただし、カードの性質上、精算されるのは大人の券所持者本人の普通運賃のみであり、以下の場合は券売機や[[みどりの窓口]]で[[乗車券]]を購入する必要がある。 * 小児・特別割引対象者が乗車する場合 * 2人以上で乗車する場合 * 特急券など特別運賃券を必要とする列車に乗車する場合 ** 対応エリア内相互間のみの利用では、特急券等のみを別途購入し、普通運賃をワイワイカードで精算することもできる。 [[自動券売機]]や[[自動精算機]]などでも使用できるが、対応する機器が設置されていない駅があるので一部の駅での使用に限られる。そのため、残額が少ない場合や改札機・券売機・精算機が本カード非対応の駅で乗降する場合及び特急列車を利用する場合は注意が必要である。JR九州線のワイワイカード対応自動改札機では乗車券・定期券・回数券・他のワイワイカードと最大3枚まで組み合わせて利用可能である。ただしワイワイカード自体は残額不足のカードと合わせて2枚までとなる。SUGOCA、[[オレンジカード]]との併用は不可。 == 対応エリア == 2010年3月13日時点では以下の通り。これ以外の駅では自動改札機設置駅でも使用できない。 === JR九州 === ;[[鹿児島本線]] :[[門司港駅]] - [[羽犬塚駅]]・[[瀬高駅]]・[[大牟田駅]] ;[[日豊本線]] :[[西小倉駅]] - [[新田原駅]] ;[[筑肥線]] :[[姪浜駅]] - [[筑前深江駅]] ;[[香椎線]] :[[奈多駅]] - [[長者原駅]]・[[須恵中央駅]]・[[宇美駅]] ;[[筑豊本線]]・[[篠栗線]] :*若松線:[[折尾駅]] - [[本城駅]]・[[二島駅]]・[[若松駅]] :*福北ゆたか線:折尾駅 - [[直方駅]]・[[新飯塚駅]]・[[飯塚駅]]・[[桂川駅 (福岡県)|桂川駅]]・[[筑前大分駅]]・[[篠栗駅]] - [[吉塚駅]] === 福岡市地下鉄 === :[[福岡市地下鉄空港線|空港線]]・[[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]・[[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]]の全駅 == 券種 == * 3,000円券・5,000円券・10,000円券の3種類だが、いずれもプレミアムはなく、利用可能額は販売金額と同額であった。 * この他に記念カードとして1,000円券が発売されていた(門司港駅のみどりの窓口では「門司港レトロ夜景」「夜の門司港駅」「旧門司税関」の3種類が販売されていた)。 * 2007年には、[[スタンプラリー]]用に500円券が発売された。 == 運賃特例 == * 福岡市地下鉄を利用する場合、500円・1,000円券以外では運賃が20円割引となる(1回の乗車につき改札入場時に引かれる運賃が初乗り運賃より20円安くなる)。 * 以下、JR九州・福岡市地下鉄における改札外乗り換え時の運賃精算の特例が適用される。ただし、いずれも改札外乗り換えの際、出場時と次の入場時に同じカードを使う必要がある。 ** JR九州折尾駅で乗り換えのために一旦改札を出る必要がある場合、最終的な引き去り運賃は通し運賃となる。なお、対象となる改札口は東口と鷹見口相互間のみ。 ** 福岡市地下鉄空港線天神駅と七隈線天神南駅との間で乗継する場合、一方の駅の改札を出て他方の駅の改札に入るまでの時間が2時間以内である場合に限り、同一駅で乗り降りしたものと見做し、通し運賃を適用する。 ** 利用区間の途中に福岡市地下鉄を挟む場合、博多駅で一旦改札を出る必要があるが、最終的な引き去り運賃は前後のJR線の営業キロを通算した距離に基づく運賃と福岡市地下鉄の運賃の合計額となる。 == 発売終了 == JR九州では2009年3月1日に[[ICカード]]乗車券「[[SUGOCA]]」を、福岡市地下鉄では2009年3月7日にICカード乗車券「[[はやかけん]]」を導入し、さらに[[2010年]][[3月13日]]から、これらと[[西日本鉄道]]などで導入されている「[[nimoca]]」、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)などで導入されている「[[Suica]]」との相互利用を開始した。 これによりワイワイカード利用対象駅全駅でICカードの利用が可能となり、JR九州と福岡市地下鉄でのICカードの共通利用も可能となったことからワイワイカードのサービスは終了することとなった。2011年3月31日限りでワイワイカードの発売を終了し<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160305023037/http://www.jrkyushu.co.jp/time/waiwai/101008_press.pdf ICカード「SUGOCA」と「はやかけん」を活用した新たなポイントサービスの検討開始とワイワイカードの発売終了について]}} - JR九州、2010年10月8日</ref><ref>[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10401 ワイワイカードの発売終了とICカード「はやかけん」と「SUGOCA」を活用した新たなポイントサービスの検討開始について] - 福岡市交通局営業課、2010年10月8日</ref>、同年10月31日限りで自動改札機・自動券売機・自動精算機での利用を全面的に終了した<ref>{{PDFlink|[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/pdf/pdf_11021021010500.pdf ワイワイカードの利用終了及び払いもどしについて]}} - 福岡市交通局・JR九州、2011年2月14日</ref>。残額のあるカードについては翌[[11月1日]]から[[2022年]][[3月31日]]まで手数料なしで残額を全額払い戻す<ref>[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=1319 【令和4年3月31日まで】「ワイワイカード」の払い戻し終了のお知らせ] - 福岡市交通局、2021年7月1日</ref>。払い戻し後のカードはいかなる理由があっても一切返却しない。<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150314214127/https://www.jrkyushu.co.jp/time/waiwai/haraimodoshi.pdf ワイワイカードの払い戻しのお知らせ]}} - JR九州</ref> 2009年からSUGOCA・[[オレンジカード]]対応、ワイワイカード非対応の自動券売機も設置されている。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[福岡市交通局]]が発行していた[[乗車カード]] ** [[えふカード]] - [[福岡市営地下鉄]]のみ利用可能 ** [[よかネットカード]] - [[西日本鉄道]]の鉄道路線と共通利用可能 * [[共通乗車制度]] - 乗車券の共通利用制度について * [[JR]]他社の磁気式乗車カード ** [[イオカード]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) ** [[Jスルーカード]] - [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) * [[SUGOCA]] * [[はやかけん]] * [[nimoca]] == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.jrkyushu.co.jp/time/waiwai/ |title=JR九州公式ホームページ内 ワイワイカード }} * {{Wayback |url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/card/waiwaicard/index.html |title=福岡市交通局公式ホームページ内 ワイワイカード }} {{JR九州}} {{デフォルトソート:わいわいかあと}} [[category:乗車カード|わいわいかあと]] [[Category:廃止されたプリペイドカード]] [[category:九州旅客鉄道の商品|廃わいわいかあと]] [[Category:福岡市交通局|廃わいわいかあと]]
null
2022-01-06T20:44:19Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal ja-jp", "Template:PDFlink", "Template:Wayback", "Template:JR九州" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89
15,855
えふカード
えふカード(fカード)は、福岡市交通局が発行するストアードフェアカードである。福岡市交通局の運営する地下鉄線(福岡市地下鉄)内のみで使用可能である。 2012年12月31日限りで発売を終了し、2013年10月31日限りで券売機・自動改札機での利用も終了した。 1995年5月8日からサービスを開始した。なお、2001年10月1日からプレミアムの向上に伴い発売金額を変更している。 大人用と小児・割引用の2種類がある。 自動改札機に直接投入して利用できる。また、自動券売機での乗車券の購入や自動精算機での乗り越し精算にも利用できる(ただし、「はやかけん」での定期券と併用しての乗り越し精算は不可)。 回数券の発展的解消としての位置付けであったが、登場初期は様々な制約があった。 これらの問題は回数券の廃止と券売機での乗車券購入が無条件で可能になったことで解消された。 福岡市地下鉄では、2009年3月7日にICカード「はやかけん」を導入し、2010年3月13日からは、九州旅客鉄道(JR九州)が2009年3月1日から導入している「SUGOCA」、西日本鉄道(西鉄)が2008年5月18日から導入している「nimoca」、東日本旅客鉄道(JR東日本)など6社に導入されている「Suica」との相互利用を開始している。 これに加えて2013年春からはPASMO・ICOCA・PiTaPaなどはやかけんを含む全国10種のICカードの相互利用が開始されることから、えふカードについては2012年12月31日限りで販売を終了し、2013年10月31日限りで取扱いを終了した。翌2013年11月1日から2018年10月31日までは無手数料(カード残額に発売金額を利用可能金額で割った値を掛けた額、端数は切り上げ)での払い戻しを実施する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "えふカード(fカード)は、福岡市交通局が発行するストアードフェアカードである。福岡市交通局の運営する地下鉄線(福岡市地下鉄)内のみで使用可能である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2012年12月31日限りで発売を終了し、2013年10月31日限りで券売機・自動改札機での利用も終了した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1995年5月8日からサービスを開始した。なお、2001年10月1日からプレミアムの向上に伴い発売金額を変更している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大人用と小児・割引用の2種類がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自動改札機に直接投入して利用できる。また、自動券売機での乗車券の購入や自動精算機での乗り越し精算にも利用できる(ただし、「はやかけん」での定期券と併用しての乗り越し精算は不可)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "回数券の発展的解消としての位置付けであったが、登場初期は様々な制約があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これらの問題は回数券の廃止と券売機での乗車券購入が無条件で可能になったことで解消された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "福岡市地下鉄では、2009年3月7日にICカード「はやかけん」を導入し、2010年3月13日からは、九州旅客鉄道(JR九州)が2009年3月1日から導入している「SUGOCA」、西日本鉄道(西鉄)が2008年5月18日から導入している「nimoca」、東日本旅客鉄道(JR東日本)など6社に導入されている「Suica」との相互利用を開始している。", "title": "サービスの終焉" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これに加えて2013年春からはPASMO・ICOCA・PiTaPaなどはやかけんを含む全国10種のICカードの相互利用が開始されることから、えふカードについては2012年12月31日限りで販売を終了し、2013年10月31日限りで取扱いを終了した。翌2013年11月1日から2018年10月31日までは無手数料(カード残額に発売金額を利用可能金額で割った値を掛けた額、端数は切り上げ)での払い戻しを実施する。", "title": "サービスの終焉" } ]
えふカード(fカード)は、福岡市交通局が発行するストアードフェアカードである。福岡市交通局の運営する地下鉄線(福岡市地下鉄)内のみで使用可能である。 2012年12月31日限りで発売を終了し、2013年10月31日限りで券売機・自動改札機での利用も終了した。
{{出典の明記| date = 2022-11}} '''えふカード'''('''fカード''')は、[[福岡市交通局]]が発行する[[乗車カード|ストアードフェアカード]]である。福岡市交通局の運営する地下鉄線(福岡市地下鉄)内のみで使用可能である。 [[2012年]][[12月31日]]限りで発売を終了し、[[2013年]][[10月31日]]限りで券売機・自動改札機での利用も終了した。 == 概要 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}} [[1995年]][[5月8日]]からサービスを開始した。なお、[[2001年]][[10月1日]]からプレミアムの向上に伴い発売金額を変更している。 大人用と小児・割引用の2種類がある。 [[自動改札機]]に直接投入して利用できる。また、[[自動券売機]]での[[乗車券]]の購入や[[自動精算機]]での乗り越し精算にも利用できる(ただし、「はやかけん」での定期券と併用しての乗り越し精算は不可)。 [[回数乗車券|回数券]]の発展的解消としての位置付けであったが、登場初期は様々な制約があった。 *複数人で使用する事は一切できない。残額が初乗り運賃以下にならないと、改札機だけでなく券売機や精算機にも投入ができなかった。しかも、その時は1枚しか乗車券が券売機で購入できなかった。 *大人用を子供が使う事(あるいはその逆)はできない。 *割引率が回数券に比べて低い。 これらの問題は回数券の廃止と券売機での乗車券購入が無条件で可能になったことで解消された。 ==発売券類== ===2001年10月1日以降=== ;大人用 *1,000円券(1,100円分使用可能) *3,000円券(3,400円分使用可能) *5,000円券(5,900円分使用可能) *10,000円券(11,800円分使用可能) ;小児・割引用 *1,000円券(1,100円分使用可能) *3,000円券(3,400円分使用可能) *5,000円券(5,900円分使用可能) ===2001年9月30日以前=== ;大人用 *2,000円券(2,100円分使用可能) *3,000円券(3,200円分使用可能) *5,000円券(5,500円分使用可能) *10,000円券(11,200円分使用可能) ;小児・割引用 *1,000円券(1,050円分使用可能) *1,500円券(1,600円分使用可能) *2,500円券(2,750円分使用可能) *5,000円券(5,600円分使用可能) == サービスの終焉 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}} 福岡市地下鉄では、[[2009年]][[3月7日]]に[[ICカード]]「[[はやかけん]]」を導入し、[[2010年]]3月13日からは、[[九州旅客鉄道]](JR九州)が2009年[[3月1日]]から導入している「[[SUGOCA]]」、[[西日本鉄道]](西鉄)が[[2008年]][[5月18日]]から導入している「[[nimoca]]」、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)など6社に導入されている「[[Suica]]」との相互利用を開始している。 これに加えて[[2013年]]春からは[[PASMO]]・[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]などはやかけんを含む全国10種のICカードの相互利用が開始されることから、えふカードについては2012年12月31日限りで販売を終了し、2013年10月31日限りで取扱いを終了した。翌2013年11月1日から2018年10月31日までは無手数料(カード残額に発売金額を利用可能金額で割った値を掛けた額、端数は切り上げ)での払い戻しを実施する<ref>{{PDFlink|[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/pdf/pdf_12091812095131.pdf 磁気カード(えふカード及び磁気定期券)等の取扱いについて]}} - 福岡市交通局営業課、2012年9月18日</ref>。 == 脚注 == <references /> ==関連項目== *[[よかネットカード]] *[[ワイワイカード]] *[[はやかけん]] *[[SUGOCA]] *[[nimoca]] == 外部リンク == * [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/card/fcard.php えふカードの払戻しについて|磁気カード乗車券|お得な乗車券|料金案内|福岡市交通局] {{デフォルトソート:えふかあと}} [[category:乗車カード|えふかあと]] [[category:福岡市交通局|商えふかあと]]
null
2022-11-21T08:23:25Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B5%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89
15,857
よかネットカード
