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電子レンジ
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電子レンジ(でんしレンジ、英: microwave oven)とは、電磁波(電波)により、水分を含んだ食品などを発熱させる調理機器である。
日本における「電子レンジ」という名称は、1961年(昭和36年)12月、急行電車のビュフェ(サハシ153形)で東芝の製品をテスト運用した際に、国鉄の担当者が料理用のかまど(レンジ=range)からネーミングしたのが最初とされる。その後市販品にも使われ、一般的な名称となっていった。
英語では microwave oven(マイクロウェーブ・オーブン、直訳すると「マイクロ波オーブン」)で、しばしば microwave と略される。electronic ovenとも呼ばれる。
電子レンジはマイクロ波加熱で、水分を含んだ物の温度を上げる装置である。マイクロ波を食品などに照射して、極性をもつ水分子に直接エネルギーを与え、分子を振動・回転させることで温度を上げる。マイクロ波はマグネトロンという真空管の一種で発生させている。
電子レンジが使うマイクロ波と、電気オーブン(オーブントースターなど)が使う赤外線は波長が異なり、性質も異なる。電気オーブンは主に発熱体をジュール熱で発熱させ発生する赤外線で食品の表面を加熱する。一方、電子レンジのマイクロ波は食品の表面で止まらずある程度内部まで到達し、食品の表面だけでなく内部からも発熱する。
マイクロ波で水分子の振動を増大させることで加熱するので、水分子を含まないガラス容器や乾いた陶磁器は直接的には温まらない。
電子レンジの「(高周波)出力」は家庭用の電子レンジの場合は500 W - 700 W程度であり、業務用の電子レンジつまりコンビニエンスストアや厨房機器として用いられるタイプでは、1500 W - 3000 W程度である。電力はすべてマイクロ波に変換されるわけではなく、変換時に損失が生じるので、電子レンジの「消費電力」と「出力(温める力)」は数字がずれる。たとえばインバータータイプの電子レンジの「出力」が「1000 W」と表示されている製品の「消費電力」は1450 W程度である。
世帯普及率は、日本において1970年代中盤に10 %を超え、1980年代の中盤で40 %台から50 %強、その後半には60 %台中盤から70 %台となり、1990年代の中盤は80 %台中盤から90 %前後で、その後半には90 %台中盤となり、2000年代の中盤から後半では90 %台中後半を保っている。世界的には、経済的に発展し電力事情も良く家電製品の普及している先進国の多くの地域でも、安価な廉価版機種から多機能高性能な機種に至るまで幅広く流通し、その利便性が認められて広く使われている。
日本では家庭用品品質表示法の適用の対象で、電気機械器具品質表示規程に定めがある。また、電波法にいう高周波利用設備に該当し、高周波出力50 Wを超える機器の為、型式確認制度の対象となる。なお電子レンジが放出する電磁波の周波数は2450 MHzで、ISMバンドのひとつにあたり、電子レンジを動作させると周波数を共用している無線LANやWi-Fi、直下の2400 MHz帯アマチュア無線などは通信不能になる影響を受けるが、総務省告示周波数割当計画脚注に「混信を容認しなければならない」と規定している。
1945年に、アメリカ合衆国のレイセオン社で働いていたレーダー設置担当の技師、パーシー・スペンサーによって発明された。「マグネトロンの前に立った彼のポケットの中のチョコバーが溶けていたことを偶然発見した」「放置していたサンドイッチが勝手に加熱調理されていた」など伝説的なエピソードが伝わっているが、実際には複数のスタッフによる入念な観察の結果によって開発されたという。
最初に電子レンジで調理した食物は、慎重に選ばれた結果、ポップコーンであった。スペンサーの電子レンジでは、紙袋を使ったトウモロコシの調理法で特許を取っている。次に選ばれた食材は鶏卵を用いた茹で卵づくりだったが、これは卵の爆発により失敗した。
一方、大日本帝国海軍は1944年(昭和19年)頃、海軍技術研究所と島田実験所(現在の島田理化工業の前身)にて、マイクロ波を照射して航空機などを遠隔攻撃するためのZ兵器の研究を行っていた。初の実験対象はサツマイモで、ふかし芋のようになったと伝わる。その後、5 mの距離からウサギを死に至らしめることにも成功したが、それ以上の大型化が出来ず、兵器としての開発は頓挫していた。大和型戦艦から撤去した副砲の旋回部分を利用して、パラボラアンテナを設置する工事も行われたが、島田実験所が空襲被害を受けて兵器として実用化されることなく、第二次世界大戦の終戦を迎えた。
開発者の一人であった中島茂は戦後に軍事研究の職を失い、マイクロ波でコーヒー豆を炒る機械を製作して、東京のコーヒー店に納入し糊口をしのいだ。だが、この「電子レンジ」が一般商品化されることはなかった。
レイセオン社はマイクロ波による調理について1945年に特許をとり、1947年に最初の製品を発売した。高さ180 cm、重量340 kg。消費電力は3000 Wだった。この製品は非常に売れ行きがよく、他社も相次いで参入した。
発売当初の電子レンジは高価であり、一般家庭に普及し始めたのは価格が500ドルに抑えられるようになった1970年代後半のことである。 そもそも加熱様式が従来と全く違うので、1960年代には電子レンジによる調理法は模索中であり、1969年に書かれた学研の『原色現代科学大事典10 機械』では「目下のところは、すでに調理済みの食品の再加熱にもっぱらもちいられている。」としている。
また、安全性についても1970年には、アメリカで一部製品から許容量を上回るマイクロ波が漏れていることが報道されるなど、マイクロ波に対する健康不安など電子レンジへの不信感は根強く、1998年に行われたイギリスでの調査では、消費者の10パーセントが「電子レンジは絶対に買わない」と回答している。
日本でも当初、冷めた料理を温めたり冷凍食品を解凍したりする程度の役にしか立たないとされる調理器に、なぜ高い金銭を支出して購入する必要があるのか全く理解されず、一般の消費者からすんなりと受け入れられたわけではなかった。そのためメーカーは、電子レンジがあたかも焼き物・煮物・蒸し物・揚げ物・炒め物・茹で物等、ありとあらゆる機能をこなす万能調理器であるかのように宣伝して売ろうとした。一方でサハシ153形のテスト運用に関わった国鉄の担当者は、東芝から食堂車や自衛隊向けを想定しているとの説明を受けており、メーカーでは法人向けの営業も行っていた。大卒初任給が1万5千円程度だった当時は、一般庶民には全く手の届かない高価な調理器具であったため、メーカーとしても法人向けに業務用として納入するのが主目的だったともいわれていた。
これに対して雑誌『暮しの手帖』は1975年から1976年にかけて特集を組み、「電子レンジ―この奇妙にして愚劣なる商品」と題した記事を掲載、「メーカーはなにを売ってもよいのか」と酷評した。当時『暮しの手帖』の商品テストは、消費者から高い信頼を得ていたため、「電子レンジは万能調理器ではない」という認識は消費者にも印象付けられた。『暮しの手帖』は同じ号で、蒸し器を使って冷めた料理をおいしく温めるコツについての記事を掲載した。このキャンペーンの影響で、電子レンジに対してのネガティブなイメージは、年配の世代を中心に後年まで一部で残ることとなった。
しかし、火を使わずにボタンを押すだけで料理を温めることができる便利さは、大きな利点であった。高度経済成長で暮らしが豊かになる半面、都市化と団塊の世代以降の核家族化と個食に代表される「家族が食卓を囲み、揃って食事する文化」が過去のものとなっていく過程で、作り置きした料理を簡単に温められる手段へのニーズが増大していき、普及していった。
メーカー側も性能向上に努力し、食品の重量・温度などをセンサーで読み取って食味を損なわない最適な加熱を行えるようにするなど、今日では十分な性能を持つ調理器具としての製品を発売するに至っている。冷凍食品やレトルト食品の普及と品質向上、冷凍食品を保存できる冷凍庫つきの冷蔵庫の普及進展、また電子レンジで調理することを前提とした加工食品が販売されるようになり、利便性の高まりと共に普及率も高まっていった。また、それに伴う大量生産とコモディティ化による価格の下落が、さらなる普及を後押しした。
1970年の日本万国博覧会の会場周辺には、電子レンジを組み込んだハンバーガーの自動販売機が登場して、話題になった。この自動販売機は紙箱に収められたハンバーガーのみ販売し、購入すると自動的に内蔵の電子レンジに商品が投入、加熱されたうえで提供されるものであった。硬貨投入から商品受け取りまで加熱時間を含め1分程度待たなければならなかったが、自動であるため、深夜でも簡便に暖かい食べ物を提供できることや、食料ストックを冷凍することで、在庫・食品劣化リスクがほとんどなくなるという利点から、無人のドライブインや高速道路のサービスエリアなどを中心に設置が進んだ。
こういった電子レンジ内蔵自動販売機は、その後の設置数の増加や冷凍食品の発達にも助けられて社会に浸透し、様々なバリエーションが登場した。
1991年にはニチレイフーズが焼きおにぎりや唐揚げ、フライドポテト、たこ焼きなどを併売する機種を誕生させ、1993年に全国展開した。しかし、2010年に自販機の製造が終了し、部品保有期間が7年間であるため、2017年以降、故障したものから撤去。結果、生産の最小ロットに達しなくなり、2021年9月30日に全台撤去が完了した。
2000年代の日本では、普及率は90 %台後半を保ち、温める機能のみの単機能な電子レンジであれば1万円以下で購入可能で、レンジ・ヒーター・スチームを組み合わせて調理する複合型多機能タイプも登場している。
このような状況によって、電子レンジで温めればそのまま食べられる食品が多く店頭に並ぶようになった。コンビニエンスストアを中心に、風味もよく簡便な冷凍食品や、弁当や惣菜などが複数種類取り揃えられるようになり、スナックフードコーナーには電子レンジ対応メニューが定番商品として並んでいる。その場で温められたり、持ち帰って温めたりして食べられている。また、スーパーマーケットなどの食品売り場でも弁当や惣菜など電子レンジを利用する商品の扱いが増したことで中食産業の市場も拡大している。
2005年4月、シャープは自社電子レンジの世界累計生産台数が世界で初めて1億台を達成したことを発表した。
庫内の状態は以下の2種がある。
フラットタイプは、照射用アンテナの方が回転している。業務用電子レンジでは出力を上げたり内部で乱反射させることで、入れた食品を回転させずにムラ無く加熱させる製品もある。
電子レンジは基本構造上、商用電源周波数にその能力や出力が影響されうる。このため、より効率的な加熱を行ったり、きめ細かな出力制御をするために、インバータで電源からの影響を回避する機能を持つ製品もある。そのような製品は、交流電源を一旦直流にコンバートしてから、商用電源周波数よりも高い、所定の交流の周波数で高圧に変換するため、電源周波数に影響されない。
ただ、そういった機能の無い旧来の製品や「温め専用」など安価な製品にあってはその限りではなく、例えば日本国内でも、西日本と東日本地域で、異なる商用電源周波数に影響される製品もあり、利用者の引越しで問題となる。この場合は、有償によるメーカー修理の形で、使用地域にあった部品への交換改修が行われる。また消費者側では「移転先の電源周波数に合わない」理由によって、従来品を破棄して買い替えが行われる。
一般に、50 Hz用のものを60 Hzで使用すると出力が定格を超えてしまい、逆の場合は内部の変圧器で過電流が発生し、焼損や温度ヒューズの溶断をもたらす。これを逆手に取り、回路を50 Hz用で設計し、60 Hzで使用されていることを検知した場合には、自動的にマグネトロンを断続運転とすることで「時間平均」での出力の帳尻合わせを行うことで、ヘルツフリーを実現している製品もある。また、従来型回路で出力を可変する(例えば定格500 Wの機種で200 W出力を行う)ためには、断続運転が一般的な手法であり、瞬時出力は変化しない。このため、ごく短い運転時間では500 Wも200 Wも同じ結果となる。
電子レンジに、他の機能を付加した製品も多く登場してきている。その代表的な例が、オーブン機能のついた電子レンジ「オーブンレンジ」である。電子レンジには出来ない「焼く」という機能を、電熱線やガス燃焼を使ったオーブン機能で行い、オーブンと電子レンジの双方の利点をミックスしている。スチームを利用して加熱したり、あるいは食品の温度を計測しながら、自動的に加熱時間を調整するなど、多機能化した電子レンジも登場している。
電子レンジでの調理は一般に庫内ターンテーブル片側に調理物を置きドアを閉めてスタートする(中央ではマイクロ波が十分に照射されない)。特に調理物の温度を赤外線センサーで確認しながら制御している機種などでは庫内に調理物が置かれていないと正常な調理ができないことがある。
電子レンジの調理方法について、高機能化した電子レンジではなく単機能の電子レンジであっても、「冷めた料理や素材を温める」「冷凍食品を解凍する」といった使い方のほかに、煮る・煮込むといった加熱調理器具としての位置づけもある。多機能レンジにおいて調理法は各食品・料理に適した機能を選択して行う必要がある。
電子レンジであたためを行う場合、通常は器にラップをかけて行う。これにより、食品をあたためた場合に発生する水蒸気を副次的に利用し、水分の蒸発による食材のパサつきも抑え、蒸すのに類似した効果も同時に得ることができる。ただし、水分量が多いとふやけてしまうような食材(パンや揚げ物など)は逆にラップをかけないで、食品の下にクッキングシートを敷いて余計な水蒸気を逃がし食品を皿の上で結露した水によってふやかさせないなどの工夫も行なわれる。
野菜、とくに火が通りづらい根菜類でも、温野菜を作ることができる。これは食材の下拵えとしても行われる。レンジパックなどの、より簡単に温野菜をつくれる調理グッズも出てきている。ケーキのようなものも、電子レンジを用いて作ることができる。食感は蒸しケーキに似る。
加熱はできるが、素材の表面が乾燥し焦げ目はつかないため、焼き料理は作れない。ただし、電子レンジ用調理器具や冷凍食品の中には、電子レンジの調理機能のみで「焦げ目がつくよう工夫されたもの」のような焼き物料理ができる冷凍食品や、焼き魚やから揚げの調理ができる包材も商品化されている。
2021年や2022年時点で電子レンジのメーカーやブランドとして世界的に知られているのは、おおむね次のようなところである。
「電子レンジで調理する」という意味の俗語が各国に存在する。
電子レンジが登場した時、調理する行為には特に名前が付けられなかったが、前述の合図音が由来となり、全国的規模で自然発生的に生まれた言い方である。文化庁による2013年度の「国語に関する世論調査」では、90.4 %が「チンする」を使用すると回答している。この調査結果は「チンする」という言い回しが、広く日本語として浸透していることを示すものである。
現代において、合図音で「チン」を用いているのは、普及価格帯の単機能タイプが主体で、高出力化・多機能化した製品では、圧電素子を利用した電子音を用いている。
普及し始めた頃の電子レンジには、調理中に扉を開けると瞬間的に強い電磁波が漏れる機種が4割程度存在しており、1970年には国会(衆議院物価特別委員会)で取り上げられるなど問題視されたことがある。
後にはISMバンドを利用する通信(無線LANなど)への混信が問題となった。
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"text": "一般に、50 Hz用のものを60 Hzで使用すると出力が定格を超えてしまい、逆の場合は内部の変圧器で過電流が発生し、焼損や温度ヒューズの溶断をもたらす。これを逆手に取り、回路を50 Hz用で設計し、60 Hzで使用されていることを検知した場合には、自動的にマグネトロンを断続運転とすることで「時間平均」での出力の帳尻合わせを行うことで、ヘルツフリーを実現している製品もある。また、従来型回路で出力を可変する(例えば定格500 Wの機種で200 W出力を行う)ためには、断続運転が一般的な手法であり、瞬時出力は変化しない。このため、ごく短い運転時間では500 Wも200 Wも同じ結果となる。",
"title": "種類"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "電子レンジに、他の機能を付加した製品も多く登場してきている。その代表的な例が、オーブン機能のついた電子レンジ「オーブンレンジ」である。電子レンジには出来ない「焼く」という機能を、電熱線やガス燃焼を使ったオーブン機能で行い、オーブンと電子レンジの双方の利点をミックスしている。スチームを利用して加熱したり、あるいは食品の温度を計測しながら、自動的に加熱時間を調整するなど、多機能化した電子レンジも登場している。",
"title": "種類"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "電子レンジでの調理は一般に庫内ターンテーブル片側に調理物を置きドアを閉めてスタートする(中央ではマイクロ波が十分に照射されない)。特に調理物の温度を赤外線センサーで確認しながら制御している機種などでは庫内に調理物が置かれていないと正常な調理ができないことがある。",
"title": "調理方法"
},
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"text": "電子レンジの調理方法について、高機能化した電子レンジではなく単機能の電子レンジであっても、「冷めた料理や素材を温める」「冷凍食品を解凍する」といった使い方のほかに、煮る・煮込むといった加熱調理器具としての位置づけもある。多機能レンジにおいて調理法は各食品・料理に適した機能を選択して行う必要がある。",
"title": "調理方法"
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"text": "電子レンジであたためを行う場合、通常は器にラップをかけて行う。これにより、食品をあたためた場合に発生する水蒸気を副次的に利用し、水分の蒸発による食材のパサつきも抑え、蒸すのに類似した効果も同時に得ることができる。ただし、水分量が多いとふやけてしまうような食材(パンや揚げ物など)は逆にラップをかけないで、食品の下にクッキングシートを敷いて余計な水蒸気を逃がし食品を皿の上で結露した水によってふやかさせないなどの工夫も行なわれる。",
"title": "調理方法"
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"text": "野菜、とくに火が通りづらい根菜類でも、温野菜を作ることができる。これは食材の下拵えとしても行われる。レンジパックなどの、より簡単に温野菜をつくれる調理グッズも出てきている。ケーキのようなものも、電子レンジを用いて作ることができる。食感は蒸しケーキに似る。",
"title": "調理方法"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "加熱はできるが、素材の表面が乾燥し焦げ目はつかないため、焼き料理は作れない。ただし、電子レンジ用調理器具や冷凍食品の中には、電子レンジの調理機能のみで「焦げ目がつくよう工夫されたもの」のような焼き物料理ができる冷凍食品や、焼き魚やから揚げの調理ができる包材も商品化されている。",
"title": "調理方法"
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"text": "2021年や2022年時点で電子レンジのメーカーやブランドとして世界的に知られているのは、おおむね次のようなところである。",
"title": "メーカーやブランド"
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"text": "「電子レンジで調理する」という意味の俗語が各国に存在する。",
"title": "トピック"
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"text": "電子レンジが登場した時、調理する行為には特に名前が付けられなかったが、前述の合図音が由来となり、全国的規模で自然発生的に生まれた言い方である。文化庁による2013年度の「国語に関する世論調査」では、90.4 %が「チンする」を使用すると回答している。この調査結果は「チンする」という言い回しが、広く日本語として浸透していることを示すものである。",
"title": "トピック"
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"text": "現代において、合図音で「チン」を用いているのは、普及価格帯の単機能タイプが主体で、高出力化・多機能化した製品では、圧電素子を利用した電子音を用いている。",
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"text": "普及し始めた頃の電子レンジには、調理中に扉を開けると瞬間的に強い電磁波が漏れる機種が4割程度存在しており、1970年には国会(衆議院物価特別委員会)で取り上げられるなど問題視されたことがある。",
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"text": "後にはISMバンドを利用する通信(無線LANなど)への混信が問題となった。",
"title": "トピック"
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電子レンジとは、電磁波(電波)により、水分を含んだ食品などを発熱させる調理機器である。 日本における「電子レンジ」という名称は、1961年(昭和36年)12月、急行電車のビュフェ(サハシ153形)で東芝の製品をテスト運用した際に、国鉄の担当者が料理用のかまど(レンジ=range)からネーミングしたのが最初とされる。その後市販品にも使われ、一般的な名称となっていった。 英語では microwave oven(マイクロウェーブ・オーブン、直訳すると「マイクロ波オーブン」)で、しばしば microwave と略される。electronic ovenとも呼ばれる。
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[[ファイル:Consumer Reports - Kenmore microwave oven.tif|代替文=|サムネイル|250x250ピクセル|電子レンジ。]]
[[File:Microwave ovens, Media Markt, Svagertorp, Malmo.JPG|thumb|right|250px|量販店の棚に並ぶ様々な電子レンジ。]]
'''電子レンジ'''(でんしレンジ、{{lang-en-short|microwave oven}})とは、[[電磁波]]([[電波]])により、[[水|水分]]を含んだ[[食品]]などを[[発熱反応|発熱]]させる[[調理器具|調理機器]]である。
[[日本]]における「電子レンジ」という名称は、1961年(昭和36年)12月、[[急行電車]]のビュフェ([[国鉄153系電車#形式|サハシ153形]])で[[東芝]]の製品をテスト運用した際に、[[日本国有鉄道|国鉄]]の担当者が<ref>ビジネス特急こだまを走らせた男たち p.160 [[福原俊一 (電車発達史研究家)|福原俊一]] JTB 2003年 ISBN 4533050115</ref>[[料理]]用の[[かまど]](レンジ=range)からネーミングしたのが最初とされる。その後市販品にも使われ、一般的な名称となっていった。
[[英語]]では<!--英語本来の語--> '''{{lang|en|microwave oven}}'''(マイクロウェーブ・オーブン、直訳すると「[[マイクロ波]][[オーブン]]」)で、しばしば '''{{lang|en|microwave}}''' と略される<ref>[http://www.dictionary.com/browse/microwave-oven Microwave oven] Dictionary.com</ref>。'''{{lang|en|electronic oven}}'''とも呼ばれる<ref>[http://global.britannica.com/topic/microwave-oven microwave oven] Britannica.com</ref><ref>[http://ejje.weblio.jp/content/electronic+oven electronic oven] - [[Weblio]] 辞書</ref>。
== 概要 ==
電子レンジは[[マイクロ波加熱]]で、水分を含んだ物の温度を上げる装置である。[[マイクロ波]]を食品などに照射して、[[極性]]をもつ[[水]][[分子]]に直接エネルギーを与え、分子を振動・回転させることで温度を上げる。マイクロ波は[[マグネトロン]]という[[真空管]]の一種で発生させている。
;電気オーブンとの比較
電子レンジが使うマイクロ波と、電気オーブン([[オーブントースター]]など)が使う赤外線は波長が異なり、性質も異なる。電気オーブンは主に発熱体を[[ジュール熱]]で発熱させ発生する[[赤外線]]で食品の表面を加熱する。一方、電子レンジのマイクロ波は食品の表面で止まらずある程度内部まで到達し、食品の表面だけでなく内部からも発熱する。
マイクロ波で水分子の振動を増大させることで加熱するので、水分子を含まない[[ガラス]]容器や乾いた[[陶磁器]]は直接的には温まらない。
;出力と消費電力
電子レンジの「(高周波)出力」は家庭用の電子レンジの場合は500 [[ワット|W]] - 700 W程度であり、業務用の電子レンジつまり[[コンビニエンスストア]]や厨房機器として用いられるタイプでは、1500 W - 3000 W程度である。電力はすべてマイクロ波に変換されるわけではなく、変換時に損失が生じるので、電子レンジの「[[消費電力]]」と「出力(温める力)」は数字がずれる。たとえばインバータータイプの電子レンジの「出力」が「1000 W」と表示されている製品の「消費電力」は1450 W程度である。
;普及状況
[[世帯普及率]]は、日本において[[1970年代]]中盤に10 [[パーセント|%]]を超え<ref name="fkyuritsu">[https://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/shouhi.html 消費動向調査(全国月次、平成16年4月調査より) 結果] / [https://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/quarter/0403fukyuritsu.xls 主要耐久消費財等の普及率(全世帯)]〔[[Microsoft Excel]]形式〕 - [[内閣府]]</ref>、[[1980年代]]の中盤で40 %台<ref name="fkyuritsu" />から50 %強<ref name="g20100806">[http://www.garbagenews.net/archives/1480077.html 25年前の普及率は? 電子レンジやルームエアコンの普及率推移をグラフ化してみる] - Garbagenews.com 2010年8月6日</ref>、その後半には60 %台中盤<ref name="fkyuritsu" />から70 %台<ref name="g20100806" />となり、[[1990年代]]の中盤は80 %台中盤<ref name="fkyuritsu" />から90 %前後<ref name="g20100806" />で、その後半には90 %台中盤<ref name="fkyuritsu" /><ref name="g20100806" />となり、[[2000年代]]の中盤から後半では90 %台中後半<ref name="fkyuritsu" /><ref name="g20100806" />を保っている。世界的には、経済的に発展し電力事情も良く家電製品の普及している[[先進国]]の多くの地域でも、安価な[[廉価版]]機種から[[多機能化|多機能]]高性能な機種に至るまで幅広く流通し、その利便性が認められて広く使われている。
;関連法規、通信機器への影響
日本では[[家庭用品品質表示法]]の適用の対象で、電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/hinpyo/law/law_06.html#17|title=電気機械器具品質表示規程|publisher=消費者庁|accessdate=2013-05-23}}</ref>。また、[[電波法]]にいう[[高周波利用設備]]に該当し、高周波出力50 Wを超える機器の為、型式確認制度の対象となる<ref>電波法第100条及び[[電波法施行規則]]第46条の7</ref>。なお電子レンジが放出する電磁波の[[電波の周波数による分類|周波数]]は2450 [[MHz]]で、[[ISMバンド]]のひとつにあたり、電子レンジを動作させると周波数を共用している[[無線LAN]]や[[Wi-Fi]]、直下の2400 MHz帯[[アマチュア無線]]などは通信不能になる影響を受けるが、[[総務省]][[告示]][[周波数割当計画]]脚注に「[[混信]]を容認しなければならない」と規定している。
== 歴史 ==
=== 原理の発見 ===
[[File:Cooking with radio waves - Chicago Worlds Fair 1933.jpg|thumb|right|180px|[[シカゴ万国博覧会 (1933年)|1933年のシカゴ万博]]での[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]社によるデモンストレーション。60 MHzの電磁波で[[サンドウィッチ]]を温めた。]]
[[File:Original cavity magnetron, 1940 (9663811280).jpg|thumb|right|180px|最初の空洞式マグネトロン(1940年)]]
[[File:Westinghouse Microwave Oven, 1956, jointly produced by Tappen, Raytheon, & Westinghouse, this model served as demo model at the 1956 World's Fair in Belgium - National Electronics Museum - DSC00282.JPG|thumb|right|180px|ウェスティングハウス製の[[1956年]]の電子レンジ]]
1945年に、[[アメリカ合衆国]]の[[レイセオン]]社で働いていた[[レーダー]]設置担当の技師、[[パーシー・スペンサー]]によって発明された。「マグネトロンの前に立った彼のポケットの中の[[チョコバー]]が溶けていたことを偶然発見した」「放置していたサンドイッチが勝手に加熱調理されていた」など伝説的なエピソードが伝わっているが、実際には複数のスタッフによる入念な観察の結果によって開発されたという<ref name="Wilson">ビー・ウィルソン『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』真田真由子訳 河出書房新社 2014年 ISBN 9784309022604 pp.140-145.</ref>。
最初に電子レンジで調理した食物は、慎重に選ばれた結果、[[ポップコーン]]であった。スペンサーの電子レンジでは、紙袋を使ったトウモロコシの調理法で特許を取っている<ref name="Wilson"/>。次に選ばれた食材は[[鶏卵]]を用いた[[茹で卵]]づくりだったが、これは[[爆発卵|卵の爆発]]により失敗した。
一方、[[大日本帝国海軍]]は[[1944年]](昭和19年)頃、[[海軍技術研究所]]と島田実験所(現在の[[島田理化工業]]の前身)にて、[[マイクロ波]]を照射して航空機などを遠隔攻撃するための[[殺人光線|Z兵器]]の研究を行っていた<ref>[[#聞き書き日本海軍史]]p.70、[[#海軍技術研究所]]p.267</ref>。初の実験対象は[[サツマイモ]]で、[[石焼き芋|ふかし芋]]のようになったと伝わる<ref name="日本海軍史71">[[#聞き書き日本海軍史]]p.71</ref>。その後、5 [[メートル|m]]の距離から[[ウサギ]]を死に至らしめることにも成功したが、それ以上の大型化が出来ず、兵器としての開発は頓挫していた<ref>[[#海軍技術研究所]]p.268</ref>。[[大和型戦艦]]から撤去した副砲の旋回部分を利用して、[[パラボラアンテナ]]を設置する工事も行われたが、島田実験所が空襲被害を受けて兵器として実用化されることなく、[[第二次世界大戦]]の終戦を迎えた<ref name="日本海軍史71" />。
開発者の一人であった[[中島茂]]は戦後に軍事研究の職を失い、マイクロ波でコーヒー豆を炒る機械を製作して、東京のコーヒー店に納入し糊口をしのいだ<ref name="日本海軍史71" />。だが、この「電子レンジ」が一般商品化されることはなかった。
=== 製品化 ===
[[レイセオン]]社はマイクロ波による調理について[[1945年]]に[[特許]]をとり<ref>[http://v3.espacenet.com/publicationDetails/biblio?FT=D&CC=US&NR=2495429A Bibliographic data: US 2495429 (A) / Method of treating foodstuffs] - Espacenet Patent search {{en icon}}</ref>、[[1947年]]に最初の製品を発売した。高さ180 [[cm]]、重量340 [[キログラム|kg]]。消費電力は3000 Wだった。この製品は非常に売れ行きがよく、他社も相次いで参入した。
=== 日本 ===
*[[1951年]](昭和26年)7月19日の新聞記事によると「南氷洋で捕鯨した冷凍[[鯨肉]]を鮮度を損ぬまま解凍する技術」として、東京水産大学(現 [[東京海洋大学]])が「冷凍したクジラ肉に超短波を照射し解凍する技術」について研究しているとの記事が掲載された。鯨肉の解凍技術について既に確立されたので、同年8月29日よりイギリスのロンドンで開催される第八回国際冷凍食品会議で、この「クジラ肉の解凍方法」について発表する旨が記事になっている。
*[[1959年]](昭和34年)東京芝浦電気(現 [[東芝]])が国産初の電子レンジを開発<ref>[http://www.toshiba.co.jp/about/histo_j.htm 会社概要(歴史と沿革)] - 東芝 企業情報</ref>。
*[[1961年]](昭和36年)国際電気(現 [[日立国際電気]])が国産初の業務用電子レンジを発売<ref>[http://www.hitachi-kokusai.co.jp/corporate/history_before.html 沿革] - 日立国際電気 会社情報</ref>。
*[[1962年]](昭和37年)早川電機工業(現 [[シャープ]])が日本国内初の量産品電子レンジ「R-10」(54万円)を製造<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?id=1006&key=100610061005&APage=1 電子レンジ R-10] - [[国立科学博物館]] 産業技術の歴史</ref>。
*[[1963年]](昭和38年)松下電器産業(現 [[パナソニック]])が電子レンジ「NE-100F」(115万円)を製造、電子レンジ普及の先駆的商品となった<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?id=1006&key=100610061001&APage=1 国内量産第1号電子レンジ NE-100F] - 国立科学博物館 産業技術の歴史</ref>。
*[[1964年]](昭和39年)開通の[[東海道新幹線]]・[[新幹線0系電車]]の[[食堂車|ビュッフェ車]]に電子レンジが備え付けられた。
*[[1965年]](昭和40年)一般家庭向けに松下電器産業(現 パナソニック)の「NE-500」<ref>[http://www.koueki.jiii.or.jp/innovation100/innovation_detail.php?eid=00046&test=open&age= 電子レンジ] - 公益社団法人発明協会 戦後日本のイノベーション100選</ref>が初めて発売された。
*[[1966年]](昭和41年)早川電機工業(現 シャープ)が国産初の[[ターンテーブル]]方式を採用した電子レンジ「R-600」(198,000円)を発売した<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/info/history/chronology/p4.html シャープの歩み 年表 1961~1970] - シャープ 会社情報</ref>。
[[ファイル:Electronic-range National NE6100 open.jpg|thumb|right|1971年、松下電器産業(現 パナソニック)より「ナショナル」ブランドとして発売された家庭用電子レンジ「エレックさん」NE-6100。温めのみの単機能でタイマーとon/offボタンしかついていない。価格は8万円台と、当時の電子レンジとしては安価だった<ref>[http://panasonic.jp/labo/history/product/cook/range/chr_table/ レンジの歴史(パナソニック)]</ref>。]]
*[[1972年]](昭和47年)[[郵政省]](現 総務省)の型式指定が制度化<ref>昭和47年郵政省令第13号による電波法施行規則改正</ref>された。製造業者又は輸入業者が電波法令の技術的条件に関する内容を[[郵政大臣]](現 [[総務大臣]])に申請し、審査結果が適合しているものについて郵政大臣が型式を[[告示]]することで、型式指定の表示は横径3 cm、縦径1.5 cmの楕円形とされた。
**従前は設置にあたり個別に[[無線局免許状#高周波利用設備許可状|高周波利用設備許可状]]を要していた。
*1977年(昭和52年)[[三菱電機]]が[[オーブン]]一体型の電子レンジを発売。
*[[1985年]](昭和60年)には型式確認制度に移行<ref>昭和60年郵政省令第81号による電波法施行規則改正</ref>した。製造業者又は輸入業者が技術的条件に適合しているかを自己確認した内容を届け出て、郵政大臣が型式を告示することである。
*[[2006年]](平成18年)型式確認の表示は横長径が2 cm以上の楕円形又は横長辺が5 [[ミリメートル|mm]]以上の長方形<ref>平成18年総務省令第119号による電波法施行規則改正</ref>とされた。
*[[2017年]](平成29年)型式確認の表示は電磁的表示によることもできることとなり、型式確認は[[公示]]することとなった<ref>平成29年総務省令第35号による電波法施行規則改正</ref>。
==== 市場の反応 ====
発売当初の電子レンジは高価であり、一般家庭に普及し始めたのは価格が500ドルに抑えられるようになった1970年代後半のことである<ref name="Wilson"/>。
そもそも加熱様式が従来と全く違うので、1960年代には電子レンジによる調理法は模索中であり、1969年に書かれた学研の『原色現代科学大事典10 機械』では'''「目下のところは、すでに調理済みの食品の再加熱にもっぱらもちいられている。」'''としている<ref>花岡利昌「家庭生活と機械」『原色現代科学大事典10 機械』株式会社学習研究社、1969年、p.246</ref>。
また、安全性についても1970年には、アメリカで一部製品から許容量を上回るマイクロ波が漏れていることが報道される<ref>「電子レンジから放射線 一部は許容量上回る」『中國新聞』昭和45年1月6日15面</ref>など、マイクロ波に対する健康不安など電子レンジへの不信感は根強く、1998年に行われた[[イギリス]]での調査では、消費者の10パーセントが「電子レンジは絶対に買わない」と回答している<ref name="Wilson"/>。
日本でも当初、冷めた料理を温めたり冷凍食品を解凍したりする程度の役にしか立たないとされる調理器に、なぜ高い金銭を支出して購入する必要があるのか全く理解されず、一般の消費者からすんなりと受け入れられたわけではなかった。そのためメーカーは、電子レンジがあたかも[[焼き物 (料理)|焼き物]]・[[煮物]]・[[蒸し物]]・[[揚げ物]]・[[炒め物]]・[[茹で物]]等、ありとあらゆる機能をこなす万能調理器であるかのように宣伝して売ろうとした。一方でサハシ153形のテスト運用に関わった国鉄の担当者は、東芝から[[食堂車]]や[[自衛隊]]向けを想定しているとの説明を受けており、メーカーでは法人向けの営業も行っていた<ref>{{Cite book|和書|title=国鉄急行電車物語―80系湘南形から457系まで国鉄急行形電車の足跡|date=|publisher=JTBキャンブックス|isbn=4533064728|author=福原俊一|year=2006}}</ref>。大卒初任給が1万5千円程度だった当時は、一般庶民には全く手の届かない高価な調理器具であったため、メーカーとしても法人向けに業務用として納入するのが主目的だったともいわれていた。
これに対して雑誌『[[暮しの手帖]]』は[[1975年]]から[[1976年]]にかけて特集を組み、「電子レンジ―この奇妙にして愚劣なる商品」と題した記事を掲載、「メーカーはなにを売ってもよいのか」と酷評した。当時『暮しの手帖』の商品テストは、消費者から高い信頼を得ていたため、「電子レンジは万能調理器ではない」という認識は消費者にも印象付けられた。『暮しの手帖』は同じ号で、蒸し器を使って冷めた料理をおいしく温めるコツについての記事を掲載した。このキャンペーンの影響で、電子レンジに対してのネガティブなイメージは、年配の世代を中心に後年まで一部で残ることとなった。
しかし、火を使わずにボタンを押すだけで料理を温めることができる便利さは、大きな利点であった。[[高度経済成長]]で暮らしが豊かになる半面、[[都市化]]と[[団塊の世代]]以降の[[核家族]]化と[[個食]]に代表される「家族が食卓を囲み、揃って食事する文化」が過去のものとなっていく過程で、作り置きした料理を簡単に温められる手段へのニーズが増大していき、普及していった。
メーカー側も性能向上に努力し、食品の重量・温度などをセンサーで読み取って食味を損なわない最適な加熱を行えるようにするなど、今日では十分な性能を持つ調理器具としての製品を発売するに至っている。[[冷凍食品]]や[[レトルト食品]]の普及と品質向上、冷凍食品を保存できる[[冷蔵庫|冷凍庫つきの冷蔵庫]]の普及進展、また電子レンジで調理することを前提とした[[加工食品]]が販売されるようになり、利便性の高まりと共に普及率も高まっていった。また、それに伴う[[大量生産]]と[[コモディティ化]]による価格の下落が、さらなる普及を後押しした。
==== 自動販売機への内蔵 ====
[[1970年]]の[[日本万国博覧会]]の会場周辺には、電子レンジを組み込んだ[[グーテンバーガー|ハンバーガーの自動販売機]]が登場して、話題になった。この自動販売機は紙箱に収められたハンバーガーのみ販売し、購入すると自動的に内蔵の電子レンジに商品が投入、加熱されたうえで提供されるものであった。硬貨投入から商品受け取りまで加熱時間を含め1分程度待たなければならなかったが、自動であるため、深夜でも簡便に暖かい食べ物を提供できることや、食料ストックを冷凍することで、在庫・食品劣化リスクがほとんどなくなるという利点から、無人の[[ドライブイン]]や[[日本の高速道路|高速道路]]の[[サービスエリア]]などを中心に設置が進んだ。
こういった電子レンジ内蔵自動販売機は、その後の設置数の増加や冷凍食品の発達にも助けられて社会に浸透し、様々なバリエーションが登場した。
1991年にはニチレイフーズが[[焼きおにぎり]]や[[唐揚げ]]、[[フライドポテト]]、[[たこ焼き]]などを併売する機種を誕生させ、1993年に全国展開した。しかし、2010年に自販機の製造が終了し、部品保有期間が7年間であるため、2017年以降、故障したものから撤去。結果、生産の最小ロットに達しなくなり、2021年9月30日に全台撤去が完了した<ref>{{Cite web|和書|title=ニチレイフーズ 冷食自販機事業から撤退、全台撤去完了は2021年秋の見込み |url=https://www.ssnp.co.jp/frozen/237150/ |website=食品産業新聞社ホームページ |accessdate=2022-01-25 |language=ja |last=食品産業新聞社}}</ref>。
==== 2000年代以降の状況 ====
2000年代の日本では、普及率は90 %台後半を保ち、温める機能のみの単機能な電子レンジであれば1万円以下で購入可能で、レンジ・ヒーター・スチームを組み合わせて調理する複合型多機能タイプも登場している。
このような状況によって、電子レンジで温めればそのまま食べられる食品が多く店頭に並ぶようになった。[[コンビニエンスストア]]を中心に、風味もよく簡便な冷凍食品や、[[弁当]]や[[惣菜]]などが複数種類取り揃えられるようになり、スナックフードコーナーには電子レンジ対応メニューが定番商品として並んでいる。その場で温められたり、持ち帰って温めたりして食べられている。また、[[スーパーマーケット]]などの食品売り場でも弁当や惣菜など電子レンジを利用する商品の扱いが増したことで[[中食]]産業の市場も拡大している<ref>[http://rf-saiyo.jp/about/basic/policy/growth.html 経営方針「成長の背景」(ロック・フィールド)]<br />[http://www.teraokaseiko.com/top_interview/61/1.html トップインタビュー / 新日本通商] - [[寺岡精工]]・From New Balance 61号 2008/4月1日発行</ref>。
[[2005年]]4月、シャープは自社電子レンジの世界累計生産台数が世界で初めて1億台を達成したことを発表した<ref> [http://www.sharp.co.jp/corporate/news/0504.html シャープ ニュースリリース 2005年4月度](「世界初 電子レンジ世界累計生産1億台を達成」 2005.4.20)</ref>。
== 種類 ==
[[File:BinnenkantProLineSM117.jpg|thumb|right|180px|ターンテーブル式の内部の一例]]
庫内の状態は以下の2種がある。
*マイクロ波の照射・吸収にむらがないように、ターンテーブルを設けた方式
*高出力・多機能製品を中心に採用している、庫内がフラットになっている方式
フラットタイプは、照射用アンテナの方が回転している。業務用電子レンジでは出力を上げたり内部で乱反射させることで、入れた食品を回転させずにムラ無く加熱させる製品もある。
電子レンジは基本構造上、[[商用電源周波数]]にその能力や出力が影響されうる。このため、より効率的な加熱を行ったり、きめ細かな出力制御をするために、[[インバータ]]で電源からの影響を回避する機能を持つ製品もある。そのような製品は、[[交流]]電源を一旦[[直流]]に[[整流器|コンバート]]してから、商用電源周波数よりも高い、所定の交流の周波数で高圧に変換するため、電源周波数に影響されない。
ただ、そういった機能の無い旧来の製品や「温め専用」など[[廉価版|安価な製品]]にあってはその限りではなく、例えば日本国内でも、西日本と東日本地域で、異なる商用電源周波数に影響される製品もあり、利用者の[[引越し]]で問題となる。この場合は、有償によるメーカー修理の形で、使用地域にあった部品への交換改修が行われる。また消費者側では「移転先の電源周波数に合わない」理由によって、従来品を破棄して買い替えが行われる。
一般に、50 [[ヘルツ|Hz]]用のものを60 Hzで使用すると出力が定格を超えてしまい、逆の場合は内部の変圧器で過電流が発生し、焼損や温度ヒューズの溶断をもたらす。これを逆手に取り、回路を50 Hz用で設計し、60 Hzで使用されていることを検知した場合には、自動的にマグネトロンを断続運転とすることで「時間平均」での出力の帳尻合わせを行うことで、ヘルツフリーを実現している製品もある。また、従来型回路で出力を可変する(例えば定格500 Wの機種で200 W出力を行う)ためには、断続運転が一般的な手法であり、瞬時出力は変化しない。このため、ごく短い運転時間では500 Wも200 Wも同じ結果となる。
電子レンジに、他の機能を付加した製品も多く登場してきている。その代表的な例が、[[オーブン]]機能のついた電子レンジ「[[オーブンレンジ]]」である。電子レンジには出来ない「焼く」という機能を、電熱線やガス燃焼を使ったオーブン機能で行い、オーブンと電子レンジの双方の利点をミックスしている。[[蒸気|スチーム]]を利用して加熱したり、あるいは食品の温度を計測しながら、自動的に加熱時間を調整するなど、[[多機能化]]した電子レンジも登場している。
== 調理方法 ==
電子レンジでの調理は一般に庫内ターンテーブル片側に調理物を置きドアを閉めてスタートする(中央ではマイクロ波が十分に照射されない)。特に調理物の温度を赤外線センサーで確認しながら制御している機種などでは庫内に調理物が置かれていないと正常な調理ができないことがある。
電子レンジの調理方法について、高機能化した電子レンジではなく単機能の電子レンジであっても、「冷めた料理や素材を温める」「冷凍食品を解凍する」といった使い方のほかに、煮る・煮込むといった[[加熱調理|加熱調理器具]]としての位置づけもある。多機能レンジにおいて調理法は各食品・料理に適した機能を選択して行う必要がある。
電子レンジであたためを行う場合、通常は器に[[食品用ラップフィルム|ラップ]]をかけて行う。これにより、食品をあたためた場合に発生する[[水蒸気]]を副次的に利用し、水分の[[蒸発]]による食材のパサつきも抑え、[[蒸す]]のに類似した効果も同時に得ることができる。ただし、水分量が多いとふやけてしまうような食材(パンや揚げ物など)は逆にラップをかけないで、食品の下に[[クッキングシート]]を敷いて余計な水蒸気を逃がし食品を皿の上で結露した水によってふやかさせないなどの工夫も行なわれる。
[[野菜]]、とくに火が通りづらい[[根菜]]類でも、[[温野菜]]を作ることができる。これは食材の下拵えとしても行われる。レンジパックなどの、より簡単に温野菜をつくれる調理グッズも出てきている。[[ケーキ]]のようなものも、電子レンジを用いて作ることができる。食感は[[蒸しケーキ]]に似る。
加熱はできるが、素材の表面が乾燥し焦げ目はつかないため、焼き料理は作れない。ただし、電子レンジ用調理器具や[[冷凍食品]]の中には、電子レンジの調理機能のみで「焦げ目がつくよう工夫されたもの」のような焼き物料理ができる[[冷凍食品]]や、[[焼き魚]]や[[から揚げ]]の調理ができる包材も商品化されている。
== メーカーやブランド ==
2021年や2022年時点で電子レンジのメーカーやブランドとして世界的に知られているのは、おおむね次のようなところである<ref>{{Cite web |url=https://www.consumerreports.org/appliances/microwave-ovens/buying-guide/ |title=Microwave Oven Buying Guide |publisher=[[コンシューマー・レポート]] |date=2022-01-27 |accessdate=2022-10-19}}</ref><ref>{{Cite web |author=Cynthia Lawrence |coauthors=Sharon Franke |url=https://www.tomsguide.com/us/best-microwaves,review-6316.html |title=Best microwaves in 2022 |website=[[:fr:Tom's Guide|Tom's Guide]] |publisher=[[:fr:Bestofmedia Group|Bestofmedia]] |date=2022-10-04 |accessdate=2022-10-19}}</ref>。
*[[GE]]([[ゼネラルエレクトリック]])
*Frigidaire([[フリッジデール]]。現在は欧州の[[エレクトロラックス]]の傘下)
*[[LGエレクトロニクス|LG]]([[LGグループ]])
*[[:en:Kenmore]](ケンモア。[[シアーズ]]の家庭用品ブランド。実際の製造はWhirlpool、LG、Electrolux、Panasonicなど)
*[[:en:Maytag|Maytag]]([[メイタグ]]。アメリカの家庭用品ブランドで、現在はWhirlpoolが所有するブランド)
*[[Panasonic]]([[パナソニック]])
*[[Samsung]]([[サムスン電子]])
*Sharp([[シャープ]])
*[[Whirlpool]]([[ワールプール・コーポレーション]])
*[[TOSHIBA]]([[東芝]])
=== 日本国内 ===
* [[パナソニック]](業務用電子レンジを国内で唯一製造し、シャープへもOEM供給)
* [[日立グローバルライフソリューションズ]]
* [[東芝ライフスタイル]]
* [[シャープ]](業務用はパナソニックのOEM)
* [[三菱電機]]
* [[アイリスオーヤマ]]
* [[オーム電機 (東京都)|オーム電機]]
* [[山善]]
=== 生産より撤退 ===
* [[日本電熱]]
* [[三洋電機]](パナソニック完全子会社化に伴い2011年限りで終了。業務用も生産していた)
* [[ネスター]](2021年6月生産終了)
== トピック ==
=== 電子レンジによる調理の表現 ===
「電子レンジで[[調理]]する」という意味の[[俗語]]が各国に存在する。
{{Listen| filename = Panasonic NN-E225M microwave.flac
|title = Panasonic NN-E225M |description = 一杯の紅茶をPanasonicの電子レンジNN-E225Mで20秒温める時の音。この機種で調理完了を知らせる音は「チン」ではなく「ピー、ピー、ピー」である。}}
* [[日本]]では調理完了を知らせる合図音として、「チーン」という音が出る仕組み(機械式タイマーと[[電鈴|ベル]])を、一時期は多数の製品に組み込んでいた要因から、[[日本語]]で「チンする」<ref>[http://zokugo-dict.com/17ti/chinsuru.htm チンする] - 日本語俗語辞書</ref><ref name="y19990419">[https://web.archive.org/web/20010223050023/http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/990419d.htm ことばのこばこ / 「チン」する] - 読売新聞 1999年4月19日</ref><ref name="san">[https://www.sanseido.biz/User/Dic/Index.aspx?TWords=%e3%83%81%e3%83%b3%e3%81%99%e3%82%8b&st=0&DORDER=151617&DailyJJ=checkbox&DailyEJ=checkbox&DailyJE=checkbox チンする] - [[三省堂]] Web Dictionary</ref>または「レンチンする」<ref>[https://locari.jp/posts/146529 簡単でおいしいが一番♡レンチンだけで作る旨味おかず15連発 LOCARI]</ref><ref>[https://oceans-nadia.com/user/11064/article/1805 材料全部入れてチンするだけ♪手抜き感ゼロ!電子レンジでできるがっつり肉料理 Nadia]</ref>と表現することもある。
電子レンジが登場した時、調理する行為には特に名前が付けられなかったが、前述の合図音が由来となり、全国的規模で自然発生的に生まれた言い方である<ref name="y19990419" /><ref name="san" />。[[文化庁]]による2013年度の「[[国語に関する世論調査]]」では、90.4 %が「チンする」を使用すると回答している。この調査結果は「チンする」という言い回しが、広く日本語として浸透していることを示すものである<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201409/2014092400749&g=soc 「チンする」9割に浸透=慣用句は誤用が増加-国語に関する世論調査・文化庁] 時事ドットコム 2014年9月24日</ref>。
* 日本の初期型電子レンジには、調理完了を知らせる合図音を出す装置が付いていなかったため、「調理が終わったのに気がつかず、せっかく温めた料理が冷めてしまう」という意見が購入者から出ており、早川電機(現・[[シャープ]])電子レンジ開発チームのメンバーにも届いていた<ref name="doraku-1">[http://doraku.asahi.com/earth/showashi/101109.html Vol.19 電子レンジ登場 家庭に「チン」 10万円の壁 昭和36年(1/2)] - どらく(朝日新聞)・朝日新聞夕刊 2010年6月26日</ref>。
** そのメンバーが[[労働組合]]主催の[[サイクリング]]に参加した時、ベルの音が印象に残っていたことがヒントとなり、[[電磁石]]と[[ばね]]で合図音のベルが鳴る仕組みを搭載した改良型が開発された<ref name="doraku-1" />。また、「研究室の近所に自転車店が多かったため、当時の研究者が自ら店に出向いてベルを買い、[[アルミ]]を絞ったベルでコストダウンし、ばねを使って音の強弱を調整して電子レンジに取り付けたのが発端」で「タイマーは当初[[ゼンマイ]]式で、ベルを一体化してチーンと音が鳴る構造」といった、シャープ広報室の説明もあった<ref name="yukan">{{Cite web|和書|date=2005-01-10|url=http://www.yukan-fuji.com/archives/2005/01/post_1233.html|title=電子レンジの「チーン」を誕生させた意外なモノ|publisher=[[産経新聞社]]・[[ファンコミュニケーションズ]]|work=[[夕刊フジ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050110180343/http://www.yukan-fuji.com/archives/2005/01/post_1233.html|archivedate=2005-01-10|accessdate=2012-05-22}}</ref>。
* [[1970年代]]後半、[[松下電器]](現 [[パナソニック]])は当時発売していた電子レンジ「'''エレックさん'''」にちなみ、調理する行為を「エレックする」と名付け普及・定着を試みたが定着せず、結局極一部の範囲に留まった<ref name="y19990419" /><ref>[http://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/0501-0600/0511.html#5 ◆ことばの話515「エレックする」・(追伸)] - [[道浦俊彦]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]][[アナウンサー]])の平成ことば事情 2001年12月20日・12月25日</ref>。
* 食品業界から発生した業界用語に「レンジアップ」というのがある。電子レンジで温めるの意であり、例えば「焼く前にレンジアップして解凍する」というように使われる。しかし {{en|Range up.}} とは、[[英語]]として全く意味不明であり、完全な[[和製英語]]である。
* [[中国語]]では、類似の擬音語による表現もあるが、「回す」を意味する「転」(ジュアン:{{繁体字|轉}}、{{簡体字|转}}、{{ピン音|zhuǎn}})という動詞が、電子レンジで加熱するという意味にも使われている。
* 英語では動詞化した {{en|microwave}} を用いて、{{en|Let's microwave some}} ○○(訳:○○を電子レンジで温めよう)が使用される<ref>[http://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/0501-0600/0511.html#5 ◆ことばの話515「エレックする」(追記)] - [[道浦俊彦]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]][[アナウンサー]])の平成ことば事情 2003年6月13日</ref>。<!--「nuke」は文字通り「(核兵器で)敵をぶっつぶす」意味で使われ、電子レンジの使用には(よほど下品な会話でなければ)使わない。原典は間違い-->電子レンジ調理に対応していることを、可能を意味する接尾辞を付加して{{en|microwaveable}}と表現する。
現代において、合図音で「チン」を用いているのは、普及価格帯の単機能タイプが主体で、高出力化・多機能化した製品では、[[圧電素子]]を利用した[[ビープ音|電子音]]を用いている。
===電波漏れ===
普及し始めた頃の電子レンジには、調理中に扉を開けると瞬間的に強い電磁波が漏れる機種が4割程度存在しており、1970年には国会(衆議院物価特別委員会)で取り上げられるなど問題視されたことがある<ref>電子レンジの電波もれ 強制措置はとれぬ『朝日新聞』1975年(1970年)2月27日朝刊 12版 15面</ref>。
後には[[ISMバンド]]を利用する通信([[無線LAN]]など)への混信が問題となった<ref>{{Cite web|和書|title=無線LANを妨害、電波干渉を引き起こす意外な存在 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00332/061800001/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-08-31 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=これでいいのか“汚れた”無線LAN |url=https://xtech.nikkei.com/it/pc/article/trend/20120329/1044715/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-08-31 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。
=== 電子レンジに関する事件 ===
{{Wikinews|電子レンジで生後1ヶ月の娘を殺害した容疑で母を逮捕—オハイオ州}}
* [[2005年]]8月、[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]][[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]で、25歳の母親が電子レンジに自分の赤ん坊の娘を入れてスイッチを押し、2分以上加熱したと見られる。このため、高温の熱による内臓損傷により死亡。殺人罪で逮捕・起訴され、2008年9月8日、終身刑を言い渡された<ref>娘を電子レンジに入れて殺害した母親に終身刑-米国 - [[livedoor]]ニュース ([[:en:en:Indo-Asian News Service|IANS]]) [[2008年]][[9月9日]]<!-- http://news.livedoor.com/article/detail/3812989/ --><!-- 記事確認:http://www.web-tab.jp/article/4205/ --></ref>。また[[2007年]][[5月]]、アメリカ合衆国[[アーカンソー州]]ジョシュア・モールディンで、19歳の父親が電子レンジに2歳の娘を入れてスイッチを押し、全身[[熱傷]]で[[熱傷#熱傷深度|III度]]の重傷を負わせたとして逮捕された。さらに2011年3月には、カリフォルニア州でてんかんを患っていた34歳の母親が生後2か月の娘を電子レンジで加熱して殺害したとして、2015年11月13日に終身刑が言い渡されている<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/10840445/ 電子レンジで我が子を加熱 母親に終身刑が言い渡される]</ref>。
* [[オウム真理教]]の死体焼却炉が[[マイクロ波加熱]]方式であったことから、電子レンジに例えられていた<ref>東京キララ社『オウム真理教大辞典』 p.73</ref>。
* [[製造物責任法]]に関する[[都市伝説]]として「飼い[[ネコ|猫]]を電子レンジで乾燥」というものがあった(俗称「[[都市伝説一覧|猫レンジ]]」)。内容は、アメリカの主婦が飼っている猫を洗った後、毛を乾燥させるために電子レンジを使用したところその猫が死んでしまい、主婦は「電子レンジの取扱説明書に『ネコを乾燥させてはいけません』とは書かれていない」と主張、メーカーの落ち度であると裁判になり、企業側が敗訴し多額の賠償金を支払うことになり、結果として電子レンジの[[取扱説明書]]に「ペットを入れないで下さい」という注意書きを書くに至ったという話である。ただし実際にこのような訴訟があったという記録は無く、アメリカの訴訟社会を揶揄した[[都市伝説]]である。日本やアメリカの法律においても電子レンジにそのような注意書きを添える義務も無い。なお実際に起きた事例としては、[[2007年]]12月に[[カナダ]][[アルバータ州]]カムローズで強盗に入った13-15歳の少年4人が住人の飼っていた猫を電子レンジで加熱し殺害した事例<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2333746 電子レンジでネコを殺害、ネット上で非難噴出]</ref>や、[[2014年]]に[[イギリス]]で飼っていた猫が飼っていた金魚を襲ったことに対するお仕置きで電子レンジで猫を1分程加熱し死亡させた女性に対し、禁固14週及び生涯動物を飼うことを禁止する判決が下された事例がある<ref>[https://tocana.jp/2014/03/post_3815_entry.html 飼い猫をレンジでチンした女! 与えた苦痛に対して下された判決は……=英国]</ref>。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Microwave ovens}}
* [[白物家電]]
* [[家電機器]]
* [[爆発卵]]
* [[マグネトロン]]
* [[オーブンレンジ]] - [[オーブン]]に電子レンジを[[複合機|複合]]した調理器具
* [[JR東日本E235系電車]] - その前面デザインから電子レンジと呼ばれることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://j-town.net/2015/12/01217963.html?p=all | title=スマホ?電子レンジ?野菜? 山手線の新車両がいろんなものに似すぎている件|publisher=Jタウンネット | date=2015-12-01 | accessdate=2023-01-16}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=中川靖造|authorlink=中川靖造|coauthors=|year=1990|month=10|title=海軍技術研究所 {{small|エレクトロニクス王国の先駆者たち}}|publisher=講談社|isbn=4-06-184790-2|ref=海軍技術研究所}}
*{{Cite book|和書|author=戸高一成|authorlink=戸高一成|coauthors=|year=2009|month=8|title=聞き書き・日本海軍史|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-70418-0|ref=聞き書き日本海軍史}}
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[https://www.kokusen.go.jp/kiken/pdf/324dl_kiken.pdf 電子レンジを安全に使うために~使い方による危険性を探る~]}} - 国民生活センター
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20161220102030/http://www.invention-protection.com/pdf_patents/pat2495429.pdf Method of Treating Foodstuffs]|204 [[キビバイト|KiB]]}} - [[w:en:Percy Spencer|Percy Spencer]]による米国特許原文([[1945年]][[10月8日]]出願){{en icon}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:調理器具]]
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[[Category:マイクロ波]]
[[Category:加熱]]
[[Category:アメリカ合衆国の発明]]
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思想家一覧
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思想家一覧(しそうかいちらん)は、思想家や哲学者の分野別一覧。
各カテゴリーに分類されているが、一つの部類ではなく、その思想家の活動が複数のカテゴリーにまたがっている場合も十分考えられる。その場合は、ノートも参照のこと。
儒学者一覧を参照
「大陸」とはドイツ・フランスまれにイタリアを含めた呼称である。英語圏の哲学に対していう。
下項ドイツ観念論も参照
ヘーゲル主義者の一覧を参照。
ヘーゲル主義者の一覧を参照。
ヘーゲル主義者の一覧を参照。
明治前期・中期
明治後期・大正期
昭和戦前期
#プラグマティズム以外の思想家。プラグマティズムの項目も参照。
現在適切なカテゴリーがない思想家も含む。(出来次第適宜移動願います。)
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思想家一覧(しそうかいちらん)は、思想家や哲学者の分野別一覧。 各カテゴリーに分類されているが、一つの部類ではなく、その思想家の活動が複数のカテゴリーにまたがっている場合も十分考えられる。その場合は、ノートも参照のこと。
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各カテゴリーに分類されているが、一つの部類ではなく、その思想家の活動が複数のカテゴリーにまたがっている場合も十分考えられる。その場合は、[[ノート:思想家一覧|ノート]]も参照のこと。
== ギリシャ哲学・ローマ哲学 ==
=== 自然哲学者 ===
{{Main|自然哲学}}
*[[タレス]]
*[[アナクシマンドロス]]
*[[アナクシメネス]]
*[[ヘラクレイトス]]
*[[アナクサゴラス]]
*[[ピタゴラス]]
=== エレア派 ===
{{Main|エレア派}}
*[[クセノファネス]]
*[[パルメニデス]]
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*[[メリッソス]]
=== 原子論者 ===
{{Main|原子論}}
*[[レウキッポス]]
*[[デモクリトス]]
*[[エピクロス]]
*[[ルクレティウス]]
=== ソクラテス以後 ===
*[[ソクラテス]]
*[[クセノポン]]
*[[クセノクラテス]]
*[[アンティステネス]]
*[[アリスティッポス]]
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*[[エリスのパイドン]]
*[[ディオゲネス (犬儒学派)|ディオゲネス]] - [[キニク学派|犬儒学派]]
=== アカデメイア学派 ===
{{Main|アカデメイア学派}}
*[[プラトン]]
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=== 逍遥学派 ===
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=== エピクロス派 ===
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=== ストア派 ===
{{Main|ストア派}}
*[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]
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*[[クリュシッポス]]
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*[[ピュロン]]
*[[セクストス・エンペイリコス]]
=== 新プラトン派(ネオプラトニズム) ===
{{Main|新プラトン主義}}
*[[プロティノス]]
=== 医学思想 ===
*[[ヒポクラテス]]
*[[ガレノス]]
== イスラーム哲学 ==
{{Main|イスラーム哲学}}
*[[イブン・スィーナー]](アビセンナ)
*[[イブン・アラビー]]
*[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)
*[[キンディー]]
*[[ファーラービー]]
*[[スフラワルディー]]
*[[ガザーリー]]
*[[イブン・ハズム]]
*[[劉智]] - 『天方性理』の著者。いわゆる[[回儒]]<!-- 。(中国哲学に入れたほうがよい?) -->
*[[馬徳新]]
== インド哲学 ==
*[[ヴァッラバ]]
*[[ヴィヴェーカーナンダ]]
*[[オーロビンド・ゴーシュ]]
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== 仏教 ==
{{Main|仏教}}
*[[釈迦]]
=== 中観 ===
{{Main|中観}}
*[[龍樹]](ナーガールジュナ)
*[[聖提婆]](アーリヤデーヴァ)
*[[清弁]](バーヴァヴィヴェーカ、バヴィヤとも)
*[[寂護]](シャーンタラクシタ)
*[[仏護]](ブッタパーリタ)
*[[月称]](チャンドラキールティ)
*[[寂天]](シャーンティデーヴァ)
=== 唯識 ===
{{Main|唯識}}
*[[弥勒 (僧)|弥勒]](マイトレーヤ)
*[[無著]](アサンガ)
*[[世親]](ヴァスバンドゥ)
*[[護法]](ダルマパーラ)
=== 論理学 ===
*[[陳那]](ディグナーガ)
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=== 中国仏教 ===
*[[竺法護]]
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*[[円空]]
*[[融観]]
== 中国哲学 ==
=== 諸子百家 ===
{{Main|諸子百家}}
==== 儒学者 ====
*[[孔子]]
*[[曾子]]
*[[荀子]]
*[[孟子]]
==== 道家・老荘思想家 ====
*[[老子]]
*[[荘子]]
*[[列子]]
*[[楊朱]]
*[[管子]]-[[管仲]]に仮託した思想家グループ([[法家]]に含む場合あり。)
==== その他諸子百家 ====
*[[墨子]]
*[[韓非]]
*[[孫武]]-兵法書「[[孫子 (書物)|孫子]]」を著す。
*[[呉起]](あるいはその弟子?)-兵法書「[[呉子]]」を著す。
*[[張儀]]
*[[蘇秦]]
=== 漢代以降 ===
==== 儒学者 ====
''[[儒学者一覧]]を参照''
==== その他思想家 ====
*[[王充]]
*[[劉安]]-『[[淮南子]]』を著す。
*[[葛洪]]
*[[陶弘景]]
*[[王通 (隋)|文中子]]
*[[劉禹錫]]
*[[王重陽]]
*[[丘長春]]
*[[李卓吾]]
*[[洪自誠]]-『[[菜根譚]]』の著者。
*[[呂新吾]]-思想家。『[[呻吟語]]』の著者。
== ユダヤ教・キリスト教 ==
{{Main|ユダヤ教|キリスト教}}
{{Seealso|神学者の一覧}}
=== ユダヤ教 ===
*[[モーゼ]]
*[[アレクサンドリアのフィロン]]
*[[モーリッツ・ラーツァルス]]
*[[モーシェ・ベン=マイモーン]](イブン・マイムーン、マイモニデス)
*[[マルティン・ブーバー]]
*[[ゲルショム・ショーレム]]
*[[ヘルマン・コーエン]]
*[[バールーフ・デ・スピノザ]]
*[[バアル・シェム・トーブ]]
*[[フラウィウス・ヨセフス]]
*[[フランツ・ローゼンツヴァイク]]
*[[エマニュエル・レヴィナス]]
*[[ヴァルター・ベンヤミン]]
*[[アブラハム・ジョシュア・ヘシェル]]
*[[アブラハム・イブン・エズラ]]
=== 原始キリスト教 ===
*[[イエス・キリスト|イエス]]
*[[パウロ]]
*[[ペトロ]]
=== グノーシス主義 ===
{{Main|グノーシス主義}}
*{{仮リンク|ウァレンティノス|en|Valentinus (Gnostic)}}
=== 教父 ===
{{Main|教父}}
*[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス]]
*[[アリウス派|アレイオス]]
*[[ネストリウス派|ネストリオス]]
*[[アウグスティヌス]]
=== スコラ学 ===
*[[アンセルムス]]
*[[アベラール]]
*[[ペトルス・ロンバルドゥス]]
*[[ブラバンのシゲルス]]
*[[アルベルトゥス・マグヌス]]
*[[トマス・アクィナス]]
*[[ボナヴェントゥラ]]
*[[ガンのヘンリクス]]
*[[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]]
*[[オッカムのウィリアム|ウィリアム・オッカム]]
*[[ロジャー・ベーコン]]
*[[アデラード]]([[バースのアデラード|バスのアデラード]])
*[[アマルリック]]
=== ドイツ神秘思想 ===
*[[マイスター・エックハルト]]
*[[ヤーコプ・ベーメ]]
*[[ヒルデガルト・フォン・ビンゲン]]
*[[ニコラウス・クザーヌス]]
=== プロテスタント (宗教改革) ===
{{Main|プロテスタント|宗教改革}}
*[[マルティン・ルター]]
*[[ジャン・カルヴァン]]
=== 現代キリスト教思想 ===
*[[エティエンヌ・ジルソン]]
*[[マルティン・グラープマン]]
*[[ガブリエル・マルセル]]
*[[ピエール・テイヤール・ド・シャルダン]]
*[[カール・バルト]]
*[[マルティン・ブーバー]]
*[[C・S・ルイス]]
*[[ルドルフ・カール・ブルトマン]]
*[[パウル・ティリッヒ]]
*[[ラインホルド・ニーバー]]
*[[アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー]]
*[[ユルゲン・モルトマン]]
*[[ヴォルフハルト・パネンベルク]]
*[[パウル・アルトハウス]]
== 西洋哲学 ==
=== ルネサンス期の思想 ===
{{Main|ルネサンス}}
*[[パラケルスス]]
*[[ジョルダーノ・ブルーノ]]
*[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]
*[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]-代表作は『君主論』、『ローマ試論』
*[[マルシリオ・フィチーノ]]
*[[トマソ・カンパネッラ]]
*[[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ]]
*[[ルシリオ・ヴァニニ]]
*[[ロレンツォ・ヴァッラ]]
*[[ピコ・デラ・ミランドラ]]
*[[トマス・モア]]
=== モラリスト ===
{{Main|モラリスト}}
*[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]
*フランソワ・ド・[[ラ・ロシュフーコー]]
*ジャン・ド・[[ラ・ブリュイエール]]
*[[リュック・ド・クラピエ・ド・ヴォーヴナルグ|ヴォーヴナルグ]]
*[[エミール=オーギュスト・シャルティエ|アラン]](エミール=オーギュスト・シャルティエ)
=== 大陸合理主義哲学 ===
{{Main|合理主義哲学}}
「大陸」とはドイツ・フランスまれにイタリアを含めた呼称である。英語圏の哲学に対していう。
*[[ルネ・デカルト]]
*[[バールーフ・デ・スピノザ]]
*[[ゴットフリート・ライプニッツ]]
*[[ニコラス・マールブランシュ]]
*[[ブレーズ・パスカル]]
*[[メーヌ・ド・ビラン]]
==== ライプニッツ・ヴォルフ学派 ====
*[[クリスチャン・ヴォルフ]]
*[[エメーリヒ・フォン・ヴァッテル]]
=== ケンブリッジ・プラトン学派 ===
{{Main|ケンブリッジ・プラトン学派}}
*[[ベンジャミン・ウィチカット]]
*[[ヘンリー・モア]]
*[[ラルフ・カドワース]]
*[[ジョン・スミス (哲学)|ジョン・スミス]]
*[[ナサニエル・カルヴァーウェル]]
*[[ピーター・ステリー]]
=== イギリス経験論・スコットランド啓蒙(道徳感覚学派) ===
{{Main|イギリス経験論|スコットランド常識学派}}
*[[フランシス・ベーコン (哲学者)]]
*[[トマス・ホッブズ]]
*[[ジョン・ロック]] - 代表作は「市民政府論」
*[[デイヴィッド・ヒューム]]
*[[ジョージ・バークリ]]
*[[トーマス・リード]]
*[[アダム・スミス]]
*[[ジョセフ・プリーストリー]]
*[[フランシス・ハチスン]]
*[[アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵)|第3代シャフツベリ伯]]
=== 啓蒙思想 ===
{{Main|啓蒙思想}}
*[[ピエール・ベール]] - 代表作は「歴史批評辞典」
*[[シャルル・ド・モンテスキュー]] - 代表作は「法の精神」
*[[ドゥニ・ディドロ]]
*[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]
*[[ジャン=ジャック・ルソー]] - 代表作は「社会契約論」
*[[ラ・メトリ]]
*[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]
=== ドイツ啓蒙思想とドイツ古典主義 ===
{{Main|啓蒙思想|古典主義}}
*[[モーゼス・メンデルスゾーン]]
*[[ヨハン・クリストフ・ゴットシェット]]
*[[ゴットホールト・エフライム・レッシング]]
*[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン]]
*[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]
*[[クリスチャン・ヴォルフ]]
*[[トマス・アプト]]
*[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]
*[[フリードリヒ・フォン・シラー]]
*[[クリストフ・フリードリヒ・ニコライ]]
*[[ヘルマン・ザムエル・ライマールス]]
=== ドイツ批判哲学(批判哲学の反対者も含む) ===
''下項[[#ドイツ観念論(ドイツロマン主義など、その周辺も含む)|ドイツ観念論]]も参照''
*[[イマヌエル・カント]]
*[[ゴットリープ・ベンヤミン・イエッシェ]]
*[[クリスティアン・ヴァイス]]
*[[ヨハン・アウグスト・エーベルハルト]]
*[[ゴットロープ・エルンスト・シュルツェ]]
*[[ザーロモン・マイモン]]
*[[ヤーコプ・ジギスムント・ベック]]
*[[クリストフ・ゴットフリート・バルディリ]]
=== ドイツ観念論(ドイツロマン主義など、その周辺も含む) ===
{{Main|ドイツ観念論|ロマン主義}}
*[[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]
*[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]
*[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]
*[[フリードリヒ・シェリング|フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング]]
*[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]
*[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]
*[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル]]
*[[フリードリヒ・シュレーゲル]]
*[[ノヴァーリス]]
*[[カール・レオンハルト・ラインホルト]]
*[[カール・アドルフ・エッシェンマイヤー]]
*[[ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト]]
*[[イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ]]
*[[ヨハン・ヤーコプ・ヴァーグナー]]
*[[フランツ・ヘムステルホイス]]
*[[カール・クリスティアン・クラウゼ]]
*[[ヤーコプ・フリードリヒ・フリース]]
=== ヘーゲル学派 ===
==== 老ヘーゲル派 ====
{{Main|老ヘーゲル派}}
''[[ヘーゲル主義者の一覧#老ヘーゲル派|ヘーゲル主義者の一覧]]を参照。
==== ヘーゲル中央派 ====
{{Main|ヘーゲル中央派}}
''[[ヘーゲル主義者の一覧#中央派|ヘーゲル主義者の一覧]]を参照。''
==== 青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派) ====
{{Main|青年ヘーゲル派|ヘーゲル左派}}
*[[ブルーノ・バウアー]]
*[[エドガー・バウアー]]
*[[マックス・シュティルナー]]
*[[ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]
*[[ダーフィト・シュトラウス]]
*[[ミハイル・バクーニン]]
*[[フェルディナント・ラッサール]]
*[[モーゼス・ヘス]]
*[[アーノルト・ルーゲ]]
*[[ハインリヒ・ハイネ]]
=== 実証主義 ===
{{Main|実証主義}}
*[[オーギュスト・コント]]
*[[リヒャルト・ヴァーレ]]
*[[ベルナルデイオ・ヴァリスコ]]
=== 古典社会学 ===
*[[エミール・デュルケーム]]
*[[フェルディナント・テンニース|フェルディナント・テンニェース]]
*[[カール・マンハイム]]
*[[マックス・ヴェーバー]]
*[[アルフレート・ヴェーバー]]
*[[カール・イェルーザレム|カール・ヴィルヘルム・イェルザレム]]
*[[ヴェルナー・ゾンバルト]]
*[[ハンス・フライヤー]]
=== 功利主義 ===
{{Main|功利主義}}
*[[ジェレミ・ベンサム]]
*[[ジェームズ・ミル]]
*[[ジョン・スチュアート・ミル]]
*[[ヘンリー・シジウィック]]
*[[ハーバート・スペンサー]]
*[[ジョージ・エドワード・ムーア]]
*[[ピーター・シンガー]]
=== 社会主義 ===
{{Main|社会主義}}
*[[アンリ・ド・サン=シモン]]
*[[シャルル・フーリエ]]
*[[グラキュース・バブーフ]]
*[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]
*[[カール・マルクス]] -代表作は、「資本論」、「共産党宣言」
*[[フリードリヒ・エンゲルス]]-代表作は「反デューリング論」、「家族、私有財産、国家の起源」
*[[カール・グリューン]]
*[[ゲオルク・クールマン]]
*[[ウラジーミル・レーニン]]-代表作は、「帝国主義論」、「国家と革命」
*[[アレクサンドル・ゲルツェン]]
*[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]
*[[アントニオ・グラムシ]]-「獄中ノート」と云う膨大なノートで知られる。
*[[アントニオ・ラブリオーラ]]
*[[ローザ・ルクセンブルク]]-代表作は「資本蓄積論」
*[[レフ・トロツキー]]-代表作は、「ロシア革命史」
*[[トーマス・ホジスキン]]-代表作は「労働擁護論」
*[[ロバート・オウエン]]
*[[ブルーノ・バウアー]]
*[[モーゼス・ヘス]]
*[[フェルディナント・ラッサール]]
*[[ゲオルギー・プレハーノフ]]-代表作は、「歴史における個人の役割」、「史的一元論」
*[[フランツ・メーリング]]
*[[アンファンタン]]
=== アナキズム ===
{{Main|アナキズム}}
*[[ピエール・ヨゼフ・プルードン]]
*[[ミハイル・バクーニン]]-代表作は「神と国家」、「国家と無政府」
*[[ピョートル・クロポトキン]]-代表作は、「パンの略取」、「相互扶助論」
*[[ウラジミール・チェルケゾフ]]
*[[ピエール・ラムス]](ルドルフ・グロスマン)
*[[エンリコ・マラテスタ]]
*[[カルロ・カフィエーロ]]
*[[アンドレア・コスタ]]
*[[ヨハン・モスト]]
*[[ジョルジュ・ソレル]]-代表作は「暴力論」「進歩の幻想」
=== スラブ派 ===
{{Main|スラブ派}}
*[[コンスタンティン・アクサーコフ]]
*[[イワン・アクサーコフ]]
*[[コンスタンティン・レオンチェフ]]
*[[ニコライ・ダニエレフスキー]]
=== ロシア宗教哲学 ===
{{Main|ロシア宗教哲学}}
*[[ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者)|ウラジーミル・ソロヴィヨフ]]
*[[ニコライ・ベルジャーエフ]]
*[[レフ・シェストフ]]
=== プラグマティズム ===
{{Main|プラグマティズム}}
*[[ウィリアム・ジェームズ]]
*[[ジョン・デューイ]]
*[[チャールズ・サンダース・パース]]
*[[ジョージ・ハーバート・ミード]]
*[[リチャード・ローティ]]
=== 現象学 ===
{{Main|現象学}}
*[[フランツ・ブレンターノ]]
*[[アレクシウス・マイノング]]
*[[エドムント・フッサール]]
*[[マックス・シェーラー]]
*[[ニコライ・ハルトマン]]
*[[オスカー・ベッカー]]
*{{仮リンク|ハンス・リップス|en|Hans Lipps}}
*[[ガブリエル・マルセル]]
*[[ローマン・インガルデン]]
*[[ルートヴィヒ・ラントグレーベ]]
*[[オイゲン・フィンク]]
*[[ジャン・ポール・サルトル]]
*[[モーリス・メルロー=ポンティ]]
*[[マックス・ミューラー]]
*[[ミシェル・アンリ]]
*[[ゲルト・ブラント]]
*[[ハインリヒ・ロムバッハ]]
*[[ヘルマン・シュミッツ]]
*[[アントニオ・アグィーレ]]
*[[ミヒャエル・トイニッセン]]
*[[ベルンハルト・ヴァルデンフェルス]]
*{{仮リンク|ウルリッヒ・クレスゲス|de|Ulrich Claesges}}
*[[オスカー・ヴルフ]]
*[[ヤン・パトチカ]]
=== 生の哲学 ===
{{Main|生の哲学}}
*[[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]
*[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]
*[[フリードリヒ・ニーチェ]]
*[[ゲオルク・ジンメル]]
*[[アンリ・ベルクソン]]
*[[ウラジミール・ジャンケレヴィッチ]]
=== 新カント派 ===
{{Main|新カント派}}
*[[フリードリヒ・アルベルト・ランゲ]]
*[[ヘルマン・コーエン]]
*[[パウル・ナトルプ]]
*[[ニコライ・ハルトマン]]
*[[エルンスト・カッシーラー]]
*[[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]
*[[ハインリヒ・リッケルト]]
*[[エミール・ラスク]]
*[[エーリヒ・アディッケス]]
=== 新ヘーゲル主義 ===
{{Main|新ヘーゲル主義}}
''[[ヘーゲル主義者の一覧#新ヘーゲル主義(第3世代)|ヘーゲル主義者の一覧]]を参照。''
=== 解釈学 ===
{{Main|解釈学}}
*[[フリードリッヒ・シュライエルマッハー]]
*[[ヴィルヘルム・ディルタイ]]
*[[マルティン・ハイデッガー]]
*[[ハンス・ゲオルク・ガダマー]]
*[[ポール・リクール]]
*[[ハンス・ブルーメンベルク]]
*[[ゲオルク・アントン・フリードリヒ・アスト]]
=== 実存哲学 ===
{{Main|実存哲学}}
*[[セーレン・キェルケゴール]]
*[[カール・ヤスパース]]
*[[ジャン=ポール・サルトル]]
*[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]
=== ドイツ保守革命 ===
{{Main|ドイツ保守革命}}
*[[アルトゥール・メラー=ファン=デン=ブルック]]
*[[オスヴァルト・シュペングラー]]
*[[エルンスト・ユンガー]]
*[[カール・シュミット]]
*[[ハンス・ツェーラー]]
*[[エトガー・ユリウス・ユング]]
*[[アルミン・モーラー]]
=== ファシズム ===
{{Main|ファシズム}}
*[[ジョヴァンニ・ジェンティーレ]]
*[[オトマール・シュパン]]
*[[アルフレート・ボイムラー]]
*[[エルンスト・クリーク]]
=== 20世紀のヒューマニズム ===
{{Main|ヒューマニズム}}
*[[マザー・テレサ]]
*[[マハトマ・ガンディー]]
*[[アルベルト・シュヴァイツァー]]
== 精神分析学 ==
{{Main|精神分析学}}
*[[ジークムント・フロイト]]
*[[アンナ・フロイト]]
*[[アルフレッド・アドラー]]
*[[ヴィルヘルム・ライヒ]]
*[[オットー・ランク]]
*[[カール・グスタフ・ユング|カール・ユング]]
*[[フランツ・アレクサンダー]]
== 近世日本思想 ==
*[[安藤昌益]]
*[[富永仲基]]
*[[二宮尊徳]]
*[[青木昆陽]]
*[[高野長英]]
*[[渡辺崋山]]
*[[佐久間象山]]
*[[山岡鉄舟]]
*[[吉田松陰]]
*[[横井小楠]]
*[[佐藤信淵]]
*[[三浦梅園]]
=== 儒学 ===
==== 朱子学 ====
*[[林羅山]]
==== 古学 ====
*[[山鹿素行]]
*[[伊藤仁斎]]
*[[荻生徂徠]]
=== 心学 ===
*[[石田梅岩]]
=== 国学 ===
*[[契沖]]
*[[荷田春満]]
*[[賀茂真淵]]
*[[本居宣長]]
*[[平田篤胤]]
=== 水戸学 ===
*[[徳川光圀]]
*[[藤田東湖]]
=== 蘭学 ===
*[[志筑忠雄]]
=== 武士道 ===
*[[山本常朝]]
== 近現代日本思想 ==
=== 啓蒙思想 ===
*[[福沢諭吉]]
*[[森有礼]]
*[[中村正直]]
*[[加藤弘之]]
*[[箕作秋坪]]
*[[中江兆民]]
*[[新渡戸稲造]]
*[[金子堅太郎]]
=== 京都学派 ===
* [[西田幾多郎]]
* [[田邊元]]
* [[波多野精一]]
* [[朝永三十郎]]
* [[和辻哲郎]]
* [[久松真一]]
* [[武内義範]]
* [[土井虎賀寿|土井虎賀壽]]
* [[下村寅太郎]]
* [[上田閑照]]
* [[大橋良介]]
* [[三木清]] - 京都学派左派
* [[戸坂潤]] - 京都学派左派
* [[中井正一]] - 京都学派左派
* [[久野収]] - 京都学派左派
* [[西谷啓治]] - [[京都学派四天王]]
* [[高坂正顕]] - 京都学派四天王
* [[高山岩男]] - 京都学派四天王
* [[鈴木成高]] - 京都学派四天王
=== 哲学 ===
* [[九鬼周造]]
* [[上山春平]]
* [[井上哲次郎]]
* [[高橋里美]]
* [[田中美知太郎]]
* [[廣松渉]]
* [[加藤尚武]]
* [[柄谷行人]]
==== 分析哲学・プラグマティズム ====
* [[大森荘蔵]]
* [[黒崎宏]]
* [[市井三郎]]
* [[丹治信春]]
* [[坂本百大]]
* [[永井均]]
==== 現象学 ====
* [[竹田青嗣]]
=== 宗教思想 ===
* [[大川隆法]]
==== 仏教 ====
*[[清沢満之]]
*[[井上円了]]
*[[鈴木大拙]]
==== 儒教 ====
*[[渋沢栄一]]
==== キリスト教 ====
*[[新島襄]]
*[[内村鑑三]]
=== 言語学 ===
*[[井筒俊彦]]
*[[時枝誠記]]
*[[三浦つとむ]]
=== 民俗学 ===
* [[柳田國男]]
* [[折口信夫]]
=== 文化人類学 ===
* [[今西錦司]]
* [[梅棹忠夫]]
* [[中沢新一]]
=== 日本学 ===
* [[梅原猛]]
=== 社会学 ===
* [[小室直樹]]
* [[宮台真司]]
=== 数学 ===
* [[岡潔]]
=== 文芸批評 ===
* [[福田恆存]]
* [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]
* [[江藤淳]]
=== 歴史 ===
* [[内藤湖南]]
* [[司馬遼太郎]]
==== 経済史 ====
* [[大塚久雄]]
==== 皇国史観 ====
* [[平泉澄]]
=== 政治思想 ===
* [[吉野作造]]
* [[丸山眞男]]
==== アジア主義 ====
* [[岡倉天心]]
* [[頭山満]]
* [[宮崎滔天]]
* [[大川周明]]
* [[鹿島守之助]]
* [[田中清玄]]
==== 天皇主体説 ====
* [[穂積八束]]
* [[上杉慎吉]]
* [[蓑田胸喜]]
==== 天皇機関説 ====
* [[一木喜徳郎]]
* [[美濃部達吉]]
==== 国家社会主義 ====
* [[北一輝]]
* [[高畠素之]]
* [[赤松克麿]]
==== 無政府主義 ====
* [[大杉栄]]
==== マルクス主義講座派 ====
* [[野呂栄太郎]]
* [[山田盛太郎]]
* [[平野義太郎]]
* [[服部之総]]
* [[羽仁五郎]]
* [[大塚金之助]]
==== マルクス主義労農派 ====
* [[櫛田民蔵]]
* [[大内兵衛]]
* [[猪俣津南雄]]
* [[土屋喬雄]]
* [[向坂逸郎]]
* [[有沢広巳]]
* [[岡崎次郎]]
* [[大森義太郎]]
==== 保守主義 ====
* [[金子堅太郎]]
* [[西部邁]]
* [[佐伯啓思]]
* [[中野剛志]]
==== 自由主義 ====
* [[井上達夫]]
==== リバタリアニズム ====
* [[森村進]]
=== フェミニズム ===
* [[上野千鶴子]]
=== 農本主義 ===
'''明治前期・中期'''
* [[西郷隆盛]]
* [[前田正名]]
* [[品川弥二郎]]
* [[平田東助]]
* [[谷干城]]
* [[津田仙]]
'''明治後期・大正期'''
* [[横井時敬]]
* [[柳田國男]]
* [[山崎延吉]]
* [[河上肇]]
* [[石黒忠篤]]
* [[岡田温 (農業技師)|岡田温]]
'''昭和戦前期'''
* [[権藤成卿]]
* [[橘孝三郎]]
* [[加藤完治]]
* [[那須皓]]
=== ジャーナリズム ===
* [[石橋湛山]]
* [[徳富蘇峰]]
* [[山本七平]]
* [[清水幾太郎]]
=== その他 ===
* [[吉本隆明]]
* [[三島由紀夫]]
== フランス現代思想 ==
{{Main|フランス現代思想}}
=== 構造主義 ===
{{Main|構造主義}}
*[[クロード・レヴィ=ストロース]]
*[[ルイ・アルチュセール]]
*[[ジャック・ラカン]]
*[[ロラン・バルト]]
*[[ジュリア・クリステヴァ]]
=== ポストモダン ===
{{Main|ポストモダン}}
*[[ミシェル・フーコー]]
*[[ジル・ドゥルーズ]]
*[[ジャック・デリダ]]
*[[ジャン・ボードリヤール]]
*[[フェリックス・ガタリ]]
*[[ジャン・フランソワ・リオタール]]
*[[ポール・ド・マン]]
*[[ポール・ヴィリリオ]]
=== その他 ===
* [[クァンタン・メイヤスー]]
* [[マリ=ジョゼ・モンザン]]
== ドイツ現代唯美派 ==
*[[カール・ハインツ・ボーラー]]
== 近現代アメリカ思想(アメリカ哲学) ==
{{Main|アメリカ合衆国の哲学}}
[[#プラグマティズム]]以外の思想家。プラグマティズムの項目も参照。
*[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]
*[[ラルフ・ウォルドー・エマーソン]]
*[[フリードリック・ジェームズ・ユージーン・ウッドブリッジ]]
*[[アンドリュー・キャンベル・アームストロング]]
*[[フレドリック・ジェイムソン]]
*[[スタンリー・カヴェル]]
*[[ジョアン・コプチェク]]
== スペイン現代思想 ==
{{Main|スペイン現代思想}}
*[[ジョージ・サンタヤナ]]
*[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]
*[[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]
== イタリア現代思想 ==
{{Main|イタリア現代思想}}
*[[ベネデット・クローチェ]]
*[[アントニオ・バンフィ]]
*[[アントニオ・グラムシ]]
*[[ウンベルト・エーコ]]
*[[アントニオ・ネグリ]]
*[[マッシモ・カッチャーリ]]
== アフリカ現代思想 ==
*[[アントン・ヴィルヘルム・ルドルフ・アモ]]([[ガーナ]]) <!--(Anton Wilhelm Rudolph Amo) -->
*[[アミルカル・カブラル]]([[ギニアビサウ]]) <!--(Cabral Amilcar)-->
*[[フランツ・ファノン]](仏領[[マルティニーク]])<!--(Frantz Fanon)-->
*[[マルセル・グリオール]]([[マリ共和国]])<!--(Marcel Griaule)-->
*[[パウリン・フォントンディー]]([[ベナン]])<!--(Paulin Hountondji)違うなぁ…。-->
*[[レオポルド・セダール・サンゴール]]([[セネガル]])
*[[プラシド・フラン・テンペル]]([[コンゴ民主共和国]])<!--(Placide Frens Tempels)-->
*[[ゼラ・ヤコブ]])([[エチオピア]]) <!--(Zera Yacob)-->
== 哲学史家 ==
*[[ルドルフ・アイスラー]]
== 近現代神秘学研究 ==
*[[ルドルフ・シュタイナー]]
*[[アルフレート・ローゼンベルク]]
*[[ゴスヴィン・ウプフス]]
*[[ヴロンスキー]]
== 社会哲学 ==
{{Main|社会哲学}}
*[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]
*[[ハンナ・アーレント]]
*[[ジョン・ロールズ]]
*[[エリック・ホッファー]]
*[[ルートヴィヒ・ヴォルトマン]]
=== フランクフルト学派 ===
{{Main|フランクフルト学派}}
*[[マックス・ホルクハイマー]]
*[[テオドール・アドルノ]]
*[[ヴァルター・ベンヤミン]]
*[[ヘルベルト・マルクーゼ]]
*[[アルフレート・シュミット]]
*[[ユルゲン・ハーバーマス]]
*[[エーリヒ・フロム]]
*[[アクセル・ホネット]]
== 言語哲学 ==
{{Main|言語哲学}}
*[[フェルディナン・ド・ソシュール]]
*[[オットー・イェスペルセン]]
*[[ルイス・イェルムスレウ]]
== 論理哲学・数理哲学・分析哲学 ==
{{Main|分析哲学}}
*[[ゴットロープ・フレーゲ]]
*[[バートランド・ラッセル]]
*[[ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン]]
*[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]
*[[ドナルド・デイヴィドソン]]
*[[ポール・ベナセラフ]]
*[[クルト・ゲーデル]]
*[[ジョン・サール]]
*[[フィリップ・フランク]]
*[[ヴィクトル・クラフト]]
*[[エルンスト・フォン・アスター]]
*[[ソール・クリプキ|ソール・アーロン・クリプキ]]
===日常言語学派===
*[[ギルバート・ライル]]
*[[ジョン・ラングショー・オースティン]]
*[[ピーター・フレデリック・ストローソン]]
===論理実証主義===
*[[ウィーン学団]]
*[[ルドルフ・カルナップ]]
*[[モーリッツ・シュリック]]
*[[カール・ヘンペル]]
*[[アルフレッド・エイヤー]]
*[[ハンス・ライヘンバッハ]]
*[[オットー・ノイラート]]
== 科学哲学 ==
{{Main|科学哲学}}
*[[カール・ポパー]]
*[[トーマス・クーン]]
*[[ポール・ファイヤアーベント]]
*[[マイケル・ポランニー]]
*[[エルンスト・マッハ]]
*[[パトリック・サッピ]]
*[[バス・C・ヴァン=フラッセン]]
*[[イアン・ハッキング]]
*[[ウェズリー・C・サモン]]
*[[ジョン・アーマン]]
*[[ヘンリー・E・カイバーグ,Jr.]]
*[[ローレンス・スクラー]]
*[[ポール・テラー]]
*[[ポール・ヴァイス]]
===科学認識論===
*[[ガストン・バシュラール]]
*[[ジョルジュ・カンギレム]]
*[[アレクサンドル・コイレ]]
== その他の思想家 ==
''現在適切なカテゴリーがない思想家も含む。(出来次第適宜移動願います。)''
*[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]] - プロイセンの軍人。戦争学者。著書『戦争論』は後世の軍隊・軍人に多大な影響を与えた。
*[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]
*[[サミュエル・アレクサンダー]] - 進化論を元に、時間論・空間論などを手がけた。豪生まれのイギリスの哲学者。
*[[オットー・アーペルト]] - プラトン研究。フリース主義。ドイツ。
*[[アドルフ・クニッゲ]] - ドイツの作家。『人間交際術』の著者。
*[[バルタサル・グラシアン]] - スペインの哲学者。『賢人の知恵』の著者。
*[[エミール=オーギュスト・シャルティエ]]
*[[トマス・ホッブス]]
{{Seealso|日本の哲学者}}
*[[Portal:哲学]]
{{哲学}}
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[[Category:思想家|*一覧]]
[[Category:人物の一覧]]
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17,053 |
継電器
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継電器(けいでんき、英語: relay、リレー)は、動作スイッチ・物理量・電力機器等の状態に応じ、制御または電源用の電力の出力をする電力機器である。
もとは有線電信において、伝送路の電気抵抗によって弱くなった信号を「中継」(relay リレー)するために発明されたものである。図などではRyという記号が使われることが多い。発明者はジョセフ・ヘンリーである。小電力の入力によって大電力のオン・オフを制御することが当初の目的であったため、継電器を用いることを時として「アンプする」というが、対象とするものを直に制御するよりは、安全性(感電の防止など)や操作性(設置位置の自由度、遠隔操作)、操作の確実性等が増すことから、必ずしも電力的な増幅の目的にとどまらず、広範囲な目的で多用されている。
電磁継電器(でんじけいでんき、electromagnetic relay エレクトロマグネティック・リレー)は、電磁石(巻線に制御入力電流を流すもの)により接点を物理的に動かし、開閉する継電器。「電磁リレー」とも呼ばれる。消費電力が大きい、動作(応答)が遅い、過電圧・電流に強い、高周波の制御も可能などの特徴がある。
接点の構成により
などがある。端子の
をそれぞれ示す。
電磁石と並列に永久磁石を設け、バネ反動力よりわずかに弱い磁力かつコイル遮断時の復帰力以下で補助し少ない消費電力で駆動できるようにしたものを有極リレーと呼ぶ。なお復帰力以上で補助すると一旦吸引したまま自己保持する。保持を解除するために、別のコイルで永久磁石の磁力を打ち消す、あるいはコイルに逆向き電流を流して使用する方式のリレーをラッチングリレーといい、火災報知器の受信機などで使われている。
リードスイッチ(英語版)を接点として使った電磁リレーのこと(英語版)。接点が微小であるため高速動作が可能かつ、低圧・少電流向け。また接点が封入されていることから接触不良が発生しにくく長寿命である。
リードスイッチの中に水銀を封入した水銀リレー(英語版)も過去に使用されていた。接点が水銀で濡れているため接触不良やチャタリングが発生せず、より高速かつ高信頼性を要する箇所に使用されてきたが、水銀の毒性が注目されてきたことから代替品の開発製造が進み、製造中止になった。液体水銀を使用するため取付方向に制限がある。
ソリッドステートリレー (solid-state relay) は、サイリスタやフォトカプラなどの半導体素子を用いて、小さな入力電力で大きな出力電圧をオン・オフする継電器の一種。「solid-state ソリッドステート」は字義どおりには固体を意味するが、慣習として「半導体素子による」や「可動部分は無い」といったことも指す。応答時間が早い、小型軽量にできる、機械動作が無いので寿命が長い、通常のリレーに比べて高価、などの特徴がある(→半導体リレー を参照)。
プログラムリレー (programmable relay) は、複数の継電器の機能や組み合わせを、一つのパッケージにしたものである。パソコンで簡易なラダー図を作成して機能を登録・変更したり、本体の押しボタンや小型LCDにより操作や動作表示できるものもある。多数の継電器が必要となる回路を製作したり、機能変更を頻繁に行ったりするような場合等に利用される。
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"text": "リードスイッチの中に水銀を封入した水銀リレー(英語版)も過去に使用されていた。接点が水銀で濡れているため接触不良やチャタリングが発生せず、より高速かつ高信頼性を要する箇所に使用されてきたが、水銀の毒性が注目されてきたことから代替品の開発製造が進み、製造中止になった。液体水銀を使用するため取付方向に制限がある。",
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継電器は、動作スイッチ・物理量・電力機器等の状態に応じ、制御または電源用の電力の出力をする電力機器である。
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{{出典の明記|date=2019年8月}}
[[File:Electronic_component_relays.jpg|thumb|300px|図1、プリント基板装着用の継電器(リレー)]]
[[file:Delta Electronics DPS-350FB A - board 1 - OEG SDT-SS-112M - case removed-3045.jpg|thumb|300px|図2、図1の4個のうち左上の継電器(リレー)からカバーを外したもの]]
[[File:Relay principle horizontal new.gif|thumb|300px|図3、図2の継電器の動作アニメーション]]
'''継電器'''(けいでんき、{{lang-en|relay}}、'''リレー''')は、[[動作スイッチ]]・[[物理量]]・[[電力機器]]等の[[状態]]に応じ、[[制御]]または[[電源]]用の[[電力]]の[[出力]]をする[[電力機器]]である。
== 概要 ==
もとは有線[[電信]]において、[[伝送路]]の[[電気抵抗]]によって弱くなった[[信号 (電気工学)|信号]]を「中継」(relay [[リレー]])するために[[発明]]されたものである。図などでは'''Ry'''という記号が使われることが多い。発明者は[[ジョセフ・ヘンリー]]である。小電力の入力によって大電力のオン・オフを制御することが当初の目的であったため、継電器を用いることを時として「[[増幅回路|アンプ]]する」というが<ref>そのため後述のソリッドステートリレー以外の継電器であっても、[[能動素子]]に分類するのが普通である。なお特に[[電子機器]]においては、出力側のほうが小電力の場合もある。</ref>、対象とするものを直に制御するよりは、安全性([[感電]]の防止など)や操作性(設置位置の自由度、[[遠隔操作]])、操作の確実性等が増すことから、必ずしも電力的な[[増幅]]の目的にとどまらず、広範囲な目的で多用されている。
== 種類 ==
[[ファイル:Relay.jpg|thumb|300px|図4、電磁継電器の内部構造の一例。カバーを外したところ。茶色の線を巻いた電磁石が見えている。下部が端子。上部にバネがある。]]
=== 電磁継電器 ===
電磁継電器(でんじけいでんき、electromagnetic relay エレクトロマグネティック・リレー)は、[[電磁石]]([[巻線]]に制御入力電流を流すもの)により接点を物理的に動かし、開閉する継電器。「'''電磁リレー'''」とも呼ばれる。[[消費電力]]が大きい、動作(応答)が遅い、過電圧・電流に強い、[[高周波]]の制御も可能などの特徴がある。
接点の構成により
; メーク
: 電磁石に電流を流したときに接点が閉じる、a接点 (arbeit contact)、常開接点、NO接点、と呼ばれる
; ブレーク
: 電磁石に電流を流したときに接点が開く、b接点 (break contact)、常閉接点、NC接点、と呼ばれる
; トランスファ
: 電磁石に電流を流すことで複数の接点を切り替える、c接点 (changeover contact)、切替接点と呼ばれる
; ラチェット
: 電磁石に電流を流すたびに接点の開閉を切り替える
などがある。端子の
* '''C'''は共通 (Common)
* '''NO'''は電流を流さない時に開放 (Normally Open)
* '''NC'''は電流を流さない時に接続 (Normally Closed)
をそれぞれ示す。
電磁石と並列に[[磁石|永久磁石]]を設け、[[ばね|バネ]]反動力よりわずかに弱い磁力かつコイル遮断時の復帰力以下で補助し少ない消費電力で駆動できるようにしたものを'''有極リレー'''と呼ぶ。なお復帰力以上で補助すると一旦吸引したまま自己保持する。保持を解除するために、別のコイルで永久磁石の磁力を打ち消す、あるいはコイルに逆向き電流を流して使用する方式のリレーをラッチングリレーといい、[[火災報知器]]の[[受信機]]などで使われている。
=== リードリレー ===
[[File:Reedrelais.jpg|thumb|200px|リードリレーの外観]]
{{仮リンク|リードスイッチ|en|Reed switch}}を接点として使った電磁リレーのこと<small>([[:en:Reed relay|英語版]])</small><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ni.com/white-paper/2774/ja/#toc3 |title=正しいリレーの選び方 - 3. リードリレー |publisher=[[ナショナルインスツルメンツ]] |accessdate=2016-09-09}}</ref>。接点が微小であるため高速動作が可能かつ、低圧・少電流向け。また接点が封入されていることから接触不良が発生しにくく長寿命である。
=== 水銀リレー ===
[[File:Clare_HGRM-55211-P00_mercury-wetted_reed_relay.jpg|thumb|200px|水銀リレーの外観]]
リードスイッチの中に水銀を封入した{{仮リンク|水銀リレー|en|Relay#Mercury-wetted_relay}}も過去に使用されていた。接点が水銀で濡れているため接触不良や[[チャタリング]]が発生せず、より高速かつ高信頼性を要する箇所に使用されてきたが、水銀の毒性が注目されてきたことから代替品の開発製造が進み、製造中止になった。液体水銀を使用するため取付方向に制限がある。
=== ソリッドステートリレー ===
[[File:Relequick,_Solid_State_Relays.gif|thumb|right|200px|ソリッドステートリレーの例。]]
'''ソリッドステートリレー''' (solid-state relay) は、[[サイリスタ]]や[[フォトカプラ]]などの[[半導体素子]]を用いて、小さな入力電力で大きな出力電圧をオン・オフする継電器の一種。「solid-state [[ソリッドステート]]」は字義どおりには[[固体]]を意味するが、慣習として「半導体素子による」や「可動部分は無い」といったことも指す。応答時間が早い、小型軽量にできる、[[機械]]動作が無いので[[寿命]]が長い、通常のリレーに比べて高価、などの特徴がある(→[[半導体リレー]] を参照)。
=== プログラムリレー ===
'''プログラムリレー''' (programmable relay) は、複数の継電器の機能や組み合わせを、一つのパッケージにしたものである。[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で簡易な[[ラダー・ロジック|ラダー図]]を作成して機能を登録・変更したり、本体の[[押しボタン]]や小型[[液晶ディスプレイ|LCD]]により操作や動作表示できるものもある。多数の継電器が必要となる回路を製作したり、機能変更を頻繁に行ったりするような場合等に利用される。
== 用途 ==
* [[保護継電器]] (protective relay)
* [[制御継電器]] (control relay)
* [[補助継電器]] (auxiliary relay)
== 定格 ==
; 定格電圧
: リレーを動かすための電源電圧。
; 定格電流
: リレーを動かすために消費する電流。
== 機能 ==
=== 応動過程 ===
* 始動
** 始動値
** 始動時間
* 動作
** 動作値
** 動作時間
* 保持
** 保持値
* 釈放
** 釈放値
** 釈放時間
* 復帰
** 復帰値
** 復帰時間
=== 応動速度 ===
* 限時
* 即時
* 高速度
=== 復帰 ===
* 自動復帰
* 手動復帰
* 電気復帰
=== 動作成績判定 ===
; 正動作
: 動作すべきときに、動作した。
; 正不動作
: 動作すべきでないときに、動作しなかった。
; 誤動作
: 動作すべきでないときに、動作した。
; 誤不動作
: 動作すべきときに、動作しなかった。
=== 整定 ===
* 整定
** 整定値
** 整定範囲
== 使用上の注意 ==
* 負荷に、[[突入電流]]が発生する[[電動機]]や[[ソレノイド]]などを接続した場合、接点がオンになった瞬間に大電流が流れ、接点にスパークを生じて焼損が起こる可能性がある。これを防ぐため、'''スパークキラー'''([[コンデンサ]]と[[抵抗器]]を直列に接続した電子部品)や'''[[バリスタ (電子部品)|バリスタ]]'''(過電圧を吸収する半導体素子)を接点もしくは負荷と並列に接続する。また、定格に余裕のある容量を採用することで寿命対策とする場合もある。
* [[トランジスタ]]などの半導体素子を用いて継電器のコイルを制御する場合(直流電流による制御)、電流のオフ時に発生する高電圧の逆起電力([[自己誘導作用]])により、半導体の素子を破壊することがある。これを防ぐために継電器のコイルと並列かつ電源電圧に対して逆方向に[[ダイオード]]を接続する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Relay}}
* [[シーケンス制御]]
* [[プログラマブルロジックコントローラ]]
* [[プログラマブルロジックデバイス]]
* [[論理回路]]
* [[電力回路]]
* [[制御工学]]
* [[エレクトロニクス用語一覧]]
* [[保護継電器]]
== 外部リンク ==
* [https://components.omron.com/jp-ja/products/basic-knowledge/relays リレーの基礎知識] - [[オムロン]]による解説
{{Electronic components|state=collapsed}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けいてんき}}
[[Category:電力機器]]
[[Category:電気回路]]
[[Category:デジタル回路]]
[[Category:電気工学]]
[[Category:制御工学]]
[[Category:ロボット工学]]
[[Category:電力工学]]
[[Category:電気配線]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E9%9B%BB%E5%99%A8
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17,054 |
ヒューズ
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ヒューズ(英:fuse)は、定格以上の大電流から電気回路を保護、あるいは加熱や発火といった電気火災事故を防止する電気・電子部品である。電気回路内に置かれ、普段は導体として振る舞う。しかし何らかの異常によって電気回路に定格以上の電流が流れると、ジュール熱により内蔵する合金部品が溶断(ようだん)し、回路を開くことにより回路を保護する。
ヒューズのうち、特に電力回路や電力機器で利用するものを電力ヒューズ(でんりょくヒューズ)という。
ヒューズは溶断する電流の大きさにより、導体部分の大きさ・太さ・構成成分が異なる。導体部分は露出もしくは容器に収められている。容器に収める場合は導体の状態を確認できるよう、容器を透明なものとしたり、表示器を設けるなどする。
ヒューズが溶断することを日本語圏では一般に「ヒューズが切れる」又は「ヒューズが飛ぶ」と言う。回路を焼き切って作動するという性質上、使い捨てであり、一度動作したヒューズを再び使用することはできない。
電熱を利用する機器(ドライヤー、コタツなど)では、設定以上の温度に達すると自動的に通電を遮断する温度ヒューズが設置されている場合が多い。
一般的に、ヒューズが切れた場合はヒューズを交換することで復旧するため、ラグ端子やソケットなど交換しやすい構造となっている。近年の小型化した電子機器では、ヒューズが半田付けされていたり、表面実装型の薄膜ヒューズのように、作動した後の復旧を想定しない実装も存在するが、これらは電気回路を保護するよりむしろ、大電流によって機器が加熱、発火するなどの事故を防ぐために用いられる。
電力ヒューズ(でんりょくヒューズ)は、高圧以上の電力回路の短絡電流の遮断を行う電力機器である。
この項目では、主に自動車用のヒューズボックスについて説明しています。
自動車で利用される電気回路、電子部品等を保護するヒューズを収納したボックスを指す。
ヒューズボックスの設置場所は主にエンジンルーム内、運転席側または助手席側付近にあり、ボックス自体は使用箇所に応じて数か所に分かれて設置される。
ヒューズ番号、ヒューズ名称、アンペア数、使用箇所等はヒューズボックスの蓋または取扱説明書に記載されているが、ヒューズ名称はアルファベットで略称されており分かりづらい名称もある。
使用箇所はヘッドライト、フォグライト、方向指示灯、制動灯、尾灯、番号灯、車幅灯、室内灯、後退灯、メーター照明、オーディオ照明、スイッチ照明、エアコン照明、パワーウインド、エアコン、エアバック、ドアロック、エンジンコントロール、燃料ポンプ、スターター、シフトロックコントロール、メーター、オーディオ、時計、 ミラー、ワイパー、ウォッシャー 、シガーソケット、ヒーター、アクセサリー等があるが使用箇所によっては集約されている。
かつては家庭用電気機器と同様にガラス管ヒューズが用いられていたが、電子機器類の増加とともに樹脂モールドされたISO規格のブレード型ヒューズに移行している。 ブレード型ヒューズは標準型のほか、小型化が図られたマイクロ型、マイクロ型からターミナルを除去した寸法の低背型が規格化されているが、後付の電装品ではガラス管ヒューズが用いられるケースも見られる。
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"text": "ヒューズ番号、ヒューズ名称、アンペア数、使用箇所等はヒューズボックスの蓋または取扱説明書に記載されているが、ヒューズ名称はアルファベットで略称されており分かりづらい名称もある。",
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] |
ヒューズは、定格以上の大電流から電気回路を保護、あるいは加熱や発火といった電気火災事故を防止する電気・電子部品である。電気回路内に置かれ、普段は導体として振る舞う。しかし何らかの異常によって電気回路に定格以上の電流が流れると、ジュール熱により内蔵する合金部品が溶断(ようだん)し、回路を開くことにより回路を保護する。
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{{otheruses}}
[[ファイル:Electrical Fuse (aka).jpg|サムネイル|222x222ピクセル|ガラス管入りヒューズ]]
'''ヒューズ'''([[英語|英]]:fuse)は、定格以上の[[電流|大電流]]から[[電気回路]]を保護、あるいは加熱や発火といった[[電気火災]]事故を防止する電気・[[電子部品]]である。電気回路内に置かれ、普段は[[電気伝導体|導体]]として振る舞う。しかし何らかの異常によって電気回路に[[定格]]以上の電流が流れると、[[ジュール熱]]により内蔵する[[合金]]部品が溶断(ようだん)し、回路を開くことにより回路を保護する。
== 概説 ==
ヒューズのうち、特に[[電力回路]]や[[電力機器]]で利用するものを'''[[#電力ヒューズ|電力ヒューズ]]'''(でんりょくヒューズ)という。
ヒューズは溶断する電流の大きさにより、導体部分の大きさ・太さ・構成成分が異なる。導体部分は露出もしくは容器に収められている。容器に収める場合は導体の状態を確認できるよう、容器を透明なものとしたり、表示器を設けるなどする。
ヒューズが溶断することを[[日本語圏]]では一般に「ヒューズが切れる」又は「ヒューズが飛ぶ」と言う。回路を焼き切って作動するという性質上、使い捨てであり、一度動作したヒューズを再び使用することはできない。
[[電熱]]を利用する機器([[乾燥機|ドライヤー]]、[[炬燵|コタツ]]など)では、設定以上の温度に達すると自動的に通電を遮断する'''温度ヒューズ'''が設置されている場合が多い。
一般的に、ヒューズが切れた場合はヒューズを交換することで復旧するため、ラグ端子やソケットなど交換しやすい構造となっている。近年の小型化した電子機器では、ヒューズが半田付けされていたり、[[表面実装]]型の薄膜ヒューズのように、作動した後の復旧を想定しない実装も存在するが、これらは電気回路を保護するよりむしろ、大電流によって機器が加熱、発火するなどの事故を防ぐために用いられる。
== 電力ヒューズ ==
[[ファイル:200AIndustrialFuse.jpg|サムネイル|254x254ピクセル|200A 電力ヒューズ]]
'''電力ヒューズ'''(でんりょくヒューズ)は、[[高圧 (電気)|高圧]]以上の[[電力回路]]の[[短絡電流]]の[[遮断]]を行う[[電力機器]]である。
=== 定格 ===
* [[定格遮断電流]]
* [[定格最小遮断電流]]
* [[最小溶断電流]]
=== 電力ヒューズの選定 ===
{{節スタブ}}
=== 電力ヒューズの分類 ===
* [[限流ヒューズ]] (current-limiting fuse)
** 高圧回路、及び機器の短絡電流遮断に用いられる。アーク電圧を高めることによって短絡電流を限流抑制し、遮断を行う方式のヒューズ。短絡電流が抑制されるため全遮断時間が短い特徴がある。遮断時にアークや溶粒が飛散しない。
** 短絡電流を限流するので直列機器の熱的、機械的強度を軽減することができる。したがって非限流ヒューズや交流遮断器に比べ非常に経済的な回路構成が行える。
* [[全領域限流ヒューズ]]
** ヒューズ単独で使用できる。
* [[バックアップ限流ヒューズ]]
** トリップ付[[高圧交流負荷開閉器|高圧負荷開閉器]]と協調を取って使用。
* [[非限流ヒューズ]]
* スローブローヒューズ
** モーターの起動時など瞬間的な大電力使用では溶断しないが、定格電流を超えて一定時間以上使用されると溶断する。
* ヒュージブルリンク
** 電源付近に用いる電線で、過電流によって電線が溶断することで回路全体を保護する。
== ヒューズボックス ==
[[File:Car fuse box.jpg|thumb|right|200px|自動車用ヒューズボックスの一例]]自動車等において使用されるヒューズは、ヒューズボックスにまとめて設置されることが多い。設置場所は主にエンジンルーム内、運転席側または助手席側付近にあり、使用箇所に応じて数か所に分かれて設置される。
ヒューズ番号、ヒューズ名称、アンペア数、使用箇所等はヒューズボックスの蓋または取扱説明書に記載されている。使用箇所はヘッドライト、フォグライト、方向指示灯、制動灯、尾灯、番号灯、車幅灯、室内灯、後退灯、メーター照明、オーディオ照明、スイッチ照明、エアコン照明、パワーウインド、エアコン、エアバック、ドアロック、エンジンコントロール、燃料ポンプ、スターター、シフトロックコントロール、メーター、オーディオ、時計、
ミラー、ワイパー、ウォッシャー 、シガーソケット、ヒーター、アクセサリー等がある。
[[ファイル:Electrical fuses, plug-in type, different sizes.jpeg|サムネイル|ブレード型ヒューズ]]
かつては家庭用電気機器と同様にガラス管ヒューズが用いられていたが、電子機器類の増加とともに樹脂モールドされた[[ISO]]規格のブレード型ヒューズに移行している。
ブレード型ヒューズは標準型のほか、小型化が図られたマイクロ型、マイクロ型からターミナルを除去した寸法の低背型が規格化されているが、後付の電装品ではガラス管ヒューズが用いられるケースも見られる。
== 関連項目 ==
* [[アンペアブレーカー]]
* [[遮断器]]
* [[永久ヒューズ]]
* [[安全器]]
* [[w:en:Resettable_fuse|ポリスイッチ]]
== 外部リンク ==
{{commons|Electric fuse|ヒューズ}}
* [https://www.daitotusin.co.jp/case/ 大東通信機株式会社の技術情報ページ] - 各種ヒューズに関する技術情報あり
* [http://www.hinodedenki.co.jp/ 株式会社日之出電機製作所] - 回路保護短絡保護用速断ヒューズのメーカー
* [http://www.socfuse.com/j/ エス・オー・シー株式会社] - 家電・医療機器・車載エレクトロニクス等のヒューズの研究開発メーカー
* [http://www.pecj.co.jp/ 太平洋精工株式会社] - 自動車用ヒューズの専門メーカー
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[[Category:電力機器]]
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避雷器
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避雷器(ひらいき、英: lightning arrester)は、発電、変電、送電、配電系統の電力機器や電力の供給を受ける需要家の需要機器、有線通信回線、空中線系、通信機器などを、雷などにより生じる過渡的な異常高電圧から保護する、いわゆるサージ防護機器のひとつである。日本では、サージ防護機器全てを避雷器と呼ぶこともあるが、ここでは国際電気標準会議 (IEC) および日本産業規格 (JIS) に定める「サージ防護デバイス」 (SPD: Surge Protective Device) について述べる。
屋外に設置される送配電線(電力線)や電話線、空中線などは雷の影響を受けやすい。しかし電位差を無くす、あるいは小さくして回路にサージ電圧がかからないようにすれば、サージ電流は流れず、回路の損傷はなくなる。そこで回路中に意図的に絶縁の弱い部分を作り、ここをサージ電圧によって破壊、サージ電流をバイパスさせることにより、サージ電圧を抑制、重要な回路部分を保護する手段をとる。しかし、ただ破壊するだけでは破壊した部分を修復するまで機器が使用できないなどの問題が生じることから、サージ終息後、直ちに元の絶縁を回復する機能を持たせたものが避雷器である。
最も強力な雷由来のサージも処理することから、避雷器の名があるが、実際のサージは雷由来のサージよりも、スイッチやモーター、各種電源装置、各種通信装置などに由来するもののほうが多く、避雷器はこれらからのサージも適正に処理する必要がある。このことからその正式名称はIECにより、サージ防護デバイス (SPD : Surge Protective Device) に統一され、広範なEMI(電磁気妨害)対策用部品としての位置付けがされた。他にも従来の英語から「アレスタ」など、さまざまな呼称がある。
避雷器の歴史は古く、例えば送配電用としては、1900年代初頭に酸化アルミニウム避雷器が実用化されており、1930年代には炭化ケイ素 (SiC) を用いた弁抵抗避雷器が登場、1980年代からより特性の優れた酸化亜鉛 (ZnO) 避雷器に代ってきている。
日本では、高圧送配電系統についてはIECによる規格統一以前より避雷器の設置が義務付けられており、電気規格調査会 JEC 203、JEC 217 さらに JIS C4608 などの規格があったが、これ以外の低圧回路などに用いる避雷器については特に規定されていなかった。しかしIECによる規格統一に日本のJISも追従、IECの統一規格に従い、低圧電源用避雷器などについてもJISに規定された。
落雷について、避雷器はそれ単体で全てのサージを処理させるものではなく、避雷設備の中で一部のサージを処理する部品であり、万一の場合には自身が焼損・破壊して他の部分を保護する目的の部品であることから、特に防火性能が求められる。このため特に数多く広範に用いられる低圧電源用避雷器などについて、アメリカ保険業者安全試験所(UL)で5つのタイプに分類、それぞれ性能に係る詳細が定められ「避雷システム」における使用の詳細(適用)も定められた。
避雷器とは概ね、サージ抑制用素子(Surge Suppression Device)を回路等に使用できるようにしたものを言う。なお、Surge Suppression Devices とした場合には、避雷器そのものを示すことがある。
2018年現在、4種類程度ある。
上述のサージ抑制素子単体もしくは組みあわせたものである。
右の写真は日本で発明された「紙避雷器」(低圧電源用紙コンデンサ型避雷器)である。初期(発明当初)のものは紙コンデンサのみの避雷器であったが、後にGDTが追加されて直列ギャップ付避雷器(紙コンデンサ部分を特性要素とするもの)になった。サージにより導通すると紙コンデンサの箔電極に穴が開いて続流遮断するとともに、この穴の数とそれぞれの穴の大きさを目視計測することにより、需要家の電源回路にどの程度のサージの影響があったのかを知ることができる簡易な「サージ計測器」としての機能を兼ね備えたものであった。
以下、汎用避雷器(低圧系統用)のJIS番号を示す。より詳しくはそれぞれの規格を参照されたい。
避雷器には、いざというときには大電流をバイパス、自身は故障して他の部分や機器を保護する責務がある。このため「安全に故障する」ことは、避雷器の重要な性能のひとつである。従来、避雷器についてはその純電気的な部分、すなわち定格範囲においていかに電圧を抑制するかが重視され、定格を超えるサージ処理を行った際に生じる避雷器の発煙・発火等については、これを収める容器などによって、使用者側で適宜対応、防護することとされてきたが、雷サージの大きさが解明され、避雷システムの中で、避雷器に処理させるサージの大きさが定まった現在、例えば2018年現在のUL規格では、避雷器そのものに具体的な防護機能を求める数値化された安全規定となっている。避雷器の別により詳細な数値規定があるが、基本的にはいずれも防火と感電防止、また火傷防止に関する規定であり、避雷器に切り離し装置を内蔵した場合でも外置きとした場合でも、その遮断器あるいはヒューズ等のSCCRを、想定される最悪電流値を超えるものとして、発煙・発火させないこと、各電極を最悪時でも確実に保護し、感電事故に至らせないこと、また避雷器の温度上昇を規定以内として火傷防止すること等が求められ、これらは公的にも規制されている。
日本の場合、JISにおいてこれらの詳細な安全規定はなく、公的な規制もないが、危険であることに違いはないから、避雷器を確実に避雷システムの中で使用し、最悪の場合でも最悪の事故に至らぬようにするため、日本雷保護システム工業会(JLPA)は、広報と併せ、不足している専門技術者の育成を図り、雷保護製品等の品質、性能等について社会的信頼性の向上を図るといった活動をおこなっている。また、あくまでも民間検定で法的効力はないが、特定非営利活動法人による「雷保護システム技能者」の養成なども行われるようになり、合わせて世界標準の、設計からアフターケアまで一貫した「人的システム」構築の模索が始まっている。
すなわち各国が別途、各国の消防法等に規定・要求している規格に従って選択しなければならない。代表的な規格は以下の通りである。日本では高圧送電、高圧配電等についてJISとは別に法規定されていることから、これは別途、所定の試験に合格したものを選択しなければならないが、それ以外の一般低圧回路用等の避雷器については2018年現在、付随する法規制等(消防法等での要求)はないため、上述JISの各技術基準を参考として、それぞれのシステムで最適となるものを選択する。
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"title": "避雷器の安全規制"
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"text": "日本の場合、JISにおいてこれらの詳細な安全規定はなく、公的な規制もないが、危険であることに違いはないから、避雷器を確実に避雷システムの中で使用し、最悪の場合でも最悪の事故に至らぬようにするため、日本雷保護システム工業会(JLPA)は、広報と併せ、不足している専門技術者の育成を図り、雷保護製品等の品質、性能等について社会的信頼性の向上を図るといった活動をおこなっている。また、あくまでも民間検定で法的効力はないが、特定非営利活動法人による「雷保護システム技能者」の養成なども行われるようになり、合わせて世界標準の、設計からアフターケアまで一貫した「人的システム」構築の模索が始まっている。",
"title": "避雷器の安全規制"
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"text": "すなわち各国が別途、各国の消防法等に規定・要求している規格に従って選択しなければならない。代表的な規格は以下の通りである。日本では高圧送電、高圧配電等についてJISとは別に法規定されていることから、これは別途、所定の試験に合格したものを選択しなければならないが、それ以外の一般低圧回路用等の避雷器については2018年現在、付随する法規制等(消防法等での要求)はないため、上述JISの各技術基準を参考として、それぞれのシステムで最適となるものを選択する。",
"title": "避雷器の選択"
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"title": "避雷器の選択"
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避雷器(ひらいき、英: lightning arrester)は、発電、変電、送電、配電系統の電力機器や電力の供給を受ける需要家の需要機器、有線通信回線、空中線系、通信機器などを、雷などにより生じる過渡的な異常高電圧から保護する、いわゆるサージ防護機器のひとつである。日本では、サージ防護機器全てを避雷器と呼ぶこともあるが、ここでは国際電気標準会議 (IEC) および日本産業規格 (JIS) に定める「サージ防護デバイス」 について述べる。
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[[ファイル:Elfmorgenbruch 220kV-Transformator.jpg|サムネイル|変圧器の手前に立っているのが避雷器]]
[[File:TokyoMetro7000 arrester.jpg|thumb|電気鉄道の車両に搭載されている避雷器([[営団7000系電車|東京メトロ7000系電車]])]]
'''避雷器'''(ひらいき、{{lang-en-short|lightning arrester}})は、[[発電]]、[[変電]]、[[送電]]、[[配電]]系統の[[電力機器]]や[[電力]]の供給を受ける需要家の需要[[機器]]、有線[[通信]][[回線]]、[[アンテナ|空中線]]系、[[通信機器]]などを、[[雷]]などにより生じる過渡的な異常[[高圧|高電圧]]から[[保護]]する、いわゆる[[サージ防護機器]]のひとつである。日本では、サージ防護機器全てを避雷器と呼ぶこともあるが、ここでは[[国際電気標準会議]] (IEC) および[[日本産業規格]] (JIS) に定める'''「サージ防護デバイス」''' ('''SPD''': Surge Protective Device) について述べる。
== 概要 ==
屋外に設置される送配電線(電力線)や[[電話線]]、空中線などは雷の影響を受けやすい。しかし電位差を無くす、あるいは小さくして回路にサージ電圧がかからないようにすれば、サージ電流は流れず、回路の損傷はなくなる。そこで回路中に意図的に[[絶縁 (電気)|絶縁]]の弱い部分を作り、ここをサージ電圧によって破壊、サージ電流をバイパスさせることにより、サージ電圧を抑制、重要な回路部分を保護する手段をとる。しかし、ただ破壊するだけでは破壊した部分を修復するまで機器が使用できないなどの問題が生じることから、サージ終息後、直ちに元の絶縁を回復する機能を持たせたものが避雷器である。
最も強力な雷由来のサージも処理することから、避雷器の名があるが、実際のサージは雷由来のサージよりも、スイッチやモーター、各種電源装置、各種通信装置などに由来するもののほうが多く、避雷器はこれらからのサージも適正に処理する必要がある。このことからその正式名称はIECにより、'''サージ防護デバイス''' ('''SPD''' : Surge Protective Device) に統一され、広範なEMI(電磁気妨害)対策用部品としての位置付けがされた。他にも従来の英語から「アレスタ」<ref name="名前なし-1"> Underwriters Laboratories(UL) 1449。</ref>など、さまざまな呼称がある。
避雷器の歴史は古く、例えば送配電用としては、[[1900年]]代初頭に[[酸化アルミニウム]]避雷器が実用化されており、[[1930年]]代には[[炭化ケイ素]] (SiC) を用いた弁抵抗避雷器が登場、[[1980年]]代からより特性の優れた[[酸化亜鉛]] (ZnO) 避雷器に代ってきている<ref>{{Citation|和書
| url = http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2006/10/61_10pdf/f02.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20130124054751/http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2006/10/61_10pdf/f02.pdf
| format = PDF
| author1 = 安藤秀泰
| author2 = 小松克朗
| author3 = 山本浩義
| title = ZnO素子の動作電圧向上による避雷器の小型化
| magazine = 東芝レビュー
| volume = 61
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| publisher = [[東芝]]
| date = 2006-10
| accessdate = 2008-12-2
| archivedate = 2013-1-24
}}</ref>。
日本では、高圧送配電系統についてはIECによる規格統一以前より避雷器の設置が義務付けられており、[[電気学会|電気規格調査会]] JEC 203、JEC 217 さらに JIS C4608 などの規格があったが、これ以外の[[低圧]]回路などに用いる避雷器については特に規定されていなかった。しかしIECによる規格統一に日本のJISも追従、IECの統一規格に従い、低圧電源用避雷器などについてもJISに規定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sdn.co.jp/products/lightn/dengen/jisc5381.html|title=電源用SPDの試験規格改定について|publisher=株式会社昭電|accessdate=2018-08-21}}</ref>。
[[落雷]]について、避雷器はそれ単体で全てのサージを処理させるものではなく、避雷設備の中で一部のサージを処理する部品であり、万一の場合には自身が焼損・破壊して他の部分を保護する目的の部品であることから、特に防火性能が求められる。このため特に数多く広範に用いられる低圧電源用避雷器などについて、[[アメリカ保険業者安全試験所]](UL)で5つのタイプに分類、それぞれ性能に係る詳細が定められ「避雷システム」における使用の詳細(適用)も定められた<ref name="名前なし-1"/>。
== サージ抑制用素子と避雷器 ==
避雷器とは概ね、サージ抑制用素子(Surge Suppression Device)を回路等に使用できるようにしたものを言う。なお、Surge Suppression Device'''s''' とした場合には、避雷器そのものを示すことがある。
=== サージ抑制用素子 ===
2018年現在、4種類程度ある。
[[ファイル:GDT90.JPG|thumb|140px|2極セラミックGDT]]
; [[気体|ガス]]入り[[放電]]管 (GDT=Gas Discharge Tube)
: 最も古くからあるサージ抑制用素子である。放電による電圧制限特性を利用したものである。古くは一対の放電[[電極]]を[[空気]]もしくは[[真空]]雰囲気中に配したものであったが、今日では[[ネオン]]、[[アルゴン]]などの[[不活性ガス]]雰囲気中に電極を配したものが一般的である。従ってその特性は[[パッシェンの法則]]に従う。よって侵入したサージ電圧により放電電極間に放電が生じると、電極間の[[インピーダンス]]が急激に低下、ほぼ[[短絡]]状態となり、サージ電圧を非常に低く抑制することができる。
: なお、サージ防護素子がサージの処理を開始する電圧を動作開始電圧といい、サージ防護素子の動作によって抑制された電圧のことを制限電圧という。
: GDTに電源が接続されている場合には、サージ侵入が終息しても、電源電圧と供給電流により放電が継続し、放電電極間に電源からの大きな電流が流れ続ける。これを続流 (follow current) という。また放電を利用するものであるため、放電が形成されてサージの処理開始となるまでにはある程度の時間を要する。これを応答遅れという。
: なお、動作原理が異なる他のサージ抑制用素子についても、これらの言葉を用いて説明されている。
; [[金属]][[酸化物]][[バリスタ (電子部品)|バリスタ]] (MOV=Metal Oxide Varister)
: 金属酸化物を主成分とする[[セラミック]](金属酸化物粉末の[[焼結]]体)の非線形特性を利用したサージ抑制用素子である。
; [[アバランシェダイオード]] (ABD=Avalanche Breakdown Diode)
: [[ケイ素|シリコン]]半導体のPN接合での[[アヴァランシェ・ブレークダウン|アヴァランシェ(なだれ)降伏]]を利用したサージ抑制用素子である。
; サージ抑制[[サイリスタ]] (TSS=Thyristor Surge Suppressor)
: 2端子サイリスタPNPN構造を基本とするサージ抑制用素子である。
=== 避雷器 ===
[[ファイル:ZnO SiC IV.jpg|thumb|250px|炭化ケイ素 (SiC) 粉末の焼結体と酸化亜鉛 (ZnO) 粉末の焼結体の非直線性比較。破線は理想的な特性要素。]]
上述のサージ抑制素子単体もしくは組みあわせたものである。
; ギャップ付き避雷器(Lightning Arrester with gaps)
: 「ギャップ」とは、放電電極(放電間隙=放電ギャップ)のことであり、概ねGDT単体もしくはこれを含むものをいう。
: 続流を生じるGDTを電力系統などに用いるためには、放電電極に続流を効果的に遮断するためのしくみを付加する必要がある。古くは放電電極に直列に炭化ケイ素粉末焼結体などを接続して用いた。この炭化ケイ素粉末焼結体などのことを特性要素という。
: なお、炭化ケイ素粉末焼結体の電圧-電流特性は理想的な特性要素から外れており、そもそも放電電極に直列に接続して相互に特性を補完する必要がある。また理想的な特性に近い酸化亜鉛粉末焼結体などであっても、雷由来以外の過渡異常電圧等から特性要素を保護するため、意図的にGDTを接続して使用することがある。
; ギャップレス避雷器(Gapless Arrester)
: 放電電極を持たないものをいう。
; 複合型避雷器
: 上述、ギャップ付き避雷器とギャップレス避雷器、さらにリアクトルやコンデンサ等を組み合わせたもの。よく使われるものであるが、統一された分類名称はないから、ここでは複合型避雷器と表記した<ref>UL1449 3rd (2009)、UL 96A Lightning Protection System、ANSI/IEEE C62.41。</ref>。
[[ファイル:PVT1F.JPG|thumb|200px|低圧電源用紙避雷器(Pバルブ)]]
右の写真は日本で発明された「紙避雷器」(低圧電源用紙コンデンサ型避雷器)である。初期(発明当初)のものは紙コンデンサのみの避雷器であったが、後にGDTが追加されて直列ギャップ付避雷器(紙コンデンサ部分を特性要素とするもの)になった。サージにより導通すると紙コンデンサの箔電極に穴が開いて続流遮断するとともに、この穴の数とそれぞれの穴の大きさを目視計測することにより、需要家の電源回路にどの程度のサージの影響があったのかを知ることができる簡易な「サージ計測器」としての機能を兼ね備えたものであった<ref>特許193558</ref>。
以下、汎用避雷器(低圧系統用)のJIS番号を示す。より詳しくはそれぞれの規格を参照されたい。
; JIS C 5381-11
: 低圧サージ防護デバイス 低圧配電システムに接続する低圧サージ防護デバイスの要求性能及び試験方法。
; JIS C 5381-12
: 低圧サージ防護デバイス 低圧配電システムに接続する低圧サージ防護デバイスの選定及び適用基準。
; JIS C 5381-21
: 低圧サージ防護デバイス 通信及び信号回線に接続する低圧サージ防護デバイスの要求性能及び試験方法。
; JIS C 5381-22
: 通信及び信号回線に接続する低圧サージ防護デバイスの選定及び適用基準。
== 避雷器の安全規制 ==
[[File:GE TYPE2 SPD.jpg|thumb|日本で輸入販売されている、米国[[ゼネラルエレクトリック]]社製UL認証SPD(公的に安全性保証がされているSPD)。内蔵の電流温度自動遮断器のSCCRは200kA、直撃雷対応の難燃型である。JISではクラスⅠ・Ⅱ・Ⅲ全務型SPDに相当する。[[特許]]製品。]]
[[File:Whole House Surge Protector.jpg|thumb|right|米国、一般家庭の分電盤に外付けされたETN社のUL認証SPD(公的に安全性保証がされているSPD)。内蔵遮断器のSCCRは65kA、誘導雷対応の難燃型である。JISではクラスⅡ・Ⅲ兼務型に相当する。特許製品。]]
避雷器には、いざというときには大電流をバイパス、自身は故障して他の部分や機器を保護する責務がある。このため「安全に故障する」ことは、避雷器の重要な性能のひとつである。従来、避雷器についてはその純電気的な部分、すなわち定格範囲においていかに電圧を抑制するかが重視され、定格を超えるサージ処理を行った際に生じる避雷器の発煙・発火等については、これを収める容器などによって、使用者側で適宜対応、防護することとされてきたが、雷サージの大きさが解明され、避雷システムの中で、避雷器に処理させるサージの大きさが定まった現在、例えば[[2018年]]現在のUL規格では、避雷器そのものに具体的な防護機能を求める数値化された安全規定となっている。避雷器の別により詳細な数値規定があるが、基本的にはいずれも防火と感電防止、また火傷防止に関する規定であり、避雷器に切り離し装置を内蔵した場合でも外置きとした場合でも、その遮断器あるいはヒューズ等のSCCRを、想定される最悪電流値を超えるものとして、発煙・発火させないこと、各電極を最悪時でも確実に保護し、感電事故に至らせないこと、また避雷器の温度上昇を規定以内として火傷防止すること等が求められ、これらは公的にも規制されている<ref>ANSI/IEEE C62.41</ref>。
日本の場合、JISにおいてこれらの詳細な安全規定はなく、公的な規制もないが、危険であることに違いはないから、避雷器を確実に避雷システムの中で使用し、最悪の場合でも最悪の事故に至らぬようにするため、日本雷保護システム工業会(JLPA)は、広報と併せ、不足している専門技術者の育成を図り、雷保護製品等の品質、性能等について社会的信頼性の向上を図るといった活動をおこなっている<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.jlpa.jp/about/
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20180831015311/http://www.jlpa.jp/about/
| title = JLPAとは
| publisher = [[日本雷保護システム工業会]]
| accessdate = 2018-10-15
| archivedate = 2018-8-31
}}</ref>。また、あくまでも民間検定で法的効力はないが、特定非営利活動法人による「雷保護システム技能者」の養成なども行われるようになり、合わせて世界標準の、設計からアフターケアまで一貫した「人的システム」構築の模索が始まっている<ref>[http://www.lpsra.com/engineer01.html 雷保護システム普及協会]</ref>。
== 避雷器の選択 ==
すなわち各国が別途、各国の消防法等に規定・要求している規格に従って選択しなければならない。代表的な規格は以下の通りである。日本では高圧送電、高圧配電等についてJISとは別に法規定されていることから、これは別途、所定の試験に合格したものを選択しなければならないが、それ以外の一般低圧回路用等の避雷器については2018年現在、付随する法規制等(消防法等での要求)はないため、上述JISの各技術基準を参考として、それぞれのシステムで最適となるものを選択する。
* International Electrotechnical Commission(IEC) 61643-1
* CENELEC(EN) 61643
* Telcordia Technologies Technical Reference
* American National Standards Institute(ANSI)/Institute of Electrical and Electronics Engineers(IEEE) C62
* Underwriters Laboratories(UL) 1449
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献等 ==
* IEEE "HOW TO PROTECT YOUR HOUSE AND ITS CONTENTS FROM LIGHTNING" 2009年。
* 『OTOWA 総合カタログ』 技術資料・用語集 音羽電機工業
* 『雷害リスク』 妹尾堅一郎編 雷害リスクコンソーシアム著 ダイヤモンド社 ISBN 4-478-45047-1
* 『送配電』 前川幸一郎・荒井聰明 共著 東京電機大学出版局 ISBN 4-501-10240-3
=== 特許公開公報 ===
* 紙避雷器 (特公昭26-006069) 特許193558 宮崎 貢、中国電力株式会社
* METAL OXIDE VARISTORS HAVING THERMAL PROTECTION (US PAT 6,252,488 JUN.26,2001)
== 関連項目 ==
* [[雷]]
* [[雷サージ]]
* [[サージ防護機器]]
* [[雷検知器]]
* [[避雷針]]
* [[架空地線]]
*[[音羽電機工業]]
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[[Category:雷]]
[[Category:電力機器]]
[[Category:通信工学]]
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[[Category:電気安全]]
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スローフード
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スローフード(英: slow food)は、1986年にイタリアのカルロ・ペトリーニ(イタリア語版)によって提唱された国際的な社会運動。ファストフードに対して唱えられた考え方で、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指す。
より広い概念の「スローライフ運動(英語ではSlow movement)」の一部として提唱された。この活動は現在150カ国以上10万人以上の会員を持つまでに広がっている。持続可能な食文化を見直し、地元の小規模事業を支える等のその目的は、農産物のグローバリズムに反対する政治的な位置づけでとらえられることもあり、さらにスローシティ運動へと発展した。
スローフードの理念はジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの著書が大きく影響した。1989年のマニフェストに「人は喜ぶことには権利を持っている」というコンセプトを発表し、また、同年パリで開かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て、国際運動となった。 その後、美食とは何かという問いかけから、伝統の食事、素朴でしっかりとした食材、有機農業、健康によいものに関心が向かうようになり、一挙に人の注目を惹くようになってきた。その後、世界各地に支部を設立し、共鳴者を集めている。
シンボルマークは、カタツムリである。思慮深い、ゆっくりの意。
初期のスローフード運動は主にヨーロッパやアメリカの美食家たちがコミュニティにおいて食の保護活動を行うにあたって、イベントや出版物を通してそれらの活動に参加する手段を提供するためのネットワーク化の運動であった。その後、スローフード運動は食文化に環境や社会的公正の要素を含めた実践的なものとなり、関連するNGOを取り込みながらネットワークは拡大した。
1996年には、世界各地方で伝統的に栽培され、食されてきた固有の品種や加工食品のうち、希少で消滅しようとしている「食」を守ろうとする運動として、「味の箱船(英語版)」プロジェクトがスタートした。2021年12月時点では、世界中から5500食材以上が登録されており、日本からは74食材が登録されている。
1980年代半ば、ローマの名所の1つであるスペイン広場にマクドナルドが開店した。このことが、ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。
1986年、イタリア北部ピエモンテ州のブラ(Bra)の町で「スローフード」運動が始まった。当時「ゴーラ」という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニが、イタリア余暇・文化協会(ARCI、アルチ)という団体の一部門として、「アルチ・ゴーラ」という美食の会を作ったのがはじまりである。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁する、草の根的なイタリアの文化復興運動組織である。土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりをもつ。
島村菜津の著書『スローフードな人生』の出版後に日本でも一般に知られるようになった。2000年頃から浸透しはじめ、2004年10月には正式にスローフードジャパンが設立された。
2002年、循環型農法による古代米生産を行う武富勝彦がスローフード大賞を受賞した。アジアでの受賞者は初めて。
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スローフードは、1986年にイタリアのカルロ・ペトリーニによって提唱された国際的な社会運動。ファストフードに対して唱えられた考え方で、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指す。 より広い概念の「スローライフ運動」の一部として提唱された。この活動は現在150カ国以上10万人以上の会員を持つまでに広がっている。持続可能な食文化を見直し、地元の小規模事業を支える等のその目的は、農産物のグローバリズムに反対する政治的な位置づけでとらえられることもあり、さらにスローシティ運動へと発展した。
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|出典の明記=2019-12
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'''スローフード'''({{lang-en-short|slow food}})は、[[1986年]]に[[イタリア]]の{{仮リンク|カルロ・ペトリーニ|it|Carlo Petrini (gastronomo)}}によって提唱された国際的な[[社会運動]]。[[ファストフード]]に対して唱えられた考え方で、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指す。
より広い概念の「[[スローライフ]]運動(英語ではSlow movement)」の一部として提唱された。この活動は現在150カ国以上10万人以上の会員を持つまでに広がっている<ref>[https://www.slowfood.com/ Slow Food]</ref>。持続可能な食文化を見直し、地元の小規模事業を支える等のその目的は、農産物の[[グローバリズム]]に反対する政治的な位置づけでとらえられることもあり、さらに[[スローシティ]]運動へと発展した。
== 理念 ==
スローフードの理念は[[ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン]]の著書が大きく影響した。[[1989年]]の[[マニフェスト]]に「人は喜ぶことには権利を持っている」というコンセプトを発表し、また、同年[[パリ]]で開かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て、国際運動となった。
<!--[[1996年]]のスローフード[[法令]]には、具体的な活動における3つの指針が示されている。 # 守る:消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、[[ワイン]](酒)を守る。 # 教える:子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。 # 支える:質のよい素材を提供する小生産者を守る。 出典が確認出来ず一旦コメントアウト-->
その後、美食とは何かという問いかけから、伝統の食事、素朴でしっかりとした食材、[[有機農業]]、健康によいものに関心が向かうようになり、一挙に人の注目を惹くようになってきた。その後、世界各地に支部を設立し、共鳴者を集めている。
シンボルマークは、[[カタツムリ]]である。思慮深い、ゆっくりの意。
== 歴史 ==
初期のスローフード運動は主に[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[美食家]]たちがコミュニティにおいて食の保護活動を行うにあたって、イベントや出版物を通してそれらの活動に参加する手段を提供するためのネットワーク化の運動であった<ref name="international31">{{Cite book |和書 |author=スローフードインターナショナル 監修 |year=2009 |title=スローフード大全 |page=31 }}</ref>。その後、スローフード運動は食文化に環境や社会的公正の要素を含めた実践的なものとなり、関連するNGOを取り込みながらネットワークは拡大した<ref name="international31" />。
1996年には、世界各[[地方]]で伝統的に栽培され、食されてきた固有の品種や加工食品のうち、希少で消滅しようとしている「食」を守ろうとする運動として、「{{仮リンク|味の箱船|en|Ark of Taste}}」プロジェクトがスタートした。2021年12月時点では、世界中から5500食材以上が登録されており、日本からは74食材が登録されている<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/joseishien/syokubunka_story/pdf/93727702_21.pdf|title=令和3年度 基礎調査報告書 宜名真のフーヌイユ|author=日本スローフード協会|accessdate=2023-11-28}}</ref>。
=== 欧米 ===
[[1980年代]]半ば、[[ローマ]]の名所の1つである[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]に[[マクドナルド]]が開店した。このことが、ファストフードに[[イタリア]]の食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。
[[1986年]]、[[イタリア]]北部[[ピエモンテ州]]の[[ブラ (イタリア)|ブラ]]({{lang|it|Bra}})の町で「スローフード」運動が始まった。当時「ゴーラ」という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニが、[[イタリア余暇・文化協会]]({{lang|it|ARCI}}、アルチ)という団体の一部門として、「アルチ・ゴーラ」という[[美食]]の会を作ったのがはじまりである。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁する、[[草の根]]的なイタリアの文化復興運動組織である。土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりをもつ。
=== 日本 ===
[[島村菜津]]の著書『スローフードな人生』の出版後に日本でも一般に知られるようになった。2000年頃から浸透しはじめ、2004年10月には正式にスローフードジャパンが設立された。
2002年、循環型農法による古代米生産を行う[[武富勝彦]]がスローフード大賞を受賞した。アジアでの受賞者は初めて。
==脚注==
<references/>
==関連項目==
*[[アストロターフィング]]
*[[アグリツーリズム]]
*[[エコツーリズム]]
*[[スローアーキテクチャー]]
*[[スローテレビ]]
*[[スローライフ]]
*[[健康教育]]
*[[農家レストラン]]
*[[LOHAS]]
==外部リンク==
* [http://www.slowfood.it スローフード運動] イタリア
* {{NHK for School clip|D0005402852_00000|スローフード}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:すろおふうと}}
[[Category:スローフード|*]]
[[カテゴリ:食文化]]
[[カテゴリ:環境保護運動]]
[[カテゴリ:反グローバリゼーション]]
[[カテゴリ:食料政策]]
[[カテゴリ:ローカリズム]]
[[カテゴリ:シンプルライフ]]
[[Category:ファーストフードへの批判]]
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認知言語学
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認知言語学(にんちげんごがく、英語:cognitive linguistics)は、生成文法との対立から生まれた言語学の分野およびその諸理論。ゲシュタルト的な知覚、視点の投影・移動、カテゴリー化などの人間が持つ一般的な認知能力の反映として言語を捉えることを主とする。
認知言語学はチャールズ・フィルモアの格文法やフレーム意味論、レイコフ(George Lakoff) らが1970年代に提唱し、いわゆる「言語学論争」にまで発展した生成文法左派の生成意味論、そしてロナルド・ラネカー(Ronald W. Langacker)が独自に研究を進めていった空間文法(space grammar:後の認知文法)などが基となって融合的に発展した分野である。ノーム・チョムスキーの生成文法との対決の中から生じた。
1987年に、初めての認知言語学の本と言ってよいジョージ・レイコフの"Women, Fire, and Dangerous Things"(邦訳『認知意味論』、池上嘉彦、河上誓作他訳)とロナルド・ラネカーの"Foundations of Cognitive Grammar"(二巻本の第一巻)が相次いで出版された。
レイコフを中心としたメタファー・メトニミー・イメージスキーマ(Image schema)を用いて言語の実態を究明していく理論を特に認知意味論と言い、ラネカーを中心とした、概念化・用法基盤モデルから文法を構築していく研究を特に認知文法(cognitive grammar)と言うことがある。認知言語学の中でも、平面的な共時性を重視する従来の考え方に対して、通時的観点も取り込んで空間的に語句の意味変化を明らかにしようとするメタ・プロセスの理論も現れている。
個々の研究者によってさまざまな違いはあるものの、以下の点で多くの認知言語学者はその理念を共有している(Croft and Cruse 2004)。
1.を重視するため、記号化、カテゴリー化、ゲシュタルト知覚、イメージスキーマ、身体性、メタファー・メトニミーなどから言語を記述説明する。また2.のテーゼより、図と地の分化、焦点化、プロファイル、推論などの作用によって言語の意味が発現するというスタンスにつながる。また3.はいわゆる「用法基盤モデル」で、言語単位の定着・慣習化、頻度などの面から言語現象を分析し直すものである。その言語運用の立場から記述することで、これまでいわゆる言語知識(competence)と考えられてきたものが実は言語運用(performance)から説明可能であることを示すモデルである。よって語用論・談話分析とも近接性を有するパラダイムであるといえる。
両者の共通点は、言語習得や言語使用を可能にしている知識のあり方を解明することを目的としており、その言語知識を心の仕組みの一環として捉えている点である。生成文法では、言語知識は他の心的機能と密接に関係しながらも、自立した機能の単位(「心的器官」)を形成していると考える。対して、認知言語学では、言語能力は他の心の動きと分かち難く結びついているため、言語知識のあり方を解明するためには、言語以外の心の動きまで考慮に入れる必要があると考える。 また、生成文法と認知言語学では、そもそも何を問題と考えるかにも違いがある。
従来メタファー(隠喩)は文章技巧の問題とされてきたが、ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(哲学者)によって、メタファーは単なる文彩ではなく、我々の基本的な認知能力のうちのひとつ(概念メタファー)である、と捉えなおされた。また、メトニミーやシネクドキーなどの定義や解釈、それらが表層にあらわれた言語現象の説明は、認知意味論でもっとも盛んな研究テーマのひとつである。
また、ジル・フォコニエの唱えるメンタルスペース理論は、出発点は異なるものの、心的領域間のマッピング(写像)を想定する点が共通している。
認知言語学におけるカテゴリー化の議論はエレノア・ロッシュらの研究に端を発するものであり、認知言語学を生み出すきっかけの一つとなった。全成員に共通する属性によってカテゴリーを規定しようとする古典的なカテゴリー観に代わり、プロトタイプ理論や基本レベルカテゴリーの概念を提唱しており、それらに基づいて言語を記述している。
また語の意味は、その語の使用が想起する典型的な状況や百科事典的知識(世界知識)と切り離すことができないとされる。チャールズ・フィルモアらのフレーム意味論や、ジョージ・レイコフの理想認知モデルは、この考えに基づいた議論である。
認知文法はロナルド・ラネカーの提唱した理論であり、ゲシュタルト心理学において展開されてきた空間認知能力、カテゴリー化、イメージスキーマを抽出する能力、焦点化能力、参照点能力など、言語以外でも観察される人間の一般的認知能力の反映として、文法を包括的に説明することを目的とする理論。イメージスキーマなどは、Diagram(認知図式)という図を用いて説明するため、曖昧で主観的という批判がある。また、言語の構造は、意味極・音韻極、そしてそれを統合した記号ユニットしか認めない、という言語理論の中でもかなり厳しい内容要件を課している。統語(統語論)的には、他派に見られるような抽象化された一般的な規則としての統語(syntax)といったようなものに批判的で、使用例からのスキーマの抽出という形で出現する、具体から切り離されない construction(構文、ないし、構造)が、統語に相当するという用法基盤モデルをとる(次で述べる構文文法)。
レナード・タルミの en:Force dynamics の理論は、人間による状況の言語化は物理的な因果関係のモデルに基づいて行われるとするものである。
構文文法(construction grammar)は文法を、慣習化されたconstructionの集合体、として捉える立場である。ここでいうconstructionとは、諺のような固定した表現からいわゆる「SVO型」のように単語が自由に入れ替わるものまで、連続的であって(他の派閥でよく見られるような)語彙と品詞などとして不連続に分離できるものではないと認知言語学では主張される。すなわち、用法基盤モデルによるのがここでいうconstructionである。チャールズ・フィルモア(格文法・フレーム意味論)、アデル・ゴールドバーグ、ウィリアム・クロフトらが主要な論客として知られている。
構文文法とするのが construction grammar の定訳となっているが、言語学の他の分野での定訳である 「 構文 == syntax 」 ではないことに注意(結果構文 == resultative construction などの場合の「構文」)。
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認知言語学は、生成文法との対立から生まれた言語学の分野およびその諸理論。ゲシュタルト的な知覚、視点の投影・移動、カテゴリー化などの人間が持つ一般的な認知能力の反映として言語を捉えることを主とする。
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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学}}
{{言語学}}
'''認知言語学'''(にんちげんごがく、[[英語]]:cognitive linguistics)は、[[生成文法]]との対立から生まれた[[言語学]]の分野およびその諸理論。[[ゲシュタルト]]的な[[知覚]]、視点の投影・移動、カテゴリー化などの[[人間]]が持つ一般的な[[認知科学|認知能力]]の反映として[[言語]]を捉えることを主とする。
== 概説 ==
認知言語学は[[チャールズ・フィルモア]]の[[格文法]]や[[フレーム意味論]]、[[ジョージ・レイコフ|レイコフ]](George Lakoff) らが[[1970年代]]に提唱し、いわゆる「言語学論争」にまで発展した[[生成文法]]左派の'''生成意味論'''、そして[[ロナルド・ラネカー]](Ronald W. Langacker)が独自に研究を進めていった空間文法(space grammar:後の[[認知文法]])などが基となって融合的に発展した分野である。[[ノーム・チョムスキー]]の生成文法との対決の中から生じた{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=11}}。
1987年に、初めての認知言語学の本と言ってよいジョージ・レイコフの"Women, Fire, and Dangerous Things"(邦訳『認知意味論』、池上嘉彦、河上誓作他訳)とロナルド・ラネカーの"Foundations of Cognitive Grammar"(二巻本の第一巻)が相次いで出版された{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=4}}。
レイコフを中心とした[[メタファー]]・[[メトニミー]]・[[イメージスキーマ]]([[:en:Image schema|Image schema]])を用いて言語の実態を究明していく[[理論]]を特に'''認知意味論'''と言い、ラネカーを中心とした、概念化・[[用法基盤モデル]]から文法を構築していく研究を特に[[認知文法]](cognitive grammar)と言うことがある。認知言語学の中でも、平面的な共時性を重視する従来の考え方に対して、通時的観点も取り込んで空間的に語句の意味変化を明らかにしようとする'''メタ・プロセス'''の理論も現れている。
== 理念 ==
個々の研究者によってさまざまな違いはあるものの、以下の点で多くの認知言語学者はその理念を共有している(Croft and Cruse 2004)。
#言語現象の記述や説明において、チョムスキーが仮定した[[普遍文法]]仮説のような「他の認知能力に還元できない生得的な言語知識」というようなものを置くのではなく、一般的な認知能力の発現として捉え、記述・説明する。
#意味は静的なものではなく事態把握・語用論的面を含めたダイナミックな「概念化」として記述する。
#言語の運用という面から言語の実態を見直す。
1.を重視するため、記号化、カテゴリー化、ゲシュタルト知覚、イメージスキーマ、身体性、メタファー・メトニミーなどから言語を記述説明する。また2.の[[テーゼ]]より、図と地の分化、焦点化、[[プロファイル (認知言語学)|プロファイル]]、推論などの作用によって言語の意味が発現するという[[スタンス]]につながる。また3.はいわゆる「[[用法基盤モデル]]」で、言語単位の定着・慣習化、頻度などの面から言語現象を分析し直すものである。その言語運用の立場から記述することで、これまでいわゆる言語知識(competence)と考えられてきたものが実は言語運用(performance)から説明可能であることを示すモデルである。よって[[語用論]]・[[談話分析]]とも近接性を有する[[パラダイム]]であるといえる。
=== 生成文法との共通点と差異 ===
両者の共通点は、[[言語習得]]や言語使用を可能にしている知識のあり方を解明することを目的としており、その言語知識を心の仕組みの一環として捉えている点である{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|pp=20-21}}。生成文法では、言語知識は他の心的機能と密接に関係しながらも、自立した機能の単位(「[[心的器官]]」)を形成していると考える{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=21}}。対して、認知言語学では、言語能力は他の心の動きと分かち難く結びついているため、言語知識のあり方を解明するためには、言語以外の心の動きまで考慮に入れる必要があると考える{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=21}}。
また、生成文法と認知言語学では、そもそも何を問題と考えるかにも違いがある{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=26}}。
== 認知言語学の研究対象 ==
*[[間接受身]]
*[[多義性]]の問題-多義性とは、一つの語がいくつか区別できる意味を持ち、かつその意味の間に関連性を感じることができる場合をさす{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=28}}。その多義性を生じさせる原理とは何かを解明するのは認知言語学の問題である{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=28}}。
*所有表現の問題{{Sfn|西村義樹,野矢茂樹|2013|p=29}}
== 主要な概念 ==
=== メタファー ===
従来[[メタファー|メタファー(隠喩)]]は[[文章技巧]]の問題とされてきたが、[[ジョージ・レイコフ]]、[[マーク・ジョンソン(哲学者)]]によって、メタファーは単なる文彩ではなく、我々の基本的な認知能力のうちのひとつ([[概念メタファー]])である、と捉えなおされた。また、[[換喩|メトニミー]]や[[提喩|シネクドキー]]などの定義や解釈、それらが表層にあらわれた言語現象の説明は、認知意味論でもっとも盛んな研究テーマのひとつである。
また、[[ジル・フォコニエ]]の唱える[[メンタルスペース理論]]は、出発点は異なるものの、心的領域間のマッピング([[写像]])を想定する点が共通している。
=== カテゴリー化 ===
認知言語学における[[カテゴリー化]]の議論は[[エレノア・ロッシュ]]らの研究に端を発するものであり、認知言語学を生み出すきっかけの一つとなった。全成員に共通する属性によってカテゴリーを規定しようとする古典的なカテゴリー観に代わり、[[プロトタイプ理論]]や[[基本レベルカテゴリー]]の概念を提唱しており、それらに基づいて言語を記述している。
また語の意味は、その語の使用が想起する典型的な状況や百科事典的知識(世界知識)と切り離すことができないとされる。[[チャールズ・フィルモア]]らの[[フレーム意味論]]や、[[ジョージ・レイコフ]]の[[理想認知モデル]]は、この考えに基づいた議論である。
=== 認知文法 ===
{{main|認知文法}}
[[認知文法]]は[[ロナルド・ラネカー]]の提唱した理論であり、[[ゲシュタルト心理学]]において展開されてきた空間認知能力、カテゴリー化、イメージスキーマを抽出する能力、焦点化能力、参照点能力など、言語以外でも観察される人間の一般的認知能力の反映として、文法を包括的に説明することを目的とする理論。イメージスキーマなどは、Diagram(認知図式)という図を用いて説明するため、曖昧で主観的という批判がある。また、言語の構造は、意味極・音韻極、そしてそれを統合した記号ユニットしか認めない、という言語理論の中でもかなり厳しい内容要件を課している。統語([[統語論]])的には、他派に見られるような抽象化された一般的な規則としての統語(syntax)といったようなものに批判的で、使用例からの[[スキーマ]]の抽出という形で出現する、具体から切り離されない '''construction'''(構文、ないし、構造)が、統語に相当するという[[用法基盤モデル]]をとる(次で述べる構文文法)。
[[レナード・タルミ]]の [[:en:Force dynamics]] の理論は、人間による状況の言語化は物理的な因果関係のモデルに基づいて行われるとするものである。
=== 構文文法 ===
構文文法(construction grammar)は文法を、慣習化されたconstructionの集合体、として捉える立場である。ここでいうconstructionとは、[[諺]]のような固定した表現からいわゆる「[[SVO型]]」のように単語が自由に入れ替わるものまで、連続的であって(他の派閥でよく見られるような)語彙と品詞などとして不連続に分離できるものではないと認知言語学では主張される。すなわち、[[用法基盤モデル]]によるのがここでいうconstructionである。[[チャールズ・フィルモア]]([[格文法]]・[[フレーム意味論]])、アデル・ゴールドバーグ、ウィリアム・クロフトらが主要な論客として知られている。
構文文法とするのが construction grammar の定訳となっているが、言語学の他の分野での定訳である 「 構文 == syntax 」 ではないことに注意([[結果構文]] == resultative construction などの場合の「構文」)。
== 著名な認知言語学者 ==
* [[ジョージ・レイコフ]]
* [[ロナルド・ラネカー]]
* [[ジル・フォコニエ]]
* [[チャールズ・フィルモア]]
* [[レナード・タルミー]]
* [[ウィリアム・クロフト (言語学者)|ウィリアム・クロフト]]
* [[アデル・ゴールドバーグ]]
* [[マイケル・トマセロ]]
* [[ジョン・R・テイラー]]
* [[山梨正明]]
* [[谷口一美]]
* [[池上嘉彦]]
* [[瀬戸賢一]]
* [[大堀壽夫]]
* [[坪本篤朗]]
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{節スタブ}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書 | author = 西村義樹,野矢茂樹 | title = 言語学の教室 | date = 2013 | publisher = 中央公論新社 | series = 中公新書 | ref = harv }}
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17,061 |
太史公
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太史公(たいしこう)
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太史公(たいしこう) 中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。
前漢で太史公を務めた『史記』の著者である司馬遷の自称。本紀、世家、列伝の終わりの部分には、「太史公曰」(太史公曰く)から始まる文章があり、本紀、世家、列伝で紹介した人物についての司馬遷の時に辛辣ですらある評価が書かれている。
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'''太史公'''(たいしこう)
#[[中国]][[前漢]]時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。
#前漢で太史公を務めた『[[史記]]』の著者である[[司馬遷]]の自称。<br />[[本紀]]、世家、列伝の終わりの部分には、「'''太史公曰'''」(太史公曰く)から始まる文章があり、本紀、世家、列伝で紹介した人物についての司馬遷の時に辛辣ですらある評価が書かれている。
== 関連項目 ==
*[[太史令]]
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17,062 |
禹
|
禹(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。黄河の治水を成功させたという伝説上の人物である。
かつて中国は禹州あるいは禹城と呼ばれ、禹は中国の古代神話あるいは伝説上の人物として知られる。
禹の父は鯀(こん)という。『漢書』律暦志によれば、鯀の五世の祖は五帝の一人である帝顓頊であり、禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。
また、鯀の父は帝顓頊であるという説もある。従ってこの場合、禹は帝顓頊の孫にあたる。さらに、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫であるという説もある。この場合禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)。
塗山氏の女を娶り、啓という子をなした。
禹は卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。
また、禹は本来父の鯀と同一神であり、龍蛇の姿をした神だったという説もある。
帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。父の鯀は堤防を固定し、高地を削って低地を埋める「湮」と呼ばれる方法を用いた。しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった。子の禹は放水路を作って排水を行う「導」と「疏」と呼ばれる方法を用いて黄河の治水に成功したという。
『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語だとされる。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。
『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」。
『山海経広注』に記されている禹による無支祁(孫悟空の原型)との交戦の描写には具体的な竜としては応竜が禹に加勢しており、最後に捕らえられた。
その後も禹は、人々の生活をおびやかしていた稀世の悪獸相柳を退治し、人々にその偉業を称えられた。
禹は舜から帝位の禅譲を受けて夏王朝を開いた。
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
竹書紀年によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという。さらに、史記によれば、10年間帝であったという。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
中国が1996年から1999年にかけて実施した「夏商周年表プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた。禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、禹の実在は未だ証明されていない。
中国では治水の英雄・開拓の英雄とされており教科書にも掲載される存在である。浙江省紹興市越城区稽山街道の大禹陵禹跡館には鋤を持つ禹を刻んだ「大禹治水」のレリーフがある。西遊記で孫悟空が使用する如意棒はもとは禹が江海の深さを計るのに使用した重りだという。 禹王信仰は日本にもみられる。
禹を祀る廟や祠あるいは禹の像や名(大禹、神禹、夏禹、文命)を刻んだ石碑や墓碑を総称して「禹王遺跡」という。
日本では神奈川県開成町在住の郷土史家・大脇良夫が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、水害が多い地区を中心に107カ所見つかった。大脇らは2010年以降「禹王サミット」を開催し、2013年「治水神・禹王研究会」を発足させた。2019年3月末までに日本には133件あることが判明している。
沖縄県には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。
群馬県沼田市にも禹王碑が存在する。
「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした手の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。
大きな「禹」の紋が背に縫い付けられた法被が、慶長宗論、慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧・日経の故郷(現在の茂原市)に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。
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禹(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。黄河の治水を成功させたという伝説上の人物である。
|
{{otheruses|古代中国の君主|漢姓|禹 (姓)}}
{{出典の明記|date=2020年3月}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =禹
|代数 =初代
|呼称 =帝
|画像 =[[ファイル:King Yu of Xia.jpg|center|200px|夏禹像]]
|説明 =大禹
|王朝 =夏
|在位期間 =
|都城 =冀
|諱 =姒文命/夏后文命
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|没年 =不詳
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}}
[[File:Yu_the_Great_mausoleum_stele_in_Shaoxing,_Zhejiang,_China.jpg|thumb|right|250px|[[紹興市]]の[[会稽山]]にある大禹陵]]
'''禹'''(う)は、[[中国]]古代の伝説的な[[帝]]で、[[夏 (三代)|夏朝]]の創始者。名は'''文命'''(ぶんめい)、[[諡号]]は'''禹'''、別称は'''大禹'''、'''夏禹'''、'''戎禹'''ともいい、姓は'''姒'''(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を'''夏后'''とした。[[黄河]]の[[治水]]を成功させたという伝説上の人物である<ref name="uemura2" />。
== 概要 ==
かつて中国は禹州あるいは禹城と呼ばれ、禹は中国の古代神話あるいは伝説上の人物として知られる<ref name="uemura2">{{cite|和書|author=植村善博|title=禹王と治水の地域史|publisher=古今書院|year=2019|page=2}}</ref>。
禹の父は[[鯀]](こん)という。『[[漢書]]』律暦志によれば、鯀の五世の祖は[[三皇五帝#五帝|五帝]]の一人である帝[[顓頊]]であり<ref>『漢書・律暦志』「顓頊五代而生鯀」</ref>、禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。
また、鯀の父は帝顓頊であるという説もある<ref>『世本四種』「昌意生顓頊,顓頊生鯀」</ref>。従ってこの場合、禹は帝顓頊の孫にあたる。さらに、帝顓頊は同じく五帝の一人の[[黄帝]]の孫であるという説もある。この場合禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)<ref>『五礼通考』「禹者,黄帝之玄孫而顓頊之孫也」</ref><ref>『軒轅黄帝伝』「舜有虞氏,黄帝<u>九代孫</u>......夏禹亦黄帝之<u>玄孫</u>也......殷湯,黄帝十七代孫」</ref><ref>『四川通志』「夏大禹黄帝五世孫【黄帝生昌意,昌意生顓頊,顓頊生鯀,鯀生禹】」</ref>。
[[塗山氏女|塗山氏の女]]を娶り、[[啓]]という子をなした。
禹は卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。
また、禹は本来父の鯀と同一神であり、龍蛇の姿をした神だったという説もある<ref>御手洗勝『古代中國の神々』[[創文社]]1984年、131,134頁。
</ref>。
=== 禹の治水事業 ===
{{see|黄河改道}}
帝[[堯]]の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、[[舜]]に推挙される形で、黄河の治水にあたった。父の鯀は堤防を固定し、高地を削って低地を埋める「湮」と呼ばれる方法を用いた<ref name="uemura3">{{cite|和書|author=植村善博|title=禹王と治水の地域史|publisher=古今書院|year=2019|page=3}}</ref>。しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった<ref name="uemura2" />。子の禹は放水路を作って排水を行う「導」と「疏」と呼ばれる方法を用いて黄河の治水に成功したという<ref name="uemura3" />。
『[[列子]]』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語だとされる。『[[荘子 (書物)|荘子]]』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『[[荀子]]』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。[[白川静]]は『[[山海経]]』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が{{Visible anchor|'''禹歩'''}}であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は[[道教]]や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である[[反閇]](へんばい)も『[[下学集]]』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。
『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」<ref>『太平広記』「有巫山焉,峰岩挺抜,林壑幽麗,巨石如壇,留連久之。時大禹理水,駐山下。大風卒至,崖振谷隕,不可制。因与夫人相値,拝而求助。即勅侍女,授禹策召鬼神之書,因命其神狂章、虞余、黄麾、大翳、庚辰([[応竜]])、童律、巨霊等助禹,斫石疏波,決塞導阨,以循其流」</ref>。
『山海経広注』に記されている禹による'''無支祁'''([[孫悟空]]の原型)との交戦の描写には具体的な竜としては[[応竜]]が禹に加勢しており、最後に捕らえられた<ref>『山海経広注』「『岳瀆経』曰:堯九年,無支祁為孽,応竜駆之淮陽亀山足下,其後水平」</ref>。
その後も禹は、人々の生活をおびやかしていた稀世の悪獸[[相柳]]を退治し、人々にその偉業を称えられた。
=== 夏王朝創始 ===
禹は舜から帝位の禅譲を受けて夏王朝を開いた<ref name="uemura3" />。
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも[[朝貢]]を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて[[九州 (中国)|九州]]を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
[[竹書紀年]]によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという<ref>『今本竹書紀年注疏』「八年春,会諸侯于会稽,殺防風氏......秋八月,帝陟于会稽」</ref>。さらに、史記によれば、10年間帝であったという<ref>『史記』「十年,帝禹東巡狩,至于会稽而崩」</ref>。[[浙江省]][[紹興市]]の[[会稽山]]に大禹陵がある。
中国が1996年から1999年にかけて実施した「[[夏商周年表プロジェクト]]」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた<ref>『夏王朝は幻では無かった』岳南著、朱権栄、加藤優子訳、柏書房2005</ref>。禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、禹の実在は未だ証明されていない<ref name="uemura3" />。
== 禹王信仰 ==
=== 治水の神としての崇拝 ===
中国では治水の英雄・[[開拓]]の[[英雄]]とされており教科書にも掲載される存在である<ref name="uemura2" />。[[浙江省]][[紹興市]][[越城区]][[稽山街道]]の大禹陵禹跡館には[[鋤]]を持つ禹を刻んだ「大禹治水」の[[レリーフ]]がある<ref name="uemura2" />。[[西遊記]]で[[孫悟空]]が使用する[[如意棒]]はもとは禹が[[江海]]の深さを計るのに使用した重りだという。
禹王信仰は[[日本]]にもみられる。
=== 禹王遺跡 ===
禹を祀る[[廟]]や[[祠]]あるいは禹の[[像]]や名(大禹、神禹、夏禹、文命)を刻んだ[[石碑]]や[[墓碑]]を総称して「禹王遺跡」という<ref name="uemura12" />。
日本では[[開成町|神奈川県開成町]]在住の郷土史家・[[大脇良夫]]が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、[[水害]]が多い地区を中心に107カ所見つかった。大脇らは[[2010年]]以降「禹王サミット」を開催し、[[2013年]]「治水神・禹王研究会」を発足させた<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGKKZO08982880R31C16A0BC8000&scode=4901&ba=1|title=大脇良夫「海を渡った治水神107の碑◇防災祈念し日本各地で古代中国の名君まつる◇」|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊(文化面)|date=2016年11月1日}}</ref>。[[2019年]][[3月]]末までに[[日本]]には133件あることが判明している<ref name="uemura12">{{cite|和書|author=植村善博|title=禹王と治水の地域史|publisher=古今書院|year=2019|page=12}}</ref>。
[[沖縄県]]には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。<ref>植村善博「沖縄における禹王遺跡とその歴史的意義」『鷹陵史学 第43号』佛教大学鷹陵史学会(2017年)</ref>
*[[国王頌徳碑]]([[1522年]])[[那覇市]]首里 [[首里城]]石門之東
*[[浦添城]]の前の碑([[1597年]])[[浦添市]]仲間2丁目 [[浦添グスク]]前
*[[安里橋]]之碑文([[1677年]])[[那覇市]]泊1丁目
*[[金城橋]]碑文([[1677年]])[[那覇市]][[繁多川]] [[安里川]]
*[[宇平橋]]碑([[1690年]])[[南風原町]][[山川]] [[長堂川]]
*[[勢理客橋]]碑([[1691年]])[[浦添市]]勢理客2丁目 [[小湾川]]
*[[重修石火矢橋]]碑文([[1697年]])[[豊見城市]][[豊見城]] [[饒波川]]
*[[重修真玉橋]]碑文([[1708年]])[[豊見城市]][[真玉橋]] [[国場川]]
*[[中山孔子廟]]碑記([[1716年]])[[那覇市]]久米2丁目
*[[報徳橋]]記([[1732年]])[[糸満市]][[照屋]] [[報徳川]]
*[[大清琉球国夫子廟]]碑([[1756年]])[[那覇市]]久米2丁目 旧孔子廟
*琉球国新建国学碑文([[1801年]])[[那覇市]][[首里当蔵町]]1丁目 [[国学]]
*[[改造池城橋]]碑文([[1821年]])[[北谷町]]北谷 [[白比川]]
[[群馬県]][[沼田市]]にも禹王碑が存在する。
== 禹が登場する作品 ==
*『童貞』([[酒見賢一]])
== 「禹」の字源 ==
「禹」の字は、古代文字の「[[九]]」と「[[虫]]」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした[[手]]の[[象形]]。「虫」は、もともと[[蛇]]や[[竜]]などの[[爬虫類]]の意味で、[[雄]]の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、[[洪水]]と[[治水]]の[[神話]]の[[神]]と伝えられる「[[伏羲]]と[[女媧]]」を意味する。<ref>[http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_151.html 47NEWS‐47スクール‐漢字物語‐(73)「九」 身を折り曲げた竜]</ref>
== 日本に遺る「禹」の紋の法被==
大きな「'''禹'''」の紋が背に縫い付けられた法被が、[[慶長宗論]]、[[慶長法難]]で知られる[[法華宗]][[不受不施派]]の僧・[[日経]]の故郷(現在の[[茂原市]])に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yu the Great}}
* [[羌]]
* [[裸民]]
* [[道教]]
* [[黄河の大洪水]]
* [[黄帝有熊氏]]
* [[伏羲#洪水神話]]
{{先代次代|[[夏 (三代)|夏]]帝室|初代<br>BC1900頃 - BC1890頃|'''黄帝有熊氏'''<br>[[舜]]|[[夏 (三代)|2代夏帝]]<br>[[啓|姒啓]]}}
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[[Category:紀元前22世紀の統治者]]
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17,063 |
鯀
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鯀(こん)は、古代中国の伝説上の人物あるいは神。姓は姒、諱は鯀。禹の父であり、四罪のひとりにあげられている。爵位は崇伯。
『漢書』律暦志によると、五世の祖は五帝のひとりである顓頊(せんぎょく)であり、子に夏の帝となる禹(う)がいる。『史記』夏本紀、『世本』によれば、顓頊の子であるといい、父が帝であったものの帝位に就くことはできず、臣下の身であったとされる。
堯(ぎょう)の治世において黄河の氾濫が止まなかったため、堯は誰かに治水をさせようと考えていた。このとき皆が口をそろえて鯀にやらせるべきだと言ったが、堯は鯀を用いるべきでないと言って渋ったが、それでも臣下たちが鯀より賢い者はいないと言ったので、堯は鯀に治水を任せた。しかし、9年やっても氾濫は収まるどころか、さらに増してしまったので、堯は鯀に罪を着せて、舜(しゅん)を後任として登用した。この治水の失敗などが四罪として数えられる基因となっている。
天下の治水を任せられた舜が前任者である鯀の行った治水の様子を視察していたところ、鯀は羽山(うざん)で死んでいた。人々は、舜が鯀を殺したのではないかと疑ったので、舜は鯀の遺児である禹に鯀の事業を引き継がせた。鯀の死んだ経緯として『韓非子』(外儲説)では堯が舜へ天下を譲ることを決めた際にそれに反対したために羽山で誅されたと語られている『山海経』海内経では、鯀が洪水を止める資材にしようと帝から派遣された祝融によってと語られている。
『山海経』海内経では黄帝の孫にあたる白馬(はくば)という神が鯀である(黄帝が駱明を生み、駱明が白馬を生んだ)と書いており系譜にばらつきがみられるが、禹の親であるという点では共通している。また、『史記』舜本紀には、鯀の子孫たちが東の方角にすむ異民族である「東夷」たちになったと記されている。『山海経』大荒南経では、讙頭人たちの祖先であるとされており、鯀の妻の士敬(しけい)が炎融(えんゆう)を生み、その子が讙頭であるとされる。
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鯀(こん)は、古代中国の伝説上の人物あるいは神。姓は姒、諱は鯀。禹の父であり、四罪のひとりにあげられている。爵位は崇伯。
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'''鯀'''(こん)は、古代中国の伝説上の人物あるいは[[神]]。姓は'''姒'''、諱は鯀。[[禹]]の父であり、[[四罪]]のひとりにあげられている。[[爵位]]は[[嵩県|崇伯]]<ref>『[[太平御覧]]』</ref>。
== 概要 ==
『[[漢書]]』律暦志によると、五世の祖は五帝のひとりである[[顓頊]](せんぎょく)であり、子に[[夏 (三代)|夏]]の帝となる禹(う)がいる。『[[史記]]』夏本紀、『[[世本]]』によれば、顓頊の子であるといい、父が帝であったものの帝位に就くことはできず、臣下の身であったとされる。
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天下の治水を任せられた舜が前任者である鯀の行った治水の様子を視察していたところ、鯀は羽山(うざん)で死んでいた。人々は、舜が鯀を殺したのではないかと疑ったので、舜は鯀の遺児である禹に鯀の事業を引き継がせた。鯀の死んだ経緯として『[[韓非子]]』(外儲説)では堯が舜へ天下を譲ることを決めた際にそれに反対したために羽山で誅されたと語られている<ref>金谷治 訳注 『[[韓非子]]』 第3巻 <[[岩波文庫]]> [[岩波書店]] 1994年 178-179頁</ref>『山海経』海内経では、鯀が洪水を止める資材にしようと帝から派遣された[[祝融]]によって<ref name="sengai">『山海経 中国古代の神話世界』高馬三良 訳 平凡社ライブラリー ISBN 4582760341 1994年 176-177頁</ref>と語られている。
『[[山海経]]』海内経では[[黄帝]]の孫にあたる白馬(はくば)という神が鯀である(黄帝が[[駱明]]を生み、駱明が白馬を生んだ)<ref name="sengai" />と書いており系譜にばらつきがみられるが、禹の親であるという点では共通している。また、『[[史記]]』[[舜]]本紀には、鯀の子孫たちが東の方角にすむ異民族である「東夷」たちになったと記されている<ref>『史記』舜本紀「殛鯀於羽山 以変東夷」</ref>。『[[山海経]]』大荒南経では、[[讙頭人]]たちの祖先であるとされており、鯀の妻の'''士敬'''(しけい)が'''炎融'''(えんゆう)を生み、その子が讙頭である<ref>高馬三良 訳『山海経 中国古代の神話世界』 平凡社ライブラリー ISBN 4582760341 1994年 159頁</ref>とされる。
== 注釈 ==
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== 関連項目 ==
*[[四凶]]
*[[四罪]]
*[[讙頭人]]
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17,064 |
荒川 (関東)
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荒川(あらかわ)は、埼玉県・東京都を流れ、東京湾に注ぐ河川。一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定されている。水系として、流路延長173 km、流域面積2,940 km。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mと日本最大。江戸時代に行われた河川改修である荒川西遷事業(荒川の瀬替えとも)により流れを変えられた歴史を持つ。
埼玉県、山梨県、長野県の三県が境を接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、奥秩父)に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その先は東に流れて大里郡寄居町で関東平野に出る。熊谷市で南南東に向きを変え、川越市で入間川を併せる。戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分ける。その後、足立区で向きを変えて再び南流し、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注ぐ。
源流域を抜けた先から熊谷市までは国道140号及び秩父鉄道秩父本線が、熊谷市から埼玉・東京の県境付近までは国道17号(中山道)・首都高大宮線及びJR東日本高崎線→埼京線(・東北新幹線)が、県境から河口までは首都高中央環状線がほぼ並走しており、いずれも重要な幹線となっている。
この川の源流点は、2つの説がある。一つは、秩父湖の少し上流の滝川と入川の合流地点。もう一つは、上記の様に甲武信ヶ岳の埼玉県側の山腹、標高2,475 mの所にある「真の沢」が源流点という説である。荒川源流の石碑は入川がそれぞれの沢に分かれる地点にある。
起点は入沢と赤沢の合流点で、ここに「一級河川荒川起点の碑」がある。終点は中川との合流点で、ここに「河口から0 km」のキロポストがある。元々は荒川の河口があった場所であり、周辺の埋め立ての進行に伴い荒川の河川区域が沖合いに向かって伸びて行った。この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての荒川である。一方、河川としての流れは「河口」からもしばらく続き、特に右岸は5 kmほど下って若洲海浜公園の突端に至る。
国土交通省道路局ではArakawa riverとしており二重表現となっている。これは「地名などの固有名詞はヘボン式ローマ字で、山や川などの普通名詞は英語で表示する。ただし、慣用上固有名詞の一部として切り離せないものについては個別に検討する。」という表記法による。
字の通り、過去に幾度となく荒れ、地域に水害をもたらしたことから、「荒川」と呼ばれるようになった。
荒川水系では特殊基準面として東京都中央区新川2丁目地先に設置された霊岸島量水標の最低潮位を基準としている(A.P.(Arakawa Peil))。
荒川は古くから利根川の支流で、関東平野に出た後、扇状地を作り、扇端の東縁(現在の埼玉県熊谷市〜行田市)で利根川と合流していた。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いだが、3000年前頃からは、現在の埼玉県加須市方向へ向った後、中川低地へ入り、南流して東京湾(江戸湾)へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた。
荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。江戸時代初期頃は荒川は現在の元荒川の川筋を通り、現在の埼玉県越谷市・吉川市付近で利根川と合流した。
1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった。なお現在、元の河道は、締め切られた熊谷市久下で地下水湧水(現在は人工揚水)を源流とし、吉川市で中川と合流する元荒川となっている。
付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を流下し東京湾へ注ぐこととなった。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた。
荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に山梨県甲府市から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断。死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起こした。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)、政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する。
内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。
この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3,200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1,200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。
工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、油圧ショベルやブルドーザーやダンプカーの様な重機は無かった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・インフレーションも、難工事に拍車をかけた。
1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。
1938年(昭和13年)9月1日、台風接近と高潮が重なり荒川放水路を挟んで城東区、向島区、葛飾区、江戸川区一帯が冠水。約50,000戸が浸水し、250,000人が孤立。
「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。
また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、全て橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵駅 - 川口元郷駅間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている。
第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)のカスリーン台風により荒川流域は大きな被害を受けた。建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)はダムによる洪水調節を図り、二瀬ダムが本川に建設された。1964年(昭和39年)には東京都が記録的な渇水に見舞われ(東京砂漠)、利根川より緊急的に導水を図り対処した。
その後、1965年(昭和40年)に秋ヶ瀬取水堰を建設、さらに荒川水系が水資源開発促進法の指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が総合的な水資源開発を行った。この頃、隅田川の水質汚濁が深刻化。メタンガスの沸き出る河川となり、早慶レガッタまでもが中止となった。
水質汚濁を改善すべく、1968年(昭和43年)から利根大堰による導水で、上水道供給と水質改善を図った。また上流部に滝沢ダム、浦山ダム、有間ダム、合角ダムを建設して、洪水調節や上水道を確保し、笹目橋上流に荒川第一調節池を建設して、増水時の洪水調節を行った。
1990年代以降は、公共事業再評価の議論がなされ、都幾川に建設予定だった大野ダムの建設が1995年(平成7年)に中止となり、大洞ダム再開発事業も、代替案と比較検討して事業を継続するかどうか検討されている。
荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきた。古くは平安時代初期の天安2年(858年)、『三大実録』に「武蔵国水勞」という記述があり、鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)8月の暴風雨で、下総国葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが『吾妻鏡』記されている。 ほかにも、慶長元年(1596年)には100年に1度といわれる大洪水、慶長19年(1614年)の「諸国出水」、元和3年(1617年)の入間川洪水、元禄元年(1688年)に荒川洪水。さらに、近代以降では最大の明治43年の大水害、昭和22年・49年・57年にも洪水が発生。平成11年には熊谷水位観測所、治水橋水位観測所において観測開始以来、過去最高となる水位を観測。平成19年には三峰雨量観測所にて総雨量573 mmを記録、熊谷水位観測所では観測開始以来の最高水位を記録している。
2010年代においても、荒川流域で大規模洪水が起きた場合、首都圏の広い地域に被害を及ぼす可能性は依然残っている。関東地方整備局のシミュレーションによると、大雨により赤羽駅近くの堤防が決壊したと想定すると、東京都と埼玉県内の約98平方 kmが浸水し、水は東京都心の丸の内や大手町などにも到達する。全国からポンプ車を集めても、排水には4週間かかる。このため国交省は、企業に事業継続計画(BCP)の策定を呼び掛けている。
高規格堤防整備事業が下流部で行われている。そのほか中流部では堤防の幅を拡幅するさいたま築堤事業が行われている。また、2018年からは荒川第二・第三調節池の整備事業が始まった。
河口からの船舶は、秋ヶ瀬取水堰下流にある秋ヶ瀬橋までの約34 kmを遡上できる。河口から約32 km遡った幸魂大橋上流側右岸、埼玉県和光市新倉には桟橋があり、東京湾の製油所から小型のタンカーが運航されていた。桟橋で下ろされた石油類は、パイプラインによって埼玉県朝霞市のジャパンエナジー朝霞油槽所まで運ばれていた。日本では少なくなった海岸と内陸県を結ぶ河川舟運であった。
かつて幸魂大橋下流側右岸にあったエクソンモービル北東京油槽所の桟橋は、同油槽所が廃止されたため、2007年3月までに撤去された。
荒川の中下流域には農耕地が広がり、20世紀には東京通勤圏となって住宅開発が進んだ。そのため、幅広い荒川河川敷が自然を残す回廊として生態系にとって重要になっている。中下流沿いにみられるコウモリ類以外の哺乳類にはアズマモグラ、ハタネズミ、アカネズミ、ジネズミ、カヤネズミ、ノウサギ、タヌキ、キツネ、イタチがいる。このうちネズミ類とモグラは川沿いに限らず周りの平地に普通に生息するが、周囲の木立や草原の減少で住み処を追われた他の哺乳類にとって荒川沿いの自然は貴重である。ネズミでも、カヤネズミの生息地は河川敷の一部に狭まっている。
荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられている。最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。そのため、河川改修によって堤外地に多数の集落が取り残された。これらの集落は堤外地になったことによってさらに水害の被害が増したため、2005年に握津集落(川越市)が集団移転するなど、徐々に堤内地への移転が進んだ。移転に際して国からの補償があったが、予算の不足から一挙に補償を行うことができなかったため、補償を待てずに自費で移転した世帯もあった。しかし、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、付近に農地を持つ住民にとっては尚更である。そのため、危険を冒して堤外地に住み続ける住民や、堤外地であることは変わらないが、横堤上に移住した住民もいる。明秋集落・古名新田集落(吉見町・鴻巣市)では、2020年時点でも横提上に列状の集落を形成している。それ以外の集落は、既に住民がいないか、わずかしかおらず集落としての機能を失っている。
※郡の場合は括弧内が自治体名。さいたま市の括弧内は行政区名。
上流部には二瀬ダム(秩父湖)などの人造湖が多くあり、首都圏の水がめの一端を担っている。また、利根川水系のダム湖で蓄えられた水は埼玉県行田市の利根大堰から武蔵水路を経て荒川に落ち、荒川水系の水も加えて同志木市の秋ヶ瀬取水堰で取水され、朝霞水路を通って水資源機構利根導水総合管理所秋ヶ瀬管理所の沈砂池および接合井を経て、東京都水道局の朝霞浄水場と三園浄水場に導水される。埼玉県だけでなく、東京都でも広い範囲で水道水の水源となっていて、都の水源の約8割が利根川水系及び荒川水系で、残りの約2割が多摩川水系である。
荒川は特に中流域において河川敷を広く取っているため、河川の規模の割に長大な橋が数多く架けられ、道路橋では上江橋を始め、船堀橋・幸魂大橋・押切橋・清砂大橋・熊谷大橋・秋ヶ瀬橋・大芦橋が橋長1 kmを超えている。 橋種は中流域を中心に桁橋が多く、下流域の橋は不同沈下に対処するためにゲルバー桁が多用されている。近年は五色桜大橋など景観に配慮され架けられた橋もある。
上流側より示す。
荒川流域には32ヵ所を数える河岸が存在した。
荒川流域には68ヵ所を数える渡船場が存在した。重要な交通路に設けられた官渡と称する公で管理された渡船場の他に、地元住民の便を図った私設の渡船場があった。冬季の渇水期には仮橋を架ける所もあった。上記の河岸場を併設していた場合も多い。
これらの渡船場は、橋梁の架設に伴い1981年(昭和56年)廃止された金石の渡しを最後に、公道としての渡船場は全て姿を消した。渡船場跡は河川改修や護岸工事で遺構はもちろん、痕跡さえも消滅しつつある。
現在では河川敷ゴルフ場におけるゴルファーが、対岸のコースへアクセスする専用の渡船場が存在する。
- これより下流は隅田川の渡しを参照 -
1996年に設立されたNPO法人で、流域の自治体や研究者、団体が交流・研究する。
大麻生陸閘(おおあそうりっこう)は荒川左岸の埼玉県熊谷市大麻生(北緯36度08分43秒 東経139度20分33秒 / 北緯36.145194度 東経139.342576度 / 36.145194; 139.342576)にある陸閘である。熊谷市が管理する角落しであり、荒川の増水時には閉鎖される。近隣に秩父鉄道の広瀬川原駅がある。
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"text": "荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきた。古くは平安時代初期の天安2年(858年)、『三大実録』に「武蔵国水勞」という記述があり、鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)8月の暴風雨で、下総国葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが『吾妻鏡』記されている。 ほかにも、慶長元年(1596年)には100年に1度といわれる大洪水、慶長19年(1614年)の「諸国出水」、元和3年(1617年)の入間川洪水、元禄元年(1688年)に荒川洪水。さらに、近代以降では最大の明治43年の大水害、昭和22年・49年・57年にも洪水が発生。平成11年には熊谷水位観測所、治水橋水位観測所において観測開始以来、過去最高となる水位を観測。平成19年には三峰雨量観測所にて総雨量573 mmを記録、熊谷水位観測所では観測開始以来の最高水位を記録している。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2010年代においても、荒川流域で大規模洪水が起きた場合、首都圏の広い地域に被害を及ぼす可能性は依然残っている。関東地方整備局のシミュレーションによると、大雨により赤羽駅近くの堤防が決壊したと想定すると、東京都と埼玉県内の約98平方 kmが浸水し、水は東京都心の丸の内や大手町などにも到達する。全国からポンプ車を集めても、排水には4週間かかる。このため国交省は、企業に事業継続計画(BCP)の策定を呼び掛けている。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "高規格堤防整備事業が下流部で行われている。そのほか中流部では堤防の幅を拡幅するさいたま築堤事業が行われている。また、2018年からは荒川第二・第三調節池の整備事業が始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "河口からの船舶は、秋ヶ瀬取水堰下流にある秋ヶ瀬橋までの約34 kmを遡上できる。河口から約32 km遡った幸魂大橋上流側右岸、埼玉県和光市新倉には桟橋があり、東京湾の製油所から小型のタンカーが運航されていた。桟橋で下ろされた石油類は、パイプラインによって埼玉県朝霞市のジャパンエナジー朝霞油槽所まで運ばれていた。日本では少なくなった海岸と内陸県を結ぶ河川舟運であった。",
"title": "水運"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "かつて幸魂大橋下流側右岸にあったエクソンモービル北東京油槽所の桟橋は、同油槽所が廃止されたため、2007年3月までに撤去された。",
"title": "水運"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "荒川の中下流域には農耕地が広がり、20世紀には東京通勤圏となって住宅開発が進んだ。そのため、幅広い荒川河川敷が自然を残す回廊として生態系にとって重要になっている。中下流沿いにみられるコウモリ類以外の哺乳類にはアズマモグラ、ハタネズミ、アカネズミ、ジネズミ、カヤネズミ、ノウサギ、タヌキ、キツネ、イタチがいる。このうちネズミ類とモグラは川沿いに限らず周りの平地に普通に生息するが、周囲の木立や草原の減少で住み処を追われた他の哺乳類にとって荒川沿いの自然は貴重である。ネズミでも、カヤネズミの生息地は河川敷の一部に狭まっている。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられている。最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。そのため、河川改修によって堤外地に多数の集落が取り残された。これらの集落は堤外地になったことによってさらに水害の被害が増したため、2005年に握津集落(川越市)が集団移転するなど、徐々に堤内地への移転が進んだ。移転に際して国からの補償があったが、予算の不足から一挙に補償を行うことができなかったため、補償を待てずに自費で移転した世帯もあった。しかし、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、付近に農地を持つ住民にとっては尚更である。そのため、危険を冒して堤外地に住み続ける住民や、堤外地であることは変わらないが、横堤上に移住した住民もいる。明秋集落・古名新田集落(吉見町・鴻巣市)では、2020年時点でも横提上に列状の集落を形成している。それ以外の集落は、既に住民がいないか、わずかしかおらず集落としての機能を失っている。",
"title": "堤外地の集落"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "※郡の場合は括弧内が自治体名。さいたま市の括弧内は行政区名。",
"title": "流域の自治体"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上流部には二瀬ダム(秩父湖)などの人造湖が多くあり、首都圏の水がめの一端を担っている。また、利根川水系のダム湖で蓄えられた水は埼玉県行田市の利根大堰から武蔵水路を経て荒川に落ち、荒川水系の水も加えて同志木市の秋ヶ瀬取水堰で取水され、朝霞水路を通って水資源機構利根導水総合管理所秋ヶ瀬管理所の沈砂池および接合井を経て、東京都水道局の朝霞浄水場と三園浄水場に導水される。埼玉県だけでなく、東京都でも広い範囲で水道水の水源となっていて、都の水源の約8割が利根川水系及び荒川水系で、残りの約2割が多摩川水系である。",
"title": "河川施設"
},
{
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"tag": "p",
"text": "荒川は特に中流域において河川敷を広く取っているため、河川の規模の割に長大な橋が数多く架けられ、道路橋では上江橋を始め、船堀橋・幸魂大橋・押切橋・清砂大橋・熊谷大橋・秋ヶ瀬橋・大芦橋が橋長1 kmを超えている。 橋種は中流域を中心に桁橋が多く、下流域の橋は不同沈下に対処するためにゲルバー桁が多用されている。近年は五色桜大橋など景観に配慮され架けられた橋もある。",
"title": "橋梁"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "上流側より示す。",
"title": "橋梁"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "荒川流域には32ヵ所を数える河岸が存在した。",
"title": "荒川舟運"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "荒川流域には68ヵ所を数える渡船場が存在した。重要な交通路に設けられた官渡と称する公で管理された渡船場の他に、地元住民の便を図った私設の渡船場があった。冬季の渇水期には仮橋を架ける所もあった。上記の河岸場を併設していた場合も多い。",
"title": "荒川舟運"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "これらの渡船場は、橋梁の架設に伴い1981年(昭和56年)廃止された金石の渡しを最後に、公道としての渡船場は全て姿を消した。渡船場跡は河川改修や護岸工事で遺構はもちろん、痕跡さえも消滅しつつある。",
"title": "荒川舟運"
},
{
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"text": "現在では河川敷ゴルフ場におけるゴルファーが、対岸のコースへアクセスする専用の渡船場が存在する。",
"title": "荒川舟運"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "- これより下流は隅田川の渡しを参照 -",
"title": "荒川舟運"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "1996年に設立されたNPO法人で、流域の自治体や研究者、団体が交流・研究する。",
"title": "あらかわ学会"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "大麻生陸閘(おおあそうりっこう)は荒川左岸の埼玉県熊谷市大麻生(北緯36度08分43秒 東経139度20分33秒 / 北緯36.145194度 東経139.342576度 / 36.145194; 139.342576)にある陸閘である。熊谷市が管理する角落しであり、荒川の増水時には閉鎖される。近隣に秩父鉄道の広瀬川原駅がある。",
"title": "大麻生陸閘"
}
] |
荒川(あらかわ)は、埼玉県・東京都を流れ、東京湾に注ぐ河川。一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定されている。水系として、流路延長173 km、流域面積2,940 km2。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mと日本最大。江戸時代に行われた河川改修である荒川西遷事業(荒川の瀬替えとも)により流れを変えられた歴史を持つ。
|
{{Infobox 河川
| 名称 = 荒川
| 画像 = [[画像:ArakawaKako.jpg|300px|荒川 2006年11月13日撮影]]
| 画像説明 = 東京湾に注ぐ荒川
| 水系等級 = [[一級水系]]
| 水系 = 荒川
| 種別 = [[一級河川]]
| 延長 = 173.0<ref name="arakokudo1"> {{WAP|pid= 259973 |url=www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/83029/83029-1.html |title= 荒川 |date=2009年2月17日}}</ref>
| 標高 = 2,475
| 流量 = 30
| 観測所 = 寄居観測所 2002年
| 流域面積 = 2,940<ref name="arakokudo1"/>
| 水源 = [[甲武信ヶ岳]]
| 河口 = [[東京湾]]
| 流域 = [[埼玉県]]・[[東京都]]
| 地図 ={{Maplink2|zoom=5|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=250
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}}
{{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=300|frame-lat=35.90|frame-long=139.40
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}}
| 脚注 =
| 出典 =
}}
'''荒川'''(あらかわ)は、[[埼玉県]]・[[東京都]]を流れ、[[東京湾]]に注ぐ[[河川]]。[[一級水系]]である荒川水系の本流で[[一級河川]]に指定されている。[[水系]]として、流路延長173 [[キロメートル|km]]、[[流域面積]]2,940 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。川幅(両岸の[[堤防]]間の[[距離]])は[[御成橋 (荒川)|御成橋]](埼玉県[[鴻巣市]]・[[吉見町]])付近で2,537 [[メートル|m]]と[[日本一の一覧|日本最大]]<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-01 |url=http://www.city.kounosu.saitama.jp/shisei/gaiyo/4/1455525739895.html |title=【日本一】鴻巣‐吉見間を流れる荒川の川幅(2,537m) |publisher=鴻巣市役所 |accessdate=2018-09-12 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/kikaku/fuji100/fuji128/028.pdf 御成橋]}} - 国土交通省 関東地方整備局、2018年9月12日閲覧。</ref>。[[江戸時代]]に行われた[[治水|河川改修]]である荒川西遷事業(荒川の瀬替えとも<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00559.html |title=荒川の瀬替え | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局 |publisher=国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 |accessdate=2022-05-14 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>)により流れを変えられた歴史を持つ。
== 概要 ==
埼玉県、[[山梨県]]、[[長野県]]の三県が[[境]]を接する[[甲武信ヶ岳]](こぶしがたけ、[[奥秩父山塊|奥秩父]])に源を発し<ref name="DATAArakawa">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/how/data/index.html |title=DATA荒川 |publisher=国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 |accessdate=2015-08-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090101170459/http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/how/data/index.html |archivedate=2009-01-01 |deadlinkdate=2015-08-23 }}</ref>、[[秩父山地]]の[[水]]を集めながら[[秩父盆地]]まで東に流れる。秩父盆地から[[長瀞渓谷]]まで北に、その先は東に流れて[[大里郡]][[寄居町]]で[[関東平野]]に出る。[[熊谷市]]で南南東に向きを変え、[[川越市]]で[[入間川 (埼玉県)|入間川]]を併せる。[[戸田市]]から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、[[北区 (東京都)|北区]]の新[[岩淵水門]]で[[隅田川]]を分ける。その後、[[足立区]]で向きを変えて再び南流し、[[江東区]]と[[江戸川区]]の区境で[[東京湾]]に注ぐ。
源流域を抜けた先から熊谷市までは[[国道140号]]及び[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]が、熊谷市から埼玉・東京の県境付近までは[[国道17号]]([[中山道]])・[[首都高速道路|首都高]][[首都高速埼玉大宮線|大宮線]]及び[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[高崎線]]→[[埼京線]](・[[東北新幹線]])が、県境から河口までは首都高[[首都高速中央環状線|中央環状線]]がほぼ並走しており、いずれも重要な幹線となっている。
=== 源流点の定義 ===
この川の源流点は、2つの説がある。一つは、[[二瀬ダム|秩父湖]]の少し上流の[[滝川 (埼玉県)|滝川]]と[[入川]]の[[合流]]地点。もう一つは、上記の様に甲武信ヶ岳の埼玉県側の山腹、[[高さ#地理|標高]]2,475 mの所にある「真の沢」が源流点という説である。荒川源流の[[石碑]]は入川がそれぞれの[[沢]]に分かれる地点にある。
=== 一級河川としての荒川 ===
起点は入沢と赤沢の合流点で、ここに「一級河川荒川起点の碑」がある<ref name="arajoKiten">{{Cite web|和書|date= |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00554.html |title=荒川源流点・起点 |publisher=国土交通省関東地方整備局 荒川上流河川事務所 |accessdate=2017-11-05 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。終点は[[中川]]との合流点で、ここに「[[河口]]から0 km」の[[距離標|キロポスト]]がある<ref name="arajoSyuten">{{Cite web|和書|date= |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00570.html |title=荒川の終点、海との合流点 |publisher=国土交通省関東地方整備局 荒川上流河川事務所 |accessdate=2017-11-05 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。元々は荒川の河口があった場所であり、周辺の[[埋め立て]]の進行に伴い荒川の河川区域が沖合いに向かって伸びて行った<ref name="arajoSyuten" />。この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての荒川である。一方、河川としての流れは「河口」からもしばらく続き、特に右岸は5 kmほど下って[[若洲海浜公園]]の突端に至る<ref name="arajoSyuten" />。
=== 案内標識のローマ字(英語)表記における荒川 ===
[[国土交通省]]道路局ではArakawa riverとしており[[重言|二重表現]]となっている。これは「[[地名]]などの[[固有名詞]]は[[ヘボン式ローマ字]]で、山や川などの[[普通名詞]]は英語で表示する。ただし、慣用上固有名詞の一部として切り離せないものについては個別に検討する。」という表記法による。
=== 語源 ===
字の通り、過去に幾度となく荒れ、地域に[[水害]]をもたらしたことから、「荒川」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=荒川の概要 {{!}} 荒川上流河川事務所 {{!}} 国土交通省 関東地方整備局|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index009.html|website=www.ktr.mlit.go.jp|accessdate=2019-09-05}}</ref>。
=== 水位 ===
荒川水系では[[量水標|特殊基準面]]として東京都[[新川 (東京都中央区)|中央区新川]]2丁目地先に設置された霊岸島量水標の最低潮位を基準としている(A.P.(Arakawa Peil))<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/temporary/content3/000007325.pdf |title=荒川水系隅田川流域河川整備計画 | publisher =東京都 |accessdate=2021/12/24}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Arakawa 001.JPG|[[道の駅大滝温泉]]付近より
ファイル:Nagatoro Ara River In Yanase Section 1.JPG|埼玉県[[長瀞町]]矢那瀬地区より上流方向を望む
ファイル:Yorii Ara River In Hachigata Section 1.JPG|正喜橋より下流方向を望む(埼玉県[[寄居町]])
ファイル:Okegawa Ara River 1.JPG|埼玉県[[桶川市]][[樋詰橋]]付近より上流方向を望む
ファイル:Arakawa.JPG|[[さいたま市]]を流れる荒川
ファイル:AraKawa2004-12.jpg|埼玉県[[戸田市]]川岸1丁目より[[川口市]]方面を望む
ファイル:Arakawa (Arakawa Adati).JPG|[[扇大橋]]から[[江北橋]]方面を望む
ファイル:View from the Funabori Tower,Tokyo,Japan.jpg|並流する中川(手前)と荒川(奥)。[[タワーホール船堀]]から撮影。
ファイル:ArakawaRiver0km.JPG|東京都[[江東区]]の0.00 km標識から、さらに下流を望む。
ファイル:HanedaAirport_(2006-11-13).JPG|[[東京国際空港|羽田空港]]の奥(北)に[[中央防波堤外側埋立地]]と荒川河口を望む(定期航空機より)。
</gallery>
== 歴史 ==
荒川は古くから[[利根川]]の支流で、[[関東平野]]に出た後、扇状地を作り、扇端の東縁(現在の埼玉県熊谷市〜行田市)で利根川と合流していた<ref>菊地隆男「[https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/19/pdf/19_1.pdf 先史時代の利根川水系とその変遷]」『アーバンクボタ』1981年4月([[クボタ]])2022年6月2日閲覧</ref>。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いだが、3000年前頃からは、現在の埼玉県[[加須市]]方向へ向った後、[[中川]]低地<ref>{{Cite web|和書|title=01土地・気象|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/kodomo/data01_tochi-kishou.html|accessdate=2023-10-07|language=ja|last=埼玉県}}</ref>へ入り、南流して[[東京湾]](江戸湾)へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も[[暴れ川]]を意味し、<!--「荒」という名の通りの[[暴れ川]]でしばしば川筋を変え、-->有史以来、下流域の[[開発#自然開発|開発]]も遅れていた。
荒川本流が今の[[綾瀬川]]を流れていた時代もあるが、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に[[水路]]が掘られて東の[[星川]]に繋がれ、綾瀬川と分流した<ref name="7fu">{{Cite web|和書|date=2008-11-12 |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/learn/ara/pdf/2008/11_12/p200811_06_07.pdf |title= 流路変遷にまつわる荒川七ふしぎ |format=PDF |publisher=国土交通省 関東地方整備局 |page= |accessdate=2015-07-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130122134438/http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/learn/ara/pdf/2008/11_12/p200811_06_07.pdf |archivedate=2013-01-22}}</ref>。[[江戸時代]]初期頃は荒川は現在の[[元荒川]]の川筋を通り、現在の埼玉県[[越谷市]]・[[吉川市]]付近で利根川と合流した。<!--[[武蔵国]]・[[下総国]]境付近(今の--><!--利根川は合流と[[分流]]を繰り返しながら東京湾(江戸湾)に注いだ。-->
=== 利根川東遷事業 ===
{{main|利根川東遷事業}}
[[1629年]]([[寛永]]6年)に[[関東郡代]]の[[伊奈忠治]]らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の[[元荒川]]を流下していた河道を、[[和田吉野川]]の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった<ref group="注釈">[[カスリーン台風]]ではこの熊谷市久下の地点が決壊し、[[元荒川]]の流域へ洪水を生じた。</ref><ref group="注釈">同時期の工事で利根川は東に瀬替え('''利根川東遷事業''')して[[大落古利根川|古利根川]]流路から[[江戸川]]の流路を流れるようになった。</ref>。なお現在、元の河道は、締め切られた熊谷市久下で[[地下水]][[湧水]](現在は人工揚水)を源流とし、吉川市で中川と合流する[[元荒川]]となっている。
付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を流下し東京湾へ注ぐこととなった。この部分は流速が遅く、[[台風]]で大[[雨]]が降るとしばしば溢れて[[江戸]]の[[下町]]を水浸しにした。[[明治|明治時代]]の調べでは、大雨の際、熊谷市と[[川口市]]で最高水位に達する[[時刻]]の差が48 - 60[[時間 (単位)|時間]]あった<ref>[[河野天瑞]]「荒川鉄橋建築工事報告 第一」『[[工学雑誌]]』48巻</ref>。[[洪水]]が人や家を押し流すことはないが、[[水害|浸水]]による[[家屋]]と[[農産物|農作物]]の被害は深刻であった。しかし、荒川の[[河川舟運]]にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた<ref>『第19回特別展 戸田河岸と荒川の舟運』([[戸田市立郷土博物館]]発行 2003年10月11日)5頁</ref>。
=== 荒川放水路 ===
'''荒川放水路'''(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、[[岩淵水門]]から、江東区・江戸川区の区境の[[中川]]河口まで開削された人工河川を指す。途中、[[足立区]][[千住]]地区、および[[墨田区]]・[[葛飾区]]の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。[[1913年]]([[大正]]2年)から[[1930年]]([[昭和]]5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
==== 計画に至る過程 ====
[[1910年]](明治43年)[[8月5日]]頃から[[関東地方]]では長雨が続き、[[8月11日|11日]]に[[房総半島]]をかすめて[[太平洋]]上へ抜けた台風と、[[8月14日|14日]]に山梨県[[甲府市]]から[[群馬県]]西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や[[多摩川]]などの主要河川が軒並み[[水害|氾濫]]し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る[[明治43年の大水害|関東大水害]]が発生した。利根川[[左岸]]上五箇・下中森の破堤により群馬県[[邑楽郡]]一帯に被害が集中したほか、[[右岸]]でも[[中条堤]]の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断。死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起こした。また、利根川や[[多摩川]]水系も含んだ[[東京府]]全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった<ref>『日本歴史災害事典』([[吉川弘文館]]、2012年、ISBN 978-4-642-01468-7)406頁</ref>。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌[[1911年]](明治44年)、政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する。
[[内務省 (日本)|内務省]]によって調査、設計の準備を進め、土木[[技官]]の[[青山士]]らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは[[1913年]]([[大正]]2年)のことである。
この用地買収は実に1000[[ヘクタール]]、1300戸に及ぶ。これにより、[[南葛飾郡]]の[[大木村]]、[[平井村 (東京府)|平井村]]、[[船堀村]]の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
==== 難工事 ====
[[ファイル:Arakawa hosuiro.jpg|thumb|200px|right|荒川放水路完成時の[[青山士]]らによる記念碑]]
結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3,200万[[円 (通貨)|円]]あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1,200万円の実に2.5[[乗法|倍]]に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や[[土砂災害|土砂崩れ]]など多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。
工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機や[[トロッコ]]、[[浚渫船]]も実用化されていたものの、[[油圧ショベル]]や[[ブルドーザー]]や[[ダンプカー]]の様な重機は無かった。また工事中も幾度も[[台風]]に襲われ、中でも[[1917年]](大正6年)9月30日の台風では、記録的な[[高潮]]に見舞われ、[[建設機械|工事用機械]]や[[船|船舶]]を流出する他、[[関東大震災]]では各地の工事中の[[堤防]]への亀裂、完成したばかりの[[橋|橋梁]]の崩落など枚挙に暇がない。さらに[[第一次世界大戦]]に伴う不況・[[インフレーション]]も、難工事に拍車をかけた。
==== 完成後 ====
[[1924年]](大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、[[浚渫]]工事など関連作業が完了したのは[[1930年]](昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、[[江戸川]]放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。
[[1938年]](昭和13年)[[9月1日]]、[[昭和13年の台風#9月1日の台風|台風]]接近と[[高潮]]が重なり荒川放水路を挟んで[[城東区 (東京都)|城東区]]、[[向島区]]、[[葛飾区]]、[[江戸川区]]一帯が冠水。約50,000戸が浸水し、250,000人が孤立<ref>江東で五万戸、二十五万人が濁水に孤立『東京朝日新聞』(昭和13年9月4日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p224 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
「荒川放水路」は[[1965年]](昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の[[千住大橋]]付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。
また、この部分を横断する[[鉄道]]は[[地下鉄]]を含め[[地下]]([[トンネル]])ではなく、全て[[橋梁]]で横断している。なお、荒川全体では[[埼玉高速鉄道線]]が[[赤羽岩淵駅]] - [[川口元郷駅]]間で、[[新荒川大橋]]([[国道122号]])のすぐ西側を唯一地下で抜けている。
=== 治水利水施設 ===
[[第二次世界大戦]]後、[[1947年]]([[昭和]]22年)の[[カスリーン台風]]により荒川流域は大きな被害を受けた。[[建設省]]関東地方建設局(現・[[国土交通省]]関東[[地方整備局]])は[[ダム]]による洪水調節を図り、[[二瀬ダム]]が本川に建設された。[[1964年]](昭和39年)には東京都が記録的な[[渇水]]に見舞われ([[東京大渇水|東京砂漠]])、利根川より緊急的に[[導水]]を図り対処した。
その後、[[1965年]](昭和40年)に[[秋ヶ瀬取水堰]]を建設、さらに荒川水系が[[水資源開発促進法]]の指定河川となり、[[水資源開発公団]](現・独立行政法人[[水資源機構]])が総合的な水資源開発を行った。この頃、隅田川の[[水質汚濁]]が深刻化。[[メタン]]ガスの沸き出る河川となり、[[早慶レガッタ]]までもが中止となった。
水質汚濁を改善すべく、[[1968年]](昭和43年)から[[利根大堰]]による導水で、[[上水道]]供給と水質改善を図った。また上流部に[[滝沢ダム]]、[[浦山ダム]]、[[有間ダム]]、[[合角ダム]]を建設して、[[洪水調節]]や上水道を確保し、[[笹目橋]]上流に[[荒川第一調節池]]を建設して、増水時の洪水調節を行った。
[[1990年代]]以降は、[[公共事業]]再評価の議論がなされ、[[都幾川]]に建設予定だった[[大野ダム (埼玉県)|大野ダム]]の建設が[[1995年]](平成7年)に中止となり、[[大洞ダム]]再開発事業も、代替案と比較検討して事業を継続するかどうか検討されている。
=== 荒川の洪水 ===
荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきた。古くは[[平安時代]]初期の[[天安 (日本)|天安]]2年(858年)、『[[三大実録]]』に「[[武蔵国]]水勞」という記述があり、[[鎌倉時代]]初期の[[建仁]]元年(1201年)8月の暴風雨で、[[下総国]]葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが『[[吾妻鏡]]』記されている。
ほかにも、[[慶長]]元年(1596年)には100年に1度といわれる大洪水、慶長19年(1614年)の「諸国出水」、[[元和 (日本)|元和]]3年(1617年)の[[入間川 (埼玉県)|入間川]]洪水、[[元禄]]元年(1688年)に荒川洪水。さらに、近代以降では最大の[[明治43年の大水害]]、昭和22年・49年・57年にも洪水が発生。[[平成]]11年には熊谷水位観測所、治水橋水位観測所において観測開始以来、過去最高となる水位を観測。平成19年には三峰雨量観測所にて総雨量573 mmを記録、熊谷水位観測所では観測開始以来の最高水位を記録している<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html 荒川の歴史 洪水の記録] 国土交通省関東地方整備局[[荒川上流河川事務所]]</ref>。
=== 将来の水害リスク ===
[[2010年代]]においても、荒川流域で大規模洪水が起きた場合、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の広い地域に被害を及ぼす可能性は依然残っている。関東地方整備局の[[シミュレーション]]によると、大雨により[[赤羽駅]]近くの堤防が決壊したと想定すると、東京都と埼玉県内の約98平方 kmが浸水し、水は東京都心の[[丸の内]]や[[大手町 (千代田区)|大手町]]などにも到達する。全国からポンプ車を集めても、排水には4週間かかる。このため国交省は、企業に[[事業継続計画]](BCP)の策定を呼び掛けている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGKKZO20011100V10C17A8L83000/ 「荒川で大規模洪水発生なら… 浸水恐れ、都心部でも 関東整備局が想定/中小にBCP策定促す」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2017年8月16日(首都圏経済面)</ref>。
[[高規格堤防]]整備事業が下流部で行われている。そのほか中流部では堤防の幅を拡幅するさいたま築堤事業が行われている。また、[[2018年]]からは[[荒川第二・第三調節池]]の整備事業が始まった。
== 水運 ==
河口からの[[船|船舶]]は、秋ヶ瀬取水堰下流にある秋ヶ瀬橋までの約34 kmを遡上できる。河口から約32 km遡った幸魂大橋上流側右岸、埼玉県和光市新倉には[[桟橋]]があり、東京湾の製油所から小型の[[タンカー]]が運航されていた。桟橋で下ろされた石油類は、[[パイプライン輸送|パイプライン]]によって埼玉県[[朝霞市]]の[[ジャパンエナジー]]朝霞油槽所まで運ばれていた。日本では少なくなった[[海岸]]と[[内陸県]]を結ぶ[[河川舟運]]であった。
かつて幸魂大橋下流側右岸にあった[[エクソンモービル]]北東京油槽所の桟橋は、同油槽所が廃止されたため、2007年3月までに撤去された。
== 自然 ==
[[File:Floodplain of Arakawa River.JPG|thumb|250px|埼玉県さいたま市内の荒川左岸の河川敷。付近の河川敷の幅は2 km弱に及ぶ。]]
荒川の中下流域には農耕地が広がり、20世紀には東京通勤圏となって住宅開発が進んだ。そのため、幅広い荒川[[河川敷]]が自然を残す回廊として[[生態系]]にとって重要になっている。中下流沿いにみられる[[コウモリ]]類以外の[[哺乳類]]には[[アズマモグラ]]、[[ハタネズミ]]、[[アカネズミ]]、[[ジネズミ]]、[[カヤネズミ]]、[[ノウサギ]]、[[タヌキ]]、[[キツネ]]、[[イタチ]]がいる<ref>『荒川の自然図鑑 荒川の動物』24-32頁。むろん、最ももっともよく見かける哺乳類は[[ヒト]]である。</ref>。このうちネズミ類とモグラは川沿いに限らず周りの平地に普通に生息するが<ref>『埼玉県動物誌』23-40頁</ref>、周囲の木立や草原の減少で住み処を追われた他の哺乳類にとって荒川沿いの自然は貴重である。ネズミでも、カヤネズミの生息地は河川敷の一部に狭まっている<ref>『埼玉県動物誌』41頁、『さいたま動物記』80頁</ref>。
== 堤外地の集落 ==
荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられている。最も広いのは[[糠田橋]]付近で、約2,500 mに達する。そのため、河川改修によって堤外地に多数の集落が取り残された。これらの集落は堤外地になったことによってさらに水害の被害が増したため、2005年に握津集落([[川越市]])が集団移転するなど、徐々に堤内地への移転が進んだ。移転に際して国からの補償があったが、予算の不足から一挙に補償を行うことができなかったため、補償を待てずに自費で移転した世帯もあった。しかし、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、付近に農地を持つ住民にとっては尚更である。そのため、危険を冒して堤外地に住み続ける住民や、堤外地であることは変わらないが、[[荒川横堤|横堤]]上に移住した住民もいる。明秋集落・古名新田集落([[吉見町]]・[[鴻巣市]])では、2020年時点でも横提上に列状の集落を形成している。それ以外の集落は、既に住民がいないか、わずかしかおらず集落としての機能を失っている<ref>{{Cite journal|和書|author1=磯谷有紀 |author2=[[橋詰直道]] |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32567/ |title=河川改修に伴う荒川中流域における堤外地集落の移転 |date=2011-08 |volume=47 |pages=57-81 |journal=駒澤地理 |publisher=[[駒澤大学]]文学部地理学教室・駒澤大学総合教育研究部自然科学部門 |accessdate=2016-11-20}}</ref>。
== 流域の自治体 ==
※[[郡]]の場合は括弧内が自治体名。[[さいたま市]]の括弧内は[[行政区]]名。
;埼玉県
:[[秩父市]]、[[秩父郡]]([[皆野町]]、[[長瀞町]])、[[大里郡]]([[寄居町]])、[[深谷市]]、[[熊谷市]]、[[比企郡]]([[吉見町]]、[[川島町]])、[[鴻巣市]]、[[北本市]]、[[桶川市]]、[[上尾市]]、[[川越市]]、[[富士見市]]、[[志木市]]、さいたま市([[西区 (さいたま市)|西区]]、[[桜区]]、[[南区 (さいたま市)|南区]])、[[朝霞市]]、[[和光市]]、[[戸田市]]、[[川口市]]
;東京都
:[[板橋区]]、[[北区 (東京都)|北区]]、[[足立区]]、[[墨田区]]、[[葛飾区]]、[[江戸川区]]、[[江東区]]
== 支流 ==
[[ファイル:Kawagoe Iruma River 1.JPG|thumb|荒川水系の支流で最も流路延長が長い入間川]]
* [[入川]]
* [[滝川 (埼玉県)|滝川]]
* [[大洞川 (埼玉県)|大洞川]]<!--一級-->
* [[中津川 (埼玉県)|中津川]]<!--一級-->
* [[大血川]]<!--一級-->
* 谷津川
* [[安谷川]]<!--一級-->
* [[浦山川]]<!--一級-->
* [[横瀬川]]<!--一級-->
* [[赤平川]]<!--一級-->
* 日野沢川
* 三沢川
* [[風布川]]
* [[新吉野川]]<!--一級-->
* [[吉野川 (埼玉県)|吉野川]]<!--一級-->
* [[和田吉野川]]<!--一級-->
* [[武蔵水路]]
* [[足立北部排水路]]
* 石田川
* [[市野川]]<!--一級-->
* [[江川 (北本市・桶川市)|江川]]<!--一級-->
* [[上尾中堀川]]
* [[入間川 (埼玉県)|入間川]]<!--一級-->
* [[滝沼川]] - [[準用河川]]。
* 荒川連絡水道専用水路(見沼台用水からの連絡水路)
* [[びん沼川]]<!--一級--> (荒川の[[流路形状#旧河道|旧河道]])
* [[鴨川 (埼玉県)|鴨川]]<!--一級-->
* [[朝霞水路]]
* [[笹目川]]<!--一級-->
* [[菖蒲川 (埼玉県)|菖蒲川]]<!--一級-->
* 綾瀬川・芝川等浄化導水路
* [[隅田川]](荒川から分流。もとは荒川)
* [[新河岸川]](隅田川に合流している)<!--一級-->
* [[芝川 (埼玉県)|芝川]]<!--一級-->
* [[中川]]<!--一級--> - 法令上として荒川とは合流せず、並走する形で東京湾に至っている<ref name="arajoSyuten" />。
== 河川施設 ==
上流部には[[二瀬ダム]](秩父湖)などの[[人造湖]]が多くあり、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の水がめの一端を担っている。また、利根川水系のダム湖で蓄えられた水は[[埼玉県]][[行田市]]の[[利根大堰]]から[[武蔵水路]]を経て荒川に落ち、荒川水系の水も加えて同[[志木市]]の[[秋ヶ瀬取水堰]]で取水され、[[朝霞水路]]を通って[[水資源機構]]利根導水総合管理所秋ヶ瀬管理所の沈砂池および接合井を経て、[[東京都水道局]]の[[朝霞浄水場]]と[[三園浄水場]]に導水される。埼玉県だけでなく、東京都でも広い範囲で水道水の水源となっていて、都の水源の約8割が利根川水系及び荒川水系で、残りの約2割が[[多摩川]]水系である<ref>[http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/antei/02.html 水源・水質 安定した水源の確保] 東京都水道局.2020年7月18日閲覧。</ref>。
=== 治水利水施設 ===
* [[二瀬ダム]]
* [[秋ヶ瀬取水堰]]
* [[六堰]]頭首工
* [[荒川調節池]](第一から第五調節池まで建設予定)
** [[荒川第一調整池]](彩湖)
* [[荒川放水路]]
* [[岩淵水門]]
* [[滝沢ダム]]
* [[大洞ダム]]
* [[浦山ダム]]
* [[合角ダム]]
* [[有間ダム]]
* [[間瀬ダム]]
=== 水力発電施設 ===
* [[玉淀ダム]]
== 橋梁 ==
<!-- 鉄道橋は数が多い道路橋に記述を合わせてください(○○線××橋梁ではなく、××橋梁(○○線)と表現 ) -->
{{座標一覧|article=Category:荒川の橋}}
[[File:JisuiHashi.jpg|thumb|治水橋(埼玉県さいたま市)]]
[[File:Arakawa_Senju_Shinbashi.JPG|thumb|千住新橋([[国道4号]])]]
[[File:Arakawa_Toubu_Railway.JPG|thumb|鉄橋(千代田線、常磐線、つくばエクスプレス線)]]
[[File:Arakawa-Nakagawa bridge Toei subway 20190211 162634.jpg|thumb|鉄橋(都営地下鉄新宿線)]]
[[File:Kiyosuna Bridge 20180102 142834.jpg|thumb|清砂大橋]]
[[File:Arakawa_WanganSen.JPG|thumb|荒川河口橋]]
荒川は特に中流域において河川敷を広く取っているため、河川の規模の割に長大な橋が数多く架けられ、道路橋では上江橋を始め、船堀橋・幸魂大橋・押切橋・清砂大橋・熊谷大橋・秋ヶ瀬橋・大芦橋が橋長1 kmを超えている<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/405603.pdf さいたま橋物語 なんでもデータ]}} - 埼玉県ホームページ</ref>。
橋種は中流域を中心に[[桁橋]]が多く、下流域の橋は[[不同沈下]]に対処するために[[ゲルバー橋|ゲルバー桁]]が多用されている。近年は五色桜大橋など景観に配慮され架けられた橋もある。
''上流側より示す。''
* [[秩父湖橋]] - 人道橋
* [[秩父湖大橋]]([[国道140号]]) - 桟道橋
* [[三十槌橋]]
* [[大滝橋 (荒川)|大滝橋]]
* [[大中橋 (荒川)|大中橋]](秩父市道大滝127号<ref name="ChichibuKyoryo4">{{PDFLink|[http://www.city.chichibu.lg.jp/secure/9214/keikaku.pdf 秩父市橋梁長寿命化修繕計画]}}p4 - 秩父市</ref>)
* [[神岡橋 (荒川)|神岡橋]](秩父市道大滝幹線8号<ref name="ChichibuKyoryo5">{{PDFLink|[http://www.city.chichibu.lg.jp/secure/9214/keikaku.pdf 秩父市橋梁長寿命化修繕計画]}}p5 - 秩父市</ref>)
* [[登竜橋 (荒川)|登竜橋]](大輪三峰線歩道<ref name="Tozandousyoukai">[http://www.pref.saitama.lg.jp/b0504/kokuritsu-tozandou.html 秩父多摩甲斐国立公園(埼玉県内)の登山道紹介] - 埼玉県、2015年3月20日閲覧。</ref>) - 人道橋
* [[上石橋]](秩父市道大滝106号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[大血川橋]](秩父市道大滝幹線4号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[万年橋 (荒川)|万年橋]](秩父市道大滝幹線2号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[白川橋 (荒川)|白川橋]]([[埼玉県道210号中津川三峰口停車場線]])
* [[平和橋 (荒川)|平和橋]](秩父市道荒川幹線5号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[荒川橋]](国道140号)
* [[日野鷺橋]]([[埼玉県道72号秩父荒川線]])
* [[久那橋]](秩父市道幹線12号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[柳大橋]](秩父市道幹線74号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[巴川橋 (荒川)|巴川橋]]([[埼玉県道209号小鹿野影森停車場線]])
* [[櫻橋 (秩父市)|櫻橋]](秩父市道中央625号線<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[佐久良橋]](秩父市道幹線51号線<ref name="ChichibuKyoryo5"/>)
* [[秩父公園橋]]([[埼玉県道208号秩父停車場秩父公園線]])
* [[武之鼻橋]](秩父市道幹線1号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>)
* [[秩父橋]]([[国道299号]])
* [[和銅大橋]](秩父市道幹線8号<ref name="ChichibuKyoryo4"/>〈招木古墳通り〉)
* [[秩父やまなみ大橋]](国道140号[[皆野秩父バイパス]])
* [[新皆野橋]](国道140号皆野秩父バイパスランプ線)
* [[皆野橋]]([[埼玉県道43号皆野荒川線]])
* [[栗谷瀬橋]]([[埼玉県道37号皆野両神荒川線]])
* [[親鼻橋]](国道140号)
* [[荒川橋梁 (秩父鉄道秩父本線)|荒川橋梁]]([[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]])
* [[金石水管橋]](長瀞町道幹線26号<ref name="Chougikai8">{{PDFLink|[http://www.town.nagatoro.saitama.jp/wp-content/uploads/2013/03/21-8.pdf 平成21年第8回長瀞町議会定例会会議録]}}p. 69、長瀞町、2015年3月20日閲覧。</ref>) - 水道・道路併用橋
* [[高砂橋 (荒川)|高砂橋]]([[埼玉県道287号長瀞児玉線]])
* [[白鳥橋 (荒川)|白鳥橋]]([[埼玉県道201号岩田樋口停車場線]])
* [[葉暮橋]](国道140号) - 桟道橋
* [[寄居橋]]([[埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線]])
* [[末野大橋]]([[皆野寄居有料道路]])
* [[折原橋]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/doboku-sansaku/suenooohashi-oriharabashi.html |title=【橋りょう】 末野大橋・折原橋〔寄居町〕 |archive-url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/doboku-sansaku/suenooohashi-oriharabashi.html |archive-date=2014-10-8 |access-date= |deadlinkdate=2023年1月23日}}</ref>([[埼玉県道349号広木折原線]])
* [[荒川橋梁 (八高線)|荒川橋梁]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[八高線]])
* [[正喜橋]]([[埼玉県道30号飯能寄居線]])
* [[荒川橋梁 (東武東上本線)|荒川橋梁]]([[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]])
* [[玉淀大橋]]([[国道254号]])
* [[花園橋]](花園大橋)([[埼玉県道296号菅谷寄居線]])('''これより上流は埼玉県、下流は[[国土交通省]]が管理'''<ref>[http://www.ara.go.jp/dictionary/06_ka/rt_11.html 河川の管轄] - 荒川知水資料館</ref>)
* [[荒川橋 (関越自動車道)|荒川橋]]([[関越自動車道]])
* [[重忠橋]](深谷市道幹46号<ref>{{PDFLink|[http://www.city.fukaya.saitama.jp/dourokanri/pdf/syuuzenkeikaku.pdf 深谷市 長寿命化修繕計画]}} - 深谷市 都市整備部道路管理課(2013年3月)</ref>)
* [[荒川第二水管橋]] - [[水路橋|水管橋]]
* [[植松橋]]([[埼玉県道69号深谷嵐山線]])
* [[押切橋]]([[埼玉県道47号深谷東松山線]])
* [[熊谷大橋 (荒川)|熊谷大橋]](熊谷橋)([[埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線]]〈[[熊谷東松山道路]]〉)
* [[荒川大橋|荒川大橋/新荒川大橋]]([[国道407号]])
* [[久下橋]]([[埼玉県道257号冑山熊谷線]])
* [[大芦橋]]([[埼玉県道66号行田東松山線]])
* [[荒川水管橋]] - 水管橋
* [[糠田橋]]([[埼玉県道76号鴻巣川島線]])
* [[滝馬室橋]](鴻巣市道D-19号線<ref name="ClosedTraff1">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/yobohozen/yobo2_2.pdf 通行止め・通行規制橋梁リスト(H23.4月時点)]}}9p - 国土交通省</ref>)
* [[御成橋 (荒川)|御成橋]]([[埼玉県道27号東松山鴻巣線]])
* [[原馬室橋]](鴻巣市道D-130号線<ref name="ClosedTraff1"/>)
* [[高尾橋]](北本市道107号線<ref name="ClosedTraff1"/>)
* [[荒井橋]]([[埼玉県道33号東松山桶川線]])
* [[圏央道荒川橋]]([[首都圏中央連絡自動車道]])
* [[太郎右衛門橋]]([[埼玉県道12号川越栗橋線]])
* [[樋詰橋]](桶川市道18号線<ref name="ClosedTraff1"/>)
* [[西野橋 (上尾市)|西野橋]](上尾市道10156号線<ref name="ClosedTraff1"/>)
* [[開平橋]]([[埼玉県道51号川越上尾線]])
* [[新上江橋]]([[国道16号]]外回り)
* [[上江橋]]([[国道16号]]内回り)
* [[荒川橋梁 (川越線)|荒川橋梁]](JR東日本[[川越線]])
* [[治水橋]]([[埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線]])
* [[羽根倉橋]]([[国道463号]]〈[[浦和所沢バイパス]]〉)
* [[秋ヶ瀬橋]]([[埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線|埼玉県道40号さいたま東村山線]])
* [[荒川橋梁 (武蔵野線)|荒川橋梁]](JR東日本[[武蔵野線]])
* [[幸魂大橋]]([[国道298号]]、[[東京外環自動車道]])
* [[笹目橋]]([[国道17号]]〈[[新大宮バイパス]]〉、[[首都高速5号池袋線]])
* [[戸田橋]](国道17号〈[[中山道]]〉)
* [[荒川橋梁 (東北新幹線)|荒川橋梁]](JR東日本[[東北新幹線]])
* 荒川橋梁(JR東日本[[東北本線]]〈[[埼京線]]〉)
* [[荒川橋梁 (東北本線)|荒川橋梁]](JR東日本東北本線〈[[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[京浜東北線]]〉)
* [[新荒川大橋]]([[国道122号]]〈[[日光御成道|岩槻街道]]〉)
* [[鹿浜橋]]([[東京都道318号環状七号線]]〈環七通り〉) - 水道・道路併用橋
* [[五色桜大橋]]([[首都高速中央環状線]])
* [[江北橋]]([[東京都道307号王子金町江戸川線]])
* [[扇大橋]]([[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|東京都道58号台東川口線]]〈尾久橋通り〉)
* [[荒川橋梁 (東京都交通局日暮里・舎人ライナー)|荒川橋梁]]([[東京都交通局]][[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]])
* [[西新井橋]]([[東京都道461号吾妻橋伊興町線]]〈[[尾竹橋通り]]〉)
* [[千住新橋]]([[国道4号]]〈[[日光街道]]〉)
* [[荒川橋梁 (東京メトロ千代田線)|荒川橋梁]]([[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ千代田線|千代田線]])
* [[荒川橋梁 (常磐線)|荒川橋梁]](JR東日本[[常磐線]])
* [[荒川橋梁 (首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス)|荒川橋梁]]([[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス線]])
* [[荒川橋梁 (東武伊勢崎線)|荒川放水路橋梁]](東武鉄道[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]])
* [[荒川橋梁 (京成本線)|荒川橋梁]]([[京成電鉄]][[京成本線|本線]])
* [[堀切橋]]([[東京都道314号言問大谷田線]])
* [[新荒川橋]]<ref>{{Cite web|和書|date=2016-01 |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000645963.pdf |title=荒川下流防災施設活用計画〔第四版〕【運用マニュアル概要版】 |publisher=国土交通省 荒川下流河川事務所(荒川下流防災施設運用協議会) |format=PDF |page=18 |accessdate=2017-04-27 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>([[首都高速6号向島線]])
* [[四ツ木橋]]([[国道6号]]〈[[水戸街道]]〉)
* [[新四ツ木橋]](国道6号)
* [[荒川橋梁 (京成押上線)|荒川橋梁]](京成電鉄[[京成押上線|押上線]])
* [[木根川橋]]([[東京都道449号新荒川堤防線]])
* [[平井大橋]]([[東京都道315号御徒町小岩線]]〈[[蔵前橋通り]]〉)
* [[荒川橋梁 (総武本線)|荒川放水路橋梁]](JR東日本[[総武本線]])
* [[小松川大橋]]、新小松川大橋([[国道14号]]〈[[京葉道路]]〉)
* [[荒川大橋 (首都高速道路)|荒川大橋]]([[首都高速7号小松川線]])
* [[船堀橋]]([[東京都道50号東京市川線]]〈新大橋通り〉)
* [[荒川橋梁 (都営地下鉄新宿線)|荒川橋梁]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]])
* [[葛西橋]]([[東京都道10号東京浦安線]]〈[[葛西橋通り]]〉)
* [[荒川中川橋梁 (東京メトロ東西線)|荒川中川橋梁]](東京メトロ[[東京メトロ東西線|東西線]])
* [[清砂大橋]]([[東京都市計画道路幹線街路放射第16号線|放射第16号線]])
* [[荒川河口橋]]([[国道357号]] [[東京湾岸道路]])、[[荒川湾岸橋]]([[首都高速湾岸線]])
* [[荒川橋梁 (京葉線)|荒川橋梁]](JR東日本[[京葉線]])
<!--
鉄道橋は数が多い道路橋に記述を合わせてください(○○線××橋梁ではなく、××橋梁(○○線)と表現 ) -->
== 荒川舟運 ==
[[ファイル:Kawataya Arakawa Sailing Ship 1.jpg|thumb|[[川田谷村|川田谷]]付近を行く荒川の[[帆船|帆舟]](大正期)]]
=== 河岸場 ===
荒川流域には32ヵ所を数える[[河岸]]が存在した<ref>『第19回特別展 戸田河岸と荒川の舟運』(戸田市立郷土博物館発行 2003年10月11日)6-7頁</ref>。
* 荒川(末野)
* 子持瀬
* 荒川
* 荒川(押切)
* 久下
* 天水
* 新川
* 玉作
* 大芦
* 小八ツ林
* 五反田
* 御代地
* 糠田
* 御成
* 高尾
* 荒井
* 石戸
* 鳥羽井
* 太郎右衛門
* 畔吉
* 平方 - 輸入・輸出量最大の河岸(明治時代)
* 老袋
* 下河原
* 飯田
* 羽根倉
* 道場
* 道満
* 芝宮
* 早瀬
* 戸田 - 河岸坪数最大の河岸(明治時代)
* 竹屋
* 川口
=== 渡船場 ===
[[ファイル:Kisokaido02 Warabi.jpg|thumb|right|木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場]]
[[File:Historic site of Toda ferry crossing Arakawa River.jpg|thumb|150px|戸田渡船場跡の碑]]
[[File:100 views edo 020.jpg|thumb|150px|[[名所江戸百景]]『川口のわたし善光寺』]]
荒川流域には68ヵ所を数える[[渡し船|渡船場]]が存在した。重要な交通路に設けられた官渡と称する公で管理された渡船場の他に、地元住民の便を図った私設の渡船場があった。冬季の渇水期には[[仮橋]]を架ける所もあった。上記の河岸場を併設していた場合も多い。
これらの渡船場は、橋梁の架設に伴い1981年(昭和56年)廃止された[[金石水管橋#金石の渡し|金石の渡し]]を最後に、公道としての渡船場は全て姿を消した。渡船場跡は河川改修や護岸工事で遺構はもちろん、痕跡さえも消滅しつつある<ref>埼玉県立さきたま資料館編集『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』(埼玉県政情報資料室発行、1987年(昭和62年)4月)24頁-41頁、67-74頁</ref>。
現在では河川敷ゴルフ場における[[ゴルファー]]が、対岸のコースへアクセスする専用の渡船場が存在する<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-14 |url=https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/1061130/080900035/ |title=川越GCは小船でコースに向かう風情ある河川敷コース |archive-url=https://web.archive.org/web/20160915182456/https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/1061130/080900035/ |archive-date=2016-09-15 |publisher=[[日経BP]]社(日経トレンディネット) |accessdate=2023-10-08 }}</ref>。
* 栃の木坂の渡し - 現在の白川橋付近。「八幡坂の渡し」とも称する。
* 日野・鷺ノ巣の渡し - 現在の日野鷲橋付近
* 草塚の渡し
* 渡し(無名の渡し場) - 現在の久那橋付近
* 柳の渡し - 現在の柳大橋付近。「柏木瀬の渡し」とも称する。
* 蛤の渡し
* 桜の渡し - 現在の櫻橋・佐久良橋付近
* 竹の鼻の渡し - 現在の武之鼻橋付近
* 簗場の渡し - 現在の秩父橋付近
* 招木の渡し - 現在の和銅大橋付近
* 大浜の渡し - 現在の皆野橋付近
* 中の渡し
* 栗谷瀬の渡し - 現在の栗谷瀬橋付近
* 親鼻の渡し - 現在の親鼻橋付近
* 金石の渡し - 現在の金石水管橋付近
* 袋の渡し - 現在の高砂橋付近
* 羽風の渡し
* 三ヶ瀬の渡し
* 金尾の渡し - 玉淀ダムにより水没
* 日山の渡し - 現在の折原橋付近
* 子持瀬の渡し
* 中渡し - 現在の正喜橋付近
* 樋の下の渡し - 東武東上本線荒川橋梁付近
* 小園の渡し
* 赤浜の渡し - 現在の花園橋付近
* 黒田の渡し
* 瀧の渡し - 現在の六堰(重忠橋)付近
* 植松の渡し(官渡) - 現在の植松橋付近
* 坂下の渡し
* 押切の渡し - 現在の押切橋付近
* 樋春の渡し - 現在の熊谷大橋付近。「おりっとの渡し」とも称する。
* 村岡の渡し - 現在の荒川大橋付近
* 手島の渡し
* 久下の渡し - 現在の久下橋付近
* 上分の渡し
* 天水の渡し
* 大芦の渡し(官渡) - 現在の大芦橋付近
* 五反田の渡し
* 荒久の渡し
* 糠田の渡し - 現在の糠田橋付近
* 御成河岸の渡し(官渡) - 旧流路(現、[[旧荒川]])、現在の御成橋付近
* 高尾の渡し - 現在の高尾橋付近
* 荒井の渡し - 現在の荒井橋付近
* 石戸の渡し
* 中船戸の渡し - 現在の荒川渡河橋付近
* 太郎右衛門の渡し - 現在の太郎右衛門橋付近
* 高畠の渡し - 旧流路(現、旧荒川)、現在の樋詰橋付近
* 畔吉の渡し
* 平方の渡し(官渡) - 現在の開平橋付近
* 老袋の渡し
* 倉根の渡し
* 精進場の渡し - 現在の江遠島上江橋(初代の上江橋)付近
* 千手堂の渡し - 現在の川越線荒川橋梁付近
* 馬宮の渡し - 新流路、現在の治水橋付近
* 船戸の渡し(官渡) - 旧流路(現、びん沼川)、現在の船戸橋(埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線)付近。「昼間の渡し」や「飯田の渡し」とも称する。
* 羽根倉の渡し - 現在の羽根倉橋付近
* 秋ヶ瀬の渡し - 現在の秋ヶ瀬橋付近
* 道満の渡し - 旧流路、彩湖・道満グリーンパーク内。「地蔵木の渡し」とも称する。
* 大野の渡し - 現在の幸魂大橋付近
* 芝宮の渡し
* 早瀬の渡し - 現在の笹目橋付近
* 戸田の渡し(官渡) - 現在の戸田橋付近
* 浮間の渡し - 旧流路(現、新河岸川)、現在の浮間橋付近
* 横曾根の渡し
* 川口の渡し(官渡) - 現在の新荒川大橋付近
* 中道の渡し - 現在の岩淵水門付近
* 梛の原の渡し
* 柳の渡し - 現在の芝川水門付近
''- これより下流は[[隅田川の渡し]]を参照 -''
=== 現代 ===
* 1990年代から2003年にかけて秋ヶ瀬橋・さくら草公園寄りに埼玉県による「秋ヶ瀬桟橋」が設置されており、2002年夏まで[[海洋商船]]株式会社による「荒川[[水上バス]]」が[[お台場海浜公園]]船着場まで運航されていた。同社の事業停止(実質上倒産)後、埼玉県負担で係留船一隻と桟橋の撤去を行っている。
* [[東京都公園協会]]が「[[東京水辺ライン]]」と称して荒川・東京湾・隅田川で[[水上バス]]を運航<ref>[http://www.tokyo-park.or.jp/waterbus/index.html 東京水辺ライン「水上バスで行こう!オフィシャルサイト]</ref>。
* 埼玉県の[[寄居町]]桜沢付近([[東武東上線]][[鉢形駅]]近く)の荒川は水難事故が多い事で知られる<ref name="saitama20180806"/>。2009年から2018年8月までに13件の事故が発生、7人が死亡している<ref name="saitama20180806">[http://www.saitama-np.co.jp/news/2018/08/07/01.html 「川に流された息子…助けようとした母親、溺れ死亡 息子は無事 カヌー男性が助けるも母親の意識なく/寄居」]『[[埼玉新聞]]』2018年8月6日</ref>。
== 流域の観光地 ==
* [[奥秩父山塊]]([[秩父多摩甲斐国立公園]]、埼玉県[[秩父市]]、秩父郡[[小鹿野町]])
* [[秩父ミューズパーク]]
* [[長瀞渓谷]]([[景勝地]]、埼玉県[[秩父郡]][[長瀞町]])
* [[玉淀]]河原(景勝地、埼玉県大里郡寄居町)
* [[埼玉県立川の博物館]](埼玉県大里郡寄居町大字小園) - 河川をテーマにした博物館。荒川を主にとりあげている。屋外に、荒川の源流から河口までの流れと本流沿いの地形を千分の一に縮小して表現した荒川大模型がある<ref>[http://www.river-museum.jp/exhibition/173.html 荒川大模型173]埼玉県立川の博物館</ref>。
* [[熊谷桜堤]](埼玉県熊谷市)
* [[埼玉県道155号さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道線]]([[荒川サイクリングロード]])
* さくら堤公園(埼玉県[[比企郡]][[吉見町]])
* [[ホンダエアポート]](埼玉県比企郡[[川島町]]、[[桶川市]])
* 榎本牧場(埼玉県[[上尾市]])
[[File:新荒川大橋より撮影(川口市と赤羽の中間地点).JPG|thumb|160px|荒川岩淵関緑地(新荒川大橋より撮影)]]
* [[秋ヶ瀬公園]](埼玉県さいたま市[[桜区]])
* さくら草公園(同上) - 園内に[[田島ヶ原|田島ヶ原サクラソウ自生地]]がある。
* [[荒川彩湖公園]]・[[彩湖自然学習センター]](埼玉県戸田市)
* [[彩湖・道満グリーンパーク]](同上)
* [[新荒川大橋緑地]](東京都北区赤羽) - 桜と[[シバザクラ|芝桜]]の名所
* [[荒川岩淵関緑地]](東京都北区岩淵町)
* [[荒川知水資料館]](東京都北区志茂) - 愛称「アモア」。隅田川との分岐点にある国土交通省荒川下流河川事務所に隣接。地理や生物、[[水害]]・[[治水]]などについて展示・紹介し、交流施設でもある<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00041.html 荒川知水資料館アモア](2019年6月8日閲覧)。</ref>。
* [[堀切菖蒲園]](東京都葛飾区)
* [[葛西臨海公園]](東京都江戸川区)
* [[若洲海浜公園]](東京都[[江東区]])
* 北区立荒川赤羽緑地 「荒川赤羽緑地・お花畑」で1990年[[手づくり郷土賞]] (花と緑の手づくりふるさと)受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part5_h2/5-104.pdf |title=荒川赤羽緑地・お花畑 |access-date=2023年1月23日 |publisher=[[国土交通省]] |page=125}}</ref>
* 足立区中央河川公園虹の広場 199年に[[手づくり郷土賞]](施設部門)受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part6_h3/6-9.pdf |title=虹の広場 |access-date=2023年1月23日 |publisher=[[国土交通省]] |page=24}}</ref>。
== あらかわ学会 ==
1996年に設立された[[特定非営利活動法人|NPO法人]]で、流域の自治体や研究者、団体が交流・研究する<ref>「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/180985 荒川とイノシシ物語]」『[[東京新聞]]』朝刊2022年6月2日22面(同日閲覧)</ref><ref>[https://arakawa-gakkai.jp/ あらかわ学会](2022年6月2日閲覧)</ref>。
== 大麻生陸閘 ==
'''大麻生陸閘'''(おおあそうりっこう)は荒川左岸の埼玉県熊谷市大麻生({{coord|36.145194|139.342576|region:JP_type:andmark}})にある[[陸閘]]である。熊谷市が管理する'''角落し'''であり、荒川の増水時には閉鎖される。近隣に秩父鉄道の[[広瀬川原駅]]がある<ref>[https://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kensetsu/iji/oshirase/ooasourikkou.html 大麻生陸閘(おおあそうりくこう) - 熊谷市]</ref><ref>[https://www.city.kumagaya.lg.jp/shicho/mail_ichiran/H31/310057.html 57 大麻生陸閘についての要望 - 熊谷市]</ref>。
== 関連項目 ==
{{commonscat|Arakawa River (Saitama and Tokyo)}}
* [[荒川 (曖昧さ回避)]] - その他の荒川。
* [[荒川 (羽越)]] - [[山形県]]および[[新潟県]]を流れる同名の河川。[[一級水系]]の本流としては唯一名称が重複する。
* [[荒川村 (埼玉県)]] - 荒川が村名の由来。
* [[荒川区]]
* [[岩淵水門]] - 荒川放水路と[[隅田川]]の起点に位置する水門。
* [[荒川市民マラソン]] - 河川敷道路で毎年[[3月]]に開催され、板橋区スポーツレクリエーションスタンドから江戸川区の荒川大橋まで往復するコースとなっている。制限時間が7時間と長いため、多くの市民ランナーが出場する。
* [[3年B組金八先生]] - [[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ。劇中において[[足立区]]内の荒川河川敷が頻繁に登場した。
* [[タマちゃん]] - 2003年から2004年にかけて、さいたま市桜区・志木市に跨がるの秋ヶ瀬橋と朝霞市に跨がる武蔵野線荒川橋梁付近で目撃された。
* [[ポトマック川]] - [[アメリカ合衆国]]の[[ワシントンD.C.]]を流れる河川。荒川と姉妹川 (sister river) の関係にある。
* [[日本一の一覧]]
* [[こうのす川幅うどん]] - 川幅が日本最大であることに由来する埼玉県鴻巣市の[[ご当地グルメ]]。
* [[荒川堤]] - 荒川河畔のサクラの名所
* [[利根川]] - 荒川と並ぶ東京都の水源。なお東京都の[[水源]]は約8割が利根川水系及び荒川水系(荒川は武蔵水路によって利根川の水も導水されている)、約2割が多摩川水系である<ref>[http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/antei/02.html 水源・水質 安定した水源の確保] 東京都水道局.2021年12月1日閲覧。</ref>。
* [[多摩川]] - 荒川と並ぶ東京都の水源。
* [[高規格堤防]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* 荒川生態系保全協会・制作『荒川の自然図鑑 荒川の動物』国土交通省関東地方整備局、2004年
* 埼玉県動物誌編集委員会『埼玉県動物誌』埼玉県[[教育委員会]]、1978年
* [[毎日新聞]]さいたま支局『さいたま動物記』毎日新聞社、2001年
* 埼玉県県民部県史編さん室『荒川 人文II -荒川総合調査報告書3-』埼玉県、1988年3月5日
* [[埼玉県立さきたま資料館]]編集『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』埼玉県政情報資料室発行、1987年(昭和62年)4月
* [[岡崎柾男]]編著『古老が語る下町の大水害』国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所委託、下町タイムス社、1995年
== 外部リンク ==
{{Wikinews|埼玉県内の荒川にアザラシが姿を現す}}
* [https://www.mlit.go.jp/river/kasen/index.html 国土交通省水管理・国土保全局]
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/ 荒川上流河川事務所]
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/ 荒川下流河川事務所]
* [https://www.water.go.jp/honsya/honsya/index.html 独立行政法人水資源機構]
* [https://www.ara-amoa.com/ 荒川治水資料館「amoa」]
* [https://www.youtube.com/watch?v=oZ7fHkaslVE 荒川空の旅(河口~源流)] 国土交通省 荒川下流河川事務所
{{一級水系}}
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[[Category:埼玉県の河川]]
[[Category:東京都の河川]]
[[Category:荒川水系 (関東)|*]]
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山陽自動車道
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山陽自動車道(さんようじどうしゃどう、英語: SANYO EXPWY)は、兵庫県神戸市北区を起点に、岡山県、広島県を経由して山口県の下関市へと至る高速道路(高速自動車国道)。略称は山陽道(さんようどう)。
高速道路ナンバリングによる路線番号は、広島岩国道路・小郡道路・山口宇部道路(嘉川インターチェンジ (IC) - 宇部ジャンクション (JCT) 間)とともに「E2」が割り振られている。
1997年(平成9年)12月10日に全線開通した本線(神戸JCT - 山口JCT)のほかに木見支線(三木JCT - 神戸西IC)、倉敷早島支線(倉敷JCT - 早島IC)、宇部下関線(宇部JCT - 下関JCT)が開通している。本線はアジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。
山陽地方を東西に貫く高速道路であり、瀬戸内海沿いを走るが、全般的に海岸線よりやや内陸寄りを走っているため、海の見える区間は少ない。路線の大半は山陽新幹線と並行している。また全線が国道2号および旧山陽道の路線にほぼ沿って造られている(ただし神戸市 - 姫路市にかけては内陸部を通過しており、国道2号からやや離れている)。
山陽自動車道は先行して開通した中国自動車道に比べ計画〜着工の時期が10年以上も遅れたため、その間の道路建設技術の向上もあって急勾配や極端に半径の小さい急カーブは極力抑えられている。平地が比較的少ない山陽地方西部を中心に、山地部区間などでは高架橋や距離の長いトンネルが連続する。このような区間では建設費抑制の観点から、路肩部分の幅を1.25メートル (m) に抑えたため、良好な道路線形ではあっても最高速度が80 km/hに抑制されている(詳細は後述)。一方で、平野部の大半区間では低コストな盛土や切り通しで建設され、路肩幅が十分 (2.5 m) 確保されたこともあって、最高速度100 km/hで走行できる。そのため、最高速度が吹田JCT - 宝塚ICを除く全線で80 km/h以下に抑えられている中国道よりも走りやすく、山陽道の全線開通に伴い、利用車が中国道から山陽道に移行している。
廿日市JCTと大竹JCTの間は厳密には山陽道ではなく、山陽自動車道に並行する国道2号自動車専用道路の広島岩国道路であるが、山陽自動車道本線と一体的に運用されている。なお、広島岩国道路建設における裁判において、国はこの区間に山陽道を別路線として建設すると明言したが現時点で建設される予定はなく、計画は事実上消滅している。また、道路公団民営化の過程で全国路線網になり償還期限が30年以上延長されたにもかかわらず、距離料金単価は山陽道本線の1.6倍に据え置かれているため、沿線からは不満の声があがっている。
宇部下関線は2001年(平成13年)3月11日に開通した。全区間暫定2車線のため最高速度70 km/hに規制されている。これと同時に小郡道路(山口南IC - 嘉川IC、国道2号自動車専用道路・無料区間)と山口宇部道路(嘉川IC - 宇部JCT、主要地方道山口宇部線)が並行路線に指定され、国幹道法に基づく高規格幹線道路としての山陽自動車道のネットワークは完成した。しかし小郡道路・山口宇部道路でつながっている山口南IC - 宇部JCTは高速自動車国道の路線を指定する政令で指定されていない予定路線区間となっており、山陽道としての基本計画は出されていない。
2023年(令和5年)9月5日に播磨JCT - 赤穂ICの間にある尼子山トンネルで大型トラックが炎上し、脇を通り抜けようとしていた後続車がブレーキをかけるなどして車9台が絡む追突事故が相次いで発生し、最終的に23台が焼け鎮火に40時間を要する惨事となった(尼子山トンネル多重衝突炎上事故)。上下線の龍野西IC - 赤穂IC間で通行止となっていたが、同月11日に上り線(神戸方面)は再開された。しかし、下り線(岡山・広島方面)に関してはトンネルの損傷が甚大であり復旧までの見通しが立っておらず、播磨JCT - 赤穂IC(下り線)について長期通行止を余儀なくされている。通行止に伴い迂回路となる国道2号線(特に相生市・赤穂市内)の混雑が激しくなっている事から、NEXCO西日本では中国自動車道と播磨自動車道・岡山自動車道などを利用した広域迂回を呼び掛けている。
国土開発幹線自動車道建設法に基づく、国土開発幹線自動車道(国幹道)としての山陽自動車道は以下のとおりとされている。
高速自動車国道の路線を指定する政令に基づく、高速自動車国道としての山陽自動車道は、以下の2路線からなる。
これらについて、営業中路線の道路名に区分すると以下のようになる。
また、上記の他に本州四国連絡道路への接続路線として以下の2つの支線が存在する。これらも営業上は「山陽自動車道」の道路名で案内される。
なお、木見支線の「木見」は、神戸西IC付近の地名である神戸市西区押部谷町木見に由来している。
さらに、吹田山口線と宇部下関線の間(山口市 - 宇部市)間を結ぶ、山陽自動車道に並行する自動車専用道路として
が存在する。
以下では、特記がない場合は道路名としての山陽自動車道の区間について述べる。
山陽自動車道は全区間を通して交通量が多いため、富海PA、周防灘PAを除くすべてのサービスエリア、パーキングエリアに売店がある。また、すべてのサービスエリアにガソリンスタンドがあり、福山SA上り、佐波川SAを除くすべてのサービスエリアにレストランが設置されている。
ガソリンスタンドは佐波川SA下りを除き全て24時間営業。なお、給油所があるパーキングエリアはない。サービスエリアは全て24時間営業。パーキングエリアでも24時間営業を行っているエリアが何ヶ所か存在する。
2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が西日本高速道路の管轄となっており、備前ICを境に東側を関西支社が、西側を中国支社が管轄している。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果」(兵庫県ホームページ)・「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
※平成17年度の岩国IC - 玖珂IC間は調査当時、土砂崩れにより長期通行止めだったためデータなし。また、この関係で広島JCT - 山口JCTの区間を中心に大幅に交通量が少なくなっている。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果」(兵庫県ホームページ)・「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年度 区間別日平均交通量
本線(神戸JCT - 廿日市JCT)
本線(大竹JCT - 山口JCT)
木見支線(三木JCT - 神戸西IC)
倉敷早島支線(倉敷JCT - 早島IC)
宇部下関線(宇部JCT - 下関JCT)
|
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"text": "2023年(令和5年)9月5日に播磨JCT - 赤穂ICの間にある尼子山トンネルで大型トラックが炎上し、脇を通り抜けようとしていた後続車がブレーキをかけるなどして車9台が絡む追突事故が相次いで発生し、最終的に23台が焼け鎮火に40時間を要する惨事となった(尼子山トンネル多重衝突炎上事故)。上下線の龍野西IC - 赤穂IC間で通行止となっていたが、同月11日に上り線(神戸方面)は再開された。しかし、下り線(岡山・広島方面)に関してはトンネルの損傷が甚大であり復旧までの見通しが立っておらず、播磨JCT - 赤穂IC(下り線)について長期通行止を余儀なくされている。通行止に伴い迂回路となる国道2号線(特に相生市・赤穂市内)の混雑が激しくなっている事から、NEXCO西日本では中国自動車道と播磨自動車道・岡山自動車道などを利用した広域迂回を呼び掛けている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "国土開発幹線自動車道建設法に基づく、国土開発幹線自動車道(国幹道)としての山陽自動車道は以下のとおりとされている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "高速自動車国道の路線を指定する政令に基づく、高速自動車国道としての山陽自動車道は、以下の2路線からなる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "これらについて、営業中路線の道路名に区分すると以下のようになる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、上記の他に本州四国連絡道路への接続路線として以下の2つの支線が存在する。これらも営業上は「山陽自動車道」の道路名で案内される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "なお、木見支線の「木見」は、神戸西IC付近の地名である神戸市西区押部谷町木見に由来している。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "さらに、吹田山口線と宇部下関線の間(山口市 - 宇部市)間を結ぶ、山陽自動車道に並行する自動車専用道路として",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "が存在する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "以下では、特記がない場合は道路名としての山陽自動車道の区間について述べる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "山陽自動車道は全区間を通して交通量が多いため、富海PA、周防灘PAを除くすべてのサービスエリア、パーキングエリアに売店がある。また、すべてのサービスエリアにガソリンスタンドがあり、福山SA上り、佐波川SAを除くすべてのサービスエリアにレストランが設置されている。",
"title": "路線状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ガソリンスタンドは佐波川SA下りを除き全て24時間営業。なお、給油所があるパーキングエリアはない。サービスエリアは全て24時間営業。パーキングエリアでも24時間営業を行っているエリアが何ヶ所か存在する。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が西日本高速道路の管轄となっており、備前ICを境に東側を関西支社が、西側を中国支社が管轄している。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(出典:「道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果」(兵庫県ホームページ)・「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "※平成17年度の岩国IC - 玖珂IC間は調査当時、土砂崩れにより長期通行止めだったためデータなし。また、この関係で広島JCT - 山口JCTの区間を中心に大幅に交通量が少なくなっている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "(出典:「道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果」(兵庫県ホームページ)・「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "(出典:「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
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"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "(出典:「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "2002年度 区間別日平均交通量",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "本線(神戸JCT - 廿日市JCT)",
"title": "地理"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "本線(大竹JCT - 山口JCT)",
"title": "地理"
},
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"text": "木見支線(三木JCT - 神戸西IC)",
"title": "地理"
},
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"text": "倉敷早島支線(倉敷JCT - 早島IC)",
"title": "地理"
},
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "宇部下関線(宇部JCT - 下関JCT)",
"title": "地理"
}
] |
山陽自動車道は、兵庫県神戸市北区を起点に、岡山県、広島県を経由して山口県の下関市へと至る高速道路(高速自動車国道)。略称は山陽道(さんようどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、広島岩国道路・小郡道路・山口宇部道路とともに「E2」が割り振られている。
|
{{Infobox_road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[画像:SANYO EXP(E2).svg|130px|山陽自動車道]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道
|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]]
|地図画像 = {{Highway system OSM map|frame-lat=34.65|frame-long=133.13|frame-width=300|frame-height=200|zoom=6|length=|plain=yes|stroke-width=3}}
|総距離 = 460.9 [[キロメートル|km]]<br /> 419.5 km(本線)<br /> {{00}}9.4 km(木見支線)<br /> {{00}}3.3 km(倉敷早島支線)<br /> {{0}}28.6 km(宇部下関線)
|開通年 = [[1982年]]([[昭和]]57年) - [[2001年]]([[平成]]13年)
|起点 = [[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]]([[神戸ジャンクション|神戸JCT]])
|主な経由都市 = [[加古川市]]、[[姫路市]]、[[たつの市]]、[[相生市]]、[[赤穂市]]<br />[[赤磐市]]、[[備前市]]、[[和気町]]、[[岡山市]]、[[倉敷市]]、[[浅口市]]、[[笠岡市]]<br />[[福山市]]、[[尾道市]]、[[三原市]]、[[東広島市]]、[[広島市]]、[[廿日市市]]<br />[[岩国市]]、[[周南市]]、[[防府市]]、[[山口市]]、[[宇部市]]
|終点 = [[下関市]]([[下関ジャンクション|下関JCT]])
|接続する主な道路 = 記事参照
}}
'''山陽自動車道'''(さんようじどうしゃどう、{{lang-en|SANYO EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[兵庫県]][[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]]を起点に、[[岡山県]]、[[広島県]]を[[経由]]して[[山口県]]の[[下関市]]へと至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''山陽道'''(さんようどう)。
[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[広島岩国道路]]・[[小郡道路]]・[[山口宇部道路]]([[嘉川インターチェンジ]] (IC) - [[宇部ジャンクション]] (JCT) 間)とともに「'''E2'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html |title=高速道路ナンバリング一覧 |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-02-26}}</ref>。
== 概要 ==
[[1997年]](平成9年)[[12月10日]]に全線開通した本線(神戸JCT - 山口JCT)のほかに木見支線(三木JCT - 神戸西IC)、倉敷早島支線(倉敷JCT - 早島IC)、宇部下関線(宇部JCT - 下関JCT)が開通している。本線は[[アジアハイウェイ1号線]]「AH1」の一部である。
[[山陽地方]]を東西に貫く高速道路であり、[[瀬戸内海]]沿いを走るが、全般的に海岸線よりやや内陸寄りを走っているため、海の見える区間は少ない{{Efn|玉島IC - 鴨方IC間、五日市IC - 廿日市JCT間、大野IC - 大竹IC間(広島岩国道路)、徳山西IC - 防府東IC間、防府西IC - 山口南IC間、小野田IC - 埴生IC間など}}。路線の大半は[[山陽新幹線]]と並行している。また全線が[[国道2号]]および[[山陽道#道(みち)としての山陽道|旧山陽道]]の路線にほぼ沿って造られている(ただし神戸市 - 姫路市にかけては内陸部を通過しており、国道2号からやや離れている)。
山陽自動車道は先行して開通した[[中国自動車道]]に比べ計画〜着工の時期が10年以上も遅れたため、その間の道路建設技術の向上もあって急勾配や極端に半径の小さい急カーブは極力抑えられている。平地が比較的少ない山陽地方西部を中心に、山地部区間などでは高架橋や距離の長いトンネルが連続する。このような区間では建設費抑制の観点から、路肩部分の幅を1.25[[メートル]] (m) {{efn|四輪車両の車幅に満たないため、路肩停車時の危険性が非常に高い。これは尼子山トンネル多重衝突炎上事故によって現実のものとなった。}}に抑えたため、良好な道路線形ではあっても[[最高速度]]が80 [[キロメートル毎時|km/h]]に抑制されている(詳細は後述)。一方で、平野部の大半区間では低コストな[[盛土]]や[[切り通し]]で建設され、路肩幅が十分 (2.5 m) 確保されたこともあって、最高速度100 [[キロメートル毎時|km/h]]で走行できる。そのため、最高速度が吹田JCT - 宝塚ICを除く全線で80 km/h以下に抑えられている中国道よりも走りやすく、山陽道の全線開通に伴い、利用車が中国道から山陽道に移行している。
{{Maplink2|type=line|type2=line|frame=yes|id=Q1091207|id2=Q7413195|frame-lat=34.528|frame-long=133.249|frame-align=center|frame-width=1000|frame-height=350|zoom=8|stroke-color2=#ff0000|stroke-color=#0000FF|stroke-width=4|stroke-width2=4|title=中国自動車道|title2=山陽自動車道(各支線を含む)|text=赤色が山陽自動車道、青色が中国自動車道。どちらも中国地方を東西に貫いている。}}
[[ファイル:Kurumi Mikicity hyogopref Sanyo Expressway.JPG|220px|thumb|兵庫県三木市久留美<br />三木サービスエリア付近]]
廿日市JCTと大竹JCTの間は厳密には山陽道ではなく、[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|山陽自動車道に並行する国道2号自動車専用道路]]の[[広島岩国道路]]であるが、山陽自動車道本線と一体的に運用されている。{{要出典範囲|なお、広島岩国道路建設における裁判において、国はこの区間に山陽道を別路線として建設すると明言したが現時点で建設される予定はなく、計画は事実上消滅している|date=2022年11月}}。また、道路公団民営化の過程で[[全国路線網]]になり償還期限が30年以上延長されたにもかかわらず、距離料金単価は山陽道本線の1.6倍に据え置かれているため、沿線からは不満の声があがっている。
宇部下関線は[[2001年]](平成13年)[[3月11日]]に開通した。全区間[[暫定2車線]]のため最高速度70 km/hに規制されている。これと同時に[[小郡道路]]([[山口南インターチェンジ|山口南IC]] - [[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]]、国道2号自動車専用道路・無料区間)と[[山口宇部道路]](嘉川IC - 宇部JCT、[[山口県道6号山口宇部線|主要地方道山口宇部線]])が並行路線に指定され、国幹道法に基づく高規格幹線道路としての山陽自動車道のネットワークは完成した。しかし小郡道路・山口宇部道路でつながっている山口南IC - 宇部JCTは[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で指定されていない予定路線区間となっており、山陽道としての基本計画は出されていない。
[[2023年]](令和5年)9月5日に[[播磨ジャンクション|播磨JCT]] - 赤穂ICの間にある尼子山トンネルで大型トラックが炎上し、脇を通り抜けようとしていた後続車がブレーキをかけるなどして車9台が絡む追突事故が相次いで発生し、最終的に23台が焼け鎮火に40時間を要する惨事となった(尼子山トンネル多重衝突炎上事故)。上下線の龍野西IC - 赤穂IC間で通行止となっていたが、同月11日に上り線(神戸方面)の通行止は解除された<ref>{{Cite web|和書|title=山陽道のトンネル火災 上り線のみ通行止め解除 下り線は損傷甚大のため「相当な期間がかかる」(ABCニュース) |url=https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_21776.html |website=ABCニュース |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref>。しかし、下り線(岡山・広島方面)に関してはトンネルの損傷が甚大であり復旧までの見通しが立っておらず、播磨JCT - 赤穂IC(下り線)について長期通行止を余儀なくされていた。通行止に伴い迂回路となる[[国道2号]](特に[[相生市]]・[[赤穂市]]内)の混雑が激しくなっていることから、NEXCO西日本では中国自動車道と[[播磨自動車道]]・[[岡山自動車道]]などを利用した広域迂回を呼び掛けていた<ref>{{PDFlink|[https://www.w-nexco.co.jp/sanyo_fire_closure/pdfs/ukai_coupon.pdf E2山陽自動車道トンネル内火災事故に伴う E2A中国自動車道への広域う回のお願いについて 〜NEXCO西日本における広域う回に向けた更なる取り組み〜] - 西日本高速道路株式会社 2023年9月27日}}</ref><ref>[https://www.w-nexco.co.jp/sanyo_fire_closure/ E2山陽自動車道 播磨JCT〜赤穂IC間(下り線)トンネル火災通行止めに伴う広域う回のお願い] - NEXCO 西日本</ref>。
2023年(令和5年)[[12月15日]]、復旧作業完了に伴い播磨JCT - 赤穂IC(下り線)の通行止が102日ぶりに解除された<ref name="press20231215">{{Cite web|url=https://www.w-nexco.co.jp/emc/emcpdfs/20231215105824-01.pdf|title=E2山陽自動車道 播磨JCT〜赤穂IC間 下り線(岡山方面)の通行止めを解除しました 〜復旧作業へのご理解とご協力をいただきまして誠にありがとうございました〜|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-16|publisher=西日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite news|title=山陽道播磨JCT-赤穂ICの通行止め、102日ぶり解除 9月尼子山トンネル内で火災、乗用車など23台焼く|newspaper=[[神戸新聞]]|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-16|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/society/202312/0017132937.shtml}}</ref>。
=== 路線名・道路名 ===
==== 国土開発幹線自動車道 ====
国土開発幹線自動車道建設法に基づく、[[国土開発幹線自動車道]](国幹道)としての山陽自動車道は以下のとおりとされている。
{| class="wikitable"
|-
! 起点
! 主たる経過地
! 終点
|-
| [[吹田市]]
| [[神戸市]]付近 [[姫路市]]付近 [[岡山市]]付近 [[広島市]] [[岩国市]]付近 [[山口市]] [[宇部市]]付近
| [[下関市]]
|}
==== 高速自動車国道 ====
[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]に基づく、[[高速自動車国道]]としての山陽自動車道は、以下の2路線からなる。<!--法令に基づく記述のため、すべての市町を網羅しているとは限りません-->
{| class="wikitable"
|-
! 路線名
! 起点
! 重要な経過地
! 終点
|-
| style="white-space:nowrap" | 吹田山口線
| style="white-space:nowrap" | [[吹田市]]
| [[豊中市]] [[池田市]] [[川西市]] [[伊丹市]] [[宝塚市]] [[西宮市]] [[神戸市]] [[三木市]] [[加古川市]] [[姫路市]] [[たつの市]] [[相生市]] [[赤穂市]] [[備前市]] [[赤磐市]] [[岡山市]] [[倉敷市]] [[浅口市]] [[笠岡市]] [[福山市]] [[尾道市]] [[三原市]] [[竹原市]] [[東広島市]] [[広島市]] [[廿日市市]] [[大竹市]] [[岩国市]] [[下松市]] [[周南市]] [[防府市]]
| style="white-space:nowrap" | [[山口市]]
|-
| style="white-space:nowrap" | 宇部下関線
| style="white-space:nowrap" | [[宇部市]]
| [[山陽小野田市]]
| style="white-space:nowrap" | [[下関市]]
|}
これらについて、営業中路線の道路名に区分すると以下のようになる。
{| class="wikitable"
! 路線名 !! 道路名 !! 区間 !! 備考
|-
| rowspan="4" style="text-align:center;" | 吹田山口線
| {{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]] || [[吹田ジャンクション|吹田JCT]] - [[神戸ジャンクション|神戸JCT]] || [[中国縦貫自動車道]]との重複区間
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E2}} '''山陽自動車道''' || 神戸JCT - [[廿日市ジャンクション|廿日市JCT]] ||
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]] || 廿日市JCT - [[大竹ジャンクション|大竹JCT]] || [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|山陽自動車道に並行する自動車専用道路]]
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E2}} '''山陽自動車道''' || 大竹JCT - [[山口ジャンクション|山口JCT]] ||
|-
| style="text-align:center;" | 宇部下関線
| {{Ja Exp Route Sign|E2}} '''山陽自動車道''' || 宇部JCT - [[下関ジャンクション|下関JCT]] ||
|}
また、上記の他に[[本州四国連絡道路]]への接続路線として以下の2つの支線が存在する。これらも営業上は「山陽自動車道」の道路名で案内される。
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} 木見支線 : [[三木ジャンクション|三木JCT]] - [[神戸西インターチェンジ|神戸西IC]]
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} 倉敷早島支線 : [[倉敷ジャンクション|倉敷JCT]] - [[早島インターチェンジ|早島IC]]
なお、木見支線の「木見」は、神戸西IC付近の地名である神戸市西区[[押部谷町木見]]に由来している。
さらに、吹田山口線と宇部下関線の間(山口市 - 宇部市)間を結ぶ、山陽自動車道に並行する自動車専用道路として
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[小郡道路]]:[[山口南インターチェンジ|山口南IC]] - [[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]]
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山口宇部道路]]:嘉川IC - [[宇部ジャンクション|宇部JCT]]
が存在する。
以下では、特記がない場合は道路名としての'''山陽自動車道'''の区間について述べる。
=== 規格 ===
* 道路構造令
** 第1種第2級(神戸JCT - 龍野西IC/SA・岡山IC - 福山西IC・広島東IC/JCT - 廿日市JCT・玖珂IC - 山口南IC・三木JCT - 神戸西IC・宇部JCT - 下関JCT)
** 第1種第3級(上記を除く区間)
* 設計速度
** 100 [[キロメートル毎時|km/h]](神戸JCT - 龍野西IC/SA・岡山IC - 福山西IC・広島東IC/JCT - 廿日市JCT・玖珂IC - 山口南IC・三木JCT - 神戸西IC・宇部JCT - 下関JCT)
** 80 km/h(上記を除く区間)
* 車線数 : 4車線(一部区間5 - 6車線区間あり、宇部下関線は[[暫定2車線]])
== インターチェンジなど ==
* IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。<br />施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市道]]。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
*: △はIC施設外に高速バス用のバス停があることを示す。(うち、[[岩国インターチェンジ|岩国IC]]には料金所外側のランプウェイ上に使用していないバス停がある)
*: [[高坂パーキングエリア|高坂PA]]の☆は高速バス同士の乗継専用のバス停で、高速道路外への出入りはできない。
* 英略字は以下の項目を示す。
*: IC:[[インターチェンジ]]、SIC:[[スマートインターチェンジ]]、JCT:[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、SA:[[サービスエリア]]、PA:[[パーキングエリア]]、TB:[[本線料金所]]、BS:[[バス停留所|バスストップ]]、TN:[[トンネル]]
=== 本線 ===
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green" colspan="2"|備考
!style="border-bottom:3px solid green" colspan="3"|所在地
|-
|style="text-align:center" colspan="10"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|[[神戸ジャンクション|神戸JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]]
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|rowspan="24" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[兵庫県]]}}
|rowspan="5" colspan="2"|[[神戸市]]<br />[[北区 (神戸市)|北区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[神戸北インターチェンジ#八多バスストップ|八多BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|2.4
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[神戸北インターチェンジ|神戸北IC]]
|[[六甲北有料道路]]
|style="text-align:right"|2.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[淡河パーキングエリア|淡河PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|7.2
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[淡河バスストップ|淡河BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|12.2
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|2
|[[三木ジャンクション|三木JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 '''[[#木見支線|木見支線]]'''<br />({{Ja Exp Route Sign|E28}} [[神戸淡路鳴門自動車道]]方面)
|style="text-align:right"|15.3
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|rowspan="6" colspan="2"|[[三木市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[志染バスストップ|志染BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|16.5
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[三木東インターチェンジ|三木東IC]]
|[[兵庫県道85号神戸加東線|県道85号神戸加東線]]
|style="text-align:right"|17.9
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[久留美バスストップ|久留美BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|23.0
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[三木サービスエリア|三木SA/<span style="background-color:#CCC">SIC]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|25.4
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|SICは2024年度供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.miki.lg.jp/soshiki/37/28176.html|title=(仮称)三木スマートインターチェンジの連結許可(事業化)について|date=2020-10-23|accessdate=2021-01-18|publisher=三木市}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[三木小野インターチェンジ|三木小野IC]]
|[[国道175号]]([[国道175号#バイパス|三木バイパス]])
|style="text-align:right"|27.6
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[小野バスストップ (兵庫県)|小野BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|30.0
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[小野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[権現湖パーキングエリア|権現湖PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|36.0<br />36.5
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|上り線 神戸・大阪方面<br />下り線 岡山方面
|rowspan="2" colspan="2"|[[加古川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|5
|[[加古川北インターチェンジ|加古川北IC]]
|[[兵庫県道723号加古川北インター線|県道723号加古川北インター線]]<br />[[兵庫県道43号高砂北条線|県道43号高砂北条線]](県道723号経由)
|style="text-align:right"|41.1
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[飾東バスストップ|飾東BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|46.3
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|rowspan="4" colspan="2"|[[姫路市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[山陽姫路東インターチェンジ|山陽姫路東IC]]
|[[国道372号]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E95}} [[播但連絡道路]]
|style="text-align:right"|49.7
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|播但連絡道路のIC番号は3
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[白鳥パーキングエリア|白鳥PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|60.5<br />61.5
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|上り線 神戸方面<br />下り線 岡山方面
|-
!style="background-color:#BFB"|7
|[[山陽姫路西インターチェンジ|山陽姫路西IC]]
|[[国道29号]]<br />([[姫路西バイパス]])([[姫路北バイパス]])
|style="text-align:right"|62.6
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[龍野インターチェンジ|龍野IC]]
|[[兵庫県道29号網干たつの線|県道29号網干たつの線]]
|style="text-align:right"|69.2
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|rowspan="4" colspan="2"|[[たつの市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|9
|[[龍野西インターチェンジ|龍野西IC]]
|[[兵庫県道93号竜野西インター線|県道93号竜野西インター線]]<br />[[兵庫県道121号たつの相生線|県道121号たつの相生線]]
|style="text-align:right"|73.7
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|ICから龍野西SAの利用不可
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[龍野西サービスエリア|龍野西SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|73.9
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|9-1
|[[播磨ジャンクション|播磨JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E29}} [[播磨自動車道]]
|style="text-align:right"|75.1
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[相生バスストップ|相生BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|78.1
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[相生市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|[[赤穂インターチェンジ|赤穂IC]]
|[[岡山県道・兵庫県道96号岡山赤穂線|県道96号岡山赤穂線]]
|style="text-align:right"|88.3
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[赤穂市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[福石パーキングエリア|福石PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|95.1
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|style="width:1em;text-align:center;" rowspan="16"|{{縦書き|[[岡山県]]}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[備前市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|[[備前インターチェンジ (山陽自動車道)|備前IC]]
|[[国道2号]]
|style="text-align:right"|98.8
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|[[岡山ブルーライン]]に接続
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[和気インターチェンジ|和気IC]]
|[[国道374号]]
|style="text-align:right"|109.1
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[和気郡]]<br />[[和気町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[瀬戸パーキングエリア|瀬戸PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|116.8<br />117.6
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|上り線 神戸方面<br />下り線 広島・坂出方面
|rowspan="2" colspan="2"|[[岡山市]]<br />[[東区 (岡山市)|東区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12-1
|style="background-color:#CCC"|[[瀬戸ジャンクション (岡山県)|瀬戸JCT]]
|style="background-color:#CCC"|[[美作岡山道路]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.okayama.jp/page/410204.html |title=岡山県が実施している道路改築事業(美作岡山道路) |publisher=岡山県 |accessdate=2017-07-21}}</ref>(事業中)
|style="background-color:#CCC; text-align:right"|
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="background-color:#CCC" colspan="2"|事業中
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[山陽インターチェンジ|山陽IC]]
|[[岡山県道37号西大寺山陽線|県道37号西大寺山陽線]]
|style="text-align:right"|123.2
|style="text-align:center"|△
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[赤磐市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|14
|[[岡山インターチェンジ|岡山IC]]
|[[国道53号]]([[岡山北バイパス]])
|style="text-align:right"|136.8
|style="text-align:center"|△
|colspan="2"|
|rowspan="3" colspan="2"|岡山市<br />[[北区 (岡山市)|北区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|14-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[吉備サービスエリア|吉備SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[岡山県道238号上芳賀岡山線|県道238号上芳賀岡山線]](市道経由)<br />[[岡山県道61号妹尾御津線|県道61号妹尾御津線]](市道経由)
|style="text-align:right"|138.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"| スマートICは6時 - 22時
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|[[岡山ジャンクション|岡山JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E73}} [[岡山自動車道]]
|style="text-align:right"|143.9
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[倉敷ジャンクション|倉敷JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 '''[[#倉敷早島支線|倉敷早島支線]]'''<br />({{Ja Exp Route Sign|E30}} [[瀬戸中央自動車道]]方面)
|style="text-align:right"|150.3
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|rowspan="4" colspan="2"|[[倉敷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[倉敷インターチェンジ|倉敷IC]]
|[[国道429号]]
|style="text-align:right"|152.4
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[玉島インターチェンジ|玉島IC]]
|[[岡山県道54号倉敷美袋線|県道54号倉敷美袋線]]<br />国道2号([[玉島バイパス]])(県道54号経由)
|style="text-align:right"|161.9
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[道口パーキングエリア|道口PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|166.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|19
|[[鴨方インターチェンジ|鴨方IC]]
|[[岡山県道155号鴨方矢掛線|県道155号鴨方矢掛線]]
|style="text-align:right"|171.9
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[浅口市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[笠岡インターチェンジ|笠岡IC]]
|[[岡山県道34号笠岡井原線|県道34号笠岡井原線]]
|style="text-align:right"|180.1
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|rowspan="2" colspan="2"|[[笠岡市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[篠坂パーキングエリア|篠坂PA/<span style="background-color:#CCC">SIC]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|185.4
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|SICは2025年度供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanyonews.jp/article/1064686|title=笠岡・篠坂PAにスマートIC 国交省が新設許可 25年度開始へ|date=2020-10-23|accessdate=2020-12-13|publisher=山陽新聞}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[福山東インターチェンジ|福山東IC]]/[[救急車緊急退出路]]
|[[国道182号]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[福山環状道路]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/98/fukuyama-loop-road.html |title=福山環状道路 |publisher=広島県 |accessdate=2017-07-22}}</ref><ref name="hiroshima_road">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/1171509431591.html |title=地域高規格道路の整備 |publisher=広島県 |accessdate=2017-07-27}}</ref>([[地域高規格道路#路線指定|計画路線]])</span>
|style="text-align:right"|191.7
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|[[福山市民病院]]に接続
| rowspan="30" style="width:1em;text-align:center;" |{{縦書き|[[広島県]]}}
|rowspan="5" colspan="2"|[[福山市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[千田バスストップ|千田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|194.4
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|21-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[福山サービスエリア|福山SA/SIC]]<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-11 |url=http://www.cgr.mlit.go.jp/kisha/2013june/130611top4.pdf |title=インターチェンジの追加設置について |format=PDF |publisher=国土交通省 中国地方整備局 |accessdate=2017-07-24}}</ref>
|style="background-color:#eda5ff"|[[広島県道463号津之郷山守線|県道463号津之郷山守線]](市道経由)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/uploaded/attachment/4887.pdf |title=(仮称)福山SAスマートIC |format=PDF |publisher=福山市 |page=6 |accessdate=2017-07-24}}</ref>
|style="text-align:right"|200.3<br />200.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|スマートICは6時 - 22時<br />KPは上段 上り線、下段 下り線
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[福山本郷バスストップ|福山本郷BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|207.6
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|22
|[[福山西インターチェンジ|福山西IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E76}} [[尾道福山自動車道]]<br />国道2号([[松永道路]])
|style="text-align:right"|208.7
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|22-1
|[[尾道ジャンクション|尾道JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E54}} [[尾道自動車道]]<br /><span style="background-color:#CCC">{{Ja Exp Route Sign|E76}} [[西瀬戸自動車道]]<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03 |url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/219654.pdf |title=将来の広域道路ネットワーク |format=PDF |publisher=広島県 |accessdate=2017-07-24}}</ref></span>
|style="text-align:right"|213.0
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|rowspan="2" colspan="2"|[[尾道市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|23
|[[尾道インターチェンジ|尾道IC]]
|[[国道184号]]
|style="text-align:right"|214.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[八幡パーキングエリア|八幡PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|222.3<br />222.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|下り線 広島・北九州方面<br />上り線 岡山方面
|rowspan="4" colspan="2"|[[三原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[三原久井インターチェンジ|三原久井IC]]
|[[国道486号]]<br />[[広島県道25号三原東城線|県道25号三原東城線]]
|style="text-align:right"|227.2
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高坂パーキングエリア|高坂PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|231.3
|style="text-align:center"|☆
|colspan="2"|BSは乗継専用
|-
!style="background-color:#BFB"|24-1
|[[本郷インターチェンジ (広島県)|本郷IC]]
|[[広島県道82号広島空港本郷線|県道82号広島空港本郷線]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[福山本郷道路]]<ref name="hiroshima_road" /><ref name="hiroshima_road_map">{{Cite web|和書|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/kisha/2005mar/050325top2_19.pdf |title=広島県地域高規格道路指定路線図 |format=PDF |publisher=広島県 |accessdate=2017-07-27}}</ref>(計画路線)</span>
|style="text-align:right"|238.4
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|25
|[[河内インターチェンジ|河内IC]]
|[[国道432号]]<br />[[広島県道73号広島空港線|県道73号広島空港線]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[広島中央フライトロード]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/flightroad.html |title=広島中央フライトロード |publisher=広島市 |accessdate=2017-08-01}}</ref></span>
|style="text-align:right"|246.7
|style="text-align:center"|△
|colspan="2"|
|rowspan="7" colspan="2"|[[東広島市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[小谷サービスエリア|小谷SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|249.7<br />250.0
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|下り線 広島・北九州方面<br />上り線 福山・岡山方面
|-
!style="background-color:#BFB"|25-1
|[[高屋ジャンクション|高屋JCT/IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E75}} [[東広島呉自動車道]]<br />[[東広島高田道路]]
|style="text-align:right"|252.6
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|26
|[[西条インターチェンジ|西条IC]]
|[[国道375号]]([[御薗宇バイパス]])<br />[[広島県道59号東広島本郷忠海線|県道59号東広島本郷忠海線]]
|style="text-align:right"|257.8
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[八本松スマートインターチェンジ|八本松SIC]]
|style="background-color:#CCC"|
|style="background-color:#CCC"|262.4
|style="background-color:#CCC"|
|style="background-color:#CCC" colspan="2"|事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001369141.pdf|title=高速道路会社への事業許可およびスマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2020-10-23|accessdate=2020-10-23|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><br />2026年度末までに開設予定<ref name="press20210804">{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/110936 |title=東広島「八本松IC」開設へ始動 スマート方式、26年度末目指す|date=2021-08-04|accessdate=2022-10-01|publisher=中国新聞社}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|27
|[[志和インターチェンジ|志和IC]]
|[[広島県道83号志和インター線|県道83号志和インター線]]
|style="text-align:right"|268.7
|style="text-align:center"|◆
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[奥屋パーキングエリア|奥屋PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|270.9
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|28<br />28-1
|[[広島東インターチェンジ|広島東IC]]
|[[ファイル:Japanese Urban Expwy Sign 0001.svg|26px]] [[広島高速1号線]]<br />[[広島県道70号広島中島線|県道70号広島中島線]]
|style="text-align:right"|279.3
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|IC番号28-1は都市高速広島東IC
| rowspan="7" style="width:1em;text-align:center;" |{{縦書き|[[広島市]]}}
|[[東区 (広島市)|東区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|高陽SIC
|style="background-color:#CCC"|
|style="background-color:#CCC"|282.3
|style="background-color:#CCC"|
|style="background-color:#CCC" colspan="2"|準備段階調査<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-09|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=高陽スマートIC、本当に必要なの? 広島市が新設要望、その狙いは {{!}} 中国新聞デジタル |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/294260 |website=高陽スマートIC、本当に必要なの? 広島市が新設要望、その狙いは {{!}} 中国新聞デジタル |access-date=2023-04-15 |language=ja}}</ref>
|rowspan="1" style="white-space:nowrap;"|[[安佐北区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29
|[[広島インターチェンジ|広島IC]]
|[[国道54号]]([[祇園新道]])<br /><span style="background-color:#CCC">[[広島北道路]]<ref name="hiroshima_road" /><ref name="hiroshima_road_map" />(候補路線)</span>
|style="text-align:right"|285.6
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[安佐南区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[沼田パーキングエリア|沼田PA/SIC]]<ref name="numata_sic">{{Cite web|和書|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1491358663644/ |title=沼田スマートインターチェンジ(仮称)の整備 |publisher=広島市 |accessdate=2017-07-31}}</ref>
|style="background-color:#eda5ff"|市道安佐南4区431号線
|style="text-align:right"|291.2
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|30
|[[広島ジャンクション|広島JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E74}} [[広島自動車道]]
|style="text-align:right"|293.1
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|JCT(名称未定)
|style="background-color:#CCC"|[[ファイル:Japanese Urban Expwy Sign 0004.svg|26px]] [[広島高速4号線]](計画路線)
|style="background-color:#CCC"|
|style="background-color:#CCC"|
|colspan="2" style="background-color:#CCC"|計画中<ref>{{Cite news|title=広島高速4号と山陽道接続 市、2022年度本格着手へ|newspaper=中国新聞|date=2022-01-31|accessdate=2022-05-14|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/115171}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|31
|[[五日市インターチェンジ|五日市IC]]</span>
|[[広島県道71号広島湯来線|県道71号広島湯来線]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[草津沼田道路]]<ref name="hiroshima_road" /><ref name="hiroshima_road_map" />(計画路線)
|style="text-align:right"|296.0
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|[[佐伯区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|31-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[宮島サービスエリア|宮島SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[国道433号]](市道経由)
|style="text-align:right"|306.2
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|rowspan="3" colspan="2"|[[廿日市市]]
|-
!style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|32<br>{{efn|IC番号'''32-1'''は広島岩国道路の[[廿日市インターチェンジ|廿日市IC]]。}}
|[[廿日市ジャンクション|廿日市JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]]
|style="text-align:right"|310.3
|style="text-align:center"|-
|style="width:8em"|
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|{{Ja Exp Route Sign|E2}} 広島岩国道路
|-
!style="background-color:#BFB"|32-2
|[[大野インターチェンジ (広島県)|大野IC]]
|[[広島県道289号栗谷大野線|県道289号栗谷大野線]]
|style="text-align:right"|315.0
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32-3
|[[大竹インターチェンジ|大竹IC]]
|国道2号(現道)
|style="text-align:right"|323.3
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[大竹市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|33
|[[大竹ジャンクション|大竹JCT<br /><span style="background-color:#CCC">大竹西IC]]</span>
|<span style="background-color:#CCC">国道2号 [[岩国大竹道路]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.iwakuni.lg.jp/soshiki/44/2851.html |title=岩国大竹道路の概要 |publisher=岩国市 |accessdate=2017-07-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/yamaguchi/gaiyou/pdf/iwakuni.pdf |title=一般国道2号岩国・大竹道路 |publisher=国土交通省 中国地方整備局 山口河川国道事務所 |accessdate=2017-08-08}}</ref>(事業中)</span>
|style="text-align:right"|324.0
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34
|[[岩国インターチェンジ|岩国IC]]
|国道2号<br />[[山口県道・広島県道1号岩国大竹線|県道1号岩国大竹線]]
|style="text-align:right"|332.6
|style="text-align:center"|△
|colspan="2"|
|style="width:1em;text-align:center;" rowspan="13"|{{縦書き|[[山口県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[岩国市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[玖珂パーキングエリア|玖珂PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|344.2
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|35
|[[玖珂インターチェンジ|玖珂IC]]
|[[山口県道70号柳井玖珂線|県道70号柳井玖珂線]]
|style="text-align:right"|346.7
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|36
|[[熊毛インターチェンジ|熊毛IC]]
|[[山口県道8号徳山光線|県道8号徳山光線]]
|style="text-align:right"|358.9
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[周南市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[下松サービスエリア|下松SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|364.8
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|colspan="2"|[[下松市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|37
|[[徳山東インターチェンジ|徳山東IC]]
|国道2号([[周南バイパス]])
|style="text-align:right"|370.7
|style="text-align:center"|○
|colspan="2"|
|rowspan="2" colspan="2"|周南市
|-
!style="background-color:#BFB"|38
|[[徳山西インターチェンジ|徳山西IC]]
|国道2号
|style="text-align:right"|388.8
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[富海パーキングエリア|富海PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|392.3
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|rowspan="4" colspan="2"|[[防府市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|39
|[[防府東インターチェンジ|防府東IC]]
|rowspan="2"|国道2号([[防府バイパス]])
|style="text-align:right"|401.3
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|大竹JCT方面出入口
|-
!style="background-color:#BFB"|40
|[[防府西インターチェンジ|防府西IC]]
|style="text-align:right"|404.6
|style="text-align:center"|△
|colspan="2"|山口JCT方面出入口
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[佐波川サービスエリア|佐波川SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|407.2<br />407.5
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|上り線 広島方面<br />下り線 北九州方面
|-
!style="background-color:#BFB"|41
|[[山口南インターチェンジ|山口南IC]]
|国道2号<br />{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[小郡道路]]
|style="text-align:right"|413.3
|style="text-align:center"|
|colspan="2"|
|rowspan="2" colspan="2"|[[山口市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|33
|[[山口ジャンクション|山口JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}} 中国自動車道
|style="text-align:right"|418.7
|style="text-align:center"|-
|colspan="2"|キロポストは419.5KPまで{{efn|下り線は419.4KPまで}}
|-
|}
=== 木見支線 ===
* 全区間[[兵庫県]]内に所在。
* キロポストの数字の前には「神」がついている。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB"|2
|[[三木ジャンクション|三木JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} '''[[#本線|本線]]'''
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|キロポストは0.4KPから
|style="white-space:nowrap;"|[[三木市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[神戸西本線料金所|神戸西TB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|9.5
|style="text-align:center"|-
|キロポストは9.5KPまで<br />三木JCT方面のみ
|rowspan="2"|[[神戸市]]<br />[[西区 (神戸市)|西区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[神戸西インターチェンジ|神戸西IC]]
|[[兵庫県道22号神戸三木線|県道22号神戸三木線]]
|style="text-align:right"|9.7
|style="text-align:center"|
|キロポストは9.5KPまで
|-
|style="text-align:center" colspan="7"|{{Ja Exp Route Sign|E28}} [[神戸淡路鳴門自動車道]]
|}
=== 倉敷早島支線 ===
* 全区間[[岡山県]]内に所在。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[倉敷ジャンクション|倉敷JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} '''[[#本線|本線]]'''
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|キロポストは0.4KPから
|style="white-space:nowrap;"|[[倉敷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[早島インターチェンジ|早島IC/TB]]
|[[国道2号]]([[岡山バイパス]])
|style="text-align:right"|3.3
|style="text-align:center"|◆
|TBは倉敷JCT方面のみ
|[[都窪郡]]<br />[[早島町]]
|-
|style="text-align:center" colspan="7"|{{Ja Exp Route Sign|E30}} [[瀬戸中央自動車道]]
|}
=== 宇部下関線 ===
* 全区間[[山口県]]内に所在。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB"|42
|[[宇部ジャンクション|宇部JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山口宇部道路]]
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="3"|[[宇部市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[宇部本線料金所|宇部TB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|2.9
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|43
|[[宇部インターチェンジ|宇部IC]]
|[[国道490号]]
|style="text-align:right"|3.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|44
|[[小野田インターチェンジ|小野田IC]]
|[[山口県道71号小野田山陽線|県道71号小野田山陽線]]
|style="text-align:right"|13.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[山陽小野田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[周防灘パーキングエリア|周防灘PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|20.6
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|45
|[[埴生インターチェンジ|埴生IC]]
|[[国道2号]]([[厚狭・埴生バイパス]])
|style="text-align:right"|22.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|35-2
|[[下関ジャンクション|下関JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]]
|style="text-align:right"|28.1
|style="text-align:center"|-
|キロポストは28.6KPまで
|[[下関市]]
|-
|}
== 歴史 ==
* [[1982年]]([[昭和]]57年)[[3月30日]] : 竜野西IC(現:龍野西IC)- 備前ICが開通。
* [[1985年]](昭和60年)3月20日 : 広島JCT - 五日市ICが開通。
* [[1986年]](昭和61年)[[3月27日]] : 徳山西IC - 防府東ICが開通。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[2月26日]] : 五日市IC - 廿日市JCTと広島岩国道路の廿日市IC - 廿日市JCTが開通。
** [[3月24日]] : 志和IC - 広島東ICが開通。
** [[12月4日]] : 防府東IC - 山口JCTが開通。
** [[12月10日]] : 広島岩国道路の廿日市JCT - 大野ICが開通。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月1日]] : 倉敷JCT - 福山東IC、倉敷早島支線の倉敷JCT - 早島ICが開通。
** [[3月25日]] : 広島東IC - 広島ICが開通。
** [[3月29日]] : 広島岩国道路の大竹IC - 大竹JCTと大竹JCT - 岩国ICが開通。
** [[7月27日]] : 西条IC - 志和ICが開通<ref name="open">{{Cite web|和書|url=http://corp.w-nexco.co.jp/activity/branch/chugoku/history/|title=中国支社の歴史(あゆみ)|publisher=西日本高速道路株式会社|accessdate=2017-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816145131/http://corp.w-nexco.co.jp/activity/branch/chugoku/history/|archivedate=2016年8月16日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
** [[12月7日]] : 広島IC - 広島JCTが開通。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 3月30日 : 徳山東IC - 徳山西ICが開通。
** [[7月31日]] : 山陽姫路西IC - 竜野西IC(現:龍野西IC)が開通。
** [[11月27日]] : 広島岩国道路の大野IC - 大竹ICが開通。
** [[11月30日]] : 河内IC - 西条ICが開通。
** [[12月20日]] : 熊毛IC - 徳山東ICが開通。
* [[1991年]](平成3年)
** [[3月16日]] : 岡山JCT - 倉敷JCT、岡山総社支線(現:岡山自動車道)の岡山JCT - 岡山総社ICが開通。
** 3月20日 : 福山東IC - 福山西ICが開通。
** [[3月28日]] : 山陽姫路東IC - 山陽姫路西ICが開通。
* [[1992年]](平成4年)[[6月25日]] : 岩国IC - 熊毛ICが開通<ref>{{Cite news |title=岩国-熊毛が開通 山陽自動車道 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-07-01 |page=1 }}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[3月31日]] : 岡山IC - 岡山JCTが開通。
** [[10月26日]] : 福山西IC - 河内ICが開通。
** [[12月16日]] : 備前IC - 岡山ICが開通。これにより山陽姫路東IC以西の本線が全通し、播但連絡道路と合わせて中国自動車道のバイパスルートが形成された。
* [[1996年]](平成8年)[[11月14日]] : 神戸JCT - 三木小野ICが開通。
* [[1997年]](平成9年)
** [[3月15日]] : 岡山自動車道の岡山総社IC - 北房JCTの開通に伴い岡山総社支線の岡山JCT - 岡山総社ICを岡山自動車道に編入。
** [[12月10日]] : 三木小野IC - 山陽姫路東ICが開通し、'''本線が全線開通'''。
* [[1998年]](平成10年)[[4月5日]] : 木見支線の三木JCT - 神戸西ICが開通。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月11日]] : 宇部下関線の宇部JCT - 下関JCTが開通。中国自動車道から本線が山陽自動車道に直通するように改築。
** [[6月27日]] : 山口南ICがフルIC化。
* [[2003年]](平成15年)[[3月29日]] : 播磨JCTの供用により播磨自動車道と接続、同時に竜野から龍野に改称。
* [[2004年]](平成16年)[[4月23日]] : 富海PA開設。
* [[2005年]](平成17年)
** [[9月7日]] : [[平成17年台風第14号|台風14号]]の影響で岩国IC - 玖珂ICの340[[距離標|キロポスト]]付近で上り線の路面が50[[メートル]]にわたって土石流と一緒に流され通行止になる。
** [[12月1日]] : 岩国IC - 玖珂ICが復旧。
* [[2006年]](平成18年)[[10月16日]] : 広島東ICで広島高速1号線に接続。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]] : 吉備スマートIC開通。
* [[2008年]](平成20年)[[11月11日]] : 山口JCTがフルJCT化。中国自動車道大阪方面と接続。
* [[2009年]](平成21年)[[4月1日]] : 2008年(平成20年)3月2日より[[社会実験]]として設置されていた宮島SAスマートインターチェンジが恒久化<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/40/10834.html |title=宮島スマートインターチェンジ |publisher=廿日市市 |accessdate=2013-06-23}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月14日]] : 高屋JCT/ICの供用により東広島呉自動車道および東広島高田道路と接続。
** [[11月27日]] : 尾道JCTの供用により尾道自動車道と接続。
* [[2012年]](平成24年)[[3月28日]] : 山口宇部道路の無料開放に伴い宇部下関線に宇部TB新設。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月18日]] : 神戸JCTで新名神高速道路と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h30/0124/|title=E1A新名神高速道路(川西IC〜神戸JCT間)が平成30年3月18日(日曜)に開通します - 高槻JCT・IC〜神戸JCT間が全線開通します -|date=2018-01-24|accessdate=2018-01-24|publisher=西日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[3月21日]] : 沼田PAスマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/h30/0202a/|title=E2山陽自動車道 沼田PAスマートインターチェンジが平成30年3月21日(水曜・祝日)に開通します|date=2018-02-02|accessdate=2018-02-02|publisher=広島市・西日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[3月31日]] : 福山SAスマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/h30/0202/|title=E2山陽自動車道 福山SAスマートインターチェンジが平成30年3月31日(土曜)に開通します - 名称は『福山SAスマートインターチェンジ』に決定しました -|date=2018-02-02|accessdate=2018-02-02|publisher=福山市・西日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[9月5日]] : 赤穂IC - 播磨JCT間の尼子山トンネル下り線内でトラックが炎上し後続車が次々と追突、火災が発生し鎮火まで40時間以上を要し、車両23台とトンネル内壁や設備などを焼損。上下線の龍野西IC - 赤穂IC間で通行止め。([[#概要|概要]]欄を参照)
** [[9月11日]] : 龍野西IC - 赤穂IC間の上り線のみ通行止め解除<ref>{{Cite web|和書|title=山陽道のトンネル火災 上り線のみ通行止め解除 下り線は損傷甚大のため「相当な期間がかかる」(ABCニュース) |url=https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_21776.html |website=ABCニュース |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref>。
** [[12月15日]] : 尼子山トンネル下り線の復旧作業完了により、赤穂IC - 播磨JCT間の下り線通行止めが解除<ref name="press20231215" />。
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間||colspan="3" |[[車線]]||colspan="2" |[[最高速度]]||rowspan="2" |[[設計速度]]||rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
!style="width:90px" |[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
!colspan="8" |本線
|-
|神戸JCT - 神戸北IC||5||2||3||rowspan="15" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]||rowspan="2" |100 km/h<br />(法定)||rowspan="2" |100 km/h||
|-
|神戸北IC - 龍野西IC/SA||rowspan="3" |4||rowspan="3" |2||rowspan="3" |2||
|-
|龍野西IC/SA - 岡山IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
|岡山IC - 倉敷JCT||rowspan="3" |100 km/h <br />(法定)||rowspan="3" |100 km/h||
|-
|倉敷JCT - 倉敷IC||6||3||3||
|-
|倉敷IC - 福山西IC||rowspan="3" |4|| rowspan="3" |2||rowspan="3" |2||
|-
|福山西IC - 広島東IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
|広島東IC - 沼田PA||rowspan="5" |100 km/h<br />(法定)||rowspan="5" |100 km/h||
|-
|沼田PA - 広島JCT||6||3||3||
|-
|広島JCT||4||2||2||
|-
|広島JCT - 五日市IC||6||3||3||
|-
|五日市IC - 廿日市JCT||rowspan="4" |4||rowspan="4" |2||rowspan="4" |2||
|-
|廿日市JCT - 玖珂IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
|玖珂IC - 山口南IC||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
|山口南IC - 山口JCT||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
!colspan="8" |木見支線
|-
|三木JCT - 神戸西IC||4||2||2||80 km/h||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
!colspan="8" |倉敷早島支線
|-
|倉敷JCT - 早島IC||4||2||2||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
!colspan="8" |宇部下関線
|-
|宇部JCT - 下関JCT||2||1||1||colspan="2" |70 km/h<br />(指定)||100 km/h||※
|}
* ※ : [[暫定2車線]]
=== サービスエリア・パーキングエリア ===
山陽自動車道は全区間を通して交通量が多いため、富海PA、周防灘PAを除くすべての[[サービスエリア]]、[[パーキングエリア]]に売店がある。また、すべてのサービスエリアに[[ガソリンスタンド]]があり、福山SA上り、佐波川SAを除くすべてのサービスエリアに[[レストラン]]が設置されている。
ガソリンスタンドは佐波川SA下りを除き全て24時間営業。なお、給油所があるパーキングエリアはない。サービスエリアは全て24時間営業。パーキングエリアでも24時間営業を行っているエリアが何ヶ所か存在する。
=== 主なトンネルと橋 ===
==== 本線 ====
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|構造物名
!colspan="2"|長さ
|-
!上り線
!下り線
|-
|三木東IC - 三木PA
|平井トンネル
|style="text-align:right"|813 m
|style="text-align:right"|802 m
|-
|権現湖PA - 加古川北IC
|[[志方東・志方西トンネル#志方東トンネル|志方東トンネル]]
|style="text-align:right"|764 m
|style="text-align:right"|759 m
|-
|加古川北IC - 山陽姫路東IC
|[[志方東・志方西トンネル#志方西トンネル|志方西トンネル]]
|style="text-align:right"|1,059 m
|style="text-align:right"|1,100 m
|-
| rowspan="9" |山陽姫路東IC ‐ 白鳥PA
|城見台トンネル
|style="text-align:right"|422 m
|style="text-align:right"|447 m
|-
|増位山トンネル
|style="text-align:right"|1,137 m
|style="text-align:right"|1,070 m
|-
|広峰山トンネル
|style="text-align:right"|1,606 m
|style="text-align:right"|1,578 m
|-
|上大野トンネル
|style="text-align:right"|498 m
|style="text-align:right"|
|-
|上大野第一トンネル
|style="text-align:right"|
|style="text-align:right"|113 m
|-
|上大野第二トンネル
|style="text-align:right"|
|style="text-align:right"|278 m
|-
|御立トンネル
|style="text-align:right"|1,033 m
|style="text-align:right"|986 m
|-
|書写山第一トンネル
|style="text-align:right"|499 m
|style="text-align:right"|487 m
|-
|書写山第二トンネル
|style="text-align:right"|1,508 m
|style="text-align:right"|1,502 m
|-
| rowspan="5" |播磨JCT - 赤穂IC
|相生トンネル
|style="text-align:right"|517 m
|style="text-align:right"|540 m
|-
|尼子山トンネル
|style="text-align:right"|622 m
|style="text-align:right"|592 m
|-
|目坂トンネル
|style="text-align:right"|374 m
|style="text-align:right"|368 m
|-
|清水トンネル
|style="text-align:right"|450 m
|style="text-align:right"|443 m
|-
|[[高山トンネル]]
|style="text-align:right"|1,386 m
|style="text-align:right"|1,378 m
|-
|rowspan="2" |備前IC - 和気IC
|閑谷トンネル
|style="text-align:right"|958 m
|style="text-align:right"|852 m
|-
|稲坪トンネル
|style="text-align:right"|283 m
|style="text-align:right"|279 m
|-
|rowspan="5" |和気IC - 瀬戸PA
|福富トンネル
|style="text-align:right"|1,091 m
|style="text-align:right"|1,028 m
|-
|奥吉原トンネル
|style="text-align:right"|448 m
|style="text-align:right"|461 m
|-
|熊山トンネル
|style="text-align:right"|1,315 m
|style="text-align:right"|1,273 m
|-
|勢力トンネル
|style="text-align:right"|548 m
|style="text-align:right"|615 m
|-
|保木トンネル
|style="text-align:right"|443 m
|style="text-align:right"|448 m
|-
|rowspan="2" |瀬戸PA - 山陽IC
|塩納トンネル
|style="text-align:right"|476 m
|style="text-align:right"|532 m
|-
|龍王山トンネル
|style="text-align:right"|1,531 m
|style="text-align:right"|1,528 m
|-
|rowspan="4" |山陽IC - 岡山IC
|馬屋トンネル
|style="text-align:right"|1,115 m
|style="text-align:right"|1,091 m
|-
|牟佐トンネル
|style="text-align:right"|1,354 m
|style="text-align:right"|1,327 m
|-
|宗谷山トンネル
|style="text-align:right"|1,294 m
|style="text-align:right"|1,323 m
|-
|[[笠井山トンネル]]
|style="text-align:right"|3,197 m
|style="text-align:right"|3,181 m
|-
|rowspan="3" |吉備SA/SIC - 岡山JCT
|城山トンネル
|style="text-align:right"|317 m
|style="text-align:right"|245 m
|-
|名越山トンネル
|style="text-align:right"|1,035 m
|style="text-align:right"|1,092 m
|-
|鼓山トンネル
|style="text-align:right"|563 m
|style="text-align:right"|609 m
|-
|岡山JCT - 倉敷JCT
|二子トンネル
|style="text-align:right"|758 m
|style="text-align:right"|804 m
|-
|rowspan="2" |倉敷IC - 玉島IC
|酒津トンネル
|style="text-align:right"|412 m
|style="text-align:right"|392 m
|-
|水江トンネル
|style="text-align:right"|782 m
|style="text-align:right"|813 m
|-
|道口PA - 鴨方IC
|阿坂トンネル
|1,432 m
|1,444 m
|-
|rowspan="2" |福山東IC - 福山SA
|[[郷分トンネル]]
|style="text-align:right"|869 m
|style="text-align:right"|828 m
|-
|山手トンネル
|style=“text-align:right”|1,981 m
|style=“text-align:right”|1,958 m
|-
|rowspan="2" |福山SA - 福山西IC
|赤坂トンネル
|style=“text-align:right”|1,521 m
|style=“text-align:right”|1,529 m
|-
|神村トンネル
|style=“text-align:right”|1,684 m
|style=“text-align:right”|1,688 m
|-
|福山西IC - 尾道JCT
|美ノ郷トンネル
|style="text-align:right"|610 m
|style="text-align:right"|640 m
|-
|尾道IC - 八幡PA
|大羽谷トンネル
|style="text-align:right"|1,567 m
|style="text-align:right"|1,533 m
|-
|rowspan="5" |本郷IC - 河内IC
|本郷トンネル
|style="text-align:right"|872 m
|style="text-align:right"|892 m
|-
|日山地トンネル
|style="text-align:right"|698 m
|style="text-align:right"|719 m
|-
|本谷トンネル
|style="text-align:right"|247 m
|style="text-align:right"|301 m
|-
|竹原トンネル
|style="text-align:right"|1,431 m
|style="text-align:right"|1,384 m
|-
|入野トンネル
|style="text-align:right"|1,673 m
|style="text-align:right"|1,723 m
|-
|rowspan="4" |西条IC - 志和IC
|西条トンネル
|style="text-align:right"|1,066 m
|style="text-align:right"|1,100 m
|-
|米満トンネル
|style="text-align:right"|313 m
|style="text-align:right"|309 m
|-
|[[八本松トンネル]]
|style="text-align:right"|857 m
|style="text-align:right"|844 m
|-
|[[椛坂高架橋]]
|style="text-align:right"|224 m
|style="text-align:right"|224 m
|-
|奥屋PA - 広島東IC
|[[志和トンネル]]
|style="text-align:right"|2,213 m
|style="text-align:right"|2,110 m
|-
|広島東IC - 広島IC
|安芸トンネル
|style="text-align:right"|1,687 m
|style="text-align:right"|1,643 m
|-
|広島IC - 沼田PA
|[[武田山トンネル]]
|style="text-align:right"|1,842 m
|style="text-align:right"|1,778 m
|-
|rowspan="2" |五日市IC - 宮島SA/SIC
|石内トンネル
|style="text-align:right"|517 m
|style="text-align:right"|523 m
|-
|五日市トンネル
|style="text-align:right"|765 m
|style="text-align:right"|747 m
|-
|rowspan="3" |大竹IC - 岩国IC
|御園トンネル
|style="text-align:right"|564 m
|style="text-align:right"|555 m
|-
|小瀬トンネル
|style="text-align:right"|1,364 m
|style="text-align:right"|1,382 m
|-
|[[関戸トンネル]]
|style="text-align:right"|3,325 m
|style="text-align:right"|3,217 m
|-
|rowspan="5" |岩国IC - 玖珂PA
|城山トンネル
|style="text-align:right"|765 m
|style="text-align:right"|752 m
|-
|御庄トンネル
|style="text-align:right"|565 m
|style="text-align:right"|558 m
|-
|神之内トンネル
|style="text-align:right"|203 m
|style="text-align:right"|189 m
|-
|近延トンネル
|style="text-align:right"|1,430 m
|style="text-align:right"|1,334 m
|-
|欽明路トンネル
|style="text-align:right"|1,025 m
|style="text-align:right"|1,042 m
|-
|玖珂IC - 熊毛IC
|竜ヶ岳トンネル
|style="text-align:right"|2,303 m
|style="text-align:right"|2,315 m
|-
|rowspan="6" |下松SA - 徳山東IC
|[[生野屋トンネル|生野屋第一トンネル]]
|style="text-align:right"|421 m
|style="text-align:right"|376 m
|-
|生野屋第二トンネル
|style="text-align:right"|417 m
|style="text-align:right"|393 m
|-
|生野屋第三トンネル
|style="text-align:right"|282 m
|style="text-align:right"|230 m
|-
|生野屋第四トンネル
|style="text-align:right"|143 m
|style="text-align:right"|91 m
|-
|生野屋第五トンネル
|style="text-align:right"|397 m
|style="text-align:right"|393 m
|-
|[[耳取トンネル]]
|style="text-align:right"|67 m
|style="text-align:right"|72 m
|-
|rowspan="9" |徳山東IC - 徳山西IC
|平原トンネル
|style="text-align:right"|406 m
|style="text-align:right"|403 m
|-
|上馬屋トンネル
|style="text-align:right"|674 m
|style="text-align:right"|675 m
|-
|[[金剛山トンネル (山口県)|金剛山トンネル]]
|style="text-align:right"|2,206 m
|style="text-align:right"|2,201 m
|-
|桜谷トンネル
|style="text-align:right"|857 m
|style="text-align:right"|811 m
|-
|富岡トンネル
|style=“text-align:right”|2,015 m
|style=“text-align:right”|1,855 m
|-
|嶽山トンネル
|style=“text-align:right”|1,582 m
|style=“text-align:right”|1,602 m
|-
|若山トンネル
|style="text-align:right"|152 m
|style="text-align:right"|152 m
|-
|中村トンネル
|style=“text-align:right”|1,232 m
|style=“text-align:right”|1,269 m
|-
|戸田トンネル
|style="text-align:right"|405 m
|style="text-align:right"|402 m
|-
|徳山西IC - 富海PA
|椿トンネル
|style=“text-align:right”|1,145 m
|style=“text-align:right”|1,188 m
|-
|rowspan="3" |富海PA - 防府東IC
|富海トンネル
|style="text-align:right"|319 m
|style="text-align:right"|327 m
|-
|[[大平山トンネル]]
|style=“text-align:right|1,737 m
|style=“text-align:right|1,797 m
|-
|[[天神山トンネル]]
|style="text-align:right"|1,805 m
|style="text-align:right"|1,803 m
|-
|佐波川SA - 山口南IC
|花ヶ岳トンネル
|style="text-align:right"|966 m
|style="text-align:right"|1,026 m
|-
|山口南IC - 山口JCT
|[[黒河内山トンネル]]
|style="text-align:right"|2,705 m
|style="text-align:right"|2,693 m
|-
|}
==== 木見支線 ====
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|構造物名
!colspan="2"|長さ
|-
!上り線
!下り線
|-
| rowspan="4" |三木JCT - 神戸西IC
|戸田トンネル
|style="text-align:right"|149 m
|style="text-align:right"|258 m
|-
|三津田トンネル
|style="text-align:right"|360 m
|style="text-align:right"|347 m
|-
|丹生山トンネル
|style="text-align:right"|746 m
|style="text-align:right"|740 m
|-
|[[シブレ山トンネル]]
|style="text-align:right"|2,513 m
|style="text-align:right"|2,499 m
|-
|}
==== 早島支線 ====
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|構造物名
!colspan="2"|長さ
|-
!上り線
!下り線
|-
| rowspan="2"|倉敷JCT - 早島IC
|中庄トンネル
|style="text-align:right"|90 m
|style="text-align:right"|71 m
|-
|金田トンネル
|style="text-align:right"|478 m
|style="text-align:right"|440 m
|-
|}
==== 宇部下関線 ====
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|構造物名
!colspan="1"|長さ
|-
!上下線
|-
| rowspan="3"|宇部IC - 小野田IC
|霜降山トンネル
|style="text-align:right"|1,282 m
|-
|菩提寺山トンネル
|style="text-align:right"|270 m
|-
|有帆トンネル
|style="text-align:right"|347 m
|-
|}
=== トンネルの数 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!区間!!上り線!!下り線
|-
|神戸JCT - 三木東IC||0||0
|-
|三木東IC - 三木SA||1||1
|-
|三木SA - 権現湖PA||0||0
|-
|権現湖PA - 加古川北IC||2||2
|-
|加古川北IC - 山陽姫路東IC||2||2
|-
|山陽姫路東IC - 白鳥PA||7||8
|-
|白鳥PA - 山陽姫路西IC||0||0
|-
|山陽姫路西IC - 龍野IC||4||4
|-
|龍野IC - 播磨JCT||0||0
|-
|播磨JCT - 赤穂IC||5||5
|-
|赤穂IC - 備前IC||0||0
|-
|備前IC - 和気IC||2||2
|-
|和気IC - 瀬戸PA||5||5
|-
|瀬戸PA - 山陽IC||2||2
|-
|山陽IC - 岡山IC||4||4
|-
|岡山IC - 吉備SA||0||0
|-
|吉備SA - 岡山JCT||3||3
|-
|岡山JCT - 倉敷JCT||1||1
|-
|倉敷JCT - 倉敷IC||0||0
|-
|倉敷IC - 玉島IC||2||2
|-
|玉島IC - 道口PA||0||0
|-
|道口PA - 鴨方IC||1||1
|-
|鴨方IC - 福山東IC||0||0
|-
|福山東IC - 福山SA||4||4
|-
|福山SA - 福山西IC||2||2
|-
|福山西IC - 尾道JCT||1||1
|-
|尾道JCT - 尾道IC||0||0
|-
|尾道IC - 八幡PA||1||1
|-
|八幡PA - 本郷IC||0||0
|-
|本郷IC - 河内IC||5||5
|-
|河内IC - 西条IC||0||0
|-
|西条IC - 志和IC||3||3
|-
|志和IC - 奥屋PA||0||0
|-
|奥屋PA - 広島東IC||1||1
|-
|広島東IC - 広島IC||1||1
|-
|広島IC - 沼田PA||1||1
|-
|沼田PA - 五日市IC||0||0
|-
|五日市IC - 宮島SA||3||3
|-
|宮島SA - 大野IC||0||0
|-
|大野IC - 大竹IC||2||2
|-
|大竹IC - 岩国IC||3||3
|-
|岩国IC - 玖珂PA||5||5
|-
|玖珂PA - 玖珂IC||0||0
|-
|玖珂IC - 熊毛IC||1||1
|-
|熊毛IC - 下松SA||0||0
|-
|下松SA - 徳山東IC||6||6
|-
|徳山東IC - 徳山西IC||9||9
|-
|徳山西IC - 富海PA||1||1
|-
|富海PA - 防府東IC||3||3
|-
|防府東IC - 佐波川SA||0||0
|-
|佐波川SA - 山口南IC||1||1
|-
|山口南IC - 山口JCT||1||1
|-
!本線合計!!95!!96
|-
|三木JCT - 神戸西IC||4||4
|-
|倉敷JCT - 早島IC||2||2
|-
|宇部JCT - 宇部IC||0||0
|-
|宇部IC - 小野田IC||3||3
|-
|小野田IC - 下関JCT||0||0
|-
!支線合計!!9!!9
|-
!合計!!104!!105
|}
=== 道路管理者 ===
2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が[[西日本高速道路]]の管轄となっており、[[備前インターチェンジ (山陽自動車道)|備前IC]]を境に東側を[[西日本高速道路関西支社|関西支社]]が、西側を[[西日本高速道路中国支社|中国支社]]が管轄している。
* [[西日本高速道路|西日本高速道路株式会社]]
** [[西日本高速道路関西支社|関西支社]]
*** 神戸管理事務所 : 神戸JCT - 三木小野IC、三木JCT - 神戸西IC(木見支線)
*** 姫路高速道路事務所 : 三木小野IC - 備前IC
** [[西日本高速道路中国支社|中国支社]]
*** 岡山高速道路事務所 : 備前IC - 笠岡IC、倉敷JCT - 早島IC(倉敷早島支線)
*** 福山高速道路事務所 : 笠岡IC - 河内IC
*** 広島高速道路事務所 : 河内IC - 岩国IC
*** 周南高速道路事務所 : 岩国IC - 山口南IC
*** 山口高速道路事務所 : 山口南IC - 山口JCT、宇部JCT - 下関JCT(宇部下関線)
==== ハイウェイラジオ ====
* 淡河(神戸北IC - 三木東IC)
* 三木(三木東IC - 三木小野IC)
* 相生(相生BS - 赤穂IC)
* 山陽(瀬戸PA - 山陽IC)
* 鴨方(鴨方IC - 笠岡IC)
* 志和(西条IC - 志和IC)
* 廿日市(宮島SA - 廿日市JCT)
=== 交通量 ===
==== 本線 ====
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度
!令和3(2021)年度
|-
| 神戸JCT - 神戸北IC|| 41,712 || 35,942 || 47,598 || 45,625
|52,692
|-
| 神戸北IC - 三木JCT || 42,381 || 37,284 || 49,492 || 48,442
|53,006
|-
| 三木JCT - 三木東IC || 40,651 || 37,181 || 48,955 || 48,978
|50,775
|-
| 三木東IC - 三木小野IC || 37,949 || 34,683 || 46,279 || 46,578
|47,456
|-
| 三木小野IC - 加古川北IC || 33,241|| 30,491 || 41,733 || 41,849
|42,056
|-
| 加古川北IC - 山陽姫路東IC || 33,358 || 30,505 || 41,024 || 41,433
|41,380
|-
| 山陽姫路東IC - 山陽姫路西IC || 32,683 || 28,882 || 38,394 || 39,636
|38,727
|-
| 山陽姫路西IC - 龍野IC || 33,972 || 30,023 || 38,664 || 41,204
|39,245
|-
| 龍野IC - 龍野西IC || 33,849 || 30,681 || 38,916 || 41,885
|39,841
|-
| 龍野西IC - 播磨JCT || rowspan="2" | 34,468 || 30,648 || 38,107 || 41,401
|39,151
|-
| 播磨JCT - 赤穂IC || 29,912 || 37,141 || 40,488
|38,313
|-
| 赤穂IC - 備前IC || 31,580|| 26,984 || 33,725 || 37,234
|35,273
|-
| 備前IC - 和気IC || 28,697 || 23,798 || 30,430 || 34,160
|32,328
|-
| 和気IC - 山陽IC || 29,620 || 24,524 || 31,253 || 34,774
|32,864
|-
| 山陽IC - 岡山IC || 31,157 || 26,964 || 34,159 || 37,652
|36,248
|-
| 岡山IC - 吉備SASIC || rowspan="2" | 36,924 || 34,297 || 43,608 || 46,985
|43,804
|-
| 吉備SASIC - 岡山JCT || 34,437 || 44,249 || 47,823
|44,831
|-
| 岡山JCT - 倉敷JCT || 37,460 || 34,498 || 44,971 || 47,640
|44,675
|-
| 倉敷JCT - 倉敷IC || 35388 || 35,141 || 43,114 || 45,230
|41,830
|-
| 倉敷IC - 玉島IC || 35,104 || 35,448 || 42,581 || 45,139
|41,237
|-
| 玉島IC - 鴨方IC || 37,038 || 37,199 || 43,549 || 47,000
|43,029
|-
| 鴨方IC - 笠岡IC || 35,768 || 35,929 || 42,130 || 46,138
|42,760
|-
| 笠岡IC - 福山東IC || 34,093 || 33,826 || 39,490 || 43,659
|40,596
|-
| 福山東IC - 福山SASIC || rowspan="2" | 32,948 || rowspan="2" | 32,279 || rowspan="2" | 37,984 || rowspan="2" | 42,289
|38,811
|-
| 福山SASIC - 福山西IC
|40,297
|-
| 福山西IC - 尾道JCT || rowspan="2" | 30,204 || rowspan="2" | 30,596 || rowspan="2" | 36,947 || 43,039
|39,681
|-
| 尾道JCT - 尾道IC || 43,039
|36,389
|-
| 尾道IC - 三原久井IC || 30,954 || 31,294 || 37,496 || 40,299
|36,756
|-
| 三原久井IC - 本郷IC || 32,157 || 32,561 || 38,526 || 40,898
|37,295
|-
| 本郷IC - 河内IC || 31,924 || 32,750 || 39,360 || 41,579
|38,441
|-
| 河内IC - 高屋JCT || rowspan="2" | 35,985 || rowspan="2" | 36,616 || 43,497 || 46,478
|42,318
|-
| 高屋JCT - 西条IC || 41,697 || 43,719
|39,919
|-
| 西条IC - 志和IC || 40,378 || 39,419 || 45,475 || 47,315
|44,372
|-
| 志和IC - 広島東IC || 50,700 || 52,625 || 60,527 || 62,022
|59,785
|-
| 広島東IC - 広島IC || 44,524 || 45,376 || 51,558 || 50,804
|50,312
|-
| 広島IC - 沼田PASIC || rowspan="2" | 41,358 || rowspan="2" |38,083 || rowspan="2" |45,316 || rowspan="2" |45,090
|44,646
|-
| 沼田PASIC - 広島JCT
|43,827
|-
| 広島JCT - 五日市IC || 27,282 || 31,425 || 43,552 || 44,306
|41,659
|-
| 五日市IC - 宮島SASIC || rowspan="2" | 27,282 || 18,126 || 32,141 || 34,083
|32,263
|-
| 宮島SASIC - 廿日市JCT || 18,126 || 29,823 || 31,077
|28,586
|-
| 廿日市IC - 廿日市JCT || 13,434|| 12,661 || 13,450 || 16,190
|14,342
|-
| 廿日市JCT - 大野IC || 29,170 || 19,025 || 33,789 || 39,815
|37,870
|-
| 大野IC - 大竹IC || 29,429 || 19,205 || 33,878 || 39,513
|37,104
|-
| 大竹IC - 岩国IC || 27,254 || 15,085 || 29,308 || 32,901
|30,949
|-
| 岩国IC - 玖珂IC || 25,219 || ※ || 28,528 || 31,748
|29,671
|-
| 玖珂IC - 熊毛IC || 24,638 || 11,618 || 27,645 || 30,804
|28,797
|-
| 熊毛IC - 徳山東IC || 25,736 || 14,043 || 28,236 || 31,345
|29,568
|-
| 徳山東IC - 徳山西IC || 25,412 || 16,236 || 29,327 || 31,901
|30,527
|-
| 徳山西IC - 防府東IC || 28,137 || 19,309 || 32,100 || 33,796
|32,319
|-
| 防府東IC - 防府西IC || 20,767 || 12,878 || 24,449 || 26,912
|26,269
|-
| 防府西IC - 山口南IC || 23,164 || 15,345 || 27,298 || 29,889
|29,093
|-
| 山口南IC - 山口JCT || 17,531 || {{0}}9,156 || 19,842 || 22,634
|20,812
|}
<small>(出典:「[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks08/wd10_000000017.html 道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果]」([[兵庫県]]ホームページ)・「[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/06_danmen/danmen1.htm 中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量]」([[中国地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
※平成17年度の岩国IC - 玖珂IC間は調査当時、土砂崩れにより長期通行止めだったためデータなし。<br />また、この関係で広島JCT - 山口JCTの区間を中心に大幅に交通量が少なくなっている。
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref name="r2tyousa">{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。
==== 木見支線 ====
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度
!令和3(2021)年度
|-
| 三木JCT - 神戸西IC || {{0}}8,830 ||{{0}}8,183 || 11,781 || 12,204
|15,741
|}
<small>(出典:「[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks08/wd10_000000017.html 道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果]」([[兵庫県]]ホームページ)・「[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/06_danmen/danmen1.htm 中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量]」([[中国地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、新型コロナウイルスの影響で延期された<ref name="r2tyousa" />。
==== 倉敷早島支線 ====
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度
!令和3(2021)年度
|-
| 倉敷JCT - 早島IC || 21,532 || 22,101 || 28,073 || 29,188
|23,759
|}
<small>(出典:「[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/06_danmen/danmen1.htm 中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量]」([[中国地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、新型コロナウイルスの影響で延期された<ref name="r2tyousa" />。
==== 宇部下関線 ====
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度
|-
| 宇部JCT - 宇部IC || rowspan="4" | 調査当時未開通 || 4,443 || 5,520 || 6,952 ||6,189
|-
| 宇部IC - 小野田IC || 5,263 || 5,652 || 6,639 || 6,180
|-
| 小野田IC - 埴生IC || 5,453 || 5,681 || 6,531 || 6,060
|-
| 埴生IC - 下関JCT || 6,028 || 6,161 || 6,484 ||5,722
|}
<small>(出典:「[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/06_danmen/danmen1.htm 中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量]」([[中国地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、新型コロナウイルスの影響で延期された<ref name="r2tyousa" />。
2002年度 '''区間別日平均交通量'''
* 神戸JCT - 廿日市JCT・三木JCT - 神戸西本線料金所・岡山総社 - 岡山JCT・倉敷JCT - 早島本線料金所(平均): 33,920台(前年度比99.0%)
* 大竹JCT - 山口JCT(平均): 25,201台(前年度比98.9%)
* 宇部JCT - 下関JCT(平均): 4,720台(前年度比100.0%)
* '''総交通量(通行台数)'''
** 年間: 7060万5319台(前年度比98.3%)
** 日平均: 19万3439台
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
'''本線(神戸JCT - 廿日市JCT)'''
* [[兵庫県]]
** [[神戸市]]([[北区 (神戸市)|北区]])- [[三木市]] - [[小野市]] - 三木市 - 小野市 - 三木市 - 小野市 - [[加古川市]] - [[姫路市]] - [[たつの市]] - [[相生市]] - [[赤穂市]]
* [[岡山県]]
** [[備前市]] - [[和気郡]][[和気町]] - [[赤磐市]] - [[岡山市]]([[東区 (岡山市)|東区]]) - 赤磐市 - 岡山市([[北区 (岡山市)|北区]]) - [[倉敷市]] - [[浅口市]] - [[浅口郡]][[里庄町]] - 浅口市 - [[笠岡市]]
* [[広島県]]
** [[福山市]] - [[尾道市]] - [[三原市]] - [[竹原市]] - [[東広島市]] - [[広島市]]([[安佐北区]] - [[東区 (広島市)|東区]] - [[安佐南区]] - [[佐伯区]]) - [[廿日市市]]
'''本線(大竹JCT - 山口JCT)'''
* [[広島県]]
** [[大竹市]]
* [[山口県]]
** [[岩国市]] - [[周南市]] - [[光市]] - 周南市 - [[下松市]] - 周南市 - [[防府市]] - [[山口市]]
'''木見支線(三木JCT - 神戸西IC)'''
* [[兵庫県]]
** [[三木市]] - [[神戸市]]([[北区 (神戸市)|北区]]) - 三木市 - 神戸市(北区 - [[西区 (神戸市)|西区]])
'''倉敷早島支線(倉敷JCT - 早島IC)'''
* [[岡山県]]
** [[倉敷市]] - [[都窪郡]][[早島町]]
'''宇部下関線(宇部JCT - 下関JCT)'''
* [[山口県]]
** [[宇部市]] - [[山陽小野田市]] - [[下関市]]
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]](神戸JCTで直結)
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]](神戸JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E28}} [[神戸淡路鳴門自動車道]](神戸西ICで接続)(木見支線)
* {{Ja Exp Route Sign|E95}} [[播但連絡道路]](山陽姫路東ICで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E29}} [[播磨自動車道]]([[播磨ジャンクション|播磨JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E73}} [[岡山自動車道]]([[岡山ジャンクション|岡山JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E30}} [[瀬戸中央自動車道]](早島ICで接続)(倉敷早島支線)
* {{Ja Exp Route Sign|E76}} [[尾道福山自動車道]](福山西ICで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E54}} [[尾道自動車道]]([[尾道ジャンクション|尾道JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E75}} [[東広島呉自動車道]]([[高屋ジャンクション|高屋JCT]]で接続)
* [[ファイル:Japanese Urban Expwy Sign 0001.svg|26px]] [[広島高速1号線]]([[広島東インターチェンジ|広島東IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E74}} [[広島自動車道]]([[広島ジャンクション|広島JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]]([[廿日市ジャンクション|廿日市JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} 広島岩国道路([[大竹ジャンクション|大竹JCT]]で直結)
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[小郡道路]](山口南ICで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}} 中国自動車道(山口JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山口宇部道路]](宇部JCTで接続)(宇部下関線)
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}} 中国自動車道(下関JCTで接続)(宇部下関線)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sanyo Expressway}}
* [[アジアハイウェイ1号線]]
* [[山陽道]]
* [[中国自動車道]]
* [[国道2号]]
* [[山陽本線]]
* [[山陽新幹線]]
* [[国土開発幹線自動車道]]
* [[高速自動車国道]]
* [[近畿地方の道路一覧]]
* [[中国地方の道路一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構]
* [https://www.w-nexco.co.jp/ 西日本高速道路株式会社]
{{山陽自動車道}}
{{日本の高速道路}}
{{アジアハイウェイ1号線}}
{{西日本高速道路}}
{{西日本高速道路関西支社}}
{{西日本高速道路中国支社}}
{{デフォルトソート:さんようしとうしやとう}}
[[Category:アジアハイウェイ1号線]]
[[Category:日本の高速道路]]
[[Category:高速自動車国道]]
[[Category:西日本高速道路]]
[[Category:山陽自動車道|*さんようしとうしやとう]]
[[Category:近畿地方の道路]]
[[Category:中国地方の道路]]
[[Category:山陽地方]]
|
2003-09-16T08:20:56Z
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17,066 |
労働政策研究・研修機構
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独立行政法人労働政策研究・研修機構(ろうどうせいさくけんきゅう・けんしゅうきこう、英語: The Japan Institute for Labour Policy and Training, JILPT)は、厚生労働省が所管する独立行政法人である。労働に関する総合的な調査研究、研修事業等をおこなう。略称はJILPT。
前身となった日本労働協会は労使紛争が激しかった時期に政府、労働組合、使用者団体のそれぞれから中立の立場をとり三者の立場を調整する枠割を担うため、日本労働協会法に基づき、日本で最も古い特殊法人の一つとして設立された。五味川純平の「人間の条件」のモデルとなったとされる隅谷三喜男が会長の一人として名を連ねた。日本労働協会が担った事業として、労働問題の研究や国際交流のほか労働問題の啓もう活動を通じて、労働問題に関する理解と良識を培うことを理念した。短波ラジオを通じて、炭鉱労働者などの思いを載せた作文を放送するなど、労働者のありのままの姿を広報するなどの活動を行った。
ともすればイデオロギー闘争に向かいやすい労使間の対立を生産性三原則に基づく労使協調へと結びつける生産性活動の方向(生産性本部)とは別のアプローチとして、労働者一人ひとりの目線から、労働問題の研究者の目線、労働組合活動家の目線、使用者側の目線のそれぞれを取り上げ、啓もう活動、学会誌の発行などから国際的な労使関係者の交流を通じて労働問題の一つの世界のリーダーとしての役割に至るまで幅広く労働問題の日本の総本山的役割を行ってきた。
平成元年には日本労働協会法が改正されて日本労働研究機構法と題名が改められ、平成2年1月1日の同法施行に基づき、日本労働協会は雇用職業総合研究所と統合して日本労働研究機構へと発展的に改組した。従来の労使関係中心の機関としての役割に、雇用職業総合研究所が有していた職業研究や学校から職業への移行研究などが加わったことを契機として、労働法、労働経済、人事管理など日本で唯一の総合的な労働問題研究所としての基礎固めの段階となった。また、日本労働協会時代から行っていた労働教育事業、国際交流事業に加え、総合的な労働問題の研究機関としての機能を活用した情報提供事業に力を入れ、萌芽的な存在だったパソコン通信、インターネットを積極的に活用した情報提供事業を国内外に展開した。
日本労働協会時代、日本労働研究機構時代に実施した国際交流事業では、日本に招へいしたイギリス労働党やイタリアの労働組合関係者から閣僚経験者を輩出するなど、日本の労使関係を目のあたりにした専門家が国政の中枢に入るという点で外交上の役割も果たした。ベルリンの壁崩壊にはじまる東欧の民主化が起こった1989年以降には東欧諸国の政府、労働組合、使用者関係者との交流活動を開始したが、これは日本の労働以外の分野を合わせても、先駆け的な存在となり、日本企業が東欧への投資を行うにあたっての障害を未然に取り除く役割を果たした。
1980年代半ば以降から活発化した日本企業の海外進出では、日本企業が日本国内の人事管理方式をそのまま海外に移植することで、現地の労働慣行と衝突し、問題を発生することが懸念された。これらの問題を未然に防ぐことを目的として、海外進出する日本企業に対して進出先の労働関係の情報を提供することや、進出先現地国の労使に対して日本企業の労使慣行に関する情報を提供するという両面にわたる情報提供活動を行った。
海外進出する日本企業と同様に、日本へ進出する外資系企業も日本国内の労働慣行と衝突することで問題を発生することが懸念された。これらの外資系企業に日本の労働慣行に関する情報を提供することで、問題を未然に防ぐという事業が展開された。
労使関係の国際的な学会である国際労使関係学会(IIRA)は、日本、アメリカ合衆国、ドイツ、大韓民国などが中心的な役割を演じているが、日本労働研究機構はIIRAにおいても中心的な役割を担ってきた。
日本の高校教育、大学教育では、就職支援活動を行うものの、解雇や労働条件など労働者個人としての権利に関する教育といった身を守るための労働法に関する教育、最低限知っておくべき労働市場や労働経済の教育はほとんど行われていない。これらの、労働法や労働経済などに加え、労使関係、労働行政に関する知識について、通信教育講座や座学を通じて労働教育事業を行ってきた。
独立行政法人労働政策研究・研修機構法(平成14年12月13日法律第169号)が制定され、一部の施行により、日本労働研究機構法が廃止された。平成15年10月1日からの施行により、日本労働研究機構が解散となり、独立行政法人労働政策研究・研修機構が発足した。
労働組合組織率の低下、金融規制緩和、労働問題の個別化の傾向など、労働問題の解決に政労使における調整よりも、自由な市場にゆだねるという政権の方針のなかで、日本労働研究機構の行っていた事業の中で、労使関係に類する事業は国内外にかかわらず大幅に縮小された。その結果、日本労働協会以来の基本的な柱としての政府、労働組合、使用者に中立とする理念が設置法から削除されることになった。同時期に、日本の使用者団体における労使関係の調整をリードしてきた日経連が事実上、経団連に吸収合併されることになった。労働政策研究・研修機構は労働省行政官の研修所と統合することで、研究と研修の融合に加え、これまでの政労使に中立な労働問題の総合的な情報提供、研究機関としての役割から、労働行政に資するための政策研究所として大幅に役割が縮小された。
平成17年末に行われた一連の独立行政法人改革の中で廃止法人候補としてあげられたものの、昭和33年以来、50年にわたる日本の労働問題に関する人的なネットワークまで含めた総本山的な役割が、これら労働問題に関する社会的な関心の高まりや労使関係の役割に対する見直しの機運の中、専門家や学識経験者、労働組合、使用者団体など幅広い層の支持を受けた署名活動などを背景に存続が支持されることとなった。
2006年9月、総合的職業情報データベースキャリアマトリックスによる情報提供サービスを開始した。
2009年、「労働政策研究・研修機構」「高齢・障害者雇用支援機構」「雇用・能力開発機構」で、 参事や参与などの肩書きがついた計6つのポストに厚労省や財務省、総務省のOBが嘱託職員として雇用されていたことや、報酬が独立行政法人の嘱託職員の相場より高かったこと等が明らかにされた。 この問題が報じられた後、長妻昭厚労相(当時)は3法人の6ポストについて、年内に廃止することを発表した。
2007年(平成19年)12月の閣議決定(独立行政法人整理合理化計画)において、以下の事業の見直しと効率化等を行うこととされた。
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] |
独立行政法人労働政策研究・研修機構は、厚生労働省が所管する独立行政法人である。労働に関する総合的な調査研究、研修事業等をおこなう。略称はJILPT。
|
{{出典の明記| date = 2023-08}}
{{Infobox 組織2
| 名称 = 独立行政法人労働政策研究・研修機構<br />Japan Institute for Labour Policy and Training
| Width =
| 画像 = File:JILPT, Nerima, Tokyo.JPG
| 脚注 =
| 画像2 =
| 脚注2 =
| 正式名称 = <!--正式名称が外国語である場合に、現地の言葉で名称を記入。それ以外の場合は無記入でOK-->
| 英語名称 = The Japan Institute for Labour Policy and Training
| 略称 = JILPT
| 組織形態 = [[独立行政法人]]
| 本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK-->
| 所在国 = {{JPN}}
| 所在地郵便番号 = 177-8502
| 所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[上石神井]]4丁目8番23号<br />{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=270|marker=college}}
| 位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|43|51|N|139|35|21.8|E}}<!--経緯度を記入-->
| 予算 = 28.8億円{{small|(2020年度実績)}}<ref name="zaimu">{{Cite web|和書|url=https://www.jil.go.jp/johokokai/zaimu/documents2/r2/kessanhoukokusho_r2.pdf|title=令和2事業年度 決算報告書|publisher=労働政策研究・研修機構|format=PDF|accessdate=2022-02-08}}</ref><br />* 運営費交付金 26億円<br />* 施設整備費補助金 2.2億円<br />* その他収入 0.5億円
| 人数 = 104人{{small|(2020年度末時点)}}<br />* 役員 5人<br />* 常勤職員 99人<ref name="jigyou">{{Cite web|和書|url=https://www.jil.go.jp/johokokai/zaimu/documents2/r2/jigyouhoukokusho_r2.pdf|title=令和2事業年度事業報告書|publisher=労働政策研究・研修機構|format=PDF|accessdate=2022-02-08}}</ref>
| 代表 =
| 所長 =
| 理事長 = [[藤村博之]]<ref name="任命230324">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_32196.html|title=厚生労働省関係独立行政法人の長の任命について|date=2023-03-24|accessdate=2023-10-25|publisher=[[厚生労働省大臣官房]]人事課}}</ref>
| 代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入-->
| 代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入-->
| 活動領域 =
| 設立年月日 = [[2003年]][[10月1日]]
| 前身 = 日本労働研究機構<br />労働研修所<br />[[#沿革]]の節を参照
| 設立者 =
| 廃止年月日 =
| 後身 =
| 上位組織 =
| 所管 = [[厚生労働省]]
| 下位組織 = [[労働大学校]]
| 拠点 =
| 保有施設 =
| 保有装置 =
| 保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など-->
| 保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など-->
| 保有物分類2 =
| 保有物名称2 =
| 保有物分類3 =
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| ウェブサイト = [https://www.jil.go.jp/ 独立行政法人労働政策研究・研修機構 公式サイト]
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'''独立行政法人労働政策研究・研修機構'''(ろうどうせいさくけんきゅう・けんしゅうきこう、{{lang-en|The Japan Institute for Labour Policy and Training, JILPT}})は、[[厚生労働省]]が所管する[[独立行政法人]]である。[[労働]]に関する総合的な調査研究、研修事業等をおこなう。略称は'''JILPT'''。
== 沿革 ==
* [[1958年]]([[昭和]]33年){{0}}9月 - '''日本労働協会'''([[労働省]]所管の[[特殊法人]])が発足する
* [[1961年]](昭和36年){{0}}7月1日 - [[雇用促進事業団]](労働省所管の特殊法人)が発足する
* [[1964年]](昭和39年){{0}}6月 - 労働省が労働研修所(労働省職員と[[労働基準監督官]]の研修機関)を設置する
* [[1969年]](昭和44年) - 雇用促進事業団が職業研究所(後に、雇用職業総合研究所と改称)を設置する
* [[1990年]]([[平成]]2年){{0}}1月1日- 日本労働協会と雇用促進事業団雇用職業総合研究所が統合して特殊法人の'''日本労働研究機構'''(略称:JIL、英称:''The Japan Institute of Labour'')が発足する
* [[2001年]](平成13年){{0}}1月 - [[中央省庁再編]]により労働研修所が厚生労働省の[[施設等機関]]となる
* [[2003年]](平成15年)10月1日- 日本労働研究機構と労働研修所が統合して'''独立行政法人労働政策研究・研修機構'''が発足する
== 組織 ==
===労働政策研究所===
*総合政策部門
*経済社会と労働部門
*人材育成部門
*キャリア支援部門
*企業と雇用部門
*労使関係部門
*国際研究部
*調査・解析部
*研究調整部
*労働図書館
===労働大学校===
*教育担当
*大学校事務局
==活動==
===日本労働協会時代 ===
前身となった日本労働協会は[[労使紛争]]が激しかった時期に[[日本国政府|政府]]、[[労働組合]]、[[使用者]]団体のそれぞれから中立の立場をとり三者の立場を調整する枠割を担うため、[[日本労働協会法]]に基づき、日本で最も古い特殊法人の一つとして設立された。[[五味川純平]]の「人間の条件」のモデルとなったとされる[[隅谷三喜男]]が会長の一人として名を連ねた。日本労働協会が担った事業として、労働問題の研究や国際交流のほか労働問題の啓もう活動を通じて、労働問題に関する理解と良識を培うことを理念した。[[短波ラジオ]]を通じて、[[炭鉱]][[労働者]]などの思いを載せた作文を放送するなど、労働者のありのままの姿を広報するなどの活動を行った。
ともすれば[[イデオロギー]]闘争に向かいやすい労使間の対立を生産性三原則に基づく労使協調へと結びつける生産性活動の方向(生産性本部)とは別のアプローチとして、労働者一人ひとりの目線から、労働問題の研究者の目線、労働組合活動家の目線、使用者側の目線のそれぞれを取り上げ、啓もう活動、学会誌の発行などから国際的な労使関係者の交流を通じて労働問題の一つの世界のリーダーとしての役割に至るまで幅広く労働問題の日本の総本山的役割<ref name="tokyoshinbun">東京新聞2007年11月18日「実は、私の研究にも、例の機構の調査報告を使うことが多い。~(中略)~営利事業としてのシンクタンク市場に、同じ質の情報を求めたら失敗に終わるに決まっている」『時代を読む』ロナルド・ドーア))</ref>を行ってきた。
=== 日本労働研究機構時代 ===
平成元年には日本労働協会法が改正されて[[日本労働研究機構法]]と題名が改められ、平成2年1月1日の同法施行に基づき、日本労働協会は雇用職業総合研究所と統合して日本労働研究機構へと発展的に改組した。従来の労使関係中心の機関としての役割に、雇用職業総合研究所が有していた職業研究や学校から[[職業]]への移行研究などが加わったことを契機として、労働法、労働経済、人事管理など日本で唯一の総合的な労働問題研究所としての基礎固めの段階となった。また、日本労働協会時代から行っていた労働教育事業、国際交流事業に加え、総合的な労働問題の研究機関としての機能を活用した情報提供事業に力を入れ、萌芽的な存在だった[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]通信、[[インターネット]]を積極的に活用した情報提供事業を国内外に展開した。
====主な活動====
;国際活動
日本労働協会時代、日本労働研究機構時代に実施した国際交流事業では、日本に招へいした[[イギリス]][[労働党 (イギリス)|労働党]]や[[イタリア]]の労働組合関係者から閣僚経験者を輩出するなど、日本の労使関係を目のあたりにした専門家が国政の中枢に入るという点で外交上の役割も果たした。[[ベルリンの壁崩壊]]にはじまる[[東ヨーロッパ|東欧]]の[[民主化]]が起こった[[1989年]]以降には東欧諸国の政府、労働組合、使用者関係者との交流活動を開始したが、これは日本の労働以外の分野を合わせても、先駆け的な存在となり、日本企業が東欧への投資を行うにあたっての障害を未然に取り除く役割を果たした。
;日本企業の海外投資支援活動
[[1980年代]]半ば以降から活発化した日本企業の海外進出では、日本企業が日本国内の人事管理方式をそのまま海外に移植することで、現地の労働慣行と衝突し、問題を発生することが懸念された。これらの問題を未然に防ぐことを目的として、海外進出する日本企業に対して進出先の労働関係の情報を提供することや、進出先現地国の労使に対して日本企業の労使慣行に関する情報を提供するという両面にわたる情報提供活動を行った。
;外資系企業に対する情報提供活動
海外進出する日本企業と同様に、日本へ進出する[[外資系企業]]も日本国内の労働慣行と衝突することで問題を発生することが懸念された。これらの外資系企業に日本の労働慣行に関する情報を提供することで、問題を未然に防ぐという事業が展開された。
;国際労使関係学会
労使関係の国際的な学会である国際労使関係学会(IIRA)は、日本、[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ]]、[[大韓民国]]などが中心的な役割を演じているが、日本労働研究機構はIIRAにおいても中心的な役割を担ってきた。
;労働教育
日本の高校教育、大学教育では、就職支援活動を行うものの、[[解雇]]や[[労働条件]]など労働者個人としての権利に関する教育といった身を守るための[[労働法]]に関する教育、最低限知っておくべき労働市場や労働経済の教育はほとんど行われていない<ref name="EDU">{{Cite web|和書|url=http://www.nicer.go.jp/guideline/|title=学習指導要領|date=2008-7-25|language=日本語 |accessdate=2008年7月25日 |}}</ref>。これらの、労働法や労働経済などに加え、労使関係、労働行政に関する知識について、[[通信教育]]講座や座学を通じて労働教育事業を行ってきた<ref name="EDU2">{{Cite web|和書|url=http://www.jil.go.jp/institute/kokusai/documents/egami.pdf|title=「日本の労使関係と労働教育」|date=2004-5-28|language=日本語 |accessdate=2008年7月25日 |}}</ref>。
=== 労働政策研究・研修機構時代 ===
[[独立行政法人労働政策研究・研修機構法]](平成14年12月13日法律第169号)が制定され、一部の施行により、日本労働研究機構法が廃止された。平成15年10月1日からの施行により、日本労働研究機構が解散となり、独立行政法人労働政策研究・研修機構が発足した。
労働組合組織率の低下、金融[[規制緩和]]、労働問題の個別化の傾向など、労働問題の解決に政労使における調整よりも、自由な市場にゆだねるという政権の方針のなかで、日本労働研究機構の行っていた事業の中で、労使関係に類する事業は国内外にかかわらず大幅に縮小された。その結果、日本労働協会以来の基本的な柱としての政府、労働組合、使用者に中立とする理念が設置法から削除されることになった。同時期に、日本の使用者団体における労使関係の調整をリードしてきた日経連が事実上、[[日本経済団体連合会|経団連]]に吸収合併されることになった。労働政策研究・研修機構は労働省行政官の研修所と統合することで、研究と研修の融合に加え、これまでの政労使に中立な労働問題の総合的な情報提供、研究機関としての役割から、労働行政に資するための政策研究所として大幅に役割が縮小された。
平成17年末に行われた一連の独立行政法人改革の中で廃止法人候補としてあげられたものの、昭和33年以来、50年にわたる日本の労働問題に関する人的なネットワークまで含めた総本山的な役割が、これら労働問題に関する社会的な関心の高まりや労使関係の役割に対する見直しの機運の中、[[専門家]]や学識経験者、労働組合、使用者団体など幅広い層の支持を受けた署名活動などを背景に存続が支持されることとなった。
2006年9月、総合的職業情報データベース[[キャリアマトリックス]]による情報提供サービスを開始した。
===天下り問題 ===
2009年、「労働政策研究・研修機構」「高齢・障害者雇用支援機構」「雇用・能力開発機構」で、 参事や参与などの肩書きがついた計6つのポストに厚労省や財務省、総務省のOBが嘱託職員として雇用されていたことや、報酬が独立行政法人の嘱託職員の相場より高かったこと等が明らかにされた。
この問題が報じられた後、長妻昭厚労相(当時)は3法人の6ポストについて、年内に廃止することを発表した。<ref>[https://www.j-cast.com/2009/11/18054219.html?p=all 巧妙な「隠れ天下り」発覚 嘱託で入り年収1千万円 J-CASTニュース 2009年11月18日18時54分]</ref>
== 事業の見直し ==
[[2007年]](平成19年)12月の[[閣議 (日本)|閣議]]決定(独立行政法人整理合理化計画<ref name="H19kakugi">{{Cite web|和書|url=http://www.gyoukaku.go.jp/siryou/tokusyu/h191224/index_dokuhou.html|title=独立行政法人整理合理化計画|date=2007-12-24|last=行政改革推進本部事務局|authorlink=行政改革||language=日本語 |accessdate=2008年6月29日 }}(厚生労働省を参照)</ref>)において、以下の事業の見直しと効率化等を行うこととされた。
*研究内容を厳選し、[[民間企業]]や大学等が行う研究と重複しないようにすること。
*海外からの研究者等の招聘や海外派遣数を縮減し、労働政策研究に直接的に効果が高いものに重点化すること。
*[[労働基準監督官]]等の研修について、民間活用による効率化を図ること。
*[[労働大学校]]の施設の管理運営業務を、民間[[競争入札]]の対象とすること。
*職員研修の強化などにより、内部統制の徹底を図ること。
== 関連項目 ==
* [[若林亜紀]] - 元職員で[[フリージャーナリスト]]。日本労働研究機構に関して記述した『ホージンノススメ―特殊法人職員の優雅で怠惰な生活日誌』([[朝日新聞社]])を出版。
* [[小杉礼子]] - 統括研究員
* [[菅野和夫]] - 元理事長
== 脚注 ==
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<div class="references-small"><references /></div>
==外部リンク==
* [https://www.jil.go.jp/ 独立行政法人労働政策研究・研修機構]
* {{YouTube|u=jilptdouga}}
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[[category:独立行政法人 (厚労省所管)]]
[[Category:日本の労働行政]]
[[Category:東京都の研究所]]
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[[Category:2003年設立の組織]]
[[Category:練馬区の組織]]
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隅田川
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隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の岩淵水門で荒川から南へ分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
当川の河道は、古代より旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代に瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。
明治時代に現在の岩淵水門の地点より下流へ荒川放水路を東京湾まで開削した。1964年の河川法改正により、この放水路を荒川の本流と定めた。それに合わせて、以前の河道(岩淵水門から下流)は隅田川と定めた。
古代に、隅田川は、旧利根川と旧入間川とが現在の足立区千住曙町付近で一川へ合流し南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。その西岸に沿って南の浅草・鳥越まで3キロメートル続く細長い微高地が形成された(標高10メートル以下の丘も点在し、古墳時代に古墳が作られた)。
一川への合流点より下流へ1キロメートルの間(現在の水神大橋から白鬚橋まで)の東岸は隅田(墨田、須田)と呼ばれた。
合流点から2キロメートル下った墨田区向島5丁目北端付近より下流は砂州が散在する河口への分流地帯だった。東京湾へ注ぐ当時の主要河口河道は、この地点から分岐した二つがあり、南西の浅草(浅草湊)方向へ向かう現在の河道とは別に、横十間川の方向へ南東へ2キロメートル流れる河道があり、現在の横川・柳島(墨田区)と亀戸(江東区)との間付近で東京湾へ注いだ。ただし、後者の河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。
なお隅田川(および旧利根川)は後者の河口河道に至るまで武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)との当初の国境だった。
また南北2キロメートルの合流区間は両国間の交通接点として重要で、771年以降は武蔵国・下総国を経て常陸国へ至る東海道が通り隅田川を渡船で東岸の隅田へ渡った。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。
その後も、合流区間もしくは分流地帯の渡河は、武蔵国・相模国と下総国・常陸国とを繋ぐ(さらには平安時代まではさらに奥州へ赴く)重要交通路だった。例えば更級日記によれば菅原孝標一行が都への帰任の際に渡河し武蔵国へ入っている(寛仁4年〈1020年〉9月)。また鎌倉時代中期の「とはずがたり」(後深草院二条)によれば、隅田川に橋がかかっており、現地の人は隅田川を「須田川」と呼んでいたとある(正応3年、1290年)。