よかネットカードは、かつて西日本鉄道(西鉄)と福岡市交通局が発行していた、両者で共通使用が可能なストアードフェアカードである。 1999年4月1日からサービスを開始したが、2010年3月31日限りで発売を終了し、2011年10月31日限りで取扱いを全面的に終了した。以下、特記ない限りバスでの取扱い終了時点の状況を記述する。 西鉄天神大牟田線・太宰府線・甘木線(但し無人駅は除く)並びに西鉄バスの一般路線バス全線(分離子会社を含む。ただし福岡シティループバス「ぐりーん」は利用不可)及び一部の高速バス路線、福岡市地下鉄全線、太宰府市コミュニティバス「まほろば号」(西鉄バス二日市が運行)で相互に利用可能である。 自動改札機に投入して使うほか、自動改札機のない駅でも駅係員が入出場処理を行うので利用可能である。また、自動券売機などでも利用可能である。但し、無人駅や早朝・深夜などで駅員不在の場合はカードを使用できない。2人以上での使用や小児が使う場合、カードの残額が初乗り(西鉄150円・地下鉄100円)未満の場合は、自動改札機に直接投入せず、自動券売機でカードを使い乗車券と引き換える必要がある。また西鉄電車(西鉄の鉄道線)でカードで入出場した場合は他の条件にかかわらず途中下車ができないが、自動券売機でカードを使い引き換えた乗車券であれば他の条件を満たしていれば途中下車できる。なお西鉄電車ではカード残金が150円以上の場合、現金と併用しての乗車券の購入はできない。 西鉄のバスカードと同様の利用方法である。乗車時及び降車時にカードリーダーに通して使うが、2人以上での使用や子供・割引運賃適用者が使用する場合は、降車時にカードを通す前に乗務員に申し出なければならない。 バスを利用した場合、その時点ではバス利用区間や日時などが印字されない。次回に鉄道を利用したとき、前回の鉄道利用時の残額との差額が「バス***」と印字される。 バスカードと同様、同じカードを用い、同一バス停において90分以内にバスを乗り継いで利用すると、乗継割引として、1回あたり最大80円が割り引かれる。 3,000円券(利用額3,200円)と5,000円券(同5,500円)の2種類。この他に記念カードとして1,000円券(利用額1,000円・プレミアムなし)が発売されていた。 西鉄・九州旅客鉄道(JR九州)・福岡市交通局では2008年から翌年にかけて従来の磁気カードに代わり、ソニーのFeliCa方式を用いたICカード乗車券を順次導入しており、2008年5月に西鉄が「nimoca」を、翌2009年3月にJR九州が「SUGOCA」、福岡市地下鉄が「はやかけん」を相次いで導入した。2010年3月13日には東日本旅客鉄道(JR東日本)の「Suica」を含めた4者間相互で乗車券機能と電子マネー機能を利用できるようになったほか、2013年3月に全国主要交通機関との間で相互利用範囲が拡大された。 このため各社は磁気式カード回数券廃止に向けた取り組みを進め、まず西鉄が2009年9月30日限りで自社のバスカードとともにバス関係窓口での販売を取り止めた。2010年3月31日限りで西鉄バス・太宰府市コミュニティバス「まほろば号」車内での取扱いを終了するとともに、鉄道窓口での販売も終了し、カードの販売が終了した。そして2011年10月31日限りで福岡市交通局がJR九州と共同で販売していた磁気カード「ワイワイカード」と同時に鉄道の自動改札機・自動券売機・自動精算機での取扱いを終了し、これにより取扱いを全面的に終了した。 2010年3月1日から西鉄・地下鉄の一部駅などでカードの払い戻しを開始し、2016年10月31日限りで終了した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "よかネットカードは、かつて西日本鉄道(西鉄)と福岡市交通局が発行していた、両者で共通使用が可能なストアードフェアカードである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1999年4月1日からサービスを開始したが、2010年3月31日限りで発売を終了し、2011年10月31日限りで取扱いを全面的に終了した。以下、特記ない限りバスでの取扱い終了時点の状況を記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "西鉄天神大牟田線・太宰府線・甘木線(但し無人駅は除く)並びに西鉄バスの一般路線バス全線(分離子会社を含む。ただし福岡シティループバス「ぐりーん」は利用不可)及び一部の高速バス路線、福岡市地下鉄全線、太宰府市コミュニティバス「まほろば号」(西鉄バス二日市が運行)で相互に利用可能である。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "自動改札機に投入して使うほか、自動改札機のない駅でも駅係員が入出場処理を行うので利用可能である。また、自動券売機などでも利用可能である。但し、無人駅や早朝・深夜などで駅員不在の場合はカードを使用できない。2人以上での使用や小児が使う場合、カードの残額が初乗り(西鉄150円・地下鉄100円)未満の場合は、自動改札機に直接投入せず、自動券売機でカードを使い乗車券と引き換える必要がある。また西鉄電車(西鉄の鉄道線)でカードで入出場した場合は他の条件にかかわらず途中下車ができないが、自動券売機でカードを使い引き換えた乗車券であれば他の条件を満たしていれば途中下車できる。なお西鉄電車ではカード残金が150円以上の場合、現金と併用しての乗車券の購入はできない。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "西鉄のバスカードと同様の利用方法である。乗車時及び降車時にカードリーダーに通して使うが、2人以上での使用や子供・割引運賃適用者が使用する場合は、降車時にカードを通す前に乗務員に申し出なければならない。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "バスを利用した場合、その時点ではバス利用区間や日時などが印字されない。次回に鉄道を利用したとき、前回の鉄道利用時の残額との差額が「バス***」と印字される。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "バスカードと同様、同じカードを用い、同一バス停において90分以内にバスを乗り継いで利用すると、乗継割引として、1回あたり最大80円が割り引かれる。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "3,000円券(利用額3,200円)と5,000円券(同5,500円)の2種類。この他に記念カードとして1,000円券(利用額1,000円・プレミアムなし)が発売されていた。", "title": "使用方法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "西鉄・九州旅客鉄道(JR九州)・福岡市交通局では2008年から翌年にかけて従来の磁気カードに代わり、ソニーのFeliCa方式を用いたICカード乗車券を順次導入しており、2008年5月に西鉄が「nimoca」を、翌2009年3月にJR九州が「SUGOCA」、福岡市地下鉄が「はやかけん」を相次いで導入した。2010年3月13日には東日本旅客鉄道(JR東日本)の「Suica」を含めた4者間相互で乗車券機能と電子マネー機能を利用できるようになったほか、2013年3月に全国主要交通機関との間で相互利用範囲が拡大された。", "title": "発売・取扱いの終了" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このため各社は磁気式カード回数券廃止に向けた取り組みを進め、まず西鉄が2009年9月30日限りで自社のバスカードとともにバス関係窓口での販売を取り止めた。2010年3月31日限りで西鉄バス・太宰府市コミュニティバス「まほろば号」車内での取扱いを終了するとともに、鉄道窓口での販売も終了し、カードの販売が終了した。そして2011年10月31日限りで福岡市交通局がJR九州と共同で販売していた磁気カード「ワイワイカード」と同時に鉄道の自動改札機・自動券売機・自動精算機での取扱いを終了し、これにより取扱いを全面的に終了した。", "title": "発売・取扱いの終了" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2010年3月1日から西鉄・地下鉄の一部駅などでカードの払い戻しを開始し、2016年10月31日限りで終了した。", "title": "発売・取扱いの終了" } ]
よかネットカードは、かつて西日本鉄道(西鉄)と福岡市交通局が発行していた、両者で共通使用が可能なストアードフェアカードである。 1999年4月1日からサービスを開始したが、2010年3月31日限りで発売を終了し、2011年10月31日限りで取扱いを全面的に終了した。以下、特記ない限りバスでの取扱い終了時点の状況を記述する。
'''よかネットカード'''は、かつて[[西日本鉄道]](西鉄)と[[福岡市交通局]]が発行していた、両者で共通使用が可能な[[乗車カード|ストアードフェアカード]]である。 [[1999年]][[4月1日]]からサービスを開始したが、[[2010年]][[3月31日]]限りで発売を終了し、2011年10月31日限りで取扱いを全面的に終了した<ref name="death">{{cite press release |和書 |title = 西鉄電車における「よかネットカード」サービスの終了について |url = https://www.nishitetsu.co.jp/release/2011/11_007.pdf |publisher = 西日本鉄道広報室広報課 |format = PDF |date = 2011-04-28 |accessdate = 2021-10-02 }}{{Cite press release|和書|title=よかネットカードの利用終了及び払戻しの対応期間について|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10464|publisher=福岡市交通局|format=|date=2011-04-28|accessdate=2011-04-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110609154425/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/topics/tpd.cgi?gid=10464|archivedate=2011年6月9日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。以下、特記ない限りバスでの取扱い終了時点の状況を記述する。 == 使用方法 == 西鉄[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]・[[西鉄太宰府線|太宰府線]]・[[西鉄甘木線|甘木線]](但し[[無人駅]]は除く)並びに西鉄バスの一般路線バス全線(分離子会社を含む。ただし福岡シティループバス「ぐりーん」は利用不可)及び一部の[[高速バス]]路線、[[福岡市交通局|福岡市地下鉄]]全線、[[太宰府市]][[コミュニティバス]]「[[まほろば号]]」([[西鉄バス二日市]]が運行)で相互に利用可能である。 === 鉄道 === [[自動改札機]]に投入して使うほか、自動改札機のない駅でも駅係員が入出場処理を行うので利用可能である。また、[[自動券売機]]などでも利用可能である。但し、[[無人駅]]や早朝・深夜などで駅員不在の場合はカードを使用できない。2人以上での使用や小児が使う場合、カードの残額が初乗り(西鉄150円・地下鉄100円)未満の場合は、自動改札機に直接投入せず、自動券売機でカードを使い[[乗車券]]と引き換える必要がある。また西鉄電車(西鉄の鉄道線)でカードで入出場した場合は他の条件にかかわらず[[途中下車]]ができないが、自動券売機でカードを使い引き換えた乗車券であれば他の条件を満たしていれば途中下車できる。なお西鉄電車ではカード残金が150円以上の場合、現金と併用しての乗車券の購入はできない。<!--また、天神大牟田線利用の際に割引運賃適用者は使用する事がない。--> === バス === 西鉄の[[バスカード (西鉄バス)|バスカード]]と同様の利用方法である。乗車時及び降車時にカードリーダーに通して使うが、2人以上での使用や子供・割引運賃適用者が使用する場合は、降車時にカードを通す前に乗務員に申し出なければならない。 バスを利用した場合、その時点ではバス利用区間や日時などが印字されない。次回に鉄道を利用したとき、前回の鉄道利用時の残額との差額が「バス***」と印字される。 [[バスカード (西鉄バス)|バスカード]]と同様、同じカードを用い、同一バス停において90分以内にバスを乗り継いで利用すると、乗継割引として、1回あたり最大80円が割り引かれる。 === 発売券種 === 3,000円券(利用額3,200円)と5,000円券(同5,500円)の2種類。この他に記念カードとして1,000円券(利用額1,000円・プレミアムなし)が発売されていた。 == 発売・取扱いの終了 == 西鉄・[[九州旅客鉄道]](JR九州)・福岡市交通局では[[2008年]]から翌年にかけて従来の磁気カードに代わり、[[ソニー]]の[[FeliCa]]方式を用いた[[ICカード]]乗車券を順次導入しており、2008年5月に西鉄が「[[nimoca]]」を、翌2009年3月にJR九州が「[[SUGOCA]]」、福岡市地下鉄が「[[はやかけん]]」を相次いで導入した。[[2010年]][[3月13日]]には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の「[[Suica]]」を含めた4者間相互で乗車券機能と電子マネー機能を利用できるようになったほか、[[2013年]]3月に全国主要交通機関との間で相互利用範囲が拡大された。 このため各社は磁気式カード回数券廃止に向けた取り組みを進め、まず西鉄が[[2009年]][[9月30日]]限りで自社のバスカードとともにバス関係窓口での販売を取り止めた。[[2010年]][[3月31日]]限りで西鉄バス・太宰府市コミュニティバス「[[まほろば号]]」車内での取扱いを終了するとともに、鉄道窓口での販売も終了し、カードの販売が終了した。そして2011年10月31日限りで福岡市交通局がJR九州と共同で販売していた磁気カード「[[ワイワイカード]]」と同時に鉄道の自動改札機・自動券売機・自動精算機での取扱いを終了し、これにより取扱いを全面的に終了した<ref name="death"/>。 2010年3月1日から西鉄・地下鉄の一部駅などでカードの払い戻しを開始し、2016年10月31日限りで終了した。 == 関連項目 == * [[えふカード]] * [[ワイワイカード]] * [[バスカード (西鉄バス)]] * [[nimoca]] * [[はやかけん]] == 脚注 == <div class="references-small"><references/></div> == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.nishitetsu.co.jp/train/kippu/yokanet.htm |title=よかネットカード }}(西日本鉄道公式ホームページ内) * [https://web.archive.org/web/20090907114523/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/card/yokanetcard/index.html よかネットカード](福岡市交通局公式ホームページ内) * {{PDFlink|[https://www.nishitetsu.co.jp/release/2007/07_113.pdf 西鉄ニュースリリース「『九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会』の発足について」]}} * {{PDFlink|[https://www.nishitetsu.co.jp/release/2009/09_002.pdf 西鉄ニュースリリース「割引乗車券のサービス終了について」]}} * [https://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/card/yokanetcard.php 福岡市交通局ニュースリリース「よかネットカードの発売終了について」] {{DEFAULTSORT:よかねつとかあと}} [[Category:乗車カード]] [[Category:廃止されたプリペイドカード]] [[Category:西日本鉄道|商よつかねつとかあと]] [[Category:福岡市交通局|商よつかねつとかあと]]
null
2023-03-16T07:57:03Z
false
false
false
[ "Template:Cite press release", "Template:Wayback", "Template:PDFlink" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%8B%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89
15,858
SFパノラマカード
SFパノラマカードは、名古屋鉄道が発行していた磁気記録式の乗車カード(ストアードフェアカード)である。 ここでは、その前身と言える名鉄バスカードについても述べる。 1990年4月1日より名鉄が発行していたプリペイドカード「パノラマカード」「パノラマプラスカード」が、2002年5月31日限りで発行終了し、その後改めてこれらに代わるものとして発行開始したストアードフェアカード。 最初は2003年3月27日に名古屋市営地下鉄上飯田線と相互直通運転を開始した小牧線に導入され、駅集中管理システムと共に2007年度末までに全線への普及を目指して整備中だったが、2008年6月29日の西尾線福地 - 吉良吉田間と南桜井、竹鼻線柳津の各駅への導入を以て終了した。 名鉄を始め、愛知高速交通(リニモ)と名鉄バスの2社でも同じく「SFパノラマカード」として発売された。ただし、愛知高速交通で発売分の図柄は名古屋鉄道と名鉄バスで発売されているものとは異なる独自のものであった。また、名鉄で発売されるものは、正月や名鉄主催のイベントなどに併せて限定の図柄が発売されることが度々あった。 名古屋鉄道のほか、名鉄バス(名鉄東部交通を含む)、名古屋市交通局、名古屋臨海高速鉄道、愛知高速交通で共通使用が可能なストアードフェアシステム「トランパス」に対応していた。 ICカード乗車券manaca導入により、2011年2月10日に販売を終了し、翌年の2012年2月29日で利用終了となった。発売開始から長くて9年で使用が停止されたことになる。 1,000円券(利用額1,000円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,300円)・5,000円券(同5,600円)の4種類があった。 トランパスを導入している駅の自動券売機か窓口で購入することができた。なお、無人駅でも購入することができたが、逆に未導入駅では主要駅であっても購入することができなかった。 名鉄バスも同社のバスカードとして導入した。基本的に同社のみのバスカードだが、当初から共通乗車制度があるが、上記同様、ICカードmanaca導入により、2011年2月10日に販売終了、2012年2月29日に利用を終了した。 当初は普通バスカードが1,000円券(利用額1,050円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,350円)・5,000円券(同5,750円)、昼間割引バスカードが1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の各4種類でそれぞれ発売していた。その後、トランパス導入時に普通バスカードの1,000円券と2,000円券が一部を除き発売終了となり、SFパノラマカードに移行している。また、昼間割引バスカードは2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみの発売となっている。 当初から名古屋市交通局の基幹バスにも乗車可能だった。その後、岐阜バスグループ、岐阜市営バス(現在は岐阜バスへ移譲)、名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)にも乗車可能エリアを拡大した。基幹バスでの共通乗車範囲は、名鉄バスが本地ヶ原線名鉄バスセンター - 三軒家間、名古屋市営バスが基幹2号系統と名古屋駅・栄 - 引山・猪高車庫間で、名鉄バスが併走しない自由ヶ丘方面へも乗車可能だった。なお、名鉄バス全体でのバスカード導入以前から基幹バスに限りSFパノラマカードの前身であるパノラマカード・パノラマプラスカード、ユリカとその前身のリリーカードが共通利用可能だった。 その後、トランパス導入時に共通乗車が一旦すべて廃止され、名古屋市交通局担当の基幹バスでは従来の本カードの利用が停止された。なお、名鉄バス担当の基幹バスでは今まで通り本カードが使用できる。 岐阜バスや岐阜市営バスとの共通乗車は、岐阜地区でバスカード導入時に従来から存在していた共通回数券を置き換える形で導入された。本カードは岐阜バス・岐阜市営バス共にバスカードが使える全線で使用可能だったが、岐阜バス及び岐阜市営バスが発行していたバスカードは愛知県内の名鉄バスでは使えず、岐阜地区の同社線のみ使用可能だった。 名鉄バスの岐阜地区撤退後も本カードは岐阜バスで使用できた。また、岐阜市営バスでは最終日まで使用できた。なお、2007年3月31日をもって岐阜バスグループ(岐阜バス・岐阜バスコミュニティ・岐阜バスコミュニティ八幡)によるバスカードの販売を終了し、ICカード「ayuca」に移行した。なお、同グループでは翌2008年3月31日をもってバスカードの使用が停止され、払い戻しは2008年9月をもって終了した。 ゆとりーとラインについても、名鉄バスが撤退したため、2009年9月30日をもって普通カードは利用できなくなった。 本カードは、従来1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の4種類の昼間割引バスカードが発売されていた。トランパス導入時に名古屋市交通局発行の昼間割引バスカードであるユリカ2800との共通利用制度が始まると共にこれら4種類のバスカードの発行を停止し、名古屋市交通局と金額を揃えた2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみに統一した。 従来の昼間割引バスカードを置き換える形になったため、名鉄バス・名古屋市営バス全線のほか、ゆとりーとラインにも使用可能。名古屋市交通局では、ユリカ2800、子供用のユリカ1400が発売されており、名鉄バス全線で使用が可能である。また、名古屋市交通局発行のこども特割ユリカ(ユリカ1100)も名鉄バスで使用可能である(当カードは地下鉄も使用可能だが、名鉄線には使用できない)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SFパノラマカードは、名古屋鉄道が発行していた磁気記録式の乗車カード(ストアードフェアカード)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ここでは、その前身と言える名鉄バスカードについても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年4月1日より名鉄が発行していたプリペイドカード「パノラマカード」「パノラマプラスカード」が、2002年5月31日限りで発行終了し、その後改めてこれらに代わるものとして発行開始したストアードフェアカード。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "最初は2003年3月27日に名古屋市営地下鉄上飯田線と相互直通運転を開始した小牧線に導入され、駅集中管理システムと共に2007年度末までに全線への普及を目指して整備中だったが、2008年6月29日の西尾線福地 - 吉良吉田間と南桜井、竹鼻線柳津の各駅への導入を以て終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "名鉄を始め、愛知高速交通(リニモ)と名鉄バスの2社でも同じく「SFパノラマカード」として発売された。ただし、愛知高速交通で発売分の図柄は名古屋鉄道と名鉄バスで発売されているものとは異なる独自のものであった。また、名鉄で発売されるものは、正月や名鉄主催のイベントなどに併せて限定の図柄が発売されることが度々あった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "名古屋鉄道のほか、名鉄バス(名鉄東部交通を含む)、名古屋市交通局、名古屋臨海高速鉄道、愛知高速交通で共通使用が可能なストアードフェアシステム「トランパス」に対応していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ICカード乗車券manaca導入により、2011年2月10日に販売を終了し、翌年の2012年2月29日で利用終了となった。発売開始から長くて9年で使用が停止されたことになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1,000円券(利用額1,000円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,300円)・5,000円券(同5,600円)の4種類があった。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "トランパスを導入している駅の自動券売機か窓口で購入することができた。なお、無人駅でも購入することができたが、逆に未導入駅では主要駅であっても購入することができなかった。", "title": "発売場所" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "名鉄バスも同社のバスカードとして導入した。基本的に同社のみのバスカードだが、当初から共通乗車制度があるが、上記同様、ICカードmanaca導入により、2011年2月10日に販売終了、2012年2月29日に利用を終了した。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当初は普通バスカードが1,000円券(利用額1,050円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,350円)・5,000円券(同5,750円)、昼間割引バスカードが1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の各4種類でそれぞれ発売していた。その後、トランパス導入時に普通バスカードの1,000円券と2,000円券が一部を除き発売終了となり、SFパノラマカードに移行している。また、昼間割引バスカードは2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみの発売となっている。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当初から名古屋市交通局の基幹バスにも乗車可能だった。その後、岐阜バスグループ、岐阜市営バス(現在は岐阜バスへ移譲)、名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)にも乗車可能エリアを拡大した。基幹バスでの共通乗車範囲は、名鉄バスが本地ヶ原線名鉄バスセンター - 三軒家間、名古屋市営バスが基幹2号系統と名古屋駅・栄 - 引山・猪高車庫間で、名鉄バスが併走しない自由ヶ丘方面へも乗車可能だった。なお、名鉄バス全体でのバスカード導入以前から基幹バスに限りSFパノラマカードの前身であるパノラマカード・パノラマプラスカード、ユリカとその前身のリリーカードが共通利用可能だった。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、トランパス導入時に共通乗車が一旦すべて廃止され、名古屋市交通局担当の基幹バスでは従来の本カードの利用が停止された。なお、名鉄バス担当の基幹バスでは今まで通り本カードが使用できる。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "岐阜バスや岐阜市営バスとの共通乗車は、岐阜地区でバスカード導入時に従来から存在していた共通回数券を置き換える形で導入された。本カードは岐阜バス・岐阜市営バス共にバスカードが使える全線で使用可能だったが、岐阜バス及び岐阜市営バスが発行していたバスカードは愛知県内の名鉄バスでは使えず、岐阜地区の同社線のみ使用可能だった。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "名鉄バスの岐阜地区撤退後も本カードは岐阜バスで使用できた。また、岐阜市営バスでは最終日まで使用できた。なお、2007年3月31日をもって岐阜バスグループ(岐阜バス・岐阜バスコミュニティ・岐阜バスコミュニティ八幡)によるバスカードの販売を終了し、ICカード「ayuca」に移行した。なお、同グループでは翌2008年3月31日をもってバスカードの使用が停止され、払い戻しは2008年9月をもって終了した。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ゆとりーとラインについても、名鉄バスが撤退したため、2009年9月30日をもって普通カードは利用できなくなった。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "本カードは、従来1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の4種類の昼間割引バスカードが発売されていた。トランパス導入時に名古屋市交通局発行の昼間割引バスカードであるユリカ2800との共通利用制度が始まると共にこれら4種類のバスカードの発行を停止し、名古屋市交通局と金額を揃えた2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみに統一した。", "title": "名鉄バスカード" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "従来の昼間割引バスカードを置き換える形になったため、名鉄バス・名古屋市営バス全線のほか、ゆとりーとラインにも使用可能。名古屋市交通局では、ユリカ2800、子供用のユリカ1400が発売されており、名鉄バス全線で使用が可能である。また、名古屋市交通局発行のこども特割ユリカ(ユリカ1100)も名鉄バスで使用可能である(当カードは地下鉄も使用可能だが、名鉄線には使用できない)。", "title": "名鉄バスカード" } ]
SFパノラマカードは、名古屋鉄道が発行していた磁気記録式の乗車カード(ストアードフェアカード)である。 ここでは、その前身と言える名鉄バスカードについても述べる。
{{otheruseslist|2003年から2012年に利用可能であった、[[名古屋鉄道]]発行の[[ストアードフェア]]「対応」の乗車カード|1990年から2008年に利用可能であった、同社発行のストアードフェア「非対応」のもの|パノラマカード}} {{出典の明記|date=2020-07-19}} [[ファイル:SF Panorama Card.jpg|thumb|250px|right|SFパノラマカード(名鉄標準デザイン)]] '''SFパノラマカード'''は、[[名古屋鉄道]]が発行していた[[磁気]]記録式の[[乗車カード]](ストアードフェアカード)である。 ここでは、その前身と言える名鉄[[バスカード]]についても述べる。 == 概要 == 1990年4月1日より名鉄が発行していたプリペイドカード[[パノラマカード|「パノラマカード」「パノラマプラスカード」]]が、2002年5月31日限りで発行終了し、その後改めてこれらに代わるものとして発行開始したストアードフェアカード。 最初は[[2003年]][[3月27日]]に[[名古屋市営地下鉄上飯田線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を開始した[[名鉄小牧線|小牧線]]に導入され、[[駅集中管理システム]]と共に[[2007年]]度末までに全線への普及を目指して整備中だったが、[[2008年]][[6月29日]]の[[名鉄西尾線|西尾線]][[福地駅|福地]] - [[吉良吉田駅|吉良吉田]]間と[[南桜井駅 (愛知県)|南桜井]]、[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]][[柳津駅 (岐阜県)|柳津]]の各駅への導入を以て終了した。 名鉄を始め、[[愛知高速交通]](リニモ)と[[名鉄バス]]の2社でも同じく「SFパノラマカード」として発売された。ただし、愛知高速交通で発売分の図柄は名古屋鉄道と名鉄バスで発売されているものとは異なる独自のものであった。また、名鉄で発売されるものは、[[正月]]や名鉄主催のイベントなどに併せて限定の図柄が発売されることが度々あった。 名古屋鉄道のほか、[[名鉄バス]](名鉄東部交通を含む)、[[名古屋市交通局]]、[[名古屋臨海高速鉄道]]、愛知高速交通で共通使用が可能な[[ストアードフェアシステム]]'''「[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]」'''に対応していた。 [[ICカード]][[乗車券]][[manaca]]導入により、2011年2月10日に販売を終了し、翌年の2012年2月29日で利用終了となった。発売開始から長くて9年で使用が停止されたことになる。 == 種類 == 1,000円券(利用額1,000円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,300円)・5,000円券(同5,600円)の4種類があった。 == 発売場所 == トランパスを導入している駅の[[自動券売機]]か窓口で購入することができた。なお、[[無人駅]]でも購入することができたが、逆に未導入駅では主要駅であっても購入することができなかった。 == 名鉄バスカード == 名鉄バスも同社のバスカードとして導入した。基本的に同社のみのバスカードだが、当初から[[#共通乗車制度|共通乗車制度]]があるが、上記同様、ICカードmanaca導入により、2011年2月10日に販売終了、2012年2月29日に利用を終了した。 === カードの種類 === 当初は普通バスカードが1,000円券(利用額1,050円)・2,000円券(同2,200円)・3,000円券(同3,350円)・5,000円券(同5,750円)、昼間割引バスカードが1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の各4種類でそれぞれ発売していた。その後、トランパス導入時に普通バスカードの1,000円券と2,000円券が一部を除き発売終了となり、SFパノラマカードに移行している。また、昼間割引バスカードは2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみの発売となっている。 === 共通乗車制度 === 当初から[[名古屋市交通局]]の[[基幹バス (名古屋市)|基幹バス]]にも乗車可能だった。その後、[[岐阜乗合自動車|岐阜バス]]グループ、[[岐阜市交通事業部|岐阜市営バス]](現在は岐阜バスへ移譲)、[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])にも乗車可能エリアを拡大した。基幹バスでの共通乗車範囲は、名鉄バスが本地ヶ原線名鉄バスセンター - 三軒家間、名古屋市営バスが基幹2号系統と名古屋駅・栄 - 引山・猪高車庫間で、名鉄バスが併走しない自由ヶ丘方面へも乗車可能だった。なお、名鉄バス全体でのバスカード導入以前から基幹バスに限りSFパノラマカードの前身である[[パノラマカード|パノラマカード・パノラマプラスカード]]、[[ユリカ]]とその前身の[[リリーカード]]が共通利用可能だった。 その後、トランパス導入時に共通乗車が一旦すべて廃止され、名古屋市交通局担当の基幹バスでは従来の本カードの利用が停止された。なお、名鉄バス担当の基幹バスでは今まで通り本カードが使用できる。 岐阜バスや岐阜市営バスとの共通乗車は、岐阜地区でバスカード導入時に従来から存在していた共通[[回数乗車券|回数券]]を置き換える形で導入された。本カードは岐阜バス・岐阜市営バス共にバスカードが使える全線で使用可能だったが、岐阜バス及び岐阜市営バスが発行していたバスカードは愛知県内の名鉄バスでは使えず、岐阜地区の同社線のみ使用可能だった。 名鉄バスの岐阜地区撤退後も本カードは岐阜バスで使用できた。また、岐阜市営バスでは最終日まで使用できた。なお、[[2007年]][[3月31日]]をもって岐阜バスグループ(岐阜バス・岐阜バスコミュニティ・岐阜バスコミュニティ八幡)によるバスカードの販売を終了し、ICカード「[[ayuca]]」に移行した。なお、同グループでは翌[[2008年]]3月31日をもってバスカードの使用が停止され、払い戻しは2008年9月をもって終了した。 ゆとりーとラインについても、名鉄バスが撤退したため、2009年9月30日をもって普通カードは利用できなくなった。 === 昼間割引バスカード === 本カードは、従来1,000円券(利用額1,150円)・2,000円券(同2,600円)・3,000円券(同3,950円)・5,000円券(同6,750円)の4種類の昼間割引バスカードが発売されていた。トランパス導入時に名古屋市交通局発行の昼間割引バスカードであるユリカ2800との共通利用制度が始まると共にこれら4種類のバスカードの発行を停止し、名古屋市交通局と金額を揃えた2,000円券(利用額2,800円)の1種類のみに統一した。 従来の昼間割引バスカードを置き換える形になったため、名鉄バス・名古屋市営バス全線のほか、ゆとりーとラインにも使用可能。名古屋市交通局では、ユリカ2800、子供用のユリカ1400が発売されており、名鉄バス全線で使用が可能である。また、名古屋市交通局発行のこども特割ユリカ(ユリカ1100)も名鉄バスで使用可能である(当カードは地下鉄も使用可能だが、名鉄線には使用できない)。 == 関連項目 == *[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]] - SFパノラマカードはトランパス対応。 **[[ユリカ]] - [[名古屋市交通局]]が発売していた乗車カード。バス・地下鉄共通大人用ユリカのみトランパス対応。 **[[あおなみカード]] - [[名古屋臨海高速鉄道]]が発売していた、トランパス対応の乗車カード。 *[[パノラマカード]] - SFパノラマカードの前身となる乗車カード。 *[[manaca]] - SFパノラマカードの後継となる乗車カード。但し、トランパス加盟各社局のうち[[愛知高速交通東部丘陵線|愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)]]への乗車のみ、2016年3月11日までできなかった。 *[[リニモカード]] - [[愛知高速交通]]にとって、SFパノラマカードの後継となる乗車カード。 == 外部リンク == *[https://www.meitetsu.co.jp/train/ticket_fare/sf_card/ SFパノラマカードの払いもどし](名古屋鉄道公式HP) [[Category:乗車カード|えすえふはのまらかあと]] [[Category:名古屋鉄道|商えすえふはのらまかあと]]