軍勢が通過した例は、前九年の役で奥州へ向かう源頼義、義家が通過した。治承・寿永の乱で鎌倉へ向かう源頼朝が通過し武蔵国へ入った。
江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川()とも呼ばれた。1629年(寛永6年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより隅田川の河道は荒川の本流となった。またこの頃に現在の河口への河道へほぼ一本化され、その西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運の重要地となった。横十間川の方向へ向かう流れへの分岐には牛嶋堤が築かれ最終的に締め切られた。
浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸などがあった。
神田川が瀬替えされ(本郷台地末端を開削)、東へ向かい隅田川へ合流するようになった(両国橋付近)。不忍池から流出する流れも、忍川と呼ばれ隅田川へ注ぐこととなった(鳥越の付近)。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称された。
関東大震災や東日本大震災などでは、大地震の影響で隅田川が逆流したとの記録もある。
古隅田川
隅田川の上流の古利根川の古い河道の一部はその後古利根川の本流が流れなくなったが、現在、古隅田川と呼ばれる二つの河川として河道が残っている。
隅田川派川()は分流であり、永代橋の下流で分岐して、相生橋の下流で晴海運河に注ぐまでの0.9キロメートルをいう。
江戸期において防備上の視点から架橋が制限されたこともあり、明治期ごろまでは多くの渡しによって両岸が結ばれていたが、交通量の増加に伴い次第に木橋などで架橋が進んだ。大正期の関東大震災でその多くが被害を受けたために、国の予算による震災復興事業として鋼橋に架け替えられた。政府は東京復興のシンボルとして隅田川の架橋を全体的な構想の下に実行し、復興事業の技術面での総帥であった帝都復興院土木局長の太田圓三の部下で同院橋梁課長だった田中豊により、統一的なデザインモチーフのもと、それぞれ異なる橋梁形式が採用された。さらに、自動車時代の幕開けとともにより多くの橋の建設が行われた。
それぞれが特徴のあるデザインとなっている(#画像参照)。なかでも、下流側に位置する永代橋と清洲橋が震災復興時に架け替えられたときは、永代橋を上に張り出すアーチ橋とし、清洲橋を吊橋形式にして際だった対比性を持たせ、構造技術面と環境デザイン面を両立させることに成功を収めている。近年では災害対策連絡橋を主とした橋や遊歩道的な歩行者専用橋なども架けられ、よりバリエーションが豊かになっている。徒歩で渡れるのは26橋で、上流から下流まで歩くと6時間ほどを要するとされる。
歩行者通行 ○ - 可能 × - 一般不可 ◆ - 歩行者専用
文学
歌
伝統芸能
絵画
ボート
コイやギンブナなどの淡水魚の他に、河口に近い下流部にサッパ・コノシロ・スズキ・ボラ・マハゼ・エイなどの汽水魚が生息している。また、冬になるとユリカモメが越冬のため飛来する。大正年間まではシラウオも生息していた。
吾妻橋より上流のテラス部分に水質浄化のためにアシ原が作られ、小さな干潟を形成し、クロベンケイガニや数多くの水生昆虫の生息地域となっている。また、白鬚橋上流に人工的に湾処(ワンド)が作られ、ボラ、スズキ、マハゼ、クロベンケイガニ、テナガエビが生息し、それらを餌とするコサギやカワウが飛来している。
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}
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隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の岩淵水門で荒川から南へ分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
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{{Otheruses||観世元雅による能楽作品|隅田川 (能)|永井荷風の小説|すみだ川}}
{{出典の明記| date = 2021年8月}}
<!---画像は上流から下流に向かって掲載--->
[[ファイル:Sumidagawa bridge.png|サムネイル|200ピクセル|隅田川流域図]]
[[ファイル:Sumida river01s2400.jpg|サムネイル|200ピクセル|[[晴海運河]]との分岐点である大川端。(隅田川は手前)]]
[[ファイル:JRE-Sobu-Line-Sumidagawa-Bridge-01.jpg|サムネイル|200ピクセル|両国橋より上流を望む]]
[[ファイル:The river mouth of Kanda-gawa River 2.jpg|サムネイル|200ピクセル|隅田川に注ぐ神田川]]
[[ファイル:sumidagawa01.jpg|サムネイル|200ピクセル|勝鬨橋から北側の眺め]]
[[ファイル:100 views edo 037.jpg|サムネイル|[[歌川広重]]]]
'''隅田川'''(すみだがわ)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]の[[岩淵水門]]で[[荒川 (関東)|荒川]]から南へ分岐し、[[東京湾]]に注ぐ全長23.5[[キロメートル]]の[[一級河川]]である<ref name="arakawa">{{Cite web|和書|url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/temporary/content3/000007325.pdf |title=荒川水系隅田川流域河川整備計画 | publisher =東京都 |accessdate=2021/12/24}}</ref>。途中で[[新河岸川]]・[[石神井川]]・[[神田川 (東京都)|神田川]]・[[日本橋川]]などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
== 流域の自治体 ==
;埼玉県
:[[川口市]]
;東京都
:[[北区 (東京都)|北区]]、[[足立区]]、[[荒川区]]、[[墨田区]]、[[台東区]]、[[江東区]]、[[中央区 (東京都)|中央区]]
== 歴史 ==
当川の河道は、古代より旧[[入間川 (埼玉県)|入間川]]が[[東京湾]]へ注ぐ下流部だったが、[[江戸時代]]に[[瀬替え]]の結果、[[荒川 (関東)|荒川]]の[[本流]]が流れた。
[[明治時代]]に現在の岩淵水門の地点より下流へ荒川放水路を東京湾まで開削した。1964年の河川法改正により、この放水路を荒川の本流と定めた。それに合わせて、以前の河道(岩淵水門から下流)は隅田川と定めた<ref name="arakawa" />。
===古代・中世===
古代に、隅田川は、旧[[古利根川|利根川]]と旧[[入間川 (埼玉県)|入間川]]とが現在の[[足立区]][[千住曙町]]付近<ref group="注釈">[[水神大橋]]より上流300[[メートル]]の地点。</ref>で一川へ合流し南流して[[東京湾]]へ注ぐ河道を指した。その西岸に沿って南の浅草・鳥越まで3キロメートル続く細長い微高地<ref group="注釈">石浜の地名が残る。</ref>が形成された(標高10[[メートル]]以下の丘も点在し、[[古墳時代]]に古墳が作られた<ref group="注釈">待乳山、浅草弁天山、鳥越など</ref><ref group="注釈">さらにその西側の上野台地との間は江戸時代に埋め立てられるまでは沼沢地だった(千束池、姫ヶ池)。</ref>)。
一川への合流点より下流へ1キロメートルの間(現在の[[水神大橋]]から[[白鬚橋]]まで)の東岸は'''[[隅田町|隅田]]'''([[墨田]]、須田)と呼ばれた<ref group="注釈">隅田川東岸が[[下総国]][[葛飾郡]](隅田、寺島、小村井、亀戸島など)だった。</ref><ref group="注釈">西岸は江戸時代に橋場と呼ばれた。</ref>。
合流点から2キロメートル下った[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]5丁目北端付近<ref group="注釈">[[桜橋_(東京都)|桜橋]]より上流500メートルの地点。</ref>より下流は砂州が散在する河口への[[派川|分流]]地帯だった<ref group="注釈">[[牛嶋]]、請地(浮地)、[[柳島]]などの[[中洲]]があった(どれも[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]に属した)。[[牛嶋]]は浅草・柳橋の対岸に2キロメートル以上細長く延び、現在の墨田区[[横網]]から古墳時代の壺が出土している。</ref>。東京湾へ注ぐ当時の主要河口河道は、この地点から分岐した二つがあり、南西の[[浅草]]([[浅草湊]])方向へ向かう現在の河道<ref group="注釈">縄文時代までの旧[[古利根川|利根川]]が現在の東京湾へ注ぐ主河道であり、[[澪筋]]が海底に残る。</ref>とは別に、[[横十間川]]の方向へ南東へ2キロメートル流れる河道があり、現在の横川・[[柳島]](墨田区)と[[亀戸]](江東区)との間付近で東京湾へ注いだ<ref>谷口栄「低地の景観と開発」『水の中世 治水・環境・支配』(高志書院、2013年)</ref>。ただし、後者の河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった<ref group="注釈">請地村飛木稲荷はこの河道の中洲に当たる。</ref>。
なお隅田川(および旧[[古利根川|利根川]])は後者の河口河道に至るまで[[武蔵国]]([[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]])と[[下総国]]([[葛飾郡]])との当初の国境だった<ref group="注釈">この[[下総国]]と[[武蔵国]]の国境を流れる旧[[古利根川|利根川]]の河道は、現在の[[古利根川]]の[[埼玉県]][[加須市]]琴寄、川口より下流、埼玉県[[春日部市]]の[[古隅田川]]、[[越谷市]]の[[元荒川]]、[[三郷市]]・[[八潮市]]の[[中川]]、東京都足立区・葛飾区境界の[[古隅田川]]、足立区・墨田区境界の旧綾瀬川であり、部分的に「隅田川」の名が残っている。その後、荒川瀬替え後の[[1683年]]([[貞享]]3年)もしくは一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]]-[[1643年]])に[[下総国]]と[[武蔵国]]の国境が変更された。</ref><ref group="注釈">埼玉県の古隅田川も併せて考えると、「隅田川」とは、古くは旧[[利根川]]が春日部付近から南流し旧入間川と合流し[[東京湾]]へ注ぐまでを指していたらしい。</ref>。
また南北2キロメートルの合流区間は両国間の交通接点として重要で、771年以降は[[武蔵国]]・[[下総国]]を経て[[常陸国]]へ至る[[東海道]]が通り[[隅田川の渡し#橋場の渡し|隅田川を渡船]]で東岸の[[隅田町|隅田]]へ渡った<ref group="注釈">江戸時代の[[隅田川の渡し#橋場の渡し|橋場の渡し]]。</ref>。[[835年]]([[承和 (日本)|承和]]2年)の[[太政官符]]に「'''住田河'''」として記されており、「'''[[宮戸川]]'''」などとも呼称されていた。
その後も、合流区間もしくは分流地帯の渡河は、武蔵国・相模国と下総国・常陸国とを繋ぐ(さらには平安時代まではさらに奥州へ赴く<ref group="注釈">なお鎌倉時代以降になると、奥州へ向かうには、『[[吾妻鏡]]』によれば、[[岩渕]]から[[川口]]へ旧[[入間川 (埼玉県)|入間川]]を渡り北上する[[鎌倉街道#中路および奥大道]](後に[[日光御成道]])の経路が使われている。</ref>)重要交通路だった<ref group="注釈">[[伊勢物語]](東下りの段)で主人公が赴いている。</ref>。例えば[[更級日記]]によれば[[菅原孝標]]一行が都への帰任の際に渡河し武蔵国へ入っている([[寛仁]]4年〈1020年〉9月)。また鎌倉時代中期の「[[とはずがたり]]」([[後深草院二条]])によれば、隅田川に橋がかかっており、現地の人は隅田川を「須田川」と呼んでいたとある([[正応]]3年、1290年)。
軍勢が通過した例は<ref group="注釈">[[日本武尊]]の一行が渡河した伝説も当地に伝わっている。</ref>、[[前九年の役]]で奥州へ向かう源頼義、義家が通過した。[[治承・寿永の乱]]で鎌倉へ向かう源頼朝が通過し武蔵国へ入った<ref group="注釈">[[治承]]4年〈1180年〉10月2日に隅田に宿泊)。</ref>。
;中世以前の河口付近の河道
:徳川家康入府以前、[[首都高速6号向島線]][[向島出入口|向島入口]]付近からは、現在の鳩の街通り商店街と地蔵坂通り商店街を土手とする(それぞれかつては鷭土手、鶴土手と呼ばれた。)分流が流れ、現[[曳舟駅]]付近を経由して、その先[[押上]]付近までにさらに3手に分かれ、[[大横川]]、[[横十間川]]、[[北十間川]]にほぼ添う形の河川があったとされている。これらの河川と宮戸川・浅草川とも呼ばれた現在の隅田川下流のいずれが本流にあたるのかは現在判明しておらず、また『北条氏所領役帳』に見られる江戸地域と[[葛西]]地域の区分は、現在の隅田川ではなく分流のいずれかが境界線になる<ref>『特別展 隅田川流域の古代・中世世界 水辺から見る江戸東京前史』の図録本(足立区立郷土博物館, すみだ郷土文化資料館, 宮本記念財団編、2007)では、現隅田川を宮戸川(別称ではなく正式名称として)、分流を(中世の)隅田川と位置づけ、中世においてはこの定義での隅田川(最下流は横十間川付近の河口)を国境としている(関連リンク [http://www.edo-tomo.jp/jetm/jetm52/jetm52-2.html#jt52202 中世から江戸初期にかけての隅田川 - 消えた隅田川]/ [http://homepage3.nifty.com/nqe50897/skytree/ スカイツリー634m 一考 - 武蔵・下総の国境、隅田川])。</ref>。
===江戸時代===
江戸時代に入ると、[[吾妻橋]]周辺より下流は{{読み仮名|'''大川'''|おおかわ}}とも呼ばれた<ref group="注釈">今でも[[古典落語]]などでは「大川」が出てくる。また、大川右岸、特に吾妻橋周辺から[[佃 (東京都中央区)|佃]]周辺までを{{読み仮名|'''大川端'''|おおかわばた}}と称する。今でも[[佃 (東京都中央区)|佃]]に、[[大川端リバーシティ21]]にその名が残る。</ref>。[[1629年]]([[寛永]]6年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより隅田川の河道は荒川の[[本流]]となった。またこの頃に現在の河口への河道へほぼ一本化され、その西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える[[舟運]]の重要地となった。横十間川の方向へ向かう流れへの分岐には[[牛嶋]]堤が築かれ最終的に締め切られた。
浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸などがあった。
[[神田川 (東京都)|神田川]]が瀬替えされ(本郷台地末端を開削)、東へ向かい隅田川へ合流するようになった([[両国橋]]付近)。[[不忍池]]から流出する流れも、[[忍川 (台東区)|忍川]]と呼ばれ隅田川へ注ぐこととなった([[鳥越 (台東区)|鳥越]]の付近)。
===明治以降===
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの[[荒川放水路]]が開削され、[[1965年]][[3月24日]]に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は<!--、千住大橋付近より下流部の俗称であった-->「隅田川」に改称された<ref group="注釈">荒川に面せず、隅田川に面している荒川区が「荒川」の名を持つのは、こうした事情による。</ref>。
[[関東大震災]]や[[東日本大震災]]などでは、大地震の影響で隅田川が逆流したとの記録もある。
'''古隅田川'''
{{main|古隅田川}}
隅田川の上流の[[古利根川]]の古い河道の一部はその後古利根川の本流が流れなくなったが、現在、古隅田川と呼ばれる二つの河川として河道が残っている。
# [[埼玉県]][[さいたま市]][[岩槻区]]南平野で[[元荒川]]から分かれ[[春日部市]]梅田で[[古利根川]]に合流する河川
# 東京都[[葛飾区]]亀有<!--[[足立区]]中川-->付近で[[中川]]から西へ分かれ[[葛飾区]][[小菅 (葛飾区)|小菅]]で[[綾瀬川]]に合流する河川<ref group="注釈">足立区と葛飾区の境界を流れ、現在は多くの区間が暗渠化されている</ref><!--が'''古隅田川'''(ふるすみだがわ)と呼ばれている。東京都の古隅田川は足立区と葛飾区の境界となっており、古くは現在の「隅田川」区間とともに武蔵国と下総国の境界の一部を構成していた。-->
<!--{{quotation|「'''川蒸気'''」
明治18年(1885)、隅田川汽船株式會社によって、吾妻橋と永代橋の間に蒸気船が運航を始めた。船体が白色だったので白蒸気と、一区一銭という値段から一銭蒸気と、また、焼き玉エンジン特有のポンポンという音からポンポン蒸気ともいわれ庶民に親しまれた。33年(1900)に千住吾妻滊船株式會社が設立され、船体を青色に塗った青蒸気といわれた蒸気船が、吾妻橋と千住の間を往復した。「此切符本日限り 千住吾妻滊船株式會社」「自吾妻橋 至小松島 金參錢 通行税壹錢」と書かれた、川蒸気の乗船切符の表、裏が書き写されている。|清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「川蒸気」より抜粋<ref name="tokyomeibutsu-hyakunin">清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「川蒸気」国立国会図書館蔵書、2018年2月19日閲覧</ref>}}-->
<!--;高規格堤防
昭和60年代よりカミソリ堤防から[[高規格堤防]]などに整備されており、水辺環境の改善が行われている。-->
== 隅田川派川 ==
{{読み仮名|'''隅田川派川'''|すみだがわはせん}}は[[分流]]であり、永代橋の下流で分岐して、相生橋の下流で[[晴海運河]]に注ぐまでの0.9キロメートルをいう<ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasenseibikeikaku/pdf/sumidagaiyou.pdf 東京都建設局・隅田川はどんな川?]</ref>。
== 橋梁 ==
{{座標一覧|article=Category:隅田川の橋}}
江戸期において防備上の視点から架橋が制限されたこともあり、明治期ごろまでは多くの[[隅田川の渡し|渡し]]によって両岸が結ばれていたが、交通量の増加に伴い次第に木橋などで架橋が進んだ。大正期の[[関東大震災]]でその多くが被害を受けたために、国の予算による[[震災復興再開発事業#関東大震災|震災復興事業]]として鋼橋に架け替えられた。政府は東京復興のシンボルとして隅田川の架橋を全体的な構想の下に実行し、復興事業の技術面での総帥であった帝都復興院土木局長の[[太田圓三]]の部下で同院橋梁課長だった[[田中豊 (技術者)|田中豊]]により、統一的なデザインモチーフのもと、それぞれ異なる橋梁形式が採用された{{sfn|武部健一|2015|p=171}}。さらに、自動車時代の幕開けとともにより多くの橋の建設が行われた。
それぞれが特徴のあるデザインとなっている([[#画像]]参照)。なかでも、下流側に位置する[[永代橋]]と[[清洲橋]]が震災復興時に架け替えられたときは、永代橋を上に張り出す[[アーチ橋]]とし、清洲橋を[[吊橋]]形式にして際だった対比性を持たせ、構造技術面と環境デザイン面を両立させることに成功を収めている{{sfn|武部健一|2015|pp=171–172}}。近年では災害対策連絡橋を主とした橋や遊歩道的な歩行者専用橋なども架けられ、よりバリエーションが豊かになっている。徒歩で渡れるのは26橋で、上流から下流まで歩くと6時間ほどを要するとされる<ref>[https://withnews.jp/article/f0200109000qq000000000000000W05910101qq000020344A 隅田川の「歩ける橋」をぜんぶ渡る]朝日新聞社withnews</ref>。
=== 橋梁一覧 ===
'''歩行者通行'''
○ - 可能
× - 一般不可
◆ - 歩行者専用
{|class="wikitable" style="font-size:small"
! !!橋梁名!!並列路線!!自治体<br />([[特別区|区]] - 区)</small>!!備考
|-
|colspan="5"|'''[[荒川 (関東)|荒川]]より分岐'''
|-
|colspan="5"|'''[[新河岸川]]合流'''
|-
|○||[[新神谷橋]]||[[東京都道318号環状七号線|東京都道318号環状七号線(環七通り)]]||[[北区 (東京都)|北]] - [[足立区|足立]]||
|-
|○||[[新田橋 (東京都)|新田橋]]|| ||北 - 足立||
|-
|○||[[新豊橋]]|| ||北 - 足立||
|-
|○||[[豊島橋]]||[[東京都道・千葉県道501号王子金町市川線|東京都道501号王子金町市川線]]||北 - 足立||
|-
|×||首都高速中央環状線橋梁|| ||北 - 足立||<small>[[首都高速中央環状線]]用の橋梁</small>
|-
|colspan="5"|'''[[石神井川]]合流'''
|-
|○||[[小台橋]]||[[東京都道458号白山小台線|東京都道458号白山小台線(小台通り)]]||nowrap|[[荒川区|荒川]] - 足立||
|-
|○||[[尾久橋]]||[[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|東京都道58号台東川口線]](尾久橋通り)||荒川 - 足立||
|-
|×||[[隅田川橋梁 (東京都交通局日暮里・舎人ライナー)|日暮里・舎人ライナー隅田川橋梁]]|| ||荒川 - 足立||<small>[[東京都交通局]]<span style="color:hotpink">■</span>[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]</small>
|-
|○||[[尾竹橋]]||[[東京都道313号上野尾竹橋線]]([[尾竹橋通り]])||荒川 - 足立||
|-
|×||<s>上水千住水管橋</s>|| ||荒川 - 足立||<small>[[東京都水道局]]の上水管。老朽化と耐震性問題により2013年5月に撤去。</small>
|-
|×||[[隅田川橋梁 (京成本線)|京成本線隅田川橋梁]]|| ||荒川 - 足立||<small>[[京成電鉄]] <span style="color:blue">|</span><span style="color:red">|</span> [[京成本線|本線]]用の橋梁</small>
|-
|×||<s>[[東京電力荒川専用橋|東京電力送電橋]]</s>|| ||荒川 - 足立||<small>[[東京電力パワーグリッド]]の送電用。耐震性問題により2021年に撤去。</small>
|-
|×||千住水管橋|| ||荒川 - 足立||<small>東京都水道局の工業用水管</small>
|-
|○||[[千住大橋]]||[[国道4号]]([[日光街道]])||荒川 - 足立||
|-
|×||[[隅田川橋梁 (常磐線)|常磐線隅田川橋梁]]|| ||荒川 - 足立||<small>[[東日本旅客鉄道|JR]] <span style="color:seagreen">|</span><span style="color:blue">|</span> [[常磐線]]用の橋梁</small>
|-
|×||[[隅田川橋梁 (首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス)|つくばエクスプレス隅田川橋梁]]|| ||荒川 - 足立||<small><span style="color:blue">'''''TX'''''</span>[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]用の橋梁</small>
|-
|×||[[隅田川橋梁 (東京メトロ日比谷線)|日比谷線隅田川橋梁]]|| ||荒川 - 足立||<small>[[東京地下鉄]]<span style="color:#9caeb7">'''○'''</span>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]用の橋梁</small><ref group="注釈">隅田川を渡る鉄道路線では唯一の地下鉄路線である。</ref>
|-
|○||[[千住汐入大橋]]||[[東京都道314号言問大谷田線]](川の手通り)||荒川 - 足立||
|-
|colspan="5"|'''[[旧綾瀬川]]合流'''
|-
|○||[[水神大橋]]||[[東京都道461号吾妻橋伊興町線]]支線||荒川 - [[墨田区|墨田]]||
|-
|○||[[白鬚橋]]||[[東京都道306号王子千住夢の島線]]([[明治通り (東京都)|明治通り]])||[[台東区|台東]] - 墨田||
|-
|◆||[[桜橋 (東京都)|桜橋]]|| ||台東 - 墨田||
|-
|○||[[言問橋]]||[[国道6号]]・[[東京都道319号環状三号線]]([[言問通り]])||台東 - 墨田||
|-
|○||[[隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)|東武花川戸鉄道橋]]<br />[[隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)#すみだリバーウォーク|すみだリバーウォーク]]|| ||台東 - 墨田||<small>[[東武鉄道]]<span style="color:#0f6cc3">■</span>[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)用の橋梁<br />歩行者専用橋「すみだリバーウォーク」を併設</small>
|-
|colspan="5"|'''[[北十間川]]合流'''
|-
|○||[[吾妻橋]]||[[東京都道463号上野月島線]]支線([[雷門通り]])||台東 - 墨田||
|-
|○||[[駒形橋]]||[[東京都道463号上野月島線]]([[浅草通り]])||台東 - 墨田||
|-
|○||[[厩橋]]||[[東京都道453号本郷亀戸線]]([[春日通り]])||台東 - 墨田||
|-
|○||[[蔵前橋]]||[[東京都道315号御徒町小岩線]]([[蔵前橋通り]])||台東 - 墨田||
|-
|×||[[蔵前専用橋]]|| ||台東 - 墨田||<small>[[日本電信電話|NTT]]電話通信線・東京都水道局の水道管</small>
|-
|×||[[隅田川橋梁 (総武本線)|総武線隅田川橋梁]]|| ||台東 - 墨田||<small>JR<span style="color:#FFD400">■</span>[[総武本線|総武線]]用の橋梁</small>
|-
|colspan="5"|'''[[神田川 (東京都)|神田川]]合流'''
|-
|○||[[両国橋]]||[[国道14号]]([[京葉道路]])||[[中央区 (東京都)|中央]] - 墨田||
|-
|colspan="5"|'''[[竪川 (東京都)|竪川]]合流'''
|-
|×||[[両国大橋]]||[[両国ジャンクション]]||中央 - 墨田||<small>[[首都高速6号向島線]]・[[首都高速7号小松川線|7号小松川線]]用の橋梁</small>
|-
|○||[[新大橋]]||[[東京都道・千葉県道50号東京市川線|東京都道50号東京市川線(新大橋通り)]]||中央 - [[江東区|江東]]||
|-
|colspan="5"|'''[[小名木川]]合流'''
|-
|○||[[清洲橋]]||[[東京都道474号浜町北砂町線]]([[清洲橋通り]])||中央 - 江東||
|-
|colspan="5"|'''[[仙台堀川]]合流'''
|-
|○||[[隅田川大橋]]||[[水天宮通り]]・[[首都高速9号深川線]]||中央 - 江東||
|-
|colspan="5"|'''[[日本橋川]]合流'''
|-
|○||[[永代橋]]||[[東京都道・千葉県道10号東京浦安線|東京都道10号東京浦安線]]([[永代通り]])||中央 - 江東||
|-
|colspan="5"|'''[[大横川]]合流'''
|-
|○||[[相生橋 (東京都)|相生橋]]||[[東京都道463号上野月島線]]([[清澄通り]])||中央 - 江東||
|-
|○||[[中央大橋]]||[[東京都道463号上野月島線]]支線([[八重洲通り]])||中央 - 中央||
|-
|colspan="5"|'''[[亀島川]]合流'''
|-
|colspan="5"|'''[[佃川支川]]に分流'''
|-
|○||[[佃大橋]]||[[東京都道473号新富晴海線]](佃大橋通り)||中央 - 中央||
|-
|colspan="5"|'''[[月島川]]に分流'''
|-
|○||[[勝鬨橋]]||[[東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線]]([[晴海通り]])||中央 - 中央||
|-
|colspan="5"|'''[[新月島川]]に分流'''
|-
|○||[[築地大橋]]||[[東京都道・千葉県道50号東京市川線|東京都道50号東京市川線]]支線([[東京都市計画道路幹線街路環状第2号線|環二通り]])||中央 - 中央||
|-
|colspan="5"|'''[[東京湾]]に流水'''
|}
== 隅田川を舞台・背景とした作品 ==
'''文学'''
*[[伊勢物語]] - [[在原業平]]の作と伝えられる(「名にしをはば、いざ言問はむ都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と[[ユリカモメ|百合鴎]]を詠う)。[[平安時代]]初期。
*[[更級日記]] - [[菅原孝標女]]の[[日記]]。[[1020年]]([[寛仁]]4年)に父の赴任先の[[市原市|上総国府]]から京へ戻る途中、隅田川を渡る際の様子を描写。
*「ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし」(『[[玉葉和歌集]]』旅歌・1149) - [[二条為子]]([[二条派]]歌人・尊治親王([[後醍醐天皇]])妃)による和歌。[[江戸時代]]に、隅田川の歌として江戸っ子の間で著名だった([[二条為子#すみだ河]])。
*すみだ川 - [[永井荷風]]の小説。[[1911年]]。
*[[長命寺 (墨田区)|長命寺]]にある[[野口雨情]]の詩。[[1933年]] ‐ 「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」。
*[[幸福号出帆]] - [[三島由紀夫]]の小説。[[1955年]]
*[[トランプ台上の首]] - [[横溝正史]]の推理小説。[[1957年]]
*[[貸しボート十三号]] - 横溝正史の推理小説。1957年
'''歌'''
*[[Creepy Nuts]]『のびしろ』2021年。アルバム「Case」収録
*[[飯塚まもる]]『隅田川』2017年。シングル「ディスタンス」収録
*[[飯塚まもる]]『Sumidagawa』2011年。アルバム「My Songs」収録
*[[城之内早苗]]『隅田川』2000年。
*[[島倉千代子]]『すみだ川』1969年。
*[[東海林太郎]]『すみだ川』1937年。
*唱歌『[[花 (瀧廉太郎)|花]]』 - [[武島羽衣]]作詞、[[瀧廉太郎]]作曲。[[1900年]]。
'''伝統芸能'''
*能曲
**『[[隅田川 (能)|隅田川]]』
*歌舞伎
*:[[歌舞伎]]や[[人形浄瑠璃]]に登場する「[[稲瀬川 (神奈川県)|稲瀬川]]」は隅田川に見立てている場合が多い。これは[[江戸幕府]]をはばかって、物語の舞台を江戸から[[鎌倉]]へ置き換えているためである。
**『[[都鳥廓白波]]』(忍の惣太)
**『[[隅田川花御所染]]』(女清玄)
**『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)
**『[[花街模様薊色縫]]』(十六夜清心)
**『[[八幡祭小望月賑]]』(縮屋新助)
**『[[桜姫東文章]]』
*落語
**「[[文七元結]]」- 文七が吾妻橋から身を投げようとする場面がある
**「[[唐茄子屋政談]]」- 吾妻橋から身投げしようとした若旦那が叔父に助けられる
**「[[たがや]]」- 川開きの花火でごった返している両国橋の上が噺の舞台
**「永代橋」- 実際にあった落橋事故を題材にした粗忽噺
'''絵画'''
*[[隅田川絵巻]] - [[藤牧義夫]]作。1935年、失踪直前に描かれた大作。川沿いの景色をひたすら横へ横へと写しつづけ、全長は60[[メートル]]に及ぶ。
== 隅田川で行われたイベント・競技大会 ==
'''ボート'''
*[[早慶レガッタ]] - 1905年-1961年、1978年-。
*ヘンリー・レガッタ・ジャパン - 1990年-1992年。東京都ボート協会主管。[[ヘンリー・ロイヤル・レガッタ]]のシスター・レース。<ref>[http://tara.or.jp/wp-content/uploads/2018/07/enkaku.pdf (社)東京都ボート協会 設立以来の歩み]一般社団法人 東京ボート協会 2022年6月18日閲覧</ref>
*ウォーターフェア・隅田川レガッタ - 1981年-2014年<ref>[https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h11/waterfair.html ウォーターフェア・隅田川レガッタ開催記念展]墨田区 2022年6月18日閲覧</ref>。
== 生物 ==
[[ファイル:Sumidagawa-River08080802.jpg|サムネイル|200ピクセル|白鬚橋上流に設けられた湾処]]
[[コイ]]や[[ギンブナ]]などの[[淡水魚]]の他に、河口に近い下流部に[[サッパ]]・[[コノシロ]]・[[スズキ (魚)|スズキ]]・[[ボラ]]・[[マハゼ]]・エイなどの[[汽水魚]]が生息している。また、冬になると[[ユリカモメ]]が越冬のため飛来する[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/ikimono2/ikimono/sumida/sumida.htm]。大正年間までは[[シラウオ]]も生息していた<ref>下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』(河出書房新社刊、2003年11月30日) 317頁 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
吾妻橋より上流のテラス部分に水質浄化のために[[ヨシ原|アシ原]]が作られ、小さな[[干潟]]を形成し、[[ベンケイガニ|クロベンケイガニ]]や数多くの[[水生昆虫]]の生息地域となっている。また、白鬚橋上流に人工的に[[湾処]](ワンド)が作られ、ボラ、スズキ、マハゼ、クロベンケイガニ、[[テナガエビ]]が生息し、それらを餌とする[[コサギ]]や[[カワウ]]が飛来している。{{-}}
== 画像 ==
{{Wide image|20080317-JPN140-Sumida-Tsukiji-more.jpg|500px|聖路加タワーから見た隅田川の河口}}
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ファイル:iwabuchi suimon blue.jpg|新岩淵水門(青水門)
ファイル:iwabuchi suimon red.jpg|旧岩淵水門(赤水門)
ファイル:Shintoyohashi.JPG|新豊橋
ファイル:Toshimahashi -01.jpg|豊島橋
ファイル:尾竹橋01.jpg|尾竹橋
ファイル:Senjyu ohashi.jpg|千住大橋
ファイル:Senju-Shioiri Bridge across the Sumida riv..JPG|千住汐入大橋
ファイル:Suijin-ohashi bridge 水神大橋 (3476878102).jpg|水神大橋
ファイル:Shirahigebashi-Aug2005.jpg|白鬚橋
ファイル:Kototoi-bashi bridge.jpg|言問橋
ファイル:Sakurabashi-2005.jpg|桜橋
ファイル:toubutetsudou.jpg|東武花川戸鉄道橋
ファイル:adumabashi.jpg|吾妻橋
ファイル:komagatabashi.jpg|駒形橋
ファイル:mikuriyabashi.jpg|厩橋
File:Kuramae Bridge_20050520.jpg|蔵前橋
ファイル:JRE-Sobu-Line-Sumidagawa-Bridge-03.jpg|総武線隅田川橋梁
ファイル:Ryougokubashi.jpg|両国橋
ファイル:Ryogoku ohashi bridge1.jpg|両国大橋
ファイル:Shinohashi bridge Tokyo.jpg|新大橋
ファイル:Kiyosubashi1.jpg|清洲橋
ファイル:Sumidagawa Ohashi.jpg|隅田川大橋
ファイル:EitaiBridge NightView.jpg|永代橋
ファイル:Aioi Bridge(Tokyo) in 2007.jpg|相生橋
ファイル:Sumida river04s2100.jpg|中央大橋
ファイル:Tsukuda ohashi.jpg|佃大橋
ファイル:Tsukiji buildings.jpg|勝鬨橋
ファイル:Tsukiji Bridge.jpg|築地大橋
ファイル:Sumida river02s3072.jpg|隅田川テラス(新川より)
ファイル:SumidagawaRiverKachidokibashi1.JPG|隅田川 夕景(勝鬨橋付近より)
ファイル:Ogasawaramaru at Takeshiba pier.JPG|河口部と[[東京港|竹芝桟橋]]
ファイル:Tsukudajima no watashi.jpg|佃の渡し碑
ファイル:Kachidoki no watashi.jpg|勝鬨の渡し碑
ファイル:Yamanosyuku no watashi.jpg|山の宿の渡し碑
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |date=2015-5-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[隅田川橋梁群]]
* [[隅田川の渡し]]
* [[隅田川テラス]]
* [[隅田川花火大会]]
* [[パンの会]]
* [[荒川堤]]
* [[大川端リバーシティ21]]
* [[水上バス]]
* [[築地川]]
* [[セーヌ川]] - 1988年より東京都とパリ市が友好河川として提携
* [[四万十川]] - 1989年より友好河川
== 外部リンク ==
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* [https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/river/kankyo/ryuiki/09/sumida-title.html 隅田川流域連絡会] - 東京都建設局
* [https://twitter.com/SumidaTerrace 隅田川テラス公式Twitter]
* {{Kotobank}}
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[[Category:隅田川|*]]
[[Category:東京都の河川]]
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[[Category:東京都の観光地]]
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麻薬
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麻薬(まやく、英語: narcotic、痲薬とも)とは、通常はモルヒネやヘロインのようなケシから生成される麻薬性鎮痛薬のオピエートやオピオイドを指すが(定義1)、法律上の用語として、法律で規制された薬物を指して用いられることもある用語である(定義2)。アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む。日本ではさらに麻薬及び向精神薬取締法(麻薬取締法)における、「日本の法律上の麻薬」の語が、それらとも異なって使用されている(定義3)。薬物全般は薬物 (drug) を参照。
国際的には向精神薬であるLSDのような幻覚剤の多くは「日本の法律上の麻薬」であり、一方で大麻は大麻取締法、覚醒剤は覚醒剤取締法が別個に規制する。したがって、致死性、依存性の有無、身体的な離脱症状を生じる身体的依存の有無、離脱症状が致命的となるか否かの異なった薬物が、その含有する意味合いにより異なって含まれてくる、そうした薬物の総称である。医師などによる適正な投与以外の使用は禁止されている。医療目的における用途は鎮痛が多い。
依存性や致死性の高いアヘンやコカインなどの麻薬は、国際協力の元で厳しく規制されている。従来、白人の植民地主義によるアヘン売買が問題となり、1912年には万国阿片条約が公布された。条約に並行して、同種でより強力なバイエル社の医薬品ヘロインが出回ったがこれも1920年代には厳しく扱われる。1961年の麻薬に関する単一条約が先の条約を引き継いだが、欧米で再び密造のヘロインが流通し、敵対勢力が生産したものだが、当のアメリカ合衆国の中央情報局が流通に関わり秘密資金としていることも明らかとされた。このようにして、1971年にアメリカのニクソン大統領が、麻薬戦争(薬物戦争)を宣言した。規制されていることで多額の利益を上げるものとなっており、反政府勢力や私兵組織、テロリストなどが生産に関わり、集団犯罪組織である暴力団、黒社会、ギャング、マフィアなどが流通させ、重要な資金源となった。
世界保健機関 (WHO) の用語集では、麻薬(narcotic)の語は昏迷・昏睡、痛みに対する無感覚を誘発する化学物質で、通常は麻薬性鎮痛薬のオピエートやオピオイドを指すが、法律上の用語として他の薬物を指す場合があるため、より具体的な意味を持つオピオイドの用語を用いている。麻薬(narcotic)の語は、規制された薬物を指して用いられる場合もあり、アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む。国際条約としての規制の根拠は、1961年の麻薬に関する単一条約である。
Narcotics の日本語の翻訳として麻薬があてられた。痲薬とも書くが、1949年(昭和24年)の当用漢字制定以降は、表記は「麻薬」に統一されている。
歴史上かつ医学上の麻薬の定義で、麻酔薬のアヘン類のことを指す。
アヘン剤とは、モルヒネ、ヘロイン、コデインなど、ケシの実から抽出されるアルカロイドを合成したオピオイド系の薬物のことである。昏迷状態を引き起こす抑制薬であり、酩酊、多幸感などをもたらす一方、強力な依存性があり、急速に耐性を形成し、身体的な離脱症状を生じる身体依存を形成する。とりわけ作用量と致死量が近い薬物で危険性が高い。
1912年の万国阿片条約から、1961年の麻薬に関する単一条約による麻薬の定義で、医学的な定義に大麻とコカインを追加したものである。国際的な定義である。
1912年の万国阿片条約では、アヘンやモルヒネ、またコカイン、またこれらと同様の害悪を引き起こす物質を規制した。その後、この条約が1925年に改定された時に、アジアやアフリカなど大麻の使用習慣のある国が消極的であったが、エジプトの提案でインド大麻も規制に追加された。第二次世界大戦を経て国際連盟が解体し、引き継ぐ国際連合による1961年の麻薬に関する単一条約(Single Convention on Narcotic Drugs)によって、同じような分類で麻薬―Narcotics―が国際的な管理下に置かれた。さらに、後続の国際条約である1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約(Convention Against Illicit Traffic in Narcotic Drugs and Psychotropic Substances)の、第1条n項において、「麻薬」とは1961年の条約にて指定されたものであると定義されている。
大麻の鎮痛作用はモルヒネなどより弱いが、致死量は不明であり、身体依存はなく離脱症状も軽度であり、有害性の異なった薬物である。またコカインはオピオイドや大麻とも異なり、興奮作用がある精神刺激薬であるが、注射部位に局所麻酔作用がある。
日本の法律上の便宜による、麻薬及び向精神薬取締法(現通称および旧名: 麻薬取締法)における「麻薬」の定義。
まず日本では、大麻は繊維産業があったことから1948年に別個に大麻取締法を制定しており、戦後に乱用が問題となった覚醒剤類は覚醒剤取締法にて規制されている。1970年には麻薬取締法にLSDを追加し、日本の法律上の麻薬はほとんどが幻覚剤になっているとされる。日本では、向精神薬に関する条約の付表Iの、そのほとんどが幻覚剤であるものを、「日本の法理上は」麻薬としているということである。
この背景を詳しく説明すると、1961年の国際条約以降に乱用された薬物を規制するための、1971年の向精神薬に関する条約(Convention on Psychotropic Substances)が登場した。LSDのような幻覚剤や、覚醒剤やバルビツール酸系やベンゾジアゼピン系の抗不安睡眠薬が国際的な管理下に置かれた。向精神薬に関する条約において、医療的な価値がないとみなされた幻覚剤のような薬物は付表(スケジュール)Iに、それ以外の覚醒剤や睡眠薬は危険性により付表II以下に指定されている。後続する1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約の第1条r項において、「向精神薬」とは1971年の条約の付表Iから付表IVまでの物質であると定義されている。すべて「国際条約上は」向精神薬である。
付表Iの物質は、欧州議会の報告書によれば次のように説明される。「現在のところ医学的利用価値が認められず、公衆衛生に深刻な害を及ぼす危険性があるとされる薬物」。日本では、付表II以下の医薬品については、だいたいは日本の法律上の向精神薬として管理される。
LSDには過剰摂取した際の致死量も不明で、また幻覚剤には強力な依存性もなく、離脱症状はない。脱法ドラッグのようなものは、流通の後に日本の法律上の麻薬に指定され規制されることがある。つまり、法的に規制される前は、日本の法律上の麻薬には該当しない。
欧米では、MDMAを心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の治療薬として役立てようとする動きもあり、治験が進行中である。
薬物 (drug) を指して、麻薬とした例である。薬物のうち、依存性や毒性、法規制の有無などを問わず、脳内の神経伝達物質に作用し、酩酊、多幸感、幻覚などをもたらすものを、俗に広義の麻薬に含めることがある。記事、薬物を参照のこと。このような特徴を持つ薬物は、アルコールや睡眠薬のように、規制管理が異なる薬物も該当する。しかしながら、アルコールや睡眠薬のような薬物は、上述のような麻薬とは異なり、致命的となる可能性のある離脱症状を生じる危険性がある。
麻薬(定義1)は、痛みに対する感覚を鈍らせる。そのため、モルヒネやコデインは鎮痛剤として医療の現場で処方される。麻薬性鎮痛剤として、モルヒネのような効果を持つメペリジン(商標名:デメロール)やメサドンが開発されている。メサドンはヘロイン依存症の置換治療として、薬物から離脱するために利用される。
薬物の研究者は、これらの鎮痛薬の作用機序を探る過程で、麻薬に反応する脳内の受容体(オピオイド受容体)を発見した。脳内麻薬と呼ばれることもあるエンドルフィンは、人体に存在する天然の鎮痛物質である。麻薬はエンドルフィンと同様の働きをし、オピオイド受容体と結合することが明らかになった。麻薬のアンタゴニストとして作用する薬物は、麻薬の作用を阻害し、乱用や過剰摂取の症状を逆転させる。こうして、アヘン剤とオピオイド受容体のアンタゴニストを組み合わせることにより、副作用の無い新しいタイプの鎮痛剤が作られるに至った。
麻薬の人体への摂取方法は、血液を経由して脳内へ薬物成分を送り込む方法がほとんどである。その手段として、そのまま飲む経口摂取のほか、舌下する、粉末状の麻薬を歯茎に塗布する、粉末状の麻薬を鼻孔へ吸引し鼻腔粘膜から吸収する、直腸粘膜から吸収する、性器粘膜から吸収する、吸食する、蒸気を吸引する、注射器による静脈注射・筋肉注射、などがある。
経口摂取の場合、主に小腸から吸収され、肝臓で一旦解毒された後血液に混じるため、肝臓で分解される物質で直接脳内で作用させたい場合は、経口摂取以外の方法を採られる。
種類により症状は様々であるが、ヘロイン、コカインなどの薬物では薬物依存症に陥りやすく、また依存症状が深刻になりやすい。
ヘロインには強い依存性がありニコチンと同等である。ヘロインでは深刻な病変や、機能低下を起こさないということを薬物禁止を支持するジェイムズ・Q・ウィルソンでさえ認めており、禁断症状によって時々発生する肉体的障害や、清潔でない注射針によるHIVウイルスなど感染症の問題は、非合法化されていることに関係して考えられる。タバコやアルコールの方が回復不能な障害を与えやすい。しかし、オピオイドの過剰摂取による死亡の多さは問題である。
コカインのような精神刺激薬では、使用によって妄想状態に陥り、精神刺激薬精神病となり暴力を引き起こすこともある。ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はない。暴力を強く促すことが判明しているのはアルコールである。暴力犯罪を抑制する最も効果的な方法は治療だと考えられている。
薬物依存者は周囲の人間に発覚すること、逮捕されることを恐れるため、事実をしばしば隠す。このため、薬物依存症の患者として医療施設で治療が行われているのは、患者群の一部に過ぎないと思われる。コカインでは耐性を獲得しやすいとともに逆耐性の機序を持つために治療は長期化する傾向にある。また、過去の麻薬入手の経験により一般市民より麻薬の入手が容易であるためにしばしば中断する。逮捕され、刑務所に収監されると、内部で麻薬関連犯罪で逮捕された者と出会うことでかえって「ドラッグ仲間」が出来てしまい、出所後に薬物の購入を持ちかけられたり、密売などの犯罪に誘われるケースもある。
厳罰な政策をとり薬物使用を犯罪とみなす国がある一方、薬物による害と人権侵害を減らすことを目的として、薬物に対して寛容な政策をとる国も存在する。
20世紀にはほとんどの国では法的に規制されており、許可なく製造、所持、使用すると刑罰が科される。スリランカ、マレーシア、シンガポール、中華人民共和国のようにアジア諸国には死刑を科す国も存在する。受刑者移送条約の非締結国で罪を犯した場合、日本より重い刑期をむかえることになる。しかし、麻薬依存者に対し刑罰を科しただけでは薬物依存症から抜け出せないため、その治療のため入院したり、刑法違反の累犯で刑務所に収監される人が後を絶たない。日本では医療刑務所に収監するケースも見られる。
21世紀初頭に、国際的に「薬物依存者には刑罰よりも治療が必要だ」とする見解が主流となり、2019年には国連の国際麻薬統制委員会は人権への配慮から、死刑の廃止を求め、軽微な犯罪には刑罰でなく治療の可能性を言及するようになった。持続可能な開発のための2030アジェンダ (SDG) の目標として薬物規制条約に従いながら人権保護を最大化するために、国連開発計画や世界保健機関は「人権及び薬物政策に関する国際ガイドライン」を出版し、薬物使用者に対する差別や不当な拘留の撤廃、科学的根拠に基づく予防や治療、個人的消費のための薬物所持や栽培の非犯罪化といった推奨事項がまとめられている。
1971年に国際的な麻薬戦争が開始され、世界の違法なアヘンの生産量は1971年の990トンから、1989年の4200トンに増加し、2007年には国連は8800トンとなり最大生産量に達したと報告した。アメリカで1990年代の10年間でコカインの使用量は増加し、2008年の国連の調査でもコカの葉を生産するためのコロンビアの土地は根絶計画に反して劇的に拡大した。つまり、1990年代以降、麻薬戦争は全面的に失敗であるという意見も増加してきたためである。
ウルグアイでは、2013年に大麻を合法化しているが、薬物規制条約が製造や輸出入に対し犯罪とすることを要求しているということで、国際麻薬統制委員会は協議を重ねてきている。2018年にカナダにおける大麻(英語版)の合法化が続いた。合法化を含む解説記事の米国における非医療大麻の非犯罪化(英語版)も参照。
ポルトガルの薬物政策(英語版)では、2001年にすべての薬物を非犯罪化(英語版)して依存者を予防と治療に専念することで、死亡者数とHIV感染者数、特に10代の大麻使用を減少させてきた。2021年にオレゴン州では全米初の薬物の非犯罪化のための州法が施行され、犯罪ではなく交通違反切符のような罰金となり、薬物の使用によって犯罪化や差別を受けることから保護し治療へつなげることを支援する。ヘロイン1グラム以下、コカイン2グラム以下、メタンフェタミン2グラム以下、MDMA /エクスタシー1グラムまたは5錠未満、LSDを40使用単位未満、シロシビン12グラム未満は単に罰金となる。
オランダの薬物政策のように大麻について刑法上は違法となっているが所持・摂取に対しては刑を執行しない事例も見られる(非犯罪化)。オランダでは、薬物をソフトドラッグとハードドラッグに分類し、大麻をソフトドラッグとして定義して、ほぼ合法として扱い、許可を受けた店舗で合法的に販売している。これによって犯罪組織の収入源を奪い、あらゆる薬物を扱う密売人との接触機会を無くすことで、害が深刻なハードドラッグ類の蔓延を抑止する政策を取っており、実際にヘロイン使用者が減少し、大麻使用者も増加していないなど、一定の効果をあげている。チェコやスイスでも似たような薬物政策がある。大麻を参照のこと。
21世紀初頭には、タイは死刑を設け厳罰主義を貫いてきた一国であったが、警察に殺害された人々は数千人にも上る一方で麻薬取引量は増加していったため、2017年までには死刑は執行されないよう政策転換をはかり、社会復帰を目指す相談所や依存者の治療をはじめている。
ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はなく、所持などが犯罪とされていることによって高額な薬物となり、そのため価格が高騰することが犯罪を引き起こす誘因となる。クリントン大統領時代の公衆衛生局長官のジョセリン・エルダースも暴力行為を減らすための薬物の合法化の検討を提案している。アメリカ医師会 (AMA) が合法化を勧告したこともあった。アメリカにおける別の問題は、1968年の約16万人の薬物検挙者が年々増加して2007年には180万人を超えたことである。
麻薬及び向精神薬取締法では、免許がない者に対して、「法律上の麻薬」の所持、譲渡、製造、医療目的以外の輸出入が罰則付きで厳しく規制される。また麻薬は輸入・製造・製剤時に封がされたまま麻薬施用者のもとに届き、取引数量は施用されなかったぶんの廃棄に至るまで数量が厳しく管理される(向精神薬も製造・製薬において被封され、同様に取り扱われる)。モルヒネ等の原料となるアヘンはあへん法により取引は国の独占とされ、そのもととなるケシの栽培も国の厳しい管理下に置かれる。
なお繊維など麻薬以外の用途を有する大麻は大麻取締法によって規制が行われている。また薬物を規制する法律のうち、大麻取締法のみが医薬品としての使用を禁止しており、昨今欧米で薬効が注目されている医療大麻として法規制の見直しを唱える国内団体も存在する。
デザイナードラッグとは、法律で麻薬に指定されている化学物質と、化学式が非常に良く似ているが厳密には指定されていない薬物である。こうした脱法ドラッグの流通が、日本において社会問題となっている。
一方、こうした薬物に対して、麻薬及び向精神薬取締法に基づき、政令により麻薬指定を進めてはいるものの、指定が化学物質名であることから指定が後手後手になりがちである。
また作用が似ていても、化学的構造が少しでも異なれば法で取り締まることは出来ず、麻薬に指定しても次々と新しい物質が作られるという「いたちごっこ」が続いている。しかし危険性は違法な麻薬に準じるものと考えられ、実際に健康被害や死亡例の報告もある。
国や自治体により、麻薬に類似した作用を起こす物質を特定し、似た化学物質と化学式を持つ薬物を一括して違法だと指定するなどの法対策がとられている。合成化学研究の障害になるとか、公知が困難になるため、知らずに扱った人が罪に問われかねないなど、問題点もあり、解決には至っていない。
日本では麻薬の原料となりうる特定種のケシの栽培については、モルヒネ・コデイン等の安定供給に資するため、あへん法により厚生労働省の委託を受けた特定農家での栽培ならびに学術研究用途に限られ、無許可の栽培は罰せられる。
アヘンを採取し得る用途での栽培は、毎年定められた栽培区域及び栽培面積の中において、栽培地及び栽培面積並びにアヘンの乾燥場及び保管場を定め、厚生労働大臣の許可を受けた上で栽培が許される。またアヘンを採取しない学術研究用途( 都立薬用植物園(東京都小平市)における展示目的の栽培など)においては栽培地及び栽培面積を定めて厚生労働大臣の許可を受けた上で栽培が許される。したがって許可を受けずにケシを栽培する行為は違法である(市販されている観賞用のヒナゲシは麻薬成分を産生しない種類である)。
アヘンを採取可能なケシの栽培には、ケシの実からアヘンが第三者の手に渡らないよう厳重に囲い施錠した耕作地が必要である。さらにアヘン採取目的での栽培はケシの実から掻き取った生アヘンを乾燥させる場所や出来たアヘンの保管庫にも厳重な施錠管理が必要であることから、国産のアヘンは細々と栽培されるにとどまり、アヘンの需要の大半をインドからの輸入に頼っている。またアヘン採取を目的としない栽培についても植物園のほかは研究農場にとどまっている。
黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)とは、アヘン(阿片)の原料であるケシ(芥子)が、タイ・ラオス・ミャンマーの山岳地帯で多く栽培されていることによる呼称である。ただし、現在は麻薬の生産はほぼミャンマーに限られている。ミャンマーでは、麻薬王クン・サが仕切っていたことで有名なように、様々な政治勢力がドラッグビジネスと関わり合いを持っている。
黄金の三日月地帯は、黄金の三角地帯と並ぶ、世界最大の麻薬及び覚醒剤密造地帯。アフガニスタン(ニームルーズ州)・パキスタン(バローチスターン州)、イランの国境が交錯している。この呼称の由縁は、アフガニスタン東部のジャラーラーバードから南部のカンダハールを経由し、南西部のザランジ地方に至る国境地帯が三日月形をしているため。
アヘン戦争は清の林則徐がイギリスによるアヘンの輸入を禁じ、アヘンを没収し、廃棄処分したことを口実に起こされた戦争。1840年より二年間。
1889年にドイツで(バイエル社より)商品名ヘロインで発売され、モルヒネに代わる依存のない万能薬のように国際的に宣伝され、アメリカでは1924年に常用者推定20万人とされた。1912年の万国阿片条約で規制され第一次世界大戦後に各国が条約に批准した。ドイツで1921年、アメリカで1924年に医薬品の指定がなくなると、のちに非合法に流通するようになった。
ベトナム戦争ではメオ族を支援するためにアメリカ中央情報局 (CIA) が市場へのアヘン運搬を支援したが、これが高純度のヘロインとなって駐留兵の手に渡った。アメリカで1971年麻薬患者が推定56万人となりニクソン大統領が、薬物に対する戦いを宣戦布告する。
アメリカ合衆国がベトナム戦争当時、アメリカ軍兵士に対して士気を高めるためにコカイン摂取を極秘に認めていた。当時ベトナムに駐留していたアメリカ軍兵士の40%がコカイン摂取をしていたとされる。現在でも航空機パイロットにアンフェタミン錠剤などを配布していると言われる。
コロンビアで1970年代後半から、アメリカ合衆国向けに密輸するコカイン栽培が急増した。アメリカ合衆国で1960年代後半からコカイン摂取がブームになったことがきっかけだった。コロンビアでコカイン生産を行ったのは、アンデス山中の大都市で動いていた犯罪組織メデジン・カルテルだった。その後犯罪組織はコロンビア国家の政治・経済も支配するようになり、コカイン栽培が国家産業の一つにまで発展した。
ミャンマーにおいては、主としてシャン州周辺で古くから栽培されており、同州にはミャンマーからの分離独立を志向する少数民族が多く存在する事、1960年代以降のいわゆる「ビルマ式社会主義」によってミャンマー経済が慢性的な停滞に陥り多くの人材が麻薬産業に流入した事、シャン州から主要な「市場」であるタイや中国に比較的近距離である事、60年代以降のミャンマー政府が国際的に孤立主義の傾向を取り続けた事などから、ケシ栽培を中心とする麻薬産業が急速に発達した。
少量の生産販売で多額の利益が得られる事、多くの麻薬植物は容易に栽培が可能である事から、多くの国の反政府ゲリラや民兵組織が資金源として麻薬産業を保有する事が多い。また、同様の理由で、かつ、中央政府の支配力が及ばない事から貧しい農家が「究極の換金作物」として麻薬植物を栽培するケースも多く、アフガニスタンや内戦当時のレバノン・ベッカー高原などでは盛んに麻薬植物が栽培されている。
2012年の第67回国連総会では、メキシコ、コロンビア、グアテマラといったラテンアメリカ諸国の大統領は、薬物の流通を制限するという証拠は乏しく、暴力につながるこうした政策の変更を提案した。メキシコでは、カルデロンの任期中6年間に、薬物に関連した暴力により死者は6万人を上回り、コロンビアでは撲滅運動にかかわらず依然としてコカインの世界最大の生産地の1つである。
2013年の国連の薬物乱用防止デーにおいて、法の支配は一部の手段でしかなく、罰することが解決策ではないという研究が進んでおり、健康への負担や囚役者を減らすという目標に沿って、人権や公衆衛生、また科学に基づく予防と治療の手段が必要とされ、このために2014年には高度な見直しを開始することに言及し、加盟国にはあらゆる手段を考慮し、開かれた議論を行うことを強く推奨している。
2017年10月には、アメリカで処方されたオピオイドに端を発する過剰摂取死のうなぎ上りによって、トランプ大統領は公衆衛生の非常事態を宣言した。10月中旬には、トランプ大統領が麻薬問題担当長官に指名した共和党のトム・マリーノが、オピオイドの取り締まり弱体化させる法案を進めていたことで指名辞退となり、オピオイドを蔓延させた製薬会社への捜査の声も高まった。およそ1週間後には、オピオイドのフェンタニルを過剰に売り込んだ、インシス・セラピューティクス社の最高経営責任者(CEO)らが逮捕され、医師や薬剤師にリベートや賄賂を渡して売り込んでおり、FBIの捜査官はオピオイドをがんでもない患者に売りつけるのは密売人と変わらないと非難した。また中国で密造された、ほとんどがフェンタニル誘導体である合成オピオイドも新たな脅威となってきた。
幻覚性植物を聖なる植物とし、信仰の対象にしている宗教もある。米国のネイティブ・アメリカン・チャーチのペヨーテや、ブラジルのアヤワスカを使うカトリック系教会、ジャマイカのラスタファリ運動における大麻、西アフリカ、ガボンのブウィティ教、瞑想のために大麻樹脂を吸うシバ派のヒンドゥー教修行者などがある。日本ではかつてオウム真理教が「キリストのイニシエーション」と名付けた修行でLSDを使用していたことが報告されている。宗教儀式における幻覚性植物の使用は、コミュニティ内の連帯を高める役割もはたしている。2006年、アメリカ合衆国最高裁判所は、規制薬物の宗教上の使用を認める判決を出している。
人類と向精神性作用のある植物との関係は遥か昔まで遡ることができる。世界各地にみられるシャーマニズムの儀式では、夜間に少人数で集まり、明かりを消した小屋の中や野外でたき火を囲み、幻覚性植物を摂取する。シャーマンは歌を歌い、祈りを捧げたりドラムを叩いたりしながら、病気の治療をしたり、神や精霊と交信し重要な決定をしたり予言をしたりする。メキシコ、マサテク族のマジックマッシュルーム、アメリカン・チャーチのペヨーテ(幻覚性サボテン)、アンデス地方のサンペドロ・サボテン、アマゾンのアヤワスカや西アフリカのイボガ(イボガイン)、シベリアのベニテングタケなどがある。中世ヨーロッパや古代インドでは、せん妄性の植物ベラドンナやダチュラが儀式的に使用されていた。
コロンビアやペルー、ボリビアに住む先住民インディオや労働者は、コカインの原料であるコカの葉を興奮剤として日常的に噛んだり、お茶にして飲んでいる。東南アジア、東アフリカ、中東においても、興奮作用のある植物を嗜好品として摂取する習慣がある。ケシ(芥子)栽培をするタイ北部やラオスに住む少数民族の中には、アヘン中毒に陥っている者も少なくない。
定義2、3に該当する麻薬 LSD は、1960年代後半に欧米を中心に爆発的に広まり、ヒッピームーブメントを生みだした。音楽、文学、映像、絵画、ファッションなどに大きな影響を与え、ベトナム戦争の反戦運動や精神世界、東洋哲学、エコロジーなどへの関心を集めた。中心人物として、元ハーバード大学教授のティモシー・リアリーや、『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーなどがあげられる。
古くから存在する社会問題として、隣接する覚醒剤や有機溶剤、幻覚剤などと共に、様々なジャンルで取り上げられる事が多い。また、政治問題や国際関係、あるいは貧困や家庭問題、青少年問題といった他のトラブルとも容易に結びつきやすい問題であるため、これらと付随して取り扱われる事がほとんどである。
なお、アメリカ合衆国では、違法薬物を使用する描写がある映画作品は、レーティングによってR-18指定となる。例えば、『地獄の黙示録』は、作品中に登場人物が大麻を吸飲するシーンがある事から、R-18指定となっている。
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"text": "麻薬(まやく、英語: narcotic、痲薬とも)とは、通常はモルヒネやヘロインのようなケシから生成される麻薬性鎮痛薬のオピエートやオピオイドを指すが(定義1)、法律上の用語として、法律で規制された薬物を指して用いられることもある用語である(定義2)。アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む。日本ではさらに麻薬及び向精神薬取締法(麻薬取締法)における、「日本の法律上の麻薬」の語が、それらとも異なって使用されている(定義3)。薬物全般は薬物 (drug) を参照。",
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"text": "国際的には向精神薬であるLSDのような幻覚剤の多くは「日本の法律上の麻薬」であり、一方で大麻は大麻取締法、覚醒剤は覚醒剤取締法が別個に規制する。したがって、致死性、依存性の有無、身体的な離脱症状を生じる身体的依存の有無、離脱症状が致命的となるか否かの異なった薬物が、その含有する意味合いにより異なって含まれてくる、そうした薬物の総称である。医師などによる適正な投与以外の使用は禁止されている。医療目的における用途は鎮痛が多い。",
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"text": "依存性や致死性の高いアヘンやコカインなどの麻薬は、国際協力の元で厳しく規制されている。従来、白人の植民地主義によるアヘン売買が問題となり、1912年には万国阿片条約が公布された。条約に並行して、同種でより強力なバイエル社の医薬品ヘロインが出回ったがこれも1920年代には厳しく扱われる。1961年の麻薬に関する単一条約が先の条約を引き継いだが、欧米で再び密造のヘロインが流通し、敵対勢力が生産したものだが、当のアメリカ合衆国の中央情報局が流通に関わり秘密資金としていることも明らかとされた。このようにして、1971年にアメリカのニクソン大統領が、麻薬戦争(薬物戦争)を宣言した。規制されていることで多額の利益を上げるものとなっており、反政府勢力や私兵組織、テロリストなどが生産に関わり、集団犯罪組織である暴力団、黒社会、ギャング、マフィアなどが流通させ、重要な資金源となった。",
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"text": "世界保健機関 (WHO) の用語集では、麻薬(narcotic)の語は昏迷・昏睡、痛みに対する無感覚を誘発する化学物質で、通常は麻薬性鎮痛薬のオピエートやオピオイドを指すが、法律上の用語として他の薬物を指す場合があるため、より具体的な意味を持つオピオイドの用語を用いている。麻薬(narcotic)の語は、規制された薬物を指して用いられる場合もあり、アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む。国際条約としての規制の根拠は、1961年の麻薬に関する単一条約である。",
"title": "定義や法"
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"text": "Narcotics の日本語の翻訳として麻薬があてられた。痲薬とも書くが、1949年(昭和24年)の当用漢字制定以降は、表記は「麻薬」に統一されている。",
"title": "定義や法"
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"text": "歴史上かつ医学上の麻薬の定義で、麻酔薬のアヘン類のことを指す。",
"title": "定義や法"
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"text": "アヘン剤とは、モルヒネ、ヘロイン、コデインなど、ケシの実から抽出されるアルカロイドを合成したオピオイド系の薬物のことである。昏迷状態を引き起こす抑制薬であり、酩酊、多幸感などをもたらす一方、強力な依存性があり、急速に耐性を形成し、身体的な離脱症状を生じる身体依存を形成する。とりわけ作用量と致死量が近い薬物で危険性が高い。",
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"text": "1912年の万国阿片条約から、1961年の麻薬に関する単一条約による麻薬の定義で、医学的な定義に大麻とコカインを追加したものである。国際的な定義である。",
"title": "定義や法"
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"text": "1912年の万国阿片条約では、アヘンやモルヒネ、またコカイン、またこれらと同様の害悪を引き起こす物質を規制した。その後、この条約が1925年に改定された時に、アジアやアフリカなど大麻の使用習慣のある国が消極的であったが、エジプトの提案でインド大麻も規制に追加された。第二次世界大戦を経て国際連盟が解体し、引き継ぐ国際連合による1961年の麻薬に関する単一条約(Single Convention on Narcotic Drugs)によって、同じような分類で麻薬―Narcotics―が国際的な管理下に置かれた。さらに、後続の国際条約である1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約(Convention Against Illicit Traffic in Narcotic Drugs and Psychotropic Substances)の、第1条n項において、「麻薬」とは1961年の条約にて指定されたものであると定義されている。",
"title": "定義や法"
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"text": "大麻の鎮痛作用はモルヒネなどより弱いが、致死量は不明であり、身体依存はなく離脱症状も軽度であり、有害性の異なった薬物である。またコカインはオピオイドや大麻とも異なり、興奮作用がある精神刺激薬であるが、注射部位に局所麻酔作用がある。",
"title": "定義や法"
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"text": "日本の法律上の便宜による、麻薬及び向精神薬取締法(現通称および旧名: 麻薬取締法)における「麻薬」の定義。",
"title": "定義や法"
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"text": "まず日本では、大麻は繊維産業があったことから1948年に別個に大麻取締法を制定しており、戦後に乱用が問題となった覚醒剤類は覚醒剤取締法にて規制されている。1970年には麻薬取締法にLSDを追加し、日本の法律上の麻薬はほとんどが幻覚剤になっているとされる。日本では、向精神薬に関する条約の付表Iの、そのほとんどが幻覚剤であるものを、「日本の法理上は」麻薬としているということである。",
"title": "定義や法"
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"text": "この背景を詳しく説明すると、1961年の国際条約以降に乱用された薬物を規制するための、1971年の向精神薬に関する条約(Convention on Psychotropic Substances)が登場した。LSDのような幻覚剤や、覚醒剤やバルビツール酸系やベンゾジアゼピン系の抗不安睡眠薬が国際的な管理下に置かれた。向精神薬に関する条約において、医療的な価値がないとみなされた幻覚剤のような薬物は付表(スケジュール)Iに、それ以外の覚醒剤や睡眠薬は危険性により付表II以下に指定されている。後続する1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約の第1条r項において、「向精神薬」とは1971年の条約の付表Iから付表IVまでの物質であると定義されている。すべて「国際条約上は」向精神薬である。",
"title": "定義や法"
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"text": "付表Iの物質は、欧州議会の報告書によれば次のように説明される。「現在のところ医学的利用価値が認められず、公衆衛生に深刻な害を及ぼす危険性があるとされる薬物」。日本では、付表II以下の医薬品については、だいたいは日本の法律上の向精神薬として管理される。",
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"text": "LSDには過剰摂取した際の致死量も不明で、また幻覚剤には強力な依存性もなく、離脱症状はない。脱法ドラッグのようなものは、流通の後に日本の法律上の麻薬に指定され規制されることがある。つまり、法的に規制される前は、日本の法律上の麻薬には該当しない。",
"title": "定義や法"
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"text": "欧米では、MDMAを心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の治療薬として役立てようとする動きもあり、治験が進行中である。",
"title": "定義や法"
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"text": "薬物 (drug) を指して、麻薬とした例である。薬物のうち、依存性や毒性、法規制の有無などを問わず、脳内の神経伝達物質に作用し、酩酊、多幸感、幻覚などをもたらすものを、俗に広義の麻薬に含めることがある。記事、薬物を参照のこと。このような特徴を持つ薬物は、アルコールや睡眠薬のように、規制管理が異なる薬物も該当する。しかしながら、アルコールや睡眠薬のような薬物は、上述のような麻薬とは異なり、致命的となる可能性のある離脱症状を生じる危険性がある。",
"title": "定義や法"
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"text": "麻薬(定義1)は、痛みに対する感覚を鈍らせる。そのため、モルヒネやコデインは鎮痛剤として医療の現場で処方される。麻薬性鎮痛剤として、モルヒネのような効果を持つメペリジン(商標名:デメロール)やメサドンが開発されている。メサドンはヘロイン依存症の置換治療として、薬物から離脱するために利用される。",
"title": "医療利用"
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"text": "薬物の研究者は、これらの鎮痛薬の作用機序を探る過程で、麻薬に反応する脳内の受容体(オピオイド受容体)を発見した。脳内麻薬と呼ばれることもあるエンドルフィンは、人体に存在する天然の鎮痛物質である。麻薬はエンドルフィンと同様の働きをし、オピオイド受容体と結合することが明らかになった。麻薬のアンタゴニストとして作用する薬物は、麻薬の作用を阻害し、乱用や過剰摂取の症状を逆転させる。こうして、アヘン剤とオピオイド受容体のアンタゴニストを組み合わせることにより、副作用の無い新しいタイプの鎮痛剤が作られるに至った。",
"title": "医療利用"
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"text": "麻薬の人体への摂取方法は、血液を経由して脳内へ薬物成分を送り込む方法がほとんどである。その手段として、そのまま飲む経口摂取のほか、舌下する、粉末状の麻薬を歯茎に塗布する、粉末状の麻薬を鼻孔へ吸引し鼻腔粘膜から吸収する、直腸粘膜から吸収する、性器粘膜から吸収する、吸食する、蒸気を吸引する、注射器による静脈注射・筋肉注射、などがある。",
"title": "摂取方法"
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"text": "経口摂取の場合、主に小腸から吸収され、肝臓で一旦解毒された後血液に混じるため、肝臓で分解される物質で直接脳内で作用させたい場合は、経口摂取以外の方法を採られる。",
"title": "摂取方法"
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"text": "種類により症状は様々であるが、ヘロイン、コカインなどの薬物では薬物依存症に陥りやすく、また依存症状が深刻になりやすい。",
"title": "乱用による症状"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "ヘロインには強い依存性がありニコチンと同等である。ヘロインでは深刻な病変や、機能低下を起こさないということを薬物禁止を支持するジェイムズ・Q・ウィルソンでさえ認めており、禁断症状によって時々発生する肉体的障害や、清潔でない注射針によるHIVウイルスなど感染症の問題は、非合法化されていることに関係して考えられる。タバコやアルコールの方が回復不能な障害を与えやすい。しかし、オピオイドの過剰摂取による死亡の多さは問題である。",
"title": "乱用による症状"
},
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"tag": "p",
"text": "コカインのような精神刺激薬では、使用によって妄想状態に陥り、精神刺激薬精神病となり暴力を引き起こすこともある。ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はない。暴力を強く促すことが判明しているのはアルコールである。暴力犯罪を抑制する最も効果的な方法は治療だと考えられている。",
"title": "乱用による症状"
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"text": "薬物依存者は周囲の人間に発覚すること、逮捕されることを恐れるため、事実をしばしば隠す。このため、薬物依存症の患者として医療施設で治療が行われているのは、患者群の一部に過ぎないと思われる。コカインでは耐性を獲得しやすいとともに逆耐性の機序を持つために治療は長期化する傾向にある。また、過去の麻薬入手の経験により一般市民より麻薬の入手が容易であるためにしばしば中断する。逮捕され、刑務所に収監されると、内部で麻薬関連犯罪で逮捕された者と出会うことでかえって「ドラッグ仲間」が出来てしまい、出所後に薬物の購入を持ちかけられたり、密売などの犯罪に誘われるケースもある。",
"title": "乱用による症状"
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"text": "厳罰な政策をとり薬物使用を犯罪とみなす国がある一方、薬物による害と人権侵害を減らすことを目的として、薬物に対して寛容な政策をとる国も存在する。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"text": "20世紀にはほとんどの国では法的に規制されており、許可なく製造、所持、使用すると刑罰が科される。スリランカ、マレーシア、シンガポール、中華人民共和国のようにアジア諸国には死刑を科す国も存在する。受刑者移送条約の非締結国で罪を犯した場合、日本より重い刑期をむかえることになる。しかし、麻薬依存者に対し刑罰を科しただけでは薬物依存症から抜け出せないため、その治療のため入院したり、刑法違反の累犯で刑務所に収監される人が後を絶たない。日本では医療刑務所に収監するケースも見られる。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
},
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"paragraph_id": 27,
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"text": "21世紀初頭に、国際的に「薬物依存者には刑罰よりも治療が必要だ」とする見解が主流となり、2019年には国連の国際麻薬統制委員会は人権への配慮から、死刑の廃止を求め、軽微な犯罪には刑罰でなく治療の可能性を言及するようになった。持続可能な開発のための2030アジェンダ (SDG) の目標として薬物規制条約に従いながら人権保護を最大化するために、国連開発計画や世界保健機関は「人権及び薬物政策に関する国際ガイドライン」を出版し、薬物使用者に対する差別や不当な拘留の撤廃、科学的根拠に基づく予防や治療、個人的消費のための薬物所持や栽培の非犯罪化といった推奨事項がまとめられている。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1971年に国際的な麻薬戦争が開始され、世界の違法なアヘンの生産量は1971年の990トンから、1989年の4200トンに増加し、2007年には国連は8800トンとなり最大生産量に達したと報告した。アメリカで1990年代の10年間でコカインの使用量は増加し、2008年の国連の調査でもコカの葉を生産するためのコロンビアの土地は根絶計画に反して劇的に拡大した。つまり、1990年代以降、麻薬戦争は全面的に失敗であるという意見も増加してきたためである。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "ウルグアイでは、2013年に大麻を合法化しているが、薬物規制条約が製造や輸出入に対し犯罪とすることを要求しているということで、国際麻薬統制委員会は協議を重ねてきている。2018年にカナダにおける大麻(英語版)の合法化が続いた。合法化を含む解説記事の米国における非医療大麻の非犯罪化(英語版)も参照。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "ポルトガルの薬物政策(英語版)では、2001年にすべての薬物を非犯罪化(英語版)して依存者を予防と治療に専念することで、死亡者数とHIV感染者数、特に10代の大麻使用を減少させてきた。2021年にオレゴン州では全米初の薬物の非犯罪化のための州法が施行され、犯罪ではなく交通違反切符のような罰金となり、薬物の使用によって犯罪化や差別を受けることから保護し治療へつなげることを支援する。ヘロイン1グラム以下、コカイン2グラム以下、メタンフェタミン2グラム以下、MDMA /エクスタシー1グラムまたは5錠未満、LSDを40使用単位未満、シロシビン12グラム未満は単に罰金となる。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "オランダの薬物政策のように大麻について刑法上は違法となっているが所持・摂取に対しては刑を執行しない事例も見られる(非犯罪化)。オランダでは、薬物をソフトドラッグとハードドラッグに分類し、大麻をソフトドラッグとして定義して、ほぼ合法として扱い、許可を受けた店舗で合法的に販売している。これによって犯罪組織の収入源を奪い、あらゆる薬物を扱う密売人との接触機会を無くすことで、害が深刻なハードドラッグ類の蔓延を抑止する政策を取っており、実際にヘロイン使用者が減少し、大麻使用者も増加していないなど、一定の効果をあげている。チェコやスイスでも似たような薬物政策がある。大麻を参照のこと。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "21世紀初頭には、タイは死刑を設け厳罰主義を貫いてきた一国であったが、警察に殺害された人々は数千人にも上る一方で麻薬取引量は増加していったため、2017年までには死刑は執行されないよう政策転換をはかり、社会復帰を目指す相談所や依存者の治療をはじめている。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はなく、所持などが犯罪とされていることによって高額な薬物となり、そのため価格が高騰することが犯罪を引き起こす誘因となる。クリントン大統領時代の公衆衛生局長官のジョセリン・エルダースも暴力行為を減らすための薬物の合法化の検討を提案している。アメリカ医師会 (AMA) が合法化を勧告したこともあった。アメリカにおける別の問題は、1968年の約16万人の薬物検挙者が年々増加して2007年には180万人を超えたことである。",
"title": "厳罰政策と寛容政策"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "麻薬及び向精神薬取締法では、免許がない者に対して、「法律上の麻薬」の所持、譲渡、製造、医療目的以外の輸出入が罰則付きで厳しく規制される。また麻薬は輸入・製造・製剤時に封がされたまま麻薬施用者のもとに届き、取引数量は施用されなかったぶんの廃棄に至るまで数量が厳しく管理される(向精神薬も製造・製薬において被封され、同様に取り扱われる)。モルヒネ等の原料となるアヘンはあへん法により取引は国の独占とされ、そのもととなるケシの栽培も国の厳しい管理下に置かれる。",
"title": "日本における法規制"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "なお繊維など麻薬以外の用途を有する大麻は大麻取締法によって規制が行われている。また薬物を規制する法律のうち、大麻取締法のみが医薬品としての使用を禁止しており、昨今欧米で薬効が注目されている医療大麻として法規制の見直しを唱える国内団体も存在する。",
"title": "日本における法規制"
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"text": "デザイナードラッグとは、法律で麻薬に指定されている化学物質と、化学式が非常に良く似ているが厳密には指定されていない薬物である。こうした脱法ドラッグの流通が、日本において社会問題となっている。",
"title": "日本における法規制"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "一方、こうした薬物に対して、麻薬及び向精神薬取締法に基づき、政令により麻薬指定を進めてはいるものの、指定が化学物質名であることから指定が後手後手になりがちである。",
"title": "日本における法規制"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また作用が似ていても、化学的構造が少しでも異なれば法で取り締まることは出来ず、麻薬に指定しても次々と新しい物質が作られるという「いたちごっこ」が続いている。しかし危険性は違法な麻薬に準じるものと考えられ、実際に健康被害や死亡例の報告もある。",
"title": "日本における法規制"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "国や自治体により、麻薬に類似した作用を起こす物質を特定し、似た化学物質と化学式を持つ薬物を一括して違法だと指定するなどの法対策がとられている。合成化学研究の障害になるとか、公知が困難になるため、知らずに扱った人が罪に問われかねないなど、問題点もあり、解決には至っていない。",
"title": "日本における法規制"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本では麻薬の原料となりうる特定種のケシの栽培については、モルヒネ・コデイン等の安定供給に資するため、あへん法により厚生労働省の委託を受けた特定農家での栽培ならびに学術研究用途に限られ、無許可の栽培は罰せられる。",
"title": "日本における法規制"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アヘンを採取し得る用途での栽培は、毎年定められた栽培区域及び栽培面積の中において、栽培地及び栽培面積並びにアヘンの乾燥場及び保管場を定め、厚生労働大臣の許可を受けた上で栽培が許される。またアヘンを採取しない学術研究用途( 都立薬用植物園(東京都小平市)における展示目的の栽培など)においては栽培地及び栽培面積を定めて厚生労働大臣の許可を受けた上で栽培が許される。したがって許可を受けずにケシを栽培する行為は違法である(市販されている観賞用のヒナゲシは麻薬成分を産生しない種類である)。",
"title": "日本における法規制"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アヘンを採取可能なケシの栽培には、ケシの実からアヘンが第三者の手に渡らないよう厳重に囲い施錠した耕作地が必要である。さらにアヘン採取目的での栽培はケシの実から掻き取った生アヘンを乾燥させる場所や出来たアヘンの保管庫にも厳重な施錠管理が必要であることから、国産のアヘンは細々と栽培されるにとどまり、アヘンの需要の大半をインドからの輸入に頼っている。またアヘン採取を目的としない栽培についても植物園のほかは研究農場にとどまっている。",
"title": "日本における法規制"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)とは、アヘン(阿片)の原料であるケシ(芥子)が、タイ・ラオス・ミャンマーの山岳地帯で多く栽培されていることによる呼称である。ただし、現在は麻薬の生産はほぼミャンマーに限られている。ミャンマーでは、麻薬王クン・サが仕切っていたことで有名なように、様々な政治勢力がドラッグビジネスと関わり合いを持っている。",
"title": "主な生産地域"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "黄金の三日月地帯は、黄金の三角地帯と並ぶ、世界最大の麻薬及び覚醒剤密造地帯。アフガニスタン(ニームルーズ州)・パキスタン(バローチスターン州)、イランの国境が交錯している。この呼称の由縁は、アフガニスタン東部のジャラーラーバードから南部のカンダハールを経由し、南西部のザランジ地方に至る国境地帯が三日月形をしているため。",
"title": "主な生産地域"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アヘン戦争は清の林則徐がイギリスによるアヘンの輸入を禁じ、アヘンを没収し、廃棄処分したことを口実に起こされた戦争。1840年より二年間。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1889年にドイツで(バイエル社より)商品名ヘロインで発売され、モルヒネに代わる依存のない万能薬のように国際的に宣伝され、アメリカでは1924年に常用者推定20万人とされた。1912年の万国阿片条約で規制され第一次世界大戦後に各国が条約に批准した。ドイツで1921年、アメリカで1924年に医薬品の指定がなくなると、のちに非合法に流通するようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争ではメオ族を支援するためにアメリカ中央情報局 (CIA) が市場へのアヘン運搬を支援したが、これが高純度のヘロインとなって駐留兵の手に渡った。アメリカで1971年麻薬患者が推定56万人となりニクソン大統領が、薬物に対する戦いを宣戦布告する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国がベトナム戦争当時、アメリカ軍兵士に対して士気を高めるためにコカイン摂取を極秘に認めていた。当時ベトナムに駐留していたアメリカ軍兵士の40%がコカイン摂取をしていたとされる。現在でも航空機パイロットにアンフェタミン錠剤などを配布していると言われる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "コロンビアで1970年代後半から、アメリカ合衆国向けに密輸するコカイン栽培が急増した。アメリカ合衆国で1960年代後半からコカイン摂取がブームになったことがきっかけだった。コロンビアでコカイン生産を行ったのは、アンデス山中の大都市で動いていた犯罪組織メデジン・カルテルだった。その後犯罪組織はコロンビア国家の政治・経済も支配するようになり、コカイン栽培が国家産業の一つにまで発展した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ミャンマーにおいては、主としてシャン州周辺で古くから栽培されており、同州にはミャンマーからの分離独立を志向する少数民族が多く存在する事、1960年代以降のいわゆる「ビルマ式社会主義」によってミャンマー経済が慢性的な停滞に陥り多くの人材が麻薬産業に流入した事、シャン州から主要な「市場」であるタイや中国に比較的近距離である事、60年代以降のミャンマー政府が国際的に孤立主義の傾向を取り続けた事などから、ケシ栽培を中心とする麻薬産業が急速に発達した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "少量の生産販売で多額の利益が得られる事、多くの麻薬植物は容易に栽培が可能である事から、多くの国の反政府ゲリラや民兵組織が資金源として麻薬産業を保有する事が多い。また、同様の理由で、かつ、中央政府の支配力が及ばない事から貧しい農家が「究極の換金作物」として麻薬植物を栽培するケースも多く、アフガニスタンや内戦当時のレバノン・ベッカー高原などでは盛んに麻薬植物が栽培されている。",
"title": "歴史"
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"text": "2012年の第67回国連総会では、メキシコ、コロンビア、グアテマラといったラテンアメリカ諸国の大統領は、薬物の流通を制限するという証拠は乏しく、暴力につながるこうした政策の変更を提案した。メキシコでは、カルデロンの任期中6年間に、薬物に関連した暴力により死者は6万人を上回り、コロンビアでは撲滅運動にかかわらず依然としてコカインの世界最大の生産地の1つである。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "2013年の国連の薬物乱用防止デーにおいて、法の支配は一部の手段でしかなく、罰することが解決策ではないという研究が進んでおり、健康への負担や囚役者を減らすという目標に沿って、人権や公衆衛生、また科学に基づく予防と治療の手段が必要とされ、このために2014年には高度な見直しを開始することに言及し、加盟国にはあらゆる手段を考慮し、開かれた議論を行うことを強く推奨している。",
"title": "歴史"
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"text": "2017年10月には、アメリカで処方されたオピオイドに端を発する過剰摂取死のうなぎ上りによって、トランプ大統領は公衆衛生の非常事態を宣言した。10月中旬には、トランプ大統領が麻薬問題担当長官に指名した共和党のトム・マリーノが、オピオイドの取り締まり弱体化させる法案を進めていたことで指名辞退となり、オピオイドを蔓延させた製薬会社への捜査の声も高まった。およそ1週間後には、オピオイドのフェンタニルを過剰に売り込んだ、インシス・セラピューティクス社の最高経営責任者(CEO)らが逮捕され、医師や薬剤師にリベートや賄賂を渡して売り込んでおり、FBIの捜査官はオピオイドをがんでもない患者に売りつけるのは密売人と変わらないと非難した。また中国で密造された、ほとんどがフェンタニル誘導体である合成オピオイドも新たな脅威となってきた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "幻覚性植物を聖なる植物とし、信仰の対象にしている宗教もある。米国のネイティブ・アメリカン・チャーチのペヨーテや、ブラジルのアヤワスカを使うカトリック系教会、ジャマイカのラスタファリ運動における大麻、西アフリカ、ガボンのブウィティ教、瞑想のために大麻樹脂を吸うシバ派のヒンドゥー教修行者などがある。日本ではかつてオウム真理教が「キリストのイニシエーション」と名付けた修行でLSDを使用していたことが報告されている。宗教儀式における幻覚性植物の使用は、コミュニティ内の連帯を高める役割もはたしている。2006年、アメリカ合衆国最高裁判所は、規制薬物の宗教上の使用を認める判決を出している。",
"title": "文化と麻薬"
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{
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"text": "人類と向精神性作用のある植物との関係は遥か昔まで遡ることができる。世界各地にみられるシャーマニズムの儀式では、夜間に少人数で集まり、明かりを消した小屋の中や野外でたき火を囲み、幻覚性植物を摂取する。シャーマンは歌を歌い、祈りを捧げたりドラムを叩いたりしながら、病気の治療をしたり、神や精霊と交信し重要な決定をしたり予言をしたりする。メキシコ、マサテク族のマジックマッシュルーム、アメリカン・チャーチのペヨーテ(幻覚性サボテン)、アンデス地方のサンペドロ・サボテン、アマゾンのアヤワスカや西アフリカのイボガ(イボガイン)、シベリアのベニテングタケなどがある。中世ヨーロッパや古代インドでは、せん妄性の植物ベラドンナやダチュラが儀式的に使用されていた。",
"title": "文化と麻薬"
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"text": "コロンビアやペルー、ボリビアに住む先住民インディオや労働者は、コカインの原料であるコカの葉を興奮剤として日常的に噛んだり、お茶にして飲んでいる。東南アジア、東アフリカ、中東においても、興奮作用のある植物を嗜好品として摂取する習慣がある。ケシ(芥子)栽培をするタイ北部やラオスに住む少数民族の中には、アヘン中毒に陥っている者も少なくない。",
"title": "文化と麻薬"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "定義2、3に該当する麻薬 LSD は、1960年代後半に欧米を中心に爆発的に広まり、ヒッピームーブメントを生みだした。音楽、文学、映像、絵画、ファッションなどに大きな影響を与え、ベトナム戦争の反戦運動や精神世界、東洋哲学、エコロジーなどへの関心を集めた。中心人物として、元ハーバード大学教授のティモシー・リアリーや、『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーなどがあげられる。",
"title": "文化と麻薬"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "古くから存在する社会問題として、隣接する覚醒剤や有機溶剤、幻覚剤などと共に、様々なジャンルで取り上げられる事が多い。また、政治問題や国際関係、あるいは貧困や家庭問題、青少年問題といった他のトラブルとも容易に結びつきやすい問題であるため、これらと付随して取り扱われる事がほとんどである。",
"title": "題材とした作品"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "なお、アメリカ合衆国では、違法薬物を使用する描写がある映画作品は、レーティングによってR-18指定となる。例えば、『地獄の黙示録』は、作品中に登場人物が大麻を吸飲するシーンがある事から、R-18指定となっている。",
"title": "題材とした作品"
}
] |
麻薬とは、通常はモルヒネやヘロインのようなケシから生成される麻薬性鎮痛薬のオピエートやオピオイドを指すが(定義1)、法律上の用語として、法律で規制された薬物を指して用いられることもある用語である(定義2)。アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む。日本ではさらに麻薬及び向精神薬取締法(麻薬取締法)における、「日本の法律上の麻薬」の語が、それらとも異なって使用されている(定義3)。薬物全般は薬物 (drug) を参照。 国際的には向精神薬であるLSDのような幻覚剤の多くは「日本の法律上の麻薬」であり、一方で大麻は大麻取締法、覚醒剤は覚醒剤取締法が別個に規制する。したがって、致死性、依存性の有無、身体的な離脱症状を生じる身体的依存の有無、離脱症状が致命的となるか否かの異なった薬物が、その含有する意味合いにより異なって含まれてくる、そうした薬物の総称である。医師などによる適正な投与以外の使用は禁止されている。医療目的における用途は鎮痛が多い。 依存性や致死性の高いアヘンやコカインなどの麻薬は、国際協力の元で厳しく規制されている。従来、白人の植民地主義によるアヘン売買が問題となり、1912年には万国阿片条約が公布された。条約に並行して、同種でより強力なバイエル社の医薬品ヘロインが出回ったがこれも1920年代には厳しく扱われる。1961年の麻薬に関する単一条約が先の条約を引き継いだが、欧米で再び密造のヘロインが流通し、敵対勢力が生産したものだが、当のアメリカ合衆国の中央情報局が流通に関わり秘密資金としていることも明らかとされた。このようにして、1971年にアメリカのニクソン大統領が、麻薬戦争(薬物戦争)を宣言した。規制されていることで多額の利益を上げるものとなっており、反政府勢力や私兵組織、テロリストなどが生産に関わり、集団犯罪組織である暴力団、黒社会、ギャング、マフィアなどが流通させ、重要な資金源となった。
|
[[Image:Papaver somniferum 2021 G3.jpg|right|thumb|[[ケシ]]の[[果実]](いわゆるケシ坊主)に傷をつけて、[[アルカロイド]]樹脂を採取する]]
<!-- 表の編集の仕方が良く分からない方は、ノートに編集依頼してください -->
{| class="wikitable floatright"
|+ 定義と代表薬物の対応
|-
! rowspan="2" | 薬物 !! colspan="4" | 定義
|-
! 1 || 2 || 3
|-
| [[アヘン]] || ○ || ○ || ○
|-
| [[モルヒネ]] || ○ || ○ || ○
|-
| [[ヘロイン]] || ○ || ○ || ○
|-
| [[コカイン]] || × || ○ || ○
|-
| [[大麻]] || × || ○ || ○
|-
| [[テトラヒドロカンナビノール|THC]] || × || ○ || ○
|-
| [[アンフェタミン]]<br>([[覚醒剤]]) || × || × || ×
|-
| [[LSD (薬物)|LSD]] || × || × || ○
|-
| [[メチレンジオキシメタンフェタミン|MDMA]] || × || × || ○
|-
| [[脱法ドラッグ]] || × || × || ×
|-
| [[タバコ]] || × || × || ×
|-
| [[アルコール]] || × || × || ×
|-
| colspan="6" | <div style="text-align: center;">凡例</div>
*○相当する
*△議論の余地あり
*×相当しない<!--
*?不明-->
|}
'''麻薬'''(まやく、{{lang-en|narcotic}}、'''痲薬'''とも)とは、通常は[[モルヒネ]]や[[ヘロイン]]のような[[ケシ]]から生成される麻薬性鎮痛薬の[[オピエート]]や[[オピオイド]]を指すが(定義1)、法律上の用語として、法律で規制された薬物を指して用いられることもある用語である(定義2)<ref name="whoLexicon"/>。[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]の規制法によれば、オピオイドだけでなく、[[コカイン]]や[[大麻]]を含む<ref name="whoLexicon"/>。日本ではさらに[[麻薬及び向精神薬取締法]](麻薬取締法)における、「日本の法律上の麻薬」の語が、それらとも異なって使用されている(定義3)。薬物全般は[[薬物]] (drug) を参照。
国際的には向精神薬である[[LSD (薬物)|LSD]]のような[[幻覚剤]]の多くは「日本の法律上の麻薬」であり、一方で大麻は[[大麻取締法]]、[[覚醒剤]]は[[覚醒剤取締法]]が別個に規制する{{sfn|松下正明(総編集)|1999|pp=112、120-121}}。したがって、致死性、依存性の有無、身体的な離脱症状を生じる[[身体的依存]]の有無、離脱症状が致命的となるか否かの異なった薬物が、その含有する意味合いにより異なって含まれてくる、そうした薬物の総称である。[[医師]]などによる適正な投与以外の使用は禁止されている。医療目的における用途は鎮痛が多い。
依存性や致死性の高い[[アヘン]]や[[コカイン]]などの麻薬は、国際協力の元で厳しく規制されている。従来、白人の植民地主義によるアヘン売買が問題となり、1912年には[[万国阿片条約]]が公布された。条約に並行して、同種でより強力なバイエル社の医薬品[[ヘロイン]]が出回ったがこれも1920年代には厳しく扱われる。1961年の[[麻薬に関する単一条約]]が先の条約を引き継いだが、欧米で再び密造のヘロインが流通し、敵対勢力が生産したものだが、当のアメリカ合衆国の[[中央情報局]]が流通に関わり秘密資金としていることも明らかとされた。このようにして、1971年にアメリカのニクソン大統領が、[[麻薬戦争]](薬物戦争)を宣言した。規制されていることで多額の利益を上げるものとなっており、反政府勢力や[[私兵]]組織、[[テロリズム|テロリスト]]などが生産に関わり、集団犯罪組織である[[暴力団]]、[[黒社会]]、[[ギャング]]、[[マフィア]]などが流通させ、重要な資金源となった。
==定義や法==
[[世界保健機関]] (WHO) の用語集では、麻薬(''narcotic'')の語は昏迷・昏睡、痛みに対する無感覚を誘発する化学物質で、通常は麻薬性鎮痛薬の[[オピエート]]や[[オピオイド]]を指すが、法律上の用語として他の薬物を指す場合があるため、より具体的な意味を持つオピオイドの用語を用いている<ref name="whoLexicon">{{Cite book|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|title=Lexicon of alchol and drug term|publisher=World Health Organization|date=1994|url=http://whqlibdoc.who.int/publications/9241544686.pdf|format=pdf||isbn=92-4-154468-6|pages=25-26, 47, 49}} [http://www.who.int/substance_abuse/terminology/who_lexicon/en/ (HTML版 introductionが省略されている])</ref>。麻薬(''narcotic'')の語は、規制された薬物を指して用いられる場合もあり、アメリカ合衆国やカナダの規制法によれば、オピオイドだけでなく、コカインや大麻を含む<ref name="whoLexicon"/>。国際条約としての規制の根拠は、1961年の[[麻薬に関する単一条約]]である<ref name="whoLexicon"/>。
{{en|Narcotics}} の[[日本語]]の[[翻訳]]として麻薬があてられた。'''痲薬'''とも書くが、[[1949年]]([[昭和]]24年)の[[当用漢字]]制定以降は、表記は「麻薬」に統一されている。
=== 医学上 ===
歴史上かつ医学上の麻薬の定義で、麻酔薬の[[アヘン]]類のことを指す。
アヘン剤とは、[[モルヒネ]]、[[ヘロイン]]、[[コデイン]]など、[[ケシ]]の実から抽出される[[アルカロイド]]を合成した[[オピオイド]]系の[[薬物]]のことである。昏迷状態を引き起こす抑制薬であり、[[酩酊]]、[[多幸感]]などをもたらす一方、強力な依存性があり、急速に[[耐性 (薬理学)|耐性]]を形成し、身体的な離脱症状を生じる[[身体依存]]を形成する。とりわけ作用量と致死量が近い薬物で危険性が高い。
=== 国際条約上の定義 ===
1912年の[[万国阿片条約]]から、1961年の[[麻薬に関する単一条約]]による麻薬の定義で、医学的な定義に大麻とコカインを追加したものである。国際的な定義である。
1912年の万国阿片条約では、アヘンやモルヒネ、また[[コカイン]]、またこれらと同様の害悪を引き起こす物質を規制した{{sfn|松下正明(総編集)|1999|p=109}}。その後、この条約が1925年に改定された時に、アジアやアフリカなど大麻の使用習慣のある国が消極的であったが、エジプトの提案でインド大麻も規制に追加された{{sfn|松下正明(総編集)|1999|p=109}}。第二次世界大戦を経て国際連盟が解体し、引き継ぐ[[国際連合]]による1961年の[[麻薬に関する単一条約]](Single Convention on ''Narcotic Drugs'')によって、同じような分類で麻薬―Narcotics―が国際的な管理下に置かれた{{sfn|松下正明(総編集)|1999|pp=110-111}}。さらに、後続の国際条約である1988年の[[麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約]](Convention Against Illicit Traffic in ''Narcotic Drugs'' and ''Psychotropic Substances'')の、第1条n項において、「麻薬」とは1961年の条約にて指定されたものであると定義されている。
[[大麻]]の鎮痛作用はモルヒネなどより弱いが、致死量は不明であり、身体依存はなく離脱症状も軽度であり、有害性の異なった薬物である。またコカインはオピオイドや大麻とも異なり、興奮作用がある[[精神刺激薬]]であるが、注射部位に局所麻酔作用がある。
=== 日本の法律上の定義 ===
日本の法律上の便宜による、[[麻薬及び向精神薬取締法]](現通称および旧名: 麻薬取締法)における「麻薬」の定義。
まず日本では、[[大麻]]は[[麻 (繊維)|繊維産業]]があったことから1948年に別個に[[大麻取締法]]を制定しており、戦後に乱用が問題となった[[覚醒剤]]類は[[覚醒剤取締法]]にて規制されている{{sfn|松下正明(総編集)|1999|pp=120-121}}。1970年には麻薬取締法に[[LSD (薬物)|LSD]]を追加し、日本の法律上の麻薬はほとんどが[[幻覚剤]]になっているとされる{{sfn|松下正明(総編集)|1999|pp=120-121}}。日本では、向精神薬に関する条約の付表Iの、そのほとんどが幻覚剤であるものを、「日本の法理上は」麻薬としているということである{{sfn|松下正明(総編集)|1999|p=112}}。
この背景を詳しく説明すると、1961年の国際条約以降に乱用された薬物を規制するための、1971年の[[向精神薬に関する条約]](Convention on ''Psychotropic Substances'')が登場した。LSDのような[[幻覚剤]]や、覚醒剤や[[バルビツール酸系]]や[[ベンゾジアゼピン系]]の[[抗不安薬|抗不安]][[睡眠薬]]が国際的な管理下に置かれた。向精神薬に関する条約において、医療的な価値がないとみなされた幻覚剤のような薬物は付表(スケジュール)Iに、それ以外の覚醒剤や睡眠薬は危険性により付表II以下に指定されている。後続する1988年の[[麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約]]の第1条r項において、「向精神薬」とは1971年の条約の付表Iから付表IVまでの物質であると定義されている。すべて「国際条約上は」''向精神薬''である。
付表Iの物質は、[[欧州議会]]の報告書によれば次のように説明される。「現在のところ[[医学]]的利用価値が認められず、[[公衆衛生]]に深刻な害を及ぼす危険性があるとされる薬物」<ref name="EuroParlReport">{{cite web | author=Kathalijne Maria Buitenweg | date=2003-10-06 | url=http://www.chanvre-info.ch/info/en/Working-document-on-the-UN.html | title=Working document on the UN conventions on drugs | accessdate=2006-04-15}}</ref>。日本では、付表II以下の医薬品については、だいたいは日本の法律上の向精神薬として管理される{{sfn|松下正明(総編集)|1999|pp=120-121}}。
{| class="wikitable" style="float:right;margin-left:1em;"
|+ 国際条約と日本法の照合
! 国際条約 !! colspan="2" | 規制物質 !! 日本法
|-
| rowspan="3" | [[麻薬に関する単一条約]] || [[あへん]] || あへん || [[あへん法]]
|-
| [[大麻]] || 大麻 || [[大麻取締法]]
|-
| '''麻薬''' || 麻薬 || rowspan="3" | [[麻薬取締法]]
|-
| rowspan="5" | [[向精神薬に関する条約]] || [[向精神薬]] 付表I || (日本法の)麻薬
|-
| 向精神薬 付表II || 第1種向精神薬
|-
| 付表II一部の[[覚醒剤]] || (日本法の)覚醒剤 || [[覚醒剤取締法]]
|-
| 向精神薬 付表III || 第2種向精神薬 || rowspan="2" | 麻薬取締法
|-
| 向精神薬 付表IV || 第3種向精神薬
|-
| 対象外 || colspan="3" | [[タバコ]]、[[アルコール]]、[[カフェイン]]
|}
LSDには[[過剰摂取]]した際の致死量も不明で、また幻覚剤には強力な依存性もなく、[[離脱]]症状はない。[[脱法ドラッグ]]のようなものは、流通の後に日本の法律上の麻薬に指定され規制されることがある。つまり、法的に規制される前は、日本の法律上の麻薬には該当しない。
欧米では、[[メチレンジオキシメタンフェタミン|MDMA]]を[[心的外傷後ストレス障害]] (PTSD) の治療薬として役立てようとする動きもあり、治験が進行中である。
=== 他の用法:薬物全般の意味 ===
[[薬物]] (drug) を指して、麻薬とした例である。薬物のうち、依存性や毒性、法規制の有無などを問わず、脳内の神経伝達物質に作用し、酩酊、多幸感、幻覚などをもたらすものを、俗に広義の麻薬に含めることがある。記事、[[薬物]]を参照のこと。このような特徴を持つ薬物は、アルコールや睡眠薬のように、規制管理が異なる薬物も該当する。しかしながら、アルコールや睡眠薬のような薬物は、上述のような麻薬とは異なり、致命的となる可能性のある離脱症状を生じる危険性がある。
== 医療利用 ==
麻薬(定義1)は、痛みに対する感覚を鈍らせる。そのため、モルヒネやコデインは[[鎮痛剤]]として医療の現場で処方される。麻薬性鎮痛剤として、モルヒネのような効果を持つ[[ペチジン|メペリジン]](商標名:デメロール)や[[メサドン]]が開発されている。メサドンはヘロイン依存症の置換治療として、薬物から[[離脱]]するために利用される。
薬物の研究者は、これらの鎮痛薬の作用機序を探る過程で、麻薬に反応する脳内の[[受容体]](オピオイド受容体)を発見した。[[脳内麻薬]]と呼ばれることもある[[エンドルフィン]]は、人体に存在する天然の鎮痛物質である。麻薬はエンドルフィンと同様の働きをし、オピオイド受容体と結合することが明らかになった。麻薬の[[アンタゴニスト]]として作用する薬物は、麻薬の作用を阻害し、乱用や過剰摂取の症状を逆転させる。こうして、アヘン剤とオピオイド受容体のアンタゴニストを組み合わせることにより、副作用の無い新しいタイプの鎮痛剤が作られるに至った。
== 摂取方法 ==
麻薬の人体への摂取方法は、[[血液]]を経由して脳内へ薬物成分を送り込む方法がほとんどである。その手段として、そのまま飲む経口摂取のほか、舌下する、粉末状の麻薬を歯茎に塗布する、粉末状の麻薬を鼻孔へ吸引し[[鼻腔]]粘膜から吸収する、直腸粘膜から吸収する、性器粘膜から吸収する、[[吸食]]する、蒸気を吸引する、[[注射器]]による静脈注射・筋肉注射、などがある。
経口摂取の場合、主に[[小腸]]から吸収され、[[肝臓]]で一旦解毒された後血液に混じるため、肝臓で分解される物質で直接脳内で作用させたい場合は、経口摂取以外の方法を採られる。
== 乱用による症状 ==
種類により症状は様々であるが、[[ヘロイン]]、[[コカイン]]などの薬物では[[薬物依存症]]に陥りやすく、また依存症状が深刻になりやすい。
ヘロインには強い依存性がありニコチンと同等である{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。ヘロインでは深刻な病変や、機能低下を起こさないということを薬物禁止を支持するジェイムズ・Q・ウィルソンでさえ認めており、禁断症状によって時々発生する肉体的障害や、清潔でない注射針によるHIVウイルスなど感染症の問題は、非合法化されていることに関係して考えられる{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。タバコやアルコールの方が回復不能な障害を与えやすい{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。しかし、オピオイドの過剰摂取による死亡の多さは問題である<ref name="オピオイド危機"/>。
コカインのような[[精神刺激薬]]では、使用によって妄想状態に陥り、[[精神刺激薬精神病]]となり暴力を引き起こすこともある{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はない{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。暴力を強く促すことが判明しているのはアルコールである{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。暴力犯罪を抑制する最も効果的な方法は治療だと考えられている{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|p=77}}。
薬物依存者は周囲の人間に発覚すること、逮捕されることを恐れるため、事実をしばしば隠す。このため、[[薬物依存症]]の患者として医療施設で治療が行われているのは、患者群の一部に過ぎないと思われる。コカインでは耐性を獲得しやすいとともに逆耐性の機序を持つために治療は長期化する傾向にある。また、過去の麻薬入手の経験により一般市民より麻薬の入手が容易であるためにしばしば中断する。逮捕され、刑務所に収監されると、内部で麻薬関連犯罪で逮捕された者と出会うことでかえって「ドラッグ仲間」が出来てしまい、出所後に薬物の購入を持ちかけられたり、密売などの犯罪に誘われるケースもある。
== 厳罰政策と寛容政策 ==
{{See also|幻覚剤#規制}}
厳罰な政策をとり薬物使用を犯罪とみなす国がある一方、薬物による害と人権侵害を減らすことを目的として、薬物に対して寛容な政策をとる国も存在する。
20世紀にはほとんどの国では法的に規制されており、許可なく製造、所持、使用すると刑罰が科される。[[スリランカ]]、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]、[[中華人民共和国]]のように[[アジア]]諸国には[[死刑]]を科す国も存在する{{Efn2|2007年10月、中国から日本に密輸出しようとした日本人3人に死刑が言い渡され確定した。}}。受刑者移送条約の非締結国で罪を犯した場合、日本より重い刑期をむかえることになる。しかし、麻薬依存者に対し刑罰を科しただけでは[[薬物依存症]]から抜け出せないため、その治療のため入院したり、刑法違反の[[累犯]]で刑務所に収監される人が後を絶たない。日本では[[医療刑務所]]に収監するケースも見られる。
21世紀初頭に、国際的に「薬物依存者には刑罰よりも治療が必要だ」とする見解が主流となり<ref name="2010神経">{{Cite journal |和書|author=小林桜児|date=2010-09|title=統合的外来薬物依存治療プログラム― Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program(SMARPP)の試み |url=https://www.jspn.or.jp/journal/journal/pdf/2010/09/journal112_09_p877.pdf |format=pdf|journal=精神神經學雜誌|volume=112|issue=9|pages=877-884|naid=10028059555}}</ref>、2019年には国連の[[国際麻薬統制委員会]]は人権への配慮から、死刑の廃止を求め、軽微な犯罪には刑罰でなく治療の可能性を言及するようになった<ref name="INCB2019">{{Cite web |author=[[国際麻薬統制委員会]] |date=2019-6 |url=http://www.incb.org/documents/News/Alerts/Alert12_on_Convention_Implementation_June_2019.pdf |format=PDF |title=State responses to drug-related criminality |publisher=International Narcotics Control Board |accessdate=2019-06-10}}</ref>。[[持続可能な開発のための2030アジェンダ]] (SDG) の目標として薬物規制条約に従いながら人権保護を最大化するために、国連開発計画や世界保健機関は「人権及び薬物政策に関する国際ガイドライン」を出版し、薬物使用者に対する差別や不当な拘留の撤廃、科学的根拠に基づく予防や治療、個人的消費のための薬物所持や栽培の非犯罪化といった推奨事項がまとめられている{{sfn|国連開発計画・世界保健機関ら|2019}}。
1971年に国際的な[[麻薬戦争]]が開始され、世界の違法なアヘンの生産量は1971年の990トンから、1989年の4200トンに増加し、2007年には国連は8800トンとなり最大生産量に達したと報告した{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。アメリカで1990年代の10年間でコカインの使用量は増加し、2008年の国連の調査でも[[コカ|コカの葉]]を生産するためのコロンビアの土地は根絶計画に反して劇的に拡大した{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。つまり、1990年代以降、麻薬戦争は全面的に失敗であるという意見も増加してきたためである{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。
[[ウルグアイ]]では、2013年に大麻を合法化しているが、薬物規制条約が製造や輸出入に対し犯罪とすることを要求しているということで、国際麻薬統制委員会は協議を重ねてきている<ref>{{Cite web |date=2021-1-4 |url=https://www.incb.org/incb/en/news/press-releases/2021/incb-holds-consultations-with-uruguay-on-cannabis-legalization-for-non-medical-purposes.html |title=INCB holds consultations with Uruguay on cannabis legalization for non-medical purposes |publisher=国際麻薬統制委員会 |accessdate=2021-02-13}}</ref>。2018年に{{仮リンク|カナダにおける大麻|en|Cannabis in Canada}}の合法化が続いた。合法化を含む解説記事の{{仮リンク|米国における非医療大麻の非犯罪化|en|Decriminalization of non-medical cannabis in the United States}}も参照。
{{仮リンク|ポルトガルの薬物政策|en|Drug policy of Portugal}}では、2001年にすべての薬物を{{仮リンク|非犯罪化|en|Decriminalization}}して依存者を予防と治療に専念することで、死亡者数とHIV感染者数、特に10代の大麻使用を減少させてきた<ref>{{cite web|author=Brian Vastag |title=5 Years After: Portugal's Drug Decriminalization Policy Shows Positive Results - |url=https://www.scientificamerican.com/article/portugal-drug-decriminalization/ |date=2009-4-7 |publisher=Scientific American |accessdate=2021-2-9}}</ref>。2021年にオレゴン州では全米初の薬物の非犯罪化のための州法が施行され、犯罪ではなく交通違反切符のような罰金となり、薬物の使用によって犯罪化や差別を受けることから保護し治療へつなげることを支援する<ref>{{cite web|author= |title=Oregon becomes the first state to decriminalize small amounts of heroin and other street drugs |url=https://edition.cnn.com/2021/02/01/us/oregon-decriminalize-drugs-is-law-trnd/ |date=2021-2-2 |publisher=CNN |accessdate=2021-2-9}}</ref>。ヘロイン1グラム以下、コカイン2グラム以下、メタンフェタミン2グラム以下、MDMA /エクスタシー1グラムまたは5錠未満、LSDを40使用単位未満、シロシビン12グラム未満は単に罰金となる<ref>{{cite web|author=Tracy Loew, Virginia Barreda |title=Oregon decriminalizes small amounts of drugs, including heroin |url=https://www.usatoday.com/story/news/politics/elections/2020/11/03/oregon-decriminalizes-small-amounts-drugs-including-heroin/6156552002/ |date=2020-11-4 |publisher=Usa Today |accessdate=2021-2-9}}</ref>。
[[オランダの薬物政策]]のように[[大麻]]について刑法上は違法となっているが所持・摂取に対しては刑を執行しない事例も見られる(非犯罪化)。オランダでは、薬物をソフトドラッグとハードドラッグに分類し、大麻をソフトドラッグとして定義して、ほぼ合法として扱い、許可を受けた店舗で合法的に販売している。これによって犯罪組織の収入源を奪い、あらゆる薬物を扱う密売人との接触機会を無くすことで、害が深刻なハードドラッグ類の蔓延を抑止する政策を取っており、実際にヘロイン使用者が減少し、大麻使用者も増加していないなど、一定の効果をあげている。チェコやスイスでも似たような薬物政策がある。[[大麻]]を参照のこと。
21世紀初頭には、タイは死刑を設け厳罰主義を貫いてきた一国であったが、警察に殺害された人々は数千人にも上る一方で麻薬取引量は増加していったため、2017年までには死刑は執行されないよう政策転換をはかり、社会復帰を目指す相談所や依存者の治療をはじめている<ref>{{Cite web|和書|author=Frédéric Burnand |title=麻薬撲滅は幻想、東南アジアでも麻薬政策の転換進む |url=https://www.swissinfo.ch/jpn/society/%E9%BA%BB%E8%96%AC%E6%94%BF%E7%AD%96_%E9%BA%BB%E8%96%AC%E6%92%B2%E6%BB%85%E3%81%AF%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A7%E3%82%82%E9%BA%BB%E8%96%AC%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%AE%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E9%80%B2%E3%82%80/43140006 |date=2017-4-28 |publisher=swissinfo |accessdate=2019-1-15}}</ref>。
=== 刑罰 ===
ヘロインそれ自体には使用者を犯罪に駆り立てるような効果はなく、所持などが犯罪とされていることによって高額な薬物となり、そのため価格が高騰することが犯罪を引き起こす誘因となる{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=65-69}}。クリントン大統領時代の公衆衛生局長官のジョセリン・エルダースも暴力行為を減らすための薬物の合法化の検討を提案している{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。アメリカ医師会 (AMA) が合法化を勧告したこともあった{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。アメリカにおける別の問題は、1968年の約16万人の薬物検挙者が年々増加して2007年には180万人を超えたことである{{sfn|ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|2011|pp=71-75}}。
{| class="wikitable" style="text-align:left;"
|+ 21世紀初頭の各国の薬物犯罪における最高刑<ref>[http://www.pref.shimane.lg.jp/life/yakuji/yakuji/yakubutsu_boushi/jokyo/ 島根県 : 薬物乱用の状況 各国の罰則]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>
! style="width:8em;" | 国名 !! style="width:8em;" | 最高刑
|-
| 日本
| 無期懲役
|-
| アメリカ合衆国
| 終身刑
|-
| イギリス
| 無期懲役
|-
| エジプト
| 死刑
|-
| オーストラリア
| 終身刑
|-
| 大韓民国
| 死刑
|-
| シンガポール
| 死刑
|-
| タイ王国
| 死刑
|-
| 中華人民共和国
| 死刑
|-
| フランス
| 無期懲役
|-
| マレーシア
| 死刑
|}
== 日本における法規制 ==
[[File:User license of the Narcotic.jpg|thumb|麻薬施用者免許証。医療用の麻薬を用途に従い使用するための免許である。麻薬に携わる免許は麻薬は[[麻薬及び向精神薬取締法]]の各条文を参照のこと。]]
[[麻薬及び向精神薬取締法]]では、免許がない者に対して、「法律上の麻薬」の所持、譲渡、製造、医療目的以外の輸出入が罰則付きで厳しく規制される。また麻薬は輸入・製造・製剤時に封がされたまま麻薬施用者のもとに届き、取引数量は施用されなかったぶんの廃棄に至るまで数量が厳しく管理される(向精神薬も製造・製薬において被封され、同様に取り扱われる)。モルヒネ等の原料となる[[アヘン]]は[[あへん法]]により取引は国の独占とされ、そのもととなる[[ケシ]]の栽培も国の厳しい管理下に置かれる。
なお繊維など麻薬以外の用途を有する大麻は[[大麻取締法]]によって規制が行われている。また薬物を規制する法律のうち、大麻取締法のみが医薬品としての使用を禁止しており、昨今欧米で薬効が注目されている[[医療大麻]]として法規制の見直しを唱える国内団体も存在する。
=== 法運用の限界 ===
{{Main|脱法ドラッグ}}
[[デザイナードラッグ]]とは、法律で麻薬に指定されている[[化学物質]]と、[[化学式]]が非常に良く似ているが厳密には指定されていない薬物である。こうした[[脱法ドラッグ]]の流通が、日本において社会問題となっている。
一方、こうした薬物に対して、麻薬及び向精神薬取締法に基づき、政令により麻薬指定を進めてはいるものの<ref name=Seirei>{{Cite web|和書|title=麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令(平成二年政令第二百三十八号)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=402CO0000000238|website=[[e-Gov法令検索]]|accessdate=2019-12-28|publisher=[[総務省行政管理局]] |date=2019-06-28 |quote=令和元年政令第四十七号改正、2019年7月28日施行分}}</ref>、指定が化学物質名であることから指定が後手後手になりがちである。
また作用が似ていても、化学的構造が少しでも異なれば法で取り締まることは出来ず、麻薬に指定しても次々と新しい物質が作られるという「いたちごっこ」が続いている。しかし危険性は違法な麻薬に準じるものと考えられ、実際に健康被害や死亡例の報告もある。
国や[[地方公共団体|自治体]]により、麻薬に類似した作用を起こす物質を特定し、似た化学物質と化学式を持つ薬物を一括して違法だと指定するなどの法対策がとられている。合成化学研究の障害になるとか、公知が困難になるため、知らずに扱った人が罪に問われかねないなど、問題点もあり、解決には至っていない。
=== ケシ ===
日本では麻薬の原料となりうる特定種の[[ケシ]]の栽培については、モルヒネ・コデイン等の安定供給に資するため、[[あへん法]]により[[厚生労働省]]の委託を受けた特定農家での栽培ならびに学術研究用途に限られ、無許可の栽培は罰せられる。
[[アヘン]]を採取し得る用途での栽培は、毎年定められた栽培区域及び栽培面積の中において、栽培地及び栽培面積並びにアヘンの乾燥場及び保管場を定め、[[厚生労働大臣]]の許可を受けた上で栽培が許される。またアヘンを採取しない学術研究用途( [http://www.tokyo-eiken.go.jp/lb_iyaku/plant/ 都立薬用植物園](東京都小平市)における展示目的の栽培など)においては栽培地及び栽培面積を定めて厚生労働大臣の許可を受けた上で栽培が許される。したがって許可を受けずにケシを栽培する行為は違法である(市販されている観賞用の[[ヒナゲシ]]は麻薬成分を産生しない種類である)。
アヘンを採取可能なケシの栽培には、ケシの実からアヘンが第三者の手に渡らないよう厳重に囲い施錠した耕作地が必要である。さらにアヘン採取目的での栽培はケシの実から掻き取った生アヘンを乾燥させる場所や出来たアヘンの保管庫にも厳重な施錠管理が必要であることから、国産のアヘンは細々と栽培されるにとどまり、アヘンの需要の大半をインドからの輸入に頼っている。またアヘン採取を目的としない栽培についても植物園のほかは研究農場にとどまっている。
== 主な生産地域 ==
=== 黄金の三角地帯 ===
[[画像:Golden Triangle.png|thumb|黄金の三角地帯]]
[[黄金の三角地帯]](ゴールデントライアングル)とは、[[アヘン]](阿片)の原料であるケシ(芥子)が、タイ・ラオス・[[ミャンマー]]の山岳地帯で多く栽培されていることによる呼称である。ただし、現在は麻薬の生産はほぼミャンマーに限られている。ミャンマーでは、麻薬王[[クン・サ]]が仕切っていたことで有名なように、様々な政治勢力がドラッグビジネスと関わり合いを持っている。
=== 黄金の三日月地帯 ===
[[黄金の三日月地帯]]は、黄金の三角地帯と並ぶ、世界最大の麻薬及び覚醒剤密造地帯。[[アフガニスタン]]([[ニームルーズ州]])・[[パキスタン]]([[バローチスターン州]])、[[イラン]]の国境が交錯している。この呼称の由縁は、アフガニスタン東部の[[ジャラーラーバード]]から南部の[[カンダハール]]を経由し、南西部のザランジ地方に至る国境地帯が三日月形をしているため。
== 歴史 ==
=== アヘン戦争 ===
[[アヘン戦争]]は[[清]]の[[林則徐]]が[[イギリス]]によるアヘンの輸入を禁じ、アヘンを没収し、廃棄処分したことを口実に起こされた戦争。[[1840年]]より二年間。
1889年にドイツで([[バイエル (企業)|バイエル]]社より)商品名ヘロインで発売され{{sfn|ツェンク|田端|1996|p=97}}、モルヒネに代わる依存のない万能薬のように国際的に宣伝され、アメリカでは1924年に常用者推定20万人とされた{{sfn|アルフレッド・W・マッコイ|1974|pp=上4-6}}。1912年の[[万国阿片条約]]で規制され[[第一次世界大戦]]後に各国が条約に批准した。ドイツで1921年、アメリカで1924年に医薬品の指定がなくなると、のちに非合法に流通するようになった{{sfn|ツェンク|田端|1996|p=97}}。
=== 戦時中の麻薬 ===
[[ベトナム戦争]]では[[メオ族]]を支援するために[[アメリカ中央情報局]] (CIA) が市場へのアヘン運搬を支援したが、これが高純度のヘロインとなって駐留兵の手に渡った<ref name="エア・アメリカ">{{Cite book|和書|author=クリストファー・ロビンズ|translator=松田銑|title=エア・アメリカ|series=新潮文庫|publisher=|date=1990|isbn=4-10-233101-8|pages=369-370}}</ref>。アメリカで1971年麻薬患者が推定56万人となり[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]大統領が、[[麻薬戦争|薬物に対する戦い]]を宣戦布告する{{sfn|アルフレッド・W・マッコイ|1974|p=上1}}。
[[アメリカ合衆国]]がベトナム戦争当時、[[アメリカ軍]]兵士に対して士気を高めるために[[コカイン]]摂取を極秘に認めていた。当時ベトナムに駐留していたアメリカ軍兵士の40%がコカイン摂取をしていたとされる。現在でも航空機パイロットにアンフェタミン錠剤などを配布していると言われる。{{要出典|date=2020年10月}}
=== 国家産業やマフィアの資金獲得 ===
{{Main|麻薬戦争}}
[[コロンビア]]で[[1970年代]]後半から、アメリカ合衆国向けに密輸するコカイン栽培が急増した。アメリカ合衆国で[[1960年代]]後半からコカイン摂取がブームになったことがきっかけだった。コロンビアでコカイン生産を行ったのは、アンデス山中の大都市で動いていた犯罪組織[[メデジン・カルテル]]だった。その後犯罪組織はコロンビア国家の政治・経済も支配するようになり、コカイン栽培が国家産業の一つにまで発展した。
ミャンマーにおいては、主として[[シャン州]]周辺で古くから栽培されており、同州にはミャンマーからの分離独立を志向する少数民族が多く存在する事、1960年代以降のいわゆる「[[ビルマ式社会主義]]」によってミャンマー経済が慢性的な停滞に陥り多くの人材が麻薬産業に流入した事、シャン州から主要な「市場」であるタイや中国に比較的近距離である事、60年代以降のミャンマー政府が国際的に[[孤立主義]]の傾向を取り続けた事などから、ケシ栽培を中心とする麻薬産業が急速に発達した。
少量の生産販売で多額の利益が得られる事、多くの麻薬植物は容易に栽培が可能である事から、多くの国の反政府[[ゲリラ]]や[[民兵]]組織が資金源として麻薬産業を保有する事が多い。また、同様の理由で、かつ、中央政府の支配力が及ばない事から貧しい農家が「究極の[[換金作物]]」として麻薬植物を栽培するケースも多く、[[アフガニスタン]]や[[レバノン内戦|内戦]]当時の[[レバノン]]・[[ベッカー高原]]などでは盛んに麻薬植物が栽培されている。
2012年の第67回国連総会では、メキシコ、コロンビア、グアテマラといったラテンアメリカ諸国の大統領は、薬物の流通を制限するという証拠は乏しく、暴力につながるこうした政策の変更を提案した<ref name="ReutersUSUN2013">{{cite news |author=Brian Winter |title=U.S.-led "war on drugs" questioned at U.N. |url=http://www.reuters.com/article/2012/09/26/us-un-assembly-mexico-drugs-idUSBRE88P1Q520120926 |date=Sep 26, 2012 |newspaper=Reuters |accessdate=2013-11-13}}</ref>。メキシコでは、カルデロンの任期中6年間に、薬物に関連した暴力により死者は6万人を上回り、コロンビアでは撲滅運動にかかわらず依然としてコカインの世界最大の生産地の1つである<ref name="ReutersUSUN2013"/>。
2013年の国連の[[薬物乱用防止デー]]において、法の支配は一部の手段でしかなく、罰することが解決策ではないという研究が進んでおり、健康への負担や囚役者を減らすという目標に沿って、人権や公衆衛生、また科学に基づく予防と治療の手段が必要とされ、このために2014年には高度な見直しを開始することに言及し、加盟国にはあらゆる手段を考慮し、開かれた議論を行うことを強く推奨している<ref>{{cite pressrelease |author=国際連合|authorlink=国際連合 |title=Secretary-General's remarks at special event on the International Day against Drug Abuse and illicit Trafficking |url=http://www.un.org/sg/statements/index.asp?nid=6935 |date=26 June 2013 |newspaper=United Nations |accessdate=2013-11-13}}</ref>。
=== オピオイド危機 ===
{{See also|オキシコドン#訴訟}}
2017年10月には、アメリカで処方された[[オピオイド]]に端を発する過剰摂取死のうなぎ上りによって、トランプ大統領は公衆衛生の非常事態を宣言した<ref name="オピオイド危機">{{cite news |author=Axel Bugge |title=アングル:米国の「オピオイド危機」、欧州にも波及の恐れ |url=https://jp.reuters.com/article/drugs-opioids-idJPKBN1CW0ST |date=2017-10-28 |newspaper=ロイター |accessdate=2017-12-05}}</ref>。10月中旬には、トランプ大統領が麻薬問題担当長官に指名した共和党のトム・マリーノが、オピオイドの取り締まり弱体化させる法案を進めていたことで指名辞退となり、オピオイドを蔓延させた製薬会社への捜査の声も高まった<ref>{{Cite web|和書|author= |title=「オピオイド危機」で儲けているのは誰か?麻薬系鎮痛剤オキシコンチンで数十億ドルを稼ぐ 秘密主義のサックラー一族 |url=http://democracynow.jp/dailynews/17/10/19/2 |date=2017-10-19 |publisher=Democracy Now! |accessdate=2017-12-05}}</ref>。およそ1週間後には、オピオイドの[[フェンタニル]]を過剰に売り込んだ、インシス・セラピューティクス社の最高経営責任者(CEO)らが逮捕され、医師や薬剤師にリベートや賄賂を渡して売り込んでおり、FBIの捜査官はオピオイドをがんでもない患者に売りつけるのは密売人と変わらないと非難した<ref>{{cite news |author=メリナ・デルキック、河原里香・訳 |title=米製薬大手、中毒性のオピオイド「密売」でCEOら逮捕 (Big Pharma Exec Arrested for Opioid Bribes) |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/ceo-13.php |date=2017-10-27 |newspaper=ニューズウィーク日本版 |accessdate=2017-12-05}}</ref>。また中国で密造された、ほとんどがフェンタニル誘導体である合成オピオイドも新たな脅威となってきた<ref name="オピオイド危機">{{cite news |author=Axel Bugge |title=アングル:米国の「オピオイド危機」、欧州にも波及の恐れ |url=https://jp.reuters.com/article/drugs-opioids-idJPKBN1CW0ST |date=2017-10-28 |newspaper=ロイター |accessdate=2017-12-05}}</ref>。
== 文化と麻薬 ==
=== 宗教 ===
幻覚性植物を聖なる植物とし、信仰の対象にしている宗教もある。米国の[[ネイティブ・アメリカン・チャーチ]]のペヨーテや、ブラジルの[[アヤワスカ]]を使うカトリック系教会、ジャマイカの[[ラスタファリ運動]]における[[大麻]]、西アフリカ、ガボンのブウィティ教、瞑想のために大麻樹脂を吸うシバ派の[[ヒンドゥー教]]修行者などがある。日本ではかつて[[オウム真理教]]が「キリストのイニシエーション」と名付けた[[オウム真理教の修行|修行]]でLSDを使用していたことが報告されている。宗教儀式における幻覚性植物の使用は、コミュニティ内の連帯を高める役割もはたしている。2006年、アメリカ合衆国最高裁判所は、規制薬物の宗教上の使用を認める判決を出している<ref>[http://www.erowid.org/chemicals/ayahuasca/ayahuasca_law22.shtml ''UDV Wins Supreme Court Decision on Preliminary Injunction''], 2006</ref>。
=== シャーマニズム ===
人類と向精神性作用のある植物との関係は遥か昔まで遡ることができる。世界各地にみられる[[シャーマニズム]]の儀式では、夜間に少人数で集まり、明かりを消した小屋の中や野外でたき火を囲み、幻覚性植物を摂取する。[[シャーマニズム|シャーマン]]は歌を歌い、祈りを捧げたりドラムを叩いたりしながら、病気の治療をしたり、[[神]]や[[精霊]]と交信し重要な決定をしたり予言をしたりする。[[メキシコ]]、マサテク族の[[マジックマッシュルーム]]、アメリカン・チャーチの[[ペヨーテ]](幻覚性[[サボテン]])、[[アンデス山脈|アンデス地方]]のサンペドロ・サボテン、アマゾンのアヤワスカや西アフリカのイボガ([[イボガイン]])、シベリアの[[ベニテングタケ]]などがある。中世ヨーロッパや古代インドでは、[[せん妄]]性の植物[[ベラドンナ]]や[[ダチュラ]]が儀式的に使用されていた。
=== 少数民族 ===
[[コロンビア]]や[[ペルー]]、[[ボリビア]]に住む先住民[[インディオ]]や労働者は、コカインの原料である[[コカ]]の葉を興奮剤として日常的に噛んだり、お茶にして飲んでいる。[[東南アジア]]、東[[アフリカ]]、[[中東]]においても、興奮作用のある植物を嗜好品として摂取する習慣がある。[[ケシ]](芥子)栽培をする[[タイ王国|タイ]]北部や[[ラオス]]に住む少数民族の中には、アヘン中毒に陥っている者も少なくない。
=== ヒッピームーブメント ===
定義2、3に該当する麻薬 [[LSD (薬物)|LSD]] は、[[1960年代]]後半に欧米を中心に爆発的に広まり、[[ヒッピー|ヒッピームーブメント]]を生みだした。音楽、文学、映像、絵画、ファッションなどに大きな影響を与え、[[ベトナム戦争]]の[[反戦運動]]や[[精神世界]]、[[東洋哲学]]、[[エコロジー]]などへの関心を集めた。中心人物として、元[[ハーバード大学]]教授の[[ティモシー・リアリー]]や、『[[カッコーの巣の上で]]』を書いた[[ケン・キージー]]などがあげられる。
== 日本の法律における麻薬の一覧 ==
{{See also|#定義や法}}
* 麻薬及び向精神薬取締法および関連政令上の麻薬{{Efn2|麻薬及び向精神薬取締法 別表第一にて74の化学物質を定義のほか<ref name=Law-T1>{{Cite web|和書|title=麻薬及び向精神薬取締法(昭和二十八年法律第十四号)別表第一(第二条関係)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=328AC0000000014#1175 |website=[[e-Gov法令検索]]|accessdate=2019-12-28 |date=2015-06-26 |publisher=[[総務省行政管理局]] |quote=平成二十七年法律第五十号改正、2016年6月1日施行分。「第二条 この法律において次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。一 麻薬 別表第一に掲げる物をいう。」「別表第一(第二条関係)七十五 前各号に掲げる物と同種の濫用のおそれがあり、かつ、同種の有害作用がある物であつて、政令で定めるもの」}}</ref>、麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令でも追加定義している<ref name=Seirei/>。}}
** [[ヘロイン]]
** [[コカイン]]
** [[LSD (薬物)|LSD]](リゼルグ酸ジエチルアミド、通称エル、紙)
** [[メチレンジオキシメタンフェタミン|MDMA]](3,4-メチレンジオキシメタンフェタミン、通称エクスタシー、X(エックス)、バツ、罰、玉)
** MDEA(通称イブ)
** [[マジックマッシュルーム]](成分:[[シロシビン]]、[[シロシビン|シロシン]]、通称MM(エムエム))
** 2C-B(4-ブロモ-2,5-ジメトキシフェネチルアミン、通称イル、電池)
** GHB([[γ-ヒドロキシ酪酸|ガンマヒドロキシ酪酸]])
** BZP(1-ベンジルピペラジン)
** [[5-MeO-DIPT]](5-メトキシ-''N'',''N''-ジイソプロピルトリプタミン、通称ゴメオ、フォクシー)
** [[Α-メチルトリプタミン|AMT]](3-(2-アミノプロピル)インドール)
** 2C-T-7
** [[2C-I]](通称エクスタシー){{Efn2|name=Metro-List|東京都知事指定薬物から[[薬事法]]の「指定薬物」に変更<ref name=Metro-Yakuji>{{Cite web|和書|url=http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/yakuji/kansi/datudora/tijisitei/tijisitei.html |title=知事指定薬物 |publisher=[[東京都福祉保健局]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070515075725/http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/yakuji/kansi/datudora/tijisitei/tijisitei.html |archivedate=2007-05-15 |accessdate=2019-12-28}}</ref>。薬事法 第2条15では指定薬物を定義しており、麻薬及び向精神薬取締法に規定する麻薬及び向精神薬を含む<ref name=Yakuji-Art2>{{Cite web|和書|title=医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(昭和三十五年法律第百四十五号)第2条(定義)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335AC0000000145#20 |website=[[e-Gov法令検索]]|accessdate=2019-12-28 |date=2016-12-16 |publisher=[[総務省行政管理局]] |quote=平成二十八年法律第百八号改正、2018年12月30日施行分}}</ref>。}}
** 2C-T-2{{Efn2|name=Metro-List}}
** 2C-T-4{{Efn2|name=Metro-List}}
** [[ケタミン]](ケタラール)
** [[モルヒネ]]
** [[ジヒドロコデイン]]
** [[フェンタニル]]
** [[ペチジン]]
** [[オキシメテバノール]]
** その他
* 麻薬及び向精神薬取締法および関連政令上の向精神薬{{Efn2|麻薬及び向精神薬取締法 別表第三にて10の化学物質を定義のほか<ref name=Law-T3>{{Cite web|和書|title=麻薬及び向精神薬取締法(昭和二十八年法律第十四号)別表第三(第二条関係)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=328AC0000000014#1257 |website=[[e-Gov法令検索]]|accessdate=2019-12-28 |date=2015-06-26 |publisher=[[総務省行政管理局]] |quote=平成二十七年法律第五十号改正、2016年6月1日施行分。「第二条 この法律において次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。六 向精神薬 別表第三に掲げる物をいう。」「別表第三(第二条関係)十一 前各号に掲げる物と同種の濫用のおそれがあり、かつ、同種の有害作用がある物であつて、政令で定めるもの」}}</ref>、麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令でも追加定義している<ref name=Seirei/>。}}
** [[ベンゾジアゼピン]](セルシン、ホリゾンなど)
** [[バルビツール酸系]](フェノバールなど)
** [[メチルフェニデート]](リタリン)
** [[モダフィニル]](モディオダール)
* その他の日本の法律によって規制されているもの
** [[アヘン]](あへん法・刑法)
** [[大麻]](マリファナ)(大麻取締法)
** [[覚醒剤]]([[アンフェタミン]]・[[メタンフェタミン]] ヒロポン)(覚醒剤取締法)
== 題材とした作品 ==
古くから存在する社会問題として、隣接する覚醒剤や有機溶剤、幻覚剤などと共に、様々なジャンルで取り上げられる事が多い。また、[[政治問題]]や[[国際関係]]、あるいは貧困や家庭問題、青少年問題といった他のトラブルとも容易に結びつきやすい問題であるため、これらと付随して取り扱われる事がほとんどである。
なお、アメリカ合衆国では、違法薬物を使用する描写がある映画作品は、[[レーティング]]によって[[R-18]]指定となる。例えば、『[[地獄の黙示録]]』は、作品中に登場人物が大麻を吸飲するシーンがある事から、R-18指定となっている。
;映画<!-- 発表年&五十音順 -->
* 『[[麻薬売春Gメン]]』 (1972年) - [[千葉真一]][[主演]]による[[麻薬Gメン]]によるマリファナの撲滅を描いた作品
* 『[[東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯]]』 (1973年) - 国際的な麻薬ルートを暴く作品で、千葉真一、[[ノラ・ミャオ]]など四か国の俳優が出演し、製作された。
* 『[[十代 恵子の場合]]』 (1979年、[[東映セントラルフィルム]]製作) - [[森下愛子]]主演。
* 『[[トレインスポッティング]]』(1996年)イギリス映画、ストリートの若者によるヘロインの使用と密売。
* ''[[:en:The House I Live In (2012 film)|The House I Live In]]''(2012年) {{en icon}} 麻薬戦争を批判的に描いたドキュメンタリー。
* 『カルテル・ランド』(2015年)監督マシュー・ハイネマン、麻薬カルテルとの戦いを扱い、アカデミー賞にノミネート。
== 注釈 ==
{{notelist2}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==<!--
出典は、関連しそうなものの一覧ではなく、脚注を使い本文の参考文献として使用したものを挙げてください-->
* {{Cite web|和書|author= 国連開発計画・世界保健機関ら|title=国際的な薬物政策は、懲罰的アプローチから公衆衛生アプローチへ。「人権及び薬物政策に関する国際ガイドライン」の和訳を公表 |url=http://cannabis.kenkyuukai.jp/information/information_detail.asp?id=103026 |date=2019-03 |publisher=日本臨床カンナビノイド学会 |accessdate=2021-1-29 |ref=harv|year=2019}}
**原著:{{cite web |title=International Guidelines on Human Rights and Drug Policy | UNDP |url=https://www.undp.org/content/undp/en/home/librarypage/hiv-aids/international-guidelines-on-human-rights-and-drug-policy.html |date=2019-3 |publisher=国連開発計画 |accessdate=2021-1-29}} 広報:{{cite web |title=Landmark international guideline launched on Human Rights and Drug Policy |url=https://www.undp.org/content/undp/en/home/news-centre/news/2019/human-rights-and-drug-policy.html |date=2019-3-15 |publisher=国連開発計画 |accessdate=2021-1-29}}
* {{Cite book|和書|author=アルフレッド・W・マッコイ|translator=堀たお子|title=ヘロイン―東南アジアの麻薬政治学 上下巻|publisher=サイマル出版会|date=1974|ref=harv}} ''The politics of heroin in Southeast Asia'', 1972
* {{Cite journal |和書|last1=ツェンク |first1=M. |last2=田端 |first2=守 |date=1996-04-20 |title=アヘン : その薬物史と功罪 |journal=生薬學雜誌 |volume=50 |issue=2 |pages=86-102 |naid=110008731660 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110008731660|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=ジェフリー・ライマン、ポール・レイトン|translator=宮尾茂|title=金持ちはますます金持ちに 貧乏人は刑務所へ―アメリカ刑事司法制度失敗の実態|publisher=花伝社|date=2011|isbn=978-4-7634-0621-7|ref=harv}} ''The Rich Get Richer and the Poor Get Prison'', 9th ed, 2010.
* {{Cite book|和書|author=松下正明(総編集)|editor=編集:牛島定信、小山司、三好功峰、浅井昌弘、倉知正佳、中根允文|chapter=IV 国際向精神薬条約|title=薬物・アルコール関連障害|series=臨床精神医学講座8|publisher=中山書店|date=1999-06|isbn=978-4521492018|pages=109-123|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[違法薬物取引]]
* [[国際麻薬乱用・不正取引防止デー]]
* [[麻薬法 (ドイツ)]]
* [[ゲートウェイドラッグ]]
* [[シンナー#シンナー中毒|シンナー遊び]]
* [[神経伝達物質]] / [[脳内麻薬]]
* [[麻薬取締官]] / [[麻薬取締員]] 日本の制度
** [[麻薬・覚せい剤乱用防止センター]] 日本の機関
== 外部リンク ==
* {{Egov law|328AC0000000014|麻薬及び向精神薬取締法}}
* {{Egov law|402CO0000000238|麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令}}
* {{Egov law|323AC0000000124|大麻取締法}}
* {{Egov law|326AC1000000252|覚醒剤取締法}}
* {{Egov law|329AC0000000071|あへん法}}
* {{Egov law|335AC0000000145|医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(旧薬事法)}}
* [http://www2.odn.ne.jp/~had26900/about_souyaku/about_ahen.htm アヘンとケシの科学]
* [http://www.f.u-tokyo.ac.jp/~molpk/ja/index.html 東京大学分子薬物動態学教室]
* {{脳科学辞典|麻薬}}
* [http://globalnewsview.org/archives/4710 Global News View (2017)「南北アメリカ:大陸を覆う麻薬ネットワーク」]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まやく}}
[[Category:麻薬|*]]
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[[Category:犯罪]]
[[Category:健康の社会的決定要因]]
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2003-09-16T08:50:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E8%96%AC
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新河岸川
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新河岸川(しんがしがわ、しんがしかわ)は、埼玉県及び東京都を流れる一級河川。荒川水系隅田川の支流である。
武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水や入間川(笹井堰)からの水田用水を水源とする赤間川が、埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、起点となる。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と、次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する。上流から川越市、ふじみ野市、富士見市、志木市、朝霞市、和光市、板橋区、北区を流れる。
元は川越市の伊佐沼が源流で、現在の大和町(現在の和光市)新倉・朝霞水門付近で旧入間川(現在の荒川)へ合流していた河川だった。荒川と並行しており、荒川が「外川」と呼ばれたのに対し、当川は「内川」と呼ばれた。
江戸時代、川越藩主松平信綱が、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせ流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越とを結ぶ舟運ルートとした。これ以降、沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。
客を乗せる早舟は、川越夜舟とも呼ばれ、川越城下を午後3時に発って一晩かかって翌朝8時に千住、昼前には花川戸へ着いた。物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)があった。並舟は川越ー江戸の往復を7〜8日で行った不定期船。飛切は今日下って翌日上るという特急であった。船は喫水が浅い平田舟で、明治・大正期にはニブネと呼ばれていた。積載量は70石から80石、長さ15メートルくらいのものが多かった。
明治時代に川越鉄道(現在の西武新宿線)や川越馬車鉄道(のちの西武大宮線、廃止)、大正時代にはほぼルートを同じくする東上鉄道(現在の東武東上本線)が開業した結果、舟運は衰退していった。
1910年(明治43年)以降の荒川本流の直線化工事により、その南側の湾曲部は本流から分離された。新河岸川は、荒川の南側の湾曲部および分流を繋ぎながら東へ掘削され、現在の岩淵水門の先で荒川(現在は隅田川)へ合流する形となった。
合わせて、1920年(大正9年)〜1931年(昭和6年)に川越市街地の北側を流れ、伊佐沼に流入していた赤間川に新河岸川は繋げられた(現在の田谷橋付近から田島橋付近まで開削、伊佐沼から流れ出る旧新河岸川部分は現在は九十川という)。
さらに昭和に入ると志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。その結果河道が直線化されて流量が保てなくなり、また1931年に埼玉県から通船停止令が出たことにより、船の運航を取り止め舟運の時代は終わりを告げた。
ふじみ野市に於いて新河岸川の舟運で栄えた船問屋を修理、復元した福岡河岸記念館が一般公開されている。
水害を防ぐために下流の朝霞市に1980年度から2008年度の工期で朝霞調節池が建設された。あわせて、新河岸川放水路、びん沼川を経て1986年に完成した南畑排水機場で荒川に放水する。
複数の旧流路跡が現在も埋め立てられず残っている。
特にふじみ野市と富士見市との境、および、富士見市と志木市との境(前河岸跡のある地域)を流れる部分は旧新河岸川と呼ばれている。
上流から
下流から
下流から
上流から
下流から
以下、埼玉県
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"text": "水害を防ぐために下流の朝霞市に1980年度から2008年度の工期で朝霞調節池が建設された。あわせて、新河岸川放水路、びん沼川を経て1986年に完成した南畑排水機場で荒川に放水する。",
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"title": "新河岸川舟運"
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] |
新河岸川(しんがしがわ、しんがしかわ)は、埼玉県及び東京都を流れる一級河川。荒川水系隅田川の支流である。
|
{{Infobox 河川
|名称=新河岸川
|画像=[[File:Shingashi-gawa -Kawagoe 02.jpg|300px]]
|画像説明=<div style="font-size:86%">[[川越市]][[下新河岸]]・[[寺尾 (川越市)|寺尾]]付近</div>
|水系等級=[[一級水系]]
|水系=[[荒川 (関東)|荒川]]
|種別=[[一級河川]]
|延長=34.6<ref name="SeibiFuzu1">{{PDFLink|[https://www.pref.saitama.lg.jp/a1007/kasen/documents/373018_1.pdf 荒川水系 新河岸川ブロック河川整備計画(附図)(県管理区間)]}}付図1-4、埼玉県、2008年2月、2015年12月31日閲覧。</ref>
|標高=
|流量=530<ref name="SeibiFuzu1"/>
|観測所=
|流域面積=389.91<ref name="SeibiFuzu1"/>
|水源=武蔵野台地北部
|河口=[[隅田川]]([[岩淵水門]])
|流域=[[埼玉県]]、[[東京都]]
|脚注=
|出典=
}}
'''新河岸川'''(しんがしがわ、しんがしかわ<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/play/event/aug-2007/3.html 国土交通省荒川上流河川事務所]および[http://micos-sa.jwa.or.jp/metro/saitama/pc_web/wlvl/pos111175.html 埼玉県内雨量・水位情報HP]では「しんがしがわ」、[http://www.pref.saitama.lg.jp/page/koukyouyousuiiki.html 埼玉県公式ウェブサイト「公共用水域の水質測定結果について」]では「しんがしかわ」と読み仮名を振っている。</ref>)は、[[埼玉県]]及び[[東京都]]を流れる[[一級河川]]。[[荒川 (関東)|荒川]][[水系]][[隅田川]]の支流<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/work/jigyo/asaka.html 国土交通省荒川上流河川事務所の新河岸川朝霞調節池建設事業のページ]</ref>である。
== 地理 ==
[[ファイル:Kawagoe Singasigawa Kiten 1.jpg|thumb|新河岸川の起点標石]]
[[武蔵野台地]]北部に降った雨を集めた[[伏流水]]や[[入間川 (埼玉県)|入間川]](笹井堰)からの水田用水を水源とする[[赤間川]]が、[[埼玉県]][[川越市]]上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、起点となる<ref name="HighFinesse">[http://www.highfinesse.jp/topics/shingashi_0.html 新河岸川の成り立ち] - ハイフィネス・ジャパン株式会社、2016年6月16日閲覧。</ref>。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で[[不老川]]、川越市大字南田島付近で[[九十川]]と、次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]の[[岩淵水門]]先で隅田川に合流する<ref>[http://watchizu.gsi.go.jp/index.aspx 国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開)]による[http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=354703&l=1394404&r=1 2万5千分1地形図:赤羽[南東]] : 西方から荒川に沿って流れてくる川が新河岸川</ref>。上流から[[川越市]]、[[ふじみ野市]]、[[富士見市]]、[[志木市]]、[[朝霞市]]、[[和光市]]、[[板橋区]]、[[北区 (東京都)|北区]]を流れる。
== 歴史 ==
元は[[川越市]]の[[伊佐沼]]が源流で、現在の大和町(現在の[[和光市]])新倉・朝霞水門付近で旧[[入間川]](現在の[[荒川 (関東)|荒川]])へ合流していた河川だった。荒川と並行しており、荒川が「外川」と呼ばれたのに対し、当川は「'''内川'''」と呼ばれた。
[[ファイル:Kawagoe Boating In Shingashi River 1.JPG|thumb|right|<center>新河岸川の舟遊び (川越市)]]
[[江戸時代]]、[[川越藩]]主[[松平信綱]]が<ref name="shuun">斎藤貞夫『川越舟運=江戸と小江戸を結んで三百年』さきたま出版会、1982年6月、p18。</ref>、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせ流量を安定化させる改修工事を実施し、[[江戸]]と[[川越市|川越]]とを結ぶ[[舟運]]ルートとした。これ以降、沿岸には新たに[[川越五河岸]]をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。
客を乗せる早舟は、川越夜舟とも呼ばれ、川越城下を午後3時に発って一晩かかって翌朝8時に[[千住]]、昼前には[[花川戸]]へ着いた。物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)があった。並舟は川越ー江戸の往復を7{{~}}8日で行った不定期船。飛切は今日下って翌日上るという特急であった。船は喫水が浅い[[平田舟]]で、明治・大正期にはニブネと呼ばれていた。積載量は70石から80石、長さ15メートルくらいのものが多かった。
[[明治時代]]に[[川越鉄道]](現在の[[西武新宿線]])や[[川越馬車鉄道]](のちの[[西武大宮線]]、廃止)、[[大正時代]]にはほぼルートを同じくする東上鉄道(現在の[[東武東上本線]])が開業した結果、舟運は衰退していった。
[[1910年]](明治43年)以降の荒川本流の直線化工事により、その南側の湾曲部は本流から分離された。新河岸川は、荒川の南側の湾曲部および分流を繋ぎながら東へ掘削され、現在の岩淵水門の先で荒川(現在は[[隅田川]])へ合流する形となった<ref name="">{{Cite web|和書|date=2008-11-12 |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/learn/ara/pdf/2008/11_12/p200811_06_07.pdf |title=流路変遷にまつわる荒川七ふしぎ |format=PDF |publisher=国土交通省 関東地方整備局 |page= |accessdate=2015-07-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130122134438/http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/learn/ara/pdf/2008/11_12/p200811_06_07.pdf |archivedate=2013年1月22日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。
合わせて、[[1920年]](大正9年){{~}}[[1931年]](昭和6年)に川越市街地の北側を流れ、伊佐沼に流入していた赤間川に新河岸川は繋げられた(現在の田谷橋付近から田島橋付近まで開削、[[伊佐沼]]から流れ出る旧新河岸川部分は現在は[[九十川]]という)。
さらに[[昭和]]に入ると志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。その結果河道が直線化されて流量が保てなくなり、また1931年に埼玉県から通船停止令が出たことにより<ref>{{Cite book|和書|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1980|title=角川日本地名大辞典 埼玉県|page=486|publisher=角川書店|isbn=978-4040011103}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a1104/documents/puro2.pdf |title=新河岸川広域景観プロジェクト便vol.2 |publisher=埼玉県 |page=2|date=2008-09-01 |accessdate=2018-02-04}}</ref>、船の運航を取り止め舟運の時代は終わりを告げた。
[[ふじみ野市]]に於いて新河岸川の舟運で栄えた[[船問屋]]を修理、復元した[[ふじみ野市立福岡河岸記念館|福岡河岸記念館]]が一般公開されている。
水害を防ぐために下流の朝霞市に[[1980年]]度から[[2008年]]度の工期で[[朝霞調節池]]が建設された。あわせて、新河岸川放水路、びん沼川を経て1986年に完成した南畑排水機場で荒川に放水する<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000680378.pdf 南畑排水機場 - 国土交通省関東地方整備局]</ref>。
== 旧新河岸川 ==
複数の旧流路跡が現在も埋め立てられず残っている。
特にふじみ野市と富士見市との境、および、富士見市と志木市との境(前河岸跡のある地域)を流れる部分は旧新河岸川と呼ばれている。
== 環境 ==
;産業廃棄物の不法投棄<!--地名記事である上内間木から内容を移動すべきかも-->
:1988年(昭和63年)12月、埼玉県朝霞市[[上内間木]]地内河川敷において河川改修事業に伴う築堤のための掘削工事中に、1970年(昭和45年)頃に不法投棄された[[産業廃棄物]]が発見された。推定10,000m<sup>3</sup>以上の廃棄物には[[ポリ塩化ビフェニル|PCB]]や[[鉛]]等の[[有害物質]]が含まれていたため、管轄する埼玉県が鉛直遮水壁の打ち込みや遮水シートで覆うなど、封じ込めのための応急措置を施した。2009年(平成21年)には、学識者などからなる技術検討委員会を立ち上げ、[[無害化]]のための具体的な工法の検討を行っている<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sanpaitop/ 新河岸川産業廃棄物処理対策] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140813141139/http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sanpaitop/ |date=2014年8月13日 }} 埼玉県</ref>。
{{Main|新河岸川産業廃棄物処理対策|上内間木#環境}}
== 支流 ==
[[ファイル:Fujimi Shingashi River Floodway 1.JPG|thumb|<center>新河岸川放水路 ([[富士見市]])]]
''上流から''
* [[赤間川]]
* [[真土川]]
* [[不老川]]<!--一級-->
* [[九十川]]<!--一級-->
* [[新河岸川放水路]](分流)<!--一級--> - [[びん沼川]]<!--一級-->に接続する。びん沼川は[[南畑排水機場]]から[[荒川 (関東)|荒川]]に合流する。
* [[川越江川]]
* [[福岡江川]] - [[普通河川]]
* [[砂川堀]] - [[雨水幹線]]
* [[富士見江川]] - [[準用河川]]
* [[柳瀬川]]<!--一級-->
* [[黒目川]]<!--一級-->
* [[越戸川]]<!--一級-->
* [[白子川]]<!--一級-->
* [[前谷津川]]
* [[蓮根川]]
== 橋梁 ==
''下流から''
[[File:Shingashigawa, Akabane.jpg|thumb|<center>[[東北本線]]の新河岸川橋梁 (北区[[赤羽]])]]
[[File:Funado-Ōhashi 01.jpg|thumb|<center>舟渡大橋 (板橋区[[舟渡 (板橋区)|舟渡]])]]
* 志茂橋
* 岩淵橋
* [[新荒川大橋]]([[国道122号]]) - この橋を境に埼玉側は「[[日光御成街道|岩槻街道]]」、東京側は「北本(きたほん)通り」という通称がある。
* [[荒川橋梁 (東北本線)|新河岸川橋梁]]([[東北本線]]〈[[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[京浜東北線]]〉)
* 中の橋
* 浮間橋([[東京都道447号赤羽西台線]])
* 新河岸川橋梁(JR[[埼京線]]〈[[北赤羽駅]]直下〉、[[東北新幹線]]〈[[上野駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間〉)
* 新河岸大橋
* 新河岸橋
* 長後さくら橋<ref>浮間水再生センター連絡橋。歩行者と自転車に開放</ref>
* 平成橋
* 志村橋([[国道17号]]〈[[中山道]]〉)
* 蓮根橋
* 舟渡大橋(東京都道447号赤羽西台線)
* 西台橋
* 徳丸橋
* 芝原橋
* 新早瀬橋
* 早瀬人道橋
* [[笹目橋]](国道17号[[新大宮バイパス]]・[[東京都道・埼玉県道68号練馬川口線]]、[[首都高速5号池袋線]])
* 芝宮橋
* 新倉橋
* [[幸魂大橋]]([[国道298号]]、[[東京外環自動車道]])
* [[朝霞水門]] - 荒川への分流、かつての新河岸川の流末。
* 内間木橋 - 2020年7月1日廃止<ref>{{cite news |title = 内間木橋通行止めのお知らせ |newspaper = 広報あさか |date = 2020-06-01 |url = https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/62647.pdf |format=PDF |accessdate = 2020-06-14 |publisher =朝霞市役所 |page = 17 }}</ref>
* 朝霞大橋([[国道254号]][[和光富士見バイパス]])
* 新盛橋([[埼玉県道79号朝霞蕨線]]〈朝霞秋ヶ瀬通り〉)
* 新河岸川橋梁(JR[[武蔵野線]]〈[[北朝霞駅]] - [[西浦和駅]]間〉)
* 新宮戸橋
* 宮戸橋〈宮戸橋通り〉
* 富士下橋(歩行者用)
* いろは橋([[東京都道・埼玉県道36号保谷志木線|埼玉県道36号保谷志木線]]・[[埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線|埼玉県道40号さいたま東村山線]]・[[埼玉県道113号川越新座線]]〈志木街道・いろは通り〉)
* 袋橋〈袋橋通り〉
* 岡坂橋([[浦和所沢バイパス]]〈[[国道463号]]本線・国道254号バイパス〉)
* 木染橋
* 第1新河岸橋(国道254号[[富士見川越バイパス]])
* 南畑橋([[埼玉県道334号三芳富士見線]])
* 伊佐島橋
* 新伊佐島橋([[埼玉県道272号東大久保ふじみ野線]])
* 福岡橋
* 第2新河岸橋(国道254号富士見川越バイパス)
* 養老橋([[埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線]])
* 川崎橋([[埼玉県道335号並木川崎線]])
* 旭橋([[埼玉県道336号今福木野目線]])
* 扇橋
* 新河岸川橋梁(JR[[川越線]]〈[[南古谷駅]] - [[川越駅]]間〉)
* 畳橋
* 滝下橋
* 田島橋
* 仙波大橋([[国道16号]]〈東京環状〉)
* 清身場橋
* 弁天橋
* 貝塚橋
* 琵琶橋
* 新琵琶橋([[埼玉県道15号川越日高線]])
*杉下橋
* 新城下橋
* 城下橋
* 宮下橋([[埼玉県道51号川越上尾線]])
* 氷川橋
* 田谷橋
* 道灌橋
* 東明寺橋([[埼玉県道12号川越栗橋線]]〈菖蒲新道〉)
* 坂下橋
* 高沢橋(旧[[埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線]]〈高澤通り〉)
* 石原橋
* お茶屋橋
* 黄金橋
* 三日月橋(埼玉県道15号川越日高線)
* 赤間川橋梁([[東武東上本線]]〈川越駅 - [[川越市駅]]間〉)[https://web.archive.org/web/20081230031345/http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/tetudou/toujyou2/index4.html]
* 観音下橋
* (JR川越線〈川越駅 - [[西川越駅]]間〉)
* 八幡橋
== この川に接している地域 ==
''下流から'' [[File:Shingashi River fx.jpg|thumb|240px|<center>[[高島平]]6丁目にて]]
* [[志茂]] - [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]隅田川との合流点。
* [[岩淵町 (東京都北区)]] - 東京都北区。
* [[赤羽]] - 東京都北区。
* [[赤羽北]] - 東京都北区。
* [[浮間]] - 東京都北区。
* [[舟渡 (板橋区)]] - 東京都板橋区。
* [[小豆沢]] - 東京都[[板橋区]]。[[河岸段丘]]による斜面が見られる。
* [[東坂下]] - 東京都板橋区。
* [[蓮根 (板橋区)]] - 東京都板橋区。
* [[新河岸 (板橋区)]] - 東京都板橋区。
* [[高島平]] - 東京都板橋区。
* [[下新倉]] - 埼玉県和光市。
* [[新倉 (和光市)]] - 埼玉県和光市。
* [[下内間木]] - 埼玉県朝霞市。
* [[上内間木]] - 埼玉県朝霞市。
* [[宮戸 (朝霞市)]] - 埼玉県朝霞市。
* [[下宗岡]] - 埼玉県志木市。
* [[中宗岡]] - 埼玉県志木市。
* [[上宗岡]] - 埼玉県志木市。
* [[水谷東]] - 埼玉県富士見市。
* [[渋井 (川越市)]] - 埼玉県[[川越市]]。
* [[南田島 (川越市)]] - 埼玉県川越市。
* [[小仙波町]] - 埼玉県川越市。
* [[松郷 (川越市)]] - 埼玉県川越市。
* [[濯紫公園]] - 埼玉県川越市。親水公園。
== 沿岸の主な施設 ==
''上流から''
* [[星野学園中学校・星野高等学校|星野高等学校]]
* [[川越市営初雁公園野球場]]
* [[川越市立砂中学校]]
* [[しののめの里]]
* [[志木市立宗岡中学校]]
* [[埼玉県立志木高等学校|県立志木高等学校]]
* [[志木市立宗岡第四小学校]]
* [[朝霞市立朝霞第五中学校]]
* [[三園浄水場]]
* [[新河岸陸上競技場]]
* [[板橋区立舟渡小学校]]
* [[東京都道311号環状八号線|都道311号環状八号線]](環八通り)
== 新河岸川舟運 ==
=== 河岸場 ===
[[File:荒川・新河岸川の河岸場.jpg|thumb|right|500px|荒川・新河岸川の河岸場]]
''下流から''
* 日本橋・箱崎町
* 浅草・花川戸
* 千住大橋
* 戸田河岸
* 芝宮河岸
''以下、埼玉県''
* [[新倉河岸]]
* 井口河岸
* 根岸河岸
* [[台 (朝霞市)|台河岸]]
* 浜崎河岸(お台場河岸ともいう)
* 宮戸河岸
* [[引又河岸]](志木河岸ともいう)
* 宗岡河岸(引又河岸の対岸)
* 前河岸
* 山下河岸(水子河岸ともいう)
* 鶉河岸(鶴馬河岸ともいう)
* 本河岸
* 蛇木河岸(上南畑河岸ともいう)
* 伊佐島河岸(勝瀬河岸ともいう)
* 百目木河岸
* [[古市場 (川越市)|古市河岸]]
* [[福岡河岸]](古市河岸の対岸)
* [[寺尾 (川越市)|寺尾河岸]] ([[川越五河岸]]の一つ)
* [[下新河岸]] (川越五河岸の一つ)
* [[牛子河岸]](上下新河岸の対岸) (川越五河岸の一つ)
* [[上新河岸]] (川越五河岸の一つ)
* [[扇河岸]] (川越五河岸の一つ)
* [[仙波河岸]]
=== 対岸への渡し舟場 ===
''下流から''
* 渡し(現在の[[和光市]])
* 権八渡し
* 乗越の渡し
* 山下の渡し
* 木染の渡し
* 竹の内の渡し
* 蛇木の渡し
* 湯殿の渡し
* 下手の渡し
* 花の木の渡し
* 滝の渡し
* 木の目の渡し(現在の[[川越市]])
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[川越五河岸]]
* [[野火止用水]]
* [[大杉神社 (ふじみ野市)|大杉神社]]
* [[新河岸駅]] - 当川の名前が付いている東武東上本線の駅。
* [[関東の富士見百景]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Shingashi River}}
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage_index044.html 新河岸川流域川づくり連絡会] - 国土交通省 関東地方整備局 荒川下流河川事務所
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage_index061.html 新河岸川流域水循環マスタープラン] - 国土交通省 関東地方整備局 荒川下流河川事務所
* [https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/yonken/koji2/shingashi.html 新河岸川] - 東京都建設局
* [https://web.archive.org/web/20090425145534/http://www.ara.go.jp/arage/shingashi 新河岸川流域川づくり連絡会] - 荒川知水資料館(2009年4月25日時点のアーカイブキャッシュ)
* [https://web.archive.org/web/20041206075223/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/ikimono2/ikimono/singasi/singasi.htm 新河岸川の生き物] - 東京都建設局(2004年12月6日時点のアーカイブキャッシュ)
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/around/singasi/list.html |title=新河岸川 |date=20190331102514}} - 有限会社フカダソフト(きまぐれ旅写真館)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんかしかわ}}
[[Category:埼玉県の河川]]
[[Category:東京都の河川]]
[[Category:荒川水系 (関東)]]
|
2003-09-16T09:22:18Z
|
2023-11-22T22:37:49Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B2%B3%E5%B2%B8%E5%B7%9D
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17,073 |
抗凝固薬
|
抗凝固薬(こうぎょうこやく)は、血液凝固を阻害する薬物である。
血液を固まらせないようにする医薬品(抗血栓薬)のうち、凝固系に対して主に作用するもののことである。体内に投与する場合には、血栓塞栓症の治療と予防やカテーテルの閉塞防止に用いられる。体外においては、人工透析装置や人工心肺装置の体外回路の凝固防止、輸血用血液の保存や血液検査の際に用いられる。
血栓塞栓症の予防、治療に対して用いる。深部静脈血栓症、心筋梗塞、心房細動、脳卒中、人工弁置換後、冠動脈バイパス術後などに有効である。長期にわたって使用する必要があるので、ワルファリンのような経口投与可能な抗凝固薬を用いる。
クマリン誘導体。凝固因子のうち第II因子 (プロトロンビン)、第VII因子、第IX因子、第X因子合成の補因子 ビタミンKに対する拮抗作用により抗凝固作用をもつ。効果が最大になるまでに投与を開始してから48〜72時間かかる。即効性を求めるならばヘパリンの併用が望ましい。また、抗凝固効果の判定と出血危険性を判定するため、定期的にプロトロンビン時間を測定する必要がある。次のようなものがある。
トロンビンの競合阻害作用を持ち、フィブリノゲンのフィブリンへの転換を抑制する。
トロンビンの活性化を促進する第Xa因子 (活性化した第X因子) を阻害する物質。補因子なしに阻害する直接阻害薬と、補因子としてアンチトロンビンIIIを必要とする間接阻害薬がある。
いずれも経口投与
皮下投与
ヘパリンは豚や牛の腸から抽出される。アンチトロンビンIIIの活性作用により抗凝固作用を持つ。血管内投与を行う。
次のような目的で抗凝固が行われる
抗血栓薬には他にも、抗血小板薬と血栓溶解薬がある。
アホエン (ajoene) は、ニンニク (Allium sativum) に含まれる化合物の1つである。抗血栓剤(抗凝固剤)としての作用も持ち、血液中の血小板が血栓を起こすのを防ぐことにより、心臓病や脳梗塞の危険性を減らすとされる。外部リンクも必要に応じ参照のこと。 その他に ナットウキナーゼ、 ルンブロキナーゼ、 ビール、 ビルベリー、 セルリ、 クランベリー、 魚油、 ニンニク、 ショウガ、 銀杏, 人参, 緑茶, セイヨウトチノキ, リコリス、 ナイアシン, タマネギ、 パパイヤ、 ザクロ、 レッドクローバー、 大豆, セントジョーンズワート, ターメリック、 wheat grass、柳の樹 皮などがある。
血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛などは、かなり緊急性の高い状況である。ハーバード大学によると、抗凝固薬の副作用は、もちろんその名の通り出血の危険性が高まることである。出血はもちろん脳内出血の場合が一番問題で、血栓症の患者や、股関節置換術を受けた人が何かの拍子に頭がぶつかると脳内出血することがあり、こういう場合は抗凝固剤に対抗する薬が必要になってくる。血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛は当たり前として、剃毛して怪我をした出血があまり止まらない、鼻血があまり止まらない、なんとなく体幹に大きなアザがある、などの場合もとにかく病院へ行くこと。
|
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"text": "皮下投与",
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"text": "ヘパリンは豚や牛の腸から抽出される。アンチトロンビンIIIの活性作用により抗凝固作用を持つ。血管内投与を行う。",
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"title": "類似効果食材"
},
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"text": "血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛などは、かなり緊急性の高い状況である。ハーバード大学によると、抗凝固薬の副作用は、もちろんその名の通り出血の危険性が高まることである。出血はもちろん脳内出血の場合が一番問題で、血栓症の患者や、股関節置換術を受けた人が何かの拍子に頭がぶつかると脳内出血することがあり、こういう場合は抗凝固剤に対抗する薬が必要になってくる。血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛は当たり前として、剃毛して怪我をした出血があまり止まらない、鼻血があまり止まらない、なんとなく体幹に大きなアザがある、などの場合もとにかく病院へ行くこと。",
"title": "副作用"
}
] |
抗凝固薬(こうぎょうこやく)は、血液凝固を阻害する薬物である。 血液を固まらせないようにする医薬品(抗血栓薬)のうち、凝固系に対して主に作用するもののことである。体内に投与する場合には、血栓塞栓症の治療と予防やカテーテルの閉塞防止に用いられる。体外においては、人工透析装置や人工心肺装置の体外回路の凝固防止、輸血用血液の保存や血液検査の際に用いられる。
|
{{出典の明記|date=2013年3月}}
'''抗凝固薬'''(こうぎょうこやく)は、[[凝固・線溶系|血液凝固]]を阻害する[[薬物]]である。
[[血液]]を固まらせないようにする[[医薬品]]([[抗血栓薬]])のうち、[[凝固系]]に対して主に作用するもののことである。体内に投与する場合には、[[血栓塞栓症]]の治療と予防や[[カテーテル]]の閉塞防止に用いられる。体外においては、[[人工透析]]装置や[[人工心肺装置]]の体外回路の凝固防止、[[輸血]]用血液の保存や血液検査の際に用いられる。
==治療薬としての抗凝固薬==
血栓塞栓症の予防、治療に対して用いる。[[深部静脈血栓症]]、[[心筋梗塞]]、[[心房細動]]、[[脳血管障害|脳卒中]]、[[人工弁]]置換後、[[冠動脈バイパス術]]後などに有効である。長期にわたって使用する必要があるので、[[ワルファリン]]のような経口投与可能な抗凝固薬を用いる。
==抗凝固薬の種類==
{{see also|直接経口抗凝固薬}}
===ビタミンK依存性凝固因子合成阻害薬===
[[クマリン]]誘導体。凝固因子のうち第II因子 ([[トロンビン|プロトロンビン]])、[[第VII因子]]、[[第IX因子]]、[[第X因子]]合成の補因子 [[ビタミンK]]に対する拮抗作用により抗凝固作用をもつ<ref>Majerus PW. et al. (2006) p.1476</ref>。効果が最大になるまでに投与を開始してから48〜72時間かかる。即効性を求めるならば[[ヘパリン]]の併用が望ましい。また、抗凝固効果の判定と出血危険性を判定するため、定期的に[[プロトロンビン時間]]を測定する必要がある。次のようなものがある。
*[[ワルファリン]]
*アセノクマロール
*フェニンジオン
=== 直接トロンビン阻害薬 ===
トロンビンの[[競合阻害]]作用を持ち、フィブリノゲンの[[フィブリン]]への転換を抑制する。
;[[ダビガトラン]]
: 経口投与。ワルファリンのような定期的効果判定の必要がない (裏を返せば、効果判定の手段がないともいえる)。またワルファリンとの[[ランダム化比較試験]]では、心房細動 (非弁膜症性) 患者の脳梗塞・その他の塞栓症発症率を同等にする用量では大きな出血の発生率は低く、またワルファリンよりも脳梗塞発症率を低下させる用量では、大きな出血の発症率は同等であった<ref>Connolly SJ. et al. (2009)</ref>。
;[[アルガトロバン]]
: 経静脈投与
=== 第Xa因子阻害薬 ===
トロンビンの活性化を促進する第Xa因子 (活性化した第X因子) を阻害する物質。補因子なしに阻害する直接阻害薬と、補因子として[[アンチトロンビンIII]]を必要とする間接阻害薬がある。
==== 直接第Xa因子阻害薬 ====
いずれも経口投与
* [[リバーロキサバン]]
* [[エドキサバン]]
* [[アピキサバン]]
==== 間接第Xa因子阻害薬 ====
皮下投与
* フォンダパリヌクス
===ヘパリンとヘパリン類似物質===
[[ヘパリン]]は豚や牛の腸から抽出される。[[アンチトロンビンIII]]の活性作用により抗凝固作用を持つ<ref>Olson ST. et al. (2002)</ref>。血管内投与を行う。
===体外で用いられる抗凝固薬===
次のような目的で抗凝固が行われる
*[[血漿]]と[[血球]]を分離するため
*液体としての流動性を残すため
*血液凝固因子を消費させないため
;[[EDTA]] : 二価の金属イオン(カルシウムイオンもこれである)を[[キレート]]する。
;[[クエン酸]] : [[クエン酸ナトリウム#クエン酸三ナトリウム|クエン酸三ナトリウム]]として用いられ、[[カルシウム]][[イオン]]と結合する。
;[[シュウ酸]] : クエン酸と同様。
;[[フッ化ナトリウム]] : NaF。カルシウムイオンと結合。[[解糖系]]を阻害するので血糖測定に用いられる。
;ACD : Acid Citrate Dextrose Solution。クエン酸と[[デキストロース]]を含む。輸血用保存血液に添加される。
==関連事項==
抗血栓薬には他にも、抗血小板薬と血栓溶解薬がある。
*[[アスピリン]]等の[[非ステロイド系消炎鎮痛剤]]は[[血小板]]の[[凝集]]を阻害するので血栓形成を抑える効果がある<ref name=":0">{{Cite web |title=Bleeding problems: Know your risk |url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/bleeding-problems-know-your-risk |website=Harvard Health |date=2022-10-01 |access-date=2023-04-01 |language=en |first=Julie |last=Corliss}}</ref>。ワルファリンによってもたらされる出血傾向が増悪するので、ワルファリン服用者が感冒薬等を服用する時は十分注意する必要がある。
*一度できた[[血栓]]を分解するには[[線溶系]]の[[酵素]]を応用した[[血栓溶解薬]]を用いる。
*[[播種性血管内凝固症候群|DIC]]ではヘパリンだけでなく、アンチトロンビンIIIの直接投与も行われることがある。
==類似効果食材==
[[アホエン]] (ajoene) は、[[ニンニク]] (''Allium sativum'') に含まれる[[化合物]]の1つである。[[抗血栓剤]](抗凝固剤)としての作用も持ち、[[血液]]中の[[血小板]]が[[血栓]]を起こすのを防ぐことにより、[[心臓病]]や[[脳梗塞]]の危険性を減らすとされる。外部リンクも必要に応じ参照のこと。
その他に [[ナットウキナーゼ]]、 [[ルンブロキナーゼ]]、 [[ビール]]、 [[ビルベリー]]、 [[セルリ]]、 [[クランベリー]]、 [[魚油]]、 [[ニンニク]]、 [[ショウガ]]、 [[銀杏]], [[人参]], [[緑茶]], [[セイヨウトチノキ]], [[リコリス]]、 [[ナイアシン]], [[タマネギ]]、 [[パパイヤ]]、 [[ザクロ]]、 [[レッドクローバー]]、 [[大豆]], [[セントジョーンズワート]], [[ターメリック]]、 [[wheat grass]]、[[柳|柳の樹
皮]]などがある<ref name="pmid11711691">{{cite journal | vauthors = Wittkowsky AK | title = Drug interactions update: drugs, herbs, and oral anticoagulation | journal = Journal of Thrombosis and Thrombolysis | volume = 12 | issue = 1 | pages = 67–71 | date = September 2001 | pmid = 11711691 | doi = 10.1023/A:1012742628628 | s2cid = 22447084 }}</ref><ref>{{Cite journal|last1=Rui|first1=Tian-Qi|last2=Zhang|first2=Liang|last3=Qiao|first3=Hong-Zhi|last4=Huang|first4=Ping|last5=Qian|first5=Shuai|last6=Li|first6=Jun-Song|last7=Chen|first7=Zhi-Peng|last8=Fu|first8=Ting-Ming|last9=Di|first9=Liu-Qing|last10=Cai|first10=Baochang|date=January 2016|title=Preparation and Physicochemical and Pharmacokinetic Characterization of Ginkgo Lactone Nanosuspensions for Antiplatelet Aggregation|journal=Journal of Pharmaceutical Sciences|language=en|volume=105|issue=1|pages=242–249|doi=10.1016/j.xphs.2015.10.002|pmid=26852855}}</ref><ref>{{Cite journal|last1=Yun|first1=Yeo-Pyo|last2=Do|first2=Jae-Ho|last3=Ko|first3=Sung-Ryong|last4=Ryu|first4=Shi-Yong|last5=Kim|first5=Jung-Hyo|last6=Song|first6=Ho-Cheol|last7=Park|first7=Young-Doo|last8=Ahn|first8=Kyoo-Seok|last9=Kim|first9=Sung-Hoon|date=October 2001|title=Effects of Korean red ginseng and its mixed prescription on the high molecular weight dextran-induced blood stasis in rats and human platelet aggregation|journal=Journal of Ethnopharmacology|language=en|volume=77|issue=2–3|pages=259–264|doi=10.1016/S0378-8741(01)00303-8|pmid=11535373}}</ref>。
== 副作用 ==
血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛などは、かなり緊急性の高い状況である。ハーバード大学によると、抗凝固薬の副作用は、もちろんその名の通り出血の危険性が高まることである。出血はもちろん脳内出血の場合が一番問題で、血栓症の患者や、股関節置換術を受けた人が何かの拍子に頭がぶつかると脳内出血することがあり、こういう場合は抗凝固剤に対抗する薬が必要になってくる。血尿、血便やタール便、突然の激しい頭痛は当たり前として、剃毛して怪我をした出血があまり止まらない、鼻血があまり止まらない、なんとなく体幹に大きなアザがある、などの場合もとにかく病院へ行くこと<ref name=":0" />。
==脚注==
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=== 出典 ===
<references />
== 出典 ==
* {{Cite journal |last1=Olson |first1=ST |last2=Chuang |first2=YJ |year=2002 |month=Nov |title=Heparin activates antithrombin anticoagulant function by generating new interaction sites (exosites) for blood clotting proteinases |journal=Trends Cardiovasc Med |volume=12 |issue=8 |pages=331-338 |pmid=12536119}}
* {{Cite journal |author=Connolly SJ, Ezekowitz MD, Yusuf S, Eikelboom J, Oldgren J, Parekh A, Pogue J, Reilly PA, Themeles E, Varrone J, Wang S, Alings M, Xavier D, Zhu J, Diaz R, Lewis BS, Darius H, Diener HC, Joyner CD, Wallentin L; RE-LY Steering Committee and Investigators |year=2009
|month=Sep |title=Dabigatran versus warfarin in patients with atrial fibrillation |journal=N Eng J Med |volume=361 |issue=12 |pages=1139-1151 |doi=10.1056/NEJMoa0905561 |pmid=19717844 |url=http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa0905561#t=article |format=full text}}
* {{Citation | last =Majerus | first =PW | last2 =Tollefsen | first2 =DM | year =2006 | title =Goodman & Gilman's the pharmacological basis of therapeutics | publisher =McGraw-Hill Companies | edition =11th | editor=Laurence L. Brunton | chapter=Blood coagulation and anticoagulant, thrombolytic, and antiplatelet drugs | isbn =0-07-142280-3}}
==関連項目==
*[[凝固・線溶系|血液凝固]]
*[[抗血栓薬]]
**[[抗血小板剤]]
**[[血栓溶解薬]]
*[[血算]]
*[[血液生化学検査]]
*[[輸血]]
*[[献血]]
*[[キレート]]
==外部リンク==
*{{Hfnet|71|ニンニク}}
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源義平
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源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女 または三浦義明の娘 であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父・源義賢(義朝の異母弟、木曾義仲の父)と対立した際には義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館 を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった藤原信頼と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある。
この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。中世の悪党の用法もこれと同じである。
保元元年(1156年)保元の乱が勃発し、義朝は後白河天皇側に立って参戦し、戦後は左馬頭に任じられているが、義平の動向は定かではない。
保元の乱の後、摂関家の影響力が後退し、強大な権力を有していた治天の君の不在という事態に陥っていた。そのような中、信西が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が二条天皇に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。
平治元年(1159年)12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は三浦氏・上総介氏・山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。
一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。
やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の経盛・頼盛、嫡子・重盛などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦の状況は虚実交えて『平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。
その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。
義平は当時の宮廷社会で軍事貴族として頭角を現しつつあった源義朝の長男であったが、次弟・朝長が保元4年(1159年)二条天皇中宮(後の高松院)の従五位下・中宮大夫進に、三弟・頼朝も保元3年(1158年)に皇后宮少進に任じられたのに対して、官位を得たという記録は残っていない。このことから、義平は義朝の長男であるが嫡子という扱いはされていなかったとされる。これには生母の身分が大きく関与していると見るのが妥当である。
『平治物語』における義平は『保元物語』における源為朝と同様の主人公的な存在で、後に征夷大将軍となった頼朝の兄とあって、非常に颯爽とした若武者として描かれている。軍記物語なのでそのまま史実とは限らない。以降は「金比羅本」等の後世に新たに作成された『平治物語』による記載である。
義平は援軍を率いて東国からやってきた。義平が到着したとき、藤原信頼がお手盛りの除目を催していた最中で「ちょうど良かったのう。大国でも小国でも望みの官位を呉れてやるぞ」と上機嫌で言った。義平は「そんなことよりも、すぐに阿倍野(大阪市阿倍野区)へ出陣して、帰ってくる清盛を討ち取りましょう。その後ならば大国でも小国でもいただきましょう」と返答した。信頼は気分を害して「乱暴なことを申す。阿倍野まで行っては馬の脚が疲れてしまうわ。清盛はゆっくり都で取り込めて討ち取ればよろしい」と拒否してしまった。このため義朝と信頼は勝機を逸してしまうことになる。(しかしこの話は創作的で、全く似たやり取りが『保元物語』で源為朝と藤原頼長との間で交わされている)。
帰京した清盛は本拠の六波羅に入ると、二条天皇側近である葉室惟方らが画策し25日夜に後白河上皇と二条天皇を内裏から脱出させ自陣営に迎えることに成功する。翌26日、二条天皇は信頼・義朝追討の宣旨を下す。これで清盛が官軍になり、信頼と義朝は賊軍となった。
前日の雪の残る27日辰の刻(午前8時頃)、平家軍が六波羅を出撃した。上皇と天皇を奪われた信頼の迂闊さを呪いつつも義朝はまずは内裏で敵を迎え撃つこととし、諸門に軍勢を配す。義平も弟の朝長・頼朝とともに守りについた。(金毘羅系)『平治物語』によるとこの時、義平は19歳、八龍の鎧を着、石切の太刀を帯び、葦毛の馬に乗り敵を待ち構えた、とある。
待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・平重盛が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎を率いて駈け出した。義平と坂東武者17騎は重盛の500騎のど真ん中に飛び込んで散々に戦い、これを蹴散らしてしまった。義平は重盛に組みかかろうと内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回した。重盛は混乱した兵を収拾して一旦退き、新手の500騎を得て再び門内に押し出した(この左近の桜・右近の橘の場面は『平治物語』の一つのハイライトであるが、乱当時の内裏は実際にはこのような造りをしておらず、鎌倉時代中期以降の内裏のつくりがそのまま持ち込まれている。よって橘桜の場面も『平治物語』の虚構であるとの見方も提示されている)。
新手を受けた義平は勇みに勇んで突撃し、重盛に向い「嫡男同士なんの不足があろうか、さあ組もう」と挑みかかる。まともに相手にすべき敵ではないと考えた重盛は兵を退かせた。それを義平が追撃。平家の500騎は源氏の17騎に追い回され蹴散らされた。
重盛は主従3騎で逃げるが、それを見つけた義平は鎌田政清とともにこれを追った。政清は重盛の馬を射て、重盛は転げ落ちる。そこへ政清が組みかかろうとするが、与三左衛門景安が主人を守り、政清と組み合いになった。義平は重盛を追うか、政清を助けるかを思案し、まずは大切な家人の政清を助け、景安の首をはねた。覚悟を決めた重盛は義平と一騎討ちしようとするが、新藤左衛門家泰がこれを遮り、義平に組みかかった。家泰は討たれたが、その間に重盛はその虎口を逃れた。
郁芳門では義朝と平頼盛が激戦し、頼盛は突破できず兵を退いた。源氏軍は内裏を出て平家軍を追撃する。ところが、これは計略であった。平教盛の別動隊が内裏に迫るや内応者が門を開けて引き入れ、内裏は平家方に占拠されてしまった。
退路を失った義朝は清盛の本拠・六波羅への総攻撃を決め,源氏勢が六波羅へ馳せ向かっていると、六条河原あたりで源頼政(義朝とは別系統の摂津源氏)の300騎が戦うこともなく布陣していた。これを見た義平は「さては我らが負ければ平家に味方しようとしているのだな。憎いやつだ。蹴散らしてしまえ」と同じ源氏の頼政の軍勢に攻め込んでしまった。いきなり攻撃されるとは思っていなかった頼政の軍は蹴散らされるが、頼政は形勢はうかがっていたが必ずしも平家に付こうとも考えていなかったのに、結果的に平家方に追いやることになってしまった。義平に好意的な『平治物語』の作者も「若気の至りであろう」と評し、楚の項羽がいたずらに中立者だった王陵を攻撃して漢の高祖(劉邦)に付かせてしまった故事を引いている。
義平は坂東武者を率いて六波羅へ攻め寄せた。清盛も黒一色の武具鎧に黒馬に乗って出陣。すると「悪源太義平見参」と一挙に突きかかり、平家も主人を討たせてなるかと源氏を押し包み乱戦となるが、源氏は朝から戦い通しなのに対して、平家は次から次へと新手を繰り出しており、疲弊しきった源氏は遂に敗走した。
なお、戦闘に関しての史実上の見解は次のとおりである。
『愚管抄』によると、義朝は内裏ではあまり戦わずにすぐ六波羅を目指した。また、頼政の裏切りについて、源頼政が参戦していたとするならば、それは元々美福門院に従っている立場に基づき信頼に一時同心しただけであるので、二条天皇が不在となったその時点では自らの意思で信頼陣営から抜け出したと見るべきだとされている。ちなみに古態本『平治物語』には六波羅襲撃をおこなった時点での義朝軍は20騎ほどしか残っていなかったと記載されている。
義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成・平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。
一行はようやく義朝の妾のいる美濃国青墓宿にたどり着き,ここで義朝は再挙のために義平は東山道へ、朝長は信濃・甲斐へ下って兵を募るよう命じた。兄弟は宿を出ると朝長は心細げに「甲斐信濃はどちらへ行けばよいのでしょう」と問うと、義平ははるか雲の方を見て「あっちへ行け」と言うや、飛ぶがごとく駆け去ってしまった。
負傷していた朝長は進むことができず青墓へ引き返し、捕らえられるよりは死を望み、義朝は涙ながらに自らの手で我が子を刺し殺した。
翌永暦元年(1160年)正月3日、鎌田政清の舅である尾張国の住人長田忠致の館に逗留していた義朝は忠致の裏切りにあい政清とともに謀殺されてしまった。
飛騨国に着いた義平は兵を募り、かなり集めたが、義朝横死の噂が伝わると皆逃げ散ってしまった。これまでと自害しようと思ったが、せめて清盛か重盛と相討ちになろうと心に決め、京へ向かった。
六波羅あたりで機会をうかがっていると、家人だった志内景澄と出会った。怒った義平は詰問するが、景澄は「源氏の世が戻るまで機会をうかがっていたのです」と弁解し、結局、協力することになり、義平は景澄の下人ということにされ、数日、暗殺の機会をうかがった。
だが、義平の風貌はとても下人風情とは見えずに不審がられ、宿舎の主人が二人の食事の様子をのぞき見ると下人のはずの義平が主の膳を景澄が下人の膳を食べていた。さてはと密告され、18日夜に難波経遠が300騎を率いて宿を取り囲んだ。義平は飛び出すや石切の太刀を抜いて4、5人を斬り捨てて逃げ去ってしまった。
その後、義平は近江国に潜伏するが、25日に石山寺に潜んでいたところを発見され、難波経房の郎党に生け捕られた。
義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は六条河原へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。享年20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。
福井県大野市和泉地区には、義平が残したとされる青葉の笛がある。伝承によると、義平はその村の長の娘であるみつとの間に、一女を儲けている。その笛は現在は折れていて吹くことはできないが、子孫である朝日家に代々伝わっており今も大切に保管されていて,近年の研究では鎌倉時代より前に作られた笛の特徴があるとされている。
岐阜県の久津八幡宮社殿造立棟札が残っており、その中に「...伝え聞く、当国八幡宮は、源義平、保元年中に関東鶴岡より、ここに勧請する...」という記述や美濃の各地で見つかっている古文書には、保元年間(1156年 - 1159年)の義平の寄進状が見つかったこと、飛騨にも義平に関する伝承が幾つか(下呂市金山地域の義平のヒヒ退治の伝説等)あり、義平はこの地域を過去にも訪れていた可能性は高い。また平治の乱での挙兵の時には、武運を祈願して久津八幡宮に鶴岡八幡宮の御神体を祀った。
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"text": "待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・平重盛が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎を率いて駈け出した。義平と坂東武者17騎は重盛の500騎のど真ん中に飛び込んで散々に戦い、これを蹴散らしてしまった。義平は重盛に組みかかろうと内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回した。重盛は混乱した兵を収拾して一旦退き、新手の500騎を得て再び門内に押し出した(この左近の桜・右近の橘の場面は『平治物語』の一つのハイライトであるが、乱当時の内裏は実際にはこのような造りをしておらず、鎌倉時代中期以降の内裏のつくりがそのまま持ち込まれている。よって橘桜の場面も『平治物語』の虚構であるとの見方も提示されている)。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "新手を受けた義平は勇みに勇んで突撃し、重盛に向い「嫡男同士なんの不足があろうか、さあ組もう」と挑みかかる。まともに相手にすべき敵ではないと考えた重盛は兵を退かせた。それを義平が追撃。平家の500騎は源氏の17騎に追い回され蹴散らされた。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "重盛は主従3騎で逃げるが、それを見つけた義平は鎌田政清とともにこれを追った。政清は重盛の馬を射て、重盛は転げ落ちる。そこへ政清が組みかかろうとするが、与三左衛門景安が主人を守り、政清と組み合いになった。義平は重盛を追うか、政清を助けるかを思案し、まずは大切な家人の政清を助け、景安の首をはねた。覚悟を決めた重盛は義平と一騎討ちしようとするが、新藤左衛門家泰がこれを遮り、義平に組みかかった。家泰は討たれたが、その間に重盛はその虎口を逃れた。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "郁芳門では義朝と平頼盛が激戦し、頼盛は突破できず兵を退いた。源氏軍は内裏を出て平家軍を追撃する。ところが、これは計略であった。平教盛の別動隊が内裏に迫るや内応者が門を開けて引き入れ、内裏は平家方に占拠されてしまった。",
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"text": "退路を失った義朝は清盛の本拠・六波羅への総攻撃を決め,源氏勢が六波羅へ馳せ向かっていると、六条河原あたりで源頼政(義朝とは別系統の摂津源氏)の300騎が戦うこともなく布陣していた。これを見た義平は「さては我らが負ければ平家に味方しようとしているのだな。憎いやつだ。蹴散らしてしまえ」と同じ源氏の頼政の軍勢に攻め込んでしまった。いきなり攻撃されるとは思っていなかった頼政の軍は蹴散らされるが、頼政は形勢はうかがっていたが必ずしも平家に付こうとも考えていなかったのに、結果的に平家方に追いやることになってしまった。義平に好意的な『平治物語』の作者も「若気の至りであろう」と評し、楚の項羽がいたずらに中立者だった王陵を攻撃して漢の高祖(劉邦)に付かせてしまった故事を引いている。",
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"text": "義平は坂東武者を率いて六波羅へ攻め寄せた。清盛も黒一色の武具鎧に黒馬に乗って出陣。すると「悪源太義平見参」と一挙に突きかかり、平家も主人を討たせてなるかと源氏を押し包み乱戦となるが、源氏は朝から戦い通しなのに対して、平家は次から次へと新手を繰り出しており、疲弊しきった源氏は遂に敗走した。",
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"text": "なお、戦闘に関しての史実上の見解は次のとおりである。",
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"text": "『愚管抄』によると、義朝は内裏ではあまり戦わずにすぐ六波羅を目指した。また、頼政の裏切りについて、源頼政が参戦していたとするならば、それは元々美福門院に従っている立場に基づき信頼に一時同心しただけであるので、二条天皇が不在となったその時点では自らの意思で信頼陣営から抜け出したと見るべきだとされている。ちなみに古態本『平治物語』には六波羅襲撃をおこなった時点での義朝軍は20騎ほどしか残っていなかったと記載されている。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成・平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。",
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"text": "一行はようやく義朝の妾のいる美濃国青墓宿にたどり着き,ここで義朝は再挙のために義平は東山道へ、朝長は信濃・甲斐へ下って兵を募るよう命じた。兄弟は宿を出ると朝長は心細げに「甲斐信濃はどちらへ行けばよいのでしょう」と問うと、義平ははるか雲の方を見て「あっちへ行け」と言うや、飛ぶがごとく駆け去ってしまった。",
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"text": "負傷していた朝長は進むことができず青墓へ引き返し、捕らえられるよりは死を望み、義朝は涙ながらに自らの手で我が子を刺し殺した。",
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"text": "翌永暦元年(1160年)正月3日、鎌田政清の舅である尾張国の住人長田忠致の館に逗留していた義朝は忠致の裏切りにあい政清とともに謀殺されてしまった。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "飛騨国に着いた義平は兵を募り、かなり集めたが、義朝横死の噂が伝わると皆逃げ散ってしまった。これまでと自害しようと思ったが、せめて清盛か重盛と相討ちになろうと心に決め、京へ向かった。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "六波羅あたりで機会をうかがっていると、家人だった志内景澄と出会った。怒った義平は詰問するが、景澄は「源氏の世が戻るまで機会をうかがっていたのです」と弁解し、結局、協力することになり、義平は景澄の下人ということにされ、数日、暗殺の機会をうかがった。",
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"text": "だが、義平の風貌はとても下人風情とは見えずに不審がられ、宿舎の主人が二人の食事の様子をのぞき見ると下人のはずの義平が主の膳を景澄が下人の膳を食べていた。さてはと密告され、18日夜に難波経遠が300騎を率いて宿を取り囲んだ。義平は飛び出すや石切の太刀を抜いて4、5人を斬り捨てて逃げ去ってしまった。",
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"text": "その後、義平は近江国に潜伏するが、25日に石山寺に潜んでいたところを発見され、難波経房の郎党に生け捕られた。",
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"text": "義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は六条河原へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。享年20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。",
"title": "平治物語における義平"
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"text": "福井県大野市和泉地区には、義平が残したとされる青葉の笛がある。伝承によると、義平はその村の長の娘であるみつとの間に、一女を儲けている。その笛は現在は折れていて吹くことはできないが、子孫である朝日家に代々伝わっており今も大切に保管されていて,近年の研究では鎌倉時代より前に作られた笛の特徴があるとされている。",
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"text": "岐阜県の久津八幡宮社殿造立棟札が残っており、その中に「...伝え聞く、当国八幡宮は、源義平、保元年中に関東鶴岡より、ここに勧請する...」という記述や美濃の各地で見つかっている古文書には、保元年間(1156年 - 1159年)の義平の寄進状が見つかったこと、飛騨にも義平に関する伝承が幾つか(下呂市金山地域の義平のヒヒ退治の伝説等)あり、義平はこの地域を過去にも訪れていた可能性は高い。また平治の乱での挙兵の時には、武運を祈願して久津八幡宮に鶴岡八幡宮の御神体を祀った。",
"title": "伝承"
}
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源 義平は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女 または三浦義明の娘 であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 源 義平
| 画像 = Yoshitoshi Minamoto no Yoshihira.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 悪源太(『[[新形三十六怪撰]]』より。[[月岡芳年]]画)
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[永治]]元年([[1141年]])
| 死没 = [[永暦]]元年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]](21日、22日、25日とも)([[1160年]][[2月27日]]。[[2月29日]]、[[3月1日]]、[[3月4日]]とも)<ref>{{Kotobank|源義平}}</ref><br/>享年20
| 改名 =
| 別名 = 鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太)
| 官位 = [[左衛門少尉]]
| 氏族 = [[清和源氏]][[源為義|為義]]流([[河内源氏]])
| 父母 = 父:[[源義朝]]<br/> 母:[[八幡市|橋本]]の遊女、または[[三浦義明]]の娘
| 兄弟 = '''義平'''、[[源朝長|朝長]]、[[源頼朝|頼朝]]、[[源義門|義門]]、[[源希義|希義]]、[[源範頼|範頼]]、<br/>[[阿野全成|全成]]、[[義円]]、[[源義経|義経]]、[[坊門姫 (一条能保室)|坊門姫]]、女子
| 妻 = 正室:'''[[祥寿姫]]'''
| 子 =娘:[[武田信光]]室
}}
[[File:Minamoto no Yoshihira.jpg|thumb|源義平([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』)]]
'''源 義平'''(みなもと の よしひら)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[源義朝]]の庶長子。通称は'''鎌倉悪源太'''(悪源太<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。</ref>、鎌倉源太とも)。母は[[京都]]郊外の[[橋本 (八幡市)|橋本]]の[[遊女]]<ref>[[尊卑分脈]]</ref> または[[三浦義明]]の娘<ref>清和源氏系図</ref> であり、[[源頼朝]]・[[源義経|義経]]らの異母兄にあたる。
== 生涯 ==
=== 大蔵合戦 ===
{{Main|大蔵合戦}}
[[久寿]]2年([[1155年]])、父・義朝が叔父・[[源義賢]](義朝の異母弟、[[源義仲|木曾義仲]]の父)と対立した際には義賢の居館[[武蔵国]][[比企郡]]の大蔵館<ref group="注釈">([[埼玉県]][[比企郡]][[嵐山町]])など、大蔵館の場所には諸説有る</ref> を急襲し、義賢や義賢の舅・[[秩父重隆]]を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった[[藤原信頼]]と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある<ref name="Motoki">元木泰雄『保元・平治の乱をよみなおす』(NHKブックス)</ref><ref>野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)</ref>。
この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な[[源氏]]の長男」という意味である。中世の[[悪党]]の用法もこれと同じである。
=== 保元の乱 ===
保元元年([[1156年]])[[保元の乱]]が勃発し、義朝は[[後白河天皇]]側に立って参戦し、戦後は左馬頭に任じられているが、義平の動向は定かではない。
=== 平治の乱 ===
{{Main|平治の乱}}
保元の乱の後、[[摂家|摂関家]]の影響力が後退し、強大な権力を有していた[[治天の君]]の不在という事態に陥っていた。そのような中、[[信西]]が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が[[二条天皇]]に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、[[平清盛]]にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。
[[平治]]元年([[1159年]])12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は[[三浦氏]]・[[上総介氏]]・[[山内首藤氏]]など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。
一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。
やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の[[平経盛|経盛]]・[[平頼盛|頼盛]]、嫡子・[[平重盛|重盛]]などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦の状況は虚実交えて『平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。
その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ[[東山道]]から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年([[1160年]])に捕えられ、六条河原において処刑された。
== 義平の立場 ==
義平は当時の宮廷社会で軍事貴族として頭角を現しつつあった源義朝の長男であったが、次弟・朝長が[[保元]]4年([[1159年]])[[二条天皇]]中宮(後の[[姝子内親王|高松院]])の従五位下・中宮大夫進に、三弟・頼朝も保元3年([[1158年]])に皇后宮少進に任じられたのに対して、官位を得たという記録は残っていない。このことから、義平は義朝の長男であるが[[嫡男|嫡子]]という扱いはされていなかったとされる。これには生母の身分が大きく関与していると見るのが妥当である。
== 平治物語における義平 ==
[[File:Sasaki Toyokichi - Nihon hana zue - Walters 95208.jpg|thumb|『紫宸殿の橘』([[尾形月耕]]『日本花図絵』)源義平と平重盛]]
『[[平治物語]]』における義平は『[[保元物語]]』における[[源為朝]]と同様の主人公的な存在で、後に[[征夷大将軍]]となった頼朝の兄とあって、非常に颯爽とした若武者として描かれている。軍記物語なのでそのまま史実とは限らない。以降は「金比羅本」等の後世に新たに作成された『平治物語』による記載である。
===義平登場===
義平は援軍を率いて東国からやってきた。義平が到着したとき、藤原信頼がお手盛りの[[除目]]を催していた最中で「ちょうど良かったのう。大国でも小国でも望みの官位を呉れてやるぞ」と上機嫌で言った。義平は「そんなことよりも、すぐに[[阿倍野]]([[大阪市]][[阿倍野区]])へ出陣して、帰ってくる清盛を討ち取りましょう。その後ならば大国でも小国でもいただきましょう」と返答した。信頼は気分を害して「乱暴なことを申す。阿倍野まで行っては馬の脚が疲れてしまうわ。清盛はゆっくり都で取り込めて討ち取ればよろしい」と拒否してしまった{{refnest|group="注釈"|実際には信頼らは平家を打つ必要には迫られていなかった。近年の平治の乱に対する研究では、清盛は信西と姻戚であると同時に信頼の息子とも婚姻関係を結んでおり、後白河法皇や二条天皇をとりまく勢力や信西、藤原信頼などどの勢力から見ても中立な立場であるという見方が強まりつつあり、中立の立場にある清盛は信頼らの攻撃の対象ではなかったという見方もある<ref>[[元木泰雄]]「保元・平治の乱を読み直す」</ref>。}}。このため義朝と信頼は勝機を逸してしまうことになる。(しかしこの話は創作的で、全く似たやり取りが『保元物語』で源為朝と[[藤原頼長]]との間で交わされている)。
帰京した清盛は本拠の[[六波羅]]に入ると、二条天皇側近である[[藤原惟方|葉室惟方]]らが画策し25日夜に[[後白河天皇|後白河上皇]]と二条天皇を[[内裏]]から脱出させ自陣営に迎えることに成功する。翌26日、二条天皇は信頼・義朝追討の[[宣旨]]を下す。これで清盛が[[官軍]]になり、信頼と義朝は[[賊軍]]となった。
===左近の桜、右近の橘===
前日の雪の残る27日辰の刻(午前8時頃)、平家軍が六波羅を出撃した。上皇と天皇を奪われた信頼の迂闊さを呪いつつも義朝はまずは内裏で敵を迎え撃つこととし、諸門に軍勢を配す。義平も弟の朝長・頼朝とともに守りについた。(金毘羅系)『平治物語』によるとこの時、義平は19歳、八龍の[[鎧]]を着、石切の[[太刀]]を帯び、葦毛の[[ウマ|馬]]に乗り敵を待ち構えた、とある<ref group="注釈">この義平等の装束については金比羅本等の後出本『平治物語』には記載されているが、古態本には一切出てこない。</ref>。
待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・[[平重盛]]が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は[[鎌田政清]]・[[後藤実基]]・[[佐々木秀義]]・[[三浦義澄]]・[[山内首藤俊通|首藤俊通]]・[[斎藤実盛]]・[[猪俣党|岡部忠澄]]・猪俣範綱・[[熊谷直実]]・[[波多野延景]]・[[平山季重]]・[[金子家忠]]・[[足立遠元]]・[[上総広常]]・[[関時員]]・[[片切景重]]の坂東武者17騎を率いて駈け出した。義平と坂東武者17騎は重盛の500騎のど真ん中に飛び込んで散々に戦い、これを蹴散らしてしまった。義平は重盛に組みかかろうと内裏の'''左近の桜'''、'''右近の橘'''の間を7、8度も追い回した。重盛は混乱した兵を収拾して一旦退き、新手の500騎を得て再び門内に押し出した(この左近の桜・右近の橘の場面は『平治物語』の一つのハイライトであるが、乱当時の内裏は実際にはこのような造りをしておらず、鎌倉時代中期以降の内裏のつくりがそのまま持ち込まれている。よって橘桜の場面も『平治物語』の虚構であるとの見方も提示されている<ref>日下力「平治物語の成立と展開」</ref>)。
新手を受けた義平は勇みに勇んで突撃し、重盛に向い「嫡男同士なんの不足があろうか、さあ組もう」と挑みかかる。まともに相手にすべき敵ではないと考えた重盛は兵を退かせた。それを義平が追撃。平家の500騎は源氏の17騎に追い回され蹴散らされた。
重盛は主従3騎で逃げるが、それを見つけた義平は鎌田政清とともにこれを追った。政清は重盛の馬を射て、重盛は転げ落ちる。そこへ政清が組みかかろうとするが、与三左衛門景安が主人を守り、政清と組み合いになった。義平は重盛を追うか、政清を助けるかを思案し、まずは大切な家人の政清を助け、景安の首をはねた。覚悟を決めた重盛は義平と[[一騎討ち]]しようとするが、新藤左衛門家泰がこれを遮り、義平に組みかかった。家泰は討たれたが、その間に重盛はその虎口を逃れた。
===六波羅合戦===
郁芳門では義朝と[[平頼盛]]が激戦し、頼盛は突破できず兵を退いた。源氏軍は内裏を出て平家軍を追撃する。ところが、これは計略であった。[[平教盛]]の別動隊が内裏に迫るや内応者が門を開けて引き入れ、内裏は平家方に占拠されてしまった。
退路を失った義朝は清盛の本拠・六波羅への総攻撃を決め,源氏勢が六波羅へ馳せ向かっていると、六条河原あたりで[[源頼政]](義朝とは別系統の[[摂津源氏]])の300騎が戦うこともなく布陣していた。これを見た義平は「さては我らが負ければ平家に味方しようとしているのだな。憎いやつだ。蹴散らしてしまえ」と同じ源氏の頼政の軍勢に攻め込んでしまった。いきなり攻撃されるとは思っていなかった頼政の軍は蹴散らされるが、頼政は形勢はうかがっていたが必ずしも平家に付こうとも考えていなかったのに、結果的に平家方に追いやることになってしまった。義平に好意的な『平治物語』の作者も「若気の至りであろう」と評し、[[楚 (春秋)|楚]]の[[項羽]]がいたずらに中立者だった[[王陵]]を攻撃して[[前漢|漢]]の高祖([[劉邦]])に付かせてしまった故事を引いている。
義平は坂東武者を率いて六波羅へ攻め寄せた。清盛も黒一色の武具鎧に黒馬に乗って出陣。すると「悪源太義平見参」と一挙に突きかかり、平家も主人を討たせてなるかと源氏を押し包み乱戦となるが、源氏は朝から戦い通しなのに対して、平家は次から次へと新手を繰り出しており、疲弊しきった源氏は遂に敗走した。
なお、戦闘に関しての史実上の見解は次のとおりである。
『愚管抄』によると、義朝は内裏ではあまり戦わずにすぐ六波羅を目指した。また、頼政の裏切りについて、源頼政が参戦していたとするならば、それは元々[[藤原得子|美福門院]]に従っている立場に基づき信頼に一時同心しただけであるので、二条天皇が不在となったその時点では自らの意思で信頼陣営から抜け出したと見るべきだとされている<ref name="Motoki"/>。ちなみに古態本『平治物語』には六波羅襲撃をおこなった時点での義朝軍は20騎ほどしか残っていなかったと記載されている。
===逃避行===
義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の[[源義隆]]は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の[[源重成]]・[[平賀義信]]、家人の鎌田政清・[[土佐坊昌俊#金王丸について|渋谷金王丸]]の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。
一行はようやく義朝の妾のいる[[美濃国]][[青墓宿]]にたどり着き,ここで義朝は再挙のために義平は[[東山道]]へ、朝長は[[信濃国|信濃]]・[[甲斐国|甲斐]]へ下って兵を募るよう命じた。兄弟は宿を出ると朝長は心細げに「甲斐信濃はどちらへ行けばよいのでしょう」と問うと、義平ははるか雲の方を見て「あっちへ行け」と言うや、飛ぶがごとく駆け去ってしまった<ref group="注釈">古態本では朝長に信濃へ行くように命じた記載はない。</ref>。
負傷していた朝長は進むことができず青墓へ引き返し、捕らえられるよりは死を望み、義朝は涙ながらに自らの手で我が子を刺し殺した。
翌永暦元年(1160年)正月3日、鎌田政清の舅である[[尾張国]]の住人[[長田忠致]]の館に逗留していた義朝は忠致の裏切りにあい政清とともに謀殺されてしまった。
===雷伝説===
[[飛騨国]]に着いた義平は兵を募り、かなり集めたが、義朝[[横難横死|横死]]の噂が伝わると皆逃げ散ってしまった。これまでと自害しようと思ったが、せめて清盛か重盛と相討ちになろうと心に決め、京へ向かった。
六波羅あたりで機会をうかがっていると、家人だった[[志内景澄]]と出会った。怒った義平は詰問するが、景澄は「源氏の世が戻るまで機会をうかがっていたのです」と弁解し、結局、協力することになり、義平は景澄の下人ということにされ、数日、暗殺の機会をうかがった。
だが、義平の風貌はとても下人風情とは見えずに不審がられ、宿舎の主人が二人の食事の様子をのぞき見ると下人のはずの義平が主の膳を景澄が下人の膳を食べていた。さてはと密告され、18日夜に[[田使経遠|難波経遠]]が300騎を率いて宿を取り囲んだ。義平は飛び出すや石切の太刀を抜いて4、5人を斬り捨てて逃げ去ってしまった<ref group="注釈">古態本には志内景澄は登場しない。</ref>。
その後、義平は[[近江国]]に潜伏するが、25日に[[石山寺]]に潜んでいたところを発見され、[[難波経房]]の郎党に生け捕られた。
義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は[[六条河原]]へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。[[雷]]になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。[[享年]]20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして[[摂津国]][[布引の滝 (兵庫県)|布引の滝]]を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。
== 伝承 ==
=== 義平と青葉の笛の伝説 ===
[[福井県]][[大野市]]和泉地区には、義平が残したとされる青葉の[[笛]]がある。伝承によると、義平はその村の長の娘であるみつとの間に、一女を儲けている。その笛は現在は折れていて吹くことはできないが、子孫である朝日家に代々伝わっており今も大切に保管されていて,近年の研究では鎌倉時代より前に作られた笛の特徴があるとされている。
=== その他 ===
[[岐阜県]]の[[久津八幡宮]]社殿造立棟札が残っており、その中に「…伝え聞く、当国八幡宮は、源義平、[[保元]]年中に関東鶴岡より、ここに勧請する…」という記述や[[美濃国|美濃]]の各地で見つかっている古文書には、保元年間([[1156年]] - [[1159年]])の義平の寄進状が見つかったこと、[[飛騨]]にも義平に関する伝承が幾つか([[下呂市]]金山地域の義平のヒヒ退治の伝説等)あり、義平はこの地域を過去にも訪れていた可能性は高い。また平治の乱での挙兵の時には、武運を祈願して久津八幡宮に[[鶴岡八幡宮]]の御神体を祀った。
== 系譜 ==
*父:[[源義朝]]
*母:[[八幡市|橋本]]の遊女または[[三浦義明]]の娘
*正室:[[祥寿姫]] - [[源義重]]娘
**女子:[[武田信光]]室 - 源義重養女
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; テレビドラマ
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』([[1972年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[石川徹郎]](少年期:[[高田直久]]))
* 『[[平清盛 (1992年のテレビドラマ)|平清盛]]』([[1992年]]、[[TBS]]、演:[[西村和彦]])
* 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』([[2012年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[波岡一喜]])
== 関連項目 ==
{{commonscat|Minamoto no Yoshihira}}
* [[平治の乱]]
* [[平治物語]]
{{DEFAULTSORT:みなもと の よしひら}}
[[Category:源義平|*]]
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:源義朝の子女|よしひら]]
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電気製品の一覧
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'''電気製品の一覧'''(でんきせいひんのいちらん)では、電気製品を列挙する。
==あ行==
* [[アイロン]]
* [[あんか]]
* [[インターホン]]
* [[ウォーターオーブン]]
* [[ウォーターピック]]
* [[ウォークマン]] → [[デジタルオーディオプレーヤー]]
* [[薄型テレビ]]
* [[エア・コンディショナー]] (エアコン)
* [[エアサーキュレーター]]
* [[映像機器]]
* [[ACアダプタ]]
* MP3プレーヤー → [[デジタルオーディオプレーヤー]]
* オーディオ → [[音響機器]]、[[ミニコンポ]]、[[ラジカセ]]
* [[オーバーヘッドプロジェクター]] (OHP)
* [[オーブン]]
* [[オーブントースター]]
* [[オーブンレンジ]]
* オイルヒーター(オイル密閉、非燃焼)
* [[温水洗浄便座]]
==か行==
* [[カーオーディオ]]([[車載器|車載機器]]の一種)
* [[カーナビゲーション]]
* カーボンヒーター
* [[加湿器]]
* [[換気扇]]
* [[キャッシュレジスター]]
* 吸湿器 → [[除湿機]]
* [[給茶機]]
* 給湯器
* [[吸入器]](家庭用の呼吸器用治療器)
* [[空気清浄機]]
* 携帯音楽プレーヤー → [[デジタルオーディオプレーヤー]]
* [[携帯情報端末]] - PDA
* [[携帯電話]] - 携帯電話端末 → [[スマートフォン]]も参照
* [[ゲーム機]] → [[家庭用ゲーム機]]・[[携帯ゲーム機]]も参照
* [[高圧洗浄機]]
* [[コードレス電話]]
* [[コーヒーメーカー]]
* コーヒーウォーマー(喫茶店でコーヒーを温めておくプレート)
* [[かき氷|氷かき機]]
* [[こたつ]]
* [[複写機|コピー機]]
* [[コンパクトカセット]]
==さ行==
* [[散髪]]器具
* [[CDプレーヤー]]
* [[シェーバ]]、ヒゲトリマー
* [[室外機]]
* [[芝刈り機]]
* [[消毒液スタンド]]
* [[照明器具]]
* [[除湿機]]
* [[食器洗浄機]]
* [[炊飯器]]
*スマートフォン
* [[スピーカー]]
* [[スロークッカー]]
* [[精米機]]
* [[石油ファンヒーター]]
* [[セラミックヒーター]]
* [[洗濯機]]
* [[扇風機]]
* [[掃除機]]
==た行==
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* [[DVDレコーダー]]
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* [[テレビゲーム]]
* [[あんか|電気あんか]]
* [[電気カーペット]]
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==な行==
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保元の乱
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保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王が即位した(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退した。一方、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。
白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。
久安6年(1150年)正月4日に近衛天皇は元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女・多子が入内、19日に女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。
内覧となった頼長は旧儀の復興に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。
ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)。
それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った。
鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。
この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。
10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為義は高松殿への夜襲を献策する。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。
清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。
7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。
戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。
攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。
合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。
13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。
崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。
15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。
19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の長講堂領の基軸となる。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
23日、崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去った。重仁親王は寛暁(堀河天皇の皇子)の弟子として出家することを条件に不問とされた。
27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。
武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられ、伊豆大島に配流された。
こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。
忠通は保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持する集団(後白河院政派)と二条天皇を支持する集団(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。
貴族
武士(北面・検非違使・京武者)
清盛軍の武士
義朝軍の武士
貴族等
武士
僧侶
閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の宣命を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。
...前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。...
内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰として、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になっても変わることはなかった。しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで崩御し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。
小説
・辻邦生『西行花伝』新潮社1995年、新潮文庫1999年
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"text": "保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。",
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"text": "永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王が即位した(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退した。一方、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。",
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"text": "白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。",
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"text": "久安6年(1150年)正月4日に近衛天皇は元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女・多子が入内、19日に女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。",
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"text": "内覧となった頼長は旧儀の復興に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。",
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"text": "久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。",
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"text": "新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。",
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"text": "ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)。",
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"text": "それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った。",
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"text": "鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。",
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"text": "この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。",
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"text": "7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。",
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"text": "10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為義は高松殿への夜襲を献策する。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。",
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"text": "これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。",
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"text": "清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。",
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"text": "7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。",
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"text": "戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。",
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"text": "攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。",
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"text": "合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。",
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"text": "13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。",
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"text": "崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。",
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"text": "15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。",
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"text": "19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の長講堂領の基軸となる。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。",
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"text": "23日、崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去った。重仁親王は寛暁(堀河天皇の皇子)の弟子として出家することを条件に不問とされた。",
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"text": "27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。",
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"text": "武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられ、伊豆大島に配流された。",
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"text": "こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。",
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"text": "この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。",
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"text": "忠通は保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。",
"title": "戦後"
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"text": "乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持する集団(後白河院政派)と二条天皇を支持する集団(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。",
"title": "戦後"
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"text": "貴族",
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"text": "武士(北面・検非違使・京武者)",
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"text": "清盛軍の武士",
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"text": "義朝軍の武士",
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"text": "貴族等",
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"text": "武士",
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"text": "僧侶",
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"text": "閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の宣命を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。",
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"text": "...前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。...",
"title": "後日談"
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"text": "内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰として、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になっても変わることはなかった。しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで崩御し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。",
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"text": "小説",
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"text": "・辻邦生『西行花伝』新潮社1995年、新潮文庫1999年",
"title": "文学作品"
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保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
|
{{参照方法|date=2018年1月}}
{{Battlebox
|battle_name = 保元の乱
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|image = [[ファイル:Hōgen no ran.jpg|300px|保元・平治の乱合戦図屏風絵]]
|caption = 『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」<br />([[江戸時代]])[[メトロポリタン美術館]]所蔵
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|date = <br/>([[天保暦|旧暦]])[[保元]]元年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]<br/>([[ユリウス暦]])[[1156年]][[7月29日]]<br/>([[グレゴリオ暦]]換算)[[1156年]][[8月5日]]
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|result = [[後白河天皇]]方の勝利、[[崇徳天皇|崇徳上皇]]配流
|combatant1 = [[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] 後白河天皇<br />[[藤原忠通]]([[関白]])
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|commander1 = [[源義朝]]([[河内源氏]])<br />[[平清盛]]([[伊勢平氏]])<br />[[源頼政]]([[摂津源氏]])<br />[[足利義康|源義康]]([[河内源氏]])<br />[[源重成]]([[美濃源氏]])<br />[[平信兼]]([[伊勢平氏]])<br />[[信西]]([[後白河天皇|後白河]]傅人)
|commander2 = [[源為義]]([[河内源氏]])<br />[[源為朝]](河内源氏)<br />[[平忠正]]([[伊勢平氏]])<br />[[平家弘]]([[伊勢平氏]])<br />[[多田頼憲|源頼憲]]([[摂津源氏]])
|strength1 = 第一陣:600騎
* 平清盛:300騎
* 源義朝:200騎
* 源義康:100騎
<br/>第二陣:不明
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|casualties1 =
|casualties2 =源頼賢 斬首
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'''保元の乱'''(ほうげんのらん)は、[[保元]]元年([[1156年]])[[7月 (旧暦)|7月]]に皇位継承問題や[[摂家|摂関家]]の内戦により、[[朝廷 (日本)|朝廷]]が[[後白河天皇]]方と[[崇徳天皇|崇徳上皇]]方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は[[讃岐国|讃岐]]に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に[[武士]]の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る[[武家政権]]へ繋がるきっかけの一つとなった。
== 背景 ==
=== 近衛天皇即位 ===
[[永治]]元年([[1141年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]は[[藤原璋子]](待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する[[藤原得子]](美福門院)との子である体仁親王が即位した([[近衛天皇]])。体仁は崇徳の[[中宮]]・[[藤原聖子]]の養子であり「[[皇太子]]」のはずだったが、[[譲位]]の[[宣命]]には「皇太弟」と記されていた(『[[愚管抄]]』)。[[天皇]]が弟では将来の[[院政]]は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった{{efn|『古事談』には父子の対立の原因として、崇徳天皇が[[白河天皇|白河法皇]]の子であり、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。この逸話について史実とする説(角田文衛)と風説に過ぎないとして否定する説(美川圭・河内祥輔)がある。また、現代医学でも妊娠をコントロールすることは困難で、なおかつ生理不順の時期があったことが確認できる(『長秋記』長承3年10月10日条)藤原璋子の月事を正確に把握することは不可能で、角田の論証は女性の身体が抱える問題を軽視しているとする[[ジェンダー]]的な観点からの批判もある(服藤早苗)<ref>服藤早苗「懐妊の身体と王権-平安貴族社会を中心に-」初出:『歴史評論』728号、2010年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04701-8 2021年、P339-341.</ref>。近年、藤原璋子の入内は璋子の養父であった白河法皇が鳥羽天皇と自分との間の連絡役になることを期待したもので、法皇と璋子の関係も『古事談』が伝える男女関係ではなく政治的な意味合いが強かったこと、更に崇徳天皇の外祖父は、誕生当時に既に故人となっていた[[藤原公実]]ではなく、璋子の養父である白河法皇その人であるとする指摘(樋口健太郎)もある。更に、鳥羽法皇と崇徳天皇の政治的対立の存在を指摘する研究(元木泰雄・安原功・下郡剛・佐伯智広ら)もある。}}。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳上皇の[[外戚]]である[[閑院流]][[徳大寺家]]の勢力は後退した。一方、閑院流[[三条家]]や[[中御門流]]、[[村上源氏]]の[[公卿]]は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた[[藤原家成]]に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、[[保延]]4年([[1138年]])に[[藤原宗忠]]が辞任してからは[[右大臣]]が、[[久安]]3年([[1147年]])に[[源有仁]]が辞任してからは[[左大臣]]も空席となり、大臣は一人のみ([[内大臣]]・[[藤原頼長]])という状況になった。
=== 摂関家の内紛 ===
[[白河天皇|白河]][[院政]]下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると[[藤原忠実]]の女・[[藤原泰子|泰子(高陽院)]]が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。[[関白]]の[[藤原忠通]]は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた<ref group="注釈">妾腹の男子がいたが、母の身分が低いためか早くに[[出家]]している。</ref>。しかし[[康治]]2年(1143年)に[[近衛基実|基実]]が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった{{efn|通説では、忠通が頼長との約束を破ったと解されているが、樋口健太郎は本来は忠通に男子が生まれれば頼長はその子が成長するまでの「中継ぎ」になる予定であったが、白河院政下で失脚していた忠実が復権すると頼長の後見となったために忠通・頼長の関係が微妙になった(摂関家の家政職員も忠実ー頼長派と忠通派に分裂した)。そこに基実が生まれたことに危機感を覚えた忠実・頼長は頼長の子である[[藤原兼長|兼長]]を忠通の養子に迎えさせて摂関家を忠通ー頼長ー兼長に継承させて忠通の子孫を摂関家の継承から排除して基実には高陽院の養子としてその所領を継承させようとした。忠実・頼長から約束破棄(基実の廃嫡)を強要された忠通と彼に仕える家政職員はこれに反発して、忠実・頼長と対立することになった、と説いている<ref>樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3 、第Ⅱ部第一章・第三章・第Ⅲ部第一章各論文</ref>。}}。
久安6年(1150年)[[1月4日 (旧暦)|正月4日]]に[[近衛天皇]]は[[元服]]の式を挙げると、同月[[1月10日 (旧暦)|10日]]には頼長の養女・[[藤原多子|多子]]が入内、[[1月19日 (旧暦)|19日]]に[[女御]]となった。しかし[[2月 (旧暦)|2月]]になると忠通も[[藤原伊通]]の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた[[藤原呈子|呈子]]を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と[[奏上]]、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を[[皇后]]、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、[[大殿]]の権限で[[藤氏長者]]家伝の宝物である[[朱器台盤]]を摂家正邸の[[東三条殿]]もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を[[不孝|義絶]]するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には[[内覧]]の[[宣旨]]を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。
=== 近衛天皇崩御 ===
内覧となった頼長は旧儀の復興に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ[[院近臣]]との軋轢を生むことになる。[[仁平]]元年([[1151年]])には[[藤原家成]]の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年([[1153年]])に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一[[皇子]]・[[重仁親王]]が有力だったが、忠通は美福門院の養子・[[二条天皇|守仁親王]]への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した<ref>樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」(初出:『日本史研究』618号(2014年)/所収:『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P28-30.</ref>。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。
[[久寿]]2年([[1155年]])7月23日、[[近衛天皇]]は[[崩御]]する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは[[源雅定]]と[[三条公教]]で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・[[暲子内親王]]が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった([[後白河天皇]])。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった<ref group="注釈">「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」(『山槐記』永暦元年12月4日条)</ref>。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の[[信西]]の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる<ref>佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」(『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)。なお、佐伯はもう1つの理由として守仁が美福門院の養子の形で即位すると待賢門院及びその子女の所領に関する権利を失い、王家(天皇家)およびその所領の分裂にもつながりかねないため、待賢門院―雅仁(後白河)―守仁の系統を維持する必要があったと説く。</ref>。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため[[朝廷 (日本)|朝廷]]に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
=== 鳥羽法皇崩御 ===
新体制が成立すると、後白河と[[藤原忻子]]、守仁と[[姝子内親王]]の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である[[徳大寺家]]の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが[[統子内親王]](待賢門院の娘、後白河の同母姉)の[[猶子]]となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。
ところが、新体制の基盤がまだ固まらない[[保元]]元年([[1156年]])5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『[[愚管抄]]』によれば政情不安を危惧した[[藤原宗能]]が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は[[源為義]]・[[平清盛]]ら[[北面武士]]10名に[[祭文]](誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという{{efn|為義については[[摂家|摂関家]]の家人であり[[北面武士|北面]]ではないとする見解が一般的であるが、『愚管抄』に「キタオモテ(北面)」と明記され、院主催の流鏑馬行事や強訴防御にも登場することから、北面に在籍していたとする説もある<ref>[[横澤大典]]「白河・鳥羽院政期における京都の軍事警察制度-院権力と軍事動員-」『古代文化』527、[[2002年]]</ref>。}}。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・[[平忠盛|忠盛]]は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる[[鳥羽離宮|鳥羽殿]]を[[源光保]]・[[平盛兼]]を中心とする有力北面、後白河の[[里内裏]]・高松殿を[[河内源氏]]の[[源義朝]]・[[源義康]]が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『[[兵範記]]』7月5日条)<ref group="注釈">この警備については、近衛天皇の[[崩御]]時と同様に、混乱一般の防止にあったとする説(河内祥輔)、動員の規模が大きく高松殿も警備の対象になっていることから、法皇没後に崇徳上皇や藤原頼長が兵を起こす危険に備えたという説(元木泰雄)がある。</ref>。
それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『[[古事談]]』によれば、法皇は側近の[[藤原惟方]]に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した<ref group="注釈">ただし、後白河天皇も崇徳上皇同様に法皇の見舞いにも死後の対面にも行っておらず、崇徳上皇のみを拒絶の対象にしていた訳ではないとする指摘(河内祥輔)がある。</ref>。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った<ref group="注釈">法皇の遺体を棺に納めたのは、信西・藤原惟方・[[藤原成親]]・[[源資賢]]・源光保・[[藤原信輔]]・[[藤原信隆]]・[[高階盛章]]の8名だった(『兵範記』7月2日条)。その後の政治的動向を見ると、信西と惟方が主導的立場にあったと思われる。</ref>。
== 経過 ==
[[ファイル:Hōgen Rebellion.jpg|thumb|250px|『保元・平治合戦図屏風』([[神泉苑]]蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛]]
=== 挑発の開始 ===
鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により[[検非違使]]の[[平基盛]](清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、[[大和源氏]]の[[源親治]]が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の[[御教書]]([[綸旨]])が諸国に下されると同時に、[[蔵人]]・高階俊成と源義朝の随兵が[[東三条殿]]に乱入して邸宅を[[没官]]するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の[[家司]]である[[平信範]](『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。
この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される<ref group="注釈">なお、背後で画策したのは忠通とする説(河内祥輔)もあるが、頼長を追い落とすためとはいえ、摂関家の威信を失墜させる「氏長者の謀反人認定」という措置に踏み切れたかどうか疑問が残る。一方、信西は低い身分からのたたき上げで死刑復活や寺社統制を断行するなど、伝統や権威に縛られない人物だった。摂関家に対しても畏敬の念はなく、むしろ倒すべき障害と認識していた可能性もある。</ref>。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
=== 崇徳上皇の脱出 ===
7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の[[御所]]に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・[[六波羅]]があり、自らが新たな[[治天の君]]になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。
=== 両軍の対峙 ===
10日の晩頭、頼長が宇治から[[上洛]]して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には[[貴族]]では崇徳の側近である[[藤原教長]]や頼長の母方の縁者である[[藤原盛憲]]・[[藤原経憲|経憲]]の兄弟、武士では[[平家弘]]・[[源為国]]・源為義・[[平忠正]](清盛の叔父)・[[多田頼憲|源頼憲]]などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の[[私兵]]集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった<ref group="注釈">「当時マコトニ無勢ゲナリ」「勢ズクナナル者ドモ」(『愚管抄』)</ref>。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、[[平清盛|清盛]]が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の[[乳母]]・[[池禅尼]]は崇徳方の敗北を予測して、子の[[平頼盛|頼盛]]に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為義は高松殿への夜襲を献策する<ref group="注釈">『保元物語』では為朝だが、『愚管抄』では為義が献策したとする。</ref>。頼長はこれを斥けて、[[信実]]率いる[[興福寺]]の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・[[源頼政]]・[[源重成]]・[[源季実]]・[[平信兼]]・平維繁が続々と召集され、「'''軍、雲霞の如し'''」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・[[徳大寺実能]]が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の[[公卿]]は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。
清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという<ref group="注釈">忠通の逡巡の本質について、河内祥輔は合戦そのものへの逡巡と説き、山田邦和は夜討という戦術に対する逡巡と説いて軍事行動にはむしろ積極的であったとする。山田は夜討につきものであった放火によって法勝寺などの六勝寺が延焼した場合、貴族社会内部からの反感を買うことを危惧したと見る。</ref>。
=== 夜襲 ===
[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、[[多田頼盛|源頼盛]]が数百の兵で周囲を固めた<ref group="注釈">東三条殿に一時的に皇居を移したことについては、高松殿が手狭で軍事拠点に不向きだった、摂関家の屈服を示す狙いがあった、[[薬子の変]]・[[承和の変]]の先例に従ったなどの説があるが、正確な理由は不明である。</ref>。
戦闘の具体的な様子は『[[保元物語]]』に頼るしかないが、上皇方は[[源為朝]]が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の[[藤原忠直]]・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した[[大庭景義]]が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『[[吾妻鏡]]』建久2年([[1191年]])8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される<ref group="注釈">『保元物語』は為朝と景義の戦闘を白河北殿の門内とするが、『吾妻鏡』は大炊御門河原であったとする。</ref>。
攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため[[法勝寺]]を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う<ref group="注釈">山田邦和は、崇徳上皇が内裏のある高松殿の周辺、頼長も平安京を横断するという目につきやすい経路を用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘し、「手抜かりというレヴェルですらあるまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。</ref>。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。
== 戦後 ==
=== 上皇方の投降 ===
合戦の勝利を受けて[[朝廷 (日本)|朝廷]]は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする[[宣旨]]を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は[[馬寮|右馬権頭]](後に[[馬寮|左馬頭]])<ref group="注釈">平清盛に比べて恩賞が少なかったことに不満を抱いた源義朝が後に平治の乱に加担することになったとされているが、これについては現任の官位(従五位下下野守)と比較すれば明らかに昇進しており、かつ河内源氏で初めて内昇殿が認められた義朝は厚遇された恩賞を受けていたとする元木泰雄の説と、この時代には謀叛の鎮圧の功績に対する恩賞の基準が既に確立されており、その基準に当てはめると明らかに低いもので冷遇された恩賞であったとする古澤直人の説がある(→[[平治の乱#保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説|平治の乱]])。</ref>に補任され、義朝と義康は[[内昇殿]]を認められた。藤氏長者の地位は[[藤原道長]]以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。
13日、逃亡していた崇徳上皇が[[仁和寺]]に出頭し、同母弟の[[覚性法親王]]に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は[[寛遍]]法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である[[千覚]]の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。
崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の[[貴族]]・[[武士]]は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。
=== 摂関家の苦境 ===
15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、[[朝廷 (日本)|朝廷]]は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て[[綸旨]]では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の[[預所]]を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と[[平等院]]を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。
19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾{{efn|とは言え、現任の藤氏長者であった頼長が謀叛人として逃亡(後に死去)して忠通に長者を譲ることが不可能である以上、忠通には天皇の宣旨による藤氏長者任命を受諾する以外の選択は最初から無かったと言える。なお、樋口健太郎によれば藤氏長者の宣旨による任命が定着するのはその後の摂関家の分裂による内紛の激化を原因としており、この案件とは別の問題であるとする<ref>樋口健太郎「藤氏長者宣旨の再検討」(初出:『古代文化』63巻3号(2011年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)</ref>。}}し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が[[悔返|取り上げた]]京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の[[長講堂領]]の基軸となる。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
=== 罪名宣下 ===
23日、崇徳上皇は[[讃岐国|讃岐]]に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、[[藤原仲麻呂の乱]]における[[淳仁天皇]]の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の[[長寛]]2年([[1164年]])にこの世を去った。重仁親王は[[寛暁]]([[堀河天皇]]の[[皇子]])の弟子として[[出家]]することを条件に不問とされた。
27日、「[[太上天皇]]ならびに前[[左大臣]]に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息([[藤原兼長|兼長]]・[[藤原師長|師長]]・[[藤原隆長|隆長]]・[[範長]])や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。
武士に対する処罰は厳しく、[[薬子の変]]を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『[[法曹類林]]』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は[[流罪]]となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、[[近江国|近江]]に潜伏していたところを[[源重貞]]に捕らえられ、[[伊豆大島]]に配流された{{efn|『保元物語』によれば強弓を惜しまれて減刑されたというが、[[元木泰雄]]は、にわかには信じがたく、合戦直後の混乱と興奮の中で多くの死刑が執行されてから一月が経ち、朝廷も冷静な空気が高まり死刑に対する非難が強まったことが関係したのだろうとしている<ref>元木泰雄『河内源氏 <small>頼朝を生んだ武士本流</small>』中公新書、2011年、P164.</ref>。}}。
こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す[[中世]]という時代の到来を示すものとなった。[[慈円]]は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。
=== 摂関家の凋落 ===
この乱で最大の打撃を蒙ったのは[[摂家|摂関家]]だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。
忠通は保元3年([[1158年]])4月の[[藤原信頼]]との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王([[二条天皇]])への譲位についても全く関与しないなど<ref group="注釈">『兵範記』8月4日条には「ただ仏と仏との評定。余人、沙汰に及ばざるか」とある。仏は出家者のことであり、信西と美福門院を指していると見られる。</ref>、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、[[保元新制]]を発布して国政改革に着手し、[[大内裏]]の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ[[弁官]]や大国の[[受領]]に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持する集団(後白河院政派)と二条天皇を支持する集団(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は[[平治]]元年([[1159年]])に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる([[平治の乱]])。
== 参加者一覧 ==
=== 天皇方 ===
'''貴族'''
* [[藤原忠通]]…[[関白]]
* [[信西]]…[[後白河天皇|後白河]][[乳母]]の夫
* [[徳大寺実能]]…[[内大臣]]。[[藤原頼長|頼長]]の室・[[藤原幸子|幸子]]の父。[[二条天皇|守仁親王]]の[[東宮傅]]
'''武士(北面・検非違使・京武者)'''
* [[平清盛]]…安芸守。[[伊勢平氏]][[平正衡|正衡]]流
* [[源義朝]]…下野守。[[河内源氏]]
* [[源義康]]…右衛門尉。[[足利氏]]の祖
* [[源頼政]]…兵庫頭。[[摂津源氏]]
* [[平盛兼]]…和泉守。伊勢平氏貞季流
** [[平信兼]]…盛兼の子
* [[源光保]]…出雲守。[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の寵妃・土佐局の父。[[美濃源氏]]
* [[源重成]]…式部大夫。[[清和源氏]][[源満政|満政流]]
** [[源重貞]]…重成の弟
* [[源季実]]…[[左衛門尉]]。[[文徳源氏]](坂戸源氏)
* 平維繁…右衛門尉。[[越後平氏]]。隠岐守・平繁賢の子
* 平実俊…左衛門尉。[[下毛野氏]]の出身。白河院北面・平宗実の養子{{efn|京都大学図書館所蔵『下毛野氏系図』に実俊の名があり、その傍注に駿河守・平宗実の養子となり姓名を改めたと記されている<ref>齋藤拓海「院政期の近衛官人と武士の関係--平実俊を通して」『日本歴史』746、2010年</ref>。}}
* [[多田頼盛|源頼盛]]…前[[蔵人]]。[[多田源氏]]
'''清盛軍の武士'''
* [[平重盛]]…[[中務省|中務少輔]]。清盛の[[長男]]
* [[平基盛]]…左衛門尉。清盛の次男
* [[平頼盛]]…常陸介。清盛の弟
* [[平教盛]]…淡路守。清盛の弟
* [[平経盛]]…清盛の弟
* [[平家貞]]…清盛の郎党
* [[平貞能]]…家貞の子
* [[平盛国]]…清盛の郎党
* [[平盛俊]]…盛国の子
* [[藤原景綱]]…清盛の郎党
* [[藤原忠清]]…景綱の子。伊藤五
* [[藤原忠直]]…景綱の子。伊藤六
* 山田是行…清盛の郎党
* 難波経房…清盛の郎党。備前の武士
* [[妹尾兼康]]…清盛の郎党。備中の武士
'''義朝軍の武士'''{{efn|東国の武士は朝廷が国衙を通して動員しており、義朝と主従関係にない武士も多く含まれていたという指摘がある<ref>[[野口実]]『源氏と坂東武士』吉川弘文館、[[2007年]]</ref>。}}
* [[鎌田政清]]…義朝の乳兄弟。第一の郎党
* [[佐々木秀義]]…義朝の郎党。[[近江源氏]][[佐々木氏]]
* [[山内首藤俊通]]…義朝の郎党。[[相模国|相模]]の武士
* [[山内首藤俊綱]]…俊通の子
* [[波多野義通]]…義朝の妻([[源朝長|朝長]]の母)の兄。相模の武士。[[横山党]]
* [[海老名季貞]]…相模の武士。横山党
* [[大庭景義]]…相模の武士。[[鎌倉氏|鎌倉党]]
* [[大庭景親]]…景義の弟
* [[斎藤実盛]]…[[武蔵国|武蔵]]の武士
* [[平山季重]]…武蔵の武士。[[西党]]
* [[熊谷直実]]…武蔵の武士
* [[猪俣範綱]]…武蔵の武士。[[猪俣党]]
* [[岡部忠澄]]…武蔵の武士。猪俣党
* [[金子家忠]]…武蔵の武士。[[村山党]]
* [[河越重頼]]…武蔵の武士。[[秩父氏|秩父党]]
* [[師岡重経]]…重頼の弟
* [[上総広常]]…[[上総国|上総]]の武士。父の[[上総常澄|常澄]]は、義朝を養君として擁立
* [[千葉常胤]]…[[下総国|下総]]の武士
* [[八田知家]]…[[下野国|下野]]の武士。姉の[[寒河尼]]は[[源頼朝|頼朝]]の乳母
* [[足利俊綱]]…下野の武士。[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]
* [[片切景重]]…義朝の郎党。[[信濃源氏]]
* [[海野幸親]]…信濃の武士
* [[根井行親]]…信濃の武士
* [[熊坂四郎]]…信濃の武士
* [[工藤茂光]]…[[伊豆国|伊豆]]の武士
=== 上皇方 ===
'''貴族等'''
* [[藤原頼長]]…[[左大臣]]。氏長者。前[[内覧]]
* [[藤原教長]]…[[京職|左京大夫]]。[[崇徳天皇|崇徳]]の側近
* [[藤原実清]]…[[馬寮|右馬権頭]]。崇徳の側近。[[閑院流]]
* [[源成雅]]…[[近衛府|左近衛権中将]]。頼長の室([[藤原師長|師長]]の母)の兄弟
* [[藤原成隆]]…[[皇后宮職|皇后宮権亮]]。[[摂家|摂関家]]の[[家司]]。頼長の父方・母方を通じての従兄弟
* 源俊通…備前権守。[[摂家|摂関家]]の家司
* [[藤原盛憲]]…[[式部省|式部大輔]]。頼長の母方の従兄弟。[[勧修寺流]]。[[上杉氏]]の祖
* 藤原憲親…[[皇后宮職|皇后宮権大進]]。盛憲の弟
* [[藤原経憲]]…[[蔵人]]大夫。盛憲の弟
* [[藤原家長]]…[[能登国|能登守]]。[[藤原顕季|善勝寺流]]
* [[藤原保成]]…[[善勝寺流]]。崇徳の側近
* [[難波頼輔]]…山城守。教長の弟
* 藤原資憲…皇后宮大進
* [[源師光 (村上源氏)|源師光]]…皇后宮権大夫。頼長の養子
* 菅原登宣…給料文章生
* 藤原重綱…前山城守
* 図書允俊成…図書允。頼長の側近
'''武士'''
* [[源為義]]…前大夫尉。義朝の父
** [[源頼賢]]…前左衛門尉。為義の四男
** [[源頼仲]]…為義の五男
** [[源為宗]]…為義の六男
** [[源為成]]…為義の七男
** [[源為朝]]…鎮西八郎。為義の八男
** [[源為仲]]…為義の九男
* [[平忠正]]…前右馬助。清盛の叔父
** [[平長盛]]…崇徳院蔵人。忠正の長男
** 平忠綱…左大臣家匂当。忠正の次男
** 平正綱…左大臣家匂当。忠正の三男
** 平通正…忠正の四男
* [[平家弘]]…右衛門大夫。崇徳の従者。伊勢平氏[[平正済|正済]]流
** [[平正弘]]…下野判官。家弘の父
** 平康弘…[[大炊寮|大炊助]]。家弘の弟
** 平盛弘…右衛門尉。家弘の弟
** 平時弘…[[兵衛府|兵衛尉]]。家弘の弟
** 平光弘…家弘の子
** 平頼弘…家弘の子
** 平安弘…家弘の子
* [[多田頼憲|源頼憲]]…多田荘の荘官。多田源氏
** [[多田盛綱|源盛綱]]…頼憲の子
* [[源為国]]…崇徳院判官代。河内源氏[[源頼清|頼清流]]。信西の女婿。[[信濃村上氏]]の祖
** [[村上信国|源信国]]…為国の子
** 源基国…為国の子
* 片切為重…片切景重の兄
* [[源親治]]…頼長の家人。[[大和源氏]]
* 多近久…崇徳院の武者所
* 秦助安…前滝口武者。頼長の家人
* 須藤家季…為朝配下。九郎
'''僧侶'''
* [[信実]]…[[興福寺]]上座
* [[尋範]]…法印。権大僧都。頼長の大叔父
* [[千覚]]…権律師。頼長の母方の叔父
== 後日談 ==
閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の[[宣命]]を作成して[[石清水八幡宮]]に乱の勝利を報告した。
{{Quotation|'''後白河天皇宣命案'''(石清水文書) 『平安遺文』2848
:読み下し文
…前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。…
:意訳
…前左大臣の藤原頼長は、ひたすら悪事を凝らし、理由もなく反逆を企んで、太上天皇をそそのかし申し上げて、天下の秩序を乱し、国家を転覆しようと図っているという噂が世上に飛び交った。そのような中、去る7月9日の夜に太上天皇がひそかに城南の離宮(鳥羽殿)を出て、洛東の旧院(白河北殿)に御幸し、そこを決戦の場所に定め、武士を集めて頼長とともに狼の群れのようになり、凶悪な謀略を企てた。これに対して11日、凶徒を防ぐために官軍を派遣したところ、祖先の霊廟(石清水八幡宮)の加護により、土地の神の助けを頂いて、謀反の輩は退散した。頼長は流れ矢に当たって、その生命を終えた。これは神の罰であり、まことに人のなしたことではない。23日、太上天皇を讃岐国に配流し申し上げた。その他の党類も、ある者は刑吏に捕らえられ、ある者は天皇の徳に従って降伏した。明法博士らに相当の罪を検討させたところ、主犯・従犯の区別はしないという律の規定により、みな斬刑に処すよう奏上があった。しかし特別に思うことがあり、右近衛大将の藤原兼長以下13人は、罪一等を減じて遠流の罪とした。戦闘員である平忠貞以下20人は弘仁(薬子の変)の先例にならい、公卿らに諮問して、法律のままに斬罪に処した。そもそも法令は習俗を統制する始めである。刑罰は悪を懲らしめる基本である。もし関係の深さで優遇し、官職の高さを理由に宥免したりすれば、天下を治めるのは困難になり、後世の者も厳罰を加えることができなくなる。これは私のために行うことではない。国家に私事はないのである。…}}
内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰として、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になっても変わることはなかった。しかし[[安元]]2年([[1176年]])に[[平滋子|建春門院]]・[[姝子内親王|高松院]]・[[六条天皇|六条院]]・[[藤原呈子|九条院]]など後白河や忠通に近い人々が相次いで崩御し、翌安元3年([[1177年]])に延暦寺の強訴、安元の大火、[[鹿ケ谷の陰謀]]といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に[[正一位]][[太政大臣]]を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。
== 年表 ==
* 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
{| class="wikitable" style="font-size:95%; margin:10px 0px;"
|-style="line-height:1.25em;"
! style="padding:2px 1px;" |月日<br />{{Nowrap|([[宣明暦]]長暦)}}
!内容
!出典
|-
|5月22日
|[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]、重態に陥る
|[[兵範記]]
|-
|5月30日
|鳥羽法皇の御万歳(崩御)の沙汰が始まる
|兵範記
|-
|6月1日
|[[源義朝]]、[[源義康]]等の武士、院宣により内裏、院御所の守護を開始する
|兵範記
|-
|7月2日
|鳥羽法皇崩御
|兵範記
|-
|7月5日
|京中の武士の動きを停止する[[後白河天皇]]の勅命が発せられる
|兵範記
|-
|7月6日
|[[藤原頼長]]家人、[[源親治]]捕えられる
|兵範記
|-
|7月8日
|摂関家荘園の武士の動員禁止の綸旨<br>高階俊成、源義朝が東三条殿を接収する<br>鳥羽法皇初七日法要
|兵範記
|-
|7月9日
|[[崇徳天皇|崇徳上皇]]、白河北殿に入る
|兵範記
|-
|7月10日
|藤原頼長、白河北殿に入る 崇徳上皇の下に兵が集まる<br>高松殿の後白河天皇の下に武士が参集
|兵範記
|-
|7月11日
|後白河天皇方の軍勢が白河北殿に向かって出撃、崇徳上皇方と戦闘が行なわれ後白河天皇方が勝利する<br>
[[藤原忠通]]を氏長者にする宣旨が下される<br>後白河方の武士たちに恩賞が与えられる<br>
|兵範記
|-
|7月12日
|崇徳上皇出家
|兵範記
|-
|7月13日
|崇徳上皇、後白河天皇方へ身柄を遷される
|兵範記
|-
|7月14日
|崇徳方の中心人物・[[藤原教長]]が右大弁らによる取調べを受ける<br>藤原頼長死去
|兵範記
|-
|7月15日
|[[藤原忠実]]、藤原忠通に接触を開始する
|兵範記
|-
|7月18日
|旧藤原忠実領、後白河天皇の綸旨によって藤原忠通に与えられる
|兵範記
|-
|7月23日
|崇徳上皇、讃岐に遷される
|兵範記
|-
|7月27日
|崇徳側逮捕者への罪名宣下(判決) がされる
|兵範記
|-
|7月28日
|[[平忠正]]らが処刑される
|兵範記
|-
|7月30日
|[[源為義]]・[[平家弘]]らが処刑される
|兵範記
|-
|8月3日
|藤原教長、藤原頼長子息ら崇徳方に属した者達の流刑が執行される
|兵範記
|-
|}
== 文学作品 ==
=== 物語 ===
* 『[[保元物語]]』は保元の乱を題材にした[[軍記物語|軍記物]]文学。作者不明で全三巻。[[鎌倉時代]]に成立したと考えられている。
* 『[[雨月物語]]』に含まれる小説「白峰」は、保元の乱に敗れた崇徳上皇の亡霊を題材にした怪談。作者は[[上田秋成]]。[[江戸時代]]に書かれた。
小説
・辻邦生『西行花伝』新潮社1995年、新潮文庫1999年
=== 俳句 ===
* [[鳥羽殿]]へ五六騎いそぐ[[台風|野分]]かな [[与謝蕪村]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[河内祥輔]] 『保元の乱・平治の乱』 [[吉川弘文館]]、[[2002年]]([[平成]]14年)。ISBN 978-4-642-07787-3
* [[元木泰雄]] 『保元・平治の乱を読みなおす』 [[日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、[[2004年]](平成16年)。ISBN 978-4-14-091017-7
* [[山田邦和]] 「保元の乱の関白忠通」 [[朧谷寿|朧谷壽]]・山中章 編『平安京とその時代』所収 [[思文閣出版]]、[[2009年]](平成21年)。ISBN 978-4-7842-1497-6
== 関連項目 ==
* [[平治の乱]]
== 保元の乱を扱った作品 ==
=== ウォーゲーム ===
* 保元・平治の乱 ([[ウォーゲーム日本史]])
=== 歌謡曲 ===
* 保元の乱 ([[三波春夫]])
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/index.html |title=ふょーどるの文学の冒険 |date=20011217000308}} 保元物語、平治物語の現代語訳
* {{Kotobank}}
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[[Category:平安時代の事件]]
[[Category:平安時代の戦い]]
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平埔族
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平埔族(へいほぞく)は、「平地に住む民族」のことで、清朝以前からもともと台湾にいた台湾原住民の民族を指す総称である。清朝の統治下には「平埔蕃」、「熟蕃」などの蔑称が用いられていた。山地に住む原住民である高山族と区別されるが、これは居住地域から便宜的に用いられるものであり、正確な民族系統を反映したものとはいえない。
元々は、台湾の平野部全域に居住していた。しかし、明代以降、特にオランダが漢人を労働力として移入させてから、漢人との通婚や漢化が進んだ。特に清朝は政策として漢化(漢文化化)を推し進めた。そのため、徐々に平埔族を名乗る者は減少していった。日本統治時代に平埔族についての研究が始められたが、既に大多数は漢人化していた。第二次世界大戦後、中国国民党が台湾を支配した後は、再び漢化政策が行われ、エスニックグループとしての意識が希薄化し、また政府も原住民として認定しなかった。
台湾の原住民研究は、国民党の時代は禁じられており、初めての台湾人総統、李登輝の時代になってようやく解放された。民主化後、エスニックグループに関する研究が盛んになると、社会や学会などの注目を集めるようになった。現在、サオ族とクバラン族のみが政府から原住民族としての認定を受けている。その他にもケタガラン族など、認定を受けていないグループが多い。
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[[Image:Pepohoan Mother and Child.jpg|200px|right|thumb|平埔族の母親と子供。ちなみに西洋人によるデッサンのため、西洋人の顔立ちのように描かれ、実際の顔立ちと少し開きがある。]]
'''平埔族'''(へいほぞく)は、「平地に住む民族」のことで、[[清朝統治時代の台湾|清朝]]以前からもともと[[台湾]]にいた[[台湾原住民]]の民族を指す総称である<ref>藤井厳喜&林建良『台湾を知ると世界が見える』p.52 ダイレクト出版 2019 第1版第1刷</ref>。清朝の統治下には「平埔蕃」、「熟蕃」などの蔑称が用いられていた。山地に住む原住民である[[高山族]]と区別されるが、これは居住地域から便宜的に用いられるものであり、正確な民族系統を反映したものとはいえない。
元々は、台湾の平野部全域に居住していた。しかし、[[明]]代以降、特に[[オランダ]]が[[漢民族|漢人]]を労働力として移入させてから、漢人との通婚や漢化が進んだ。特に清朝は政策として[[中国化|漢化]](漢文化化)を推し進めた。そのため、徐々に平埔族を名乗る者は減少していった。[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]に平埔族についての研究が始められたが、既に大多数は[[中国化|漢人化]]していた。[[第二次世界大戦]]後、[[中国国民党]]が台湾を支配した後は、再び漢化政策が行われ、エスニックグループとしての意識が希薄化し、また[[中華民国政府|政府]]も原住民として認定しなかった。
台湾の原住民研究は、国民党の時代は禁じられており、初めての[[本省人|台湾人]][[中華民国総統|総統]]、[[李登輝]]の時代になってようやく解放された<ref>藤井厳喜&林建良『台湾を知ると世界が見える』p.64 ダイレクト出版 2019 第1版第1刷</ref>。[[台湾の民主化|民主化]]後、エスニックグループに関する研究が盛んになると、社会や学会などの注目を集めるようになった。現在、[[サオ族]]と[[クバラン族]]のみが政府から原住民族としての認定を受けている。その他にも[[ケタガラン族]]など、認定を受けていないグループが多い。
== 分類 ==
[[Image:At the Kanatsui tribe of Basay people in Taihoku.jpg|thumb|300px|[[1897年]]撮影の写真。台北方面の「かなつゐ(Kanatsui)社」という集落の平埔族。かやぶき屋根と日干し煉瓦を使った漢式住居に住んでいる。]]
*[[クバラン族|クバラン]](噶瑪蘭族)
*[[ケタガラン族|ケタガラン]](凱達格蘭族)
*[[ルイラン族|ルイラン]](雷朗族)
*[[クーロン族|クーロン]](亀崙族)
*[[バサイ族|バサイ]](馬賽族)
*[[トルビアワン族|トルビアワン]]({{Lang|zh-tw|哆囉}}美遠族)
*[[タオカス族|タオカス]](道{{Lang|zh-tw|卡}}斯族)
*[[パゼッヘ族|パゼッヘ]](巴宰族)
*[[カハブ族|カハブ]](噶哈巫族)
*[[パポラ族|パポラ]](拍暴拉族)
*[[バブザ族|バブザ]](巴布薩族)
*[[ホアンヤ族|ホアニヤ]](和安雅族)
*[[アリクン族|アリクン]](阿立昆族)
*[[ロア族|ロア]](羅亞族)
*[[シラヤ族|シラヤ]](西拉雅族)
*[[タイボアン族|タイボアン]](大武壠族)
*[[マカタオ族|マカタオ]](馬{{Lang|zh-tw|卡}}道族)
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.sinica.edu.tw/~pingpu/ 中央研究院平埔文化資訊網]
* [https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/84/84-07.pdf 17・18世紀の台湾東海岸における族群関係の歴史的展開――トルビアワン人を中心に]清水純、日本大学研究紀要第84号(2017年)
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ねじ
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ねじ(螺子、捻子、捩子、螺旋、英: screw)とは、円筒や円錐の面に沿って螺旋状の溝を設けた固着具。
主として別個の部材の締結に用いられる。また、回転運動と直線運動との変換などにも用いられる。
ボルトのように外表面にねじ山がある「おねじ」(雄ねじとも書く)とナットのように内表面にねじ山のある「めねじ」(雌ねじとも書く)がある。多くは、おねじとめねじの組み合わせで使用される。なお、後者がなく木材や薄い金属などの部材に穴を開けながら締結するもので、タッピングネジ、木ねじ(もくねじ)と呼ばれるものがある。
これらの他にも、ぜんまいやぜんまいを巻く装置もねじと呼ばれる。言葉の比喩として「ねじを巻く」とは、ぜんまいに動力を与えるところから、誰かを、何かを『追い込む』の意味として使われる。
長方形の一対角を直線で結び、この長方形を巻いて円筒とした時、対角線は「つる巻き線 (helix)」と呼ばれる三次元曲線を描く。ねじは、このつる巻き線に沿って溝を形成したものである。
今日ではねじはあらゆる用途で大量に使用されており、その多くはボルトやナット、木ねじなどによる締結用途である。また、ねじは各種の機械の運動や位置決めなどでも欠かせないものとなっている。このため「産業の塩」と呼ばれることもある。ねじメーカーの日東精工は本体直径0.6ミリメートルというねじも開発しており、これを世界最小としている。
ねじは、漢字で「螺子」(ねじ、らし)あるいは「捻子」「捩子」「根子」と書かれることがあり、JISでは「ねじ」が正式な呼称になっている。また「ねじ」は動詞「捩づ」(ねづ)の連用形であり、「ねじ」の他に「ねぢ」と表記されることがある。
ねじと同様の名称として「ボルト」があるが、JISでは以下のように定義している。
実際には、ナットと組んで使わないものをボルトと呼ぶことや(この場合はねじ込み対象にめねじが切られていることが前提。でないと止まらない)、ナットと組んで使うものもねじと呼ぶことがあるため、これらの用語の使用には揺らぎが存在する。
英語ではねじ山を持った円筒や円錐全般を"screw"(スクリュ)や"screw thread"(スクリュ・スレッド)と呼び、これが日本語のねじに相当する。「おねじ」は"external thread"と呼ばれ、「めねじ」は"internal thread"と呼ばれる。ボルトやナットのように部品の一部にねじを持った締結用の部品は"threaded fastener"と呼ばれる。英語圏でも"screw"と"bolt"の区別には混乱がある(1970年代の米国自動車整備マニュアル上での表記を参照)。
ビスはぶどうの蔓を意味するラテン語vitisがフランス語でねじを表すvisとなり、英語のviseになった。特に「すりわり」や「十字穴」を持つおねじ部品を指すことが多く「小ねじ」とほぼ同義である。
ねじの起源は明確には分かっていない。ねじの発明のヒントは巻貝だったのではないかという説と木に巻き付くつる植物だったのでないかという説がある。
また、発明者については、現代の歴史家によれば、アルキタスが発明したとする説と、ペルガのアポロニウスが発明したとする説がある。ギリシャの学者エウスタシウスはアルキメデスが発明したと主張した。実際、円筒状の筒の中に大きなねじを入れた揚水用のアルキメディアン・スクリューはアルキメデスの発明といわれ、今まで知られている限り、最初に螺旋構造を機械に使用した例だとされている。水ねじは古代、灌漑や船底の水の汲み上げ、鉱山に溜まった水を排水することなどに使われ、労力に比べ極めて効率的に水を揚水することができた。当時は他の揚水手法に比べて効率性が高く、現代でもねじ式コンベアーとして使われている。シケリアのディオドロスはこの発明がアルキメデスがアレキサンドリアで学んでいた青年時代に行われたと記している。ねじ構造はアルキメデスのような天才機械学者によってのみ思い描くことができたとする者もおり、実際「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。
ギリシア時代には既に機械として使われていた事が知られている。例えば西洋では、木の棒で作られたねじを利用してオリーブやブドウなどの果汁を搾るねじ圧縮機(スクリュープレス)として使われていた。
ルネッサンス期にあたる1500年頃には、レオナルド・ダ・ビンチによってねじ部品を使った様々な装置が製作され、締結用のねじ部品の利用が広がった。ほかにも実際に作られたかどうかは不明ながら、ねじ切り盤やタップ、ダイスのスケッチも見られた。
フランスの数学者ジャック・ベンソン(1500~1569)もねじ切り盤のスケッチを残しているが木製の機械で実用的でなかったとされている。
ドイツ人のゲォルク・アグリコラ(1494~1555)の著書にある鞴(ふいご)の図から、1500年前後には金属製のボルト、ナット、小ねじ、木ねじ類は出現していたと考えられている。15世紀にはフランスのルイ11世が金属製のねじで組み立てた木製ベッドを使用していた。
16世紀半ばになると、ねじは様々な場面で使われるようになった。懐中時計用の小さなねじや、銃に使う大きなねじ、甲冑用のボルトなどにねじが使われた。当時のリヨン近郊のフォレの町は、ねじ作りを専門にした町で、イングランドのミッドランド地方でも家内工業としてねじが作られた。ねじの作成には原始的な旋盤が使われていたが、1760年ミッドランド地方のジョブとウイリアムスのワイアット兄弟は手で刃を動かしてねじを切る代わりに、カッターで自動的にねじを切れるようにして、数分掛かっていた作業をわずか6,7秒で作ることができるようにするという画期的なねじ製造法を開発した。ワイアット兄弟は「鉄製ねじを効率的に作る方法」で特許を取り世界初のねじ工場を作ったが、事業は失敗に終わり、工場の新しい持ち主が事業化に成功し、その後蒸気機関の活用など各種の改善を経て、船や家具、自動車、高級家具などの需要の高まりとともに大量のねじが作られることになる。
18世紀の終わりまで、旋盤で物を作るのはヨーロッパ貴族の趣味の一つとなっていた。1762年にヨークシャで生まれ、ロンドンで精密機械を作っていたジェシー・ラムスデンは、当時天体観測用や航海用として使われていた精密機器の精度を上げるため、手作りで作る代わりに、より精密な旋盤を作ることによって達成するプロジェクトを始めた。ラムスデンは木製旋盤の代わりに金属製の旋盤を作り、カッターの先端にダイヤモンドを使用し、11年かけて旋盤を使って旋盤の部品を作り、それを使ってさらに精密な旋盤を作り上げて旋盤を次第に精密にしていき、最後には千分の4インチという精度のねじを作り上げた。彼が作った高精度のねじは顕微鏡や天文学といった科学分野で活用された。船の経度と緯度を300mの誤差で割り出せる航海用観測機器ができ、キャプテン・クックなどの航海上の偉業が達成されることになる。
量産方法を追求したワイアット兄弟と、精密さを追求したラムスデンは偶然にも同じ時期に活躍したが、両者の業績を統合したのが、英国のヘンリー・モーズリー (Henry Maudslay 1771-1831) であった。1800年に彼は、それまでの旋盤をさらに改良し鉄鋼製のねじ切り用旋盤を開発した。モーズリーはフランス人マーク・イザムバード・ブルネルと組みポーツマスに世界初の完全に自動化された工場を作った。この工場は10人の工員が44台の機械を使い、年間16万個の滑車を作ることができたという。1825年には、ブルネルはテムズ川の下をくぐる365mのトンネル工事を受注した。モーズリーはブルネルが発明した矩形のトンネル用鋳鉄製シールドを製造してトンネルを完成させた。これがシールド工法の始まりである。モーズリーは他に印刷機、プレス機、貨幣鋳造の特殊機械、ボイラー板穴開け機などを作ったが、最も有名なのは蒸気機関であった。ブルネルの息子が初の大西洋横断蒸気船を作った際に、モーズリーの息子もその船に搭載する、当時世界最大の750馬力の蒸気機関を作った。これらの成功は、モーズリーが作り上げた極めて精度が高い基準ねじを用いた、規模が大きくなっても精密に仕事ができる旋盤によるものだった。モーズリーは1万分の1インチの精度のマイクロメーターを作っている。このマイクロメーターはモーズリーの工場で寸法を測る際の至高の基準とされ「大法官」と言われていて、弟子の製品の精度チェックに使われた。また、かつてはナットとボルトは一対で作られ、製造時につけた刻印が合うもの同士でなければ噛み合わなかったが、金属製のねじ切り用旋盤によりねじの精度が上がったため、その必要はなくなった。
日本には1543年、種子島へ漂着したポルトガル人が所有していた火縄銃とともにねじが伝来したとされている。種子島領主・種子島時堯は2挺の火縄銃を購入し、うち1挺を刀鍛冶八板金兵衛に与えて銃の模造を命じている。この時、金兵衛は自分の娘若狭をポルトガル人に嫁がせてまで、ねじの作成法を習得したとする伝説が残っている。火縄銃の銃身の後ろ側(銃底)を塞ぐ尾栓に使われていたおねじとめねじが日本人が初めて見たねじとされている。金兵衛にとって「おねじ」の製造は比較的簡単だったものの「めねじ」の製造は難しく、おねじを雄型とする熱間鍛造法で製作したと推定されている。
日本を含めて東洋では、ねじ構造自体を独自に発見・発明することができなかった。村松貞次郎は『無ねじ文化史』で江戸の工業製品にはねじの使用例はなく、江戸幕府の江戸時代とは「ねじの無い文化」の時代であるとした。結局、ねじ製作のための優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作ること自体が「大変困難な仕事である」ということがその理由である。和時計も特殊なねじがわずかにあるだけで、ほとんどが楔で作られている。ねじがほとんど無いため、日本ではドアが発達しなかった。火縄銃にはねじが必須であったが、江戸時代の火縄銃のほとんどは新たに作るのではなく、以前の火縄銃の銃口を広げたりして作り替えていたという。
日本では、1857年にモーズリー由来でホイットワースが改良したねじ切り用旋盤が輸入された。1860年、遣米使節として渡米した小栗忠順は、ワシントン海軍工廠を見学後、西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、1本のねじを持ち帰ったという。
西洋での産業革命期には、締結用のねじが大量に生産されるようになった。産業革命によって金属製のねじが蒸気機関や紡績機械、各種工作機械に欠かせないようになっただけでなく、そもそも精密に物の長さや角度を測ったり物を加工するには、ねじ構造が必須であり、産業革命もこれらの技術がなければ成り立たなかった。
ねじは専門業者が製造していたが、各機械メーカーは自社製の機械に合わせて独自の直径・ピッチのねじを発注していたため、大量生産の利点は生かされていなかった。
ねじの形式を調査し標準化に貢献した人物にジョセフ・ホイットワース(または、ウイットウォース)(Joseph Baronet Whitworth 1803-1887) がいる。モーズリーの弟子であった彼は、顧客から製作を求められる多様なねじの形状を整理した上で、1841年には山の角度を55度とするなど独自の規格を決めて公表した。1841年に発表されたこのねじ形式を「ウィットウォースねじ」という。この「ウィットウォースねじ」の規格が次第に普及し、英国の国家規格BSに正式に採用された。
ねじの標準化の動きは、工業製品の大量生産を得意するアメリカ合衆国でも進められ、ウィリアム・セラーズがウィットウォースねじに改良を加え、山の角度60度の「インチ系ねじ」を発表した。これは1868年に「セラーズねじ」として米国内標準規格となり、米国政府関係事業に全面的に採用され、「USねじ」「アメリカねじ」とも呼ばれるようになった。このUSねじ規格は、第2次世界大戦中に米国、英国、カナダの3ヶ国が武器に使用するための互換性のあるねじとして生み出された「ユニファイねじ」規格へと発展した。こういった北米圏での「インチ系ねじ」とは別に、1894年にまずフランスで制定され、1898年にはフランス、スイス、ドイツが採用した、山の角度60度の「メートル系ねじ」が「SIねじ」規格として欧州域で普及し、その後も広く使われた。このSIねじが21世紀現在、世界中で最も普及している「メートルねじ」の原形になっている。
メートル系やインチ系といった違いの他にも、各国ごとにそれぞれ異なるねじ規格が存在していたため、国際間の物流の拡大につれて不便が生じ始めた。やがて、世界的なねじの互換性の要求が高くなり、国際間でのねじを統一しようとする動きが起こった。
第二次世界大戦期後、1947年に国際標準化機構 (ISO) が設立され、ねじ規格でも国際的な標準化が進められた結果、1953年に「ISAメートルねじ」に準じた全世界共通の「ISOメートルねじ」規格を制定するとともに、アメリカ、イギリス、カナダが推奨する「ユニファイねじ」を「ISOインチねじ」として採用した。
加工法では、1955年頃から転造法による生産が本格化した。
日本でも、日本産業規格 (JIS) によってねじの標準規格が作られている。1975年からは毎年の6月1日を「ねじの日」としている。ISOによるねじの国際規格は世界の統一規格のために定められたが、北米圏や豪州では使用されていない。日本国内ではかつてはインチねじが主流を占めていたが、今では国際規格であるISO規格に準じたJIS規格によって寸法が統一され、インチねじは航空機その他特に必要な場合に使われる程度になっている。日本国内での輸入製品などの修理には、ユニファイやインチといった海外規格のねじが必要になる。
ねじの動きの幾何的関係は、斜面の原理で説明される。
ねじの有効径(直径)を d 、リード(回転軸方向に進む距離)を L 、リード角を β とすると、これらの間には
の関係がある。このため、ねじをそのねじ山稜線に沿って進んだ時、軸方向の移動距離と軸に対する回転角との間には比例関係が生じるが、この性質から、位置決めやマイクロメータなどにおける微細寸法の拡大にねじが使われる。
軸から力点までの半径距離を R 、この位置で加える回転力を T とし、ねじの有効径半径を r 、有効径仮想円筒上の任意の点に加わる回転力を P とすれば、力の釣り合いから
である。また、摩擦角 φ、リード角 β のねじにおいて、P と、この点に働く軸方向の力 Q との間には
の関係があり、これらから
が導き出される。従って、リード角β、摩擦角 φおよび半径の比 r /R を小さくする事により、より小さな力 T でより大きな力 Q を得られることになる。ねじが締結や倍力の発生に使われるのは、このような理屈による。
ねじの物理的な働きは、斜面と摩擦によって実現されている。以下では、ねじの物理的な働きを単純化して、斜面上の物体を押して移動させる例に例えて示す。
ねじを締めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の上へと押し上げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ W の物体を水平方向に力 F で押すことを考える。斜面に平行な分力を S と T で、斜面垂直な方向の分力を R と N で表すと、それぞれの力の関係は以下の式で表される。
斜面に働く垂直応力は N + R なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ W の物体にこのとき働いている摩擦力 f は、以下の式で表される。
また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。
上式にさらに上の4つの式を代入すると、以下の式が得られる。
上式より力 F は次のように表される。
斜面上の物体が摩擦による静止を振り切って滑り出す時の最小化角度を「摩擦角」と言い φ で表す。摩擦係数 μ = tan φ であるので、上式に代入すると以下の式が得られる。
また、ねじを締めた時の仕事の効率を、締めるのに要した力とねじが行った仕事との比率で表して「ねじの効率」と呼ぶ。例えば荷重 W の物体を坂の上で押して高さ L まで上げた時にねじが行った仕事は WL となる。ねじを回すのに要した仕事は
となるため、ねじの効率 η は次式で表される。
自然に緩むことがないためには条件 β≥φ が必要なので、β = φ とすると、最大効率ηは次の式で表せる。
φ > 0 なので、ねじの効率 η < 1/2 である。つまり自然に緩まないねじの効率は50%より小さくなる。
ねじを緩めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の下へと押し下げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ W の物体を水平方向に押す力 F' で押すこととする。斜面に働く垂直応力は R - N なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ W の物体に働いている摩擦力 f' は以下の式で表せる。
また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。
上式などから F' は次のように表される。
β > φ の時は水平方向に押す力 F' < 0 となり、釣り合わせるためには押すのではなく引かなければならない状況、つまり押さなくても勝手に坂を下る状況になる。これはねじでは自然に緩んでしまうことを意味する。
したがってねじが自然に緩んでしまわないためには β ≤ φ でなければならない。これをねじの自立条件と呼ぶ。一般的なねじに使われるメートル並目ねじのリード角は2-3度であり、摩擦係数 μ は0.1程で(角ねじで考えれば)摩擦角は約6度となって、ねじの自立条件を十分に満たしている。
締結用で一般的な三角ねじでは、ねじ山の角度 α の60度に対してねじ面に垂直な力は F cos(α/2) となる。この場合は締める力と緩める力はそれぞれ
となる。1.16という数値はねじ山の角度 α = 60度から、
で計算される。
これらのことから、三角ねじをねじ山に沿って回転させるには角ねじの1.16倍ほどの力が必要であり、三角ねじが締結に適していて、角ねじが運動に適することが分かる。
ねじの機能は、固定状態で使うものと可動状態で使うもので大きく異なり、それぞれがいくつかの機能に細分化できる。
固定状態で使用されるねじは緩まないように静止抵抗の大きい方が良いが、可動状態で使用されるねじの多くはおねじとめねじの接触面の抵抗が低い方が良いので、できるだけ平滑にされ潤滑油も使用されることが多く、ボールねじのようにボールベアリングまで利用されるものがある。
ねじ部品とは、締結に使用されるねじの総称である。また、ねじの外径が8 mm以下のねじは一般に「小ねじ」と呼ばれる。JISでは頭部の直径がねじ部外径の約2倍で、原則として"ねじ回し"ですり割りや十字穴にトルクを加えて締め付けるねじ部品が小ねじであるとされる。ナットと一組で使われることもあるため、小さめのボルトとの区別は特に存在しない。
ねじ部品を特定するための要素には、巻きの方向、条数、ねじ溝の形状、径及びピッチとがあり、通常これらの要素を名前に並べる事でねじの種別が表される。例えば「左2条、直径 8mm、ピッチ1 mmのISOメートル三角ねじ」「右1条、直径1/4インチ、(インチあたり)20山のユニファイ(並目)ねじ」と表す。ねじの多くが「右1条」であるために、この場合は省略されることが多い。規格化されたねじの場合、それぞれの規格ごとに表記の仕方が定められており、それによれば先の2つの例はそれぞれ「L2N M8×1」「1/4-20 UNC」となる。ピッチを mm で表すものは、「ねじの巻き方 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字×ピッチ - 等級」 となり、ユニファイねじでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの直径を表す数字または番号 山数 ねじの種類を表す記号 - 等級」、ユニファイねじ以外のピッチを山数で表すものでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字 山 山数 - 等級」となる。
おねじ部品において、ねじの先端を「先」と言い、ねじ部分とそれに続く(多くはねじと同径かそれ以下の)円筒部を合わせて「軸」と言う。軸の終端に設けられたより太い部分は「頭」と呼ばれ、頭と軸の境目を「首」という。
おねじ部品の頭や、めねじ部品において、締め付けた際に荷重を受ける面を「座面」と言い、おねじ部品においては、ねじ先から座面までの部分を総じて「首下」と呼ぶ。
個々のねじ部品を特定するのに必要な要素としては、「ねじの呼び」「部品形状」「材質」があり、またおねじではこれに「長さ」が加わり、これらを並べて呼ばれる。おねじ部品を呼ぶ際の長さ寸法は「呼び長さ」と呼ばれ、一般論として、頭のついたねじでは首下、頭のないねじでは全長やねじ部の長さなどが使われる。呼び長さは一般にはねじの呼び径のすぐ後に置くが、文脈上呼び長さを表す数値である事が明らかである場合には乗算記号×を用い「呼び径×呼び長さ」のように略記される。
ねじは基本的に「頭」(頭部)とねじ山が刻まれている「軸」、先端である「先」、頭と軸の間を「首」と呼ばれる部分に分かれる。一般的なねじでは、時計回りにねじを回すと奥に進む「右ねじ」になっているが、右ねじでは緩むような用途でまれに「左ねじ」も存在する。左ねじでは「L」や「←」、切り欠きといった識別マークで示されることが多い。
ねじの山と谷の間隔と移動量は以下のようにピッチとリードで表される。
また多くのねじではピッチとリードが同じになり、これを「一条ねじ」と呼ぶ。ピッチとリードが同じ「一条ねじ」の他にも、リードがピッチの2倍の「二条ねじ」のように2以上の整数倍のものがあり、これらは「多条ねじ」と呼ばれる。多条ねじは管の接合部で用いられたり、電灯の灯屋や広口瓶の蓋、双眼鏡やカメラレンズの焦点合わせ機構(ヘリコイド)などでも用いられる。
一般的なねじはねじ山が円筒形の軸の周囲に同じ直径で刻まれている「平行ねじ」であるが、特殊な用途では円錐形の軸に沿って刻まれている「テーパねじ」がある。
ねじの大きさや長さは以下の長さを計ることで示される。
おねじでは外径の基準寸法を、めねじでは谷の径の基準寸法を「ねじの呼び径」という。
おねじ部品の頭部形状の主なものは以下の通りである。これらは用途などにより使い分けられる。
小ねじのような比較的小型のおねじ部品では、頭部頂面に工具で回すための溝や穴が設けられているものが多い。その主なものには「すりわり」や「十字穴」、「六角穴」がある。六角や四角といった角型の頭部はそれ自体がめがねレンチやスパナを掛ける部分となる。これら(とくに溝のもの)をねじ山と呼ぶこともあり、「ねじ頭が傷む(なめる、バカになる、ダメになるとも言う)」とは、ドライバーの形が合わないまま無理な扱いをしたり、締め過ぎによって溝や穴が欠けたり削れたりしてしまい、ドライバーで回しようがなくなった状態を指す。
ねじの歯の形状はねじの用途に応じていくつか存在し、基準山形で表されることが一般的である。基準山形とは、ねじ山の実際の断面形を定めるための基準となる理論上のねじ山形状のことであり、ねじ山の1ピッチ分の形状をいう。「基本山形」「基本形」とも呼ばれる。
以下にねじの分類を示す。
ISO小ねじのM3、M4、M5の頭部に小さなくぼみを付ける事で、ピッチの異なるJIS規格との判別できるようになっている。
一般にナットと組んで用いられるねじは、ボルトと呼ばれる。
ナットは典型的なめねじ部品であり、ボルトと対になって使用される。六角ナットを含めて多種多様なナットが作られ使用されている。
ねじには、用途や機能、形状により、以下のような特殊なねじがある。
ねじの関連部品を以下に示す。ねじの関連部品には、小ねじやボルトと一緒に使う緩み止めなどの部品が多い。
これらの他にも、セーフティワイヤ、緩み止め用接着剤、スペーサー、
座金(ざがね、ワッシャー)には、締め付け時に締結面を傷から守るものと、逆に締結面に食い込むものがある。 座金には以下の目的がある。
以下に主な座金の種類を示す。
ねじはその構造上、互換性が非常に重要であり、早くから標準規格が規定された。その主なものを以下に示す。これらの主な標準規格の他にもそれぞれの業界ごとや企業ごとの規格が存在する。なお、小ねじの頭の表面に小さなくぼみが付いているものはISO規格に沿っているという印であり、日本ではJIS認定工場でのみ付けることが許される。
メートル単位系を用いたものは「メートルねじ」と呼ばれ、インチ単位系を用いたものを「インチねじ」と呼ばれる。一般にメートルねじでのねじのピッチは1ピッチあたりの長さを「ミリ」で表すのに対して、インチねじでは、「軸方向1インチあたりの山数」で表される。
ボルトやナットといった鋼製のねじ類の中でも比較的小型で生産量の多い物の製造法について説明する。
ねじ部の加工方法は、転造による方法と切削・研削による方法に大別できる。生産量や生産性、加工精度の違いによって2つの方法が使い分けられる。いずれの方法によっても切断された鋼製の線材が材料として使用されることが多い。
概ね以下の工程を経る。
ボルトの大きなものは量産に向かず、まず熱間圧造によって外形を形成し、さらに転造する場合でも加熱した上で熱いうちに加工する方法が採られるが、膨張と収縮による加工精度の低下に特に配慮する必要がある。タッピンねじやドリルねじのような先端に刃を持つねじは、ねじ部の加工後に足割り機と呼ばれる専用機で先端に切れ込みを入れる。ローレット加工が必要なねじは、ねじ部の加工後に平ダイスや丸ダイスで付けられるものと、ねじ部の加工工程で1つの平ダイスでねじ山の転造とローレット模様の転造を行うものがある。
プラスチック製のねじ類では射出整形によって製造されることが多く、切削加工も行われる。
転造法は塑性加工属する鍛造法であり、材料を回転させながら硬質の金型に押し付けることで形を形成するものである。加工時間が短く材料の無駄も生じないが、高い加工精度は得られない。塑性変形に伴う加工硬化によって製品は硬くなる。
転造工程では、塑性変形によって谷が押し込まれる分だけ山が盛り上げられることでねじ山部分が形成される。このため、切削クズのような無駄となる材料は転造では生じない。ただし、加工精度を高めるために転造後に切削・研削を行うことはある。転造を行う工作機械は転造盤と呼ばれる。平ダイス式転造盤、丸ダイス式転造盤、プラネタリ式転造盤がある。おねじの場合には、ねじ山の形状を刻んだダイスで中間製品であるブランクを強力に挟み込み、間で回転させてねじ山を生成する。一般には、「ねじ転造」はこのおねじの転造加工を指す。めねじの転造は、切削タップと同様にねじ山の形状を刻んだ棒を中間製品であるフォーマーナットの穴に捻じ込んでねじ山を作るが、転造用のタップは切削用のものと異なりねじ溝を刻むための刃を持たない。転造では加工表面は変形により硬化し、またダイスとの接触で磨かれる。
ナットの少量の加工では、ドリルなどを備えたボール盤とほとんど同様の姿で、加工のための転造タップを備えた縦型ねじ立て盤が主に使われる。
ボルトの鍛造による量産加工では、ボルトフォーマーによって線材から太めの外形を備えた「ブランク」と呼ばれる中間製品を作り、平ダイス、丸ダイス、扇ダイスなどでねじ山を転造によって形成する。
ナットの鍛造による量産加工では、ナットフォーマーによって線材から穴の開いた「フォーマーナット」と呼ばれる中間製品を作り、自動ナットねじ立て盤によって内側のねじを加工する。自動ナットねじ立て盤のベントシャンクタップは、めねじ加工済みのナットを多数数珠繋ぎに周囲に通過させるという巧妙な工夫によって加工機本体とは直接接続されないまま回転力を受けることができる。
切削・研削を使った方法は、バイトのような超硬質の刃先で材料を削り落として行くことで形を形成するものである。高い精度での加工が行えるが加工に時間がかかり材料の無駄も生じるため、生産量としては少数派である。
切削法ではねじの溝を掘り下げることでねじ山を作る。このため、ブランクのねじ部はねじの山の径よりも大きい必要がある。
切削加工では手動や旋盤でのねじ切りダイスや切削タップ、旋盤、フライス盤やNC工作機のバイトなどによって行われ、専用のねじ切り盤もある。ねじ切りダイスはおねじ、切削タップはめねじの製作にそれぞれ用いられる。
旋盤によるねじ切りは、ねじ溝の形状を有するバイトを用い、主軸の回転に対してねじのリードに等しい送りを軸と平行に与えてねじ溝を生成するもので、少量の生産に用いられる。おねじでもめねじでもバイトが変わり工作物に当てられる位置が変わる他は同様である。近代的なねじ製造法として最初に確立したもので、一般には1本のねじ溝を複数回に分けて切削する必要がある事から大量生産には向かないが、ねじ製造の基本的な工作法である。
ねじ切り盤と呼ばれるねじ専用の切削加工機は、旋盤で行われるタップやダイスによるねじ切りに似るが、専用機では複数の刃が一列に刻まれたチェーザーと呼ばれる刃物を複数同時に使って多数のねじ溝を一度に切削する事により短時間でねじ切りできる。
少量のナットのめねじの加工では、ドリル同様に使用でき切り屑が出る切削タップが主に使われる。まずドリルで下穴を開けてからタップで切削加工を行ってゆくが手間がかかる。小型ナット用の基本的な切削タップでは、加工後に逆転させてナットをタップから抜かなければならず、生産性がさらに悪くなる。大径のナット用の切削タップでは、チェーザーという刃が軸に植え込まれた「植刃タップ」と呼ばれるものがあり、また、加工後に逆転する必要がないようにチェーザーが引き込んで加工済みのナットが抜けるものもある。
プラスチックは金属に比べて強度や耐熱性で劣るが、一般には軽量性、電気絶縁性、非磁性、耐錆性などで優れ、透明性や耐薬品性を備えたものもある。また頭部だけがプラスチックで軸部は金属製の「つまみねじ」や「ノブボルト」といったねじがある。
以下にプラスチックねじの材料について、個別に記す。
セラミックスは線膨張係数が鉄に近く、耐熱性、断熱性、耐錆性、耐薬品性などで優れている。
耐食性向上などを目的に、以下のような表面処理が行われる。
硬さ調整などを目的に、以下のような熱処理が行われる。
締結に使われるおねじ(この節内の以下では単に「ねじ」と表記する)は、引っ張り荷重、ねじり荷重、せん断荷重という3種類の外力に耐える必要がある。それぞれの荷重から、ねじに必要な直径が求められる。
ねじの軸方向に沿って加わる荷重は「引っ張り荷重」と呼ばれる。ねじの材質が均等であると仮定して、断面積当たりの引っ張り荷重に耐える強さは引っ張り強さと呼ばれ、ねじの強度を数値で示す主要な指針の1つである。引っ張り強さ σ [N/mm] は有効断面積 A [mm] と引っ張り荷重 W [N]で以下のように表される。
また、1 Pa = 1 N/m の関係から、1 MPa = 1 N/mmなので、応力の単位は N/mm よりも MPa で表されることが多い。
おねじの谷の径 d1 [mm] から、有効断面積 A [mm] は以下で表される。
おねじの谷の径は外径 d の約0.8倍であることから、d1 = 0.8d とすると、引っ張り強度 W は次の式で表される。
上式から、おねじの許容引っ張り応力を σa [MPa] としたときのねじの直径 d は次式となる。
ねじの軸を中心とする回転方向に加わる荷重は「ねじり荷重」と呼ばれる。一般にねじにおけるねじり荷重は引っ張り応力の約1/3が加わるものとして扱われている。引っ張り応力にねじりによる応力を加えると軸方向には4/3倍が力が加わる。これを上で現れた式
に代入すると、下の式が得られる。
ねじの軸と直角方向に加わる荷重は「せん断荷重」と呼ばれる。ねじの許容せん断応力 τa [MPa] とそのねじの外形 d [mm] は次の式で表される。
一般に軸部のせん断強さは引っ張り強さの約60%である。
JISでは、ねじの強度を示す10段階の強度区分が設けられている。
3から12までの左側の数字は「呼び引っ張り強さ」を示し、数字×100N/mmである。 6から9までの右側の数字は、呼び引っ張り強さに対する「降伏点」の比率を示し、その比の小数点1位が数字で示される。 例えば、呼び引っ張り強さ:1,200N/mm、降伏点:1,080N/mmは「12.9」である。JISでは10段階のそれぞれで呼び引っ張り強さと降伏点の他に、硬さや破断伸び、衝撃エネルギーなども定められている。
ナットについても7段階の強度区分が設けられている。
ねじは回転させることで締め付けて固定したり緩めて外す部品であり、その締緩作業を行うための工具としてドライバーが用いられる(ナットとボルトの締緩作業にはレンチが用いられる)。ねじを締める場合に必要以上の力を加えると接合される部品やねじそのものを破損してしまう(いわゆる「ねじが馬鹿になった」状態)ことになるため、重要な部品などではトルクドライバー(トルクレンチ)などが用いられる。
ねじの主な役割は、締めつけにより発生する軸力で物を締結することであるから、物の締結力を制御するためには、ねじの軸力を管理しなければならない。しかし実際の作業では軸力を直接監視することは困難である。そのため簡便な方法としてトルクレンチで締めつけトルクを管理して、軸力を担保することが多い。しかし、用途によっては更に高精度な軸力管理が求められる。
ねじを締めつけ、軸力(応力)をかけていくと、降伏点までは軸力に比例してねじが伸び、軸力を取り除くと、ねじの伸びは元に戻る。この弾性域範囲内での締めつけが「弾性域締めつけ」であり、ねじの軸力のばらつきが大きいが、ねじのくり返しの使用が可能で、トルクレンチを用いたトルク法による締めつけ管理ができ、締めつけ作業が簡単という特長がある。
対して、降伏点を超え、さらにねじを締めつけて軸力をかけると、比例関係がなくなり、軸力に対して伸びが急激に増えていく。この状態になると、ねじに永久伸びが生じ、軸力を取り除いても元に戻らなくなる。この塑性域範囲内での締めつけが「塑性域締めつけ」であり、ねじに永久伸びが生じるため、くり返し使用ができず、締めつけ作業にも時間がかかる、などの欠点があるが、弾性域締めつけよりも安定した軸力管理を行うことができるから、エンジンの組み立てなどに用いられている。
トルク法とは、締めつけトルクと締めつけ軸力との弾性域における線形関係を利用した締めつけ管理方法である。締めつけ作業時に締めつけトルクだけを管理する方法だから、トルクレンチでできる比較的簡単な締めつけ管理方法で、一般的に広く普及している。しかし、締めつけトルクは、その全てが軸力として作用するわけではなく、ねじ面や座面の摩擦によって消費される。そのため、同じトルクで締めつけても表面荒さや潤滑状態などによって軸力が大きくばらつくため、摩擦特性の管理に注意が必要である。
そのため、一般的にトルク法によるねじの締めつけは、発生する軸力が降伏点の60%~70%の弾性領域内が望ましいと言われている。
回転角法は、スナグ点(ねじと座面を密着させるために必要な締めつけトルクを作用させた点)からのねじ頭部やナットの締めつけ回転角度を、角度割出し目盛板(分度器)や電気的な検出器など管理して、締めつけ軸力をコントロールする方法で、弾性域締めつけ、塑性域締めつけの両方に用いることができる。しかし、弾性域締めつけでは、回転角度による軸力の変化が大きくばらつきやすいため、作業が単なトルク法の方がよく使用されている。一方、塑性域締めつけでは、回転角の誤差による軸力の変化が小さくなるから、ボルトやナットの六角形状を利用した目視による角度管理が可能な場合もある。
トルクこう配法とは、ねじの締めつけ軸力が降伏点を超えると、軸力に対して急激に伸びが増加する性質を利用した締めつけ法である。締めつけトルクと回転角を電気的なセンサなどで検出して、弾性域と塑性域の変化点をコンピュータで算出し、弾性域限度で締めつけを行う。 必要な装置が他の方法より大がかりだが、ばらつきの要因は材料の降伏点のみのため、トルク法や回転角法よりも軸力のばらつきが小さい方法である。そのため自動車のエンジンやシリンダヘッドのボルトなど、締めつけの信頼性の高さを求められる場合に用いられている。
これらの締めつけ管理方法以外にも、ねじの伸びを直接測定し管理する測伸法や、ねじを高温に加熱して伸びを与えて、取りつける際の温度を管理する加熱法などがある。
締結に使用されるねじでは、その緩みは問題を引き起こすことがあり、避けられねばならない。ねじの緩みはねじ自身が回転して緩むものと、回転を伴わずに緩むものがある。
緩み防止のため、以下に示す多様な方法が考案されている。
接着剤やシールテープで緩み止めを行う方法もある。
小ねじやボルト、ナットは古くなったり、不適切な方法で緩めようとしてねじの頭を潰したりして外れなくなる時がある。
オイルスプレーを大量に吹きつけ十分に時間を置いて浸透させてから回す方法もあるが、固着したねじは多く場合密着していてオイル類は浸透しない場合も多々ある。
この場合、バーナーでナットあるいはボルトを熱すると金属が膨張するので、比較的緩められるケースが多く、バイク・自動車整備でもよく行われている。スプレー式ガスバーナーの説明書にも「固着したねじを緩める」などの利用法が書いてある。しかしこれはある程度太いねじの方法であり、細いねじで行うと熱による強度低下でねじ自体が折れる場合が多い。
一般にねじは時間の経過と共に熱や錆などで固着することが多く、無理にこじってねじ頭を潰してしまうことがある。頭をプライヤのようなや一般工具や ショックドライバー等の潰れたねじ専用の工具で回すことも多くの場合は可能である。接着剤で頭に何か物を貼り付けて回す方法もある。ねじ頭が取れてしまった場合や虫ねじのように最初からねじ頭のないねじで穴が潰れた場合には、ドリルで残ったねじに穴を開けて棒をねじ込み回すボルトツイスタと呼ばれる専用工具もある。植え込みボルトが外せなくなった場合にはスタッドプラーと呼ばれる専用工具があり、ねじ部を掴むものとねじ部を避けてねじのない軸部を掴むものがある。ナットが回らなくなった場合には、ナット側面に爪状の突起を食い込ませて割りナット内径を広げて回したり、2箇所からナットを割り分割し除去する、ナットスプリッタと呼ばれる専用工具がある(ナットを破壊する事になるので、ナットは交換となる)。また、最悪の場合にはボルトそのものがある場所を強力なドリルでめねじごと取り除いて大きな穴を開け、必要ならその跡に改めて大き目の径のめねじを切って新たに大きい径のボルトを使用する方法もある。鋼鉄など金属の場合には大きくなった穴を溶接技術で埋めることも可能であり、木材の場合には接着剤などで穴を塞いでから新たに穴を穿つことも行われる。
ぜんまいばねを巻き上げる仕掛けとその取手もねじと呼ばれる。ねじ部品ではその溝の立体配置がヘリコイド(helicoid)を基本としているのに対して、ぜんまいばねでは多くがスパイラル(spiral)を基本としている。日本語ではいずれも「螺旋」と呼ばれるため、若干のあいまいさがある。
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"text": "ねじ(螺子、捻子、捩子、螺旋、英: screw)とは、円筒や円錐の面に沿って螺旋状の溝を設けた固着具。",
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"text": "主として別個の部材の締結に用いられる。また、回転運動と直線運動との変換などにも用いられる。",
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"text": "ボルトのように外表面にねじ山がある「おねじ」(雄ねじとも書く)とナットのように内表面にねじ山のある「めねじ」(雌ねじとも書く)がある。多くは、おねじとめねじの組み合わせで使用される。なお、後者がなく木材や薄い金属などの部材に穴を開けながら締結するもので、タッピングネジ、木ねじ(もくねじ)と呼ばれるものがある。",
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"text": "これらの他にも、ぜんまいやぜんまいを巻く装置もねじと呼ばれる。言葉の比喩として「ねじを巻く」とは、ぜんまいに動力を与えるところから、誰かを、何かを『追い込む』の意味として使われる。",
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"text": "長方形の一対角を直線で結び、この長方形を巻いて円筒とした時、対角線は「つる巻き線 (helix)」と呼ばれる三次元曲線を描く。ねじは、このつる巻き線に沿って溝を形成したものである。",
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"text": "今日ではねじはあらゆる用途で大量に使用されており、その多くはボルトやナット、木ねじなどによる締結用途である。また、ねじは各種の機械の運動や位置決めなどでも欠かせないものとなっている。このため「産業の塩」と呼ばれることもある。ねじメーカーの日東精工は本体直径0.6ミリメートルというねじも開発しており、これを世界最小としている。",
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"text": "ねじは、漢字で「螺子」(ねじ、らし)あるいは「捻子」「捩子」「根子」と書かれることがあり、JISでは「ねじ」が正式な呼称になっている。また「ねじ」は動詞「捩づ」(ねづ)の連用形であり、「ねじ」の他に「ねぢ」と表記されることがある。",
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"text": "実際には、ナットと組んで使わないものをボルトと呼ぶことや(この場合はねじ込み対象にめねじが切られていることが前提。でないと止まらない)、ナットと組んで使うものもねじと呼ぶことがあるため、これらの用語の使用には揺らぎが存在する。",
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"text": "英語ではねじ山を持った円筒や円錐全般を\"screw\"(スクリュ)や\"screw thread\"(スクリュ・スレッド)と呼び、これが日本語のねじに相当する。「おねじ」は\"external thread\"と呼ばれ、「めねじ」は\"internal thread\"と呼ばれる。ボルトやナットのように部品の一部にねじを持った締結用の部品は\"threaded fastener\"と呼ばれる。英語圏でも\"screw\"と\"bolt\"の区別には混乱がある(1970年代の米国自動車整備マニュアル上での表記を参照)。",
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"text": "ビスはぶどうの蔓を意味するラテン語vitisがフランス語でねじを表すvisとなり、英語のviseになった。特に「すりわり」や「十字穴」を持つおねじ部品を指すことが多く「小ねじ」とほぼ同義である。",
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"text": "ねじの起源は明確には分かっていない。ねじの発明のヒントは巻貝だったのではないかという説と木に巻き付くつる植物だったのでないかという説がある。",
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"text": "また、発明者については、現代の歴史家によれば、アルキタスが発明したとする説と、ペルガのアポロニウスが発明したとする説がある。ギリシャの学者エウスタシウスはアルキメデスが発明したと主張した。実際、円筒状の筒の中に大きなねじを入れた揚水用のアルキメディアン・スクリューはアルキメデスの発明といわれ、今まで知られている限り、最初に螺旋構造を機械に使用した例だとされている。水ねじは古代、灌漑や船底の水の汲み上げ、鉱山に溜まった水を排水することなどに使われ、労力に比べ極めて効率的に水を揚水することができた。当時は他の揚水手法に比べて効率性が高く、現代でもねじ式コンベアーとして使われている。シケリアのディオドロスはこの発明がアルキメデスがアレキサンドリアで学んでいた青年時代に行われたと記している。ねじ構造はアルキメデスのような天才機械学者によってのみ思い描くことができたとする者もおり、実際「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。",
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"text": "ギリシア時代には既に機械として使われていた事が知られている。例えば西洋では、木の棒で作られたねじを利用してオリーブやブドウなどの果汁を搾るねじ圧縮機(スクリュープレス)として使われていた。",
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"text": "ルネッサンス期にあたる1500年頃には、レオナルド・ダ・ビンチによってねじ部品を使った様々な装置が製作され、締結用のねじ部品の利用が広がった。ほかにも実際に作られたかどうかは不明ながら、ねじ切り盤やタップ、ダイスのスケッチも見られた。",
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"text": "フランスの数学者ジャック・ベンソン(1500~1569)もねじ切り盤のスケッチを残しているが木製の機械で実用的でなかったとされている。",
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"text": "ドイツ人のゲォルク・アグリコラ(1494~1555)の著書にある鞴(ふいご)の図から、1500年前後には金属製のボルト、ナット、小ねじ、木ねじ類は出現していたと考えられている。15世紀にはフランスのルイ11世が金属製のねじで組み立てた木製ベッドを使用していた。",
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"text": "16世紀半ばになると、ねじは様々な場面で使われるようになった。懐中時計用の小さなねじや、銃に使う大きなねじ、甲冑用のボルトなどにねじが使われた。当時のリヨン近郊のフォレの町は、ねじ作りを専門にした町で、イングランドのミッドランド地方でも家内工業としてねじが作られた。ねじの作成には原始的な旋盤が使われていたが、1760年ミッドランド地方のジョブとウイリアムスのワイアット兄弟は手で刃を動かしてねじを切る代わりに、カッターで自動的にねじを切れるようにして、数分掛かっていた作業をわずか6,7秒で作ることができるようにするという画期的なねじ製造法を開発した。ワイアット兄弟は「鉄製ねじを効率的に作る方法」で特許を取り世界初のねじ工場を作ったが、事業は失敗に終わり、工場の新しい持ち主が事業化に成功し、その後蒸気機関の活用など各種の改善を経て、船や家具、自動車、高級家具などの需要の高まりとともに大量のねじが作られることになる。",
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"text": "18世紀の終わりまで、旋盤で物を作るのはヨーロッパ貴族の趣味の一つとなっていた。1762年にヨークシャで生まれ、ロンドンで精密機械を作っていたジェシー・ラムスデンは、当時天体観測用や航海用として使われていた精密機器の精度を上げるため、手作りで作る代わりに、より精密な旋盤を作ることによって達成するプロジェクトを始めた。ラムスデンは木製旋盤の代わりに金属製の旋盤を作り、カッターの先端にダイヤモンドを使用し、11年かけて旋盤を使って旋盤の部品を作り、それを使ってさらに精密な旋盤を作り上げて旋盤を次第に精密にしていき、最後には千分の4インチという精度のねじを作り上げた。彼が作った高精度のねじは顕微鏡や天文学といった科学分野で活用された。船の経度と緯度を300mの誤差で割り出せる航海用観測機器ができ、キャプテン・クックなどの航海上の偉業が達成されることになる。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "量産方法を追求したワイアット兄弟と、精密さを追求したラムスデンは偶然にも同じ時期に活躍したが、両者の業績を統合したのが、英国のヘンリー・モーズリー (Henry Maudslay 1771-1831) であった。1800年に彼は、それまでの旋盤をさらに改良し鉄鋼製のねじ切り用旋盤を開発した。モーズリーはフランス人マーク・イザムバード・ブルネルと組みポーツマスに世界初の完全に自動化された工場を作った。この工場は10人の工員が44台の機械を使い、年間16万個の滑車を作ることができたという。1825年には、ブルネルはテムズ川の下をくぐる365mのトンネル工事を受注した。モーズリーはブルネルが発明した矩形のトンネル用鋳鉄製シールドを製造してトンネルを完成させた。これがシールド工法の始まりである。モーズリーは他に印刷機、プレス機、貨幣鋳造の特殊機械、ボイラー板穴開け機などを作ったが、最も有名なのは蒸気機関であった。ブルネルの息子が初の大西洋横断蒸気船を作った際に、モーズリーの息子もその船に搭載する、当時世界最大の750馬力の蒸気機関を作った。これらの成功は、モーズリーが作り上げた極めて精度が高い基準ねじを用いた、規模が大きくなっても精密に仕事ができる旋盤によるものだった。モーズリーは1万分の1インチの精度のマイクロメーターを作っている。このマイクロメーターはモーズリーの工場で寸法を測る際の至高の基準とされ「大法官」と言われていて、弟子の製品の精度チェックに使われた。また、かつてはナットとボルトは一対で作られ、製造時につけた刻印が合うもの同士でなければ噛み合わなかったが、金属製のねじ切り用旋盤によりねじの精度が上がったため、その必要はなくなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本には1543年、種子島へ漂着したポルトガル人が所有していた火縄銃とともにねじが伝来したとされている。種子島領主・種子島時堯は2挺の火縄銃を購入し、うち1挺を刀鍛冶八板金兵衛に与えて銃の模造を命じている。この時、金兵衛は自分の娘若狭をポルトガル人に嫁がせてまで、ねじの作成法を習得したとする伝説が残っている。火縄銃の銃身の後ろ側(銃底)を塞ぐ尾栓に使われていたおねじとめねじが日本人が初めて見たねじとされている。金兵衛にとって「おねじ」の製造は比較的簡単だったものの「めねじ」の製造は難しく、おねじを雄型とする熱間鍛造法で製作したと推定されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本を含めて東洋では、ねじ構造自体を独自に発見・発明することができなかった。村松貞次郎は『無ねじ文化史』で江戸の工業製品にはねじの使用例はなく、江戸幕府の江戸時代とは「ねじの無い文化」の時代であるとした。結局、ねじ製作のための優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作ること自体が「大変困難な仕事である」ということがその理由である。和時計も特殊なねじがわずかにあるだけで、ほとんどが楔で作られている。ねじがほとんど無いため、日本ではドアが発達しなかった。火縄銃にはねじが必須であったが、江戸時代の火縄銃のほとんどは新たに作るのではなく、以前の火縄銃の銃口を広げたりして作り替えていたという。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本では、1857年にモーズリー由来でホイットワースが改良したねじ切り用旋盤が輸入された。1860年、遣米使節として渡米した小栗忠順は、ワシントン海軍工廠を見学後、西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、1本のねじを持ち帰ったという。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西洋での産業革命期には、締結用のねじが大量に生産されるようになった。産業革命によって金属製のねじが蒸気機関や紡績機械、各種工作機械に欠かせないようになっただけでなく、そもそも精密に物の長さや角度を測ったり物を加工するには、ねじ構造が必須であり、産業革命もこれらの技術がなければ成り立たなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ねじは専門業者が製造していたが、各機械メーカーは自社製の機械に合わせて独自の直径・ピッチのねじを発注していたため、大量生産の利点は生かされていなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ねじの形式を調査し標準化に貢献した人物にジョセフ・ホイットワース(または、ウイットウォース)(Joseph Baronet Whitworth 1803-1887) がいる。モーズリーの弟子であった彼は、顧客から製作を求められる多様なねじの形状を整理した上で、1841年には山の角度を55度とするなど独自の規格を決めて公表した。1841年に発表されたこのねじ形式を「ウィットウォースねじ」という。この「ウィットウォースねじ」の規格が次第に普及し、英国の国家規格BSに正式に採用された。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "ねじの標準化の動きは、工業製品の大量生産を得意するアメリカ合衆国でも進められ、ウィリアム・セラーズがウィットウォースねじに改良を加え、山の角度60度の「インチ系ねじ」を発表した。これは1868年に「セラーズねじ」として米国内標準規格となり、米国政府関係事業に全面的に採用され、「USねじ」「アメリカねじ」とも呼ばれるようになった。このUSねじ規格は、第2次世界大戦中に米国、英国、カナダの3ヶ国が武器に使用するための互換性のあるねじとして生み出された「ユニファイねじ」規格へと発展した。こういった北米圏での「インチ系ねじ」とは別に、1894年にまずフランスで制定され、1898年にはフランス、スイス、ドイツが採用した、山の角度60度の「メートル系ねじ」が「SIねじ」規格として欧州域で普及し、その後も広く使われた。このSIねじが21世紀現在、世界中で最も普及している「メートルねじ」の原形になっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "メートル系やインチ系といった違いの他にも、各国ごとにそれぞれ異なるねじ規格が存在していたため、国際間の物流の拡大につれて不便が生じ始めた。やがて、世界的なねじの互換性の要求が高くなり、国際間でのねじを統一しようとする動きが起こった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦期後、1947年に国際標準化機構 (ISO) が設立され、ねじ規格でも国際的な標準化が進められた結果、1953年に「ISAメートルねじ」に準じた全世界共通の「ISOメートルねじ」規格を制定するとともに、アメリカ、イギリス、カナダが推奨する「ユニファイねじ」を「ISOインチねじ」として採用した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "加工法では、1955年頃から転造法による生産が本格化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本でも、日本産業規格 (JIS) によってねじの標準規格が作られている。1975年からは毎年の6月1日を「ねじの日」としている。ISOによるねじの国際規格は世界の統一規格のために定められたが、北米圏や豪州では使用されていない。日本国内ではかつてはインチねじが主流を占めていたが、今では国際規格であるISO規格に準じたJIS規格によって寸法が統一され、インチねじは航空機その他特に必要な場合に使われる程度になっている。日本国内での輸入製品などの修理には、ユニファイやインチといった海外規格のねじが必要になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ねじの動きの幾何的関係は、斜面の原理で説明される。",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ねじの有効径(直径)を d 、リード(回転軸方向に進む距離)を L 、リード角を β とすると、これらの間には",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "の関係がある。このため、ねじをそのねじ山稜線に沿って進んだ時、軸方向の移動距離と軸に対する回転角との間には比例関係が生じるが、この性質から、位置決めやマイクロメータなどにおける微細寸法の拡大にねじが使われる。",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "軸から力点までの半径距離を R 、この位置で加える回転力を T とし、ねじの有効径半径を r 、有効径仮想円筒上の任意の点に加わる回転力を P とすれば、力の釣り合いから",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "である。また、摩擦角 φ、リード角 β のねじにおいて、P と、この点に働く軸方向の力 Q との間には",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "の関係があり、これらから",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "が導き出される。従って、リード角β、摩擦角 φおよび半径の比 r /R を小さくする事により、より小さな力 T でより大きな力 Q を得られることになる。ねじが締結や倍力の発生に使われるのは、このような理屈による。",
"title": "ねじの幾何"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ねじの物理的な働きは、斜面と摩擦によって実現されている。以下では、ねじの物理的な働きを単純化して、斜面上の物体を押して移動させる例に例えて示す。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ねじを締めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の上へと押し上げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ W の物体を水平方向に力 F で押すことを考える。斜面に平行な分力を S と T で、斜面垂直な方向の分力を R と N で表すと、それぞれの力の関係は以下の式で表される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "斜面に働く垂直応力は N + R なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ W の物体にこのとき働いている摩擦力 f は、以下の式で表される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "上式にさらに上の4つの式を代入すると、以下の式が得られる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "上式より力 F は次のように表される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "斜面上の物体が摩擦による静止を振り切って滑り出す時の最小化角度を「摩擦角」と言い φ で表す。摩擦係数 μ = tan φ であるので、上式に代入すると以下の式が得られる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、ねじを締めた時の仕事の効率を、締めるのに要した力とねじが行った仕事との比率で表して「ねじの効率」と呼ぶ。例えば荷重 W の物体を坂の上で押して高さ L まで上げた時にねじが行った仕事は WL となる。ねじを回すのに要した仕事は",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "となるため、ねじの効率 η は次式で表される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "自然に緩むことがないためには条件 β≥φ が必要なので、β = φ とすると、最大効率ηは次の式で表せる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "φ > 0 なので、ねじの効率 η < 1/2 である。つまり自然に緩まないねじの効率は50%より小さくなる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ねじを緩めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の下へと押し下げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ W の物体を水平方向に押す力 F' で押すこととする。斜面に働く垂直応力は R - N なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ W の物体に働いている摩擦力 f' は以下の式で表せる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "上式などから F' は次のように表される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "β > φ の時は水平方向に押す力 F' < 0 となり、釣り合わせるためには押すのではなく引かなければならない状況、つまり押さなくても勝手に坂を下る状況になる。これはねじでは自然に緩んでしまうことを意味する。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "したがってねじが自然に緩んでしまわないためには β ≤ φ でなければならない。これをねじの自立条件と呼ぶ。一般的なねじに使われるメートル並目ねじのリード角は2-3度であり、摩擦係数 μ は0.1程で(角ねじで考えれば)摩擦角は約6度となって、ねじの自立条件を十分に満たしている。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "締結用で一般的な三角ねじでは、ねじ山の角度 α の60度に対してねじ面に垂直な力は F cos(α/2) となる。この場合は締める力と緩める力はそれぞれ",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "となる。1.16という数値はねじ山の角度 α = 60度から、",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "で計算される。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "これらのことから、三角ねじをねじ山に沿って回転させるには角ねじの1.16倍ほどの力が必要であり、三角ねじが締結に適していて、角ねじが運動に適することが分かる。",
"title": "物理的原理"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ねじの機能は、固定状態で使うものと可動状態で使うもので大きく異なり、それぞれがいくつかの機能に細分化できる。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "固定状態で使用されるねじは緩まないように静止抵抗の大きい方が良いが、可動状態で使用されるねじの多くはおねじとめねじの接触面の抵抗が低い方が良いので、できるだけ平滑にされ潤滑油も使用されることが多く、ボールねじのようにボールベアリングまで利用されるものがある。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ねじ部品とは、締結に使用されるねじの総称である。また、ねじの外径が8 mm以下のねじは一般に「小ねじ」と呼ばれる。JISでは頭部の直径がねじ部外径の約2倍で、原則として\"ねじ回し\"ですり割りや十字穴にトルクを加えて締め付けるねじ部品が小ねじであるとされる。ナットと一組で使われることもあるため、小さめのボルトとの区別は特に存在しない。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ねじ部品を特定するための要素には、巻きの方向、条数、ねじ溝の形状、径及びピッチとがあり、通常これらの要素を名前に並べる事でねじの種別が表される。例えば「左2条、直径 8mm、ピッチ1 mmのISOメートル三角ねじ」「右1条、直径1/4インチ、(インチあたり)20山のユニファイ(並目)ねじ」と表す。ねじの多くが「右1条」であるために、この場合は省略されることが多い。規格化されたねじの場合、それぞれの規格ごとに表記の仕方が定められており、それによれば先の2つの例はそれぞれ「L2N M8×1」「1/4-20 UNC」となる。ピッチを mm で表すものは、「ねじの巻き方 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字×ピッチ - 等級」 となり、ユニファイねじでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの直径を表す数字または番号 山数 ねじの種類を表す記号 - 等級」、ユニファイねじ以外のピッチを山数で表すものでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字 山 山数 - 等級」となる。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "おねじ部品において、ねじの先端を「先」と言い、ねじ部分とそれに続く(多くはねじと同径かそれ以下の)円筒部を合わせて「軸」と言う。軸の終端に設けられたより太い部分は「頭」と呼ばれ、頭と軸の境目を「首」という。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "おねじ部品の頭や、めねじ部品において、締め付けた際に荷重を受ける面を「座面」と言い、おねじ部品においては、ねじ先から座面までの部分を総じて「首下」と呼ぶ。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "個々のねじ部品を特定するのに必要な要素としては、「ねじの呼び」「部品形状」「材質」があり、またおねじではこれに「長さ」が加わり、これらを並べて呼ばれる。おねじ部品を呼ぶ際の長さ寸法は「呼び長さ」と呼ばれ、一般論として、頭のついたねじでは首下、頭のないねじでは全長やねじ部の長さなどが使われる。呼び長さは一般にはねじの呼び径のすぐ後に置くが、文脈上呼び長さを表す数値である事が明らかである場合には乗算記号×を用い「呼び径×呼び長さ」のように略記される。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ねじは基本的に「頭」(頭部)とねじ山が刻まれている「軸」、先端である「先」、頭と軸の間を「首」と呼ばれる部分に分かれる。一般的なねじでは、時計回りにねじを回すと奥に進む「右ねじ」になっているが、右ねじでは緩むような用途でまれに「左ねじ」も存在する。左ねじでは「L」や「←」、切り欠きといった識別マークで示されることが多い。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ねじの山と谷の間隔と移動量は以下のようにピッチとリードで表される。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "また多くのねじではピッチとリードが同じになり、これを「一条ねじ」と呼ぶ。ピッチとリードが同じ「一条ねじ」の他にも、リードがピッチの2倍の「二条ねじ」のように2以上の整数倍のものがあり、これらは「多条ねじ」と呼ばれる。多条ねじは管の接合部で用いられたり、電灯の灯屋や広口瓶の蓋、双眼鏡やカメラレンズの焦点合わせ機構(ヘリコイド)などでも用いられる。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "一般的なねじはねじ山が円筒形の軸の周囲に同じ直径で刻まれている「平行ねじ」であるが、特殊な用途では円錐形の軸に沿って刻まれている「テーパねじ」がある。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ねじの大きさや長さは以下の長さを計ることで示される。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "おねじでは外径の基準寸法を、めねじでは谷の径の基準寸法を「ねじの呼び径」という。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "おねじ部品の頭部形状の主なものは以下の通りである。これらは用途などにより使い分けられる。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "小ねじのような比較的小型のおねじ部品では、頭部頂面に工具で回すための溝や穴が設けられているものが多い。その主なものには「すりわり」や「十字穴」、「六角穴」がある。六角や四角といった角型の頭部はそれ自体がめがねレンチやスパナを掛ける部分となる。これら(とくに溝のもの)をねじ山と呼ぶこともあり、「ねじ頭が傷む(なめる、バカになる、ダメになるとも言う)」とは、ドライバーの形が合わないまま無理な扱いをしたり、締め過ぎによって溝や穴が欠けたり削れたりしてしまい、ドライバーで回しようがなくなった状態を指す。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ねじの歯の形状はねじの用途に応じていくつか存在し、基準山形で表されることが一般的である。基準山形とは、ねじ山の実際の断面形を定めるための基準となる理論上のねじ山形状のことであり、ねじ山の1ピッチ分の形状をいう。「基本山形」「基本形」とも呼ばれる。",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ねじ部品"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "以下にねじの分類を示す。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ISO小ねじのM3、M4、M5の頭部に小さなくぼみを付ける事で、ピッチの異なるJIS規格との判別できるようになっている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "一般にナットと組んで用いられるねじは、ボルトと呼ばれる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ナットは典型的なめねじ部品であり、ボルトと対になって使用される。六角ナットを含めて多種多様なナットが作られ使用されている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ねじには、用途や機能、形状により、以下のような特殊なねじがある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ねじの関連部品を以下に示す。ねじの関連部品には、小ねじやボルトと一緒に使う緩み止めなどの部品が多い。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "これらの他にも、セーフティワイヤ、緩み止め用接着剤、スペーサー、",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "座金(ざがね、ワッシャー)には、締め付け時に締結面を傷から守るものと、逆に締結面に食い込むものがある。 座金には以下の目的がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "以下に主な座金の種類を示す。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ねじはその構造上、互換性が非常に重要であり、早くから標準規格が規定された。その主なものを以下に示す。これらの主な標準規格の他にもそれぞれの業界ごとや企業ごとの規格が存在する。なお、小ねじの頭の表面に小さなくぼみが付いているものはISO規格に沿っているという印であり、日本ではJIS認定工場でのみ付けることが許される。",
"title": "標準規格"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "メートル単位系を用いたものは「メートルねじ」と呼ばれ、インチ単位系を用いたものを「インチねじ」と呼ばれる。一般にメートルねじでのねじのピッチは1ピッチあたりの長さを「ミリ」で表すのに対して、インチねじでは、「軸方向1インチあたりの山数」で表される。",
"title": "標準規格"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ボルトやナットといった鋼製のねじ類の中でも比較的小型で生産量の多い物の製造法について説明する。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ねじ部の加工方法は、転造による方法と切削・研削による方法に大別できる。生産量や生産性、加工精度の違いによって2つの方法が使い分けられる。いずれの方法によっても切断された鋼製の線材が材料として使用されることが多い。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "概ね以下の工程を経る。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ボルトの大きなものは量産に向かず、まず熱間圧造によって外形を形成し、さらに転造する場合でも加熱した上で熱いうちに加工する方法が採られるが、膨張と収縮による加工精度の低下に特に配慮する必要がある。タッピンねじやドリルねじのような先端に刃を持つねじは、ねじ部の加工後に足割り機と呼ばれる専用機で先端に切れ込みを入れる。ローレット加工が必要なねじは、ねじ部の加工後に平ダイスや丸ダイスで付けられるものと、ねじ部の加工工程で1つの平ダイスでねじ山の転造とローレット模様の転造を行うものがある。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "プラスチック製のねじ類では射出整形によって製造されることが多く、切削加工も行われる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "転造法は塑性加工属する鍛造法であり、材料を回転させながら硬質の金型に押し付けることで形を形成するものである。加工時間が短く材料の無駄も生じないが、高い加工精度は得られない。塑性変形に伴う加工硬化によって製品は硬くなる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "転造工程では、塑性変形によって谷が押し込まれる分だけ山が盛り上げられることでねじ山部分が形成される。このため、切削クズのような無駄となる材料は転造では生じない。ただし、加工精度を高めるために転造後に切削・研削を行うことはある。転造を行う工作機械は転造盤と呼ばれる。平ダイス式転造盤、丸ダイス式転造盤、プラネタリ式転造盤がある。おねじの場合には、ねじ山の形状を刻んだダイスで中間製品であるブランクを強力に挟み込み、間で回転させてねじ山を生成する。一般には、「ねじ転造」はこのおねじの転造加工を指す。めねじの転造は、切削タップと同様にねじ山の形状を刻んだ棒を中間製品であるフォーマーナットの穴に捻じ込んでねじ山を作るが、転造用のタップは切削用のものと異なりねじ溝を刻むための刃を持たない。転造では加工表面は変形により硬化し、またダイスとの接触で磨かれる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ナットの少量の加工では、ドリルなどを備えたボール盤とほとんど同様の姿で、加工のための転造タップを備えた縦型ねじ立て盤が主に使われる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ボルトの鍛造による量産加工では、ボルトフォーマーによって線材から太めの外形を備えた「ブランク」と呼ばれる中間製品を作り、平ダイス、丸ダイス、扇ダイスなどでねじ山を転造によって形成する。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ナットの鍛造による量産加工では、ナットフォーマーによって線材から穴の開いた「フォーマーナット」と呼ばれる中間製品を作り、自動ナットねじ立て盤によって内側のねじを加工する。自動ナットねじ立て盤のベントシャンクタップは、めねじ加工済みのナットを多数数珠繋ぎに周囲に通過させるという巧妙な工夫によって加工機本体とは直接接続されないまま回転力を受けることができる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "切削・研削を使った方法は、バイトのような超硬質の刃先で材料を削り落として行くことで形を形成するものである。高い精度での加工が行えるが加工に時間がかかり材料の無駄も生じるため、生産量としては少数派である。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "切削法ではねじの溝を掘り下げることでねじ山を作る。このため、ブランクのねじ部はねじの山の径よりも大きい必要がある。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "切削加工では手動や旋盤でのねじ切りダイスや切削タップ、旋盤、フライス盤やNC工作機のバイトなどによって行われ、専用のねじ切り盤もある。ねじ切りダイスはおねじ、切削タップはめねじの製作にそれぞれ用いられる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "旋盤によるねじ切りは、ねじ溝の形状を有するバイトを用い、主軸の回転に対してねじのリードに等しい送りを軸と平行に与えてねじ溝を生成するもので、少量の生産に用いられる。おねじでもめねじでもバイトが変わり工作物に当てられる位置が変わる他は同様である。近代的なねじ製造法として最初に確立したもので、一般には1本のねじ溝を複数回に分けて切削する必要がある事から大量生産には向かないが、ねじ製造の基本的な工作法である。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ねじ切り盤と呼ばれるねじ専用の切削加工機は、旋盤で行われるタップやダイスによるねじ切りに似るが、専用機では複数の刃が一列に刻まれたチェーザーと呼ばれる刃物を複数同時に使って多数のねじ溝を一度に切削する事により短時間でねじ切りできる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "少量のナットのめねじの加工では、ドリル同様に使用でき切り屑が出る切削タップが主に使われる。まずドリルで下穴を開けてからタップで切削加工を行ってゆくが手間がかかる。小型ナット用の基本的な切削タップでは、加工後に逆転させてナットをタップから抜かなければならず、生産性がさらに悪くなる。大径のナット用の切削タップでは、チェーザーという刃が軸に植え込まれた「植刃タップ」と呼ばれるものがあり、また、加工後に逆転する必要がないようにチェーザーが引き込んで加工済みのナットが抜けるものもある。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "プラスチックは金属に比べて強度や耐熱性で劣るが、一般には軽量性、電気絶縁性、非磁性、耐錆性などで優れ、透明性や耐薬品性を備えたものもある。また頭部だけがプラスチックで軸部は金属製の「つまみねじ」や「ノブボルト」といったねじがある。",
"title": "材質"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "以下にプラスチックねじの材料について、個別に記す。",
"title": "材質"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "セラミックスは線膨張係数が鉄に近く、耐熱性、断熱性、耐錆性、耐薬品性などで優れている。",
"title": "材質"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "耐食性向上などを目的に、以下のような表面処理が行われる。",
"title": "表面処理など"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "硬さ調整などを目的に、以下のような熱処理が行われる。",
"title": "表面処理など"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "締結に使われるおねじ(この節内の以下では単に「ねじ」と表記する)は、引っ張り荷重、ねじり荷重、せん断荷重という3種類の外力に耐える必要がある。それぞれの荷重から、ねじに必要な直径が求められる。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "ねじの軸方向に沿って加わる荷重は「引っ張り荷重」と呼ばれる。ねじの材質が均等であると仮定して、断面積当たりの引っ張り荷重に耐える強さは引っ張り強さと呼ばれ、ねじの強度を数値で示す主要な指針の1つである。引っ張り強さ σ [N/mm] は有効断面積 A [mm] と引っ張り荷重 W [N]で以下のように表される。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "また、1 Pa = 1 N/m の関係から、1 MPa = 1 N/mmなので、応力の単位は N/mm よりも MPa で表されることが多い。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "おねじの谷の径 d1 [mm] から、有効断面積 A [mm] は以下で表される。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "おねじの谷の径は外径 d の約0.8倍であることから、d1 = 0.8d とすると、引っ張り強度 W は次の式で表される。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "上式から、おねじの許容引っ張り応力を σa [MPa] としたときのねじの直径 d は次式となる。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ねじの軸を中心とする回転方向に加わる荷重は「ねじり荷重」と呼ばれる。一般にねじにおけるねじり荷重は引っ張り応力の約1/3が加わるものとして扱われている。引っ張り応力にねじりによる応力を加えると軸方向には4/3倍が力が加わる。これを上で現れた式",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "に代入すると、下の式が得られる。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "ねじの軸と直角方向に加わる荷重は「せん断荷重」と呼ばれる。ねじの許容せん断応力 τa [MPa] とそのねじの外形 d [mm] は次の式で表される。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "一般に軸部のせん断強さは引っ張り強さの約60%である。",
"title": "力学的強度"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "JISでは、ねじの強度を示す10段階の強度区分が設けられている。",
"title": "強度区分"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "3から12までの左側の数字は「呼び引っ張り強さ」を示し、数字×100N/mmである。 6から9までの右側の数字は、呼び引っ張り強さに対する「降伏点」の比率を示し、その比の小数点1位が数字で示される。 例えば、呼び引っ張り強さ:1,200N/mm、降伏点:1,080N/mmは「12.9」である。JISでは10段階のそれぞれで呼び引っ張り強さと降伏点の他に、硬さや破断伸び、衝撃エネルギーなども定められている。",
"title": "強度区分"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "ナットについても7段階の強度区分が設けられている。",
"title": "強度区分"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "強度区分"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "ねじは回転させることで締め付けて固定したり緩めて外す部品であり、その締緩作業を行うための工具としてドライバーが用いられる(ナットとボルトの締緩作業にはレンチが用いられる)。ねじを締める場合に必要以上の力を加えると接合される部品やねじそのものを破損してしまう(いわゆる「ねじが馬鹿になった」状態)ことになるため、重要な部品などではトルクドライバー(トルクレンチ)などが用いられる。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ねじの主な役割は、締めつけにより発生する軸力で物を締結することであるから、物の締結力を制御するためには、ねじの軸力を管理しなければならない。しかし実際の作業では軸力を直接監視することは困難である。そのため簡便な方法としてトルクレンチで締めつけトルクを管理して、軸力を担保することが多い。しかし、用途によっては更に高精度な軸力管理が求められる。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "ねじを締めつけ、軸力(応力)をかけていくと、降伏点までは軸力に比例してねじが伸び、軸力を取り除くと、ねじの伸びは元に戻る。この弾性域範囲内での締めつけが「弾性域締めつけ」であり、ねじの軸力のばらつきが大きいが、ねじのくり返しの使用が可能で、トルクレンチを用いたトルク法による締めつけ管理ができ、締めつけ作業が簡単という特長がある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "対して、降伏点を超え、さらにねじを締めつけて軸力をかけると、比例関係がなくなり、軸力に対して伸びが急激に増えていく。この状態になると、ねじに永久伸びが生じ、軸力を取り除いても元に戻らなくなる。この塑性域範囲内での締めつけが「塑性域締めつけ」であり、ねじに永久伸びが生じるため、くり返し使用ができず、締めつけ作業にも時間がかかる、などの欠点があるが、弾性域締めつけよりも安定した軸力管理を行うことができるから、エンジンの組み立てなどに用いられている。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "トルク法とは、締めつけトルクと締めつけ軸力との弾性域における線形関係を利用した締めつけ管理方法である。締めつけ作業時に締めつけトルクだけを管理する方法だから、トルクレンチでできる比較的簡単な締めつけ管理方法で、一般的に広く普及している。しかし、締めつけトルクは、その全てが軸力として作用するわけではなく、ねじ面や座面の摩擦によって消費される。そのため、同じトルクで締めつけても表面荒さや潤滑状態などによって軸力が大きくばらつくため、摩擦特性の管理に注意が必要である。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "そのため、一般的にトルク法によるねじの締めつけは、発生する軸力が降伏点の60%~70%の弾性領域内が望ましいと言われている。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "回転角法は、スナグ点(ねじと座面を密着させるために必要な締めつけトルクを作用させた点)からのねじ頭部やナットの締めつけ回転角度を、角度割出し目盛板(分度器)や電気的な検出器など管理して、締めつけ軸力をコントロールする方法で、弾性域締めつけ、塑性域締めつけの両方に用いることができる。しかし、弾性域締めつけでは、回転角度による軸力の変化が大きくばらつきやすいため、作業が単なトルク法の方がよく使用されている。一方、塑性域締めつけでは、回転角の誤差による軸力の変化が小さくなるから、ボルトやナットの六角形状を利用した目視による角度管理が可能な場合もある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "トルクこう配法とは、ねじの締めつけ軸力が降伏点を超えると、軸力に対して急激に伸びが増加する性質を利用した締めつけ法である。締めつけトルクと回転角を電気的なセンサなどで検出して、弾性域と塑性域の変化点をコンピュータで算出し、弾性域限度で締めつけを行う。 必要な装置が他の方法より大がかりだが、ばらつきの要因は材料の降伏点のみのため、トルク法や回転角法よりも軸力のばらつきが小さい方法である。そのため自動車のエンジンやシリンダヘッドのボルトなど、締めつけの信頼性の高さを求められる場合に用いられている。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "これらの締めつけ管理方法以外にも、ねじの伸びを直接測定し管理する測伸法や、ねじを高温に加熱して伸びを与えて、取りつける際の温度を管理する加熱法などがある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "締結に使用されるねじでは、その緩みは問題を引き起こすことがあり、避けられねばならない。ねじの緩みはねじ自身が回転して緩むものと、回転を伴わずに緩むものがある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "緩み防止のため、以下に示す多様な方法が考案されている。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "接着剤やシールテープで緩み止めを行う方法もある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "小ねじやボルト、ナットは古くなったり、不適切な方法で緩めようとしてねじの頭を潰したりして外れなくなる時がある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "オイルスプレーを大量に吹きつけ十分に時間を置いて浸透させてから回す方法もあるが、固着したねじは多く場合密着していてオイル類は浸透しない場合も多々ある。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "この場合、バーナーでナットあるいはボルトを熱すると金属が膨張するので、比較的緩められるケースが多く、バイク・自動車整備でもよく行われている。スプレー式ガスバーナーの説明書にも「固着したねじを緩める」などの利用法が書いてある。しかしこれはある程度太いねじの方法であり、細いねじで行うと熱による強度低下でねじ自体が折れる場合が多い。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "一般にねじは時間の経過と共に熱や錆などで固着することが多く、無理にこじってねじ頭を潰してしまうことがある。頭をプライヤのようなや一般工具や ショックドライバー等の潰れたねじ専用の工具で回すことも多くの場合は可能である。接着剤で頭に何か物を貼り付けて回す方法もある。ねじ頭が取れてしまった場合や虫ねじのように最初からねじ頭のないねじで穴が潰れた場合には、ドリルで残ったねじに穴を開けて棒をねじ込み回すボルトツイスタと呼ばれる専用工具もある。植え込みボルトが外せなくなった場合にはスタッドプラーと呼ばれる専用工具があり、ねじ部を掴むものとねじ部を避けてねじのない軸部を掴むものがある。ナットが回らなくなった場合には、ナット側面に爪状の突起を食い込ませて割りナット内径を広げて回したり、2箇所からナットを割り分割し除去する、ナットスプリッタと呼ばれる専用工具がある(ナットを破壊する事になるので、ナットは交換となる)。また、最悪の場合にはボルトそのものがある場所を強力なドリルでめねじごと取り除いて大きな穴を開け、必要ならその跡に改めて大き目の径のめねじを切って新たに大きい径のボルトを使用する方法もある。鋼鉄など金属の場合には大きくなった穴を溶接技術で埋めることも可能であり、木材の場合には接着剤などで穴を塞いでから新たに穴を穿つことも行われる。",
"title": "締緩作業"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ぜんまいばねを巻き上げる仕掛けとその取手もねじと呼ばれる。ねじ部品ではその溝の立体配置がヘリコイド(helicoid)を基本としているのに対して、ぜんまいばねでは多くがスパイラル(spiral)を基本としている。日本語ではいずれも「螺旋」と呼ばれるため、若干のあいまいさがある。",
"title": "ぜんまいでのねじ"
}
] |
ねじとは、円筒や円錐の面に沿って螺旋状の溝を設けた固着具。
|
{{otheruses||その他のねじ・ネジ}}
'''ねじ'''(螺子、捻子、捩子、螺旋、{{lang-en-short|screw}})とは、[[円筒]]や[[円錐]]の面に沿って[[螺旋]]状の溝を設けた固着具。
== 概要 ==
主として別個の部材の締結に用いられる。また、[[回転]]運動と[[直線]]運動との[[変換]]などにも用いられる。
ボルトのように外表面にねじ山がある「おねじ<ref name="jpo-card-M3">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/M3.pdf 意匠分類定義カード(M3)] 特許庁</ref>」(雄ねじとも書く)とナットのように内表面にねじ山のある「めねじ<ref name="jpo-card-M3" />」(雌ねじとも書く)がある。多くは、おねじとめねじの組み合わせで使用される。なお、後者がなく木材や薄い金属などの部材に穴を開けながら締結するもので、タッピングネジ、木ねじ(もくねじ)と呼ばれる<ref name="jpo-card-M3" />ものがある。
これらの他にも、ぜんまいやぜんまいを巻く装置もねじと呼ばれる{{Sfn|田村|2008|p=}}。言葉の比喩として「ねじを巻く」とは、ぜんまいに動力を与えるところから、誰かを、何かを『追い込む』の意味として使われる。
[[長方形]]の一対角を直線で結び、この長方形を巻いて円筒とした時、対角線は「[[螺旋|つる巻き線]] ({{lang|en|helix}})」と呼ばれる三次元曲線を描く。ねじは、このつる巻き線に沿って溝を形成したものである。
今日ではねじはあらゆる用途で大量に使用されており、その多くは[[ボルト (部品)|ボルト]]や[[ナット]]、木ねじなどによる締結用途である。また、ねじは各種の機械の運動や位置決めなどでも欠かせないものとなっている。このため「産業の塩」と呼ばれることもある。ねじメーカーの[[日東精工]]は本体直径0.6ミリメートルというねじも開発しており、これを世界最小としている<ref>【探訪 地方の豪族企業】日東精工(京都府綾部市)『[[日経産業新聞]]』2017年10月14日</ref>。
[[File:Screws.jpg|200px|right|thumb|「木ねじ」など、ナットを使わないねじ類]]
[[ファイル:ironnnaneji.JPG|thumb|200px|多種多様なねじ]]
[[File:Fotothek df n-08 0000801.jpg|thumb|200px|ボルトとナット]]
== 名称 ==
ねじは、[[漢字]]で「螺子」(ねじ、らし)あるいは「捻子」「捩子」「根子」と書かれることがあり、[[日本産業規格|JIS]]では「ねじ」が正式な呼称になっている。また「ねじ」は動詞「捩づ」(ねづ)の連用形であり、「ねじ」の他に「ねぢ」と表記されることがある{{Sfn|田村|2008|p=}}。
=== ボルトとナット ===
ねじと同様の名称として「ボルト」があるが、JISでは以下のように定義している。
* [[ボルト (部品)|ボルト]]:一般にナットと組んで使われるおねじ部品の総称
* [[ナット]]:めねじ部品の総称
実際には、ナットと組んで使わないものをボルトと呼ぶことや(この場合はねじ込み対象にめねじが切られていることが前提。でないと止まらない)、ナットと組んで使うものもねじと呼ぶことがあるため、これらの用語の使用には揺らぎが存在する。
[[File:Screw (bolt) 21A-J.PNG|thumb|250px|right|'''昔の米国自動車整備マニュアル上での表記'''<br />boltとscrew、studの違いが分かる。]]
[[英語]]ではねじ山を持った円筒や円錐全般を"screw"(スクリュ)や"screw thread"(スクリュ・スレッド)と呼び、これが日本語のねじに相当する。「おねじ」は"external thread"と呼ばれ、「めねじ」は"internal thread"と呼ばれる。ボルトやナットのように部品の一部にねじを持った締結用の部品は"threaded fastener"と呼ばれる。英語圏でも"screw"と"bolt"の区別には混乱がある(1970年代の米国自動車整備マニュアル上での表記を参照)<ref group="注">"bolt"は「矢」や「稲妻」から、"nut"は「硬い木の実」を語源とする。</ref>{{Sfn|田村|2008|p=}}。
=== ビス ===
ビスは<!-- 語源は、ラテン語でねじを意味するcochleaは、ギリシャ語の「かたつむり」「かたつむりの殻」に由来する。-->[[ブドウ|ぶどう]]の[[蔓]]を意味する[[ラテン語]]vitisが[[フランス語]]でねじを表すvisとなり、英語のviseになった{{Sfn|リプチンスキ|2003|p=125}}。特に「すりわり」や「十字穴」を持つおねじ部品を指すことが多く「小ねじ」とほぼ同義である。
== 歴史 ==
=== ねじの起源と黎明 ===
ねじの起源は明確には分かっていない{{Sfn|門田|2010|p=12}}。ねじの発明のヒントは[[巻貝]]だったのではないかという説と木に巻き付く[[つる植物]]だったのでないかという説がある<ref name="himeji">{{Cite web|和書|url=http://himeji.jibasan.jp/nut/rekishi.html |title=ねじの歴史|publisher=姫路市電子じばさん館(姫路市・公益財団法人 姫路・西はりま地場産業センター) |accessdate=2020-08-01}}</ref>。
また、発明者については、現代の歴史家によれば、[[アルキタス]]が発明したとする説と、[[ペルガのアポロニウス]]が発明したとする説がある。ギリシャの学者[[エウスタシウス]]は[[アルキメデス]]が発明したと主張した。実際、円筒状の筒の中に大きなねじを入れた揚水用の[[アルキメディアン・スクリュー]]はアルキメデスの発明といわれ、今まで知られている限り、最初に螺旋構造を機械に使用した例だとされている{{Sfn|山本|2003|p=20}}。水ねじは古代、灌漑や船底の水の汲み上げ、鉱山に溜まった水を排水することなどに使われ、労力に比べ極めて効率的に水を揚水することができた{{Sfn|山本|2003|p=20}}。当時は他の揚水手法に比べて効率性が高く、現代でもねじ式コンベアーとして使われている。[[シケリアのディオドロス]]はこの発明がアルキメデスが[[アレキサンドリア]]で学んでいた青年時代に行われたと記している。ねじ構造はアルキメデスのような天才機械学者によってのみ思い描くことができたとする者もおり、実際「ねじは[[中国]]で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。
ギリシア時代には既に機械として使われていた事が知られている。例えば西洋では、木の棒で作られたねじを利用して[[オリーブ]]や[[ブドウ]]などの果汁を搾るねじ圧縮機([[スクリュープレス]])として使われていた{{Sfn|山本|2003|pp=21-22}}。
=== ルネッサンス期と産業革命 ===
ルネッサンス期にあたる1500年頃には、[[レオナルド・ダ・ビンチ]]によってねじ部品を使った様々な装置が製作され、締結用のねじ部品の利用が広がった{{Sfn|門田|2010|p=12}}{{Sfn|山本|2003|pp=22-23}}。ほかにも実際に作られたかどうかは不明ながら、ねじ切り盤{{Sfn|門田|2010|pp=12-13}}やタップ、ダイス{{Sfn|山本|2003|pp=22-23}}のスケッチも見られた。
フランスの数学者ジャック・ベンソン(1500~1569)もねじ切り盤のスケッチを残しているが木製の機械で実用的でなかったとされている<ref name="himeji" />。
ドイツ人のゲォルク・アグリコラ(1494~1555)の著書にある[[鞴]](ふいご)の図から、1500年前後には金属製のボルト、ナット、小ねじ、木ねじ類は出現していたと考えられている<ref name="himeji" />。15世紀にはフランスの[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]が金属製のねじで組み立てた木製ベッドを使用していた<ref name="himeji" />。
16世紀半ばになると、ねじは様々な場面で使われるようになった。懐中時計用の小さなねじや、銃に使う大きなねじ、甲冑用のボルトなどにねじが使われた。当時の[[リヨン]]近郊のフォレの町は、ねじ作りを専門にした町で、イングランドのミッドランド地方でも家内工業としてねじが作られた。ねじの作成には原始的な旋盤が使われていたが、[[1760年]]ミッドランド地方のジョブとウイリアムスのワイアット兄弟は手で刃を動かしてねじを切る代わりに、カッターで自動的にねじを切れるようにして、数分掛かっていた作業をわずか6,7秒で作ることができるようにするという画期的なねじ製造法を開発した。ワイアット兄弟は「鉄製ねじを効率的に作る方法」で特許を取り世界初のねじ工場を作ったが、事業は失敗に終わり、工場の新しい持ち主が事業化に成功し、その後蒸気機関の活用など各種の改善を経て、船や家具、自動車、高級家具などの需要の高まりとともに大量のねじが作られることになる。
18世紀の終わりまで、旋盤で物を作るのはヨーロッパ貴族の趣味の一つとなっていた。[[1762年]]にヨークシャで生まれ、ロンドンで精密機械を作っていた[[ジェシー・ラムスデン]]は、当時天体観測用や航海用として使われていた精密機器の精度を上げるため、手作りで作る代わりに、より精密な旋盤を作ることによって達成するプロジェクトを始めた。ラムスデンは木製旋盤の代わりに金属製の旋盤を作り、カッターの先端に[[ダイヤモンド]]を使用し、11年かけて旋盤を使って旋盤の部品を作り、それを使ってさらに精密な旋盤を作り上げて旋盤を次第に精密にしていき、最後には千分の4インチという精度のねじを作り上げた。彼が作った高精度のねじは顕微鏡や天文学といった科学分野で活用された。船の経度と緯度を300mの誤差で割り出せる航海用観測機器ができ、[[ジェームズ・クック|キャプテン・クック]]などの航海上の偉業が達成されることになる{{Sfn|田村|2008|p=}}。
=== モーズリーによる発明 ===
量産方法を追求したワイアット兄弟と、精密さを追求したラムスデンは偶然にも同じ時期に活躍したが、両者の業績を統合したのが、英国の[[ヘンリー・モーズリー (技術者)|ヘンリー・モーズリー]] (Henry Maudslay 1771-1831) であった。[[1800年]]に彼は、それまでの旋盤をさらに改良し鉄鋼製のねじ切り用旋盤を開発した{{Sfn|門田|2010|p=12}}。モーズリーはフランス人[[マーク・イザムバード・ブルネル]]と組みポーツマスに世界初の完全に自動化された工場を作った。この工場は10人の工員が44台の機械を使い、年間16万個の滑車を作ることができたという。[[1825年]]には、ブルネルはテムズ川の下をくぐる365mのトンネル工事を受注した。モーズリーはブルネルが発明した矩形のトンネル用鋳鉄製シールドを製造してトンネルを完成させた。これがシールド工法の始まりである。モーズリーは他に印刷機、プレス機、貨幣鋳造の特殊機械、ボイラー板穴開け機などを作ったが、最も有名なのは蒸気機関であった。ブルネルの息子が初の大西洋横断蒸気船を作った際に、モーズリーの息子もその船に搭載する、当時世界最大の750馬力の蒸気機関を作った。これらの成功は、モーズリーが作り上げた極めて精度が高い基準ねじを用いた、規模が大きくなっても精密に仕事ができる旋盤によるものだった。モーズリーは1万分の1インチの精度の[[マイクロメーター]]を作っている。このマイクロメーターはモーズリーの工場で寸法を測る際の至高の基準とされ「大法官」と言われていて、弟子の製品の精度チェックに使われた。また、かつてはナットとボルトは一対で作られ、製造時につけた刻印が合うもの同士でなければ噛み合わなかったが、金属製のねじ切り用旋盤によりねじの精度が上がったため、その必要はなくなった<ref name="himeji" />。
=== 日本へのねじの伝来 ===
日本には[[1543年]]、[[種子島]]へ漂着した[[ポルトガル]]人が所有していた[[火縄銃]]とともにねじが伝来したとされている<ref name="himeji" />。種子島領主・種子島時堯は2挺の火縄銃を購入し、うち1挺を刀鍛冶[[八板金兵衛]]に与えて銃の模造を命じている<ref name="himeji" />。この時、金兵衛は自分の娘[[若狭 (八板清定女)|若狭]]をポルトガル人に嫁がせてまで、ねじの作成法を習得したとする伝説が残っている。火縄銃の銃身の後ろ側(銃底)を塞ぐ尾栓に使われていたおねじとめねじが日本人が初めて見たねじとされている<ref name="himeji" />。金兵衛にとって「おねじ」の製造は比較的簡単だったものの「めねじ」の製造は難しく、おねじを雄型とする熱間鍛造法で製作したと推定されている<ref name="himeji" />。
日本を含めて[[東洋]]では、ねじ構造自体を独自に発見・発明することができなかった。[[村松貞次郎]]は『無ねじ文化史』で[[江戸]]の工業製品にはねじの使用例はなく、[[江戸幕府]]の[[江戸時代]]とは「ねじの無い文化」の時代であるとした。結局、ねじ製作のための優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作ること自体が「大変困難な仕事である」ということがその理由である。[[和時計]]も特殊なねじがわずかにあるだけで、ほとんどが[[楔]]で作られている。ねじがほとんど無いため、日本では[[ドア]]が発達しなかった。火縄銃にはねじが必須であったが、江戸時代の火縄銃のほとんどは新たに作るのではなく、以前の火縄銃の銃口を広げたりして作り替えていたという。
日本では、[[1857年]]にモーズリー由来でホイットワースが改良したねじ切り用[[旋盤]]が輸入された。[[1860年]]、[[万延元年遣米使節|遣米使節]]として渡米した[[小栗忠順]]は、[[ワシントン海軍工廠]]を見学後、西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、1本のねじを持ち帰ったという{{Sfn|田村|2008|p=}}。
=== 製造方法と標準化の発展 ===
西洋での[[産業革命]]期には、締結用のねじが大量に生産されるようになった。産業革命によって金属製のねじが蒸気機関や紡績機械、各種工作機械に欠かせないようになっただけでなく、そもそも精密に物の長さや角度を測ったり物を加工するには、ねじ構造が必須であり、産業革命もこれらの技術がなければ成り立たなかった{{Sfn|田村|2008|p=}}。
ねじは専門業者が製造していたが、各機械メーカーは自社製の機械に合わせて独自の直径・ピッチのねじを発注していたため、大量生産の利点は生かされていなかった<ref name="himeji" />。
ねじの形式を調査し標準化に貢献した人物に[[ジョセフ・ホイットワース]](または、ウイットウォース)(Joseph Baronet Whitworth 1803-1887) がいる<ref name="himeji" />。モーズリーの弟子であった彼は、顧客から製作を求められる多様なねじの形状を整理した上で、[[1841年]]には山の角度を55度とするなど独自の規格を決めて公表した。1841年に発表されたこのねじ形式を「ウィットウォースねじ」という<ref name="himeji" />。この「ウィットウォースねじ」の規格が次第に普及し、英国の国家規格BSに正式に採用された<ref name="himeji" /><ref group="注">ホイットワースが55度という半端な数値を選択したのは、当時のイギリス工業界で流通していた多様なねじ山角度のうち、代表的なもの大方を集計した結果の平均値であったことによる。つまり技術的優位性ではなく、規格統一実現を目的に工業界全体の同意を取り付けることを優先した結果の産物であった。55度のねじ山角度は計算上半端なため、ねじ加工を行う工作機械設計の面では不利であり、ウィットウォースねじよりも後発で制定されたアメリカのセラーズねじ以降、角度算出・製図に適した60度ねじ山が一般化した。</ref>。
ねじの標準化の動きは、工業製品の大量生産を得意するアメリカ合衆国でも進められ、ウィリアム・セラーズがウィットウォースねじに改良を加え、山の角度60度の「[[インチ]]系ねじ」を発表した。これは[[1868年]]に「セラーズねじ」として米国内標準規格となり、米国政府関係事業に全面的に採用され、「USねじ」「アメリカねじ」とも呼ばれるようになった。このUSねじ規格は、第2次世界大戦中に米国、英国、カナダの3ヶ国が武器に使用するための互換性のあるねじとして生み出された「ユニファイねじ」規格へと発展した。こういった北米圏での「インチ系ねじ」とは別に、[[1894年]]にまずフランスで制定され、1898年にはフランス、スイス、ドイツが採用した、山の角度60度の「[[メートル]]系ねじ」が「SIねじ」規格として欧州域で普及し、その後も広く使われた。このSIねじが21世紀現在、世界中で最も普及している「メートルねじ」の原形になっている。
メートル系やインチ系といった違いの他にも、各国ごとにそれぞれ異なるねじ規格が存在していたため、国際間の物流の拡大につれて不便が生じ始めた。やがて、世界的なねじの互換性の要求が高くなり、国際間でのねじを統一しようとする動きが起こった。
第二次世界大戦期後、[[1947年]]に[[国際標準化機構]] (ISO) が設立され、ねじ規格でも国際的な標準化が進められた結果、1953年に「ISAメートルねじ」に準じた全世界共通の「ISOメートルねじ」規格を制定するとともに、アメリカ、イギリス、カナダが推奨する「ユニファイねじ」を「ISOインチねじ」として採用した<ref name="himeji" />。
加工法では、[[1955年]]頃から転造法による生産が本格化した<ref group="注">第二次世界大戦中の[[1943年]]には、ドイツの潜水艦で精密転造盤が日本に運ばれるほど、当時は高度な技術だった。</ref>。
日本でも、[[日本産業規格]] (JIS) によってねじの標準規格が作られている。[[1975年]]からは毎年の6月1日を「ねじの日」としている。ISOによるねじの国際規格は世界の統一規格のために定められたが、北米圏や豪州では使用されていない。日本国内ではかつてはインチねじが主流を占めていたが、今では国際規格であるISO規格に準じたJIS規格によって寸法が統一され、インチねじは航空機その他特に必要な場合に使われる程度になっている<ref name="himeji" />。日本国内での輸入製品などの修理には、ユニファイやインチといった海外規格のねじが必要になる{{Sfn|田村|2008|p=}}。
== ねじの幾何 ==
[[ファイル:Screw (bolt) 01.PNG|thumb|220px|right|ねじの螺旋は3角形が作る斜面に等しい。]]
[[ファイル:Screw (bolt) 02.PNG|thumb|220px|right|左:通常のねじの巻き(円筒形)<br />右:テーパねじの巻き(円錐形の一部)]]
ねじの動きの幾何的関係は、[[斜面]]の原理で説明される。
ねじの有効径(直径)を ''d'' 、リード(回転軸方向に進む距離)を ''L'' 、リード角を β とすると、これらの間には
:<math>L=\pi d\tan\beta\ </math>
の関係がある。このため、ねじをそのねじ山稜線に沿って進んだ時、軸方向の移動距離と軸に対する回転角との間には比例関係が生じるが、この性質から、位置決めや[[マイクロメータ]]などにおける微細寸法の拡大にねじが使われる。
軸から力点までの半径距離を ''R'' 、この位置で加える回転力を ''T'' とし、ねじの有効径半径を ''r'' 、有効径仮想円筒上の任意の点に加わる回転力を ''P'' とすれば、力の釣り合いから
:<math>TR=Pr\ </math>
である。また、摩擦角 φ、リード角 β のねじにおいて、''P'' と、この点に働く軸方向の力 ''Q'' との間には
:<math>P=Q\tan(\beta+\phi)\ </math>
の関係があり、これらから
:<math>\frac{T}{Q}=\frac{r}{R}\tan(\beta+\phi)\ </math>
が導き出される。従って、リード角β、摩擦角 φおよび半径の比 ''r'' /''R'' を小さくする事により、より小さな力 ''T'' でより大きな力 ''Q'' を得られることになる。ねじが締結や倍力の発生に使われるのは、このような理屈による。
== 物理的原理 ==
ねじの物理的な働きは、斜面と摩擦によって実現されている。以下では、ねじの物理的な働きを単純化して、斜面上の物体を押して移動させる例に例えて示す。
=== 締める力 ===
[[ファイル:Screw (bolt) 03A-n.PNG|thumb|300px|right|締める場合の力のかかり方]]
ねじを締めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の上へと押し上げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ ''W'' の物体を水平方向に力 ''F'' で押すことを考える。斜面に平行な分力を ''S'' と ''T'' で、斜面垂直な方向の分力を ''R'' と ''N'' で表すと、それぞれの力の関係は以下の式で表される。
:<math>\begin{align}S &= W\sin\beta,\qquad
T = F\cos\beta,\\
R &= W\cos\beta,\qquad
N = F\sin\beta.\end{align}</math>
斜面に働く垂直応力は ''N'' + ''R'' なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ ''W'' の物体にこのとき働いている摩擦力 ''f'' は、以下の式で表される。
:<math>f = \mu(R + N)\ </math>
また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。
:<math>T = S + f\ </math>
上式にさらに上の4つの式を代入すると、以下の式が得られる。
:<math>F\cos\beta = W\sin\beta +\mu(W\cos\beta + F\sin\beta)\ </math>
<!--:<math>F(\cos\beta - \mu\sin\beta) = W(\sin\beta + \mu(\cos\beta)\ </math>-->
上式より力 ''F'' は次のように表される。
:<math>F = W\frac{\sin\beta + \mu\cos\beta}{\cos\beta - \mu\sin\beta} = W\frac{\tan\beta + \mu}{1 - \mu\tan\beta}\ </math>
斜面上の物体が摩擦による静止を振り切って滑り出す時の最小化角度を「摩擦角」と言い φ で表す。摩擦係数 μ = tan φ であるので、上式に代入すると以下の式が得られる{{Sfn|門田|2007|pp=73-74}}。
:<math>F = W\tan(\beta + \phi)\ </math>
また、ねじを締めた時の仕事の効率を、締めるのに要した力とねじが行った仕事との比率で表して「ねじの効率」と呼ぶ。例えば荷重 ''W'' の物体を坂の上で押して高さ ''L'' まで上げた時にねじが行った仕事は ''WL'' となる。ねじを回すのに要した仕事は
:<math>F\pi d= W\pi d\tan(\beta + \phi)\ </math><!--thetaの定義がない-->
となるため、ねじの効率 η は次式で表される。
:<math>\eta = \frac{WL}{F{\pi}d} = \frac{W{\pi}d\tan\beta}{W{\pi}d\tan(\phi + \beta)} = \frac{\tan\beta}{\tan(\phi + \beta)}\ </math>
自然に緩むことがないためには条件 β≥φ が必要なので、β = φ とすると、最大効率ηは次の式で表せる。
:<math>\eta = \frac{\tan\phi}{\tan{2}\phi} = \frac{\tan\phi}{\frac{2\tan\phi}{1-\tan\phi}} = \frac{1}{2} - \frac{1}{2}\tan^2\phi\ </math>
φ > 0 なので、ねじの効率 η < 1/2 である。つまり自然に緩まないねじの効率は50%より小さくなる{{Sfn|門田|2009|p=}}。
=== 緩める力 ===
[[ファイル:Screw (bolt) 03B-n.PNG|thumb|300px|right|緩める場合の力のかかり方]]
ねじを緩めることは、重力を除けば斜面に乗っている物体を坂の下へと押し下げることに等しいと考えられる。今仮に、斜面上の重さ ''W'' の物体を水平方向に押す力 ''F' '' で押すこととする。斜面に働く垂直応力は ''R'' - ''N'' なので斜面の摩擦係数が μ ならば、斜面上の重さ ''W'' の物体に働いている摩擦力 ''f' '' は以下の式で表せる。
:<math>f' = \mu(R - N')\ </math>
また、斜面に平行な力のつりあいは以下の式で表せる。
:<math>T' = f' - S\ </math>
上式などから ''F' '' は次のように表される。
:<math>F' = W\frac{\mu - \tan\beta}{1 + \mu\tan\beta} = W(\phi - \beta)\ </math>
β > φ の時は水平方向に押す力 ''F' '' < 0 となり、釣り合わせるためには押すのではなく引かなければならない状況、つまり押さなくても勝手に坂を下る状況になる。これはねじでは自然に緩んでしまうことを意味する。
したがってねじが自然に緩んでしまわないためには β ≤ φ でなければならない。これをねじの自立条件と呼ぶ。一般的なねじに使われるメートル並目ねじのリード角は2-3度であり、摩擦係数 μ は0.1程で(角ねじで考えれば)摩擦角は約6度となって、ねじの自立条件を十分に満たしている。
締結用で一般的な三角ねじでは、ねじ山の角度 α の60度に対してねじ面に垂直な力は ''F'' cos(α/2) となる。この場合は締める力と緩める力はそれぞれ
:<math>F = 1.16W\tan(\phi + \beta),\qquad F = 1.16W\tan(\phi - \beta)</math>
となる。1.16という数値はねじ山の角度 α = 60度から、
:<math>\frac{1}{\cos\frac{\alpha}{2}} \fallingdotseq 1.16</math>
で計算される。
これらのことから、三角ねじをねじ山に沿って回転させるには角ねじの1.16倍ほどの力が必要であり、三角ねじが締結に適していて、角ねじが運動に適することが分かる{{Sfn|門田|2007|pp=74-75}}。
== 機能 ==
ねじの機能は、固定状態で使うものと可動状態で使うもので大きく異なり、それぞれがいくつかの機能に細分化できる。
* 固定状態 - 締結、接合・結合、緊張、密封
* 可動状態 - 搬送、測定・微調整、増力・減速、圧縮・圧搾
; 固定状態
: 一方向に締め付けることで物を固定する。
:* 締結:物と物を締め付けて動かないようにする。最も一般的なねじの機能であり、機械、建築物などの広範な用途で使用される
:* 接合・結合:水道管のような物と物を繋ぐ機能で使用される
:* 緊張:[[ターンバックル]]のようにワイヤやロープを引っ張って弛まないようにするのに使用される
:* 密封:ビンの蓋など封をする部分に使用される
[[File:Archimedes-screw one-screw-threads with-ball 3D-view animated small.gif|thumb|280px|right|'''アルキメデスのスクリュー''']]
; 可動状態
: 回転運動を直線運動などに変える。
:* 搬送・移動:機械内部でモーターなどの回転運動を直線運動に変換する。[[粉粒体|粉体や粉粒体]]、[[泥]]状の物などの移動に用いる[http://wam.co.jp/ja-JP/WAMJP/Family/361/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%98%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC スクリューコンベア]が一般的で、多軸の製品[http://www.showa-kikai.co.jp/products/cv06.php][http://wam.co.jp/ja-JP/WAMJP/Family/385/%E5%A4%9A%E8%BB%B8%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%BC%8F%E6%8E%92%E5%87%BA%E8%A3%85%E7%BD%AE]もある。
:* 測定・微調整:[[マイクロメータ]]のように物の寸法を[[測定]]する。また、[[光学機器]]の[[焦点 (光学)|ピント]]合わせや[[赤道儀式架台]]などの微動に利用される
:* 増力・減速:[[ジャッキ]]や[[万力]]のように、ねじの回転を利用して大きな力を生み出す。また、[[ウォームギヤ|ウォーム歯車]]は1段でも回転運動を大きく減速でき、かつ、回転[[軸 (機械要素)|軸]]の方向を直角に変えることができる。
:** 圧縮・圧搾:ブドウ液の[[絞り|圧搾]]のように、ねじの回転移動により物に[[圧力]]をかけ、圧搾・圧縮する<!--圧搾は増力の一形態でしょう。-->
固定状態で使用されるねじは緩まないように静止抵抗の大きい方が良いが、可動状態で使用されるねじの多くはおねじとめねじの接触面の抵抗が低い方が良いので、できるだけ平滑にされ[[潤滑油]]も使用されることが多く、[[ボールねじ]]のように[[玉軸受|ボールベアリング]]まで利用されるものがある{{Sfn|田村|2008|p=}}{{Sfn|門田|2007|p=100}}。
== ねじ部品 ==
ねじ部品とは、締結に使用されるねじの総称である。また、ねじの外径が8 mm以下のねじは一般に「小ねじ」と呼ばれる。JISでは頭部の直径がねじ部外径の約2倍で、原則として"[[ドライバー (工具)|ねじ回し]]"ですり割りや十字穴にトルクを加えて締め付けるねじ部品が小ねじであるとされる。[[ナット]]と一組で使われることもあるため、小さめのボルトとの区別は特に存在しない{{Sfn|田村|2008|p=}}{{Sfn|門田|2007|pp=33-35}}。
=== 表記法 ===
[[File:Screw (bolt) 09B-J.PNG|thumb|200 px|right|'''一般的な小ねじの表記'''<br />多種多様なねじを表す表記方法は様々であるが、一般的な小ねじは簡便に、種類を示す英字記号と呼び径×長さで表すことが多い。ただし締結対象内に埋め込まれることが多い「皿ねじ」だけは、長さは頭部も含めて表される。上の例では呼び径 4mmで長さが10 mmのメートルねじを表す。メートルねじには並目と細目があるので、ねじのピッチを見て判断することが多い。]]
ねじ部品を特定するための要素には、巻きの方向、条数、ねじ溝の形状、径及びピッチとがあり、通常これらの要素を名前に並べる事でねじの種別が表される。例えば「左2条、直径 8mm、ピッチ1 mmのISOメートル三角ねじ」「右1条、直径1/4インチ、(インチあたり)20山のユニファイ(並目)ねじ」と表す。ねじの多くが「右1条」であるために、この場合は省略されることが多い。[[標準化|規格化]]されたねじの場合、それぞれの規格ごとに表記の仕方が定められており、それによれば先の2つの例はそれぞれ「L2N M8×1」「1/4-20 UNC」となる。ピッチを mm で表すものは、「ねじの巻き方 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字×ピッチ - 等級」 となり、ユニファイねじでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの直径を表す数字または番号 山数 ねじの種類を表す記号 - 等級」、ユニファイねじ以外のピッチを山数で表すものでは「ねじの巻く方向 ねじ山の条数 ねじの種類を表す記号 ねじの直径を表す数字 山 山数 - 等級」となる。
; ねじの種類を表す記号
* M:メートル並目ねじ
* M:メートル細目ねじ
* R:管用テーパねじ(テーパおねじ)
* Rc:管用テーパねじ(テーパめねじ)
* Rp:管用テーパねじ(平行めねじ)
* G:管用平行ねじ
* UNC:ユニファイ並目ねじ
* UNF:ユニファイ細目ねじ
* S:ミニチュアねじ
* Tr:メートル台形ねじ
* TW:29度台形ねじ(ISO規格にない){{Sfn|門田監修|2007|p=111}}。
[[File:Screw (bolt) 04A-J.PNG|thumb|200 px|right|「おねじ」の主な部分の名称]]
[[File:Screw (bolt) 04B-J.PNG|thumb|300 px|right|ねじ山の各部の名称]]
[[File:Screw (bolt) 05-J.PNG|thumb|300 px|right|「おねじ」と「めねじ」の横断面図]]
[[File:Screw (bolt) 08-J.PNG|thumb|250 px|right|]]
[[File:Screw (bolt) 07A-J.PNG|450 px|right]]
[[File:Screw (bolt) 07C-J.PNG|220 px|right]]
[[File:Screw (bolt) 07B-J.PNG|450 px|right]]
[[File:Screw (bolt) 07D-J.PNG|220 px|right]]
=== 各部の名称 ===
おねじ部品において、ねじの先端を「先」と言い、ねじ部分とそれに続く(多くはねじと同径かそれ以下の)円筒部を合わせて「軸」と言う。軸の終端に設けられたより太い部分は「頭」と呼ばれ、頭と軸の境目を「首」という。
おねじ部品の頭や、めねじ部品において、締め付けた際に荷重を受ける面を「座面」と言い、おねじ部品においては、ねじ先から座面までの部分を総じて「首下」と呼ぶ。
==== ねじ部品の呼び方 ====
個々のねじ部品を特定するのに必要な要素としては、「ねじの呼び」「部品形状」「材質」があり、またおねじではこれに「長さ」が加わり、これらを並べて呼ばれる。おねじ部品を呼ぶ際の長さ寸法は「呼び長さ」と呼ばれ、一般論として、頭のついたねじでは首下、頭のないねじでは全長やねじ部の長さなどが使われる。呼び長さは一般にはねじの呼び径のすぐ後に置くが、文脈上呼び長さを表す数値である事が明らかである場合には乗算記号×を用い「呼び径×呼び長さ」のように略記される。
ねじは基本的に「頭」(頭部)とねじ山が刻まれている「軸」、先端である「先」、頭と軸の間を「首」と呼ばれる部分に分かれる。一般的なねじでは、[[時計回り]]にねじを回すと奥に進む「右ねじ」になっているが、右ねじでは緩むような用途でまれに「左ねじ」も存在する<ref group="注">「左ねじ」は[[工具#動力工具|動力工具]]の回転刃の固定、[[扇風機]]や[[模型航空機]]の回転翼([[プロペラ]])の固定、[[船外機]]の[[スクリュープロペラ]]の固定、[[レシプロエンジン]]の左側[[クランクシャフト|クランク軸]]の固定、左側の[[車輪]]などの固定に使われる場合がある。また[[ボンベ]]においては[[可燃性ガス]]のボンベの口金は誤結を防ぐために充填する気体によって形状を異なったものにする規定となっており、[[ヘリウム]]・[[水素]]・医療用[[亜酸化窒素]](いわゆる笑気ガス)などは左ねじが使われている{{Cite web|和書|format=pdf |url=http://www.chiyoda-seiki.co.jp/data/c_pdf/g/163_164.pdf |title=千代田溶断機カタログ2013(溶断用)pp.163-164 |publisher=千代田精機 |accessdate=2017-04-28}}{{Cite web|和書|url=http://daitoh-mg.jp/2011/07/bulbe-connection.html |title=高圧ガスのバルブ、継手形状 |publisher=大東医療ガス |accessdate=2017-05-12}}</ref>。左ねじでは「L」や「←」、切り欠きといった識別マークで示されることが多い{{Sfn|田村|2008|p=}}。
ねじの山と谷の間隔と移動量は以下のようにピッチとリードで表される。
* ピッチ:隣り合うねじ山同士の距離
* リード:ねじを1回転させた時の軸方向の移動量
また多くのねじではピッチとリードが同じになり、これを「一条ねじ」と呼ぶ。ピッチとリードが同じ「一条ねじ」の他にも、リードがピッチの2倍の「二条ねじ」のように2以上の整数倍のものがあり、これらは「多条ねじ」と呼ばれる。多条ねじは管の接合部で用いられたり、[[電灯]]の灯屋や広口[[瓶]]の蓋、[[双眼鏡]]や[[写真レンズ|カメラレンズ]]の焦点合わせ機構(ヘリコイド)などでも用いられる<ref group="注">ピッチが細かなねじは一般にねじ部での締結力が強くなるが、ピッチの粗いねじに比べて多く回転させる必要があり作業性が劣る。</ref>。
一般的なねじはねじ山が円筒形の軸の周囲に同じ直径で刻まれている「平行ねじ」であるが、特殊な用途では円錐形の軸に沿って刻まれている「テーパねじ」がある。
; 頭部
: {{節スタブ}}
; 軸部
: {{節スタブ}}
; 円筒部
: ねじが切られていない部分を指すことが多いが、ねじ頭以外の部分を指すこともある。
; 座面
: {{節スタブ}}
; ねじ部
:* 完全ねじ部
:* 不完全ねじ部<ref group="注">不完全ねじ部は、JISでは長さに幅を持たせているだけでなく、山や谷の形状についても規定していない。必要ならばねじメーカーとユーザーの間での確認や協議が求められる。</ref>
:; 全ねじ
::# ねじ頭を持たず、棒の全長に渡ってねじが切られたもの。止めねじも全ねじである。
::# ねじ頭を持ち、残る円筒部の全長に渡ってねじが切られたもの。押しねじとも呼ばれる。
:; 半ねじ
:: ねじ頭を持ち、円筒部の一部にねじが切られたもの。中ボルトとも呼ばれる。
; 面取り部
: 端部などの本来鋭い角を位置合わせの容易さや安全面・締結面の傷の減少などを考慮して斜めに[[面取り]]加工した部分である。加工面の角度を面取り角と呼ぶ。
ねじの大きさや長さは以下の長さを計ることで示される。
* 内径:めねじのねじ山先端間の直径
* 外径:おねじのねじ山先端間の直径
* 谷の径:おねじとめねじの谷の底の間の直径
* 有効径:ねじ山の幅とねじ溝の幅と等しくなる仮想的な円筒の直径
* 頭の径
* 円筒部径
* 丸み移行円の径
* 首下丸み:ねじの軸線を含んだ断面形において測った首下丸み部の半径
おねじでは外径の基準寸法を、めねじでは谷の径の基準寸法を「ねじの呼び径」という。
* 長さ:頭を除く長さ(皿ねじでは頭も含める)
* ねじ部長さ
* 円筒部長さ
* 呼び長さ
* グリップ長さ
* ドライブ部(深さ)
* 頭の高さ
; 引っ掛かりの高さ
: [[File:Screw (bolt) 06-J.PNG|thumb|300 px|right|「基準山型」と「引っ掛かりの高さ」]]
: おねじとめねじが接触する面の高さを引っ掛かりの高さと呼ぶ。基準山形のものと実体のものの2種類がある。
; 引っ掛かり率:
: 基準山形の引っ掛かり高さに対する実体の引っ掛かり高さの比を百分率で表し、次の式で算出される。
:: 引っ掛かり率=(H1'/H1)×100(%)
:: H1 : 基準山形の引っ掛かり高さ
:: H1' : 実体の引っ掛かり高さ
{{Sfn|田村|2008|p=}}{{Sfn|門田|2007|pp=22-23}}
=== 頭部形状 ===
[[File:Screw (bolt) 09A-J.PNG|thumb|300px|right|'''小ねじの頭部形状'''<br />代表的な小ねじの頭の形状を示す。この他にボルトのような六角頭や四角頭などもある。]]
おねじ部品の頭部形状の主なものは以下の通りである。これらは用途などにより使い分けられる。
; なべ
: 上面の角に丸みを付けた平頭
; 皿
: 上面が平坦で、座面は円錐の形{{refnest|group="注"|{{要出典範囲|座面角度が60度|date=2015年4月}}で小頭の皿小ねじ(JIS規格外){{Sfn|門田監修|2007|pp=40-41}}、座面が円弧状になった'''トランペットねじ'''(JIS B1125 参照){{Sfn|門田監修|2007|pp=78-79}}というものもある。}}
; 丸皿
: 上面に丸みを持った皿形
; トラス
: 丸頭よりも大径で、背の低い形
; バインド
: 径が大きく上面に丸みの付いた形。座面に窪みを設ける事もある。
; 低頭/超低頭
: 「平頭」よりも薄く作ったもの<ref group="注">超低頭ねじでは、M5で頭部の厚みが1.2 mmほど、M3では0.7 mmほどしかない。</ref>
; チーズ
: 側面にわずかに傾斜のついた平頭
; 丸
: 半球に近い形
; 平
: 背の低い円筒形
; 平丸
: 上面が丸みを帯びた平頭
; プレジャ
: 丸頭とトラス頭の中間的な形
; 六角
: 正六角柱形
; 四角
: 正四角柱形
; ヘキサビュラ
: 角に6つの突起部を持つ変形六角柱形であり、植え込みボルトなどで使用される
; 楕円(オーバル・ヘッド)
: わずかに楕円の頭を持ち、適合するドライバーでなければ廻すことができない。締め付けトルクはかなり大きく、防犯性にも富む。丸皿頭の変形である。
; ワッシャーヘッド
:首の位置に座金相当の形状の出っ張った頭部を持つ。
{{Sfn|田村|2008|p=}}{{Sfn|門田|2007|pp=33-44}}{{Sfn|門田|2007|pp=180-182}}{{Sfn|門田監修|2007|p=}}
==== 溝・穴 ====
[[File:Screw (bolt) 11A-J.PNG|thumb|300 px|right|'''一般的なねじの溝と穴''']]
[[File:Screw (bolt) 11B-n.PNG|thumb|220 px|right|'''いじり止めねじ'''<br />通常の工具では回せない特殊な溝や穴が付いたねじがある。これらはほんの一例である。]]
小ねじのような比較的小型のおねじ部品では、頭部頂面に工具で回すための溝や穴が設けられているものが多い。その主なものには「すりわり」や「十字穴」、「六角穴」がある。六角や四角といった角型の頭部はそれ自体がめがね[[レンチ]]やスパナを掛ける部分となる。これら(とくに溝のもの)をねじ山と呼ぶこともあり<ref group="注">本来、「ねじ山」とはねじ軸に刻まれた螺旋の溝・歯を指すので、ねじ頭の一本線や十時に切った溝や四角・六角の穴を「ねじ山」と呼ぶのは間違いである。「ねじ頭の溝」と呼べば間違いはない。</ref>、「ねじ頭が傷む(なめる、バカになる、ダメになるとも言う)」とは、ドライバーの形が合わないまま無理な扱いをしたり、締め過ぎによって溝や穴が欠けたり削れたりしてしまい、ドライバーで回しようがなくなった状態を指す。
; すりわり
: 一般に「マイナス」と呼ばれている一文字の溝である。規格化されたネジの中では始めに普及した形状でもある。マイナスドライバーを使用する<ref group="注">工具を使った締結時にズレの少ない「十字穴」や「トルクス」のようなねじの方が、作業性が高く大きなトルクにも対応できるため、「すりわり」を持った頭のねじは減少している。</ref>他、コインを用いて回すよう意図されたものもある。
; 十字穴
: 一般に「プラス」と呼ばれている十文字の穴である。プラスドライバーを使用する。「フィリップス形」や「ポジドライブ」など数種が知られている<ref>{{Cite web|和書|author=[[前田知洋]] |date=2018-06-12 |url=https://ascii.jp/elem/000/001/690/1690646/ |title=そのドライバー、間違ってる!? 意外と知られていないネジとドライバーのスペック |publisher=[[アスキー (企業)|角川アスキー総合研究所]] |accessdate=2022-04-07}}</ref><ref group="注">「フィリップス形」の名前は、米国のフィリップス・スクリュー社が1933年にJ.P.Thompsonの発明した特許を買い取り発売したことに由来する。</ref>。最も普及している。
; プラスマイナス穴
: 十字穴の1つが長くなってすりわりと同じ形になり、プラスとマイナスの両方のドライバで扱える{{Sfn|門田監修|2007|p=42}}。
; 六角穴(ヘクス・ソケット)
: [[六角レンチ]]など、断面が正六角形の棒を差し込むための穴である<ref>{{Cite web|和書|title=六角穴付ボルト(キャップボルト)/よくわかる規格ねじ|url=https://www.urk.co.jp/contents/elements/element13.html|website=www.urk.co.jp|accessdate=2020-09-20}}</ref>。
; 四角穴(スクエア・ソケット)
: 断面が正方形の棒を差し込むための穴である。「ロバートソン形」と呼ばれる<ref group="注">「ロバートソン形」の名前は、カナダの発明家[[:en:P. L. Robertson|ピーター・L・ロバートソン]]が1907年に特許を取得。カナダにあった[[フォード・モーター|フォード]]の関連工場などに採用された。</ref>。ねじ回しでは先端にわずかなテーパが付けられており、ねじ回し上でねじを水平に保持できる。カナダでは機械や電気関連の業種で普及しており、電気工事用の標準ねじとして採用されている。日本でも建築現場で筋交い固定金具用として標準化されている。
; ヘクスローブ穴
: 六角星形の穴。[[トルクス]]({{lang|en|TORX}})やその改良版である「トルクス・プラス」<ref group="注">"TORX"(トルクス)と"TROX PLUS"(トルクス・プラス)は、共に米カムカー(Camcar)社(CAMCAR DIVISION OF TEXTRON Fastening System Inc.)の登録商標である。</ref>が知られる、他の形状よりトルクをかけやすい、ネジ頭を傷めにくいという意図で開発された。マイナスドライバーなどの差し込みを防止するために、この穴の中央に突起を設けた形状もある。これらで使われる六角穴に適合する雄形状は一般にヘクサロビュラー(hexalobular)と呼ばれる。
; 三角穴
: 正三角形の穴が刻まれている<ref group="注">携帯ゲーム機の筐体などを締める時に、使われているねじがこれである。</ref>ものや、3本の溝が刻まれたものがある。
; 複数の穴
: 2つ程度の穴が開けられているものがある。
{{Sfn|田村|2008|p=}}{{Sfn|門田|2007|pp=33-44}}{{Sfn|門田|2007|pp=180-182}}
<gallery>
File:Screws - tamper resistant slotted.jpg|耐タンパーねじ:一方向にしか回せない
画像:TorxScrew.jpg|トルクスねじと専用ドライバ
</gallery>
[[File:Screw (bolt) 12-J.PNG|thumb|250 px|left|'''先端部形状''']]
=== 先端部形状 ===
* あら先
* 面取り先
* 平先
* 丸先
* とがり先
* 全とがり先
* 棒先
* 半棒先
* くぼみ
* 球状<ref group="注">球状の先端部も持つねじは「作用性向上ねじ」や「傷防止ねじ」と呼ばれ、取り付け時に不用意に取り付け面に先端部が当っても傷を付けないように考慮されている。</ref>
* 他の形状:切り刃先、タッピンねじ先F形、タッピンねじ先C形、木ねじ、ドリルねじ、コーススレッド{{refnest|group="注"|コーススレッドは木ねじよりも歯のピッチが粗い他は概ね似た形状である{{Sfn|門田監修|2007|p=82}}。}}{{Sfn|門田|2007|pp=36-38}}{{Sfn|門田監修|2007|p=}}
=== 歯の形状 ===
[[File:Screw (bolt) 10-J.PNG|thumb|180px|right|'''歯の形状'''<br />ねじの用途に応じていくつかの歯の形状がある。]]
ねじの歯の形状はねじの用途に応じていくつか存在し、基準山形で表されることが一般的である。基準山形とは、ねじ山の実際の断面形を定めるための基準となる理論上のねじ山形状のことであり、ねじ山の1ピッチ分の形状をいう。「基本山形」「基本形」とも呼ばれる。
; 三角ねじ
: ねじ山の断面の斜面の角度が60度で、頂部が平坦または丸みが付けられている。比較的緩むことが少ないので、締結用で使われる最も一般的なものである。メートルねじ、インチねじ、ユニファイねじも三角ねじである。
; 角ねじ
: ねじ山の断面が正方形に近く、比較的小さな回転力で軸方向に移動できるため、[[プレス機]]や[[ジャッキ]]などで利用される。
; 台形ねじ
: 三角ねじより斜面の角度がきつく、軸方向の精度が出しやすい。角ねじより丈夫なため[[旋盤]]などの送りねじや、測定器でも使われる。
; 鋸歯ねじ
: 三角ねじと角ねじを組み合わせたように、斜面の傾きが非対称になっている。一方の軸方向のみ力を受ける用途に向き、プレス機や[[万力]]で利用される。緩めるときにすばやく動く。
; 管用ねじ
: ねじ山の断面の斜面の角度が55度の三角ねじであり、管類の接続に利用されることが多い。平行ねじの他にテーパねじがある。
; 丸(電球)ねじ
: ねじ山の断面が半円形で、[[電球]]の口金・[[ソケット (電気器具)|ソケット]][に使われている。
{{Sfn|門田監修|2007|pp=112-113}}
<table><tr>
<td valign="top">[[File:Screw (bolt) 20A-J.PNG|thumb|250 px|right|'''ねじの基準山形(1)''']]</td>
<td valign="top">[[File:Screw (bolt) 20B-J.PNG|thumb|250 px|right|'''ねじの基準山形(2)''']]</td>
</tr></table>
== 分類 ==
以下にねじの分類を示す。
* メートルねじ
** 並目ねじ
** 細目ねじ
* インチねじ
** 並目ねじ
** 細目ねじ
;インチねじ
:ねじのピッチを 25.4mmについての山数で表した三角ねじである。
;ユニファイ並目ねじ
:アメリカ・イギリス・カナダの3国が軍事上の必要から協定したできたねじで、ねじ山の角度が60°の並目のインチねじ(JIS B 0206 参照)。
;ユニファイ細目ねじ
:基準山形(※1)は、ユニファイ並目ねじと同じであるが、直径に対するピッチが細かいねじである。
ISO小ねじのM3、M4、M5の頭部に小さなくぼみを付ける事で、ピッチの異なるJIS規格との判別できるようになっている。
=== ボルト ===
[[File:Screw bolt.png|thumb|200px|right|'''ボルト''']]
[[File:One-hundred, ninety-three pound nut and bolt, one of 16 used to join sections of the generator shaft of a 75,000 kW generator - Grand Coulee Dam, 1942.jpg|thumb|200px|right|'''重さ193ポンド'''(約87.5kg)'''のボルトとナット'''。水力発電所の75メガワット発電機で使われたもの]]
一般にナットと組んで用いられるねじは、ボルトと呼ばれる。{{main|ボルト (部品)}}
; 六角ボルト
:ボルトの頭が六角形のもの。特に二面幅(S)とねじの呼び径(d)の比率 s/d が1.45未満の六角ボルトを小型六角ボルトと呼ぶ{{Sfn|門田監修|2007|p=48}}。
:; 呼び径六角ボルト
::ねじが切られていない円筒部の直径がおねじの外径(呼び径)に等しい六角ボルト
:; 有効径六角ボルト
::ねじが切られていない円筒部の直径がおねじの有効径に等しい六角ボルト
:; 半ねじ六角ボルト
::一般的なボルトであり円筒部の先端から途中までねじが切られている六角ボルト。必ずしも半分とは限らない。
:; 全ねじ六角ボルト
::円筒部の全体にねじが切られている六角ボルト
:; 六角伸びボルト
::円筒部の一部、または全部の径を細く削って締め付け力によって伸びやすくした六角ボルト
; 四角ボルト
:ボルトの頭が四角形のもの
; 丸頭ボルト
:ボルトの頭が円筒形のもの。多くが頭の側面に[[ローレット加工]]を持つ。
:; 六角穴付きボルト
::丸頭ボルトの頭に六角穴が開いているもの。「キャップスクリュー」と呼ばれることもある。頭部が丸い形状のものは「六角穴付きボタンボルト」、頭部が皿形状のものは「六角穴付き皿ボルト」と呼ばれる{{Sfn|門田|2009|p=}}。
:; 角根丸頭ボルト
::丸頭の根に四角い部分を持つボルトである。締結部の面に四角い穴を開けておくなどして、ボルトの回転を止める。十字穴などは持たないのでボルト側では締め付け作業は行わず、機器の表面に使うことでいたずら防止などに有効である{{Sfn|門田監修|2007|p=50}}。
; 皿ボルト
:皿頭のボルトで、すり割り付きとキー付きがある。
[[File:Screw_(bolt)_21C-J.PNG|thumb|170px|right|'''多様なボルト''']]
; アプセットボルト
:六角ボルトの形状のものでも、頭部の六角や四角を圧造だけで作られた物である。頭部上面が凹んでいるのが普通であり、すりわりや十字穴を持つものが多い。大型ボルトを除いて頭を持つねじやボルトの多角形の頭は圧造に加えて打抜き加工によって形成されるのが多く、その対比として、ボルト頭部を圧造だけで形成したものを特に「アプセットボルト」と呼ぶ。打抜き加工品より強度が劣るため、強く締めたり緩める時はスパナよりボックスレンチの使用が奨められる。
; ちょうボルト
:頭部に蝶形のつまみが付いていて、締め外しの簡便さが求められる箇所で使われる。
; 基礎ボルト
:機械構造物を据え付ける時の土台に締め付けるボルト。L形やJ形がある。
; Uボルト
:U字型に曲げられ両端にねじが切られたもの。配管の固定などに使用される。
; アイボルト
:頭に環状部分を持つボルト
; 吊りボルト
:頭に環状部分を持つボルトの中でも締結物を吊り上げるためのもの。大型の機械を吊り上げるための吊りボルトではそれ自身が重く、頂部に小さな吊りボルトが取り付けられたものもある。
; 座金組み込みボルト
:[[File:Screw (bolt) 24B-J.PNG|thumb|250px|right|'''座金組み込みボルト''']]
:転造によりねじ山を作る前にねじ首部に座金がはめられているもの。ねじ山の径が大きいために締結前に座金が脱落することがない。組み込まれる座金は多様であり、1枚だけでなく2枚のものもある。同様の小ねじは「座金組み込みねじ」と呼ばれ、それぞれ「セムスボルト」や「セムスねじ」とも呼ばれる。また座金が1枚のものは「シングルセムス」、2枚のものは「ダブルセムス」と呼ばれる。
; トルシア型高力ボルト
:[[File:Screw (bolt) 23A-n.PNG|thumb|250px|right|'''トルシア型高力ボルト''']]