null
2022-06-08T08:20:14Z
false
false
false
[ "Template:Otheruseslist", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SF%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89
15,859
トランパス (交通プリペイドカード)
トランパスは、名古屋市交通局・名古屋鉄道など、名古屋圏の鉄道・バス事業者で共通利用されていた磁気記録式乗車カードシステムの名称である。 トランパスとは、英語の「Transport」(交通機関)や「Transfer」(乗り換える)の接頭辞であるTransと、Pass(通る)を組み合わせた造語である。 トランパスの後継として、非接触式ICカード乗車券manacaが2011年2月11日に導入された。これに伴いトランパス対応カードは、2011年2月10日に発売終了し、翌年2012年2月29日に利用終了となった。 以下の事業者の路線で利用可能であった。 カードを自動改札機に直接投入して入・出場する。入場時に入場情報を書き込み、出場時に乗車した区間の運賃を精算する。また、名鉄⇔地下鉄の間を直通列車などで移動する場合も、出場時に名鉄・地下鉄の乗車区間の運賃を一度に引き落とす。ただし、カード残額がその隣の駅までの最低運賃に満たないと入場できない。なお、出場の際に経路が複数存在する場合は、社局間を跨いだ場合も含めて改札を出ることなく運賃が一番安くなる経路を用いて精算される。 自動券売機での乗車券購入や、自動精算機での乗り越し精算にも利用できる。ただし、複数人や子供が利用する場合やトランパス非対応駅で出場する場合は、あらかじめ自動券売機で乗車券と引き換え、乗車券で入場する必要がある。 なお、名鉄においては自動改札機・自動券売機・自動精算機および精算窓口における運賃の支払いのみに使用できる。例えば、入場券・回数券・ミューチケットは自動券売機および発券窓口双方に於いて現金にて購入する必要があるほか、発券窓口に於いて乗車券を購入する際にもトランパスは使用できない。 名鉄・名古屋市営地下鉄・リニモの自動改札機は2枚以上のカード・乗車券類の一括投入に対応しておらず、重ねて投入すると「枚数超過」となり通過することができず、必ず自動精算機で精算する必要がある。ただし、あおなみ線の自動改札機はカード・乗車券類の2枚一括投入が可能である。また、名古屋駅のJR東海線⇔あおなみ線、金山駅のJR東海線⇔名鉄線の連絡改札口の自動改札機はJR東海の磁気乗車券との2枚投入に対応しているため、TOICA・Suica・ICOCAとトランパスとの同時処理が可能である。 有人駅であれば窓口でも乗り越し精算が可能である。名鉄の場合、終日有人駅の中には自動精算機を設置していない駅があり、この場合には必然的に窓口での精算となる。 カード裏面には最大で43回まで乗降記録が印字される。内容は利用月日・利用時間・乗車駅・降車駅・乗継情報・残額である(参考)。44回以降の乗車記録については#特殊な取り扱いを参照のこと。 トランパスで入場したが、トランパス非対応駅で出場するなど、カードを使用せずに出場する場合、カードの入場記録を消去する必要がある。これをキャンセル処理という。これは駅窓口にある端末で行うもので、改札口の駅員に申し出れば処理することができる。キャンセル処理をせずに、入場記録が残ったままだと次回からそのカードが使用できないので、必ず処理を受けなければならない。 名鉄には、広見線の明智駅 - 御嵩駅間の各駅、蒲郡線の三河鳥羽駅 - 蒲郡駅間の各駅、及び名鉄尾西線弥富駅は、トランパスに対応した設備が設置されておらず、トランパスの非対応区間となっている。非対応駅では、自動改札機でトランパスが利用できないだけでなく、乗車券を購入することもできない。 トランパスで入場したが、誤って非対応駅で下車してしまった場合、下車駅でトランパス対応カードによる精算をすることはできない。この場合、乗車した列車の車掌または降車駅の駅係員に、トランパス対応カードを提示し、現金で精算して、精算証明書を発行してもらう必要がある。後日、次回利用するまでに、その証明書と誤入場したトランパス対応カードを対応駅の改札窓口へ提示してキャンセル処理を受ける必要がある。 トランパス対応区間から、上記の非対応区間にまたがって利用する場合に、広見線新可児駅及び蒲郡線吉良吉田駅に、トランパスを利用のためののりかえ改札口が設置されている。のりかえ改札口を経由しなければ、非対応区間でトランパスを利用することはできない。 この区間はmanacaも導入されておらず、manaca(交通系ICカード全国相互利用サービス)を使用する場合も同様の手続きを行う。 名鉄尾西線弥富駅から乗車する場合は、現金で目的地までの乗車券を購入するか、または現金で最低区間(隣の五ノ三駅まで190円)など途中の区間までの乗車券を購入して下車駅でトランパスで精算することになる。 トランパスで入場して弥富駅で下車する場合は、誤って非対応駅で下車してしまった場合と同様に、現金で精算し証明書を発行する取り扱いとなる。 なお、弥富駅はmanaca対応となったので、manacaで利用する場合は、この手間が解消されることになった。 近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅との連絡改札口に設置されている自動改札機では、トランパスと近鉄線乗車券の2枚投入、または近鉄線対応ICカード(PiTaPa、ICOCA)との組み合わせにより乗り換えができる。近鉄のPiTaPa導入当初は磁気乗車券とのに対応しているだけでPiTaPa・ICOCAとトランパスとの同時処理はできなかったが、その後改良され、同時処理ができるようになった。 社・局により利用方法が異なる。 乗車時に乗車口にあるカード読み取り機にカードを通し(この時に整理券を取る必要はないので、読み取り機に整理券番号が表示される)、降車時に運賃箱のカード精算機にカードを通す(この時に乗車された区間の運賃が差し引かれる)。 乗車時(基幹2号系統は降車時)に運賃箱のカード精算機にカードを通すと乗車運賃が差し引かれる。 ただし、高速1号系統(栄 - 森の里団地間)は高速道路を通行するために10円の加算運賃制度を導入しており、高速道路区間を利用しない場合は乗車時に運転士に申告しなければならない。同路線は大半の利用者が高速道路区間を通過するため、申告しないと高速道路区間前で降りる場合でも自動的に高速利用料金〈10円〉を加算した運賃が差し引かれてしまう。また、運転士に申し出ることで高速料金だけをカードから差し引くことも可能である。 利用可能金額にプレミアムが付く。これにより回数乗車券の代替を目的としているため、名鉄以外の導入事業者では回数券を発売しなくなった。名古屋市交通局ではユリカの発売(1998年5月6日)と引き換えに回数券の発売を中止した(当時はトランパス発足前だった)が、名鉄は引き続き名鉄名古屋駅・金山駅を基点とした一部区間で回数券(割引きっぷ)を発売しているほか、通常の回数券・時差回数券および土休日回数券の発売も行っていた。名鉄は2012年2月29日の終列車を以て、これらの回数乗車券の発売および利用を終了した。 プレミアムの金額は下表の通りである。 トランパスは、各社・局規定の残高以下になった場合、自動券売機に現在使用中の対応カードを挿入して2,200円分(購入金額2,000円)・3,300円分(同3,000円)・5,600円分(同5,000円)のカードを購入すると今まで使用していたカードの残高を新たに購入したカードの残高に加算することができた。これを「積み増し」と言う。 但し、カードの新規発売停止と同じ2011年2月10日限りでサービス終了となっている。 積み増しが可能となる残高は下記の通りであった。 元のカードの残高は新しく購入するカードに引き継がれ、元のカードと新しく購入したカードの2枚が出てくる。なお、元のカードは回収されないので、誤って新たに購入したカードを捨ててしまわない様に注意が必要である。その際に元のカードの裏面最後に「増済」と印字され、残高が二重線で消される。対して新たに購入したカードの表面には「積増」印字がされ、元のカードの残額と購入したカードの利用可能額を合算した金額が裏面に印字される。 ただし、あおなみ線の各駅は自動改札機がカード2枚同時投入に対応しているため、自動券売機は積み増しに対応していない。このため、カードの残額が初乗り運賃に満たない場合、乗車駅では残額不足のカードと残額合計が初乗り運賃以上になる新たなカードの2枚を重ねて自動改札機に投入して入場し、降車駅では入場時に使用した2枚のカードを重ねて自動改札機に投入して出場する。なお、残額が0円になった元のカードは回収されない。これは他の共通カード(スルッとKANSAIなど)とは異なる使用方法である。 以下の場合に乗り継ぎ割引が受けられる。割引額は右表の通りである。 共同運行区間:次の区間を共同運行区間として扱い、名鉄バスを市バスとして含める。 但し逆の扱い(市バスを名鉄バスとして含める)は受けられないので注意が必要。 カード裏面に乗継情報が印字されるので、乗り継ぎ割引が受けられるか否かを確認することができる。 トランパス対応カードは、発売額が2,000円以上のカードに限り利用可能社・局の駅の窓口で払い戻しの取り扱いを行っていた。残額から発売時に付けたプレミアム額(例:ユリカ5600なら600円)と手数料200円を差し引いた額を払い戻す。なお、発売額が500円と1,000円のカードは払い戻しできなかった。 manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。払い戻しの期間は「当分の間」としており、明確な期間は決まっていない。ただし、プレミアム分が考慮され残額が全額返金されるわけではなく、カード残額×発売金額÷利用可能額が払い戻し金額となる。カードの発行社局は問わず払い戻しが可能である。 なお、カードの残額をそのままmanacaへ移し替えすることはできず、一旦払い戻し処理を行う必要がある。 トランパス対応カードを自動券売機に挿入して乗車券に引き換えた後に当該乗車券が不要になった場合、現金では払い戻しの取り扱いができないため、引き換えた乗車券の金額をカードに戻してカードの再発行を行う(ただし手数料が必要)。 トランパス対応カードの裏面には乗降記録が印字されるが、1枚のカードに最大で43回までの乗降記録を印字することができる。それ以降も残額がある場合、44回目にあたる場所には印字満杯と印字され、そのカードでは自動改札機に投入することができなくなる。この場合、駅の自動券売機または窓口でカードの再発行を受けることで、印字満杯カードの残額が新しいカードに引き継がれ、再び残額分のカードを使用することができる。なおトランパス対応社局内なら、SFパノラマカード→ユリカ・あおなみカードといった引き換えもできる。 カードの残額と同じ運賃の区間を利用し、その後、乗り継ぐ場合、1乗車目でカードの残高は0円となるが、残高0円となったカードを使って、2乗車目で乗り継ぎ割引を受けることができる。 この場合、1乗車目でカードの残額は0円となるが、裏面には乗継有効と印字され、乗り継ぎ割引が有効である情報が記録された状態になる。これを、俗に0円券と呼ぶことがある。続いて、2乗車目に乗り継ぐ際には、駅の自動券売機で0円券を先に挿入し、他のトランパスまたは現金を追加することで乗り継ぎ割引が適用された運賃で乗車券を購入することができる。この取り扱いは地下鉄とあおなみ線など乗り継ぎ割引が適用される乗車方法すべてで有効である。ちなみに、乗り継ぎ割引が適用された後の0円券の裏面には、乗継有効の印字の下に、乗継完了と印字される。 こうしたことから、ちょうど印字満杯となる43回目の利用で、0円券となった場合、乗り継ぎ割引を利用すると、乗継完了の印字は、45回目に相当する欄に印字されることになる。これがカード裏面に印字できる最高回数である。 敬老パスなどの地下鉄全線無料パスで名鉄線へ乗り越した場合、トランパス対応駅では当該乗車券とトランパス対応カードで名鉄線区間の運賃を支払うことができるが、トランパス未対応の駅の場合はカードを使用することができないので、全額現金での精算となる。なお、「(市バス・)地下鉄(共通)一日乗車券」や「ドニチエコきっぷ」など名鉄線では使えないカードで同線へ乗り越した場合、同線のトランパス未対応区間では同様に全額現金での精算となる。トランパス対応駅ではトランパスで精算出来るが、自動精算機で直接処理することは出来ないので有人窓口で、トランパス対応駅でかつ駅集中管理システムの導入された無人駅の場合は、自動精算機の横に設置されたインターホンで管理駅の係員に連絡し、管理駅から精算機の操作を受けた上で精算する。 磁気を帯びたものに近付けるなどしてカード内の磁気情報が乱れてしまった時や、折れ曲がるなどしてカードリーダーに通すことができなくなった場合は、裏面の残額がはっきりと判る場合のみ駅窓口に申し出ることでカードの再発行が受けられる。この場合、カードの表面に再発行したことを示す記号([再])が印字される。地下鉄では使用できないバス昼間割引ユリカでも駅窓口に申し出ることで再発行が受けられる(バス昼間割引ユリカは地下鉄駅のみの取り扱い)。使用できなくなったカードはカードの再発行と引き換えに回収され、返却されない。なお、無人駅ではカードの再発行ができないので、トランパス対応有人駅の改札窓口へ申し出るか、インターホンで下車駅の管理駅係員に問い合わせる必要がある。 2003年3月27日の上飯田連絡線開業に合わせ、1998年5月6日から発売されている名古屋市交通局のユリカの方式を名古屋鉄道が採用する形で、共通化された。 トランパスという愛称は、名古屋市交通局と名古屋鉄道が共同で公募して決定された。 名鉄は、2008年6月29日でトランパスの新規導入を終了した。 2012年2月29日をもって利用終了となった。 トランパス導入事業者である名古屋鉄道や名古屋市交通局から、2010年度中に、ICカード乗車券システムmanacaを導入することが発表された。同カードには、電子マネー機能が搭載される。その後、サービス開始は2011年2月11日と発表され、予定通り同日からサービスを開始した。 manacaの導入に先立ち、SFパノラマカード・ユリカ・あおなみカードのすべてが、2011年2月10日をもって発売終了、2012年2月29日をもって利用終了となった。 トランパス導入事業者のうち、名鉄東部交通、名鉄バス東部、愛知高速交通ではmanacaの導入を見送った。愛知高速交通については2011年2月1日から普通回数券の販売を開始し、その後同年5月15日より、トランパスと同等のプレミアムが付与される「リニモカード」(2,000円券・3,000円券・5,000円券の3種。プレミアムの付かない1,000円券は従来より発売)の発売を開始した。 Suica・PASMO、ICOCA・PiTaPaの普及・導入やこれらシステムの相互運用実施も進捗していること、2009年3月26日には国土交通省中部運輸局長が、中部圏でのICカードについて、鉄道各社間での相互利用を促進するように表明していることなどから、現在相互利用サービスが提供されていないJR東海及び近鉄と共通利用できるシステムの導入が検討されている。 名古屋市交通局は、manaca導入後の2012年度を目標に、TOICA及びSuicaとの相互利用サービスの実施の検討を開始したことが発表されている。このうち、TOICAについては2012年4月21日から相互利用が開始され、Suicaとの相互利用は後述の通り2013年3月23日から開始されている。 また近鉄についても、名古屋市がJR東海と同様に相互利用できるシステムにしたいと述べているほか、近鉄自身も「前向きに研究している」と報道されている。 さらに2010年12月20日に、Kitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、PiTaPa、ICOCA、はやかけん、nimoca、SUGOCAの相互利用サービス(電子マネーサービスはPiTaPaを除く)について、2013年(平成25年)春の実現を目標に検討を開始したとの発表があり、目標通り2013年3月23日から相互利用サービスが開始された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トランパスは、名古屋市交通局・名古屋鉄道など、名古屋圏の鉄道・バス事業者で共通利用されていた磁気記録式乗車カードシステムの名称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "トランパスとは、英語の「Transport」(交通機関)や「Transfer」(乗り換える)の接頭辞であるTransと、Pass(通る)を組み合わせた造語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "トランパスの後継として、非接触式ICカード乗車券manacaが2011年2月11日に導入された。これに伴いトランパス対応カードは、2011年2月10日に発売終了し、翌年2012年2月29日に利用終了となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下の事業者の路線で利用可能であった。", "title": "利用可能な交通事業者" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "カードを自動改札機に直接投入して入・出場する。入場時に入場情報を書き込み、出場時に乗車した区間の運賃を精算する。また、名鉄⇔地下鉄の間を直通列車などで移動する場合も、出場時に名鉄・地下鉄の乗車区間の運賃を一度に引き落とす。ただし、カード残額がその隣の駅までの最低運賃に満たないと入場できない。なお、出場の際に経路が複数存在する場合は、社局間を跨いだ場合も含めて改札を出ることなく運賃が一番安くなる経路を用いて精算される。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自動券売機での乗車券購入や、自動精算機での乗り越し精算にも利用できる。ただし、複数人や子供が利用する場合やトランパス非対応駅で出場する場合は、あらかじめ自動券売機で乗車券と引き換え、乗車券で入場する必要がある。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、名鉄においては自動改札機・自動券売機・自動精算機および精算窓口における運賃の支払いのみに使用できる。例えば、入場券・回数券・ミューチケットは自動券売機および発券窓口双方に於いて現金にて購入する必要があるほか、発券窓口に於いて乗車券を購入する際にもトランパスは使用できない。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "名鉄・名古屋市営地下鉄・リニモの自動改札機は2枚以上のカード・乗車券類の一括投入に対応しておらず、重ねて投入すると「枚数超過」となり通過することができず、必ず自動精算機で精算する必要がある。ただし、あおなみ線の自動改札機はカード・乗車券類の2枚一括投入が可能である。また、名古屋駅のJR東海線⇔あおなみ線、金山駅のJR東海線⇔名鉄線の連絡改札口の自動改札機はJR東海の磁気乗車券との2枚投入に対応しているため、TOICA・Suica・ICOCAとトランパスとの同時処理が可能である。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "有人駅であれば窓口でも乗り越し精算が可能である。名鉄の場合、終日有人駅の中には自動精算機を設置していない駅があり、この場合には必然的に窓口での精算となる。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カード裏面には最大で43回まで乗降記録が印字される。内容は利用月日・利用時間・乗車駅・降車駅・乗継情報・残額である(参考)。44回以降の乗車記録については#特殊な取り扱いを参照のこと。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "トランパスで入場したが、トランパス非対応駅で出場するなど、カードを使用せずに出場する場合、カードの入場記録を消去する必要がある。これをキャンセル処理という。これは駅窓口にある端末で行うもので、改札口の駅員に申し出れば処理することができる。キャンセル処理をせずに、入場記録が残ったままだと次回からそのカードが使用できないので、必ず処理を受けなければならない。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "名鉄には、広見線の明智駅 - 御嵩駅間の各駅、蒲郡線の三河鳥羽駅 - 蒲郡駅間の各駅、及び名鉄尾西線弥富駅は、トランパスに対応した設備が設置されておらず、トランパスの非対応区間となっている。非対応駅では、自動改札機でトランパスが利用できないだけでなく、乗車券を購入することもできない。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "トランパスで入場したが、誤って非対応駅で下車してしまった場合、下車駅でトランパス対応カードによる精算をすることはできない。この場合、乗車した列車の車掌または降車駅の駅係員に、トランパス対応カードを提示し、現金で精算して、精算証明書を発行してもらう必要がある。後日、次回利用するまでに、その証明書と誤入場したトランパス対応カードを対応駅の改札窓口へ提示してキャンセル処理を受ける必要がある。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "トランパス対応区間から、上記の非対応区間にまたがって利用する場合に、広見線新可児駅及び蒲郡線吉良吉田駅に、トランパスを利用のためののりかえ改札口が設置されている。のりかえ改札口を経由しなければ、非対応区間でトランパスを利用することはできない。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この区間はmanacaも導入されておらず、manaca(交通系ICカード全国相互利用サービス)を使用する場合も同様の手続きを行う。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "名鉄尾西線弥富駅から乗車する場合は、現金で目的地までの乗車券を購入するか、または現金で最低区間(隣の五ノ三駅まで190円)など途中の区間までの乗車券を購入して下車駅でトランパスで精算することになる。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "トランパスで入場して弥富駅で下車する場合は、誤って非対応駅で下車してしまった場合と同様に、現金で精算し証明書を発行する取り扱いとなる。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、弥富駅はmanaca対応となったので、manacaで利用する場合は、この手間が解消されることになった。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅との連絡改札口に設置されている自動改札機では、トランパスと近鉄線乗車券の2枚投入、または近鉄線対応ICカード(PiTaPa、ICOCA)との組み合わせにより乗り換えができる。近鉄のPiTaPa導入当初は磁気乗車券とのに対応しているだけでPiTaPa・ICOCAとトランパスとの同時処理はできなかったが、その後改良され、同時処理ができるようになった。", "title": "鉄道での利用方法" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "社・局により利用方法が異なる。", "title": "バスでの利用方法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "乗車時に乗車口にあるカード読み取り機にカードを通し(この時に整理券を取る必要はないので、読み取り機に整理券番号が表示される)、降車時に運賃箱のカード精算機にカードを通す(この時に乗車された区間の運賃が差し引かれる)。", "title": "バスでの利用方法" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "乗車時(基幹2号系統は降車時)に運賃箱のカード精算機にカードを通すと乗車運賃が差し引かれる。", "title": "バスでの利用方法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし、高速1号系統(栄 - 森の里団地間)は高速道路を通行するために10円の加算運賃制度を導入しており、高速道路区間を利用しない場合は乗車時に運転士に申告しなければならない。同路線は大半の利用者が高速道路区間を通過するため、申告しないと高速道路区間前で降りる場合でも自動的に高速利用料金〈10円〉を加算した運賃が差し引かれてしまう。また、運転士に申し出ることで高速料金だけをカードから差し引くことも可能である。", "title": "バスでの利用方法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "利用可能金額にプレミアムが付く。これにより回数乗車券の代替を目的としているため、名鉄以外の導入事業者では回数券を発売しなくなった。名古屋市交通局ではユリカの発売(1998年5月6日)と引き換えに回数券の発売を中止した(当時はトランパス発足前だった)が、名鉄は引き続き名鉄名古屋駅・金山駅を基点とした一部区間で回数券(割引きっぷ)を発売しているほか、通常の回数券・時差回数券および土休日回数券の発売も行っていた。名鉄は2012年2月29日の終列車を以て、これらの回数乗車券の発売および利用を終了した。", "title": "プレミアム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "プレミアムの金額は下表の通りである。", "title": "プレミアム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "トランパスは、各社・局規定の残高以下になった場合、自動券売機に現在使用中の対応カードを挿入して2,200円分(購入金額2,000円)・3,300円分(同3,000円)・5,600円分(同5,000円)のカードを購入すると今まで使用していたカードの残高を新たに購入したカードの残高に加算することができた。これを「積み増し」と言う。 但し、カードの新規発売停止と同じ2011年2月10日限りでサービス終了となっている。", "title": "積み増し" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "積み増しが可能となる残高は下記の通りであった。", "title": "積み増し" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "元のカードの残高は新しく購入するカードに引き継がれ、元のカードと新しく購入したカードの2枚が出てくる。なお、元のカードは回収されないので、誤って新たに購入したカードを捨ててしまわない様に注意が必要である。その際に元のカードの裏面最後に「増済」と印字され、残高が二重線で消される。対して新たに購入したカードの表面には「積増」印字がされ、元のカードの残額と購入したカードの利用可能額を合算した金額が裏面に印字される。", "title": "積み増し" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただし、あおなみ線の各駅は自動改札機がカード2枚同時投入に対応しているため、自動券売機は積み増しに対応していない。このため、カードの残額が初乗り運賃に満たない場合、乗車駅では残額不足のカードと残額合計が初乗り運賃以上になる新たなカードの2枚を重ねて自動改札機に投入して入場し、降車駅では入場時に使用した2枚のカードを重ねて自動改札機に投入して出場する。なお、残額が0円になった元のカードは回収されない。これは他の共通カード(スルッとKANSAIなど)とは異なる使用方法である。", "title": "積み増し" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以下の場合に乗り継ぎ割引が受けられる。割引額は右表の通りである。", "title": "乗り継ぎ割引" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "共同運行区間:次の区間を共同運行区間として扱い、名鉄バスを市バスとして含める。", "title": "乗り継ぎ割引" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "但し逆の扱い(市バスを名鉄バスとして含める)は受けられないので注意が必要。", "title": "乗り継ぎ割引" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "カード裏面に乗継情報が印字されるので、乗り継ぎ割引が受けられるか否かを確認することができる。", "title": "乗り継ぎ割引" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "トランパス対応カードは、発売額が2,000円以上のカードに限り利用可能社・局の駅の窓口で払い戻しの取り扱いを行っていた。残額から発売時に付けたプレミアム額(例:ユリカ5600なら600円)と手数料200円を差し引いた額を払い戻す。なお、発売額が500円と1,000円のカードは払い戻しできなかった。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。払い戻しの期間は「当分の間」としており、明確な期間は決まっていない。ただし、プレミアム分が考慮され残額が全額返金されるわけではなく、カード残額×発売金額÷利用可能額が払い戻し金額となる。カードの発行社局は問わず払い戻しが可能である。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、カードの残額をそのままmanacaへ移し替えすることはできず、一旦払い戻し処理を行う必要がある。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "トランパス対応カードを自動券売機に挿入して乗車券に引き換えた後に当該乗車券が不要になった場合、現金では払い戻しの取り扱いができないため、引き換えた乗車券の金額をカードに戻してカードの再発行を行う(ただし手数料が必要)。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "トランパス対応カードの裏面には乗降記録が印字されるが、1枚のカードに最大で43回までの乗降記録を印字することができる。それ以降も残額がある場合、44回目にあたる場所には印字満杯と印字され、そのカードでは自動改札機に投入することができなくなる。この場合、駅の自動券売機または窓口でカードの再発行を受けることで、印字満杯カードの残額が新しいカードに引き継がれ、再び残額分のカードを使用することができる。なおトランパス対応社局内なら、SFパノラマカード→ユリカ・あおなみカードといった引き換えもできる。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "カードの残額と同じ運賃の区間を利用し、その後、乗り継ぐ場合、1乗車目でカードの残高は0円となるが、残高0円となったカードを使って、2乗車目で乗り継ぎ割引を受けることができる。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この場合、1乗車目でカードの残額は0円となるが、裏面には乗継有効と印字され、乗り継ぎ割引が有効である情報が記録された状態になる。これを、俗に0円券と呼ぶことがある。続いて、2乗車目に乗り継ぐ際には、駅の自動券売機で0円券を先に挿入し、他のトランパスまたは現金を追加することで乗り継ぎ割引が適用された運賃で乗車券を購入することができる。この取り扱いは地下鉄とあおなみ線など乗り継ぎ割引が適用される乗車方法すべてで有効である。ちなみに、乗り継ぎ割引が適用された後の0円券の裏面には、乗継有効の印字の下に、乗継完了と印字される。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "こうしたことから、ちょうど印字満杯となる43回目の利用で、0円券となった場合、乗り継ぎ割引を利用すると、乗継完了の印字は、45回目に相当する欄に印字されることになる。これがカード裏面に印字できる最高回数である。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "敬老パスなどの地下鉄全線無料パスで名鉄線へ乗り越した場合、トランパス対応駅では当該乗車券とトランパス対応カードで名鉄線区間の運賃を支払うことができるが、トランパス未対応の駅の場合はカードを使用することができないので、全額現金での精算となる。なお、「(市バス・)地下鉄(共通)一日乗車券」や「ドニチエコきっぷ」など名鉄線では使えないカードで同線へ乗り越した場合、同線のトランパス未対応区間では同様に全額現金での精算となる。トランパス対応駅ではトランパスで精算出来るが、自動精算機で直接処理することは出来ないので有人窓口で、トランパス対応駅でかつ駅集中管理システムの導入された無人駅の場合は、自動精算機の横に設置されたインターホンで管理駅の係員に連絡し、管理駅から精算機の操作を受けた上で精算する。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "磁気を帯びたものに近付けるなどしてカード内の磁気情報が乱れてしまった時や、折れ曲がるなどしてカードリーダーに通すことができなくなった場合は、裏面の残額がはっきりと判る場合のみ駅窓口に申し出ることでカードの再発行が受けられる。この場合、カードの表面に再発行したことを示す記号([再])が印字される。地下鉄では使用できないバス昼間割引ユリカでも駅窓口に申し出ることで再発行が受けられる(バス昼間割引ユリカは地下鉄駅のみの取り扱い)。使用できなくなったカードはカードの再発行と引き換えに回収され、返却されない。なお、無人駅ではカードの再発行ができないので、トランパス対応有人駅の改札窓口へ申し出るか、インターホンで下車駅の管理駅係員に問い合わせる必要がある。", "title": "特殊な取り扱い" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2003年3月27日の上飯田連絡線開業に合わせ、1998年5月6日から発売されている名古屋市交通局のユリカの方式を名古屋鉄道が採用する形で、共通化された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "トランパスという愛称は、名古屋市交通局と名古屋鉄道が共同で公募して決定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "名鉄は、2008年6月29日でトランパスの新規導入を終了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2012年2月29日をもって利用終了となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "トランパス導入事業者である名古屋鉄道や名古屋市交通局から、2010年度中に、ICカード乗車券システムmanacaを導入することが発表された。同カードには、電子マネー機能が搭載される。その後、サービス開始は2011年2月11日と発表され、予定通り同日からサービスを開始した。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "manacaの導入に先立ち、SFパノラマカード・ユリカ・あおなみカードのすべてが、2011年2月10日をもって発売終了、2012年2月29日をもって利用終了となった。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "トランパス導入事業者のうち、名鉄東部交通、名鉄バス東部、愛知高速交通ではmanacaの導入を見送った。愛知高速交通については2011年2月1日から普通回数券の販売を開始し、その後同年5月15日より、トランパスと同等のプレミアムが付与される「リニモカード」(2,000円券・3,000円券・5,000円券の3種。プレミアムの付かない1,000円券は従来より発売)の発売を開始した。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Suica・PASMO、ICOCA・PiTaPaの普及・導入やこれらシステムの相互運用実施も進捗していること、2009年3月26日には国土交通省中部運輸局長が、中部圏でのICカードについて、鉄道各社間での相互利用を促進するように表明していることなどから、現在相互利用サービスが提供されていないJR東海及び近鉄と共通利用できるシステムの導入が検討されている。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "名古屋市交通局は、manaca導入後の2012年度を目標に、TOICA及びSuicaとの相互利用サービスの実施の検討を開始したことが発表されている。このうち、TOICAについては2012年4月21日から相互利用が開始され、Suicaとの相互利用は後述の通り2013年3月23日から開始されている。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また近鉄についても、名古屋市がJR東海と同様に相互利用できるシステムにしたいと述べているほか、近鉄自身も「前向きに研究している」と報道されている。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "さらに2010年12月20日に、Kitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、PiTaPa、ICOCA、はやかけん、nimoca、SUGOCAの相互利用サービス(電子マネーサービスはPiTaPaを除く)について、2013年(平成25年)春の実現を目標に検討を開始したとの発表があり、目標通り2013年3月23日から相互利用サービスが開始された。", "title": "課題" } ]