:[[File:Screw (bolt) 23B-J.PNG|thumb|400px|right|'''トルシア型高力ボルトの締結過程'''<br />ナット側から専用工具で締結され、規定値の締結トルクを満たせばボルトの先端部がねじ切れることで締結は完了する。]]
:ボルトの頭部は丸頭で先端部にピンテールを持つ。専用締め付け工具を使用してナット側の片側から、ボルト先端部のピンテールとナットを互いに異なる方向に回して締め付ける。適正な締め付けトルクに達した時点で先端のピンテール部が自動的に破断するため、締め付けトルク管理が容易となる。締め付けは片側からだけで済むので作業性が良く、丸頭により仕上がりがきれいになる。
; 特殊大型ボルト
:大型のボルトになると専用の締め付けツールが必要になるが、特殊大型ボルトは頭部に多数の小型ボルトを備えて、これらの締め付けで首部が縮まるため、人手によるハンドツールだけで締め付け作業が行える。同じ構造の特殊大型ナットもある。
; 真空装置用ねじ
:[[File:Screw (bolt) 24A-J.PNG|thumb|250px|right|'''真空装置用ねじ''']]
:ねじの軸内を貫通する穴が開いており、真空装置などに使用する場合にボルト穴内に空気などが残留することがないようにできる。
; 伸び管理ボルト
:ボルト内の軸内空洞に細いボルトが通され下端だけが空洞奥で固定されている。頭部外面まで伸びた細いボルトの上端で計測することで、本体の大型ボルトが外力を受けていくら伸びているかを知ることができる。大型プラントや機械に使用される。
{{Sfn|門田|2007|p=}}
==== ボルトの締結法 ====
; 通しボルト
:通し穴を開けて、ボルトとナットによって部材を挟み込む締結法
; 押さえボルト
:部材が厚くて通し穴を開けられないとき、部材側にめねじを切ってボルトを締める締結法
; 植え込みボルト
:部材が厚くて通し穴を開けられないが、押さえボルトでは部材側のめねじの方が損傷しやすいので避けるため、両端におねじを切ってナットで締める締結法
{{Sfn|門田|2007|p=44}}
=== ナット ===
ナットは典型的なめねじ部品であり、ボルトと対になって使用される。六角ナットを含めて多種多様なナットが作られ使用されている。
{{main|ナット}}
;ナットの形状表記
:* 高さ
:* 平径
:* 二面幅
:* 対辺
:* 対角距離
[[File:Screw_(bolt)_22B-J.PNG|thumb|250px|right|'''多様なナット''']]
[[File:Screw_(bolt)_22C-J.PNG|thumb|250px|right|'''ナットの面取り''']]
;六角ナット
:* フランジ付き六角ナット
:* つば付き六角ナット
:* 歯付きフランジ六角ナット
:また、JISでは六角ナットをナットの高さによって3種に分類している。
:;JISでの六角ナット
::* 六角ナット・スタイル1:ナットの高さが呼び径の約0.8倍のもの
::* 六角ナット・スタイル2:ナットの高さが呼び径の約1倍のもの
::* 六角低ナット:ナットの高さが呼び径の約0.5倍のもの(一般には約0.5-0.6倍のものを「低ナット」(ひくナット)と呼ぶ。)
:
;他のナット類
:;四角ナット
::{{節スタブ}}
:;高ナット
::片側がおねじでもう反対側がめねじになっている棒である。部品を支える支柱などに使われえる。高ナットに似たものに「六角支柱」がある。六角支柱は両側がめねじになっている<ref group="注">戻り止めナットの一種とされる「ナイロンインサート付きプリベリングトルク形六角ナット」には軸直角振動方式ねじ緩み試験では緩み止め効果は無かったとされる。</ref>。
:;丸ナット
::[[File:Screw_(bolt)_22E-J.PNG|thumb|320px|right|'''多様な丸ナット''']]
::全体が丸いため通常のスパナなどは使えず、穴などに工具をかけてナットを回す。
::*すりわり付き丸ナット
::*上面穴付き丸ナット
::*横穴付き丸ナット
::*溝付き丸ナット
:;T溝ナット
::{{節スタブ}}
::[[File:Screw_(bolt)_22F-J.PNG|thumb|250px|right|'''特殊なナット''']]
:;フランジ付き12ポイントナット
::フランジと共に12個の角を持つ。
:;偏心テーパ二重ナット
::ダブルナットによる緩み止めナットの一種で、テーパだけでなく偏心による効果もある。
:;つまみナット
::{{節スタブ}}
:;ちょうナット
::*ちょうナット 1種
::*ちょうナット 2種
::*ちょうナット 3種
::*ちょうナット 4種
:;刻み付きナット
::周囲がローレット加工されたナットである。
:;袋ナット
::通常はボルトの先端部が飛び出る部分がナットの球状覆いでふさがれている。美観やボルトのねじ部による損傷防止に使われるが、ボルトの長さが適正であることが求められる。
:;溶接ナット
::溶接用のナット。ウエルドナットとも呼ばれる。四角や六角がある。
:;カレイナット
::1mm程度の鋼板などにねじを切るには薄すぎる場合に、穴を開けた部分にプレス機などでカレイナットを圧入してナットの首下部分のナールと呼ばれる溝でかしめる。ナットの反対側は平坦なままとなる。
:;座金組込み六角ナット
::六角ナットの座面側に皿ばね座金や波形ばね座金などを組み込んだナット。座金は落ちずに自由に回転できる。
:;ボルト中間差込みナット
::ナットの輪が開く構造になっており、長いボルトの中間に横から取り付けできる。力があまり掛からない箇所で使用される{{Sfn|門田|2007|p=}}。
:;ナットサート
:: 薄い母材に挿入し、専用のツールを使用し[[リベット|ブラインドリベット]]と同様にかしめる。母材の片側だけで作業を行えるので、通常のナットでは手が届かない場所にも使える。
=== 特殊なねじ ===
[[画像:Selftap.jpg|thumb|right|タッピンねじ]]
[[画像:Mokuneji.JPG|thumb|right|木ねじ]]
ねじには、用途や機能、形状により、以下のような特殊なねじがある。
;ロックナット
:緩み止めの工夫が施されたナット全般を指し「セルフロックナット」(Self lock nut)を省略した名称である。多様な種類があり、特定の種別を指さない<ref group="注">一般的なねじの種別の1つとしてのロックナットに加えて、自動車用のホイール用ナットでの盗難防止用のナットもロックナットと呼ばれるため、状況により区別が必要である。</ref>。
;ダブルナット
:緩み止めのために、最初のナットに加えて後からもう1つが止められる2つ1組のナットのこと。
;いもねじ
:おねじ部品でも頭の無い全ねじのもの。一方の端にすりわり、又は六角穴などを持つ。主に止めねじとして使われる。「むしねじ」とも呼ばれる。
;止めねじ
:ねじの先端で、機械部品などの運動を止め固定するためのおねじ部品である。通常は頭部の出っ張りを持たずにねじ部だけから成り、「いもねじ」「押しねじ」「虫ねじ」などとも呼ばれる。六角穴付き止めねじや、四角止めねじ、すりわり付き止めねじがある。「六角穴付き止めねじ」は「ホーローセット」とも呼ばれる。先端部は用途に応じた形状に仕上げされる。頭のある普通の形状のねじも止めねじとして使用されることがある。
[[File:Screw_(bolt)_21D-J.PNG|thumb|130px|right|'''長ねじ''']]
;長ねじ
:いもねじと同様に頭の無いおねじだけのねじだが、より大きく長いものを指す。必要に応じて切断して使用されることもある。複数のナットと共に使って、部品を支える支柱や建築用途で使われることが多い。「寸切り」などとも呼ばれる。
=== めねじを必要としないもの ===
; 木ねじ
: 木質の材料に下穴を開けるだけでめねじを切らずにそのままおねじだけで止めるねじである。尖った先端までねじ山を持ち、一般にねじ山の間隔が広い。対応するめねじを持たない無穴地、もしくは錐穴に直接ねじ込まれる。先端から3分の2ほどにだけねじ部になっており、頭に近い部分は挟みこんだ部材と密着することで緩み止めやガタツキ防止となる。すりわり付き木ねじや、十字穴付き木ねじ、コーチねじ<ref group="注">一般の木ねじより比較的大きい木ねじで、四角コーチねじと六角コーチねじとがある。</ref>がある。
; タッピンねじ
: 薄い鋼板、アルミニウム合金板や樹脂材料に下穴を開けるだけでめねじを切らずにそのままおねじだけで止めるねじと、下穴を開けずにそのまま穴開け加工をねじ自身が行うものがある。先端の尖ったものと、切り落とされて溝が切られたものがある<ref group="注">「タッピンねじ」はJISでは、1種から4種までが規定されている。ホームセンター等で容易に入手できるタッピンねじは、1種である。<!-- 1種はほとんど使われていない。 -->2種と3種は先端が切り落とされて溝が切られており、2種は3種よりねじ山の間隔が広く3種は普通のねじに近くねじ山の間隔が狭い。4種は先端が尖っている。</ref><ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.tsurugacorp.co.jp/shopping/user_data/side_exist.php?disp=dictionary_tapping_drill_tapping
|title=タッピンねじ
|publisher=株式会社ツルガ( http://www.tsurugacorp.co.jp/ )
|accessdate=2016-07-28
}}</ref>。他のねじに比べてねじ山の荒いものが多い。すりわり付きタッピンねじや字穴付きタッピンねじ、六角タッピンねじなどがある。「タッピングねじ」「タッピングビス」とも呼ばれる。
; ドリリングタッピンねじ
:「軽天ねじ」とも呼ばれ、元々は[[石膏ボード]]の取り付けのために作られた。比較的柔らかな材質に対して、下穴加工を必要とせずにねじだけで穴を開けてタップを作り締結まで行える。十字穴付きトランペットや十字穴付きフレキがある。
; ドリルねじ
: ドリリングタッピンねじと同様に、下穴加工を必要とせずにねじだけで穴を開けてタップを作り締結まで行える。先端部にドリル状の部分を持つ。比較的薄い鋼板から多少厚みのあるものまで自身で穴を開けられる。以前は「セルフドリリングねじ」と呼ばれていた。
; コーススレッド
: 木材用の締結用のねじであり、木ねじに似ているが木ねじよりもねじ山の間隔が広く、締結力が強い。建築現場で使われることが多い{{Sfn|門田監修|2007|p=82}}。
=== 他のねじ ===
; 管用ねじ
: 管用ねじには、「管用平行ねじ」と「管用テーパねじ」がある。共にインチねじ規格であり、ウィットワースねじと同じくねじ山が55度の角度を持つ。管用テーパねじは一般に1/16のテーパを持つ。バキュームカー等では企業独自の規格ネジを使用している場合がある。
; まくら木用ねじ
: [[線路 (鉄道)|鉄道の線路]]に使われる[[枕木]]にレールを止めるためのボルトである。従来の[[犬釘]]に代わって使用されるようになっている。
; 打ち込みねじ
: ねじ部はリードの大きい多条ねじである。くぎを打つように打ち込んで固定する。先端部が平らなものと尖ったものがある。
=== 関連部品 ===
ねじの関連部品を以下に示す。ねじの関連部品には、小ねじやボルトと一緒に使う緩み止めなどの部品が多い。
* 座金
* ピン
これらの他にも、セーフティワイヤ、緩み止め用接着剤、スペーサー<ref group="注">ここで言う「スペーサー」とは、長ねじなどを通して支柱を構成する金属製などの円筒形の部品である。</ref>、
; 接着ねじ
: 接着ねじはめねじを備えた取り付け台座であり、航空機のように樹脂やカーボンファイバ製の面にねじを止める時に使用されることが多い。
==== 座金 ====
[[座金]](ざがね、ワッシャー)には、締め付け時に締結面を傷から守るものと、逆に締結面に食い込むものがある。
座金には以下の目的がある。
* ボルト穴が大きい場合の安定{{Sfn|山本|2003|p=45}}
* 柔らかい材質への陥没防止{{Sfn|山本|2003|p=45}}
* 緩み止め
* 座面の摩擦係数の安定化{{Sfn|山本|2003|p=45}}
* 座面の保護
* ボルトのバネ定数の縮小<ref group="注">座金の使用目的の1つであるボルトのバネ定数の縮小とは、ボルトが軸方向でバネのように伸びが大きくあると座面やねじ面での初期緩みを吸収してなお軸力を維持する余力が生まれる。バネ定数の縮小のためには、ボルトが長いほうが有利であるが座金を噛ませることで距離が稼げてバネ定数の縮小に繋がる。</ref>
* 漏洩防止<ref group="注">座金の使用目的の1つである漏洩防止とは、ボルト穴が潤滑油の流路になっている場合などで、特殊な座金(ガスケットと呼ばれる場合がある)を使って油の漏洩を防ぐことがある。</ref>
* 斜面の補正<ref group="注">座金で斜面の補正を行うとは、座面が傾いている場合に傾きに合った座金を噛ますことでボルトとナットを軸に直角な面へ適正に締め付けを行うことである。</ref>
以下に主な座金の種類を示す{{Sfn|門田|2007|pp=49-51}}{{Sfn|田村|2008|p=}}。
[[File:Screw (bolt) 22H-J.PNG|thumb|550px|center|'''様々な座金''']]
; 平座金
: 丸型と角型がある{{Sfn|山本|2003|p=46}}。角型平座金は木造建築で多用される。「平ワッシャー」とも呼ばれる。
; 舌付き座金
: 内周や外周に突起が出て、締結側やボルト・ナット側に当たることで回転緩みを防止する。
; つめ付き座金
: 短いつめが片側に飛び出ている。主に締結面に穴などを開けておくことで座金の回転を防止する。内側につめが出ているものと外側に出ているものがある。
; ばね座金
: バネが緩み止めと脱落防止の働きをする。皿型ばね座金や波型ばね座金もある。1巻きと2巻きのものがあり、端面に爪が付いたものもある。「スプリングワッシャー」とも呼ばれる。
; 皿ばね座金
: 皿形のばねになっている。
; 波形ばね座金
: 波形のばねになっている。
; 歯付き座金
: 内歯のものと外歯のものとがあり、締結面に食い込むことで緩みを防止する。「菊座」とも呼ばれる。
; 球面座金
: 座金の片面が球面状になっている。
; 山形座金
: 皿や丸皿のねじでも締結面にザグリ加工が必要ない。装飾用にも使用される。「ロゼットワッシャー」とも呼ばれる。
; 組み合わせ座金
: 上記の座金をいくつか組み合わせたもの。
==== ピン ====
; 割ピン
: 硬い針金をヘヤピン状に折り曲げただけの、ピンの中でも単純な構造のものである。多様な使い方があるが、ねじの締結では側面に穴を開けたボルトなどに通し、先を広げることでナットの抜け止めに使われる。「コッターピン」とも呼ばれる。
; スナップピン
: 波状部分を持ち、取り付けと取り外しがすばやく行える。
; スプリングピン
: ピンの中でも剛性のある板を管状に丸めて半径方向にばねの効果を持たせたもの。穴の加工精度を問わない利点がある。
; 平行ピン
: 円柱形のもの。
: JISでは以下の3種類の規定がある。
:* A種 - 片方が平面取り、片方が丸面取り
:* B種 - 両面が平面取り
:* C種 - 両面とも面取りなし
:
; テーパーピン
: 1/50のテーパーが付いている。小さな径の方が呼び径となる。
; ねじ付きピン
: ねじ付きテーパピンや、ねじ付き平行ピンがある{{Sfn|門田監修|2007|pp=96-97}}{{Sfn|門田|2007|pp=53-54}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
== 標準規格 ==
ねじはその構造上、互換性が非常に重要であり、早くから標準規格が規定された。その主なものを以下に示す。これらの主な標準規格の他にもそれぞれの業界ごとや企業ごとの規格が存在する。なお、小ねじの頭の表面に小さなくぼみが付いているものはISO規格に沿っているという印であり、日本ではJIS認定工場でのみ付けることが許される{{Sfn|門田監修|2007|p=55}}。
メートル単位系を用いたものは「メートルねじ」と呼ばれ、インチ単位系を用いたものを「インチねじ」と呼ばれる。一般にメートルねじでのねじのピッチは1ピッチあたりの長さを「ミリ」で表すのに対して、インチねじでは、「軸方向1インチあたりの山数」で表される{{Sfn|門田|2007|p=24}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
; ISOメートルねじ
: [[国際標準化機構]](ISO)で規定された汎用のメートル三角ねじである。ねじ山の角度60度。接頭記号「M」で識別される。日本やヨーロッパ各国で広く使われている。[[日本産業規格]](JIS)では呼び径に対するピッチの細かさによって、標準的なピッチの「並目」と、それより細かい「細目」とに分けて規格が採用されている。
; ユニファイねじ(ISOインチねじ)
: ISOで規定された汎用のインチ三角ねじである。ねじ山の角度60度。接尾記号「UN」で識別される。ねじ山は角度60度。汎用として、呼び径に対するピッチの細かさにより「並目」(UNC)、「細目」(UNF)、「極細目」(UNEF) が規定される他、航空宇宙機器用 (UNJ) がある。日本では航空機などごく一部での採用にとどまるが、米国では広範に使用されている。日本のJISには並目と細目のみが採用されている。
; ウイットワースねじ
: ねじ山の角度55度のインチ三角ねじである。1834年に世界に先駆けて、イギリス人のホイットワース({{lang|en|Whitworth}})により考案された。JISでも規定されていたが、1965年に廃止されている。日本では主に建築分野で使用される。
; 管用テーパねじ
: テーパおねじとテーパまたは平行めねじの組み合わせで使用され、気密性を必要とする管の接続に使われる。ねじ山の角度55度のインチ三角ねじで、テーパの傾きは16分の1である。最初にイギリスで規格化され、その後はJISにも導入されて日本でも広く使われている管用ねじである。その後ISOにより国際標準化された。ISOではテーパおねじ、テーパめねじ、平行めねじをそれぞれ接頭記号「R」「Rc」「Rp」で識別するが、JISの当該規格がISOに準拠する以前はテーパねじ(おねじ・めねじ共)を「PT」、平行めねじを「PS」とそれぞれ呼んでおり、現在でも慣用的に旧式の呼称が用いられる事がある。また、殆どの場合R・Rc・Rpと、PT・PSとは同義であるが、一部にISOには規定されていない呼び寸法がある。
; アメリカ管用ねじ
: 管の接続に使われるねじ山の角度60°のインチ三角ねじである。テーパねじと平行ねじとがあり、テーパねじにおけるテーパの傾きは16分の1である。日本では一般用管用テーパねじ「NPT」や気密管用テーパねじ「NPTF」(共に接尾記号)が使用される。
== 製造法 ==
[[File:Screw (bolt) 13-n.PNG|thumb|220px|right|'''ダブルヘッダー式ボルトフォーマー'''<br />1:ワイヤ切断 2:予備据え込み 3:仕上げ据え込み 4:ストッパー 5:カッター 6:ワイヤ 7:第1パンチ 8:ダイス 9:ピン 10:第2パンチ 11:ブランク]]
[[File:Screw (bolt) 14-n.PNG|thumb|250px|right|'''平ダイス式転造盤'''<br />2つの平ダイスの間にブランクを挟んで、片側の平ダイスを横にスライドさせる間にねじ山を転造する。]]
<!--[[File:Screw (bolt)_16-n.PNG|thumb|250px|right|'''丸ダイス式転造盤'''<br />2つの丸ダイスの間にブランクを挟んで、両側の丸ダイスが回転する間にねじ山を転造する。ブランクは手で保持することが多い。]] 図版を更新中-->
[[File:Screw (bolt) 15-n.PNG|thumb|300px|right|'''プラネタリ式転造盤'''<br />1:扇ダイス、又は、セグメント・ダイス(固定側) 2:丸ダイス、又は、ローラー・ダイス(回転側)<br />扇ダイスの端で丸ダイスとの間に挟まれたブランクが扇ダイスのもう一方の端まで回転しながら送られる間にねじ山を転造する。いくつものねじを同時に連続して転造できるので生産性が高い。]]
[[File:Screw (bolt) 17-n.PNG|thumb|220px|right|'''ナットフォーマー'''<br />1:第1工程 2:第2工程 3:第3工程 4:第4工程 5:パンチ 6:ダイス 7:フォーマーナット]]
[[File:Screw (bolt) 18-n.PNG|thumb|400px|right|'''自動ねじ立て盤'''<br />1:フォーマーナット 2:ホッパ 3:シュート 4:ガイド 5:刃部 6:ベントシャンクタップ 7:完成品]]
ボルトやナットといった鋼製のねじ類の中でも比較的小型で生産量の多い物の製造法について説明する{{Sfn|門田監修|2007|pp=46-47}}{{Sfn|門田|2007|pp=101-140}}。
ねじ部の加工方法は、転造による方法と切削・研削による方法に大別できる。生産量や生産性、加工精度の違いによって2つの方法が使い分けられる。いずれの方法によっても切断された鋼製の線材が材料として使用されることが多い。
概ね以下の工程を経る。
# 切断
# 成形
# 洗浄
# ねじ部加工(転造、又は切削・研削)
# 熱処理
# 表面処理
# 検査
; 切断工程
: ボルトもナットも大きなものの材料には棒材が使われるが、小さなものはコイル状の線材を線送りローラーで直線状に直してから切断して使用される。ねじ部が切削・研削によって作られるボルトは、元となる線材の太さも完成時の呼び径や円筒部径より太いものが選ばれる。転造法ではそれより幾分細いものが選ばれる。
; 成形工程
: 頭部を中心に何段階かの圧造工程によって外形を形成する。小型の部品では冷間圧造で済むが大型の部品では熱間圧造<ref group="注">熱間圧造では、材料を約1,250℃にまで加熱してから加工を行う。</ref>が必要になる。量産品ではボルトフォーマとナットフォーマによって冷間圧造または、熱間圧造が行われる。
; ねじ部加工工程
: ねじ部の加工方法は「転造法」と「切削・研削法」の2つに分かれる。次節で詳しく説明する。
; 熱処理工程
: 強度区分で8.8以上の鋼鉄製ボルトに対して、ねじ部を加工する前後のいずれかで、焼き入れ焼き戻しによる熱処理が行われる。タッピンねじのように硬度が求められ浸炭処理が行われるものでは、遅れ破壊の危険性が増すために使用時の荷重などに配慮が求められる。
; 表面処理工程
: 表面処理を行う。[[電気めっき]]では水素が金属中に侵入することで水素脆化による破壊要因となるため、表面処理が必要だが強度が特に求められるボルトでは200℃程の雰囲気中で2時間程度保持することで水素を追い出す処理を行う。ナットはボルトと異なり強度が求められる場合には、高さとねじの山数を増やすことで対応できるため、比較的製造上の注意点は少ない。
; 検査工程
: 形状が規格の公差内に収まっているか、割れがないか、表面処理に不備がないか、などを検査する。
ボルトの大きなものは量産に向かず、まず熱間圧造によって外形を形成し、さらに転造する場合でも加熱した上で熱いうちに加工する方法が採られるが、膨張と収縮による加工精度の低下に特に配慮する必要がある。タッピンねじやドリルねじのような先端に刃を持つねじは、ねじ部の加工後に足割り機と呼ばれる専用機で先端に切れ込みを入れる。[[ローレット加工]]が必要なねじは、ねじ部の加工後に平ダイスや丸ダイスで付けられるものと、ねじ部の加工工程で1つの平ダイスでねじ山の転造とローレット模様の転造を行うものがある。
プラスチック製のねじ類では射出整形によって製造されることが多く{{Sfn|門田|2007|pp=163-164}}、切削加工も行われる。
=== 転造法 ===
転造法は[[塑性加工]]属する鍛造法であり、材料を回転させながら硬質の金型に押し付けることで形を形成するものである。加工時間が短く材料の無駄も生じないが、高い加工精度は得られない。塑性変形に伴う[[加工硬化]]によって製品は硬くなる。
転造工程では、塑性変形によって谷が押し込まれる分だけ山が盛り上げられることでねじ山部分が形成される。このため、切削クズのような無駄となる材料は転造では生じない。ただし、加工精度を高めるために転造後に切削・研削を行うことはある。転造を行う工作機械は転造盤と呼ばれる。平ダイス式転造盤、丸ダイス式転造盤、プラネタリ式転造盤がある<ref group="注">転造法による製造は、おねじと比較的小径のめねじに対して用いられ、とくに転造盤によるおねじの生成は、適度な精度での大量生産には欠かすことのできないものとなっている。平ダイス式転造盤と丸ダイス式転造盤では毎分数十本程、プラネタリ式転造盤では毎分千数百本程が転造できる。このように転造は量産に向いているが、ねじ山の大きさやピッチの違いごとに異なるダイス類を用意して保管し、品種の異なる作業ごとに交換するなど、コストと手間が掛かる。</ref>。おねじの場合には、ねじ山の形状を刻んだダイスで中間製品であるブランクを強力に挟み込み、間で回転させてねじ山を生成する。一般には、「ねじ転造」はこのおねじの転造加工を指す。めねじの転造は、切削タップと同様にねじ山の形状を刻んだ棒を中間製品であるフォーマーナットの穴に捻じ込んでねじ山を作るが、転造用のタップは切削用のものと異なりねじ溝を刻むための刃を持たない。転造では加工表面は変形により硬化し、またダイスとの接触で磨かれる。
ナットの少量の加工では、ドリルなどを備えたボール盤とほとんど同様の姿で、加工のための転造タップを備えた縦型ねじ立て盤が主に使われる。
ボルトの鍛造による量産加工では、ボルトフォーマーによって線材から太めの外形を備えた「ブランク」と呼ばれる中間製品を作り、平ダイス、丸ダイス、扇ダイスなどでねじ山を転造によって形成する。
ナットの鍛造による量産加工では、ナットフォーマーによって線材から穴の開いた「フォーマーナット」と呼ばれる中間製品を作り、自動ナットねじ立て盤によって内側のねじを加工する。自動ナットねじ立て盤のベントシャンクタップは、めねじ加工済みのナットを多数数珠繋ぎに周囲に通過させるという巧妙な工夫によって加工機本体とは直接接続されないまま回転力を受けることができる{{Sfn|門田監修|2007|p=47}}{{Sfn|門田|2007|pp=101-140}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
=== 切削・研削法 ===
切削・研削を使った方法は、バイトのような超硬質の刃先で材料を削り落として行くことで形を形成するものである。高い精度での加工が行えるが加工に時間がかかり材料の無駄も生じるため、生産量としては少数派である。
切削法ではねじの溝を掘り下げることでねじ山を作る。このため、ブランクのねじ部はねじの山の径よりも大きい必要がある。
切削加工では手動や旋盤での[[ねじ切りダイス]]や切削[[タップ (工具)|タップ]]、旋盤、[[フライス (工具)|フライス盤]]やNC工作機のバイトなどによって行われ、専用のねじ切り盤もある。ねじ切りダイスはおねじ、切削タップはめねじの製作にそれぞれ用いられる。
旋盤によるねじ切りは、ねじ溝の形状を有するバイトを用い、主軸の回転に対してねじのリードに等しい送りを軸と平行に与えてねじ溝を生成するもので、少量の生産に用いられる。おねじでもめねじでもバイトが変わり工作物に当てられる位置が変わる他は同様である。近代的なねじ製造法として最初に確立したもので、一般には1本のねじ溝を複数回に分けて切削する必要がある事から大量生産には向かないが、ねじ製造の基本的な工作法である。
ねじ切り盤と呼ばれるねじ専用の切削加工機は、旋盤で行われるタップやダイスによるねじ切りに似るが、専用機では複数の刃が一列に刻まれたチェーザーと呼ばれる刃物を複数同時に使って多数のねじ溝を一度に切削する事により短時間でねじ切りできる。
少量のナットのめねじの加工では、ドリル同様に使用でき切り屑が出る切削タップが主に使われる。まずドリルで下穴を開けてからタップで切削加工を行ってゆくが手間がかかる。小型ナット用の基本的な切削タップでは、加工後に逆転させてナットをタップから抜かなければならず、生産性がさらに悪くなる。大径のナット用の切削タップでは、チェーザーという刃が軸に植え込まれた「植刃タップ」と呼ばれるものがあり、また、加工後に逆転する必要がないようにチェーザーが引き込んで加工済みのナットが抜けるものもある{{Sfn|門田|2007|pp=101-115}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
== 材質 ==
=== 金属 ===
; 鋼鉄
: 軟鋼や硬鋼といった炭素量の違いの他にも、[[ニッケル]]、[[クロム]]、[[モリブデン]]、[[コバルト]]、[[タングステン]]、[[バナジウム]]、[[ニオブ]]、[[タンタル]]などの添加量の違いによって「[[ステンレス鋼]]」「[[ニッケルクロム鋼]]」<ref group="注">[[ニッケルクロム鋼]](SNC)は、鉄に炭素0.12-0.40%、ニッケル1.0-3.50%、クロム0.20-1.00%を加えたものである。耐食性、耐摩耗性に優れる。</ref>「[[クロムモリブデン鋼]]」<ref group="注">[[クロムモリブデン鋼]](SCM)は、鉄に炭素0.13-0.48%、クロム0.90-1.20%、モリブデン0.15-0.30%を加えたものである。焼き入れ性が良好で、機械的性質に優れる。</ref>「[[ニッケルクロムモリブデン鋼]]」<ref group="注">[[ニッケルクロムモリブデン鋼]](SNCM)は、鉄に炭素0.12-0.43%、ニッケル0.40-4.50%、クロム0.40-3.50%、モリブデン0.15-0.70%を加えたものである。焼き入れ性が他の鋼種より優れ、引っ張り強さ、粘り強さに優れる。</ref>といった[[合金]]があり、用途に応じて使用される。鋼鉄製の小ねじの元となる線材は「冷間圧造用炭素鋼線」と呼ばれるものから作られることが多く、これはSWCH(carbon steel wire for cold heading and cold forging)材<ref group="注">製鋼メーカーが作る「冷間圧造用炭素線材」(SWRCH, carbon steel wire rods for cold heading and cold forging)を元にして伸線メーカーがSWCH材を作ることが一般的である。</ref>とも呼ばれ、炭素0.53%以下でマンガン1.65%以下のものを指す。実際にはSWCH10RやSWCH20K、SWCH45Kのように細かな種類があり、2桁の数字は炭素の含有量0.001%の倍数を、"R"はリムド鋼を、、"K"はシリコンキルド鋼を、"A"はアルミキルド鋼をそれぞれ表す<ref group="注">リムド鋼は鋳隗を作る時に特別な脱酸素剤を入れないので激しく火花を飛ばしながら固まり、塊の縁にリムが付く。キルド鋼は鋳隗を作る時に脱酸素剤を入れるので鋳込む時もガスを出さずに死んだように静かに注がれる。アルミキルド鋼は脱酸素剤としてアルミを入れるものである。一般にはリムド鋼よりキルド鋼の方が組織が均一となって優れる。</ref>。小ねじ類はSWCH材から作られることが多いのに対して、より強度が求められるボルトやナットは鉄にニッケル、クロム、モリブデンなどを加えた合金鋼で作られることが多い。
:;ステンレス鋼
::13%程度のクロムを含むマルテンサイト系ステンレス鋼は高強度で耐摩擦性に優れるが耐食性が低く、代表的なSUS410がねじ類で広く使用されている。18%程度のクロムを含むフェライト系ステンレス鋼は耐食性と圧造性に優れており、代表的なSUS430が錆に強い冷間成形加工製品で使用されるが、冷間加工硬化は小さいためタッピングねじのような硬度が求められるものにはあまり適さない。18%程度のクロムと8%のニッケルを含むオーステナイト系ステンレス鋼は特に耐食性に優れている。この代表的なものにSUS304があるが、冷間加工硬化が大きいため冷間加工を行うと工具の折損や製品の割れが生じるため冷間加工には向かない。
; [[アルミニウム]]
: 純アルミニウムは強度が低いためあまり使用されず、マグネシウムを加えた5000番台のものと、[[マグネシウム]]と亜鉛を加えた7000番台のものが使用される。アルミニウムは耐食性、電気伝導性、熱伝導性に優れて軽く、非磁性であるという特徴があるが、その中でも5000番台のものは加工性も良いのでよく使用される。7000番台のものは強度で優れるがアルミ合金の中では比較的耐食性に劣る。
; [[チタン]]
: チタンは耐食性、軽量性に優れ、非磁性であり、ほとんどの点で鉄鋼を上回る特性を持ち、生体への親和性も良い。特に海水に対する耐食性は高く金属疲労も起こし難いため、錆びては困り強度が求められる部分で使用されることが多い。熱伝導性は悪く、加工においては工具が磨耗しやすく、チタン自身の価格も高い。純チタン2種と呼ばれるTP340がよく使われる。
; [[銅]]
: 銅は耐食性、電気伝導性、熱伝導性、[[展延性]]に優れ、非磁性であるため一部の特殊な用途に向くが、引っ張り強さのような機械的強度では劣るため構造材料には向かない。電気配線での端子止めなどにも使用される。ねじの材料には無酸素銅の他にも多様な銅合金が使用される。銅は多様な合金が存在するが、亜鉛20%以上を含む銅合金は「真鍮」や「[[黄銅]]」と呼ばれるものがねじ類の材料に使用される。銅と亜鉛の割合によって「七三黄銅」や「六四黄銅」と呼ばれるものがある。銅と亜鉛に鉛を少し加えた合金は「快削黄銅」と呼ばれ切削加工に向く。銅と亜鉛にすずを少し加えた合金は「ネーバル黄銅」と呼ばれ海水への耐食性が高い。銅にすずと少量のりんを加えた「りん青銅」も耐食性や耐摩擦性、強度が比較的高く、非磁性でもある。
=== プラスチック ===
[[合成樹脂|プラスチック]]は金属に比べて強度や耐熱性で劣るが、一般には軽量性、電気絶縁性、非磁性、耐錆性などで優れ、透明性や耐薬品性を備えたものもある。また頭部だけがプラスチックで軸部は金属製の「つまみねじ」や「ノブボルト」といったねじがある。
以下にプラスチックねじの材料について、個別に記す{{Sfn|門田監修|2007|p=69}}{{Sfn|門田|2007|pp=161-164}}。
; [[ポリアセタール]](POM)
: [[引張強さ]]と[[曲げ強さ]]が優秀であり、[[摩擦係数]]は小さく耐摩擦性に優れる。吸振性に優れ防音に向く。強酸以外の薬品や有機溶剤に耐える
; [[ポリプロピレン]](PP)
: [[プロピレン]]を[[重合]]させた[[合成樹脂#熱可塑性樹脂|熱可塑性樹脂]]で、強度が高く、吸湿性がなく、耐薬品([[酸]]、[[アルカリ]]を含む)性に優れている。
; [[ポリフッ化ビニリデン|ポリビニリデンフルオライド]](PVDF)
: [[合成樹脂#熱可塑性樹脂|熱可塑性]]フッ素[[重合体]]のひとつで、高価であるが、高純度、高強度や耐薬品性、熱耐性に優れる。
; [[ポリカーボネート]](PC)
: 強度や耐衝撃性、電気絶縁性、非磁性に優れ、特に透明性に優れる。
; [[繊維強化プラスチック|ガラス繊維強化ポリアミド]](PA+GF50%)
: [[ポリアミド]](ナイロン)にガラス繊維50%で強化したもの。引っ張り強さと曲げ強さでは[[エンジニアリングプラスチック]]中で最大であり、耐油性、耐熱性、電気絶縁性や非磁性に優れるため、金属の代替として使用される
; [[四フッ化エチレン]](PTFE)
: [[耐熱性]]、耐薬品性に優れ、強い腐食性をもつ[[フッ化水素|フッ化水素酸]]にも溶けない。また、[[摩擦力#クーロンの摩擦モデル|摩擦係数]]の小さい物質である。
; [[ポリエーテルエーテルケトン]](PEEK)
: 耐熱性・耐薬品性に優れる{{refnest|group="注"|“PEEK”(ピーク)はビクトレックス社の[[登録商標]]である{{Sfn|門田|2007|p=163}}。}}。
; [[ポリフェニレンサルファイド]](PPS)
: 耐熱性・耐薬品性に優れる。
; [[ポリイミド|熱可塑性ポリイミド樹脂]](PI)
: 極めて軽量かつ過酷な環境に強い。
=== セラミックス ===
セラミックスは線膨張係数が鉄に近く、耐熱性、断熱性、耐錆性、耐薬品性などで優れている{{要出典|date=2015年4月}}。
*アルミナ(Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
*ジルコニア(ZrO<sub>2</sub>)
== 表面処理など ==
=== 耐食性向上 ===
耐食性向上などを目的に、以下のような表面処理が行われる{{Sfn|門田|2007|pp=165-170}}{{Sfn|門田|2009|p=}}{{Sfn|門田監修|2007|pp=116-117}}。
; 電気めっき
: 電気[[めっき]]は、陽イオンとなる金属の溶液中に対象物を漬け、対象物に電圧を掛けて陰極とすることで表面に金属を析出させるめっき法である。亜鉛めっき、ニッケルめっき、クロムめっきなどが行われる。亜鉛めっきは安価でありよく使用される。亜鉛めっきはそのままでは亜鉛が酸化されやすいので、めっき後にクロム酸塩溶液中に浸してクロメート皮膜を作る[[クロメート]]処理が行われることが多いが、クロム酸塩溶液は人体や環境に有害な[[六価クロム]]を含むため、三価クロムのような代替法が開発されている。
; 無電解めっき
: 無電解めっきは電気めっきのように電気を流さずに、異種金属間のイオンカ傾向の差による還元反応を利用しためっき法である。析出される膜厚が比較的均一となり、プラスチックのような電気伝導性のない材料でもめっきできる。ニッケルめっき、スズめっき、金めっき、銀めっき、銅めっきなどがあり、ねじ部品ではニッケルを90-92%、燐を8-10%含むニッケルめっきがよく行われる。
; アルマイト処理
: アルマイト処理は陽極酸化皮膜処理とも呼ばれる。電気めっきとは逆に金属皮膜を付けたい材料を陽極にして金属皮膜を付ける。アルミニウムの表面処理に利用される。
; 黒染め
: 黒染めは、鉄の表面に四三酸化皮膜を作る処理である。カセイソーダに反応促進剤、染料などを溶かした水溶液を140℃程度に熱して鋼鉄材料を漬けて煮る。四三酸化皮膜は鉄の酸化皮膜であるが[[不動態]]でありそれ以上の酸化を防ぐ。コストは安いが皮膜の厚みが1[[マイクロメートル|ミクロン]]程度と薄く、めっきに比べると耐食性では劣る。
=== 硬さ調整 ===
硬さ調整などを目的に、以下のような熱処理が行われる{{Sfn|門田|2007|pp=144-147}}{{Sfn|門田|2009|p=}}{{Sfn|門田監修|2007|pp=116-117}}。
; [[焼き入れ]]
:;高周波焼き入れ
::高周波焼き入れは鉄鋼材料の外部や内部にコイルを置いてそれに高周波電流を流すことで鉄鋼材料の表面に誘導電流を生じさせ、[[ジュール熱]]によって表面のみを短時間高温にすることで焼き入れを行うものである。コイルの位置によって特定部分の表面だけを焼き入れすることも可能である。
:;浸炭焼き入れ
::低炭素鋼を900℃以上に熱して炭素雰囲気中に置き、表面から炭素を拡散させる焼き入れ処理である。表面のみを炭素含有量に富む鋼鉄となり、内部は粘り強いが外部は硬い製品ができる。
; [[焼き戻し]]
: 焼き入れ処理の後、硬さが上がり脆くなった材料を焼き入れの温度より低い温度で加熱してから急冷する。これによって硬さを少し下げて粘り強さを取り戻す。
; [[焼きなまし]]
: 焼き戻しに似ているが、焼き入れより低い温度で加熱してから徐々に冷やしてゆく。これによって残留応力を除去し、また結晶組織を均一にする。
== 力学的強度 ==
締結に使われるおねじ(この節内の以下では単に「ねじ」と表記する)は、引っ張り荷重、ねじり荷重、せん断荷重という3種類の外力に耐える必要がある。それぞれの荷重から、ねじに必要な直径が求められる{{Sfn|門田|2007|pp=80-84}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
=== 引っ張り荷重 ===
[[File:Polaczenie srubowe (sruba rozciągana).svg|thumb|220px|right|ボルトとナットに加わる垂直方向の力]]
ねじの軸方向に沿って加わる荷重は「引っ張り荷重」と呼ばれる。ねじの材質が均等であると仮定して、断面積当たりの引っ張り荷重に耐える強さは引っ張り強さと呼ばれ、ねじの強度を数値で示す主要な指針の1つである。引っ張り強さ σ [N/mm<sup>2</sup>] は有効断面積 ''A'' [mm<sup>2</sup>] と引っ張り荷重 ''W'' [N]で以下のように表される。
:<math>\sigma = \frac{W}{A}</math>
また、1 Pa = 1 [[ニュートン (単位)|N]]/m<sup>2</sup> の関係から、1 MPa = 1 N/mm<sup>2</sup>なので、応力の単位は N/mm<sup>2</sup> よりも MPa で表されることが多い。
おねじの谷の径 ''d''<sub>1</sub> [mm] から、有効断面積 ''A'' [mm<sup>2</sup>] は以下で表される。
:<math>A = \frac{\pi}{4} d_1^2 </math>
おねじの谷の径は外径 ''d'' の約0.8倍であることから、''d''<sub>1</sub> = 0.8''d'' とすると、引っ張り強度 ''W'' は次の式で表される。
:<math>W = A\sigma = \frac{\pi}{4}d_1^2\sigma = \frac{\pi}{4}(0.8d)^2\sigma \simeq \frac{1}{2}d^2\sigma </math>
上式から、おねじの許容引っ張り応力を σ<sub>a</sub> [MPa] としたときのねじの直径 ''d'' は次式となる。
:<math>d = \sqrt{\frac{2W}{\sigma_a}} </math>
=== ねじり荷重 ===
ねじの軸を中心とする回転方向に加わる荷重は「ねじり荷重」と呼ばれる。一般にねじにおけるねじり荷重は引っ張り応力の約1/3が加わるものとして扱われている。引っ張り応力にねじりによる応力を加えると軸方向には4/3倍が力が加わる。これを上で現れた式
:<math>d = \sqrt{\frac{2W}{\sigma_a}} </math>
に代入すると、下の式が得られる。
:<math>d = \sqrt{\frac{2\times\frac{4W}{3}}{\sigma_a}} = \sqrt{\frac{8W}{3\sigma_a}}\ </math>
[[File:Polaczenie srubowe (sruba zwykla).svg|thumb|220px|right|ボルトとナットの軸とは直角方向の力]]
=== せん断荷重 ===
ねじの軸と直角方向に加わる荷重は「せん断荷重」と呼ばれる。ねじの許容せん断応力 τ<sub>a</sub> [MPa] とそのねじの外形 ''d'' [mm] は次の式で表される。
:<math>\begin{align}\tau_a &= \frac{W}{\frac{\pi}{4}d^2}\\
d &= \sqrt{\frac{4W}{\pi\tau_a}}\end{align}</math>
一般に軸部のせん断強さは引っ張り強さの約60%である。
== 強度区分 ==
JISでは、ねじの強度を示す10段階の強度区分が設けられている。
: 3.6 - 4.6 - 4.8 - 5.6 - 5.8 - 6.8 - 8.8 - 9.8 - 10.9 - 12.9
3から12までの左側の数字は「呼び引っ張り強さ」を示し、数字×100[[ニュートン (単位)|N]]/mm<sup>2</sup>である。
6から9までの右側の数字は、呼び引っ張り強さに対する「降伏点」の比率を示し、その比の小数点1位が数字で示される。
例えば、呼び引っ張り強さ:1,200N/mm<sup>2</sup>、降伏点:1,080N/mm<sup>2</sup>は「12.9」である。JISでは10段階のそれぞれで呼び引っ張り強さと降伏点の他に、硬さや破断伸び、衝撃エネルギーなども定められている。
ナットについても7段階の強度区分が設けられている。
: 4 - 5 - 6 - 8 - 9 - 10 - 12
{{Sfn|門田監修|2007|p=31}}{{Sfn|門田|2009|p=}}
== 締緩作業 ==
=== ねじの締め方 ===
ねじは回転させることで締め付けて固定したり緩めて外す部品であり、その締緩作業を行うための工具として[[ドライバー (工具)|ドライバー]]が用いられる([[ナット]]と[[ボルト (部品)|ボルト]]の締緩作業には[[レンチ]]が用いられる)。ねじを締める場合に必要以上の力を加えると接合される部品やねじそのものを破損してしまう(いわゆる「ねじが馬鹿になった」状態)ことになるため、重要な部品などでは[[トルクドライバー]]([[トルクレンチ]])などが用いられる。
==== 軸力管理<ref>{{Cite web|和書|title=第7話 ねじの締めつけ管理方法 {{!}} NBK【鍋屋バイテック会社】|url=https://www.nbk1560.com/resources/specialscrew/article/nedzicom-topics-07-torque-management/|website=鍋屋バイテック会社|accessdate=2021-05-03|language=ja}}</ref> ====
ねじの主な役割は、締めつけにより発生する軸力で物を締結することであるから、物の締結力を制御するためには、ねじの軸力を管理しなければならない。しかし実際の作業では軸力を直接監視することは困難である。そのため簡便な方法としてトルクレンチで締めつけトルクを管理して、軸力を担保することが多い。しかし、用途によっては更に高精度な軸力管理が求められる。
=====「弾性域締めつけ」と「塑性域締めつけ」=====
ねじを締めつけ、軸力(応力)をかけていくと、降伏点までは軸力に比例してねじが伸び、軸力を取り除くと、ねじの伸びは元に戻る。この弾性域範囲内での締めつけが「弾性域締めつけ」であり、ねじの軸力のばらつきが大きいが、ねじのくり返しの使用が可能で、トルクレンチを用いたトルク法による締めつけ管理ができ、締めつけ作業が簡単という特長がある。
対して、降伏点を超え、さらにねじを締めつけて軸力をかけると、比例関係がなくなり、軸力に対して伸びが急激に増えていく。この状態になると、ねじに永久伸びが生じ、軸力を取り除いても元に戻らなくなる。この塑性域範囲内での締めつけが「塑性域締めつけ」であり、ねじに永久伸びが生じるため、くり返し使用ができず、締めつけ作業にも時間がかかる、などの欠点があるが、弾性域締めつけよりも安定した軸力管理を行うことができるから、エンジンの組み立てなどに用いられている。
=====トルク法=====
トルク法とは、締めつけトルクと締めつけ軸力との弾性域における線形関係を利用した締めつけ管理方法である。締めつけ作業時に締めつけトルクだけを管理する方法だから、トルクレンチでできる比較的簡単な締めつけ管理方法で、一般的に広く普及している。しかし、締めつけトルクは、その全てが軸力として作用するわけではなく、ねじ面や座面の摩擦によって消費される。そのため、同じトルクで締めつけても表面荒さや潤滑状態などによって軸力が大きくばらつくため、摩擦特性の管理に注意が必要である。
そのため、一般的にトルク法によるねじの締めつけは、発生する軸力が降伏点の60%~70%の弾性領域内が望ましいと言われている。
=====回転角法=====
回転角法は、スナグ点(ねじと座面を密着させるために必要な締めつけトルクを作用させた点)からのねじ頭部やナットの締めつけ回転角度を、角度割出し目盛板(分度器)や電気的な検出器など管理して、締めつけ軸力をコントロールする方法で、弾性域締めつけ、塑性域締めつけの両方に用いることができる。しかし、弾性域締めつけでは、回転角度による軸力の変化が大きくばらつきやすいため、作業が単なトルク法の方がよく使用されている。一方、塑性域締めつけでは、回転角の誤差による軸力の変化が小さくなるから、ボルトやナットの六角形状を利用した目視による角度管理が可能な場合もある。
=====トルクこう配法=====
トルクこう配法とは、ねじの締めつけ軸力が降伏点を超えると、軸力に対して急激に伸びが増加する性質を利用した締めつけ法である。締めつけトルクと回転角を電気的なセンサなどで検出して、弾性域と塑性域の変化点をコンピュータで算出し、弾性域限度で締めつけを行う。
必要な装置が他の方法より大がかりだが、ばらつきの要因は材料の降伏点のみのため、トルク法や回転角法よりも軸力のばらつきが小さい方法である。そのため自動車のエンジンやシリンダヘッドのボルトなど、締めつけの信頼性の高さを求められる場合に用いられている。
=====その他の方法=====
これらの締めつけ管理方法以外にも、ねじの伸びを直接測定し管理する測伸法や、ねじを高温に加熱して伸びを与えて、取りつける際の温度を管理する加熱法などがある。
=== 緩みの原因 ===
締結に使用されるねじでは、その緩みは問題を引き起こすことがあり、避けられねばならない。ねじの緩みはねじ自身が回転して緩むものと、回転を伴わずに緩むものがある。
; 回転による緩み
: 回転による緩みでは、一度締め付けたねじが何らかの理由で締めが戻る方向にねじが回転することで緩んでしまうものである。いずれも繰り返し加えられる外力や振動によってねじが回転し、その力の向きは次に示す方向に分解できる。
:* 軸方向(垂直方向)
:* 軸に直角となる横方向
:* 軸を中心とする回転方向
: 軸方向での荷重の増減や衝撃力が加わるだけでもそれが繰り返されることでねじの回転による緩みが生じることがあり、軸に直角方向では変位や衝撃力が繰り返されるだけでも同様の緩みが生じることがある{{Sfn|山本|2003|pp=76-84}}。
:
; 回転によらない緩み
: 回転によらない緩みでは、ねじやボルトが締結時に持つ予張力が失われることで緩みとなって現れる。
:;初期緩み
::締め付け直後から、負荷ねじ面、ナット座面、ボルト頭座面、被締結部材接合面のそれぞれにおいて加工時の凹凸が締結圧力を受けて次第に平面状や相互の凹凸に応じた形へと変形して行き、緩みの要因となることがある<ref group="注">初期緩みによるトラブルを回避するために、1度ねじを締め付けてからしばらく後に再び締め付け直す「増し締め」と呼ばれる作業を行うことがある。</ref>。
:;陥没
::被締結部材が柔らかい材質の場合、被締結表面部へ塑性的に陥没することで緩みの原因となることがある{{Sfn|山本|2003|pp=74-75}}。
:;微動摩耗
::締結接触面同士が微動することで摩耗し、緩みの原因となることがある{{Sfn|門田|2007|pp=85-91}}{{Sfn|山本|2003|p=75}}{{Sfn|門田|2009|p=}}。
=== 緩み防止 ===
[[File:Screw_(bolt)_22A-J.PNG|thumb|250px|right|'''ダブルナット''']]
緩み防止のため、以下に示す多様な方法が考案されている{{Sfn|門田|2007|pp=91-93}}{{Sfn|門田|2007|pp=174-178}}{{Sfn|山本|2003|p=}}。
; ダブルナット
: 最も一般的な緩み防止方法にダブルナットがある。2つのナットを工具で互いに逆方向に締めること(羽交い絞め、ロッキングという)で緩みを防止する。2つのナットの組み合わせによって3種に分類される。
:* 等厚型:同じ厚みの六角(並)ナットを使用するので上下の位置の問題は生じない
:* 上低下並型:上に六角低ナットを、下に六角(並)ナットを使用するものであり、軸力は上のナットにかかるため強度不足となる可能性があるが、知識欠如などによる勘違いから施工事例は多い<ref group="注">[http://www.nikkenren.com/kenchiku/ (社)日本建設業連合会]・建築本部・鉄骨専門部会[http://www.nikkenren.com/kenchiku/sekou/steel_frame_Q&A/B-1_tatekata.htm 『鉄骨工事Q&A』(2011.7.1)]B.工事現場施工 1.建方[http://www.nikkenren.com/kenchiku/sekou/steel_frame_Q&A/B-1-6.pdf 1-6「アンカーボルトのダブルナットの上ナット締付に規定はあるか?」(2012.9.1)]にその回答として、誤った施工方法を記載しており、事例は大型の鉄骨プレハブ住宅など身近に多く見られる。</ref>。
:* 上並下低型:上に六角(並)ナットを、下に六角低ナットを使用するもので、工学的に正しい施工法であるが、薄いスパナを用意する必要がある。
:
; ワイヤロック
: [[File:Screw (bolt) 21B-J.PNG|thumb|250px|right|'''ダブルツイストワイヤの例'''<br />2重のワイヤで締まる方向に引っ張られている。]]
: ワイヤロックとは、ボルトの側面に穴を開けてそこに針金を通し、他の部品やボルト同士を結び付けることでボルトの回転止めや脱落を防止する手法である。ダブルツイストワイヤ法では、各ボルト同士の間に往復2本のワイヤが走り、それら2本は全て捻じられる。シングルワイヤ法では各ボルト同士の間は1本のワイヤが走る。いずれの方法でもワイヤが張られる方向は(右ねじでは)時計回りに引っ張られるように留意され、ねじの緩みが防止される。航空機産業のような安全確実な締結が求められる用途で用いられる。
; セレーションとフランジ
: ボルトやネットの締結表面部のギザギザの面はセレーションと呼ばれる。ボルトやネットの締結面だけ広い径にした部分はフランジと呼ばれる。共に締結表面での接触面の抵抗を増すことで緩みを防ぐ工夫である。近年ではダブルナットの特殊なものとして、右ねじと左ねじが同じ1本のねじに刻まれて、2つのナットの回転方向が別々となるような製品も登場している。
; 座金
: 陥没による緩みを避けるために座金が使われる事があり、同様の理由で大きめの径のナットが使われる事がある。
; フリクションリング付きナット
: [[File:Screw_(bolt)_22D-J.PNG|thumb|300px|right|'''緩み防止ナット'''(3例)]]
: ナットに付いた板バネでボルトのおねじを押さえつけることでナットの緩みを防止する。「U-ナット」とも呼ばれる。
; ナイロンナット
: ナイロン製のリングをナットの上部に埋め込んでおき、このリングがボルトのねじ山に食い込むことでナットの緩みを防止する。[[ロックナット]]を参照。
; かしめ式ナット
: かしめ式ナットでは、ナットの一部が肉薄の円筒状になっており、締め付け後におねじ部の溝にこの薄い部分をかしめてナットの回転を防止する。[[かしめナット]]とは異なる。
; 割りピン付きボルト
: ボルトの先近くに割りピンを刺すための穴が付けられている。
; キャッスルナット(溝つきナット)とコッタピン(割りピン)
: [[ファイル:Screw_(bolt)_22G-J.PNG|thumb|200px|right|'''キャッスルナットとコッタピン''']]
: ねじ頭に6分割や12分割の溝が切られたキャッスルナットとコッタピンは、ピンを通すための穴が開けられた割りピン付きボルトと共に用いられる。ボルトには適正な箇所に穴がなければならず、締め付け角度も制限される、作業時間とコストが増すなどが不利な点も多いが、緩み止めとして確実性があるため車輌や産業機械で広く使われている。六角部に切り込みがありものと、六角部から上に出ているものとがある。
; 精密ロックナット
: 精密機械でのベアリングなどを固定する目的で、ナットの外周部にめねじの軸方向にめねじ付きの小穴が開けられており、いもねじで固定する。
; 舌付き座金
: 座金に「舌」と呼ばれる突起を付けて、締結側とナットの両方を噛み合わせることでナットが回転しないようにする。締結側の適切な位置に穴のような舌の保持部分が必要になる。
; 組み合わせ座金
: ねじのリード角より大きな斜面を放射状に持つ2枚対向する座金を用いる。仮にナットが緩み方向に回転しようとしても2枚のナットの間隔が広がるので軸力が増すように働く。
; 偏心テーパ二重ナット
: [[ファイル:HARDLOCK nut.PNG|thumb|250px|right|'''ハードロックナット''']]
: テーパの付いた2つのナットが噛み合うだけでなく、片側が偏心しているので軸に対して直角方向の力も働き、緩み防止が行える<ref group="注">偏心テーパ二重ナットには「ハードロックナット」という商品名の製品が存在する。</ref>。
; コイルスプリング
: コイル状のスプリングをナット側で余ったボルト先端に装着することで、ナットの脱落を防止する。
; ロックボルト
: 航空機での使用が多い。防犯用ボルトや「アンカーボルト」を意味する場合もある。
接着剤やシールテープで緩み止めを行う方法もある{{Sfn|門田|2009|p=}}。
=== ねじの緩め方 ===
小ねじやボルト、ナットは古くなったり、不適切な方法で緩めようとしてねじの頭を潰したりして外れなくなる時がある。
オイルスプレーを大量に吹きつけ十分に時間を置いて浸透させてから回す方法もあるが、固着したねじは多く場合密着していてオイル類は浸透しない場合も多々ある。
この場合、[[バーナー]]でナットあるいはボルトを熱すると金属が膨張するので、比較的緩められるケースが多く、バイク・自動車整備でもよく行われている。[[スプレー]]式ガスバーナーの説明書にも「固着したねじを緩める」などの利用法が書いてある。しかしこれはある程度太いねじの方法であり、細いねじで行うと熱による強度低下でねじ自体が折れる場合が多い。
一般にねじは時間の経過と共に熱や錆などで固着することが多く、無理にこじってねじ頭を潰してしまうことがある。頭をプライヤのようなや一般工具や [[ドライバー (工具)#機能面による分類|ショックドライバー]]等の潰れたねじ専用の工具で回すことも多くの場合は可能である。接着剤で頭に何か物を貼り付けて回す方法もある。ねじ頭が取れてしまった場合や虫ねじのように最初からねじ頭のないねじで穴が潰れた場合には、ドリルで残ったねじに穴を開けて棒をねじ込み回すボルトツイスタと呼ばれる専用工具もある。植え込みボルトが外せなくなった場合にはスタッドプラーと呼ばれる専用工具があり、ねじ部を掴むものとねじ部を避けてねじのない軸部を掴むものがある。ナットが回らなくなった場合には、ナット側面に爪状の突起を食い込ませて割りナット内径を広げて回したり、2箇所からナットを割り分割し除去する、ナットスプリッタと呼ばれる専用工具がある(ナットを破壊する事になるので、ナットは交換となる){{Sfn|田村|2008|p=}}。また、最悪の場合にはボルトそのものがある場所を強力なドリルでめねじごと取り除いて大きな穴を開け、必要ならその跡に改めて大き目の径のめねじを切って新たに大きい径のボルトを使用する方法もある。鋼鉄など金属の場合には大きくなった穴を溶接技術で埋めることも可能であり、木材の場合には接着剤などで穴を塞いでから新たに穴を穿つことも行われる。
== ぜんまいでのねじ ==
[[ぜんまいばね]]を巻き上げる仕掛けとその取手もねじと呼ばれる。ねじ部品ではその溝の立体配置がヘリコイド(helicoid)を基本としているのに対して、ぜんまいばねでは多くがスパイラル(spiral)を基本としている。日本語ではいずれも「螺旋」と呼ばれるため、若干のあいまいさがある{{Sfn|田村|2008|p=}}。
== その他の補足 ==
* めねじに挿入され、より小径のめねじとして機能するコイル状のヘリカルインサートや蛇腹状の管で一体型の特殊インサート、緩み止めとして使用されるものなど、各種の[[インサート (ねじ)|インサート]]製品がある。
* [[歯車#はすば歯車|はすば歯車]]は、ねじの要素を持っている。
* [[電気洗濯機]]や[[電気冷蔵庫]]では、本体を水平に設置するために底部にねじで高さを調整できるようにした調節脚を付けているものも多い。
* 火薬の爆発によって一瞬で切断される「分離ボルト」や「爆破ボルト」とも呼ばれるものは、多段式ロケットの接続分離に使用される。
* 油圧テンショナ:プラント設備などの大型重量物でのねじ締結作業では、ねじをそのものを回して締結する前に、ナット側で十分長く飛び出たボルトのねじ部を油圧テンショナと呼ばれる専用の締め付け装置によって軸に垂直方向でボルトを引いておき、自由なナットを回転させて締結する手法が採られることがある{{Sfn|田村|2008|p=}}。
* 家電リサイクルの立場から家庭電気製品の解体を迅速に行えるように製造時から配慮が求められる。締結に金属ねじを多用している現在の電気製品では、破棄される時点でねじが錆びなどで固着してしまって思うように解体が進まないことが問題となる。形状記憶機能を持つプラスチックねじを使用して、ある一定上の温度まで加熱すればねじ山が消える工夫が検討されている{{Sfn|門田|2007|p=171}}。
* キャップスクリュー{{lang|en|''cap screw''}}とは、頭のついたおねじ部品を指す。
* ねじに限った事ではないが、円筒など円であることを示す際には、一般に直径を表す数値の前に丸に左下がりの斜線を入れた直径記号<math>\varnothing\ </math>を付ける。この記号はギリシャ文字{{lang|el|φΦ}}(ファイ)に見立て、しばしば「パイ」と呼ばれる。例えば「<math>\varnothing\ </math>8」はメートル単位系であれば直径8mmの円を表し、日本においては「まる・8」「8ミリまる」「8パイ」などと読まれる。また、日本ではインチ単位について、慣用的に1/8インチを一単位として分・厘で呼ぶ事が多い。この場合、例えば、1/4インチは「2分」、3/16インチは「1分5厘」となる。
<gallery>
画像:Hira.jpg|平座金
画像:Spring (bolt).jpg|ばね座金
画像:Kikuza.jpg|歯付き座金(菊座)
</gallery>
== ねじが使われる言い回し ==
; ねじが外れてる(抜けてる、足りない)
:相手の無知、馬鹿さ加減を表現する言葉。冒頭にはたいてい「頭の」と付く。また、○○本抜けている、と添えて外れているねじの本数で相手の無知さ加減を表現する。
; ねじが緩む
:きちっと締めてあったねじが長年の使用と共に徐々に緩んでくるように、規律が緩んで緊張感なく、ダラけている様子
; ねじを巻く
:この場合のねじは、正しくは「ぜんまい」のねじである。ぜんまいはねじを巻いて動力を得ることから、停滞している状況や、行動・態度がだらしない人や集団を叱咤激励によりふたたび本来の働きに戻すこと。
; 逆ねじを食らわす
:さかねじと読む。討論などの場で、異論や非難・抗議する相手に対し、逆に非難し逆襲をすること。
; ねじが馬鹿になる
:過度の締付トルクで力任せにねじを締め込み過ぎ、めねじを破損した状態。ねじ穴が馬鹿になる、ねじ山が馬鹿になる、とも表現される。ねじ切れてしまったとも表現される。こうなってしまうと、いくらねじを締めても、いつまでもクルクルねじが回り締め付けることはできない。修理はほぼできないので、対応策としては1サイズ大きなタップを切り直すしかない。ねじ頭のドライバーをあてるみぞ部分を壊してしまうことは「ねじをなめる」と表現する場合がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
[https://www.hanshin-neji.com/content/5318/%E3%81%AD%E3%81%98%E9%A1%9E%E3%81%AE%E8%A6%8B%E7%A9%8D%E4%BE%9D%E9%A0%BC%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B ねじ類の見積依頼をするにはどんなことを知らなければいけないのでしょうか]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ヴィトルト・リプチンスキ|translator=春日井晶子|title=ねじとねじ回し-この千年で最高の発明をめぐる物語|publisher=[[早川書房]]|year=2003|ISBN=4152085045|ref={{Sfnref|リプチンスキ|2003}} }}原題“One Good Turn - A Natural History of the Screwdriver and the Screws”
* {{Cite book|和書|author=田村修|title=ねじの知識-その重要さと技術を知ろう|publisher=[[養賢堂 (出版社)|養賢堂]]|year=2008|month=1|isbn=9784842504292|ref={{Sfnref|田村|2008}} }}
* {{Cite book|和書|author=門田和雄|authorlink=門田和雄|title=絵とき「ねじ」基礎のきそ|publisher=[[日刊工業新聞社]]|series=Machine Design Series|year=2007|month=2|edition=初版|isbn=9784526058219|ref={{Sfnref|門田|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author=門田和雄|title=暮らしを支える「ねじ」のひみつ-メガネ・飛行機・超高層ビルまで世界を支える「ねじ」の基礎知識|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|series=サイエンス・アイ新書|year=2009|month=6|edition=初版|isbn=9784797352344|ref={{Sfnref|門田|2009}} }}
* {{Cite book|和書|author=門田和雄|title=トコトンやさしいねじの本|publisher=日刊工業新聞社|series=B&Tブックス 今日からモノ知りシリーズ|year=2010|month=6|isbn=9784526064760|ref={{Sfnref|門田|2010}} }}
* {{Cite book|和書|editor=門田和雄 監修|title=種類や上手な使い方がよくわかるねじ図鑑|publisher=[[誠文堂新光社]]|series=技術チャレンジ|year=2007|month=12|isbn=9784416307120|ref={{Sfnref|門田監修|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author=山本晃|title=ねじのおはなし|publisher=[[日本規格協会]]|series=おはなし科学・技術シリーズ|year=2003|month=4|edition=改訂版|isbn=454290265X|ref={{Sfnref|山本|2003}} }}ISBN 9784542902657。
== 関連項目 ==
* [[ボルト (部品)|ボルト]] - [[ナット]] - [[座金]]
* [[リベット]]
* [[タップ (工具)|タップ]] - [[ねじ切りダイス]]
* [[ドライバー (工具)|ドライバー]] - [[レンチ]]
* [[ラチェットレンチ]](ラチェット機構を用いたレンチの一種。)
* [[工具]]
* [[鉄砲伝来]]
* [[ねじ製造技能検定試験]](一般社団法人 [[日本ねじ工業協会]])
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Screw|Screws}}
* [http://www.fij.or.jp/essay/ 日本ねじ工業協会]
** [http://www.fij.or.jp/essay/ 「ねじ」エッセイ・小論文コンテスト] - 日本ねじ工業協会創立50周年記念事業
* [http://www.drill-neji.com/ ドリルねじ / ドリルねじ協議会]
* [http://www.neji-bane.jp/ ねじ・ばねの業界専門紙] / 金属産業新聞社
* [https://www.nmri.go.jp/eng/khirata/design/ch04/ch04_01.html もの作りのための機械設計工学] - [[海上技術安全研究所]]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ねし}}
[[Category:ねじ|*]]
[[Category:締結 (機械要素)]]
[[Category:南蛮文化]]
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キャンプ・デービッド
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キャンプ・デービッド(英語: Camp David)は、アメリカ合衆国大統領の保養地である。メリーランド州フレデリック郡のサーモント(英語版)とエミッツバーグ(英語版)の町の近く、首都ワシントンD.C.から北北西に約100キロメートルのキャトクティン山岳公園(英語版)の中にある。面積は125-エーカー (51 ha)である。大統領の保養地というだけでなく、訪米した外国の要人をもてなすためにも使用され、重要な会談や会議の会場にもなった。
正式名称はサーモント海軍支援施設(Naval Support Facility Thurmont)という。軍事施設であり、人員配置は主にアメリカ海軍と麾下の建設工兵隊(シービー)、土木工兵隊(英語版)(CEC)、アメリカ海兵隊が行っている。大統領はホワイトハウスからはマリーンワンで移動する。
連邦政府職員とその家族のための保養所として、公共事業促進局により1935年から1938年にかけて建設され、当時はハイ・キャトクティン(Hi-Catoctin)と呼ばれていた。
第二次世界大戦中の1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領がここを大統領専用の別荘兼避難所に選定し、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場するユートピアにちなんでシャングリラ(理想郷)と名付けられた。1953年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、この名は華やかすぎると判断し、自身の父と孫の名前にちなんでキャンプ・デービッドに改称した。
キャトクティン山岳公園では、安全保障の観点から、公園の地図にキャンプ・デービッドの位置を示していないが、公開されている衛星画像でその位置を確認することができる。
フランクリン・ルーズベルトは、第二次世界大戦中の1943年5月、イギリスのウィンストン・チャーチル首相をシャングリラに招いた。
ドワイト・D・アイゼンハワーは、1955年9月24日に心臓発作で倒れ、入院と療養の後、同年11月22日にキャンプ・デービッドで閣僚会議を開いた。ここで閣僚会議が開かれたのは、これが初めてだった。1959年9月にはソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフを招いて2日間会談、この国際紛争の平和的解決で合意した会談は『キャンプ・デービッド会談』と呼ばれる。
ジョン・F・ケネディとその家族は、しばしばキャンプ・デービッドで乗馬やゴルフなどをして休暇を過ごし、大統領一家が使用していないときにはホワイトハウスのスタッフや閣僚に使わせていた。
リンドン・ジョンソンはここで顧問と面談し、オーストラリアのハロルド・ホルト首相やカナダのレスター・B・ピアソン首相を招いた。
リチャード・ニクソンも頻繁にここを訪れた。ニクソンは、アスペンロッジへのプールの建設など、キャンプ・デービッドの改修の指揮を自ら行った。
ジェラルド・フォードはインドネシアのスハルト大統領をキャンプ・デービッドに招いた。
ジミー・カーターは、当初経費節減のためにキャンプ・デービッドの閉鎖を検討していたが、初めて訪れてから存続を決定した。1978年9月、カーターはキャンプ・デービッドにおいてエジプト大統領アンワル・アッ=サーダート、イスラエル首相メナヘム・ベギンと会談し、『キャンプ・デービッド合意』を成立させた。
ロナルド・レーガンは歴代の大統領の中で最も多くキャンプ・デービッドを訪問している。1984年、イギリスのマーガレット・サッチャー首相を招いた。 1986年には当時の中曽根康弘首相を初めて招待した。 レーガンは、ニクソンが乗馬をするために舗装した遊歩道を修復した。
ジョージ・H・W・ブッシュは、1992年に当時の宮沢喜一首相と意見交換した。ブッシュの娘のドロシーが、キャンプ・デービッドで初となる結婚式を行った。
ビル・クリントンは、大統領在任中の感謝祭を毎年キャンプ・デービッドで家族とともに過ごした。 2000年7月、イスラエルのエフード・バラック首相とパレスチナ自治政府のヤーセル・アラファート議長をキャンプ・デービッドに招いて会談(英語版)を行った。
ジョージ・W・ブッシュは、2001年2月、イギリスのトニー・ブレア首相との初めての会談をキャンプ・デービッドで行った。 同年6月、当時の小泉純一郎首相と当地で初顔合わせし、キャッチボールで親密さを演出した。 同年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の後、ブッシュはキャンプ・デービッドでアメリカのアフガニスタン侵攻の準備のための閣僚会議を開いた。ブッシュは在任中に149回、計487日間キャンプ・デービッドを訪れた。個人的な休養のためだけでなく、多くの外国の要人を招いた。イギリスのブレア首相とはキャンプ・デービッドで4回会った。2003年にはロシアのウラジーミル・プーチン大統領とパキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ大統領、2006年にはデンマークのアナス・フォー・ラスムセン首相、2007年にはイギリスのゴードン・ブラウン首相を招いた。同年には、当時の安倍晋三首相も訪れた。
バラク・オバマは、アメリカが開催国となる2012年の主要国首脳会議(G8)をキャンプ・デービッドで開催、建設的な話し合いが持たれ、『キャンプ・デービッド宣言』が出された。この際、野田首相がたまたま翌日が誕生日で、参加者が野田の誕生日を祝ったという。オバマは、ロシアのドミトリー・メドベージェフ首相をキャンプ・デービッドに迎え、2015年にはキャンプ・デービッドで湾岸協力会議(GCC)の首脳会議を開催した。
ドナルド・トランプは、2018年の中間選挙の前に上院多数党院内総務のミッチ・マコーネルと下院議長のポール・ライアンをキャンプ・デービッドに招いた。2019年9月にはトランプ大統領、ターリバーン幹部、アフガニスタン大統領による極秘の三者会談がキャンプ・デービッドで予定されていたが、直前に破談となった。2020年の第46回先進国首脳会議(G7)はキャンプ・デービッドで開催される予定だったが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行のために中止になった。
ジョー・バイデンは、2023年8月、岸田文雄首相と韓国の尹錫悦大統領を招き、「キャンプ・デービッド原則」をまとめ、「キャンプ・デービッド精神」を発表した。
オバマ大統領がキャンプ・デービッドに滞在中の2011年7月2日、2人乗りの民間航空機がキャンプ・デービッドに接近した。無線による警告に応じなかったため、キャンプ・デービッドから約10キロメートルの地点でF-15戦闘機により迎撃され、ヘイガーズタウンまで護送された。同じ週の7月10日にも小型機がキャンプ・デービッドに接近し、F-15戦闘機が迎撃した。
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キャンプ・デービッドは、アメリカ合衆国大統領の保養地である。メリーランド州フレデリック郡のサーモントとエミッツバーグの町の近く、首都ワシントンD.C.から北北西に約100キロメートルのキャトクティン山岳公園の中にある。面積は125-エーカー (51 ha)である。大統領の保養地というだけでなく、訪米した外国の要人をもてなすためにも使用され、重要な会談や会議の会場にもなった。 正式名称はサーモント海軍支援施設(Naval Support Facility Thurmont)という。軍事施設であり、人員配置は主にアメリカ海軍と麾下の建設工兵隊(シービー)、土木工兵隊(CEC)、アメリカ海兵隊が行っている。大統領はホワイトハウスからはマリーンワンで移動する。 連邦政府職員とその家族のための保養所として、公共事業促進局により1935年から1938年にかけて建設され、当時はハイ・キャトクティン(Hi-Catoctin)と呼ばれていた。 第二次世界大戦中の1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領がここを大統領専用の別荘兼避難所に選定し、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場するユートピアにちなんでシャングリラ(理想郷)と名付けられた。1953年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、この名は華やかすぎると判断し、自身の父と孫の名前にちなんでキャンプ・デービッドに改称した。 キャトクティン山岳公園では、安全保障の観点から、公園の地図にキャンプ・デービッドの位置を示していないが、公開されている衛星画像でその位置を確認することができる。
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{{Infobox military installation
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'''キャンプ・デービッド'''({{Lang-en|Camp David}})は、[[アメリカ合衆国大統領]]の[[別荘|保養地]]である。[[メリーランド州]][[フレデリック郡 (メリーランド州)|フレデリック郡]]の{{仮リンク|サーモント (メリーランド州)|label=サーモント|en|Thurmont, Maryland}}と{{仮リンク|エミッツバーグ (メリーランド州)|label=エミッツバーグ|en|Emmitsburg, Maryland}}の町の近く、首都[[ワシントンD.C.]]から北北西に約100キロメートルの{{仮リンク|キャトクティン山岳公園|en|Catoctin Mountain Park}}の中にある。面積は{{convert|125|acre|ha|adj=on}}である<ref>"[http://www.nps.gov/pwr/customcf/apps/maps/showmap.cfm?alphacode=cato&parkname=Catoctin%20Mountain%20Park Park Map Viewer]". [[Catoctin Mountain Park]]. Retrieved on February 4, 2011.</ref><ref>"[http://factfinder.census.gov/servlet/MapItDrawServlet?geo_id=16000US2477825&_bucket_id=50&tree_id=420&context=saff&_lang=en&_sse=on Thurmont town, Maryland] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111124112836/http://factfinder.census.gov/servlet/MapItDrawServlet?geo_id=16000US2477825&_bucket_id=50&tree_id=420&context=saff&_lang=en&_sse=on |date=November 24, 2011 }}". [[United States Census Bureau]]. Retrieved on February 4, 2011.</ref><ref name="Nomap">"[http://www.nps.gov/cato/faqs.htm Frequently Asked Questions]". [[Catoctin Mountain Park]], Retrieved on February 4, 2011. "10. Where is Camp David? The Presidential Retreat is within the park however, it is not open to the public and its location is not shown on our park maps for both security and privacy. If you're interested in historical information, visit our Presidential Retreat webpage."</ref>。大統領の保養地というだけでなく、訪米した外国の要人をもてなすためにも使用され、重要な会談や会議の会場にもなった。
正式名称は'''サーモント海軍支援施設'''(Naval Support Facility Thurmont)という。軍事施設であり、人員配置は主に[[アメリカ海軍]]と麾下の建設工兵隊([[シービー]])、{{仮リンク|土木工兵隊|label=土木工兵隊|en|Civil Engineer Corps}}(CEC)、[[アメリカ海兵隊]]が行っている。大統領はホワイトハウスからは[[マリーンワン]]で移動する。
連邦政府職員とその家族のための保養所として、[[公共事業促進局]]により1935年から1938年にかけて建設され、当時は'''ハイ・キャトクティン'''(Hi-Catoctin)と呼ばれていた<ref name=":0">{{Cite web|date=2016-08-15|title=Camp David|url=https://www.archives.gov/publications/prologue/2008/winter/camp-david.html|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20200503010745/https://www.archives.gov/publications/prologue/2008/winter/camp-david.html|archive-date=2020-05-03|access-date=2019-10-09|website=National Archives|language=en|quote=Officially a U.S. Navy installation, the facility was originally built by the Works Progress Administration as a camp for government employees, opening in 1938. President Franklin D. Roosevelt took it over in a few years and named it "Shangri-La," for the mountain kingdom in Lost Horizon, the 1933 novel by James Hilton. It was renamed in 1953 by President Dwight D. Eisenhower in honor of his then-five-year-old grandson, Dwight David Eisenhower II.}}</ref><ref>{{cite web | title =12 WPA Projects that Still Exist | date =September 16, 2007 | publisher =[[How Stuff Works]] | url =http://people.howstuffworks.com/12-wpa-projects-that-still-exist.htm | access-date =March 11, 2009}}</ref>。
[[第二次世界大戦]]中の1942年、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領がここを大統領専用の別荘兼避難所に選定し、イギリスの作家[[ジェームズ・ヒルトン]]の小説『[[失われた地平線]]』に登場する[[ユートピア]]にちなんで'''[[シャングリラ]]'''(理想郷)と名付けられた<ref name=":0" />。1953年、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領が、この名は華やかすぎると判断し、自身の父と[[デイヴィッド・アイゼンハワー|孫]]の名前にちなんで'''キャンプ・デービッド'''に改称した<ref>{{cite book |last=Eisenhower |first=David |author2=Julie Nixon Eisenhower |title=Going Home to Glory: A Memoir of Life with Dwight David Eisenhower, 1961–1969 |url=https://archive.org/details/goinghometoglory00davi_0 |url-access=registration |publisher=Simon and Schuster |location=New York |year=2010 |page=[https://archive.org/details/goinghometoglory00davi_0/page/31 31]}}</ref>。
キャトクティン山岳公園では、安全保障の観点から、公園の地図にキャンプ・デービッドの位置を示していないが<ref name="Nomap"/>、公開されている衛星画像でその位置を確認することができる。
== 利用 ==
[[File:Churchill-FDR-Shangri-La-1943.jpg|left|thumb|upright|[[ウィンストン・チャーチル]]とフランクリン・ルーズベルト(1943年5月、シャングリラにて)]]
[[フランクリン・ルーズベルト]]は、[[第二次世界大戦]]中の1943年5月、[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]]首相をシャングリラに招いた<ref name="whitehouse1">{{cite web |url=https://www.whitehouse.gov/about/camp_david/ |title=Camp David |publisher=[[White House|Whitehouse.gov]] |access-date=June 29, 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090630021056/http://www.whitehouse.gov/about/camp_david/ |archive-date=June 30, 2009 |url-status=dead |df=mdy-all }}</ref>。
[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]は、1955年9月24日に心臓発作で倒れ、入院と療養の後、同年11月22日にキャンプ・デービッドで閣僚会議を開いた。ここで閣僚会議が開かれたのは、これが初めてだった<ref>{{cite web|url=http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=10363|title=Dwight D. Eisenhower: Message Prepared for the Conference on Fitness of American Youth.|access-date=May 2, 2015|archive-date=March 4, 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160304211020/http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=10363|url-status=dead}}</ref>。1959年9月にはソ連の最高指導者[[ニキータ・フルシチョフ]]を招いて2日間会談<ref>{{Cite news|title=Eisenhower and Khrushchev meet for talks|language=en|work=History|url=https://www.history.com/this-day-in-history/eisenhower-and-khrushchev-meet-for-talks|access-date=2020-06-08}}</ref>、この国際紛争の平和的解決で合意した会談は『キャンプ・デービッド会談』と呼ばれる。
[[ジョン・F・ケネディ]]とその家族は、しばしばキャンプ・デービッドで乗馬やゴルフなどをして休暇を過ごし、大統領一家が使用していないときにはホワイトハウスのスタッフや閣僚に使わせていた<ref>{{Cite web|title=Camp David {{!}} A History of the Presidential Retreat|url=https://www.infoplease.com/us/government/executive-branch/history-of-camp-david|access-date=2020-06-16|website=www.infoplease.com|language=en}}</ref>。
[[リンドン・ジョンソン]]はここで顧問と面談し、[[オーストラリア]]の[[ハロルド・ホルト]]首相や[[カナダ]]の[[レスター・B・ピアソン]]首相を招いた<ref>{{cite web|url=http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=28308|title=272 – Address at the State Department's Foreign Policy Conference for Educators.|date=June 19, 1967|work=The American Presidency Project|access-date=February 2, 2017|archive-date=December 27, 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161227195747/http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=28308|url-status=dead}}</ref>。
[[リチャード・ニクソン]]も頻繁にここを訪れた。ニクソンは、アスペンロッジへのプールの建設など、キャンプ・デービッドの改修の指揮を自ら行った<ref>W. Dale Nelson, ''The President is at Camp David'' (Syracuse University Press, 1995), pp. 69–94.</ref>。
[[ジェラルド・フォード]]は[[インドネシア]]の[[スハルト]]大統領をキャンプ・デービッドに招いた<ref name="infoplease1">{{cite web|url=http://www.infoplease.com/spot/campdavid1.html |title=Camp David: A History of the Presidential Retreat |publisher=Infoplease.com |date=July 18, 1942 |access-date=June 29, 2009}}</ref>。
[[ジミー・カーター]]は、当初経費節減のためにキャンプ・デービッドの閉鎖を検討していたが、初めて訪れてから存続を決定した<ref>{{Cite web|url=https://news.google.com/newspapers?nid=266&dat=19770822&id=2d0wAAAAIBAJ&pg=1091,5150913&hl=en|title=Kentucky New Era |via= Google News Archive Search|website=news.google.com|access-date=2019-10-09}}</ref>。1978年9月、カーターはキャンプ・デービッドにおいて[[エジプト]]大統領[[アンワル・アッ=サーダート]]、[[イスラエル]]首相[[メナヘム・ベギン]]と会談し、『[[キャンプ・デービッド合意]]』を成立させた<ref name="whitehouse1"/>。
[[ロナルド・レーガン]]は歴代の大統領の中で最も多くキャンプ・デービッドを訪問している<ref name=":1" />。1984年、イギリスの[[マーガレット・サッチャー]]首相を招いた<ref>{{Cite book|last=Aldous, Richard|title=Reagan and Thatcher : the difficult relationship|date=2012|publisher=W.W. Norton & Co|isbn=978-0-393-06900-6|edition= 1st|location=New York|oclc=738350026}}</ref>。
1986年には当時の[[中曽根康弘]]首相を初めて招待した。<ref name='日経'>2023年8月19日日本経済新聞朝刊4面『3首脳集結「キャンプ・デービッド」歴史の節目、会談の場に』</ref>
レーガンは、ニクソンが乗馬をするために舗装した遊歩道を修復した<ref>{{Cite web|url=https://aboutcampdavid.blogspot.com/2010/10/horseback-riding.html|title = Horseback Riding|date = October 2010|accessdate=2023-01-10}}</ref>。
[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]は、1992年に当時の[[宮沢喜一]]首相と意見交換した<ref name='日経'></ref>。ブッシュの娘の[[ドロシー・ブッシュ・コック|ドロシー]]が、キャンプ・デービッドで初となる結婚式を行った<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1992/06/28/us/bush-s-daughter-marries-with-a-minimum-of-fuss.html|title=Bush's Daughter Marries With 'a Minimum of Fuss'|date=June 28, 1992|work=The New York Times|accessdate=2023-01-10}}</ref>。
[[ビル・クリントン]]は、大統領在任中の[[感謝祭]]を毎年キャンプ・デービッドで家族とともに過ごした{{sfn|O'Brien|2018|p=[https://books.google.de/books?id=LlBVDwAAQBAJ&pg=PA178 178]}}。
2000年7月、[[イスラエル]]の[[エフード・バラック]]首相と[[パレスチナ自治政府]]の[[ヤーセル・アラファート]]議長をキャンプ・デービッドに招いて{{仮リンク|2000年キャンプ・デービッド会談|label=会談|en|2000 Camp David Summit}}を行った<ref name="retreat">{{cite web|last1=Shankar|first1=Dakshayani|last2=Wells|first2=Dylan|title=What to know about presidential retreat Camp David where Trump travels Friday|url=https://abcnews.go.com/Politics/presidential-retreat-camp-david-trump-travels-friday/story?id=49273534|website=[[ABCニュース (アメリカ)|ABC News]]|date=September 8, 2017|access-date=May 16, 2020}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://2001-2009.state.gov/p/nea/rls/22698.htm|title=Trilateral Statement on the Middle East Peace Summit at Camp David|last=Department Of State. The Office of Electronic Information|first=Bureau of Public Affairs|website=2001-2009.state.gov|language=en|access-date=2019-10-09}}</ref>。
[[ジョージ・W・ブッシュ]]は、2001年2月、イギリスの[[トニー・ブレア]]首相との初めての会談をキャンプ・デービッドで行った<ref>{{cite web|title=Bush, Blair conclude meetings at Camp David|url=https://edition.cnn.com/2001/US/02/24/bush.blair.01/|website=[[CNN]]|date=February 24, 2001|access-date=May 16, 2020}}</ref>。
同年6月、当時の[[小泉純一郎]]首相と当地で初顔合わせし、キャッチボールで親密さを演出した<ref name='日経'></ref>。
同年9月11日の[[アメリカ同時多発テロ事件]]の後、ブッシュはキャンプ・デービッドで[[アメリカのアフガニスタン侵攻]]の準備のための閣僚会議を開いた<ref>{{Cite book|last=Henriksen|first=Thomas H.|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/9781009053242/type/book|title=America's Wars: Interventions, Regime Change, and Insurgencies after the Cold War|year=2022|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-1-009-05324-2|edition=1|doi=10.1017/9781009053242.005}}</ref>。ブッシュは在任中に149回、計487日間キャンプ・デービッドを訪れた。個人的な休養のためだけでなく、多くの外国の要人を招いた{{sfn|O'Brien|2018|p=[https://books.google.de/books?id=LlBVDwAAQBAJ&pg=PA181 181]}}。イギリスのブレア首相とはキャンプ・デービッドで4回会った{{sfn|O'Brien|2018|p=[https://books.google.de/books?id=LlBVDwAAQBAJ&pg=PA181 181]}}。2003年にはロシアの[[ウラジーミル・プーチン]]大統領<ref>{{cite news |title=With issues to resolve, Bush welcomes Putin to Camp David |date=September 27, 2003 |url=https://www.nytimes.com/2003/09/27/world/with-issues-to-resolve-bush-welcomes-putin-to-camp-david.html |work=[[The New York Times]] |access-date=August 6, 2011 |first=David |last=Sanger }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.losthorizon.org/found/CampDavid |title=Camp David |access-date=August 6, 2011 |archive-date=October 1, 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111001045619/http://www.losthorizon.org/found/CampDavid/ |url-status=dead }}</ref>とパキスタンの[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]大統領<ref>{{Cite web|url=https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2003/06/20030624-3.html|work=[[whitehouse.gov]]|title=President Bush Welcomes President Musharraf to Camp David|via=[[NARA|National Archives]]|access-date=2019-10-09}}</ref>、2006年にはデンマークの[[アナス・フォー・ラスムセン]]首相<ref name="retreat"/>、2007年にはイギリスの[[ゴードン・ブラウン]]首相<ref>{{cite news |title=Brown to meet Bush at Camp David |date=July 26, 2007 |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/6917760.stm |work=[[BBC News Online]] |access-date=August 6, 2011 }}</ref>を招いた{{sfn|O'Brien|2018|p=[https://books.google.de/books?id=LlBVDwAAQBAJ&pg=PA181 181]}}。同年には、当時の[[安倍晋三]]首相も訪れた<ref name='日経'></ref>。
[[バラク・オバマ]]は、アメリカが開催国となる2012年の[[第38回主要国首脳会議|主要国首脳会議]](G8)をキャンプ・デービッドで開催<ref>{{cite web |title=White House moves G8 summit from Chicago to Camp David |url=http://chicago.cbslocal.com/2012/03/05/g8-summit-moved-to-camp-david/ |work=CBS Chicago |publisher=CBS Chicago |access-date=May 18, 2012 |date=March 5, 2012 }}</ref>、建設的な話し合いが持たれ、『キャンプ・デービッド宣言』が出された。この際、[[野田首相]]がたまたま翌日が誕生日で、参加者が野田の誕生日を祝ったという。オバマは、ロシアの[[ドミトリー・メドベージェフ]]首相をキャンプ・デービッドに迎え<ref>{{cite web |title=US hopes Assad can be eased aut with Russia's aid |url=https://www.nytimes.com/2012/05/27/world/middleeast/us-seeks-russias-help-in-removing-assad-in-syria.html |archive-url=https://ghostarchive.org/archive/20220101/https://www.nytimes.com/2012/05/27/world/middleeast/us-seeks-russias-help-in-removing-assad-in-syria.html |archive-date=2022-01-01 |url-access=limited |work=[[The New York Times]] |access-date=May 27, 2012 }}{{cbignore}}</ref>、2015年にはキャンプ・デービッドで[[湾岸協力会議]](GCC)の首脳会議を開催した<ref>{{cite web|url=https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2015/04/17/statement-press-secretary-united-states-gcc-summit|work=[[whitehouse.gov]]|title=Statement by the Press Secretary on the United States-GCC Summit|via=[[NARA|National Archives]]|date=April 17, 2015|accessdate=2023-01-10}}</ref>。
[[ドナルド・トランプ]]は、[[2018年アメリカ合衆国選挙|2018年の中間選挙]]の前に上院多数党院内総務の[[ミッチ・マコーネル]]と下院議長の[[ポール・ライアン]]をキャンプ・デービッドに招いた<ref>{{Cite web|url=https://thehill.com/homenews/administration/366656-trump-to-host-congressional-leaders-at-camp-david|title=Trump to host congressional leaders at Camp David|last=Manchester|first=Julia|date=2017-12-28|website=TheHill|language=en|access-date=2019-01-08}}</ref>。2019年9月にはトランプ大統領、[[ターリバーン]]幹部、[[アフガニスタン]]大統領による極秘の三者会談がキャンプ・デービッドで予定されていたが、直前に破談となった<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-08 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3243530|title=トランプ氏、タリバンとの和平交渉中止を発表 極秘会談も取りやめ |publisher=AFP |accessdate=2019-09-10}}</ref>。2020年の[[第46回先進国首脳会議]](G7)はキャンプ・デービッドで開催される予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]のために中止になった<ref>{{Cite news|url=https://business.financialpost.com/pmn/business-pmn/trump-cancels-g7-at-camp-david-over-coronavirus-to-hold-videoconference-instead|title=Trump cancels G7 at Camp David over coronavirus, to hold videoconference instead |last=Mason|first=Jeff|date=2020-03-19|language=en-CA|access-date=2020-03-19| newspaper=Financial Post}}</ref>。
[[ジョー・バイデン]]は、2023年8月、[[岸田文雄]]首相と韓国の[[尹錫悦]]大統領を招き、「キャンプ・デービッド原則」をまとめ、「キャンプ・デービッド精神」を発表した<ref>2023年8月19日日本経済新聞朝刊1面「新時代の安保協力 宣言へ」</ref>。
=== 各大統領の訪問回数 ===
{| class="wikitable sortable" style="text-align:left;"
|+各大統領の訪問回数<ref name=":1">{{cite book |last=Giorgione |first=Michael |date=2017 |title=Inside Camp David: The Private World of the Presidential Retreat |pages=34–43 |publisher=Little, Brown and Company |location=New York|isbn=978-0-316-50961-9}}</ref>
|-
! 大統領 !! 訪問回数
!任期
|-
| ルーズベルト || 不明
|1933–1945
|-
| トルーマン || 10
|1945–1953
|-
| アイゼンハワー || 45
|1953–1961
|-
| ケネディ || 19
|1961–1963
|-
| ジョンソン || 30
|1963–1969
|-
| ニクソン || 160
|1969–1974
|-
| フォード || 29
|1974–1977
|-
| カーター || 99
|1977–1981
|-
| レーガン || 189
|1981–1989
|-
| G. H. W. ブッシュ || 124
|1989–1993
|-
| クリントン || 60
|1993–2001
|-
| G. W. ブッシュ || 150
|2001–2009
|-
| オバマ || 39
|2009–2017
|-
| トランプ || 15
|2017–2021
|-
| バイデン || 21
|2021–
|}
== セキュリティ事故 ==
[[File:Baltimore-Washington TAC 84.png|thumb|left|ワシントンD.C.周辺の制限空域を示した航空図。上部中央の色が薄くなっている円の中心にキャンプ・デービッドがある。]]
オバマ大統領がキャンプ・デービッドに滞在中の2011年7月2日、2人乗りの民間航空機がキャンプ・デービッドに接近した。無線による警告に応じなかったため、キャンプ・デービッドから約10キロメートルの地点で[[F-15 (戦闘機)|F-15戦闘機]]により迎撃され、[[ヘイガーズタウン (メリーランド州)|ヘイガーズタウン]]まで護送された<ref>{{cite news |url=https://www.washingtonpost.com/local/norad-intercepts-aircraft-near-camp-david-where-president-obama-staying-with-family/2011/07/02/AGZWpQvH_story.html |title=NORAD intercepts aircraft near Camp David, where President Obama staying with family |access-date=July 2, 2012 |date=July 2, 2011 |work=[[The Washington Post]] }}</ref>。同じ週の7月10日にも小型機がキャンプ・デービッドに接近し、F-15戦闘機が迎撃した<ref name="washpostf151">{{cite web |url=https://www.washingtonpost.com/local/jet-fighters-intercept-planes-3-times-over-weekend-near-camp-david/2011/07/10/gIQAEzan7H_story.html | title=Jet fighters intercept planes 3 times over weekend near Camp David |work=[[The Washington Post]] | date=July 10, 2011 | access-date=January 26, 2015 | last=Weil | first=Martin}}</ref>。
{{clear}}
== ギャラリー ==
<gallery mode="packed" heights="150">
208-PU-Folder 3a (29265926851).jpg|ルーズベルト在任中のメインロッジのリビング。本棚の近くの椅子にルーズベルトは座っていた。
File:Marine Corps guard at Shangri-La (later Camp David) on May 7, 1944 - 208-PU-Folder 3 (29265928051).jpg|シャングリラを警備する海兵隊員(1944年)
Camp David 1959.jpg|アイゼンハワー在任中のメインロッジ(1959年)
David Eisenhower in Camp David.jpg|キャンプ・デービッドの看板と、その名前の由来となった[[デイヴィッド・アイゼンハワー]](1960年)
Serious Steps.jpg|アイゼンハワーとジョン・F・ケネディ。この写真は1962年の[[ピューリッツァー賞 写真部門]]を獲得した。
JFK & Kids with horse at Camp David, 1963.png|左から、ジョン・F・ケネディ、[[ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア|ジョン・F・ケネディ・ジュニア]]、[[キャロライン・ケネディ]]。
Ambassador Ellsworth Bunker, Ambassador W. Averell Harriman and President Lyndon B. Johnson outside cabin at Camp David - NARA - 192570.tif|リンドン・ジョンソン、{{仮リンク|エルズワース・バンカー|en|Ellsworth Bunker}}、[[W・アヴェレル・ハリマン]](1968年)
President Richard Nixon and Pat Nixon walking their dogs at Camp David.jpg|[[リチャード・ニクソン]]と妻の[[パット・ニクソン]]
Photograph of President Gerald Ford and First Lady Betty Ford Walking with Their Daughter Susan and Their Dog... - NARA - 186835.tif|[[ジェラルド・フォード]]、娘のスーザン、妻の[[ベティ・フォード|ベティ]]
Sadat Carter Begin, Camp David 1978.gif|[[アンワル・アッ=サーダート]]、[[ジミー・カーター]]、[[メナヘム・ベギン]](1978年9月6日)
President Reagan and Prime Minister Margaret Thatcher at Camp David 1986.jpg|[[ロナルド・レーガン]]と[[マーガレット・サッチャー]](1986年)
Camp David 29-0054a.png|[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]と顧問団(1990年)
Video Recording of Photo Opportunity at Camp David - NARA - 6037428.ogv|[[ビル・クリントン]]、[[エフード・バラック]]、[[ヤーセル・アラファート]](2000年)
Shinzo Abe & George W Bush, 2007Apr27.jpg|[[ジョージ・W・ブッシュ]]と[[安倍晋三]](2007年)
G8 Summit working session on global and economic issues May 19, 2012.jpg|[[第38回主要国首脳会議]](G8)。奧から時計回りに[[バラク・オバマ]]、[[デーヴィッド・キャメロン]]、[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]、[[アンゲラ・メルケル]]、[[ヘルマン・ファン・ロンパウ]]、[[ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ]]、[[野田佳彦]]、[[マリオ・モンティ]]、[[スティーヴン・ハーパー]]、[[フランソワ・オランド]]。
Hurricane Dorian Briefing at Camp David (48665510311).jpg|[[ハリケーン・ドリアン]]についての説明を受ける[[ドナルド・トランプ]](2019年8月)
President Joe Biden and Vice President Kamala Harris meet with their national security team and senior officials.jpg|テレビ会議に望む[[ジョー・バイデン]](2021年8月)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
=== 参考文献 ===
<!-- This section is ONLY for books that are cited in footnotes of this Wikipedia article. -->
{{Refbegin}}
* {{cite book |title=Why Presidential Speech Locations Matter: Analyzing Speechmaking from Truman to Obama |last=O'Brien |first=Shannon Bow |publisher=Palgrave Macmillan|year=2018 |isbn=978-3-3197-8135-8|title-link=Why Presidential Speech Locations Matter}}
{{refend}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Camp David}}
* {{Official website|https://ndw.cnic.navy.mil/Installations/NSF-Thurmont/}}
* [https://eisenhower.archives.gov/research/online_documents/camp_david.html Digital documents regarding Camp David] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171214124845/https://eisenhower.archives.gov/research/online_documents/camp_david.html |date=December 14, 2017 }} from the [[Dwight D. Eisenhower Presidential Library]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きやんふてえひつと}}
[[category:別荘]]
[[Category:アメリカ合衆国の大統領制]]
[[Category:アメリカ合衆国の政府建築物]]
[[Category:メリーランド州の建築物]]
[[Category:フランクリン・ルーズベルト]]
[[Category:1935年竣工の建築物]]
|
2003-09-16T10:31:08Z
|
2023-10-13T11:09:12Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%89
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17,082 |
高雄市
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高雄市(カオシュン/たかお-し、英語: Kaohsiung City)は、台湾南部に位置する中華民国の直轄市。市内の高雄港は台湾最大の港である。
1979年7月1日、台湾省管轄下の省轄市から直轄市に昇格し、2010年12月25日に高雄県を統合した。台湾地区最大の面積を有する都市で、2022年5月時点の人口は2,724,134人であり、台湾第3位。台湾を代表する貿易港を有しており、実質的に台北市に次いで、台湾第2の経済文化の拠点と位置付けられている。
台湾の多くの地名は、漢字を音読みするのが通例だが、「高雄」は日本統治時代に地名を日本風に変更した他の箇所同様、日本統治時代の読み方が引き続き用いられている。そのため、「こうゆう」ではなく、由来となった京都の高雄と同様に「たかお」と呼ばれているが、中華民国の国語では、Gāoxióngと発音することから、カオシオン・カオシュン・カオションと読まれることもある。
高雄は、寿山というテーブル状の大きな台地(標高200m)のふもとに位置する港である。海からの目当てになる山と、旗津という名の砂州に保護された潟は、古くから良港として知られていた。
日本統治が始まる以前から日本統治期間にかけての市街地は、愛河(日本統治時代の高雄川)の西側、寿山山麓に位置していたが、戦後に市街地は愛河の東部に拡大、高雄駅や市の中心も愛河東部に移転した。
また、高雄市民政局に務めていた職員林金枝により、中心部の東西方向の路の名は、日本式の町・丁目から、南から北へ 一心路、二聖路、三多路、四維路、五福路、六合路、七賢路、八徳路、九如路、十全路、と数字を頭にした名前に改名された。それらの道路規模は同一のものでなく、また正確に東西方向を連絡しているわけではなく、またその間に中正四路や民生一路などが不規則に位置しているが、数字による南から北への順序は市内交通の位置を説明するのに便利な構造となっている。更にそれら一心路等は、南北の主要路との交差点を区切りとして、東から西に一心一路、一心二路等と区分するので、それぞれの路に沿った東西方向の位置もおおよそ知ることができる。
冬季(最寒月)の平均気温が18°C以上あり、最少雨月降水量が60mm未満かつ(100-0.04×年平均降水量)mm未満であるため、ケッペンの気候区分によればサバナ気候に属する。
合併前の旧高雄市11区と高雄県1市3鎮23郷を、38区としてそのまま受継いでいる。また1983年より南シナ海にある東沙諸島及び南沙諸島太平島を高雄市旗津区中興里の管轄としている。
17世紀に打狗(台湾語: Tán-káu, ターカウ)という小さな村から発展し、都市へと成長した。ターカウとは平埔族マカタオ族の集落タアカウ社の名称に由来し、そのマカタオ族の言語で「竹林」を意味する言葉であった。1624年にオランダはこの場所に砦を築いたが、1661年に鄭成功によって駆逐され、1664年に万年州(萬年州)が設置された。1684年清の統治が開始され、台湾府の一部として鳳山県が設けられ県治が興隆荘(現在の左営)に設けられた。
1858年の天津条約で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられ、そのひとつである打狗港(Port of Takau/Takow)は1864年に開港し、以後外国貿易で栄え始めた。
1895年に下関条約により台湾が日本に割譲されると、日本は海軍の南方方面での補給港を確保すべく打狗(たかお)の開発を進めた。地名に関しては1920年(大正9年)9月の地方制度実施で、「打狗」という文字が卑俗であるとし、またそれまで台湾人にとって一対の地名と考えられていた民雄(たみお、旧「打猫」ターニャウ)との釣り合いも考慮し、1日、台湾総督府により打狗と発音の近い内地の名所でもある高雄(たかお)に改称され、地方制度改正で設置されることとなった新州「打狗州」が最終的に「高雄州」に改められた。これに伴って州庁所在地となった打狗も「高雄街」に改称された。1924年には高雄郡が廃止され、高雄街は「高雄市」に昇格し高雄州に直属した。
日本統治時代には、精米・製糖を主力に、セメント工業、アルカリ工業、台糖鋳物工場、塩糖酒精工場、氷糖製造業、生石灰合資会社、造船業、南部製酒会社、台湾煉瓦工場、新高製氷工場、打狗窯業会社などが創業した。
1945年、日本の降伏により台湾は中華民国が接収することになり、高雄市は省轄市とされ台湾省に帰属した。1979年7月1日、行政院は高雄市を直轄市に昇格させることを決定、前鎮区に隣接する高雄県小港郷を統合した。
2010年12月25日には高雄県を合併し、市としては最も広い直轄市となった。
市周辺に重工業地帯が広がり大気汚染が社会問題となっている。また外省人の多い台北に対して本省人の多い高雄は野党的色彩や台湾人としてのアイデンティティーへの志向が強く、後に有名になった1979年12月の高雄事件(美麗島事件)なども発生している。この政治的経緯もあり民主進歩党など泛緑連盟の勢力の地盤ともなっている。
1966年から楠梓区において加工輸出区が開業し、以後加工貿易の工業団地や重化学工業のコンビナートが集積する台湾随一の工業都市となった。
高雄国際空港は台湾桃園国際空港に次ぐ同国2番目の国際空港である。東京、大阪、福岡、北海道、熊本、沖縄、ソウル、釜山、シンガポール、香港、北京、上海、バンコク等を結ぶ国際線も就航している。
台湾鉄路管理局(台鉄)
台湾高速鉄道(台湾高鉄)
高雄捷運(高捷)
高雄市政府交通局の管轄下で民間バス事業者7社(港都客運、高雄客運、東南客運、南台灣客運、義大客運、統聯客運、漢程客運)が運行する208の路線網をもつ市内バス路線(高雄市公車)や隣接県市へのアクセスを担う公路客運、長距離高速バス網の国道客運バスなどがある。
高速道路1号(国道1号)
フォルモサ高速公路(国道3号)
高雄支線(国道10号)
高雄潮州快速公路(台88線)
市内には台湾最大でアジアでも香港港・シンガポール港・上海港に次ぐ規模のコンテナ港である高雄港を有しており、台湾で消費される石油の大部分が輸入され、同国の重工業を支えている。また輸出港としてアルミニウム、木及び紙製品、肥料、セメント、金属、機械類、船舶が輸出されている。
高雄市に本部を置く大学
各区の教育欄を参照の事
国定古蹟 以上8件
旧高雄県も含めている
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"text": "1858年の天津条約で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられ、そのひとつである打狗港(Port of Takau/Takow)は1864年に開港し、以後外国貿易で栄え始めた。",
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"text": "日本統治時代には、精米・製糖を主力に、セメント工業、アルカリ工業、台糖鋳物工場、塩糖酒精工場、氷糖製造業、生石灰合資会社、造船業、南部製酒会社、台湾煉瓦工場、新高製氷工場、打狗窯業会社などが創業した。",
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"text": "2010年12月25日には高雄県を合併し、市としては最も広い直轄市となった。",
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"text": "市周辺に重工業地帯が広がり大気汚染が社会問題となっている。また外省人の多い台北に対して本省人の多い高雄は野党的色彩や台湾人としてのアイデンティティーへの志向が強く、後に有名になった1979年12月の高雄事件(美麗島事件)なども発生している。この政治的経緯もあり民主進歩党など泛緑連盟の勢力の地盤ともなっている。",
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"text": "1966年から楠梓区において加工輸出区が開業し、以後加工貿易の工業団地や重化学工業のコンビナートが集積する台湾随一の工業都市となった。",
"title": "経済"
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"text": "高雄国際空港は台湾桃園国際空港に次ぐ同国2番目の国際空港である。東京、大阪、福岡、北海道、熊本、沖縄、ソウル、釜山、シンガポール、香港、北京、上海、バンコク等を結ぶ国際線も就航している。",
"title": "交通"
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"text": "高雄市政府交通局の管轄下で民間バス事業者7社(港都客運、高雄客運、東南客運、南台灣客運、義大客運、統聯客運、漢程客運)が運行する208の路線網をもつ市内バス路線(高雄市公車)や隣接県市へのアクセスを担う公路客運、長距離高速バス網の国道客運バスなどがある。",
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"text": "高速道路1号(国道1号)",
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"text": "フォルモサ高速公路(国道3号)",
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"text": "高雄支線(国道10号)",
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"text": "市内には台湾最大でアジアでも香港港・シンガポール港・上海港に次ぐ規模のコンテナ港である高雄港を有しており、台湾で消費される石油の大部分が輸入され、同国の重工業を支えている。また輸出港としてアルミニウム、木及び紙製品、肥料、セメント、金属、機械類、船舶が輸出されている。",
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"text": "旧高雄県も含めている",
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] |
高雄市は、台湾南部に位置する中華民国の直轄市。市内の高雄港は台湾最大の港である。
|
{{Otheruses|台湾の都市|地名の由来になった京都の地名|高雄 (京都市)}}
{{台湾行政区
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|caption=市区の夜景<br />{{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=22.70|frame-longitude=120.22}}
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|category=[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]
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|person=[[陳其邁]]
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}}
'''高雄市'''(カオシュン/たかお<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/shimin/004/003/001/p000099.html |title=台湾・高雄(たかお)市 |publisher=八王子市 |date=2016-06-29 |accessdate=2020-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954544/05 | title = 府令 / 臺灣總督府令第47號 / 州、廳ノ位置、管轄區域及郡市ノ名稱、管轄區域 | publisher = [[官報]] | date = 1920-09-07 | page = 169 | accessdate = 2019-06-29 }}</ref>-し、{{Lang-en|Kaohsiung City}})は、[[台湾]]南部に位置する[[中華民国]]の[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]。市内の[[高雄港]]は台湾最大の港である。
== 概要 ==
[[1979年]][[7月1日]]、台湾省管轄下の[[省轄市 (中華民国)|省轄市]]から直轄市に昇格し、[[2010年]][[12月25日]]に[[高雄県]]を統合した。[[台湾地区]]最大の[[面積]]を有する都市で、2022年5月時点の人口は2,724,134人であり<ref>{{Cite web|title=中華民國 內政部戶政司 全球資訊網|url=https://www.ris.gov.tw/app/portal/346|website=中華民國內政部戶政司|date=2018-05-01|accessdate=2019-11-14|last=中華民國內政部戶政司}}</ref>、台湾第3位。台湾を代表する貿易港を有しており、実質的に[[台北市]]に次いで、台湾第2の経済文化の拠点と位置付けられている。
台湾の多くの地名は、漢字を音読みするのが通例だが、「高雄」は[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]に地名を日本風に変更した他の箇所同様、日本統治時代の読み方が引き続き用いられている。そのため、「こうゆう」ではなく、由来となった[[高雄 (京都市)|京都の高雄]]と同様に「たかお」と呼ばれているが、中華民国の[[国語 (中国語)|国語]]では、Gāoxióngと発音することから、カオシオン・カオシュン・カオションと読まれることもある。[[File:Kaohsiung sunset.jpg|thumb|left|黄昏時の高雄港]]
[[File:Kaohsiung_night_landscape.jpg|thumb|left|寿山から見下ろした高雄市街]]
== 地理 ==
高雄は、[[寿山]]というテーブル状の大きな台地(標高200m)のふもとに位置する港である。海からの目当てになる山と、旗津という名の砂州に保護された潟は、古くから良港として知られていた。
日本統治が始まる以前から日本統治期間にかけての市街地は、[[愛河]](日本統治時代の高雄川)の西側、寿山山麓に位置していたが、戦後に市街地は愛河の東部に拡大、[[高雄駅]]や市の中心も愛河東部に移転した。
また、高雄市民政局に務めていた職員林金枝により、中心部の東西方向の路の名は、日本式の町・丁目から、南から北へ '''一'''心路、'''二'''聖路、'''三'''多路、'''四'''維路、'''五'''福路、'''六'''合路、'''七'''賢路、'''八'''徳路、'''九'''如路、'''十'''全路、と数字を頭にした名前に改名された<ref>[https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=187,188,189,190,191&post=164746]([[Taiwan Today 高雄市の道の名付け親は誰?]])</ref>。それらの道路規模は同一のものでなく、また正確に東西方向を連絡しているわけではなく、またその間に中正四路や民生一路などが不規則に位置しているが、数字による南から北への順序は市内交通の位置を説明するのに便利な構造となっている。更にそれら一心路等は、南北の主要路との交差点を区切りとして、東から西に一心一路、一心二路等と区分するので、それぞれの路に沿った東西方向の位置もおおよそ知ることができる。
{{Clearleft}}
=== 気候 ===
冬季(最寒月)の平均気温が18℃以上あり、最少雨月降水量が60mm未満かつ(100-0.04×年平均降水量)mm未満であるため、[[ケッペンの気候区分]]によれば[[サバナ気候]]に属する。
{{Weather box
|location = 高雄市(1991年 - 2020年)
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|single line = y
|Jan record high C = 31.6
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|Jan high C = 24.2
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|Mar record low C = 6.8
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|year record low C =
|rain colour = green
|Jan rain mm = 19.1
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|year humidity = 75.0
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|Jan rain days = 3.2
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|Feb sun = 176.0
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|Apr sun = 197.2
|May sun = 207.7
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|Nov sun = 166.5
|Dec sun = 157.2
|source 1 = 中央気象局 <ref name= CWB>{{cite web
|url = https://www.cwb.gov.tw/V8/C/C/Statistics/monthlymean.html |title = Climate |accessdate=2021-04-15 |publisher=[[中央気象局]]|language=中国語 }}</ref>
}}
=== 行政区画 ===
合併前の旧高雄市11区と高雄県1市3鎮23郷を、38区としてそのまま受継いでいる。また[[1983年]]より[[南シナ海]]にある[[東沙諸島]]及び[[南沙諸島]][[太平島]]を高雄市旗津区中興里の管轄としている。
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[楠梓区]]
* [[左営区]]
* [[鼓山区]]
* [[三民区]]
* [[苓雅区]]
* [[前鎮区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[小港区]]
* [[塩埕区]]
* [[前金区]]
* [[新興区 (高雄市)|新興区]]
* [[旗津区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[鳳山区]]
* [[岡山区]]
* [[旗山区]]
* [[美濃区]]
* [[林園区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[大寮区]]
* [[大樹区]]
* [[仁武区]]
* [[大社区]]
* [[鳥松区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[橋頭区]]
* [[燕巣区]]
* [[田寮区]]
* [[阿蓮区]]
* [[路竹区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[湖内区]]
* [[茄萣区]]
* [[永安区]]
* [[弥陀区]]
* [[梓官区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[六亀区]]
* [[甲仙区]]
* [[杉林区]]
* [[内門区]]
* [[茂林区]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[桃源区]]
* [[那瑪夏区]]
</div>{{clear|left}}<br />
== 歴史 ==
[[File:Makatao.jpg|thumb|マカタオ族]]
[[File:Former British Consulate at Takao.jpg|thumb|[[打狗英国領事館]]]]
[[17世紀]]に'''打狗'''([[台湾語]]: Táⁿ-káu, ターカウ)という小さな[[村]]から発展し、都市へと成長した。ターカウとは[[平埔族]][[マカタオ族]]の集落タアカウ社の名称に由来し、そのマカタオ族の[[言語]]で「竹林」を意味する言葉であった。[[1624年]]に[[オランダ]]はこの場所に砦を築いたが、[[1661年]]に[[鄭成功]]によって駆逐され、[[1664年]]に'''[[万年県 (台湾)|万年州]]'''(萬年州)が設置された。[[1684年]][[清]]の統治が開始され、台湾府の一部として'''鳳山県'''が設けられ県治が興隆荘(現在の[[左営区|左営]])に設けられた。
[[1858年]]の[[天津条約 (1858年)|天津条約]]で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられ、そのひとつである[[打狗港]](Port of Takau/Takow)は[[1864年]]に開港し、以後外国貿易で栄え始めた。
[[1895年]]に[[下関条約]]により台湾が[[大日本帝国|日本]]に割譲されると、日本は[[大日本帝国海軍|海軍]]の南方方面での補給港を確保すべく打狗(たかお)の開発を進めた。地名に関しては[[1920年]](大正9年)9月の地方制度実施で、「打狗」という文字が卑俗であるとし、またそれまで台湾人にとって一対の地名と考えられていた[[民雄郷|民雄]](たみお、旧「打猫」ターニャウ)との釣り合いも考慮し、1日、[[台湾総督府]]により打狗と発音の近い[[高雄 (京都市)|内地の名所]]でもある'''高雄'''(たかお)に改称され<ref>[[水越幸一]]「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」『臺灣時報』第十六號、大正九年、一四五-六頁。</ref>、地方制度改正で設置されることとなった新州「打狗州」が最終的に「高雄州」に改められた<ref name=":0">{{Cite web|title=改称百年の高雄市、高層ビルに歴史写真投影 次の百年への期待込め/台湾 {{!}} 観光 {{!}} 中央社フォーカス台湾|url=https://japan.cna.com.tw/news/atra/202012120001.aspx|website=japan.cna.com.tw|accessdate=2020-12-13}}</ref>。これに伴って州庁所在地となった打狗も「高雄街」に改称された<ref name=":0" />。[[1924年]]には高雄郡が廃止され、高雄街は「高雄市」に昇格し高雄州に直属した。
[[ファイル:Emblem of Kaohsiung (Japanese Era).svg|サムネイル|169x169ピクセル|日本統治下時代の高雄市章]]
日本統治時代には、精米・製糖を主力に、セメント工業、アルカリ工業、台糖鋳物工場、塩糖酒精工場、氷糖製造業、生石灰合資会社、造船業、南部製酒会社、台湾煉瓦工場、新高製氷工場、打狗窯業会社などが創業した<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100185189|title=勃興せる打狗工業|oldmeta=00202644}} 勃興せる打狗工業] 台湾日日新報(新聞) 1918.1.1 (大正7)</ref>。
[[ファイル:Emblem of Kaohsiung City (1974-2009).svg|サムネイル|150x150ピクセル|旧高雄市章(1974年 - 2009年)]]
[[1945年]]、[[日本の降伏]]により台湾は[[中華民国]]が接収することになり、高雄市は[[省轄市]]とされ[[台湾省]]に帰属した。[[1979年]][[7月1日]]、[[中華民国行政院|行政院]]は高雄市を[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]に昇格させることを決定、前鎮区に隣接する[[高雄県]]小港郷を統合した。
[[2010年]][[12月25日]]には高雄県を合併し、市としては最も広い直轄市となった。
市周辺に[[重工業]]地帯が広がり[[大気汚染]]が社会問題となっている。また外省人の多い台北に対して本省人の多い高雄は[[野党]]的色彩や[[台湾独立運動|台湾人としてのアイデンティティーへの志向]]が強く、後に有名になった[[1979年]]12月の高雄事件([[美麗島事件]])なども発生している。この政治的経緯もあり[[民主進歩党]]など[[泛緑連盟]]の勢力の地盤ともなっている。
{{Clearleft}}
==政治==
===行政===
====市長====
;歴代市長
{{main|高雄市長}}
;行政院任命直轄市長
* 第1代:王玉雲 1979年7月1日 - 1981年
* 第2代:楊金欉 1981年6月22日 - 1982年
* 第3代:許水徳 1982年4月19日 - 1985年
* 第4代:蘇南成 1985年5月30日 - 1990年 (後に国民大会主席)
* 第5代:呉敦義 1990年6月18日 - 1994年
;民選直轄市長
* 第1代:[[呉敦義]] 1994年12月25日 - 1998年
* 第2代:[[謝長廷]] 1998年12月25日 - 2002年
* 第3代:謝長廷 2002年12月25日 - 2005年2月1日(行政院院長に就任のため辞任)
** (代理)[[陳其邁]] 2005年2月1日 - 2005年9月25日([[高雄捷運]]に従事するタイ人労働者暴動発生による劣悪な労働環境の露呈により引責辞任)
** (代理)[[葉菊蘭]] 2005年9月25日 - 2006年(世論調査により民進党候補選挙で脱落)
* 第4代:[[陳菊]] 2006年12月25日 - 2010年12月24日
;高雄県合併後
* 第1代:陳菊 2010年12月25日 - 2014年12月25日
* 第2代:陳菊 2014年12月25日 - 2018年4月22日(総統府秘書長に就任のため辞任)
** (代理){{仮リンク|許立明|zh|許立明|en|Hsu Li-ming}} 2018年4月23日 - 2018年12月25日
* 第3代:[[韓国瑜]] 2018年12月25日 - 2020年6月12日
** (代理){{仮リンク|楊明州|zh|楊明州}} 2020年6月12日 - 2020年8月24日
** (補欠)[[陳其邁]] 2020年8月24日 - 2022年11月22日
* 第4代:陳其邁 2022年11月22日 -
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
;アジア
{{colbegin|2}}
*{{Flagicon|JPN}}[[熊本県]]([[日本国]] [[九州地方]])
*{{Flagicon|JPN}}[[熊本市]](日本国 [[九州地方]] [[熊本県]])
*{{Flagicon|JPN}}[[八王子市]](日本国 [[関東地方]] [[東京都]])
*{{Flagicon|JPN}}[[佐渡市]](日本国 [[中部地方]] [[新潟県]])
*{{Flagicon|KOR}}[[釜山広域市]]([[大韓民国]] [[広域市]])
*{{Flagicon|KOR}}[[大田広域市]](大韓民国 広域市)
*{{Flagicon|KOR}}[[大邱広域市]](大韓民国 広域市)
*{{Flagicon|KOR}}[[水原市]](大韓民国 [[京畿道]])
*{{Flagicon|PHI}}[[セブ]]([[フィリピン共和国]] [[セブ州]])
*{{Flagicon|VIE}}[[ダナン]]([[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]] [[中央直轄市]])
*{{Flagicon|MDV}}[[マレ]]([[モルディブ共和国]] [[マレ|マレ首都圏]])
{{colend}}
;北アメリカ
{{colbegin|2}}
*{{Flagicon|USA}}[[ホノルル]]([[アメリカ合衆国]] [[ハワイ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]](アメリカ合衆国 [[テネシー州]])
*{{Flagicon|USA}}[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]](アメリカ合衆国 [[フロリダ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[メイコン (ジョージア州)|メイコン]](アメリカ合衆国 [[ジョージア州]])
*{{Flagicon|USA}}[[:en:Plains, Georgia|プレインズ]](アメリカ合衆国 [[ジョージア州]])
*{{Flagicon|USA}}[[モービル (アラバマ州)|モービル]](アメリカ合衆国 [[アラバマ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[タルサ (オクラホマ州)|タルサ]](アメリカ合衆国 [[オクラホマ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[サンアントニオ]](アメリカ合衆国 [[テキサス州]])
*{{Flagicon|USA}}[[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]](アメリカ合衆国 [[アーカンソー州]])
*{{Flagicon|USA}}[[コロラドスプリングス]](アメリカ合衆国 [[コロラド州]])
*{{Flagicon|USA}}[[マイアミ]](アメリカ合衆国 [[フロリダ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]](アメリカ合衆国 [[オレゴン州]])
*{{Flagicon|USA}}[[シアトル]](アメリカ合衆国 [[ワシントン州]])
*{{Flagicon|USA}}[[フォートローダーデール]](アメリカ合衆国 [[フロリダ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]](アメリカ合衆国 [[ワシントン州]])
{{colend}}
;中南アメリカ
{{colbegin|2}}
*{{Flagicon|COL}}[[バランキージャ]]([[コロンビア共和国]] [[アトランティコ県]])
*{{Flagicon|CRC}}[[カルタゴ (コスタリカ)|カルタゴ]]([[コスタリカ共和国]] [[カルタゴ州]])
*{{Flagicon|BLZ}}[[ベリーズシティ]]([[ベリーズ|ベリーズ国]] [[ベリーズ郡]])
*{{Flagicon|PAN}}[[パナマシティ]]([[パナマ共和国]] [[パナマ県]])
{{colend}}
;オセアニア
*{{Flagicon|AUS}}[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]([[オーストラリア連邦]] [[クイーンズランド州]])
{{colend}}
;アフリカ
*{{Flagicon|RSA}}[[ダーバン]]([[南アフリカ共和国]] [[クワズール・ナタール州]])
*{{flagicon|MAW}}[[ブランタイヤ]]([[マラウイ共和国]] [[南部州 (マラウイ)|南部州]])
*{{flagicon|GAM}}[[:en:Kanifing (Gambia)|カニフィング]]([[ガンビア共和国]] [[バンジュール|バンジュール地方]])<ref>[https://secret.kcg.gov.tw/siscity-1152-sistercitytw 高雄市姉妹及び友好都市]</ref>
{{colend}}
;ヨーロッパ
*{{Flagicon|GER}}[[:en:Erzgebirgskreis|エールツゲビルクス郡]]([[ドイツ連邦共和国]] [[ザクセン州]])
*{{Flagicon|SVK}}[[:en:Bratislava_Region|ブラチスラヴァ県]]([[スロバキア共和国]])
{{colend}}
== 経済 ==
[[File:Kaohsiung skyline 2020 May.jpg |thumb|高雄スカイライン]]
[[1966年]]から[[楠梓区]]において加工輸出区が開業し、以後加工貿易の工業団地や重化学工業のコンビナートが集積する台湾随一の工業都市となった。
== 交通 ==
{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 220
|image1 = National Highway No10.jpg
|caption1 = 左営区の国道10号線と高雄都会快速道路。高雄の郊外風景
|image2 = Kaohsiung MRT Train at World Games Station.jpg
|caption2 = 高雄捷運
|image3 = KMRT CAF train 2016-08-27.jpg
|caption3 = [[高雄85ビル]]を背景に走行中のライトレール
|image4 = Kaohsiung-container-depot.jpg
|caption4 = [[高雄港]]コンテナターミナル
|image5 = 高雄國際機場.JPG
|caption5 = [[高雄国際空港]]
}}
=== 空港 ===
[[高雄国際空港]]は[[台湾桃園国際空港]]に次ぐ同国2番目の国際空港である。[[東京]]、[[大阪市|大阪]]、[[福岡県|福岡]]、[[北海道]]、[[熊本県|熊本]]、[[沖縄]]、[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[シンガポール]]、[[香港]]、[[北京]]、[[上海]]、[[バンコク]]等を結ぶ国際線も就航している。
=== 鉄道 ===
'''[[台湾鉄路管理局]](台鉄)'''
:{{Color|#0008BD|■}}[[縦貫線]]([[縦貫線 (南段)|南段]])
:: - [[大湖駅|大湖]] - [[路竹駅|路竹]] - [[岡山駅 (高雄市)|岡山]] - [[橋頭駅|橋頭]] - [[楠梓駅|楠梓]] - '''[[新左営駅|新左営]]''' - [[左営(旧城)駅|左営(旧城)]] - [[内惟駅|内惟]] - [[美術館駅|美術館]] - [[鼓山駅|鼓山]] - [[三塊厝駅|三塊厝]] - '''[[高雄駅|高雄]]'''
: {{Color|#0008BD|■}}[[屏東線]]
:: '''高雄''' - [[民族駅 (高雄市)|民族]] - [[科工館駅|科工館]] - [[正義駅|正義]] - [[鳳山駅|鳳山]] - [[後庄駅|後庄]] - [[九曲堂駅|九曲堂]] -
'''[[台湾高速鉄路公司|台湾高速鉄道]](台湾高鉄)'''
: {{Color|#C35617|■}}[[台湾高速鉄道]]
:: - '''[[新左営駅|左営]]'''
'''[[高雄捷運]](高捷)'''
: {{Color|#D72C28|■}}[[高雄捷運紅線|紅線]]
:: [[小港駅|小港]] - [[高雄国際機場駅|高雄国際機場]] - [[草衙駅|草衙]] - [[前鎮高中駅|前鎮高中]] - [[凱旋駅 (高雄市)|凱旋]] - [[獅甲駅|獅甲]] - [[三多商圏駅|三多商圏]] - [[中央公園駅 (高雄市)|中央公園]] - '''[[美麗島駅|美麗島]]''' - '''[[高雄駅|高雄車站]]''' - [[後驛駅|後驛]] - [[凹子底駅|凹子底]] - [[巨蛋駅|巨蛋]] - [[生態園区駅|生態園区]] - '''[[新左営駅|左営]]''' - [[世運駅|世運/国家体育園区]] - [[油廠国小駅|油廠国小]] - [[楠梓加工区駅|楠梓加工区]] - [[後勁駅|後勁]] - [[都会公園駅|都会公園]] - [[青埔駅|青埔]] - [[橋頭糖廠駅|橋頭糖廠]] - [[橋頭駅|橋頭火車站]] - [[南岡山駅 (高雄市)|南岡山]]
: {{Color|orange|■}}[[高雄捷運橘線|橘線]]
:: [[西子湾]] - [[塩埕埔駅|塩埕埔]] - [[市議会駅|市議会]] - '''美麗島''' - [[信義国小駅|信義国小]] - [[文化中心駅|文化中心]] - [[五塊厝駅|五塊厝]] - [[技撃館駅|技撃館]] - [[衛武営駅|衛武営]] - [[鳳山西駅|鳳山西]] - [[鳳山駅 (高雄捷運)|鳳山]] - [[大東駅|大東]] - [[鳳山国中駅|鳳山国中]] - [[大寮駅|大寮]]
: {{Color|#00b14f|■}}[[高雄捷運環状軽軌|環状軽軌]]
:: [[籬仔内駅|籬仔内]] - [[凱旋瑞田駅|凱旋瑞田]] - [[前鎮之星駅|前鎮之星]] - [[凱旋中華駅|凱旋中華]] - [[夢時代駅|夢時代]] - [[経貿園区駅|経貿園区]] - [[軟体園区駅|軟体園区]] - [[高雄展覧館駅|高雄展覧館]] - [[旅運中心駅|旅運中心]] - [[光栄碼頭駅|光栄碼頭]] - [[真愛碼頭駅|真愛碼頭]] - [[駁二大義駅|駁二大義]] - [[駁二蓬萊駅|駁二蓬莱]] - [[哈瑪星駅|哈瑪星]] - [[寿山公園駅|寿山公園]] - [[文武聖殿駅|文武聖殿]] - [[鼓山区公所駅|鼓山区公所]] - 鼓山 - [[馬卡道駅|馬卡道]] - [[美術館駅|台鉄美術館]] - [[内惟芸術中心駅|内惟芸術中心]] - [[美術館駅 (高雄捷運)|美術館]] - [[聯合医院駅|聯合医院]] - [[龍華国小駅|龍華国小]] - [[愛河之心駅|愛河之心]] - (この区間建設中) - [[凱旋公園駅|凱旋公園]] - [[衛生局駅|衛生局]] - [[五権国小駅|五権国小]] - [[凱旋武昌駅|凱旋武昌]] - [[凱旋二聖駅|凱旋二聖]] - [[軽軌機廠駅|軽軌機廠]] - 籬仔内
=== バス ===
{{expand section}}
高雄市政府交通局の管轄下で民間バス事業者7社(港都客運、高雄客運、東南客運、南台灣客運、義大客運、統聯客運、漢程客運)が運行する208の路線網をもつ市内バス路線([[高雄市公車]])や隣接県市へのアクセスを担う公路客運、長距離高速バス網の[[台湾のバス交通|国道客運バス]]などがある。
=== 高速道路 ===
[[File: Kokudou 1(taiwan).svg|25px]]'''[[高速道路1号 (台湾)|高速道路1号]](国道1号)'''
:: - 路竹IC - 高科IC - 岡山IC - 楠梓IC - '''鼎金JCT''' - 高雄IC - 瑞隆路IC - '''五甲JCT''' - 五甲IC - 高雄端
[[File: Kokudou 3(taiwan).svg|25px]]'''[[フォルモサ高速公路]](国道3号)'''
:: - 田寮IC - 田寮料金所 - '''燕巣JCT''' -
[[File: Kokudou 10(taiwan).svg|25px]]'''[[国道10号 (台湾)|高雄支線]](国道10号)'''
:: 左営端 - '''鼎金JCT''' - 仁武IC - 仁武JCT - 燕巣IC - '''燕巣JCT''' - 嶺口IC - 旗山端
[[File: TW PHW88.svg|25px]]'''[[台88線|高雄潮州快速公路]](台88線)'''
:: '''五甲JCT''' - 鳳山IC - 大寮IC - 大発IC -
=== 港湾 ===
[[File:Kaohsiung cityscape 2013.jpg|thumb|高雄の港湾]]
市内には台湾最大でアジアでも[[香港]]港・[[シンガポール]]港・[[上海市|上海]]港に次ぐ規模の[[コンテナ港]]である[[高雄港]]を有しており、台湾で消費される[[石油]]の大部分が輸入され、同国の重工業を支えている。また輸出港として[[アルミニウム]]、[[木]]及び[[紙]]製品、肥料、[[セメント]]、金属、機械類、船舶が輸出されている。
* [[日本]]航路([[琉球海運]])
** [[博多港]] - [[鹿児島港]] - [[那覇港]] - [[平良港]]([[宮古島]]) - [[石垣港]]([[石垣島]]) - [[高雄港]]
== 教育 ==
[[File:NSYSU_campus_day03.JPG|thumb|200px|中山大学]]
=== 国立・市立大学 ===
高雄市に本部を置く大学
*[[国立中山大学]]
*[[国立高雄師範大学]]
*[[国立高雄大学]]
*[[高雄市立空中大学]]
=== 私立大学 ===
*[[高雄医学大学]]
*[[義守大学]]
*[[実践大学]]高雄キャンパス
=== 科技大学/技術学院 ===
*[[国立高雄科技大学]]
*[[国立高雄餐旅大学]]
*[[文藻外語大学]]
*[[樹徳科技大学]]
*[[輔英科技大学]]
*[[正修科技大学]]
*[[高苑科技大学]]
*[[東方設計大学]]
*[[和春技術学院]]
===専科学校===
*[[樹人医護管理専科学校]]
*[[育英医護管理専科学校]]
*[[高美医護管理専科学校]]
=== 軍事、警察関係大学 ===
*[[陸軍軍官学校 (中華民国)|中華民国陸軍軍官学校]]
*[[中華民国海軍軍官学校]]
*[[中華民国空軍軍官学校]]
*[[空軍航空技術学院]]
=== その他学校 ===
各区の教育欄を参照の事
{{See also|高雄市の幼稚園一覧|高雄市の国民小学一覧|高雄市の国民中学一覧}}
*高雄日本人学校
*高雄米国学校
*高雄韓国学校
== 観光 ==
[[File:六合二路の夜市.jpg|thumb|六合二路の夜市(2002年)]]
[[File:2013黃色小鴨在臺灣高雄-1 Rubber Duck in Kaohsiung, TAIWAN.jpg|thumb|180px|2013年高雄で展示された[[ラバーダック (ホフマン)|ラバーダック]]]]
[[File:VOLVO B8RLE 6X2 in Kaohsiung(Double-decker tour bus) 01.jpg|thumb|180px|2016年に登場したオープントップ2階建てバス]]
===名所・旧跡===
;国定古蹟
*[[鳳山龍山寺]]
*{{仮リンク|竹仔門電廠|zh|高屏發電廠竹門機組}}
*{{仮リンク|鳳山県旧城|zh|鳳山縣舊城}}
*{{仮リンク|中都唐栄磚窯廠|zh|中都唐榮磚窯廠}}(中都唐榮磚窯廠)- 元は、「鮫島煉瓦工廠」として鮫島盛([[鮫島尚信]]の弟)が創業し、鮫島の死後[[後宮信太郎]]([[後宮淳]]の兄)が「台湾煉瓦」の名で引き継いだレンガ工場。
*旧[[海軍鳳山無線電信所]]
*[[旗後砲台]]
*[[打狗英国領事館文化園区]]
*[[下淡水渓鉄橋]]
国定古蹟 以上8件<ref>[http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseHeritageAction.do?method=doFindAllCaseHeritage&menuId=302&siteId=101 中華民国政府文化部文化資産局 : 2019年01月現在 文化資產查詢 > 文化資產個案導覽]{{リンク切れ|date=2020-6-13}}</ref>
;市定古蹟 <ref>{{Cite web|url=http://heritage.khcc.gov.tw/HeritageList.aspx?appname=heritage02&Type=HistoricalRelics|title=文化資產網 > 文化資產 > 古蹟|accessdate=2020-05-16|publisher=}}</ref>
*[[旗後天后宮]]
*雄鎮北門
*[[旗後灯台|旗後灯塔]]
*[[高雄市武徳殿]]
*高雄[[愛国婦人会]]
*[[高雄市立歴史博物館]]
*[[打狗水道浄水池]]
*打狗公学校(現旗津国小)
*友松醫院
*{{仮リンク|西子湾蔣公紀念館|zh|西子灣蔣介石行館|label=}}(元[[寿海水浴場]]の温浴場)
*{{仮リンク|内惟李氏古宅|zh|內惟李氏古宅|label=}}
*{{仮リンク|陳中和墓|zh|陳中和墓|label=}}
*{{仮リンク|鳳儀書院|zh|鳳儀書院|label=}}
*{{仮リンク|鳳山県新城|zh|鳳山縣新城|label=}}残跡
*{{仮リンク|鳳山県旧城|zh|鳳山縣舊城}}孔子廟崇聖祠
*{{仮リンク|橋頭糖廠|zh|橋頭糖廠|label=橋仔頭糖廠}}
*[[竹寮取水站]]
*旗山鎮農会
*旗山天后宮
*旗山国小
*旗山鼓山国小
*龍肚庄里社真官伯公
*九芎林里社真官伯公
*瀰濃庄里社真官伯公
*瀰濃東門楼
*瀰濃庄敬字亭
*金瓜寮聖蹟亭
*明寧靖王墓
*甲仙鎮海軍墓
*萬山岩雕
*旧岡山[[大日本帝国海軍航空隊|日本海軍航空隊]]編號A1~A16宿舍群(樂群村)
;歴史建築
*[[高雄港駅]]
*[[高雄港駅]]北信号所
*[[高雄港港史館]]
*[[旧三和銀行]]
*[[西子湾隧道]]
*[[高雄市忠烈祠]](元[[高雄神社]])
*{{仮リンク|高雄代天宮|zh|高雄代天宮}}
*{{仮リンク|逍遙園|zh|逍遙園 (高雄市)|label=逍遙園}}
*[[玫瑰聖母聖殿司教座堂]]
*{{仮リンク|浅野セメント高雄工場|zh|台灣水泥高雄廠|label=}}
*[[高雄市私立三信高級家事商業職業学校|三信高級家事商業職業学校]]学生活動中心、波浪教室
*[[高雄駅]]
*[[橋頭駅]]
*[[旗山駅 (高雄県)|旗山駅]]
*[[高雄警備府]]庁舎
*{{仮リンク|原頂林仔邊警察官吏派出所|zh|原頂林仔邊警察官吏派出所|label=}}
*{{仮リンク|美濃文創中心|zh|美濃文創中心|label=}}
===観光スポット===
; [[東帝士85]]國際廣場(東帝士85プラザビル)
: 自強三路。高さ378mの[[超高層ビル]]であり、[[台北101]]ビルができるまでは中華民国一の高さを誇っていた。74階が展望スペースとなっていて、旗津や愛河を間近に見下ろすことができる。エレベーターは最高分速600メートルで、最高速に近づくにつれて照明が暗くなり、天井に星空を映し出すという演出がある。入場料金は大人一人180元で、1階のエレベーター搭乗口脇の窓口で支払う。最寄り駅は捷運(紅線)の三多商圏駅。
; [[統一夢時代]]
: [[統一企業]]グループが建設した高雄の南部で最大のショッピングモール。モールの中に[[統一時代百貨]]や映画館がある。
; 三多三路
: 高雄の最大の繁華街。[[新光三越]]、[[太平洋SOGO]]などの日系の[[百貨店]]や各種の[[ブランド]]店が集中する。
; [[六合夜市]]
: 六合二路。高雄一の規模を誇る夜市。無数の露店が出る果物やB級グルメ、娯楽の宝庫。
; [[旗津]]
: 高雄港を取り巻く[[砂州]]で、市内からは[[フェリー]]で渡り、高雄港や東帝士85をはじめとする超高層ビル群をながめながらの10分程度の船旅である。島では海鮮料理や果物、アイスなど露店も楽しめる。南東のほうは[[コンテナターミナル|コンテナ港]]になっておりトンネルで市街地や台湾全土とつながっている。
; [[寿山]]
: 市内を一望する公園がある。日本統治時代には[[高雄神社]]があったが、現在は忠烈祠に変わっている。ふもとの旧市街地には歴史博物館(旧高雄市役所)、旧高雄駅、前[[打狗英国領事館]]などの歴史的建築物が多く残っている。もともと「打鼓山」「打狗(高雄)山」、猿がすんでいることにちなんで「Ape Hill」などと呼ばれていたが、大正十二年、東宮時代の昭和天皇の行啓を記念して、当時の[[台湾総督]][[田健治郎]]が壽山(ことぶき-やま)と改めた。
; [[蓮池潭]]公園
: 郊外の左営にあり、七層の龍虎塔がある。
; [[澄清湖]]
: 高雄の北郊にある人工湖で、かつての[[蔣介石]]の別荘地。[[九曲橋]]などがあるほか、近年大型[[水族館]]がオープンしている。
; [[漢神巨蛋]](漢神アリーナ)
: 高雄の北部の繁華街。台湾高速鉄道の左営駅の近く、地下鉄駅(巨蛋駅)もある。周りは高雄一番有名な夜市、瑞豊夜市がある。
; {{仮リンク|義大世界|zh|義大世界}}
: 高雄の新生ショッピングモール、観覧車や遊園地やホテルがある。[[義守大学]]の関係商事{{仮リンク|義聯集團|zh|義聯集團}}によって造られた。
; [[大魯閣草衙道]]
: 日本の[[鈴鹿サーキット]]のコースレイアウトをデフォルメで再現した[[カートコース]]をもつ鈴鹿サーキットパークや、様々なスポーツアミューズメント施設が併設された複合[[ショッピングモール]]。繊維業から転身したレジャー企業の大魯閣グループが運営する。高雄国際空港に至近の[[高雄捷運公司]]南機廠敷地内にある。
; [[仏光山]]
: 台湾五大宗派の一つ、仏光山の総本山がある。2011年には、隣接地に「仏陀記念館」を開設した。
; [[衛武営国家芸術文化中心]]
: 2018年に開業した台湾最大の国立劇場([[歌劇場]]、コンサートホールなど)
; '''{{仮リンク|棧貳庫KW2|zh|棧貳庫|label=}}'''
<br /><gallery>
File:JadeMountainSouthernPeak.jpg|[[玉山山脈]]にそびえる玉山南峰(標高3,844メートル)。高雄県併合により高雄市最高峰となった
File:中山二路.JPG|高雄都心部。中山二路付近
File:統一夢時代購物中心.JPG|大型ショッピングセンター、統一夢時代
File:Kaohsiung Museum of History.JPG|[[高雄市立歴史博物館]]
File:高雄市立文化中心.JPG|高雄市立文化センター
File:Taiwan Takao UfuSanru2.jpg|五福三路の正面リボン(当時のみ)は[[大立百貨]](当時は大立[[伊勢丹]]百貨)後ろの高層ビルは漢神百貨([[阪神百貨店]])が入るビル
File:Ddm 2004 016 Love River.jpg|愛河に浮かぶヨット
File:National Kaohsiung Center for the Arts.JPG|衛武営国家芸術文化中心
File:高雄歷史新基地 棧貳庫 KW2.jpg|棧貳庫 KW2
</gallery>
== 文化 ==
{{expand section}}
* '''高雄市立美術館''':高雄市鼓山区内惟埤文化園区。児童美術館と彫刻公園がある。
* [[2009年]]7月、オリンピック採用競技以外のスポーツの祭典である[[ワールドゲームズ]]第8回大会が開催された。
* 高雄港第3ドックの倉庫街を再利用した'''[[駁二芸術特区]]'''は多分野のアーティストを招きアトリエや工房が集まるクリエイティブな空間に生まれ変わった。[[台北市]]で行われている[[同人即売会]][[Fancy Frontier 開拓動漫祭]]と同一主催・協賛のイベント「駁二動漫祭」も毎年ここで開催され、日本と同様にサブカルチャーが普及している。[[高捷少女]]もここでブレイクした。として、每年三月、ここで「[http://www.megaportfest.com/ 大港開唱(Megaport Festival)]」が開催されている。隣接する旧[[高雄港駅]]跡地で[[打狗鉄道故事館]]を中心に広がる哈瑪星鉄道文化園区と一体で[[哈瑪星台湾鉄道館]]も開館し、鉄道文化遺産の活用も盛んである。
==出身・関連著名人 ==
旧[[高雄県]]も含めている
=== 政治 ===
*[[陳建仁]]([[中華民国の首相|行政院長]]、元[[中華民国副総統]])
*[[陳菊]](元高雄市長)
*[[陳其邁]](元代理高雄市長)
*[[謝長廷]](元高雄市長)
*[[葉菊蘭]](元高雄市長)
*[[邱毅]](元[[立法委員]])
* [[王金平]](立法委員)
*[[林郁方]](元立法委員)
* {{仮リンク|杜正勝|zh|杜正勝}}(元[[中華民国教育部]]部長)
* {{仮リンク|曽志朗|zh|曾志朗}}(元教育部長)
* {{仮リンク|林仙保|zh|林仙保}}(高雄県紅派、元台湾省議会議員)
* {{仮リンク|林淵源|zh|林淵源}}(高雄県白派、元高雄県長)
* {{仮リンク|林岱樺|zh|林岱樺}}(立法委員)
* {{仮リンク|鍾栄吉|zh|鍾榮吉}}([[親民党]]籍元立法院副院長)
* [[楊秋興]](元高雄県長)
* [[許国雄]](教育家、政治家)
* [[林全]](元[[行政院長]])
* [[陳其邁]](出生は基隆市。3代目高雄市長)
* [[陳柏惟]]([[台湾基進]]立法委員、テレビプロデューサー)
*[[陳奕齊]]([[台湾基進]]主席)
*{{仮リンク|柯旗化|zh|柯旗化|label=}}(台湾独立運動者)
*[[彭明敏]] (国際法学者、台湾独立運動者)
*[[許国雄]]
*[[施明徳]]
*[[馮寄台]]
* [[富島元治]](元[[高雄州]][[知事]])
* [[木村英俊 (函館市長)|木村英俊]](元高雄州知事)
* [[三浦碌郎]](元高雄州知事)
* [[高橋親吉]](元高雄州知事)
* [[太田吾一]](元高雄州知事)
* [[平山泰]](元高雄州知事)
* [[野口敏治]](元高雄州知事)
* [[西沢義徴|西澤義徴]](元高雄州知事)
* [[内海忠司]](元高雄州知事)
* [[赤堀鉄吉|赤堀鐵吉]](元高雄州知事)
* [[坂口主税]](元高雄州知事)
* [[高原逸人]](元高雄州知事)
* [[今井昌治]] (元高雄市尹)
* [[松尾繁治]] (元高雄市尹)
* [[宗藤大陸]] (元高雄市長)
* [[小島猛]] (元高雄市長)
* [[横山竹男]] (元高雄市長)
* [[中松乙彦]] (元高雄市長)
* [[さらぎ徳二]]
* [[四之宮平祐]]
=== スポーツ ===
* [[陳偉殷]]([[MLB]]・[[NPB]]野球選手)
* [[呉昌征]](元NPBプロ野球選手)
* [[呂明賜]](元NPB[[読売ジャイアンツ]]プロ野球選手)
* [[許銘傑]](NPBプロ野球選手)
* [[洪一中]](元[[中華職棒]]選手・監督)
* {{仮リンク|徐生明|zh|徐生明}}([[中華職棒]]元[[義大ライノズ]]監督)
* [[彭政閔]](中華職棒[[兄弟エレファンツ]])
*[[荘智淵]](卓球選手)
*[[ジョー・アレクサンダー]]
*[[アンディ・ウォン]]
*[[郭進興]]
*[[謝淑薇]]
*[[許文雄]]
*[[戴資穎]]
*[[陳毅維]]
*[[陳傑憲]]
*[[鍾承祐]]
*[[荘佳容]]
*[[曾仁和]]
*[[田壘]]
*[[洪一中]]
*[[彭政閔]]
*[[林子偉]]
*[[呂彦青]]
*[[呂明賜]]
*[[福原愛]]
=== 芸能 ===
* [[馬嘉伶]]([[AKB48]]のメンバー)
* [[孫協志]]([[5566 (音楽ユニット)|5566(ウーウーリウリウ)]]のメンバー、俳優、司会者)
* {{仮リンク|周幼婷|zh|周幼婷}}(俳優)
* {{仮リンク|康康|zh|康康}}(歌手、司会者)
* {{仮リンク|許仁杰|zh|許仁杰}}(歌手)
* {{仮リンク|梁文音|zh|梁文音}}(歌手)
* {{仮リンク|葉瑋庭|zh|葉瑋庭}}(歌手、司会者)
* {{仮リンク|高凌風|zh|高凌風}}(歌手、司会者)
* {{仮リンク|李聖傑|zh|李聖傑}}(歌手)
* {{仮リンク|黄西田|zh|黃西田}}(歌手、司会者、俳優 )
*{{仮リンク|黃妃|zh|黃妃|label=}}(歌手)
* {{仮リンク|蔡昇晏|zh|蔡昇晏}}/瑪莎/マサ/ Masa([[メイデイ (台湾のバンド)|メイデイ]]のベース)
*{{仮リンク|楊大正|zh|楊大正|label=}}(歌手)
*{{仮リンク|Leo王|zh|Leo王|label=}}(歌手)
*[[呉慷仁]](俳優、モデル)
*[[温昇豪]](俳優)
*[[曾少宗]](俳優)
*[[陳怡蓉]](女優)
*[[コリン・チョウ]](俳優)
*[[キャンディ・シュー]]
*[[砂子義一]]
*[[鳴戸史郎|鳴戸史郎(俳優)]]
*[[ナンシー (タレント)]]
*[[孟庭葦]](歌手)
=== 作家 ===
* {{仮リンク|王家祥|zh|王家祥 (作家)}}
* [[朱天心]]
* [[龍応台]]
*[[既晴]]
*{{仮リンク|新垣宏一|zh|新垣宏一|label=}}
*[[宮城賢秀]]
=== 映画監督 ===
* [[侯孝賢]]([[広東省]][[梅州市]]生まれ)
* [[但漢章]]
*[[張凱智]]
=== 評論家 ===
* [[黄文雄 (評論家)]]
=== 産業 ===
* {{仮リンク|劉保佑|zh|劉保佑}}(シューズブランド{{仮リンク|ラ・ニュー|zh|La New皮鞋}}創設者)
*{{仮リンク|陳中和|zh|陳中和|label=}}
*{{仮リンク|林迦|zh|林迦|label=}}
*[[古賀三千人]]
*[[浅野総一郎]]
*[[後宮信太郎]]
*{{仮リンク|杉本音吉|zh|杉本音吉|label=}}
*{{仮リンク|大坪與一|zh|大坪與一|label=}}
*{{仮リンク|吉井長平|zh|吉井長平|label=}}
*{{仮リンク|鮫島盛|zh|鮫島盛|label=}}
*[[海野三次郎]]
*[[林虎彦]]
=== インターネット ===
* [[杜奕瑾]](BBS[[批踢踢]]創設者)
*[[陳盈豪]]
=== その他 ===
*[[蔡元生]]
*[[蘇耀文]]
*{{仮リンク|許昭榮|zh|許昭榮|label=}}(元[[台湾人日本兵]])
*{{仮リンク|陳仁和|zh|陳仁和|label=}}(建築家)
*{{仮リンク|楊清溪|zh|楊清溪|label=}}(飛行士)
*[[飯田豊二]]
*[[大谷光瑞]]
*[[多田美波]]
*[[手島悠介]]
*[[鳥居鉄也]]
*[[西林克彦]]
*[[リュー・チェン]]
*[[林恭]]
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==関連項目==
{{ウィキプロジェクトリンク|台湾の行政区分|[[ファイル:Taiwan-icon.svg|34px|ウィキプロジェクト 台湾の行政区分]]}}
* [[日本台湾交流協会高雄事務所]] - 在高雄日本国総領事館の後継組織
*{{仮リンク|日本統治時代の高雄市内の建物一覧|zh|高雄市日治時期建築列表|label=}}
== 外部リンク ==
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* [https://khh.travel/ja/ 高雄観光ネットウエブ](要[[Big5]]フォント、日本語・英語ページ有り)
* [https://www.kcg.gov.tw/ 高雄市政府](要[[Big5]]フォント、日本語・英語ページ有り)
* [https://www.kia.gov.tw/ 高雄国際空港](要[[Big5]]フォント、日本語・英語ページ有り)
* {{ウィキトラベル インライン|高雄市|高雄市}}
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子思
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子思(しし、紀元前492年 - 紀元前431年)は、中国春秋時代の儒者。魯の人。孔鯉(伯魚)の子。孔子の孫。氏は孔、名は伋(きゅう)、字は子思、尊称は子思子。後世の儒教では道統の継承者で四聖の一人「述聖」として崇敬される。
幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、曾子の教えを受け儒家の道を極めた。その後、各国を遊学したのち、魯の穆公に仕えた。
『礼記』中庸篇(つまり四書の『中庸』)は古くから子思の作と伝わっていた。また、子思の学派の著作に『子思子』があったとされるが散佚してしまった。現代の推定では、『礼記』のうち中庸篇を含む四篇(中庸篇、表記篇、坊記篇、緇衣篇)が、『子思子』から転載したものとされる。この推定は、『隋書』音楽志が伝える南朝梁の沈約の説に由来する。
『子思子』の輯佚書として以下がある。
『史記』孟子荀卿列伝などによれば、孟子は子思の学派から儒学を学んだとされる。このことから、儒家内の子思と孟子の学派は思孟学派と通称される。『荀子』非十二子篇では、敵対する思孟学派を非難する際に、「五行」説という邪説をといた学派として非難している。ただし、『荀子』は「五行」説がどのような説かは述べなかった。
20世紀末、新たに発見された出土文献(馬王堆帛書および郭店楚簡)の『五行』という文献が、その「五行」説について述べた文献と推定されて、思孟学派が注目されるようになった(内容は「木火土金水」の五行説とは異なるが、関連を指摘する学者もいる)。なお、思孟学派に関する出土文献は他にも、郭店楚簡『性自命出』と上博楚簡『性情論』(どちらも内容が『中庸』や性善説と類似する)や、郭店楚簡『魯穆公問子思』がある。
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子思は、中国春秋時代の儒者。魯の人。孔鯉(伯魚)の子。孔子の孫。氏は孔、名は伋(きゅう)、字は子思、尊称は子思子。後世の儒教では道統の継承者で四聖の一人「述聖」として崇敬される。
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[[File:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Kong Ji Zisi (孔伋 子思).jpg|thumb|子思]]
'''子思'''(しし、[[紀元前492年]] - [[紀元前431年]]<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=大成殿に祀られているもの|史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会|url=http://www.seido.or.jp/worship.html|website=www.seido.or.jp|accessdate=2020-12-07}}</ref>)は、[[中国]][[春秋時代]]の[[儒者]]。[[魯]]の人。[[孔鯉]](伯魚)の子。[[孔子]]の孫。氏は孔、名は'''伋'''(きゅう)、[[字]]は子思、尊称は子思子。後世の[[儒教]]では[[道統]]の継承者で[[四聖]]の一人「述聖」として崇敬される<ref name=":3" />。
== 生涯 ==
幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、[[曾子]]の教えを受け[[儒家]]の道を極めた。その後、各国を遊学したのち、魯の[[穆公 (魯)|穆公]]に仕えた<ref>『[[韓非子]]』難三「魯穆公問於子思曰……」など</ref>。
== 著作 ==
『[[礼記]]』中庸篇(つまり[[四書]]の『[[中庸]]』)は古くから子思の作と伝わっていた<ref>『[[史記]]』孔子世家「子思作中庸」など</ref>。また、子思の学派の著作に『子思子』があったとされるが散佚してしまった<ref name=":0">{{コトバンク}}</ref>。現代の推定では、『礼記』のうち中庸篇を含む四篇(中庸篇、表記篇、坊記篇、緇衣篇)が、『子思子』から転載したものとされる<ref name=":0" />。この推定は、『[[隋書]]』音楽志が伝える[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[沈約]]の説に由来する<ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|隋書/卷13}}</ref><ref name=":2">西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年、93頁。ISBN 978-4497214119</ref>。
『子思子』の[[逸文|輯佚書]]として以下がある。
* 藤原正『子思子』岩波書店〈岩波文庫〉、1935年。ISBN 9784003322116。(清末の[[黄以周]]の輯佚書をもとに、上記四篇のほか[[類書]]等所引の佚文や『[[孔叢子]]』の関連章をまとめ、それらの訓読文を載せる。)
== 思孟学派 ==
『[[史記]]』孟子荀卿列伝などによれば、[[孟子]]は子思の学派から儒学を学んだとされる<ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|史記/卷074}}</ref>。このことから、儒家内の子思と孟子の学派は'''思孟学派'''と通称される<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=近藤浩之;西信康|year=2013|title=先秦~秦漢代 (特集 学界時評)|url=https://doi.org/10.18910/58716|journal=中国研究集刊|volume=|issue=56|page=|pages=9-12|publisher=大阪大学中国学会|DOI=10.18910/58716}}</ref>。『[[荀子]]』非十二子篇では、敵対する思孟学派を非難する際に、「五行」説という邪説をといた学派として非難している<ref name=":1" /><ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|荀子/非十二子篇}}</ref>。ただし、『荀子』は「五行」説がどのような説かは述べなかった<ref name=":1" />。
[[20世紀]]末、新たに発見された出土文献([[馬王堆帛書]]および[[郭店楚簡]])の『[[五行 (文献)|五行]]』という文献が、その「五行」説について述べた文献と推定されて、思孟学派が注目されるようになった<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書|title=郭店楚簡『五行』と伝世文献|year=2014|publisher=北海道大学出版会|author=西信康|isbn=9784832967991}}</ref>(内容は「木火土金水」の[[五行説]]とは異なるが、関連を指摘する学者もいる<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書|title=術数学の思考 交叉する科学と占術|year=2018|publisher=臨川書店|page=38;42|author=武田時昌|isbn=9784653043751}}(木火土金水の五行説が形成される「思想的基盤」の一つとして)</ref>)。なお、思孟学派に関する出土文献は他にも、郭店楚簡『性自命出』と[[上博楚簡]]『性情論』(どちらも内容が『中庸』や[[性善説]]と類似する)<ref name=":2" />や、郭店楚簡『魯穆公問子思』<ref>{{Cite web|title=楚簡文字解読実習 {{!}} 中国出土文献研究会|url=https://www.shutudo.org/exercise|website=www.shutudo.org|accessdate=2020-12-07}}</ref>がある。
== 出典 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[儒学者一覧]]
*[[儒家八派]]
*[[鄒衍]] - 『史記』孟子荀卿列伝で思孟学派と連続して語られる。
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17,085 |
風車
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風車(ふうしゃ、かざぐるま)は、羽根車に風を受けて回転し、風力から動力を得るための装置。灌漑・発電・製粉・風速計などに使われる。「かざぐるま」と読むと、羽根車に柄を付け、風の力で回して遊ぶ玩具も含まれる(風車 (玩具)参照)。
英語では windmill だが、mill(原義は碾き臼)でわかるとおり、windmill は本来は製粉の動力に使われるものを指す。また、風力発電などに使われる現代風の風車(風力原動機)は wind turbine とよばれるが、日本語ではこれらを含めて風車と呼ばれることが多い。
風車の起源ははっきりしない。紀元前36世紀ごろ、エジプトで灌漑に使われたという記録がある。
1世紀初頭、アレクサンドリアのヘロンは、アネムリオン(風車を動力として風を送るオルガン)を設計した。
ウィンドミル(製粉用風車)は、ペルシャで誕生した。中央アジアのシースターン(イランとアフガニスタンの国境地域)で10世紀頃に建造されたのが最古である。その後、十字軍やモンゴル帝国の遠征により、ヨーロッパと中国に伝えられた。
初期の風車は、方位制御機構が不要な垂直軸風車だった。12世紀末、北西ヨーロッパに、方位制御機構を備えた水平軸風車が現れた。これはイスラムから伝わった垂直軸風車とは独立に発明されたという説もある。
15世紀、オランダで干拓地の排水用に風車が多用され始めた。これらはのちに蒸気機関に、さらには電動ポンプにとってかわられ、現在は観光資源ないし一部は「キンデルダイク=エルスハウトの風車網」として世界遺産に登録されているが、少数が今も現役で排水に使われている。
1887年、イギリスのJ.ブライスが初めて風力で発電し、二次電池に蓄電した。1888年にはアメリカでC.F.ブラッシュが直径17mの多翼型風車で発電を行った。
日本でも明治初期より海軍技師・湘南電気研究会長だった本岡玉樹によって研究され、当初は居留外国人によって導入された事が確認されている。
長野県諏訪湖南では最盛時には3000台以上が泥炭層からの養分を含んだ地下水の汲み上げに使われ、1905年頃から1940年代前半まで使用され、戦後の一時期合成硫安の不足していた時期にも使用された。
愛知県知多半島東浦町では1921年から使用され始め、1940年頃の最盛時には100から200台程度が運転され、渥美半島伊良湖岬付近では1924年頃に風車揚水が始められ、最盛時の1935年頃には200台が運転された。
茨城県土浦市付近桜川流域の新治郡桜村、新治村、筑波郡筑波町、大穂町では、1928~29年ごろに、筑波郡谷田部の素封家高野新八が台地の開墾田で風車を使用し始め、最盛時の1936年では1000台以上が稼動して1955年頃まで使用された。
千葉県房総半島館山市付近の夷隅郡大原町や岬町では、1933年頃から使用が開始され、丸山町、千倉町では1950年代前半までの最盛時には100台の風車が稼動し、館山市の正木、川崎、湊地区では最盛時には120台が稼動していた記録がある。
大阪府堺市では、1928年に 台地の赤畑での水田で補給水を目的として水田と畑地の両方の灌漑に使われ、成績がよかったので石津川沿い、大和川沿いでも使われるようになり、赤畑に10台、石津川沿いに250台、大和川河口で25台、その少し上流で100台程度が1935年から1950年代前半まで使われていた記録が残る。
風車の翼(帆)は、揚力型風車では飛行機の翼、抗力型風車では帆船の帆とそれぞれ基本原理が同じである。揚力型風車は高回転・低トルク、抗力型風車は低回転・高トルク。ただし、翼(帆)の枚数を減らせば高回転・低トルク、増やせば低回転・高トルクになる。
水平軸風車は、変化する風向きに対し平行であり続けなければならないため、方位制御機構が必要になる。小型の風車では方向舵などで受動的に制御するが、大型の風車では動力を使って能動的に制御することもある。なお、水平軸風車を使った風力計は、方位制御機構を利用し、風向も同時に測定することができる。
垂直軸風車(英語版)は、通常、回転軸が地面に対し垂直になるよう設置する。そうすれば常に回転軸に対し直角に風が吹くため、方向制御が必要ない。
※1:ダリウス風車- 翼に働く遠心力が引っ張り応力として働く形状としたもの。翼ピッチは固定。 ※2:ジャイロミル風車(Hダリウス風車、直線ダリウス風車)- 直線翼とすることにより可変ピッチを可能とし、微風でも起動しやすくしたもの。
風車の羽根の止まる位置で、風車を管理している家族の状況を伝えることがある。この止まる位置による内容は、地域ごとに異なり統一されてない。下記に一例を示す。
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風車(ふうしゃ、かざぐるま)は、羽根車に風を受けて回転し、風力から動力を得るための装置。灌漑・発電・製粉・風速計などに使われる。「かざぐるま」と読むと、羽根車に柄を付け、風の力で回して遊ぶ玩具も含まれる。 英語では windmill だが、mill(原義は碾き臼)でわかるとおり、windmill は本来は製粉の動力に使われるものを指す。また、風力発電などに使われる現代風の風車(風力原動機)は wind turbine とよばれるが、日本語ではこれらを含めて風車と呼ばれることが多い。
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{{出典の明記|date=2016年4月}}
[[Image:De_Liefde_Windmill,_Sakura,_Chiba,_Japan_-_20060417.jpg|thumb|オランダの風車を模したもの]]
'''風車'''(ふうしゃ、かざぐるま)は、[[羽根車]]に[[風]]を受けて[[回転]]し、[[風力]]から[[動力]]を得るための装置。[[灌漑]]・[[発電]]・[[製粉]]・[[風速計]]などに使われる。「かざぐるま」と読むと、羽根車に柄を付け、風の力で回して遊ぶ[[玩具]]も含まれる([[風車 (玩具)]]参照)。
[[英語]]では ''windmill'' だが、''mill''(原義は[[臼#ひき臼|碾き臼]])でわかるとおり、''windmill'' は本来は製粉の動力に使われるものを指す。また、風力発電などに使われる現代風の風車([[風力原動機]])は ''[[:en:wind turbine|wind turbine]]'' とよばれるが、日本語ではこれらを含めて風車と呼ばれることが多い。
== 歴史 ==
[[画像:Heron's Windwheel.jpg|thumb|ヘロンの風力オルガン(再現図)]]
風車の起源ははっきりしない。[[紀元前36世紀]]ごろ、[[エジプト]]で灌漑に使われたという記録がある。
[[1世紀]]初頭、[[アレクサンドリアのヘロン]]は、[[アネムリオン]](風車を動力として風を送る[[オルガン]])を設計した。
ウィンドミル(製粉用風車)は、ペルシャで誕生した。[[中央アジア]]のシースターン([[イラン]]と[[アフガニスタン]]の国境地域)で[[10世紀]]頃に建造されたのが最古である。その後、[[十字軍]]や[[モンゴル帝国]]の遠征により、[[ヨーロッパ]]と[[中国]]に伝えられた。<ref>宮崎正勝『世界を動かしたモノ辞典』日本実業出版社、2002年</ref>
初期の風車は、方位制御機構が不要な垂直軸風車だった。[[12世紀]]末、北西ヨーロッパに、方位制御機構を備えた水平軸風車が現れた。これはイスラムから伝わった垂直軸風車とは独立に発明されたという説もある。
[[15世紀]]、[[オランダ]]で[[干拓地]]の排水用に風車が多用され始めた。これらはのちに[[蒸気機関]]に、さらには電動[[ポンプ]]にとってかわられ、現在は観光資源ないし一部は「[[キンデルダイク|キンデルダイク=エルスハウトの風車網]]」として[[世界遺産]]に登録されているが、少数が今も現役で排水に使われている。
[[1887年]]、[[イギリス]]のJ.ブライスが初めて風力で発電し、[[二次電池]]に蓄電した。[[1888年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[:en:Charles Francis Brush|C.F.ブラッシュ]]が直径17mの多翼型風車で発電を行った<ref>[https://web.archive.org/web/20120615120933/http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e06a2/class08/class08-2.html 風車の使用法〔過去〜現在〕]</ref>。
[[日本]]でも明治初期より海軍技師・湘南電気研究会長だった本岡玉樹によって研究され、当初は居留外国人によって導入された事が確認されている<ref name="日本の風車の発展と利用" />。
[[長野県]][[諏訪湖]]南では最盛時には3000台以上が泥炭層からの養分を含んだ地下水の汲み上げに使われ、1905年頃から1940年代前半まで使用され、戦後の一時期合成硫安の不足していた時期にも使用された<ref name="日本の風車の発展と利用">[http://www.eureka.tu.chiba-u.ac.jp/forelectures/windmill/summary/08.html 日本の風車の発展と利用]</ref>。
[[愛知県]][[知多半島]][[東浦町]]では1921年から使用され始め、1940年頃の最盛時には100から200台程度が運転され<ref name="日本の風車の発展と利用" />、[[渥美半島]][[伊良湖岬]]付近では1924年頃に風車揚水が始められ、最盛時の1935年頃には200台が運転された<ref name="日本の風車の発展と利用" />。
[[茨城県]][[土浦市]]付近[[桜川]]流域の[[新治郡]][[桜村 (茨城県)|桜村]]、[[新治村 (茨城県新治郡1954年)|新治村]]、[[筑波郡]][[筑波町]]、[[大穂町]]では、1928~29年ごろに、[[筑波郡]][[谷田部]]の[[素封家]]高野新八が台地の開墾田で風車を使用し始め、最盛時の1936年では1000台以上が稼動して1955年頃まで使用された<ref name="日本の風車の発展と利用" />。
[[千葉県]][[房総半島]][[館山市]]付近の[[夷隅郡]][[大原町 (千葉県)|大原町]]や[[岬町 (千葉県)|岬町]]では、1933年頃から使用が開始され、[[丸山町]]、[[千倉町]]では1950年代前半までの最盛時には100台の風車が稼動し、[[館山市]]の正木、川崎、湊地区では最盛時には120台が稼動していた記録がある<ref name="日本の風車の発展と利用" />。
[[大阪府]][[堺市]]<ref>[http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~saito/job/others/windmill/windmill.html 堺市石津の風車]</ref>では、1928年に 台地の赤畑での水田で補給水を目的として水田と畑地の両方の灌漑に使われ、成績がよかったので石津川沿い、大和川沿いでも使われるようになり、赤畑に10台、[[石津川]]沿いに250台、[[大和川]]河口で25台、その少し上流で100台程度が1935年から1950年代前半まで使われていた記録が残る<ref name="日本の風車の発展と利用" />。
{{clear}}
== 分類 ==
=== 揚力型風車と抗力型風車 ===
[[Image:Darrieus.jpg|thumb|揚力型垂直軸風車の原理]]
; 揚力型風車 - [[揚力]]で主な回転力を得る風車。
; 抗力型風車 - [[抗力]]で主な回転力を得る風車。
風車の翼(帆)は、揚力型風車では[[飛行機]]の翼、抗力型風車では[[帆船]]の帆とそれぞれ基本原理が同じである。揚力型風車は高回転・低[[トルク]]、抗力型風車は低回転・高トルク。ただし、翼(帆)の枚数を減らせば高回転・低トルク、増やせば低回転・高トルクになる。
=== 水平軸風車と垂直軸風車 ===
; 水平軸風車 - 風向きに対し、[[回転軸]]が[[平行]]な風車。
水平軸風車は、変化する[[風向き]]に対し平行であり続けなければならないため、方位制御機構が必要になる。小型の風車では[[方向舵]]などで受動的に制御するが、大型の風車では[[動力]]を使って能動的に制御することもある。なお、水平軸風車を使った風力計は、方位制御機構を利用し、[[風向]]も同時に測定することができる。
; 垂直軸風車 - 風向きに対し、回転軸が[[垂直]]な風車。
{{ill2|垂直軸風車|en|Vertical-axis wind turbine}}は、通常、回転軸が地面に対し垂直になるよう設置する。そうすれば常に回転軸に対し直角に風が吹くため、方向制御が必要ない。
{| class="wikitable"
|-
!
!揚力型
!抗力型
|-
!水平軸
|[[プロペラ風車]] / [[リボン型風車]]
|[[セイルウィング風車]] / [[オランダ型風車]] / [[多翼型風車]] / [[風車 (玩具)|かざぐるま]]型風車
|-
!垂直軸
|{{仮リンク|ダリウス風車|en|Darrieus wind turbine}}※1 / [[ジャイロミル風車]]※2
|{{仮リンク|サボニウス風車|en|Savonius wind turbine}} / [[クロスフロー風車]] / [[S型風車]] / [[風速計#風杯型風速計|パドル風車]](風杯)
|}
<small>※1:ダリウス風車- 翼に働く遠心力が引っ張り応力として働く形状としたもの。翼ピッチは固定。<br/>
※2:ジャイロミル風車(Hダリウス風車、直線ダリウス風車)- 直線翼とすることにより可変ピッチを可能とし、微風でも起動しやすくしたもの。</small>
=== ギャラリー ===
[[File:Mlyn_-_budowa.svg|thumb|right|140px|粉ひき風車の断面図]]
<small><gallery>
ファイル:Shodoshima Olive Park Shodo Island Japan21bs3.jpg|[[ギリシャ]]・[[ミロス島]]から[[日本]]・[[小豆島]]に贈られた風車(セイルウィング風車)
Image:Windturbine propeller.jpg|風力発電機(プロペラ風車)
Image:Anemometer.jpg|風速計(パドル風車)
Image:Museum molen.jpg|ハウステンボスミュージアムモーレンの観光用風車
Image:Windpump near Winburg.jpg|多翼型風車
Image:H-Darrieus-Rotor.jpg|ジャイロミル風車
Image:Darrieus-windmill.jpg|ダリウス風車
Image:Savonius turbine.svg|サボニウス風車
Image:Hornblower-Hybrid (3).jpg|ツイストサボニウス風車
Image:Savonius turbine motion.gif
Image:Flutter-Mühle-Moorsee.jpg|ポンプのように揚水・排水に使われるFlutterと呼ばれる場所も移動可能な小型の風車
Image:Hannover alte muehle 02.jpg|ポストミルと呼ばれる12世紀頃に作られるようになった初期の風車。下に架台があり上の風車部を動かして風向きに合わせるようになっている。
Image:Edewecht_Kokermühle.JPG|Kokerと呼ばれるポストミルの頭を小さくして、下に動力を伝えるようにしたタイプ
Image:Hollaenderwindmuehle_Reichstaedt_184-8496_IMG.JPG|塔風車は石造りの塔のようになった風車で、初期は風向きに合わせられず良く吹く方向に合わせる必要があったが、屋根のキャップで風向きに合わせるようになっていった。
Image:Kempen,_Mühle.JPG|塔風車と要塞。[[側防塔]]と一体化して使用されたものは Bärwindmühle と呼ばれた。
</gallery></small>
=== 風車語 ===
風車の羽根の止まる位置で、風車を管理している家族の状況を伝えることがある。この止まる位置による内容は、地域ごとに異なり統一されてない。下記に一例を示す。
<gallery>
Image:Pause1.gif|休業
Image:Pause2.gif|一時休止
Image:Freude.gif|喜び事
Image:Trauer.gif|喪
</gallery>
== 用途 ==
* [[風力原動機]] - 回転の[[エネルギー資源|エネルギー]]を利用する
** [[風力発電]]
** 機械的エネルギーをそのまま利用する
*** [[製粉]]用(本来のウィンドミル)
*** [[揚水]]・[[灌漑]]用(ウィンドポンプ)
* [[風速計]]・[[流量計]]
* [[マニ車]]
* [[楽器]]([[インドネシア]]の[[民族楽器]][[ピンジャカン]])
* 回転[[野立て看板|看板]]
==博物館など==
* [[キンデルダイク]] - オランダにある世界遺産「キンデルダイク=エルスハウトの風車網」が有名
* [[コンスエグラ]]の風車群 スペイン - [[ドン・キホーテ]]が突撃した風車のモデルとなったものもあり、スペインの[[重要文化財 (スペイン)|重要文化財]]となっている。
* {{ill2|国際風車・水車博物館|en|International Wind- and Watermill Museum}} ドイツ
* {{ill2|ザーンス博物館|en|Zaans Museum}} {{ill2|ザーンセ・スカンス|en|Zaanse Schans}} オランダ
* [[ムーラン・ルージュ]] - フランスの首都パリにある「赤い風車」の意味があり目印ともなっているキャバレー
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commons|Windmill|風車(ヨーロッパの伝統的な風車)}}
{{Commonscat|Wind turbines in Japan|日本の風車}}
{{Commons|Wind turbine|風力発電機(風力タービン)}}
* [[風力原動機]]
* [[水車]]
* [[タービン]]
* [[プロペラ]]
* [[羽根車式流量計]]
* [[ベッツの法則]]
== 外部リンク ==
* [http://www.eureka.tu.chiba-u.ac.jp/forelectures/windmill/ 風車の講義]
* [https://web.archive.org/web/20120112165640/http://ednjapan.com/content/issue/2005/04/cover/cover.html 開発が進む風力発電]
* [https://wired.jp/2007/12/03/%E9%A2%A8%E5%8A%9B%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%8C%E9%A2%A8%E5%8A%9B%E3%83%80%E3%83%A0%E3%80%8D/ 風力エネルギーの新しいデザイン「風力ダム」](2007年12月3日) WIRED.jp
* [https://wired.jp/2007/05/31/%E5%87%A7%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%86%E3%80%81%E6%96%B0%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB/ 凧を使う、新発想の風力発電] (2007年5月31日) WIRED.jp
* {{Kotobank}}
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[[Category:風]]
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17,087 |
ノーメンクラトゥーラ
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ノーメンクラトゥーラ(ロシア語: номенклату́ра)とは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級・特権的な党幹部や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」とも呼ばれる。ノーメンクラツーラとも表記される。
この語は本来、ラテン語の nomenclatura(名簿、命名法)から来ている。これは各級党機関が役職につける人物の任免のために用いた一覧表を指す言葉であったが、やがてその一覧表を用いた制度や、幹部に任命された人物やその縁者を指す言葉として用いられるようになった。
ソビエト連邦は階級の存在しない社会であることが建前とされた。しかし実際の統治はソビエト連邦共産党による一党独裁制度であり、政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である必要があった。そのため党が役職と役職に就く候補者の名前を一覧表にして用意するシステムが行われた。
この仕組みはウラジーミル・レーニンの時代にすでに萌芽があり、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンは重要人物を「товарищ картотеков」(同志キャビネット)としてリストアップしていた。スターリンはこのリストを役職配分に活用し、やがて公式な制度となった。当初は書記局の人事に用いられていたが、党機関だけでなく政府・社会団体・研究所・教育施設にも適用されるようになった。第二次世界大戦後に成立した東欧社会主義諸国でもこの制度は導入された。
この一覧表に掲載された人物は役職に就いていない候補者も含めて党の承認を受けた重要人物であり、別荘や年金などあらゆる面で厚遇された。また一覧表に掲載されるかどうかは上位者の承認が不可欠であり、派閥や縁故主義の温床となった。その総数は1970年代には75万人、家族を加えれば300万人となり、人口の1.2%を占めた。
この制度は、ソ連の反体制派の作家ミハイル・ヴォスレンスキー (en) が1970年代に「ノーメンクラツーラ」を著わしたことで西側社会にも知られるようになった。ユーゴスラビアの元副大統領ミロヴァン・ジラスもノーメンクラトゥーラ層を「新しい階級」と呼んで批判した。
ペレストロイカの開始以降、ソ連でも批判が開始され、1989年にノーメンクラトゥーラは制度として廃止された。しかし、ソビエト連邦の崩壊後もノーメンクラトゥーラ層の一部は新生ロシアの政治家や新興財閥(オリガルヒ)となり、新たな階層を形成した。
経済思想史研究者の太田仁樹は、ノーメンクラトゥーラの支配するソ連は「法治主義」の欠如した、「人治国家」であったが、これはカール・マルクスの「無法・無国家共同体」思想の具体化したものであったと指摘する。
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ノーメンクラトゥーラとは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級・特権的な党幹部や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」とも呼ばれる。ノーメンクラツーラとも表記される。
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'''ノーメンクラトゥーラ'''({{lang-ru|номенклату́ра}})とは、[[ソビエト連邦]]における指導者選出のための[[人事]]制度を指す言葉{{sfn|鈴木博信|2006|p=286}}。また転じて、[[共産党]][[一党独裁制|単独支配]]国家における[[エリート]]層・支配階級・特権的な党幹部や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた<ref name="koto">{{コトバンク|ノーメンクラトゥーラ}}</ref>。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」<ref>[[ダーチャ]]はロシア語で別荘を指す。「ロシア・ソビエト事典」[[小学館]] 週刊ポストデラックス、1991年、121p</ref>とも呼ばれる。'''ノーメンクラツーラ'''とも表記される<ref name="koto"/>。
== 語源 ==
この語は本来、[[ラテン語]]の {{la|nomenclatura}}([[名簿]]、[[命名法]])から来ている。これは各級党機関が役職につける人物の任免のために用いた一覧表を指す言葉であったが、やがてその一覧表を用いた制度や、幹部に任命された人物やその縁者を指す言葉として用いられるようになった。
== 概要 ==
ソビエト連邦は[[階級]]の存在しない社会であることが建前とされた。しかし実際の統治は[[ソビエト連邦共産党]]による一党独裁制度であり、政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である必要があった。そのため党が役職と役職に就く候補者の名前を一覧表にして用意するシステムが行われた。
この仕組みは[[ウラジーミル・レーニン]]の時代にすでに萌芽があり、[[ソビエト連邦共産党書記長]][[ヨシフ・スターリン]]は重要人物を「{{ru|товарищ картотеков}}」([[同志]][[内閣|キャビネット]])としてリストアップしていた。スターリンはこのリストを役職配分に活用し、やがて公式な制度となった。当初は書記局の人事に用いられていたが、党機関だけでなく政府・社会団体・研究所・教育施設にも適用されるようになった。[[第二次世界大戦]]後に成立した[[東ヨーロッパ|東欧]][[社会主義]]諸国でもこの制度は導入された。
この一覧表に掲載された人物は役職に就いていない候補者も含めて党の承認を受けた重要人物であり、別荘や年金などあらゆる面で厚遇された。また一覧表に掲載されるかどうかは上位者の承認が不可欠であり、[[派閥]]や[[縁故主義]]の温床となった。その総数は1970年代には75万人、家族を加えれば300万人となり、人口の1.2%を占めた<ref>[[外川継男]]「ロシアとソ連邦」[[講談社学術文庫]]、358p ISBN 978-4061589759</ref>。
この制度は、ソ連の反体制派の作家[[ミハイル・ヴォスレンスキー]] ([[:en:Michael Voslenski|en]]) が1970年代に「ノーメンクラツーラ」を著わしたことで[[西側諸国|西側社会]]にも知られるようになった。[[ユーゴスラビア]]の元副大統領[[ミロヴァン・ジラス]]もノーメンクラトゥーラ層を「[[共産貴族|新しい階級]]」と呼んで批判した。
[[ペレストロイカ]]の開始以降、ソ連でも批判が開始され、1989年にノーメンクラトゥーラは制度として廃止された{{Sfn|鈴木博信|1998|p=2}}。しかし、[[ソビエト連邦の崩壊]]後もノーメンクラトゥーラ層の一部は新生[[ロシア]]の政治家や新興財閥([[ロシアのオリガルヒ|オリガルヒ]])となり、新たな階層を形成した{{sfn|鈴木博信|2006|p=286-288}}。
経済思想史研究者の太田仁樹は、ノーメンクラトゥーラの支配するソ連は「[[法治主義]]」の欠如した、「人治国家」であったが、これは[[カール・マルクス]]の「無法・無国家共同体」思想の具体化したものであったと指摘する<ref>太田仁樹「[https://doi.org/10.18926/OER/12421 マルクス主義理論史研究の課題(XIV):マルクス,修正主義論争,ボリシェヴィズム]」『岡山大学経済学会雑誌』第37巻第1号、2005年、p.102.</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[渡部恒夫]] |title=ソヴィエト・ノーメンクラツーラの対外政策に関するミハイル・S・ヴォスレンスキー説摘録 |date=1983-10-15 |publisher=[[鹿児島国際大学]] |journal=鹿兒島経大論集 |volume=24 |number=3 |naid=110004671612 |pages=71-88 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[鈴木博信]] |title=ノーメンクラトゥーラはどこへ行ったのか? [I] : Comrade Criminal: Russia's New Mafiya, by S. Handelmanによせて |date=1998-03-31 |publisher=[[桃山学院大学]] |journal=桃山学院大学社会学論集 |volume=31 |number=2 |naid=110004700884 |pages=1-16 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=鈴木博信 |title=プーチンの選択したもの[I] : ユーコスつぶしとオリガルヒ資本主義の行方 (鈴木博信教授林錫璋教授退任記念号) |date=2006-03-30 |publisher=桃山学院大学 |journal=桃山法学 |volume=7 |naid=110004298029 |pages=275-294 |ref=harv}}
*太田仁樹「[https://doi.org/10.18926/OER/12421 マルクス主義理論史研究の課題(XIV):マルクス,修正主義論争,ボリシェヴィズム]」『岡山大学経済学会雑誌』第37巻第1号、2005年、p89-102.
== 関連書籍 ==
*ミハイル・S・ヴォスレンスキー著、[[佐久間穆]]・[[船戸満之]]訳『ノーメンクラツーラ―ソヴィエトの赤い貴族』 [[中央公論社]](1981年)
== 関連項目 ==
*[[党官僚]]
*[[共産貴族]]、[[労働貴族]]
*[[裏切られた革命]]
*スペツトルギ - ノーメンクラトゥーラ(被扶養者も含む)のみ利用出来た国営商業施設。一般国民には入手の難しい新鮮な食材や輸入品を(販売価格も出来るだけ抑えた上で)豊富に取り扱っていた。
*[[太子党|太子党(紅五類の二代目)]]、[[小皇帝]]
*[[出身成分#沿革|核心階層]]
*[[ヤミ専従]]
*[[エーリッヒ・ホーネッカー]]
*[[マルクス主義批判]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のめんくらとら}}
[[Category:共産主義]]
[[Category:ソビエト連邦の政治]]
[[Category:ソビエト連邦共産党]]
[[Category:社会集団]]
[[Category:ラテン語の語句]]
[[Category:ロシア語の語句]]
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17,090 |
電線路
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電線路(でんせんろ)は、電力を運ぶための電線およびその支持物・付帯設備を含む電力設備である。 また、電線路を形成する電線のうち、送電網におけるものは送電線(そうでんせん)、配電網におけるものは配電線(はいでんせん)と呼んで区別されている。
なお、類似の用語に電路があるが、これは通常の使用状態で電気が通じているところをいい、目的や使用場所に依存しない電気工学一般における概念である。
電気回路理論においては電気抵抗、 インダクタンス、 静電容量という回路要素は、それぞれ値の定まった回路素子として扱い、そしてそれらの接続される配線の長さは考慮しない。しかし実際の送電線や配電線においては、それぞれの回路要素は有限個の素子ではなく長い配線に値が分布して存在するものと考える。このように回路要素が配線の長さや形状、位置関係に依存する電気回路を分布定数回路といい、各回路要素は配線の単位長あたりの値として扱い、これを線路定数という。
なお送電網において、送電線にはそれぞれ路線名が付けられ、鉄塔には番号が付けられている。一般的には電源側が小さい番号となり、負荷側が大きい番号となる。
送電線の多くは、他者の所有地の上を通る。その場合、一般に「線下補償料」と呼ばれる、土地使用料にあたる料金が支払われることになる。その一方で高圧線下の地価は、美観などの理由から、周辺の地価より低くなることもある。
1979年の米国での報告を皮切りに1980年代にスウェーデン等の研究者から、高圧線が発する低周波の電磁波を浴びることによる健康被害が相次いで発表され、WHOも1996年に、電磁界を放射する技術に関連する健康リスクの可能性を調査するため、国際電磁界プロジェクトを立ち上げた。スウェーデン等では2~3mGを目安に、それを超える高圧線の鉄塔を住宅や幼稚園などの近辺に建設しないように規制している。
日本では平成23年『電気設備に関する技術基準を定める省令』が一部改正され、変圧器、開閉器等や電線路等を変電所等以外の場所に施設する場合には、当該施設の周辺において測定した空間の磁束密度の平均値が200μT以下となるように設置しなければならないと定められた。(施行日:平成23年10月1日)
他にも高圧線の出す電磁波により、放送電波に影響がでることがある。
送電線の送電電圧が非常に高くなったときに、主に鉄塔接続部分のがいし付近で周囲の空気との間における絶縁状態が部分的に破れて、コロナ放電が発生する場合がある。この放電時に発せられるジリジリといったコロナ騒音のほか、コロナ損(電力損)による送電効率の低下、障害電波や高周波の発生なども問題になっている。降雨・降雪時、降雨・降雪後、または霧が発生しているときなど導電性が高まったときに起こりやすい。放電頻度を少なくするため、がいしに溜まったほこり等を除去する清掃作業が管轄会社により定期的に行われている。また、がいしの突起を減らしたり、多導体方式(英語版)の使用や外径の大きい鋼心アルミより線等を使用するか束ねるなどして電線径を太くし電位傾度(電位差)を低くすることによって、放電頻度を減少させる効果がある。
日本において送電線(高圧線)の路線図は、電力会社の内部資料としては存在するが、近年はテロ対策などを理由に非公開となっており、部外者が見ることはできないようになっている(ごく一部の幹線のみ、電力会社のパンフレットや資料館で公開されている)。それでも国土地理院の地形図には、送電線が記載されているので、地形図を見ることにより、送電線がどこに続いているのか辿ることは可能である。
ただし、インターネットで公開している国土地理院による電子版の地形図(電子国土基本図)では、送電線や鉄塔の位置に関する情報の提供を全国の電力会社が「テロへの悪用懸念」などを根拠に拒否したため、2012年1月時点の最新版で記載をとりやめている。これに対して、登山などで現在地を確認する際の目印になるといった利便性の観点からも記載を求める声が出ており、日本地理学会では同機関に対して記載の継続を求める意見書を提出している。なお、1998年には香川県坂出市で何者かにより送電鉄塔が倒壊させられる器物損壊事件が実際に発生している。また、日本国外ではタイで送電鉄塔がテロの標的にされている。
地中化された送電線もある。上記の通り、路線図は一般には公表されていないので部外者が敷設ルートを辿ることはほとんど不可能である。ただし、一部の電力会社では電柱に工事業者のために地中線の埋設標が設置されている。
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"text": "電気回路理論においては電気抵抗、 インダクタンス、 静電容量という回路要素は、それぞれ値の定まった回路素子として扱い、そしてそれらの接続される配線の長さは考慮しない。しかし実際の送電線や配電線においては、それぞれの回路要素は有限個の素子ではなく長い配線に値が分布して存在するものと考える。このように回路要素が配線の長さや形状、位置関係に依存する電気回路を分布定数回路といい、各回路要素は配線の単位長あたりの値として扱い、これを線路定数という。",
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"text": "送電線の多くは、他者の所有地の上を通る。その場合、一般に「線下補償料」と呼ばれる、土地使用料にあたる料金が支払われることになる。その一方で高圧線下の地価は、美観などの理由から、周辺の地価より低くなることもある。",
"title": "送電線における諸問題など"
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"text": "1979年の米国での報告を皮切りに1980年代にスウェーデン等の研究者から、高圧線が発する低周波の電磁波を浴びることによる健康被害が相次いで発表され、WHOも1996年に、電磁界を放射する技術に関連する健康リスクの可能性を調査するため、国際電磁界プロジェクトを立ち上げた。スウェーデン等では2~3mGを目安に、それを超える高圧線の鉄塔を住宅や幼稚園などの近辺に建設しないように規制している。",
"title": "送電線における諸問題など"
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"text": "日本では平成23年『電気設備に関する技術基準を定める省令』が一部改正され、変圧器、開閉器等や電線路等を変電所等以外の場所に施設する場合には、当該施設の周辺において測定した空間の磁束密度の平均値が200μT以下となるように設置しなければならないと定められた。(施行日:平成23年10月1日)",
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"text": "他にも高圧線の出す電磁波により、放送電波に影響がでることがある。",
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"text": "送電線の送電電圧が非常に高くなったときに、主に鉄塔接続部分のがいし付近で周囲の空気との間における絶縁状態が部分的に破れて、コロナ放電が発生する場合がある。この放電時に発せられるジリジリといったコロナ騒音のほか、コロナ損(電力損)による送電効率の低下、障害電波や高周波の発生なども問題になっている。降雨・降雪時、降雨・降雪後、または霧が発生しているときなど導電性が高まったときに起こりやすい。放電頻度を少なくするため、がいしに溜まったほこり等を除去する清掃作業が管轄会社により定期的に行われている。また、がいしの突起を減らしたり、多導体方式(英語版)の使用や外径の大きい鋼心アルミより線等を使用するか束ねるなどして電線径を太くし電位傾度(電位差)を低くすることによって、放電頻度を減少させる効果がある。",
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"text": "日本において送電線(高圧線)の路線図は、電力会社の内部資料としては存在するが、近年はテロ対策などを理由に非公開となっており、部外者が見ることはできないようになっている(ごく一部の幹線のみ、電力会社のパンフレットや資料館で公開されている)。それでも国土地理院の地形図には、送電線が記載されているので、地形図を見ることにより、送電線がどこに続いているのか辿ることは可能である。",
"title": "送電線における諸問題など"
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"text": "ただし、インターネットで公開している国土地理院による電子版の地形図(電子国土基本図)では、送電線や鉄塔の位置に関する情報の提供を全国の電力会社が「テロへの悪用懸念」などを根拠に拒否したため、2012年1月時点の最新版で記載をとりやめている。これに対して、登山などで現在地を確認する際の目印になるといった利便性の観点からも記載を求める声が出ており、日本地理学会では同機関に対して記載の継続を求める意見書を提出している。なお、1998年には香川県坂出市で何者かにより送電鉄塔が倒壊させられる器物損壊事件が実際に発生している。また、日本国外ではタイで送電鉄塔がテロの標的にされている。",
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"text": "地中化された送電線もある。上記の通り、路線図は一般には公表されていないので部外者が敷設ルートを辿ることはほとんど不可能である。ただし、一部の電力会社では電柱に工事業者のために地中線の埋設標が設置されている。",
"title": "送電線における諸問題など"
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電線路(でんせんろ)は、電力を運ぶための電線およびその支持物・付帯設備を含む電力設備である。 また、電線路を形成する電線のうち、送電網におけるものは送電線(そうでんせん)、配電網におけるものは配電線(はいでんせん)と呼んで区別されている。 なお、類似の用語に電路があるが、これは通常の使用状態で電気が通じているところをいい、目的や使用場所に依存しない電気工学一般における概念である。
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[[ファイル:Minami-Iwaki Trunk Line 04.jpg|thumb|260px|right|[[鉄塔]]と送電線(1000kV設計[[南いわき幹線]])]]
[[File:Katori Power Line 01.jpg|thumb|260px|作業中の[[鳶職#送電鳶|送電鳶]]]]
'''電線路'''(でんせんろ)は、[[電力]]を運ぶための[[電線]]およびその支持物・付帯設備を含む電力設備である<ref>[[電気設備に関する技術基準を定める省令]](平成九年三月二十七日通商産業省令第五十二号) 第一条 第八号「電線路」とは、[[発電所]]、[[変電所]]、開閉所及びこれらに類する場所並びに電気使用場所相互間の電線(電車線を除く。)並びにこれを支持し、又は保蔵する工作物をいう。</ref>。 また、電線路を形成する電線のうち、[[送電]]網におけるものは'''送電線'''(そうでんせん)、[[配電]]網におけるものは'''配電線'''(はいでんせん)と呼んで区別されている。
なお、類似の用語に'''電路'''があるが、これは通常の使用状態で電気が通じているところをいい、目的や使用場所に依存しない[[電気工学]]一般における概念である<ref>電気設備に関する技術基準を定める省令(平成九年三月二十七日通商産業省令第五十二号)第一条 第一号「電路」とは、通常の使用状態で電気が通じているところをいう。 </ref>。
== 電線路の線路定数 ==
[[電気回路]]理論<ref group="注">電気回路理論は[[電気工学]]で扱う[[電磁気学]]などが[[物理学]]の一分野であるのに対し、理論というよりは計算法と呼ぶほうが適切である。</ref>においては[[電気抵抗]]、 [[インダクタンス]]、 [[静電容量]]という回路要素は、それぞれ値の定まった回路素子として扱い、そしてそれらの接続される配線の長さは考慮しない。しかし実際の送電線や配電線においては、それぞれの回路要素は有限個の素子ではなく長い配線に値が分布して存在するものと考える。このように回路要素が配線の長さや形状、位置関係に依存する電気回路を[[分布定数回路]]といい、各回路要素は配線の単位長あたりの値として扱い、これを線路定数という。
== 電線路の構成要素 ==
[[Image:Insulators and electricity pylon.JPG|thumb|250px|電線はがいしを介して鉄塔と接続され、黄色い線に沿って電流が流れる。]]
* [[電線]](送電線・配電線)
** [[絶縁 (電気)|絶縁]]電線
** [[ケーブル]]
* 支持物
** [[がいし]]
** 鉄柱・[[鉄塔]]・[[送電塔]]
** [[電柱]]
*** 鉄筋コンクリート柱<ref group="注">これは俗称であり、現在の日本規格は「プレストレストコンクリートポール」(JIS A 5373:2010 推奨仕様 A-1)。以前は「遠心力鉄筋コンクリートポール」(JIS A 5309:1995)と呼称していたが、2004年に改正された。</ref>
*** 木柱
*** 鋼管柱
*** 鋼板柱([[パンザマスト]])
なお送電網において、送電線にはそれぞれ路線名が付けられ、鉄塔には番号が付けられている。一般的には電源側が小さい番号となり、負荷側が大きい番号となる。
== 主な電線路の設置場所 ==
* 架空電線路<ref>[[電気設備の技術基準の解釈]] 第51-109条</ref>
* 地中電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈 第120-125条</ref>
** [[共同溝]]
* 屋側電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈 第110-112条</ref>
* 屋上電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈 第113-115条</ref>
* [[トンネル]]内電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈 第126条</ref>
* 水上電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈 第127条-1</ref>
* 水底電線路<ref>電気設備の技術基準の解釈第 127条-2</ref>
== 送電線における諸問題など ==
=== 高圧線下の影響 ===
送電線の多くは、他者の所有地の上を通る。その場合、一般に「線下補償料」と呼ばれる、土地使用料にあたる料金が支払われることになる。その一方で高圧線下の地価は、美観などの理由から、周辺の地価より低くなることもある。
1979年の米国での報告<ref>Wertheimer N, Leeper E: Electrical wiring configuration and childhood cancer. ,Am J Epidemiol 1979; 109: 273-284 [https://www.emf-portal.org/en/article/1018 EMF-Portal]</ref>を皮切りに1980年代にスウェーデン等の研究者から、高圧線が発する[[低周波]]の[[電磁波]]を浴びることによる健康被害が相次いで発表され<ref>『送電線等の電力設備のまわりに発生する電磁界と健康』[https://www.meti.go.jp/policy/safety_security/industrial_safety/sangyo/electric/detail/e_health/introduction.html 電磁界の問題]([[経済産業省]]Webサイト)</ref>、[[世界保健機関|WHO]]も1996年に、電磁界を放射する技術に関連する健康リスクの可能性を調査するため、国際電磁界プロジェクトを立ち上げた<ref>WHOのファクトシート№322 [http://www.who.int/peh-emf/publications/facts/FS322_Japansese.pdf?ua=1 電磁界と公衆衛生 超低周波電磁界へのばく露](2007年6月) p.1</ref>。[[スウェーデン]]等では2~3m[[ガウス (単位)|G]]<ref group="注">1G = 100μT (T:[[テスラ (単位)]])。因みに日本では、1991年にJISが[[国際単位系]]準拠となったので[[計量法]]では、商取引及び証明においては、G(ガウス)は使用できない。</ref>を目安に、それを超える高圧線の鉄塔を[[住宅]]や[[幼稚園]]などの近辺に建設しないように規制している<ref>特定非営利活動法人「市民科学研究室」代表 上田昌文[https://www.shiminkagaku.org/post_419/ 「国立環境研究所の疫学調査の意義」]『[[週刊金曜日]]』2002年9月27日号の記事を手直し掲載。</ref>。
日本では平成23年『[[電気設備に関する技術基準を定める省令]]』が一部改正され、変圧器、開閉器等や電線路等を変電所等以外の場所に施設する場合には、当該施設の周辺において測定した空間の磁束密度の平均値が200μT以下となるように設置しなければならないと定められた<ref>電気設備に関する技術基準を定める省令 第二十七条の二 平成23年 経済産業省令第14号</ref>。(施行日:平成23年10月1日)
他にも高圧線の出す電磁波により、放送電波に影響がでることがある。
=== 放電現象 ===
送電線の送電[[電圧]]が非常に高くなったときに、主に鉄塔接続部分の[[がいし]]付近で周囲の空気との間における[[絶縁 (電気)|絶縁]]状態が部分的に破れて、[[コロナ放電]]が発生する場合がある<ref>[http://www.jeea.or.jp/course/contents/04113/ 送電線路のコロナ放電現象と障害及び防止対策](社団法人 日本電気技術者協会)</ref><ref>[http://denken.yu-mashiken.com/archives/2006/03/post_69.html コロナ放電](電気主任技術者試験の用語集)</ref>。この放電時に発せられるジリジリといったコロナ騒音のほか、コロナ損(電力損)による送電効率の低下、障害電波や[[高周波]]の発生なども問題になっている。降雨・降雪時、降雨・降雪後、または霧が発生しているときなど導電性が高まったときに起こりやすい。放電頻度を少なくするため、がいしに溜まったほこり等を除去する清掃作業が管轄会社により定期的に行われている。また、がいしの突起を減らしたり、[[:en:Overhead power line#Bundle conductors|多導体方式(英語版)]]の使用や外径の大きい[[鋼心アルミより線]]等を使用するか束ねるなどして電線径を太くし[[電位]]傾度(電位差)を低くすることによって、放電頻度を減少させる効果がある。
=== 送電線の路線図 ===
[[File:Power Grid of Japan.svg|thumb|250px|right|日本の電力会社の管轄と主要送電網]]
日本において送電線(高圧線)の路線図は、[[電力会社]]の内部資料としては存在するが、近年は[[テロ]]対策などを理由に非公開となっており、部外者が見ることはできないようになっている(ごく一部の幹線のみ、電力会社のパンフレットや資料館で公開されている)。それでも[[国土地理院]]の[[地形図]]には、送電線が記載されているので、地形図を見ることにより、送電線がどこに続いているのか辿ることは可能である。
ただし、[[インターネット]]で公開している国土地理院による電子版の地形図([[電子国土基本図]])では、送電線や鉄塔の位置に関する情報の提供を全国の電力会社が「テロへの悪用懸念」などを根拠に拒否したため、2012年1月時点の最新版で記載をとりやめている。これに対して、[[登山]]などで現在地を確認する際の目印になるといった利便性の観点からも記載を求める声が出ており、[[日本地理学会]]では同機関に対して記載の継続を求める意見書を提出している<ref>送電線:電子地形図から消える 電力10社情報拒否(毎日新聞 2012年1月30日)[http://financegreenwatch.org/jp/?p=7408 Finance GreenWatch 転載]</ref>。なお、[[1998年]]には[[香川県]][[坂出市]]で何者かにより[[坂出送電塔倒壊事件|送電鉄塔が倒壊させられる器物損壊事件]]が実際に発生している。また、日本国外では[[タイ王国|タイ]]で送電鉄塔がテロの標的にされている<ref>[https://archive.fo/aslj 【タイニュース】アユタヤで送電用鉄塔が爆破](たいすきだ 2010年4月14日)</ref>。
地中化された送電線もある。上記の通り、路線図は一般には公表されていないので部外者が敷設ルートを辿ることはほとんど不可能である。ただし、一部の電力会社では電柱に工事業者のために地中線の埋設標が設置されている。
=== 施設損壊による主な被害 ===
* [[2019年]][[9月9日]] - [[千葉県]][[君津市]]にある[[東京電力パワーグリッド]]の[[送電塔]]2基が強風([[令和元年房総半島台風]])により倒壊。内房線系統及び小糸線・木内線系統がルートダウンし、約11万軒に及ぶ大規模な[[停電]]が発生した。日本の送電塔は40mの強風にも耐えうるよう設計されており、倒壊原因の調査が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/tettou/pdf/20200121_report_01.pdf |title=令和元年台風15号における鉄塔及び電柱の損壊事故調査検討ワーキンググループ中間報告 |publisher=経済産業省 |date=2020年 |accessdate=2022-02-02}}</ref>。
* [[2022年]][[2月2日]]、[[コンゴ民主共和国]]の首都[[キンシャサ]]の市場で、高圧架空電線が排水溝に落下、26人が感電死した。落下場所がメンテナンスのされていない排水溝であり、大きな水たまりができていたことから被害が拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3388249 |title=市場に高圧線が落下、26人感電死 コンゴ |publisher=AFP |date=2022-02-02 |accessdate=2022-02-02}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{reflist|group="注"}}
===出典===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[接地]] - [[中性点接地方式]] - [[接地工事の種類]]
* [[鳶職#送電鳶|送電鳶]] - 作業員である送電線架線工の通称。
* [[電磁波過敏症]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Power lines in Japan|日本の電線路}}
* 上述の通り、送電線の正確な位置は公表されていないが、各電力会社の公式サイトでは、大まかな送電線の系統図が、資料として公開されている。
** [http://www.hepco.co.jp/corporate/ele_power/equipment/stb_2.html 北海道電力 主な電力設備分布図]
** [https://www.tohoku-epco.co.jp/jiyuka/04.htm 東北電力 電力系統(特別高圧)の状況]
** [http://www.tepco.co.jp/corporateinfo/provide/power_grid/index-j.html 東京電力 電力系統図]
** [https://www.chuden.co.jp/corporate/study/free/rule/map/index.html 中部電力 系統空容量マッピング]
** [http://www.rikuden.co.jp/setsubi/keitouzu.html 北陸電力 電力系統図]
** [https://www.kepco.co.jp/souhaiden/takusou/disclosure/ryutusetsubi.html 関西電力 流通設備建設計画・系統連系制約等について]
** [http://www.energia.co.jp/retailer/keitou/access.html 中国電力 系統アクセス情報の公開]
** [http://www.yonden.co.jp/business/jiyuuka/tender/index.html 四国電力 系統アクセス情報の公開]
** [http://www.kyuden.co.jp/library/pdf/company/data_book/data_book_2013_02_130903.pdf 九州電力データブック2013]
** [https://www.okiden.co.jp/business-support/service/rule/plan/index.html 沖縄電力 系統連系制約および流通設備計画について]
** [http://www.jpower.co.jp/bs/souhenden/map.html J-POWER 送変電事業地図]
* [http://nsk-network.co.jp/060508.htm 高圧線下地の評価(1)]
* [http://nsk-network.co.jp/060525.htm 高圧線下地の評価(2)]
{{Normdaten}}
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{{デフォルトソート:てんせんろ}}
[[Category:電力インフラ]]
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水車
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水車(すいしゃ、みずぐるま、英: water wheel)は、水のエネルギーを機械的エネルギーに変える回転機械。人類が開発した最も古い原動機と言え、古代から世界のいくつかの地域で利用されており、中世にはヨーロッパで非常に普及した。たとえばヨーロッパでは揚水、脱穀、製粉(小麦の実をひいて粉にする)など農業分野で大いに用いられ、鉱物の採掘用の機械動力にも使われた。西アジアや中国でも製粉や精米用など様々な用途に用いられた。日本でも平安時代にはすでに使われていたことが判っている。
18世紀後半~19世紀前半に蒸気機関が普及してゆくにつれ水車の数の増加に歯止めがかかり、さらに19世紀末ごろから20世紀冒頭ごろにかけて電動機も普及すると、水車の利用は減っていった。
しかし現在でも少数ながら世界各地の水流が豊富な地域では現役の機械として利用されている。電力供給の無い場所でも動力を確保できる点がメリットとなる。
揚水用の水車を水汲み水車(ノーリア)と言う。様々なタイプがあるが、水車の横に付けた容器(バケツ状の容器)で水をくみ上げるタイプのものが比較的多い。
水力発電に使うwater turbineウォーター・タービンのことも日本語では「発電用水車」と呼ぶ。近年では温暖化対策の面も持つマイクロ水力発電に多く使われるようになり、水車の利用価値は高まっている。
なお、トルクを与えて水流に変えるタイプの機械装置も「水車」と呼ばれる。電動機などで水車を回転させるものが揚水発電などに使われる。
日本では『日本書紀』において推古18年(610年)高句麗から来た僧曇徴(どんちょう)が、碾磑(てんがい)という水車で動く臼を造ったといわれ、平安時代の天長6年(829年)良峯安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとある。鎌倉時代の『徒然草』には宇治川沿いの住民が水車を造る話がある。
室町時代、15世紀に日本へ来た朝鮮通信使の朴瑞生は日本の農村に水揚水車がある事に驚き、製造法を調査し本国に報告したことが『朝鮮王朝実録』に記述されており、江戸時代の11回朝鮮通信使においても、同様に日本の水車の普及に驚いた事が記述されている。
動力水車の本格的な使用は江戸時代になってからといわれている。白米を食する習慣の広がりとともに、精米・穀物製粉のために使用されたが、江戸時代後期には工業的原動力としても部分的に使用された。水車を利用した製粉業は「水車稼ぎ」と呼ばれ、水車稼ぎに利用される用水は主に農業用水であった。
これらの水車は、水車を覆う外装部品がないため効率が低いものであった。そのため第二次世界大戦後には電動機や内燃機関の普及により日本国内では衰退したが、観光資源もしくは農業目的にて利用されている。逆に、水車を覆う外装部品がある水車は効率が90%前後と高い。このため発電用水車として独自に発展していった。
日本では現代でも木製の水車を作成する大工(水車大工)がいる。
古典的な水車の英語での分類は以下の通り
「反動水車」と「衝動水車」に大分類できる
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水車は、水のエネルギーを機械的エネルギーに変える回転機械。人類が開発した最も古い原動機と言え、古代から世界のいくつかの地域で利用されており、中世にはヨーロッパで非常に普及した。たとえばヨーロッパでは揚水、脱穀、製粉(小麦の実をひいて粉にする)など農業分野で大いに用いられ、鉱物の採掘用の機械動力にも使われた。西アジアや中国でも製粉や精米用など様々な用途に用いられた。日本でも平安時代にはすでに使われていたことが判っている。 18世紀後半~19世紀前半に蒸気機関が普及してゆくにつれ水車の数の増加に歯止めがかかり、さらに19世紀末ごろから20世紀冒頭ごろにかけて電動機も普及すると、水車の利用は減っていった。 しかし現在でも少数ながら世界各地の水流が豊富な地域では現役の機械として利用されている。電力供給の無い場所でも動力を確保できる点がメリットとなる。 揚水用の水車を水汲み水車(ノーリア)と言う。様々なタイプがあるが、水車の横に付けた容器(バケツ状の容器)で水をくみ上げるタイプのものが比較的多い。 水力発電に使うwater turbineウォーター・タービンのことも日本語では「発電用水車」と呼ぶ。近年では温暖化対策の面も持つマイクロ水力発電に多く使われるようになり、水車の利用価値は高まっている。 なお、トルクを与えて水流に変えるタイプの機械装置も「水車」と呼ばれる。電動機などで水車を回転させるものが揚水発電などに使われる。
|
{{otheruses||ふきのとうのアルバム|水車 (アルバム)}}
{{出典の明記|date=2015年2月25日 (水) 14:04 (UTC)}}
[[ファイル:Hama-naura-6.JPG|thumb|right|300px|[[シリア]]では[[ビザンチン帝国]]時代に水車がさかんに用いられたようである。この写真はその痕跡を残す[[ハマーの水車]]。ハマーの水車は[[直径]]が小さいものでも10m程度、大きいものでは22mほどある。]]
[[File:Hata watermill 1.jpg|thumb|right|300px|[[マイクロ水力発電]]に使われている水車(日本、[[長野県]])。]]
[[File:Agricola1.jpg|thumb|right|150px|1556年の[[:en:De re metallica|De re metallica]]に掲載された、採掘場で土を地上へ引き上げるための水車]]
'''水車'''(すいしゃ、みずぐるま、{{Lang-en-short|water wheel}})は、水のエネルギーを機械的エネルギーに変える回転[[機械]]。人類が開発した最も古い[[原動機]]と言え、[[古代]]から世界のいくつかの地域で利用されており、[[中世]]には[[ヨーロッパ]]で非常に普及した。たとえばヨーロッパでは[[揚水]]、[[脱穀]]、[[製粉]]([[小麦]]の実をひいて粉にする)など農業分野で大いに用いられ、鉱物の[[採掘]]用の機械動力にも使われた。[[西アジア]]や[[中国]]でも製粉や[[精米]]用など様々な用途に用いられた。日本でも[[平安時代]]にはすでに使われていたことが判っている。
18世紀後半~19世紀前半に[[蒸気機関]]が普及してゆくにつれ水車の数の増加に歯止めがかかり、さらに19世紀末ごろから20世紀冒頭ごろにかけて電動機も普及すると、水車の利用は減っていった。
しかし現在でも少数ながら世界各地の水流が豊富な地域では現役の機械として利用されている。電力供給の無い場所でも動力を確保できる点がメリットとなる。
揚水用の水車を'''[[水汲み水車]]'''([[ノーリア]])と言う。様々なタイプがあるが、水車の横に付けた容器(バケツ状の容器)で水をくみ上げるタイプのものが比較的多い。
水力発電に使う[[:en:water turbine|water turbine]]ウォーター・[[タービン]]のことも日本語では「[[発電用水車]]」と呼ぶ。近年では温暖化対策の面も持つ'''[[マイクロ水力発電]]'''に多く使われるようになり、水車の利用価値は高まっている。
なお、トルクを与えて水流に変えるタイプの機械装置も「水車」と呼ばれる。[[電動機]]などで水車を回転させるものが揚水発電などに使われる。
== 歴史 ==
; 紀元前2世紀ごろ小アジアで発明
: 動力機関としての水車は、[[紀元前2世紀]]ごろに[[小アジア]]で発明されたといわれる。
;古代ローマでの状況
: [[古代ローマ]]の[[技術者]][[ウィトルウィウス]]の著作『[[建築について]]』でも水車は言及されているが、滅多に使われない[[機械]]としており、[[奴隷]]労働の豊富な[[古代]]ローマ社会においては一般に余り普及しなかったようである。
; 中世以降に普及
: むしろ文明の中心が[[地中海]]沿岸を離れ、[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[西ヨーロッパ]]に移行した[[中世]]以降に、同地域では安定した水量が得られる土地柄も相まって水車の利用は活発になり、急激に台数が増えた。[[1086年]]の[[イングランド]]の古文書では、推定人口140万人の同地に5642台の水車があったことが記録されている。
:動力水車の使用法としては、それまではもっぱら製粉に限られていたが、[[10世紀]]ごろからは工業用動力としても使われるようになった。
; 中国
:[[中国]]においては水力原動機らしきものは[[漢]]にみられ<ref>[[原田信男]] 『和食とはなにか 旨みの文化をさぐる』 [[角川ソフィア文庫]] 2014年 p.79.西アジアから[[1世紀]]頃の[[後漢]]に伝わるが、広く浸透するのは[[7世紀]]の[[唐]]代以降であり、水車と臼によって穀物粉を大量生産できるようになったことは料理で革新を起こしたと記す。</ref>、[[宋 (王朝)|宋]]の時代には水車力を用いて[[紡績]]工場さえ作られたようであるが、その後の発展は見られなかった。
; イスラム圏
: [[イスラム]]圏においても水車が用いられ、農業に用いられ、製粉も行われた。ヨーロッパのように工業用原動力として使用されることはなかった。なお、イスラム圏においては[[ハマー (都市)|ハマー]]の水車([[ノーリア]])が有名であり、大規模な17機の農地灌漑用水車群が現在でも残り観光名所となっている。
;日本での歴史
[[ファイル:Watermill_at_Onden.jpg|thumb|right|300px|[[富嶽三十六景]]の「'''隠田の水車'''」。[[江戸]]の[[穏田川]]にかかる水車を描いたもの。富嶽三十六景は
[[江戸時代]]、1830年代の名所絵集であるが、当時、穏田川にはいくつか水車が設置されていたという(現在の[[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]周辺に当たる)。]]
[[ファイル:Hishino Three Water wheels 2018.jpg|thumb|300px|復元された[[朝倉揚水車]]]]
[[日本]]では『[[日本書紀]]』において推古18年([[610年]])[[高句麗]]から来た[[僧侶|僧]][[曇徴|曇徴(どんちょう)]]が、碾磑(てんがい)という水車で動く[[臼]]を造ったといわれ、[[平安時代]]の[[天長]]6年([[829年]])[[良峯安世]]が諸国に灌漑用水車を作らせたとある。[[鎌倉時代]]の『[[徒然草]]』には[[淀川|宇治川]]沿いの住民が水車を造る話がある。
[[室町時代]]、[[15世紀]]に日本へ来た[[朝鮮通信使]]の[[朴瑞生]]は日本の農村に水揚水車がある事に驚き、製造法を調査し本国に報告したことが『[[朝鮮王朝実録]]』に記述されており、[[江戸時代]]の11回朝鮮通信使においても、同様に日本の水車の普及に驚いた事が記述されている。
動力水車の本格的な使用は[[江戸時代]]になってからといわれている。[[白米]]を食する習慣の広がりとともに、[[精米]]・[[穀物]]製粉のために使用されたが、江戸時代後期には工業的原動力としても部分的に使用された。水車を利用した製粉業は「水車稼ぎ」と呼ばれ、水車稼ぎに利用される用水は主に[[農業用水]]であった。
これらの水車は、水車を覆う外装部品がないため効率が低いものであった。そのため[[第二次世界大戦]]後には電動機や[[内燃機関]]の普及により日本国内では衰退したが、観光資源もしくは農業目的にて利用されている。逆に、水車を覆う外装部品がある水車は効率が90%前後と高い。このため[[発電用水車]]として独自に発展していった。
日本では現代でも木製の水車を作成する[[大工]](水車大工)がいる<ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11635518/www.city.atsugi.kanagawa.jp/takumi/jyu/04suisya.html|title= 大工(水車大工について)|publisher= あつぎの匠・厚木市役所|accessdate=2018-04-01}}</ref>。
{{gallery
|height=280px
|ファイル:Country Family by the Water Mill in Japan (1914 by Elstner Hilton).jpg|水車小屋、大正時代
}}
== 分類 ==
古典的な水車の英語での分類は以下の通り
{{gallery
|height=280px
|File:Stream_waterwheel_simple.svg|'''stream waterwheel'''('''ストリーム'''・ウォーターホイール)
|File:Undershot waterwheel simple.svg|'''undershot waterwheel'''('''アンダーショット'''・ウォーターホイール)
|File:Breastshot waterwheel simple.svg|'''breastshot waterwheel'''('''ブレストショット'''・ウォーターホイール)
|File:Backshot waterwheel simple.svg|'''backshot waterwheel'''('''バックショット'''・ウォーターホイール)
|File:Overshot waterwheel simple.svg|'''overshot waterwheel'''('''オーバーショット'''・ウォーターホイール)
|File:Vertical waterwheel simple.svg|'''vertical waterwheel'''('''バーティカル'''・ウォーターホイール)
}}
;[[発電用水車|水力発電用の水車]]の分類
「反動水車」と「衝動水車」に大分類できる
*'''反動水車:'''圧力水頭をもつ流水をノズル等で加速しないで、羽根から出るときの反動力でランナを回転させる水車。
:圧力水頭のすべてを速度水頭に変えずに、圧力を保ったまま流水の反動力によって水車を回転させる。水車から排水口までを吸い出し管でつなぎ水で満たすことによりこの高低差も利用できる。理論的には吸出し管(ドラフトチューブ)の長さは大気圧相当の10m以下となる。
:反動水車には[[フランシス水車]]、[[カプラン水車]]、[[斜流水車]]などがある。
*'''衝動水車:'''流水をノズルから加速放出して水車の羽根を回す水車。
:高落差、小流量の水車発電所に向いている。羽根に衝突した流水は自然落下させる。
:衝動水車には[[ペルトン水車]]、[[ターゴインパルス水車]]などがある
== ギャラリー ==
{{gallery
|height=300px
|File:Laxey Wheel (1715237934).jpg|世界最大とされる、[[マン島]]の水車[[:en:Laxey Wheel|Laxey Wheel]]{{en icon}}(イギリス)
|File:Vannhjul.JPG|製材用水車(ノルウェー・[[ホルダラン県]]Kvam村)
|ファイル:Sobaya Suisha.JPG|蕎麦屋で製粉用に稼働している現役の大型水車(日本)
|File:Canada, Vancouver Island, East coast, north of Victoria - Water wheel.gif|カナダ・[[バンクーバー島]]の水車(GIF動画)
|ファイル:Water wheel in japan.webm|日本の水車の動画。左上から水が流れ落ちている。
|File:Water wheels in Niimi, Okayama.jpg|[[岡山県]][[新見市]]の親子孫水車。一番大きい親水車は直径13.6m<ref>[https://www.uedakensetsu-niimi.co.jp/works/10/ 日本一の親子孫水車リニューアル 後編]上田建設</ref>
|File:Yorii Saitama Museum of River Large Water Wheel 2.jpg|[[埼玉県立川の博物館]]の巨大水車。直径24.2mは日本一の大きさ<ref>[https://tabizine.jp/2022/03/15/453869/ 【実はこれが日本一】高さ24m!埼玉の博物館にある巨大な水車が返り咲き]TABIZINE Jul 16th, 2022</ref>。
|File:R363-132.jpg|[[岐阜県]][[恵那市]]にある[[道の駅おばあちゃん市・山岡]]の巨大水車。直径24m
|File:日本一の大水車 - panoramio.jpg|[[大分県]][[本匠村]]小半森林公園の大水車。直径18.18m
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2015年2月25日 (水) 14:04 (UTC)|section=1}}
* {{Cite book|和書
|last = レイノルズ
|first = T.S.
|others = [[末尾至行]]ほか訳
|title = 水車の歴史 西欧の工業化と水力利用
|year = 1989
|publisher = [[平凡社]]
|isbn = 978-4-582-53205-0
}}
* {{Cite book|和書
|last = ギャンペル
|first = J.
|authorlink = :en:Jean Gimpel
|others = [[坂本賢三]]訳
|title = 中世の産業革命
|year = 1978-12
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 4-00-001331-9
}}
* {{Cite book|和書
|author = 末尾至行
|title = 日本の水車 その栄枯盛衰の記
|date = 2003-03
|publisher = [[関西大学]]東西学術研究所
|series = 関西大学東西学術研究所研究叢刊 21
|isbn = 978-4-87354-376-5
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Watermills}}
* [[再生可能エネルギー]]
* [[発電用水車]]
* [[水車発電機]]
* [[踏車]]
* [[碾磑]]
* [[水車小屋]]
* {{ill2|国際風車・水車博物館|en|International Wind- and Watermill Museum}} ドイツ
{{水力}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すいしや}}
[[Category:水車|*]]
[[Category:動力]]
[[Category:産業機械]]
[[Category:水道施設]]
[[Category:農業施設]]
[[Category:技術史]]
[[Category:粉砕]]
[[es:Hidráulica#La rueda hidráulica]]
|
2003-09-16T12:09:57Z
|
2023-11-26T12:33:35Z
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[
"Template:Otheruses",
"Template:Gallery",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short",
"Template:参照方法",
"Template:Commonscat",
"Template:Ill2",
"Template:水力"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%BB%8A
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17,093 |
国道1号
|
国道1号(こくどう1ごう)は、東京都中央区から神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府をそれぞれ経由し、大阪府大阪市に至る一般国道である。
旧東海道および京街道(大坂街道)を前身とする路線で、日本国道路元標があることでも知られる東京都中央区の日本橋を起点に、関東地方の西側にあたる神奈川県、中部地方の静岡県、愛知県、近畿地方の三重県、滋賀県、京都府を経由し、終点である、大阪府大阪市北区の梅田新道に至る路線で、旧東海道および京街道の経路をほぼ踏襲している。
一般国道の路線を指定する政令に基づく起終点および経過地は次のとおり。
国道1号の起源は、江戸時代の五街道に数えられた東海道の「東京(江戸) - 京都」および、京街道の「京都 - 大阪(大坂)」で、現在でもほぼその経路を踏襲している。起点を日本橋としている点も旧東海道と同じである。ただし東京 - 横浜、静岡県内、京都市内等においてはその当時とは大きく異なっている。
箱根付近で、旧東海道を逸れて箱根七湯を巡るルートとなった経緯は、明治時代の福沢諭吉の判断によるといわれており、福沢は外貨獲得のため外国人を集める観光資源が必要だと考えて、明治維新後に樹立した明治新政府に対し、湯治場として人気があった箱根温泉を巡る交通の便の良い道路にするように進言したところから箱根ルート選定の由来となっている。箱根七湯を経由する経路は、1887年(明治20年)に塔之沢 - 宮ノ下間に、2年後の1889年(明治22年)に宮城野まで人力車が通れる有料道路が開通し、国道を整備する際にそのまま国道1号に指定されている。
国道1号のバイパス道路とされる区間は30か所以上あり、ほとんどは旧道が移管されて現道化されたバイパス道路が多い。新旧双方が国道1号に路線指定され続けているバイパスは、神奈川県が最多で7区間ある。
国道0号が存在しないため、すべての路線が下位路線となり、案内板や地図上では国道1号で案内される。
国道1号は、日本一多くの都道府県をつなぐ国道の一つで、東京都 - 神奈川県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 - 滋賀県 - 京都府 - 大阪府の8都府県を通過する。また、東京都特別区を除いて、通過する政令指定都市の数も日本一多く、東京から順に川崎市、横浜市、静岡市、浜松市、名古屋市、京都市、大阪市の7市を通過する。
※横浜新道、新湘南バイパス、西湘バイパス、小田原箱根道路、箱根新道、東駿河湾環状道路、静清バイパス、藤枝バイパス、掛川バイパス、磐田バイパス、浜名バイパス、北勢バイパス、京滋バイパス 久御山IC以東、阪神高速8号京都線京都外環状線交点以南 - 久御山JCT、第二京阪道路を除く。それぞれの接続路線については各記事を参照。
東京都
神奈川県
静岡県
愛知県
三重県
滋賀県
京都府
大阪府
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"text": "国道0号が存在しないため、すべての路線が下位路線となり、案内板や地図上では国道1号で案内される。",
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"text": "国道1号は、日本一多くの都道府県をつなぐ国道の一つで、東京都 - 神奈川県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 - 滋賀県 - 京都府 - 大阪府の8都府県を通過する。また、東京都特別区を除いて、通過する政令指定都市の数も日本一多く、東京から順に川崎市、横浜市、静岡市、浜松市、名古屋市、京都市、大阪市の7市を通過する。",
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"title": "地理"
}
] |
国道1号(こくどう1ごう)は、東京都中央区から神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府をそれぞれ経由し、大阪府大阪市に至る一般国道である。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{redirect|国道1号線||国道1号線 (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2013年3月|ソートキー=道国001}}
{{Infobox road
|種別・系統 = [[一般国道]]
|アイコン = {{Ja Route Sign|1|width=100}}
|名前 = 国道1号
|地図画像 = {{Switcher
|[[File:Japan National Route 1 Map.png|280px]]
|路線図
|{{Maplink2|zoom=6|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=200|frame-latitude=35.10|frame-longitude=137.60 |type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
|Wikimedia maps
}}
|総延長 = 765.0 [[キロメートル|km]]
|実延長 = 765.0 km(全国2位)
|現道 = 649.3 km(全国2位)
|制定年 = [[1952年]]([[昭和]]27年)指定(原型は[[1885年]]([[明治]]18年))
|起点 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]<br />[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]<br />({{Coord|35|41|2.8|N|139|46|28.1|E|region:JP-13|name=日本橋}})
|終点 = [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]<br />[[梅田新道|梅田新道交差点]]<br />({{Coord|34|41|53.6|N|135|30|2.3|E|region:JP-27|name=梅田新道交差点}})
|主な経由都市 = <!-- 基本的に政令指定都市・中核市を列挙。記述量削減のため都道府県名省略。他の市を列挙するとキリがないので追加しない -->
[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横浜市]]、[[小田原市]]<br />[[静岡県]][[静岡市]]、[[浜松市]]<br />[[愛知県]][[豊橋市]]、[[名古屋市]]<br />[[三重県]][[四日市市]]<!--三重県で該当する市が無いため記載-->、[[滋賀県]][[大津市]]<br />[[京都府]][[京都市]]
|接続する主な道路= <!-- 1桁・2桁国道のみを記述、重複部は上位の国道のみ記載、高速自動車国道や都市高速は書かない --> {{Ja Route Sign|4|width=24}} [[国道4号]]<br /> {{Ja Route Sign|20|width=24}} [[国道20号]]<br /> {{Ja Route Sign|16|width=24}} [[国道16号]]<br /> {{Ja Route Sign|52|width=24}} [[国道52号]]<br />{{Ja Route Sign|23|width=24}} [[国道23号]]<br /> {{Ja Route Sign|19|width=24}} [[国道19号]]<br /> {{Ja Route Sign|25|width=24}} [[国道25号]]<br />{{Ja Route Sign|8|width=24}} [[国道8号]]<br /> {{Ja Route Sign|24|width=24}} [[国道24号]]<br />{{Ja Route Sign|9|width=24}} [[国道9号]]<br />{{Ja Route Sign|2|width=24}} [[国道2号]]
}}
{{座標一覧}}
[[File:R017-005.jpg|thumb|国道1号 起点<br />[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]中央の[[日本国道路元標]]]]
[[File:Kilometre-Zero Osaka Japan.jpg|thumb|国道1号 終点<br />(大阪市道路元標)<br />[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]] [[梅田新道]]交差点]]
'''国道1号'''(こくどう1ごう)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]から[[神奈川県]]、[[静岡県]]、[[愛知県]]、[[三重県]]、[[滋賀県]]、[[京都府]]をそれぞれ経由し、[[大阪府]][[大阪市]]に至る[[一般国道]]である。
== 概要 ==
旧[[東海道]]および[[京街道 (大坂街道)|京街道(大坂街道)]]を前身とする路線で、[[日本国道路元標]]があることでも知られる[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]の[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]を起点に、[[関東地方]]の西側にあたる[[神奈川県]]、[[中部地方]]の[[静岡県]]、[[愛知県]]、[[近畿地方]]の[[三重県]]、[[滋賀県]]、[[京都府]]を経由し、終点である、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[梅田新道]]に至る路線で、旧東海道および京街道の経路をほぼ踏襲している。
=== 路線データ ===
一般国道の路線を指定する政令<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=340CO0000000058 |title=一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号) |accessdate=2021-02-28 |work=e-Gov法令検索 |publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref><ref group="注釈">一般国道の路線を指定する政令の最終改正日である2004年3月19日の政令(平成16年3月19日政令第50号)に基づく表記。</ref>に基づく起終点および経過地は次のとおり。
* 起点 : [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]([[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]] = [[国道4号]]・[[国道6号]]・[[国道14号]]・[[国道15号]]・[[国道17号]]・[[国道20号]]起点)
* 終点 : [[大阪市]]([[北区 (大阪市)|北区]]、[[梅田新道]]交差点 = [[国道2号]]・[[国道26号]]・[[国道163号]]起点、[[国道25号]]・[[国道176号]]終点)
* 重要な経過地<!--政令に基づくので現在の市町村名に直さない--> : 東京都[[千代田区]]([[霞が関]]一丁目)・同都[[港区 (東京都)|港区]]([[高輪]]一丁目)・同都[[品川区]]([[東五反田]]一丁目)・同都[[大田区]]([[池上 (大田区)|池上]]二丁目)・[[川崎市]]([[幸区]])・[[横浜市]]([[神奈川区]])・[[藤沢市]]([[城南 (藤沢市)|城南]]四丁目)・[[茅ヶ崎市]](下町屋)・[[平塚市]](浅間町・袖ケ浜)・[[神奈川県]][[中郡]][[大磯町]]・[[小田原市]]・同県[[足柄下郡]][[箱根町]]・[[三島市]]・[[沼津市]]・[[富士市]]・[[清水市]]<ref group="注釈">2003年4月1日に[[静岡市]]と合併して、[[静岡市]]発足。</ref>・[[静岡市]](栄町)・[[藤枝市]]・[[島田市]]・[[静岡県]][[榛原郡]][[金谷町]]<ref group="注釈">2005年5月5日に[[島田市]]と合併して[[島田市]]発足。</ref>・[[掛川市]]・[[袋井市]]・[[磐田市]](三ケ野)・[[浜松市]]・[[湖西市]]・同県[[浜名郡]][[新居町 (静岡県)|新居町]]<ref group="注釈">2010年3月23日に[[湖西市]]に編入。</ref>・[[豊橋市]]・[[愛知県]][[宝飯郡]][[小坂井町]]<ref group="注釈">2010年2月1日に豊川市に編入</ref>・[[豊川市]](白鳥町)・[[岡崎市]]・[[安城市]](宇頭茶屋町)・[[知立市]]・[[刈谷市]]([[今川町 (刈谷市)|今川町]])・[[豊明市]]・[[名古屋市]]([[熱田区]])・同県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[弥富町]]<ref group="注釈">2006年4月1日に[[十四山村]]を編入合併して[[弥富市]]として市制施行。</ref>・[[桑名市]](安永)・[[四日市市]](采女町)・[[鈴鹿市]](石薬師町)・[[亀山市]]・[[三重県]][[鈴鹿郡]][[関町]]<ref group="注釈">2005年1月11日に亀山市と合併し、亀山市発足。</ref>・[[滋賀県]][[甲賀郡]][[水口町]]<ref group="注釈">2004年10月1日に水口町・[[土山町]]・[[甲賀町]]・[[甲南町]]・[[信楽町]]が合併して[[甲賀市]]発足。</ref>・同県[[栗太郡]][[栗東町]]<ref group="注釈">2001年10月1日に市制施行し、[[栗東市]]発足。</ref>・[[草津市]]・[[大津市]]([[瀬田町|瀬田]])・[[京都市]]([[下京区]])・[[宇治市]]・[[京都府]][[久世郡]][[久御山町]]・[[八幡市]]・[[枚方市]]・[[交野市]]・[[寝屋川市]]・[[門真市]]・[[守口市]]
* [[延長 (日本の道路)#総延長|総延長]] : 765.0 [[キロメートル|km]]<small>(東京都 18.3 km、神奈川県 106.2 km、横浜市 47.7 km、川崎市 3.1 km、静岡県 131.0 km、静岡市 64.4 km、浜松市 23.6 km、愛知県 72.5 km、名古屋市 20.8 km、三重県 63.3 km、滋賀県 76.8 km、京都府 44.9 km、京都市 28.8 km、大阪府 55.8 km、大阪市 7.8 km)</small><ref name="encho">{{Cite web|和書|format=XLS|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/tokei-nen/2022/xlsx/d_genkyou26.xlsm|title=表26 一般国道の路線別、都道府県別道路現況|work=道路統計年報2022|publisher=[[国土交通省]][[道路局]]|accessdate=2022-03-09}}</ref><ref group="注釈" name="encho">[[2021年]][[3月31日]]現在</ref>
* [[延長 (日本の道路)#重用延長|重用延長]] : なし<ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[延長 (日本の道路)#未供用延長|未供用延長]] : なし<ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[延長 (日本の道路)#実延長|実延長]] : 765.0 [[キロメートル|km]]<small>(東京都 18.3 km、神奈川県 106.2 km、横浜市 47.7 km、川崎市 3.1 km、静岡県 131.0 km、静岡市 64.4 km、浜松市 23.6 km、愛知県 72.5 km、名古屋市 20.8 km、三重県 63.3 km、滋賀県 76.8 km、京都府 44.9 km、京都市 28.8 km、大阪府 55.8 km、大阪市 7.8 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 現道 : 649.3 km<small>(東京都 18.3 km、神奈川県 99.4 km、横浜市 29.5 km、川崎市 3.1 km、静岡県 114.3 km、静岡市 41.0 km、浜松市 23.6 km、愛知県 72.5 km、名古屋市 20.8 km、三重県 55.7 km、滋賀県 65.4 km、京都府 32.9 km、京都市 26.8 km、大阪府 38.2 km、大阪市 7.8 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 旧道 : 42.0 km<small>(東京都 - km、神奈川県 0.4 km、横浜市 18.2 km、川崎市 - km、静岡県 - km、静岡市 23.4 km、浜松市 - km、愛知県 - km、名古屋市 - km、三重県 - km、滋賀県 - km、京都府 - km、京都市 - km、大阪府 - km、大阪市 - km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 新道 : 73.7 km<small>(東京都 - km、神奈川県 6.3 km、横浜市 - km、川崎市 - km、静岡県 16.6 km、静岡市 - km、浜松市 - km、愛知県 - km、名古屋市 - km、三重県 7.6 km、滋賀県 11.4 km、京都府 12.0 km、京都市 2.0 km、大阪府 17.6 km、大阪市 - km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[指定区間]] : 東京都中央区日本橋 - 大阪市北区[[梅田]]一丁目3番(全線)ただし、以下の区間を除く<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=333CO0000000164 |title=一般国道の指定区間を指定する政令(昭和33年6月2日政令第164号) |accessdate=2021-02-28 |work=e-Gov法令検索 |publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>。
** 横浜市[[西区 (横浜市)|西区]][[浜松町 (横浜市)|浜松町]]66番 - 横浜市[[戸塚区]][[柏尾町]]字尾崎台447番 - 横浜市戸塚区[[上矢部町]]字坂本2928番1(浜松町交差点 - 不動坂交差点 - [[横浜新道]][[戸塚終点]] = [[横浜新道]]と並走する区間)
** 横浜市戸塚区柏尾町字尾崎台447番 - 横浜市戸塚区[[戸塚町 (横浜市)|戸塚町]]4097番 - 横浜市戸塚区戸塚町字十ノ区2028番の1(不動坂交差点 - バスセンター前交差点 - 大坂上 = [[戸塚道路]]と並走する区間)
** 小田原市[[風祭]]字壗下157番2 - 神奈川県足柄下郡箱根町[[湯本 (箱根町)|湯本]]字下耕地32番1 - 箱根町大字宮の下47番 - 箱根町[[箱根 (箱根町)|箱根]]字畑引山381番3([[小田原箱根道路]][[箱根口インターチェンジ|箱根口IC]]<ref>{{Cite press release|和書|title=国道1号小田原箱根道路に並行する現道区間、国道246号山北バイパスに並行する現道区間を移管 〜国管理から県管理へ〜|publisher=国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所・神奈川県|date=2017-03-27|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/yokohama_00000396.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20190602084826/http://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/yokohama_00000396.html|archive-date=2019-06-02|accessdate=2017-04-01}}</ref> - 箱根境交差点付近 - [[宮ノ下駅]]付近 - [[箱根新道]][[箱根峠インターチェンジ|箱根峠IC]] = 小田原箱根道路並びに箱根新道と並走する区間)
== 歴史 ==
[[File:Nihonbashi 12.jpg|thumb|国道1号 起点<br />[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]]]
<!-- ここでは、分かりやすくするために新・旧の字体を織り交ぜて標記しています -->
国道1号の起源は、[[江戸時代]]の[[五街道]]に数えられた[[東海道]]の「東京(江戸) - 京都」および、[[京街道 (大坂街道)|京街道]]の「京都 - 大阪(大坂)」で、現在でもほぼその経路を踏襲している。起点を[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]としている点も旧東海道と同じである{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=50}}。ただし東京 - 横浜、静岡県内、京都市内等においてはその当時とは大きく異なっている。
箱根付近で、旧東海道を逸れて箱根七湯{{efn|箱根湯元、塔之沢、堂ヶ島、底倉、木賀、芦之湯の7つの温泉。}}を巡るルートとなった経緯は、[[明治時代]]の[[福沢諭吉]]の判断によるといわれており、福沢は外貨獲得のため外国人を集める観光資源が必要だと考えて、明治維新後に樹立した明治新政府に対し、湯治場として人気があった[[箱根温泉]]を巡る交通の便の良い道路にするように進言したところから箱根ルート選定の由来となっている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=51}}。箱根七湯を経由する経路は、1887年(明治20年)に塔之沢 - 宮ノ下間に、2年後の1889年(明治22年)に宮城野まで人力車が通れる有料道路が開通し、国道を整備する際にそのまま国道1号に指定されている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=52}}。
=== 年表 ===
* [[1876年]]([[明治]]9年) - 「[[s:道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム|太政官達第60号(道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム)]]」で國道、縣道、里道が指定される(道路を國道・縣道・里道のそれぞれ1等 - 3等に分類する等級制で、現在の番号による分け方ではない)。
** その後、国道の等級は、[[1885年]](明治18年)[[1月6日]]の「[[S:國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ヲ定ム|太政官布達第1号(國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ヲ定ム)]]」により廃止。
* [[1885年]](明治18年)[[2月24日]] - 「[[s:國道表 (明治十八年二月二十四日)|内務省告示第6号(國道表)]]」で、國道路線が番号を付与、指定される。<br /> 「國道1號(東京ヨリ横濱ニ達スル路線)」、「國道2號(同(東京ヨリ)大坂港ニ達スル路線)」他、44路線が指定される(当初の國道1號は現在の[[国道15号]]に相当する区間とそこから[[横浜駅|横濱駅]](現[[桜木町駅]])を経由し、現在の[[国道133号]]を経て[[横浜港]]に至る路線である)。
** 現在の国道1号に相当するルートは、当時の國道2號である。
* [[1920年]]([[大正]]9年)[[4月1日]] - [[s:道路法 (大正八年法律第五十八号)|道路法]]に基づく「[[s:國道路線認定ノ件 (大正九年四月一日)|路線認定]]」が施行される。国道番号の順は、1番目が東京から[[伊勢神宮|神宮]]に達する路線、2番目が東京から各府県庁所在地に達する路線の順とされる(現在の国道1号に相当するルートは、「國道1號(東京市ヨリ神宮ニ達スル路線)」、「國道2號(東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(甲))」となる)。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[5月1日]] - 國道1號との重複区間である、「國道36號(東京市ヨリ横濱港ニ達スル路線)」(日本橋 - 横浜港)の日本橋 - [[神奈川駅|神奈川]]間の経過地を変更する形で、国道初のバイパスとなる[[第二京浜国道|新京濱國道]]の建設を決定する。
* [[1936年]](昭和11年) - 新京濱國道の建設を着工。
* [[1952年]](昭和27年)[[12月4日]] - 新道路法に基づく「[[s:一級国道の路線を指定する政令 (昭和二十七年)|路線指定]]」で、東京都中央区 - 大阪府大阪市北区間の「[[一級国道|一級]]国道1号」として指定される。
* [[1965年]](昭和40年)4月1日 - 道路法改正によって一級・二級の別がなくなり「一般国道1号」となる。
=== 旧道 ===
* 名四国道([[名四バイパス]]、現:[[国道23号]])
** [[名古屋市]]の臨海部と[[四日市市]]を結ぶ国道1号のバイパスとして計画され、[[1963年]](昭和38年)に開通。[[1975年]](昭和50年)の一般国道の追加指定が行われた際に、国道23号へ編入された{{sfn|浅井建爾|2015|p=93}}。
* 東名阪道路(現:[[東名阪自動車道]])
** [[日本道路公団]]が管理する国道1号の有料[[バイパス道路]]として、[[1970年]](昭和45年)に四日市IC - 亀山IC間が開通し、のちに桑名IC - 四日市IC - 亀山ICを結ぶ有料道路として供用される。[[1973年]](昭和48年)に、桑名IC - 亀山IC間が[[高速自動車国道]]に格上げされて東名阪自動車道の一区間となった{{sfn|浅井建爾|2015|p=92}}。
== 路線状況 ==
[[ファイル:Tokyo Tower 02.jpg|thumb|[[桜田通り]]<br />東京都港区芝公園4丁目]]
<!--道路通称名は「通り名」、「バイバス名」すべてを指します-->
=== 通称 ===
* 全線
** [[東海道]](江戸時代の[[五街道]]を踏襲しているため、地図によっては所々にこの名称が書かれている)
* 東京都
** [[中央通り (東京都)|中央通り]]
** [[永代通り]]
** [[日比谷通り]]
** [[晴海通り]]
** [[内堀通り]]
** [[桜田通り]]
* 東京都 - 神奈川県
** [[第二京浜国道|第二京浜]]
* 神奈川県
** [[箱根国道]]:現在の通称は東海道
* 静岡県
** 静清国道
* 愛知県
** 西町通り(豊橋市)
** 瓦町通り(豊橋市)
** 八町通り(豊橋市)
** 龍城通り(岡崎市)
** [[本地通]](名古屋市南区)
** [[寺部通]](名古屋市南区)
** [[千竃通]](名古屋市南区、瑞穂区)
** [[昭和橋通]](名古屋市瑞穂区、熱田区、中川区)
* 京都府
** [[五条通]]
** [[堀川通]]
** [[油小路通]]
** [[九条通]]
* 京都府 - 大阪府
** [[京阪国道]]
* 大阪府
** 京阪本通
** [[曽根崎通]]
=== バイパス ===
[[ファイル:Mount Fuji and Ashitaka Mountains from Satta Pass.JPG|thumb|国道1号([[富士由比バイパス]])と<br />[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]と[[駿河湾]]<br />([[薩埵峠]]から撮影、2016年2月)]]
国道1号の[[バイパス道路]]とされる区間は30か所以上あり、ほとんどは旧道が移管されて現道化されたバイパス道路が多い。新旧双方が国道1号に路線指定され続けているバイパスは、神奈川県が最多で7区間ある{{sfn|浅井建爾|2015|p=93}}。
* 神奈川県
** [[横浜新道]] ※現道(一部有料道路)
** [[戸塚道路]] ※現道
** [[藤沢バイパス]] ※現道
** [[新湘南バイパス]](有料道路)
** [[西湘バイパス]](一部有料道路)
** [[小田原箱根道路]] ※現道
** [[箱根新道]] ※現道
* 静岡県
** [[笹原山中バイパス]] ※現道
** [[三ツ谷バイパス]] ※現道
** [[塚原バイパス]] ※現道
** [[東駿河湾環状道路]]
** [[三島バイパス]] ※現道
** [[沼津バイパス]] ※現道
** [[富士由比バイパス]] ※現道
** [[静清バイパス]] ※現道
** [[岡部バイパス]] ※現道
** [[藤枝バイパス]] ※現道
** [[島田金谷バイパス]] ※現道
** [[日坂バイパス]] ※一部現道
** [[掛川バイパス]] ※現道
** [[袋井バイパス]] ※現道
** [[磐田バイパス]] ※現道
** [[浜松バイパス]] ※現道
** [[浜名バイパス]] ※現道
* 静岡県 - 愛知県
** [[潮見バイパス]] ※現道
* 三重県
**[[北勢バイパス]]
** [[亀山バイパス]] ※現道
** [[関バイパス (三重県)|関バイパス]]
* 三重県 - 滋賀県
** [[鈴鹿峠バイパス]] ※現道
* 滋賀県
** [[水口道路]] ※現道
** [[栗東水口道路]] ※一部現道
* 滋賀県 - 京都府
** [[京滋バイパス]](有料道路(専用部))
** [[大津山科バイパス]](構想中)
* 京都府
** [[五条バイパス]] ※現道
** [[洛南道路]]
* 京都府 - 大阪府
** [[第二京阪道路]](有料道路(専用部))
** [[枚方バイパス]] ※現道
* 大阪府
** [[寝屋川バイパス]] ※現道
** [[阪神高速2号淀川左岸線|淀川左岸線延伸部]]([[阪神高速道路|阪神高速]])
=== 重複区間 ===
[[File:R001-2019 NO2-724.jpg|thumb|[[国道8号]]との重複([[五条バイパス]])<br />京都府京都市東山区清閑寺山ノ内町]]
国道0号が存在しないため、すべての路線が下位路線となり、案内板や地図上では国道1号で案内される。
* [[国道15号]](東京都中央区・日本橋(起点) - 東京都中央区・日本橋交差点)
* [[国道20号]](東京都中央区・日本橋(起点) - 東京都千代田区・桜田門交差点)
* [[国道16号]](神奈川県横浜市西区桜木町・高島町交差点 - 横浜市西区浜松町・浜松町交差点)
* [[国道138号]](神奈川県小田原市・市民会館前交差点 - 足柄下郡箱根町・宮の下交差点)
* [[国道42号]](静岡県浜松市中央区・篠原交差点 - 湖西市・大倉戸IC)
* [[国道247号]](愛知県豊橋市・西八町交差点 - 豊川市・宮下交差点)
* [[国道473号]](愛知県岡崎市本宿町・新箱根入口交差点 - 岡崎市本宿西・本宿町沢渡交差点)
* [[国道477号]](三重県四日市市北町・四日市橋南詰交差点 - 四日市市中部・中部交差点)
* [[国道25号]](三重県四日市市・大治田IC - 亀山市・[[東海道]][[関宿]]西交差点<ref name="tokaido_sekijuku">{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.cbr.mlit.go.jp/mie/news/assets/pdf/press/170223.pdf |title=三重県内“初”「関宿」へのアクセスがわかりやすい交差点名称へ |publisher=[[国土交通省]][[中部地方整備局]]三重河川国道事務所 |date=2017-02-23 |accessdate=2017-03-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170303122918/http://www.cbr.mlit.go.jp/mie/news/assets/pdf/press/170223.pdf |archive-date=2017-03-03 |deadlinkdate=2022-05}}</ref>)
* [[国道8号]](滋賀県栗東市・[[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - 京都府京都市下京区・[[烏丸五条]]交差点)
* [[国道9号]](京都府京都市下京区烏丸五条・烏丸五条交差点 - 京都市下京区堀川五条・[[堀川五条]]交差点)
* [[国道170号]](大阪府枚方市走谷・走谷2丁目交差点 - 枚方市北中振・出口交差点)
* [[国道163号]](大阪府大阪市旭区・関目五丁目交差点 - 大阪市北区・梅田新道交差点(終点))
=== 道路施設 ===
==== 橋梁 ====
* [[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]([[日本橋川]]、東京都中央区)
* [[多摩川大橋]]([[多摩川]]、東京都大田区 - 神奈川県川崎市幸区)
* [[馬入橋]]([[相模川]]、神奈川県平塚市)
* 酒匂橋([[酒匂川]]、神奈川県小田原市)
* [[新富士川橋]]([[富士川]]、静岡県富士市 - 静岡市清水区)
* 駿河大橋([[安倍川]]、静岡県静岡市葵区 - 同市駿河区)
* 安倍川大橋(安倍川、静岡県葵区) ※静清バイパス
* 新大井川橋([[大井川]]、静岡県島田市)
* [[新天竜川橋]]([[天竜川]]、静岡県磐田市 - 浜松市中央区)
* 吉田大橋([[豊川]]、愛知県豊橋市)
* [[矢作橋]]([[矢作川]]、愛知県岡崎市)
* 新境橋(境川、愛知県刈谷市 - 豊明市)
* 一色大橋(庄内川、愛知県名古屋市中川区)
* 日光大橋(日光川、愛知県海部郡蟹江町)
* [[尾張大橋]]([[木曽川]]、愛知県弥富市 - 三重県桑名市)
* [[伊勢大橋]]([[長良川]]・[[揖斐川]]、三重県桑名市)
* 石部大橋(野洲川、滋賀県湖南市)
* 瀬田川大橋([[淀川|瀬田川]]、滋賀県大津市)
* [[五条大橋]]([[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]、京都府京都市)
* [[宇治川大橋]]([[淀川|宇治川]]、京都府京都市伏見区) ※京阪国道
* [[木津川大橋]]([[木津川 (京都府)|木津川]]、京都府久世郡久御山町 - 八幡市)
* [[桜宮橋]]([[旧淀川|大川]]、大阪府大阪市都島区 - 同市北区)
==== トンネル ====
* [[丸子藁科トンネル]](静岡市葵区 - 同市駿河区) ※[[静清バイパス]]
* [[宇津ノ谷峠|平成宇津ノ谷トンネル]](静岡市駿河区 - 藤枝市)
* 谷稲葉トンネル(静岡県藤枝市 - 島田市)
* 潮見トンネル(静岡県湖西市)
* [[鈴鹿トンネル]](三重県亀山市 - 滋賀県甲賀市)
==== 道の駅 ====
* [[神奈川県]]
** [[道の駅箱根峠|箱根峠]]([[足柄下郡]][[箱根町]])
* [[静岡県]]
** [[道の駅富士|富士]]([[富士市]])
** [[道の駅宇津ノ谷峠|宇津ノ谷峠]]([[静岡市]][[駿河区]]・[[藤枝市]])
** [[道の駅掛川|掛川]]([[掛川市]])
** [[道の駅潮見坂|潮見坂]]([[湖西市]])
* [[愛知県]]
** [[道の駅藤川宿|藤川宿]]([[岡崎市]])
* [[三重県]]
** [[道の駅関宿|関宿]]([[亀山市]])
* [[滋賀県]]
** [[道の駅あいの土山|あいの土山]]([[甲賀市]])
== 地理 ==
[[File:R024-009.jpg|thumb|京都市下京区の[[烏丸五条#烏丸五条交差点|烏丸五条]]交差点<br />[[国道8号]]など、多くの国道起終点となっている。(2019年8月)]]
国道1号は、日本一多くの都道府県をつなぐ国道の一つで、東京都 - 神奈川県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 - 滋賀県 - 京都府 - 大阪府の8都府県を通過する{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=152|ps=、「最も多くの県・県境を通過する国道」より。}}。また、東京都特別区を除いて、通過する政令指定都市の数も日本一多く、東京から順に川崎市、横浜市、静岡市、浜松市、名古屋市、京都市、大阪市の7市を通過する{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=152|ps=、「最も多くの県・県境を通過する国道」より。}}。
=== 通過する自治体 ===
* [[東京都]]
** [[中央区 (東京都)|中央区]] - [[千代田区]] - [[港区 (東京都)|港区]] - [[品川区]] - [[大田区]]
* [[神奈川県]]
** [[川崎市]]([[幸区]]) - [[横浜市]]([[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]] - [[神奈川区]] - [[西区 (横浜市)|西区]] - [[保土ケ谷区]] - [[南区 (横浜市)|南区]] - [[戸塚区]]) - [[藤沢市]] - [[茅ヶ崎市]] - [[平塚市]] - [[中郡]][[大磯町]] - 中郡[[二宮町]] - [[小田原市]] - [[足柄下郡]][[箱根町]]
* [[静岡県]]
** [[田方郡]][[函南町]] - [[三島市]] - [[駿東郡]][[清水町 (静岡県)|清水町]] - 駿東郡[[長泉町]] - [[沼津市]] - [[富士市]] - [[静岡市]]([[清水区]] - [[駿河区]] - [[葵区]]) - [[藤枝市]] - [[島田市]] - [[掛川市]] - [[袋井市]] - [[磐田市]] - [[浜松市]]([[中央区 (浜松市)|中央区]]) - [[湖西市]]
* [[愛知県]]
** [[豊橋市]] - [[豊川市]] - [[岡崎市]] - [[安城市]] - [[知立市]] - [[刈谷市]] - [[豊明市]] - [[名古屋市]]([[緑区 (名古屋市)|緑区]] - [[南区 (名古屋市)|南区]] - [[瑞穂区]] - [[熱田区]] - [[中川区]] - [[港区 (名古屋市)|港区]]) - [[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[蟹江町]] - [[愛西市]] - [[弥富市]]
* [[三重県]]
** [[桑名郡]][[木曽岬町]] - [[桑名市]] - [[三重郡]][[朝日町 (三重県)|朝日町]] - 三重郡[[川越町]] - [[四日市市]] - [[鈴鹿市]] - [[亀山市]]
* [[滋賀県]]
** [[甲賀市]] - [[湖南市]] - [[栗東市]] - [[草津市]] - [[大津市]]
* [[京都府]]
** [[京都市]]([[山科区]] - [[東山区]] - [[下京区]] - [[南区 (京都市)|南区]] - [[伏見区]]) - [[久世郡]][[久御山町]] - [[八幡市]]
* [[大阪府]]
** [[枚方市]] - [[寝屋川市]] - [[守口市]] - [[大阪市]]([[旭区 (大阪市)|旭区]] - [[城東区]] - [[都島区]] - [[北区 (大阪市)|北区]])
=== 交差する道路 ===
<!-- 一般国道・高速自動車国道・自動車専用道路等を記載 -->
※[[横浜新道]]、[[新湘南バイパス]]、[[西湘バイパス]]、[[小田原箱根道路]]、[[箱根新道]]、[[東駿河湾環状道路]]、[[静清バイパス]]、[[藤枝バイパス]]、[[掛川バイパス]]、[[磐田バイパス]]、[[浜名バイパス]]、[[北勢バイパス]]、[[京滋バイパス]] [[久御山インターチェンジ|久御山IC]]以東、[[阪神高速8号京都線]][[京都外環状線]]交点以南 - [[久御山JCT]]、[[第二京阪道路]]を除く。それぞれの接続路線については各記事を参照。
'''東京都'''
* [[国道4号]](中央区・[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]起点) : 国道4号重複 = [[国道6号]]・[[国道14号]]・[[国道17号]]
* [[国道15号]](中央区・日本橋起点 -(重複)- 中央区・日本橋交差点)
* [[国道20号]](中央区・日本橋起点 -(重複)- 千代田区・[[桜田門]]交差点)
* [[首都高速都心環状線]](港区・[[芝公園出入口]])
* [[首都高速2号目黒線]](品川区・[[戸越出入口]])
'''神奈川県'''
* [[国道409号]](川崎市幸区・遠藤町交差点)
* 国道15号(横浜市神奈川区・青木通交差点)
* [[首都高速神奈川1号横羽線]](横浜市西区・[[横浜駅東口出入口]])
* [[国道16号]](横浜市西区・[[高島 (横浜市)#高島町交差点|高島町交差点]] -(重複)- 浜松町交差点)
* 国道16号[[横浜横須賀道路|横浜新道]]・[[横浜横須賀道路]](横浜市保土ケ谷区・[[狩場インターチェンジ|狩場IC]])
* [[国道467号]](藤沢市・白旗陸橋)
* [[国道129号]](平塚市・榎木町交差点)
* [[国道134号]](大磯町・長者町交差点 / 大磯駅入口交差点)
* [[国道255号]](小田原市・市民会館前交差点)
* [[国道135号]](小田原市・早川口交差点)
* [[国道138号]](小田原市・市民会館前交差点 -(重複)- 箱根町・宮の下交差点)
'''静岡県'''
* [[国道136号]](三島市・南二日町IC)
* [[国道246号]]・[[国道414号]](沼津市・上石田IC)
* [[国道139号]](富士市・富士東IC)
* [[国道52号]](静岡市清水区・興津中町交差点)
* [[国道149号]](静岡市清水区・清水駅前交差点)
* [[国道362号]](静岡市葵区・常磐町2丁目交差点)
* [[国道473号]](島田市・大代IC)
* [[国道152号]](浜松市中央区・北島IC)
* [[国道150号]](浜松市中央区・石原町交差点)
* 国道150号バイパス(浜松市中央区・福塚交差点)
* [[国道257号]](浜松市中央区・篠原IC)
* [[国道301号]](浜松市中央区・篠原IC -(重複)- 湖西市・栄町交差点)
* [[国道42号]](浜松市中央区・篠原IC -(重複)- 湖西市・大倉戸IC入口交差点)
* 国道42号(湖西市・白須賀IC)
'''愛知県'''
* [[国道23号]]・[[国道259号]](豊橋市・西八町交差点) : 国道23号重複 = [[国道247号]]
* [[国道151号]](豊橋市・西八町交差点 -(重複)- 豊川市・宮下交差点)
* 国道247号(豊川市・宮下交差点)
* 東名高速道路・[[音羽蒲郡道路]](豊川市・[[音羽蒲郡インターチェンジ|音羽蒲郡IC]]交差点)
* [[国道473号]](岡崎市・新箱根入口交差点 -(重複)- 本宿町沢渡交差点)
* 国道473号[[岡崎額田バイパス]](岡崎市・本宿町沢渡交差点)
* 東名高速道路(岡崎市・[[岡崎インターチェンジ|岡崎IC]])
* [[国道248号]](岡崎市・八帖交差点)
* [[国道419号]]([[衣浦豊田道路]]側道)(知立市・新田南交差点)
* [[国道155号]](知立市・宮腰交差点) : 国道155号重複 = 国道419号
* [[伊勢湾岸自動車道]]・国道23号(豊明市・[[豊明インターチェンジ|豊明IC]])
* [[名古屋第二環状自動車道]]・[[国道302号]](名古屋市緑区・[[有松インターチェンジ|有松IC]])
* [[名古屋高速3号大高線]](名古屋市南区・[[笠寺出入口]]・[[呼続出入口]])
* [[国道19号]]・[[国道247号]](名古屋市熱田区・熱田神宮南交差点) : 国道19号重複 = [[国道22号]]
* [[国道154号]](名古屋市熱田区・白鳥橋西交差点)
* [[国道302号]](名古屋市中川区・かの里東交差点)
* 国道155号(弥富市・弥富高架橋南交差点)
'''三重県'''
* [[国道421号]](桑名市・浅川交差点)
* [[国道258号]](桑名市・安永交差点)
* [[国道365号]](四日市市・四日市橋南詰交差点): 国道365号重複 = [[国道477号]]
* 国道477号(四日市橋南詰交差点 -(重複)- 中部交差点)
* [[国道164号]](四日市市・中部交差点): 国道164号重複 = 国道477号
* [[国道25号]](四日市市・大治田一丁目交差点 -(重複)- 亀山市・[[東海道]][[関宿]]西交差点<ref name="tokaido_sekijuku" />)
* [[国道306号]](亀山市・新栄町交差点)
* [[東名阪自動車道]]・国道25号[[名阪国道]](亀山市・[[亀山インターチェンジ|亀山IC]])
'''滋賀県'''
* [[国道307号]]・[[日野水口有料道路|日野水口グリーンバイパス]](甲賀市)
* 国道307号(甲賀市・松尾交差点)
* [[名神高速道路]](栗東市・[[栗東インターチェンジ|栗東IC]])
* [[国道8号]](栗東市・栗東第2IC -(重複)- 京都市下京区・烏丸五条交差点)
* [[国道422号]](大津市・松原国道口交差点)
* 国道161号[[琵琶湖西縦貫道路|西大津バイパス]](大津市・[[藤尾南ランプ]])
'''京都府'''
* 名神高速道路(京都市山科区・[[京都東インターチェンジ|京都東IC]])
* [[国道24号]]・[[国道367号]](京都市下京区・烏丸五条交差点)
* [[国道9号]](京都市下京区・烏丸五条交差点 -(重複)- 堀川五条交差点)
* [[国道171号]](京都市南区・京阪国道口交差点)
* 名神高速道路(京都市伏見区・[[京都南インターチェンジ|京都南IC]])
* [[国道478号]][[京滋バイパス]](久世郡久御山町・京滋バイパス森交差点)
'''大阪府'''
*[[国道307号]](枚方市・池之宮北交差点)
* [[国道168号]](枚方市・天の川交差点)
* [[国道170号]](枚方市・走谷2丁目交差点 -(重複)- 出口交差点)
* [[鳥飼仁和寺大橋有料道路]](寝屋川市・新橋東交差点)
* [[阪神高速12号守口線]](守口市・[[守口出入口]])
* [[国道479号]](守口市・京阪本通1丁目交差点)
* [[国道163号]](大阪市旭区・関目5丁目交差点 -(重複)- 大阪市北区・梅田新道終点)
* 阪神高速12号守口線(大阪市北区・[[南森町出入口]])
* [[国道423号]](大阪市北区・梅新東交差点)
* [[国道2号]]・[[国道25号]]・[[国道176号]](国道25号重複 = [[国道26号]]・[[国道165号]])(大阪市北区[[梅田新道]]終点)
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=== 主な峠 ===
* [[箱根峠]]:標高846 [[メートル|m]]([[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]] - [[静岡県]][[田方郡]][[函南町]])
* [[宇津ノ谷峠]]:標高170 m(静岡県[[静岡市]][[駿河区]] - 静岡県[[藤枝市]])
* [[小夜の中山]]:標高148 m(静岡県[[島田市]] - 静岡県[[掛川市]])
* [[鈴鹿峠]]:標高350 m([[三重県]][[亀山市]] - [[滋賀県]][[甲賀市]])
* [[洞ヶ峠]]:標高49 m([[京都府]][[八幡市]] - [[大阪府]][[枚方市]])
== ギャラリー ==
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R001 2-235.jpg|東海道松並木<br />神奈川県中郡大磯町
R001-0023.jpg|国道1号の最高地点標識<br />神奈川県足柄下郡箱根町
国道1号 浜名バイパス付近.jpg|[[浜名バイパス]]<br />静岡県浜松市西区舞阪町
R001 2-825.jpg|[[国道23号]]と<br />[[国道259号]]との分岐<br />愛知県豊橋市八町通
R001-2019 NO2-495.jpg|[[鈴鹿峠]]([[鈴鹿峠バイパス]])<br />三重県亀山市関町坂下
R008 1-2020-078.jpg|[[国道8号]]の分岐<br />滋賀県栗東市手原
R001-2019 NO2-763.jpg|[[国道171号]]の分岐<br />京都府京都市南区四ツ塚町
R001-2019 NO2-841.jpg|[[寝屋川バイパス]] <br />大阪府寝屋川市太間東町
R002 1-010.jpg|終点、[[梅田新道]]交差点<br />大阪府大阪市北区曾根崎
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|date=2014-10-20|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4-06-288282-8|ref=harv}}
*{{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
== 関連文献 ==
* {{PDF|[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/24sinki/1_h23_009.pdf 再評価結果(平成20年度事業継続箇所) 事業名・一般国道1号 桑名東部拡幅]}} - 国土交通省道路局国道・防災課
* {{PDF|[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/23sai/2_h23_098.pdf 再評価結果(平成24年度事業継続箇所) 事業名・一般国道1号 桑名東部拡幅]}} - 国土交通省道路局国道・防災課
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{ウィキポータルリンク|道路}}
{{ウィキプロジェクトリンク|道路}}
* [[国道]]
* [[日本の一般国道一覧]]
* [[関東地方の道路一覧]]
* [[中部地方の道路一覧]]
* [[近畿地方の道路一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{osm box|r|32989}}
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/index.htm 国土交通省関東地方整備局]
** [https://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/ 東京国道事務所] : 東京都内の指定区間を管理
** [https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/ 横浜国道事務所] : 神奈川県内の指定区間のうち無料区間を管理
* [https://www.cbr.mlit.go.jp/ 国土交通省中部地方整備局]
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/numazu/ 沼津河川国道事務所] : 田方郡函南町 - 沼津市の指定区間を管理
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/shizukoku/index.html 静岡国道事務所] : 富士市 - 藤枝市谷稲葉うぐいすPAの指定区間を管理
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/ 浜松河川国道事務所] : 藤枝市谷稲葉うぐいすPA - 湖西市の指定区間を管理
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/aikoku/ 愛知国道事務所]
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/meikoku/ 名古屋国道事務所] : 愛知県内の指定区間を管理
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/mie/ 三重河川国道事務所] : 三重県内の指定区間を管理
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/hokusei/ 北勢国道事務所]
* [https://www.kkr.mlit.go.jp/ 国土交通省近畿地方整備局]
** [https://www.kkr.mlit.go.jp/shiga/ 滋賀国道事務所] : 滋賀県内の指定区間のうち無料区間を管理
** [https://www.kkr.mlit.go.jp/kyoto/ 京都国道事務所] : 京都府内の指定区間のうち無料区間を管理
** [https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/ 大阪国道事務所] : 大阪府内の指定区間のうち無料区間を管理
** [https://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/ 浪速国道事務所] : 第二京阪道路・淀川左岸線延伸部を建設
* [https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/org/doro/ 横浜市道路局] : 横浜市内の指定区間外を管理
* [http://www.pref.kanagawa.jp/div/0708/ 神奈川県県土整備局 道路部道路管理課] : 横浜市内を除く神奈川県内の指定区間外を管理
** [http://www.pref.kanagawa.jp/div/1914/ 県西土木事務所小田原土木センター]
* [https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=19z_xKSyeZeePTnhjH9nNjlSbcc0&ll=37.13281410862527%2C137.24456835416345&z=6 国道一号線] - [[グーグルマップ]]
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[[Category:国道1号|*]]
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京急1000形電車 (初代)
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京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、1959年(昭和34年)12月に登場し、1960年(昭和35年)1月13日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄の通勤形電車。新1000形の登場以降、識別のため旧1000形と呼ばれることがある。
本項では、1000形の試作車となった初代800形、京急車両工業(現・京急ファインテック)を通してリースされた京成電鉄1000形電車、ならびに千葉急行電鉄(現・京成千原線)1000形電車、京急から譲渡された北総開発鉄道(現・北総鉄道)7150形電車についても記述する。また、特記のない限り以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。
「1000形」は本形式、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指す。
東京都交通局(都営地下鉄)1号線(現・浅草線)乗り入れ用として計画され、乗り入れ開始に先立つ1959年に製造を開始、1978年(昭和53年)までの19年間で旧デハ800形・850形からの編入車を含めて356両が製造された。
1968年(昭和43年)までの製造車では車体製造者により台車が異なり、電装品の製造者により駆動方式、歯車比、電装構成が異なっていたが、1971年(昭和46年)以降の製造車では統一されている。
全車電動車の2両1ユニットで構成、M1系車に主制御器、M2系車に補器類を搭載する。電装品などの一定の制約のもとで比較的自由に編成替えを行うことが出来、1970年代から2000年代に至るまで頻繁な編成替えで需要の変化に対応してきた。
1968年6月21日の都営1号線相互乗り入れ開始以降直通運用に使用され、都営浅草線・京成電鉄・北総鉄道北総線の各線で運用されたが、2008年11月7日に乗り入れ運用を終えている。
運転台の有無や搭載機器に関わらず、356両すべての車両形式が「デハ1000形」であるため、単一形式としては私鉄最多製造車両である。基本的には連番で車両番号が附番されたが、登場時の編成両数ごとにまとまった番号としたため欠番があり、最終期には欠番を埋めるように製造されている。
長期にわたって京急を代表する通勤車両として親しまれてきたが、新1000形などの省エネルギー車に置き換えられ、2010年6月27日に「ありがとう運転」を行ったのち翌28日に営業運転を終了した。営業運転終了後もデハ1351-デハ1356の2両編成がクト1形の牽引用として車籍を有していたが、2011年3月29日付で除籍され、形式消滅した。
製造が長期にわたったため、途中大きな設計変更が何回か行われている。その後の改造により仕様差異は縮小したが、廃車時まで細部に残った差で製造時ごとに分類することができた。700形登場以前に製造された前期製造車 (1001 - 1242) と冷房装置を搭載して製造された後期製造車(1243より大きな番号の車両と、1079・1080)では搭載機器が異なる。前期製造車と後期製造車は混結可能であるが、固定編成中に両者が混在した事例はない。
製造年次ごとに細かい差異はあるものの、大きくは以下のように分類される。
書籍などによって、以下のような呼称・分類が見られる。
本項では356両全車が存在した1978年から1986年の車両番号をもとに分類する。
全長18 m、幅1,200 mmの片開き3扉、ドア間窓3枚、車端部窓2枚、運転台後部窓1枚。
初期の車両は前面非貫通型で登場したが1961年(昭和36年)からは構造基準改定に対応して前面貫通型に、1963年(昭和38年)からは方向幕などが独立した窓に収められた形態に変更された。非貫通型と初期の貫通型も後に貫通型・独立方向幕窓に改造されている。客用窓は2段上昇式とされ、当初は全開することが可能だったため保護棒が取り付けられていたが、同様に構造基準改定により下段窓の上昇幅が150 mmに制限されたため、これに対応して下段窓の上昇幅を一部を除いて90 mmとし、保護棒は撤去された。冷房車の下段窓は当初固定式だったが、1977年(昭和52年)以降の製造車は非冷房車同様に上昇式とされ、既存車ものちに同様に改造された。戸袋窓はHゴム支持の固定式である。初期車はHゴムが灰色だったが後期車は最初から黒になり、後に全車が黒に変更された。
奇数番号車のドアは品川方に向かって開き、偶数番号車はこの逆に開く。M1車系に主制御器・パンタグラフ、M2車系に補器を搭載している。
内装色は、当時製造中だった日本国有鉄道(国鉄)101系電車などと同様に壁がオリーブグリーン、天井が白、座席が青、床色が薄緑。座席はロングシート。非冷房車は丸屋根で換気装置はファンデリア(1966年以前製造)、首振り扇風機(1968年製造)、1961年・1962年製造車の更新後はラインデリア。冷房車は平天井。各グループ更新前はアルミサッシ室内のRなど製造者による細かい相違が見られた。
製造途中で使用機器が何回か変更されている。また、1966年以前の製造車では電装品は東洋と三菱が独自に設計したものが使用され、混成してユニットを組むことができず、駆動方式も異なっている。また、車体製造者が設計した独自の台車(東急製 : TS310系、川崎製 : OK-18系)を装着し、原則として東急製の車両には東洋製電装品、川崎製の車両には三菱製電装品が装備されたが、一部に川崎+東洋の組み合わせが存在した。各製造時で東急製と川崎製の比率がほぼ1:1となるよう製造されたため、両社製が混在する編成や、1編成内に2種類の電装品を持つものも存在した。
電動カム軸抵抗制御方式、直列10段、並列6段、弱め界磁5段。弱め界磁制御を広範囲(最弱め界磁率25 %、90 kW車は20 %)で使用する。
M1系車に搭載。1095 - 1098登場時と、1001 - 1068のM1U車は浦賀寄り、それ以外は品川寄りに搭載。
下記電動発電機をM2系車に搭載。
下記空気圧縮機をM2系車に搭載。
製造時ごとの特徴をまとめる。各グループ固有の改造工事はこの項にまとめ、グループに跨る改造は別項としてまとめた。
1958年に本形式の試作車として800形(初代)のデハ800形・デハ850形の車両形式で4両が製造された。
編成構成は浦賀寄りにデハ800形、品川寄りにデハ850形を連結した2両編成でデハ800形の運転台側にパンタグラフを搭載した。製造当初は当時の流行に倣い、前面が700形(初代)などのように非貫通・2枚窓のいわゆる湘南電車スタイル、600形(初代)全金車とほぼ同形の車体だが、ドア幅が1,200 mmに拡張されている。扉配置がやや運転台寄の前後非対称で、主要機器・性能は700形(初代)と同一。車体幅が量産車に比べて80 mm狭く、貫通路幅が量産車の1,100 mmより狭い1,000 mmとなっていた。
製造時は700形(初代)と同一の補償巻線無し東洋電機製造製TDK-810A主電動機を搭載していたが、1958年末には東洋製補償巻線付きTDK810/3-E(端子電圧375 V、電流225 A、1時間定格出力75 kW、定格回転数1,600 rpm、最弱め界磁率25 %)を搭載し、翌年1月に公開試験を実施した。制御器にも最弱め界磁率25 %に対応するため改造が行われ、名称がACDF-H875-560BからACDF-H875-560Cに変更された。1963年には回生ブレーキの試験に使用されるなど、各種試験のテストベッドとなった。
この4両は1965年(昭和40年)10月に1000形 (1095 - 1098) に改番し、1966年(昭和41年)には主電動機を交換、量産車と性能を揃えた。1968年に前照灯のシールドビーム化と正面に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置、1969年には主制御器を1095編成はACDF-H875-566Aに、1097編成はACDF-H875-703Aに交換。
地下鉄乗り入れ計画があったにもかかわらず非貫通型となっていたのは「運転室が広くとれる」、「隙間風が少ない」などの面が乗務員に京急以外でも好まれていたためでもあるが製造当時では法的に問題ないとされていた。
だが地下区間では乗客の避難に支障が出ることとなり基準変更で貫通扉設置が義務となったため1973年(昭和48年)に前面に貫通扉が設置され、内装の張り替え、列車無線アンテナ搭載に伴うパンタグラフ位置の品川方への変更、貫通路幅の拡大および妻面窓の外側への移設、運転台拡張に伴う運転台直後の窓の連結面側へ100 mm移動、内装の全面的張替え、換気装置の首振り扇風機化、主抵抗器の更新などの工事が行われた。
各種更新工事を施したものの、このグループの地下鉄乗り入れは末期でしかなかったといい、冷房改造されずに1988年(昭和63年)1月31日付で廃車となり、1095と1096の機器の一部はデト11・12へ、1097と1098の機器の一部はデチ15・16へそれぞれ転用された。
1959年から1960年(昭和35年)にかけて製造された4両編成12本が該当する。車体幅が80 mm拡大されて2,780 mm(最大幅2,798 mm)となり、連結面後退角の縮小により扉配置が前後対称となった。製造当初より前照灯はシールドビームである。試作車の試験結果から、主電動機を低回転、補償巻線付き仕様に変更した。定格速度は試作車の47 km/hから43 km/hとさらに低くなった。2両1ユニットを背中合わせに組み合わせたM2U-M1U-M1S-M2Sの編成を組み、両先頭車がM2系車とされたため、2両編成とすることができない。
試作車と同様に非貫通・2枚窓で製造されたが、1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて朝ラッシュ時の10両編成運転拡大による2両編成の需要増加に対応するため、1131 - 1242の6両編成を2両編成化して中間車を本グループに組み込み、本グループ先頭車を正面貫通扉付きに改造した上、6両編成化して地下鉄乗り入れ運用に充当する工事が行われた。先頭部形状は当時製造されていた車両と同様とされたがアンチクライマーは位置をずらした上で流用していたため最下段が半分切り欠かれていた。
この工事に合わせ、室内電装系の交流電源化、ファンデリアの撤去と首振り扇風機化、客室蛍光灯カバーの撤去、側面種別表示器の設置が行われた。初期に改造された4編成は種別表示器が他車よりも低い位置にあった。屋上のモニタールーフは撤去され、1207 - 1242と同様に狭幅のFRP製カバーが設置された。
最後に改造された4編成は内装の張り替えも行われ、この4編成のみ久里浜工場の更新銘板が取り付けられていた。
その後1979年(昭和54年)から1984年(昭和59年)にかけて冷房改造が施工された。冷房改造は別項を参照。本グループでは1001編成を除く三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。
1017編成は台車の枕ばねに空気ばねを試験採用(東急TS-313形・川車OK-22形)しており、空気ばね採用による空気使用量増加のため、空気圧縮機がBグループ他車のA-2形に対しA-3形を搭載していた。後に1131以降と同じAR-2形に載せ換えられている。
1988年から廃車が始まり、一部は高松琴平電気鉄道(12両)と北総開発鉄道(現・北総鉄道、1962年製の12両を含む16両)に譲渡されたが後者は廃車となった。京成電鉄には8両がリースされ、後に4両が返却・廃車され、残りの4両が千葉急行電鉄(現・京成千原線)へもリースされたが廃車となった。
1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて製造された1049 - 1068の4両編成5本・1069 - 1078の2両編成5本・1101 - 1130の6両編成5本が該当する。これらは落成当初から前面に貫通扉を設けているが、方向幕窓などが設けられていなかったため、前面のスタイルは1131以降の車両とは異なっていた。
1961年製造車は4両編成・2両編成各5本で、製造当初行先・種別表示器がなかった。1966年から1967年(昭和42年)にかけて正面窓内側上部に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置した。4両編成は1001 - 1048と同様の「背中合わせ」ユニット、2両編成では本形式量産車で初めてM1系の先頭車が製造された。
1962年製の1101 - 1130の6両編成5本は2両単位で組み替えできるように浦賀方先頭車が主制御器搭載のM1系とされ、M2系の中間車が初めて製造された。製造当初から正面窓内に明朝体フォントの行先・種別表示器、側面にはネオン管式種別表示器を設けた。ネオン管式種別表示器は視認性が悪く、故障が多かったため、後にゴシック体幕式に改造された。このグループは京急で初めての6両固定編成である。本グループまで空気圧縮機にレシプロ式A-2形を採用した。
1001 - 1048の前面貫通化工事に続いて、1974年(昭和49年)から1976年(昭和51年)にかけて本グループの更新工事が行われた。当時すでに新造車が冷房装備となっていたこと、600形(2代)で冷房改造の実績があったことから冷房化の構想もあったが、軸重増加により地下鉄乗り入れが不可能となる問題が当時解決できていなかったため冷房搭載は見送られた。前面の行先・種別表示器を1131以降と同様正面窓内から独立させ、併せて側面にゴシック体行先・種別表示幕を設置、換気装置はファンデリアを撤去してラインデリアとした。屋上モニタールーフは残されたが、更新前の2段式から3段式に交換された。
このグループは1983年(昭和58年)から1986年にかけて冷房改造が施工されたが、1049 - 1052の4両は冷房改造されずに1986年8月31日付で本形式初の廃車となった。
三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。このグループの冷房改造時のみ中間車連結面の雨樋縦管が露出したままとされた。
冷房改造の際にはパンタグラフの周り配管は経路が大幅に変更され、ヒューズ箱が車端部に移った。先頭車はアンテナの位置が運転室寄りの車端部に近付いたことから滑り止めとなる部分が若干長くなった。それ以後のグループは改造時期により滑り止め部分の境界の処理形状が全車において完全一致していない。
1991年(平成3年)から冷房改造車の廃車が始まり、1071編成以外は1996年(平成8年)までに廃車された。1071編成は唯一廃車まで編成替えされず終始2連で使用されたため走行距離が少なく、44年にわたって運用された後2005年(平成17年)3月末に廃車され、本グループは消滅した。
1107編成と1113編成は廃車直前に品川方2両を交換した。この2編成は本形式で唯一浦賀方先頭車と品川方先頭車の組み合わせが変更された例であり、このままの編成で1005編成と北総開発鉄道に譲渡された。
1125は更新工事施行時に架線観測用の「潜望鏡」が設置可能な構造とされ、冷房改造時以降は架線観測装置に置き換えられた。該当車両の廃車により1500形1601を経て655-3に移設された。
1964年(昭和39年)から1966年にかけて製造された6両編成12本が該当する。このグループから前面の行先・種別表示器が窓内から独立して現行の本形式の前面スタイルが確立した。連結面が折り妻となり、妻部屋根肩も小さくなった。客室内電装品が交流化され、客室内蛍光灯カバーは省略された。側面に電動式種別幕が設けられたが、前面の種別幕は手動とされた。側面種別幕は表示可能コマ数の制約により「普通」が表示されず、普通列車運用時は表示なし、バックライト消灯となっていた。空気圧縮機はロータリー式のAR-2形に変更した。東急車輛製造で1964年に製造された1143編成と1201編成のみ先頭車前面の行先・種別表示器部分の造型が他車とはわずかに異なっていた。
冷房改造は1976年から1982年(昭和57年)にかけて施工された。
1173と1178は1988年から貨車扱いとされ、2002年(平成14年)に廃車された。2005年2月にこのグループで最後まで残っていた1179編成が廃車となり消滅した。
1968年に製造された6両編成6本が該当する。このグループから地下鉄乗り入れに備えて当初から先頭部連結器がNCB-II形密着自動連結器化され、1号型ATS・列車無線を装備、3両+3両に仕切れるよう4号車浦賀方に中間貫通扉を設けたほか、運転台の機器は当初から乗り入れ仕様に合致して配置されている。モニタールーフが廃止され、狭幅のFRPのカバーを設置、換気装置をファンデリアから首振り扇風機に変更、連結面後退角のさらなる縮小、座席形状の変更など、同時期製造の700形の要素を盛り込んだものとなった。
1976年から1982年にかけて冷房改造が施工されたのち、2005年3月までに廃車された。
1971年から1978年にかけて製造された1079 - 1080(2代目)の2両編成1本、1301 - 1348の4両編成12本、1351 - 1380の6両編成5本、1243 - 1298の8両編成7本が該当するが、番号通りの編成で落成しなかった車両も少なくない。このグループは集中式冷房装置を搭載、京急初の新製冷房車となった。冷房化により自重が増加したため、主電動機の熱容量を向上した。1971年・1972年製デハ1251 - デハ1290は主電動機出力75 kWだったが、走行特性は従来車と揃えたまま1974年製以降は主電動機定格電流を225 Aから270 Aに上げ、90 kWに出力増強された。併せて定格回転数を従来の1,550 rpmから1,450 rpmに変更、定格速度は43 km/hから40.7 km/hになっている。台車は川崎重工業設計の車体直結空気ばね式とされ、同社と東急車輛の両者で同一の台車を製造した。モーターは東洋、制御装置と補助電源装置は三菱製でそれぞれ統一された。その他、車内は乗務員室と客室の仕切り扉がステンレス製から軽合金製となった。1973年は12両編成運転開始に備えた設備増強に注力したこと、1975年(昭和50年)は前年7月の久里浜地区水害で損傷した車両の復旧工事を優先させたため新製がなかった。増備の過程で、広告枠の増設、先頭部の雨樋形状の変更など、細部の変更が行われた。
1974年までに製造された68両は当初都営1号線の軸重制限を超過したため他社・局線には入線できなかったが、後に軽量車輪への交換によって入線できるようになった。また、1987年(昭和62年)までは地下鉄線内では冷房を使用しなかったため、窓に地下鉄線内では冷房を使用しない旨の注意ステッカーが貼付されていた。
車両番号は製造順ではなく、1079・1080(2代目)は1978年製、最終製造車両も同年製の1243 - 1250である。
1976年までの製造車は手動式方向幕、側面は種別幕のみだったが、同年製造車の中間車となった1338・1339を除いて1977年(昭和52年)以降製造の車両には1049 - 1068の更新で設けられたものと同じ電動方向幕が正面および側面に設置された。1980年代中期の1341編成と1375編成など、編成替えにより側面方向幕設置編成に側面種別幕のみ設置の中間車が組み込まれた例もあった。
1337には積算電力計が設けられていた。電力計測時にはこの車両を中間に入れる必要があり、6両編成での地下鉄乗り入れに備えて1970年代後半から1980年代にかけて1332と1080の品川方に貫通幌が取り付けられていた。
このグループは、グループ内であれば更新工事施工前の側面電動方向幕有無による制約を除いて編成替えの制約がなく、まとまった両数があったため頻繁に編成替えが行われ、このグループは全編成が番号通りの編成だった時期は一度もない。唯一1990年頃に1243 - 1298、1301 - 1348の全編成が番号通りの編成になったことがあるが、この時も1351 - 1380は8両編成3本、4両編成1本、2両編成1本の組成であった。
1988年頃の定期検査入場時に1500形と同一材質のブレーキシューに変更、摩擦材特性にあわせて速度が10 km/h以下になるとブレーキシリンダの圧力を半減させる装置(B-55装置)を撤去した。工事中および工事施工済み編成の運転台には「B装置改良車」の表示があった。
非冷房で製造された車両の冷房改造に続いて、1988年から1994年(平成6年)にかけて更新工事が施工された。主な内容は以下の通りである。
1993年(平成5年)度に600形用試験として、更新工事のため久里浜工場に入場していた一部の車両を使用してクロスシート試験を行ったが、この状態での営業運転は行われなかった。
1号形ATSの更新に伴い、C-ATSを搭載する改造が2007年までに行われた。本グループでも廃車が近い編成は対象外とされ、本グループ以外にこの工事を施工した編成はない。運転台計器パネルにあるATS表示灯は塞がれ、壁面にアイボリーのLED式表示器が増設された。
1976年(昭和51年)から非冷房で製造された車両を対象に冷房改造工事が行われた。冷房装置は東芝RPU-2209系が採用され、1両につき4台が設置された。内装も全面的に貼り替えられ、新製冷房車同様に極力無塗装化が図られた。冷房改造前に腐食対策として雨樋縦管を露出させる改造が施されていたが、これを耐食管とすることで本改造時に埋め込んだ。天井部は平天井構造となったが、パンタグラフ下部を除きダクトは設けられていない。電動発電機は容量75 kVAのものに交換され、1台で2両に給電する。方向幕は電動化されたが、側面方向幕は奇数車海側、偶数車山側のみに設置され、初期の改造車は種別幕のみで残った奇数車山側、偶数車海側に冷房改造前と同様「普通」が表示されなかったが、1983年(昭和58年)頃の改造車から「普通」が表示されるようになり、それ以前の車両も同様に改造された。1001 - 1048で側面種別幕位置が低かった編成は冷房改造時に他車と同位置に改造されている。冷房改造前から全車両側面に方向幕を持つラインデリア車は全車設置とされた。OK-18系台車は重量増加に対応して台車枠の補強が行われ、1977年(昭和52年)に台車枠だけをOK-18Mとして4両分製造している。OK-18系台車装備車で初の冷房改造車となった1137編成は冷房機本体を搭載せずに出場し、2週間後に冷房機を搭載している。
初の冷房改造車である1179編成は、改造当初冷房装置のキセ(カバー)がイボ付きビニールでコーティングされた鋼製の黒いタイプであり、その外観から一部で「装甲冷房車」と呼ばれていたが、1981年(昭和56年)9月に他編成と同じFRP製の白いキセに取り替えられた。改造は長期にわたったが、期間中大きな設計変更は行われず、末期に連結器交換準備工事が併施されたことによる変更がある程度である。1982年に冷房改造を受けた1029編成の1032は2000形の登場を前に試験的に静止形インバータを搭載したが、定期検査の際に電動発電機に戻されている。
全車冷房改造完了を目前にして廃車が始まり、1049・1095・1097の各編成には冷房改造が施工されなかったが、本形式の冷房化完了を以って、京急では関東大手私鉄では初めて冷房化率100%を達成した(実際には相模鉄道が1987年に冷房化率100%を達成していたが、当時相鉄は大手私鉄ではなかったため、関東大手私鉄での冷房化率100%を初達成したのは京急であった)。
冷房改造は番号通りの編成単位で行われ、改造後は番号通りの編成に戻る例がほとんどだったが、例外として1976年施工の1143編成と1977年施工の1149編成は中間車を入れ替えて出場、後に番号通りの編成に戻った。1137編成と1173編成は冷房改造時に3号車・4号車を交換し、1987年の編成替えまで運用された。1982年(昭和57年)施工の1187 - 1188は1029編成に挟まれて出場、4か月後に1185編成が出場された際に番号通りの編成に戻った。1983年7月に出場した1121 - 1122は同時期に検査入場していた1009編成に挟まれて出場、1119編成が冷房改造された後も3年程度この編成のまま運用された。1115 - 1116は1113編成と同時に施工されたが、先頭車の密着連結器化準備工事の影響により、当初の1か月は1037編成に含まれ、その後続いて冷房改造された1075編成に含まれて運用されたが、その後1か月程度で番号通りの編成に戻っている。
本形式では定期検査入場の都度予備台車を活用した入場期間短縮のため、台車の振り替えが頻繁に行われていたが、同一系列台車間の交換はここでは対象としない。
1971年に試作空気ばね台車を装備していた1017編成の中間にデハ1145 - デハ1146を組み込む際に台車をTS-310系から東急製TS-811形に交換、その後1977年の冷房改造時にデハ1145 - デハ1146が1143編成に戻る際に編成全体をTS-811に交換した。その後、次項のOK-18台車振り替え用および試作空気ばね台車淘汰用TS-310台車捻出のため、1155編成とデハ1173 - デハ1174 - デハ1139 - デハ1140 - デハ1177 - デハ1178も1978年の冷房改造時にTS-811に交換された。
川崎車輛で製造され、東洋製電装品を装備するデハ1029・1030・1041・1042・1059・1071・1072・1077・1078・1097・1098・1115には中空軸撓み板式軸型継手駆動用のOK-18台車 (OK-18C・G・I・K) が装備されていたが、これを1977年・1978年に上述のTS-811化で捻出したTS-310系台車と交換した。
1017編成で試用されていた試作空気ばね台車OK-22・TS-313は1977年にTS-310に交換されて姿を消した。
本形式の先頭部は2回の連結器交換が行われている。
1968年からの地下鉄乗り入れに備えて、1966年以前に製造された先頭車は連結器をK-2-Aから直通規格で定められたNCB-II型と連結可能なNCB-6型に交換、その後NCB-II型に交換した。工事中は連結器高さを変更するため、新連結器を避けるための車体下部切り欠き形状などにバリエーションがあり、初期だと蓋があった車両もあった。
連結作業の省力化のため、電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が1989年(平成元年)頃に行われた。1985年(昭和60年)冷房改造の1113編成から準備工事が始まり、在来車についても定期検査とは別に入場させて同工事が順次施工された。外観に現れる標準的な工事は運転台および先頭車海側床下への連結器制御盤の取り付け、冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の撤去および連結器胴受の交換だったが、工事期間中に1987年のダイヤ改正に伴う2+6編成や4+4編成が出現、編成間で冷房・自動幕指令を共有する必要が生じたため、該当編成への青色ジャンパ再取り付けなど細かい様々なバリエーションが見られた。本工事と合わせて補助警笛が電子ホーン化された。その後1989年の1137編成を皮切りに1991年(平成3年)にかけて連結器本体の交換、非常用中間連結器の搭載などの本工事が行われた。また、本工事に先立って連結器制御盤取付用スペース確保のため冷房車の先頭車海側に設けられていた三芯のジャンパ栓(三相ジャンパ)が撤去された。本ジャンパ栓は冷房用電源故障時に編成間で給電を行えるよう設けられていたものだが、1984年(昭和59年)冷房改造の1005編成以降はこれを設けずに出場し、従来車も1985年1月に定期検査出場した1259編成以降定期検査時に撤去された。
1960年代後半以降中間部の連結器はCSE-55形棒状連結器とされていたが、新町検車区で車輪を削正する際に該当設備に8両編成が入れないため、編成を6+2に容易に分割できるよう中間部に廻り子式密着連結器を装備していた。その後1978年頃に4+4に分割するよう変更されたが、同設備に8両編成が入れるようになったため、1990年代中ごろの定期検査入場時に棒状連結器に戻されている。
1207以降の6両編成4号車と8両編成4・6号車の浦賀方には両開きの貫通仕切り扉を設置されており、1970年に1101 - 1206の6両編成にも同様に貫通仕切り扉が設置されたが、連結面後退角が大きいため、扉のレールが「へ」の字型になっていた。1981年(昭和56年)以降、編成替えにより6両・8両編成となっていたデハ1262・1302・1310・1314・1322・1334・1342・1346・1352に貫通仕切り扉が設置された。改造車の外側窓は2段式アルミサッシのままとされたが、非冷房車は冷房改造時に、冷房車は更新改造時にHゴム1枚窓に改造されている。1101 - 1130の妻面は大きなRで構成されていたため、該当窓取り付け部が平面に改造され、周囲の外板と段差があった。1301 - 1348の更新時に貫通仕切り扉がない4両編成の3号車に組成される1327・1319・1307・1335・1339の浦賀方にも貫通仕切り扉が設置された。
1986年頃の定期検査入場時に冷房車を対象にドア部分に吊り手を増設する工事が施された。当時の編成単位で行われ、施工期間中に1987年(昭和62年)の8両編成地下鉄乗り入れ運用増加に伴う編成替えが挟まったことから、施工済車と未施工車が同一編成に含まれる例も見られた。初期の改造車は枕木方向に4個の吊り手が設けられていたが、後期は3個に変更、初期改造車も後に同様に改造された。
1997年から6両編成に梅屋敷駅停車時にホームにかからない浦賀方2両の扉を開扉させない操作を自動で行う装置(自動戸閉切放装置、ADL)を設置する工事が行われた。その後編成替えによって発生した6両編成も編成替えの都度本工事が施工されている。浦賀方2両のドアには同駅でドアが開かないことを知らせるステッカーを貼付している。
京急では1966年(昭和41年)の番号整理以降ほとんど改番が行われた例がなかったが、本形式では下記の4例がある。
1975年(昭和50年)7月から1979年6月にかけて、700形のサハ770形を中間に挟んだ6両・8両編成が組成された。しかし、混結編成では編成重量の増加により加速度が低下するだけでなく、品川以北、いわば地下鉄や京成線などへ乗り入れできないことなどから運用範囲が制限された。1978年(昭和53年)以降、順次サハ770形は本形式の編成から外され、700形編成に戻るまでの間久里浜工場(現・京急ファインテック久里浜事業所)または金沢検車区で1979年(昭和54年)まで休車扱いとされたものもあった。また、これとは別に、朝夕ラッシュ時に8両編成に700形4両編成を増結して12両編成とする運用も1995年(平成7年)7月のダイヤ改正まで存在していた。
2両編成は登場以降終始増結用として使用され、1970年代初期の比較的短期間、朝ラッシュ時に浦賀 - 堀ノ内間を2両編成で運転、堀ノ内 - 品川間は久里浜以南からの特急に連結される運用が存在した以外2両編成単独で営業運転された実績がほとんどない。1987年(昭和62年)の乗り入れ特急8両編成運転拡大の直前まで約1年間乗り入れ特急の浦賀方に品川で2両増結する車両の送り込みのため2両編成5本をまとめて回送する列車が存在した。2008年7月の編成替えで2両編成は一旦消滅したが、ありがとう運転直前に1351編成が2両編成に組み換えられ、2011年3月まではクト2の牽引用として使用された。
4両編成は登場後各種別に運用されたが、12両編成運転開始直前の1974年(昭和49年)10月頃の4連運用には400形・500形・700形が使用され、新製されたばかりの1325編成のみが4連だったことが特筆される。12両編成運転開始以降は大師・空港以外の各線の普通や朝・夕方・夜間の優等列車の増結用として幅広く運用された。終夜運転の際に都営浅草線を経由して京成金町まで乗り入れた実績もある。700形の廃車進行により2000年(平成12年)から大師線に投入され、当初は朝のみ、その後700形の全廃に伴って2005年11月からは1500形と共に終日同線でも運用された。
6両編成は都営浅草線乗り入れ特急用の主力として1968年(昭和43年)以降25 - 30本が存在したが、1988年(昭和63年)秋の都心乗り入れ特急の終日8連化に伴って1989年秋には2本にまで激減した。その後本線普通の6連化が進み、徐々に本数を増やしたが、廃車進行により編成数は再び減少に転じた。800形や1500形と共に本線の普通を中心に運用されていた。晩年には朝・夕方・夜間に羽田空港へ乗り入れる運用もあった。1993年から1995年までの2年間は都営浅草線経由で北総線千葉ニュータウン中央まで乗り入れていた。これは、北総線の車両が8両固定編成のため、ホームの長さが6両編成までだった当時の空港線に乗り入れられなかったためである。乗り入れ特急の終日8連化以降も終夜運転で都営浅草線を経由して京成線京成高砂まで乗り入れた実績がある。また臨時列車として京成成田までの運用実績もある。
1975年(昭和50年)7月には1009・1013・1021の各編成がサハ770形2両を3・4号車に含む6両編成となったが、1021編成以外はすぐに中間車2両を追加した8両編成とされた。
8両編成は登場以降1978年(昭和53年)まで都営浅草線への乗り入れが最大6両編成に制限されていたことから朝ラッシュ時の12両編成非乗り入れ特急の基本編成、快速特急として運用され、2000形登場まで夏季定員制列車「ミュージックトレイン号」にも使用された。1978年に8両編成の地下鉄乗り入れが開始されたが、1987年(昭和62年)までは朝夕各6往復に限定されており、朝ラッシュ時の通勤快特、日中から夕方の快速特急を中心に運用された。1987年から朝夕ラッシュ時の乗り入れ特急が8両編成化され、2000形の増備も進行したため8両編成は都心乗り入れ運用を中心に運用された。この時点で全編成を固定編成とすると日中運用する6両編成が不足するため、2+6編成を貫通幌でつなぎ、「8両固定編成」として都営地下鉄乗り入れに充当、日中は2両編成を切り離した6両で運用する編成が組成された。2+6編成には編成表上にも2+6の8両編成として記載され、8両編成と同様に運用されたものとそれぞれ別の編成として記載され、組み合わせが毎日変更されるものの2種が存在した。同時に4+4編成を貫通幌でつなぐ編成も出現したが、こちらは全編成4+4の8両編成として編成表に記載されていた。その後1988年(昭和63年)秋に都心乗り入れ特急が終日8連化され、翌1989年(平成元年)から1500形の都心乗り入れ運用への充当が始まったため2+6編成は消滅、4+4編成は廃車の進行に伴って一旦消滅した。2001年(平成13年)9月15日のダイヤ改正から日中の都営浅草線直通快特の最高速度が120 km/hに引き上げられたが、本形式は120 km/h対応の増圧ブレーキ装備工事対象とはならなかったため、これ以降ダイヤ乱れや、2007年の一時期を除いて日中の快特には運用されなくなった。8両編成は2008年8月に1351編成の中間車を1329編成と1381編成に移動させたことで中間に先頭車を含まない貫通編成が消滅、その後同年11月まで1351編成と1381編成が4+4編成を組み、8両編成として運用されていたが、新1000形1097編成の導入に伴って分割され、8両編成が消滅した。
1975年(昭和50年)9月から1979年(昭和54年)6月にかけてサハ770形を5・6号車に含む8両編成が存在し、ラッシュ時を中心に運用された。
本形式は登場以来需要の変化に対応するため、頻繁に編成が組みかえられた。各時代の編成数を下表に示す。
1982年1月1日現在。
2008年2月25日から12月23日まで、京急創立110周年を記念し、2編成に過去に営業運転された車両をイメージしたラッピングを施して運行された。1309編成(6両)が昭和20 - 30年代の車両をイメージした「ありがとうギャラリー号」、1321編成(4両)が大正 - 昭和初期の車両をイメージした「歴史ギャラリー号」とされた。両編成には車内に一般公募によって選ばれた写真・絵画や京急110年の歴史がポスターとして展示されたほか、先頭車の前面貫通扉窓下にヘッドマークが掲出された。その後両編成は下記の通り装飾が変遷し、イベントなどにも使用された。
廃車された車両の一部が譲渡・貸出されたほか、事業用車への改造も行われた。
高松琴平電気鉄道には合計20両が譲渡された。
1080形は1001 - 1048のグループで、1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて1081 - 1092の2両編成6本・12両が譲渡された。全車東洋製電装品、TS-310系台車装備車である。Bグループは2両編成が組めなかったため、譲渡に当たり京急時代の浦賀方先頭車の運転台を同浦賀方から3両目に取り付ける改造を行った。
1300形は1243-1380のグループで、長尾線で使用されている。1313 - 1316・1291 - 1298の2両編成2本・4両 (→1301 - 1304) が2007年7月31日から営業開始、次いで1305 - 1308・1243 - 1250の2両編成2本・4両 (→1305 - 1308) が譲渡され、2011年9月1日から使用されている。
この他、元京王帝都電鉄(現・京王電鉄)初代5000系の譲渡車である1100形は、転入による軌間変更のため、台車が本形式の廃車発生品(TS-310系)に交換されている。
1991年(平成3年)3月31日の京成高砂 - 新鎌ヶ谷間開業に伴い、7300形の登場とあわせてデハ1005 - デハ1008・デハ1107 - デハ1118の16両 (→7151 - 7158・7161 - 7168) が譲渡された。この2編成は京急時代末期に変則的な編成を組んでいたが、そのままの編成で譲渡された。7151 - 7158は当初4+4の8両編成、7161 - 7168は8両貫通編成。主な改造点は以下の通り。
7151 - 7158は1992年(平成4年)7月の新京成電鉄との直通運転廃止に伴い新鎌ヶ谷 - 千葉ニュータウン中央間の区間列車用として7151 - 7154と7155 - 7158の4連2本に分割、新鎌ヶ谷以東で運用されたが、1996年12月に4+4の8両編成に戻っている。7155 - 7158は1994年に客用ドア外部を1枚毎に異なる塗装とし、7151 - 7154も8両編成に戻る際同様に変更されたが、他車には採用されなかった。京成からリースした7050形への置き換えに伴い、7161 - 7168は1995年(平成7年)9月に、7151 - 7158は1998年(平成10年)1月31日付でそれぞれ廃車され、京成宗吾車両基地で解体された。
なお、定期検査は京急久里浜工場で施工されていた。
デハ1029 - デハ1032・デハ1037 - デハ1040の8両が京急の子会社である京急車両工業(現・京急ファインテック)を通じてリースされた。これは京成の冷房化率が大手私鉄の中で低く、早急に冷房化率を上げるためにとられた施策であるといわれている。塗装は赤い車体に白帯のままだった。最後の青電であった210形が全廃された直後の1988年(昭和63年)から4両編成2本が8連固定で使用されたが4両編成でも使用された。主な改造点は以下の通りである。
京成での運用中に以下2点の追加改造が行われた。
京成3700形の増備に伴い1991年(平成3年)に1編成(モハ1037 - モハ1040)を返却して除籍・解体し、残る1編成(モハ1029 - モハ1032)は塗装を青に白帯に、社名表示も「千葉急行」に変更の上、翌1992年に千葉急行電鉄へ貸し出し、同社唯一の保有車として京成の4連普通運用と共通で使用されたが、京成旧3050形と交替して1994年(平成6年)1月16日にて営業運転を終え、1月18日は久里浜工場へ回送された。その後返却、除籍となり、同所にて解体された。
北総への譲渡の際にはこの経験が生かされた。
京急の新性能貨車は部品は再利用しているが車体は新製されたもので、車籍は引き継いでいない。デチは後に救援車となりデトに改造・改番された。本形式の全廃に伴い、営業車両と機器を統一するためデト6両の機器更新工事が行われ、台車・運転台機器・制御器などが交換された。
|
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"text": "京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、1959年(昭和34年)12月に登場し、1960年(昭和35年)1月13日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄の通勤形電車。新1000形の登場以降、識別のため旧1000形と呼ばれることがある。",
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"text": "本項では、1000形の試作車となった初代800形、京急車両工業(現・京急ファインテック)を通してリースされた京成電鉄1000形電車、ならびに千葉急行電鉄(現・京成千原線)1000形電車、京急から譲渡された北総開発鉄道(現・北総鉄道)7150形電車についても記述する。また、特記のない限り以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。",
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"text": "「1000形」は本形式、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指す。",
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"paragraph_id": 3,
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"text": "東京都交通局(都営地下鉄)1号線(現・浅草線)乗り入れ用として計画され、乗り入れ開始に先立つ1959年に製造を開始、1978年(昭和53年)までの19年間で旧デハ800形・850形からの編入車を含めて356両が製造された。",
"title": "概要"
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"text": "1968年(昭和43年)までの製造車では車体製造者により台車が異なり、電装品の製造者により駆動方式、歯車比、電装構成が異なっていたが、1971年(昭和46年)以降の製造車では統一されている。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全車電動車の2両1ユニットで構成、M1系車に主制御器、M2系車に補器類を搭載する。電装品などの一定の制約のもとで比較的自由に編成替えを行うことが出来、1970年代から2000年代に至るまで頻繁な編成替えで需要の変化に対応してきた。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "1968年6月21日の都営1号線相互乗り入れ開始以降直通運用に使用され、都営浅草線・京成電鉄・北総鉄道北総線の各線で運用されたが、2008年11月7日に乗り入れ運用を終えている。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "運転台の有無や搭載機器に関わらず、356両すべての車両形式が「デハ1000形」であるため、単一形式としては私鉄最多製造車両である。基本的には連番で車両番号が附番されたが、登場時の編成両数ごとにまとまった番号としたため欠番があり、最終期には欠番を埋めるように製造されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "長期にわたって京急を代表する通勤車両として親しまれてきたが、新1000形などの省エネルギー車に置き換えられ、2010年6月27日に「ありがとう運転」を行ったのち翌28日に営業運転を終了した。営業運転終了後もデハ1351-デハ1356の2両編成がクト1形の牽引用として車籍を有していたが、2011年3月29日付で除籍され、形式消滅した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "製造が長期にわたったため、途中大きな設計変更が何回か行われている。その後の改造により仕様差異は縮小したが、廃車時まで細部に残った差で製造時ごとに分類することができた。700形登場以前に製造された前期製造車 (1001 - 1242) と冷房装置を搭載して製造された後期製造車(1243より大きな番号の車両と、1079・1080)では搭載機器が異なる。前期製造車と後期製造車は混結可能であるが、固定編成中に両者が混在した事例はない。",
"title": "分類方法"
},
{
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"text": "製造年次ごとに細かい差異はあるものの、大きくは以下のように分類される。",
"title": "分類方法"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "書籍などによって、以下のような呼称・分類が見られる。",
"title": "分類方法"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "本項では356両全車が存在した1978年から1986年の車両番号をもとに分類する。",
"title": "分類方法"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "全長18 m、幅1,200 mmの片開き3扉、ドア間窓3枚、車端部窓2枚、運転台後部窓1枚。",
"title": "構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "初期の車両は前面非貫通型で登場したが1961年(昭和36年)からは構造基準改定に対応して前面貫通型に、1963年(昭和38年)からは方向幕などが独立した窓に収められた形態に変更された。非貫通型と初期の貫通型も後に貫通型・独立方向幕窓に改造されている。客用窓は2段上昇式とされ、当初は全開することが可能だったため保護棒が取り付けられていたが、同様に構造基準改定により下段窓の上昇幅が150 mmに制限されたため、これに対応して下段窓の上昇幅を一部を除いて90 mmとし、保護棒は撤去された。冷房車の下段窓は当初固定式だったが、1977年(昭和52年)以降の製造車は非冷房車同様に上昇式とされ、既存車ものちに同様に改造された。戸袋窓はHゴム支持の固定式である。初期車はHゴムが灰色だったが後期車は最初から黒になり、後に全車が黒に変更された。",
"title": "構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "奇数番号車のドアは品川方に向かって開き、偶数番号車はこの逆に開く。M1車系に主制御器・パンタグラフ、M2車系に補器を搭載している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "内装色は、当時製造中だった日本国有鉄道(国鉄)101系電車などと同様に壁がオリーブグリーン、天井が白、座席が青、床色が薄緑。座席はロングシート。非冷房車は丸屋根で換気装置はファンデリア(1966年以前製造)、首振り扇風機(1968年製造)、1961年・1962年製造車の更新後はラインデリア。冷房車は平天井。各グループ更新前はアルミサッシ室内のRなど製造者による細かい相違が見られた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "製造途中で使用機器が何回か変更されている。また、1966年以前の製造車では電装品は東洋と三菱が独自に設計したものが使用され、混成してユニットを組むことができず、駆動方式も異なっている。また、車体製造者が設計した独自の台車(東急製 : TS310系、川崎製 : OK-18系)を装着し、原則として東急製の車両には東洋製電装品、川崎製の車両には三菱製電装品が装備されたが、一部に川崎+東洋の組み合わせが存在した。各製造時で東急製と川崎製の比率がほぼ1:1となるよう製造されたため、両社製が混在する編成や、1編成内に2種類の電装品を持つものも存在した。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "電動カム軸抵抗制御方式、直列10段、並列6段、弱め界磁5段。弱め界磁制御を広範囲(最弱め界磁率25 %、90 kW車は20 %)で使用する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "M1系車に搭載。1095 - 1098登場時と、1001 - 1068のM1U車は浦賀寄り、それ以外は品川寄りに搭載。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "下記電動発電機をM2系車に搭載。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "下記空気圧縮機をM2系車に搭載。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "製造時ごとの特徴をまとめる。各グループ固有の改造工事はこの項にまとめ、グループに跨る改造は別項としてまとめた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1958年に本形式の試作車として800形(初代)のデハ800形・デハ850形の車両形式で4両が製造された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "編成構成は浦賀寄りにデハ800形、品川寄りにデハ850形を連結した2両編成でデハ800形の運転台側にパンタグラフを搭載した。製造当初は当時の流行に倣い、前面が700形(初代)などのように非貫通・2枚窓のいわゆる湘南電車スタイル、600形(初代)全金車とほぼ同形の車体だが、ドア幅が1,200 mmに拡張されている。扉配置がやや運転台寄の前後非対称で、主要機器・性能は700形(初代)と同一。車体幅が量産車に比べて80 mm狭く、貫通路幅が量産車の1,100 mmより狭い1,000 mmとなっていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "製造時は700形(初代)と同一の補償巻線無し東洋電機製造製TDK-810A主電動機を搭載していたが、1958年末には東洋製補償巻線付きTDK810/3-E(端子電圧375 V、電流225 A、1時間定格出力75 kW、定格回転数1,600 rpm、最弱め界磁率25 %)を搭載し、翌年1月に公開試験を実施した。制御器にも最弱め界磁率25 %に対応するため改造が行われ、名称がACDF-H875-560BからACDF-H875-560Cに変更された。1963年には回生ブレーキの試験に使用されるなど、各種試験のテストベッドとなった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この4両は1965年(昭和40年)10月に1000形 (1095 - 1098) に改番し、1966年(昭和41年)には主電動機を交換、量産車と性能を揃えた。1968年に前照灯のシールドビーム化と正面に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置、1969年には主制御器を1095編成はACDF-H875-566Aに、1097編成はACDF-H875-703Aに交換。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "地下鉄乗り入れ計画があったにもかかわらず非貫通型となっていたのは「運転室が広くとれる」、「隙間風が少ない」などの面が乗務員に京急以外でも好まれていたためでもあるが製造当時では法的に問題ないとされていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "だが地下区間では乗客の避難に支障が出ることとなり基準変更で貫通扉設置が義務となったため1973年(昭和48年)に前面に貫通扉が設置され、内装の張り替え、列車無線アンテナ搭載に伴うパンタグラフ位置の品川方への変更、貫通路幅の拡大および妻面窓の外側への移設、運転台拡張に伴う運転台直後の窓の連結面側へ100 mm移動、内装の全面的張替え、換気装置の首振り扇風機化、主抵抗器の更新などの工事が行われた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "各種更新工事を施したものの、このグループの地下鉄乗り入れは末期でしかなかったといい、冷房改造されずに1988年(昭和63年)1月31日付で廃車となり、1095と1096の機器の一部はデト11・12へ、1097と1098の機器の一部はデチ15・16へそれぞれ転用された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1959年から1960年(昭和35年)にかけて製造された4両編成12本が該当する。車体幅が80 mm拡大されて2,780 mm(最大幅2,798 mm)となり、連結面後退角の縮小により扉配置が前後対称となった。製造当初より前照灯はシールドビームである。試作車の試験結果から、主電動機を低回転、補償巻線付き仕様に変更した。定格速度は試作車の47 km/hから43 km/hとさらに低くなった。2両1ユニットを背中合わせに組み合わせたM2U-M1U-M1S-M2Sの編成を組み、両先頭車がM2系車とされたため、2両編成とすることができない。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "試作車と同様に非貫通・2枚窓で製造されたが、1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて朝ラッシュ時の10両編成運転拡大による2両編成の需要増加に対応するため、1131 - 1242の6両編成を2両編成化して中間車を本グループに組み込み、本グループ先頭車を正面貫通扉付きに改造した上、6両編成化して地下鉄乗り入れ運用に充当する工事が行われた。先頭部形状は当時製造されていた車両と同様とされたがアンチクライマーは位置をずらした上で流用していたため最下段が半分切り欠かれていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この工事に合わせ、室内電装系の交流電源化、ファンデリアの撤去と首振り扇風機化、客室蛍光灯カバーの撤去、側面種別表示器の設置が行われた。初期に改造された4編成は種別表示器が他車よりも低い位置にあった。屋上のモニタールーフは撤去され、1207 - 1242と同様に狭幅のFRP製カバーが設置された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "最後に改造された4編成は内装の張り替えも行われ、この4編成のみ久里浜工場の更新銘板が取り付けられていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後1979年(昭和54年)から1984年(昭和59年)にかけて冷房改造が施工された。冷房改造は別項を参照。本グループでは1001編成を除く三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1017編成は台車の枕ばねに空気ばねを試験採用(東急TS-313形・川車OK-22形)しており、空気ばね採用による空気使用量増加のため、空気圧縮機がBグループ他車のA-2形に対しA-3形を搭載していた。後に1131以降と同じAR-2形に載せ換えられている。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1988年から廃車が始まり、一部は高松琴平電気鉄道(12両)と北総開発鉄道(現・北総鉄道、1962年製の12両を含む16両)に譲渡されたが後者は廃車となった。京成電鉄には8両がリースされ、後に4両が返却・廃車され、残りの4両が千葉急行電鉄(現・京成千原線)へもリースされたが廃車となった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて製造された1049 - 1068の4両編成5本・1069 - 1078の2両編成5本・1101 - 1130の6両編成5本が該当する。これらは落成当初から前面に貫通扉を設けているが、方向幕窓などが設けられていなかったため、前面のスタイルは1131以降の車両とは異なっていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1961年製造車は4両編成・2両編成各5本で、製造当初行先・種別表示器がなかった。1966年から1967年(昭和42年)にかけて正面窓内側上部に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置した。4両編成は1001 - 1048と同様の「背中合わせ」ユニット、2両編成では本形式量産車で初めてM1系の先頭車が製造された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1962年製の1101 - 1130の6両編成5本は2両単位で組み替えできるように浦賀方先頭車が主制御器搭載のM1系とされ、M2系の中間車が初めて製造された。製造当初から正面窓内に明朝体フォントの行先・種別表示器、側面にはネオン管式種別表示器を設けた。ネオン管式種別表示器は視認性が悪く、故障が多かったため、後にゴシック体幕式に改造された。このグループは京急で初めての6両固定編成である。本グループまで空気圧縮機にレシプロ式A-2形を採用した。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1001 - 1048の前面貫通化工事に続いて、1974年(昭和49年)から1976年(昭和51年)にかけて本グループの更新工事が行われた。当時すでに新造車が冷房装備となっていたこと、600形(2代)で冷房改造の実績があったことから冷房化の構想もあったが、軸重増加により地下鉄乗り入れが不可能となる問題が当時解決できていなかったため冷房搭載は見送られた。前面の行先・種別表示器を1131以降と同様正面窓内から独立させ、併せて側面にゴシック体行先・種別表示幕を設置、換気装置はファンデリアを撤去してラインデリアとした。屋上モニタールーフは残されたが、更新前の2段式から3段式に交換された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "このグループは1983年(昭和58年)から1986年にかけて冷房改造が施工されたが、1049 - 1052の4両は冷房改造されずに1986年8月31日付で本形式初の廃車となった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。このグループの冷房改造時のみ中間車連結面の雨樋縦管が露出したままとされた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "冷房改造の際にはパンタグラフの周り配管は経路が大幅に変更され、ヒューズ箱が車端部に移った。先頭車はアンテナの位置が運転室寄りの車端部に近付いたことから滑り止めとなる部分が若干長くなった。それ以後のグループは改造時期により滑り止め部分の境界の処理形状が全車において完全一致していない。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)から冷房改造車の廃車が始まり、1071編成以外は1996年(平成8年)までに廃車された。1071編成は唯一廃車まで編成替えされず終始2連で使用されたため走行距離が少なく、44年にわたって運用された後2005年(平成17年)3月末に廃車され、本グループは消滅した。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1107編成と1113編成は廃車直前に品川方2両を交換した。この2編成は本形式で唯一浦賀方先頭車と品川方先頭車の組み合わせが変更された例であり、このままの編成で1005編成と北総開発鉄道に譲渡された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1125は更新工事施行時に架線観測用の「潜望鏡」が設置可能な構造とされ、冷房改造時以降は架線観測装置に置き換えられた。該当車両の廃車により1500形1601を経て655-3に移設された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)から1966年にかけて製造された6両編成12本が該当する。このグループから前面の行先・種別表示器が窓内から独立して現行の本形式の前面スタイルが確立した。連結面が折り妻となり、妻部屋根肩も小さくなった。客室内電装品が交流化され、客室内蛍光灯カバーは省略された。側面に電動式種別幕が設けられたが、前面の種別幕は手動とされた。側面種別幕は表示可能コマ数の制約により「普通」が表示されず、普通列車運用時は表示なし、バックライト消灯となっていた。空気圧縮機はロータリー式のAR-2形に変更した。東急車輛製造で1964年に製造された1143編成と1201編成のみ先頭車前面の行先・種別表示器部分の造型が他車とはわずかに異なっていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "冷房改造は1976年から1982年(昭和57年)にかけて施工された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1173と1178は1988年から貨車扱いとされ、2002年(平成14年)に廃車された。2005年2月にこのグループで最後まで残っていた1179編成が廃車となり消滅した。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1968年に製造された6両編成6本が該当する。このグループから地下鉄乗り入れに備えて当初から先頭部連結器がNCB-II形密着自動連結器化され、1号型ATS・列車無線を装備、3両+3両に仕切れるよう4号車浦賀方に中間貫通扉を設けたほか、運転台の機器は当初から乗り入れ仕様に合致して配置されている。モニタールーフが廃止され、狭幅のFRPのカバーを設置、換気装置をファンデリアから首振り扇風機に変更、連結面後退角のさらなる縮小、座席形状の変更など、同時期製造の700形の要素を盛り込んだものとなった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1976年から1982年にかけて冷房改造が施工されたのち、2005年3月までに廃車された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1971年から1978年にかけて製造された1079 - 1080(2代目)の2両編成1本、1301 - 1348の4両編成12本、1351 - 1380の6両編成5本、1243 - 1298の8両編成7本が該当するが、番号通りの編成で落成しなかった車両も少なくない。このグループは集中式冷房装置を搭載、京急初の新製冷房車となった。冷房化により自重が増加したため、主電動機の熱容量を向上した。1971年・1972年製デハ1251 - デハ1290は主電動機出力75 kWだったが、走行特性は従来車と揃えたまま1974年製以降は主電動機定格電流を225 Aから270 Aに上げ、90 kWに出力増強された。併せて定格回転数を従来の1,550 rpmから1,450 rpmに変更、定格速度は43 km/hから40.7 km/hになっている。台車は川崎重工業設計の車体直結空気ばね式とされ、同社と東急車輛の両者で同一の台車を製造した。モーターは東洋、制御装置と補助電源装置は三菱製でそれぞれ統一された。その他、車内は乗務員室と客室の仕切り扉がステンレス製から軽合金製となった。1973年は12両編成運転開始に備えた設備増強に注力したこと、1975年(昭和50年)は前年7月の久里浜地区水害で損傷した車両の復旧工事を優先させたため新製がなかった。増備の過程で、広告枠の増設、先頭部の雨樋形状の変更など、細部の変更が行われた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1974年までに製造された68両は当初都営1号線の軸重制限を超過したため他社・局線には入線できなかったが、後に軽量車輪への交換によって入線できるようになった。また、1987年(昭和62年)までは地下鉄線内では冷房を使用しなかったため、窓に地下鉄線内では冷房を使用しない旨の注意ステッカーが貼付されていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "車両番号は製造順ではなく、1079・1080(2代目)は1978年製、最終製造車両も同年製の1243 - 1250である。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1976年までの製造車は手動式方向幕、側面は種別幕のみだったが、同年製造車の中間車となった1338・1339を除いて1977年(昭和52年)以降製造の車両には1049 - 1068の更新で設けられたものと同じ電動方向幕が正面および側面に設置された。1980年代中期の1341編成と1375編成など、編成替えにより側面方向幕設置編成に側面種別幕のみ設置の中間車が組み込まれた例もあった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1337には積算電力計が設けられていた。電力計測時にはこの車両を中間に入れる必要があり、6両編成での地下鉄乗り入れに備えて1970年代後半から1980年代にかけて1332と1080の品川方に貫通幌が取り付けられていた。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "このグループは、グループ内であれば更新工事施工前の側面電動方向幕有無による制約を除いて編成替えの制約がなく、まとまった両数があったため頻繁に編成替えが行われ、このグループは全編成が番号通りの編成だった時期は一度もない。唯一1990年頃に1243 - 1298、1301 - 1348の全編成が番号通りの編成になったことがあるが、この時も1351 - 1380は8両編成3本、4両編成1本、2両編成1本の組成であった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1988年頃の定期検査入場時に1500形と同一材質のブレーキシューに変更、摩擦材特性にあわせて速度が10 km/h以下になるとブレーキシリンダの圧力を半減させる装置(B-55装置)を撤去した。工事中および工事施工済み編成の運転台には「B装置改良車」の表示があった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "非冷房で製造された車両の冷房改造に続いて、1988年から1994年(平成6年)にかけて更新工事が施工された。主な内容は以下の通りである。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1993年(平成5年)度に600形用試験として、更新工事のため久里浜工場に入場していた一部の車両を使用してクロスシート試験を行ったが、この状態での営業運転は行われなかった。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1号形ATSの更新に伴い、C-ATSを搭載する改造が2007年までに行われた。本グループでも廃車が近い編成は対象外とされ、本グループ以外にこの工事を施工した編成はない。運転台計器パネルにあるATS表示灯は塞がれ、壁面にアイボリーのLED式表示器が増設された。",
"title": "製造年式およびその差違"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1976年(昭和51年)から非冷房で製造された車両を対象に冷房改造工事が行われた。冷房装置は東芝RPU-2209系が採用され、1両につき4台が設置された。内装も全面的に貼り替えられ、新製冷房車同様に極力無塗装化が図られた。冷房改造前に腐食対策として雨樋縦管を露出させる改造が施されていたが、これを耐食管とすることで本改造時に埋め込んだ。天井部は平天井構造となったが、パンタグラフ下部を除きダクトは設けられていない。電動発電機は容量75 kVAのものに交換され、1台で2両に給電する。方向幕は電動化されたが、側面方向幕は奇数車海側、偶数車山側のみに設置され、初期の改造車は種別幕のみで残った奇数車山側、偶数車海側に冷房改造前と同様「普通」が表示されなかったが、1983年(昭和58年)頃の改造車から「普通」が表示されるようになり、それ以前の車両も同様に改造された。1001 - 1048で側面種別幕位置が低かった編成は冷房改造時に他車と同位置に改造されている。冷房改造前から全車両側面に方向幕を持つラインデリア車は全車設置とされた。OK-18系台車は重量増加に対応して台車枠の補強が行われ、1977年(昭和52年)に台車枠だけをOK-18Mとして4両分製造している。OK-18系台車装備車で初の冷房改造車となった1137編成は冷房機本体を搭載せずに出場し、2週間後に冷房機を搭載している。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "初の冷房改造車である1179編成は、改造当初冷房装置のキセ(カバー)がイボ付きビニールでコーティングされた鋼製の黒いタイプであり、その外観から一部で「装甲冷房車」と呼ばれていたが、1981年(昭和56年)9月に他編成と同じFRP製の白いキセに取り替えられた。改造は長期にわたったが、期間中大きな設計変更は行われず、末期に連結器交換準備工事が併施されたことによる変更がある程度である。1982年に冷房改造を受けた1029編成の1032は2000形の登場を前に試験的に静止形インバータを搭載したが、定期検査の際に電動発電機に戻されている。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "全車冷房改造完了を目前にして廃車が始まり、1049・1095・1097の各編成には冷房改造が施工されなかったが、本形式の冷房化完了を以って、京急では関東大手私鉄では初めて冷房化率100%を達成した(実際には相模鉄道が1987年に冷房化率100%を達成していたが、当時相鉄は大手私鉄ではなかったため、関東大手私鉄での冷房化率100%を初達成したのは京急であった)。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "冷房改造は番号通りの編成単位で行われ、改造後は番号通りの編成に戻る例がほとんどだったが、例外として1976年施工の1143編成と1977年施工の1149編成は中間車を入れ替えて出場、後に番号通りの編成に戻った。1137編成と1173編成は冷房改造時に3号車・4号車を交換し、1987年の編成替えまで運用された。1982年(昭和57年)施工の1187 - 1188は1029編成に挟まれて出場、4か月後に1185編成が出場された際に番号通りの編成に戻った。1983年7月に出場した1121 - 1122は同時期に検査入場していた1009編成に挟まれて出場、1119編成が冷房改造された後も3年程度この編成のまま運用された。1115 - 1116は1113編成と同時に施工されたが、先頭車の密着連結器化準備工事の影響により、当初の1か月は1037編成に含まれ、その後続いて冷房改造された1075編成に含まれて運用されたが、その後1か月程度で番号通りの編成に戻っている。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "本形式では定期検査入場の都度予備台車を活用した入場期間短縮のため、台車の振り替えが頻繁に行われていたが、同一系列台車間の交換はここでは対象としない。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1971年に試作空気ばね台車を装備していた1017編成の中間にデハ1145 - デハ1146を組み込む際に台車をTS-310系から東急製TS-811形に交換、その後1977年の冷房改造時にデハ1145 - デハ1146が1143編成に戻る際に編成全体をTS-811に交換した。その後、次項のOK-18台車振り替え用および試作空気ばね台車淘汰用TS-310台車捻出のため、1155編成とデハ1173 - デハ1174 - デハ1139 - デハ1140 - デハ1177 - デハ1178も1978年の冷房改造時にTS-811に交換された。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "川崎車輛で製造され、東洋製電装品を装備するデハ1029・1030・1041・1042・1059・1071・1072・1077・1078・1097・1098・1115には中空軸撓み板式軸型継手駆動用のOK-18台車 (OK-18C・G・I・K) が装備されていたが、これを1977年・1978年に上述のTS-811化で捻出したTS-310系台車と交換した。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1017編成で試用されていた試作空気ばね台車OK-22・TS-313は1977年にTS-310に交換されて姿を消した。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "本形式の先頭部は2回の連結器交換が行われている。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1968年からの地下鉄乗り入れに備えて、1966年以前に製造された先頭車は連結器をK-2-Aから直通規格で定められたNCB-II型と連結可能なNCB-6型に交換、その後NCB-II型に交換した。工事中は連結器高さを変更するため、新連結器を避けるための車体下部切り欠き形状などにバリエーションがあり、初期だと蓋があった車両もあった。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "連結作業の省力化のため、電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が1989年(平成元年)頃に行われた。1985年(昭和60年)冷房改造の1113編成から準備工事が始まり、在来車についても定期検査とは別に入場させて同工事が順次施工された。外観に現れる標準的な工事は運転台および先頭車海側床下への連結器制御盤の取り付け、冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の撤去および連結器胴受の交換だったが、工事期間中に1987年のダイヤ改正に伴う2+6編成や4+4編成が出現、編成間で冷房・自動幕指令を共有する必要が生じたため、該当編成への青色ジャンパ再取り付けなど細かい様々なバリエーションが見られた。本工事と合わせて補助警笛が電子ホーン化された。その後1989年の1137編成を皮切りに1991年(平成3年)にかけて連結器本体の交換、非常用中間連結器の搭載などの本工事が行われた。また、本工事に先立って連結器制御盤取付用スペース確保のため冷房車の先頭車海側に設けられていた三芯のジャンパ栓(三相ジャンパ)が撤去された。本ジャンパ栓は冷房用電源故障時に編成間で給電を行えるよう設けられていたものだが、1984年(昭和59年)冷房改造の1005編成以降はこれを設けずに出場し、従来車も1985年1月に定期検査出場した1259編成以降定期検査時に撤去された。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1960年代後半以降中間部の連結器はCSE-55形棒状連結器とされていたが、新町検車区で車輪を削正する際に該当設備に8両編成が入れないため、編成を6+2に容易に分割できるよう中間部に廻り子式密着連結器を装備していた。その後1978年頃に4+4に分割するよう変更されたが、同設備に8両編成が入れるようになったため、1990年代中ごろの定期検査入場時に棒状連結器に戻されている。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1207以降の6両編成4号車と8両編成4・6号車の浦賀方には両開きの貫通仕切り扉を設置されており、1970年に1101 - 1206の6両編成にも同様に貫通仕切り扉が設置されたが、連結面後退角が大きいため、扉のレールが「へ」の字型になっていた。1981年(昭和56年)以降、編成替えにより6両・8両編成となっていたデハ1262・1302・1310・1314・1322・1334・1342・1346・1352に貫通仕切り扉が設置された。改造車の外側窓は2段式アルミサッシのままとされたが、非冷房車は冷房改造時に、冷房車は更新改造時にHゴム1枚窓に改造されている。1101 - 1130の妻面は大きなRで構成されていたため、該当窓取り付け部が平面に改造され、周囲の外板と段差があった。1301 - 1348の更新時に貫通仕切り扉がない4両編成の3号車に組成される1327・1319・1307・1335・1339の浦賀方にも貫通仕切り扉が設置された。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1986年頃の定期検査入場時に冷房車を対象にドア部分に吊り手を増設する工事が施された。当時の編成単位で行われ、施工期間中に1987年(昭和62年)の8両編成地下鉄乗り入れ運用増加に伴う編成替えが挟まったことから、施工済車と未施工車が同一編成に含まれる例も見られた。初期の改造車は枕木方向に4個の吊り手が設けられていたが、後期は3個に変更、初期改造車も後に同様に改造された。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1997年から6両編成に梅屋敷駅停車時にホームにかからない浦賀方2両の扉を開扉させない操作を自動で行う装置(自動戸閉切放装置、ADL)を設置する工事が行われた。その後編成替えによって発生した6両編成も編成替えの都度本工事が施工されている。浦賀方2両のドアには同駅でドアが開かないことを知らせるステッカーを貼付している。",
"title": "各種工事"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "京急では1966年(昭和41年)の番号整理以降ほとんど改番が行われた例がなかったが、本形式では下記の4例がある。",
"title": "改番"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1975年(昭和50年)7月から1979年6月にかけて、700形のサハ770形を中間に挟んだ6両・8両編成が組成された。しかし、混結編成では編成重量の増加により加速度が低下するだけでなく、品川以北、いわば地下鉄や京成線などへ乗り入れできないことなどから運用範囲が制限された。1978年(昭和53年)以降、順次サハ770形は本形式の編成から外され、700形編成に戻るまでの間久里浜工場(現・京急ファインテック久里浜事業所)または金沢検車区で1979年(昭和54年)まで休車扱いとされたものもあった。また、これとは別に、朝夕ラッシュ時に8両編成に700形4両編成を増結して12両編成とする運用も1995年(平成7年)7月のダイヤ改正まで存在していた。",
"title": "700形との混結"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2両編成は登場以降終始増結用として使用され、1970年代初期の比較的短期間、朝ラッシュ時に浦賀 - 堀ノ内間を2両編成で運転、堀ノ内 - 品川間は久里浜以南からの特急に連結される運用が存在した以外2両編成単独で営業運転された実績がほとんどない。1987年(昭和62年)の乗り入れ特急8両編成運転拡大の直前まで約1年間乗り入れ特急の浦賀方に品川で2両増結する車両の送り込みのため2両編成5本をまとめて回送する列車が存在した。2008年7月の編成替えで2両編成は一旦消滅したが、ありがとう運転直前に1351編成が2両編成に組み換えられ、2011年3月まではクト2の牽引用として使用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "4両編成は登場後各種別に運用されたが、12両編成運転開始直前の1974年(昭和49年)10月頃の4連運用には400形・500形・700形が使用され、新製されたばかりの1325編成のみが4連だったことが特筆される。12両編成運転開始以降は大師・空港以外の各線の普通や朝・夕方・夜間の優等列車の増結用として幅広く運用された。終夜運転の際に都営浅草線を経由して京成金町まで乗り入れた実績もある。700形の廃車進行により2000年(平成12年)から大師線に投入され、当初は朝のみ、その後700形の全廃に伴って2005年11月からは1500形と共に終日同線でも運用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "6両編成は都営浅草線乗り入れ特急用の主力として1968年(昭和43年)以降25 - 30本が存在したが、1988年(昭和63年)秋の都心乗り入れ特急の終日8連化に伴って1989年秋には2本にまで激減した。その後本線普通の6連化が進み、徐々に本数を増やしたが、廃車進行により編成数は再び減少に転じた。800形や1500形と共に本線の普通を中心に運用されていた。晩年には朝・夕方・夜間に羽田空港へ乗り入れる運用もあった。1993年から1995年までの2年間は都営浅草線経由で北総線千葉ニュータウン中央まで乗り入れていた。これは、北総線の車両が8両固定編成のため、ホームの長さが6両編成までだった当時の空港線に乗り入れられなかったためである。乗り入れ特急の終日8連化以降も終夜運転で都営浅草線を経由して京成線京成高砂まで乗り入れた実績がある。また臨時列車として京成成田までの運用実績もある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1975年(昭和50年)7月には1009・1013・1021の各編成がサハ770形2両を3・4号車に含む6両編成となったが、1021編成以外はすぐに中間車2両を追加した8両編成とされた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "8両編成は登場以降1978年(昭和53年)まで都営浅草線への乗り入れが最大6両編成に制限されていたことから朝ラッシュ時の12両編成非乗り入れ特急の基本編成、快速特急として運用され、2000形登場まで夏季定員制列車「ミュージックトレイン号」にも使用された。1978年に8両編成の地下鉄乗り入れが開始されたが、1987年(昭和62年)までは朝夕各6往復に限定されており、朝ラッシュ時の通勤快特、日中から夕方の快速特急を中心に運用された。1987年から朝夕ラッシュ時の乗り入れ特急が8両編成化され、2000形の増備も進行したため8両編成は都心乗り入れ運用を中心に運用された。この時点で全編成を固定編成とすると日中運用する6両編成が不足するため、2+6編成を貫通幌でつなぎ、「8両固定編成」として都営地下鉄乗り入れに充当、日中は2両編成を切り離した6両で運用する編成が組成された。2+6編成には編成表上にも2+6の8両編成として記載され、8両編成と同様に運用されたものとそれぞれ別の編成として記載され、組み合わせが毎日変更されるものの2種が存在した。同時に4+4編成を貫通幌でつなぐ編成も出現したが、こちらは全編成4+4の8両編成として編成表に記載されていた。その後1988年(昭和63年)秋に都心乗り入れ特急が終日8連化され、翌1989年(平成元年)から1500形の都心乗り入れ運用への充当が始まったため2+6編成は消滅、4+4編成は廃車の進行に伴って一旦消滅した。2001年(平成13年)9月15日のダイヤ改正から日中の都営浅草線直通快特の最高速度が120 km/hに引き上げられたが、本形式は120 km/h対応の増圧ブレーキ装備工事対象とはならなかったため、これ以降ダイヤ乱れや、2007年の一時期を除いて日中の快特には運用されなくなった。8両編成は2008年8月に1351編成の中間車を1329編成と1381編成に移動させたことで中間に先頭車を含まない貫通編成が消滅、その後同年11月まで1351編成と1381編成が4+4編成を組み、8両編成として運用されていたが、新1000形1097編成の導入に伴って分割され、8両編成が消滅した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1975年(昭和50年)9月から1979年(昭和54年)6月にかけてサハ770形を5・6号車に含む8両編成が存在し、ラッシュ時を中心に運用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "本形式は登場以来需要の変化に対応するため、頻繁に編成が組みかえられた。各時代の編成数を下表に示す。",
"title": "編成数の推移"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1982年1月1日現在。",
"title": "過去の編成表"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2008年2月25日から12月23日まで、京急創立110周年を記念し、2編成に過去に営業運転された車両をイメージしたラッピングを施して運行された。1309編成(6両)が昭和20 - 30年代の車両をイメージした「ありがとうギャラリー号」、1321編成(4両)が大正 - 昭和初期の車両をイメージした「歴史ギャラリー号」とされた。両編成には車内に一般公募によって選ばれた写真・絵画や京急110年の歴史がポスターとして展示されたほか、先頭車の前面貫通扉窓下にヘッドマークが掲出された。その後両編成は下記の通り装飾が変遷し、イベントなどにも使用された。",
"title": "特殊塗装など"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "廃車された車両の一部が譲渡・貸出されたほか、事業用車への改造も行われた。",
"title": "改造・譲渡など"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "高松琴平電気鉄道には合計20両が譲渡された。",
"title": "改造・譲渡など"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1080形は1001 - 1048のグループで、1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて1081 - 1092の2両編成6本・12両が譲渡された。全車東洋製電装品、TS-310系台車装備車である。Bグループは2両編成が組めなかったため、譲渡に当たり京急時代の浦賀方先頭車の運転台を同浦賀方から3両目に取り付ける改造を行った。",
"title": "改造・譲渡など"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1300形は1243-1380のグループで、長尾線で使用されている。1313 - 1316・1291 - 1298の2両編成2本・4両 (→1301 - 1304) が2007年7月31日から営業開始、次いで1305 - 1308・1243 - 1250の2両編成2本・4両 (→1305 - 1308) が譲渡され、2011年9月1日から使用されている。",
"title": "改造・譲渡など"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "この他、元京王帝都電鉄(現・京王電鉄)初代5000系の譲渡車である1100形は、転入による軌間変更のため、台車が本形式の廃車発生品(TS-310系)に交換されている。",
"title": "改造・譲渡など"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)3月31日の京成高砂 - 新鎌ヶ谷間開業に伴い、7300形の登場とあわせてデハ1005 - デハ1008・デハ1107 - デハ1118の16両 (→7151 - 7158・7161 - 7168) が譲渡された。この2編成は京急時代末期に変則的な編成を組んでいたが、そのままの編成で譲渡された。7151 - 7158は当初4+4の8両編成、7161 - 7168は8両貫通編成。主な改造点は以下の通り。",
"title": "改造・譲渡など"
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"text": "7151 - 7158は1992年(平成4年)7月の新京成電鉄との直通運転廃止に伴い新鎌ヶ谷 - 千葉ニュータウン中央間の区間列車用として7151 - 7154と7155 - 7158の4連2本に分割、新鎌ヶ谷以東で運用されたが、1996年12月に4+4の8両編成に戻っている。7155 - 7158は1994年に客用ドア外部を1枚毎に異なる塗装とし、7151 - 7154も8両編成に戻る際同様に変更されたが、他車には採用されなかった。京成からリースした7050形への置き換えに伴い、7161 - 7168は1995年(平成7年)9月に、7151 - 7158は1998年(平成10年)1月31日付でそれぞれ廃車され、京成宗吾車両基地で解体された。",
"title": "改造・譲渡など"
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"text": "なお、定期検査は京急久里浜工場で施工されていた。",
"title": "改造・譲渡など"
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"text": "デハ1029 - デハ1032・デハ1037 - デハ1040の8両が京急の子会社である京急車両工業(現・京急ファインテック)を通じてリースされた。これは京成の冷房化率が大手私鉄の中で低く、早急に冷房化率を上げるためにとられた施策であるといわれている。塗装は赤い車体に白帯のままだった。最後の青電であった210形が全廃された直後の1988年(昭和63年)から4両編成2本が8連固定で使用されたが4両編成でも使用された。主な改造点は以下の通りである。",
"title": "改造・譲渡など"
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"text": "京成での運用中に以下2点の追加改造が行われた。",
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"text": "京成3700形の増備に伴い1991年(平成3年)に1編成(モハ1037 - モハ1040)を返却して除籍・解体し、残る1編成(モハ1029 - モハ1032)は塗装を青に白帯に、社名表示も「千葉急行」に変更の上、翌1992年に千葉急行電鉄へ貸し出し、同社唯一の保有車として京成の4連普通運用と共通で使用されたが、京成旧3050形と交替して1994年(平成6年)1月16日にて営業運転を終え、1月18日は久里浜工場へ回送された。その後返却、除籍となり、同所にて解体された。",
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"text": "北総への譲渡の際にはこの経験が生かされた。",
"title": "改造・譲渡など"
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"text": "京急の新性能貨車は部品は再利用しているが車体は新製されたもので、車籍は引き継いでいない。デチは後に救援車となりデトに改造・改番された。本形式の全廃に伴い、営業車両と機器を統一するためデト6両の機器更新工事が行われ、台車・運転台機器・制御器などが交換された。",
"title": "改造・譲渡など"
}
] |
京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、1959年(昭和34年)12月に登場し、1960年(昭和35年)1月13日に営業運転を開始した、京浜急行電鉄の通勤形電車。新1000形の登場以降、識別のため旧1000形と呼ばれることがある。 本項では、1000形の試作車となった初代800形、京急車両工業(現・京急ファインテック)を通してリースされた京成電鉄1000形電車、ならびに千葉急行電鉄(現・京成千原線)1000形電車、京急から譲渡された北総開発鉄道(現・北総鉄道)7150形電車についても記述する。また、特記のない限り以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。 「1000形」は本形式、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を指す。
|
{{参照方法|date=2013年9月|ソートキー=鉄}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 京急1000形電車(初代)
| 背景色 = #CC1144
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Keikyu-1000-1-1333.jpg
| 画像説明 = 京急1000形電車(初代)<br />(2007年5月23日 平和島駅)
| 運用者 = [[京浜急行電鉄]]
| 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛/川崎重工業]]
| 製造年 = 1959年 - 1978年
| 製造数 = 356両
| 運用開始 = 1960年1月13日
| 運用終了 = 2010年6月28日
| 廃車 = 2011年3月29日
| 編成 = 2・4・6・8両編成
| 軌間 = 1,435 mm([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 110 km/h
| 設計最高速度 = 120 km/h
| 起動加速度 = 3.5 km/h/s
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s
| 非常減速度 = 4.5 km/h/s
| 車両定員 = 140人<br />座席定員 60(先頭車54)人
| 自重 = 35.0 [[トン|t]](非冷房車33.0 t、初期の冷房車36.0 t)
| 全長 = 18,000 mm
| 全幅 = 2,798 mm<br />デハ1095-デハ1098は2718 mm
| 全高 = 4,050 mm<br />車種により3,672 mm - 4,050 mm
| 車体材質 = [[炭素鋼|普通鋼]]
| 台車 =
| 主電動機 = 補償巻線付き[[直巻整流子電動機|直巻電動機]]
| 主電動機出力 = 75 [[ワット|kW]]または90 kW×4
| 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸撓み板式軸型継手]]または[[WN駆動方式|撓み歯車型軸継手]]
| 歯車比 = 77:14 (5.5) または88:19 (4.63)
| 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]
| 制御装置 = 電動カム軸式直並列複式
| 制動装置 = [[発電ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]]([[応荷重装置]]付き)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]・[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
| 備考 = 2009年時点で存在しない車両・編成も含む
}}
'''京急1000形電車'''(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、[[1959年]]([[昭和]]34年)[[12月]]に登場し、[[1960年]](昭和35年)[[1月13日]]に営業運転を開始<ref>『京浜急行80年史』</ref>した、[[京浜急行電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]の登場以降、識別のため'''旧1000形'''と呼ばれることがある。私鉄では淘汰された旧世代車の空き番号を再使用することは多いが、本形式と新1000形は同時に在籍しおよそ8年の間改番整理することもなかったという、大手私鉄では珍しい例である。
本項では、1000形の試作車となった初代800形、京急車両工業(現・[[京急ファインテック]])を通して[[リース]]された'''[[京成電鉄]]1000形電車'''、ならびに'''[[千葉急行電鉄]](現・[[京成千原線]])1000形電車'''、京急から譲渡された'''[[北総鉄道|北総開発鉄道(現・北総鉄道)]]7150形電車'''についても記述する。また、特記のない限り以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「[[浦賀駅|浦賀]]寄り」または「浦賀方」、北側を「[[品川駅|品川]]寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。
「1000形」は本形式、「新1000形」は[[2002年]](平成14年)登場の[[京急1000形電車 (2代)|1000形(2代)]]、「800形」は[[1978年]](昭和53年)登場の[[京急800形電車 (2代)|800形(2代)]]、「700形」は[[1967年]](昭和42年)登場の[[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]]、「600形」は[[1994年]](平成6年)登場の[[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]]を指す。
== 概要 ==
{{Sound|Keikyu kyu1000kei rokuon.ogg|京急1000形(初代)の走行音|(2010年6月13日 京急川崎 - 花月園前)}}
{{Sound|Keikyu kaitoku 1000 old yokosukachuoh.ogg|京急1000形(初代)のAR-2形空気圧縮機音・走行音(快速特急)|(1985年3月6日 京浜久里浜 - 横須賀中央間)}}
[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])1号線(現・[[都営地下鉄浅草線|浅草線]])乗り入れ用として計画され、乗り入れ開始に先立つ[[1959年]]に製造を開始、[[1978年]](昭和53年)までの19年間で旧デハ800形・850形からの編入車を含めて356両が製造された。
[[1968年]](昭和43年)までの製造車では車体製造者により[[鉄道車両の台車|台車]]が異なり、電装品の製造者により駆動方式、歯車比、電装構成が異なっていたが、[[1971年]](昭和46年)以降の製造車では統一されている。
全車電動車の2両1ユニットで構成、M1系車に主制御器、M2系車に補器類を搭載する。電装品などの一定の制約のもとで比較的自由に編成替えを行うことが出来、[[1970年代]]から[[2000年代]]に至るまで頻繁な編成替えで需要の変化に対応してきた。
1968年[[6月21日]]の都営1号線[[直通運転|相互乗り入れ]]開始以降直通運用に使用され、都営浅草線・京成電鉄・北総鉄道北総線の各線で運用されたが、2008年[[11月7日]]に乗り入れ運用を終えている。
[[操縦席|運転台]]の有無や搭載機器に関わらず、356両すべての車両形式が「デハ1000形」であるため、単一形式としては私鉄最多製造車両である<ref group="注">1系列での私鉄最多両数は[[東武鉄道]][[東武8000系電車|8000系]]であり、本デハ1000形のちょうど2倍の712両。</ref>。基本的には連番で車両番号が附番されたが、登場時の編成両数ごとにまとまった番号としたため欠番があり、最終期には欠番を埋めるように製造されている。
長期にわたって京急を代表する通勤車両として親しまれてきたが、[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]などの省エネルギー車に置き換えられ、2010年6月27日に「[[さよなら運転|ありがとう運転]]」<ref>[https://web.archive.org/web/20100627162719if_/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/20100623.shtml 50年間活躍した1000形が引退します。さようなら記念乗車券発売&ありがとう運転を実施いたします](京浜急行リリース・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2010/06/28/210700.html|title=京急「1000形ありがとう運転」を実施|accessdate=2012-05-09|publisher=交友社 railf.jp}}</ref>を行ったのち翌28日に営業運転を終了した<ref name="ZENPAI">{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2010/06/29/205900.html|title=京急1000形が営業運転を終了|accessdate=2012-05-09|publisher=交友社 railf.jp}}</ref>。営業運転終了後もデハ1351-デハ1356の2両編成が[[京急クト1形電車|クト1形]]の牽引用として車籍を有していたが、[[2011年]][[3月29日]]付で除籍され、形式消滅した。
== 分類方法 ==
製造が長期にわたったため、途中大きな設計変更が何回か行われている。その後の改造により仕様差異は縮小したが、廃車時まで細部に残った差で製造時ごとに分類することができた。700形登場以前に製造された前期製造車 (1001 - 1242) と冷房装置を搭載して製造された後期製造車(1243より大きな番号の車両と、1079・1080)では搭載機器が異なる。前期製造車と後期製造車は混結可能であるが、固定編成中に両者が混在した事例はない。
製造年次ごとに細かい差異はあるものの、大きくは以下のように分類される。
* '''1095 - 1098''' 1958年に800形(初代)として製造され、後に1000形に編入された車両。
* '''1001 - 1048''' 1959年・1960年に製造された車両。登場時は運転台正面が非貫通型。
* '''1049 - 1078'''、'''1101 - 1130''' 1961年・1962年に製造された車両。運転台正面が貫通型となった。
** 1962年製造車は行先表示装置などが装備されたため、別分類とされることもある。
* '''1131 - 1196'''、'''1201 - 1206''' 1964年 - 1966年に製造された車両。前面に行先・種別・運行番号を表示する窓が独立して設けられるとともに、連結面が折妻とされた。
* '''1207 - 1242''' 1968年に製造された車両。連結面後退角が縮小されたほか、換気装置変更などが行われた。
* '''1243 - 1298'''、'''1301 - 1348'''、'''1351 - 1380'''、'''1079'''、'''1080''' 1971年から1978年の製造車。冷房装置の搭載、空気ばね台車の採用などが行われた。
** '''1251 - 1290'''は主電動機出力が異なるため、別分類とされることがある。
** 製造期間が比較的長いため、外観に現れる細かい差異があったが、特に1977年・1978年製造車は側面方向幕を装備していたため、別分類とされることがあった。
書籍などによって、以下のような呼称・分類が見られる。
* 搭載冷房装置の違いから前期製造車を「分散冷房車」、後期製造車を「集中冷房車」または「新製冷房車」と呼ぶ分類
* 更新工事以後の行先・種別表示器の地色の違いから前者を「白幕車」、後者を「黒幕車」と呼ぶ分類
* [[吉村光夫]]が執筆した書籍で前期増備グループを1 - 4次車、後期増備グループを5次車とするグループ分け
* 京急電車ファンクラブが発行した資料での7グループへの分類、また同クラブ関係者がその後行った6グループへの分類
本項では356両全車が存在した1978年から1986年の車両番号をもとに分類する。
== 構造 ==
=== 外観 ===
全長18 [[メートル|m]]、幅1,200 [[ミリメートル|mm]]の片開き3扉、ドア間窓3枚、車端部窓2枚、運転台後部窓1枚。
初期の車両は前面非貫通型で登場したが[[1961年]](昭和36年)からは構造基準改定に対応して前面貫通型に、[[1963年]](昭和38年)からは[[方向幕]]などが独立した窓に収められた形態に変更された{{Refnest|group="注"|この前面形状は[[東武1720系電車#1700系|東武1700系電車]]のそれを模倣したとする説があり、特に方向幕や[[アンチクライマー]]の取り付け位置は両形式でほぼ同一である<ref>花上嘉成(2016):波瀾万丈!東武鉄道マン記、p.82 - 83、交通新聞社</ref>。}}。非貫通型と初期の貫通型も後に貫通型・独立方向幕窓に改造されている。客用窓は2段上昇式とされ、当初は全開することが可能だったため保護棒が取り付けられていたが、同様に構造基準改定により下段窓の上昇幅が150 mmに制限されたため、これに対応して下段窓の上昇幅を一部を除いて90 mmとし、保護棒は撤去された。冷房車の下段窓は当初固定式だったが、[[1977年]](昭和52年)以降の製造車は非冷房車同様に上昇式とされ、既存車ものちに同様に改造された。[[戸袋]]窓はHゴム支持の固定式である。初期車はHゴムが灰色だったが後期車は最初から黒になり、後に全車が黒に変更された。
奇数番号車のドアは品川方に向かって開き、偶数番号車はこの逆に開く。M1車系に主制御器・パンタグラフ、M2車系に補器を搭載している。
=== 内装 ===
[[File:Keikyu 1000kei syanai.JPG|thumb|220px|京急1000形内装(2010年6月5日)]]
内装色は、当時製造中だった[[日本国有鉄道]](国鉄)[[国鉄101系電車|101系電車]]などと同様に壁がオリーブグリーン、天井が白、座席が青、床色が薄緑。座席は[[鉄道車両の座席#ロングシートの採用例|ロングシート]]。非冷房車は丸屋根で換気装置はファンデリア(1966年以前製造)、首振り[[扇風機]](1968年製造)、1961年・1962年製造車の更新後はラインデリア。冷房車は平天井。各グループ更新前はアルミサッシ室内のRなど製造者による細かい相違が見られた。
=== 主要機器 ===
製造途中で使用機器が何回か変更されている。また、1966年以前の製造車では電装品は東洋と三菱が独自に設計したものが使用され、混成してユニットを組むことができず、駆動方式も異なっている。また、車体製造者が設計した独自の台車(東急製 : TS310系、川崎製 : OK-18系)を装着し、原則として東急製の車両には東洋製電装品、川崎製の車両には三菱製電装品が装備されたが、一部に川崎+東洋の組み合わせが存在した。各製造時で東急製と川崎製の比率がほぼ1:1となるよう製造されたため、両社製が混在する編成や、1編成内に2種類の電装品を持つものも存在した。
==== 主電動機 ====
* 1095 - 1098 : 東洋製TDK-810A (75 k[[ワット|W]]) →TDK-815A (75 kW)
* 1001 - 1078、1101 - 1130 : 東洋製TDK-810/6H (75 kW) または三菱製MB-3058A (75 kW)
* 1131 - 1242 : 東洋製TDK-815A (75 kW) または三菱製MB-3058BC (75 kW)
* 1243 - 1380、1079・1080 : 東洋製TDK-815/1B (75 kW / 90 kW)
==== 駆動方式・歯車比 ====
* 東洋製主電動機搭載車 : [[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸撓み板式軸型継手]]、77:14 (5.5)
* 三菱製主電動機搭載車 : [[WN駆動方式|撓み歯車型軸継手]]、88:19 (4.63)
==== 主制御器 ====
電動カム軸[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]方式、直列10段、並列6段、弱め界磁5段<ref group="注">FグループのABF-128-15-MDHCは弱め界磁段を6段として弱め界磁率20 %に対応させたが、通常は5段目までしか使用されなかった。</ref>。[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱め界磁制御]]を広範囲(最弱め界磁率25 %、90 kW車は20 %)で使用する。
* 1095 - 1098 : 東洋製ACDF-H875-560C
* 1001 - 1078、1101 - 1130 : 東洋製ACDF-H875-566Bまたは三菱製ABF-108-15-MDHB
* 1131 - 1242 : 東洋製ACDF-H875-703Bまたは三菱製ABF-108-15-MDHC
* 1243 - 1380、1079・1080 : 三菱製ABF-128-15-MDHC
==== 台車 ====
* TS-310系([[東急車輛製造]]製、コイルばね、鋼板溶接ウイングばね式)
* TS-313(東急車輛製造製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接ウイングばね式)
* TS-811(東急車輛製造製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接軸箱式)
* [[川崎車輌OK形台車|OK]]-18系(川崎車輛<!--社名はこの表記が正当-->/[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]製、コイルばね、鋼板溶接軸梁式)
* OK-22(川崎車輛製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接軸梁式)
* [[国鉄DT32形台車#派生形式|TH-1000]](東急車輛製造、川崎重工業製、空気ばね車体直結ウイングばね式)
<gallery>
File:Kekyu1000 bogies.JPG|1114号車のOK-18系台車(左)と1117号車のTS-310系台車(右)
File:Keikyu TS811.JPG|TS-811台車
File:Keikyu 1000 Series EMU 007.JPG|TH-1000台車
</gallery>
==== 集電装置 ====
M1系車に搭載。1095 - 1098登場時と、1001 - 1068のM1U車は浦賀寄り、それ以外は品川寄りに搭載。
* 東洋製PT-43系菱形[[集電装置|パンタグラフ]]
==== 補助電源装置 ====
下記電動発電機をM2系車に搭載。
* 1001 - 1078、1095 - 1098、1101 - 1130 : 東洋製 TDK-315 (DC7.0 kW) または三菱製 MG-54D-S (AC3.0 k[[ボルトアンペア|VA]], DC3.5 kW)
* 1131 - 1242 : 東洋製 TDK-365 (AC7.5 kVA) または三菱製 MG-131 (AC7.5 kVA)
* 1243 - 1380、1079・1080 : 三菱製 MG-111系 (AC75 kVA)
* 冷房改造車 : 東洋製TDK-3735系 (AC75 kVA) または三菱製 MG111系 (AC75 kVA)
==== 空気圧縮機 ====
下記空気圧縮機をM2系車に搭載。
* 1001 - 1078、1095 - 1098、1101 - 1130(1017編成を除く) : A-2 レシプロ式
* 1017編成 : A-3 レシプロ式、のちにAR-2 回転翼式
* 1131 - 1380、1079・1080 : AR-2 回転翼式
==== 冷房装置 ====
* 製造時からの冷房車 : 屋上[[集中式冷房装置|集中式]][能力36,000 kcal/h (41.8 kW)、製造時は三菱CU-71系または[[日立製作所]]FTUR-550-206/209系、後に[[東芝]]RPU-11009も搭載]1基
* 冷房改造車 : [[集約分散式冷房装置|集約分散式]][能力8,500 kcal/h (9.8 kW)、東芝RPU-2209系]4基<ref group="注">[[集約分散式冷房装置]]、[[分散式冷房装置]]での定義に従うと、冷気ダクトの有無が両者を峻別する。本形式の場合パンタグラフ下部にのみダクトがあるため、どちらに分類するべきかは判断が分かれている。</ref>
== 製造年式およびその差違 ==
製造時ごとの特徴をまとめる。各グループ固有の改造工事はこの項にまとめ、グループに跨る改造は別項としてまとめた。
=== 800形(初代)→1095 - 1098 ===
[[File:Keikyu 1096 Hemi.jpg|thumb|220px|1000形1095編成(1986年 逸見駅)]]
[[1958年]]に本形式の試作車として800形(初代)の'''デハ800形・デハ850形'''の車両形式で4両が製造された。
編成構成は浦賀寄りにデハ800形、品川寄りにデハ850形を連結した2両編成でデハ800形の運転台側にパンタグラフを搭載した。製造当初は当時の流行に倣い、前面が[[京急700形電車 (初代)|700形(初代)]]などのように非貫通・2枚窓のいわゆる湘南電車スタイル、[[京急600形電車 (初代)|600形(初代)全金車]]とほぼ同形の車体だが、ドア幅が1,200 mmに拡張されている。扉配置がやや運転台寄の前後非対称で、主要機器・性能は700形(初代)と同一。車体幅が量産車に比べて80 mm狭く、貫通路幅が量産車の1,100 mmより狭い1,000 mmとなっていた。
製造時は700形(初代)と同一の補償巻線無し東洋電機製造製TDK-810A主電動機を搭載していたが、1958年末には東洋製補償巻線付きTDK810/3-E(端子電圧375 [[ボルト (単位)|V]]、電流225 [[アンペア|A]]、1時間定格出力75 kW、定格回転数1,600 [[rpm (単位)|rpm]]、最弱め界磁率25 %)を搭載し、翌年1月に公開試験を実施した<ref group="注">これに伴い、定格速度は59 km/hから47 km/hになった。</ref>。制御器にも最弱め界磁率25 %に対応するため改造が行われ、名称がACDF-H875-560BからACDF-H875-560Cに変更された。1963年には[[回生ブレーキ]]の試験に使用されるなど、各種試験のテストベッドとなった。
この4両は[[1965年]](昭和40年)10月に1000形 (1095 - 1098) に改番し、[[1966年]](昭和41年)には主[[電動機]]を交換<ref group="注">このとき、TDK810/3-Eはすべて東洋電機製造に返却され、各種試験に供したのち処分されている。</ref>、量産車と性能を揃えた<ref group="注">ただし、弱め界磁率は31 %に制限された。</ref>。[[1968年]]に[[前照灯]]の[[シールドビーム]]化と正面に[[方向幕|行先・種別表示器]]、側面に種別表示器を設置、[[1969年]]には主制御器を1095編成はACDF-H875-566Aに、1097編成はACDF-H875-703Aに交換<ref group="注">取り外されたACDF-H875-560Cの1台は新町検車区にて運転士の教習用教材として使用された。</ref>。
地下鉄乗り入れ計画があったにもかかわらず非貫通型となっていたのは「運転室が広くとれる」、「隙間風が少ない」などの面が乗務員に京急以外でも好まれていたためでもあるが製造当時では法的に問題ないとされていた。
だが地下区間では乗客の避難に支障が出ることとなり基準変更で[[貫通扉]]設置が義務となったため[[1973年]](昭和48年)に前面に貫通扉が設置され、内装の張り替え、[[列車無線]][[アンテナ]]搭載に伴うパンタグラフ位置の品川方への変更、貫通路幅の拡大および妻面窓の外側への移設、運転台拡張に伴う運転台直後の窓の連結面側へ100 mm移動、内装の全面的張替え、換気装置の首振り扇風機化、主抵抗器の更新などの工事が行われた。
各種更新工事を施したものの、このグループの地下鉄乗り入れは末期でしかなかったといい、冷房改造されずに[[1988年]](昭和63年)1月31日付で廃車となり、1095と1096の機器の一部は[[京急デト11・12形電車|デト11・12]]へ、1097と1098の機器の一部は[[京急デチ15・16形電車|デチ15・16]]へそれぞれ転用された。
=== 1001 - 1048 ===
[[File:Keikyu 1009 to Misakiguchi.jpg|thumb|220px|1000形1009編成(1988年5月 三浦海岸駅)]]
[[1959年]]から[[1960年]](昭和35年)にかけて製造された4両編成12本が該当する。車体幅が80 mm拡大されて2,780 mm(最大幅2,798 mm)となり、連結面後退角の縮小により扉配置が前後対称となった。製造当初より前照灯はシールドビームである。試作車の試験結果から、主電動機を低回転、補償巻線付き仕様に変更した。定格速度は試作車の47 [[キロメートル毎時|km/h]]から43 km/hとさらに低くなった。2両1ユニットを背中合わせに組み合わせたM2U-M1U-M1S-M2Sの編成を組み、両先頭車がM2系車とされたため、2両編成とすることができない。
試作車と同様に非貫通・2枚窓で製造されたが、[[1969年]](昭和44年)から[[1972年]](昭和47年)にかけて朝[[ラッシュ時]]の10両編成運転拡大による2両編成の需要増加に対応するため、1131 - 1242の6両編成を2両編成化して中間車を本グループに組み込み、本グループ先頭車を正面貫通扉付きに改造した上、6両編成化して地下鉄乗り入れ運用に充当する工事が行われた。先頭部形状は当時製造されていた車両と同様とされたが[[アンチクライマー]]は位置をずらした上で流用していたため最下段が半分切り欠かれていた。
この工事に合わせ、室内電装系の[[交流]]電源化、ファンデリアの撤去と首振り[[扇風機]]化、客室[[蛍光灯]]カバーの撤去、側面種別表示器の設置が行われた。初期に改造された4編成は種別表示器が他車よりも低い位置にあった。屋上のモニタールーフは撤去され、1207 - 1242と同様に狭幅の[[繊維強化プラスチック|FRP]]製カバーが設置された。
最後に改造された4編成は内装の張り替えも行われ、この4編成のみ久里浜工場の更新[[銘板]]が取り付けられていた。
その後[[1979年]](昭和54年)から[[1984年]](昭和59年)にかけて冷房改造が施工された。冷房改造は[[#冷房改造|別項]]を参照。本グループでは1001編成を除く三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。
1017編成は[[鉄道車両の台車|台車]]の枕ばねに[[空気ばね]]を試験採用(東急TS-313形・川車OK-22形)しており、空気ばね採用による空気使用量増加のため、空気圧縮機がBグループ他車のA-2形に対しA-3形を搭載していた。後に1131以降と同じAR-2形に載せ換えられている。
1988年から廃車が始まり、一部は[[高松琴平電気鉄道]](12両)と北総開発鉄道(現・[[北総鉄道]]、1962年製の12両を含む16両)に譲渡されたが後者は廃車となった。京成電鉄には8両がリースされ、後に4両が返却・廃車され、残りの4両が千葉急行電鉄(現・京成千原線)へもリースされたが廃車となった。
=== 1049 - 1078、1101 - 1130 ===
[[File:Keikyu 1052 limited express.jpg|thumb|220px|快特増結運用に就く1049編成(1986年6月 金沢文庫駅)]]
[[ファイル:Keikyu1113 Hemi 1985.JPG|thumb|220px|冷房改造直後の1113編成(1985年2月 逸見駅)]]
[[1961年]](昭和36年)から[[1962年]](昭和37年)にかけて製造された1049 - 1068の4両編成5本・1069 - 1078の2両編成5本・1101 - 1130の6両編成5本が該当する。これらは落成当初から前面に貫通扉を設けているが、方向幕窓などが設けられていなかったため、前面のスタイルは1131以降の車両とは異なっていた。
1961年製造車は4両編成・2両編成各5本で、製造当初行先・種別表示器がなかった。1966年から[[1967年]](昭和42年)にかけて正面窓内側上部に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置した。4両編成は1001 - 1048と同様の「背中合わせ」ユニット、2両編成では本形式量産車で初めてM1系の先頭車が製造された。
1962年製の1101 - 1130の6両編成5本は2両単位で組み替えできるように浦賀方先頭車が主制御器搭載のM1系とされ、M2系の中間車が初めて製造された。製造当初から正面窓内に[[明朝体]][[書体|フォント]]の行先・種別表示器、側面には[[ネオン管]]式種別表示器を設けた。ネオン管式種別表示器は視認性が悪く、故障が多かったため、後に[[ゴシック体]]幕式に改造された。このグループは京急で初めての6両固定編成である。本グループまで[[圧縮機|空気圧縮機]]にレシプロ式A-2形を採用した。
1001 - 1048の前面貫通化工事に続いて、[[1974年]](昭和49年)から[[1976年]](昭和51年)にかけて本グループの更新工事が行われた。当時すでに新造車が冷房装備となっていたこと、600形(2代)で冷房改造の実績があったことから冷房化の構想もあったが、軸重増加により地下鉄乗り入れが不可能となる問題が当時解決できていなかったため冷房搭載は見送られた。前面の行先・種別表示器を1131以降と同様正面窓内から独立させ、併せて側面にゴシック体行先・種別表示幕を設置、換気装置はファンデリアを撤去してラインデリアとした。屋上モニタールーフは残されたが、更新前の2段式から3段式に交換された。
このグループは[[1983年]](昭和58年)から[[1986年]]にかけて冷房改造が施工されたが、1049 - 1052の4両は冷房改造されずに1986年8月31日付で本形式初の廃車となった。
三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。このグループの冷房改造時のみ中間車連結面の雨樋縦管が露出したままとされた。
冷房改造の際にはパンタグラフの周り配管は経路が大幅に変更され、ヒューズ箱が車端部に移った。先頭車はアンテナの位置が運転室寄りの車端部に近付いたことから滑り止めとなる部分が若干長くなった。それ以後のグループは改造時期により滑り止め部分の境界の処理形状が全車において完全一致していない。
[[1991年]]([[平成]]3年)から冷房改造車の廃車が始まり、1071編成以外は[[1996年]](平成8年)までに廃車された。1071編成は唯一廃車まで編成替えされず終始2連で使用されたため走行距離が少なく、44年にわたって運用された後[[2005年]](平成17年)[[3月]]末に廃車され、本グループは消滅した。
1107編成と1113編成は廃車直前に品川方2両を交換した。この2編成は本形式で唯一浦賀方先頭車と品川方先頭車の組み合わせが変更された例であり、このままの編成で1005編成と北総開発鉄道に譲渡された。
1125は更新工事施行時に[[架線]]観測用の「潜望鏡」が設置可能な構造とされ、冷房改造時以降は架線観測装置に置き換えられた。該当車両の廃車により1500形1601を経て655-3に移設された。
=== 1131 - 1196、1201 - 1206 ===
[[ファイル:KHK 1201 Takasago.jpg|thumb|220px|1201編成(1994年10月京成高砂)]]
[[1964年]](昭和39年)から1966年にかけて製造された6両編成12本が該当する。このグループから前面の行先・種別表示器が窓内から独立して現行の本形式の前面スタイルが確立した。連結面が折り妻となり、妻部屋根肩も小さくなった。客室内電装品が交流化され、客室内蛍光灯カバーは省略された。側面に電動式種別幕が設けられたが、前面の種別幕は手動とされた。側面種別幕は表示可能コマ数の制約により「[[普通列車|普通]]」が表示されず、普通列車運用時は表示なし、バックライト消灯となっていた。空気圧縮機はロータリー式のAR-2形に変更した。東急車輛製造で1964年に製造された1143編成と1201編成のみ先頭車前面の行先・種別表示器部分の造型が他車とはわずかに異なっていた。
冷房改造は1976年から[[1982年]](昭和57年)にかけて施工された。
1173と1178は1988年から[[貨車]]扱いとされ、[[2002年]](平成14年)に廃車された。2005年2月にこのグループで最後まで残っていた1179編成が廃車となり消滅した。
=== 1207 - 1242 ===
[[ファイル:keikyu1237shimbamba.JPG|thumb|220px|1237編成]]
1968年に製造された6両編成6本が該当する。このグループから地下鉄乗り入れに備えて当初から先頭部[[連結器]]がNCB-II形密着自動連結器化され、1号型ATS・列車無線を装備、3両+3両に仕切れるよう4号車浦賀方に中間貫通扉を設けたほか、運転台の機器は当初から乗り入れ仕様に合致して配置されている。モニタールーフが廃止され、狭幅のFRPのカバーを設置、換気装置をファンデリアから首振り扇風機に変更、連結面後退角のさらなる縮小、座席形状の変更など、同時期製造の[[京急700形電車 (2代)|700形]]の要素を盛り込んだものとなった。
1976年から1982年にかけて冷房改造が施工されたのち、2005年3月までに廃車された。
=== 1079・1080、1243 - 1298、1301 - 1348、1351 - 1380 ===
[[ファイル:Keikyu 1283 tokkyu shinagawa.jpg|thumb|220px|1000形1283編成(1985年 品川駅)]]
[[1971年]]から[[1978年]]にかけて製造された1079 - 1080(2代目)の2両編成1本、1301 - 1348の4両編成12本、1351 - 1380の6両編成5本、1243 - 1298の8両編成7本が該当するが、番号通りの編成で落成しなかった車両も少なくない。このグループは集中式冷房装置を搭載、京急初の新製冷房車となった。冷房化により自重が増加したため、主電動機の熱容量を向上した。1971年・1972年製デハ1251 - デハ1290は主電動機出力75 kWだったが、走行特性は従来車と揃えたまま1974年製以降は主電動機定格電流を225 Aから270 Aに上げ、90 kWに出力増強された。併せて定格回転数を従来の1,550 rpmから1,450 rpmに変更、定格速度は43 km/hから40.7 km/hになっている。台車は川崎重工業設計の車体直結空気ばね式とされ、同社と東急車輛の両者で同一の台車を製造した。モーターは東洋、制御装置と補助電源装置は三菱製でそれぞれ統一された。その他、車内は乗務員室と客室の仕切り扉が[[ステンレス鋼|ステンレス]]製から軽合金製となった。1973年は12両編成運転開始に備えた設備増強に注力したこと、[[1975年]](昭和50年)は前年7月の久里浜地区[[昭和49年台風第8号|水害]]で損傷した車両の復旧工事を優先させたため新製がなかった。増備の過程で、広告枠の増設、先頭部の雨樋形状の変更など、細部の変更が行われた。
1974年までに製造された68両は当初都営1号線の軸重制限を超過したため他社・局線には入線できなかったが、後に軽量車輪への交換によって入線できるようになった。また、[[1987年]](昭和62年)までは地下鉄線内では冷房を使用しなかったため、窓に地下鉄線内では冷房を使用しない旨の注意ステッカーが貼付されていた<ref group="注">実際には品川駅で冷房スイッチを切った後、泉岳寺駅で都営乗務員が再度入れるケースが殆どであった。</ref>。
車両番号は製造順ではなく、1079・1080(2代目)は1978年製、最終製造車両も同年製の1243 - 1250である。
1976年までの製造車は手動式方向幕、側面は種別幕のみだったが、同年製造車の中間車となった1338・1339を除いて[[1977年]](昭和52年)以降製造の車両には1049 - 1068の更新で設けられたものと同じ電動方向幕が正面および側面に設置された。1980年代中期の1341編成と1375編成など、編成替えにより側面方向幕設置編成に側面種別幕のみ設置の中間車が組み込まれた例もあった。
1337には積算電力計が設けられていた。電力計測時にはこの車両を中間に入れる必要があり、6両編成での地下鉄乗り入れに備えて[[1970年代]]後半から1980年代にかけて1332と1080の品川方に貫通幌が取り付けられていた。
このグループは、グループ内であれば更新工事施工前の側面電動方向幕有無による制約を除いて編成替えの制約がなく、まとまった両数があったため頻繁に編成替えが行われ、このグループは全編成が番号通りの編成だった時期は一度もない。唯一[[1990年]]頃に1243 - 1298、1301 - 1348の全編成が番号通りの編成になったことがあるが、この時も1351 - 1380は8両編成3本、4両編成1本、2両編成1本の組成であった。
1988年頃の定期検査入場時に1500形と同一材質のブレーキシューに変更、摩擦材特性にあわせて速度が10 km/h以下になるとブレーキシリンダの圧力を半減させる装置(B-55装置)を撤去した。工事中および工事施工済み編成の運転台には「B装置改良車」の表示があった。
非冷房で製造された車両の冷房改造に続いて、[[1988年]]から[[1994年]](平成6年)にかけて更新工事が施工された。主な内容は以下の通りである。
* 屋上[[ベンチレーター|通風器]]の撤去
* 屋根の補修
* 連結器部分の小改造
* 行先表示器制御のSPC方式への改造と白色幕から黒色幕への変更、手動幕車への電動幕の設置、側面方向幕未設置車への方向幕の設置。
* 1992年以降の更新車両は[[抵抗器]]の配列を変更し、中央扉直下に発熱量が少ない部分を再配置。
* 戸閉灯器を[[発光ダイオード|LED]]表示灯に交換。その後LEDの故障などで1309・1312は[[電球]]2灯にされた。
* 一部の編成に戸閉選択装置を取り付け。
* 1251・1259・1309編成は[[1990年代]]初頭の連結器交換前に更新されたので、品川寄りに[[ジャンパ連結器|ジャンパ栓]]の跡が残る。
* 内装は全面的に張り替えられたが、配色およびレイアウトはほとんど変更されていない。
[[1993年]](平成5年)度に[[京急600形電車 (3代)|600形]]用試験として、更新工事のため久里浜工場に入場していた一部の車両を使用して[[鉄道車両の座席|クロスシート]]試験を行ったが、この状態での営業運転は行われなかった。
1号形ATSの更新に伴い、C-ATSを搭載する改造が2007年までに行われた。本グループでも廃車が近い編成は対象外とされ、本グループ以外にこの工事を施工した編成はない。運転台計器パネルにあるATS表示灯は塞がれ、壁面にアイボリーのLED式表示器が増設された。
== 各種工事 ==
=== 冷房改造 ===
[[File:Kotoden 1092 air conditioner 20170820.jpg|thumb|220px|冷房改造車の冷房装置車内側<br/>琴電譲渡車のもの(2017年8月)]]
[[File:Kotoden 1091 air conditioner 20170820.jpg|thumb|220px|パンタグラフ直下のみ冷気吹出口は冷房機直下からオフセットした位置にあった<br/>琴電譲渡車のもの(2017年8月)]]
[[1976年]](昭和51年)から非冷房で製造された車両を対象に冷房改造工事が行われた。冷房装置は東芝RPU-2209系が採用され、1両につき4台が設置された。内装も全面的に貼り替えられ、新製冷房車同様に極力無塗装化が図られた。冷房改造前に腐食対策として雨樋縦管を露出させる改造が施されていたが、これを耐食管とすることで本改造時に埋め込んだ。[[天井]]部は平天井構造となったが、パンタグラフ下部を除きダクトは設けられていない。[[電動発電機]]は容量75 kVAのものに交換され、1台で2両に給電する。方向幕は電動化されたが、側面方向幕は奇数車海側、偶数車山側のみに設置され、初期の改造車は種別幕のみで残った奇数車山側、偶数車海側に冷房改造前と同様「普通」が表示されなかったが、[[1983年]](昭和58年)頃の改造車から「普通」が表示されるようになり、それ以前の車両も同様に改造された。1001 - 1048で側面種別幕位置が低かった編成は冷房改造時に他車と同位置に改造されている。冷房改造前から全車両側面に方向幕を持つラインデリア車は全車設置とされた。OK-18系台車は重量増加に対応して台車枠の補強が行われ、1977年(昭和52年)に台車枠だけをOK-18Mとして4両分製造している。OK-18系台車装備車で初の冷房改造車となった1137編成は冷房機本体を搭載せずに出場し、2週間後に冷房機を搭載している。
初の冷房改造車である1179編成は、改造当初冷房装置のキセ(カバー)がイボ付きビニールでコーティングされた鋼製の黒いタイプであり、その外観から一部で「装甲冷房車」と呼ばれていたが、[[1981年]](昭和56年)[[9月]]に他編成と同じFRP製の白いキセに取り替えられた。改造は長期にわたったが、期間中大きな設計変更は行われず、末期に連結器交換準備工事が併施されたことによる変更がある程度である。[[1982年]]に冷房改造を受けた1029編成の1032は2000形の登場を前に試験的に[[静止形インバータ]]を搭載したが、定期検査の際に電動発電機に戻されている。
全車冷房改造完了を目前にして廃車が始まり、1049・1095・1097の各編成には冷房改造が施工されなかったが、本形式の冷房化完了を以って、京急では関東大手私鉄では初めて冷房化率100%を達成した(実際には[[相模鉄道]]が1987年に冷房化率100%を達成していたが、当時相鉄は[[大手私鉄]]ではなかったため、関東大手私鉄での冷房化率100%を初達成したのは京急であった)。
====冷房改造に伴う編成替====
冷房改造は番号通りの編成単位で行われ、改造後は番号通りの編成に戻る例がほとんどだったが、例外として1976年施工の1143編成と[[1977年]]施工の1149編成は中間車を入れ替えて出場、後に番号通りの編成に戻った。1137編成と1173編成は冷房改造時に3号車・4号車を交換し、1987年の編成替えまで運用された。[[1982年]](昭和57年)施工の1187 - 1188は1029編成に挟まれて出場、4か月後に1185編成が出場された際に番号通りの編成に戻った。1983年[[7月]]に出場した1121 - 1122は同時期に[[日本の鉄道車両検査|検査]]入場していた1009編成に挟まれて出場、1119編成が冷房改造された後も3年程度この編成のまま運用された。1115 - 1116は1113編成と同時に施工されたが、先頭車の密着連結器化準備工事の影響により、当初の1か月は1037編成に含まれ、その後続いて冷房改造された1075編成に含まれて運用されたが、その後1か月程度で番号通りの編成に戻っている。
=== 台車交換 ===
本形式では定期検査入場の都度予備台車を活用した入場期間短縮のため、台車の振り替えが頻繁に行われていたが、同一系列台車間の交換はここでは対象としない。
==== TS-811化 ====
[[1971年]]に試作空気ばね台車を装備していた1017編成の中間にデハ1145 - デハ1146を組み込む際に台車をTS-310系から東急製TS-811形に交換、その後[[1977年]]の冷房改造時にデハ1145 - デハ1146が1143編成に戻る際に編成全体をTS-811に交換した。その後、次項のOK-18台車振り替え用および試作空気ばね台車淘汰用TS-310台車捻出のため、1155編成とデハ1173 - デハ1174 - デハ1139 - デハ1140 - デハ1177 - デハ1178も[[1978年]]の冷房改造時にTS-811に交換された。
==== OK-18のTS-310への振り替え ====
川崎車輛で製造され、東洋製電装品を装備するデハ1029・1030・1041・1042・1059・1071・1072・1077・1078・1097・1098・1115には中空軸撓み板式軸型継手駆動用のOK-18台車 (OK-18C・G・I・K) が装備されていたが、これを[[1977年]]・[[1978年]]に上述のTS-811化で捻出したTS-310系台車と交換した。
==== 試作空気ばね台車交換 ====
1017編成で試用されていた試作空気ばね台車OK-22・TS-313は1977年にTS-310に交換されて姿を消した。
=== 連結器交換 ===
本形式の先頭部は2回の連結器交換が行われている。
==== NCB-II型への交換 ====
[[1968年]]からの地下鉄乗り入れに備えて、1966年以前に製造された先頭車は連結器をK-2-Aから直通規格で定められたNCB-II型と連結可能なNCB-6型に交換、その後NCB-II型に交換した。工事中は連結器高さを変更するため、新連結器を避けるための車体下部切り欠き形状などにバリエーションがあり、初期だと蓋があった車両もあった<ref group="注">NCB-6型は従来の連結器の頭部のみを交換することで取り付け可能で、NCB-II型と連結することができた。</ref>。
==== CSD-90への交換 ====
[[File:Keikyu 1000 Coupling.jpg|thumb|220px|「三相ジャンパ」が残る連結器交換準備工事未施工車(左)と、連解制御箱が設置された施工済車(右)]]
連結作業の省力化のため、電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が[[1989年]](平成元年)頃に行われた。[[1985年]](昭和60年)冷房改造の1113編成から準備工事が始まり、在来車についても定期検査とは別に入場させて同工事が順次施工された。外観に現れる標準的な工事は運転台および先頭車海側床下への連結器制御盤の取り付け、冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の撤去および連結器胴受の交換だったが、工事期間中に[[1987年]]のダイヤ改正に伴う2+6編成や4+4編成が出現、編成間で冷房・自動幕指令を共有する必要が生じたため、該当編成への青色ジャンパ再取り付けなど細かい様々なバリエーションが見られた。本工事と合わせて補助警笛が電子ホーン化された。その後1989年の1137編成を皮切りに1991年(平成3年)にかけて連結器本体の交換、非常用中間連結器の搭載などの本工事が行われた。また、本工事に先立って連結器制御盤取付用スペース確保のため冷房車の先頭車海側に設けられていた三芯のジャンパ栓(三相ジャンパ)が撤去された。本ジャンパ栓は冷房用電源故障時に編成間で給電を行えるよう設けられていたものだが、[[1984年]](昭和59年)冷房改造の1005編成以降はこれを設けずに出場し、従来車も[[1985年]]1月に定期検査出場した1259編成以降定期検査時に撤去された。
==== 中間車連結器の交換 ====
1960年代後半以降中間部の連結器はCSE-55形棒状連結器とされていたが、新町検車区で車輪を削正する際に該当設備に8両編成が入れないため、編成を6+2に容易に分割できるよう中間部に廻り子式密着連結器を装備していた。その後1978年頃に4+4に分割するよう変更されたが、同設備に8両編成が入れるようになったため、1990年代中ごろの定期検査入場時に棒状連結器に戻されている。
=== 中間車貫通仕切り扉の設置 ===
1207以降の6両編成4号車と8両編成4・6号車の浦賀方には両開きの貫通仕切り扉を設置されており、[[1970年]]に1101 - 1206の6両編成にも同様に貫通仕切り扉が設置されたが、連結面後退角が大きいため、扉のレールが「へ」の字型になっていた。[[1981年]](昭和56年)以降、編成替えにより6両・8両編成となっていたデハ1262・1302・1310・1314・1322・1334・1342・1346・1352に貫通仕切り扉が設置された。改造車の外側窓は2段式アルミサッシのままとされたが、非冷房車は冷房改造時に、冷房車は更新改造時にHゴム1枚窓に改造されている。1101 - 1130の妻面は大きなRで構成されていたため、該当窓取り付け部が平面に改造され、周囲の外板と段差があった。1301 - 1348の更新時に貫通仕切り扉がない4両編成の3号車に組成される1327・1319・1307・1335・1339の浦賀方にも貫通仕切り扉が設置された。
=== 吊り手関連工事 ===
[[1986年]]頃の定期検査入場時に冷房車を対象にドア部分に[[つり革|吊り手]]を増設する工事が施された。当時の編成単位で行われ、施工期間中に[[1987年]](昭和62年)の8両編成地下鉄乗り入れ運用増加に伴う編成替えが挟まったことから、施工済車と未施工車が同一編成に含まれる例も見られた。初期の改造車は[[枕木]]方向に4個の吊り手が設けられていたが、後期は3個に変更、初期改造車も後に同様に改造された。
=== 自動戸閉切放装置取付改造 ===
1997年から6両編成に[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]]停車時にホームにかからない浦賀方2両の扉を開扉させない操作を自動で行う装置(自動戸閉切放装置、ADL)を設置する工事が行われた。その後編成替えによって発生した6両編成も編成替えの都度本工事が施工されている。浦賀方2両のドアには同駅でドアが開かないことを知らせるステッカーを貼付している。
== 改番 ==
京急では[[1966年]](昭和41年)の番号整理以降ほとんど改番が行われた例がなかった<ref group="注">1960年代後半から2000年代初頭では貨車を除き本形式の4例以外は800形6連化に伴うものだけが京急での改番事例である。本形式全廃と前後して始まった1500形VVVF化に伴う電装解除で改番される事例はその後増えている。</ref>が、本形式では下記の4例がある。
* [[1958年]](昭和33年)製の801 - 851、802 - 852は1965年(昭和40年)に1095 - 1098に改番され、本形式に編入された。
* [[1964年]](昭和39年)製の1201と1206は初代1079・1080である。翌[[1965年]](昭和40年)[[3月]]に製造された1174 - 1177を挟んで6連化され、さらに同年[[11月]]に中間車を新製された1202 - 1205に交換、その後1079と1080は[[1968年]](昭和43年)に1201と1206に改番された。
* [[1971年]](昭和46年)製の18両(1251 - 1266・1267・1274)は当初6連で計画され、1251 - 1268として落成したが、都営1号線への乗り入れが軸重増加により認められなかったため、8連2本と2連1本に組み替えられて入線し、翌[[1972年]](昭和47年)に2連に中間車6両を挟んで8連化され、デハ1251 - デハ1274(8連×3本)に改番された。
* [[1978年]]製の2代目1079・1080は、[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]の増備進捗に伴い番号重複を避けるため2003年(平成15年)1月にデハ1381とデハ1382へ改番され、車内銘板が[[シール|ステッカー]]式となった。
== 700形との混結 ==
[[1975年]](昭和50年)[[7月]]から[[1979年]][[6月]]にかけて、[[京急700形電車 (2代)|700形]]のサハ770形を中間に挟んだ6両・8両編成が組成された。しかし、混結編成では編成重量の増加により加速度が低下するだけでなく、品川以北、いわば地下鉄や京成線などへ乗り入れできないことなどから運用範囲が制限された。[[1978年]](昭和53年)以降、順次サハ770形は本形式の編成から外され、700形編成に戻るまでの間久里浜工場(現・京急ファインテック久里浜事業所)または金沢検車区で1979年(昭和54年)まで休車扱いとされたものもあった。また、これとは別に、朝夕ラッシュ時に8両編成に700形4両編成を増結して12両編成とする運用も[[1995年]](平成7年)[[7月]]のダイヤ改正まで存在していた。
== 運用 ==
=== 2両編成 ===
[[File:1348 to Aoto.jpg|thumb|250px|乗り入れ特急の品川方に増結された1345-1348<br />1988年5月]]
2両編成は登場以降終始増結用として使用され、1970年代初期の比較的短期間、朝ラッシュ時に[[浦賀駅|浦賀]] - [[堀ノ内駅|堀ノ内]]間を2両編成で運転、堀ノ内 - 品川間は[[京急久里浜駅|久里浜]]以南からの特急に連結される運用が存在した以外2両編成単独で営業運転された実績がほとんどない。1987年(昭和62年)の乗り入れ特急8両編成運転拡大の直前まで約1年間乗り入れ特急の浦賀方に品川で2両増結する車両の送り込みのため2両編成5本をまとめて回送する列車が存在した。[[2008年]][[7月]]の編成替えで2両編成は一旦消滅した<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2008/08/05/181200.html|title=京急1000形,8両編成と2両編成が消滅|publisher=交友社 railf.jp|accessdate=2012-05-09}}</ref>が、ありがとう運転直前に1351編成が2両編成に組み換えられ、2011年3月まではクト2の牽引用として使用された。
=== 4両編成 ===
[[ファイル:Keikyu kyu1000kei daishi line.JPG|thumb|250px|京急大師線を走る1000形(初代)4両編成<br />「THANK YOU 1959-2010 1000」のマーク付]]
4両編成は登場後各種別に運用されたが、12両編成運転開始直前の1974年(昭和49年)10月頃の4連運用には[[京急400形電車 (2代)|400形]]・[[京急500形電車|500形]]・[[京急700形電車 (2代)|700形]]が使用され、新製されたばかりの1325編成のみが4連だったことが特筆される。12両編成運転開始以降は[[京急大師線|大師]]・[[京急空港線|空港]]以外の各線の普通や朝・夕方・夜間の優等列車の増結用として幅広く運用された。終夜運転の際に都営浅草線を経由して[[京成金町駅|京成金町]]まで乗り入れた実績もある。700形の廃車進行により[[2000年]](平成12年)から大師線に投入され、当初は朝のみ、その後700形の全廃に伴って2005年[[11月]]からは[[京急1500形電車|1500形]]と共に終日同線でも運用された。
=== 6両編成 ===
[[File:Last six car H-Toku.jpg|thumb|250px|6両特急の浅草線乗り入れ最終列車。1986年11月]]
6両編成は都営浅草線乗り入れ特急用の主力として[[1968年]](昭和43年)以降25 - 30本が存在したが、1988年(昭和63年)秋の都心乗り入れ特急の終日8連化に伴って1989年秋には2本にまで激減した<ref>『鉄道ピクトリアル』1989年10月号66ページ</ref>。その後本線普通の6連化が進み、徐々に本数を増やしたが、廃車進行により編成数は再び減少に転じた。[[京急800形電車 (2代)|800形]]や1500形と共に本線の普通を中心に運用されていた。晩年には朝・夕方・夜間に[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]へ乗り入れる運用もあった。1993年から1995年までの2年間は都営浅草線経由で北総線千葉ニュータウン中央まで乗り入れていた。これは、北総線の車両が8両固定編成のため、ホームの長さが6両編成までだった当時の空港線に乗り入れられなかったためである。乗り入れ特急の終日8連化以降も[[終夜運転]]で都営浅草線を経由して京成線[[京成高砂駅|京成高砂]]まで乗り入れた実績がある。また臨時列車として[[京成成田駅|京成成田]]までの運用実績もある。
[[1975年]](昭和50年)7月には1009・1013・1021の各編成がサハ770形2両を3・4号車に含む6両編成となったが、1021編成以外はすぐに中間車2両を追加した8両編成とされた。
=== 8両編成 ===
8両編成は登場以降1978年(昭和53年)まで都営浅草線への乗り入れが最大6両編成に制限されていたことから朝ラッシュ時の12両編成非乗り入れ特急の基本編成、快速特急として運用され、2000形登場まで夏季定員制列車「ミュージックトレイン号」にも使用された。1978年に8両編成の地下鉄乗り入れが開始されたが、[[1987年]](昭和62年)までは朝夕各6往復に限定されており、朝ラッシュ時の通勤快特、日中から夕方の快速特急を中心に運用された。1987年から朝夕ラッシュ時の乗り入れ特急が8両編成化され、[[京急2000形電車|2000形]]の増備も進行したため8両編成は都心乗り入れ運用を中心に運用された。この時点で全編成を固定編成とすると日中運用する6両編成が不足するため、2+6編成を貫通幌でつなぎ、「8両固定編成」として都営地下鉄乗り入れに充当、日中は2両編成を切り離した6両で運用する編成が組成された。2+6編成には編成表上にも2+6の8両編成として記載され、8両編成と同様に運用されたものとそれぞれ別の編成として記載され、組み合わせが毎日変更されるものの2種が存在した。同時に4+4編成を貫通幌でつなぐ編成も出現したが、こちらは全編成4+4の8両編成として編成表に記載されていた。その後1988年(昭和63年)秋に都心乗り入れ特急が終日8連化され、翌[[1989年]](平成元年)から1500形の都心乗り入れ運用への充当が始まったため2+6編成は消滅、4+4編成は廃車の進行に伴って一旦消滅した。[[2001年]](平成13年)[[9月15日]]のダイヤ改正から日中の都営浅草線直通快特の最高速度が120 km/hに引き上げられたが、本形式は120 km/h対応の増圧ブレーキ装備工事対象とはならなかったため、これ以降ダイヤ乱れや、2007年の一時期を除いて日中の快特には運用されなくなった。8両編成は2008年8月に1351編成の中間車を1329編成と1381編成に移動させたことで中間に先頭車を含まない貫通編成が消滅、その後同年11月まで1351編成と1381編成が4+4編成を組み、8両編成として運用されていたが、新1000形1097編成の導入に伴って分割され、8両編成が消滅した。
1975年(昭和50年)[[9月]]から[[1979年]](昭和54年)[[6月]]にかけてサハ770形を5・6号車に含む8両編成が存在し、ラッシュ時を中心に運用された。
== 編成数の推移 ==
本形式は登場以来需要の変化に対応するため、頻繁に編成が組みかえられた。各時代の編成数を下表に示す。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em 0em 3em 2em;"
|+ 各時期の編成数
|-
! rowspan="2" |編成両数
! 1974年秋 !! 1980年4月10日 !! 1988年7月10日 !! 1989年1月7日
|-
|<small>12両運転開始直前</small><ref>『京急ファン』通巻101号32ページ</ref>
|<small>都心8連乗入開始時</small><ref>『鉄道ピクトリアル』1980年9月臨時増刊号76ページ</ref>
|<small>都心8連乗入拡大時</small><ref>『鉄道ピクトリアル』1988年9月臨時増刊号194ページ</ref>
|<small>都心乗入全面8連化時</small><ref>「日本の私鉄3 京浜急行」保育社 1989年4月発行140-141ページ</ref>
|-style="border-top:solid 4px #c14;"
!2両編成
| 21 || 9 || 15 || 8
|-
!4両編成
| 1 || 29 || 13 || 13
|-
!6両編成
| 31 || 25 || 19 || 2
|-
!8両編成
| 6 || 9 || 16 || 21
|-
!4両+4両編成
| 0 || 0 || 3 || 10
|-
!2両+6両編成
| 0 || 0 || 0 || 1
|}
== 過去の編成表 ==
1982年1月1日現在<ref>日本の私鉄 14 京浜急行 吉村光夫著 保育社、1982年、144頁、145頁</ref>。
{| class="wikitable"
|+
! colspan="8" |{{列車方向|三崎口・浦賀|品川}}
|
|-
|<small>区分</small>
|<small>Mc</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>Mc</small>
|
|-
| rowspan="23" |<small>車両番号</small>
|<small>1101</small>
|<small>1102</small>
|<small>1103</small>
|<small>1104</small>
|<small>1105</small>
|<small>1106</small>
|
|-
|<small>1113</small>
|<small>1114</small>
|<small>1115</small>
|<small>1116</small>
|<small>1117</small>
|<small>1118</small>
|
|-
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|<small>1132</small>
|<small>1133</small>
|<small>1134</small>
|<small>1135</small>
|<small>1136</small>
|
|-
|<small>1137</small>
|<small>1138</small>
|<small>1139</small>
|<small>1140</small>
|<small>1141</small>
|<small>1142</small>
|
|-
|<small>1143</small>
|<small>1144</small>
|<small>1145</small>
|<small>1146</small>
|<small>1147</small>
|<small>1148</small>
|
|-
|<small>1149</small>
|<small>1150</small>
|<small>1151</small>
|<small>1152</small>
|<small>1153</small>
|<small>1154</small>
|
|-
|<small>1155</small>
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|<small>1158</small>
|<small>1159</small>
|<small>1160</small>
|
|-
|<small>1161</small>
|<small>1162</small>
|<small>1163</small>
|<small>1164</small>
|<small>1165</small>
|<small>1166</small>
|
|-
|<small>1167</small>