トランパスは、名古屋市交通局・名古屋鉄道など、名古屋圏の鉄道・バス事業者で共通利用されていた磁気記録式乗車カードシステムの名称である。 トランパスとは、英語の「Transport」(交通機関)や「Transfer」(乗り換える)の接頭辞であるTransと、Pass(通る)を組み合わせた造語である。 トランパスの後継として、非接触式ICカード乗車券manacaが2011年2月11日に導入された。これに伴いトランパス対応カードは、2011年2月10日に発売終了し、翌年2012年2月29日に利用終了となった。
'''トランパス'''は、[[名古屋市交通局]]・[[名古屋鉄道]]など、名古屋圏の鉄道・バス事業者で共通利用されていた磁気記録式[[乗車カード]]システムの名称である。 トランパスとは、[[英語]]の「Transport」(交通機関)や「Transfer」(乗り換える)の[[接頭辞]]である'''Trans'''と、'''Pass'''(通る)を組み合わせた[[造語]]である。 トランパスの後継として、非接触式[[ICカード]]乗車券'''[[manaca]]'''が[[2011年]]2月11日に導入された。これに伴いトランパス対応カードは、2011年2月10日に発売終了し、翌年2012年2月29日に利用終了となった。 == 利用可能な交通事業者 == 以下の事業者の路線で利用可能であった<ref>[http://www.meitetsu.co.jp/kenannai/sf-pano/hani/index.html 利用可能路線図](鉄道のみ)</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" !事業者名!!利用可能路線!!カードの名称!!備考 |- |style="text-align: left;"|[[名古屋鉄道]] |style="text-align: left;"|全線 |[[SFパノラマカード]] |style="text-align: left;"|以下を除く * [[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]([[吉良吉田駅]]を除く) * [[名鉄広見線|広見線]]([[明智駅 (岐阜県可児市)|明智駅]] - [[御嵩駅]]間) * [[名鉄尾西線|尾西線]][[弥富駅]] |- |style="text-align: left;"|[[名鉄バス]] |style="text-align: left;"|全線<br/> |SFパノラマカード |style="text-align: left;"|以下を除く * [[高速バス]](都市間高速バス以外) * 空港特急バス * コミュニティバス |- |style="text-align: left;"|[[名鉄東部交通]] |style="text-align: left;"|[[名鉄東部交通#名鉄東部交通線(西尾営業所)|西尾営業所管内の自社路線]]のみ |SFパノラマカード | |- |style="text-align: left;"|[[名鉄バス東部]] |style="text-align: left;"|全線 |SFパノラマカード |style="text-align: left;"|[[名鉄バス東部#蒲郡管理所|蒲郡営業所]]管内の路線を除く |- |style="text-align: left;"|[[名古屋市交通局]] |style="text-align: left;"|[[名古屋市営地下鉄|地下鉄]]・[[名古屋市営バス|バス]]全線 |バス・地下鉄共通大人用[[ユリカ]] | |- |style="text-align: left;"|[[名古屋臨海高速鉄道]] |style="text-align: left;"|[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|あおなみ線]]全線 |[[あおなみカード]] | |- |style="text-align: left;"|[[愛知高速交通]] |style="text-align: left;"|[[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]]全線 |SFパノラマカード |style="text-align: left;"|カードの図柄はオリジナル |} * 過去の利用可能区間については[[#過去の利用可能線区|過去の利用可能線区]]を参照。 * 導入過度期の名鉄では、利用可能駅が「歯抜け」になることが多かった。この場合でも、乗車駅と降車駅が共に利用可能駅なら利用することができた。 * [[名古屋市]]内に乗り入れている鉄道会社であっても、[[東海旅客鉄道]](JR東海)や[[近畿日本鉄道]](近鉄)などは、トランパスに加盟していないので1枚のカードで乗り継ぐことはできなかった。その後導入した[[manaca]]は他社との相互利用ができるので、この問題点は解消された。 * [[名古屋ガイドウェイバス]]はトランパスに加盟していない。ただし、[[ユリカ]]と名鉄昼間バスカードは使用できる。 * 名鉄東部交通は、名鉄バスが全線においてトランパス使用可能となった後に路線譲渡した西尾営業所が担当する路線のみ、トランパスが使用できる。 * 名鉄バス東部については、名鉄バスからの受託運行路線において、トランパスが使用できるが、旧サンライズバスから路線譲渡された蒲郡営業所が担当する路線では、名鉄バスカードも含め、トランパスは使用できない。 == 鉄道での利用方法 == カードを[[自動改札機]]に直接投入して入・出場する。入場時に入場情報を書き込み、出場時に乗車した区間の[[運賃]]を精算する。また、名鉄⇔地下鉄の間を直通列車などで移動する場合も、出場時に名鉄・地下鉄の乗車区間の運賃を一度に引き落とす。ただし、カード残額がその隣の駅までの最低運賃に満たないと入場できない。なお、出場の際に経路が複数存在する場合は、社局間を跨いだ場合も含めて改札を出ることなく運賃が一番安くなる経路を用いて精算される。 [[自動券売機]]での[[乗車券]]購入や、[[自動精算機]]での乗り越し精算にも利用できる。ただし、複数人や子供が利用する場合やトランパス非対応駅で出場する場合は、あらかじめ自動券売機で乗車券と引き換え、乗車券で入場する必要がある。 なお、名鉄においては自動改札機・自動券売機・自動精算機および精算窓口における'''運賃'''の支払いのみに使用できる。例えば、入場券・回数券・ミューチケットは自動券売機および発券窓口双方に於いて現金にて購入する必要があるほか、発券窓口に於いて乗車券を購入する際にもトランパスは使用できない。 名鉄・名古屋市営地下鉄・リニモの自動改札機は2枚以上のカード・乗車券類の一括投入に対応しておらず、重ねて投入すると「枚数超過」となり通過することができず、必ず自動精算機で精算する必要がある。ただし、あおなみ線の自動改札機はカード・乗車券類の2枚一括投入が可能である。また、[[名古屋駅]]のJR東海線⇔あおなみ線、金山駅のJR東海線⇔名鉄線の連絡改札口の自動改札機はJR東海の磁気乗車券との2枚投入に対応しているため、[[TOICA]]・[[Suica]]・[[ICOCA]]とトランパスとの同時処理が可能である。 有人駅であれば窓口でも乗り越し精算が可能である。名鉄の場合、終日有人駅の中には[[自動精算機]]を設置していない駅があり、この場合には必然的に窓口での精算となる。 カード裏面には最大で43回まで乗降記録が印字される。内容は利用月日・利用時間・乗車駅・降車駅・乗継情報・残額である([http://www.meitetsu.co.jp/kenannai/sf-pano/uramen/index.html 参考]{{リンク切れ|date=2017年12月}})。44回以降の乗車記録については[[#特殊な取り扱い]]を参照のこと。 ===キャンセル処理=== トランパスで入場したが、トランパス非対応駅で出場するなど、カードを使用せずに出場する場合、カードの入場記録を消去する必要がある。これを'''キャンセル処理'''という。これは駅窓口にある端末で行うもので、改札口の駅員に申し出れば処理することができる。キャンセル処理をせずに、入場記録が残ったままだと次回からそのカードが使用できないので、必ず処理を受けなければならない。 === 名鉄線内の非対応区間での利用 === 名鉄には、[[名鉄広見線|広見線]]の[[明智駅 (岐阜県可児市)|明智駅]] - [[御嵩駅]]間の各駅、[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]の[[三河鳥羽駅]] - [[蒲郡駅]]間の各駅、及び[[名鉄尾西線]][[弥富駅]]は、トランパスに対応した設備が設置されておらず、トランパスの非対応区間となっている。非対応駅では、自動改札機でトランパスが利用できないだけでなく、乗車券を購入することもできない。 トランパスで入場したが、誤って非対応駅で下車してしまった場合、下車駅でトランパス対応カードによる精算をすることはできない。この場合、乗車した列車の車掌または降車駅の駅係員に、トランパス対応カードを提示し、現金で精算して、精算証明書を発行してもらう必要がある。後日、次回利用するまでに、その証明書と誤入場したトランパス対応カードを対応駅の改札窓口へ提示してキャンセル処理を受ける必要がある。 ==== のりかえ改札口の経由 ==== トランパス対応区間から、上記の非対応区間にまたがって利用する場合に、広見線[[新可児駅]]及び蒲郡線[[吉良吉田駅]]に、トランパスを利用のための'''のりかえ改札口'''が設置されている。のりかえ改札口を経由しなければ、非対応区間でトランパスを利用することはできない<ref>{{PDFlink|[http://www.meitetsu.co.jp/files/setsubi/jousha7.pdf 「のりかえ改札口」のご案内]}}-名古屋鉄道。</ref>。 * 非対応駅で乗車し、対応駅で下車する場合 ** 乗車駅の自動券売機で、乗車券を購入する代わりに無料の乗車駅証明書を受け取って乗車し、「のりかえ改札口」では係員に乗車駅証明書とトランパスカードを提示する。乗車駅からの乗車記録(ただし、入場時刻は印字した時刻)が記録されたカードが乗客に返却されるので、下車駅では通常どおり自動改札機で出場する。 * 対応駅で乗車し、非対応駅で下車する場合 ** 乗車駅では通常どおり自動改札機で入場し、「のりかえ改札口」では係員に下車駅を申告してトランパスカードを提示する。その際、乗車駅から下車駅までの全区間の運賃の引き落とし処理が行われ、下車駅での下車記録が記録されたカードと、下車駅までの「SFカード精算済み証」([[領収書|レシート]]状の用紙)が渡されるので、下車駅では「SFカード精算済み証」を駅員に渡して出場する。下車駅が無人駅の場合は、「SFカード精算済み証」を[[運転士]]もしくは車掌に渡すか運転室後ろの運賃箱(一部の駅には乗車券回収箱の設置がある)に投入する。 * 非対応駅で乗車し、対応区間を経由して、非対応駅で下車する場合 ** 2度「のりかえ改札口」を通ることになるが、同様に利用可能である。 この区間はmanacaも導入されておらず、manaca([[交通系ICカード全国相互利用サービス]])を使用する場合も同様の手続きを行う。 ==== 名鉄弥富駅での利用 ==== 名鉄尾西線弥富駅から乗車する場合は、現金で目的地までの乗車券を購入するか、または現金で最低区間(隣の五ノ三駅まで190円)など途中の区間までの乗車券を購入して下車駅でトランパスで精算することになる。 トランパスで入場して弥富駅で下車する場合は、誤って非対応駅で下車してしまった場合と同様に、現金で精算し証明書を発行する取り扱いとなる。 なお、弥富駅はmanaca対応となったので、manacaで利用する場合は、この手間が解消されることになった。 === 名古屋駅での名鉄・近鉄間の乗換の場合 === [[近鉄名古屋駅]]と[[名鉄名古屋駅]]との連絡改札口に設置されている自動改札機では、トランパスと近鉄線乗車券の2枚投入、または近鉄線対応ICカード([[PiTaPa]]、[[ICOCA]])との組み合わせにより乗り換えができる。近鉄のPiTaPa導入当初は磁気乗車券とのに対応しているだけでPiTaPa・ICOCAとトランパスとの同時処理はできなかったが、その後改良され、同時処理ができるようになった。 == バスでの利用方法 == 社・局により利用方法が異なる。 === 名鉄バス・名鉄東部交通 === 乗車時に乗車口にあるカード読み取り機にカードを通し(この時に[[乗車整理券|整理券]]を取る必要はないので、読み取り機に整理券番号が表示される)、降車時に運賃箱のカード精算機にカードを通す(この時に乗車された区間の運賃が差し引かれる)。 === 名古屋市営バス === 乗車時(基幹2号系統は降車時)に運賃箱のカード精算機にカードを通すと乗車運賃が差し引かれる。 ただし、高速1号系統(栄 - 森の里団地間)は[[高速道路]]を通行するために10円の加算運賃制度を導入しており、高速道路区間を'''利用しない'''場合は乗車時に[[運転手|運転士]]に申告しなければならない。同路線は大半の利用者が高速道路区間を通過するため、申告しないと高速道路区間前で降りる場合でも自動的に高速利用料金〈10円〉を加算した運賃が差し引かれてしまう。また、運転士に申し出ることで高速料金だけをカードから差し引くことも可能である。 == プレミアム == 利用可能金額にプレミアムが付く。これにより[[回数乗車券]]の代替を目的としているため、名鉄以外の導入事業者では回数券を発売しなくなった。名古屋市交通局ではユリカの発売(1998年5月6日)と引き換えに回数券の発売を中止した(当時はトランパス発足前だった)が、名鉄は引き続き[[名鉄名古屋駅]]・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を基点とした一部区間で回数券(割引きっぷ)を発売しているほか、通常の回数券・時差回数券および土休日回数券の発売も行っていた。名鉄は2012年2月29日の終列車を以て、これらの回数乗車券の発売および利用を終了した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-12-13 |url=http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/1206592_1138.html |title=トランパス対応「SFパノラマカード」・「回数乗車券」の発売及び利用終了のお知らせ |publisher=名古屋鉄道 |accessdate=2019-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131021032351/http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/1206592_1138.html |archivedate=2013-10-21}}</ref>。 プレミアムの金額は下表の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2"|発売金額!!colspan="3"|発売社局!!rowspan="2"|利用可能<br />金額!!rowspan="2"|払い戻し |- !名!!市!!あ |- |style="text-align: right;"|500円||○||○||○||style="text-align: right;"|500円||不可 |- |style="text-align: right;"|1,000円||○||○||○||style="text-align: right;"|1,000円||不可 |- |style="text-align: right;"|2,000円||○||○||○||style="text-align: right;"|'''2,200円'''||可 |- |style="text-align: right;"|3,000円||○||○||○||style="text-align: right;"|'''3,300円'''||可 |- |style="text-align: right;"|5,000円||○||○||○||style="text-align: right;"|'''5,600円'''||可 |} * 凡例 ** 「名」:名鉄・名鉄バス・リニモ ** 「市」:名古屋市営地下鉄(以下地下鉄)・市バス ** 「あ」:あおなみ線 ** トランパス対応カードには券面表面に「トランパス」ロゴが印刷される *** トランパス発足前に発行されたユリカにはロゴがないが、「トランパス」としてそのまま利用できる ** 500円券は贈答・記念品用 ** 小人用ユリカはトランパスに対応していない(地下鉄・市バスと名鉄バス〈[[名鉄東部交通]]を含む〉のみ有効) == 積み増し == トランパスは、各社・局規定の残高以下になった場合、自動券売機に現在使用中の対応カードを挿入して2,200円分(購入金額2,000円)・3,300円分(同3,000円)・5,600円分(同5,000円)のカードを購入すると今まで使用していたカードの残高を新たに購入したカードの残高に加算することができた。これを「積み増し」と言う。 但し、カードの新規発売停止と同じ2011年2月10日限りでサービス終了となっている。 積み増しが可能となる残高は下記の通りであった。 * 地下鉄各駅: 310円以下 * 名鉄線各駅: 690円以下(ただし5,600円分〈購入金額5,000円〉のカードに積み増しする場合は1,500円以下から可能) * リニモ各駅: 500円以下 元のカードの残高は新しく購入するカードに引き継がれ、元のカードと新しく購入したカードの'''2枚'''が出てくる。なお、元のカードは回収されないので、誤って新たに購入したカードを捨ててしまわない様に注意が必要である。