|<small>1168</small>
|<small>1169</small>
|<small>1170</small>
|<small>1171</small>
|<small>1172</small>
|
|-
|<small>1173</small>
|<small>1174</small>
|<small>1175</small>
|<small>1176</small>
|<small>1177</small>
|<small>1178</small>
|
|-
|<small>1179</small>
|<small>1180</small>
|<small>1181</small>
|<small>1182</small>
|<small>1183</small>
|<small>1184</small>
|
|-
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|-
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|
|-
|<small>1201</small>
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|<small>1203</small>
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|<small>1205</small>
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|
|-
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|<small>1209</small>
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|<small>1212</small>
|
|-
|<small>1213</small>
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|<small>1217</small>
|<small>1218</small>
|
|-
|<small>1219</small>
|<small>1220</small>
|<small>1221</small>
|<small>1222</small>
|<small>1223</small>
|<small>1224</small>
|
|-
|<small>1225</small>
|<small>1226</small>
|<small>1227</small>
|<small>1228</small>
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|
|-
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|
|-
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|
|-
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|
|-
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|<small>1306</small>
|<small>1307</small>
|<small>1342</small>
|<small>1343</small>
|<small>1344</small>
|
|-
|<small>区分</small>
|<small>Mc</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>M</small>
|<small>Mc</small>
|
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|-
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|-
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|<small>M</small>
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|
|-
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== 特殊塗装など ==
{{Double image aside|right|Keikyu 1000 History gallery.jpg|180|Keikyu Arigatou Gallery.JPG|180|1000形1321編成「京急110年の歴史ギャラリー号」。[[ニス]]塗りの木製ドア、[[リベット]]、[[ウィンドウ・シル/ヘッダー|シル、ヘッダー]]などが[[印刷]]で表現されている(2008年3月22日 新町検車区)|1000形1309編成「ありがとうギャラリー号」(2008年5月25日 京急ファインテック久里浜事業所)}}
[[ファイル:KQ1000_LR.png|thumbnail|180px|「ありがとうギャラリー号」に装着された「LAST RUN!」ヘッドマーク(2008年12月20日 京急鶴見駅)]]
[[2008年]][[2月25日]]から[[12月23日]]まで、京急創立110周年を記念し、2編成に過去に営業運転された車両をイメージした[[ラッピング車両|ラッピング]]を施して運行された<ref name="Keikyu200801">[https://web.archive.org/web/20080506160027/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/080122.shtml 京急創立110周年企画1000形が往年の塗装に復活いたします](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)</ref><ref>[https://railf.jp/event/2008/article2/01/27/001000.html 京急創立110周年企画 1000形が往年の塗装に] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道イベント 2008年1月27日</ref>。1309編成(6両)が昭和20 - 30年代の車両をイメージした「ありがとうギャラリー号」、1321編成(4両)が[[大正]] - [[昭和]]初期の車両をイメージした「歴史ギャラリー号」とされた<ref name="Keikyu200801"/>。両編成には車内に一般公募によって選ばれた写真・絵画や京急110年の歴史が[[ポスター]]として展示されたほか、先頭車の前面貫通扉窓下にヘッドマークが掲出された。その後両編成は下記の通り装飾が変遷し、イベントなどにも使用された。
* 同年[[5月25日]]に京急ファインテック久里浜事業所にて開催された「京急ファミリー鉄道フェスタ2008」ではリバイバルトレインが展示された。また、1321編成が品川→[[京急久里浜駅|京急久里浜]]間の[[団体専用列車|貸切列車]]として運転された。
* 同年[[7月5日]]から[[8月31日]]まで、1309編成は「納涼夏ギャラリー号」として、車内に沿線の夏の祭事のポスターなどを掲出した<ref name="Keikyu200807">[https://web.archive.org/web/20080915153223/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/080703_3.shtml ありがとうギャラリー号第二弾!「納涼夏ギャラリー号」が走り出します!](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)</ref>。
* 同年9月から1309編成は広告貸し切り列車として運行された。
* 上記のうち、同年[[10月6日]]から[[11月16日]]までは「[[海軍カレー|カレー]]の街よこすか10周年記念号」として、車体にその[[キャラクター]]「[[スカレー]]ちゃん」などを施した[[ラッピング広告|ラッピングステッカー]]が貼り付けされていたた<ref name="Keikyu200810">[https://web.archive.org/web/20081210170544/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/081006.shtml 「カレーの街よこすか10周年記念号」が走り出します!](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)</ref><ref>[https://railf.jp/news/2008/10/11/141600.html 京急「カレーの街よこすか10周年記念号」運行中] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2008年10月11日</ref>。
* 1309編成は同年[[11月8日]]に行われた[[都営フェスタ]]'08 in 浅草線で展示された。
* 1309編成は同年[[12月16日|16日]]から<ref>[https://railf.jp/news/2008/12/21/140200.html 京急「ありがとうギャラリー号」にも「LAST RUN」ヘッドマーク] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2008年12月21日</ref>、1321編成は翌[[12月17日]]から<ref>[https://railf.jp/news/2008/12/19/120900.html 京急「歴史ギャラリー号」に「LAST RUN」ヘッドマーク] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2008年12月19日</ref>、それぞれ貫通扉下部のヘッドマークを「LAST RUN!」と表記されたものに変更され、両編成とも同月[[12月23日|23日]]で運用を終了した<ref name="Keikyu200812">[https://web.archive.org/web/20090218224519/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/200812153.shtml ありがとうギャラリー・歴史ギャラリー号が引退いたします](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)。</ref><ref>[https://railf.jp/news/2008/12/24/185400.html 京急「ありがとうギャラリー号」「歴史ギャラリー号」が運転を終える] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2008年12月24日</ref>。最終日は両編成とも[[京急本線|本線]][[各駅停車|普通]]で運用された。
== 改造・譲渡など ==
廃車された車両の一部が譲渡・貸出されたほか、[[事業用車]]への改造も行われた。
=== 譲渡 ===
==== 高松琴平電気鉄道====
[[高松琴平電気鉄道]]には合計20両が譲渡された。
===== 1080形 =====
{{Main|高松琴平電気鉄道1080形電車}}
1080形は[[#1001 - 1048|1001 - 1048]]のグループで、[[1988年]](昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて1081 - 1092の2両編成6本・12両が譲渡された。全車東洋製電装品、TS-310系台車装備車である。Bグループは2両編成が組めなかったため、譲渡に当たり京急時代の浦賀方先頭車の運転台を同浦賀方から3両目に取り付ける改造を行った。
===== 1300形 =====
{{Main|高松琴平電気鉄道1300形電車}}
1300形は[[#1079・1080、1243 - 1298、1301 - 1348、1351 - 1380|1243-1380]]のグループで、[[高松琴平電気鉄道長尾線|長尾線]]で使用されている。1313 - 1316・1291 - 1298の2両編成2本・4両 (→1301 - 1304) が[[2007年]][[7月31日]]から営業開始、次いで1305 - 1308・1243 - 1250の2両編成2本・4両 (→1305 - 1308) が譲渡され、[[2011年]][[9月1日]]から使用されている。
この他、元京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]の譲渡車である[[高松琴平電気鉄道1100形電車|1100形]]は、転入による軌間変更のため、台車が本形式の廃車発生品(TS-310系)に交換されている。
==== 北総開発鉄道(当時・7150形) ====
{{Double image aside|right|Hokuso7150shmbamba.JPG|180|Hokuso 7150 colordoor 19941010.jpg|180|北総7150形7161編成、7161は元1112(1995年7月14日 新馬場駅)|カラードアを試験採用した編成(1994年10月10日 千葉ニュータウン中央駅)}}
1991年(平成3年)[[3月31日]]の[[京成高砂駅|京成高砂]] - [[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]間開業に伴い、[[北総開発鉄道7300形電車|7300形]]の登場とあわせて[[#1001 - 1048|デハ1005 - デハ1008]]・[[#1049 - 1078、1101 - 1130|デハ1107 - デハ1118]]の16両 (→7151 - 7158・7161 - 7168) が譲渡された。この2編成は京急時代末期に変則的な編成を組んでいたが、そのままの編成で譲渡された。7151 - 7158は当初4+4の8両編成、7161 - 7168は8両貫通編成。主な改造点は以下の通り。
* アーマープレート(アンチクライマーの台座)の一部切除。7161・7168は譲渡後施工。
* 車両番号の幕板部への移設、社名標記の変更。
* 塗装色の変更。
* 降雪・凍結への対策工事。
* 屋根肩部広告枠サイズ変更。
7151 - 7158は[[1992年]](平成4年)[[7月]]の[[新京成電鉄]]との直通運転廃止に伴い新鎌ヶ谷 - [[千葉ニュータウン中央駅|千葉ニュータウン中央]]間の区間列車用として7151 - 7154と7155 - 7158の4連2本に分割、新鎌ヶ谷以東で運用されたが、1996年12月に4+4の8両編成に戻っている。7155 - 7158は1994年に客用ドア外部を1枚毎に異なる塗装とし、7151 - 7154も8両編成に戻る際同様に変更されたが、他車には採用されなかった。京成からリースした[[京成3150形電車|7050形]]への置き換えに伴い、7161 - 7168は[[1995年]](平成7年)[[9月]]に、7151 - 7158は[[1998年]](平成10年)[[1月31日]]付でそれぞれ廃車され、京成[[宗吾車両基地]]で解体された<ref name="RJ378">{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1998-04 |volume = 32 |issue = 4 |page = 97 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
なお、定期検査は京急久里浜工場で施工されていた。
=== リース ===
==== 京成電鉄→千葉急行電鉄(京成1000形→千葉急行1000形) ====
[[ファイル:Keisei 1000 Takasago 1990.JPG|thumb|200px|京成1000形電車]]
[[#1001 - 1048|デハ1029 - デハ1032・デハ1037 - デハ1040]]の8両が京急の子会社である京急車両工業(現・京急ファインテック)を通じて[[リース]]された。これは京成の冷房化率が[[大手私鉄]]の中で低く、早急に冷房化率を上げるためにとられた施策であるといわれている。塗装は赤い車体に白帯のままだった。最後の[[青電 (京成)|青電]]であった[[京成2100形・210形・2000形電車|210形]]が全廃された直後の1988年(昭和63年)から4両編成2本が8連固定で使用されたが4両編成でも使用された。主な改造点は以下の通りである。
* 車両形式称号を「モハ1000形」に変更
* 車体側面の社名表示を「KHK」から「Keisei」に交換
* 表示幕のうち種別・行先は京急1000形用のサイズで京成用の色(紺色地に白字)・書体・表示内容のものを新設して交換。運行番号はそのまま流用可能なため、白幕のままだった。
* 運転室に京成式の停車予告装置を設置。
* 種別板差しを先頭車前面の貫通扉下部に設置。
* [[吊り広告|中吊り広告]]枠を京急サイズから京成サイズのものに交換。
京成での運用中に以下2点の追加改造が行われた。
* 京成の地上設備に対応するためアーマープレートの一部切除。
* 貫通扉種別板差しを室内側に移設、貫通扉に窓を設け、室内側から種別板が差し替えられるよう改造。
[[京成3700形電車|京成3700形]]の増備に伴い1991年(平成3年)に1編成(モハ1037 - モハ1040)を返却して除籍・解体し、残る1編成(モハ1029 - モハ1032)は塗装を青に白帯に、社名表示も「千葉急行」に変更の上、翌1992年に千葉急行電鉄へ貸し出し、同社唯一の保有車として京成の4連普通運用と共通で使用されたが、[[京成3050形電車 (初代)|京成旧3050形]]と交替して1994年(平成6年)1月16日にて営業運転を終え、1月18日は久里浜工場へ回送された。その後返却、除籍となり、同所にて解体された。
北総への譲渡の際にはこの経験が生かされた。
=== 事業用車への部品供出 ===
* [[京急デト11・12形電車|デト11・12]] - 1095・1096の部品再利用
* [[京急デチ15・16形電車|デチ15・16]] - 1097・1098の部品再利用
* [[京急デチ15・16形電車|デチ17・18]] - 1017・1018の部品再利用
* [[京急クト1形電車|クト1・2]] - 1021・1022の部品再利用
京急の新性能貨車は部品は再利用しているが車体は新製されたもので、車籍は引き継いでいない。デチは後に救援車となりデトに改造・改番された。本形式の全廃に伴い、営業車両と機器を統一するためデト6両の機器更新工事が行われ、台車・運転台機器・制御器などが交換された<ref>[[#年鑑2011|鉄道車両年鑑2011年版pp166-167]]</ref>。
== 保存車 ==
[[File:Keikyu1356 20120528.jpg|thumb|right|京急ファインテック久里浜事業所に残る1351-1356<br/>2012年5月28日撮影]]
* 1052(前頭部のみ)
: [[栃木県]][[真岡市]]の喫茶店「赤い電車」 にて保存<ref>{{Cite journal|和書 |title=保存車・廃車体一覧3 補遺【第6回】 |journal = RAIL FAN |date = 2002年3月号 |issue = 3 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>、[[看板]]や[[倉庫]]を兼ねて使用されたのち、[[群馬県]][[前橋市]]への移設を経て、現在は[[千葉県]][[いすみ市]]の[[ポッポの丘]]で保存展示されている<ref>{{Twitter|official_1052|デハ1052保存会(公式)}}</ref>。
* 1185(前頭部のみ)
: 栃木県[[小山市]]の鉄道模型店「電車ごっこ1185」の店先に保存<ref>[https://densyagokko1185.storeinfo.jp/ 電車ごっこ1185] - 2023年6月30日閲覧。</ref><ref>[https://railf.jp/news/2019/03/28/192000.html 5月1日,栃木県小山市内に「電車ごっこ1185」がオープン]、鉄道ファン、2019年3月28日。</ref>。
* 1351-1356
: 牽引車として使用終了後も京急ファインテック久里浜事業所で保管されている。当初は放置状態となっていて車体各所に経年による錆や塗装の劣化が目についた。2017年、京急電鉄の前身の一つ「大師電気鉄道」の創業120周年記念企画の一環として再塗装され、同年5月28日に開催された「京急ファミリー鉄道フェスタ」で綺麗な車体がお披露目された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*下記の[[電気車研究会]]『鉄道ピクトリアル』掲載各記事
**「私鉄車両めぐり 116 京浜急行電鉄」1980年9月臨時増刊号(通巻380号)掲載
**「私鉄車両めぐり 136 京浜急行電鉄」1988年9月臨時増刊号(通巻501号)掲載
**「私鉄車両めぐり 138 京浜急行電鉄 補遺」1989年10月号(通巻518号)掲載
**「私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)掲載
**「私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄 補遺」1999年11月号(通巻677号)掲載
**「各社別新造・改造・廃車一覧」2003年10月臨時増刊号(通巻738号、鉄道車両年鑑2003年版)掲載
*「RESEARCH DATA of model 1000」京急電車ファンクラブ『京急ファン』1987年4月増刊号(通巻101号)
*「主要車両諸元一覧」山と渓谷社『ヤマケイ私鉄ハンドブック 10 京浜急行』1983年6月発行
*「京急1000形 半世紀のあゆみ」JTBパブリッシング 2011年4月発行
*『鉄道ピクトリアル』通巻855号「鉄道車両年鑑2011年版」(2011年10月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=安田 直樹|year= |month= |title=デト17・18チョッパ制御化改造 |journal= |issue= |pages= 166-167 |publisher= |ref = 年鑑2011}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Keikyu 1000 series|京急1000形電車 (初代)}}
{{京浜急行電鉄の車両}}
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{{北総鉄道の車両}}
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フリースタイル
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フリースタイル(英語:freestyle)は、その分野において形式の制約の無い、あるいは少ないもの。
スポーツ分野で使われることが多く、その場合その競技の一種目(この場合たいていほかの種目にはある何らかの制約が解かれる)、または自由に自分の技術を表現する競技形態。自由形(自由型)ともいう。スケートのフリースケーティングのように名前だけのものもある。
当初はフリースタイルで有ったもの
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フリースタイルは、その分野において形式の制約の無い、あるいは少ないもの。
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'''フリースタイル'''([[英語]]:freestyle)は、その分野において形式の制約の無い、あるいは少ないもの。
== スポーツにおけるフリースタイル ==
スポーツ分野で使われることが多く、その場合その競技の一種目(この場合たいていほかの種目にはある何らかの制約が解かれる)、または自由に自分の技術を表現する競技形態。自由形(自由型)ともいう。スケートのフリースケーティングのように名前だけのものもある。
* [[水泳]]では、[[自由形]]種目。泳法の規制がないので、通常最も速く泳げる[[クロール (泳法)|クロール]]で泳ぐ。
* [[スキー]]においては、[[フリースタイル・スキー]]([[モーグル]]、[[エアリアル]]、[[スキークロス]]、[[ハーフパイプ]]、[[スロープスタイル]]、[[ビッグエア]])の総称。
* [[スノーボード]]においては、フリースタイルボードにソフトブーツの道具、あるいはそれらの道具を使用するスタイル、あるいは主にその道具を使って行う競技(ハーフパイプ、スロープスタイル、ビッグエア)の総称。
* [[ウィンドサーフィン]]の種目の一つ。平水面で技を競う競技。
* [[アマチュアレスリング]]においては、[[フリースタイルレスリング]]種目。全身を攻防に用いることができる。
* [[バスケットボール]]・[[サッカー]]・[[フライングディスク]]などでボール(ディスク)を用いた試合中には通常行わない、ゲームとは独立した演技。全身を使って自由にボールを扱い、技術や見た目の良さを競う。
* [[BMX]]では、[[競走|レース]]以外のジャンルの総称。
* [[オートバイ]]においては、ジャンプ中の技の難易度を競う[[フリースタイルモトクロス]]の総称。
* [[ヨーヨー]]においては、自由に技を組み合わせて披露し、技術や芸術性などを競う。通常は音楽にあわせて行う。
=== 名称だけフリーとつくもの ===
当初はフリースタイルで有ったもの
* [[フリースケーティング]] - 当初はショートプログラムと比べ制限が無かった種目であるが、1982-1983年シーズンより演目に制限が設けられた。
== スポーツ以外のフリースタイル ==
* [[フリースタイル (ラップ)|フリースタイル]]とは、[[ラップ]]において、無構成の音に即興で自由な型のラップをハメる事。
* [[模型]]において実物を模した物ではなく、模型独自のデザインの物。
* [[ヌンチャク]]において、武器術としての型にとらわれずパフォーマンス性を重視、技が豊富で[[ジャグリング]]に近い。
* [[ダンス・ミュージック]]において、音楽の踊りやすさ、気軽さを重視したジャンル。[[フリースタイル (R&B)]]参照。
== 固有名詞など ==
* [[リーボック・フリースタイル]] - [[イギリス]]発祥のスポーツ用品ブランド「[[リーボック]]」が販売するアスレチックシューズ。
* ソ連(現在のロシア)のヤコヴレフ設計局が開発した[[垂直離着陸機|VTOL]]戦闘機、Yak-141のNATOコードネーム。[[Yak-141 (航空機)]]を参照。
* FREESTYLE - アスリートマネジメントおよびトレーニングサポート、指導者、スペシャリストのマネジメントおよび活動サポート、指導者向けオリジナル・コーチング、プログラムなどを行っている日本の企業。
* [[アクエリアス フリースタイル]] - [[日本コカコーラ]]の販売する炭酸飲料。
* バスケットボールを題材にしたオンラインゲーム。[[フリスタ! -Street Basketball-]]を参照のこと。
* [[大阪市交通局]]が[[PiTaPa]]に対して適用する割引サービス。[[大阪市交通局#利用額割引・フリースタイル]]を参照のこと。
* [[FREE STYLE (EPOのアルバム)|FREE STYLE]] - [[EPO]]のアルバム。
* [[FREESTYLE (アルバム)]] - [[森川美穂]]のアルバム。
* [[Free Style]] - [[三浦大知]]のシングル曲。
* [[フリースタイル (出版社)]] - 日本の出版社。
* [[Freestyle (GYROAXIAのアルバム)]] - [[GYROAXIA]]のミニアルバム。
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グレートブリテン島
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グレートブリテン島(グレートブリテンとう、英: Great Britain/羅: Britannia Maior)は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。「グレートブリテン」という呼称は「リトルブリテン」との区別に基づいている。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は 209,331 kmで、世界で9番目に大きい島である(島の一覧参照)。グレートブリテン島は日本の本州より少し小さい。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。大ブリテン島とも呼ばれる。
グレートブリテン島は、政治的に見ると、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国(カントリー)」からなる。
「グレートブリテン」(Great Britain)という言葉は地名であり、ブリテン諸島(イングランド、スコットランド、ウェールズ)を指す。これは「リトルブリテン」(Little Britain ブルターニュ)との区別で使われている。
グレートブリテン島をさす最古の名前は、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にある「アルビオン」である。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にある「プレタニケ」から、現在のブリテン諸島を指す言葉として「ブリトニ」という呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語で「ブリタンニア」と呼ばれるようになった。
ブリトン人は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域を「ブルターニュ」と呼び、本来のブリタニアを「グランド・ブルターニュ」と呼んで区別した。「古ブリテン島」の意味である。これが英語に輸入され、英訳された形の「グレートブリテン」という地名が定着する。
古期造山帯に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間をアイリッシュ海、スカンディナビア半島およびユトランド半島との間を北海とよぶ。
グレートブリテン島では太古代以降のほぼ全ての地質時代の岩石が産出する。地震学的研究によれば、グレートブリテン島を一帯とする地域では、地球の地殻は27 - 35 kmの厚みがある。最古の岩石はスコットランド北西部で発見されたルイス片麻岩(英語版)で、推定で少なくとも27億年前の年代のものであり、これは地球の歴史の半分よりも古い。これらの岩石は、グレートブリテン島およびアイルランド島の地殻の大部分を占めるものと考えられているが、さらにブルターニュ半島やチャンネル諸島の地表まで広がっていると推定される。一方で、最も若い岩石はイングランド南東部で発見されている。
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グレートブリテン島は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。「グレートブリテン」という呼称は「リトルブリテン」との区別に基づいている。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は 209,331 km2で、世界で9番目に大きい島である(島の一覧参照)。グレートブリテン島は日本の本州より少し小さい。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。大ブリテン島とも呼ばれる。 グレートブリテン島は、政治的に見ると、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国(カントリー)」からなる。
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|画像説明=ブリテン諸島
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グレートブリテン島は、政治的に見ると、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の構成要素である[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]の3つの「[[イギリスのカントリー|国(カントリー)]]」からなる。
[[File:British Isles.svg|thumb|イギリスとアイルランド]]
[[File:England,_Scotland_and_Wales_within_the_UK_and_Europe.svg|thumb|right|グレートブリテン島の位置]]
== 名前 ==
「'''グレートブリテン'''」(Great Britain)という言葉は[[地名]]であり、[[ブリテン諸島]]([[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]])を指す{{Sfn|Hunter|1995|p=1305}}。これは「'''[[リトルブリテン]]'''」(Little Britain ブルターニュ)との区別で使われている{{Sfn|Hunter|1995|p=1305}}{{Efn|原文:
{{Quotation|‘Great Britain’ is the geographical name of that island of the British Isles which comprises England, Scotland and Wales (so called to distinguish it from ‘Little Britain’ or Brittany).{{Sfn|Hunter|1995|p=1305}}}}
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=== 由来 ===
グレートブリテン島をさす最古の名前は、紀元前6世紀頃の[[カルタゴ]]人航海者の記録にある「'''[[アルビオン]]'''」である。その後、紀元前4世紀の[[ギリシャ人]]商人の航海記にある「プレタニケ」から、現在のブリテン諸島を指す言葉として「'''ブリトニ'''」という呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語で「'''[[ブリタンニア]]'''」と呼ばれるようになった。
[[ブリトン人]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|Britons}}</ref>は[[紀元前1世紀|前1世紀]]頃から[[共和政ローマ|ローマ共和国]]、[[ローマ帝国]]、[[アングロ・サクソン人]]の相次ぐ侵攻を受けて、その一部が[[フランス]]に逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域を「[[ブルターニュ]]」<ref group="注釈">{{lang-fr-short|Bretagne}}、ブリタニアのフランス語形</ref>と呼び、本来のブリタニアを「'''グランド・ブルターニュ'''」<ref group="注釈">{{lang-fr-short|Grande-Bretagne}}、大ブリタニア</ref>と呼んで区別した。「'''古ブリテン島'''」<ref group="注釈">{{lang-fr-short|l'ancienne Bretagne insulaire}}</ref>の意味である。これが[[英語]]に輸入され、英訳された形の「'''グレートブリテン'''」という地名が定着する。
== 分類 ==
* 北部: [[スコットランド]]
* 南部: [[イングランド]]
* 西部: [[ウェールズ]]
== 主要都市 ==
* [[グラスゴー]]
* [[エディンバラ]]
* [[マンチェスター]]
* [[バーミンガム]]
* [[ロンドン]]
* [[カーディフ]]
== 地形 ==
[[古期造山帯]]に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間を[[アイリッシュ海]]、[[スカンディナビア半島]]および[[ユトランド半島]]との間を[[北海]]とよぶ。
* [[カンブリア山脈]]
* [[テムズ川]]
== 地質 ==
[[File:Geology Map Great Britain.svg|thumb|200px|グレートブリテン島の[[地質図]]]]
{{Main|グレートブリテン島の地質}}
グレートブリテン島では[[太古代]]以降のほぼ全ての[[地質時代]]の岩石が産出する。[[地震学]]的研究によれば、グレートブリテン島を一帯とする地域では、[[地球]]の[[地殻]]は27 - 35 kmの厚みがある。最古の岩石はスコットランド北西部で発見された{{仮リンク|ルーイシアン複合岩体|en|Lewisian complex|label=ルイス片麻岩}}で、推定で少なくとも27億年前の年代のものであり、これは[[地球の年齢|地球の歴史]]の半分よりも古い。これらの岩石は、グレートブリテン島および[[アイルランド島]]の地殻の大部分を占めるものと考えられているが、さらに[[ブルターニュ半島]]や[[チャンネル諸島]]の地表まで広がっていると推定される。一方で、最も若い岩石はイングランド南東部で発見されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参照文献 ==
* {{Cite book
|last = Hunter
|first = Brian
|year = 1995
|title = The Statesman’s Year-Book
|chapter = United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
|pages = 1305-1385
|publisher = [[:en:Palgrave Macmillan|Palgrave Macmillan]]
|isbn = 978-1-349-39297-1
|ref = harv}}
== 関連項目 ==
* グレートブリテン
** [[グレートブリテン王国]]([[:en:Kingdom_of_Great_Britain|Kingdom of Great Britain]])
** [[グレートブリテン帝国]]<!--
平田雅博(2015)「帝国論の形成と展開:文化と思想の観点から」『社会経済史学』、80巻4号、487(33)頁。“この「グレート・ブリテン帝国」自体が…”。
日髙杏子(2016)「ブリティッシュカラーカウンシルの刊行物における色彩の表記の独自性」『日本色彩学会誌』、40巻1号、17頁。“グレートブリテン帝国と他国…”。-->([[:en:Empire_of_Great_Britain|Empire of Great Britain]] 大英帝国)
** {{仮リンク|グレート・ブリテン号|en|SS Great Britain}}
* [[リトルブリテン]](ブルターニュ)
* [[イギリスの歴史]]
* [[ブリテンの歴史]]
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上越線
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上越線(じょうえつせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。
このほか、越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間の支線をもつ。この支線は上越新幹線の保線基地への引き込み線を利用した営業線で、同新幹線から列車が直通するが、法規上は新幹線ではなく在来線の扱いであり、線路名称上も実施計画上も上越線の支線である。
高崎線の終着駅高崎駅より利根川沿いに群馬県内を北上し、三国山脈を越えて新潟県に入り、中越地方の魚野川・信濃川沿いに六日町盆地などを経て長岡市に至る鉄道路線。終点の宮内駅では信越本線に接続する。後閑駅 - 越後湯沢駅間を除き国道17号とほぼ並走する。
路線名の由来は、上野(現在の群馬県)と越後(現在の新潟県本土)を結ぶことに由来する。なお、新潟県には上越市やそれを含む上越地方があるが、上越の呼称の由来は異なり(詳しくは「上越」を参照)、上越線は上越市はおろか上越地方すら通らない。新潟県の上越線沿線地域は全域が中越地方に属する。
当線が開通する以前、関東と新潟県を結ぶ鉄道ルートは「高崎線・信越本線ルート」と「東北本線・磐越西線ルート」の二つがあった。しかし、いずれも関東と新潟を直線的に結ぶルートではないうえ、信越本線には碓氷峠の急峻な勾配があり時間的ロスを生じていた。こうした中、上越国境の茂倉岳直下を清水トンネルで越える短絡経路として、上越線が建設された。このうち、水上駅 - 石打駅間は最急勾配20 ‰で建設され、当初から電化された区間である。
1931年(昭和6年)の開業当初、それまで上野駅 - 新潟駅間は信越本線経由の急行列車で11時間6分を要していたのが、新設された上越線経由の急行列車は7時間10分で結び、一挙に4時間の所要時間短縮が図られた。上越新幹線の開業後は首都圏と新潟との都市間輸送の役割を新幹線に譲り、全線を直通する旅客列車は夜行列車などわずかとなったが、首都圏と新潟・北陸・庄内・秋田方面とを結ぶ貨物列車が通る幹線という側面を持っており、今もなおその重責を担う。また、首都圏と青森・北海道方面とを結ぶルートとしても、奥羽本線の一部と田沢湖線がミニ新幹線化(標準軌化)され、東北本線盛岡駅以北がいわて銀河鉄道線・青い森鉄道線に転換されてからは高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線ルートがJRのみを経由する唯一の幹線ルートであり、東北本線不通時の長距離列車・貨物列車の唯一の迂回路としての機能も担っている。
高崎駅 - 水上駅間が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」に、小千谷駅 - 宮内駅間が「新潟近郊区間」に含まれる。当線の東京近郊区間はIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアとなっており、同様に新潟近郊区間の内、小千谷駅と宮内駅がSuicaの新潟エリアとなっている(小千谷駅は一部サービス対応駅。途中の越後滝谷駅についてはエリア外)。このほか、支線の越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間は「タッチでGo!新幹線」のサービスエリアに含まれ、利用開始登録済のICカードで乗車可能である。
ラインカラーは高崎支社管内、新潟支社管内ともに水色。ただし2002年ごろまで新潟支社管内ではオレンジ色をラインカラーとして用いていた。
キロポストは高崎線からの数字を受け継いでおり、大宮駅からの距離の表示となっている。ちなみに大宮駅の高崎線ホーム上の案内(一部除く)は、「高崎線・上越線」と表記されている(他の高崎線単独駅に「上越線」の案内はない。かつては運転系統上の高崎線や上越線を経由する特急・急行の始発駅である上野駅でも見られたが、上野東京ライン開通時にほとんど消されている)。
明治維新の後、富国強兵や殖産興業のために、当時主流だった海運と並ぶ陸上での大量輸送機関である鉄道の整備が求められ、1869年(明治2年)11月に鉄道建設が廟議決定されると、各地で鉄道に関する議論や運動が盛んになった。1872年(明治5年)10月に日本の鉄道が開業すると、華族組合による鉄道の経営を考えていた蜂須賀茂韶が工部卿に送った書簡の中で、「東京ヨリ奥州青森ニ至リ或ハ東京ヨリ越後新潟ニ至ル等ノ地ニ鉄路蒸気汽車ヲ設ケ...」として、東京から開港地である新潟へ鉄道を敷く計画を示す。1874年(明治7年)には中山道幹線建設のためにルート調査に当たっていたリチャード・ヴィカルス・ボイル(Richard Vicars Boyles)の部下の建築師ウィリアム・ゴールウェー(William Galway)と助手のクロード・ウィリアム・キンダー(Claude William Kinder)によって三国峠の偵察が行われる。1881年(明治14年)に日本鉄道が設立されると、これに接続する鉄道の事業計画が新潟県刈羽郡横沢村の山口権三郎によって作られた(後の北越鉄道)。
1884年(明治17年)5月に日本鉄道が高崎まで開通すると、1887年(明治20年)5月に新潟県南魚沼郡下一日市村の岡村貢が「上越鉄道創設趣意書」を作成し、それを元に前橋の高橋周楨、東京の岡村良朗らと上越直線鉄道会社設立事務所を開設し、敷設運動を開始(1888年1月に上越鉄道会社と改称)。各地で鉄道大会を開き、同士を募って気運を高めた。鉄道技師の佐分利一嗣によってルートが検討され、実地調査が行われた。1889年(明治22年)3月には第一次私鉄ブームの企業勃興の流れに乗って組織が上越鉄道株式会社と改められ、前橋に本社が、東京と新発田に事務所が置かれた。1890年(明治23年)には鍬形豊三郎らが発起人となって前橋 - 沼田 - 長岡 - 新発田をつなぐ鉄道敷設の免許申請が政府に提出されたが、「願意の趣聞き届け難く候」と一方的に却下されてしまう(鉄道局長の井上勝が私鉄に批判的だったことに加えて明治23年恐慌が発生していたことも背景にある)。そこで岡村らは再度測量を行い、隧道延長や勾配などを改良した計画図面と目論見書を作成し、群馬・新潟両県で2万筆の署名を集め、両県知事の申し添えを得て「上越鉄道会社創設再願書」を作成し1891年(明治24年)8月に再申請、両県知事も上京して陳情を行ったが再び許可は下りなかった。シベリア鉄道建設開始の報を受けて国防上の観点も加えて計画の見直しが図られ、同年11月に「上越鉄道敷設建白書」が提出された。
1892年(明治25年)6月21日に鉄道敷設法が公布されると、第一期予定線として「新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋若ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及新発田ニ至ル鉄道」が示され、これが法律によって上越線が認められた起源となる。1893年(明治26年)2月の鉄道会議で、上越線(前橋 - 新潟)、直江津延長線(直江津 - 新潟)、豊野線(豊野 - 新潟)の方針について議論が行われた。ここでは23名の出席者のうち、直江津延長線に賛成の者15名、豊野線に賛成の者8名となり、直江津案に決まった。1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙に新潟7区から立憲改進党として立候補して当選した岡村は、高津仲次郎や湯浅治郎らと糾合して「予定鉄道線路中私設鉄道会社ニ敷設許可ニ関スル法律」の修正案を提出し、国政の場で上越線の重要性を訴えたが、産業発達の誘導や、貨物運輸に便が多いことが認められつつも、技術的に困難であることや、降雪地帯であること、建設費の高さなどが取り沙汰された結果、8票差で否決された。一方で、帝国陸軍の川上操六(鉄道会議議長)は衛戍地である新発田を通る上越線に着目、同計画を進める意見を主張し、岡村や湯浅らも賛成したが、採決の結果、否決された。同年6月に「鉄道比較線路決定ニ関スル法律」(明治27年法律第7号)が公布され、予定線は直江津線(現在の信越本線)となり、上越線は計画から除外された。
官製による敷設が見込めないという結論に至った岡本らは、民間で鉄道を敷設すべく、1894年(明治27年)に毛越鉄道株式会社を発起、1895年(明治28年)6月に上越鉄道会社に改名し、前橋 - 長岡の鉄道敷設免許を申請するが認められなかった。資金を調達するため、会社を株式会社(上越鉄道株式会社創立事務所)に改め、ルート上最も困難と目されていた県境部分のより詳細な測量を行い、報告書を作成した。こういった運動や陳情が実を結び、1896年(明治29年)7月についに敷設の仮免許が下付された。しかし、日清戦争の勝利によって物価が急騰し、500万円を予定していた資本金が3倍の1,500万円を要する事態となった。毛越鉄道では当初、前橋 - 沼田 - 谷川 - 湯沢 - 六日町 - 小千谷 - 長岡を経て新津 - 新発田という計画だったが、その後、長岡以北は計画の重複する北越鉄道に譲っており、経済界ではこれを有利な路線ではないと見て、融資に消極的な姿勢が広がり、資金の調達は難航した。1900年(明治33年)4月、待望の本免許が下付されるものの、経営方針を巡って会社内部で対立が起き、1901年(明治34年)4月には会社が解散し、免許も返納の憂き目を見る。
上越鉄道株式会社の解散総会に出席した土樽村村長の南雲喜之七は、個人の連帯による敷設運動の難しさを目の当たりにし、大きな力を動かすことの必要性を実感していた(南雲は岡村と協力し、運動の初期から参加していた)。1900年に結党された立憲政友会は逓信大臣の原敬を筆頭に交通政策を主要な路線として掲げて党勢の拡大を図っており、南雲は村長の任期を勤め上げた後で政友会に入会すると、1906年の鉄道国有法を経て、1907年(明治40年)に上京し、地方経済の発展のためにも上越線の敷設が急務であることを各所に訴えた。当時、衆議院の請願委員長で南雲と同郷の竹越與三郎(新潟県の郡部から選出)の口添えもあって、1909年(明治42年)3月23日には政友会の日向輝武他1名を代表人として「上越鐵道敷設に關する建議案」が帝国議会に提出された。1910年(明治43年)3月19日には同じく政友会の根岸峮太郎他3名により同名の建議案が提出されている。どちらの建議案においても、日露戦争を踏まえて軍事上においての上越線の必要性を訴える内容が大きくなっている。1913年(大正2年)の帝国議会における加藤勝彌による建議の提出や、1916年(大正5年)にも須藤嘉吉らによる建議の提出、他にも地元住民からの陳情や請願書が採択され、期成同盟会による要望が盛んに行われるものの、いずれも具体化には至らなかった。一方、第一次世界大戦やロシア革命によって大陸からの圧力が高まる中で国内では戦争特需が起きて経済が活発になるものの、アプト式の碓氷峠を経由する必要のある信越本線では輸送力の向上に限界があり、同じく日本海側と太平洋側を結んでいた岩越線で1917年(大正6年)3月に松野トンネル崩落事故が起きると、貨客の流動はますますひっ迫した。これらの事態を受けて政府は測量隊を上越国境に派遣し、建設計画の本格的な検討を始めた。やがて1918年(大正7年)2月に上越線「群馬県下高崎ヨリ新潟県下長岡ニ至ル鉄道」を含む改正鉄道敷設法が可決され(大正7年法律第12号)、ここに岡村らの訴えの始まりより30余年を経て上越線の建設が決定した。また、法改正を受けて直ちに直轄事業で工事が着工された。
1920年(大正9年)には新潟県側の上越北線(じょうえつほくせん)の第一期工事として宮内駅(長岡駅) - 東小千谷駅(現・小千谷駅)間、1921年(大正10年)には群馬県側の上越南線(じょうえつなんせん)新前橋駅 - 渋川駅間が開業した。両線は順次延長され、1925年(大正14年)には北線が越後湯沢駅まで、1928年(昭和3年)に南線が水上駅まで開業している。
このほか、高崎駅 - 新前橋駅間は1884年(明治17年)に日本鉄道が高崎駅 - 前橋駅間を開業させた際に建設したもので、国有化後は両毛線の所属となっていたが、上越線全通後に上越線にも属する重複区間となり、1957年(昭和32年)に上越線単独の区間とされた。
なお上越線の開業以前より、1893年(明治26年)には高崎 - 渋川間に群馬馬車鉄道が、1911年(明治44年)には渋川 - 沼田間に利根軌道、新来迎寺 - 小千谷間に魚沼鉄道がそれぞれ開業しており、明治後期には上越線に並行する形で東京の池袋と長岡の間に私鉄東上鉄道の建設も計画されたが、埼玉県の寄居と高崎の間が八高北線として国の直轄事業に取り上げられたため、上越線並行区間も含めて寄居以北建設を断念している。群馬馬車鉄道は路面電車化されて最終的に東武鉄道の高崎線となった後1953年(昭和28年)廃止、利根軌道は路面電車化され東京電燈の所有路線となった後に上越線の開業により1924年(大正13年)休止・1925年(大正14年)廃止、魚沼鉄道は国有化されて魚沼線になったものの、1981年(昭和56年)に特定地方交通線に指定され、1984年(昭和59年)に廃線となっている。
三国山脈が立ちはだかる県境の水上駅 - 越後湯沢駅間は、全長9,702 mの清水トンネルをはじめとしてその前後に2つのループトンネルを有する山岳路線であり、同区間が開通し上越線が全通するのは1931年(昭和6年)のことである。この区間は長大トンネルを有するので、運転の保安上から水上駅 - 石打駅間が開業当初より直流電化され、電気機関車の牽引により運転された。太平洋戦争後の1947年(昭和22年)には、高崎駅 - 長岡駅間の電化が完成している。
1960年代は、東京と日本海側を結ぶ主要幹線として複線化による輸送力増強が進められ、1967年(昭和42年)に湯檜曽駅 - 土樽駅間に新清水トンネルが開通し、全線の複線化が完了した。1982年(昭和57年)の上越新幹線開業を境に、上越線は東京 - 新潟間の都市間広域輸送の役目を新幹線に譲り、地域輸送と貨物輸送が主力となっている。
以下の上野駅から直通の定期特急列車が吾妻線長野原草津口駅まで運行されている。
普通列車は水上駅を境として、群馬県内の地域輸送の高崎駅 - 水上駅間と県境・新潟県内の水上駅 - 長岡駅間の2系統に運転系統が分かれている。ここでは前者を高崎駅 - 新前橋駅間と新前橋駅 - 水上駅間、後者を水上駅 - 越後中里駅間と越後中里駅 - 長岡駅間に分けて解説する。
高崎駅 - 新前橋駅間については、歴史的経緯と通勤需要から高崎線や両毛線と一体化された輸送がなされており(詳細は「歴史」を参照)、両毛線や高崎線への直通普通列車を中心として1時間に5 - 7本程度運行されている。高崎線からは上野東京ライン直通を含む普通列車・快速「アーバン」・通勤快速や、湘南新宿ラインが直通する。前橋駅発着の列車は「両毛線」(「高崎・両毛線」)と、上越線は省略して案内されている。かつては新前橋駅発着の列車も「高崎線」と、上越線の案内が省略されていたが、上野東京ライン開業に伴う方向幕更新により「高崎・上越線」と省略せずに案内するようになった。
2017年3月4日からは、日中の運行本数を見直し、渋川・水上方面の一部列車(吾妻線直通含む)が新前橋駅折り返しとなり、高崎方面とは両毛線直通列車(新前橋駅折り返し列車は無い)に接続する形を取るようになった。高崎駅 - 新前橋駅間はこれまで以上に両毛線との結び付きが強くなっている。
新前橋駅 - 渋川駅・水上駅間の上越線・吾妻線系統は1時間に2 - 3本程度運行されている。このうち1 - 2本は水上駅発着で、もう1本は渋川駅から吾妻線に直通する。前述のとおり、高崎駅発着列車が多いが、一部列車が新前橋駅発着となっている。いずれも群馬県内で完結する列車のみの運行となっている。夕方には高崎発渋川行きの区間列車もある。かつては高崎線への直通や水上駅を越えて長岡・新潟方面まで直通する運用も存在した。
この区間の1日の普通列車は、平日は5往復、土曜・休日は午前中に1往復が加わった6往復のみの運行となり、2 - 4両編成で運行されている。ただし、冬期間は増発され、平日1日7往復、土曜・休日は1日8往復となる。普通列車は最大で3 - 4時間ほど運転されない時間帯もあり、貨物列車のほうが首都圏と北陸・新潟・東北日本海側を結ぶ役割もあって本数が多い。この区間を走る普通列車は全列車が後述の越後中里駅 - 長岡駅間と直通運転する。なお、越後中里駅以北で実施されているワンマン運転はこの区間では実施されていない。
上越国境の山間部を走る区間であり、沿線に民家は僅少で、恒常的な旅客流動は少ない。特に水上駅 - 湯檜曽駅 - 土合駅間は並行する路線バス(関越交通)の本数が多く、実質的に旅客列車が運行されない時間帯の交通を担っている。
この区間は新潟県内のローカル輸送のため、普通列車主体の運行が行われている。水上駅・越後中里駅・越後湯沢駅・石打駅 - 信越本線長岡駅間が基本的な運行形態であり、越後湯沢駅 - 長岡駅間の列車が最も多い。1日の運行本数は越後中里駅 - 越後湯沢駅間で9往復、越後湯沢駅・石打駅 - 長岡駅間で15往復(土曜・休日は午前中に1往復追加、越後川口駅 - 長岡駅間は後述の飯山線直通列車が加わり17往復)となっている。線路名称上の終点である宮内駅を始発・終着駅とする列車はなく、全列車が長岡駅まで直通し、さらに朝の下り1本(石打駅始発)は新潟駅まで直通する。かつては上りにも新潟駅直通列車が存在したが、2016年に最後に残っていた新潟発越後中里行き(冬期は水上行き)が長岡駅で系統分割されて消滅した。2016年からは日中の一部の列車がワンマン運転を実施している。
また、北越急行ほくほく線直通列車が越後湯沢駅 - 六日町駅間で運行されている。ほくほく線直通列車は上越線内では一部の普通列車が塩沢駅に停車するが、石打駅・大沢駅・上越国際スキー場前駅は全列車が通過する(ただし冬季の一部列車のみ上越国際スキー場前駅に臨時停車する)。なお、ほくほく線直通列車はすべての列車がワンマン運転である。
越後川口駅 - 長岡駅間では、飯山線からの直通列車が気動車で2往復設定されており、2往復ともワンマン運転を行っている。
高崎駅 - 水上駅間では夏季や冬季の多客時に上野駅 - 水上駅間の特急「水上」が運転されるほか、蒸気機関車D51 498またはC61 20牽引によるSL列車「SLぐんま みなかみ」などが運転される。
越後中里駅 - 越後湯沢駅・六日町駅間では冬季に臨時普通列車「スキーリレー号」が運転される。
長岡側からは、2014年から運行されている観光列車「越乃Shu*Kura」(上越妙高駅 - 十日町駅間)・「ゆざわShu*Kura」(上越妙高駅 - 越後湯沢駅間)が、それぞれ当線の宮内駅 - 越後川口駅間、宮内駅 - 越後湯沢駅間を走行する。
このほか、全通以来冬季のスキー客輸送や、夏季の尾瀬ハイキング客輸送には上野駅・新宿駅などから直通の臨時列車が運行されていたが、近年縮小傾向にあり、現存するのはJRグループ最後の座席車による夜行列車「谷川岳山開き」が上野駅 - 土合駅間に年1往復(復路は昼行)運行されるのみとなっている。
首都圏方面からは大宮駅 - 越後湯沢駅間に臨時特急「谷川岳もぐら」「谷川岳ループ」を6月 - 11月を中心に運転している。
貨物列車については先述のとおり首都圏と新潟・秋田方面とを結ぶ列車が、おおむね毎日9往復(1往復の臨時便を含む)運行され、線内完結の列車は設定されていない。また、上越線内で定期貨物列車が停車する駅も存在しないが、信越本線南長岡駅への停車は設定されている。
近年はほとんどが上越線を夜間帯に走行していたが、2009年3月14日のダイヤ改正より4往復(臨時便1往復を含む)が上越線を日中時間帯に走るダイヤに移行した。また、総合車両製作所新津事業所(旧:JR東日本新津車両製作所)で落成した車両の関東方面への甲種輸送や配給列車の運行は当路線経由で行われる。
線内を通過する貨物列車の2014年時点での運行区間・本数は以下のとおり。
この区間はJR線路名称公告上は上越線の支線となっているが、運行上の形態は上越新幹線の一部である。在来線の扱いだが、新幹線用の施設・車両を使用し新幹線特例法の対象となっている。
途中駅はなく、終点のガーラ湯沢駅は隣接のガーラ湯沢スキー場にアクセスするために新設された駅であり、路線とともに冬季(概ね12月中旬 - 5月上旬)のみの営業となっている(スキー場は夏季も一部施設で営業を行うが、駅は営業しない)。運行期間中は東京方面から新幹線列車「たにがわ」が直通する。シーズン中はスキー場の営業状況に関わらず運行されるが、少雪等によりスキー場のシーズン終了が予定より前倒しされた場合は列車も運行終了となり、以降のこの区間は当初のシーズン終了日まで運休扱いとなる。
この区間を運行する列車はすべて特急列車であるため、乗車する場合は乗車券のほかに特急料金100円が必要となる。この区間のみの指定券は発売しないことになっている。また、特急料金不要の特例はなく、普通列車用の企画乗車券である青春18きっぷや北海道&東日本パスでの乗車はできない。この運行形態は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の博多南線とほぼ同等である。
オフシーズンでも越後湯沢駅終着の新幹線列車が折り返しのために入線するが、客扱いはしない。
冬季の設定ダイヤも運行本数はそれほど多くなく、下りは朝8時台の2本を除いて1時間に1本程度で、15時以降は2時間運行されない時間帯もあり、18時台の越後湯沢駅発で終了する。上りは始発から16時台の2本以外は、1時間1本程度の運行であり、19時台のガーラ湯沢駅発で終了する。ただし、上下線とも多客期には臨時列車の増発や最終列車の繰り下げもしばしば実施される。
シーズン中、越後湯沢駅とガーラ湯沢スキー場の間は無料シャトルバスも運行されており(近隣のスキー場やホテルも経由する)、列車のない時間帯の交通を補完している。
貨物列車の牽引については、次の電気機関車が担当している。
上越線は、群馬県から新潟県へと抜けるために、三国山脈を越える路線であるが、高崎駅から渋川駅あたりまでは関東平野の北西端ということもあり、平地が多い。
高崎駅を出ると、信越本線の線路をくぐり、進路を北東に変える。すぐに、上越新幹線と北陸新幹線の高架をくぐると、住宅街が広がる中を進む。高崎問屋町駅を出ると、程なく井野川を渡り、井野駅に到着する。井野駅を出ると、だんだんと畑や田が目に入るようになる。関越自動車道の高架をくぐると、進行方向両側に日高遺跡が確認できる。これは、関越自動車道の工事時に発見されたもので、現在では公園として古墳などが整備されている。右手にフォレストモール新前橋が見えると、新前橋駅に到着する。
新前橋駅を出ると、急なカーブで進路を北に変え、住宅街の中を進む。群馬総社駅を出ると、だんだんと畑が増えてくるとともに、工場が右手に見えるようになってくる。また晴れている場合には、右手に赤城山、左手に榛名山が見えるようになる。この間に吉岡町を通過する(駅は設置されていない)。八木原駅からは進路を北西に変え、関越自動車道の高架をくぐる。左手に住宅街が広がるようになり、右手に大同特殊鋼の渋川工場が見えると程なく渋川駅に到着する。
渋川駅を出ると、利根川を渡る。東京や埼玉方面から高崎線経由で来た場合には、初めてこの川を渡ることになる。この橋梁の北側で、利根川と吾妻川が合流する箇所があり、車窓左手からはこれがよく見える。橋を渡ると段々と山が迫り、またそれに伴って勾配を上っていく。敷島駅を過ぎると、これも先と同じく、初めてのトンネルを通る。津久田駅を過ぎると利根川を再び渡り、西岸に出る。こんにゃく畑をかすめ、三度目の利根川を渡ると、すぐ棚下トンネルに入る。トンネルを抜けると、四度目の利根川を渡ることになるが、この橋は当線の撮影スポットであり、SL列車「SLぐんま みなかみ」などが減速することもある。津久田駅から岩本駅までは国道17号や利根川と並走する途中で綾戸ダムを確認できるが、これは東京電力・佐久発電所の取水ダムであり、ここで群馬用水が分岐している。岩本駅の先では片品川の河岸段丘を確認できる。五度目の利根川を渡り、景色が開けると、沼田駅に到着する。
沼田駅を出ると後閑駅辺りまでは住宅や田畑が広がるが、同駅を過ぎると、利根川が左手に迫り、山が迫るようになる。上牧駅を越えてしばらくすると利根川の川幅は一段と狭まり、大きな岩も目立つようになる。このあたりは「諏訪峡」と呼ばれるが、川沿いに進むのは下り線のみで、上り線は途中から長いトンネルとなる。水上温泉のホテルが見えると、程なく東京近郊区間の末端である水上駅に到着する。
水上駅から越後中里駅までは、1日5往復前後しか定期旅客列車が運行されていない閑散区間になる。水上駅を出てすぐ六・七・八度目の利根川を渡ると、利根川と別れ、代わって湯檜曽川が土合駅付近まで並行するようになる。湯檜曽駅の手前では左手にはスキー場が見える。下り線は湯檜曽駅手前で谷川岳を貫く新清水トンネルに突入するため、同駅と次の土合駅は下り線のみ地下駅になっている。土合駅は地下深い場所にホームがある「モグラ駅」として有名である。また同駅は付近に谷川岳へのロープウェイが整備されており、夏は登山客で賑わう。なお、湯檜曽駅、土合駅ともに上り線は地上にある。その上り線の湯檜曽駅と土合駅の間にはループ線が、土合駅の宮内寄りには清水トンネルが存在し、新清水トンネル同様に谷川岳を貫いている。清水・新清水トンネルを出ると、新潟県に入り、以降越後川口駅の手前まで並行する魚野川を渡る。一旦上下線が合流するが、土樽駅を過ぎると再び分かれ、下り線はカーブで勾配を緩和しながら坂を下り、上り線はループ線の坂を登って、越後中里駅までに合流する。
なお、川端康成の小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネル」とは単線時代の(現在は上り線の)清水トンネルのことであり、冒頭の場面で主人公の島村と同じ汽車に乗り合わせた葉子が駅長を呼ぶ場面は当時の土樽信号場(現在の土樽駅)が舞台である。
その後、新潟県屈指の温泉越後湯沢温泉を擁し、前述の『雪国』の舞台になった湯沢町の玄関駅、越後湯沢駅に到着する。同駅には上越新幹線も乗り入れており、付近には冬は首都圏から気軽に行けるスキー場が多くあり、スキー・スノーボード客で賑わっている。
観光エリアの越後湯沢を後にし、六日町周辺では、右手に見える魚野川によって形成された河岸段丘地帯を進む、両脇を山々が路線に平行に連なっている。一帯は日本でも有数の稲作地帯である。六日町駅で直江津方面への短絡経路である北越急行ほくほく線が分岐していく。
六日町地域を過ぎ、なお魚野川を右手に見て進み、浦佐駅で再び上越新幹線と接続する。浦佐駅を出ると、只見線との乗換駅である小出駅までは再び長閑な田園風景が続く。小出駅を過ぎると、線路は大きく左へとカーブする。両脇の丘陵が一気に迫り、トンネルが増え、車窓にも変化が見られる。
線路は北堀之内駅の先で魚野川右岸へと渡り、左手に緩やかに流れる川を見るようにして越後川口駅へと到着する。付近で谷川岳を源流とし、幾多の流れが集まった魚野川は長野県から流れてきた信濃川に合流する。同様に上越線は、長野からやってきた飯山線と越後川口駅で接続する。
小千谷駅からは、新潟近郊区間に入る。榎峠トンネルを過ぎると、急速に周囲が開け、越後平野に入る。越後滝谷駅を過ぎ、国道17号としばし並走しながら越後平野を一直線に進む線路は、左から合流してくる信越本線とともに、上越線の終点宮内駅へと滑り込む。越後湯沢方面からの普通列車はすべて一駅先の長岡駅まで運行されている。
高崎駅 - 土合駅間が高崎支社、土樽駅 - 宮内駅間とガーラ湯沢駅(駅施設のみ)が新潟支社、ガーラ湯沢支線(駅施設を除く)が新幹線統括本部の管轄である。土合駅 - 土樽駅間(上り線清水トンネルの土合方出口付近、大宮起点146.43km地点)に、高崎支社と新潟支社の支社境がある。
区間ごとの平均通過人員は以下のとおりである。
1997年3月から2015年3月まで運行されていた在来線特急「はくたか」が越後湯沢 - 六日町間を経由していたため、前後の区間に比べて平均通過人員が多かった。
便宜上、宮内駅側で全旅客列車が直通する信越本線長岡駅までの区間を記載する。
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"text": "上越線(じょうえつせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。",
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"text": "このほか、越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間の支線をもつ。この支線は上越新幹線の保線基地への引き込み線を利用した営業線で、同新幹線から列車が直通するが、法規上は新幹線ではなく在来線の扱いであり、線路名称上も実施計画上も上越線の支線である。",
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"text": "高崎線の終着駅高崎駅より利根川沿いに群馬県内を北上し、三国山脈を越えて新潟県に入り、中越地方の魚野川・信濃川沿いに六日町盆地などを経て長岡市に至る鉄道路線。終点の宮内駅では信越本線に接続する。後閑駅 - 越後湯沢駅間を除き国道17号とほぼ並走する。",
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"text": "路線名の由来は、上野(現在の群馬県)と越後(現在の新潟県本土)を結ぶことに由来する。なお、新潟県には上越市やそれを含む上越地方があるが、上越の呼称の由来は異なり(詳しくは「上越」を参照)、上越線は上越市はおろか上越地方すら通らない。新潟県の上越線沿線地域は全域が中越地方に属する。",
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"text": "当線が開通する以前、関東と新潟県を結ぶ鉄道ルートは「高崎線・信越本線ルート」と「東北本線・磐越西線ルート」の二つがあった。しかし、いずれも関東と新潟を直線的に結ぶルートではないうえ、信越本線には碓氷峠の急峻な勾配があり時間的ロスを生じていた。こうした中、上越国境の茂倉岳直下を清水トンネルで越える短絡経路として、上越線が建設された。このうち、水上駅 - 石打駅間は最急勾配20 ‰で建設され、当初から電化された区間である。",
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"text": "1931年(昭和6年)の開業当初、それまで上野駅 - 新潟駅間は信越本線経由の急行列車で11時間6分を要していたのが、新設された上越線経由の急行列車は7時間10分で結び、一挙に4時間の所要時間短縮が図られた。上越新幹線の開業後は首都圏と新潟との都市間輸送の役割を新幹線に譲り、全線を直通する旅客列車は夜行列車などわずかとなったが、首都圏と新潟・北陸・庄内・秋田方面とを結ぶ貨物列車が通る幹線という側面を持っており、今もなおその重責を担う。また、首都圏と青森・北海道方面とを結ぶルートとしても、奥羽本線の一部と田沢湖線がミニ新幹線化(標準軌化)され、東北本線盛岡駅以北がいわて銀河鉄道線・青い森鉄道線に転換されてからは高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線ルートがJRのみを経由する唯一の幹線ルートであり、東北本線不通時の長距離列車・貨物列車の唯一の迂回路としての機能も担っている。",
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"text": "高崎駅 - 水上駅間が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」に、小千谷駅 - 宮内駅間が「新潟近郊区間」に含まれる。当線の東京近郊区間はIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアとなっており、同様に新潟近郊区間の内、小千谷駅と宮内駅がSuicaの新潟エリアとなっている(小千谷駅は一部サービス対応駅。途中の越後滝谷駅についてはエリア外)。このほか、支線の越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間は「タッチでGo!新幹線」のサービスエリアに含まれ、利用開始登録済のICカードで乗車可能である。",
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"text": "ラインカラーは高崎支社管内、新潟支社管内ともに水色。ただし2002年ごろまで新潟支社管内ではオレンジ色をラインカラーとして用いていた。",
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"text": "キロポストは高崎線からの数字を受け継いでおり、大宮駅からの距離の表示となっている。ちなみに大宮駅の高崎線ホーム上の案内(一部除く)は、「高崎線・上越線」と表記されている(他の高崎線単独駅に「上越線」の案内はない。かつては運転系統上の高崎線や上越線を経由する特急・急行の始発駅である上野駅でも見られたが、上野東京ライン開通時にほとんど消されている)。",
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"text": "明治維新の後、富国強兵や殖産興業のために、当時主流だった海運と並ぶ陸上での大量輸送機関である鉄道の整備が求められ、1869年(明治2年)11月に鉄道建設が廟議決定されると、各地で鉄道に関する議論や運動が盛んになった。1872年(明治5年)10月に日本の鉄道が開業すると、華族組合による鉄道の経営を考えていた蜂須賀茂韶が工部卿に送った書簡の中で、「東京ヨリ奥州青森ニ至リ或ハ東京ヨリ越後新潟ニ至ル等ノ地ニ鉄路蒸気汽車ヲ設ケ...」として、東京から開港地である新潟へ鉄道を敷く計画を示す。1874年(明治7年)には中山道幹線建設のためにルート調査に当たっていたリチャード・ヴィカルス・ボイル(Richard Vicars Boyles)の部下の建築師ウィリアム・ゴールウェー(William Galway)と助手のクロード・ウィリアム・キンダー(Claude William Kinder)によって三国峠の偵察が行われる。1881年(明治14年)に日本鉄道が設立されると、これに接続する鉄道の事業計画が新潟県刈羽郡横沢村の山口権三郎によって作られた(後の北越鉄道)。",
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"text": "1884年(明治17年)5月に日本鉄道が高崎まで開通すると、1887年(明治20年)5月に新潟県南魚沼郡下一日市村の岡村貢が「上越鉄道創設趣意書」を作成し、それを元に前橋の高橋周楨、東京の岡村良朗らと上越直線鉄道会社設立事務所を開設し、敷設運動を開始(1888年1月に上越鉄道会社と改称)。各地で鉄道大会を開き、同士を募って気運を高めた。鉄道技師の佐分利一嗣によってルートが検討され、実地調査が行われた。1889年(明治22年)3月には第一次私鉄ブームの企業勃興の流れに乗って組織が上越鉄道株式会社と改められ、前橋に本社が、東京と新発田に事務所が置かれた。1890年(明治23年)には鍬形豊三郎らが発起人となって前橋 - 沼田 - 長岡 - 新発田をつなぐ鉄道敷設の免許申請が政府に提出されたが、「願意の趣聞き届け難く候」と一方的に却下されてしまう(鉄道局長の井上勝が私鉄に批判的だったことに加えて明治23年恐慌が発生していたことも背景にある)。そこで岡村らは再度測量を行い、隧道延長や勾配などを改良した計画図面と目論見書を作成し、群馬・新潟両県で2万筆の署名を集め、両県知事の申し添えを得て「上越鉄道会社創設再願書」を作成し1891年(明治24年)8月に再申請、両県知事も上京して陳情を行ったが再び許可は下りなかった。シベリア鉄道建設開始の報を受けて国防上の観点も加えて計画の見直しが図られ、同年11月に「上越鉄道敷設建白書」が提出された。",
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"text": "1892年(明治25年)6月21日に鉄道敷設法が公布されると、第一期予定線として「新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋若ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及新発田ニ至ル鉄道」が示され、これが法律によって上越線が認められた起源となる。1893年(明治26年)2月の鉄道会議で、上越線(前橋 - 新潟)、直江津延長線(直江津 - 新潟)、豊野線(豊野 - 新潟)の方針について議論が行われた。ここでは23名の出席者のうち、直江津延長線に賛成の者15名、豊野線に賛成の者8名となり、直江津案に決まった。1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙に新潟7区から立憲改進党として立候補して当選した岡村は、高津仲次郎や湯浅治郎らと糾合して「予定鉄道線路中私設鉄道会社ニ敷設許可ニ関スル法律」の修正案を提出し、国政の場で上越線の重要性を訴えたが、産業発達の誘導や、貨物運輸に便が多いことが認められつつも、技術的に困難であることや、降雪地帯であること、建設費の高さなどが取り沙汰された結果、8票差で否決された。一方で、帝国陸軍の川上操六(鉄道会議議長)は衛戍地である新発田を通る上越線に着目、同計画を進める意見を主張し、岡村や湯浅らも賛成したが、採決の結果、否決された。同年6月に「鉄道比較線路決定ニ関スル法律」(明治27年法律第7号)が公布され、予定線は直江津線(現在の信越本線)となり、上越線は計画から除外された。",
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"paragraph_id": 12,
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"text": "官製による敷設が見込めないという結論に至った岡本らは、民間で鉄道を敷設すべく、1894年(明治27年)に毛越鉄道株式会社を発起、1895年(明治28年)6月に上越鉄道会社に改名し、前橋 - 長岡の鉄道敷設免許を申請するが認められなかった。資金を調達するため、会社を株式会社(上越鉄道株式会社創立事務所)に改め、ルート上最も困難と目されていた県境部分のより詳細な測量を行い、報告書を作成した。こういった運動や陳情が実を結び、1896年(明治29年)7月についに敷設の仮免許が下付された。しかし、日清戦争の勝利によって物価が急騰し、500万円を予定していた資本金が3倍の1,500万円を要する事態となった。毛越鉄道では当初、前橋 - 沼田 - 谷川 - 湯沢 - 六日町 - 小千谷 - 長岡を経て新津 - 新発田という計画だったが、その後、長岡以北は計画の重複する北越鉄道に譲っており、経済界ではこれを有利な路線ではないと見て、融資に消極的な姿勢が広がり、資金の調達は難航した。1900年(明治33年)4月、待望の本免許が下付されるものの、経営方針を巡って会社内部で対立が起き、1901年(明治34年)4月には会社が解散し、免許も返納の憂き目を見る。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "上越鉄道株式会社の解散総会に出席した土樽村村長の南雲喜之七は、個人の連帯による敷設運動の難しさを目の当たりにし、大きな力を動かすことの必要性を実感していた(南雲は岡村と協力し、運動の初期から参加していた)。1900年に結党された立憲政友会は逓信大臣の原敬を筆頭に交通政策を主要な路線として掲げて党勢の拡大を図っており、南雲は村長の任期を勤め上げた後で政友会に入会すると、1906年の鉄道国有法を経て、1907年(明治40年)に上京し、地方経済の発展のためにも上越線の敷設が急務であることを各所に訴えた。当時、衆議院の請願委員長で南雲と同郷の竹越與三郎(新潟県の郡部から選出)の口添えもあって、1909年(明治42年)3月23日には政友会の日向輝武他1名を代表人として「上越鐵道敷設に關する建議案」が帝国議会に提出された。1910年(明治43年)3月19日には同じく政友会の根岸峮太郎他3名により同名の建議案が提出されている。どちらの建議案においても、日露戦争を踏まえて軍事上においての上越線の必要性を訴える内容が大きくなっている。1913年(大正2年)の帝国議会における加藤勝彌による建議の提出や、1916年(大正5年)にも須藤嘉吉らによる建議の提出、他にも地元住民からの陳情や請願書が採択され、期成同盟会による要望が盛んに行われるものの、いずれも具体化には至らなかった。一方、第一次世界大戦やロシア革命によって大陸からの圧力が高まる中で国内では戦争特需が起きて経済が活発になるものの、アプト式の碓氷峠を経由する必要のある信越本線では輸送力の向上に限界があり、同じく日本海側と太平洋側を結んでいた岩越線で1917年(大正6年)3月に松野トンネル崩落事故が起きると、貨客の流動はますますひっ迫した。これらの事態を受けて政府は測量隊を上越国境に派遣し、建設計画の本格的な検討を始めた。やがて1918年(大正7年)2月に上越線「群馬県下高崎ヨリ新潟県下長岡ニ至ル鉄道」を含む改正鉄道敷設法が可決され(大正7年法律第12号)、ここに岡村らの訴えの始まりより30余年を経て上越線の建設が決定した。また、法改正を受けて直ちに直轄事業で工事が着工された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1920年(大正9年)には新潟県側の上越北線(じょうえつほくせん)の第一期工事として宮内駅(長岡駅) - 東小千谷駅(現・小千谷駅)間、1921年(大正10年)には群馬県側の上越南線(じょうえつなんせん)新前橋駅 - 渋川駅間が開業した。両線は順次延長され、1925年(大正14年)には北線が越後湯沢駅まで、1928年(昭和3年)に南線が水上駅まで開業している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "このほか、高崎駅 - 新前橋駅間は1884年(明治17年)に日本鉄道が高崎駅 - 前橋駅間を開業させた際に建設したもので、国有化後は両毛線の所属となっていたが、上越線全通後に上越線にも属する重複区間となり、1957年(昭和32年)に上越線単独の区間とされた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお上越線の開業以前より、1893年(明治26年)には高崎 - 渋川間に群馬馬車鉄道が、1911年(明治44年)には渋川 - 沼田間に利根軌道、新来迎寺 - 小千谷間に魚沼鉄道がそれぞれ開業しており、明治後期には上越線に並行する形で東京の池袋と長岡の間に私鉄東上鉄道の建設も計画されたが、埼玉県の寄居と高崎の間が八高北線として国の直轄事業に取り上げられたため、上越線並行区間も含めて寄居以北建設を断念している。群馬馬車鉄道は路面電車化されて最終的に東武鉄道の高崎線となった後1953年(昭和28年)廃止、利根軌道は路面電車化され東京電燈の所有路線となった後に上越線の開業により1924年(大正13年)休止・1925年(大正14年)廃止、魚沼鉄道は国有化されて魚沼線になったものの、1981年(昭和56年)に特定地方交通線に指定され、1984年(昭和59年)に廃線となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "三国山脈が立ちはだかる県境の水上駅 - 越後湯沢駅間は、全長9,702 mの清水トンネルをはじめとしてその前後に2つのループトンネルを有する山岳路線であり、同区間が開通し上越線が全通するのは1931年(昭和6年)のことである。この区間は長大トンネルを有するので、運転の保安上から水上駅 - 石打駅間が開業当初より直流電化され、電気機関車の牽引により運転された。太平洋戦争後の1947年(昭和22年)には、高崎駅 - 長岡駅間の電化が完成している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1960年代は、東京と日本海側を結ぶ主要幹線として複線化による輸送力増強が進められ、1967年(昭和42年)に湯檜曽駅 - 土樽駅間に新清水トンネルが開通し、全線の複線化が完了した。1982年(昭和57年)の上越新幹線開業を境に、上越線は東京 - 新潟間の都市間広域輸送の役目を新幹線に譲り、地域輸送と貨物輸送が主力となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "以下の上野駅から直通の定期特急列車が吾妻線長野原草津口駅まで運行されている。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "普通列車は水上駅を境として、群馬県内の地域輸送の高崎駅 - 水上駅間と県境・新潟県内の水上駅 - 長岡駅間の2系統に運転系統が分かれている。ここでは前者を高崎駅 - 新前橋駅間と新前橋駅 - 水上駅間、後者を水上駅 - 越後中里駅間と越後中里駅 - 長岡駅間に分けて解説する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "高崎駅 - 新前橋駅間については、歴史的経緯と通勤需要から高崎線や両毛線と一体化された輸送がなされており(詳細は「歴史」を参照)、両毛線や高崎線への直通普通列車を中心として1時間に5 - 7本程度運行されている。高崎線からは上野東京ライン直通を含む普通列車・快速「アーバン」・通勤快速や、湘南新宿ラインが直通する。前橋駅発着の列車は「両毛線」(「高崎・両毛線」)と、上越線は省略して案内されている。かつては新前橋駅発着の列車も「高崎線」と、上越線の案内が省略されていたが、上野東京ライン開業に伴う方向幕更新により「高崎・上越線」と省略せずに案内するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2017年3月4日からは、日中の運行本数を見直し、渋川・水上方面の一部列車(吾妻線直通含む)が新前橋駅折り返しとなり、高崎方面とは両毛線直通列車(新前橋駅折り返し列車は無い)に接続する形を取るようになった。高崎駅 - 新前橋駅間はこれまで以上に両毛線との結び付きが強くなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "新前橋駅 - 渋川駅・水上駅間の上越線・吾妻線系統は1時間に2 - 3本程度運行されている。このうち1 - 2本は水上駅発着で、もう1本は渋川駅から吾妻線に直通する。前述のとおり、高崎駅発着列車が多いが、一部列車が新前橋駅発着となっている。いずれも群馬県内で完結する列車のみの運行となっている。夕方には高崎発渋川行きの区間列車もある。かつては高崎線への直通や水上駅を越えて長岡・新潟方面まで直通する運用も存在した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "この区間の1日の普通列車は、平日は5往復、土曜・休日は午前中に1往復が加わった6往復のみの運行となり、2 - 4両編成で運行されている。ただし、冬期間は増発され、平日1日7往復、土曜・休日は1日8往復となる。普通列車は最大で3 - 4時間ほど運転されない時間帯もあり、貨物列車のほうが首都圏と北陸・新潟・東北日本海側を結ぶ役割もあって本数が多い。この区間を走る普通列車は全列車が後述の越後中里駅 - 長岡駅間と直通運転する。なお、越後中里駅以北で実施されているワンマン運転はこの区間では実施されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "上越国境の山間部を走る区間であり、沿線に民家は僅少で、恒常的な旅客流動は少ない。特に水上駅 - 湯檜曽駅 - 土合駅間は並行する路線バス(関越交通)の本数が多く、実質的に旅客列車が運行されない時間帯の交通を担っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この区間は新潟県内のローカル輸送のため、普通列車主体の運行が行われている。水上駅・越後中里駅・越後湯沢駅・石打駅 - 信越本線長岡駅間が基本的な運行形態であり、越後湯沢駅 - 長岡駅間の列車が最も多い。1日の運行本数は越後中里駅 - 越後湯沢駅間で9往復、越後湯沢駅・石打駅 - 長岡駅間で15往復(土曜・休日は午前中に1往復追加、越後川口駅 - 長岡駅間は後述の飯山線直通列車が加わり17往復)となっている。線路名称上の終点である宮内駅を始発・終着駅とする列車はなく、全列車が長岡駅まで直通し、さらに朝の下り1本(石打駅始発)は新潟駅まで直通する。かつては上りにも新潟駅直通列車が存在したが、2016年に最後に残っていた新潟発越後中里行き(冬期は水上行き)が長岡駅で系統分割されて消滅した。2016年からは日中の一部の列車がワンマン運転を実施している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また、北越急行ほくほく線直通列車が越後湯沢駅 - 六日町駅間で運行されている。ほくほく線直通列車は上越線内では一部の普通列車が塩沢駅に停車するが、石打駅・大沢駅・上越国際スキー場前駅は全列車が通過する(ただし冬季の一部列車のみ上越国際スキー場前駅に臨時停車する)。なお、ほくほく線直通列車はすべての列車がワンマン運転である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "越後川口駅 - 長岡駅間では、飯山線からの直通列車が気動車で2往復設定されており、2往復ともワンマン運転を行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "高崎駅 - 水上駅間では夏季や冬季の多客時に上野駅 - 水上駅間の特急「水上」が運転されるほか、蒸気機関車D51 498またはC61 20牽引によるSL列車「SLぐんま みなかみ」などが運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "越後中里駅 - 越後湯沢駅・六日町駅間では冬季に臨時普通列車「スキーリレー号」が運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "長岡側からは、2014年から運行されている観光列車「越乃Shu*Kura」(上越妙高駅 - 十日町駅間)・「ゆざわShu*Kura」(上越妙高駅 - 越後湯沢駅間)が、それぞれ当線の宮内駅 - 越後川口駅間、宮内駅 - 越後湯沢駅間を走行する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "このほか、全通以来冬季のスキー客輸送や、夏季の尾瀬ハイキング客輸送には上野駅・新宿駅などから直通の臨時列車が運行されていたが、近年縮小傾向にあり、現存するのはJRグループ最後の座席車による夜行列車「谷川岳山開き」が上野駅 - 土合駅間に年1往復(復路は昼行)運行されるのみとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "首都圏方面からは大宮駅 - 越後湯沢駅間に臨時特急「谷川岳もぐら」「谷川岳ループ」を6月 - 11月を中心に運転している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "貨物列車については先述のとおり首都圏と新潟・秋田方面とを結ぶ列車が、おおむね毎日9往復(1往復の臨時便を含む)運行され、線内完結の列車は設定されていない。また、上越線内で定期貨物列車が停車する駅も存在しないが、信越本線南長岡駅への停車は設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近年はほとんどが上越線を夜間帯に走行していたが、2009年3月14日のダイヤ改正より4往復(臨時便1往復を含む)が上越線を日中時間帯に走るダイヤに移行した。また、総合車両製作所新津事業所(旧:JR東日本新津車両製作所)で落成した車両の関東方面への甲種輸送や配給列車の運行は当路線経由で行われる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "線内を通過する貨物列車の2014年時点での運行区間・本数は以下のとおり。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この区間はJR線路名称公告上は上越線の支線となっているが、運行上の形態は上越新幹線の一部である。在来線の扱いだが、新幹線用の施設・車両を使用し新幹線特例法の対象となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "途中駅はなく、終点のガーラ湯沢駅は隣接のガーラ湯沢スキー場にアクセスするために新設された駅であり、路線とともに冬季(概ね12月中旬 - 5月上旬)のみの営業となっている(スキー場は夏季も一部施設で営業を行うが、駅は営業しない)。運行期間中は東京方面から新幹線列車「たにがわ」が直通する。シーズン中はスキー場の営業状況に関わらず運行されるが、少雪等によりスキー場のシーズン終了が予定より前倒しされた場合は列車も運行終了となり、以降のこの区間は当初のシーズン終了日まで運休扱いとなる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この区間を運行する列車はすべて特急列車であるため、乗車する場合は乗車券のほかに特急料金100円が必要となる。この区間のみの指定券は発売しないことになっている。また、特急料金不要の特例はなく、普通列車用の企画乗車券である青春18きっぷや北海道&東日本パスでの乗車はできない。この運行形態は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の博多南線とほぼ同等である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "オフシーズンでも越後湯沢駅終着の新幹線列車が折り返しのために入線するが、客扱いはしない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "冬季の設定ダイヤも運行本数はそれほど多くなく、下りは朝8時台の2本を除いて1時間に1本程度で、15時以降は2時間運行されない時間帯もあり、18時台の越後湯沢駅発で終了する。上りは始発から16時台の2本以外は、1時間1本程度の運行であり、19時台のガーラ湯沢駅発で終了する。ただし、上下線とも多客期には臨時列車の増発や最終列車の繰り下げもしばしば実施される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "シーズン中、越後湯沢駅とガーラ湯沢スキー場の間は無料シャトルバスも運行されており(近隣のスキー場やホテルも経由する)、列車のない時間帯の交通を補完している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "貨物列車の牽引については、次の電気機関車が担当している。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "上越線は、群馬県から新潟県へと抜けるために、三国山脈を越える路線であるが、高崎駅から渋川駅あたりまでは関東平野の北西端ということもあり、平地が多い。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "高崎駅を出ると、信越本線の線路をくぐり、進路を北東に変える。すぐに、上越新幹線と北陸新幹線の高架をくぐると、住宅街が広がる中を進む。高崎問屋町駅を出ると、程なく井野川を渡り、井野駅に到着する。井野駅を出ると、だんだんと畑や田が目に入るようになる。関越自動車道の高架をくぐると、進行方向両側に日高遺跡が確認できる。これは、関越自動車道の工事時に発見されたもので、現在では公園として古墳などが整備されている。右手にフォレストモール新前橋が見えると、新前橋駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "新前橋駅を出ると、急なカーブで進路を北に変え、住宅街の中を進む。群馬総社駅を出ると、だんだんと畑が増えてくるとともに、工場が右手に見えるようになってくる。また晴れている場合には、右手に赤城山、左手に榛名山が見えるようになる。この間に吉岡町を通過する(駅は設置されていない)。八木原駅からは進路を北西に変え、関越自動車道の高架をくぐる。左手に住宅街が広がるようになり、右手に大同特殊鋼の渋川工場が見えると程なく渋川駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "渋川駅を出ると、利根川を渡る。東京や埼玉方面から高崎線経由で来た場合には、初めてこの川を渡ることになる。この橋梁の北側で、利根川と吾妻川が合流する箇所があり、車窓左手からはこれがよく見える。橋を渡ると段々と山が迫り、またそれに伴って勾配を上っていく。敷島駅を過ぎると、これも先と同じく、初めてのトンネルを通る。津久田駅を過ぎると利根川を再び渡り、西岸に出る。こんにゃく畑をかすめ、三度目の利根川を渡ると、すぐ棚下トンネルに入る。トンネルを抜けると、四度目の利根川を渡ることになるが、この橋は当線の撮影スポットであり、SL列車「SLぐんま みなかみ」などが減速することもある。津久田駅から岩本駅までは国道17号や利根川と並走する途中で綾戸ダムを確認できるが、これは東京電力・佐久発電所の取水ダムであり、ここで群馬用水が分岐している。岩本駅の先では片品川の河岸段丘を確認できる。五度目の利根川を渡り、景色が開けると、沼田駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "沼田駅を出ると後閑駅辺りまでは住宅や田畑が広がるが、同駅を過ぎると、利根川が左手に迫り、山が迫るようになる。上牧駅を越えてしばらくすると利根川の川幅は一段と狭まり、大きな岩も目立つようになる。このあたりは「諏訪峡」と呼ばれるが、川沿いに進むのは下り線のみで、上り線は途中から長いトンネルとなる。水上温泉のホテルが見えると、程なく東京近郊区間の末端である水上駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "水上駅から越後中里駅までは、1日5往復前後しか定期旅客列車が運行されていない閑散区間になる。水上駅を出てすぐ六・七・八度目の利根川を渡ると、利根川と別れ、代わって湯檜曽川が土合駅付近まで並行するようになる。湯檜曽駅の手前では左手にはスキー場が見える。下り線は湯檜曽駅手前で谷川岳を貫く新清水トンネルに突入するため、同駅と次の土合駅は下り線のみ地下駅になっている。土合駅は地下深い場所にホームがある「モグラ駅」として有名である。また同駅は付近に谷川岳へのロープウェイが整備されており、夏は登山客で賑わう。なお、湯檜曽駅、土合駅ともに上り線は地上にある。その上り線の湯檜曽駅と土合駅の間にはループ線が、土合駅の宮内寄りには清水トンネルが存在し、新清水トンネル同様に谷川岳を貫いている。清水・新清水トンネルを出ると、新潟県に入り、以降越後川口駅の手前まで並行する魚野川を渡る。一旦上下線が合流するが、土樽駅を過ぎると再び分かれ、下り線はカーブで勾配を緩和しながら坂を下り、上り線はループ線の坂を登って、越後中里駅までに合流する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "なお、川端康成の小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネル」とは単線時代の(現在は上り線の)清水トンネルのことであり、冒頭の場面で主人公の島村と同じ汽車に乗り合わせた葉子が駅長を呼ぶ場面は当時の土樽信号場(現在の土樽駅)が舞台である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "その後、新潟県屈指の温泉越後湯沢温泉を擁し、前述の『雪国』の舞台になった湯沢町の玄関駅、越後湯沢駅に到着する。同駅には上越新幹線も乗り入れており、付近には冬は首都圏から気軽に行けるスキー場が多くあり、スキー・スノーボード客で賑わっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "観光エリアの越後湯沢を後にし、六日町周辺では、右手に見える魚野川によって形成された河岸段丘地帯を進む、両脇を山々が路線に平行に連なっている。一帯は日本でも有数の稲作地帯である。六日町駅で直江津方面への短絡経路である北越急行ほくほく線が分岐していく。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "六日町地域を過ぎ、なお魚野川を右手に見て進み、浦佐駅で再び上越新幹線と接続する。浦佐駅を出ると、只見線との乗換駅である小出駅までは再び長閑な田園風景が続く。小出駅を過ぎると、線路は大きく左へとカーブする。両脇の丘陵が一気に迫り、トンネルが増え、車窓にも変化が見られる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "線路は北堀之内駅の先で魚野川右岸へと渡り、左手に緩やかに流れる川を見るようにして越後川口駅へと到着する。付近で谷川岳を源流とし、幾多の流れが集まった魚野川は長野県から流れてきた信濃川に合流する。同様に上越線は、長野からやってきた飯山線と越後川口駅で接続する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "小千谷駅からは、新潟近郊区間に入る。榎峠トンネルを過ぎると、急速に周囲が開け、越後平野に入る。越後滝谷駅を過ぎ、国道17号としばし並走しながら越後平野を一直線に進む線路は、左から合流してくる信越本線とともに、上越線の終点宮内駅へと滑り込む。越後湯沢方面からの普通列車はすべて一駅先の長岡駅まで運行されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "高崎駅 - 土合駅間が高崎支社、土樽駅 - 宮内駅間とガーラ湯沢駅(駅施設のみ)が新潟支社、ガーラ湯沢支線(駅施設を除く)が新幹線統括本部の管轄である。土合駅 - 土樽駅間(上り線清水トンネルの土合方出口付近、大宮起点146.43km地点)に、高崎支社と新潟支社の支社境がある。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "区間ごとの平均通過人員は以下のとおりである。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1997年3月から2015年3月まで運行されていた在来線特急「はくたか」が越後湯沢 - 六日町間を経由していたため、前後の区間に比べて平均通過人員が多かった。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "便宜上、宮内駅側で全旅客列車が直通する信越本線長岡駅までの区間を記載する。",
"title": "駅一覧"
}
] |
上越線(じょうえつせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。 このほか、越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間の支線をもつ。この支線は上越新幹線の保線基地への引き込み線を利用した営業線で、同新幹線から列車が直通するが、法規上は新幹線ではなく在来線の扱いであり、線路名称上も実施計画上も上越線の支線である。
|
{{Otheruses|東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{画像提供依頼|<br>1. EH200またはEF64牽引の貨物列車<br>2. 霜取り列車<br>3. 沿線で撮影した新潟色115系普通列車<br>|date=2022年11月|cat=鉄道|cat2=新潟県}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 上越線
|路線色=#00b3e6
|画像=Joetsu-Line-Series211-A28.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=上越線を走行する[[国鉄211系電車|211系]]<br>(2020年11月 [[上牧駅 (群馬県)|上牧駅]] - [[水上駅]]間)
|通称=[[上野東京ライン]]、[[湘南新宿ライン]]([[高崎駅]] - [[新前橋駅]]間)<ref group="注釈">[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]直通列車のみ。</ref><br/>[[上越新幹線]]([[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[群馬県]]、[[新潟県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[高崎駅]](本線)<br />[[越後湯沢駅]](支線)
|終点=[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]](本線)<br />[[ガーラ湯沢駅]](支線)
|駅数=36駅(ガーラ湯沢駅含む)
|電報略号 = シヨセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|開業=[[1884年]][[8月20日]]
|全通=[[1931年]][[9月1日]]
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]]
|運営者=東日本旅客鉄道<br>[[日本貨物鉄道]]
|路線距離=162.6 [[キロメートル|km]](高崎駅 - 宮内駅間)<br />1.8 km(越後湯沢-ガーラ湯沢間)
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]](高崎駅 - 宮内駅間)<br />1,435 mm(越後湯沢-ガーラ湯沢間)
|線路数=[[複線]]
|電化区間=全線
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]](高崎駅 - 宮内駅間)<br>[[交流電化|交流]]25,000 V・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] 架空電車線方式(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)
|閉塞方式=自動閉塞式(本線)<br>車内信号式(支線)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](高崎駅 - 石打駅間、六日町駅と浦佐駅構内)<br />[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](石打駅 - 宮内駅間)<br>[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]](越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2019/all.pdf サステナビリティレポート2019] 38頁 - JR東日本、2019年9月</ref>
|最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]](優等列車)
|路線図=[[File:JR_Jōetsu_Line_linemap.svg|150px]]
}}
'''上越線'''(じょうえつせん)は、[[群馬県]][[高崎市]]の[[高崎駅]]から[[新潟県]][[長岡市]]の[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]までを結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])。
このほか、[[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]間の支線をもつ。この支線は[[上越新幹線]]の保線基地への引き込み線を利用した営業線で、同新幹線から列車が直通するが、法規上は[[新幹線]]ではなく[[在来線]]の扱い<ref group="注釈">類例として[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[博多南線]]がある。</ref>であり、線路名称上も実施計画上も上越線の支線である。
== 概要 ==
[[高崎線]]の終着駅[[高崎駅]]より[[利根川]]沿いに[[群馬県]]内を北上し、[[三国山脈]]を越えて[[新潟県]]に入り、[[中越地方]]の[[魚野川]]・[[信濃川]]沿いに[[魚沼盆地|六日町盆地]]などを経て[[長岡市]]に至る鉄道路線。終点の[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]では[[信越本線]]に接続する。[[後閑駅]] - [[越後湯沢駅]]間を除き[[国道17号]]とほぼ並走する。
路線名の由来は、[[上野国|上野]](現在の群馬県)と[[越後国|越後]](現在の新潟県本土)を結ぶことに由来する。なお、新潟県には[[上越市]]やそれを含む[[上越地方]]があるが、上越の呼称の由来は異なり(詳しくは「[[上越]]」を参照)、上越線は上越市はおろか上越地方すら通らない。新潟県の上越線沿線地域は全域が中越地方に属する。
当線が開通する以前、[[関東地方|関東]]と新潟県を結ぶ鉄道ルートは「高崎線・信越本線ルート」と「[[東北本線]]・[[磐越西線]]ルート」の二つがあった。しかし、いずれも関東と新潟を直線的に結ぶルートではないうえ、信越本線には[[碓氷峠]]の急峻な勾配があり時間的ロスを生じていた。こうした中、[[上越国境]]の[[茂倉岳]]直下を[[清水トンネル]]で越える短絡経路として、上越線が建設された。このうち、水上駅 - 石打駅間は最急勾配20 [[パーミル|‰]]で建設され、当初から[[鉄道の電化|電化]]された区間である。
[[1931年]](昭和6年)の開業当初、それまで[[上野駅]] - [[新潟駅]]間は信越本線経由の[[急行列車]]で11時間6分を要していたのが、新設された上越線経由の急行列車は7時間10分で結び、一挙に4時間の所要時間短縮が図られた。[[上越新幹線]]の開業後は[[首都圏 (日本)|首都圏]]と新潟との都市間輸送の役割を新幹線に譲り、全線を直通する旅客列車は[[夜行列車]]などわずかとなったが、首都圏と新潟・[[北陸地方|北陸]]・[[庄内地方|庄内]]・[[秋田県|秋田]]方面とを結ぶ[[貨物列車]]が通る幹線という側面を持っており、今もなおその重責を担う。また、首都圏と[[青森県|青森]]・[[北海道]]方面とを結ぶルートとしても、[[奥羽本線]]の一部と[[田沢湖線]]が[[ミニ新幹線]]化([[標準軌]]化)され、東北本線[[盛岡駅]]以北が[[いわて銀河鉄道線]]・[[青い森鉄道線]]に転換されてからは高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線ルートがJRのみを経由する唯一の幹線ルートであり、東北本線不通時の長距離列車・貨物列車の唯一の迂回路としての機能も担っている。
高崎駅 - 水上駅間が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」に、小千谷駅 - 宮内駅間が「新潟近郊区間」に含まれる。当線の東京近郊区間は[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアとなっており、同様に新潟近郊区間の内、小千谷駅と宮内駅がSuicaの新潟エリアとなっている(小千谷駅は一部サービス対応駅。途中の越後滝谷駅についてはエリア外)。このほか、支線の越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間は「[[タッチでGo!新幹線]]」のサービスエリアに含まれ、利用開始登録済のICカードで乗車可能である<ref name="2020-11-12">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>。
[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]管内、[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]管内ともに水色<!-- (3路線の重複が発生するため、高崎駅の一部で緑色や紺色、新前橋駅では紺色。井野駅・高崎問屋町駅では緑色) -->。ただし2002年ごろまで新潟支社管内ではオレンジ色をラインカラーとして用いていた。
[[距離標|キロポスト]]は高崎線からの数字を受け継いでおり、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]からの距離の表示となっている。ちなみに大宮駅の高崎線ホーム上の案内(一部除く)は、「高崎線・'''上越線'''」と表記されている(他の高崎線単独駅に「上越線」の案内はない。かつては運転系統上の高崎線や上越線を経由する特急・急行の始発駅である上野駅でも見られたが、[[上野東京ライン]]開通時にほとんど消されている)。
== 歴史 ==
{{Main2|上越線を走行した主な列車|上越線優等列車沿革|吾妻線へ直通する優等列車|草津・四万#吾妻線優等列車沿革}}
[[明治維新]]の後、[[富国強兵]]や[[殖産興業]]のために、当時主流だった[[海運]]と並ぶ陸上での大量輸送機関である鉄道の整備が求められ、[[1869年]]([[明治]]2年)11月に鉄道建設が廟議決定されると、各地で鉄道に関する議論や運動が盛んになった。[[1872年]](明治5年)10月に[[日本の鉄道開業|日本の鉄道が開業]]すると、華族組合による鉄道の経営を考えていた[[蜂須賀茂韶]]が[[工部省|工部卿]]に送った書簡の中で、「[[日本鉄道|東京ヨリ奥州青森ニ至リ]]或ハ'''東京ヨリ越後新潟ニ至ル'''等ノ地ニ鉄路蒸気汽車ヲ設ケ…」<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2127152/1/233 |title=日本鉄道史 上篇 |access-date=2023.11.23 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>として、東京から[[条約港#日本|開港地]]である[[新潟市|新潟]]へ鉄道を敷く計画を示す。[[1874年]](明治7年)には[[中山道幹線]]建設のためにルート調査に当たっていた[[リチャード・ボイル (技術者)|リチャード・ヴィカルス・ボイル]](Richard Vicars Boyles)の部下の建築師ウィリアム・ゴールウェー(William Galway)と助手のクロード・ウィリアム・キンダー(Claude William Kinder)によって[[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]]の偵察が行われる。[[1881年]](明治14年)に[[日本鉄道]]が設立されると、これに接続する鉄道の事業計画が[[新潟県]][[刈羽郡]][[横沢村 (新潟県)|横沢村]]の[[山口権三郎]]によって作られた(後の[[北越鉄道]])。
[[1884年]](明治17年)5月に日本鉄道が[[高崎駅|高崎]]まで開通すると、[[1887年]](明治20年)5月に[[新潟県]][[南魚沼郡]][[南魚沼市|下一日市村]]の[[岡村貢]]が「上越鉄道創設趣意書」を作成し、それを元に前橋の高橋周楨、東京の岡村良朗らと上越直線鉄道会社設立事務所を開設し、敷設運動を開始([[1888年]]1月に上越鉄道会社と改称)<ref name=":0">{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3498662_po_23BKz.pdf?contentNo=1&alternativeNo= |title=明治期の上越鉄道敷設運動 |format= |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |accessdate=2017-12-31}}</ref>。各地で鉄道大会を開き、同士を募って気運を高めた。鉄道技師の佐分利一嗣によってルートが検討され、実地調査が行われた。[[1889年]](明治22年)3月には第一次私鉄ブームの[[企業勃興]]の流れに乗って組織が上越鉄道株式会社と改められ、前橋に本社が、東京と新発田に事務所が置かれた。[[1890年]](明治23年)には[[鍬形豊三郎]]らが発起人となって前橋 - 沼田 - 長岡 - 新発田をつなぐ鉄道敷設の免許申請が[[鉄道局|政府]]に提出されたが、「願意の趣聞き届け難く候」と一方的に却下されてしまう<ref name=":0" />(鉄道局長の[[井上勝]]が私鉄に批判的だったことに加えて[[明治二十三年恐慌|明治23年恐慌]]が発生していたことも背景にある)。そこで岡村らは再度測量を行い、隧道延長や勾配などを改良した計画図面と目論見書を作成し、群馬・新潟両県で2万筆の署名を集め、両県知事の申し添えを得て「上越鉄道会社創設再願書」を作成し[[1891年]](明治24年)8月に再申請、両県知事も上京して陳情を行ったが再び許可は下りなかった<ref>{{Cite journal|author=新潟県立文書館|year=2021年|title=越後佐渡おもしろ歴史ばなし「初志貫徹!貫き通した上越線への思い」|journal=新潟県立文書館だより|volume=第34号|page=1}}</ref>。[[シベリア鉄道]]建設開始の報を受けて国防上の観点も加えて計画の見直しが図られ、同年11月に「上越鉄道敷設建白書」が提出された。
[[1892年]]([[明治]]25年)[[6月21日]]に[[鉄道敷設法]]が公布されると、第一期予定線として「新潟県下直江津又ハ[[群馬県]]下[[前橋駅|前橋]]若ハ長野県下[[豊野駅|豊野]]ヨリ新潟県下[[新潟市|新潟]]及[[新発田市|新発田]]ニ至ル鉄道」が示され、これが法律によって上越線が認められた起源となる<ref name=":0" />。[[1893年]](明治26年)2月の[[鉄道会議]]で、上越線(前橋 - 新潟)、直江津延長線(直江津 - 新潟)、豊野線(豊野 - 新潟)の方針について議論が行われた<ref>{{Cite journal|author=畢可忠|year=2003|title=北越鉄道予定線をめぐる政治過程|journal=現代社会文化研究|volume=第27号}}</ref>。ここでは23名の出席者のうち、直江津延長線に賛成の者15名、豊野線に賛成の者8名となり、直江津案に決まった。[[1894年]](明治27年)3月の[[第3回衆議院議員総選挙]]に新潟7区から[[立憲改進党]]として立候補して当選した岡村は、[[高津仲次郎]]や[[湯浅治郎]]らと糾合して「予定鉄道線路中私設鉄道会社ニ敷設許可ニ関スル法律」の修正案を提出し、国政の場で上越線の重要性を訴えたが、産業発達の誘導や、貨物運輸に便が多いことが認められつつも、技術的に困難であることや、降雪地帯であること、建設費の高さなどが取り沙汰された結果、8票差で否決された<ref name=":0" />。一方で、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[川上操六]]([[鉄道会議]]議長)は衛戍地である[[新発田駐屯地|新発田]]を通る上越線に着目、同計画を進める意見を主張し、岡村や湯浅らも賛成したが、採決の結果、否決された。同年6月に「鉄道比較線路決定ニ関スル法律」(明治27年法律第7号)が公布され、予定線は直江津線(現在の[[信越本線]])となり、上越線は計画から除外された<ref name=":0" />。
官製による敷設が見込めないという結論に至った岡本らは、民間で鉄道を敷設すべく、[[1894年]](明治27年)に毛越鉄道株式会社を発起、[[1895年]](明治28年)6月に上越鉄道会社に改名し、前橋 - 長岡の鉄道敷設免許を申請するが認められなかった。資金を調達するため、会社を株式会社(上越鉄道株式会社創立事務所)に改め、ルート上最も困難と目されていた県境部分のより詳細な測量を行い、報告書を作成した。こういった運動や陳情が実を結び、[[1896年]](明治29年)7月についに敷設の仮免許が下付された。しかし、[[日清戦争]]の勝利によって物価が急騰し、500万円を予定していた資本金が3倍の1,500万円を要する事態となった。毛越鉄道では当初、前橋 - 沼田 - 谷川 - 湯沢 - 六日町 - 小千谷 - 長岡を経て新津 - 新発田という計画だったが、その後、長岡以北は計画の重複する北越鉄道に譲っており、経済界ではこれを有利な路線ではないと見て、融資に消極的な姿勢が広がり、資金の調達は難航した<ref name=":1">{{Cite journal|author=畢可忠|year=2002|title=日清戦後の上越線敷設運動|journal=現代社会文化研究|volume=第25号}}</ref>。[[1900年]](明治33年)4月、待望の本免許が下付されるものの、経営方針を巡って会社内部で対立が起き、[[1901年]](明治34年)4月には会社が解散し、免許も返納の憂き目を見る。
上越鉄道株式会社の解散総会に出席した[[土樽村]]村長の[[南雲喜之七]]は、個人の連帯による敷設運動の難しさを目の当たりにし、大きな力を動かすことの必要性を実感していた(南雲は岡村と協力し、運動の初期から参加していた)。[[1900年]]に結党された[[立憲政友会]]は逓信大臣の[[原敬]]を筆頭に交通政策を主要な路線として掲げて党勢の拡大を図っており、南雲は村長の任期を勤め上げた後で政友会に入会すると、[[1906年]]の[[鉄道国有法]]を経て、[[1907年]](明治40年)に上京し、地方経済の発展のためにも上越線の敷設が急務であることを各所に訴えた<ref name=":1" />。当時、衆議院の請願委員長で南雲と同郷の[[竹越與三郎]](新潟県の郡部から[[第7回衆議院議員総選挙|選出]])の口添えもあって、[[1909年]](明治42年)3月23日には政友会の[[日向輝武]]他1名を代表人として「上越鐵道敷設に關する建議案」が[[帝国議会]]に提出された<ref>{{Cite web |url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detail?minId=002513242X02519090323 |title=第25回帝国議会 衆議院 本会議 第25号 明治42年3月23日 |access-date=2023.11.18 |publisher=国立国会図書館}}</ref>。[[1910年]](明治43年)3月19日には同じく政友会の[[根岸峮太郎]]他3名により同名の建議案が提出されている<ref>{{Cite web |url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/detailPDF?minId=002613242X02519100319 |title=第26回帝国議会 衆議院 本会議 第25号 明治43年3月19日 |access-date=2023.11.18 |publisher=国立国会図書館}}</ref>。どちらの建議案においても、[[日露戦争]]を踏まえて軍事上においての上越線の必要性を訴える内容が大きくなっている。[[1913年]]([[大正]]2年)の帝国議会における[[加藤勝弥|加藤勝彌]]による建議の提出や、[[1916年]](大正5年)にも[[須藤嘉吉]]らによる建議の提出、他にも地元住民からの陳情や請願書が採択され、期成同盟会による要望が盛んに行われるものの、いずれも具体化には至らなかった。一方、[[第一次世界大戦]]や[[ロシア革命]]によって大陸からの圧力が高まる中で国内では[[大戦景気 (日本)|戦争特需]]が起きて経済が活発になるものの、[[アプト式]]の[[碓氷峠]]を経由する必要のある信越本線では輸送力の向上に限界があり、同じく日本海側と太平洋側を結んでいた[[岩越線]]で[[1917年]](大正6年)3月に[[松野トンネル崩壊事故|松野トンネル崩落事故]]が起きると、貨客の流動はますますひっ迫した。これらの事態を受けて政府は測量隊を[[上越国境]]に派遣し、建設計画の本格的な検討を始めた。やがて[[1918年]](大正7年)2月に上越線「群馬県下高崎ヨリ新潟県下長岡ニ至ル鉄道」を含む改正鉄道敷設法が可決され<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2953802/1/4 |title=官報 1918年03月23日 |access-date=2023.11.18 |publisher=国立国会図書館}}</ref>(大正7年法律第12号)、ここに岡村らの訴えの始まりより30余年を経て上越線の建設が決定した。また、法改正を受けて直ちに直轄事業で工事が着工された。
[[1920年]]([[大正]]9年)には新潟県側の'''上越北線'''(じょうえつほくせん)の第一期工事として宮内駅(長岡駅) - 東小千谷駅(現・[[小千谷駅]])間、[[1921年]](大正10年)には群馬県側の'''上越南線'''(じょうえつなんせん)新前橋駅 - 渋川駅間が開業した。両線は順次延長され、[[1925年]](大正14年)には北線が越後湯沢駅まで、[[1928年]]([[昭和]]3年)に南線が水上駅まで開業している。
このほか、高崎駅 - 新前橋駅間は[[1884年]]([[明治]]17年)に'''[[日本鉄道]]'''が高崎駅 - 前橋駅間を開業させた際に建設したもので、[[鉄道国有法|国有化]]後は[[両毛線]]の所属となっていたが、上越線全通後に上越線にも属する重複区間となり、[[1957年]](昭和32年)に上越線単独の区間とされた。
なお上越線の開業以前より、[[1893年]](明治26年)には高崎 - 渋川間に'''群馬馬車鉄道'''が、[[1911年]](明治44年)には渋川 - 沼田間に'''[[利根軌道]]'''、[[来迎寺駅|新来迎寺]] - 小千谷間に'''魚沼鉄道'''がそれぞれ開業しており、明治後期には上越線に並行する形で[[東京都|東京]]の[[池袋駅|池袋]]と長岡の間に私鉄'''[[東武東上本線|東上鉄道]]'''の建設も計画されたが、[[埼玉県]]の[[寄居駅|寄居]]と高崎の間が[[八高線|八高北線]]として国の直轄事業に取り上げられたため、上越線並行区間も含めて寄居以北建設を断念している。群馬馬車鉄道は[[路面電車]]化されて最終的に[[東武鉄道]]の[[東武伊香保軌道線|高崎線]]となった後[[1953年]](昭和28年)廃止、利根軌道は路面電車化され[[東京電燈]]の所有路線となった後に上越線の開業により[[1924年]](大正13年)休止・1925年(大正14年)廃止、魚沼鉄道は国有化されて[[魚沼線]]になったものの、[[1981年]](昭和56年)に[[特定地方交通線]]に指定され、[[1984年]](昭和59年)に廃線となっている。
[[三国山脈]]が立ちはだかる県境の水上駅 - 越後湯沢駅間は、全長9,702 mの[[清水トンネル]]をはじめとしてその前後に2つの[[ループ線|ループ]]トンネルを有する山岳路線であり、同区間が開通し上越線が全通するのは[[1931年]](昭和6年)のことである。この区間は長大トンネルを有するので、運転の[[保安]]上<ref group="注釈">[[蒸気機関車]]の煤煙による事故回避。</ref>から水上駅 - 石打駅間が開業当初より[[直流電化]]され、[[電気機関車]]の牽引により運転された。[[太平洋戦争]]後の[[1947年]](昭和22年)には、高崎駅 - 長岡駅間の電化が完成している。
[[1960年代]]は、東京と[[裏日本|日本海側]]を結ぶ主要幹線として[[複線]]化による輸送力増強が進められ、[[1967年]](昭和42年)に湯檜曽駅 - 土樽駅間に新清水トンネルが開通し、全線の複線化が完了した。[[1982年]](昭和57年)の上越新幹線開業を境に、上越線は東京 - 新潟間の都市間広域輸送の役目を新幹線に譲り、地域輸送と貨物輸送が主力となっている。
=== 高崎駅 - 新前橋駅間(両毛線) ===
{{See also|両毛線#歴史}}
* [[1884年]]([[明治]]17年)[[8月20日]]:'''日本鉄道''' 高崎駅 - 前橋駅間が延伸開業。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が国有化。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:線路名称設定により、小山駅 - 高崎駅間が'''両毛線'''となる。
* [[1912年]](明治45年)[[4月6日]] :高崎駅 - 前橋駅間に日高信号所が開設。
=== 新前橋駅 - 水上駅間(上越南線) ===
* 1921年(大正10年)7月1日:'''上越南線''' 新前橋駅 - 渋川駅間が開業<ref>{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第70号 |journal =官報 |date =1921年6月28日 |publisher =印刷局<!--題字下の表記のママ--> |issue =2672 |id ={{NDLJP|2954787}} |url={{NDLDC|2954787/3}} |quote= 国有鉄道線路名称中東北線ノ部足尾線ノ行ニ「上越南線(新前橋渋川間)」ヲ追加シ七月一日ヨリ之ヲ施行ス}}</ref><ref name="kokuji72">{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第72号 |journal =官報 |date =1921年6月28日 |publisher =印刷局 |issue =2672 |id ={{NDLJP|2954787}} |url={{NDLDC|2954787/3}} }}</ref><ref name="rp934_49-67">{{Cite journal|author=祖田圭介|year=|date=2017-08-01|title=上越線の線路をたどる|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=No.934|page=|pages=pp.49 - 67|publisher=電気車研究会}}</ref>。新前橋駅・群馬総社駅・八木原駅・渋川駅が開業<ref name="kokuji71">{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第71号 |journal =官報 |date =1921年6月28日 |publisher =印刷局 |issue =2672 |id ={{NDLJP|2954787}} |url={{NDLDC|2954787/3}} }}</ref><ref name="kokuji72" />。高崎駅 - 新前橋駅間に上越南線用の線路を[[単線並列]]で敷設<ref name="rp934_49-67" />。両毛線日高信号所廃止。
* [[1924年]](大正13年)[[3月31日]]:渋川駅 - 沼田駅間が延伸開業。敷島駅・岩本駅・沼田駅が開業。
* [[1926年]](大正15年)[[11月20日]]:沼田駅 - 後閑駅間が延伸開業。後閑駅が開業。
* [[1928年]](昭和3年)[[10月30日]]:後閑駅 - 水上駅間が延伸開業。上牧駅・水上駅が開業<ref>{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第241号 |journal =官報 |date =1928年10月23日 |publisher =内閣印刷局 |issue =549 |id ={{NDLJP|2957010}} |url={{NDLDC|2957010/3}} |quote= 東北線ノ部上越南線ノ行ヲ左ノ如ク改ム 上越南線(新前橋水上間)}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第242号 |journal =官報 |date =1928年10月23日 |publisher =内閣印刷局 |issue =549 |id ={{NDLJP|2957010}} |url={{NDLDC|2957010/3}} }}</ref>。
=== 宮内駅 - 越後湯沢駅間(上越北線) ===
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]]:'''上越北線''' 宮内駅 - 東小千谷駅間が開業。六日市駅(現在の越後滝谷駅)・東小千谷(現在の小千谷駅)が開業。
* 1921年(大正10年)[[8月5日]]:東小千谷駅 - 越後川口駅間が延伸開業。越後川口駅が開業。
* [[1922年]](大正11年)[[8月1日]]:越後川口駅 - 越後堀之内駅間が延伸開業。越後堀之内駅が開業。
* [[1923年]](大正12年)
** [[9月1日]]:越後堀之内駅 - 浦佐駅間が延伸開業。小出駅・浦佐駅が開業。
** [[11月18日]]:浦佐駅 - 塩沢駅間が延伸開業。五日町駅・六日町駅・塩沢駅が開業。
* [[1925年]](大正14年)
** [[10月1日]]:六日市駅が越後滝谷駅に改称。
** 11月1日:塩沢駅 - 越後湯沢駅間が延伸開業。石打駅・越後湯沢駅が開業。
=== 全通以後 ===
* [[1931年]](昭和6年)9月1日:水上駅 - 越後湯沢駅間延伸開業([[清水トンネル]]開通)し全通<ref name="kokuji200">{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第200号 |journal =官報 |date =1931年8月24日 |publisher =内閣印刷局 |issue =1396 |id ={{NDLJP|2957864}} |url={{NDLDC|2957864/2}} }}</ref>。上越南線が上越北線を編入し、'''上越線'''に改称<ref name="kokuji199" />。同時に起点を高崎駅に変更、高崎駅 - 新前橋駅間は両毛線にも属する重複区間となる<ref name="kokuji199">{{Cite journal |和書 |title = 鉄道省告示第199号 |journal =官報 |date =1931年8月24日 |publisher =内閣印刷局 |issue =1396 |id ={{NDLJP|2957864}} |url={{NDLDC|2957864/2}} |quote= 東北線ノ部上越南線ノ行ヲ削リ八高北線ノ行ノ次ニ左ノ行ノ如ク加フ 上越線(高崎宮内間)十日町線(越後川口十日町間) 信越線ノ部上越北線及十日町線行ヲ削ル}}</ref>。湯檜曽駅・越後中里駅が開業<ref name="kokuji200" />。土合信号場・土樽信号場が開設。水上駅 - 石打駅間が電化。
* [[1932年]](昭和7年)8月1日:東小千谷駅が小千谷駅に改称。
* [[1933年]](昭和8年)[[12月8日]]:岩原スキー場前[[仮乗降場]]が開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[9月25日]]:[[集中豪雨]]のため水上駅 - 上牧駅間で[[道床]]が流失、清水トンネルの両出口で[[土砂崩れ|土砂崩壊]]、湯檜曽川橋梁崩落、越後湯沢駅 - 越後中里駅間の第三魚野川橋梁の橋脚傾斜など被害多数<ref>奥利根増水、温泉旅館の流失相次ぐ『東京朝日新聞』昭和10年9月26日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p212 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1936年]](昭和11年)[[12月19日]]:土合信号場が駅に変更され、土合駅が開業<ref name="rp934_49-67" />。
* [[1937年]](昭和12年)4月15日 :浜尻駅、日高駅が開業。
* [[1940年]](昭和15年)11月1日 :浜尻駅、日高駅が廃止。
* [[1941年]](昭和16年)[[1月10日]]:土樽信号場が駅に変更され、土樽駅が開業<ref name="rp934_49-67" />。
* [[1943年]](昭和18年)
** [[5月15日]]:土合駅 - 土樽駅間に[[清水トンネル#茂倉信号場|茂倉信号場]]が開設<ref name="rp934_49-67" />。
** 10月1日:敷島駅 - 岩本駅間に津久田信号場が開設。
** [[11月10日]]:石打駅 - 大沢駅間に越後大沢信号場が開設。
* [[1944年]](昭和19年)[[9月25日]]:越後川口駅 - 小千谷駅間に越後山辺信号場が開設。
** [[9月20日]]:越後堀之内駅 - 越後川口駅間に越後下島信号場が開設。
** [[10月11日]]: 高崎駅 - 新前橋駅間に井野信号場(上越線側のみに交換設備設置)<ref name="rp934_49-67" />、後閑駅 - 上牧駅間に下牧信号場が開設。
* [[1946年]](昭和21年) 岩原スキー場前仮乗降場が廃止。
* [[1947年]](昭和22年)
** [[4月1日]]:高崎駅 - 水上駅間が電化。
** [[10月1日]]:石打駅 - 宮内駅( - 長岡駅)間が電化。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[1月1日]]:津久田信号場が駅に変更され、津久田駅が開業。
** [[12月25日]]:井野信号場の両毛線側にホームを設け、旅客の取り扱いを開始<ref name="rp934_49-67" />。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[5月28日]]:越後大沢信号場が駅に変更され、大沢駅が開業。
** [[7月11日]]:越後山辺信号場が廃止。
** [[12月20日]]:大穴仮乗降場(冬季のみ営業)が開業<ref name="rp934_34-35">{{Cite journal|author=星晃・石川尹巳|year=|date=2017-08-01|title=単線時代の湯檜曽界隈|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=No.934|page=|pages=pp.34 - 35|publisher=電気車研究会}}</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)[[2月15日]]: 越後下島信号場が駅に変更され、北堀之内駅が開業。
* [[1952年]](昭和27年)12月20日:岩原スキー場前仮停車場が開業。
* [[1957年]](昭和32年)12月20日:両毛線終点変更に伴い、新前橋駅 - 高崎駅間の重複区間が解消。同区間の運転方式を単線並列から複線に変更。井野信号場が駅に変更され、井野駅が開業。上り線(←旧両毛線)のほか下り線にもホームを設置<ref name="rp934_49-67" />。
* [[1961年]](昭和36年)[[3月29日]]:新前橋駅 - 群馬総社駅間が複線化。
* [[1962年]](昭和37年)[[11月29日]]:小千谷駅 - 越後滝谷駅間に妙見信号場が開設。妙見信号場 - 越後滝谷駅間が複線化。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[1月23日]] - [[1月28日]]:[[昭和38年1月豪雪|三八豪雪]]で上野駅 - 新潟駅間の列車が信越本線各所で立ち往生。特急「[[とき (列車)#特急の誕生と急行の黄金時代|とき]]」も[[1月25日]]から[[2月17日]]まで運休。
** [[2月7日]]:群馬総社駅 - 八木原駅間が複線化。
** [[3月10日]]:大穴仮乗降場が廃止<ref name="rp934_34-35" />。
** [[8月2日]]:八木原駅 - 渋川駅間が複線化。
** [[11月5日]]:浦佐駅 - 小出駅間が複線化。
** [[12月5日]]:水上駅 - 湯檜曽駅間に新湯檜曽信号場が開設。水上駅 - 新湯檜曽信号場間が複線化<ref name="rp934_34-35" />。
** [[12月16日]]:岩本駅 - 沼田駅間が複線化。
** 12月20日:津久田駅 - 岩本駅間が複線化。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[3月18日]]:渋川駅 - 敷島駅間が複線化。
** [[9月18日]]:敷島駅 - 津久田駅間が複線化。
** [[9月24日]]:越後中里駅 - 越後湯沢駅間が複線化。
** [[9月30日]]:土樽駅 - 越後中里駅間が複線化。
** [[11月20日]]:越後川口駅 - 小千谷駅間に山辺信号場が開設。山辺信号場 - 小千谷駅間が複線化。
** [[11月30日]]:越後湯沢駅 - 石打駅間に赤坂信号場が開設。越後湯沢駅 - 赤坂信号場間が複線化。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[1月15日]]:八色駅が開業。
** [[7月8日]]:赤坂信号場 - 石打駅間が複線化。赤坂信号場が廃止。
** [[7月13日]]:沼田駅 - 後閑駅間が複線化。
** [[9月28日]]:六日町駅 - 五日町駅間が複線化。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[7月20日]]:後閑駅 - 上牧駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線後関・上牧間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1966-07-19 |page=4 }}</ref>。下牧信号場が廃止。
** [[9月16日]]:五日町駅 - 浦佐駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線五日町・浦佐間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1966-09-16 |page=2 }}</ref>。
** [[9月23日]]:越後滝谷駅 - 宮内間に下条信号場が開設。越後滝谷駅 - 下条信号場間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線越後滝谷・下条信号場間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1966-09-22 |page=1 }}</ref>。
** 9月25日:石打駅 - 大沢間が複線化。
** [[9月27日]]:上牧駅 - 水上駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線上牧・水上間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1966-09-26 |page=4 }}</ref>。
** [[9月29日]]:越後堀之内駅 - 北堀之内駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線越後堀之内・北堀之内間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1966-09-28 |page=28 }}</ref>。
** [[11月22日]]:北堀之内駅 - 越後川口駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線北堀之内・越後川口間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1966-11-21 |page=2 }}</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[7月4日]]:越後川口駅 - 山辺信号場間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線越後川口・山辺信号場間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-07-03 |page=3 }}</ref><ref name="交通1967-0628">{{Cite news |和書|title=越後川口-山辺信号場 複線使用を開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-06-28 |page=2 }}</ref>。山辺信号場が廃止{{R|交通1967-0628}}。
** [[9月1日]]:小千谷駅 - 妙見信号場間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線小千谷・妙見(信)間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-14 |page=2 }}</ref>。妙見信号場が廃止。
** [[9月8日]]:小出駅 - 越後堀之内駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線小出・越後堀之内間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-07 |page=7 }}</ref>。
** [[9月13日]]:大沢駅 - 六日町駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線大沢・六日町間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-30 |page=16 }}</ref>。
** [[9月21日]]:下条信号場 - 宮内駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線下条(信)・宮内間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-20 |page=3 }}</ref>。下条信号場が廃止。
** [[9月28日]]:新清水トンネル開通により、湯檜曽駅 - 土樽駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●上越線湯檜曽・土樽間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-21 |page=3 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=上越線複線化最後の工事区間 湯檜曽-土樽間が完成 いよいよ28日から使用開始 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-09-24 |page=3 }}</ref>。湯檜曽駅が新湯檜曽信号場の地点へ移転。新湯檜曽信号場が廃止<ref name="rp934_34-35" />。
** [[10月1日]]:旧湯檜曽駅の地点に北湯檜曽信号場が開設<ref name="rp934_34-35" />。
* [[1969年]](昭和44年)10月1日:岩原スキー場前仮停車場が[[臨時駅|臨時乗降場]]に変更。
* [[1975年]](昭和50年)
** [[4月14日]]:雪融けによる土砂崩れが発生し、湯檜曽駅 - 土合駅間の上り線が不通<ref>{{Cite news |和書|title=上越線26日から開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-05-17 |page=2 }}</ref>。
** [[4月16日]]:水上駅 - 越後中里駅の下り線を単線使用として上下線で運転再開<ref>{{Cite news |和書|title=上越 日豊両線に土砂崩壊 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1975-04-16 |page=2 }}</ref>。
** [[4月20日]]:土樽駅に渡り線を設置して、単線運転区間を水上駅 - 土樽駅間に短縮<ref>{{Cite news |和書|title=出水つづき 上越線の復旧難航 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1975-04-20 |page=3 }}</ref>。
** [[5月26日]]:湯檜曽駅 - 土合駅間の上り線が復旧し、全線複線での運転を再開<ref>{{Cite news |和書|title=上越線 待望の運転再開 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1975-05-27 |page=2 }}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:'''上越新幹線''' 大宮駅 - 新潟駅間が開業(高崎駅 - 上毛高原駅 - 長岡駅間は上越線の別線扱い)。上毛高原駅が開業。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[11月1日]]:茂倉信号場が廃止。
** [[11月8日]]:北湯檜曽信号場が廃止<ref name="rp934_49-67" /><ref name="rp934_34-35" />。
* [[1985年]](昭和60年)3月:土合駅 - 越後湯沢駅間RC(遠隔制御)化<ref>『五十年史』P219 新潟鉄道管理局</ref>。
=== 国鉄分割民営化以降 ===
{{出典の明記|section=1|date=2011年12月|ソートキー=鉄}}<!-- 特に災害によるもの -->
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、全線を東日本旅客鉄道が継承。日本貨物鉄道が全線の第二種鉄道事業者となる。岩原スキー場前臨時乗降場が駅に変更され、岩原スキー場前駅が開業。
* [[1990年]]([[平成]]2年)12月20日:支線 越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間が開業<ref name="交通901221">{{Cite news |title=JR東日本 GALA湯沢スキー場 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-12-21 |page=4 }}</ref>。ガーラ湯沢駅が開業{{R|交通901221}}。
* [[1997年]](平成9年)[[12月27日]]:上越国際スキー場前駅(臨時駅)が開業。
* [[1998年]](平成10年)[[8月29日]]:[[集中豪雨]]による[[土砂崩れ]]で、土合駅上り線構内が被災。復旧作業のため約1か月にわたり、水上駅 - 土樽駅間で下り線を使用した単線運行を実施。
* [[2003年]](平成15年)4月1日:上越国際スキー場前駅が通年営業化。
* [[2004年]](平成16年)
** [[10月16日]]:高崎問屋町駅が開業<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040716.pdf 2004年10月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月23日</ref>。新前橋駅 - 渋川駅間が[[東京近郊区間]]になり、[[Suica]]のサービスエリアになる<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040807.pdf 首都圏でSuicaをご利用いただけるエリアが広がります]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2004年8月23日</ref>。
** [[10月23日]]:[[新潟県中越地震]]により、水上駅 - 宮内駅間が不通となる。
** [[11月2日]]:水上駅 - 六日町駅間の運行再開。六日町駅 - 小出駅間でバス代行輸送開始。
** [[11月8日]]:バス代行輸送区間が六日町駅 - 越後堀之内駅間に変更。
** [[11月11日]]:小千谷駅 - 長岡駅間でバス代行輸送開始。
** [[11月13日]]:六日町駅 - 小出駅間で運行再開。小出駅 - 長岡駅間はバス代行輸送継続。
** 12月27日:。越後川口駅 - 越後滝谷駅間は上り線を使った単線運転により、全線で運転再開<ref>{{Wayback|url=www.47news.jp/CN/200412/CN2004122701000342.html|title=新潟県の在来線が全線再開 一部単線運転|date=20140815163436}} - 47NEWS 2004年12月27日</ref>。[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|タブレット閉塞]]で運転(夜行列車と一部の列車は運休)。小出駅 - 宮内駅間で速度制限を行い、臨時ダイヤで運行。このとき、単線・複線を切り替える際の[[分岐器|ポイント]]は[[分岐器#手動転轍器|スプリングポイント]]を使用した。
* 2005年(平成17年)[[1月31日]]:速度制限が緩和(小出駅 - 越後川口駅間と越後滝谷駅 - 宮内駅間:45km/h→65km/h、小千谷駅 - 越後滝谷駅間:30km/h→45km/h)。
** [[3月25日]]:越後川口駅 - 越後滝谷駅間の下り線も復旧し、複線運転が再開<ref>{{Wayback|url=www.47news.jp/CN/200503/CN2005031801004124.html|title=25日から全線で複線運転 中越地震被害の上越線|date=20140412004234}} - [[47NEWS]] 2005年3月18日</ref>。運休中の夜行列車も運転再開。速度制限は継続。
** [[4月11日]]:小出駅 - 越後川口駅間と越後滝谷駅 - 宮内駅間の速度制限が解除。越後川口駅 - 越後滝谷駅間の上り線は45km/h→65km/hに緩和。
** [[4月28日]]:越後川口駅 - 越後滝谷駅間の上り線の速度制限が解除。越後川口駅 - 越後滝谷駅間の下り線は45km/h→65km/hに緩和。
** [[6月16日]]:速度制限が解除。
* [[2009年]](平成21年)3月14日:渋川駅 - 水上駅間が東京近郊区間になり、Suicaのサービスエリアになる<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf Suicaをご利用いただけるエリアが広がります]}} - 東日本旅客鉄道、2008年12月22日。</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** 7月28日:「[[平成23年7月新潟・福島豪雨]]」のため水上駅 - 宮内駅間が運休。
** 7月31日:水上駅 - 越後湯沢駅間で運行再開。越後湯沢駅 - 宮内駅間は豪雨による路盤流出で不通になる。
** 8月2日:小出駅 - 宮内駅間で運行再開。
** 8月4日:六日町駅 - 小出駅間で運行再開。
** 8月13日:越後湯沢駅 - 六日町駅間が復旧し、全線で運行再開<ref>{{Wayback|url=www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/26044.html|title=JR上越線、16日ぶりに全通|date=20110921013447}} - 新潟日報 2011年8月13日</ref>。
*** 上越線が不通となっていた間、寝台特急「あけぼの」・臨時快速「ムーンライトえちご」が運休した。また、特急「はくたか」も本来の越後湯沢駅発着から[[信越本線]]経由で[[長岡駅]]発着に変更された。寝台特急「あけぼの」は8月10日から[[北上線]]経由で運転を再開<ref>[http://railf.jp/news/2011/08/12/110900.html “あけぼの”、う回運転実施] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年8月12日</ref>、8月13日から「はくたか」が越後湯沢駅発着、「あけぼの」が所定の上越線経由での運転を再開した。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:小千谷駅 - 宮内駅間が新潟近郊区間になり、小千谷駅、宮内駅がSuicaのサービスエリアになる<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf Suicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます]}} - 東日本旅客鉄道、2013年11月29日。</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:水上駅以北で、一部の営業列車における[[ワンマン運転|ワンマン列車]]を実施<ref>{{Wayback|url=www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20151218_2016daiyakaisei.pdf|title=2016年3月ダイヤ改正について|date=20151223123414}} - JR東日本新潟支社、2015年12月18日。</ref><ref group="注釈">ほくほく線直通列車に関しては1997年3月22日の開業時から実施していた。</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月4日]]:水上駅以南の一部列車における高崎駅 - 新前橋駅間での運転取り止め。
* [[2019年]](平成31年)4月1日:新幹線統括本部の発足に伴い<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190203.pdf 組織の改正について]}} - 東日本旅客鉄道 2019年2月5日</ref>、支線 越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間を駅施設を除いて新潟支社から同本部に移管。
* [[2021年]](令和3年)10月1日:上越支線ではこの年の5月5日まで運行されていた[[新幹線E4系電車]]が上越新幹線での定期運行を終了。<ref>{{Cite web|和書|title=2階建て新幹線「E4系」引退 高崎駅には多くの鉄道ファン|NHK 首都圏のニュース|url=https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20211001/1000070880.html|website=NHK NEWS WEB|accessdate=2021-10-01|last=日本放送協会}}</ref>
== 運行形態 ==
=== 優等列車 ===
以下の[[上野駅]]から直通の定期[[特別急行列車|特急列車]]が[[吾妻線]][[長野原草津口駅]]まで運行されている。
* 特急「[[草津・四万]]」 高崎駅 - 渋川駅間(吾妻線直通)
=== 普通列車 ===
[[普通列車]]は水上駅を境として、群馬県内の地域輸送の高崎駅 - 水上駅間と県境・新潟県内の水上駅 - 長岡駅間の2系統に運転系統が分かれている。ここでは前者を高崎駅 - 新前橋駅間と新前橋駅 - 水上駅間、後者を水上駅 - 越後中里駅間と越後中里駅 - 長岡駅間に分けて解説する。
==== 高崎駅 - 新前橋駅間 ====
高崎駅 - 新前橋駅間については、歴史的経緯と通勤需要から[[高崎線]]や両毛線と一体化された輸送がなされており(詳細は「[[#歴史|歴史]]」を参照)、両毛線や高崎線への直通普通列車を中心として1時間に5 - 7本程度運行されている。高崎線からは[[上野東京ライン]]直通を含む普通列車・快速「アーバン」・通勤快速や、[[湘南新宿ライン]]が直通する。前橋駅発着の列車は「両毛線」(「高崎・両毛線」)と、上越線は省略して案内されている。かつては新前橋駅発着の列車も「高崎線」と、上越線の案内が省略されていたが、上野東京ライン開業に伴う[[方向幕]]更新により「高崎・上越線」と省略せずに案内するようになった。
2017年3月4日からは、日中の運行本数を見直し、渋川・水上方面の一部列車(吾妻線直通含む)が新前橋駅折り返しとなり、高崎方面とは両毛線直通列車(新前橋駅折り返し列車は無い)に接続する形を取るようになった<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/pdf/20161216_info.pdf 2017年3月ダイヤ改正について]}} - JR東日本高崎支社 2016年12月16日</ref>。高崎駅 - 新前橋駅間はこれまで以上に両毛線との結び付きが強くなっている。
==== 新前橋駅 - 水上駅間 ====
新前橋駅 - 渋川駅・水上駅間の上越線・吾妻線系統は1時間に2 - 3本程度運行されている。このうち1 - 2本は水上駅発着で、もう1本は渋川駅から吾妻線に直通する。前述のとおり、高崎駅発着列車が多いが、一部列車が新前橋駅発着となっている。いずれも群馬県内で完結する列車のみの運行となっている。夕方には高崎発渋川行きの区間列車もある。かつては高崎線への直通や水上駅を越えて長岡・新潟方面まで直通する運用も存在した<ref group="注釈">『JTB時刻表』1989年3月号、日本交通公社、pp.476 - 492 によると、1989年3月11日改正ダイヤでは、高崎駅 - 長岡駅間を毎日直通する列車が2往復設定されており、このうち下り1本は高崎発新潟行き。このほか、通常は水上駅乗り換えのところ、期間を限って高崎駅 - 長岡駅間を直通する列車が1往復(下りは直通運転時は新潟経由[[越後線]][[内野駅|内野]]行きとなる)設定されている。</ref>。
==== 水上駅 - 越後中里駅間 ====
この区間の1日の普通列車は、平日は5往復、土曜・休日は午前中に1往復が加わった6往復のみの運行となり、2 - 4両編成<ref group="注釈">2008年6月に土樽駅・土合駅のホーム改良工事が行われ、以前の停車ホームからせり出す形で旧通過線上に新しいホームが設けられた。この新ホームは旧ホームより短くなったため、編成両数が制限されるようになった。</ref>で運行されている。ただし、冬期間は増発され、平日1日7往復、土曜・休日は1日8往復となる。普通列車は最大で3 - 4時間ほど運転されない時間帯もあり、貨物列車のほうが首都圏と北陸・新潟・東北日本海側を結ぶ役割もあって本数が多い。この区間を走る普通列車は全列車が後述の越後中里駅 - 長岡駅間と直通運転する。なお、越後中里駅以北で実施されているワンマン運転はこの区間では実施されていない。
上越国境の山間部を走る区間であり、沿線に民家は僅少で、恒常的な旅客流動は少ない。特に水上駅 - 湯檜曽駅 - 土合駅間は並行する路線バス([[関越交通]])の本数が多く、実質的に旅客列車が運行されない時間帯の交通を担っている。
==== 越後中里駅 - 長岡駅間 ====
この区間は新潟県内のローカル輸送のため、普通列車主体の運行が行われている。水上駅・[[越後中里駅]]・[[越後湯沢駅]]・[[石打駅]] - [[信越本線]][[長岡駅]]間が基本的な運行形態であり、越後湯沢駅 - 長岡駅間の列車が最も多い。1日の運行本数は越後中里駅 - 越後湯沢駅間で9往復、越後湯沢駅・石打駅 - 長岡駅間で15往復(土曜・休日は午前中に1往復追加、越後川口駅 - 長岡駅間は後述の[[飯山線]]直通列車が加わり17往復)となっている。線路名称上の終点である[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]を始発・終着駅とする列車はなく、全列車が長岡駅まで直通し、さらに朝の下り1本(石打駅始発)は[[新潟駅]]まで直通する。かつては上りにも新潟駅直通列車が存在したが、2016年に最後に残っていた新潟発越後中里行き(冬期は水上行き)が長岡駅で系統分割されて消滅した。2016年からは日中の一部の列車が[[ワンマン運転]]を実施している。
また、[[北越急行]][[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]直通列車が越後湯沢駅 - [[六日町駅]]間で運行されている。ほくほく線直通列車は上越線内では一部の普通列車が[[塩沢駅]]に停車するが、石打駅・[[大沢駅 (新潟県) |大沢駅]]・[[上越国際スキー場前駅]]は全列車が通過する(ただし冬季の一部列車のみ上越国際スキー場前駅に臨時停車する)。なお、ほくほく線直通列車はすべての列車がワンマン運転である。
越後川口駅 - 長岡駅間では、飯山線からの直通列車が[[気動車]]で2往復設定されており、2往復ともワンマン運転を行っている。
=== 臨時列車 ===
高崎駅 - 水上駅間では夏季や冬季の多客時に上野駅 - 水上駅間の特急「[[水上 (列車)|水上]]」が運転されるほか、[[蒸気機関車]][[国鉄D51形蒸気機関車498号機|D51 498]]または[[国鉄C61形蒸気機関車20号機|C61 20]]牽引によるSL列車「[[SLぐんま みなかみ]]」などが運転される。
越後中里駅 - 越後湯沢駅・六日町駅間では冬季に臨時普通列車「スキーリレー号」が運転される。
長岡側からは、2014年から運行されている観光列車「[[越乃Shu*Kura]]」([[上越妙高駅]] - 十日町駅間)・「[[越乃Shu*Kura|ゆざわShu*Kura]]」(上越妙高駅 - 越後湯沢駅間)が、それぞれ当線の宮内駅 - 越後川口駅間、宮内駅 - 越後湯沢駅間を走行する。
このほか、全通以来冬季のスキー客輸送や、夏季の[[尾瀬]]ハイキング客輸送には上野駅・新宿駅などから直通の臨時列車が運行されていたが、近年縮小傾向にあり、現存するのはJRグループ最後の座席車による夜行列車「[[谷川岳山開き]]」が上野駅 - 土合駅間に年1往復(復路は昼行)運行されるのみとなっている。
首都圏方面からは大宮駅 - 越後湯沢駅間に臨時特急「[[一村一山|谷川岳もぐら]]」「[[一村一山|谷川岳ループ]]」を6月 - 11月を中心に運転している。
=== 貨物列車 ===
貨物列車については先述のとおり首都圏と新潟・秋田方面とを結ぶ列車が、おおむね毎日9往復(1往復の臨時便を含む)運行され、線内完結の列車は設定されていない<ref name="tt_freight2014">{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=135-136|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。また、上越線内で定期貨物列車が停車する駅も存在しないが、信越本線[[南長岡駅]]への停車は設定されている<ref name="tt_freight2014" />。
近年はほとんどが上越線を夜間帯に走行していたが、2009年3月14日のダイヤ改正より4往復(臨時便1往復を含む)が上越線を日中時間帯に走るダイヤに移行した<ref>『交通新聞』2009年1月13日。</ref><ref>『JR貨物時刻表』2009年版による。</ref>。また、[[総合車両製作所新津事業所]](旧:JR東日本新津車両製作所)で落成した車両の関東方面への[[車両輸送|甲種輸送]]や[[配給列車]]の運行は当路線経由で行われる。
線内を通過する貨物列車の2014年時点での運行区間・本数は以下のとおり<ref name="tt_freight2014" />。
* [[隅田川駅]] - [[新潟貨物ターミナル駅]]間:2往復(および臨時便1往復)
* [[東京貨物ターミナル駅]] - [[秋田貨物駅]]間:1往復
* [[名古屋貨物ターミナル駅]] - 秋田貨物駅間:1往復
* [[熊谷貨物ターミナル駅]] - 新潟貨物ターミナル駅間:1往復
* 隅田川駅 - [[焼島駅]]間:1往復
* 隅田川駅 - [[金沢貨物ターミナル駅]]間:下り2本・上り1本
* [[宇都宮貨物ターミナル駅]] - 金沢貨物ターミナル駅間:上り1本
=== 越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間 ===
{{Main|上越新幹線#運行形態|たにがわ (列車)}}
この区間はJR線路名称公告上は上越線の[[支線]]となっているが、運行上の形態は[[上越新幹線]]の一部である。[[在来線]]の扱いだが、[[新幹線]]用の施設・車両を使用し[[新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法|新幹線特例法]]の対象となっている。
途中駅はなく、終点の[[ガーラ湯沢駅]]は隣接の[[ガーラ湯沢スキー場]]にアクセスするために新設された駅であり、路線とともに冬季(概ね12月中旬 - 5月上旬)のみの営業となっている(スキー場は夏季も一部施設で営業を行うが、駅は営業しない)。運行期間中は東京方面から新幹線列車「たにがわ」が直通する。シーズン中はスキー場の営業状況に関わらず運行されるが、少雪等によりスキー場のシーズン終了が予定より前倒しされた場合は列車も運行終了となり、以降のこの区間は当初のシーズン終了日まで運休扱いとなる。
この区間を運行する列車はすべて特急列車であるため、乗車する場合は乗車券のほかに特急料金100円が必要となる。この区間のみの指定券は発売しないことになっている。また、[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|特急料金不要の特例]]はなく、普通列車用の企画乗車券である[[青春18きっぷ]]や[[北海道&東日本パス]]での乗車はできない。この運行形態は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[博多南線]]とほぼ同等である。
オフシーズンでも越後湯沢駅終着の新幹線列車が折り返しのために入線するが、客扱いはしない。
冬季の設定ダイヤも運行本数はそれほど多くなく、下りは朝8時台の2本を除いて1時間に1本程度で、15時以降は2時間運行されない時間帯もあり、18時台の越後湯沢駅発で終了する。上りは始発から16時台の2本以外は、1時間1本程度の運行であり、19時台のガーラ湯沢駅発で終了する。ただし、上下線とも多客期には臨時列車の増発や最終列車の繰り下げもしばしば実施される。
シーズン中、越後湯沢駅とガーラ湯沢スキー場の間は無料シャトルバスも運行されており(近隣のスキー場やホテルも経由する)、列車のない時間帯の交通を補完している。
== 使用車両 ==
{{Main2|ガーラ湯沢支線の使用車両|上越新幹線#車両}}
=== 現在の使用車両 ===
==== 優等列車 ====
* [[電車]]
** [[JR東日本E257系電車|E257系]]([[大宮総合車両センター]]所属) - [[特別急行列車|特急]]「[[草津・四万]]」
==== 普通列車 ====
* 電車
** [[JR東日本E231系電車#近郊タイプ|E231系]](小山車両センター・国府津車両センター所属)
** [[JR東日本E233系電車#3000番台|E233系]]([[小山車両センター]]・[[国府津車両センター]]所属)
*** [[高崎線]]および[[両毛線]]直通列車として、高崎駅 - 新前橋駅間で運用されている。
** [[JR東日本E129系電車|E129系]](新潟車両センター所属)
*** 2015年11月26日に越後中里駅 - 宮内駅間で運用を開始<ref>[http://railf.jp/news/2015/11/27/160000.html E129系の運用が拡大] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2015年11月27日</ref>し、2016年3月のダイヤ改正ではATS-Pの導入に伴い水上駅 - 宮内駅間の115系の運用をすべて置き換えた。
** [[国鉄211系電車|211系]](高崎車両センター所属)
*** 両毛線直通列車や2016年8月22日より高崎駅 - 水上駅間で運用されている。かつては高崎線直通列車としても運用されていた。
** [[北越急行HK100形電車|HK100形]](北越急行所属)
*** [[北越急行ほくほく線]]直通列車として、上越線では越後湯沢駅 - 六日町駅間で運用されている。
* [[気動車]]
**[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系気動車]]([[長野総合車両センター]]所属)
*** [[飯山線]]直通列車として、越後川口駅 - 宮内駅間で運用されている。
<gallery>
Series-E233-3000-Ino-STA.jpg|E233系(井野駅)
JRE Series-E129 B16.jpg|E129系(小千谷駅 - 越後滝谷駅間)
Series211-3000-A36.jpg|211系(上牧駅 - 水上駅間)
Series HK100-4 HK100-3.jpg|HK100形(上越国際スキー場前駅)
Kiha110-231 Joetsu-line.jpg|キハ110系(小千谷駅 - 越後滝谷駅間)
</gallery>
==== 貨物列車 ====
[[貨物列車]]の牽引については、次の電気機関車が担当している。
* [[JR貨物EH200形電気機関車|EH200形]]([[高崎機関区]]所属)
** 2009年3月14日ダイヤ改正で上越線での運用を開始。[[国鉄EF64形電気機関車|EF64形]]が全機[[愛知機関区]]へ配置転換されたため、翌2010年3月13日のダイヤ改正ですべての定期列車がEH200形に置き換わった。
=== 過去の使用車両 ===
==== 電車 ====
* [[国鉄40系電車|40系]] - [[高崎車両センター]]所属。[[両毛線]]・[[吾妻線]]用。高崎-渋川間で運用。
* [[国鉄51系電車#クハ68形|クハ68形]] - [[長岡車両センター]]所属。短編成化で不足する後述の70系の[[制御車]]として使われ、70系同様に[[国鉄51系電車#耐寒耐雪改造|耐寒耐雪改造]]を受け新潟色に変更。
* [[国鉄72系電車|72系]] - [[新前橋電車区]]所属。高崎-水上間等の区間列車に運用。
* [[国鉄70系電車#新潟地区|70系]](編成内に[[国鉄80系電車|80系]]を含む) - [[長岡車両センター|長岡運転所]]所属。4両または6両編成化のうえ耐寒耐雪改造を受け、雪の中でも目立つ[[国鉄70系電車#車体塗色|新潟色]]に塗色変更。制御車化改造を受けた[[国鉄70系電車#クハ75形|クハ75形]]も含まれる<ref>[https://news.mynavi.jp/article/retrospective-62/ 62 元祖新潟色! 黄色と赤の"派手車"現役の頃] - [[マイナビニュース]] > ホビー > 昭和の残像 鉄道懐古写真(2012/09/16版/2016年9月16日閲覧)</ref>。他に新前橋電車区所属の両毛線・吾妻線用車が高崎-渋川間で運用。
* [[国鉄80系電車|80系]] - 準急「ゆきぐに」<ref name="rekishi-chizucho-6">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』6号 北信越、新潮社、2010年、pp.29 - 37, 44 - 45, 52 - 53</ref>「奥利根」「ゆけむり」「みくに」「草津」<ref name="rekishi-chizucho-3">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』3号 関東、新潮社、2010年、pp.37 - 41</ref>など。普通列車にも運用。
* [[国鉄32系電車|32系]] - 前述の80系の編成に混用。
* [[国鉄115系電車|115系]] - 新潟車両センター、高崎車両センター所属。全線で運用されていたが、水上駅以北(新潟車両センター所属車)は2016年<ref>[http://railf.jp/news/2016/03/26/202500.html 上越線 水上-長岡間での115系運用が終了] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2016年3月26日</ref>、水上駅以南(高崎車両センター所属車)は2018年<ref>{{Cite press release |和書 |title=高崎支社管内を走る115系電車が本年3月に定期運行を終了します!|publisher=東日本旅客鉄道株式会社高崎支社 |date=2018-01-15|url=http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/pdf/20180115_info.pdf|format=PDF |accessdate= 2018-01-15}}</ref><ref>[https://railf.jp/news/2018/03/17/194000.html 高崎車両センター所属の115系が定期運転を終える] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年3月17日</ref>のダイヤ改正をもって運用を離脱。
* [[国鉄153系電車|153系]] - 準急「ゆきぐに」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、ほか急行など。
* [[国鉄155系・159系電車|155系]] - スキー臨時列車など。
* [[国鉄157系電車|157系]] - 特急「白根」<ref name="rekishi-chizucho-3" />
* [[国鉄165系電車|165系]] - 急行「佐渡」「越路」「越後」「弥彦」「よねやま」「ゆきぐに」「ゆざわ」<ref name="rekishi-chizucho-6" />「奥利根」「ゆけむり」「伊香保」「草津」<ref name="rekishi-chizucho-3" />、快速「[[ムーンライトえちご]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />など。普通列車にも運用。
* [[国鉄181系電車|161系・181系]] - 特急「[[とき (列車)|とき]]」「新雪」<ref name="rekishi-chizucho-6" />
* [[国鉄183系電車|183系・189系]] - 特急「とき」「新雪」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、快速「ムーンライトえちご」<ref name="rekishi-chizucho-6" />など
* [[国鉄485系電車|485系]] - 特急「はくたか」<ref name="rekishi-chizucho-6" />「[[いなほ (列車)|いなほ]]」「鳥海」<ref name="rekishi-chizucho-2" />、快速「ムーンライトえちご」<ref name="rekishi-chizucho-6" />
* [[国鉄485系電車|489系]] - 特急「はくたか」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、急行「[[能登 (列車)|能登]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />
* [[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]] - 特急「はくたか」<ref name="rekishi-chizucho-6" />
* [[JR東日本107系電車|107系]] - 高崎車両センター所属。当初は高崎駅 - 水上駅間で運用されていたが、晩年は両毛線直通列車として、上越線内は高崎駅 - 新前橋駅間のみの運用となっていた。
* [[JR東日本E127系電車|E127系]] - 新潟車両センター所属。E129系の故障で急遽運用に入ったことがある。
* [[国鉄185系電車|185系]] - 特急「草津」「[[水上 (列車)|水上]]」、[[快速列車|快速]]「[[シーハイル上越]]」など
* [[JR東日本651系電車|651系]] - [[大宮総合車両センター]]所属。特急「草津」
<gallery>
JRE107-100-2.JPG|107系(高崎駅)
Series115 6cars.jpg|115系湘南色(高崎車両センター所属、2017年)
水上駅 - panoramio (7).jpg|115系二次新潟色(新潟車両センター所属、2011年、水上駅)
Jōetsu Line Iwappara Curve-1978-03.jpg|165系 急行「佐渡」(1978年、越後中里駅駅 - 岩原スキー場前駅間)
Jōetsu Line Iwappara Curve-1978-06.jpg|181系 特急「とき」(1978年、越後中里駅駅 - 岩原スキー場前駅間)
Jōetsu Line Iwappara Curve-1978-05.jpg|489系 特急「白山」(1978年、越後中里駅駅 - 岩原スキー場前駅間)
JR East 185 EMU "Minakami".JPG|185系 特急「水上」(2006年、高崎駅)
File:Series651-1000 Joetsu-Line.jpg|651系(井野駅)
File:JRE Series-E127-V12 Joetsu-line.jpg|E127系(2022年、石打駅 - 大沢駅間)
</gallery>
==== 気動車 ====
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]] - 急行「鳥海」<ref name="rekishi-chizucho-2">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』2号 東北、新潮社、2010年、pp.54 - 55</ref>「よねやま<ref>1972年3月15日-同年10月1日</ref>」「野沢」「うおの」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、準急「奥利根」「みなかみ」「みくに」「草津」<ref name="rekishi-chizucho-3" />など。只見線や飯山線に直通する普通列車などにも運用。
* [[国鉄キハ80系気動車|キハ81系]] - 特急「いなほ」<ref name="rekishi-chizucho-2" />
==== 客車 ====
* [[国鉄14系客車|14系]] - 寝台特急「北陸」<ref name="rekishi-chizucho-6" />
* [[国鉄20系客車|20系]] - 寝台特急「[[北陸 (列車)|北陸]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" /><!--「あけぼの」→20系時代は東北本線経由-->、急行「天の川」<ref name="rekishi-chizucho-6" />など
* [[国鉄24系客車|24系]] - 寝台特急「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」「鳥海」「出羽」<ref name="rekishi-chizucho-2" />
==== 電気機関車 ====
* [[国鉄ED16形電気機関車|ED16形]]
* [[国鉄EF10形電気機関車|EF10形]]
* [[国鉄EF11形電気機関車|EF11形]]
* [[国鉄EF12形電気機関車|EF12形]]
* [[国鉄EF13形電気機関車|EF13形]]
* [[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]
* [[国鉄EF16形電気機関車|EF16形]]
* [[国鉄EF57形電気機関車|EF57形]]
* [[国鉄EF58形電気機関車|EF58形]]
* [[国鉄EF64形電気機関車|EF64形]]
* [[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]
* [[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]
<gallery>
Jōetsu Line Iwappara Curve-1978-02.jpg| EF15牽引の貨物列車(1978年、越後中里駅駅 - 岩原スキー場前駅間)
</gallery>
== 沿線概況 ==
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{{BS3|TUNNEL1|TUNNEL1|WASSER||津久田T|116m<ref name="rp934_68-79">{{Cite journal|author=土屋幸正|year=|date=2017-08-01|title=上越線 電気機関車乗務の回想|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=No.934|page=|pages=pp.34 - 35|publisher=電気車研究会}}</ref>|}}
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{{BS5|||BHF|WASSER|STR|46.5|[[後閑駅]]|}}
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{{BS5||exDST|STR|WASSER|tSTR|50.1|''[[下牧信号場]]''|-1966|}}
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{{BS5|||TUNNEL1|WASSER|tSTR||水ノ根T|175m<ref name="rp934_68-79" />|}}
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{{BS3||BHF|WASSER|53.6|[[上牧駅 (群馬県)|上牧駅]]|}}
{{BS3|KRW+l|KRWgr|WASSER|||諏訪峡|}}
{{BS3|TUNNEL1|O1=lvNULg-|STRf|WASSER||小日向T|75m<ref name="rp934_68-79" />|}}
{{BS3|KRWl|KRWg+r|WASSER||||}}
{{BS3||BHF|WASSER|59.0|[[水上駅]]|}}
{{BS3|KRW+l|KRWgr|WASSER||||}}
{{BS5|WASSER+l|hKRZWae|hKRZWae|WASSERr|||第6利根川Br||}}
{{BS5|WASSER|STRg|TUNNEL1|O3=tlv-NULf|||||||}}
{{BS5|WASSERl|hKRZWae|hKRZWae|WASSER+r|||第7利根川Br||}}
{{BS3|KRWl|KRWg+r|WASSER||||}}
{{BS3|WABZq+l|hKRZWae|WASSERr||第8利根川Br||}}
{{BS3|WASSER|KRWgl|KRW+r||||}}
{{BS3|WASSER|eDST|STR||''大穴仮乗降場''| 1949-1963|}}
{{BS3|WASSER|STR|tSTRa||''→新湯檜曽信号場''| -1967|}}
{{BS3|WASSER|BHF-L|tBHF-R|62.7|[[湯檜曽駅]]|(2) 1967-}}
{{BS5||WASSER|STR|tSTR2|O4=POINTER+3|tSTRc3||[[清水トンネル|新清水T]]|13490m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5||WASSERl|hKRZWae|WASSER+r|tSTR+4||第1湯檜曽川Br|[[湯檜曽川]]|}}
{{BS5|tSTR+le|tSTR+r|tSTRa|O3=POINTERg@fq|WASSER|tSTRf||第1湯檜曽T|1753m<ref name="rp934_68-79" />|}}
{{BS5|STR|tSTRe|O2=POINTERg@fq|tSTR|WASSER|tSTR||第2湯檜曽T|422m<ref name="rp934_68-79" />|}}
{{BS5|tSTRla|KRZt|tSTRr|WASSER|tSTR||||}}
{{BS5||eDST||WASSER|tSTRf|65.9|''湯檜曽駅''|''(1)'' -1967||}}
{{BS5||STRg|WASSER+l|WASSERr|O4=tSTRc2|tSTR3||''→北湯檜曽信号場''| -1984|}}
{{BS5||TUNNEL1|WASSER|tSTR+1|tSTRc4||第3湯檜曽T|946m<ref name="rp934_68-79" />|}}
{{BS3|TUNNEL1|WASSER|tSTR||第4湯檜曽T|1540m<ref name="rp934_68-79" />|}}
{{BS3|BHF-L|WASSER|O2=lBHF-M|tBHF-R|69.3|[[土合駅]]|}}
{{BS5|WASSERq|hKRZWae|WASSERr|O3=tSTRc2|tSTR3|||第2湯檜曽川Br||}}
{{BS3|tSTRa@g|O1=lvNULg-|tSTR+1|tSTRc4||[[清水トンネル|清水T]]|9,702m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|AETRAM|mtKRZ|mtKRZ|uKHSTeq||||[[谷川岳ロープウェイ]] 土合口駅|}}
{{BS3|etDST|tSTRf||74.2|''[[清水トンネル#清水トンネル#茂倉信号場|茂倉信号場]]''|-1984}}
{{BS3|tSTR+GRZq|tSTR+GRZq||||↑[[群馬県]]/[[新潟県]]↓|}}
{{BS3|tSTRe|tSTRe|||||||}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae|||[[魚野川橋梁|第1魚野川Br]]|[[魚野川]]|}}
{{BS3|KRWg+l|KRWr||||}}
{{BS3|SKRZ-Au|||||関越自動車道|}}
{{BS3|BHF|||80.1|[[土樽駅]]|}}
{{BS3|KRWgl|KRW+r|tLSTR|||上越新幹線(大清水T)|}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae|tSTR||毛渡沢Br||}}
{{BS3|tSTRa|tSTRa|tSTR||||}}
{{BS5||tSTR|O2=POINTERg@fq|tSTR2|tSTR3ut|||第1松川T|1762m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5||tSTRg|tSTR+1ut|tSTR2+4|tSTRc3|||}}
{{BS5|tSTR+l|tKRZto|tKRZtu|tSTR+r|O4=tSTRc1|tSTR+4|O5=POINTERg@fq||新松川T|3130m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|tSTR|O1=POINTERg@fq|tSTR|tSTR|tSTRe|tSTRf||第2松川T|1642m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|tSTRg|tSTRle|tKRZ|STRr|tSTR3|||||}}
{{BS5|tSTR2|tSTRc3|tSTR2u|O3=STRc2|tSTR3+1e||||||}}
{{BS5|tSTRc1|tSTR+4e|STR+1|tSTRl+4u|||||}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae|||第2魚野川Br|[[魚野川]]|}}
{{BS3|KRWg+l|KRWr|||||}}
{{BS3|BHF|||87.4|[[越後中里駅]]|}}
{{BS3|BHF|||91.1|[[岩原スキー場前駅]]|}}
{{BS3|hKRZWae||||第3魚野川Br|[[魚野川]]|}}
{{BS3|STR|tSTR+l||||上越新幹線|}}
{{BS3|STR|tSTRe|||||}}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||{{BSkm|94.2|0.0}}|[[越後湯沢駅]]|}}
{{BS3|STR|KRWgl|KRW+r|||}}
{{BS3|STR|KBHFe|tSTRa|{{BSkm|96.0|1.8}}|[[ガーラ湯沢駅]]|}}
{{BS3|TUNNEL1||tLSTR||||}}
{{BS3|BHF|||100.6|[[石打駅]]||}}
{{BS3|BHF|||104.6|[[大沢駅 (新潟県)|大沢駅]]||}}
{{BS3|eABZgl|exENDEeq|||''加速線''|<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS3|BHF|||105.6|[[上越国際スキー場前駅]]||}}
{{BS3|SKRZ-Au|||||関越自動車道|}}
{{BS3|BHF|||107.9|[[塩沢駅]]||}}
{{BS3|BHF|||111.8|[[六日町駅]]||}}
{{BS3|ABZgl|STRq||||[[北越急行]]: [[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]||}}
{{BS3|SKRZ-Au||tLSTR|||関越自動車道|}}
{{BS3|STR|tSTRc2|tSTR3|||}}
{{BS3|BHF|tSTR+1|tSTRc4|118.4|[[五日町駅]]||}}
{{BS3|STR|tSTRe||||||}}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||123.9|[[浦佐駅]]|}}
{{BS3|STR|tSTRa|||||}}
{{BS3|BHF|tSTR2|tSTRc3|127.0|[[八色駅]]||}}
{{BS5||TUNNEL1|O2=POINTERf@gq|tSTRc1|tSTR2+4|tSTRc3||福山T|1325m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|WASSER|BHF||tSTRc1|tLSTR+4|132.2|[[小出駅]]||}}
{{BS5|hKRZWaeq|ABZgr||||||[[只見線]]|}}
{{BS5|WABZg+r|STR||||||[[破間川]]|}}
{{BS5|WASSER|BHF||||134.7|[[越後堀之内駅]]||}}
{{BS5|WASSER|BHF||||138.1|[[北堀之内駅]]||}}
{{BS5|WASSER|eABZg2|exSTRc3|O3=POINTERf@rf||tLSTR||''和南津T''|''(1)'' 462m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|WASSER2|TUNNEL1|O2=WSTRc3|P2=POINTERf@gq|exTUNNEL2+4|STRc2x3|tSTR3e||和南津T|(2) 720m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|WSTRc1|WASSER2+4|O2=lMKRZ2+4o|P2=STR|STRc2x1|O3=WSTRc3|xKRXu|STRc4x3||第4魚野川Br|141.9m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5||STR2u|O2=WSTRc1|hKRXWaeq|STRc4x1|O4=WSTRc3|exSTR+4|O5=POINTERg@fq||''旧線''|-1966|}}
{{BS5||STR+1|STR+4u|O3=WSTRc1|WASSERl+4|O4=exSTRc2|WKRZq3u|O5=exSTR3|||魚野川|}}
{{BS5||tSTRa|tSTRa|O3=POINTERg@fq|exSTR+1|WASSER+l|O5=exSTRc4||中山T|1165m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5||tSKRZ-A|tSKRZ-A|exSTR|WASSER|||関越自動車道|}}
{{BS5||tSTR|tSTRe|exSTR|WASSER|O5=POINTERg@fq|||魚野川|}}
{{BS5||tLSTR|eKRWg+l|exKRWr|WASSER||||}}
{{BS5|||ABZg+l|STRq|hKRZWaeq|||[[飯山線]]|}}
{{BS5|||BHF||WABZg+l|142.8|[[越後川口駅]]||}}
{{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|WASSER||''旧線''|-1966|}}
{{BS5|||TUNNEL1|exSTR|WASSER||牛ケ島T|432m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|WASSER|O5=POINTERg@fq|||[[信濃川]]|}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r|WASSER||||}}
{{BS5|||TUNNEL1|STRf|WASSER||天王T|<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|||KRWg+l|KRWr|WASSER||||}}
{{BS5|||BHF||WASSER|149.4|[[小千谷駅]]||}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r|WASSER||||}}
{{BS5|||TUNNEL1|TUNNEL1|WASSER||新榎峠T/榎峠T|641m<ref name="rp934_49-67" />|}}
{{BS5|||KRWg+l|KRWr|WASSERl||||}}
{{BS|eDST|154.5|''[[妙見信号場]]''|-1967|}}
{{BS3|tLSTR|BHF||156.6|[[越後滝谷駅]]||}}
{{BS3|tSTRe|STR||||||}}
{{BS3|STR|ABZg+l||||信越本線|}}
{{BS3|STR|BHF||162.6|[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]||}}
{{BS3|STR|STR||||信越本線|}}
{{BS3|HST|O1=HUBaq|HST|O2=HUBeq||||[[長岡駅]]||}}
}}
上越線は、[[群馬県]]から[[新潟県]]へと抜けるために、[[三国山脈]]を越える路線であるが、[[高崎駅]]から[[渋川駅]]あたりまでは[[関東平野]]の北西端ということもあり、平地が多い。
高崎駅を出ると、[[信越本線]]の線路をくぐり、進路を北東に変える。すぐに、[[上越新幹線]]と[[北陸新幹線]]の高架をくぐると、住宅街が広がる中を進む。[[高崎問屋町駅]]を出ると、程なく[[井野川]]を渡り、[[井野駅 (群馬県)|井野駅]]に到着する。井野駅を出ると、だんだんと畑や田が目に入るようになる。[[関越自動車道]]の高架をくぐると、進行方向両側に[[日高遺跡]]が確認できる。これは、関越自動車道の工事時に発見されたもので、現在では公園として古墳などが整備されている。右手にフォレストモール新前橋が見えると、[[新前橋駅]]に到着する。
新前橋駅を出ると、急なカーブで進路を北に変え、住宅街の中を進む。[[群馬総社駅]]を出ると、だんだんと畑が増えてくるとともに、工場が右手に見えるようになってくる。また晴れている場合には、右手に[[赤城山]]、左手に[[榛名山]]が見えるようになる。この間に[[吉岡町]]を通過する(駅は設置されていない)。[[八木原駅]]からは進路を北西に変え、関越自動車道の高架をくぐる。左手に住宅街が広がるようになり、右手に[[大同特殊鋼]]の渋川工場が見えると程なく渋川駅に到着する。
渋川駅を出ると、[[利根川]]を渡る。東京や埼玉方面から[[高崎線]]経由で来た場合には、初めてこの川を渡ることになる。この橋梁の北側で、利根川と[[吾妻川]]が合流する箇所があり、車窓左手からはこれがよく見える。橋を渡ると段々と山が迫り、またそれに伴って勾配を上っていく。[[敷島駅]]を過ぎると、これも先と同じく、初めての[[トンネル]]を通る。[[津久田駅]]を過ぎると利根川を再び渡り、西岸に出る。[[コンニャク|こんにゃく]]畑をかすめ、三度目の利根川を渡ると、すぐ棚下トンネルに入る。トンネルを抜けると、四度目の利根川を渡ることになるが、この橋は当線の撮影スポットであり、[[蒸気機関車牽引列車|SL列車]]「[[SLぐんま みなかみ]]」などが減速することもある。津久田駅から[[岩本駅]]までは国道17号や利根川と並走する途中で綾戸ダムを確認できるが、これは[[東京電力]]・[[佐久発電所]]の取水ダムであり、ここで[[群馬用水]]が分岐している。岩本駅の先では[[片品川]]の[[河岸段丘]]を確認できる。五度目の利根川を渡り、景色が開けると、[[沼田駅]]に到着する。
沼田駅を出ると[[後閑駅]]辺りまでは住宅や田畑が広がるが、同駅を過ぎると、利根川が左手に迫り、山が迫るようになる。[[上牧駅 (群馬県)|上牧駅]]を越えてしばらくすると利根川の川幅は一段と狭まり、大きな岩も目立つようになる。このあたりは「諏訪峡」と呼ばれるが、川沿いに進むのは下り線のみで、上り線は途中から長いトンネルとなる。[[水上温泉]]の[[ホテル]]が見えると、程なく[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]の末端である[[水上駅]]に到着する。
<gallery widths="240px" heights="180px">
File:Shimizu Tunnel.JPG|[[土木遺産]]に選定された[[清水トンネル]]<ref name="JSCE2017">[https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h29/h29_6.html JR上越線清水トンネル関連施設群] - 土木学会関東支部.2019年11月25日閲覧。</ref>
File:土樽駅付近の風景 03.jpg|同じく土木遺産に選定された毛渡沢橋梁<ref name="JSCE2017"/>
</gallery>
水上駅から[[越後中里駅]]までは、1日5往復前後しか定期旅客列車が運行されていない閑散区間になる。水上駅を出てすぐ六・七・八度目の利根川を渡ると、利根川と別れ、代わって湯檜曽川が土合駅付近まで並行するようになる。湯檜曽駅の手前では左手には[[スキー場]]が見える。下り線は[[湯檜曽駅]]手前で[[谷川岳]]を貫く[[新清水トンネル]]に突入するため、同駅と次の[[土合駅]]は下り線のみ[[地下駅]]になっている。土合駅は地下深い場所にホームがある「モグラ駅」として有名である。また同駅は付近に谷川岳への[[谷川岳ロープウェイ|ロープウェイ]]が整備されており、夏は[[登山]]客で賑わう。なお、湯檜曽駅、土合駅ともに上り線は地上にある。その上り線の湯檜曽駅と土合駅の間には[[ループ線]]が、土合駅の[[宮内駅 (新潟県)|宮内]]寄りには[[清水トンネル]]が存在し、新清水トンネル同様に谷川岳を貫いている。清水・新清水トンネルを出ると、新潟県に入り、以降越後川口駅の手前まで並行する[[魚野川]]を渡る。一旦上下線が合流するが、[[土樽駅]]を過ぎると再び分かれ、下り線はカーブで勾配を緩和しながら坂を下り、上り線はループ線の坂を登って、越後中里駅までに合流する。
なお、[[川端康成]]の小説『[[雪国 (小説)|雪国]]』の冒頭の「国境の長いトンネル」とは単線時代の(現在は上り線の)清水トンネルのことであり、冒頭の場面で主人公の島村と同じ汽車に乗り合わせた葉子が駅長を呼ぶ場面は当時の土樽[[信号場]](現在の土樽駅)が舞台である。
その後、新潟県屈指の温泉[[越後湯沢温泉]]を擁し、前述の『雪国』の舞台になった[[湯沢町]]の玄関駅、[[越後湯沢駅]]に到着する。同駅には上越新幹線も乗り入れており、付近には冬は[[首都圏 (日本)|首都圏]]から気軽に行けるスキー場が多くあり、[[スキー]]・[[スノーボード]]客で賑わっている。
観光エリアの越後湯沢を後にし、[[六日町]]周辺では、右手に見える魚野川によって形成された河岸段丘地帯を進む、両脇を山々が路線に平行に連なっている。一帯は日本でも有数の[[稲作]]地帯である。[[六日町駅]]で[[直江津駅|直江津]]方面への短絡経路である[[北越急行ほくほく線]]が分岐していく。
六日町地域を過ぎ、なお魚野川を右手に見て進み、[[浦佐駅]]で再び上越新幹線と接続する。浦佐駅を出ると、[[只見線]]との[[乗換駅]]である[[小出駅]]までは再び長閑な田園風景が続く。小出駅を過ぎると、線路は大きく左へとカーブする。両脇の丘陵が一気に迫り、トンネルが増え、車窓にも変化が見られる。
線路は[[北堀之内駅]]の先で魚野川右岸へと渡り、左手に緩やかに流れる川を見るようにして[[越後川口駅]]へと到着する。付近で谷川岳を源流とし、幾多の流れが集まった魚野川は長野県から流れてきた[[信濃川]]に合流する。同様に上越線は、長野からやってきた[[飯山線]]と越後川口駅で接続する。
[[小千谷駅]]からは、[[大都市近郊区間 (JR)|新潟近郊区間]]に入る。榎峠トンネルを過ぎると、急速に周囲が開け、[[越後平野]]に入る。[[越後滝谷駅]]を過ぎ、[[国道17号]]としばし並走しながら越後平野を一直線に進む線路は、左から合流してくる信越本線とともに、上越線の終点[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]へと滑り込む。越後湯沢方面からの普通列車はすべて一駅先の[[長岡駅]]まで運行されている。
== データ ==
=== 本線 ===
* 路線距離([[営業キロ]]):高崎駅 - 宮内駅間 162.6km
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])・[[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
* 駅数:35(起終点駅を含む)
** 上越線所属駅に限定する場合、高崎線所属の高崎駅と信越本線所属の宮内駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外され、33駅となる。
* [[軌間]]:1,067mm
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置<ref name="ats" />
**[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]:高崎駅 - 水上駅間
** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S{{smaller|N}}]]:水上駅 - 宮内駅間<ref group="注釈">水上以北の一部拠点駅は駅構内のみATS-P化済み。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://157.71.22.10/eco/report/pdf_2017/p30-50.pdf&ved=2ahUKEwjSmLna7-brAhWFEqYKHddxDuI4ChAWMAZ6BAgDEAE&usg=AOvVaw3qzm_sPpI1zG5UavQdtm_Z|website=|accessdate=2020-09-13|title=安全性向上の取組み|publisher=JR東日本}}</ref>
* 最高速度(優等列車)
** 高崎駅 - 水上駅間:120km/h
** 水上駅 - 越後湯沢駅間:110km/h
** 越後湯沢駅 - 六日町駅間:120km/h
** 六日町駅 - 宮内駅間:110km/h
*** 普通列車は全区間で最高速度100km/h
* [[運転指令所]]
** 高崎総合指令室:高崎駅 - 水上駅間
** 新潟総合指令室:水上駅 - 宮内駅間
*** 運転取扱駅(駅が信号を制御):高崎駅
*** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):新前橋駅・渋川駅・沼田駅・水上駅・越後湯沢駅・石打駅・浦佐駅・越後川口駅・宮内駅
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]
** 高崎駅 - 水上駅間(東京近郊区間)
** 小千谷駅 - 宮内駅間(新潟近郊区間)
*[[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間
** 高崎駅 - 水上駅間([[Suica]]首都圏エリア)
** 小千谷駅、宮内駅(Suica新潟エリア)
* 乗務員担当運輸区
** [[高崎運輸区]](高崎駅 - 水上駅間)
** [[新前橋運輸区]](高崎駅 - 水上駅間)
** [[籠原運輸区]](高崎駅 - 新前橋駅間)
** [[上野運転区]](高崎駅 - 新前橋駅間)
** [[長岡運輸区]](水上駅 - 宮内駅間)
=== 支線 ===
* 路線距離(営業キロ):越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間 1.8km
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
* 駅数:1(起点駅を除く)
* 軌間:1,435mm
* 複線区間:全線([[単線並列]])
* 電化区間:全線([[交流電化|交流]]25,000V・50Hz)
* 運転方式:[[自動列車制御装置|ATC]]方式
* 保安装置:[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]
* 最高速度:70km/h
* [[運転指令所]]:新幹線総合指令所
高崎駅 - [[土合駅]]間が[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]、[[土樽駅]] - 宮内駅間とガーラ湯沢駅(駅施設のみ)が[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]、ガーラ湯沢支線(駅施設を除く)が[[東日本旅客鉄道新幹線統括本部|新幹線統括本部]]の管轄である。土合駅 - 土樽駅間(上り線[[清水トンネル]]の土合方出口付近、大宮起点146.43km地点)に、高崎支社と新潟支社の[[JR支社境|支社境]]がある。
=== 利用状況 ===
区間ごとの[[輸送密度|平均通過人員]]は以下のとおりである。
1997年3月から2015年3月まで運行されていた[[はくたか#在来線特急「はくたか」|在来線特急「はくたか」]]が越後湯沢 - 六日町間を経由していたため、前後の区間に比べて平均通過人員が多かった。
{|class="wikitable" border="1" style="font-size:80%; text-align:right;"
|+
!rowspan="3"|年度
! colspan="8"|'''平均通過人員(人/日)'''
! rowspan="3"|出典
|-
!rowspan="2"|全区間
!colspan="3"|高崎 - 水上
!colspan="3"|水上 - 宮内
!rowspan="2"|越後湯沢 - ガーラ湯沢
|-
!高崎 - 新前橋
!新前橋 - 渋川
!渋川 - 水上
!水上 - 越後湯沢
!越後湯沢 - 六日町
!六日町 - 宮内
|-
!rowspan="2"|1987年度
|rowspan="2"|6,623
|colspan="3" style="text-align:center;"|12,175
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,649
|rowspan="2" |未開業
|rowspan="8" style="text-align:center;"|<ref name="jreast1987-2007">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/1987_2007.html |title=路線別ご利用状況(1987年度〜2007年度(5年毎)) |accessdate=2023-10-08 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120820062422/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/1987_2007.html |archivedate=2012-08-20}}</ref><ref name="jreast2007-2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2012.pdf |title=路線別ご利用状況(1987〜2012年度(5年毎)) |accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181019164202/http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf |archivedate=2018-10-19}}</ref>
|-
|33,593
|16,603
|6,453
|3,267
|4,009
|5,826
|-
!rowspan="2"|1992年度
|rowspan="2"|8,182
|colspan="3" style="text-align:center;"|14,689
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,597
|rowspan="2"|681
|-
|43,601
|19,564
|7,364
|2,294
|5,564
|5,853
|-
!rowspan="2"|1997年度
|rowspan="2"|8,442
|colspan="3" style="text-align:center;"|13,516
|colspan="3" style="text-align:center;"|5,675
|rowspan="2"|909
|-
|41,450
|18,044
|6,506
|2,209
|11,399
|6,085
|-
!rowspan="2"|2002年度
|rowspan="2"|6,914
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,748
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,261
|rowspan="2"|770
|-
|38,210
|15,919
|5,150
|1,471
|10,629
|3,983
|-
!2003年度
|7,131
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,626
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,674
|793
|rowspan="4" style="text-align:center;"|<ref name="jreast2002_2006">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/2002_2006.html |title=路線別ご利用状況(2002年度〜2006年度)|accessdate=2023-10-08 |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120820062426/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/2002_2006.html |archivedate=2012-08-20}}</ref>
|-
!2004年度
|6,966
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,254
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,626
|754
|-
!2005年度
|6,732
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,248
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,257
|784
|-
!2006年度
|6,966
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,416
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,535
|646
|-
!rowspan="2"|2007年度
|rowspan="2"|6,785
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,188
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,374
|rowspan="2"|816
|rowspan="10" style="text-align:center;"|<ref name="jreast2007_2011">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/index.html |title=路線別ご利用状況(2007年度〜2011年度)|accessdate=2023-10-09 |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120819192925/http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/index.html |archivedate=2012-08-19}}</ref><ref name="jreast2007-2011">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2007-2011.pdf |title=路線別ご利用状況(2007〜2011年度)|accessdate=2023-10-08 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200115160852/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2007-2011.pdf |archivedate=2020-01-15}}</ref>
|-
|37,983
|14,983
|4,663
|1,283
|11,597
|4,007
|-
!rowspan="2"|2008年度
|rowspan="2"|6,970
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,560
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,458
|rowspan="2"|743
|-
|39,007
|15,396
|4,894
|1,415
|11,478
|4,128
|-
!rowspan="2"|2009年度
|rowspan="2"|6,698
|colspan="3" style="text-align:center;"|11,224
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,218
|rowspan="2"|691
|-
|37,750
|14,979
|4,764
|1,389
|10,860
|3,871
|-
!rowspan="2"|2010年度
|rowspan="2"|6,544
|colspan="3" style="text-align:center;"|10,941
|colspan="3" style="text-align:center;"|4,134
|rowspan="2"|754
|-
|36,915
|14,614
|4,618
|1,295
|10,376
|3,932
|-
!rowspan="2"|2011年度
|rowspan="2"|6,114
|colspan="3" style="text-align:center;"|10,312
|colspan="3" style="text-align:center;"|3,809
|rowspan="2"|825
|-
|36,192
|13,748
|4,092
|960
|9,957
|3,647
|-
!2012年度
|6,464
|37,722
|14,297
|4,301
|1,073
|10,980
| 3,816
|982
|rowspan="5" style="text-align:center;"|<ref name="jreast2012-2016">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |title=路線別ご利用状況(2012〜2016年度)|accessdate=2023-10-08 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170817204056/http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |archivedate=2017-08-17}}</ref>
|-
!2013年度
|6,079
|38,805
|14,580
|4,404
|1,150
|11,344
|4,117
|1,061
|-
!2014年度
|6,225
|37,941
|14,097
|3,892
|801
|10,494
|3,724
|1,091
|-
!2015年度
|5,512
|38,749
|14,326
|3,850
|778
|3,105
|3,855
|855
|-
!2016年度
|5,412
|38,717
|14,300
|3,754
|739
|2,926
|3,705
|846
|-
!2017年度
|5,365
|39,443
|14,252
|3,685
|727
|2,840
|3,552
|810
|rowspan="5" style="text-align:center;"|<ref name="jreast2017-2021">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |title=路線別ご利用状況(2017〜2021年度)|accessdate=2023-10-08 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220830183944/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |archivedate=2022-08-30}}</ref>
|-
!2018年度
|5,389
|40,481
|14,192
|3,625
|738
|2,836
|3,536
|753
|-
!2019年度
|5,498
|40,541
|14,107
|3,746
|1,010
|2,879
|3,615
|618
|-
!2020年度
|3,905
|26,841
|9,767
|2,709
|687
|1,610
|3,052
|414
|-
!2021年度
|4,137
|30,227
|10,575
|2,901
|672
|1,719
|2,915
|728
|-
!2022年度
|4,754
|34,825
|11,778
|3,359
|976
|2,249
|3,189
|751
|style="text-align:center;"|<ref name="jreast2018-2022">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/rosen02.pdf |title=路線別ご利用状況(2018〜2022年度)|accessdate=2023-10-08 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230707141822/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/rosen02.pdf |archivedate=2023-07-07}}</ref>
|}
== 駅一覧 ==
便宜上、宮内駅側で全旅客列車が直通する信越本線長岡駅までの区間を記載する。
* (貨):貨物専用駅、◇印:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。定期貨物列車の発着なし)
* ほくほく線直通以外の普通列車(臨時快速を含まない)は基本的に全駅に停車するが、一部列車は上越国際スキー場前駅を通過する。
** 越後湯沢駅 - 六日町駅間のほくほく線直通の普通列車は▼・▽印の駅を通過する(▽の塩沢駅は停車列車あり)。
* 臨時列車の停車駅については各列車記事を参照。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|{{縦書き|路線名|height=3.5em}}
!rowspan="2" style="width:12.5em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b3e6;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b3e6;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅間
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|累計
|-
|rowspan="35" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|'''{{縦書き|上越線|height=6em}}'''
|[[高崎駅]]◇
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道 ]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px]] [[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・{{Color|#f68b1e|■}}[[高崎線]]([[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]]含む)<ref group="*" name="s1">高崎線・上野東京ライン・湘南新宿ラインの列車は一部新前橋駅・両毛線[[前橋駅]]まで乗り入れる</ref>・{{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]]<ref group="*">八高線は全列車が高崎駅発着だが、路線の正式な終点は高崎線[[倉賀野駅]](線路は[[北藤岡駅]]の倉賀野側で分岐)</ref>・{{Color|yellowgreen|■}}[[信越本線]]<br />[[上信電鉄]]:{{Color|red|■}}[[上信電鉄上信線|上信線]]
|rowspan="16" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[群馬県]]|height=6em}}
|rowspan="3"|[[高崎市]]
|-
|[[高崎問屋町駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|2.8
|
|-
|[[井野駅 (群馬県)|井野駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.0
|
|-
|[[新前橋駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|7.3
|東日本旅客鉄道:{{Color|#ffd400|■}}[[両毛線]]<ref group="*" name="s3">両毛線・吾妻線の列車はともに高崎駅まで乗り入れる</ref>
|rowspan="2"|[[前橋市]]
|-
|[[群馬総社駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|12.1
|
|-
|[[八木原駅]]◇
|style="text-align:right;"|5.6
|style="text-align:right;"|17.7
|
|rowspan="4"|[[渋川市]]
|-
|[[渋川駅]]◇<br/>{{Smaller|([[伊香保温泉]]・[[榛名湖]]口)}}
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|21.1
|東日本旅客鉄道:{{Color|#0F5474|■}}[[吾妻線]]<ref group="*" name="s3" />
|-
|[[敷島駅]]
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|27.5
|
|-
|[[津久田駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|30.5
|
|-
|[[岩本駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|36.3
|
|rowspan="2"|[[沼田市]]
|-
|[[沼田駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|41.4
|
|-
|[[後閑駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|46.6
|
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[利根郡]]<br />[[みなかみ町]]
|-
|[[上牧駅 (群馬県)|上牧駅]]
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|53.7
|
|-
|[[水上駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|59.1
|
|-
|[[湯檜曽駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|62.7
|
|-
|[[土合駅]]
|style="text-align:right;"|6.6
|style="text-align:right;"|69.3
|
|-
|[[土樽駅]]
|style="text-align:right;"|10.8
|style="text-align:right;"|80.1
|
|rowspan="22" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[新潟県]]|height=6em}}
|rowspan="4"|[[南魚沼郡]]<br />[[湯沢町]]
|-
|[[越後中里駅]]
|style="text-align:right;"|7.3
|style="text-align:right;"|87.4
|
|-
|[[岩原スキー場前駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|91.1
|
|-
|[[越後湯沢駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|94.2
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|17px]] 上越新幹線・上越線([[#支線_2|ガーラ湯沢支線]])
|-
|[[石打駅]]▼
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|100.6
|
|rowspan="8"|[[南魚沼市]]
|-
|[[大沢駅 (新潟県)|大沢駅]]▼
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|104.6
|
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[上越国際スキー場前駅]]▼
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|105.6
|
|-
|[[塩沢駅]]▽
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|107.9
|
|-
|[[六日町駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|111.8
|[[北越急行]]:{{Color|#cc3366|■}}[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]<ref group="*">北越急行ほくほく線の一部列車は越後湯沢駅まで乗り入れる</ref>
|-
|[[五日町駅]]◇
|style="text-align:right;"|6.6
|style="text-align:right;"|118.4
|
|-
|[[浦佐駅]]
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|123.9
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|17px]] 上越新幹線
|-
|[[八色駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|127.0
|
|-
|[[小出駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|132.2
|東日本旅客鉄道:{{Color|#008dd1|■}}[[只見線]]
|rowspan="3"|[[魚沼市]]
|-
|[[越後堀之内駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|134.7
|
|-
|[[北堀之内駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|138.1
|
|-
|[[越後川口駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|142.8
|東日本旅客鉄道:{{Color|#7bc24b|■}}[[飯山線]]
||[[長岡市]]
|-
|[[小千谷駅]]
|style="text-align:right;"|6.6
|style="text-align:right;"|149.4
|
|[[小千谷市]]
|-
|[[越後滝谷駅]]
|style="text-align:right;"|7.2
|style="text-align:right;"|156.6
|
|rowspan="5"|長岡市
|-style="height:1em;"
|rowspan="2"|[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|6.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|162.6
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道:{{Color|#00b3e6|■}}信越本線([[柏崎駅|柏崎]]方面)
|-
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|信越本線|height=4.5em}}
|-
|(貨)[[南長岡駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|164.0
|
|-
|[[長岡駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|165.6
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|17px]] 上越新幹線・{{Color|#00b3e6|■}}信越本線([[新潟駅|新潟]]方面)
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象駅は、高崎駅 - 渋川駅間の各駅と、沼田駅・水上駅・越後湯沢駅・六日町駅・浦佐駅・小出駅・越後川口駅・小千谷駅・宮内駅・長岡駅(と、後述の支線にあるガーラ湯沢駅)である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。
* 群馬総社 - 八木原間で[[北群馬郡]][[吉岡町]]を通るが、駅はない。
=== 支線 ===
* 全線[[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]]に所在。全列車特急列車(新幹線車両を使用)。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:10em;border-bottom:solid 3px #008000;"|駅名
!style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #008000;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #008000;"|接続路線・備考
|-
|[[越後湯沢駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|東日本旅客鉄道:[[上越新幹線]]([[東京駅|東京]]方面へ直通)・上越線(本線)
|-
|(臨)[[ガーラ湯沢駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|''季節営業の臨時駅''
|}
=== 廃駅 ===
* [[浜尻駅]] : 1940年11月1日廃止、現在の井野駅 - 高崎問屋町駅間
* 日高信号所 : 1921年7月1日廃止、現在の新前橋駅 - 井野駅間
* [[日高駅]] : 1940年11月1日廃止、現在の新前橋駅 - 井野駅間
=== 過去の接続路線 ===
* 高崎駅:[[東武伊香保軌道線]](高崎・前橋 - 渋川 - 伊香保間[[馬車鉄道]]・[[路面電車]])(高崎駅前) - 1953年7月1日高崎線廃止
* 渋川駅:
** 東武伊香保軌道線(渋川駅前) - 1956年12月29日伊香保線廃止
** [[吾妻軌道]](渋川 - 中之条間馬車鉄道・路面電車) - 1933年3月休止、1934年9月30日廃止
** [[利根軌道]](渋川 - 沼田間馬車鉄道・電気鉄道) - 1924年4月1日休止、1925年3月6日廃止(上越線開業時には接続なし)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Jōetsu Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[とき (列車)]]・[[水上 (列車)]]・[[あけぼの (列車)]](上越線の列車沿革)
* [[SLぐんま みなかみ|EL&SL奥利根号・SLみなかみ]]
* [[国鉄181系電車]]
* [[上越新幹線]]
* [[高崎線]]
* [[北越急行]]
* [[博多南線]]
* [[関越自動車道]]
* [[国道17号]]
* [[岡村貢]] - 「上越線の父」と呼ばれる。
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=32&token=&50on= 検索結果(上越線の駅):JR東日本]
* {{Wayback|url=www.jrniigata.co.jp/map/JRniigata_map.pdf|title=JR新潟支社路線図|date=20101215183448}}
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道高崎支社}}
{{東日本旅客鉄道新潟支社}}
{{東日本旅客鉄道新幹線統括本部}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しようえつせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:中部地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:上越線|*]]
[[Category:上越新幹線|*]]<!--博多南線との整合上-->
[[Category:群馬県の交通]]
[[Category:新潟県の交通]]
|
2003-09-16T13:17:26Z
|
2023-12-02T04:35:11Z
| false | false | false |
[
"Template:東日本旅客鉄道の鉄道路線",
"Template:画像提供依頼",
"Template:See also",
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"Template:東日本旅客鉄道新潟支社",
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"Template:東日本旅客鉄道新幹線統括本部",
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"Template:東日本旅客鉄道高崎支社"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%B6%8A%E7%B7%9A
|
17,098 |
近鉄吉野線
|
吉野線(よしのせん)は、奈良県橿原市の橿原神宮前駅から奈良県吉野郡吉野町の吉野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
駅ナンバリング等で使われる路線記号は、直通運転している南大阪線と同じF。ただし、番号部分は京都線・橿原線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。
大阪・京都から飛鳥、桜で名高い吉野を結ぶ路線である。南大阪線の大阪阿部野橋駅から吉野駅まで急行や「さくらライナー」、観光特急「青の交響曲」などの特急が直通運転されている。
吉野線にはローカル線の加算運賃が適用されている。また、橿原神宮前駅 - 壺阪山駅間の各駅でスルッとKANSAIカードが利用できた。吉野口駅と薬水駅を除く各駅でも自動券売機設置駅では切符を買う時のみスルッとKANSAIカードが使用できるが、自動精算機が設置されておらず降車時に利用できないため、公式にはエリアには入っていなかった。なお、2007年4月1日からサービスを開始したICカード「PiTaPa」「ICOCA」は全線で利用できる。また2013年3月23日から「Suica」などの全国相互利用IC乗車カードも利用可能となっている。
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
橿原神宮前駅では、定期列車は西側にある4・5番のりばから発車するが、橿原線ホームから発車する貸切列車との乗り換えが必要な貸切列車や橿原神宮前始発の臨時列車などは、東側にある0番のりばを使用している。橿原神宮前駅を南下すると壺阪山駅までは国道169号と並走する。住宅地をくぐり抜けてまず岡寺駅を出ると、右にカーブして明日香村の玄関口である飛鳥駅、そのまま南下をすると壺阪山駅である。
壺阪山駅からは進路を西に変え、国道169号と一旦別れる。田圃の真ん中を進み左にカーブすると市尾駅、その先で再び左にカーブすると、葛駅を越えた先までしばらく直線が続き、この区間では特急が最高速度100km/hで運転することができる。曽我川を渡ると右手から和歌山線が合流してそのまま吉野口駅まで並走する。
国道309号の高架橋を潜って和歌山線と一度別れるが、薬水駅で再び和歌山線と接近する。薬水駅は乗降客数が奈良県内の近鉄線の駅で最も少ない。左右に連続するカーブを抜けて進むと駅前が大規模に宅地開発された福神駅、トンネルを潜って南下し大阿太駅と続くと、左にカーブして東進し、右手に吉野川を眺めながら下市口駅に着く。下市口駅からは、大峯山のある天川村洞川方面へのバスも発着している。下市口駅を出た先から、壺阪山駅で別れた国道169号と並走をはじめる。壺阪山駅 - 下市口駅間は、線形が西側の御所市内にある吉野口駅を一旦経由して四角形の三辺を通る格好になっているのに対し、国道169号はほぼ直線に南下しているため、「車よりはるかに遅い」と言われることもある。
日中に特急の列車交換が行われている越部駅に続く六田駅は、古市検車区六田車庫が併設されている。六田駅はかつて吉野駅と名乗り、吉野線の終点であった。吉野駅を名乗っていた時のホームは、六田駅を出た先の南側にあり、車庫の留置線として使用されている。国道169号を越えて山側に移り、トンネルを3つ抜けると大台ヶ原への最寄り駅である大和上市駅に到着する。
橿原神宮前駅から下市口駅 - 大和上市駅へは奈良交通バスも利用可能であるが、昼間はバスよりも各駅に停車する急行の方が所要時間が長い。時間帯は限られるが、橿原神宮前駅において吉野ゆき特急と大和上市駅方面行きのバスが1 - 2分の差で発車することがあり、近鉄特急の方が料金が高いにもかかわらず、行楽シーズンを除けば六田駅・大和上市駅への到着時刻にほとんど差はない。
大和上市駅を発車してすぐに右へカーブすると、吉野線の一番の見せ場である吉野川を渡る。吉野神宮駅から周囲に山が迫り始めてしばらく進むと、終点吉野駅に到着する。
ほとんどの急行と特急が南大阪線と直通運転している。特急はほぼ終日運行、吉野線内では各駅に停車する急行列車は朝と夕方から夜にかけて運転され、昼間時間帯は普通列車(南大阪線内は大阪阿部野橋行き準急もしくは古市行普通として直通運転)が、ほかの普通・準急列車は朝と夜を中心に運転される。橿原神宮前から吉野への所要時間は特急で約40分、急行・普通列車で約50 - 55分であるが、対向列車待ちの少ない一部の急行・普通列車は特急とほとんど変わらない40分強の所要時間で走る列車もある。1998年のダイヤ変更では、平日ダイヤでは特急が1時間に1本しか走らない日中の時間帯に、1時間2本ある上り急行のうち1本の対向待ちの時間を極力詰め、最大で8分ほど所要時間が短縮された列車があったが、ダイヤが不等間隔になることや特急停車駅が増えたこともあり1年で元に戻された。なお、1990年までは大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間を直通する日中の急行が1時間に1本の割合の運転であったため、準急も同様に1時間に1本の割合で吉野駅まで直通運転されていたが、同年3月のダイヤ変更に伴い吉野駅直通の準急は吉野駅発着の急行と橿原神宮前駅発着の準急に分離する形に再編された。2012年3月20日ダイヤ変更以降は土休日の下り1本、上り2本のみの運転となっている。かつては日中の時間帯も南大阪線直通の急行を運転していたが、2021年7月3日のダイヤ変更で日中の列車は吉野線内は普通、南大阪線内は区間急行または準急(古市行き普通として直通する場合もある)で直通運転する形に変更された。
南大阪線の最大両数は8両であるのに対し、吉野線の最大両数は4両であることから、特急・急行は平日ダイヤの朝夕を中心に橿原神宮前駅で車両の増・解結を行う列車が多い。
区間急行は2011年3月13日まで、土休日ダイヤの吉野発大阪阿部野橋行き1本のみ、早朝に設定されていた。なお、大阪阿部野橋駅から吉野方面の最終列車と平日のその前の列車は、橿原神宮前行きの区間急行で運転され、橿原神宮前駅から吉野行き普通として運転されている。これは吉野線に区間急行が乗り入れたのが2003年と近年のことであったため、ほとんどの車両に「区間急行 吉野」の方向幕がないからである(ただし「区間急行 下市口」の表示がある)。区間急行は乗り入れ廃止後も駅や車内に掲出の停車駅案内では吉野線の駅も運転区間に含めて掲載され続けていたが、2015年の駅ナンバリング導入による停車駅案内の更新により運転区間から省かれた。
吉野の観桜客のために春の多客期には大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で臨時快速急行を運転することもある。古市駅が特急停車駅(朝晩時間帯のみ)に加わって以降、古市停車の特急と快速急行では停車駅が完全に同一となっており、この場合両種別の違いは使用車両及び全席指定か全席自由席かのみである。ただし、ダイヤの都合で橿原神宮前駅に10分停車する。このため吉野へは定期運転している特急と急行が先着する。
2010年3月19日のダイヤ変更で橿原神宮前駅を始発駅とする吉野線内普通列車は大幅に削減され、2021年7月3日現在平日は吉野口行き1本と壺阪山行き1本、六田行き2本、土休日は六田行き1本が運転されるのみとなった。六田駅には古市検車区六田車庫があるため、深夜には吉野発六田行きが、早朝には六田発吉野行きが運転される。
なお、線路保守工事のため、数年に1回程度の割合で下市口駅 - 吉野駅間が昼間時間帯に運休することがある。運休時間帯は、橿原神宮前方面からの列車は、すべて下市口駅で折り返し運転となり、この区間に奈良交通による代替バスを運行している。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、2020年の大晦日(2021年の元日早朝)からは実施されていない。1988年の大晦日(1989年の元日早朝)から2019年の大晦日(2020年の元日早朝)までは行われており、特急は運転されず普通のみが数本運転される形態となっていた。1990年代後半以降は削減傾向となり、年によって異なるが運転間隔が1時間30分 - 3時間となっていた。2000年代後半は、吉野発が0時台を最後に全く運転されないこともあった。
南大阪線系統の各形式が使用されており、ワンマン運転を行う列車にはワンマン対応の6419系または6432系が使用されている。
吉野軽便鉄道(のちに吉野鉄道に改称)により、吉野山への行楽輸送のほか、沿線で産出される木材を輸送する目的で建設された。そのため、国有鉄道との貨車直通を考慮して軌間は1067mmを採用した。吉野山の花見シーズンには直接、客車も乗り入れ湊町駅(現在のJR難波駅)から吉野への臨時花見列車も運行された。谷崎潤一郎の『吉野葛』には、軽便鉄道時代の吉野線の様子が記されている。
吉野口駅で今のJR和歌山線と線路がつながっていたが、後には市場のあった桜井市への木材円滑輸送を図るべく、桜井線畝傍駅まで路線を延伸した。その後、大正から昭和に入った頃に、近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)は自社の保有する畝傍線(現在の橿原線)の橿原神宮前から延伸して、吉野に至るまでの鉄道敷設免許を収得した。そして、大軌は免許線に並行する吉野鉄道を買収した方が得策と考え、また吉野鉄道も並行線を敷設されれば大きな脅威になると考えたことから、1929年に吉野鉄道は大軌に合併されることになった。
なお、大軌への統合直前に大阪 - 橿原間で大軌と並行路線を有する大阪鉄道(大鉄、現在の南大阪線などを建設)との直通運転が開始されているが、これは大軌の路線が1435mmの標準軌を採用しており直通が不可能であったため、軌間が吉野線と同じであった大鉄とそれを行わせるのが利用客の便を考えると良いとされたからだといわれている。
しかし、大軌では自社線や子会社の奈良電気鉄道からのルートでの吉野へのアクセスを改善すべく、畝傍線と吉野線が接続する(旧)橿原神宮駅から大阪鉄道との接続駅である久米寺駅の間を三線軌条化し、2回の乗り換えが1回で済むように久米寺駅までの電車乗り入れを行ったりもしている。久米寺駅では、吉野方面から来た電車の客を大軌に誘致すべく呼び込みも行われたという。
また、大阪鉄道は吉野線との直通運転開始から間もなくして大軌の傘下に入り、1943年には大軌から名称を変更した関西急行鉄道(関急)に合併された。その前の1939年には橿原神宮拡張工事のため、(旧)橿原神宮前駅と久米寺駅などの統合も行われている。これに伴い、当初から貨物輸送が主体で旅客に関しては大軌・大鉄ルートがメインとなっていた畝傍駅への路線は完全な盲腸線と化し、小房線(おうさせん)という独立線名を有するようになったものの、1945年には橿原線と並行することから旅客営業が廃止され、1952年に全廃された。
2018年5月15日、異なる軌間の路線間を直通運転できるフリーゲージトレインで、京都線の京都駅から橿原線を経て吉野線の吉野駅まで直通運転を行う構想が明らかにされた。2018年6月22日付けで開発推進担当の役員を置き、フリーゲージトレインの開発に着手する予定とされていた。しかし、開発推進担当の役員は翌2019年6月に近鉄の取締役を退任し、後任への引き継ぎが行われた形跡もなく、2021年5月14日に発表された「近鉄グループ中期経営計画2024」にもフリーゲージトレインについて記載がなくなっている。2022年5月に開催された「鉄道技術展」にはフリーゲージトレインの展示があり、開発意向が明らかにされたものの、依然として本路線に導入するかは不明瞭のままである。
2015年11月10日調査による主要駅の乗降者数は次の通り。
|
[
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"text": "吉野線(よしのせん)は、奈良県橿原市の橿原神宮前駅から奈良県吉野郡吉野町の吉野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。",
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},
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"text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号は、直通運転している南大阪線と同じF。ただし、番号部分は京都線・橿原線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。",
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},
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"text": "大阪・京都から飛鳥、桜で名高い吉野を結ぶ路線である。南大阪線の大阪阿部野橋駅から吉野駅まで急行や「さくらライナー」、観光特急「青の交響曲」などの特急が直通運転されている。",
"title": "概要"
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"text": "吉野線にはローカル線の加算運賃が適用されている。また、橿原神宮前駅 - 壺阪山駅間の各駅でスルッとKANSAIカードが利用できた。吉野口駅と薬水駅を除く各駅でも自動券売機設置駅では切符を買う時のみスルッとKANSAIカードが使用できるが、自動精算機が設置されておらず降車時に利用できないため、公式にはエリアには入っていなかった。なお、2007年4月1日からサービスを開始したICカード「PiTaPa」「ICOCA」は全線で利用できる。また2013年3月23日から「Suica」などの全国相互利用IC乗車カードも利用可能となっている。",
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"text": "全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。",
"title": "概要"
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"title": "沿線概況"
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"text": "国道309号の高架橋を潜って和歌山線と一度別れるが、薬水駅で再び和歌山線と接近する。薬水駅は乗降客数が奈良県内の近鉄線の駅で最も少ない。左右に連続するカーブを抜けて進むと駅前が大規模に宅地開発された福神駅、トンネルを潜って南下し大阿太駅と続くと、左にカーブして東進し、右手に吉野川を眺めながら下市口駅に着く。下市口駅からは、大峯山のある天川村洞川方面へのバスも発着している。下市口駅を出た先から、壺阪山駅で別れた国道169号と並走をはじめる。壺阪山駅 - 下市口駅間は、線形が西側の御所市内にある吉野口駅を一旦経由して四角形の三辺を通る格好になっているのに対し、国道169号はほぼ直線に南下しているため、「車よりはるかに遅い」と言われることもある。",
"title": "沿線概況"
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"text": "日中に特急の列車交換が行われている越部駅に続く六田駅は、古市検車区六田車庫が併設されている。六田駅はかつて吉野駅と名乗り、吉野線の終点であった。吉野駅を名乗っていた時のホームは、六田駅を出た先の南側にあり、車庫の留置線として使用されている。国道169号を越えて山側に移り、トンネルを3つ抜けると大台ヶ原への最寄り駅である大和上市駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
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"text": "橿原神宮前駅から下市口駅 - 大和上市駅へは奈良交通バスも利用可能であるが、昼間はバスよりも各駅に停車する急行の方が所要時間が長い。時間帯は限られるが、橿原神宮前駅において吉野ゆき特急と大和上市駅方面行きのバスが1 - 2分の差で発車することがあり、近鉄特急の方が料金が高いにもかかわらず、行楽シーズンを除けば六田駅・大和上市駅への到着時刻にほとんど差はない。",
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"text": "大和上市駅を発車してすぐに右へカーブすると、吉野線の一番の見せ場である吉野川を渡る。吉野神宮駅から周囲に山が迫り始めてしばらく進むと、終点吉野駅に到着する。",
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"text": "ほとんどの急行と特急が南大阪線と直通運転している。特急はほぼ終日運行、吉野線内では各駅に停車する急行列車は朝と夕方から夜にかけて運転され、昼間時間帯は普通列車(南大阪線内は大阪阿部野橋行き準急もしくは古市行普通として直通運転)が、ほかの普通・準急列車は朝と夜を中心に運転される。橿原神宮前から吉野への所要時間は特急で約40分、急行・普通列車で約50 - 55分であるが、対向列車待ちの少ない一部の急行・普通列車は特急とほとんど変わらない40分強の所要時間で走る列車もある。1998年のダイヤ変更では、平日ダイヤでは特急が1時間に1本しか走らない日中の時間帯に、1時間2本ある上り急行のうち1本の対向待ちの時間を極力詰め、最大で8分ほど所要時間が短縮された列車があったが、ダイヤが不等間隔になることや特急停車駅が増えたこともあり1年で元に戻された。なお、1990年までは大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間を直通する日中の急行が1時間に1本の割合の運転であったため、準急も同様に1時間に1本の割合で吉野駅まで直通運転されていたが、同年3月のダイヤ変更に伴い吉野駅直通の準急は吉野駅発着の急行と橿原神宮前駅発着の準急に分離する形に再編された。2012年3月20日ダイヤ変更以降は土休日の下り1本、上り2本のみの運転となっている。かつては日中の時間帯も南大阪線直通の急行を運転していたが、2021年7月3日のダイヤ変更で日中の列車は吉野線内は普通、南大阪線内は区間急行または準急(古市行き普通として直通する場合もある)で直通運転する形に変更された。",
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"text": "吉野の観桜客のために春の多客期には大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で臨時快速急行を運転することもある。古市駅が特急停車駅(朝晩時間帯のみ)に加わって以降、古市停車の特急と快速急行では停車駅が完全に同一となっており、この場合両種別の違いは使用車両及び全席指定か全席自由席かのみである。ただし、ダイヤの都合で橿原神宮前駅に10分停車する。このため吉野へは定期運転している特急と急行が先着する。",
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"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は、2020年の大晦日(2021年の元日早朝)からは実施されていない。1988年の大晦日(1989年の元日早朝)から2019年の大晦日(2020年の元日早朝)までは行われており、特急は運転されず普通のみが数本運転される形態となっていた。1990年代後半以降は削減傾向となり、年によって異なるが運転間隔が1時間30分 - 3時間となっていた。2000年代後半は、吉野発が0時台を最後に全く運転されないこともあった。",
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吉野線(よしのせん)は、奈良県橿原市の橿原神宮前駅から奈良県吉野郡吉野町の吉野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等で使われる路線記号は、直通運転している南大阪線と同じF。ただし、番号部分は京都線・橿原線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 吉野線
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|路線図 =
}}
'''吉野線'''(よしのせん)は、[[奈良県]][[橿原市]]の[[橿原神宮前駅]]から奈良県[[吉野郡]][[吉野町]]の[[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は、[[直通運転]]している[[近鉄南大阪線|南大阪線]]と同じ'''F'''。ただし、番号部分は[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]からの通し番号([[京都駅]]を01とみなす)になっている<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf 駅ナンバリングを全線で実施します]}}</ref>。
== 概要 ==
大阪・京都から[[飛鳥]]、桜で名高い[[吉野]]を結ぶ路線である。南大阪線の[[大阪阿部野橋駅]]から吉野駅まで[[急行列車|急行]]や「[[近鉄26000系電車|さくらライナー]]」、観光特急「[[近鉄特急#観光特急「青の交響曲(シンフォニー)」(大阪 - 吉野間)|青の交響曲]]」などの[[近鉄特急|特急]]が直通運転されている。
吉野線にはローカル線の[[近畿日本鉄道#運賃|加算運賃]]が適用されている。また、橿原神宮前駅 - [[壺阪山駅]]間の各駅で[[スルッとKANSAI]]カードが利用できた。[[吉野口駅]]と[[薬水駅]]を除く各駅でも自動券売機設置駅では切符を買う時のみスルッとKANSAIカードが使用できるが、自動精算機が設置されておらず降車時に利用できないため、公式にはエリアには入っていなかった。なお、[[2007年]][[4月1日]]からサービスを開始したICカード「[[PiTaPa]]」「[[ICOCA]]」は全線で利用できる。また[[2013年]][[3月23日]]から「[[Suica]]」などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用IC乗車カード]]も利用可能となっている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):25.2 km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:16駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:100 km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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{{BS4|STR||||||[[近鉄橿原線|{{近鉄駅番号|B}} 橿原線]]||}}
{{BS4|KRZu|STRq|BHFq|O3=HUBa||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{JR西路線記号|K|U}} [[桜井線]](万葉まほろば線)|}}
{{BS4|STR||exKBHFaq|O3=HUBe|exSTR+r||[[畝傍駅]]||}}
{{BS4|xABZg2|STRc3||exBHF||''小房駅''||}}
{{BS4|xSTR+c1|STR2+4|exSTRc2|O3=STRc3|exABZg3|||''←[[#歴史|旧吉野線/小房線]]'' ↑↓|}}<!-- 注:旧橿原神宮前駅経由時代は小房線と称していない -->
{{BS4|exLSTR|O1=POINTERg@fq|exSTRc2|O2=STRc1|exSTR3+1|O3=STR+4|exSTR+c4|||''橿原線旧線''|}}
{{BS4|exLSTR|exSTR+1|BHF|O3=exSTRc4|P3=HUBaq|exBHF|O4=HUBeq||B41 [[畝傍御陵前駅]]||}}
{{BS4|exBHF|O1=HUBaq|exBHF|O2=HUBeq|STR|exSTR||''旧 橿原神宮前駅''| -1939|}}
{{BS4|exKRWl|exKRWg+r|STR|ENDExa|||台車交換所|}}
{{BS4|STRq|xABZg+r|KRWg+l|KRWgr|||←[[近鉄南大阪線|{{近鉄駅番号|F}} 南大阪線]]|}}
{{BS4||BHF|O2=HUBaq|KBHFe|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq|0.0|F42 [[橿原神宮前駅]]|}}
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{{BS2|BHF||1.1|F43 [[岡寺駅]]|}}
{{BS2|BHF||2.2|F44 [[飛鳥駅]]|}}
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{{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||9.5|F48 [[吉野口駅]]|}}
{{BS4|STRr|STR||||||}}
{{BS2|BHF||11.2|F49 [[薬水駅]]|}}
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{{BS2|BHF||20.7|F54 [[六田駅]]|}}
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{{BS4|KDSTe|STR||||[[古市検車区]]六田車庫|}}
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{{BS2|hKRZWae|||[[吉野川橋梁 (近鉄吉野線)|吉野川橋梁]]|[[吉野川 (奈良県)|吉野川]]|242.4m}}
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{{BS2|KBHFa|O1=HUBe||||千本口駅|}}
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}}
橿原神宮前駅では、定期列車は西側にある4・5番のりばから発車するが、[[近鉄橿原線|橿原線]]ホームから発車する貸切列車との乗り換えが必要な貸切列車や橿原神宮前始発の臨時列車などは、東側にある0番のりばを使用している。橿原神宮前駅を南下すると壺阪山駅までは[[国道169号]]と並走する。住宅地をくぐり抜けてまず[[岡寺駅]]を出ると、右にカーブして[[明日香村]]の玄関口である[[飛鳥駅]]、そのまま南下をすると[[壺阪山駅]]である。
[[ファイル:KT F42 0km.jpg|thumb|none|180px|橿原神宮前駅0番のりばに設置されている当線の0kmポスト]]
壺阪山駅からは進路を西に変え、国道169号と一旦別れる。田圃の真ん中を進み左にカーブすると[[市尾駅]]、その先で再び左にカーブすると、[[葛駅]]を越えた先までしばらく直線が続き、この区間では特急が最高速度100km/hで運転することができる。[[曽我川]]を渡ると右手から[[和歌山線]]が合流してそのまま[[吉野口駅]]まで並走する。
[[国道309号]]の高架橋を潜って和歌山線と一度別れるが、[[薬水駅]]で再び和歌山線と接近する。薬水駅は乗降客数が奈良県内の近鉄線の駅で最も少ない。左右に連続するカーブを抜けて進むと駅前が大規模に宅地開発された[[福神駅]]、トンネルを潜って南下し[[大阿太駅]]と続くと、左にカーブして東進し、右手に[[吉野川 (奈良県)|吉野川]]を眺めながら[[下市口駅]]に着く。下市口駅からは、[[大峯山]]のある[[天川村]]洞川方面へのバスも発着している。下市口駅を出た先から、壺阪山駅で別れた国道169号と並走をはじめる。壺阪山駅 - 下市口駅間は、[[線形 (路線)|線形]]が西側の[[御所市]]内にある吉野口駅を一旦経由して四角形の三辺を通る格好になっているのに対し、国道169号はほぼ直線に南下しているため、「車よりはるかに遅い」と言われることもある。
[[ファイル:Kusurimizu tunnel.JPG|thumb|none|薬水トンネル(大阿太駅側)]]
日中に特急の列車交換が行われている[[越部駅]]に続く[[六田駅]]は、[[古市検車区]]六田車庫が併設されている。六田駅はかつて吉野駅と名乗り、吉野線の終点であった。吉野駅を名乗っていた時のホームは、六田駅を出た先の南側にあり、車庫の留置線として使用されている。国道169号を越えて山側に移り、トンネルを3つ抜けると[[大台ヶ原山|大台ヶ原]]への最寄り駅である[[大和上市駅]]に到着する。
[[ファイル:Kintetsu Muda syako201404.JPG|thumb|none|六田車庫]]
橿原神宮前駅から下市口駅 - 大和上市駅へは[[奈良交通]]バスも利用可能であるが、昼間はバスよりも各駅に停車する急行の方が所要時間が長い。時間帯は限られるが、橿原神宮前駅において吉野ゆき特急と大和上市駅方面行きのバスが1 - 2分の差で発車することがあり、近鉄特急の方が料金が高いにもかかわらず、行楽シーズンを除けば六田駅・大和上市駅への到着時刻にほとんど差はない。
大和上市駅を発車してすぐに右へカーブすると、吉野線の一番の見せ場である吉野川を渡る。[[吉野神宮駅]]から周囲に山が迫り始めてしばらく進むと、終点吉野駅に到着する。
[[ファイル:Kintetsu Series 6400 Yoshino.jpg|thumb|none|[[吉野川橋梁 (近鉄吉野線)|吉野川橋梁]]を渡る[[近鉄6400系電車|6400系]]電車<br />([[大和上市駅]] - [[吉野神宮駅]]間)]]
== 運行形態 ==
{{Main2|特急列車(青の交響曲含む)|近鉄特急}}
ほとんどの急行と特急が[[近鉄南大阪線|南大阪線]]と[[直通運転]]している。特急はほぼ終日運行、吉野線内では各駅に停車する急行列車は朝と夕方から夜にかけて運転され、昼間時間帯は普通列車(南大阪線内は大阪阿部野橋行き準急もしくは古市行普通として直通運転)が、ほかの普通・[[準急列車|準急]]列車は朝と夜を中心に運転される{{Efn|大阪阿部野橋方面の準急は、土休日には運転されない。}}。橿原神宮前から吉野への所要時間は特急で約40分、急行・普通列車で約50 - 55分であるが、対向列車待ちの少ない一部の急行・普通列車は特急とほとんど変わらない40分強の所要時間で走る列車もある。1998年のダイヤ変更では、平日ダイヤでは特急が1時間に1本しか走らない日中の時間帯に、1時間2本ある上り急行のうち1本の対向待ちの時間を極力詰め、最大で8分ほど所要時間が短縮された列車があったが、ダイヤが不等間隔になることや特急停車駅が増えたこともあり1年で元に戻された。なお、1990年までは大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間を直通する日中の急行が1時間に1本の割合の運転であったため、準急も同様に1時間に1本の割合で吉野駅まで直通運転されていたが、同年3月のダイヤ変更に伴い吉野駅直通の準急は吉野駅発着の急行と橿原神宮前駅発着の準急に分離する形に再編された。2012年3月20日ダイヤ変更以降は土休日の下り1本、上り2本のみの運転となっている。かつては日中の時間帯も南大阪線直通の急行を運転していたが、2021年7月3日のダイヤ変更で日中の列車は吉野線内は普通、南大阪線内は区間急行または準急(古市行き普通として直通する場合もある)で直通運転する形に変更された。
南大阪線の最大両数は8両であるのに対し、吉野線の最大両数は4両であることから、特急・急行は平日ダイヤの朝夕を中心に橿原神宮前駅で車両の増・解結を行う列車が多い。
区間急行は2011年3月13日まで、土休日ダイヤの吉野発大阪阿部野橋行き1本のみ、早朝に設定されていた。なお、大阪阿部野橋駅から吉野方面の最終列車と平日のその前の列車は、橿原神宮前行きの区間急行で運転され、橿原神宮前駅から吉野行き普通として運転されている。これは吉野線に区間急行が乗り入れたのが2003年と近年のことであったため、ほとんどの車両に「区間急行 吉野」の[[方向幕]]がないからである(ただし「区間急行 下市口」の表示がある)。区間急行は乗り入れ廃止後も駅や車内に掲出の停車駅案内では吉野線の駅も運転区間に含めて掲載され続けていたが、2015年の駅ナンバリング導入による停車駅案内の更新により運転区間から省かれた。
吉野の観桜客のために春の多客期には大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で臨時[[快速急行#南大阪線・吉野線|快速急行]]を運転することもある。[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]が特急停車駅(朝晩時間帯のみ)に加わって以降、古市停車の特急と快速急行では停車駅が完全に同一となっており、この場合両種別の違いは使用車両及び全席指定か全席自由席かのみである。ただし、ダイヤの都合で橿原神宮前駅に10分停車する。このため吉野へは定期運転している特急と急行が先着する。
2010年3月19日のダイヤ変更で橿原神宮前駅を始発駅とする吉野線内普通列車は大幅に削減され、2021年7月3日現在平日は吉野口行き1本と壺阪山行き1本、六田行き2本、土休日は六田行き1本が運転されるのみとなった。[[六田駅]]には[[古市検車区]]六田車庫があるため、深夜には吉野発六田行きが、早朝には六田発吉野行きが運転される。<!--また、吉野口駅発着のの区間列車は、一部の列車において[[ワンマン運転]]を行う。←ダイヤ変更の状況を確認を-->
なお、線路保守工事のため、数年に1回程度の割合で下市口駅 - 吉野駅間が昼間時間帯に運休することがある。運休時間帯は、橿原神宮前方面からの列車は、すべて下市口駅で折り返し運転となり、この区間に[[奈良交通]]による代替バスを運行している。
=== 終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、[[2020年]]の大晦日([[2021年]]の元日早朝)からは実施されていない。[[1988年]]の大晦日([[1989年]]の元日早朝)から[[2019年]]の大晦日([[2020年]]の元日早朝)までは行われており、特急は運転されず普通のみが数本運転される形態となっていた。[[1990年代]]後半以降は削減傾向となり、年によって異なるが運転間隔が1時間30分 - 3時間となっていた。[[2000年代]]後半は、吉野発が0時台を最後に全く運転されないこともあった。
== 車両 ==
{{Main|近鉄南大阪線#車両}}
南大阪線系統の各形式が使用されており、[[ワンマン運転]]を行う列車にはワンマン対応の[[近鉄6400系電車|6419系または6432系]]が使用されている。
== 歴史 ==
{{Main2|開業までの経緯|吉野鉄道}}
吉野軽便鉄道(のちに[[吉野鉄道]]に改称)により、[[吉野山]]への行楽輸送のほか、沿線で産出される木材を輸送する目的で建設された。そのため、[[日本国有鉄道|国有鉄道]]との[[貨車]]直通を考慮して[[軌間]]は1067mmを採用した。吉野山の花見シーズンには直接、客車も乗り入れ湊町駅(現在の[[JR難波駅]])から吉野への臨時花見列車も運行された{{Efn|沿線の町村史のほか、『目で見る五條・吉野の100年』(2006年刊・郷土出版社)には臨時列車の写真あり。運行期間は不詳}}。[[谷崎潤一郎]]の『[[吉野葛]]』には、軽便鉄道時代の吉野線の様子が記されている。
吉野口駅で今のJR和歌山線と線路がつながっていたが、後には市場のあった[[桜井市]]への木材円滑輸送を図るべく、[[桜井線]][[畝傍駅]]まで路線を延伸した。その後、[[大正]]から[[昭和]]に入った頃に、近鉄の直系母体である[[大阪電気軌道]](大軌)は自社の保有する畝傍線(現在の[[近鉄橿原線|橿原線]])の橿原神宮前から延伸して、吉野に至るまでの鉄道敷設免許を収得した。そして、大軌は免許線に並行する吉野鉄道を買収した方が得策と考え、また吉野鉄道も並行線を敷設されれば大きな脅威になると考えたことから、1929年に吉野鉄道は大軌に合併されることになった。
なお、大軌への統合直前に大阪 - 橿原間で大軌と並行路線を有する[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](大鉄、現在の南大阪線などを建設)との直通運転が開始されているが、これは大軌の路線が1435mmの[[標準軌]]を採用しており直通が不可能であったため、軌間が吉野線と同じであった大鉄とそれを行わせるのが利用客の便を考えると良いとされたからだといわれている。
しかし、大軌では自社線や子会社の[[奈良電気鉄道]]からのルートでの吉野へのアクセスを改善すべく、畝傍線と吉野線が接続する(旧)橿原神宮駅から大阪鉄道との接続駅である久米寺駅の間を[[三線軌条]]化し、2回の乗り換えが1回で済むように久米寺駅までの電車乗り入れを行ったりもしている。久米寺駅では、吉野方面から来た電車の客を大軌に誘致すべく呼び込みも行われたという。
また、大阪鉄道は吉野線との直通運転開始から間もなくして大軌の傘下に入り、1943年には大軌から名称を変更した関西急行鉄道(関急)に合併された。その前の1939年には[[橿原神宮]]拡張工事のため、(旧)橿原神宮前駅と久米寺駅などの統合も行われている。これに伴い、当初から貨物輸送が主体で旅客に関しては大軌・大鉄ルートがメインとなっていた畝傍駅への路線は完全な[[盲腸線]]と化し、'''小房線'''({{要出典|範囲=おうさせん|date=2023年7月|title=[小房]の読みは、おふさ(人名)→おふさ観音に由来するが、旧仮名を日常使用していた当時の廃線であり、実際の読みが[o-fu-sa]でも[ohsa]でも、どちらも旧仮名では全く同じ[をふさ]の為、いかなる文献であれど平仮名つまり活字だけで実際の読み(発音)を判別することは不可能であり、当時を実際知る現地古老に念のため読みを確認する必要があると考える。識者の正答を待つ。}})という独立線名を有するようになったものの、1945年には橿原線と並行することから旅客営業が廃止され、1952年に全廃された。
2018年5月15日、異なる軌間の路線間を直通運転できる[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]で、[[近鉄京都線|京都線]]の[[京都駅]]から橿原線を経て吉野線の吉野駅まで直通運転を行う構想が明らかにされた。[[2018年]][[6月22日]]付けで開発推進担当の役員を置き、フリーゲージトレインの開発に着手する予定とされていた<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/freegauge.pdf フリーゲージトレイン開発推進に向けて]}} - 近畿日本鉄道、2018年5月15日</ref>。しかし、開発推進担当の役員は翌2019年6月に近鉄の取締役を退任し、後任への引き継ぎが行われた形跡もなく、2021年5月14日に発表された「近鉄グループ中期経営計画2024」にもフリーゲージトレインについて記載がなくなっている。2022年5月に開催された「鉄道技術展」にはフリーゲージトレインの展示があり、開発意向が明らかにされたものの<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/06870/|title=フリーゲージトレインの開発継続判明、新技術が続々「鉄道技術展」|publisher=日経XTECH|date=2022-05-27|accessdate=2022-06-07}}</ref>、依然として本路線に導入するかは不明瞭のままである。
=== 年表 ===
* [[1910年]]([[明治]]43年)[[9月5日]]:吉野軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(吉野口-北六田間)<ref>[{{NDLDC|2951523/6}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1910年9月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1912年]]([[大正]]元年)[[10月25日]]:吉野軽便鉄道が吉野口駅 - 吉野駅(現在の六田駅)間を開業<ref>[{{NDLDC|2952174/6}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1912年11月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1913年]](大正2年)[[5月31日]]:吉野鉄道に社名変更。
* [[1920年]](大正9年)[[5月14日]]:鉄道免許状下付(高市郡八木町-南葛木郡葛村間)<ref>[{{NDLDC|2954448/4}} 「地方鉄道免許状下付」『官報』1920年5月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1922年]](大正11年)[[4月20日]]:鉄道免許状下付(吉野郡大淀町-同郡上市町間 動力電気)<ref>[{{NDLDC|2955030/11}} 「地方鉄道免許状下付」『官報』1922年4月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1923年]](大正12年)
** [[2月17日]]:鉄道免許状下付(吉野郡大淀町-同郡吉野村間 動力電気)<ref>[{{NDLDC|2955286/5}} 「地方鉄道免許状下付」『官報』1923年2月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1926年5月18日起業廃止許可)<ref name="ReferenceA">[{{NDLDC|2956272/8}} 「鉄道起業目論見変更並起業廃止」『官報』1926年5月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[12月5日]]:(旧)橿原神宮前駅 - 吉野口駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2955541/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年12月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。全線電化。大軌畝傍線(現在の近鉄橿原線)と連絡。
* [[1924年]](大正13年)
** [[2月7日]]:薬水駅開業<ref>[{{NDLDC|2955593/3}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1924年2月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[7月5日]]:吉野登山電気軌道保有の軌道敷設権(吉野郡吉野村六田-同村大字吉野山間)<ref>[{{NDLDC|2954811/7}} 「軌道特許状下付」『官報』1921年7月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> を移転<ref>[{{NDLDC|2955712/5}} 「軌道敷設権移転」『官報』1924年7月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[5月11日]] 福神駅開業<ref>[{{NDLDC|2955667/6}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1924年5月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[11月1日]]:[[畝傍駅]] - (旧)橿原神宮前駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2955812/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年11月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1926年(大正15年)5月18日:鉄道起業目論見変更(吉野郡大淀町-同郡吉野村間)<ref name="ReferenceA"/>
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月1日]]:越部駅開業。
* [[1928年]](昭和3年)
** [[3月25日]]:六田駅 - 吉野駅間が開業し全通<ref>[{{NDLDC|2956835/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年3月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。これまでの吉野駅を六田駅に改称。
** [[10月15日]]:畝傍駅 - (旧)橿原神宮前駅間に小房駅開業。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[3月29日]]:久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)開業。この日同駅まで開業した大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)との直通運転を開始。
** [[3月31日]]:橘寺駅・大阿太駅開業。
** [[8月1日]]:大阪電気軌道が吉野鉄道を合併<ref>[{{NDLDC|1190630/76}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。畝傍駅 - 吉野駅間を吉野線とする。
* [[1930年]](昭和5年)[[7月10日]]:(旧)橿原神宮前駅 - 久米寺駅間を三線軌条化し、畝傍線の電車が乗り入れ開始。
* [[1939年]](昭和14年)
** [[3月1日]]:小房駅 - (旧)橿原神宮前駅間を廃止し、小房駅 - 橿原神宮駅駅(現在の橿原神宮前駅)間の新線開業。
** [[7月28日]]:(旧)橿原神宮前駅 - 久米寺駅間を廃止。
* [[1940年]](昭和15年)[[4月1日]]:久米寺駅を橿原神宮駅駅に統合。<!--駅駅で正当 -->
* [[1941年]](昭和16年)6月:畝傍駅 - 橿原神宮駅駅(現在の橿原神宮前駅)間を小房線と改称。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月1日]]:小房線の旅客営業休止。
* [[1950年]](昭和25年)7月1日:小房線が休止。
* [[1952年]](昭和27年)[[9月1日]]:小房線が廃止。
* [[1965年]](昭和40年)[[3月18日]]:大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間に特急運転開始。
* [[1968年]](昭和43年)[[9月26日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[3月1日]]:橿原神宮駅駅を橿原神宮前駅に改称。
** [[8月1日]]:橘寺駅を飛鳥駅に改称。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:貨物営業廃止。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[5月18日]]:特急の停車駅に吉野口駅を追加。
* [[1990年]](平成2年)[[3月15日]]:[[近鉄26000系電車|26000系]](さくらライナー)の営業運転開始<ref>{{Cite news |title=「さくらライナー」あすからデビュー |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-03-14 |page=1 }}</ref>。吉野特急の30分間隔運転開始。特急の停車駅に飛鳥駅・壺阪山駅を追加。
* [[1996年]](平成8年)
** [[6月1日]]:[[近鉄22000系電車|16400系]] (ACE) の営業運転開始<ref>{{Cite news |title=南大阪、吉野線に新型特急「ACE」 近鉄、来月1日デビュー |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-05-20 |page=1 }}</ref>。
** [[10月4日]]:橿原神宮前駅 - 吉野口駅間で一部列車のワンマン運転開始<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-12 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 12 |page = 87 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
*[[1998年]](平成10年)[[3月17日]]:飛鳥駅が単線ホームから2面2線の[[列車交換]]可能駅となり、岡寺駅での2列車対向待ちが解消される。
* [[1999年]](平成11年)[[3月16日]]:特急の停車駅に福神駅・六田駅を追加。大阪阿部野橋駅から吉野線内各駅への特急料金を距離に関わらず500円に値下げ。
* [[2001年]](平成13年)
** 2月1日:橿原神宮前駅における「[[途中下車]]指定駅」の制度が廃止。
** 9月1日:列車運行管理システム(吉野線[[列車集中制御装置|CTC]])の稼動開始。これにより、吉野線全線の信号扱いが橿原神宮前駅からの集中制御となる。
* [[2002年]](平成14年)10月:[[近鉄9020系電車|6820系]](シリーズ21)の営業運転開始。
* [[2007年]](平成19年)4月1日:各駅でPiTaPa・ICOCAの取り扱い開始。
* [[2010年]](平成22年)[[6月19日]]:[[近鉄22600系電車|16600系]] (Ace) が営業運転開始<ref>[http://railf.jp/news/2010/06/20/221500.html 近鉄16600系が営業運転を開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2010年6月20日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[10月1日]]:従来の薬水駅に加えて、市尾駅・葛駅・大阿太駅・越部駅の4駅が終日[[無人駅]]となる<ref>[http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201204170180.html 奈良、増える無人駅 JRでは半数の15に] - 朝日新聞デジタル 2012年4月18日</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[12月21日]]:岡寺駅が終日無人駅となる。これにより、線内の特急通過駅は全て無人駅となる。
* [[2016年]](平成28年)[[9月10日]]:吉野特急で[[近鉄6000系電車|16200系]]による観光特急「青の交響曲」が運転を開始<ref>[http://railf.jp/news/2016/09/11/201000.html 近鉄 16200系「青の交響曲(シンフォニー)」の営業運転開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 [[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2016年9月11日</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[1月6日]]:特急停車駅である飛鳥駅・福神駅・大和上市駅・吉野神宮駅の4駅を無人駅とする<ref>{{cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20201222/ddl/k29/020/247000c |title=近鉄吉野線の4駅無人化 来月6日から、他駅の係員が巡回 /奈良 |newspaper=デジタル毎日|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2020-12-22|accessdate=2020-12-22}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[4月23日]]:吉野口駅 - 吉野駅間でも一部普通列車のワンマン運転を開始し、ワンマン運転区間を吉野線全線に拡大<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2022daiyahenkou.pdf 2022年4月23日(土)ダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2022年2月24日</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[奈良県]]内に所在。
* ●:全列車停車、|:全列車通過
* 急行・準急・普通はすべての列車が各駅に停車(表中省略)。
* 快速急行は春の行楽期に桜の開花に合わせて、臨時列車として運転。
* 特急は「[[近鉄特急]]」を参照。
* 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|営業<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46; background:#f96;"|{{縦書き|快速急行|height=5em}}
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;" colspan="2"|所在地
|-
!F42
|style="text-align:left;"|[[橿原神宮前駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#f96;"|●
|style="text-align:left;"|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]](大阪阿部野橋まで直通運転)・{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄橿原線|橿原線]] (B42)
|∨
|rowspan="2" style="text-align:left;" colspan="2"|[[橿原市]]
|-
!F43
|style="text-align:left;"|[[岡寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|1.1
|style="background:#f96;"||
|
|◇
|-
!F44
|style="text-align:left;"|[[飛鳥駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|2.2
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|rowspan="3" style="width;1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[高市郡]]|height=4em}}
|style="text-align:left; white-space:nowrap;"|[[明日香村]]
|-
!F45
|style="text-align:left;"|[[壺阪山駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|3.9
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|rowspan="2" style="text-align:left;"|[[高取町]]
|-
!F46
|style="text-align:left;"|[[市尾駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|6.0
|style="background:#f96;"||
|
|◇
|-
!F47
|style="text-align:left;"|[[葛駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|7.9
|style="background:#f96;"||
|
||
|rowspan="2" style="text-align:left;" colspan="2"|[[御所市]]
|-
!F48
|style="text-align:left;"|[[吉野口駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|9.5
|style="background:#f96;"|●
|style="text-align:left;"|[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|T}} [[和歌山線]]
|◇
|-
!F49
|style="text-align:left;"|[[薬水駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|11.2
|style="background:#f96;"||
|
||
|rowspan="9" style="width;1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[吉野郡]]|height=4em}}
|rowspan="6" style="text-align:left;"|[[大淀町]]
|-
!F50
|style="text-align:left;"|[[福神駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|12.8
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|-
!F51
|style="text-align:left;"|[[大阿太駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|14.6
|style="background:#f96;"||
|
|◇
|-
!F52
|style="text-align:left;"|[[下市口駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|17.0
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|-
!F53
|style="text-align:left;"|[[越部駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|18.7
|style="background:#f96;"||
|
|◇
|-
!F54
|style="text-align:left;"|[[六田駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|20.7
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|-
!F55
|style="text-align:left;"|[[大和上市駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|22.9
|style="background:#f96;"|●
|
||
|rowspan="3" style="text-align:left;"|[[吉野町]]
|-
!F56
|style="text-align:left;"|[[吉野神宮駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|23.7
|style="background:#f96;"|●
|
|◇
|-
!F57
|style="text-align:left;"|[[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|25.2
|style="background:#f96;"|●
|style="text-align:left;"|[[吉野大峯ケーブル自動車]]:[[吉野ロープウェイ]]…千本口駅
|∧
|}
*葛駅・薬水駅・大和上市駅は列車交換ができない単線ホームとなっているが、大和上市駅は近鉄全線で唯一「単線ホームの特急停車駅」となっている。なお、1990年(平成2年)3月15日に特急が停車するようになった飛鳥駅も列車交換ができない駅だったが、1998年(平成10年)3月17日のダイヤ変更より交換可能駅となった。
*飛鳥駅は、近鉄はもとより、全国の[[大手私鉄]]で唯一「[[村]]」にある駅(かつ特急停車駅)である<ref>[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]以前は、[[近鉄大阪線|大阪線]]の[[室生口大野駅]]・[[三本松駅 (奈良県)|三本松駅]](奈良県[[宇陀郡]][[室生村]]、2005年12月31日まで)、[[近鉄山田線|山田線]]の[[宮町駅]]([[三重県]][[度会郡]][[御薗村]]、2005年10月31日まで)も村にある駅であった。</ref>。
=== 廃止区間 ===
;1939年まで
:[[畝傍駅]] - [[小房駅]] - (旧)[[橿原神宮前駅]] - [[橿原神宮前駅|久米寺駅]]
:*橿原神宮前駅 - 久米寺駅間に大軌[[近鉄橿原線|畝傍線]]が三線軌条で乗り入れ。
;1939年以後(1941年より小房線)
:畝傍駅 - 小房駅 - [[畝傍御陵前駅]] - 橿原神宮前駅
:*畝傍御陵前駅 - 橿原神宮前駅間は橿原線と並列。
== 主要駅の乗降客数 ==
[[2015年]][[11月10日]]調査による主要駅の乗降者数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/e.html 駅別乗降人員 南大阪線 吉野線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*橿原神宮前 18,862人
*飛鳥 2,363人
*壺阪山 1,224人
*吉野口 1,357人
*福神 1,669人
*下市口 2,814人
*六田 788人
*大和上市 580人
*吉野神宮 462人
*吉野 449人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*「まるごと近鉄ぶらり沿線の旅」(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 河出書房新社 2005年) ISBN 4309224393
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄1」(著者・編者 諸河久・杉谷広規、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 458650904X
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄2」(著者・編者 諸河久・山辺誠、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 4586509058
*「近鉄時刻表 各号」(著者・編者 [[近畿日本鉄道]]、出版・発行 同左)
*「鉄道ピクトリアル'03年1月号増刊 特集:近畿日本鉄道」(著者・編者 電気車研究会 出版・発行 同左)
*今尾恵介「日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1」新潮社、2008年、ISBN 9784107900265
*宮脇俊三「鉄道廃線跡を歩く VIII」JTB、2001年、pp. 148–150、ISBN 4533039073
== 関連項目 ==
{{commonscat|Kintetsu Yoshino Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
*[[美吉野運動競技場]]
{{近畿日本鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:きんてつよしのせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|よしのせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|よしの]]
[[Category:吉野鉄道|路]]
[[Category:奈良県の交通]]
|
2003-09-16T13:41:16Z
|
2023-12-30T14:30:44Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E5%90%89%E9%87%8E%E7%B7%9A
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17,099 |
近鉄道明寺線
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道明寺線(どうみょうじせん)は、大阪府藤井寺市の道明寺駅から大阪府柏原市の柏原駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
南大阪線との接続駅である道明寺駅から分岐して大和川を渡り、西日本旅客鉄道(JR西日本)の関西本線(大和路線)との接続駅である柏原駅へと至る。支線ではあるが大和川を挟み柏原市と羽曳野市・藤井寺市方面を直接結ぶ唯一の路線であり、通勤・通学における重要な足となっている。
道明寺線ではPiTaPa・ICOCA・Suicaなど、全国相互利用IC乗車カードが使用可能である。
2018年1月限りで利用終了となったスルッとKANSAI対応カードで乗車する際には、予め券売機で乗車券に引き換える必要があった。なお途中の柏原南口駅では、自動精算機の精算時にスルッとKANSAI対応カードが使用できたものの、終点の柏原駅では改札口がJR西日本の管理駅であるために、利用できなかった。なおスルッとKANSAI 3dayチケット(2016年12月限りで利用終了)は、道明寺全線では使用不可だった。
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
道明寺駅では、2番線ホームの大阪阿部野橋方を切り欠いて設置されている1番線から発車する。本線系統である南大阪線は左にカーブして西に進むが、支線である道明寺線は北上する。これは後述の通り道明寺線と同駅以南の南大阪線(古市方面)の方が同駅以西の南大阪線(大阪阿部野橋方面)よりも先に開通したためである。南大阪線と分かれてすぐに府道堺大和高田線をくぐり、しばらく左手に広がる住宅街を見ながら石川に沿って堤防下を走る。左にカーブして住宅地が眼下に見え始め、大和川を渡るとすぐに築堤上にある柏原南口駅である。同駅を発車すると、地上に向かって下り始め、左にカーブして右手に関西本線(大和路線)が並走してくると柏原駅に到着する。柏原駅到着番線である1番ホームもまた、関西本線の2番ホームの奈良方を切り欠いた形になっている。
全列車が道明寺駅 - 柏原駅間折り返し普通列車のみの運転で他線との直通列車はない。全線単線で、行き違い施設のある駅はなく、終日1編成のみで運転されている。運転区間2.2km は2011年3月16日の時点で近鉄の営業列車(鋼索線を除く)で最も短い。
2012年3月20日現在、平日ダイヤで1日58往復、土休日ダイヤで1日57往復が運転されている。1時間あたり日中は2往復、ラッシュ時は3 - 4往復である。1990年 - 2006年には日中も1時間あたり4往復が運転されていたが、両端で接続する近鉄南大阪線・JR大和路線とも当時10分間隔(2011年3月12日以降はJR大和路線は15分間隔)で接続がうまく取れず乗り換えに要する時間が不均一になることや利用客減の影響で、2006年3月21日のダイヤ変更で日中1時間あたり3往復に減便された。2012年3月20日のダイヤ変更で、さらに日中の6往復が減便され、1時間あたり2往復となった。
終日ワンマン運転を行っているが、柏原南口駅が早朝と夕方以降は無人化されたことと、柏原駅を経由してJR線から乗り越す旅客の精算対応のため、改札業務を行う旅客専務車掌が乗務することがある。柏原南口駅が無人となる時間帯でも、すべての駅でホーム側のすべてのドアが開く。
また、大和路線・大阪線沿線からは、富田林市・河内長野市方面へのショートカットコースになるため、毎年8月1日の教祖祭PL花火芸術(PL花火大会)開催時には臨時列車が運転され、それでも2両編成の車内が混雑する。当日は昼間時間帯以降の列車はワンマン運転を停止し、車掌が乗務する。なお2005年まで毎年8月に大和川河川敷において大和川納涼花火大会が開催されていたが、この際も車掌が乗務していた。また後述の越年ダイヤ時も車掌が乗務して運行される。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は道明寺線でも実施される。2008年度まではおおむね20分間隔、2009年度以降は30分間隔で運転されていた。2022年度(2023年元日)の例では実質的に午前3時頃までの延長運行の形になってはいるが、越年運行そのものは継続されている。
柏原駅 - 大阪線堅下駅、柏原南口駅 - 安堂駅はいずれも400mから500m程の近距離であり、徒歩で乗り換えできる。このため定期乗車券(定期券)のみ運賃通算制度があり、大阪線方面と道明寺線・南大阪線方面の相互間のキロ程を通算して1枚で発行することができる。それ以外(普通乗車券など)にはこの通算制度はない。
2002年(平成14年)から南大阪線系統でシリーズ21(6820系)が営業運転を開始しているが、6820系はワンマン対応ではないために道明寺線では運用されない。
近鉄の路線の中では最も歴史が古い。河陽鉄道が大阪市と南河内を結ぶためや高野山参詣客を当て込んで、柏原駅 - 古市駅間を1898年(明治31年)に開業させたのが始まりである。しかし翌年には経営破綻し、路線を引き継いだ河南鉄道によって河内長野駅まで延伸された。河陽鉄道・河南鉄道時代、毎年3月の道明寺天満宮菜種御供大祭の時期には大阪鉄道(関西本線の前身で後に関西鉄道に合併。河南鉄道が改称した大阪鉄道とは別)湊町駅(現在のJR難波駅)から道明寺駅まで臨時直通列車が運行された。なお、1924年に電化される以前の当線は、すべて蒸気機関車牽引の列車による運転であった。
開業時は本線格の路線だったが、1923年に道明寺から大阪市内への直通路線(現在の南大阪線)が開通すると支線となった。古市方面から見て、道明寺を出た南大阪線がカーブして西に向かうのに対し、当線がまっすぐ北上するのは、路線形成における歴史の名残である。
1943年に当線の開業後に創業した関西急行鉄道に合併され、1944年に関西急行鉄道と南海鉄道の合併で近鉄の路線となった。
|
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"text": "2018年1月限りで利用終了となったスルッとKANSAI対応カードで乗車する際には、予め券売機で乗車券に引き換える必要があった。なお途中の柏原南口駅では、自動精算機の精算時にスルッとKANSAI対応カードが使用できたものの、終点の柏原駅では改札口がJR西日本の管理駅であるために、利用できなかった。なおスルッとKANSAI 3dayチケット(2016年12月限りで利用終了)は、道明寺全線では使用不可だった。",
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"text": "全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。",
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"text": "道明寺駅では、2番線ホームの大阪阿部野橋方を切り欠いて設置されている1番線から発車する。本線系統である南大阪線は左にカーブして西に進むが、支線である道明寺線は北上する。これは後述の通り道明寺線と同駅以南の南大阪線(古市方面)の方が同駅以西の南大阪線(大阪阿部野橋方面)よりも先に開通したためである。南大阪線と分かれてすぐに府道堺大和高田線をくぐり、しばらく左手に広がる住宅街を見ながら石川に沿って堤防下を走る。左にカーブして住宅地が眼下に見え始め、大和川を渡るとすぐに築堤上にある柏原南口駅である。同駅を発車すると、地上に向かって下り始め、左にカーブして右手に関西本線(大和路線)が並走してくると柏原駅に到着する。柏原駅到着番線である1番ホームもまた、関西本線の2番ホームの奈良方を切り欠いた形になっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "全列車が道明寺駅 - 柏原駅間折り返し普通列車のみの運転で他線との直通列車はない。全線単線で、行き違い施設のある駅はなく、終日1編成のみで運転されている。運転区間2.2km は2011年3月16日の時点で近鉄の営業列車(鋼索線を除く)で最も短い。",
"title": "運行形態"
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"text": "2012年3月20日現在、平日ダイヤで1日58往復、土休日ダイヤで1日57往復が運転されている。1時間あたり日中は2往復、ラッシュ時は3 - 4往復である。1990年 - 2006年には日中も1時間あたり4往復が運転されていたが、両端で接続する近鉄南大阪線・JR大和路線とも当時10分間隔(2011年3月12日以降はJR大和路線は15分間隔)で接続がうまく取れず乗り換えに要する時間が不均一になることや利用客減の影響で、2006年3月21日のダイヤ変更で日中1時間あたり3往復に減便された。2012年3月20日のダイヤ変更で、さらに日中の6往復が減便され、1時間あたり2往復となった。",
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"text": "終日ワンマン運転を行っているが、柏原南口駅が早朝と夕方以降は無人化されたことと、柏原駅を経由してJR線から乗り越す旅客の精算対応のため、改札業務を行う旅客専務車掌が乗務することがある。柏原南口駅が無人となる時間帯でも、すべての駅でホーム側のすべてのドアが開く。",
"title": "運行形態"
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"text": "また、大和路線・大阪線沿線からは、富田林市・河内長野市方面へのショートカットコースになるため、毎年8月1日の教祖祭PL花火芸術(PL花火大会)開催時には臨時列車が運転され、それでも2両編成の車内が混雑する。当日は昼間時間帯以降の列車はワンマン運転を停止し、車掌が乗務する。なお2005年まで毎年8月に大和川河川敷において大和川納涼花火大会が開催されていたが、この際も車掌が乗務していた。また後述の越年ダイヤ時も車掌が乗務して運行される。",
"title": "運行形態"
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"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は道明寺線でも実施される。2008年度まではおおむね20分間隔、2009年度以降は30分間隔で運転されていた。2022年度(2023年元日)の例では実質的に午前3時頃までの延長運行の形になってはいるが、越年運行そのものは継続されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "柏原駅 - 大阪線堅下駅、柏原南口駅 - 安堂駅はいずれも400mから500m程の近距離であり、徒歩で乗り換えできる。このため定期乗車券(定期券)のみ運賃通算制度があり、大阪線方面と道明寺線・南大阪線方面の相互間のキロ程を通算して1枚で発行することができる。それ以外(普通乗車券など)にはこの通算制度はない。",
"title": "大阪線との徒歩連絡"
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"text": "2002年(平成14年)から南大阪線系統でシリーズ21(6820系)が営業運転を開始しているが、6820系はワンマン対応ではないために道明寺線では運用されない。",
"title": "車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "近鉄の路線の中では最も歴史が古い。河陽鉄道が大阪市と南河内を結ぶためや高野山参詣客を当て込んで、柏原駅 - 古市駅間を1898年(明治31年)に開業させたのが始まりである。しかし翌年には経営破綻し、路線を引き継いだ河南鉄道によって河内長野駅まで延伸された。河陽鉄道・河南鉄道時代、毎年3月の道明寺天満宮菜種御供大祭の時期には大阪鉄道(関西本線の前身で後に関西鉄道に合併。河南鉄道が改称した大阪鉄道とは別)湊町駅(現在のJR難波駅)から道明寺駅まで臨時直通列車が運行された。なお、1924年に電化される以前の当線は、すべて蒸気機関車牽引の列車による運転であった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "開業時は本線格の路線だったが、1923年に道明寺から大阪市内への直通路線(現在の南大阪線)が開通すると支線となった。古市方面から見て、道明寺を出た南大阪線がカーブして西に向かうのに対し、当線がまっすぐ北上するのは、路線形成における歴史の名残である。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "1943年に当線の開業後に創業した関西急行鉄道に合併され、1944年に関西急行鉄道と南海鉄道の合併で近鉄の路線となった。",
"title": "歴史"
}
] |
道明寺線(どうみょうじせん)は、大阪府藤井寺市の道明寺駅から大阪府柏原市の柏原駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 道明寺線
|路線色 = #028E46
|ロゴ = {{rint|osaka|ktn|size=40|alt=N}}
|画像 = 近鉄道明寺線大和川橋梁01.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[大和川]]の鉄橋を渡る[[近鉄6400系電車|6432系]]<br />([[道明寺駅]] - [[柏原南口駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]][[藤井寺市]]、[[柏原市]]
|起点 = [[道明寺駅]]
|終点 = [[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]
|路線記号 = {{rint|osaka|ktn|size=20|alt=N}}
|駅数 = 3駅
|開業 = [[1898年]][[3月24日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道→河南鉄道→大阪鉄道]]→[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[古市検車区]]
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 2.2 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]])
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]-->
|最高速度 = 65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 =
}}
'''道明寺線'''(どうみょうじせん)は、[[大阪府]][[藤井寺市]]の[[道明寺駅]]から大阪府[[柏原市]]の[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
== 概要 ==
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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|title-color=white
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{{BS3|||STR|||{{rint|osaka|ktfm}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]]|}}
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}}
[[近鉄南大阪線|南大阪線]]との接続駅である道明寺駅から分岐して[[大和川]]を渡り、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[関西本線]]([[大和路線]])との接続駅である柏原駅へと至る。支線ではあるが大和川を挟み柏原市と[[羽曳野市]]・藤井寺市方面を直接結ぶ唯一の路線であり、通勤・通学における重要な足となっている。
道明寺線では[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]など、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用IC乗車カード]]が使用可能である。
[[2018年]]1月限りで利用終了となった[[スルッとKANSAI]]対応カードで乗車する際には、予め券売機で乗車券に引き換える必要があった。なお途中の柏原南口駅では、自動精算機の精算時にスルッとKANSAI対応カードが使用できたものの、終点の柏原駅では改札口がJR西日本の管理駅であるために、利用できなかった。なお[[スルッとKANSAI 3dayチケット]]([[2016年]]12月限りで利用終了)は、道明寺全線では使用不可だった<ref>公式ホームページの利用エリアマップには、道明寺線の部分が対象区間外を表す灰色になっていて、柏原駅と柏原南口駅は駅名も掲載されていなかった。</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):2.2km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
** [[列車交換|交換駅]]:無し
* 最高速度:65km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
== 沿線概況 ==
[[ファイル:Yamato river01s3200.jpg|thumb|right|200px|柏原南口方より大和川橋梁を望む]]
[[ファイル:Kashiwara-minamiguchi stn.jpg|thumb|right|200px|柏原南口に停車中の道明寺行]]
道明寺駅では、2番線ホームの大阪阿部野橋方を切り欠いて設置されている1番線から発車する。本線系統である南大阪線は左にカーブして西に進むが、支線である道明寺線は北上する。これは後述の通り道明寺線と同駅以南の南大阪線(古市方面)の方が同駅以西の南大阪線(大阪阿部野橋方面)よりも先に開通したためである。南大阪線と分かれてすぐに[[大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線|府道堺大和高田線]]をくぐり、しばらく左手に広がる住宅街を見ながら[[石川 (大阪府)|石川]]に沿って堤防下を走る。左にカーブして住宅地が眼下に見え始め、大和川を渡るとすぐに築堤上にある柏原南口駅である。同駅を発車すると、地上に向かって下り始め、左にカーブして右手に関西本線(大和路線)が並走してくると柏原駅に到着する。柏原駅到着番線である1番ホームもまた、関西本線の2番ホームの奈良方を切り欠いた形になっている。
== 運行形態 ==
全列車が道明寺駅 - 柏原駅間折り返し普通列車のみの運転で他線との直通列車はない<ref>仮に直通列車を設定しても、その列車は道明寺駅の配線の都合上、道明寺駅を通過させるか、道明寺駅で停車後ポイントの手前までスイッチバックしなければならない。さらに線内すべてのホームが2両編成の電車しか停車できないようになっているため、2両編成でしか運転できない。なお、明治時代の開業当時は河内長野方面と直通していた。また、昭和戦前期には道明寺駅でスイッチバックする大阪阿部野橋駅 - 柏原駅間直通系統も設定されていた(佐藤博之・浅香勝輔『民営鉄道の歴史がある景観1』古今書院、1986年、pp.129-130)。 </ref>。全線単線で、[[列車交換|行き違い施設]]のある駅はなく、終日1編成のみで運転されている。運転区間2.2km は[[2011年]][[3月16日]]の時点で近鉄の営業列車(鋼索線を除く)で最も短い。
[[2012年]]3月20日現在、平日ダイヤで1日58往復、土休日ダイヤで1日57往復が運転されている。1時間あたり日中は2往復、ラッシュ時は3 - 4往復である。1990年 - 2006年には日中も1時間あたり4往復が運転されていたが、両端で接続する近鉄南大阪線・JR大和路線とも当時10分間隔(2011年3月12日以降はJR大和路線は15分間隔)で接続がうまく取れず乗り換えに要する時間が不均一になることや利用客減の影響で、2006年3月21日のダイヤ変更で日中1時間あたり3往復に減便された。2012年3月20日のダイヤ変更で、さらに日中の6往復が減便され、1時間あたり2往復となった。
終日[[ワンマン運転]]を行っているが、[[柏原南口駅]]が早朝と夕方以降は無人化されたことと、柏原駅を経由してJR線から乗り越す旅客の精算対応のため、改札業務を行う旅客専務車掌が乗務することがある。柏原南口駅が無人となる時間帯でも、すべての駅でホーム側のすべてのドアが開く。
また、大和路線・[[近鉄大阪線|大阪線]]沿線からは、[[富田林市]]・[[河内長野市]]方面へのショートカットコースになるため、毎年8月1日の[[教祖祭PL花火芸術]](PL花火大会)開催時には臨時列車が運転され、それでも2両編成の車内が混雑する。当日は昼間時間帯以降の列車はワンマン運転を停止し、車掌が乗務する。なお2005年まで毎年8月に大和川河川敷において大和川納涼花火大会が開催されていたが、この際も車掌が乗務していた。また後述の越年ダイヤ時も車掌が乗務して運行される。
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は道明寺線でも実施される。2008年度まではおおむね20分間隔、2009年度以降は30分間隔で運転されていた<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/091110syuyaosaka.pdf 年末年始ダイヤのご案内(大阪)]}} - 近畿日本鉄道 2009年11月10日</ref>。2022年度(2023年元日)の例では実質的に午前3時頃までの延長運行の形になってはいるが、越年運行そのものは継続されている。
== 大阪線との徒歩連絡 ==
柏原駅 - 大阪線[[堅下駅]]、柏原南口駅 - [[安堂駅]]はいずれも400mから500m程の近距離であり、徒歩で乗り換えできる。このため定期乗車券(定期券)のみ[[近畿日本鉄道#運賃計算の特例|運賃通算制度]]があり、大阪線方面と道明寺線・南大阪線方面の相互間のキロ程を通算して1枚で発行することができる。それ以外(普通乗車券など)にはこの通算制度はない。
== 車両 ==
*[[大阪鉄道デニ500形電車|6601形]]:[[1975年]]まで使用
*[[近鉄6411系電車|6411系]](初代6800系):[[1983年]]まで使用
*[[近鉄6800系電車|6800系]]:1983年から[[1990年]]代初頭まで使用
*[[近鉄6600系電車|6600系]]:1983年から[[1999年]]まで使用、ワンマン運転非対応のため1999年のワンマン運転開始と同時に道明寺線の運用から退く
*[[近鉄6400系電車|6400系]]:[[1986年]]から使用、1999年からはワンマン運転対応の車両(6432系)を充当し、2022年4月より新たに6419系も運用に入っている。
[[2002年]](平成14年)から南大阪線系統で[[シリーズ21]]([[近鉄9020系電車#6820系|6820系]])が営業運転を開始しているが、6820系はワンマン対応ではないために道明寺線では運用されない。
== 歴史 ==
近鉄の路線の中では最も歴史が古い。[[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道]]が[[大阪市]]と[[南河内 (大阪府)|南河内]]を結ぶためや[[高野山]]参詣客を当て込んで、柏原駅 - 古市駅間を[[1898年]](明治31年)に開業させたのが始まりである。しかし翌年には経営破綻し、路線を引き継いだ[[大阪鉄道 (2代目)|河南鉄道]]によって河内長野駅まで延伸された。河陽鉄道・河南鉄道時代、毎年3月の[[道明寺天満宮]]菜種御供大祭の時期には[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]](関西本線の前身で後に[[関西鉄道]]に合併。河南鉄道が改称した[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]とは別)湊町駅(現在の[[JR難波駅]])から道明寺駅まで臨時直通列車が運行された。なお、[[1924年]]に電化される以前の当線は、すべて[[蒸気機関車]]牽引の列車による運転であった。
開業時は本線格の路線だったが、[[1923年]]に道明寺から大阪市内への直通路線(現在の南大阪線)が開通すると支線となった。古市方面から見て、道明寺を出た南大阪線がカーブして西に向かうのに対し、当線がまっすぐ北上するのは、路線形成における歴史の名残である。
[[1943年]]に当線の開業後に創業した[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]に合併され、1944年に関西急行鉄道と[[南海電気鉄道|南海鉄道]]の合併で近鉄の路線となった。
=== 年表 ===
*[[1898年]](明治31年)[[3月24日]]:河陽鉄道が柏原駅 - 道明寺駅間を開業。
*[[1899年]](明治32年)[[5月11日]]:河南鉄道が河陽鉄道の路線を継承。
*[[1911年]](明治44年)[[11月12日]]:大和橋駅開業。
*[[1919年]](大正8年)[[3月8日]]:河南鉄道が大阪鉄道に社名変更。
*[[1924年]](大正13年)[[6月1日]]:全区間が電化。大和橋駅を柏原南口駅に改名の上、(大和川対岸の)現所在地に移転<ref>[{{NDLDC|2955690/5}} 「地方鉄道駅設置並駅名及営業哩程変更」『官報』1924年6月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)]、2016年11月19日閲覧。</ref>。
* [[1936年]](昭和11年)[[2月21日]]:[[河内大和地震]]の発生により大和川橋など複数の橋脚に被害、軌道の沈下箇所多数<ref>家屋倒壊が続出、恐怖に包まれた大阪『大阪毎日新聞』昭和11年2月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p204-205 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
*[[1943年]](昭和18年)[[2月1日]]:関西急行鉄道が大阪鉄道を合併。
*[[1944年]](昭和19年)6月1日:関西急行鉄道と南海鉄道の合併により発足した近畿日本鉄道の路線となる。
*[[1968年]](昭和43年)[[9月26日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始。
*[[1990年]](平成2年)[[3月15日]]:昼間時毎時3本から4本に増便。
*[[1999年]](平成11年)
**[[3月16日]]:ワンマン運転開始。
**[[6月27日]]:前日の大雨による大和川増水の影響で大和川橋梁上の線路故障が発生、始発から全区間で全面運休。この間、柏原駅 - [[土師ノ里駅]]・古市駅間で[[代行バス]]を運行。7月7日復旧。
*[[2001年]](平成13年)[[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。
*[[2006年]](平成18年)[[3月21日]]:昼間時毎時4本から3本に減便。
*[[2007年]](平成19年)4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
*[[2009年]](平成21年)[[3月1日]]:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道 2008年12月2日</ref>。
*[[2012年]](平成24年)[[3月20日]]:昼間時毎時3本から2本に減便。
*[[2018年]](平成30年)
**11月23日:柏原市制施行60周年に合わせて特急車両[[近鉄16000系電車|16000系]]による団体列車運転<ref>[https://railf.jp/event/2018/09/20/174500.html 11月23日出発 近鉄「特急車両で行く道明寺線の旅」参加者募集] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道イベント、2018年9月20日</ref><ref name="railfjp20181124">[https://railf.jp/news/2018/11/24/192000.html 近鉄16000系が道明寺線に入線] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年11月24日</ref>。
**同年:第1号溝橋、第2号溝橋、[[国道25号|奈良街道]]陸橋、[[大和川]]橋梁が「近鉄道明寺線鉄道構造物群」として[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/common-hd/data/pdf/dobokiisan20190509174115573912994.pdf |title=道明寺線の橋梁に「土木学会選奨土木遺産」認定証が授与されました |accessdate=2022/06/09 |publisher=近畿日本鉄道株式会社 |date=2019年5月10日}}</ref>。
== 駅一覧 ==
*全駅[[大阪府]]内に所在。
*全列車普通列車。
*全駅[[列車交換]]不可。
*※:大阪線堅下駅・安堂駅とは[[#大阪線との徒歩連絡|徒歩連絡]]。
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|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅名
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!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|所在地
|-
!N15
|[[道明寺駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]] (F15)
|style="white-space:nowrap;"|[[藤井寺市]]
|-
!N16
|[[柏原南口駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|1.6
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]]…[[安堂駅]] (D17)※
|rowspan="2"|[[柏原市]]
|-
!N17
|[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]
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|style="text-align:right;"|2.2
|西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]]: JR-Q27)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} 大阪線…[[堅下駅]] (D16)※
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{cite book | 和書 | author = 柏原市史編纂委員会(編) | title = 柏原市史 | volume = 第三巻 本編 (II) | publisher = 柏原市役所 | year = 1972 | pages = pp. 249-252, 278-279 }}
*{{cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = 徳田耕一(編著)| publisher = 河出書房新社 | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }}
*{{cite book | 和書 | カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著)| publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }}
*{{cite journal | 和書 | journal = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = 近畿日本鉄道(編著)| publisher = 近畿日本鉄道 }}
*{{cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = 2003年1月号臨時増刊号 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = 電気車研究会(編) | year = 2003 }}
*{{cite book | 和書 | title = 日本鉄道旅行地図帳 | volume = 8号 関西1 | author = 今尾恵介(監修)| publisher = 新潮社 | year = 2008 | id = ISBN 9784107900265 }}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
{{近畿日本鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:きんてつとうみようしせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|とうみようしせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|とうみようし]]
[[Category:関西急行鉄道|路とうみようしせん]]
[[Category:大阪鉄道(2代)|路とうみようしせん]]
[[Category:大阪府の交通]]
|
2003-09-16T13:46:59Z
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2023-12-30T23:53:15Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%B7%9A
|
17,100 |
近鉄長野線
|
長野線(ながのせん)は、大阪府羽曳野市の古市駅から大阪府河内長野市の河内長野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
沿線に金剛ニュータウンなどの住宅地や多数の大学、高校等が立地しており南大阪線とともに大阪府南河内エリアの主要通勤・通学路線となっている。沿線には眼病平癒で名高い日本三不動の一つである瀧谷不動明王寺や、花火大会や高校野球で知られるパーフェクト リバティー教団(PL教団)の本部などもある。また、この路線では南阪奈道路や国道309号等主要道路との交差部が立体化されている。喜志駅 - 富田林駅間の府道美原太子線交差予定地前後でも高架化工事(仮線方式)が進められ、2023年6月10日に完了した。
ICカードPiTaPa・ICOCA・Suicaなど全国相互利用の乗車カードが使用できる。以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。
1960年代中頃まで腕木式信号機があったが、ATS化までに腕木式信号機は色灯式信号機に取り換えられ廃止された。
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
全区間で国道170号と並走している。なお、以下に示す沿線概況はすべて古市→河内長野方向であり、逆方向においては順番が逆になり、風景が左右逆となる。
古市駅を発車した電車は、南大阪線が左に分かれていくのに対して、真っ直ぐ南下する。これは、河陽鉄道が大阪と南河内地域を結ぶ目的で先に建設されたためである。古市検車区への入出庫線が右に分かれていくと、旧国道170号をアンダークロスし、住宅街の中を走る。南阪奈道路と立体交差するとほどなくして富田林市に入り、線路はゆるやかに右にカーブし、喜志駅に至る。この駅は大阪芸術大学、太成学院大学、上宮太子高校へのバスが発着しており、朝夕は学生で混雑する。
喜志駅を発車するとしばらくは田畑や住宅街、工場が混在する風景が続く。現在、府道美原太子線との交差部付近の立体交差化が進められており 、この区間は仮線を走行する。右手に見える大平和祈念塔が徐々に大きく見え、富田林市街に入ってくると線路は右に大きくカーブして2面2線の富田林駅に到着する。富田林駅以南は単線となり、この駅で折り返す列車も少なからず存在するため、引き上げ線が1線ある。PL教団本部最寄り駅でもあり、毎年8月1日にはPL花火芸術が行われるために相当混雑する。
富田林駅を発車して左にカーブをすると富田林西口駅に至る。富田林市の中心駅は先述の富田林駅であるが、富田林市役所をはじめとした官公庁街は富田林西口駅の方が近く、また周辺には富田林高校・中学校や河南高校がある。よって朝ラッシュを中心に混雑する。なお、富田林駅 - 富田林西口駅間の距離は0.6kmで、近鉄では2番目に短い駅間距離である。
その先はしばらく富田林の住宅街を走り、高架を上って川西駅。ここを出るとすぐに国道309号と立体交差して再び地上区間となる。線路はゆるやかに左へカーブして、住宅などの建物は次第に閑散とし田園となっている所が目立ち始める。今度は右へゆるやかにカーブし、行き違い設備を持つ滝谷不動駅に到着する。滝谷不動駅は瀧谷不動明王寺や大阪大谷大学の最寄り駅である。初芝富田林高校直通のバスもこの駅付近から出ている。また、単線区間で行き違い設備があるのはこの駅だけであるため、終日この駅ではほぼ全列車において列車の行き違いが行われる。
同駅を出ると線路は曲線が少々多くなる。河内長野市に入ると住宅街を走り、次第に左手に高台が迫ってきて汐ノ宮駅に至る。この高台ではみかんの栽培が多く行われている。汐ノ宮駅を出ると線路は竹林の中を縫って走り、旧国道170号を立体交差で跨ぐ。さらに林や工場の並ぶ区間を曲がりながら走り、河内長野市街に近づくと右手から南海高野線が合流してきて、終着の河内長野駅に到着する。
普通・準急・急行とも線内では全列車各駅に停車する。
ダイヤは基本的に大阪阿部野橋駅に直通するように組まれている。昼間時間帯は大阪阿部野橋駅発着の準急が1時間あたり4本運転されているほか、平日朝ラッシュ時には河内長野発大阪阿部野橋行き急行や大阪阿部野橋発富田林行き急行、夕ラッシュ時には大阪阿部野橋発河内長野行きや富田林発大阪阿部野橋行き急行も運転されている。なお、河内長野発大阪阿部野橋行き急行は2013年3月18日から2014年9月19日の期間は設定がなかった。平日朝と夕ラッシュ時および早朝と深夜帯には大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間の準急が運転されており、普通列車は富田林・河内長野行きが早朝・朝夕ラッシュ時、古市・大阪阿部野橋行きが夕ラッシュ時と深夜帯に運転されている。毎早朝には大阪阿部野橋発河内長野行き、平日の早朝には河内天美発河内長野行きもそれぞれ運転されている。また平日の朝ラッシュ終了時には富田林発大阪阿部野橋行きが運転されている。
1時間あたりの本数は複線区間の古市駅 - 富田林駅間はラッシュ時間帯は6本、単線区間の富田林駅 - 河内長野駅間では一部時間帯を除いて4本となっており、ほぼ終日にわたって滝谷不動駅で列車交換が行われる「ネットダイヤ」を形成している。
編成両数は、各駅のホーム有効長により古市駅 - 富田林駅間が最長8両、富田林駅 - 河内長野駅間が最長5両に制限されるため、ラッシュ時間帯には古市駅で車両の増解結を行う列車が多く見られる。このため、古市駅 - 富田林駅間では最短2両編成から最長8両編成の列車が運転されている。富田林駅でも増解結作業が行われていたが、2013年3月17日のダイヤ変更よりすべて古市駅で行われるようになった。ラッシュ時間帯には古市駅 - 富田林駅間で回送を兼ねた8両編成の普通列車も運転される。なお、南大阪線大阪阿部野橋駅 - 古市駅間の普通列車は最長6両、古市駅 - 橿原神宮前駅間(尺土駅 - 橿原神宮前駅間の普通列車は最長6両で運転可能だがもっぱら区間急行の6両運転のための有効ホーム長として活用されており、2013年現在この区間の5両以上の普通列車の運転は皆無)と吉野線、御所線は最長4両、道明寺線では最長2両のため、南大阪線系(南大阪線、道明寺線、長野線、御所線、吉野線)で8両編成の普通列車はこの区間でしか見られない。
2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅河内長野行き準急、富田林行き準急のそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた。
2020年3月14日のダイヤ変更で、平日の始発列車である富田林発大阪阿部野橋行き準急の発車時刻が5分繰り上げられた。
毎年8月1日にはPL花火芸術が開催されるため、大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間で多数の準急が運転されるなど、13時 - 15時以降大規模な臨時ダイヤで運転される(「近鉄南大阪線#PL花火臨時ダイヤ」を参照)。2005年までは大阪阿部野橋発の急行も運転されていた。その後、大阪阿部野橋発富田林行き急行の運転は行われなくなっていたが、2014年9月21日のダイヤ変更より定期列車として復活した。また2010年は従来の臨時列車のほか、26000系「さくらライナー」を2本連結した8両編成で大阪阿部野橋発富田林行きの臨時特急(往路のみ)が運転された。この列車には「PL花火芸術号」という愛称付ヘッドマークが運転室内より掲出された。
また、大晦日から元旦にかけての終夜運転は長野線でも実施されている。ここ最近では古市駅 - 河内長野駅間に普通を概ね20分間隔で運転される形態となっていたが、2009年(平成21年)12月31日から2010年(平成22年)1月1日にかけての終夜運転では南大阪線系統全体で減便され、長野線でも30分間隔に減便された。時刻はその都度近鉄の公式ホームページでも掲載されることになっている。
南大阪線系統の通勤形車両が使用されている。特急車両は臨時列車を除き基本的に入線することはない。
河陽鉄道が大阪と南河内を結ぶためや高野山参詣客を当て込み、現在の道明寺線および南大阪線の一部にあたる柏原駅 - 古市駅間に続き、東高野街道沿いに古市駅 - 富田林駅間を開業させたのが始まり。当時の列車は蒸気機関車牽引だった。しかし経営難に陥り、開業翌年には路線は別会社の河南鉄道に引き継がれる。長野(現在の河内長野)駅まで全通したのは1902年のことである。
2015年11月10日調査による主要駅の乗降者数は次の通り。
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"text": "長野線(ながのせん)は、大阪府羽曳野市の古市駅から大阪府河内長野市の河内長野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。",
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"text": "沿線に金剛ニュータウンなどの住宅地や多数の大学、高校等が立地しており南大阪線とともに大阪府南河内エリアの主要通勤・通学路線となっている。沿線には眼病平癒で名高い日本三不動の一つである瀧谷不動明王寺や、花火大会や高校野球で知られるパーフェクト リバティー教団(PL教団)の本部などもある。また、この路線では南阪奈道路や国道309号等主要道路との交差部が立体化されている。喜志駅 - 富田林駅間の府道美原太子線交差予定地前後でも高架化工事(仮線方式)が進められ、2023年6月10日に完了した。",
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"text": "全区間で国道170号と並走している。なお、以下に示す沿線概況はすべて古市→河内長野方向であり、逆方向においては順番が逆になり、風景が左右逆となる。",
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"text": "古市駅を発車した電車は、南大阪線が左に分かれていくのに対して、真っ直ぐ南下する。これは、河陽鉄道が大阪と南河内地域を結ぶ目的で先に建設されたためである。古市検車区への入出庫線が右に分かれていくと、旧国道170号をアンダークロスし、住宅街の中を走る。南阪奈道路と立体交差するとほどなくして富田林市に入り、線路はゆるやかに右にカーブし、喜志駅に至る。この駅は大阪芸術大学、太成学院大学、上宮太子高校へのバスが発着しており、朝夕は学生で混雑する。",
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"text": "喜志駅を発車するとしばらくは田畑や住宅街、工場が混在する風景が続く。現在、府道美原太子線との交差部付近の立体交差化が進められており 、この区間は仮線を走行する。右手に見える大平和祈念塔が徐々に大きく見え、富田林市街に入ってくると線路は右に大きくカーブして2面2線の富田林駅に到着する。富田林駅以南は単線となり、この駅で折り返す列車も少なからず存在するため、引き上げ線が1線ある。PL教団本部最寄り駅でもあり、毎年8月1日にはPL花火芸術が行われるために相当混雑する。",
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"text": "富田林駅を発車して左にカーブをすると富田林西口駅に至る。富田林市の中心駅は先述の富田林駅であるが、富田林市役所をはじめとした官公庁街は富田林西口駅の方が近く、また周辺には富田林高校・中学校や河南高校がある。よって朝ラッシュを中心に混雑する。なお、富田林駅 - 富田林西口駅間の距離は0.6kmで、近鉄では2番目に短い駅間距離である。",
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"text": "その先はしばらく富田林の住宅街を走り、高架を上って川西駅。ここを出るとすぐに国道309号と立体交差して再び地上区間となる。線路はゆるやかに左へカーブして、住宅などの建物は次第に閑散とし田園となっている所が目立ち始める。今度は右へゆるやかにカーブし、行き違い設備を持つ滝谷不動駅に到着する。滝谷不動駅は瀧谷不動明王寺や大阪大谷大学の最寄り駅である。初芝富田林高校直通のバスもこの駅付近から出ている。また、単線区間で行き違い設備があるのはこの駅だけであるため、終日この駅ではほぼ全列車において列車の行き違いが行われる。",
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"text": "同駅を出ると線路は曲線が少々多くなる。河内長野市に入ると住宅街を走り、次第に左手に高台が迫ってきて汐ノ宮駅に至る。この高台ではみかんの栽培が多く行われている。汐ノ宮駅を出ると線路は竹林の中を縫って走り、旧国道170号を立体交差で跨ぐ。さらに林や工場の並ぶ区間を曲がりながら走り、河内長野市街に近づくと右手から南海高野線が合流してきて、終着の河内長野駅に到着する。",
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"text": "普通・準急・急行とも線内では全列車各駅に停車する。",
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"text": "ダイヤは基本的に大阪阿部野橋駅に直通するように組まれている。昼間時間帯は大阪阿部野橋駅発着の準急が1時間あたり4本運転されているほか、平日朝ラッシュ時には河内長野発大阪阿部野橋行き急行や大阪阿部野橋発富田林行き急行、夕ラッシュ時には大阪阿部野橋発河内長野行きや富田林発大阪阿部野橋行き急行も運転されている。なお、河内長野発大阪阿部野橋行き急行は2013年3月18日から2014年9月19日の期間は設定がなかった。平日朝と夕ラッシュ時および早朝と深夜帯には大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間の準急が運転されており、普通列車は富田林・河内長野行きが早朝・朝夕ラッシュ時、古市・大阪阿部野橋行きが夕ラッシュ時と深夜帯に運転されている。毎早朝には大阪阿部野橋発河内長野行き、平日の早朝には河内天美発河内長野行きもそれぞれ運転されている。また平日の朝ラッシュ終了時には富田林発大阪阿部野橋行きが運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "1時間あたりの本数は複線区間の古市駅 - 富田林駅間はラッシュ時間帯は6本、単線区間の富田林駅 - 河内長野駅間では一部時間帯を除いて4本となっており、ほぼ終日にわたって滝谷不動駅で列車交換が行われる「ネットダイヤ」を形成している。",
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"text": "編成両数は、各駅のホーム有効長により古市駅 - 富田林駅間が最長8両、富田林駅 - 河内長野駅間が最長5両に制限されるため、ラッシュ時間帯には古市駅で車両の増解結を行う列車が多く見られる。このため、古市駅 - 富田林駅間では最短2両編成から最長8両編成の列車が運転されている。富田林駅でも増解結作業が行われていたが、2013年3月17日のダイヤ変更よりすべて古市駅で行われるようになった。ラッシュ時間帯には古市駅 - 富田林駅間で回送を兼ねた8両編成の普通列車も運転される。なお、南大阪線大阪阿部野橋駅 - 古市駅間の普通列車は最長6両、古市駅 - 橿原神宮前駅間(尺土駅 - 橿原神宮前駅間の普通列車は最長6両で運転可能だがもっぱら区間急行の6両運転のための有効ホーム長として活用されており、2013年現在この区間の5両以上の普通列車の運転は皆無)と吉野線、御所線は最長4両、道明寺線では最長2両のため、南大阪線系(南大阪線、道明寺線、長野線、御所線、吉野線)で8両編成の普通列車はこの区間でしか見られない。",
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"text": "2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅河内長野行き準急、富田林行き準急のそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた。",
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"text": "2020年3月14日のダイヤ変更で、平日の始発列車である富田林発大阪阿部野橋行き準急の発車時刻が5分繰り上げられた。",
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"text": "毎年8月1日にはPL花火芸術が開催されるため、大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間で多数の準急が運転されるなど、13時 - 15時以降大規模な臨時ダイヤで運転される(「近鉄南大阪線#PL花火臨時ダイヤ」を参照)。2005年までは大阪阿部野橋発の急行も運転されていた。その後、大阪阿部野橋発富田林行き急行の運転は行われなくなっていたが、2014年9月21日のダイヤ変更より定期列車として復活した。また2010年は従来の臨時列車のほか、26000系「さくらライナー」を2本連結した8両編成で大阪阿部野橋発富田林行きの臨時特急(往路のみ)が運転された。この列車には「PL花火芸術号」という愛称付ヘッドマークが運転室内より掲出された。",
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"text": "また、大晦日から元旦にかけての終夜運転は長野線でも実施されている。ここ最近では古市駅 - 河内長野駅間に普通を概ね20分間隔で運転される形態となっていたが、2009年(平成21年)12月31日から2010年(平成22年)1月1日にかけての終夜運転では南大阪線系統全体で減便され、長野線でも30分間隔に減便された。時刻はその都度近鉄の公式ホームページでも掲載されることになっている。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "南大阪線系統の通勤形車両が使用されている。特急車両は臨時列車を除き基本的に入線することはない。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "河陽鉄道が大阪と南河内を結ぶためや高野山参詣客を当て込み、現在の道明寺線および南大阪線の一部にあたる柏原駅 - 古市駅間に続き、東高野街道沿いに古市駅 - 富田林駅間を開業させたのが始まり。当時の列車は蒸気機関車牽引だった。しかし経営難に陥り、開業翌年には路線は別会社の河南鉄道に引き継がれる。長野(現在の河内長野)駅まで全通したのは1902年のことである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "2015年11月10日調査による主要駅の乗降者数は次の通り。",
"title": "主要駅の乗降客数"
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長野線(ながのせん)は、大阪府羽曳野市の古市駅から大阪府河内長野市の河内長野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 長野線
|路線色 = #028E46
|ロゴ = [[file:KT number-O.svg|40px|O]]
|画像 = Kintetsu Series6620.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[近鉄6620系電車|6620系]]による富田林行き準急<br />([[喜志駅]] - [[富田林駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]][[羽曳野市]]、[[富田林市]]、[[河内長野市]]
|起点 = [[古市駅 (大阪府)|古市駅]]
|終点 = [[河内長野駅]]
|路線記号 = {{近鉄駅番号|O}}
|駅数 = 8駅
|開業 = [[1898年]][[4月14日]]
|全通 = [[1902年]][[12月12日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道→河南鉄道→大阪鉄道]]→[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[古市検車区]]
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 12.5 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]])
|線路数 = [[複線]](古市 - 富田林間)<br />[[単線]](富田林 - 河内長野間)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]-->
|最高速度 = 100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 =
}}
<!-- 煩雑になるため高架解消しています-->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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|collapse=yes
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{{BS2||KHSTa|||F01 [[大阪阿部野橋駅]]|}}
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'''長野線'''(ながのせん)は、[[大阪府]][[羽曳野市]]の[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]から大阪府[[河内長野市]]の[[河内長野駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
== 概要 ==
沿線に[[金剛ニュータウン]]などの住宅地や多数の大学、高校等が立地しており[[近鉄南大阪線|南大阪線]]とともに大阪府[[南河内 (大阪府)|南河内]]エリアの主要通勤・通学路線となっている。沿線には眼病平癒で名高い日本三不動の一つである[[瀧谷不動明王寺]]や、花火大会や高校野球で知られる[[パーフェクト リバティー教団]](PL教団)の本部などもある。また、この路線では[[南阪奈道路]]や[[国道309号]]等主要道路との交差部が立体化されている。喜志駅 - 富田林駅間の[[大阪府道32号美原太子線|府道美原太子線]]交差予定地前後でも高架化工事(仮線方式)が進められ、2023年6月10日に完了した<ref name="press20230605">{{Cite press release |和書 |title=近鉄長野線(喜志・富田林間)高架化完成 6月10日(土)、下り線(河内長野方面)を高架化します。|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20230605.pdf |author=近畿日本鉄道 |format=PDF |date=2023年6月5日 |accessdate=2023年6月10日}}</ref>。
ICカード[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]など全国相互利用の乗車カードが使用できる。以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。
[[1960年代]]中頃まで腕木式信号機があった<ref>関西の鉄道No.53 近鉄南大阪線特集の長野線内写真より。なお近鉄の幹線筋では最後まで残った腕木式信号機使用路線であった。</ref>が、ATS化までに腕木式信号機は色灯式信号機に取り換えられ廃止された。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):12.5km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:8駅(起終点駅含む)
* 複線区間:古市 - 富田林間
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
** [[列車交換|交換駅]]:[[滝谷不動駅]]
* 最高速度:100km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。
== 沿線概況 ==
全区間で[[国道170号]]と並走している。なお、以下に示す沿線概況はすべて古市→河内長野方向であり、逆方向においては順番が逆になり、風景が左右逆となる。
古市駅を発車した電車は、南大阪線が左に分かれていくのに対して、真っ直ぐ南下する。これは、[[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道]]が大阪と[[南河内 (大阪府)|南河内]]地域を結ぶ目的で先に建設されたためである。[[古市検車区]]への入出庫線が右に分かれていくと、旧国道170号をアンダークロスし、住宅街の中を走る。[[南阪奈道路]]と立体交差するとほどなくして[[富田林市]]に入り、線路はゆるやかに右にカーブし、[[喜志駅]]に至る。この駅は[[大阪芸術大学]]、[[太成学院大学]]、[[上宮太子高等学校|上宮太子高校]]へのバスが発着しており、朝夕は学生で混雑する。
喜志駅を発車するとしばらくは田畑や住宅街、工場が混在する風景が続く。現在、[[大阪府道32号美原太子線|府道美原太子線]]との交差部付近の立体交差化が進められており 、この区間は仮線を走行する。右手に見える[[大平和祈念塔]]が徐々に大きく見え、富田林市街に入ってくると線路は右に大きくカーブして2面2線の[[富田林駅]]に到着する。富田林駅以南は単線となり、この駅で折り返す列車も少なからず存在するため、引き上げ線が1線ある。PL教団本部最寄り駅でもあり、毎年[[8月1日]]には[[教祖祭PL花火芸術|PL花火芸術]]が行われるために相当混雑する。
富田林駅を発車して左にカーブをすると[[富田林西口駅]]に至る。富田林市の中心駅は先述の富田林駅であるが、富田林市役所をはじめとした官公庁街は富田林西口駅の方が近く、また周辺には[[大阪府立富田林中学校・高等学校|富田林高校・中学校]]や[[大阪府立河南高等学校|河南高校]]がある。よって朝ラッシュを中心に混雑する。なお、富田林駅 - 富田林西口駅間の距離は0.6kmで、近鉄では2番目に短い駅間距離である。
その先はしばらく富田林の住宅街を走り、高架を上って[[川西駅 (大阪府)|川西駅]]。ここを出るとすぐに[[国道309号]]と立体交差して再び地上区間となる。線路はゆるやかに左へカーブして、住宅などの建物は次第に閑散とし田園となっている所が目立ち始める。今度は右へゆるやかにカーブし、行き違い設備を持つ[[滝谷不動駅]]に到着する。滝谷不動駅は[[瀧谷不動明王寺]]や[[大阪大谷大学]]の最寄り駅である。[[初芝富田林高校]]直通のバスもこの駅付近から出ている。また、単線区間で行き違い設備があるのはこの駅だけであるため、終日この駅ではほぼ全列車において列車の行き違いが行われる。
同駅を出ると線路は曲線が少々多くなる。[[河内長野市]]に入ると住宅街を走り、次第に左手に高台が迫ってきて[[汐ノ宮駅]]に至る。この高台では[[ウンシュウミカン|みかん]]の栽培が多く行われている。汐ノ宮駅を出ると線路は竹林の中を縫って走り、旧国道170号を立体交差で跨ぐ。さらに林や工場の並ぶ区間を曲がりながら走り、河内長野市街に近づくと右手から[[南海高野線]]が合流してきて、終着の[[河内長野駅]]に到着する。
== 運行形態 ==
普通・準急・急行とも線内では全列車各駅に停車する。
ダイヤは基本的に[[大阪阿部野橋駅]]に直通するように組まれている。昼間時間帯は大阪阿部野橋駅発着の準急が1時間あたり4本運転されているほか、平日朝ラッシュ時には河内長野発大阪阿部野橋行き急行や大阪阿部野橋発富田林行き急行、夕ラッシュ時には大阪阿部野橋発河内長野行きや富田林発大阪阿部野橋行き急行も運転されている。なお、河内長野発大阪阿部野橋行き急行は2013年3月18日から2014年9月19日の期間は設定がなかった<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahennkousaisyuu.pdf 平成25年のダイヤ変更について(PDF132KB)]}} - 近畿日本鉄道 2013年1月24日付ニュースリリース</ref>。平日朝と夕ラッシュ時および早朝と深夜帯には大阪阿部野橋駅 - [[富田林駅]]間の準急が運転されており、普通列車は富田林・河内長野行きが早朝・朝夕ラッシュ時、古市・大阪阿部野橋行きが夕ラッシュ時と深夜帯に運転されている。毎早朝には大阪阿部野橋発河内長野行き、平日の早朝には[[河内天美駅|河内天美]]発河内長野行きもそれぞれ運転されている。また平日の朝ラッシュ終了時には富田林発大阪阿部野橋行きが運転されている。
1時間あたりの本数は複線区間の古市駅 - 富田林駅間はラッシュ時間帯は6本、単線区間の富田林駅 - 河内長野駅間では一部時間帯を除いて4本となっており、ほぼ終日にわたって滝谷不動駅で[[列車交換]]が行われる「[[ダイヤグラム#形態|ネットダイヤ]]」を形成している。
編成両数は、各駅のホーム[[有効長]]により古市駅 - 富田林駅間が最長8両、富田林駅 - 河内長野駅間が最長5両に制限されるため、ラッシュ時間帯には古市駅で車両の[[増解結]]を行う列車が多く見られる。このため、古市駅 - 富田林駅間では最短2両編成から最長8両編成の列車が運転されている。富田林駅でも増解結作業が行われていたが、2013年3月17日のダイヤ変更よりすべて古市駅で行われるようになった。ラッシュ時間帯には古市駅 - 富田林駅間で回送を兼ねた8両編成の普通列車も運転される。なお、南大阪線大阪阿部野橋駅 - 古市駅間の普通列車は最長6両、古市駅 - [[橿原神宮前駅]]間([[尺土駅]] - 橿原神宮前駅間の普通列車は最長6両で運転可能だがもっぱら区間急行の6両運転のための有効ホーム長として活用されており、2013年現在この区間の5両以上の普通列車の運転は皆無)と[[近鉄吉野線|吉野線]]、[[近鉄御所線|御所線]]は最長4両、[[近鉄道明寺線|道明寺線]]では最長2両のため、南大阪線系(南大阪線、道明寺線、長野線、御所線、吉野線)で8両編成の普通列車はこの区間でしか見られない。
2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅河内長野行き準急、富田林行き準急のそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた<ref name="kintetsu201508192"> {{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2018daiyahenkouv3.pdf 2018年のダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道、2018年1月18日</ref>。
2020年3月14日のダイヤ変更で、平日の始発列車である富田林発大阪阿部野橋行き準急の発車時刻が5分繰り上げられた<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahennko.pdf 2020年のダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道、2020年1月21日</ref>。
=== 臨時列車 ===
毎年[[8月1日]]には[[教祖祭PL花火芸術|PL花火芸術]]が開催されるため、大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間で多数の準急が運転されるなど、13時 - 15時以降大規模な臨時ダイヤで運転される(「[[近鉄南大阪線#PL花火臨時ダイヤ]]」を参照)。2005年までは大阪阿部野橋発の急行も運転されていた。その後、大阪阿部野橋発富田林行き急行の運転は行われなくなっていたが、2014年9月21日のダイヤ変更より定期列車として復活した。また2010年は従来の臨時列車のほか、[[近鉄26000系電車|26000系]]「さくらライナー」を2本連結した8両編成で大阪阿部野橋発富田林行きの臨時特急(往路のみ)が運転された。この列車には「PL花火芸術号」という愛称付ヘッドマークが運転室内より掲出された。
また、[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は長野線でも実施されている。ここ最近では古市駅 - 河内長野駅間に普通を概ね20分間隔で運転される形態となっていたが、[[2009年]](平成21年)[[12月31日]]から[[2010年]](平成22年)[[1月1日]]にかけての終夜運転では南大阪線系統全体で減便され、長野線でも30分間隔に減便された<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/091110syuyaosaka.pdf 年末年始ダイヤのご案内(大阪)]}} - 近畿日本鉄道 2009年11月10日</ref>。時刻はその都度近鉄の公式ホームページでも掲載されることになっている。
== 車両 ==
{{Main|近鉄南大阪線#車両}}
南大阪線系統の通勤形車両が使用されている。特急車両は臨時列車を除き基本的に入線することはない。<!-- 天王寺博覧会で富田林駅から16000系による列車があったと思うのですが、何方かフォローをお願いします -->
== 歴史 ==
[[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道]]が大阪と南河内を結ぶためや[[高野山]]参詣客を当て込み、現在の[[近鉄道明寺線|道明寺線]]および南大阪線の一部にあたる[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]] - 古市駅間に続き、[[東高野街道]]沿いに古市駅 - 富田林駅間を開業させたのが始まり。当時の列車は[[蒸気機関車]]牽引だった。しかし経営難に陥り、開業翌年には路線は別会社の[[大阪鉄道 (2代目)|河南鉄道]]に引き継がれる。長野(現在の河内長野)駅まで全通したのは1902年のことである。
* [[1898年]](明治31年)[[4月14日]]:河陽鉄道が古市駅 - 富田林駅間を開業<ref name="ayumi-p64">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、pp.64-65, 843-845</ref>。
* [[1899年]](明治32年)[[5月11日]]:河南鉄道が河陽鉄道の路線を継承<ref name="ayumi-p64" />。
* [[1902年]](明治35年)
** [[3月25日]]:富田林駅 - 滝谷不動駅間が開業<ref name="ayumi-p64" />。
** [[12月12日]]:滝谷不動駅 - 長野駅(現在の河内長野駅)が開業し全通<ref name="ayumi-p64" />。
* [[1904年]](明治37年)[[10月12日]]<ref>[{{NDLDC|2949711/9}} 「停車場設置」『官報』1904年10月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』p.685では10月7日。</ref>:学校前駅(現在の富田林西口駅)開業。
<!--* [[1906年]](明治39年)[[7月18日]]:学校前駅廃止(1912年までに再開業?)。-->
* [[1911年]](明治44年)
** [[8月15日]]:西浦駅・宮前駅・川西駅・汐ノ宮駅開業<ref name="kanpo19110829">[{{NDLDC|2951814/5}} 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1911年8月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』pp.685-686では川西駅が8月1日、汐ノ宮駅が6月1日開業。</ref>。
* [[1912年]](明治45年)[[3月31日]]:学校前駅廃止<ref>[{{NDLDC|2951988/13}} 「軽便鉄道簡易停車場廃止」『官報』1912年3月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1917年]](大正6年)[[1月9日]]:学校前駅再開業<ref>[{{NDLDC|2953447/5}} 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1917年1月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』p.685では1916年12月営業再開。</ref>。
* [[1919年]](大正8年)
** [[1月1日]]:喜志駅を太子口駅に改称<ref>[{{NDLDC|2954050/3}} 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1919年1月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[1月25日]]:太子口駅を太子口喜志駅に改称<ref>[{{NDLDC|2954061/5}} 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1919年1月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[3月8日]]:河南鉄道が[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]に社名変更。
* [[1920年]](大正9年)
** [[4月16日]]<ref>[{{NDLDC|2954426/10}} 「地方鉄道停留場廃止」『官報』1920年4月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>:西浦駅・宮前駅・川西駅廃止。
** [[9月11日]]<ref>[{{NDLDC|2954553/9}} 「地方鉄道停留場設置並哩程異動」『官報』1920年9月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』p.685では8月。</ref>:廿山駅(現在の川西駅)開業。
* [[1923年]](大正12年)
** [[10月16日]]:古市駅 - 長野駅間が電化。
** [[12月28日]]:旭ヶ岡駅開業。
* [[1933年]](昭和8年)4月1日:太子口喜志駅を喜志駅に、学校前駅を富田林西口駅に、廿山駅を川西駅に改称。
* [[1935年]](昭和10年)6月30日 - [[集中豪雨]]により河西駅、旭ヶ丘駅周辺が冠水。折り返し運転を実施<ref>大和川増水、大阪府南部は泥の海『大阪毎日新聞』昭和10年6月30日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p207-208 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1943年]](昭和18年)[[2月1日]]:[[関西急行鉄道]]が大阪鉄道を合併。
* [[1944年]](昭和19年)6月1日:関西急行鉄道と[[南海電気鉄道|南海鉄道]]の合併により発足した近畿日本鉄道の路線となる。
* [[1945年]](昭和20年)6月1日:旭ヶ岡駅・富田林西口駅休止。
* [[1946年]](昭和21年)[[7月1日]]:富田林西口駅営業再開。
* [[1954年]](昭和29年)4月1日:長野駅を河内長野駅に改称。
* [[1957年]](昭和32年)[[10月18日]]:古市駅 - 喜志駅間複線化。
* [[1968年]](昭和43年)[[9月26日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始。
* [[1974年]](昭和49年)[[7月20日]]:喜志駅 - 富田林駅間の旭ヶ岡駅廃止。
* [[1982年]](昭和57年)[[9月12日]]:川西駅付近(約0.8km)高架化。
* [[1987年]](昭和62年)[[10月25日]]:喜志駅 - 富田林駅間複線化。
* [[1997年]](平成9年)[[10月1日]]:乗降確認システム「フェアシステムK」稼働開始。
* [[1999年]](平成11年)[[3月]]:6620系6623Fが「YOSHINO Foresta」として塗装変更される(2002年12月まで)。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月1日]]:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。
** [[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。
* [[2002年]](平成14年)
** 9月:6000系引退。シリーズ21(6820系)の営業運転開始。
** [[12月1日]]:列車運行管理システムKOSMOS稼働開始。
* [[2003年]](平成15年)[[9月13日]]:古市駅 - 喜志駅間の[[南阪奈道路]]交差地点付近高架化。側道整備のため。
* [[2007年]](平成19年)
** 4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
** 5月:6620系6625Fに「不思議の国のアリス」のハーフラッピングが施される(2008年4月まで)。
* [[2008年]](平成20年)[[3月23日]]:河陽鉄道(柏原駅 - 道明寺駅 - 古市駅 - 富田林駅間)開業110周年を記念して、大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間の準急2往復に記念ヘッドマークを掲出する。
* [[2009年]](平成21年)[[3月1日]]:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道 2008年12月2日</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** 9月:吉野線開業100周年を記念し、ラビットカー塗装に変更された6020系6051Fが長野線でも営業運転開始。
** 10月:吉野線開業100周年を記念し、「吉野線ラッピング列車」のラッピングが施された6620系6626Fが長野線でも営業運転開始。
* [[2022年]](令和4年)[[6月4日]]:喜志駅 - 富田林駅間の上り線を高架化<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/koukakakouji.pdf 近鉄長野線高架化事業 6月4日(土)、上り線(大阪阿部野橋方面)を高架化します。]}} - 近畿日本鉄道、2022年5月31日閲覧。</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[6月10日]]:喜志駅 - 富田林駅間の下り線を高架化<ref name="press20230605" />。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[大阪府]]内に所在。
* 準急・急行とも当線内では各駅に停車。
* 線路 … ∥:複線区間、∨:ここより下は単線、◇:単線区間(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)<br />河内長野駅ホームは1面2線だが、1線が使用停止中のため、実質的には1面1線である。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|所在地
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="3" style="text-align:left;"|○南大阪線[[大阪阿部野橋駅]]まで
|-
!O16
|[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]] (F16) (一部直通運転:上記参照)
|style="text-align:center;"|∥
|[[羽曳野市]]
|-
!O17
|[[喜志駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|3.4
|
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="5"|[[富田林市]]
|-
!O18
|[[富田林駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|5.7
|
|style="text-align:center;"|∨
|-
!O19
|[[富田林西口駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|6.3
|
|style="text-align:center;"||
|-
!O20
|[[川西駅 (大阪府)|川西駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|7.3
|
|style="text-align:center;"||
|-
!O21
|[[滝谷不動駅]]<br /><small>([[大阪大谷大学]]前)</small>
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|8.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!O22
|[[汐ノ宮駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|10.5
|
|style="text-align:center;"||
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[河内長野市]]
|-
!O23
|[[河内長野駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|12.5
|南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai koya line simbole.svg|15px|■]] [[南海高野線|高野線]] (NK69)
|style="text-align:center;"||
|}
=== かつて存在した駅 ===
* [[西浦駅 (大阪府)|西浦駅]](古市駅 - 喜志駅間、1911年8月15日開業<ref name="kanpo19110829" />、1920年4月1日廃止)
* [[旭ヶ岡駅]](喜志駅 - 富田林駅間、1911年8月15日<ref name="kanpo19110829" />宮ノ前駅として開業、1920年4月1日廃止、1923年12月28日旭ヶ岡駅として復活、1945年6月1日休止、1974年7月20日廃止)
== 主要駅の乗降客数 ==
[[2015年]][[11月10日]]調査による主要駅の乗降者数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/f.html 駅別乗降人員 長野線 道明寺線 御所線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*古市 21,039人
*喜志 17,612人
*富田林 13,768人
*滝谷不動 6,600人
*河内長野 12,563人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = 徳田耕一(編著) | publisher = 河出書房新社 | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }}
* {{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }}
* {{Cite book | 和書 | title = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = [[近畿日本鉄道]] | publisher = 近畿日本鉄道 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = 2003年1月号臨時増刊 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = 電気車研究会(編)| year = 2003 }}
* {{Cite book | 和書 | title = 日本鉄道旅行地図帳 | volume = 8号 関西1 | author = 今尾恵介(監修)| publisher = 新潮社 | year = 2008 | id = ISBN 9784107900265 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
{{近畿日本鉄道の路線}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|なかのせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|なかの]]
[[Category:関西急行鉄道|路]]
[[Category:大阪鉄道(2代)|路なかのせん]]
[[Category:大阪府の交通|きんてつなかのせん]]
|
2003-09-16T13:52:00Z
|
2023-12-30T14:23:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%B7%9A
|
17,101 |
熱伝導率
|
熱伝導率(ねつでんどうりつ、英語: thermal conductivity)とは、温度勾配により生じる伝熱のうち、熱伝導による熱の移動のしやすさを規定する物理量である。熱伝導度や熱伝導係数とも呼ばれる。記号は λ, κ, k などで表される。 国際単位系(SI)における単位はワット毎メートル毎ケルビン(W/m K)であり、SI接頭語を用いたワット毎センチメートル毎ケルビン(W/cm K)も使われる。
熱伝導率は温度勾配に対する熱流密度の比として定義される。 すなわち、熱流密度を j、熱力学温度を T として、勾配 grad により
と表したときの係数 λ が熱伝導率である。この式はフーリエの法則と呼ばれている。
つまり、一般に熱伝導率は温度に依存しており、定数ではない。
熱伝導率の逆数を熱抵抗率という。また、熱伝導率に似ているが異なる物理量として
がある。
熱伝導率を用いて定義される無次元数には、プラントル数、ヌセルト数、ビオ数、ルイス数、レイリー数などがある。
|
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熱伝導率とは、温度勾配により生じる伝熱のうち、熱伝導による熱の移動のしやすさを規定する物理量である。熱伝導度や熱伝導係数とも呼ばれる。記号は λ, κ, k などで表される。
国際単位系(SI)における単位はワット毎メートル毎ケルビンであり、SI接頭語を用いたワット毎センチメートル毎ケルビンも使われる。
|
{{出典の明記|date=2011年8月}}
{{物理量
|英語=thermal conductivity
|記号=''λ'', ''κ'', ''k''
|次元= [[長さ|L]] [[質量|M]] [[時間|T]]{{sup-|3}} [[熱力学温度|Θ]]{{sup-|1}}
|SI=[[ワット]]毎[[メートル]]毎[[ケルビン]](W/m·K)
}}
'''熱伝導率'''(ねつでんどうりつ、{{lang-en|thermal conductivity}})とは、[[温度勾配]]により生じる[[伝熱]]のうち、[[熱伝導]]による[[熱]]の移動のしやすさを規定する[[物理量]]である。'''熱伝導度'''や'''熱伝導係数'''とも呼ばれる。記号は {{mvar|λ, κ, k}} などで表される。
[[国際単位系]](SI)における単位は[[ワット]]毎[[メートル]]毎[[ケルビン]](W/m K)であり、[[SI接頭語]]を用いた[[ワット]]毎[[センチメートル]]毎[[ケルビン]](W/cm K)も使われる。
== 定義 ==
熱伝導率は温度勾配に対する熱流密度の[[比]]として定義される<ref>JIS Z 8000-5:2014 『量及び単位―第5部:熱力学』 5-9</ref>。
すなわち、[[熱流束|熱流密度]]を {{mvar|'''j'''}}、[[熱力学温度]]を {{mvar|T}} として、[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]] {{math|grad}} により
:<math> \boldsymbol{j} = -\lambda \operatorname{grad} T</math>
と表したときの係数 {{mvar|λ}} が熱伝導率である。この式は[[フーリエの法則]]と呼ばれている。
つまり、一般に熱伝導率は温度に依存しており、定数ではない。
== 関連する物理量 ==
熱伝導率の[[逆数]]を'''熱抵抗率'''という。また、熱伝導率に似ているが異なる物理量として
* [[熱拡散率]] - 温度勾配により運ばれる温度(熱エネルギー)の[[拡散係数]]
* [[熱拡散係数]] - [[混合物]]に温度勾配がある場合に、[[熱拡散]]により[[濃度勾配]]が生じる時の大きさを規定する物理量
* [[熱伝達係数]] - 物質間の熱の伝わり易さを表す値
がある。
熱伝導率を用いて定義される[[無次元数]]には、[[プラントル数]]、[[ヌセルト数]]、[[ビオ数]]、[[ルイス数]]、[[レイリー数]]などがある。
== 値の例 ==
{| class="wikitable"
|+一般的な材料の室温付近での熱伝導率<ref>理科年表 第84冊 物54(410)</ref><ref>{{Cite journal|author=国立天文台|year=2017|date=2017-11|title=理科年表|journal=理科年表|volume=91|pages=物61-63 (425–427)}}</ref>
! 材料 !! 熱伝導率 [W/m·K]
|-
! [[カーボンナノチューブ]](C)
| 3000 - 5500
|-
! [[ダイヤモンド]](C)
| 1000 - 2000
|-
! [[銀]](Ag)(0℃)
| 428
|-
! [[銅]](Cu)(0℃)
| 403
|-
! [[金]](Au)(0℃)
| 319
|-
! [[アルミニウム]](Al)(0℃)
| 236
|-
! [[シリコン]](Si)
| 168
|-
! [[炭素]]([[人造黒鉛]]・カーボン)(C)
| 100~250
|-
! [[真鍮]](Cu:Zn=7:3)(0℃)
| 106
|-
! [[ニッケル]](0℃)
| 94
|-
! [[鉄]](Fe)(0℃)
| 83.5
|-
! [[白金]](Pt)(0℃)
| 72
|-
! [[ステンレス鋼]]
| 16.7 - 20.9
|-
! [[水晶]](SiO{{sub|2}})
| 8
|-
! [[磁器]](空孔率0.25%のもの)
| 1.5
|-
! [[ガラス|石英ガラス]](0℃)
| 1.4
|-
! [[陶器]]
| 1-1.6
|-
! [[水]](H{{sub|2}}O)(0℃-80℃)
| 0.561-0.673
|-
! [[ポリエチレン]]
| 0.41
|-
! [[エポキシ樹脂]]<br/> "bisphenol A"
| 0.21
|-
! [[シリコーン]](Qゴム)
| 0.16
|-
! [[木材]]
| 0.15 - 0.25
|-
! [[ウール|羊毛]]
| 0.05
|-
! [[発泡ポリスチレン]]<br/> "Styrofoam"
| 0.03
|-
! [[空気]]
| 0.0241
|}
== 測定法 ==
*{{仮リンク|レーザーフラッシュ法|en|Laser flash analysis}}
*:[[熱拡散率]]と[[比熱容量]]を測定し、別に求めた[[密度]]と合わせて熱伝導率を計算する(比熱容量も別に測定することがある)。均一材料の温度の[[過渡応答]]を測定理論に用いているため、複数の材料が接続している場合の測定には向かない。
*[[定常熱流法]]・[[平板熱流計法]]
*:[[温度]]差及び[[熱流束]]から熱伝導率を直接測定する。[[土壌]]の熱伝導率測定などにも使われる。
*[[熱線法]]
*:熱線(ヒーター線)の発熱量と温度上昇量から、熱伝導率を直接測定する。
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikidata property}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ねつてんとうりつ}}
[[Category:物性値]]
[[Category:熱伝導]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E4%BC%9D%E5%B0%8E%E7%8E%87
|
17,102 |
異性愛
|
異性愛(いせいあい)、ヘテロセクシュアリティ(英:heterosexuality)とは、男性と女性の間での親愛や性愛を指す。異性愛の性質を持っている人を異性愛者(いせいあいしゃ)、ヘテロセクシュアル(英:heterosexual)、あるいは略してヘテロという。
同性愛の定義に応じて、異性愛者の定義もまたさまざまに定義される。
山口芸術短期大学の中尾達馬准教授(発達心理学)が2007年11月から1か月間実施した調査に基づいた論文『初恋についての探索的研究』を発表した。
これによると、就学前教育で幼稚園に通園する園児への個別面談で年中児と年長児の男女にまず「好きな子はいる?」と質問、 いずれも大半が「いる」と答えたため「誰が好き?」と聞くと年中児がほぼ同性の名前を挙げたのに対して、年長児は半数以上が異性を挙げた。
一方で、短期大学1年生の女子学生へのアンケートでは初恋の時期を選択式で質問したところ、「幼稚園・保育所」がやや多く「小学校」もほぼ同数でこの2つの回答が大部分を占めたため、中尾准教授は「幼児期の初恋の出現率は約50%。年中児では少数だが、年長児になると上昇する」と推測している。幼稚園・保育所における年長の学齢は満年齢で5歳 - 6歳の年齢。
|
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異性愛(いせいあい)、ヘテロセクシュアリティとは、男性と女性の間での親愛や性愛を指す。異性愛の性質を持っている人を異性愛者(いせいあいしゃ)、ヘテロセクシュアル、あるいは略してヘテロという。
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{{性的指向}}
'''異性愛'''(いせいあい)、'''ヘテロセクシュアリティ'''([[英語|英]]:heterosexuality)<ref group="注">'''ヘテロセクシャリティ'''とも表記。</ref>とは、[[男性]]と[[女性]]の間での親愛や性愛を指す。異性愛の性質を持っている人を'''異性愛者'''(いせいあいしゃ)、'''ヘテロセクシュアル'''(英:heterosexual)<ref group="注">'''ヘテロセクシャル'''とも表記。</ref>、あるいは略して'''ヘテロ'''という。
== 定義 ==
[[同性愛|同性愛の定義]]に応じて、異性愛者の定義もまたさまざまに定義される。
{{main|性的指向|同性愛|男性愛|女性愛|両性愛|全性愛|無性愛|機会的同性愛}}
== 研究事例 ==
{{単一の出典|section=1|date=2022年10月}}
[[山口芸術短期大学]]の中尾達馬[[准教授]]([[発達心理学]])が[[2007年]]11月から1か月間実施した調査に基づいた論文『初恋についての探索的研究』を発表した。
これによると、[[就学前教育]]で[[幼稚園]]に通園する園児への個別面談で年中児と年長児の男女にまず「好きな子はいる?」と質問、 いずれも大半が「いる」と答えたため「誰が好き?」と聞くと年中児がほぼ同性の名前を挙げたのに対して、年長児は半数以上が異性を挙げた。
一方で、短期大学1年生の女子学生への[[アンケート]]では[[初恋]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}の時期を選択式で質問したところ、「幼稚園・[[保育所]]」がやや多く「[[小学校]]」もほぼ同数でこの2つの回答が大部分を占めたため、中尾准教授は「幼児期の初恋の出現率は約50%。年中児では少数だが、年長児になると上昇する」と推測している。幼稚園・保育所における年長の[[学齢]]は[[満年齢]]で5歳 - 6歳の[[年齢]]<ref>中尾達馬、「[https://doi.org/10.4992/pacjpa.72.0_3AM015 初恋についての探索的研究 -年中児,年長児,短大生の比較を通して-]」 『日本心理学会大会発表論文集』 2008年 72巻 日本心理学会第72回大会, セッションID 3AM015, p.3AM015, {{doi|10.4992/pacjpa.72.0_3AM015}}, 日本心理学会</ref><ref>[http://j.people.com.cn/94640/7101083.html 人民網日本語版 - 異性意識は年長児から・見た目も大切… 「初恋」研究]{{リンク切れ|date=2023年1月}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[性的指向]]
* [[性的嗜好]]
* [[人間の性]]
* [[ストレート・アライ]]
* [[サークル・ジャーク]]
* [[ストレート・プライド]]
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アフラ・マズダー
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アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) は、ゾロアスター教の最高神である。 宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。娘は女神アールマティ。アフラは天空、マズダーは光を指す言葉であり、アフラ・マズダーは太陽神ともされる。
ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦いの歴史そのものであるとされる。 そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。ゼーリジュ、ニーラフ、ナーンギーシュ、タルマド、ヘシュム、セビーフ、ビーサジュの七悪魔をアフラ・マズダーは7つの光で包囲し、カイヴァーン(土星)、オフルマズド(木星)、バフラーム(火星)、シェード(太陽)、ナーヒード(金星)、ティール(水星)、マーフ(月)という名をそれぞれに与え「七曜神」とした。これにより天圏が回転し、月と星辰が出没しだしたとされる(月と星の創造)。
中世以降の教義では、パフラヴィー語形のオフルマズド (Ohrmazd)と呼ばれ、アムシャ・スプンタの筆頭スプンタ・マンユと同一視される。 この場合、古典的な教義に於けるアフラ・マズダーの役割(善神と悪神の対立の上にある絶対者)はズルワーンが担う。
アフラ・マズダーは「光輝き、純粋で、甘く香り、善を成す」という属性を持つ。
起源的には、インド・イラン共通時代の神話に登場する最高神であるヴァルナである。ザラスシュトラの宗教改革によって教理的意味づけがなされ、宇宙の理法の体現者にまで高められたのがアフラ・マズダーである。アフラとアスラ(阿修羅)は語源的に同一である。善神であるアフラ・マズダーと対立するダエーワの語源は、インドに於いてアスラと敵対するデーヴァである。古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神であるヴァルナは契約の神ミトラとならぶ最高神でもある。ミトラとともに太古のアスラ族、アーディティヤ神群を代表した。 またヒンズー教の太陽神あるいはアスラ王であるヴィローチャナから、火・太陽の属性を受け継いでいるとする説もある。ゾロアスター教は火を聖なるものとしており、火の属性を持つアフラ・マズダーもまた「聖なるもの」である。
真言密教の大日如来も、起源をヴィローチャナとする説があり、アフラ・マズダーが大日如来の形成に大きく影響していると言われる事もある。
かつてのゼネラル・エレクトリックの電球のブランドだったマツダランプ(日本では提携先の東芝の製品が名乗った)、自動車メーカーのマツダの綴り「Mazda」はここから取ったといわれている。
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アフラ・マズダー は、ゾロアスター教の最高神である。
宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。娘は女神アールマティ。アフラは天空、マズダーは光を指す言葉であり、アフラ・マズダーは太陽神ともされる。 ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦いの歴史そのものであるとされる。
そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。ゼーリジュ、ニーラフ、ナーンギーシュ、タルマド、ヘシュム、セビーフ、ビーサジュの七悪魔をアフラ・マズダーは7つの光で包囲し、カイヴァーン(土星)、オフルマズド(木星)、バフラーム(火星)、シェード(太陽)、ナーヒード(金星)、ティール(水星)、マーフ(月)という名をそれぞれに与え「七曜神」とした。これにより天圏が回転し、月と星辰が出没しだしたとされる(月と星の創造)。 中世以降の教義では、パフラヴィー語形のオフルマズド (Ohrmazd)と呼ばれ、アムシャ・スプンタの筆頭スプンタ・マンユと同一視される。
この場合、古典的な教義に於けるアフラ・マズダーの役割(善神と悪神の対立の上にある絶対者)はズルワーンが担う。 アフラ・マズダーは「光輝き、純粋で、甘く香り、善を成す」という属性を持つ。
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{{出典の明記|date=2015年11月8日 (日) 13:53 (UTC)}}
[[ファイル:Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg|thumb|280px|right|アフラマズダー神(右)から王権の象徴を授与される[[アルダシール1世]](左)のレリーフ([[ナクシェ・ロスタム]])]]
'''アフラ・マズダー''' (Ahura Mazdā) は、[[ゾロアスター教]]の[[主神|最高神]]である。
宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。娘は女神アールマティ。アフラは天空、マズダーは光を指す言葉であり、アフラ・マズダーは太陽神ともされる。
ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神[[スプンタ・マンユ]]と悪神[[アンラ・マンユ]]らとの戦いの歴史そのものであるとされる。
そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。ゼーリジュ、ニーラフ、ナーンギーシュ、タルマド、ヘシュム、セビーフ、ビーサジュの七悪魔をアフラ・マズダーは7つの光で包囲し、カイヴァーン(土星)、オフルマズド(木星)、バフラーム(火星)、シェード(太陽)、ナーヒード(金星)、ティール(水星)、マーフ(月)という名をそれぞれに与え「七曜神」とした。これにより天圏が回転し、月と星辰が出没しだしたとされる(月と星の創造)。
中世以降の教義では、[[パフラヴィー語]]形の'''オフルマズド''' (Ohrmazd)と呼ばれ、[[アムシャ・スプンタ]]の筆頭[[スプンタ・マンユ]]と同一視される。
この場合、古典的な教義に於けるアフラ・マズダーの役割(善神と悪神の対立の上にある絶対者)は[[ズルワーン]]が担う。
アフラ・マズダーは「光輝き、純粋で、甘く香り、善を成す」という属性を持つ<ref>{{Cite book|title=ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究―ペルシア語文献『ウラマー・イェ・イスラーム』写本の蒐集と校訂|date=2012/9/1|year=|publisher=刀水書房}}</ref>。
== 起源 ==
起源的には、インド・イラン共通時代の神話に登場する最高神である[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]である。[[ザラスシュトラ]]の宗教改革によって教理的意味づけがなされ、宇宙の理法の体現者にまで高められたのがアフラ・マズダーである。アフラと[[アスラ]]([[阿修羅]])は語源的に同一である。善神であるアフラ・マズダーと対立する[[ダエーワ]]の語源は、インドに於いてアスラと敵対する[[デーヴァ]]である。古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神である[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]は契約の神[[ミトラ]]とならぶ最高神でもある。ミトラとともに太古のアスラ族、[[アーディティヤ神群]]を代表した。
またヒンズー教の太陽神あるいはアスラ王である[[ヴィローチャナ]]から、火・太陽の属性を受け継いでいるとする説もある。ゾロアスター教は火を聖なるものとしており、火の属性を持つアフラ・マズダーもまた「聖なるもの」である。
真言密教の[[大日如来]]も、起源をヴィローチャナとする説があり、アフラ・マズダーが大日如来の形成に大きく影響していると言われる事もある。
== 逸話 ==
かつての[[ゼネラル・エレクトリック]]の電球のブランドだった[[マツダ (電球)|マツダランプ]](日本では提携先の[[東芝]]の製品が名乗った)、自動車メーカーの[[マツダ]]の綴り「Mazda」はここから取ったといわれている。
== 脚注 ==
{{節スタブ|1=脚注形式での出典の明記|date=2015年11月8日 (日) 13:53 (UTC)}}
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== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
* 青木健 『ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究―ペルシア語文献「ウラマー・イェ・イスラーム」写本の蒐集と校訂』、刀水書房、2012年08月。
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== 関連書籍 ==
<!--この節の加筆が望まれています。-->
* {{Cite book|和書|first=ボイス|last=メアリー|authorlink=:en:Mary Boyce|title=ゾロアスター教 - 三五〇〇年の歴史|others=山本由美子訳|publisher=[[筑摩書房]]|date=1983-09|isbn=978-4-480-84124-7}} <!-- 2007年12月2日 (日) 01:53 (UTC)-->
* {{Cite book|和書|author=伊藤義教|title=ゾロアスター研究|publisher=[[岩波書店]]|date=1979-04|isbn=978-4-00-001219-5}} <!-- 2007年12月2日 (日) 01:53 (UTC)-->
* {{Cite book|和書|last=バンヴェニスト|first=エミール|authorlink=エミール・バンヴェニスト|last2=ニョリ|first2=ゲラルド|authorlink2=:it:Gherardo Gnoli|others=[[前田耕作]]編・監訳|title=ゾロアスター教論考|publisher=[[平凡社]]|series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 609|date=1996-12|isbn=978-4-582-80609-0}} <!-- 2007年12月2日 (日) 01:53 (UTC)-->
* {{Cite book|和書|author=岡田明憲|authorlink=岡田明憲|title=ゾロアスター教 - 神々への賛歌|publisher=[[平河出版社]]|date=1982-10|isbn=978-4-89203-053-6}} <!-- 2007年12月2日 (日) 01:53 (UTC)-->
* 青木健 『ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究―ペルシア語文献「ウラマー・イェ・イスラーム」写本の蒐集と校訂』、刀水書房、2012年08月。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ahura_Mazda}}
* [[ヴァイローチャナ]] ([[:en:Vairocana]])
* [[ヴィローチャナ]] (Virocana)
* [[毘盧遮那仏]] (Vairocana buddha,birushana butsu)
* [[大日如来]] (Maha vairocana,Dainichi nyorai)
* [[ザラスシュトラ]]
{{Zoroastrianism long}}
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日向国
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日向国(ひゅうがのくに、ひむかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国。律令制ののちは、西海道に属し、現在の宮崎県に属する令制国。
文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代神武天皇(かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の吾平津媛を妃にしたという逸話に現れる。
また、第12代の景行天皇が子湯縣の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、景行天皇と御刀媛(みはかしひめ)の息子の豊国別皇子が日向国造の祖となったことも記している。
さらに、壬申の乱で天皇となった第40代天武天皇のあとの律令制により、あらためて西海道の日向国が令制国として成立した。
読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。
したがって、日向国は古くはひむかのくにであったところ、国造制度で新たな日向国ができ、律令制からのちはひゅうがのくにと呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある。
古事記は、古代九州は筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)と呼ばれ、白日別、豊日別、 建日向日豊久士比泥別 、 建日別の4面があったとしているが、日向国がこの4面のどこにあったかについては諸説ある。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。
日向国は、宮崎県や鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、大宝2年(702年)には、隼人の反乱の端緒となった薩摩・多褹の叛乱が起きたため、現在の鹿児島県部分の西部は分割され唱更国(後の薩摩国)となり、また、和銅6年(713年)4月3日には、肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が分割され大隅国となった。
また日向国には「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
江戸時代の藩については後述するが、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等の領域の変化はあった。ただし、郡構成は明治初期まで変化はなかった。
1883年(明治16年)の宮崎県再置の際、諸県郡は宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県の南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、宮崎県の北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。
明治維新直前の領域は、現在の宮崎県から西都市の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川)、児湯郡木城町の一部(中之又)、児湯郡西米良村の全域を除き、鹿児島県の一部(下記)を加えた区域に相当する。
宮崎県内の例外となっている区域は肥後国であったが、1872年(明治5年)に日向国に編入されている。鹿児島県内の区域のうち曽於市財部町下財部は1871年(明治4年)に、それ以外は1897年(明治30年)に大隅国に移管されている。
日向地域では旧石器時代の遺跡も発見されており、縄文時代については、塚原遺跡で辰砂を使った赤彩土器が出土している。
弥生時代の日向地域は、青銅器の欠如と、抉り入り方形石包丁の存在という特色がある一方、渡来鉄器や中九州地方の鉄器が出土している。
この時代の日向については『古事記』、『日本書紀』に多く現れるが、天照大神と素戔男尊の孫にあたる瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降臨したという天孫降臨の逸話、また、その弟の饒速日命(にぎはやひのみこと)が天照大神から十種の神宝を授かり天磐船で近畿地方に天降って稲作を伝えた逸話、瓊瓊杵尊の息子の彦火火出見尊(山幸彦)が兄の彦火火出見尊(海幸彦)を懲らしめ、隼人が天皇に仕える理由は海山彦の子孫であるためとする山幸彦と海幸彦の逸話、また、山幸彦と豊玉姫の息子の鸕鶿草葺不合尊と玉依姫が、初代天皇神武天皇の父母である旨、また、神武天皇が日向から出立し、筑紫国の菟狭国造である菟狭津彦(宇佐氏の祖)が特別に造営した宮などに滞在してから東征した神武東征の逸話がある。祖母山を祀るなどの山岳信仰もあった。
古墳時代になると大陸の部民制の影響も強まり、技術も発達して、今井野遺跡(延岡市)では鉄器製造の鍛冶工房跡が発見されている。
4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。
また日本書紀神功皇后紀では、現在は住吉三神となっている底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・表筒男(うわつつのお)の3神が、日向国の橘小戸郷に在するとされている。
『古事記』では、第12代景行天皇の息子の小碓命が命により熊曽討伐をした征西説話が記述されている。この中で小碓命が熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗ったとしている。一方、『日本書紀』では景行天皇自らが熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定しており、のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の息子の日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。
また、『日本書紀』や「天皇本紀」(『先代旧事本紀』第7巻)は、こののちに景行天皇の息子の豊国別皇子が日向国造となった旨を記しているが、「国造本紀」(『先代旧事本紀』第10巻)は豊国別皇子の三世孫・老男が第15代の応神天皇期に日向国造に任じられたと記している。
歴史学界のうち、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降にあるとされており、以上はむしろ応神・仁徳の記述の伏線であるという説もある。
古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示しており、記紀の第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、記紀の日向神話はこうした政治関係を背景として成立したものであり、5世紀代に豪族が出仕したものとする推測もある。
一方、7世紀初頭には藤原京で冠位十二階などの制度改革があったところ、6世紀から7世紀中期にかけての日向国については、第33代の推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない。
また、7世紀後半から8世紀前半の南九州の隼人とのあいだの政治情勢との関係も指摘されている。隼人は壬申の乱により天皇となった第40代の天武天皇(在位673年-686年)からのち、記紀が編纂される7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしているので、天皇による南九州の統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明したものと考える説もある。
日向国は続日本紀の文武天皇2年(698年)9月28日条にも現れるが、この日向国の成立時期は明らかでなく、7世紀末からの律令制成立に伴い改めて7世紀中期以降に設けられたと見られている。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。
令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から守、介、掾、目の四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。
8世紀前半には『日向国風土記』が編纂されているが、これは当時の西海道節度使だった藤原宇合が九州の各地域の風土記として豊後国風土記などとともに完成させたものであるという説がある。
弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。
1185年(文治元年)惟宗忠久が、主筋である近衛家の島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、地頭職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は1197年(建久8年)に薩摩・大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。しかし、忠久が、1203年(建仁2年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、赤橋流北条氏に伝えられることとなった。
日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。
南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏、北郷氏、新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。
そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後の大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗と真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年の木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。
日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。
国府は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。西都市大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。
これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。
二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。
その他、以下が日向国に領地を有していた。
|
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"text": "日向国(ひゅうがのくに、ひむかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国。律令制ののちは、西海道に属し、現在の宮崎県に属する令制国。",
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"text": "文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代神武天皇(かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の吾平津媛を妃にしたという逸話に現れる。",
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"text": "また、第12代の景行天皇が子湯縣の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、景行天皇と御刀媛(みはかしひめ)の息子の豊国別皇子が日向国造の祖となったことも記している。",
"title": "「日向」の由来"
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"text": "さらに、壬申の乱で天皇となった第40代天武天皇のあとの律令制により、あらためて西海道の日向国が令制国として成立した。",
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"text": "読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。",
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"text": "したがって、日向国は古くはひむかのくにであったところ、国造制度で新たな日向国ができ、律令制からのちはひゅうがのくにと呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある。",
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"text": "古事記は、古代九州は筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)と呼ばれ、白日別、豊日別、 建日向日豊久士比泥別 、 建日別の4面があったとしているが、日向国がこの4面のどこにあったかについては諸説ある。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。",
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"text": "日向国は、宮崎県や鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、大宝2年(702年)には、隼人の反乱の端緒となった薩摩・多褹の叛乱が起きたため、現在の鹿児島県部分の西部は分割され唱更国(後の薩摩国)となり、また、和銅6年(713年)4月3日には、肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が分割され大隅国となった。",
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"text": "また日向国には「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。",
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"text": "江戸時代の藩については後述するが、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等の領域の変化はあった。ただし、郡構成は明治初期まで変化はなかった。",
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"text": "1883年(明治16年)の宮崎県再置の際、諸県郡は宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県の南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、宮崎県の北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。",
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"text": "明治維新直前の領域は、現在の宮崎県から西都市の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川)、児湯郡木城町の一部(中之又)、児湯郡西米良村の全域を除き、鹿児島県の一部(下記)を加えた区域に相当する。",
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"text": "宮崎県内の例外となっている区域は肥後国であったが、1872年(明治5年)に日向国に編入されている。鹿児島県内の区域のうち曽於市財部町下財部は1871年(明治4年)に、それ以外は1897年(明治30年)に大隅国に移管されている。",
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"text": "日向地域では旧石器時代の遺跡も発見されており、縄文時代については、塚原遺跡で辰砂を使った赤彩土器が出土している。",
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"text": "弥生時代の日向地域は、青銅器の欠如と、抉り入り方形石包丁の存在という特色がある一方、渡来鉄器や中九州地方の鉄器が出土している。",
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"text": "この時代の日向については『古事記』、『日本書紀』に多く現れるが、天照大神と素戔男尊の孫にあたる瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降臨したという天孫降臨の逸話、また、その弟の饒速日命(にぎはやひのみこと)が天照大神から十種の神宝を授かり天磐船で近畿地方に天降って稲作を伝えた逸話、瓊瓊杵尊の息子の彦火火出見尊(山幸彦)が兄の彦火火出見尊(海幸彦)を懲らしめ、隼人が天皇に仕える理由は海山彦の子孫であるためとする山幸彦と海幸彦の逸話、また、山幸彦と豊玉姫の息子の鸕鶿草葺不合尊と玉依姫が、初代天皇神武天皇の父母である旨、また、神武天皇が日向から出立し、筑紫国の菟狭国造である菟狭津彦(宇佐氏の祖)が特別に造営した宮などに滞在してから東征した神武東征の逸話がある。祖母山を祀るなどの山岳信仰もあった。",
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"text": "古墳時代になると大陸の部民制の影響も強まり、技術も発達して、今井野遺跡(延岡市)では鉄器製造の鍛冶工房跡が発見されている。",
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"text": "4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。",
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"text": "また日本書紀神功皇后紀では、現在は住吉三神となっている底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・表筒男(うわつつのお)の3神が、日向国の橘小戸郷に在するとされている。",
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"text": "『古事記』では、第12代景行天皇の息子の小碓命が命により熊曽討伐をした征西説話が記述されている。この中で小碓命が熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗ったとしている。一方、『日本書紀』では景行天皇自らが熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定しており、のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の息子の日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。",
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"text": "また、『日本書紀』や「天皇本紀」(『先代旧事本紀』第7巻)は、こののちに景行天皇の息子の豊国別皇子が日向国造となった旨を記しているが、「国造本紀」(『先代旧事本紀』第10巻)は豊国別皇子の三世孫・老男が第15代の応神天皇期に日向国造に任じられたと記している。",
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"text": "歴史学界のうち、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降にあるとされており、以上はむしろ応神・仁徳の記述の伏線であるという説もある。",
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"text": "古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示しており、記紀の第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、記紀の日向神話はこうした政治関係を背景として成立したものであり、5世紀代に豪族が出仕したものとする推測もある。",
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"text": "一方、7世紀初頭には藤原京で冠位十二階などの制度改革があったところ、6世紀から7世紀中期にかけての日向国については、第33代の推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない。",
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"text": "また、7世紀後半から8世紀前半の南九州の隼人とのあいだの政治情勢との関係も指摘されている。隼人は壬申の乱により天皇となった第40代の天武天皇(在位673年-686年)からのち、記紀が編纂される7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしているので、天皇による南九州の統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明したものと考える説もある。",
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"text": "日向国は続日本紀の文武天皇2年(698年)9月28日条にも現れるが、この日向国の成立時期は明らかでなく、7世紀末からの律令制成立に伴い改めて7世紀中期以降に設けられたと見られている。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。",
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"text": "令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から守、介、掾、目の四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。",
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"text": "8世紀前半には『日向国風土記』が編纂されているが、これは当時の西海道節度使だった藤原宇合が九州の各地域の風土記として豊後国風土記などとともに完成させたものであるという説がある。",
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"text": "弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。",
"title": "歴史"
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"text": "1185年(文治元年)惟宗忠久が、主筋である近衛家の島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、地頭職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は1197年(建久8年)に薩摩・大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。しかし、忠久が、1203年(建仁2年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、赤橋流北条氏に伝えられることとなった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。",
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"text": "南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏、北郷氏、新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。",
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"text": "そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後の大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗と真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年の木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。",
"title": "歴史"
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"text": "日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。",
"title": "歴史"
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"text": "国府は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。西都市大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。",
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"text": "これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。",
"title": "国内の施設"
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"text": "二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。",
"title": "国内の施設"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "その他、以下が日向国に領地を有していた。",
"title": "地域"
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日向国(ひゅうがのくに、ひむかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国。律令制ののちは、西海道に属し、現在の宮崎県に属する令制国。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 日向国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|日向国}}
|別称 = 日州(にっしゅう)<br/>向州(こうしゅう)
|所属 = [[西海道]]
|領域 = [[宮崎県]]{{efn|成立当初の領域は、[[鹿児島県]]の本土部分も含む。}}
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 5郡28郷
|国府 = 宮崎県[[西都市]](日向国府跡)
|国分寺 = 宮崎県西都市([[日向国分寺|日向国分寺跡]])
|国分尼寺 = 宮崎県西都市
|一宮 = [[都農神社]](宮崎県[[児湯郡]][[都農町]])
}}
'''日向国'''(ひゅうがのくに、ひむかのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった国。[[律令制]]ののちは、[[西海道]]に属し、現在の[[宮崎県]]に属する[[令制国]]。
== 「日向」の由来 ==
文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代[[神武天皇]](かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の[[吾平津媛]]を妃にしたという逸話に現れる。
{{quote|[[神武天皇|神日本磐余彥天皇]]、諱彥火火出見、[[ウガヤフキアエズ|彥波瀲武 鸕鷀草葺不合尊]] 第四子也。母曰[[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]]、[[大綿津見神|海童]]之少女也。天皇生 而明達、意礭如也、年十五 立爲太子。長 而娶'''日向國'''吾田邑[[吾平津媛]]、爲妃、生[[手研耳命]]。|日本書紀}}
また、第12代の[[景行天皇]]が[[児湯郡|子湯縣]]の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、[[景行天皇]]と[[御刀媛]](みはかしひめ)の息子の[[豊国別皇子]]が日向国造の祖となったことも記している<ref>『日本書紀』景行天皇17年3月12日条(訓は『宮崎県の歴史』(山川出版社)p. 54による)。</ref>。
{{quote|十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛。御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。<br/>
十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。}}
さらに、[[壬申の乱]]で天皇となった第40代[[天武天皇]]のあとの[[律令制]]により、あらためて[[西海道]]の日向国が令制国として成立した。
読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、'''譬武伽'''能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。
したがって、日向国は古くは'''ひむかのくに'''であったところ、[[国造]]制度で新たな日向国ができ、律令制からのちは'''ひゅうがのくに'''と呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある<ref name="地名56">『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p.56。</ref>。
== 地理 ==
[[古事記]]は、[[古代]]九州は筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)と呼ばれ<ref>[[古事記]]・[[日本書紀]]の[[国産み#比較表|国生み比較表]]</ref>、[[白日別]]、[[豊日別]]、 建'''日向'''日豊久士比泥別 、 [[建日別]]の4面があったとしているが、日向国がこの4面のどこにあったかについては諸説ある{{efn|『古事記』神代記。「久士比泥」は、くじひね、くしひね、と読む。日向の扱いには肥国説と熊曽国説がある。肥国説では、肥国の名「建日向日豊久士比泥別」に基づいて日向を含むと見る(西宮秀紀「記紀神話における日向」(『日本の神話 3 天孫降臨』(ぎょうせい)pp. 136-137)等)。<br/>一方熊曽国説では、筑紫国(筑前国・筑後国)、豊国(豊前国・豊後国)、肥国(肥前国・肥後国)として、残った日向・大隅・薩摩3国を熊曽国と見る(『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27等)}}。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では[[筑紫国]]、[[豊国]]、[[肥国]]、日向国の4面を挙げている<ref>『先代旧事本紀』[[神代本紀]]。</ref>。
<!--その後の5、6世紀には、[[筑紫国]](北部)・[[豊国]](東部)・[[肥国]](中部)・[[熊曽国]](南部)の四区分に観念していた。これは九州成立以前の政治的区分である<ref>古事記・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)は、四面をもって生まれたとされる。</ref>。※8世紀の文献-->
{{quote|次生筑紫嶋、此嶋亦、身一 而 有面四。毎面 有名。故、[[筑紫国|筑紫國]] 謂 白日別、[[豊国|豐國]] 謂 豐日別、肥國 謂 建日向日豐久士比泥別(自久至泥以音)、[[熊曽国|熊曾國]] 謂 建日別(曾字以音)。}}
日向国は、[[宮崎県]]や[[鹿児島県]]の本土部分を含む広域に渡っていたが、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])には、[[隼人の反乱]]の端緒となった[[薩摩国|薩摩]]・[[多褹国|多褹]]の叛乱が起きたため、現在の鹿児島県部分の西部は分割され唱更国(後の[[薩摩国]])となり<ref>『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。</ref><ref name="地名56"/>、また、[[和銅]]6年([[713年]])4月3日には、[[肝属郡|肝杯郡]]、[[曽於郡|贈於郡]]、[[大隅郡]]、[[姶羅郡]](現代の[[姶良郡]]とは別)の4郡が分割され[[大隅国]]となった<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第二|『続日本紀』巻二]] 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。</ref><ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD-121039 |title=日向国 ||publisher=[[コトバンク]] }}</ref>。
{|class="wikitable" width="70%" style="font-size:100%;margin:0 auto;"
|+日向国の郡郷(8世紀後半)<ref>[[#日向国風土記|日向国風土記]]。</ref>
! width="5%"|郡!! width="65%"|郷
|-
| [[臼杵郡]]||高日郷、速日郷 {{Efn|[[天照大神]]から[[十種の神宝]]を授かり天磐船で[[河内国]](大阪府交野市)に天降って近畿地方に稲作を伝えたとされている、天孫であり[[ニニギ|瓊瓊杵尊]]の弟が、'''[[ニギハヤヒ|邇芸速日]]'''の名を持っている。}}、高千穂郷 {{efn|[[日向国風土記]]は高千穂郷の項は、「この地、すなわち[[祖母山|槵日千穂の峯]]あり。[[ニニギ|皇孫の神]]、始めてこの国、[[天孫降臨|天降り]]たまうの所なり。高千穂者、貴く豊かに富むの辭なり」としている。槵日千穂の峯(くしひ ちほのみね)は、槵日高千穂之峯(くしひの たかちほのたけ)、槵觸之峯(久士布流多気、くしふるのたけ)とも書かれ、[[高千穂神社]]、[[槵觸神社]](くしふる じんじゃ)、[[健男霜凝日子神社]](たけおしもごおりひこ じんじゃ)などが関連神社。}}、都農郷、高鍋郷
|-
| [[児湯郡]]||檍原郷(あわぎはら){{efn|日向国風土記には、檍原郷が[[住吉神社]]の発祥地である旨が記載されている。}}、喜理島郷、橘小戸郷(たちばなおど)、佐土原郷(さとはら)、来理島郷(くるしま)
|-
| [[那珂郡 (日向国)|那河郡]]||中川郷、吉田郷、明郷(あかり)、芹本郷、吾平郷
|-
| [[宮崎郡]]||日殿郷(ほどの)、太宮郷、松原郷、秋山郷、谷郷、三浦郷
|-
| [[諸県郡|諸縣郡]]<br/>||縣郷(あがた)、高屋郷、折本郷、玉屋郷、坂本郷、枝郷
|}
また日向国には「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、[[真幸院]]、[[三俣院]]、[[穆佐院]]、[[新納院]]、[[飫肥院]]、[[土持院]]、[[櫛間院]]、[[救仁院]]の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
江戸時代の藩については[[#江戸時代の藩|後述]]するが、米良・椎葉地域が肥後との間で[[近世]]初期まで曖昧であった等の領域の変化はあった<ref name="地名56"/>。ただし、郡構成は[[明治]]初期まで変化はなかった。
[[1883年]](明治16年)の宮崎県再置の際、諸県郡は宮崎県に属する[[北諸県郡]]と鹿児島県の[[南諸県郡]](志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、宮崎県の北諸県郡が北諸県郡・[[西諸県郡]]・[[東諸県郡]]、那珂郡が[[北那珂郡]]・[[南那珂郡]]、臼杵郡が[[東臼杵郡]]・[[西臼杵郡]]にそれぞれ分割された。
=== 領域 ===
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[宮崎県]]から[[西都市]]の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川)、[[児湯郡]][[木城町]]の一部(中之又)、児湯郡[[西米良村]]の全域を除き、[[鹿児島県]]の一部(下記)を加えた区域に相当する。
* [[曽於市]]の一部(財部町下財部・大隅町月野・大隅町境木町・大隅町荒谷)
* [[志布志市]]
* [[曽於郡]][[大崎町]]
宮崎県内の例外となっている区域は[[肥後国]]であったが、[[1872年]]([[明治]]5年)に日向国に編入されている。鹿児島県内の区域のうち曽於市財部町下財部は[[1871年]](明治4年)に、それ以外は[[1897年]](明治30年)に[[大隅国]]に移管されている。
== 歴史 ==
=== 弥生時代まで ===
日向地域では[[旧石器時代]]の遺跡も発見されており<ref>『[https://www.miyazaki-archive.jp/maibun/chishiki/ayumi-sekki.html 遺跡で見る宮崎の歩み(旧石器~弥生)]』。宮崎県埋蔵文化財センター。</ref>、縄文時代については、[[塚原遺跡 (宮崎市)|塚原遺跡]]で[[辰砂]]を使った赤彩土器が出土している<ref>『[https://www.miyazaki-archive.jp/maibun/tenji/ 塚原遺跡(宮崎市国富町)]』。宮崎県埋蔵文化財センター。</ref>。
[[弥生時代]]の日向地域は、[[青銅器]]の欠如と、抉り入り方形石包丁の存在という特色がある一方<ref>『宮崎県の地名』(山川出版社)p. 30。</ref>、渡来鉄器や中九州地方の鉄器が出土している<ref name="tenji">[https://www.miyazaki-archive.jp/maibun/tenji/ 宮崎県埋蔵文化財センター]。</ref>。
この時代の日向については『古事記』、『日本書紀』に多く現れるが<ref name="地名27">『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。</ref>、[[天照大神]]と[[スサノオ|素戔男尊]]の孫にあたる[[ニニギ|瓊瓊杵尊]]が[[祖母山|高千穂]]の峰に降臨したという[[天孫降臨]]の逸話、また、その弟の[[饒速日命]](にぎはやひのみこと)が[[天照大神]]から[[十種の神宝]]を授かり天磐船で近畿地方に天降って[[稲作]]を伝えた逸話、瓊瓊杵尊の息子の[[ホオリ|彦火火出見尊]](山幸彦)が兄の[[ホデリ|彦火火出見尊]](海幸彦)を懲らしめ、[[隼人]]が天皇に仕える理由は海山彦の子孫であるためとする[[山幸彦と海幸彦]]の逸話、また、山幸彦と[[豊玉姫]]の息子の[[ウガヤフキアエズ|鸕鶿草葺不合尊]]と[[タマヨリビメ_(日向神話)|玉依姫]]が、初代天皇[[神武天皇]]の父母である旨、また、神武天皇が日向から出立し、筑紫国の菟狭国造である[[ウサツヒコ|菟狭津彦]]([[宇佐氏]]の祖)が特別に造営した宮などに滞在してから東征した[[神武東征]]の逸話がある。[[祖母山]]を祀るなどの[[山岳信仰]]もあった。
=== 古墳時代 ===
[[古墳時代]]になると大陸の[[部民制]]の影響も強まり、技術も発達して、[[今井野遺跡]]([[延岡市]])では鉄器製造の鍛冶工房跡が発見されている<ref name="tenji"/>。
[[4世紀]]以降は新田原・茶臼原・[[西都原古墳群|西都原]]・本庄・六野原・[[生目古墳群|生目]]といった畿内型古墳群が展開した<ref>『国史大辞典』(吉川弘文館)日向国項。</ref>。
また日本書紀神功皇后紀では、現在は[[住吉三神]]となっている底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・表筒男(うわつつのお)の3神が、日向国の橘小戸郷に在するとされている。
{{quote|於 '''日向國''' 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也}}
=== 熊曽討伐 ===
[[ファイル:Yamato Takerunomikoto & Kawakami Takeru.jpg|サムネイル|日本武尊と川上梟帥。[[月岡芳年]]画]]
『古事記』では、第12代[[景行天皇]]の息子の[[ヤマトタケル|小碓命]]が命により熊曽討伐をした征西説話が記述されている。この中で小碓命が熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗ったとしている。一方、『日本書紀』では景行天皇自らが熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定しており、のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の息子の日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。
また、『[[日本書紀]]』や「[[天皇本紀]]」(『先代旧事本紀』第7巻)は、こののちに[[景行天皇]]の息子の[[豊国別皇子]]が[[日向国造]]となった旨を記しているが、「[[国造本紀]]」(『[[先代旧事本紀]]』第10巻)は豊国別皇子の三世孫・老男が第15代の[[応神天皇]]期に日向国造に任じられたと記している。
歴史学界のうち、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降にあるとされており<ref name="地名56"/>、以上はむしろ応神・仁徳の記述の伏線であるという説もある<ref name="地名27"/>。
=== 飛鳥・奈良・平安時代 ===
古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示しており<ref name="地名56"/>、[[記紀]]の第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、記紀の日向神話はこうした政治関係を背景として成立したものであり、5世紀代に豪族が出仕したものとする推測もある<ref name="地名57">『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』p. 57。</ref>。
一方、7世紀初頭には[[藤原京]]で[[冠位十二階]]などの制度改革があったところ、[[6世紀]]から[[7世紀]]中期にかけての日向国については、第33代の[[推古天皇]]期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない<ref name="地名57"/>。
また、[[7世紀]]後半から[[8世紀]]前半の南九州の[[隼人]]とのあいだの政治情勢との関係も指摘されている<ref name="地名27"/>。隼人は[[壬申の乱]]により天皇となった第40代の[[天武天皇]](在位673年-686年)からのち、記紀が編纂される7世紀末から8世紀前期に4回の[[隼人の反乱|反乱]]を起こしているので<ref name="地名27"/>、天皇による南九州の統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明したものと考える説もある<ref>『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。</ref>。
<!--※日本書記 「日向国」の文献上の初見は-->日向国は[[続日本紀]]の文武天皇2年([[698年]])9月28日条にも現れるが、この日向国の成立時期は明らかでなく、7世紀末からの律令制成立に伴い改めて7世紀中期以降に設けられたと見られている<ref name="地名56"/>。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた<ref name="地名57"/>。[[大宝 (日本)|大宝]]2年 ([[702年]]) に[[唱更国]](後の[[薩摩国]])、[[和銅]]6年 ([[713年]])に[[大隅国]]が分立した。
令制では大上中下のうちの[[中国 (令制国)|中国]]とされ、中央から[[国司|守]]、[[国司|介]]、[[掾]]、[[目 (国司)|目]]の[[四等官]]とそれを補佐する[[史生]]が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や[[四度使]]の監査など、[[大宰府]]の強い管理下に置かれた。
8世紀前半には『[[日向国風土記]]』が編纂されているが、これは当時の[[西海道]]節度使だった[[藤原宇合]]が九州の各地域の風土記として[[豊後国風土記]]などとともに完成させたものであるという説がある。
弘仁6年([[815年]])には[[軍団 (古代日本)|軍団]]1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。
=== 鎌倉時代 ===
[[1185年]]([[文治]]元年)[[惟宗忠久]]が、主筋である[[近衛家]]の[[島津荘]](南九州にあった大荘園)の[[下司職]]に補任され、[[地頭]]職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は[[1197年]]([[建久]]8年)に[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]にあわせ日向の初代[[守護]]職に任じられた。しかし、忠久が、[[1203年]]([[建仁]]2年)、[[比企能員の変]]に[[連座]]し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、[[赤橋流北条氏]]に伝えられることとなった。
日向国北部一帯を有した[[宇佐神宮]]の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の[[延岡市]]周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を[[土持氏]]が、西部山間部(現在の[[高千穂町]]周辺)を[[大神氏 (豊後国)|大神氏]]の流れをくむ[[三田井氏]]が地頭として勢力を有していたが、[[鎌倉幕府|鎌倉]][[御家人]]の[[伊東氏]]が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。
=== 室町時代 ===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]においては、[[北朝 (日本)|北朝]]方より南九州の大将として[[畠山直顕]]が日向国に派遣され、[[南朝 (日本)|南朝]]方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は[[観応の擾乱]]において[[足利直義]]に味方し、[[足利尊氏]]方に味方した[[島津氏]]と争い敗れた。その後も[[九州探題]]が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から[[室町時代]]中期にかけては、北部は[[土持氏]]、中央部は[[伊東氏]]、南西部は[[北原氏]]、南東部は[[豊州家|豊州島津氏]]、[[北郷氏]]、[[新納氏]]といった[[島津氏|島津]]一族を中心として、各地の[[国人]]領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。
そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり[[豊後国|豊後]]の[[大友氏]]に臣従するようになる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、新納氏が[[薩州家|薩州島津氏]]により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった[[伊東義祐]]により、[[禅宗]]と[[浄土真宗|真宗]]で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、[[大隅国]]にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が[[飫肥]]から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、[[1572年]]の[[木崎原の戦い]]により伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]の統一を果たした[[伊作家|島津氏]]が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の[[大友義鎮]]を頼ったが、島津氏が[[1578年]]の[[耳川の戦い]]において大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、[[1587年]][[豊臣秀吉|秀吉]]の[[九州征伐]]を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。
=== 江戸時代 ===
日向国に大きな大名は置かれず、[[天領]]と小藩に分割された。[[延岡藩]]、[[高鍋藩]]、[[佐土原藩]](薩摩藩支藩)、[[飫肥藩]]。この他、隣の[[大隅国]]から大きくはみ出るように[[薩摩藩]]が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の[[人吉藩]]も領地を持った。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(377村・417,393石2斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[臼杵郡]](73村・42,290石余) - [[天領|幕府領]]([[西国筋郡代]]・[[人吉藩]][[預地]])、'''[[延岡藩]]'''、高鍋藩
** [[那珂郡 (日向国)|那珂郡]](80村・107,494石余) - 幕府領(飫肥藩預地)、[[地方知行|旗本領]]、'''[[飫肥藩]]'''、'''[[佐土原藩]]'''、高鍋藩
** [[児湯郡]](52村・59,552石余) - 幕府領(西国筋郡代)、'''[[高鍋藩]]'''、佐土原藩
** [[宮崎郡]](31村・39,982石余) - 幕府領(飫肥藩預地)、旗本領、延岡藩、飫肥藩
** [[諸県郡]](141村・168,073石余) - 幕府領(西国筋郡代)、旗本領、高鍋藩、[[薩摩国|薩摩]][[鹿児島藩]]
* [[慶応]]4年
** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1868年]][[6月15日]]) - 人吉藩預地を除く幕府領が'''[[富高県]]'''の管轄となる。
** [[8月17日 (旧暦)|8月17日]](1868年[[10月2日]]) - 富高県の管轄区域が'''[[日田県]]'''の管轄となる。
* 明治4年
** 2月 - 領知替えにより、日田県の管轄区域が延岡藩領となる。人吉藩預地が日田県の管轄となる。
** 6月 - 日田県の管轄地域が人吉藩領となる。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[延岡県]]'''、'''[[高鍋県]]'''、'''[[佐土原県]]'''、'''[[飫肥県]]'''および[[人吉県]]、[[鹿児島県]]の飛地となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、臼杵郡・児湯郡および那珂郡・宮崎郡・諸県郡の各一部(概ね[[大淀川]]以北)が'''[[美々津県]]'''、那珂郡・宮崎郡・諸県郡の各残部が'''[[都城県]]'''の管轄となる。
* 明治5年([[1872年]]) - [[肥後国]][[球磨郡]]小川村・越野尾村・銀鏡村・上揚村・八重村・中尾村・村所村・板谷村・竹原村・横野村・上米良村・寒川村・中之又村・尾八重村の所属郡が児湯郡に変更<ref>「旧高旧領取調帳」では明治5年に肥後国球磨郡から所属郡が変更された14村も児湯郡として記載されている。</ref>。
* 明治6年([[1873年]])[[1月15日]] - 全域が'''[[宮崎県]]'''(第1次)の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''鹿児島県'''の管轄となる。
* 明治16年([[1883年]])[[5月9日]] - 諸県郡の一部を除いて'''宮崎県'''(第2次)の管轄となる。鹿児島県諸県郡が[[南諸県郡]]となる。
* 明治30年([[1897年]])[[4月1日]] - 南諸県郡・[[大隅国]][[東囎唹郡]]の区域をもって大隅国[[曽於郡|囎唹郡]]が発足。旧・南諸県郡域が大隅国の所属となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[File:Terasaki iseki.JPG|thumb|200px|right|寺崎遺跡([[宮崎県]][[西都市]])<br />日向国府跡。]]
[[国府]]は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。[[西都市]]大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
; [[日向国分寺]]
: 宮崎県西都市妻町三宅国分。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社4座4社が記載されている(「[[日向国の式内社一覧]]」参照)。大社はない。
* [[児湯郡]] [[都農神社]] (児湯郡[[都農町]]川北)
* 児湯郡 [[都萬神社]] (西都市妻)
* [[宮埼郡]] [[江田神社 (宮崎市)|江田神社]] ([[宮崎市]]阿波岐原町)
* [[諸県郡]] [[霧島神社]] - 論社4社。
これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 [[都萬神社]]
* 一宮 '''[[都農神社]]'''
二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 宮崎県日南市飫肥にあった。
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[臼杵郡]]
* [[児湯郡]]
* [[那珂郡 (日向国)|那珂郡]]
* [[宮崎郡]]
* [[諸県郡]]
=== 江戸時代の藩 ===
*[[延岡藩]]、[[高橋氏#筑後高橋氏|高橋家]](5万石)→[[肥前有馬氏|有馬家]](5万石→5.3万石)→[[三浦氏#義村流|三浦家]](2.3万石)→[[三河牧野氏|牧野家]](8万石)→[[内藤氏#内藤氏(三河系)|内藤家]](7万石)
:現[[延岡市]]を中心とした県北一帯。[[飛地]]として、現宮崎市北部。
*[[高鍋藩]]、[[秋月氏|秋月家]](3万石→2.7万石)
:現[[児湯郡]][[高鍋町]]周辺や[[美々津]]。飛地として、[[串間市]]周辺と宮崎市の一部。
*[[飫肥藩]]、[[伊東氏#日向伊東氏|伊東家]](5.7万石→5.4万石→5.1万石)
:現[[日南市]]、宮崎市南部
*[[佐土原藩]](薩摩藩支藩、3万石→2.7石)
:現宮崎市佐土原町及び周辺地域一帯、西都市南部
*[[天領]]:現[[宮崎市]]周辺(宮崎市[[佐土原町]]一帯を除く)、[[日向市]]、[[国富町]]本庄、[[西都市]]北部
** [[西国筋郡代]](役所は[[日田代官所]])配下、出張所として[[富高陣屋]](現日向市)を置き、支配にあたった。
その他、以下が日向国に領地を有していた。
*[[薩摩藩]]([[島津氏]]):現宮崎県南西部一帯および鹿児島県[[志布志市]]、[[大崎町 (代表的なトピック)|大崎町]]など。
** 都城領主館 [[北郷氏|都城島津氏(北郷氏)]] :現[[都城市]]
* [[人吉藩]]([[相良氏]]):現宮崎県西部山間部
* [[交代寄合]]の[[米良氏|米良家]]の米良陣屋:現[[西米良村]]、西都市西部、[[木城町]]中之又。[[美々津県]]時代に八代県[[球磨郡]]から移管。
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 日向守 ====
* [[安倍黒麻呂]]、[[天平宝字]]5年([[761年]])頃。[[藤原広嗣の乱]]における広嗣捕縛([[740年]]([[天平]]12年)の功をひくものか?)
* [[田口大戸]]、天平宝字6年([[762年]])[[任官]]
* [[笠不破麻呂]]、天平宝字7年([[763年]])[[任官]]
* [[陽侯令珍]]、天平宝字7年([[763年]])[[任官]]
* [[大津大浦]]、[[天平神護]]元年([[765年]])[[任官]]、左遷人事
* [[犬上望成]]、[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])任官
* [[甘南備浜吉]]、[[弘仁]]5年([[814年]])任官
* [[八田桑田麻呂]]、弘仁6年([[816年]])任官
* [[香山全継]]、弘仁14年([[828年]])任官
* [[秦氏継]]、[[承和 (日本)|承和]]9年([[842年]])任官
* [[淡海真浄]]、承和12年([[845年]])任官
* [[継岑王]]、[[嘉祥]]3年([[850年]])任官
* [[藤原頴基]]、[[斉衡]]2年([[855年]])任官
* [[阿部弘行]]、[[元慶]]5年([[881年]])任官
* [[大江玉淵]]、[[仁和]]2年([[886年]])任官
* [[源重之]]
* [[藤原保昌]]
* [[信西|藤原通憲(信西)]]
* [[惟宗基言]] - [[島津氏]]の祖[[島津忠久|惟宗忠久(島津忠久)]]の祖父に当たるとされる。
==== 日向介・権介 ====
* [[三形王]] [[782年]]([[天応 (日本)|天応]]2年)[[任官]]、左遷人事。
* [[藤原末茂]] [[784年]]([[延暦]]3年)任官、左遷人事。
* [[百済王俊哲]] [[787年]](延暦6年)任官、左遷人事。
==== 日向掾・権掾 ====
* [[藤原乙縄]] [[757年]]([[天平宝字]]元年)任官、左遷人事。
* [[藤原粟作]] [[842年]]([[承和 (日本)|承和]]9年)任官、左遷人事。
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* 1197年 - 1203年 - [[島津忠久]]
* 1280年 - ? - [[北条久時]]
* ? - 1333年 - 北条氏
==== 室町幕府 ====
* 1333年 - 1335年 - [[島津貞久]]
* 1335年 - 1336年 - [[細川頼春]]
* 1337年 - [[大友氏泰]]
* 1338年 - ? - 島津貞久
* 1345年 - 1352年 - [[畠山直顕]]
* 1353年 - ? - [[一色直氏]]
* 1357年 - 1364年 - [[一色範親]]
* 1375年 - ? - [[島津氏久]]
* 1383年 - 1384年 - [[大友親世]]
* 1384年 - ? - [[今川貞世]]
* 1391年 - 1411年 - [[島津元久]]
* 1411年 - 1425年 - [[島津久豊]]
* 1425年 - 1470年 - [[島津忠国]]
* 1470年 - 1474年 - [[島津立久]]
* 1474年 - 1507年 - [[島津忠昌]]
* 1507年 - 1515年 - [[島津忠治]]
* 1515年 - 1519年 - [[島津忠隆]]
* 1519年 - 1527年 - [[島津勝久]]
* 1527年 - 1566年 - [[島津貴久]]
=== 戦国時代 ===
==== 戦国大名 ====
*[[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]:日向の最大勢力。島津氏に敗れ1576年に一時没落するが、豊臣秀吉の[[九州征伐]]で戦功をあげた功績により、再び大名として復活を遂げる。
*[[土持氏]]:日向守護代。日向北部に勢力を持ち、後に伊東氏と対抗した。1580年、[[大友義鎮|大友宗麟]]に敗北し滅亡。
*[[北郷氏]];島津氏の支流。都城付近を領有し、北原氏・伊東氏と争った。
*[[北原氏]]:[[真幸院]](現[[えびの市]]・[[小林市]])と周辺を領有していたが、伊東氏の謀略により衰退。
*[[島津氏]]:日向・大隅・薩摩守護。1576年に日向を征服、さらに進出しほぼ九州統一にいたるも、豊臣秀吉の[[九州征伐]]により敗走。薩摩・大隅2カ国と日向真幸院を所領とする。
==== 豊臣政権の大名 ====
*[[伊東祐兵]]:清武・曾井2万8千石→[[飫肥城|飫肥]]5万7千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、[[飫肥藩]]に)
*[[秋月種長]]:串間3万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、政庁を移し[[高鍋藩]]に)
*[[高橋元種]]:縣([[延岡城|延岡]])5万3千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、[[延岡藩]]に)
*[[島津豊久]]:[[佐土原城|高城]]2万8千石、1587年 - 1600年(豊久は関ヶ原の戦い後で戦死するが、[[島津以久]]が跡をつぎ、[[薩摩藩]]支藩[[佐土原藩]]に)
=== 武家官位としての日向守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[蒲池武久]]
*[[三好長逸]]
*[[飯森盛春]]
*[[明智光秀]] [[1575年]](天正3年)[[任官]]。
*[[小西行長]]
==== 江戸時代 ====
*[[水野氏|水野家]]宗家([[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]・[[下総国|下総]][[結城藩]]藩主)
**[[水野勝成]]:初代藩主
**[[水野勝貞]]:第3代藩主
**[[水野勝政]]:第7代藩主
**[[水野勝庸]]:第8代藩主
**[[水野勝前]]:第9代藩主
**[[水野勝起]]:第10代藩主
**[[水野勝剛]]:第11代藩主
**[[水野勝愛]]:第12代藩主
**[[水野勝進]]:第13代藩主
**[[水野勝任]]:第14代藩主
**[[水野勝知]]:第15代藩主
*[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]][[石川氏|石川家]]
**[[石川総純]]:第3代藩主
**[[石川総博]]:第4代藩主
**[[石川総紀]]:第8代藩主
**[[石川成之]]:第11代藩主
*[[下野国|下野]][[宇都宮藩]][[戸田氏|戸田家]]
**[[戸田忠真]]:下総[[佐倉藩]]、[[越後国|越後]][[高田藩]]主、下野[[宇都宮藩]]初代藩主、老中
**[[戸田忠余]]:第2代藩主
**[[戸田忠盈]]:第3代藩主、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]初代藩主
**[[戸田忠延]]:(第二期)第3代藩主
*[[摂津国|摂津]][[高槻藩]][[永井氏|永井家]]
**[[永井直清]]:初代藩主
**[[永井直種]]:第3代藩主
**[[永井直達]]:第4代藩主
**[[永井直進]]:第9代藩主
**[[永井直諒]]:第13代藩主
*越後[[糸魚川藩]][[越前松平家|松平家]]
**[[松平堅房]]:第3代藩主
**[[松平直紹]]:第4代藩主
**[[松平直益]]:第5代藩主
**[[松平直春]]:第6代藩主
**[[松平茂昭]]:第7代藩主、[[越前国|松平]][[福井藩]]第17代藩主
**[[松平直静]]:第8代藩主
*その他
**[[有馬温純]]:越前[[丸岡藩]]主
**[[石川家成]]:[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]主
**[[酒井忠能]]:[[上野国|上野]][[伊勢崎藩]]([[那波藩]])主、[[信濃国|信濃]][[小諸藩]]主、[[駿河国|駿河]][[田中藩]]主
**[[佐久間安長]]:[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]主
**[[牧野貞喜]]:[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主
**[[松平信之]]:[[播磨国|播磨]][[明石藩]]、[[大和国|大和]][[郡山藩]]、下総[[古河藩]]主、老中
**[[水野忠幹 (松本藩主)|水野忠幹]]:信濃[[松本藩]]主
**[[毛利就隆]]:[[周防国|周防]][[下松藩|下松]](のち[[徳山藩|徳山]])藩主
== 日向国での合戦 ==
* [[1379年]] : [[蓑原の合戦]]
* [[1572年]] : [[木崎原の戦い]]
* [[1578年]] : [[耳川の戦い]]
* [[1587年]] : [[根白坂の戦い]]
* [[1599年]] : [[庄内の乱]]
== 脚注 ==
; 注釈
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; 出典
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== 参考文献 ==
* {{anchors|日向国風土記}}{{Cite book| 和書| translator=| editor=藤原宇合|editor-link=藤原宇合| year=1556| origyear=8世紀前半| url=http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-429213 |title=日向国風土記 | publisher=[[権大宮司冨成]]写本、[[国文学研究資料館]]| location =| page=|section=| quote=| isbn=| ref=harv}}
* [[角川日本地名大辞典]] 45 宮崎県
* [http://www.rekihak日向国風土記u.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hyuga Province}}
* [[三国名勝図会]]
* [[令制国一覧]]
* [[日向 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[伊勢型戦艦]]の2番艦。艦名は日向国に因む。
* [[ひゅうが (護衛艦)]]‐[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。[[ひゅうが型護衛艦]]の1番艦。
* [[ひゅうが (列車)]]
* [[ひむか (小惑星)]]
{{令制国一覧}}
{{日向国の郡}}
{{DEFAULTSORT:ひゆうかのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:西海道|国ひゆうか]]
[[Category:宮崎県の歴史]]
[[Category:鹿児島県の歴史]]
[[Category:日向国|*]]
[[Category:景行天皇]]
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アルミ箔
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アルミ箔(アルミはく)あるいはアルミホイル(英: aluminium foil)は、アルミニウムやアルミニウム合金でできた箔。日本産業規格(JIS ジス)では厚さ200マイクロメートルつまり0.2 mm以下のものを「箔」と定義しているので、結果として、日本国内では厳密に言う場合は厚さ0.2 mm以下のものがそう呼ばれている。一方、aluminium foilアルミニウムフォイルという呼び方は英語圏や米国の影響下にある国などで広く使われ、工業規格の適用が異なる場合があり、また日常的には必ずしも厳密に使われる用語でもないなどの理由で0.2mmより若干厚いものでもそう呼ばれている可能性はある。一般的には0.2 - 0.006 mm (0.02 - 0.0006 cm) 程度の厚さであり、さまざまな厚さのものが製造されている。
素材はアルミニウムもしくは比較的純度の高いアルミニウム合金であり、製造法は高速圧延である。
用途はアルミニウムの純度や厚さによって異なり、また金属以外の素材と組み合わせて複合素材の箔にしている場合も、組み合わせる素材によって用途が異なる。
酸素遮蔽、耐水、耐油、電磁遮蔽・反射、赤外線反射、遮光、耐熱などの性質・機能があり、それらを活かして多様な用途に使われている。(→#用途)
紙やプラスチックフィルムに比べて酸素や水蒸気といった気体を通し難い性質、ガスバリヤー性がある。電磁波全般を遮断・反射させる性質があるので、電波を遮断・反射し、遮光性もあり光を反射する。表面に不働態皮膜を作るアルミニウムの性質から、長期に渡り表面の光沢が失われることがない。また柔軟なため数度の折り曲げ程度では断裂しない。はさみで切ると刃先に構成刃先(英語版)という現象が起き、一時的に切れ味が回復する。なおアルミニウムはイオン化傾向が大きいため、もし口に含みさらに口内に他の金属がある場合は起電力によって特有のピリピリした感覚を感じるときがある。
JIS規格では「厚さ0.006mm-0.2mmのアルミニウム圧延素材」と定義されているが、実際はやや範囲が広く0.2mmから0.005mmまでのものが作られており、家庭用アルミホイルでは0.015mm-0.02mmの厚さのものが販売されている。家庭用は、製造工程の特性で薄膜にしたときに微細なピン・ホールが残り酸素が透過できるため、食材の酸化を長期間防止するには25μm (0.025mm) 程度のものが用いられる。
そもそも、アルミニウムに限定せず金属の箔(フォイル)というものはどこでいつから使われていたかについて視野を広げて眺めてみると、紀元前2600年の古代エジプトから金箔が作られていた。金箔は日本でも奈良・平安時代などでも使われていた。19世紀ころまではヨーロッパで錫(ピューター)の箔が広く使われていたがこれはまだ高級品であった。
その後、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでアルミの製錬が始まったころに手打ちによるアルミ箔作りが始まった。当時の手打ちのフォイルはシート状ではなく、フレーク(小さな断片)状のものだった。
アルミ箔(アルミニウムフォイル)を最初に大量に製造販売したのは1910年、スイスのアルミ精錬会社 J.G. Neher & Sons とされる。それまでの食品保護などに用いられたスズ箔が、接触部分にわずかながらスズの金属食味、つまり金属の味を感じさせてしまうのに対し、アルミニウムならほとんど食味変化がないという利点があるので、アルミニウム製に置き換えられてゆくことになった。アルミニウムのエンドレス圧延の技術は1907年に J.G. Neher & sons と Dr. Lauber が開発に成功した。
(出典:日本のアルミニウム協会のWebサイト)
(出典:日本のアルミニウム協会のWebサイト)
その他、上記以外の業界でも、酸素遮蔽、耐水、耐油、電磁遮蔽・反射、赤外線反射、遮光、耐熱などの性質・機能を活かして多様な用途に使われている。
加工品としてアルミカップがある。また、厚手のものを容器にした鍋焼きうどん、ガスコンロの汁受部分のカバー、使い捨ての換気扇カバーなど二次的な製品も多数開発され、暮らしの役に立っている。
薄手のものを紙と張り合わせ、湿気を遮断するためにタバコの内包装にも用いられる。
和紙や薄葉紙と張り合わせ、折紙の用紙として用いられることもある。これを俗に銀紙(ぎんがみ)と呼ぶが、厳密には銀は使われていない。また、動物などのメタリックな立体作品を仕上げたり、叩いて銀色の球体(アルミボール)を作ったりする美術・芸術用途もある。
家庭用のアルミホイルはスーパー、コンビニ、ホームセンターなどで広く販売されており、家庭内では主にキッチンまわりで使われ、食材や料理の保存時に包むために使われたり、水蒸気を遮断し保つ性質を利用して、旨みを閉じ込めたまま蒸し焼きにするために食材を包むのに使われたり(ホイル焼きというジャンルとして確立している)、煮物を作る時の落とし蓋に使ったり、パエリアを調理する時にパエリア鍋を包む蓋として使うのも定番である。弁当箱や皿に敷くためにも使われる。ラップフィルムより光や空気、水分を通しにくいため冷蔵庫・冷凍庫に入れる食品を包むと保存性が高まる。耐熱性・耐火性があるのでオーブンで食材を加熱する時の即席の皿としても使われる。食品が張り付きにくくするため表面をエンボス加工したりシリコン樹脂やセラミックでコーティングしたアルミホイルも販売されている。なお電子レンジ調理に使用すると火花が出ることがあるため基本的に使用してはならないとされている。(だが電子レンジでゆで卵を作る時は、逆に、アルミホイルを使ったほうが良いとされ、卵をアルミ箔で包んだものと水をコップに入れてチンするとうまくゆく、アルミ箔を使えば卵がレンジ内で爆発してしまうことを防げる、と解説されている。レンジの電磁波が卵に直接到達することを防ぎ、周囲のお湯からの熱伝導だけでゆっくりと加熱できる)
電磁波を遮断・反射する性質を利用して、家庭内ルーターのWifiの電波を強め端末側の受信状態を改善するための簡易的な反射板づくりにも家庭で活用されている。そもそも近年のwifi装置に限らず、理系・技術系の人々は古くから、家電品、アンテナケーブル、ネットワーク装置、ネットワークケーブルなどから出る電磁波が干渉しあって機器間で悪影響が出るのを抑制するために電磁波シールド(遮蔽物)として活用することや、家庭用アルミ箔と合板や段ボールを材料に簡易的なパラボラアンテナを自作する、などということがある。
加工品としてアルミカップがある。また、厚手のものを容器にした鍋焼きうどん、ガスコンロの汁受部分のカバー、使い捨ての換気扇カバーなど二次的な製品も多数開発され、暮らしの役に立っている。
薄手のものを紙と張り合わせ、湿気を遮断するためにタバコの内包装にも用いられる。
和紙や薄葉紙と張り合わせ、折紙の用紙として用いられることもある。これを俗に銀紙(ぎんがみ)と呼ぶが、厳密には銀は使われていない。また、動物などのメタリックな立体作品を仕上げたり、叩いて銀色の球体(アルミボール)を作ったりする美術・芸術用途もある。
日本では一般家庭用のものについて「食事用、食卓用又は台所用のアルミニウムはく」という分類・名称で家庭用品品質表示法の適用対象としており、雑貨工業品品質表示規程に定めがある。
流通時の形態としては、一般的に食品用ラップフィルムと同様に紙筒を芯として巻き取り紙箱に収める形態をとるが、ティッシュペーパーのように四角形に裁断して、箱に収めたポップアップの形態をとる製品もある(カットホイルという)。
「アルミ素材メーカー」での加工と「アルミホイルメーカー」での加工の2段階で製造される。
アルミ素材メーカーでは、まずボーキサイトから精錬によって純度99.5%-99.7%程度のアルミ・インゴットを作る。このインゴットを溶解して圧延用鋳塊(スラブ)を作り、面削加工を経て、いったん660°C程度まで加熱する。アルミニウムの再結晶温度である400°C以上になったスラブは熱間圧延によって厚板に加工され、さらに室温まで冷えたアルミ厚板は多段の冷間圧延によって0.4mmの薄さまで加工される。圧延機のロールで圧縮されることで硬化したアルミの「箔地(はくじ)」ロールは電気炉でもう一度350°C程度まで加熱されて「焼鈍し(やきなまし)」が行なわれて軟化され、同時に圧延時に付いた油が蒸発・除去される。1本約8トンの箔地ロールはホイルメーカーへ送られる。これ1本で最終製品117,000本相当となる。
アルミ素材メーカーから送られてきた箔地ロールは、特に薄い箔を製造するために高速4段圧延機のような高い圧力を生み出す特殊な冷間圧延機によって0.4mmから0.025mmまで徐々に箔にまで薄くされる。この圧延機はキスロール圧延機と呼ばれ、2本のロールは単に一直線に接するだけでなく、圧延対象物であるアルミによって起きるワークロールの弾性変形分を含めて設計されている。これらの加工では箔地1本で1時間かかり、0.025mmのものでは最高で1,250m/分もの速度で巻き取られてゆく。圧延機に供給される前に重合機(ダブラー)により2枚が重ねられ、あいだに圧延油が噴霧されて圧延後はがしやすくされている。最後の圧延工程では1枚0.025mmのものが2枚、重合圧延機にかけられ0.012mmまで1度に圧延される。圧延後は分離機(セパレーター)で2枚にはがされる。
2枚の箔はそれぞれ1枚に、ロールと接触する外側とアルミ同士が向き合う内側の面が生まれる。ロールと接触する外側面では圧延ロールの平滑な研磨面が写し取られるために、光沢を持った面が生じる。反対のアルミ同士が向き合う内側面では圧延油を介して自由に変形するために微小な凹凸が生じて、光を乱反射する白っぽいつや消し面になる。例えば3枚を重ねれば中央では両面つや消しのものとなり、生産性も向上しそうだが、中央の箔は変形のコントロールが難しく欠陥が多くなるために実用化はされていない。圧延油には灯油に近い低粘度の鉱油が使用され、高速度での圧延を可能にしている。約1日半の間、焼きなまし加工を兼ねた「焼鈍」と呼ばれる電気炉による300°Cの加熱工程によって圧延油は蒸発し除去される。製品とするために小さく紙の芯に巻き取って、切り分けられ、箱に詰められて販売される。
2005年、公正取引委員会は価格カルテルを結んでいたとして、大手アルミホイル製造メーカー6社に対して、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反による排除勧告を行った。
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}
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アルミ箔(アルミはく)あるいはアルミホイルは、アルミニウムやアルミニウム合金でできた箔。日本産業規格では厚さ200マイクロメートルつまり0.2 mm以下のものを「箔」と定義しているので、結果として、日本国内では厳密に言う場合は厚さ0.2 mm以下のものがそう呼ばれている。一方、aluminium foilアルミニウムフォイルという呼び方は英語圏や米国の影響下にある国などで広く使われ、工業規格の適用が異なる場合があり、また日常的には必ずしも厳密に使われる用語でもないなどの理由で0.2mmより若干厚いものでもそう呼ばれている可能性はある。一般的には0.2 - 0.006 mm 程度の厚さであり、さまざまな厚さのものが製造されている。
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[[Image:Aluminium foil.jpg|thumb|right|180px|アルミ箔]]
[[Image:Aluminium foil cup.jpg|thumb|right|180px|アルミ箔の加工品の例。アルミ箔のカップ。]]
'''アルミ箔'''(アルミはく)あるいは'''アルミホイル'''<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%AB-428714]</ref>({{lang-en-short|aluminium foil}})は、[[アルミニウム]]やアルミニウム[[合金]]でできた箔<ref name='ndz'>『日本大百科全書』</ref>。[[日本産業規格]](JIS ジス)では厚さ200マイクロメートルつまり0.2 mm以下のものを「箔」と定義している<ref name='ndz' />ので、結果として、日本国内では厳密に言う場合は厚さ0.2 mm以下のものがそう呼ばれている。一方、aluminium foilアルミニウムフォイルという呼び方は英語圏や米国の影響下にある国などで広く使われ、工業規格の適用が異なる場合があり、また日常的には必ずしも厳密に使われる用語でもないなどの理由で0.2mmより若干厚いものでもそう呼ばれている可能性はある。一般的には0.2 - 0.006 mm (0.02 - 0.0006 cm) 程度の厚さであり、さまざまな厚さのものが製造されている。
== 概説 ==
素材はアルミニウムもしくは比較的純度の高いアルミニウム合金であり、製造法は高速[[圧延]]である。
;用途、性質、機能
用途はアルミニウムの純度や厚さによって異なり<ref name='ndz' />、また金属以外の素材と組み合わせて[[複合素材]]の箔にしている場合も、組み合わせる素材によって用途が異なる。
[[酸素]]遮蔽、[[耐水]]、耐油、[[電磁シールド|電磁遮蔽]]・反射、[[赤外線]][[反射]]、[[遮光]]、[[耐熱]]などの性質・機能があり、それらを活かして多様な用途に使われている。(→[[#用途]])
紙やプラスチックフィルムに比べて[[酸素]]や[[水蒸気]]といった気体を通し難い性質、ガスバリヤー性がある<ref name="もの作り不思議百科">JSTP編 『もの作り不思議百科』 コロナ社 1996年7月25日初版第3刷発行 ISBN 4-339-07668-6</ref>。[[電磁波]]全般を遮断・反射させる性質があるので、[[電波]]を遮断・反射し、[[遮光]]性もあり[[光]]を反射する。表面に[[不働態]]皮膜を作るアルミニウムの性質から、長期に渡り表面の光沢が失われることがない。また柔軟なため数度の折り曲げ程度では断裂しない。[[はさみ]]で切ると刃先に{{ill2|構成刃先|en|Built up edge}}という現象が起き、一時的に切れ味が回復する<ref>[http://www.monozukuri.org/mono/db-dmrc/cutting/basic/built-up_edge/build-up.htm 構成刃先] - [[産業技術総合研究所]]加工技術データベース</ref>。なおアルミニウムは[[イオン化傾向]]が大きいため、もし口に含みさらに口内に他の金属がある場合は[[起電力]]によって特有のピリピリした感覚を感じるときがある。
;家庭用
[[日本工業規格|JIS規格]]では「厚さ0.006mm-0.2mmのアルミニウム圧延素材」と定義されているが、実際はやや範囲が広く0.2mmから0.005mmまでのものが作られており、家庭用アルミホイルでは0.015mm-0.02mmの厚さのものが販売されている<ref name = "もの作り不思議百科"/>。家庭用は、製造工程の特性で薄膜にしたときに微細なピン・ホールが残り酸素が透過できるため、食材の酸化を長期間防止するには25[[マイクロメートル|μm]] (0.025mm) 程度のものが用いられる。
== 歴史 ==
そもそも、アルミニウムに限定せず金属の箔(フォイル)というものはどこでいつから使われていたかについて視野を広げて眺めてみると、紀元前2600年の[[古代エジプト]]から[[金箔]]が作られていた。金箔は日本でも奈良・平安時代などでも使われていた。19世紀ころまではヨーロッパで[[錫]](ピューター)の箔が広く使われていたがこれはまだ高級品であった<ref name="aluminum_what">[https://www.aluminum.or.jp/haku/what/index.html 日本アルミニウム協会「社会に貢献するアルミ箔の世界」]</ref>。
その後、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでアルミの[[製錬]]が始まったころに<u>手打ちに</u>よるアルミ箔作りが始まった。当時の手打ちのフォイルはシート状ではなく、[[フレーク]](小さな断片)状のものだった<ref name="aluminum_what" />。
アルミ箔(アルミニウムフォイル)を最初に大量に製造販売したのは1910年、スイスのアルミ精錬会社 J.G. Neher & Sons とされる。それまでの食品保護などに用いられた[[スズ]]箔が、接触部分にわずかながらスズの金属食味、つまり金属の味を感じさせてしまうのに対し、アルミニウムならほとんど食味変化がないという利点があるので、アルミニウム製に置き換えられてゆくことになった。アルミニウムのエンドレス圧延の技術は1907年に J.G. Neher & sons と Dr. Lauber が開発に成功した。
== 用途 ==
;純度ごとの用途
*[[純度]]99.3%以上のもの - 装飾、[[建築材料|建材]]、[[包装]]などもっとも一般的な用途で使われている<ref name='ndz' />。
*[[マンガン]]を添加したもの - 容器の素材として、あるいはフィン({{Lang-en-short|fin}}。[[配管]]や機械類などに用いるひれ状の金属板材)<ref name='ndz' />。
*純度99.7%以上のもの - おもに電線被覆([[シールドケーブル]])用
*純度99.9%以上の高純度のもの - ほぼ[[電解コンデンサー]]の[[陽極]]用に限定されている<ref name='ndz' />。
;厚さごとの用途
(出典:日本のアルミニウム協会のWebサイト<ref>[http://www.aluminum.or.jp/haku/what/index.html アルミ箔の知識 ]</ref>)
*厚さ6~15μmのもの - カップ麺容器の蓋、レトルト食品の袋、チーズの包装、バターやマーガリンの包装、キャラメルの包装、顆粒状の医薬品の分包、ホイルケース(弁当箱の中で惣菜の小分けなどに使われるヒダ状のアルミ箔加工品) など
*厚さ15~50μmのもの - ヨーグルト容器の蓋、コーヒーポーション(コーヒーフレッシュ、ミルク代用品)の容器の蓋、錠剤・カプセル薬の容器
*厚さ50~100μmのもの - [[鍋焼きうどん]]容器、[[グラタン]]容器、アルミ皿、キッチン[[コンロ]]まわりのアルミ用品。
;産業分野ごとの用途
(出典:日本のアルミニウム協会のWebサイト<ref name='alminiumkyoukai_youto'>[http://www.aluminum.or.jp/haku/what/index.html アルミ箔の知識 ]</ref>)
*製菓、菓子製造 - [[チョコレート]]、[[チューインガム]]、[[ビスケット]]、[[ケーキ]]、[[アイスクリーム]]、[[羊羹]]<ref name='alminiumkyoukai_youto' />(などの製品を包むため)
*酪農関連食品製造 - [[バター]]、[[マーガリン]]、[[チーズ]](などを包むため)。[[ヨーグルト]](の蓋)<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*飲料製造 - 健康飲料、乳酸飲料(つまり[[ヤクルト]]など)、粉末飲料、ドリンク剤などの容器(の蓋)。酒パックの容器。<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*インスタント食品製造 - カップ麺の蓋(および その調味料の袋)。[[レトルト]]食品、[[海苔茶漬け]]、[[冷凍食品]]の袋など。<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*薬品、化粧品、洗剤製造 - 粉末や顆粒の医薬品の袋。錠剤やカプセル剤の容器。[[化粧品]]の袋。(つめかえ用などの)シャンプーや石鹸の袋。<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*家庭用品製造 - 家庭用ホイル、台所などで使う加工製品<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*電気・電子部品 - [[電解コンデンサ]]、その他の電気・電子部品。<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*建設・建築 - [[屋根]]材、断熱材、壁用材料、壁紙<ref name='alminiumkyoukai_youto' />
*印刷・出版 - [[雑誌]]の[[表紙]]、[[カタログ]]、[[ポスター]]、[[カレンダー]]<ref name='alminiumkyoukai_youto' />(印刷業界では箔を紙類に押しつけて貼りつける加工を「箔押し(はくおし)」と言う)
*繊維・アパレル - 金・銀の糸<ref name='alminiumkyoukai_youto' />。(繊維業界では「金糸(きんし)」「銀糸(ぎんし)」と言う)
*農業、園芸関連 - 野菜・樹木の根覆い、果物・野菜類保存用 <ref name='alminiumkyoukai_youto' />
その他、上記以外の業界でも、[[酸素]]遮蔽、[[耐水]]、耐油、[[電磁シールド|電磁遮蔽]]・反射、[[赤外線]][[反射]]、[[遮光]]、[[耐熱]]などの性質・機能を活かして多様な用途に使われている。
{{Gallery|width = 250px
|File:Schokolade-schwarz.jpg|チョコレートの包装。
|File:Marusei-butter.JPG|さまざまなお菓子の包装
|File:Butter - Israel.JPG|バターの包装。
|File:2019-02-19 20 14 05 A cup of Chobani Greek Yogurt with Blueberry on the Bottom before being opened in the Franklin Farm section of Oak Hill, Fairfax County, Virginia.jpg|ヨーグルトの蓋。
|File:Plum_Organics_Baby_Food_Pouches.JPG|アルミ[[パウチ]]に入った食品。
|File:Yakult in Scotland 03.jpg|乳酸飲料、ヤクルトの蓋([[スコットランド]]にて)。
|File:Shielded_wire_4F.jpg|[[シールドケーブル]]。
|File:Capacitors_electrolytic.jpg|[[電解コンデンサ]]。内部に高純度のアルミ箔がロール状になって入っている。
|File:Aluminum foil sauna vapor barrier.jpg|[[建築材料]]としての利用。[[サウナ]]室の壁材・天井材として。
}}
;加工品、複合素材化したものの用途
加工品として[[アルミカップ]]がある。また、厚手のものを容器にした[[鍋焼きうどん]]、ガス[[焜炉|コンロ]]の汁受部分のカバー、使い捨ての[[換気扇]]カバーなど二次的な製品も多数開発され、暮らしの役に立っている。
薄手のものを紙と張り合わせ、湿気を遮断するためにタバコの内包装にも用いられる。
和紙や薄葉紙と張り合わせ、折紙の用紙として用いられることもある。これを俗に[[銀紙]](ぎんがみ)と呼ぶが、厳密には[[銀]]は使われていない。また、動物などのメタリックな立体作品を仕上げたり、叩いて銀色の球体(アルミボール)を作ったりする美術・芸術用途もある<ref name="名前なし-1">「アルミショック!!世界の果てまで」『[[日経MJ]]』2018年4月13日(トレンド面)</ref>。
;家庭用アルミホイルの用途
家庭用のアルミホイルは[[スーパーマーケット|スーパー]]、[[コンビニ]]、[[ホームセンター]]などで広く販売されており、家庭内では主に[[キッチン]]まわりで使われ、食材や料理の保存時に包むために使われたり、水蒸気を遮断し保つ性質を利用して、旨みを閉じ込めたまま[[蒸し焼き]]にするために食材を包むのに使われたり([[ホイル焼き]]というジャンルとして確立している)、[[煮物]]を作る時の[[落とし蓋]]に使ったり、[[パエリア]]を調理する時にパエリア鍋を包む蓋として使うのも定番である。弁当箱や皿に敷くためにも使われる。ラップフィルムより光や空気、水分を通しにくいため[[冷蔵庫]]・[[冷凍庫]]に入れる食品を包むと保存性が高まる<ref>【すっきり物語】意外!?アルミホイルで冷凍保存/香り長持ち ケーキもおいしく『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年4月28日・別刷りNIKKEIプラス1(12面)</ref>。耐熱性・耐[[火]]性があるので[[オーブン]]で食材を加熱する時の即席の皿としても使われる。食品が張り付きにくくするため表面をエンボス加工したり[[シリコン]]樹脂や[[セラミック]]でコーティングしたアルミホイルも販売されている。なお[[電子レンジ]]調理に使用すると火花が出ることがあるため基本的に使用してはならないとされている。(だが電子レンジでゆで卵を作る時は、逆に、アルミホイルを使ったほうが良いとされ、卵をアルミ箔で包んだものと水をコップに入れてチンするとうまくゆく、アルミ箔を使えば卵がレンジ内で爆発してしまうことを防げる、と解説されている<ref>[https://kumiko-jp.com/archives/262897.html]</ref>。レンジの電磁波が卵に直接到達することを防ぎ、周囲のお湯からの[[熱伝導]]だけでゆっくりと加熱できる)
{{Gallery|width = 250px
|File:Aluminumfoil.jpg|家庭用アルミホイル
|File:Foil-yaki.jpg|調理に利用した例。きのことベーコンのフォイル焼き。
|File:BacEx-2.JPG|ベーコンの調理
|File:Paella en papel de aluminio.jpg|[[パエリア]]鍋の蓋として。
|File:Ground beef kebab.jpg|串焼きをする時の熱源との距離の調整に。
|File:Burning Onions.png|フライパンに敷いて
|File:Cookbookchallah3.jpg|パイ生地などが作業台を汚さないように
|File:Profiterole (Cream Puff).jpg|お盆や皿に敷いて、食品を乗せるために。
|File:Kimbap on a aluminium foil sheet.jpg|食品を保存する時に包むために。軽食、[[携行食]]などを包むために。
|File:Peanut butter jelly sandwich on an English muffin.jpg|家庭で作った[[サンドイッチ]]、[[マフィン]]、[[ハンバーガー]]、[[ホットドック]]、[[おにぎり]]などを携行するために。
}}
電磁波を遮断・反射する性質を利用して、家庭内[[ルーター]]の[[Wifi]]の電波を強め端末側の受信状態を改善するための簡易的な反射板づくりにも家庭で活用されている<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/462224/]</ref>。そもそも近年のwifi装置に限らず、理系・技術系の人々は古くから、家電品、アンテナケーブル、ネットワーク装置、ネットワークケーブルなどから出る電磁波が干渉しあって機器間で悪影響が出るのを抑制するために電磁波[[シールド]](遮蔽物)として活用することや、家庭用アルミ箔と[[合板]]や[[段ボール]]を材料に簡易的な[[パラボラアンテナ]]を[[自作]]する、などということがある。
{{Gallery|width = 250px
|File:Pizza Box Oven for S'mores (7924549820).jpg|[[ソーラークッカー]]の自作。宅配ピザの箱とアルミ箔で[[自作]]。
|File:SOLAR COOKER 001.JPG|傘とアルミ箔で自作したソーラークッカー。ほぼ同様のものを即席のパラボラアンテナとして使う人もいる。
|File:Wrapped by Aluminum foil and clear tape- other view.jpg|エレクトロニクス機器の[[シールド]]などとして。
|File:Butterfly television antenna.jpg|バタフライ八木アンテナの自作
|File:Step_11.JPG|自由工作や電子工作
|File:Autoclaved_sterile_Erlenmeyer_flasks2.jpg|[[フラスコ]]の即席の蓋。
|File:Creative arts.jpg|趣味のアート作品の素材として
}}
== 加工品 ==
加工品として[[アルミカップ]]がある。また、厚手のものを容器にした[[鍋焼きうどん]]、ガス[[焜炉|コンロ]]の汁受部分のカバー、使い捨ての[[換気扇]]カバーなど二次的な製品も多数開発され、暮らしの役に立っている。
薄手のものを紙と張り合わせ、湿気を遮断するためにタバコの内包装にも用いられる。
和紙や薄葉紙と張り合わせ、折紙の用紙として用いられることもある。これを俗に[[銀紙]](ぎんがみ)と呼ぶが、厳密には[[銀]]は使われていない。また、動物などのメタリックな立体作品を仕上げたり、叩いて銀色の球体(アルミボール)を作ったりする美術・芸術用途もある<ref name="名前なし-1"/>。
{{Gallery|width =250px
|File:Cheesecake with blueberry topping.jpg|円形に打ち抜きヒダをつけたもの。
|File:Crispy chicken and rice at Highgate Cricket Club, Crouch End 3.jpg|アルミ箔を加工して作られた食器
|File:NYC-Diner-ToGo-Cheeseburger-Deluxe.jpg|食器
|File:Aluabdeckung 1.jpg|ガスコンロの汁受部のカバー。
|File:Aluminiumtejp.jpg|アルミニウムのテープ。
}}
== 家庭用アルミホイル ==
[[日本]]では一般家庭用のものについて「食事用、食卓用又は台所用のアルミニウムはく」という分類・名称で[[家庭用品品質表示法]]の適用対象としており、雑貨工業品品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/hinpyo/law/law_07.html|title=雑貨工業品品質表示規程|publisher=消費者庁|accessdate=2013-05-23}}</ref>。
流通時の形態としては、一般的に[[食品用ラップフィルム]]と同様に紙筒を芯として巻き取り紙箱に収める形態をとるが、[[ティッシュペーパー]]のように四角形に裁断して、箱に収めたポップアップの形態をとる製品もある(カットホイルという)。
== 製造 ==
「アルミ素材メーカー」での加工と「アルミホイルメーカー」での加工の2段階で製造される。
=== 素材メーカー ===
アルミ素材メーカーでは、まずボーキサイトから精錬によって純度99.5%-99.7%程度のアルミ・インゴットを作る。このインゴットを溶解して圧延用鋳塊(スラブ)を作り、面削加工を経て、いったん660℃程度まで加熱する。アルミニウムの再結晶温度である400℃以上になったスラブは'''熱間圧延'''によって厚板に加工され、さらに室温まで冷えたアルミ厚板は多段の'''冷間圧延'''によって0.4mmの薄さまで加工される。圧延機のロールで圧縮されることで硬化したアルミの「箔地(はくじ)」ロールは電気炉でもう一度350℃程度まで加熱されて「焼鈍し(やきなまし)」が行なわれて軟化され、同時に圧延時に付いた油が蒸発・除去される。1本約8トンの箔地ロールはホイルメーカーへ送られる。これ1本で最終製品117,000本相当となる<ref name ="モノができる仕組み事典"/>。
=== ホイルメーカー ===
アルミ素材メーカーから送られてきた箔地ロールは、特に薄い箔を製造するために高速4段圧延機のような高い圧力を生み出す特殊な冷間圧延機によって0.4mmから0.025mmまで徐々に箔にまで薄くされる。この圧延機はキスロール圧延機と呼ばれ、2本のロールは単に一直線に接するだけでなく、圧延対象物であるアルミによって起きるワークロールの弾性変形分を含めて設計されている。これらの加工では箔地1本で1時間かかり、0.025mmのものでは最高で1,250m/分もの速度で巻き取られてゆく<ref name ="モノができる仕組み事典"/>。圧延機に供給される前に重合機(ダブラー)により2枚が重ねられ、あいだに圧延油が噴霧されて圧延後はがしやすくされている。最後の圧延工程では1枚0.025mmのものが2枚、重合圧延機にかけられ0.012mmまで1度に圧延される。圧延後は分離機(セパレーター)で2枚にはがされる。
2枚の箔はそれぞれ1枚に、ロールと接触する外側とアルミ同士が向き合う内側の面が生まれる。ロールと接触する外側面では圧延ロールの平滑な研磨面が写し取られるために、光沢を持った面が生じる。反対のアルミ同士が向き合う内側面では圧延油を介して自由に変形するために微小な凹凸が生じて、光を乱反射する白っぽいつや消し面になる。例えば3枚を重ねれば中央では両面つや消しのものとなり、生産性も向上しそうだが、中央の箔は変形のコントロールが難しく欠陥が多くなるために実用化はされていない。圧延油には灯油に近い低粘度の鉱油が使用され、高速度での圧延を可能にしている。約1日半の間、焼きなまし加工を兼ねた「焼鈍」と呼ばれる電気炉による300℃の加熱工程<ref name="モノができる仕組み事典">成美堂出版編集部編 『モノができる仕組み事典』 成美堂出版 ISBN 9784415301020</ref>によって圧延油は蒸発し除去される<ref name = "もの作り不思議百科"/>。製品とするために小さく紙の芯に巻き取って、切り分けられ、箱に詰められて販売される。
== カルテル ==
[[2005年]]、[[公正取引委員会]]は価格[[カルテル]]を結んでいたとして、大手アルミホイル製造メーカー6社に対して、[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)違反による排除勧告を行った<ref>[http://snk.jftc.go.jp/JDSWeb/jds/dc005/DC005?selectedDocumentKey=H171212H17J02000018_ 公正取引委員会判決等データベースシステム、東洋アルミニウム(株)ほか5社に対する件]</ref>。
* [[東洋アルミニウム]]
* [[三菱アルミニウム]]
* 日本製箔 (現:[[UACJ製箔]])
* サン・アルミニウム工業 (現:東洋アルミニウム子会社 東洋アルミ千葉)
* 住軽アルミ箔 (現:UACJ製箔)
* 東海アルミ箔
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[金箔]]
* [[銀箔]]
* [[ティンホイル・ハット]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Aluminium foil}}
* [https://www.aluminum.or.jp/haku/ 社会に貢献するアルミ箔の世界]([[日本アルミニウム協会]])
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|アルミホイル}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あるみはく}}
[[Category:アルミニウム]]
[[Category:金属加工]]
[[Category:調理器具]]
[[Category:包装材料]]
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鉛筆
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鉛筆(えんぴつ)とは、筆記具・文房具の一種。顔料を細長く固めた芯(鉛筆芯)を軸(鉛筆軸)ではさんで持ち易くしたものである。
紙に筆記するために使われる。鉛筆の片側の末端部分を削って露出させた芯を紙に滑らせると、紙との摩擦で芯が細かい粒子になり、紙に顔料の軌跡を残すことで筆記される。
鉛筆は、明治初期の日本では「木筆」などとも呼んだが、のちに「鉛筆」と呼ばれるようになった。一説に「lead pencil」(鉛の筆)からの訳語であるという。
英語の「pencil」の語源は、ラテン語で「尾」を意味する「penis」に縮小辞のついた形「penicillus」(ペニキッルス)であり、「小さな尾」「画筆」などの意味がある。ローマ時代には「画筆」などを指すのに使われたものが、中世フランス語経由で英語になったものである。なお、フランス語の「pinceau」は現在でも画筆を意味する。ペンを意味する「pen」はラテン語の「penna」(羽根)に由来する。この類似は偶然であり、語源上のつながりはない。
日本語で「鉛筆」という場合、機械式の鉛筆であるシャープペンシルは含まない。対して、英語で「pencil」という場合、「黒鉛を芯とする筆記具の総称」として機械式の鉛筆であるシャープペンシルを含むことがある。
なお、「鉛筆」という名称や、鉛筆の芯の材料の「黒鉛」の物質名から、「鉛筆には鉛が使われている」と信じている者がいるが、誤りである。鉛筆が使われるようになった初期のころはまだ化学知識が未熟であり、黒鉛は鉛の一種だと考えられていた。シャープペンシルの芯を英語で「lead」(「鉛」の意)、鉛筆のことをドイツ語で「Bleistift」(「鉛、Blei」+「ピン/釘、stift」 =「鉛の筆記具」の意)、はたまた日本語で「鉛筆」と呼ぶのはこの名残である。18世紀末から19世紀初めにかけてようやく黒鉛が炭素からなる物質で鉛を含まないということが解明された。黒鉛は炭素の結晶であり、近代以降の黒鉛鉛筆の芯に重金属は用いられていない。
鉛筆は筆記・書写・描画、製図などに幅広く使用される。通常の鉛筆の筆跡は消しゴムを用いれば消すことができ、そのため公的な書類などには用いることができない場合も多い。その筆跡は、保管状況によっては数年経つと輪郭がぼやけ、掠れたような感じになる。これは、鉛筆の芯の主成分である炭素が顔料であり、紙の表面に付着するだけで、中までしみこまないことに由来する。特に色の濃い鉛筆の芯ほど擦れやすい。これを防ぐには、表面をフィキサチーフのような透明塗料で覆い、炭素の粒子を固定する必要がある。反面、鉛筆の筆跡はインクのように経年変化によって色が変化したり消えたりすることはない。また水分によって筆跡が滲まないため航海日誌の記述に用いられてきた。消去防止や湿式の複製を目的とした特殊な鉛筆として、水溶性色素を含んだインデリブル・インク鉛筆やコッピー鉛筆(英語版)と呼ばれるものもあるが、現代では稀な存在となっている。
書き味の軟かさや太さから、美術のデッサンや鉛筆画などにもよく用いられる。各種の顔料を油成分で固めて芯とした色鉛筆も事務から美術用に幅広く用いられる。これは黒以外もさまざまな色の線を描くための鉛筆であり、その筆跡は通常の鉛筆に比べて消しにくい。なお、消しゴムで消すことのできる製品もある。色鉛筆の中でも特に赤鉛筆は、原稿の校正や試験答案などの採点にしばしば用いられる。また、光学カメラを用いる印刷の原稿を作る際には、青鉛筆が用いられる。赤鉛筆と青鉛筆を棒磁石のように合体させた「赤青鉛筆」または「朱藍鉛筆」と呼ばれる、一方が赤色、もう一方が青色の鉛筆も販売されている。
水彩色鉛筆のように絵画用に特化しているものもある。これは顔料を水溶性の溶媒で練り上げた芯を用いた色鉛筆で、描いたあと、水を含ませた筆でなぞると水彩画のような風合いになる。また、芯を固形水彩絵具のように使用することも可能である。油脂分を増した軟質色鉛筆(グリースペンシル)は筆記可能な対象材質が幅広いのが特徴で、産業用固形マーカーやリトグラフ用描画材としても使われる。
その他の美術用鉛筆には、パステル芯を用いたパステル鉛筆や、木炭粉を固めた芯を用いたチャコールペンシル、コンテ同様にカーボンブラックやサンギュイン(英語版)、セピアや白色顔料などを固めた芯を用いたスケッチングペンシル、これらの水溶性のものなどがある。黒鉛鉛筆は主原料の鱗状黒鉛に由来して筆跡が金属光沢を帯びる特徴が好まれるが、一方、色鉛筆などの黒色に主に用いられるカーボンブラックは金属光沢が少なく、黒みがより強い特徴がある。
近年はシャープペンシルの普及によって、鉛筆の筆記用としての需要は減少している。しかし、大学入試などでは、マークシートの読み取りミス防止のためにマークシートへの記入は鉛筆に限定されることが多く、マークシート読みとり機メーカーも、鉛筆で書くことを推奨している。ほかにも、手書きで楽譜を書くときなど、一つのペン先で太さの違う線が書けると便利なときなどには、あえて鉛筆が選択されることもある。また、学校の方針で、シャープペンシルを禁止している小学校も多い。
なお、眉などを描くための化粧用のものとして化粧用鉛筆がある。
鉛筆は1本単位で売られているほか、1ダース単位でも販売されている。製図用や工事用のような特殊なものもある。黒の単色のみで濃淡一組でセットとなっているものや、数色から数十色の色鉛筆がセットになっているものもある。
日本では、鉛筆の品質向上を目的に、1951年にJIS規格で「JIS Z 6605」という鉛筆の規格が定められた(1955年廃止)。鉛筆の規格化は諸外国に比べて早い。なお、1998年に、「鉛筆は伝統があり、技術的に成熟して安定した産業」という理由で、以後はJISマークを表示しないという業界内での決定があり、現在の主な鉛筆からはJISマークを表示していない。しかし、現在も多くの鉛筆はJIS規格に基づいて製造されている。2008年現在、有効な鉛筆に関するJIS規格は「JIS S 6006」である。
鉛筆で書いた線は消しゴムで消去することができ、鉛筆の末端に小さな消しゴムをつけた商品も存在する。なお、消しゴムが発明されたのは鉛筆と比べかなり後世になってからであり、それまではパン屑を用いて消していた。現代でも美術では通称「消しパン」と呼ばれるパンを用いてデッサンの描線などを消すことがある。
鉛筆で筆記する際には通常、削られていない部分で先端に近い部分を親指、人差し指、中指の3つの指で持つ。
このとき、親指は人差し指に近い側の指の腹で、人差し指も指の腹で支え、中指は人差し指に近い側の指の側面で支える。そして人差し指に沿わせるようにする。指はあまり曲げないが、人差し指と中指を若干曲げる。鉛筆と記録する紙の成す角度は60°程度とする。このとき、小指の先は紙に接触させる。正しい筆記法(持ち方)を習得するために断面が三角形になっている幼児用鉛筆や、普通の鉛筆に取りつけて正しい持ち方を習得させるグリップも存在する。
鉛筆での筆記の際には、筆圧が必要以上に強いと芯が折れることがある。
鉛筆は使用に伴って芯が摩耗することで、芯の木材から出ている部分が小さくなり、あるいは芯の鋭さが失われる。この結果、描線が太くなり筆記しにくくなるため、木材と芯を削ることで芯の露出を増やし、その先端を鋭くする作業が必要になる。
鉛筆を削ることを繰り返すと、最後には鉛筆が短くなり過ぎて指で支持しにくくなり、筆記が困難となる。この状態が実用上の寿命である。ただし、測量などの激しい移動を伴う作業では、折れてしまう事故を避けるためにあえて短くなった鉛筆を用いることがある。
短くなった鉛筆を使えるようにするために、長さを延長するための金属やプラスチックの器具がある。短くなった鉛筆の削っていない側を差し入れて、筆記しやすくする。保存用のキャップを兼ねた短いものと、延長専用の長いものがある。後者にはペンシルホルダーや補助軸がある。これらにも、消しゴムつきのものがある。
日本およびアメリカの市販鉛筆は通常は削られておらず、使用する前に削る必要がある。これに対し、削られている状態で市販されている鉛筆を、「先付鉛筆」(さきづけえんぴつ)と呼ぶ。ヨーロッパの市販鉛筆は基本的に先付鉛筆である。
削る作業は、一般的に鉛筆削りと呼ばれる専用の器具、または肥後守やボンナイフなどの小型のナイフ、ないしカッターナイフが用いられる。
通常、HB・2B・3Hなどの硬さの表示のある方は削らない。こちらを削ると、使用時に硬さがわからなくなってしまうからである。
鉛筆を削る作業は時間がかかるうえ、専用の器具を使ったり削りくずが出たりするので、板書筆写中、試験中などに随時行うというわけにはいかない。そのため、削った鉛筆を複数本用意し、使用中に摩滅・芯折れすれば順次持ち換え、時間や手間に余裕のできたときにまとめて削るのが普通である。
鉛筆削りが普及する前には、鉛筆はナイフで削るのが一般的だった。その場合、鉛筆の先端2cm程度を先が細くなるように削る。芯の先も削り、尖らせる。
画材として使う場合は現在でもナイフの使用は一般的であり、摩耗が早いことや軸を寝かせて広い幅を塗る用法のため、筆記用よりも芯を長く削り出して使われる。
製図用として通常の円錐形ではなく、マイナスドライバーのようなくさび型に先端を削りだす方法もある。こうすると接地面が増えるため、使用中に先が丸くなりにくく線幅が安定する。また、一本の鉛筆で線の太さを描き分けることができる利点もある。
鉛筆専用の鉛筆削りは、携帯用のものと卓上型のものがある。
携帯用鉛筆削り器の多くは、金属かプラスチックの小片に平らな刃を斜めに固定した簡易なものである。鉛筆を円錐形の削り穴に押しこみながら回すことにより、鉛筆の軸と芯が刃に沿って扇状に薄く削り取られる。右利きの人が使いやすいように鉛筆を時計回りに回転させるものが多いが、反時計回りに回転させる左利き用もある。
卓上型鉛筆削り機は現在は電動式も多くみられる。削り器の穴に鉛筆先端を押し込むだけで自動的に削られ、かつ、芯が尖ると自動的に動作を停止する。手動式は鉛筆をつかむクリップ部を一杯に引き出してストッパーで固定された状態から、クリップを開いて削り穴に鉛筆を挿入し、反対側のハンドルを回すものである。ばねの力で鉛筆が押し込まれており、芯が尖ると回転が軽くなり自動的に空回りするので、クリップを開いて鉛筆を引き出す。クリップ部はばねで元の状態に収納される。手動式は、軸にクリップによる傷がつくことがある。
卓上型鉛筆削り機の機構は、鉛筆の軸を固定しその周囲を芝刈り機のそれを小型にしたような円筒状の螺旋回転刃を旋回させるものが手動・電動問わず大多数を占め、先の説明もその機構の機器を想定している。そのほか、複数の平面刃を配した手裏剣のごとき回転刃を用い、刃体のほかに鉛筆を軸方向に回転させながら削るもの(ナイフによる鉛筆削りの動作を模している)や、鉛筆を固定し上記携帯式鉛筆削り器と同じ構造の機構部を動力回転させるものなどがある。
電動式・手動式いずれも下部の削りかす収納部に削りかすがたまるため、収納部が満杯になる前に削りかすを捨てないと故障の原因になる。また、螺旋回転刃式鉛筆削り機では6cm以下程度に短くなった鉛筆は削れず、携帯用鉛筆削り器やナイフで削るか廃棄することになる。それゆえに、補助軸を好んで用いる者は卓上鉛筆削り機を忌避し、ナイフを愛用する傾向がある。
両端を削ることを地方によっては貧乏削り・泥棒削りと呼ぶ。前述したように、鉛筆は複数本用意するのが基本だが、鉛筆の両端を削れば2本分として使える。これを貧乏削りと揶揄する。貧乏削りは有効利用できる長さが短くなり不経済な使用法でもある。
学用品としての鉛筆は、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書くことがよく行われた。この記名は、盗んだ鉛筆を「貧乏削り」すれば違和感なく削り落とすことができる。そこで、そのような窃盗の証拠隠滅が疑われる使い方を「泥棒削り」と揶揄した。
なお、赤青鉛筆・朱藍鉛筆の場合には両端を削って用いられるのが普通であり、このような呼び方は用いられない。
芯出しを削らずに行う鉛筆もある。
削られた鉛筆は、尖らせた芯の先が折れやすいことから、専用の鉛筆キャップをつけて保護するか、ペンケース(筆入れ、筆箱とも呼ぶ)に収めて保護する。鉛筆キャップには柔らかいペンケースに収納した際に消しゴムなど他の文房具を汚さないようにするためにも用いられる。卓上でペン立てに立てる場合は、削った芯を上になるように立てることが多いが、これは、芯がペン立ての底部にぶつかって折れるのを防ぐためであり、同時にペン立てに立てた鉛筆のどれが削ってあるかを判別するためでもある。
鉛筆立ては、芯の先端が底にぶつかる形状でなく、円錐状の削った形状に合わせた穴で面として受けるか、先端部に穴が空いていて芯はそこに突き出すような形で直接当たらない構造にすれば折れない。製造物責任法(PL法)の施行により、鉛筆の尖った先端を上にして挿すことで、その上に倒れ込んでけがをすることを防ぐ配慮から、上向きに挿そうとすると奥まで挿せずに倒れ、強制的に上向き挿しが不可能な構造にしたものがある。
一般的な鉛筆の構造は、黒鉛と粘土を混ぜて焼いた鉛筆芯と、木材を張り合わせた鉛筆軸からなる。
鉛筆芯は黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固めたものである。
鉛筆の芯は、電気伝導体である黒鉛を含んでいるため、電気を流すことができる。ただし、一般的に流通している鉛筆は芯の表面をコーティングしてあることが多いため、鉛筆の端と端をそのまま導線で結ぶだけでは電気が流れないことが多い。また、色鉛筆の芯は黒鉛を含まないため、電気を流すことはできない。
一般に、黒鉛が多く粘土の少ない芯は、軟らかく濃い。黒鉛が少なく粘土の多い芯は、硬く薄い。硬いものは芯が細く、軟らかいものは太い。色の濃さは気温の影響を受け、同じ硬度でも夏期には濃く、冬期には薄くなる。また、黒鉛の粒子を細かくすることで書ける距離を伸ばすことができ、一本の鉛筆で約50kmほどの線を引くことができる。
硬度表記を考案したのは18世紀末のニコラ・ジャック・コンテ(英語版)である。当初、コンテは、芯の硬さに番号をつけ、一番硬いものを1とし、軟らかくなるにつれて番号を増やして表したが、この方式は普及しなかった。
HとBの記号を最初に使ったのは、19世紀初めのロンドンの鉛筆製造業者ブルックマン社(Brookman)である。Bより濃いもの、Hより薄いものは、当初BBやHHと表したり、2Bや2Hと表した。HBはのちにHとBの中間として使われはじめた。Fはさらにその後にHBとHの間を表す記号として考案された。1830年代末までには、BBからHHHまでのHBとFを含む7種類の鉛筆を作る業者が出現した。濃さの表記は当初はさまざまな表記があり混乱したが、現在はほぼこの形に落ち着いている。なお、HはHard、BはBlack、FはFirm/Fine(しっかりした/細い)を意味している。
アメリカ合衆国では、硬さを番号でつけている。ただし、ニコラ・ジャック・コンテとは番号のつけ方が逆である。対応表は以下の通り。
1942年から45年ごろまでのきわめて短い期間、ローマ字による硬度表記を敵性語とし、漢字表記に置き換えた。この時期の表記と現在の表記の対応表は以下の通り。
JIS S 6006では芯の硬さの種類を表す記号を定めており、軟らかい方から順に6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9Hの17種類が存在する。
ただし、美術・製図・書写用鉛筆ではJIS規格を超える硬度を持つ製品もあり、三菱鉛筆が10Bから10Hまでの全22硬度の製品を2008年から製造しているほか、ステッドラーが12Bから10Hまでの全24硬度の製品を2019年から製造している。また、販売元でもさいたま市の三菱鉛筆埼玉県販売ではオリジナルの10Bを「筆鉛筆」として販売している。
小学校ではHBやBが用いられ、それよりも濃い鉛筆は硬筆書写に用いられることが多かった。しかし、筆圧低下や滑らか志向などの背景もあり、小学校では新入生が使用する鉛筆に2Bを指定する学校が増加している。
三菱鉛筆の統計によると、出荷ベースで1994年にHBが46%、B22%、2B19%だった比率は、2014年には2B44%、B21%、HB20%となった。トンボ鉛筆の統計でも、硬度別の販売数量は1999年にはHBが43%で2Bは22%だったが、2019年には2Bが51%となりHBは20%にまで半減している。また、トンボ鉛筆の学童用売上数量も、2Bは1999年の約50%から2019年には約70%となったのに対し、HBは2005年頃から10%を割り込み、さらに硬いHはほとんど生産されなくなっている。
なお、マークシートを読み取るOCR装置やOMR装置は赤外線の反射率を識別に用いているため、赤外線をよく吸収する炭素を他の筆記具よりも多く含むこと、その炭素含有量を硬度で指定できることなどから、マークシート記入には鉛筆が適しており、マークシートへの記入筆記具として硬度とともに鉛筆が指定される。硬度はHB以上の柔らかさを指定されることが多く、マークシート記入用の鉛筆も市販されている。なお、マークシートが使われている大学入学共通テストでは、H、F、HBの黒鉛筆の使用が指定されている。
そのほか、塗膜の硬度試験にもJIS規格として鉛筆が指定されており、塗装硬度の評価は鉛筆の芯の硬さである6B - 6Hで評価される。測定方法として鉛筆を塗装面に押しつける角度や強さ、先端の削り方などが詳細に規定されている(JIS K 5600-5-4(ISO/DIN 15184))。
ヨーロッパでは硬さを10B - 10Hに区分する。また実際の硬さもJISとは異なる。
鉛筆軸は木材でできているものが多いが、リサイクルの観点から古紙を鉛筆軸に使用する製品もある。次のようなものもある。
軸の長さについては17.5cm程度のものが多いが、これよりも長いものもある。
軸の断面には円形、三角形、星型などいろいろあるが、正六角形がもっとも一般的である。この理由は、次のようなものである。
赤鉛筆を含む色鉛筆の軸の断面は、円であることが多い。この理由は、次のようなものである。
正三角形の鉛筆は、主に幼児に鉛筆の持ち方を指導するために使われる(「かきかたえんぴつ」「もちかたえんぴつ」など)。その形から「おにぎりえんぴつ」とも呼ばれる。
受験生向けの縁担ぎとして、「合格」に掛けた、断面が正五角形の「五角」鉛筆がある。後述を参照
根本的な製造法は、コンテの時代からほとんど変わっていない。
まず芯は、黒鉛を湯と混ぜ、不純物を沈殿させる。粘土も同様にして不純物を取り除く。粘土は主原料を固結させるために用いるが、砂が少なく、粒子が微細なものが要求される。いずれも絞って水分を除いたのち、2つをあわせ、水を混ぜてこね合わせる。比率は硬さによって異なるが、硬さがHBである場合はおよそ7:3の割合で黒鉛が多い。このあとに長く延ばして乾かす。現代の断面が円い芯は、芯押し機で細い穴から押し出す方式がとられる。次にこの生芯を焼き上げる。焼く時間は粘土の性質によって異なる。焼きあがった芯は油などに入れられる。これは主になめらかに書けるようにするためである。油加工といい、その芯を油芯という。
次に軸であるが、軸になる木は最初は平板の形をしている。これに、芯を入れるための数本の溝が彫られ、接着剤が塗られる。溝に芯を置き、上から同じ形の板を逆さまに向かい合わせにかぶせるように置いて圧着させる。
日本・アメリカでは木は北米産シダー材が使われ、インドではヒマラヤスギが使われる。接着剤は初期にはニカワが使われた。
板状の鉛筆の元は、細長く切り分けると断面が正六角形になるように片面ずつ削られ、ついで1本1本の鉛筆に切り分けられる。次に塗装と印刷が施され、鉛筆としてはほぼ完成する。断面が円い鉛筆は、六角形のものに比べて無駄になる木材が多いため、あまり製造されていない。
鉛筆の軸は正六角形などの角張った形状が一般的であるが、色鉛筆に限れば角がなく円い断面のものが多い。色鉛筆の芯は衝撃に弱く折れやすいことから、衝撃を受けた際のエネルギーを均等に分散させやすい形状として円い断面が選ばれている。
消しゴムつき鉛筆の場合は、鉛筆の先端に金属の鐶(わ)がはめられ、次に消しゴムがつけられる。鐶の内面に凹凸があり、これで鉛筆と消しゴムを固定している。
古代、文字は鉛を動物の皮などにこすって記述した。のちに、細長い鉛と錫の合金(はんだ)を用い、外側に木軸を巻きつけた、現在の鉛筆の原型が作られた。これと同じ原理の銀筆などは、現在も美術家が使用している。やがて芯の部分が黒鉛に変わり、削って使うようになったことで現代の鉛筆の原型ができあがったと言える。
黒鉛を使った鉛筆が最初に記述に現れるのは、1565年に、スイスのドイツ系博物学者コンラート・ゲスナー(ドイツ語: Conrad Gesner)の『とくに石と岩にふくまれる化石の形とイメージについて』である。ゲスナーが使用した鉛筆の本体は丸い筒状の木でできており、先端に黒鉛の小さな塊を詰めるものだった。黒鉛がなくなると新しいものを詰めた。本に記載するくらいには珍しかったようだが、記述によればゲスナー自身はしばらく前からこの道具を使っていた。野外で化石を記録する際、インクつぼの不要な鉛筆はゲスナーにとって大変に便利だった。
16世紀の終わりには、イギリスのボローデール(英語版)でカンバーランド黒鉛鉱が発見され、鉛筆が作られるようになった。ゲスナーのものも、芯はカンバーランド産黒鉛(英語: Borrowdale lead)である可能性が高い。1610年までには、ロンドンの市場で鉛筆は普通に売られていた。初期のものはゲスナーの使ったもののような、木や金属で作った軸の先に、黒鉛の塊を詰めるものだった。黒鉛を木で挟んだり、針金で巻いたようなものも存在した。
2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒を挟んで固定した、現代のように削って使用する鉛筆は、1616年までに発明された。
記録に残るこの種の鉛筆の最初の製造業者は、ドイツのニュルンベルクに住むフリードリッヒ・ステッドラー(Friedrich Staedtler、のちのステッドラー社の創業者の先祖にあたる)で、1662年に町当局に鉛筆製造許可願いを出したが、町はこの仕事は指物師のものだとして却下した。しかし、1675年には、ステッドラーと同業者は、鉛筆製造業者のギルドを作ることを許されるようになっていた。
削って使う鉛筆は当初、芯は四角く軸は八角形だった。ただし、初期は指物師が鉛筆を作ったので、製造者によっては円形や六角形のものを作った者もいる。長さは6インチまたは7インチで、幅と厚さは1/3ないし1/2インチだった。現代のものと大差ない。
黒鉛はイギリス特産で、この時代、鉛筆はイギリス産のものが多く使われた。また、輸出産業を保護するため、しばしばイギリスは黒鉛を禁輸にし、完成品の鉛筆のみを輸出する政策をとった。イギリスの黒鉛鉱は19世紀までに掘り尽くされ、現在では中国、ブラジル、スリランカなどで地下から黒鉛を採掘している。初期の鉛筆は、末端部分の削ってしまうと持てなくなり捨てる部分には最初から芯を入れず、途中までしか芯は詰められなかった。この工夫は19世紀まで続いた。
鉛筆が普及し、黒鉛が不足すると、黒鉛を節約し、黒鉛くずも活用する方法が考えられた。最初の着想は1726年までにドイツで実現された。黒鉛くずと硫黄をまぜて溶かし、固めるというものだったが、筆記時に引っかかりが生じて滑らかな筆記性に欠け、のちにカルノー式鉛筆が登場するとすぐに消えた。
20世紀の終わりに、日本で伊達政宗の墓所・瑞鳳殿から鉛筆が発見された。これはゲスナーの使ったのとほぼ同じ構造だったが、芯は練って作ってあった。政宗の鉛筆は1636年までには製造されていたと考えられるため、練って作る芯の使用は少なくとも90年はさかのぼることになった。
1770年に、イギリスで消しゴムが発明された(それまでは古くなったパンが使われていた)。
1790年にオーストリアのen:Joseph Hardtmuthがウィーンでen:Koh-i-Noor Hardtmuth社を設立した。1793年にイギリスとフランスの間でフランス革命戦争が起きると、フランスに黒鉛と鉛筆が輸入できなくなった。戦争大臣のラザール・カルノー は、技師・発明家のニコラ=ジャック・コンテ(英語版)(Nicholas-Jacques Conté)に代替品の開発を命じた。1795年にコンテは、黒鉛と粘土を混ぜて焼いて作るという、現在と同じ仕組みの芯を開発した。コンテの開発した方法では、黒鉛を大幅に節約でき、また黒鉛くずも利用できた。さらに、粘土の量によって芯の硬さや書く文字の色の濃さも変化させることができるようになり、鉛筆は必要に応じて硬度別に生産されるようになった。またコンテは1798年にパリで催された世界初の国内博覧会で、黒芯の発明により賞を受賞した。1802年、en:Koh-i-Noor Hardtmuth社は黒鉛と粘土から鉛筆の芯を製造する特許を取得した。1848年にKoh-i-Noor Hardtmuth社の工場はチェコに移転し、製造原価を低くすることに成功して大衆に鉛筆を普及させることになった。
1839年、ドイツのローター・ファーバー(ドイツ語版)はコンテの黒芯を用いて現在と同様の六角形の鉛筆を開発するとともに、鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を設けた。彼はまた初めて会社名を鉛筆に刻印した。この功績からファーバーは男爵の爵位を授かり、王室顧問にも就任した。彼の会社は現在もファーバーカステルとして鉛筆をはじめとした筆記具を製造している。
アメリカのハイマン・リップマン(Hyman L. Lipman)は、1858年3月30日に消しゴムをニカワで鉛筆に固定させる消しゴムつき鉛筆を発明した。リップマンはこの特許をジョセフ・レケンドーファー(Joseph Reckendorfer)に10万ドルで売り莫大な富を築いた。ジョン・エバーハード・ファーバー(英語版)(John Eberhard Faber, 1861年にニューヨークでエバーハード・ファーバー(英語版)社を創業)はこの特許の前に、金属片を押しつけて鉛筆に消しゴムをつける方式を考案し、別に特許をとった。この2者の間で特許紛争となったが、連邦最高裁は、消しゴムつき鉛筆自体に新規性が認められないとし、両方の特許を無効とする判決を下した。
鉛筆削りは19世紀の終わりに発明された。ポケットに入れられる小さなものが若干早く市場に出た。机に設置する大きなものは少し遅れて開発された。当初は、ハンドルを回すことによってヤスリが回転するという仕組みだった。
1870年代までは、鉛筆の芯は四角のままだった。また、19世紀中ごろまでは、鉛筆の形も八角形のものが主流で、外見は17世紀のイギリスのものからほとんど変化しなかった。ファーバーが基準を定めたのち、19世紀末までには、鉛筆の形は円、六角形または三角形になり、芯も丸くなった。八角形で芯が四角いものは、工程上芯が中央からずれる場合があり、その場合鉛筆削りではうまく削れなかったので次第に消えていった。三角形のものは製造工程の都合上安価にできず、あまり普及しなかった。
1889年、パリ万国博覧会では、現代的な六角形で合成黒鉛の芯を使った安価な鉛筆として、木部にシダー(Cedar)を用いた『Koh-i-Noor Hardtmuth社製の黄色い鉛筆』が評判となり、その後の鉛筆の形状ができあがった。
日本には、17世紀に製造された鉛筆として、徳川家康の鉛筆と伊達政宗の鉛筆が残っている。当時の鉛筆のつくりは現代のものとほぼ同じだった。しかしそのころは定着せず、本格的に輸入が始まるのは19世紀後半、明治時代になってからだった。明治初期の日本では鉛筆の需要は少なく、東京や横浜の輸入品専門店で少量が売られるのみだった。
日本での鉛筆製造は、1874年にウィーンで鉛筆製造技術を学んで戻った2名の政府伝修生の井口直樹と藤山種重によって製造法がもたらされ、同年に小池卯八郎によって始められたとされる。小池の製造は1890年までは続いたがその後は記録がない。このほかにも若干の製造者がいた。1875年に、大阪福島の耐火煉瓦製造会社「盛秀館」の田中盛秀が郷里の鹿児島で黒鉛の産地を発見し、当地に文具製作所を設立し、鉛筆製造を始めた。1875年、石川県江沼郡富士写ケ岳片谷村(へぎだにむら)に良質の黒鉛が見つかり、旧大聖寺藩士の飛鳥井清らが旧士族の柿沢理平に鉛筆の製造法を学ばせ、 1877年加賀市大聖寺松島町付近に加州松島社を設立し、翌1878年12月に試作品製造に成功、1882年には外国製に劣らない製品とされ、翌1883年アムステルダム万博に出品し第一級第一等賞を得ている。現在まで続く製造業者は後述する真崎鉛筆製造所がもっとも古い。
このほか、安政年間に仙台の士族樋渡源吾が少量の鉛筆を生産し売ったという記録もある。
日本で最初の鉛筆の量産は、1887年に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の三菱鉛筆)創業者・真崎仁六(まさき にろく)によって開始された。なお、この会社は三菱財閥とは昔も今もまったく関係がなく、「三菱マーク」は真崎鉛筆が最初に商標登録をして使用し、後から三菱財閥が許可をとり使用した。日本では長く文書を毛筆で書くしきたりがあり、鉛筆の普及は遅れた。1885年に英語教育に関する書籍が相次ぎ発刊され、同年に大量の鉛筆がアメリカから輸入された。このころから学校では徐々に鉛筆が使われはじめるようになった。
1901年に、逓信省(のちの郵政省、現在の日本郵政グループ)が真崎鉛筆を採用した。郵便局内のみとはいえ、全国に鉛筆が供給されるようになった。この後、1920年までに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活に深く浸透するようになったと考えられている。
イギリスの次に鉛筆生産国になったのはドイツで、20世紀初期まで、主な鉛筆輸出国はドイツだった。しかし、第一次世界大戦が起きるとドイツ製鉛筆が入手できなくなり、1915年ごろからは日本製のものが世界で使われ、日本の主要輸出品の一つになった。ただし、日本製のものは両端にしか芯のないキセル鉛筆などの粗悪品が多く、国際的には評価が低かった。
第一次大戦が終わると粗悪品で信頼が落ちた日本製品の輸出は極端に低下したが、1930年代になるとまた増加し日米で鉛筆貿易摩擦が起きるほどになった。しばらくはドイツと日本が主な鉛筆製造国だったが、第二次世界大戦の影響で、1940年代はどちらの国も輸出がほぼ止まった。輸出復活は戦後を待つことになる。
印刷つき鉛筆は、1949年に日本のトンボ鉛筆が最初に製造した。これ以前の印字は箔押しだった。精巧な曲面印刷技術を用いたものは、1951年までに、日本の伊藤意匠研究所(現在のいとう鉛筆意匠)創業者伊藤一喜と本多鉛筆印刷の本多信によって始められた。これにより、社名などを印字した贈答用鉛筆が多く作られるようになった。
戦後の鉛筆メーカーは、国内各地に中小企業が存在しており、1950年の東北地方だけでも青森県内1社、岩手県内2社、山形県内2社が存在していた。鉛筆の芯は、東京芯工業協同組合などが供給を行っていた。
1990年代半ば以降学齢人口の減少、シャープペンシルの利用増、ワープロ・パソコンの普及などが原因で鉛筆の需要は大きく落ち込んでいる。
雑貨統計によれば、日本の輸出量は1950年ごろが最大で188万グロス、1997年は45万グロス、日本製鉛筆の生産高は1966年ごろが最大で962万グロス、1997年は367万グロスである。
1998年には、労働省(現在の厚生労働省)が「事務用品の買い控えによる生産量の減少」を理由として鉛筆製造業を「雇用調整助成金の指定業種」に指定した。
徳川家康の鉛筆は、現存する日本でもっとも古い鉛筆で、削る種類のものである。
鉛筆は、久能山東照宮で、硯箱に入った状態で発見された。硯箱は1664年に作られた宝物目録『具能山御道具之覚』に記載があるが、鉛筆の記載はない。硯箱に入っていたことから、家康のものとされる。
鉛筆は長さ11.7cm、芯の長さ6cm、先端は削ってあり、太さ0.7cm、重量6g。産地は日本国内ではなく、はっきりしない。黒鉛はメキシコ産に質が似ている。軸木は、中米かフィリピン産とされる。製品そのものは、ヨーロッパ製である可能性が高いと考えられている 。
鉛筆は、政宗の墓地である瑞鳳殿の発掘調査団長・伊東信雄により発見された。政宗の鉛筆は、先端に黒鉛の塊を詰めるもので、原理的にはゲスナーの使用したものに近い。
政宗は1636年に死去し、副葬品の中から見つかったため、政宗の愛用品と考えられている。発掘は1974年に行われ、鉛筆は発掘品の中から1988年に発見された。
鉛筆は全長7.4cm、太さ0.4cm、芯は先に詰めてあり、芯の長さ1.3cm、最大直径0.43cm。キャップがついていた。キャップは木製で長さ3.0cm、直径0.6cm。鉛筆はさらに木筒に収められた状態で発見された。軸の素材はササで、日本産かその近縁種。芯は何かで固めてあるが、当時ヨーロッパで使われたと考えられる硫黄やアンチモンは検出されなかった。黒鉛の産地は不明である。
輸入品の鉛筆を愛用した政宗が、配下のものに命じて自分の使いやすいものを作らせた可能性がある。
政宗の鉛筆は発掘後に極端に風化し、現在は原形を留めていない。しかし、完全に風化する前に複製品が作られ、仙台市博物館、日本文具資料館(東京都台東区柳橋)、三菱鉛筆に存在している。
現在はユニークな形状をしたものなど、さまざまな工夫を凝らした鉛筆が発明・開発・販売されている。
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"text": "なお、「鉛筆」という名称や、鉛筆の芯の材料の「黒鉛」の物質名から、「鉛筆には鉛が使われている」と信じている者がいるが、誤りである。鉛筆が使われるようになった初期のころはまだ化学知識が未熟であり、黒鉛は鉛の一種だと考えられていた。シャープペンシルの芯を英語で「lead」(「鉛」の意)、鉛筆のことをドイツ語で「Bleistift」(「鉛、Blei」+「ピン/釘、stift」 =「鉛の筆記具」の意)、はたまた日本語で「鉛筆」と呼ぶのはこの名残である。18世紀末から19世紀初めにかけてようやく黒鉛が炭素からなる物質で鉛を含まないということが解明された。黒鉛は炭素の結晶であり、近代以降の黒鉛鉛筆の芯に重金属は用いられていない。",
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"text": "書き味の軟かさや太さから、美術のデッサンや鉛筆画などにもよく用いられる。各種の顔料を油成分で固めて芯とした色鉛筆も事務から美術用に幅広く用いられる。これは黒以外もさまざまな色の線を描くための鉛筆であり、その筆跡は通常の鉛筆に比べて消しにくい。なお、消しゴムで消すことのできる製品もある。色鉛筆の中でも特に赤鉛筆は、原稿の校正や試験答案などの採点にしばしば用いられる。また、光学カメラを用いる印刷の原稿を作る際には、青鉛筆が用いられる。赤鉛筆と青鉛筆を棒磁石のように合体させた「赤青鉛筆」または「朱藍鉛筆」と呼ばれる、一方が赤色、もう一方が青色の鉛筆も販売されている。",
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "水彩色鉛筆のように絵画用に特化しているものもある。これは顔料を水溶性の溶媒で練り上げた芯を用いた色鉛筆で、描いたあと、水を含ませた筆でなぞると水彩画のような風合いになる。また、芯を固形水彩絵具のように使用することも可能である。油脂分を増した軟質色鉛筆(グリースペンシル)は筆記可能な対象材質が幅広いのが特徴で、産業用固形マーカーやリトグラフ用描画材としても使われる。",
"title": "特性と用途"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "その他の美術用鉛筆には、パステル芯を用いたパステル鉛筆や、木炭粉を固めた芯を用いたチャコールペンシル、コンテ同様にカーボンブラックやサンギュイン(英語版)、セピアや白色顔料などを固めた芯を用いたスケッチングペンシル、これらの水溶性のものなどがある。黒鉛鉛筆は主原料の鱗状黒鉛に由来して筆跡が金属光沢を帯びる特徴が好まれるが、一方、色鉛筆などの黒色に主に用いられるカーボンブラックは金属光沢が少なく、黒みがより強い特徴がある。",
"title": "特性と用途"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "近年はシャープペンシルの普及によって、鉛筆の筆記用としての需要は減少している。しかし、大学入試などでは、マークシートの読み取りミス防止のためにマークシートへの記入は鉛筆に限定されることが多く、マークシート読みとり機メーカーも、鉛筆で書くことを推奨している。ほかにも、手書きで楽譜を書くときなど、一つのペン先で太さの違う線が書けると便利なときなどには、あえて鉛筆が選択されることもある。また、学校の方針で、シャープペンシルを禁止している小学校も多い。",
"title": "特性と用途"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "なお、眉などを描くための化粧用のものとして化粧用鉛筆がある。",
"title": "特性と用途"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "鉛筆は1本単位で売られているほか、1ダース単位でも販売されている。製図用や工事用のような特殊なものもある。黒の単色のみで濃淡一組でセットとなっているものや、数色から数十色の色鉛筆がセットになっているものもある。",
"title": "製品"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "日本では、鉛筆の品質向上を目的に、1951年にJIS規格で「JIS Z 6605」という鉛筆の規格が定められた(1955年廃止)。鉛筆の規格化は諸外国に比べて早い。なお、1998年に、「鉛筆は伝統があり、技術的に成熟して安定した産業」という理由で、以後はJISマークを表示しないという業界内での決定があり、現在の主な鉛筆からはJISマークを表示していない。しかし、現在も多くの鉛筆はJIS規格に基づいて製造されている。2008年現在、有効な鉛筆に関するJIS規格は「JIS S 6006」である。",
"title": "製品"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "鉛筆で書いた線は消しゴムで消去することができ、鉛筆の末端に小さな消しゴムをつけた商品も存在する。なお、消しゴムが発明されたのは鉛筆と比べかなり後世になってからであり、それまではパン屑を用いて消していた。現代でも美術では通称「消しパン」と呼ばれるパンを用いてデッサンの描線などを消すことがある。",
"title": "製品"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "鉛筆で筆記する際には通常、削られていない部分で先端に近い部分を親指、人差し指、中指の3つの指で持つ。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "このとき、親指は人差し指に近い側の指の腹で、人差し指も指の腹で支え、中指は人差し指に近い側の指の側面で支える。そして人差し指に沿わせるようにする。指はあまり曲げないが、人差し指と中指を若干曲げる。鉛筆と記録する紙の成す角度は60°程度とする。このとき、小指の先は紙に接触させる。正しい筆記法(持ち方)を習得するために断面が三角形になっている幼児用鉛筆や、普通の鉛筆に取りつけて正しい持ち方を習得させるグリップも存在する。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "鉛筆での筆記の際には、筆圧が必要以上に強いと芯が折れることがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "鉛筆は使用に伴って芯が摩耗することで、芯の木材から出ている部分が小さくなり、あるいは芯の鋭さが失われる。この結果、描線が太くなり筆記しにくくなるため、木材と芯を削ることで芯の露出を増やし、その先端を鋭くする作業が必要になる。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "鉛筆を削ることを繰り返すと、最後には鉛筆が短くなり過ぎて指で支持しにくくなり、筆記が困難となる。この状態が実用上の寿命である。ただし、測量などの激しい移動を伴う作業では、折れてしまう事故を避けるためにあえて短くなった鉛筆を用いることがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "短くなった鉛筆を使えるようにするために、長さを延長するための金属やプラスチックの器具がある。短くなった鉛筆の削っていない側を差し入れて、筆記しやすくする。保存用のキャップを兼ねた短いものと、延長専用の長いものがある。後者にはペンシルホルダーや補助軸がある。これらにも、消しゴムつきのものがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本およびアメリカの市販鉛筆は通常は削られておらず、使用する前に削る必要がある。これに対し、削られている状態で市販されている鉛筆を、「先付鉛筆」(さきづけえんぴつ)と呼ぶ。ヨーロッパの市販鉛筆は基本的に先付鉛筆である。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "削る作業は、一般的に鉛筆削りと呼ばれる専用の器具、または肥後守やボンナイフなどの小型のナイフ、ないしカッターナイフが用いられる。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "通常、HB・2B・3Hなどの硬さの表示のある方は削らない。こちらを削ると、使用時に硬さがわからなくなってしまうからである。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "鉛筆を削る作業は時間がかかるうえ、専用の器具を使ったり削りくずが出たりするので、板書筆写中、試験中などに随時行うというわけにはいかない。そのため、削った鉛筆を複数本用意し、使用中に摩滅・芯折れすれば順次持ち換え、時間や手間に余裕のできたときにまとめて削るのが普通である。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "鉛筆削りが普及する前には、鉛筆はナイフで削るのが一般的だった。その場合、鉛筆の先端2cm程度を先が細くなるように削る。芯の先も削り、尖らせる。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "画材として使う場合は現在でもナイフの使用は一般的であり、摩耗が早いことや軸を寝かせて広い幅を塗る用法のため、筆記用よりも芯を長く削り出して使われる。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "製図用として通常の円錐形ではなく、マイナスドライバーのようなくさび型に先端を削りだす方法もある。こうすると接地面が増えるため、使用中に先が丸くなりにくく線幅が安定する。また、一本の鉛筆で線の太さを描き分けることができる利点もある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "鉛筆専用の鉛筆削りは、携帯用のものと卓上型のものがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "携帯用鉛筆削り器の多くは、金属かプラスチックの小片に平らな刃を斜めに固定した簡易なものである。鉛筆を円錐形の削り穴に押しこみながら回すことにより、鉛筆の軸と芯が刃に沿って扇状に薄く削り取られる。右利きの人が使いやすいように鉛筆を時計回りに回転させるものが多いが、反時計回りに回転させる左利き用もある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "卓上型鉛筆削り機は現在は電動式も多くみられる。削り器の穴に鉛筆先端を押し込むだけで自動的に削られ、かつ、芯が尖ると自動的に動作を停止する。手動式は鉛筆をつかむクリップ部を一杯に引き出してストッパーで固定された状態から、クリップを開いて削り穴に鉛筆を挿入し、反対側のハンドルを回すものである。ばねの力で鉛筆が押し込まれており、芯が尖ると回転が軽くなり自動的に空回りするので、クリップを開いて鉛筆を引き出す。クリップ部はばねで元の状態に収納される。手動式は、軸にクリップによる傷がつくことがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "卓上型鉛筆削り機の機構は、鉛筆の軸を固定しその周囲を芝刈り機のそれを小型にしたような円筒状の螺旋回転刃を旋回させるものが手動・電動問わず大多数を占め、先の説明もその機構の機器を想定している。そのほか、複数の平面刃を配した手裏剣のごとき回転刃を用い、刃体のほかに鉛筆を軸方向に回転させながら削るもの(ナイフによる鉛筆削りの動作を模している)や、鉛筆を固定し上記携帯式鉛筆削り器と同じ構造の機構部を動力回転させるものなどがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "電動式・手動式いずれも下部の削りかす収納部に削りかすがたまるため、収納部が満杯になる前に削りかすを捨てないと故障の原因になる。また、螺旋回転刃式鉛筆削り機では6cm以下程度に短くなった鉛筆は削れず、携帯用鉛筆削り器やナイフで削るか廃棄することになる。それゆえに、補助軸を好んで用いる者は卓上鉛筆削り機を忌避し、ナイフを愛用する傾向がある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "両端を削ることを地方によっては貧乏削り・泥棒削りと呼ぶ。前述したように、鉛筆は複数本用意するのが基本だが、鉛筆の両端を削れば2本分として使える。これを貧乏削りと揶揄する。貧乏削りは有効利用できる長さが短くなり不経済な使用法でもある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "学用品としての鉛筆は、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書くことがよく行われた。この記名は、盗んだ鉛筆を「貧乏削り」すれば違和感なく削り落とすことができる。そこで、そのような窃盗の証拠隠滅が疑われる使い方を「泥棒削り」と揶揄した。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、赤青鉛筆・朱藍鉛筆の場合には両端を削って用いられるのが普通であり、このような呼び方は用いられない。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "芯出しを削らずに行う鉛筆もある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "削られた鉛筆は、尖らせた芯の先が折れやすいことから、専用の鉛筆キャップをつけて保護するか、ペンケース(筆入れ、筆箱とも呼ぶ)に収めて保護する。鉛筆キャップには柔らかいペンケースに収納した際に消しゴムなど他の文房具を汚さないようにするためにも用いられる。卓上でペン立てに立てる場合は、削った芯を上になるように立てることが多いが、これは、芯がペン立ての底部にぶつかって折れるのを防ぐためであり、同時にペン立てに立てた鉛筆のどれが削ってあるかを判別するためでもある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "鉛筆立ては、芯の先端が底にぶつかる形状でなく、円錐状の削った形状に合わせた穴で面として受けるか、先端部に穴が空いていて芯はそこに突き出すような形で直接当たらない構造にすれば折れない。製造物責任法(PL法)の施行により、鉛筆の尖った先端を上にして挿すことで、その上に倒れ込んでけがをすることを防ぐ配慮から、上向きに挿そうとすると奥まで挿せずに倒れ、強制的に上向き挿しが不可能な構造にしたものがある。",
"title": "使用法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "一般的な鉛筆の構造は、黒鉛と粘土を混ぜて焼いた鉛筆芯と、木材を張り合わせた鉛筆軸からなる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "鉛筆芯は黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固めたものである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "鉛筆の芯は、電気伝導体である黒鉛を含んでいるため、電気を流すことができる。ただし、一般的に流通している鉛筆は芯の表面をコーティングしてあることが多いため、鉛筆の端と端をそのまま導線で結ぶだけでは電気が流れないことが多い。また、色鉛筆の芯は黒鉛を含まないため、電気を流すことはできない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一般に、黒鉛が多く粘土の少ない芯は、軟らかく濃い。黒鉛が少なく粘土の多い芯は、硬く薄い。硬いものは芯が細く、軟らかいものは太い。色の濃さは気温の影響を受け、同じ硬度でも夏期には濃く、冬期には薄くなる。また、黒鉛の粒子を細かくすることで書ける距離を伸ばすことができ、一本の鉛筆で約50kmほどの線を引くことができる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "硬度表記を考案したのは18世紀末のニコラ・ジャック・コンテ(英語版)である。当初、コンテは、芯の硬さに番号をつけ、一番硬いものを1とし、軟らかくなるにつれて番号を増やして表したが、この方式は普及しなかった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "HとBの記号を最初に使ったのは、19世紀初めのロンドンの鉛筆製造業者ブルックマン社(Brookman)である。Bより濃いもの、Hより薄いものは、当初BBやHHと表したり、2Bや2Hと表した。HBはのちにHとBの中間として使われはじめた。Fはさらにその後にHBとHの間を表す記号として考案された。1830年代末までには、BBからHHHまでのHBとFを含む7種類の鉛筆を作る業者が出現した。濃さの表記は当初はさまざまな表記があり混乱したが、現在はほぼこの形に落ち着いている。なお、HはHard、BはBlack、FはFirm/Fine(しっかりした/細い)を意味している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、硬さを番号でつけている。ただし、ニコラ・ジャック・コンテとは番号のつけ方が逆である。対応表は以下の通り。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1942年から45年ごろまでのきわめて短い期間、ローマ字による硬度表記を敵性語とし、漢字表記に置き換えた。この時期の表記と現在の表記の対応表は以下の通り。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "JIS S 6006では芯の硬さの種類を表す記号を定めており、軟らかい方から順に6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9Hの17種類が存在する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ただし、美術・製図・書写用鉛筆ではJIS規格を超える硬度を持つ製品もあり、三菱鉛筆が10Bから10Hまでの全22硬度の製品を2008年から製造しているほか、ステッドラーが12Bから10Hまでの全24硬度の製品を2019年から製造している。また、販売元でもさいたま市の三菱鉛筆埼玉県販売ではオリジナルの10Bを「筆鉛筆」として販売している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "小学校ではHBやBが用いられ、それよりも濃い鉛筆は硬筆書写に用いられることが多かった。しかし、筆圧低下や滑らか志向などの背景もあり、小学校では新入生が使用する鉛筆に2Bを指定する学校が増加している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "三菱鉛筆の統計によると、出荷ベースで1994年にHBが46%、B22%、2B19%だった比率は、2014年には2B44%、B21%、HB20%となった。トンボ鉛筆の統計でも、硬度別の販売数量は1999年にはHBが43%で2Bは22%だったが、2019年には2Bが51%となりHBは20%にまで半減している。また、トンボ鉛筆の学童用売上数量も、2Bは1999年の約50%から2019年には約70%となったのに対し、HBは2005年頃から10%を割り込み、さらに硬いHはほとんど生産されなくなっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "なお、マークシートを読み取るOCR装置やOMR装置は赤外線の反射率を識別に用いているため、赤外線をよく吸収する炭素を他の筆記具よりも多く含むこと、その炭素含有量を硬度で指定できることなどから、マークシート記入には鉛筆が適しており、マークシートへの記入筆記具として硬度とともに鉛筆が指定される。硬度はHB以上の柔らかさを指定されることが多く、マークシート記入用の鉛筆も市販されている。なお、マークシートが使われている大学入学共通テストでは、H、F、HBの黒鉛筆の使用が指定されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "そのほか、塗膜の硬度試験にもJIS規格として鉛筆が指定されており、塗装硬度の評価は鉛筆の芯の硬さである6B - 6Hで評価される。測定方法として鉛筆を塗装面に押しつける角度や強さ、先端の削り方などが詳細に規定されている(JIS K 5600-5-4(ISO/DIN 15184))。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは硬さを10B - 10Hに区分する。また実際の硬さもJISとは異なる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "鉛筆軸は木材でできているものが多いが、リサイクルの観点から古紙を鉛筆軸に使用する製品もある。次のようなものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "軸の長さについては17.5cm程度のものが多いが、これよりも長いものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "軸の断面には円形、三角形、星型などいろいろあるが、正六角形がもっとも一般的である。この理由は、次のようなものである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "赤鉛筆を含む色鉛筆の軸の断面は、円であることが多い。この理由は、次のようなものである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "正三角形の鉛筆は、主に幼児に鉛筆の持ち方を指導するために使われる(「かきかたえんぴつ」「もちかたえんぴつ」など)。その形から「おにぎりえんぴつ」とも呼ばれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "受験生向けの縁担ぎとして、「合格」に掛けた、断面が正五角形の「五角」鉛筆がある。後述を参照",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "根本的な製造法は、コンテの時代からほとんど変わっていない。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "まず芯は、黒鉛を湯と混ぜ、不純物を沈殿させる。粘土も同様にして不純物を取り除く。粘土は主原料を固結させるために用いるが、砂が少なく、粒子が微細なものが要求される。いずれも絞って水分を除いたのち、2つをあわせ、水を混ぜてこね合わせる。比率は硬さによって異なるが、硬さがHBである場合はおよそ7:3の割合で黒鉛が多い。このあとに長く延ばして乾かす。現代の断面が円い芯は、芯押し機で細い穴から押し出す方式がとられる。次にこの生芯を焼き上げる。焼く時間は粘土の性質によって異なる。焼きあがった芯は油などに入れられる。これは主になめらかに書けるようにするためである。油加工といい、その芯を油芯という。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "次に軸であるが、軸になる木は最初は平板の形をしている。これに、芯を入れるための数本の溝が彫られ、接着剤が塗られる。溝に芯を置き、上から同じ形の板を逆さまに向かい合わせにかぶせるように置いて圧着させる。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "日本・アメリカでは木は北米産シダー材が使われ、インドではヒマラヤスギが使われる。接着剤は初期にはニカワが使われた。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "板状の鉛筆の元は、細長く切り分けると断面が正六角形になるように片面ずつ削られ、ついで1本1本の鉛筆に切り分けられる。次に塗装と印刷が施され、鉛筆としてはほぼ完成する。断面が円い鉛筆は、六角形のものに比べて無駄になる木材が多いため、あまり製造されていない。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "鉛筆の軸は正六角形などの角張った形状が一般的であるが、色鉛筆に限れば角がなく円い断面のものが多い。色鉛筆の芯は衝撃に弱く折れやすいことから、衝撃を受けた際のエネルギーを均等に分散させやすい形状として円い断面が選ばれている。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "消しゴムつき鉛筆の場合は、鉛筆の先端に金属の鐶(わ)がはめられ、次に消しゴムがつけられる。鐶の内面に凹凸があり、これで鉛筆と消しゴムを固定している。",
"title": "製造法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "古代、文字は鉛を動物の皮などにこすって記述した。のちに、細長い鉛と錫の合金(はんだ)を用い、外側に木軸を巻きつけた、現在の鉛筆の原型が作られた。これと同じ原理の銀筆などは、現在も美術家が使用している。やがて芯の部分が黒鉛に変わり、削って使うようになったことで現代の鉛筆の原型ができあがったと言える。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "黒鉛を使った鉛筆が最初に記述に現れるのは、1565年に、スイスのドイツ系博物学者コンラート・ゲスナー(ドイツ語: Conrad Gesner)の『とくに石と岩にふくまれる化石の形とイメージについて』である。ゲスナーが使用した鉛筆の本体は丸い筒状の木でできており、先端に黒鉛の小さな塊を詰めるものだった。黒鉛がなくなると新しいものを詰めた。本に記載するくらいには珍しかったようだが、記述によればゲスナー自身はしばらく前からこの道具を使っていた。野外で化石を記録する際、インクつぼの不要な鉛筆はゲスナーにとって大変に便利だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "16世紀の終わりには、イギリスのボローデール(英語版)でカンバーランド黒鉛鉱が発見され、鉛筆が作られるようになった。ゲスナーのものも、芯はカンバーランド産黒鉛(英語: Borrowdale lead)である可能性が高い。1610年までには、ロンドンの市場で鉛筆は普通に売られていた。初期のものはゲスナーの使ったもののような、木や金属で作った軸の先に、黒鉛の塊を詰めるものだった。黒鉛を木で挟んだり、針金で巻いたようなものも存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒を挟んで固定した、現代のように削って使用する鉛筆は、1616年までに発明された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "記録に残るこの種の鉛筆の最初の製造業者は、ドイツのニュルンベルクに住むフリードリッヒ・ステッドラー(Friedrich Staedtler、のちのステッドラー社の創業者の先祖にあたる)で、1662年に町当局に鉛筆製造許可願いを出したが、町はこの仕事は指物師のものだとして却下した。しかし、1675年には、ステッドラーと同業者は、鉛筆製造業者のギルドを作ることを許されるようになっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "削って使う鉛筆は当初、芯は四角く軸は八角形だった。ただし、初期は指物師が鉛筆を作ったので、製造者によっては円形や六角形のものを作った者もいる。長さは6インチまたは7インチで、幅と厚さは1/3ないし1/2インチだった。現代のものと大差ない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "黒鉛はイギリス特産で、この時代、鉛筆はイギリス産のものが多く使われた。また、輸出産業を保護するため、しばしばイギリスは黒鉛を禁輸にし、完成品の鉛筆のみを輸出する政策をとった。イギリスの黒鉛鉱は19世紀までに掘り尽くされ、現在では中国、ブラジル、スリランカなどで地下から黒鉛を採掘している。初期の鉛筆は、末端部分の削ってしまうと持てなくなり捨てる部分には最初から芯を入れず、途中までしか芯は詰められなかった。この工夫は19世紀まで続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "鉛筆が普及し、黒鉛が不足すると、黒鉛を節約し、黒鉛くずも活用する方法が考えられた。最初の着想は1726年までにドイツで実現された。黒鉛くずと硫黄をまぜて溶かし、固めるというものだったが、筆記時に引っかかりが生じて滑らかな筆記性に欠け、のちにカルノー式鉛筆が登場するとすぐに消えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "20世紀の終わりに、日本で伊達政宗の墓所・瑞鳳殿から鉛筆が発見された。これはゲスナーの使ったのとほぼ同じ構造だったが、芯は練って作ってあった。政宗の鉛筆は1636年までには製造されていたと考えられるため、練って作る芯の使用は少なくとも90年はさかのぼることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1770年に、イギリスで消しゴムが発明された(それまでは古くなったパンが使われていた)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1790年にオーストリアのen:Joseph Hardtmuthがウィーンでen:Koh-i-Noor Hardtmuth社を設立した。1793年にイギリスとフランスの間でフランス革命戦争が起きると、フランスに黒鉛と鉛筆が輸入できなくなった。戦争大臣のラザール・カルノー は、技師・発明家のニコラ=ジャック・コンテ(英語版)(Nicholas-Jacques Conté)に代替品の開発を命じた。1795年にコンテは、黒鉛と粘土を混ぜて焼いて作るという、現在と同じ仕組みの芯を開発した。コンテの開発した方法では、黒鉛を大幅に節約でき、また黒鉛くずも利用できた。さらに、粘土の量によって芯の硬さや書く文字の色の濃さも変化させることができるようになり、鉛筆は必要に応じて硬度別に生産されるようになった。またコンテは1798年にパリで催された世界初の国内博覧会で、黒芯の発明により賞を受賞した。1802年、en:Koh-i-Noor Hardtmuth社は黒鉛と粘土から鉛筆の芯を製造する特許を取得した。1848年にKoh-i-Noor Hardtmuth社の工場はチェコに移転し、製造原価を低くすることに成功して大衆に鉛筆を普及させることになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1839年、ドイツのローター・ファーバー(ドイツ語版)はコンテの黒芯を用いて現在と同様の六角形の鉛筆を開発するとともに、鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を設けた。彼はまた初めて会社名を鉛筆に刻印した。この功績からファーバーは男爵の爵位を授かり、王室顧問にも就任した。彼の会社は現在もファーバーカステルとして鉛筆をはじめとした筆記具を製造している。",
"title": "歴史"
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"text": "アメリカのハイマン・リップマン(Hyman L. Lipman)は、1858年3月30日に消しゴムをニカワで鉛筆に固定させる消しゴムつき鉛筆を発明した。リップマンはこの特許をジョセフ・レケンドーファー(Joseph Reckendorfer)に10万ドルで売り莫大な富を築いた。ジョン・エバーハード・ファーバー(英語版)(John Eberhard Faber, 1861年にニューヨークでエバーハード・ファーバー(英語版)社を創業)はこの特許の前に、金属片を押しつけて鉛筆に消しゴムをつける方式を考案し、別に特許をとった。この2者の間で特許紛争となったが、連邦最高裁は、消しゴムつき鉛筆自体に新規性が認められないとし、両方の特許を無効とする判決を下した。",
"title": "歴史"
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"text": "鉛筆削りは19世紀の終わりに発明された。ポケットに入れられる小さなものが若干早く市場に出た。机に設置する大きなものは少し遅れて開発された。当初は、ハンドルを回すことによってヤスリが回転するという仕組みだった。",
"title": "歴史"
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"text": "1870年代までは、鉛筆の芯は四角のままだった。また、19世紀中ごろまでは、鉛筆の形も八角形のものが主流で、外見は17世紀のイギリスのものからほとんど変化しなかった。ファーバーが基準を定めたのち、19世紀末までには、鉛筆の形は円、六角形または三角形になり、芯も丸くなった。八角形で芯が四角いものは、工程上芯が中央からずれる場合があり、その場合鉛筆削りではうまく削れなかったので次第に消えていった。三角形のものは製造工程の都合上安価にできず、あまり普及しなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1889年、パリ万国博覧会では、現代的な六角形で合成黒鉛の芯を使った安価な鉛筆として、木部にシダー(Cedar)を用いた『Koh-i-Noor Hardtmuth社製の黄色い鉛筆』が評判となり、その後の鉛筆の形状ができあがった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本には、17世紀に製造された鉛筆として、徳川家康の鉛筆と伊達政宗の鉛筆が残っている。当時の鉛筆のつくりは現代のものとほぼ同じだった。しかしそのころは定着せず、本格的に輸入が始まるのは19世紀後半、明治時代になってからだった。明治初期の日本では鉛筆の需要は少なく、東京や横浜の輸入品専門店で少量が売られるのみだった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本での鉛筆製造は、1874年にウィーンで鉛筆製造技術を学んで戻った2名の政府伝修生の井口直樹と藤山種重によって製造法がもたらされ、同年に小池卯八郎によって始められたとされる。小池の製造は1890年までは続いたがその後は記録がない。このほかにも若干の製造者がいた。1875年に、大阪福島の耐火煉瓦製造会社「盛秀館」の田中盛秀が郷里の鹿児島で黒鉛の産地を発見し、当地に文具製作所を設立し、鉛筆製造を始めた。1875年、石川県江沼郡富士写ケ岳片谷村(へぎだにむら)に良質の黒鉛が見つかり、旧大聖寺藩士の飛鳥井清らが旧士族の柿沢理平に鉛筆の製造法を学ばせ、 1877年加賀市大聖寺松島町付近に加州松島社を設立し、翌1878年12月に試作品製造に成功、1882年には外国製に劣らない製品とされ、翌1883年アムステルダム万博に出品し第一級第一等賞を得ている。現在まで続く製造業者は後述する真崎鉛筆製造所がもっとも古い。",
"title": "歴史"
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"text": "このほか、安政年間に仙台の士族樋渡源吾が少量の鉛筆を生産し売ったという記録もある。",
"title": "歴史"
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"text": "日本で最初の鉛筆の量産は、1887年に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の三菱鉛筆)創業者・真崎仁六(まさき にろく)によって開始された。なお、この会社は三菱財閥とは昔も今もまったく関係がなく、「三菱マーク」は真崎鉛筆が最初に商標登録をして使用し、後から三菱財閥が許可をとり使用した。日本では長く文書を毛筆で書くしきたりがあり、鉛筆の普及は遅れた。1885年に英語教育に関する書籍が相次ぎ発刊され、同年に大量の鉛筆がアメリカから輸入された。このころから学校では徐々に鉛筆が使われはじめるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1901年に、逓信省(のちの郵政省、現在の日本郵政グループ)が真崎鉛筆を採用した。郵便局内のみとはいえ、全国に鉛筆が供給されるようになった。この後、1920年までに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活に深く浸透するようになったと考えられている。",
"title": "歴史"
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"text": "イギリスの次に鉛筆生産国になったのはドイツで、20世紀初期まで、主な鉛筆輸出国はドイツだった。しかし、第一次世界大戦が起きるとドイツ製鉛筆が入手できなくなり、1915年ごろからは日本製のものが世界で使われ、日本の主要輸出品の一つになった。ただし、日本製のものは両端にしか芯のないキセル鉛筆などの粗悪品が多く、国際的には評価が低かった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "第一次大戦が終わると粗悪品で信頼が落ちた日本製品の輸出は極端に低下したが、1930年代になるとまた増加し日米で鉛筆貿易摩擦が起きるほどになった。しばらくはドイツと日本が主な鉛筆製造国だったが、第二次世界大戦の影響で、1940年代はどちらの国も輸出がほぼ止まった。輸出復活は戦後を待つことになる。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "印刷つき鉛筆は、1949年に日本のトンボ鉛筆が最初に製造した。これ以前の印字は箔押しだった。精巧な曲面印刷技術を用いたものは、1951年までに、日本の伊藤意匠研究所(現在のいとう鉛筆意匠)創業者伊藤一喜と本多鉛筆印刷の本多信によって始められた。これにより、社名などを印字した贈答用鉛筆が多く作られるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 91,
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"text": "戦後の鉛筆メーカーは、国内各地に中小企業が存在しており、1950年の東北地方だけでも青森県内1社、岩手県内2社、山形県内2社が存在していた。鉛筆の芯は、東京芯工業協同組合などが供給を行っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1990年代半ば以降学齢人口の減少、シャープペンシルの利用増、ワープロ・パソコンの普及などが原因で鉛筆の需要は大きく落ち込んでいる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "雑貨統計によれば、日本の輸出量は1950年ごろが最大で188万グロス、1997年は45万グロス、日本製鉛筆の生産高は1966年ごろが最大で962万グロス、1997年は367万グロスである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1998年には、労働省(現在の厚生労働省)が「事務用品の買い控えによる生産量の減少」を理由として鉛筆製造業を「雇用調整助成金の指定業種」に指定した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "徳川家康の鉛筆は、現存する日本でもっとも古い鉛筆で、削る種類のものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "鉛筆は、久能山東照宮で、硯箱に入った状態で発見された。硯箱は1664年に作られた宝物目録『具能山御道具之覚』に記載があるが、鉛筆の記載はない。硯箱に入っていたことから、家康のものとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "鉛筆は長さ11.7cm、芯の長さ6cm、先端は削ってあり、太さ0.7cm、重量6g。産地は日本国内ではなく、はっきりしない。黒鉛はメキシコ産に質が似ている。軸木は、中米かフィリピン産とされる。製品そのものは、ヨーロッパ製である可能性が高いと考えられている 。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 98,
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"text": "鉛筆は、政宗の墓地である瑞鳳殿の発掘調査団長・伊東信雄により発見された。政宗の鉛筆は、先端に黒鉛の塊を詰めるもので、原理的にはゲスナーの使用したものに近い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 99,
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"text": "政宗は1636年に死去し、副葬品の中から見つかったため、政宗の愛用品と考えられている。発掘は1974年に行われ、鉛筆は発掘品の中から1988年に発見された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "鉛筆は全長7.4cm、太さ0.4cm、芯は先に詰めてあり、芯の長さ1.3cm、最大直径0.43cm。キャップがついていた。キャップは木製で長さ3.0cm、直径0.6cm。鉛筆はさらに木筒に収められた状態で発見された。軸の素材はササで、日本産かその近縁種。芯は何かで固めてあるが、当時ヨーロッパで使われたと考えられる硫黄やアンチモンは検出されなかった。黒鉛の産地は不明である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "輸入品の鉛筆を愛用した政宗が、配下のものに命じて自分の使いやすいものを作らせた可能性がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "政宗の鉛筆は発掘後に極端に風化し、現在は原形を留めていない。しかし、完全に風化する前に複製品が作られ、仙台市博物館、日本文具資料館(東京都台東区柳橋)、三菱鉛筆に存在している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "現在はユニークな形状をしたものなど、さまざまな工夫を凝らした鉛筆が発明・開発・販売されている。",
"title": "デザイン"
}
] |
鉛筆(えんぴつ)とは、筆記具・文房具の一種。顔料を細長く固めた芯(鉛筆芯)を軸(鉛筆軸)ではさんで持ち易くしたものである。 紙に筆記するために使われる。鉛筆の片側の末端部分を削って露出させた芯を紙に滑らせると、紙との摩擦で芯が細かい粒子になり、紙に顔料の軌跡を残すことで筆記される。
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{{複数の問題
| 脚注の不足 = 2023年3月
| 独自研究 = 2023年3月
}}
[[File:Sharpener, eraser and pen 20190402.jpg|thumb|鉛筆と消しゴムと鉛筆削り]]
[[File:Colouring pencils.jpg|thumb|色鉛筆]]
[[File:Caran d'Ache BICOLOR with shadow.jpg|thumb|赤青鉛筆]]
'''鉛筆'''(えんぴつ)とは、[[文房具|筆記具]]・[[文房具]]の一種。[[顔料]]を細長く固めた'''芯'''(鉛筆芯)を'''軸'''(鉛筆軸)ではさんで持ち易くしたものである。
[[紙]]に[[筆記]]するために使われる。鉛筆の片側の末端部分を削って露出させた芯を紙に滑らせると、紙との[[摩擦]]で芯が細かい粒子になり、紙に顔料の軌跡を残すことで筆記される。
== 名称 ==
鉛筆は、[[明治]]初期の[[日本]]では「'''木筆'''」などとも呼んだが、のちに「鉛筆」と呼ばれるようになった。一説に「lead pencil」(鉛の筆)からの訳語であるという。
[[英語]]の「pencil」の語源は、[[ラテン語]]で「尾」を意味する「penis」に[[縮小辞]]のついた形「penicillus」(ペニキッルス)であり、「小さな尾」「画筆」などの意味がある<ref>[研究社]『羅和辞典 (研究社)|羅和辞典』による。</ref>。ローマ時代には「画筆」などを指すのに使われたものが、中世フランス語経由で英語になったものである。なお、フランス語の「pinceau」は現在でも画筆を意味する。[[ペン]]を意味する「pen」はラテン語の「[[:la:Penna|penna]]」(羽根)に由来する。この類似は偶然であり、[[語源]]上のつながりはない<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?search=pencil "pencil"] Online Etymology Dictionary 2019年12月1日閲覧</ref><ref>[http://www.etymonline.com/index.php?search=pen "pen"] Online Etymology Dictionary 2019年12月1日閲覧 </ref>。
[[日本語]]で「鉛筆」という場合、機械式の鉛筆である[[シャープペンシル]]は含まない。対して、英語で「pencil」という場合、「黒鉛を芯とする筆記具の総称」として機械式の鉛筆であるシャープペンシルを含むことがある。
なお、「鉛筆」という名称や、鉛筆の芯の材料の「[[グラファイト|黒鉛]]」の物質名から、「鉛筆には[[鉛]]が使われている」と信じている者がいるが、誤りである。鉛筆が使われるようになった初期のころはまだ化学知識が未熟であり、黒鉛は鉛の一種だと考えられていた。シャープペンシルの芯を英語で「[[:en:lead|lead]]」(「鉛」の意)、鉛筆のことをドイツ語で「[[:de:Bleistift|Bleistift]]」(「鉛、[[:de:Blei|Blei]]」+「ピン/釘、[[:de:stift|stift]]」 =「鉛の筆記具」の意)、はたまた日本語で「鉛筆」と呼ぶのはこの名残である。[[18世紀]]末から[[19世紀]]初めにかけてようやく黒鉛が[[炭素]]からなる物質で鉛を含まないということが解明された。黒鉛は[[炭素]]の[[結晶]]であり、近代以降の黒鉛鉛筆の芯に[[重金属]]は用いられていない。
== 特性と用途 ==
鉛筆は筆記・書写・描画、製図などに幅広く使用される。通常の鉛筆の筆跡は[[消しゴム]]を用いれば消すことができ、そのため公的な書類などには用いることができない場合も多い。その筆跡は、保管状況によっては数年経つと輪郭がぼやけ、掠れたような感じになる。これは、鉛筆の芯の主成分である[[炭素]]が[[顔料]]であり、紙の表面に付着するだけで、中までしみこまないことに由来する。特に色の濃い鉛筆の芯ほど擦れやすい。これを防ぐには、表面を[[フィキサチーフ]]のような透明塗料で覆い、炭素の粒子を固定する必要がある。反面、鉛筆の筆跡は[[インク]]のように経年変化によって色が変化したり消えたりすることはない。また水分によって筆跡が滲まないため[[航海日誌]]の記述に用いられてきた。消去防止や湿式の複製を目的とした特殊な鉛筆として、水溶性色素を含んだインデリブル・インク鉛筆や{{仮リンク|コッピー鉛筆|en|Copying pencil}}<ref>Liz Dube, [http://cool.conservation-us.org/coolaic/sg/bpg/annual/v17/bp17-05.html The Copying Pencil: Composition, History, and Conservation Implications], ''The Book and Paper Group ANNUAL'', Volume Seventeen 1998, The American Institute for Conservation of Historic and Artistic Works.</ref>と呼ばれるものもあるが、現代では稀な存在となっている。
書き味の軟かさや太さから、美術の[[デッサン]]や[[鉛筆画]]などにもよく用いられる。各種の[[顔料]]を[[油]]成分で固めて芯とした'''[[色鉛筆]]'''も事務から美術用に幅広く用いられる。これは黒以外もさまざまな[[色]]の線を描くための鉛筆であり、その筆跡は通常の鉛筆に比べて消しにくい。なお、消しゴムで消すことのできる製品もある。色鉛筆の中でも特に赤鉛筆は、原稿の[[校正]]や試験答案などの採点にしばしば用いられ<!-- 、[[死刑]]執行命令書に法相がサインする際には必ず用いられ{{要出典|date=2016年7月}} -->る。また、光学[[カメラ]]を用いる印刷の原稿を作る際には、青鉛筆が用いられる。赤鉛筆と青鉛筆を棒磁石のように合体させた「赤青鉛筆」または「朱藍鉛筆」と呼ばれる、一方が[[赤|赤色]]、もう一方が[[青]]色の鉛筆も販売されている。
[[水彩色鉛筆]]のように絵画用に特化しているものもある。これは顔料を水溶性の溶媒で練り上げた芯を用いた色鉛筆で、描いたあと、水を含ませた筆でなぞると水彩画のような風合いになる。また、芯を固形水彩絵具のように使用することも可能である。油脂分を増した軟質色鉛筆([[ダーマトグラフ|グリースペンシル]])は筆記可能な対象材質が幅広いのが特徴で、産業用[[マーカー (筆記具)|固形マーカー]]や[[リトグラフ]]用描画材としても使われる。
その他の美術用鉛筆には、[[パステル]]芯を用いたパステル鉛筆や、木炭粉を固めた芯を用いた[[木炭#美術用|チャコールペンシル]]、[[コンテ]]同様に[[カーボンブラック]]や{{仮リンク|サンギュイン|en|Sanguine}}、[[セピア]]や白色顔料などを固めた芯を用いたスケッチングペンシル、これらの水溶性のものなどがある。黒鉛鉛筆は主原料の鱗状黒鉛に由来して筆跡が金属光沢を帯びる特徴が好まれるが、一方、色鉛筆などの黒色に主に用いられるカーボンブラックは金属光沢が少なく、黒みがより強い特徴がある<ref>仙石正. [https://doi.org/10.7209/tanso.3.72 鉛筆芯用炭素材料]. ''炭素'', '''3''' (2), pp. 72-76. 炭素材料学会, 1953.</ref>。
近年は[[シャープペンシル]]の普及によって、鉛筆の筆記用としての需要は減少している。しかし、大学入試などでは、[[マークシート]]の読み取りミス防止のためにマークシートへの記入は鉛筆に限定されることが多く、マークシート読みとり機メーカーも、鉛筆で書くことを推奨している。ほかにも、手書きで楽譜を書くときなど、一つのペン先で太さの違う線が書けると便利なときなどには、あえて鉛筆が選択されることもある。また、学校の方針で、シャープペンシルを禁止している小学校も多い。
なお、眉などを描くための化粧用のものとして化粧用鉛筆がある<ref name="jpo-card-B7">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/B7.pdf 意匠分類定義カード(B7)] 特許庁</ref><ref name="jpo-card-F2">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/F2.pdf 意匠分類定義カード(F2)] 特許庁</ref>。
== 製品 ==
鉛筆は1本単位で売られているほか、1[[ダース]]単位でも販売されている。製図用や工事用のような特殊なものもある。黒の単色のみで濃淡一組でセットとなっているものや、数色から数十色の色鉛筆がセットになっているもの<!--6色・12色・18色・24色・36色・50色・72色・120色・150色・240色など-->もある。
[[日本]]では、鉛筆の品質向上を目的に、[[1951年]]に[[日本産業規格|JIS規格]]で「JIS Z 6605」という鉛筆の規格が定められた(1955年廃止)<ref>[https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrDisuseJISStandardList?show&jisStdNo=Z6605 日本産業標準調査会:データベース-廃止JIS規格リスト Z6605]</ref>。鉛筆の規格化は諸外国に比べて早い。なお、[[1998年]]に、「鉛筆は伝統があり、技術的に成熟して安定した産業」という理由で、以後はJISマークを表示しないという業界内での決定があり、現在の主な鉛筆からはJISマークを表示していない。しかし、現在も多くの鉛筆はJIS規格に基づいて製造されている。2008年現在、有効な鉛筆に関するJIS規格は「JIS S 6006」<ref>{{Cite jis|S|6006}}</ref>である。
鉛筆で書いた線は[[消しゴム]]で消去することができ、鉛筆の末端に小さな消しゴムをつけた商品も存在する。なお、消しゴムが発明されたのは鉛筆と比べかなり後世になってからであり、それまでは[[パン]]屑を用いて消していた。現代でも[[美術]]では通称「消しパン」と呼ばれるパンを用いて[[デッサン]]の描線などを消すことがある。
{{see also|食パン|消しゴム}}
== 使用法 ==
=== 筆記法 ===
<!-- 画像があると良い -->
鉛筆で筆記する際には通常、削られていない部分で先端に近い部分を親指、人差し指、中指の3つの指で持つ。
このとき、親指は人差し指に近い側の指の腹で、人差し指も指の腹で支え、中指は人差し指に近い側の指の側面で支える。そして人差し指に沿わせるようにする。指はあまり曲げないが、人差し指と中指を若干曲げる。鉛筆と記録する紙の成す角度は60°程度とする。このとき、小指の先は紙に接触させる。正しい筆記法(持ち方)を習得するために断面が三角形になっている幼児用鉛筆や、普通の鉛筆に取りつけて正しい持ち方を習得させるグリップも存在する。
鉛筆での筆記の際には、筆圧が必要以上に強いと芯が折れることがある。
=== 削り方 ===
[[画像:Hojyo-jiku.jpg|thumb|金属製の補助軸の使用例。短くなった鉛筆を補助軸に差し込み、グリップ部分にあるネジで固定して使用する。]]
鉛筆は使用に伴って芯が摩耗することで、芯の木材から出ている部分が小さくなり、あるいは芯の鋭さが失われる。この結果、描線が太くなり筆記しにくくなるため、木材と芯を削ることで芯の露出を増やし、その先端を鋭くする作業が必要になる。
鉛筆を削ることを繰り返すと、最後には鉛筆が短くなり過ぎて指で支持しにくくなり、筆記が困難となる。この状態が実用上の寿命である。ただし、測量などの激しい移動を伴う作業では、折れてしまう事故を避けるためにあえて短くなった鉛筆を用いることがある。
短くなった鉛筆を使えるようにするために、長さを延長するための金属やプラスチックの器具がある。短くなった鉛筆の削っていない側を差し入れて、筆記しやすくする。保存用のキャップを兼ねた短いものと、延長専用の長いものがある。後者にはペンシルホルダーや[[鉛筆補助軸|補助軸]]がある。これらにも、消しゴムつきのものがある。
日本およびアメリカの市販鉛筆は通常は削られておらず、使用する前に削る必要がある。これに対し、削られている状態で市販されている鉛筆を、「先付鉛筆」(さきづけえんぴつ)と呼ぶ。ヨーロッパの市販鉛筆は基本的に先付鉛筆である。
削る作業は、一般的に[[鉛筆削り]]と呼ばれる専用の器具、または[[肥後守]]や[[ボンナイフ]]などの小型の[[ナイフ]]、ないし[[カッターナイフ]]が用いられる。
通常、HB・2B・3Hなどの硬さの表示のある方は削らない。こちらを削ると、使用時に硬さがわからなくなってしまうからである。
鉛筆を削る作業は時間がかかるうえ、専用の器具を使ったり削りくずが出たりするので、板書筆写中、試験中などに随時行うというわけにはいかない。そのため、削った鉛筆を複数本用意し、使用中に摩滅・芯折れすれば順次持ち換え、時間や手間に余裕のできたときにまとめて削るのが普通である。
==== ナイフでの削り方 ====
鉛筆削りが普及する前には、鉛筆はナイフで削るのが一般的だった。その場合、鉛筆の先端2cm程度を先が細くなるように削る。芯の先も削り、尖らせる。
画材として使う場合は現在でもナイフの使用は一般的であり、摩耗が早いことや軸を寝かせて広い幅を塗る用法のため、筆記用よりも芯を長く削り出して使われる<ref>[http://zokeifile.musabi.ac.jp/%E9%89%9B%E7%AD%86/ 鉛筆], [http://cc.musabi.ac.jp/zoukei_file/03/sobyo/sozai_pencil.html 鉛筆デッサン], [http://cc.musabi.ac.jp/zoukei_file/03/sobyo/NewFiles/kezurikata.html 鉛筆を削る], ''造形ファイル'', 武蔵野美術大学, 2015年8月19日閲覧.</ref>。
製図用として通常の円錐形ではなく、マイナスドライバーのようなくさび型に先端を削りだす方法もある。こうすると接地面が増えるため、使用中に先が丸くなりにくく線幅が安定する。また、一本の鉛筆で線の太さを描き分けることができる利点もある。
==== 鉛筆削り(器具) ====
鉛筆専用の鉛筆削りは、携帯用のものと卓上型のものがある。
携帯用鉛筆削り器の多くは、金属かプラスチックの小片に平らな刃を斜めに固定した簡易なものである。鉛筆を円錐形の削り穴に押しこみながら回すことにより、鉛筆の軸と芯が刃に沿って扇状に薄く削り取られる。右利きの人が使いやすいように鉛筆を時計回りに回転させるものが多いが、反時計回りに回転させる左利き用もある。
卓上型鉛筆削り機は現在は電動式も多くみられる。削り器の穴に鉛筆先端を押し込むだけで自動的に削られ、かつ、芯が尖ると自動的に動作を停止する。手動式は<!--鉛筆を削り穴に押し込んで-->鉛筆をつかむクリップ部を一杯に引き出してストッパーで固定された状態から、クリップを開いて削り穴に鉛筆を挿入し、反対側のハンドルを回すものである。[[ばね]]の力で鉛筆が押し込まれており、芯が尖ると回転が軽くなり自動的に空回りするので、クリップを開いて鉛筆を引き出す。クリップ部はばねで元の状態に収納される。手動式は、軸にクリップによる傷がつくことがある。
卓上型鉛筆削り機の機構は、鉛筆の軸を固定しその周囲を[[芝刈り機]]のそれを小型にしたような円筒状の螺旋回転刃を旋回させるものが手動・電動問わず大多数を占め、先の説明もその機構の機器を想定している。そのほか、複数の平面刃を配した[[手裏剣]]のごとき回転刃を用い、刃体のほかに鉛筆を軸方向に回転させながら削るもの(ナイフによる鉛筆削りの動作を模している)<!--エル・カスコ社のものを想定した説明-->や、鉛筆を固定し上記携帯式鉛筆削り器と同じ構造の機構部を動力回転させるものなどがある。
電動式・手動式いずれも下部の削りかす収納部に削りかすがたまるため、収納部が満杯になる前に削りかすを捨てないと故障の原因になる。また、螺旋回転刃式鉛筆削り機では6cm以下程度に短くなった鉛筆は削れず、携帯用鉛筆削り器やナイフで削るか廃棄することになる。それゆえに、補助軸を好んで用いる者は卓上鉛筆削り機を忌避し、ナイフを愛用する傾向がある。
==== 貧乏削り・泥棒削り ====
両端を削ることを地方によっては貧乏削り・泥棒削りと呼ぶ。前述したように、鉛筆は複数本用意するのが基本だが、鉛筆の両端を削れば2本分として使える。これを貧乏削りと揶揄する。貧乏削りは有効利用できる長さが短くなり不経済な使用法でもある。
学用品としての鉛筆は、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書くことがよく行われた。この記名は、盗んだ鉛筆を「貧乏削り」すれば違和感なく削り落とすことができる。そこで、そのような窃盗の証拠隠滅が疑われる使い方を「泥棒削り」と揶揄した。
なお、赤青鉛筆・朱藍鉛筆の場合には両端を削って用いられるのが普通であり、このような呼び方は用いられない。
==== 削らないで使うもの ====
芯出しを削らずに行う鉛筆もある。
; [[ダーマトグラフ]](グリースペンシル)
: [[ワックス]]分を多くした芯を、紙巻きの軸で巻いた鉛筆。芯に木ではなく紙を巻きつけて作られたもので、一端に糸が仕込まれたものである。この糸を引くと外面に切れ目が入るようになっていて、決まった切り目から剥がしていくと、円錐形の先端に新しい芯がでるようになっている。[[金属]]・[[ガラス]]など、通常の鉛筆では書けない表面にも書ける。軸が紙なのは、芯の熱膨張率が高く、芯が縮んだときに軸が変形しないと抜け落ちてしまうためである。
; ロケット鉛筆
: プラスチックで芯を保持した小さな鉛筆状のパーツが、円筒状のケースに複数収納されたもの。ケースの先から芯の部分が突出しており、ケースを保持して筆記する。芯が丸くなってきたらそのパーツを先端から引き抜き、ケースの一番後ろへ突き刺すことで中のパーツが順次押し出され、新しい芯が出てくる仕組みになっている。ただし、その構造上1つでもパーツを紛失すると使用できなくなる。複数の色の芯がワンセットになったものも存在する。名称の由来や、この名前が商品名なのか否かは不明。
; スコア鉛筆([[クリップペンシル]]、[[ペグシル]])
: 長さ10 cm、幅5 mm程度のプラスチックの軸の先端に長さ1 cmほどの芯が埋め込まれている鉛筆。使い捨てであり、削る必要がないため[[公営競技]]の[[投票券_(公営競技)|投票券]]売り場や[[ゴルフ場]]などに、マークシートへの記入やスコアの記録のためのサービスとして置いてある。[[アンケート]]用紙とともに配布されることも多い。
=== 保存法 ===
削られた鉛筆は、尖らせた芯の先が折れやすいことから、専用の鉛筆キャップをつけて保護するか、ペンケース(筆入れ、筆箱とも呼ぶ)に収めて保護する。鉛筆キャップには柔らかいペンケースに収納した際に消しゴムなど他の文房具を汚さないようにするためにも用いられる。卓上でペン立てに立てる場合は、削った芯を上になるように立てることが多いが、これは、芯がペン立ての底部にぶつかって折れるのを防ぐためであり、同時にペン立てに立てた鉛筆のどれが削ってあるかを判別するためでもある。
鉛筆立ては、芯の先端が底にぶつかる形状でなく、円錐状の削った形状に合わせた穴で面として受けるか、先端部に穴が空いていて芯はそこに突き出すような形で直接当たらない構造にすれば折れない。[[製造物責任法]](PL法)の施行により、鉛筆の尖った先端を上にして挿すことで、その上に倒れ込んでけがをすることを防ぐ配慮から、上向きに挿そうとすると奥まで挿せずに倒れ、強制的に上向き挿しが不可能な構造にしたものがある。
== 構造 ==
一般的な鉛筆の構造は、[[グラファイト|黒鉛]]と[[粘土]]を混ぜて焼いた鉛筆芯と、[[木材]]を張り合わせた鉛筆軸からなる。
=== 鉛筆芯 ===
鉛筆芯は黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固めたものである。
鉛筆の芯は、[[電気伝導体]]である[[黒鉛]]を含んでいるため、[[電気]]を流すことができる。ただし、一般的に流通している鉛筆は芯の表面をコーティングしてあることが多いため、鉛筆の端と端をそのまま導線で結ぶだけでは電気が流れないことが多い。また、色鉛筆の芯は黒鉛を含まないため、電気を流すことはできない。
一般に、[[グラファイト|黒鉛]]が多く粘土の少ない芯は、軟らかく濃い。黒鉛が少なく粘土の多い芯は、硬く薄い。硬いものは芯が細く、軟らかいものは太い。色の濃さは気温の影響を受け、同じ硬度でも[[夏]]期には濃く、[[冬]]期には薄くなる。また、黒鉛の粒子を細かくすることで書ける距離を伸ばすことができ、一本の鉛筆で約50[[キロメートル|km]]ほどの線を引くことができる<ref>{{Cite book|和書|author=夏目幸明|authorlink=夏目幸明|title=ニッポン「もの物語」|chapter=その01 鉛筆 [[三菱鉛筆]]|pages=14 - |year=2009|month=6|publisher=[[講談社]]|isbn=9784062153157|cite=<!--引用文-->|accessdate=<!--YYYY-MM-DDの形式で-->}}。</ref>。
==== 硬度表記 ====
硬度表記を考案したのは[[18世紀]]末の{{仮リンク|ニコラ・ジャック・コンテ|en|Nicolas-Jacques Conté}}である。当初、コンテは、芯の硬さに番号をつけ、一番硬いものを1とし、軟らかくなるにつれて番号を増やして表したが、この方式は普及しなかった。
HとBの記号を最初に使ったのは、[[19世紀]]初めのロンドンの鉛筆製造業者[[ブルックマン]]社(Brookman)である。Bより濃いもの、Hより薄いものは、当初BBやHHと表したり、2Bや2Hと表した。HBはのちにHとBの中間として使われはじめた。Fはさらにその後にHBとHの間を表す記号として考案された。[[1830年代]]末までには、BBからHHHまでのHBとFを含む7種類の鉛筆を作る業者が出現した。濃さの表記は当初はさまざまな表記があり混乱したが、現在はほぼこの形に落ち着いている。なお、'''HはHard'''、'''BはBlack'''、'''FはFirm/Fine'''(しっかりした/細い)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mpuni.co.jp/museum/qa/mistery05.html|title=えんぴつのナゾを解く|三菱鉛筆株式会社|accessdate=2015-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://blog.livedoor.jp/yamakatsuei/archives/52001177.html|title=山岸勝榮の日英語サロン : 鉛筆の芯の硬さとFの略号|accessdate=2015-10-10}}</ref>を意味している。
===== アメリカ合衆国での表記 =====
アメリカ合衆国では、硬さを番号でつけている。ただし、ニコラ・ジャック・コンテとは番号のつけ方が逆である。対応表は以下の通り。
* #1 = B
* #2 = HB:もっともよく使われる。
* #2 1/2 = F:2-4/8, 2.5, 2 5/10と表されることもある。
* #3 = H
* #4 = 2H
{|
|- style="background:#CCCCCC;"
| 濃度 || 米 || || style="text-align:right" | 欧
|-
|style="background:#444444;"| || #1 || = || style="text-align:right" | B
|-
|style="background:#555555;"| || #2 || = || style="text-align:right" | HB
|-
|style="background:#666666;"| ||#2 ? * || = || style="text-align:right" | F
|-
|style="background:#777777;"| ||#3 || = || style="text-align:right" | H
|-
|style="background:#888888;"| || #4 || = || style="text-align:right" | 2H
|}
* Fの表記方法に混乱があるのは、2 1/2という表記法が商標登録されていることに由来する{{要出典|date=2011年4月}}。
===== 日本での表記 =====
[[画像:Aofhfeworewour2.jpg|thumb|6Bの鉛筆とそれを使って書いたもの]]
1942年から45年ごろまでのきわめて短い期間、ローマ字による硬度表記を[[敵性語]]とし、漢字表記に置き換えた。この時期の表記と現在の表記の対応表は以下の通り。
* 二軟 = 2B
* 一軟 = B
* 中庸 = HB
* 一硬 = H
* 二硬 = 2H
[[日本産業規格|JIS]] S 6006では芯の硬さの種類を表す記号を定めており、軟らかい方から順に6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9Hの17種類が存在する。
ただし、美術・製図・書写用鉛筆<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column_review/yajreview/405848.html|title=やじうまミニレビュー 三菱鉛筆「筆鉛筆」|work=家電Watch|publisher=インプレス|date=2010-11-11|accessdate=2020-9-29}}</ref>ではJIS規格を超える硬度を持つ製品もあり、[[三菱鉛筆]]が10Bから10Hまでの全22硬度の製品を2008年から製造しているほか<ref>{{Cite press release|和書|title=世界最多となる硬度幅を実現! 10H〜10Bまでの全22硬度を揃えた鉛筆セット 『ハイユニ アートセット』10月1日(水)新発売|publisher=[[三菱鉛筆]]|date=2008-09-18|url=https://www.mpuni.co.jp/news/pressrelease/detail/20130326153526.html|format=|language=|accessdate=|quote=}}</ref>、[[ステッドラー]]が12Bから10Hまでの全24硬度の製品を2019年から製造している<ref>{{Cite web|和書|url=https://shumibun.jp/articles/news/detail/6744/|title=ステッドラー マルス ルモグラフ製図用高級鉛筆 世界一の全24硬度に|work=趣味文CLUB|publisher=エイ出版社|date=2019-5-15|accessdate=2020-9-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211112055015/https://shumibun.jp/articles/news/detail/6744/|archivedate=2021-11-12|deadlinkdate=2021-12-08}}</ref>。また、販売元でも[[さいたま市]]の三菱鉛筆埼玉県販売ではオリジナルの10Bを「筆鉛筆」として販売している<ref name="yomiuri20210429" />。
小学校ではHBやBが用いられ、それよりも濃い鉛筆は硬筆書写に用いられることが多かった<ref name="yomiuri20210429" /><ref name="asahi20210429" />。しかし、筆圧低下や滑らか志向などの背景もあり、小学校では新入生が使用する鉛筆に2Bを指定する学校が増加している<ref name="yomiuri20210429" /><ref name="asahi20210429" />。
三菱鉛筆の統計によると、出荷ベースで1994年にHBが46%、B22%、2B19%だった比率は、2014年には2B44%、B21%、HB20%となった<ref name="asahi20210429">[https://www.asahi.com/articles/ASN4Z3DMSN4FPTIL001.html 鉛筆は「2B」今どきの小学生、原因は筆圧の低下?] - 朝日新聞 2023年3月10日閲覧。</ref>。トンボ鉛筆の統計でも、硬度別の販売数量は1999年にはHBが43%で2Bは22%だったが、2019年には2Bが51%となりHBは20%にまで半減している<ref name="yomiuri20210429">[https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20210429-OYT1T50134/ 子どもに人気は「規格外の10B鉛筆」…文字が太く、見栄えがいい] - 読売新聞 2023年3月10日閲覧。</ref>。また、トンボ鉛筆の学童用売上数量も、2Bは1999年の約50%から2019年には約70%となったのに対し、HBは2005年頃から10%を割り込み、さらに硬いHはほとんど生産されなくなっている<ref name="asahi20210429" />。
なお、[[マークシート]]を読み取る[[光学文字認識|OCR]]装置や[[光学式マーク認識|OMR]]装置は[[赤外線]]の反射率を識別に用いているため、赤外線をよく吸収する[[炭素]]を他の筆記具よりも多く含むこと、その炭素含有量を硬度で指定できることなどから、マークシート記入には鉛筆が適しており、マークシートへの記入筆記具として硬度とともに鉛筆が指定される。硬度はHB以上の柔らかさを指定されることが多く、マークシート記入用の鉛筆も市販されている。なお、マークシートが使われている[[大学入学共通テスト]]では、H、F、HBの黒鉛筆の使用が指定されている<ref name=daigakunyushi>{{Cite web|和書|url=https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00040887.pdf&n=%E5%88%A5%E6%B7%BB%EF%BC%93_%E2%98%85R4%E5%8F%97%E9%A8%93%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%B3%A8%E6%84%8F%EF%BC%88%E5%A4%89%E6%9B%B4%EF%BC%89.pdf|title=令和4年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト受験上の注意 |date=2021-12-28 |publisher=大学入試センター |page=10 |format=pdf|accessdate=2022-02-27}}</ref>。
そのほか、塗膜の硬度試験にもJIS規格として鉛筆が指定されており、塗装硬度の評価は鉛筆の芯の硬さである6B - 6Hで評価される。測定方法として鉛筆を塗装面に押しつける角度や強さ、先端の削り方などが詳細に規定されている(JIS K 5600-5-4(ISO/DIN 15184))。
===== ヨーロッパでの表記 =====
ヨーロッパでは硬さを10B - 10Hに区分する。また実際の硬さもJISとは異なる。
{| align=center style="text-align:center"
|- style="height:10px"
| style="background:#E7E7E7; width:25px" | || style="background:#DDDDDD; width:25px" | || style="background:#CCCCCC; width:25px" | || style="background:#C7C7C7; width:25px" | || style="background:#BBBBBB; width:25px" | || style="background:#B7B7B7; width:25px" | || style="background:#AAAAAA; width:25px" | || style="background:#999999; width:25px" | || style="background:#888888; width:25px" | || style="background:#777777; width:25px;" | || style="background:#666666; width:25px" | || style="background:#555555; width:25px" | || style="background:#4A4A4A; width:25px" | || style="background:#444444; width:25px" | || style="background:#3A3A3A; width:25px" | || style="background:#333333; width:25px" | || style="background:#2a2a2a; width:25px" | || style="background:#222222; width:25px" | || style="background:#1a1a1a; width:25px" | || style="background:#111111; width:25px" | || style="background:#000000; width:25px"| || style="background:#000000; width:25px"|
|-
| 10H || 9H || 8H || 7H || 6H || 5H || 4H || 3H || 2H || H || F || HB || B || 2B || 3B || 4B || 5B || 6B || 7B || 8B || 9B || 10B
|-
| colspan=4, style="text-align:left"|硬||colspan=5|→||colspan=4|並||colspan=5|→||colspan=4 style="text-align:right"|軟
|}
=== 鉛筆軸 ===
==== 材質 ====
鉛筆軸は木材でできているものが多いが、[[リサイクル]]の観点から古紙を鉛筆軸に使用する製品もある。次のようなものもある。
; プラスチック鉛筆
: 芯の周囲がプラスチックで覆われている。着色されていないものは樹脂が透明なので事務用ボールペンのように中の芯が透けて見える。
; [[芯ホルダー]]
: 鉛筆の太さとシャープペンシルの使いやすさが合わさった筆記用具。製図に用いられることがある。芯は鉛筆と同様に専用の[[芯研器]]を用いて削ることもある。
==== 形状 ====
軸の長さについては17.5cm程度のものが多いが、これよりも長いものもある。
軸の断面には円形、三角形、星型などいろいろあるが、[[六角形|正六角形]]がもっとも一般的である。この理由は、次のようなものである。
* 鉛筆の先は3本の指をほぼ等間隔にして持つため、断面が3の倍数角形や円以外だと、指が稜に当たってしまう。
* 正六角形の鉛筆は、同じ量の木材から多く作ることができる。円はそれに次ぐ(ただし、3の倍数に限らなければ、正方形がもっとも効率がいい)。
* 円形の鉛筆は、傾いた面に置くと転がってしまう。
赤鉛筆を含む'''色鉛筆'''の軸の断面は、[[円 (数学)|円]]であることが多い。この理由は、次のようなものである。
* 色鉛筆の芯は黒鉛の芯より強度が劣る。円形の断面は、芯と表面の距離が近い方向がないため、芯に衝撃が伝わりにくい。
* 色鉛筆は絵画に使うことが多く、さまざまな持ち方をするため、稜が邪魔になる。
[[正三角形]]の鉛筆は、主に幼児に鉛筆の持ち方を指導するために使われる(「かきかたえんぴつ」「もちかたえんぴつ」など)。その形から「[[おにぎり]]えんぴつ」とも呼ばれる。
[[入学試験|受験生]]向けの縁担ぎとして、「合格」に掛けた、断面が[[五角形|正五角形]]の「五角」鉛筆がある。''後述を参照''
== 製造法 ==
根本的な製造法は、コンテの時代からほとんど変わっていない。
まず芯は、[[グラファイト|黒鉛]]を湯と混ぜ、不純物を沈殿させる。粘土も同様にして不純物を取り除く。粘土は主原料を固結させるために用いるが、砂が少なく、粒子が微細なものが要求される。いずれも絞って水分を除いたのち、2つをあわせ、水を混ぜてこね合わせる。比率は硬さによって異なるが、硬さがHBである場合はおよそ7:3の割合で黒鉛が多い。このあとに長く延ばして乾かす。現代の断面が円い芯は、芯押し機で細い穴から押し出す方式がとられる。次にこの生芯を焼き上げる。焼く時間は粘土の性質によって異なる。焼きあがった芯は油などに入れられる。これは主になめらかに書けるようにするためである。油加工といい、その芯を油芯という。
次に軸であるが、軸になる木は最初は平板の形をしている。これに、芯を入れるための数本の溝が彫られ、接着剤が塗られる。溝に芯を置き、上から同じ形の板を逆さまに向かい合わせにかぶせるように置いて圧着させる。
日本・アメリカでは木は北米産シダー材が使われ、インドではヒマラヤスギが使われる。接着剤は初期には[[ゼラチン|ニカワ]]が使われた。
板状の鉛筆の元は、細長く切り分けると断面が正六角形になるように片面ずつ削られ、ついで1本1本の鉛筆に切り分けられる。次に塗装と印刷が施され、鉛筆としてはほぼ完成する。断面が円い鉛筆は、六角形のものに比べて無駄になる木材が多いため、あまり製造されていない。
鉛筆の軸は正六角形などの角張った形状が一般的であるが、色鉛筆に限れば角がなく円い断面のものが多い。色鉛筆の芯は衝撃に弱く折れやすいことから、衝撃を受けた際のエネルギーを均等に分散させやすい形状として円い断面が選ばれている。
消しゴムつき鉛筆の場合は、鉛筆の先端に金属の鐶(わ)がはめられ、次に消しゴムがつけられる。鐶の内面に凹凸があり、これで鉛筆と消しゴムを固定している。
== 歴史 ==
古代、文字は[[鉛]]を動物の皮などにこすって記述した。のちに、細長い[[鉛]]と[[スズ|錫]]の合金([[はんだ]])を用い、外側に木軸を巻きつけた、現在の鉛筆の原型が作られた。これと同じ原理の[[銀筆]]などは、現在も美術家が使用している。やがて芯の部分が[[グラファイト|黒鉛]]に変わり、削って使うようになったことで現代の鉛筆の原型ができあがったと言える。
黒鉛を使った鉛筆が最初に記述に現れるのは、[[1565年]]に、[[スイス]]のドイツ系博物学者[[コンラート・ゲスナー]]({{lang-de|Conrad Gesner}})の『とくに石と岩にふくまれる化石の形とイメージについて』である。ゲスナーが使用した鉛筆の本体は丸い筒状の木でできており、先端に黒鉛の小さな塊を詰めるものだった。黒鉛がなくなると新しいものを詰めた。本に記載するくらいには珍しかったようだが、記述によればゲスナー自身はしばらく前からこの道具を使っていた。野外で化石を記録する際、インクつぼの不要な鉛筆はゲスナーにとって大変に便利だった。
[[16世紀]]の終わりには、[[イギリス]]の{{仮リンク|ボローデール|en|Borrowdale}}で[[カンバーランド]]黒鉛鉱が発見され、鉛筆が作られるようになった。ゲスナーのものも、芯はカンバーランド産黒鉛({{lang-en|Borrowdale lead}})である可能性が高い。[[1610年]]までには、ロンドンの市場で鉛筆は普通に売られていた。初期のものはゲスナーの使ったもののような、木や金属で作った軸の先に、黒鉛の塊を詰めるものだった。黒鉛を木で挟んだり、針金で巻いたようなものも存在した。
2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒を挟んで固定した、現代のように削って使用する鉛筆は、[[1616年]]までに発明された。
記録に残るこの種の鉛筆の最初の製造業者は、[[ドイツ]]の[[ニュルンベルク]]に住むフリードリッヒ・ステッドラー(Friedrich Staedtler、のちの[[ステッドラー]]社の創業者の先祖にあたる)で、[[1662年]]に町当局に鉛筆製造許可願いを出したが、町はこの仕事は[[指物]]師のものだとして却下した。しかし、[[1675年]]には、ステッドラーと同業者は、鉛筆製造業者の[[ギルド]]を作ることを許されるようになっていた。
削って使う鉛筆は当初、芯は四角く軸は八角形だった。ただし、初期は指物師が鉛筆を作ったので、製造者によっては円形や六角形のものを作った者もいる。長さは6[[インチ]]または7インチで、幅と厚さは1/3ないし1/2インチだった。現代のものと大差ない。
黒鉛はイギリス特産で、この時代、鉛筆はイギリス産のものが多く使われた。また、輸出産業を保護するため、しばしばイギリスは黒鉛を禁輸にし、完成品の鉛筆のみを輸出する政策をとった。イギリスの黒鉛鉱は[[19世紀]]までに掘り尽くされ、現在では[[中国]]、[[ブラジル]]、[[スリランカ]]などで地下から黒鉛を採掘している。初期の鉛筆は、末端部分の削ってしまうと持てなくなり捨てる部分には最初から芯を入れず、途中までしか芯は詰められなかった。この工夫は19世紀まで続いた。
鉛筆が普及し、黒鉛が不足すると、黒鉛を節約し、黒鉛くずも活用する方法が考えられた。最初の着想は[[1726年]]までにドイツで実現された。黒鉛くずと[[硫黄]]をまぜて溶かし、固めるというものだったが、筆記時に引っかかりが生じて滑らかな筆記性に欠け、のちにカルノー式鉛筆が登場するとすぐに消えた。
20世紀の終わりに、日本で[[伊達政宗]]の墓所・瑞鳳殿から鉛筆が発見された。これはゲスナーの使ったのとほぼ同じ構造だったが、芯は練って作ってあった。政宗の鉛筆は[[1636年]]までには製造されていたと考えられるため、練って作る芯の使用は少なくとも90年はさかのぼることになった。
[[1770年]]に、イギリスで[[消しゴム]]が発明された(それまでは古くなったパンが使われていた)。
[[1790年]]にオーストリアの[[:en:Joseph Hardtmuth]]が[[ウィーン]]で[[:en:Koh-i-Noor Hardtmuth]]社を設立した<ref>{{cite web|last=Norman|first=Jeremy|title=Invention of Modern Pencil Lead|url=http://www.historyofinformation.com/expanded.php?id=1588|work=From Cave Paintings to the Internet|accessdate=6 November 2012}}</ref>。[[1793年]]にイギリスと[[フランス]]の間で[[フランス革命戦争]]が起きると、フランスに黒鉛と鉛筆が輸入できなくなった。戦争大臣の[[ラザール・カルノー]] は、技師・発明家の{{仮リンク|ニコラ=ジャック・コンテ|en|Nicolas-Jacques Conté}}(Nicholas-Jacques Conté)に代替品の開発を命じた<ref>{{Cite book|和書|author=ヘンリー・ペトロフスキー|translator=渡辺潤・岡田朋之|title=鉛筆と人間|url=|format=|accessdate=|year=1993|month=11|publisher=[[晶文社]]|isbn=978-4-7949-6142-6|pages=|chapter=|chapterurl=|quote=|ref=}}</ref>。[[1795年]]にコンテは、黒鉛と粘土を混ぜて焼いて作るという、現在と同じ仕組みの芯を開発した。コンテの開発した方法では、黒鉛を大幅に節約でき、また黒鉛くずも利用できた。さらに、粘土の量によって芯の硬さや書く文字の色の濃さも変化させることができるようになり、鉛筆は必要に応じて硬度別に生産されるようになった。またコンテは1798年にパリで催された世界初の国内博覧会で、黒芯の発明により賞を受賞した<ref>{{Cite book|和書|author=松田憲二|title=えんぴつのはなし|series=人間の知恵 (3) |publisher=さ・え・ら書房|url=|format=|accessdate=|year=1981|month=4|isbn=978-4-378-03703-5|pages=20|chapter=|chapterurl=|quote=|ref=}}</ref>。[[1802年]]、[[:en:Koh-i-Noor Hardtmuth]]社は黒鉛と粘土から鉛筆の芯を製造する特許を取得した。[[1848年]]にKoh-i-Noor Hardtmuth社の工場は[[チェコ]]に移転し、製造原価を低くすることに成功して大衆に鉛筆を普及させることになった。
[[1839年]]、ドイツの{{仮リンク|ローター・フォン・ファーバー|de|Lothar von Faber|label=ローター・ファーバー}}はコンテの黒芯を用いて現在と同様の六角形の鉛筆を開発するとともに、鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を設けた。彼はまた初めて会社名を鉛筆に刻印した。この功績からファーバーは[[男爵]]の爵位を授かり、王室顧問にも就任した。彼の会社は現在も[[ファーバーカステル]]として鉛筆をはじめとした筆記具を製造している。
アメリカの[[ハイマン・リップマン]](Hyman L. Lipman)は、[[1858年]][[3月30日]]に消しゴムを[[ニカワ]]で鉛筆に固定させる消しゴムつき鉛筆を発明した。リップマンはこの特許をジョセフ・レケンドーファー(Joseph Reckendorfer)に10万ドルで売り莫大な富を築いた。{{仮リンク|ジョン・エバーハード・ファーバー|en|John Eberhard Faber}}(John Eberhard Faber, [[1861年]]に[[ニューヨーク]]で{{仮リンク|エバーハード・ファーバー|en|Eberhard Faber}}社を創業)はこの特許の前に、金属片を押しつけて鉛筆に消しゴムをつける方式を考案し、別に特許をとった。この2者の間で特許紛争となったが、連邦最高裁は、消しゴムつき鉛筆自体に新規性が認められないとし、両方の特許を無効とする判決を下した。
鉛筆削りは19世紀の終わりに発明された。ポケットに入れられる小さなものが若干早く市場に出た。机に設置する大きなものは少し遅れて開発された。当初は、ハンドルを回すことによってヤスリが回転するという仕組みだった。
[[1870年代]]までは、鉛筆の芯は四角のままだった。また、19世紀中ごろまでは、鉛筆の形も八角形のものが主流で、外見は[[17世紀]]のイギリスのものからほとんど変化しなかった。ファーバーが基準を定めたのち、19世紀末までには、鉛筆の形は円、六角形または三角形になり、芯も丸くなった。八角形で芯が四角いものは、工程上芯が中央からずれる場合があり、その場合鉛筆削りではうまく削れなかったので次第に消えていった。三角形のものは製造工程の都合上安価にできず、あまり普及しなかった。
[[1889年]]、[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]では、現代的な六角形で合成黒鉛の芯を使った安価な鉛筆として、木部に[[シダー]](Cedar)を用いた『Koh-i-Noor Hardtmuth社製の黄色い鉛筆』が評判となり、その後の鉛筆の形状ができあがった。
=== 日本の鉛筆の歴史 ===
日本には、[[17世紀]]に製造された鉛筆として、[[徳川家康]]の鉛筆と[[伊達政宗]]の鉛筆が残っている。当時の鉛筆のつくりは現代のものとほぼ同じだった。しかしそのころは定着せず、本格的に輸入が始まるのは[[19世紀]]後半、[[明治]]時代になってからだった。明治初期の日本では鉛筆の需要は少なく、東京や横浜の輸入品専門店で少量が売られるのみだった。
日本での鉛筆製造は、[[1874年]]にウィーンで鉛筆製造技術を学んで戻った2名の政府伝修生の井口直樹と藤山種重によって製造法がもたらされ、同年に小池卯八郎によって始められたとされる。小池の製造は[[1890年]]までは続いたがその後は記録がない。このほかにも若干の製造者がいた。[[1875年]]に、[[大阪]]福島の耐火煉瓦製造会社「盛秀館」<ref>[http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4210&query=&class=&d=all&page=2 品川白煉瓦(株)『創業100年史』]渋沢社史データベース</ref>の田中盛秀が郷里の[[鹿児島県|鹿児島]]で[[黒鉛]]の産地を発見し、当地に文具製作所を設立し、鉛筆製造を始めた<ref>[{{NDLDC|1920367/255}} 田中盛秀黒鉛を発見して鉛筆製造を開始]新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936-1940</ref>。[[1875年]]、[[石川県]][[江沼郡]]富士写ケ岳[[西谷村 (石川県)|片谷村(へぎだにむら)]]に良質の黒鉛が見つかり、旧[[大聖寺藩]]士の飛鳥井清らが旧[[士族]]の柿沢理平{{efn|[[大聖寺町|大聖寺]]下屋敷町の久法寺(きゅうほうじ)の墓石の[[法名 (浄土真宗)|法名]]は「制鉛院造筆日肇居士」。}}<ref>[http://tabimati.net/midokoro/detail_kanko.php?p=3171 KAGA旅まちネット]大聖寺 山ノ下寺院群・加賀市観光情報センター</ref>に鉛筆の製造法を学ばせ、 [[1877年]][[加賀市]][[大聖寺町|大聖寺]]松島町付近に加州松島社を設立し、翌1878年12月に試作品製造に成功、[[1882年]]には外国製に劣らない製品とされ、翌[[1883年]][[アムステルダム]][[万博]]に出品し第一級第一等賞を得ている<ref name=hokkoku-2>{{Cite news |title=鉛筆国産、加賀・大聖寺が最初 三菱よりも早く|newspaper=[[北國新聞]]|date=2010-08-24|url=http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20100824401.htm|accessdate=2014-12-30| archivedate=2015-1-4| archiveurl=https://web.archive.org/web/20150104090354/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20100824401.htm }}</ref>。現在まで続く製造業者は後述する真崎鉛筆製造所がもっとも古い。
このほか、[[安政]]年間に仙台の士族樋渡源吾が少量の鉛筆を生産し売ったという記録もある。
日本で最初の鉛筆の量産は、[[1887年]]に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の[[三菱鉛筆]])創業者・真崎仁六(まさき にろく)によって開始された<ref>{{Cite book|和書
|author=
|year=2006|month=11
|title=今日は何の日:話の365日
|edition=四訂版
|series=PHPハンドブックシリーズ
|publisher=PHP研究所
|isbn=978-4-569-65804-9
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}}</ref>。なお、この会社は[[三菱グループ|三菱財閥]]とは昔も今もまったく関係がなく、「[[スリーダイヤ|三菱マーク]]」は真崎鉛筆が最初に商標登録をして使用し、後から三菱財閥が許可をとり使用した。日本では長く文書を毛筆で書くしきたりがあり、鉛筆の普及は遅れた。[[1885年]]に英語教育に関する書籍が相次ぎ発刊され、同年に大量の鉛筆がアメリカから輸入された。このころから学校では徐々に鉛筆が使われはじめるようになった。
[[1901年]]に、逓信省(のちの[[郵政省]]、現在の[[日本郵政|日本郵政グループ]])が真崎鉛筆を採用した。郵便局内のみとはいえ、全国に鉛筆が供給されるようになった。この後、[[1920年]]までに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活に深く浸透するようになったと考えられている。
イギリスの次に鉛筆生産国になったのはドイツで、20世紀初期まで、主な鉛筆輸出国はドイツだった。しかし、[[第一次世界大戦]]が起きるとドイツ製鉛筆が入手できなくなり、[[1915年]]ごろからは日本製のものが世界で使われ、日本の主要輸出品の一つになった。ただし、日本製のものは両端にしか芯のないキセル鉛筆などの粗悪品が多く、国際的には評価が低かった。
第一次大戦が終わると粗悪品で信頼が落ちた日本製品の輸出は極端に低下したが、1930年代になるとまた増加し日米で鉛筆貿易摩擦が起きるほどになった<ref>[http://www.pencil.or.jp/company/chronological_table/chronological_table.html 日本鉛筆工業協同組合100周年記念誌年表]</ref>。しばらくはドイツと日本が主な鉛筆製造国だったが、[[第二次世界大戦]]の影響で、1940年代はどちらの国も輸出がほぼ止まった。輸出復活は戦後を待つことになる。
印刷つき鉛筆は、[[1949年]]に日本の[[トンボ鉛筆]]が最初に製造した。これ以前の印字は[[箔]]押しだった。精巧な曲面印刷技術を用いたものは、[[1951年]]までに、日本の伊藤意匠研究所(現在のいとう鉛筆意匠)創業者[[伊藤一喜]]と本多鉛筆印刷の[[本多信]]によって始められた。これにより、社名などを印字した贈答用鉛筆が多く作られるようになった。
戦後の鉛筆メーカーは、国内各地に中小企業が存在しており、1950年の東北地方だけでも青森県内1社、岩手県内2社、山形県内2社が存在していた。鉛筆の芯は、東京芯工業協同組合などが供給を行っていた<ref>「地元に販路を開拓 鉛筆製造業」『日本経済新聞』昭和25年9月4日2面</ref>。
[[1990年代]]半ば以降学齢人口の減少、[[シャープペンシル]]の利用増、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]・[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の普及などが原因で鉛筆の需要は大きく落ち込んでいる。
雑貨統計によれば、日本の輸出量は[[1950年]]ごろが最大で188万[[ダース|グロス]]、[[1997年]]は45万グロス、日本製鉛筆の生産高は[[1966年]]ごろが最大で962万グロス、1997年は367万グロスである。
[[1998年]]には、[[労働省]](現在の[[厚生労働省]])が「事務用品の買い控えによる生産量の減少」を理由として鉛筆製造業を「雇用調整助成金の指定業種」に指定した。
==== 徳川家康の鉛筆 ====
徳川家康の鉛筆は、現存する日本でもっとも古い鉛筆で、削る種類のものである。
鉛筆は、[[久能山東照宮]]で、[[硯箱]]に入った状態で発見された。硯箱は[[1664年]]に作られた宝物目録『具能山御道具之覚』に記載があるが、鉛筆の記載はない。硯箱に入っていたことから、家康のものとされる。
鉛筆は長さ11.7cm、芯の長さ6cm、先端は削ってあり、太さ0.7cm、重量6g。産地は日本国内ではなく、はっきりしない。黒鉛は[[メキシコ]]産に質が似ている。軸木は、中米か[[フィリピン]]産とされる。製品そのものは、ヨーロッパ製である可能性が高いと考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=朝比奈貞一|title=日本現存最古の鉛筆 - 徳川家康がもらった品|journal=神奈川県立衛生短期大学紀要|volume=2|pages=|publisher=神奈川県立衛生短期大学|year=1970|location=|issn=03886042|doi=|naid=|id=|url=|format=|accessdate=|quote=}}</ref>
<ref>樋口清美 著書 p.38 - 47</ref>。
==== 伊達政宗の鉛筆 ====
鉛筆は、政宗の墓地である[[瑞鳳殿]]の発掘調査団長・伊東信雄により発見された。政宗の鉛筆は、先端に黒鉛の塊を詰めるもので、原理的にはゲスナーの使用したものに近い。
政宗は[[1636年]]に死去し、副葬品の中から見つかったため、政宗の愛用品と考えられている。発掘は[[1974年]]に行われ、鉛筆は発掘品の中から[[1988年]]に発見された。
鉛筆は全長7.4cm、太さ0.4cm、芯は先に詰めてあり、芯の長さ1.3cm、最大直径0.43cm。キャップがついていた。キャップは木製で長さ3.0cm、直径0.6cm。鉛筆はさらに木筒に収められた状態で発見された<ref>{{Cite journal|和書|author=内藤俊彦|coauthors=西本洋二・村山斌夫・小井川百合子|title=伊達政宗の「鉛筆」調査報告 I〜V|journal=仙台市博物館調査研究報告|volume=9|issue=|year=1989|month=3|pages=|publisher=仙台市博物館|location=|issn=|doi=|naid=|id=|url=|format=|accessdate=|quote=}}</ref>。軸の素材はササで、日本産かその近縁種。芯は何かで固めてあるが、当時ヨーロッパで使われたと考えられる硫黄やアンチモンは検出されなかった。黒鉛の産地は不明である。
輸入品の鉛筆を愛用した政宗が、配下のものに命じて自分の使いやすいものを作らせた可能性がある。
政宗の鉛筆は発掘後に極端に風化し、現在は原形を留めていない。しかし、完全に風化する前に複製品が作られ、[[仙台市博物館]]、[[日本文具資料館]](東京都台東区柳橋)、三菱鉛筆に存在している<ref>樋口清美 著書 p.55</ref>。
== デザイン ==
現在はユニークな形状をしたものなど、さまざまな工夫を凝らした鉛筆が発明・開発・販売されている。
; 合格鉛筆
: 軸の形が五角形の鉛筆。五角形の「五角」と「合格」を掛け合わせてある。合格祈願の[[神社]]で売られていることが多く、外面の木材には合格を祈った格言などが刻んであるものも多数ある。なお、格言・和歌などが書かれた鉛筆を実際の試験で使用した場合、試験によっては[[カンニング]]とみなされる場合がある。大学入学共通テストの場合、受験案内に使用を禁止する旨の記載がある<ref name=daigakunyushi/>。
; 自作鉛筆
: 鉛筆の製造時に大量発生する[[おがくず]]を再利用した、乾いて固まると木になるという性質を持つ[[粘土]]を利用して製作するキット。[[北星鉛筆]]が開発した。現在「もくねんさん」という名前で発売されている。粘土を自分の好きな形に形成し、その中に芯となる部分を組み込めば鉛筆が作れる。鉛筆としての利用よりも芸術としても利用できるとして、新たな鉛筆の試みとして[[大阪ほんわかテレビ]]などでも特集された。
; ゲーム要素を取り入れた鉛筆
: 鉛筆ごとにキャラクターおよびその体力値が割り振られており、各面には相手の鉛筆のキャラクターに対する攻撃内容などが書かれている。複数人で、交互に鉛筆を転がしていき、相手のキャラクターの体力値をなくすようにして遊ぶ。例としてTVゲーム・[[ドラゴンクエストシリーズ]]のキャラクターを使った「[[バトルえんぴつ]]」がある。派生アイテムとして、キャップや消しゴムなども存在している。
; 曲がる鉛筆
: 芯のまわりは木材ではなく、ゴム状のもので覆われている。芯まで軟らかくなっているため、紙などに筆記する際には芯まで一緒に曲がってしまう。そのため、非常に書きにくく、色も薄い。あくまで見た目や感触を楽しむものである。
== その他 ==
* [[サヨリ]]の小さなものを「エンピツ」(逆に大きいものを「[[閂|カンヌキ]]」)と呼ばれることもある<ref>[http://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%AA サヨリ] - ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑。2016年4月23日閲覧。</ref>。
* 彫刻家の[[山崎利幸]]は鉛筆の芯を直接削る「鉛筆[[彫刻]]」を専門としている<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1507/12/news011.html 日本で唯一のプロ鉛筆彫刻家ってなに? 鉛筆の芯を削って文字や模様を作るアートがすごすぎる] - [[ねとらぼ]]</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ヘンリー・ペトロフスキー|translator=[[渡辺潤]]・岡田朋之|title=鉛筆と人間|year=1993|month=11|publisher=[[晶文社]]|isbn=978-4-7949-6142-6}}
* {{Cite book|和書|author=|title=日本鉛筆史|editor=東都鉛筆工業協同組合|publisher=東都鉛筆工業協同組合|accessdate=|date=1992年6月}}
* {{Cite book|和書|author=樋口清美|title=えんぴつを作ったのは、ナポレオン!?|publisher=アリス館|date=1999年3月|isbn=978-4-7520-0123-2}}
== 外部リンク ==
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* [http://www.pencil.or.jp/index.html 日本鉛筆工業協同組合]
* {{Kotobank}}
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[[Category:鉛筆|*]]
[[Category:製図用具]]
[[Category:情報技術史]]
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消しゴム
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消しゴム(けしゴム、英:eraser)とは、主に鉛筆などで書かれたものを消去するときに使う文房具。従来は天然ゴムが主成分だったためそう呼ばれる。現在はプラスチック製が主流のため字消し(じけし)とも呼ばれるが、慣用的に消しゴムと呼ばれている。英語ではrubber(ラバー、《米》eraser《イレイサー》)である。直方体のものが最も一般的であるが、ボールペンのような形のノック式の消しゴムなども販売されている。また、色調は一般に白色のものが多いが黒色など色付きのものもある。
かつてはパンが使われていたが1770年、イギリスのジョゼフ・プリーストリーが、ブラジル産のゴムに紙に書いた鉛筆の字を消し去る性質があることを発見したのが消しゴムの始まりである。発見日とされる4月15日はRubber Eraser Dayとされている。1772年頃にはロンドンで市販されており、「rub out(こするもの)」と呼ばれた。これが、今日ゴム一般を意味する英単語ラバー(rubber)の語源である。なお、現在でもパンが消しゴムとして用いられることはある。
日本では、明治初頭の1886年に東京の町工場で製造が始まった。そのころは消去性能がよいといえなかったが、その後改良が加えられ、1959年、日本のシードゴム工業(現在の株式会社シード)がより消去性に優れたプラスチック字消しを開発し、以後その性能から市場の主流となる。天然ゴムは後述の特殊用途の品を除き、原材料として現在はほとんど使用されていない。
なお、消しゴムが存在する前の時代、パンを使っていた当時は字消しのパンを「消しパン」、そして食事のためのパンを「食パン」と呼んでおり、それが現在の「食パン」の語源となっているといわれているが、これは俗説である。消しゴムは1770年代にはすでに製品として存在していた。少なくとも日本に鉛筆という語ができた時代には、すでに消しゴムもあったのである。そして、パンを字消しとして使用した時代でも、わざわざ字消し専用にパンが製造されたわけではなく、製造後時間が経過して食味に劣ったパンを使用していた。現在でも、木炭デッサンにおいて消しゴムは紙を痛めるため、油分の少ないパンを用いて描線を消去することがある。
一般的には原材料のいかんにかかわらず「消しゴム」という名称が使用されるものの、消しゴムメーカーの業界団体である日本字消工業会をはじめ、メーカー側の表記としては「字消し」が用いられている。
これは日本産業規格(JIS)のプラスチック字消しの規格(JIS S 6050)に、名称として「プラスチック字消し」「Plastic eraser」「プラスチック」などと表示しなければならないとされているためである。なお、天然ゴムを使用した消しゴムの規格であったJIS S 6004は1999年、廃止されている。
鉛筆で書いた線が消える原理は単純なものである。まず、鉛筆で書いた部分には黒鉛(鉛筆の芯の成分)が付着する。消しゴムでこれをこすると、ゴムが紙に付着した黒鉛を剥がし取りながら、消しゴム本体より消しくずとして削れ落ちる。さらにその消しくずが紙から黒鉛を剥がし取りつつ、包み込んで取り除く。紙からは完全に黒鉛が除去されて消しくずに移行し、消しゴムには新しい表面が露出する。以上のサイクルで消しゴムが減り、消しくずが出て字が消える。
ボールペンなどのインクで書かれた線は、インクが紙に染み込むために通常の消しゴムで消すことはできない。砂消しゴムは、ゴムに研磨砂を配合してあり、インクを紙ごと削ることによりこれを消すことを可能にした製品である。また近年では、書いてすぐには紙に染み込まない高粘度インクを利用した、筆記後短時間なら通常の消しゴムで消せる筆記用具も実用化されている。
プラスチック消しゴムは、ポリ塩化ビニルにフタル酸系可塑剤や炭酸カルシウム、安定剤を加えて軟質に固めたもので、消しくずがすみやかに出るため消字性能が高い。プラスチック消しゴムやその消しくずを、CDケースなどのプラスチック製品と長期間接触させておくと、プラスチック消しゴムに大量に含まれている可塑剤が移行し、溶けて融合してしまうことがある。消しゴムを覆うスリーブ(紙ケース)は、消しゴムを長時間入れておくとプラスチック製筆箱などがこの作用で溶かされてしまうことを防ぐためのものでもある。またプラスチック消しゴムはポリ塩化ビニルを使用しているので、燃やすとダイオキシンが発生するなど環境負荷が大きい。
前述の欠点を克服し環境負荷を軽減する商品として、合成ゴム系などの非塩化ビニル(non PVC、PVCフリー)の消しゴムも多くのメーカーで製品化されており、プラスチック消しゴムに近い消字率90%台も実現されている。
三菱鉛筆、パイロットといったいくつかの用品メーカーは自社製造せずOEM供給を受けている。日本字消工業会の加盟メーカーの製造品であれば、パッケージ上のクリーンマーク番号で個別の製造元が確認できる。
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消しゴム(けしゴム、英:eraser)とは、主に鉛筆などで書かれたものを消去するときに使う文房具。従来は天然ゴムが主成分だったためそう呼ばれる。現在はプラスチック製が主流のため字消し(じけし)とも呼ばれるが、慣用的に消しゴムと呼ばれている。英語ではrubber(ラバー、《米》eraser《イレイサー》)である。直方体のものが最も一般的であるが、ボールペンのような形のノック式の消しゴムなども販売されている。また、色調は一般に白色のものが多いが黒色など色付きのものもある。
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{{otheruses|文房具|[[アラン・ロブ=グリエ]]の小説|消しゴム (小説)}}
[[画像:Plastic eraser.jpeg|thumb|左:製図用消しゴム<br/>右:一般的なプラスティック消しゴム]]
[[画像:Sharpener, eraser and pen 20190402.jpg|thumb|鉛筆と消しゴムと鉛筆削り。]]
'''消しゴム'''(けしゴム、[[英語|英]]:eraser)とは、主に[[鉛筆]]などで書かれたものを消去するときに使う[[文房具]]。従来は[[ゴム|天然ゴム]]が主成分だったためそう呼ばれる。現在は[[プラスチック]]製が主流のため'''字消し'''(じけし)とも呼ばれるが、慣用的に消しゴムと呼ばれている。英語ではrubber(ラバー、《米》eraser《イレイサー》)である。[[直方体]]のものが最も一般的であるが、[[ボールペン]]のような形のノック式の消しゴムなども販売されている。また、色調は一般に[[白色]]のものが多いが[[黒色]]など色付きのものもある。
== 歴史 ==
かつては[[パン]]が使われていたが[[1770年]]、[[イギリス]]の[[ジョゼフ・プリーストリー]]が、[[ブラジル]]産の[[ゴム]]に紙に書いた[[鉛筆]]の字を消し去る性質があることを発見したのが消しゴムの始まりである<ref>{{Cite book|和書
|author=徳久芳郎
|year=1986
|title=化学
|publisher=日本経済新聞社
|isbn=9784532033507
|page=217
}}</ref>。発見日とされる[[4月15日]]はRubber Eraser Dayとされている<ref>The 2009 Weird & Wacky Holiday Marketing Guide by Ginger Carter-Marks,DocUmeant, ISBN 978-0-9788831-5-7</ref>。[[1772年]]頃には[[ロンドン]]で市販されており、「rub out(こするもの)」と呼ばれた。これが、今日ゴム一般を意味する英単語[[ラバー]](rubber)の語源である<ref>http://www.srij.or.jp/kyoukaishi/mame_pdf/mame6.pdf</ref>。なお、現在でもパンが消しゴムとして用いられることはある<ref>{{Cite web|和書|title=デッサン|コースで選ぶ|アートスクール|文房堂|url=http://www.bumpodo.co.jp/school/dessin.html|website=www.bumpodo.co.jp|accessdate=2021-06-04}}</ref>。
[[日本]]では、[[明治]]初頭の[[1886年]]に東京の町工場で製造が始まった。そのころは消去性能がよいといえなかったが、その後改良が加えられ、[[1959年]]、日本のシードゴム工業(現在の[[シード (文具)|株式会社シード]])がより消去性に優れたプラスチック字消しを開発し、以後その性能から市場の主流となる。[[天然ゴム]]は後述の特殊用途の品を除き、[[原材料]]として現在はほとんど使用されていない<ref>http://www.tombow.com/support/faq/eraser.html</ref>。
なお、消しゴムが存在する前の時代、[[パン]]を使っていた当時は字消しのパンを「消しパン」、そして食事のためのパンを「[[食パン]]」と呼んでおり、それが現在の「食パン」の語源となっているといわれているが、これは俗説である。消しゴムは[[1770年代]]にはすでに製品として存在していた。少なくとも日本に鉛筆という語ができた時代には、すでに消しゴムもあったのである。そして、パンを字消しとして使用した時代でも、わざわざ字消し専用にパンが製造されたわけではなく、製造後時間が経過して食味に劣ったパンを使用していた。現在でも、[[木炭]][[デッサン]]において消しゴムは紙を痛めるため、[[油|油分]]の少ないパンを用いて描線を消去することがある。
== 呼称 ==
一般的には原材料のいかんにかかわらず「消しゴム」という名称が使用されるものの、消しゴムメーカーの業界団体である[[日本字消工業会]]をはじめ、メーカー側の表記としては「字消し」が用いられている。
これは[[日本産業規格]](JIS)の[[合成樹脂|プラスチック]]字消しの[[規格]](JIS S 6050)に、名称として「プラスチック字消し」「Plastic eraser」「プラスチック」などと表示しなければならないとされているためである<ref>[https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrJISNumberNameSearchList?show&jisStdNo=S6050 JIS S6050]</ref>。なお、天然ゴムを使用した消しゴムの規格であったJIS S 6004は1999年、廃止されている<ref>[http://www.webstore.jsa.or.jp/webstore/Com/FlowControl.jsp?lang=jp&bunsyoId=JIS+S+6004%3A1994&dantaiCd=JIS&status=2&pageNo=0 JSA Web Store JIS S 6004]</ref><ref>[https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrDisuseJISStandardList?show&jisStdNo=S6004 日本産業標準調査会 廃止規格検索 JIS S6004]</ref>。
== 原理 ==
[[File:Benutzung eines Radiergummies.gif|thumb|消しゴムで字を消すようす]]
[[File:Kneaded eraser.JPG|thumb|練り消しゴム]]
鉛筆で書いた線が消える原理は単純なものである。まず、鉛筆で書いた部分には[[黒鉛]](鉛筆の芯の成分)が付着する。消しゴムでこれをこすると、ゴムが紙に付着した[[黒鉛]]を剥がし取りながら、消しゴム本体より消しくずとして削れ落ちる。さらにその消しくずが紙から黒鉛を剥がし取りつつ、包み込んで取り除く。紙からは完全に黒鉛が除去されて消しくずに移行し、消しゴムには新しい表面が露出する。以上のサイクルで消しゴムが減り、消しくずが出て字が消える<ref>[http://seedr.co.jp/keshigomu/hakubutu1.html バーチャル「消しゴム博物館」]</ref>。
[[ボールペン]]などの[[インク]]で書かれた線は、インクが紙に染み込むために通常の消しゴムで消すことはできない。砂消しゴムは、ゴムに研磨砂を配合してあり、インクを紙ごと削ることによりこれを消すことを可能にした製品である。また近年では、書いてすぐには紙に染み込まない高粘度インクを利用した、筆記後短時間なら通常の消しゴムで消せる筆記用具も実用化されている。
プラスチック消しゴムは、[[ポリ塩化ビニル]]に[[フタル酸]]系可塑剤や[[炭酸カルシウム]]、安定剤を加えて軟質に固めたもので、消しくずがすみやかに出るため消字性能が高い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hinodewashi.co.jp/history/|title=消しゴムの歴史|publisher=ヒノデワシ|accessdate=2017-02-25}}</ref>。プラスチック消しゴムやその消しくずを、[[コンパクトディスク|CD]]ケースなどのプラスチック製品と長期間接触させておくと、プラスチック消しゴムに大量に含まれている[[可塑剤]]が移行し、溶けて融合してしまうことがある。消しゴムを覆うスリーブ(紙ケース)は、消しゴムを長時間入れておくと[[プラスチック]]製[[筆箱]]などがこの作用で溶かされてしまうことを防ぐためのものでもある。またプラスチック消しゴムは[[ポリ塩化ビニル]]を使用しているので、燃やすと[[ダイオキシン]]が発生するなど環境負荷が大きい。
前述の欠点を克服し[[環境負荷]]を軽減する商品として、[[合成ゴム]]系などの非塩化ビニル(non PVC、PVCフリー)の消しゴムも多くのメーカーで製品化されており<ref>“[http://www.gpn.jp/econet/search/detail/2-11-4862.html エコレーダーEP-RE4・EP-RE5 等]”, “[http://www.gpn.jp/econet/search/detail/2-11-2406.html パステルカラーエコまとまるくん EMC-100]”, “[http://www.gpn.jp/econet/search/detail/2-11-20559.html ファイトグリーン(REP60、REP100、REP100S)]”, “[http://www.gpn.jp/econet/search/detail/2-11-1260.html 合成ゴム消しゴムモノNP EB-SNP/LNP]”, “[http://www.gpn.jp/econet/search/detail/2-11-19993.html 非塩ビ字消No.10K・No.30K]”. ''エコ商品ねっと''. グリーン購入ネットワーク. {{Accessdate|2017-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.muji.net/store/cmdty/detail/4945247421330|title=プラスチックけしごむ 白・大|publisher=良品計画|accessdate=2017-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.staedtler.jp/products/04_eraser/01-other-eraser/|title=PVCフリー字消し|publisher=ステッドラー|accessdate=2017-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.faber-castell.com/art-and-graphic/artist-products/accessories/EraserPVCFREE7081N/188121|title=Eraser PVC-FREE 7081N|publisher=Faber-Castell|accessdate=2017-02-25}}</ref>、プラスチック消しゴムに近い消字率90%台も実現されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://stalogy.com/products/013/|title=消しゴム|work=STALOGY|publisher=ニトムズ|accessdate=2017-02-25}}</ref>。
== 種類 ==
; プラスチック字消し
: プラスチック消しゴムとも。プラスチック(主として、ポリ塩化ビニル)から生成した消しゴムで、最近の主流である。まとまるタイプ([[まとまるくん]]など)やハードタイプなど、配合により様々なものが作られる。
; ゴム字消し
: ラバー消しゴムとも。古典的には天然[[ゴム]]や{{仮リンク|ファクチス|en|Factice}}を主成分として、[[加硫]]で弾力が与えられた消しゴム。新しいものでは[[スチレン]]系や[[オレフィン]]系の[[合成ゴム]]([[熱可塑性エラストマー]])も使われる。[[シャープペンシル]]のキャップ内部や[[鉛筆]]の頭部などに付けられる消しゴムには、減りが少なく強くて折れにくいゴム字消しが用いられる。
; 砂消しゴム(砂消し)
: [[珪砂]]などの研磨剤を含んだ消しゴムで、インクの浸透した部分を紙ごと削ることによって消す。最近では[[修正液]]や修正テープを使用することが多い。砂消しゴムも研磨砂を担持する接着力と紙を削る機械強度を要求されるため、天然ゴムで作られる。欠点として、インクを削り取るというと特性上、同じ箇所に対して1度に使用出来る回数は少ないといったことが挙げられる。
; [[練り消しゴム]](ねりけし)
: [[美術]]のデッサンや[[パステル]]画で使用される消しゴム。柔らかく紙を傷めない反面、消字性は劣る。押し付けて消したり、変形させて利用することができ、消しくずが出ない。ゴム材料に加硫せずに作られる。
; 電動字消器
: 主に製図などに用いられるものとして、先端に専用の円柱状の小さな消しゴムを取り付けて[[電気]]による振動や回転によって字を消す電動字消器がある。
; おもちゃ
: また、消すことに主目的を置かない消しゴムもある。例としては[[スーパーカー消しゴム]]や[[漫画]]の[[キャラクター]]([[キン肉マン消しゴム|キン肉マン]]、[[ケシカスくん]]など)、へんてこキャラクター(かみつきばあちゃん)、[[食べ物]]などを模した消しゴムが挙げられる。これらのものには、成形ディテールを優先するために可塑剤を減量して強度を増したことにより、字消しとしての性能が犠牲になっているものがある。それらは文房具というより、文具流通を利用した、学校に持ち込めるおもちゃという側面が強い。
<gallery>
File:KOKUYO Kadokeshi Petit.jpg|頂点を多く設けた消しゴム([[カドケシ]])
File:Gum met potlood.jpg|鉛筆先端のゴム字消し<ref>{{Cite news |url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1365420812420/ |title=鉛筆に付いている消しゴムはなぜあんなに消えにくいのか |author=エクソシスト太郎 |newspaper=エキサイトニュース |publisher=エキサイト |date=2013-05-08 |accessdate=2020-05-02 }}</ref>
File:Suna rubber eraser (MONO).jpg|砂消しゴム
File:Kneaded eraser.jpg|練り消しゴム
File:Electric eraser.jpg|電動字消器
File:Shaped Erasers.JPG|消しゴムのおもちゃ
</gallery>
== 主なメーカー ==
* [[トンボ鉛筆]] - [[MONO消しゴム]]
* [[シード (文具)|シード]] - [[レーダー (消しゴム)|レーダー]]シリーズなどを製造。
* [[ヒノデワシ]] - [[まとまるくん]]シリーズなどを製造。
* ラビット - フォームイレーザーシリーズなどを製造。[[サクラクレパス]]グループ。
* [[ぺんてる]] - Ain消しゴムなどを製造。
* [[ステッドラー]]
* [[ロットリング]]
[[三菱鉛筆]]、[[パイロットコーポレーション|パイロット]]といったいくつかの用品メーカーは自社製造せず[[OEM]]供給を受けている。日本字消工業会の加盟メーカーの製造品であれば、パッケージ上のクリーンマーク番号で個別の製造元が確認できる<ref>[http://www.jikeshi.gr.jp/mark/mark.html クリーンマーク], 日本字消工業会, 2015年4月11日閲覧.</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=新谷全利|title=消しゴム|journal=日本ゴム協会誌|volume=68|issue=10|pages=714-719|publisher=日本ゴム協会|date=1995|doi=10.2324/gomu.68.714}}
== 関連項目 ==
* [[字消板]] - 狭い部分だけを消したいときは、「字消し板」を使う。これは色々な形の穴の開いた薄い[[金属]][[wikt:板|板]]で、穴の下に消したい部分がくるようにしてから消しゴムをかける。
* [[フリクション (筆記具)]] - 字消し用のゴムが付いているが、消す原理は消しゴムと異なり摩擦熱による。
* [[黒板消し]]
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Eraser|Erasers}}
* [http://www.seedr.co.jp/keshigomu/hakubutu1.html 消しゴム博物館], シード - 消しゴムのしくみと歴史、製造工程など。
{{サイエンスチャンネル
|番組番号=B980601
|動画番号=b030601139
|動画タイトル=消しゴムができるまで
|中身の概要=[[大阪府]][[東大阪市]]にあるラビット([[サクラクレパス]]グループ)の工場を取材して、原料から消しゴムができるまでの間の工程の流れを説明している
|時間=14分
|製作年度=2003年
}}
* [http://www.jikeshi.gr.jp/ 日本字消工業会]
* [https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrJISNumberNameSearchList?show&jisStdNo=S6050 JIS S 6050 プラスチック字消し], 経済産業省 日本産業標準調査会
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けしこむ}}
[[Category:消しゴム|*]]
[[Category:文房具]]
[[Category:筆記]]
[[Category:ゴム]]
[[Category:ジョゼフ・プリーストリー]]
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2003-09-16T15:58:13Z
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2023-11-27T06:31:14Z
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17,111 |
旋盤
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旋盤(せんばん、英: lathe)は被切削物を回転させ、固定されているバイトと呼ばれる工具で切削加工をする工作機械の一つである。主に「外丸削り」、「中ぐり」、「穴あけ」、「ねじ切り」、「突切り」と呼ばれる各加工を行う。
被切削材料が回転するため、加工品は必ず回転軸に対して対称形になる(円筒や円錐、皿形など)。
旋盤や轆轤での加工物を『やりもく』という。
NC旋盤 は、各種の旋盤に数値制御(Numerical Control)装置を取り付け、刃物台の移動距離や送り速度を数値で指示できるようにしたものである。現在では、コンピュータを用いての制御(CNC)が主流であり、この中には、回転中心から外れた穴の加工やフライス加工などを可能にした「ターニングセンタ」と呼ばれる工作機械もある。通常タレット式の刃物台が設けられるが、小型のNC旋盤では櫛刃式の刃物台が設けられる機械も多い。 NC旋盤の2004年の国内生産額は約2076億円(経済産業省調べ)。内、ヤマザキマザック30%、森精機製作所(現・DMG森精機)23%、オークマ21%、シチズン時計11%と推定されている。
一般的な工作機械と同じく、旋盤を取り扱う際は注意を払わないとけがの原因になる。このほか、機構的な注意点がある。
例えば、旋盤で半径 r {\displaystyle r} の円柱形の表面を回転速度 ω c y c {\displaystyle \omega _{cyc}} で切削すると仮定すると、 s {\displaystyle s} 秒間にバイトが切削する長さ f ( r ) {\displaystyle f(r)} は
f ( r ) = 2 π r s ω c y c {\displaystyle f(r)=2\pi rs\omega _{cyc}}
となる。すなわち半径と表面の切削速度は比例関係になるため、切削物を大きいものに変えると切削速度が速くなる。これに伴う切削抵抗の増大により、バイトが振動して加工面が粗くなる「ビビリ」や、発熱によるバイトの磨耗や割れが発生する。
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旋盤は被切削物を回転させ、固定されているバイトと呼ばれる工具で切削加工をする工作機械の一つである。主に「外丸削り」、「中ぐり」、「穴あけ」、「ねじ切り」、「突切り」と呼ばれる各加工を行う。 被切削材料が回転するため、加工品は必ず回転軸に対して対称形になる(円筒や円錐、皿形など)。 旋盤や轆轤での加工物を『やりもく』という。
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{{複数の問題
|参照方法=2014年1月
| 脚注の不足 = 2016年4月
}}
'''旋盤'''(せんばん、{{lang-en-short|lathe}})は被切削物を回転させ、固定されている[[バイト (工具)|バイト]]と呼ばれる工具で[[切削加工]]をする[[工作機械]]の一つである。主に「[[ターニング|外丸削り]]」、「[[ボーリング|中ぐり]]」、「[[ドリル (工具)|穴あけ]]」、「[[ねじ]]切り」、「突切り」と呼ばれる各加工を行う。
被切削材料が回転するため、加工品は必ず回転軸に対して対称形になる(円筒や円錐、皿形など)。
旋盤や[[轆轤]]での加工物を『やりもく』という。
== 旋盤の沿革 ==
* [[弓旋盤]](bow lathe)
* [[竿旋盤]](pole lathe)
== 構造 ==
[[ファイル:lathe.PNG|frame|古典的な旋盤]]
[[File:Watchmaker's Lathe in use.jpg|thumb|right|旋盤を使い銅から時計の部品を作成している時計職人]]
; ベッド(bed)
: 旋盤の基礎となる部分で[[線路 (鉄道)|レール]]のように往復台と心押し台を正確に平行移動させる案内面となっている。
; 主軸台(head stock)
: ベッドの左端に位置し、主軸、変速装置、自動送り装置が内蔵されている。
:; 主軸(main spindle)
:: 通常は長尺の材料を貫通させて加工できるように中空の軸となっている。先端は外側が面板を取り付けるねじ、内側がセンタを取り付けるテーパとなっている。
:<!--リスト分断防止行-->
; 面板(図f部)
: 被切削物を固定する。「[[チャック装置|チャック]](chuck)」と呼ばれる[[万力]]を取り付けることも多く、また、「[[センタ]](center)」と呼ばれる道具を取り付け対象の両側の回転中心を支えることもある。
; 心押し台(tail Stock、図g部)
: センタを取り付け被切削物の回転中心を主軸方向へ押して支える。ベッド上を自由に移動し容易に固定できる。また、センタの替わりに[[ドリル (工具)|ドリル]]や[[リーマ]]を取り付けることも可能である。
; 往復台(carriage、図b部)
: 往復台はベッドをまたがった状態で備え付けてあり縦方向に動かせる。被切削物の長さ方向の送りである。主軸の回転に同期した自動送りが可能で、これを利用してねじ切りも行われる。
; 横送り台
: 往復台の上に置かれ、それとは直角の横方向へ動かすことができる。被切削物の半径方向の送りであるため、主に加工径の調整に用いられる。
; 刃物台(図b最上部)
: バイトを取り付ける部分である。横送り台の上に旋回台を介して据え付けられている。通常は往復台と平行にして使用するが、[[テーパー]]削りの際は任意の角度に調整して刃物に送りを与えることができる。
== 種類 ==
[[ファイル:HwacheonCentreLathe 460x1000.jpg|thumb|普通旋盤]]
[[ファイル:Conventional-lathe.jpg|thumb|卓上旋盤]]
; 普通旋盤(engine lathe)
: もっとも標準的な旋盤。
; 卓上旋盤(bench lathe)
: 小型の旋盤であり、作業台などの上に据え付けて使用される。「ベンチレース」とも呼ばれる。
; 正面旋盤(face lathe)
: 比較的大型の主軸が作業者の正面を向いた旋盤。
; 立て旋盤([[:en:Turning|turning]] mill)
: 主軸が上を向いた旋盤。水平に回転させるため被切削物が重量物やアンバランスでも安定した加工ができる。
; タレット旋盤(turret lathe)
: タレット式の刃物台を持った旋盤。詳しくは[[タレット旋盤]]を参照。
; 倣い旋盤(copying lathe, tracer lathe)
: 倣い装置によって形状の複製を可能にした旋盤。NC旋盤の開発以前に手動では切削困難な曲線や、テーパ部を能率よく加工するために用いられた。
=== NC旋盤 ===
[[ファイル:MoriSeikiLathe.jpg|thumb|right|NC旋盤の例]]
'''NC旋盤''' は、各種の旋盤に[[数値制御]](''{{Lang|en|'''N'''umerical '''C'''ontrol}}'')装置を取り付け、刃物台の移動距離や送り速度を数値で指示できるようにしたものである。現在では、[[コンピュータ]]を用いての制御([[CNC]])が主流であり、この中には、回転中心から外れた穴の加工や[[フライス|フライス加工]]などを可能にした「[[ターニングセンタ]]」と呼ばれる工作機械もある。通常タレット式の刃物台が設けられるが、小型のNC旋盤では櫛刃式の刃物台が設けられる機械も多い。
NC旋盤の2004年の国内生産額は約2076億円([[経済産業省]]調べ)。内、[[ヤマザキマザック]]30%、森精機製作所(現・[[DMG森精機]])23%、[[オークマ]]21%、[[シチズン時計]]11%と推定されている{{要出典|date=2008年6月}}。
== 主な旋盤加工 ==
; 外丸削り(そとまるけずり)
: 外径旋削、すなわち、円筒の外側をバイトで切削すること。「[[ターニング]]」とも言う。
; 突切り(つっきり)
: 径方向へ対象物の回転中心を越えて切削して行くこと。とくに、対象を素材から切り離す、または切り落とす加工のことを言う。また、それに使用される工具のことも指す。突切りをした面は大抵荒くなってしまうことが多い。
; 面(つら)
: 端面のこと。例、「面削り」
; 中刳り(なかぐり)
: 円筒の内側をバイトで加工すること。「[[ボーリング]]」とも言う。
; [[テーパー]]削り
: 工作物を斜めに削る。円錐面を削ること。
; ネジ切り
: 工作物にネジ山を付ける切削の事。
== 用語 ==
; キリコ
: 加工によって発生する切り屑のこと。「[[切子]]」「切り粉」「切り子」などとも書かれるが、これらは[[当て字]]であると言われている。別名、ダライ粉。
; バイト
: 旋削に使用される工具(金属用刃物)のこと。{{main|バイト (工具)}}
; ~を引く(挽く)
: 特に外径や端面を削ることについて用いる。例:面(つら)を引く・外径引き
== 注意 ==
一般的な[[工作機械]]と同じく、旋盤を取り扱う際は注意を払わないとけがの原因になる。このほか、機構的な注意点がある。
例えば、旋盤で半径<math>r</math>の[[円柱 (数学)|円柱]]形の表面を[[回転速度]]<math>\omega_{cyc}</math>で切削すると仮定すると、<math>s</math>秒間にバイトが切削する長さ<math>f (r)</math>は
{{Indent|<math>f (r) = 2 \pi r s \omega_{cyc}</math>}}
となる。すなわち半径と表面の切削速度は[[比例]]関係になるため、切削物を大きいものに変えると切削速度が速くなる。これに伴う切削抵抗の増大により、バイトが振動して加工面が粗くなる「ビビリ」や、発熱によるバイトの磨耗や割れが発生する。
== 参考文献 ==
{{Refbegin|2}}
* {{Cite book|和書 |editor=[[技能士の友編集部]] |series=技能ブックス|title=旋盤のテクニシャン |publisher=[[大河出版]] |date=1971 |isbn=4886614035 |ref=harv }}
*{{Cite book|和書 |author=萱場孝雄 |author2=加藤康司 |authorlink=萱場孝雄 |authorlink2=加藤康司 (機械工学者) |title=機械工作概論 |publisher=[[理工学社]] |edition=初版|date=1986 |isbn=4844522272 |ref=harv }}
*{{Cite book|和書 |author=萱場孝雄 |author2=加藤康司 |authorlink=萱場孝雄 |authorlink2=加藤康司 (機械工学者) |title=機械工作概論 |publisher=[[オーム社]] |editor=オーム社開発局 |edition=第2版第12刷 |date=2013-11 |isbn=9784274069635 |ref=harv }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[複合加工機]]
* [[機械工学]]
* [[金属加工]]
* [[ヘンリー・モーズリー (技術者)|ヘンリー・モーズリー]]([[:en:Henry Maudslay|Henry Maudslay]]) - 近代的な旋盤の発明者。
== 外部リンク ==
{{commons|Lathe}}
* [http://www.stuartking.co.uk/articles/lathe.htm Stuart King History of the Lathe](英語)
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* [https://monoto.co.jp/cnclathe/ NC旋盤とは|はじめの工作機械]
{{Normdaten}}
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[[Category:回転機械]]
[[Category:エジプトの発明]]
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8B%E7%9B%A4
|
17,112 |
無我
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無我(むが、巴: anattā, アナッター、梵: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya, ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語。非我とも訳される。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という。
アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ。これはダンマパダなど多くの経典で確認される。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する。
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている。
しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ。法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである。これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された。
ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した。中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている。
Anattā(アナッター)は、パーリ語で an (否定の接頭辞) + attā (アートマン)を意味する。
初転法輪にて釈迦は五蘊の無我を説き、支配能力がある(宰)我の存在を否定している。
比丘たちよ、色(Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。 しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。... (受、想、サンカーラ、識について同様に説く...)
輪廻の主体については、ヒンズー教、ジャイナ教、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している。インド哲学での唯物論者(たとえば順世派)は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた(断見)。
釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している。釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという。無我とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である。しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。。
釈迦は業(カルマ)と無我の二つを基本教義としている。
釈迦は、同時代の反バラモン教的な思想家たち(六師外道)の無我に関連する思想について、人間の身体は霊魂を含む7つの集合要素から成り7要素は互いに影響なく不変とするパクダ・カッチャーヤナの無因果論、またはの唯物論(アヘトゥカディティ)、カルマの道徳的責任を否定するアジタ・ケーサカンバリンの唯物論的教義である虚無論(ナッティカディティ)、マッカリ・ゴーサーラの運命決定論である無作用論(キリヤディティ)を誤った見解(邪見)と見なして批判・否定した。
釈迦は、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)することを否定し(非我、無我)現実の苦悩の解決に役立たない形而上学的な問いには答えなかった(捨置記、無記) 。カルマの道義的責任を担保するためには輪廻が必要とされ、仏教のカルマの枠組みにおいては、輪廻からの解脱には八正道が必要とされる。
説一切有部においては、要素である法(ダルマ)の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう、サンスクリット: svabhāva स्वभाव)と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立された。
なお宗派としての説一切有部は滅びたものの、これらの研究は阿毘達磨教学として大乗諸派に受け継がれ、現在にいたるまで熱心に学習されている。
このような「法有我」もしくは「自性」の思想は、経量部など他の部派や、般若経典を保持する初期大乗仏教のグループから批判された。特に大乗からは龍樹が現れ、論理学を用いて、これらの法有我説を徹底的に批判した。
彼らは自性に反対の無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起 (えんぎ) 説であるとする。
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説から発展した「空の思想」が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、無我説を発展させた「空の思想」をその中心に据えている。
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"text": "無我(むが、巴: anattā, アナッター、梵: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya, ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語。非我とも訳される。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という。",
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"text": "アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ。これはダンマパダなど多くの経典で確認される。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する。",
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"text": "釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている。",
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"text": "しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ。法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである。これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された。",
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"text": "ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した。中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている。",
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"text": "Anattā(アナッター)は、パーリ語で an (否定の接頭辞) + attā (アートマン)を意味する。",
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"text": "初転法輪にて釈迦は五蘊の無我を説き、支配能力がある(宰)我の存在を否定している。",
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"text": "比丘たちよ、色(Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。 しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。... (受、想、サンカーラ、識について同様に説く...)",
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"text": "釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している。釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという。無我とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である。しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。。",
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"text": "釈迦は、同時代の反バラモン教的な思想家たち(六師外道)の無我に関連する思想について、人間の身体は霊魂を含む7つの集合要素から成り7要素は互いに影響なく不変とするパクダ・カッチャーヤナの無因果論、またはの唯物論(アヘトゥカディティ)、カルマの道徳的責任を否定するアジタ・ケーサカンバリンの唯物論的教義である虚無論(ナッティカディティ)、マッカリ・ゴーサーラの運命決定論である無作用論(キリヤディティ)を誤った見解(邪見)と見なして批判・否定した。",
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"text": "彼らは自性に反対の無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起 (えんぎ) 説であるとする。",
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"text": "このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説から発展した「空の思想」が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、無我説を発展させた「空の思想」をその中心に据えている。",
"title": "大乗仏教"
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無我は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語。非我とも訳される。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という。 アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ。これはダンマパダなど多くの経典で確認される。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する。
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{{Otheruseslist|仏教用語|藤波辰爾が新日本プロレス在籍時に行った自主興行|無我 (プロレス)|プロレス団体の無我ワールド・プロレスリング|ドラディション}}
{{Infobox Buddhist term
| title = 無我, アナッター
| en = non-self
| pi = anattan, anattā
| sa = अनात्मन्, anātman
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| my-Latn =
| zh = 無我
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| ja-Latn = muga
}}
'''無我'''(むが、{{lang-pi-short|anattā}}, アナッター{{efn2|{{lang|pi|anattan}}<ref>水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.17</ref>の主格形<ref>[http://www.manduuka.net/pali/p/pdisp.cgi?tb=nn&bm=anm 「-an 男性」 - 10. 名詞・形容詞の変化(子音で終わるもの):まんどぅーかのパーリ語ページ]></ref>}}、{{lang-sa-short|अनात्मन}}, {{IAST|anātman}}, アナートマン, {{IAST|nairātmya}}{{refnest|name="コトバンク無我"}}, ナイラートミャ)は、あらゆる事物は[[現象]]として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な[[本質]]は存在しないという意味の[[仏教]]用語{{refnest|name="コトバンク無我"|[https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%88%91-140234 無我(むが)とは - コトバンク]、朝日新聞社、2017年7月27日閲覧。}}<ref name="総合仏教大辞典1390">{{Cite book |和書 |editor=総合仏教大辞典編集委員会 |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |page=1390-1391 }}</ref>。'''非我'''とも訳される<ref name="総合仏教大辞典1390" />。'''[[我]]'''([[アートマン]])とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる[[実在]]を意味する<ref name="総合仏教大辞典1390" />。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを'''[[諸法無我]]'''という<ref name="総合仏教大辞典1390" />。
'''アナッター'''(無我)は生物の性質であり、加えて'''アニッチャ'''([[無常]]、非恒常、永遠でないこと)、'''ドゥッカ'''([[苦 (仏教)|苦]]、不満足なこと)を加えて仏教の[[三相 (仏教)|三相]]をなし、また[[三法印]]と[[四法印]]の1つ{{refnest|name="コトバンク無我"}}<ref name="総合仏教大辞典1390" /><ref>{{cite book|author1=Robert E. Buswell Jr.|author2=Donald S. Lopez Jr.|title=The Princeton Dictionary of Buddhism|url=https://books.google.com/books?id=DXN2AAAAQBAJ|year=2013|publisher=Princeton University Press|isbn=978-1-4008-4805-8|pages=42–43, 581}}</ref><ref>{{cite book|author1=Grant Olson (Translator)|author2=Phra Payutto|title=Buddhadhamma: Natural Laws and Values for Life|url=https://books.google.com/books?id=ffsumKIixS8C|year=1995|publisher=State University of New York Press|isbn=978-0-7914-2631-9|pages=62–63}}</ref>。これは[[ダンマパダ]]など多くの経典で確認される<ref>{{cite book|author1=John Carter|author2=Mahinda Palihawadana|title=Dhammapada|url=https://books.google.com/books?id=AAcWDAAAQBAJ| year=2008| publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-955513-0 |pages=30–31, 74, 80}}</ref>。仏教では四諦を述べ、[[輪廻]]を脱する道があると主張する{{efn2|name="Samsara"|On samsara, rebirth and redeath:<br />* Paul Williams: "All rebirth is due to karma and is impermanent. Short of attaining enlightenment, in each rebirth one is born and dies, to be reborn elsewhere in accordance with the completely impersonal causal nature of one's own karma. The endless cycle of birth, rebirth, and redeath, is samsara."{{sfn|Williams|2002|p=74-75}}<br />* Buswell and Lopez on "rebirth": "An English term that does not have an exact correlate in Buddhist languages, rendered instead by a range of technical terms, such as the Sanskrit PUNARJANMAN (lit. "birth again") and PUNABHAVAN (lit. "re-becoming"), and, less commonly, the related [[Redeath|PUNARMRTYU]] (lit. "redeath")."{{sfn|Buswell|Lopez|2003|p=708}}<br /><br />See also Perry Schmidt-Leukel (2006) pages 32-34,{{sfn|Schmidt-Leukel|2006|p=32-34}} John J. Makransky (1997) p.27.{{sfn|Makransky|1997|p=27}} for the use of the term "redeath." The term ''Agatigati'' or ''Agati gati'' (plus a few other terms) is generally translated as 'rebirth, redeath'; see any Pali-English dictionary; e.g. pages 94-95 of Rhys Davids & William Stede, where they list five Sutta examples with rebirth and re-death sense.<ref>{{cite |url=https://books.google.com/books?id=0Guw2CnxiucC|title=Pali-English Dictionary|first1=Thomas William Rhys|last1=Davids|first2=William|last2=Stede|date=1 January 1921|publisher=Motilal Banarsidass Publ.|via=Google Books }}</ref>}}<!--** END OF NOTE ("SAMSARA") **--><!--** START OF NOTE ("MOKSHA") **-->{{efn2|name="Moksha"|Graham Harvey: "Siddhartha Gautama found an end to rebirth in this world of suffering. His teachings, known as the dharma in Buddhism, can be summarized in the Four Noble truths."{{sfn|Harvey|2016}} Geoffrey Samuel (2008): "The Four Noble Truths [...] describe the knowledge needed to set out on the path to liberation from rebirth."{{sfn|Samuel|2008|p=136}} See also {{sfn|Spiro|1982|p=42}}{{sfn|Vetter|1988|p=xxi, xxxi-xxxii}}{{sfn|Makransky|1997|p=27-28}}{{sfn|Williams|2002|p=74-75}}{{sfn|Lopez|2009|p=147}}{{sfn|Harvey|2016}}<ref name="EB-DL Four Truths" /><ref>Thanissaro Bhikkhu, [http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/thanissaro/truth_of_rebirth.html ''The Truth of Rebirth And Why it Matters for Buddhist Practice'']</ref><br /><br />The Theravada tradition holds that insight into these four truths is liberating in itself.{{sfn|Carter|1987|p=3179}} This is reflected in the Pali canon.{{sfn|Anderson|2013}} According to Donald Lopez, "The Buddha stated in his first sermon that when he gained absolute and intuitive knowledge of the four truths, he achieved complete enlightenment and freedom from future rebirth."<ref name="EB-DL Four Truths">Donald Lopez, [http://www.britannica.com/topic/Four-Noble-Truths ''Four Noble Truths''], Encyclopædia Britannica.</ref><br /><br />The ''[[Maha-parinibbana Sutta]]'' also refers to this liberation.<ref>{{cite |url=http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/dn/dn.16.1-6.vaji.html|title=Maha-parinibbana Sutta: Last Days of the Buddha|publisher=}}</ref> Carol Anderson: "The second passage where the four truths appear in the ''Vinaya-pitaka'' is also found in the ''Mahaparinibbana-sutta'' (D II 90-91). Here, the Buddha explains that it is by not understanding the four truths that rebirth continues."{{sfn|Anderson|2013|p=162 with note 38, for context see pages 1-3}}<br /><br /> On the meaning of moksha as liberation from rebirth, see Patrick Olivelle in the Encyclopædia Britannica.<ref name="Brittanica">[[Patrick Olivelle]] (2012), Encyclopædia Britannica, [http://www.britannica.com/EBchecked/topic/387852/moksha ''Moksha (Indian religions)'']</ref>}}<!--** END OF NOTE ("MOKSHA") **-->。
== 概説 ==
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、[[バラモン教]]([[ヒンドゥー教]])の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた{{sfn|奈良|2000}}。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し([[縁起]])、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執([[我執]])してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「'''我でない'''」(非我)と主張された{{sfn|早島|1982|p=44}}。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている{{sfn|早島|1982|p=44}}{{sfn|奈良|2000}}。
しかし、その後「'''我がない'''」(無我)という解釈に発展し、'''人無我'''と'''法無我'''の二つが考えられた<ref name="吹田">吹田隆道 [http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E6%88%91 無我] 新纂浄土宗大辞典</ref>。人無我とは、人間という存在(有情、[[衆生]])は[[五蘊]]が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、[[実体]]的な[[生命]]の[[主体]]というようなものは無いということ<ref name="総合仏教大辞典1390" /><ref name="吹田"/>。法無我とは、あらゆるものは[[縁起]]・[[因縁]]によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである<ref name="総合仏教大辞典1390" /><ref name="吹田"/>。これは[[大乗仏教]]にも受け継がれて、[[般若]]思想では「無我」は「[[空 (仏教)|空]]」と表現された<ref name="吹田"/>。
ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としての[[アートマン]]の存在を信じ、これを[[輪廻]]の主体と考える<ref name="石田">石田一裕 [http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 アートマン] 新纂浄土宗大辞典</ref>。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される<ref>種村剛 [http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/6H/hi_hinduism_atman.html アートマン(ātman)] 種村 剛(TANEMURA, Takeshi)</ref>。無我という言葉は[[ウパニシャッド]]の atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、[[釈迦]]はウパニシャッドの形而上学的な[[梵我一如]]思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない{{sfn|眞田|1995}}。仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、[[縁起]]の道理によって否定し、輪廻から解放される[[解脱]]への道を示した<ref name="石田"/><ref>小川一乗 [http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qd1.html 無我] 大谷大学</ref>。[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている{{sfn|橋本|2001}}。
== 語源 ==
''Anattā''(アナッター)は、パーリ語で ''an'' (否定の接頭辞) + ''attā'' (アートマン)を意味する<ref name="DavidsStede1921p22">{{cite book|author1=Thomas William Rhys Davids |author2=William Stede |title=Pali-English Dictionary |url=https://books.google.com/books?id=0Guw2CnxiucC |year=1921|publisher=Motilal Banarsidass |isbn=978-81-208-1144-7 |pages=22 }}</ref>。
== パーリ仏典 ==
=== 支配能力の否定 ===
[[初転法輪]]にて釈迦は[[五蘊]]の無我を説き、支配能力がある(宰)我の存在を否定している。
{{Quote|
比丘たちよ、[[色]](Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。<br>
しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。…<br>
([[受]]、[[想]]、[[サンカーラ]]、[[識]]について同様に説く…)<ref>{{SLTP|[[律蔵 (パーリ)|律蔵]]犍度, 大犍度, 38 Mahakkhandhakaṃ}}</ref>
}}
=== 永遠性の否定 ===
{{PaliCanonSamanaViews}}
輪廻の主体については、[[ヒンズー教]]、[[ジャイナ教]]、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している<ref name="danielkeownucchedavada" /><ref name="buswelllopezp708">{{cite book|author1=Robert E. Buswell Jr.|author2=Donald S. Lopez Jr.|title=The Princeton Dictionary of Buddhism|url=https://books.google.com/books?id=DXN2AAAAQBAJ|year=2013|publisher=Princeton University Press|isbn=978-1-4008-4805-8|pages=708–709}}</ref><ref name="Harvey2012p46">{{cite book|author=Peter Harvey|title=An Introduction to Buddhism: Teachings, History and Practices|url=https://books.google.com/books?id=u0sg9LV_rEgC|year=2012|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-85942-4|pages=32–33, 38–39, 46–49}}</ref>。インド哲学での唯物論者(たとえば[[順世派]])は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた([[断見]])<ref>{{cite book |author=Ray Billington |title=Understanding Eastern Philosophy |url=https://books.google.com/books?id=q8KGAgAAQBAJ |year=2002 |publisher=Routledge |isbn=978-1-134-79349-5 |pages=43–44, 58–60 }}</ref>。
釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している<ref name="danielkeownucchedavada" />。釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという<ref name="danielkeownucchedavada">{{cite|title=Ucchedavāda, śāśvata-vāda, rebirth, in A Dictionary of Buddhism|author=Damien Keown|year=2004|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-860560-7}}<!--|accessdate=2013-12-04--></ref>。無我とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である<ref name="danielkeownucchedavada" />。しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする([[常見]])ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。<ref>{{cite book|author=Norman C. McClelland|title=Encyclopedia of Reincarnation and Karma|url=https://books.google.com/books?id=S_Leq4U5ihkC| year=2010| publisher=McFarland|isbn=978-0-7864-5675-8|page=89}}</ref><ref>{{cite book |author=Hugh Nicholson|title=The Spirit of Contradiction in Christianity and Buddhism| url=https://books.google.com/books?id=bSbnCwAAQBAJ |year=2016| publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-045534-7|pages=23–25}}</ref><ref>{{cite book|author=Gananath Obeyesekere |title=Karma and Rebirth: A Cross Cultural Study |url=https://books.google.com/books?id=IEK4Qgm7Z0kC |year=2006 |publisher=Motilal Banarsidass |isbn=978-81-208-2609-0 |pages=281–282}}</ref>。
=== 業、輪廻、無我 ===
釈迦は業(カルマ)と無我の二つを基本教義としている<ref name="Selves">"Selves & Not-self: The Buddhist Teaching on Anatta", by Thanissaro Bhikkhu. Access to Insight (Legacy Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/thanissaro/selvesnotself.html</ref>。
釈迦は、同時代の反バラモン教的な思想家たち([[六師外道]])の無我に関連する思想について、人間の身体は霊魂を含む7つの集合要素から成り7要素は互いに影響なく不変とする[[パクダ・カッチャーヤナ]]の無因果論、またはの唯物論(アヘトゥカディティ)、カルマの道徳的責任を否定する[[アジタ・ケーサカンバリン]]の唯物論的教義である虚無論(ナッティカディティ)、[[マッカリ・ゴーサーラ]]の[[運命論|運命決定論]]である無作用論(キリヤディティ)を誤った見解([[邪見]])と見なして批判・否定した<ref>[http://space.geocities.jp/tammashart/kami/muga-3.html 他の教えの無我] ターン・プッタタートの法施図書室</ref><ref name="Causality 1975, page 44">[[David Kalupahana]], ''Causality: The Central Philosophy of Buddhism.'' The University Press of Hawaii, 1975, page 44.</ref>。
釈迦は、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)することを否定し(非我、無我)現実の苦悩の解決に役立たない形而上学的な問いには答えなかった(捨置記、[[無記]])<ref>{{SLTP|[[無記相応]]}}</ref> 。カルマの道義的責任を担保するためには輪廻が必要とされ、仏教のカルマの枠組みにおいては、輪廻からの解脱には[[八正道]]が必要とされる<ref>{{cite book|author=Malcolm B. Hamilton|title=The Sociology of Religion: Theoretical and Comparative Perspectives|url=https://books.google.com/books?id=ANaHAgAAQBAJ|date=12 June 2012|publisher=Routledge|isbn=978-1-134-97626-3|pages=73–80}}</ref><ref>{{cite book | last =Raju | first =P. T. | year =1985 | title =Structural Depths of Indian Thought | publisher =State University of New York Press | isbn =978-0-88706-139-4 |url=https://books.google.com/books?id=wZ_iahRQomwC|pages=147–151}}</ref>。
{{See also|四向四果}}
{{-}}
== 説一切有部 ==
{{出典の明記|date=2017年7月27日 (木) 08:38 (UTC)|section=1}}
[[説一切有部]]においては、要素である[[法 (仏教)|法]](ダルマ)の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを[[自性]](じしょう、サンスクリット: {{IAST|svabhāva}} स्वभाव)と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立された。
なお宗派としての説一切有部は滅びたものの、これらの研究は[[阿毘達磨]]教学として大乗諸派に受け継がれ、現在にいたるまで熱心に学習されている。
== 大乗仏教 ==
{{出典の明記|date=2017年7月27日 (木) 08:38 (UTC)|section=1}}
このような「法有我」もしくは「自性」の思想は、経量部など他の部派や、[[般若経典]]を保持する初期[[大乗仏教]]のグループから批判された。特に大乗からは[[龍樹]]が現れ、論理学を用いて、これらの法有我説を徹底的に批判した。
彼らは自性に反対の[[無自性]]を鮮明にし、[[空 (仏教)|空]]であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる[[縁起]] (えんぎ) 説であるとする。<!--ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。-->
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説から発展した「空の思想」が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、無我説を発展させた「空の思想」をその中心に据えている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書 |author = 橋本崇宣 |title =初期仏教にみられる実体観:ラーダークリシュナンの解釈を中心に|date = 2001 |publisher = 佛教文化学会|journal = 佛教文化学会紀要|naid =130003657874 |volume = 10 |pages =159-169|ref={{Harvid|橋本|2001}} }}
* {{Cite journal |和書 |author = 奈良康明|title =真実の「はたらき」ということ : 無常を例として|date = 2000 |publisher = 駒澤大学|journal = 駒澤大学佛教学部論集|naid =110007019424 |volume = 31 |pages =1-21|ref={{Harvid|奈良|2000}} }}
* {{Cite book ja-jp |author=[[早島鏡正]]|others=[[前田専学]]、[[高崎直道]]、[[原実]]|chapter=第5章 英領インドにおける思想運動 |title =インド思想史 |publisher=東京大学出版会|year=1982|ref={{Harvid|早島|1982}} }}
* {{Cite journal |和書 |author = 眞田康道 |title =仏教における無我思想の論理|date = 1995 |publisher = 佛教大学|journal = 文学部論集|naid =110006472964 |volume = 79 |pages = 21-40|ref={{Harvid|眞田|1995}} }}
* {{Citation | last =Anderson | first =Carol | year =2013 | title =Pain and Its Ending: The Four Noble Truths in the Theravada Buddhist Canon | publisher =Routledge}}
* {{Citation | last1 =Buswell | first1 =Robert E. Jr. | last2 =Lopez | first2 =Donald Jr. | year =2003 | title =The Princeton Dictionary of Buddhism | publisher =Princeton University Press}}
* {{Citation | last =Carter | first =John Ross | year =1987 | chapter =Four Noble Truths | editor-last =Jones | editor-first =Lindsay | title =MacMillan Encyclopedia of Religions | publisher =MacMillan}}
* {{cite book |last= Gombrich |first=Richard F.|title=How Buddhism Began: The Conditioned Genesis of the Early Teachings |url=https://books.google.com/books?id=hQOAAgAAQBAJ |year=1997|publisher=Routledge |isbn=978-1-134-19639-5 }}
* {{Citation | last =Harvey | first =Graham | year =2016 | title =Religions in Focus: New Approaches to Tradition and Contemporary Practices | publisher =Routledge}}
* {{Cite book | last =Harvey | first =Peter | year =2013 |title =An Introduction to Buddhism | publisher =Cambridge University Press}}
* {{Cite book| last =Keown | first =Damien | year=2000| title= Buddhism: A Very Short Introduction |edition= Kindle | publisher=Oxford University Press}}
* {{Cite book |last = Lopez |first = Donald S |year = 1995 |title = Buddhism in Practice |publisher = Princeton University Press |isbn = 0-691-04442-2 |url = http://isites.harvard.edu/fs/docs/icb.topic787480.files/Lopez-Buddhism%20in%20Practice.pdf |format = PDF}}
* {{Citation | last =Lopez | first =Donald, jr. | year =2009 | title =Buddhism and Science: A Guide for the Perplexed | publisher =University of Chicago Press}}
* {{Citation|first=Rory |last= Mackenzie|title=New Buddhist Movements in Thailand: Towards an Understanding of Wat Phra Dhammakaya and Santi Asoke|url=http://www.ahandfulofleaves.org/documents/New%20Buddhist%20Movements%20In%20Thailand_Mackenzie.pdf|year=2007|publisher=[[Routledge]]|isbn=978-1-134-13262-1}}
* {{Citation | last =Makransky | first =John J. | year =1997 | title =Buddhahood Embodied: Sources of Controversy in India and Tibet | publisher =SUNY}}
* {{cite book | last =Raju | first =P. T. | year =1985 | title =Structural Depths of Indian Thought | publisher =State University of New York Press | isbn =978-0-88706-139-4 |url=https://books.google.com/books?id=wZ_iahRQomwC}}
* {{Citation | last =Samuel | first =Geoffrey | year =2008 | title =The Origins of Yoga and Tantra: Indic Religions to the Thirteenth Century | publisher =Cambridge University Press}}
* {{Citation | last =Schmidt-Leukel | first =Perry | year =2006 | title =Understanding Buddhism | publisher =Dunedin Academic Press | isbn =978-1-903765-18-0 | url =https://books.google.com/books?id=3DrYAAAAMAAJ}}
* {{Citation | last =Spiro | first =Melford E. | year =1982 | title =Buddhism and Society: A Great Tradition and Its Burmese Vicissitudes | publisher =University of California Press}}
* {{Citation | last =Vetter | first =Tilmann | year =1988 | title =The Ideas and Meditative Practices of Early Buddhism | publisher =BRILL}}
* {{Citation| last= Williams |first=Paul | year =2002 | title =Buddhist Thought |edition= Kindle | publisher = Taylor & Francis}}
* {{Citation|first=Paul|last=Williams|title=Mahayana Buddhism: The Doctrinal Foundations|url=http://www.khamkoo.com/uploads/9/0/0/4/9004485/mahayana_buddhism_-_the_doctrinal_foundations_second_edition.pdf|year=2008|edition=2|publisher=[[Routledge]]|isbn=978-1-134-25056-1}}
* [http://ahandfulofleaves.files.wordpress.com/2011/11/a-note-on-atta-in-the-aladaddupama-sutta_norman_ld_1981.pdf A Note on Attā in the Alagaddūpama Sutta]. [[K. R. Norman]] – ''Studies in Indian Philosophy'' LD Series, 84 – 1981
* [http://ahandfulofleaves.files.wordpress.com/2011/11/recovering-the-buddhas-message_gombrich_tbf_1988.pdf Recovering the Buddha's Message]. [[Richard Gombrich|R. F. Gombrich]]
* Lama, Dalai (1997). ''Healing Anger: The Power of Patience from a Buddhist Perspective''. Translated by Geshe Thupten Jinpa. Snow Lion Publications. Source: [https://web.archive.org/web/20061123005620/http://www.tysonwilliams.com/archives/what_is_the_nature_of_the_mindstream_that_reincarnates_from_lifetime_to_lifetime.html] (accessed: Sunday March 25, 2007)
* {{cite journal|last1=Wynn|first1=Alexander|title=The atman and its negation|journal=Journal of the International Association of Buddhist Studies|date=2010|volume=33|issue=1–2|pages=103–171|url=http://journals.ub.uni-heidelberg.de/index.php/jiabs/article/view/9279/3140}}
== 関連項目 ==
* [[アートマン]]
* [[三相 (仏教)]]
* [[諸行無常]]
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17,113 |
フライス盤
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フライス盤(フライスばん)は、ミリング・マシンとも呼ばれ、回転軸に取り付けたフライス(立形の場合エンドミルも含む)という切削工具を回転させ、フライスを動かすことによって、平面・溝・歯車などの切削加工を行う工作機械である。
1814年〜1820年代ごろに、複数の発明家によって開発されたと見られている。現在、残されている最古のフライス盤は、1818年にアメリカのイーライ・ホイットニーが、銃器の部品を作るために、旋盤にカッタを付けた横フライス盤である。
1857年にイギリスで立フライス盤が作られ、パリの博物館に保存されている。
1860年代には万能フライス盤が作られ、歯車やドリルの加工ができるようになった。
カッタは、正式には、ミーリングカッタと呼ばれる。フェイスミーリングカッタは、正面フライスやフェイスミルと呼ばれ、サイドミーリングは、サイドカッターとよばれる。
フライス盤は、ベース(右図の1)とコラム(2)が本体として機械全体を支え、ニー(3)の上に固定されたテーブル(5)の上面に工作物を取り付ける。
横フライス盤は、主軸が地面に対して水平方向を向いており、切削工具(フライス)はアーバ(右図の7)を介して主軸に取り付けられ、さらにアーバ支えを介してオーバーアーム(6)によって支えられている。
立フライス盤は、主軸が地面に対して垂直方向を向いており、主軸(右下図の2)とその先端に取り付けられたフライス(1)は、主軸頭(3)で支えられている。
金属などの工作物は可動式のテーブル(右下図の5)上に取り付けられ、フライス(1)の刃先で切削される。工作物を載せたテーブルは、テーブル手送りハンドル(13)・サドル手送りハンドル(17)・ニー手送りハンドル(18)を回すことによって3次元方向(上下・左右・前後のZXY方向)に動かすことができ、これを用いて切削加工をする。
切削工具(フライス)はさまざまな加工に対応するために交換可能となっており、多様な回転工具が販売されている。まっすぐに穴をあけるドリルと異なり、切削時の力が回転軸の横方向に掛かるため、硬い物を加工する時も回転軸や回転工具がぶれないように、全体が頑丈に作られている。
単にフライス盤といえば、手動によるハンドルによって操作するものを指すが、手動のものとは別にコンピュータによって制御されるNCフライス盤やCNCフライス盤と呼ばれる機械がある。NCとは「numerical control(数値制御)」のことであり、CNCとは「computer numerical control(コンピュータ数値制御)」のことである。手動操作では高度な技術を持った職人でないと各軸方向への直線的な加工しか行なえないが、NCでは縦横高さの3方向での動きが同時に制御出来るために、曲線や曲面を切削することが出来る。NCであっても手動操作は可能である。
加工対象となる工作物はテーブルに固定されなければならない。固定に使用される工具には以下のものが使われる。
回転する切削工具をフライス盤の主軸に固定するために、いくつかの工具が使用されている。下記の多くがフックスパナで締め付け作業などが行なわれる。マシンバイスなどを使う時には銅板を間に挟む事で工作物が直接、バイスの口金で傷付けられることを防止する。
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フライス盤(フライスばん)は、ミリング・マシンとも呼ばれ、回転軸に取り付けたフライス(立形の場合エンドミルも含む)という切削工具を回転させ、フライスを動かすことによって、平面・溝・歯車などの切削加工を行う工作機械である。
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{{出典の明記|date=2013年10月}}
[[画像:Fraisage surfacage.svg|thumb|right|350px|立形フライス盤による正面フライスを用いた加工の例。]]
'''フライス盤'''(フライスばん)は、'''ミリング・マシン'''<ref>{{lang-en-short|milling machine}}</ref>とも呼ばれ、回転軸に取り付けた[[フライス (工具)|フライス]](立形の場合[[エンドミル]]も含む)という[[切削工具]]を回転させ、[[フライス]]を動かすことによって、平面・溝・[[歯車]]などの[[切削加工]]を行う[[工作機械]]である。
== 歴史 ==
[[画像:Eli Whitney milling machine 1818--001.png|thumb|right|200px|1818年にアメリカのホイットニーが製作した最古のフライス盤。]]
1814年〜1820年代ごろに、複数の発明家によって開発されたと見られている<ref name="Baida1987">{{Cite journal|last=Baida|first=Peter|date=1987-05|title=Eli Whitney's Other Talent|url=http://www.americanheritage.com/content/eli-whitney%E2%80%99s-other-talent|journal=American Heritage|volume=38|issue=4|page=|accessdate=2010-11-29}}</ref>。現在、残されている最古のフライス盤は、[[1818年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[イーライ・ホイットニー]]が、銃器の部品を作るために、[[旋盤]]にカッタを付けた[[横フライス]]盤である。
1857年に[[イギリス]]で[[立フライス盤]]が作られ、[[パリ]]の博物館に保存されている。
1860年代には[[万能フライス盤]]が作られ、[[歯車]]や[[ドリル (工具)|ドリル]]の加工ができるようになった。
[[カッタ]]は、正式には、[[ミーリングカッタ]]<ref>{{lang-en-short|milling cutters}}</ref>と呼ばれる。[[フェイスミーリングカッタ]]は、[[正面フライス]]や[[フェイスミル]]と呼ばれ、[[サイドミーリング]]は、[[サイドカッター]]とよばれる。
== 構成・機能と分類 ==
=== 構成と機能 ===
[[画像:Milling machine diagram.svg|thumb|right|350px|'''横フライス盤の構成例'''(ひざ形、手動操作式)<br>1.ベース 2.コラム 3.ニー 4.と5.テーブル 6.オーバーアーム 7.アーバ</small>]]
フライス盤は、ベース(右図の1)とコラム(2)が本体として機械全体を支え、ニー(3)の上に固定されたテーブル(5)の上面に工作物を取り付ける。
'''横フライス盤'''は、主軸が地面に対して水平方向を向いており、切削工具(フライス)はアーバ(右図の7)を介して主軸に取り付けられ、さらにアーバ支えを介してオーバーアーム(6)によって支えられている。
'''立フライス盤'''は、主軸が地面に対して垂直方向を向いており、主軸(右下図の2)とその先端に取り付けられたフライス(1)は、主軸頭(3)で支えられている。
金属などの工作物は可動式のテーブル(右下図の5)上に取り付けられ、フライス(1)の刃先で切削される。工作物を載せたテーブルは、テーブル手送りハンドル(13)・サドル手送りハンドル(17)・ニー手送りハンドル(18)を回すことによって3次元方向(上下・左右・前後のZXY方向)に動かすことができ、これを用いて切削加工をする。
切削工具(フライス)はさまざまな加工に対応するために交換可能となっており、多様な回転工具が販売されている。まっすぐに穴をあけるドリルと異なり、切削時の力が回転軸の横方向に掛かるため、硬い物を加工する時も回転軸や回転工具がぶれないように、全体が頑丈に作られている<ref name = "フライス盤作業"/>。
=== 分類 ===
[[画像:Milling machine (Vertical, Manual) NT.PNG|thumb|right|350px|'''立フライス盤の構成例'''(ひざ形、手動操作式)<br>1.正面フライス 2.主軸(スピンドル) 3.主軸頭(スピンドル・ヘッド) 4.コラム 5.テーブル 6.サドル 7.ニー 8.ベース 9.主軸スイッチ 10.主軸回転高速・中速・低速変換レバー 11.主軸回転数変換レバー 12.摺動面潤滑油タンク 13.テーブル手送りハンドル 14.テーブル・ロック・ハンドル 15.サドル自動送りレバー 16.サドル自動送り速度変換ダイヤル 17.サドル手送りハンドル 18.ニー手送りハンドル 19.早送りボタン]]
====主軸方向別====
* 立フライス盤<ref>{{lang-en-short|vertical mill}}</ref> - 主軸が地面に対して立方向に付いており、四角形状の加工に向いている
* 横フライス盤<ref>{{lang-en-short|horizontal mill}}</ref> - 主軸が地面に対して横方向に付いており、溝加工や切断加工に向いている。
* 万能フライス盤<ref>{{lang-en-short|universal milling machine}}</ref> - 横フライス盤のテーブルを自由に傾けられるようにしたもの。歯車やドリルなども加工することができる。
====移動形態別====
* ひざ形 - 主軸が固定され、テーブルがZXYに動く
* ラム形 - 主軸がY、テーブルがZXに動く
* ベッド形 - 主軸がZ、テーブルがXYに動く
====手動・自動別====
* 手動フライス盤
* NCフライス盤、CNCフライス盤
単にフライス盤といえば、手動によるハンドルによって操作するものを指すが、手動のものとは別にコンピュータによって制御されるNCフライス盤やCNCフライス盤と呼ばれる機械がある。NCとは「<ruby lang="en">numerical control<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ニューメリカル・コントロール</rt><rp>)</rp></ruby>([[数値制御]])」のことであり、CNCとは「<ruby lang="en">computer numerical control<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">コンピューター・ニューメリカル・コントロール</rt><rp>)</rp></ruby>([[コンピュータ数値制御]])」のことである。手動操作では高度な技術を持った職人でないと各軸方向への直線的な加工しか行なえないが、NCでは縦横高さの3方向での動きが同時に制御出来るために、曲線や曲面を切削することが出来る。NCであっても手動操作は可能である<ref name = "フライス盤作業"/>。
== 主な工具 ==
[[画像:Face Mill Index 01.png|thumb|right|200px|正面フライス刃。黄色のそれぞれがスローアウェイチップである。]]
[[画像:MillingCutterSlotEndMillBallnose.jpg|thumb|right|220px|エンドミル]]
* 正面フライス - 円盤状の底面の周囲に多数のスローアウェイチップと呼ばれる交換可能な刃先を持つ。主に広い面を削る時に使用する。スローアウェイチップが固定されている円盤部分はカッターボディまたはフライスヘッドと呼ばれる。
* [[エンドミル]] - 丸棒の外周面と底面に刃を持つ。ドリルの刃に似ているが、側面でも切削することが出来る。刃は1枚から8枚が一般的である。
* ボーリングヘッド - ドリルで開けた穴の内側を滑らかにするのに使用する。旋盤の「バイト」を使用している。
* 面取りフライス - 工作物の角を面取りする時に使用される。
* 穴用面取りフライス - 工作物の穴の縁を面取りする時に使用される。
* T溝フライス - T型の溝を掘るのに使用される。
* 半月キー溝フライス - 半月キー溝を掘るのに使用される。
* あり溝フライス - あり溝を掘るのに使用される。
* コーナーRカッタ - 工作物の角をRを付けて面取りする時に使用される。
* 沈めフライス - 座ぐり穴を加工するのに使用する。工作物にあらかじめドリルで穴を開けておく必要がある。
* メタルソー
* センタドリル - ドリルを使った穴あけ加工の準備として、あらかじめ小さな穴を開けるのに使う小さなドリルである。
* [[ドリル (工具)|ドリル]]
== 固定 ==
=== 工作物 ===
加工対象となる工作物はテーブルに固定されなければならない。固定に使用される工具には以下のものが使われる。
* マシンバイス - 単にバイスとも呼ばれ、万力のようにハンドルで締め付けねじを回し移動する口金にはさんで固定する。バイス自身は取り付けボルトでテーブルに固定される。現在は油圧による締め圧増加などの機能を持つバイスが主流である。
* ハネクランプ - マシンバイスでは扱えない大きさの工作物はハネクランプまたはステップクランプによって直接テーブルに固定される。
* ステップクランプ - ハネクランプでの固定厚みが変えられるように、工作物とは反対側のクランプの端にステップブロックと呼ばれる階段状の段が刻まれた三角形の金属具を噛ませる。
=== 切削工具 ===
回転する切削工具をフライス盤の主軸に固定するために、いくつかの工具が使用されている。下記の多くがフックスパナで締め付け作業などが行なわれる。マシンバイスなどを使う時には銅板を間に挟む事で工作物が直接、バイスの口金で傷付けられることを防止する。
* クイックチェンジ・アダプタ - ドローイング・ボルトを使って主軸に取り付けられる。
* ミーリング・チャック - エンドミルをクイックチェンジ・アダプタに取り付けるための工具。コレット・チャックとも呼ばれる。コレットがエンドミルを保持し、コレットをミーリング・チャックが固定する。
* コレット - エンドミルを挿入する。エンドミルの外形の違いを吸収し、ミーリング・チャックの穴に合わせる。
* ドリルチャック - ドリルを使うときに使用する。ストレートシャンクとテーパーシャンクの2種類がある<ref name = "フライス盤作業">{{Cite book|和書|author = 澤武一|title = 目で見てわかるフライス盤作業 : {{lang|en|visual books}}|year = 2008|publisher = [[日刊工業新聞社]]|isbn = 978-4-526-06063-2|page = }}</ref>。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Milling machines}}
* [[マシニングセンタ]]
* [[数値制御]](NC) - [[NC加工]] - [[コンピュータ数値制御]](CNC)
* [[旋盤]]
* [[ボール盤]]
* [[研削盤]]
* [[金属加工]]
* [[牧野フライス製作所]]
== 外部リンク ==
*{{Kotobank}}
*[http://www.nctd.go.jp/senmon/shiryo/kougyou/d/safe_smenu_d.html フライス盤作業(工業科)]([[教職員支援機構]])…フライス盤作業の動画など
*[http://www.furaisuban.com/sitemap.html フライス盤ドットコム]…[[山崎技研]]が運営するフライス盤の情報サイト
* {{科学映像館|genre=industrial|id=11259|name=みんな科学者シリーズ フライス盤作業}}
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17,114 |
国立印刷局
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独立行政法人国立印刷局(こくりついんさつきょく、英語: National Printing Bureau)は、紙幣・切手・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の公的な印刷を主に行う日本の独立行政法人である。
東京都港区虎ノ門に本局を置き、全国に6つの工場(東京、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)を運営している。行政執行法人(旧・特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国家公務員である。
硬貨・勲章などは独立行政法人造幣局で製造される。
国立印刷局は、紙幣・切手・印紙・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物などの印刷を主な業務とし、印刷部門が担当している。その他に、製紙部門、出版部門、研究開発部門などがある。製紙部門では紙幣・切手・印紙・旅券などに使用する各種用紙の製造を行っており、出版部門では、官報・法令全書・白書などの政府刊行物の編集や製造を行っている。また、研究開発部門では、偽造防止技術などの研究開発を行っている。デザイン専門の工芸官は、主に紙幣のデザインにあたっている。 また、付属施設として国立印刷局東京病院の運営も行っていたが、2013年(平成25年)4月に社会医療法人社団正志会へ移譲された。
東京工場(北区)、小田原工場、静岡工場(静岡市)、彦根工場の見学があらかじめの申し込み後できるようになっている。
1941年(昭和16年)に設立された神奈川県小田原工場にはソメイヨシノをはじめとする桜が500本植えられていて、4月初旬の土日に一般公開の「観桜会」が催される。
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独立行政法人国立印刷局は、紙幣・切手・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の公的な印刷を主に行う日本の独立行政法人である。 東京都港区虎ノ門に本局を置き、全国に6つの工場(東京、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)を運営している。行政執行法人(旧・特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国家公務員である。 硬貨・勲章などは独立行政法人造幣局で製造される。
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{{Infobox 組織2
| 名称 = 独立行政法人国立印刷局<!-- 無記入であれば記事名が自動的に表示される -->
| Width = 200
| 画像 =[[File:National Printing Bureau logo.svg|270px]]
| 画像2 = [[File:Kyodo News (former head office).jpg|280px]]
| 脚注2 = 国立印刷局本局が入居する[[共同通信会館]]
| 正式名称 = 独立行政法人国立印刷局
| 英語名称 = National Printing Bureau
| 略称 =
| 組織形態 = [[独立行政法人]]
| 本部名称 = 本局<!-- 拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK -->
| 所在国 = {{JPN}}
| 所在地郵便番号 = 105-8445
| 所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]二丁目2番5号<br/>[[共同通信会館]]7、8階
| 位置 = {{Coord|35|40|7.6|N|139|44|40.87|E|display=inline,title}}<!-- 経緯度を記入 -->
| 予算 = 707億円(2014年度)<ref name="Kessan2013">[http://www.npb.go.jp/ja/guide/finance/pdf/zaim0225.pdf 平成25事業年度 決算報告書]([[Portable Document Format|PDFファイル]]) 上位URL=[http://www.npb.go.jp/ja/guide/finance/kessan.html 財務諸表・決算報告書] 独立行政法人国立印刷局 [[2020年]]([[令和]]2年)10月21日閲覧</ref><br />* 業務収入 687億円<br/>* その他収入 20億円
| 資本金 =
| 資金 =
| 負債 =
| 人数 = 職員数 4,420人<ref name="Siryou2013ninzu">常勤職員数[[2013年]](平成25年)1月1日時点 [https://www.soumu.go.jp/main_content/000264026.pdf#page22 独立行政法人評価年報(平成24年度版)資料編資料4 独立行政法人の常勤職員数の推移](PDFファイル:1.11[[メガバイト|MB]])([[総務省]])上位URL=[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/79855.html 政策評価・独立行政法人評価委員会 独立行政法人評価年報(平成24年度版)平成25年12月16日] - 2020年(令和2年)10月21日 閲覧</ref>
| 代表 =
| 所長 =
| 理事長 = [[大津俊哉]]([[2022年]]([[令和]]4年)8月1日 - )
| 代表職名 = <!-- 組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入 -->
| 代表氏名 = <!-- 組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入 -->
| 目的 =
| 活動内容 = [[日本銀行券]]の製造、[[官報]]の編集及び印刷など
| 活動領域 =
| 設立年月日 = [[1871年]]([[明治4年]])[[7月27日]](大蔵省紙幣司 創設)
| 前身 =
| 設立者 =
| 廃止年月日 =
| 後身 =
| 上位組織 =
| 所管 = [[財務省]]
| 下位組織 =
| 関連組織 = [[日本銀行]]<br/>[[造幣局 (日本)|造幣局]]
| 関連団体 =
| 拠点 =
| 保有施設 =
| 保有装置 =
| 保有物分類1 = <!-- 施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など -->
| 保有物名称1 = <!-- すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など -->
| 保有物分類2 =
| 保有物名称2 =
| 保有物分類3 =
| 保有物名称3 =
| 提供サービス =
| プロジェクト =
| 参加プロジェクト =
| 特記事項 =
| ウェブサイト = {{Official URL}}
}}
'''独立行政法人国立印刷局'''(こくりついんさつきょく、{{lang-en|National Printing Bureau}})は、[[紙幣]]・[[切手]]・[[旅券]]・[[郵便貯金]][[通帳]]・[[証券]]類・[[日本国政府|政府]]刊行物等の公的な[[印刷]]を主に行う[[日本]]の[[独立行政法人]]である。
[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]に本局を置き、全国に6つの[[工場]]([[西ケ原|東京]]、[[王子 (東京都北区)|王子]]、[[小田原市|小田原]]、[[静岡市|静岡]]、[[彦根市|彦根]]、[[岡山市|岡山]])を運営している。行政執行法人(旧・特定独立行政法人)であるため、職員の[[身分]]は[[国家公務員]]である。
[[硬貨]]・[[勲章]]などは独立行政法人[[造幣局 (日本)|造幣局]]で製造される。
== 沿革 ==
[[file:National Printing Bureau (Japan).jpg|thumb|right|250px|<center>国立印刷局 旧・本局]]
* [[1869年]]([[明治元年]]/[[明治2年]]) - [[長崎製鉄所]]の[[本木昌造]]によって「活版伝習所」が作られたのが起源で、その後本木は長崎製鉄所を離れ新街私塾に移るが、長崎製鉄所に残った組が[[工部省]]に引き継がれ「勧工寮」と称した。
* [[1871年]]([[明治4年]]) - [[大蔵省]]「紙幣司」が創設。その後、「勧工寮」を合併し「紙幣寮」と改称。
* [[1872年]]([[明治5年]]) - 初代紙幣頭(現在の理事長に当たる)に[[渋沢栄一]]が就任。同年、「太政官正院印書局」が創設。
* [[1875年]]([[明治]]8年) - 「太政官正院印書局」が「大蔵省紙幣寮」に合併される。なお、当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]に発行機能を持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては[[銀行]]の監督業務も職掌としていた。
* [[1877年]](明治10年) - 大蔵省「紙幣局」に改称。
* [[1878年]](明治11年) - 大蔵省「印刷局」に改称(この時に銀行業務を分離)。初代局長に[[得能良介]]。
* [[1898年]](明治31年) - [[内閣 (日本)|内閣]]の「官報局」と統合され、内閣所管の「印刷局」となる。
* [[1923年]]([[大正]]12年) - [[関東大震災#紙幣の焼失|関東大震災]]で大手町の紙幣印刷工場や王子の抄紙部が被災。
* [[1943年]]([[昭和]]18年) - 再度大蔵省に所管が戻り「大蔵省印刷局」になる。
* [[1945年]](昭和20年) - 空襲によって大手町の本局庁舎と大手町工場が焼失。
* [[1946年]](昭和21年) - [[市ヶ谷]]に本局と工場を移転([[2010年]]([[平成]]22年)まで国立印刷局市ヶ谷センターがあった<ref>{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000186018.pdf 独立行政法人国立印刷局の概要説明資料]|1.15 [[メガバイト|MB]]}} - [[2012年]]([[平成]]24年)9月28日、[[財務省]]</ref>)。
* [[1949年]](昭和24年) - 大蔵省の外局である「印刷庁」となる(長は[[長官]])。
* [[1952年]](昭和27年) - 大蔵省の付属機関である「大蔵省印刷局」となる。
* [[1962年]](昭和37年) - [[虎ノ門]]に本局・工場が完成。
* [[1984年]](昭和59年) - 国家行政組織法の改正により、位置づけが、大蔵省の特別の機関となる。
* [[2001年]]([[平成]]13年) - [[中央省庁再編]]により「[[財務省]]印刷局」に改称。
* [[2003年]](平成15年) - [[独立行政法人]]「国立印刷局」へ改編。
* [[2010年]](平成22年)度 - 大手町敷地、市ヶ谷センター及び久我山運動場を国庫納付<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000186018.pdf 独立行政法人国立印刷局の概要説明資料]2012年(平成24年)9月28日、財務省 p3 2022年2月27日閲覧</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** 4月1日 - 虎の門工場と滝野川工場が再編され、東京工場と名称変更。
** 11月4日 - [[都市再生機構|UR都市機構]]の虎ノ門二丁目地区市街地再開発事業に伴い、旧・虎の門工場を閉鎖。本局を[[共同通信会館]]の7、8階に移転<ref>{{Cite press release |和書 |title = 本局移転のお知らせ |publisher = 国立印刷局 |date = 2014-10-24 |url = http://www.npb.go.jp/ja/news/20141024_honkyokuiten/index.html |accessdate = 2020-10-21}}</ref>、[[官報]]の製造は東京工場となる。
== 業務内容 ==
国立印刷局は、紙幣・切手・印紙・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物などの印刷を主な業務とし、印刷部門が担当している。その他に、製紙部門、出版部門、研究開発部門などがある。製紙部門では紙幣・切手・印紙・旅券などに使用する各種用紙の製造を行っており、出版部門では、[[官報]]・[[法令全書]]・[[白書]]などの政府刊行物の編集や製造を行っている。また、研究開発部門では、偽造防止技術などの研究開発を行っている。デザイン専門の[[工芸官]]は、主に紙幣のデザインにあたっている。
また、付属施設として[[国立印刷局東京病院]]の運営も行っていたが、[[2013年]](平成25年)4月に社会医療法人社団正志会へ移譲された<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.npb.go.jp/uploads/toukyoubyouinijou.pdf | title=東京病院移譲のお知らせ | publisher=独立行政法人国立印刷局 | date=2012-12-06 | accessdate=2020-10-21}}(PDFファイル:98.6[[キロバイト|KB]])</ref>。
== 歴代局長・理事長等 ==
{|class="wikitable"
|-
!代||氏名||在任期間||前職||後職
|-
!colspan="5"|紙幣頭
|-
|1||[[渋沢栄一]]||1872.1.27<!-- [[明治4年]]12月18日 --> - 1872.7.7<!-- [[明治5年]]6月2日 -->|| ||
|-
|2||[[芳川顕正]]||1872.7.7<!-- 明治5年6月2日 --> - 1874.1.15|| ||
|-
|3||[[得能良介]]||1874.1.15 - 1877.1.11|| ||
|-
!colspan="5"|紙幣局長
|-
|1||得能良介||1877.1.11 - 1878.12.10|| ||
|-
!colspan="5"|印刷局長
|-
|1||得能良介||1878.12.10 - 1883.12.15|| ||
|-
|2||一川研三||1884.1.7 - 1886.4.15|| ||
|-
!colspan="5"|印刷局事務長
|-
| ||一川研三||1886.4.15 - 1887.12.21|| ||
|-
!colspan="5"|印刷局長
|-
|1||一川研三||1887.12.21 - 1888.8.3|| ||
|-
|2||[[得能通昌]]||1888.9.28 - 1898.10.22|| ||
|-
!colspan="5"|印刷局長(内閣の外局)
|-
|1||得能通昌||1898.11.1 - 1907.3.16|| ||
|-
|2||山中政亮||1907.3.16 - 1907.12.1||内閣書記官、[[死亡|死去]]||
|-
|取扱||佐田清次||1907.12.2 - 1908.5.20|| ||
|-
|3||[[神野勝之助]]||1907.12.27 - 1914.6.27||大蔵書記官||
|-
|4||佃一誠||1914.6.27 - 1917.7.10||大蔵省参事官||依願免本官
|-
|5||[[池田敬八]]||1917.7.10 - 1924.12.20||専売局参事||
|-
!colspan="5"|内閣印刷局長
|-
|1||池田敬八||1924.12.20 - 1928.2.10|| ||
|-
|取扱||[[鳩山一郎]]||1928.2.10 - 1928.2.28|| ||
|-
|2||[[杉精三]]||1928.2.28 - 1936.4.24|| ||
|-
|3||[[土屋耕二]]||1936.4.24 - 1943.11.1|| ||
|-
!colspan="5"|大蔵省印刷局長
|-
|1||土屋耕二||1943.11.1 - 1944.6.3|| ||
|-
|2||[[山田義見]]||1944.6.5 - 1945.4.13|| ||
|-
|3||深沢家治||1945.4.13 - 1946.2.2|| ||
|-
|4||湯地謹爾郎||1946.2.2 - 1947.8.27|| ||東京財務局長
|-
|5||原久一郎||1947.8.27 - 1949.5.31|| ||[[退職]]
|-
!colspan="5"|印刷庁長官(大蔵省)
|-
|1||伊地知辰夫||1949.6.1 - 1951.12.1||大蔵省印刷局業務部長兼経理部長||退職
|-
|2||吉田晴二||1951.12.1 - 1952.7.31||[[証券取引等監視委員会|証券取引委員会]]事務局長||大蔵省印刷局長
|-
!colspan="5"|大蔵省印刷局長
|-
|1||吉田晴二||1952.8.1 - 1954.2.16||印刷庁長官||退職
|-
|心得||柏原益太郎||(1954.2.16 - 1954.4.10)||colspan="2"|大蔵省印刷局業務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|2||[[井上義海]]||1954.4.10 - 1956.4.3||[[関東財務局#歴代局長|関東財務局長]]||退職
|-
|3||大槻義公||1956.4.3 - 1957.6.15||[[国税庁#歴代の国税庁次長|国税庁次長]]||退職
|-
|4||山中一朗||1957.6.15 - 1959.6.16||関東財務局長<br /> → 1957.6.11大蔵省大臣官房勤務||退職
|-
|心得||崎谷武男||(1959.6.16 - 1959.6.19)||colspan="2"|大蔵省印刷局業務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|5||龜岡康夫||1959.6.19 - 1960.4.15||[[内閣法制局|法制局]]第一部長||退職
|-
|心得||崎谷武男||(1960.4.15 - 1960.6.24)||colspan="2"|大蔵省印刷局業務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|6||原三郎||1960.6.24 - 1961.5.29|| ||退職
|-
|心得||小島要太郎||(1961.5.29 - 1961.6.16)||colspan="2"|大蔵省印刷局業務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|7||飯田良一||1961.6.16 - 1963.5.20||[[内閣官房]]内閣審議室長<br />兼[[総理府|内閣総理大臣官房]]審議室長||退職
|-
|8||羽柴忠雄||1963.5.20 - 1964.7.3||[[経済企画庁]]調整局参事官||退職
|-
|9||遠藤胖||1964.7.3 - 1966.6.16||大蔵省大臣官房[[日本専売公社]]監理官||退職
|-
|10||高田壽史||1966.6.16 - 1967.8.4||[[税務大学校]]長||退職
|-
|11||[[松本十郎 (衆議院議員)|松本十郎]]||1967.8.4 - 1968.9.20||大蔵省銀行局検査部長||退職
|-
|12||瀬戸山孝一||1968.9.20 - 1969.6.7||大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|心得||rowspan="2"|岸本好男||(1969.6.7 - 1969.8.15)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|13||1969.8.15 - 1970.7.4||大蔵省印刷局総務部長||退職
|-
|14||[[青山保光]]||1970.7.4 - 1972.6.27|| ||退職
|-
|心得||前田文雄||(1972.6.27 - 1972.7.3)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|15||和田謙三||1972.7.3 - 1973.5.21||[[国際協力銀行|海外経済協力基金]]総務部長||大蔵省大臣官房付
|-
|心得||竹本浩||(1973.5.21 - 1973.6.26)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|16||[[上月重雄]]||1973.6.26 - 1974.7.10||海外経済協力基金総務部長||退職
|-
|17||松本健幹||1974.7.10 - 1976.6.15||[[福岡国税局#歴代福岡国税局長|福岡国税局長]]||退職
|-
|18||[[熊谷文雄]]||1976.6.15 - 1977.6.10||国税庁直税部長||退職
|-
|19||片山充||1977.6.10 - 1978.5.25||[[東京税関]]長||退職
|-
|心得||友近陽一郎||(1978.5.25 - 1978.6.17)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|20||浅谷輝雄||1978.6.17 - 1979.7.10||大蔵省銀行局検査部長||退職
|-
|21||篠田信義||1979.7.10 - 1980.6.17||大阪国税局長||退職
|-
|22||垣水孝一||1980.6.17 - 1981.6.26||大蔵省理財局次長||大蔵省関税局長
|-
|23||[[石井直一]]||1981.6.26 - 1982.6.1||[[東北財務局]]長||退職
|-
|24||小山昭蔵||1982.6.1 - 1983.5.11||国税庁次長||退職
|-
|心得||緒賀康宏||(1983.5.11 - 1983.6.7)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|25||長岡聰夫||1983.6.7 - 1984.5.30||大蔵省国際金融局次長||退職
|-
|心得||平北直己||(1984.5.30 - 1984.7.9)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|26||岡上泉||1984.7.9 - 1985.6.17||[[岩手県]]副知事||退職
|-
|心得||平北直己||(1985.6.17 - 1985.6.25)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|27||[[野崎正剛]]||1985.6.25 - 1986.6.10||大蔵省国際金融局次長||退職
|-
|28||橋本貞夫||1986.6.10 - 1987.6.23||大蔵省国際金融局次長||退職
|-
|29||関要||1987.6.23 - 1988.6.15||大蔵省銀行局保険部長||退職
|-
|30||[[岩崎文哉]]||1988.6.15 - 1989.6.16||大蔵省国際金融局次長||退職
|-
|心得||細田浩司||(1989.6.16 - 1989.6.23)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|31||[[源氏田重義]]||1989.6.23 - 1990.6.26||大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|心得||細田浩司||(1990.6.26 - 1990.6.29)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|32||大津隆文||1990.6.29 - 1991.6.11||大蔵省銀行局保険部長||退職
|-
|33||[[金野俊美]]||1991.6.11 - 1992.6.26||大蔵省銀行局検査部長||退職
|-
|34||内田輝紀||1992.6.26 - 1993.6.10||関東財務局東京証券取引所監理官<br />兼大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|心得||皆合達夫||(1993.6.10 - 1993.6.25)||colspan="2"|大蔵省印刷局総務部長として大蔵省印刷局長心得
|-
|35||[[藤川鉄馬]]||1993.6.25 - 1994.7.1||[[欧州復興開発銀行]]理事<br /> → 大蔵省大臣官房付||退職
|-
|36||[[浅見敏彦]]||1994.7.1 - 1995.5.26||大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|37||[[山本孝之]]||1995.5.26 - 1996.7.12||大蔵省大臣官房金融検査部長||退職
|-
|38||[[久米重治]]||1996.7.12 - 1997.7.15||大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|39||水盛五実||1997.7.15 - 1998.7.1||国税庁長官官房国税審議官||
|-
|40||[[太田省三]]||1998.7.1 - 1999.7.8||大蔵省大臣官房審議官||退職
|-
|41||妹尾喜三郎||1999.7.8 - 2000.6.30||東京税関長||退職
|-
|42||[[村井博美]]||2000.6.30 - 2001.1.5||大蔵省理財局次長||財務省印刷局長
|-
!colspan="5"|財務省印刷局長
|-
|42||村井博美||2001.1.6 - 2001.7.10||大蔵省印刷局長||退職
|-
|43||[[窪野鎮治]]||2001.7.10 - 2002.7.9||財務省大臣官房参事官兼政策評価官||財務省大臣官房付<br /> → 2002.7.16[[国土交通省]][[政策統括官]]
|-
|44||森田好則||2002.7.9 - 2003.3.31||東京国税局長||退職
|-
!colspan="5"|独立行政法人国立印刷局理事長
|-
|1||冨沢宏||2003.4.1 - 2007.3.31||元・国税庁次長(1992.6.26退職)<br />株式会社[[日本たばこ産業|ジェイティ]]ソフトサービス代表取締役||退職
|-
|2||仁尾徹||2007.4.1 - 2009.3.31||国立印刷局理事(財務省出向)||退職
|-
|3||[[南木通]]||2009.4.1 - 2011.7.27||国立印刷局理事(財務省出向)||退職
|-
|心得||山崎穣一||(2011.7.27 - 2012.7.17) ||colspan="2"|国立印刷局理事として国立印刷局理事長心得
|-
|心得||rowspan="2"|[[氏兼裕之]]||(2012.7.17 - 2013.7.31)||colspan="2"|国立印刷局理事として国立印刷局理事長心得
|-
|4||2013.8.1 - 2017.3.31||国立印刷局理事||退職
|-
|5||松村武人||2017.4.1 - 2020.3.31 ||関東財務局金融安定監理官||東京税関長
|-
|6||[[岸本浩]]||2020.4.1 - 2020.7.31 ||東京税関長
|大臣官房付
|-
|7||[[大津俊哉]]||2022.8.1 - ||理財局次長||(現職)
|}
== 工場見学 ==
[[File:Gate, National Printing Bureau Tokyo Plant - Nov 21, 2021.jpg|thumb|国立印刷局東京工場]]
[[File:Cherry Blossoms 2 at National Printing Bureau's Odawara Plant.jpg|thumb|国立印刷局小田原工場の観桜会で(2015年(平成27年))]]
東京工場([[北区 (東京都)|北区]])、[[小田原市|小田原]]工場、静岡工場([[静岡市]])、[[彦根市|彦根]]工場の見学があらかじめの申し込み後できるようになっている<ref>[https://www.npb.go.jp/ja/event/kengaku.html 国立印刷局工場見学]</ref>。
=== 桜並木一般公開 ===
[[1941年]](昭和16年)に設立された神奈川県小田原工場には[[ソメイヨシノ]]をはじめとする[[サクラ|桜]]が500本植えられていて、4月初旬の土日に一般公開の「観桜会」が催される<ref>[http://www.npb.go.jp/ja/event/event.html 国立印刷局小田原工場の観桜会]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[三公社五現業]]
* [[造幣局 (日本)]]
* [[お札と切手の博物館]]
* [[印刷局の一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|name=独立行政法人 国立印刷局 公式サイト}}
** [https://www.npb.go.jp/ja/kids/ 独立行政法人 国立印刷局 - おしえて!100メンサツ]
* {{Facebook|NPB.Japan}}(2014年11月18日 - )
* {{YouTube|c=UCPw0j6L9ehhfxsU3AIrrm-Q}}(最終更新日:2015年2月16日)
{{財務省}}
{{独立行政法人}}
{{日本銀行券}}
{{日本の通貨}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こくりついんさつきよく}}
[[Category:独立行政法人 (財務省所管)]]
[[Category:日本の紙幣]]
[[Category:大蔵省]]
[[Category:東京都港区の組織]]
[[Category:1871年設立の政府機関]]
[[Category:虎ノ門]]
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17,117 |
文房具
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文房具(ぶんぼうぐ)とは、仕事場やオフィス、学校などにおいて情報の処理・記録・伝達などのために備えられる道具類をいう。文具(ぶんぐ)、ステーショナリー(英: stationery)。
日本語の「文房具」とは、「文房」つまり書斎に備えておく道具といった意味の表現である。いわゆる「書きもの」をするのに必要な道具、オーソドックスなところでは筆記用具、紙類(ノート類も含む)、鋏(やペーパーナイフ)などを指している。文書を書いたり、(紙の)手紙を読み書きするのに必要な道具類のことである。
また、「文房具」は筆・墨・硯・紙の4点だけを指す言葉であり、「文具」は短くした言葉ではなく、それ以外の品を含める言葉である。
中国では「筆墨紙硯(ひつぼくしけん)」が定番の道具であり、「文房四宝(ぶんぼうしほう)」と称した。
高級品やファッショナブルな品もあり、コレクションの対象にもなる。厳密にはカッターナイフや工作道具は文房具には含まれないとする考え方もあるが、これらも広義の文房具には含まれると認識されるようになっている。
また、デジタル機器についてもデジタル文房具として文房具の一種として扱われることがある(従来の文房具はアナログ文房具と呼ぶ)。1980年代にワープロが登場した直後は「文房具」に含めてはいなかったが、それが定着してからは、徐々に文房具の一種とみなす文筆家も増えた。その後、PCが普及しそのワープロ機能やメール機能が盛んに用いられるようになると、それも一種の文房具とみなす人も出た。ただし、アナログ文房具とデジタル文房具では使用法が大きく異なるほか、情報の性質と目的も大きく異なる。
世界全体では文房具の市場は拡大傾向にある。世界人口は増加傾向にあり、また世界には発展途上国も多く、今まで識字率が低かったり、そもそも基本的な教育すらあまり行われていなかった地域もあり、そうした地域でも徐々にしっかりとした教育が行われるようになると、(紙を前提とした、従来から用いられている文具も含めて)文具の需要が増すためである。
文房具を扱う業界を文具業界という。文房具は、(先進国では)文房具店などと呼ばれる専門店や、(ショッピングセンターなどの)文具コーナーなどで販売されている。
日本のメーカーの文房具は、機能性と精密さが世界的に高く評価され、ヨーロッパや北米・南米などでも広く販売されている。
なお、学校教育の場では、「文房具」という言葉を(いわば「教室で使う道具」「勉強道具」といったニュアンスで用いて)上記の筆記具やノート類だけでなく、児童・生徒・学生が学習時に使う補助的な道具(暗記シートなど)までざっくりと含めてしまうこともあり、役所や企業での事務用品の多くも同様の扱いである。
文房具は国際的なHSコードではほとんどが第96類の雑品に分類されるが、ボールペンや鉛筆はライターやくしなどと同じ階層で別々になっており文具類という単一のカテゴリは設けられていない。日本標準商品分類では文具、紙製品、事務用具および写真用品(93)に分類されている。
販売網は日本に限らず世界各国に展開するメーカーも多い。各分野(各マーケットセグメント)ごとに分析すると世界シェアで上位を占めるメーカーもある。
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"text": "文房具は国際的なHSコードではほとんどが第96類の雑品に分類されるが、ボールペンや鉛筆はライターやくしなどと同じ階層で別々になっており文具類という単一のカテゴリは設けられていない。日本標準商品分類では文具、紙製品、事務用具および写真用品(93)に分類されている。",
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"text": "販売網は日本に限らず世界各国に展開するメーカーも多い。各分野(各マーケットセグメント)ごとに分析すると世界シェアで上位を占めるメーカーもある。",
"title": "文具メーカー"
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文房具(ぶんぼうぐ)とは、仕事場やオフィス、学校などにおいて情報の処理・記録・伝達などのために備えられる道具類をいう。文具(ぶんぐ)、ステーショナリー。
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{{Redirect|文具|日本のイラストレーター、及びその作品に登場するキャラクター|お文具}}
[[File:Stationary Box.jpg|thumb|[[オフィス]]で使うさまざまな文房具]]
'''文房具'''(ぶんぼうぐ)とは、仕事場やオフィス、学校などにおいて情報の処理・記録・伝達などのために備えられる道具類をいう<ref name="taisyo2017p50" />。'''文具'''(ぶんぐ)、'''ステーショナリー'''({{lang-en-short|stationery}})。
== 概説 ==
日本語の「文房具」とは、「文房」つまり[[書斎]]に備えておく道具といった意味の表現である<ref name="taisyo2017p50">{{Cite book |和書 |year=2017 |title=文房具屋さん大賞2017 |publisher=扶桑社 |page=50}}</ref>。いわゆる「書きもの」をするのに必要な道具<ref>広辞苑【文房具】</ref>、オーソドックスなところでは[[筆記用具]]、[[紙]]類(ノート類も含む)、[[はさみ|鋏]](や[[ペーパーナイフ]])などを指している。[[文書]]を書いたり、(紙の)[[手紙]]を読み書きするのに必要な[[道具]]類のことである。
また、「文房具」は筆・墨・硯・紙の4点だけを指す言葉であり、「文具」は短くした言葉ではなく、それ以外の品を含める言葉である。
中国では「[[筆]][[墨]][[紙]][[硯]](ひつぼくしけん)」が定番の道具であり、「[[文房四宝]](ぶんぼうしほう)」と称した<ref name="taisyo2017p50" />。
高級品やファッショナブルな品もあり、[[コレクション]]の対象にもなる。厳密にはカッターナイフや工作道具は文房具には含まれないとする考え方もあるが、これらも広義の文房具には含まれると認識されるようになっている<ref name="taisyo2017p50" />。
また、デジタル機器についてもデジタル文房具として文房具の一種として扱われることがある(従来の文房具はアナログ文房具と呼ぶ)<ref name="taisyo2017p51">{{Cite book |和書 |year=2017 |title=文房具屋さん大賞2017 |publisher=扶桑社 |page=51}}</ref>。1980年代に[[ワープロ]]が登場した直後は「文房具」に含めてはいなかったが、それが定着してからは、徐々に文房具の一種とみなす文筆家も増えた。その後、PCが普及しそのワープロ機能やメール機能が盛んに用いられるようになると、それも一種の文房具とみなす人も出た。ただし、アナログ文房具とデジタル文房具では使用法が大きく異なるほか、情報の性質と目的も大きく異なる<ref name="taisyo2017p51" />。
世界全体では文房具の[[市場]]は拡大傾向にある<ref>[http://www.strategyr.com/MarketResearch/Stationery_Products_Market_Trends.asp The Global Stationery Products Market]</ref>。世界人口は増加傾向にあり、また世界には発展途上国も多く、今まで[[識字率]]が低かったり、そもそも基本的な教育すらあまり行われていなかった地域もあり、そうした地域でも徐々にしっかりとした[[教育]]が行われるようになると、(紙を前提とした、従来から用いられている文具も含めて)文具の需要が増すためである。
[[File:Vănphòngphẩm-InsideStationeryShop03012009606.jpg|thumb|ハノイにある文具店の店内の様子。多種多様な文具がある。]]
文房具を扱う業界を文具業界という。文房具は、(先進国では)文房具店などと呼ばれる専門店や、(ショッピングセンターなどの)文具コーナーなどで販売されている。
日本のメーカーの文房具は、機能性と精密さが世界的に高く評価され、ヨーロッパや北米・南米などでも広く販売されている。
なお、学校教育の場では、「文房具」という言葉を(いわば「教室で使う道具」「勉強道具」といったニュアンスで用いて)上記の筆記具やノート類だけでなく、[[児童]]・[[在籍者 (学習者)|生徒]]・[[在籍者 (学習者)|学生]]が学習時に使う補助的な道具(暗記シートなど)までざっくりと含めてしまうこともあり、[[役所]]や[[企業]]での事務用品の多くも同様の扱いである。
== 文房具の分類 ==
文房具は国際的なHSコードではほとんどが第96類の雑品に分類されるが、ボールペンや鉛筆は[[ライター]]や[[櫛|くし]]などと同じ階層で別々になっており文具類という単一のカテゴリは設けられていない。日本標準商品分類では文具、紙製品、事務用具および写真用品(93)に分類されている。
=== 筆記具 ===
[[Image:Hikkigu.JPG|thumb|筆記具]]
[[Image:Sharpener, eraser and pen 20190402.jpg|thumb|鉛筆と消しゴムと鉛筆削り]]
{{see|ペン}}
*[[万年筆]]
*[[シャープペンシル]]
*[[ボールペン]]
**[[ローラーボール]]
*[[ミリペン]]
**[[製図ペン]]
*[[フェルトペン]]
**[[サインペン]]
**[[マジックインキ]]
**[[蛍光ペン]]
*[[つけペン]]
**[[羽根ペン]]
**[[ガラスペン]]
**[[烏口]]
*[[鉛筆]]
*[[色鉛筆]]
**[[ダーマトグラフ]]
=== 筆記具関連品 ===
*[[インク]](インキ)
*ペンスタンド
*[[黒板]]
**[[チョーク]](白墨)
**[[黒板消し]]
*[[ホワイトボード]]
**ホワイトボード用ペン
*[[芯ホルダー]]
*鉛筆ホルダー
*ペンシルホルダー
*鉛筆キャップ
=== 押印用具 ===
[[Image:Syuniku.JPG|thumb|朱肉]]
*[[印章]]
*[[朱肉]]
*印鑑ホルダー
*印鑑マット
*[[封蝋]]
=== 事務用具 ===
==== 計算用事務用具 ====
[[Image:Soroban.JPG|thumb|そろばん]]
*[[そろばん]]
*[[計算尺]]
*[[電卓]]
==== 図案製図用具 ====
[[Image:ARISTO-GEO DREIECK 1550 indiziert transparent.png|thumb|三角定規]]
*製図板
*[[ステンシルテンプレート|テンプレート]]
*[[定規]]
*[[分度器]]
*[[コンパス]]
==== 一般事務用具 ====
[[Image:Rubberband.jpg|thumb|輪ゴム]]
[[Image:Nozyczki4.jpg|thumb|はさみ]]
*[[筆箱]]
*[[ペンケース]]
*[[鉛筆削り]]
*[[千枚通し]]
*[[パンチ (文房具)|パンチ]]
*[[クラフトパンチ]]
*[[ホッチキス]]
*[[指サック]]
*[[ナイフ]]
*[[輪ゴム]]
*[[シュレッダー]]
*[[ペーパーナイフ]]
*[[レターオープナー]]
*[[はさみ]]
*[[カッターナイフ]]
*[[カッティングマット]]
==== 紙製品 ====
[[Image:Paper sheet.jpg|thumb|紙]]
[[Image:Envelope2.jpg|thumb|封筒(エアメール)]]
* 事務用紙製品
** 帳簿
*[[手帳]]
** 伝票
** [[封筒]]
** 事務用紙
**[[付箋]]
**とじ込み用品
***[[ファイル (文具)|ファイル]]
***[[アルバム (写真)|アルバム]]
***[[バインダー (文房具)|バインダー]]
**** 二穴バインダー(二穴ホルダー)
**** 紙製[[フォルダー]]
**** プラスチック製フォルダー、「クリアファイル」
****[[用箋挟]]
* 学用紙製品
**[[ノート]]
**[[ルーズリーフ]]
**レポート用紙
**[[画用紙]]
**[[スケッチブック]]
**[[原稿用紙]]
**[[方眼紙]]
**グラフ用紙
**工作用紙
***[[板紙]]
***[[折り紙]]
**[[画板]]
* 日用紙製品
**[[便箋]]
**[[包装紙]]
=== 謄写及び複写用品 ===
*[[謄写版]]
*[[カーボン紙]]
*[[トレス台]]([[ライトボックス]])
=== 絵画用品及び書道用品 ===
==== 絵画用品 ====
*[[絵筆]](画筆)
*[[絵具]]
*[[木炭]]
*[[パステル]]
*[[クレヨン]]
*[[クレパス]]
*[[パレット (絵画)|パレット]]
*[[画架]]
*[[コピック]]
==== 書道用品 ====
[[Image:Sumie.jpg|thumb|筆・墨・硯]]
[[Image:Washi(Sugihara paper).JPG|thumb|和紙(杉原紙)]]
*[[筆]]
**[[筆ペン]]
*[[墨]]
*[[硯]]
*[[文鎮]]
*[[硯箱]]
*書道用紙
**[[画仙紙]]
**[[半紙]]
**[[色紙]]
**[[短冊]]
=== その他の文具 ===
==== のり・粘着テープ ====
[[Image:AdhesivesForHouseUse001.jpg|thumb|接着剤]]
*[[接着剤|のり]]
**[[スティックのり]]
**[[テープのり]]
*[[接着剤]]
*[[テープ]]
**[[セロハンテープ]]
**[[ガムテープ]]
**[[両面テープ]]
**[[マスキングテープ]]
*[[ラベル]]
*[[シール]]
==== 消しゴム・修正液 ====
[[Image:Pelikan Radiergummi.jpg|thumb|消しゴム]]
[[Image:Penna bianchetto.jpg|thumb|修正ペン]]
*[[消しゴム]]
*[[修正液]]
*[[修正テープ]]
==== クリップ・ピン・画鋲 ====
*[[クリップ]]
*[[ガチャック]]
*[[画鋲]]
==== その他 ====
*[[彫刻刀]]
*[[下敷き]]
*[[ピンセット]]
*[[スクリーントーン]]
*[[レーザーポインター]]
==文具メーカー==
=== 世界全般 ===
*{{仮リンク|エセルテ|en|Esselte}} - 世界最大級の文具会社。
*[[3M]] - 同社の研究員が[[セロハンテープ]]と[[付箋#ポスト・イット|ポスト・イット]]を発明した。日本では「[[セロテープ]]」がセロハンテープの代名詞だが、アメリカでは3Mの「スコッチテープ」がそれである。
*[[カランダッシュ]]
*[[ペリカン (企業) |ペリカン]]
*[[ラミー (企業) |ラミー]]
*[[ビック (フランス企業)|ビック(BIC)]]
*[[モンブラン (企業)|モンブラン]]
*[[ロットリング]]
*[[ファーバーカステル]]
*[[ステッドラー]]
*[[スティルフォーム]]
*[[TWSBI|ツイスビー]]
===日本の文具メーカー===
販売網は日本に限らず世界各国に展開するメーカーも多い。各分野(各マーケットセグメント)ごとに分析すると世界シェアで上位を占めるメーカーもある。
====筆記具・小物文具を主とするメーカー====
*[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]
*[[三菱鉛筆]]
*[[トンボ鉛筆]]
*[[パイロットコーポレーション]]
*[[セーラー万年筆]]
*[[プラチナ萬年筆]]
*[[ぺんてる]]
*[[サクラクレパス]]
*[[呉竹]]
*[[クツワ]]
*[[サンスター文具]]
*[[シード (文具)|シード]]
*[[丸善]]
*[[ソニック (文具)|ソニック]]
*[[ヒノデワシ]]
*[[西敬]]
*[[オート (文具)|オート]]
*[[日本理化学工業]]
*[[日本白墨工業]]
*[[羽衣文具]]
*[[馬印 (企業)|馬印]]
*[[共栄プラスチック]]
*[[北星鉛筆]]
*[[壽]]{{要曖昧さ回避|date=2020年12月}} - [[OEM]]による筆記具の生産を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koto-com.co.jp/ |title=株式会社壽 |accessdate=2012-06-07}}</ref>
*[[テイボー]]
*[[寺西化学工業]]
*祥碩堂
*[[パイロットプレシジョン]]
*[[コーリン鉛筆|コーリン色鉛筆]]
====事務用品を主とするメーカー====
*[[KOKUYO]](コクヨ株式会社)
*[[内田洋行]]
*[[キングジム]]
*[[ナカバヤシ]]
*[[ライオン事務器]]
*[[マルマン (文具)|マルマン]]
*[[リヒトラブ]]
*[[レイメイ藤井]]
*[[プラス (企業)|プラス]]
*[[セキセイ]]
*[[テージー]]
*[[アマノ]]
*[[明光商会]]
*[[理想科学工業]]
*[[デビカ]]
*[[カール事務器]]
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*[[ヤマニパッケージ]]
====作業道具を主とするメーカー====
*[[不易糊工業]]
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====紙製品を主とするメーカー====
;ノート類・帳面類
*[[ショウワノート]]
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*[[アピカ]]
*[[ダイゴー]]
*[[コレクト]]
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*ライフ
;包装紙・慶弔袋・封筒類
*[[マルアイ (化成品メーカー)|マルアイ]]
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*[[日本法令]]
*[[フジコピアン]]
*[[十千万]]
*トキワ
;学童向け
*[[セイカ]]
*[[トーヨー]]{{要曖昧さ回避|date=2020年8月}}
====その他====
*[[シヤチハタ]]
*[[保土谷化学工業]]
*[[ジャクエツ]]
====文具チェーン====
*[[ジムランド]]
*[[TSUTAYA]]
*[[アシーネ]]
==脚注==
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==関連項目==
*[[書斎]]
*[[学用品]]
*[[消耗品]]
*[[事務機器]]
*[[筆記]]
*[[工具]]
*[[BUN2]] - 文房具に関するフリーペーパー
== 外部リンク ==
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* [http://www.jwima.org/ 日本筆記具工業会]
* [http://www.stationery-hatena.com/ ステーショナリー・オフィス用品のはてな]
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[[Category:文房具|*]]
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缶
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缶・罐(かん)とは、金属製の容器。材料により、ブリキ缶、スチール缶、アルミ缶などに分かれる。 また缶ボトルと缶は別のものと定義されている。
一般に水分の多い食品を金属缶に詰めた上で密封・加熱・殺菌したものを缶詰という(後述の単なる「缶入り」とは区別される)。金属の高い密封性を生かして、酸素、水分、微生物などから遮断し、密封後に加熱殺菌などをすることで、高い保存性が得られる。缶詰には肉類(コンビーフや焼き鳥、ウズラの卵など)、魚介類(マグロやカツオ、サバなど青魚、イカなど)、野菜類(トマト、トウモロコシ、豆、きのこ、たけのこ、山菜など)、果物(シロップ漬け)、その他加工食品(米飯やパン、練乳、プロセスチーズ、煮物やスープなど)、油脂類(食用油、ラードなど)、調味料(主に業務用の調味料)など様々な製品がある。人間用の食品以外にも、犬や猫などペット用の飼料、特にウエットフードを入れたものがある(いわゆる猫缶など)。
缶に詰めた飲料、特に1人で1回で飲める程度の少量のものは缶飲料と呼ばれ、中身に応じて缶ジュース・缶コーヒー・缶ビールなどと呼ばれる。
乾燥食品などの製品を単に金属缶に詰めて密封したものは「缶入り」として通常は缶詰とは区別される。茶、コーヒー、紅茶、海苔、菓子、プロテイン、粉ミルクなどによく使われ、普通の蓋による開閉になっている。菓子類では飴、煎餅、クッキー、チョコレートなど贈答用のものも多い。茶や海苔など特に乾燥状態を保ちたい食品を入れる缶には中蓋の付属するものがある。
金属缶は食品以外には、石油製品・化学薬品などに使われる。スプレー缶は医薬部外品や殺虫剤などが多い。多くが円柱形であるが、一斗缶のような直方体など、様々な形の缶が作られている。食用油、石油製品など液体用の缶では、ネジなどで再び密閉できる注ぎ口がついているものが多い。
一斗缶やドラム缶は再使用が可能であり、JISなどで形や大きさが規格化されている。再使用不可能でも、250ml缶や350ml缶など、事実上の標準となっているサイズもある。中身が空(から)の缶のうち、中身を詰める前の未使用の缶は空缶(くうかん)、使用済みの缶は空缶(あきかん)と呼ばれる。
「カン」の本来の漢字は「罐」である。「罐」は本来は水を入れる広口の甕を意味したが、西欧から金属容器(オランダ語「kan」、英語「can」、canisterの略称とされる )が入ってきたときに日本独自の音訳字として本字を当てるようになった。「缶」は本来は音を「フ」、訓を「ほとぎ」と読む別字で、酒の入れ物をかたどったものである。また、「雚」は一説には風雨を予知して鳴く小鳥で、大きく口を開ける、水たまり、注ぐなどの意味もある。戦後国語改革で当用漢字から「罐」が外され、代字として偏の「缶」を慣習的に用い、定着したところ、常用漢字として採用されたことによる。しかし、上述のように「缶」は本来別字であり、文字の伝統をあまりに無視したものとして批判されることがある。同様の文字に、「芸」(ウン)と「藝」(ゲイ)の関係などがある。
なお、ボイラーのことを「汽缶」略して「缶」と呼ぶこともある(清缶剤など)。また、船舶のエンジンも「罐」と呼ばれる。これは20世紀半ば位まで、船舶の機関は蒸気機関が主流であった名残である。これらの意味では音読みの「カン」の他に訓読みで「かま」と読むこともある。建築物やプラントに設置する金属製のタンクも缶と呼ぶことがあるが、これは密閉、開放を問わない。
初期の飲料の缶は、缶切りやピックなどで円形の面に2ヶ所穴(注ぎ口、空気穴)を開ける必要があったためあまり広まらなかった。その後1960年代に缶切りを必要としないプルトップ式の蓋が登場し、ガラス瓶からの移行が進んだ。発売当初は、缶そのものが同等容量のガラス瓶より小ぶりであるがために、減量したのではないかという誤解も存在していた。
プルトップ式のプルタブは、現在食品関係で使われるイージーオープンふたの小型版で、缶から切り口の部分が外れるが、プルタブの散乱が問題になったことから、日本では1989年から缶から外れないステイ・オン・タブ(SOT)が採用された。日本国内においては、プルタブ式の缶は1990年代初頭頃にはほとんど製造されなくなり、現在その方式を採用している缶飲料は流通していない。
飲料用の缶では、加温性や強度あるいは開封済みを見分けるなどの機能性を狙って、缶の一部をへこませたりダイヤ状の模様をつけたりと様々な加工が施されることがある。
初期の缶詰は金槌と鑿(のみ)を使って開けていた。缶切りが発明されてからは、これを利用して開封された。食品用の缶詰の場合は、円筒形の缶の円形の面を缶切りで切れ込みを入れてこじ開けた。その後、缶切りを必要としないイージーオープンエンドが1990年頃から食品の缶詰にも普及してきている。
特に飲食物を収める缶には多彩な形や様々な工夫が見られる。コンビーフや水ようかんなどの缶詰が錐台形なのは、充填時に空気が抜けやすいことと、開缶時に中身がきれいに抜けることを狙っている。
蓋・胴体・底を別々に作って接合した缶は3ピース缶、胴体と底を一体成形して蓋だけ後から接合した缶は2ピース缶と呼ばれる。蓋や底の接合は、初期ははんだで行っていたが、19世紀末に蓋と胴を重ねて胴の外面へ巻き込み圧着する二重巻締法が発明されてからは、現在でもこの方法が主に使われている。
飲料の缶では、製造過程において、熱いまま缶に入れられるものについてはスチール缶が用いられる(缶コーヒーなど)。これは、冷えると中の圧力が下がり、アルミ缶では強度不足から大気圧によってへこんでしまうためである。このような内圧が低い缶を、陰圧缶という。また、炭酸飲料はその炭酸ガスによって内側から圧力がかかり、へこむ心配がない。そのため、缶の厚みを薄く、軽くできるアルミ缶が使われる。このような内圧が高い缶を、陽圧缶という。しかし、素材によって決まるわけではなく、スチールの陽圧缶などもある。簡単な見分け方としては、底が丸くへこんだドーム状をしているものは陽圧缶、平らなものは陰圧缶と判断できる。陽圧缶がドーム状なのは内圧に耐えるためであり、一体成形となる2ピース缶が多いが、スプレー缶では通常通り接合されているものがある。
東洋製罐は、CO2と製造時に使用する水の大幅な削減の為、タルク缶(TULC缶:Toyo Ultimate Can)と呼ぶ缶を製造している。通常、2ピース缶ではプレス加工時に潤滑・冷却剤を必要とするが、タルク缶は原料のアルミもしくは鉄にPET樹脂を貼り付けており、これが潤滑油の役割をすることで、その洗浄工程を不要としている。その結果、水の使用量および、その浄化による廃棄物の削減ができた。塗装が不要で、CO2削減につながっている。缶の特徴として、白色の樹脂を使っているため、底面が白い。
1996年(平成8年)に小型ペットボトルの使用規制が解禁され、清涼飲料が500mlのペットボトルを中心に販売されるようになった。このため、アルミ缶の製造量の伸びが鈍化・減少する傾向があった。これに対して、アルミ缶製造業者(大和製罐)は、2000年(平成12年)にペットボトルと同型の500mlのアルミ製ボトル缶を開発し、対抗した(市販されたのは450mlビール缶が最初)。さらに、スチール製ボトル缶も開発され、コーヒーやお茶の容器として利用されている。
ボトル缶のメリットとして、蓋を閉めることができるので、中身を一度に消費する必要がないことと、ペットボトルよりも熱伝導率がよく冷えやすい上、不要時はペットボトルのような専用プレス機(プレス→針金・ビニルバンド束ね)ではなく、金属製品用のプレス機(針金束ね無し)でスクラップに出来ることが挙げられる。
ボトル缶は蓋も容器自体と同じ材質であるため、蓋も含めてリサイクル可能であり、缶本体とキャップは分別しない。事実上使い回しが出来るが、メーカーはあくまで使い切り容器なので、「空容器の転用はしないでください」という注意書きがある商品もある。
1970年、東京都の食品検査で缶入り飲料から基準値を超えるスズが検出される例が相次いだ。これは原料や水に硝酸性イオンが多く含まれていると缶の素材であるスズが溶けやすくなることが原因であり、当時は知見が十分に蓄積されていなかった。缶入り飲料のイメージは低下したが、アルミ缶への移行など技術的な解決が進められた。
缶飲料は手軽に買いやすいが、空缶となるため、ごみの問題が顕著化している。よくあるごみの問題に、缶の投げ捨て(ポイ捨て)が該当する。ポイ捨てによって町の景観が損なわれること、また、空缶はリサイクルすることができ、資源の節約にもなることから、自治体やメーカーでは、ポイ捨ての禁止を呼びかけている。実際にはリサイクル率はPETボトルよりも金属缶の方が高い。また、空缶をタバコの灰皿代わりにする者もいるが、幼児などが誤って飲んでしまう事故があり、注意をしなければならない。
近年、スポーツ・コンサート施設やイベント会場では、ごみ問題や、興奮した客が缶を投げ込むといった諸問題を防ぎ、気持ち良くそれらに参加・観覧してもらうようにするため、飲料類(缶・ガラス瓶・ペットボトル)の持参を規制しているところが増えている。特にJリーグでは、全てのスタジアム共通で「缶・ガラス瓶入り飲料は持ち込み禁止」となっており、持参者は入場時に紙コップやプラスチック製タンブラー(近年は環境の配慮の名目で、タンブラーを推奨している例が多い)に移し変えるように指導している。
使用済みの缶は、子供でも簡単に入手できるため、缶けりや缶下駄などの遊びに使われることがある。
使用済みの飲料缶は、缶のデザインや流通数の少ない珍品の缶等を目当てにコレクションする、コレクターが存在する。著名なコレクターとしては、元たまでパーカッショニストの石川浩司と、経済アナリストの森永卓郎がいる。
コレクションとする際、上部のプルトップ部分を空けると見栄えがよくなく、かといって中身を入れたままでは中身の腐敗はもちろん、錆など缶にもダメージを与えることがある。そこで、缶の底面に昔の飲料缶のように2ヶ所穴を開け、中身を取り出して缶を洗浄し保存するという手法が用いられることがある。
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"text": "蓋・胴体・底を別々に作って接合した缶は3ピース缶、胴体と底を一体成形して蓋だけ後から接合した缶は2ピース缶と呼ばれる。蓋や底の接合は、初期ははんだで行っていたが、19世紀末に蓋と胴を重ねて胴の外面へ巻き込み圧着する二重巻締法が発明されてからは、現在でもこの方法が主に使われている。",
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缶・罐(かん)とは、金属製の容器。材料により、ブリキ缶、スチール缶、アルミ缶などに分かれる。
また缶ボトルと缶は別のものと定義されている。
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{{複数の問題|出典の明記=2022年6月|独自研究=2022年6月}}
[[File:Empty tin can2009-01-19.jpg|thumb|缶の一例]]
'''缶'''・'''罐'''(かん)とは、[[金属]]製の[[容器]]。材料により、[[ブリキ]]缶、[[スチール缶]]、[[アルミ缶]]などに分かれる。
また{{誰2範囲|date=2022年6月|缶ボトルと缶は別のものと定義されている}}。
== 概念 ==
[[file:Japanese_KanMeshi.jpg|thumb|調理済み米飯の缶詰]]
一般に水分の多い[[食品]]を金属缶に詰めた上で密封・加熱・殺菌したものを'''[[缶詰]]'''という<ref name="syokuhinhozou-ryuutsuugijutsu-handbook_p38">日本食品保蔵科学会『食品保蔵・流通技術ハンドブック』建帛社 p.38 2006年</ref>(後述の単なる「缶入り」とは区別される<ref name="syokuhinhozou-ryuutsuugijutsu-handbook_p38"/>)。金属の高い密封性を生かして、[[酸素]]、[[水分]]、[[微生物]]などから遮断し、密封後に[[加熱殺菌]]などをすることで、高い保存性が得られる。缶詰には[[食肉|肉]]類([[コンビーフ]]や[[焼き鳥]]、[[ウズラ]]の卵など)、[[魚介類]]([[マグロ]]や[[カツオ]]、[[サバ]]など青魚、[[イカ]]など)、[[野菜]]類([[トマト]]、[[トウモロコシ]]、豆、きのこ、たけのこ、山菜など)、[[果物]](シロップ漬け)、その他加工食品(米飯やパン、[[練乳]]、[[プロセスチーズ]]、煮物やスープなど)、[[油脂]]類([[食用油]]、[[ラード]]など)、[[調味料]](主に業務用の調味料)など様々な製品がある。人間用の食品以外にも、[[イヌ|犬]]や[[ネコ|猫]]など[[ペット]]用の[[飼料]]、特にウエットフードを入れたものがある(いわゆる[[猫缶]]など)。
缶に詰めた飲料、特に1人で1回で飲める程度の少量のものは[[缶飲料]]と呼ばれ、中身に応じて缶ジュース・缶コーヒー・缶ビールなどと呼ばれる。
乾燥食品などの製品を単に金属缶に詰めて密封したものは「'''缶入り'''」として通常は缶詰とは区別される<ref name="syokuhinhozou-ryuutsuugijutsu-handbook_p38"/>。[[茶]]、[[コーヒー]]、[[紅茶]]、[[海苔]]、[[菓子]]、[[プロテイン]]、[[粉ミルク]]などによく使われ、普通の[[蓋]]による開閉になっている。菓子類では[[飴]]、[[煎餅]]、[[クッキー]]、[[チョコレート]]など[[贈り物|贈答]]用のものも多い。茶や海苔など特に乾燥状態を保ちたい食品を入れる缶には中蓋の付属するものがある。
金属缶は食品以外には、[[石油製品]]・[[化学薬品]]などに使われる。スプレー缶は[[医薬部外品]]や[[殺虫剤]]などが多い。多くが[[円柱 (数学)|円柱]]形であるが、一斗缶のような[[直方体]]など、様々な形の缶が作られている。[[食用油]]、石油製品など液体用の缶では、[[ねじ|ネジ]]などで再び密閉できる注ぎ口がついているものが多い。
一斗缶や[[ドラム缶]]は[[再使用]]が可能であり、[[日本工業規格|JIS]]などで形や大きさが[[標準化|規格化]]されている。再使用不可能でも、250[[ミリリットル|ml]]缶や350ml缶など、[[デファクト・スタンダード|事実上の標準]]となっているサイズもある。中身が空(から)の缶のうち、中身を詰める前の未使用の缶は空缶(くうかん)、使用済みの缶は空缶(あきかん)と呼ばれる。
「カン」の本来の漢字は「罐」である。「罐」は本来は[[水]]を入れる広口の[[甕]]を意味したが、西欧から金属容器([[オランダ語]]「kan」、[[英語]]「can」、[[キャニスター|canister]]の略称とされる )が入ってきたときに日本独自の[[音訳]]字として本字を当てるようになった<ref name="glocom" />。「[[缶部|缶]]」は本来は音を「フ」、訓を「ほとぎ」と読む別字で、[[酒]]の入れ物をかたどったものである<ref name="glocom">{{Cite web|和書|author= |url=http://www.glocom.ac.jp/project/chijo/2002_11/2002_11_28.pdf |title=Ethernet Marches On ロバート・バーガー |publisher= 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター|accessdate=2020-05-20}}</ref>。また、「雚」は一説には風雨を予知して鳴く小鳥で、大きく口を開ける、水たまり、注ぐなどの意味もある<ref name="glocom" />。[[国語国字問題|戦後国語改革]]で[[当用漢字]]から「罐」が外され、代字として偏の「缶」を慣習的に用い、定着したところ、[[常用漢字]]として採用されたことによる。しかし、上述のように「缶」は本来別字であり、文字の伝統をあまりに無視したものとして批判されることがある。同様の文字に、「芸」(ウン)と「藝」(ゲイ)の関係などがある。
なお、[[ボイラー]]のことを「汽缶」略して「缶」と呼ぶこともある([[清缶剤]]など)。また、船舶の[[エンジン]]も「罐」と呼ばれる。これは[[20世紀]]半ば位まで、船舶の機関は[[蒸気機関]]が主流であった名残である。これらの意味では音読みの「カン」の他に訓読みで「かま」と読むこともある。建築物やプラントに設置する金属製のタンクも缶と呼ぶことがあるが、これは密閉、開放を問わない。
== 用途 ==
=== 飲料缶 ===
[[File:Beverage can pull-tab and stay-on-tab.JPG|thumb|プルタブ式とステイオンタブ式両方の飲料缶([[中国]][[深圳]]・2012年)]]
初期の飲料の缶は、缶切りや[[アイスピック|ピック]]などで円形の面に2ヶ所穴(注ぎ口、空気穴)を開ける必要があったためあまり広まらなかった。その後1960年代に缶切りを必要としないプルトップ式の蓋が登場し、ガラス瓶からの移行が進んだ<ref name="toyo">[https://www.toyo-seikan.co.jp/kids/when_can_history.html 缶のふたの歴史-容器を学ぼう!]</ref>。発売当初は、缶そのものが同等容量のガラス瓶より小ぶりであるがために、減量したのではないかという誤解も存在していた<ref>[http://www.chukai.ne.jp/~shintaku/quizzone/ex1-q4i-3.htm 参考]</ref>。
プルトップ式の[[プルタブ]]は、現在食品関係で使われる[[イージーオープンエンド|イージーオープンふた]]の小型版で、缶から切り口の部分が外れるが、プルタブの散乱が問題になったことから、日本では[[1989年]]から缶から外れないステイ・オン・タブ(SOT)が採用された<ref name="toyo"/>。日本国内においては、プルタブ式の缶は[[1990年代]]初頭頃にはほとんど製造されなくなり<ref group="注釈">製造数の少ない1リットル缶などには[[2000年代]]中頃までプルタブが使用されていた</ref>、現在その方式を採用している缶飲料は流通していない。
飲料用の缶では、加温性や強度あるいは開封済みを見分けるなどの機能性を狙って、缶の一部をへこませたりダイヤ状の模様をつけたりと様々な加工が施されることがある。
=== 食品用 ===
[[Image:Can(Easy Open Can).JPG|thumb|170px|イージーオープンエンドの缶詰]]
初期の缶詰は[[槌|金槌]]と[[鑿]](のみ)を使って開けていた。[[缶切り]]が発明されてからは、これを利用して開封された。食品用の缶詰の場合は、円筒形の缶の円形の面を缶切りで切れ込みを入れてこじ開けた。その後、缶切りを必要としない[[イージーオープンエンド]]が[[1990年]]頃から食品の缶詰にも普及してきている。
特に飲食物を収める缶には多彩な形や様々な工夫が見られる。[[コンビーフ]]や[[水ようかん]]などの缶詰が錐台形なのは、充填時に空気が抜けやすいことと、開缶時に中身がきれいに抜けることを狙っている。
=== その他 ===
; スプレー缶・ガスボンベ
: 液体・粉末を散布するため中に[[気体|ガス]]を入れて圧力を高めたものを[[スプレー|スプレー缶]]といい、ガス類そのものの大量保管のため高圧の気体・液体用に作られた金属容器は[[ボンベ]]という。スプレー缶は他の缶とさほど変わらない厚さの金属で作られるが、ボンベは高圧に耐えるため厚い金属が用いられる。スプレー缶は、出口を押すと内容物が吹き出る設計になっており、通常は本体のボタンを押すための器具が取り付けてある。ボンベでは[[バルブ]]が用いられる。また[[焜炉|カセットコンロ]]用の小型ガスボンベは、ボンベと呼ばれるがスプレー缶のような形状であり、コンロ側に押す仕組みがついているため、出口を押す器具は付属しない。
== 構造 ==
蓋・胴体・底を別々に作って接合した缶は3ピース缶、胴体と底を一体成形して蓋だけ後から接合した缶は2ピース缶と呼ばれる。蓋や底の接合は、初期は[[はんだ]]で行っていたが、[[19世紀]]末に蓋と胴を重ねて胴の外面へ巻き込み圧着する二重巻締法が発明されてからは、現在でもこの方法が主に使われている。
=== 陰圧缶と陽圧缶 ===
飲料の缶では、製造過程において、熱いまま缶に入れられるものについてはスチール缶が用いられる([[缶コーヒー]]など)。これは、冷えると中の圧力が下がり、アルミ缶では強度不足から[[大気圧]]によってへこんでしまうためである。このような内圧が低い缶を、'''陰圧缶'''という。また、炭酸飲料はその炭酸ガスによって内側から圧力がかかり、へこむ心配がない。そのため、缶の厚みを薄く、軽くできるアルミ缶が使われる。このような内圧が高い缶を、'''陽圧缶'''という。しかし、素材によって決まるわけではなく、スチールの陽圧缶などもある。簡単な見分け方としては、底が丸くへこんだドーム状をしているものは陽圧缶、平らなものは陰圧缶と判断できる。陽圧缶がドーム状なのは内圧に耐えるためであり、一体成形となる2ピース缶が多いが、スプレー缶では通常通り接合されているものがある。
=== タルク缶 ===
[[東洋製罐]]は、[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]と製造時に使用する[[水]]の大幅な削減の為、タルク缶(TULC缶:Toyo Ultimate Can)と呼ぶ缶を製造している。通常、2ピース缶では[[プレス加工]]時に潤滑・冷却剤を必要とするが、タルク缶は原料のアルミもしくは鉄に[[PET樹脂]]を貼り付けており、これが潤滑油の役割をすることで、その洗浄工程を不要としている。その結果、水の使用量および、その浄化による廃棄物の削減ができた。塗装が不要で、CO<sub>2</sub>削減につながっている。缶の特徴として、白色の樹脂を使っているため、底面が白い。
=== ボトル缶 ===
[[画像:Bottle Can.jpg|thumb|right|170px|ボトル缶]]
[[1996年]]([[平成]]8年)に小型[[ペットボトル]]の使用規制が解禁され、清涼飲料が500mlのペットボトルを中心に販売されるようになった。このため、アルミ缶の製造量の伸びが鈍化・減少する傾向があった。これに対して、アルミ缶製造業者([[大和製罐]])は、[[2000年]](平成12年)にペットボトルと同型の500mlのアルミ製ボトル缶を開発し、対抗した(市販されたのは450ml[[ビール]]缶が最初)。さらに、スチール製ボトル缶も開発され、[[コーヒー]]や[[茶|お茶]]の容器として利用されている。
ボトル缶のメリットとして、蓋を閉めることができるので、中身を一度に消費する必要がないことと、ペットボトルよりも[[熱伝導率]]がよく冷えやすい上、不要時はペットボトルのような専用プレス機(プレス→針金・ビニルバンド束ね)ではなく、金属製品用のプレス機(針金束ね無し)で[[スクラップ]]に出来ることが挙げられる。
ボトル缶は蓋も容器自体と同じ材質であるため、蓋も含めて[[リサイクル]]可能であり、缶本体とキャップは分別しない。事実上使い回しが出来るが、メーカーはあくまで使い切り容器なので、「空容器の転用はしないでください」という注意書きがある商品もある。
== 社会問題 ==
=== スズの検出 ===
[[1970年]]、[[東京都]]の食品検査で缶入り飲料から基準値を超える[[スズ]]が検出される例が相次いだ。これは原料や水に硝酸性イオンが多く含まれていると缶の素材であるスズが溶けやすくなることが原因<ref>カン入りジュース また大量スズ 都、六社に回収指示『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月4日朝刊 12版 3面</ref>であり、当時は知見が十分に蓄積されていなかった。缶入り飲料のイメージは低下したが、アルミ缶への移行など技術的な解決が進められた。
=== ごみ問題 ===
缶飲料は手軽に買いやすいが、空缶となるため、ごみの問題が顕著化している。よくあるごみの問題に、缶の投げ捨て([[ポイ捨て]])が該当する。ポイ捨てによって町の景観が損なわれること、また、空缶はリサイクルすることができ、資源の節約にもなることから、[[地方公共団体|自治体]]や[[メーカー]]では、ポイ捨ての禁止を呼びかけている。実際にはリサイクル率はPETボトルよりも金属缶の方が高い。また、空缶を[[タバコ]]の灰皿代わりにする者もいるが、幼児などが誤って飲んでしまう事故があり、注意をしなければならない。
=== 缶飲料持参の規制 ===
近年、スポーツ・コンサート施設やイベント会場では、ごみ問題や、興奮した客が缶を投げ込むといった諸問題を防ぎ、気持ち良くそれらに参加・観覧してもらうようにするため、飲料類(缶・[[瓶|ガラス瓶]]・[[ペットボトル]])の持参を規制しているところが増えている。特に[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]では、全てのスタジアム共通で「缶・ガラス瓶入り飲料は持ち込み禁止」{{r|jleague/1617|jleague/試合運営管理規程}}となっており、持参者は入場時に[[コップ#紙コップ|紙コップ]]やプラスチック製[[タンブラーグラス|タンブラー]](近年は環境の配慮の名目で、タンブラーを推奨している例が多い)に移し変えるように指導している。
== 文化 ==
[[ファイル:Beeramid.JPG|thumb|150px|[[w:Beer can pyramid|Beer can pyramid]]]]
=== 缶を使った遊び ===
使用済みの缶は、子供でも簡単に入手できるため、[[缶けり]]や[[缶下駄]]などの遊びに使われることがある。
=== コレクションとして ===
使用済みの飲料缶は、缶のデザインや流通数の少ない珍品の缶等を目当てにコレクションする、[[コレクション|コレクター]]が存在する。著名なコレクターとしては、元[[たま (バンド)|たま]]でパーカッショニストの[[石川浩司]]と、[[経済]]アナリストの[[森永卓郎]]がいる。
コレクションとする際、上部のプルトップ部分を空けると見栄えがよくなく、かといって中身を入れたままでは中身の[[腐敗]]はもちろん、[[錆]]など缶にもダメージを与えることがある。そこで、缶の底面に昔の飲料缶のように2ヶ所穴を開け、中身を取り出して缶を洗浄し保存するという手法が用いられることがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|refs=
<ref name="jleague/1617">{{Cite web2
| url = https://www.jleague.jp/j-tano/1617
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| archiveurl = https://web.archive.org/web/20201101130521/jleague.jp/j-tano/1617
| title = 観戦の楽しみ方③▷スタジアムで乾杯!!