その際に元のカードの裏面最後に「増済」と印字され、残高が二重線で消される。対して新たに購入したカードの表面には「積増」印字がされ、元のカードの残額と購入したカードの利用可能額を合算した金額が裏面に印字される。 ただし、あおなみ線の各駅は自動改札機がカード2枚同時投入に対応しているため、自動券売機は積み増しに対応していない。このため、カードの残額が初乗り運賃に満たない場合、乗車駅では残額不足のカードと残額合計が初乗り運賃以上になる新たなカードの2枚を重ねて自動改札機に投入して入場し、降車駅では入場時に使用した2枚のカードを重ねて自動改札機に投入して出場する。なお、残額が0円になった元のカードは回収されない。これは他の共通カード([[スルッとKANSAI]]など)とは異なる使用方法である。 == 乗り継ぎ割引 == {| class="wikitable" style="float:right; text-align:center" |+ 乗り継ぎ割引額(大人) !colspan="2"|乗車組み合わせ(順不同)!!割引額 |- |名鉄電車||名鉄バス||80円 |- |名鉄バス||名鉄バス||40円 |- |地下鉄||市バス||80円 |- |地下鉄||あおなみ線||80円 |- |あおなみ線||市バス||80円 |- |市バス||市バス||80円 |} 以下の場合に乗り継ぎ割引が受けられる。割引額は右表の通りである。 * 1乗車目と2乗車目の間が90分以内(鉄道は入場時〈自動券売機で乗車券を購入した場合は購入時、精算の場合は精算時〉に、バスは精算時に判定される。ただし名鉄バスの2乗車目は乗車時) * 1乗車目の運賃全額をトランパスから支払う(名鉄ではトランパスで購入した普通乗車券併用の精算であっても無効) * 1枚のカードを複数人で利用した場合は対象外となる * リニモは割引がない * [[SFパノラマカード]]であっても[[ユリカ]]であっても[[あおなみカード]]であっても右の図のすべての割引が適用できる. * 2乗車目で乗り継ぎ割引となった場合、次は必ず1乗車目となる * 名鉄の駅から地下鉄の駅まで、自動改札機もしくは連絡乗車券を購入した場合は、2乗車目の時は名鉄、1乗車目の時は地下鉄として同時に扱われる。その逆も同様である。 共同運行区間:次の区間を共同運行区間として扱い、名鉄バスを市バスとして含める。 * 名鉄バスセンター・栄 - 三軒家 * 栄・名鉄バスセンター - 大治西条 但し逆の扱い(市バスを名鉄バスとして含める)は受けられないので注意が必要。 カード裏面に乗継情報が印字されるので、乗り継ぎ割引が受けられるか否かを確認することができる。 * ※Xと表示:条件を満たしていれば次回乗車で割引 * ※C(名鉄バス同士ではW)と表示:今回の乗車で割引 * ※■と表示:割引されない == 特殊な取り扱い == === 払い戻し === トランパス対応カードは、発売額が2,000円以上のカードに限り利用可能社・局の駅の窓口で払い戻しの取り扱いを行っていた。残額から発売時に付けたプレミアム額(例:ユリカ5600なら600円)と手数料200円を差し引いた額を払い戻す。なお、発売額が500円と1,000円のカードは払い戻しできなかった。 manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。払い戻しの期間は「当分の間」としており、明確な期間は決まっていない。ただし、プレミアム分が考慮され'''残額が全額返金されるわけではなく'''、カード残額×発売金額÷利用可能額が払い戻し金額となる。カードの発行社局は問わず払い戻しが可能である。 なお、カードの残額をそのままmanacaへ移し替えすることはできず、一旦払い戻し処理を行う必要がある。 === カードで引き換えた乗車券が不要になった場合 === トランパス対応カードを自動券売機に挿入して乗車券に引き換えた後に当該乗車券が不要になった場合、現金では払い戻しの取り扱いができないため、引き換えた乗車券の金額をカードに戻してカードの再発行を行う(ただし手数料が必要)。 === 印字満杯 === トランパス対応カードの裏面には乗降記録が印字されるが、1枚のカードに最大で'''43回'''までの乗降記録を印字することができる。それ以降も残額がある場合、44回目にあたる場所には'''印字満杯'''と印字され、そのカードでは自動改札機に投入することができなくなる。この場合、駅の自動券売機または窓口でカードの再発行を受けることで、印字満杯カードの残額が新しいカードに引き継がれ、再び残額分のカードを使用することができる。なおトランパス対応社局内なら、SFパノラマカード→ユリカ・あおなみカードといった引き換えもできる。 === 0円券 === カードの残額と同じ運賃の区間を利用し、その後、乗り継ぐ場合、1乗車目でカードの残高は0円となるが、残高0円となったカードを使って、2乗車目で乗り継ぎ割引を受けることができる。 この場合、1乗車目でカードの残額は0円となるが、裏面には'''乗継有効'''と印字され、乗り継ぎ割引が有効である情報が記録された状態になる。これを、俗に'''0円券'''と呼ぶことがある。続いて、2乗車目に乗り継ぐ際には、駅の自動券売機で0円券を先に挿入し、他のトランパスまたは現金を追加することで乗り継ぎ割引が適用された運賃で乗車券を購入することができる。この取り扱いは地下鉄とあおなみ線など乗り継ぎ割引が適用される乗車方法すべてで有効である。ちなみに、乗り継ぎ割引が適用された後の0円券の裏面には、'''乗継有効'''の印字の下に、'''乗継完了'''と印字される。 こうしたことから、ちょうど印字満杯となる43回目の利用で、0円券となった場合、乗り継ぎ割引を利用すると、'''乗継完了'''の印字は、45回目に相当する欄に印字されることになる。これがカード裏面に印字できる最高回数である。 === トランパス非対応カード等との併用 === 敬老パスなどの地下鉄全線無料パスで名鉄線へ乗り越した場合、トランパス対応駅では当該乗車券とトランパス対応カードで名鉄線区間の運賃を支払うことができるが、トランパス未対応の駅の場合はカードを使用することができないので、全額現金での精算となる。なお、「(市バス・)地下鉄(共通)[[一日乗車券]]」や「[[ドニチエコきっぷ]]」など名鉄線では使えないカードで同線へ乗り越した場合、同線のトランパス未対応区間では同様に全額現金での精算となる。トランパス対応駅ではトランパスで精算出来るが、自動精算機で直接処理することは出来ないので有人窓口で、トランパス対応駅でかつ[[駅集中管理システム]]の導入された無人駅の場合は、自動精算機の横に設置されたインターホンで管理駅の係員に連絡し、管理駅から精算機の操作を受けた上で精算する。 === 再発行 === 磁気を帯びたものに近付けるなどしてカード内の磁気情報が乱れてしまった時や、折れ曲がるなどしてカードリーダーに通すことができなくなった場合は、裏面の残額がはっきりと判る場合のみ駅窓口に申し出ることでカードの再発行が受けられる。この場合、カードの表面に再発行したことを示す記号'''([再])'''が印字される。地下鉄では使用できないバス昼間割引[[ユリカ]]でも駅窓口に申し出ることで再発行が受けられる(バス昼間割引ユリカは地下鉄駅のみの取り扱い)。使用できなくなったカードはカードの再発行と引き換えに回収され、返却されない。なお、無人駅ではカードの再発行ができないので、トランパス対応有人駅の改札窓口へ申し出るか、インターホンで下車駅の管理駅係員に問い合わせる必要がある。 == 沿革 == [[2003年]][[3月27日]]の[[上飯田連絡線]]開業に合わせ、[[1998年]][[5月6日]]から発売されている名古屋市交通局の[[ユリカ]]の方式を名古屋鉄道が採用する形で、共通化された。 トランパスという愛称は、名古屋市交通局と名古屋鉄道が共同で公募して決定された<ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/ticket/yurika/tranpass.html トランパス(カードによる共通利用システム)]、名古屋市交通局</ref>。 名鉄は、[[2008年]][[6月29日]]でトランパスの新規導入を終了した。 [[2012年]][[2月29日]]をもって利用終了となった。 === 過去の利用可能線区 === * [[2003年]][[3月27日]] - [[2006年]][[3月31日]] ** 名鉄バス - 春里線・[[西可児駅]]発着の路線([[東濃鉄道]]に路線譲渡) * 2003年3月27日 - 2006年[[9月30日]] ** [[桃花台新交通桃花台線]](路線廃止) * 2003年3月27日 - 2006年[[11月30日]] ** 名鉄バス - [[犬山駅]]・[[博物館明治村|明治村]]・[[リトルワールド]]発着の路線と[[新鵜沼駅]]発着の路線([[岐阜バスコミュニティ]]への路線譲渡、及び一部区間の路線廃止) * 2006年10月1日 - 2008年6月30日 ** [[名鉄西部観光バス]] - [[国府宮駅]]発着の矢合線の一部廃止と祖父江線の全線廃止及び[[名鉄観光バス]]発足による矢合線存続区間が名鉄バスに復帰したことによるもの。 == 課題 == === ICカード化 === {{Main|manaca}} トランパス導入事業者である名古屋鉄道や名古屋市交通局から、[[2010年]]度中に、ICカード乗車券システム'''[[manaca]]'''を導入することが発表された<ref>[http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/1200790_1138.html ICカード乗車券の名称とデザインを決定しました]、名古屋鉄道、2010年4月16日</ref><ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/iccard.html ICカード乗車券の名称とデザインを決定しました]、名古屋市交通局、2010年4月16日</ref>。同カードには、[[電子マネー]]機能が搭載される<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railway/list/200903/CK2009032502000230.html 名古屋市交通局がIC乗車券導入 電子マネー対応、11年初頭から] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110515020627/http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railway/list/200903/CK2009032502000230.html |date=2011年5月15日 }}、[[中日新聞]]、2009年3月25日</ref>。その後、サービス開始は2011年2月11日と発表され、予定通り同日からサービスを開始した。 manacaの導入に先立ち、SFパノラマカード・ユリカ・あおなみカードのすべてが、2011年[[2月10日]]をもって発売終了、[[2012年]][[2月29日]]をもって利用終了となった<ref>[http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/1206592_1138.html トランパス対応「SFパノラマカード」・「回数乗車券」の発売及び利用終了のお知らせ]、名古屋鉄道、2010年12月13日</ref><ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/006611.html マナカ導入に伴うユリカ・地下鉄1区特別きっぷの取扱いについて]、名古屋市交通局、2010年12月13日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.aonamiline.co.jp/pc/pdf/info_card101213.pdf マナカ導入に伴うゆとりーとカード及びあおなみカードの取扱いについて]}}、名古屋臨海高速鉄道、2010年12月13日</ref>。 トランパス導入事業者のうち、名鉄東部交通、名鉄バス東部、愛知高速交通ではmanacaの導入を見送った。愛知高速交通については2011年2月1日から普通回数券の販売を開始し、その後同年5月15日より、トランパスと同等のプレミアムが付与される「リニモカード」(2,000円券・3,000円券・5,000円券の3種。プレミアムの付かない1,000円券は従来より発売)の発売を開始した<ref>[http://www.linimo.jp/oshirase/101213tranpass.html トランパス対応カード販売終了に伴う取扱いについて]、愛知高速交通、2010年12月13日</ref>。 === 共通利用範囲の拡大 === [[Suica]]・[[PASMO]]、[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]の普及・導入やこれらシステムの相互運用実施も進捗していること、2009年3月26日には[[国土交通省]][[中部運輸局|中部運輸局長]]が、中部圏でのICカードについて、鉄道各社間での相互利用を促進するように表明していること<ref>[http://www.shopbiz.jp/ic/news/30532.html 中部運輸局長、鉄道各社のIC乗車券、「相互利用の促進を」。]、日本経済新聞、2009年3月27日</ref>などから、現在相互利用サービスが提供されていないJR東海及び近鉄と共通利用できるシステムの導入が検討されている。 名古屋市交通局は、manaca導入後の[[2012年]]度を目標に、TOICA及びSuicaとの相互利用サービスの実施の検討を開始したことが発表されている<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2009/20090612.pdf IC乗車券の相互利用サービスの検討を開始しました]}}、東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、名古屋市交通局、名古屋鉄道、2009年6月11日。</ref><ref name="2012plan">{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/keiei_committee/minute3.pdf 第3回 名古屋市交通事業経営委員会 議事録]}}、2007年4月24日</ref>。このうち、TOICAについては2012年4月21日から相互利用が開始され、Suicaとの相互利用は後述の通り2013年3月23日から開始されている。 また近鉄についても、名古屋市がJR東海と同様に相互利用できるシステムにしたいと述べているほか、近鉄自身も「前向きに研究している」と報道されている<ref name="2012plan"/><ref>[http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/100417_4.htm 日本の真ん中… 共通ICカード乗車券「マナカ」]、読売新聞、2010年4月17日</ref>。 さらに2010年12月20日に、[[Kitaca]]、PASMO、Suica、[[manaca]]、[[TOICA]]、PiTaPa、ICOCA、[[はやかけん]]、[[nimoca]]、[[SUGOCA]]の相互利用サービス(電子マネーサービスはPiTaPaを除く)について、2013年(平成25年)春の実現を目標に検討を開始したとの発表があり<ref>[http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/1206757_1138.html 交通系ICカードの相互利用サービスの検討を開始しました] -名古屋鉄道ニュースリリース 2010年12月20日</ref>、目標通り2013年3月23日から相互利用サービスが開始された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == * [[manaca]] - トランパスの後継となるICカード乗車券。2011年2月11日導入。但し、トランパス加盟各社局のうち[[愛知高速交通東部丘陵線|愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)]]への乗車のみ、2016年3月11日までできなかった。 *[[リニモカード]] - トランパス加盟各社局のうち[[愛知高速交通]]のみ、2011年2月11日からのmanaca導入を見送り、代替として登場させたカード。その後、愛知高速交通が2016年3月12日にmanaca導入、その前日に販売終了、2016年5月31日に利用終了となった。 == 外部リンク == * [https://top.meitetsu.co.jp/ 名古屋鉄道ホームページ] * [https://www.kotsu.city.nagoya.jp/ 名古屋市交通局ホームページ] * [https://www.aonamiline.co.jp/ あおなみ線(名古屋臨海高速鉄道)ホームページ] * [http://www.linimo.jp/ 愛知高速交通株式会社ホームページ] {{トランパス}} {{名鉄グループ}} {{ICカード乗車券|co=[[名古屋市交通局]]|index=トランパス}} {{DEFAULTSORT:とらんはす}} [[Category:乗車カード]] [[Category:名古屋鉄道|商とらんはす]] [[Category:名古屋市交通局|商とらんはす]] [[Category:名古屋臨海高速鉄道|商とらんはす]] [[Category:名鉄バス]] [[Category:愛知高速交通|商とらんはす]] [[Category:桃花台新交通|商とらんはす]]
2003-09-09T00:42:08Z
2023-10-29T23:01:01Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:PDFlink", "Template:Cite web", "Template:Webarchive", "Template:トランパス", "Template:リンク切れ", "Template:Main", "Template:名鉄グループ", "Template:Reflist", "Template:節スタブ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9_(%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89)
15,860
ユリカ