| work = 初心者向け サッカー観戦の楽しみ方・観戦ガイド♡2020:Jリーグ.jp
| quote = Jリーグでは、アルコール飲料のスタジアム内への持ち込みは可能ですが、ビン・カンの持ち込みは禁止されています。よって、中身は入場口にて、紙コップに移しての入場が必要になります。
| date = 2020-03-03
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<ref name="jleague/試合運営管理規程">{{Cite web2
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| title = 試合運営管理規程
| work = 【公式】観戦マナー&ルール:About Jリーグ:Jリーグ公式サイト(J.LEAGUE.jp)
| quote = 第3条(持ち込み禁止物)観客等は、主催者または主管者が特に必要と認めた場合を除き、以下の各号に掲げる物を施設等に持ち込むことはできない。1.花火、爆竹、発煙筒、煙玉、銃刀類・毒劇物等法令に抵触する物、殺虫剤、ドライアイス、エアガン・バネ式鉄砲、ガスホーン、ビン・カン類、(以下略)
| date = 2021-3-25
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}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cans}}
{{Wiktionary|缶|罐}}
* [[製缶]]
* [[バッジ]] - 金属製で中が空洞のものを缶バッジという。
* [[ニコラ・アペール]]
* [[缶詰]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
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[[Category:缶|*]]
[[Category:容器]]
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インド・ヨーロッパ語族
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インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、インドからヨーロッパにかけた地域に由来する語族である。
英語・スペイン語・ロシア語などヨーロッパに由来する多くの言語と、ペルシア語やヒンディー語などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。
印欧語族(いんおうごぞく)と略称される。
語彙や文法にまたがった幅広い共通性が18世紀末以降の研究によって見出され、19世紀前半に語族を構成する言語が死語を除いて確定された。すべての印欧語は共通の祖先にあたる言語を持っていると考えられ、インド・ヨーロッパ祖語ないし印欧祖語と呼ぶ。文字が記録されていない時代の言語であるものの、研究が積み重ねられることで実像が提示されつつあり、ポントス・カスピ海ステップに出自を持つヤムナヤ文化の担い手が紀元前4000年ごろには話していた屈折語であったとするクルガン仮説とその修正版が中心的な説になっている。
分類方法や呼称には差異があるが、現代に用いられている言語はアルバニア語、アルメニア語、イタリック語派、インド・イラン語派、ケルト語派、ゲルマン語派、バルト・スラヴ語派、ヘレニック語派の8つの語派にさらに分類される。20世紀初頭の研究によって、紀元前にアナトリア半島で用いられた言語と、8世紀頃までタリム盆地北縁地域で用いられていた言語がそれぞれ印欧語に含まれることが示され、それぞれアナトリア語派とトカラ語派と名付けられた。
文献が登場する以前の先史時代にはインドからヨーロッパにかけた地域に大きく拡散していた。植民地時代以降に英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語などのヨーロッパの言語が全世界的に広められ、アメリカ大陸やオーストラリア大陸での支配的な言語となったほか、アフリカやアジアの複数の地域でも大きな位置を占めた。印欧語族は現代において母語話者が最も多い語族であり、2010年代以降の統計によれば約30億人が第一言語として用いている。2000年以降の調査で、母語話者の多い言語には2億人以上のものに英語、ヒンディー語、スペイン語、ポルトガル語、1億人以上のものにロシア語、ベンガル語がある。
言語間に系統的な関係があるという考えやそれに基づいた比較研究は印欧語族が、他の語族に先んじたものであり、印欧語族の研究史と比較言語学の研究史はその始まりにおいて重なっている。そのため印欧語族の研究で見出された概念は他の語族、あるいは広く言語学の研究に応用されることになった。
ヨーロッパとインドで使われる言語の関係を指摘する者は以前にもいたものの、研究が進む契機となったのは18世紀末にイギリス人のウィリアム・ジョーンズによってなされた指摘であった。ジョーンズは植民地インドの判事として現地法を研究しており、1784年にベンガル・アジア協会を組織した。サンスクリットを学び始めたジョーンズは、その語根や文法の構造が、ヨーロッパの諸語、とりわけラテン語とギリシア語に類似していることに気付き、共通の祖先にあたる言語が想定されるという考えを発表した。この指摘に研究が触発されたことから歴史的な重要性が認められるが、発表の本筋とは離れた小さな扱いであった。また、旧約聖書が描くような単一の人類の原祖を想定したジョーンズの関心は民族史や文化史にあり、それぞれの言語に深い関心を持ちつつも印欧語を俯瞰した研究を深めようとはしなかった。
ジョーンズの示唆を実証する研究はイギリスでは進まず大陸に移ることとなった。この先駆的時代の研究にフリードリヒ・シュレーゲル、フランツ・ボップ、ラスムス・ラスク、フリードリヒの兄のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、W.v.フンボルト、ヤーコプ・グリムらによるものがある。フリードリヒ・シュレーゲルは1808年の著作『インド人の言語と英知(ドイツ語版)』でサンスクリットとヨーロッパの言語の比較を試みた。ボップとラスクの著作は、比較言語学の第一作を争うものとして知られている。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフンボルトは、フリードリヒ・シュレーゲルの分類を発展させて屈折語・孤立語・膠着語・抱合語という言語の四類型を立てた。グリムはラスクの論を受け継いでゲルマン祖語に起きた音韻法則であるグリムの法則を見出した。また黎明期の研究を総括したアウグスト・シュライヒャーによって、印欧祖語を再建する初めての試みが1861年の『印欧諸語比較文法便覧』(Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen)で提出された。重要な業績が残された一方で、音声学の視点を欠く不完全さがあったともされる。
ジョーンズはサンスクリット、ラテン語、ギリシア語を中心としてゴート語、ケルト語、古代ペルシア語の資料を用いていた。シュレーゲルはアルメニア語とスラヴ語が語族に含まれることを示唆したが、確証はしなかった。語族の構成員を探る試みは主にボップによってなされ、1838年および1854年の講演ではケルト語とアルバニア語が帰属することを示した。彼の死後の1868年から1871年にかけて公刊された『比較文法』の第三版ではアルメニア語とスラヴ語が含まれることを示し、これによって死語となっていない語派の構成が確定した。
言語のグループを指す用語としてトマス・ヤングによる「インド・ヨーロッパ語」が1813年に提出された。現代において、ドイツ語圏においてのみユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1823年に提唱したインド・ゲルマン語という名称が用いられ(ドイツ語: Indogermanische Sprachen)、その他の言語ではインド・ヨーロッパ語に相当する呼称が用いられる。
ゲオルク・クルツィウスは分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだライプツィヒ大学に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、青年文法学派と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者のカール・ブルークマンの説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、ヨハネス・シュミットやアダルバート・ベッツェンベルガー(英語版)、ヘルマン・コーリッツ(英語版)らの批判を受け議論は紛糾した。
ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があったフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提出した論文『印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。
結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究はドイツロマン主義の隆盛と相まってドイツで盛んとなった。
19世紀末以降の調査によって、タリム盆地で発見された複数の文書の中に正体不明のものがあり、1908年に解読されてトカラ語と名付けられた言語は、印欧語族に含まれることが示された。20世紀に入ると、小アジアで用いられ紀元前に死語となった未知の言語が碑文から研究され、ヒッタイト語と名付けられた。ヒッタイト語は、1915年以降に発表された研究で印欧語族に含まれるか、少なくとも類縁関係にあることが明らかになった。イェジ・クリウォヴィチは、解読されたヒッタイト語の喉音がソシュールの言うソナント音に対応していることを指摘した上で理論を発展させ、これ以降の研究によって喉音理論が成立した。
インド・ヨーロッパ語族や、あるいは話者のグループの原郷について現代にはクルガン仮説が中心的な説となっているが、これに至るまでに議論の歴史がある。言語学から探求された時代には、印欧諸語の語彙を突き合わせ印欧祖語の語彙を挙げ、その特徴から地域を特定しようとする方法が取られた。考古学の発達につれ、こうした手法に加え、集団の移動や、耕作・家畜・道具の発展を実証的に探求できるようになった。
原郷問題についてまとまった著作をはじめて発表したのはアドルフ・ピクテ(英語版)であった。風間によれば、当時は研究の黎明期にあってインド学が充実しておらず、ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。風間によればこうしたアジアを理想化する偏った見方はピクテに限らず先に触れたシュレーゲルなど十九世紀前半に著しく見られるといい、ピクテは原郷として古代のバクトリアにあたるアムダリア川中流域を想定して東方説(アジア説)の端緒となった。
アジア説を批判してヨーロッパ説を導入した初期の代表的な人物に、サンスクリットを専門とするテーオドール・ベンファイがいる。ベンファイは、印欧諸語でライオン(あるいは大型肉食獣)を指す言葉がそれぞれ独立していて共通の語源を想定できないことを論拠にライオンの生息域を排したが、こじつけた感があり当時から注目を受けなかった。現代においては、ヨーロッパがライオンの生息域であった可能性と、印欧祖語の語彙にライオンが含まれているとする主張の両方から批判を受ける形となり、成立しない議論と考えられている。
インドやイランなどアジアの言語とヨーロッパの言語が共通の祖先を持つという概念は、特にその話者にとってセンセーショナルに捉えられうる。学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される。
その典型的な例に、アーリアン学説がある。アーリア人は『リグ・ヴェーダ』や『アヴェスター』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味でヴィクトリア朝時代の社交界には既に広まっていた。 『リグ・ヴェーダ』を翻訳したマックス・ミュラーは、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる。ミュラーの影響を受けた典型例に挙げられるフランスの作家、アルテュール・ド・ゴビノーの『人種不平等論』(1853-1855年)は、人類を黒色・黄色・白色に大別し、白色人種に属するという「アーリア人」の文明性を謳った。マディソン・グラント(英語版)の『偉大な人種の消滅』(1916年)では、イギリス系かドイツ系のアメリカ人という意味で「アーリア人」を用い、ユダヤ人のほかにポーランド、チェコ、イタリア系の移民との混血を警告した。こうした欧米の思想の潮流の中で、ゴビノーのアーリア人種至上主義がヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『十九世紀の基礎』(1899年)や神秘思想家のヘレナ・P・ブラヴァツキーによって受け継がれた。チェンバレンの人種至上主義とブラヴァツキーの神智学には距離があったが、ドイツやオーストリアでそれぞれが受容されるにつれて結びついていき、「アリオゾフィ(英語版)」と呼ばれるアーリア人種至上主義を神智学によって解釈する思想が生まれた。アリオゾフィはナチズムの源流の一つとなって「アーリア=ゲルマン人種」といったイデオロギーに結実することになった。
1990年代以降、ヒンドゥー・ナショナリズムのサンスクリットを称揚する言説の中でインド起源説が唱えられている。長田によれば、マックス・ミューラー以降の「アーリヤ人侵入説」の問題点は、ジム・シェーファー、レイモンド・オールチン(英語版)、アスコ・パルボラ(英語版)らによって学問的に批判されてきたほかに、ミューラーの直後からヒンドゥー改革者らによって宗教的な解釈に基づく批判も受けてきた。これらを受けて、デイヴィッド・フローリーとナヴァラトナ・ラージャーラーム(英語版)以降のヒンドゥー・ナショナリストたちは、著作の中で反アーリヤ人侵入説と並んで「印欧祖語=サンスクリット語、インド由来」論を展開している。長田は発端となったラージャーラームの主張を分析し、学問的な批判に耐えるものではないと結論づけている。
現実的な歴史観にそぐわない政治利用の例は他にもあり、アンソニーは例としてアメリカの白人至上主義、女神運動(英語版)、ロシアのナショナリズム・ネオペイガニズムを挙げている。
二十世紀に入って先史時代を扱う考古学が発達すると、言語学のみならず考古学の立場からも研究されるようになった。考古学を応用した初期の研究にグスタフ・コッシナ(英語版)による1902年のものがあるが、彼は始めから原郷がドイツにあると示す目的意識を持っていて、ナチスに政治利用されたことから原郷問題がタブー化した。
原郷問題が考古学の研究分野として復活したのは、1950年代のマリヤ・ギンブタスによるクルガン仮説の提唱に始まるとされる。黒海ステップの前4000年以降の銅器時代の文化を、当該地域に特有に見られる墳丘墓の名前からクルガン文化と呼ぶ。クルガン仮説によれば、黒海北方のステップの遊牧民が印欧祖語の話者で、彼らは馬を家畜化すると前3600 - 2300年ごろにクルガン文化(の中のヤムナヤ文化)とともに印欧祖語を広めた。ジム・マロリー(英語版)やデイヴィッド・アンソニー(英語版)がこれに追随し、アンソニーはステップでの馬の家畜化と乗用の起源を示すことで説の補強を試みた。
1987年にイギリスのコリン・レンフルーがアナトリア仮説を提出した。印欧祖族の故郷はアナトリア半島にあり、中央ギリシアに最初の農業経済を起こしてから前6500年以降に拡散したという、農業経済を軸にした提案だった。古代ギリシア語がヒッタイト語よりもサンスクリット語にはるかに類似しているという事実を説明できておらず、当時の社会に馬の存在はなかったとの主張は印欧祖語に馬の語彙が再建されることから退けられるなど、レンフルーの主張は既存の言語学の立場からはとくに懐疑視された。
生物学者のラッセル・グレイ(英語版)とクエンティン・アトキンソンは、計算生物学の手法を用いた研究を2003年に発表した。言語年代学を改良して統計的に単語の類似を分析した結果、印欧祖語が各言語に分岐した年代は前6000年以前であると示され、アナトリア仮説を擁護した。
アンソニーは、90年代以降の考古学を踏まえた研究を2007年の著作『馬・車輪・言語』に発表した。ポントス・カスピ海ステップを原郷においた印欧語の拡散の過程を描くことで、クルガン仮説を修正・補強してアナトリア仮説への反論を試みた。
言語学者のアンドリュー・ギャレット(英語版)らは、2013年以降の研究で、解析を条件を変えて行うと分岐年代がグレイらより遅くに想定されるとしてグレイらが設定する前提を批判した。Balterによれば、グレイらはギャレットらの研究を継承した解析に取り組み、再びアナトリア仮説を支持する結果を得たという。
レンフルーは、1994年に亡くなったギンブタスを記念する2017年の講演の中で、自説との両立を示唆しながらも“Marija’s Kurgan hypothesis has been magnificently vindicated.(マリヤのクルガン仮説は見事に立証された)”と発言しクルガン仮説を認めた。レンフルーの業績を称える2018年の記事では、言語年代学以外の立場からはアナトリア仮説は認められていないと指摘している。
分化が始まった時点でのインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)は、多様な語形変化を持つ言語だったと想定されている。しかし時代が下り、言語の分化が大きくなると、各言語は概して複雑な語形変化を単純化させていった。
印欧祖語は、主語・目的語・動詞の語順が優勢なSOV型言語だったと考えられており、古い時代のインド・ヨーロッパ諸語、例えばヒッタイト語、インド・イラン語派の古典諸言語、ラテン語ではその特徴が見られる。但し、後にSOV型以外の語順の言語も現れ、SOV型は印欧語に典型的な語順とまでは言えなくなっている。現代では言語により語順は様々だが、ヨーロッパでは主語・動詞・目的語の語順が優勢なSVO型言語が比較的多く、ドイツ語のように本質的にはSOV型でも一見SVO型のように見えるSOV-V2語順の言語もある。一方、中東やインドでは現在でもSOV型言語が多い。
伝統的に五母音体系で再構されてきたが、喉音理論に基づいて/e~o~ゼロ/という、単一の母音がなんらかの規則に従って母音交替するモデルに修正された。
印欧語族はケントゥム語とサテム語に大別されてきた。ケントゥムおよびサテムは、ラテン語およびアヴェスタ語で「百」を意味する単語で、ともに印欧祖語の*kjmtomに由来する単語であって言語間の発音の違いを代表しているため分類名に用いられた。この分類に従うと、ケントゥム語にはアナトリア語派、トカラ語派、ヘレニック語派、ゲルマン語派、ケルト語派、イタリック語派が属し、サテム語にはインド・イラン語派、バルト・スラブ語派、アルメニア語派、アルバニア語派が属することになる。祖語の時代からあった差異が系統となって現れたのか、各言語で独立に起こった変化であるのか議論されてきた。この結果として、必ずしも系統の違いを表すものではないと考えられるようになった。
印欧祖語とゲルマン祖語の間の時期に起きた子音推移を説明したものである。
グリムの法則に続いて起きる規則で、グリムの法則で生じた無声摩擦音が、直前にアクセントがある場合を除いて有声音になる。 グリムの法則が起こる前からあった無声摩擦音のsにも適用された。これもゲルマン祖語までの時期に起こった。
有気音が続くと、前の子音が無気化される法則。サンスクリットでは、dh - dh が d - dh になる。 後の有気音が、最後のsかtの前で無気音になっていると、作用しない。 ヘレニック語派にも起こるが、有気音が無声化された場合に限られている。d^h - d^h > t^h - t^h > t - th にように働く。 ヘレニック語派においても、後ろの有気音が無気音になっていると作用しない。 インド・イラン語派とヘレニック語派で独立に起きた。 インド・イラン語派, スラヴ語派, リトアニア語にみられる。
バルト語派とスラヴ語派のように分ける場合と、バルト・スラヴ語派とまとめる場合がある。また、詳細が分かっていないフリュギア語を数える場合とそうでない場合があり、少ない数え方で10、多い数え方で12が一般的なものである。
アナトリア語派は印欧祖語か、その原型にあたる言語から派生した最初の言語グループだと考えられている。ヒッタイト帝国の公用語であったヒッタイト語が最もよく知られていている。この語派に属する言語はすべて死語となっていて歴史的な資料にのみ残されている。
アナトリア祖語からヒッタイト語、ルウィ語、パラー語に分化し、その3つが大きな幹をなすと考えられている。多くはアッカド語から継承した楔形文字で記録されているが、象形文字ルウィ語とギリシア文字を基にしたアルファベットを用いるリュキア語が知られている。大城・吉田は、ルウィ語を楔形文字ルウィ語と象形文字ルウィ語に分類し、リュキア語、ミリア語(英語版)、リュディア語を加え7つを確定的なアナトリア語派として数えている。これによれば、リュキア語とミリア語はルウィ語に近く、派生した関係にあると考えられる。ヒッタイト語とパラー語の話し手は、コーカサス諸語と類縁関係にあるハッティ語話者の住んでいたアナトリア中部に侵入し、前1650~1600年ごろにヒッタイト帝国がハッティ族の独立王国を征服した。ヒッタイト語とパラー語にはにはハッティ語、ヒッタイト語にはさらにフルリ語、アッカド語に由来する借用がみられる一方、ルウィ語にはハッティ語からの借用は見られず「正体不明の非印欧の言語」からの借用がみられ、ハッティ語の中心地域から離れた地域で話されたことが示唆されている。
時制が現在と過去しかない、有性と中性の区別しかない、喉頭音の存在など他の古い印欧語と共通しない特徴を持つことで古い時代の印欧語の研究に繋がった。ヒッタイト語は再建されてきた印欧祖語と大きく異なっていて、印欧祖語のさらに前段階から分化したため狭義の印欧語にあたらないとするインド・ヒッタイト語仮説も提示されている。松本は、ヒッタイト語を特別扱いして既存の理解を保とうとするよりも、その示す事実を受け入れて比較文法の方法論じたいを再編しなおす動きのほうが優勢であるとしている。
トカー語、トハラ語とも呼ばれる。中央アジアのタリム盆地北縁地域で8世紀まで話された。
ヘレン語派とも呼ばれる。単独で1語派として扱われる。
アルバニア語のみで1語派として扱われる。
印欧語に含まれることが判明してから、イリュリア語、トラキア語、ダキア語、ヴェネト語、エトルリア語など古代のバルカン諸語との関係が研究された。直野によればイリュリア語から発展したと考える研究者が多いという。
シュクンビン川を境界線として北部で話されているゲグ方言と、南部で話されているトスク方言に大きく分類される。アルバニア系のコミュニティはアルバニア共和国に隣接した地域にも存在していて、コソボ、マケドニア北西部、モンテネグロ南東部でゲグ方言が用いられている。また、アルバニア語から派生したものとして、イタリアのアルバニア系離散民に用いられるアルバレシュ語、ギリシアのアルバニア系離散民に用いられるアルヴァニティカ語がある。
文字として最古の記録が15世紀と遅く、1462年にラテン文字で洗礼儀式に関する文書が記された。16世紀なかばのゲグ方言の文献が残っており、これに続いてトスク方言やアルバレシュで記された文献が残っている。これらの文献からは、方言差が大きくなかったことが伺われる。15世紀後半のオスマン・トルコ支配によって国土と宗教が分断された状態となり、差異が大きくなった。対応して、アラビア文字かギリシア文字が用いられるようになった。1908年に開かれた会議でアルバニア語ラテン文字が制定され、現在まで使われている。 19世紀以降、ゲグ方言に近いエルバサンのトスク方言を基礎として標準語を整備しようという提案がなされ、1952年と1972年の会議でこれに近い形の案が採択された。アルバニア国外でも文語としてはこれに従っているという。
名詞は男性名詞か女性名詞に分類され、限られた範囲で中性名詞が認められている。単数と複数のそれぞれで、主格, 属格, 与格, 対格, 奪格の5つの格を持つ。定冠詞を取らない名詞では主格と対格が一致し、属格, 与格, 奪格も一致する。形容詞は格変化せず、性と数に対応して変化するタイプとしないタイプがある。変化するタイプでも性と数のどちらかのみに対応するものも多く、4種類の変化をするのは不規則な形容詞がほとんどである。能動形を基本として多くの動詞が中動・受動態をもつ。法に直接法、接続法、条件法、願望法、感嘆法、命令法があり時称、態との関係は複雑である。
アルバニア語はバルカン言語連合に属するとされている。系統的な関係とは別に接触による収束が起こるもので、幅広い文法上の共通性が見られる。直野によれば特にルーマニア語と平行する点が多いという。数詞にはスラヴ語の影響が見られ、また15~16世紀にトルコ語とギリシア語から受けた影響が研究対象になっている。
ケントゥム語群。イタリック語派と類似点が多い。前1000年代には中部ヨーロッパに広く分布していたが、現在はブリターニュ地方、アイルランド島やブリテン島ウェールズ地方、スコットランド地方などのみである。近年、マン島語、コーンウォール語が復活している他、スコットランドゲール語もスコットランドの公文書で使用されるようになっている。
ヨーロッパ大陸の中央部でゲルマン語やケルト語と隣接していたが、紀元前2千年紀の終りに近いころ北からイタリア半島に侵入し、前1000年ごろ南下してラティウムに定住した。紀元前10世紀のイタリア半島ではオスク語、ウンブリア語、ギリシア語のほかエトルリア語、ヴェネト語が地域によって分布していた。
古代のイタリック語派にはオスク語、ウンブリア語、ラテン語、ファリスク語があり、オスク・ウンブリア語群とラテン・ファリスク語群に分類される。ラテン語は、ローマ建国のころには既にラティウムに定着していた。ラテン語は、こういったラテン人の諸言語の一つでしか無かったが、ローマの拡大に伴い勢力を増し、オスク・ウンブリア語やファリスク語だけでなくケルト諸語やイベリア語を置き換えて広範な分布に至った。ラテン語の最古文献は前6世紀末ごろであり、とくにローマのラテン語は前5世紀に記録されている。
文学作品が生まれる前、すなわち前3世紀後半に至るまでのラテン語は古ラテン語と呼ばれ、碑文と古典期の作家による引用で知られる。 古典ラテン語は、広義には前3世紀末から後2世紀まで、狭義には特に前1世紀のラテン語の文語を指す。狭義の古典ラテン語はラテン文学の黄金時代に対応している。散文はキケロの雄弁論にはじまり、カエサル『ガリア戦記』やティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』など、韻文ではルクレティウス、ウェルギリウスやオウィディウスらが多様な作品を残した。古典ラテン語は後の時代においても模範とされている。 ラテン文学が陰りを見せてから西ローマ帝国が崩壊するまでのラテン語を後期ラテン語という。3世紀以降、ローマ帝国でキリスト教が公認され、ラテン語はカトリック教会と結びついた。そのため後期ラテン語の時期は、ヒエロニムスによるラテン語訳聖書がなされるなど教会ラテン語が盛んになった時代でもあった。
文学の興隆と同じくして文語と口語が乖離していき、およそBC200年からAD600年ごろまでの口語を俗ラテン語という。西ローマ帝国は5世紀に瓦解し、俗ラテン語のグループは分断された。俗ラテン語の文献資料は限られるが、プロブスによる用例集、ペトロニウス『サテュリコン』の「トリマルキオの饗宴」に見られる会話、400年頃の修道女の文章、無数の碑文などが残っている。また、後期ラテン語に特徴の混入が見られる。
各地に広がった俗ラテン語は、それぞれの地域の基層言語によって影響を受け変化した(イタリアにおけるオスク語とエトルリア語、スペイン語に対するイベリア語、フランス語に対するケルト諸語、ルーマニア語に対するダキア語など)。ルーマニア語に対するスラヴ諸語、スペイン語・ポルトガル語・カタルーニャ語に対するアラビア語のような支配を通じた影響が生じたほか、フランク人との接触は西のグループ、特にフランス語に大きな影響をもたらした。他言語からの影響と並行して、それぞれの地域でも独自化が進み、ロマンス諸語の文献が現れる9世紀には既に統一性が失われていた。
カール大帝(シャルルマーニュ)は俗ラテン語的な文語を憂慮し、カロリング・ルネサンスによって古典的なラテン語の復活を図ったが徹底されず、中世ラテン語が成立した。中世ラテン語は古典的な知識階級の共通語として機能した。
ラテン語には5つの曲用の型があって第2, 3, 4曲用名詞に中性があったが、ロマンス諸語では曲用が2つになり男性/女性と対応している。いずれのロマンス諸語も単数と複数の区別を持ち、西ロマンス諸語の複数の標識は -s であるが、中期フランス語で発音されなくなったため、フランス語では冠詞などによって表現される。現代ロマンス語ではルーマニア語を除いて格体系は消滅した。ルーマニア語は主格、対格、属格、与格、呼格の5格体系をなす。ラテン語は4種の活用形に分けられたが、ロマンス諸語ではEが融合し活用形を減らした。生産性に偏りが生じ、A, I, Eの順に例が多い。いくつかの言語ではEは用例が少なく、不規則動詞としたほうが適当だという。ラテン語の直説法、接続法、命令法からなる3つの法はロマンス諸語で保たれている。使用法が各言語によって異なるが、いくつかのロマンス諸語に共通して見られる時称として、未完了過去(半過去)、単純過去、複合過去、未来および条件法がある。現代ロマンス諸語では主語 - 動詞が頻繁に現れる基本的な語順で、外れるものは倒置と見なされる。
ギリシアアルファベットを参考にしてラテンアルファベットが成立したが、ギリシアアルファベットには無いQやFがあることからエトルリア文字が仲介していると考えられる。成立して以降に、ギリシア語の転写のためにYとZが加えられた。エトルリア語の音体系にはkとgの区別がないために文字も統合されていて、ラテン語でもCを双方の音に当てていたが、Cを元にGが作られた。ロマンス諸語は、全てラテンアルファベットを用いる。
ケントゥム語群。ヨーロッパ中北部が原郷。ゲルマン民族の大移動を経てロマンス諸語にも大きな影響を与えた。
ゲルマン人の原郷は、スカンジナビア半島南部や北ドイツのエルベ川下流域にかけての一帯だと考えられている。 民族移動によって紀元前1000年ごろには他地域へ拡張していて、4~5世紀のゲルマン民族の大移動をピークとして1500年以上続いた。 ゲルマン語族には、詳細のわからない先印欧語の語彙が流入していて、ゲルマン祖語の基礎語彙の3分の1が非印欧語由来だと考えられている。紀元前500年ごろのゲルマン人は、西は現在のオランダ語圏、東はヴィスワ川までの低地平原地帯、北はスウェーデン中部とノルウェー南部まで及んでいた。南と西でケルト語、東でバルト語、北でバルト・フィン諸語と接していて、相互に借用が行われた。南部域のケルト人やイリュリア人を放逐したゲルマン人は、紀元前後にローマ帝国の国境・黒海沿岸に達していた。紀元前後にゲルマン語の明確な分岐が始まったと考えられていて、当時のゲルマン人およびゲルマン語は、北、東、エルベ川、ヴェーザー・ライン川、北海の5つのグループに分かれていた。
東ゲルマン語はゴート語につながり、4世紀になされたギリシア語聖書のゴート語訳はゲルマン語の最古のまとまった文献として写本が残っている。アンシャル体大文字を中心に、ラテン文字とゴート文字が用いられた。ゴート人は東ゴート人と西ゴート人に分裂し、イベリア半島とイタリアに王国を築いたほか、東ゴート人がクリミアに到達するなど大きく広がった。
北ゲルマン語は北欧に位置し、ノルド語が成立した。ゲルマン語の断片的な最古の資料として、ルーン文字で刻まれたルーン碑文が残っている。音価と文字が正確に対応しており、実用的な文字だったと考えられている。ルーン文字は古ゲルマン語圏すべてに広がったが、10世紀末以降のキリスト教受容にともなってラテン文字に置き換えられていった。8世紀までスカンディナヴィアに留まっていた北ゲルマン人は、9世紀から11世紀のヴァイキング時代に遠征を繰り返した。デーン人は二度に渡ってイングランドを征服し、英語史に大きな影響を与えた。東方では、スウェーデン人ヴァイキングを中心にフィンランド・エストニアに進出した上にさらに南東に進み、ノヴゴロド公国やキエフ公国を築いた。ヴァイキング時代末期には、西ノルド語と東ノルド語の分岐が顕著になっていた。
北海ゲルマン語は、アングロ・サクソン人を中心にするグループがブリテン島に移住し始めた5世紀半ば以降に、大陸部北海沿岸の諸部族による接触で成立したと考えられている。アングロ・サクソン人は600年ごろにキリスト教に改宗し、ラテン文字を使用した宗教関連の古英語の文献は700年ごろに現れる。フリジア語は16世紀以降使われなくなった。ザクセン語は高地ドイツ語圏に引き寄せられていき、低地ドイツ語の低ザクセン語として扱われている。古英語は典型的な北海ゲルマン語であったが、デーン人やノルウェー人ヴァイキングによるノルド語との接触と、ノルマン・コンクエストによるフランス語との接触によって形態の簡素化が起こり、屈折の少ない分析的な言語となった。
エルベ川とヴェーザー・ライン川のグループは内陸ゲルマン語として括られ、主要な古語として古高ドイツ語と古オランダ語がある。とくにヴェーザー・ライン川ゲルマン語の古フランケン方言を話すフランケン人は西ローマ帝国滅亡後に勢力を拡大し、6世紀のテューリンゲン族(英語版)征服を皮切りにアレマン人、バイエルン人、ザクセン人を征服し隷従させた。8世紀にフランク王国のドイツ語話者にキリスト教が広まり、9世紀には『タツィアーン』やヴィッセンブルグのオトフリート(英語版)による『福音書』などキリスト教文学が興隆した。古オランダ語のまとまった文献は10世紀初めのヴァハテンドク詩篇に現れる。現代標準ドイツ語はエルベ川ゲルマン語に由来する上部ドイツ語、ヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する中部ドイツ語、上記の北海ゲルマン語に由来する低地ドイツ語を統合して成立した。標準オランダ語はヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する低地フランケン方言を母体とし、北海ゲルマン語に由来するオランダ語低地ザクセン方言を統合して成立した。
ゲルマン祖語は与格が奪格と所格の役割を担い、6格組織であった。その後、主格が呼格を、与格が具格を吸収し4格組織に近づいていった。文法性を失ったのは英語とアフリカーンス語、デンマーク語ユトランド方言に限られていて、他のゲルマン諸語には見られる。双数はゲルマン祖語で衰退しつつあり、ゴート語が限定的に残しているが、他の古語では複数に取り込まれた。現代語では北フリジア語の方言に見られるが、話し言葉ではほとんど用いないという。北ゲルマン語とオランダ語では、男性と女性が「通性(共性)」に合流し、中性とあわせ二性体制になっている。ゲルマン祖語の時点でアオリスト語幹が破棄されていて、語形変化は強変化と弱変化に収束した。アスペクトに対応する語形変化はなく、助動詞による迂言形で表現する。西ゲルマン語では現在完了形が過去の表現として多用され、過去形が使われない言語もある。接続法が直接法に吸収されているため、現在形が未来の出来事も表す。ドイツ語やオランダ語で副次的にSOV順の語形が用いられるが、SVO順が一般的になっている。
東ヨーロッパに分布する。ゲルマン語派・ロマンス諸語に比べ言語的改新が見られず、保守的であるとされる。
スラヴ語は、西スラヴ語群、南スラヴ語群、東スラヴ語群の3つに分類されている。 9世紀半ばまでにはスラヴ人の居住地域は西、東、南の3つに分かれていた。 印欧祖語から分離し、古代教会スラヴ語が成立するまでのスラヴ語を共通スラヴ語と呼ぶ。 共通スラヴ語時代のスラヴの知識人は文語としてギリシア語やラテン語、古フランク語を使っていたと考えられている。9世紀後半に西スラヴのモラヴィア王国では、東フランク王国の影響力から脱するためビザンツ帝国に要請してメトディオスとキュリロスの兄弟が教主として派遣された。キュリロスがスラヴ語典礼に使う文字体系としてグラゴル文字を考案し、スラヴ語の文語である古代教会スラヴ語が成立した。モラヴィア国内での兄弟の事業は難航したが、弟子たちが第一次ブルガリア帝国で活動することでスラヴ語典礼の伝統は保たれ、グラゴル文字の体型にギリシア文字を導入することでキリル文字が成立した。古代教会スラヴ語はポーランドとクロアチアを除くスラヴ語圏全体に拡散した後、それぞれの隣接した地域の言語から影響を受けるなどして多様性を増し、研究者たちは1100年ごろを古代教会スラヴ語が共通性を失った時期の目安としている。
10世紀末から11世紀には東西南の差異がルーシ人、スラヴ人、ブルガリア人の言葉の違いとして認識されていた。東西南の内部でも支配体制による分断があり、12世紀ごろからそれぞれの地域内でも別個の言語として独立して認識されるようになった。
共通して男性、女性、中性の区別と、7つか6つの格がある。男性単数に生物と無生物の区別があり、西語群では人を表す男性名詞複数形「男性人間形」が17世紀頃に成立した。スロヴェニア語とソルブ語が双数を残し、他の言語では複数に合流したが、2を表す数詞に名残がある。動詞には直説法、命令法、仮定法があり、直接法の中に現在、過去、未来の3つの時制と完了体と不完了体の2つのアスペクトの組み合わせがある。 先に述べたように西方教会とラテン語典礼が、東方教会とスラヴ典礼が結びついた歴史がある。この結果として西語群ではラテンアルファベットが、東語群ではキリル文字が、南語群ではキリル文字とラテンアルファベットが用いられている。ラテンアルファベットを用いる南語群では、ガイ式ラテン・アルファベットやその変種が用いられる。
サテム語群。西アジア~南アジアにかけて分布。インド語派とイラン語派は発見されているもっとも古い言語同士で意思疎通が可能なほど似通っており、まとめて扱われる。印欧語族の分類は一般に12語派程度で表現されるが、その場合ダルド語派とカーフィル語派を数えていない。
アルメニア語のみで一語派として扱われる。かつてイラン系の言語であると考えられたほどイラン語群からの語彙の借用が多く、イラン系のみならずチュルク語族やコーカサス諸語から語彙の借用をはじめとして様々な影響を受けたと考えられている。現代口語は、東アルメニア語と、西アルメニア語に分類される。東アルメニア語はアルメニア共和国を含む旧ソ連圏に、西アルメニア語が世界に散在するアルメニア人におよそ対応している。
5世紀初頭に当時のアルメニア語が持つ音素に対応するアルメニア文字が考案された。ギリシアやシリアの影響から脱してアルメニア語で聖書を記す目的が背景にあり、ギリシア文字を主要なモデルとしているが、字形は大きく異なっている。11世紀ごろから文語と口語の音声の差異が目立つようになり、音と文字が対応していない状態となっていた。ソビエト連邦時代の1922年と1940年に正書法の改革が実施され、東アルメニア語では文字と音の対応関係が単純になった。
希求法が接続法に合流していて、直説法、命令法、接続法の3つの法がある。3つの時制があり、未完了過去と未完了未来が特異な発達をしている。古典アルメニア語でアオリストと完了形が融合して現代アルメニア語の完了(単純過去と未完了過去)が生じた結果、両者の時制の機能と語幹が含まれるようになった。名詞・形容詞は主格、体格、属格、与格、奪格、具格に格変化する。文法上の性はなく、人称代名詞も性の区別がない。ふつう動詞が語頭にくることはなく、定動詞後置を原則とするが、強調したい語を前におく一定の自由度がある。 形態や統辞法では印欧祖語に由来する要素が優勢である。一方で記録以前の時代に、アクセントが終わりから2番目の音節に固定したことが、母音の弱化と最終音節の消失をもたらしていて、音韻・語構造は独特である。
伝統的には屈折語に分類される。古い印欧語と比較すると、母音の長短の区別、文法性、双数がなくなっている。さらに屈折の型が一定化に進んでいる、格の融合現象が見られる、動詞の叙法・時制組織が大きく単純化されているなど多様な単純化が起こっている。岸田は現代アルメニア語の形態について膠着的な面が強まってとしている。
アルメニア語の研究を行った言語学者のアントワーヌ・メイエによる『史的言語学における比較の方法』によってアルメニア語の基数詞が大きく変化しながらも印欧祖語に由来するものだと立証されている。
所属は遺伝的関係によって決定され、すべてのメンバーが印欧祖語を共通の祖先に持つと推定される。インド・ヨーロッパ語族の下の語群・語派・分枝への所属を考えるときも遺伝は基準となるが、この場合にはインド・ヨーロッパ語族の他の語群から分化し共通の祖先を持つと考えられる言語内での共用イノベーションが定義の要素となる。たとえば、ゲルマン語派がインド・ヨーロッパ語族の分枝といえるのは、その構造と音韻論が、語派全体に適用できるルールの下で記述しうるためである。
インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の起源は印欧祖語であると考えられている。印欧祖語の分化と使用地域の拡散が始まったのは6,000年前とも8,000年前とも言われている。その祖地は5,000–6,000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)とするクルガン仮説と、8000–9500年前のアナトリア(現在のトルコ)とするアナトリア仮説があるが、言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既にヨーロッパからアジアまで広く分布していた。
この広大な分布に加えてその歴史をみると、前18世紀ごろから興隆した小アジアのヒッタイト帝国の残したヒッタイト語楔形文字(楔形文字の一種)で書かれたヒッタイト語(アナトリア語派)の粘土板文書、驚くほど正確な伝承を誇るヴェーダ語(インド語派)による『リグ・ヴェーダ』、そして戦後解読された紀元前1400年‐紀元前1200年ごろのものと推定される線文字Bで綴られたミケーネ・ギリシャ語(ギリシア語派)のミュケナイ文書など、紀元前1000年をはるかに遡る資料から始まって、現在の英独仏露語などの、およそ3,500年ほどの長い伝統を有する。これほど地理的・歴史的に豊かな、しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて19世紀に言語の系統を決める方法論が確立され、語族という概念が成立した。
インド・ヨーロッパ諸語は理論的に再建することのできる、一つのインド・ヨーロッパ共通基語もしくは印欧祖語と呼ばれる共通の祖先から分化したと考えられている。現在では互いに別個の言語であるが、歴史的にみれば互いに親族の関係にあり、それらは一族をなすと考えることができる。
これは言語学的な仮定である。一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか、その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的に見る限り、インド・ヨーロッパ語の各語派は歴史の始まりから、すでに歴史上に見られる位置にあって、それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は、言語史的に推定するしか方法はない。
またギリシア北部からブルガリアに属する古代のトラキアにも若干の資料があるが、固有名詞以外にはその言語の内容は明らかでない。またイタリア半島にも、かつてはラテン語に代表されるイタリック語派の言語以外に、アドリア海沿いで別の言語が話されていた。中でも南部のメッサピア語碑文は、地名などの固有名詞とともにイタリック語派とは認められず、かつてはここにイリュリア語派の名でよばれる一語派が想定されていた。しかし現在ではこの語派の独立性は積極的には認められない。
ニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレーとクェンティン・アトキンスン (Russell D. Gray, Quentin D. Atkinson)の言語年代学的研究によれば、インド・ヨーロッパ祖語は約8700 (7800–9800) 年前にヒッタイト語につながる言語と、その他の諸語派につながる言語に分かれたという結果が出て、アナトリア仮説が支持された。
グレーとアトキンスンは、この語族の87言語の基本単語2,449語について、相互間に共通語源を持つものがどれほどあるかを調べ、言語間の近縁関係を数値化し、言語の系統樹を作成した。この系統樹によれば、まずヒッタイトの言語が登場、その後、7,000年前までにギリシャ語を含むグループ、アルメニア語を含むグループが分かれ、5,000年前までに英語、ドイツ語、フランス語などにつながるグループができたという。
Gray & Atkinson 2003による、系統樹と、祖語の年代を以下に示す。年代の単位はBP(年前)。( ) 内はブートストラップ値(グループの確実さ)で、不確実な分岐も図示されていることに注意。とくにいくつかのブートストラップ値は50未満という低い数字となっており、系統分岐の仕方そのものが正しくない可能性を示している。また、死語のほとんど(トカラ語派とヒッタイト語以外)と一部の現存言語グループ(ダルド語派、カーフィル語派)が解析対象となっていない。また、この方法では2つ以上の言語の融合(例:プロト・スラヴ語ないしプロト・バルト=スラヴ語の、インド・イラン語派の諸言語の影響によるサテム語化)は正しく解析されない。そのため、ブートストラップ値次第では語派の祖語の年代は図の年代よりさらに古くも新しくもなりうる。
ヒッタイト語(おそらくはそれを含むアナトリア語派)が最初に分岐したことがわかる。また、サテム諸語(バルト・スラヴ語派、インド・イラン語派、アルバニア語、アルメニア語)は一まとまりの言語系統ではない。
インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語話者の拡散はY染色体ハプログループR1b (Y染色体)およびハプログループR1a に対応する。R1bはヨーロッパ西部に高頻度であり、R1a系統はインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布している。R1bはケントゥム語、R1aはサテム語の担い手である。印欧祖語が話されたヤムナ文化の人骨からはハプログループR1b (Y染色体)が91.5%の高頻度で検出されているが、R1aは検出されていない。そのため、元来の印欧語族話者はR1bであり、ある時点でR1a集団が印欧語に言語交替を起したものと考えられ、その際にR1a集団の基層言語の特徴がサテム語の特徴として受け継がれたものと思われる。
「語族」の定義により、印欧語族と他の語族との間の系統関係は未知だが、形態素の類似などからウラル語族との同系説(インド・ウラル語族)、文法性の存在などから北西コーカサス語族との同系説(ポンティック語族)、屈折の仕方などからセム諸語との同系説(インド・セム語族(英語版))などが存在する。
インド・ヨーロッパ祖語が、北西コーカサス語族を基層とし、ウラル語族のような北ユーラシアの言語を上層言語とする混合言語であるとする説もある。
更に、ウラル語族、アルタイ諸語、日琉語族、チュクチ・カムチャッカ語族、エスキモー・アレウト語族などとの関係を主張するユーラシア大ずるノストラティック大語族説、終局的にはボレア語族や世界祖語との関係を論ずる説もある。
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"text": "インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、インドからヨーロッパにかけた地域に由来する語族である。",
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"text": "英語・スペイン語・ロシア語などヨーロッパに由来する多くの言語と、ペルシア語やヒンディー語などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。",
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"text": "印欧語族(いんおうごぞく)と略称される。",
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"text": "語彙や文法にまたがった幅広い共通性が18世紀末以降の研究によって見出され、19世紀前半に語族を構成する言語が死語を除いて確定された。すべての印欧語は共通の祖先にあたる言語を持っていると考えられ、インド・ヨーロッパ祖語ないし印欧祖語と呼ぶ。文字が記録されていない時代の言語であるものの、研究が積み重ねられることで実像が提示されつつあり、ポントス・カスピ海ステップに出自を持つヤムナヤ文化の担い手が紀元前4000年ごろには話していた屈折語であったとするクルガン仮説とその修正版が中心的な説になっている。",
"title": "特徴"
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"text": "分類方法や呼称には差異があるが、現代に用いられている言語はアルバニア語、アルメニア語、イタリック語派、インド・イラン語派、ケルト語派、ゲルマン語派、バルト・スラヴ語派、ヘレニック語派の8つの語派にさらに分類される。20世紀初頭の研究によって、紀元前にアナトリア半島で用いられた言語と、8世紀頃までタリム盆地北縁地域で用いられていた言語がそれぞれ印欧語に含まれることが示され、それぞれアナトリア語派とトカラ語派と名付けられた。",
"title": "特徴"
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"text": "文献が登場する以前の先史時代にはインドからヨーロッパにかけた地域に大きく拡散していた。植民地時代以降に英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語などのヨーロッパの言語が全世界的に広められ、アメリカ大陸やオーストラリア大陸での支配的な言語となったほか、アフリカやアジアの複数の地域でも大きな位置を占めた。印欧語族は現代において母語話者が最も多い語族であり、2010年代以降の統計によれば約30億人が第一言語として用いている。2000年以降の調査で、母語話者の多い言語には2億人以上のものに英語、ヒンディー語、スペイン語、ポルトガル語、1億人以上のものにロシア語、ベンガル語がある。",
"title": "特徴"
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"text": "言語間に系統的な関係があるという考えやそれに基づいた比較研究は印欧語族が、他の語族に先んじたものであり、印欧語族の研究史と比較言語学の研究史はその始まりにおいて重なっている。そのため印欧語族の研究で見出された概念は他の語族、あるいは広く言語学の研究に応用されることになった。",
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"text": "ヨーロッパとインドで使われる言語の関係を指摘する者は以前にもいたものの、研究が進む契機となったのは18世紀末にイギリス人のウィリアム・ジョーンズによってなされた指摘であった。ジョーンズは植民地インドの判事として現地法を研究しており、1784年にベンガル・アジア協会を組織した。サンスクリットを学び始めたジョーンズは、その語根や文法の構造が、ヨーロッパの諸語、とりわけラテン語とギリシア語に類似していることに気付き、共通の祖先にあたる言語が想定されるという考えを発表した。この指摘に研究が触発されたことから歴史的な重要性が認められるが、発表の本筋とは離れた小さな扱いであった。また、旧約聖書が描くような単一の人類の原祖を想定したジョーンズの関心は民族史や文化史にあり、それぞれの言語に深い関心を持ちつつも印欧語を俯瞰した研究を深めようとはしなかった。",
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"text": "ジョーンズの示唆を実証する研究はイギリスでは進まず大陸に移ることとなった。この先駆的時代の研究にフリードリヒ・シュレーゲル、フランツ・ボップ、ラスムス・ラスク、フリードリヒの兄のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、W.v.フンボルト、ヤーコプ・グリムらによるものがある。フリードリヒ・シュレーゲルは1808年の著作『インド人の言語と英知(ドイツ語版)』でサンスクリットとヨーロッパの言語の比較を試みた。ボップとラスクの著作は、比較言語学の第一作を争うものとして知られている。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフンボルトは、フリードリヒ・シュレーゲルの分類を発展させて屈折語・孤立語・膠着語・抱合語という言語の四類型を立てた。グリムはラスクの論を受け継いでゲルマン祖語に起きた音韻法則であるグリムの法則を見出した。また黎明期の研究を総括したアウグスト・シュライヒャーによって、印欧祖語を再建する初めての試みが1861年の『印欧諸語比較文法便覧』(Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen)で提出された。重要な業績が残された一方で、音声学の視点を欠く不完全さがあったともされる。",
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"text": "ジョーンズはサンスクリット、ラテン語、ギリシア語を中心としてゴート語、ケルト語、古代ペルシア語の資料を用いていた。シュレーゲルはアルメニア語とスラヴ語が語族に含まれることを示唆したが、確証はしなかった。語族の構成員を探る試みは主にボップによってなされ、1838年および1854年の講演ではケルト語とアルバニア語が帰属することを示した。彼の死後の1868年から1871年にかけて公刊された『比較文法』の第三版ではアルメニア語とスラヴ語が含まれることを示し、これによって死語となっていない語派の構成が確定した。",
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"text": "言語のグループを指す用語としてトマス・ヤングによる「インド・ヨーロッパ語」が1813年に提出された。現代において、ドイツ語圏においてのみユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1823年に提唱したインド・ゲルマン語という名称が用いられ(ドイツ語: Indogermanische Sprachen)、その他の言語ではインド・ヨーロッパ語に相当する呼称が用いられる。",
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"text": "ゲオルク・クルツィウスは分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだライプツィヒ大学に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、青年文法学派と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者のカール・ブルークマンの説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、ヨハネス・シュミットやアダルバート・ベッツェンベルガー(英語版)、ヘルマン・コーリッツ(英語版)らの批判を受け議論は紛糾した。",
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"text": "ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があったフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提出した論文『印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。",
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"text": "結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究はドイツロマン主義の隆盛と相まってドイツで盛んとなった。",
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"text": "19世紀末以降の調査によって、タリム盆地で発見された複数の文書の中に正体不明のものがあり、1908年に解読されてトカラ語と名付けられた言語は、印欧語族に含まれることが示された。20世紀に入ると、小アジアで用いられ紀元前に死語となった未知の言語が碑文から研究され、ヒッタイト語と名付けられた。ヒッタイト語は、1915年以降に発表された研究で印欧語族に含まれるか、少なくとも類縁関係にあることが明らかになった。イェジ・クリウォヴィチは、解読されたヒッタイト語の喉音がソシュールの言うソナント音に対応していることを指摘した上で理論を発展させ、これ以降の研究によって喉音理論が成立した。",
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"text": "インド・ヨーロッパ語族や、あるいは話者のグループの原郷について現代にはクルガン仮説が中心的な説となっているが、これに至るまでに議論の歴史がある。言語学から探求された時代には、印欧諸語の語彙を突き合わせ印欧祖語の語彙を挙げ、その特徴から地域を特定しようとする方法が取られた。考古学の発達につれ、こうした手法に加え、集団の移動や、耕作・家畜・道具の発展を実証的に探求できるようになった。",
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"text": "原郷問題についてまとまった著作をはじめて発表したのはアドルフ・ピクテ(英語版)であった。風間によれば、当時は研究の黎明期にあってインド学が充実しておらず、ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。風間によればこうしたアジアを理想化する偏った見方はピクテに限らず先に触れたシュレーゲルなど十九世紀前半に著しく見られるといい、ピクテは原郷として古代のバクトリアにあたるアムダリア川中流域を想定して東方説(アジア説)の端緒となった。",
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"text": "アジア説を批判してヨーロッパ説を導入した初期の代表的な人物に、サンスクリットを専門とするテーオドール・ベンファイがいる。ベンファイは、印欧諸語でライオン(あるいは大型肉食獣)を指す言葉がそれぞれ独立していて共通の語源を想定できないことを論拠にライオンの生息域を排したが、こじつけた感があり当時から注目を受けなかった。現代においては、ヨーロッパがライオンの生息域であった可能性と、印欧祖語の語彙にライオンが含まれているとする主張の両方から批判を受ける形となり、成立しない議論と考えられている。",
"title": "研究史"
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"text": "インドやイランなどアジアの言語とヨーロッパの言語が共通の祖先を持つという概念は、特にその話者にとってセンセーショナルに捉えられうる。学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される。",
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"text": "その典型的な例に、アーリアン学説がある。アーリア人は『リグ・ヴェーダ』や『アヴェスター』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味でヴィクトリア朝時代の社交界には既に広まっていた。 『リグ・ヴェーダ』を翻訳したマックス・ミュラーは、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる。ミュラーの影響を受けた典型例に挙げられるフランスの作家、アルテュール・ド・ゴビノーの『人種不平等論』(1853-1855年)は、人類を黒色・黄色・白色に大別し、白色人種に属するという「アーリア人」の文明性を謳った。マディソン・グラント(英語版)の『偉大な人種の消滅』(1916年)では、イギリス系かドイツ系のアメリカ人という意味で「アーリア人」を用い、ユダヤ人のほかにポーランド、チェコ、イタリア系の移民との混血を警告した。こうした欧米の思想の潮流の中で、ゴビノーのアーリア人種至上主義がヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『十九世紀の基礎』(1899年)や神秘思想家のヘレナ・P・ブラヴァツキーによって受け継がれた。チェンバレンの人種至上主義とブラヴァツキーの神智学には距離があったが、ドイツやオーストリアでそれぞれが受容されるにつれて結びついていき、「アリオゾフィ(英語版)」と呼ばれるアーリア人種至上主義を神智学によって解釈する思想が生まれた。アリオゾフィはナチズムの源流の一つとなって「アーリア=ゲルマン人種」といったイデオロギーに結実することになった。",
"title": "研究史"
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"text": "1990年代以降、ヒンドゥー・ナショナリズムのサンスクリットを称揚する言説の中でインド起源説が唱えられている。長田によれば、マックス・ミューラー以降の「アーリヤ人侵入説」の問題点は、ジム・シェーファー、レイモンド・オールチン(英語版)、アスコ・パルボラ(英語版)らによって学問的に批判されてきたほかに、ミューラーの直後からヒンドゥー改革者らによって宗教的な解釈に基づく批判も受けてきた。これらを受けて、デイヴィッド・フローリーとナヴァラトナ・ラージャーラーム(英語版)以降のヒンドゥー・ナショナリストたちは、著作の中で反アーリヤ人侵入説と並んで「印欧祖語=サンスクリット語、インド由来」論を展開している。長田は発端となったラージャーラームの主張を分析し、学問的な批判に耐えるものではないと結論づけている。",
"title": "研究史"
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"text": "現実的な歴史観にそぐわない政治利用の例は他にもあり、アンソニーは例としてアメリカの白人至上主義、女神運動(英語版)、ロシアのナショナリズム・ネオペイガニズムを挙げている。",
"title": "研究史"
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"text": "二十世紀に入って先史時代を扱う考古学が発達すると、言語学のみならず考古学の立場からも研究されるようになった。考古学を応用した初期の研究にグスタフ・コッシナ(英語版)による1902年のものがあるが、彼は始めから原郷がドイツにあると示す目的意識を持っていて、ナチスに政治利用されたことから原郷問題がタブー化した。",
"title": "研究史"
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"text": "原郷問題が考古学の研究分野として復活したのは、1950年代のマリヤ・ギンブタスによるクルガン仮説の提唱に始まるとされる。黒海ステップの前4000年以降の銅器時代の文化を、当該地域に特有に見られる墳丘墓の名前からクルガン文化と呼ぶ。クルガン仮説によれば、黒海北方のステップの遊牧民が印欧祖語の話者で、彼らは馬を家畜化すると前3600 - 2300年ごろにクルガン文化(の中のヤムナヤ文化)とともに印欧祖語を広めた。ジム・マロリー(英語版)やデイヴィッド・アンソニー(英語版)がこれに追随し、アンソニーはステップでの馬の家畜化と乗用の起源を示すことで説の補強を試みた。",
"title": "研究史"
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"text": "1987年にイギリスのコリン・レンフルーがアナトリア仮説を提出した。印欧祖族の故郷はアナトリア半島にあり、中央ギリシアに最初の農業経済を起こしてから前6500年以降に拡散したという、農業経済を軸にした提案だった。古代ギリシア語がヒッタイト語よりもサンスクリット語にはるかに類似しているという事実を説明できておらず、当時の社会に馬の存在はなかったとの主張は印欧祖語に馬の語彙が再建されることから退けられるなど、レンフルーの主張は既存の言語学の立場からはとくに懐疑視された。",
"title": "研究史"
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"text": "生物学者のラッセル・グレイ(英語版)とクエンティン・アトキンソンは、計算生物学の手法を用いた研究を2003年に発表した。言語年代学を改良して統計的に単語の類似を分析した結果、印欧祖語が各言語に分岐した年代は前6000年以前であると示され、アナトリア仮説を擁護した。",
"title": "研究史"
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"text": "アンソニーは、90年代以降の考古学を踏まえた研究を2007年の著作『馬・車輪・言語』に発表した。ポントス・カスピ海ステップを原郷においた印欧語の拡散の過程を描くことで、クルガン仮説を修正・補強してアナトリア仮説への反論を試みた。",
"title": "研究史"
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"text": "言語学者のアンドリュー・ギャレット(英語版)らは、2013年以降の研究で、解析を条件を変えて行うと分岐年代がグレイらより遅くに想定されるとしてグレイらが設定する前提を批判した。Balterによれば、グレイらはギャレットらの研究を継承した解析に取り組み、再びアナトリア仮説を支持する結果を得たという。",
"title": "研究史"
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"text": "レンフルーは、1994年に亡くなったギンブタスを記念する2017年の講演の中で、自説との両立を示唆しながらも“Marija’s Kurgan hypothesis has been magnificently vindicated.(マリヤのクルガン仮説は見事に立証された)”と発言しクルガン仮説を認めた。レンフルーの業績を称える2018年の記事では、言語年代学以外の立場からはアナトリア仮説は認められていないと指摘している。",
"title": "研究史"
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"text": "分化が始まった時点でのインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)は、多様な語形変化を持つ言語だったと想定されている。しかし時代が下り、言語の分化が大きくなると、各言語は概して複雑な語形変化を単純化させていった。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"text": "印欧祖語は、主語・目的語・動詞の語順が優勢なSOV型言語だったと考えられており、古い時代のインド・ヨーロッパ諸語、例えばヒッタイト語、インド・イラン語派の古典諸言語、ラテン語ではその特徴が見られる。但し、後にSOV型以外の語順の言語も現れ、SOV型は印欧語に典型的な語順とまでは言えなくなっている。現代では言語により語順は様々だが、ヨーロッパでは主語・動詞・目的語の語順が優勢なSVO型言語が比較的多く、ドイツ語のように本質的にはSOV型でも一見SVO型のように見えるSOV-V2語順の言語もある。一方、中東やインドでは現在でもSOV型言語が多い。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"text": "伝統的に五母音体系で再構されてきたが、喉音理論に基づいて/e~o~ゼロ/という、単一の母音がなんらかの規則に従って母音交替するモデルに修正された。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "印欧語族はケントゥム語とサテム語に大別されてきた。ケントゥムおよびサテムは、ラテン語およびアヴェスタ語で「百」を意味する単語で、ともに印欧祖語の*kjmtomに由来する単語であって言語間の発音の違いを代表しているため分類名に用いられた。この分類に従うと、ケントゥム語にはアナトリア語派、トカラ語派、ヘレニック語派、ゲルマン語派、ケルト語派、イタリック語派が属し、サテム語にはインド・イラン語派、バルト・スラブ語派、アルメニア語派、アルバニア語派が属することになる。祖語の時代からあった差異が系統となって現れたのか、各言語で独立に起こった変化であるのか議論されてきた。この結果として、必ずしも系統の違いを表すものではないと考えられるようになった。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"text": "印欧祖語とゲルマン祖語の間の時期に起きた子音推移を説明したものである。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"text": "グリムの法則に続いて起きる規則で、グリムの法則で生じた無声摩擦音が、直前にアクセントがある場合を除いて有声音になる。 グリムの法則が起こる前からあった無声摩擦音のsにも適用された。これもゲルマン祖語までの時期に起こった。",
"title": "印欧語族の歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "有気音が続くと、前の子音が無気化される法則。サンスクリットでは、dh - dh が d - dh になる。 後の有気音が、最後のsかtの前で無気音になっていると、作用しない。 ヘレニック語派にも起こるが、有気音が無声化された場合に限られている。d^h - d^h > t^h - t^h > t - th にように働く。 ヘレニック語派においても、後ろの有気音が無気音になっていると作用しない。 インド・イラン語派とヘレニック語派で独立に起きた。 インド・イラン語派, スラヴ語派, リトアニア語にみられる。",
"title": "印欧語族の歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "バルト語派とスラヴ語派のように分ける場合と、バルト・スラヴ語派とまとめる場合がある。また、詳細が分かっていないフリュギア語を数える場合とそうでない場合があり、少ない数え方で10、多い数え方で12が一般的なものである。",
"title": "語派"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "アナトリア語派は印欧祖語か、その原型にあたる言語から派生した最初の言語グループだと考えられている。ヒッタイト帝国の公用語であったヒッタイト語が最もよく知られていている。この語派に属する言語はすべて死語となっていて歴史的な資料にのみ残されている。",
"title": "語派"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "アナトリア祖語からヒッタイト語、ルウィ語、パラー語に分化し、その3つが大きな幹をなすと考えられている。多くはアッカド語から継承した楔形文字で記録されているが、象形文字ルウィ語とギリシア文字を基にしたアルファベットを用いるリュキア語が知られている。大城・吉田は、ルウィ語を楔形文字ルウィ語と象形文字ルウィ語に分類し、リュキア語、ミリア語(英語版)、リュディア語を加え7つを確定的なアナトリア語派として数えている。これによれば、リュキア語とミリア語はルウィ語に近く、派生した関係にあると考えられる。ヒッタイト語とパラー語の話し手は、コーカサス諸語と類縁関係にあるハッティ語話者の住んでいたアナトリア中部に侵入し、前1650~1600年ごろにヒッタイト帝国がハッティ族の独立王国を征服した。ヒッタイト語とパラー語にはにはハッティ語、ヒッタイト語にはさらにフルリ語、アッカド語に由来する借用がみられる一方、ルウィ語にはハッティ語からの借用は見られず「正体不明の非印欧の言語」からの借用がみられ、ハッティ語の中心地域から離れた地域で話されたことが示唆されている。",
"title": "語派"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "時制が現在と過去しかない、有性と中性の区別しかない、喉頭音の存在など他の古い印欧語と共通しない特徴を持つことで古い時代の印欧語の研究に繋がった。ヒッタイト語は再建されてきた印欧祖語と大きく異なっていて、印欧祖語のさらに前段階から分化したため狭義の印欧語にあたらないとするインド・ヒッタイト語仮説も提示されている。松本は、ヒッタイト語を特別扱いして既存の理解を保とうとするよりも、その示す事実を受け入れて比較文法の方法論じたいを再編しなおす動きのほうが優勢であるとしている。",
"title": "語派"
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{
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"tag": "p",
"text": "トカー語、トハラ語とも呼ばれる。中央アジアのタリム盆地北縁地域で8世紀まで話された。",
"title": "語派"
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"text": "ヘレン語派とも呼ばれる。単独で1語派として扱われる。",
"title": "語派"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "アルバニア語のみで1語派として扱われる。",
"title": "語派"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "印欧語に含まれることが判明してから、イリュリア語、トラキア語、ダキア語、ヴェネト語、エトルリア語など古代のバルカン諸語との関係が研究された。直野によればイリュリア語から発展したと考える研究者が多いという。",
"title": "語派"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "シュクンビン川を境界線として北部で話されているゲグ方言と、南部で話されているトスク方言に大きく分類される。アルバニア系のコミュニティはアルバニア共和国に隣接した地域にも存在していて、コソボ、マケドニア北西部、モンテネグロ南東部でゲグ方言が用いられている。また、アルバニア語から派生したものとして、イタリアのアルバニア系離散民に用いられるアルバレシュ語、ギリシアのアルバニア系離散民に用いられるアルヴァニティカ語がある。",
"title": "語派"
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{
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"text": "文字として最古の記録が15世紀と遅く、1462年にラテン文字で洗礼儀式に関する文書が記された。16世紀なかばのゲグ方言の文献が残っており、これに続いてトスク方言やアルバレシュで記された文献が残っている。これらの文献からは、方言差が大きくなかったことが伺われる。15世紀後半のオスマン・トルコ支配によって国土と宗教が分断された状態となり、差異が大きくなった。対応して、アラビア文字かギリシア文字が用いられるようになった。1908年に開かれた会議でアルバニア語ラテン文字が制定され、現在まで使われている。 19世紀以降、ゲグ方言に近いエルバサンのトスク方言を基礎として標準語を整備しようという提案がなされ、1952年と1972年の会議でこれに近い形の案が採択された。アルバニア国外でも文語としてはこれに従っているという。",
"title": "語派"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "名詞は男性名詞か女性名詞に分類され、限られた範囲で中性名詞が認められている。単数と複数のそれぞれで、主格, 属格, 与格, 対格, 奪格の5つの格を持つ。定冠詞を取らない名詞では主格と対格が一致し、属格, 与格, 奪格も一致する。形容詞は格変化せず、性と数に対応して変化するタイプとしないタイプがある。変化するタイプでも性と数のどちらかのみに対応するものも多く、4種類の変化をするのは不規則な形容詞がほとんどである。能動形を基本として多くの動詞が中動・受動態をもつ。法に直接法、接続法、条件法、願望法、感嘆法、命令法があり時称、態との関係は複雑である。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アルバニア語はバルカン言語連合に属するとされている。系統的な関係とは別に接触による収束が起こるもので、幅広い文法上の共通性が見られる。直野によれば特にルーマニア語と平行する点が多いという。数詞にはスラヴ語の影響が見られ、また15~16世紀にトルコ語とギリシア語から受けた影響が研究対象になっている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ケントゥム語群。イタリック語派と類似点が多い。前1000年代には中部ヨーロッパに広く分布していたが、現在はブリターニュ地方、アイルランド島やブリテン島ウェールズ地方、スコットランド地方などのみである。近年、マン島語、コーンウォール語が復活している他、スコットランドゲール語もスコットランドの公文書で使用されるようになっている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ大陸の中央部でゲルマン語やケルト語と隣接していたが、紀元前2千年紀の終りに近いころ北からイタリア半島に侵入し、前1000年ごろ南下してラティウムに定住した。紀元前10世紀のイタリア半島ではオスク語、ウンブリア語、ギリシア語のほかエトルリア語、ヴェネト語が地域によって分布していた。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "古代のイタリック語派にはオスク語、ウンブリア語、ラテン語、ファリスク語があり、オスク・ウンブリア語群とラテン・ファリスク語群に分類される。ラテン語は、ローマ建国のころには既にラティウムに定着していた。ラテン語は、こういったラテン人の諸言語の一つでしか無かったが、ローマの拡大に伴い勢力を増し、オスク・ウンブリア語やファリスク語だけでなくケルト諸語やイベリア語を置き換えて広範な分布に至った。ラテン語の最古文献は前6世紀末ごろであり、とくにローマのラテン語は前5世紀に記録されている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "文学作品が生まれる前、すなわち前3世紀後半に至るまでのラテン語は古ラテン語と呼ばれ、碑文と古典期の作家による引用で知られる。 古典ラテン語は、広義には前3世紀末から後2世紀まで、狭義には特に前1世紀のラテン語の文語を指す。狭義の古典ラテン語はラテン文学の黄金時代に対応している。散文はキケロの雄弁論にはじまり、カエサル『ガリア戦記』やティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』など、韻文ではルクレティウス、ウェルギリウスやオウィディウスらが多様な作品を残した。古典ラテン語は後の時代においても模範とされている。 ラテン文学が陰りを見せてから西ローマ帝国が崩壊するまでのラテン語を後期ラテン語という。3世紀以降、ローマ帝国でキリスト教が公認され、ラテン語はカトリック教会と結びついた。そのため後期ラテン語の時期は、ヒエロニムスによるラテン語訳聖書がなされるなど教会ラテン語が盛んになった時代でもあった。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "文学の興隆と同じくして文語と口語が乖離していき、およそBC200年からAD600年ごろまでの口語を俗ラテン語という。西ローマ帝国は5世紀に瓦解し、俗ラテン語のグループは分断された。俗ラテン語の文献資料は限られるが、プロブスによる用例集、ペトロニウス『サテュリコン』の「トリマルキオの饗宴」に見られる会話、400年頃の修道女の文章、無数の碑文などが残っている。また、後期ラテン語に特徴の混入が見られる。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "各地に広がった俗ラテン語は、それぞれの地域の基層言語によって影響を受け変化した(イタリアにおけるオスク語とエトルリア語、スペイン語に対するイベリア語、フランス語に対するケルト諸語、ルーマニア語に対するダキア語など)。ルーマニア語に対するスラヴ諸語、スペイン語・ポルトガル語・カタルーニャ語に対するアラビア語のような支配を通じた影響が生じたほか、フランク人との接触は西のグループ、特にフランス語に大きな影響をもたらした。他言語からの影響と並行して、それぞれの地域でも独自化が進み、ロマンス諸語の文献が現れる9世紀には既に統一性が失われていた。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "カール大帝(シャルルマーニュ)は俗ラテン語的な文語を憂慮し、カロリング・ルネサンスによって古典的なラテン語の復活を図ったが徹底されず、中世ラテン語が成立した。中世ラテン語は古典的な知識階級の共通語として機能した。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ラテン語には5つの曲用の型があって第2, 3, 4曲用名詞に中性があったが、ロマンス諸語では曲用が2つになり男性/女性と対応している。いずれのロマンス諸語も単数と複数の区別を持ち、西ロマンス諸語の複数の標識は -s であるが、中期フランス語で発音されなくなったため、フランス語では冠詞などによって表現される。現代ロマンス語ではルーマニア語を除いて格体系は消滅した。ルーマニア語は主格、対格、属格、与格、呼格の5格体系をなす。ラテン語は4種の活用形に分けられたが、ロマンス諸語ではEが融合し活用形を減らした。生産性に偏りが生じ、A, I, Eの順に例が多い。いくつかの言語ではEは用例が少なく、不規則動詞としたほうが適当だという。ラテン語の直説法、接続法、命令法からなる3つの法はロマンス諸語で保たれている。使用法が各言語によって異なるが、いくつかのロマンス諸語に共通して見られる時称として、未完了過去(半過去)、単純過去、複合過去、未来および条件法がある。現代ロマンス諸語では主語 - 動詞が頻繁に現れる基本的な語順で、外れるものは倒置と見なされる。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ギリシアアルファベットを参考にしてラテンアルファベットが成立したが、ギリシアアルファベットには無いQやFがあることからエトルリア文字が仲介していると考えられる。成立して以降に、ギリシア語の転写のためにYとZが加えられた。エトルリア語の音体系にはkとgの区別がないために文字も統合されていて、ラテン語でもCを双方の音に当てていたが、Cを元にGが作られた。ロマンス諸語は、全てラテンアルファベットを用いる。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ケントゥム語群。ヨーロッパ中北部が原郷。ゲルマン民族の大移動を経てロマンス諸語にも大きな影響を与えた。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ゲルマン人の原郷は、スカンジナビア半島南部や北ドイツのエルベ川下流域にかけての一帯だと考えられている。 民族移動によって紀元前1000年ごろには他地域へ拡張していて、4~5世紀のゲルマン民族の大移動をピークとして1500年以上続いた。 ゲルマン語族には、詳細のわからない先印欧語の語彙が流入していて、ゲルマン祖語の基礎語彙の3分の1が非印欧語由来だと考えられている。紀元前500年ごろのゲルマン人は、西は現在のオランダ語圏、東はヴィスワ川までの低地平原地帯、北はスウェーデン中部とノルウェー南部まで及んでいた。南と西でケルト語、東でバルト語、北でバルト・フィン諸語と接していて、相互に借用が行われた。南部域のケルト人やイリュリア人を放逐したゲルマン人は、紀元前後にローマ帝国の国境・黒海沿岸に達していた。紀元前後にゲルマン語の明確な分岐が始まったと考えられていて、当時のゲルマン人およびゲルマン語は、北、東、エルベ川、ヴェーザー・ライン川、北海の5つのグループに分かれていた。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "東ゲルマン語はゴート語につながり、4世紀になされたギリシア語聖書のゴート語訳はゲルマン語の最古のまとまった文献として写本が残っている。アンシャル体大文字を中心に、ラテン文字とゴート文字が用いられた。ゴート人は東ゴート人と西ゴート人に分裂し、イベリア半島とイタリアに王国を築いたほか、東ゴート人がクリミアに到達するなど大きく広がった。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "北ゲルマン語は北欧に位置し、ノルド語が成立した。ゲルマン語の断片的な最古の資料として、ルーン文字で刻まれたルーン碑文が残っている。音価と文字が正確に対応しており、実用的な文字だったと考えられている。ルーン文字は古ゲルマン語圏すべてに広がったが、10世紀末以降のキリスト教受容にともなってラテン文字に置き換えられていった。8世紀までスカンディナヴィアに留まっていた北ゲルマン人は、9世紀から11世紀のヴァイキング時代に遠征を繰り返した。デーン人は二度に渡ってイングランドを征服し、英語史に大きな影響を与えた。東方では、スウェーデン人ヴァイキングを中心にフィンランド・エストニアに進出した上にさらに南東に進み、ノヴゴロド公国やキエフ公国を築いた。ヴァイキング時代末期には、西ノルド語と東ノルド語の分岐が顕著になっていた。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "北海ゲルマン語は、アングロ・サクソン人を中心にするグループがブリテン島に移住し始めた5世紀半ば以降に、大陸部北海沿岸の諸部族による接触で成立したと考えられている。アングロ・サクソン人は600年ごろにキリスト教に改宗し、ラテン文字を使用した宗教関連の古英語の文献は700年ごろに現れる。フリジア語は16世紀以降使われなくなった。ザクセン語は高地ドイツ語圏に引き寄せられていき、低地ドイツ語の低ザクセン語として扱われている。古英語は典型的な北海ゲルマン語であったが、デーン人やノルウェー人ヴァイキングによるノルド語との接触と、ノルマン・コンクエストによるフランス語との接触によって形態の簡素化が起こり、屈折の少ない分析的な言語となった。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "エルベ川とヴェーザー・ライン川のグループは内陸ゲルマン語として括られ、主要な古語として古高ドイツ語と古オランダ語がある。とくにヴェーザー・ライン川ゲルマン語の古フランケン方言を話すフランケン人は西ローマ帝国滅亡後に勢力を拡大し、6世紀のテューリンゲン族(英語版)征服を皮切りにアレマン人、バイエルン人、ザクセン人を征服し隷従させた。8世紀にフランク王国のドイツ語話者にキリスト教が広まり、9世紀には『タツィアーン』やヴィッセンブルグのオトフリート(英語版)による『福音書』などキリスト教文学が興隆した。古オランダ語のまとまった文献は10世紀初めのヴァハテンドク詩篇に現れる。現代標準ドイツ語はエルベ川ゲルマン語に由来する上部ドイツ語、ヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する中部ドイツ語、上記の北海ゲルマン語に由来する低地ドイツ語を統合して成立した。標準オランダ語はヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する低地フランケン方言を母体とし、北海ゲルマン語に由来するオランダ語低地ザクセン方言を統合して成立した。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ゲルマン祖語は与格が奪格と所格の役割を担い、6格組織であった。その後、主格が呼格を、与格が具格を吸収し4格組織に近づいていった。文法性を失ったのは英語とアフリカーンス語、デンマーク語ユトランド方言に限られていて、他のゲルマン諸語には見られる。双数はゲルマン祖語で衰退しつつあり、ゴート語が限定的に残しているが、他の古語では複数に取り込まれた。現代語では北フリジア語の方言に見られるが、話し言葉ではほとんど用いないという。北ゲルマン語とオランダ語では、男性と女性が「通性(共性)」に合流し、中性とあわせ二性体制になっている。ゲルマン祖語の時点でアオリスト語幹が破棄されていて、語形変化は強変化と弱変化に収束した。アスペクトに対応する語形変化はなく、助動詞による迂言形で表現する。西ゲルマン語では現在完了形が過去の表現として多用され、過去形が使われない言語もある。接続法が直接法に吸収されているため、現在形が未来の出来事も表す。ドイツ語やオランダ語で副次的にSOV順の語形が用いられるが、SVO順が一般的になっている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "東ヨーロッパに分布する。ゲルマン語派・ロマンス諸語に比べ言語的改新が見られず、保守的であるとされる。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "スラヴ語は、西スラヴ語群、南スラヴ語群、東スラヴ語群の3つに分類されている。 9世紀半ばまでにはスラヴ人の居住地域は西、東、南の3つに分かれていた。 印欧祖語から分離し、古代教会スラヴ語が成立するまでのスラヴ語を共通スラヴ語と呼ぶ。 共通スラヴ語時代のスラヴの知識人は文語としてギリシア語やラテン語、古フランク語を使っていたと考えられている。9世紀後半に西スラヴのモラヴィア王国では、東フランク王国の影響力から脱するためビザンツ帝国に要請してメトディオスとキュリロスの兄弟が教主として派遣された。キュリロスがスラヴ語典礼に使う文字体系としてグラゴル文字を考案し、スラヴ語の文語である古代教会スラヴ語が成立した。モラヴィア国内での兄弟の事業は難航したが、弟子たちが第一次ブルガリア帝国で活動することでスラヴ語典礼の伝統は保たれ、グラゴル文字の体型にギリシア文字を導入することでキリル文字が成立した。古代教会スラヴ語はポーランドとクロアチアを除くスラヴ語圏全体に拡散した後、それぞれの隣接した地域の言語から影響を受けるなどして多様性を増し、研究者たちは1100年ごろを古代教会スラヴ語が共通性を失った時期の目安としている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "10世紀末から11世紀には東西南の差異がルーシ人、スラヴ人、ブルガリア人の言葉の違いとして認識されていた。東西南の内部でも支配体制による分断があり、12世紀ごろからそれぞれの地域内でも別個の言語として独立して認識されるようになった。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "共通して男性、女性、中性の区別と、7つか6つの格がある。男性単数に生物と無生物の区別があり、西語群では人を表す男性名詞複数形「男性人間形」が17世紀頃に成立した。スロヴェニア語とソルブ語が双数を残し、他の言語では複数に合流したが、2を表す数詞に名残がある。動詞には直説法、命令法、仮定法があり、直接法の中に現在、過去、未来の3つの時制と完了体と不完了体の2つのアスペクトの組み合わせがある。 先に述べたように西方教会とラテン語典礼が、東方教会とスラヴ典礼が結びついた歴史がある。この結果として西語群ではラテンアルファベットが、東語群ではキリル文字が、南語群ではキリル文字とラテンアルファベットが用いられている。ラテンアルファベットを用いる南語群では、ガイ式ラテン・アルファベットやその変種が用いられる。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "サテム語群。西アジア~南アジアにかけて分布。インド語派とイラン語派は発見されているもっとも古い言語同士で意思疎通が可能なほど似通っており、まとめて扱われる。印欧語族の分類は一般に12語派程度で表現されるが、その場合ダルド語派とカーフィル語派を数えていない。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "アルメニア語のみで一語派として扱われる。かつてイラン系の言語であると考えられたほどイラン語群からの語彙の借用が多く、イラン系のみならずチュルク語族やコーカサス諸語から語彙の借用をはじめとして様々な影響を受けたと考えられている。現代口語は、東アルメニア語と、西アルメニア語に分類される。東アルメニア語はアルメニア共和国を含む旧ソ連圏に、西アルメニア語が世界に散在するアルメニア人におよそ対応している。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "5世紀初頭に当時のアルメニア語が持つ音素に対応するアルメニア文字が考案された。ギリシアやシリアの影響から脱してアルメニア語で聖書を記す目的が背景にあり、ギリシア文字を主要なモデルとしているが、字形は大きく異なっている。11世紀ごろから文語と口語の音声の差異が目立つようになり、音と文字が対応していない状態となっていた。ソビエト連邦時代の1922年と1940年に正書法の改革が実施され、東アルメニア語では文字と音の対応関係が単純になった。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "希求法が接続法に合流していて、直説法、命令法、接続法の3つの法がある。3つの時制があり、未完了過去と未完了未来が特異な発達をしている。古典アルメニア語でアオリストと完了形が融合して現代アルメニア語の完了(単純過去と未完了過去)が生じた結果、両者の時制の機能と語幹が含まれるようになった。名詞・形容詞は主格、体格、属格、与格、奪格、具格に格変化する。文法上の性はなく、人称代名詞も性の区別がない。ふつう動詞が語頭にくることはなく、定動詞後置を原則とするが、強調したい語を前におく一定の自由度がある。 形態や統辞法では印欧祖語に由来する要素が優勢である。一方で記録以前の時代に、アクセントが終わりから2番目の音節に固定したことが、母音の弱化と最終音節の消失をもたらしていて、音韻・語構造は独特である。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "伝統的には屈折語に分類される。古い印欧語と比較すると、母音の長短の区別、文法性、双数がなくなっている。さらに屈折の型が一定化に進んでいる、格の融合現象が見られる、動詞の叙法・時制組織が大きく単純化されているなど多様な単純化が起こっている。岸田は現代アルメニア語の形態について膠着的な面が強まってとしている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "アルメニア語の研究を行った言語学者のアントワーヌ・メイエによる『史的言語学における比較の方法』によってアルメニア語の基数詞が大きく変化しながらも印欧祖語に由来するものだと立証されている。",
"title": "語派"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "所属は遺伝的関係によって決定され、すべてのメンバーが印欧祖語を共通の祖先に持つと推定される。インド・ヨーロッパ語族の下の語群・語派・分枝への所属を考えるときも遺伝は基準となるが、この場合にはインド・ヨーロッパ語族の他の語群から分化し共通の祖先を持つと考えられる言語内での共用イノベーションが定義の要素となる。たとえば、ゲルマン語派がインド・ヨーロッパ語族の分枝といえるのは、その構造と音韻論が、語派全体に適用できるルールの下で記述しうるためである。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の起源は印欧祖語であると考えられている。印欧祖語の分化と使用地域の拡散が始まったのは6,000年前とも8,000年前とも言われている。その祖地は5,000–6,000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)とするクルガン仮説と、8000–9500年前のアナトリア(現在のトルコ)とするアナトリア仮説があるが、言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既にヨーロッパからアジアまで広く分布していた。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "この広大な分布に加えてその歴史をみると、前18世紀ごろから興隆した小アジアのヒッタイト帝国の残したヒッタイト語楔形文字(楔形文字の一種)で書かれたヒッタイト語(アナトリア語派)の粘土板文書、驚くほど正確な伝承を誇るヴェーダ語(インド語派)による『リグ・ヴェーダ』、そして戦後解読された紀元前1400年‐紀元前1200年ごろのものと推定される線文字Bで綴られたミケーネ・ギリシャ語(ギリシア語派)のミュケナイ文書など、紀元前1000年をはるかに遡る資料から始まって、現在の英独仏露語などの、およそ3,500年ほどの長い伝統を有する。これほど地理的・歴史的に豊かな、しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて19世紀に言語の系統を決める方法論が確立され、語族という概念が成立した。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "インド・ヨーロッパ諸語は理論的に再建することのできる、一つのインド・ヨーロッパ共通基語もしくは印欧祖語と呼ばれる共通の祖先から分化したと考えられている。現在では互いに別個の言語であるが、歴史的にみれば互いに親族の関係にあり、それらは一族をなすと考えることができる。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "これは言語学的な仮定である。一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか、その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的に見る限り、インド・ヨーロッパ語の各語派は歴史の始まりから、すでに歴史上に見られる位置にあって、それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は、言語史的に推定するしか方法はない。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "またギリシア北部からブルガリアに属する古代のトラキアにも若干の資料があるが、固有名詞以外にはその言語の内容は明らかでない。またイタリア半島にも、かつてはラテン語に代表されるイタリック語派の言語以外に、アドリア海沿いで別の言語が話されていた。中でも南部のメッサピア語碑文は、地名などの固有名詞とともにイタリック語派とは認められず、かつてはここにイリュリア語派の名でよばれる一語派が想定されていた。しかし現在ではこの語派の独立性は積極的には認められない。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレーとクェンティン・アトキンスン (Russell D. Gray, Quentin D. Atkinson)の言語年代学的研究によれば、インド・ヨーロッパ祖語は約8700 (7800–9800) 年前にヒッタイト語につながる言語と、その他の諸語派につながる言語に分かれたという結果が出て、アナトリア仮説が支持された。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "グレーとアトキンスンは、この語族の87言語の基本単語2,449語について、相互間に共通語源を持つものがどれほどあるかを調べ、言語間の近縁関係を数値化し、言語の系統樹を作成した。この系統樹によれば、まずヒッタイトの言語が登場、その後、7,000年前までにギリシャ語を含むグループ、アルメニア語を含むグループが分かれ、5,000年前までに英語、ドイツ語、フランス語などにつながるグループができたという。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "Gray & Atkinson 2003による、系統樹と、祖語の年代を以下に示す。年代の単位はBP(年前)。( ) 内はブートストラップ値(グループの確実さ)で、不確実な分岐も図示されていることに注意。とくにいくつかのブートストラップ値は50未満という低い数字となっており、系統分岐の仕方そのものが正しくない可能性を示している。また、死語のほとんど(トカラ語派とヒッタイト語以外)と一部の現存言語グループ(ダルド語派、カーフィル語派)が解析対象となっていない。また、この方法では2つ以上の言語の融合(例:プロト・スラヴ語ないしプロト・バルト=スラヴ語の、インド・イラン語派の諸言語の影響によるサテム語化)は正しく解析されない。そのため、ブートストラップ値次第では語派の祖語の年代は図の年代よりさらに古くも新しくもなりうる。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ヒッタイト語(おそらくはそれを含むアナトリア語派)が最初に分岐したことがわかる。また、サテム諸語(バルト・スラヴ語派、インド・イラン語派、アルバニア語、アルメニア語)は一まとまりの言語系統ではない。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語話者の拡散はY染色体ハプログループR1b (Y染色体)およびハプログループR1a に対応する。R1bはヨーロッパ西部に高頻度であり、R1a系統はインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布している。R1bはケントゥム語、R1aはサテム語の担い手である。印欧祖語が話されたヤムナ文化の人骨からはハプログループR1b (Y染色体)が91.5%の高頻度で検出されているが、R1aは検出されていない。そのため、元来の印欧語族話者はR1bであり、ある時点でR1a集団が印欧語に言語交替を起したものと考えられ、その際にR1a集団の基層言語の特徴がサテム語の特徴として受け継がれたものと思われる。",
"title": "系統の試み"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "「語族」の定義により、印欧語族と他の語族との間の系統関係は未知だが、形態素の類似などからウラル語族との同系説(インド・ウラル語族)、文法性の存在などから北西コーカサス語族との同系説(ポンティック語族)、屈折の仕方などからセム諸語との同系説(インド・セム語族(英語版))などが存在する。",
"title": "他の語族との関係"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "インド・ヨーロッパ祖語が、北西コーカサス語族を基層とし、ウラル語族のような北ユーラシアの言語を上層言語とする混合言語であるとする説もある。",
"title": "他の語族との関係"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "更に、ウラル語族、アルタイ諸語、日琉語族、チュクチ・カムチャッカ語族、エスキモー・アレウト語族などとの関係を主張するユーラシア大ずるノストラティック大語族説、終局的にはボレア語族や世界祖語との関係を論ずる説もある。",
"title": "他の語族との関係"
}
] |
インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、インドからヨーロッパにかけた地域に由来する語族である。 英語・スペイン語・ロシア語などヨーロッパに由来する多くの言語と、ペルシア語やヒンディー語などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。 印欧語族(いんおうごぞく)と略称される。
|
{{語族
|name = インド・ヨーロッパ語族
|region = 植民地時代以前: [[ユーラシア大陸]]および北アフリカ<br/>
現代:世界的
|Urheimat = [[ポントス・カスピ海ステップ]]([[クルガン仮説]])
|familycolor = Indo-European
|family =
|proto-name = [[インド・ヨーロッパ祖語]]
|iso2=ine
|iso5=
|map = [[File:Indo-European branches map.png|center|300px]]
|mapcaption=現代のユーラシア大陸におけるインド・ヨーロッパ語族の分布
{{legend|#00cdff|[[アルバニア語]]}}
{{legend|#800080|[[アルメニア語]]}}
{{legend|#00d400|[[バルト・スラヴ語派]] ([[バルト語派]])}}
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{{legend|#c0c0c0|非印欧語族}}
}}
'''インド・ヨーロッパ語族'''(インド・ヨーロッパごぞく)は、インドからヨーロッパにかけた地域に由来する[[語族]]である<ref name=Heibonsha>風間喜代三「インド・ヨーロッパ語族」平凡社『世界大百科事典 3』2009年改訂新版.</ref><ref name=Nipponica>風間喜代三「インド・ヨーロッパ語族」p.849-851. 小学館『日本大百科全書 2』1985.</ref><ref name=Britannica>Joshua Whatmough, 竹内公誠訳「インド=ヨーロッパ語族」p.502-504. TBSブリタニカ『ブリタニカ国際大百科事典 2』第3版, 1995.</ref>。
[[英語]]・[[スペイン語]]・[[ロシア語]]などヨーロッパに由来する多くの言語{{Efn2|この語族に属しないヨーロッパの言語に、スペイン・バスク地方の[[バスク語]]。[[フィンランド語]]や[[ハンガリー語]]など[[ウラル語族]]の[[フィン・ウゴル語派]]に属する言語、[[ジョージア語]]などの[[コーカサス諸語]]などがある{{sfn|レンフルー|1993|pp=90-92}}。}}と、[[ペルシア語]]や[[ヒンディー語]]などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。
'''印欧語族'''(いんおうごぞく)と略称される。
== 特徴 ==
語彙や文法にまたがった幅広い共通性が18世紀末以降の研究によって見出され、19世紀前半に語族を構成する言語が[[死語 (言語)|死語]]を除いて確定された。すべての印欧語は共通の祖先にあたる言語を持っていると考えられ、'''[[インド・ヨーロッパ祖語]]'''ないし'''印欧祖語'''と呼ぶ。文字が記録されていない時代の言語であるものの、研究が積み重ねられることで実像が提示されつつあり、[[ポントス・カスピ海ステップ]]に出自を持つ[[ヤムナヤ文化]]の担い手が紀元前4000年ごろには話していた[[屈折語]]であったとする[[クルガン仮説]]とその修正版が中心的な説になっている。
分類方法や呼称には差異があるが、現代に用いられている言語は[[アルバニア語]]、[[アルメニア語]]、[[イタリック語派]]、[[インド・イラン語派]]、[[ケルト語派]]、[[ゲルマン語派]]、[[バルト・スラヴ語派]]、[[ヘレニック語派]]の8つの語派にさらに分類される。20世紀初頭の研究によって、紀元前に[[アナトリア半島]]で用いられた言語と、8世紀頃まで[[タリム盆地]]北縁地域で用いられていた言語がそれぞれ印欧語に含まれることが示され、それぞれ[[アナトリア語派]]と[[トカラ語派]]と名付けられた。
文献が登場する以前の[[先史時代]]にはインドからヨーロッパにかけた地域に大きく拡散していた。植民地時代以降に[[英語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[フランス語]]などのヨーロッパの言語が全世界的に広められ、[[アメリカ大陸]]や[[オーストラリア大陸]]での支配的な言語となったほか、アフリカやアジアの複数の地域でも大きな位置を占めた。印欧語族は現代において[[母語]]話者が最も多い語族であり、2010年代以降の統計によれば約30億人が第一言語として用いている<ref name =Balter2016/>。2000年以降の調査で、母語話者の多い言語には2億人以上のものに[[英語]]、[[ヒンディー語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、1億人以上のものに[[ロシア語]]、[[ベンガル語]]がある<ref>{{Cite book |last= |first= |author=British Council |authorlink= |coauthors= |title=Languages for the future: which languages the UK needs most and why ? |publisher= |location= |language= |year=2013 |page=7 |id= |isbn=978-0-86355-722-4 |quote= |url=https://www.britishcouncil.org/sites/default/files/languages-for-the-future-report.pdf |format=pdf}}
</ref>。
== 研究史 ==
=== 語族概念の発見と研究の発展 ===
言語間に系統的な関係があるという考えやそれに基づいた比較研究は印欧語族が、他の語族に先んじたものであり、印欧語族の研究史と[[比較言語学]]の研究史はその始まりにおいて重なっている<ref name =Kazama7800>風間1978, p.1-12. 序章「言語の親族関係」</ref><ref name =Yoshida1>吉田2005, p.1-7. 第1章「比較言語学の基本原理」</ref>。そのため印欧語族の研究で見出された概念は他の語族、あるいは広く言語学の研究に応用されることになった。
==== ジョーンズと揺籃期の研究者たち ====
{{See also|ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)}}
[[File:Sir William Jones.jpg|right|thumb|200px|ジョーンズの肖像]]
ヨーロッパとインドで使われる言語の関係を指摘する者は以前にもいたものの、研究が進む契機となったのは18世紀末にイギリス人の[[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]によってなされた指摘であった。ジョーンズは植民地インドの判事として現地法を研究しており、1784年に[[ベンガル・アジア協会]]を組織した。[[サンスクリット]]を学び始めたジョーンズは、その語根や文法の構造が、ヨーロッパの諸語、とりわけ[[ラテン語]]と[[ギリシア語]]に類似していることに気付き、共通の祖先にあたる言語が想定されるという考えを発表した<ref name = Tanaka88>{{Cite journal |和書|author=田中利光 |authorlink= |title=ウィリアム・ジョーンズと印欧語族の認識 |journal=言語研究 |volume=93 |issue= |publisher=日本言語学会 |date=1988年 |pages=61-80 |naid=110000425376 |ref= }}</ref><ref>アンソニー『馬・車輪・言語(上)』、p.18-20。</ref>。この指摘に研究が触発されたことから歴史的な重要性が認められるが、発表の本筋とは離れた小さな扱いであった。また、[[旧約聖書]]が描くような単一の人類の原祖を想定したジョーンズの関心は民族史や[[文化史]]にあり、それぞれの言語に深い関心を持ちつつも印欧語を俯瞰した研究を深めようとはしなかった<ref name = Tanaka88/><ref name =Kazama7801>第一章「類似の発見」風間1978, p.13-31.</ref>。
ジョーンズの示唆を実証する研究はイギリスでは進まず{{efn2|イギリスでは、[[ジェームズ・ミル]]による『英領インド史』によってインドや広くアジアの文化を文化と認めない、改良の対象である野蛮とする見方が方向づけられた。功利主義と結びついた見方は植民地経営に都合が良く、ジョーンズのような知印派は評価されなかったという背景が指摘されている{{sfn|長田|2002|pp=39-41}}。}}大陸に移ることとなった。この先駆的時代の研究に[[フリードリヒ・シュレーゲル]]、[[フランツ・ボップ]]、[[ラスムス・ラスク]]、フリードリヒの兄の[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル]]、[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト|W.v.フンボルト]]、[[ヤーコプ・グリム]]らによるものがある。フリードリヒ・シュレーゲルは1808年の著作『{{仮リンク|インド人の言語と英知|de|Über die Sprache und Weisheit der Indier}}』でサンスクリットとヨーロッパの言語の比較を試みた<ref name =Kazama7802>風間1978, p.33-42. 第二章「比較文法の誕生」.</ref>。ボップとラスクの著作は、比較言語学の第一作を争うものとして知られている。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフンボルトは、フリードリヒ・シュレーゲルの分類を発展させて[[屈折語]]・[[孤立語]]・[[膠着語]]・[[抱合語]]という言語の四類型を立てた。グリムはラスクの論を受け継いでゲルマン祖語に起きた音韻法則である[[グリムの法則]]を見出した<ref name =Kazama7804>風間1978, p.75-119. 第四章「言語は変化する」</ref>。また黎明期の研究を総括した[[アウグスト・シュライヒャー]]によって、印欧祖語を再建する初めての試みが1861年の『印欧諸語比較文法便覧』(Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen)で提出された<ref name =Kazama7805>風間1978, p.121-158. 第五章「印欧祖語の再建」.</ref><ref>松本2006, p.27-33.</ref><ref>{{Kotobank|シュライヒャー}}</ref>。重要な業績が残された一方で、音声学の視点を欠く不完全さがあったともされる<ref name =Kazama7802/><ref name =Kazama7804/>。
ジョーンズはサンスクリット、ラテン語、ギリシア語を中心として[[ゴート語]]、[[ケルト語]]、[[古代ペルシア語]]の資料を用いていた。シュレーゲルは[[アルメニア語]]と[[スラヴ語]]が語族に含まれることを示唆したが、確証はしなかった。語族の構成員を探る試みは主にボップによってなされ、1838年および1854年の講演ではケルト語と[[アルバニア語]]が帰属することを示した。彼の死後の1868年から1871年にかけて公刊された『比較文法』の第三版ではアルメニア語とスラヴ語が含まれることを示し、これによって[[死語 (言語)|死語]]となっていない語派の構成が確定した<ref name =Kazama7803/>。
言語のグループを指す用語として[[トマス・ヤング]]による「インド・ヨーロッパ語」が1813年に提出された{{Efn2|ヤングは新造語との断りを記していないという<ref name=Britannica/>。また、これがイギリス以外に広まるのに20年ほどかかり、1836年にフランス語訳indo-européenが現れる<ref name =Kazama7803/>。}}。現代において、ドイツ語圏においてのみ[[ユリウス・ハインリヒ・クラプロート]]が1823年に提唱したインド・ゲルマン語という名称が用いられ({{lang-de|[[:de:Indogermanische Sprachen|Indogermanische Sprachen]]}})、その他の言語ではインド・ヨーロッパ語に相当する呼称が用いられる<ref>風間1993, p.11.</ref><ref name =Kazama7803>風間1978, p.43-73. 第三章「印欧語の世界」</ref>。
==== 学問体系の確立 ====
{{See also|青年文法学派}}
[[ゲオルク・クルツィウス]]は分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだ[[ライプツィヒ大学]]に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、[[青年文法学派]]と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者の[[カール・ブルークマン]]の説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、[[ヨハネス・シュミット]]や{{仮リンク|アダルバート・ベッツェンベルガー|en|Adalbert Bezzenberger}}、{{仮リンク|ヘルマン・コーリッツ|en|Hermann Collitz}}らの批判を受け議論は紛糾した<ref>風間1993 p.7-8。</ref><ref name =Kazama7806>風間1978, p.121-158. 第六章「印欧祖語の再建」</ref>。[[ファイル:Ferdinand de Saussure by Jullien.png|right|thumb|200px|ソシュールの肖像]]ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があった[[フェルディナン・ド・ソシュール]]が1878年に提出した論文『[[印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き]]』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった<ref>風間1993, p.26-27.</ref>。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが<ref name =Matsumoto0636/>、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。
結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究は[[ドイツロマン主義]]の隆盛と相まってドイツで盛んとなった<ref>アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.20-21.</ref><ref>風間1993, p.26-98</ref>。
==== 死語の研究による語族の拡大 ====
{{See also|喉音理論}}
19世紀末以降の調査によって、[[タリム盆地]]で発見された複数の文書の中に正体不明のものがあり、1908年に解読されてトカラ語と名付けられた言語は、印欧語族に含まれることが示された。20世紀に入ると、小アジアで用いられ紀元前に死語となった未知の言語が碑文から研究され、ヒッタイト語と名付けられた。ヒッタイト語は、1915年以降に発表された研究で印欧語族に含まれるか、少なくとも類縁関係にあることが明らかになった<ref name =Matsumoto0622>松本2006, p.22-23.</ref>。[[イェジ・クリウォヴィチ]]は、解読されたヒッタイト語の喉音がソシュールの言うソナント音に対応していることを指摘した上で理論を発展させ、これ以降の研究によって[[喉音理論]]が成立した<ref name =Matsumoto0636>松本2006, p.36-38.</ref>。
=== 原郷問題 ===
インド・ヨーロッパ語族や、あるいは話者のグループの原郷について現代にはクルガン仮説が中心的な説となっているが、これに至るまでに議論の歴史がある。言語学から探求された時代には、印欧諸語の語彙を突き合わせ印欧祖語の語彙を挙げ、その特徴から地域を特定しようとする方法が取られた。[[考古学]]の発達につれ、こうした手法に加え、集団の移動や、耕作・家畜・道具の発展を実証的に探求できるようになった。
==== 言語学からの探求 ====
原郷問題についてまとまった著作をはじめて発表したのは{{仮リンク|アドルフ・ピクテ|en|Adolphe Pictet}}であった。風間によれば、当時は研究の黎明期にあって[[インド学]]が充実しておらず、ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。風間によればこうしたアジアを理想化する偏った見方はピクテに限らず先に触れたシュレーゲルなど十九世紀前半に著しく見られるといい、ピクテは原郷として古代の[[バクトリア]]にあたる[[アムダリア川]]中流域を想定して東方説(アジア説)の端緒となった<ref>風間1993, p.29-30.</ref>。
アジア説を批判してヨーロッパ説を導入した初期の代表的な人物に、サンスクリットを専門とする[[テーオドール・ベンファイ]]がいる。ベンファイは、印欧諸語で[[ライオン]](あるいは大型肉食獣)を指す言葉がそれぞれ独立していて共通の語源を想定できないことを論拠にライオンの生息域を排したが、こじつけた感があり当時から注目を受けなかった<ref>風間1993, p.32.</ref>。現代においては、ヨーロッパがライオンの生息域であった可能性<ref>マルティネ2003、p.301-302</ref>と、印欧祖語の語彙にライオンが含まれているとする主張{{efn2|後者については、{{仮リンク|タマズ・ガムクレリッゼ|en|Tamaz V. Gamkrelidze}}と{{仮リンク|ヴャチェスラフ・イヴァノフ|en|Vyacheslav Ivanov (philologist)}}が1973年の著作で印欧祖語にライオンやヒョウの語彙が含まれると主張している<ref>アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.146-147.</ref>。}}の両方から批判を受ける形となり、成立しない議論と考えられている。
==== 政治利用 ====
{{See also|アーリアン学説|ヒンドゥー・ナショナリズム}}
インドやイランなどアジアの言語とヨーロッパの言語が共通の祖先を持つという概念は、特にその話者にとってセンセーショナルに捉えられうる。学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される<ref name = Anthony18a18/>。
その典型的な例に、[[アーリアン学説]]がある。アーリア人は『[[リグ・ヴェーダ]]』や『[[アヴェスター]]』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味で[[ヴィクトリア朝]]時代の社交界には既に広まっていた<ref name = Anthony18a18/>。
『リグ・ヴェーダ』を翻訳した[[マックス・ミュラー]]は、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる<ref name=Ohta2013>大田2013, pp.79-104.</ref>。ミュラーの影響を受けた典型例に挙げられるフランスの作家、[[アルテュール・ド・ゴビノー]]の『人種不平等論』(1853-1855年)は、人類を黒色・黄色・白色に大別し、白色人種に属するという「アーリア人」の文明性を謳った<ref name=Ohta2013/>。{{仮リンク|マディソン・グラント|en|Madison Grant}}の『偉大な人種の消滅』(1916年)では、イギリス系かドイツ系のアメリカ人という意味で「アーリア人」を用い、ユダヤ人のほかにポーランド、チェコ、イタリア系の移民との混血を警告した<ref name = Anthony18a18/>。こうした欧米の思想の潮流の中で、ゴビノーのアーリア人種至上主義が[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]の『十九世紀の基礎』(1899年)や神秘思想家の[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]によって受け継がれた。チェンバレンの人種至上主義とブラヴァツキーの[[神智学]]には距離があったが、ドイツやオーストリアでそれぞれが受容されるにつれて結びついていき、「{{仮リンク|アリオゾフィ|en|Ariosophy}}」と呼ばれるアーリア人種至上主義を神智学によって解釈する思想が生まれた。アリオゾフィは[[ナチズム]]の源流の一つとなって「アーリア=ゲルマン人種」といったイデオロギーに結実することになった<ref name=Ohta2013/>。
1990年代以降、[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]のサンスクリットを称揚する言説の中でインド起源説が唱えられている。長田によれば、マックス・ミューラー以降の「アーリヤ人侵入説」の問題点は、ジム・シェーファー、{{仮リンク|レイモンド・オールチン|en|Raymond Allchin}}、{{仮リンク|アスコ・パルボラ|en|Asko Parpola}}らによって学問的に批判されてきたほかに、ミューラーの直後からヒンドゥー改革者らによって宗教的な解釈に基づく批判も受けてきた。これらを受けて、[[デイヴィッド・フローリー]]と{{仮リンク|ナヴァラトナ・ラージャーラーム|en|N. S. Rajaram}}以降のヒンドゥー・ナショナリストたちは、著作の中で反アーリヤ人侵入説と並んで「印欧祖語=サンスクリット語、インド由来」論を展開している。長田は発端となったラージャーラームの主張を分析し、学問的な批判に耐えるものではないと結論づけている{{sfn|長田|2002|pp=136-166}}。
現実的な歴史観にそぐわない政治利用の例は他にもあり、アンソニーは例としてアメリカの[[白人至上主義]]、{{仮リンク|女神運動|en|Goddess movement}}、ロシアのナショナリズム・[[ネオペイガニズム]]を挙げている<ref name = Anthony18a18/>。
==== 関連する学問分野の拡大 ====
二十世紀に入って[[先史時代]]を扱う[[考古学]]が発達すると、言語学のみならず考古学の立場からも研究されるようになった。考古学を応用した初期の研究に{{仮リンク|グスタフ・コッシナ|en|Gustaf Kossinna}}による1902年のものがある<ref>レンフルー1993, p.25.</ref>が、彼は始めから原郷がドイツにあると示す目的意識を持っていて、ナチスに政治利用されたことから原郷問題がタブー化した<ref name = Anthony18a18>アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.18-26.</ref><ref name =Balter2016>Michael Balter, 日経サイエンス編集部 訳「言語学バトル 印欧語族の起源をめぐって」『日経サイエンス』2016年9月号、pp.84-90.</ref>。
[[File:Prof-Dr-Marija-Gimbutas-Copyright-Foto-Monica-Boirar-aka-Monica-Beurer.jpg|right|thumb|220px|ギンブタスの肖像]]
原郷問題が考古学の研究分野として復活したのは、1950年代の[[マリヤ・ギンブタス]]による[[クルガン仮説]]の提唱に始まるとされる。黒海ステップの前4000年以降の銅器時代の文化を、当該地域に特有に見られる[[墳丘墓]]の名前からクルガン文化と呼ぶ。クルガン仮説によれば、黒海北方のステップの遊牧民が印欧祖語の話者で、彼らは[[馬]]を家畜化すると前3600 - 2300年ごろにクルガン文化(の中の[[ヤムナヤ文化]])とともに印欧祖語を広めた。{{仮リンク|ジム・マロリー|en|J. P. Mallory}}や{{仮リンク|デイヴィッド・アンソニー|en|David W. Anthony}}がこれに追随し、アンソニーはステップでの馬の家畜化と乗用の起源を示すことで説の補強を試みた<ref name =Balter2016/>。
1987年にイギリスの[[コリン・レンフルー]]が[[アナトリア仮説]]を提出した。印欧祖族の故郷はアナトリア半島にあり、中央ギリシアに最初の農業経済を起こしてから前6500年以降に拡散したという、農業経済を軸にした提案だった。古代ギリシア語がヒッタイト語よりもサンスクリット語にはるかに類似しているという事実を説明できておらず、当時の社会に馬の存在はなかったとの主張は印欧祖語に馬の語彙が再建されることから退けられる<ref>吉田2005, p.60-61.</ref>など、レンフルーの主張は既存の言語学の立場からはとくに懐疑視された<ref name =Balter2016/>。
生物学者の{{仮リンク|ラッセル・グレイ|en|Russell D. Gray}}とクエンティン・アトキンソンは、計算生物学の手法を用いた研究を2003年に発表した。[[言語年代学]]を改良して統計的に単語の類似を分析した結果、印欧祖語が各言語に分岐した年代は前6000年以前であると示され、アナトリア仮説を擁護した<ref name =Balter2016/>。
アンソニーは、90年代以降の考古学を踏まえた研究を2007年の著作『[[馬・車輪・言語]]』に発表した。[[ポントス・カスピ海ステップ]]を原郷においた印欧語の拡散の過程を描くことで、クルガン仮説を修正・補強してアナトリア仮説への反論を試みた<ref>{{Cite web|和書|author=澤畑塁 |url=https://honz.jp/articles/-/44728 |title=『馬・車輪・言語』 ステップを駆けたライダーたちがこの世界にもたらしたもの |website=HONZ |publisher=HONZエンタープライズ |date=2018-05-30 |accessdate=2021-10-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[池内了]] |url=https://bunshun.jp/articles/-/8705 |title=「文明はどこで誕生したのか」への解答 |website=文春オンライン |publisher=文藝春秋 |date=2018-08-26 |accessdate=2021-10-20}}</ref>。
言語学者の{{仮リンク|アンドリュー・ギャレット|en|Andrew Garrett (linguist)}}らは、2013年以降の研究で、解析を条件を変えて行うと分岐年代がグレイらより遅くに想定されるとしてグレイらが設定する前提を批判した。Balterによれば、グレイらはギャレットらの研究を継承した解析に取り組み、再びアナトリア仮説を支持する結果を得たという<ref name =Balter2016/>。
レンフルーは、1994年に亡くなったギンブタスを記念する2017年の講演の中で、自説との両立を示唆しながらも“Marija’s Kurgan hypothesis has been magnificently vindicated.(マリヤのクルガン仮説は見事に立証された)”と発言しクルガン仮説を認めた<ref>{{Cite web |author=Carol P. Christ |url=https://feminismandreligion.com/2017/12/11/marija-gimbutas-triumphant-colin-renfrew-concedes-by-carol-p-christ/ |title=Marija Gimbutas Triumphant: Colin Renfrew Concedes by Carol P. Christ |website=feminismandreligion.com |publisher= |date=2017-12-11 |accessdate=2021-10-26}}</ref>。レンフルーの業績を称える2018年の記事では、言語年代学以外の立場からはアナトリア仮説は認められていないと指摘している<ref>{{Cite web |author=Lucas Brandão |url=https://comunidadeculturaearte.com/a-arqueologia-antropologica-de-colin-renfrew/ |title=A arqueologia antropológica de Colin Renfrew |website=Comunidade Cultura e Arte |publisher= |date=2018-08-06 |accessdate=2021-10-26}}</ref>。
== 印欧語族の歴史 ==
{{独自研究|date=2021年11月|section=1}}
=== 文法と簡略化 ===
分化が始まった時点での[[インド・ヨーロッパ祖語]](印欧祖語)は、多様な語形変化を持つ言語だったと想定されている。しかし時代が下り、言語の分化が大きくなると、各言語は概して複雑な語形変化を単純化させていった。
;数
:印欧祖語には文法的な[[数 (文法)|数]]には単数と複数の他、対になっているものを表す「[[双数形|双数]]」(両数、対数とも呼ばれる)があったと考えられているが、のちの時代にはほとんどの言語で消滅した。現在でも双数を使うのは[[スロベニア語]]、[[ソルブ語]]、[[スコットランド・ゲール語]]、[[ウェールズ語]]、[[ブルトン語]]などごくわずかに過ぎない。
;性
:印欧祖語にあったと考えられる男性、女性、中性という3つの文法的な[[性 (文法)|性]]の区別は、現代でも多くの言語に残るが、一部では変化している。例えば、[[ロマンス語派]]の大半や[[ヒンディー語]]では男性と女性のみになり、[[北ゲルマン語派]]の大半や[[オランダ語]]では男性と女性が合流した「通性」と中性の二つの性が残っている。英語、[[ペルシア語]]、[[アルメニア語]]ではほぼ消滅した。
;格
:印欧祖語は、名詞・形容詞等の文法的な[[格]]として[[主格]]、[[対格]]、[[属格]]、[[与格]]、[[具格]]、[[奪格]]、[[処格]]、[[呼格]]の8つを区別していたと考えられている。紀元前のインド・ヨーロッパ諸語にはこれらを残す言語がいくつかあったが、後世には特に名詞・形容詞については概ね、区別される格の種類を減らしている。スラヴ諸語では[[チェコ語]]や[[ポーランド語]]の7格、[[ロシア語]]の6格など豊富な格変化を残す言語があり、ルーマニア語は5格、ドイツ語、アイスランド語では4つの格が残っているが、ヒンディー語などは2つの格を持つのみである。その他の言語では名詞・形容詞の格変化を失った言語が多い。多くのロマンス諸語は名詞・形容詞の格の区別を失っている。英語の名詞は主格と所有格(属格が意味限定的に変化したもの)を残すのみである。名詞や形容詞の格を退化させた言語も代名詞に関しては格を区別するものが多いが、ペルシア語のように代名詞についても格変化をほぼ失った言語もある。
印欧祖語は、主語・目的語・動詞の語順が優勢な[[SOV型]]言語だったと考えられており、古い時代のインド・ヨーロッパ諸語、例えば[[ヒッタイト語]]、インド・イラン語派の古典諸言語、[[ラテン語]]ではその特徴が見られる。但し、後にSOV型以外の語順の言語も現れ、SOV型は印欧語に典型的な語順とまでは言えなくなっている。現代では言語により語順は様々だが、ヨーロッパでは主語・動詞・目的語の語順が優勢な[[SVO型]]言語が比較的多く、ドイツ語のように本質的にはSOV型でも一見SVO型のように見えるSOV-[[V2語順]]の言語もある。一方、[[中東]]や[[インド]]では現在でもSOV型言語が多い。
=== 音韻論 ===
==== 音韻体系 ====
伝統的に五母音体系で再構されてきたが、喉音理論に基づいて/e~o~ゼロ/{{sfn|Beekes|1995|p=137}}{{sfn|松本|2006|pp=37-38}}という、単一の母音がなんらかの規則に従って[[母音交替]]するモデルに修正された。
==== 音韻法則 ====
{{See also|インド・ヨーロッパ語族の音韻法則}}
*ケントゥム語とサテム語
{{See also|ケントゥム語とサテム語}}
印欧語族は[[ケントゥム語とサテム語]]に大別されてきた。ケントゥムおよびサテムは、[[ラテン語]]および[[アヴェスタ語]]で「百」を意味する単語で、ともに印欧祖語の*kʲmtom<ref group="注">比較言語学において、語の前のアステリスク*はそれが再建または推定された語形であることを意味する。アンソニー上, p.29、宇賀治2000, p.4. ポズナー1982, p.50など</ref>に由来する単語であって言語間の発音の違いを代表しているため分類名に用いられた。この分類に従うと、ケントゥム語には[[アナトリア語派]]、[[トカラ語派]]、[[ヘレニック語派]]、[[ゲルマン語派]]、[[ケルト語派]]、[[イタリック語派]]が属し、サテム語には[[インド・イラン語派]]、[[バルト・スラブ語派]]、[[アルメニア語派]]、[[アルバニア語派]]が属することになる。祖語の時代からあった差異が系統となって現れたのか、各言語で独立に起こった変化であるのか議論されてきた。この結果として、必ずしも系統の違いを表すものではないと考えられるようになった<ref name=Britannica/>{{sfn|宇賀治|2000|pp=6-7}}。
*[[グリムの法則]]
印欧祖語と[[ゲルマン祖語]]の間の時期に起きた子音推移を説明したものである。
:*1.印欧祖語の無声閉鎖音は、ゲルマン祖語の無声摩擦音になる
:*2.印欧祖語の有声閉鎖音は、ゲルマン祖語の無声閉鎖音になる
:*3.印欧祖語の有声帯気閉鎖音は、ゲルマン祖語の無声閉鎖音になる{{sfn|吉田|1996|pp=112-115}}{{sfn|清水|2012|pp=54-57}}
*[[ヴェルナーの法則]]
グリムの法則に続いて起きる規則で、グリムの法則で生じた無声摩擦音が、直前にアクセントがある場合を除いて有声音になる。
グリムの法則が起こる前からあった無声摩擦音のsにも適用された。これもゲルマン祖語までの時期に起こった{{sfn|吉田|1996|pp=112-115}}。
*[[グラスマンの法則 (言語学)|グラスマンの法則]]
有気音が続くと、前の子音が無気化される法則。サンスクリットでは、dh - dh が d - dh になる。
後の有気音が、最後のsかtの前で無気音になっていると、作用しない。
ヘレニック語派にも起こるが、有気音が無声化された場合に限られている。d^h - d^h > t^h - t^h > t - th にように働く。
ヘレニック語派においても、後ろの有気音が無気音になっていると作用しない。
インド・イラン語派とヘレニック語派で独立に起きた{{sfn|吉田|2005|pp=56-60}}。
<!--*[[バルトロマエの法則]]
インド・イラン語派に起きた。
有気有声音+無気無声音の並びで、同化が起こって無気有声音+有気有声音になる。
*{{仮リンク|ブルークマンの法則|en|Brugmann's law}}
*[[RUKIの法則]]
i, u, r, k の後ろにある s が š に変化した。-->
インド・イラン語派, スラヴ語派, リトアニア語にみられる{{sfn|Beekes|1995|pp=134-135}}{{sfn|高津|1954|pp=77-78}}。
<!--*{{仮リンク|ソシュールの法則|en|Fortunatov–de Saussure's law}}と{{仮リンク|メイエの法則|en|Meillet's law}}
*[[ジーファースの法則]]
長母音+子音、または短母音+子音+子音の後ろに続く*i が、母音か半母音 *j になった規則。はじめゲルマン語の中の法則として発見されたが、やがて印欧語に適応可能なことが見出された。
=== 形態論 ===
印欧祖語の時点で、向格が対格に吸収され消滅しつつあったとされ、ヒッタイト語には残っているという<ref>大城・吉田1995, p.31.</ref>。
古い印欧語を基準とした類推から、印欧祖語において男性、中性、女性の区別があると考えられてきたが、アナトリア語派の発見にともない印欧祖語のより古い時代においては生物と無生物の区別しかなかったとも考えられるようになった。
一般的には、[[主格]]、[[呼格]]、[[対格]]、[[属格]]、[[奪格]]、[[与格]]、[[処格]]の8つの格があったと考えられている。
動詞は、相、法、人称、数、時称に従って変化する。相には能動態と中動相があり、法には直接法、接続法、選択法、命令法があった。過去時制、未完了/Preterite(点過去?)、完了時制、未来時制。また、スラブ語やギリシア語のように、不完了体語幹とアオリスト語幹を区別していた?(本時称と副時称?)。3つの人称と、単数、双数、複数の3つの数があった。数については、名詞と形容詞においても屈折があった。
一般的な動詞の屈折は、語尾の前に語幹母音か幹母音を持つことから幹型?と呼ばれ、古典的な印欧語では次のようになる。
<ref name = Matsumoto0638>松本2006, p.38-44.</ref>
<ref name = Matsumoto0644>松本2006, p.44-51.</ref>
<ref name = Matsumoto0651>松本2006, p.51-59.</ref>
これらの屈折が共通の起源をもつことは明らかで、Karl Brugmann以降、伝統的には次のように再構されてきた。
しかし近年?印欧語が静的な言語ではなかったと認識されるようになり、Calvert Watkinsは次のような語尾を想定している。
次のような相対的に新しい語尾の形は、”to be”で知られるatematiske/atematicという別の頻出パラディグマの影響を受けて生まれたと考えられる。
語彙
語根
動詞
名詞
代名詞
数詞
不変化詞 -->
== 語派 ==
バルト語派とスラヴ語派のように分ける場合と、バルト・スラヴ語派とまとめる場合がある。また、詳細が分かっていない[[フリュギア語]]を数える場合とそうでない場合があり、少ない数え方で10、多い数え方で12が一般的なものである{{sfn|アンソニー|2018a|pp=27-28}}。
=== アナトリア語派 ===
{{See also|アナトリア語派}}
アナトリア語派は印欧祖語か、その原型にあたる言語から派生した最初の言語グループだと考えられている。ヒッタイト帝国の公用語であった[[ヒッタイト語]]が最もよく知られていている。この語派に属する言語はすべて死語となっていて歴史的な資料にのみ残されている。
アナトリア祖語からヒッタイト語、[[ルウィ語]]、[[パラー語]]に分化し、その3つが大きな幹をなすと考えられている<ref name="AnthonyHittites"/>。多くは[[アッカド語]]から継承した楔形文字で記録されているが、象形文字ルウィ語とギリシア文字を基にしたアルファベットを用いるリュキア語が知られている。大城・吉田は、ルウィ語を楔形文字ルウィ語と象形文字ルウィ語に分類し、[[リュキア語]]、{{仮リンク|ミリア語|en|Milyan language}}、[[リュディア語]]を加え7つを確定的なアナトリア語派として数えている<ref>大城・吉田1990、 p.1</ref>。これによれば、リュキア語とミリア語はルウィ語に近く、派生した関係にあると考えられる。ヒッタイト語とパラー語の話し手は、コーカサス諸語と類縁関係にある[[ハッティ語]]話者の住んでいたアナトリア中部に侵入し、前1650~1600年ごろにヒッタイト帝国がハッティ族の独立王国を征服した<ref name="AnthonyHittites"/>。ヒッタイト語とパラー語にはにはハッティ語、ヒッタイト語にはさらに[[フルリ語]]、[[アッカド語]]に由来する借用がみられる<ref>Melchert (1995) p.2152.</ref>一方、ルウィ語にはハッティ語からの借用は見られず「正体不明の非印欧の言語」からの借用がみられ、ハッティ語の中心地域から離れた地域で話されたことが示唆されている<ref name="AnthonyHittites"/>。
時制が現在と過去しかない、有性と中性の区別しかない、喉頭音の存在など他の古い印欧語と共通しない特徴を持つことで古い時代の印欧語の研究に繋がった{{efn2|A.Lehmanは、前アナトリア語が分岐したのちに印欧祖語に起こった変化を2001年の論文において10種類提示している<ref>アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.78.</ref>。}}。ヒッタイト語は再建されてきた印欧祖語と大きく異なっていて、印欧祖語のさらに前段階から分化したため狭義の印欧語にあたらないとするインド・ヒッタイト語仮説も提示されている<ref name="AnthonyHittites">アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.72-79.</ref>。松本は、ヒッタイト語を特別扱いして既存の理解を保とうとするよりも、その示す事実を受け入れて比較文法の方法論じたいを再編しなおす動きのほうが優勢であるとしている<ref name =Matsumoto0622/>。
=== トカラ語派 ===
[[ファイル:Tocharian manuscript THT133.jpg|240px|thumb|[[クチャ語]]の文書([[ブラーフミー文字]])]]
{{See also|トカラ語派}}
トカー語、トハラ語とも呼ばれる。中央アジアの[[タリム盆地]]北縁地域で8世紀まで話された。
=== 古代バルカン諸語 ===
{{See also|古代バルカン諸語}}
*[[イリュリア語]]♰
*[[リブルニア語]]♰
*[[メッサピア語]]♰
*{{仮リンク|ミジアン語|en|Mysian language}}♰
*{{仮リンク|ピアニア語|en|Paeonian language}}♰
*[[フリュギア語]]+
*[[トラキア語]]+
*[[ウェネティ語]]+
=== ヘレニック語派 ===
{{See also|[[ヘレニック語派|ヘレニック語(ギリシア語)派]]}}
ヘレン語派とも呼ばれる。単独で1語派として扱われる。
*[[ギリシア祖語]]
*[[ミケーネ・ギリシャ語|ミケーネ語]]
*[[古代ギリシア語]]
*[[コイネー]]
*[[中世ギリシア語]]
*[[現代ギリシア語]]{{enlink|Modern Greek}}([[ギリシア語]])
=== アルバニア語派 ===
{{See also|アルバニア語}}
[[File:Albanian dialects.svg|thumb|アルバニア語の方言分布]]
アルバニア語のみで1語派として扱われる。
印欧語に含まれることが判明してから、イリュリア語、トラキア語、ダキア語、ヴェネト語、エトルリア語など古代のバルカン諸語との関係が研究された。直野によればイリュリア語から発展したと考える研究者が多いという<ref name ="SanseidoAlbanian"/>。
[[シュクンビン川]]を境界線として北部で話されている[[ゲグ方言]]と、南部で話されている[[トスク方言]]に大きく分類される。アルバニア系のコミュニティはアルバニア共和国に隣接した地域にも存在していて、コソボ、マケドニア北西部、モンテネグロ南東部でゲグ方言が用いられている<ref name ="SanseidoAlbanian"/>。また、アルバニア語から派生したものとして、イタリアのアルバニア系離散民に用いられる[[アルバレシュ語]]、ギリシアのアルバニア系離散民に用いられるアルヴァニティカ語がある。
文字として最古の記録が15世紀と遅く、1462年にラテン文字で洗礼儀式に関する文書が記された。16世紀なかばのゲグ方言の文献が残っており、これに続いてトスク方言やアルバレシュで記された文献が残っている。これらの文献からは、方言差が大きくなかったことが伺われる<ref name ="Naono196"/>。15世紀後半のオスマン・トルコ支配によって国土と宗教が分断された状態となり、差異が大きくなった<ref name ="Naono196"/>。対応して、アラビア文字かギリシア文字が用いられるようになった。1908年に開かれた会議でアルバニア語ラテン文字が制定され、現在まで使われている<ref name ="SanseidoAlbanian"/>。
19世紀以降、ゲグ方言に近いエルバサンのトスク方言を基礎として標準語を整備しようという提案がなされ、1952年と1972年の会議でこれに近い形の案が採択された。アルバニア国外でも文語としてはこれに従っているという<ref name ="SanseidoAlbanian">直野敦「アルバニア語」 亀井ら, 1998, p.26-34.</ref><ref name ="Naono196">直野1989, p.196.</ref>。
名詞は男性名詞か女性名詞に分類され、限られた範囲で中性名詞が認められている。単数と複数のそれぞれで、主格, 属格, 与格, 対格, 奪格の5つの格を持つ。定冠詞を取らない名詞では主格と対格が一致し、属格, 与格, 奪格も一致する。形容詞は格変化せず、性と数に対応して変化するタイプとしないタイプがある。変化するタイプでも性と数のどちらかのみに対応するものも多く、4種類の変化をするのは不規則な形容詞がほとんどである。能動形を基本として多くの動詞が中動・受動態をもつ。法に直接法、接続法、条件法、願望法、感嘆法、命令法があり時称、態との関係は複雑である<ref name ="SanseidoAlbanian"/>。
アルバニア語は[[バルカン言語連合]]に属するとされている。系統的な関係とは別に接触による収束が起こるもので、幅広い文法上の共通性が見られる。直野によれば特にルーマニア語と平行する点が多いという。数詞にはスラヴ語の影響が見られ、また15~16世紀にトルコ語とギリシア語から受けた影響が研究対象になっている<ref name ="SanseidoAlbanian"/>。
=== ケルト語派 ===
{{See also|ケルト語派}}
ケントゥム語群。イタリック語派と類似点が多い。前1000年代には中部ヨーロッパに広く分布していたが、現在はブリターニュ地方、アイルランド島やブリテン島ウェールズ地方、スコットランド地方などのみである。近年、マン島語、コーンウォール語が復活している他、スコットランドゲール語もスコットランドの公文書で使用されるようになっている。
*[[ゲール語|ゲール諸語]] - ケルト祖語の[kw]をそのまま保っている諸語。このためQケルト語とも呼ばれる。
**[[アイルランド語]]
**[[マン島語]](マンクス語、マン島ゲール語とも)
**[[スコットランド・ゲール語]]など
*[[ブリソン諸語]] - [kw]が合体して[p]に変わった諸語。このためPケルト語とも呼ばれる。
**[[ブルトン語]]
**[[ウェールズ語]]
**[[コーンウォール語]](ケルノウ語とも)
*[[大陸ケルト語|大陸ケルト諸語]]
**[[ガリア語]]♰
**[[ルシタニア語]]♰
**[[古代リグリア語]]♰
=== イタリック語派 ===
[[File:Map-Romance Language World.png|thumb|21世紀のイタリック語派の分布。スペイン語:緑、ポルトガル語:橙、フランス語:青、イタリア語、黄、ルーマニア語:赤、カタルーニャ語:紫|300px]]
{{See also|イタリック語派}}
*[[オスク・ウンブリア語群]] - ローマ帝国以前にイタリア半島中部に存在した。[[オスク語]]♰、[[ウンブリア語]]♰など
*[[ラテン・ファリスキ語群|ラテン・ファリスク語群]]
**[[ファリスク語]]♰
**[[ラテン語]]
**[[ロマンス諸語]] - 俗ラテン語から派生した諸言語
***東ラテン諸語 - 名詞の複数形を作るとき、母音を変える諸語。[[イタリア語]]、[[コルシカ語]]、[[ルーマニア語]]、[[レト・ロマンス語群|レト・ロマン語]]([[ロマンシュ語]]、[[フリウリ語]]、[[ドロミテ語]])、[[ダルマチア語]]♰など
***西ラテン諸語 - 名詞の複数形を作るとき、語尾に"-s"を付ける諸語。[[フランス語]]、[[サルデーニャ語]]、[[アオスタ語]]、[[ワロン語]]、[[クレオール]]、[[オック語]]、[[カタルーニャ語]]、[[アストゥリアス語]]、[[アラゴン語]]、[[スペイン語]](カスティーリャ語)、[[ポルトガル語]]、[[ガリシア語]]、[[リグリア語]]
ヨーロッパ大陸の中央部でゲルマン語やケルト語と隣接していたが、紀元前2千年紀の終りに近いころ北からイタリア半島に侵入し、前1000年ごろ南下して[[ラティウム]]に定住した<ref name ="SanseidoLatin">中山「ラテン語」p.458-476. 亀井ら, 1998.</ref>。紀元前10世紀の[[イタリア半島]]では[[オスク語]]、[[ウンブリア語]]、ギリシア語のほか[[エトルリア語]]、[[ヴェネト語]]が地域によって分布していた<ref name ="SanseidoLatin"/><ref>伊藤1994, p.39.</ref><ref>風間1998, p.23.</ref>。
古代のイタリック語派にはオスク語、ウンブリア語、[[ラテン語]]、[[ファリスク語]]があり、オスク・ウンブリア語群とラテン・ファリスク語群に分類される<ref name =Ito9434>伊藤1994, p.34.</ref>。ラテン語は、ローマ建国のころには既に[[ラティウム]]に定着していた。ラテン語は、こういった[[ラテン人]]の諸言語の一つでしか無かったが、ローマの拡大に伴い勢力を増し、オスク・ウンブリア語やファリスク語だけでなくケルト諸語やイベリア語を置き換えて広範な分布に至った<ref name ="SanseidoLatin"/>。ラテン語の最古文献は前6世紀末ごろ<ref name = Ito9434/>であり、とくにローマのラテン語は前5世紀に記録されている<ref name ="SanseidoLatin"/>。
文学作品が生まれる前、すなわち前3世紀後半に至るまでのラテン語は[[古ラテン語]]と呼ばれ、碑文と古典期の作家による引用で知られる<ref name ="SanseidoLatin"/>。
[[古典ラテン語]]は、広義には前3世紀末から後2世紀まで、狭義には特に前1世紀のラテン語の文語を指す{{efn2|伊藤は紀元前240年から紀元前81年までの文語ラテン語を「古代ラテン語」としている{{Sfn|伊藤|1994|pp=42-43}}。}}。狭義の古典ラテン語はラテン文学の黄金時代に対応している。散文は[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の雄弁論にはじまり、カエサル『[[ガリア戦記]]』や[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』など、韻文では[[ルクレティウス]]、[[ウェルギリウス]]や[[オウィディウス]]らが多様な作品を残した。古典ラテン語は後の時代においても模範とされている<ref name ="SanseidoLatin"/>{{Sfn|伊藤|1994|pp=43-44}}。
ラテン文学が陰りを見せてから西ローマ帝国が崩壊するまでのラテン語を[[後期ラテン語]]という{{Sfn|伊藤|1994|p=45}}。3世紀以降、ローマ帝国でキリスト教が公認され、ラテン語はカトリック教会と結びついた。そのため後期ラテン語の時期は、[[ヒエロニムス]]によるラテン語訳聖書がなされるなど[[教会ラテン語]]が盛んになった時代でもあった。
文学の興隆と同じくして文語と口語が乖離していき、およそBC200年からAD600年ごろまでの口語を[[俗ラテン語]]{{efn2|論者によって俗ラテン語の定義が異なるが、いずれにせよ一定の輪郭を持つことがポズナー二章で論じられている。}}{{Sfn|伊藤|1994|p=47}}という。西ローマ帝国は5世紀に瓦解し、俗ラテン語のグループは分断された。俗ラテン語の文献資料は限られるが、プロブスによる用例集<ref>伊藤1994, p.50.</ref>、[[ペトロニウス]]『[[サテュリコン]]』の「トリマルキオの饗宴」に見られる会話、400年頃の修道女の文章、無数の碑文<ref name ="SanseidoLatin"/>などが残っている。また、後期ラテン語に特徴の混入が見られる<ref>伊藤1994, p.45.</ref>。
各地に広がった俗ラテン語は、それぞれの地域の基層言語によって影響を受け変化した(イタリアにおけるオスク語とエトルリア語、スペイン語に対するイベリア語、フランス語に対するケルト諸語、ルーマニア語に対するダキア語など)<ref>ポズナー1982, p.78-88.</ref>。[[ルーマニア語]]に対するスラヴ諸語、[[スペイン語]]・[[ポルトガル語]]・[[カタルーニャ語]]に対する[[アラビア語]]のような支配を通じた影響が生じたほか、フランク人との接触は西のグループ、特にフランス語に大きな影響をもたらした<ref>ポズナー1982, p.88-99.</ref>。他言語からの影響と並行して、それぞれの地域でも独自化が進み、[[ロマンス諸語]]の文献が現れる9世紀には既に統一性が失われていた<ref>ポズナー1982, p.62.</ref>。
[[カール大帝]](シャルルマーニュ)は俗ラテン語的な文語を憂慮し、[[カロリング・ルネサンス]]によって古典的なラテン語の復活を図ったが徹底されず、[[中世ラテン語]]が成立した。中世ラテン語は古典的な知識階級の共通語として機能した<ref name ="SanseidoLatin"/><ref>伊藤1994, p.46.</ref>。
ラテン語には5つの曲用の型があって第2, 3, 4曲用名詞に中性があったが、ロマンス諸語では曲用が2つになり男性/女性と対応している<ref>ポズナー1982, p.145-149.</ref>。いずれのロマンス諸語も単数と複数の区別を持ち、西ロマンス諸語の複数の標識は -s であるが、中期フランス語で発音されなくなったため、フランス語では冠詞などによって表現される<ref>ポズナー1982, p.149-151.</ref>。現代ロマンス語ではルーマニア語を除いて格体系は消滅した。ルーマニア語は主格、対格、属格、与格、呼格の5格体系をなす<ref>ポズナー1982, p.151-154.</ref>。ラテン語は4種の活用形に分けられたが、ロマンス諸語ではEが融合し活用形を減らした。生産性に偏りが生じ、A, I, Eの順に例が多い。いくつかの言語ではEは用例が少なく、不規則動詞としたほうが適当だという<ref>ポズナー1982, p.160-162.</ref>。ラテン語の直説法、接続法、命令法からなる3つの法はロマンス諸語で保たれている。使用法が各言語によって異なるが、いくつかのロマンス諸語に共通して見られる時称として、未完了過去(半過去)、単純過去、複合過去、未来および条件法がある<ref>ポズナー1982, p.166-179.</ref>。現代ロマンス諸語では主語 - 動詞が頻繁に現れる基本的な語順で、外れるものは倒置と見なされる<ref>ポズナー1982, p.186.</ref>。
ギリシアアルファベットを参考にしてラテンアルファベットが成立したが、ギリシアアルファベットには無い[[Q]]や[[F]]があることから[[エトルリア文字]]が仲介していると考えられる。成立して以降に、ギリシア語の転写のために[[Y]]と[[Z]]が加えられた。エトルリア語の音体系にはkとgの区別がないために文字も統合されていて、ラテン語でも[[C]]を双方の音に当てていたが、Cを元に[[G]]が作られた<ref>風間1998, p.34-37.</ref>。ロマンス諸語は、全てラテンアルファベットを用いる。
=== ゲルマン語派 ===
[[File:Germanic languages with dialects.png|thumb|ヨーロッパのゲルマン語派の分布|250px]]
{{See also|ゲルマン語派|ゲルマン祖語}}
ケントゥム語群。ヨーロッパ中北部が原郷。[[ゲルマン民族の大移動]]を経てロマンス諸語にも大きな影響を与えた。
*[[北ゲルマン語群]](ノルド諸語、北欧諸語) - [[古ノルド語]]♰
**東スカンディナヴィア語群と西スカンディナヴィア語群に分ける分類法<ref>[https://www.britannica.com/topic/Scandinavian-languages Scandinavian languages]</ref>
***{{仮リンク|東スカンディナヴィア語群|fr|Langues scandinaves orientales}} - [[デンマーク語]]、[[スウェーデン語]]
***{{仮リンク|西スカンディナヴィア語群|fr|Langues scandinaves occidentales}} - [[ノルウェー語]]、[[アイスランド語]]、[[フェロー語]]
**大陸北ゲルマン語と離島北ゲルマン語に分ける分類法<ref>清水誠「ゲルマン語の歴史と構造(1): 歴史言語学と比較方法」『北海道大学文学研究科紀要 131』、2010年</ref>
***大陸北ゲルマン語 - デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語([[ブークモール]]、[[ニーノシュク]])
***離島北ゲルマン語 - アイスランド語、フェロー語、[[ノルン語]]♰
*[[西ゲルマン語群]]
**[[ドイツ語]]群
***低地ドイツ語 - [[オランダ語]]([[フラマン語]])、[[アフリカーンス語]]
***高地ドイツ語 - 標準ドイツ語、[[ルクセンブルク語]]
**[[アングロ・フリジア語]] - [[英語]](イングランド語)、[[スコットランド語]]、[[フリジア語]]
*[[東ゲルマン語群]] - [[ゴート語]]♰、{{仮リンク|ヴァンダル語|en|Vandalic language}}♰、{{仮リンク|ブルグント語 (ゲルマン語派)|en|Burgundian language (Germanic)|label=ブルグント語}}♰など
ゲルマン人の原郷は、[[スカンジナビア半島]]南部や北ドイツの[[エルベ川]]下流域にかけての一帯だと考えられている{{sfn|清水|2012|pp=4-5}}{{sfn|河崎|2006|pp=92-93}}。
民族移動によって紀元前1000年ごろには他地域へ拡張していて、4~5世紀の[[ゲルマン民族の大移動]]をピークとして1500年以上続いた。
ゲルマン語族には、詳細のわからない[[先印欧語]]の語彙が流入していて、ゲルマン祖語の[[基礎語彙]]の3分の1が非印欧語由来だと考えられている{{sfn|清水|2012|pp=5-6}}。紀元前500年ごろのゲルマン人は、西は現在のオランダ語圏、東は[[ヴィスワ川]]までの低地平原地帯、北はスウェーデン中部とノルウェー南部まで及んでいた。南と西でケルト語、東でバルト語、北でバルト・フィン諸語と接していて、相互に借用が行われた{{sfn|清水|2012|p=6}}。南部域のケルト人やイリュリア人を放逐したゲルマン人は、紀元前後にローマ帝国の国境・黒海沿岸に達していた。紀元前後にゲルマン語の明確な分岐が始まったと考えられていて、当時のゲルマン人およびゲルマン語は、北、東、エルベ川、ヴェーザー・ライン川、北海の5つのグループに分かれていた{{sfn|清水|2012|pp=7-11}}{{sfn|河崎|2006|pp=92-93}}。
東ゲルマン語は[[ゴート語]]につながり、4世紀になされたギリシア語聖書のゴート語訳はゲルマン語の最古のまとまった文献として写本が残っている。アンシャル体大文字を中心に、ラテン文字と[[ゴート文字]]が用いられた。[[ゴート人]]は東ゴート人と西ゴート人に分裂し、イベリア半島とイタリアに王国を築いたほか、東ゴート人がクリミアに到達するなど大きく広がった{{sfn|清水|2012|pp=13-18}}{{sfn|河崎|2006|pp=104-105}}。
北ゲルマン語は北欧に位置し、[[ノルド語]]が成立した。ゲルマン語の断片的な最古の資料として、[[ルーン文字]]で刻まれたルーン碑文が残っている。音価と文字が正確に対応しており、実用的な文字だったと考えられている{{sfn|清水|2012|pp=18-20}}。ルーン文字は古ゲルマン語圏すべてに広がったが、10世紀末以降のキリスト教受容にともなってラテン文字に置き換えられていった{{sfn|清水|2012|pp=20-26}}。8世紀までスカンディナヴィアに留まっていた北ゲルマン人は、9世紀から11世紀のヴァイキング時代に遠征を繰り返した。[[デーン人]]は二度に渡ってイングランドを征服し、英語史に大きな影響を与えた。東方では、スウェーデン人ヴァイキングを中心にフィンランド・エストニアに進出した上にさらに南東に進み、[[ノヴゴロド公国]]や[[キエフ公国]]を築いた。ヴァイキング時代末期には、西ノルド語と東ノルド語の分岐が顕著になっていた{{sfn|清水|2012|pp=26-29}}。
北海ゲルマン語は、[[アングロ・サクソン人]]を中心にするグループが[[ブリテン島]]に移住し始めた5世紀半ば以降に、大陸部北海沿岸の諸部族による接触で成立したと考えられている。アングロ・サクソン人は600年ごろにキリスト教に改宗し、ラテン文字を使用した宗教関連の古英語の文献は700年ごろに現れる。[[フリジア語]]は16世紀以降使われなくなった。[[ザクセン語]]は高地ドイツ語圏に引き寄せられていき、低地ドイツ語の低ザクセン語として扱われている。古英語は典型的な北海ゲルマン語であったが、デーン人やノルウェー人ヴァイキングによるノルド語との接触と、ノルマン・コンクエストによるフランス語との接触によって形態の簡素化が起こり、屈折の少ない分析的な言語となった<ref name =Heibonsha/>{{sfn|清水|2012|pp=29-43}}。
エルベ川とヴェーザー・ライン川のグループは内陸ゲルマン語として括られ、主要な古語として古高ドイツ語と古オランダ語がある。とくにヴェーザー・ライン川ゲルマン語の古フランケン方言を話すフランケン人は西ローマ帝国滅亡後に勢力を拡大し、6世紀の{{仮リンク|テューリンゲン族|en|Thuringii}}征服を皮切りに[[アレマン人]]、[[バイエルン人]]、[[ザクセン人]]を征服し隷従させた。8世紀にフランク王国のドイツ語話者にキリスト教が広まり、9世紀には『タツィアーン』や{{仮リンク|ヴィッセンブルグのオトフリート|en|Otfrid of Weissenburg}}による『福音書』などキリスト教文学が興隆した。古オランダ語のまとまった文献は10世紀初めのヴァハテンドク詩篇に現れる。現代[[標準ドイツ語]]はエルベ川ゲルマン語に由来する[[上部ドイツ語]]、ヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する[[中部ドイツ語]]、上記の北海ゲルマン語に由来する[[低地ドイツ語]]を統合して成立した。標準[[オランダ語]]はヴェーザー・ライン川ゲルマン語に由来する低地フランケン方言を母体とし、北海ゲルマン語に由来するオランダ語低地ザクセン方言を統合して成立した{{sfn|清水|2012|pp=43-53}}。
ゲルマン祖語は与格が奪格と所格の役割を担い、6格組織であった。その後、主格が呼格を、与格が具格を吸収し4格組織に近づいていった{{sfn|清水|2012|pp=84-87}}。文法性を失ったのは英語と[[アフリカーンス語]]、デンマーク語[[ユトランド方言]]に限られていて、他のゲルマン諸語には見られる。双数はゲルマン祖語で衰退しつつあり、ゴート語が限定的に残しているが、他の古語では複数に取り込まれた。現代語では北フリジア語の方言に見られるが、話し言葉ではほとんど用いないという{{sfn|清水|2012|pp=87-92}}。北ゲルマン語とオランダ語では、男性と女性が「通性(共性)」に合流し、中性とあわせ二性体制になっている{{sfn|桜井|1998}}{{sfn|山本|1998a}}{{sfn|山本|1998b}}{{sfn|山本|1998c}}。ゲルマン祖語の時点でアオリスト語幹が破棄されていて、語形変化は強変化と弱変化に収束した{{sfn|清水|2012|pp=80-84}}{{sfn|河崎|2006|pp=125-127}}。アスペクトに対応する語形変化はなく、助動詞による迂言形で表現する。西ゲルマン語では現在完了形が過去の表現として多用され、過去形が使われない言語もある。接続法が直接法に吸収されているため、現在形が未来の出来事も表す{{sfn|清水|2012|pp=80-84}}。ドイツ語やオランダ語で副次的にSOV順の語形が用いられるが、SVO順が一般的になっている{{sfn|河崎|2006|pp=70-82}}。
=== バルト・スラヴ語派 ===
{{see also|バルト・スラヴ語派}}
東ヨーロッパに分布する。ゲルマン語派・ロマンス諸語に比べ言語的改新が見られず、保守的であるとされる。
[[File:Slavic europe.svg|thumb|ヨーロッパにおけるスラヴ語の分布]]
====スラヴ語派====
{{see also|スラヴ語派}}
*[[東スラヴ語群]] - [[ロシア語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ウクライナ語]]、[[ルシン語]]、[[古東スラヴ語]]'''†'''、[[古ノヴゴロド語]]'''†'''
*[[南スラヴ語群]] - [[古代教会スラヴ語]]'''†'''、[[スロヴェニア語]]、[[セルボ・クロアチア語]]([[セルビア語]]、[[クロアチア語]]、[[ボスニア語]]、[[モンテネグロ語]])、[[ブルガリア語]]、[[マケドニア語]]など
*[[西スラヴ語群]] - [[ポーランド語]]、[[チェコ語]]、[[スロヴァキア語]]、[[ポラーブ語]]'''†'''、[[カシューブ語]]、[[上ソルブ語]]、[[下ソルブ語]]など
スラヴ語は、西スラヴ語群、南スラヴ語群、東スラヴ語群の3つに分類されている。
9世紀半ばまでにはスラヴ人の居住地域は西、東、南の3つに分かれていた{{Sfn|服部|2020|p=172}}。
印欧祖語から分離し、古代教会スラヴ語が成立するまでのスラヴ語を共通スラヴ語と呼ぶ{{Sfn|服部|2020|pp=170-171}}。
共通スラヴ語時代のスラヴの知識人は文語としてギリシア語やラテン語、古フランク語を使っていたと考えられている{{Sfn|服部|2020|pp=37-43}}。9世紀後半に西スラヴのモラヴィア王国では、[[東フランク王国]]の影響力から脱するため[[ビザンツ帝国]]に要請して[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]と[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]の兄弟が教主として派遣された。キュリロスがスラヴ語典礼に使う文字体系として[[グラゴル文字]]を考案し、スラヴ語の文語である[[古代教会スラヴ語]]が成立した{{Sfn|服部|2020|pp=37-43}}{{Sfn|三谷|2016|pp=24-25}}。モラヴィア国内での兄弟の事業は難航したが、弟子たちが[[第一次ブルガリア帝国]]で活動することでスラヴ語典礼の伝統は保たれ、グラゴル文字の体型にギリシア文字を導入することで[[キリル文字]]が成立した{{Sfn|服部|2020|pp=83-87}}{{Sfn|三谷|2016|pp=20-21}}。古代教会スラヴ語はポーランドとクロアチアを除く{{Efn2|ポーランドは10世紀後半の[[ピャスト朝]]で西方教会キリスト教を受容していて影響が及ばなかった。クロアチアはハンガリーの支配下におかれたため西方教会キリスト教に従い影響が及ばなかった{{Sfn|服部|2020|pp=119-122}}。}}スラヴ語圏全体に拡散した後、それぞれの隣接した地域の言語から影響を受けるなどして多様性を増し、研究者たちは1100年ごろを古代教会スラヴ語が共通性を失った時期の目安としている{{Efn2|ただし、[[キエフ・ルーシ]]においては11世紀初頭の時点で古代教会スラヴ語と現地スラヴ語との混交が起こっており、古代ロシア文語と見なされるという{{Sfn|服部|2020|pp=114-124}}。}}。
10世紀末から11世紀には東西南の差異がルーシ人、スラヴ人、ブルガリア人の言葉の違いとして認識されていた{{Sfn|服部|2020|pp=174-175}}。東西南の内部でも支配体制による分断があり、12世紀ごろからそれぞれの地域内でも別個の言語として独立して認識されるようになった{{Sfn|服部|2020|pp=176-184}}。
共通して男性、女性、中性の区別と{{Sfn|三谷|2016|pp=66-69}}、7つか6つの格がある{{Efn2|ブルガリア語とマケドニア語は格変化を失っている{{Sfn|三谷|2016|pp=72-77}}。}}。男性単数に生物と無生物の区別があり、西語群では人を表す男性名詞複数形「男性人間形」が17世紀頃に成立した{{Sfn|三谷|2016|pp=78-79}}。スロヴェニア語とソルブ語が双数を残し、他の言語では複数に合流したが、2を表す数詞に名残がある{{Sfn|三谷|2016|pp=82-83}}。動詞には直説法、命令法、仮定法があり{{Efn2|ブルガリア語には伝聞法があり、トルコ語に由来するとされる{{Sfn|三谷|2016|pp=112-115}}。}}、直接法の中に現在、過去、未来の3つの時制と完了体と不完了体の2つのアスペクトの組み合わせがある{{Efn2|ロシア語は現在時制完了体を用いない{{Sfn|三谷|2016|pp=124-133}}。スロヴェニア語を除く南語群とブルガリア語がアオリストを残す{{Sfn|三谷|2016|pp=138-139}}。}}。
先に述べたように西方教会とラテン語典礼が、東方教会とスラヴ典礼が結びついた歴史がある。この結果として西語群ではラテンアルファベットが、東語群ではキリル文字が、南語群ではキリル文字とラテンアルファベットが用いられている。ラテンアルファベットを用いる南語群では、[[ガイ式ラテン・アルファベット]]やその変種が用いられる{{Sfn|服部|2020|pp=192-202}}。
==== バルト語派 ====
*[[バルト語派]]
**[[東バルト語群]] - [[リトアニア語]]、[[ラトビア語]]
**[[西バルト語群]] - [[プロシア語]]'''†'''など。現在ではすべて死語となっている。
=== インド・イラン語派 ===
{{See also|インド・イラン語派}}
サテム語群。西アジア~南アジアにかけて分布。インド語派とイラン語派は発見されているもっとも古い言語同士で意思疎通が可能なほど似通っており、まとめて扱われる。印欧語族の分類は一般に12語派程度で表現されるが、その場合ダルド語派とカーフィル語派を数えていない。
*[[インド語派]] - [[サンスクリット語]]、[[プラークリット語]]、[[パーリ語]]、[[ヒンディー語]]、[[ウルドゥー語]]、[[ベンガル語]]、[[ネパール語]]など
*[[イラン語派]] - [[アヴェスター語]]♰、[[ペルシア語]]、[[パシュトー語]]、[[クルド語]]など
*[[ヌーリスターン語派]] - かつてはカーフィル語派<ref group="注">「多神教信仰者([[ヴェーダの宗教]])の地」をカーフィルスタンと呼んだが、イスラーム受容に伴い差別的な意味となった。現在ではヌーリスターン語派と呼ぶ。</ref>と呼ばれた。ヒンドゥークシュ山脈山中に散在。ただし別の語派として扱う説もある。
[[File:Armenian language in the Armenian alphabet.png|thumb|アルメニア文字の「アルメニア語」]]
=== アルメニア語派 ===
{{See also|アルメニア語|アルメニア文字}}
[[File:Armenian Language distribution map.png|thumb|アルメニア共和国周辺におけるアルメニア語の分布|250px]]
*[[古典アルメニア語]] - {{仮リンク|中世アルメニア語|en|Middle Armenian}} - 現代アルメニア語 ([[東アルメニア語]]、[[西アルメニア語]])
アルメニア語のみで一語派として扱われる。かつてイラン系の言語であると考えられたほどイラン語群からの語彙の借用が多く{{Sfn|千種|2001|p=2}}、イラン系のみならずチュルク語族やコーカサス諸語から語彙の借用をはじめとして様々な影響を受けたと考えられている。現代口語は、東アルメニア語と、西アルメニア語に分類される。東アルメニア語はアルメニア共和国を含む旧ソ連圏に、西アルメニア語が世界に散在するアルメニア人におよそ対応している{{Sfn|佐藤|1988|p=4}}。
5世紀初頭に当時のアルメニア語が持つ音素に対応する[[アルメニア文字]]が考案された。ギリシアやシリアの影響から脱してアルメニア語で聖書を記す目的が背景にあり、ギリシア文字を主要なモデルとしているが、字形は大きく異なっている{{Efn2|独特な字形から中性ペルシア文字やアラム文字の影響などの推測がなされた。現在では、ギリシアの影響を隠すために意図的な創作がなされたものだと考えられている{{Sfn|千種|2001|pp=10-14}}。}}。11世紀ごろから文語と口語の音声の差異が目立つようになり、音と文字が対応していない状態となっていた。[[ソビエト連邦]]時代の1922年と1940年に正書法の改革が実施され、東アルメニア語では文字と音の対応関係が単純になった<ref name=Kishida2018/>。
希求法が接続法に合流していて、直説法、命令法、接続法の3つの法がある{{Sfn|佐藤|1988|p=31}}。3つの時制があり、未完了過去と未完了未来が特異な発達をしている。古典アルメニア語でアオリストと完了形が融合して現代アルメニア語の完了(単純過去と未完了過去)が生じた結果、両者の時制の機能と語幹が含まれるようになった{{Sfn|佐藤|1988|pp=32-33}}。名詞・形容詞は主格、体格、属格、与格、奪格、具格に格変化する{{Sfn|佐藤|1988|pp=56-70}}。文法上の性はなく、人称代名詞も性の区別がない{{Sfn|佐藤|1988|p=36}}{{Efn2|生物の性を区別するあり方としては、Աքաղաղ雄鶏/Հաւ雌鶏, Եղբայր兄弟/քոյր姉妹など単語から異なっている例、動物の名詞に雌や女を表すէգやմատակを添加する例(առիւծ:ライオン、էգ առիւծ または մատակ առիւծ:雌ライオン など)、人間の属性を表す語に女性形語尾 -ուհի をつける例(Երգիչ:歌手、Երգչուհի:女性歌手)がある。{{Sfn|佐藤|1988|pp=161-165}}。}}。ふつう動詞が語頭にくることはなく、定動詞後置を原則とするが、強調したい語を前におく一定の自由度がある{{Sfn|佐藤|1988|p=37}}。
形態や統辞法では印欧祖語に由来する要素が優勢である。一方で記録以前の時代に、アクセントが終わりから2番目の音節に固定したことが、母音の弱化と最終音節の消失をもたらしていて、音韻・語構造は独特である{{Sfn|千種|2001|p=9, 18-19}}。
伝統的には屈折語に分類される{{Sfn|佐藤|1988|p=56}}。古い印欧語と比較すると、母音の長短の区別、文法性、双数がなくなっている。さらに屈折の型が一定化に進んでいる、格の融合現象が見られる、動詞の叙法・時制組織が大きく単純化されているなど多様な単純化が起こっている{{Sfn|千種|2001|p=9}}。岸田は現代アルメニア語の形態について膠着的な面が強まってとしている<ref name=Kishida2018>{{Cite journal |和書|author=岸田泰浩 |authorlink= |title=現代アルメニア語はどのような言語か -その地域的特徴- |journal=Contribution to the Studies of Eurasian Languages |volume=20 |issue= |publisher=ユーラシア言語研究コンソーシアム |date=2018年3月 |pages=227-280 |naid= |isbn=978-4-903875-23-1 |url=http://el.kobe-ccn.ac.jp/csel/wp-content/uploads/2018/04/a062879f0424c4285f737ed5d96f14cd.pdf |format=pdf |ref= }}</ref>。
アルメニア語の研究を行った言語学者の[[アントワーヌ・メイエ]]による『史的言語学における比較の方法』によってアルメニア語の基数詞が大きく変化しながらも印欧祖語に由来するものだと立証されている{{Sfn|佐藤|1988|pp=167}}。
== 系統の試み ==
=== 分布と起源 ===
[[File:IE expansion.png|250px|thumb|right|[[クルガン仮説]]に基づく印欧語族の拡散モデル]]
[[File:Indo-European Migrations. Source David Anthony (2007), The Horse, The Wheel and Language.jpg|250px|thumb|right|印欧語族の拡散と文化(図にいくつかミスがあるので注意。
①TohariansとWusunは逆
②AfanasevoとSintashtaのスペル)]]
[[File:Indo-European migrations.gif|250px|thumb|right|印欧語族の拡散]]
{{see also|印欧祖語|クルガン仮説}}
所属は[[遺伝的関係 (言語学)|遺伝的関係]]によって決定され、すべてのメンバーが[[インド・ヨーロッパ祖語|印欧祖語]]を共通の祖先に持つと推定される。インド・ヨーロッパ語族の下の語群・語派・分枝への所属を考えるときも遺伝は基準となるが、この場合にはインド・ヨーロッパ語族の他の語群から分化し共通の祖先を持つと考えられる言語内での'''共用イノベーション'''が定義の要素となる。たとえば、ゲルマン語派がインド・ヨーロッパ語族の分枝といえるのは、その構造と音韻論が、語派全体に適用できるルールの下で記述しうるためである。
インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の起源は[[インド・ヨーロッパ祖語|印欧祖語]]であると考えられている。印欧祖語の分化と使用地域の拡散が始まったのは6,000年前とも8,000年前とも言われている。その[[祖地]]は5,000–6,000年前の[[黒海]]・[[カスピ海]]北方(現在の[[ウクライナ]])とする[[クルガン仮説]]と、8000–9500年前のアナトリア(現在の[[トルコ]])とする[[アナトリア仮説]]があるが、言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既にヨーロッパからアジアまで広く分布していた。
この広大な分布に加えてその歴史をみると、前18世紀ごろから興隆した小アジアの[[ヒッタイト帝国]]の残した[[ヒッタイト語楔形文字]]([[楔形文字]]の一種)で書かれた[[ヒッタイト語]]([[アナトリア語派]])の[[粘土板]]文書、驚くほど正確な伝承を誇る[[ヴェーダ語]]([[インド語派]])による『[[リグ・ヴェーダ]]』、そして戦後解読された[[紀元前1400年]]‐[[紀元前1200年]]ごろのものと推定される[[線文字B]]で綴られた[[ミケーネ・ギリシャ語]]([[ギリシア語派]])の[[ミュケナイ文書]]など、[[紀元前1000年]]をはるかに遡る資料から始まって、現在の英独仏露語などの、およそ3,500年ほどの長い伝統を有する。これほど地理的・歴史的に豊かな、しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて19世紀に言語の系統を決める方法論が確立され、語族という概念が成立した。
インド・ヨーロッパ諸語は理論的に再建することのできる、一つのインド・ヨーロッパ共通基語もしくは[[インド・ヨーロッパ祖語|印欧祖語]]と呼ばれる共通の祖先から分化したと考えられている。現在では互いに別個の言語であるが、歴史的にみれば互いに親族の関係にあり、それらは一族をなすと考えることができる。
これは言語学的な仮定である。一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか、その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的に見る限り、インド・ヨーロッパ語の各語派は歴史の始まりから、すでに歴史上に見られる位置にあって、それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は、言語史的に推定するしか方法はない。
またギリシア北部から[[ブルガリア]]に属する古代の[[トラキア]]にも若干の資料があるが、固有名詞以外にはその言語の内容は明らかでない。また[[イタリア半島]]にも、かつては[[ラテン語]]に代表される[[イタリック語派]]の言語以外に、[[アドリア海]]沿いで別の言語が話されていた。中でも南部の[[メッサピア語]]碑文は、地名などの固有名詞とともにイタリック語派とは認められず、かつてはここに[[イリュリア語派]]の名でよばれる一語派が想定されていた。しかし現在ではこの語派の独立性は積極的には認められない。
=== 系統樹と年代 ===
ニュージーランド・オークランド大学の[[ラッセル・グレー]]と[[クェンティン・アトキンスン ]] (Russell D. Gray, Quentin D. Atkinson)<ref name="G&A"/>の[[言語年代学]]的研究によれば、インド・ヨーロッパ祖語は約8700 (7800–9800) 年前に[[ヒッタイト語]]につながる言語と、その他の諸語派につながる言語に分かれたという結果が出て、[[アナトリア仮説]]が支持された。
グレーとアトキンスンは、この語族の87言語の基本単語2,449語について、相互間に共通語源を持つものがどれほどあるかを調べ、言語間の近縁関係を数値化し、言語の系統樹を作成した。この系統樹によれば、まずヒッタイトの言語が登場、その後、7,000年前までにギリシャ語を含むグループ、アルメニア語を含むグループが分かれ、5,000年前までに英語、ドイツ語、フランス語などにつながるグループができたという。
Gray & Atkinson 2003<ref name="G&A">{{cite|
|last = Gray
|first = R.D.
|last2 = Atkinson
|first2 = Q.D.
|title = Language-tree divergence times support the Anatolian theory of Indo-European origin
|journal = Nature
|year = 2003
|volume = 426
|page = 435–9
}}</ref>による、[[系統樹]]と、[[祖語]]の[[言語年代学|年代]]を以下に示す。年代の単位は[[BP (年代測定)|BP]](年前)。( ) 内は[[ブートストラップ値]](グループの確実さ)で、不確実な分岐も図示されていることに注意。とくにいくつかのブートストラップ値は50未満という低い数字となっており、系統分岐の仕方そのものが正しくない可能性を示している。また、死語のほとんど(トカラ語派とヒッタイト語以外)と一部の現存言語グループ(ダルド語派、カーフィル語派)が解析対象となっていない。また、この方法では2つ以上の言語の融合(例:プロト・[[スラヴ語]]ないしプロト・バルト=スラヴ語の、インド・イラン語派の諸言語の影響による[[サテム語]]化)は正しく解析されない。そのため、ブートストラップ値次第では語派の祖語の年代は図の年代よりさらに古くも新しくもなりうる。
{{Clade
|label1=インド・ヨーロッパ語族 8,700
|{{Clade
|label1=(100)7,900
|{{Clade
|label1=(96)7,300
|{{Clade
|label1=(84)6,900
|{{Clade
|label1=(44)6,500
|{{Clade
|label1= (67)6,100
|{{Clade
|[[ケルト語派]](100)2,900
|label2=(46)5,500
|{{Clade
|[[イタリック語派]](100)1,700
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}}
}}
|label2=[[バルト・スラヴ語派]](100)3,400
|{{Clade
|[[バルト語派]](100)
|[[スラヴ語派]](100)1,300
}}
}}
|label2=(36)
|{{Clade
|label1=[[インド・イラン語派]](100)4,600
|{{Clade
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}}
|[[アルバニア語]](100)600
}}
}}
|label2=(40)
|{{Clade
|[[ギリシャ語]](100)800
|[[アルメニア語]](100)
}}
}}
|[[トカラ語派]](100)1,700
}}
|[[ヒッタイト語]]
}}
}}
ヒッタイト語(おそらくはそれを含むアナトリア語派)が最初に分岐したことがわかる。また、[[サテム諸語]](バルト・スラヴ語派、インド・イラン語派、アルバニア語、アルメニア語)は一まとまりの言語系統ではない。
=== 分子人類学的視点 ===
インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語話者の拡散はY染色体[[ハプログループR1b (Y染色体)]]および[[ハプログループR1a (Y染色体)|ハプログループR1a]]<ref>T. Zerjal et al, The use of Y-chromosomal DNA variation to investigate population history: recent male spread in Asia and Europe, in S.S. Papiha, R. Deka and R. Chakraborty (eds.), ''Genomic Diversity: applications in human population genetics'' (1999), pp. 91–101.</ref> <ref>L. Quintana-Murci et al., Y-Chromosome lineages trace diffusion of people and languages in Southwestern Asia, ''[[American Journal of Human Genetics]]'' vol. 68 (2001), pp.537–542.</ref> に対応する。R1bはヨーロッパ西部に高頻度であり、R1a系統はインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布している。R1bは[[ケントゥム語]]、R1aは[[サテム語]]の担い手である<ref>eupedia.com/genetics</ref>。印欧祖語が話された[[ヤムナ文化]]の人骨からは[[ハプログループR1b (Y染色体)]]が91.5%の高頻度で検出されているが、R1aは検出されていない<ref>[http://www.eupedia.com/europe/ancient_european_dna.shtml#Bronze_Age Eupedia]</ref>。そのため、元来の印欧語族話者はR1bであり、ある時点でR1a集団が印欧語に[[言語交替]]を起したものと考えられ、その際にR1a集団の基層言語の特徴が[[サテム語]]の特徴として受け継がれたものと思われる。
==他の語族との関係==
「語族」の定義により、印欧語族と他の語族との間の系統関係は未知だが、形態素の類似などから[[ウラル語族]]との同系説([[インド・ウラル語族]])、[[性 (文法)|文法性]]の存在などから[[北西コーカサス語族]]との同系説([[ポンティック語族]])、[[語形変化|屈折]]の仕方などから[[セム諸語]]との同系説({{仮リンク|インド・セム語族|en|Indo-Semitic languages}})などが存在する。
[[インド・ヨーロッパ祖語]]が、[[北西コーカサス語族]]を[[基層]]とし、[[ウラル語族]]のような[[ユーラシア大語族|北ユーラシアの言語]]を[[上層言語]]とする[[混合言語]]であるとする説<ref>Allan Bomhard (2019) "[https://www.researchgate.net/publication/335676918_The_Origins_of_Proto-Indo-European_The_Caucasian_Substrate_Hypothesis_JIES_Volume_47_Number_1_2_SpringSummer_2019_pre-print The Origins of Proto-Indo-European: The Caucasian Substrate Hypothesis]" Journal of Indo-European Studies, The 47(Number 1 & 2, Spring/Summer 2019):9-124</ref>もある。
更に、[[ウラル語族]]、[[アルタイ諸語]]、[[日琉語族]]、[[チュクチ・カムチャッカ語族]]、[[エスキモー・アレウト語族]]などとの関係を主張する[[ユーラシア大語族|ユーラシア大]]ずる[[ノストラティック大語族]]説、終局的には[[ボレア語族]]や[[世界祖語]]との関係を論ずる説もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
;考古学
* {{Cite|和書|title=馬・車輪・言語|year=2018a|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-86135-1|author=デイヴィッド・W・アンソニー|translator=東郷えりか|ref={{sfnRef|アンソニー|2018a}}|volume=上}}
* {{Cite|和書|title=馬・車輪・言語|year=2018b|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-86136-8|author=デイヴィッド・W・アンソニー|translator=東郷えりか|ref={{sfnRef|アンソニー|2018b}}|volume=下}}
* {{Cite|和書|title=ウマの動物学(第2版)|year=1984|publisher=東京大学出版|isbn=9784130740210|author=近藤誠司|ref={{sfnRef|黒柳|2019}}}}
* {{Cite|和書|title=人類と家畜の世界史|year=2016|publisher=河出書房新社|isbn=9784309253398|author=ブライアン・フェイガン|translator=東郷えりか|ref={{sfnRef|フェイガン|2016}}|volume=}}
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* {{Citation | author=Robert S. P. Beekes | author-link=| year=1995 | date= | title=Comparative Indo-European Linguistics. An Introduction |place=Amsterdam, Philadelphia | publisher=John Benjamins | edition= | series= | id= | isbn=9781556195051 |url=|ref={{sfnRef|Beekes|1995}}}}
;各語派・各言語
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* {{Cite|和書|title=英語史|year=2000|publisher=開拓社|isbn=4758902186|author=宇賀治正明|ref={{sfnRef|宇賀治|2000}}}}
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* {{Cite book|和書|date=1998-05-10|title=ヨーロッパの言語|publisher=[[三省堂]]|author=亀井孝, 河野六郎, 千野栄一 編|isbn=9784385152059|ref=harv}}
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* {{Cite|和書|title=比較で読みとく スラヴ語のしくみ|year=2016|publisher=白水社|isbn=978-4560087237|author=三谷惠子|ref={{sfnRef|三谷|2016}}}}
* {{cite book|author=Melchert, H. Craig|year=1995|chapter=Indo-European Languages of Anatolia|title=Civilizations of the Ancient Near East|volume=4|editor=Jack M. Sasson|publisher=Charles Scribner's Sons|isbn=0684197235|pages=2151-2159|chapterurl=http://www.linguistics.ucla.edu/people/Melchert/cane.pdf}}
== 関連項目 ==
* [[先印欧語]]
;書籍
* [[印欧語源辞典]]
== 外部リンク ==
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長いお別れ
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『長いお別れ』(ながいおわかれ、原題:The Long Goodbye)は、1953年に刊行されたアメリカの作家レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説。他の訳題には『ロング・グッドバイ』『長い別れ』(ながいわかれ)がある。私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする長編シリーズの第6作。
『大いなる眠り』や『さらば愛しき女よ』と並ぶチャンドラーの長編である。感傷的でクールな独特の文体、台詞、世界観に魅了されるファンは今でも多い。チャンドラーのハードボイルド小説は、長編短編問わず、ほとんどが探偵の一人称による語りだが、特に本作以降ハードボイルド小説というものはこの形式が模倣を超えて定番化したとさえ言え、この形式をとるハードボイルド小説の人気はいまだ衰えていない。「ギムレットには早すぎる」や「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」、「警官とさよならを言う方法はまだ発明されていない。」(いずれも清水俊二訳)などのセリフで知られる。
1973年にロバート・アルトマン監督により映画化され(日本では『ロング・グッドバイ』のタイトルで公開)、2014年に日本で『ロング・グッドバイ』のタイトルでテレビドラマ化された。
1949年の秋。私立探偵フィリップ・マーロウは、片面に傷を持つ男、テリー・レノックスという酔っぱらいと出会う。どこか品性のあるレノックスに惹かれるものを感じて友人となったマーロウは、毎晩バーを共にするようになる。1950年6月の深夜、レノックスはマーロウの自宅を訪れるとメキシコのティフアナに連れて行って欲しいと頼み込む。詳細は聞かず、言われた通りにメキシコに彼を送り届けたマーロウであったが、ロサンゼルスに戻ると待っていたのは、妻殺しの容疑でレノックスを捜している警官であった。マーロウは殺人の共犯者として逮捕され取り調べを受けるが、レノックスを庇って黙秘を通し、反抗的な態度も手伝って警察から手酷い扱いを受ける。しかし3日目、メキシコからレノックスが自殺した旨の情報が届き、マーロウは釈放される。彼が呆然として家に戻ると「ギムレットを飲んだら、僕のことはすべて忘れてくれ」と書かれたレノックスからの手紙が届いていた。
しばらくしてマーロウは、ある出版社から失踪した人気作家ロジャー・ウェイドの捜索を依頼される。依頼を受けるか迷うマーロウであったが、やがてウェイドはレノックスの隣人であったことを知る。さらに彼の妻アイリーンからも頼まれ、渋々引き受けたマーロウは、アルコール中毒のウェイドを発見し、連れ帰る。その後、見張り役としてウェイド邸に留まることとなったマーロウは、アイリーンから誘惑され、彼女が第二次世界大戦で10年前に亡くなった恋人のことを今も深く愛していることを知る。
マーロウはウェイドに対する仕事の傍らで、レノックスの件についても調査を続ける。彼の交友関係や来歴には不思議なことも多かったが、それ以上のものもなく打ち切りを検討し始める。そんな折、今度はウェイドの死体が発見される。マーロウは自殺とみるが、アイリーンはマーロウが殺したと激しく非難する。そして、レノックスの件でマーロウを脅迫してくるギャングのメネンデス、レノックスの岳父にあたる謎めいた大富豪ハーランなど、くせものが次々とマーロウの前に現れる。
その後、マーロウはレノックスの妻殺しにアイリーンが関わっていることに気づく。やがてマーロウは、レノックスの妻とウェイドを、アイリーンが殺害したという結論を出し、さらにアイリーンの亡き恋人こそレノックスであったと推定する。その推理を突きつけられたアイリーンは何も言わず去り、後日、罪を認める手紙を残して彼女が自殺したとマーロウは知る。
事件や謎はすべて解決したように見えたが、マーロウはなぜか釈然とせず、さらにメネンデスから暴行を受ける。最後にマーロウは、メキシコから来た男の訪問を受ける。男は、レノックスが死んだホテルにいたという。だが、マーロウはこの男こそが、整形して顔を変えたレノックスであると気づく。レノックスは前のように共に酒を飲もうと誘うが、マーロウは拒否し、別れの言葉をかける。
1995年出版のアメリカ探偵作家協会によるベスト100では13位に選ばれている(他のチャンドラー作品としては8位に「大いなる眠り」、21位「さらば愛しき女よ」)。日本ではハヤカワミステリーベスト100など、ほとんどのランキングで、チャンドラー作品としては1位を保ち傑作とする人が多い。
村上春樹は『カラマーゾフの兄弟』と『グレート・ギャツビー』と本作を、もっとも影響を受けた作品3作として挙げており、『羊をめぐる冒険』の物語も本作の影響をよく指摘される。長らく日本では清水俊二訳によるものが出版されていたが、2007年には村上春樹、2022年には田口俊樹、翌2023年には市川亮平による翻訳版も出版された。
同じ出版社から刊行されている清水俊二訳の『長いお別れ』と村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』は両方とも流通している。
1973年に監督ロバート・アルトマン、主演エリオット・グールドにより映画化された。邦題は『ロング・グッドバイ』(原題は The Long Goodbye )。
内容は1970代風にアレンジされており、エリオット・グールドが演じる探偵フィリップ・マーロウが友人テリー・レノックスの謎の死をきっかけにある事件に巻き込まれていく。
※日本語吹替は2015年10月7日発売の『吹替の名盤』シリーズ 〈テレビ吹替音声収録〉HDリマスター版DVDに収録)
『ロング・グッドバイ』(英語表記:THE LONG GOODBYE)のタイトルでテレビドラマ化。2014年4月19日より5月17日まで土曜日21:00 - 21:58に、NHKの「土曜ドラマ」枠で放送された。全5話。主演は浅野忠信で、デビュー26年にして初の連続ドラマ主演となる。キャッチコピーは「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」。1950年代の東京を舞台に描かれる。
複数話・単話登場の場合は演者名の横の括弧()内に表記。
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『長いお別れ』は、1953年に刊行されたアメリカの作家レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説。他の訳題には『ロング・グッドバイ』『長い別れ』(ながいわかれ)がある。私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする長編シリーズの第6作。 『大いなる眠り』や『さらば愛しき女よ』と並ぶチャンドラーの長編である。感傷的でクールな独特の文体、台詞、世界観に魅了されるファンは今でも多い。チャンドラーのハードボイルド小説は、長編短編問わず、ほとんどが探偵の一人称による語りだが、特に本作以降ハードボイルド小説というものはこの形式が模倣を超えて定番化したとさえ言え、この形式をとるハードボイルド小説の人気はいまだ衰えていない。「ギムレットには早すぎる」や「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」、「警官とさよならを言う方法はまだ発明されていない。」(いずれも清水俊二訳)などのセリフで知られる。 1973年にロバート・アルトマン監督により映画化され(日本では『ロング・グッドバイ』のタイトルで公開)、2014年に日本で『ロング・グッドバイ』のタイトルでテレビドラマ化された。
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}}
『'''長いお別れ'''』(ながいおわかれ、原題:''The Long Goodbye'')は、[[1953年]]に刊行された[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の作家[[レイモンド・チャンドラー]]の[[ハードボイルド|ハードボイルド小説]]。他の訳題には『'''ロング・グッドバイ'''』『'''長い別れ'''』(ながいわかれ)がある。私立探偵[[フィリップ・マーロウ]]を主人公とする長編シリーズの第6作。
『[[大いなる眠り]]』や『[[さらば愛しき女よ]]』と並ぶチャンドラーの長編である。感傷的でクールな独特の文体、台詞、世界観に魅了されるファンは今でも多い。チャンドラーのハードボイルド小説は、長編短編問わず、ほとんどが探偵の一人称による語りだが、特に本作以降ハードボイルド小説というものはこの形式が模倣を超えて定番化したとさえ言え、この形式をとるハードボイルド小説の人気はいまだ衰えていない。「[[ギムレット]]には早すぎる」や「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」、「警官とさよならを言う方法はまだ発明されていない。」(いずれも[[清水俊二]]訳)などのセリフで知られる。
[[1973年]]に[[ロバート・アルトマン]]監督により映画化され(日本では『'''ロング・グッドバイ'''』のタイトルで公開)、[[2014年]]に[[日本]]で『'''ロング・グッドバイ'''』のタイトルで[[テレビドラマ]]化された。
== あらすじ ==
1949年の秋。私立探偵フィリップ・マーロウは、片面に傷を持つ男、テリー・レノックスという酔っぱらいと出会う。どこか品性のあるレノックスに惹かれるものを感じて友人となったマーロウは、毎晩バーを共にするようになる。1950年6月の深夜、レノックスはマーロウの自宅を訪れるとメキシコの[[ティフアナ]]に連れて行って欲しいと頼み込む。詳細は聞かず、言われた通りにメキシコに彼を送り届けたマーロウであったが、ロサンゼルスに戻ると待っていたのは、妻殺しの容疑でレノックスを捜している警官であった。マーロウは殺人の共犯者として逮捕され取り調べを受けるが、レノックスを庇って黙秘を通し、反抗的な態度も手伝って警察から手酷い扱いを受ける。しかし3日目、メキシコからレノックスが自殺した旨の情報が届き、マーロウは釈放される。彼が呆然として家に戻ると「ギムレットを飲んだら、僕のことはすべて忘れてくれ」と書かれたレノックスからの手紙が届いていた。
しばらくしてマーロウは、ある出版社から失踪した人気作家ロジャー・ウェイドの捜索を依頼される。依頼を受けるか迷うマーロウであったが、やがてウェイドはレノックスの隣人であったことを知る。さらに彼の妻アイリーンからも頼まれ、渋々引き受けたマーロウは、アルコール中毒のウェイドを発見し、連れ帰る。その後、見張り役としてウェイド邸に留まることとなったマーロウは、アイリーンから誘惑され、彼女が第二次世界大戦で10年前に亡くなった恋人のことを今も深く愛していることを知る。
マーロウはウェイドに対する仕事の傍らで、レノックスの件についても調査を続ける。彼の交友関係や来歴には不思議なことも多かったが、それ以上のものもなく打ち切りを検討し始める。そんな折、今度はウェイドの死体が発見される。マーロウは自殺とみるが、アイリーンはマーロウが殺したと激しく非難する。そして、レノックスの件でマーロウを脅迫してくるギャングのメネンデス、レノックスの岳父にあたる謎めいた大富豪ハーランなど、くせものが次々とマーロウの前に現れる。
その後、マーロウはレノックスの妻殺しにアイリーンが関わっていることに気づく。やがてマーロウは、レノックスの妻とウェイドを、アイリーンが殺害したという結論を出し、さらにアイリーンの亡き恋人こそレノックスであったと推定する。その推理を突きつけられたアイリーンは何も言わず去り、後日、罪を認める手紙を残して彼女が自殺したとマーロウは知る。
事件や謎はすべて解決したように見えたが、マーロウはなぜか釈然とせず、さらにメネンデスから暴行を受ける。最後にマーロウは、メキシコから来た男の訪問を受ける。男は、レノックスが死んだホテルにいたという。だが、マーロウはこの男こそが、整形して顔を変えたレノックスであると気づく。レノックスは前のように共に酒を飲もうと誘うが、マーロウは拒否し、別れの言葉をかける。
== 登場人物 ==
* [[フィリップ・マーロウ]] - 探偵
* テリー・レノックス - マーロウの友人
* シルヴィア・レノックス - テリーの妻
* ハーラン・ポッター - 億万長者でシルヴィアの父
* リンダ・ローリング - シルヴィアの姉
* エドワード・ローリング - リンダの夫
* ロジャー・ウェイド - 作家
* アイリーン・ウェイド - ロジャーの妻
* キャンディ - ウェイド家のハウスボーイ
* ハワード・スペンサー - ニューヨークの出版社の代表者
* ヘンリー・シャーマン - 「ジャーナル」紙の編集長
* ロニー・モーガン - 「ジャーナル」紙の記者
* ランディ・スター - クラブの経営者
* メンディ・メネンデス - ギャングのボス
* チック・アゴスティノ - メンディの用心棒
* ジョージ・ピーターズ - カーン協会員
* レスター・ヴューカニッチ - 耳鼻喉喉科の医者
* エイモス・ヴァーリー - 医者
* ヴァリンジャー - 医者
== 評価 ==
1995年出版のアメリカ探偵作家協会によるベスト100では13位に選ばれている(他のチャンドラー作品としては8位に「大いなる眠り」、21位「さらば愛しき女よ」)。日本ではハヤカワミステリーベスト100など、ほとんどのランキングで、チャンドラー作品としては1位を保ち傑作とする人が多い。
[[村上春樹]]は『[[カラマーゾフの兄弟]]』と『[[グレート・ギャツビー]]』と本作を、もっとも影響を受けた作品3作として挙げており、『[[羊をめぐる冒険]]』の物語も本作の影響をよく指摘される。長らく日本では[[清水俊二]]訳によるものが出版されていたが、2007年には村上春樹、2022年には田口俊樹、翌2023年には市川亮平による翻訳版も出版された。
== 日本語訳 ==
同じ出版社から刊行されている清水俊二訳の『長いお別れ』と[[村上春樹]]の新訳『ロング・グッドバイ』は両方とも流通している。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 出版年
! タイトル
! 出版社
! 文庫名等
! 訳者
! 巻末
! ページ数
! ISBNコード
! カバーデザイン
! 備考
|-
| 1958年10月
| 長いお別れ
| [[早川書房]]
| <small>世界探偵小説全集<br />([[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]])</small>260
| [[清水俊二]]
|
| 370
|
|
|
|-
| 1972年6月
| レイモンド・チャンドラー
| 早川書房
| [[世界ミステリ全集]]5
| 清水俊二
|
| 748
|
|
| <small>清水俊二訳の<br />『さらば愛しき女よ』<br />『長いお別れ』<br />『プレイバック』収録</small>
|-
| 1976年<br />4月1日
| 長いお別れ
| 早川書房
| [[ハヤカワ・ミステリ文庫]]HM 7-1
| 清水俊二
| 清水俊二 「あとがきに代えて」
| 545
| 978-4150704513
| <small>カバーフォーマット:[[辰巳四郎]]、<br />カバーデザイン:ハヤカワ・デザイン ほか</small>
|
|-
| 2007年<br />3月8日
| ロング・グッドバイ
| 早川書房
| (ハードカバー単行本)
| [[村上春樹]]
| 訳者あとがき
| 584
| 978-4152088000
| チップ・キッド
|
|-
| 2009年<br />3月6日
| ロング・グッドバイ
| 早川書房
| <small>Raymond Chandler Collection<br />(軽装版)</small>
| 村上春樹
| <small>訳者あとがき<br /> 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』</small>
| 711
| 978-4152090102
| <small>装画 浅野隆広、<br />カバーデザイン 坂川栄治+田中久子<br />(坂川事務所)</small>
|
|-
| 2010年<br />9月9日
| ロング・グッドバイ
| 早川書房
| ハヤカワ・ミステリ文庫HM 7-11
| 村上春樹
| <small>訳者あとがき<br /> 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』</small>
| 645
| 978-4150704612
| <small>坂川栄治+田中久子<br />(坂川事務所)</small>
|
|-
| 2022年<br />4月28日
| 長い別れ
| [[東京創元社]]
| [[創元推理文庫]]M-チ-1-7
| [[田口俊樹]]
| <small>訳者あとがき<br /> 解説 [[杉江松恋]]</small>
| 599
| 978-4-488-13107-4
| <small>カバー装画=Edward Hopper Nighthawks(部分)<br />(C)Alamy/PPS通信社<br />カバーデザイン=岡本洋平(岡本デザイン室)</small>
|
|-
| 2023年<br />5月30日
| ザ・ロング・グッドバイ
| [[小鳥遊書房]]
| (四六判)
| 市川亮平
| <small>訳者あとがき</small>
| 460
| 978-4-867-80018-8
| <small>装幀 鳴田小夜子<br />(KOGUMA OFFICE)</small>
| <small>ロスアンジェルスの地図、<br />邸宅の見取り図等挿絵数点収録</small>
|-
|}
== 映画 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = ロング・グッドバイ
| 原題 = The Long Goodbye
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[ロバート・アルトマン]]
| 脚本 = [[リイ・ブラケット]]
| 原作 = [[レイモンド・チャンドラー]]<br />『長いお別れ』より
| 製作 = ジェリー・ビック
| 製作総指揮 = [[エリオット・カストナー]]
| ナレーター =
| 出演者 = [[エリオット・グールド]]
| 音楽 = [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]
| 主題歌 =
| 撮影 = [[ヴィルモス・スィグモンド]]
| 編集 = ルー・ロンバード
| 配給 = [[ユナイテッド・アーティスツ]]
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1973年3月7日<br />{{flagicon|JPN}} 1974年2月23日
| 上映時間 = 112分
| 製作国 = {{USA}}
| 言語 = [[英語]]
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
[[1973年]]に監督[[ロバート・アルトマン]]、主演[[エリオット・グールド]]により映画化された。邦題は『ロング・グッドバイ』(原題は ''[[:en:The Long Goodbye (film)|The Long Goodbye]]'' )。
内容は1970代風にアレンジされており、[[エリオット・グールド]]が演じる探偵[[フィリップ・マーロウ]]が友人テリー・レノックスの謎の死をきっかけにある事件に巻き込まれていく。
=== キャスト ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
! rowspan="2"|役名
! rowspan="2"|俳優
! 日本語吹替
|-
! [[TBS]]版
|-
| [[フィリップ・マーロウ]] ||[[エリオット・グールド]] ||[[森川公也]]
|-
| アイリーン・ウェイド ||{{仮リンク|ニーナ・ヴァン・パラント|da|Nina van Pallandt}} || [[小谷野美智子]]
|-
| ロジャー・ウェイド ||[[スターリング・ヘイドン]]|| [[宮川洋一]]
|-
| マーティ・オーガスティン ||[[マーク・ライデル]]||[[青野武]]
|-
| ドクター・ヴェリンジャー ||[[ヘンリー・ギブソン]] ||[[千葉耕市]]
|-
| ハリー ||{{仮リンク|デヴィッド・アーキン|en|David Arkin}} ||
|-
| テリー・レノックス ||[[ジム・バウトン]]||
|-
| モーガン ||{{仮リンク|ウォーレン・バーリンジャー|en|Warren Berlinger}} ||
|-
| ルターニャ・スウィート ||[[ルターニャ・アルダ]] ||
|-
| デイヴ(ソクラテス) ||[[デビッド・キャラダイン]]||
|-
| チンピラ ||[[アーノルド・シュワルツェネッガー]] ||
|-
| 不明<br />その他 || || [[日高晤郎]] <br />[[幹本雄之|宮下勝]]<br />[[藩恵子]]<br />[[蟹江栄司]]<br />[[仲木隆司]]<br />[[峰恵研]]<br />[[広瀬正志]]<br />[[平林尚三]]<br />[[山岡葉子]]<br />葵京子<br />[[鳳芳野|加川三起]]<br />[[峰あつ子]]
|-
|
|-
| colspan="2"|演出 || [[蕨南勝之]]
|-
| colspan="2"|翻訳 || 入江敦子
|-
| colspan="2"|効果 || 遠藤堯雄<br />桜井俊哉
|-
| colspan="2"|調整 ||
|-
| colspan="2"|制作 || [[東北新社]]
|-
| colspan="2"|解説 ||[[荻昌弘]]
|-
| colspan="2"|初回放送 || [[1978年]][[11月13日]]<br />『[[月曜ロードショー]]』
|}
※日本語吹替は2015年10月7日発売の『[[吹替の名盤]]』シリーズ 〈テレビ吹替音声収録〉HDリマスター版DVDに収録)
=== スタッフ(映画) ===
*監督:[[ロバート・アルトマン]]
*製作:ジェリー・ビック
*製作総指揮:[[エリオット・カストナー]]
*脚本:[[リイ・ブラケット]]
*原作:[[レイモンド・チャンドラー]](『長いお別れ』より)
*撮影:[[ヴィルモス・スィグモンド]]
*音楽:[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]
=== 備考(映画) ===
*[[松田優作]]がこの映画にインスパイアされ、TVでは『[[探偵物語]]』、映画では『[[ヨコハマBJブルース]]』を生み出したことで知られている<ref>『[[映画秘宝]]ex&[[オトナアニメ]]ex アニメクリエイターの選んだ至高の映画』66p</ref>。
*映画評論家の[[町山智浩]]は『[[ビッグ・リボウスキ]]』『[[インヒアレント・ヴァイス]]』『[[アンダー・ザ・シルバーレイク]]』『[[グッドフェローズ]]』『[[アホーマンス]]』なども、この映画の影響をうけているとしている<ref>[https://tomomachi.stores.jp/items/5c203696c49cf36c452e1b73 町山智浩の映画トーク『ロング・グッドバイ』]</ref>。
*アニメ監督の[[渡辺信一郎 (アニメ監督)|渡辺信一郎]]は、『[[映画秘宝]]』のインタビュー本で自身のベスト10として本作『ロング・グッドバイ』を入れている<ref>『映画秘宝ex&オトナアニメex アニメクリエイターの選んだ至高の映画』62p-71p</ref>。
*映画美術家の[[種田陽平]]は本作を、1999年に行われた[[キネマ旬報]]のオールタイムベスト企画で、自身のベスト10の一つに挙げて、コメント欄で「『[[ガルシアの首]]』や『ロング・グッドバイ』に匹敵する熱いアメリカ映画はもう見られないのか。『[[ファーゴ (映画)|ファーゴ]]』を演出した[[コーエン兄弟]]にはその可能性があると思います」と、[[サム・ペキンパー]]『ガルシアの首』と共に本作を特別な映画と言えるコメントを出した <ref>『キネマ旬報 1999年10月上旬特別号 NO.1293映画人が選ぶオールタイムベスト100(外国映画篇)』『キネマ旬報1999年10月下旬号NO.1294映画人が選んだオールタイムベスト100(日本映画篇)』の種田のアンケートより</ref>。
*作家の[[村上龍]]は本作の大ファンであり、本作を含めた映画作品に[[オマージュ]]を捧げた「村上龍映画小説集 ([[講談社]]文庫)」を出している。
*『[[モダーンズ]]』の監督[[アラン・ルドルフ]]が第二助監督を務めた<ref name="fullcredits">{{Cite web|url=https://www.imdb.com/title/tt0070334/fullcredits|title=The Long Goodbye (1973) - Full cast and crew|publisher=[[IMDb]]|language=英語|accessdate=2013-01-30}}</ref>)。
*脚本家の[[リイ・ブラケット]]は、[[ウィリアム・フォークナー|フォークナー]]と共作したチャンドラー原作の『[[三つ数えろ]]』など、[[ハワード・ホークス]]監督作品の常連ライターである。
*チンピラのボス・オーガスティンを演じた[[マーク・ライデル]]は、『[[黄昏 (1981年の映画)|黄昏]]』で[[アカデミー監督賞]]候補になった。また、無名時代の[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]がオーガスティンの手下の1人として出演している。
*原作の重要なシーンで登場するギムレットは映画版には登場しない。また、序盤でマーロウが注文した「CCジンジャー」とは、[[カナディアン・ウイスキー|カナディアンクラブ]]を[[ジンジャーエール]]で割ったものである。
*映画の画面は常に(固定カメラで撮影されたものでも微妙に)動いている。
*監督のロバート・アルトマンは、車に撥ねられた主人公を搬送する救急車の運転手役で、カメオ出演している<ref>[https://www.imdb.com/title/tt0070334/characters/nm0000265?ref_=ttfc_fc_cl_t25 The Long Goodbye (1973) - Robert Altman: Ambulance Driver - IMDB]</ref>。
{{ロバート・アルトマン監督作品}}
== テレビドラマ ==
{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = ロング・グッドバイ
| 画像 =
| 画像説明 =
| ジャンル = [[テレビドラマ]]
| 放送時間 = 土曜21:00 - 21:58
| 放送分 = 58
| 放送枠 = 土曜ドラマ (NHK)
| 放送期間 = [[2014年]][[4月19日]] - [[5月17日]]
| 放送回数 = 5
| 放送国 = {{JPN}}
| 制作局 = [[日本放送協会|NHK]]
| 企画 =
| 製作総指揮 =
| 監督 =
| 演出 = [[堀切園健太郎]]
| 原作 = [[レイモンド・チャンドラー]]<br />『ロング・グッドバイ』
| 脚本 = [[渡辺あや]]
| プロデューサー = (制作統括)<br />[[城谷厚司]]<br />[[谷口卓敬]]
| アシスタントプロデューサー =
| 出演者 = [[浅野忠信]]<br />[[綾野剛]]<br />[[小雪 (女優)|小雪]]<br />[[古田新太]]<br />[[冨永愛]]<br />[[柄本明]]
| 音声 =
| 字幕 =
| データ放送 =
| OPテーマ =
| EDテーマ =
| 時代設定 = [[1950年代]]
| 外部リンク = http://www9.nhk.or.jp/dodra/goodbye/
| 外部リンク名 = 公式サイト
| 特記事項 =
}}
『'''ロング・グッドバイ'''』(英語表記:''THE LONG GOODBYE'')のタイトルでテレビドラマ化。[[2014年]][[4月19日]]より[[5月17日]]まで土曜日21:00 - 21:58に、[[日本放送協会|NHK]]の「[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]」枠で放送された。全5話。主演は[[浅野忠信]]で、デビュー26年にして初の[[連続ドラマ]]主演となる<ref>{{Cite web|和書|date=2014-1-14 |url=http://www9.nhk.or.jp/dramatopics-blog/6000/177419.html |title=浅野忠信さん連続ドラマ初主演!『ロング・グッドバイ』 |publisher=NHK |accessdate=2014-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-1-14 |url=https://mantan-web.jp/article/20140114dog00m200018000c.html |title=浅野忠信 : デビュー26年で初の連ドラ主演 |publisher=まんたんウェブ |accessdate=2014-01-14}}</ref>。[[キャッチコピー]]は「'''さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。'''」。[[1950年代]]の[[東京]]を舞台に描かれる。
=== キャスト(テレビドラマ) ===
==== 主人公 ====
; 増沢 磐二(ますざわ ばんじ)
: 演 - [[浅野忠信]]
: 私立探偵。雨の中で妻に捨てられ路上に行き倒れていた保を助けたことが切っ掛けで、何度か酒を酌み交わす仲になっていく。
: 原作の[[フィリップ・マーロウ]]に当たる。
==== 原田家 ====
; 原田 保(はらだ たもつ)
: 演 - [[綾野剛]](少年期:[[柾木玲弥]])
: 旧姓:城崎。本名:'''松井 誠一'''(まつい せいいち)。キャバレーローズの支配人をしていた頃に客で来店していた志津香と出会い、彼女に見初められ婿養子に入る。その後、妻を殺害したと書き記した遺書を残して逃亡先の台湾にあるホテルの一室で命を絶つ。
: 原作のテリー・レノックスに当たる。
; 原田 志津香(はらだ しずか)
: 演 - [[太田莉菜]]
: 保の妻。女優で有名な実業家の娘。鈍器で頭部を数回殴打された後に拳銃で殺される。遺作の主演映画は『闇夜の包帯娘』。
: 原作のシルヴィア・レノックスに当たる。
; 高村 世志乃(たかむら よしの)
: 演 - [[冨永愛]]
: 旧姓:原田。志津香の姉。高村医師の妻。
: 原作のリンダ・ローリングに当たる。
; 原田 平蔵(はらだ へいぞう)
: 演 - [[柄本明]]
: 実業家。志津香の父。
: 原作のハーラン・ポッターに当たる。
; 遠藤(えんどう)
: 演 - [[吉田鋼太郎]]
: 原田家の顧問弁護士。
: 原作のスーウェル・エンディコットに当たる。
; 風間(かざま)
: 演 - [[徳井優]]
: 志津香に仕える使用人。
: 原作の運転手・エイモスに当たる。
; 秘書<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
: 演 - [[大西武志]]
==== 警察関係者 ====
; 岸田(きしだ)
: 演 - [[遠藤憲一]]
: 警部補。磐二とは旧知の仲。
: 原作のバーニー・オールズとグリーンを合成した人物。
; 権田(ごんだ)
: 演 - [[高橋努 (俳優)|高橋努]]
: 刑事。岸田の部下。盤二に暴力をふるう。
: 原作のデイトンとグレゴリアスを合成した人物。
==== 上井戸家 ====
; 上井戸 亜以子(かみいど あいこ)
: 演 - [[小雪 (女優)|小雪]](少女期:[[中村ゆりか]])
: 譲治の妻。
: 原作のアイリーン・ウェイドに当たる。
; 上井戸 譲治(かみいど じょうじ)
: 演 - [[古田新太]]
: ベストセラー作家。亜以子の夫。代表的な著書は『背徳の踊り子』『美女と黒蜥蜴』。
: 原作のロジャー・ウェイドに当たる。
; 金田 章介(かねだ しょうすけ)
: 演 - [[泉澤祐希]]
: 譲治の身の回りの世話などをする書生。
: 原作のキャンディーに当たる。
==== その他 ====
; 羽丘(はねおか)
: 演 - [[田口トモロヲ]]
: 出版社社長。譲治の担当編集者。[[アルコール使用障害]]に陥る夫を救ってほしいという妻・亜以子の依頼を増沢に連絡を取り、仲介する。
: 原作のハワード・スペンサーに当たる。
; 森田(もりた)
: 演 - [[滝藤賢一]]
: 志津香殺害事件を取材する東亜タイムスの記者。
: 原作のロニー・モーガンに当たる。
; リリー
: 演 - [[福島リラ]]
: キャバレー紅夢のステージで唄う歌姫。
; 高村 肇(たかむら はじめ)
: 演 - [[堀部圭亮]]
: 亜以子の主治医で世志乃の夫。高村記念病院院長兼精神科部長。
: 原作のエドワード・ローリングに当たる。
; 正岡 虎一(まさおか とらいち)
: 演 - [[やべきょうすけ]]
: 通称:正虎(まさとら)。本名:'''木村 丸男'''(きむら まるお)。戦後に闇市、現在は賭場やキャバレーを取り仕切る元締。独立第361国境守備隊に徴兵されていた頃、同じ部隊に所属していた保に命を救われる。
: 原作のメンディー・メネンデスに当たる。
; 財前(ざいぜん)
: 演 - [[岩松了]]
: 譲治に麻薬を売っている医師。
: 原作のヴェリンジャーに当たる。
; 六郎(ろくろう)
: 演 - [[渡辺大知]]
: 廃墟と化した財前病院に棲みつき、門番だと名乗る男。
: 原作のアールに当たる。
; バーテン<!--役名は第1話の劇中クレジットからの引用-->
: 演 - [[中嶋しゅう]]
: バーヴィクターズのバーテン。
; 闇医者<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
: 演 - [[でんでん]]
: 磐二と繋がりがある闇医師。
; 中年女<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
: 演 - [[石田えり]]
: 磐二に夫の浮気調査を依頼する。
==== ゲスト ====
複数話・単話登場の場合は演者名の横の括弧()内に表記。
; 第1話
:; 北岡(きたおか)
:: 演 - [[國本鐘建]](第3話 - 最終話)
:: キャバレー紅夢の支配人。
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
; 第2話
:; 瀬々(ぜぜ)
:: 演 - [[小籔千豊]]
:: 麻薬を客に売り捌いていると噂されている医師。
:: 原作のレスター・ヴュカニックに当たる。
:; 看護師1<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[エド・はるみ]]
:: 真面目な看護師。
:; 看護師2<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[安藤玉恵]]
:: 男あさりが趣味の看護師。
:; 正虎の子分<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[レイザーラモンHG]](最終話)
:: 正虎の用心棒。
:: 原作のチック・アゴスティーノに当たる。
:
; 第4話
:; 元隊員2<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[三浦誠己]]
:; 元隊員1<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[水澤紳吾]]
:: 上記2名は保や正岡と同じ独立第361国境守備隊に所属していた元兵隊。
:; 歌手<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[TAIGA]]
:: 失踪したリリーの代わりにキャバレー紅夢の舞台に立つ。
:; 佐々木
:: 演 - [[望月章男]]
:: 刑事。岸田の部下。
:
; 最終話
:; 中年男<!--役名は劇中クレジットからの引用-->
:: 演 - [[春海四方]]
:: 浮気をしている中年女の夫。
=== スタッフ(テレビドラマ) ===
* 原作 - [[レイモンド・チャンドラー]]『ロング・グッドバイ』
* 脚本 - [[渡辺あや]]
* 音楽 - [[大友良英]]
* 演出 - [[堀切園健太郎]](NHKエンタープライズ)
* 語り - 滝藤賢一
* 脚本協力 - [[小川真司 (プロデューサー)|小川真司]]
* タイトルバック写真 - 長谷井宏紀
* 編集 - [[大庭弘之]]
* 美術 - [[山口類児]]、伊達美貴子
* スタイリスト - [[北村道子]]
* アクション指導 - [[下村勇二]]
* バーテンダー指導 - 高坂壮一
* 台湾語指導 - 鄭文逸
* 制作統括 - [[城谷厚司]](NHKエンタープライズ)、[[谷口卓敬]](NHK)
* 制作 - [[NHKエンタープライズ]]
* 制作著作 - [[日本放送協会|NHK]]
=== 放送日程 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!各話!!放送日!!サブタイトル
|-
|第1回||4月19日||色男死す
|-
|第2回||4月26日||女が階段を上る時
|-
|第3回||5月{{0}}3日||妹の愛人
|-
|第4回||5月10日||墓穴にて
|-
|最終回||5月17日||早過ぎる
|-
!colspan="3"|平均視聴率 4.9%<ref>{{Cite journal|和書|date = 2014-08-22|title = 発表! 第81回ドラマアカデミー賞|journal = 週刊[[ザテレビジョン]]関西版|volume = 20|issue = 33号(2014年8月22日号)|page = 26|publisher = [[KADOKAWA]]}}</ref>(視聴率は[[関東地方|関東地区]]・[[ビデオリサーチ]]社調べ)
|-
|}
* 最終回は『[[日本プロ野球|プロ野球]] [[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[広島東洋カープ|広島]]』中継により30分繰り下げ(21:30 - 22:30)。
* 本編は全回58分。BSプレミアムでも11月8日~12月5日の日程で午前0時から放送された。
* 新曲を交え110分に再編集を行った「リミテッド・エディション」が12月6日にBSプレミアムで、2015年1月2日には総合テレビで放送される。
=== 関連商品 ===
;サウンドトラック
:*土曜ドラマ ロング・グッドバイ オリジナル・サウンドトラック(2014年5月14日発売、[[ビクターエンタテインメント]])
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;公式本
:*[[長谷井宏紀]]・写真『The Long Goodbye NHK土曜ドラマ「ロング・グッドバイ」ビジュアルブック』(2014年4月24日発売、[[早川書房]])ISBN 978-4152094513
:
;ノベライズ
:*[[司城志朗]]・ノベライズ、渡辺あや・脚本『ロング・グッドバイ〔東京篇〕』(2014年4月24日発売、早川書房〈[[ハヤカワ文庫]]〉)ISBN 978-4150311568
{{前後番組
|放送局= [[日本放送協会|NHK]]
|放送枠= [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]
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{{土曜ドラマ (NHK)}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
== 学術的参考文献 ==
* [[小野智恵]]「ポスト・ノワールに迷い込む古典的ハリウッド映画 ― 『ロング・グッドバイ』における失われた連続性」、『交錯する映画 ― アニメ・映画・文学』、映画学叢書([[加藤幹郎]]監修、[[杉野健太郎]]編、[[ミネルヴァ書房]]、2013年3月)所収。
== 関連項目 ==
* [[ギムレット]] - 「Long Goodbye」が[[カクテル言葉]]となっている。
* [[矢作俊彦]] - 二村永爾シリーズ第3作『ロング・グッドバイ(THE WRONG GOODBYE)』は、本作のオマージュとなっている。
* [[新スタートレック]] - 12話『宇宙空間の名探偵(The Big Goodbye)』は、本作を模した仮想空間を舞台としている。
* [[探偵同盟]] - [[宮内淳]]が演じるメンバーのニックネームがマーロウ。
* [[プロハンター]] - 横浜を舞台とした探偵ドラマ。最終回のサブタイトルが『ロング・グッドバイ』。
* [[仮面ライダーW]] - 主人公の探偵の書棚には、本作の原書と村上春樹の翻訳版が置いてある。また、相棒の名前はフィリップである。
* 黒い瞳のブロンド - [[ジョン・バンヴィル]]がベンジャミン・ブラック名義で執筆した『長いお別れ』の公認続編。2022年、『[[探偵マーロウ]]』として映画化。
== 外部リンク ==
* 映画
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** {{Kinejun title|9923|ロング・グッドバイ}}
** {{Amg movie|29924|The Long Goodbye}}
** {{IMDb title|0070334|The Long Goodbye}}
** {{tcmdb title|15871|The Long Goodbye}}
** {{rotten-tomatoes|1031440-long_goodbye|The Long Goodbye}}
* テレビドラマ
** [http://www9.nhk.or.jp/dodra/goodbye/ ロング・グッドバイ - NHK]
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シルクロード
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シルクロード(絹の道、英語: Silk Road, ドイツ語: Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした 。
シルクロードの始まりは、紀元前114年頃に漢王朝が中央アジアに進出し、かつて未開の地であったこの地域をほぼ平定したことである。張騫は、この地域の向こう側にある未知の土地を探検し、貿易相手や同盟国の候補を探すよう命じられた。この探検で得た情報や物資は、中国の関心を呼び、外交や商業の正式な派遣を促し、兵士や万里の長城の拡張によるルートの保護に力を入れた。
アナトリア東部からアフガニスタンにかけてのパルティア帝国の拡大は、東アフリカや地中海、特に新興のローマ帝国への架け橋となるものであった。紀元1世紀初頭には、中国の絹はローマ、エジプト、ギリシアで広く求められた。その他、東洋からは茶、染料、香水、磁器などが、西洋からは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、利益をもたらした。紙や火薬の普及は、新興の商人層に大きな富をもたらしただけでなく、世界史とまではいかなくとも、さまざまな地域の歴史を大きく変えることになった。
シルクロードは約1500年の歴史の中で、数々の帝国の興亡や黒死病、モンゴルの征服などの大きな災厄に見舞われた。しかし、モンゴル帝国やその分派である元王朝を経て、シルクロードは以前よりも強くなっている。しかし、シルクロードは分散型のネットワークであるため、治安は悪く、旅人は常に盗賊の脅威にさらされていた。山賊や遊牧民の襲撃に常にさらされ、人を寄せ付けない地形が長く続いた。途中の様々な中継地点を拠点とする一連の仲介者に頼らずにシルクロードの全行程を踏破する者はほとんど居なかった。
シルクロード貿易は、中国、韓国、日本、インド、イラン、ヨーロッパ、アフリカの角、アラビアとの政治的・経済的関係を開く上で重要な役割を果たした。シルクロードでは、物資だけでなく、思想、宗教(特に仏教)、哲学、科学的発見なども交換され、その多くはそれらに遭遇した社会で融合され、新たな形が生み出された。また、移民、難民、宣教師、職人、外交官、兵士など、さまざまな人々がこのルートを利用した。また、ペストなどの病気もシルクロードを経由して広まり、黒死病の一因となった可能性もある。
しかし、1453年にオスマン帝国が勃興すると、シルクロードは突然終わりを告げ、東西の貿易は途絶えた。これを機に、ヨーロッパは東方の富を得るためのルートを求め、大航海時代、ヨーロッパの植民地主義、そしてシルクロードから始まったといえるグローバリゼーションをさらに加速させた。その影響は21世紀に入っても続いている。マルコ・ポーロは中世のベネチア商人であり、西洋人として最も早く東洋を訪れ、記述した人物である。新しいシルクロードという名称は、この歴史的な交易路を通じた輸送の拡大を目指すいくつかの大規模なインフラプロジェクトを表すために使われており、代表的なものとして、ユーラシア・ランドブリッジや中国の一帯一路構想(BRI)などがある。2014年6月、ユネスコはシルクロードの長安 - 天山回廊を世界遺産に指定したが、インド側の回廊は暫定リストに掲載されたままである。
シルクロードの名は、ほぼ中国で生産される絹織物の貿易に由来している。「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。
一部の現代史家の間では、東アジア、東南アジア、インド亜大陸、中央アジア、中東、東アフリカ、ヨーロッパを結ぶ複雑な陸路・海路をより正確に表す「シルクルート」という名称も使われるようになった。
シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあるが、特定の国家や組織が設定したわけではないため、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
中国西安から北上してカラコルムに渡り、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海北側の南ロシア草原に至る、「オアシスの道」よりも古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。
モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている。
東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路は「オアシスの道」と呼ばれる。このルートをリヒトホーフェンが「シルクロード」と名づけた。洛陽や長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。
ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀~10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。
東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。
中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。海のシルクロードの起点は福建省泉州市。
すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ(英語版)(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天や海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。
7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、唐末に広州大虐殺や黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。
宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。この時期にはアフリカのイブン・バットゥータも泉州、福州を通って大都(北京)を訪れた。
明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、海上交易路を海賊から保護した。鄭和艦隊はアフリカのマリンディまで航海しており、この艦隊は軍事侵略・占領を目的とはしていなかったが、明・コーッテ戦争(中国語版、英語版)でセイロン(ライガマ王国(英語版)、現在のスリランカ)から攻撃を受けた際は首都まで攻め入って武力制圧し、王アラカイスワラ(英語版)とその家族を中国に連れ去ったこともあった。
その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。
1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。
19世紀に、ペルシャ湾戦役 (1809年)(英語版)の結果、イギリスが制海権を握った。
中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。
中国南西部から、ミャンマー北部、ヒマラヤ山脈南部を経て、インド亜大陸に至るルート。西南シルクロードともされ、主な交易品は茶であったため茶馬古道とも呼ばれる。通過する地名を取り「川滇緬印古道」とも。
このルートは「ヒマラヤルート」や中国では「蔵印路」「南西印路」などと呼ばれ、名称も定まっていない。これまで中国と南アジア間でもチベットを介しヒマラヤ山脈を抜けての交易があったことは、中国側の文献資料や個別の遺跡の出土遺物から確認されていたが、その点と点を繋ぐ交易路の痕跡が発掘調査や人工衛星測量などから明らかになってきた。その一方で開発の波が押し寄せ、遺跡の破壊が深刻化していることもあり、インド・ネパール・ブータンの交易路を「シルクロード南アジアルート」としてユネスコが直接顕彰と保護に乗り出すことになった。
ベンガル地方の宝石や珊瑚が絹と交換され、後にインドに養蚕・絹生産技術がこのルートを経て中国から伝播したことは、限られた桑の自生環境と重複していることから推測されている。インドでは英領時代に綿糸生産が奨励され、ヒマラヤ山間部では羊毛生産が主であり、伝統的にシルクシャンタン(インドシルク)の生産が行われてきたのはインド北東部(7姉妹州)のような辺境域であるため検証作業が困難になる。また、インドの養蚕は毎回森林から捕ってくる野蚕で、桑も中国や日本の品種とは全く違い、蚕を煮沸しないアヒンサー(不殺生)であることから絹としての質感が異なり、従来のシルクロードを行きかった絹とは一線を画したものであるため、シルクロードとして一括りにしてよいものかという疑問も呈されており、このような根本的な議論から始めるとしている。
エフェソス公会議で異端とされたキリスト教ネストリウス派は東方で布教に努め、ペルシアなどで勢力を築いた。中国に広まったものは景教と呼ばれていた。781年に刻まれた大秦景教流行中国碑は、部分的にシリア文字やシリア語も使われており、古代の宣教師たちがシルクロードを通って中央アジアや中国まで往来していたことを示している 。
シルクロードを経由した中国への仏教伝播は、漢王朝の明帝(58-75)が西洋に派遣した大使の記録によると、西暦1世紀ごろであったという。この時期に仏教は、東南アジア、東アジア、中央アジアに広がり始めた。上座部、大乗、チベット仏教は、シルクロードを経由してアジア中に広がった仏教の3つの主要な宗派である。
4世紀以降は、中国の巡礼者がインドにオリジナルの仏典を求めてシルクロードを旅した。中国からインドへ法顕(395-414)、玄奘三蔵(629-644)が渡り、韓国からインドへは慧超が渡った。玄奘三蔵の旅は大唐西域記として記され、後にこれを元に16世紀にフィクション作品西遊記が生まれた。
日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、正倉院は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。
シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムやノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け、1988年に日中両政府は日中友好環境保護センターの設立を決定した。また、平山郁夫はシルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけて平山郁夫シルクロード美術館も設立した。
シルクロードが世界遺産に登録されたことを契機に、ユネスコの人文・社会科学局が推進する「異文化間の対話」プログラムにおいて、「シルクロード-対話、多様性、開発」プロジェクトが始まった。これはシルクロードほど多様な人種・文化・宗教・自然環境などが混在する地域はなく、そのことが歴史的には係争の舞台ともなってきたことから、シルクロードを平和の象徴にしようという主旨である。
具体的にはユネスコを代表する事業となった世界遺産をシルクロードに広げてゆき、各地域に無形文化遺産・記憶遺産・生物圏保護区・ジオパーク・創造都市ネットワークなど(海の道においては水中文化遺産保護条約も)各種ユネスコ事業を総投入展開し、可動文化財や少数民族言語の保護にも取り組む。ユネスコ公式サイトでは、「シルクロード・オンラインプラットフォーム」を立ち上げた。
一方で、このプロジェクトの主たる旗振り役が中国であり、中国による一帯一路計画の文化面政策として利用される懸念もある。
一帯一路の中核事業として位置付けられた東アジアから中国、モンゴル、カザフスタンを経由しロシア、東欧、欧州などへ貨物列車を使用した物流網が開通しており、「鉄のラクダ」とも称される。
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"text": "宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。この時期にはアフリカのイブン・バットゥータも泉州、福州を通って大都(北京)を訪れた。",
"title": "交易路"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、海上交易路を海賊から保護した。鄭和艦隊はアフリカのマリンディまで航海しており、この艦隊は軍事侵略・占領を目的とはしていなかったが、明・コーッテ戦争(中国語版、英語版)でセイロン(ライガマ王国(英語版)、現在のスリランカ)から攻撃を受けた際は首都まで攻め入って武力制圧し、王アラカイスワラ(英語版)とその家族を中国に連れ去ったこともあった。",
"title": "交易路"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。",
"title": "交易路"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。",
"title": "交易路"
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"text": "19世紀に、ペルシャ湾戦役 (1809年)(英語版)の結果、イギリスが制海権を握った。",
"title": "交易路"
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"text": "中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。",
"title": "交易路"
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"text": "中国南西部から、ミャンマー北部、ヒマラヤ山脈南部を経て、インド亜大陸に至るルート。西南シルクロードともされ、主な交易品は茶であったため茶馬古道とも呼ばれる。通過する地名を取り「川滇緬印古道」とも。",
"title": "交易路"
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"text": "このルートは「ヒマラヤルート」や中国では「蔵印路」「南西印路」などと呼ばれ、名称も定まっていない。これまで中国と南アジア間でもチベットを介しヒマラヤ山脈を抜けての交易があったことは、中国側の文献資料や個別の遺跡の出土遺物から確認されていたが、その点と点を繋ぐ交易路の痕跡が発掘調査や人工衛星測量などから明らかになってきた。その一方で開発の波が押し寄せ、遺跡の破壊が深刻化していることもあり、インド・ネパール・ブータンの交易路を「シルクロード南アジアルート」としてユネスコが直接顕彰と保護に乗り出すことになった。",
"title": "交易路"
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"text": "ベンガル地方の宝石や珊瑚が絹と交換され、後にインドに養蚕・絹生産技術がこのルートを経て中国から伝播したことは、限られた桑の自生環境と重複していることから推測されている。インドでは英領時代に綿糸生産が奨励され、ヒマラヤ山間部では羊毛生産が主であり、伝統的にシルクシャンタン(インドシルク)の生産が行われてきたのはインド北東部(7姉妹州)のような辺境域であるため検証作業が困難になる。また、インドの養蚕は毎回森林から捕ってくる野蚕で、桑も中国や日本の品種とは全く違い、蚕を煮沸しないアヒンサー(不殺生)であることから絹としての質感が異なり、従来のシルクロードを行きかった絹とは一線を画したものであるため、シルクロードとして一括りにしてよいものかという疑問も呈されており、このような根本的な議論から始めるとしている。",
"title": "交易路"
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"text": "エフェソス公会議で異端とされたキリスト教ネストリウス派は東方で布教に努め、ペルシアなどで勢力を築いた。中国に広まったものは景教と呼ばれていた。781年に刻まれた大秦景教流行中国碑は、部分的にシリア文字やシリア語も使われており、古代の宣教師たちがシルクロードを通って中央アジアや中国まで往来していたことを示している 。",
"title": "宗教の伝播"
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"text": "シルクロードを経由した中国への仏教伝播は、漢王朝の明帝(58-75)が西洋に派遣した大使の記録によると、西暦1世紀ごろであったという。この時期に仏教は、東南アジア、東アジア、中央アジアに広がり始めた。上座部、大乗、チベット仏教は、シルクロードを経由してアジア中に広がった仏教の3つの主要な宗派である。",
"title": "宗教の伝播"
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"text": "4世紀以降は、中国の巡礼者がインドにオリジナルの仏典を求めてシルクロードを旅した。中国からインドへ法顕(395-414)、玄奘三蔵(629-644)が渡り、韓国からインドへは慧超が渡った。玄奘三蔵の旅は大唐西域記として記され、後にこれを元に16世紀にフィクション作品西遊記が生まれた。",
"title": "宗教の伝播"
},
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"text": "日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、正倉院は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。",
"title": "日本との関係"
},
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"text": "シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムやノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け、1988年に日中両政府は日中友好環境保護センターの設立を決定した。また、平山郁夫はシルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけて平山郁夫シルクロード美術館も設立した。",
"title": "日本との関係"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "シルクロードが世界遺産に登録されたことを契機に、ユネスコの人文・社会科学局が推進する「異文化間の対話」プログラムにおいて、「シルクロード-対話、多様性、開発」プロジェクトが始まった。これはシルクロードほど多様な人種・文化・宗教・自然環境などが混在する地域はなく、そのことが歴史的には係争の舞台ともなってきたことから、シルクロードを平和の象徴にしようという主旨である。",
"title": "現代"
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"text": "具体的にはユネスコを代表する事業となった世界遺産をシルクロードに広げてゆき、各地域に無形文化遺産・記憶遺産・生物圏保護区・ジオパーク・創造都市ネットワークなど(海の道においては水中文化遺産保護条約も)各種ユネスコ事業を総投入展開し、可動文化財や少数民族言語の保護にも取り組む。ユネスコ公式サイトでは、「シルクロード・オンラインプラットフォーム」を立ち上げた。",
"title": "現代"
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"text": "一方で、このプロジェクトの主たる旗振り役が中国であり、中国による一帯一路計画の文化面政策として利用される懸念もある。",
"title": "現代"
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"text": "一帯一路の中核事業として位置付けられた東アジアから中国、モンゴル、カザフスタンを経由しロシア、東欧、欧州などへ貨物列車を使用した物流網が開通しており、「鉄のラクダ」とも称される。",
"title": "現代"
}
] |
シルクロードは、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした 。
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{{otheruses}}
{{redirect|海の道|古代オリエントにあった道路|ウィア・マリス}}
[[File:SeidenstrasseGMT.JPG|thumb|right|400px|シルクロードの主要なルート(1世紀ごろ)]]
[[File:Silk_Road_in_the_I_century_AD_-_en.svg|thumb|right|400px|シルクロードの主要なルート(1世紀ごろ)]]
'''シルクロード'''('''絹の道'''、{{lang-en|Silk Road}}, {{lang-de|Seidenstraße}}, {{lang-zh-hant|絲綢之路}}, {{lang-zh-hans|丝绸之路}}<ref group="注釈">{{Lang-kk|Ūly Jıbek jоly}}; {{Lang-fa|جاده ابریشم}}; {{Lang-it|Via della seta}}</ref>)は、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍した[[ユーラシア]]大陸の[[交易路]]網である<ref name=":5">{{Cite web |author=Society |first=National Geographic |date=2019-07-26 |title=The Silk Road |url=http://www.nationalgeographic.org/encyclopedia/silk-road/ |access-date=2022-01-25 |website=National Geographic Society |language=en}}</ref>。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした<ref>{{Cite web |url=http://www.miho.or.jp/english/member/shangrila/tpshan23.htm |title=Eurasian winds toward Silla |author=Miho Museum News (Shiga, Japan) Volume 23 |date=March 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160409105904/http://www.miho.or.jp/english/member/shangrila/tpshan23.htm |archive-date=9 April 2016 |accessdate=2022-8-6}}</ref> <ref name=":42">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=MJhpDQAAQBAJ&pg=PA1|title=Ancient Glass Research Along the Silk Road|last=Gan|first=Fuxi|date=2009|page=41|others=Shanghai Institute of Optics and Fine Mechanics, Chinese Academy of Sciences|isbn=978-981-283-356-3|edition=Ancient Glass Research along the Silk Road, World Scientific|archive-url=https://web.archive.org/web/20180227164624/https://books.google.com/books?id=MJhpDQAAQBAJ&pg=PA1|archive-date=27 February 2018}}</ref> <ref>{{Cite book|last=Elisseeff|first=Vadime|title=The Silk Roads: Highways of Culture and Commerce|publisher=UNESCO Publishing / Berghahn Books|year=2001|isbn=978-92-3-103652-1}}</ref>。
== 概要 ==
シルクロードの始まりは、紀元前114年頃に[[漢王朝]]が中央アジアに進出し、[[西域都護|かつて未開の地であったこの地域をほぼ平定]]したことである。[[張騫]]は、この地域の向こう側にある未知の土地を探検し、貿易相手や同盟国の候補を探すよう命じられた<ref name="boulnois">{{Cite book|last=Boulnois|first=Luce|url=https://archive.org/details/silkroad00luce/page/66|title=Silk Road: Monks, Warriors & Merchants|publisher=Odyssey Books|year=2005|isbn=978-962-217-721-5|location=Hong Kong|page=[https://archive.org/details/silkroad00luce/page/66 66]|author-link=Luce Boulnois}}</ref>。この探検で得た情報や物資は、中国の関心を呼び、外交や商業の正式な派遣を促し、兵士や[[万里の長城]]の拡張によるルートの保護に力を入れた<ref>Xinru, Liu (2010). ''The Silk Road in World History'' New York: [[Oxford University Press]], p. 11.</ref>。
アナトリア東部からアフガニスタンにかけての[[パルティア]]帝国の拡大は、東アフリカや地中海、特に新興の[[ローマ帝国]]への架け橋となるものであった。紀元1世紀初頭には、中国の絹はローマ、エジプト、ギリシアで広く求められた<ref name=":5" />。その他、東洋からは茶、染料、香水、磁器などが、西洋からは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、利益をもたらした。[[紙幣|紙]]や[[火薬]]の普及は、新興の商人層に大きな富をもたらしただけでなく、世界史とまではいかなくとも、さまざまな地域の歴史を大きく変えることになった。
シルクロードは約1500年の歴史の中で、数々の帝国の興亡や[[黒死病]]、モンゴルの征服などの大きな災厄に見舞われた。しかし、[[モンゴル帝国]]やその分派である[[元 (王朝)|元王朝]]を経て、シルクロードは以前よりも強くなっている。しかし、シルクロードは分散型のネットワークであるため、治安は悪く、旅人は常に盗賊の脅威にさらされていた。山賊や遊牧民の襲撃に常にさらされ、人を寄せ付けない地形が長く続いた。途中の様々な中継地点を拠点とする一連の仲介者に頼らずにシルクロードの全行程を踏破する者はほとんど居なかった。
シルクロード貿易は、中国、韓国<ref name=":32">{{Cite web |title=Proto–Three Kingdomsof Korea {{!}} Silk Road |url=https://en.unesco.org/silkroad/countries-alongside-silk-road-routes/republic-korea |archive-url=https://web.archive.org/web/20170223211425/https://en.unesco.org/silkroad/countries-alongside-silk-road-routes/republic-korea |archive-date=23 February 2017 |access-date=23 February 2017 |website=UNESCO |language=en}}</ref>、日本<ref name=":42" />、インド、イラン、ヨーロッパ、[[アフリカの角]]、[[アラビア半島|アラビア]]<ref name="Bentley1993p32">Jerry Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 32.</ref>との政治的・経済的関係を開く上で重要な役割を果たした。シルクロードでは、物資だけでなく、思想、宗教([[仏教のシルクロード伝播|特に仏教]])、哲学、科学的発見なども交換され、その多くはそれらに遭遇した社会で融合され、新たな形が生み出された<ref>Jerry Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 33.</ref>。また、移民、難民、宣教師、職人、外交官、兵士など、さまざまな人々がこのルートを利用した。また、[[ペスト]]などの病気もシルクロードを経由して広まり、黒死病の一因となった可能性もある<ref name="The Guardian2">{{Cite news|date=22 July 2016|title=Ancient bottom wipers yield evidence of diseases carried along the Silk Road|newspaper=The Guardian|url=https://www.theguardian.com/science/2016/jul/22/ancient-bottom-wipers-yield-evidence-of-diseases-silk-road-chinese-liver-fluke|access-date=18 May 2018}}</ref>。
しかし、1453年に[[オスマン帝国]]が勃興すると、シルクロードは突然終わりを告げ、東西の貿易は途絶えた。これを機に、ヨーロッパは東方の富を得るためのルートを求め、[[大航海時代]]、ヨーロッパの植民地主義、そしてシルクロードから始まったといえる[[グローバリゼーション]]をさらに加速させた。その影響は21世紀に入っても続いている。マルコ・ポーロは中世のベネチア商人であり、西洋人として最も早く東洋を訪れ、[[東方見聞録|記述した]]人物である。新しいシルクロードという名称は、この歴史的な交易路を通じた輸送の拡大を目指すいくつかの大規模なインフラプロジェクトを表すために使われており、代表的なものとして、[[ユーラシア・ランドブリッジ]]や中国の[[一帯一路|一帯一路構想]](BRI)などがある。2014年6月、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]は[[シルクロード (世界遺産)|シルクロードの長安 - 天山回廊]]を[[世界遺産]]に指定したが、インド側の回廊は暫定リストに掲載されたままである。
== 名称 ==
シルクロードの名は、ほぼ中国で生産される[[絹|絹織物]]の貿易に由来している。「シルクロード」という名称は、[[19世紀]]に[[ドイツ]]の[[地理学者]][[フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]が、その著書『{{lang|de|China}}』(1巻、[[1877年]])においてザイデンシュトラーセン([[ドイツ語]]:{{lang|de|Seidenstraßen}};「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=38}}、リヒトホーフェンは古来中国で「[[西域]]」と呼ばれていた[[東トルキスタン]]を東西に横断する交易路、いわゆる「[[オアシス]]の道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、[[1900年]]に[[楼蘭]]の遺跡を発見した[[スウェーデン]]の地理学者[[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]が、自らの[[中央アジア]]旅行記の書名の一つとして用い、これが[[1938年]]に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった<ref name="SilkRoad" group="注釈">訳書は、[[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]『シルクロード』 西義之訳、白水社、のち[[中公文庫]]、2003年。本書は往年のシルクロードに沿った自動車道路建設に向けた調査旅行の顛末に関するものであって、昔日の交易路そのものについて論じた書ではない。</ref>。
一部の現代史家の間では、[[東アジア]]、[[東南アジア]]、[[インド亜大陸]]、[[中央アジア]]、[[中東]]、[[東アフリカ]]、[[ヨーロッパ]]を結ぶ複雑な陸路・海路をより正確に表す「シルクルート」という名称も使われるようになった<ref name=":5" />。
== 交易路 ==
シルクロードの中国側起点は[[長安]]([[陝西省]][[西安市]])、欧州側起点は[[歴史的シリア|シリア]]の[[アンティオキア]]とする説があるが、中国側は[[洛陽市|洛陽]]、欧州側は[[ローマ]]と見る説などもある。[[日本]]がシルクロードの東端だったとするような考え方もあるが、特定の[[国家]]や組織が設定したわけではないため、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
=== 草原の道 ===
{{Main|草原の道}}
中国[[西安]]から北上して[[カラコルム]]に渡り、[[モンゴル]]や[[カザフスタン]]の草原([[ステップ (植生)|ステップ]]地帯)を通り、[[アラル海]]や[[カスピ海]]の北側から[[黒海]]北側の[[キプチャク草原|南ロシア草原]]に至る、「オアシスの道」よりも古いとみなされている交易路{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=18-19, 40}}。この地に住む[[スキタイ]]や[[匈奴]]、[[突厥]]といった多くの[[遊牧民]]([[騎馬民族]])が、東西の文化交流の役割をも担った{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=40}}。
現在{{いつ|date=2021年8月23日 (月) 11:14 (UTC)}}の[[中華人民共和国鉄道部|中国国鉄]][[集二線]]は、{{要出典範囲|部分的にほぼこの道に沿っている|date=2021年7月}}。
モンゴルの[[ツァヒアギーン・エルベグドルジ]]大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている<ref>{{cite news |title=習近平主席がモンゴル国のエルベグドルジ大統領と会談、両国の全面的な戦略パートナーシップの絶え間な位発展を推進すると強調|url=http://jp.xinhuanet.com/2015-11/11/c_134805643.htm|author=|agency=[[新華社]]|date=2015-11-11|accessdate=2016-05-19}}</ref><ref>{{cite news |title=習近平主席が中露蒙首脳会議に出席|url=http://j.people.com.cn/n/2015/0710/c94474-8918669.html|author=|agency=[[人民日報]]|date=2015-07-10|accessdate=2016-05-19}}</ref>。
<gallery widths="240px" heights="200px">
File:Eurasian steppe belt cropped.jpg|[[ユーラシア・ステップ]]
File:Khövsgöl Aimag17.JPG|モンゴルの草原地帯
</gallery>
=== オアシスの道 ===
{{西域地図|align=right|width=600}}
[[東トルキスタン]]を横切って東西を結ぶ[[キャラバン|隊商]]路は「[[オアシス]]の道」と呼ばれる{{Sfn|ディジタル・シルクロード・プロジェクト|2005|loc=空間でたどるシルクロード}}{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=40}}。このルートを[[リヒトホーフェン]]が「シルクロード」と名づけた。洛陽や長安を発って、今日の[[蘭州市]]のあたりで[[黄河]]を渡り、[[河西回廊]]を経て[[敦煌市|敦煌]]に至る{{Sfn|ディジタル・シルクロード・プロジェクト|2005|loc=空間でたどるシルクロード}}{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=40}}。
ここから先の主要なルートは次の3本である。[[中央アジア#西トルキスタン|西トルキスタン]]<ref group="注釈">現在の[[ウズベキスタン]]、[[トルクメニスタン]]などを含む地域。</ref>以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいた[[ソグド人]]が、[[唐]]の[[時代]]のおよそ[[7世紀]]~[[10世紀]]頃シルクロード交易を支配していたといわれている。
;西域南道 (漠南路)
:[[タクラマカン砂漠]]の南側を通るルート{{Sfn|ディジタル・シルクロード・プロジェクト|2005|loc=空間でたどるシルクロード}}{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。敦煌から[[ホータン市|ホータン]]、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]など[[崑崙山脈]]北側のオアシスを辿って、[[カシュガル]]から[[パミール高原]]に達する{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。オアシスの道の中では最も古く、[[紀元前2世紀]]頃の[[前漢]]の時代には確立していたとされる。5世紀に[[法顕]]は西域南道を通ってインドに渡った{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。
: このルートは、敦煌を出てから[[ロプノール]]の北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、[[アルチン山脈]]の北麓に沿って進む方法とがあったが、[[4世紀]]頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、[[7世紀]]に[[玄奘三蔵]]はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『[[大唐西域記]]』に記されているので{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=266}}、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。[[13世紀]]に[[元 (王朝)|元]]の都を訪れた[[マルコ・ポーロ]]は、[[カシュガル市|カシュガル]]から後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。
:現在{{いつ|date=2021年8月23日 (月) 11:14 (UTC)}}の[[G315国道]]は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、[[2011年]]に[[喀和線]]が開通している。
;天山南路(西域北道, 漠北路, Northen Silkroad)
:天山山脈の南側を通るルート{{Sfn|ディジタル・シルクロード・プロジェクト|2005|loc=空間でたどるシルクロード}}{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。敦煌から[[コルラ市|コルラ]]、[[クチャ県|クチャ]]、[[アクス]]を経て、[[天山山脈]]の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至る{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の[[瓜州県|安西]]からいったん北上し、[[クムル市|ハミ]]から西進して[[トルファン市|トルファン]]を通り、コルラに出る方法とがあったが{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
:現在{{いつ|date=2021年8月23日 (月) 11:14 (UTC)}}トルファンとカシュガルを結んでいる[[南疆線]]は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、[[1971年]]に工事が始まり、[[1999年]]に開通した。[[G314国道]]も部分的にほぼこの道に沿っている。
;天山北路
:天山山脈の北側を通るルート{{Sfn|ディジタル・シルクロード・プロジェクト|2005|loc=空間でたどるシルクロード}}{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれて[[ウルムチ]]を通り、天山山脈の北麓沿いに[[イリ川]]流域を経て[[スイアブ]]に至る{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=42}}。紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均[[標高]]5000 mとされる[[パミール高原]]を越える必要もない。
:現在{{いつ|date=2021年8月23日 (月) 11:14 (UTC)}}の[[G312国道]]や[[蘭新線]]、[[北疆線]]は、部分的にほぼこの道に沿っている。
東トルキスタンの興亡史については、「[[西域]]」「[[楼蘭]]」「[[ホータン王国]]」「[[中国の歴史]]」などを参照のこと。
{{-}}
{{Wide image|Silk-Road course.jpg|1100px|オアシスの道<br/>(ロプノールが干上がると、楼蘭を経由する水色のルートは通行が困難になった。)}}
=== 海の道 ===
{{Main|海のシルクロード}}
{{出典の明記| date = 2021年7月| section = 1}}
[[File:Silk_route.jpg|right|thumb|300px|{{center|青い線が海の道}}]]
中国の南から海に乗り出し、[[東シナ海]]、[[南シナ海]]、[[インド洋]]を経て[[インド]]へ、さらに[[アラビア半島]]へと至る海路は「[[海のシルクロード]]」とも呼ばれる{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=41}}。海のシルクロードの起点は[[福建省]][[泉州市]]。
すでに[[プトレマイオス朝]]の時代から[[エジプト]]は[[紅海]]の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した[[古代ローマ]]([[共和政ローマ]]、[[ローマ帝国]])はこの貿易路も継承して、南インドの[[サータヴァーハナ朝]]との交易のために港湾都市{{仮リンク|アリカメドゥ|en|Arikamedu}}(現[[ポンディシェリ]]近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『[[エリュトゥラー海案内記]]』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。このルートで[[セイロン島|セイロン]](獅子国)やインド、[[ペルシア]]の商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも[[荒天]]や[[海賊]]の出没、各国の[[制海権]]の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。
[[7世紀]]以降はペルシアの交通路を継承した[[イスラム]]商人([[アラブ人]]、[[ペルシア人]]等の[[西アジア]]出身の[[ムスリム|イスラム教徒]]商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、[[広州市|広州]]などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、[[唐]]末に[[広州大虐殺 (唐代)|広州大虐殺]]や[[黄巣の乱]]によって大打撃を受け、一時後退した。
[[宋 (王朝)|宋]]代になると再び中国各地([[泉州市]]、[[福州市]]など)に進出し、[[元 (王朝)|元]]代まで続いた。元の[[クビライ・ハーン]]は東シナ海、南シナ海から[[ジャワ海]]、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために[[日本]]([[元寇]])や[[東南アジア]]に遠征軍を次々とおくった。この時期には[[アフリカ]]の[[イブン・バットゥータ]]も泉州、福州を通って[[大都]]([[北京]])を訪れた。
[[明]]は[[朝貢貿易]]しか認めない海禁政策を取り、海上交易路を海賊から保護した。[[鄭和]]艦隊はアフリカの[[マリンディ]]まで航海しており、この艦隊は軍事侵略・占領を目的とはしていなかったが、{{仮リンク|明・コーッテ戦争|zh|明-锡兰山国战争|en|Ming–Kotte War}}でセイロン({{仮リンク|ライガマ王国|en|Kingdom of Raigama}}、現在のスリランカ)から攻撃を受けた際は首都まで攻め入って武力制圧し<ref>Dreyer, Edward L. (2007). Zheng He: China and the Oceans in the Early Ming Dynasty, 1405–1433. New York, NY: Pearson Longman. ISBN 9780321084439. p. 70-73</ref>、王{{仮リンク|アラカイスワラ|en|Alagakkonara}}とその家族を中国に連れ去ったこともあった<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p108-109 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
[[ファイル:The Zheng He expeditions - Jap.jpg|thumb|right|300px|{{center|鄭和艦隊の進路}}]]
{{要出典範囲|その後インド洋は、[[オスマン帝国]]・[[マムルーク朝]]・[[ヴェネツィア共和国]]が制海権を握っていたが|date=2020年11月}}、[[16世紀]]に[[喜望峰]]経由で[[ポルトガル]]が進出し、[[1509年]]の[[ディーウの戦い (1509年)|ディーウ沖海戦]]で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。
[[1622年]]、[[イングランド王国]]・[[サファヴィー朝|サファヴィー朝ペルシア]]連合軍が勝利した([[ホルムズ占領 (1622年)|ホルムズ占領]])のを皮切りに、[[1650年]]には[[ヤアーリバ朝]](現[[オマーン]])がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。{{いつ範囲|また中近世以降は、中国から大量の[[陶磁器]]が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された|date=2020年11月}}。
[[19世紀]]に、{{仮リンク|ペルシャ湾戦役 (1809年)|en|Persian Gulf campaign of 1809|ペルシャ湾戦役}}の結果、イギリスが制海権を握った。
[[中華人民共和国]]は[[真珠の首飾り戦略]]から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。
=== 茶馬古道 ===
[[File:Map of the Tea-Horse road.png|thumb|right|{{center|赤線が南のシルクロード}}]]
{{Main|茶馬古道}}
中国南西部から、ミャンマー北部、[[ヒマラヤ山脈]]南部を経て、インド亜大陸に至るルート{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=44}}。'''西南シルクロード'''ともされ、主な交易品は[[茶]]であったため[[茶馬古道]]とも呼ばれる{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=44}}。通過する地名を取り「川滇緬印古道」とも{{Sfn|シルクロード検定実行委員会|2019|p=44}}。
=== 南アジアルート ===
このルートは「'''[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]ルート'''」や中国では「蔵印路」「南西印路」などと呼ばれ、名称も定まっていない。これまで中国と[[南アジア]]間でも[[チベット]]を介し[[ヒマラヤ山脈]]を抜けての交易があったことは、中国側の文献資料や個別の遺跡の出土遺物から確認されていたが、その点と点を繋ぐ交易路の痕跡が発掘調査や人工衛星測量などから明らかになってきた。その一方で開発の波が押し寄せ、遺跡の破壊が深刻化していることもあり、[[インド]]・[[ネパール]]・[[ブータン]]の交易路を「シルクロード南アジアルート」として[[ユネスコ]]が直接顕彰と保護に乗り出すことになった。
[[ベンガル地方]]の[[宝石]]や[[珊瑚]]が絹と交換され、後にインドに[[養蚕]]・絹生産技術がこのルートを経て中国から伝播したことは、限られた桑の自生環境と重複していることから推測されている。インドでは[[イギリス領インド|英領]]時代に[[綿糸]]生産が奨励され、ヒマラヤ山間部では[[羊毛]]生産が主であり、伝統的にシルクシャンタン(インドシルク)の生産が行われてきたのは[[北東インド|インド北東部]]([[7姉妹州]])のような辺境域であるため検証作業が困難になる。また、インドの養蚕は毎回森林から捕ってくる野蚕で、桑も中国や日本の品種とは全く違い、蚕を煮沸しない[[アヒンサー]](不殺生)であることから絹としての質感が異なり、従来のシルクロードを行きかった絹とは一線を画したものであるため、シルクロードとして一括りにしてよいものかという疑問も呈されており、このような根本的な議論から始めるとしている<ref>{{cite web |title=Sub-regional workshop for South Asian Silk Roads Transboundary Serial Nomination and Cultural Landscape Initiatives, 19-21 May, 2021, Kathmandu, Nepal|url=http://whc.unesco.org/en/events/1594|author=|publisher=UNESCO|date=2021-05-13|accessdate=2021-05-13}}</ref>。
== 宗教の伝播 ==
=== キリスト教 ===
{{Seealso|ネストリウス派#中国における景教}}
[[エフェソス公会議]]で[[異端]]とされた[[キリスト教]][[ネストリウス派]]は東方で布教に努め、ペルシアなどで勢力を築いた。中国に広まったものは[[景教]]と呼ばれていた。781年に刻まれた[[大秦景教流行中国碑]]は、部分的にシリア文字やシリア語も使われており、古代の宣教師たちがシルクロードを通って中央アジアや中国まで往来していたことを示している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/z2dfol/yz2p01.html|title=大秦景教流行中国碑拓本|accessdate=2021-04-03|publisher=古代文字資料館|author=景淨|coauthors=呂秀厳}}</ref> <ref>"Belief Systems Along the Silk Road," Asia Society website, {{cite web |url=http://asiasociety.org/education/belief-systems-along-silk-road |title=Belief Systems Along the Silk Road |access-date=17 November 2016 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20161117221241/http://asiasociety.org/education/belief-systems-along-silk-road |archive-date=17 November 2016 }}. Retrieved 14 November 2016.</ref>。
=== 仏教 ===
[[File:Buddhist Expansion.svg|thumb|150px|right|[[仏教のシルクロード伝播]]]]
{{Seealso|仏教のシルクロード伝播}}
シルクロードを経由した中国への仏教伝播は、漢王朝の[[明帝 (漢)|明帝]](58-75)が西洋に派遣した大使の記録によると、西暦1世紀ごろであったという。この時期に仏教は、東南アジア、東アジア、中央アジアに広がり始めた<ref>[[:en:Jerry H. Bentley]], ''Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times'' (New York: Oxford University Press, 1993), 69, 73.</ref>。上座部、大乗、チベット仏教は、シルクロードを経由してアジア中に広がった仏教の3つの主要な宗派である<ref>{{cite journal |last=Anderson |first=James A. |date=2009 |title=China's Southwestern Silk Road in World History |url=http://worldhistoryconnected.press.illinois.edu/6.1/anderson.html |journal=World History Connected |volume=6 |issue=1 |access-date=2 December 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140209152743/http://worldhistoryconnected.press.illinois.edu/6.1/anderson.html |archivedate=9 February 2014 |df= }}</ref>。
4世紀以降は、中国の巡礼者がインドにオリジナルの仏典を求めてシルクロードを旅した。中国からインドへ[[法顕]](395-414)、[[玄奘三蔵]](629-644)が渡り、韓国からインドへは[[慧超]]が渡った<ref>{{cite web|url=http://www.silk-road.com/artl/srtravelmain.shtml|title=Ancient Silk Road Travellers|author1=Silkroad Foundation|author2=Adela C.Y. Lee|publisher=|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090806070134/http://www.silk-road.com/artl/srtravelmain.shtml|archivedate=6 August 2009|accessdate=2009-10}}</ref>。玄奘三蔵の旅は[[大唐西域記]]として記され、後にこれを元に16世紀にフィクション作品[[西遊記]]が生まれた。
== 日本との関係 ==
[[File:Silk Road 1992.jpg|right|300px]]
日本には、奈良の[[正倉院]]に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、[[天平|天平時代]]に[[遣唐使]]に随行して[[ペルシア人]]の[[李密翳]]<ref group="注釈">[[松本清張]]の[[歴史小説]]『[[眩人]]』でも知られる人物。</ref>(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録<ref>『[[続日本紀]]』巻第十二 聖武天皇 天平八年([[736年]])</ref>なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、<!--[[摂津国]]の[[住吉津]](現在の[[大阪市]][[住吉区]])と、[[御食国]]である[[若狭湾]](京都府から福井県の南){{要出典範囲|は「シルクロードの日本の玄関」、[[飛鳥京]]や[[平城京]]は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。|date=2021年4月}} -->[[正倉院]]は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある<ref>森豊 『シルクロードと日本文化』p. 235 白水社、1982年</ref>。
シルクロードに関しては近年{{いつ|date=2021年4月15日 (木) 02:47 (UTC)}}の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程で[[日本放送協会|NHK]]が[[中国中央電視台]]とともに[[1980年]]に共同制作した『[[NHK特集 シルクロード|NHK特集 シルクロード-絲綢之路-]]』によって、[[喜多郎]]のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特の[[エキゾチシズム]]や[[ノスタルジア]]と結びついており、西安や新疆、[[ウズベキスタン]]、[[イラン]]、[[トルコ]]などへの[[海外旅行]]情報や[[ツアー]]の広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け<ref>王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10</ref>、[[1988年]]に日中両政府は[[日中友好環境保護センター]]の設立を決定した。また、[[平山郁夫]]はシルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけて[[平山郁夫シルクロード美術館]]も設立した<ref>日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2015』pp. 18 講談社、2014年</ref><ref>日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2005』p. 40 平凡社、2005年</ref>。
== 現代 ==
{{see also|シルクロード (世界遺産)}}
[[File:One-belt-one-road.svg|thumb|right|{{center|一帯一路}}]]
シルクロードが世界遺産に登録されたことを契機に、ユネスコの人文・社会科学局が推進する「異文化間の対話」プログラムにおいて、「シルクロード-対話、多様性、開発」プロジェクトが始まった<ref>[https://en.unesco.org/silkroad/ SILK ROADS DIALOGUE, DIVERSITY & DEVELOPMENT]UNESCO</ref>。これはシルクロードほど多様な[[人種]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[宗教]]・[[自然環境]]などが混在する地域はなく、そのことが歴史的には係争の舞台ともなってきたことから、シルクロードを平和の象徴にしようという主旨である。
具体的にはユネスコを代表する事業となった世界遺産をシルクロードに広げてゆき、各地域に[[無形文化遺産]]・[[ユネスコ記憶遺産|記憶遺産]]・[[生物圏保護区]]・[[ジオパーク]]・[[創造都市ネットワーク]]など(海の道においては[[水中文化遺産保護条約]]も)各種ユネスコ事業を総投入展開し、[[可動文化財]]や[[少数民族]][[言語]]の保護にも取り組む。ユネスコ公式サイトでは、「シルクロード・オンラインプラットフォーム」を立ち上げた。
一方で、このプロジェクトの主たる旗振り役が中国であり、中国による[[一帯一路]]計画の文化面政策として利用される懸念もある<ref>「中国『経済ベルト』戦略 / シルクロード 世界遺産」『[[読売新聞]]』2014年6月23日(朝刊)4面</ref>。
{{main|[[トランス=ユーラシア・ロジスティクス]]}}
一帯一路の中核事業として位置付けられた[[東アジア]]から[[中国]]、[[モンゴル]]、[[カザフスタン]]を経由し[[ロシア]]、[[東欧]]、[[欧州]]などへ[[貨物列車]]を使用した物流網が開通しており、「鉄のラクダ」とも称される。
{{main|ユーラシア・ランドブリッジ}}
== 関連作品 ==
[[ファイル:Westerner on a camel.jpg|thumb|200px|[[駱駝]]に乗る西方人の像(中国唐代、陶磁器製〈[[唐三彩]]〉。[[上海博物館]])]]
* テレビ番組
** [[NHK特集]]
***[[NHK特集 シルクロード|『シルクロード』、『海のシルクロード』]]
** [[NHKスペシャル]]『[[新シルクロード]]』
** [[BSプレミアム]] 激走!シルクロード104日の旅
* 音楽
** コンサート「シルクロード音楽の旅」- 1979年に[[民主音楽協会]]が制作したシリーズ企画
**NHK特集『[[NHK特集 シルクロード|シルクロード]]』 オリジナルサウンドトラック(喜多郎)
** NHK特集 『[[NHK特集 シルクロード#海のシルクロード|海のシルクロード]]』 オリジナルサウンドトラック([[S.E.N.S.]])
** [[シルクロード (團伊玖磨)|交響組曲「シルクロード」]] ([[團伊玖磨]])[[上田仁]]指揮・[[東京交響楽団]]
**[[異邦人 -シルクロードのテーマ-]] [[久米小百合|久保田早紀]]が[[1979年]]に[[発売|リリース]]した[[デビュー]]・[[シングル]]曲
* 写真集
** 秘宝・草原のシルクロード([[並河萬里]])
** 写真集シルクロード(NHK取材班)[[大村次郷]]ほか
** シルクロード([[篠山紀信]])
== 関連項目 ==
{{commons&cat|絲綢之路|Silk Road}}
* [[張騫]] - シルクロードの開拓者といわれている。
* [[カルラエの戦い]]([[紀元前53年]])
* [[桓帝 (漢)|桓帝]]([[166年]]) - [[ローマ帝国]]皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]からの使節が[[後漢]]に送られた。
* [[タラス河畔の戦い]]([[751年]]) - [[紙]]の製法がイスラム圏に伝わり、[[1144年]]に[[ヨーロッパ]]で初めての[[製紙]]工場が[[ムワッヒド朝]]支配下の[[アンダルス|イベリア半島]]の[[シャティヴァ]]に作られた。
* [[正倉院]]:シルクロードの終着点とも言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/treasure/|title=宝物について|accessdate=2021-04-03|publisher=宮内庁|website=正倉院|quote=「正倉院はシルクロードの終着点である」という言葉は,この宝物のもつ世界性の一端を言いあらわしたものといえるでしょう。正倉院宝物は,単に奈良朝文化の精華を示すだけでなく,実に8世紀の世界文化を代表する貴重な古文化財なのです。}}</ref>
* [[アジア横断鉄道#経路ii|シルクロード鉄道]]
* [[大東亜縦貫鉄道#中央アジア横断鉄道|中央アジア横断鉄道]]
* [[中国の夢]]
* [[コンスタンティノープルの陥落]] - {{要出典範囲|オスマン帝国が1453年に東ローマ帝国の首都でありシルクロードの要であったコンスタンティノープルを攻略し、攻略後に交易品の制限をしたことから、ヨーロッパでは別のルートを探すための[[大航海時代]]が始まった|date=2021年4月}}。
* [[シルクウェイ・ラリー]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年8月|section=1}}
* {{Cite |和書|title=貴重書で綴るシルクロード |publisher=[[国立情報学研究所]] |author=ディジタル・シルクロード・プロジェクト |url=http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/ |date=2005 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|title=読む事典シルクロードの世界 |editor=シルクロード検定実行委員会 |publisher=[[NHK出版]] |date=2019-02 |isbn=9784140817742 |ref=harv}}
* ジャン=ピエール・ドレージュ 『シルクロード 砂漠を越えた冒険者たち』長沢和俊監修、吉田良子訳、[[「知の再発見」双書]]:創元社、1992年
* [[長澤和俊|長沢和俊]] 『シルクロード』 [[講談社学術文庫]]、1992年
* ジャン=ノエル・ロベール 『[[ローマ皇帝]]の使者中国に至る 繁栄と野望のシルクロード』 伊藤晃・森永公子共訳、[[大修館書店]]、1996年
* 宇山智彦 『中央アジアの歴史と現在』 東洋書店、2000年
* 長沢和俊編 『シルクロードを知る事典』 [[東京堂出版]]、2002年
* [[三杉隆敏]] 『海のシルクロードを調べる事典』 芙蓉書房出版、2006年
* エドワード・H. シェーファー 『[[サマルカンド]]の金の桃 唐代の異国文物の研究』 [[伊原弘]]・日本語版監修、吉田真弓訳、アシアーナ叢書2:[[勉誠出版]]、2007年
== 外部リンク ==
* デジタルアーカイブ
** 「[http://dsr.nii.ac.jp/ ディジタル・シルクロード・プロジェクト]」- 国立情報学研究所が推進している文化とデジタル情報技術の融合によるシルクロード研究と文化遺産保存を目的としたプロジェクト
{{交易路}}
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{{DEFAULTSORT:しるくろおと}}
[[Category:シルクロード|*]]
[[Category:中央アジア]]
[[Category:中央ユーラシア史]]
[[Category:交通史]]
[[Category:交易の歴史]]
[[Category:秦漢]]
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ボールペン
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ボールペン(Ball pen)は、ペン先に小さな鋼球を内蔵してあり、運筆とともに回転することで軸内のインクを滲出させて筆記する構造を持つ筆記具。精密機械であり、文房具の一種。
英語では "ballpoint pen" (ball-point pen)、あるいは単に "ballpoint" と呼ばれる。「ボールペン」は和製英語だとされることもあるが、俗称・商業用語として英語圏でも "ball pen" と呼ばれることがある。イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏では、ボールペンのことを "biro"(バイロー)と呼び、イギリス英語では "biro" はボールペン一般を指す名詞となっている。これは、発明者であるビーロー・ラースローの名字を英語風に読んだ音による。
先端に金属またはセラミックス(ごく一部「ボールぺんてる」のように樹脂のものも存在する)の極小の球(ボール)がはめ込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが筆先表面に送られて、線を描けるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをリフィル(レフィル)と呼び、ペン軸の内部に収めて使用する。
ボールペンには、太さ、色、インクの特性、ペン先の出し方などにより多くの種類が存在する。ペン先の出し方によって大別すると、ペン先を覆うキャップを取り外すキャップ式、後部のボタンを押すことでペン先を繰り出すノック式、軸をひねって回転させることでペン先を繰り出すツイスト式(回転式)がある。いわゆる多色ボールペンやシャープペンシルの機能を併せ持ったもののようにノック部が複数あるものは複数ノック式という。
鉛筆とは異なり基本的には筆跡を消しゴムで消せないため、ボールペンは公的書類にも用いられる。ボールペンが登場するまでは筆記具の主流は万年筆であったが、ボールペンには独特の構造により弱い力でスムーズな線を描けるといった特長がある。万年筆では使うことが難しい顔料インクなどの高性能なインクを使えるので筆跡の保存性にも優れている。欧州の学校では鉛筆は主に絵を描くときに用いられ、筆記にはボールペンや万年筆を使う国が少なくない。かつてはフランスの教室でも万年筆のみでボールペンの使用が認められていなかったが、ビックが1950年にボールペン「クリスタル」を発売し普及するに伴い、1965年に教室での使用が解禁された。ボールペンはペン先が硬く筆圧を加えやすいので、カーボン紙や感圧紙を用いた複写(カーボンコピー)にも適している。
ボールペンは安価に作れるため、企業の広告宣伝用に企業のロゴを軸にプリントしたものが配布されることもある。
ボールペンの欠点としては、凹凸面があるとボールがうまく回転せず、筆記した線が湾曲してしまう点、長期間の放置に弱い点、線に強弱をつけるのが難しい点などがある。
ボールペンのインク(油性、ゲル)は粘度が高いため、リフィル内に気泡(切れ)が生じると先端にインクが回らなくなり使用不能に陥る。これは上向き筆記や洗濯機に誤って入れることが原因で生じる。また塗工紙への寝かせ書きなどが原因で異物がペン先に入り込み書けなくなることもある。書けなくなったボールペンの回復方法として、俗にペン先を炙ったり、お湯に浸けたり、振り回すなどの対処法が示されることがよくあるが、メーカーによればこれらの効果は期待できない。メーカーが推奨する対処法としては、ペン先を拭ったり重ねた非塗工紙への筆記を繰り返す方法があるが、ほとんどの故障では完全に回復させるのは難しい。
ボールペンの基本的な筆記機能は、ペン先の部品であるチップと、インクを収めるパイプ状のカートリッジによって構成される。ペン軸自体がカートリッジを兼ねているものもあるが、多くのボールペンは外装であるペン軸の内部にリフィル(替芯)を収めた構造をもつ。リフィルはチップとカートリッジが一体化した構造をもち、インクや機械の消耗といった必要に応じて、多くは交換可能になっている。
チップはボールペンの性能を大きく左右する、特に精密な加工技術が要求される部分である。チップ内部にはカートリッジからボールまでインクを誘導する管が通っており、チップ先端には回転可能なボールがはめこまれた構造をもつ。筆記に従いボールが回転することで、ボールに付着したインクが筆記面へ転写される。また現代の多くのボールペンでは、ボールの背面に極小ばねを内蔵しており、筆記をしていない平時はボールを外側へ押し出すことでチップ先端の隙間を封じ、乾燥やインク漏れを防いでいる。
カートリッジの後部にはインクの漏出や乾燥を防ぐために栓がされるが、インクの種類によってもその方式は異なる。よくある方式として、元々乾きにくい油性インクではスポンジ栓が使われ、これは平時は通気性がありつつも、ペン先から空気が入りこんだ際に生じるインクの後部漏出をとどめる役割を持つ。水性ゲルインクや一部の油性インクではインクの後端にグリース(液栓)が充填され、これはインクの消費に追従して移動する栓として機能する。水性(非ゲル)インクでは後端は密栓され、インク消費に伴うカートリッジ内への空気の取り入れ(気液交換)はペン先の空気孔を通じておこなわれる。
チップの形には主に3タイプの形がある。
インクが収まるリフィルの軸部は当初は金属製チューブだったが、インク残量が見えまた廉価な透明プラスチック製のものが主流になっている。しかし金属製には酸素や水分の透過度が低くインク変性が少ない、より堅く細い軸に作れるため多色ペンで太くなりすぎない、軸ぶれしにくくシャープな書き味を得られる等のメリットがあり、高級帯製品に用いられ続けている。高粘度のインクを用いるため再充填が難しいこと、万年筆のペン先のような馴れによる書き味の変化といった要素には乏しいため、リフィル自体は価格によらず使い捨てである。
ボールペンはボールを周りのカシメによって支持するため、寝かせて書くとカシメが擦れて故障の原因となるおそれがある。ペン先内部にボールを支えるための受座があるので、受座がボールを正しい位置で支えられる角度で筆記するのがよいとされる。よって筆記時には万年筆と違い紙面に直角に近い角度(60~90度が望ましいとされる)を保ち筆記することが求められる。
ボールペンを発明するにあたっては、ペン先用極小ボールの高精度な加工・固定技術と、高粘度インクの開発が必要であった。従来の低粘度インクでは、ボールの回転と共に多量のインクがにじみ出してしまい、シャープな線を描けなかったのである。
当初は高価で普及せず、書いた後時間が経つとインクが滲むので公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。 徐々に金融機関でも採用されるようになり、1960年代のボールペンの新聞広告では「一流銀行が愛用する」というコピーが使われている。1970年代以降は万年筆やつけペンに代わる、もっとも一般的な筆記具となっている。
1980年代後半以降、各メーカーはラバーグリップ搭載、ローレット加工搭載やインクの改良、ペン先の改良など様々な形で疲れにくさを追求していった。1990年代半ばになると、多彩なインク色を揃えたボールペンが相次いで発売され、ビジネスだけでなく趣味、学生にも支持が広まる。
ボールペンは、使用するインクの特性により分類される。
主なものとして油性ボールペン、水性ボールペン、ゲルインクボールペンがあり、JISやISOの規格ではインク粘度とチキソトロピー性によってこれらに区別される。比較的高粘度のインクで筆記する油性ボールペンは複写伝票などにも適し事務用に広く普及するが、後発の水性およびゲルインクボールペンは低粘度状態のインクで筆記するため低筆圧でも発色がよく、1990年代以降の日本では後者のシェアが高い。
JISやISOの規格では、一般筆記用と公文書用の要件が定められており、後者は薬品による改竄(en:Check washing)への耐性が高い。
ボールペンの中でも最も古典的であり、1930-1940年代にビーロー・ラースローによって開発された。揮発性が低く高粘度の有機溶媒をインクに使っているため、滲みが少なく、裏移りがなく、筆記距離が長いなどの利点がある。インクは紙への浸透作用によって表面的な乾燥を実現する。基本的にペン先はドライアップ(インクの乾燥による故障)せず、リフィルの保存期間が比較的長い。欠点としては書き味の重さや、書き出しのかすれ、ボテ(ペン先への余剰インク溜まり)の発生がある。色素は主に染料が使われ、顔料系と比べて耐光性は劣るが、耐水性は良好であり、実用上は50年以上の筆跡保存性が確かめられている。
2000年代からは、従来の溶煤(2-フェノキシエタノール、ベンジルアルコール)とは異なるインク配合によって滑らかな書き味を志向した「低粘度油性インク」のボールペンが普及している。比較的早いものでは、ゼブラのジムニーライトが1998年、オートの油性ソフトインクが1999年から存在する。海外製品ではステッドラーが2018年に「トリプラス ボール」を出している。
各社ともインクに独自名称を付けていることが多い。
オートの「水性ボールペンW」(1964年)が開祖で、ぺんてるの「ボールぺんてる」(1972年)のヒットにより普及した。欧米ではボールペンではなくローラーボールと呼ばれる。インクの粘度が低いため、さらさらとした感じの書き味が魅力である。油性ボールペンに比べ書き味、色の発色性の面で優れているが、インクが紙に染み込みやすいため滲みやすい。染料インクの場合、水に濡れるとインクが流れて字が消えてしまう弱点もある(顔料インクは耐水性がある)。
油性とは異なりドライアップしやすいため、使用後はキャップを確実に閉めなければならない。キャップのいらないノック式もあり、海外製では遅くとも1990年にはラミーの「swift」といった製品が登場しているが、日本製では歴史が浅くパイロットの「VボールRT」(2008年)で初めて実用化された。
水性ボールペンの内部構造には、インクの貯留方式によって中綿式と直液式がある。従来の中綿式は、毛細管の中綿からインクを供給するため、重力方向にかかわらず筆記できる特徴を持つが、インク残量が見えず、残量が減るとインクフローが下がる欠点がある。後年開発された直液式では、直接液状インクを貯蔵し、万年筆の櫛溝(蛇腹)に似たコレクターを通じて供給することで、中綿式の欠点を払拭している。コレクターのインク保留量には限界があり、極端な温度・気圧変化を受けるとインク漏れするおそれがあるが、この点でも改良は重ねられている。
サクラクレパスの「ボールサイン」(1984年)で初めて開発された。中性ボールペンとも呼ばれる。ゲルの性質によって、水性ボールペンのよさである書き味がなめらか、ボテが無い、書き出しが良いことと、油性ボールペンのよさであるインク残量を見ることができる、最後までインクの出方が一定である、(顔料の場合)耐水性があることを合わせ持つ。
水性インクにゲル化剤を加えたゲルインクは、リフィル内部では高粘度のゲル状だが、ボールが回転すると速やかにインクが粘度の低いゾル状になり、インクがペン先から滲出する。滲出したインクが紙面に付着するとインクが直ちにゲル化するためインクの滲みが少ない。また比較的大きなインク粒子を使いやすい特徴があり、白色顔料を混ぜたパステルカラー(不透明)インク、ラメ入りインク、香り付きインク、消せるインクといった特殊な製品も登場している。インク素材には染料系と顔料系があり、染料ゲルインクは発色が鮮やかで書き味も滑らかだが、耐水性に難がある。顔料ゲルインクは乾燥後の耐水性・耐光性が高く長期保存に適する。
水性と同じくドライアップしやすく初期はキャップ式のみであったが、キャップのいらないノック式も三菱鉛筆の「シグノノック式」(1997年)以降実用化され、のちに油性同等にスリムなリフィルによる多色ノック式や多機能ノック式も登場した。ノック式はドライアップしにくいインクの配合や、ばねでボールを押し出し非筆記時に隙間を封じることでドライアップを防いでいる。
2010年にゼブラのスラリに搭載された新たな種類のボールペンインク。油性インクと水性ジェルを混合した油中水滴型エマルジョンインクを使用する。油性7水性3の割合で混合(乳化)した状態で安定させることにより、水性の滑らかな書き味と、油性の鮮やかで濃い筆記線を両立している。耐水性と耐光性は共に高い。他社の低粘度油性に対応する位置付けになっている。
1979年にアメリカの文具メーカーPaperMate社が、インク粒子を大きくし紙に染み込まないようにした「イレーザブルインク」による、消しゴムで消せるボールペン「Eraser Mate」を発売し、日本では1980年に三菱鉛筆が「ケルボ」を一時期発売していた。しかし、これは時間が経つと消せなくなるため鉛筆同様の使用はできない。
21世紀になってから鉛筆同様の使い勝手を持つパイロットコーポレーション「D-ink」がヒットし、その後継機種「e-GEL」、三菱「ユニボール シグノ イレイサブル」などが登場した。しかし、消しにくかったり簡単に消えたりしたため定着しなかった。
2006年1月、パイロットがペン後部のゴムでこすることで発する摩擦熱により筆跡を消せるフリクションボールをヨーロッパで先行発売し、2007年には日本でも発売、その利便性から2010年までに全世界で累計約3億本を売り上げた。フリクションはその後も全世界で普及している。
ただ、消せるボールペンには文書の改竄の恐れという問題がある。京都府舞鶴市では消せるボールペンで記入されていた公文書が多数発見され問題となり、日本の自治体の事務などでは使用禁止の動きが進んでいる。メーカーも消せるボールペンによる証書類の記入は控えるよう呼びかけている。なお、消せるボールペンで書いた後で消した文字を低温下で復元させる方法もある。
通常のボールペンは重力を利用してインクを送り出すため、先端を上に向けた状態では筆記できない。水平より上向きで字を書くとだんだんインクが出なくなり、さらにインクタンク内に空気が入り込むと気泡ができてしまう。インク残量があっても、ボールとそれを支えるホルダーの間に空気が入ってしまうことのほか、紙の繊維などが詰まったり、ペン先が傷ついてボールが回らなくなったり、インクが経年劣化したりしても書けなくなる。
微小重力の宇宙船内などでは、インクを窒素ガスで強制的に送り出す、俗に宇宙ペン(スペースペン)と呼ばれる特殊なボールペンが使われている。ただし、宇宙ではボールペンが全く使えなくなるということはなく、「アメリカ航空宇宙局(NASA)はわざわざ手間暇と大金をかけてスペースペンを開発した。一方、ソ連は鉛筆を使った」というジョークがあるが、鉛筆の芯は静電気を帯びやすい黒鉛を含み、破片や粉塵が機器類に悪影響を与えるおそれがあるため、ソ連の継承国であるロシアも鉛筆をボールペンに置き換えている。
21世紀に入り、日本の文具メーカーによりガス封入ではなくノックすることで軸の内部で圧縮空気を作りインクを送り出す加圧式ボールペンが開発され、各社より販売されている。加圧されているので先端の向きに関わらず書ける他、ペン先から水の入り込む隙間がないため、濡れた紙や氷点下の環境でも書けるのが特徴である。
ペン先用ボールの直径は世界的には1.2ミリメートル (B)、1.0ミリメートル (M)、0.7ミリメートル (F)、0.5ミリメートル (EF) のものが主流。1.4ミリメートル、1.6ミリメートルの太いものや、0.4ミリメートル、0.3ミリメートル、0.28ミリメートル、0.25ミリメートル、0.18ミリメートルといった極細のものもある。
日本では線の密集した漢字を書く都合上0.5前後が好まれ多く流通しているが、欧米メーカーの欧米向け製品では0.7以下を販売していなかったり、漢字圏への輸出向けに特別仕様として0.5を用意する場合もある。これはシャープペンシルでも同じ傾向である。
通常ボールが大きいほど筆跡は太くなり、小さいほど細くなるが、ボールの直径と線の太さは同一ではなく、筆圧などによっても変化する。
一般的に同じ太さのボールでは油性ボールペンより水性ボールペンやゲルインクボールペンの方が筆跡が太くなる。
付加機能として、クリップ付、印鑑付(印判付)、時計付、ライト付、護身具付き(タクティカルペン)、直記ペンなどがある。
万年筆ほどの種類はないがボールペンにも蒔絵や漆塗、螺鈿といった伝統工芸を採用したり、貴金属や宝石をあしらったりした非常に贅沢な品がいくつか存在する。老舗万年筆メーカーは、主力製品である万年筆とセットで、ほぼ同じデザインの油性ボールペンとローラーボールを販売することが多い。また、タキザワ社ペン工房キリタなど、自社開発で機能を追加した製品・OEM・ギフトノベルティーなどを販売している会社も多々ある。
ボールペンの発明以来、アマチュアの落書きだけでなく、プロのアーティストのための多目的な芸術媒体となっている。使用者によると、ペンは安くてポータブルで、広く利用可能である。従ってこの一般的な文房具は便利な画材にもなる。「点描」と 「クロスハッチ」などの伝統的なペンとインク技術は、ハーフトーンや立体的な描写をするために使用することができる。とりわけアンディー・ウォーホルなどの有名な20世紀の芸術家は、ボールペンもある程度利用してきた。ボールペン画は、21世紀でも人々を魅了し続けている。現代のアーティストは彼らの特定のボールペン技術的能力、想像力と革新によって承認を受けている。ニューヨーク在住の韓国人アーティスト、イル・リー (Il Lee) は、1980年代の初めから大規模で抽象的なボールペンのみの作品を制作してきた。彼の作品はソウル(韓国)やアメリカで展示されている。レニー・メイス (Lennie Mace) は1980年代半ば以降、木材やデニムなど、型破りな素材の表面に、様々なコンテンや複雑さを想像的に描き、ボールペンのみの作品を作成している。彼の変化に富んだ作風を表現するために、「ペンティング」と「メディア・グラフィティ」などの用語が生まれた。メイスは最も多作なボールペン画家である。彼の作品はアメリカ全土、日本でも定期的に展示されている。最近では、英国のジェームズ・ミルン (James Mylne) は、ほとんど黒ボールペンを使用して写真のようにリアルなアートワークを制作し、時には色を表現するために他の画材も使用している。ミルンの作品は、ロンドン、そしてインターネットを通して国際的な人気がある。ボールペンの限られた色の種類と、光による色の劣化がボールペン画家の懸念の一つである。ミスはボールペンアーティストにとって致命的である。線が描かれた後、基本的に消すことができないからである。 芸術的な目的のためにボールペンを使用する際、インクフローのたまりと詰まりにも配慮が必要である。日本人アーティスト「ハクチ」のイラストは、インターネットを通してアメリカでも人気となっている。フアン・フランシスコ・カサス (Juan Francisco Casas) とサミュエル・シルバ (Samuel Silva) のボールペン画は、最近インターネットでの「ヴァイラル」効果で注目を浴びている。
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"text": "ボールペン(Ball pen)は、ペン先に小さな鋼球を内蔵してあり、運筆とともに回転することで軸内のインクを滲出させて筆記する構造を持つ筆記具。精密機械であり、文房具の一種。",
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"text": "英語では \"ballpoint pen\" (ball-point pen)、あるいは単に \"ballpoint\" と呼ばれる。「ボールペン」は和製英語だとされることもあるが、俗称・商業用語として英語圏でも \"ball pen\" と呼ばれることがある。イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏では、ボールペンのことを \"biro\"(バイロー)と呼び、イギリス英語では \"biro\" はボールペン一般を指す名詞となっている。これは、発明者であるビーロー・ラースローの名字を英語風に読んだ音による。",
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"text": "先端に金属またはセラミックス(ごく一部「ボールぺんてる」のように樹脂のものも存在する)の極小の球(ボール)がはめ込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが筆先表面に送られて、線を描けるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをリフィル(レフィル)と呼び、ペン軸の内部に収めて使用する。",
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"text": "ボールペンには、太さ、色、インクの特性、ペン先の出し方などにより多くの種類が存在する。ペン先の出し方によって大別すると、ペン先を覆うキャップを取り外すキャップ式、後部のボタンを押すことでペン先を繰り出すノック式、軸をひねって回転させることでペン先を繰り出すツイスト式(回転式)がある。いわゆる多色ボールペンやシャープペンシルの機能を併せ持ったもののようにノック部が複数あるものは複数ノック式という。",
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"text": "鉛筆とは異なり基本的には筆跡を消しゴムで消せないため、ボールペンは公的書類にも用いられる。ボールペンが登場するまでは筆記具の主流は万年筆であったが、ボールペンには独特の構造により弱い力でスムーズな線を描けるといった特長がある。万年筆では使うことが難しい顔料インクなどの高性能なインクを使えるので筆跡の保存性にも優れている。欧州の学校では鉛筆は主に絵を描くときに用いられ、筆記にはボールペンや万年筆を使う国が少なくない。かつてはフランスの教室でも万年筆のみでボールペンの使用が認められていなかったが、ビックが1950年にボールペン「クリスタル」を発売し普及するに伴い、1965年に教室での使用が解禁された。ボールペンはペン先が硬く筆圧を加えやすいので、カーボン紙や感圧紙を用いた複写(カーボンコピー)にも適している。",
"title": "特性"
},
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"text": "ボールペンは安価に作れるため、企業の広告宣伝用に企業のロゴを軸にプリントしたものが配布されることもある。",
"title": "特性"
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"text": "ボールペンの欠点としては、凹凸面があるとボールがうまく回転せず、筆記した線が湾曲してしまう点、長期間の放置に弱い点、線に強弱をつけるのが難しい点などがある。",
"title": "特性"
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"text": "ボールペンのインク(油性、ゲル)は粘度が高いため、リフィル内に気泡(切れ)が生じると先端にインクが回らなくなり使用不能に陥る。これは上向き筆記や洗濯機に誤って入れることが原因で生じる。また塗工紙への寝かせ書きなどが原因で異物がペン先に入り込み書けなくなることもある。書けなくなったボールペンの回復方法として、俗にペン先を炙ったり、お湯に浸けたり、振り回すなどの対処法が示されることがよくあるが、メーカーによればこれらの効果は期待できない。メーカーが推奨する対処法としては、ペン先を拭ったり重ねた非塗工紙への筆記を繰り返す方法があるが、ほとんどの故障では完全に回復させるのは難しい。",
"title": "特性"
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"text": "ボールペンの基本的な筆記機能は、ペン先の部品であるチップと、インクを収めるパイプ状のカートリッジによって構成される。ペン軸自体がカートリッジを兼ねているものもあるが、多くのボールペンは外装であるペン軸の内部にリフィル(替芯)を収めた構造をもつ。リフィルはチップとカートリッジが一体化した構造をもち、インクや機械の消耗といった必要に応じて、多くは交換可能になっている。",
"title": "構造"
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"text": "チップはボールペンの性能を大きく左右する、特に精密な加工技術が要求される部分である。チップ内部にはカートリッジからボールまでインクを誘導する管が通っており、チップ先端には回転可能なボールがはめこまれた構造をもつ。筆記に従いボールが回転することで、ボールに付着したインクが筆記面へ転写される。また現代の多くのボールペンでは、ボールの背面に極小ばねを内蔵しており、筆記をしていない平時はボールを外側へ押し出すことでチップ先端の隙間を封じ、乾燥やインク漏れを防いでいる。",
"title": "構造"
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"text": "カートリッジの後部にはインクの漏出や乾燥を防ぐために栓がされるが、インクの種類によってもその方式は異なる。よくある方式として、元々乾きにくい油性インクではスポンジ栓が使われ、これは平時は通気性がありつつも、ペン先から空気が入りこんだ際に生じるインクの後部漏出をとどめる役割を持つ。水性ゲルインクや一部の油性インクではインクの後端にグリース(液栓)が充填され、これはインクの消費に追従して移動する栓として機能する。水性(非ゲル)インクでは後端は密栓され、インク消費に伴うカートリッジ内への空気の取り入れ(気液交換)はペン先の空気孔を通じておこなわれる。",
"title": "構造"
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"text": "チップの形には主に3タイプの形がある。",
"title": "構造"
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"text": "インクが収まるリフィルの軸部は当初は金属製チューブだったが、インク残量が見えまた廉価な透明プラスチック製のものが主流になっている。しかし金属製には酸素や水分の透過度が低くインク変性が少ない、より堅く細い軸に作れるため多色ペンで太くなりすぎない、軸ぶれしにくくシャープな書き味を得られる等のメリットがあり、高級帯製品に用いられ続けている。高粘度のインクを用いるため再充填が難しいこと、万年筆のペン先のような馴れによる書き味の変化といった要素には乏しいため、リフィル自体は価格によらず使い捨てである。",
"title": "構造"
},
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"text": "ボールペンはボールを周りのカシメによって支持するため、寝かせて書くとカシメが擦れて故障の原因となるおそれがある。ペン先内部にボールを支えるための受座があるので、受座がボールを正しい位置で支えられる角度で筆記するのがよいとされる。よって筆記時には万年筆と違い紙面に直角に近い角度(60~90度が望ましいとされる)を保ち筆記することが求められる。",
"title": "構造"
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"text": "ボールペンを発明するにあたっては、ペン先用極小ボールの高精度な加工・固定技術と、高粘度インクの開発が必要であった。従来の低粘度インクでは、ボールの回転と共に多量のインクがにじみ出してしまい、シャープな線を描けなかったのである。",
"title": "歴史"
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"text": "当初は高価で普及せず、書いた後時間が経つとインクが滲むので公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。 徐々に金融機関でも採用されるようになり、1960年代のボールペンの新聞広告では「一流銀行が愛用する」というコピーが使われている。1970年代以降は万年筆やつけペンに代わる、もっとも一般的な筆記具となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年代後半以降、各メーカーはラバーグリップ搭載、ローレット加工搭載やインクの改良、ペン先の改良など様々な形で疲れにくさを追求していった。1990年代半ばになると、多彩なインク色を揃えたボールペンが相次いで発売され、ビジネスだけでなく趣味、学生にも支持が広まる。",
"title": "歴史"
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"text": "ボールペンは、使用するインクの特性により分類される。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "主なものとして油性ボールペン、水性ボールペン、ゲルインクボールペンがあり、JISやISOの規格ではインク粘度とチキソトロピー性によってこれらに区別される。比較的高粘度のインクで筆記する油性ボールペンは複写伝票などにも適し事務用に広く普及するが、後発の水性およびゲルインクボールペンは低粘度状態のインクで筆記するため低筆圧でも発色がよく、1990年代以降の日本では後者のシェアが高い。",
"title": "インクによる分類"
},
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"text": "JISやISOの規格では、一般筆記用と公文書用の要件が定められており、後者は薬品による改竄(en:Check washing)への耐性が高い。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "ボールペンの中でも最も古典的であり、1930-1940年代にビーロー・ラースローによって開発された。揮発性が低く高粘度の有機溶媒をインクに使っているため、滲みが少なく、裏移りがなく、筆記距離が長いなどの利点がある。インクは紙への浸透作用によって表面的な乾燥を実現する。基本的にペン先はドライアップ(インクの乾燥による故障)せず、リフィルの保存期間が比較的長い。欠点としては書き味の重さや、書き出しのかすれ、ボテ(ペン先への余剰インク溜まり)の発生がある。色素は主に染料が使われ、顔料系と比べて耐光性は劣るが、耐水性は良好であり、実用上は50年以上の筆跡保存性が確かめられている。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "2000年代からは、従来の溶煤(2-フェノキシエタノール、ベンジルアルコール)とは異なるインク配合によって滑らかな書き味を志向した「低粘度油性インク」のボールペンが普及している。比較的早いものでは、ゼブラのジムニーライトが1998年、オートの油性ソフトインクが1999年から存在する。海外製品ではステッドラーが2018年に「トリプラス ボール」を出している。",
"title": "インクによる分類"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "各社ともインクに独自名称を付けていることが多い。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "オートの「水性ボールペンW」(1964年)が開祖で、ぺんてるの「ボールぺんてる」(1972年)のヒットにより普及した。欧米ではボールペンではなくローラーボールと呼ばれる。インクの粘度が低いため、さらさらとした感じの書き味が魅力である。油性ボールペンに比べ書き味、色の発色性の面で優れているが、インクが紙に染み込みやすいため滲みやすい。染料インクの場合、水に濡れるとインクが流れて字が消えてしまう弱点もある(顔料インクは耐水性がある)。",
"title": "インクによる分類"
},
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"text": "油性とは異なりドライアップしやすいため、使用後はキャップを確実に閉めなければならない。キャップのいらないノック式もあり、海外製では遅くとも1990年にはラミーの「swift」といった製品が登場しているが、日本製では歴史が浅くパイロットの「VボールRT」(2008年)で初めて実用化された。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "水性ボールペンの内部構造には、インクの貯留方式によって中綿式と直液式がある。従来の中綿式は、毛細管の中綿からインクを供給するため、重力方向にかかわらず筆記できる特徴を持つが、インク残量が見えず、残量が減るとインクフローが下がる欠点がある。後年開発された直液式では、直接液状インクを貯蔵し、万年筆の櫛溝(蛇腹)に似たコレクターを通じて供給することで、中綿式の欠点を払拭している。コレクターのインク保留量には限界があり、極端な温度・気圧変化を受けるとインク漏れするおそれがあるが、この点でも改良は重ねられている。",
"title": "インクによる分類"
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"text": "サクラクレパスの「ボールサイン」(1984年)で初めて開発された。中性ボールペンとも呼ばれる。ゲルの性質によって、水性ボールペンのよさである書き味がなめらか、ボテが無い、書き出しが良いことと、油性ボールペンのよさであるインク残量を見ることができる、最後までインクの出方が一定である、(顔料の場合)耐水性があることを合わせ持つ。",
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"text": "水性インクにゲル化剤を加えたゲルインクは、リフィル内部では高粘度のゲル状だが、ボールが回転すると速やかにインクが粘度の低いゾル状になり、インクがペン先から滲出する。滲出したインクが紙面に付着するとインクが直ちにゲル化するためインクの滲みが少ない。また比較的大きなインク粒子を使いやすい特徴があり、白色顔料を混ぜたパステルカラー(不透明)インク、ラメ入りインク、香り付きインク、消せるインクといった特殊な製品も登場している。インク素材には染料系と顔料系があり、染料ゲルインクは発色が鮮やかで書き味も滑らかだが、耐水性に難がある。顔料ゲルインクは乾燥後の耐水性・耐光性が高く長期保存に適する。",
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"text": "水性と同じくドライアップしやすく初期はキャップ式のみであったが、キャップのいらないノック式も三菱鉛筆の「シグノノック式」(1997年)以降実用化され、のちに油性同等にスリムなリフィルによる多色ノック式や多機能ノック式も登場した。ノック式はドライアップしにくいインクの配合や、ばねでボールを押し出し非筆記時に隙間を封じることでドライアップを防いでいる。",
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"text": "2010年にゼブラのスラリに搭載された新たな種類のボールペンインク。油性インクと水性ジェルを混合した油中水滴型エマルジョンインクを使用する。油性7水性3の割合で混合(乳化)した状態で安定させることにより、水性の滑らかな書き味と、油性の鮮やかで濃い筆記線を両立している。耐水性と耐光性は共に高い。他社の低粘度油性に対応する位置付けになっている。",
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"text": "1979年にアメリカの文具メーカーPaperMate社が、インク粒子を大きくし紙に染み込まないようにした「イレーザブルインク」による、消しゴムで消せるボールペン「Eraser Mate」を発売し、日本では1980年に三菱鉛筆が「ケルボ」を一時期発売していた。しかし、これは時間が経つと消せなくなるため鉛筆同様の使用はできない。",
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"text": "21世紀になってから鉛筆同様の使い勝手を持つパイロットコーポレーション「D-ink」がヒットし、その後継機種「e-GEL」、三菱「ユニボール シグノ イレイサブル」などが登場した。しかし、消しにくかったり簡単に消えたりしたため定着しなかった。",
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"text": "2006年1月、パイロットがペン後部のゴムでこすることで発する摩擦熱により筆跡を消せるフリクションボールをヨーロッパで先行発売し、2007年には日本でも発売、その利便性から2010年までに全世界で累計約3億本を売り上げた。フリクションはその後も全世界で普及している。",
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"text": "ただ、消せるボールペンには文書の改竄の恐れという問題がある。京都府舞鶴市では消せるボールペンで記入されていた公文書が多数発見され問題となり、日本の自治体の事務などでは使用禁止の動きが進んでいる。メーカーも消せるボールペンによる証書類の記入は控えるよう呼びかけている。なお、消せるボールペンで書いた後で消した文字を低温下で復元させる方法もある。",
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"text": "通常のボールペンは重力を利用してインクを送り出すため、先端を上に向けた状態では筆記できない。水平より上向きで字を書くとだんだんインクが出なくなり、さらにインクタンク内に空気が入り込むと気泡ができてしまう。インク残量があっても、ボールとそれを支えるホルダーの間に空気が入ってしまうことのほか、紙の繊維などが詰まったり、ペン先が傷ついてボールが回らなくなったり、インクが経年劣化したりしても書けなくなる。",
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"text": "微小重力の宇宙船内などでは、インクを窒素ガスで強制的に送り出す、俗に宇宙ペン(スペースペン)と呼ばれる特殊なボールペンが使われている。ただし、宇宙ではボールペンが全く使えなくなるということはなく、「アメリカ航空宇宙局(NASA)はわざわざ手間暇と大金をかけてスペースペンを開発した。一方、ソ連は鉛筆を使った」というジョークがあるが、鉛筆の芯は静電気を帯びやすい黒鉛を含み、破片や粉塵が機器類に悪影響を与えるおそれがあるため、ソ連の継承国であるロシアも鉛筆をボールペンに置き換えている。",
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"text": "21世紀に入り、日本の文具メーカーによりガス封入ではなくノックすることで軸の内部で圧縮空気を作りインクを送り出す加圧式ボールペンが開発され、各社より販売されている。加圧されているので先端の向きに関わらず書ける他、ペン先から水の入り込む隙間がないため、濡れた紙や氷点下の環境でも書けるのが特徴である。",
"title": "特殊なボールペン"
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"text": "ペン先用ボールの直径は世界的には1.2ミリメートル (B)、1.0ミリメートル (M)、0.7ミリメートル (F)、0.5ミリメートル (EF) のものが主流。1.4ミリメートル、1.6ミリメートルの太いものや、0.4ミリメートル、0.3ミリメートル、0.28ミリメートル、0.25ミリメートル、0.18ミリメートルといった極細のものもある。",
"title": "ボールの規格"
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"text": "日本では線の密集した漢字を書く都合上0.5前後が好まれ多く流通しているが、欧米メーカーの欧米向け製品では0.7以下を販売していなかったり、漢字圏への輸出向けに特別仕様として0.5を用意する場合もある。これはシャープペンシルでも同じ傾向である。",
"title": "ボールの規格"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "通常ボールが大きいほど筆跡は太くなり、小さいほど細くなるが、ボールの直径と線の太さは同一ではなく、筆圧などによっても変化する。",
"title": "ボールの規格"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "一般的に同じ太さのボールでは油性ボールペンより水性ボールペンやゲルインクボールペンの方が筆跡が太くなる。",
"title": "ボールの規格"
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"text": "付加機能として、クリップ付、印鑑付(印判付)、時計付、ライト付、護身具付き(タクティカルペン)、直記ペンなどがある。",
"title": "付加機能"
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"text": "万年筆ほどの種類はないがボールペンにも蒔絵や漆塗、螺鈿といった伝統工芸を採用したり、貴金属や宝石をあしらったりした非常に贅沢な品がいくつか存在する。老舗万年筆メーカーは、主力製品である万年筆とセットで、ほぼ同じデザインの油性ボールペンとローラーボールを販売することが多い。また、タキザワ社ペン工房キリタなど、自社開発で機能を追加した製品・OEM・ギフトノベルティーなどを販売している会社も多々ある。",
"title": "付加機能"
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"text": "ボールペンの発明以来、アマチュアの落書きだけでなく、プロのアーティストのための多目的な芸術媒体となっている。使用者によると、ペンは安くてポータブルで、広く利用可能である。従ってこの一般的な文房具は便利な画材にもなる。「点描」と 「クロスハッチ」などの伝統的なペンとインク技術は、ハーフトーンや立体的な描写をするために使用することができる。とりわけアンディー・ウォーホルなどの有名な20世紀の芸術家は、ボールペンもある程度利用してきた。ボールペン画は、21世紀でも人々を魅了し続けている。現代のアーティストは彼らの特定のボールペン技術的能力、想像力と革新によって承認を受けている。ニューヨーク在住の韓国人アーティスト、イル・リー (Il Lee) は、1980年代の初めから大規模で抽象的なボールペンのみの作品を制作してきた。彼の作品はソウル(韓国)やアメリカで展示されている。レニー・メイス (Lennie Mace) は1980年代半ば以降、木材やデニムなど、型破りな素材の表面に、様々なコンテンや複雑さを想像的に描き、ボールペンのみの作品を作成している。彼の変化に富んだ作風を表現するために、「ペンティング」と「メディア・グラフィティ」などの用語が生まれた。メイスは最も多作なボールペン画家である。彼の作品はアメリカ全土、日本でも定期的に展示されている。最近では、英国のジェームズ・ミルン (James Mylne) は、ほとんど黒ボールペンを使用して写真のようにリアルなアートワークを制作し、時には色を表現するために他の画材も使用している。ミルンの作品は、ロンドン、そしてインターネットを通して国際的な人気がある。ボールペンの限られた色の種類と、光による色の劣化がボールペン画家の懸念の一つである。ミスはボールペンアーティストにとって致命的である。線が描かれた後、基本的に消すことができないからである。 芸術的な目的のためにボールペンを使用する際、インクフローのたまりと詰まりにも配慮が必要である。日本人アーティスト「ハクチ」のイラストは、インターネットを通してアメリカでも人気となっている。フアン・フランシスコ・カサス (Juan Francisco Casas) とサミュエル・シルバ (Samuel Silva) のボールペン画は、最近インターネットでの「ヴァイラル」効果で注目を浴びている。",
"title": "ボールペン画"
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ボールペンは、ペン先に小さな鋼球を内蔵してあり、運筆とともに回転することで軸内のインクを滲出させて筆記する構造を持つ筆記具。精密機械であり、文房具の一種。 英語では "ballpoint pen"、あるいは単に "ballpoint" と呼ばれる。「ボールペン」は和製英語だとされることもあるが、俗称・商業用語として英語圏でも "ball pen" と呼ばれることがある。イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏では、ボールペンのことを "biro"(バイロー)と呼び、イギリス英語では "biro" はボールペン一般を指す名詞となっている。これは、発明者であるビーロー・ラースローの名字を英語風に読んだ音による。
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[[ファイル:Ball pen.jpg|thumb|ボールペン]]
[[ファイル:Pen.jpg|thumb|太い軸のボールペン]]
'''ボールペン'''(Ball pen)は、[[ペン]]先に小さな鋼球を内蔵してあり、運筆とともに回転することで軸内の[[インク]]を滲出させて筆記する構造を持つ[[筆記具]]<ref name="jpo-card-F2">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/F2.pdf 意匠分類定義カード(F2)] [[特許庁]]</ref>。[[精密機械]]であり、[[文房具]]の一種。
[[英語]]では [[:en:ballpoint pen|"ballpoint pen"]] (ball-point pen)、あるいは単に "ballpoint" と呼ばれる<ref>''[[新オックスフォード米語辞典|The New Oxford American Dictionary]]'', Second Ed., Oxford University Press, 2005.</ref><ref name="randomhouse">『[[小学館ランダムハウス英和大辞典]]』小学館</ref>。「ボールペン」は[[和製英語]]だとされることもあるが<ref>『[[日本語大辞典]]』[[講談社]]、1989年</ref><ref>「[http://ejje.weblio.jp/content/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%B3 ボールペン]」『[[Weblio]]英和辞典・和英辞典』</ref>、俗称・商業用語として英語圏でも "ball pen" と呼ばれることがある<ref name="randomhouse"/><ref>''The American Heritage Dictionary of the English Language'', New College Edition, Houghton Mifflin, 1975.</ref><ref>『新和英大辞典 第5版』[[研究社]]、2003年</ref>。[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]といった英語圏では、ボールペンのことを "'''biro'''"(バイロー)と呼び<ref>{{cite book |last=Room |first=Adrian |title=Dictionary of Trade Name Origins |url= https://books.google.co.jp/books?id=Qdw9AAAAIAAJ&printsec=frontcover&hl=hu&redir_esc=y#PPA41,M1 |accessdate=2008-07-22 |year=1983 |publisher=[[ラウトレッジ|Routledge]] |isbn=0710201745 |pages=41}}</ref>、[[イギリス英語]]では "biro" はボールペン一般を指す名詞となっている。これは、発明者である[[ビーロー・ラースロー]]の名字を英語風に読んだ音による。
== 特性 ==
[[ファイル:Kugelschreiber.jpg|thumb|ボールペンの先端]]
先端に[[金属]]または[[セラミックス]](ごく一部「ボールぺんてる」のように[[合成樹脂|樹脂]]のものも存在する)の極小の球(ボール)がはめ込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが筆先表面に送られて、線を描けるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをリフィル(レフィル)と呼び、ペン軸の内部に収めて使用する。
ボールペンには、太さ、色、インクの特性、ペン先の出し方などにより多くの種類が存在する。ペン先の出し方によって大別すると、ペン先を覆うキャップを取り外すキャップ式、後部のボタンを押すことでペン先を繰り出すノック式、軸をひねって回転させることでペン先を繰り出すツイスト式(回転式)がある。いわゆる多色ボールペンや[[シャープペンシル]]の機能を併せ持ったもののようにノック部が複数あるものは複数ノック式という<ref name="jpo-card-F2"/>。
[[鉛筆]]とは異なり基本的には筆跡を[[消しゴム]]で消せないため、ボールペンは公的書類にも用いられる。ボールペンが登場するまでは筆記具の主流は[[万年筆]]であったが、ボールペンには独特の構造により弱い力でスムーズな線を描けるといった特長がある。万年筆では使うことが難しい[[顔料]]インクなどの高性能なインクを使えるので筆跡の保存性にも優れている。欧州の学校では鉛筆は主に絵を描くときに用いられ、筆記にはボールペンや万年筆を使う国が少なくない<ref name="GLOBE">{{Cite news|url=http://globe.asahi.com/feature/111120/02_1.html|title=パリの教室 風景変えた日本製ペン|newspaper=[[朝日新聞グローブ|GLOBE(朝日新聞別刷り)]])|publisher=朝日新聞社|date=2011-11-20|accessdate=2015-05-12}}</ref>。かつてはフランスの教室でも万年筆のみでボールペンの使用が認められていなかったが、[[ビック (フランス企業)|ビック]]が1950年にボールペン「クリスタル」を発売し普及するに伴い、1965年に教室での使用が解禁された<ref name="GLOBE"/>。ボールペンはペン先が硬く筆圧を加えやすいので、[[カーボン紙]]や[[感圧紙]]を用いた[[複写]]([[カーボンコピー]])にも適している。
ボールペンは安価に作れるため、企業の広告宣伝用に企業のロゴを軸にプリントしたものが配布されることもある。
ボールペンの欠点としては、凹凸面があるとボールがうまく回転せず、筆記した線が湾曲してしまう点、長期間の放置に弱い点、線に強弱をつけるのが難しい点などがある。
ボールペンのインク(油性、ゲル)は粘度が高いため、リフィル内に気泡(切れ)が生じると先端にインクが回らなくなり使用不能に陥る。これは上向き筆記や洗濯機に誤って入れることが原因で生じる<ref name="SakuraFix">{{Cite web|url=https://www.craypas.co.jp/press/feature/009/sa_pre_0170.html|title=【メーカー直伝】ボールペンのインクが出ないときの対処法|publisher=サクラクレパス|date=2022-4-12|accessdate=2023-12-18}}</ref><ref name="UniFAQ"/>。また[[塗工紙]]への寝かせ書きなどが原因で異物がペン先に入り込み書けなくなることもある。書けなくなったボールペンの回復方法として、俗にペン先を炙ったり、お湯に浸けたり、振り回すなどの対処法が示されることがよくあるが、メーカーによればこれらの効果は期待できない。メーカーが推奨する対処法としては、ペン先を拭ったり重ねた非塗工紙への筆記を繰り返す方法があるが、ほとんどの故障では完全に回復させるのは難しい<ref name="SakuraFix"/>。
== 構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2020-5}}
[[ファイル:Ballpoint-pen-parts.jpg|thumb|分解したボールペン]]
[[ファイル:Ampulka-Pastik.jpg|thumb|透明樹脂製カートリッジを採用したリフィル]]
[[ファイル:OHTO ball pen NO.600.jpg|thumb|ニードル型チップ]]
ボールペンの基本的な筆記機能は、ペン先の部品である'''チップ'''と、インクを収めるパイプ状の'''カートリッジ'''によって構成される。ペン軸自体がカートリッジを兼ねているものもあるが、多くのボールペンは外装であるペン軸の内部に'''リフィル(替芯)'''を収めた構造をもつ。リフィルはチップとカートリッジが一体化した構造をもち、インクや機械の消耗といった必要に応じて、多くは交換可能になっている。<ref>{{Cite journal|和書|title=ボールペンにおける最近の精密加工技術について|author=早乙女辰男|journal=精密工学会誌|volume=73|issue=1|pages=23-27|publisher=精密工学会|date=2007|doi=10.2493/jjspe.73.23}}</ref>
チップはボールペンの性能を大きく左右する、特に精密な加工技術が要求される部分である。チップ内部にはカートリッジからボールまでインクを誘導する管が通っており、チップ先端には回転可能なボールがはめこまれた構造をもつ。筆記に従いボールが回転することで、ボールに付着したインクが筆記面へ転写される。また現代の多くのボールペンでは、ボールの背面に極小ばねを内蔵しており、筆記をしていない平時はボールを外側へ押し出すことでチップ先端の隙間を封じ、乾燥やインク漏れを防いでいる。
カートリッジの後部にはインクの漏出や乾燥を防ぐために栓がされるが、インクの種類によってもその方式は異なる。よくある方式として、元々乾きにくい油性インクではスポンジ栓が使われ、これは平時は通気性がありつつも、ペン先から空気が入りこんだ際に生じるインクの後部漏出をとどめる役割を持つ<ref name="UniFAQ">{{Cite web|url=https://www.mpuni.co.jp/customer/ans_11i.html|title=よくある質問: 書けなくなった(ボールペン)|publisher=三菱鉛筆|accessdate=2023-12-5}}</ref>。水性ゲルインクや一部の油性インクではインクの後端に[[グリース]](液栓)が充填され、これはインクの消費に追従して移動する栓として機能する。水性(非ゲル)インクでは後端は密栓され、インク消費に伴うカートリッジ内への空気の取り入れ(気液交換)はペン先の空気孔を通じておこなわれる。
=== チップ形状 ===
チップの形には主に3タイプの形がある。
;コーンチップ(砲弾チップ)
:由来は円すい (cone) の形という意味の「コーン」で、ペン先が三角形なのが特徴。 砲弾チップとも呼ばれる。一般的なボールペンの大半に採用されている。
;ニードルチップ(パイプチップ)
:由来は針 (needle) の形という意味の「ニードル」で、針の様に細長いのが特徴。なお、[[オート (文具)|オート]]社がニードルと初めて命名した。 [[パイロットコーポレーション|パイロット]]社では[[1994年]]にゲルインクを使用した3つの点でボールを支える「3点支持チップ(パイプチップ)」を開発。さらに、[[オート (文具)|オート]]社が[[1999年]]に低粘度油性インクを使用した「切削型ニードルチップ(ニードルポイント)」を開発。
;シナジーチップ(ポイントチップ)
:コーンチップとパイプチップの[[相乗効果]](synergy)を狙った意味の「シナジー」で、先端へかけてスリムに絞った形状が特徴。[[パイロットコーポレーション|パイロット]]社が[[2016年]]にゲルインクを使用した「シナジーチップ」を開発。[[三菱鉛筆]]社が[[2021年]]に低粘度油性インクを使用した「ポイントチップ」を開発。
=== チップ材質 ===
; [[黄銅|快削黄銅]]
: 加工しやすく安価に製造できるが、寿命が短い。
; [[白銅]]
: 上に同じ。耐食性は黄銅より比較的良好。
; [[ステンレス]]
: 比較的磨耗に強く、寿命が長い。日本で生産されるボールペンチップの多くは、この材質。
=== ボール材質 ===
; [[ステンレス鋼]]
: 安価に製造できるが、耐磨耗性に若干劣る。
; [[超硬合金]]
: 主に炭化[[タングステン]]が使用される。寿命が長い。
; [[セラミックス]]
: 主に[[アルミナ]]が使用される。磨耗が少ないため寿命が長い他、インクに対して化学変化を起こさず、表面に微細な凹凸がありインクのノリが良い。
; [[模倣宝石|人造宝石]]
: [[ルビー]]は摩擦係数が小さく磨耗が少ないため、高級ボールペンに使用される。
=== 軸材質 ===
; [[合成樹脂]]
: 最も一般的な軸材質。安価で大量に生産できるため多く使用されている。
; [[金属]]
: 一部の高価なボールペンで使用されている。合成樹脂に比べて本体を小型化できる利点がある。
; [[木材]]
: 材質に狂いが生じやすいため一般に使用されることはほとんどない。
; [[セルロイド]]
: かつて[[万年筆]]用に大量に使用された素材。一時は合成樹脂の登場により姿を消したが昔ながらの風合いを重視し現在も細々と使用されている。
; [[エボナイト]]
: 上記に同じ。[[紫外線]]で劣化するが漆黒の美しい光沢を呈する。
; [[紙]]
: [[ドイツ]]で考案された軸材質。何重にも巻いた[[クラフト紙]]の厚紙でできた紙管を使用する。[[ロゴタイプ|ロゴ]]を印刷できる面積が広く取れ[[リサイクル]]が容易であるため企業の宣伝用として多用される傾向がある。
インクが収まるリフィルの軸部は当初は金属製チューブだったが、インク残量が見えまた廉価な透明プラスチック製のものが主流になっている。しかし金属製には酸素や水分の透過度が低くインク変性が少ない、より堅く細い軸に作れるため多色ペンで太くなりすぎない、軸ぶれしにくくシャープな書き味を得られる等のメリットがあり、高級帯製品に用いられ続けている。高粘度のインクを用いるため再充填が難しいこと、[[万年筆]]のペン先のような馴れによる書き味の変化といった要素には乏しいため、リフィル自体は価格によらず使い捨てである。
ボールペンはボールを周りの[[カシメ]]によって支持するため、寝かせて書くとカシメが擦れて故障の原因となるおそれがある。ペン先内部にボールを支えるための受座があるので、受座がボールを正しい位置で支えられる角度で筆記するのがよいとされる。よって筆記時には万年筆と違い紙面に直角に近い角度(60~90度が望ましいとされる)を保ち筆記することが求められる。
== 歴史 ==
[[ファイル:Bolígrafo birome II edit.jpg|thumb|130px|1940年に[[ビーロー・ラースロー]]が売り出した"birome"ブランドペン。]]
ボールペンを発明するにあたっては、ペン先用極小ボールの高精度な加工・固定技術と、高粘度インクの開発が必要であった。従来の低粘度インクでは、ボールの回転と共に多量のインクがにじみ出してしまい、シャープな線を描けなかったのである。
* [[1884年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人のジョン・ラウドが着想しているが、インク漏れを防止できず実用にならなかった。
* [[ユダヤ系ハンガリー人]]のジャーナリストの[[ビーロー・ラースロー]](László Bíró)が世界初の近代的ボールペンを考案し、[[1938年]]にイギリスで特許を取得<ref>''The first complete specifications appear to be UK 498997, June 1938 and UK 512218, December 1938; his rather basic Hungarian patent 120037 was dated April 1938.'' Collingridge, M. R. ''et al.'' (2007) "Ink Reservoir Writing Instruments 1905–20" ''Transactions of the Newcomen Society'' 77(1): pp. 69–100, page 80</ref>。[[1941年]]に[[ナチス・ドイツ]]を逃れて[[アルゼンチン]]に移住すると同国で会社を設立し、[[1943年]]に同国での特許を取得して''Birome''というブランド名で販売<ref name="About">
{{cite web
| url = http://inventors.about.com/library/weekly/aa101697.htm
| title = About ballpoint pens
| first = Mary
| last = Bellis
| date =
| work =
| publisher = About.com
| accessdate =Feb 2014
}}
</ref>。[[イギリス空軍]]がこのペンのライセンス品(''Biro'')を採用し、高い高度を飛行中の使用に際してボールペンは万年筆よりも液漏れしにくいことが知られることとなった<ref name="About"/>。
* [[1945年]]にビーローのbiromeペンをエバーシャープ社とレイノルズ社と量産化、戦後のアメリカでブームとなった<ref name="About"/>。
* インク漏れをほぼ完全に防止でき、安定した製品が市場に出されるのは、[[1950年代]]に至ってからである{{Sfn|Romanowski|1998}}。
* [[1950年]]にフランスの[[ビック (フランス企業)|ビック]]が透明軸の「ビック・クリスタル」を発売、1970年代には4色ボールペンを発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bic-japan.co.jp/history/|title=ヒストリー|publisher=BICジャパン|accessdate=2019-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.moma.org/collection/works/82141|title=Bic Cristal Ballpoint pen|publisher=The Museum of Modern Art|accessdate=2019-11-10}}</ref>。ビックは21世紀の現在に至るまで最大のボールペンメーカーとなっている<ref name="About"/>。
* [[1948年]]に[[セーラー万年筆]]社が初国産ボールペン「セーラー・ボール・ポイント・ペン」を500本発売。<ref>{{Cite web |title=セーラー万年筆の歴史 |url=https://sailor.co.jp/topics/history/ |website=セーラー万年筆 |access-date=2023-11-30 |language=ja}}</ref>
* [[1949年]]に[[オート (文具)|オート]]社が日本で初めて実用的な量産ボールペンである鉛筆型ボールペンならびに証券用インクを開発<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ボールペンの歴史はOHTOの歴史|url=http://www.ohto.co.jp/html/what%27s_ohto.html|website=www.ohto.co.jp|accessdate=2020-06-01|publisher=OHTO|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040606020954/http://www.ohto.co.jp/html/what's_ohto.html |archivedate=2004-06-06|deadlinkdate=2023-12}}</ref>。以降、国内ボールペン・ブームの火付け役となる。
* [[1964年]]に[[オート (文具)|オート]]社が水性ボールペンを世界で初めて開発<ref name=":0" />。以降、各社から多彩な水性ボールペンが発売されることとなる。
* [[1965年]]にポール・フィッシャーが窒素ガス加圧式の[[:en:Space Pen|スペースペン]]を開発。後に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]にも採用された<ref name="space_pen">NASAがフィッシャーに開発を依頼したとか、NASAが開発に巨費を投じたとかといった言説が宣伝やジョークとして流布しているが、実際にはNASAはスペースペンの開発には関与していない。Steve Garber, "[http://history.nasa.gov/spacepen.html The Fisher Space Pen]", NASA History Program Office</ref>。
* [[1966年]]に[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]社がインク残量が一目で分かるボールペン「ゼブラクリスタル」を発売。
* [[1982年]]に[[サクラクレパス]]社が世界で初めて[[分散系]]の[[チキソトロピー]]現象を応用した水性ゲルインキを開発・特許を取得した。その後国内各社も高性能ゲルインキボールペンの開発に着手、ボールペンの性能は飛躍的に上がり、ボールペンの普及に拍車を掛けた。
* [[2010年|2010]]年に[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]社が世界で初めて不可能と言われていた「水性」と「油性」の融合を実現させ、エマルジョンインク(油中水滴型インク)を開発。
当初は高価で普及せず、書いた後時間が経つとインクが滲むので公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。
徐々に金融機関でも採用されるようになり、1960年代のボールペンの新聞広告では「一流銀行が愛用する」というコピーが使われている<ref>日光ボールペンの広告『朝日新聞』[[昭和]]42年7月26日朝刊1面</ref>。[[1970年代]]以降は[[万年筆]]や[[つけペン]]に代わる、もっとも一般的な筆記具となっている。
1980年代後半以降、各メーカーはラバーグリップ搭載、ローレット加工搭載やインクの改良、ペン先の改良など様々な形で疲れにくさを追求していった。1990年代半ばになると、多彩なインク色を揃えたボールペンが相次いで発売され、ビジネスだけでなく趣味、学生にも支持が広まる{{要出典|date=2019年11月}}。
== インクによる分類 ==
ボールペンは、使用するインクの特性により分類される。
主なものとして油性ボールペン、水性ボールペン、ゲルインクボールペンがあり、[[日本産業規格|JIS]]や[[国際標準化機構|ISO]]の規格ではインク粘度と[[チキソトロピー]]性によってこれらに区別される。比較的高粘度のインクで筆記する油性ボールペンは[[カーボンコピー|複写伝票]]などにも適し事務用に広く普及するが、後発の水性およびゲルインクボールペンは低粘度状態のインクで筆記するため低筆圧でも発色がよく、1990年代以降の日本では後者のシェアが高い<ref name="exc">{{Cite web|和書|author=田幸和歌子|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1242820861730/|title=「水性ボールペン」はいま絶滅の危機にあるのか|work=Excite Bit コネタ|publisher=エキサイト|date=2009-05-21|accessdate=2016-12-04}}</ref>。
[[日本産業規格|JIS]]や[[国際標準化機構|ISO]]の規格では、一般筆記用と公文書用の要件が定められており、後者は薬品による改竄([[:en:Check washing]])への耐性が高い。
=== 油性ボールペン ===
ボールペンの中でも最も古典的であり、1930-1940年代に[[ビーロー・ラースロー]]によって開発された。揮発性が低く高粘度の[[有機溶媒]]をインクに使っているため、滲みが少なく、裏移りがなく、筆記距離が長いなどの利点がある。インクは紙への浸透作用によって表面的な乾燥を実現する。基本的にペン先はドライアップ(インクの乾燥による故障)せず<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.opi-net.com/opiken/20030802_05.asp|title=オピ研: vol.02:パイロットのこだわり~おまけ~|work=オピネット|publisher=マーケティング・コミュニケーションズ|date=2003-09-01|accessdate=2016-12-4}}</ref>、リフィルの保存期間が比較的長い。欠点としては書き味の重さや、書き出しのかすれ、ボテ(ペン先への余剰インク溜まり)の発生がある。色素は主に染料が使われ、顔料系と比べて耐光性は劣るが、耐水性は良好であり、実用上は50年以上の筆跡保存性が確かめられている。
==== 低粘度油性ボールペン ====
2000年代からは、従来の溶煤([[フェノキシエタノール|2-フェノキシエタノール]]、[[ベンジルアルコール]])とは異なるインク配合によって滑らかな書き味を志向した「低粘度油性インク」のボールペンが普及している<ref>{{Cite web|和書|author=大河原克行|url=https://web.archive.org/web/20170427162525/http://www.nikkeibp.co.jp:80/style/biz/abc/forefront/080220_jetstream1/|title=“油性ボールペン嫌い”が油性ボールペンをヒットさせた|work=日経BPネット|publisher=日経BP社|date=2008-02-20|accessdate=2020-01-06}}([[ウェイバックマシン]])</ref>。比較的早いものでは、[[ゼブラ_(文具メーカー)|ゼブラ]]のジムニーライトが1998年、[[オート (文具)|オート]]の油性ソフトインクが1999年から存在する。海外製品では[[ステッドラー]]が2018年に「トリプラス ボール」<ref>[https://www.staedtler.jp/topics/new/a9 【新製品】トリプラス ボール・油性ボールペン 新発売] ステッドラー(2018年12月1日)</ref>を出している。
各社ともインクに独自名称を付けていることが多い。
* [[ジェットストリーム_(ボールペン)|ジェットストリームインク]] (JETSTREAM) - [[三菱鉛筆]]、2002年
* アクロインキ - [[パイロットコーポレーション]]、2008年
* ビクーニャ(VICUÑA)インキ- [[ぺんてる]]、2010年
=== 水性ボールペン ===
{{main|ローラーボール}}
[[オート (文具)|オート]]の「水性ボールペンW」(1964年)<ref>{{産業技術史資料データベース|113711620062|水性ボールペン W}}</ref>が開祖で、[[ぺんてる]]の「ボールぺんてる」(1972年)<ref>{{産業技術史資料データベース|113711620008|ボールぺんてる B50}}</ref>のヒットにより普及した<ref name="exc"/>。欧米ではボールペンではなく'''[[ローラーボール]]'''と呼ばれる。インクの粘度が低いため、さらさらとした感じの書き味が魅力である。油性ボールペンに比べ書き味、色の発色性の面で優れているが、インクが紙に染み込みやすいため滲みやすい。染料インクの場合、水に濡れるとインクが流れて字が消えてしまう弱点もある(顔料インクは耐水性がある)。
油性とは異なりドライアップしやすいため、使用後はキャップを確実に閉めなければならない。キャップのいらないノック式もあり、海外製では遅くとも1990年には[[ラミー (企業)|ラミー]]の「swift」といった製品が登場しているが、日本製では歴史が浅く[[パイロットコーポレーション|パイロット]]の「VボールRT」(2008年)で初めて実用化された<ref>{{Cite web|和書|author=杉本吏|url=https://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0808/25/news095.html|title=キャップレスでもなめらかな書き味――パイロット、国内初のノック式水性ボールペン|work=ITmediaエンタープライズ|publisher=アイティメディア|date=2008-08-25|accessdate=2016-12-07}}</ref>。
水性ボールペンの内部構造には、インクの貯留方式によって中綿式と直液式がある。従来の中綿式は、[[毛細管]]の中綿からインクを供給するため、重力方向にかかわらず筆記できる特徴を持つが、インク残量が見えず、残量が減ると[[インクフロー]]が下がる欠点がある。後年開発された直液式では、直接液状インクを貯蔵し、万年筆の櫛溝(蛇腹)に似たコレクターを通じて供給することで、中綿式の欠点を払拭している<ref>{{産業技術史資料データベース|113711620020|水性ボールペン ユニボール UB-150}}</ref>。コレクターのインク保留量には限界があり、極端な温度・気圧変化を受けるとインク漏れするおそれがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mpuni.co.jp/customer/ans_12a4.html|title=気圧や温度の急激な変化があった場合(直液式ボールペン)|publisher=三菱鉛筆|accessdate=2016-12-04}}</ref>が、この点でも改良は重ねられている<ref>{{産業技術史資料データベース|113711620023|水性ボールペン ユニボール UB-200}}</ref>。
=== ゲルインクボールペン ===
[[サクラクレパス]]の「ボールサイン」(1984年)で初めて開発された<ref>{{産業技術史資料データベース|113711620067|ボールサイン(世界で初めての水性ゲルインキボールペン) GB280}}</ref>。'''中性ボールペン'''とも呼ばれる。ゲルの性質によって、水性ボールペンのよさである書き味がなめらか、ボテが無い、書き出しが良いことと、油性ボールペンのよさであるインク残量を見ることができる、最後までインクの出方が一定である、(顔料の場合)耐水性があることを合わせ持つ<ref>{{Cite journal|author=井上繁康|title=ゲルインキボールペンの開発|doi=10.11311/jscta1974.29.232|journal=熱測定|volume=29|issue=5|pages=232-233|publisher=日本熱測定学会|year=2002}}</ref><ref>[https://www.mpuni.co.jp/customer/ans_15.html 油性・水性・ゲルインクの違いは何か|よくあるご質問|三菱鉛筆株式会社]</ref>。
水性インクに[[ゲル]]化剤を加えたゲルインクは、リフィル内部では高粘度のゲル状だが、ボールが回転すると速やかにインクが粘度の低い[[ゾル]]状になり、インクがペン先から滲出する。滲出したインクが紙面に付着するとインクが直ちにゲル化するためインクの滲みが少ない<ref>[http://www.jwima.org/pen/ballpen4_1.html ボールペンお役立ち情報: ボールペンのインキについて]. 日本筆記具工業会(2002年)</ref>。また比較的大きなインク粒子を使いやすい特徴があり、白色顔料を混ぜたパステルカラー(不透明)インク、ラメ入りインク、香り付きインク、消せるインクといった特殊な製品も登場している。インク素材には染料系と顔料系があり、染料ゲルインクは発色が鮮やかで書き味も滑らかだが、耐水性に難がある。顔料ゲルインクは乾燥後の耐水性・耐光性が高く長期保存に適する。
水性と同じくドライアップしやすく初期はキャップ式のみであったが、キャップのいらないノック式も[[三菱鉛筆]]の「[[シグノ]]ノック式」(1997年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mpuni.co.jp/new/press1998102.html|title=ユニボールシグノノック式 500円タイプ|publisher=三菱鉛筆|date=1998-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991002021302/http://www.mpuni.co.jp/new/press1998102.html|archivedate=1999-10-02|accessdate=2016-12-07}}</ref>以降実用化され、のちに油性同等にスリムなリフィルによる多色ノック式や多機能ノック式も登場した。ノック式はドライアップしにくいインクの配合や、[[ばね]]でボールを押し出し非筆記時に隙間を封じることでドライアップを防いでいる。
=== エマルジョンボールペン ===
2010年に[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]の[[スラリ]]に搭載された新たな種類のボールペンインク<ref>[https://www.zebra.co.jp/cop/history.html ZEBRA 沿革]</ref>。油性インクと水性ジェルを混合した油中水滴型[[エマルジョン]]インクを使用する。油性7水性3の割合で混合(乳化)した状態で安定させることにより、水性の滑らかな書き味と、油性の鮮やかで濃い筆記線を両立している。耐水性と耐光性は共に高い。他社の低粘度油性に対応する位置付けになっている。
== 特殊なボールペン ==
=== 消せるボールペン ===
1979年にアメリカの文具メーカーPaperMate社が、インク粒子を大きくし紙に染み込まないようにした「イレーザブルインク」による、消しゴムで消せるボールペン「Eraser Mate」を発売し、日本では1980年に[[三菱鉛筆]]が「ケルボ」を一時期発売していた。しかし、これは時間が経つと消せなくなるため鉛筆同様の使用はできない<ref name="takita">[[滝田誠一郎]]「[https://web.archive.org/web/20160116034559/http://bp.shogakukan.co.jp/takita/pilot_011.html 消せるボールペンの系譜]」([[ウェイバックマシン]]) </ref>。
21世紀になってから鉛筆同様の使い勝手を持つ[[パイロットコーポレーション]]「D-ink」がヒットし、その後継機種「e-GEL」、三菱「ユニボール シグノ イレイサブル」などが登場した。しかし、消しにくかったり簡単に消えたりしたため定着しなかった<ref name="takita"/>。
2006年1月、パイロットがペン後部のゴムでこすることで発する摩擦熱により筆跡を消せる[[フリクションボール]]をヨーロッパで先行発売し、2007年には日本でも発売、その利便性から2010年までに全世界で累計約3億本を売り上げた<ref name="GLOBE"/>。フリクションはその後も全世界で普及している。
ただ、消せるボールペンには文書の改竄の恐れという問題がある。[[京都府]][[舞鶴市]]では消せるボールペンで記入されていた公文書が多数発見され問題となり、日本の自治体の事務などでは使用禁止の動きが進んでいる。メーカーも消せるボールペンによる証書類の記入は控えるよう呼びかけている<ref>{{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20150407000019|title=公文書に消せるボールペン 京都・舞鶴市「認識甘かった」|newspaper=[[京都新聞]]|publisher=京都新聞社|date=2015-04-07|accessdate=2015-05-12}}</ref>。なお、消せるボールペンで書いた後で消した文字を低温下で復元させる方法もある<ref>[http://www.pilot.co.jp/support/frixion/1334578774407.html フリクションボール(フリクションシリーズ各種)よくある質問] - パイロット社HP</ref>。
=== 加圧式ボールペン ===
通常のボールペンは[[重力]]を利用してインクを送り出すため、先端を上に向けた状態では筆記できない。水平より上向きで字を書くとだんだんインクが出なくなり、さらにインクタンク内に空気が入り込むと気泡ができてしまう。インク残量があっても、ボールとそれを支えるホルダーの間に空気が入ってしまうことのほか、紙の繊維などが詰まったり、ペン先が傷ついてボールが回らなくなったり、インクが経年劣化したりしても書けなくなる<ref>[https://www.asahi.com/articles/photo/AS20211014001143.html 【ののちゃんのDo科学】ボールペンはなぜ書けなくなる? 空気や繊維でペン先が詰まるから][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2021年10月16日5面(2021年10月30日閲覧)</ref>。
[[無重量状態|微小重力]]の[[宇宙船]]内などでは、インクを[[窒素ガス]]で強制的に送り出す、俗に宇宙ペン([[スペースペン]])と呼ばれる特殊なボールペンが使われている。ただし、宇宙ではボールペンが全く使えなくなるということはなく、「[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)はわざわざ手間暇と大金をかけてスペースペンを開発した。一方、[[ソ連]]は鉛筆を使った」というジョークがあるが、鉛筆の芯は[[静電気]]を帯びやすい[[グラファイト|黒鉛]]を含み、破片や粉塵が機器類に悪影響を与えるおそれがあるため、ソ連の継承国であるロシアも鉛筆をボールペンに置き換えている<ref>[[欧州宇宙機関]](ESA):"[http://www.esa.int/esaCP/SEM9YN7O0MD_index_0.html Pedro Duque's diary from space]", ''ESA News'', 2003年10月23日</ref>。
21世紀に入り、日本の文具メーカーによりガス封入ではなくノックすることで軸の内部で圧縮空気を作りインクを送り出す[[スペースペン|加圧式ボールペン]]が開発され、各社より販売されている。加圧されているので先端の向きに関わらず書ける他、ペン先から水の入り込む隙間がないため、濡れた紙や[[氷点下]]の環境でも書けるのが特徴である。
== ボールの規格 ==
ペン先用ボールの直径は世界的には1.2ミリメートル (B)、1.0ミリメートル (M)、0.7ミリメートル (F)、0.5ミリメートル (EF) のものが主流。1.4ミリメートル、1.6ミリメートルの太いものや、0.4ミリメートル、0.3ミリメートル、0.28ミリメートル、0.25ミリメートル、0.18ミリメートルといった極細のものもある。
日本では線の密集した[[漢字]]を書く都合上0.5前後が好まれ多く流通しているが、欧米メーカーの欧米向け製品では0.7以下を販売していなかったり、漢字圏への輸出向けに特別仕様として0.5を用意する場合もある。これはシャープペンシルでも同じ傾向である。
通常ボールが大きいほど筆跡は太くなり、小さいほど細くなるが、ボールの直径と線の太さは同一ではなく、筆圧などによっても変化する。
一般的に同じ太さのボールでは油性ボールペンより水性ボールペンやゲルインクボールペンの方が筆跡が太くなる。
== 付加機能 ==
付加機能として、クリップ付<ref name="jpo-card-F2"/>、印鑑付(印判付)<ref name="jpo-card-F2"/>、時計付<ref name="jpo-card-F2"/>、ライト付<ref name="jpo-card-F2"/>、[[防犯装備|護身具]]付き([[タクティカルペン]])、[[直記ペン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.kyowa-mfg.com/modules/kyowa/catalogpdf/17_A4_chokkipen_180825.pdf |title=3 代目直記ペン |access-date=2023年11月30日 |publisher=協和工業}}</ref>などがある。
万年筆ほどの種類はないがボールペンにも[[蒔絵]]や[[漆塗]]、[[螺鈿]]といった伝統工芸を採用したり、貴金属や[[宝石]]をあしらったりした非常に贅沢な品がいくつか存在する。老舗万年筆メーカーは、主力製品である万年筆とセットで、ほぼ同じデザインの油性ボールペンとローラーボールを販売することが多い。また、タキザワ社<ref>{{Cite web |title=タキザワトップページ |url=http://www.takizawa-pen.co.jp/ |website=www.takizawa-pen.co.jp |access-date=2023-12-07}}</ref>ペン工房キリタ<ref>{{Cite web |title=ペン工房キリタ |url=http://www.kirita-pen.jp/ |website=ペン工房キリタ |access-date=2023-12-07 |language=ja}}</ref>など、自社開発で機能を追加した製品・OEM・ギフトノベルティーなどを販売している会社も多々ある。
==ボールペン画==
{{main|[[ボールペン画]] あるいは [[:en:Ballpoint pen artwork]]}}
[[ファイル:Lennie Mace "Uchuu Neko Parade" 2005 Tokyo, ballpoint "Penting" 130x92cm.jpg|thumb|285px|ボールペン画 「'''宇宙猫パレード'''」 (2005年) [[レニー・メイス]] ([[:en:Lennie Mace|Lennie Mace]]・米/日本) 着色ボールペン、金物、紙 130×92cm。]]
ボールペンの発明以来、アマチュアの落書きだけでなく、プロのアーティストのための多目的な芸術媒体となっている<ref name="NYT" />。使用者によると、ペンは安くてポータブルで、広く利用可能である。従ってこの一般的な文房具は便利な画材にもなる<ref name="Oddity" />。「点描」と 「クロスハッチ」などの伝統的なペンとインク技術は、ハーフトーンや立体的な描写をするために使用することができる<ref name="Mylne" /><ref name="Art of Sketching" />。とりわけ[[アンディー・ウォーホル]]などの有名な20世紀の芸術家は、ボールペンもある程度利用してきた<ref name="Warhol BPP" />。ボールペン画は、21世紀でも人々を魅了し続けている。現代のアーティストは彼らの特定のボールペン技術的能力、想像力と革新によって承認を受けている。ニューヨーク在住の韓国人アーティスト、[[イル・リー]] ([[:en:Il Lee|Il Lee]]) は、1980年代の初めから大規模で抽象的なボールペンのみの作品を制作してきた<ref name="NYT" />。彼の作品はソウル(韓国)やアメリカで展示されている。[[レニー・メイス]] ([[:en:Lennie Mace|Lennie Mace]]) は1980年代半ば以降、木材やデニムなど、型破りな素材の表面に、様々なコンテンや複雑さを想像的に描き、ボールペンのみの作品を作成している。彼の変化に富んだ作風を表現するために、「ペンティング」と「メディア・グラフィティ」などの用語が生まれた<ref name="Japan Times" /><ref name="Juxtapoz" /><ref name="Tokyo Journal"/>。メイスは最も多作なボールペン画家である。彼の作品はアメリカ全土、日本でも定期的に展示されている<ref name="Weekender" />。最近では、英国の[[ジェームズ・ミルン]] ([[:en:James Mylne (artist)|James Mylne]]) は、ほとんど黒ボールペンを使用して写真のようにリアルなアートワークを制作し、時には色を表現するために他の画材も使用している。ミルンの作品は、ロンドン、そしてインターネットを通して国際的な人気がある<ref name="Telegraph" /><ref name="Vermeer"/><ref name="Mylne"/>。ボールペンの限られた色の種類と、光による色の劣化がボールペン画家の懸念の一つである<ref name="Care" />。ミスはボールペンアーティストにとって致命的である。線が描かれた後、基本的に消すことができないからである<ref name="Japan Times" />。
芸術的な目的のためにボールペンを使用する際、インクフローのたまりと詰まりにも配慮が必要である<ref name="Tricks"/>。日本人アーティスト「ハクチ」のイラストは、インターネットを通してアメリカでも人気となっている。フアン・フランシスコ・カサス ([[:en:Juan Francisco Casas|Juan Francisco Casas]]) とサミュエル・シルバ (Samuel Silva) のボールペン画は、最近インターネットでの「ヴァイラル」効果で注目を浴びている<ref name="Casas"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist |refs=
<ref name="Japan Times">
{{cite news
| title = The hair-raising art of Lennie Mace; Lennie Mace Museum
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| last = Liddell
| url = http://www.japantimes.co.jp/text/fa20020403a1.html
| newspaper = [[The Japan Times]]
| publisher = Toshiaki Ogasawara
| location = Tokyo, Japan
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| oclc = 21225620
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}}
</ref>
<ref name="NYT">
{{cite news
| title = To See the World in Ballpoint Pen
| first = Benjamin
| last = Genocchio
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|page = 16
|location = Tokyo, Japan
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| last = Lebron
| first= Orlando
| year = 1998
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<ref name="Warhol BPP">
{{cite book
| last1 = Warhol
| first1 = Andy
| last2 = Slovak
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| last3 = Hunt
| first3 = Timothy
| title = Warhol Polaroid Portraits
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| oclc = 420821909
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}}
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| title = Art of Sketching
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| last = Holben Ellis
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== 参考文献 ==
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* {{Cite web|last=Romanowski|first=Perry|url=http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-2896700021.html|title=Ballpoint Pen|work=How Products Are Made|publisher=Encyclopedia.com|date=1998|accessdate=2016-12-04|ref=harv}}
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== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
{{Commons|Ballpoint|ボールペン}}
* [[ローラーボール]]
* [[ボールペン画]]
* [[万年筆]]
== 外部リンク ==
{{サイエンスチャンネル
|番組番号=B980601
|動画番号=b020601118
|動画タイトル=ボールペンができるまで
|中身の概要=[[栃木県]][[下都賀郡]][[野木町]]にある[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]の工場を取材して、ボールペンができるまでの流れを説明している
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}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほおるへん}}
[[Category:ボールペン|*]]
[[Category:和製英語]]
|
2003-09-16T18:17:34Z
|
2023-12-24T09:16:19Z
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[
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西域
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西域(さいいき、せいいき、拼音:xīyù , Western Regions)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。元々はタリム盆地諸国を指したが、拡張されてジュンガル盆地、中央アジア、イランインド、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。
古代中国において玉門関、陽関が西の境界とされ、それよりも西方の国々が記録に明確に現れたのは『史記』「大宛伝」が最初だが、ここには西域の語は見えない。『漢書』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記した「西域伝」が作られる。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と述べているので、タリム盆地を指していることが明らかである。しかし、『漢書』西域伝にはタリム盆地の国々ばかりでなく、トゥーラーン、アフガニスタン、パキスタン、イランなどの国々についても記されている。その後、中国歴代の正史のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲は全て『漢書』と同じである。
西域とは概ね中央アジアを指し、時にはインド亜大陸、西アジアまでを指すこともある。西域の国々はさらにパミール高原をはさんで東西に分けることができる。まず、新疆ウイグル自治区には、トルファン盆地(伊吾・高昌・車師前部など)、ジュンガル盆地(車師後部など)、タリム盆地(焉耆・亀茲・于闐・莎車・疏勒・楼蘭など)、イリ地域(烏孫)の国々があり、中央アジアでは、ソグディアナ、トハリスタン(大宛・康居・大月氏・大夏・昭武九姓)の国々がある。
まず、西域はパミール高原をはさんで東西に分けることができ、その歴史もその東西で大きく異なってくる。紀元前6世紀以降、西部すなわち中央アジア地域にはアケメネス朝ペルシアの属州であるマルグ(マルギアナ)、ソグディアナ、バクトリアがあった。アケメネス朝は西アジア一帯からエジプト、小アジア、中央アジアをもその版図に入れていたが、その征服活動に大きく貢献したのはキュロス2世(在位:前559年 - 前529年)とダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)といえる。しかし、その2君ですらパミール越えをしたことがなく、そのままマケドニアのアレクサンドロス3世(前336年 - 前323年)に侵攻され、滅ぼされた。アレクサンドロスはアケメネス朝の版図をそのまま受け継ぎ、大帝国を築いたが、彼もまたヤクサルテス川を越えただけで、それ以東には踏み入れなかった。その後、マルギアナとソグディアナとバクトリアにはアレクサンドロスの後継国家が建てられたが、いずれもパミール越えをしたという記録が残っていない。
一方、パミールの東側、すなわちタリム盆地の国々は漢代に西域36国などと呼ばれたが、張騫が訪れる以前の様子は山海経などに現れる程度で不鮮明となっている。史記によれば匈奴がタリム盆地の諸国を尽く征服し、西辺日逐王が僮僕都尉を置いて焉耆国・危須国・尉犁国の間に駐屯し、西域諸国に賦税を課していた事が判る。主要国である楼蘭・焉耆・姑師・亀茲・于窴・姑墨・莎車・疏勒などはそれ以前から存在したと思われるが、それ以前のタリム盆地の歴史は謎のままである。また、匈奴の支配を受ける前のタリム盆地では月氏が支配しており、中国史書が伝える「月氏は敦煌と祁連の間に住んでいた」すなわち、月氏が河西回廊(現在の甘粛省)のみにいたのではなく、新疆一帯にその領域を持っていたとする説もある。
前漢では日々、北の匈奴の侵攻に悩まされていたので、武帝(在位:前141年 - 前87年)は月氏と共同で匈奴を撃つべく、西方に移った月氏へ使者の張騫を派遣した。張騫は100人あまりの使節団を従えて中央アジアを目指し、途中匈奴に捕われるなどしながら10年以上をかけてようやく大宛国に到着した。大宛は現在のフェルガナ地方にあたるオアシス都市国家であり、汗血馬とワインの産地であった。大宛王は以前から漢と交易してみたかったので、張騫を快くもてなし、隣国の康居へ送ってやった。康居はトゥーラーンにある遊牧国家で、匈奴と月氏の附庸国となって居たが、張騫を目的の大月氏まで送ってくれた。そしてこの大月氏こそが、かつて匈奴から攻撃を受けて中央アジアまで逃れてきた月氏である。大月氏王に謁見した張騫はさっそく武帝からの要件を伝えたが、大月氏王がすでに安住の地を手に入れたとしてその申し入れを断ったため、目的が達せられぬまま張騫は帰国した。
目的を果たせなかった張騫は13年ぶりに漢に帰国すると、太中大夫にとりたてられ、西域のことを武帝に伝えた。そこで張騫は大月氏ではなく、烏孫という遊牧国家と同盟を組んで匈奴を挟撃すべきと上奏した。当時、烏孫は匈奴の属国であったが、老上単于(在位:前174年 - 前161年)の死後、半ば独立状態となっており、兵力もあったことから、漢と同盟を結んで匈奴と対抗するには絶好の相手であった。そこで武帝は張騫を中郎将に任命し、300人の部下と共に烏孫へ派遣した。初め、烏孫王の昆莫という者は老齢であるが漢という国を知らず、また烏孫国内が3つの勢力に分かれていて不安定な状況であったため、その時ははっきりとした答えを出さなかった。そのため使節団は一旦帰国したが、そのついでに烏孫の使者を連れて来て漢の国を見物させるなどして、漢の偉大さを見せつけた。こうして次第に両国の間で交際を持つようになっていった。しかし、このことを聞いた匈奴は烏孫を攻撃しようと企んだため、それを恐れた烏孫がついに公主を娶って漢と兄弟となることを希望した。そこで漢は皇族の娘である江都公主劉細君を嫁にやって昆莫に娶らせると、漢と烏孫の間で同盟が結ばれた。
元封元年(前110年)、漢はたびたび楼蘭、姑師などの小国に使者を妨害させられたので、従驃侯の趙破奴に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を浞野侯に封じると、姑師を車師前後王国及び山北六国に分けた。
一方で、武帝はフェルガナの大宛とも交易を始めており、大宛の汗血馬を愛好していた。あるとき大量の汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、武帝はほしくなったので、使者を大宛に送った。しかし、大宛が漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命して太初元年(前104年)に大宛討伐を行った。しかし、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出してほしいことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。
しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)に一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。汗血馬を差し出すのを拒んだためにこのような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは無能な昧蔡を殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。
昭帝(在位:前86年 - 前74年)の末年、匈奴の壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。このとき烏孫公主(劉解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御していたので返事ができなかった。宣帝(在位:前73年 - 前49年)が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。本始2年(前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明・度遼将軍の范明友・前将軍の韓増・後将軍・蒲類将軍の趙充国・雲中太守・虎牙将軍の田順の五将軍を派兵した。校尉の常恵は烏孫・西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:月氏系の諸侯)以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなり、その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃したが、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は弱体化した。
神爵3年(前59年)、匈奴の日逐王が握衍朐鞮単于(在位:前60年 - 前58年)に叛き、衆を率いて漢に来降したので、護鄯善以西使者の鄭吉はこれを迎えた。漢は日逐王を封じて帰徳侯とし、鄭吉を安遠侯とした。また漢はここで初めて西域都護を設置し、鄭吉にそれを担当させた。
天鳳2年(15年)、新の王莽(在位:8年 - 23年)は五威将の王駿・西域都護の李崇を派遣して戊己校尉の郭欽を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは莎車国・亀茲国の兵7千余人を率いて、数部に分かれて焉耆国に入った。焉耆国は伏兵で王駿らを遮り、姑墨国・尉犁国・危須国の兵も寝返ったので、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。戊己校尉の郭欽は別に兵を率いており、後で焉耆国に至ったため、焉耆国の兵がまだ還ってこないうちに、郭欽はその老弱を攻撃して殺し、帰還した。王莽は郭欽を封じて剼胡子とした。西域都護の李崇は余士を収めて、亀茲国を維持して帰還した。数年後、王莽が死に、李崇も没すると、中国と西域の国交は途絶えてしまう。
前漢の時代に栄えた西域経営も、王莽の失政で途絶えてしまい、中国は後漢が建ってもしばらくは着手できずにいた。その間、西域では莎車国が強盛となり、他の国々を従え強国となっていた。そこで建武14年(38年)、莎車王の賢が後漢に朝貢し、ここでやっと西域との国交が復活する。しかし、本格的な経営は困難な状態で、西域都護を派遣できずにいた。実際、西域諸国が莎車王賢の圧政に苦しんで、西域都護を派遣するよう要求してきた時も派遣できず、その結果西域諸国がふたたび匈奴に附いてしまった。永平3年(60年)、匈奴は亀茲諸国と共に莎車を攻撃し、于窴王の広徳は弟の輔国侯の仁を派遣して莎車王賢を攻めた。莎車王賢は遣使を送って広徳と和睦し、広徳は兵を引いた。永平4年(61年)、莎車相の且運(しょうん)らは莎車王賢の驕暴を患い、密かに謀反を起こして于窴に降った。于窴王の広徳は諸国の兵3万人を率いて莎車を攻撃。莎車王賢は城を守っていたが、広徳の挑発に乗り、出てきたところを捕えられた。于窴は莎車を併合し、莎車王賢は数年後に殺された。
匈奴は広徳が莎車を滅ぼしたと聞き、五将を遣わし焉耆・尉犁・亀茲15国の兵3万で于窴を包囲した。広徳は降伏し、その太子を人質として匈奴に服属した。冬、匈奴はふたたび派兵して賢の質子である不居徴(ふいちょう)を莎車王としたが、広徳がまたこれを攻め殺したので、その弟の斉黎(せいれい)を立てて莎車王とした。一方、後漢が本格的に西域経営を始めるのが、明帝の永平16年(73年)のことであり、明帝(在位:57年 - 75年)は北伐を行って太僕の祭肜・奉車都尉の竇固・駙馬都尉の耿秉・騎都尉の来苗に北匈奴を討たせ、仮司馬の班超を西域諸国に派遣し、ふたたび西域経営を始めることに成功した。
永平18年(75年)、明帝が崩御すると、これに乗じて焉耆国は漢に叛いて西域都護の陳睦を殺害し、亀茲国と姑墨国は疏勒国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于窴国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城・盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は尉頭国と寝返っていた。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。建初9年(84年)、班超は疏勒国と于窴国の兵を発して莎車国を攻撃した。莎車国は陰で疏勒王の忠と密通しており、疏勒王忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超はその府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、疏勒王忠を攻撃した。これに対しソグディアナの康居が精兵を派遣してこれを救ったので、班超は降せなかった。この時、クシャーナ朝(以前の大月氏)が新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品をクシャーナ王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、烏即城は遂に班超に降った。
永元9年(97年)、西域都護の班超は遥か西方にあるという大秦国(ローマ帝国)と国交を結ぶため、掾(えん:副官)の甘英を西方へ派遣した。甘英は安息国(パルティア)を経てその所領である條支国(シリア)に到着し、中国人で初めて西海(地中海)沿岸へ到達したとされている。甘英はそのまま海を渡って大秦国を目指そうとしていたが、地元の船乗りに危険だと言われてそこから引き返してしまった。以上は通説であるが、甘英は、遂に王都に至らなかった文明国安息国に派遣されたと推定される。当時、シリアは安息国の敵国ロ-マ帝国の準州で、ローマ兵数万が常駐していたので、條支国に相応しくないと見える。一方、アルメニア王国は安息国近隣の同盟国である。
2世紀後半に入ると、後漢末期の動乱期(いわゆる三国時代)により、両漢時代に栄えた西域経営も長い低迷期に入る。その間の情勢は不鮮明なものとなり、『三国志』によってわずかにどのような国があったかがうかがい知ることができる。
また、3世紀前半に入ると鄯善国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになる。これらはプラークリット語の一種であるガンダーラ語をカローシュティー文字で記したものである。こういった文書の様式や、その中に登場する王号がクシャーナ朝のそれに類似することなどから、鄯善国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の鄯善国がロプノール周辺から精絶国(チャドータ)に至る領域を維持していたことが知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も漢人商人らは鄯善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時の鄯善国(クロライナ)は、西隣の于闐(コータンナ)と国境を巡って争っていたことと、チベット系である羌の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。
太康年間(280年 - 289年)、焉耆王の龍安は晋朝に侍子を遣わした。龍安が死に、子の龍会が焉耆王となると、父の仇であった亀茲王の白山を討ち滅ぼして自らが亀茲王となり、子の龍熙を焉耆王として本国を統治させた。龍会は西域に覇を唱え、葱嶺以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。
前涼の張駿は沙州刺史の楊宣を西域に派遣した。楊宣は部将の張植を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。また、亀茲国と鄯善国をも征伐し、西域はみな前涼に降った。鄯善王の元孟は張駿に娘を献じ、焉耆前部や于闐王も遣使を送って方物を貢納してきた。前涼は西域長史を置いて西域の統制を強めた。
前秦の建元18年(382年)、驍騎将軍の呂光は苻堅の命を受け、都督西討諸軍事に任じられ、10余万の兵を率いて西域に進軍した。呂光の軍勢が来ると、焉耆王の龍熙は呂光に降ったが、亀茲王の白純は呂光を拒んで籠城戦に持ち込んだ。しかし、呂光の攻城が激しかったので、亀茲王の白純は獪胡に救援を求めた。そこで獪胡王の弟である吶龍と侯将馗は騎20余万を率い、温宿王と尉頭王をも招き寄せて総勢70余万でもって亀茲王を救いに来た。しかし、その70万をもってしても呂光を破ることができず、敗北した。これにより亀茲王の白純は珍宝を持って逃走したため、王侯降者は三十余国にのぼり、亀茲城は陥落した。この時、呂光は仏僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を捕えており、以後軍師として取り立てる。その後の396年、呂光が天王と称して後涼を建国すると、各国の王は侍子を遣わして朝貢した。
441年、沮渠無諱は弟の沮渠安周を派遣して鄯善国を攻撃させ、翌年(442年)には沮渠無諱と沮渠安周の2人で攻撃して鄯善を占拠した。その翌年(443年)も、沮渠安周を派遣して車師前部国を破った。
太平真君6年(445年)、北魏の太武帝(在位:423年 - 452年)は成周公万度帰に命じて鄯善国を攻撃させた。万度帰は鄯善国を占領すると、鄯善国王の真達を連れ去り、鄯善国を滅ぼした。次に万度帰は焉耆国を討伐し、左回・尉犁の2城を落とし、さらに都の員渠城を攻めた。焉耆王の龍鳩尸卑那は籠城して防いだが、万度帰に敗れ、山中に逃れた。これにより焉耆国は北魏の支配下に入った。その後、龍鳩尸卑那は焉耆国に戻るが、国の惨状を見て隣国の亀茲国に亡命した。万度帰は続いて亀茲国を攻撃した。亀茲国は烏羯目提らを遣わして領兵3千で防戦し、万度帰はこれを撃って敗走させ、200余級を斬首し、駝馬(ラクダ)を獲得して帰還した。亀茲国はこの後、毎回遣使を送って朝貢するようになる。
柔然の永康7年(470年)頃、柔然可汗の郁久閭予成(在位:464年 - 485年)は鄯善・焉耆・亀茲・姑墨などの西域諸国を役属させ、于闐国に迫り、于闐国は北魏に救援を要請する。
その後、北周の保定年間(561年 - 565年)や隋の大業年間(605年 - 618年)にも西域諸国は中国に朝貢し続けた。
5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原から東トルキスタンまでを支配した柔然可汗国であったが、内部紛争が相次いだために構成諸族の叛乱を招いた。なかでも鍛鉄奴隷部族であった突厥は552年に自らの可汗を推戴して独立、555年には西魏と組んで柔然を滅亡させてしまう。一方、同じく5世紀から6世紀の間に西トルキスタンを支配していたのは遊牧国家のエフタルであったが、そのエフタルも558年に突厥とサーサーン朝の挟撃に遭って滅亡に追いやられてしまった。こうして突厥可汗国によって中央ユーラシアはほぼ統一されることとなり、シルクロードと西域の国々はその支配下に置かれた。突厥可汗国の統制下において各国の王もしくは部族長たちは、イルテベル(頡利発、俟利発、Iltäbär)やイルキン(俟斤、Irkin)といった称号を帯び、トゥドゥン(吐屯、Tudun)と呼ばれる派遣された監察官の監視下で貢納をおこなったが、一方で中国王朝(北朝)にも遣使朝貢をしていた。
582年、突厥可汗国が内部紛争によってアルタイ山脈を境に東西に分裂すると、西域諸国は西突厥に属すこととなる。しかし、東西突厥の争いや可汗の失政などで西突厥の支配力が弱まると、伊吾・高昌・焉耆といった国々は鉄勒に附いてしまう。隋で煬帝(在位:604年 - 618年)が即位すると、高昌国・亀茲国・于闐国・疏勒国・鏺汗国・康国・石国・安国・米国・史国・曹国・何国・挹怛国・吐火羅国・烏那曷国・穆国・漕国・附国などの国々が中国に遣使を送って朝貢を始めた。しかし、隋末の動乱期に入ると、鉄勒と高昌が中国への通商路を遮断し、貢物や交易品をすべて自分の所へ来るようにしたため、中国への朝貢が停止した。
やがて、西突厥の射匱可汗(在位:612年 - 619年頃)が強盛となると、今まで離反していた西域諸国や鉄勒諸部は再び西突厥に附いた。一方で中国も唐の太宗(在位:626年 - 649年)のもとで最盛期を迎え、再び西域経営に着手することとなったため、西域諸国は中国への朝貢を再開した。隋末の動乱以降、中国への朝貢を遮断していた高昌はこれに不満を持ち、隣国の焉耆や伊吾を攻撃したため、太宗の招集がかかった。しかし高昌王の麴文泰がこれに応じなかったため、貞観13年(639年)、交河道大総管の侯君集率いる唐・東突厥・鉄勒連合軍の討伐に遭い、翌年(640年)高昌国は滅ぼされ、その地に西州都護府(のちの安西都護府)が置かれた。同じ年、焉耆国と西突厥が親密な関係になったことから、西州都護の郭孝恪はこれを撃つべく上書し、許可が下りたので、軍を焉耆王の弟の龍栗婆準に誘導させて焉耆王の龍突騎支を捕えた。郭孝恪は龍栗婆準に功があったということで、彼に焉耆国の国事を摂らせて帰還した。しかし、焉耆国は龍栗婆準の従父兄の龍薛婆阿那支を立てて王とし、西突厥の処般啜が龍栗婆準を捕えて亀茲国に送り殺害すると、龍薛婆阿那支は処般啜と同盟を組んだ。
貞観20年(646年)、太宗は左驍衛大将軍の阿史那社爾を遣わして崑山道行軍大総管とし、安西都護の郭孝恪・司農卿の楊弘礼が率いる五将軍と、鉄勒の13部の兵10余万騎を発して亀茲国を討伐した。阿史那社爾は西突厥の処月種と処密種を破ると、進軍してその北境に急行し、不意をついて焉耆王の龍薛婆阿那支を撃ち、捕えて斬った。これによって亀茲国は大いに震撼し、守将の多くが城を棄てて遁走した。阿史那社爾は磧石に進んで駐屯し、伊州刺史の韓威に千余騎を率いさせて前鋒とし、右驍衛将軍の曹継叔を次鋒とした。韓威らは西の多褐城に至ると、亀茲王と相遇した。亀茲国相(宰相)の那利(なり)と将軍の羯猟顛(けつろうてん)には、5万の兵がいたので、逆に唐軍を防いだ。そこで韓威は遁走をするふりをしてこれを引きつけ、亀茲王・俟利発(イルテベル)の訶黎布失畢(かれいほしつひつ)を30里も前進させると、曹継叔の軍と合流してこれを大破した。亀茲王は都城まで退いたが、阿史那社爾が進軍してこれに迫ったので、都城を棄てて遁走した。阿史那社爾は遂に亀茲城を陥落させ、郭孝恪にここを守らせた。阿史那社爾らはさらに進軍し、撥換城に立てこもる亀茲王を包囲し、亀茲王および大将の羯猟顛らを捕えた。亀茲国相の那利は難を逃れ、密かに西突厥の衆を招き寄せて郭孝恪を襲撃して殺した。倉部郎中の崔義起は曹継叔・韓威らとこれを撃ち、那利を捕えた。こうして亀茲国を占領した唐は訶黎布失畢の弟の葉護(ヤブグ)を立てて亀茲王とし、安西都護府を亀茲城に移して于闐・疏勒・碎葉(これらを四鎮と呼ぶ)を統領させ、郭孝恪を安西都護とした(648年)。
永徽2年(651年)、西突厥の阿史那賀魯は子の阿史那咥運とともに衆を率いて西に逃れ、乙毘咄陸可汗の地に拠り、西域諸郡を総有し、牙を雙河(ボロ川)及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラ・カガン)と号し、咄陸・弩失畢の十姓を統領した。兵数10万を擁し、西域諸国の多くが附隷した。 阿史那賀魯は阿史那咥運を立てて莫賀咄葉護(バガテュル・ヤブグ:官名)とし、たびたび西蕃諸部を侵掠し、庭州を寇掠した。
顕慶2年(657年)、高宗は右屯衛将軍の蘇定方・燕然都護の任雅相・副都護の蕭嗣業・左驍衛大将軍・瀚海都督の迴紇婆閏らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の阿史那弥射・左屯衛大将軍の阿史那歩真に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河(イリ川)を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗河(イリ川)に至り、処月・処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射・阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を碎葉水(スイアブ川)で攻め、これも大破した。
阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネル・タルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて崑陵・濛池の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(サーサーン朝)、安西都護府に隷属した。これにより西突厥は唐の羈縻政策下に入る。
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "西域とは概ね中央アジアを指し、時にはインド亜大陸、西アジアまでを指すこともある。西域の国々はさらにパミール高原をはさんで東西に分けることができる。まず、新疆ウイグル自治区には、トルファン盆地(伊吾・高昌・車師前部など)、ジュンガル盆地(車師後部など)、タリム盆地(焉耆・亀茲・于闐・莎車・疏勒・楼蘭など)、イリ地域(烏孫)の国々があり、中央アジアでは、ソグディアナ、トハリスタン(大宛・康居・大月氏・大夏・昭武九姓)の国々がある。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 3,
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"text": "まず、西域はパミール高原をはさんで東西に分けることができ、その歴史もその東西で大きく異なってくる。紀元前6世紀以降、西部すなわち中央アジア地域にはアケメネス朝ペルシアの属州であるマルグ(マルギアナ)、ソグディアナ、バクトリアがあった。アケメネス朝は西アジア一帯からエジプト、小アジア、中央アジアをもその版図に入れていたが、その征服活動に大きく貢献したのはキュロス2世(在位:前559年 - 前529年)とダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)といえる。しかし、その2君ですらパミール越えをしたことがなく、そのままマケドニアのアレクサンドロス3世(前336年 - 前323年)に侵攻され、滅ぼされた。アレクサンドロスはアケメネス朝の版図をそのまま受け継ぎ、大帝国を築いたが、彼もまたヤクサルテス川を越えただけで、それ以東には踏み入れなかった。その後、マルギアナとソグディアナとバクトリアにはアレクサンドロスの後継国家が建てられたが、いずれもパミール越えをしたという記録が残っていない。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、パミールの東側、すなわちタリム盆地の国々は漢代に西域36国などと呼ばれたが、張騫が訪れる以前の様子は山海経などに現れる程度で不鮮明となっている。史記によれば匈奴がタリム盆地の諸国を尽く征服し、西辺日逐王が僮僕都尉を置いて焉耆国・危須国・尉犁国の間に駐屯し、西域諸国に賦税を課していた事が判る。主要国である楼蘭・焉耆・姑師・亀茲・于窴・姑墨・莎車・疏勒などはそれ以前から存在したと思われるが、それ以前のタリム盆地の歴史は謎のままである。また、匈奴の支配を受ける前のタリム盆地では月氏が支配しており、中国史書が伝える「月氏は敦煌と祁連の間に住んでいた」すなわち、月氏が河西回廊(現在の甘粛省)のみにいたのではなく、新疆一帯にその領域を持っていたとする説もある。",
"title": "歴史"
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"text": "前漢では日々、北の匈奴の侵攻に悩まされていたので、武帝(在位:前141年 - 前87年)は月氏と共同で匈奴を撃つべく、西方に移った月氏へ使者の張騫を派遣した。張騫は100人あまりの使節団を従えて中央アジアを目指し、途中匈奴に捕われるなどしながら10年以上をかけてようやく大宛国に到着した。大宛は現在のフェルガナ地方にあたるオアシス都市国家であり、汗血馬とワインの産地であった。大宛王は以前から漢と交易してみたかったので、張騫を快くもてなし、隣国の康居へ送ってやった。康居はトゥーラーンにある遊牧国家で、匈奴と月氏の附庸国となって居たが、張騫を目的の大月氏まで送ってくれた。そしてこの大月氏こそが、かつて匈奴から攻撃を受けて中央アジアまで逃れてきた月氏である。大月氏王に謁見した張騫はさっそく武帝からの要件を伝えたが、大月氏王がすでに安住の地を手に入れたとしてその申し入れを断ったため、目的が達せられぬまま張騫は帰国した。",
"title": "歴史"
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"text": "目的を果たせなかった張騫は13年ぶりに漢に帰国すると、太中大夫にとりたてられ、西域のことを武帝に伝えた。そこで張騫は大月氏ではなく、烏孫という遊牧国家と同盟を組んで匈奴を挟撃すべきと上奏した。当時、烏孫は匈奴の属国であったが、老上単于(在位:前174年 - 前161年)の死後、半ば独立状態となっており、兵力もあったことから、漢と同盟を結んで匈奴と対抗するには絶好の相手であった。そこで武帝は張騫を中郎将に任命し、300人の部下と共に烏孫へ派遣した。初め、烏孫王の昆莫という者は老齢であるが漢という国を知らず、また烏孫国内が3つの勢力に分かれていて不安定な状況であったため、その時ははっきりとした答えを出さなかった。そのため使節団は一旦帰国したが、そのついでに烏孫の使者を連れて来て漢の国を見物させるなどして、漢の偉大さを見せつけた。こうして次第に両国の間で交際を持つようになっていった。しかし、このことを聞いた匈奴は烏孫を攻撃しようと企んだため、それを恐れた烏孫がついに公主を娶って漢と兄弟となることを希望した。そこで漢は皇族の娘である江都公主劉細君を嫁にやって昆莫に娶らせると、漢と烏孫の間で同盟が結ばれた。",
"title": "歴史"
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"text": "元封元年(前110年)、漢はたびたび楼蘭、姑師などの小国に使者を妨害させられたので、従驃侯の趙破奴に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を浞野侯に封じると、姑師を車師前後王国及び山北六国に分けた。",
"title": "歴史"
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"text": "一方で、武帝はフェルガナの大宛とも交易を始めており、大宛の汗血馬を愛好していた。あるとき大量の汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、武帝はほしくなったので、使者を大宛に送った。しかし、大宛が漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命して太初元年(前104年)に大宛討伐を行った。しかし、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出してほしいことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)に一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。汗血馬を差し出すのを拒んだためにこのような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは無能な昧蔡を殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。",
"title": "歴史"
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"text": "昭帝(在位:前86年 - 前74年)の末年、匈奴の壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。このとき烏孫公主(劉解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御していたので返事ができなかった。宣帝(在位:前73年 - 前49年)が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。本始2年(前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明・度遼将軍の范明友・前将軍の韓増・後将軍・蒲類将軍の趙充国・雲中太守・虎牙将軍の田順の五将軍を派兵した。校尉の常恵は烏孫・西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:月氏系の諸侯)以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなり、その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃したが、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は弱体化した。",
"title": "歴史"
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"text": "神爵3年(前59年)、匈奴の日逐王が握衍朐鞮単于(在位:前60年 - 前58年)に叛き、衆を率いて漢に来降したので、護鄯善以西使者の鄭吉はこれを迎えた。漢は日逐王を封じて帰徳侯とし、鄭吉を安遠侯とした。また漢はここで初めて西域都護を設置し、鄭吉にそれを担当させた。",
"title": "歴史"
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"text": "天鳳2年(15年)、新の王莽(在位:8年 - 23年)は五威将の王駿・西域都護の李崇を派遣して戊己校尉の郭欽を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは莎車国・亀茲国の兵7千余人を率いて、数部に分かれて焉耆国に入った。焉耆国は伏兵で王駿らを遮り、姑墨国・尉犁国・危須国の兵も寝返ったので、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。戊己校尉の郭欽は別に兵を率いており、後で焉耆国に至ったため、焉耆国の兵がまだ還ってこないうちに、郭欽はその老弱を攻撃して殺し、帰還した。王莽は郭欽を封じて剼胡子とした。西域都護の李崇は余士を収めて、亀茲国を維持して帰還した。数年後、王莽が死に、李崇も没すると、中国と西域の国交は途絶えてしまう。",
"title": "歴史"
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"text": "前漢の時代に栄えた西域経営も、王莽の失政で途絶えてしまい、中国は後漢が建ってもしばらくは着手できずにいた。その間、西域では莎車国が強盛となり、他の国々を従え強国となっていた。そこで建武14年(38年)、莎車王の賢が後漢に朝貢し、ここでやっと西域との国交が復活する。しかし、本格的な経営は困難な状態で、西域都護を派遣できずにいた。実際、西域諸国が莎車王賢の圧政に苦しんで、西域都護を派遣するよう要求してきた時も派遣できず、その結果西域諸国がふたたび匈奴に附いてしまった。永平3年(60年)、匈奴は亀茲諸国と共に莎車を攻撃し、于窴王の広徳は弟の輔国侯の仁を派遣して莎車王賢を攻めた。莎車王賢は遣使を送って広徳と和睦し、広徳は兵を引いた。永平4年(61年)、莎車相の且運(しょうん)らは莎車王賢の驕暴を患い、密かに謀反を起こして于窴に降った。于窴王の広徳は諸国の兵3万人を率いて莎車を攻撃。莎車王賢は城を守っていたが、広徳の挑発に乗り、出てきたところを捕えられた。于窴は莎車を併合し、莎車王賢は数年後に殺された。",
"title": "歴史"
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"text": "匈奴は広徳が莎車を滅ぼしたと聞き、五将を遣わし焉耆・尉犁・亀茲15国の兵3万で于窴を包囲した。広徳は降伏し、その太子を人質として匈奴に服属した。冬、匈奴はふたたび派兵して賢の質子である不居徴(ふいちょう)を莎車王としたが、広徳がまたこれを攻め殺したので、その弟の斉黎(せいれい)を立てて莎車王とした。一方、後漢が本格的に西域経営を始めるのが、明帝の永平16年(73年)のことであり、明帝(在位:57年 - 75年)は北伐を行って太僕の祭肜・奉車都尉の竇固・駙馬都尉の耿秉・騎都尉の来苗に北匈奴を討たせ、仮司馬の班超を西域諸国に派遣し、ふたたび西域経営を始めることに成功した。",
"title": "歴史"
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"text": "永平18年(75年)、明帝が崩御すると、これに乗じて焉耆国は漢に叛いて西域都護の陳睦を殺害し、亀茲国と姑墨国は疏勒国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于窴国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城・盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は尉頭国と寝返っていた。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。建初9年(84年)、班超は疏勒国と于窴国の兵を発して莎車国を攻撃した。莎車国は陰で疏勒王の忠と密通しており、疏勒王忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超はその府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、疏勒王忠を攻撃した。これに対しソグディアナの康居が精兵を派遣してこれを救ったので、班超は降せなかった。この時、クシャーナ朝(以前の大月氏)が新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品をクシャーナ王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、烏即城は遂に班超に降った。",
"title": "歴史"
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"text": "永元9年(97年)、西域都護の班超は遥か西方にあるという大秦国(ローマ帝国)と国交を結ぶため、掾(えん:副官)の甘英を西方へ派遣した。甘英は安息国(パルティア)を経てその所領である條支国(シリア)に到着し、中国人で初めて西海(地中海)沿岸へ到達したとされている。甘英はそのまま海を渡って大秦国を目指そうとしていたが、地元の船乗りに危険だと言われてそこから引き返してしまった。以上は通説であるが、甘英は、遂に王都に至らなかった文明国安息国に派遣されたと推定される。当時、シリアは安息国の敵国ロ-マ帝国の準州で、ローマ兵数万が常駐していたので、條支国に相応しくないと見える。一方、アルメニア王国は安息国近隣の同盟国である。",
"title": "歴史"
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"text": "2世紀後半に入ると、後漢末期の動乱期(いわゆる三国時代)により、両漢時代に栄えた西域経営も長い低迷期に入る。その間の情勢は不鮮明なものとなり、『三国志』によってわずかにどのような国があったかがうかがい知ることができる。",
"title": "歴史"
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"text": "",
"title": "歴史"
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"text": "また、3世紀前半に入ると鄯善国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになる。これらはプラークリット語の一種であるガンダーラ語をカローシュティー文字で記したものである。こういった文書の様式や、その中に登場する王号がクシャーナ朝のそれに類似することなどから、鄯善国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の鄯善国がロプノール周辺から精絶国(チャドータ)に至る領域を維持していたことが知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も漢人商人らは鄯善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時の鄯善国(クロライナ)は、西隣の于闐(コータンナ)と国境を巡って争っていたことと、チベット系である羌の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "太康年間(280年 - 289年)、焉耆王の龍安は晋朝に侍子を遣わした。龍安が死に、子の龍会が焉耆王となると、父の仇であった亀茲王の白山を討ち滅ぼして自らが亀茲王となり、子の龍熙を焉耆王として本国を統治させた。龍会は西域に覇を唱え、葱嶺以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。",
"title": "歴史"
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"text": "前涼の張駿は沙州刺史の楊宣を西域に派遣した。楊宣は部将の張植を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。また、亀茲国と鄯善国をも征伐し、西域はみな前涼に降った。鄯善王の元孟は張駿に娘を献じ、焉耆前部や于闐王も遣使を送って方物を貢納してきた。前涼は西域長史を置いて西域の統制を強めた。",
"title": "歴史"
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"text": "前秦の建元18年(382年)、驍騎将軍の呂光は苻堅の命を受け、都督西討諸軍事に任じられ、10余万の兵を率いて西域に進軍した。呂光の軍勢が来ると、焉耆王の龍熙は呂光に降ったが、亀茲王の白純は呂光を拒んで籠城戦に持ち込んだ。しかし、呂光の攻城が激しかったので、亀茲王の白純は獪胡に救援を求めた。そこで獪胡王の弟である吶龍と侯将馗は騎20余万を率い、温宿王と尉頭王をも招き寄せて総勢70余万でもって亀茲王を救いに来た。しかし、その70万をもってしても呂光を破ることができず、敗北した。これにより亀茲王の白純は珍宝を持って逃走したため、王侯降者は三十余国にのぼり、亀茲城は陥落した。この時、呂光は仏僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を捕えており、以後軍師として取り立てる。その後の396年、呂光が天王と称して後涼を建国すると、各国の王は侍子を遣わして朝貢した。",
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"text": "441年、沮渠無諱は弟の沮渠安周を派遣して鄯善国を攻撃させ、翌年(442年)には沮渠無諱と沮渠安周の2人で攻撃して鄯善を占拠した。その翌年(443年)も、沮渠安周を派遣して車師前部国を破った。",
"title": "歴史"
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"text": "太平真君6年(445年)、北魏の太武帝(在位:423年 - 452年)は成周公万度帰に命じて鄯善国を攻撃させた。万度帰は鄯善国を占領すると、鄯善国王の真達を連れ去り、鄯善国を滅ぼした。次に万度帰は焉耆国を討伐し、左回・尉犁の2城を落とし、さらに都の員渠城を攻めた。焉耆王の龍鳩尸卑那は籠城して防いだが、万度帰に敗れ、山中に逃れた。これにより焉耆国は北魏の支配下に入った。その後、龍鳩尸卑那は焉耆国に戻るが、国の惨状を見て隣国の亀茲国に亡命した。万度帰は続いて亀茲国を攻撃した。亀茲国は烏羯目提らを遣わして領兵3千で防戦し、万度帰はこれを撃って敗走させ、200余級を斬首し、駝馬(ラクダ)を獲得して帰還した。亀茲国はこの後、毎回遣使を送って朝貢するようになる。",
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"text": "柔然の永康7年(470年)頃、柔然可汗の郁久閭予成(在位:464年 - 485年)は鄯善・焉耆・亀茲・姑墨などの西域諸国を役属させ、于闐国に迫り、于闐国は北魏に救援を要請する。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、北周の保定年間(561年 - 565年)や隋の大業年間(605年 - 618年)にも西域諸国は中国に朝貢し続けた。",
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"text": "5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原から東トルキスタンまでを支配した柔然可汗国であったが、内部紛争が相次いだために構成諸族の叛乱を招いた。なかでも鍛鉄奴隷部族であった突厥は552年に自らの可汗を推戴して独立、555年には西魏と組んで柔然を滅亡させてしまう。一方、同じく5世紀から6世紀の間に西トルキスタンを支配していたのは遊牧国家のエフタルであったが、そのエフタルも558年に突厥とサーサーン朝の挟撃に遭って滅亡に追いやられてしまった。こうして突厥可汗国によって中央ユーラシアはほぼ統一されることとなり、シルクロードと西域の国々はその支配下に置かれた。突厥可汗国の統制下において各国の王もしくは部族長たちは、イルテベル(頡利発、俟利発、Iltäbär)やイルキン(俟斤、Irkin)といった称号を帯び、トゥドゥン(吐屯、Tudun)と呼ばれる派遣された監察官の監視下で貢納をおこなったが、一方で中国王朝(北朝)にも遣使朝貢をしていた。",
"title": "歴史"
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"text": "582年、突厥可汗国が内部紛争によってアルタイ山脈を境に東西に分裂すると、西域諸国は西突厥に属すこととなる。しかし、東西突厥の争いや可汗の失政などで西突厥の支配力が弱まると、伊吾・高昌・焉耆といった国々は鉄勒に附いてしまう。隋で煬帝(在位:604年 - 618年)が即位すると、高昌国・亀茲国・于闐国・疏勒国・鏺汗国・康国・石国・安国・米国・史国・曹国・何国・挹怛国・吐火羅国・烏那曷国・穆国・漕国・附国などの国々が中国に遣使を送って朝貢を始めた。しかし、隋末の動乱期に入ると、鉄勒と高昌が中国への通商路を遮断し、貢物や交易品をすべて自分の所へ来るようにしたため、中国への朝貢が停止した。",
"title": "歴史"
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"text": "やがて、西突厥の射匱可汗(在位:612年 - 619年頃)が強盛となると、今まで離反していた西域諸国や鉄勒諸部は再び西突厥に附いた。一方で中国も唐の太宗(在位:626年 - 649年)のもとで最盛期を迎え、再び西域経営に着手することとなったため、西域諸国は中国への朝貢を再開した。隋末の動乱以降、中国への朝貢を遮断していた高昌はこれに不満を持ち、隣国の焉耆や伊吾を攻撃したため、太宗の招集がかかった。しかし高昌王の麴文泰がこれに応じなかったため、貞観13年(639年)、交河道大総管の侯君集率いる唐・東突厥・鉄勒連合軍の討伐に遭い、翌年(640年)高昌国は滅ぼされ、その地に西州都護府(のちの安西都護府)が置かれた。同じ年、焉耆国と西突厥が親密な関係になったことから、西州都護の郭孝恪はこれを撃つべく上書し、許可が下りたので、軍を焉耆王の弟の龍栗婆準に誘導させて焉耆王の龍突騎支を捕えた。郭孝恪は龍栗婆準に功があったということで、彼に焉耆国の国事を摂らせて帰還した。しかし、焉耆国は龍栗婆準の従父兄の龍薛婆阿那支を立てて王とし、西突厥の処般啜が龍栗婆準を捕えて亀茲国に送り殺害すると、龍薛婆阿那支は処般啜と同盟を組んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "貞観20年(646年)、太宗は左驍衛大将軍の阿史那社爾を遣わして崑山道行軍大総管とし、安西都護の郭孝恪・司農卿の楊弘礼が率いる五将軍と、鉄勒の13部の兵10余万騎を発して亀茲国を討伐した。阿史那社爾は西突厥の処月種と処密種を破ると、進軍してその北境に急行し、不意をついて焉耆王の龍薛婆阿那支を撃ち、捕えて斬った。これによって亀茲国は大いに震撼し、守将の多くが城を棄てて遁走した。阿史那社爾は磧石に進んで駐屯し、伊州刺史の韓威に千余騎を率いさせて前鋒とし、右驍衛将軍の曹継叔を次鋒とした。韓威らは西の多褐城に至ると、亀茲王と相遇した。亀茲国相(宰相)の那利(なり)と将軍の羯猟顛(けつろうてん)には、5万の兵がいたので、逆に唐軍を防いだ。そこで韓威は遁走をするふりをしてこれを引きつけ、亀茲王・俟利発(イルテベル)の訶黎布失畢(かれいほしつひつ)を30里も前進させると、曹継叔の軍と合流してこれを大破した。亀茲王は都城まで退いたが、阿史那社爾が進軍してこれに迫ったので、都城を棄てて遁走した。阿史那社爾は遂に亀茲城を陥落させ、郭孝恪にここを守らせた。阿史那社爾らはさらに進軍し、撥換城に立てこもる亀茲王を包囲し、亀茲王および大将の羯猟顛らを捕えた。亀茲国相の那利は難を逃れ、密かに西突厥の衆を招き寄せて郭孝恪を襲撃して殺した。倉部郎中の崔義起は曹継叔・韓威らとこれを撃ち、那利を捕えた。こうして亀茲国を占領した唐は訶黎布失畢の弟の葉護(ヤブグ)を立てて亀茲王とし、安西都護府を亀茲城に移して于闐・疏勒・碎葉(これらを四鎮と呼ぶ)を統領させ、郭孝恪を安西都護とした(648年)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "永徽2年(651年)、西突厥の阿史那賀魯は子の阿史那咥運とともに衆を率いて西に逃れ、乙毘咄陸可汗の地に拠り、西域諸郡を総有し、牙を雙河(ボロ川)及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラ・カガン)と号し、咄陸・弩失畢の十姓を統領した。兵数10万を擁し、西域諸国の多くが附隷した。 阿史那賀魯は阿史那咥運を立てて莫賀咄葉護(バガテュル・ヤブグ:官名)とし、たびたび西蕃諸部を侵掠し、庭州を寇掠した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "顕慶2年(657年)、高宗は右屯衛将軍の蘇定方・燕然都護の任雅相・副都護の蕭嗣業・左驍衛大将軍・瀚海都督の迴紇婆閏らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の阿史那弥射・左屯衛大将軍の阿史那歩真に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河(イリ川)を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗河(イリ川)に至り、処月・処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射・阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を碎葉水(スイアブ川)で攻め、これも大破した。",
"title": "歴史"
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"text": "阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネル・タルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて崑陵・濛池の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(サーサーン朝)、安西都護府に隷属した。これにより西突厥は唐の羈縻政策下に入る。",
"title": "歴史"
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] |
西域は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。元々はタリム盆地諸国を指したが、拡張されてジュンガル盆地、中央アジア、イランインド、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 古代中国において玉門関、陽関が西の境界とされ、それよりも西方の国々が記録に明確に現れたのは『史記』「大宛伝」が最初だが、ここには西域の語は見えない。『漢書』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記した「西域伝」が作られる。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と述べているので、タリム盆地を指していることが明らかである。しかし、『漢書』西域伝にはタリム盆地の国々ばかりでなく、トゥーラーン、アフガニスタン、パキスタン、イランなどの国々についても記されている。その後、中国歴代の正史のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲は全て『漢書』と同じである。
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{{Infobox Chinese|c = 西域 |p = Xīyù |w = Hsi1-yü4|j=sai1 wik6|mc={{IPA|/sei ɦwɨk̚/}}|oc-zz={{IPA|*sɯːl ɢʷrɯɡ}}
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'''西域'''(さいいき、せいいき<ref group="注釈">「西」は[[漢音]]で「セイ」、[[呉音]]で「サイ」。『[[世界大百科事典]]』([[間野英二]]執筆)は「さいいき」、『[[日本大百科全書]]』([[佐口透]]執筆)は「せいいき」とする。</ref>、[[拼音]]:xīyù , Western Regions)は、古来、[[中国人]]が[[中国]]の西方にある国々を呼んだ総称である<ref name=silk>{{Cite |和書|title=読む事典シルクロードの世界 |editor=シルクロード検定実行委員会 |publisher=NHK出版 |date=2019-02 |isbn=9784140817742 |page=301}}</ref>。元々はタリム盆地諸国を指したが、拡張されて[[西トルキスタン|ジュンガル盆地、中央アジア、イランインド]]、さらに[[地中海]]沿岸に至る[[西アジア]]をもいう。
[[ファイル:Xiyu City-States of Tarim basin (BC1C).jpg|thumb|450px|[[紀元前1世紀]]の西域諸国(タリム盆地)]]
古代中国において[[玉門関]]、[[陽関]]が西の境界とされ<ref name=silk />、それよりも西方の国々が記録に明確に現れたのは『[[史記]]』「[[大宛]]伝」が最初だが、ここには西域の語は見えない。『[[漢書]]』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記した「西域伝」が作られる<ref name=silk />。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と述べているので、[[タリム盆地]]を指していることが明らかである<ref name=silk />。しかし、『漢書』西域伝にはタリム盆地の国々ばかりでなく、[[西トルキスタン|トゥーラーン]]、[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]]、[[イラン]]などの国々についても記されている<ref name=silk />。その後、中国歴代の[[正史]]のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲は全て『漢書』と同じである。
==地理==
西域とは概ね中央アジアを指し、時には[[インド]]亜大陸、[[西アジア]]までを指すこともある。西域の国々はさらに[[パミール高原]]をはさんで東西に分けることができる。まず、[[新疆ウイグル自治区]]には、[[トルファン盆地]]([[伊吾]]・[[高昌]]・[[車師]]前部など)、[[ジュンガル盆地]](車師後部など)、[[タリム盆地]]([[焉耆]]・[[亀茲]]・[[于闐]]・[[莎車]]・[[疏勒]]・[[楼蘭]]など)、イリ地域([[烏孫]])の国々があり<ref name=silk />、[[中央アジア]]では、[[ソグディアナ]]、[[トハリスタン]]([[大宛]]・[[康居]]・[[大月氏]]・[[大夏]]・[[昭武九姓]])の国々がある。
{{西域地図}}
==歴史==
[[ファイル:Various races of Central Asia in The 1st century BC.(ja).png|thumb|350px|[[ストラボン]]が伝える張騫以前の中央アジアの諸族]]
===張騫以前の西域===
まず、西域は[[パミール高原]]をはさんで東西に分けることができ、その歴史もその東西で大きく異なってくる。[[紀元前6世紀]]以降、[[西トルキスタン|西部]]すなわち[[中央アジア]]地域には[[アケメネス朝]]ペルシアの属州であるマルグ(マルギアナ)、[[ソグディアナ]]、[[バクトリア]]があった。アケメネス朝は[[西アジア]]一帯から[[エジプト]]、[[小アジア]]、中央アジアをもその版図に入れていたが、その征服活動に大きく貢献したのは[[キュロス2世]](在位:[[紀元前559年|前559年]] - [[紀元前529年|前529年]])と[[ダレイオス1世]](在位:[[紀元前522年|前522年]] - [[紀元前486年|前486年]])といえる。しかし、その2君ですらパミール越えをしたことがなく、そのまま[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世]]([[紀元前336年|前336年]] - [[紀元前323年|前323年]])に侵攻され、滅ぼされた。アレクサンドロスはアケメネス朝の版図をそのまま受け継ぎ、大帝国を築いたが、彼もまた[[ヤクサルテス川]]を越えただけで、それ以東には踏み入れなかった。その後、マルギアナとソグディアナとバクトリアにはアレクサンドロスの後継国家が建てられたが、いずれもパミール越えをしたという記録が残っていない。
一方、パミールの東側、すなわち[[タリム盆地]]の国々は[[漢代]]に'''西域36国'''などと呼ばれたが<ref name=silk />、[[張騫]]が訪れる以前の様子は山海経などに現れる程度で不鮮明となっている。史記によれば[[匈奴]]がタリム盆地の諸国を尽く征服し、西辺日逐王が僮僕都尉を置いて[[焉耆]]国・[[危須]]国・[[尉犁]]国の間に駐屯し、西域諸国に賦税を課していた事が判る。主要国である[[楼蘭]]・焉耆・[[姑師]]・[[亀茲]]・[[于闐|于窴]]・[[姑墨]]・[[莎車]]・[[疏勒]]などはそれ以前から存在したと思われるが、それ以前のタリム盆地の歴史は謎のままである。また、匈奴の支配を受ける前のタリム盆地では[[月氏]]が支配しており、中国史書が伝える「月氏は[[敦煌]]と[[祁連山脈|祁連]]の間に住んでいた」すなわち、月氏が[[河西回廊]](現在の[[甘粛省]])のみにいたのではなく、[[新疆]]一帯にその領域を持っていたとする説もある<ref>[[和田清]]、[[榎一雄]]、[[護雅夫]]</ref>。
===張騫の西域訪問===
[[File:紀元前2世紀西域地図.png|400px|thumb|紀元前2世紀頃の中央アジアの地図]]
[[前漢]]では日々、北の匈奴の侵攻に悩まされていたので、[[武帝 (漢)|武帝]](在位:[[紀元前141年|前141年]] - [[紀元前87年|前87年]])は月氏と共同で匈奴を撃つべく、西方に移った月氏へ使者の張騫を派遣した。張騫は100人あまりの使節団を従えて中央アジアを目指し、途中匈奴に捕われるなどしながら10年以上をかけてようやく[[大宛]]国に到着した。大宛は現在の[[フェルガナ]]地方にあたる[[オアシス都市]]国家であり、[[汗血馬]]と[[ワイン]]の産地であった。大宛王は以前から漢と交易してみたかったので、張騫を快くもてなし、隣国の[[康居]]へ送ってやった。康居はトゥーラーンにある[[遊牧国家]]で、匈奴と月氏の附庸国となって居たが、張騫を目的の[[大月氏]]まで送ってくれた。そしてこの大月氏こそが、かつて匈奴から攻撃を受けて中央アジアまで逃れてきた月氏である。大月氏王に謁見した張騫はさっそく武帝からの要件を伝えたが、大月氏王がすでに安住の地を手に入れたとしてその申し入れを断ったため、目的が達せられぬまま張騫は帰国した。
<ref name="名前なし-20230316133000">『史記』大宛列伝</ref>
<ref>岩村 2007,p79 - 83</ref>
<ref>赤松 2005,p26 - 28</ref>
===烏孫との同盟===
目的を果たせなかった張騫は13年ぶりに漢に帰国すると、[[太中大夫]]にとりたてられ、西域のことを武帝に伝えた。そこで張騫は大月氏ではなく、[[烏孫]]という遊牧国家と同盟を組んで匈奴を挟撃すべきと上奏した。当時、烏孫は匈奴の属国であったが、[[老上単于]](在位:[[紀元前174年|前174年]] - [[紀元前161年|前161年]])の死後、半ば独立状態となっており、兵力もあったことから、漢と同盟を結んで匈奴と対抗するには絶好の相手であった。そこで武帝は張騫を[[中郎将]]に任命し、300人の部下と共に烏孫へ派遣した。初め、烏孫王の[[昆莫]]という者は老齢であるが漢という国を知らず、また烏孫国内が3つの勢力に分かれていて不安定な状況であったため、その時ははっきりとした答えを出さなかった。そのため使節団は一旦帰国したが、そのついでに烏孫の使者を連れて来て漢の国を見物させるなどして、漢の偉大さを見せつけた。こうして次第に両国の間で交際を持つようになっていった。しかし、このことを聞いた匈奴は烏孫を攻撃しようと企んだため、それを恐れた烏孫がついに[[公主]]を娶って漢と兄弟となることを希望した。そこで漢は皇族の娘である江都公主[[劉細君]]を嫁にやって昆莫に娶らせると、漢と烏孫の間で同盟が結ばれた。
<ref name="名前なし-20230316133000"/>
<ref>岩村 2007,p83 - 84</ref>
===楼蘭・姑師を服属===
[[元封 (漢)|元封]]元年([[紀元前110年|前110年]])、漢はたびたび楼蘭、姑師などの小国に使者を妨害させられたので、従驃侯の[[趙破奴]]に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を浞野侯に封じると、姑師を[[車師]]前後王国及び山北六国に分けた。
<ref name="名前なし-20230316133000-2">『漢書』西域伝</ref>
<ref>岩村 2007,p84</ref>
<ref>赤松 2005,p52</ref>
=== 2度の大宛討伐 ===
一方で、武帝はフェルガナの[[大宛]]とも交易を始めており、大宛の[[汗血馬]]を愛好していた。あるとき大量の汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、武帝はほしくなったので、使者を大宛に送った。しかし、大宛が漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、[[李広利]]を弐師将軍に任命して[[太初 (漢)|太初]]元年([[紀元前104年|前104年]])に大宛討伐を行った。しかし、[[蝗害]]と[[飢餓]]で一つの城も落とすことができず、[[敦煌]]まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出してほしいことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。
しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年([[紀元前102年|前102年]])に一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、[[籠城]]することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の[[煎靡]]を捕虜とした。汗血馬を差し出すのを拒んだためにこのような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の[[毋寡]]を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった[[昧蔡]]という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは無能な昧蔡を殺害し、毋寡の弟の[[蝉封]]を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。
<ref name="名前なし-20230316133000-2"/>
<ref>岩村 2007,p84 - 86</ref>
===五将軍による匈奴征伐===
[[昭帝 (漢)|昭帝]](在位:[[紀元前86年|前86年]] - [[紀元前74年|前74年]])の末年、匈奴の[[壺衍鞮単于]](在位:[[紀元前85年|前85年]] - [[紀元前68年|前68年]])は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。このとき烏孫公主(劉解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が[[崩御]]していたので返事ができなかった。[[宣帝 (漢)|宣帝]](在位:[[紀元前73年|前73年]] - [[紀元前49年|前49年]])が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。[[本始]]2年([[紀元前72年|前72年]])、漢は要請に応じて、祁連将軍の[[田広明]]・[[度遼将軍]]の[[范明友]]・[[前将軍]]の[[韓増]]・[[後将軍]]・[[蒲類将軍]]の[[趙充国]]・[[雲中郡|雲中]][[太守]]・虎牙将軍の[[田順]]の五将軍を派兵した。[[校尉]]の[[常恵]]は烏孫・西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:月氏系の諸侯)<ref group="注釈">翕侯(きゅうこう)とは、月氏における諸侯の意であるが、このとき烏孫の地にも翕侯がいた。それは烏孫が[[イリ地方]]に割拠する前に大月氏がイリ地方にいたので、大月氏が烏孫に侵攻された際、いくらかの月氏人がイリ地方に取り残されたためである。</ref>以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなり、その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃したが、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の[[丁零|丁令]]、東の[[烏桓]]、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は弱体化した。
<ref>『漢書』匈奴伝</ref>
===西域都護の設置===
[[神爵]]3年([[紀元前59年|前59年]])、匈奴の[[日逐王]]が[[握衍朐鞮単于]](在位:[[紀元前60年|前60年]] - [[紀元前58年|前58年]])に叛き、衆を率いて漢に来降したので、護鄯善以西使者の[[鄭吉]]はこれを迎えた。漢は日逐王を封じて帰徳侯とし、鄭吉を安遠侯とした。また漢はここで初めて[[西域都護]]を設置し、鄭吉にそれを担当させた。
<ref name="名前なし-20230316133000-2"/>
=== 新の時代 ===
[[天鳳 (元号)|天鳳]]2年([[15年]])、[[新]]の[[王莽]](在位:[[8年]] - [[23年]])は五威将の[[王駿 (明義侯)|王駿]]・西域都護の[[李崇 (新)|李崇]]を派遣して[[戊己校尉]]の[[郭欽 (新)|郭欽]]を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは[[莎車]]国・亀茲国の兵7千余人を率いて、数部に分かれて焉耆国に入った。焉耆国は伏兵で王駿らを遮り、姑墨国・尉犁国・危須国の兵も寝返ったので、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。戊己校尉の郭欽は別に兵を率いており、後で焉耆国に至ったため、焉耆国の兵がまだ還ってこないうちに、郭欽はその老弱を攻撃して殺し、帰還した。王莽は郭欽を封じて剼胡子とした。西域都護の李崇は余士を収めて、亀茲国を維持して帰還した。数年後、王莽が死に、李崇も没すると、中国と西域の国交は途絶えてしまう。
<ref name="名前なし-20230316133000-2"/>
===後漢の時代と莎車王賢===
[[File:1世紀のタリム盆地.png|400px|thumb|1世紀のタリム盆地]]
前漢の時代に栄えた西域経営も、王莽の失政で途絶えてしまい、中国は[[後漢]]が建ってもしばらくは着手できずにいた。その間、西域では[[莎車]]国が強盛となり、他の国々を従え強国となっていた。そこで[[建武 (漢)|建武]]14年([[38年]])、莎車王の賢が後漢に朝貢し、ここでやっと西域との国交が復活する。しかし、本格的な経営は困難な状態で、西域都護を派遣できずにいた。実際、西域諸国が莎車王賢の圧政に苦しんで、西域都護を派遣するよう要求してきた時も派遣できず、その結果西域諸国がふたたび匈奴に附いてしまった。[[永平 (漢)|永平]]3年([[60年]])、匈奴は亀茲諸国と共に莎車を攻撃し、于窴王の[[広徳 (于闐王)|広徳]]は弟の輔国侯の仁を派遣して莎車王賢を攻めた。莎車王賢は遣使を送って広徳と和睦し、広徳は兵を引いた。永平4年([[61年]])、莎車相の且運(しょうん)らは莎車王賢の驕暴を患い、密かに謀反を起こして于窴に降った。于窴王の広徳は諸国の兵3万人を率いて莎車を攻撃。莎車王賢は城を守っていたが、広徳の挑発に乗り、出てきたところを捕えられた。于窴は莎車を併合し、莎車王賢は数年後に殺された。
<ref name="名前なし-20230316133000-3">『後漢書』西域伝</ref>
===莎車王賢の死後===
匈奴は広徳が莎車を滅ぼしたと聞き、五将を遣わし焉耆・尉犁・亀茲15国の兵3万で于窴を包囲した。広徳は降伏し、その太子を人質として匈奴に服属した。冬、匈奴はふたたび派兵して賢の質子である不居徴(ふいちょう)を莎車王としたが、広徳がまたこれを攻め殺したので、その弟の斉黎(せいれい)を立てて莎車王とした。一方、後漢が本格的に西域経営を始めるのが、[[明帝 (漢)|明帝]]の永平16年([[73年]])のことであり、明帝(在位:[[57年]] - [[75年]])は北伐を行って[[太僕]]の[[祭肜]]・奉車都尉の[[竇固]]・駙馬都尉の[[耿秉]]・[[騎都尉]]の[[来苗]]に[[北匈奴]]を討たせ、仮司馬の[[班超]]を西域諸国に派遣し、ふたたび西域経営を始めることに成功した。
<ref name="名前なし-20230316133000-3"/>
===班超の西域平定===
[[File:1世紀西域地図.png|400px|thumb|1世紀の中央アジアの地図]]
永平18年([[75年]])、明帝が[[崩御]]すると、これに乗じて焉耆国は漢に叛いて西域都護の[[陳睦]]を殺害し、亀茲国と姑墨国は[[疏勒]]国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于窴国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城・盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は[[尉頭]]国と寝返っていた。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。[[建初 (漢)|建初]]9年([[84年]])、班超は疏勒国と于窴国の兵を発して莎車国を攻撃した。莎車国は陰で疏勒王の忠と密通しており、疏勒王忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超はその府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、疏勒王忠を攻撃した。これに対し[[ソグディアナ]]の[[康居]]が精兵を派遣してこれを救ったので、班超は降せなかった。この時、[[クシャーナ朝]](以前の[[大月氏]])が新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品をクシャーナ王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、烏即城は遂に班超に降った。
<ref name="名前なし-20230316133000-3"/>
===甘英の西方見聞===
[[永元 (漢)|永元]]9年([[97年]])、西域都護の班超は遥か西方にあるという大秦国([[ローマ帝国]])と国交を結ぶため、掾(えん:副官)の[[甘英]]を西方へ派遣した。甘英は安息国([[パルティア]])を経てその所領である[[條支]]国([[シリア]])に到着し、中国人で初めて西海([[地中海]])沿岸へ到達したとされている。甘英はそのまま海を渡って大秦国を目指そうとしていたが、地元の船乗りに危険だと言われてそこから引き返してしまった。以上は通説であるが、甘英は、遂に王都に至らなかった文明国安息国に派遣されたと推定される。当時、シリアは安息国の敵国ロ-マ帝国の準州で、ローマ兵数万が常駐していたので、條支国に相応しくないと見える。一方、アルメニア王国は安息国近隣の同盟国である。
<ref name="名前なし-20230316133000-3"/>
===三国時代とカローシュティー文字の時代===
[[File:2世紀西域地図.png|400px|thumb|2世紀の中央アジアの勢力図]]
[[2世紀]]後半に入ると、後漢末期の動乱期(いわゆる[[三国時代 (中国)|三国時代]])により、両漢時代に栄えた西域経営も長い低迷期に入る。その間の情勢は不鮮明なものとなり、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』によってわずかにどのような国があったかがうかがい知ることができる。
;西域南道
*[[鄯善]]国(構成国:且志国、小宛国、精絶国、[[楼蘭]]国)
*[[ホータン王国|于寘]]国(構成国:戎盧国、拘弥国、渠勒国、穴山国、皮山国)
;西域北道
*[[高昌]]国
*[[焉耆]]国(構成国:尉梨国、危須国、山王国)
*[[亀茲]]国(構成国:[[姑墨]]国、{{日本語版にない記事リンク|温宿国|zh|温宿国}}、尉頭国)
*[[疏勒]]国(構成国:楨中国、[[莎車]]国、竭石国、渠沙国、西夜国、依耐国、満犁国、億若国、楡令国、損毒国、休脩国、琴国)
;ジュンガル盆地からイリ地方
*[[車師]]後部王(構成国:東且弥国、西且弥国、単桓国、畢陸国、蒲陸国、烏貪訾離国)
*[[烏孫]]国
;ソグディアナからインド
*[[康居]]国
*[[大宛]]国
*[[大月氏]]国(構成国:[[罽賓]]国、[[大夏]]国、高附国、[[天竺]]国)
*臨児国
*車離国(礼惟特、沛隷王)
*盤越国(漢越王)
;西アジアからヨーロッパ
*[[安息]]国(構成国:羅国)
*[[條支国]]
*烏弋国(排特)
*[[大秦国]](犁靬)(構成国:澤散王領、驢分王領、且蘭王領、賢督王領、汜復王領、于羅王領)
<ref>『魏略』西戎伝</ref>
また、[[3世紀]]前半に入ると鄯善国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになる。これらは[[プラークリット語]]の一種である[[ガンダーラ語]]を[[カローシュティー文字]]で記したものである。こういった文書の様式や、その中に登場する王号が[[クシャーナ朝]]のそれに類似することなどから、鄯善国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の鄯善国がロプノール周辺から[[精絶]]国(チャドータ)に至る領域を維持していたことが知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も漢人商人らは鄯善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時の鄯善国(クロライナ)は、西隣の于闐(コータンナ)と国境を巡って争っていたことと、[[チベット系]]である[[羌]]の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。
<ref>赤松 2005,p187 - 219</ref>
===西晋と五胡十六国時代===
[[太康 (晋)|太康]]年間([[280年]] - [[289年]])、焉耆王の[[龍安 (焉耆王)|龍安]]は[[西晋|晋朝]]に侍子を遣わした。龍安が死に、子の[[龍会]]が焉耆王となると、父の仇であった亀茲王の白山を討ち滅ぼして自らが亀茲王となり、子の[[龍熙]]を焉耆王として本国を統治させた。龍会は西域に覇を唱え、[[パミール高原|葱嶺]]以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。
[[前涼]]の[[張駿]]は[[沙州]][[刺史]]の[[楊宣]]を西域に派遣した。楊宣は部将の[[張植]]を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。また、亀茲国と鄯善国をも征伐し、西域はみな前涼に降った。鄯善王の元孟は張駿に娘を献じ、焉耆前部や于闐王も遣使を送って方物を貢納してきた。前涼は西域長史を置いて西域の統制を強めた。
[[前秦]]の[[建元 (前秦)|建元]]18年([[382年]])、驍騎将軍の[[呂光]]は[[苻堅]]の命を受け、都督西討諸軍事に任じられ、10余万の兵を率いて西域に進軍した。呂光の軍勢が来ると、焉耆王の龍熙は呂光に降ったが、亀茲王の白純は呂光を拒んで籠城戦に持ち込んだ。しかし、呂光の攻城が激しかったので、亀茲王の白純は獪胡に救援を求めた。そこで獪胡王の弟である吶龍と侯将馗は騎20余万を率い、温宿王と尉頭王をも招き寄せて総勢70余万でもって亀茲王を救いに来た。しかし、その70万をもってしても呂光を破ることができず、敗北した。これにより亀茲王の白純は珍宝を持って逃走したため、王侯降者は三十余国にのぼり、亀茲城は陥落した。この時、呂光は仏僧の[[鳩摩羅什]](クマーラジーヴァ)を捕えており、以後軍師として取り立てる。その後の[[396年]]、呂光が天王と称して[[後涼]]を建国すると、各国の王は侍子を遣わして朝貢した。
<ref name="名前なし-20230316133000-4">『晋書』四夷伝</ref>
=== 北朝の時代 ===
[[File:5世紀のタリム盆地.png|400px|thumb|5世紀のタリム盆地の勢力図]]
[[441年]]、[[沮渠無諱]]は弟の[[沮渠安周]]を派遣して鄯善国を攻撃させ、翌年([[442年]])には沮渠無諱と沮渠安周の2人で攻撃して鄯善を占拠した。その翌年([[443年]])も、沮渠安周を派遣して車師前部国を破った。
[[太平真君]]6年([[445年]])、[[北魏]]の[[太武帝]](在位:[[423年]] - [[452年]])は成周公[[万度帰]]に命じて鄯善国を攻撃させた。万度帰は鄯善国を占領すると、鄯善国王の真達を連れ去り、鄯善国を滅ぼした。次に万度帰は焉耆国を討伐し、左回・尉犁の2城を落とし、さらに都の員渠城を攻めた。焉耆王の龍鳩尸卑那は籠城して防いだが、万度帰に敗れ、山中に逃れた。これにより焉耆国は北魏の支配下に入った。その後、龍鳩尸卑那は焉耆国に戻るが、国の惨状を見て隣国の亀茲国に亡命した。万度帰は続いて亀茲国を攻撃した。亀茲国は烏羯目提らを遣わして領兵3千で防戦し、万度帰はこれを撃って敗走させ、200余級を斬首し、駝馬([[ラクダ]])を獲得して帰還した。亀茲国はこの後、毎回遣使を送って朝貢するようになる。
[[柔然]]の[[永康 (柔然)|永康]]7年([[470年]])頃、柔然可汗の[[郁久閭予成]](在位:[[464年]] - [[485年]])は鄯善・焉耆・亀茲・姑墨などの西域諸国を役属させ、于闐国に迫り、于闐国は北魏に救援を要請する。
その後、[[北周]]の[[保定 (北周)|保定]]年間([[561年]] - [[565年]])や[[隋]]の[[大業]]年間([[605年]] - [[618年]])にも西域諸国は中国に朝貢し続けた。
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<ref name="名前なし-20230316133000-5">『魏書』西域</ref>
===突厥の支配下と隋代===
[[5世紀]]から[[6世紀]]にかけてモンゴル高原から東トルキスタンまでを支配した柔然可汗国であったが、内部紛争が相次いだために構成諸族の叛乱を招いた。なかでも鍛鉄奴隷部族であった[[突厥]]は[[552年]]に自らの[[可汗]]を推戴して独立、[[555年]]には[[西魏]]と組んで柔然を滅亡させてしまう。一方、同じく5世紀から6世紀の間に西トルキスタンを支配していたのは遊牧国家の[[エフタル]]であったが、そのエフタルも[[558年]]に突厥と[[サーサーン朝]]の挟撃に遭って滅亡に追いやられてしまった。こうして突厥可汗国によって[[中央ユーラシア]]はほぼ統一されることとなり、[[シルクロード]]と西域の国々はその支配下に置かれた。突厥可汗国の統制下において各国の王もしくは部族長たちは、イルテベル(頡利発、俟利発、Iltäbär)やイルキン(俟斤、Irkin)といった称号を帯び、トゥドゥン(吐屯、Tudun)と呼ばれる派遣された監察官の監視下で貢納をおこなったが、一方で中国王朝(北朝)にも遣使朝貢をしていた。
[[582年]]、突厥可汗国が内部紛争によって[[アルタイ山脈]]を境に東西に分裂すると、西域諸国は[[西突厥]]に属すこととなる。しかし、東西突厥の争いや可汗の失政などで西突厥の支配力が弱まると、[[伊吾]]・[[高昌]]・[[焉耆]]といった国々は[[鉄勒]]に附いてしまう。[[隋]]で[[煬帝]](在位:[[604年]] - [[618年]])が即位すると、高昌国・亀茲国・于闐国・疏勒国・[[大宛|鏺汗国]]・[[康国]]・[[石国]]・[[安国]]・[[マーイムルグ|米国]]・[[史国]]・[[曹国 (ソグディアナ)|曹国]]・[[何国]]・[[エフタル|挹怛国]]・[[大夏|吐火羅国]]・[[烏那曷|烏那曷国]]・[[穆国]]・[[漕国]]・[[附国]]などの国々が中国に遣使を送って朝貢を始めた。しかし、隋末の動乱期に入ると、鉄勒と高昌が中国への通商路を遮断し、貢物や交易品をすべて自分の所へ来るようにしたため、中国への朝貢が停止した。
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<ref>『隋書』西域</ref>
===唐の西域支配===
[[File:7世紀のタリム盆地(大唐西域記).png|400px|thumb|7世紀のタリム盆地(大唐西域記)]]
やがて、西突厥の[[射匱可汗]](在位:[[612年]] - [[619年]]頃)が強盛となると、今まで離反していた西域諸国や鉄勒諸部は再び西突厥に附いた。一方で中国も[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]](在位:[[626年]] - [[649年]])のもとで最盛期を迎え、再び西域経営に着手することとなったため、西域諸国は中国への朝貢を再開した。隋末の動乱以降、中国への朝貢を遮断していた高昌はこれに不満を持ち、隣国の焉耆や伊吾を攻撃したため、太宗の招集がかかった。しかし高昌王の[[麴文泰]]がこれに応じなかったため、[[貞観 (唐)|貞観]]13年([[639年]])、交河道大総管の[[侯君集]]率いる唐・[[東突厥]]・鉄勒連合軍の討伐に遭い、翌年([[640年]])高昌国は滅ぼされ、その地に西州都護府(のちの[[安西都護府]])が置かれた。同じ年、焉耆国と西突厥が親密な関係になったことから、西州都護の[[郭孝恪]]はこれを撃つべく上書し、許可が下りたので、軍を焉耆王の弟の龍栗婆準に誘導させて焉耆王の龍突騎支を捕えた。郭孝恪は龍栗婆準に功があったということで、彼に焉耆国の国事を摂らせて帰還した。しかし、焉耆国は龍栗婆準の従父兄の龍薛婆阿那支を立てて王とし、西突厥の処般啜が龍栗婆準を捕えて亀茲国に送り殺害すると、龍薛婆阿那支は処般啜と同盟を組んだ。
貞観20年([[646年]])、太宗は左驍衛大将軍の[[阿史那社爾]]を遣わして崑山道行軍大総管とし、安西都護の郭孝恪・司農卿の楊弘礼が率いる五将軍と、鉄勒の13部の兵10余万騎を発して亀茲国を討伐した。阿史那社爾は西突厥の処月種と処密種を破ると、進軍してその北境に急行し、不意をついて焉耆王の龍薛婆阿那支を撃ち、捕えて斬った。これによって亀茲国は大いに震撼し、守将の多くが城を棄てて遁走した。阿史那社爾は磧石に進んで駐屯し、伊州刺史の[[韓威]]に千余騎を率いさせて前鋒とし、右驍衛将軍の[[曹継叔]]を次鋒とした。韓威らは西の多褐城に至ると、亀茲王と相遇した。亀茲国相(宰相)の那利(なり)と将軍の羯猟顛(けつろうてん)には、5万の兵がいたので、逆に唐軍を防いだ。そこで韓威は遁走をするふりをしてこれを引きつけ、亀茲王・俟利発(イルテベル)の訶黎布失畢(かれいほしつひつ)を30里も前進させると、曹継叔の軍と合流してこれを大破した。亀茲王は都城まで退いたが、阿史那社爾が進軍してこれに迫ったので、都城を棄てて遁走した。阿史那社爾は遂に亀茲城を陥落させ、郭孝恪にここを守らせた。阿史那社爾らはさらに進軍し、撥換城に立てこもる亀茲王を包囲し、亀茲王および大将の羯猟顛らを捕えた。亀茲国相の那利は難を逃れ、密かに西突厥の衆を招き寄せて郭孝恪を襲撃して殺した。倉部郎中の崔義起は曹継叔・韓威らとこれを撃ち、那利を捕えた。こうして亀茲国を占領した唐は訶黎布失畢の弟の葉護(ヤブグ)を立てて亀茲王とし、安西都護府を亀茲城に移して于闐・疏勒・碎葉(これらを四鎮と呼ぶ<ref group="注釈">719年、碎葉([[スイアブ]])の代わりに焉耆が安西四鎮に加わる。</ref>)を統領させ、郭孝恪を安西都護とした([[648年]])。
<ref name="名前なし-20230316133000-6">『旧唐書』西戎</ref>
<ref name="名前なし-20230316133000-7">『新唐書』西域上下</ref>
===阿史那賀魯討伐===
[[永徽]]2年([[651年]])、西突厥の[[阿史那賀魯]]は子の阿史那咥運とともに衆を率いて西に逃れ、[[乙毘咄陸可汗]]の地に拠り、西域諸郡を総有し、牙を雙河([[ボロ川]])及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラ・カガン)と号し、咄陸・弩失畢の十姓を統領した。兵数10万を擁し、西域諸国の多くが附隷した。 阿史那賀魯は阿史那咥運を立てて莫賀咄葉護(バガテュル・ヤブグ:官名)とし、たびたび西蕃諸部を侵掠し、[[庭州]]を寇掠した。
[[顕慶]]2年([[657年]])、[[高宗 (唐)|高宗]]は右屯衛将軍の[[蘇定方]]・燕然都護の[[任雅相]]・副都護の[[蕭嗣業]]・左驍衛大将軍・瀚海都督の[[婆閏|迴紇婆閏]]らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の[[阿史那弥射]]・左屯衛大将軍の[[阿史那歩真]]に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河([[イリ川]])を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗河(イリ川)に至り、処月・処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射・阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を[[碎葉水]](スイアブ川)で攻め、これも大破した。
阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネル・タルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて[[崑陵都護府|崑陵]]・[[濛池都護府|濛池]]の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(サーサーン朝)、安西都護府に隷属した。これにより西突厥は唐の[[羈縻政策]]下に入る。
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===吐蕃の侵攻===
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==宗教==
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==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==参考文献==
*『[[史記]]』(大宛列伝)
*『[[漢書]]』(西域伝)
*『[[後漢書]]』(西域伝)
*『[[魏略]]』(西戎伝)
*『[[晋書]]』(四夷伝)
*『[[魏書]]』(第九十 西域)
*『[[北史]]』(列伝第八十五 西域)
*『[[隋書]]』(列伝第四十八 西域)
*『[[旧唐書]]』(列伝第一百四十八 西戎)
*『[[新唐書]]』(列伝第一百四十六上下 西域上下)
*[[玄奘]]『[[大唐西域記]]』
*[[ストラボン]](訳:[[飯尾都人]])『[[ギリシア・ローマ世界地誌]]Ⅱ』([[龍溪書舎]]、[[1994年]]、ISBN 4844783777)
*[[岩村忍]]『文明の十字路=中央アジアの歴史』([[講談社]]、[[2007年]]、ISBN 9784061598034)
*[[赤松明彦]]『楼蘭王国 ロプ・ノール湖畔の四千年』([[中公新書]]、[[2005年]]、ISBN 4121018230)
== 関連項目 ==
*[[烏孫]]
*[[于闐]]
*[[焉耆]]
*[[亀茲]]
*[[康居]]
*[[姑墨]]
*[[西域都護]]
*[[莎車]]
*[[車師]]
*[[大宛]]
*[[大夏]]
*[[月氏|大月氏]]
*[[楼蘭]]
*[[疏勒]]
*[[大唐西域記]]
*[[シルクロード]]
*[[仏教のシルクロード伝播]]
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インク
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インク(英語: ink)または洋墨(ようぼく)とは顔料・染料を含んだ液体、ジェル、固体で、文字を書いたり表面に色付けするために用いられるものである。油性、水性などの種類がある。
「インキ」という表記もあり、これは明治期によく使われたが、やがて「インク」が一般化した。技術用語としては現代でも「インキ」は正式に使われるが、用語によっては「インクジェット」など、定着している表記に揺れがある。
日本や中国で古くから使われている墨もインクの一種である。
油性インクは長時間未使用のまま保存するとインクが固まってしまう、水性インクは保存には優れているが水に濡れると滲んでしまう弱点がある。近年はボールペンやプリンターなどで「水性顔料インク」が多用されている。長期の保存に耐え、水に濡れても滲みにくく手についても水洗いで落とせるなどといった利点を持っている。
初期のインクは鉱物や種子、豆などの殻、イカの様な海洋生物から採られる天然染料が主なものであった。墨は黒色でアジアが発祥である。没食子インク(Iron gall ink)は古来の図面に多く用いられた。ウォルナット・インクは巨匠達の名作にも使用されたと考えられるが、その証拠は存在しない。もしウォルナット・インクが使用されたとすれば、それはすぐに退色したと考えられる。
顔料インクは顔料を溶剤に分散させたインクで、印刷面に顔料が付着することで印刷が行われる。顔料インクは比較的耐水性に優れ、屋外用途などに多用される。ジェル状インクは摩擦、耐水性に特に優れている。
染料インクは染料を溶剤に溶かしたインクで、顔料インクに比べて多くの色を作り出すことができる。印刷面に浸透することで印刷が行われるが耐水性、耐光性は顔料インクに比べ劣る。
印刷用のインクは顔料、媒剤、添加剤からなり印刷素材や版の形式などから高粘度のジェル状のもの、低粘度の液状のものが存在する。グーテンベルクが15世紀に活版印刷を開発したのに合わせて、筆記用の液体インクとは異なった版に付着できる高粘度のインクが開発された。現在でも大量発行を目的とした商業印刷において使用されるインクは高粘度のジェル状インクが多用される。近年では環境に対応したインクとして大豆インクが多用されており新聞インク、平版インクの64%に使用されている。
消えないインクは使用される溶剤の性質により寿命が非常に短く、急速に蒸発する。
インド、フィリピン、インドネシアなどでは選挙における不正行為を防ぐため消えないインク(英語版)を使用した。インドの選挙委員会は多くの選挙において消えないインクを使用している。インドネシアではアチェ州の選挙で使用している。マリ共和国の選挙では、インクは爪に塗布された。
およそ5000年前に、石の表面に絵や文字を刻むための墨が中国で開発された。墨は油煙や松煙と膠の混合物で、固形の墨を硯で水とともに磨りおろして黒色のインクを得る。他地域の初期文明においても植物の実や種、鉱物から様々な色のインクが作り出された。
インクは古代インドで紀元前4世紀から使用され、それはいくつかの化学成分の混合物であった。カローシュティー文字で記述された古文書が新疆ウイグル自治区で発見されている。インド南部においては、針とインクを使って文字を書くことは一般的であった。いくつかのジャイナ教の教典はインクによって記述されている。インドでは墨の煤を骨やタール、ピッチなどを燃やすことで得ていた。
古代ローマでは煤やイカ墨から得られた黒色のインクや、硫酸銅を含んだ革の黒染液、アスファルトを含むと考えられる黒色のワニスなどがアトラメンタムと呼ばれて用いられた。
エジプトのカリフ、ムイッズは手や衣服を汚すことのないペンを要求した。その要求に応えて953年に万年筆の原型といえるペンが開発された。
15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を実用化することに成功すると、それに適した新しいタイプのインクが開発されることとなった。当時、ギリシャ・ローマの筆記用インク(煤と糊、水から成る)および12世紀に開発された硫酸鉄、没食子、ゴム、水から成る2種類のインクが普及しておりこれらはどちらも版面に付着せず、印刷には適さなかった。結局、すす、テレビン油およびクルミ油からなるニス状のインクが印刷機用に開発された。
1908年12月7日、日本の内閣は、公文書にインキの使用を認めた(閣令)。
ボールペンが市場に広まると共に、インクをペン先につけて筆記する、という用具・手段は日常用の筆記用具としては珍しくなりつつあり、従来のようにインクを「壺」に入れて保管し筆記の度毎に筆記具につけて用いるという行為は廃れつつある。
万年筆は現在でも使われているが、趣味用途の使用がほぼ主流になりつつあるため、液体のインクというものを一般消費者が意識することは少ない。
ホーム・コンピューティングの普及により、インクジェットプリンターを用いた家庭での印刷が一般的となり、プリンター用インクカートリッジの購入は、50年前の消費者がペン用の補充インクボトルを購入するのと同じようになった。
印刷コストを低減しようとする消費者はプリンター用インクカートリッジに詰め替え用インクを用いようとするが、プリンタメーカーは消耗品であるインクカートリッジの売り上げで収益を得ようとするためカートリッジにICチップを取り付けて使用回数を制限したり互換カートリッジメーカーに対して訴訟を起こしたりしている。(詳細は非純正インク問題を参照のこと)
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"text": "印刷コストを低減しようとする消費者はプリンター用インクカートリッジに詰め替え用インクを用いようとするが、プリンタメーカーは消耗品であるインクカートリッジの売り上げで収益を得ようとするためカートリッジにICチップを取り付けて使用回数を制限したり互換カートリッジメーカーに対して訴訟を起こしたりしている。(詳細は非純正インク問題を参照のこと)",
"title": "現代のインク"
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インクまたは洋墨(ようぼく)とは顔料・染料を含んだ液体、ジェル、固体で、文字を書いたり表面に色付けするために用いられるものである。油性、水性などの種類がある。 「インキ」という表記もあり、これは明治期によく使われたが、やがて「インク」が一般化した。技術用語としては現代でも「インキ」は正式に使われるが、用語によっては「インクジェット」など、定着している表記に揺れがある。 日本や中国で古くから使われている墨もインクの一種である。 油性インクは長時間未使用のまま保存するとインクが固まってしまう、水性インクは保存には優れているが水に濡れると滲んでしまう弱点がある。近年はボールペンやプリンターなどで「水性顔料インク」が多用されている。長期の保存に耐え、水に濡れても滲みにくく手についても水洗いで落とせるなどといった利点を持っている。
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{{Redirect|INK|かつて福島県郡山市に存在した スカパーJSATグループ傘下の企業|インフォメーションネットワーク郡山|その他|インク (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2019年9月}}
[[ファイル:Tinte1.JPG|thumb|right|250px|カラーインクとペン]]
[[ファイル:Tinte auf Papier.jpg|thumb|right|250px|万年筆と文字]]
'''インク'''({{Lang-en|ink}})または'''洋墨'''(ようぼく)とは[[顔料]]・[[染料]]を含んだ[[液体]]、[[ゲル|ジェル]]、[[固体]]で、文字を書いたり表面に色付けするために用いられるものである。[[親油性|油性]]、水性などの種類がある。
「'''インキ'''」という表記もあり、これは明治期によく使われたが、やがて「インク」が一般化した<ref>{{Cite Kotobank|word=インク|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2021-10-4}}</ref>。技術用語としては現代でも「インキ」は正式に使われるが、用語によっては「[[インクジェット]]」など、定着している表記に揺れがある<ref>{{Cite journal|和書|title=印刷インキ基礎講座(第I講)総論|author=根本雄平|journal=色材協会誌|volume=60|issue=6|pages=348-355|publisher=色材協会|date=1987|doi=10.4011/shikizai1937.60.348}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ぷりんとぴあ(1994年-1997年発刊・保存版)|chapter=インキのはなし 第14回 インキかインクか|url=https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3768|chapterurl=https://www.jfpi.or.jp/files/user/%E3%81%B7%E3%82%8A%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%B4%E3%81%82%E3%80%80part3_03_008.pdf#page=33|pages=33-35|author=戸津川晋|publisher=日本印刷産業連合会}}</ref><ref>{{Cite jis|Z|8123-1|2013|name=印刷技術用語-第1部:基本用語}}</ref>。
日本や中国で古くから使われている'''[[墨]]'''もインクの一種である。
油性インクは長時間未使用のまま保存するとインクが固まってしまう、水性インクは保存には優れているが水に濡れると滲んでしまう弱点がある。近年は[[ボールペン]]や[[プリンター]]などで「水性顔料インク」が多用されている。長期の保存に耐え、水に濡れても滲みにくく手についても水洗いで落とせるなどといった利点を持っている。
== 種類 ==
初期のインクは[[鉱物]]や[[種子]]、[[豆]]などの殻、[[イカ]]の様な海洋生物から採られる天然染料が主なものであった。墨は黒色で[[アジア]]が発祥である。[[没食子インク]](''Iron gall ink'')は古来の図面に多く用いられた。[[クルミ|ウォルナット]]・インクは巨匠達の名作にも使用されたと考えられるが、その証拠は存在しない。もしウォルナット・インクが使用されたとすれば、それはすぐに退色したと考えられる。
=== 顔料インク ===
{{節スタブ}}
顔料インクは[[顔料]]を溶剤に[[分散系|分散]]させたインクで、印刷面に顔料が付着することで印刷が行われる。顔料インクは比較的耐水性に優れ、屋外用途などに多用される。ジェル状インクは摩擦、耐水性に特に優れている。
=== 染料インク ===
染料インクは[[染料]]を溶剤に溶かしたインクで、顔料インクに比べて多くの色を作り出すことができる。印刷面に浸透することで印刷が行われるが耐水性、耐光性は顔料インクに比べ劣る。
=== 印刷インク ===
印刷用のインクは[[顔料]]、[[媒剤]]、添加剤からなり印刷素材や版の形式などから高粘度のジェル状のもの、低粘度の液状のものが存在する。[[ヨハネス・グーテンベルク|グーテンベルク]]が[[15世紀]]に活版印刷を開発したのに合わせて、筆記用の液体インクとは異なった版に付着できる高粘度のインクが開発された。現在でも大量発行を目的とした商業印刷において使用されるインクは高粘度のジェル状インクが多用される。近年では環境に対応したインクとして[[大豆インク]]が多用されており新聞インク、平版インクの64%に使用されている。
=== 消えないインク ===
消えないインクは使用される溶剤の性質により寿命が非常に短く、急速に蒸発する。
[[インド]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]などでは選挙における[[不正選挙|不正行為]]を防ぐため{{仮リンク|消えないインク|en|Election ink}}を使用した。インドの選挙委員会は多くの選挙において消えないインクを使用している。インドネシアでは[[アチェ州]]の選挙で使用している。[[マリ共和国]]の選挙では、インクは爪に塗布された。
=== 金属インク ===
{{節スタブ}}
== インクの歴史 ==
[[ファイル:Sumie.jpg|thumb|250px|墨と硯、筆]]
およそ5000年前に、石の表面に絵や文字を刻むための[[墨]]が[[中国]]で開発された。墨は[[ランプブラック|油煙]]や松煙と[[膠]]の混合物で、固形の墨を[[硯]]で水とともに磨りおろして黒色のインクを得る。他地域の初期文明においても植物の実や種、鉱物から様々な色のインクが作り出された。
インクは古代[[インド]]で[[紀元前]]4世紀から使用され、それはいくつかの化学成分の混合物であった。[[カローシュティー文字]]で記述された古文書が[[新疆ウイグル自治区]]で発見されている。インド南部においては、針とインクを使って文字を書くことは一般的であった。いくつかの[[ジャイナ教]]の教典はインクによって記述されている。インドでは墨の煤を骨やタール、ピッチなどを燃やすことで得ていた。
[[古代ローマ]]では煤や[[イカ墨]]から得られた黒色のインクや、[[硫酸銅]]を含んだ革の黒染液、[[アスファルト]]を含むと考えられる黒色の[[ワニス]]などがアトラメンタムと呼ばれて用いられた<ref>{{Cite web|url=http://cameo.mfa.org/wiki/Atramentum|title=Atramentum|work=Conservation and Art Materials Encyclopedia Online|publisher=Museum of Fine Arts Boston|accessdate=2017-01-30}}</ref><ref>{{Cite book|first=Alexander|last=Allen|chapter=Atramentum|chapterurl=http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/secondary/SMIGRA*/Atramentum.html|title=A Dictionary of Greek and Roman Antiquities|pages=170-171|publisher=John Murray|date=1875}}</ref><ref>{{Cite book|chapter=Atramentum|chapterurl=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0063%3Aentry%3Datramentum-cn|title=A Dictionary of Greek and Roman Antiquities|publisher=John Murray|date=1890}}</ref>。
[[エジプト]]の[[カリフ]]、[[ムイッズ]]は手や衣服を汚すことのないペンを要求した。その要求に応えて[[953年]]に[[万年筆]]の原型といえるペンが開発された。
15世紀に[[ドイツ]]の[[ヨハネス・グーテンベルク]]が[[活版印刷]]を実用化することに成功すると、それに適した新しいタイプのインクが開発されることとなった。当時、ギリシャ・ローマの筆記用インク(煤と糊、水から成る)および[[12世紀]]に開発された[[硫酸鉄]]、没食子、[[ゴム]]、[[水]]から成る2種類のインクが普及しておりこれらはどちらも版面に付着せず、印刷には適さなかった。結局、[[すす]]、[[テレビン油]]および[[クルミ]]油からなるニス状のインクが印刷機用に開発された。
1908年12月7日、日本の内閣は、公文書にインキの使用を認めた(閣令)。
== 現代のインク ==
[[ファイル:Canon S520 ink jet printer - opened.jpg|thumb|right|250px|パソコンに接続して用いるプリンター用のインク。写真の例ではブラック、シアン、マゼンタ、イエローの4色が見える]]
=== 筆記用 ===
市販される筆記用インクとしては、次のようなものがある。
* [[つけペン]]・[[万年筆]]用の瓶入りインク
* 万年筆・[[マーキングペン]]用のインクカートリッジ
* [[ボールペン]]用インクリフィル
現代においては、インクを内蔵する使い切り式の筆記具の普及とともに、瓶入りインクを扱うつけペンや万年筆は実用筆記にほとんど使われなくなった。ただし署名・手紙などのフォーマル・プライベートな用途や、[[カリグラフィー]]、[[漫画]]、[[イラストレーション]]などの芸術用途では依然使われる。
[[毛筆]]に用いられる[[墨]]も筆記用インクの一種であり、近世まで筆記に日用されたが、[[硬筆]]が普及する近代以降では[[書道]]など芸術用途が主となっている。
=== 印刷用 ===
ホーム・コンピューティングの普及により、[[インクジェットプリンター]]を用いた家庭での印刷が普及し、プリンター用インクカートリッジの購入は、50年前の消費者がペン用の補充インクボトルを購入するのと同じようになった。
印刷コストを低減しようとする消費者はプリンター用インクカートリッジに[[インクジェットプリンター#非純正インク問題|詰め替え用インク]]を用いようとするが、プリンタメーカーは消耗品であるインクカートリッジの売り上げで収益を得ようとするため、カートリッジにICチップを取り付けて使用回数を制限したり互換カートリッジメーカーに対して訴訟を起こしたりするなど、[[インクジェットプリンター#非純正インク問題|非純正インク問題]]が起きている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[万年筆]]([[万年筆#万年筆のインク|万年筆用のインク]]の説明記事あり)
* {{ill2|インク壺|en|Inkwell}}、{{ill2|Gisalnapf|de|Gisalnapf}}
* [[つけペン]]
* [[羽根ペン]]
* [[ボールペン]]
* [[不可視インク]]
* [[塗料]]
* [[セピア]]
* [[大豆インキ]]
* {{ill2|煤インク|de|Rußtinte}}
* {{ill2|金インク|de|Goldtinte}}
* [[ビストル]]
* [[イラストレーション]]
* [[香料]] ‐ 匂いを混ぜる工夫が行われる場合がある。
* [[墨]]、[[開明墨汁]]
* [[蛍光インク]]
* {{ill2|にじみ止め粉|en|Pounce (powder)}}
* [[ブロッター]](字を書いた後に余計なインクを吸い取る紙)
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| wikt = インク
| b = no
| n = no
| v = no
}}
* [https://www.ink-jpima.org 印刷インキ工業連合会]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いんく}}
[[Category:インク|*]]
[[Category:オランダ語由来の外来語]]
|
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トルキスタン
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トルキスタン(Turkestan / Turkistan)は、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。
「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている。トルケスタン、トゥルケスタン、トゥルケスターン とも。
トルキスタンは、西はカスピ海、東は中国、北はアラル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、イラン国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日のトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン)、中華人民共和国の西北部の新疆ウイグル自治区 (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される。
西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある。
面積は約150,000平方キロメートル。
「トルキスタン」とは、「テュルク人の」 (Turki) という単語に「〜が存在する(ところ)」 「国」(-stān) を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものである。
前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった。
一方、スィル川の中流にはヤサヴィー教団の始祖アフマド・ヤサヴィーの廟墓があることで有名なトルキスタン市(古名ヤス)がある。
西トルキスタンは変わらずマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた。これはティムール朝末期のバーブルの時代でも同じであった。13世紀以降はモンゴル帝国、次いで後継の汗国に支配される。
19世紀後半、ロシア帝国がタシュケントにトルキスタン総督府を置き、その域は東部で天山山脈西部とパミール高原、西部でカスピ海東岸、南部でイラン・アフガニスタン国境にまで拡大した。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった。
ソ連邦ではトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国消滅後、パン・テュルク主義を想起させるトルキスタンのかわりに、中央アジア (Средняя Азия)と呼称されるようになり、ロシア領トルキスタンや西トルキスタンという名称は用いられなくなったが、東トルキスタンという名称は使用されている。
上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、次いでカザフスタンが多い。一人あたりの所得はタジキスタンが目立って低い。
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トルキスタンは、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。 「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている。トルケスタン、トゥルケスタン、トゥルケスターン とも。
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{{Otheruses|広域地名|カザフスタンの都市|テュルキスタン}}
{{distinguish|link1=トルコ|トルコ共和国|トルクメニスタン}}
[[ファイル:Cnt asia cia1.jpg|right|300px|thumb|トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図<br />トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い]]
[[ファイル:Turkestan.png|right|300px|thumb|テュルク系民族分布]]
'''トルキスタン'''(Turkestan / Turkistan)は、今日[[チュルク系民族|テュルク系民族]]が居住する[[中央アジア]]の地域を指す歴史的な名称。
「テュルク人の (Turki) 土地 ([[スターン (地名)|-stan]])」を意味する[[ペルシア語]]に由来し、[[テュルク諸語]]、欧州諸語などで用いられている<ref name="Komatsu388"/>。トルケスタン、トゥルケスタン<ref name="Sanseido629">『コンサイス外国地名辞典』<第3版>、三省堂、1998年4月20日、ISBN 4-385-15338-8、629頁。</ref>、トゥルケスターン<ref name="Maki308"/><ref name="Kayama"/> とも<ref>『外国地名レファレンス事典』日外アソシエーツ、2006年7月25日、ISBN 4-8169-1992-9、664頁。</ref>。
== 領域 ==
トルキスタンは、西は[[カスピ海]]、東は[[中国]]、北は[[アラル海]]、[[エルティシ川|イルティシュ分水界]]、南は[[アフガニスタン]]北部、[[イラン]]国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日の[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]・[[キルギス]]・[[カザフスタン]]・[[タジキスタン]])、[[中華人民共和国]]の西北部の[[新疆ウイグル自治区]] (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される<ref name="Kayama"/>。
西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある<ref>『グランド現代百科事典』学習研究社、1983年6月1日、ISBN 4-05-150097-7、78頁。</ref>。
面積は約150,000平方キロメートル<ref name="Sanseido629"/>。
{{Main2|トルキスタン以外のテュルク系国家・自治区は[[トルキスタン#テュルク人とその国家|テュルク人とその国家]]の項を}}
== 歴史 ==
「トルキスタン」とは、「テュルク人の」 (Turki)<ref name="Maki308">[[牧英夫]]『世界地名ルーツ辞典』創拓社、1989年12月1日、ISBN 4-87138-076-9、308頁。</ref> という単語に「〜が存在する(ところ)」 「国」(-stān)<ref name="Maki308"/><ref>[[蟻川明男]]『世界地名語源辞典』古今書院、1993年12月16日、ISBN 4-7722-1735-5、141頁。</ref> を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものである。
前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降は[[マー・ワラー・アンナフル]]と呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった<ref name="Komatsu388">[[小松久男]]「トルキスタン」『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日、ISBN 4-582-12636-7、388頁。</ref>。
一方、[[シルダリヤ川|スィル川]]の中流にはヤサヴィー教団の始祖[[アフマド・ヤサヴィー]]の[[ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟|廟墓]]があることで有名な[[トルキスタン市]](古名ヤス)がある。
[[西トルキスタン]]は変わらずマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた。これは[[ティムール朝]]末期の[[バーブル]]の時代でも同じであった。[[13世紀]]以降は[[モンゴル帝国]]、次いで後継の汗国に支配される。
19世紀後半、[[ロシア帝国]]が[[タシュケント]]に[[トルキスタン総督府]]を置き、その域は東部で[[天山山脈]]西部と[[パミール高原]]、西部で[[カスピ海]]東岸、南部で[[イラン]]・[[アフガニスタン]]国境にまで拡大した<ref name="Komatsu388"/>。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は[[東トルキスタン]]、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった<ref name="Komatsu388"/>。
[[ソビエト連邦|ソ連邦]]では[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]消滅後、[[パン・テュルク主義]]を想起させるトルキスタンのかわりに、中央アジア (Средняя Азия)と呼称されるようになり、ロシア領トルキスタンや西トルキスタンという名称は用いられなくなったが、東トルキスタンという名称は使用されている<ref name="Kayama">[[香山陽坪]]「トゥルケスターン」『世界地名大辞典 2』朝倉書店、昭和48年4月25日、0525-541502-0032、849~850頁。</ref>。
== テュルク人とその国家 ==
{|border="1" class="wikitable"
|-
! [[国名]]
! [[人口]]
! 構成[[民族]]比率
! [[面積]]
! 名目[[国内総生産|GDP]]<ref name="gdp">IMF World Economic Outlook Database 2017年の値、ウイグルのみ [[:en:List of Chinese administrative divisions by GDP]] 2016</ref>
! 一人あたりGDP<ref name="gdp"/>
! 備考
|-
|| [[カザフスタン]]
|style="text-align:right"| 1817万人<ref name="2018-02-01">2018-02-01</ref>
|'''カ'''67%、露21%、'''ウ'''3%<ref name="2016年">2016</ref>
|style="text-align:right"| 272万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 1629億ドル
|style="text-align:right"| 8970ドル
|
|-
|| [[キルギス]]
|style="text-align:right"| 614万人<ref name="2017-01-01">2017-01-01</ref>
| '''キ'''73%、'''ウ'''14%、露6%<ref name="2016年"/>
|style="text-align:right"| 20万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 77億ドル
|style="text-align:right"| 1254ドル
|
|-
|| [[トルクメニスタン]]
|style="text-align:right"| 576万人<ref name="2017-01-01"/>
| '''ト'''85%、'''ウ'''5%、露4%<ref name="2003年">2003</ref>
|style="text-align:right"| 43万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 379億ドル
|style="text-align:right"| 6643ドル
|
|-
|| [[ウズベキスタン]]
|style="text-align:right"| 3134万人<ref name="2017-01-01"/>
| '''ウ'''76%、露6%、タ5%、'''カ'''3%<ref name="1996年">1996</ref>
|style="text-align:right"| 44万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 581億ドル
|style="text-align:right"| 1810ドル
|
|-
|| [[タジキスタン]]
|style="text-align:right"| 893万人<ref name="2018-01-01">2018-01-01</ref>
| タ84%、'''ウ'''14%<ref name="2016年"/>
|style="text-align:right"| 14万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 71億ドル
|style="text-align:right"| 801ドル
|イラン系のタジク人が多数派
|-
|| [[新疆ウイグル自治区]]
|style="text-align:right"| 2360万人<ref name="2015-03-06">2015-03-06</ref>
| '''維'''45%、漢41%、'''カ'''7%、回5%<ref name="2016年"/>
|style="text-align:right"| 165万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 1453億ドル
|style="text-align:right"| 6137ドル
| [[中華人民共和国]]の自治区
|-
|colspan="7" | <span style="margin-left:4em;font-size:small">参考(トルキスタン外)</span>
|-
|| [[アフガニスタン]]
|style="text-align:right"| 2972万人<ref name="2017-01-01"/>
| パ45%、タ32%、ハ12%、'''ウ'''9%<ref name="2005年">2005</ref>
|style="text-align:right"| 65万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 202億ドル
|style="text-align:right"| 570ドル
|
|-
|| [[アゼルバイジャン]]
|style="text-align:right"| 990万人<ref name="2018-01-01"/>
| '''ア'''92%<ref name="2009年">2009</ref>
|style="text-align:right"| 9万km<sup>2</sup>
|style="text-align:right"| 414億ドル
|style="text-align:right"| 4212ドル
|
|-
|| [[トルコ]]
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{{注|1=※'''テュルク系'''(カ=[[カザフ人]]、キ=[[キルギス人]]、ト=[[トルクメン人]]、ウ=[[ウズベク人]]、維=[[ウイグル人]]、域外:ア=[[アゼルバイジャン人]]、土=[[トルコ人]])<br />非テュルク系(露=[[ロシア人]]、タ=[[タジク人]]、漢=[[漢民族]]、回=[[回族]]、域外:パ=[[パシュトゥーン人]]、ハ=[[ハザーラ人]]、ク=[[クルド人]])}}
上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、次いでカザフスタンが多い。一人あたりの[[所得]]はタジキスタンが目立って低い。
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[[アフガニスタン]]はトルキスタンには含まれないが、その国内には1,000万人程のテュルク系民族が居住する。-->
== 近代以降 ==
* [[西トルキスタン]]は[[帝政ロシア]]の支配下となり、[[帝国]]が[[ロシア革命]]で倒された後は[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]などが作られ、[[ソビエト連邦|ソ連]]の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。[[ソビエト連邦の崩壊]]とともに[[1991年]]に各共和国は悲願の独立を果たしたものの、これらの連合であるトルキスタン連邦の成立はそういう大国と隣接することをロシアと中国が恐れて介入し、実現しなかった。独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。今もなお[[中央アジア連合]]創設への提案は行われており、実現すると天然資源(特に鉱物類)の利権で強国となる。
* [[東トルキスタン]]は[[清]]の[[乾隆帝]]に征服されて以来、清朝 → [[中華民国]] → [[中華人民共和国]]と異民族による支配が続いている。[[1933年]]および[[1944年]]にソ連の後押しで[[東トルキスタン共和国]]を立てたが、いずれも短期間で消滅している。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する[[人民解放軍]]とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている<ref>[http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141223142314/http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm |date=2014年12月23日 }}</ref>。また、[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけては[[カザフの新疆脱出]]が発生した。さらに[[1964年]]の[[ロプノール湖]]での実験を皮切りに、1960年代後半を通じて中国が核を保有して以降も、東トルキスタンの各地で[[中国の核実験|核実験]]が執り行われ、現地の放射能汚染が懸念されている。現在は、独立運動各派は中国政府に非合法化され弾圧されている。そのため、東トルキスタン独立問題は米中間等で人権問題として問題視されてきた。なお、独立運動各派は、[[2004年]][[9月]]に[[東トルキスタン亡命政府]]をアメリカで樹立している。
== その他 ==
* 「トルキスタン」は、[[ロシア帝国]]時代には、西トルキスタンの南部であるウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタン一帯と、さらに狭い地域の名称として用いられたこともあった。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[テュルク諸語]]
* [[ウイグル]]
* [[タタール人]]
* [[トルキスタン総督府]]
* [[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]
* [[トルキスタン軍管区]]
* [[トゥルキスターニー]] - トルキスタン出身者もしくはトルキスタン出身の先祖を持つ人物の名前
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== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.turkistanim.org/ |title=トルキスタン情報ページへようこそ! |date=20090930145511}}{{ar icon}}{{tr icon}}{{ja icon}}{{zh icon}}{{en icon}}
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[[Category:トルキスタン|*]]
[[Category:中央ユーラシアの歴史的地域]]
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連合国軍最高司令官総司令部
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連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、旧字体: 聯合國軍最高司令官總司令部、英語: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。
極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官とも、英語: Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)。日本では、総司令部(英語: General Headquarters)の頭字語であるGHQ(ジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。
名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上はアメリカ合衆国単独の日本国占領機関であり、結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた。降伏文書に基づき、天皇並びに日本国政府の統治権は最高司令官の支配下におかれた。
占領に要する費用(経費)は日本政府にのしかかり、敗戦国家の国家予算を圧迫した。
1945年(昭和20年)8月14日に日本政府(鈴木貫太郎内閣)が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も日本の法令では「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。連合国最高司令官の下に属する組織は英語表記によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(GHQ/SCAP)で「連合国最高司令官総司令部」「連合国総司令部」と日本語訳され、日本では多くの場合に略称のGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼称している。
他方で「軍」を補って、「連合国軍最高司令官」や「連合国軍最高司令官総司令部」または「連合国軍総司令部」のように呼ばれることも多い。
連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦における日本の有条件降伏である「ポツダム宣言」の執行のため日本に設置された連合国による機関である。
ハリー・S・トルーマン大統領は1945年(昭和20年)8月14日(アメリカ大西洋時間)、南西太平洋戦域(英語版)最高司令官兼太平洋陸軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官(SCAP)に任命した。
職員はコートニー・ホイットニーら弁護士資格を持つアメリカ合衆国軍人や、イギリス軍人、オーストラリア軍人、アメリカやイギリスの民間人ら多数で構成され、同年10月2日に総司令部が東京都に設置された。
日本を軍事占領すべく派遣されたアメリカ軍、中国軍、イギリス軍、ソ連軍、オーストラリア軍、カナダ軍、フランス軍、オランダ軍、ニュージーランド軍、インド軍、フィリピン軍など連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当した。
日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令として国民へ公布・施行された。
司令部は最初に日本の軍隊(大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍)を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。
同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリス、アメリカ合衆国、カナダ、英領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、中華民国、ソビエト連邦、米領フィリピンの11カ国と、後にビルマとパキスタンで構成された極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年(昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、フランスとオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。
1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国大統領のハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの2か国間協定を結び、たとえば(旧)日米安全保障条約に調印して、アメリカ軍の国内駐留と治外法権などの特権、そして前年より継続して行われた朝鮮戦争への対応などのための駐留を認めた。
当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居と東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。
第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が理解され接収の対象外であった。
1989年から1995年にかけて、第一生命館は順次DNタワー21として再開発が行われ、建物の一部外装と6階にあったマッカーサー記念室以外は現在失われている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関である。GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して設置した太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAPが東京に本部を設置後にGHQ/AFPAC本部も東京へ移転している。
連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部と幕僚部(特別参謀部または専門部とも)が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。
諜報、保安、検閲を任務とする第2部(G2)の権限が強く、占領中の不明解事件はG2配下でキヤノン機関と俗称される特務機関の関与を疑義する一部の者もいる。
総司令部の最大の目標は連合国にとって脅威となる日本の軍事力解体で、日本を中立・非武装化して中華民国をアジアの中心となし、軍国主義を廃して親英米的な国家へ創り変えることであり、マッカーサーは『上からの革命』と称し「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と後年に語っている。初期はGHQで広く権限を有す民政局が策定して実施され、冷戦兆候以後は参謀第2部の主導でレッドパージなどを実施している。
連合国軍は占領直後から戦争指導者の検挙を始めて東條英機元首相を含む数十名を逮捕し、A級戦犯として極東国際軍事法廷の判決で東條以下7名を死刑、その他多数を禁錮刑や終身刑に処している。本裁判は戦時の国際法抵触者ではなく戦争に携わった士官以上が裁かれ、日本は平和条約でこれを受諾している。
戦争や大政翼賛会に関与したと見做された者は、政府機関など特定の職に就くことを禁止され、軍人や戦時中に軍へ協力的と認定された政治家、思想家などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止されるなど公職追放が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は25万人とする説もあり、この公職追放直後の期間では日本の中央政府と地方自治体は事実上機能を停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など映画界も影響を受けている。しかし、後に首相となる吉田茂や鳩山一郎の軋轢をはじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。また、後のサンフランシスコ平和条約の締結などを目指すため、国務省政策確定部長のジョージ・ケナンがワシントンと総司令部の意思疎通を図るため来日し、1948年10月に大統領の許可を得て以下のことが提言された。
これにより旧軍閥や政治家は復帰し、後に鳩山一郎や石橋湛山が政治界に戻ってくることになった。
追放については連合国内でも批判があり、アメリカ国内でも本来目的の「軍国主義者などの日本政界からの追放」を超えた影響を及ぼしたとして、占領政策の批判を受けるなど、トルーマン大統領とマッカーサー連合国最高司令官の確執へつながるとする者もいる。
総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」などで軍国主義的、戦前から戦中の日本を肯定、連合国軍の行為を批判、原子爆弾や無差別空襲の被害などをラジオや新聞、雑誌、一般市民発行の本などを厳しく取り締まり言論を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)を発し言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして朝日新聞社は二日間の業務停止命令を受けた。また、貧困や人種差別など米国社会の暗黒面を描いたアメリカ文学作品の翻訳出版も許可しなかった。
「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。
などであった。
さらに上記「検閲指針」の違反者は米軍の軍事法廷で訴追され、沖縄における強制重労働3年乃至5年であった。「Apr 29, 1949:The editor of the magazine “Emancipation News” was sentenced to five years of hard labor(Braw 1991, chapter 7)」。
連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。イギリス軍やアメリカ軍により残存していた使用可能な兵器類は全てスクラップ、もしくはテストのために持ち去られ、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。例えば、当時の最先端科学分野で日本が著しい進歩を遂げていた理研のサイクロトロン研究や、ロケット戦闘機「桜花」、巨大潜水艦など根こそぎ接収され、それらの研究環境も破壊された。日本の研究所の調査を担当した米国の科学者らは、日本のサイクロトロン実験設備を詳細に見てそのレベルの高さに驚き「なぜ日本は原子爆弾を製造しなかったのか」と疑問を呈し、英国もGHQ最高司令部宛てに「鍋釜以外は日本に作らせるな」と申し入れをした記録も残っている。
物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり「国民主権」「基本的人権の尊重」という民主主義の基本を備えると共に、「戦争放棄」を謳った憲法(日本国憲法)を作成し日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたとマッカーサーは記録している。また、幣原は自らの著書である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止、第六潜水艇に代表される多くの軍人の顕彰施設の破壊など、明治からの社会思想を解体した。
民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察はこれを廃止し戦時中にこれらの罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。
経済界においては経済民主化のために三井・三菱・住友・安田の四大財閥を解体した(財閥解体)。さらに地方自治法が制定され、都道府県知事は官選から直接公選へと変更されたほか、地方行財政や警察を統括していた内務省が解体・廃止された。警察もGHQの民政局(GS)から非民主的な警察制度であるとして解体を強いられ、国家地方警察と約1,700もの自治体警察に解体・細分化された。
農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を保守化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。
明治維新による学制を抜本的に改組する形で学制改革が行われた。教育方針は連合国側で矯正させ、旧教育基本法と学校教育法を制定させた。これにより初等教育・中等教育・高等教育課程の学校教育制度は「単線教育」が新たに導入され、6・3・3・4の学校制度(小学校6年間・中学校3年間・高等学校3年間・大学4年間)を新設し、それまでの複線教育と修身の科目・教育勅語を廃止させた。
公教育における中等教育課程での男女別学から男女共学への移行、新制小学校6年間(初等教育課程)新制中学校3年間(前期中等教育課程)による義務教育の9年間への延長などを行い、後期中等教育機関として新制高等学校・高校三原則を発足させた。高等教育の面ではエリート養成機関という社会的役割も担っていた旧制高等学校・旧制大学を廃止させ、教員養成機関であった師範学校を学士課程4年間の新制大学学部へ格上げした。これらは教育のアメリカニゼーションに寄与すべく、2度に亘って来日した教育使節団の報告書に基づいて実行された(アメリカ教育使節団報告書)。
連合国軍最高司令官総司令部の指令により、薬事法が改正され明治の近代医療導入以来概念自体は存在していたものの曖昧であった医薬分業制度が導入された。
1948年(昭和23年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知、さらに人種的偏見や文化的偏見から「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と考えた民間情報教育局(CIE)の世論社会調査課長であるジョン・ペルゼル の発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。
ペルゼルは、大学院で人類学の修士号を取得した人類学者で、戦前には考古学的調査プロジェクトに参加して日本を訪れたことがあったものの、近代の日本の教育については全くの無知であり、日本人の学習意識が高く、古くからイギリスやドイツ、フランスなどの他の先進国に比べて識字率が高かった上に1872年に学制から始まった義務教育推進運動が進み、1915年には尋常小学校の通学率が90%を超えるなど、学齢期の国民の就学が普遍化していたことを知らなかった。
当時東大助手だった言語学者の柴田武は、民間情報教育局の指示によってこの読み書き全国調査のスタッフに選ばれ漢字テストの出題を任された。これは日本初の「無作為抽出法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計数理研究所研究員の統計学者だった林知己夫が被験者のサンプリングを行った。
こうして1948年(昭和23年)8月、文部省教育研修所(現在の国立教育政策研究所)によって調査は実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果は、漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり「識字率が100%に近い」という、ペルゼルの母国のアメリカはおろか、世界的に見ても例を見ない高いレベルだった。
柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「字が読めない人が非常に多いという結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「調査結果は捻じ曲げられない」と突っぱね、ペルゼルもそれ以上の無理押しはしなかったという。結局、日本語のローマ字化は撤回された。
終戦直後の8月18日、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、アメリカ軍兵士やイギリス軍兵士を中心とした日本各地に慰安所が設置された。
国内経済の疲弊から社会主義が流行し労働運動は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が起こると、左派勢力たる共産党の勢力拡大が恐れられたために対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を極秘裏に行った。同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することである程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「逆コース」である。
GHQの意向で解体された日本警察も、国家地方警察と自治体警察に分散していることによる不効率や、平均町村財政の3割以上に及ぶ財政負担に耐えられなくなった地方自治体の要望により、占領期間中から警察法が段階的に改正され、住民投票の付託で自治体警察の存廃ができるようになると、ほんの数年で一千以上の自治体警察が廃止され、国家地方警察に吸収されていった。
また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋めるために、警察予備隊の創設と海上保安庁の強化(海上警備隊を創設)を実施して予定を繰り上げて日本の再軍備を行った。その後、日本国との平和条約および(旧)日米安全保障条約の発効に至り、日本は西側陣営の一員として国際社会への復帰を果たした。
GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。
日本政府は敗戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らはイタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されていく様子を見た。健全な戦後復興のためには高額賠償金の支払い、領土分割を回避する「寛大な講和」が必要であり、日本政府は「よき敗者」として振舞うことに注力し、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。
一方、冷戦の激化により、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では国防省が日本への軍の継続駐留を企図して国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の施政権下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国(台湾)及び中華人民共和国)と「朝鮮」(大韓民国(韓国)及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮))は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は独立後の財源を確保すべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて賠償請求権の放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって個別の賠償に応じ、国際社会に誠実さをアピールした。
これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立及び朝鮮の放棄を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、南洋諸島の放棄、沖縄・奄美・小笠原がアメリカの施政権下におかれることの承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、続いて台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華平和条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、国際連合に加盟するために国連安保理で拒否権を持つソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟、国際社会へ復帰した。その後は安全保障上の米国依存下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。アメリカが統治していた日本領土は1972年(昭和47年)の沖縄返還により全て返還されたが、米軍基地に関する紛争は続いている。またソ連が占領した北方領土については講和条約から現在まで未解決である。
なお、同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、東西ドイツが再統合される1990年まで講和会議は行われていなかった(ドイツ最終規定条約を参照)。
当時の日本政府は、占領の否定的感覚低減を目してイギリス、アメリカ、オーストラリア軍からなる連合国軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と称するように報道機関に指導した。
調達庁の資料には、7年間の占領期間中にアメリカ軍兵に殺害された者が2,536人、傷害を負わされた者は3,012人としている。漫画家の手塚治虫も街角で殴り倒された。またアメリカ軍兵に日本人女性が襲われる事件が2万件といわれ、イギリス軍兵士、オーストラリア兵士によるものも多発し、強姦の際に日本の警察官が事実上の見張り役になる場合もあったなどと述べる者も一部に見られる。さらにアメリカ軍第8軍は組織的に戦利品を収集・配布していた。
これらの犯罪は、占領政策に連合国軍の治外法権が盛り込まれていたため、GHQによって存在自体が隠蔽され、日本はもちろんのこと、本国に於いても刑事裁判に発展することは全くなかった。占領政策が終わってからかなり後になって、日本の歴史研究家たちによってようやくその存在が明らかになった。
日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、アメリカ合衆国の映画の統括配給窓口会社CMPE(Central Motion Picture Exchange)を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜ぶりに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際には映画関係者たちは喝采を挙げたという。一方の国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。
非軍事化の一環として日本国内の武道(剣道など)を統括していた政府の外郭団体である大日本武徳会を解散させ、関係者1,300余名を公職追放した。また、全国に日本刀の提出を命じる刀狩りが行われ、膨大な刀剣類が没収され廃棄された(東京都北区赤羽に集められたことから赤羽刀と呼ばれている)。さらにその矛先は映画界にまで及び、チャンバラ映画が禁止されて嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら日本を代表する時代劇俳優が仕事を失った。さらには「丹下左膳余話 百萬両の壺」などの時代劇のフィルムにまではさみが入れられたといわれる。
進駐軍の兵士が利用する『進駐軍クラブ』により最新の英米の文化がもたらされた。日本人立ち入り禁止のクラブも多かったが、給仕や演奏者は日本人を採用する方針がとられた。当時のアメリカではスウィング・ジャズがヒットしており、ジャズができる出演者が採用されたことで生活基盤ができ、日本においてジャズが浸透する下地ともなった。出演者の出演料は日本側の終戦連絡事務局、1949年6月からは特別調達庁より出ていた。各軍政部が日本側に要求を出した結果、日米間で問題になり特別調達庁が演奏家の格付審査を行った。楽器を演奏できる人間が少なかったため軍楽隊出身やクラシック奏者など様々な出自の者が集まった。著名人としては笠置シヅ子やジョージ川口などがいた。これらの音楽文化を題材とした作品としてこの世の外へ クラブ進駐軍などがある。
クラブで提供される酒類は欧米人が好むビールやウィスキーであったため需要が急増し、進駐軍向けの非課税酒を製造する大手メーカーは潤った。これに関連し笹の川酒造のような日本酒の酒造会社が需要を見越してウイスキー製造の免許を取得する動きもあった。
沖縄ではクラブから大量に発生した空き瓶を利用して琉球ガラスが生まれた。
戦後に行われた学校給食への食糧援助には、アメリカで余剰品となった小麦や脱脂粉乳が充てられ、戦後世代の庶民にパンを主食として食べる食習慣が浸透した。一方、昭和30年代までジャーナリズムや農学者を動員してコメ食を否定するキャンペーンが行われた。その背景には余剰穀物の受け入れ促進と、将来の食品市場の拡大を見越して日本人の食嗜好をより洋風的に変化させる意図があった。進駐軍の基地周辺ではステーキやハンバーガー、ホットドッグなど、アメリカの国民食が庶民にも伝わった。
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"text": "連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、旧字体: 聯合國軍最高司令官總司令部、英語: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。",
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"text": "極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官とも、英語: Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)。日本では、総司令部(英語: General Headquarters)の頭字語であるGHQ(ジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。",
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"text": "名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上はアメリカ合衆国単独の日本国占領機関であり、結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた。降伏文書に基づき、天皇並びに日本国政府の統治権は最高司令官の支配下におかれた。",
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"text": "占領に要する費用(経費)は日本政府にのしかかり、敗戦国家の国家予算を圧迫した。",
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"text": "1945年(昭和20年)8月14日に日本政府(鈴木貫太郎内閣)が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も日本の法令では「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。連合国最高司令官の下に属する組織は英語表記によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(GHQ/SCAP)で「連合国最高司令官総司令部」「連合国総司令部」と日本語訳され、日本では多くの場合に略称のGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼称している。",
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"text": "他方で「軍」を補って、「連合国軍最高司令官」や「連合国軍最高司令官総司令部」または「連合国軍総司令部」のように呼ばれることも多い。",
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"text": "連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦における日本の有条件降伏である「ポツダム宣言」の執行のため日本に設置された連合国による機関である。",
"title": "概要"
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"text": "ハリー・S・トルーマン大統領は1945年(昭和20年)8月14日(アメリカ大西洋時間)、南西太平洋戦域(英語版)最高司令官兼太平洋陸軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官(SCAP)に任命した。",
"title": "概要"
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"text": "職員はコートニー・ホイットニーら弁護士資格を持つアメリカ合衆国軍人や、イギリス軍人、オーストラリア軍人、アメリカやイギリスの民間人ら多数で構成され、同年10月2日に総司令部が東京都に設置された。",
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"text": "日本を軍事占領すべく派遣されたアメリカ軍、中国軍、イギリス軍、ソ連軍、オーストラリア軍、カナダ軍、フランス軍、オランダ軍、ニュージーランド軍、インド軍、フィリピン軍など連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当した。",
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"text": "日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令として国民へ公布・施行された。",
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"text": "司令部は最初に日本の軍隊(大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍)を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。",
"title": "概要"
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"text": "同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリス、アメリカ合衆国、カナダ、英領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、中華民国、ソビエト連邦、米領フィリピンの11カ国と、後にビルマとパキスタンで構成された極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年(昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、フランスとオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。",
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"text": "1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国大統領のハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの2か国間協定を結び、たとえば(旧)日米安全保障条約に調印して、アメリカ軍の国内駐留と治外法権などの特権、そして前年より継続して行われた朝鮮戦争への対応などのための駐留を認めた。",
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"text": "当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居と東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。",
"title": "概要"
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"text": "第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が理解され接収の対象外であった。",
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"text": "1989年から1995年にかけて、第一生命館は順次DNタワー21として再開発が行われ、建物の一部外装と6階にあったマッカーサー記念室以外は現在失われている。",
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"text": "連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関である。GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して設置した太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAPが東京に本部を設置後にGHQ/AFPAC本部も東京へ移転している。",
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"text": "連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部と幕僚部(特別参謀部または専門部とも)が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。",
"title": "概要"
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"text": "諜報、保安、検閲を任務とする第2部(G2)の権限が強く、占領中の不明解事件はG2配下でキヤノン機関と俗称される特務機関の関与を疑義する一部の者もいる。",
"title": "概要"
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"text": "総司令部の最大の目標は連合国にとって脅威となる日本の軍事力解体で、日本を中立・非武装化して中華民国をアジアの中心となし、軍国主義を廃して親英米的な国家へ創り変えることであり、マッカーサーは『上からの革命』と称し「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と後年に語っている。初期はGHQで広く権限を有す民政局が策定して実施され、冷戦兆候以後は参謀第2部の主導でレッドパージなどを実施している。",
"title": "政策"
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"text": "連合国軍は占領直後から戦争指導者の検挙を始めて東條英機元首相を含む数十名を逮捕し、A級戦犯として極東国際軍事法廷の判決で東條以下7名を死刑、その他多数を禁錮刑や終身刑に処している。本裁判は戦時の国際法抵触者ではなく戦争に携わった士官以上が裁かれ、日本は平和条約でこれを受諾している。",
"title": "政策"
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"text": "戦争や大政翼賛会に関与したと見做された者は、政府機関など特定の職に就くことを禁止され、軍人や戦時中に軍へ協力的と認定された政治家、思想家などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止されるなど公職追放が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は25万人とする説もあり、この公職追放直後の期間では日本の中央政府と地方自治体は事実上機能を停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など映画界も影響を受けている。しかし、後に首相となる吉田茂や鳩山一郎の軋轢をはじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。また、後のサンフランシスコ平和条約の締結などを目指すため、国務省政策確定部長のジョージ・ケナンがワシントンと総司令部の意思疎通を図るため来日し、1948年10月に大統領の許可を得て以下のことが提言された。",
"title": "政策"
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"text": "これにより旧軍閥や政治家は復帰し、後に鳩山一郎や石橋湛山が政治界に戻ってくることになった。",
"title": "政策"
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"text": "追放については連合国内でも批判があり、アメリカ国内でも本来目的の「軍国主義者などの日本政界からの追放」を超えた影響を及ぼしたとして、占領政策の批判を受けるなど、トルーマン大統領とマッカーサー連合国最高司令官の確執へつながるとする者もいる。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」などで軍国主義的、戦前から戦中の日本を肯定、連合国軍の行為を批判、原子爆弾や無差別空襲の被害などをラジオや新聞、雑誌、一般市民発行の本などを厳しく取り締まり言論を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)を発し言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして朝日新聞社は二日間の業務停止命令を受けた。また、貧困や人種差別など米国社会の暗黒面を描いたアメリカ文学作品の翻訳出版も許可しなかった。",
"title": "政策"
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"text": "「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。",
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"text": "などであった。",
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"text": "さらに上記「検閲指針」の違反者は米軍の軍事法廷で訴追され、沖縄における強制重労働3年乃至5年であった。「Apr 29, 1949:The editor of the magazine “Emancipation News” was sentenced to five years of hard labor(Braw 1991, chapter 7)」。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。イギリス軍やアメリカ軍により残存していた使用可能な兵器類は全てスクラップ、もしくはテストのために持ち去られ、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。例えば、当時の最先端科学分野で日本が著しい進歩を遂げていた理研のサイクロトロン研究や、ロケット戦闘機「桜花」、巨大潜水艦など根こそぎ接収され、それらの研究環境も破壊された。日本の研究所の調査を担当した米国の科学者らは、日本のサイクロトロン実験設備を詳細に見てそのレベルの高さに驚き「なぜ日本は原子爆弾を製造しなかったのか」と疑問を呈し、英国もGHQ最高司令部宛てに「鍋釜以外は日本に作らせるな」と申し入れをした記録も残っている。",
"title": "政策"
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"text": "物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり「国民主権」「基本的人権の尊重」という民主主義の基本を備えると共に、「戦争放棄」を謳った憲法(日本国憲法)を作成し日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたとマッカーサーは記録している。また、幣原は自らの著書である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止、第六潜水艇に代表される多くの軍人の顕彰施設の破壊など、明治からの社会思想を解体した。",
"title": "政策"
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"text": "民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察はこれを廃止し戦時中にこれらの罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "経済界においては経済民主化のために三井・三菱・住友・安田の四大財閥を解体した(財閥解体)。さらに地方自治法が制定され、都道府県知事は官選から直接公選へと変更されたほか、地方行財政や警察を統括していた内務省が解体・廃止された。警察もGHQの民政局(GS)から非民主的な警察制度であるとして解体を強いられ、国家地方警察と約1,700もの自治体警察に解体・細分化された。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を保守化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。",
"title": "政策"
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"tag": "p",
"text": "明治維新による学制を抜本的に改組する形で学制改革が行われた。教育方針は連合国側で矯正させ、旧教育基本法と学校教育法を制定させた。これにより初等教育・中等教育・高等教育課程の学校教育制度は「単線教育」が新たに導入され、6・3・3・4の学校制度(小学校6年間・中学校3年間・高等学校3年間・大学4年間)を新設し、それまでの複線教育と修身の科目・教育勅語を廃止させた。",
"title": "政策"
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"text": "公教育における中等教育課程での男女別学から男女共学への移行、新制小学校6年間(初等教育課程)新制中学校3年間(前期中等教育課程)による義務教育の9年間への延長などを行い、後期中等教育機関として新制高等学校・高校三原則を発足させた。高等教育の面ではエリート養成機関という社会的役割も担っていた旧制高等学校・旧制大学を廃止させ、教員養成機関であった師範学校を学士課程4年間の新制大学学部へ格上げした。これらは教育のアメリカニゼーションに寄与すべく、2度に亘って来日した教育使節団の報告書に基づいて実行された(アメリカ教育使節団報告書)。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "連合国軍最高司令官総司令部の指令により、薬事法が改正され明治の近代医療導入以来概念自体は存在していたものの曖昧であった医薬分業制度が導入された。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "1948年(昭和23年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知、さらに人種的偏見や文化的偏見から「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と考えた民間情報教育局(CIE)の世論社会調査課長であるジョン・ペルゼル の発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。",
"title": "政策"
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"text": "ペルゼルは、大学院で人類学の修士号を取得した人類学者で、戦前には考古学的調査プロジェクトに参加して日本を訪れたことがあったものの、近代の日本の教育については全くの無知であり、日本人の学習意識が高く、古くからイギリスやドイツ、フランスなどの他の先進国に比べて識字率が高かった上に1872年に学制から始まった義務教育推進運動が進み、1915年には尋常小学校の通学率が90%を超えるなど、学齢期の国民の就学が普遍化していたことを知らなかった。",
"title": "政策"
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"text": "当時東大助手だった言語学者の柴田武は、民間情報教育局の指示によってこの読み書き全国調査のスタッフに選ばれ漢字テストの出題を任された。これは日本初の「無作為抽出法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計数理研究所研究員の統計学者だった林知己夫が被験者のサンプリングを行った。",
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"text": "こうして1948年(昭和23年)8月、文部省教育研修所(現在の国立教育政策研究所)によって調査は実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果は、漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり「識字率が100%に近い」という、ペルゼルの母国のアメリカはおろか、世界的に見ても例を見ない高いレベルだった。",
"title": "政策"
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"text": "柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「字が読めない人が非常に多いという結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「調査結果は捻じ曲げられない」と突っぱね、ペルゼルもそれ以上の無理押しはしなかったという。結局、日本語のローマ字化は撤回された。",
"title": "政策"
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"text": "終戦直後の8月18日、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、アメリカ軍兵士やイギリス軍兵士を中心とした日本各地に慰安所が設置された。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "国内経済の疲弊から社会主義が流行し労働運動は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が起こると、左派勢力たる共産党の勢力拡大が恐れられたために対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を極秘裏に行った。同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することである程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「逆コース」である。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "GHQの意向で解体された日本警察も、国家地方警察と自治体警察に分散していることによる不効率や、平均町村財政の3割以上に及ぶ財政負担に耐えられなくなった地方自治体の要望により、占領期間中から警察法が段階的に改正され、住民投票の付託で自治体警察の存廃ができるようになると、ほんの数年で一千以上の自治体警察が廃止され、国家地方警察に吸収されていった。",
"title": "政策"
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"text": "また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋めるために、警察予備隊の創設と海上保安庁の強化(海上警備隊を創設)を実施して予定を繰り上げて日本の再軍備を行った。その後、日本国との平和条約および(旧)日米安全保障条約の発効に至り、日本は西側陣営の一員として国際社会への復帰を果たした。",
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"text": "GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "日本政府は敗戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らはイタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されていく様子を見た。健全な戦後復興のためには高額賠償金の支払い、領土分割を回避する「寛大な講和」が必要であり、日本政府は「よき敗者」として振舞うことに注力し、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一方、冷戦の激化により、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では国防省が日本への軍の継続駐留を企図して国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の施政権下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。",
"title": "政策"
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"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国(台湾)及び中華人民共和国)と「朝鮮」(大韓民国(韓国)及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮))は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は独立後の財源を確保すべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて賠償請求権の放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって個別の賠償に応じ、国際社会に誠実さをアピールした。",
"title": "政策"
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"text": "これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立及び朝鮮の放棄を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、南洋諸島の放棄、沖縄・奄美・小笠原がアメリカの施政権下におかれることの承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、続いて台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華平和条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。",
"title": "政策"
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"text": "主権回復した日本は、国際連合に加盟するために国連安保理で拒否権を持つソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟、国際社会へ復帰した。その後は安全保障上の米国依存下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。アメリカが統治していた日本領土は1972年(昭和47年)の沖縄返還により全て返還されたが、米軍基地に関する紛争は続いている。またソ連が占領した北方領土については講和条約から現在まで未解決である。",
"title": "政策"
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"text": "なお、同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、東西ドイツが再統合される1990年まで講和会議は行われていなかった(ドイツ最終規定条約を参照)。",
"title": "政策"
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"text": "当時の日本政府は、占領の否定的感覚低減を目してイギリス、アメリカ、オーストラリア軍からなる連合国軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と称するように報道機関に指導した。",
"title": "影響"
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"text": "調達庁の資料には、7年間の占領期間中にアメリカ軍兵に殺害された者が2,536人、傷害を負わされた者は3,012人としている。漫画家の手塚治虫も街角で殴り倒された。またアメリカ軍兵に日本人女性が襲われる事件が2万件といわれ、イギリス軍兵士、オーストラリア兵士によるものも多発し、強姦の際に日本の警察官が事実上の見張り役になる場合もあったなどと述べる者も一部に見られる。さらにアメリカ軍第8軍は組織的に戦利品を収集・配布していた。",
"title": "影響"
},
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"tag": "p",
"text": "これらの犯罪は、占領政策に連合国軍の治外法権が盛り込まれていたため、GHQによって存在自体が隠蔽され、日本はもちろんのこと、本国に於いても刑事裁判に発展することは全くなかった。占領政策が終わってからかなり後になって、日本の歴史研究家たちによってようやくその存在が明らかになった。",
"title": "影響"
},
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"paragraph_id": 56,
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"text": "日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、アメリカ合衆国の映画の統括配給窓口会社CMPE(Central Motion Picture Exchange)を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜ぶりに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際には映画関係者たちは喝采を挙げたという。一方の国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。",
"title": "影響"
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"text": "子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。",
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"text": "非軍事化の一環として日本国内の武道(剣道など)を統括していた政府の外郭団体である大日本武徳会を解散させ、関係者1,300余名を公職追放した。また、全国に日本刀の提出を命じる刀狩りが行われ、膨大な刀剣類が没収され廃棄された(東京都北区赤羽に集められたことから赤羽刀と呼ばれている)。さらにその矛先は映画界にまで及び、チャンバラ映画が禁止されて嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら日本を代表する時代劇俳優が仕事を失った。さらには「丹下左膳余話 百萬両の壺」などの時代劇のフィルムにまではさみが入れられたといわれる。",
"title": "影響"
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"text": "進駐軍の兵士が利用する『進駐軍クラブ』により最新の英米の文化がもたらされた。日本人立ち入り禁止のクラブも多かったが、給仕や演奏者は日本人を採用する方針がとられた。当時のアメリカではスウィング・ジャズがヒットしており、ジャズができる出演者が採用されたことで生活基盤ができ、日本においてジャズが浸透する下地ともなった。出演者の出演料は日本側の終戦連絡事務局、1949年6月からは特別調達庁より出ていた。各軍政部が日本側に要求を出した結果、日米間で問題になり特別調達庁が演奏家の格付審査を行った。楽器を演奏できる人間が少なかったため軍楽隊出身やクラシック奏者など様々な出自の者が集まった。著名人としては笠置シヅ子やジョージ川口などがいた。これらの音楽文化を題材とした作品としてこの世の外へ クラブ進駐軍などがある。",
"title": "影響"
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{
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"text": "クラブで提供される酒類は欧米人が好むビールやウィスキーであったため需要が急増し、進駐軍向けの非課税酒を製造する大手メーカーは潤った。これに関連し笹の川酒造のような日本酒の酒造会社が需要を見越してウイスキー製造の免許を取得する動きもあった。",
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"text": "沖縄ではクラブから大量に発生した空き瓶を利用して琉球ガラスが生まれた。",
"title": "影響"
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"text": "戦後に行われた学校給食への食糧援助には、アメリカで余剰品となった小麦や脱脂粉乳が充てられ、戦後世代の庶民にパンを主食として食べる食習慣が浸透した。一方、昭和30年代までジャーナリズムや農学者を動員してコメ食を否定するキャンペーンが行われた。その背景には余剰穀物の受け入れ促進と、将来の食品市場の拡大を見越して日本人の食嗜好をより洋風的に変化させる意図があった。進駐軍の基地周辺ではステーキやハンバーガー、ホットドッグなど、アメリカの国民食が庶民にも伝わった。",
"title": "影響"
}
] |
連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。 極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官。日本では、総司令部の頭字語であるGHQ(ジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。 名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上はアメリカ合衆国単独の日本国占領機関であり、結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた。降伏文書に基づき、天皇並びに日本国政府の統治権は最高司令官の支配下におかれた。 占領に要する費用(経費)は日本政府にのしかかり、敗戦国家の国家予算を圧迫した。
|
{{redirect|GHQ}}
{{行政官庁
|国名=
|正式名称=連合国軍最高司令官総司令部
|公用語名=General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers
|紋章=
|紋章サイズ=
|画像=GHQ building circa 1950.JPG
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|画像説明=連合国軍最高司令官総司令部が入った[[第一生命館]](1950年頃撮影)
|主席閣僚職名=連合国軍最高司令官
|主席閣僚氏名={{plainlist|
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|次席閣僚職名=
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'''連合国軍最高司令官総司令部'''(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、{{旧字体|'''聯合國軍最高司令官總司令部'''}}、{{lang-en|General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers}})は、[[第二次世界大戦]]終結に伴う[[ポツダム宣言]]を執行するために[[日本]]で[[占領]]政策を実施した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]機関である。'''連合国軍最高司令部'''<ref>{{Cite web|和書|title=連合国軍最高司令部指令:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm |website=www.mext.go.jp |access-date=2023-09-04}}</ref>、'''連合国最高司令官総司令部'''<ref>{{Cite web|和書|title=連合国軍最高司令官総司令部|アジ歴グロッサリー |url=https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0110-0010-0010-0010.html |website=www.jacar.go.jp |access-date=2023-09-04}}</ref>とも。
[[極東委員会]]の下に位置し、最高責任者は'''連合国軍最高司令官'''('''連合国最高司令官'''とも、{{lang-en|'''S'''upreme '''C'''ommander of the '''A'''llied '''P'''owers|links=no}}、'''SCAP'''、スキャップ)。日本では、'''総司令部'''({{lang-en|'''G'''eneral '''H'''ead'''q'''uarters|links=no}})の[[頭字語]]である'''GHQ'''(ジーエイチキュー)や'''進駐軍'''(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。
名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上は[[アメリカ合衆国]]単独の日本国占領機関であり、結果として[[1952年]]([[昭和]]27年)[[4月28日]]に[[日本国との平和条約]]が発効されるまで[[連合国軍占領下の日本]]は外交関係を一切{{要校閲範囲|遼断|date=2023年10月}}され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた<ref>"United States Initial Post-Surrender Po1icy for Japan", 1945/9/22;For example, SCAPIN-44, SCAPIN-45, SCAPIN-74, SCAPIN-110, SCAPIN-2020.</ref>。[[日本の降伏文書|降伏文書]]に基づき、[[天皇]]並びに[[日本国政府]]の[[統治権]]は最高司令官の支配下におかれた<ref>{{cite web|title=降伏文書全文(英文+和訳文)|website=外務省 |url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000097065.pdf|accessdate=August 16, 2020}}</ref>。
占領に要する費用(経費)は日本政府にのしかかり、敗戦国家の国家予算を圧迫した。
==名称==
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]に[[日本国政府|日本政府]]([[鈴木貫太郎内閣]])が受諾通告した[[ポツダム宣言]]では、日本を占領する組織は''occupying forces of the Allies''(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。同年9月2日に締結された[[日本の降伏文書|降伏文書]]の中では、日本政府は''Supreme Commander for the Allied Powers''(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も日本の法令では「'''聯合国最高司令官'''」('''連合国最高司令官''')と表記されることが多い。連合国最高司令官の下に属する組織は英語表記によれば''General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers''('''GHQ/SCAP''')で「'''連合国最高司令官総司令部'''」「'''連合国総司令部'''」と日本語訳され、日本では多くの場合に略称の'''GHQ'''(ジー・エイチ・キュー)と呼称{{efn|GHQ('''G'''eneral '''H'''ead'''q'''uarters)は総司令部 ・総本部・総本店など軍事以外にも企業など組織の頂上機関の意である。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」という意味で使われる事が殆どであるが、日本以外ではその意味で使われる事は殆どなく、「'''GHQ/SCAP'''」と呼称するのが一般的である。}}している。
他方で「軍」を補って、「連合国'''軍'''最高司令官」や「連合国'''軍'''最高司令官総司令部」または「連合国'''軍'''総司令部」のように呼ばれることも多い{{efn|日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で使用されている。}}。
==概要==
[[File:Macarthur hirohito.jpg|thumb|200px|right|[[駐日アメリカ合衆国大使館]]の[[アメリカ陸軍|米陸軍]][[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]最高司令官(左)を訪問した[[昭和天皇]](右)、1945年(昭和20年)9月27日撮影{{efn|同日撮影された3枚のうち、同年9月29日に公開された1枚}}]]
[[Image:5th Gurkha Rifles, Japan 1946.jpg|thumb|200px|[[広島県]][[呉市]]内を行進する英領インド陸軍の王立第5グルカ銃連隊(1946年)]]{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦における日本の有条件降伏である'''「ポツダム宣言」の執行'''のため日本に設置された[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による機関である。
[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は1945年(昭和20年)[[8月14日]](アメリカ大西洋時間)、{{仮リンク|南西太平洋戦域|en|South West Pacific Area (command)}}最高司令官兼太平洋陸軍最高司令官{{efn|{{仮リンク|太平洋戦域|en|Pacific Ocean Areas}}最高司令官兼[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]元帥の担当戦域にある日本本土への上陸作戦で南西太平洋戦域最高司令官のマッカーサーが陸軍部隊を指揮するために新設されたポスト。マッカーサー自身が最高司令官の南西太平洋戦域と[[アメリカ合衆国陸軍省|陸軍省]]直轄のアラスカ軍管区には指揮権が及ばない<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-WD-Ops/USA-WD-Ops-B.html Ray S. Cline, ''United States Army in World War II: The War Department: Washington Command Post: The Operations Division'', Appendix B: U.S. Army Commanders in Major Theater Commands, December 1941-September 1945]</ref>。1947年にアメリカ軍の再編で[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]制度となり、{{仮リンク|極東軍総司令部|en|Far East Command (United States)}}が設置された際に廃止<ref>[https://history.army.mil/books/wwii/MacArthur%20Reports/MacArthur%20V1%20Sup/ch3.htm#b10 ''Reports of General MacArthur: MacArthur in Japan: The Occupation: Military Phase'', Chapter 3: Command Structure of General Headquarters, FEC]</ref>。}} [[ダグラス・マッカーサー]]元帥を連合国軍最高司令官(SCAP)に任命した。
職員は[[コートニー・ホイットニー]]ら[[弁護士]]資格を持つ[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]人や、[[イギリス軍]]人、[[オーストラリア国防軍|オーストラリア軍]]人、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]の民間人ら多数で構成され、同年[[10月2日]]に総司令部が[[東京都]]に設置された。
日本を軍事占領すべく派遣された[[アメリカ軍]]、[[国民革命軍|中国軍]]、[[イギリス軍]]、[[赤軍|ソ連軍]]、[[オーストラリア軍]]、[[カナダ軍]]、[[フランス軍]]、[[オランダ軍]]、[[ニュージーランド軍]]、[[イギリス領インド陸軍|インド軍]]、[[フィリピン軍]]など連合国各国の軍隊から派遣された'''最大43万人'''を統括し、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成された[[イギリス連邦占領軍]](BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が[[中国・四国地方]]を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当<ref>『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.10 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年</ref>した。
日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)[[9月20日]]に出された[[勅令]]「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆる[[ポツダム命令]]{{efn|ポツダム勅令とも称され、[[日本国憲法]]施行後はポツダム[[政令]]である。}}として国民へ公布・施行された。
司令部は最初に日本の[[軍隊]]([[大日本帝国陸軍]]及び[[大日本帝国海軍]])を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、[[山崎巌]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の罷免、[[特別高等警察]]の廃止、[[政治犯]]の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の[[民主化]]や[[政教分離]]などを徹底するために[[大日本帝国憲法]]の改正、[[財閥解体]]、[[農地解放]]などを指示した。
同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関として[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[フランス]]、[[オランダ]]、[[中華民国]]、[[ソビエト連邦]]、[[フィリピン・コモンウェルス|米領フィリピン]]の11カ国と、後に[[ビルマ]]と[[パキスタン]]で構成された'''[[極東委員会]]'''(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。[[1946年]](昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として'''[[対日理事会]]'''(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は[[国共内戦]]が再燃し、[[フランス]]と[[オランダ]]は植民地支配、ソ連は[[衛星国|東欧]]支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。
[[1951年]](昭和26年)[[4月11日]]に[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ハリー・S・トルーマン]]がマッカーサーを解任した後、米陸軍の[[マシュー・リッジウェイ]]中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの2か国間協定を結び、たとえば[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安全保障条約]]に調印して、アメリカ軍の国内駐留と[[治外法権]]などの特権、そして前年より継続して行われた[[朝鮮戦争]]への対応などのための駐留を認めた。
===連合国軍最高司令官===
{|class="wikitable" style="margin-right:0px"
!代
!写真
!氏名
!在任期間
![[任命権者]]
|-
|style="text-align:center" |1
|[[File:DouglasMacArthur1945.jpg|75px|1945年8月24日]]
|[[ダグラス・マッカーサー]]<ref name=jacar>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0110-0010-0010-0010.html|title=連合国軍最高司令官総司令部|date=|work=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター|accessdate=2017-10-12}}</ref>
|1945年8月15日<ref name=archivesokinawa>{{Cite web|和書|url=http://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5365|title=マッカーサー記念館所蔵沖縄関係資料の公開|date=|work=|publisher=[[沖縄県公文書館]]|accessdate=2017-10-12}}</ref> <br>- 1951年4月11日<ref name=jacar/>
| rowspan="2" |第33代[[アメリカ合衆国大統領]]<br>[[ハリー・S・トルーマン]]<ref name=archivesokinawa/>
|-
|style="text-align:center" |2
|[[File:Matthew B. Ridgway.jpg|75px|1951年頃]]
|[[マシュー・リッジウェイ]]<ref name=jacar/>
|1951年4月12日<ref name=jacar/> <br>- 1952年4月28日<ref name=jacar/>
|}
===本部===
[[File:DN-Tower-02.jpg|thumb|right|200px|接収された[[第一生命館]]。現[[DNタワー21]](手前は皇居の外堀。後ろの高層部分は後に増築したもの。旧第一生命館は外観保存の上改築されたが、最高司令官執務室はそのまま保存されている。2011年撮影)]]{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
当初は現在の[[横浜税関]]に置かれたが、後に[[皇居]]と[[東京駅]]に挟まれた[[丸の内]]地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は[[第一生命館]]に置かれた。マッカーサー用の机は[[石坂泰三]]のものをそのまま使用した。
第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が理解され接収の対象外であった。
1989年から1995年にかけて、第一生命館は順次[[DNタワー21]]として再開発が行われ、建物の一部外装と6階にあったマッカーサー記念室以外は現在失われている。
{{-}}
===機構===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関である。GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して設置した太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAPが東京に本部を設置後にGHQ/AFPAC本部も東京へ移転している。
連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に'''参謀長'''が置かれ、その下に'''参謀部'''と'''幕僚部'''('''特別参謀部'''または'''専門部'''とも)が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ'''副参謀長'''が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。
; 参謀部(General Staff Section)
#[[参謀第1部]](G1 人事担当)
#[[参謀第2部]](G2 情報担当) - 管下に[[民間検閲支隊]](CCD)が置かれ、[[プレスコード]]の実施を担当した。
#[[参謀第3部]](G3 作戦担当)
#[[参謀第4部]](G4 後方担当)
[[諜報]]、[[保安]]、[[検閲]]を任務とする第2部(G2)の権限が強く、占領中の不明解事件はG2配下で[[キヤノン機関]]と俗称される[[特務機関]]の関与を疑義する一部の者もいる。
; 幕僚部/特別参謀部/専門部(Special Staff Section)
#法務局(LS)
#[[公衆衛生福祉局]](PHW)
#[[民政局]](GS:Government Section 政治行政)
#[[民間諜報局]](CIS:Civil Intelligence Section)
#[[天然資源局]](NRS:Natural Resources Section [[農地改革]]など)
#[[経済科学局]](ESS:Economic & Scientific Section [[財閥解体]]など)
#[[民間情報教育局]](CIE:Civil Information & Educational Section [[教育改革]]など)
#統計資料局(SRS)
#民間通信局(CCS:Civil Communication Section)
:1946年1月段階で11部局、後に14部局へ拡大している。GHQ/AFPAC側の幕僚部に、法務部(JA)、監察部(IGS)、医務部(MS)、防空部(AAS)、通信部(SS)、兵器部(OS)、広報部(PRS)など各部が置かれていた。「非軍事化・民主化」政策で主導権を発揮したGSは[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]政権下で[[ニューディール政策]]に携わった者が多数配属されて日本の機構改造に活動した。GSとG2は日本の運営を巡って対立し、GSは[[片山内閣|片山]]と[[芦田内閣|芦田]]両内閣を、G2は[[吉田内閣]]をそれぞれ支持して政権交代や[[昭和電工事件]]に影響し、[[逆コース]]以後は国務省の意向も踏まえG2が勢力を広めている。
==政策==
総司令部の最大の目標は連合国にとって脅威となる[[日本]]の[[軍事]]力解体で、日本を中立・非武装化して中華民国をアジアの中心となし{{efn|[[共産主義]]勢力台頭に伴い方針を変更している。さらに、中華民国は、中国地域の統治権を失い、台湾島(現台湾)に亡命した。}}、[[軍国主義]]を廃して親英米的な[[国家]]へ創り変えることであり、マッカーサーは『上からの[[革命]]』と称し「当初は日本を[[工業国]]から[[農業国|農業小国]]に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と後年に語っている{{要出典|date=2008年8月}}<ref>P.249, Marx's Revenge:The Resurgence of Capitalism and the Death of Statist Socialism, 著者:Meghnad Desai
"The Americans had intended Japan to be an agricultural county, as a punishment for its wartime conduct."https://books.google.co.jp/books?id=RflAloLOg1YC&lpg=PA249&ots=F3nY62PzqJ&dq=The%20Americans%20had%20intended%20Japan%20to%20be%20an%20agricultural%20county%2C%20as%20a%20punishment%20for%20its%20wartime%20conduct.&hl=ja&pg=PA249#v=onepage&q=The%20Americans%20had%20intended%20Japan%20to%20be%20an%20agricultural%20county,%20as%20a%20punishment%20for%20its%20wartime%20conduct.&f=false
</ref>。初期はGHQで広く権限を有す[[民政局]]が策定して実施され、[[冷戦]]兆候以後は[[参謀第2部]]の主導で[[レッドパージ]]などを実施している。
===戦争犯罪人の逮捕===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
連合国軍は占領直後から戦争指導者の検挙を始めて[[東條英機]]元首相を含む数十名を逮捕し、A級戦犯として[[極東国際軍事法廷]]の判決で東條以下7名を[[死刑]]、その他多数を[[禁錮]]刑や[[終身刑]]に処している。本裁判は戦時の国際法抵触者ではなく戦争に携わった士官以上が裁かれ、日本は平和条約でこれを受諾している。
===公職追放===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
戦争や[[大政翼賛会]]に関与したと見做された者は、政府機関など特定の職に就くことを禁止され、[[軍人]]や戦時中に軍へ協力的と認定された[[政治家]]、[[思想家]]などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止されるなど[[公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令|公職追放]]が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は'''25万人'''とする説もあり、この公職追放直後の期間では日本の中央政府と地方自治体は事実上機能を停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した[[東宝]]など映画界も影響を受けている。しかし、後に首相となる[[吉田茂]]や[[鳩山一郎]]の軋轢をはじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。また、後の[[サンフランシスコ平和条約]]の締結などを目指すため、国務省政策確定部長の[[ジョージ・ケナン]]がワシントンと総司令部の意思疎通を図るため来日し、1948年10月に大統領の許可を得て以下のことが提言された。
*占領政策の重点を改革から経済復興に目指すこと
*追放を緩和し、遠からず中止すること
*占領軍経費を縮小すること
*日本軍が戦前行った行為に対する賠償を漸次中止すること
*講和条約締結を急がせること
*講和条約は懲罰的であってはならないこと
*沖縄は依然として長期駐留をすること
*日本の警察力を強化すること
これにより旧[[軍閥]]や[[政治家]]は復帰し、後に[[鳩山一郎]]や[[石橋湛山]]が政治界に戻ってくることになった。
追放については連合国内でも批判があり、アメリカ国内でも本来目的の「軍国主義者などの日本政界からの追放」を超えた影響を及ぼしたとして、占領政策の批判を受けるなど、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン大統領]]とマッカーサー連合国最高司令官の確執へつながるとする者もいる<ref>{{Cite book |和書 |author=青木冨貴子|authorlink=青木冨貴子|title=昭和天皇とワシントンを結んだ男―「パケナム日記」が語る日本占領 |publisher=新潮社 |date=2011-05-01 |isbn=9784103732068 |pages=37-43}}</ref>。
===言論統制===
総司令部が政策として最初に行ったことは[[検閲]]である。1945年(昭和20年)9月に発した「[[プレスコード]]」などで軍国主義的、戦前から戦中の日本を肯定、連合国軍の行為を批判、[[原子爆弾]]や無差別[[空襲]]の被害などを[[ラジオ]]や[[新聞]]、雑誌、一般市民発行の本などを厳しく取り締まり{{efn|[[検閲]]物はGHQの文官プランゲ博士が米国メリーランド大学へ移管して後年に[[プランゲ文庫]]として公開されている。}}言論を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」([[SCAPIN]]-16)を発し言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして[[朝日新聞社]]は二日間の業務停止命令を受けた。また、貧困や人種差別など米国社会の暗黒面を描いたアメリカ文学作品の翻訳出版も許可しなかった<ref>{{Cite book |和書 |author=矢島翠 |title=ラ・ジャポネーズ―キク・ヤマタの一生 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 |date=1990-12-01 |isbn=9784480024954 |page=245}}</ref>。
「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった<ref>{{Cite journal|和書|author=谷 暎子 |title=占領下の児童書検閲 : 違反に問われた絵本をめぐって |journal=北星学園大学文学部北星論集 |volume=43 |issue=1 |publisher=[[北星学園大学]] |location=[[北海道]][[札幌市]] |date=2005-09 |pages=91-100 |url=http://id.nii.ac.jp/1238/00001499/ |issn=0289-338X |naid=110006195163}}</ref>。
* 連合国兵の暴行事件
* 連合兵の私行に関して面白くない印象を与える記事
* 連合国軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事
* 食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事
* 連合軍の政策を非難する記事
* 国内における各種の動きに連合国司令部が介在しているように印象づける記事
などであった<ref>{{Cite report|title=日本メディア検閲下(下)|和書|author=前坂俊之|authorlink=前坂俊之|date=2003-07|url=http://maesaka.sakura.ne.jp/bk/files/030701_kenetsuge.pdf|format=PDF}}</ref>。
さらに上記「検閲指針」の違反者は米軍の軍事法廷で訴追され、沖縄における強制重労働3年乃至5年であった。「Apr 29, 1949:The editor of the magazine “Emancipation News” was sentenced to five years of hard labor(Braw 1991, chapter 7)」<ref>RELATIONS BETWEEN ALLIED FORCES AND THE POPULATION OF JAPAN (PDF)</ref><ref>「忘れたこと忘れさせられたこと」、江藤淳、文春文庫、H4.1 p248</ref>。
===非軍事化===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。イギリス軍やアメリカ軍により残存していた使用可能な兵器類は全てスクラップ、もしくはテストのために持ち去られ、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。例えば、当時の最先端科学分野で日本が著しい進歩を遂げていた[[理化学研究所|理研]]の[[サイクロトロン]]研究や、ロケット戦闘機「[[桜花 (航空機)|桜花]]」、巨大潜水艦など根こそぎ接収され、それらの研究環境も破壊された<ref name="mizu">{{Harvnb|水間|2013|pp=41-42}}</ref>。日本の研究所の調査を担当した米国の科学者らは、日本のサイクロトロン実験設備を詳細に見てそのレベルの高さに驚き「なぜ日本は原子爆弾を製造しなかったのか」と疑問を呈し、英国もGHQ最高司令部宛てに「鍋釜以外は日本に作らせるな」と申し入れをした記録も残っている<ref name="mizu" />。
物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり「国民主権」「基本的人権の尊重」という[[民主主義]]の基本を備えると共に、「戦争放棄」を謳った[[憲法]]([[日本国憲法]])を作成し日本政府に与えた(日本の戦争放棄は[[幣原喜重郎]]首相も考えていたとマッカーサーは記録している。また、幣原は自らの著書である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている)。また、[[天皇]]・[[皇室]]の神聖性の除去、[[国家神道]]の廃止、[[軍国主義]]教育の廃止、[[第六潜水艇]]に代表される多くの軍人の顕彰施設の破壊など、[[明治]]からの社会[[思想]]を解体した。
===民主化===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「[[労働組合法]]の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。[[労働組合]]はすぐに解禁され、[[男女同権]]論に基づく[[婦人参政権]]は直後の[[衆議院]]選挙から実行された。圧政的といわれた[[治安維持法]]と[[特別高等警察]]はこれを廃止し戦時中にこれらの罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。
経済界においては経済民主化のために[[三井財閥|三井]]・[[三菱財閥|三菱]]・[[住友財閥|住友]]・[[安田財閥|安田]]の四大[[財閥]]を解体した('''[[財閥解体]]''')。さらに[[地方自治法]]が制定され、[[都道府県知事]]は官選から直接公選へと変更されたほか、地方行財政や警察を統括していた[[内務省 (日本)|内務省]]が解体・廃止された。[[日本の警察|警察]]もGHQの[[民政局]](GS)から非民主的な警察制度であるとして解体を強いられ、[[国家地方警察]]と約1,700もの[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]に解体・細分化された。
===農政===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
[[農地改革]]によって大[[地主]]から強制的に土地を買い上げて[[小作人]]に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を[[保守]]化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の[[食料自給率]]低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。
===教育改革===
{{See also|日本の教育|日本教育史|墨塗り教科書}}{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
[[明治維新]]による[[学制]]を抜本的に改組する形で[[学制改革]]が行われた。教育方針は連合国側で矯正させ、旧[[教育基本法]]と[[学校教育法]]を制定させた。これにより[[初等教育]]・[[中等教育]]・[[高等教育]]課程の[[学校教育]]制度は「単線教育」が新たに導入され、6・3・3・4の[[学校制度]]([[小学校#日本の小学校|小学校]]6年間・中学校3年間・[[高等学校]]3年間・[[日本の高等教育#大学|大学]]4年間)を新設し、それまでの[[学校体系#学校体系の種類|複線教育]]と[[修身]]の科目・[[教育勅語]]を廃止させた。
[[公教育]]における[[中等教育]]課程での[[男女別学]]から[[男女共学]]への移行、[[小学校#日本の小学校|新制小学校]]6年間([[初等教育]]課程)[[中学校|新制中学校]]3年間(前期[[中等教育]]課程)による[[義務教育]]の9年間への延長などを行い、後期中等教育機関として[[高等学校|新制高等学校]]・[[高校三原則]]を発足させた。[[高等教育]]の面では[[エリート]]養成機関という社会的役割も担っていた[[旧制高等学校]]・[[旧制大学]]を廃止させ、[[教員#太平洋戦争前|教員]]養成機関であった[[師範学校]]を[[学士]]課程4年間の[[新制大学]]学部へ格上げした。これらは教育の[[アメリカニゼーション]]に寄与すべく、2度に亘って来日した教育使節団の報告書に基づいて実行された([[アメリカ教育使節団報告書]])。
===医療制度改革===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
連合国軍最高司令官総司令部の指令により、薬事法が改正され明治の近代医療導入以来概念自体は存在していたものの曖昧であった[[医薬分業]]制度が導入された。
===日本語のローマ字化計画と断念===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
1948年(昭和23年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知、さらに[[人種差別|人種的偏見]]や文化的偏見から「[[日本語]]は漢字が多いために覚えるのが難しく、[[識字率]]が上がりにくいために[[民主化]]を遅らせている」と考えた[[民間情報教育局|民間情報教育局(CIE)]]の世論社会調査課長である[[ジョン・ペルゼル]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%AB ペルゼル とは - コトバンク]</ref> の発案で、日本語を[[ローマ字]]表記にしようとする計画が起こされた。
ペルゼルは、大学院で[[人類学]]の[[修士号]]を取得した人類学者で、戦前には考古学的調査プロジェクトに参加して日本を訪れたことがあったものの、近代の日本の教育については全くの無知であり、日本人の学習意識が高く、古くから[[イギリス]]や[[ドイツ]]、[[フランス]]などの他の[[先進国]]に比べて識字率が高かった上に1872年に[[学制]]から始まった[[義務教育]]推進運動が進み、1915年には[[尋常小学校]]の通学率が90%を超えるなど、学齢期の国民の就学が普遍化していたことを知らなかった。
当時東大助手だった言語学者の[[柴田武]]は、民間情報教育局の指示によってこの読み書き全国調査のスタッフに選ばれ漢字テストの出題を任された。これは日本初の「[[無作為抽出]]法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計数理研究所研究員の統計学者だった[[林知己夫]]が被験者のサンプリングを行った。
こうして1948年(昭和23年)8月、[[文部省]]教育研修所(現在の[[国立教育政策研究所]])によって調査は実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果は、漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり「識字率が100%に近い」という、ペルゼルの母国のアメリカはおろか、世界的に見ても例を見ない高いレベルだった。
柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「字が読めない人が非常に多いという結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「調査結果は捻じ曲げられない」と突っぱね、ペルゼルもそれ以上の無理押しはしなかったという<ref>[[朝日新聞]]2008年12月5日夕刊より。柴田は国字[[ローマ字論]]の第一人者である。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=阿辻哲次 |title=戦後日本漢字史 |publisher=新潮社 |series=新潮選書 |isbn=9784106036682 |page=40}}</ref>。結局、日本語のローマ字化は撤回された。
===「慰安所」の設置===
{{出典の明記|date=2015年11月16日 (月) 12:13 (UTC)|section=1}}
終戦直後の8月18日、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には[[近衛文麿]]国務相が「[[特殊慰安施設協会]](RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、アメリカ軍兵士やイギリス軍兵士を中心とした日本各地に[[慰安所]]が設置された。
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一方で、当時、東京都民生局長だった[[磯村英一]]は著書の中で「GHQのほぼ最初の命令はレクレーションセンター(連合国兵専用の慰安所)の設置だった。日本人慰安婦(通称[[パンパン]])を集めて直に作れと命令された」と述べている{{要出典}}。
当時の警察の記録によれば、横浜や横須賀だけでも被害届が出されたものでも1日平均30?40件のアメリカ兵による強姦事件があったとされている{{要出典}}。当時の新聞には「恵比須顔にご用心」といった記事が掲載され、「道を歩いていてアメリカ兵とすれ違う時に下手に愛想笑いをすると、路地裏に連れ込まれて強姦される」と注意を促していた{{要出典}}。
更に「処女狩り」と称して白昼堂々市街地の一区画を武装したアメリカ兵が封鎖し、その中で未婚の女性(当時はほぼ100%処女だった)を集団強姦したり、ジープに分乗して病院に乗り付け、看護婦や入院患者を次々と強姦するといった悪質なケースもあった{{要出典}}。強姦されている最中にショック死したり、強姦された後に自殺する女性が数多くいた{{要出典}}。
更に磯村は慰安所の事実がアメリカで報道され、アメリカの女性団体の抗議を受けた後は慰安所の運営を秘密裏に行うよう命令されたと証言している{{要出典}}。
-->
===非共産化と再軍備===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
国内経済の疲弊から[[社会主義]]が流行し[[労働運動]]は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる[[冷戦]]が起こると、左派勢力たる[[日本共産党|共産党]]の勢力拡大が恐れられた{{efn|日本社会党(現在の社会民主党)が結成されたのは1947年11月。}}ために対日政策の方針転換が行われて、[[日本列島]]を『反共の防波堤』にする計画が進み、[[共産主義]]者の追放([[レッドパージ]])を極秘裏に行った。同時に[[軍国主義]]・超[[国家主義]]者などの[[公職追放]]を解除することである程度の[[右派]]勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「[[逆コース]]」である。
GHQの意向で解体された日本警察も、国家地方警察と自治体警察に分散していることによる不効率や、平均町村財政の3割以上に及ぶ財政負担に耐えられなくなった地方自治体の要望により、占領期間中から[[警察法]]が段階的に改正され、[[住民投票]]の付託で自治体警察の存廃ができるようになると、ほんの数年で一千以上の自治体警察が廃止され、国家地方警察に吸収されていった。
また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。[[朝鮮戦争]]勃発によって連合国軍の一部が[[朝鮮半島]]に移ると、日本国内の軍事的空白を埋めるために、[[警察予備隊]]の創設と[[海上保安庁]]の強化([[海上警備隊]]を創設)を実施して予定を繰り上げて日本の再軍備を行った。その後、[[日本国との平和条約]]および[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安全保障条約]]の発効に至り、日本は西側陣営の一員として国際社会への復帰を果たした。
GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。
===対日講和===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
日本政府は敗戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、[[吉田茂]](外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らは[[イタリア]]などの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されていく様子を見た。健全な戦後復興のためには高額賠償金の支払い、領土分割を回避する「寛大な講和」が必要であり、日本政府は「よき敗者」として振舞うことに注力し、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。
一方、[[冷戦]]の激化により、日本との講和も[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]など[[自由主義陣営]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]などの[[社会主義陣営]]の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に[[非武装]]を国是とした日本の[[防衛]]をどうするかが大きな課題となった。米国内では[[アメリカ国防総省|国防省]]が日本への軍の継続駐留を企図して[[アメリカ国務省|国務省]]主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の施政権下にある[[沖縄県|沖縄]]・[[奄美群島|奄美]]・[[小笠原諸島|小笠原]]に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
1951年(昭和26年)の講和会議には[[イギリス|英]][[フランス|仏]][[オランダ|蘭]]の要求によって各国の旧[[植民地]]も参加した一方、[[内戦]]で立場が微妙な'''「中国」'''([[中華民国]]([[台湾]])及び[[中華人民共和国]])と'''「朝鮮」'''([[大韓民国|大韓民国(韓国)]]及び[[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)]])は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の[[東南アジア]]数カ国は独立後の財源を確保すべく、'''「日本による侵略の被害者」'''を訴えて賠償請求権の放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって個別の賠償に応じ、国際社会に誠実さをアピールした。
これらの結果、[[日本国との平和条約|講和条約]]には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し対日国交回復した。条約により、日本は[[朝鮮半島]]の独立及び朝鮮の放棄を承認、[[台湾]]・[[澎湖諸島]]の放棄、[[樺太]]・[[千島列島]]の放棄、[[南洋諸島]]の放棄、沖縄・奄美・小笠原がアメリカの施政権下におかれることの承認、[[東京裁判]]の結果の承認を行った。同時に[[日米安全保障条約]]に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、続いて[[台湾島]]に拠点を移した中華民国の[[中国国民党]]政府を承認する[[日華平和条約]]を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、[[国際連合]]に加盟するために[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]で[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を持つ[[ソビエト連邦|ソ連]]との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に[[国際連合]]に加盟、国際社会へ復帰した。その後は安全保障上の米国依存下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要[[先進国]]の一つとなった。アメリカが統治していた日本領土は1972年(昭和47年)の[[沖縄返還]]により全て返還されたが、米軍基地に関する紛争は続いている。またソ連が占領した[[北方地域|北方領土]]については講和条約から現在まで未解決である。
なお、同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした[[西ドイツ]]の主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、東西ドイツが再統合される1990年まで講和会議は行われていなかった([[ドイツ最終規定条約]]を参照)。
==影響==
===犯罪===
当時の日本政府は、占領の否定的感覚低減を目してイギリス、アメリカ、オーストラリア軍からなる連合国軍を「'''進駐軍'''(しんちゅうぐん)」と称するように報道機関に指導した{{efn|[[プレスコード]]による[[ダブルスピーク]]で、連合国軍将兵の犯罪を「大男」などと報じている。}}。
[[防衛施設庁|調達庁]]の資料<ref>高山正之『サダム・フセインは偉かった』</ref>には、7年間の占領期間中にアメリカ軍兵に殺害された者が2,536人、傷害を負わされた者は3,012人としている。漫画家の[[手塚治虫]]も街角で殴り倒された<ref>高山正之『ジョージ・ブッシュが日本を救った』</ref>。またアメリカ軍兵に日本人女性が襲われる事件が2万件といわれ、イギリス軍兵士、オーストラリア兵士によるものも多発し、強姦の際に[[日本の警察官]]が事実上の見張り役になる場合もあった<ref>須山幸雄『二・二六青春群像』</ref>などと述べる者も一部に見られる。さらにアメリカ軍[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]は組織的に戦利品を収集・配布していた<ref>{{Cite book |和書 |author1=服部一馬 |author2=斉藤 秀夫 |title=占領の傷跡―第二次大戦と横浜 |publisher=有隣堂 |series=有隣新書 |date=1983-06-01 |isbn=9784896600568 |page=48}}</ref>。
これらの犯罪は、占領政策に連合国軍の治外法権が盛り込まれていたため、GHQによって存在自体が隠蔽され、日本はもちろんのこと、本国に於いても刑事裁判に発展することは全くなかった。占領政策が終わってからかなり後になって、日本の歴史研究家たちによってようやくその存在が明らかになった。
===文化===
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、[[アメリカ合衆国の映画]]の統括配給窓口会社[[セントラル映画社|CMPE]](Central Motion Picture Exchange)を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した[[淀川長治]]によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜ぶりに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際には映画関係者たちは喝采を挙げたという。一方の国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
子供達の文化媒体であった[[紙芝居]]では、「[[黄金バット]]」の「髑髏怪人」というキャラクターを「[[スーパーマン]]」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。
非軍事化の一環として日本国内の[[武道]]([[剣道]]など)を統括していた政府の[[外郭団体]]である[[大日本武徳会]]を解散させ、関係者1,300余名を[[公職追放]]した。また、全国に[[日本刀]]の提出を命じる[[刀狩り]]が行われ、膨大な刀剣類が没収され廃棄された(東京都北区[[赤羽]]に集められたことから[[赤羽刀]]と呼ばれている)。さらにその矛先は[[日本映画|映画]]界にまで及び、[[チャンバラ]]映画が禁止されて[[嵐寛寿郎]]や[[片岡千恵蔵]]ら日本を代表する[[時代劇]][[俳優]]が仕事を失った。さらには「[[丹下左膳余話 百萬両の壺]]」などの時代劇のフィルムにまではさみが入れられたといわれる。
進駐軍の兵士が利用する『進駐軍クラブ』により最新の英米の文化がもたらされた。日本人立ち入り禁止のクラブも多かったが、給仕や演奏者は日本人を採用する方針がとられた。当時のアメリカでは[[スウィング・ジャズ]]がヒットしており、ジャズができる出演者が採用されたことで生活基盤ができ、日本において[[ジャズ]]が浸透する下地ともなった<ref>[http://www.tontonclub.com/visit/walk/06/ 街歩きに出かけよう:Vol.6 進駐軍ジャズの跡を訪ねて - TONTON club]</ref>。出演者の出演料は日本側の終戦連絡事務局、1949年6月からは特別調達庁より出ていた。各軍政部が日本側に要求を出した結果、日米間で問題になり特別調達庁が演奏家の格付審査を行った。楽器を演奏できる人間が少なかったため軍楽隊出身やクラシック奏者など様々な出自の者が集まった。著名人としては[[笠置シヅ子]]や[[ジョージ川口]]などがいた。これらの音楽文化を題材とした作品として[[この世の外へ クラブ進駐軍]]などがある。
クラブで提供される酒類は欧米人が好む[[ビール]]や[[ウィスキー]]であったため需要が急増し、進駐軍向けの非課税酒を製造する大手メーカーは潤った<ref>[http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/history/kaisetsu/bk_05e.html 昭和15年〜昭和23年・戦時下および統制下におけるビール (5)戦後も続いた配給制度|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン]</ref>。これに関連し[[笹の川酒造]]のような日本酒の酒造会社が需要を見越してウイスキー製造の免許を取得する動きもあった<ref>[http://whiskymag.jp/sasa_asaka/ 東北の新星、安積蒸溜所が誕生] - ウイスキーマガジン</ref>。
沖縄ではクラブから大量に発生した空き瓶を利用して[[琉球ガラス]]が生まれた。
戦後に行われた[[日本の学校給食|学校給食]]への食糧援助には、アメリカで余剰品となった小麦や[[脱脂粉乳]]が充てられ、戦後世代の庶民にパンを[[主食]]として食べる食習慣が浸透した<ref name="Sakai">{{Cite book |和書 |author=酒井伸雄 |title=日本人のひるめし |publisher=吉川弘文館 |series=読み直す日本史 |date=2019 |isbn=9784642071024 |pages=86-90}}</ref>。一方、昭和30年代までジャーナリズムや農学者を動員してコメ食を否定するキャンペーンが行われた。その背景には余剰穀物の受け入れ促進と、将来の食品市場の拡大を見越して日本人の食嗜好をより洋風的に変化させる意図があった<ref name="Sakai"/>。進駐軍の基地周辺では[[ステーキ]]や[[ハンバーガー]]、[[ホットドッグ]]など、アメリカの国民食が庶民にも伝わった<ref name="協会">{{Cite web|和書|url=http://nhha.lin.gr.jp/hh/history/hamburger.html|title=ハンバーガーの歴史|publisher=一般社団法人日本ハンバーグ・ハンバーガー協会|accessdate=2017-12-04}}</ref>。
==年表==
; {{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}} 1945年(昭和20年)
* 7月26日:[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が連名で[[ポツダム宣言]]を発表。
* 8月14日:日本政府がポツダム宣言の受諾を通告。[[昭和天皇]]が終戦の詔書を出す。
* 8月15日:昭和天皇が国民に向けてポツダム宣言の受諾を発表する([[玉音放送]])。[[鈴木貫太郎内閣]]総辞職。
* 8月17日:[[東久邇宮内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]成立。
* 8月28日:テンチ[[アメリカ陸軍]]大佐以下150名が[[横浜市|横浜]]に初上陸し、連合国軍本部を設置。
* 8月30日:マッカーサー厚木飛行場に降り立つ。横浜税関の建物を接収して太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を設置。
[[ファイル:JapaneseSurrender.jpg|thumb|200px|降伏文書に調印]]
* 9月2日:日本政府が[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。
* 9月8日:連合国軍、東京を占領する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
* 9月10日:「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」([[SCAPIN]]-16)発令。連合国軍が[[検閲]]を始める。
* 9月15日:東京・日比谷の[[第一生命保険|第一生命館]]を接収。
* 9月16日:連合国軍本部が横浜から第一生命館に移転。
* 9月17日:マッカーサー、東京の本部に入る。
* 9月18日:[[朝日新聞]]への二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)。
* 9月19日:[[言論統制]]のための[[プレスコード]]が出される。
* 9月20日:連合国軍最高司令官の法的根拠を定めた[[ポツダム命令|ポツダム緊急勅令]]が公布、同日から施行される。
* 9月22日:放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。
* 9月27日:[[昭和天皇]]、GHQ本部へ行幸。密談が行われる。
* 10月2日:連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第4号により「民間情報教育局」が米太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)より移行<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo/CIE.html GHQ/SCAP Records, Civil Information and Education Section (CIE)]、[[国立国会図書館]]</ref>。
* 10月4日:自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。
* 10月8日:事前検閲を[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[讀賣報知]]、[[日本経済新聞|日本産業経済]]、[[東京新聞]]の在京五紙に対して開始。
* 10月9日:東久邇宮内閣[[総辞職]]し、[[幣原内閣]]が成立。
* 10月11日:女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
* 10月15日:[[治安維持法]]の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
* 11月18日:[[皇族]]資産凍結の指令。
* 12月6日:[[近衛文麿]]や[[木戸幸一]]など民間人9人の逮捕を命令。
* 12月7日:いわゆる[[農地解放]]指令(農地の小作人への分配)。
* 12月8日:[[太平洋戰爭史]]を全国の新聞へ掲載させる。
* 12月9日:[[農地改革]]を指示。[[眞相はかうだ]]の放送を開始。
* 12月15日:[[神道指令]]を指示([[政教分離]]等)。
* 12月31日:「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。[[修身]]、[[国史]]、[[地理]]の授業は中止、教科書は蒐集される。
; 1946年(昭和21年)
* 1月4日:[[軍人]]・[[戦争犯罪人|戦犯]]・[[軍国主義者]]及び同傾向政治家などの[[公職追放]]を指示。
* 2月:イギリス連邦占領軍が本格的な日本進駐を開始。直ちに中国地方および四国地方の占領任務を、1945年9月より同地に進駐していた[[アメリカ軍]]から引き継いだ。
* 2月3日:マッカーサー、[[民政局]]長[[コートニー・ホイットニー]]に自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
* 2月13日:ホイットニー局長、新憲法モデル文章を[[吉田茂]]らに見せる。
* 3月6日:日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
[[ファイル:IMTFE court chamber.jpg|thumb|200px|極東国際軍事裁判[[市ヶ谷]]法廷大法廷]]
* 5月3日:[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)開廷。
* 11月3日:[[日本国憲法]]公布。
* 12月18日:ワシントンの[[極東委員会]]、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
; 1947年(昭和22年)
* 1月31日:マッカーサー、[[二・一ゼネスト]]中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。
* 5月:総司令部内に賠償局を設置。
* 5月:GHQ、日本政府に対し「[[帝国]]」の語の使用を禁じる。
* 5月3日:日本国憲法施行。
* 7月11日:マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
* 7月22日:ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
; 1948年(昭和23年)
* 6月30日:[[福井地震]]の被災地救援活動を発表。上空から支援物資の投下、救援列車の編成などが行われる<ref>{{Cite news |和書 |title=北陸震災に救援あつまる |newspaper=朝日新聞 |date=1948-07-01 |page=2}}</ref>。
* 11月12日:東京裁判が[[A級戦犯]]25人に有罪判決。うち[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[土肥原賢二]]、[[東條英機]]、[[広田弘毅]]、[[武藤章]]、[[松井石根]]に[[死刑]][[判決 (日本法)|判決]]。
* 11月30日:政令201を受け[[国家公務員法]]改正。公務員の団体行動権を否定([[労働基本権#日本の公務員の労働基本権]])。
* 12月8日:民政局次長[[チャールズ・ケーディス]]大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
* 12月18日:GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換。[[逆コース]]の始まり)。
* 12月23日:東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
; 1949年(昭和24年)
* 3月1日:GHQ/SCAP経済顧問[[ジョゼフ・ドッジ]]、超均衡予算、補助金全廃、[[復興金融金庫]]の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示([[ドッジ・ライン]])。
* 5月3日:帰国中の[[チャールズ・ケーディス]]大佐が民政局次長を辞任。
* 5月10日:[[浦和事件]]の判決の刑期は不当であるという旨のGHQの指摘により行われた[[国政調査権]]調査は越権行為であるとして[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が抗議を申入れ([[参議院]]は[[裁判官会議]]によるの申入れが越権行為であると回答)。
* 9月15日:シャウプ税制使節団、[[税制]]の抜本的改編を発表。(詳細は[[シャウプ勧告]]を参照)
* 11月1日:米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
; 1950年(昭和25年)
* 6月6日:マッカーサー、[[日本共産党]]中央委員24名を[[公職追放]]。
* 6月25日:[[朝鮮戦争]]勃発(- 1953年)。[[アメリカ合衆国軍]]と[[イギリス連邦占領軍]]が[[大韓民国]]を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
* 7月8日:マッカーサー、[[吉田茂|吉田首相]]に警察力強化([[警察予備隊]]7万5000名の創設と[[海上保安庁]]8,000名増員)を求める書簡を送る。
* 7月24日:GHQ/SCAP、[[日本共産党]]幹部逮捕と[[日本新聞協会]]代表に共産党員の追放を勧告([[レッドパージ]])。
* 8月10日:警察予備隊令を公布。[[総理府]]の機関として、[[警察予備隊]]が置かれる。
* 8月27日:第2次アメリカ教育使節団来日。
* 9月14日:米[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領、対日講和と[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]締結交渉の開始を指令。
* 11月24日:米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
; 1951年(昭和26年)
* 1月:マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
* 4月11日:マッカーサー、朝鮮戦争で[[中国東北部]]空爆を巡りトルーマン大統領と対立し{{仮リンク|ダグラス・マッカーサーの解任|en|Relief of Douglas MacArthur|label=更迭}}される。
* 4月16日:マッカーサーとホイットニーら、アメリカへ帰国。[[マシュー・リッジウェイ]]中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
* 9月8日:[[サンフランシスコ]]講和会議で[[日本国との平和条約|日本国との平和条約('''サンフランシスコ条約''']])を調印(ソ連は未署名)。続いて日米安全保障条約に調印。
; 1952年(昭和27年)
* 2月28日:[[日米行政協定]]締結。
* 4月28日:日本国との平和条約が発効、日本の[[主権]]回復に伴い、GHQが解体され、SCAPが廃止される。だが実際には、占領軍のうち[[アメリカ軍]]部隊は条約第6条a項但し書き、及びこれを口実に締結された[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]に基づき[[在日米軍]]に再編された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
==参考文献==
* [[天川晃]] 監修、荒敬 編集・解説『GHQトップ・シークレット文書集成』([[柏書房]]、1993年 - 1996年)
**第1期 ISBN 4-7601-1028-3、第1期インデックス ISBN 4-7601-1125-5
**第2期 ISBN 4-7601-1197-2、第2期インデックス ISBN 4-7601-1370-3
*荒敬・内海愛子・林博史編『<small>国立国会図書館所蔵</small> GHQ/SCAP文書目録』(蒼天社出版、2005年) ISBN 4-901916-12-2
*竹前栄治・中村隆英 監修、天川晃ほか 編『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002476511-00 GHQ日本占領史]』全55巻・別巻1([[日本図書センター]]、1996?2000年)
*竹前栄治『戦後労働改革 GHQ労働政策史』([[東京大学出版会]]、1982年) ISBN 4-13-051020-7
*竹前栄治『GHQ』([[岩波新書]]、1983年) ISBN 4004202329
* [[週刊新潮]]編集部 『マッカーサーの日本』([[新潮社]] 1970年、[[新潮文庫]] 上下 1983年) ISBN 4101310017、ISBN 4101310025
*住本利男 『占領秘録』([[毎日新聞社]] 上下、1952年、新版 全1巻 1965年/[[中公文庫]] 1988年、改版2014年) ISBN 4122015448
*セオドア・コーエン『日本占領革命 GHQからの証言』([[大前正臣]]訳、[[阪急コミュニケーションズ|TBSブリタリカ]] 上下、1983年) ISBN 4484001837、ISBN 4484001845
* [[マーク・ゲイン]] 『ニッポン日記』(井本威夫訳、[[筑摩書房]] 上下 1952年/筑摩叢書 1963年/[[ちくま学芸文庫]] 1998年) ISBN 4480084282
* [[櫻井よしこ]] 『<small>GHQ作成の情報操作書</small> 「眞相箱」の呪縛を解く』([[小学館文庫]]、2002年) ISBN 4-09-402886-2
*[[甲斐弦]] 『GHQ検閲官』([[葦書房]]、1995年) ISBN 4-7512-0604-4 / 経営科学出版、2022年。ISBN 4905319749
*占領史研究会編著 『GHQに没収された本 総目録』(サワズ出版、2005年) ISBN 4-87902-023-0
* [[西尾幹二]] 『GHQ焚書図書開封』(全12巻、[[徳間書店]]、2008-2016年)- 第6巻まで[[徳間文庫]]で再刊
* [[デイヴィッド・ハルバースタム|D・ハルバースタム]]『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』(The Coldest Winter, 2007)、山田耕介・[[山田侑平]]訳(各・上下、文藝春秋、2009年/文春文庫、2012年)
*Yoshida, Yukihiko, ''Jane Barlow and Witaly Osins, ballet teachers who worked in postwar Japan, and their students'', Pan-Asian Journal of Sports & Physical Education, Vol. 3 (Sep), 2012.
* [[高橋史朗]] 『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社、2014年)
* {{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-12 |title=ひと目でわかる「戦前日本」の真実 1936-1945 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569817040 |ref={{Harvid|水間|2013}} }}
==関連項目==
{{div col|cols=8}}
* [[対日理事会]] - [[極東委員会]]
* [[連合国軍占領下の日本]]
* [[連合国軍占領期後の日本]]
* [[極東国際軍事裁判]]
* [[占領行政]]
* [[ガリオア資金]]
* [[占領期日本における強姦]]
* [[憲法改正]] - [[日本国憲法]]
* [[労働組合]]
* [[連合軍専用列車]]
* [[日本国との平和条約]]
* [[アメリカ教育使節団報告書]]
* [[冷戦]]
* [[白洲次郎]]
* [[マッカーサー・ライン]]
* [[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]
* [[赤線]]
* [[日本における検閲]] - [[プレスコード]]
* [[民間検閲支隊]]
* [[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]
* [[琉球列島米国軍政府]]
* [[連合軍軍政期 (ドイツ)]]
* [[連合軍軍政期 (オーストリア)]]
* [[連合軍軍政期 (朝鮮史)]]
* [[連合国暫定当局]]([[イラク戦争]]後の[[イラク]]における同種の機関)
{{div col end}}
==外部リンク==
{{Commonscat|General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers}}
* 国立国会図書館・テーマ別調べ方案内:[https://web.archive.org/web/20070914105446/http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/constitutional/occupation/scap.html#ag 連合国最高司令官総司令部]
* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/shusenrenrakuyokohamajimukyoku.html 国立国会図書館 憲政資料室 終戦連絡横浜事務局関係文書]
* {{PDFlink|[http://rbd7n.up.seesaa.net/image/list.pdf GHQ没収指定図書リスト]}}
{{太平洋戦争・詳細}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れんこうこくくんさいこうしれいかんそうしれいふ}}
[[Category:GHQ/SCAP|*]]
[[Category:1945年設立の政府機関]]
[[Category:1952年廃止の政府機関]]
[[Category:千代田区の歴史]]
[[Category:現存しない東京都の軍事施設]]
[[Category:ダグラス・マッカーサー]]
[[Category:日本の反共団体]]
[[Category:日本国憲法関連の人物|*]]
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クーラー
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クーラー (cooler)
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クーラー (cooler) 冷やすための装置のこと。
暖房機能のないエア・コンディショナーについては、冷房やエア・コンディショナーの項目を参照。
特に、風を送って冷やす装置については、扇風機や送風機を参照。
断熱材で覆った、食品等を冷やす箱については、クーラーボックスを参照。
内燃機関とそれを用いた機械の冷却には、液冷エンジンのラジエーターの他、オイルクーラー、ATFクーラー、パワーステアリングフルードクーラー、インタークーラーなどがある。
機械の温度を下げるための部品については、ヒートシンクを参照。
特に、CPUの温度を下げるため部品については、CPUクーラーを参照。
カクテルのスタイルの一つ。カクテル#カクテルのスタイルを参照。
バウンサーの別称。
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{{Wiktionary|クーラー|cooler}}
'''クーラー''' (cooler)
* [[冷却|冷やす]]ための[[装置]]のこと。
** [[暖房]]機能のないエア・コンディショナーについては、[[冷房]]や[[エア・コンディショナー]]の項目を参照。
** 特に、風を送って冷やす装置については、[[扇風機]]や[[送風機]]を参照。
** 断熱材で覆った、食品等を冷やす箱については、[[クーラーボックス]]を参照。
** [[内燃機関]]とそれを用いた[[機械]]の[[冷却]]には、[[液冷エンジン]]の[[ラジエーター]]の他、[[オイルクーラー]]、[[オートマチックトランスミッションフルード|ATF]]クーラー、[[パワーステアリング]]フルードクーラー、[[インタークーラー]]などがある。
** 機械の温度を下げるための部品については、[[ヒートシンク]]を参照。
** 特に、CPUの温度を下げるため部品については、[[CPUクーラー]]を参照。
* [[カクテル]]のスタイルの一つ。[[カクテル#カクテルのスタイル]]を参照。
* [[バウンサー (警備員)|バウンサー]]の別称。
==関連項目==
*[[クール]]
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単線
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単線(たんせん、英 : single track)とは、鉄道用語で、相対する方向への列車を1つの線路のみで運行する区間のことを言う。最低限の設備で列車の運行ができるため、列車の本数の少ない路線では広く利用されている。列車の行き違い(列車交換)は、駅(交換駅)や信号場に設けられた交換設備を使って行う。
相対する列車が同じ線路を通るため、正しく列車の運行を制御しないと正面衝突の危険性がある。そのため種々の閉塞方式により確実に1閉塞区間に1列車のみを保証する必要がある(日本における鉄道に関する技術上の基準を定める省令でもそのように規定されている)。
※太字の駅は会社境界駅
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単線とは、鉄道用語で、相対する方向への列車を1つの線路のみで運行する区間のことを言う。最低限の設備で列車の運行ができるため、列車の本数の少ない路線では広く利用されている。列車の行き違い(列車交換)は、駅(交換駅)や信号場に設けられた交換設備を使って行う。 相対する列車が同じ線路を通るため、正しく列車の運行を制御しないと正面衝突の危険性がある。そのため種々の閉塞方式により確実に1閉塞区間に1列車のみを保証する必要がある(日本における鉄道に関する技術上の基準を定める省令でもそのように規定されている)。
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{{Otheruseslist|鉄道における分類|索道の分類|索道#支持牽引方法|電線の分類|電線#線材の形状による分類}}
{{出典の明記|date=2017-06-23}}
[[File:08 tory railtrack ubt.jpeg|250px|thumb|単線の線路]]
'''単線'''(たんせん、英 : [[:en:single-track railway|single track]])とは、[[業界用語|鉄道用語]]で、相対する方向への[[列車]]を1つの[[線路 (鉄道)|線路]]のみで運行する区間のことを言う。最低限の設備で列車の運行ができるため、列車の本数の少ない路線では広く利用されている。[[列車交換|列車の行き違い(列車交換)]]は、[[鉄道駅|駅]]([[列車交換|交換駅]])や[[信号場]]に設けられた[[列車交換|交換設備]]を使って行う。
相対する列車が同じ線路を通るため、正しく列車の運行を制御しないと[[列車衝突事故|正面衝突]]の危険性がある。そのため種々の[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]により確実に1閉塞区間に1列車のみを保証する必要がある(日本における[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]]でもそのように規定されている)。
== 単線の例 ==
; 鉄道黎明期
: 鉄道の黎明期には狭い範囲で円形に軌道を敷設し有料で乗車させる、現在で言うところの[[遊園地]]の[[アトラクション (遊園地)|アトラクション]]に近いものが存在した。これは同じところを回るだけのため単線で済んだ。
: [[都市間鉄道]]においては、鉄道黎明期は列車本数が1日数本というところもあったため単線[[軌道 (鉄道)|軌道]]のみを敷設し、反対方向への相対する列車は交換駅などに[[複線]]区間を設けそこで列車交換をさせていた。列車本数が増すにつれて行き違いが多く必要になってくるため、交換駅以外も複線にされるようになった(複線化)。
; 鉄道斜陽期
: [[道路]]および[[自動車]]が普及するに従い、複線の軌道が敷設されている路線においても鉄道[[輸送]]および列車本数が減少した路線では、軌道が単線化される例が存在する。その場合は列車交換のため交換駅として部分的に複線区間は残される。
:; 例
::* 晩年の[[南海天王寺支線]]など。
; 複線準備
: 当初は単線の軌道のみ敷設し、後年の複線化に対応させるために複線の軌道が敷設できるように土地が確保されている例が存在する([[道路]]の[[暫定2車線]]に類似)。その場合は列車交換は交換駅または信号場といった交換設備を設けて行う。
:; 例
::* [[名鉄小牧線]]の[[小牧駅]]以北や[[西鉄天神大牟田線]]の[[試験場前駅]]以南の一部区間、[[京成千原線]]など。
; 災害
: 複線で敷設された軌道が[[災害]]などにより使用不能となり、復旧費用節減のために単線化されたもの。列車密度や収益性など、重要性の高い場合は複線で復旧される場合もある。
:; 例
::* JR[[室蘭本線]]の[[栗山駅]] - [[栗丘駅]]間。複線の1線がトンネル崩落のために使用不能となり、残る1線による単線化で運用。
::* JR[[常磐線]]の[[大野駅]] - [[双葉駅]]間。複線化で2本架けられていた橋梁が[[東日本大震災]]で損壊。架け替え修復時、線路敷設は1本のみとし、残る1本は線路非設の道路橋で復旧した。
; 土地の捻出
: 道路整備や鉄道建設に伴い、土地を確保するために既存の複線路線が単線化される例が存在する。
:; 例
::* JR[[奥羽本線]]の[[山形駅]] - [[羽前千歳駅]]、[[秋田駅]] - [[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]間。複線の一線を[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]用に[[改軌]]して[[単線並列]]で運用。
::* [[福井鉄道福武線]]の[[福井駅 (福井県)|福井駅前駅]]付近。福井駅整備のため。
; [[不要不急線]]
: 日本において、[[太平洋戦争]]中の[[金属類回収令]]によって複線のうち1線を撤去し、単線化されたもの。
:; 例
::* JR[[御殿場線]]や[[阪急嵐山線]]など。
; 暫定的な単線
: [[地下鉄]]や[[モノレール]]などのように構造上建設後に変更がききにくい路線では、暫定的に延伸した[[終着駅]]に[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が設置できない場合があり、直近の渡り線が設置された駅から終着駅までが単線並列または単線となる例が存在する。
:; 例
::* [[千葉都市モノレール]][[千葉都市モノレール2号線|2号線]]の[[動物公園駅]] - [[スポーツセンター駅]]間([[1988年]] - [[1991年]])。
::* [[東京地下鉄]][[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の西銀座駅(現在の[[銀座駅]]) - [[霞ケ関駅_(東京都)|霞ケ関駅]]間([[1958年]] - [[1959年]])。<!--『地下鉄の歴史』(佐藤信之著、グランプリ出版)p33より-->
::* [[西武鉄道]][[西武有楽町線]]の[[新桜台駅]] - [[練馬駅]]間 ([[1994年]] - [[1998年]])。西武有楽町線の延伸工事と同時施工の西武池袋線の高架複々線化工事の過程で、練馬駅構内の西武池袋線の下り線の高架化と同時に現在の西武有楽町線の下り線を先行して完成させたため。<!--この時点では西武池袋線への直通運転は実施されず、単線並列方式と同様に、練馬駅での折り返し運転となっていた。なお、線路自体は西武池袋線の下り線とつながっていたので、西武鉄道の車両(西武6000系)が入線できるようになった。1998年の上り線の高架化および西武有楽町線の上り線側のトンネルの使用開始をもって複線化され、西武池袋線との直通運転を開始した。なお、暫定単線時代の列車交換は新桜台駅でおこなっていた。-->
: また、複線を有する路線の[[高架化]]などの工事の際に、[[仮線]]を作る土地を節約するため、列車の運行に支障が出ない場合に限り一時的に路線を単線化させる例が存在する。
:; 例
::* [[阪急今津線]][[宝塚駅]] - [[宝塚南口駅]]間や阪神西大阪線(現[[阪神なんば線]])[[大物駅]]付近など
;保有車両が1編成のみの運行
:1[[編成 (鉄道)|編成]]の車両を往復させるのみで列車交換が不要の場合は、単線でも問題ない。
::*[[東京都交通局上野懸垂線|上野動物園モノレール]]、[[鞍馬山鋼索鉄道]]など。
; 一方向のみの運行
: 様々な理由で一方向のみで運行される場合は、当然単線でも問題ない。
:; 一方向のみの環状路線の例
::* [[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]など。
:; 末端部が[[ループ線]]になっている路線の例
::[[神戸新交通ポートアイランド線|神戸ポートライナー]]、[[山万ユーカリが丘線]]など。
:; 上下線で異なる場所を経由する路線の例
::* 廃止前の[[新垂井駅]]など。
== 現在の単線区間一覧 ==
{{節スタブ}}
=== JR ===
※'''太字'''の駅は会社境界駅
==== JR北海道 ====
* [[宗谷本線]]一部区間
** [[北旭川駅]] - [[稚内駅]]間
* [[石北本線]]全線
* [[釧網本線]]全線
* [[富良野線]]全線
* [[根室本線]]全線
* [[石勝線]]全線
* [[千歳線]]一部区間
** [[南千歳駅]] - [[新千歳空港駅]]間
* [[日高本線]]全線
==== JR東日本 ====
* [[中央本線]]管轄一部区間
** [[普門寺信号場]] - [[岡谷駅]]間
** 岡谷駅 - '''[[辰野駅]]''' - '''[[塩尻駅]]'''間
* [[大糸線]]管轄区間
** [[松本駅]] - '''[[南小谷駅]]'''間
* [[津軽線]]全線
* [[大湊線]]全線
* [[八戸線]]全線
* [[奥羽本線]]一部区間
** [[関根駅]] - [[赤湯駅]]間
** [[北赤湯信号場]] - [[羽前中山駅]]間
** [[山形駅]] - [[芦沢駅]]間
** [[舟形駅]] - [[及位駅]]間
** [[院内駅]] - [[神宮寺駅]]間
** [[峰吉川駅]] - [[秋田駅]]間
** [[追分駅 (秋田県)|追分駅]] - [[羽後飯塚駅]]間
** [[八郎潟駅]] - [[鹿渡駅]]間
** [[森岳駅]] - [[鶴形駅]]間
** [[前山駅]] - [[鷹ノ巣駅]]間
** [[早口駅]] - [[大館駅]]間
** [[長峰駅]] - [[石川駅 (JR東日本)|石川駅]]間
** [[川部駅]] - [[青森駅]]間
* [[五能線]]全線
* [[花輪線]]全線
* [[男鹿線]]全線
* [[山田線]]全線
* [[羽越本線]]一部区間
** [[新津駅]] - [[新発田駅]]間
** [[金塚駅]] - [[中条駅]]間
** [[平林駅 (新潟県)|平林駅]] - [[村上駅 (新潟県)|村上駅]]間
** [[間島駅]] - [[越後早川駅]]間
** [[桑川駅]] - [[越後寒川駅]]間
** [[勝木駅]] - [[府屋駅]]間
** [[小岩川駅]] - [[あつみ温泉駅]]間
** [[羽前大山駅]] - [[藤島駅]]間
** [[本楯駅]] - [[遊佐駅]]間
** [[吹浦駅]] - [[金浦駅]]間
** [[仁賀保駅]] - [[西目駅]]間
** [[折渡駅]] - [[道川駅]]間
** [[下浜駅]] - 秋田駅間
* [[釜石線]]全線
* [[北上線]]全線
* [[大船渡線]]全線
* [[陸羽西線]]全線
* [[陸羽東線]]全線
* [[石巻線]]全線
* [[気仙沼線]]全線
* [[仙石線]]一部区間
** [[東塩釜駅]] - [[石巻駅]]間
* [[東北本線]]一部区間([[利府線|支線]])
** [[岩切駅]] - [[利府駅]]間
* [[仙山線]]全線
* [[左沢線]]全線
* [[米坂線]]全線
* [[白新線]]一部区間
** [[新崎駅]] - 新発田駅間
* [[水郡線]]全線
* [[水戸線]]全線
* [[烏山線]]全線
* [[日光線]]全線
* [[吾妻線]]全線
* [[両毛線]]一部区間
** [[小山駅]] - [[岩舟駅]]間
** [[佐野駅]] - [[駒形駅]]間
* [[八高線]]一部区間
** [[倉賀野駅]] - [[北藤岡駅]]の[[高崎線]]共用部を除く全線
* [[川越線]]一部区間
** [[日進駅 (埼玉県)|日進駅]] - 高麗川駅間
* [[総武本線]]一部区間
** 総武本線・成田線分岐点(佐倉駅と南酒々井駅の間。第二高岡踏切までは成田線と並走。第二高岡踏切通過直後に成田線は北側に分離。駅では[[佐倉駅]]から単線区間) - [[銚子駅]]
* [[成田線]]一部区間
** 成田線分岐点([[成田駅]]と[[久住駅]]の間。駅では久住駅から単線区間) - 銚子駅、成田駅 - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間
* [[鹿島線]]全線
* [[久留里線]]全線
* [[東金線]]全線
* [[外房線]]一部区間
** [[上総一ノ宮駅]] - [[東浪見駅]]間
** [[長者町駅]] - [[御宿駅]]間
** [[勝浦駅]] - [[安房鴨川駅]]間
* [[内房線]]一部区間
** [[君津駅]] - 安房鴨川駅間
* [[横須賀・総武快速線]]一部区間
** [[久里浜駅]] - [[横須賀駅]]間
* [[青梅線]]一部区間
** [[東青梅駅]] - [[奥多摩駅]]間
* [[五日市線]]全線
* [[南武線]]一部区間
** [[尻手駅]] - [[八丁畷駅]]間(浜川崎支線)
** 尻手駅 - [[鶴見駅]]間(貨物支線・尻手短絡線)
* [[鶴見線]]一部区間
** [[浜川崎駅]] - [[扇町駅 (神奈川県)|扇町駅]]間
** [[新芝浦駅]] - [[海芝浦駅]]間(海芝浦支線)
** [[武蔵白石駅]] - [[大川駅]]間(大川支線)
* [[相模線]]全線
* [[伊東線]]一部区間
** [[来宮駅]] - [[伊東駅]]間
* [[小海線]]全線
* [[飯山線]]全線
* [[篠ノ井線]]一部区間
** [[松本駅]] - [[田沢駅]]間
** [[明科駅]] - [[篠ノ井駅]]間
==== JR東海 ====
* [[東海道本線]]管轄一部区間([[美濃赤坂線|支線]])
** [[大垣駅]] - [[美濃赤坂駅]]間
* [[中央本線]]管轄一部区間
** [[贄川駅]] - [[奈良井駅]]間
** [[宮ノ越駅]] - [[原野駅]]間
** [[倉本駅]] - [[十二兼駅]]間
* [[高山本線]]管轄一部区間
** [[岐阜駅]] - '''[[猪谷駅]]'''間
* [[関西本線]]管轄一部区間
** [[笹島信号場]] - [[弥富駅]]間
** [[桑名駅]] - [[富田浜駅]]間
** [[四日市駅]] - [[南四日市駅]]間
** [[河原田駅]] - '''[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]'''間
* [[紀勢本線]]管轄区間
** 亀山駅 - 新宮駅間
* [[御殿場線]]全線
* [[身延線]]全線
* [[飯田線]]一部区間
** [[豊川駅 (愛知県)|豊川駅]] - 辰野駅間
* [[武豊線]]全線
* [[太多線]]全線
* [[名松線]]全線
* [[参宮線]]全線
==== JR西日本 ====
* [[大糸線]]管轄区間
** 南小谷駅 - [[糸魚川駅]]間
* [[高山本線]]管轄一部区間
** 猪谷駅 - [[富山駅]]間
* [[関西本線]]管轄一部区間
** 亀山駅 - [[木津駅 (京都府)|木津駅]]間
* [[紀勢本線]]管轄一部区間
** '''[[新宮駅]]''' - [[紀伊田辺駅]]間
** [[和歌山駅]] - [[和歌山市駅]]間
* [[山陽本線]]管轄一部区間([[和田岬線|支線]])
** [[兵庫駅]] - [[和田岬駅]]間
* [[氷見線]]全線
* [[城端線]]全線
* [[七尾線]]全線
* [[越美北線]]全線
* [[小浜線]]全線
* [[草津線]]全線
* [[和歌山線]]全線
* [[桜井線]]全線
* [[阪和線]]一部区間(支線)
** [[鳳駅]] - [[東羽衣駅]]間
* [[奈良線]]一部区間
** [[城陽駅]] - [[山城多賀駅]]間
** [[玉水駅]] - 木津駅間
* [[山陰本線]]一部区間
** [[園部駅]] - [[綾部駅]]間
** [[福知山駅]] - [[伯耆大山駅]]間
** [[安来駅]] - [[東松江駅 (島根県)|東松江駅]]間
** [[松江駅]] - [[玉造温泉駅]]間
** [[来待駅]] - [[幡生駅]]間
** [[長門市駅]] - [[仙崎駅]]間(仙崎支線)
* [[福知山線]]一部区間
** [[篠山口駅]] - 福知山駅間
* [[舞鶴線]]全線
* [[播但線]]全線
* [[因美線]]全線
* [[境線]]全線
* [[加古川線]]全線
* [[姫新線]]全線
* [[赤穂線]]全線
* [[宇野線]]一部区間
** [[岡山駅]] - [[早島駅]]間
** [[久々原駅]] - [[宇野駅]]間
* [[津山線]]全線
* [[吉備線]]全線
* [[伯備線]]一部区間
** [[備中高梁駅]] - [[井倉駅]]間
** [[石蟹駅]] - 伯耆大山駅間
* [[福塩線]]全線
* [[芸備線]]全線
* [[木次線]]全線
* [[呉線]]全線
* [[可部線]]全線
* [[岩徳線]]全線
* [[山口線]]全線
* [[宇部線]]全線
* [[小野田線]]全線
* [[美祢線]]全線
==== JR四国 ====
* [[予讃線]]一部区間
** [[多度津駅]] - [[宇和島駅]]間
** [[向井原駅]] - [[内子駅]]間(支線)
** [[新谷駅]] - [[伊予大洲駅]]間(支線)
* [[高徳線]]一部区間
** [[高松駅 (香川県)|高松駅]] - [[佐古駅]]間
* [[土讃線]]全線
* [[内子線]]全線
* [[予土線]]全線
* [[鳴門線]]全線
* [[徳島線]]全線
* [[牟岐線]]全線
==== JR九州 ====
* [[鹿児島本線]]一部区間
** [[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]] ‐ [[木場茶屋駅]]間
** [[串木野駅]] ‐ [[東市来駅]]間
* [[日豊本線]]一部区間
** [[立石駅]] ‐ [[中山香駅]]間
** [[杵築駅]] ‐ [[日出駅]]間
** [[大分駅]] ‐ [[鹿児島駅]]間
* [[日田彦山線]]全線
* [[後藤寺線]]全線
* [[筑豊本線]]一部区間
** [[飯塚駅]] ‐ [[原田駅 (福岡県)|原田駅]]間
* [[篠栗線]]全線
* [[香椎線]]全線
* [[筑肥線]]一部区間
** [[筑前前原駅]] ‐ [[唐津駅]]間
** [[山本駅 (佐賀県)|山本駅]] ‐ [[伊万里駅]]間
* [[唐津線]]全線
* [[長崎本線]]一部区間
** [[江北駅 (佐賀県)|江北駅]] ‐ [[諫早駅]]間
** [[喜々津駅]] - [[浦上駅]](旧線も含む)
* [[佐世保線]]一部区間
** [[江北駅 (佐賀県)|江北駅]] - [[大町駅 (佐賀県)|大町駅]]間
** [[高橋駅]] - [[佐世保駅]]間
* [[大村線]]全線
* [[久大本線]]全線
* [[豊肥本線]]全線
* [[三角線]]全線
* [[肥薩線]]全線
* [[吉都線]]全線
* [[宮崎空港線]]全線
* [[日南線]]全線
* [[指宿枕崎線]]全線
=== 建設中 ===
{{節スタブ}}
=== 廃線 ===
{{節スタブ}}
=== 第三セクター ===
{{節スタブ}}
==== 関東 ====
* [[いすみ鉄道いすみ線]]全線
* [[わたらせ渓谷鉄道わたらせ渓谷線]]全線
==== 東海 ====
* [[天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線]]全線
* [[愛知環状鉄道線]]一部区間
** [[岡崎駅]] - [[東岡崎駅]]間
** [[北岡崎駅]] - [[北野桝塚駅]]間
** [[三河上郷駅]] - [[三河豊田駅]]間
** [[新豊田駅]] - [[瀬戸市駅]]間
* [[伊勢鉄道伊勢線]]一部区間
** [[中瀬古駅]] - [[津駅]]間
==== 関西 ====
* [[京都丹後鉄道宮舞線]]全線
* [[京都丹後鉄道宮豊線]]全線
* [[京都丹後鉄道宮福線]]全線
==== 九州 ====
* [[松浦鉄道西九州線]]全線
* [[平成筑豊鉄道伊田線]]全線
* [[平成筑豊鉄道糸田線]]全線
* [[平成筑豊鉄道田川線]]全線
* [[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]全線
* [[甘木鉄道甘木線]]全線
* [[肥薩おれんじ鉄道線]]全線
=== 建設中 ===
{{節スタブ}}
=== 廃線 ===
{{節スタブ}}
=== 私鉄 ===
{{節スタブ}}
==== 関東 ====
* [[京成本線]]一部区間
** [[空港第2ビル駅]] - [[成田空港駅]]間
* [[京成金町線]]全線
* [[京成千原線]]全線
* [[京成成田空港線]]一部区間
** [[成田湯川駅]] - 成田空港駅間
* [[東武伊勢崎線]]一部区間
** [[館林駅]] - [[伊勢崎駅]]間
* [[東武大師線]]全線
* [[東武佐野線]]全線
* [[東武桐生線]]全線
* [[東武小泉線]]全線
* [[東武宇都宮線]]全線
* [[東武鬼怒川線]]一部区間
** [[下今市駅]] - [[鬼怒立岩信号場]]間
** [[鬼怒川温泉駅]] - [[新藤原駅]]間
* [[東武野田線]]一部区間
** [[春日部駅]] - [[運河駅]]間
* [[東武東上本線|東武東上線]]一部区間
** [[嵐山信号場]] - [[寄居駅]]間
* [[東武越生線]]一部区間
** [[坂戸駅]] - [[武州長瀬駅]]間
** [[東毛呂駅]] - [[越生駅]]間
* [[西武池袋線]]一部区間
** [[飯能駅]] - [[吾野駅]]間
* [[西武豊島線]]全線
* [[西武狭山線]]全線
* [[西武秩父線]]全線
* [[西武新宿線]]一部区間
** [[脇田信号場]] - [[本川越駅]]間
* [[西武拝島線]]一部区間
** [[玉川上水駅]] - [[武蔵砂川駅]]間
** [[西武立川駅]] - [[拝島駅]]間
* [[西武多摩湖線]]全線
* [[西武国分寺線]]全線
* [[西武西武園線]]全線
* [[西武多摩川線]]全線
* [[西武山口線]]全線
* [[東急こどもの国線]]全線
* [[京急久里浜線]]一部区間
** [[京急久里浜駅]] - [[京急長沢駅]]間
** [[三浦海岸駅]] - [[三崎口駅]]間
* [[京王動物園線]]全線
* [[京王高尾線]]一部区間
** [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]] - [[高尾山口駅]]間
* [[上信電鉄上信線]]全線
* [[上毛電気鉄道上毛線]]全線
* [[関東鉄道竜ケ崎線]]全線
* [[関東鉄道常総線]]一部区間
** [[水海道駅]] - [[下館駅]]間
* [[秩父鉄道秩父本線]]全線
* [[銚子電気鉄道銚子電気鉄道線]]全線
* [[小湊鉄道小湊鉄道線]]全線
* [[江ノ島電鉄]][[江ノ島電鉄線]]全線
* [[箱根登山鉄道鉄道線]]全線
* [[伊豆箱根鉄道大雄山線]]全線
==== 東海 ====
* [[名鉄名古屋本線]]一部区間
** [[加納駅 (岐阜県)|加納駅]] - [[名鉄岐阜駅]]間
* [[名鉄豊川線]]全線
* [[名鉄西尾線]]一部区間
** [[新安城駅]] - [[桜井駅 (愛知県)|桜井駅]]間
** [[南桜井駅 (愛知県)|南桜井駅]] - [[西尾口駅]]間
** [[西尾駅]] - [[吉良吉田駅]]間
* [[名鉄蒲郡線]]全線
* [[名鉄三河線]]一部区間
** [[猿投駅]] - [[梅坪駅]]間
** [[豊田市駅]] - [[知立駅]]間
** [[重原駅]] - [[刈谷駅]]間
** [[刈谷市駅]] - [[碧南駅]]間
* [[名鉄河和線]]一部区間
** [[河和口駅]] - [[河和駅]]間
* [[名鉄知多新線]]全線
* [[名鉄築港線]]全線
* [[名鉄尾西線]]一部区間
** [[弥富駅]] - [[佐屋駅]]間
** [[森上駅]] - [[玉ノ井駅]]間
* [[名鉄広見線]]一部区間
** [[新可児駅]] - [[御嵩駅]]間
* [[名鉄小牧線]]一部区間
** [[小牧駅]] - [[犬山駅]]間
* [[名鉄竹鼻線]]全線
* [[名鉄羽島線]]全線
* [[伊豆急行伊豆急行線]]全線
* [[伊豆箱根鉄道駿豆線]]全線
* [[遠州鉄道鉄道線]]全線
==== 関西 ====
* [[近江鉄道本線]]全線
* [[近江鉄道多賀線]]全線
* [[近江鉄道八日市線]]全線
* [[近鉄田原本線]]全線
* [[近鉄生駒線]]一部区間
** [[王寺駅]] - [[東山駅 (奈良県)|東山駅]]間
** [[萩の台駅]] - [[南生駒駅]]間
* [[近鉄信貴線]]全線
* [[近鉄湯の山線]]全線
* [[近鉄鈴鹿線]]全線
* [[近鉄志摩線]]一部区間
** [[中之郷駅]] - [[船津駅 (三重県鳥羽市)|船津駅]]間
** [[上之郷駅]] - [[志摩磯部駅]]間
* [[南海高師浜線]]全線
* [[南海多奈川線]]全線
* [[南海加太線]]全線
* [[南海和歌山港線]]全線
* [[南海高野線]]一部区間
** [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]] - [[極楽橋駅]]間
* [[南海鋼索線]]全線
* [[阪急嵐山線]]全線
* [[阪急甲陽線]]全線
* [[阪神武庫川線]]全線
* [[山陽電気鉄道網干線|山陽電鉄網干線]]全線
* [[嵯峨野観光線]]全線
==== 九州 ====
* [[西鉄天神大牟田線]]一部区間
** [[試験場前駅]] - [[大善寺駅]]間
** [[蒲池駅 (福岡県)|蒲池駅]] - [[開駅]]間
* [[西鉄甘木線]]全線
* [[西鉄貝塚線]]全線
* [[熊本電気鉄道菊池線]]全線
* [[熊本電気鉄道藤崎線]]全線
=== 建設中 ===
{{節スタブ}}
=== 廃線 ===
{{節スタブ}}
== 単線化された路線 ==
=== 戦時中の金属類回収令によるもの ===
{{main|不要不急線}}
=== 戦後 ===
* [[京成金町線]] 京成高砂 - 柴又間 (1.0km)
** 2010年(平成22年)7月5日[[京成高砂駅]]の金町線単式1面1線の高架ホーム(5番線)が供用開始され、同乗り場に向かう線路のみ高架化されたため旧上り線が京成高砂駅地上ホームを経由(折り返し)しての出入庫線となっている([[単線並列]])に切り替わった。
* [[えちぜん鉄道勝山永平寺線]] 福井 - 越前開発間 (2.4km)
** 2006年(平成18年)4月9日 新福井 - 福井口間 (1.0km) が単線化。
** 2015年(平成27年)9月27日 福井口 - 越前開発間 (0.9km) が単線化。
** 2018年(平成30年)6月24日 福井 - 新福井間 (0.5km) が単線化。
== 関連項目 ==
{{commonscat|Single track railway lines}}
* [[単線並列]]
* [[複線]]
* [[複々線]]
* [[複々線#三線|複単線]]
* [[ダイヤグラム#ダイヤの作成|ネットダイヤ]]
{{Rail-stub}}
{{Railway track layouts}}
{{DEFAULTSORT:たんせん}}
[[Category:鉄道線路]]
|
2003-09-16T21:21:47Z
|
2023-11-26T18:09:33Z
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[
"Template:Main",
"Template:Commonscat",
"Template:Rail-stub",
"Template:Railway track layouts",
"Template:Otheruseslist",
"Template:出典の明記",
"Template:節スタブ"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E7%B7%9A
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17,138 |
浅草駅
|
浅草駅(あさくさえき)は、東京都台東区にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
台東区最東端の駅である。所在地は東京メトロが浅草一丁目、東武鉄道が花川戸一丁目、都営地下鉄が駒形一丁目である。
同じ駅名である首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの浅草駅は、浅草寺を挟んで反対側の国際通り地下にあり、接続駅・乗換駅扱いになっていない。詳細は「浅草駅 (首都圏新都市鉄道)」を参照。
東京を代表する観光地・浅草の玄関口であり、浅草寺やその門前町の仲見世通り、雷門などの有名な観光地がほど近い。かつては「浅草六区」を中心に劇場や映画館などの興行施設が集積する東京屈指の繁華街であったが、高度経済成長期以降はそれらの施設は衰退し、現在は国内外から多くの観光客が訪れる観光地となっている。
1927年(昭和2年)に東洋初の本格的な地下鉄路線である東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)当駅 - 上野駅間が開業したことにより、当駅の歴史は始まった。1931年(昭和6年)には東武鉄道の東京側の起点駅として、東武伊勢崎線を現在のとうきょうスカイツリー駅から延伸する形で「浅草雷門駅」として開業した。その際駅ビルとして百貨店の松屋浅草が併設され、これは東京初のターミナル駅直結型の百貨店であった(現・浅草エキミセ)。東武鉄道の浅草駅は駅の構造上の理由で両数の多い編成は入線に制約があり、当駅は通勤列車のターミナル駅としての機能が弱かった。また戦後に新宿・渋谷・池袋など山手線各ターミナルの発展から取り残される形で、浅草は相対的に急速に賑わいを失っていった。そのため、東武は北千住駅から東京メトロ日比谷線に、押上駅から東京メトロ半蔵門線に直通運転することで都心部への通勤客の利便性と輸送力を確保している。そういった経緯から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の起点駅であるにもかかわらず、実質的なターミナル駅は多数の路線が集積している北千住駅がその役割を担っている。なお、日光や鬼怒川温泉、両毛地域に向かう特急列車は地下鉄に直通出来ないため当駅を起点としている。
東京メトロの銀座線、東武鉄道の伊勢崎線(旅客案内上では当該区間の愛称である「東武スカイツリーライン」が使われる)、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。銀座線と伊勢崎線は当駅が起点である。また、銀座線に「G 19」、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に「TS 01」、浅草線に「A 18」の駅番号が設定されている。
大正時代の東京は路面電車が主要な交通機関だったが、渋滞による遅延が頻発しており、常に超満員の状態であった。1917年(大正7年)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立し、1919年(大正8年)に免許を取得した。その後、1920年(大正9年)に起きた戦後恐慌、1923年(大正12年)に起きた関東大震災によって資金繰りが困難となり、建設区間を短縮して東京一の繁華街であった浅草と国鉄のターミナル駅であった上野の2.2 kmを建設することにした。1925年(大正14年)に着工し、1927年(昭和2年)12月30日に東京地下鉄道の浅草駅が開業した。開通初日は始発前から乗客が各駅に殺到して約10万人が利用した。
地下鉄が開業した4年後の1931年(昭和6年)5月25日に、東武鉄道の駅が浅草雷門駅(あさくさかみなりもんえき)として開業した。東武鉄道の浅草延伸にあたっては、隅田川を渡る区間で京成電気軌道と競合になったが、1928年(昭和3年)に起きた京成電車疑獄事件により、京成電気軌道は浅草への乗り入れを断念した。
東京メトロ、東武鉄道、都営地下鉄の駅はそれぞれ別構内ではあるが、いずれも浅草地区東部の隅田川に近接する江戸通り前または地下に位置する。東京メトロと東武鉄道の間、東京メトロと都営地下鉄の間にはそれぞれ地下連絡通路がある。東武鉄道と都営地下鉄間の乗り換えは一度地上に出る必要がある。
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。浅草エキミセ(東武鉄道浅草駅)の目の前の地下、吾妻橋西詰に位置している。
コンコースは北側(東武線側、5 - 8番出入口)・中央(1 - 4番出入口)・南側(浅草線側、A3 - A5出入口)の3つに分かれており、各コンコースは改札外で行き来できない。このため、改札によって利用可能な出入口や、直結する乗り換え路線が限定される。2020年3月現在、改札は4か所存在する。
中央のコンコースから行き来できる、吾妻橋の袂にある4番出入口は浅草観音に因んだ格好の屋根が設置され、通称「赤門」と呼ばれており、近代化産業遺産に認定されている。これは、東京地下鉄道が募集した懸賞設計図案の当選図案から採用されたものである。
また、北側のコンコース(東武鉄道側)は馬車通り直下の地下商店街である「浅草地下街」に接続しており、新仲見世通りに繋がる6番出入口へは地下街を経由する形となる(8番出入口からも地下街に直接アクセス可能)。
2010年(平成22年)1月22日には、2番線ホーム中央から直接出られる雷門・浅草寺方面改札口が新設された。これにより、雷門・浅草寺エリアへ段差なしで行けるようになった。
(出典:東京メトロ:構内図)
2012年(平成24年)10月30日から、瀧廉太郎作曲の「花」をアレンジしたものを発車メロディ(発車サイン音)として使用している。メロディはスイッチの制作で、1番線のバージョンは塩塚博、2番線のバージョンは福嶋尚哉が編曲を手掛けた。
地上7階・地下1階の商業ビル(詳細は「駅ビル」を参照)の2階に位置する頭端式ホームの3面4線構造で、西側の1線は両側にホーム(4・5番線)がある。切符売り場は1階にある。トイレは北口1階改札内と南口2階改札外に設置されている。南口2階改札外には多機能トイレとエレベーターも設置されている。エスカレーターは南口正面に設置されている。
隅田川とほぼ平行した駅舎から、すぐに隅田川を直角に横断する隅田川橋梁を渡るという立地の制約上、乗り入れ可能な列車はほぼ6両編成に限定される(1番線のみ8両編成も入線可能だが乗務員を含めて、乗降は浅草方6両に限られる)。
朝ラッシュ時に10両編成で運行される列車については、かつては曳舟駅での後部4両の切り離しおよび当時存在した業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)地上ホームで折り返すことで対応していた。また、東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通と北千住以北の列車が10両編成のまま運転され、その他の10両編成の列車は北千住で下り側4両を切り離して当駅との間を6両編成で運行していたが、2013年3月16日のダイヤ改正から区間急行が8両編成による当駅までの運転(1番線着)に変更されたため、北千住駅での切り離し作業は廃止された。
東武浅草駅管区として、伊勢崎線の当駅 - 牛田駅間の各駅と亀戸線の各駅を統括管理している。
ホームはおおむね以下の通りに使い分けられている(一部例外あり)。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工された。
初めて利用する人でも迷うことがないように複雑な構造を避け、入口からホームまで一直線に結ぶ構造になっている。
3階から7階までを百貨店として設計し、当初は三越などの百貨店を招致したが実現しなかった。
そこで、松屋が入居し、浅草駅ビルは1931年(昭和6年)11月に関東では初となる本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業した。
その後、1934年(昭和9年)に1階の一部や2階なども松屋に賃借するようになり、同店は規模を拡大することになった。 なお、松屋浅草は規模を縮小して地下1階と地上1階から3階までとなり、ビル全体は2012年(平成24年)11月21日に「浅草エキミセ」という名称の商業施設として新装開業した。この改装に伴い、新たに52店舗が出店した。
昭和初期を代表するアール・デコ様式による大規模建築物の一つであったが、1974年(昭和49年)には外壁に使用されていたテラコッタタイル(自然の土を固めて素焼きにした)が老朽化で剥がれ始めていたことから、外壁をアルミルーバーと呼ばれる建材で覆う改修工事を実施。建物自体は竣工当時のままながら建設当時の面影は失われることになったが、東武が手掛ける東京スカイツリー開業に伴い、当駅舎についても開業時の姿に復元すると同時に待合室の新設・耐震補強工事の施行を含めたリニューアルが行われ、2012年(平成24年)5月18日に竣工。開業時のシンボルだった大時計も復活した。タイルはGRS(ガラス繊維コンクリート)製を使用している。
前述した、駅舎と駅を出てすぐに存在する橋梁の位置関係から、駅を出てすぐに半径100 mの急カーブが存在し、ここは15 km/hの速度制限がかかっている。各ホームへの分岐器はカーブ状に設置されているが、両渡り分岐器をカーブの途中に設置することが不可能なため、橋梁上に設置されている。ゆっくりと隅田川を渡る風景は当駅の一つの情緒ともなっているが、車輪とレールの摩擦音による騒音など、いくつかの問題も生じた。
しかし最大の問題は、この立地によりホーム先端が急カーブにかかっており、かつこれ以上のホーム延伸が不可能な点である。入線可能な列車は基本的に20 m級車では6両編成までに制限される。例外として1番線のみ8両分の有効長があり、朝夕の時間帯には8両編成の列車が発着する。かつては4両編成2本併結列車の入線が不可能であったが、2009年12月より可能となった。
1・2番線ホームは急カーブやホーム上にある柱(正確には浅草エキミセのエレベーター)の関係で、入線部分のホーム幅が極度に狭く、転落事故や1・2番線ホームを発着する電車と乗客とが触車事故を起こす危険性があることから、1番線に発着する8両編成の列車と2番線ホームに発着する6両編成の列車はとうきょうスカイツリー寄りの2両がドアカット扱いとなり、その部分に柵が設置されて立入禁止となっている。また、ホームが急カーブであるため、6両編成がほぼ直線上に停車できるのは1番線のみであり、それ以外のホームのとうきょうスカイツリー方ではホームと車両との間に隙間が生じる。このため、3 - 5番線に入線する特急列車のうち、とうきょうスカイツリー方の車両(約4両分)の乗降口には、転落防止のため駅員によって車両とホームに跨る可搬式の渡り板がかけられる。
また、これも急カーブで短編成の列車は信号機の見通しが利かないため、分岐器の手前にある正規の出発信号機に加えて、1番線ホームは6両編成、その他のホームは4両編成の先頭車停車位置(いずれもホームの途中)にも出発信号機を設けている。これは中継信号機的なもので、閉塞を区切る機能はない。
急カーブでは左右の車輪の進む距離が極端に異なるため、車輪とレールの摩耗が進みやすく、大きな「きしり音」も発生する。これを軽減するため、曲線部の線路脇には多数の「レール塗油器」が設置されており、レールとバラストはその油で黒々としている。
かつては、主な駅弁として下記を販売していた。
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。駒形橋西詰直下に位置し、東武線・銀座線とはやや離れたところに駅がある。
ホーム全体がカーブ上に位置しているため、ドアとホームの間の隙間が広く開く場所がある。
北側(銀座線側、A3 - A5出入口)と南側(A1・A2a・A2b出入口)の各コンコースは改札外では接続していない。A2a・A3出入口は22時以降閉鎖される。エレベーターは改札内コンコース - ホーム間およびA2b出入口に、エスカレーターはA4・A5出入口と改札外コンコースを連絡する通路の途中に設置されている。なお、A4・A5出入口の通路上にもエレベーターがあるが、こちらは駅設備ではなく併設されているビルの入居者専用である。
かつての副名称は「雷門前」であったが、現在副名称は廃止されている。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
浅草寺をはじめとする観光地や、興行街の浅草公園六区がある。また、隅田川沿いにある隅田公園の最寄り駅でもあり、墨田区役所とアサヒビール本社のあるリバーピア吾妻橋が吾妻橋の対岸にある。北部には山谷や、風俗街の吉原などがある。
以下の各停留所に以下の路線が乗り入れ、主に東京都交通局により運行されている。それぞれのバス停留所は名称ごとに記載するが、乗り場は方向・系統により異なる場合がある。
駅のすぐ東側の隅田川河岸から、東京都観光汽船と東京都公園協会による水上バスが発着している。
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"text": "同じ駅名である首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの浅草駅は、浅草寺を挟んで反対側の国際通り地下にあり、接続駅・乗換駅扱いになっていない。詳細は「浅草駅 (首都圏新都市鉄道)」を参照。",
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"text": "1927年(昭和2年)に東洋初の本格的な地下鉄路線である東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)当駅 - 上野駅間が開業したことにより、当駅の歴史は始まった。1931年(昭和6年)には東武鉄道の東京側の起点駅として、東武伊勢崎線を現在のとうきょうスカイツリー駅から延伸する形で「浅草雷門駅」として開業した。その際駅ビルとして百貨店の松屋浅草が併設され、これは東京初のターミナル駅直結型の百貨店であった(現・浅草エキミセ)。東武鉄道の浅草駅は駅の構造上の理由で両数の多い編成は入線に制約があり、当駅は通勤列車のターミナル駅としての機能が弱かった。また戦後に新宿・渋谷・池袋など山手線各ターミナルの発展から取り残される形で、浅草は相対的に急速に賑わいを失っていった。そのため、東武は北千住駅から東京メトロ日比谷線に、押上駅から東京メトロ半蔵門線に直通運転することで都心部への通勤客の利便性と輸送力を確保している。そういった経緯から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の起点駅であるにもかかわらず、実質的なターミナル駅は多数の路線が集積している北千住駅がその役割を担っている。なお、日光や鬼怒川温泉、両毛地域に向かう特急列車は地下鉄に直通出来ないため当駅を起点としている。",
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"text": "東京メトロの銀座線、東武鉄道の伊勢崎線(旅客案内上では当該区間の愛称である「東武スカイツリーライン」が使われる)、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。銀座線と伊勢崎線は当駅が起点である。また、銀座線に「G 19」、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に「TS 01」、浅草線に「A 18」の駅番号が設定されている。",
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"text": "大正時代の東京は路面電車が主要な交通機関だったが、渋滞による遅延が頻発しており、常に超満員の状態であった。1917年(大正7年)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立し、1919年(大正8年)に免許を取得した。その後、1920年(大正9年)に起きた戦後恐慌、1923年(大正12年)に起きた関東大震災によって資金繰りが困難となり、建設区間を短縮して東京一の繁華街であった浅草と国鉄のターミナル駅であった上野の2.2 kmを建設することにした。1925年(大正14年)に着工し、1927年(昭和2年)12月30日に東京地下鉄道の浅草駅が開業した。開通初日は始発前から乗客が各駅に殺到して約10万人が利用した。",
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"text": "地下鉄が開業した4年後の1931年(昭和6年)5月25日に、東武鉄道の駅が浅草雷門駅(あさくさかみなりもんえき)として開業した。東武鉄道の浅草延伸にあたっては、隅田川を渡る区間で京成電気軌道と競合になったが、1928年(昭和3年)に起きた京成電車疑獄事件により、京成電気軌道は浅草への乗り入れを断念した。",
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"text": "地上7階・地下1階の商業ビル(詳細は「駅ビル」を参照)の2階に位置する頭端式ホームの3面4線構造で、西側の1線は両側にホーム(4・5番線)がある。切符売り場は1階にある。トイレは北口1階改札内と南口2階改札外に設置されている。南口2階改札外には多機能トイレとエレベーターも設置されている。エスカレーターは南口正面に設置されている。",
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"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。",
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"text": "浅草寺をはじめとする観光地や、興行街の浅草公園六区がある。また、隅田川沿いにある隅田公園の最寄り駅でもあり、墨田区役所とアサヒビール本社のあるリバーピア吾妻橋が吾妻橋の対岸にある。北部には山谷や、風俗街の吉原などがある。",
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浅草駅(あさくさえき)は、東京都台東区にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 台東区最東端の駅である。所在地は東京メトロが浅草一丁目、東武鉄道が花川戸一丁目、都営地下鉄が駒形一丁目である。 同じ駅名である首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの浅草駅は、浅草寺を挟んで反対側の国際通り地下にあり、接続駅・乗換駅扱いになっていない。詳細は「浅草駅 (首都圏新都市鉄道)」を参照。
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{{Otheruseslist|東京都台東区にある東武鉄道、東京メトロ、都営地下鉄の駅|同区にある首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅|浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|その他の浅草駅|浅草駅 (曖昧さ回避)}}
{{混同|浅草橋駅}}
{{駅情報
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|駅名 = 浅草駅
|画像 = Tobu-Asakusa-station-2018.jpg
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|画像説明 = 浅草エキミセ(2018年10月24日撮影)
|よみがな = あさくさ
|ローマ字 = Asakusa
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail-metro|marker2=rail|marker3=rail-metro|coord={{coord|35|42|39|N|139|47|52.2|E}}|title=東京メトロ 浅草駅|coord2={{coord|35|42|43.5|N|139|47|54.3|E}}|title2=東武 浅草駅|coord3={{coord|35|42|32.3|N|139|47|47.7|E}}|title3=東京都交通局 浅草駅|marker-color=ff9500|marker-color2=0f6cc3|marker-color3=e83e2f|frame-latitude=35.710637|frame-longitude=139.797527}}
|所属事業者= [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])<br/>[[東武鉄道]]([[#東武鉄道|駅詳細]])<br/>[[東京都交通局]](都営地下鉄・[[#都営地下鉄|駅詳細]])
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{{座標一覧}}
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|42|43.5|N|139|47|54.3|E}}|title=東武 浅草駅|coord2={{coord|35|42|47.6|N|139|47|32.4|E}}|title2=首都圏新都市鉄道 浅草駅|marker-color=0f6cc3|marker-color2=FF0000|frame-latitude=35.712814|frame-longitude=139.795701|text=東武鉄道浅草駅(右)とつくばエクスプレス浅草駅(左)の位置関係}}
'''浅草駅'''(あさくさえき)は、[[東京都]][[台東区]]にある、[[東武鉄道]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。
台東区最東端の駅である。所在地は東京メトロが[[浅草]]一丁目、東武鉄道が[[花川戸]]一丁目、都営地下鉄が[[駒形]]一丁目である。
同じ駅名である[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の浅草駅は、[[浅草寺]]を挟んで反対側の[[東京都道462号蔵前三ノ輪線|国際通り]]地下にあり、接続駅・乗換駅扱いになっていない。詳細は「[[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)]]」を参照。
== 概要 ==
東京を代表する観光地・[[浅草]]の玄関口であり、[[浅草寺]]やその[[門前町]]の[[仲見世通り]]、[[雷門]]などの有名な観光地がほど近い。かつては「[[浅草公園六区|浅草六区]]」を中心に劇場や映画館などの興行施設が集積する東京屈指の[[繁華街]]であったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/ueno/p07.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201214002705/https://smtrc.jp/town-archives/city/ueno/p07.html|title=娯楽地として賑わう「六区」 シンボルタワー「十二階」も|archivedate=2020-12-14|accessdate=2021-11-04|publisher=三井住友トラスト不動産|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、[[高度経済成長|高度経済成長期]]以降はそれらの施設は衰退し<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/95627|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104184722/https://trafficnews.jp/post/95627|title=東武伊勢崎線はなぜ浅草がターミナル駅? 上野まであとわずか その歴史的背景をたどる|date=2020-04-18|archivedate=2021-11-04|accessdate=2021-11-05|website=乗りものニュース|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、現在は国内外から多くの観光客が訪れる観光地となっている。
[[1927年]]([[昭和]]2年)に東洋初の本格的な[[地下鉄]]路線である[[東京地下鉄道]](現在の[[東京メトロ銀座線]])当駅 - [[上野駅]]間が開業したことにより、当駅の歴史は始まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/ueno/p05.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210422122143/https://smtrc.jp/town-archives/city/ueno/p05.html|title=上野・浅草を結ぶ市電 日本最初の地下鉄路線に|archivedate=2021-04-22|accessdate=2021-11-04|publisher=三井住友トラスト不動産|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。[[1931年]](昭和6年)には東武鉄道の東京側の起点駅として、[[東武伊勢崎線]]を現在の[[とうきょうスカイツリー駅]]から延伸する形で「浅草雷門駅」として開業した。その際[[駅ビル]]として[[百貨店]]の[[松屋 (百貨店)|松屋浅草]]が併設され、これは東京初のターミナル駅直結型の百貨店であった(現・浅草エキミセ)<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://contents.xj-storage.jp/xcontents/82370/d8499f0d/e3b5/4729/a758/47bfe8488e7a/20211018210914218s.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104133936/https://contents.xj-storage.jp/xcontents/82370/d8499f0d/e3b5/4729/a758/47bfe8488e7a/20211018210914218s.pdf|format=PDF|language=日本語|title=浅草の街とともに90年 1931年11月1日開店 おかげさまで90周年を迎えます 松屋浅草90周年記念祭 10月27日(水)〜11月2日(火)松屋浅草 各階|publisher=松屋浅草|date=2021-10|accessdate=2021-11-04|archivedate=2021-11-04}}</ref>。東武鉄道の浅草駅は駅の構造上の理由で両数の多い編成は入線に制約があり、当駅は通勤列車の[[ターミナル駅]]としての機能が弱かった<ref name="trafficnews20180826">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/81540|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211105131718/https://trafficnews.jp/post/81540|title=【都市鉄道の歴史を探る】スペーシアとロマンスカーが並んだ? 東武の都心直通構想|date=2018-08-26|archivedate=2021-11-05|accessdate=2021-11-05|website=乗りものニュース|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。また[[戦後]]に[[新宿]]・[[渋谷]]・[[池袋]]など[[山手線]]各ターミナルの発展から取り残される形で、浅草は相対的に急速に賑わいを失っていった<ref name=":1" />。そのため、東武は[[北千住駅]]から[[東京メトロ日比谷線]]に、[[押上駅]]から[[東京メトロ半蔵門線]]に[[直通運転]]することで都心部への通勤客の利便性と輸送力を確保している<ref name="trafficnews20180826" />。そういった経緯から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の起点駅であるにもかかわらず、実質的なターミナル駅は多数の路線が集積している北千住駅がその役割を担っている<ref name="trafficnews20180826" />。なお、[[日光市|日光]]や[[鬼怒川温泉]]、[[両毛|両毛地域]]に向かう[[特別急行列車|特急列車]]は地下鉄に直通出来ないため当駅を起点としている。
=== 乗り入れ路線 ===
東京メトロの[[東京メトロ銀座線|銀座線]]、東武鉄道の[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](旅客案内上では当該区間の愛称である「東武スカイツリーライン」が使われる)、都営地下鉄の[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]が乗り入れ、接続駅となっている。銀座線と伊勢崎線は当駅が起点である。また、銀座線に「'''G 19'''」、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に「'''TS 01'''」、浅草線に「'''A 18'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]が設定されている。
== 歴史 ==
大正時代の東京は路面電車が主要な交通機関だったが、渋滞による遅延が頻発しており、常に超満員の状態であった<ref name="jiji20171130">{{Cite news|和書|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=tokyosubway01_201711300001|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210214123238/https://www.jiji.com/jc/v4?id=tokyosubway01_201711300001|title=地下鉄90年(1)息づく民間の力、いまも通じる発想 ~地下鉄をつくった男、早川徳次~|newspaper=時事通信|date=2017-11-30|accessdate=2021-02-14|archivedate=2021-02-14}}</ref>。[[1917年]]([[大正]]7年)に[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]が東京軽便地下鉄道を設立し<ref name="jiji20171130" />、[[1919年]](大正8年)に免許を取得した<ref name="jiji20171130" />。その後、[[1920年]](大正9年)に起きた[[戦後恐慌]]、[[1923年]](大正12年)に起きた[[関東大震災]]によって資金繰りが困難となり、建設区間を短縮して東京一の繁華街であった浅草と国鉄のターミナル駅であった上野の2.2 [[キロメートル|km]]を建設することにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ginza.html/|title=銀座線の歴史|website=メトロアーカイブアルバム|publisher=メトロ文化財団|accessdate=2022-12-26}}</ref>。[[1925年]](大正14年)に着工し、[[1927年]](昭和2年)[[12月30日]]に東京地下鉄道の'''浅草駅'''が開業した。開通初日は始発前から乗客が各駅に殺到して約10万人が利用した<ref name="jiji20171130" />。
地下鉄が開業した4年後の[[1931年]](昭和6年)[[5月25日]]に、東武鉄道の駅が'''浅草雷門駅'''(あさくさかみなりもんえき)として開業した<ref name="tobu100th_389">[[#tobu100th|東武百年史]]、p.389。</ref><ref name="tokyo20210525" />。東武鉄道の浅草延伸にあたっては、隅田川を渡る区間で京成電気軌道と競合になったが、1928年(昭和3年)に起きた[[京成電車疑獄事件]]により、京成電気軌道は浅草への乗り入れを断念した。
=== 年表 ===
[[File:東京メトロ・銀座線・浅草駅・入口(8).jpg|thumb|リニューアル前の銀座線出入口(2009年6月)<br>奥は東武鉄道の駅]]
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月30日]]:[[東京地下鉄道]]の駅が開業<ref name="eidan24">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.25・558。</ref><ref name="asahi-np-2013-1-14">{{Cite news|和書|author=大西元博|title=昭和史再訪 東洋初の地下鉄開通|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2013-01-14}}</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[5月24日]]:東武ビルディングが竣工<ref name="tobu100th_389" />。
** [[5月25日]]:東武鉄道の駅が'''浅草雷門駅'''として開業、[[乗換駅]]となる<ref name="tobu100th_389" /><ref name="tokyo20210525" />。
** [[8月1日]]:東武鉄道と銀座線の駅間を結ぶ地下連絡通路が完成<ref>{{Cite news|和書|title=地下鐵道東武電車 八月一日より地下連絡完成|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|edition=朝刊|page=1|date=1931-08-02}}</ref>。
** [[11月1日]]:[[松屋 (百貨店)#浅草店|松屋浅草店]]が開店<ref name="tobu100th_392">[[#tobu100th|東武百年史]]、p.392。</ref><ref name="tokyo20210525" />。
* [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]により、東京地下鉄道が路線を[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に譲渡<ref name="eidan561">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.561。</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[3月10日]]:[[東京大空襲]]により、東武鉄道の駅舎内部が焼失する被害を受ける<ref name="tobu100th_507-508">[[#tobu100th|東武百年史]]、pp.507 - 508。</ref><ref name="tokyo20210525" />。
** [[10月1日]]:東武鉄道の駅が'''浅草駅'''に改称<ref name="tobu100thd_358">[[#tobu100th-document|東武百年史[資料編]]]、p.358。</ref><ref name="tokyo20210525">{{Cite news|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/106363|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210525102632/https://www.tokyo-np.co.jp/article/106363|title=下町の変遷 見守り90年 都心への玄関口 東武・浅草駅|newspaper=東京新聞|date=2021-05-25|accessdate=2021-05-25|archivedate=2021-05-25}}</ref>。
* [[1954年]](昭和29年)[[7月19日]]:東武浅草駅に同社初の機械式自動券売機を設置<ref name="tobu100thd_366">[[#tobu100th-document|東武百年史[資料編]]]、p.366。</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)3月:東武浅草駅ホームを増設<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。
* [[1960年]](昭和35年)
** [[11月8日]]:営団地下鉄が輸送力増強を目的とした車両増備に対応するため、北側に3線トンネルを約196 m延伸し、31両分の車両の収容が可能となる留置線を建設<ref name="eidan578">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.578。</ref><ref name="RP939_56-57">[[#RP939|『鉄道ピクトリアル』通巻939号]]、pp.56 - 57。</ref>。
** [[12月4日]]:都営地下鉄1号線の駅が開業<ref name="japan-civil-engineering-history-s16-s40-1973-4">{{Cite book|和書|editor=土木学会日本土木史編集委員会|title=日本土木史:昭和16年-昭和40年|publisher=[[土木学会]]|date=1973-04}}</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)[[6月1日]]:都営地下鉄との連絡運輸開始<ref name="eidan579">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.579。</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)[[5月1日]]:都営地下鉄1号線との連絡通路を銀座線1番線ホーム南端に設置<ref name="eidan582">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.582。</ref><ref name="RP939_56-57" />。
* [[1978年]](昭和53年)[[7月1日]]:都営地下鉄1号線が浅草線に改称<ref name="aramashi2020">{{Cite book|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|title=都営交通のあらまし2020|format=PDF|chapter=都営交通のあゆみ|publisher=東京都交通局|date=2020-09|page=35|accessdate=2020-11-09}}</ref>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)頃:東武浅草駅に発車メロディを導入。
* [[1997年]](平成9年)[[10月14日]]:「[[関東の駅百選]]」に選定<ref name="eidan618">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.618。</ref>。選定理由は、営団地下鉄が「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」、東武鉄道が「昭和6年『浅草雷門駅』として開業、駅の上はデパート」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=12 - 13, 996|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。なお、都営地下鉄は対象外<ref name="stations"/>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:営団地下鉄の民営化に伴い、銀座線の駅が東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:この日の東武鉄道のダイヤ改正において、準急が区間急行に名称が変更され、当駅発着の準急は廃止となる<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051229174153/http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf|format=PDF|language=日本語|title=“より便利に” “より快適に” 3月18日 伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施|publisher=東武鉄道|date=2005-12-16|accessdate=2020-05-01|archivedate=2005-12-29}}</ref>{{efn|[[東京メトロ半蔵門線]]・[[東急田園都市線]]直通の通勤準急は改正後は急行に名称変更された。}}。当駅を発着する日中の一般列車は新設された区間快速、区間準急、当駅と北千住間を結ぶ普通列車のみとなった{{efn|快速は朝のみの発着となった。これまでとは大幅な種別変更や運用変更のダイヤ改正となり、前述の半蔵門線と田園都市線直通は日中は急行となり改正前の通勤準急と同じ停車駅となったため、伊勢崎線の主役を直通路線に明け渡すこととなりこの日から当駅は主役の座から降りることとなった。}}。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東武鉄道・東京メトロ・都営地下鉄で[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)1月頃:東武浅草駅5番線ホームに柵を設置。
* [[2010年]](平成22年)
** [[1月22日]]:銀座線2番線ホーム中程に雷門・浅草寺方面改札口が新設される<ref group="広報" name="pr20100122"/>。
** 9月頃:東武浅草駅3番線ホームに柵を設置。
* [[2011年]](平成23年)[[9月29日]]:東武浅草駅2番線ホームの下り方2両が立入禁止になり、当該部分の[[ドアカット]]を開始。
* [[2012年]](平成24年)
** [[5月18日]]:東武浅草駅の外観リニューアル工事が完了<ref group="広報" name="pr20120511">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121113065624/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559|format=PDF|language=日本語|title=80年前のモダンな姿に再現 浅草駅ビルの外観完成 ~駅ビルのシンボルとなる大時計が現代に再び誕生します~|publisher=東武鉄道|date=2012-05-11|accessdate=2020-05-06|archivedate=2012-11-13}}</ref><ref group="広報" name="tokyo-np-2013-11-20-1"/>。
** [[10月30日]]:銀座線浅草駅に発車メロディを導入<ref group="広報" name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511235621/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜街にゆかりのあるメロディがホームを彩ります〜 銀座線の4駅に街のイメージに合った発車合図メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2012-10-24|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-05-11}}</ref>。
** [[11月21日]]:東武浅草駅ビルに商業施設「浅草エキミセ」が開業<ref group="広報" name="tokyo-np-2013-11-20-1">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/f9ff628add47ff20f1df1e9c4dfe6bef/120927_10.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305143950/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/f9ff628add47ff20f1df1e9c4dfe6bef/120927_10.pdf|format=PDF|language=日本語|title=浅草駅に新・商業施設「EKIMISE」2012年11月21日(水)グランドオープン 〜屋上に東京スカイツリー®を一望できる展望デッキを設置〜|publisher=東武鉄道|date=2012-09-27|accessdate=2020-05-01|archivedate=2016-03-05}}</ref><ref name="nikkei-indutry-2011-10-19">{{Cite news|和書|title=東武、浅草駅ビル新装、52店舗、新たに出店ー来月開業、屋上に展望デッキ|newspaper=[[日経産業新聞]]|publisher=日本経済新聞社|date=2011-10-19}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:この日の東武鉄道のダイヤ改正において、[[特別急行列車|特急]]と快速・区間快速列車を除いた当駅発着の一般列車が日中は普通のみの運行となる<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130228031121/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102|format=PDF|language=日本語|title=快速・区間快速列車が「とうきょうスカイツリー駅」に停車!! 3月16日(土)東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線 ダイヤ改正|publisher=東武鉄道|date=2013-02-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2013-02-28}}</ref>。このため日中の一般列車は東京都内で運行を完結する列車のみの運用となった{{efn|日中のもう一つの普通列車は従来通り[[北千住駅|北千住]]までの運行。}}。
* [[2017年]](平成29年)
** [[4月21日]]:この日の東武鉄道のダイヤ改正において、当駅発着の快速・区間快速列車の運行が取り止められる<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf?date=20170228123705|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200319160955/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf?date=20170228123705|format=PDF|language=日本語|title=2017年4月21日(金)ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【特急列車以外の一般列車】|publisher=東武鉄道|date=2017-02-28|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-03-19}}</ref>。
** [[6月24日]]:銀座線ホームにおいて[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews170228_23.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180909112613/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews170228_23.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線各駅に本格設置を開始します 銀座線浅草駅ホームドア使用開始日が決定しました 2017年3月25日(土)設置開始 6月24日(土)使用開始|publisher=東京地下鉄|date=2017-02-28|accessdate=2020-05-01|archivedate=2018-09-09}}</ref>。
*[[2023年]]([[令和]]5年)
**[[7月11日]]:ACCESS東武浅草駅店がリニューアルオープン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobushoji.co.jp/news/2023-07-07/6603 |title=ACCESS東武浅草駅店オープン |access-date=2023-09-17 |publisher=東武商事}}</ref>。
**[[7月15日]]:東武浅草駅5番線ホームを特急「[[けごん|スペーシアX]]」専用のりばとして供用開始。合わせてインフォメーションカウンターなどのリニューアル工事が完了<ref group="広報" name="renewal2023"/>。
**[[11月17日]]:東武浅草駅5番線ホームの発車メロディが「passenger」から「スペーシアX 車内チャイムのアレンジ版」に変更。<ref>{{Cite web|和書|url=https://raillab.jp/news/article/30377# |title=東武 浅草駅5番ホーム発車メロディ変更へ 「スペーシア X」モチーフに 11月17日 |access-date=2023年11月15日 |publisher=レイルラボ}}</ref>
== 駅構造 ==
東京メトロ、東武鉄道、都営地下鉄の駅はそれぞれ別構内ではあるが、いずれも浅草地区東部の[[隅田川]]に近接する[[江戸通り]]前または地下に位置する。東京メトロと東武鉄道の間、東京メトロと都営地下鉄の間にはそれぞれ地下連絡通路がある。東武鉄道と都営地下鉄間の乗り換えは一度地上に出る必要がある。
=== 東京メトロ ===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 東京メトロ 浅草駅
|画像 = Tokyo-Metro-Asakusa-Station-01.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 銀座線4番出入口(2012年10月撮影)
|よみがな = あさくさ
|ローマ字 = Asakusa
|電報略号 = アサ
|隣の駅 =
|前の駅 = G 18 [[田原町駅 (東京都)|田原町]]
|駅間A = 0.8
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|G|19|#ff9500|4}}
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#ff9500|●}}[[東京メトロ銀座線|銀座線]]
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 浅草
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[浅草]]一丁目1-3
|座標 = {{coord|35|42|39|N|139|47|52.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 浅草駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日= [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月30日]]<ref name="asahi-np-2013-1-14" />
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="metro2022" />84,355
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|備考 =
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。浅草エキミセ(東武鉄道浅草駅)の目の前の地下、[[吾妻橋]]西詰に位置している。
コンコースは北側(東武線側、5 - 8番出入口)・中央(1 - 4番出入口)・南側(浅草線側、A3 - A5出入口)の3つに分かれており、各コンコースは改札外で行き来できない。このため、改札によって利用可能な出入口や、直結する乗り換え路線が限定される。2020年3月現在、[[改札]]は4か所存在する。
中央のコンコースから行き来できる、吾妻橋の袂にある4番出入口は浅草観音に因んだ格好の屋根が設置され<ref name="RP939_29">[[#RP939|『鉄道ピクトリアル』通巻939号]]、p.29。</ref>、通称「赤門」と呼ばれており、[[近代化産業遺産]]に認定されている<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-08.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718160020/http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-08.html|language=日本語|title=日本初の地下鉄「銀座線」が『近代化産業遺産』に認定! 東京メトロ銀座線と地下鉄博物館1000形車両など|publisher=東京地下鉄|date=2009-02-09|accessdate=2021-02-26|archivedate=2017-07-18}}</ref>。これは、東京地下鉄道が募集した懸賞設計図案の当選図案から採用されたものである<ref name="RP939_29" />。
また、北側のコンコース(東武鉄道側)は馬車通り直下の地下商店街である「浅草地下街」に接続しており、新仲見世通りに繋がる6番出入口へは地下街を経由する形となる(8番出入口からも地下街に直接アクセス可能)。
[[2010年]]([[平成]]22年)[[1月22日]]には、2番線ホーム中央から直接出られる雷門・浅草寺方面改札口が新設された<ref group="広報" name="pr20100122" />。これにより、雷門・浅草寺エリアへ段差なしで行けるようになった<ref group="広報" name="pr20100122">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-04.html|language=日本語|title=浅草駅に新しい改札口がオープンいたしました!|publisher=東京メトロ|date=2010-01-22|accessdate=2019-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718202836/http://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-04.html|archivedate=2017-07-18}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線
|[[渋谷駅|渋谷]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/asakusa/timetable/ginza/a/index.html |title=浅草駅時刻表 渋谷方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:東京メトロ:構内図<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/asakusa/|title=浅草駅/G19 {{!}} 路線・駅の情報 {{!}} 東京メトロ|publisher=[[東京地下鉄]]|accessdate=2023-06-13}}</ref>)
* 1・2番線共に夜間留置が設定されている。
* [[三社祭]]や[[隅田川花火大会]]といった大規模な行事が開催される場合、多くの乗客を捌くことが必要になるため、渋谷駅側の[[分岐器|両渡り線]]を使用せずに留置線側の両渡り線を使用する<ref name="RF393_22">{{Cite book|和書|author=編集部|date=1994-01-01|title=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|chapter=あれ、こんなところにも線路が!?|volume=34|issue=1|page=22|publisher=[[交友社]]|oclc=61102288}}</ref>。そのため、1番線を乗車専用ホーム、2番線を降車専用ホームとしている<ref name="RF393_22" />。
* 当駅の終端側には3本の[[停車場#側線|留置線]](折り返し線)があり、[[夜間滞泊|夜間留置]]等に使用されている(「[[上野検車区#浅草駅構内の留置線について]]」も参照)<ref name="RF393_22" />。以前は当駅から[[三ノ輪駅|三ノ輪]]方面への延伸が計画されており([[都市交通審議会答申第10号]])<ref>{{Cite report|和書|title=運輸公報. (962)|chapter=都市交通審議会の中間答申|publisher=[[運輸省]]大臣官房|date=1968-04-23}}</ref>、その際は本線として使用する予定だった。
* 開業当初は、東武の浅草雷門駅が開業するまで北側の出入口が未完成だったため、ホーム端64 m手前からA線とB線の間に木製の渡り板を敷設し、A線のみで折り返し運転を行っていた<ref>{{Cite book|和書|title=地下鉄運輸50年史|publisher=帝都高速度交通営団営業部・運転部|page=215|date=1981-07-01 |id={{全国書誌番号|82042777}}}}</ref>。
* ホームの構造上、1番線側のみが都営浅草線への連絡通路と結ばれており、また、ホーム階から地上へ直接続くエレベーターは2番線側の浅草寺・雷門方面改札にのみ設置されている(両ホーム間は2台のエレベーターを乗り継いで移動可能)<ref name="RP939_56-57" />。上野 - 田原町間各駅の浅草方面行ホームにおける接近放送・[[発車標]]や、[[東京メトロ1000系電車|1000系]]の行先表示器・車内ディスプレイ・自動放送で当駅の到着番線が案内されているのは、このためである。
* 当駅は[[鉄骨鉄筋コンクリート構造]]という、地下鉄としては珍しい構造をしている。これは、当時の[[ベルリン地下鉄]]が同一の構造をしていたので、それに倣ったものであるとされている<ref>『[[ブラタモリ]]』2011年12月8日放送分</ref>。
<gallery>
Tokyo-metro-Kaminarimon-Sensoji-District-Gate.jpg|雷門・浅草寺方面改札(2018年10月)
TokyoMetro-Matsuya-Sumidapark-newgate.jpg|松屋・隅田公園方面改札(2018年1月)
TokyoMetro-Sensoji-Azumabashi-newgate.jpg|浅草寺・吾妻橋方面改札(2018年1月)
Tokyo-metro-Asakusa-Station-platform2.jpg|2番線ホーム(2018年10月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
[[2012年]](平成24年)[[10月30日]]から、[[瀧廉太郎]]作曲の「[[花 (瀧廉太郎)|花]]」をアレンジしたものを発車メロディ(発車サイン音)として使用している<ref group="広報" name=":0" />{{efn|付近を流れる隅田川が歌詞中に登場することにちなんでいる。}}。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、1番線のバージョンは[[塩塚博]]、2番線のバージョンは[[福嶋尚哉]]が編曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=音源リスト|東京メトロ|url=http://www.switching.co.jp/sound/index3.html|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-08-23|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。
=== 東武鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 東武 浅草駅
|画像 = Tobu Asakusa Station 2016-10-07 (30022753173).jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 改札口(2016年10月7日撮影)
|よみがな = あさくさ
|ローマ字 = Asakusa
|電報略号 = アサ
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B = 1.1
|次の駅 = [[とうきょうスカイツリー駅|とうきょうスカイツリー]] TS 02
|駅番号 = {{駅番号r|TS|01|#0f6cc3|1}}
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所属路線 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]<br />(東武スカイツリーライン)
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 浅草
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[花川戸]]一丁目4-1
|座標 = {{coord|35|42|43.5|N|139|47|54.3|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=東武 浅草駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 3面4線
|開業年月日= [[1931年]]([[昭和]]6年)[[5月25日]]<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />
|廃止年月日=
|乗降人員= <ref group="東武" name="tobu2022" />34,577
|統計年度= 2022年<!--リンク不要-->
|備考 =
}}
地上7階・地下1階の商業ビル(詳細は「[[#駅ビル|駅ビル]]」を参照)の2階に位置する<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />[[頭端式ホーム]]の3面4線構造で、西側の1線は両側にホーム(4・5番線)がある<ref name="tobuyardmap">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/1102/|title=浅草駅 構内マップ|publisher=東武鉄道|accessdate=2022-12-26}}</ref>。切符売り場は1階にある<ref name="tobuyardmap"/>。トイレは北口1階改札内と南口2階改札外に設置されている<ref name="tobuyardmap"/>。南口2階改札外には多機能トイレとエレベーターも設置されている<ref name="tobuyardmap"/>。エスカレーターは南口正面に設置されている<ref name="tobuyardmap"/>。
隅田川とほぼ平行した駅舎から、すぐに隅田川を直角に横断する[[隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)|隅田川橋梁]]を渡るという立地の制約上、乗り入れ可能な列車はほぼ6両編成に限定される(1番線のみ8両編成も入線可能だが乗務員を含めて、乗降は浅草方6両に限られる)。
{{Main|#駅立地による制約}}
朝[[ラッシュ時]]に10両編成で運行される列車については、かつては[[曳舟駅]]での後部4両の[[増解結|切り離し]]および当時存在した業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])地上ホームで折り返すことで対応していた。また、[[東京メトロ半蔵門線]]・[[東急田園都市線]][[直通運転|直通]]と北千住以北の列車が10両編成のまま運転され、その他の10両編成の列車は北千住で下り側4両を切り離して当駅との間を6両編成で運行していたが、2013年3月16日のダイヤ改正から区間急行が8両編成による当駅までの運転(1番線着)に変更されたため、北千住駅での切り離し作業は廃止された。
東武浅草駅管区として、伊勢崎線の当駅 - [[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]間の各駅と[[東武亀戸線|亀戸線]]の各駅を統括管理している<ref name="RP949_44-45">{{Cite magazine|和書|author=東武鉄道営業部・運輸部・鉄道乗務員養成所|title=駅・乗務管区のあらまし|magazine=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=68|issue=8|pages=44-45|publisher=[[電気車研究会]]|date=2018-08-10|issn=0040-4047}}</ref>。
==== のりば ====
ホームはおおむね以下の通りに使い分けられている(一部例外あり)。
<!-- 2012年8月時点(東武スカイツリーラインの愛称制定後)での現地の吊り下げ案内標の表記に準拠(「春日部」「館林」「太田」「伊勢崎」の表記はありません)。東武スカイツリーラインの表記は1・2番線のみですがここでは3・4番線にもつけておきます。 -->
{|class="wikitable"
|+ホーム
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->
!路線
!種別
!行先
!備考
|-
! 1
| nowrap="" rowspan="5" |[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン<br>{{Smaller|[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|15px|TI]] 伊勢崎線}}<br>{{Smaller|[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] [[東武日光線|日光線]]}}
| rowspan="2" |{{Color|#ff3399|■}}区間急行<br>{{Color|#33cc33|■}}区間準急<br>{{Color|#cccccc|■}}普通
| rowspan="5" |[[とうきょうスカイツリー駅|とうきょうスカイツリー]]・<br /> [[曳舟駅|曳舟]]・[[北千住駅|北千住]]・<br /> [[東武動物公園駅|東武動物公園]]・<br /> [[久喜駅|久喜]]・ [[南栗橋駅|南栗橋]]方面
| 8両編成の際、北千住寄り2両のドアが開かない。
|-
! 2
| 北千住寄り2両のドアが開かない。
|-
! 3
| rowspan="2" |{{Color|#ff9900|■}}{{Color|#ff6633|■}}{{Color|#006633|■}}{{Color|#0099cc|■}}特急
|
|-
! 4
|
|-
! 5
| ■特急
| 特急「[[けごん|スペーシアX]]」乗車ホーム
|}
* 上記の路線名は旅客案内上の名称(「東武スカイツリーライン」は愛称)で表記している。
* 日中の時間帯、当駅を発車する列車は特急列車を除くと北千住駅まで各駅に停車する列車しか運行されていないので、[[曳舟駅]]における田園都市線・半蔵門線からの急行・準急との接続を積極的に案内している。
* 3 - 5番線ホームの入口はインフォメーションセンターを兼ねた有人の[[中間改札]]が設置されている。
* 5番線ホームは[[2023年]](令和5年)[[7月15日]]より特急「[[けごん|スペーシアX]]」専用の乗車ホームとなっている<ref group="広報" name="renewal2023">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20230607095044KhoiiQutWQV_SC2SmuJvSg.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230607070518/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20230607095044KhoiiQutWQV_SC2SmuJvSg.pdf|language=日本語|title=スペーシアXの運行開始に合わせ 浅草駅と東武日光駅が生まれ変わります!|publisher=東武鉄道|date=2023-06-07|accessdate=2023-06-12|archivedate=2023-06-07}}</ref>。それ以前は[[2017年]](平成29年)[[4月20日]]まで設定されていた快速・区間快速の乗車ホームとして使用されていた。なお、同ホームにはとうきょうスカイツリー側の北改札口へ通じる[[階段]]が設置されていない<ref name="tobuyardmap"/>。
* 3・5番線ホームのとうきょうスカイツリー寄りには転落防止柵が設置されている<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/2392/100427.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308073543/http://www.tobu.co.jp/file/2392/100427.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2010年度の鉄道事業計画 設備投資計画は総額287億円 〜安全対策工事を引き続き推進します〜|publisher=東武鉄道|date=2010-04-27|accessdate=2020-12-12|archivedate=2012-03-08}}</ref>。
* 1990年代までは4・5番線からも一般列車が発車していたが、ドア扱いは4番線ホームのみであった。
* 1・2番線ホームは転落防止を理由に先端へ立ち入りができないため[[ドアカット]]が行われる。ドアカットを採用しているターミナル駅は当駅が唯一である。
<gallery>
Tobu Asakusa Station 2016-10-07 (30568234131).jpg|1・2番線ホーム(2016年10月)
Tobu Asakusa Station 2016-10-07 (30356544130).jpg|3・4番線ホーム(2016年10月)
Electronic signage of Asakusa Station (Tobu Skytree Line).JPG|[[発車標]](2015年9月)
東武鉄道・伊勢崎線・浅草駅・ホーム先端(隅田川側).jpg|駅構内(とうきょうスカイツリー駅側)。線路の間に2つ並んだレール塗油器の[[グリース]]タンクが見える。写真右は特急「りょうもう」の先頭車(2009年6月5日)
</gallery>
==== 駅ビル ====
[[File:Matsuya asakusa (Asakusa Station) at night.jpg|thumb|「浅草エキミセ」]]
地上7階・地下1階の建物は、[[鉄道省]]の初代建築課長であった建築家[[久野節]]が設立した久野建築事務所が設計、[[清水建設|清水組]]により施工された<ref name="shimizu-constraction-history-170-1977-6">{{Cite book|和書|title=日本社史全集 清水建設百七十年史|publisher=常盤書院|date=1977-06}}</ref>。
初めて利用する人でも迷うことがないように複雑な構造を避け、入口からホームまで一直線に結ぶ構造になっている。
3階から7階までを百貨店として設計し、当初は[[三越]]などの百貨店を招致したが実現しなかった<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。
そこで、[[松屋 (百貨店)#浅草店|松屋]]が入居し、浅草駅ビルは[[1931年]](昭和6年)11月に関東では初となる本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業した<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。
その後、[[1934年]](昭和9年)に1階の一部や2階なども松屋に賃借するようになり、同店は規模を拡大することになった<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1">{{Cite book|和書|editor=東武鉄道年史 編纂事務局|title=東武鉄道六十五年史|publisher=東武鉄道|date=1964-08-01 |id={{全国書誌番号|64010839}} }}</ref>。
なお、松屋浅草は規模を縮小して地下1階と地上1階から3階までとなり、ビル全体は2012年(平成24年)11月21日に「浅草エキミセ」という名称の商業施設として新装開業した<ref group="広報" name="tokyo-np-2013-11-20-1" /><ref name="nikkei-indutry-2011-10-19" />。この改装に伴い、新たに52店舗が出店した<ref group="広報" name="tokyo-np-2013-11-20-1" /><ref name="nikkei-indutry-2011-10-19" />。
昭和初期を代表する[[アール・デコ]]様式による大規模建築物の一つであったが<ref name="tokyo-1960s-tram-memory-2008-3-14">* {{Cite book |和書 |author=池田信 |year=2008-03-14 |title=1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶 |publisher=[[毎日新聞社]] |ISBN=|9784620606323 }}</ref>、[[1974年]](昭和49年)には外壁に使用されていたテラコッタタイル(自然の土を固めて素焼きにした)が老朽化で剥がれ始めていたことから、外壁をアルミルーバーと呼ばれる建材で覆う改修工事を実施<ref name="nikkei-indutry-2011-3-3">{{Cite news|和書|title=浅草駅ビル、シックに改装、東武、建設時の姿に――スカイツリー開業に合わせ|newspaper=日経産業新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2011-03-03|}}</ref>。建物自体は竣工当時のままながら建設当時の面影は失われることになったが<ref name="tokyo-1960s-tram-memory-2008-3-14" /><ref name="nikkei-indutry-2011-3-3" />、東武が手掛ける[[東京スカイツリー]]開業に伴い<ref name="nikkei-indutry-2011-3-3"/>、当駅舎についても開業時の姿に復元すると同時に待合室の新設・耐震補強工事の施行を含めたリニューアルが行われ<ref name="nikkei-indutry-2011-3-3" />、[[2012年]](平成24年)[[5月18日]]に竣工<ref group="広報" name="pr20120511"/><ref name="nikkei-indutry-2011-10-19" />。開業時のシンボルだった大時計も復活した<ref group="広報" name="pr20120511"/><ref name="tobu-railways-secret-2013-2-18">『東武鉄道のひみつ』 [[東武鉄道]]、2013年2月18日。978-4-569-80995-3</ref>。タイルはGRS(ガラス繊維コンクリート)製を使用している。
==== 駅立地による制約 ====
[[#歴史|前述]]した、駅舎と駅を出てすぐに存在する橋梁の位置関係から、駅を出てすぐに半径100 [[メートル|m]]の急カーブが存在し、ここは15 [[キロメートル毎時|km/h]]の速度制限がかかっている<ref name="tokyo20210525" />。各ホームへの[[分岐器]]はカーブ状に設置されているが、[[分岐器#形状による分類|両渡り分岐器]]をカーブの途中に設置することが不可能なため、橋梁上に設置されている。ゆっくりと隅田川を渡る風景は当駅の一つの情緒ともなっているが、[[輪軸 (鉄道車両)|車輪]]と[[軌条|レール]]の摩擦音による騒音など、いくつかの問題も生じた。
しかし最大の問題は、この立地によりホーム先端が急カーブにかかっており、かつこれ以上のホーム延伸が不可能な点である。入線可能な列車は基本的に20 m級車では6両編成までに制限される。例外として1番線のみ8両分の[[有効長]]があり、朝夕の時間帯には8両編成の列車が発着する。かつては4両編成2本併結列車の入線が不可能であったが、2009年12月より可能となった。
1・2番線ホームは急カーブやホーム上にある柱(正確には浅草エキミセのエレベーター)の関係で、入線部分のホーム幅が極度に狭く、転落事故や1・2番線ホームを発着する電車と乗客とが触車事故を起こす危険性があることから、1番線に発着する8両編成の列車と2番線ホームに発着する6両編成の列車はとうきょうスカイツリー寄りの2両が[[ドアカット]]扱いとなり<ref name="tobuyardmap"/>、その部分に柵が設置されて立入禁止となっている。また、ホームが急カーブであるため、6両編成がほぼ直線上に停車できるのは1番線のみであり、それ以外のホームのとうきょうスカイツリー方ではホームと車両との間に隙間が生じる。このため、3 - 5番線に入線する特急列車のうち、とうきょうスカイツリー方の車両(約4両分)の乗降口には、転落防止のため駅員によって車両とホームに跨る可搬式の渡り板がかけられる。
また、これも急カーブで短編成の列車は信号機の見通しが利かないため、分岐器の手前にある正規の[[日本の鉄道信号#出発信号機|出発信号機]]に加えて、1番線ホームは6両編成、その他のホームは4両編成の先頭車停車位置(いずれもホームの途中)にも出発信号機を設けている。これは中継信号機的なもので、閉塞を区切る機能はない。
急カーブでは左右の車輪の進む距離が極端に異なるため{{efn|一般的な鉄道車両の車輪は車軸で繋がれており、左右輪が別々に回転することはない。}}、車輪とレールの摩耗が進みやすく、大きな「きしり音」も発生する。これを軽減するため、曲線部の線路脇には多数の「レール塗油器」が設置されており、レールと[[バラスト軌道|バラスト]]はその油で黒々としている。
==== 駅弁 ====
かつては、主な[[駅弁]]として下記を販売していた<ref>{{Cite book|和書|title=JTB時刻表|publisher=[[JTBパブリッシング]]|issue=2020年3月|page=612|year=2020}}</ref>。
* 春らんまん御膳(行楽シーズン限定販売)
==== 付記 ====
[[File:"Tobu Densha" (Tobu Railway) signboard installed in front of Asakusa Station before renovation.jpg|thumb|「東武電車」の看板<br/ >(正面入口、[[2011年]]当時)]]
[[File:"Tobu Densha" (Tobu Railway) signboard installed on the roof of Asakusa Station before renovation.jpg|thumb|「東武電車」の看板<br/ >(駅ビル屋上、[[2011年]]当時)]]
* 大都市内にあってJR・地下鉄以外の民鉄駅と接続も近接もしていないターミナル駅のひとつであり、関東地区では唯一の存在である{{efn|関東地区以外では[[京阪電気鉄道]]の[[淀屋橋駅]]、[[近畿日本鉄道]]の[[大阪上本町駅]]、[[西日本鉄道]]の[[西鉄福岡(天神)駅]]、[[名古屋鉄道]]の[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]等がある。}}。
* [[発車メロディ]]は1・2番線が標準メロディ、3 - 5番線が「Passenger」のフェードアウトバージョンである。2012年3月までは全ホームで「Passenger」のフルバージョンが使用されていた。2012年3月までは信号と連動して自動で流れる方式だったが、メロディーの変更後は1・2番線がリモコン操作、3 - 5番線はスイッチ操作に改められている。
* 発車標はかつて[[ブラウン管]]式モニターを使用していたが、その後[[発光ダイオード|LED]]式に置き換えられた。正面改札口の先、2番線ホームの[[車止め]]裏側にもLED式発車標が設置されていたが、後に[[液晶ディスプレイ|LCD]]式のものに交換されている。階段上部には液晶モニターが設置されており、すべての停車駅と接続列車が表示される。
* 当駅は伊勢崎線の起点駅であるが、0[[距離標|キロポスト]]は開業時の起点である[[北千住駅]]に設置されており、当駅から北千住駅までは距離がマイナスとなっている。
* リニューアル工事開始前の当駅正面入口および駅ビル屋上の看板には「[[東武鉄道]]」ではなく「'''東武電車'''」と表記されていた。かつて[[東武本線|本線]]のPRや[[車内放送]]で「東武電車」の呼称を使用していた名残りである。「○○電車」という表記は、その鉄道会社の鉄道・鉄道事業で使われたいわばブランド名であり、現在[[近畿地方]]の鉄道会社で多く見られるが(「[[阪神電気鉄道|阪神電車]]」「[[京阪電気鉄道|京阪電車]]」など)、[[関東地方]]では珍しく、ブランド名的に使用しているのは「[[箱根登山鉄道|箱根登山電車]]」のみである。
=== 都営地下鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 浅草駅
|画像 = Toei-Asakusa-station-ExitA2a.jpg
|pxl = 300
|画像説明= A2a番出入口(2019年8月29日撮影)
|よみがな = あさくさ
|ローマ字 = Asakusa
|電報略号 = 浅(駅名略称)
|前の駅 = A 17 [[蔵前駅|蔵前]]
|駅間A = 0.7
|駅間B = 0.9
|次の駅 = [[本所吾妻橋駅|本所吾妻橋]] A 19
|駅番号 = {{駅番号r|A|18|#ec6e65|4}}
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#ec6e65|●}}[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]
|キロ程 = 16.8
|起点駅 = [[西馬込駅|西馬込]]
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[駒形]]一丁目12-14
|座標 = {{coord|35|42|32.3|N|139|47|47.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 浅草駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1960年]]([[昭和]]35年)[[12月4日]]<ref name="japan-civil-engineering-history-s16-s40-1973-4" />
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />45,976
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<br />* かつての副名称は「'''雷門前'''」。
}}
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。[[駒形橋]]西詰直下に位置し、東武線・銀座線とはやや離れたところに駅がある。
ホーム全体がカーブ上に位置しているため、ドアとホームの間の隙間が広く開く場所がある。
北側(銀座線側、A3 - A5出入口)と南側(A1・A2a・A2b出入口)の各コンコースは改札外では接続していない。A2a・A3出入口は22時以降閉鎖される。エレベーターは改札内コンコース - ホーム間およびA2b出入口に、エスカレーターはA4・A5出入口と改札外コンコースを連絡する通路の途中に設置されている。なお、A4・A5出入口の通路上にもエレベーターがあるが、こちらは駅設備ではなく併設されているビルの入居者専用である。
かつての副名称は「雷門前」であったが、現在副名称は廃止されている。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A18SD.html |title=浅草 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-05}}</ref>
|-
! 1
|rowspan=2| [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線
|[[西馬込駅|西馬込]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|京急線]]方面
|-
! 2
|[[押上駅|押上]]・[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成本線|京成線]]・[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]方面
|}
(出典:都営地下鉄:駅構内図<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/asakusa.html|title=浅草 | 東京都交通局|publisher=[[都営地下鉄]]|accessdate=2023-06-13}}</ref>)
<gallery>
Metropolitan-subway-Kaminarimon-gate.jpg|雷門方面改札口(2018年9月)
Metropolitan-subway-komagatabridge-gate.jpg|駒形橋方面改札口(2018年9月)
Toei-subway-A18-Asakusa-station-platform-20230610-180359.jpg|浅草線ホーム(2023年6月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''84,355人'''である<ref group="メトロ" name="metro2022" />。
*:乗降人員は[[2003年]]度まで減少傾向が続いていたが、その後は9万人前後で落ち着き、[[2012年]]度には再度10万人を越えた。
* '''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''34,577人'''である<ref group="東武" name="tobu2022" />。
*:開業当初は、[[東武本線]]系統中最も乗降人員が多い駅であったが、[[1962年]]に[[東京メトロ日比谷線|地下鉄日比谷線]]との直通運転を開始すると、実質的なターミナルの座を[[北千住駅]]に譲った。[[1997年]]に北千住駅の改良工事が完成すると、下りの特急列車が同駅に全停車するようになり、当駅を利用する乗客が減少した。さらに、[[2003年]]に[[東京メトロ半蔵門線|地下鉄半蔵門線]]との直通運転を開始したことにより、[[2006年]]度以降は[[とうきょうスカイツリー駅]]([[押上駅]]を含む)よりも下回った。[[2012年]]度は[[東京スカイツリータウン]]開業の影響から一転して12,500人程度増加したが、翌年度以降は再び減少傾向が続いている。
* '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''45,976人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:21,373人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:24,603人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。
*:浅草線全20駅中第11位。エアポート快特停車駅であるが、通過駅の[[東銀座駅]]、[[浅草橋駅]]よりも少ない。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*" name="train-media">{{url|https://www.train-media.net/report.html |関東交通広告協議会レポート}}</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|営団 / 東京メトロ
!colspan="2"|都営地下鉄
!colspan="2"|東武鉄道
|-
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
!1日平均<br />乗降人員!!増加率
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|
|
|
| <ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20120605/1041342/?ST=trnmobile&P=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140929171048/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20120605/1041342/?ST=trnmobile&P=3|title=スカイツリーって儲かるの? 建設に巨額を投じた東武鉄道の皮算用|page=3|date=2012-06-08|archivedate=2014-09-29|accessdate=2021-05-25|website=日経トレンディネット|publisher=日本経済新聞社|language=日本語|deadlinkdate=2021年5月}}</ref>110,247
|
|-
|1998年(平成10年)
| ||
| ||
|87,147||
|-
|1999年(平成11年)
|100,056||
| ||
|83,568||−4.1%
|-
|2000年(平成12年)
|98,085||−2.0%
|42,734||
|81,830||−2.1%
|-
|2001年(平成13年)
|95,523||−2.6%
|42,106||−1.5%
|78,123||−4.5%
|-
|2002年(平成14年)
|93,940||−1.7%
|42,370||0.6%
|74,788||−4.3%
|-
|2003年(平成15年)
|90,415||−3.8%
|41,797||−1.4%
|68,482||−8.4%
|-
|2004年(平成16年)
|92,939||2.8%
|41,047||−1.8%
|65,602||−4.2%
|-
|2005年(平成17年)
|92,154||−0.8%
|41,110||0.2%
|62,194||−5.2%
|-
|2006年(平成18年)
|92,243||0.1%
|41,395||0.7%
|58,781||−5.5%
|-
|2007年(平成19年)
|90,362||−2.0%
|43,009||3.9%
|56,289||−4.2%
|-
|2008年(平成20年)
|91,961||1.8%
|44,018||2.3%
|54,414||−3.3%
|-
|2009年(平成21年)
|90,726||−1.3%
|43,465||−1.3%
|51,578||−5.2%
|-
|2010年(平成22年)
|92,442||1.9%
|44,553||2.5%
|50,812||−1.5%
|-
|2011年(平成23年)
|90,967||−1.6%
|43,001||−3.5%
|48,569||−4.4%
|-
|2012年(平成24年)
|103,019||13.2%
|48,401||12.6%
|61,117||25.8%
|-
|2013年(平成25年)
|100,236||−2.7%
|49,007||1.3%
|56,834||−7.0%
|-
|2014年(平成26年)
|97,229||−3.0%
|49,307||0.6%
|53,190||−6.4%
|-
|2015年(平成27年)
|103,124||6.1%
|52,280||6.0%
|52,382||−1.5%
|-
|2016年(平成28年)
|105,784||2.6%
|53,320||2.0%
|49,362||−6.1%
|-
|2017年(平成29年)
|107,628||1.7%
|54,556||2.3%
|48,673||−1.4%
|-
|2018年(平成30年)
|109,223||1.5%
|56,549||3.7%
|47,754||−1.9%
|-
|2019年(令和元年)
|108,434||−0.7%
|55,671||−1.6%
|45,422||−4.9%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|57,513||−47.0%
|<ref group="都交" name="toei2020" />29,467||−47.1%
|27,140||−40.2%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|63,485||10.4%
|<ref group="都交" name="toei2021" />33,309||13.0%
|28,993||6.8%
|-
|2022年(令和 4年)
|<ref group="メトロ" name="metro2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html |title=各駅の乗降人員ランキング|東京メトロ |website= |publisher=東京地下鉄 |page= |format= |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>84,355||32.9%
|<ref group="都交" name="toei2022" />45,976||38.0%
|<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite report |url=https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_02.pdf |title=東武会社要覧2023 |website= |publisher=東武鉄道 |page=66 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>34,577||19.3%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1920年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="tokyofu-toukei">東京府統計書 - (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
!年度!!東京地下鉄道!!東武鉄道!!出典
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|<ref group="備考">1927年12月30日開業。</ref>
|rowspan="4" style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448164/314}} 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|8,764
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448188/346}} 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|7,268
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448218/334}} 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|8,664
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448245/339}} 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|9,534
|10,255
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448278/342}} 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|12,086
|9,662
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1448259/315}} 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|12,019
|9,979
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1446322/333}} 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|13,235
|9,768
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1446161/341}} 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|14,196
|9,410
|<ref group="東京府統計">[{{NDLDC|1446276/339}} 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="tokyo-toukei">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm |東京都統計年鑑}} - 東京都</ref>
!年度!!営団!!都営地下鉄!!東武鉄道!!出典
|-
|1956年(昭和31年)
|32,000
|rowspan="4" style="text-align:center"|未開業
|4,382
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|31,969
|<ref name="toukei1957">『交通東武』昭和34年6月10日号</ref>29,948
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|32,817
|<ref name="toukei1957" />30,978
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|36,349
|32,438
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm |昭和34年}}</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|36,929
|<ref group="備考">1960年12月4日開業。開業日から1961年3月31日までの計118日間を集計したデータ。</ref>1,682
|34,492
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm |昭和35年}}</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|35,403
|1,932
|37,825
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm |昭和36年}}</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|39,512
|2,515
|36,517
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm |昭和37年}}</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|36,424
|4,432
|34,386
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm |昭和38年}}</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|39,629
|6,569
|35,622
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm |昭和39年}}</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|39,914
|7,761
|35,540
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm |昭和40年}}</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|36,219
|8,939
|35,183
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm |昭和41年}}</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|36,695
|9,674
|36,451
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm |昭和42年}}</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|39,249
|11,621
|38,221
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm |昭和43年}}</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|41,198
|14,007
|39,885
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm |昭和44年}}</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|41,468
|15,417
|40,734
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm |昭和45年}}</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|41,437
|16,180
|40,169
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm |昭和46年}}</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|42,668
|17,025
|40,638
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm |昭和47年}}</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|42,499
|17,449
|41,849
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm |昭和48年}}</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|42,770
|17,479
|42,518
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm |昭和49年}}</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|41,989
|17,533
|42,705
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm |昭和50年}}</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|41,564
|17,677
|41,595
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm |昭和51年}}</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|41,737
|17,945
|42,816
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm |昭和52年}}</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|40,923
|17,827
|43,608
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm |昭和53年}}</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|40,981
|17,678
|44,224
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm |昭和54年}}</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|42,027
|18,356
|45,310
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm |昭和55年}}</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|42,616
|18,222
|46,156
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm |昭和56年}}</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|42,910
|18,110
|46,578
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm |昭和57年}}</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|43,000
|18,085
|46,642
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm |昭和58年}}</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|42,912
|18,414
|47,167
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm |昭和59年}}</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|44,438
|18,773
|47,773
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm |昭和60年}}</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|46,507
|20,003
|49,973
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm |昭和61年}}</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|47,158
|20,989
|51,541
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm |昭和62年}}</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|49,077
|21,995
|53,329
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm |昭和63年}}</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|51,036
|23,181
|54,805
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm |平成元年}}</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|54,890
|24,479
|58,003
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm |平成2年}}</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|55,943
|26,918
|59,689
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm |平成3年}}</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|56,353
|22,389
|58,819
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.htm |平成4年}}</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|55,337
|28,192
|57,822
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.htm |平成5年}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|53,405
|27,490
|56,236
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.htm |平成6年}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|52,470
|26,396
|54,664
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.htm |平成7年}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|52,830
|26,058
|53,022
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.htm |平成8年}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|51,482
|23,940
|49,332
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.htm |平成9年}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|50,301
|23,545
|46,507
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|48,798
|23,295
|44,495
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|47,882
|23,101
|43,142
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm |平成12年}}</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="tokyo-toukei"/>
!年度!!営団 /<br />東京メトロ!!都営地下鉄!!東武鉄道!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|47,304
|22,581
|41,816
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm |平成13年}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|46,205
|22,392
|39,773
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm |平成14年}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|44,516
|22,164
|36,230
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm |平成15年}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|43,822
|21,553
|34,395
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm |平成16年}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|44,310
|21,564
|32,282
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm |平成17年}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|44,438
|21,710
|30,077
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm |平成18年}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|44,678
|22,088
|28,967
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm |平成19年}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|45,058
|22,423
|28,088
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm |平成20年}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|44,400
|21,870
|26,603
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm |平成21年}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|45,570
|22,269
|26,175
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm |平成22年}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|44,418
|21,279
|24,680
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm |平成23年}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|50,724
|23,562
|30,994
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm |平成24年}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|49,109
|23,657
|28,854
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm |平成25年}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|48,671
|23,736
|27,038
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm |平成26年}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|51,754
|25,062
|26,552
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm |平成27年}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|52,882
|25,562
|25,627
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm |平成28年}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|53,734
|26,011
|25,219
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm |平成29年}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|54,532
|26,886
|24,688
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm |平成30年}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|53,208
|26,398
|23,402
|<ref group="東京都統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm |平成31年・令和元年}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>14,098
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>15,763
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>21,373
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|浅草|花川戸|雷門 (台東区)|駒形|寿 (台東区)|吾妻橋 (墨田区)|[[山谷]]}}
[[浅草寺]]をはじめとする観光地や、興行街の[[浅草公園六区]]がある。また、隅田川沿いにある[[隅田公園]]の最寄り駅でもあり、[[墨田区役所]]と[[アサヒビール]]本社のある[[リバーピア吾妻橋]]が[[吾妻橋]]の対岸にある。北部には[[山谷 (東京都)|山谷]]や、[[風俗街]]の[[吉原 (東京都)|吉原]]などがある。
=== 名勝・神社仏閣・観光施設など ===
{{Div col}}
* 浅草寺
** [[仲見世通り]]
** [[浅草神社]]
* [[今戸神社]]
* [[隅田川]]
** 吾妻橋
** [[駒形橋]]
* 浅草公園六区
* [[浅草花やしき]]
* [[伝法院通り]]
* [[アミューズミュージアム]]
{{Div col end}}
=== 公共施設 ===
{{Div col}}
* [[浅草公会堂]]
* [[浅草文化観光センター]]
* 墨田区役所
* 台東区雷門地区センター
* [[東京都立産業貿易センター#台東館|東京都立産業貿易センター台東館]]
** 台東区民会館
* 台東区浅草[[保健所|保健相談センター]]
* [[浅草警察署]]花川戸交番
* [[東京消防庁第六消防方面本部#管轄消防署|東京消防庁日本堤消防署]]二天門出張所
{{Div col end}}
=== 商業施設 ===
{{Div col}}
* リバーピア吾妻橋
** アサヒビール吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)
** [[スーパードライホール]]
* [[浅草ビューホテル]]
* 東武浅草駅ビル
** [[松屋 (百貨店)#浅草店|松屋浅草店]]
** 浅草エキミセ
* 浅草地下街 - 現存する日本最古の[[地下街]]。
* [[神谷バー]]
* [[大黒家天麩羅]]
{{Div col end}}
=== 郵便局・金融機関 ===
{{Div col}}
* 雷門郵便局
* 台東花川戸郵便局
* [[三菱UFJ銀行]]浅草支店
* 三菱UFJ銀行雷門支店
* [[三井住友銀行]]浅草支店
* [[みずほ銀行]]浅草支店
* みずほ銀行雷門支店
* [[りそな銀行]]浅草支店
{{Div col end}}
<gallery>
SensojiPagoda1468.jpg|浅草寺(五重塔)
Nakamise1411.jpg|仲見世通り
Komagatabashi.jpg|駒形橋(対岸の墨田区側から)
Skytree & Asahi Breweries Building, from Azumabashi, Asakusa 2012 Ⅲ.JPG|[[リバーピア吾妻橋]]と[[東京スカイツリー]]
Sumida_Park.jpg|隅田公園
</gallery>
== バス路線 ==
[[File:浅草駅バス停.JPG|thumb|めぐりんの浅草駅停留所]]
以下の各停留所に以下の路線が乗り入れ、主に[[都営バス|東京都交通局]]により運行されている。それぞれのバス停留所は名称ごとに記載するが、乗り場は方向・系統により異なる場合がある。
; 東武浅草駅前
* [[都営バス南千住営業所#都08系統(グリーンリバー)|都08(T08)]]:[[日暮里駅]]行き/[[錦糸町駅]]行き(都営)
* [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-1]]:[[今戸]]経由[[南千住駅|南千住駅西口]]・南千住車庫行き/[[浅草橋駅]]経由[[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲口]]行(都営)
* [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-2]]:今戸経由南千住駅西口・南千住車庫行き/浅草橋駅経由[[東神田]]行き(都営)
* [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-3]]:[[台東リバーサイドスポーツセンター|リバーサイドスポーツセンター]]経由南千住車庫行き/浅草雷門行き(都営)
* [[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|草64]]:[[浅草警察署]]・[[新三河島駅]]・[[尾久駅]]・[[王子駅]]経由[[池袋駅|池袋駅東口]]・[[高岩寺|とげぬき地蔵]]行き/浅草雷門南行き(都営)
; 浅草松屋西
* [[めぐりん (台東区)|めぐりん]]([[日立自動車交通]])
** [[めぐりん (台東区)#北めぐりん|北めぐりん(浅草回り)]]:今戸・[[清川 (台東区)|清川]]・[[三ノ輪]]・[[東京都台東区立台東病院|台東病院]]方面循環
; 浅草雷門
* [[都営バス青戸支所#上23系統|上23]]:[[御徒町駅|上野松坂屋]]行き/十間橋経由[[平井駅 (東京都)|平井駅]]行き(都営)
* [[都営バス臨海支所#草24系統|草24]]:[[亀戸駅]]・[[東大島駅]]行き/[[駒形橋]]経由[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]]行き(都営)
* [[都営バス青戸支所#草39系統|草39]]:浅草一丁目経由浅草寿町・上野松坂屋(平日日中のみ)行き/ 青戸車庫・[[金町駅]]行き(都営)
* [[都営バス千住営業所#草43系統|草43]]:千住車庫・[[足立区役所]]行き(都営) ※平日のみ
* [[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|草63]]:[[荒川区役所]]・[[西日暮里駅]]・[[巣鴨駅]]経由池袋駅東口行き(都営)
* 草64:浅草雷門南行(都営)
* [[京成タウンバス#浅草線|有01]]:浅草寿町行き/[[亀有駅]](南口)行き([[京成タウンバス]]) ※土休日のみ
* 新小59:浅草寿町行 / [[新小岩駅]](東北広場)行き([[京成バス]]・京成タウンバス) ※土休日のみ
* 空01(ST01)(スカイツリーシャトル上野・浅草線):[[上野駅|上野駅公園口]]方面(東武) ※土休日のみ
* 成田空港・TDR - 長野線(夜行高速バス)[[松本バスターミナル|松本]]・[[長野駅|長野]]行([[成田空港交通]]・[[川中島バス#高速バス|アルピコ交通]])
* 千葉 - 大津・京都線(夜行高速バス):[[鎌取駅]]行きき([[千葉中央バス]]、降車専用)
; 雷門一丁目
* 草63:[[荒川区役所]]・[[西日暮里駅]]・[[巣鴨駅]]経由池袋駅東口行き(都営、乗車専用)
* 草43:浅草雷門行き(都営) ※平日のみ
; 浅草雷門南
* 草64:浅草警察署・新三河島駅・王子駅経由池袋駅東口行き/とげぬき地蔵行き(都営)
; 浅草駅前{{Anchors|浅草駅前}}
* [[TOKYOサンライズ号]]:[[新庄駅|新庄]]行き([[東北急行バス]]・[[山交バス (山形県)|山交バス]])
* [[レインボー号 (東北急行バス)|レインボー号]]:[[山交ビル|山形]]行き(東北急行バス)
* [[フライングライナー号|フライングスニーカー号]]:[[京都駅|京都]]・[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば|大阪(あべの橋)]]行き(東北急行バス・[[近鉄バス]])
* [[東京 - 岡山・倉敷線|ままかりライナー]]:[[岡山駅#岡山駅西口バスターミナル|岡山]]・[[倉敷駅#北口バス乗り場(高速バス・空港リムジンバス)|倉敷]]行き(東北急行バス・[[両備ホールディングス]])
* きまっし号:[[金沢市|金沢]]行き(東北急行バス・[[北日本観光自動車]])
* [[いわき号]]:東京駅行き([[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[新常磐交通]]・[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]、降車専用)
; 浅草駅
* めぐりん(日立自動車交通)
** 北めぐりん(浅草回り):今戸・清川・三ノ輪・台東病院方面循環
** [[めぐりん (台東区)#東西めぐりん|東西めぐりん]]:[[新御徒町駅]]・[[上野駅]]・[[谷中 (台東区)|谷中]]・[[千駄木]]・[[根津]]方面循環
* めぐりん(京成バス)
** [[めぐりん (台東区)#ぐるーりめぐりん|ぐるーりめぐりん]]:[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]・[[蔵前駅|大江戸線蔵前駅]]・[[鳥越神社|鳥越神社前]]・[[新御徒町駅]]・[[台東区役所]]・[[上野駅|上野駅入谷口]]・[[三ノ輪駅]]方面循環
; 雷門前
* めぐりん(日立自動車交通)
** 東西めぐりん:新御徒町駅・上野駅・谷中・千駄木・根津方面循環
; 都営浅草駅
* めぐりん(日立自動車交通)
** 東西めぐりん:新御徒町駅・上野駅・谷中・千駄木・根津方面循環
* 高速バス[[ひたちなか市|勝田]]・[[東海村|東海]]線:東京駅行き([[茨城交通]]、降車専用)
* 高速バス[[常陸太田市|常陸太田]]・[[常陸大宮市|常陸大宮]]・[[大子町|大子]]線:東京駅・[[バスタ新宿]]行き(茨城交通、降車専用)
; 駒形橋
* [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-1]]:今戸経由南千住駅西口・南千住車庫行き/浅草橋駅経由東京駅八重洲口行(都営)
* [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-2]]:今戸経由南千住駅西口行・南千住車庫行き/浅草橋駅経由東神田行(都営)
* [[都営バス臨海支所#草24系統|草24]]:浅草寿町行(都営)
; 浅草花川戸(浅草寺東参道)
* [[日の丸自動車興業#スカイホップバス|スカイホップバス]](浅草・東京スカイツリーコース):東京駅丸ノ内三菱ビル方面([[日の丸自動車興業]])
=== 水上バス ===
駅のすぐ東側の隅田川河岸から、[[東京都観光汽船]]と[[東京都公園協会]]による[[水上バス]]が発着している。
* 隅田川ライン
** 浅草 - [[東京港|日の出桟橋]]
*** 日の出桟橋方面行のみ、[[浜離宮恩賜庭園|浜離宮]]にも寄港する便もある。
* 浅草・お台場直通ライン
** 浅草 - [[お台場海浜公園]]・[[アーバンドック ららぽーと豊洲|豊洲]]
* [[東京水辺ライン]]
** 浅草([[桜橋 (東京都)|桜橋]])- [[両国 (墨田区)|両国]]・[[千住]]・[[あらかわ遊園|荒川遊園]]・[[神谷 (東京都北区)|神谷]]・[[小豆沢]]
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線
::: [[田原町駅 (東京都)|田原町駅]] (G 18) - '''浅草駅 (G 19)'''
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン
:* ■特急「[[けごん|スペーシアX]]」・{{Color|#ff9900|■}}特急[[けごん|「けごん」「きぬ」]]・{{Color|#ff6633|■}}特急「[[りょうもう]]」・{{Color|#006633|■}}特急[[けごん|「リバティけごん」「リバティきぬ」「リバティ会津」]]「[[りょうもう|リバティりょうもう]]」・{{Color|#0099cc|■}}特急[[アーバンパークライナー|「スカイツリーライナー」「アーバンパークライナー」]]発着駅
::{{Color|#ff99cc|■}}区間急行・{{color|#66cc66|■}}区間準急・{{Color|#999999|■}}普通
::: '''浅草駅 (TS 01)''' - [[とうきょうスカイツリー駅]] (TS 02)
: かつてはとうきょうスカイツリー駅(当時は業平橋駅)との間に[[隅田公園駅]]が存在していた。
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線
:: {{Color|#ef7a00|■}}[[エアポート快特]]
::: [[東日本橋駅]] (A 15) - '''浅草駅 (A 18)''' - [[押上駅]] (A 20)
:: {{Color|#ef454a|■}}エアポート快特以外の[[列車種別]]
::: [[蔵前駅]] (A 17) - '''浅草駅 (A 18)''' - [[本所吾妻橋駅]] (A 19)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"|2}}
==== 利用状況に関する出典 ====
; 私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
;東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|3}}
;東武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東武"|3}}
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=東京地下鉄株式会社|title=帝都高速度交通営団史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|id={{全国書誌番号|20725566}} |ref=eidan}}
* {{Cite book|和書|editor=東武鉄道社史編纂室 |date=1998-09-30 |title=東武鉄道百年史 |publisher=東武鉄道 |id={{全国書誌番号|20043141}} |ref=tobu100th}}
* {{Cite book|和書|editor=東武鉄道社史編纂室 |date=1998-09-30 |title=東武鉄道百年史[資料編]|publisher=東武鉄道|id={{全国書誌番号|20043141}} |ref=tobu100th-document}}
* {{Cite magazine|和書|author=藤井和之|title=90周年を迎える東京メトロ銀座線をめぐる改良工事 |magazine=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=67|issue=12|pages=50-57|publisher=[[電気車研究会]]|date=2017-12-01|issn=0040-4047|ref=RP939}}
* {{Cite book|和書|title=週刊 私鉄全駅・全車両基地|volume=1|publisher=[[朝日新聞出版]]|date2014-02-02}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[上野・浅草副都心]]
* [[日本の同一駅名・同一市町村で所在地が異なる駅の一覧]]
== 外部リンク ==
* {{url|https://www.tokyometro.jp/station/asakusa/ |浅草駅/G19 {{!}} 路線・駅の情報 {{!}} 東京メトロ}}
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=1102}}
* {{url|https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/asakusa.html |浅草 {{!}} 東京都交通局}}
{{東京メトロ銀座線}}
{{東武伊勢崎線|mode=1}}
{{都営地下鉄浅草線}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:あさくさえき}}
{{代表的なトピック}}
[[Category:台東区の鉄道駅|あさくさ]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|さくさ]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅|あさくさ]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅|あさくさ]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅|あさくさ]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅|あさくさ]]
[[Category:浅草]]
[[Category:東京都の登録有形文化財]]
[[Category:1931年竣工の日本の建築物]]
[[Category:西洋館]]
[[Category:日本のアール・デコ建築]]
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地方風
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地方風(ちほうふう、英語: local wind)とは、特定の地域に限って吹く風のこと。局地風(きょくちふう)、局所風(きょくしょふう)ともいう。
地球上では、地域によってさまざまな性質を持った風が吹き、その地域の独特の気候や風土を形作っている。その地域の気候を温暖にしたり、恵みの雨をもたらす風もあれば、農業に重大な影響を及ぼすものや、人間の生活にとって脅威となるものもある。その地方独特の名称で呼ばれている風もある。中には、神話や伝承に関連した名前も多く、文化的な側面を垣間見ることもできる。また、方角の名前が風の名前になったもの、その逆のものなど、方角と関連付けられた名前も多い。
地方風は、その地域独特の風を広く指すものである。ただ、穏和であまり被害・災害をもたらさないような地方風よりも、生活に大きな影響を及ぼすような地方風に名前がつけられることが多く、地方風の一般的なイメージも、穏和というよりは悪影響をもたらす風という印象が強い。
いくつかの地方風は、もともとその名称がつかわれていた地域だけではなく世界的に使われるようになり、やがて学術用語化している。
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{{出典の明記|date=2012年10月}}
'''地方風'''(ちほうふう、{{lang-en|local wind}})とは、特定の[[地域]]に限って吹く[[風]]のこと。'''局地風'''(きょくちふう)、'''局所風'''(きょくしょふう)ともいう。
[[地球]]上では、地域によってさまざまな性質を持った風が吹き、その地域の独特の[[気候]]や[[風土]]を形作っている。その地域の気候を温暖にしたり、恵みの[[雨]]をもたらす風もあれば、[[農業]]に重大な影響を及ぼすものや、人間の[[生活]]にとって脅威となるものもある。その地方独特の名称で呼ばれている風もある。中には、[[神話]]や[[伝承]]に関連した名前も多く、[[文化]]的な側面を垣間見ることもできる。また、[[方位|方角]]の名前が風の名前になったもの、その逆のものなど、方角と関連付けられた名前も多い。
地方風は、その地域独特の風を広く指すものである。ただ、穏和であまり被害・[[災害]]をもたらさないような地方風よりも、生活に大きな影響を及ぼすような地方風に名前がつけられることが多く、地方風の一般的なイメージも、穏和というよりは悪影響をもたらす風という印象が強い。
== 代表的な地方風の一覧 ==
=== 日本 ===
* [[颪]](おろし) - 山から吹き下りる風。[[六甲山#六甲颪|六甲颪]]・[[伊吹おろし|伊吹颪]]・[[赤城颪]]・[[比良おろし|比良颪]](比良八荒、3月下旬琵琶湖)、[[樽前颪]]、[[八甲田颪]]、[[二荒颪]]、[[筑波颪]]、[[富士颪]]、[[アルプス颪]]、[[八ヶ岳颪]]、[[霧島颪]]、[[比叡颪]]など。
* [[からっ風]] - 冬に[[関東平野]]に吹く乾燥した寒冷な北風。
* [[清川だし]] - [[山形県]]の[[庄内町]]付近を吹く局地風。("[[日本三大一覧#局地風|日本三大悪風]]"の一つとも言われる)
* [[おぼねだし]] - [[秋田県]]の[[仙北市]][[田沢湖]]周辺(特に[[生保内]]地区)を吹く局地風。
* [[肱川あらし]] - [[愛媛県]]の[[肱川]]河口で吹く局地風。肱川おろしとも。
* [[広戸風]] - [[岡山県]]の[[津山盆地]]の一部で吹く局地風。
* [[まつぼり風]] - [[阿蘇山]]外輪山西麓の[[熊本県]][[南阿蘇村]]立野周辺を吹く局地風。
* [[やまじ風]] - [[四国]]の[[法皇山脈]]を吹き下りる南よりの風。
* [[やませ]](山背) - 夏に、日本の[[東北地方]]の太平洋側に吹く寒冷な風。
=== その他 ===
* [[アウストル]](Austru) - [[ルーマニア]]で夏季に吹く、暖かく乾燥した南東風。
* [[アブロオロス]](Abroholos) - [[ブラジル]]南東部の沿岸で吹く、[[驟雨]]を伴った[[突風]]性の風。スコールに類似している。
* [[アリゼ (風)|アリゼ]](Alize) - [[フランス]]、[[アフリカ]]中部、[[カリブ海]]などでの北東[[貿易風]]の別名。西アフリカでは、湿潤な北風を「アリゼ・マリティム」(Alizé Maritime)とも呼ぶ。
* [[エテジアン]](Etesian) - [[エーゲ海]]沿岸地域で夏季に吹く、乾燥した強い北風。
* [[ギブリ]](Ghibli) - アフリカ北部で吹く、サハラ砂漠からの高温の乾燥風。
* [[コシャヴァ]](Košava) - [[セルビア]]とその周辺の国々で吹く、突発的で強い南東の風。
* [[シャマール]](شمال) - [[ペルシャ湾]]岸地域で吹く、砂塵を伴った強風。
* [[シロッコ]](Sirocco、Scirocco) - 春に、[[サハラ砂漠]]から[[イタリア]]南部に吹く、蒸し暑い風。
* [[スホベイ]](Sukhovei) - [[中央アジア]]で吹く東または南東の乾熱風。
* [[チヌーク]](シヌック、シヌーク)(Chinook) - [[ロッキー山脈]]東側に吹き下りる、高温で乾燥した風。
* [[ノーイースター]](Nor'easter) - [[北アメリカ大陸]]で冬季を中心に吹く、嵐を伴う北東の強風。
* [[バリ (風)|バリ]](Bali) - [[ジャワ島]]東部で吹く強い東風。
* [[ハルマッタン]](Harmattan) - [[西アフリカ]]で吹く乾燥した[[貿易風]]。
* [[パンペロ]](Pampero) - [[パンパ]]で吹く、冷たい南寄りの風。
* [[フェーン現象|フェーン]](Föhn) - [[アルプス山脈]]を越えた、高温で乾燥した南風。
* [[ブリザード]](Blizzard) - [[北アメリカ大陸|北米大陸]]北部や[[南極]]地方に吹く、[[吹雪|地吹雪]]を伴った寒冷な風。
* [[ボーラ]](ボラ)(Bora) - アルプス山脈から[[アドリア海]]に向かって吹き下りる、寒冷で乾燥した風。
* [[ミストラル]](Mistral) - アルプス山脈から[[ローヌ川|ローヌ河谷]]を通って[[地中海]]に吹く、寒冷で乾燥した風。
* [[ミヌアノ]](Minuano) - [[ブラジル]]南部と[[ウルグアイ]]に吹く冷たい風。
== 気象用語化した地方風 ==
いくつかの地方風は、もともとその名称がつかわれていた地域だけではなく世界的に使われるようになり、やがて[[学術用語]]化している。
; [[フェーン現象|フェーン]] (foehn)
: 山岳などを超えて吹き下ろす強風で、高温・乾燥のもの。フェーン現象とも。
; [[ボーラ]] (bora)
: 山岳などを超えて吹き下ろす強風で、冷涼なもの。ボラ現象とも。
; [[ハブーブ]] (haboob)
: 砂塵嵐を伴った、乾燥した強風。
; [[ブリザード]] (blizzard)
: 吹雪を伴った、低温の強風。また、吹雪や地吹雪自体のことを指す。
; [[モンスーン]] (monsoon)
: ある季節特有の風。また、雨季の風や風雨のことを指す。季節風とも言い換える。
* 熱帯における突然の強風、または驟雨を指す[[スコール]] (squall) は、初めから学術用語として使われるようになった語である<ref>[http://www.answers.com/topic/squall?cat=technology squall] Definition and Much More from Answers.com</ref><ref>Georoots News. [http://www.georoots.org/Georoots_News/Volume_1/georoots_v1_5.htm Georoots News V.1#5: Changes in the Wind.] Retrieved on 2006-12-30.</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[卓越風]]
* [[季節風]]
* [[風害]]
* [[海陸風]]
* [[山谷風]]
* [[川風]]
* [[湖風]]
* [[風窓]]
* [[風力発電]]
* [[再生可能エネルギー]]
== 外部リンク ==
* [http://www.ainet21.com/a-shi-kaze.htm 風・嵐 字典] あいねっと作詞教室 言葉の抽斗
* [https://ggweather.com/winds.html Names of Winds] Golden Gate Weather Services
{{気象現象}}
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[[Category:風]]
[[Category:気象学・気候学の一覧]]
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17,141 |
六甲颪
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六甲颪(ろっこうおろし)とは、六甲山系より吹き降ろす山颪である。「六甲おろし」と表記されることもある(現行の常用漢字の範囲内での表記)。
六甲山地は神戸市から宝塚市の市街の背後に東西に聳え立ち風の流れを変化させる。西高東低の冬型の気圧配置となると西の明石市からの季節風は明石海峡で収束して山添いに強く吹き抜ける。或いは季節風が山頂に当たってから、加速度をつけて吹き降りるのが六甲颪と呼ばれる北風である。
冬の寒風としてのイメージが強くなったが、春は本州南岸を進む低気圧が集める東風が大阪平野から六甲山地に収束され強い北寄りの東風が吹く日が多く、秋は発達した低気圧や台風による北風が吹く。夏を除けば表六甲は比較的強い風に吹かれており、古来言われる六甲颪は季節を選ばずに山頂より吹き降りる突風だった。
春または秋に紀伊半島南部から遠州灘に低気圧が停滞すると六甲颪は発生しやすい。低気圧が北風を吹き込んで、これが裏六甲に吹きつけ圧縮されると、気圧の逆転現象が起こり、六甲山地を無抵抗に吹き降りてくる。
1982年(昭和57年)の台風18号が遠州灘に向かった際に強烈な六甲颪が吹いた。この時、ポートアイランド沖の釣船が転覆して死者が出て、神戸市内の街路樹は50本倒れ、吹き飛んだ看板で多数の人々が負傷した。
灘五郷で作られる灘酒の名声は、原料、生産方法、品質、販売の四大要素の好循環に加え、これらに加えて自然的要因が注目される。即ち、灘の酒造りは寒造り主体で発展したと言われている。寒作りは冬至酛に始まり、年間で最も寒い季節を選んで行われる酒造りであり、敢えて低温下で酒造する事で雑菌の繁殖を抑えて酒の品質を向上させる。六甲山系から吹き降ろす寒風は内海の影響を受けて寒作りに最適な気候をもたらす。これが西宮市で発見された仕込み水「宮水」と供に灘酒の名声を全国に広めた要因の一つである。
沿岸部で強い場合と山麓部で強い場合があり、山頂の風が強まると強風域は山麓から離れる傾向がみられるという。
1990年には、台風19号の接近時に神戸港沖に避泊していた気象庁観測船「啓風丸」によって、台風28号接近時には啓風丸に加えてポートアイランド・六甲アイランド・神戸商船大学「深江丸」によって観測が行われた。
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六甲颪(ろっこうおろし)とは、六甲山系より吹き降ろす山颪である。「六甲おろし」と表記されることもある(現行の常用漢字の範囲内での表記)。
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'''六甲颪'''(ろっこうおろし)とは、[[六甲山]]系より吹き降ろす[[颪|山颪]]である。「'''六甲おろし'''」と表記されることもある(現行の[[常用漢字]]の範囲内での表記)。
== 発生原理 ==
[[六甲山地]]は[[神戸市]]から[[宝塚市]]の市街の背後に東西に聳え立ち[[風]]の流れを変化させる。[[西高東低]]の[[冬型の気圧配置]]となると西の[[明石市]]からの[[季節風]]は[[明石海峡]]で収束して山添いに強く吹き抜ける。或いは季節風が山頂に当たってから、加速度をつけて吹き降りるのが六甲颪と呼ばれる北風である。
[[冬]]の寒風としてのイメージが強くなったが、春は本州南岸を進む[[低気圧]]が集める東風が[[大阪平野]]から六甲山地に収束され強い北寄りの[[東風]]が吹く日が多く、秋は発達した低気圧や[[台風]]による[[北風]]が吹く。夏を除けば表六甲は比較的強い風に吹かれており、古来言われる六甲颪は季節を選ばずに山頂より吹き降りる突風だった。
春または秋に[[紀伊半島]]南部から[[遠州灘]]に[[低気圧]]が停滞すると六甲颪は発生しやすい。低気圧が北風を吹き込んで、これが裏六甲に吹きつけ圧縮されると、[[気圧]]の逆転現象が起こり、六甲山地を無抵抗に吹き降りてくる。
== 被害 ==
[[1982年]]([[昭和]]57年)の[[昭和57年台風第18号|台風18号]]が遠州灘に向かった際に強烈な六甲颪が吹いた。この時、[[ポートアイランド]]沖の[[釣船]]が転覆して死者が出て、神戸市内の[[街路樹]]は50本倒れ、吹き飛んだ看板で多数の人々が負傷した。
== 六甲颪と酒造 ==
[[灘五郷]]で作られる灘酒の名声は、原料、生産方法、品質、販売の四大要素の好循環に加え、これらに加えて自然的要因が注目される。即ち、灘の酒造りは[[寒造り]]主体で発展したと言われている。寒作りは[[冬至]]酛に始まり、年間で最も寒い季節を選んで行われる[[醸造|酒造り]]であり、敢えて低温下で酒造する事で[[雑菌]]の繁殖を抑えて酒の品質を向上させる。六甲山系から吹き降ろす寒風は内海の影響を受けて寒作りに最適な気候をもたらす。これが西宮市で発見された仕込み水「[[宮水]]」と供に灘酒の名声を全国に広めた要因の一つである。
== その他 ==
沿岸部で強い場合と山麓部で強い場合があり、山頂の風が強まると強風域は山麓から離れる傾向がみられるという<ref name="osakawan">社団法人神戸海難防止研究会編『大阪湾における台風避泊に関する参考資料: 1990年の台風』、株式会社郵船海洋科学、1991年8月</ref>。
1990年には、[[平成2年台風第19号|台風19号]]の接近時に神戸港沖に避泊していた[[気象庁]]観測船「啓風丸」によって、[[平成2年台風第28号|台風28号]]接近時には啓風丸に加えて[[ポートアイランド]]・[[六甲アイランド]]・[[神戸商船大学]]「[[深江丸]]」によって観測が行われた<ref name="osakawan" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|editor = [[神戸新聞]]出版センター(編集・制作)
|year = 1983
|title = 兵庫県大百科事典 下巻
|publisher = 神戸新聞出版センター
|isbn = 978-4875211006
}}
* {{Cite book|和書
|author =玉起彰三
|editor =
|year = 1997
|title =六甲山博物誌(のじぎく文庫)
|publisher = 神戸新聞総合出版センター
|isbn = 4-87521-496-0
}}
* {{Cite book|和書
|author =
|editor =社団法人神戸海難防止研究会
|year = 1991
|title =大阪湾における台風避泊に関する参考資料: 1990年の台風
|publisher = 株式会社郵船海洋科学
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アイソスタシー
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アイソスタシー(英: isostasy)とは、比較的軽い地殻が、重く流動性のある上部マントルに浮かんでおり、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつり合っているとする説、または、そのつり合い。地殻均衡(説)ともいう。
ヒマラヤ山脈での鉛直線の偏差を説明するために、ジョージ・ビドル・エアリー(1855)とジョン・ヘンリー・プラット(1859)が唱えた説で、後にクラレンス・エドワード・ダットン(1889)が「アイソスタシー」と命名した。
地球表層である硬く流動性の少ない層をリソスフェア、リソスフェアをその上に浮かべている比較的高い流動性を持つ層をアセノスフェアと呼ぶ。リソスフェアはマントル最上部の硬い(弾性的な性質が強い)部分リッドと地球最表層の地殻を合わせたものである。アセノスフェアは固体だが、部分的に溶融しており、長い時間で見ると液体の様な流動性を持つ。
アイソスタシーは、我々が普段目にする山や海底といった地形の形成に重大な役割を果たす。アイソスタシーにより、地殻の厚さはその土地の標高を決める最も重要な要素となる。リッドはアセノスフェアより密度が大きいため、リッドだけではアセノスフェアに沈む。密度の小さい地殻がその上に接着することにより、浮力が生まれる。浮力は物体の体積が大きければ大きいほど強くなるため、厚い地殻はより強い浮力を得て、標高を高くする。上の「2次元モデルで示したアイソスタシーの説明図」では、地殻の厚さとその土地の標高の高さが一般的に比例することを示している。巨大な岩石の塊1は高くそびえる山岳となり、逆に薄い岩盤4は海底となる。
地球表層の大部分でアイソスタシーは成立している。ただし、アイソスタシーが成り立たない地域もある。収束型境界のような大きな水平圧力が地殻に働いている場合や、氷床といった巨大な質量が消失し、荷重の変化に対応して新しいアイソスタシーが生まれる途上などである。例えば、かつて厚さ2,000メートルの巨大な氷床に覆われていたスカンジナビア半島では、氷床の消滅後、現在も年間数ミリメートル単位で隆起が続いている。
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アイソスタシーとは、比較的軽い地殻が、重く流動性のある上部マントルに浮かんでおり、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつり合っているとする説、または、そのつり合い。地殻均衡(説)ともいう。 ヒマラヤ山脈での鉛直線の偏差を説明するために、ジョージ・ビドル・エアリー(1855)とジョン・ヘンリー・プラット(1859)が唱えた説で、後にクラレンス・エドワード・ダットン(1889)が「アイソスタシー」と命名した。
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{{出典の明記|date=2012年4月11日 (水) 18:27 (UTC)}}
[[ファイル:Isostasy.svg|thumb|280px|2次元モデルで示したアイソスタシーの説明図。[[比重]]の大きい[[マントル]]の上に、比重の小さい[[地殻]]が浮かんでいる。<br />1: [[山岳]]、2: [[高地]]、3: 普通の[[大陸]]、4: [[大洋底]]、5: [[海洋]]面、6: 地殻、7: マントル]]
'''アイソスタシー'''({{Lang-en-short|isostasy}})とは、比較的軽い[[地殻]]が、重く流動性のある[[上部マントル]]に浮かんでおり、地殻の[[荷重]]と地殻に働く[[浮力]]がつり合っているとする説、または、そのつり合い。'''地殻均衡(説)'''ともいう。
[[ヒマラヤ山脈]]での[[鉛直線]]の[[偏差]]を説明するために、[[ジョージ・ビドル・エアリー]](1855)と[[ジョン・ヘンリー・プラット]](1859)が唱えた説で、後に[[クラレンス・エドワード・ダットン]](1889)が「アイソスタシー」と命名した。
== 概要 ==
[[ファイル:Earth cross section (Japanese).svg|350px|thumb|right|マントルの構造<ref name="gsj">[https://www.gsj.jp/geology/geology-japan/geology-earth/index.html 地球の構造 地質調査総合センター]</ref>]]地球表層である硬く流動性の少ない層を'''[[リソスフェア]]'''、リソスフェアをその上に浮かべている比較的高い流動性を持つ層を'''[[アセノスフェア]]'''と呼ぶ。リソスフェアはマントル最上部の硬い(弾性的な性質が強い)部分'''リッド'''と地球最表層の地殻を合わせたものである。アセノスフェアは固体だが、部分的に溶融しており、長い時間で見ると液体の様な流動性を持つ。
アイソスタシーは、我々が普段目にする[[山]]や[[海底]]といった[[地形]]の形成に重大な役割を果たす。アイソスタシーにより、地殻の厚さはその土地の[[標高]]を決める最も重要な要素となる。リッドはアセノスフェアより[[密度]]が大きいため、リッドだけではアセノスフェアに沈む。密度の小さい地殻がその上に接着することにより、浮力が生まれる。浮力は物体の[[体積]]が大きければ大きいほど強くなるため、厚い地殻はより強い浮力を得て、標高を高くする。上の「2次元モデルで示したアイソスタシーの説明図」では、地殻の厚さとその土地の標高の高さが一般的に[[比例]]することを示している。巨大な岩石の塊①は高くそびえる[[山岳]]となり、逆に薄い[[岩盤]]④は[[海底]]となる<ref>浮力とは別に、物体の浮き沈みはその物体の密度も関係し、一般に物体の密度が大きくなると物体を沈めようとする力も大きくなる。このことから、[[山脈]]の下の物質は他の土地に比べ密度が小さいとされる。大陸上部地殻は海洋地殻よりも一般的に密度が小さく、これはP波速度の測定で証明されている({{Cite book|和書
|author = [[深尾良夫]]
|title = 地震・プレート・陸と海 : 地学入門
|year = 1985
|publisher = [[岩波書店]]
|series = [[岩波ジュニア新書]]
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}})。</ref>。
地球表層の大部分でアイソスタシーは成立している。ただし、アイソスタシーが成り立たない地域もある。[[プレートテクトニクス#収束型境界(せばまる境界)|収束型境界]]のような大きな水平圧力が地殻に働いている場合や、[[氷床]]といった巨大な質量が消失し、荷重の変化に対応して新しいアイソスタシーが生まれる途上などである。例えば、かつて厚さ2,000メートルの巨大な氷床に覆われていた[[スカンジナビア半島]]では、氷床の消滅後、現在も年間数ミリメートル単位で[[隆起]]が続いている<ref>[[氷期]]が終わって氷床が溶け、上部マントルにかかる荷重が小さくなった。このため、一時的にアイソスタシーが崩れて浮力 > 荷重となり、リソスフェアが浮上を続けている。リソスフェアの上昇によって浮力は徐々に弱まっていき、浮力 = 加重(アイソスタシー成立状態)となった時点で浮上も停止すると考えられる。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Isostasy}}
* [[地殻]]、[[マントル]]
* [[リソスフェア]]、[[アセノスフェア]]
* [[プレートテクトニクス]]
* [[曲動]]([[曲隆]]、[[曲降]])
* [[ヘイフォード楕円体]]
* [[スカンジナビア半島]] ― [[ボスニア湾]]
* [[ハドソン湾]]
**上記二つの地域は[[最終氷期]]に数千メートルの[[氷床]]に覆われていたが、その後の気候の温暖化で氷が溶けたため氷の荷重がなくなり、アイソスタシーを回復しようと、年数ミリから十数ミリの割合で隆起を続けている。
== 外部リンク ==
* [https://ci.nii.ac.jp/naid/110007159491 アイソスタシーの話] - 杉村新・掘清彦
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[[Category:マントル]]
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17,145 |
一級水系
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一級水系(いっきゅうすいけい)は、河川法に定められた日本の水系の区分により、国土交通大臣が国土保全上または国民経済上特に重要として指定した水系。「河川法第四条第一項の水系を指定する政令」に基づき、全国で109水系が指定されている。
このような区分法は1964年(昭和39年)7月に大改正された河川法で導入された考え方で、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けることなく、治水と利水を統合した水系ごとに一貫管理するためのものである。流域面積1,000平方 km以上の水系全てや、複数の都道府県を流れる水系の多くは一級水系に指定されている。
一級水系に係わる河川は、河川法によって指定される際は原則として一級河川であり、国土交通大臣が指定・管理を行う(実務上は、国土交通省水管理・国土保全局(旧河川局)とその出先機関である地方整備局、北海道の一級水系の国管理区間については同省北海道局及びその出先機関である北海道開発局が担当する。具体的な整備及び維持管理等については地方整備局等の更に出先機関として設置された「河川事務所」等が担当する)。ただし、一部の区間については、都道府県知事や政令指定都市市長に管理のみを委任できる。都市部や源流部の小河川などでは、河川法での未指定部分を市町村長が準用河川に指定して管理したり、どこも指定管理しない場合は河川法の適用を受けない普通河川として扱われたりすることもある。
一級河川の数は1万4062にのぼり、二級水系(2,711水系)に属する二級河川の総数 (7,080河川) より多い(2016年4月30日現在)。
2府県(北海道は2地域振興局)以上に跨る河川水系は一般的に一級水系だが、酒匂川水系・武庫川水系・錦川水系のように2都府県を跨いでも二級水系の例もあれば、梯川水系や土器川水系のように1県内完結かつ流域面積が500平方 kmにも満たない一級水系もある。
他県から孤立した沖縄県には一級水系が存在しない。長崎県は一級水系は本明川水系しかなく県庁所在都市である長崎市に一級水系は流れていない。
一方、下記例外がある山梨県・奈良県を除く海に面していない6県(栃木県、群馬県、埼玉県、長野県、岐阜県、滋賀県)の河川は全て一級水系に属する。山梨県の西湖、本栖湖、精進湖はどの水系にも属していない内陸湖のため、二級河川の扱いである。奈良県南部には三重県へ流れる銚子川水系、和歌山県へ流れる日置川水系や日高川水系といった二級水系が存在している。
下記の河川及びその支流に関しては道路及び鉄道の橋梁傍に掲示される河川標識に、本州以南で見られる「国土交通省」ではなく「開発局」と記載される。
※沖縄の河川は全て二級河川に指定されている。
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一級水系(いっきゅうすいけい)は、河川法に定められた日本の水系の区分により、国土交通大臣が国土保全上または国民経済上特に重要として指定した水系。「河川法第四条第一項の水系を指定する政令」に基づき、全国で109水系が指定されている。 このような区分法は1964年(昭和39年)7月に大改正された河川法で導入された考え方で、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けることなく、治水と利水を統合した水系ごとに一貫管理するためのものである。流域面積1,000平方 km以上の水系全てや、複数の都道府県を流れる水系の多くは一級水系に指定されている。
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{{law}}{{出典の明記| date = 2022年3月}}
'''一級水系'''(いっきゅうすいけい)は、[[河川法]]に定められた日本の水系の区分により、[[国土交通大臣]]が国土保全上または国民経済上特に重要として指定した[[水系]]。「河川法第四条第一項の水系を指定する政令」に基づき、全国で109水系が指定されている。
{{see also|水系}}
このような区分法は[[1964年]]([[昭和]]39年)[[7月]]に大改正された河川法で導入された考え方で、[[分水界]]や大[[川|河川]]の本流と支流で行政[[管轄]]を分けることなく、[[治水]]と[[利水]]を統合した水系ごとに一貫管理<ref group="注釈">都丸泰助『地方自治制度史論』(新日本出版社、1982年、p374)によれば、この考え方は、「地元の利害にとらわれない国家的な立場から、各水系ごとに一貫した管理体制」の確立と、「治水や農業[[灌漑]]を中心に利水事業が考えられてきた旧法を[[ダム]]、[[工業用水]]を中心とするものに切りかえてゆく」というねらいだったと説明されている。</ref>するためのものである。[[流域面積]]1,000平方 km以上の水系全てや、複数の[[都道府県]]を流れる水系の多くは一級水系に指定されている。
== 一級河川 ==
{{see also|河川法}}
[[File:River sign posted on the riverbed of Ishikari River.jpg|thumb|[[石狩川]]の河川標識。河川名の下に「[[北海道開発局|開発局]]」と記載されている。]]
一級水系に係わる河川は、河川法によって指定される際は原則として'''一級河川'''であり、[[国土交通大臣]]が指定・管理を行う<ref>{{Cite web |url=https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/iken/question/faq_index.html |title=よくある質問とその回答(FAQ) |access-date=2023.12.24 |publisher=[[国土交通省]] |quote=一級水系に係る河川のうち河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」です。}}</ref>(実務上は、[[国土交通省]][[水管理・国土保全局]](旧[[河川局]])とその出先機関である[[地方整備局]]、[[北海道]]の一級水系の国管理区間については同省[[北海道局]]及びその[[出先機関]]である[[北海道開発局]]が担当する。具体的な整備及び維持管理等については地方整備局等の更に出先機関として設置された「河川事務所」等が担当する)。ただし、一部の区間については、[[都道府県知事]]や[[政令指定都市]][[市長]]に管理のみを委任できる。[[都市部]]や[[源流]]部の小河川などでは、河川法での未指定部分を[[市町村長]]が[[準用河川]]に指定して管理したり、どこも指定管理しない場合は河川法の適用を受けない[[普通河川]]として扱われたりすることもある。
一級河川の数は1万4062にのぼり、[[二級水系]](2,711水系)に属する二級河川の総数 (7,080河川) より多い(2016年4月30日現在)。
2府県(北海道は2[[支庁#北海道|地域振興局]])以上に跨る河川水系は一般的に一級水系だが、[[酒匂川]]水系・[[武庫川]]水系・[[錦川]]水系のように2都府県を跨いでも二級水系の例もあれば、[[梯川]]水系や[[土器川]]水系のように1県内完結かつ流域面積が500平方 kmにも満たない一級水系もある。
他県から孤立した[[沖縄県]]には一級水系が存在しない。[[長崎県]]は一級水系は[[本明川]]水系しかなく[[都道府県庁所在地|県庁所在都市]]である[[長崎市]]に一級水系は流れていない。
一方、下記例外がある[[山梨県]]・[[奈良県]]を除く[[内陸県|海に面していない]]6県([[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[長野県]]、[[岐阜県]]、[[滋賀県]])の河川は全て一級水系に属する。山梨県の[[西湖 (富士五湖)|西湖]]、[[本栖湖]]、[[精進湖]]はどの水系にも属していない[[内陸湖]]のため、二級河川の扱いである<ref group="注釈">湖や沼であっても、「水系」の一部とされる場合が多い。例えば、[[琵琶湖]]([[淀川]]水系)、[[霞ヶ浦]]([[利根川]]水系)などが挙げられる。</ref>。奈良県南部には[[三重県]]へ流れる[[銚子川]]水系、[[和歌山県]]へ流れる[[日置川]]水系や[[日高川]]水系といった二級水系が存在している。
== 一級水系の一覧 ==
* '''単位''' - 流路延長は [[キロメートル|km]] 、[[流域面積]]は [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] 、流域内人口は人、年平均流量は [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]/s 、[[生物化学的酸素要求量|BOD]] は [[ppm]] 。
* 流域の都府県が複数ある場合は、概ね上流側より記載する。
* [[ダム]]数は[[河川法]]における基準(堤高 15 [[メートル|m]]以上)をみたすダムの数(既設・未設ともに含む)。管理主体は不問。カッコ内は本川のダム数。
** 取水堰の堤高 15 m 未満の[[水力発電所]]は[[ダム]]とは見なさないため、常にダム数が水力発電所数を上回るとは限らない。
=== 北海道開発局管轄 ===
下記の河川及びその支流に関しては道路及び鉄道の橋梁傍に掲示される河川標識に、本州以南で見られる「[[国土交通省]]」ではなく「'''開発局'''」と記載される。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[天塩川]]
|256||5,590||style="text-align:left;" rowspan=13|[[北海道]]||94,000||160||134.52||0.7||14 (2)||3
|-
![[渚滑川]]
|84||1,240||28,000||25||29.33||1.0||0||2
|-
![[湧別川]]
|87||1,480||36,000||17||32.45||1.7||1 (0)||3
|-
![[常呂川]]
|120||1,930||142,000||57||22.64||2.6||2 (1)||0
|-
![[網走川]]
|115||1,380||94,000||25||14.02||2.5||1 (0)||2
|-
![[留萌川]]
|44||270||28,000||13||11.84||1.5||3 (0)||0
|-
![[石狩川]]
|268||14,330||2,500,000||464||133.18||1.1||83 (1)||34
|-
![[尻別川]]
|126||1,640||38,000||40||68.41||0.4||3 (0)||7
|-
![[後志利別川]]
|80||720||16,000||29||23.69||0.5||2 (1)||8
|-
![[鵡川]]
|135||1,270||13,000||20||38.54||0.6||2 (0)||1
|-
![[沙流川]]
|104||1,350||13,000||28||48.24||0.6||4 (2)||4
|-
![[釧路川]]
|154||2,510||177,000||38||26.32||1.7||0||0
|-
![[十勝川]]
|156||9,010||340,000||209||85.36||1.7||14 (3)||16
|}
=== 東北地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[岩木川]]
|102||2,540||style="text-align:left;" rowspan=2|[[青森県]]||482,400||97||76.07||1.6||21 (2)||5
|-
![[高瀬川]]
|64||867||80,372||23||50.10||0.9||3 (1)||0
|-
![[馬淵川]]
|142||2,050||style="text-align:left;"|[[岩手県]]、青森県||188,000||30||47.62||1.1||6 (0)||5
|-
![[北上川]]
|249||10,150||style="text-align:left;"|岩手県、[[宮城県]]||1,389,000||302||318.42||1.1||53 (1)||33
|-
![[鳴瀬川]]
|89||1,130||style="text-align:left;" rowspan=2|宮城県||190,000||61||26.49||1.3||13 (1)||3
|-
![[名取川]]
|55||939||1,125,589||30||17.32||1.1||9 (0)||7
|-
![[阿武隈川]]
|239||5,400||style="text-align:left;"|宮城県、[[福島県]]||1,380,000||197||52.22||1.9||19 (2)||25
|-
![[米代川]]
|136||4,100||style="text-align:left;"|[[秋田県]]、岩手県||280,000||89||100.91||1.3||21 (0)||22
|-
![[雄物川]]
|133||4,710||style="text-align:left;" rowspan=2|秋田県||346,481||168||259.02||1.4||34 (0)||17
|-
![[子吉川]]
|61||1,190||80,000||44||60.60||1.1||12 (1)||7
|-
![[最上川]]
|229||7,040||style="text-align:left;" rowspan=2|[[山形県]]||999,300||429||369.26||1.0||41 (1)||26
|-
![[赤川]]
|70||857||109,294||44||65.68||1.0||5 (1)||10
|}
=== 関東地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[久慈川]]
|124||1,490||style="text-align:left;"|福島県、[[茨城県]]||201,981||53||23.58||0.8||1 (0)||7
|-
![[那珂川]]
|150||3,270||style="text-align:left;"|[[栃木県]]、茨城県||912,217||197||74.43||0.9||22 (2)||12
|-
![[利根川]]
|322||16,840||style="text-align:left;"|[[群馬県]]、[[長野県]]、栃木県、[[埼玉県]]、<br />[[東京都]]、[[千葉県]]、茨城県||12,140,000||819||237.10||2.5||70 (4)||98
|-
![[荒川 (関東)|荒川]]
|173||2,940||style="text-align:left;"|埼玉県、東京都||9,300,000||127||27.77||4.4||13 (2)||11
|-
![[多摩川]]
|138||1,240||style="text-align:left;"|[[山梨県]]、東京都、[[神奈川県]]||4,250,000||52||40.28||1.7||2 (2)||5
|-
![[鶴見川]]
|43||235||style="text-align:left;"|東京都、神奈川県||1,840,000||11||7.83||8.0||0||0
|-
![[相模川]]
|113||1,680||style="text-align:left;"|山梨県、神奈川県||1,200,000||104||-||2.0||10 (3)||20
|-
![[富士川]]
|128||3,990||style="text-align:left;"|長野県、山梨県、[[静岡県]]||1,600,000||555||58.91||2.3||19 (0)||71
|}
=== 北陸地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[荒川 (羽越)|荒川]]
|73||1,150||style="text-align:left;"|山形県、[[新潟県]]||40,000||61||115.00||0.6||5 (3)||6
|-
![[阿賀野川]]
|210||7,710||style="text-align:left;"|福島県、群馬県、新潟県||590,000||243||401.55||0.6||62 (8)||60
|-
![[信濃川]]
|367||11,900||style="text-align:left;"|長野県、群馬県、新潟県||2,950,000||880||503.15||1.0||90 (1)||122
|-
![[関川 (信越)|関川]]
|64||1,140||style="text-align:left;" rowspan=2|長野県、新潟県||210,000||78||50.32||1.5||5 (1)||16
|-
![[姫川]]
|60||722||20,000||47||44.07||0.5||0||19
|-
![[黒部川]]
|85||682||style="text-align:left;" rowspan=2|[[富山県]]||71,000||25||37.00||0.8||6 (5)||18
|-
![[常願寺川]]
|56||368||30,000||49||16.23||0.6||8 (1)||27
|-
![[神通川]]
|120||2,720
|style="text-align:left;" rowspan=2|[[岐阜県]]、富山県||380,000||105||183.65||1.4||25 (7)||60
|-
![[庄川]]
|115||1,180||28,032||48||47.72||1.0||18 (9)||27
|-
![[小矢部川]]
|68||667||style="text-align:left;"|[[石川県]]、富山県||300,000||64||27.99||1.5||14 (2)||5
|-
![[手取川]]
|72||809||style="text-align:left;" rowspan=2|石川県||40,000||35||77.21||0.5||7 (2)||24
|-
![[梯川]]
|42||271||110,000||13||18.02||1.0||1 (1)||0
|}
=== 中部地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[狩野川]]
|46||852
|style="text-align:left;" rowspan=4|静岡県
|640,000||76||21.40||1.5||0||7
|-
![[安倍川]]
|51||567||170,000||36||41.44||0.8||0||2
|-
![[大井川]]
|168||1,280||90,000||39||76.40||0.5||14 (7)||15
|-
![[菊川]]
|28||158||70,000||25||2.21||1.8||2 (0)||0
|-
![[天竜川]]
|213||5,090||style="text-align:left;"|長野県、[[愛知県]]、静岡県||720,000||332||239.67||0.5||17 (5)||51
|-
![[豊川]]
|77||724||style="text-align:left;"|愛知県||210,000||27||28.23||0.6||9 (1)||3
|-
![[矢作川]]
|118||1,830||style="text-align:left;"|長野県、岐阜県、愛知県||690,000||94||43.99||1.0||25 (3)||25
|-
![[庄内川]]
|96||1,010||style="text-align:left;"|岐阜県、愛知県||2,500,000||76||26.21||4.7||18 (0)||2
|-
![[木曽川]]
|229||9,100||style="text-align:left;"|長野県、岐阜県、[[滋賀県]]、<br />愛知県、[[三重県]]||1,700,000||391||291.05||0.7||64 (9)||77
|-
![[鈴鹿川]]
|38||323||style="text-align:left;" rowspan=4|三重県||110,000||46||11.23||1.4||0||0
|-
![[雲出川]]
|55||550||90,000||40||14.36||1.6||6 (0)||1
|-
![[櫛田川]]
|85||461||40,000||68||20.55||0.7||4 (0)||5
|-
![[宮川 (三重県)|宮川]]
|91||920||140,000||55||45.70||0.5||5 (2)||6
|}
=== 近畿地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[九頭竜川]]
|116||2,930||style="text-align:left;"|岐阜県、[[福井県]]||666,225||147||108.26||0.8||20 (3)||25
|-
![[北川]]
|30||211||style="text-align:left;"|滋賀県、福井県||21,389||12||11.68||0.6||1 (0)||1
|-
![[由良川]]
|146||1,880||style="text-align:left;"|[[兵庫県]]、[[京都府]]||300,000||138||52.09||0.8||22 (3)||6
|-
![[淀川]]
|75||8,240||style="text-align:left;"|滋賀県、京都府、[[大阪府]]、<br />三重県、[[奈良県]]、兵庫県||11,650,000||965||267.51||1.9||66 (1)||34
|-
![[大和川]]
|68||1,070||style="text-align:left;"|奈良県、大阪府||2,150,000||178||23.94||3.3||11 (1)||0
|-
![[円山川]]
|68||1,300||style="text-align:left;" rowspan=3|兵庫県||150,557||97||37.40||0.9||7 (0)||5
|-
![[加古川]]
|96||1,730||820,000||130||45.89||2.6||19 (0)||0
|-
![[揖保川]]
|70||810||200,000||47||29.04||0.8||4 (0)||6
|-
![[紀の川]]
|136||1,750||style="text-align:left;"|奈良県、[[和歌山県]]||689,000||181||58.77||2.1||9 (2)||6
|-
!新宮川([[熊野川]])
|183||2,360||style="text-align:left;"|奈良県、三重県、和歌山県||84,000||103||163.54||1.3||11 (5)||30
|}
=== 中国地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[千代川]]
|52||1,190||style="text-align:left;" rowspan=3|[[鳥取県]]||200,000||87||61.68||0.8||6 (0)||17
|-
![[天神川]]
|32||490||65,500||32||24.03||1.2||8 (0)||8
|-
![[日野川]]
|77||870||60,800||56||33.55||1.1||12 (0)||14
|-
![[斐伊川]]
|153||2,070||style="text-align:left;"|[[島根県]]、鳥取県||435,000||227||40.26||1.4||24 (2)||13
|-
![[江の川]]
|194||3,900||style="text-align:left;"|[[広島県]]、島根県||202,000||293||75.17||0.8||20 (2)||24
|-
![[高津川]]
|81||1,090||style="text-align:left;"|島根県||38,600||92||51.88||0.7||4 (0)||5
|-
![[吉井川]]
|133||2,110||style="text-align:left;" rowspan=2|[[岡山県]]||294,000||215||61.16||2.0||30 (1)||18
|-
![[旭川 (岡山県)|旭川]]
|142||1,810||335,000||147||57.01||1.8||25 (3)||9
|-
![[高梁川]]
|111||2,670||style="text-align:left;"|岡山県、[[広島県]]||273,000||121||61.81||2.5||29 (1)||19
|-
![[芦田川]]
|86||860||style="text-align:left;"|広島県、[[岡山県]]||269,000||82||12.73||4.0||18 (2)||3
|-
![[太田川]]
|103||1,710||style="text-align:left;"|広島県||980,000||73||78.81||0.9||11 (2)||24
|-
![[小瀬川]]
|59||340||style="text-align:left;"|広島県、[[山口県]]||26,500||23||12.05||2.6||4 (2)||6
|-
![[佐波川]]
|56||460||style="text-align:left;"|山口県||31,100||32||18.69||0.7||4 (1)||1
|}
=== 四国地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]
|194||3,750||style="text-align:left;"|[[高知県]]、[[愛媛県]]、[[徳島県]]、[[香川県]]||641,000||356||107.67||0.8||23 (4)||32
|-
![[那賀川]]
|125||874||style="text-align:left;"|徳島県||59,000||75||62.88||0.7||4 (3)||5
|-
![[土器川]]
|33||140||style="text-align:left;"|香川県||35,000||11||1.83||3.9||2 (0)||0
|-
![[重信川]]
|36||445||style="text-align:left;" rowspan=2|愛媛県||233,000||75||2.24||5.0||8 (0)||1
|-
![[肱川]]
|103||1,210||112,000||475||37.61||1.0||8 (2)||4
|-
![[物部川]]
|71||508||style="text-align:left;"|高知県||40,000||35||30.78||0.7||4 (3)||6
|-
![[仁淀川]]
|124||1,560||style="text-align:left;" rowspan=2|愛媛県、高知県||105,000||166||100.07||0.7||5 (3)||18
|-
!渡川([[四万十川]])
|196||2,270||100,000||319||121.02||0.6||5 (0)||6
|}
=== 九州地方整備局管轄 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!水系名!!水系本川延長!!水系流域面積!!流域自治体!!水系流域内人口!!支川数!!水系年平均流量!!BOD!!ダム数!!水力発電所数
|-
![[遠賀川]]
|61||1,026||style="text-align:left;"|[[福岡県]]||666,406||74||31.47||2.6||23 (0)||1
|-
![[山国川]]
|56||540||style="text-align:left;"|[[大分県]]、福岡県||36,801||39||20.81||0.9||1 (0)||1
|-
![[筑後川]]
|143||2,863||style="text-align:left;"|[[熊本県]]、大分県、福岡県、[[佐賀県]]||1,090,777||235||95.09||1.6||29 (2)||22
|-
![[矢部川]]
|61||647||style="text-align:left;"|福岡県||182,889||23||21.54||1.1||17 (2)||4
|-
![[松浦川]]
|47||446||style="text-align:left;" rowspan=3|佐賀県||97,818||80||12.46||2.4||22 (0)||3
|-
![[六角川]]
|47||341||122,827||79||4.36||2.1||9 (1)||0
|-
![[嘉瀬川]]
|57||368||133,412||51||14.10||1.0||3 (2)||8
|-
![[本明川]]
|21||87||style="text-align:left;"|[[長崎県]]||54,583||18||2.11||1.8||2 (1)||0
|-
![[菊池川]]
|71||996||style="text-align:left;" rowspan=4|熊本県||208,694||68||39.56||1.1||1 (0)||4
|-
![[白川 (熊本県)|白川]]
|74||480||131,375||16||25.39||2.5||3 (1)||4
|-
![[緑川]]
|76||1,100||517,189||59||36.17||2.4||4 (2)||11
|-
![[球磨川]]
|115||1,880||137,375||82||119.92||1.4||11 (4)||20
|-
![[大分川]]
|55||650||style="text-align:left;"|大分県||252,808||48||22.33||1.4||7 (1)||14
|-
![[大野川]]
|107||1,465||style="text-align:left;"|熊本県、[[宮崎県]]、大分県||206,818||138||61.36||0.6||14 (0)||10
|-
![[番匠川]]
|38||464||style="text-align:left;"|大分県||56,527||52||12.17||1.1||5 (0)||0
|-
![[五ヶ瀬川]]
|106||1,820||style="text-align:left;"|熊本県、大分県、宮崎県||127,638||102||60.94||1.1||8 (2)||22
|-
![[小丸川]]
|75||474||style="text-align:left;"|宮崎県||32,616||16||32.76||0.5||8 (4)||5
|-
![[大淀川]]
|107||2,230||style="text-align:left;"|[[鹿児島県]]、宮崎県||601,321||134||107.61||1.3||16 (2)||12
|-
![[川内川]]
|137||1,600||style="text-align:left;"|熊本県、宮崎県、鹿児島県||195,944||129||91.09||0.7||4 (3)||5
|-
![[肝属川]]
|34||485||style="text-align:left;"|鹿児島県||115,578||36||31.69||4.5||2 (0)||3
|}
※[[沖縄県|沖縄]]の河川は全て[[二級水系|二級河川]]に指定されている。
<br />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
<!--=== 出典 ===
{{Reflist}}-->
== 参考文献 ==
*[[国土開発調査会]]編、[[日本河川協会]]監修『[[河川便覧]]』(平成16年度版)、2004年。
== 関連項目 ==
* [[二級水系]]
* [[準用河川]]
* [[普通河川]]
* [[日本の一級河川一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/ 日本の川 - 国土交通省水管理・国土保全局]
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=339AC0000000167 河川法]
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=340CO0000000043 河川法第四条第一項の水系を指定する政令(昭和四十年三月二十四日政令第四十三号)]
* [https://www.mlit.go.jp/mizukokudo/index.html 国土交通省水管理・国土保全局(旧河川局)]
** [https://web.archive.org/web/20071115140437/http://www.mlit.go.jp/river/gaiyou/seibi/ 河川整備基本方針](一級水系における策定状況一覧)
{{河川関連}}
{{一級水系}}
[[Category:日本の河川|いつきゆうすいけい]]
[[Category:水系|*1]]
[[Category:一級水系|*]]
|
2003-09-17T02:47:09Z
|
2023-12-24T10:47:52Z
| false | false | false |
[
"Template:河川関連",
"Template:一級水系",
"Template:Law",
"Template:出典の明記",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%B4%9A%E6%B0%B4%E7%B3%BB
|
17,147 |
二級水系
|
二級水系(にきゅうすいけい)とは、日本の河川法によって定められた一級水系以外で「公共の利害に重要な関係がある水系」である。
(備考)灰色欄で表示されている自治体は二級水系が存在しない自治体。換言すれば当該自治体にある河川は全て一級水系に所属する河川となり、堰止湖がある山梨県を除く内陸県が該当する。奈良県には例外的に県内も流域とする二級水系が3水系存在する(銚子川水系、日置川水系、日高川水系)が、県内部分はいずれも指定区間外であるためカウントしていない。
二級水系に係わる河川は、都道府県によって指定される際は支流等も含め原則(後述)として二級河川であり、都道府県知事(都道府県)が指定管理する。日本には2014年4月30日現在二級水系の数が2,711あり、その河川数は7,078となる。管都市部や源流部の小河川などでは、河川法での未指定部分を市町村長が準用河川に指定して管理したり、どこも指定管理しない場合は河川法の適用を受けない普通河川として扱われたりすることもある。一方で国や都道府県が指定管理していた河川が、河川法の指定はそのままに管理権限のみ地元自治体へ移譲される事例もある。
尚、二級水系であっても隣接する一級水系と不可分な河川整備が必要と特に認められた場合は、国土交通省による直轄管理も行われる場合もある。一例として島根県の神戸川水系が、1976年(昭和51年)より『斐伊川・神戸川水系河川整備計画』に基づき国土交通省による河川整備が進められていた。但し2006年8月1日付けで神戸川水系は斐伊川水系に編入されて二級水系としては消滅し、現在国土交通省が管理を行う二級水系は無い。
二級水系より重要な水系は一級水系とされ、原則として国の管理下におかれる。全国に109水系存在する(詳細は一級水系の項を参照)。また、一級水系、二級水系以外の水系は単独水系と呼ばれる。
沖縄県の河川は、その全てが二級河川である。しかし沖縄県においては福地川など幾つかの河川において、二級河川でありながら国土交通大臣が施工・管理を行う特定多目的ダムが建設されているのをはじめ、国土交通省(実質的には内閣府沖縄総合事務局)が直轄事業として河川改修や河川管理を行っている。これは沖縄振興特別措置法における特例措置である。
すなわち、河川法第十条の規定により通常二級河川は都道府県知事の管理下におかれ、国が関与することはない。だが1972年(昭和47年)の沖縄返還以降、本土に比べインフラストラクチャー整備が遅れている沖縄県の発展を図るため、河川整備について沖縄県の振興を図るために特に必要があるものについては、沖縄県知事の要請があった場合に内閣総理大臣との協議によって国土交通大臣(従前は建設大臣)が、指定した河川区間について河川改良工事、修繕工事などを国直轄で行うことを特別措置法によって定めた。
こうした沖縄振興特別措置法の規定により、福地川・普久川・新川川・億首川など、沖縄県の十数河川が指定区間とされ、河川法第十条の例外規定として国土交通大臣が一級河川に準じた直轄管理を行っている。またこれに伴い、特定多目的ダム法についても沖縄県については特例が適用され、福地ダム(福地川)など特定多目的ダムが、二級河川であっても建設されている。
|
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"tag": "p",
"text": "(備考)灰色欄で表示されている自治体は二級水系が存在しない自治体。換言すれば当該自治体にある河川は全て一級水系に所属する河川となり、堰止湖がある山梨県を除く内陸県が該当する。奈良県には例外的に県内も流域とする二級水系が3水系存在する(銚子川水系、日置川水系、日高川水系)が、県内部分はいずれも指定区間外であるためカウントしていない。",
"title": "主な二級河川を本川(本流)とする水系一覧"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "二級水系に係わる河川は、都道府県によって指定される際は支流等も含め原則(後述)として二級河川であり、都道府県知事(都道府県)が指定管理する。日本には2014年4月30日現在二級水系の数が2,711あり、その河川数は7,078となる。管都市部や源流部の小河川などでは、河川法での未指定部分を市町村長が準用河川に指定して管理したり、どこも指定管理しない場合は河川法の適用を受けない普通河川として扱われたりすることもある。一方で国や都道府県が指定管理していた河川が、河川法の指定はそのままに管理権限のみ地元自治体へ移譲される事例もある。",
"title": "二級河川"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "尚、二級水系であっても隣接する一級水系と不可分な河川整備が必要と特に認められた場合は、国土交通省による直轄管理も行われる場合もある。一例として島根県の神戸川水系が、1976年(昭和51年)より『斐伊川・神戸川水系河川整備計画』に基づき国土交通省による河川整備が進められていた。但し2006年8月1日付けで神戸川水系は斐伊川水系に編入されて二級水系としては消滅し、現在国土交通省が管理を行う二級水系は無い。",
"title": "二級河川"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "二級水系より重要な水系は一級水系とされ、原則として国の管理下におかれる。全国に109水系存在する(詳細は一級水系の項を参照)。また、一級水系、二級水系以外の水系は単独水系と呼ばれる。",
"title": "二級河川"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "沖縄県の河川は、その全てが二級河川である。しかし沖縄県においては福地川など幾つかの河川において、二級河川でありながら国土交通大臣が施工・管理を行う特定多目的ダムが建設されているのをはじめ、国土交通省(実質的には内閣府沖縄総合事務局)が直轄事業として河川改修や河川管理を行っている。これは沖縄振興特別措置法における特例措置である。",
"title": "二級河川"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "すなわち、河川法第十条の規定により通常二級河川は都道府県知事の管理下におかれ、国が関与することはない。だが1972年(昭和47年)の沖縄返還以降、本土に比べインフラストラクチャー整備が遅れている沖縄県の発展を図るため、河川整備について沖縄県の振興を図るために特に必要があるものについては、沖縄県知事の要請があった場合に内閣総理大臣との協議によって国土交通大臣(従前は建設大臣)が、指定した河川区間について河川改良工事、修繕工事などを国直轄で行うことを特別措置法によって定めた。",
"title": "二級河川"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "こうした沖縄振興特別措置法の規定により、福地川・普久川・新川川・億首川など、沖縄県の十数河川が指定区間とされ、河川法第十条の例外規定として国土交通大臣が一級河川に準じた直轄管理を行っている。またこれに伴い、特定多目的ダム法についても沖縄県については特例が適用され、福地ダム(福地川)など特定多目的ダムが、二級河川であっても建設されている。",
"title": "二級河川"
}
] |
二級水系(にきゅうすいけい)とは、日本の河川法によって定められた一級水系以外で「公共の利害に重要な関係がある水系」である。
|
{{law}}
'''二級水系'''(にきゅうすいけい)とは、[[日本]]の[[河川法]]によって定められた[[一級水系]]以外で'''「公共の利害に重要な関係がある[[水系]]」'''である。
{{see also|水系}}
== 概要 ==
* 二級水系とは、一級水系以外で公共の利害に重要な関係がある水系である。本流が二級河川で支流も二級河川・[[準用河川]]であれば、本流の二級河川名(○○水系)で呼ばれる。
* 二級河川とは、一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるもの(二級水系)に係る'''[[都道府県]][[知事]]指定の河川'''であると河川法で定められている。
* 二級河川を指定する場合、国土交通省'''[[省令]]'''の定めにより、都道府県知事は水系ごとに、その名称と区間を公示しなければならない。
* 二級河川に係わる記載は「[[河川台帳]]」及び「[[水利台帳]]」に記載され、二級河川の台帳は、その二級河川を管理する事務所([[都道府県]]管轄)に保管すると国土交通省省令で定められている。
== 指定方法 ==
* 二級河川を指定しようとする場合において、当該河川が他の都府県との境界に係るものであるときは、当該他の都府県知事に協議しなければならない。
* 都道府県知事は、二級河川を指定しようとするときは、あらかじめ、関係市町村長の意見をきかなければならない。
* 前項の規定により関係市町村長が意見を述べようとするときは、当該市町村の議会の議決を経なければならない。
* 指定を実行した後は速やかに、指定表一覧へ記載をする。
* 二級河川の指定の変更又は廃止の手続は、上記の指定の手続に準じて行なわれなければならない。
* 二級河川に指定した後、一級河川の指定を受けたならば、二級河川指定の効力を失う。
== 主な二級河川を本川(本流)とする水系一覧 ==
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size:small;"
|-
!地域
!都道府県
!水系数
!河川数
!河川総延長<br />(km)
!流域面積<br />([[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]])
!主要水系名及び湖沼
|-
! rowspan="7"|北海道・東北
![[北海道]]
|230
|467
|4,273.8
|27,652.0
|style="text-align: center;"|[[佐呂間別川]]水系<br />[[阿寒川]]水系<br />[[安平川]]水系<br />[[北海道の二級水系一覧]]を参照
|-
![[青森県]]
|77
|152
|1,000.4
|5,350.0
|style="text-align: center;"|[[奥入瀬川]]水系<br />[[赤石川]]水系<br />[[堤川]]水系<br />[[青森県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[岩手県]]
|45
|106
|976.1
|5,090.0
|style="text-align: center;"|[[閉伊川]]水系<br />[[久慈川 (岩手県)|久慈川]]水系<br />[[気仙川]]水系<br />[[岩手県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[宮城県]]
|30
|70
|347.2
|1,296.0
|style="text-align: center;"|[[七北田川]]水系<br />[[砂押川]]水系<br />[[定川]]水系<br />[[宮城県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[秋田県]]
|21
|51
|451.1
|1,457.0
|style="text-align: center;"|[[馬場目川]]水系<br />[[塙川]]水系<br />[[水沢川 (秋田県)|水沢川]]水系<br />[[秋田県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[山形県]]
|17
|59
|269.9
|739.0
|style="text-align: center;"|[[日向川 (山形県)|日向川]]水系<br />[[新井田川 (山形県)|新井田川]]水系<br />[[五十川]]水系<br />[[山形県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[福島県]]
|36
|160
|1,389.5
|3,409.0
|style="text-align: center;"|[[木戸川 (福島県)|木戸川]]水系<br />[[夏井川]]水系<br />[[鮫川]]水系<br />[[福島県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="7"|関東
![[茨城県]]
|17
|59
|175.8
|696.0
|style="text-align: center;"|[[大北川]]水系<br />[[花貫川]]水系<br />[[十王川]]水系<br />[[茨城県の二級水系一覧]]を参照
|- style="background-color:#ccc;"
![[栃木県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|- style="background-color:#ccc;"
![[群馬県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|- style="background-color:#ccc;"
![[埼玉県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|-
![[千葉県]]
|60
|137
|1,086.7
|3,842.0
|style="text-align: center;"|[[夷隅川]]水系<br />[[栗山川]]水系<br />[[小櫃川]]水系<br />[[千葉県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[東京都]]
|10
|15
|95.7
|120.0
|style="text-align: center;"|[[目黒川]]水系<br />[[渋谷川|古川(渋谷川)]]水系<br />[[呑川]]水系<br />[[東京都の二級水系一覧]]を参照
|-
![[神奈川県]]
|23
|84
|516.8
|1,225.0
|style="text-align: center;"|[[酒匂川]]水系<br />[[早川 (神奈川県)|早川]]水系<br />[[帷子川]]水系<br />[[神奈川県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="10"|中部
![[新潟県]]
|143
|395
|1,545.2
|3,710.0
|style="text-align: center;"|[[胎内川]]水系<br />[[加治川]]水系<br />[[柿崎川]]水系<br />[[新潟県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[山梨県]]
|3
|9
|20.2
|114.0
![[本栖湖]]<br />[[西湖 (富士五湖)|西湖]]<br />[[精進湖]]
|- style="background-color:#ccc;"
![[長野県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|-
![[富山県]]
|30
|101
|476.5
|1,100.0
|style="text-align: center;"|[[片貝川]]水系<br />[[早月川]]水系<br />[[白岩川]]水系<br />[[富山県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[石川県]]
|60
|164
|898.7
|2,505.0
|style="text-align: center;"|[[犀川 (石川県)|犀川]]水系<br />[[浅野川]]水系<br />[[大聖寺川]]水系<br />[[石川県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[福井県]]
|22
|41
|252.8
|1,231.0
|style="text-align: center;"|[[大味川]]水系<br />[[笙の川]]水系<br />[[南川]]水系<br />[[福井県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[静岡県]]
|83
|265
|1,222.4
|2,799.0
|style="text-align: center;"|[[太田川 (静岡県)|太田川]]水系<br />[[都田川]]水系<br />[[栃山川]]水系<br />[[静岡県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[愛知県]]
|55
|147
|719.7
|2,313.0
|style="text-align: center;"|[[天白川 (愛知県)|天白川]]水系<br />[[境川 (境川水系・愛知県)|境川]]水系<br />[[日光川]]水系<br />[[愛知県の二級水系一覧]]を参照
|- style="background-color:#ccc;"
![[岐阜県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|-
![[三重県]]
|74
|193
|792.8
|1,722.0
|style="text-align: center;"|[[員弁川]]水系<br />[[安濃川]]水系<br />[[阪内川]]水系<br />[[三重県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="6"|近畿
![[滋賀県]]
| style="background-color:#ccc;"|0
| style="background-color:#ccc;"|0
| style="background-color:#ccc;"|0
| style="background-color:#ccc;"|0
| style="background-color:#ccc; text-align: center;"|-
|-
![[京都府]]
|37
|89
|409.1
|886.0
|style="text-align: center;"|[[伊佐津川]]水系<br />[[野田川 (京都府)|野田川]]水系<br />[[竹野川]]水系<br />[[京都府の二級水系一覧]]を参照
|-
![[大阪府]]
|17
|40
|191.0
|539.0
|style="text-align: center;"|[[石津川]]水系<br />[[芦田川 (大阪府)|芦田川]]水系<br />[[大津川 (大阪府)|大津川]]水系<br />[[大阪府の二級水系一覧]]を参照
|-
![[兵庫県]]
|92
|350
|1,693.6
|3,685.0
|style="text-align: center;"|[[市川 (兵庫県)|市川]]水系<br />[[武庫川]]水系<br />[[夢前川]]水系<br />[[兵庫県の二級水系一覧]]を参照
|- style="background-color:#ccc;"
![[奈良県]]
|0
|0
|0
|0
|style="text-align: center;"|-
|-
![[和歌山県]]
|85
|316
|1,423.9
|2,999.0
|style="text-align: center;"|[[有田川]]水系<br />[[日高川]]水系<br />[[日置川]]水系<br />[[和歌山県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="5"|中国
![[鳥取県]]
|42
|113
|397.4
|744.0
|style="text-align: center;"|[[蒲生川 (鳥取県)|蒲生川]]水系<br />[[勝部川]]水系<br />[[由良川 (鳥取県)|由良川]]水系<br />[[鳥取県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[島根県]]
|72
|159
|847.1
|2,068.0
|style="text-align: center;"|[[益田川]]水系<br />[[三隅川 (島根県)|三隅川]]水系<br />[[浜田川 (島根県)|浜田川]]水系<br />[[島根県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[岡山県]]
|22
|64
|269.7
|772.0
|style="text-align: center;"|[[笹ヶ瀬川]]水系<br />[[倉敷川]]水系<br />[[里見川]]水系<br />[[岡山県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[広島県]]
|47
|136
|627.8
|1,551.0
|style="text-align: center;"|[[沼田川]]水系<br />[[黒瀬川]]水系<br />[[八幡川 (広島市佐伯区)|八幡川]]水系<br />[[広島県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[山口県]]
|108
|437
|2,213.1
|4,844.0
|style="text-align: center;"|[[錦川]]水系<br />[[阿武川]]水系<br />[[木屋川]]水系<br />[[山口県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="4"|四国
![[徳島県]]
|39
|129
|430.6
|762.0
|style="text-align: center;"|[[勝浦川]]水系<br />[[海部川]]水系<br />[[牟岐川]]水系<br />[[徳島県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[香川県]]
|79
|275
|1,008.4
|1,399.0
|style="text-align: center;"|[[綾川]]水系<br />[[香東川]]水系<br />[[財田川]]水系<br />[[香川県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[愛媛県]]
|182
|410
|1,247.0
|2,071.0
|style="text-align: center;"|[[蒼社川]]水系<br />[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]水系<br />[[国領川]]水系<br />[[愛媛県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[高知県]]
|97
|268
|1,245.3
|2,489.0
|style="text-align: center;"|[[奈半利川]]水系<br />[[国分川]]水系<br />[[鏡川]]水系<br />[[高知県の二級水系一覧]]を参照
|-
! rowspan="8"|九州・沖縄
![[福岡県]]
|52
|149
|875.5
|1,841.0
|style="text-align: center;"|[[那珂川 (九州)|那珂川]]水系<br />[[御笠川]]水系<br />[[紫川]]水系<br />[[福岡県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[佐賀県]]
|60
|174
|504.9
|742.0
|style="text-align: center;"|[[有田川 (佐賀県)|有田川]]水系<br />[[塩田川 (佐賀県)|塩田川]]水系<br />[[伊万里川]]水系<br />[[佐賀県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[長崎県]]
|222
|358
|1,081.9
|2,318.0
|style="text-align: center;"|[[浦上川]]水系<br />[[八郎川]]水系<br />[[川棚川]]水系<br />[[長崎県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[熊本県]]
|81
|148
|637.8
|1,994.0
|style="text-align: center;"|[[坪井川 (熊本県)|坪井川]]水系<br />[[水俣川]]水系<br />[[氷川]]水系<br />[[熊本県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[大分県]]
|93
|211
|985.7
|1,893.0
|style="text-align: center;"|[[臼杵川]]水系<br />[[駅館川]]水系<br />[[八坂川]]水系<br />[[大分県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[宮崎県]]
|53
|237
|1,243.0
|3,616.0
|style="text-align: center;"|[[耳川]]水系<br />[[一ツ瀬川]]水系<br />[[広渡川]]水系<br />[[宮崎県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[鹿児島県]]
|160
|310
|1,760.5
|4,682.0
|style="text-align: center;"|[[甲突川]]水系<br />[[万之瀬川]]水系<br />[[天降川]]水系<br />[[鹿児島県の二級水系一覧]]を参照
|-
![[沖縄県]]
|51
|75
|355.8
|903.0
|style="text-align: center;"|[[比謝川]]水系<br />[[国場川]]水系<br />[[浦内川]]水系<br />[[沖縄県の二級水系一覧]]を参照
|}
(備考)灰色欄で表示されている自治体は二級水系が存在しない自治体。換言すれば当該自治体にある河川は全て[[一級水系]]に所属する河川となり、堰止湖がある[[山梨県]]を除く[[内陸県]]が該当する。[[奈良県]]には例外的に県内も流域とする二級水系が3水系存在する(銚子川水系、[[日置川]]水系、[[日高川]]水系)が、県内部分はいずれも指定区間外であるためカウントしていない。
== 二級河川 ==
二級水系に係わる河川は、都道府県によって指定される際は支流等も含め原則(後述)として'''二級河川'''であり、[[都道府県知事]]([[都道府県]])が指定管理する。日本には[[2014年]][[4月30日]]現在二級水系の数が2,711あり、その河川数は7,078となる。<!-- 数値は国土交通省水資源・国土保全局HPによる。-->管都市部や源流部の小河川などでは、[[河川法]]での未指定部分を[[市町村長]]が[[準用河川]]に指定して管理したり、どこも指定管理しない場合は河川法の適用を受けない[[普通河川]]として扱われたりすることもある。一方で国や都道府県が指定管理していた河川が、河川法の指定はそのままに管理権限のみ地元自治体へ移譲される事例もある<ref>[http://www.pref.aichi.jp/kasen/press/061120_kisya/webpress_nagoya_ijyou.htm 県管理河川の名古屋市への権限委譲について]、愛知県建設部河川課、2006年11月20日</ref>。
尚、二級水系であっても隣接する[[一級水系]]と不可分な河川整備が必要と特に認められた場合は、[[国土交通省]]による直轄管理も行われる場合もある。一例として[[島根県]]の[[神戸川 (島根県)|神戸川]]水系が、[[1976年]](昭和51年)より『[[斐伊川]]・神戸川水系河川整備計画』に基づき国土交通省による河川整備が進められていた。但し[[2006年]][[8月1日]]付けで神戸川水系は[[斐伊川]]水系に編入されて二級水系としては消滅し、現在国土交通省が管理を行う二級水系は無い。
二級水系より重要な水系は一級水系とされ、原則として国の管理下におかれる。全国に109水系存在する(詳細は[[一級水系]]の項を参照)。また、一級水系、二級水系以外の水系は[[単独水系]]と呼ばれる。
=== 沖縄県における特例 ===
[[沖縄県]]の河川は、その全てが'''二級河川'''である。しかし沖縄県においては[[福地川]]など幾つかの河川において、二級河川でありながら[[国土交通大臣]]が施工・管理を行う[[多目的ダム#特定多目的ダム|特定多目的ダム]]が建設されているのをはじめ、[[国土交通省]](実質的には[[内閣府]][[沖縄総合事務局]])が直轄事業として河川改修や河川管理を行っている。これは'''[[沖縄振興特別措置法]]'''における特例措置である。
すなわち、[[河川法]]第十条の規定により通常二級河川は[[都道府県知事]]の管理下におかれ、国が関与することはない。だが[[1972年]](昭和47年)の[[沖縄返還]]以降、本土に比べ[[インフラストラクチャー]]整備が遅れている沖縄県の発展を図るため、河川整備について沖縄県の振興を図るために特に必要があるものについては、沖縄県知事の要請があった場合に[[内閣総理大臣]]との協議によって国土交通大臣(従前は[[建設大臣]])が、指定した河川区間について河川改良工事、修繕工事などを国直轄で行うことを[[特別措置法]]によって定めた。
こうした沖縄振興特別措置法の規定により、福地川・普久川・新川川・[[億首川]]など、沖縄県の十数河川が指定区間とされ、河川法第十条の例外規定として国土交通大臣が一級河川に準じた直轄管理を行っている。またこれに伴い、[[特定多目的ダム法]]についても沖縄県については特例が適用され、福地ダム(福地川)など特定多目的ダムが、二級河川であっても建設されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*国土開発調査会編、[[財団法人]][[日本河川協会]]監修『河川便覧』(平成16年度版)、[[2004年]]。
== 関連項目 ==
*[[川]]
*[[河川法]]
*[[一級水系]](一級河川)
*[[準用河川]]
*[[普通河川]]
{{河川関連}}
{{DEFAULTSORT:にきゆうすいけい}}
[[Category:日本の河川]]
[[Category:水系|*2]]
[[Category:二級河川|*]]
[[en:Class A river#Class B river]]
|
2003-09-17T03:03:13Z
|
2023-09-03T03:11:56Z
| false | false | false |
[
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:河川関連",
"Template:Law"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%B4%9A%E6%B0%B4%E7%B3%BB
|
17,148 |
国際連盟
|
国際連盟[こくさいれんめい、旧字体: 國際聯盟、英語: League of Nations(LON)、フランス語: Société des Nations(SDN、SdN)]は、第一次世界大戦後の世界平和の確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった。
当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月20日に活動を終了した。
国際連盟規約に記載されている連盟の主な目的は、集団安全保障と軍縮によって戦争を防止し、交渉と仲裁によって国際紛争を解決することであった。また、労働条件、先住民の公正な扱い、人身売買、違法薬物の取引、武器取引、健康、戦争捕虜、ヨーロッパの少数民族の保護などが、この規約や関連条約に盛り込まれていた。国際連盟規約は、1919年6月28日にヴェルサイユ条約の第1編として調印され、1920年1月10日に他の条約とともに発効した。連盟理事会の第1回会合は1920年1月16日にフランス・パリで、連盟総会の第1回会合は1920年11月15日にスイス・ジュネーヴで開催された。1919年、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは、連盟設立の立役者としてノーベル平和賞を受賞した。
連盟の外交理念は、それまでの100年間とは根本的に異なるものだった。連盟は独自の軍隊を持たず、第一次世界大戦で勝利した連合国(フランス、イギリス、イタリア、日本は常任理事国)が決議を執行し、経済制裁を守り、必要に応じて軍隊を提供することとしていた。しかし、大国はそれに消極的だった。制裁措置は連盟加盟国に損害を与える可能性があるため、大国は制裁措置を遵守することに消極的だった。第二次エチオピア戦争の際、イタリア軍の兵士が赤十字社の医療テントを攻撃していると連盟が非難したとき、ベニート・ムッソリーニは「連盟は雀が叫んでいるときには非常によいが、鷲が喧嘩をしているときにはまったくよくない」と答えている。
また、人種的差別撤廃提案が否決されるなど、人種問題の解決を果たすこともできなかった。なお、2回目の提案の際、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
連盟の本部は1920年から1936年まではスイス・ジュネーヴのパレ・ウィルソン(英語版)に、1936年からは同じくジュネーヴのパレ・デ・ナシオンに設置されていた。パリ家モーリス・ド・ロチルド(英語版、フランス語版)の屋敷シャトー・ド・プレニー(英語版)も、1920年から1939年まで国際連盟の会場として使用された。
1934年9月28日から1935年2月23日までの間は、最多の58か国が加盟していた。連盟は、1920年代にいくつかの成功と初期の失敗を経験したあと、最終的に1930年代の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。アメリカ合衆国は連盟に加盟せず、ソビエト連邦は遅れて加盟したあと、フィンランドへの侵攻後すぐに追放されたことで、連盟の信頼性は低下した。ドイツ、日本、イタリア、スペインなどは連盟を脱退した。第二次世界大戦の勃発により、連盟は「将来の世界大戦を防ぐ」という本来の目的を果たせなくなった。
第二次世界大戦終了後、国際連合(国連)が1945年10月24日に設立され、連盟が設立したいくつかの機関や組織は国連が引き継いだ。連盟は1946年4月20日をもって正式に解散した。連盟の存続期間は26年であった。
「国家間の平和のための共同体」という概念は、初期にはイマヌエル・カントが1795年の著書『永遠平和のために』 で、国家間の紛争を抑制し、平和を促進するための国家連合体の設立を主張した。カントは平和のための世界共同体の構築を主張したが、それは世界政府という意味ではなく、各国家が自国民を尊重し、外国からの訪問者を同じ理性的な存在として迎え入れる自由な国家であることを宣言することで、世界の平和な社会を促進することを願っていた。集団安全保障を推進するための国際協力は、19世紀のナポレオン戦争のあと、ヨーロッパ諸国間の現状を維持し、戦争を回避するために展開されたヨーロッパ協調(英語版)に端を発している。また、この時代には国際法が整備され、ジュネーヴ条約では戦時中の人道的救済に関する法が制定され、1899年と1907年のハーグ条約では戦争のルールと国際紛争の平和的解決が規定された。歴史学者のウィリアム・H・ハーボーとロナルド・E・ポワスキー(英語版)が指摘するように、セオドア・ルーズベルトはアメリカ大統領として初めて国際的な連盟の設立を呼びかけた。ルーズベルトは、1906年にノーベル賞を受賞した際に、「誠実に平和を願う大国が平和連盟を結成してくれれば、それは素晴らしいことである」と述べている。
国際連盟の前身である列国議会同盟(IPU)は、1889年に平和運動家のウィリアム・ランダル・クリーマーとフレデリック・パシーの提唱により結成された(この組織は、現在も世界各国の立法機関を中心とした国際機関として存続している)。IPUは、国際的な視野に立って設立された。1914年には、加盟24か国の議会議員の3分の1がIPUのメンバーとなっていた。IPUの設立目的は、各国政府が国際的な紛争を平和的手段で解決することを奨励することだった。また、各国政府が国際仲裁のプロセスを改善するための年次会議も開催された。IPUの構造は会長を頂点とした評議会方式であり、これはのちに設立された国際連盟の構造に反映されることになる。
第一次世界大戦が勃発すると、将来の戦争を防ぐための国際的な組織の構想が、イギリスやアメリカを中心に世間の支持を集め始めた。1914年、イギリスの政治学者ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンは、"League of Nations"(国際連盟)という言葉を作り、その組織化のための計画を立案した。ディキンソンはブライス卿とともに、国際的な平和主義者の集まりであるブライス・グループ(英語版)(のちの国際連盟連合(英語版))の設立に主導的な役割を果たした。このグループは、また当時政権を握っていた自由党内の圧力団体として、一般市民の間で着実に影響力を増していった。ディキンソンは1915年に出版したパンフレット "After the War" の中で、自分の「平和連盟」は本質的に仲裁と調停のための組織であると書いている。ディキンソンは、20世紀初頭の秘密外交によって戦争が引き起こされたと考えており、パンフレットにも「外交政策の問題が世論に知られ、コントロールされるようになれば、それに比例して戦争の不可能性は増すだろうと私は信じている」と書いた。ブライスグループの提言は、イギリスとアメリカで広く流布され、始まったばかりの国際運動に大きな影響を与えた。
1915年、アメリカでも、ブライス・グループの提案と同様の組織がウィリアム・タフトらによって設立された。この組織は「平和施行同盟(英語版)」と呼ばれ、実質的にはブライス・グループの提案をベースにしたものであった。この組織は、紛争解決には仲裁を利用し、攻撃的な国には制裁を加えることを提唱していた。これらの初期の組織はいずれも、継続的に機能する組織を想定しておらず、国際機関を裁判所に限定するような法治主義的なアプローチを取っていた。例外はイギリスのフェビアン協会で、大国を中心として世界の問題を解決する「評議会」や、さまざまな活動における国際協力を強化するための「常設事務局」の設置を最初に主張した。
第一次世界大戦をめぐる外交活動(英語版)の中で、両陣営は長期的な戦争目的を明確にしなければならなかった。連合国のリーダーであるイギリスと中立国のアメリカでは、1916年までに、将来の戦争を防ぐための統一的な国際組織を設計するための長期的な考え方が始まっていた。歴史学者のピーター・イヤーウッドは、1916年12月にロイド・ジョージ内閣(英語版)が発足したときには、知識人や外交官の間で、このような国際組織を設立することが望ましいという議論が広まっていたと主張している。ロイド・ジョージは、ウィルソンから戦後の状況を視野に入れた立場を表明するよう求められたとき、このような組織の設立を支持した。ウィルソン自身も、1918年1月に発表した「十四か条の平和原則」の中に、「平和と正義を確保するための国家同盟」を盛り込んでいた。イギリスのアーサー・バルフォア外相は、永続的な平和の条件として、「国際法の背後に、敵対行為を防止または制限するためのすべての条約上の取り決めの背後に、もっとも強硬な侵略者を躊躇させるような何らかの国際的制裁措置を考案すべきである」と主張した。
この戦争は、ヨーロッパの社会・政治・経済に大きな影響を与え、精神的・物理的なダメージを与えた。1917年2月にロシア帝国が崩壊したのを皮切りに、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国と、いくつもの帝国が崩壊していった。世界中で反戦の気運が高まった。「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた第一次世界大戦の原因究明が盛んに行われ、その原因として、軍拡競争、同盟関係、軍国主義的ナショナリズム、秘密外交、主権国家が自国の利益のために戦争をする自由などが挙げられた。そこで、軍縮、公開外交、国際協力、戦争をする権利の制限、戦争をしないようにするための罰則などにより、将来の戦争を防ぐことを目的とした国際組織の設立が提案された。
1918年初めにイギリスのバルフォア外相は、ロバート・セシル卿の主導によるこの問題に関する最初の公式報告書を依頼した。次いで、イギリスの委員会が1918年2月に任命された。この委員会は、ウォルター・フィリモア(英語版)を中心に、エア・クロウ(英語版)、ウィリアム・ティレル(英語版)、セシル・ハースト(英語版)らが加わったもので、のちにフィリモア委員会と呼ばれるようになった。フィリモア委員会が出した提案は、紛争を仲裁し、違反国に制裁を加える「連合国会議」を設立するというものだった。この提案はイギリス政府に承認され、委員会の成果の多くはのちに国際連盟規約に盛り込まれた。
また、フランスは1918年6月により広範囲な提案を起草した。その中では、すべての紛争を解決するための評議会の年次会合と、その決定を執行するための国際軍が提唱されていた。
アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領はエドワード・M・ハウス大佐に対し、「十四か条の平和原則」で初めて示した自身の理想主義的な考えと、フィリモア委員会の活動を反映したアメリカの計画を起草するよう指示した。ハウスの作業とウィルソン自身の初稿で、スパイ活動や不正行為を含む「非倫理的」な国家行動を排除することが提案された。不従順な国家に対する強制手段としては、例えば、「その国の国境を封鎖して、世界のどの地域とも通商や交流ができないようにし、必要な武力を行使する...」などの厳しい措置が含まれた。
主に国際連盟規約を起草したのは、イギリスの政治家ロバート・セシル卿と南アフリカの政治家ヤン・スマッツの2人だった。スマッツは、大国を常任理事国、小国を非常任理事国とする理事会の創設や、中央同盟国の植民地の委任統治の制度の創設を提案した。セシルは行政面に重点を置き、年1回の理事会と、4年に1回の全加盟国による議会を提案した。また、連盟の管理業務を遂行するために、大規模で常設の事務局を設けることを主張した。
1919年のパリ講和会議では、ウィルソン、セシル、スマッツの3人がそれぞれの草案を提出した。代表者間の長い交渉の末、セシル・ハーストとデイヴィッド・ハンター・ミラー(英語版)が共同で執筆した予備的な草案を元に検討が進められた。さらに交渉と妥協を重ね、1919年1月25日、代表団は最終的に国際連盟創設の提案を承認した。最終的な国際連盟規約は特別委員会によって起草された。ヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編に国際連盟規約が含められた。1919年6月28日、44か国が規約に署名した。
連盟は、全加盟国を代表する総会、大国に限定された執行委員会、そして常設の事務局で構成される。加盟国は、ほかの加盟国の領土保全を尊重し、外部からの攻撃に対抗して保全することと、国内の安全に合致する最低限度のレベルまで武装解除することが求められた。すべての国は、戦争を始める前に、仲裁または司法調査(英語版)のために申し立てすることが義務づけられた。執行理事会は、紛争を裁く常設国際司法裁判所を設立した。
ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績により1919年10月にノーベル平和賞を受賞した。しかし、そのアメリカ合衆国は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジやウィリアム・ボーラなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。ロッジらは国際連盟規約第10条および16条で規定された「戦争を行った国家は、ほかの連盟国すべてに戦争行為をしたとみなし、当該国との通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場合、連盟国に制裁として軍事行動を義務づける」という条文により、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧し、反対に回った。ウィルソンが妥協を許さなかったため、加盟に必要な3分の2の賛成を得られず、アメリカは連盟に加盟しないこととなった。
国際連盟は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約が発効した6日後の1920年1月16日にパリで第1回理事会を開催した。1920年11月1日、国際連盟の本部はロンドンからジュネーヴに移され、11月15日には第1回総会が開催された。ジュネーブの西湖畔にある連盟の最初の本部は、連盟設立に尽力したウッドロウ・ウィルソン米大統領にちなんで「パレ・ウィルソン(英語版)」と名付けられた。
国際連盟の公用語はフランス語と英語だった。
1939年、国際連盟の半公式紋章が制定された。青い五角形の中に2つの五芒星を描いたもので、地球上の5つの大陸と「5種類の人種(英語版)」を象徴するものである。マークの上には英語名("League of Nations")、下にはフランス語名("Société des Nations")が書かれた。
連盟の主な構成機関は、総会、理事会、常設事務局だった。また、常設国際司法裁判所と国際労働機関という2つの主要組織があった。その他に、いくつかの補助機関や委員会があった。各機関の予算は総会で配分されていた。連盟の運営資金は加盟国が負担していた。
総会と理事会の関係、およびそれぞれの権限は、明確に定義されていなかった。総会と理事会は、世界の平和に影響を与えるあらゆる問題を、連盟の権限の範囲内で扱うことができた。総会と理事会は、特定の問題や任務をもう一方に委ねることもできた。
総会と理事会の議決には、手続事項や新規加盟国の加入などの特定の場合を除き、全会一致が求められていた。この要件は、連盟が構成国の主権を信じていることの反映であった。連盟は口述による解決ではなく、同意形成による解決を求めた。紛争の場合には、紛争当事者の同意は必要なかった。
常設事務局はジュネーヴの連盟本部に設置され、さまざまな分野の専門家で構成され、事務総長が指揮をとっていた。事務局の主な部門には、政治、財政・経済、交通、少数民族と行政(ザールとダンツィヒの管理)、職務権限、軍縮、保健、社会(アヘン、女性や子供の人身売買)、知的協力と国際事務局、法律、情報があった。事務局の職員は、理事会や総会の議題を作成したり、会議の報告書を発行したり、その他の日常的な事項を担当しており、事実上、連盟の公務員のような役割を果たしていた。1931年の時点で、事務局には707人の職員がいた。
総会は、連盟加盟国の代表で構成され、1か国につき3名の代表と1票の投票権が認められていた。総会はジュネーヴで開催され、1920年の第1回会議以降、毎年9月に開催された。総会の特別な機能として、新規加盟国の受け入れ、非常任理事国の定期的な選出、常設法廷の判事の選出、予算の管理などがあった。実際には、総会が連盟の活動の総指揮をとっていた。
フランスなどは、総会に出席する代表代理や補佐などを十数人の国会議員で固めた一方、日本はヨーロッパ各国の駐在する大使級外交官で固めた。このことについて、当時の新聞は「日本は例により旧式の外交官ばかり連ねた」として批判した。
理事会は、総会の決定を執行する機関として機能していた。理事会は常任理事国と、3年の任期で総会で選出される非常任理事国で構成された。設立当初の常任理事国は4か国(イギリス、フランス、イタリア、日本)、非常任理事国は4か国であり、最初の非常任理事国はベルギー、ブラジル、ギリシャ、スペインだった。
理事会の構成は何度か変更された。非常任理事国の数は、1922年9月22日に6か国、1926年9月8日に9か国となった。1926年9月8日にドイツが加盟するとともに5か国目の常任理事国となった。その後、ドイツと日本が連盟を脱退したため、非常任理事国の数が9から11に増やされた。1934年9月18日にソビエト連邦が加盟とともに常任理事国となり、理事国は15か国となった。理事会は平均して年に5回、必要に応じて臨時会合を開いた。1920年から1939年の間に、合計107回の会議が開催された。
連盟は、常設国際司法裁判所や、差し迫った国際問題に対処するために設立されたほかのいくつかの機関・委員会を監督していた。連盟が監督していた機関には、以下のものがある。
これらの機関のうち、国際労働機関、常設国際司法裁判所(国際司法裁判所として)、保健機構(世界保健機関として再編成)の3つは、第二次世界大戦後に国際連合に移管された。
常設国際司法裁判所は、連盟規約では「理事会が設置案を作成し、加盟国が採択する」と規定されており、連盟規約によって直接設置されたものではない。常設国際司法裁判所の規約は理事会と総会によって制定された。裁判官は理事会と総会で選出され、予算は総会が負担した。裁判所は、関係者が提出したあらゆる国際紛争を審理し、判決を下す機関である。また、理事会や総会から付託された紛争や問題について勧告的な意見を述べることもできる。裁判所は、一定の広範な条件の下で、世界の全ての国に開かれていた。
国際労働機関(ILO)は、ベルサイユ条約第13編に基づいて1919年に設立された。ILOは、連盟と同じ加盟国を持ち、総会の予算管理下にあるものの、独自の運営機関、総会、事務局を持つ自治組織だった。規約は連盟とは異なり、各国政府だけでなく、使用者団体や労働者団体の代表にも代表権が与えられていた。初代代表はアルベール・トーマス(英語版)だった。
ILOは、ペンキへの鉛の添加の制限に成功し、1日8時間労働と週48時間労働を採用するようにいくつかの国を説得した。また、児童労働の撤廃、職場における女性の権利向上、船員の事故に対する船主の責任追及などのキャンペーンを展開した。ILOは、連盟の消滅後、1946年に国際連合の機関となった。
連盟の保健に関する組織は3つあった。連盟の常任役員が所属する「保健局」、医学専門家で構成された執行部である「一般諮問委員会」、そして「保健委員会」である。保健委員会は、連盟の保健事業の運営を監督し、理事会に提出する資料を作成することを目的とした委員会である。保健委員会はハンセン病、マラリア、黄熱病の制圧に力を入れていた。後二者については蚊を駆除する国際キャンペーンを行った。また、保健機構はソ連政府と協力して、大規模な教育キャンペーンを行うなど、チフスの流行を防ぐことに成功した。
国際連盟は、その創設以来、国際的な知的協力の問題に真剣に取り組んできた。1920年12月の第1回総会はで知的労働の国際的な組織化を目指して行動を起こすよう理事会に勧告し、第2回総会の第5委員会が提出した報告書を採択して、1922年8月にジュネーブで開催される知的協力委員会を招請した。委員会の初代委員長には、フランスの哲学者アンリ・ベルグソン就任した。委員会の活動内容は,知的生活の状況の調査、知的生活が危機に瀕している国への援助、知的協力のための国内委員会の設立、国際知識組織との協力、知的財産の保護、大学間の協力、書誌作業の調整と出版物の国際交流、考古学研究の国際協力などであった。
第2次万国阿片条約で設立されたアヘン常設中央委員会は、アヘン、モルヒネ、コカイン、ヘロインの取引に関する統計報告を監督した。同委員会はまた、麻薬の合法的な国際取引のための輸入証明書と輸出許可書のシステムを確立した。
1926年の奴隷条約(英語版)で設立された奴隷委員会は、世界中の奴隷制度と奴隷売買の撲滅を目指し、強制売春と戦っていた。奴隷委員会は、委任統治された国を管理する政府に対し、その国で奴隷制度を廃止するよう圧力をかけた。連盟は1923年にエチオピアに対し連盟加盟の条件として奴隷制廃止の約束を取り付け、リベリアと協力して強制労働と部族間奴隷制を廃止した。イギリスは「エチオピアは加盟を正当化するのに十分な文明と国内治安の状態に達していない」という理由で、エチオピアの連盟加盟を支持していなかった。
連盟は、タンガニーカ鉄道(英語版)を建設する労働者の死亡率を55%から4%に下げることにも成功した。また、奴隷制、売春、女性や子供の人身売買などを取り締まるための記録も残された。国際連盟の圧力により、1923年にアフガニスタン、1924年にイラク、1926年にネパール、1929年にトランスヨルダンとペルシャ、1937年にバーレーン、1942年にエチオピアで奴隷制が廃止された。
1921年6月27日にフリチョフ・ナンセンの主導で設立された難民委員会 は、難民の本国送還や、必要に応じて再定住を監督するなど、難民の利益を守るために設立された。第一次世界大戦末期、ロシア各地には200万人から300万人の各国の元捕虜が散らばっていたと言われており、委員会が設立されてから2年で42万5,000人の帰国を支援した。また、1922年にはトルコに難民キャンプを設置し、コレラ、天然痘、赤痢などの蔓延を防ぎ、キャンプ内の難民に食事を提供するなどの支援を行った。また、無国籍者のための身分証明手段としてナンセン・パスポートを制定した。
1937年に設立された女性の法的地位の調査のための委員会は、世界中の女性の地位を調査することを目的としていた。後に女性の地位委員会として国際連合の一部となった。
第一次世界大戦の開戦から2週間も経たないうちに、フェミニストたちは戦争反対の活動を始めた。それまでの平和団体への参加を禁じられていたアメリカの女性たちは、女性平和パレード委員会(Women's Peace Parade Committee)を結成し、戦争への無言の抗議行動を計画した。委員長のファニー・ギャリソン・ヴィラード(英語版)を筆頭に、労働組合、フェミニスト団体、社会改革団体の女性たち(ケイト・ウォーラー・バレット(英語版)、メアリー・リッター・ビアード(英語版)、キャリー・チャップマン・キャット、ローズ・シュナイダーマン(英語版)、リリアン・ウォルド(英語版)ら)が1,500人の女性を組織し、1914年8月29日にマンハッタンの5番街を行進した。このパレードにより、ジェーン・アダムズは、ヨーロッパの2人のサフラジスト(ハンガリー人のシュヴィンメル・ロージカ(英語版)とイギリス人のエメリン・ペシック・ローレンス(英語版))が提案した平和会議の開催に関心を持った。1915年1月9日から10日にかけて、ワシントンD.C.でアダムス主導の平和会議が開催され、行政権と立法権を持つ国際機関を設立して、平和と軍縮のための「中立国の永久同盟」を発展させることを求める綱領が採択された。
その数か月後には、ハーグで国際女性会議を開催することが呼びかけられた。1915年4月28日に開催された会議は、ミア・ボワセベン(英語版)、アレッタ・ヤコブス(英語版)、ローザ・マヌス(英語版)がコーディネートし、中立国・非戦国から1,136名が参加した。この会議では、のちに婦人国際平和自由連盟(WILPF)となる組織が設立された。会議終了後、2つの女性代表団が派遣され、数か月かけてヨーロッパの国家元首を訪問した。各国外相はそのような機関は効果がないと感じていたが、ほかの国が同意し、ウッドロウ・ウィルソン米大統領が組織を立ち上げるのであれば、中立的な調停機関の設立に参加するか、それを妨げないことに合意した。しかし、戦争遂行中のウィルソン大統領はこれを拒否した。
1919年、フランスの女権擁護者たちは、公式会議への参加許可を得ることを期待して、パリ講和会議と並行して行われる連合国女性会議(英語版)への参加を世界のフェミニストたちに呼びかけた。連合国女性会議は、和平交渉や委員会への提案の許可を求め、女性と子供に関する委員会に参加する権利を与えられた。女性に対する男性と同等の権利と法による完全な保護を求めたが、それらは無視された。この会議により、女性に対し、国際連盟の職員や代議員など、あらゆる役割を果たす権利が認められた。また、加盟国は女性や子供の人身売買を防止し、子供・女性・男性の労働者のための人道的な条件を平等に支持するという宣言を勝ち取った。1919年5月17日から19日にかけて開催されたチューリッヒ平和会議では、ヴェルサイユ条約が懲罰的な措置をとっていること、暴力の非難を規定していないこと、市民的・政治的参加から女性を排除していることを、WILPFの女性たちが非難した。
連盟規約では、経済についてはほとんど触れられていない。それにもかかわらず、1920年に連盟理事会は金融会議を招集した。第1回総会では、会議に情報を提供するための経済金融諮問委員会の任命が決定された。1923年、恒久的な経済金融機関が発足した。
連盟の原加盟国は42か国で、そのうち1946年に解散されるまで加盟していたのは23か国(自由フランスを含めると24か国)だった。創設年には他に6か国が加盟し、そのうち解散まで加盟し続けたのは2か国だけだった。1926年9月8日にヴァイマル共和政下のドイツ国が連盟に加盟した。
その後、さらに15か国が加盟した。1934年9月28日にエクアドルが加盟してから1935年2月23日にパラグアイが脱退するまでの間のが、国際連盟の加盟国が58か国と最多となった期間である。
連盟に最後に加盟したのは、1937年5月26日加盟のエジプトだった。最初に連盟から脱退したのは、1925年1月22日に脱退したコスタリカだった。コスタリカが加盟したのは1920年12月16日であり、連盟への加盟期間が最短の国でもある。原加盟国では最初に脱退したのは、1926年6月14日に脱退したブラジルである。1932年に加盟したイラクは、連盟の委任統治下から独立した国の中で初めての加盟国である。
ソビエト連邦は1934年9月18日に加盟したが、1939年12月14日にフィンランドへの侵攻を理由に追放された。このソ連の追放は、連盟規約に違反したものだった。理事国15か国のうち、追放に賛成したのは7か国(イギリス、フランス、ベルギー、ボリビア、エジプト、南アフリカ、ドミニカ共和国)で、規約で定められた過半数に達していなかった。賛成した国のうち3か国(南アフリカ、ボリビア、エジプト)は、投票の前日に理事国入りした国だった。これは、第二次世界大戦によって実質的に機能しなくなる前の、連盟の最後の行動の一つだった。
第一次世界大戦末期、連合国は、アフリカと太平洋にある旧ドイツ植民地、およびオスマン帝国のアラビア語圏のいくつかの州の処分問題に直面していた。パリ講和会議では、これらの領土を連盟に代わって各国政府が管理するという原則が採択された。これは、国際的な監視のもとで各国が責任を負う制度である。委任統治制度(mandate system)と定義されたこの計画は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の主要連合国の政府および外務大臣で構成される十人評議会によって1919年1月30日に採択され、国際連盟に伝達された。
委任統治制度は、国際連盟規約第22条に規定された。常設委任統治委員会は、委任統治を監督するとともに、紛争地域の住民がどの国に加わるかを決めるための住民投票を実施した。委任統治にはA式・B式・C式の3つの分類があった。
A式は、旧オスマン帝国の領土に適用された。
B式は、第一次世界大戦後に連盟が管理していた中央アフリカの旧ドイツ植民地に適用された。
C式は、西南アフリカと南太平洋諸島の旧ドイツ植民地に適用された。
領土は受任国により統治された。たとえば、パレスチナはイギリス、南西アフリカは南アフリカが受任国となり、その地域が自治できると判断されるまで統治していた。14の委任統治領は、イギリス、日本、フランス、ベルギー、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの7つの受任国に分割された。1932年10月3日に連盟に加盟したイラク王国を除き、これらの地域が独立を果たしたのは第二次世界大戦後のことで、最後に独立したのは1990年だった。連盟の解散時にまだ残っていた委任統治領のほとんどは国連信託統治領となった。
委任統治とは別に、連盟はザール盆地を15年間統治し、国民投票の結果ドイツに返還された。また、自由都市ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク)を1920年11月15日から1939年9月1日まで統治した。
第一次世界大戦の後(英語版)、国境の正確な位置や、ある地域がどの国に加わるかなど、解決すべき問題が多く残されていた。これらの問題のほとんどは、勝利した連合国が連合国最高評議会などの組織で処理した。連合国は、特に困難な問題だけを連盟に委ねる傾向があった。このため、戦間期の初期には、連盟は戦争による混乱の解決にはほとんど関与していなかった。初期に連盟が検討した問題は、パリ講和条約で指定されたものだった。
連盟の発展とともにその役割は拡大し、1920年代半ばには国際的な活動の中心となっていた。この変化は、連盟と非加盟国との関係にも表れている。たとえば、アメリカやロシアは、連盟との連携を強めていった。1920年代後半、フランス、イギリス、ドイツは、国際連盟を外交活動の中心に据えており、この時期、各国の外務大臣はジュネーヴで開催される連盟の会議に出席していた。また、彼らは連盟の機構を利用して、関係の改善や対立の解消に努めていた。
オーランド諸島は、スウェーデンとフィンランドの中間に位置するバルト海に浮かぶ約6,500の島の集まりである。ほとんどがスウェーデン語圏だが、1809年、オーランド諸島はフィンランドとともにロシア帝国に占領された。1917年12月、ロシアが十月革命で混乱している中でフィンランドは独立を宣言したが、オーランド諸島の住民の多くはスウェーデンへの復帰を希望していた。フィンランド政府は、ロシアが1809年に設立したフィンランド大公国にオーランド諸島を含めていたことから、オーランド諸島を新国家の一部と考えていた。1920年までに、この紛争は戦争勃発寸前までエスカレートした。イギリス政府はこの問題を連盟理事会に付託したが、フィンランドは内政問題であるとして連盟の介入を許さなかった。連盟は、この問題を調査すべきかどうかを決めるために小委員会を作り、肯定的な回答を得たため、中立委員会を作った。1921年6月、連盟は、オーランド諸島をフィンランドの一部とし、非武装化を含めて島民の保護を保証するという中立委員会の決定を発表した。スウェーデンはこの決定に消極的に同意した。これは、連盟を通じて直接締結された初のヨーロッパの国際協定だった。
上シレジア(英語版)の領土問題を連合国が解決できなかったため、連盟に委ねられた。第一次世界大戦後、プロイセンに属していた上シレジアの領有権をポーランドが主張した。ヴェルサイユ条約では、上シレジアをドイツとポーランドのどちらに帰属させるかを決めるために、上シレジアで住民投票(英語版)を行うことが推奨されていた。ドイツ当局の態度に対する不満から、第1次(1919年)・第2次(1920年)のシレジア蜂起が発生した。1921年3月20日に行われた住民投票では、59.6%(約50万人)がドイツへの加盟を支持したが、ポーランドはこの投票をめぐる状況が不公平であったと主張した。この結果を受けて、1921年に第3次シレジア蜂起が起こった。
1921年8月12日、連盟はこの問題の解決を求められた。理事会は、ベルギー、ブラジル、中国、スペインからの代表者で構成される委員会を設置し、状況の調査を行った。委員会は、住民投票で示された地域ごとの意向に応じて上シレジアをポーランドとドイツの間で分割すること、2つの地域の相互の関係の詳細(たとえば、2つの地域の経済的・産業的な相互依存関係のために、国境を越えて商品を自由に通行させるかどうかなど)は両者で決定すべきであることを勧告した。
1921年11月、ドイツとポーランドの間の条約の交渉のための会議がジュネーヴで開催された。5回の会議を経て、最終的な和解が得られた。合意では、この地域の大部分をドイツに与え、ポーランドには、この地域の鉱物資源と産業の大部分を占める地域を与えるというものだった。1922年5月にこの協定が公表されると、ドイツ国内では激しい憤りの声が上がったが、それでもこの条約は両国で批准された。これにより、第二次世界大戦が始まるまで、この地域は平和が続いた。
アルバニア公国の国境線は、1919年のパリ講和会議の際に連盟の決定に委ねることとされたため、1921年9月になっても決定されないまま不安定な状況が続いていた。アルバニアの南ではギリシャ王国軍が軍事行動を行った。アルバニアの北ではセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア王国)軍がアルバニア人部族との衝突を経て交戦状態となっていた。連盟は列強各国の代表からなる委員会を現地に派遣した。1921年11月、連盟はアルバニアの国境線を、1913年時点のものを基準とし、ユーゴスラビアに有利になるように3か所を変更するという決定を行った。数週間後、ユーゴスラビア軍はしぶしぶ撤退した。
1923年8月24日、大使会議より派遣されたギリシャ・アルバニア国境劃定委員会のメンバーだったイタリアのエンリコ・テリーニ(英語版)将軍とその部下4人が何者かに殺され、アルバニアの国境線が再び国際紛争の原因となった。イタリアの指導者ベニート・ムッソリーニは激怒し、5日以内に事件を調査するよう委員会に要求した。ムッソリーニは、調査の結果がどうであれ、ギリシャ政府に対しイタリアに5,000万リラの賠償金を支払うことを要求した。ギリシャ政府は、ギリシャ人による犯行であると証明されない限り、賠償金は支払わないと回答した。
ムッソリーニは軍艦をギリシャのコルフ島に派遣して砲撃し、1923年8月31日にイタリア軍がコルフ島を占領した。これは連盟規約に反するものだったため、ギリシャはこの事態に対処するために連盟に訴えた。連合国側は(ムッソリーニの主張で)、テリーニ将軍を任命したのは大使会議であるため、この紛争を解決する責任は大使会議にあると合意した。連盟理事会はこの紛争について検討し、その結果を大使会議に伝え、最終的な判断を仰ぐことになった。大使会議は連盟の勧告のほとんどを受け入れ、犯人が判明していないにもかかわらず、ギリシャに対してイタリアに5千万リラを支払うよう強要した。その後、イタリア軍はコルフ島から撤退した。
バルト海に面した港町メーメル(現在のリトアニア・クライペダ)とその周辺地域にはドイツ人が多く住んでおり、ヴェルサイユ条約第99条により、連合国の暫定的な支配下に置かれていた。フランス政府とポーランド政府はメーメルを単一の国家に属さない国際都市にすることを希望したが、リトアニアはこの地域を併合することを望んでいた。1923年になってもこの地域の処遇は決まっておらず、1923年1月にはリトアニア軍が侵攻して港を占領した。連合国はリトアニアとの間で合意に至らなかったため、連盟に問題を委ねた。1923年12月、連盟理事会は調査委員会を任命した。委員会は、メーメルをリトアニアに割譲し、自治権を与えることを決定した。クライペダ条約(英語版)は、1924年3月14日に連盟理事会で承認され、その後、連合国とリトアニアによって承認された。
1939年、ナチスが台頭したドイツがこの地域を占領し、この地域をドイツに返還しなければ武力に訴えるとリトアニアに最後通牒(英語版)を発した。国際連盟はメーメル地方のドイツへの分離を防ぐことができなかった。
フランス委任統治領シリアにあったアレクサンドレッタのサンジャク(英語版)には、連盟の監視の下で1937年に自治権が与えられた。1938年8月の選挙で選ばれた議会は、翌月にこの地をハタイと改称し、ハタイ共和国として独立を宣言した。1939年半ばにフランスの同意を得てトルコに併合された。
国際連盟は、1926年にイラク王国とトルコ共和国の間で起きた旧オスマン帝国領モスル(英語版)の領有権をめぐる紛争を解決した。1920年にイギリス委任統治領メソポタミアの一部としてイラクを代表して外交を行っていたイギリスは、モスルはイラクに属すると主張していた。一方、トルコ共和国はモスルをトルコの歴史的な中核地の一部と主張していた。1924年、連盟はベルギー、ハンガリー、スウェーデンをメンバーとする調査委員会をこの地に派遣した。委員会の調査によりは、モスルの人々はトルコとイラクのどちらにも属したくないが、選ぶとしたらイラクを選ぶだろうということがわかった。1925年、委員会は、クルド人の自治権を確保するために、イギリスがイラクの委任統治権をあと25年保持することを条件に、同地域をイラクの一部とするよう勧告した。連盟理事会はこの勧告を採択し、1925年12月16日にモスルをイラクに与えることを決定した。
トルコは1923年のローザンヌ条約では連盟の仲裁を受け入れていたが、理事会の権限を疑問視してこの決定を拒否した。この問題は常設国際司法裁判所に委ねられたが、常設国際司法裁判所は「連盟理事会が全会一致で決定した場合は、それを受け入れなければならない」と判断した。それにもかかわらず、イギリス、イラク、トルコは、1926年6月5日、連盟理事会の決定をほぼ踏襲し、モスルをイラクに割り当てる別の条約を批准した。この条約では、イラクは25年以内に連盟加盟を申請することができ、加盟と同時に委任統治も終了することが合意された。
第一次世界大戦後、ポーランドとリトアニアは共に独立を回復したが、すぐに領土問題に没頭するようになった。ポーランド・ソビエト戦争戦争中、リトアニアはソ連との間でソビエト・リトアニア講和条約(英語版)を締結し、リトアニアとソ連との国境線を定めた。この条約により、リトアニアは、かつてのリトアニアの首都でありながら、ポーランド人が多数を占める都市ヴィリニュス(ポーランド語で「ヴィルノ」)を支配することになった。これにより、リトアニアとポーランドの間の緊張が高まり、ポーランド・リトアニア戦争(英語版)の再開が懸念されたため、1920年10月7日、連盟は停戦と両国間の分断線を定めたスヴァウキ協定(英語版)を取り決めた。1920年10月9日、ポーランド軍を指揮していたルツィアン・ジェリゴフスキ(英語版)将軍がスヴァウキ協定に反してこの都市を占領し、中部リトアニア共和国を建国した。
連盟理事会は、リトアニアからの援助要請を受けて、ポーランドに対し軍の撤退を求めた。ポーランド政府はこれに応じる意向を示したものの、ポーランド軍は兵を増派して街を強化した。これを受けて連盟は、ヴィリニュスの将来は住民投票で決めるべきであり、ポーランド軍は撤退して連盟が組織する国際軍がこれに代わるべきだと決定した。この計画は、ポーランド、リトアニア、そしてリトアニアに国際軍が駐留することに反対していたソビエト連邦の抵抗を受けた。1921年3月、連盟は住民投票の計画を断念した。ポール・ハイマンス(英語版)は、以前のポーランド・リトアニア共和国のようなポーランドとリトアニアの連合体を提案したが、失敗に終わり、1922年3月にヴィリニュスとその周辺は正式にポーランドに併合された。
リトアニアがクライペダ地域(メーメル)を占領したあと、1923年3月14日、大使会議によってリトアニアとポーランドの国境線が設定され、ヴィリニュスはポーランドに残された。リトアニアの当局はこの決定を受け入れず、公式には1927年までポーランドとの戦争状態が続いた。リトアニアがポーランドとの国交を回復し、国境線を事実上受け入れたのは、1938年のポーランドからの最後通牒があってからである。
20世紀初頭、コロンビアとペルーの間にはいくつかの国境紛争があり、1922年、両政府はそれらを解決するためにサロモン=ロサノ条約に調印した。この条約によって国境の町レティシアとその周辺がペルーからコロンビアに割譲され、コロンビアはアマゾン川にアクセスできるようになった。これによって土地を失ったペルーのゴム・砂糖産業の経営者たちが、1932年9月1日にレティシアを武装占拠した。当初、ペルー政府はこの占領を認めなかったが、ペルー大統領ルイス・ミゲル・サンチェス・セロはコロンビアの再占領に抵抗することを決めた。ペルー軍はレティシアを占領し、2国間の武力紛争に発展した。数か月にわたる外交交渉の末、両国政府は連盟の調停を受け入れ、両国の代表が連盟理事会でこの一件について報告した。1933年5月に双方が署名した暫定和平協定では、二国間交渉が進む間、国際連盟が紛争地域を管理することになっていた。1934年5月、最終和平協定が締結され、レティシアのコロンビアへの返還、1932年のペルーの侵攻に対する正式な謝罪、レティシア周辺の非武装化、アマゾン川とプトゥマヨ川の自由航行、不可侵の誓約などがなされた。
ザールは、プロイセンとプファルツの一部から形成された州で、ヴェルサイユ条約によって連盟の管理下に置かれた。連盟が支配を開始してから15年後に、この州をドイツとフランスのどちらに帰属させるかを決める住民投票が行われることになっていた。1935年に行われた住民投票では、90.3%の有権者がドイツへの帰属を支持し、連盟理事会はこれをすぐに承認した。
連盟は、領土問題だけでなく国家間や国内の紛争にも介入していた。アヘンの国際取引や性奴隷との戦い、1926年までのトルコを中心とした難民の救済活動などがその成果である。無国籍の難民のための国際的に認められた初の身分証明書として1922年に導入されたナンセン・パスポートは、この分野での革新の一つである。
1925年10月、ギリシャとブルガリアの国境で衛兵が起こした事件をきっかけに、両国の間で戦闘が始まった。事件の3日後、ギリシャ軍がブルガリアに侵攻した。ブルガリア政府は軍隊に形だけの抵抗を命じ、1万人から1万5千人の人々を国境地帯から避難させ、連盟に紛争解決を託した。連盟はギリシャ軍の侵攻を非難し、ギリシャに対し軍の撤退とブルガリアへの補償を求めた。
アメリカのファイアストン社が所有するリベリアの大規模なゴム農園での強制労働の告発と、アメリカ人による奴隷売買の告発を受けて、リベリア政府は連盟に調査を要請した。それを受けて、連盟、アメリカ、リベリアの三者が共同で委員会を設立した。1930年、連盟の報告書により、奴隷と強制労働の存在が確認された。この報告書では、多くのリベリア政府関係者が契約労働者の売買に関与しているとし、それをヨーロッパ人やアメリカ人に置き換えるよう勧告されていた。このことは、リベリア国民の怒りを買い、チャールズ・D・B・キング大統領とその副大統領は辞任に追い込まれた。リベリア政府は、強制労働や奴隷制を禁止し、社会改革のためにアメリカの協力を要請した。
満洲事変は、主要加盟国が日本の侵略に取り組むことを拒否したため、連盟を弱体化させる決定的な後退となった。
対華21カ条要求の合意条件では、日本政府は中国の満洲地域にある南満洲鉄道の周辺に軍隊を駐留させる権利を持っていた。1931年9月、日本の関東軍は満蒙問題解決の「唯一の方策」として、鉄道の一部を破損し(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行であるとして(東京からの命令に反して)満洲全土を占領した。のち1932年3月1日満洲国政府から「満洲国」建国宣言が公布され、1932年3月9日、清の元皇帝の溥儀を執政(後に皇帝)とする傀儡政権が樹立された。
国際連盟は満洲にリットン調査団を派遣した。1年後の1932年10月、リットン報告書が発表された。この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書は、1933年2月24日の総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で採択された。日本の代表団はこれを不服として議場を退場し、3月8日に国際連盟からの脱退を決定した。国際連盟側の脱退に関する処理は2年間の予告期間を経て、1935年3月27日に効力を発生した。
イギリスの歴史家C・L・モワット(英語版)は、これによって連盟の集団安全保障は死んでしまったと評した。
1932年、ボリビアとパラグアイが乾燥地帯のグランチャコをめぐって戦争を起こしたが、連盟はこれを防ぐことができなかった。この地域は人口は少ないものの、パラグアイ川が流れており、この土地を押えることで内陸国である両国が大西洋に自由にアクセスできるようになる。また、のちに誤りであることが判明したが、チャコ地方には大量の石油が埋蔵されているという憶測もあった。1920年代後半から国境で小競り合いが続いていたが、1932年にボリビア軍がピシャントゥータ湖のカルロス・アントニオ・ロペス要塞でパラグアイ軍を攻撃したことで、全面戦争に発展した。パラグアイは連盟に訴えたが、パン=アメリカ会議が調停を申し出たため、連盟は行動を起こさなかった。この戦争では、人口約300万人のボリビアで5万7,000人、人口約100万人のパラグアイで3万6,000人の死傷者が出て、双方にとって大惨事となった。また、両国は経済的にも破綻の危機に瀕した。1935年6月12日に停戦交渉が行われた時点でパラグアイがこの地域の大半を掌握しており、1938年のブエノスアイレス講和条約で、グランチャコはパラグアイに帰属することが決定した。
1935年10月、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニは40万人の軍隊を送り込み、アビシニア(エチオピア)に侵攻した。ピエトロ・バドリオ元帥が1935年11月から作戦を指揮し、無防備な村や医療施設などを標的に、爆撃、マスタードガスなどの化学兵器の使用、水道水への毒の混入などを命じた。1936年5月、近代化されたイタリア陸軍は武装していないアビシニア人を破り、首都アディスアベバを占領した。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は国外に脱出した。
1935年11月、連盟はイタリアの侵略を非難し、経済制裁を行ったが、石油の販売禁止やイギリスが支配するスエズ運河の閉鎖などは行われず、制裁の効果はほとんどなかった。これは、のちにイギリス首相スタンリー・ボールドウィンが述べているように、イタリアの攻撃に耐えうる軍事力をどの国も持っていなかったためである。1935年10月、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、成立したばかりの中立法を発動して、双方への武器・軍需品の禁輸措置をとった。交戦中のイタリアに対しては、その他の貿易品目も含めて、さらに「道徳的禁輸措置」を拡大した。アメリカは10月5日とその後の1936年2月29日に、石油やその他の物資の輸出を平時の通常レベルに抑えようとしたが、あまり成功しなかった。連盟の制裁は1936年7月4日に解除されたが、その時点でイタリアはすでにアビシニアの都市部を支配していた。この制裁撤回の確認が行われた国際連盟総会には、ハイレ・セラシエも出席。エチオピアの主張とイタリアを擁護する国を批判する演説を行った。これは君主が総会に出席した初のケースとなった。
1935年12月のホーア=ラヴァル協定(英語版)は、イギリス外相のサミュエル・ホーア(英語版)とフランス首相のピエール・ラヴァルが、アビシニアの紛争を終結させるために、アビシニアをイタリア領とアビシニア領に分割することを提案したものである。ムッソリーニはこの協定に同意する用意があったが、この協定の情報が事前に漏れてしまった。英仏両国の国民は、「アビシニアを売り渡すものだ」と猛反発した。ホーアとラヴァルは辞任に追い込まれ、英仏両政府は2人との関係を断ち切った。1936年6月、ハイレ・セラシエは連盟総会で演説し、自国の保護のために協力してほしいと訴えた。国家元首が連盟総会で直接演説したのは、これが初めてだった。
アビシニア危機により、国際連盟が加盟国の自国の利益に左右されてしまうことが示された。制裁があまり厳しくなかった理由の一つとして、それによりムッソリーニとヒトラーを同盟関係に追い込むことを、イギリスとフランスが恐れていたことがある。
1936年7月17日、フランシスコ・フランコ将軍率いるスペイン陸軍の反乱軍がクーデターを起こした。その結果、ロイヤリスト派(選挙で選ばれた左派の国民政府)とナショナリスト派(英語版)(スペイン陸軍の大半の将校を含む右派の反共主義者)の間で長期にわたる武力紛争が発生した。1936年9月、スペイン外相フリオ・アルバレス・デル・バイヨ(英語版)は、スペインの領土保全と政治的独立を守るための武力介入を連盟に訴えた。連盟加盟国は、スペイン内戦には介入せず、外国の紛争介入を防ぐこともしなかった。アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニはフランシスコ・フランコ将軍のナショナリスト派を援助し続け、ソ連は独伊よりは規模は小さかったがロイヤリスト派を援助した。1937年2月、連盟は外国人義勇兵を禁止したが、これは実際には象徴的な動きでしかなかった。
1937年7月7日の盧溝橋事件を皮切りに、日本は中国への本格的な侵攻を開始し、1930年代を通じて局地的な紛争を誘発してきた。9月12日、中国代表の顧維鈞が連盟に国際的な介入を訴えた。欧米諸国は、特に第二次上海事変で外国人が多く住む上海を頑強に守り抜いた中国に同情的だった。しかし、連盟は現実的な対策を提示することができず、10月4日、連盟はこの問題を九カ国条約会議に委ねた。
1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約には、東ヨーロッパにおける独ソの勢力圏を線引きする秘密議定書が含まれていた。それによれば、フィンランドとバルト三国、ポーランド東部はソ連の勢力圏とされていた。ソ連は1939年9月17日にポーランドに侵攻し、11月30日にはフィンランドに侵攻した。
同年12月11日、国際連盟フィンランド問題委員会はソ連に対してフィンランドからの撤兵を求める最後通告を24時間の期限をつけて発したが、12月12日にソ連外相のモロトフは調停を拒絶する旨のメッセージを委員会議長あてに発送。12月14日、第20回国際連盟総会はソ連を糾弾、フィンランドへの援助に関する決議案を採択。続いてアルゼンチン代表から提案のあったソ連を除名する決議案を満場一致をもって採択した。同日午後に非公開で行われた連盟理事会でもソ連除名を含む決議案は可決され、ソ連の国際連盟除名が最終決定した。ソ連は連盟除名について、イギリスとフランスの筋書きであると批難。ソ連は(侵攻直後に発足した傀儡政権である)フィンランド民主共和国との間で条約を結んでおり、他国はソ連を非難する道徳的、形式的権利を有していないと主張した。
連盟はソ連を追放したが、追放に必要な過半数の賛成は得られておらず、連盟は自ら規約に違反した。連盟加盟国の中で、このような屈辱を受けたのはソ連だけであった。
連盟規約の第8条では、連盟加盟国に対し「軍備を、国家の安全と国際的義務の共同行動による実施との整合性を保つための最低限度まで削減する」ことが求められていた。連盟の時間とエネルギーの大半はこの目標に費やされていたが、多くの加盟国は、このような大規模な軍縮が達成できるのか、そもそもそれが望ましいのかどうか確信が持てずにいた。ヴェルサイユ条約では、戦勝国である連合国側にも軍縮を試みる義務を課しており、敗戦国に課せられた軍備制限は、世界的な軍縮への第一歩と言われていた。連盟規約では、各国の軍縮計画を作成する任務が連盟に与えられていたが、理事会はこの任務を、1932年から1934年の世界軍縮会議(英語版)の準備のために1926年に設置された特別委員会に委ねていた。
連盟加盟国がこの問題に対して持っていた意見はさまざまだった。フランスは、自国が攻撃されたときの軍事的支援の保証なしに軍備を縮小することには消極的だった。ポーランドとチェコスロバキアは、西側からの攻撃に対して脆弱であると感じており、軍縮を行う前に連盟による加盟国への攻撃への対応を強化することを望んでいた。この保証がなければ、ドイツからの攻撃のリスクが大きすぎるため、軍備を縮小することはできなかった。第一次世界大戦後、ドイツが力を取り戻すにつれ、特に1933年にアドルフ・ヒトラーが権力を得てドイツの首相になってからは、攻撃に対する恐怖心が高まった。特に、ドイツがベルサイユ条約を覆そうとしたり、ドイツ軍を再建したりしたことで、フランスは軍縮に消極的になっていった。
世界軍縮会議は、1932年に国際連盟がジュネーヴで開催し、60か国の代表が参加したが、この会議は失敗に終わった。世界軍縮会議の冒頭で、1年間の軍備拡張モラトリアムが提案され、のちに数か月延長された。軍縮委員会は、フランス、イタリア、スペイン、日本、イギリスから海軍の規模を制限するという初期の合意を得たが、最終的な合意には至らなかった。結局、軍縮委員会は、1930年代のドイツ、イタリア、スペイン、日本による軍備増強を止めることができなかった。
ベルサイユ条約で禁止されていたヒトラーによるラインラントの再軍備、ズデーテン地方の占領、オーストリアへのアンシュルスなど、第二次世界大戦につながる重大な出来事に直面しても、連盟はほとんど沈黙していた。それどころか、連盟加盟国自身が再軍備した。1933年、日本は連盟の判断に従うことなく脱退し、同年には、世界軍縮会議でフランスとドイツの間の武器の平準化が合意されなかったことを口実にドイツが脱退、1937年にはイタリアとスペインが脱退した。連盟の最後の重要な行動は、1939年12月にフィンランドに侵攻したソ連を追放したことだった。
第二次世界大戦の勃発は、連盟がその主たる目的である世界大戦の再発防止に失敗したことを示すものである。この失敗には様々な理由があったが、その多くは組織の全般的な弱点に関連するものである。また、アメリカが加盟を拒否したことで、連盟の力は制限されていた。
連合国が第一次世界大戦を終結させるための和平協定の一環として設立された組織であることから、国際連盟は「勝者の連盟」とみなされていた。連盟の中立性は、優柔不断さとして表れがちだった。理事会で決議を行うには、9か国(のちに15か国)の理事国の全会一致が必要だった。そのため、不可能ではないにしても、決定的で効果的な行動をとることは困難であった。また、総会の議決においても全会一致を必要とするものがあり、決定に時間がかかることもあった。この問題は、国際連盟の主要国が、自分たちの運命が他国によって決定される可能性を受け入れたくなかったため、全会一致を強制することで事実上の拒否権を与えていたことが主な原因であった。
連盟が国際問題を解決するにあたり、その規約の拘束性と代表権はしばしば問題となった。連盟は各国間の協力と平和安寧を完成させるため(規約前文)組織されていたにも拘らず、主要な国が非加盟か、あるいは容易に脱退したためである。また連盟の1つの議席を複数の代表が争う事態を想定していなかった。
その中でも特に目立っていたのがアメリカだった。ウッドロウ・ウィルソン大統領は連盟結成の原動力となり、その形態にも強い影響を与えたが、アメリカ上院は1919年11月19日に加盟を見送った。ルース・ヘニグ(英語版)は、アメリカが加盟していれば、フランスとイギリスにも支援を提供し、フランスの安全性を高め、フランスとイギリスがドイツに対してより全面的に協力することを促し、ナチスの台頭の可能性を低くしたのではないかと指摘している。逆に、アメリカが加盟した場合、アメリカがヨーロッパ諸国との戦争や経済制裁に消極的であったため、連盟の国際的事件(英語版)への対処能力に支障をきたしていたかもしれない、とヘニグは認めている。アメリカの連邦政府の構造上、立法府上院の事前承認がなければ連盟のアメリカ政府代表者は行政府に代わって決定を下すことができなかったため、アメリカが加盟することは国際連盟の問題処理能力の障害となっていたかもしれない。
1920年1月に連盟が発足したとき、ドイツは第一次世界大戦の侵略者とみなされていたため、連盟への加盟が認められなかった。また、ソビエト・ロシアは、共産主義政権が歓迎されていなかったことに加え、ロシア内戦で戦っていた赤軍と白軍の双方が正統な政府であると主張していたことにより、当初は加盟が疑問視され、加盟国から除外されていた。
1930年代に大国が脱退したことで、連盟はさらに弱体化した。日本は第一次世界大戦の連合国であったため、常任理事国としてスタートしたが、1933年に満州を占領したことに連盟が反発したため、脱退した。イタリアもまた常任理事国としてスタートしたが、第二次エチオピア戦争の終結の約1年後の1937年に脱退した。スペインも常任理事国としてスタートしたが、スペイン内戦が国民党の勝利に終わったあと、1939年に脱退している。ドイツは、1926年に加盟が認められ、同時に常任理事国となったが、1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を握ると連盟を脱退した。
もう一つの重要な弱点は、連盟の基盤となった集団安全保障の考え方と、個々の国家間の国際関係との間の矛盾から生まれたものである。連盟の集団安全保障システムは、各国が友好的と考えていた国家に対して、必要に応じて自国の国益を損なうような行動をとり、相性の悪い国家を支援することを要求するものだった。この弱点が露呈したのがアビシニア危機(英語版)である。イギリスとフランスは、イタリアの支援が重要な役割を果たしていた内部秩序の敵から守るために、ヨーロッパで自分たちが作ろうとしていた安全保障を維持することと、連盟加盟国としてのアビシニア(エチオピア)に対する義務とを両立させなければならなかった。
1936年6月23日、イタリアのアビシニアに対する戦争を抑制するための連盟の努力が破綻したことを受けて、イギリスのスタンリー・ボールドウィン首相は、下院で次のように述べた。
結局、イギリスとフランスは、ヒトラーの下で増大するドイツの軍国主義に直面したことで、集団安全保障の概念を放棄し、宥和政策をとることとなった。また、国際連盟では、1934年にフランス・マルセイユで起きたユーゴスラビア国王アレクサンダル1世暗殺事件をきっかけに、テロリズムに関する初の国際的な議論が行われた。この事件の陰謀論的な特徴は、アメリカ同時多発テロ事件以降の国家間のテロリズムの言説にも見られるものである。
アメリカの外交史家サミュエル・フラッグ・ベミス(英語版)は、当初は連盟を支持していたが、20年後に考えを改めた。
連盟は独自の武力を持たず、その決議の執行を大国に頼っていたが、大国はそれを非常に嫌がった。連盟のもっとも重要な加盟国であるイギリスとフランスは、制裁措置には消極的であり、連盟のために軍事行動を起こすことにはさらに消極的だった。第一次世界大戦の直後、両国の国民と政府の間で平和主義が強い力を持つようになった。イギリスの保守党は、特に連盟には興味を示さず、政府内では連盟の関与しない条約交渉を好んでいた。連盟は、集団安全保障を主張する一方で、英仏をはじめとする加盟国の軍縮を主張しており、連盟の権威を維持するための唯一の強力な手段を自ら奪っていたことになる。
第一次世界大戦中にイギリスの内閣で連盟の構想が議論されていた際、内閣官房長官(英語版)のモーリス・ハンキー(英語版)はこの問題についての覚書を回覧していた。ハンキーはまず、「一般的にこのような計画は、まったく架空の安全感を生み出すため、我々にとって危険であると思われる」と述べた。ハンキーは、戦前のイギリスが条約の尊厳を信じていたことは妄想だと攻撃し、最後にこう主張した。
外務省職員であるエア・クロウ(英語版)卿も、「厳粛な同盟と誓約」は「ほかの条約と同じような、ただの条約」に過ぎないと主張するメモを内閣に提出している。「ほかの条約のように破られないようにするにはどうしたらいいのか?」クロウはさらに、侵略者に対する「共同行動の誓い」の計画に懐疑的な見方を示した。それは、個々の国家の行動は、依然として国益とパワーバランスによって決定されると考えたからである。また、連盟による経済制裁を提案しても効果がなく、「すべては実際の軍事的優位性の問題である」と批判した。普遍的な軍縮は現実的には不可能であるとクロウは警告した。
大日本帝国(日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造、杉村陽太郎が選出されるなど中核的役割を担っていた。国際連盟に大日本帝国が加入した内閣総理大臣は原敬(原内閣)であった。日本は、理事国として毎年分担金(1933年時点で60万円※現在価値で約60億円) を拠出する必要があった。日本は滞納せずに支払っていたが、中華民国(中国国民党政府)は設立当初からの一般加盟国であり、日本と同等の地位(常任理事国)を主張しながら支払いが滞っていた一方で、国際連盟を日本糾弾の場としていた。中華民国の他の列強へのプロパガンダの場になってしまったことは誤算であった。
柳条湖事件を契機に、大日本帝国が満洲全土を制圧すると(満洲事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満洲国を建国した。これに抗議する中華民国は連盟に提訴。連盟ではイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(リットン卿)を団長とするリットン調査団を派遣する。リットンは「日本の満洲における“特殊権益”は認めたが、満洲事変は正当防衛には当たらず、日本軍は満鉄附属地域まで撤退した後、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」と報告書に記した。これが「リットン報告書」である。
1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告が審議され、この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書が採択され、表決の結果は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム = 現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項 および6項 についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会から退場した。
その後、同年3月27日、大日本帝国は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年(昭和10年)3月27日となった。
脱退宣言ののちの猶予期間中、1935年まで大日本帝国は分担金を支払い続け、また正式脱退以降も国際労働機関(ILO)には1940年(昭和15年)まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。その他、アヘンの取締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
しかし、1938年(昭和13年)9月30日に国際連盟が「規約第16条の制裁発動」が可能であることを確認する決議をすることで、日本政府はこれらの「連盟諸機関に対する協力」の廃止も決定した。国際連盟から受任していた南洋諸島の委任統治については、1945年(昭和20年)9月2日に第二次世界大戦でポツダム宣言受諾により敗戦するまで、引き続き大日本帝国の行政下におかれた。
国際連盟は戦間期のギリシャ・ブルガリア紛争などの小規模紛争解決に一定の役割を果たしたが、第二次エチオピア戦争などでは実効性を挙げられないケースもあった。
脱退 1925年にはコスタリカが、連盟運営分担金の支払が不可能になったために、国際連盟から初めての脱退となった。翌1926年にはブラジルが常任理事国参入失敗を機に脱退した。1930年代には、満洲国が承認されなかった大日本帝国、またナチスが政権を掌握したドイツが脱退(1933年)。その後、ホロドモールを収束させたソビエト連邦が加盟(1934年)するが、第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国が脱退(1937年)、以降も後の枢軸国側中小国の脱退が続出し、大規模紛争の解決に対する限界を露呈した。ヨーロッパの状況が戦争へとエスカレートしていく中で、総会は1938年9月30日と1939年12月14日に、連盟が合法的に存在し続け、縮小して活動を行うのに十分な権限を事務総長に移譲した。連盟本部だったパレ・デ・ナシオンは、第二次世界大戦が終わるまでの約6年間、無人となった。
ソ連の追放 第二次世界大戦勃発後の連盟は、各国代表が本国に帰還したことで規模縮小を余儀なくされたものの、一部専門家委員会の会合や予算執行などのための総会は開かれていた。また理事会は1939年12月に、前月から開始されたフィンランド侵略を理由にソ連を除名した。しかし、戦争の激化とともに総会・理事会の開催が困難となり、代替として総会議長であるユダヤ系ノルウェー人のC・J・ハンブロ(英語版)を委員長とする管理委員会を結成し、戦時中もロンドン、リスボンなど場所を移して会合を続けた。
職員不足・分担金未納問題 事務局の一部機能を非加盟国であるアメリカ合衆国のプリンストン、薬物部をワシントンD.C.、財務部をロンドン、姉妹機関の国際労働機関をカナダのモントリオールへと分散配置した。戦争による職員減少や分担金未納による予算不足により、活動は統計記録の維持など最小限のものとなったが、プリンストンでは戦後に新国際組織を創設する計画・議論が行われていた。
国際連合創設案 1943年のテヘラン会談で、第二次世界大戦の連合国は国際連盟に代わる新しい組織である国際連合(国連)を創設することに合意し、1944年のダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の原案が策定された。国際労働機関など、連盟の多くの組織は機能を維持し、最終的には国連の傘下に入った。国際連合の構造の設計者は、国際連盟よりも効果的な組織にすることを意図していた。
最後の総会・国際連合への移管・解散 国際連合発足後の1946年4月8日、最後となる第21回総会がジュネーヴで開催された。この会議には34か国の代表者が参加した。この会議では連盟の清算が議題となり、1946年当時で約2200万米ドル相当の資産(国際連盟本部であるパレ・デ・ナシオン、連盟の文書館など)を国際連合に移管し、予備費は拠出した国に返還し、連盟の債務を清算することが、4月18日の投票により決定した。総会は、国際連盟の創設者の一人であるロバート・セシルの次のような結びの演説で幕を閉じた。
連盟は死にました。国際連合万歳。
総会では、「総会閉会の翌日(4月19日)をもって、国際連盟は、本決議に定める事務の清算のみを目的とする場合を除き、その存在を停止する」という決議がなされ、国際連盟は4月20日に解散した。国際司法裁判所や国際労働機関は国連に引き継がれた。
各国9人で構成された清算委員会は、その後15か月間、連盟の資産や機能が国連や専門機関に移管されるのを監督し、1947年7月31日に解散した。
国際連盟のアーカイブは国際連合ジュネーブ事務局に移管され、現在はユネスコの世界記憶遺産に登録されている。
国際連盟アーカイブ (The League of Nations archives) は、国際連盟の記録や文書を集めたものである。1919年の国際連盟発足から、1946年の国際連盟解散までの約1,500万ページの内容が含まれている。このアーカイブは、国際連合ジュネーブ事務局に置かれている。
2017年、国連図書館・公文書館・ジュネーブは、国際連盟アーカイブの保存、デジタル化、オンラインアクセスの提供を目的とした "Total Digital Access to the League of Nations Archives Project" (LONTAD) を開始した。2022年の完成を予定している。
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"text": "国際連盟[こくさいれんめい、旧字体: 國際聯盟、英語: League of Nations(LON)、フランス語: Société des Nations(SDN、SdN)]は、第一次世界大戦後の世界平和の確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった。",
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"text": "当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月20日に活動を終了した。",
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"text": "国際連盟規約に記載されている連盟の主な目的は、集団安全保障と軍縮によって戦争を防止し、交渉と仲裁によって国際紛争を解決することであった。また、労働条件、先住民の公正な扱い、人身売買、違法薬物の取引、武器取引、健康、戦争捕虜、ヨーロッパの少数民族の保護などが、この規約や関連条約に盛り込まれていた。国際連盟規約は、1919年6月28日にヴェルサイユ条約の第1編として調印され、1920年1月10日に他の条約とともに発効した。連盟理事会の第1回会合は1920年1月16日にフランス・パリで、連盟総会の第1回会合は1920年11月15日にスイス・ジュネーヴで開催された。1919年、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは、連盟設立の立役者としてノーベル平和賞を受賞した。",
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"text": "連盟の外交理念は、それまでの100年間とは根本的に異なるものだった。連盟は独自の軍隊を持たず、第一次世界大戦で勝利した連合国(フランス、イギリス、イタリア、日本は常任理事国)が決議を執行し、経済制裁を守り、必要に応じて軍隊を提供することとしていた。しかし、大国はそれに消極的だった。制裁措置は連盟加盟国に損害を与える可能性があるため、大国は制裁措置を遵守することに消極的だった。第二次エチオピア戦争の際、イタリア軍の兵士が赤十字社の医療テントを攻撃していると連盟が非難したとき、ベニート・ムッソリーニは「連盟は雀が叫んでいるときには非常によいが、鷲が喧嘩をしているときにはまったくよくない」と答えている。",
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"text": "また、人種的差別撤廃提案が否決されるなど、人種問題の解決を果たすこともできなかった。なお、2回目の提案の際、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。",
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"text": "連盟の本部は1920年から1936年まではスイス・ジュネーヴのパレ・ウィルソン(英語版)に、1936年からは同じくジュネーヴのパレ・デ・ナシオンに設置されていた。パリ家モーリス・ド・ロチルド(英語版、フランス語版)の屋敷シャトー・ド・プレニー(英語版)も、1920年から1939年まで国際連盟の会場として使用された。",
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"text": "1934年9月28日から1935年2月23日までの間は、最多の58か国が加盟していた。連盟は、1920年代にいくつかの成功と初期の失敗を経験したあと、最終的に1930年代の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。アメリカ合衆国は連盟に加盟せず、ソビエト連邦は遅れて加盟したあと、フィンランドへの侵攻後すぐに追放されたことで、連盟の信頼性は低下した。ドイツ、日本、イタリア、スペインなどは連盟を脱退した。第二次世界大戦の勃発により、連盟は「将来の世界大戦を防ぐ」という本来の目的を果たせなくなった。",
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"text": "第二次世界大戦終了後、国際連合(国連)が1945年10月24日に設立され、連盟が設立したいくつかの機関や組織は国連が引き継いだ。連盟は1946年4月20日をもって正式に解散した。連盟の存続期間は26年であった。",
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"text": "「国家間の平和のための共同体」という概念は、初期にはイマヌエル・カントが1795年の著書『永遠平和のために』 で、国家間の紛争を抑制し、平和を促進するための国家連合体の設立を主張した。カントは平和のための世界共同体の構築を主張したが、それは世界政府という意味ではなく、各国家が自国民を尊重し、外国からの訪問者を同じ理性的な存在として迎え入れる自由な国家であることを宣言することで、世界の平和な社会を促進することを願っていた。集団安全保障を推進するための国際協力は、19世紀のナポレオン戦争のあと、ヨーロッパ諸国間の現状を維持し、戦争を回避するために展開されたヨーロッパ協調(英語版)に端を発している。また、この時代には国際法が整備され、ジュネーヴ条約では戦時中の人道的救済に関する法が制定され、1899年と1907年のハーグ条約では戦争のルールと国際紛争の平和的解決が規定された。歴史学者のウィリアム・H・ハーボーとロナルド・E・ポワスキー(英語版)が指摘するように、セオドア・ルーズベルトはアメリカ大統領として初めて国際的な連盟の設立を呼びかけた。ルーズベルトは、1906年にノーベル賞を受賞した際に、「誠実に平和を願う大国が平和連盟を結成してくれれば、それは素晴らしいことである」と述べている。",
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"text": "国際連盟の前身である列国議会同盟(IPU)は、1889年に平和運動家のウィリアム・ランダル・クリーマーとフレデリック・パシーの提唱により結成された(この組織は、現在も世界各国の立法機関を中心とした国際機関として存続している)。IPUは、国際的な視野に立って設立された。1914年には、加盟24か国の議会議員の3分の1がIPUのメンバーとなっていた。IPUの設立目的は、各国政府が国際的な紛争を平和的手段で解決することを奨励することだった。また、各国政府が国際仲裁のプロセスを改善するための年次会議も開催された。IPUの構造は会長を頂点とした評議会方式であり、これはのちに設立された国際連盟の構造に反映されることになる。",
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"text": "第一次世界大戦が勃発すると、将来の戦争を防ぐための国際的な組織の構想が、イギリスやアメリカを中心に世間の支持を集め始めた。1914年、イギリスの政治学者ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンは、\"League of Nations\"(国際連盟)という言葉を作り、その組織化のための計画を立案した。ディキンソンはブライス卿とともに、国際的な平和主義者の集まりであるブライス・グループ(英語版)(のちの国際連盟連合(英語版))の設立に主導的な役割を果たした。このグループは、また当時政権を握っていた自由党内の圧力団体として、一般市民の間で着実に影響力を増していった。ディキンソンは1915年に出版したパンフレット \"After the War\" の中で、自分の「平和連盟」は本質的に仲裁と調停のための組織であると書いている。ディキンソンは、20世紀初頭の秘密外交によって戦争が引き起こされたと考えており、パンフレットにも「外交政策の問題が世論に知られ、コントロールされるようになれば、それに比例して戦争の不可能性は増すだろうと私は信じている」と書いた。ブライスグループの提言は、イギリスとアメリカで広く流布され、始まったばかりの国際運動に大きな影響を与えた。",
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"text": "1915年、アメリカでも、ブライス・グループの提案と同様の組織がウィリアム・タフトらによって設立された。この組織は「平和施行同盟(英語版)」と呼ばれ、実質的にはブライス・グループの提案をベースにしたものであった。この組織は、紛争解決には仲裁を利用し、攻撃的な国には制裁を加えることを提唱していた。これらの初期の組織はいずれも、継続的に機能する組織を想定しておらず、国際機関を裁判所に限定するような法治主義的なアプローチを取っていた。例外はイギリスのフェビアン協会で、大国を中心として世界の問題を解決する「評議会」や、さまざまな活動における国際協力を強化するための「常設事務局」の設置を最初に主張した。",
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"text": "第一次世界大戦をめぐる外交活動(英語版)の中で、両陣営は長期的な戦争目的を明確にしなければならなかった。連合国のリーダーであるイギリスと中立国のアメリカでは、1916年までに、将来の戦争を防ぐための統一的な国際組織を設計するための長期的な考え方が始まっていた。歴史学者のピーター・イヤーウッドは、1916年12月にロイド・ジョージ内閣(英語版)が発足したときには、知識人や外交官の間で、このような国際組織を設立することが望ましいという議論が広まっていたと主張している。ロイド・ジョージは、ウィルソンから戦後の状況を視野に入れた立場を表明するよう求められたとき、このような組織の設立を支持した。ウィルソン自身も、1918年1月に発表した「十四か条の平和原則」の中に、「平和と正義を確保するための国家同盟」を盛り込んでいた。イギリスのアーサー・バルフォア外相は、永続的な平和の条件として、「国際法の背後に、敵対行為を防止または制限するためのすべての条約上の取り決めの背後に、もっとも強硬な侵略者を躊躇させるような何らかの国際的制裁措置を考案すべきである」と主張した。",
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"text": "この戦争は、ヨーロッパの社会・政治・経済に大きな影響を与え、精神的・物理的なダメージを与えた。1917年2月にロシア帝国が崩壊したのを皮切りに、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国と、いくつもの帝国が崩壊していった。世界中で反戦の気運が高まった。「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた第一次世界大戦の原因究明が盛んに行われ、その原因として、軍拡競争、同盟関係、軍国主義的ナショナリズム、秘密外交、主権国家が自国の利益のために戦争をする自由などが挙げられた。そこで、軍縮、公開外交、国際協力、戦争をする権利の制限、戦争をしないようにするための罰則などにより、将来の戦争を防ぐことを目的とした国際組織の設立が提案された。",
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"text": "1918年初めにイギリスのバルフォア外相は、ロバート・セシル卿の主導によるこの問題に関する最初の公式報告書を依頼した。次いで、イギリスの委員会が1918年2月に任命された。この委員会は、ウォルター・フィリモア(英語版)を中心に、エア・クロウ(英語版)、ウィリアム・ティレル(英語版)、セシル・ハースト(英語版)らが加わったもので、のちにフィリモア委員会と呼ばれるようになった。フィリモア委員会が出した提案は、紛争を仲裁し、違反国に制裁を加える「連合国会議」を設立するというものだった。この提案はイギリス政府に承認され、委員会の成果の多くはのちに国際連盟規約に盛り込まれた。",
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"text": "また、フランスは1918年6月により広範囲な提案を起草した。その中では、すべての紛争を解決するための評議会の年次会合と、その決定を執行するための国際軍が提唱されていた。",
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"text": "アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領はエドワード・M・ハウス大佐に対し、「十四か条の平和原則」で初めて示した自身の理想主義的な考えと、フィリモア委員会の活動を反映したアメリカの計画を起草するよう指示した。ハウスの作業とウィルソン自身の初稿で、スパイ活動や不正行為を含む「非倫理的」な国家行動を排除することが提案された。不従順な国家に対する強制手段としては、例えば、「その国の国境を封鎖して、世界のどの地域とも通商や交流ができないようにし、必要な武力を行使する...」などの厳しい措置が含まれた。",
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"text": "主に国際連盟規約を起草したのは、イギリスの政治家ロバート・セシル卿と南アフリカの政治家ヤン・スマッツの2人だった。スマッツは、大国を常任理事国、小国を非常任理事国とする理事会の創設や、中央同盟国の植民地の委任統治の制度の創設を提案した。セシルは行政面に重点を置き、年1回の理事会と、4年に1回の全加盟国による議会を提案した。また、連盟の管理業務を遂行するために、大規模で常設の事務局を設けることを主張した。",
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"text": "1919年のパリ講和会議では、ウィルソン、セシル、スマッツの3人がそれぞれの草案を提出した。代表者間の長い交渉の末、セシル・ハーストとデイヴィッド・ハンター・ミラー(英語版)が共同で執筆した予備的な草案を元に検討が進められた。さらに交渉と妥協を重ね、1919年1月25日、代表団は最終的に国際連盟創設の提案を承認した。最終的な国際連盟規約は特別委員会によって起草された。ヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編に国際連盟規約が含められた。1919年6月28日、44か国が規約に署名した。",
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"text": "連盟は、全加盟国を代表する総会、大国に限定された執行委員会、そして常設の事務局で構成される。加盟国は、ほかの加盟国の領土保全を尊重し、外部からの攻撃に対抗して保全することと、国内の安全に合致する最低限度のレベルまで武装解除することが求められた。すべての国は、戦争を始める前に、仲裁または司法調査(英語版)のために申し立てすることが義務づけられた。執行理事会は、紛争を裁く常設国際司法裁判所を設立した。",
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"text": "ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績により1919年10月にノーベル平和賞を受賞した。しかし、そのアメリカ合衆国は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジやウィリアム・ボーラなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。ロッジらは国際連盟規約第10条および16条で規定された「戦争を行った国家は、ほかの連盟国すべてに戦争行為をしたとみなし、当該国との通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場合、連盟国に制裁として軍事行動を義務づける」という条文により、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧し、反対に回った。ウィルソンが妥協を許さなかったため、加盟に必要な3分の2の賛成を得られず、アメリカは連盟に加盟しないこととなった。",
"title": "起源"
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"text": "国際連盟は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約が発効した6日後の1920年1月16日にパリで第1回理事会を開催した。1920年11月1日、国際連盟の本部はロンドンからジュネーヴに移され、11月15日には第1回総会が開催された。ジュネーブの西湖畔にある連盟の最初の本部は、連盟設立に尽力したウッドロウ・ウィルソン米大統領にちなんで「パレ・ウィルソン(英語版)」と名付けられた。",
"title": "起源"
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"text": "国際連盟の公用語はフランス語と英語だった。",
"title": "言語とシンボル"
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"text": "1939年、国際連盟の半公式紋章が制定された。青い五角形の中に2つの五芒星を描いたもので、地球上の5つの大陸と「5種類の人種(英語版)」を象徴するものである。マークの上には英語名(\"League of Nations\")、下にはフランス語名(\"Société des Nations\")が書かれた。",
"title": "言語とシンボル"
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"text": "連盟の主な構成機関は、総会、理事会、常設事務局だった。また、常設国際司法裁判所と国際労働機関という2つの主要組織があった。その他に、いくつかの補助機関や委員会があった。各機関の予算は総会で配分されていた。連盟の運営資金は加盟国が負担していた。",
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"text": "総会と理事会の関係、およびそれぞれの権限は、明確に定義されていなかった。総会と理事会は、世界の平和に影響を与えるあらゆる問題を、連盟の権限の範囲内で扱うことができた。総会と理事会は、特定の問題や任務をもう一方に委ねることもできた。",
"title": "機関"
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"text": "総会と理事会の議決には、手続事項や新規加盟国の加入などの特定の場合を除き、全会一致が求められていた。この要件は、連盟が構成国の主権を信じていることの反映であった。連盟は口述による解決ではなく、同意形成による解決を求めた。紛争の場合には、紛争当事者の同意は必要なかった。",
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"text": "常設事務局はジュネーヴの連盟本部に設置され、さまざまな分野の専門家で構成され、事務総長が指揮をとっていた。事務局の主な部門には、政治、財政・経済、交通、少数民族と行政(ザールとダンツィヒの管理)、職務権限、軍縮、保健、社会(アヘン、女性や子供の人身売買)、知的協力と国際事務局、法律、情報があった。事務局の職員は、理事会や総会の議題を作成したり、会議の報告書を発行したり、その他の日常的な事項を担当しており、事実上、連盟の公務員のような役割を果たしていた。1931年の時点で、事務局には707人の職員がいた。",
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "総会は、連盟加盟国の代表で構成され、1か国につき3名の代表と1票の投票権が認められていた。総会はジュネーヴで開催され、1920年の第1回会議以降、毎年9月に開催された。総会の特別な機能として、新規加盟国の受け入れ、非常任理事国の定期的な選出、常設法廷の判事の選出、予算の管理などがあった。実際には、総会が連盟の活動の総指揮をとっていた。",
"title": "機関"
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"text": "フランスなどは、総会に出席する代表代理や補佐などを十数人の国会議員で固めた一方、日本はヨーロッパ各国の駐在する大使級外交官で固めた。このことについて、当時の新聞は「日本は例により旧式の外交官ばかり連ねた」として批判した。",
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"text": "理事会は、総会の決定を執行する機関として機能していた。理事会は常任理事国と、3年の任期で総会で選出される非常任理事国で構成された。設立当初の常任理事国は4か国(イギリス、フランス、イタリア、日本)、非常任理事国は4か国であり、最初の非常任理事国はベルギー、ブラジル、ギリシャ、スペインだった。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "理事会の構成は何度か変更された。非常任理事国の数は、1922年9月22日に6か国、1926年9月8日に9か国となった。1926年9月8日にドイツが加盟するとともに5か国目の常任理事国となった。その後、ドイツと日本が連盟を脱退したため、非常任理事国の数が9から11に増やされた。1934年9月18日にソビエト連邦が加盟とともに常任理事国となり、理事国は15か国となった。理事会は平均して年に5回、必要に応じて臨時会合を開いた。1920年から1939年の間に、合計107回の会議が開催された。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "連盟は、常設国際司法裁判所や、差し迫った国際問題に対処するために設立されたほかのいくつかの機関・委員会を監督していた。連盟が監督していた機関には、以下のものがある。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "これらの機関のうち、国際労働機関、常設国際司法裁判所(国際司法裁判所として)、保健機構(世界保健機関として再編成)の3つは、第二次世界大戦後に国際連合に移管された。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "常設国際司法裁判所は、連盟規約では「理事会が設置案を作成し、加盟国が採択する」と規定されており、連盟規約によって直接設置されたものではない。常設国際司法裁判所の規約は理事会と総会によって制定された。裁判官は理事会と総会で選出され、予算は総会が負担した。裁判所は、関係者が提出したあらゆる国際紛争を審理し、判決を下す機関である。また、理事会や総会から付託された紛争や問題について勧告的な意見を述べることもできる。裁判所は、一定の広範な条件の下で、世界の全ての国に開かれていた。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国際労働機関(ILO)は、ベルサイユ条約第13編に基づいて1919年に設立された。ILOは、連盟と同じ加盟国を持ち、総会の予算管理下にあるものの、独自の運営機関、総会、事務局を持つ自治組織だった。規約は連盟とは異なり、各国政府だけでなく、使用者団体や労働者団体の代表にも代表権が与えられていた。初代代表はアルベール・トーマス(英語版)だった。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ILOは、ペンキへの鉛の添加の制限に成功し、1日8時間労働と週48時間労働を採用するようにいくつかの国を説得した。また、児童労働の撤廃、職場における女性の権利向上、船員の事故に対する船主の責任追及などのキャンペーンを展開した。ILOは、連盟の消滅後、1946年に国際連合の機関となった。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "連盟の保健に関する組織は3つあった。連盟の常任役員が所属する「保健局」、医学専門家で構成された執行部である「一般諮問委員会」、そして「保健委員会」である。保健委員会は、連盟の保健事業の運営を監督し、理事会に提出する資料を作成することを目的とした委員会である。保健委員会はハンセン病、マラリア、黄熱病の制圧に力を入れていた。後二者については蚊を駆除する国際キャンペーンを行った。また、保健機構はソ連政府と協力して、大規模な教育キャンペーンを行うなど、チフスの流行を防ぐことに成功した。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "国際連盟は、その創設以来、国際的な知的協力の問題に真剣に取り組んできた。1920年12月の第1回総会はで知的労働の国際的な組織化を目指して行動を起こすよう理事会に勧告し、第2回総会の第5委員会が提出した報告書を採択して、1922年8月にジュネーブで開催される知的協力委員会を招請した。委員会の初代委員長には、フランスの哲学者アンリ・ベルグソン就任した。委員会の活動内容は,知的生活の状況の調査、知的生活が危機に瀕している国への援助、知的協力のための国内委員会の設立、国際知識組織との協力、知的財産の保護、大学間の協力、書誌作業の調整と出版物の国際交流、考古学研究の国際協力などであった。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "第2次万国阿片条約で設立されたアヘン常設中央委員会は、アヘン、モルヒネ、コカイン、ヘロインの取引に関する統計報告を監督した。同委員会はまた、麻薬の合法的な国際取引のための輸入証明書と輸出許可書のシステムを確立した。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1926年の奴隷条約(英語版)で設立された奴隷委員会は、世界中の奴隷制度と奴隷売買の撲滅を目指し、強制売春と戦っていた。奴隷委員会は、委任統治された国を管理する政府に対し、その国で奴隷制度を廃止するよう圧力をかけた。連盟は1923年にエチオピアに対し連盟加盟の条件として奴隷制廃止の約束を取り付け、リベリアと協力して強制労働と部族間奴隷制を廃止した。イギリスは「エチオピアは加盟を正当化するのに十分な文明と国内治安の状態に達していない」という理由で、エチオピアの連盟加盟を支持していなかった。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "連盟は、タンガニーカ鉄道(英語版)を建設する労働者の死亡率を55%から4%に下げることにも成功した。また、奴隷制、売春、女性や子供の人身売買などを取り締まるための記録も残された。国際連盟の圧力により、1923年にアフガニスタン、1924年にイラク、1926年にネパール、1929年にトランスヨルダンとペルシャ、1937年にバーレーン、1942年にエチオピアで奴隷制が廃止された。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1921年6月27日にフリチョフ・ナンセンの主導で設立された難民委員会 は、難民の本国送還や、必要に応じて再定住を監督するなど、難民の利益を守るために設立された。第一次世界大戦末期、ロシア各地には200万人から300万人の各国の元捕虜が散らばっていたと言われており、委員会が設立されてから2年で42万5,000人の帰国を支援した。また、1922年にはトルコに難民キャンプを設置し、コレラ、天然痘、赤痢などの蔓延を防ぎ、キャンプ内の難民に食事を提供するなどの支援を行った。また、無国籍者のための身分証明手段としてナンセン・パスポートを制定した。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1937年に設立された女性の法的地位の調査のための委員会は、世界中の女性の地位を調査することを目的としていた。後に女性の地位委員会として国際連合の一部となった。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の開戦から2週間も経たないうちに、フェミニストたちは戦争反対の活動を始めた。それまでの平和団体への参加を禁じられていたアメリカの女性たちは、女性平和パレード委員会(Women's Peace Parade Committee)を結成し、戦争への無言の抗議行動を計画した。委員長のファニー・ギャリソン・ヴィラード(英語版)を筆頭に、労働組合、フェミニスト団体、社会改革団体の女性たち(ケイト・ウォーラー・バレット(英語版)、メアリー・リッター・ビアード(英語版)、キャリー・チャップマン・キャット、ローズ・シュナイダーマン(英語版)、リリアン・ウォルド(英語版)ら)が1,500人の女性を組織し、1914年8月29日にマンハッタンの5番街を行進した。このパレードにより、ジェーン・アダムズは、ヨーロッパの2人のサフラジスト(ハンガリー人のシュヴィンメル・ロージカ(英語版)とイギリス人のエメリン・ペシック・ローレンス(英語版))が提案した平和会議の開催に関心を持った。1915年1月9日から10日にかけて、ワシントンD.C.でアダムス主導の平和会議が開催され、行政権と立法権を持つ国際機関を設立して、平和と軍縮のための「中立国の永久同盟」を発展させることを求める綱領が採択された。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その数か月後には、ハーグで国際女性会議を開催することが呼びかけられた。1915年4月28日に開催された会議は、ミア・ボワセベン(英語版)、アレッタ・ヤコブス(英語版)、ローザ・マヌス(英語版)がコーディネートし、中立国・非戦国から1,136名が参加した。この会議では、のちに婦人国際平和自由連盟(WILPF)となる組織が設立された。会議終了後、2つの女性代表団が派遣され、数か月かけてヨーロッパの国家元首を訪問した。各国外相はそのような機関は効果がないと感じていたが、ほかの国が同意し、ウッドロウ・ウィルソン米大統領が組織を立ち上げるのであれば、中立的な調停機関の設立に参加するか、それを妨げないことに合意した。しかし、戦争遂行中のウィルソン大統領はこれを拒否した。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "1919年、フランスの女権擁護者たちは、公式会議への参加許可を得ることを期待して、パリ講和会議と並行して行われる連合国女性会議(英語版)への参加を世界のフェミニストたちに呼びかけた。連合国女性会議は、和平交渉や委員会への提案の許可を求め、女性と子供に関する委員会に参加する権利を与えられた。女性に対する男性と同等の権利と法による完全な保護を求めたが、それらは無視された。この会議により、女性に対し、国際連盟の職員や代議員など、あらゆる役割を果たす権利が認められた。また、加盟国は女性や子供の人身売買を防止し、子供・女性・男性の労働者のための人道的な条件を平等に支持するという宣言を勝ち取った。1919年5月17日から19日にかけて開催されたチューリッヒ平和会議では、ヴェルサイユ条約が懲罰的な措置をとっていること、暴力の非難を規定していないこと、市民的・政治的参加から女性を排除していることを、WILPFの女性たちが非難した。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "連盟規約では、経済についてはほとんど触れられていない。それにもかかわらず、1920年に連盟理事会は金融会議を招集した。第1回総会では、会議に情報を提供するための経済金融諮問委員会の任命が決定された。1923年、恒久的な経済金融機関が発足した。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "連盟の原加盟国は42か国で、そのうち1946年に解散されるまで加盟していたのは23か国(自由フランスを含めると24か国)だった。創設年には他に6か国が加盟し、そのうち解散まで加盟し続けたのは2か国だけだった。1926年9月8日にヴァイマル共和政下のドイツ国が連盟に加盟した。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "その後、さらに15か国が加盟した。1934年9月28日にエクアドルが加盟してから1935年2月23日にパラグアイが脱退するまでの間のが、国際連盟の加盟国が58か国と最多となった期間である。",
"title": "加盟国"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "連盟に最後に加盟したのは、1937年5月26日加盟のエジプトだった。最初に連盟から脱退したのは、1925年1月22日に脱退したコスタリカだった。コスタリカが加盟したのは1920年12月16日であり、連盟への加盟期間が最短の国でもある。原加盟国では最初に脱退したのは、1926年6月14日に脱退したブラジルである。1932年に加盟したイラクは、連盟の委任統治下から独立した国の中で初めての加盟国である。",
"title": "加盟国"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ソビエト連邦は1934年9月18日に加盟したが、1939年12月14日にフィンランドへの侵攻を理由に追放された。このソ連の追放は、連盟規約に違反したものだった。理事国15か国のうち、追放に賛成したのは7か国(イギリス、フランス、ベルギー、ボリビア、エジプト、南アフリカ、ドミニカ共和国)で、規約で定められた過半数に達していなかった。賛成した国のうち3か国(南アフリカ、ボリビア、エジプト)は、投票の前日に理事国入りした国だった。これは、第二次世界大戦によって実質的に機能しなくなる前の、連盟の最後の行動の一つだった。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "第一次世界大戦末期、連合国は、アフリカと太平洋にある旧ドイツ植民地、およびオスマン帝国のアラビア語圏のいくつかの州の処分問題に直面していた。パリ講和会議では、これらの領土を連盟に代わって各国政府が管理するという原則が採択された。これは、国際的な監視のもとで各国が責任を負う制度である。委任統治制度(mandate system)と定義されたこの計画は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の主要連合国の政府および外務大臣で構成される十人評議会によって1919年1月30日に採択され、国際連盟に伝達された。",
"title": "委任統治"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "委任統治制度は、国際連盟規約第22条に規定された。常設委任統治委員会は、委任統治を監督するとともに、紛争地域の住民がどの国に加わるかを決めるための住民投票を実施した。委任統治にはA式・B式・C式の3つの分類があった。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "A式は、旧オスマン帝国の領土に適用された。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "B式は、第一次世界大戦後に連盟が管理していた中央アフリカの旧ドイツ植民地に適用された。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "C式は、西南アフリカと南太平洋諸島の旧ドイツ植民地に適用された。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "領土は受任国により統治された。たとえば、パレスチナはイギリス、南西アフリカは南アフリカが受任国となり、その地域が自治できると判断されるまで統治していた。14の委任統治領は、イギリス、日本、フランス、ベルギー、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの7つの受任国に分割された。1932年10月3日に連盟に加盟したイラク王国を除き、これらの地域が独立を果たしたのは第二次世界大戦後のことで、最後に独立したのは1990年だった。連盟の解散時にまだ残っていた委任統治領のほとんどは国連信託統治領となった。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "委任統治とは別に、連盟はザール盆地を15年間統治し、国民投票の結果ドイツに返還された。また、自由都市ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク)を1920年11月15日から1939年9月1日まで統治した。",
"title": "委任統治"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の後(英語版)、国境の正確な位置や、ある地域がどの国に加わるかなど、解決すべき問題が多く残されていた。これらの問題のほとんどは、勝利した連合国が連合国最高評議会などの組織で処理した。連合国は、特に困難な問題だけを連盟に委ねる傾向があった。このため、戦間期の初期には、連盟は戦争による混乱の解決にはほとんど関与していなかった。初期に連盟が検討した問題は、パリ講和条約で指定されたものだった。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "連盟の発展とともにその役割は拡大し、1920年代半ばには国際的な活動の中心となっていた。この変化は、連盟と非加盟国との関係にも表れている。たとえば、アメリカやロシアは、連盟との連携を強めていった。1920年代後半、フランス、イギリス、ドイツは、国際連盟を外交活動の中心に据えており、この時期、各国の外務大臣はジュネーヴで開催される連盟の会議に出席していた。また、彼らは連盟の機構を利用して、関係の改善や対立の解消に努めていた。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "オーランド諸島は、スウェーデンとフィンランドの中間に位置するバルト海に浮かぶ約6,500の島の集まりである。ほとんどがスウェーデン語圏だが、1809年、オーランド諸島はフィンランドとともにロシア帝国に占領された。1917年12月、ロシアが十月革命で混乱している中でフィンランドは独立を宣言したが、オーランド諸島の住民の多くはスウェーデンへの復帰を希望していた。フィンランド政府は、ロシアが1809年に設立したフィンランド大公国にオーランド諸島を含めていたことから、オーランド諸島を新国家の一部と考えていた。1920年までに、この紛争は戦争勃発寸前までエスカレートした。イギリス政府はこの問題を連盟理事会に付託したが、フィンランドは内政問題であるとして連盟の介入を許さなかった。連盟は、この問題を調査すべきかどうかを決めるために小委員会を作り、肯定的な回答を得たため、中立委員会を作った。1921年6月、連盟は、オーランド諸島をフィンランドの一部とし、非武装化を含めて島民の保護を保証するという中立委員会の決定を発表した。スウェーデンはこの決定に消極的に同意した。これは、連盟を通じて直接締結された初のヨーロッパの国際協定だった。",
"title": "解決した領土紛争"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "上シレジア(英語版)の領土問題を連合国が解決できなかったため、連盟に委ねられた。第一次世界大戦後、プロイセンに属していた上シレジアの領有権をポーランドが主張した。ヴェルサイユ条約では、上シレジアをドイツとポーランドのどちらに帰属させるかを決めるために、上シレジアで住民投票(英語版)を行うことが推奨されていた。ドイツ当局の態度に対する不満から、第1次(1919年)・第2次(1920年)のシレジア蜂起が発生した。1921年3月20日に行われた住民投票では、59.6%(約50万人)がドイツへの加盟を支持したが、ポーランドはこの投票をめぐる状況が不公平であったと主張した。この結果を受けて、1921年に第3次シレジア蜂起が起こった。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1921年8月12日、連盟はこの問題の解決を求められた。理事会は、ベルギー、ブラジル、中国、スペインからの代表者で構成される委員会を設置し、状況の調査を行った。委員会は、住民投票で示された地域ごとの意向に応じて上シレジアをポーランドとドイツの間で分割すること、2つの地域の相互の関係の詳細(たとえば、2つの地域の経済的・産業的な相互依存関係のために、国境を越えて商品を自由に通行させるかどうかなど)は両者で決定すべきであることを勧告した。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1921年11月、ドイツとポーランドの間の条約の交渉のための会議がジュネーヴで開催された。5回の会議を経て、最終的な和解が得られた。合意では、この地域の大部分をドイツに与え、ポーランドには、この地域の鉱物資源と産業の大部分を占める地域を与えるというものだった。1922年5月にこの協定が公表されると、ドイツ国内では激しい憤りの声が上がったが、それでもこの条約は両国で批准された。これにより、第二次世界大戦が始まるまで、この地域は平和が続いた。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アルバニア公国の国境線は、1919年のパリ講和会議の際に連盟の決定に委ねることとされたため、1921年9月になっても決定されないまま不安定な状況が続いていた。アルバニアの南ではギリシャ王国軍が軍事行動を行った。アルバニアの北ではセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア王国)軍がアルバニア人部族との衝突を経て交戦状態となっていた。連盟は列強各国の代表からなる委員会を現地に派遣した。1921年11月、連盟はアルバニアの国境線を、1913年時点のものを基準とし、ユーゴスラビアに有利になるように3か所を変更するという決定を行った。数週間後、ユーゴスラビア軍はしぶしぶ撤退した。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1923年8月24日、大使会議より派遣されたギリシャ・アルバニア国境劃定委員会のメンバーだったイタリアのエンリコ・テリーニ(英語版)将軍とその部下4人が何者かに殺され、アルバニアの国境線が再び国際紛争の原因となった。イタリアの指導者ベニート・ムッソリーニは激怒し、5日以内に事件を調査するよう委員会に要求した。ムッソリーニは、調査の結果がどうであれ、ギリシャ政府に対しイタリアに5,000万リラの賠償金を支払うことを要求した。ギリシャ政府は、ギリシャ人による犯行であると証明されない限り、賠償金は支払わないと回答した。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ムッソリーニは軍艦をギリシャのコルフ島に派遣して砲撃し、1923年8月31日にイタリア軍がコルフ島を占領した。これは連盟規約に反するものだったため、ギリシャはこの事態に対処するために連盟に訴えた。連合国側は(ムッソリーニの主張で)、テリーニ将軍を任命したのは大使会議であるため、この紛争を解決する責任は大使会議にあると合意した。連盟理事会はこの紛争について検討し、その結果を大使会議に伝え、最終的な判断を仰ぐことになった。大使会議は連盟の勧告のほとんどを受け入れ、犯人が判明していないにもかかわらず、ギリシャに対してイタリアに5千万リラを支払うよう強要した。その後、イタリア軍はコルフ島から撤退した。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "バルト海に面した港町メーメル(現在のリトアニア・クライペダ)とその周辺地域にはドイツ人が多く住んでおり、ヴェルサイユ条約第99条により、連合国の暫定的な支配下に置かれていた。フランス政府とポーランド政府はメーメルを単一の国家に属さない国際都市にすることを希望したが、リトアニアはこの地域を併合することを望んでいた。1923年になってもこの地域の処遇は決まっておらず、1923年1月にはリトアニア軍が侵攻して港を占領した。連合国はリトアニアとの間で合意に至らなかったため、連盟に問題を委ねた。1923年12月、連盟理事会は調査委員会を任命した。委員会は、メーメルをリトアニアに割譲し、自治権を与えることを決定した。クライペダ条約(英語版)は、1924年3月14日に連盟理事会で承認され、その後、連合国とリトアニアによって承認された。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1939年、ナチスが台頭したドイツがこの地域を占領し、この地域をドイツに返還しなければ武力に訴えるとリトアニアに最後通牒(英語版)を発した。国際連盟はメーメル地方のドイツへの分離を防ぐことができなかった。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "フランス委任統治領シリアにあったアレクサンドレッタのサンジャク(英語版)には、連盟の監視の下で1937年に自治権が与えられた。1938年8月の選挙で選ばれた議会は、翌月にこの地をハタイと改称し、ハタイ共和国として独立を宣言した。1939年半ばにフランスの同意を得てトルコに併合された。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "国際連盟は、1926年にイラク王国とトルコ共和国の間で起きた旧オスマン帝国領モスル(英語版)の領有権をめぐる紛争を解決した。1920年にイギリス委任統治領メソポタミアの一部としてイラクを代表して外交を行っていたイギリスは、モスルはイラクに属すると主張していた。一方、トルコ共和国はモスルをトルコの歴史的な中核地の一部と主張していた。1924年、連盟はベルギー、ハンガリー、スウェーデンをメンバーとする調査委員会をこの地に派遣した。委員会の調査によりは、モスルの人々はトルコとイラクのどちらにも属したくないが、選ぶとしたらイラクを選ぶだろうということがわかった。1925年、委員会は、クルド人の自治権を確保するために、イギリスがイラクの委任統治権をあと25年保持することを条件に、同地域をイラクの一部とするよう勧告した。連盟理事会はこの勧告を採択し、1925年12月16日にモスルをイラクに与えることを決定した。",
"title": "解決した領土紛争"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "トルコは1923年のローザンヌ条約では連盟の仲裁を受け入れていたが、理事会の権限を疑問視してこの決定を拒否した。この問題は常設国際司法裁判所に委ねられたが、常設国際司法裁判所は「連盟理事会が全会一致で決定した場合は、それを受け入れなければならない」と判断した。それにもかかわらず、イギリス、イラク、トルコは、1926年6月5日、連盟理事会の決定をほぼ踏襲し、モスルをイラクに割り当てる別の条約を批准した。この条約では、イラクは25年以内に連盟加盟を申請することができ、加盟と同時に委任統治も終了することが合意された。",
"title": "解決した領土紛争"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦後、ポーランドとリトアニアは共に独立を回復したが、すぐに領土問題に没頭するようになった。ポーランド・ソビエト戦争戦争中、リトアニアはソ連との間でソビエト・リトアニア講和条約(英語版)を締結し、リトアニアとソ連との国境線を定めた。この条約により、リトアニアは、かつてのリトアニアの首都でありながら、ポーランド人が多数を占める都市ヴィリニュス(ポーランド語で「ヴィルノ」)を支配することになった。これにより、リトアニアとポーランドの間の緊張が高まり、ポーランド・リトアニア戦争(英語版)の再開が懸念されたため、1920年10月7日、連盟は停戦と両国間の分断線を定めたスヴァウキ協定(英語版)を取り決めた。1920年10月9日、ポーランド軍を指揮していたルツィアン・ジェリゴフスキ(英語版)将軍がスヴァウキ協定に反してこの都市を占領し、中部リトアニア共和国を建国した。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "連盟理事会は、リトアニアからの援助要請を受けて、ポーランドに対し軍の撤退を求めた。ポーランド政府はこれに応じる意向を示したものの、ポーランド軍は兵を増派して街を強化した。これを受けて連盟は、ヴィリニュスの将来は住民投票で決めるべきであり、ポーランド軍は撤退して連盟が組織する国際軍がこれに代わるべきだと決定した。この計画は、ポーランド、リトアニア、そしてリトアニアに国際軍が駐留することに反対していたソビエト連邦の抵抗を受けた。1921年3月、連盟は住民投票の計画を断念した。ポール・ハイマンス(英語版)は、以前のポーランド・リトアニア共和国のようなポーランドとリトアニアの連合体を提案したが、失敗に終わり、1922年3月にヴィリニュスとその周辺は正式にポーランドに併合された。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "リトアニアがクライペダ地域(メーメル)を占領したあと、1923年3月14日、大使会議によってリトアニアとポーランドの国境線が設定され、ヴィリニュスはポーランドに残された。リトアニアの当局はこの決定を受け入れず、公式には1927年までポーランドとの戦争状態が続いた。リトアニアがポーランドとの国交を回復し、国境線を事実上受け入れたのは、1938年のポーランドからの最後通牒があってからである。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "20世紀初頭、コロンビアとペルーの間にはいくつかの国境紛争があり、1922年、両政府はそれらを解決するためにサロモン=ロサノ条約に調印した。この条約によって国境の町レティシアとその周辺がペルーからコロンビアに割譲され、コロンビアはアマゾン川にアクセスできるようになった。これによって土地を失ったペルーのゴム・砂糖産業の経営者たちが、1932年9月1日にレティシアを武装占拠した。当初、ペルー政府はこの占領を認めなかったが、ペルー大統領ルイス・ミゲル・サンチェス・セロはコロンビアの再占領に抵抗することを決めた。ペルー軍はレティシアを占領し、2国間の武力紛争に発展した。数か月にわたる外交交渉の末、両国政府は連盟の調停を受け入れ、両国の代表が連盟理事会でこの一件について報告した。1933年5月に双方が署名した暫定和平協定では、二国間交渉が進む間、国際連盟が紛争地域を管理することになっていた。1934年5月、最終和平協定が締結され、レティシアのコロンビアへの返還、1932年のペルーの侵攻に対する正式な謝罪、レティシア周辺の非武装化、アマゾン川とプトゥマヨ川の自由航行、不可侵の誓約などがなされた。",
"title": "解決した領土紛争"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ザールは、プロイセンとプファルツの一部から形成された州で、ヴェルサイユ条約によって連盟の管理下に置かれた。連盟が支配を開始してから15年後に、この州をドイツとフランスのどちらに帰属させるかを決める住民投票が行われることになっていた。1935年に行われた住民投票では、90.3%の有権者がドイツへの帰属を支持し、連盟理事会はこれをすぐに承認した。",
"title": "解決した領土紛争"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "連盟は、領土問題だけでなく国家間や国内の紛争にも介入していた。アヘンの国際取引や性奴隷との戦い、1926年までのトルコを中心とした難民の救済活動などがその成果である。無国籍の難民のための国際的に認められた初の身分証明書として1922年に導入されたナンセン・パスポートは、この分野での革新の一つである。",
"title": "その他の紛争"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1925年10月、ギリシャとブルガリアの国境で衛兵が起こした事件をきっかけに、両国の間で戦闘が始まった。事件の3日後、ギリシャ軍がブルガリアに侵攻した。ブルガリア政府は軍隊に形だけの抵抗を命じ、1万人から1万5千人の人々を国境地帯から避難させ、連盟に紛争解決を託した。連盟はギリシャ軍の侵攻を非難し、ギリシャに対し軍の撤退とブルガリアへの補償を求めた。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "アメリカのファイアストン社が所有するリベリアの大規模なゴム農園での強制労働の告発と、アメリカ人による奴隷売買の告発を受けて、リベリア政府は連盟に調査を要請した。それを受けて、連盟、アメリカ、リベリアの三者が共同で委員会を設立した。1930年、連盟の報告書により、奴隷と強制労働の存在が確認された。この報告書では、多くのリベリア政府関係者が契約労働者の売買に関与しているとし、それをヨーロッパ人やアメリカ人に置き換えるよう勧告されていた。このことは、リベリア国民の怒りを買い、チャールズ・D・B・キング大統領とその副大統領は辞任に追い込まれた。リベリア政府は、強制労働や奴隷制を禁止し、社会改革のためにアメリカの協力を要請した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "満洲事変は、主要加盟国が日本の侵略に取り組むことを拒否したため、連盟を弱体化させる決定的な後退となった。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "対華21カ条要求の合意条件では、日本政府は中国の満洲地域にある南満洲鉄道の周辺に軍隊を駐留させる権利を持っていた。1931年9月、日本の関東軍は満蒙問題解決の「唯一の方策」として、鉄道の一部を破損し(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行であるとして(東京からの命令に反して)満洲全土を占領した。のち1932年3月1日満洲国政府から「満洲国」建国宣言が公布され、1932年3月9日、清の元皇帝の溥儀を執政(後に皇帝)とする傀儡政権が樹立された。",
"title": "その他の紛争"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "国際連盟は満洲にリットン調査団を派遣した。1年後の1932年10月、リットン報告書が発表された。この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書は、1933年2月24日の総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で採択された。日本の代表団はこれを不服として議場を退場し、3月8日に国際連盟からの脱退を決定した。国際連盟側の脱退に関する処理は2年間の予告期間を経て、1935年3月27日に効力を発生した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "イギリスの歴史家C・L・モワット(英語版)は、これによって連盟の集団安全保障は死んでしまったと評した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1932年、ボリビアとパラグアイが乾燥地帯のグランチャコをめぐって戦争を起こしたが、連盟はこれを防ぐことができなかった。この地域は人口は少ないものの、パラグアイ川が流れており、この土地を押えることで内陸国である両国が大西洋に自由にアクセスできるようになる。また、のちに誤りであることが判明したが、チャコ地方には大量の石油が埋蔵されているという憶測もあった。1920年代後半から国境で小競り合いが続いていたが、1932年にボリビア軍がピシャントゥータ湖のカルロス・アントニオ・ロペス要塞でパラグアイ軍を攻撃したことで、全面戦争に発展した。パラグアイは連盟に訴えたが、パン=アメリカ会議が調停を申し出たため、連盟は行動を起こさなかった。この戦争では、人口約300万人のボリビアで5万7,000人、人口約100万人のパラグアイで3万6,000人の死傷者が出て、双方にとって大惨事となった。また、両国は経済的にも破綻の危機に瀕した。1935年6月12日に停戦交渉が行われた時点でパラグアイがこの地域の大半を掌握しており、1938年のブエノスアイレス講和条約で、グランチャコはパラグアイに帰属することが決定した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1935年10月、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニは40万人の軍隊を送り込み、アビシニア(エチオピア)に侵攻した。ピエトロ・バドリオ元帥が1935年11月から作戦を指揮し、無防備な村や医療施設などを標的に、爆撃、マスタードガスなどの化学兵器の使用、水道水への毒の混入などを命じた。1936年5月、近代化されたイタリア陸軍は武装していないアビシニア人を破り、首都アディスアベバを占領した。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は国外に脱出した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1935年11月、連盟はイタリアの侵略を非難し、経済制裁を行ったが、石油の販売禁止やイギリスが支配するスエズ運河の閉鎖などは行われず、制裁の効果はほとんどなかった。これは、のちにイギリス首相スタンリー・ボールドウィンが述べているように、イタリアの攻撃に耐えうる軍事力をどの国も持っていなかったためである。1935年10月、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、成立したばかりの中立法を発動して、双方への武器・軍需品の禁輸措置をとった。交戦中のイタリアに対しては、その他の貿易品目も含めて、さらに「道徳的禁輸措置」を拡大した。アメリカは10月5日とその後の1936年2月29日に、石油やその他の物資の輸出を平時の通常レベルに抑えようとしたが、あまり成功しなかった。連盟の制裁は1936年7月4日に解除されたが、その時点でイタリアはすでにアビシニアの都市部を支配していた。この制裁撤回の確認が行われた国際連盟総会には、ハイレ・セラシエも出席。エチオピアの主張とイタリアを擁護する国を批判する演説を行った。これは君主が総会に出席した初のケースとなった。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1935年12月のホーア=ラヴァル協定(英語版)は、イギリス外相のサミュエル・ホーア(英語版)とフランス首相のピエール・ラヴァルが、アビシニアの紛争を終結させるために、アビシニアをイタリア領とアビシニア領に分割することを提案したものである。ムッソリーニはこの協定に同意する用意があったが、この協定の情報が事前に漏れてしまった。英仏両国の国民は、「アビシニアを売り渡すものだ」と猛反発した。ホーアとラヴァルは辞任に追い込まれ、英仏両政府は2人との関係を断ち切った。1936年6月、ハイレ・セラシエは連盟総会で演説し、自国の保護のために協力してほしいと訴えた。国家元首が連盟総会で直接演説したのは、これが初めてだった。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "アビシニア危機により、国際連盟が加盟国の自国の利益に左右されてしまうことが示された。制裁があまり厳しくなかった理由の一つとして、それによりムッソリーニとヒトラーを同盟関係に追い込むことを、イギリスとフランスが恐れていたことがある。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1936年7月17日、フランシスコ・フランコ将軍率いるスペイン陸軍の反乱軍がクーデターを起こした。その結果、ロイヤリスト派(選挙で選ばれた左派の国民政府)とナショナリスト派(英語版)(スペイン陸軍の大半の将校を含む右派の反共主義者)の間で長期にわたる武力紛争が発生した。1936年9月、スペイン外相フリオ・アルバレス・デル・バイヨ(英語版)は、スペインの領土保全と政治的独立を守るための武力介入を連盟に訴えた。連盟加盟国は、スペイン内戦には介入せず、外国の紛争介入を防ぐこともしなかった。アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニはフランシスコ・フランコ将軍のナショナリスト派を援助し続け、ソ連は独伊よりは規模は小さかったがロイヤリスト派を援助した。1937年2月、連盟は外国人義勇兵を禁止したが、これは実際には象徴的な動きでしかなかった。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1937年7月7日の盧溝橋事件を皮切りに、日本は中国への本格的な侵攻を開始し、1930年代を通じて局地的な紛争を誘発してきた。9月12日、中国代表の顧維鈞が連盟に国際的な介入を訴えた。欧米諸国は、特に第二次上海事変で外国人が多く住む上海を頑強に守り抜いた中国に同情的だった。しかし、連盟は現実的な対策を提示することができず、10月4日、連盟はこの問題を九カ国条約会議に委ねた。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約には、東ヨーロッパにおける独ソの勢力圏を線引きする秘密議定書が含まれていた。それによれば、フィンランドとバルト三国、ポーランド東部はソ連の勢力圏とされていた。ソ連は1939年9月17日にポーランドに侵攻し、11月30日にはフィンランドに侵攻した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "同年12月11日、国際連盟フィンランド問題委員会はソ連に対してフィンランドからの撤兵を求める最後通告を24時間の期限をつけて発したが、12月12日にソ連外相のモロトフは調停を拒絶する旨のメッセージを委員会議長あてに発送。12月14日、第20回国際連盟総会はソ連を糾弾、フィンランドへの援助に関する決議案を採択。続いてアルゼンチン代表から提案のあったソ連を除名する決議案を満場一致をもって採択した。同日午後に非公開で行われた連盟理事会でもソ連除名を含む決議案は可決され、ソ連の国際連盟除名が最終決定した。ソ連は連盟除名について、イギリスとフランスの筋書きであると批難。ソ連は(侵攻直後に発足した傀儡政権である)フィンランド民主共和国との間で条約を結んでおり、他国はソ連を非難する道徳的、形式的権利を有していないと主張した。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "連盟はソ連を追放したが、追放に必要な過半数の賛成は得られておらず、連盟は自ら規約に違反した。連盟加盟国の中で、このような屈辱を受けたのはソ連だけであった。",
"title": "その他の紛争"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "連盟規約の第8条では、連盟加盟国に対し「軍備を、国家の安全と国際的義務の共同行動による実施との整合性を保つための最低限度まで削減する」ことが求められていた。連盟の時間とエネルギーの大半はこの目標に費やされていたが、多くの加盟国は、このような大規模な軍縮が達成できるのか、そもそもそれが望ましいのかどうか確信が持てずにいた。ヴェルサイユ条約では、戦勝国である連合国側にも軍縮を試みる義務を課しており、敗戦国に課せられた軍備制限は、世界的な軍縮への第一歩と言われていた。連盟規約では、各国の軍縮計画を作成する任務が連盟に与えられていたが、理事会はこの任務を、1932年から1934年の世界軍縮会議(英語版)の準備のために1926年に設置された特別委員会に委ねていた。",
"title": "軍縮の失敗"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "連盟加盟国がこの問題に対して持っていた意見はさまざまだった。フランスは、自国が攻撃されたときの軍事的支援の保証なしに軍備を縮小することには消極的だった。ポーランドとチェコスロバキアは、西側からの攻撃に対して脆弱であると感じており、軍縮を行う前に連盟による加盟国への攻撃への対応を強化することを望んでいた。この保証がなければ、ドイツからの攻撃のリスクが大きすぎるため、軍備を縮小することはできなかった。第一次世界大戦後、ドイツが力を取り戻すにつれ、特に1933年にアドルフ・ヒトラーが権力を得てドイツの首相になってからは、攻撃に対する恐怖心が高まった。特に、ドイツがベルサイユ条約を覆そうとしたり、ドイツ軍を再建したりしたことで、フランスは軍縮に消極的になっていった。",
"title": "軍縮の失敗"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "世界軍縮会議は、1932年に国際連盟がジュネーヴで開催し、60か国の代表が参加したが、この会議は失敗に終わった。世界軍縮会議の冒頭で、1年間の軍備拡張モラトリアムが提案され、のちに数か月延長された。軍縮委員会は、フランス、イタリア、スペイン、日本、イギリスから海軍の規模を制限するという初期の合意を得たが、最終的な合意には至らなかった。結局、軍縮委員会は、1930年代のドイツ、イタリア、スペイン、日本による軍備増強を止めることができなかった。",
"title": "軍縮の失敗"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ベルサイユ条約で禁止されていたヒトラーによるラインラントの再軍備、ズデーテン地方の占領、オーストリアへのアンシュルスなど、第二次世界大戦につながる重大な出来事に直面しても、連盟はほとんど沈黙していた。それどころか、連盟加盟国自身が再軍備した。1933年、日本は連盟の判断に従うことなく脱退し、同年には、世界軍縮会議でフランスとドイツの間の武器の平準化が合意されなかったことを口実にドイツが脱退、1937年にはイタリアとスペインが脱退した。連盟の最後の重要な行動は、1939年12月にフィンランドに侵攻したソ連を追放したことだった。",
"title": "軍縮の失敗"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦の勃発は、連盟がその主たる目的である世界大戦の再発防止に失敗したことを示すものである。この失敗には様々な理由があったが、その多くは組織の全般的な弱点に関連するものである。また、アメリカが加盟を拒否したことで、連盟の力は制限されていた。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "連合国が第一次世界大戦を終結させるための和平協定の一環として設立された組織であることから、国際連盟は「勝者の連盟」とみなされていた。連盟の中立性は、優柔不断さとして表れがちだった。理事会で決議を行うには、9か国(のちに15か国)の理事国の全会一致が必要だった。そのため、不可能ではないにしても、決定的で効果的な行動をとることは困難であった。また、総会の議決においても全会一致を必要とするものがあり、決定に時間がかかることもあった。この問題は、国際連盟の主要国が、自分たちの運命が他国によって決定される可能性を受け入れたくなかったため、全会一致を強制することで事実上の拒否権を与えていたことが主な原因であった。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "連盟が国際問題を解決するにあたり、その規約の拘束性と代表権はしばしば問題となった。連盟は各国間の協力と平和安寧を完成させるため(規約前文)組織されていたにも拘らず、主要な国が非加盟か、あるいは容易に脱退したためである。また連盟の1つの議席を複数の代表が争う事態を想定していなかった。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "その中でも特に目立っていたのがアメリカだった。ウッドロウ・ウィルソン大統領は連盟結成の原動力となり、その形態にも強い影響を与えたが、アメリカ上院は1919年11月19日に加盟を見送った。ルース・ヘニグ(英語版)は、アメリカが加盟していれば、フランスとイギリスにも支援を提供し、フランスの安全性を高め、フランスとイギリスがドイツに対してより全面的に協力することを促し、ナチスの台頭の可能性を低くしたのではないかと指摘している。逆に、アメリカが加盟した場合、アメリカがヨーロッパ諸国との戦争や経済制裁に消極的であったため、連盟の国際的事件(英語版)への対処能力に支障をきたしていたかもしれない、とヘニグは認めている。アメリカの連邦政府の構造上、立法府上院の事前承認がなければ連盟のアメリカ政府代表者は行政府に代わって決定を下すことができなかったため、アメリカが加盟することは国際連盟の問題処理能力の障害となっていたかもしれない。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "1920年1月に連盟が発足したとき、ドイツは第一次世界大戦の侵略者とみなされていたため、連盟への加盟が認められなかった。また、ソビエト・ロシアは、共産主義政権が歓迎されていなかったことに加え、ロシア内戦で戦っていた赤軍と白軍の双方が正統な政府であると主張していたことにより、当初は加盟が疑問視され、加盟国から除外されていた。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1930年代に大国が脱退したことで、連盟はさらに弱体化した。日本は第一次世界大戦の連合国であったため、常任理事国としてスタートしたが、1933年に満州を占領したことに連盟が反発したため、脱退した。イタリアもまた常任理事国としてスタートしたが、第二次エチオピア戦争の終結の約1年後の1937年に脱退した。スペインも常任理事国としてスタートしたが、スペイン内戦が国民党の勝利に終わったあと、1939年に脱退している。ドイツは、1926年に加盟が認められ、同時に常任理事国となったが、1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を握ると連盟を脱退した。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "もう一つの重要な弱点は、連盟の基盤となった集団安全保障の考え方と、個々の国家間の国際関係との間の矛盾から生まれたものである。連盟の集団安全保障システムは、各国が友好的と考えていた国家に対して、必要に応じて自国の国益を損なうような行動をとり、相性の悪い国家を支援することを要求するものだった。この弱点が露呈したのがアビシニア危機(英語版)である。イギリスとフランスは、イタリアの支援が重要な役割を果たしていた内部秩序の敵から守るために、ヨーロッパで自分たちが作ろうとしていた安全保障を維持することと、連盟加盟国としてのアビシニア(エチオピア)に対する義務とを両立させなければならなかった。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1936年6月23日、イタリアのアビシニアに対する戦争を抑制するための連盟の努力が破綻したことを受けて、イギリスのスタンリー・ボールドウィン首相は、下院で次のように述べた。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "結局、イギリスとフランスは、ヒトラーの下で増大するドイツの軍国主義に直面したことで、集団安全保障の概念を放棄し、宥和政策をとることとなった。また、国際連盟では、1934年にフランス・マルセイユで起きたユーゴスラビア国王アレクサンダル1世暗殺事件をきっかけに、テロリズムに関する初の国際的な議論が行われた。この事件の陰謀論的な特徴は、アメリカ同時多発テロ事件以降の国家間のテロリズムの言説にも見られるものである。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "アメリカの外交史家サミュエル・フラッグ・ベミス(英語版)は、当初は連盟を支持していたが、20年後に考えを改めた。",
"title": "問題点"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "連盟は独自の武力を持たず、その決議の執行を大国に頼っていたが、大国はそれを非常に嫌がった。連盟のもっとも重要な加盟国であるイギリスとフランスは、制裁措置には消極的であり、連盟のために軍事行動を起こすことにはさらに消極的だった。第一次世界大戦の直後、両国の国民と政府の間で平和主義が強い力を持つようになった。イギリスの保守党は、特に連盟には興味を示さず、政府内では連盟の関与しない条約交渉を好んでいた。連盟は、集団安全保障を主張する一方で、英仏をはじめとする加盟国の軍縮を主張しており、連盟の権威を維持するための唯一の強力な手段を自ら奪っていたことになる。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦中にイギリスの内閣で連盟の構想が議論されていた際、内閣官房長官(英語版)のモーリス・ハンキー(英語版)はこの問題についての覚書を回覧していた。ハンキーはまず、「一般的にこのような計画は、まったく架空の安全感を生み出すため、我々にとって危険であると思われる」と述べた。ハンキーは、戦前のイギリスが条約の尊厳を信じていたことは妄想だと攻撃し、最後にこう主張した。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "外務省職員であるエア・クロウ(英語版)卿も、「厳粛な同盟と誓約」は「ほかの条約と同じような、ただの条約」に過ぎないと主張するメモを内閣に提出している。「ほかの条約のように破られないようにするにはどうしたらいいのか?」クロウはさらに、侵略者に対する「共同行動の誓い」の計画に懐疑的な見方を示した。それは、個々の国家の行動は、依然として国益とパワーバランスによって決定されると考えたからである。また、連盟による経済制裁を提案しても効果がなく、「すべては実際の軍事的優位性の問題である」と批判した。普遍的な軍縮は現実的には不可能であるとクロウは警告した。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国(日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造、杉村陽太郎が選出されるなど中核的役割を担っていた。国際連盟に大日本帝国が加入した内閣総理大臣は原敬(原内閣)であった。日本は、理事国として毎年分担金(1933年時点で60万円※現在価値で約60億円) を拠出する必要があった。日本は滞納せずに支払っていたが、中華民国(中国国民党政府)は設立当初からの一般加盟国であり、日本と同等の地位(常任理事国)を主張しながら支払いが滞っていた一方で、国際連盟を日本糾弾の場としていた。中華民国の他の列強へのプロパガンダの場になってしまったことは誤算であった。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "柳条湖事件を契機に、大日本帝国が満洲全土を制圧すると(満洲事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満洲国を建国した。これに抗議する中華民国は連盟に提訴。連盟ではイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(リットン卿)を団長とするリットン調査団を派遣する。リットンは「日本の満洲における“特殊権益”は認めたが、満洲事変は正当防衛には当たらず、日本軍は満鉄附属地域まで撤退した後、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」と報告書に記した。これが「リットン報告書」である。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告が審議され、この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書が採択され、表決の結果は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム = 現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項 および6項 についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会から退場した。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "その後、同年3月27日、大日本帝国は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年(昭和10年)3月27日となった。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "脱退宣言ののちの猶予期間中、1935年まで大日本帝国は分担金を支払い続け、また正式脱退以降も国際労働機関(ILO)には1940年(昭和15年)まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。その他、アヘンの取締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "しかし、1938年(昭和13年)9月30日に国際連盟が「規約第16条の制裁発動」が可能であることを確認する決議をすることで、日本政府はこれらの「連盟諸機関に対する協力」の廃止も決定した。国際連盟から受任していた南洋諸島の委任統治については、1945年(昭和20年)9月2日に第二次世界大戦でポツダム宣言受諾により敗戦するまで、引き続き大日本帝国の行政下におかれた。",
"title": "日本の貢献と脱退まで"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "国際連盟は戦間期のギリシャ・ブルガリア紛争などの小規模紛争解決に一定の役割を果たしたが、第二次エチオピア戦争などでは実効性を挙げられないケースもあった。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "脱退 1925年にはコスタリカが、連盟運営分担金の支払が不可能になったために、国際連盟から初めての脱退となった。翌1926年にはブラジルが常任理事国参入失敗を機に脱退した。1930年代には、満洲国が承認されなかった大日本帝国、またナチスが政権を掌握したドイツが脱退(1933年)。その後、ホロドモールを収束させたソビエト連邦が加盟(1934年)するが、第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国が脱退(1937年)、以降も後の枢軸国側中小国の脱退が続出し、大規模紛争の解決に対する限界を露呈した。ヨーロッパの状況が戦争へとエスカレートしていく中で、総会は1938年9月30日と1939年12月14日に、連盟が合法的に存在し続け、縮小して活動を行うのに十分な権限を事務総長に移譲した。連盟本部だったパレ・デ・ナシオンは、第二次世界大戦が終わるまでの約6年間、無人となった。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "ソ連の追放 第二次世界大戦勃発後の連盟は、各国代表が本国に帰還したことで規模縮小を余儀なくされたものの、一部専門家委員会の会合や予算執行などのための総会は開かれていた。また理事会は1939年12月に、前月から開始されたフィンランド侵略を理由にソ連を除名した。しかし、戦争の激化とともに総会・理事会の開催が困難となり、代替として総会議長であるユダヤ系ノルウェー人のC・J・ハンブロ(英語版)を委員長とする管理委員会を結成し、戦時中もロンドン、リスボンなど場所を移して会合を続けた。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "職員不足・分担金未納問題 事務局の一部機能を非加盟国であるアメリカ合衆国のプリンストン、薬物部をワシントンD.C.、財務部をロンドン、姉妹機関の国際労働機関をカナダのモントリオールへと分散配置した。戦争による職員減少や分担金未納による予算不足により、活動は統計記録の維持など最小限のものとなったが、プリンストンでは戦後に新国際組織を創設する計画・議論が行われていた。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "国際連合創設案 1943年のテヘラン会談で、第二次世界大戦の連合国は国際連盟に代わる新しい組織である国際連合(国連)を創設することに合意し、1944年のダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の原案が策定された。国際労働機関など、連盟の多くの組織は機能を維持し、最終的には国連の傘下に入った。国際連合の構造の設計者は、国際連盟よりも効果的な組織にすることを意図していた。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "最後の総会・国際連合への移管・解散 国際連合発足後の1946年4月8日、最後となる第21回総会がジュネーヴで開催された。この会議には34か国の代表者が参加した。この会議では連盟の清算が議題となり、1946年当時で約2200万米ドル相当の資産(国際連盟本部であるパレ・デ・ナシオン、連盟の文書館など)を国際連合に移管し、予備費は拠出した国に返還し、連盟の債務を清算することが、4月18日の投票により決定した。総会は、国際連盟の創設者の一人であるロバート・セシルの次のような結びの演説で幕を閉じた。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 124,
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"text": "連盟は死にました。国際連合万歳。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "総会では、「総会閉会の翌日(4月19日)をもって、国際連盟は、本決議に定める事務の清算のみを目的とする場合を除き、その存在を停止する」という決議がなされ、国際連盟は4月20日に解散した。国際司法裁判所や国際労働機関は国連に引き継がれた。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "各国9人で構成された清算委員会は、その後15か月間、連盟の資産や機能が国連や専門機関に移管されるのを監督し、1947年7月31日に解散した。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "国際連盟のアーカイブは国際連合ジュネーブ事務局に移管され、現在はユネスコの世界記憶遺産に登録されている。",
"title": "脱退・追放・終焉"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "国際連盟アーカイブ (The League of Nations archives) は、国際連盟の記録や文書を集めたものである。1919年の国際連盟発足から、1946年の国際連盟解散までの約1,500万ページの内容が含まれている。このアーカイブは、国際連合ジュネーブ事務局に置かれている。",
"title": "国際連盟アーカイブ"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "2017年、国連図書館・公文書館・ジュネーブは、国際連盟アーカイブの保存、デジタル化、オンラインアクセスの提供を目的とした \"Total Digital Access to the League of Nations Archives Project\" (LONTAD) を開始した。2022年の完成を予定している。",
"title": "国際連盟アーカイブ"
}
] |
国際連盟[こくさいれんめい、旧字体: 國際聯盟、英語: League of Nations(LON)、フランス語: Société des Nations(SDN、SdN)]は、第一次世界大戦後の世界平和の確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった。 当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月20日に活動を終了した。
|
{{混同|x1=1945年から現在まで存在する|国際連合}}{{Otheruses|[[第二次世界大戦]]前にあった[[国際機関]]|[[スポーツ]]競技に関する国際機関|国際競技連盟}}
{{Infobox 組織
|名称 = 国際連盟<small>({{kyujitai|國際聯盟}})<br />{{lang-en|League of Nations}}<br />{{lang-fr|Société des Nations}}
|画像 = Flag of the League of Nations (1939).svg
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = [[1939年]]に定められた半公式旗
|画像2 = [[File:Palais des nations.jpg|270px]]
|画像説明2 = 国際連盟本部が置かれた[[パレ・デ・ナシオン]](現[[国際連合ジュネーブ事務局]])。
|画像3 =
|画像サイズ3 =
|画像説明3 =
|略称 = LN、LoN、SDN、SdN、連盟(聯盟)
|標語 =
|前身 =
|後継 = [[国際連合]]
|設立 = [[1920年]][[1月10日]]<ref>[[ヴェルサイユ条約]]発効日。</ref>
|解散 = [[1946年]][[4月20日]]<ref>[[1946年]][[4月12日]]から開催された「第21回総会」の終了宣言日([[4月19日]])の翌日。</ref>
|種類 = [[国際機関]]
|地位 =
|本部 = {{SWI}}・[[ジュネーヴ]]<br/>[[パレ・デ・ナシオン]]
|位置 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|area_served =
|会員数 =
|言語 =
|事務総長 = 初代:[[エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)|エリック・ドラモンド]]<br />第2代:[[ジョセフ・アヴェノル]]<br/>第3代:[[ショーン・レスター]]
|会長 =
|人物 =
|機関 = 総会<br />理事会<br />事務局など
|提携 =
|設立者 =
|関連組織 =
|スタッフ =
|ボランティア =
|予算 =
|ウェブサイト =
|旧称 =
|補足 =
|注記 = <references />
}}
'''国際連盟'''[こくさいれんめい、{{旧字体|國際聯盟}}、{{lang-en|League of Nations}}('''LON'''<ref>{{cite web |title=80th anniversary of the laying of the founding stone of the Palais des Nations |url=https://www.unog.ch/80256EE600594458/(httpPages)/2A3C98DEDEA5A9B0C125762B002824E3?OpenDocument |website=United Nations Geneva |accessdate=6 June 2020}}</ref>)、{{lang-fr|Société des Nations}}('''SDN'''、'''SdN''')]は、[[第一次世界大戦]]後の{{仮リンク|世界平和|en|World peace}}の確保と[[国際協力]]の促進を目的として設立された[[国際機関|国際組織]]であった<ref>{{cite book |last=Christian |first=Tomuschat |title=The United Nations at Age Fifty: A Legal Perspective |year=1995 |publisher=Martinus Nijhoff Publishers |isbn=9789041101457 |page=77 |url=https://books.google.com/books?id=iz55RRayP34C&pg=PA77}}</ref><ref name="国際法辞典145-146">「国際連盟」[[#国際法辞典|『国際法辞典』]]、145-146頁。</ref>。
当時の[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ウッドロウ・ウィルソン]]の提唱によって結成されたが、[[モンロー主義]]によって議会から否決された為に'''[[アメリカ合衆国]]は参加していない'''([[#設立|後述]])。[[第一次世界大戦]]を終結させた[[パリ講和会議]]の後、[[1920年]][[1月10日]]に発足したが、[[第二次世界大戦]]後の[[1946年]][[4月20日]]に活動を終了した。
== 概要 ==
[[国際連盟規約]]に記載されている連盟の主な目的は、[[集団安全保障]]と[[軍縮]]によって[[戦争]]を防止し、交渉と[[仲裁]]によって国際紛争を解決することであった<ref>{{cite web|title=Covenant of the League of Nations|url=http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp|publisher=The Avalon Project|accessdate=30 August 2011|archiveurl=sp
https://web.archive.org/web/20110726080156/http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp|archivedate=26 July 2011|url-status=live}}</ref>。また、[[労働条件]]、[[先住民]]の公正な扱い、[[人身売買]]、[[違法薬物の取引]]、武器取引、健康、戦争捕虜、[[ヨーロッパ]]の少数民族の保護などが、この規約や関連条約に盛り込まれていた<ref>See Article 23, {{cite web |url=http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp |title=Covenant of the League of Nations |accessdate=20 April 2009 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110726080156/http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp |archivedate=26 July 2011 |url-status=live}}, {{cite web |url=http://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Versailles |title=Treaty of Versailles |accessdate=23 January 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100119080339/http://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Versailles |archivedate=19 January 2010 |url-status=live}} and [[Minority Treaties]].</ref>。国際連盟規約は、[[1919年]][[6月28日]]に[[ヴェルサイユ条約]]の第1編として調印され、1920年1月10日に他の条約とともに発効した。連盟理事会の第1回会合は1920年[[1月16日]]に[[フランス]]・[[パリ]]で、連盟総会の第1回会合は1920年[[11月15日]]に[[スイス]]・[[ジュネーヴ]]で開催された。1919年、[[アメリカ合衆国大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]は、連盟設立の立役者として[[ノーベル平和賞]]を受賞した。
連盟の外交理念は、それまでの100年間とは根本的に異なるものだった。連盟は独自の軍隊を持たず、第一次世界大戦で勝利した[[連合国 (第一次世界大戦)|'''連合国''']]([[フランス第三共和政|フランス]]、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[大日本帝国|日本]]は[[常任理事国 (国際連盟)|'''常任理事国''']])が決議を執行し、経済制裁を守り、必要に応じて軍隊を提供することとしていた。しかし、[[大国]]はそれに消極的だった。制裁措置は連盟加盟国に損害を与える可能性があるため、大国は制裁措置を遵守することに消極的だった。[[第二次エチオピア戦争]]の際、イタリア軍の兵士が[[赤十字社]]の医療テントを攻撃していると連盟が非難したとき、[[ベニート・ムッソリーニ]]は「連盟は雀が叫んでいるときには非常によいが、鷲が喧嘩をしているときにはまったくよくない」と答えている<ref>{{cite web|url=http://www.oldsite.transnational.org/Area_MiddleEast/2008/Jahanpour_SC-Iran.pdf|title=The Elusiveness of Trust: the experience of Security Council and Iran|accessdate=27 June 2008|publisher=Transnational Foundation of Peace and Future Research|last=Jahanpour|first=Farhang|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140727102504/http://www.oldsite.transnational.org/Area_MiddleEast/2008/Jahanpour_SC-Iran.pdf|archivedate=27 July 2014|url-status=live}}</ref>。
また、[[人種的差別撤廃提案]]が否決されるなど、人種問題の解決を果たすこともできなかった。なお、2回目の提案の際、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
連盟の本部は[[1920年]]から[[1936年]]までは[[スイス]]・[[ジュネーヴ]]の{{仮リンク|パレ・ウィルソン|en|Palais Wilson}}に、[[1936年]]からは同じくジュネーヴの[[パレ・デ・ナシオン]]に設置されていた{{efn|現在、パレ・ウィルソンは[[国際連合人権高等弁務官事務所]]、パレ・デ・ナシオンは国際連合ジュネーヴ事務局として使用されている。}}。[[ロスチャイルド家|パリ家]]{{仮リンク|モーリス・ド・ロチルド|en|Maurice de Rothschild|fr|Maurice de Rothschild}}の屋敷{{仮リンク|シャトー・ド・プレニー|en|Château de Pregny}}も、1920年から1939年まで国際連盟の会場として使用された<ref>Rothschild Archive, "[https://family.rothschildarchive.org/estates/51-chateau-de-pregny Château de Pregny, Geneva, Switzerland]", saying, "It was at Pregny, that Maurice hosted meetings of the League of Nations from 1920 to 1939.", retrieved 5th Dec, 2016</ref>。
[[1934年]][[9月28日]]から[[1935年]][[2月23日]]までの間は、最多の58か国が加盟していた。連盟は、1920年代にいくつかの成功と初期の失敗を経験したあと、最終的に[[1930年代]]の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。[[アメリカ合衆国]]は連盟に加盟せず、[[ソビエト連邦]]は遅れて加盟したあと、[[冬戦争|フィンランドへの侵攻]]後すぐに追放されたことで、連盟の信頼性は低下した<ref>{{cite book | title=The participation of the Soviet Union in universal international organizations.: A political and legal analysis of Soviet strategies and aspirations inside ILO, UNESCO and WHO | author=Osakwe, C O | year=1972 | publisher=Springer | url=https://books.google.com/books?id=e2OmtJvNjHoC | page=5| isbn=978-9028600027 }}</ref><ref>{{cite book | author=Pericles, Lewis | year=2000 | publisher=Cambridge University Press | title=Modernism, Nationalism, and the Novel | url=https://books.google.com/books?id=F-ImKOwYvsoC | page=52| isbn=9781139426589 }}</ref><ref>{{cite book | title=Historical Dictionary of the League of Nations | author=Ginneken, Anique H. M. van | year=2006 | publisher=Scarecrow Press | url=https://books.google.com/books?id=-mjkuGZLhBIC | page=174| isbn=9780810865136 }}</ref><ref>{{cite book | title=The Origin, Structure & Working of the League of Nations | author=Ellis, Charles Howard | year=2003 | publisher=Lawbook Exchange Ltd | url=https://books.google.com/books?id=xmIsAveUZRgC | page=169| isbn=9781584773207 }}</ref>。[[ドイツ]]、日本、イタリア、[[スペイン]]などは連盟を脱退した。[[第二次世界大戦]]の勃発により、連盟は「将来の世界大戦を防ぐ」という本来の目的を果たせなくなった。
第二次世界大戦終了後、[[国際連合]](国連)が[[1945年]][[10月24日]]に設立され、連盟が設立したいくつかの機関や組織は国連が引き継いだ。連盟は[[1946年]][[4月20日]]をもって正式に解散した。連盟の存続期間は26年であった。
== 起源 ==
=== 背景 ===
[[File:Original Geneva Conventions.jpg|thumb|right|[[ジュネーヴ条約]]。もっとも初期に制定された[[国際法]]の一つ。]]
「国家間の平和のための共同体」という概念は、初期には[[イマヌエル・カント]]が[[1795年]]の著書『[[永遠平和のために]]』<ref>{{cite web|url=http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/kant/kant1.htm|last=Kant|first=Immanuel|publisher=Mount Holyoke College|title=Perpetual Peace: A Philosophical Sketch|accessdate=16 May 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080514211750/http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/kant/kant1.htm|archivedate=14 May 2008|url-status=dead}}</ref> で、国家間の紛争を抑制し、平和を促進するための国家連合体の設立を主張した{{sfn|Skirbekk|Gilje|2001|p=288}}。カントは平和のための世界共同体の構築を主張したが、それは[[世界政府]]という意味ではなく、各国家が自国民を尊重し、外国からの訪問者を同じ理性的な存在として迎え入れる自由な国家であることを宣言することで、世界の平和な社会を促進することを願っていた<ref>{{cite web|url=http://www.constitution.org/kant/perpeace.htm|title=Perpetual Peace|author=Kant, Immanuel|year=1795|publisher=Constitution Society|accessdate=30 August 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111007175416/http://www.constitution.org/kant/perpeace.htm|archivedate=7 October 2011|url-status=live}}</ref>。[[集団安全保障]]を推進するための国際協力は、19世紀の[[ナポレオン戦争]]のあと、ヨーロッパ諸国間の現状を維持し、戦争を回避するために展開された{{仮リンク|ヨーロッパ協調|en|Concert of Europe}}に端を発している{{sfn|Reichard|2006|p=9}}{{sfn|Rapoport|1995|pp=498–500}}。また、この時代には[[国際法]]が整備され、[[ジュネーヴ条約]]では戦時中の人道的救済に関する法が制定され、[[ハーグ条約 (1899年及び1907年)|1899年と1907年のハーグ条約]]では戦争のルールと国際紛争の平和的解決が規定された{{sfn|Bouchet-Saulnier|Brav|Olivier|2007|pp=14–134}}<ref>{{cite book|last = Northedge|first = F. S.|title = The League of Nations: Its life and times, 1920–1946| publisher = [[Leicester University]] Press|year = 1986|isbn=978-0-7185-1194-4|ref=none|page=10}}</ref>。歴史学者のウィリアム・H・ハーボーと{{仮リンク|ロナルド・E・ポワスキー|en|Ronald E. Powaski}}が指摘するように、[[セオドア・ルーズベルト]]はアメリカ大統領として初めて国際的な連盟の設立を呼びかけた<ref>{{cite book|last=Powaski|first=Ronald|title=Toward an Entangling Alliance: American Isolationism, Internationalism, and Europe, 1901–1950|year=1991|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=9780313272745|page=14|url=https://books.google.com/books?id=ZDAoVZqHwocC&pg=PA14}}</ref><ref>[http://www.english.illinois.edu/maps/poets/a_f/espada/roosevelt_life.htm About Theodore Roosevelt] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170407022005/http://www.english.illinois.edu/maps/poets/a_f/espada/roosevelt_life.htm |date=7 April 2017 }}, "Roosevelt's attitude toward a league of nations varied with his changing emphases on realism, nationalism, and internationalism. He had called for a world league to enforce peace in his Nobel Peace Prize address of 1910, and he had affirmed the concept in 1914, two years before President Wilson espoused it."</ref>。ルーズベルトは、[[1906年]]にノーベル賞を受賞した際に、「誠実に平和を願う大国が平和連盟を結成してくれれば、それは素晴らしいことである」と述べている<ref>{{cite book|last=Morris|first=Charles|title=The Marvelous Career of Theodore Roosevelt: Including what He Has Done and Stands For; His Early Life and Public Services; the Story of His African Trip; His Memorable Journey Through Europe; and His Enthusiastic Welcome Home|publisher=John C. Winston Company|year=1910|page=[https://archive.org/details/marvelouscareero01morr/page/370 370]|url=https://archive.org/details/marvelouscareero01morr}}</ref><ref>{{cite web|url=https://en.wikisource.org/wiki/Roosevelt's_Nobel_Peace_Prize_acceptance_speech|title=Roosevelt's Nobel Peace Prize acceptance speech|accessdate=13 September 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161225034829/https://en.wikisource.org/wiki/Roosevelt%27s_Nobel_Peace_Prize_acceptance_speech|archivedate=25 December 2016|url-status=live}}</ref>。
国際連盟の前身である[[列国議会同盟]](IPU)は、[[1889年]]に平和運動家の[[ウィリアム・ランダル・クリーマー]]と[[フレデリック・パシー]]の提唱により結成された(この組織は、現在も世界各国の立法機関を中心とした国際機関として存続している)。IPUは、国際的な視野に立って設立された。[[1914年]]には、加盟24か国の議会議員の3分の1がIPUのメンバーとなっていた。IPUの設立目的は、各国政府が国際的な紛争を平和的手段で解決することを奨励することだった。また、各国政府が国際仲裁のプロセスを改善するための年次会議も開催された。IPUの構造は会長を頂点とした評議会方式であり、これはのちに設立された国際連盟の構造に反映されることになる<ref>{{cite web | title =Before the League of Nations | publisher =The United Nations Office at Geneva | url =http://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/B5B92952225993B0C1256F2D00393560?OpenDocument | accessdate =14 June 2008 | archiveurl =https://web.archive.org/web/20081209120513/http://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/B5B92952225993B0C1256F2D00393560?OpenDocument | archivedate =9 December 2008 | url-status =dead | df =dmy-all }}</ref>。
=== 初期の提案 ===
{{ multiple image | align = right | direction = horizontal | total_width = 300
| image1 = 1st Viscount Bryce 1893.jpg | caption1 = 国際連盟を早くから提唱していた[[ジェームズ・ブライス|ブライス卿]]
| image2 = JanSmutsFM.png | caption2 = [[国際連盟規約]]の起草に貢献した[[ヤン・スマッツ]]
}}
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、将来の戦争を防ぐための国際的な組織の構想が、イギリスやアメリカを中心に世間の支持を集め始めた。1914年、イギリスの政治学者[[ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソン]]は、"League of Nations"(国際連盟)という言葉を作り、その組織化のための計画を立案した。ディキンソンは[[ジェームズ・ブライス|ブライス卿]]とともに、国際的な平和主義者の集まりである{{仮リンク|ブライス・グループ|en|Bryce Group}}(のちの{{仮リンク|国際連盟連合|en|League of Nations Union}})の設立に主導的な役割を果たした<ref name="northedge">{{cite book|last = Northedge|first = F. S.|title = The League of Nations: Its life and times, 1920–1946| publisher = [[Leicester University]] Press|year = 1986|isbn=978-0-7185-1194-4|ref=none}}</ref>。このグループは、また当時政権を握っていた[[自由党 (イギリス)|自由党]]内の圧力団体として、一般市民の間で着実に影響力を増していった。ディキンソンは1915年に出版したパンフレット "''After the War''" の中で、自分の「平和連盟」は本質的に仲裁と調停のための組織であると書いている。ディキンソンは、20世紀初頭の秘密外交によって戦争が引き起こされたと考えており、パンフレットにも「外交政策の問題が世論に知られ、コントロールされるようになれば、それに比例して戦争の不可能性は増すだろうと私は信じている」と書いた。ブライスグループの提言は、イギリスとアメリカで広く流布され、始まったばかりの国際運動に大きな影響を与えた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=cbFznQEACAAJ|title=The League of Nations and the Rule of Law, 1918–1935|author=Sir Alfred Eckhard Zimmern|year=1969|publisher=Russell & Russell|pages=13–22}}</ref>。
[[File:19181225 League of Nations - promotion - The New York Times.jpg|thumb|right|300px|upright=1.5|{{仮リンク|平和施行同盟|en|League to Enforce Peace}}は、1918年のクリスマスに『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に全面広告を掲載した<ref name=NYTimes_19181225/>。平和施行同盟は、「不和の原因を排除し、平和的手段で論争を解決し、全加盟国の潜在的な力を結集して、世界の平和を乱そうとするいかなる国に対しても常在の脅威として、平和を確保すべきである」と決議している<ref name=NYTimes_19181225>{{cite news |title=Victory / Democracy / Peace / Make them secure by a League of Nations |url=https://newspaperarchive.com/new-york-times-dec-25-1918-p-11/ |work=The New York Times |date=December 25, 1918 |page=11}}</ref>。]]
1915年、アメリカでも、ブライス・グループの提案と同様の組織が[[ウィリアム・タフト]]らによって設立された。この組織は「{{仮リンク|平和施行同盟|en|League to Enforce Peace}}」と呼ばれ、実質的にはブライス・グループの提案をベースにしたものであった<ref>{{Cite journal|publisher=The University of Wisconsin Press|jstor= 2705943 |title=Toward the Concept of Collective Security: The Bryce Group's "Proposals for the Avoidance of War," 1914–1917|journal= International Organization |volume= 24 |issue= 2 |pages= 288–318 |last1= Dubin |first1= Martin David |year= 1970 |doi= 10.1017/S0020818300025911 }}</ref>。この組織は、紛争解決には仲裁を利用し、攻撃的な国には制裁を加えることを提唱していた。これらの初期の組織はいずれも、継続的に機能する組織を想定しておらず、国際機関を裁判所に限定するような[[法治主義]]的なアプローチを取っていた。例外はイギリスの[[フェビアン協会]]で、[[大国]]を中心として世界の問題を解決する「評議会」や、さまざまな活動における国際協力を強化するための「常設事務局」の設置を最初に主張した<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=hjVlcgAACAAJ|title=International Government|author=Leonard Woolf|year=2010|publisher=BiblioBazaar|isbn=9781177952934}}</ref>。
{{仮リンク|第一次世界大戦の外交史|en|Diplomatic history of World War I|label=第一次世界大戦をめぐる外交活動}}の中で、両陣営は長期的な戦争目的を明確にしなければならなかった。[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]のリーダーであるイギリスと中立国のアメリカでは、1916年までに、将来の戦争を防ぐための統一的な国際組織を設計するための長期的な考え方が始まっていた。歴史学者のピーター・イヤーウッドは、1916年12月に{{仮リンク|ロイド・ジョージ内閣|en|Lloyd George ministry}}が発足したときには、知識人や外交官の間で、このような国際組織を設立することが望ましいという議論が広まっていたと主張している。[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]は、ウィルソンから戦後の状況を視野に入れた立場を表明するよう求められたとき、このような組織の設立を支持した。ウィルソン自身も、1918年1月に発表した「[[十四か条の平和原則]]」の中に、「平和と正義を確保するための国家同盟」を盛り込んでいた。イギリスの[[アーサー・バルフォア]]外相は、永続的な平和の条件として、「国際法の背後に、敵対行為を防止または制限するためのすべての条約上の取り決めの背後に、もっとも強硬な侵略者を躊躇させるような何らかの国際的制裁措置を考案すべきである」と主張した<ref>Peter Yearwood, "‘On the Safe and Right Lines’: The Lloyd George Government and the Origins of the League of Nations, 1916–1918." ''Historical Journal'' 32#1 (1989): 131–155.</ref>。
この戦争は、ヨーロッパの社会・政治・経済に大きな影響を与え、精神的・物理的なダメージを与えた<ref>P. M. H. Bell, ''The Origins of the Second World War in Europe'' (2007) p 16.</ref>。1917年2月に[[ロシア帝国]]が崩壊したのを皮切りに、[[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[オスマン帝国]]と、いくつもの帝国が崩壊していった。世界中で反戦の気運が高まった。「[[戦争を終わらせるための戦争]]」{{sfn|Archer|2001|p=14}}と呼ばれていた第一次世界大戦の原因究明が盛んに行われ、その原因として、軍拡競争、同盟関係、軍国主義的ナショナリズム、秘密外交、主権国家が自国の利益のために戦争をする自由などが挙げられた。そこで、軍縮、公開外交、国際協力、戦争をする権利の制限、戦争をしないようにするための罰則などにより、将来の戦争を防ぐことを目的とした国際組織の設立が提案された{{sfn|Bell|2007|p=8}}。
1918年初めにイギリスのバルフォア外相は、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]卿の主導によるこの問題に関する最初の公式報告書を依頼した。次いで、イギリスの委員会が1918年2月に任命された。この委員会は、{{仮リンク|ウォルター・フィリモア (初代フィリモア男爵)|label=ウォルター・フィリモア|en|Walter Phillimore, 1st Baron Phillimore}}を中心に、{{仮リンク|エア・クロウ|en|Eyre Crowe}}、{{仮リンク|ウィリアム・ティレル (初代ティレル男爵)|label=ウィリアム・ティレル|en|William Tyrrell, 1st Baron Tyrrell}}、{{仮リンク|セシル・ハースト|en|Cecil Hurst}}らが加わったもので、のちにフィリモア委員会と呼ばれるようになった<ref name="northedge"/>。フィリモア委員会が出した提案は、紛争を仲裁し、違反国に制裁を加える「連合国会議」を設立するというものだった。この提案はイギリス政府に承認され、委員会の成果の多くはのちに[[国際連盟規約]]に盛り込まれた<ref name="jclare">{{cite web|publisher=American History|accessdate=10 December 2013|url=http://www.let.rug.nl/usa/essays/1901-/the-league-of-nations-karl-j-schmidt.php|title=The League of Nations – Karl J. Schmidt|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131219081141/http://www.let.rug.nl/usa/essays/1901-/the-league-of-nations-karl-j-schmidt.php|archivedate=19 December 2013|url-status=live}}</ref>。
また、フランスは1918年6月により広範囲な提案を起草した。その中では、すべての紛争を解決するための評議会の年次会合と、その決定を執行するための国際軍が提唱されていた<ref name="jclare"/>。
[[File:19181215 Woodrow Wilson Sees Enduring Peace Only In A League of Nations - The New York Times.jpg|thumb|right|300px|upright=2.0|1918年12月にヨーロッパを訪れたウッドウ・ウィルソンは、「平和の実現と国際連盟の創設は、一つの目的として達成されなければならないことを再確認した」と演説した<ref name=NYTimes_19181215>{{cite news |title=Text of the President's Two Speeches in Paris, Stating His Views of the Bases of a Lasting Peace |url=https://newspaperarchive.com/new-york-times-dec-15-1918-p-1/ |work=The New York Times |date=15 December 1918 |page=1 }}</ref>。]]
アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は[[エドワード・M・ハウス]]大佐に対し、「十四か条の平和原則」で初めて示した自身の理想主義的な考えと、フィリモア委員会の活動を反映したアメリカの計画を起草するよう指示した。ハウスの作業とウィルソン自身の初稿で、スパイ活動や不正行為を含む「非倫理的」な国家行動を排除することが提案された。不従順な国家に対する強制手段としては、例えば、「その国の国境を封鎖して、世界のどの地域とも通商や交流ができないようにし、必要な武力を行使する...」などの厳しい措置が含まれた<ref name="jclare"/>。
主に[[国際連盟規約]]を起草したのは<ref>{{cite web|url=http://www.columbia.edu/~saw2156/TheLeagueAsARetreat.pdf|title=The League of Nations: a retreat from international law?|publisher=Journal of Global History|accessdate=10 December 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214064233/http://www.columbia.edu/~saw2156/TheLeagueAsARetreat.pdf|archivedate=14 December 2013|url-status=live}}</ref>、イギリスの政治家ロバート・セシル卿と南アフリカの政治家[[ヤン・スマッツ]]の2人だった。スマッツは、大国を常任理事国、小国を非常任理事国とする理事会の創設や、[[中央同盟国]]の植民地の[[委任統治]]の制度の創設を提案した。セシルは行政面に重点を置き、年1回の理事会と、4年に1回の全加盟国による議会を提案した。また、連盟の管理業務を遂行するために、大規模で常設の事務局を設けることを主張した<ref name="jclare"/><ref>J. A. Thompson, "Lord Cecil and the pacifists in the League of Nations Union." ''Historical Journal'' 20#4 (1977): 949–959.</ref><ref>Christof Heyns, "The Preamble of the United Nations Charter: The Contribution of Jan Smuts." ''African Journal of International and Comparative Law'' vol 7 (1995): pp 329+. [http://heinonline.org/HOL/LandingPage?handle=hein.journals/afjincol7&div=23&id=&page= excerpt]</ref>。
=== 設立 ===
{{multiple image
| width = 300
| image1 = Salle de l'Horloge during the Paris Peace Conference.jpg
| caption1 = 国際連盟理事会の第1回会合は、1920年1月16日に[[パリ]]の外務省のSalle de l'Horloge(時計の間)で開催された。
| image2 =
| caption2 = 国際連盟総会の第1回会合は、1920年11月15日に[[ジュネーブ]]のSalle de la Réformation(改革の間)で開催された。
}}
[[1919年]]の[[パリ講和会議]]では、ウィルソン、セシル、スマッツの3人がそれぞれの草案を提出した。代表者間の長い交渉の末、セシル・ハーストと{{仮リンク|デイヴィッド・ハンター・ミラー|en|David Hunter Miller}}が共同で執筆した予備的な草案を元に検討が進められた<ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/draftingofcovena0000mill|url-access=registration|title=The drafting of the Covenant|author=David Hunter Miller|year=1969|publisher=Johnson Reprint Corp.}}</ref>。さらに交渉と妥協を重ね、1919年[[1月25日]]、代表団は最終的に国際連盟創設の提案を承認した{{sfn|Magliveras|1999|p=8}}。最終的な国際連盟規約は特別委員会によって起草された。[[ヴェルサイユ条約]]・[[サン=ジェルマン条約]]・[[トリアノン条約]]・[[ヌイイ条約]]・[[セーヴル条約]]の第1編に国際連盟規約が含められた。1919年[[6月28日]]、44か国が規約に署名した{{sfn|Magliveras|1999|pp=8–12}}{{sfn|Northedge|1986|pp=35–36}}。
連盟は、全加盟国を代表する総会、大国に限定された執行委員会、そして常設の事務局で構成される。加盟国は、ほかの加盟国の領土保全を尊重し、外部からの攻撃に対抗して保全することと、国内の安全に合致する最低限度のレベルまで[[軍縮|武装解除]]することが求められた。すべての国は、戦争を始める前に、[[仲裁]]または{{仮リンク|公的調査|en|Public inquiry|label=司法調査}}のために申し立てすることが義務づけられた<ref name="northedge"/>。執行理事会は、紛争を裁く[[常設国際司法裁判所]]を設立した。
ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績により1919年10月に[[ノーベル平和賞]]を受賞した{{sfn|Levinovitz|Ringertz|2001|p=170}}。しかし、そのアメリカ合衆国は、上院外交委員長であった[[ヘンリー・カボット・ロッジ]]や[[ウィリアム・ボーラ]]など[[モンロー主義]]を唱える[[アメリカ合衆国上院|上院]]の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。ロッジらは国際連盟規約第10条および16条で規定された「戦争を行った[[国家]]は、ほかの連盟国すべてに戦争行為をしたとみなし、当該国との通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場合、連盟国に制裁として軍事行動を義務づける」という条文により、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧し、反対に回った<ref>{{Cite|和書|author=オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ|translator=野中香方子|title=逆転の大戦争史|publisher=文藝春秋|date=2018-10-10|pages=168|isbn=9784163909127}}</ref>。ウィルソンが妥協を許さなかったため、加盟に必要な3分の2の賛成を得られず、アメリカは連盟に加盟しないこととなった<ref>{{Cite journal |jstor = 985951|title = Henry Cabot Lodge and the League of Nations|journal = Proceedings of the American Philosophical Society|volume = 114|issue = 4|pages = 245–255|last1 = Hewes|first1 = James E.|year = 1970}}</ref>。
国際連盟は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約が発効した6日後の[[1920年]][[1月16日]]に[[パリ]]で第1回理事会を開催した{{sfn|Scott|1973|p=51}}。1920年[[11月1日]]、国際連盟の本部はロンドンから[[ジュネーヴ]]に移され、[[11月15日]]には第1回総会が開催された{{sfn|Scott|1973|p=67}}<ref>[http://www.unog.ch/80256EDD006B8954/(httpAssets)/3DA94AAFEB9E8E76C1256F340047BB52/$file/sdn_chronology.pdf League of Nations Chronology] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150404121418/http://www.unog.ch/80256EDD006B8954/(httpAssets)/3DA94AAFEB9E8E76C1256F340047BB52/$file/sdn_chronology.pdf |date=4 April 2015 }}, The United Nations Office at Geneva</ref>。ジュネーブの西湖畔にある連盟の最初の本部は、連盟設立に尽力したウッドロウ・ウィルソン米大統領にちなんで「{{仮リンク|パレ・ウィルソン|en|Palais Wilson}}」と名付けられた。
== 言語とシンボル ==
国際連盟の公用語は[[フランス語]]と[[英語]]だった{{sfn|League of Nations|1935|p=22}}。
1939年、国際連盟の半公式紋章が制定された。青い[[五角形]]の中に2つの[[五芒星]]を描いたもので、地球上の5つの大陸と「{{仮リンク|歴史的人種分類概念|en|Historical race concepts|label=5種類の人種}}」{{efn|当時の人種の分類とされていた[[コーカソイド]]、[[モンゴロイド]]、[[ネグロイド]]、[[アメリカ先住民]]、{{仮リンク|マレー人種|en|Malay race}}の5種類。}}を象徴するものである。マークの上には英語名("League of Nations")、下にはフランス語名("Société des Nations")が書かれた<ref>{{cite web|publisher=United Nations|accessdate=15 September 2011|url=http://visit.un.org/wcm/content/site/visitors/lang/en/home/about_us/un_offices|title=Language and Emblem|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110923093857/http://visit.un.org/wcm/content/site/visitors/lang/en/home/about_us/un_offices|archivedate=23 September 2011}}</ref>。
== 機関 ==
{{further|en:Organisation of the League of Nations|常設国際司法裁判所|en:List of leaders of the League of Nations}}
[[File:League of Nations Organization.png|thumb|国際連盟の組織図<ref>{{Cite journal| issue = 2| last = Grandjean| first = Martin| title = Complex structures and international organizations| trans-title = Analisi e visualizzazioni delle reti in storia. L'esempio della cooperazione intellettuale della Società delle Nazioni| journal = Memoria e Ricerca| date = 2017| pages = 371–393| url = https://www.rivisteweb.it/doi/10.14647/87204| doi = 10.14647/87204| accessdate = 31 October 2017| archiveurl = https://web.archive.org/web/20171107020256/https://www.rivisteweb.it/doi/10.14647/87204| archivedate = 7 November 2017| url-status=live| df = dmy-all}} See also: [https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01610098v2 French version] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171107004313/https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01610098v2 |date=7 November 2017 }} (PDF) and [http://www.martingrandjean.ch/complex-structures-and-international-organizations/ English summary] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171102034717/http://www.martingrandjean.ch/complex-structures-and-international-organizations/ |date=2 November 2017 }}.</ref>]]
[[File:Palais des nations.jpg|thumb|1936年から1946年に解散するまで連盟の本部だったジュネーヴの[[パレ・デ・ナシオン]]|alt=A drive leads past a manicured lawn to large white rectangular building with columns on it facade. Two wings of the building are set back from the middle section.]]