ユリカは、名古屋市交通局が発行していた、名古屋市営地下鉄・名古屋市営バス共通磁気乗車カード。名称には名古屋市の花であるユリと「有利なカード」という意味を掛け合わせている。 1998年5月6日導入。ストアードフェアシステムに対応し、地下鉄利用時は自動改集札機に直接投入して利用し、バス利用時はカードリーダーに通して利用する。大人用と子供専用のカードがあり、昼間割引専用など10種類の設定がある。残額が少なくなった時のために積み増しができるようになっている。 なお、以前発売されていたリリーカードや回数乗車券はユリカ導入とともに姿を消している。 また、2003年3月27日、名鉄小牧線にストアードフェアシステムが導入された(SFパノラマカード)のを機にトランパスとして共通化され、バス・地下鉄共通大人用ユリカがトランパス導入の各社局でも使用できるようになった。 2011年2月11日のICカード乗車券manaca導入に伴い、その前日の2月10日に発売を終了した。その後2012年2月29日をもって利用終了となった。 大人用はトランパス対応。 地下鉄専用。平日10~16時の改札入場時(券売機・精算機では使用時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。 市バス・名鉄バス・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)で、平日10~16時の乗車時(基幹2号系統のみ降車時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。 バス・地下鉄共通ユリカおよび地下鉄昼間割引専用ユリカの残額が残り少なくなった場合に古いユリカの残額を新たに購入するユリカに積み増すことができる。 バス・地下鉄共通ユリカで、地下鉄と市バス、市バス同士を90分以内に乗り継ぐ場合で、同じユリカで乗り継ぐ場合は80円(子供40円)引きとなる。他、トランパス利用会社でも乗継割引がある。詳細はトランパスの乗継割引を参照。 2011年2月10日までユリカ500・ユリカ1000以外、払戻し手数料200円を差し引いて払い戻しができる。 残額から発売時に付加したプレミアム分(例:ユリカ5600なら600円)を差し引き、さらに手数料を差し引いた残額が返金される。 なお、manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。(ユリカ500・ユリカ1000含む。但し、プレミアムの部分が考慮され残額が全額返金されるわけではない。) 残額×発売金額/購入時の利用可能額(10円未満切り上げ。)で返金される。直接manacaへの移行は不可。 2012年2月末日までユリカはそのまま使うことも出来る。 カード裏面には最高43回までの乗降記録が印字可能。ただし、残額が残っているいないに関わらず43回分に達すると「印字満杯」と印字されて使用ができなくなる。印字満杯のカードは駅窓口または券売機にて再発行が可能。 名古屋市交通局などトランパス加盟各社局と名古屋ガイドウェイバス。 「トランパス」を参照のこと。 子供用ユリカ(ユリカ1100、バス子供用ユリカ1400、昼間割引子供用ユリカ1200)は子供専用であるため、当該カードを使用していた子供が中学生以上になった場合には使えなくなる。それで、4月1日より、そのユリカを地下鉄駅(名鉄管理の上小田井駅・上飯田駅は除く)の改札窓口へ持参するとその残額を大人用ユリカに、無手数料で移し換えしてもらうことが出来る。 2007 - 2008年頃、ドニチエコきっぷ等の一日乗車券と同様に、観光施設入場時にユリカを提示すると料金が割引になるサービスがあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ユリカは、名古屋市交通局が発行していた、名古屋市営地下鉄・名古屋市営バス共通磁気乗車カード。名称には名古屋市の花であるユリと「有利なカード」という意味を掛け合わせている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1998年5月6日導入。ストアードフェアシステムに対応し、地下鉄利用時は自動改集札機に直接投入して利用し、バス利用時はカードリーダーに通して利用する。大人用と子供専用のカードがあり、昼間割引専用など10種類の設定がある。残額が少なくなった時のために積み増しができるようになっている。 なお、以前発売されていたリリーカードや回数乗車券はユリカ導入とともに姿を消している。 また、2003年3月27日、名鉄小牧線にストアードフェアシステムが導入された(SFパノラマカード)のを機にトランパスとして共通化され、バス・地下鉄共通大人用ユリカがトランパス導入の各社局でも使用できるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2011年2月11日のICカード乗車券manaca導入に伴い、その前日の2月10日に発売を終了した。その後2012年2月29日をもって利用終了となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大人用はトランパス対応。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "地下鉄専用。平日10~16時の改札入場時(券売機・精算機では使用時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "市バス・名鉄バス・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)で、平日10~16時の乗車時(基幹2号系統のみ降車時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "バス・地下鉄共通ユリカおよび地下鉄昼間割引専用ユリカの残額が残り少なくなった場合に古いユリカの残額を新たに購入するユリカに積み増すことができる。", "title": "積み増し" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "バス・地下鉄共通ユリカで、地下鉄と市バス、市バス同士を90分以内に乗り継ぐ場合で、同じユリカで乗り継ぐ場合は80円(子供40円)引きとなる。他、トランパス利用会社でも乗継割引がある。詳細はトランパスの乗継割引を参照。", "title": "乗継割引" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2011年2月10日までユリカ500・ユリカ1000以外、払戻し手数料200円を差し引いて払い戻しができる。 残額から発売時に付加したプレミアム分(例:ユリカ5600なら600円)を差し引き、さらに手数料を差し引いた残額が返金される。", "title": "払い戻し" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。(ユリカ500・ユリカ1000含む。但し、プレミアムの部分が考慮され残額が全額返金されるわけではない。) 残額×発売金額/購入時の利用可能額(10円未満切り上げ。)で返金される。直接manacaへの移行は不可。 2012年2月末日までユリカはそのまま使うことも出来る。", "title": "払い戻し" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "カード裏面には最高43回までの乗降記録が印字可能。ただし、残額が残っているいないに関わらず43回分に達すると「印字満杯」と印字されて使用ができなくなる。印字満杯のカードは駅窓口または券売機にて再発行が可能。", "title": "印字満杯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "名古屋市交通局などトランパス加盟各社局と名古屋ガイドウェイバス。 「トランパス」を参照のこと。", "title": "利用可能線区" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "子供用ユリカ(ユリカ1100、バス子供用ユリカ1400、昼間割引子供用ユリカ1200)は子供専用であるため、当該カードを使用していた子供が中学生以上になった場合には使えなくなる。それで、4月1日より、そのユリカを地下鉄駅(名鉄管理の上小田井駅・上飯田駅は除く)の改札窓口へ持参するとその残額を大人用ユリカに、無手数料で移し換えしてもらうことが出来る。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2007 - 2008年頃、ドニチエコきっぷ等の一日乗車券と同様に、観光施設入場時にユリカを提示すると料金が割引になるサービスがあった。", "title": "その他" } ]
ユリカは、名古屋市交通局が発行していた、名古屋市営地下鉄・名古屋市営バス共通磁気乗車カード。名称には名古屋市の花であるユリと「有利なカード」という意味を掛け合わせている。
{{otheruses|名古屋市交通局の乗車カード|古代ギリシア語に由来する語句|Eureka}} {{出典の明記|date=2020-07-19}} '''ユリカ'''は、[[名古屋市交通局]]が発行していた、[[名古屋市営地下鉄]]・[[名古屋市営バス]]共通[[磁気]][[乗車カード]]。名称には[[名古屋市]]の[[花]]である[[ユリ]]と「有利なカード」という意味を掛け合わせている。 == 概要 == [[1998年]][[5月6日]]導入。[[ストアードフェアシステム]]に対応し、地下鉄利用時は自動改集札機に直接投入して利用し、バス利用時はカードリーダーに通して利用する。大人用と子供専用のカードがあり、昼間割引専用など10種類の設定がある。残額が少なくなった時のために積み増しができるようになっている。 なお、以前発売されていた[[リリーカード]]や[[回数乗車券]]はユリカ導入とともに姿を消している。 また、[[2003年]][[3月27日]]、[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄小牧線|小牧線]]にストアードフェアシステムが導入された([[SFパノラマカード]])のを機に[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]として共通化され、バス・地下鉄共通大人用ユリカがトランパス導入の各社局でも使用できるようになった。 [[2011年]][[2月11日]]の[[ICカード]]乗車券[[manaca]]導入に伴い、その前日の[[2月10日]]に発売を終了した。その後[[2012年]][[2月29日]]をもって利用終了となった。 == カードの種類 == === バス・地下鉄共通 === 大人用はトランパス対応。 *大人用 **ユリカ500(発売額:500円、500円分使用可能)※贈答・記念品用 **ユリカ1000(発売額:1,000円、1,000円分使用可能) **ユリカ2200(発売額:2,000円、2,200円分使用可能) **ユリカ3300(発売額:3,000円、3,300円分使用可能) **ユリカ5600(発売額:5,000円、5,600円分使用可能) *子供・特割(身体障がい者等の割引適用者)専用([[名鉄バス]]、[[名古屋ガイドウェイバス]]でも使用可) **ユリカ1100(発売額:1,000円、1,100円分使用可能) === 地下鉄昼間割引専用 === 地下鉄専用。平日10~16時の改札入場時(券売機・精算機では使用時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。 *大人用:ユリカ2400(発売額:2,000円、2,400円分使用可能) *子供専用:ユリカ1200(発売額:1,000円、1,200円分使用可能) === バス昼間割引専用 === 市バス・[[名鉄バス]]・[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])で、平日10~16時の乗車時(基幹2号系統のみ降車時)に利用可。土曜・日曜・祝日は終日利用できる。 *大人用:ユリカ2800(発売額:2,000円、2,800円分使用可能) *子供専用:ユリカ1400(発売額:1,000円、1,400円分使用可能) == 積み増し == バス・地下鉄共通ユリカおよび地下鉄昼間割引専用ユリカの残額が残り少なくなった場合に古いユリカの残額を新たに購入するユリカに積み増すことができる。 *積み増しできる条件 **大人用のユリカで残額が310円以下の場合。 **子供・特割専用、こども専用ユリカで残額が150円以下の場合。 *積み増しできるユリカ *:左側のユリカの残額が少なくなった場合(上記の金額以下)、右側のユリカを新規購入する場合にのみ積み増しできる。 **ユリカ500・ユリカ1000・ユリカ2200・ユリカ3300・ユリカ5600(バス・地下鉄共通大人用ユリカ) **:→ユリカ2200・ユリカ3300・ユリカ5600に積み増しできる **ユリカ1100(バス・地下鉄共通こども・特割専用ユリカ) **:→ユリカ1100に積み増しできる **ユリカ2400(地下鉄昼間割引専用大人用ユリカ) **:→ユリカ2400に積み増しできる **ユリカ1200(地下鉄昼間割引専用こども専用ユリカ) **:→ユリカ1200に積み増しできる *積み増し方法 *:上部が緑色の新型自動券売機で取り扱う。 *#残額が少なくなったユリカを自動券売機に投入する。 *#お金を自動券売機に投入する。 *#「積み増し」ボタンを押す。 *#購入するユリカの金額ボタンを押す。 *#新しいユリカと古いユリカの両方が出てくる。 *#*古いユリカの残額は=線で消去され、使用できない。 *#*新しいユリカには購入金額に加え、古いユリカの残額が積み増しされ、表には「積増」と表示される。 == 乗継割引 == バス・地下鉄共通ユリカで、地下鉄と市バス、市バス同士を90分以内に乗り継ぐ場合で、同じユリカで乗り継ぐ場合は80円(子供40円)引きとなる。他、トランパス利用会社でも乗継割引がある。詳細は[[トランパス (交通プリペイドカード)#乗り継ぎ割引|トランパスの乗継割引]]を参照。 == 払い戻し == 2011年2月10日までユリカ500・ユリカ1000以外、払戻し手数料200円を差し引いて払い戻しができる。 残額から発売時に付加したプレミアム分(例:ユリカ5600なら600円)を差し引き、さらに手数料を差し引いた残額が返金される。 なお、manaca導入に伴って2011年2月11日より手数料無しでの払い戻しが開始された。(ユリカ500・ユリカ1000含む。但し、プレミアムの部分が考慮され残額が全額返金されるわけではない。) 残額×発売金額/購入時の利用可能額(10円未満切り上げ。)で返金される。直接manacaへの移行は不可。 2012年2月末日までユリカはそのまま使うことも出来る。 == 印字満杯 == カード裏面には最高43回までの乗降記録が印字可能。ただし、残額が残っているいないに関わらず43回分に達すると「'''印字満杯'''」と印字されて使用ができなくなる。印字満杯のカードは駅窓口または券売機にて再発行が可能。 == 利用可能線区 == 名古屋市交通局などトランパス加盟各社局と名古屋ガイドウェイバス。 [[トランパス (交通プリペイドカード)#過去の利用可能線区|「トランパス」]]を参照のこと。 == その他 == 子供用ユリカ(ユリカ1100、バス子供用ユリカ1400、昼間割引子供用ユリカ1200)は子供専用であるため、当該カードを使用していた子供が中学生以上になった場合には使えなくなる。それで、4月1日より、そのユリカを地下鉄駅(名鉄管理の[[上小田井駅]]・[[上飯田駅]]は除く)の改札窓口へ持参するとその残額を大人用ユリカに、無手数料で移し換えしてもらうことが出来る。 [[2007年|2007]] - [[2008年]]頃、[[ドニチエコきっぷ]]等の[[一日乗車券]]と同様に、観光施設入場時にユリカを提示すると料金が割引になるサービスがあった{{refnest|group="注釈"|2008年6月22日のアーカイブ<ref name="tokuten2008">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080622102213/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/guide/facilities/facilities_about.html|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/guide/facilities/facilities_about.html|deadlinkdate=2020-07-19|archivedate=2008-06-22|accessdate=2020-07-19|title=ドニチエコきっぷ・一日乗車券の提示による特典|publisher=名古屋市交通局}}</ref>にはユリカにより料金が割引になる旨が記載されているが、2009年2月26日のアーカイブ<ref name="tokuten2009">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090226190116/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/guide/facilities/facilities_about.html|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/guide/facilities/facilities_about.html|deadlinkdate=2020-07-19|archivedate=2009-02-26|accessdate=2020-07-19|title=web版 なごや得ナビ|publisher=名古屋市交通局}}</ref>ではそのような記載はない。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]] - バス・地下鉄共通大人用ユリカのみ、トランパス対応。 **[[SFパノラマカード]] - [[名古屋鉄道]]・[[名鉄バス]]・[[愛知高速交通]]が発売していた、トランパス対応の乗車カード。 **[[あおなみカード]] - [[名古屋臨海高速鉄道]]が発売していた、トランパス対応の乗車カード。 *[[リリーカード]] - ユリカの前身となる乗車カード。 *[[manaca]] - ユリカの後継となる乗車カード。但し、トランパス加盟各社局のうち[[愛知高速交通東部丘陵線|愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)]]への乗車のみ、2016年3月11日までできなかった。 == 外部リンク == *[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/ticket/yurika/index.html ユリカのご案内] {{トランパス}}{{ICカード乗車券|co=[[名古屋市交通局]]|index=ユリカ}} [[Category:乗車カード|ゆりか]] [[Category:名古屋市交通局|商品]]
2003-09-09T00:44:04Z
2023-10-31T21:18:24Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:トランパス", "Template:ICカード乗車券", "Template:Otheruses", "Template:出典の明記", "Template:Refnest" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%AB