連盟の主な構成機関は、総会、理事会、常設事務局だった。また、[[常設国際司法裁判所]]と[[国際労働機関]]という2つの主要組織があった。その他に、いくつかの補助機関や委員会があった{{sfn|Northedge|1986|pp=48, 66}}。各機関の予算は総会で配分されていた。連盟の運営資金は加盟国が負担していた<ref>{{cite web|publisher=University of Indiana|accessdate=5 October 2011|title=Budget of the League|url=http://www.indiana.edu/~league/pictorialsurvey/lonapspg30.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823153107/http://www.indiana.edu/~league/pictorialsurvey/lonapspg30.htm|archivedate=23 August 2011|url-status=live}}</ref>。
=== 主要機関 ===
総会と理事会の関係、およびそれぞれの権限は、明確に定義されていなかった。総会と理事会は、世界の平和に影響を与えるあらゆる問題を、連盟の権限の範囲内で扱うことができた。総会と理事会は、特定の問題や任務をもう一方に委ねることもできた{{sfn|Northedge|1986|pp=48–49}}。
総会と理事会の議決には、手続事項や新規加盟国の加入などの特定の場合を除き、[[全会一致]]が求められていた。この要件は、連盟が構成国の主権を信じていることの反映であった。連盟は口述による解決ではなく、同意形成による解決を求めた。紛争の場合には、紛争当事者の同意は必要なかった{{sfn|Northedge|1986|p=53}}。
==== 事務局 ====
常設事務局はジュネーヴの連盟本部に設置され、さまざまな分野の専門家で構成され、[[国際連盟事務総長|事務総長]]が指揮をとっていた{{sfn|Northedge|1986|p=50}}。事務局の主な部門には、政治、財政・経済、交通、少数民族と行政([[ザール (国際連盟管理地域)|ザール]]と[[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]の管理)、職務権限、軍縮、保健、社会(アヘン、女性や子供の人身売買)、知的協力と国際事務局、法律、情報があった。事務局の職員は、理事会や総会の議題を作成したり、会議の報告書を発行したり、その他の日常的な事項を担当しており、事実上、連盟の公務員のような役割を果たしていた。1931年の時点で、事務局には707人の職員がいた<ref>{{cite web|accessdate=15 September 2011|publisher=United Nations Office at Geneva|url=http://biblio-archive.unog.ch/detail.aspx?ID=245|title=League of Nations Secretariat, 1919–1946|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111212075827/http://biblio-archive.unog.ch/detail.aspx?ID=245|archivedate=12 December 2011|url-status=live}}</ref>。
===== 歴代事務総長 =====
{|class="wikitable"
!代!!氏名!!出身国!!就任年月日!!退任年月日
|-
! 1
| [[エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)|エリック・ドラモンド]]<br />[[:w:James Eric Drummond|James Eric Drummond]]
| {{GBR}}
| nowrap| [[1920年]](大正9年)1月10日
| nowrap| [[1933年]](昭和8年)6月30日
|-
!2
|[[ジョセフ・アヴェノル]]<br />[[:w:Joseph Louis Avenol|Joseph Louis Avenol]]
|{{FRA}}
|[[1933年]](昭和8年)7月3日
|[[1940年]](昭和15年)8月31日
|-
!3
|[[ショーン・レスター]]<br />[[:w:Seán Lester|Seán Lester]]
|{{IRL}}
|[[1940年]](昭和15年)8月31日
|[[1946年]](昭和21年)4月18日
|}
===== 日本の歴代事務次長 =====
{|class="wikitable"
!順!!氏名!!就任年月日!!退任年月日
|-
! 1
| [[新渡戸稲造]]<br />
| nowrap| [[1920年]](大正9年)1月10日
| nowrap| [[1926年]](大正15年)12月6日
|-
!2
|[[杉村陽太郎]]<br />
|[[1927年]](昭和2年)1月19日
|[[1933年]](昭和8年)3月27日<ref>日本が国際連盟からの脱退を通告したことにより辞職</ref>
|}
==== 総会 ====
総会は、連盟加盟国の代表で構成され、1か国につき3名の代表と1票の投票権が認められていた<ref name="UNOG">{{cite web | title =Organization and establishment:The main bodies of the League of Nations | publisher =The United Nations Office at Geneva | url =http://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/84C4520213F947DDC1256F32002E23DB?OpenDocument | accessdate =18 May 2008 | archiveurl =https://web.archive.org/web/20081209115248/http://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/84C4520213F947DDC1256F32002E23DB?OpenDocument | archivedate =9 December 2008 | url-status =dead | df =dmy-all }}</ref>。総会はジュネーヴで開催され{{sfn|Northedge|1986|p=72}}、1920年の第1回会議以降、毎年9月に開催された<ref name="UNOG"/>。総会の特別な機能として、新規加盟国の受け入れ、非常任理事国の定期的な選出、常設法廷の判事の選出、予算の管理などがあった。実際には、総会が連盟の活動の総指揮をとっていた{{sfn|Northedge|1986|pp=48–50}}。
フランスなどは、総会に出席する代表代理や補佐などを十数人の[[国会議員]]で固めた一方、日本はヨーロッパ各国の駐在する[[大使]]級[[外交官]]で固めた。このことについて、当時の新聞は「日本は例により旧式の外交官ばかり連ねた」として批判した<ref>第七回総会開く、明暗交錯『東京朝日新聞』大正15年9月8日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p189 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
==== 理事会 ====
理事会は、総会の決定を執行する機関として機能していた{{sfn|Northedge|1986|p=48}}。理事会は[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]と、3年の任期で総会で選出される非常任理事国で構成された。設立当初の常任理事国は4か国([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[日本]])、非常任理事国は4か国であり{{sfn|Northedge|1986|pp=42–48}}、最初の非常任理事国は[[ベルギー]]、[[ブラジル]]、[[ギリシャ]]、[[スペイン]]だった<ref name=photo>{{cite web|accessdate=15 September 2011|url=http://www.indiana.edu/~league/photos.htm|publisher=University of Indiana|title=League of Nations Photo Archive|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110909035837/http://www.indiana.edu/%7Eleague/photos.htm|archivedate=9 September 2011|url-status=live}}</ref>。
理事会の構成は何度か変更された。非常任理事国の数は、[[1922年]][[9月22日]]に6か国、[[1926年]][[9月8日]]に9か国となった。[[1926年]][[9月8日]]に[[ドイツ]]が加盟するとともに5か国目の常任理事国となった<ref>ドイツ加入、満場一致で総会承認『東京日日新聞』大正15年9月9日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p189 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。その後、ドイツと日本が連盟を脱退したため、非常任理事国の数が9から11に増やされた。[[1934年]][[9月18日]]に[[ソビエト連邦]]が加盟とともに常任理事国となり、理事国は15か国となった<ref name=photo/>。理事会は平均して年に5回、必要に応じて臨時会合を開いた。1920年から1939年の間に、合計107回の会議が開催された<ref>{{cite web|accessdate=15 September 2011|publisher=University of Indiana|title=Chronology 1939|url=http://www.indiana.edu/~league/1939.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110927120649/http://www.indiana.edu/~league/1939.htm|archivedate=27 September 2011|url-status=live}}</ref>。
=== その他の機関 ===
連盟は、[[常設国際司法裁判所]]や、差し迫った[[国際問題]]に対処するために設立されたほかのいくつかの機関・委員会を監督していた。連盟が監督していた機関には、以下のものがある<ref>{{cite web|publisher=National Library of Australia|accessdate=15 September 2011|title=League of Nations|url=http://www.nla.gov.au/research-guides/league-of-nations|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111012025850/http://www.nla.gov.au/research-guides/league-of-nations|archivedate=12 October 2011|url-status=live}}</ref>。
*[[常設国際司法裁判所]]
* 常設委任統治委員会
* 常設軍事諮問委員会
* 軍縮委員会
*[[委任統治]]委員会
* {{仮リンク|国際知的協力委員会|en|International Committee on Intellectual Cooperation}}<ref>Grandjean, Martin (2016). [https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01525565 Archives Distant Reading: Mapping the Activity of the League of Nations’ Intellectual Cooperation] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170915204329/https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01525565 |date=15 September 2017 }}. In ''Digital Humanities 2016'', pp. 531–534.</ref> - [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の前身
* 法律家専門家委員会
* [[ナンセン国際難民事務所]]、[[ドイツ難民高等弁務官事務所]] → [[国際連盟難民高等弁務官事務所]] - [[国際連合難民高等弁務官事務所]](UNHCR)の前身
* アヘン常設中央委員会 - [[国際麻薬統制委員会]]の前身
* 難民委員会
* 奴隷委員会
* 保健機関 - [[世界保健機関]](WHO)の前身
* 経済金融機関
* 通信運輸機関
* 社会問題諮問委員会
* [[国際労働機関]]
* 婦人児童売買諮問委員会
* [[大使会議]]
これらの機関のうち、国際労働機関、常設国際司法裁判所([[国際司法裁判所]]として)、保健機構([[世界保健機関]]として再編成<ref>{{cite web|url=https://oculus.nlm.nih.gov/cgi/f/findaid/findaid-idx?c=nlmfindaid;idno=health034|title=Health Organisation Correspondence 1926–1938|publisher=National Library of Medicine|accessdate=2021-03-25}}</ref>)の3つは、第二次世界大戦後に[[国際連合]]に移管された<ref>{{cite web|url=http://visit.un.org/wcm/content/site/visitors/lang/en/home/about_us/un_offices|accessdate=15 September 2011|title=Demise and Legacy|publisher=United Nations Office at Geneva|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110923093857/http://visit.un.org/wcm/content/site/visitors/lang/en/home/about_us/un_offices|archivedate=23 September 2011}}</ref>。
==== 常設国際司法裁判所 ====
常設国際司法裁判所は、連盟規約では「理事会が設置案を作成し、加盟国が採択する」と規定されており、連盟規約によって直接設置されたものではない。常設国際司法裁判所の規約は理事会と総会によって制定された。裁判官は理事会と総会で選出され、予算は総会が負担した。裁判所は、関係者が提出したあらゆる国際紛争を審理し、判決を下す機関である。また、理事会や総会から付託された紛争や問題について勧告的な意見を述べることもできる。裁判所は、一定の広範な条件の下で、世界の全ての国に開かれていた<ref>{{cite web|url=http://www.indiana.edu/~league/pcijoverview.htm|accessdate=15 September 2011|title=Permanent Court of International Justice|publisher=University of Indiana|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110827192713/http://www.indiana.edu/~league/pcijoverview.htm|archivedate=27 August 2011|url-status=live}}</ref>。
==== 国際労働機関 ====
[[File:Breaker boys. Smallest is Angelo Ross. Hughestown Borough Coal Co. Pittston, Pa. - NARA - 523384.jpg|thumb|炭鉱での児童労働(1912年ごろ、アメリカ)]]
[[File:Kamerun children weaving.jpg|thumb|right|カメルーンでの児童労働(1919年)|alt=A row of more than a dozen children holding wooden looms stretches into the distance.]]
国際労働機関(ILO)は、ベルサイユ条約第13編に基づいて[[1919年]]に設立された{{sfn|Northedge|1986|pp=179–80}}。ILOは、連盟と同じ加盟国を持ち、総会の予算管理下にあるものの、独自の運営機関、総会、事務局を持つ自治組織だった。規約は連盟とは異なり、各国政府だけでなく、使用者団体や労働者団体の代表にも代表権が与えられていた。初代代表は{{仮リンク|アルベール・トーマス|en|Albert Thomas (minister)}}だった{{sfn|Scott|1973|p=53}}。
ILOは、ペンキへの鉛の添加の制限に成功し{{sfn|Frowein|Rüdiger|2000|p=167}}、[[八時間労働制|1日8時間労働]]と週48時間労働を採用するようにいくつかの国を説得した。また、[[児童労働]]の撤廃、職場における女性の権利向上、船員の事故に対する船主の責任追及などのキャンペーンを展開した{{sfn|Northedge|1986|pp=179–80}}。ILOは、連盟の消滅後、1946年に国際連合の機関となった<ref name="ILO">{{cite web | title =Origins and history | publisher =International Labour Organization | url =http://www.ilo.org/global/About_the_ILO/Origins_and_history/lang--en/index.htm | accessdate =25 April 2008 | url-status=dead | archiveurl =https://web.archive.org/web/20080427052744/http://www.ilo.org/global/About_the_ILO/Origins_and_history/lang--en/index.htm | archivedate =27 April 2008 | df =dmy-all }}</ref>。
==== 保健に関する組織 ====
連盟の保健に関する組織は3つあった。連盟の常任役員が所属する「保健局」、医学専門家で構成された執行部である「一般諮問委員会」、そして「保健委員会」である。保健委員会は、連盟の保健事業の運営を監督し、理事会に提出する資料を作成することを目的とした委員会である{{sfn|Northedge|1986|p=182}}。保健委員会は[[ハンセン病]]、[[マラリア]]、[[黄熱病]]の制圧に力を入れていた。後二者については蚊を駆除する国際キャンペーンを行った。また、保健機構はソ連政府と協力して、大規模な教育キャンペーンを行うなど、[[チフス]]の流行を防ぐことに成功した{{sfn|Baumslag|2005|p=8}}。
==== 国際知的協力委員会 ====
国際連盟は、その創設以来、国際的な知的協力の問題に真剣に取り組んできた{{sfn|Grandjean|2018}}。1920年12月の第1回総会はで知的労働の国際的な組織化を目指して行動を起こすよう理事会に勧告し、第2回総会の第5委員会が提出した報告書を採択して、1922年8月にジュネーブで開催される知的協力委員会を招請した。委員会の初代委員長には、フランスの哲学者[[アンリ・ベルグソン]]就任した{{sfn|Northedge|1986|pp=186–187}}。委員会の活動内容は,知的生活の状況の調査、知的生活が危機に瀕している国への援助、知的協力のための国内委員会の設立、国際知識組織との協力、知的財産の保護、大学間の協力、書誌作業の調整と出版物の国際交流、考古学研究の国際協力などであった{{sfn|Northedge|1986|pp=187–189}}。
==== アヘン常設中央委員会 ====
第2次[[万国阿片条約]]で設立されたアヘン常設中央委員会は、[[アヘン]]、[[モルヒネ]]、[[コカイン]]、[[ヘロイン]]の取引に関する統計報告を監督した。同委員会はまた、[[麻薬]]の合法的な国際取引のための輸入証明書と輸出許可書のシステムを確立した{{sfn|McAllister|1999|pp=76–77}}。
==== 奴隷委員会 ====
{{仮リンク|1926年の奴隷条約|en|1926 Slavery Convention}}で設立された奴隷委員会は、世界中の[[奴隷]]制度と奴隷売買の撲滅を目指し、強制売春と戦っていた{{sfn|Northedge|1986|pp=185–86}}。奴隷委員会は、委任統治された国を管理する政府に対し、その国で奴隷制度を廃止するよう圧力をかけた。連盟は1923年に[[エチオピア]]に対し連盟加盟の条件として奴隷制廃止の約束を取り付け、[[リベリア]]と協力して強制労働と部族間奴隷制を廃止した。イギリスは「エチオピアは加盟を正当化するのに十分な文明と国内治安の状態に達していない」という理由で、エチオピアの連盟加盟を支持していなかった<ref>British Cabinet Paper 161(35) on the "Italo-Ethiopian Dispute" and exhibiting a "Report of the Inter-Departmental Committee on British interests in Ethiopia" dated 18 June 1935 and submitted to Cabinet by [[John Maffey, 1st Baron Rugby|Sir John Maffey]]</ref>{{sfn|Northedge|1986|pp=185–86}}。
連盟は、{{仮リンク|ウサンバラ鉄道|en|Usambara Railway|label=タンガニーカ鉄道}}を建設する労働者の死亡率を55%から4%に下げることにも成功した。また、奴隷制、売春、女性や子供の[[人身売買]]などを取り締まるための記録も残された{{sfn|Northedge|1986|p=166}}。国際連盟の圧力により、1923年に[[アフガニスタン]]、1924年に[[イラク]]、1926年に[[ネパール]]、1929年に{{仮リンク|トランスヨルダン|en|Emirate of Transjordan}}と[[ペルシャ]]、1937年に[[バーレーン]]、1942年に[[エチオピア]]で奴隷制が廃止された<ref>{{cite book|year=1976|publisher=Americana Corporation|title=''The Encyclopedia Americana, Volume 25''|page=24}}</ref>。
==== 難民に関する組織 ====
{{main|ナンセン国際難民事務所}}
[[File:Nansenpassport.jpg|thumb|right|upright|[[ナンセン・パスポート]]]]
[[1921年]][[6月27日]]に[[フリチョフ・ナンセン]]の主導で設立された難民委員会<ref>{{cite web|url=https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1938/nansen.html|title=Nansen International Office for Refugees|publisher=Nobel Media|accessdate=30 August 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110927070056/http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1938/nansen.html|archivedate=27 September 2011|url-status=live}}</ref> は、難民の本国送還や、必要に応じて再定住を監督するなど、難民の利益を守るために設立された{{sfn|Northedge|1986|p=77}}。第一次世界大戦末期、ロシア各地には200万人から300万人の各国の元捕虜が散らばっていたと言われており{{sfn|Northedge|1986|p=77}}、委員会が設立されてから2年で42万5,000人の帰国を支援した{{sfn|Scott|1973|p=59}}。また、1922年には[[トルコ]]に難民キャンプを設置し、[[コレラ]]、[[天然痘]]、[[赤痢]]などの蔓延を防ぎ、キャンプ内の難民に食事を提供するなどの支援を行った<ref>{{cite book|last1=Walsh|first1=Ben|last2=Scott-Baumann|first2=Michael|date=2013|title=Cambridge Igcse Modern World History|url=https://books.google.com/books?id=jOXTXwAACAAJ|publisher=Hodder Education Group|page=35|isbn=9781444164428}}</ref>。また、無国籍者のための身分証明手段として[[ナンセン・パスポート]]を制定した{{sfn|Torpey|2000|p=129}}。
==== 女性に関する組織 ====
1937年に設立された女性の法的地位の調査のための委員会は、世界中の女性の地位を調査することを目的としていた。後に[[国連女性の地位委員会|女性の地位委員会]]として国際連合の一部となった<ref>{{cite web|title=A Brief Survey of Women's Rights|author=de Haan, Francisca|work=UN Chronicle|publisher=United Nations|accessdate=15 September 2011|date=25 February 2010|url=https://www.un.org/wcm/content/site/chronicle/cache/bypass/home/archive/issues2010/empoweringwomen/briefsurveywomensrights?ctnscroll_articleContainerList=1_0&ctnlistpagination_articleContainerList=true|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111016104326/http://www.un.org/wcm/content/site/chronicle/cache/bypass/home/archive/issues2010/empoweringwomen/briefsurveywomensrights?ctnscroll_articleContainerList=1_0&ctnlistpagination_articleContainerList=true|archivedate=16 October 2011|url-status=live}}</ref>。
第一次世界大戦の開戦から2週間も経たないうちに、フェミニストたちは戦争反対の活動を始めた{{sfn|Marchand|2015|pp=182–184}}。それまでの平和団体への参加を禁じられていた{{sfn|Marchand|2015|p=102}}アメリカの女性たちは、女性平和パレード委員会(Women's Peace Parade Committee)を結成し、戦争への無言の抗議行動を計画した。委員長の{{仮リンク|ファニー・ギャリソン・ヴィラード|en|Fanny Garrison Villard}}を筆頭に、労働組合、フェミニスト団体、社会改革団体の女性たち({{仮リンク|ケイト・ウォーラー・バレット|en|Kate Waller Barrett}}、{{仮リンク|メアリー・リッター・ビアード|en|Mary Ritter Beard}}、[[キャリー・チャップマン・キャット]]、{{仮リンク|ローズ・シュナイダーマン|en|Rose Schneiderman}}、{{仮リンク|リリアン・ウォルド|en|Lillian Wald}}ら)が1,500人の女性を組織し、[[1914年]][[8月29日]]に[[マンハッタン]]の[[5番街 (マンハッタン)|5番街]]を行進した{{sfn|Marchand|2015|pp=182–184}}。このパレードにより、[[ジェーン・アダムズ]]は、ヨーロッパの2人の[[サフラジスト]](ハンガリー人の{{仮リンク|シュヴィンメル・ロージカ|en|Rosika Schwimmer}}とイギリス人の{{仮リンク|エメリン・ペシック・ローレンス|en|Emmeline Pethick-Lawrence}})が提案した平和会議の開催に関心を持った{{sfn|Marchand|2015|p=194}}。[[1915年]][[1月9日]]から[[1月10日|10日]]にかけて、[[ワシントンD.C.]]でアダムス主導の平和会議が開催され、行政権と立法権を持つ国際機関を設立して、平和と軍縮のための「中立国の永久同盟」を発展させることを求める綱領が採択された<ref>{{cite journal|title=A Woman's Peace Party Full Fledged for Action|journal=The Survey|date=23 January 1915|volume=XXXIII|issue=17|pages=433–434|url=https://archive.org/stream/surveycharityorg33survrich#page/433/mode/1up|accessdate=31 August 2017|publisher=Survey Associates for the Charity Organization Society of New York City|location=New York, New York}}</ref><ref name="The Washington Herald">{{cite news|title=Women Intend to End Strife|url=https://www.newspapers.com/clip/13465910/women_intend_to_end_strife_the/|accessdate=31 August 2017|publisher=[[The Washington Herald]]|date=10 January 1915|location=Washington, D. C.|page=1|via=[[Newspapers.com]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170831220007/https://www.newspapers.com/clip/13465910/women_intend_to_end_strife_the/|archivedate=31 August 2017|url-status=live}} {{open access}}</ref>。
その数か月後には、[[ハーグ]]で国際女性会議を開催することが呼びかけられた。[[1915年]][[4月28日]]に開催された会議{{sfn|Everard|de Haan|2016|pp=64–65}}は、{{仮リンク|ミア・ボワセベン|en|Mia Boissevain}}、{{仮リンク|アレッタ・ヤコブス|en|Aletta Jacobs}}、{{仮リンク|ローザ・マヌス|en|Rosa Manus}}がコーディネートし、中立国・非戦国から1,136名が参加した<ref>{{cite web|last1=van der Veen|first1=Sietske|title=Hirschmann, Susanna Theodora Cornelia (1871–1957)|url=http://resources.huygens.knaw.nl/bwn1780-1830/DVN/lemmata/data/Hirschmann|website=Huygens ING|publisher=Huygens Institute for the History of the Netherlands|accessdate=30 August 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170830163944/http://resources.huygens.knaw.nl/bwn1780-1830/DVN/lemmata/data/Hirschmann|archivedate=30 August 2017|location=The Hague, The Netherlands|language=nl|date=22 June 2017}}</ref>。この会議では、のちに[[婦人国際平和自由連盟]](WILPF)となる組織が設立された{{sfn|Jacobs|1996|p=94}}。会議終了後、2つの女性代表団が派遣され、数か月かけてヨーロッパの国家元首を訪問した。各国外相はそのような機関は効果がないと感じていたが、ほかの国が同意し、[[ウッドロウ・ウィルソン]]米大統領が組織を立ち上げるのであれば、中立的な調停機関の設立に参加するか、それを妨げないことに合意した。しかし、戦争遂行中のウィルソン大統領はこれを拒否した{{sfn|Caravantes|2004|pp=101–103}}{{sfn|Wiltsher|1985|pp=110–125}}。
1919年、フランスの女権擁護者たちは、公式会議への参加許可を得ることを期待して、パリ講和会議と並行して行われる{{仮リンク|連合国女性会議|en|Inter-Allied Women's Conference}}への参加を世界のフェミニストたちに呼びかけた<ref name="Sydney Herald">{{cite news |title=Inter-Allied Women's Conference in Paris |url= https://www.newspapers.com/clip/13469530/the_sydney_morning_herald/ |accessdate=31 August 2017 |newspaper=The Sydney Morning Herald |date=23 May 1919 |page=5 |via=[[Newspapers.com]]|archiveurl= https://web.archive.org/web/20170901030613/https://www.newspapers.com/clip/13469530/the_sydney_morning_herald/ |archivedate=1 September 2017|url-status=live}} {{open access}}</ref>。連合国女性会議は、和平交渉や委員会への提案の許可を求め、女性と子供に関する委員会に参加する権利を与えられた<ref>{{cite news |title=Women and the Peace Conference |url= https://www.newspapers.com/clip/13469815/women_and_the_peace_conference_the/ |accessdate=31 August 2017 |newspaper=The Manchester Guardian |date=18 February 1919 |page=5 |via=[[Newspapers.com]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20170901031301/https://www.newspapers.com/clip/13469815/women_and_the_peace_conference_the/|archivedate=1 September 2017|url-status=live}} {{open access}}</ref><ref>{{cite news |last1=Drexel |first1=Constance |title=Women Gain Victory at Paris Conference |url= https://www.newspapers.com/clip/13469357/the_los_angeles_times/ |accessdate=31 August 2017 |newspaper=Los Angeles Times |date=15 March 1919 |page=2 |via=[[Newspapers.com]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20170901031443/https://www.newspapers.com/clip/13469357/the_los_angeles_times/|archivedate=1 September 2017 |url-status=live}} {{open access}}</ref>。女性に対する男性と同等の権利と法による完全な保護を求めたが<ref name="Sydney Herald"/>、それらは無視された{{sfn|Wiltsher|1985|pp=200–202}}。この会議により、女性に対し、国際連盟の職員や代議員など、あらゆる役割を果たす権利が認められた{{sfn|Meyer|Prügl|1999|p=20}}。また、加盟国は女性や子供の[[人身売買]]を防止し、子供・女性・男性の労働者のための人道的な条件を平等に支持するという宣言を勝ち取った{{sfn|Pietilä|1999|p=2}}。1919年[[5月17日]]から[[5月19日|19日]]にかけて開催された[[チューリッヒ]]平和会議では、ヴェルサイユ条約が懲罰的な措置をとっていること、暴力の非難を規定していないこと、市民的・政治的参加から女性を排除していることを、WILPFの女性たちが非難した{{sfn|Wiltsher|1985|pp=200–202}}。
==== 経済に関する組織 ====
連盟規約では、経済についてはほとんど触れられていない。それにもかかわらず、1920年に連盟理事会は金融会議を招集した。第1回総会では、会議に情報を提供するための経済金融諮問委員会の任命が決定された。1923年、恒久的な経済金融機関が発足した<ref>{{Cite book|last=Hill|first=M.|date=1946|title=The Economic and Financial Organization of the League of Nations|url=https://books.google.com/books?id=3CtBAAAAIAAJ|isbn=9780598687784}}</ref>。
== 加盟国 ==
{{See also|国際連盟加盟国}}
[[File:LN member states animation.gif|thumb|300px|right|[[1920年]]から[[1945年]]までの加盟国の推移
{{legend|#002255|加盟国}}
{{legend|#0066FF|加盟国の植民地}}
{{legend|#ff6600|委任統治領}}
{{legend|#b3b3b3|非加盟国}}
{{legend|#cccccc|非加盟国の植民地}}
]]
連盟の原加盟国は42か国で、そのうち1946年に解散されるまで加盟していたのは23か国([[自由フランス]]を含めると24か国)だった。創設年には他に6か国が加盟し、そのうち解散まで加盟し続けたのは2か国だけだった。[[1926年]][[9月8日]]に[[ヴァイマル共和政]]下の[[ドイツ国]]が連盟に加盟した<ref>{{cite web|title=Chronology of the League of Nations|publisher=United Nations Office at Geneva|accessdate=9 October 2018|url=https://www.unog.ch/80256EDD006B8954/%28httpAssets%29/3DA94AAFEB9E8E76C1256F340047BB52/$file/sdn_chronology.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170525212944/http://www.unog.ch/80256EDD006B8954/(httpAssets)/3DA94AAFEB9E8E76C1256F340047BB52/$file/sdn_chronology.pdf|archivedate=25 May 2017|url-status=live}}</ref>。
その後、さらに15か国が加盟した。[[1934年]][[9月28日]]に[[エクアドル]]が加盟してから[[1935年]][[2月23日]]に[[パラグアイ]]が脱退するまでの間のが、国際連盟の加盟国が58か国と最多となった期間である<ref>{{cite web|url=http://www.indiana.edu/~league/nationalmember.htm|publisher=University of Indiana|accessdate=15 September 2011|title=National Membership of the League of Nations|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110909020709/http://www.indiana.edu/~league/nationalmember.htm|archivedate=9 September 2011|url-status=live}}</ref>。
連盟に最後に加盟したのは、[[1937年]][[5月26日]]加盟の[[エジプト王国|エジプト]]だった。最初に連盟から脱退したのは、[[1925年]][[1月22日]]に脱退した[[コスタリカ]]だった。コスタリカが加盟したのは[[1920年]][[12月16日]]であり、連盟への加盟期間が最短の国でもある。原加盟国では最初に脱退したのは、[[1926年]][[6月14日]]に脱退した[[ブラジル]]である<ref>ブラジルが脱退を通告『中外商業新報』大正15年6月15日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p189 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。[[1932年]]に加盟した[[イラク]]は、連盟の[[委任統治]]下から独立した国の中で初めての加盟国である{{sfn|Tripp|2002|p=75}}。
[[ソビエト連邦]]は[[1934年]][[9月18日]]に加盟した{{sfn|Scott|1973|pp=312, 398}}が、[[1939年]][[12月14日]]に[[冬戦争|フィンランドへの侵攻]]を理由に追放された{{sfn|Scott|1973|pp=312, 398}}。このソ連の追放は、連盟規約に違反したものだった。理事国15か国のうち、追放に賛成したのは7か国(イギリス、フランス、ベルギー、ボリビア、エジプト、南アフリカ、ドミニカ共和国)で、規約で定められた過半数に達していなかった。賛成した国のうち3か国(南アフリカ、ボリビア、エジプト)は、投票の前日に理事国入りした国だった。これは、第二次世界大戦によって実質的に機能しなくなる前の、連盟の最後の行動の一つだった{{sfn|Magliveras|1999|p=31}}。
== 委任統治 ==
{{Main|委任統治}}
第一次世界大戦末期、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は、アフリカと太平洋にある旧ドイツ植民地、および[[オスマン帝国]]のアラビア語圏のいくつかの州の処分問題に直面していた。[[パリ講和会議]]では、これらの領土を連盟に代わって各国政府が管理するという原則が採択された。これは、国際的な監視のもとで各国が責任を負う制度である{{sfn|Northedge|1986|pp=192–193}}。[[委任統治|委任統治制度]](mandate system)と定義されたこの計画は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の主要連合国の政府および外務大臣で構成される十人評議会によって1919年1月30日に採択され、国際連盟に伝達された<ref>{{cite journal|journal=Annals of the American Academy of Political and Social Science|volume=96|date=July 1921|title=The Mandate System of the League of Nations|pages=74–77|author=Myers, Denys P|doi=10.1177/000271622109600116|s2cid=144465753|url=https://zenodo.org/record/1448676}}</ref>。
委任統治制度は、国際連盟規約第22条に規定された{{sfn|Northedge|1986|p=193}}。常設委任統治委員会は、委任統治を監督するとともに{{sfn|Northedge|1986|p=198}}、紛争地域の住民がどの国に加わるかを決めるための[[住民投票]]を実施した。委任統治にはA式・B式・C式の3つの分類があった{{sfn|Northedge|1986|p=195}}。
A式は、旧オスマン帝国の領土に適用された。
{{Quotation|以前オスマン帝国に属した特定の部族は、独立国として仮承認を受けることができる発展段階に達しており、自立できるようになる時期まで、受任国による行政上の助言と援助を受けることができるものとする。受任国の選定にあたっては、部族の意向を第一に考慮しなければならない<ref name="Mandate">{{cite web | last =League of Nations | year =1924 | title =The Covenant of the League of Nations:Article 22 | publisher =The Avalon Project at Yale Law School | url =http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp | accessdate =20 April 2009 | archiveurl =https://web.archive.org/web/20110726080156/http://avalon.law.yale.edu/20th_century/leagcov.asp | archivedate =26 July 2011 | url-status=live | df =dmy-all }}</ref>。|[[:s:国際連盟規約#第二十二條|国際連盟規約第22条第4項日本語公定訳]]の現代語訳}}
B式は、第一次世界大戦後に連盟が管理していた中央アフリカの[[ドイツ植民地帝国|旧ドイツ植民地]]に適用された。
{{Quotation|中央アフリカの人民は、受任国がその地域の施政の責任を負うべき段階にある。受任国は公序良俗に反しない限り良心及び信教の自由を許与し、奴隷貿易、武器取引、酒類取引などの濫用の禁止、要塞や陸海軍基地の設置、警察や領土防衛以外の目的での現地住民の軍事訓練を禁止することを保障し、連盟の他の加盟国との貿易・通商の機会均等も確保するべきである<ref name="Mandate" />。|国際連盟規約第22条第5項日本語公定訳の現代語訳}}
C式は、西南アフリカと南太平洋諸島の旧ドイツ植民地に適用された。
{{Quotation|西南アフリカ及び南太平洋諸島の地域は、人口の希薄さ、面積の狭小さ、文明の中心地から離れていること、または受任国の領土と地理的に隣接していること、その他の事情により、受任国の領土の構成部分として管理するのが最善であると判断される。ただし受任国は、現地住民の利益のために前項の保護措置を講じる必要がある<ref name="Mandate" />。|国際連盟規約第22条第6項日本語公定訳の現代語訳}}
=== 受任国 ===
領土は受任国により統治された。たとえば、[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]は[[イギリス]]、[[南西アフリカ (南アフリカ委任統治領)|南西アフリカ]]は[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]が受任国となり、その地域が自治できると判断されるまで統治していた。14の委任統治領は、イギリス、日本、フランス、ベルギー、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの7つの受任国に分割された{{sfn|Northedge|1986|pp=194–195}}。1932年10月3日に連盟に加盟した[[イラク王国]]{{sfn|Northedge|1986|p=216}}を除き、これらの地域が独立を果たしたのは[[第二次世界大戦]]後のことで、最後に独立したのは1990年だった。連盟の解散時にまだ残っていた委任統治領のほとんどは[[信託統治|国連信託統治領]]となった<ref>{{cite web|url=https://www.un.org/en/decolonization/history.shtml|accessdate=15 September 2011|publisher=United Nations|title=The United Nations and Decolonization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110903215926/http://www.un.org/en/decolonization/history.shtml|archivedate=3 September 2011|url-status=live}}</ref>。
委任統治とは別に、連盟は[[ザール (国際連盟管理地域)|ザール盆地]]を15年間統治し、国民投票の結果ドイツに返還された。また、[[自由都市ダンツィヒ]](現在の[[ポーランド]]・[[グダニスク]])を[[1920年]][[11月15日]]から[[1939年]][[9月1日]]まで統治した{{sfn|Northedge|1986|pp=73–75}}。
== 解決した領土紛争 ==
{{仮リンク|第一次世界大戦の影響|en|aftermath of World War I|label=第一次世界大戦の後}}、国境の正確な位置や、ある地域がどの国に加わるかなど、解決すべき問題が多く残されていた。これらの問題のほとんどは、勝利した[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が連合国最高評議会などの組織で処理した。連合国は、特に困難な問題だけを連盟に委ねる傾向があった。このため、[[戦間期]]の初期には、連盟は戦争による混乱の解決にはほとんど関与していなかった。初期に連盟が検討した問題は、[[パリ講和会議|パリ講和条約]]で指定されたものだった{{sfn|Northedge|1986|pp=70–72}}。
連盟の発展とともにその役割は拡大し、1920年代半ばには国際的な活動の中心となっていた。この変化は、連盟と非加盟国との関係にも表れている。たとえば、アメリカやロシアは、連盟との連携を強めていった。1920年代後半、フランス、イギリス、ドイツは、国際連盟を外交活動の中心に据えており、この時期、各国の外務大臣はジュネーヴで開催される連盟の会議に出席していた。また、彼らは連盟の機構を利用して、関係の改善や対立の解消に努めていた{{sfn|Henig|1973|p=170.}}。
=== オーランド諸島 ===
{{Main|en:Åland Islands dispute|{{仮リンク|オーランド危機|en|Åland crisis}}}}
[[オーランド諸島]]は、[[スウェーデン]]と[[フィンランド]]の中間に位置する[[バルト海]]に浮かぶ約6,500の島の集まりである。ほとんどが[[スウェーデン語]]圏だが、[[1809年]]、オーランド諸島はフィンランドとともに[[ロシア帝国]]に占領された。[[1917年]]12月、ロシアが[[十月革命]]で混乱している中でフィンランドは独立を宣言したが、オーランド諸島の住民の多くはスウェーデンへの復帰を希望していた{{sfn|Scott|1973|p=60}}。フィンランド政府は、ロシアが1809年に設立した[[フィンランド大公国]]にオーランド諸島を含めていたことから、オーランド諸島を新国家の一部と考えていた。1920年までに、この紛争は戦争勃発寸前までエスカレートした。イギリス政府はこの問題を連盟理事会に付託したが、フィンランドは内政問題であるとして連盟の介入を許さなかった。連盟は、この問題を調査すべきかどうかを決めるために小委員会を作り、肯定的な回答を得たため、中立委員会を作った{{sfn|Scott|1973|p=60}}。1921年6月、連盟は、オーランド諸島をフィンランドの一部とし、非武装化を含めて島民の保護を保証するという中立委員会の決定を発表した。スウェーデンはこの決定に消極的に同意した。これは、連盟を通じて直接締結された初のヨーロッパの国際協定だった{{sfn|Northedge|1986|pp=77–78}}。
=== 上シレジア ===
{{仮リンク|上シレジア|en|Upper Silesia}}の領土問題を連合国が解決できなかったため、連盟に委ねられた{{sfn|Scott|1973|pp=82–83}}。第一次世界大戦後、[[プロイセン]]に属していた上シレジアの領有権を[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]が主張した。ヴェルサイユ条約では、上シレジアをドイツとポーランドのどちらに帰属させるかを決めるために、上シレジアで{{仮リンク|上シレジア住民投票|en|Upper Silesia plebiscite|label=住民投票}}を行うことが推奨されていた。ドイツ当局の態度に対する不満から、第1次([[1919年]])・第2次([[1920年]])の[[シレジア蜂起]]が発生した。[[1921年]][[3月20日]]に行われた住民投票では、59.6%(約50万人)がドイツへの加盟を支持したが、ポーランドはこの投票をめぐる状況が不公平であったと主張した。この結果を受けて、1921年に第3次シレジア蜂起が起こった{{sfn|Osmanczyk|Mango|2002|p=2568}}。
1921年8月12日、連盟はこの問題の解決を求められた。理事会は、ベルギー、ブラジル、中国、スペインからの代表者で構成される委員会を設置し、状況の調査を行った{{sfn|Northedge|1986|p=88}}。委員会は、住民投票で示された地域ごとの意向に応じて上シレジアをポーランドとドイツの間で分割すること、2つの地域の相互の関係の詳細(たとえば、2つの地域の経済的・産業的な相互依存関係のために、国境を越えて商品を自由に通行させるかどうかなど)は両者で決定すべきであることを勧告した{{sfn|Scott|1973|pp=83}}。
1921年11月、ドイツとポーランドの間の条約の交渉のための会議がジュネーヴで開催された。5回の会議を経て、最終的な和解が得られた。合意では、この地域の大部分をドイツに与え、ポーランドには、この地域の鉱物資源と産業の大部分を占める地域を与えるというものだった。1922年5月にこの協定が公表されると、ドイツ国内では激しい憤りの声が上がったが、それでもこの条約は両国で批准された。これにより、第二次世界大戦が始まるまで、この地域は平和が続いた{{sfn|Northedge|1986|p=88}}。
=== アルバニア ===
[[アルバニア公国]]の国境線は、[[1919年]]のパリ講和会議の際に連盟の決定に委ねることとされたため、[[1921年]]9月になっても決定されないまま不安定な状況が続いていた。アルバニアの南では[[ギリシャ王国]]軍が軍事行動を行った。アルバニアの北ではセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国([[ユーゴスラビア王国]])軍がアルバニア人部族との衝突を経て交戦状態となっていた。連盟は列強各国の代表からなる委員会を現地に派遣した。1921年11月、連盟はアルバニアの国境線を、[[1913年]]時点のものを基準とし、ユーゴスラビアに有利になるように3か所を変更するという決定を行った。数週間後、ユーゴスラビア軍はしぶしぶ撤退した{{sfn|Northedge|1986|pp=103–105}}。
{{see also|コルフ島事件}}
[[1923年]][[8月24日]]、[[大使会議]]より派遣されたギリシャ・アルバニア国境劃定委員会のメンバーだったイタリアの{{仮リンク|エンリコ・テリーニ|en|Enrico Tellini}}将軍とその部下4人が何者かに殺され、アルバニアの国境線が再び国際紛争の原因となった。イタリアの指導者[[ベニート・ムッソリーニ]]は激怒し、5日以内に事件を調査するよう委員会に要求した。ムッソリーニは、調査の結果がどうであれ、ギリシャ政府に対しイタリアに5,000万[[イタリア・リラ|リラ]]の賠償金を支払うことを要求した。ギリシャ政府は、ギリシャ人による犯行であると証明されない限り、賠償金は支払わないと回答した{{sfn|Scott|1973|p=86}}。
ムッソリーニは軍艦をギリシャの[[ケルキラ島|コルフ島]]に派遣して砲撃し、1923年[[8月31日]]にイタリア軍がコルフ島を占領した。これは連盟規約に反するものだったため、ギリシャはこの事態に対処するために連盟に訴えた。連合国側は(ムッソリーニの主張で)、テリーニ将軍を任命したのは大使会議であるため、この紛争を解決する責任は大使会議にあると合意した。連盟理事会はこの紛争について検討し、その結果を大使会議に伝え、最終的な判断を仰ぐことになった。大使会議は連盟の勧告のほとんどを受け入れ、犯人が判明していないにもかかわらず、ギリシャに対してイタリアに5千万リラを支払うよう強要した{{sfn|Scott|1973|p=87}}。その後、イタリア軍はコルフ島から撤退した{{sfn|Northedge|1986|p=110}}。
=== メーメル ===
{{Main|en:Klaipėda Revolt|{{仮リンク|クライペダ蜂起|en|Klaipėda Revolt}}}}
[[バルト海]]に面した港町メーメル(現在の[[リトアニア]]・[[クライペダ]])と[[クライペダ地域|その周辺地域]]にはドイツ人が多く住んでおり、ヴェルサイユ条約第99条により、連合国の暫定的な支配下に置かれていた。フランス政府とポーランド政府はメーメルを単一の国家に属さない国際都市にすることを希望したが、リトアニアはこの地域を併合することを望んでいた。[[1923年]]になってもこの地域の処遇は決まっておらず、1923年1月にはリトアニア軍が侵攻して港を占領した。連合国はリトアニアとの間で合意に至らなかったため、連盟に問題を委ねた。1923年12月、連盟理事会は調査委員会を任命した。委員会は、メーメルをリトアニアに割譲し、自治権を与えることを決定した。{{仮リンク|クライペダ条約|en|Klaipėda Convention}}は、[[1924年]][[3月14日]]に連盟理事会で承認され、その後、連合国とリトアニアによって承認された{{sfn|Northedge|1986|p=107}}。
[[1939年]]、ナチスが台頭したドイツがこの地域を占領し、この地域をドイツに返還しなければ武力に訴えるとリトアニアに{{仮リンク|1939年のドイツのリトアニアへの最後通牒|en|1939 German ultimatum to Lithuania|label=最後通牒}}を発した。国際連盟はメーメル地方のドイツへの分離を防ぐことができなかった。
=== ハタイ ===
{{Main|en:Hatay State}}
[[フランス委任統治領シリア]]にあった[[イスケンデルン|アレクサンドレッタ]]の{{仮リンク|サンジャク (行政区分)|label=サンジャク|en|Sanjak}}には、連盟の監視の下で1937年に自治権が与えられた。1938年8月の選挙で選ばれた議会は、翌月にこの地をハタイと改称し、[[ハタイ国|ハタイ共和国]]として独立を宣言した。1939年半ばにフランスの同意を得て[[トルコ]]に併合された<ref>{{cite book|pages=117–121|author=Çaǧaptay, Soner|title=Islam, secularism, and nationalism in modern Turkey|publisher=Taylor & Francis|year=2006|isbn=978-0-415-38458-2}}</ref>。
=== モスル ===
{{Main|en:Mosul Question}}
国際連盟は、1926年に[[イラク王国]]と[[トルコ|トルコ共和国]]の間で起きた旧オスマン帝国領{{仮リンク|モスル州 (オスマン帝国)|en|Mosul Vilayet|label=モスル}}の領有権をめぐる紛争を解決した。1920年に[[イギリス委任統治領メソポタミア]]の一部としてイラクを代表して外交を行っていたイギリスは、モスルはイラクに属すると主張していた。一方、トルコ共和国はモスルをトルコの歴史的な中核地の一部と主張していた。1924年、連盟はベルギー、ハンガリー、スウェーデンをメンバーとする調査委員会をこの地に派遣した。委員会の調査によりは、モスルの人々はトルコとイラクのどちらにも属したくないが、選ぶとしたらイラクを選ぶだろうということがわかった{{sfn|Scott|1973|p=133}}。1925年、委員会は、[[クルド人]]の自治権を確保するために、イギリスがイラクの委任統治権をあと25年保持することを条件に、同地域をイラクの一部とするよう勧告した。連盟理事会はこの勧告を採択し、1925年12月16日にモスルをイラクに与えることを決定した。
トルコは1923年の[[ローザンヌ条約]]では連盟の仲裁を受け入れていたが、理事会の権限を疑問視してこの決定を拒否した。この問題は[[常設国際司法裁判所]]に委ねられたが、常設国際司法裁判所は「連盟理事会が全会一致で決定した場合は、それを受け入れなければならない」と判断した。それにもかかわらず、イギリス、イラク、トルコは、1926年6月5日、連盟理事会の決定をほぼ踏襲し、モスルをイラクに割り当てる別の条約を批准した。この条約では、イラクは25年以内に連盟加盟を申請することができ、加盟と同時に委任統治も終了することが合意された{{sfn|Northedge|1986|pp=107–108}}{{sfn|Scott|1973|pp=131–135}}。
=== ヴィリニュス ===
{{Main|en:Żeligowski's Mutiny|{{仮リンク|ヴィリニュスの反乱|en|Żeligowski's Mutiny}}}}
第一次世界大戦後、ポーランドとリトアニアは共に独立を回復したが、すぐに領土問題に没頭するようになった{{sfn|Northedge|1986|p=78}}。[[ポーランド・ソビエト戦争]]戦争中、リトアニアはソ連との間で{{仮リンク|ソビエト・リトアニア講和条約|en|Soviet–Lithuanian Peace Treaty}}を締結し、リトアニアとソ連との国境線を定めた。この条約により、リトアニアは、かつてのリトアニアの首都でありながら、ポーランド人が多数を占める都市[[ヴィリニュス]](ポーランド語で「ヴィルノ」)を支配することになった{{sfn|Scott|1973|p=61}}。これにより、リトアニアとポーランドの間の緊張が高まり、{{仮リンク|ポーランド・リトアニア戦争|en|Polish–Lithuanian War}}の再開が懸念されたため、1920年10月7日、連盟は停戦と両国間の分断線を定めた{{仮リンク|スヴァウキ協定|en|Suwałki Agreement}}を取り決めた{{sfn|Northedge|1986|p=78}}。1920年10月9日、ポーランド軍を指揮していた{{仮リンク|ルツィアン・ジェリゴフスキ|en|Lucjan Żeligowski}}将軍がスヴァウキ協定に反してこの都市を占領し、[[中部リトアニア共和国]]を建国した{{sfn|Northedge|1986|p=78}}。
連盟理事会は、リトアニアからの援助要請を受けて、ポーランドに対し軍の撤退を求めた。ポーランド政府はこれに応じる意向を示したものの、ポーランド軍は兵を増派して街を強化した{{sfn|Scott|1973|p=62}}。これを受けて連盟は、ヴィリニュスの将来は住民投票で決めるべきであり、ポーランド軍は撤退して連盟が組織する国際軍がこれに代わるべきだと決定した。この計画は、ポーランド、リトアニア、そしてリトアニアに国際軍が駐留することに反対していたソビエト連邦の抵抗を受けた。1921年3月、連盟は住民投票の計画を断念した{{sfn|Scott|1973|p=63}}。{{仮リンク|ポール・ハイマンス|en|Paul Hymans}}は、以前の[[ポーランド・リトアニア共和国]]のようなポーランドとリトアニアの連合体を提案したが、失敗に終わり、1922年3月にヴィリニュスとその周辺は正式にポーランドに併合された。
リトアニアがクライペダ地域(メーメル)を占領したあと、1923年3月14日、大使会議によってリトアニアとポーランドの国境線が設定され、ヴィリニュスはポーランドに残された{{sfn|Northedge|1986|pp=78–79}}。リトアニアの当局はこの決定を受け入れず、公式には1927年までポーランドとの戦争状態が続いた{{sfn|Bell|2007|p=29}}。リトアニアがポーランドとの国交を回復し、国境線を事実上受け入れたのは、1938年のポーランドからの最後通牒があってからである{{sfn|Crampton|1996|p=93}}。
=== コロンビアとペルー ===
{{Main|コロンビア・ペルー戦争}}
20世紀初頭、[[コロンビア]]と[[ペルー]]の間にはいくつかの国境紛争があり、1922年、両政府はそれらを解決するために[[サロモン=ロサノ条約]]に調印した{{sfn|Osmanczyk|Mango|2002|p=1314}}。この条約によって国境の町[[レティシア]]とその周辺がペルーからコロンビアに割譲され、コロンビアは[[アマゾン川]]にアクセスできるようになった{{sfn|Scott|1973|p=249}}。これによって土地を失ったペルーのゴム・砂糖産業の経営者たちが、1932年9月1日にレティシアを武装占拠した{{sfn|Bethell|1991|pp=414–415}}。当初、ペルー政府はこの占領を認めなかったが、ペルー大統領[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ]]はコロンビアの再占領に抵抗することを決めた。ペルー軍はレティシアを占領し、2国間の武力紛争に発展した{{sfn|Scott|1973|p=250}}。数か月にわたる外交交渉の末、両国政府は連盟の調停を受け入れ、両国の代表が連盟理事会でこの一件について報告した。1933年5月に双方が署名した暫定和平協定では、二国間交渉が進む間、国際連盟が紛争地域を管理することになっていた{{sfn|Scott|1973|p=251}}。1934年5月、最終和平協定が締結され、レティシアのコロンビアへの返還、1932年のペルーの侵攻に対する正式な謝罪、レティシア周辺の非武装化、アマゾン川と[[プトゥマヨ川]]の自由航行、[[不可侵条約|不可侵]]の誓約などがなされた<ref>{{cite book|title=The verdict of the League|year=1934|editor=Hudson, Manley|publisher=World Peace Foundation|pages=1–13}}</ref>。
=== ザール ===
[[ザール (国際連盟管理地域)|ザール]]は、[[プロイセン]]と[[プファルツ地方|プファルツ]]の一部から形成された州で、ヴェルサイユ条約によって連盟の管理下に置かれた。連盟が支配を開始してから15年後に、この州をドイツとフランスのどちらに帰属させるかを決める住民投票が行われることになっていた。[[1935年]]に行われた住民投票では、90.3%の有権者がドイツへの帰属を支持し、連盟理事会はこれをすぐに承認した{{sfn|Northedge|1986|pp=72–73}}{{sfn|Churchill|1986|p=98}}。
== その他の紛争 ==
連盟は、領土問題だけでなく国家間や国内の紛争にも介入していた。アヘンの国際取引や性奴隷との戦い、1926年までのトルコを中心とした難民の救済活動などがその成果である。[[無国籍]]の[[難民]]のための国際的に認められた初の身分証明書として1922年に導入された[[ナンセン・パスポート]]は、この分野での革新の一つである<ref>{{cite web|url=http://www.unog.ch/80256EE60057D930/%28httpPages%29/03F1E1DD124D3276C1256F32002EE3AB?OpenDocument|accessdate=15 September 2011|title=The United Nations in the Heart of Europe|publisher=United Nations|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111110132257/http://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/03F1E1DD124D3276C1256F32002EE3AB?OpenDocument|archivedate=10 November 2011|url-status=live}}</ref>。
=== ギリシャとブルガリア ===
{{Main|{{仮リンク|ペトリチ事変|en|Incident at Petrich}}}}
[[1925年]]10月、[[ギリシャ]]と[[ブルガリア]]の国境で衛兵が起こした事件をきっかけに、両国の間で戦闘が始まった{{sfn|Northedge|1986|p=112}}。事件の3日後、ギリシャ軍がブルガリアに侵攻した。ブルガリア政府は軍隊に形だけの抵抗を命じ、1万人から1万5千人の人々を国境地帯から避難させ、連盟に紛争解決を託した{{sfn|Scott|1973|pp=126–127}}。連盟はギリシャ軍の侵攻を非難し、ギリシャに対し軍の撤退とブルガリアへの補償を求めた{{sfn|Northedge|1986|p=112}}。
=== リベリア ===
アメリカの[[ファイアストン]]社が所有する[[リベリア]]の大規模なゴム農園での強制労働の告発と、[[アメリカ人]]による[[奴隷貿易|奴隷売買]]の告発を受けて、リベリア政府は連盟に調査を要請した{{sfn|Miers|2003|pp=140–141}}。それを受けて、連盟、アメリカ、リベリアの三者が共同で委員会を設立した{{sfn|Miers|2003|p=188}}。1930年、連盟の報告書により、奴隷と強制労働の存在が確認された。この報告書では、多くのリベリア政府関係者が契約労働者の売買に関与しているとし、それをヨーロッパ人やアメリカ人に置き換えるよう勧告されていた。このことは、リベリア国民の怒りを買い、[[チャールズ・D・B・キング]]大統領とその副大統領は辞任に追い込まれた。リベリア政府は、強制労働や奴隷制を禁止し、社会改革のためにアメリカの協力を要請した{{sfn|Miers|2003|p=188}}<ref>{{cite journal|first=W.E. Burghardt|last=Du Bois|title=Liberia, the League and the United States|journal=Foreign Affairs|volume=11|date= July 1933|pages=682–95|issue=4|doi=10.2307/20030546|jstor=20030546}}</ref>。
=== 満洲事変 ===
{{Main|満洲事変}}
[[File:SesiónDeLaSociedadDeNacionesSobreManchuria1932.jpeg|thumb|right|満洲事変について国際連盟で演説する中国代表団(1932年)]]
満洲事変は、主要加盟国が日本の侵略に取り組むことを拒否したため、連盟を弱体化させる決定的な後退となった<ref>Sara Rector Smith, ''The Manchurian crisis, 1931–1932: a tragedy in international relations'' (1970).</ref>。
[[対華21カ条要求]]の合意条件では、日本政府は中国の[[満洲]]地域にある[[南満洲鉄道]]の周辺に軍隊を駐留させる権利を持っていた。1931年9月、日本の[[関東軍]]は[[満蒙問題]]解決の「唯一の方策」<ref>浜口裕子「石原莞爾の対中国観を追う」(拓殖大学論集 政治・経済・法律研究vol.2 No.1 2018.9)[https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282676666083968] P.2</ref>として、鉄道の一部を破損し([[柳条湖事件]]){{sfn|Iriye|1987|p=8}}{{sfn|Nish|1977|pp=176–178}}、これを中国軍の犯行であるとして(東京からの命令に反して{{sfn|Scott|1973|p=208}})[[満洲]]全土を占領した。のち1932年3月1日満洲国政府から「[[満洲国]]」建国宣言が公布され、1932年3月9日、[[清]]の元皇帝の[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を執政(後に皇帝)とする傀儡政権が樹立された{{sfn|Northedge|1986|p=139}}。
国際連盟は満洲に[[リットン調査団]]を派遣した。1年後の[[1932年]]10月、[[リットン報告書]]が発表された。この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書は、[[1933年]][[2月24日]]の総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で採択された。日本の代表団はこれを不服として議場を退場し、[[3月8日]]に国際連盟からの脱退を決定した{{sfn|Northedge|1986|pp=156–161}}。国際連盟側の脱退に関する処理は2年間の予告期間を経て、[[1935年]][[3月27日]]に効力を発生した<ref>予告期間が満了、日本脱退の効力発生『東京日日新聞』昭和10年3月27日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p181 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
イギリスの歴史家{{仮リンク|C・L・モワット|en|C. L. Mowat}}は、これによって連盟の集団安全保障は死んでしまったと評した。
{{quote|連盟も、集団安全保障や法の支配の思想も、敗北したのである。侵略者への無関心や同情もあったが、連盟加盟国が準備不足で他のことに気を取られ、日本の野心の大きさを認識するのが遅すぎたことも原因の一つであった<ref>Charles Loch Mowat, ''Britain between the Wars 1918–1940'' (1955) p. 420.</ref>。}}
=== チャコ戦争 ===
{{Main|チャコ戦争}}
[[1932年]]、[[ボリビア]]と[[パラグアイ]]が乾燥地帯の[[グランチャコ]]をめぐって戦争を起こしたが、連盟はこれを防ぐことができなかった。この地域は人口は少ないものの、[[パラグアイ川]]が流れており、この土地を押えることで[[内陸国]]である両国が[[大西洋]]に自由にアクセスできるようになる{{sfn|Scott|1973|pp=242–243}}。また、のちに誤りであることが判明したが、チャコ地方には大量の石油が埋蔵されているという憶測もあった{{sfn|Levy|2001|pp=21–22}}。1920年代後半から国境で小競り合いが続いていたが、1932年にボリビア軍がピシャントゥータ湖のカルロス・アントニオ・ロペス要塞でパラグアイ軍を攻撃したことで、全面戦争に発展した{{sfn|Bethell|1991|p=495}}。パラグアイは連盟に訴えたが、[[パン=アメリカ会議]]が調停を申し出たため、連盟は行動を起こさなかった。この戦争では、人口約300万人のボリビアで5万7,000人、人口約100万人のパラグアイで3万6,000人の死傷者が出て、双方にとって大惨事となった{{sfn|Scott|1973|p=248}}。また、両国は経済的にも破綻の危機に瀕した。1935年6月12日に停戦交渉が行われた時点でパラグアイがこの地域の大半を掌握しており、1938年のブエノスアイレス講和条約で、グランチャコはパラグアイに帰属することが決定した{{sfn|Scheina|2003|p=103}}。
=== イタリアのエチオピア侵攻 ===
{{Main|en:Abyssinia Crisis|第二次エチオピア戦争}}
[[File:SelassieInJerusalem.jpg|thumb|right|[[エルサレム]]経由でエチオピアを脱出する皇帝[[ハイレ・セラシエ1世]]]]
[[1935年]]10月、イタリアの独裁者[[ベニート・ムッソリーニ]]は40万人の軍隊を送り込み、アビシニア([[エチオピア]])に侵攻した{{sfn|Northedge|1986|pp=222–225}}。[[ピエトロ・バドリオ]]元帥が1935年11月から作戦を指揮し、無防備な村や医療施設などを標的に、爆撃、[[マスタードガス]]などの化学兵器の使用、水道水への毒の混入などを命じた{{sfn|Northedge|1986|pp=222–225}}{{sfn|Hill|Garvey|1995|p=629}}。1936年5月、近代化された[[イタリア陸軍]]は武装していないアビシニア人を破り、首都[[アディスアベバ]]を占領した。エチオピア皇帝[[ハイレ・セラシエ1世]]は国外に脱出した{{sfn|Northedge|1986|p=221}}。
1935年11月、連盟はイタリアの侵略を非難し、[[経済制裁]]を行ったが、[[石油]]の販売禁止やイギリスが支配する[[スエズ運河]]の閉鎖などは行われず、制裁の効果はほとんどなかった{{sfn|Baer|1976|p=245}}。これは、のちにイギリス首相[[スタンリー・ボールドウィン]]が述べているように、イタリアの攻撃に耐えうる軍事力をどの国も持っていなかったためである<ref name = "events"/>。1935年10月、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領は、成立したばかりの[[中立法]]を発動して、双方への武器・軍需品の禁輸措置をとった。交戦中のイタリアに対しては、その他の貿易品目も含めて、さらに「道徳的禁輸措置」を拡大した。アメリカは10月5日とその後の[[1936年]][[2月29日]]に、石油やその他の物資の輸出を平時の通常レベルに抑えようとしたが、あまり成功しなかった{{sfn|Baer|1976|p=71}}。連盟の制裁は1936年[[7月4日]]に解除されたが、その時点でイタリアはすでにアビシニアの都市部を支配していた{{sfn|Baer|1976|p=298}}。この制裁撤回の確認が行われた国際連盟総会には、ハイレ・セラシエも出席。エチオピアの主張とイタリアを擁護する国を批判する演説を行った。これは君主が総会に出席した初のケースとなった<ref>エチオピア皇帝、総会で悲憤の演説『大阪毎日新聞』昭和11年7月2日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p179 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
1935年12月の{{仮リンク|ホーア=ラヴァル協定|en|Hoare–Laval Pact}}は、イギリス外相の{{仮リンク|サミュエル・ホーア (初代テンプルウッド子爵)|label=サミュエル・ホーア|en|Samuel Hoare, 1st Viscount Templewood}}とフランス首相の[[ピエール・ラヴァル]]が、アビシニアの紛争を終結させるために、アビシニアをイタリア領とアビシニア領に分割することを提案したものである。ムッソリーニはこの協定に同意する用意があったが、この協定の情報が事前に漏れてしまった。英仏両国の国民は、「アビシニアを売り渡すものだ」と猛反発した。ホーアとラヴァルは辞任に追い込まれ、英仏両政府は2人との関係を断ち切った{{sfn|Baer|1976|pp=121–155}}。1936年6月、ハイレ・セラシエは連盟総会で演説し、自国の保護のために協力してほしいと訴えた。国家元首が連盟総会で直接演説したのは、これが初めてだった<ref>{{cite web| author =Haile Selassie I| title =Appeal to The League of Nations:June 1936, Geneva, Switzerland| publisher =Black King| url =http://www.black-king.net/haile%20selassie%2001e.htm| accessdate =6 June 2008| url-status=dead| archiveurl =https://web.archive.org/web/20080325023216/http://www.black-king.net/haile%20selassie%2001e.htm| archivedate =25 March 2008| df =dmy-all| author-link =Haile Selassie I}}</ref>。
アビシニア危機により、国際連盟が加盟国の自国の利益に左右されてしまうことが示された{{sfn|Baer|1976|p=303}}。制裁があまり厳しくなかった理由の一つとして、それによりムッソリーニとヒトラーを同盟関係に追い込むことを、イギリスとフランスが恐れていたことがある{{sfn|Baer|1976|p=77}}。
=== スペイン内戦 ===
{{Main|スペイン内戦}}
[[1936年]][[7月17日]]、[[フランシスコ・フランコ]]将軍率いる[[スペイン陸軍]]の反乱軍が[[クーデター]]を起こした。その結果、[[スペイン第二共和政|ロイヤリスト派]](選挙で選ばれた左派の国民政府)と{{仮リンク|ナショナリスト派|en|Nationalist faction (Spanish Civil War)}}(スペイン陸軍の大半の将校を含む[[右翼|右派]]の[[反共主義|反共主義者]])の間で長期にわたる武力紛争が発生した{{sfn|Lannon|2002|pp=25–29}}。1936年9月、スペイン外相{{仮リンク|フリオ・アルバレス・デル・バイヨ|en|Julio Álvarez del Vayo}}は、スペインの領土保全と政治的独立を守るための武力介入を連盟に訴えた。連盟加盟国は、スペイン内戦には介入せず、外国の紛争介入を防ぐこともしなかった。[[アドルフ・ヒトラー]]と[[ベニート・ムッソリーニ]]はフランシスコ・フランコ将軍の[[ナショナリズム|ナショナリスト派]]を援助し続け、ソ連は独伊よりは規模は小さかったが[[ロイヤリスト]]派を援助した。[[1937年]]2月、連盟は[[国際旅団|外国人義勇兵]]を禁止したが、これは実際には象徴的な動きでしかなかった{{sfn|Northedge|1986|pp=264–265, 269–270}}。
=== 日中戦争 ===
{{Main|日中戦争}}
[[1937年]][[7月7日]]の[[盧溝橋事件]]を皮切りに、日本は中国への本格的な侵攻を開始し、1930年代を通じて局地的な紛争を誘発してきた。[[9月12日]]、中国代表の[[顧維鈞]]が連盟に国際的な介入を訴えた。欧米諸国は、特に[[第二次上海事変]]で外国人が多く住む[[上海市|上海]]を頑強に守り抜いた中国に同情的だった{{sfn|Northedge|1986|p=270}}。しかし、連盟は現実的な対策を提示することができず、10月4日、連盟はこの問題を[[九カ国条約]]会議に委ねた<ref>{{cite book|title=The China White Paper|page=10|editor=van Slyke, Lyman|publisher=Stanford University Press|year=1967}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/WorldWar2/china.htm|title=Japanese Attack on China 1937|accessdate=15 September 2011|publisher=Mount Holyoke University|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110831141400/http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/WorldWar2/china.htm|archivedate=31 August 2011|url-status=live}}</ref>。
=== ソ連のフィンランド侵攻 ===
{{Main|冬戦争}}
[[1939年]][[8月23日]]に締結された[[独ソ不可侵条約]]には、東ヨーロッパにおける独ソの勢力圏を線引きする秘密議定書が含まれていた。それによれば、[[フィンランド]]と[[バルト三国]]、[[ポーランド]]東部はソ連の勢力圏とされていた。ソ連は1939年[[9月17日]]に[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]し、[[11月30日]]には[[冬戦争|フィンランドに侵攻]]した。
同年12月11日、国際連盟フィンランド問題委員会はソ連に対してフィンランドからの撤兵を求める最後通告を24時間の期限をつけて発した<ref>国際連盟がソ連に撤兵を求める最後通告『東京日日新聞』昭和14年12月13日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>が、12月12日にソ連外相の[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]は調停を拒絶する旨のメッセージを委員会議長あてに発送<ref>ソ連、連盟の調停を拒否『東京日日新聞』昭和14年12月14日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)</ref>。[[12月14日]]、第20回国際連盟総会はソ連を糾弾、フィンランドへの援助に関する決議案を採択。続いて[[アルゼンチン]]代表から提案のあったソ連を除名する決議案を満場一致をもって採択した。同日午後に非公開で行われた連盟理事会でもソ連除名を含む決議案は可決され、ソ連の国際連盟除名が最終決定した<ref>連盟総会、ソ連除名を決議『東京朝日新聞』昭和14年12月15日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)</ref>。ソ連は連盟除名について、イギリスとフランスの筋書きであると批難。ソ連は(侵攻直後に発足した[[傀儡政権]]である)[[フィンランド民主共和国]]との間で条約を結んでおり、他国はソ連を非難する道徳的、形式的権利を有していないと主張した<ref>除名は連盟の敗北とタス通信『東京日日新聞』昭和14年12月17日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)</ref>。
連盟はソ連を追放したが、追放に必要な過半数の賛成は得られておらず、連盟は自ら規約に違反した<ref>[[Richard W. Leopold]], ''The Growth of American Foreign Policy. A history'' (New York: Alfred A. Knopf 1964), pp. 558, 561–562 (quote at 562).</ref>。連盟加盟国の中で、このような屈辱を受けたのはソ連だけであった<ref>[[Stephen Kotkin]], ''Stalin. Waiting for Hitler, 1929–1941'' (New York: Penguin 2017), p.729 (quote).</ref><ref>Cf., [[Winston Churchill]], ''The Gathering Storm'' (Boston: Houghton Mufflin 1948), pp. 392–393, 447, 539.</ref>。
== 軍縮の失敗 ==
{{Further|en:Conference for the Reduction and Limitation of Armaments}}
連盟規約の第8条では、連盟加盟国に対し「軍備を、国家の安全と国際的義務の共同行動による実施との整合性を保つための最低限度まで削減する」ことが求められていた<ref>{{cite web|last=League of Nations |year=1924 |title=The Covenant of the League of Nations:Article 8 |publisher=The Avalon Project at Yale Law School |url=http://www.yale.edu/lawweb/avalon/leagcov.htm |accessdate=17 May 2006 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160415165629/http://www.yale.edu/lawweb/avalon/leagcov.htm |archivedate=15 April 2016 }}</ref>。連盟の時間とエネルギーの大半はこの目標に費やされていたが、多くの加盟国は、このような大規模な[[軍縮]]が達成できるのか、そもそもそれが望ましいのかどうか確信が持てずにいた{{sfn|Northedge|1986|pp=113, 123}}。[[ヴェルサイユ条約]]では、戦勝国である連合国側にも軍縮を試みる義務を課しており、敗戦国に課せられた軍備制限は、世界的な軍縮への第一歩と言われていた{{sfn|Northedge|1986|pp=113, 123}}。連盟規約では、各国の軍縮計画を作成する任務が連盟に与えられていたが、理事会はこの任務を、1932年から1934年の{{仮リンク|世界軍縮会議|en|Conference for the Reduction and Limitation of Armaments}}の準備のために1926年に設置された特別委員会に委ねていた{{sfn|Northedge|1986|p=114}}。
連盟加盟国がこの問題に対して持っていた意見はさまざまだった。フランスは、自国が攻撃されたときの軍事的支援の保証なしに軍備を縮小することには消極的だった。ポーランドとチェコスロバキアは、西側からの攻撃に対して脆弱であると感じており、軍縮を行う前に連盟による加盟国への攻撃への対応を強化することを望んでいた{{sfn|Henig|1973|p=173}}。この保証がなければ、ドイツからの攻撃のリスクが大きすぎるため、軍備を縮小することはできなかった。第一次世界大戦後、ドイツが力を取り戻すにつれ、特に1933年に[[アドルフ・ヒトラー]]が権力を得て[[ドイツの首相]]になってからは、攻撃に対する恐怖心が高まった。特に、ドイツがベルサイユ条約を覆そうとしたり、ドイツ軍を再建したりしたことで、フランスは軍縮に消極的になっていった{{sfn|Northedge|1986|p=114}}。
世界軍縮会議は、1932年に国際連盟がジュネーヴで開催し、60か国の代表が参加したが、この会議は失敗に終わった<ref>A.C. Temperley, ''The Whispering Gallery Of Europe'' (1938), [https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.216023 online]</ref>。世界軍縮会議の冒頭で、1年間の軍備拡張モラトリアムが提案され、のちに数か月延長された{{sfn|Goldblat|2002|p=24}}。軍縮委員会は、フランス、イタリア、スペイン、日本、イギリスから海軍の規模を制限するという初期の合意を得たが、最終的な合意には至らなかった。結局、軍縮委員会は、1930年代のドイツ、イタリア、スペイン、日本による軍備増強を止めることができなかった。
ベルサイユ条約で禁止されていたヒトラーによる[[ラインラント進駐|ラインラントの再軍備]]、[[ズデーテン地方]]の占領、オーストリアへの[[アンシュルス]]など、第二次世界大戦につながる重大な出来事に直面しても、連盟はほとんど沈黙していた。それどころか、連盟加盟国自身が再軍備した。1933年、日本は連盟の判断に従うことなく脱退し<ref>{{cite book|first=Meirion and Susie|last=Harries|title=Soldiers of the Sun: The Rise and Fall of the Imperial Japanese Army|page=163|isbn=978-0-394-56935-2|year=1991}}</ref>、同年には、世界軍縮会議でフランスとドイツの間の武器の平準化が合意されなかったことを口実にドイツが脱退、1937年にはイタリアとスペインが脱退した{{sfn|Northedge|1986|pp=47, 133}}。連盟の最後の重要な行動は、1939年12月に[[冬戦争|フィンランドに侵攻]]したソ連を追放したことだった{{sfn|Northedge|1986|p=273}}。
== 問題点 ==
[[File:The Gap in the Bridge.png|thumb|'''The Gap in the Bridge'''(橋の隙間)。看板には「この国際連盟橋はアメリカ大統領が設計した」と書かれており、橋のたもとでは、「キーストーン USA」と書かれた[[キーストーン]]を枕に[[アンクル・サム]]が寝ている。1920年12月10日の『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌に掲載された[[風刺漫画]]で、アメリカが国際連盟に加盟しなかったことによる連盟の弱体化を風刺している。]]
[[第二次世界大戦]]の勃発は、連盟がその主たる目的である世界大戦の再発防止に失敗したことを示すものである。この失敗には様々な理由があったが、その多くは組織の全般的な弱点に関連するものである。また、アメリカが加盟を拒否したことで、連盟の力は制限されていた{{sfn|Northedge|1986|pp=276–278}}。
=== 組織と構造 ===
連合国が第一次世界大戦を終結させるための和平協定の一環として設立された組織であることから、国際連盟は「勝者の連盟」とみなされていた{{sfn|Gorodetsky|1994|p=26}}{{sfn|Raffo|1974|p=1}}。連盟の中立性は、優柔不断さとして表れがちだった。理事会で決議を行うには、9か国(のちに15か国)の理事国の全会一致が必要だった。そのため、不可能ではないにしても、決定的で効果的な行動をとることは困難であった。また、総会の議決においても全会一致を必要とするものがあり、決定に時間がかかることもあった。この問題は、国際連盟の主要国が、自分たちの運命が他国によって決定される可能性を受け入れたくなかったため、全会一致を強制することで事実上の[[拒否権]]を与えていたことが主な原因であった<ref>{{cite book|pages=226–227|author=Birn, Donald S|publisher=Clarendon Press|year=1981|title=The League of Nations Union|isbn=978-0-19-822650-5}}</ref>{{sfn|Northedge|1986|pp=279–282, 288–292}}。
=== 連盟規約の拘束性と代表権 ===
連盟が国際問題を解決するにあたり、その規約の拘束性と代表権はしばしば問題となった。連盟は各国間の協力と平和安寧を完成させるため(規約前文)組織されていたにも拘らず、主要な国が非加盟か、あるいは容易に脱退したためである。また連盟の1つの議席を複数の代表が争う事態を想定していなかった。
その中でも特に目立っていたのがアメリカだった。ウッドロウ・ウィルソン大統領は連盟結成の原動力となり、その形態にも強い影響を与えたが、アメリカ上院は1919年11月19日に加盟を見送った{{sfn|Knock|1995|p=263}}。{{仮リンク|ルース・ヘニグ|en|Ruth Henig, Baroness Henig}}は、アメリカが加盟していれば、フランスとイギリスにも支援を提供し、フランスの安全性を高め、フランスとイギリスがドイツに対してより全面的に協力することを促し、[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の台頭の可能性を低くしたのではないかと指摘している{{sfn|Henig|1973|p=175}}。逆に、アメリカが加盟した場合、アメリカがヨーロッパ諸国との戦争や経済制裁に消極的であったため、連盟の{{仮リンク|国際的事件|en|International incident}}への対処能力に支障をきたしていたかもしれない、とヘニグは認めている{{sfn|Henig|1973|p=175}}。アメリカの[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]の構造上、[[アメリカ合衆国議会|立法府上院]]の事前承認がなければ連盟のアメリカ政府代表者は[[行政|行政府]]に代わって決定を下すことができなかったため、アメリカが加盟することは国際連盟の問題処理能力の障害となっていたかもしれない{{sfn|Henig|1973|p=176}}。
1920年1月に連盟が発足したとき、ドイツは第一次世界大戦の侵略者とみなされていたため、連盟への加盟が認められなかった。また、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]は、共産主義政権が歓迎されていなかったことに加え、[[ロシア内戦]]で戦っていた[[赤軍]]と[[白軍]]の双方が正統な政府であると主張していたことにより、当初は加盟が疑問視され、加盟国から除外されていた。
[[1930年代]]に大国が脱退したことで、連盟はさらに弱体化した。日本は第一次世界大戦の連合国であったため、常任理事国としてスタートしたが、1933年に満州を占領したことに連盟が反発したため、脱退した{{sfn|McDonough|1997|p=62}}。イタリアもまた常任理事国としてスタートしたが、[[第二次エチオピア戦争]]の終結の約1年後の1937年に脱退した。スペインも常任理事国としてスタートしたが、[[スペイン内戦]]が国民党の勝利に終わったあと、1939年に脱退している。ドイツは、1926年に加盟が認められ、同時に常任理事国となったが、1933年に[[アドルフ・ヒトラー]]が政権を握ると連盟を脱退した{{sfn|McDonough|1997|p=69}}。
=== 集団安全保障 ===
もう一つの重要な弱点は、連盟の基盤となった[[集団安全保障]]の考え方と、個々の国家間の[[国際関係]]との間の矛盾から生まれたものである{{sfn|Northedge|1986|p=253}}。連盟の集団安全保障システムは、各国が友好的と考えていた国家に対して、必要に応じて自国の[[国益]]を損なうような行動をとり、相性の悪い国家を支援することを要求するものだった{{sfn|Northedge|1986|p=253}}。この弱点が露呈したのが{{仮リンク|アビシニア危機|en|Abyssinia Crisis}}である。イギリスとフランスは、イタリアの支援が重要な役割を果たしていた内部秩序の敵から守るために{{sfn|Northedge|1986|p=254}}、ヨーロッパで自分たちが作ろうとしていた安全保障を維持することと、連盟加盟国としてのアビシニア(エチオピア)に対する義務とを両立させなければならなかった{{sfn|Northedge|1986|pp=253–254}}。
1936年6月23日、イタリアのアビシニアに対する戦争を抑制するための連盟の努力が破綻したことを受けて、イギリスの[[スタンリー・ボールドウィン]]首相は、[[庶民院 (イギリス)|下院]]で次のように述べた。
{{quote|(集団安全保障は)失敗しました。それは結局の所、ヨーロッパのほぼ全ての国が、いわゆる軍事的制裁に踏み切ることに消極的だったからです。本当の、あるいは主な理由は、数週間の過程で、侵略国以外に戦争の準備ができている国がないことがわかったからです。集団行動が単なる話の種ではなく、現実のものとなるためには、全ての国が戦争の準備をするというだけではなく、すぐにでも戦争をする準備をしなければならないということです。これは恐ろしいことですが、集団安全保障には欠かせないことです<ref name="events">{{cite book|title=Events Leading Up to World War II|publisher=Library of Congress|year=1944|page=97}}</ref>。}}
結局、イギリスとフランスは、ヒトラーの下で増大するドイツの軍国主義に直面したことで、集団安全保障の概念を放棄し、[[宥和政策]]をとることとなった{{sfn|McDonough|1997|p=74}}。また、国際連盟では、1934年にフランス・[[マルセイユ]]で起きたユーゴスラビア国王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]][[暗殺]]事件をきっかけに、[[テロリズム]]に関する初の国際的な議論が行われた。この事件の陰謀論的な特徴は、[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降の国家間のテロリズムの言説にも見られるものである<ref>Ditrych, Ondrej. '' 'International Terrorism' as Conspiracy: Debating Terrorism in the League of Nations''. [[Historical Social Research]] Vol. 38, 1 (2013).</ref>。
アメリカの外交史家{{仮リンク|サミュエル・フラッグ・ベミス|en|Samuel Flagg Bemis}}は、当初は連盟を支持していたが、20年後に考えを改めた。
{{quote|国際連盟は期待はずれの失敗だった……国際連盟が失敗したのは、アメリカが参加しなかったからではなく、大国が個々の国益に適う場合を除いて制裁措置を取ることを嫌がったからであり、また、国際連盟の当初のコンセプトの支えとなっていた[[民主主義]]が世界の半分以上で崩壊してしまったからである<ref>Quoted in Jerald A. Combs, 'American diplomatic history: two centuries of changing interpretations (1983) p 158.</ref>。}}
=== 平和主義と軍縮 ===
連盟は独自の武力を持たず、その決議の執行を大国に頼っていたが、大国はそれを非常に嫌がった{{sfn|McDonough|1997|pp=54–5}}。連盟のもっとも重要な加盟国であるイギリスとフランスは、制裁措置には消極的であり、連盟のために軍事行動を起こすことにはさらに消極的だった。第一次世界大戦の直後、両国の国民と政府の間で[[平和主義]]が強い力を持つようになった。イギリスの[[保守党 (イギリス)|保守党]]は、特に連盟には興味を示さず、政府内では連盟の関与しない条約交渉を好んでいた{{sfn|Northedge|1986|pp=238–240}}。連盟は、集団安全保障を主張する一方で、英仏をはじめとする加盟国の軍縮を主張しており、連盟の権威を維持するための唯一の強力な手段を自ら奪っていたことになる{{sfn|Northedge|1986|pp=134–135}}。
第一次世界大戦中にイギリスの内閣で連盟の構想が議論されていた際、{{仮リンク|内閣官房長官 (イギリス)|label=内閣官房長官|en|Cabinet Secretary (United Kingdom)}}の{{仮リンク|モーリス・ハンキー (初代ハンキー男爵)|label=モーリス・ハンキー|en|Maurice Hankey, 1st Baron Hankey}}はこの問題についての覚書を回覧していた。ハンキーはまず、「一般的にこのような計画は、まったく架空の安全感を生み出すため、我々にとって危険であると思われる」と述べた{{sfn|Barnett|1972|p=245}}。ハンキーは、戦前のイギリスが条約の尊厳を信じていたことは妄想だと攻撃し、最後にこう主張した。
{{quote|それ(国際連盟)は失敗に終わるだけであり、その失敗が先延ばしにされればされるほど、この国が眠りに誘われてしまうことは確実である。ほとんど全ての政府に見られる、軍備への支出を控える善意の理想主義者の手に、非常に強力なテコを渡すことになり、やがてほぼ確実に、わが国は不利な立場に立たされることになるだろう{{sfn|Barnett|1972|p=245}}。}}
外務省職員である{{仮リンク|エア・クロウ|en|Eyre Crowe}}卿も、「厳粛な同盟と誓約」は「ほかの条約と同じような、ただの条約」に過ぎないと主張するメモを内閣に提出している。「ほかの条約のように破られないようにするにはどうしたらいいのか?」クロウはさらに、侵略者に対する「共同行動の誓い」の計画に懐疑的な見方を示した。それは、個々の国家の行動は、依然として国益とパワーバランスによって決定されると考えたからである。また、連盟による経済制裁を提案しても効果がなく、「すべては実際の軍事的優位性の問題である」と批判した。普遍的な軍縮は現実的には不可能であるとクロウは警告した{{sfn|Barnett|1972|p=245}}。
== 日本の貢献と脱退まで ==
[[ファイル:Notice of dismiss of the cooporation with the League of Nations related organization.jpg|thumb|255px|[[1938年]](昭和13年)[[11月5日]]、[[天羽英二]]国際会議帝国事務局長が[[国際労働機関]]を含む関連機関への協力中止を国際連盟に通達したことを報じた官報]]{{Wikisource|國際聯盟脱退ノ詔書}}
[[大日本帝国]]([[日本]])は脱退まで[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]であり、国際連盟事務局次長には[[新渡戸稲造]]、[[杉村陽太郎]]が選出されるなど中核的役割を担っていた。国際連盟に大日本帝国が加入した[[内閣総理大臣]]は[[原敬]]([[原内閣]])であった。日本は、理事国として毎年分担金(1933年時点で60万円※現在価値で'''約60億円''')<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100180351|title=連盟を脱退したら財界はどうなる? : まず為替相場をみる : 時事解説|oldmeta=00825939}} 中外商業新報1933.2.19-1933.3.4(昭和8)]</ref> を拠出する必要があった。日本は滞納せずに支払っていたが、[[中華民国]]([[中国国民党]]政府)は設立当初からの一般加盟国であり、日本と同等の地位(常任理事国)を主張しながら支払いが滞っていた一方で、国際連盟を日本糾弾の場としていた。中華民国の他の列強へのプロパガンダの場になってしまったことは誤算であった<ref name=":1">『日本史講座 - 第9巻』(東京大学出版会 (2005/4/20))西村成雄P.126</ref>。
[[柳条湖事件]]を契機に、大日本帝国が[[満洲]]全土を制圧すると([[満洲事変]])、[[清]]朝最後の皇帝・[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を執政にする[[満洲国]]を建国した。これに抗議する[[中華民国]]は連盟に提訴。連盟ではイギリスの第2代[[リットン伯爵]][[ヴィクター・ブルワー=リットン]](リットン卿)を団長とする[[リットン調査団]]を派遣する。リットンは「日本の満洲における“[[特殊権益]]”は認めたが、満洲事変は[[正当防衛]]には当たらず、[[日本軍]]は満鉄附属地域まで撤退した後、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」と報告書に記した。これが「[[リットン調査団|リットン報告書]]」である<ref name=":1" />。
[[1933年]](昭和8年)2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告が審議され、この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書が採択され、表決の結果は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票([[タイ王国|シャム]] = 現タイ王国)、投票不参加1国([[チリ]])であり、国際連盟規約15条4項<ref>紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ</ref> および6項<ref>聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)</ref> についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で[[松岡洋右]]日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会から退場した。
その後、同年3月27日、大日本帝国は正式に国際連盟に脱退を表明し<ref>1933年(昭和8年)3月27日外務省告示第21号「國際聯盟離脱ニ關スル詔書ノ聖旨奉體方」</ref>、同時に脱退に関する[[詔書]]が発布された。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年(昭和10年)3月27日となった。
脱退宣言ののちの猶予期間中、1935年まで大日本帝国は分担金を支払い続け、また正式脱退以降も[[国際労働機関]](ILO)には1940年(昭和15年)まで加盟していた([[ヴェルサイユ条約]]等では連盟と並列的な常設機関であった)。その他、[[アヘン]]の取締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
しかし、[[1938年]](昭和13年)[[9月30日]]に国際連盟が「規約第16条の制裁発動」が可能であることを確認する決議をすることで、日本政府はこれらの「連盟諸機関に対する協力」の廃止も決定した<ref>[[第1次近衛内閣]]([[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]])が[[国家総動員法]]を成立させた1938年(昭和13年)4月から7か月後の11月に、[[国際労働機関]](ILO)を脱退したことになる。</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h22.html#4-3 外務省: 『日本外交文書 日中戦争』(全4冊)]</ref><ref>大阪朝日新聞1938.11.3</ref>。国際連盟から受任していた[[南洋諸島]]の委任統治については、[[1945年]](昭和20年)[[9月2日]]に[[第二次世界大戦]]で[[ポツダム宣言]]受諾により[[日本の降伏|敗戦]]するまで、引き続き大日本帝国の行政下におかれた。
== 脱退・追放・終焉 ==
[[File:18-IV-1946.png|right|thumb|500px|国際連盟が消滅した1946年4月18日時点の[[国際連盟加盟国]]と国際連合加盟国を示した世界地図。国際連盟加盟国は、赤と緑で示した国(濃い色はその属領)である。]]
国際連盟は[[戦間期]]の[[ギリシャ・ブルガリア紛争]]などの小規模紛争解決に一定の役割を果たしたが、[[第二次エチオピア戦争]]などでは実効性を挙げられないケースもあった。
'''脱退'''
[[1925年]]には[[コスタリカ]]が、連盟運営分担金の支払が不可能になったために、国際連盟から初めての脱退となった。翌[[1926年]]には[[ブラジル]]が[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]参入失敗を機に脱退した。[[1930年代]]には、[[満洲国]]が承認されなかった[[大日本帝国]]、また[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が[[ナチ党の権力掌握|政権を掌握]]した[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が脱退([[1933年]])。その後、[[ホロドモール]]を収束させた[[ソビエト連邦]]が加盟([[1934年]])するが、第二次エチオピア戦争で[[エチオピア帝国]]に侵攻した[[イタリア王国]]が脱退([[1937年]])、以降も後の[[枢軸国]]側中小国の脱退が続出し、大規模[[紛争]]の解決に対する限界を露呈した。ヨーロッパの状況が戦争へとエスカレートしていく中で、総会は[[1938年]][[9月30日]]と[[1939年]][[12月14日]]に、連盟が合法的に存在し続け、縮小して活動を行うのに十分な権限を事務総長に移譲した。連盟本部だったパレ・デ・ナシオンは、第二次世界大戦が終わるまでの約6年間、無人となった{{sfn|Scott|1973|p=399}}。
'''ソ連の追放'''
[[第二次世界大戦]]勃発後の連盟は、各国代表が本国に帰還したことで規模縮小を余儀なくされたものの、一部専門家委員会の会合や予算執行などのための総会は開かれていた。また理事会は[[1939年]]12月に、前月から開始された[[冬戦争|フィンランド侵略]]を理由にソ連を除名した。しかし、戦争の激化とともに総会・理事会の開催が困難となり、代替として総会議長である[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[ノルウェー|ノルウェー人]]の{{仮リンク|C・J・ハンブロ|en|C. J. Hambro}}を委員長とする管理委員会を結成し、戦時中も[[ロンドン]]、[[リスボン]]など場所を移して会合を続けた。
'''職員不足・分担金未納問題'''
事務局の一部機能を非加盟国である[[アメリカ合衆国]]の[[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]、薬物部を[[ワシントンD.C.]]、財務部をロンドン、姉妹機関の[[国際労働機関]]を[[カナダ]]の[[モントリオール]]へと分散配置した。戦争による職員減少や分担金未納による予算不足により、活動は統計記録の維持など最小限のものとなったが、プリンストンでは戦後に新国際組織を創設する計画・議論が行われていた。
'''国際連合創設案'''
1943年の[[テヘラン会談]]で、[[第二次世界大戦]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は国際連盟に代わる新しい組織である[[国際連合]](国連)を創設することに合意し、1944年の[[ダンバートン・オークス会議]]で[[国際連合憲章]]の原案が策定された。[[国際労働機関]]など、連盟の多くの組織は機能を維持し、最終的には国連の傘下に入った<ref name="ILO"/>。国際連合の構造の設計者は、国際連盟よりも効果的な組織にすることを意図していた{{sfn|Northedge|1986|pp=278–280}}。
'''最後の総会・国際連合への移管・解散'''
国際連合発足後の[[1946年]][[4月8日]]、最後となる第21回総会がジュネーヴで開催された<ref>[http://worldatwar.net/timeline/other/league18-46.html League of Nations Chronology] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20041230095126/http://worldatwar.net/timeline/other/league18-46.html |date=30 December 2004 }} Philip J. Strollo</ref>。この会議には34か国の代表者が参加した{{sfn|Scott|1973|p=404}}。この会議では連盟の清算が議題となり、1946年当時で約2200万米ドル相当の資産<ref name="SyracuseHerald">"League of Nations Ends, Gives Way to New U.N.", ''Syracuse Herald-American'', 20 April 1946, p. 12</ref>(国際連盟本部である[[パレ・デ・ナシオン]]、連盟の文書館など)を国際連合に移管し、予備費は拠出した国に返還し、連盟の債務を清算することが、[[4月18日]]の投票により決定した{{sfn|Scott|1973|p=404}}。総会は、国際連盟の創設者の一人である[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]の次のような結びの演説で幕を閉じた。
{{quote|侵略は、それがどこで起きようと、どのように擁護されようと、国際的な犯罪であり、それに反発し、それを粉砕するために必要なあらゆる力を行使することは、平和を愛するすべての国の義務であること、適切に使用されるならば、憲章の機構も、規約の機構と同様に、この目的のために十分であること、そして、全ての国の心ある市民は、平和を維持するためにいかなる犠牲も払う用意があることを、大胆に言おうではありませんか。私はあえて、平和のための偉大な仕事は、私たちの国の狭い利益だけでなく、個人と同様に国家が依存する善悪の大原則にかかっていることを聴衆に印象づけたいと思います。
<br />
連盟は死にました。国際連合万歳{{efn|原文は"The League is dead; long live the United Nations!"。国王が崩御し、次の国王が即位したときの「[[国王崩御、国王万歳!]]」に倣ったものである。}}{{sfn|Scott|1973|p=404}}。
}}
総会では、「総会閉会の翌日([[4月19日]])をもって、国際連盟は、本決議に定める事務の清算のみを目的とする場合を除き、その存在を停止する」という決議がなされ<ref name=Myers>{{cite journal | author = Denys P. Myers | title = Liquidation of League of Nations Functions | journal = The American Journal of International Law | volume = 42 | issue = 2 | year = 1948 | pages = 320–354 | doi=10.2307/2193676| jstor = 2193676 }}</ref>、国際連盟は[[4月20日]]に解散した。[[国際司法裁判所]]や国際労働機関は国連に引き継がれた。
各国9人で構成された清算委員会は、その後15か月間、連盟の資産や機能が国連や専門機関に移管されるのを監督し、1947年7月31日に解散した<ref name=Myers/>。
国際連盟のアーカイブは[[国際連合ジュネーブ事務局]]に移管され、現在はユネスコの[[世界記憶遺産]]に登録されている<ref name="unog">{{cite web|url=http://portal.unesco.org/ci/en/ev.php-URL_ID=26995&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html|title=League of Nations Archives 1919–1946|publisher=UNESCO Memory of the World Programme|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080930100726/http://portal.unesco.org/ci/en/ev.php-URL_ID%3D26995%26URL_DO%3DDO_TOPIC%26URL_SECTION%3D201.html|archivedate=30 September 2008|accessdate=2009-09-07}}</ref>。
== 国際連盟アーカイブ ==
{{Main|en:League of Nations archives}}
[[File:Humanités Numériques.JPG|thumb|right|国際連盟アーカイブ(ジュネーヴ)<ref>League of Nations archives, United Nations Office in Geneva. Network visualization and analysis published in {{Cite journal| volume = 10| issue = 3| last = Grandjean| first = Martin| title = La connaissance est un réseau| journal = Les Cahiers du Numérique| accessdate = 15 October 2014| date = 2014| pages = 37–54| url = http://www.cairn.info/resume.php?ID_ARTICLE=LCN_103_0037| doi = 10.3166/lcn.10.3.37-54| archiveurl = https://web.archive.org/web/20150627140457/http://www.cairn.info/resume.php?ID_ARTICLE=LCN_103_0037| archivedate = 27 June 2015| url-status=live| df = dmy-all}}</ref>]]
国際連盟[[公文書館|アーカイブ]] (The League of Nations archives) は、国際連盟の[[記録管理|記録]]や[[文献資料 (歴史学)|文書]]を集めたものである。1919年の国際連盟発足から、1946年の国際連盟解散までの約1,500万ページの内容が含まれている。このアーカイブは、[[国際連合ジュネーブ事務局]]に置かれている<ref name=":4">{{Cite book|title=Guide to the Archives of the League of Nations 1919–1946|last=United Nations Library of Geneva|publisher=United Nations|year=1978|isbn=92-1-200347-8|location=Geneva, Switzerland|pages=19}}</ref>。
=== LONTAD ===
{{Main|en:Total Digital Access to the League of Nations Archives Project}}
2017年、国連図書館・公文書館・ジュネーブは、国際連盟アーカイブの保存、[[デジタル化]]、オンラインアクセスの提供を目的とした "Total Digital Access to the League of Nations Archives Project" (LONTAD) を開始した。2022年の完成を予定している<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.unog.ch/80256EE60057D930/(httpPages)/EFBEE574FFB575BEC1257DF6003B333A?OpenDocument|title=Digitization Programmes: Total Digital Access to the League of Nations Archives (LONTAD) Project|website=United Nations Geneva|accessdate=18 December 2019}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
=== 調査 ===
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* Temperley, A.C. ''The Whispering Gallery Of Europe'' (1938), highly influential account of League esp disarmament conference of 1932–34. [https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.216023 online]
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* {{cite book |last = Tripp |first = Charles |author-link=Charles R. H. Tripp |year = 2002 |title = A History of Iraq |publisher = Cambridge University Press |isbn = 978-0-521-52900-6}}
*{{cite book|last1=Wiltsher|first1=Anne|title=Most Dangerous Women: Feminist peace campaigners of the Great War|date=1985|publisher=Pandora Press|location=London, England|isbn=978-0-86358-010-9|edition=1st|url=https://archive.org/stream/mostdangerouswom00anne_0#page/111/mode/1up}}
*{{Cite book|和書|editor=筒井若水|year=2002|title=国際法辞典|publisher=有斐閣|isbn=4-641-00012-3|ref=国際法辞典}}
{{refend}}
== 関連項目 ==
* [[大西洋憲章]]
* {{仮リンク|帝国主義反対連盟|en|League against Imperialism}}
* {{仮リンク|平和自由連盟|en|League of Peace and Freedom}}
* [[北大西洋条約機構]] (NATO)
* [[列強]]
== 外部リンク ==
{{Commons category}}
* [https://web.archive.org/web/20130518143316/http://libcudl.colorado.edu/wwi/pdf/i73728238.pdf ''The League of Nations.''], Boston: Old Colony Trust Company, 1919. A collection of charters, speeches, etc. on the topic.
* [https://lontad-project.unog.ch/records?search=&sort=Date,_score&perpage=10&page=1&&page=1&refine[Categories][]=Photos#title League of Nations Photo archive]
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* [https://www.unog.ch/80256EDD006B8954/(httpAssets)/36BC4F83BD9E4443C1257AF3004FC0AE/%24file/Historical_overview_of_the_League_of_Nations.pdf History (1919–1946)] from the [[国際連合ジュネーブ事務局|United Nations Office at Geneva]]
* [https://libraryresources.unog.ch/leagueofnationsarchives League of Nations Archives] from the [[国際連合ジュネーブ事務局|United Nations Office at Geneva]]
* [http://www.indiana.edu/~league/tcassemblies.htm Table of Assemblies] Dates of each annual assembly, links to list of members of each country's delegation
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* {{NHK放送史|D0009060025_00000|国際連盟脱退へ}}
* {{青空文庫|000718|50729|新字新仮名|国際聯盟とは如何なものか}}([[新渡戸稲造]]著)
* [https://www.youtube.com/watch?v=W8PMGfioOuM 松岡洋右 国際連盟脱退演説 (フィルム映像、一部分)]
* {{Kotobank}}
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材料
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材料(ざいりょう)
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'''材料'''(ざいりょう)
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* [[材料費]]:勘定科目としての材料
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ファッションデザイナー
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ファッションデザイナー(en:fashion designer、fr:styliste)とは、デザイナーの中で、服飾・ファッション分野のデザインを専門とする者を指す。特に、ファッションショー等に出展する者の職業名ではなく、実際にはこれらに無関係の、企業専属のアパレルデザイナーや、インディーズのデザイナー、フリーのデザイナーなど、多岐にわたる。彼らは一貫してデザイン画を描いたり、実際に裁縫をすることも多い。なお、服の完成や、商品の売上について責任の一端を負う場合も多い。映画や舞台などにおける衣裳をてがけるデザイナーは、衣裳デザイナーと呼ばれる。
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'''ファッションデザイナー'''([[:en:fashion designer]]、[[:fr:styliste]])とは、[[デザイナー]]の中で、[[服飾]]・[[ファッション]]分野の[[デザイン]]を専門とする者を指す。特に、[[ファッションショー]]等に出展する者の職業名ではなく、実際にはこれらに無関係の、企業専属の[[アパレル]]デザイナーや、[[インディーズ]]のデザイナー、フリーのデザイナーなど、多岐にわたる。彼らは一貫してデザイン画を描いたり、実際に[[裁縫]]をすることも多い。なお、服の完成や、商品の売上について責任の一端を負う場合も多い。映画や舞台などにおける衣裳をてがけるデザイナーは、[[衣裳デザイナー]]と呼ばれる。
== 日本の主要なファッションデザイナー ==
*[[石津謙介]]
*[[森英恵]]
*[[芦田淳]]
*[[桂由美]]
*[[三宅一生]]
*[[高田賢三]]
*[[菊池武夫 (ファッションデザイナー)|菊池武夫]]
*[[川久保玲]]
*[[山本耀司]]
*[[山本寛斎]]
*[[コシノヒロコ]]
*[[コシノジュンコ]]
*[[コシノミチコ]]
== 関連する映画 ==
*『[[プレタポルテ (映画)|プレタポルテ]]』:作品中に、[[ジャン=ポール・ゴルチエ]]、[[ソニア・リキエル]]、[[三宅一生]]、[[クリスチャン・ラクロワ]](''[[:fr:Christian Lacroix|Christian Lacroix]]'')らが登場し、デザイナーの仕事風景を垣間見ることができる。
*『[[ココ・シャネル (2008年の映画)|ココ・シャネル]]』の伝記。
*『[[イヴ・サンローラン (2010年の映画)|イヴ・サンローラン]]』のドキュメンタリーからオートクチュールの歴史を参考にすることができる。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Fashion designers}}
* [[デザイン]]
* [[ファッション]]
* [[服装]]
* [[オートクチュール]]
* [[パタンナー]]
* [[テキスタイル]]・デザイナー
* [[クリエイティブ・ディレクター]]
* [[スタイリスト]]
* [[服飾学校]]
* [[プロジェクト・ランウェイ]]:無名のデザイナーが様々な課題を競うテレビ番組
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機械材料
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機械材料(きかいざいりょう)とは、機械を構成する部品に必要とされる要件を備えた材料の総称であり、機械に必要とされる機能、強度、使用環境などに照らして、各材料の持つ特性を加味して選定される。
Category:材料も参照。
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機械材料(きかいざいりょう)とは、機械を構成する部品に必要とされる要件を備えた材料の総称であり、機械に必要とされる機能、強度、使用環境などに照らして、各材料の持つ特性を加味して選定される。
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'''機械材料'''(きかいざいりょう)とは、[[機械]]を構成する[[部品]]に必要とされる要件を備えた材料の総称であり、機械に必要とされる機能、強度、使用環境などに照らして、各材料の持つ特性を加味して選定される。
==種類==
[[:Category:材料]]も参照。
===金属材料===
[[金属]]・[[合金]]も参照。
====鋼鉄材料====
* [[鋼]](スチール)
* [[工具鋼]]
* [[炭素鋼]]
* [[ステンレス鋼]]
* 含鉄合金
* [[鋳鉄]]
====非鉄金属材料====
* [[アルミニウム]]、[[アルミニウム合金]]
* [[ニッケル]]、ニッケル合金
* [[マグネシウム]]、[[マグネシウム合金]]
* [[銅]]、銅合金
* [[チタン]]、チタニウム合金
===非金属材料===
* [[プラスチック]]
* [[ゴム]]
* [[木材]]
===複合材料===
* FRP([[繊維強化プラスチック]])
* FRM([[繊維強化金属]])
* FRC([[繊維強化セラミックス]])
* C/C([[炭素繊維強化炭素複合材料]])
==考慮すべき特性(例)==
* [[強度]]
* 疲労強度
* [[剛性]]
* [[弾性]]
* 靱性
* [[重量]]
* 比強度・比剛性
* [[環境]]特性(耐[[熱]]・耐寒・耐[[腐食]]性など)
* [[熱伝導率]]・[[電気伝導|電気伝導率]]
* 寸法安定性(線膨張係数)
* [[費用|コスト]]
* 加工性(生産性)
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==関連項目==
* [[機械工学]]
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部品
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部品(ぶひん)とは、機構、器具、構造物、製品などの一部分を成している品を指す。部分品の略称であり、パーツや部材とも呼ばれる。類義語はコンポーネント(component)、エレメント、ユニットなど。
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部品(ぶひん)とは、機構、器具、構造物、製品などの一部分を成している品を指す。部分品の略称であり、パーツや部材とも呼ばれる。類義語はコンポーネント(component)、エレメント、ユニットなど。 機械の部品 →「機械要素」を参照 電気製品の部品 →「電子部品」を参照 ソフトウェアの部品 →「ソフトウェアコンポーネント」を参照
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'''部品'''(ぶひん)とは、機構、器具、[[構造物]]、[[製品]]などの一部分を成している品を指す。'''部分品'''の[[略称]]であり、'''パーツ'''や'''部材'''とも呼ばれる。[[類義語]]は[[コンポーネント]]([[w:Component|component]])、[[エレメント]]、[[ユニット]]など。
* 機械の部品 →「[[機械要素]]」を参照
: [[ねじ]] - [[ばね]] - [[ぜんまいばね|ぜんまい]] - [[歯車]] - [[カム (機械要素)|カム]] - [[チェーン]] - [[ナット]]
* 電気製品の部品 →「[[電子部品]]」を参照
: [[抵抗器]] - [[ダイオード]] - [[真空管]] - [[トランジスタ]] - [[集積回路]]
* ソフトウェアの部品 →「[[ソフトウェアコンポーネント]]」を参照
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めっき
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めっき(鍍、英: plating)は、表面処理の一種で、金属または非金属の材料の表面に金属の薄膜を被覆すること。
金属の表面に他の金属を圧延して貼り合わせる技術はクラッド(英語版)といい区別する。
「メッキ」と片仮名で表記されることも少なくないため、外来語のように受け取られることもあるが、和製漢語とされる滅金(めっきん)に由来する語である。鍍金(ときん、めっき)ともいう。
めっきには電気めっきや溶融めっきなど様々な方法があり目的や用途によって使い分けられる。めっき処理の目的には、装飾、防蝕、表面硬化、機能性付与(機械的・電気的・磁気的・光学的特性)などがある。また、代表的なめっき製品にトタンやブリキがある。トタンは鉄に亜鉛をめっきしたもの、ブリキは鉄にスズをめっきしたものである。鉄等の母材に亜鉛等のイオン化傾向の大きい金属をめっきすることで電位差によって、スズ等のイオン化傾向の小さい金属をめっきする事で皮膜によって母材の腐食を防ぐ効果がある。
導電性の素材はめっき液に浸けて陰極につなぐことによってめっきする。プラスチック等の不導体にめっきを施す場合には、表面に導電化処理を施してからめっき液に浸けて電解したり、真空蒸着やスパッタリングによってめっきを施す。
日本語のめっきの語源は滅金(めっきん)に由来する。例えば東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)では、金を水銀に溶かしてアマルガム化し、これを塗布してから加熱して水銀を蒸発させて金だけを残す方法(塗金という)が行われた。アマルガム化の際に金は水銀中に溶かされてしまうことから滅金と呼ばれた。なお、金属膜を被せる技術を鍍金(ときん)という。
なお、日本語では貴金属(特に金)でめっきした卑金属が外見ほどの価値を持たない点から、比喩として、今まで実力があるように見えていた人物が実はそうではなかったと判明した場合や重大な失敗をした場合などに、「めっきがはげた」という表現がしばしば用いられる。関連する類似の表現として、美術品の制作などで、元はあまり価値のない下地素材に金箔などで装飾を施して価値のあるものを作ることから生じた比喩として、経歴の見た目をよくするための行為などを「箔をつける」と呼ぶことがある。
世界最古のめっきが行なわれた時代は、紀元前1500年頃にはアッシリアで錫めっきが行われていたとの記録があるとされる他、現在のイラクの首都バグダッド郊外から出土したバグダッド電池を根拠として、2000年前のパルティア人によるものとする説、1700年前のスキタイ人によるものとする説など様々である。
日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている。1871年に偶然発見された仁徳天皇陵の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は仁徳天皇と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない。
近代日本においては薩摩藩主島津斉彬が初めて電気めっきを試みたとされ、1855年に初めて甲冑金具に行ったのが最初と伝えられる。1871年に宮崎柳条が「西洋百工新書」を出版しているが、その中に電気めっきの工程が紹介されている。
1937年(昭和13年)8月20日、大蔵省は戦時経済体制の強化を図るために金使用規則を改正。金めっきを含む金製品の製造は大蔵大臣の許可を要するものとなった。
めっきの方法には、電気めっき、溶融めっき、無電解めっき、真空めっき(PVD)、気相めっき(CVD)などがある。
電気めっきとは外部電源を用いて被めっき物の表面に金属イオンの還元反応を生じさせて金属を析出させる方法である。電気めっきの用途には、装飾、防蝕(さび止めや塗装の下地など)、表面硬化、摩擦の緩和、ゴム等との接着、浸炭や窒化の防止、寸法を合わせるための肉盛り、表面模写、着色などがある。
電気めっきには、めっき可能な金属が多い、厚さの調整が容易である、外観の美しい金属光沢を得られる、被めっき物の物性を損ないにくいといった特徴がある。
その他、素材の違いなどによって、各めっきともにさまざまな浴種が存在している。
伝導体を金属イオンを含む電解液に浸漬し電気分解を行うと陰極に金属が電析する現象を利用した技術には、電気めっきのほか、電解採取、電解精製、電鋳、電解金属箔などがある。
このうち電鋳(でんちゅう)は電気めっき(電解めっき)でめっきを厚く重ねることによって強度を持たせ、あたかも鋳造品のようにするものである。レコードやコンパクトディスク、DVDのスタンパ、ソフトビニール製品の金型、加速器の部品、ロケットエンジンの燃焼室の製造等に使用される。常温で細部の忠実な再現に適していることから、精密な加工に適している。一方、加工時間がかかるので大量生産には適さない。
無電解めっきとは外部電源なしで被めっき物の表面に金属を析出させる方法である。化学薬品の還元作用によって金属を析出させ、還元される金属そのものが触媒として働く。自己触媒めっき法とも呼ばれる。
溶かした金属中に鋼材等を浸けこみめっきする。通称どぶ漬け。厚い被膜を得ることができる、大型の構造物でも短時間で加工できる、連続めっきが容易、パイプ内など手の届かないところにもめっきができるなどの特徴がある。
真空めっきには真空蒸着のほか、スパッタリングやイオンプレーティングなどがある。
治具に加工対象を取り付け、治具を経由して給電させて行う。
小物のめっきで使われる手法。バレル(樽)の中に多数の加工対象と電極線(デングラー)を投入し、バレルを回転もしくは揺動させて、加工対象同士で電気的に接触させる。
長尺物や線材を連続的にめっきする手法。リールに巻かれた加工対象を、前処理工程やめっき工程を連続的に通過させて、再びリールに巻き取る。電子部品のコネクターやリードフレームで行われているが、大規模になると亜鉛めっき鋼板で行われている。
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めっきは、表面処理の一種で、金属または非金属の材料の表面に金属の薄膜を被覆すること。 金属の表面に他の金属を圧延して貼り合わせる技術はクラッドといい区別する。 「メッキ」と片仮名で表記されることも少なくないため、外来語のように受け取られることもあるが、和製漢語とされる滅金(めっきん)に由来する語である。鍍金(ときん、めっき)ともいう。
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{{otheruses||メッキと呼ばれる魚|ギンガメアジ}}
'''めっき'''('''鍍'''、{{lang-en-short|plating}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.macdermid.co.jp/dictionary/ |title=マクダーミッド社・英和めっき技術用語辞典 |publisher=マクダーミッド・パフォーマンス・ソリューションズ・ジャパン株式会社 |accessdate=平成26年11月30日 }}</ref>)は、[[表面処理]]の一種で、[[金属]]または非金属の材料の表面に金属の[[薄膜]]を被覆すること<ref name="mekki1">職業能力開発総合大学校基盤整備センター『2級めっき科教科書』1997年、1頁</ref>。
金属の表面に他の金属を[[圧延]]して貼り合わせる技術は{{仮リンク|クラッド|en|Cladding (metalworking)}}といい区別する<ref name="mekki1" />。
「メッキ」と片仮名で表記されることも少なくないため、[[外来語]]のように受け取られることもあるが、[[和製漢語]]とされる'''滅金'''(めっきん)に由来する語である<ref name="mekki1" />。'''鍍金'''(ときん、めっき)ともいう<ref name="mekki1" />。
== 概要 ==
めっきには電気めっきや溶融めっきなど様々な方法があり目的や用途によって使い分けられる<ref name="mekki1" />。めっき処理の目的には、装飾、防蝕、表面硬化、機能性付与(機械的・電気的・磁気的・光学的特性)などがある<ref name="mekki3" />。また、代表的なめっき製品に[[トタン]]や[[ブリキ]]がある。'''トタン'''は[[鉄]]に[[亜鉛]]をめっきしたもの、'''ブリキ'''は鉄に[[スズ]]をめっきしたものである。鉄等の母材に亜鉛等の[[イオン化傾向]]の大きい金属をめっきすることで[[電位差]]によって、スズ等のイオン化傾向の小さい金属をめっきする事で皮膜によって母材の[[腐食]]を防ぐ効果がある。
導電性の素材はめっき液に浸けて陰極につなぐことによってめっきする。プラスチック等の不導体にめっきを施す場合には、表面に導電化処理を施してからめっき液に浸けて電解したり、[[真空蒸着]]や[[スパッタリング]]によってめっきを施す。
日本語のめっきの語源は'''滅金'''(めっきん)に由来する<ref name="mekki1" />。例えば[[東大寺盧舎那仏像]](奈良の大仏)では、[[金]]を[[水銀]]に溶かして[[アマルガム]]化し、これを塗布してから加熱して水銀を蒸発させて金だけを残す方法(塗金という)が行われた<ref name="mekki1" />。アマルガム化の際に金は水銀中に溶かされてしまうことから滅金と呼ばれた<ref name="mekki1" />。なお、金属膜を被せる技術を鍍金(ときん)という<ref name="mekki1" />。
なお、日本語では貴金属(特に金)でめっきした[[卑金属]]が外見ほどの価値を持たない点から、比喩として、今まで実力があるように見えていた人物が実はそうではなかったと判明した場合や重大な失敗をした場合などに、「めっきがはげた」という表現がしばしば用いられる。関連する類似の表現として、美術品の制作などで、元はあまり価値のない下地素材に金箔などで装飾を施して価値のあるものを作ることから生じた比喩として、経歴の見た目をよくするための行為などを「箔をつける」と呼ぶことがある。
== 歴史 ==
世界最古のめっきが行なわれた時代は、紀元前1500年頃には[[アッシリア]]で錫めっきが行われていたとの記録があるとされる<ref name="mekki1" />他、現在の[[イラク]]の首都[[バグダッド]]郊外から出土した[[バグダッド電池]]を根拠として、2000年前の[[パルティア]]人によるものとする説、1700年前の[[スキタイ]]人によるものとする説など様々である<ref>[http://classroom.kiyokawa.co.jp/mekki_02.html#kige KIYOKAWAめっき教室]</ref>。
日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている<ref name="mekki1" />。1871年に偶然発見された[[大仙陵古墳|仁徳天皇陵]]の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は[[仁徳天皇]]と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/hakubutu/syamo.html 写真と模型で見る百舌鳥古墳群(堺市ホームページ)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120119175456/http://www.city.sakai.lg.jp/hakubutu/syamo.html |date=2012年1月19日 }}</ref>。
近代日本においては[[薩摩藩]]主[[島津斉彬]]が初めて電気めっきを試みたとされ<ref name="mekki1" />、[[1855年]]に初めて甲冑金具に行ったのが最初と伝えられる。[[1871年]]に宮崎柳条が「西洋百工新書」を出版しているが、その中に電気めっきの工程が紹介されている<ref>大阪鍍金工業協同組合『組合50年史』(昭和42年)</ref>。
[[1937年]](昭和13年)[[8月20日]]、[[大蔵省]]は戦時経済体制の強化を図るために金使用規則を改正。金めっきを含む金製品の製造は[[大蔵大臣]]の許可を要するものとなった<ref>九金以下も大蔵大臣の許可が必要に『東京朝日新聞』(昭和13年8月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p125 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
== 成膜機構による分類 ==
めっきの方法には、電気めっき、溶融めっき、無電解めっき、真空めっき(PVD)、気相めっき(CVD)などがある<ref name="mekki1" />。
=== 電気めっき(電解めっき、電鍍) ===
{{Main|電気めっき}}
電気めっきとは外部電源を用いて被めっき物の表面に金属イオンの還元反応を生じさせて金属を析出させる方法である<ref name="mekki3">職業能力開発総合大学校基盤整備センター『2級めっき科教科書』1997年、3頁</ref>。電気めっきの用途には、装飾、防蝕(さび止めや塗装の下地など)、表面硬化、摩擦の緩和、ゴム等との接着、浸炭や窒化の防止、寸法を合わせるための肉盛り、表面模写、着色などがある<ref>職業能力開発総合大学校基盤整備センター『2級めっき科教科書』1997年、2頁</ref>。
==== 特徴 ====
電気めっきには、めっき可能な金属が多い、厚さの調整が容易である、外観の美しい金属光沢を得られる、被めっき物の物性を損ないにくいといった特徴がある<ref name="mekki1" />。
==== 種類 ====
* [[白金]]めっき
* [[金]]めっき({{仮リンク|金めっき(英語)|en|Gold plating|label =鍍金}})
** 青化金浴
** 酸性金浴
* [[銀]]めっき(鍍銀)
* [[銅]]めっき({{ill2|銅めっき|en|Copper electroplating|label =鍍銅}})
** 青化銅浴
** 硫酸銅浴
** ピロ燐酸銅浴
* [[亜鉛めっき]]、鍍鋅(としん)
** 青化浴
** 酸性浴
** ジンケート浴
**: 一般的に各浴種ともめっき後 以下の化成処理(6価クロムを使用した場合のみ[[クロメート]]処理)を施す。
** 光沢クロメート処理(1種)
** 有色クロメート処理(2種)
** 黒色クロメート処理
** グリーンクロメート処理
** 耐食型3価クロム化成処理
** 外観型3価クロム化成処理
** 黒色3価クロム化成処理
* [[カドミウム]]めっき
*:亜鉛めっきと同じく、めっき後に化成処理を施す。
* [[スズ|錫]]めっき、鍍錫(としゃく)
** 無光沢錫めっき
** 光沢錫めっき
* [[電解ニッケルめっき]]
** ワット浴ニッケルめっき
** ジュールニッケルめっき
** サチライトニッケルめっき
** [[スルファミン酸ニッケル(II)|スルファミン酸浴ニッケル]]めっき
** ウッド浴ニッケルストライクめっき
** 光沢ニッケルめっき
** 半光沢ニッケルめっき
** 無光沢ニッケルめっき
** 黒色ニッケルめっき
* {{ill2|クロムめっき|en|Chrome plating}}([[クロム]]を使っためっき)
** 装飾クロムめっき
**:正しくは、ニッケル-クロムめっき。下層にニッケルめっきを施した後、上層にクロムめっきを0.1~0.5μm施す。ニッケルめっきも半光沢ニッケルめっきと光沢ニッケルめっきの2層にしたり、この間に高硫黄含有率のニッケルめっきを挟むこともある。
*** マイクロポーラスクロムめっき
*** マイクロクラッククロムめっき
** 工業用(硬質)クロムめっき
** [[黒色クロムめっき]]
* 合金めっき
** 亜鉛系合金めっき
*** 亜鉛-鉄
*** 亜鉛-ニッケル
***:上記2種共に亜鉛めっきと同じく、めっき後に化成処理が施される。
** スズ-亜鉛
** スズ-銀
** スズーコバルト合金めっき(ガラクローム)
** 銅-亜鉛合金([[黄銅]])めっき
** [[ブロンズ]]めっき
** [[はんだ]]めっき
**: [[電子部品]]の[[端子]]の[[はんだ付け]]性改善のために行なわれていたが、[[RoHS]]対応のためスズめっき、金めっき、[[パラジウム]]、スズ-亜鉛、スズ-銀めっき等への切替が進んでいる。[[ウィスカー]]の生長はSn-Pbめっきにより回避してきたので、代用材用の使用によって、[[短絡]]事故など20世紀の前半に克服した問題が再び顕在化している。
その他、素材の違いなどによって、各めっきともにさまざまな浴種が存在している。
==== 電鋳 ====
伝導体を金属イオンを含む電解液に浸漬し電気分解を行うと陰極に金属が電析する現象を利用した技術には、電気めっきのほか、電解採取、電解精製、電鋳、電解金属箔などがある<ref name="mekki3" />。
このうち電鋳(でんちゅう)は電気めっき(電解めっき)でめっきを厚く重ねることによって強度を持たせ、あたかも[[鋳造]]品のようにするものである。[[レコード]]や[[コンパクトディスク]]、[[DVD]]の[[スタンパ]]、[[ソフトビニール]]製品の[[金型]]、[[加速器]]の部品、[[ロケットエンジン]]の燃焼室の製造等に使用される。常温で細部の忠実な再現に適していることから、精密な加工に適している。一方、加工時間がかかるので大量生産には適さない。
=== 無電解めっき ===
無電解めっきとは外部電源なしで被めっき物の表面に金属を析出させる方法である<ref name="mekki3" />。化学薬品の[[還元]]作用によって金属を析出させ、還元される金属そのものが触媒として働く。[[自己触媒]]めっき法とも呼ばれる。
* 無電解銀めっき
* 無電解銅めっき
* [[無電解ニッケルめっき]] / [[カニゼンメッキ]](Electroless nickel plating)
*:プラスチックへのめっき(導体化処理)に用いられる低温アンモニアタイプと、硬質クロムめっきの代替として用いられる高温酸性タイプに大別される。カニゼンめっきと呼ばれるのは後者。
* 無電解ニッケル-タングステン合金めっき
* 無電解ニッケル-PTFE複合めっき
* 無電解スズめっき
* 無電解金めっき
=== 溶融めっき ===
溶かした金属中に鋼材等を浸けこみめっきする。通称どぶ漬け。厚い被膜を得ることができる、大型の構造物でも短時間で加工できる、連続めっきが容易、パイプ内など手の届かないところにもめっきができるなどの特徴がある<ref name="mekki1" />。
* [[溶融亜鉛めっき]]
* [[HOT-DIP錫めっき]]
* [[ガルバリウム]]
* [[溶融アルミニウムめっき]]
=== 真空めっき ===
真空めっきには[[真空蒸着]]のほか、[[スパッタリング]]や[[イオンプレーティング]]などがある<ref name="mekki3" />。
== 装置・加工方法による分類 ==
=== ラック(吊り)めっき ===
治具に加工対象を取り付け、治具を経由して給電させて行う。
=== バレルめっき(ガラめっき) ===
小物のめっきで使われる手法。バレル(樽)の中に多数の加工対象と電極線(デングラー)を投入し、バレルを回転もしくは揺動させて、加工対象同士で電気的に接触させる。
=== フープめっき(リール to リール、連続) ===
長尺物や線材を連続的にめっきする手法。リールに巻かれた加工対象を、前処理工程やめっき工程を連続的に通過させて、再びリールに巻き取る。電子部品のコネクターやリードフレームで行われているが、大規模になると亜鉛めっき鋼板で行われている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[析出]]
* [[金属結合]]
* [[溶射]]
* [[蒸着]]
* [[塗装]]
* [[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]
* [[アマルガム]]
* [[金メダル]]
* [[ハルセル試験]] - めっき液の主成分や添加剤の過不足,不純物の混入等を確認するための試験方法。
* [[大場電気鍍金工業所]] - [[つげ義春]]の自伝的[[漫画]]作品。[[1950年代]]の[[東京]]の[[下町]]の鍍金工場の様子がリアルに描かれている。
*[[ロジウム]]めっき
== 外部リンク ==
* [http://www.net.inst.or.jp/~zentoren/ 全国鍍金工業組合連合会]
* [http://www.aen-mekki.or.jp/ 社団法人日本溶融亜鉛鍍金協会]
* [http://www.plama.or.jp/ 日本鍍金材料協同組合]
* [http://www.tokinmaru.jp/ オリエンタル鍍金トキン丸のメッキ教室]
* {{youtube|jL4ySdGh6t0|実際めっき液内部でのメッキ現象}}
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17,158 |
フォルモサ
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フォルモサ(Formosa、福爾摩沙)
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フォルモサ(Formosa、福爾摩沙) ポルトガル語で「美しい」の女性形。
台湾の別称。欧州諸国では現在でもこう呼ばれる場合がある。当て字で「福爾摩沙」、もしくは漢訳して「美麗島」とも。
フォルモサ語 - 台湾で話されていた南島語族に属する言語。
台湾の企業グループ「台塑集團(フォルモサ・プラスティックス・グループ)」 - 半導体メーカーVIA Technologiesが属する台湾有数の企業グループ。
台湾のテレビ放送局「民間全民電視公司」、英文表記は「Formosa Television(フォルモサテレビ)」
福爾摩沙高速公路 - 台湾の高速道路 アルゼンチンの州の一つであるフォルモサ州と、その州都フォルモサ市。
ブラジルのゴイアス州にあり、首都ブラジリアの東約80kmに位置するフォルモサ市。
フォルモサ (競走馬) - 第90回オークスステークス(1868年)優勝馬。初代イギリス牝馬三冠馬。
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'''フォルモサ'''(Formosa、福爾摩沙)
* [[ポルトガル語]]で「[[美しい]]」の[[女性形]]。
* [[台湾]]の別称。[[欧州]]諸国では現在でもこう呼ばれる場合がある。[[当て字]]で「福爾摩沙」、もしくは漢訳して「[[美麗島]]」とも。
** [[台湾諸語|フォルモサ語]] - 台湾で話されていた[[オーストロネシア語族|南島語族]]に属する言語。
** 台湾の企業グループ「[[台湾プラスチックグループ|台塑集團]](フォルモサ・プラスティックス・グループ)」 - 半導体メーカー[[VIA Technologies]]が属する台湾有数の企業グループ。
** 台湾のテレビ放送局「[[民間全民電視公司]]」、英文表記は「Formosa Television(フォルモサテレビ)」
** [[フォルモサ高速公路|福爾摩沙高速公路]] - 台湾の高速道路
{{seealso|台湾の名称の一覧}}
* [[アルゼンチン]]の[[アルゼンチンの地方行政区画|州]]の一つである[[フォルモサ州]]と、その州都[[フォルモサ (アルゼンチン)|フォルモサ]]市。
* [[ブラジル]]の[[ゴイアス州]]にあり、首都[[ブラジリア]]の東約80kmに位置する[[フォルモサ (ブラジル)|フォルモサ]]市。
* [[フォルモサ (競走馬)]] - 第90回[[オークスステークス]](1868年)優勝馬。初代イギリス牝馬三冠馬。
== 関連項目 ==
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17,160 |
装身具
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装身具(そうしんぐ、英: personal ornament あるいは小さなものはtrinket)とは、装飾つまり「かざり」のために身体や衣服につける服飾付属品。より魅力的に見せるために使われる物で、通常は実用的な目的が無いもの。
装身具は、もともとは呪術的な意味合いを持っていた、とも推測されている。支配者階級が出現すると自分の余力、財力を示すことで自分の権勢などを他者に示す目的で身につけた。
装身具の基本の型のほとんどは先史時代に確立していた。 元々は花や木の実、貝殻、動物の歯、牙、角などを加工、組み合わせて作っていた。
日本では縄文時代に使われていた耳飾や腕輪などの装身具が出土しており、古墳時代には鍍金の施された鮮やかな金銅製装身具が作られた。
装身具を用いて着飾ることは一部の民族・文化から広まったのではなく、世界中で見られる現象である。それらは埋葬されている物や壁画、伝統的装飾品などからも伺うことができる。
西洋の冠・王笏などは権力の象徴であるが、同時に装飾の役割を果たした。 ヨーロッパの貴族は男性も女性もさかんに装身具を身に付けた。ベルトは実用と装飾を兼ねていた。
中世の西ヨーロッパはキリスト教 一色の社会になったが、十字架の首飾りは信仰のシンボルであり、イエスの超自然的な力に身を護られたいというクリスチャンの願いもこめられていたが、同時に装飾の役割も果たした。カトリック教会の人々が祈りに使うロザリオも同様である。
なお広義には錫杖、神社のお守りや登山者が付ける熊除けの鈴、さらには社員の名札や腕章も、(全てではないが)ものによっては装身具に含まれる。
20世紀には、工業技術によりさまざまな素材が新たに開発されたので、現代の装身具の素材は多様化している。製造機械が使われるようになり安価に大量生産することも可能になった。合成樹脂類(プラスチック類)も安価な大量生産を可能にし、小さな子供でも購入してもらいやすくなり身につけられるものが増えた。リボン類も布のものばかりでなくプラスチック類のものが登場した。
高価な宝石の代わりに工業技術でつくりだした模倣宝石やクリスタルガラスを使うことも一般化した。一方で先史時代以来使われた素材の多くも、現在も変わらず使われ続けている。宝石や貴金属も用いられる。その結果、現代の装身具の素材は、たとえば布、紐、ゴム、合成樹脂、天然樹脂、鉱物、金属(メッキ品、貴金属)、セラミック類(七宝やエナメルなど)、クリスタルガラス等のガラス類、海産物(貝殻や珊瑚)、木材、化石、動植物の体組織...といったように挙げきれないほどに多種多様化している。つまり、日常の環境による変化を比較的受けにくく、金属アレルギーなどで人体に害を及ぼさないと考えられる物であれば、どのような素材でも使用される状態になっている。
装身具のうち、宝石や貴金属製のものをとくに英語で「ジュエリー jewelryあるいはjewellery」、フランス語では「ビジュー bijou」とよんで、他の装身具と区別している。
一般的に装身具のうち、あくまで宝石・貴金属を用いて作られたのみを宝飾品(ジュエリー 英:Jewelry)と呼ぶ。「ジュエリー(宝飾品)」という用語は、装身具全般を指さない。
なおジュエリーを広義に用いた上で、それを下位分類し、宝石・貴金属を用いて作られた装身具のほうをファイン・ジュエリー (Fine Jewelry)と下位分類し、それ以外の貴石などの素材を使ったものや安価なものはコスチューム・ジュエリー (Costume Jewelry) と下位分類する分類方法、語法もある。
ローマ帝国時代から持ち歩き出来る財産(動産)として宝石は重宝されていたが、鍛冶技術の進歩により、中世・ルネサンス期に金との融合が可能となったことに伴い、金と宝石が融合した動産ジュエリーが生み出された。金も持ち歩き出来る財産(動産)として当時から重宝されていたが、宝石との融合により宝飾品として姿を変えることにより、財産または担保となり得る動産としての資産価値が高まり、欧州の宮廷文化に組み込まれ、今日に至る。
金属工芸の3大技法は彫金・鍛造・鋳造といわれ、貴金属装身具制作もこの全てがおこなわれる。装身具分野ではこれらを「彫金・鍛金・鋳金」と称する。一般的にはこれら貴金属装身具の制作技法を総称して「彫金」と呼ぶ。また、キャスト製品を区別するために「彫金・鍛金」の二技法のみを指して「彫金」と呼ぶこともある。厳密にはこの三つの中の一技法のみ、鏨(たがね)などを使用して金属を直接に切削したり文様や文字を彫りこむことが本来の「彫金」の意味である。
金属製装身具には量産品と、いわゆる彫金による製品がある。現在見られるほとんどの製品は量産製品であり、これは紀元前より存在する蝋型鋳造をルーツとするロストワックス鋳造法(ロストワックスキャスティング、インヴェストメントキャスティング)と呼ばれる方法で金属を加工されているものが主流である。金属工芸全体で見ればロストワックス法は大変に歴史が古いが、貴金属装身具の分野では200年に満たない新しい技法である。 これは作られるものが小さいために、重力による溶解金属の流し込み(鋳込み)ができなかったことが一つの理由である。流し込む金属の量が少ないと、溶解した金属の強い表面張力の影響で金属が鋳型に流れない。この問題を解決したのがガス圧鋳造および遠心鋳造である。ロストワックス精密鋳造法は、遠心鋳造方式が発明された20世紀初頭より、特に「原型の正確な転写」と「大量生産」を目的として発展した。技法的には、金属へ複雑な形態を付与できることが他の技法と最も異なる点であり、発明そのものの目的は「複雑な形態の原型をそのまま金属へ転写すること」である。このため精密鋳造とも呼ばれる。
彫金・鍛金・鋳金の三技法以外には、機械プレスによる製品がある。また近年では趣味性の高い物として銀粘土が盛んである。その他、現在ではあまり多く作られない伝統的技法として粒金技法(グラニュレーションen:granulation)などがある。
鍍金(メッキ)も重要な技法である。鍍金には安物、誤魔化しというような悪いイメージが付きまとうために「コーティング」と呼び方を変える事が多くなっている。銀やホワイトゴールド製のジュエリーによく施されるロジウムコーティングとは、ロジウムメッキとまったくの同義である。メッキも「彫金・鍛金・鋳金」と並ぶ伝統的な金属工芸技法のひとつだが、現在では軽視される傾向である。
ロストワックス精密鋳造法が台頭する以前には、現在「ハンドメイド」と区別される製法、すなわち彫金・鍛造が世界中で主流だった。 中でもインディアンジュエリーや東南アジアのジュエリーの人気が根強い。これらの制作技術はヨーロッパの宝飾技術が大航海時代以降に各地へと伝わったことにより発展したとされる。日本での錺(かざり)は、廃刀令後に職を失った刀剣師達がルーツの一つとも言われる。一説には刀剣の鍛造、装飾技法やその他の伝統的な金属工芸技法にヨーロッパの宝飾技術、デザインを取り入れたものが現在にも伝わる錺職と云われているが、実際には伝統的な金属工芸の全てに関わりがあると考えられる。
またロストワックスキャスト製品にもハンドメイドが存在する。キャスト製品は「ハンドメイド」でないという見方があるが、実際にはキャスト製品であれば全て「ハンドメイド」でないと見なすことは出来ない。個人制作家や小規模工房では、ロストワックス法にしかできない造形を生かした一点作品もよく作られており、また本体の鋳造後に金属を直接切削する彫金を併用して制作される場合なども多い。これらは量産品とは別のものとして扱われるべきであろう。
装身具製作の世界で「ハンドメイド」という言葉が何を指すのかには、決まりきった傾向や定義などは存在せず、混乱が見られる。彫金・鍛金・鋳金等は、このすべてが貴金属装身具製作になくてはならないものであり、人類の歴史の中では極めて普遍的・伝統的な工芸技法である。その意味ではその全てが重要といえよう。近年では3次元CADと光造形システムにロストワックス法が併用された技術の発達も進んでいる。
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"text": "装身具(そうしんぐ、英: personal ornament あるいは小さなものはtrinket)とは、装飾つまり「かざり」のために身体や衣服につける服飾付属品。より魅力的に見せるために使われる物で、通常は実用的な目的が無いもの。",
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"text": "装身具は、もともとは呪術的な意味合いを持っていた、とも推測されている。支配者階級が出現すると自分の余力、財力を示すことで自分の権勢などを他者に示す目的で身につけた。",
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"text": "装身具を用いて着飾ることは一部の民族・文化から広まったのではなく、世界中で見られる現象である。それらは埋葬されている物や壁画、伝統的装飾品などからも伺うことができる。",
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"text": "西洋の冠・王笏などは権力の象徴であるが、同時に装飾の役割を果たした。 ヨーロッパの貴族は男性も女性もさかんに装身具を身に付けた。ベルトは実用と装飾を兼ねていた。",
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"text": "中世の西ヨーロッパはキリスト教 一色の社会になったが、十字架の首飾りは信仰のシンボルであり、イエスの超自然的な力に身を護られたいというクリスチャンの願いもこめられていたが、同時に装飾の役割も果たした。カトリック教会の人々が祈りに使うロザリオも同様である。",
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"text": "なお広義には錫杖、神社のお守りや登山者が付ける熊除けの鈴、さらには社員の名札や腕章も、(全てではないが)ものによっては装身具に含まれる。",
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"text": "20世紀には、工業技術によりさまざまな素材が新たに開発されたので、現代の装身具の素材は多様化している。製造機械が使われるようになり安価に大量生産することも可能になった。合成樹脂類(プラスチック類)も安価な大量生産を可能にし、小さな子供でも購入してもらいやすくなり身につけられるものが増えた。リボン類も布のものばかりでなくプラスチック類のものが登場した。",
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"text": "高価な宝石の代わりに工業技術でつくりだした模倣宝石やクリスタルガラスを使うことも一般化した。一方で先史時代以来使われた素材の多くも、現在も変わらず使われ続けている。宝石や貴金属も用いられる。その結果、現代の装身具の素材は、たとえば布、紐、ゴム、合成樹脂、天然樹脂、鉱物、金属(メッキ品、貴金属)、セラミック類(七宝やエナメルなど)、クリスタルガラス等のガラス類、海産物(貝殻や珊瑚)、木材、化石、動植物の体組織...といったように挙げきれないほどに多種多様化している。つまり、日常の環境による変化を比較的受けにくく、金属アレルギーなどで人体に害を及ぼさないと考えられる物であれば、どのような素材でも使用される状態になっている。",
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"text": "装身具のうち、宝石や貴金属製のものをとくに英語で「ジュエリー jewelryあるいはjewellery」、フランス語では「ビジュー bijou」とよんで、他の装身具と区別している。",
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"text": "一般的に装身具のうち、あくまで宝石・貴金属を用いて作られたのみを宝飾品(ジュエリー 英:Jewelry)と呼ぶ。「ジュエリー(宝飾品)」という用語は、装身具全般を指さない。",
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"text": "なおジュエリーを広義に用いた上で、それを下位分類し、宝石・貴金属を用いて作られた装身具のほうをファイン・ジュエリー (Fine Jewelry)と下位分類し、それ以外の貴石などの素材を使ったものや安価なものはコスチューム・ジュエリー (Costume Jewelry) と下位分類する分類方法、語法もある。",
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"text": "ローマ帝国時代から持ち歩き出来る財産(動産)として宝石は重宝されていたが、鍛冶技術の進歩により、中世・ルネサンス期に金との融合が可能となったことに伴い、金と宝石が融合した動産ジュエリーが生み出された。金も持ち歩き出来る財産(動産)として当時から重宝されていたが、宝石との融合により宝飾品として姿を変えることにより、財産または担保となり得る動産としての資産価値が高まり、欧州の宮廷文化に組み込まれ、今日に至る。",
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"text": "金属工芸の3大技法は彫金・鍛造・鋳造といわれ、貴金属装身具制作もこの全てがおこなわれる。装身具分野ではこれらを「彫金・鍛金・鋳金」と称する。一般的にはこれら貴金属装身具の制作技法を総称して「彫金」と呼ぶ。また、キャスト製品を区別するために「彫金・鍛金」の二技法のみを指して「彫金」と呼ぶこともある。厳密にはこの三つの中の一技法のみ、鏨(たがね)などを使用して金属を直接に切削したり文様や文字を彫りこむことが本来の「彫金」の意味である。",
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"text": "金属製装身具には量産品と、いわゆる彫金による製品がある。現在見られるほとんどの製品は量産製品であり、これは紀元前より存在する蝋型鋳造をルーツとするロストワックス鋳造法(ロストワックスキャスティング、インヴェストメントキャスティング)と呼ばれる方法で金属を加工されているものが主流である。金属工芸全体で見ればロストワックス法は大変に歴史が古いが、貴金属装身具の分野では200年に満たない新しい技法である。 これは作られるものが小さいために、重力による溶解金属の流し込み(鋳込み)ができなかったことが一つの理由である。流し込む金属の量が少ないと、溶解した金属の強い表面張力の影響で金属が鋳型に流れない。この問題を解決したのがガス圧鋳造および遠心鋳造である。ロストワックス精密鋳造法は、遠心鋳造方式が発明された20世紀初頭より、特に「原型の正確な転写」と「大量生産」を目的として発展した。技法的には、金属へ複雑な形態を付与できることが他の技法と最も異なる点であり、発明そのものの目的は「複雑な形態の原型をそのまま金属へ転写すること」である。このため精密鋳造とも呼ばれる。",
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"text": "彫金・鍛金・鋳金の三技法以外には、機械プレスによる製品がある。また近年では趣味性の高い物として銀粘土が盛んである。その他、現在ではあまり多く作られない伝統的技法として粒金技法(グラニュレーションen:granulation)などがある。",
"title": "ジュエリー(宝飾品)"
},
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"text": "鍍金(メッキ)も重要な技法である。鍍金には安物、誤魔化しというような悪いイメージが付きまとうために「コーティング」と呼び方を変える事が多くなっている。銀やホワイトゴールド製のジュエリーによく施されるロジウムコーティングとは、ロジウムメッキとまったくの同義である。メッキも「彫金・鍛金・鋳金」と並ぶ伝統的な金属工芸技法のひとつだが、現在では軽視される傾向である。",
"title": "ジュエリー(宝飾品)"
},
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"text": "ロストワックス精密鋳造法が台頭する以前には、現在「ハンドメイド」と区別される製法、すなわち彫金・鍛造が世界中で主流だった。 中でもインディアンジュエリーや東南アジアのジュエリーの人気が根強い。これらの制作技術はヨーロッパの宝飾技術が大航海時代以降に各地へと伝わったことにより発展したとされる。日本での錺(かざり)は、廃刀令後に職を失った刀剣師達がルーツの一つとも言われる。一説には刀剣の鍛造、装飾技法やその他の伝統的な金属工芸技法にヨーロッパの宝飾技術、デザインを取り入れたものが現在にも伝わる錺職と云われているが、実際には伝統的な金属工芸の全てに関わりがあると考えられる。",
"title": "ジュエリー(宝飾品)"
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"text": "またロストワックスキャスト製品にもハンドメイドが存在する。キャスト製品は「ハンドメイド」でないという見方があるが、実際にはキャスト製品であれば全て「ハンドメイド」でないと見なすことは出来ない。個人制作家や小規模工房では、ロストワックス法にしかできない造形を生かした一点作品もよく作られており、また本体の鋳造後に金属を直接切削する彫金を併用して制作される場合なども多い。これらは量産品とは別のものとして扱われるべきであろう。",
"title": "ジュエリー(宝飾品)"
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"text": "装身具製作の世界で「ハンドメイド」という言葉が何を指すのかには、決まりきった傾向や定義などは存在せず、混乱が見られる。彫金・鍛金・鋳金等は、このすべてが貴金属装身具製作になくてはならないものであり、人類の歴史の中では極めて普遍的・伝統的な工芸技法である。その意味ではその全てが重要といえよう。近年では3次元CADと光造形システムにロストワックス法が併用された技術の発達も進んでいる。",
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"title": "ジュエリー(宝飾品)"
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装身具とは、装飾つまり「かざり」のために身体や衣服につける服飾付属品。より魅力的に見せるために使われる物で、通常は実用的な目的が無いもの。
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{{注意|当記事はあくまで装身具全般に関する記事であって、宝飾品に関する記事ではありません。両概念はそれなりに関係はありますが、やはり別レベルの概念です。宝飾品ばかりを強調してはいけません。}}
{{出典の明記
| date = 2017年5月
}}
[[File:1artistsforhumanity.JPG|thumb|300px|[[ブレスレット]]や[[首飾り]]や[[イヤリング]]をつけて身を飾って創作活動をする女性]]
'''装身具'''(そうしんぐ、{{lang-en-short|personal ornament あるいは小さなものはtrinket}}<ref name="ndzensho">『日本大百科全書』装身具</ref>)とは、装飾つまり「かざり」のために身体や衣服につける服飾付属品<ref name="ndzensho" />。より魅力的に見せるために使われる物で、通常は実用的な目的が無いもの<ref>[https://www.lexico.com/definition/ornament]</ref>。
== 概要 ==
;歴史
装身具は、もともとは[[呪術]]的な意味合いを持っていた、とも推測されている。支配者階級が出現すると自分の余力、財力を示すことで自分の権勢などを他者に示す目的で身につけた。
装身具の基本の型のほとんどは[[先史時代]]に確立していた<ref name="ndzensho" />。
元々は[[花]]や木の実、[[貝殻]]、動物の[[歯]]、[[牙]]、[[角]]などを加工、組み合わせて作っていた。
日本では[[縄文時代]]に使われていた[[耳飾]]や[[腕輪]]などの装身具が出土しており、[[古墳時代]]には[[鍍金]]の施された鮮やかな金銅製装身具が作られた。
{{Main|日本における装身具の歴史}}
装身具を用いて着飾ることは一部の[[民族]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]から広まったのではなく、世界中で見られる現象である。それらは埋葬されている物や[[壁画]]、伝統的装飾品などからも伺うことができる。
[[西洋の冠]]・[[王笏]]などは権力の象徴であるが、同時に装飾の役割を果たした。
ヨーロッパの貴族は[[男性]]も女性もさかんに装身具を身に付けた。[[ベルト (服飾)|ベルト]]は実用と装飾を兼ねていた。
中世の西ヨーロッパは[[キリスト教]] 一色の社会になったが、[[十字架]]の首飾りは[[信仰]]のシンボルであり、イエスの[[超自然]]的な力に身を護られたいという[[クリスチャン]]の願いもこめられていたが、同時に装飾の役割も果たした。[[カトリック教会]]の人々が祈りに使う[[ロザリオ]]も同様である。
なお広義には[[錫杖]]、[[神社]]の[[お守り]]や登山者が付ける熊除けの[[鈴]]、さらには社員の[[名札]]や[[腕章]]も、(全てではないが)ものによっては装身具に含まれる。
;現代の素材と製造法の多様化
20世紀には、工業技術によりさまざまな素材が新たに開発されたので、現代の装身具の素材は多様化している。製造機械が使われるようになり安価に[[大量生産]]することも可能になった。[[合成樹脂]]類([[プラスチック]]類)も安価な大量生産を可能にし、小さな子供でも購入してもらいやすくなり身につけられるものが増えた。リボン類も布のものばかりでなくプラスチック類のものが登場した。
高価な宝石の代わりに工業技術でつくりだした[[模倣宝石]]や[[クリスタルガラス]]を使うことも一般化した。一方で先史時代以来使われた素材の多くも、現在も変わらず使われ続けている。宝石や貴金属も用いられる。その結果、現代の装身具の素材は、たとえば[[布]]、[[紐]]、[[ゴム]]、[[合成樹脂]]、[[天然樹脂]]、[[鉱物]]、[[金属]]([[メッキ]]品、[[貴金属]])、[[セラミック]]類([[七宝]]や[[エナメル]]など)、[[クリスタルガラス]]等のガラス類、海産物([[貝殻]]や[[珊瑚]])、[[木材]]、化石、動植物の体組織...といったように挙げきれないほどに多種多様化している。つまり、日常の環境による変化を比較的受けにくく、金属アレルギーなどで人体に害を及ぼさないと考えられる物であれば、どのような素材でも使用される状態になっている。
==種類==
<!-- 50音順 -->
* [[アームバンド]] - シャツの袖に着け袖丈を調整する[[ベルト (服飾)|バンド]]。袖丈が長すぎる場合に[[カフ]]が手首から下に落ちないよう上膊部を適切な位置で留めるためのもの。
[[File:Anklet കൊലുസ്, പാദസരം.JPG|thumb|120px|アンクレット]]
* [[アンクレット]] - [[足首]]に着用する装身具。
* [[イヤリング]](耳飾り)
** [[ヘッドフォン|イヤホン・ヘッドホン]] - 耳に着ける。
* [[腕時計]] - [[手首]]につける時計であり、装飾の役割を担う品も多い。
* [[懐中時計]] - [[ウェストコート]]や[[スラックス]]に付ける時計。
** [[懐中時計|ウォッチチェーン]] - 懐中時計に付ける[[鎖]]。
** [[懐中時計|ウォッチフォブ]] - 懐中時計の鎖に付けるかざり。
* [[かつら (装身具)|かつら]] - 頭部につける頭髪に似せたもの。
** [[ヘアーエクステンション]] - 頭髪を延長するかざり。
* [[カメオ]] - ネックレスや指輪、ブローチに用いられる。
[[ファイル:Shochikubai_kanzashi.jpg|thumb|120px| [[簪]] ]]
* [[簪]](かんざし)- 主に女性の頭髪に挿して用いる装身具。
** [[根掛]]
** [[手絡]]
** 押[[櫛]] - 髪を梳かす他、装身具としても用いる櫛。
** [[笄]] - 刀と一緒に持ち歩いた棒状の装身具。
** [[流蘇]] - 中国の装身具。
** [[大拉翅]] - 清朝の後期に満州族や宮廷の婦女の中で流行った一種の髪飾り。
** [[リボン]] - 頭部や襟に着ける小さな帯状の布。
** [[シュシュ]] - 環状の薄手の布にゴムを通して縮ませた髪飾り。
** [[バレッタ (装身具)|バレッタ]] - 髪をはさむための小さなひと組の棒など。
** [[ヘアゴム]] - 髪をまとめるために使うゴム紐。
** [[ヘアバンド]] -([[ヘアバンド#カチューシャ|カチューシャ]])頭部につけるバンド。
** [[ヘアピン]] - 髪を固定するための[[ピン]]。
* [[カラーステイ]] - ワイシャツの襟の形の見栄えを良くするために襟の裏側に入れる小さなパーツ。
* [[カラーピン]] - ネクタイの形を良く見せるためにワイシャツの襟に刺すピン。
* [[キーホルダー]] - [[鍵]]をまとめるために用いる実用品ではあるが、装飾的なものもある。
[[ファイル:Clausewitz.jpg|thumb|150px|[[肩章]]]]
* [[懸章]](けんしょう)- [[軍服]]に肩から腰にかけて「たすき」状に斜めにかける飾り。
** [[肩章]](けんしょう、かたしょう)- 肩に付ける紐で編んだかざり。
** [[飾緒]](しょくしょ、しょくちょ、かざりお)- 片肩から前部にかけて吊るされる飾り紐。
** [[たすき]] - [[着物]]の肩まわりに斜めに結ぶ紐状のもので、実用目的があるが、装飾の役割を担っていることもある。
* [[鎖|チェーン]] - 本来は財布の盗難防止などに使用されていたが、今日では首に巻くなどする。また、材質もシルバーなどが増えてきている。
* [[菊綴]] - [[袴]]に付ける装身具。
* [[首輪]] - 首まわりにつける環(輪)。
* [[組み紐]] - 組んだ紐。
**[[真田紐]] - 組み紐の安価版。
* [[グローブホルダー]] - 手袋に付ける金具。
* [[コッドピース]] - 14世紀から16世紀末にかけてヨーロッパで流行した、男性の股間の覆いつつも見る人にあえて意識させる布。
* [[下緒]] - 装飾のために[[日本刀]]の[[鞘]]に付ける[[紐]]。
* [[スタッドボタン]] - [[ワイシャツ]]の胸ボタンの代わりに用いるもの。
[[File:Shoes Marker.JPG|right|thumb|150px|シューズマーカー]]
* [[スニーカーアクセサリー]] - 靴紐に付けるかざり。
** [[シューズマーカー]] - 靴を脱いだときに付ける印の装身具。
* [[ティアラ]] - 女性がもっぱら装飾目的でつける冠の一種。クラウン(王冠)より下位。
[[File:Collar pin 04.jpg|thumb|120px|[[ネクタイ]]、およびその形を美しく見せるためのカラーピン。どちらもあくまで装飾であり、実用目的は全く無く、着用者はたいてい首が絞められて苦しく感じている。]]
[[ファイル:Benoit_Pierre_Emery_silk_scarf.jpg|thumb|120px| [[スカーフ]] ]]
* [[ネクタイ]] - あくまで飾りのために[[ワイシャツ]]の襟下などに巻く布。全く実用的機能を担っていない布。
** [[アスコットタイ]] - 主に[[フロックコート]]や[[モーニングコート]]に用いる布。
** [[スカーフ]] - [[ブラウス]]に用いることもある布。
** [[蝶ネクタイ]] - 主に[[タキシード]]や[[燕尾服]]に用いる装身具。
** ネッカチーフ - 基本は装飾のために[[ボーイスカウト]]が襟まわりに巻く布。(なおボーイスカウトでは緊急時には包帯や[[三角巾]]に転用する。)
** [[ジャボ]] - 襞の付いた胸の飾りのことで、袖口と同じくレースが用いられていた。
** [[ネッククロス]](顎布)- ネクタイの元祖となった装飾用の布。スカーフに近い。
** [[フォーカル]] - ネクタイの元祖となった装飾用の布。スカーフに近い。
** [[襟巻き|マフラー]]
* [[ネクタイピン]] - ネクタイがずれないようにするためという目的で(という口実で)つける[[ピン]]。
[[ファイル:Rosary.jpeg|thumb|right|120px| [[ロザリオ]] ]]
* [[ネックレス]] - 首まわりにつける飾り。真珠ネックレスの場合は長さによって呼び名が変わる。環状になっていない、首の後ろで交差するように巻き、前で軽く結ぶ物を[[ラリエット]]という。また装飾「ペンダントトップ」(―ヘッド)を追加出来る物を[[ペンダント]]と呼ぶ。
** [[SOSカプセル]] - 緊急用に[[名前]]や[[住所]]、[[病気]]等を記すもの。キーホルダーやネックレスとして使うことが多い。
** [[グラスホルダー]] - 眼鏡を首から提げるためのものでネックレスを兼ねている。掛け外しが頻繁な[[老眼鏡]]や[[サングラス]]に付ける。近視の人は眼鏡を常に装用しているので必要ない。
** [[コンボスキニオン]] - [[数珠状の祈りの用具]]。
** [[ドッグタグ]] - 認識票として用いる装身具。ネックレスとして使うことが多い。SOSカプセルと用途は似ている。
** [[トルク (装身具)|トルク]] - ネックレスの一種だが、指輪やピアスにも用いる。
** [[数珠]] -本来は僧侶が[[マントラ]]を唱えた回数などを数えるための道具(計数の器具)だが、首に掛け装飾的な役割も担う。
** [[勾玉]] - 縄文時代から用いられていた首に掛ける装身具。
** [[ミスバハ]] - 数珠状の祈りの用具。
** [[ポーラー・タイ|ループタイ]] - ネックレスの一つ。かつてはネクタイの代用品として使われた。
** [[ロケットペンダント|ロケット]] - 写真を収める装身具。
** [[ロザリオ]] - カトリック教会で一般化した数珠(祈りの回数を数える道具)と十字架が一体化したもの。
* [[根付]] - [[帯]]に付ける装身具。
* [[羽織紐]] - [[羽織]]に付ける紐状の装身具。
* [[バッグハンガー]] - 鞄につける装身具。
* [[バッジ]] - 服の襟、胸、鞄などに浸ける装身具。
** [[ピンズ]] - バッジに酷似した装身具。
* [[ハットピン]]([[帽子]]止め) - [[帽子]]の紛失防止に浸けた装身具。
* [[半衿]] - [[襦袢]]に取り付ける飾り用の襟。
* [[ピアス]] - 耳にあけた小さな穴に通して着用する耳かざり。「ピアスド・イヤリング」の略。
** [[イヤリング]] - ピアスが耳に穴を空けるものに対し、イヤリングは耳たぶなどをはさんで着用する装身具。スクリュー式やクリップ式がある。
* [[線ファスナー|ファスナー]]
** [[メガZip]]
** [[線ファスナー#構造|引き手]] - 飾りやアクセサリーを兼ねているものもある。
* [[フェロニエール]] - 額飾り。額につける鎖や革のアクセサリーで、額の中央へ[[宝石]]等の装飾がセットされる。フェロニエール(Ferronnière)の名称は[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の「ラ・ベル・フェロニエール(La belle Ferronnière)」伯爵夫人の肖像画に由来する。
* [[ブレスレット]] - 腕輪。手首に着用する装身具。
** [[アームレット]] -肘の上から着ける装身具。
** [[腕輪念珠]] - 数珠状のブレスレット。
** [[シュシュ]] - ゴムで出来た装身具。ブレスレット以外にも髪留めにも使う。
** [[バングル]] - 手首に着用するC型装身具。
* [[ブローチ (装身具)|ブローチ]] - 服の胸の部分などにつける装身具。
** [[コサージュ]] - 服の胸に付ける[[花束]]、[[造花]]が多い。
** {{仮リンク|ブートニア|en|Boutonnière}} - コサージュの男性版。
** [[スカーフクリップ]]
** [[スカーフピン]]
** [[ストールピン]]
** [[ネクタイピン|ラペルピン]] - ジャケットの襟に付ける装身具。
** [[フラワーホルダー]](フラワーピン)- 花をさして使う装身具。ラペルピンの一つ。
* [[ベルト (服飾)|ベルト]] - [[ズボン]]に付ける装身具。
** [[サスペンダー]] - ベルトの前身。
** [[バックル]] - [[ベルト (服飾)|ベルト]]につける装身具。
** [[帯]] - [[和服]]に用いる布製のベルト。
** [[帯留]] - 帯締めに通す飾り物の装身具。
[[File:Foto Profilo Alex.jpg|thumb|120px| [[ポケットチーフ]] ]]
* [[ポケットチーフ]] - [[背広]]の胸ポケットに挿す装身具。
** [[ポケットチーフ|チーフポインター]] -ポケットチーフに飾る[[ピン]]状の装身具。
* [[ボタン (服飾)|ボタン]] - 服に付ける装身具。貝や金属製がある。
** [[カフリンクス]] - ワイシャツなどのボタン穴に付ける。
** [[カフリンクス|カフスチャーム]] -カフリンクスに付ける鎖状の装身具。
** [[ボタンカバー]] - ボタンに被せカフリンクスに似せた装身具。
* [[マネークリップ]] -紙幣を束ねるために用いる。
* [[眼鏡]] - 顔に掛ける装身具。
** [[サングラス]]
**[[ゴーグル]]
[[ファイル:Johannes_Vermeer_(1632-1675)_-_The_Girl_With_The_Pearl_Earring_(1665).jpg|thumb|120px|[[真珠の耳飾りの少女]]。[[真珠の耳飾りの少女 (小説)|同名の小説]]の題材にもなった。青い[[ターバン]]の少女、とも。]]
* [[指輪]] - 手の指にはめる環状の装身具。
** [[インタリオリング]](シグネットリング)- [[印章]]に用いた指輪。現在は実用上の意味を持たず、また認印以外に使用することは出来ない。
** [[カレッジリング]] - 学校の卒業祝いに作った指輪。
** [[クラダリング]] - 縁結びの[[お守り]]として用いられる指輪。着用法により未婚か既婚か、また恋人の有無が判別出来る。
** [[結婚指輪]] - [[結婚]]していることを示す指輪。
** [[スプーンリング]] - スプーンの柄を曲げて作った指輪。
** [[チャンピオンリング]]
** [[ネクタイリング]] - ネクタイの首もとに填める指輪。
* [[リストバンド]] - 手首に着ける装身具。
** [[ミサンガ]] - 鬘、手首に着ける装身具。[[組み紐]]の一種。
* [[リベット]] - [[ジーンズ]]や[[鞄]]等に用いられる装身具。
* [[ワッペン]] - 服や[[帽子]]に縫いつける装身具。
<!--[[指輪]]や[[ネックレス]]、[[ペンダント]]、[[イヤリング]]-->
== ジュエリー(宝飾品) ==
装身具のうち、[[宝石]]や[[貴金属]]製のものをとくに英語で「ジュエリー jewelryあるいはjewellery」、フランス語では「ビジュー bijou」とよんで、他の装身具と区別している<ref name="ndzensho" />。
一般的に装身具のうち、あくまで宝石・[[貴金属]]を用いて作られた<u>のみ</u>を宝飾品([[ジュエリー]] [[英語|英]]:Jewelry)と呼ぶ。「ジュエリー(宝飾品)」という用語は、装身具全般を指さない。
;語法、下位分類
なおジュエリーを広義に用いた上で、それを下位分類し、宝石・貴金属を用いて作られた装身具のほうをファイン・ジュエリー (Fine Jewelry)と下位分類し、それ以外の[[貴石]]などの素材を使ったものや安価なものはコスチューム・ジュエリー (Costume Jewelry) と下位分類する分類方法、語法もある。
===ジュエリーの歴史===
[[ローマ帝国]]時代から持ち歩き出来る財産([[動産]])として[[宝石]]は重宝されていたが、[[鍛冶]]技術の進歩により、[[中世]]・[[ルネサンス期]]に金との融合が可能となったことに伴い、金と宝石が融合した動産ジュエリーが生み出された。金も持ち歩き出来る財産(動産)として当時から重宝されていたが、宝石との融合により宝飾品として姿を変えることにより、財産または担保となり得る動産としての資産価値が高まり、[[欧州]]の[[宮廷]]文化に組み込まれ、今日に至る<ref>American Chemical Society, [http://www.sciencedaily.com/releases/2013/07/130724124919.htm ''Ancient technology for metal coatings 2,000 years ago can't be matched even today''], ScienceDaily, ScienceDaily, July 24, 2013, </ref><ref>Gabriel Maria Ingo, Giuseppe Guida, Emma Angelini, Gabriella Di Carlo, Alessio Mezzi, Giuseppina Padeletti, ''Ancient Mercury-Based Plating Methods: Combined Use of Surface Analytical Techniques for the Study of Manufacturing Process and Degradation Phenomena'', Accounts of Chemical Research, 2013; 130705111206005 DOI: 10.1021/ar300232e </ref>。
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==宝飾品に関する職業==
宝飾品の中心となる宝石は、[[天然石]]を加工、[[研磨]]、[[彫刻]]する[[宝石彫刻師]]によって生み出され、その宝石を中心に宝飾品の[[デザイン]]を考える[[宝飾デザイナー]]によって図面化され、図面化されたデザインを基にして[[金細工師]]が金を[[鋳造]]・[[鋳造]]・[[彫金]]し、宝石と金を石留めする加工を経て、宝飾品が生み出される。宝飾品には宝石彫刻師、宝飾デザイナー、金細工師の専門家が携わっている。
20世紀になると、資産形成の一環から宝飾品に使用される宝石を[[評価]]し、[[鑑別書]]・[[鑑定書]]を作成する専門家として、[[宝石鑑定士]]という職業も関わることになる。尚、[[ダイヤモンド]]や[[ルビー]]、金などを使用する宝飾品以外の製品、例えば[[銀]]や[[ステンレス]]を中心とする宝飾品は資産価値が乏しいため、[[鑑別書]]・[[鑑定書]]が作成されることはない。そのことから宝石鑑定士の業務は資産価値がある宝飾品のみとされる。
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=== 貴金属装身具の製法、および製品の区別 ===
金属工芸の3大技法は彫金・鍛造・鋳造といわれ、貴金属装身具制作もこの全てがおこなわれる。装身具分野ではこれらを「彫金・[[鍛金]]・[[鋳金]]」と称する。一般的にはこれら貴金属装身具の制作技法を総称して「彫金」と呼ぶ。また、キャスト製品を区別するために「彫金・鍛金」の二技法のみを指して「彫金」と呼ぶこともある。厳密にはこの三つの中の一技法のみ、鏨(たがね)などを使用して金属を直接に切削したり文様や文字を彫りこむことが本来の「彫金」の意味である。
金属製装身具には量産品と、いわゆる彫金による製品がある。現在見られるほとんどの製品は量産製品であり、これは紀元前より存在する蝋型鋳造をルーツとする[[ロストワックス鋳造]]法(ロストワックスキャスティング、インヴェストメントキャスティング)と呼ばれる方法で金属を加工されているものが主流である。金属工芸全体で見ればロストワックス法は大変に歴史が古いが、貴金属装身具の分野では200年に満たない新しい技法である。
これは作られるものが小さいために、重力による溶解金属の流し込み(鋳込み)ができなかったことが一つの理由である。流し込む金属の量が少ないと、溶解した金属の強い表面張力の影響で金属が鋳型に流れない。この問題を解決したのがガス圧鋳造および遠心鋳造である。ロストワックス精密鋳造法は、[[遠心鋳造]]方式が発明された20世紀初頭より、特に「原型の正確な転写」と「大量生産」を目的として発展した。技法的には、金属へ複雑な形態を付与できることが他の技法と最も異なる点であり、発明そのものの目的は「複雑な形態の原型をそのまま金属へ転写すること」である。このため'''精密鋳造'''とも呼ばれる。
彫金・鍛金・鋳金の三技法以外には、機械プレスによる製品がある。また近年では趣味性の高い物として[[銀粘土]]が盛んである。その他、現在ではあまり多く作られない伝統的技法として粒金技法(グラニュレーション[[:en:granulation]])などがある。
鍍金(メッキ)も重要な技法である。鍍金には安物、誤魔化しというような悪いイメージが付きまとうために「コーティング」と呼び方を変える事が多くなっている。銀やホワイトゴールド製のジュエリーによく施される[[ロジウム]]コーティングとは、ロジウムメッキとまったくの同義である。メッキも「彫金・鍛金・鋳金」と並ぶ伝統的な金属工芸技法のひとつだが、現在では軽視される傾向である。
ロストワックス精密鋳造法が台頭する以前には、現在「ハンドメイド」と区別される製法、すなわち彫金・鍛造が世界中で主流だった。
中でもインディアンジュエリーや東南アジアのジュエリーの人気が根強い。これらの制作技術はヨーロッパの宝飾技術が大航海時代以降に各地へと伝わったことにより発展したとされる。日本での錺(かざり)は、廃刀令後に職を失った刀剣師達がルーツの一つとも言われる。一説には刀剣の鍛造、装飾技法やその他の伝統的な金属工芸技法にヨーロッパの宝飾技術、デザインを取り入れたものが現在にも伝わる錺職と云われているが、実際には伝統的な金属工芸の全てに関わりがあると考えられる。
またロストワックスキャスト製品にもハンドメイドが存在する。キャスト製品は「ハンドメイド」でないという見方があるが、実際にはキャスト製品であれば全て「ハンドメイド」でないと見なすことは出来ない。個人制作家や小規模工房では、ロストワックス法にしかできない造形を生かした一点作品もよく作られており、また本体の鋳造後に金属を直接切削する[[彫金]]を併用して制作される場合なども多い。これらは量産品とは別のものとして扱われるべきであろう。
装身具製作の世界で「ハンドメイド」という言葉が何を指すのかには、決まりきった傾向や定義などは存在せず、混乱が見られる。彫金・鍛金・鋳金等は、このすべてが貴金属装身具製作になくてはならないものであり、人類の歴史の中では極めて普遍的・伝統的な工芸技法である。その意味ではその全てが重要といえよう。近年では3次元CADと光造形システムにロストワックス法が併用された技術の発達も進んでいる。
[[Image:Ammolite jewellery.jpg|right|250px|thumb|[[アンモライト]]を中心に[[金]]と[[ダイヤモンド]]で作ったイヤリング(右下)とペンダント]]
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ジュエリーの強調のしすぎ。ウィキペディアでは宣伝も禁止されている。
=== ギャラリー ===
<gallery>
Jewelry-1.jpg|MJCジュエリーフェア会場入口(2010年3月12日撮影)
Jewelry-2.jpg|同左、会場風景(2010年3月12日撮影)
Jewelry-3.jpg|同左、貴金属カウンター(2010年3月12日撮影)
Jewelry-4.jpg|同左、地金見本の陳列(2010年3月12日撮影)
</gallery>
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
; [[ジュエリー]]
* [[指輪]]
* [[イヤリング]]
* [[ネックレス]]
* [[ブレスレット]]
* [[ペンダント]]
*[[ファッション]]
*[[服飾]]
*[[身体装飾]]
; 金属加工関連の職業
* [[貴金属装身具製作技能士]]:日本の[[国家資格]]
* [[ジュエリーマスター]]:[[山梨県]]の認定資格<ref>[http://www.pref.yamanashi.jp/chiikisng/jewelre_master/jewelry_top.html 山梨県ジュエリーマスター認定制度]</ref>
* [[一級宝石研磨士]]:[[山梨県水晶美術彫刻協同組合]]の認定資格
* [[宝飾デザイナー]]
* [[宝石彫刻師]]
* [[金細工師]]([[彫金]]師)
* [[銀細工師]]
== 脚注 ==
<references />
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ヨハネ
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ヨハネ(ラテン語: Johannes)は男性名。
ヘブライ語で「ヤハウェは恵み深い」を意味するヨーハーナーン (יוחנן, Yôḥānān) が元の形とされる。ギリシア語ではイオーアンネース (Ιωάννης, ただし中世以降の発音はイオアンニスもしくはヨアニス)。ラテン語(およびドイツ語)ではこれを受け継いでヨハンネス、ヨハネス ("Ioannes", "Iohannes", "Johannes") と変化した。
日本では「ヨハネ」という読み方・表記が、日本聖書協会の日本語訳聖書をはじめとして広く用いられている。
いずれもキリスト教徒によって非常に好まれる男子の名である。
22世まではラテン語読みの「ヨハネス」を用いているが、ヨハネ23世および、ヨハネ・パウロ1世と2世は日本語で慣用されている表記を用いている。
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ヨハネは男性名。 ヘブライ語で「ヤハウェは恵み深い」を意味するヨーハーナーン が元の形とされる。ギリシア語ではイオーアンネース。ラテン語(およびドイツ語)ではこれを受け継いでヨハンネス、ヨハネス と変化した。 日本では「ヨハネ」という読み方・表記が、日本聖書協会の日本語訳聖書をはじめとして広く用いられている。
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'''ヨハネ'''({{lang-la|Johannes}})は男性名。
[[ヘブライ語]]で「[[ヤハウェ]]は恵み深い」を意味する[[ヨーハーナーン]] ({{Hebrew|יוחנן}}, {{transl|he|Yôḥānān}}) が元の形とされる。[[ギリシア語]]ではイオーアンネース ({{lang|el|Ιωάννης}}, ただし中世以降の発音は[[イオアンニス (曖昧さ回避)|イオアンニス]]もしくはヨアニス)。[[ラテン語]](および[[ドイツ語]])ではこれを受け継いで[[ヨハネス (曖昧さ回避)|ヨハンネス、ヨハネス]] ("Ioannes", "Iohannes", "Johannes") と変化した。
日本では「ヨハネ」という読み方・表記が、[[日本聖書協会]]の[[日本語訳聖書]]をはじめとして広く用いられている。
== 相当する各言語・各種表記 ==
* {{lang|el|Ιωάννης}}([[イオアンニス (曖昧さ回避)|イオアンニス]]) - [[現代ギリシア語]]
* {{lang|el|Ιωάννης}}(イオーアンネース) - [[古典ギリシア語]]再建
* Ian([[イアン (曖昧さ回避)|イアン]]) - [[スコットランド・ゲール語]]
* {{lang|ru|Иван}}(''Ivan'', [[イヴァン (曖昧さ回避)|イヴァン]]) - [[ロシア語]]
* {{lang|ru|Иоанн}}([[イオアン (曖昧さ回避)|イオアン]]) - [[教会スラヴ語]]再建音
* {{lang|ro|Ioan}}(イオアン) - [[ルーマニア語]]
* Evan([[エヴァン (曖昧さ回避)|エヴァン]]) - [[ウェールズ語]]
* Eoin([[オーイン]])またはSeán([[ショーン (曖昧さ回避)|ショーン]]) - [[アイルランド語|アイルランド・ゲール語]]
* Shane([[シェーン (曖昧さ回避)|シェーン]]) - Seanが英語化したもの
* Jean([[ジャン (曖昧さ回避)|ジャン]]) - [[フランス語]]
* João([[ジョアン (曖昧さ回避)|ジョアン]]) - [[ポルトガル語]]
* Giovanni ([[ジョヴァンニ (曖昧さ回避)|ジョヴァンニ]]) - [[イタリア語]]
* John([[ジョン (人名)|ジョン]]) - [[英語]]
* Juan([[フアン (曖昧さ回避)|フアン]]) - [[スペイン語]]
* {{lang|hy|Հովհաննես}}([[ホヴハンネス (曖昧さ回避)|ホヴハンネス]]) - [[アルメニア語]]
* János([[ヤーノシュ (曖昧さ回避)|ヤーノシュ]]) - [[ハンガリー語]]
* Jan([[ヤン (曖昧さ回避)|ヤン]]) - [[ポーランド語]]・[[チェコ語]]・[[オランダ語]]・[[デンマーク語]]
* Jani([[ヤニ (曖昧さ回避)|ヤニ]])、Janne([[ヤンネ (曖昧さ回避)|ヤンネ]])、Juhani([[ユハニ (曖昧さ回避)|ユハニ]])、Juha([[ユハ (曖昧さ回避)|ユハ]])、Juho([[ユホ (曖昧さ回避)|ユホ]])、Jukka([[ユッカ (曖昧さ回避)|ユッカ]])、Jussi([[ユッシ (曖昧さ回避)|ユッシ]])、Hannu([[ハンヌ (曖昧さ回避)|ハンヌ]]) - [[フィンランド語]]
* Johannes([[ヨハネス (曖昧さ回避)|ヨハネス]]) - [[ドイツ語]]
** 省略形で Hans([[ハンス (曖昧さ回避)|ハンス]])、Johann([[ヨハン (曖昧さ回避)|ヨハン]])
*{{lang|ar|يحيى}}(Yaḥyā'、[[ヤフヤー (曖昧さ回避)|ヤフヤー]]) - [[アラビア語]]。[[クルアーン]]でも[[預言者]]のひとりとして言及されている。
いずれも[[キリスト教徒]]によって非常に好まれる男子の名である。
== キリスト教聖書関連の人物 ==
* [[洗礼者ヨハネ]] - 『新約聖書』に登場する、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた人、[[預言者]]。
* [[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]] - イエス・キリストの十二人の弟子・[[使徒]]の一人。
* [[福音記者ヨハネ]] - [[1世紀]]末の人で、[[ヨハネによる福音書]]、[[ヨハネの第一の手紙]]、[[ヨハネの第二の手紙]]、[[ヨハネの第三の手紙]]、[[黙示録]]の著者とされる人。
== キリスト教関連の人物 ==
* [[ヨハネス・クリュソストモス]] - 4世紀の神学者で聖人。[[聖金口イオアン聖体礼儀]]の編纂者。[[日本正教会]]ではクリュソストモス(金の口を持った)を漢字に置き換え固有名詞部分は[[教会スラヴ語]]から転写し、金口イオアンと訳される。
* [[ヨアンネス・クリマコス]] - 5世紀末から6世紀の神学者で聖人。
* [[ダマスコのヨハネ]](ダマスカスのヨハネ) - 8世紀から9世紀にかけてのシリアの神学者で聖人。
* [[ネポムクのヨハネ]] - 14世紀の司祭で聖人。
* [[十字架のヨハネ]] - 16世紀の司祭で聖人。神秘思想家にして[[教会博士]]の一人。
==ユダヤ人の歴史上の人物 ==
* [[ヨハネ・ヒルカノス1世]] - 前11世紀、[[古代イスラエル]][[ハスモン朝]]の祭司王。サマリアを川の水で洗い流した。<ref>"Later in his reign this same Hasmonean ruler, now independent of the Seleucids laid siege to the city of Samaria (109 BCE?) and took it after a year's manoeuvring (Bell. I.64ff;Ant. XIII.275ff). The hated city was utterly destroyed by undermining literally allowed to be washed away.". cf. {{Cite book|url=https://books.google.co.uk/books?id=I6-JGAW2jjoC&printsec=&hl=en |publisher=Cambridge University Press |title=The Cambridge History of Judaism |volume=3 |chapter=The early Roman period |author=William David Davies |language=English |year=1999 |isbn=9780521243773 |page=571}}</ref>
== ヨハネの名を持つローマ教皇 ==
{{see also|教皇ヨハネスの代数}}
22世まではラテン語読みの「ヨハネス」を用いているが、ヨハネ23世および、ヨハネ・パウロ1世と2世は日本語で慣用されている表記を用いている。
* [[ヨハネス1世_(ローマ教皇)|ヨハネス1世]]
* [[ヨハネス2世_(ローマ教皇)|ヨハネス2世]]
* [[ヨハネス3世_(ローマ教皇)|ヨハネス3世]]
* [[ヨハネス4世_(ローマ教皇)|ヨハネス4世]]
* [[ヨハネス5世_(ローマ教皇)|ヨハネス5世]]
* [[ヨハネス6世_(ローマ教皇)|ヨハネス6世]]
* [[ヨハネス7世_(ローマ教皇)|ヨハネス7世]]
* [[ヨハネス8世_(ローマ教皇)|ヨハネス8世]]
* [[ヨハネス9世_(ローマ教皇)|ヨハネス9世]]
* [[ヨハネス10世_(ローマ教皇)|ヨハネス10世]]
* [[ヨハネス11世_(ローマ教皇)|ヨハネス11世]]
* [[ヨハネス12世_(ローマ教皇)|ヨハネス12世]]
* [[ヨハネス13世_(ローマ教皇)|ヨハネス13世]]
* [[ヨハネス14世_(ローマ教皇)|ヨハネス14世]]
* [[ヨハネス15世_(ローマ教皇)|ヨハネス15世]]
* [[ヨハネス16世_(対立教皇)|ヨハネス16世]] (対立教皇)
* [[ヨハネス17世_(ローマ教皇)|ヨハネス17世]]
* [[ヨハネス18世_(ローマ教皇)|ヨハネス18世]]
* [[ヨハネス19世_(ローマ教皇)|ヨハネス19世]]
* [[ヨハネス20世_(ローマ教皇)|ヨハネス20世]] (存在せず)
* [[ヨハネス21世_(ローマ教皇)|ヨハネス21世]]
* [[ヨハネス22世_(ローマ教皇)|ヨハネス22世]]
* [[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]
* [[ヨハネ・パウロ1世_(ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]
* [[ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]
== ヨハネの名を持つ対立教皇 ==
* [[ヨハネ_(対立教皇)|対立教皇ヨハネ]]
* [[ヨハネス16世_(対立教皇)|ヨハネス16世]](対立教皇)
* [[ヨハネス23世_(対立教皇)|対立教皇ヨハネス23世]]
== その他のヨハネ ==
* [[ヨハニス・デ・レーケ]] - 明治時代のお雇い外国人、オランダ人土木技師
* [[ヨハネスブルグ]] - ヨハネにちなむ地名
* 『[[ラブライブ!サンシャイン!!]]』
** [[ラブライブ!サンシャイン!!#津島善子|津島善子]] - 『ラブライブ!サンシャイン!!』の登場人物。堕天使ヨハネを自称している。
** 『[[幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-]]』 - 『ラブライブ!サンシャイン!!』の公式スピンオフ作品。
* 『[[聖☆おにいさん]]』 - 日本の漫画。ヨハネと称したキャラクターが登場する。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{人名の曖昧さ回避}}
{{DEFAULTSORT:よはね}}
[[Category:ヘブライ語の男性名]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D
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ヨハネ (使徒)
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使徒ヨハネ(しとヨハネ)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。洗礼者ヨハネと区別するために特に「使徒ヨハネ」と呼んだり、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネと呼ぶこともある。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。
日本ハリストス正教会における呼称では教会スラヴ語から転写しイオアン。聖使徒福音者神学者イオアンとも呼ばれる。英語表記ではジョン(John)である。
正教会での記憶日は10月9日(修正ユリウス暦使用教会では9月26日)。カトリック教会での記念日は12月27日。
ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたが、ナザレのイエスと出会い、その最初の弟子の一人となった。ペトロ、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、イエスの変容の場面や、ゲッセマネにおけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だけが伴われている。『ルカによる福音書』ではイエスから最後の晩餐の準備をペトロとヨハネの2人が仰せつかっている。
『ヨハネによる福音書』ではイエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「愛する弟子」が十字架の下にいたと書かれている。このためキリスト磔刑図においては、伝統的にイエスの母マリアとヨハネを左右に配する構図が存在する。
また、『ヨハネ福音書』ではイエスの墓が空であることを聞いてペトロとかけつけ、真っ先に墓にたどりついたのもこの弟子であり、伝統的に使徒ヨハネのことだと信じられている(これについては「イエスの愛しておられた弟子」を参照)。
ヨハネは初代教会においてペトロとともに指導的立場にあった。
古い伝承では使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされる。イエスの母マリアを連れエフェソスに移り住んだヨハネは、のちにパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を記した。釈放されてエフェソスに戻り、そこで没した。福音書を書いたのはパトモス島から釈放された後、老年に達してからで、弟子プロクロスが口述したと伝えられる。またアトス山修道院を開いたのは、ヨハネに伴われたイエスの母マリアであるとする伝説もある。
教会では伝統的には『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一』、『ヨハネの手紙二』、『ヨハネの手紙三』、『ヨハネの黙示録』が使徒ヨハネによって書かれたとされてきたが、高等批評の影響を受ける近代聖書学ではそのような見解を支持しない学者が多い。ただし、保守的な立場では今も伝統的な理解が保持される(詳細はヨハネ文書を参照)。
ヨハネおよび『ヨハネの福音書』はしばしば鷲のシンボルであらわされる。これは『エゼキエル書』1:10に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている。
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使徒ヨハネ(しとヨハネ)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。洗礼者ヨハネと区別するために特に「使徒ヨハネ」と呼んだり、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネと呼ぶこともある。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。 日本ハリストス正教会における呼称では教会スラヴ語から転写しイオアン。聖使徒福音者神学者イオアンとも呼ばれる。英語表記ではジョン(John)である。 正教会での記憶日は10月9日(修正ユリウス暦使用教会では9月26日)。カトリック教会での記念日は12月27日。
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'''使徒ヨハネ'''(しとヨハネ)は、[[新約聖書]]に登場するイエスの[[使徒]]の一人。[[洗礼者ヨハネ]]と区別するために特に「使徒ヨハネ」と呼んだり、'''[[ゼベダイの子]]ヨハネ'''、'''[[福音記者ヨハネ]]'''と呼ぶこともある。[[聖人]]の概念を持つ全ての[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]で、聖人として崇敬されている。
[[日本ハリストス正教会]]における呼称では[[教会スラヴ語]]から転写し'''イオアン'''。'''[[聖使徒]][[福音者]][[神学者]]イオアン'''とも呼ばれる。英語表記では'''ジョン'''(John)である。
正教会での記憶日は[[10月9日]]([[修正ユリウス暦]]使用教会では[[9月26日]])。[[カトリック教会]]での記念日は[[12月27日]]。
== 概要 ==
ヨハネは兄の[[ヤコブ (ゼベダイの子)|ヤコブ]]とともに[[ガリラヤ湖]]で漁師をしていたが、[[ナザレのイエス]]と出会い、その最初の弟子の一人となった。[[ペトロ]]、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、[[主イエスの変容|イエスの変容]]の場面や、[[ゲッセマネ]]におけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だけが伴われている。『[[ルカによる福音書]]』ではイエスから[[最後の晩餐]]の準備をペトロとヨハネの2人が仰せつかっている<ref>ルカ22:8</ref>。
『[[ヨハネによる福音書]]』ではイエスが[[十字架]]にかけられたときも弟子としてただ一人「[[愛する弟子]]」が十字架の下にいたと書かれている<ref>ヨハネ19:26</ref>。このためキリスト磔刑図においては、伝統的に[[イエスの母マリア]]とヨハネを左右に配する構図が存在する。
また、『ヨハネ福音書』ではイエスの墓が空であることを聞いて[[ペトロ]]とかけつけ、真っ先に墓にたどりついたのもこの弟子であり、伝統的に使徒ヨハネのことだと信じられている(これについては「[[イエスの愛しておられた弟子]]」を参照)。
ヨハネは[[初代教会]]においてペトロとともに指導的立場にあった<ref>[[使徒言行録]]3:1など</ref>。
古い伝承では[[使徒]]たちの中で唯一殉教しなかったとされる{{efn|何度か処刑されかけたが、いずれも生還を果たしている。}}。[[イエスの母マリア]]を連れ[[エフェソス]]に移り住んだヨハネは、のちに[[パトモス島]]に幽閉され、そこで黙示録を記した<ref>ヨハネ黙1:9</ref>。釈放されてエフェソスに戻り、そこで没した。福音書を書いたのはパトモス島から釈放された後、老年に達してからで、弟子プロクロスが口述したと伝えられる。また[[アトス山]]修道院を開いたのは、ヨハネに伴われた[[イエスの母マリア]]であるとする伝説もある。
== 著書について ==
教会では伝統的には『[[ヨハネによる福音書]]』、『[[ヨハネの手紙一]]』、『[[ヨハネの手紙二]]』、『[[ヨハネの手紙三]]』、『[[ヨハネの黙示録]]』が使徒ヨハネによって書かれたとされてきたが、[[高等批評]]の影響を受ける近代[[聖書学]]ではそのような見解を支持しない学者が多い。ただし、保守的な立場では今も伝統的な理解が保持される(詳細は[[ヨハネ文書]]を参照)。
ヨハネおよび『ヨハネの福音書』はしばしば[[鷲]]の[[アトリビュート|シンボル]]であらわされる。これは『[[エゼキエル書]]』1:10に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の[[福音記者]]と[[福音書]]にあてはめられている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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*[[ヨハネ]] - 曖昧さ回避ページ
*[[石巻ハリストス正教会]] - 聖堂名が「聖使徒イオアン聖堂」であり、使徒ヨハネを記憶している。
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[[Category:使徒]]
[[Category:使徒ヨハネ|*]]
[[Category:正教会の聖人]]
[[Category:正教会の神学者]]
[[Category:非カルケドン派の聖人]]
[[Category:カトリック教会の聖人]]
[[Category:聖公会の聖人]]
[[Category:ルーテル教会の聖人]]
[[Category:ヨハネの黙示録]]
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射水郡
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射水郡(いみずぐん)は、富山県(越中国)にあった郡。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、おおむね以下の区域に相当する。
上記のうち、後に富山市に属する区域は婦負郡、氷見市および高岡市の一部(太田・西田・渋谷)の区域は氷見郡の所属となった。また、射水市の例外となっている区域は後に当郡の所属となっている。
いみづ(いみず)という地名は、『先代旧事本紀』に大河音足尼が「伊彌頭国造(いみづのくにのみやつこ)」に定められたと記されるのが初見とされる。語源には諸説あり、「出水」と解して「川口」もしくは「湧泉地」の意とする説、文字通り射られた矢のように速い川(射水川(現 庄川・小矢部川))の意とする説などがある。
江戸時代までは越中国の北西部一帯を占める郡で、現在の高岡市の一部(北部・中部)、富山市の一部(老田地区)、射水市、氷見市の市域に相当する。南を礪波郡、東を婦負郡、北と東を加賀国・能登国に接する。律令時代には伏木(現 高岡市伏木)に越中国府が置かれた。
1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行の際、郡役所は高岡(後に市制施行して高岡市)に置かれた。1942年(昭和17年)の地方事務所設置の際は、射水地方事務所が小杉町に置かれた。
延喜式神名帳には13座12社(大社1座1社、小社12座11社)が記載されている。大社は名神大社であるが、写本により射水神社とするものと気多神社とするものとがある。
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射水郡(いみずぐん)は、富山県(越中国)にあった郡。
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[[ファイル:Toyama Imizu-gun.png|thumb|富山県射水郡の範囲(水色:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)]]
'''射水郡'''(いみずぐん)は、[[富山県]]([[越中国]])にあった[[郡]]。
== 郡域 ==
[[1878年]]([[明治]]11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、おおむね以下の区域に相当する。
* [[富山市]](中老田、東老田)
* [[高岡市]](二蔵、東藤平蔵、十二町島、西藤平蔵、佐野、和田、石塚、上北島、北島、早川、長江、長慶寺、守山、須田、西海老坂、東海老坂以東)
* [[氷見市]]
* [[射水市]](土代・山本・小杉北野・山本新・椎土・海老江練合・本江針山新を除く)
上記のうち、後に富山市に属する区域は[[婦負郡]]、氷見市および高岡市の一部(太田・西田・渋谷)の区域は[[氷見郡]]の所属となった。また、射水市の例外となっている区域は後に当郡の所属となっている。
== 歴史 ==
いみづ(いみず)という地名は、『[[先代旧事本紀]]』に[[大河音足尼]]が「[[伊彌頭国造]](いみづのくにのみやつこ)」に定められたと記されるのが初見とされる。語源には諸説あり、「出水」と解して「川口」もしくは「湧泉地」の意とする説、文字通り射られた矢のように速い川(射水川(現 [[庄川]]・[[小矢部川]]))の意とする説などがある。
[[江戸時代]]までは[[越中国]]の北西部一帯を占める郡で、現在の高岡市の一部(北部・中部)、富山市の一部(老田地区)、[[射水市]]、[[氷見市]]の市域に相当する。南を[[礪波郡]]、東を[[婦負郡]]、北と東を[[加賀国]]・[[能登国]]に接する。律令時代には伏木(現 高岡市[[伏木町|伏木]])に越中[[国府]]が置かれた。
[[1878年]]([[明治]]11年)の[[郡区町村編制法]]施行の際、郡[[役所]]は高岡(後に市制施行して高岡市)に置かれた。[[1942年]]([[昭和]]17年)の[[地方事務所]]設置の際は、射水地方事務所が小杉町に置かれた。
=== 近代以降の沿革 ===
* [[幕末]]時点では全域が[[加賀国|加賀]]'''[[加賀藩|金沢藩]]'''領であった。
* [[1871年]]([[明治]]4年)
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]] - [[廃藩置県]]により'''[[金沢県]]'''の管轄となる。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]] - 第1次府県統合により'''[[七尾県]]'''の管轄となる。
* [[1872年]](明治5年)[[9月27日 (旧暦)|9月27日]] - 七尾県の廃止により'''[[新川県]]'''の管轄となる。
* [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[石川県]]'''の管轄となる。
* [[1878年]](明治11年)[[12月17日]] - [[郡区町村編制法]]の石川県での施行により、行政区画としての'''射水郡'''が発足。郡役所を[[高岡城]]鍛冶丸跡(現在の[[高岡市立博物館]]、高岡市古城1番5号)に設置。
* [[1883年]](明治16年)[[5月9日]] - 石川県が分割され、'''[[富山県]]'''の管轄となる。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[市制]]の施行により当郡の一部(高岡60町<ref>高岡木町、高岡地子木町、高岡母衣町、高岡油新町、高岡油町、高岡縄手中町、高岡縄手下町、高岡片原町、高岡定塚町、高岡新横町、高岡旧旅屋門前、高岡堀上町、高岡坂下町、高岡宮脇町、高岡下桶屋町、高岡立横町、高岡袋町、高岡横町、高岡梶原淵町、高岡平米町、高岡上桶屋町、高岡千木屋町、高岡源平板屋町、高岡小馬出町、高岡二丁町、高岡下川原町、高岡片原横町、高岡三番町、高岡木舟町、高岡片原中島町、高岡御馬出町、高岡大工町、高岡白銀後町、高岡大工中町、高岡大鋸屋町、高岡博労畳町、高岡鴨島町、高岡鴨島下町、高岡旅籠町、高岡橋番町、高岡風呂屋町、高岡白銀町、高岡檜物屋町、高岡一番新町、高岡川原上町、高岡二番新町、高岡上川原町、高岡中川原町、高岡金屋町、高岡横田町、高岡守山町、高岡利屋町、高岡一番町、高岡二番町、高岡通町、高岡百姓町、高岡内免町、高岡中島町、高岡川原地子、高岡横田新町。</ref>および高岡関町、高岡大坪地子、横田村、下関村、中川村、上関村、木津村、開発村、鴨島村、湶分の各一部)が分立して'''[[高岡市]]'''が発足し、郡より離脱。また、[[町村制]]の施行により、円池又新村の所属郡が[[礪波郡]]に変更、残部には以下の町村が発足。(5町49村)
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|title = 町村制施行時の5町49村
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[[ファイル:Toyama Imizu-gun 1889.png|frame|1.掛開発村 2.下関村 3.野村 4.大門町 5.二口村 6.浅井村 7.櫛田村 8.水戸田村 9.金山村10.橋下条村 11.小杉町 12.黒河村 13.老田村 14.大江村 15.下村 16.七美村 17.打出本江村 18.海老江村 19.堀岡村 20.片口村 21.作道村 22.大島村 23.塚原村 24.牧野村 25.新湊町 26.能町村 27.伏木町 28.二上村 29.守山村 30.西条村 31.横田村 32.佐野村 33.二塚村(紫:富山市 桃:高岡市 赤:射水市)]]
:* '''[[掛開発村]]''' ← 掛開発村、湶分[一部]、開発村[一部]、高岡土器町、高岡開発町、高岡大坪地子[一部]、高岡散地子、江尻村、荻布村、米島村、城光寺村(現・高岡市)
:* '''[[下関村 (富山県)|下関村]]''' ← 下関村[一部]、中川村[一部]、京田村、上関村[一部]、塵除村、高岡神主町、赤祖父村、大野村、高岡古定塚町、高岡関町[一部](現・高岡市)
:* '''[[野村 (富山県)|野村]]''' ← 蓮花寺村、野村、野村新村、三女子村、井口本江村、出来田村、深沢村、石瀬村(現・高岡市)
:* '''[[大門町]]''' ← 大門村、大門新町、犬内村、枇杷首村、百米木村、二口村[一部](現・射水市)
:* '''[[二口村]]''' ← 二口村[一部]、棚田村、南中村、安吉村、本田村、下若林村、本江村(現・射水市)
:* '''[[浅井村 (富山県)|浅井村]]''' ← 島村、上条村、下条村、古川新村、土合村、土合新村、柳俣村、堀内村、東広上村、西広上村[一部]、西広上新村(現・射水市)
:* '''[[櫛田村 (富山県)|櫛田村]]''' ← 串田村、串田新村、串田新出村、円池村、布目沢村、円池新村、小泉村(現・射水市)
:* '''[[水戸田村]]''' ← 水戸田村、生源寺村、生源寺新村、上若林村、生源寺新出村、市井村、竹鼻村、開口村、藤巻村(現・射水市)
:* '''[[金山村 (富山県)|金山村]]''' ← 青井谷村、浄土寺村、上野村、上野新村(現・射水市)
:* '''[[橋下条村]]''' ← 橋下条村、橋下条新村、日宮新村(現・射水市)
:* '''[[小杉町]]''' ← 戸破村、小杉三ヶ村、大手崎村(現・射水市)
:* '''[[黒河村]]''' ← 黒河村、黒河新村、黒河又新村、沢野村、太閤山、中老田新村、塚越村(現・射水市)
:* '''[[老田村]]''' ← 中老田村、東老田村、東老田新村、西老田新村、願海寺村、野々上村、二俣村、花木新村(現・富山市)
:* '''[[大江村 (富山県)|大江村]]''' ← 大江村、鷲塚村、西高木村、小白石村、東稲積村(現・射水市)
:* '''[[下村]]''' ← 下村、倉垣小杉村、大白石村、摺出寺村、八講開、三十三ヶ村[一部](現・射水市)
:* '''[[七美村]]''' ← 野寺新村、穴場新村、柳瀬村、柳瀬新村、二十六町村、八島新村、中野新村(現・射水市)
:* '''[[本江村|打出本江村]]''' ← 打出本江村、中新村、利波新村、針山新出村、針山後新村、針山新村、三十三ヶ村[一部]、[[婦負郡]]針山新村(現・射水市)
:* '''[[海老江村 (富山県)|海老江村]]''' ← 海老江村、浜開新村、三十三ヶ村[一部]、婦負郡練合村(現・射水市)
:* '''[[堀岡村]]''' ← 堀岡新村、明神新村、新明神村、古明神村、堀江新村(現・射水市)
:* '''[[片口村]]''' ← 片口村、久々江村、久々江新村、高場新村、堀上新村、入江村、堀岡又新村(現・射水市)
:* '''[[作道村]]''' ← 作道村、殿村津幡江村、今井村、高木村、布目村、鏡宮村、久々湊村、野村津幡江村、東津幡江村、沖村(現・射水市)
:* '''[[大島町 (富山県)|大島村]]''' ← 本開発村、今開発村、小島村、新開発村、赤井村、北高木村、八塚村、小林村、鳥取村、南高木村、北野村、若杉村、中野村(現・射水市)
:* '''[[塚原村]]''' ← 寺塚原村、沖塚原村、松木村、東朴木村(現・射水市)
:* '''[[牧野村 (富山県)|牧野村]]''' ← 下牧野村、上牧野村、中曽根村、姫野村、金屋村、石丸村(現・高岡市)
:* '''[[新湊市|新湊町]]''' ← 新湊放生津町、新湊荒屋村、新湊放生津新町、新湊三日曽根村、新湊四日曽根村、新湊長徳寺村、新湊三ヶ新村、新湊六渡寺村、法土寺村、中伏木村、中伏木新村(現・射水市)
:* '''[[能町村]]''' ← 吉久村、宮中新村、六渡寺新村、能町村、鷲北新村、角村、吉久新村(現・高岡市)
:* '''[[伏木町]]''' ← 伏木本町、伏木中道町、伏木湊町、伏木臥浦町、伏木石坂町、伏木玉川町、伏木新町、一ノ宮村、古府村、矢田村、国分村(現・高岡市)
:* '''[[二上村 (富山県)|二上村]]''' ← 二上村、下八ヶ新村、守護町村、南八ヶ新村、守護町新村、渡リ村、二上新村(現・高岡市)
:* '''[[守山村 (富山県)|守山村]]''' ← 守山町、須田村、五十里村、西海老坂村、東海老坂村(現・高岡市)
:* '''[[西条村 (富山県)|西条村]]''' ← 波岡村、北島村、長慶寺村、早川村、長江新村(現・高岡市)
:* '''[[横田村 (富山県)|横田村]]''' ← 横田村[一部]、四ツ屋川原村、開発村[一部]、内免新村、開発新村、鷲島新村[一部]、甲島村、羽広村、鴨島村[一部](現・高岡市)
:* '''[[佐野村 (富山県)|佐野村]]''' ← 佐野村、西藤平蔵村、十二町島村、北蔵新村、鷲島新村[一部]、木津村[一部]、中坪新村、木津新村、上関新村(現・高岡市)
:* '''[[二塚村 (富山県)|二塚村]]''' ← 二塚村、西広上村[一部]、十二町分、上伏間江村、下伏間江村、上黒田村、下黒田村、林新村、二塚新村、上黒田新村、東藤平蔵村(現・高岡市)
[[ファイル:Toyama Himi-gun 1889.png|frame|1.太田村 2.宮田村 3.窪村 4.仏生寺村 5.布勢村 6.神代村 7.十二町村 8.氷見町 9.加納村 10.上庄村 11.熊無村 12.速川村 13.久目村 14.阿尾村 15.藪田村 16.余川村 17.稲積村 18.碁石村 19.八代村 20.宇波村 21.女良村 (紫:氷見市 桃:高岡市)]]
:* '''[[太田村 (富山県氷見郡)|太田村]]''' ← 太田村、西田村、渋谷新村(現・高岡市)
:* '''[[宮田村 (富山県)|宮田村]]''' ← 乱橋村、島尾村、上泉村、下田子村、上田子村、小竹村(現・氷見市)
:* '''[[窪村]]''' ← 窪村、園村、窪新村、柳田村、柳田新村(現・氷見市)
:* '''[[仏生寺村 (富山県)|仏生寺村]]''' ← 惣領村、鞍骨村、仏生寺村(現・氷見市)
:* '''[[布勢村 (富山県)|布勢村]]''' ← 飯久保村、矢田部村、深原村、布施村(現・氷見市)
:* '''[[神代村 (富山県)|神代村]]''' ← 神代村、蒲田村、矢方村、中島新村[一部]、古江新村[一部]、耳浦村、堀田村
:* '''[[十二町村]]''' ← 十二町村、海津村、上久津呂村、下久津呂村、粟原村、川尻村、万尾村、中谷内村、西朴木村、中島新村[一部]、古江新村[一部](現・氷見市)
:* '''[[氷見市|氷見町]]''' ← 氷見17町<ref>氷見御座町、氷見南上町、氷見南中町、氷見南下町、氷見川原町、氷見仕切町、氷見下伊勢町、氷見上伊勢町、氷見地蔵新町、氷見高町、氷見中町、氷見本川町、氷見浜町、氷見湊町、氷見朝日新町、氷見今町、氷見北新町。</ref>、朝日村、加納村[一部]、鞍川村[一部]、池田新村(現・氷見市)
:* '''[[加納村 (富山県)|加納村]]''' ← 加納村[一部]、鞍川村[一部](現・氷見市)
:* '''[[上庄村 (富山県)|上庄村]]''' ← 泉村、大野新村、七分一村、上田村、柿谷村(現・氷見市)
:* '''[[熊無村]]''' ← 論田村、熊無村、谷屋村、中村、新保村(現・氷見市)
:* '''[[速川村]]''' ← 小久米村、日詰村、早借村、田江村、日名田村、三尾村、床鍋村、葛葉村、小窪村(現・氷見市)
:* '''[[久目村]]''' ← 池田村、触坂村、桑院村、見内村、岩ヶ瀬村、棚懸村、坪池村、赤羽毛村、老谷村(現・氷見市)
:* '''[[阿尾村]]''' ← 阿尾村、北八代村、指崎村、森寺村(現・氷見市)
:* '''[[藪田村 (富山県)|藪田村]]''' ← 藪田村、小杉村、泊リ村(現・氷見市)
:* '''[[余川村 (富山県)|余川村]]'''(下余川村が単独村制。現・氷見市)
:* '''[[稲積村 (富山県)|稲積村]]''' ← 稲積村、間島新村(現・氷見市)
:* '''[[碁石村]]''' ← 上余川村、一刎村、吉懸村、味川村、懸札村、寺尾村(現・氷見市)
:* '''[[八代村 (富山県)|八代村]]''' ← 胡桃原村、角間村、国見村、小滝村、針木村、磯辺村、吉滝村(現・氷見市)
:* '''[[宇波村]]''' ← 宇波村、大境村、小境村、脇方村、白川村、五十谷村、戸津宮村、大窪村(現・氷見市)
:* '''[[女良村]]''' ← 中田村、脇村、中波村、姿村、長坂村、平村、吉岡村、平沢村(現・氷見市)
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* [[1896年]](明治29年)
** 4月1日 - [[郡制]]の施行のため、太田村、宮田村、窪村、仏生寺村、布勢村、神代村、十二町村、氷見町、加納村、上庄村、熊無村、速川村、久目村、阿尾村、藪田村、余川村、稲積村、碁石村、八代村、宇波村、女良村の区域をもって'''氷見郡'''が発足。(4町29村)
** [[6月1日]] - 郡制を施行。
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月1日]] - 打出本江村が'''[[本江村]]'''に改称。
* [[1917年]](大正6年)[[5月15日]] - 掛開発村が高岡市、能町村、二上村に分割編入。(4町28村)
* [[1923年]](大正12年)[[3月31日]] - 郡会が廃止。郡役所は存続。
* [[1926年]](大正15年)[[6月30日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
* [[1925年]](大正14年)[[8月1日]] - 下関村が高岡市に編入。(4町27村)
* [[1928年]]([[昭和]]3年)6月1日 - 横田村・西条村が高岡市に編入。(4町25村)
* [[1933年]](昭和8年)8月1日 - 二上村が高岡市に編入。(4町24村)
* [[1940年]](昭和15年)[[12月1日]] - 牧野村が新湊町に編入。(4町23村)
* [[1942年]](昭和17年)
** 4月1日 - 伏木町・能町村・守山村・野村・佐野村・二塚村が高岡市に編入。(3町18村)
** [[6月8日]] - 橋下条村が小杉町に編入。(3町17村)
** [[10月2日]] - 新湊町が高岡市に編入。(2町17村)
* [[1951年]](昭和26年)
** 1月1日 - 高岡市の一部が分立し、'''新湊町'''、'''牧野村'''が発足。(3町18村)
** [[3月15日]] - 新湊町が市制施行して'''[[新湊市]]'''となり、郡より離脱。(2町18村)
** [[4月4日]] - 牧野村が高岡市に編入。(2町17村)
* [[1953年]](昭和28年)
** 4月1日 - 作道村・片口村・堀岡村・海老江村・七美村・本江村が新湊市に編入。(2町11村)
** [[10月5日]] - 塚原村が新湊市に編入。(2町10村)
** [[11月15日]] - 金山村が小杉町に編入。(2町9村)
** 12月1日 - 大江村が小杉町に編入。(2町8村)
* [[1954年]](昭和29年)
** [[3月1日]](2町3村)
*** 大門町・櫛田村・浅井村・水戸田村・二口村が合併し、改めて'''大門町'''が発足。
*** [[老田村]]が[[婦負郡]][[呉羽村]]・[[長岡村 (富山県)|長岡村]]・[[寒江村]]と合併して婦負郡[[呉羽町]]が発足し、郡より離脱。
** [[3月27日]] - 黒河村が小杉町に編入。(2町2村)
* [[1959年]](昭和34年)4月1日 - 小杉町が婦負郡[[池多村]]の一部(大字土代および山本・北野・山本新・椎土の各一部)を編入。
* [[1969年]](昭和44年)4月1日 - 大島村が町制施行して'''[[大島町 (富山県)|大島町]]'''となる。(3町1村)
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[11月1日]] - 小杉町・大門町・大島町・下村が新湊市と合併して'''[[射水市]]'''が発足。同日射水郡消滅。
=== 変遷表 ===
{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{|class="wikitable" style="font-size:x-small"
!明治22年以前
!明治22年4月1日
!明治22年 - 明治45年
!colspan="2"|大正1年 - 昭和20年
!colspan="2"|昭和20年 - 昭和63年
!平成1年 - 現在
!現在
|-
|
|高岡市
|高岡市
|高岡市
|rowspan="6"|高岡市
|rowspan="12" colspan="2"|高岡市
|rowspan="13"|高岡市
|rowspan="13"|高岡市
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|掛開発村
|style="background-color:#99CCFF;"|掛開発村
|大正6年5月15日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|下関村
|style="background-color:#99CCFF;"|下関村
|大正14年8月1日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|横田村
|style="background-color:#99CCFF;"|横田村
|rowspan="2"|昭和3年6月1日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|西条村
|style="background-color:#99CCFF;"|西条村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|二上村
|style="background-color:#99CCFF;"|二上村
|昭和8年8月1日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#66FFFF;"|伏木町
|style="background-color:#66FFFF;"|伏木町
|style="background-color:#66FFFF;"|伏木町
|rowspan="6"|昭和17年4月1日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|佐野村
|style="background-color:#99CCFF;"|佐野村
|style="background-color:#99CCFF;"|佐野村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|守山村
|style="background-color:#99CCFF;"|守山村
|style="background-color:#99CCFF;"|守山村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|二塚村
|style="background-color:#99CCFF;"|二塚村
|style="background-color:#99CCFF;"|二塚村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|野村
|style="background-color:#99CCFF;"|野村
|style="background-color:#99CCFF;"|野村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|能町村
|style="background-color:#99CCFF;"|能町村
|style="background-color:#99CCFF;"|能町村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|牧野村
|style="background-color:#99CCFF;"|牧野村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和15年12月1日<br />新湊町に編入<br />
|rowspan="2"|昭和17年10月1日<br />高岡市に編入
|style="background-color:#99CCFF;"|昭和26年1月1日<br />分立 牧野村
|昭和26年4月4日<br />高岡市に編入
|-
|
|style="background-color:#66FFFF;"|新湊町
|style="background-color:#66FFFF;"|新湊町
|style="background-color:#66FFFF;"|新湊町
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和26年1月1日<br />分立 新湊町
|昭和26年3月15日<br />市制
|rowspan="21"|平成17年11月1日<br />射水市
|rowspan="21"|射水市
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|打出本江村
|style="background-color:#99CCFF;"|打出本江村
|style="background-color:#99CCFF;"|大正4年1月1日<br />改称 本江村
|style="background-color:#99CCFF;"|本江村
|style="background-color:#99CCFF;"|本江村
|rowspan="6"|昭和28年4月1日<br />新湊市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|七美村
|style="background-color:#99CCFF;"|七美村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|七美村
|style="background-color:#99CCFF;"|七美村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|海老江村
|style="background-color:#99CCFF;"|海老江村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|海老江村
|style="background-color:#99CCFF;"|海老江村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|堀岡村
|style="background-color:#99CCFF;"|堀岡村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|堀岡村
|style="background-color:#99CCFF;"|堀岡村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|片口村
|style="background-color:#99CCFF;"|片口村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|片口村
|style="background-color:#99CCFF;"|片口村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|作道村
|style="background-color:#99CCFF;"|作道村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|作道村
|style="background-color:#99CCFF;"|作道村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|塚原村
|style="background-color:#99CCFF;"|塚原村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|塚原村
|style="background-color:#99CCFF;"|塚原村
|昭和28年10月5日<br />新湊市に編入
|-
|
|style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|rowspan="6" style="background-color:#66FFFF;"|小杉町
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|橋下条村
|style="background-color:#99CCFF;"|橋下条村
|style="background-color:#99CCFF;"|橋下条村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和17年6月8日<br />小杉町に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|金山村
|style="background-color:#99CCFF;"|金山村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|金山村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和28年11月15日<br />小杉町に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|大江村
|style="background-color:#99CCFF;"|大江村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|大江村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和28年12月1日<br />小杉町に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|黒河村
|style="background-color:#99CCFF;"|黒河村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|黒河村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和29年3月27日<br />小杉町に編入
|-
|
|[[婦負郡]]<br />池多村の一部
|婦負郡<br />池多村の一部
|colspan="2"|婦負郡<br />池多村の一部
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和34年1月1日<br />小杉町に編入
|-
|
|style="background-color:#66FFFF;"|大門町
|style="background-color:#66FFFF;"|大門町
|style="background-color:#66FFFF;" colspan="2"|大門町
|rowspan="5" colspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|昭和29年3月1日<br />大門町
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|水戸田村
|style="background-color:#99CCFF;"|水戸田村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|水戸田村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|櫛田村
|style="background-color:#99CCFF;"|櫛田村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|櫛田村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|浅井村
|style="background-color:#99CCFF;"|浅井村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|浅井村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|二口村
|style="background-color:#99CCFF;"|二口村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|二口村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|大島村
|style="background-color:#99CCFF;"|大島村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|大島村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和44年4月1日<br />町制
|style="background-color:#66FFFF;"|大島町
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|下村
|style="background-color:#99CCFF;"|下村
|colspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|下村
|colspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|下村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|太田村
|rowspan="21"|明治29年3月29日<br />[[氷見郡]]
|colspan="2"|氷見郡<br />太田村
|colspan="2"|昭和28年10月5日<br />高岡市に編入
|高岡市
|高岡市
|-
|
|style="background-color:#66FFFF;"|氷見町
|氷見郡<br />氷見町
|rowspan="3"|氷見郡<br />氷見町
|rowspan="6" colspan="2"|昭和27年8月1日<br />氷見市
|rowspan="20"|氷見市
|rowspan="20"|氷見市
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|加納村
|昭和15年4月1日<br />氷見町に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|稲積村
|昭和15年10月1日<br />氷見町に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|余川村
| colspan="2"|氷見郡<br />余川村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|碁石村
| colspan="2"|氷見郡<br />碁石村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|八代村
| colspan="2"|氷見郡<br />八代村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|宮田村
| colspan="2"|氷見郡<br />宮田村
|rowspan="2" colspan="2"|昭和28年11月1日<br />氷見市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|窪村
| colspan="2"|氷見郡<br />窪村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|上庄村
| colspan="2"|氷見郡<br />上庄村
|rowspan="2" colspan="2"|昭和28年12月1日<br />氷見市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|熊無村
| colspan="2"|氷見郡<br />熊無村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|仏生寺村
| colspan="2"|氷見郡<br />仏生寺村
|rowspan="10" colspan="2"|昭和29年4月1日<br />氷見市に編入
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|布勢村
| colspan="2"|氷見郡<br />布勢村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|神代村
| colspan="2"|氷見郡<br />神代村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|十二町村
| colspan="2"|氷見郡<br />十二町村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|速川村
| colspan="2"|氷見郡<br />速川村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|久目村
| colspan="2"|氷見郡<br />久目村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|阿尾村
| colspan="2"|氷見郡<br />阿尾村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|薮田村
| colspan="2"|氷見郡<br />薮田村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|宇波村
| colspan="2"|氷見郡<br />宇波村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|女良村
| colspan="2"|氷見郡<br />女良村
|-
|
|style="background-color:#99CCFF;"|老田村
|style="background-color:#99CCFF;"|老田村
|style="background-color:#99CCFF;" colspan="2"|老田村
|昭和29年3月1日<br />[[婦負郡]]<br />呉羽町の一部
|昭和40年4月1日<br />富山市に編入
|平成17年4月1日<br />富山市の一部
|富山市
|}
{{hidden end}}
== 式内社 ==
[[延喜式神名帳]]には13座12社(大社1座1社、小社12座11社)が記載されている。大社は[[名神大社]]であるが、写本により射水神社とするものと気多神社とするものとがある。
* 射水神社(高岡市古城 [[射水神社]]、高岡市二上 [[二上射水神社]])
* [[道神社]](論社3社)
* [[物部神社 (高岡市)|物部神社]](高岡市東海老坂)
* 加久弥神社 二座(論社2社。氷見市神代 [[加久弥神社]]、高岡市末広町 [[高岡関野神社]])
* [[久目神社]](氷見市久目)
* [[布勢神社 (氷見市)|布勢神社]](氷見市布勢)
* 速川神社(論社3社。氷見市早借 [[速川神社 (氷見市)|速川神社]]、高岡市波岡 [[速川神社 (高岡市)|速川神社]]、高岡市早川 [[早川八幡社]])
* [[櫛田神社 (射水市)|櫛田神社]](射水市串田)
* [[礒部神社]](氷見市磯辺)
* [[箭代神社]](氷見市北八代)
* [[草岡神社]](射水市古明神)
* [[気多神社]](高岡市伏木一ノ宮)
== 行政 ==
;石川県射水郡長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||||明治11年(1878年)12月17日||||
|-
|||||||明治16年(1883年)5月8日||富山県に移管
|}
;富山県射水郡長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||||明治16年(1883年)5月9日||||
|-
|||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1979|date=1979-10-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=16 富山県|isbn=4040011600|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1979}}}}
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
* [[消滅した郡の一覧]]
* [[射水市]]
* [[氷見郡]]
== 外部リンク ==
*[http://www2.city.imizu.toyama.jp/gappei/index.html 射水地区広域圏合併協議会]
*[https://web.archive.org/web/*/www.kouiki.imizu.toyama.jp/ あったかいみず(射水地区広域圏事務組合)]([[Internet Archive]])
*[http://www.imizucci.jp/imizu/index.html 射水市商工協議会 FLAP THE IMIZU]
{{s-start}}
{{s-bef|before=-----|表記=前}}
{{s-ttl|title=行政区の変遷|years=[[1878年]] - [[1896年]]}}
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{{s-aft|after=(消滅)|表記=次}}
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{{越中国の郡}}
{{富山県の郡}}
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{{デフォルトソート:いみすくん}}
[[Category:射水郡|*]]
[[Category:富山県の郡 (消滅)]]
[[Category:越中国の郡]]
[[Category:氷見郡|旧]]
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%84%E6%B0%B4%E9%83%A1
|
17,167 |
キリスト教徒
|
キリスト教徒(キリストきょうと、ギリシア語: χριστιανός, ラテン語: Christianus)あるいはクリスチャン(英語: Christian)とは、キリスト教の信者(聖職者・教役者と平信徒)のことである。
キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。
日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者、基督者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。
2020年時点で、世界におけるキリスト教徒は23億8200万人ほど存在し、世界人口に占める比率は31.11%であり全ての宗教の中で最も多い。
英語の「クリスチャン(Christian)」は、ギリシア語の "χριστιανός"(christianós;クリスティアノス)が語源で、直訳すると「小さなキリスト」、ひいては「キリストに似た者」、「キリストに倣う者」、「キリストに属する者」という意味である。キリストとは、「油を注がれた者」という意味のギリシア語 "Χριστός"(Christós;古代ギリシア語:クリストス、中世~現代ギリシア語:フリストス)が語源であり、さらに元はヘブライ語の "משיח"(マーシアハ)あるいはメシア(アラビア語では مسيح マシー)のギリシア語訳である。日本ではイエス・キリストをフルネームのように扱うことがあるが、正確には「香油を注がれた聖なる者・救世主であるイエス」という意味で、それ自体が信仰告白の意味を持った呼称である。
当初「クリスティアノス」という言葉は、イエス・キリストの使徒(弟子)や信徒と見なされた人間に対する蔑称として使われた。歴史上最も古い記述は、新約聖書の『使徒言行録』第11章26節にみられる。イエスの弟子たちを初めて「クリスティアノス」と呼んだのは、シリア(歴史的シリア:現在はトルコ領)の都市アンティオキアの非キリスト教徒たちであった。
クリスマスを "Xmas" と書くように、クリスチャンは "Xian" や "Xtian" と表記されることがあるが、一般的ではない。短縮形に X や Xt を用いるのは、キリスト(Χριστός)の最初のギリシア文字である Χ(キー)が、ラテン文字の X に似ているためである。
クリスチャンはまた、キリスト教に関わる事物を表す言葉としても用いられる。
世界中で最も広く知られているキリスト教徒のシンボルは十字架であろう。欧米ではイクトゥスという魚のシンボルマークもよく使われる。それは「イエス、キリスト、神の子、救世主」というギリシア語の単語の頭文字を並べて作られた造語であるが、それがちょうど「魚」と同じ綴りとなることに由来する。
多様な信仰を持つ様々な団体が「クリスチャン」を自称している。一般的にキリスト教徒は、各々の信仰や神学上のある項目に基づいて分かれた教派(denomination)という教会集団に属している(「宗派」は仏教用語であり、キリスト教界では用いない)。各教派の間では、それぞれが伝統の中で培ってきた聖書の解釈の違いや聖書に与える権限の大小によってキリスト教徒の定義に差が生まれている。
伝統的教派である正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、および福音主義教会(ルター派と改革派教会)、長老派教会、メソジスト監督教会などのメインライン・プロテスタントでは、「クリスチャン」という肩書きは「父と子と聖霊の名において」(『マタイによる福音書』第28章19節)洗礼を受けたものだけに与えられる称号である。それゆえ、これらのグループの多くは成人の改宗者の洗礼に加えて乳児洗礼や幼児洗礼を進んで行っている。ただし、バプテスト教会は本人の自覚的信仰を重視するため、信仰告白のできない者(例えば乳幼児など)の洗礼を認めていない。
福音派(聖書信仰)の教会では新生(ボーン・アゲイン、Born again)した者のみをクリスチャンと認め、聖霊によって新生させられ、自覚的回心を経験し、新生した者のみに、父、御子、聖霊の三位一体の御名によって洗礼を授け、洗礼による新生を退ける。聖書を神の言葉と信じる信仰を堅持する。特に国教会に対する自由教会運動の歴史を持つ。幼児洗礼を認める教会では、教会員と両親が子供に信仰継承をさせる責任があるとする(新生キリスト教)。
キリストの教会(無楽器派 Church of Christ)、ボストンキリストの教会(日本では東京キリストの教会) 、Independent Christian Churchesといった教派では、悔い改めて「父と子と聖霊の名において」洗礼を受けた成人だけがキリスト教徒である、と説いている。つまり、成人の洗礼が非教徒から教徒への転換となる。
極端な自由主義神学的な教派では単にナザレのイエスの教えに従う人はクリスチャンであると考える。これは自由主義神学を自称する中でも極端なグループでのことであり、自由主義神学を謳っていても伝統的・保守的な流れを基本においた教派の方が圧倒的に主流派であり、このような極端な解釈をする教派は少数である。
宗教的包括主義の無名のキリスト者論では、イエス・キリストを知らなくてもキリスト教徒と呼べる者があるとする。さらに、宗教多元主義では、キリスト教徒と他の宗教の信者の間に区別を設けない。
上記の、洗礼を受けずしても信じるだけでクリスチャンになれるという極端な自由主義教派や、また基本信条の多くを否定するエホバの証人(ものみの塔)、そして聖書以外の聖典を奉じる末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、モルモン教)や世界平和統一家庭連合(旧統一協会)などの新興グループに関しては、当人たちはキリスト教徒を自称するが、三位一体の教理を採用して基本信条を告白する伝統的なキリスト教の立場からは異端であり非キリスト教徒であるとされるのが一般的である。
アメリカ合衆国の調査機関ピュー・リサーチ・センターによると、キリスト教徒は世界に約21億7000万人いる(2010年時点)。
同センターによる2015年時点での国別キリスト教徒人口および総人口に占めるキリスト教徒比率上位10ヶ国は、以下のとおりである(日本におけるデータのみ、2020年12月31日時点の文化庁統計による)。
教会は始めから唯一の普遍的(公同的)集団であるという考えと、普遍的教会は後に成立したという考えがある。
前者の考えは「目に見える(可視、可見、見ゆる)普遍的教会」と言われる。初代教会から継承され、民族や地域を越えて全世界の教会が教理や礼拝を一致させて作り上げてきている「目に見える教会」である。1つ1つの教会が普遍教会なのである。この考えはニカイア・コンスタンティノポリス信条(信経)や使徒信条(使徒信経)に述べられている。
一般的に目に見える普遍教会の伝統では、三位一体、贖罪(キリストの犠牲によって得る罪の赦し)、からだの復活といった共通の信仰の下に洗礼を受けた者は誰でも教会に受け入れられる。この教えは、目に見えない神の恵みを目に見える証として行う秘跡(サクラメント)の儀式に導入されており、「神が人間に与えた啓示、真のキリスト教徒全てによって認められている真理、特に聖書の言葉や聖なる伝統の中に伝えられるもの」(Deposit of faith)として次世代に受け継がれていく。
一方、プロテスタントは人間の目に見える1つ1つの教会のバックボーンとなる「目に見えない(非可視、不可見、見えざる)普遍的教会」という考えを持つ。教派など目に見える違いがあろうとも、過去から未来までイエス・キリストを信じる者全てが民族や地域を超えて作り上げるイエス・キリストのからだ、つまり目に見えない普遍的教会に属するという考えで、これは中世ヨーロッパ末期に宗教改革が起こるまで明白にされなかった。
少数派ではあるが、聖書で「教会」と訳されているのはほとんどが地元の自治体や集会を指していると主張する教派もある。英語の"Church"は、「主の家」という意味の古代ギリシア語のκυριακον から派生した。コイネー・ギリシア語では教会をεκκλησία(ecclesia エクレシア)と言うが、キリスト教以前には古代ギリシア都市国家の立法府などある目的のために集った会という意味で用いられた。この流れをくむ教派は、原始キリスト教(初代教会)からコンスタンティヌス1世の台頭を通して見られた中央集権化を目指す教会内の動きが真のキリスト教からの逸脱であると考え、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(二ケア信条)や使徒信条を否定している。
キリスト教信仰は、政府の弾圧にもかかわらず西暦64年から313年の間にローマ帝国内で花開いた。聖書以外で「クリスチャン」という言葉が出てくる最古例は、タキトゥスによる記録で、皇帝ネロが64年のローマの大火をキリスト教徒の犯行だと非難したとするもの。
200年頃にはテルトゥリアヌスがキリスト教徒迫害について「殉教者の血は(教会)の種となる」と語った言葉が引用された。エウセビオスの『教会史』2巻25章4節の記述(英文)では
313年、皇帝コンスタンティヌス1世の発布した ミラノ勅令によりキリスト教が公認され、正式に弾圧が終わった。同皇帝の下で、第1ニカイア公会議(コンスタンティヌス大帝の宗教政策 Constantinian shiftとも呼ばれる)に始まり、キリスト教徒は政治への強い影響力を手に入れた。その結果起こった様々な出来事は今日までも論争の的になっている。
380年にはテオドシウス1世がニカイアのキリスト教を国教と定め、392年には他宗教を禁止し、キリスト教は古代ローマ帝国で完全に国教化した。かつての迫害期から考えれば、とてつもない変化である。
キリスト教徒達は目に見える普遍教会を統率し指導していくために、何世紀もかかってヒエラルキーを作り上げた。教会の成立時から1054年の大シスマ(東西教会の分裂)までの期間、全てのキリスト教徒は主教(司教)という地元の、そして総主教(総大司教)という地域の指導者の下、目に見える1つの組織である唯一の教会に属していた。
しかし451年のカルケドン公会議の頃から既に教義の解釈の違いから小さな分裂が起こっており、全地公会議が続く間も続いていた。
古代末期に教義の違いから分離した教派(東方諸教会)は、エジプト、エチオピア、西アジアなどに勢力を張った。その後7世紀にアラビア半島にイスラム教が興った後は、ムスリムによる差別やイスラームの魅力などを理由にイスラームへの改宗が進んだものの、少数者の宗教として現代に到るまで存続している。例えば現在エジプトの人口の1割はコプト系のキリスト教徒である。
東ローマ帝国圏内のギリシア語を主に用いる教会と、西ヨーロッパや北アフリカのラテン語を主に用いる教会は、教会観の違いや政治上の背景の違いから神学上の大きな差異を生じ、これも分離していった(東西教会の分裂)。もとより西方では、ローマ教皇が地方行政権を持ち、一大政治勢力でもあったのだが、分裂後はこの傾向が一層強まった。西方からは、ゲルマン人、スカンジナヴィア半島、一部スラブ地域への伝道が行われた。その一方、ゲルマン人の襲来とイスラム帝国の進展によって、北アフリカは西方キリスト教地域から失われた。
中世西ヨーロッパのローマ・カトリック教会においてはローマ教皇が繁栄を極め、精神世界の頂点にあった。教会や付属団体がキリスト教を献身的に奉じて多くの国で熱心に神の言葉を広めたり修道院を建てたりしただけでなく、人間精神への多大な影響力を通じて、ついには当時の君主たちが持つ政治力に匹敵するほどの力を得て民衆の支持を受けた。権力の集中は教皇や高位聖職者の腐敗を招き、一部には本来禁じられている蓄妾や聖職禄めあての役職の兼任などの弊害も出た。
この時代 多くの人間は生涯を神に捧げ、教会に土地、金銭、財産を寄付することで信仰を態度に表した。そのためローマ教皇は徐々に西ヨーロッパ大陸で一番重要な人物となっていった。神への一途な献身と崇拝を示すために、豊かな資産でしばしば美しい大聖堂が建設された。教会の修道院は勉学と研究の場であり、のちに現代の大学の基礎となった。また教会は病人の看護のための最初の病院を作った。その一方で、当時の社会不安と聖書中の終末論預言が結び付いた集団的熱狂も度々現れた。
一方、正教会、東ローマ帝国圏内においても、教会は人々の精神生活の中心となり、壮麗な教会が建造され、修道院が繁栄した。ギリシア語圏であるため、人々の多くは聖書に親しみ、ために神学論争はときに庶民をも巻き込むことがあった。イスラム圏と対峙し、勢力の縮小に悩まされていた地域であったため、この頃制定また整備された正教会のいくつかの祭りには、異教徒への対抗心を含んだものもある。また東方では終末論は本来あまり広まらなかったのであるが、帝国末期には、終末論や天国・地獄を描いた伝承も現れるようになった。また東ローマ帝国からは、周辺の異教の地域への布教が積極的に行われた。周辺諸民族の中には、帝国の豊かな文化と技術また外交上の利点を魅力として、国家単位で改宗するものもあった。
近代のキリスト教信仰の歴史は、その多様化から言っても、各宗教運動ごとに研究を進めていくべきである。西洋では、ルネサンス(文芸復興)運動を背景とした宗教改革によって教会と国家の関係がしっかりと調整されたことにより、教義の自己解釈や、目に見える統一体(普遍教会)という考えに対する公然たる批判が始まった。その結果として生じたプロテスタント諸教会の共通したモットーは「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」という標語で表される。中でもイギリスでのプロテスタント宗教改革の原因は純粋に宗教的なものでなく、国王ヘンリー8世の離婚問題が発端であったが、結果的に組織化された教会は国王を首長とする監督教会(聖公会)となった。
北米の植民地では、啓蒙時代の思想から来る知的刺激に引き起こされて宗教運動が起こった。大覚醒(Great Awakening)と呼ばれ、北米のプロテスタント教徒の大部分の信仰活動の基本となっている。
『マタイによる福音書』28章19-20節にあるイエスの言葉に応え、キリスト教の全教派が伝道団(Mission)を各地へ送ったため、今日世界のほぼどこへ行ってもキリスト教徒が見付かるようになった。
一部のキリスト教徒は、原始教会やキリスト以前の預言者にみられるような預言者的コミュニケーションや異言(そのままでは意味不明の声を発する、一種のカタルシス現象)、奇跡の神癒に熱心に参加している。これらの教徒はペンテコステ派に区分されるが、カリスマ運動(Charismatic Movement)、カトリック・カリスマ刷新など他の教派にも存在する。
今日のキリスト教圏には、エマージェント・チャーチ(emergent church)、キリスト教根本主義、復古正統主義、メシアニック・ジュダイズム、自由主義神学、ハウスチャーチ(House Church)といった運動がある。
現在もなお、キリスト教徒の生き方は新約聖書に書かれたイエスという人物を信じることが根本である。完全に整った霊的状態は神の好意で与えられることによってしか実現しないといった教えにも見られるが、「人間の力では到底得られないものが神の憐れみによって与えられる」神与(天与)の恩恵(Divine grace)という考えもまた、カトリック教会の秘跡(プロテスタント教会では聖礼典と呼ばれる)と並んで、いまだキリスト教徒特有の概念である。 八巻正治は「私は当然ながら『神学』と『信仰』は別だと思っています。何よりも信仰とは<疑うことではなく信じること>です。そして<信じることは委ねること>なのです。ですから<神学は語れても信仰は語れない>敗北的なクリスチャンたちがこの国には多くいるのです。」と一部の日本人クリスチャンを批判している。
クリスチャンと対比し、キリスト教徒でない人を「ノンクリスチャン」と呼ぶこともある。この語の使用法や使用傾向は教派ごとに異なる。詳細は当該項目を参照。
|
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"text": "キリスト教徒(キリストきょうと、ギリシア語: χριστιανός, ラテン語: Christianus)あるいはクリスチャン(英語: Christian)とは、キリスト教の信者(聖職者・教役者と平信徒)のことである。",
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"text": "キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。",
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"text": "日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者、基督者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。",
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"text": "2020年時点で、世界におけるキリスト教徒は23億8200万人ほど存在し、世界人口に占める比率は31.11%であり全ての宗教の中で最も多い。",
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"text": "英語の「クリスチャン(Christian)」は、ギリシア語の \"χριστιανός\"(christianós;クリスティアノス)が語源で、直訳すると「小さなキリスト」、ひいては「キリストに似た者」、「キリストに倣う者」、「キリストに属する者」という意味である。キリストとは、「油を注がれた者」という意味のギリシア語 \"Χριστός\"(Christós;古代ギリシア語:クリストス、中世~現代ギリシア語:フリストス)が語源であり、さらに元はヘブライ語の \"משיח\"(マーシアハ)あるいはメシア(アラビア語では مسيح マシー)のギリシア語訳である。日本ではイエス・キリストをフルネームのように扱うことがあるが、正確には「香油を注がれた聖なる者・救世主であるイエス」という意味で、それ自体が信仰告白の意味を持った呼称である。",
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"text": "当初「クリスティアノス」という言葉は、イエス・キリストの使徒(弟子)や信徒と見なされた人間に対する蔑称として使われた。歴史上最も古い記述は、新約聖書の『使徒言行録』第11章26節にみられる。イエスの弟子たちを初めて「クリスティアノス」と呼んだのは、シリア(歴史的シリア:現在はトルコ領)の都市アンティオキアの非キリスト教徒たちであった。",
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"text": "クリスマスを \"Xmas\" と書くように、クリスチャンは \"Xian\" や \"Xtian\" と表記されることがあるが、一般的ではない。短縮形に X や Xt を用いるのは、キリスト(Χριστός)の最初のギリシア文字である Χ(キー)が、ラテン文字の X に似ているためである。",
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"text": "クリスチャンはまた、キリスト教に関わる事物を表す言葉としても用いられる。",
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"text": "世界中で最も広く知られているキリスト教徒のシンボルは十字架であろう。欧米ではイクトゥスという魚のシンボルマークもよく使われる。それは「イエス、キリスト、神の子、救世主」というギリシア語の単語の頭文字を並べて作られた造語であるが、それがちょうど「魚」と同じ綴りとなることに由来する。",
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"text": "多様な信仰を持つ様々な団体が「クリスチャン」を自称している。一般的にキリスト教徒は、各々の信仰や神学上のある項目に基づいて分かれた教派(denomination)という教会集団に属している(「宗派」は仏教用語であり、キリスト教界では用いない)。各教派の間では、それぞれが伝統の中で培ってきた聖書の解釈の違いや聖書に与える権限の大小によってキリスト教徒の定義に差が生まれている。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "伝統的教派である正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、および福音主義教会(ルター派と改革派教会)、長老派教会、メソジスト監督教会などのメインライン・プロテスタントでは、「クリスチャン」という肩書きは「父と子と聖霊の名において」(『マタイによる福音書』第28章19節)洗礼を受けたものだけに与えられる称号である。それゆえ、これらのグループの多くは成人の改宗者の洗礼に加えて乳児洗礼や幼児洗礼を進んで行っている。ただし、バプテスト教会は本人の自覚的信仰を重視するため、信仰告白のできない者(例えば乳幼児など)の洗礼を認めていない。",
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"text": "福音派(聖書信仰)の教会では新生(ボーン・アゲイン、Born again)した者のみをクリスチャンと認め、聖霊によって新生させられ、自覚的回心を経験し、新生した者のみに、父、御子、聖霊の三位一体の御名によって洗礼を授け、洗礼による新生を退ける。聖書を神の言葉と信じる信仰を堅持する。特に国教会に対する自由教会運動の歴史を持つ。幼児洗礼を認める教会では、教会員と両親が子供に信仰継承をさせる責任があるとする(新生キリスト教)。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "キリストの教会(無楽器派 Church of Christ)、ボストンキリストの教会(日本では東京キリストの教会) 、Independent Christian Churchesといった教派では、悔い改めて「父と子と聖霊の名において」洗礼を受けた成人だけがキリスト教徒である、と説いている。つまり、成人の洗礼が非教徒から教徒への転換となる。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "極端な自由主義神学的な教派では単にナザレのイエスの教えに従う人はクリスチャンであると考える。これは自由主義神学を自称する中でも極端なグループでのことであり、自由主義神学を謳っていても伝統的・保守的な流れを基本においた教派の方が圧倒的に主流派であり、このような極端な解釈をする教派は少数である。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "宗教的包括主義の無名のキリスト者論では、イエス・キリストを知らなくてもキリスト教徒と呼べる者があるとする。さらに、宗教多元主義では、キリスト教徒と他の宗教の信者の間に区別を設けない。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "上記の、洗礼を受けずしても信じるだけでクリスチャンになれるという極端な自由主義教派や、また基本信条の多くを否定するエホバの証人(ものみの塔)、そして聖書以外の聖典を奉じる末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、モルモン教)や世界平和統一家庭連合(旧統一協会)などの新興グループに関しては、当人たちはキリスト教徒を自称するが、三位一体の教理を採用して基本信条を告白する伝統的なキリスト教の立場からは異端であり非キリスト教徒であるとされるのが一般的である。",
"title": "キリスト教徒の定義"
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"text": "アメリカ合衆国の調査機関ピュー・リサーチ・センターによると、キリスト教徒は世界に約21億7000万人いる(2010年時点)。",
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"text": "同センターによる2015年時点での国別キリスト教徒人口および総人口に占めるキリスト教徒比率上位10ヶ国は、以下のとおりである(日本におけるデータのみ、2020年12月31日時点の文化庁統計による)。",
"title": "キリスト教徒の数"
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"text": "教会は始めから唯一の普遍的(公同的)集団であるという考えと、普遍的教会は後に成立したという考えがある。",
"title": "キリスト教徒の歴史"
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"text": "前者の考えは「目に見える(可視、可見、見ゆる)普遍的教会」と言われる。初代教会から継承され、民族や地域を越えて全世界の教会が教理や礼拝を一致させて作り上げてきている「目に見える教会」である。1つ1つの教会が普遍教会なのである。この考えはニカイア・コンスタンティノポリス信条(信経)や使徒信条(使徒信経)に述べられている。",
"title": "キリスト教徒の歴史"
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キリスト教徒あるいはクリスチャンとは、キリスト教の信者(聖職者・教役者と平信徒)のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者、基督者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。 2020年時点で、世界におけるキリスト教徒は23億8200万人ほど存在し、世界人口に占める比率は31.11%であり全ての宗教の中で最も多い。
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{{redirect|クリスチャン}}
{{出典の明記|date=2012年1月}}
[[File:Percent of Christians by Country–Pew Research 2011.svg|thumb|400px|世界各国のキリスト教徒の割合(2011年)]]
'''キリスト教徒'''(キリストきょうと、{{lang-el|χριστιανός}}, {{lang-la|Christianus}})あるいは'''クリスチャン'''({{lang-en|Christian}})とは、[[キリスト教]]の[[信者]]([[聖職者]]・[[教役者]]と[[平信徒]])のことである。
キリスト教はいくつかの[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]に分かれているが、[[ナザレのイエス]]を[[救世主]][[キリスト]](メシア)と信じ、[[旧約聖書]]に加えて、[[新約聖書]]に記されたイエスや[[使徒]]たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。
[[日本]]では、[[明治|明治時代]]以前、キリスト教徒のことを「'''[[キリシタン]]'''」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒は'''キリスト者'''、'''基督者'''(きりすとしゃ)と自称することがある。[[日本正教会]]では[[ロシア語]]から「'''ハリスティアニン'''({{lang|ru|Христианин}})」との転写も用いられる。
[[2020年]]時点で、世界におけるキリスト教徒は23億8200万人ほど存在し、世界人口に占める比率は31.11%であり全ての[[宗教]]の中で最も多い<ref name="Pew">{{cite web|url=https://www.pewforum.org/2015/04/02/religious-projection-table/2010/number/all/|title=Religious Composition by Country, 2010-2050|publisher=Pew Research Center|date=2 April 2015|access-date=5 May 2020|archive-date=15 June 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200615053333/https://www.pewforum.org/2015/04/02/religious-projection-table/2010/number/all/|url-status=live}}</ref>。
== 語源・使用例 ==
英語の「クリスチャン([[wikt:en:Christian#English|Christian]])」は、ギリシア語の "{{lang|el|χριστιανός}}"(''christianós'';クリスティアノス)が語源で、直訳すると「小さなキリスト」<ref>英語版[[ウィクショナリー]]「[[wikt:en:-ιανός|-ιανός]]」参照。</ref>{{efn2|[[マルティン・ルター]]も、キリスト教徒を「小さなキリスト」({{lang|de|kleiner Christus}})と定義した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kanazawakyokai.sakura.ne.jp/reihai2016_7_10inokawayuurei.html|title=私達の礼拝|publisher=日本基督教団 金沢教会|date=2016-07-17|accessdate=2021-10-11}}</ref>。}}、ひいては「キリストに似た者」<ref name="shalom">{{Cite web|和書|url=https://shinjuku-shalom.com/archives/7782|title=キリストの似姿を持つ者として生きる(エレミヤ11章/使徒11章)|publisher=新宿シャローム教会|date=2017-03-10|accessdate=2021-10-11}}</ref>、「キリストに倣う者」、「キリストに属する者」<ref name="kobe">{{Cite web|和書|url=https://www.church-in-kobe.com/qa.htm|title=よくある質問|publisher=神戸に在る教会(The church in Kobe)|accessdate=2021-10-11}}</ref>という意味である。[[キリスト]]とは、「油を注がれた者」{{efn2|[[古代イスラエル]]において、頭に香油を注ぐという行為は、王や[[大祭司]]などを叙任祝福することに用いられた。[[イエス・キリスト]]は、「[[預言者]]・祭司・王」の[[キリスト三職務|三職]]を兼ね持った救世主であるとされる。}}という意味のギリシア語 "{{lang|el|Χριστός}}"(''Christós'';[[古代ギリシア語]]:クリストス、[[中世ギリシア語|中世]]~現代[[ギリシア語]]:フリストス)が語源であり、さらに元は[[ヘブライ語]]の "משיח"(マーシアハ)あるいは[[メシア]]([[アラビア語]]では {{lang|ar|مسيح}} マシー)のギリシア語訳である。日本では[[イエス・キリスト]]をフルネームのように扱うことがあるが、正確には「[[香油]]を注がれた聖なる者・救世主であるイエス」という意味で、それ自体が信仰告白の意味を持った呼称である。
当初「クリスティアノス」という言葉は、イエス・キリストの[[使徒]](弟子)や信徒と見なされた人間に対する蔑称として使われた<ref name="kobe" />。歴史上最も古い記述は、[[新約聖書]]の『[[使徒言行録]]』[[Wikisource:ja:使徒行伝(口語訳)#11:26|第11章26節]]にみられる。イエスの弟子たちを初めて「クリスティアノス」と呼んだのは、シリア([[歴史的シリア]]:現在は[[トルコ]]領)の都市[[アンティオキア]]の[[ノンクリスチャン|非キリスト教徒]]たちであった。
[[クリスマス]]を "Xmas" と書くように、クリスチャンは "Xian" や "Xtian" と表記されることがあるが、一般的ではない。短縮形に [[X]] や Xt を用いるのは、キリスト({{lang|el|Χριστός}})の最初の[[ギリシア文字]]である [[Χ]](キー)が、[[ラテン文字]]の X に似ているためである。
クリスチャンはまた、キリスト教に関わる事物を表す言葉としても用いられる。
世界中で最も広く知られているキリスト教徒の[[シンボル]]は[[十字架]]であろう。欧米では[[イクトゥス]]という[[魚]]のシンボルマークもよく使われる。それは「イエス、キリスト、[[神の子]]、救世主」というギリシア語の単語の頭文字を並べて作られた造語であるが、それがちょうど「魚」と同じ綴りとなることに由来する。
== キリスト教徒の定義 ==
多様な信仰を持つ様々な団体が「クリスチャン」を自称している。一般的にキリスト教徒は、各々の信仰や[[神学]]上のある項目に基づいて分かれた[[教派]]([[:en:Christian denomination|denomination]])という教会集団に属している(「[[宗派]]」は[[仏教]]用語であり、キリスト教界では用いない)。各教派の間では、それぞれが伝統の中で培ってきた聖書の解釈の違いや聖書に与える権限の大小によってキリスト教徒の定義に差が生まれている。
伝統的教派である[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[カトリック教会]]、[[聖公会]]、および[[福音主義教会]]([[ルーテル教会|ルター派]]と[[改革派教会]])、[[長老派教会]]、[[メソジスト監督教会]]などの[[メインライン・プロテスタント]]では、「クリスチャン」という肩書きは「[[三位一体|父と子と聖霊の名において]]」(『[[マタイによる福音書]]』[[Wikisource:ja:マタイによる福音書(口語訳)#28:19|第28章19節]])[[洗礼]]を受けたものだけに与えられる称号である。それゆえ、これらのグループの多くは成人の[[改宗]]者の洗礼に加えて乳児洗礼や[[幼児洗礼]]を進んで行っている。ただし、[[バプテスト教会]]は本人の自覚的信仰を重視するため、[[信仰告白]]のできない者(例えば乳幼児など)の洗礼を認めていない。
[[福音派]]([[聖書信仰]])の教会では[[新生 (キリスト教)|新生]](ボーン・アゲイン、[[:en:Born again Christianity|Born again]])した者のみをクリスチャンと認め、[[聖霊]]によって新生させられ、自覚的回心を経験し、新生した者のみに、父、御子、聖霊の[[三位一体]]の御名によって洗礼を授け、[[新生 (キリスト教)#新生を洗礼と結びつける教派での理解|洗礼による新生]]を退ける。聖書を神の言葉と信じる信仰を堅持する。特に[[国教会]]に対する[[自由教会]]運動の歴史を持つ。[[幼児洗礼]]を認める教会では、教会員と両親が子供に信仰継承をさせる責任があるとする(新生キリスト教)。
キリストの教会(無楽器派 [[:en:Church of Christ|Church of Christ]])、[[:en:International_Churches_of_Christ|ボストンキリストの教会]](日本では[[東京キリストの教会]]) 、[[:en:Independent Christian Churches/Churches of Christ|Independent Christian Churches]]といった教派では、悔い改めて「父と子と聖霊の名において」洗礼を受けた成人だけがキリスト教徒である、と説いている。つまり、成人の洗礼が非教徒から教徒への転換となる。
極端な[[自由主義神学]]的な教派では単に[[ナザレのイエス]]の教えに従う人はクリスチャンであると考える。これは自由主義神学を自称する中でも極端なグループでのことであり、自由主義神学を謳っていても伝統的・保守的な流れを基本においた教派の方が圧倒的に主流派であり、このような極端な解釈をする教派は少数である。
[[宗教的包括主義]]の[[無名のキリスト者]]論では、イエス・キリストを知らなくてもキリスト教徒と呼べる者があるとする。さらに、[[宗教多元主義]]では、キリスト教徒と他の宗教の信者の間に区別を設けない<ref>[[ジョン・ヒック]]著『もうひとつのキリスト教:多元主義的宗教理解』[[日本基督教団]] ISBN 4818400270</ref><ref>ジョン・ヒック『神は多くの名前をもつ:新しい宗教的多元論』ISBN 4000003143</ref><ref>[[宇田進]]『現代福音主義神学』[[いのちのことば社]]</ref>。
<!--[[エホバの証人]](ものみの塔)では幼児洗礼を認めておらず、自ら望んだ聖書研究の過程の後に信仰を自覚した上で、長老との討議・面接で認められる必要がある。長老団より「正しい信仰あり」と認められれば'''「父と子と聖霊の名によって」'''浸礼による洗礼で正式なクリスチャンになるとされる。但し、「父と子と聖霊の名によって」は他の教派と解釈の仕方が異なる。彼らは「[[イエス・キリスト|イエス]]は神学上最重要な存在であり、また唯一の神の子、救世主・キリストであるが、神自身ではない。飽くまで子である」という信条を持ち、三位一体を認めていないためである。
また、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](LDS、モルモン教)など、キリスト教徒になるには父と子と聖霊の名における洗礼も含め、教会のメンバーになるために正式な誓いを立てる必要があるとする教派もある。LDSでは子どもが自分の言動に責任をもてる年齢と見なされる8歳に達したとき、または8歳以上で改宗しLDSに入信するときに洗礼を受ける。
-->
上記の、洗礼を受けずしても信じるだけでクリスチャンになれるという極端な自由主義教派や、また[[基本信条]]の多くを否定する[[エホバの証人]](ものみの塔)、そして聖書以外の[[聖典]]を奉じる[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](LDS、モルモン教)や[[世界平和統一家庭連合]](旧統一協会)などの新興グループに関しては、当人たちはキリスト教徒を自称するが、三位一体の教理を採用して基本信条を告白する伝統的なキリスト教の立場からは[[異端]]であり非キリスト教徒であるとされるのが一般的である。
== キリスト教徒の数 ==
[[アメリカ合衆国]]の調査機関ピュー・リサーチ・センターによると、キリスト教徒は世界に約21億7000万人いる(2010年時点)<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM04H0I_W5A400C1EAF000/ イスラム教徒、2100年には最大勢力 世界の宗教人口予測]」『[[日本経済新聞]]』2015年4月6日付掲載の[[共同通信]]記事(2020年8月5日閲覧)</ref>。
同センターによる2015年時点での国別キリスト教徒人口および総人口に占めるキリスト教徒比率上位10ヶ国は、以下のとおりである<ref>『[[日経ヴェリタス]]』2019年12月22日50面【Econo Graphics】キリスト教信者の多い国ランキング</ref>(日本におけるデータのみ、2020年12月31日時点の[[文化庁]]統計による<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r03nenkan_gaiyo.pdf|title=『宗教年鑑 令和3年版』宗教統計調査の主な結果|date=2022-01-17|accessdate=2022-06-14}}</ref>)。
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right"
|-
! 順位
! 国
! キリスト教徒人口
! 総人口比 (%)
! 備考
|-
| align=center|1||align=left|{{flag|アメリカ合衆国}}||2億4818万人||76.9%||align=left|「[[アメリカ合衆国の現代キリスト教]]」参照。
|-
| align=center|2||align=left|{{flag|ブラジル}}||1億7919万人||88.5%||
|-
| align=center|3||align=left|{{flag|メキシコ}}||1億1362万人||94.6%||
|-
| align=center|4||align=left|{{flag|ロシア}}||1億349万人||73.1%||
|-
| align=center|5||align=left|{{flag|フィリピン}}||9430万人||92.5%||
|-
| align=center|6||align=left|{{flag|ナイジェリア}}||8665万人||48.1%||
|-
| align=center|7||align=left|{{flag|コンゴ民主共和国}}||7209万人||95.9%||
|-
| align=center|8||align=left|{{flag|中華人民共和国}}||7089万人||5.2%||align=left|「[[中国のキリスト教]]」参照。
|-
| align=center|9||align=left|{{flag|エチオピア}}||5745万人||62.4%||
|-
| align=center|10||align=left|{{flag|ドイツ}}||5488万人||67.3%||
|-
| align=center|-||align=left|{{flag|日本}}||191万5294人||1.1%||align=left|「[[日本のキリスト教史]]」参照。
|}
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right"
|-
! 順位
! 国
! 総人口比 (%)
! キリスト教徒人口
|-
| align=center|1
| align=left|{{flag|Vatican City}}
| 100%
| 800
|-
| align=center|2
| align=left|{{flag|Romania}}
| 99%
| 21,490,000
|-
| align=center|3
| align=left|{{flag|Papua New Guinea}}
| 99%
| 6,860,000
|-
| align=center|4
| align=left|{{flag|Tonga}}
| 99%
| 100,000
|-
| align=center|5
| align=left|{{flag|Timor-Leste}}
| 99%
| 1,120,000
|-
| align=center|6
| align=left|{{flag|Armenia}}
| 98.5%
| 3,090,000
|-
| align=center|7
| align=left|{{flag|Namibia}}
| 97.6%
| 2,280,000
|-
| align=center|8
| align=left|{{flag|Marshall Islands}}
| 97.5%
| 50,000
|-
| align=center|9
| align=left|{{flag|Moldova}}
| 97.5%
| 3,570,000
|-
| align=center|10
| align=left|{{flag|Solomon Islands}}
| 97.5%
| 520,000
|}
== キリスト教徒の歴史 ==
{{出典の明記|date=2014年2月|section=1}}
=== 初代教会 ===
教会は始めから唯一の普遍的(公同的)集団であるという考えと、普遍的教会は後に成立したという考えがある。
{{See also|公同の教会|カトリック (概念)}}
前者の考えは「目に見える(可視、可見、見ゆる)普遍的教会」と言われる。初代教会から継承され、民族や地域を越えて全世界の教会が教理や礼拝を一致させて作り上げてきている「目に見える教会」である。1つ1つの教会が普遍教会なのである。この考えは[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]](信経)や[[使徒信条]](使徒信経)に述べられている。
一般的に目に見える普遍教会の伝統では、[[三位一体]]、[[贖い|贖罪]](キリストの犠牲によって得る罪の赦し)、からだの[[復活 (キリスト教)|復活]]といった共通の信仰の下に[[洗礼]]を受けた者は誰でも教会に受け入れられる。この教えは、目に見えない神の恵みを目に見える証として行う[[秘跡]](サクラメント)の儀式に導入されており、「神が人間に与えた啓示、真のキリスト教徒全てによって認められている真理、特に聖書の言葉や聖なる伝統の中に伝えられるもの」([[:en:deposit of faith|Deposit of faith]])として次世代に受け継がれていく。
一方、プロテスタントは人間の目に見える1つ1つの教会のバックボーンとなる「目に見えない(非可視、不可見、見えざる)普遍的教会」という考えを持つ。教派など目に見える違いがあろうとも、過去から未来までイエス・キリストを信じる者全てが民族や地域を超えて作り上げるイエス・キリストのからだ、つまり目に見えない普遍的教会に属するという考えで、これは[[中世ヨーロッパ]]末期に[[宗教改革]]が起こるまで明白にされなかった。
少数派ではあるが、聖書で「教会」と訳されているのはほとんどが地元の自治体や集会を指していると主張する教派もある。英語の"[[:en:Christian church|Church]]"は、「主の家」という意味の古代ギリシア語のκυριακον から派生した。[[コイネー|コイネー・ギリシア語]]では[[教会 (キリスト教)|教会]]をεκκλησία(ecclesia エクレシア)と言うが、キリスト教以前には[[古代ギリシア]][[都市国家#古代における都市国家|都市国家]]の立法府などある目的のために集った会という意味で用いられた。この流れをくむ教派は、[[原始キリスト教]]([[初代教会]])から[[コンスタンティヌス1世]]の台頭を通して見られた中央集権化を目指す教会内の動きが真のキリスト教からの逸脱であると考え、[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]](二ケア信条)や[[使徒信条]]を否定している。
=== 1千年紀 ===
キリスト教信仰は、政府の弾圧にもかかわらず[[西暦]][[64年]]から[[313年]]の間に[[ローマ帝国]]内で花開いた。聖書以外で「クリスチャン」という言葉が出てくる最古例は、[[タキトゥス]]による記録で、[[ネロ|皇帝ネロ]]が64年の[[ローマ大火|ローマの大火]]をキリスト教徒の犯行だと非難したとするもの。
[[200年]]頃には[[テルトゥリアヌス]]がキリスト教徒迫害について「[[殉教|殉教者]]の血は(教会)の種となる」と語った言葉が引用された。[[エウセビオス]]の『[[教会史]]』2巻25章4節の記述[http://www.ccel.org/fathers2/NPNF2-01/Npnf2-01-07.htm#P1454_673662 (英文)]では
: ローマ人テルトゥリアヌスもまた(ネロがキリスト教の敵となった最初の皇帝であることの)証人である。彼は次のように書いている
:: 記録を調べてみよ。そうすればこの教義を最初に弾圧したのがネロで、東方を征服したあと今まで以上にローマで残酷の限りを尽くしたことがわかるだろう。彼のような男が我々を迫害するリーダーであったことを誇りに思う。なぜならネロを知っている人間ならわかることだが、あの男は非常に素晴らしいものは必ずつぶしにかかるからだ。
313年、皇帝[[コンスタンティヌス1世]]の発布した [[ミラノ勅令]]によりキリスト教が公認され、正式に弾圧が終わった。同皇帝の下で、[[第1ニカイア公会議]](コンスタンティヌス大帝の宗教政策 [[:en:Constantinian shift|Constantinian shift]]とも呼ばれる)に始まり、キリスト教徒は政治への強い影響力を手に入れた。その結果起こった様々な出来事は今日までも論争の的になっている。
[[380年]]には[[テオドシウス1世]]がニカイアのキリスト教を[[国教]]と定め、[[392年]]には他宗教を禁止し、キリスト教は古代ローマ帝国で完全に国教化した。かつての迫害期から考えれば、とてつもない変化である。
キリスト教徒達は目に見える普遍教会を統率し指導していくために、何世紀もかかって[[ヒエラルキー]]を作り上げた。教会の成立時から[[1054年]]の[[大シスマ]](東西教会の分裂)までの期間、全てのキリスト教徒は[[主教]]([[司教]])という地元の、そして[[総主教]]([[総大司教]])という地域の指導者の下、目に見える1つの組織である唯一の教会に属していた。
しかし[[451年]]の[[カルケドン公会議]]の頃から既に教義の解釈の違いから小さな分裂が起こっており、[[全地公会議]]が続く間も続いていた。
=== 中世 ===
古代末期に教義の違いから分離した教派([[東方諸教会]])は、[[エジプト]]、[[エチオピア]]、西アジアなどに勢力を張った。その後[[7世紀]]に[[アラビア半島]]に[[イスラム教]]が興った後は、[[イスラーム教徒による宗教的迫害|ムスリムによる差別]]やイスラームの魅力などを理由にイスラームへの改宗が進んだものの、少数者の宗教として現代に到るまで存続している。例えば現在エジプトの人口の1割は[[コプト]]系のキリスト教徒である。
[[東ローマ帝国]]圏内のギリシア語を主に用いる教会と、[[西ヨーロッパ]]や[[北アフリカ]]の[[ラテン語]]を主に用いる教会は、教会観の違いや政治上の背景の違いから神学上の大きな差異を生じ、これも分離していった([[東西教会の分裂]])。もとより西方では、[[ローマ教皇]]が地方行政権を持ち、一大政治勢力でもあったのだが、分裂後はこの傾向が一層強まった。西方からは、[[ゲルマン人]]、[[スカンジナヴィア半島]]、一部[[スラブ人|スラブ]]地域への[[伝道]]が行われた。その一方、ゲルマン人の襲来と[[イスラム帝国]]の進展によって、北アフリカは西方キリスト教地域から失われた。
中世西ヨーロッパの[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]においては[[教皇|ローマ教皇]]が繁栄を極め、[[精神世界]]の頂点にあった。教会や付属団体がキリスト教を献身的に奉じて多くの国で熱心に神の言葉を広めたり[[修道院]]を建てたりしただけでなく、人間精神への多大な影響力を通じて、ついには当時の君主たちが持つ政治力に匹敵するほどの力を得て民衆の支持を受けた。権力の集中は教皇や高位聖職者の腐敗を招き、一部には本来禁じられている蓄妾や聖職禄めあての役職の兼任などの弊害も出た。
この時代 多くの人間は生涯を神に捧げ、教会に土地、金銭、財産を寄付することで信仰を態度に表した。そのためローマ教皇は徐々に西ヨーロッパ大陸で一番重要な人物となっていった。神への一途な献身と崇拝を示すために、豊かな資産でしばしば美しい[[大聖堂]]が建設された。教会の修道院は勉学と研究の場であり、のちに現代の[[大学]]の基礎となった。また教会は病人の看護のための最初の病院を作った。その一方で、当時の社会不安と聖書中の[[終末論]][[預言]]が結び付いた集団的熱狂も度々現れた。
一方、[[正教会]]、東ローマ帝国圏内においても、教会は人々の精神生活の中心となり、壮麗な教会が建造され、修道院が繁栄した。[[ギリシア語]]圏であるため、人々の多くは聖書に親しみ、ために[[神学]]論争はときに庶民をも巻き込むことがあった。イスラム圏と対峙し、勢力の縮小に悩まされていた地域であったため、この頃制定また整備された正教会のいくつかの祭りには、異教徒への対抗心を含んだものもある。また東方では終末論は本来あまり広まらなかったのであるが、帝国末期には、終末論や[[天国#キリスト教における天国|天国]]・[[地獄 (キリスト教)|地獄]]を描いた伝承も現れるようになった。また東ローマ帝国からは、周辺の異教の地域への布教が積極的に行われた。周辺諸民族の中には、帝国の豊かな文化と技術また外交上の利点を魅力として、国家単位で改宗するものもあった。
=== 近世、近代から現代へ ===
近代のキリスト教信仰の歴史は、その多様化から言っても、各宗教運動ごとに研究を進めていくべきである。西洋では、[[ルネサンス]](文芸復興)運動を背景とした[[宗教改革]]によって教会と国家の関係がしっかりと調整されたことにより、教義の自己解釈や、目に見える統一体(普遍教会)という考えに対する公然たる批判が始まった。その結果として生じた[[プロテスタント]]諸教会の共通したモットーは「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」という標語で表される。中でも[[イギリス]]でのプロテスタント宗教改革の原因は純粋に宗教的なものでなく、国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の[[離婚]]問題が発端であったが、結果的に組織化された教会は国王を首長とする[[監督教会]]([[聖公会]])となった。
[[北アメリカ大陸|北米]]の植民地では、[[啓蒙時代]]の思想から来る知的刺激に引き起こされて宗教運動が起こった。[[大覚醒]]([[:en:Great Awakening|Great Awakening]])と呼ばれ、北米のプロテスタント教徒の大部分の信仰活動の基本となっている。
『[[マタイによる福音書]]』28章19-20節にあるイエスの言葉に応え、キリスト教の全教派が伝道団([[:en:Mission (Christian)|Mission]])を各地へ送ったため、今日世界のほぼどこへ行ってもキリスト教徒が見付かるようになった。
一部のキリスト教徒は、原始教会やキリスト以前の[[預言者]]にみられるような預言者的コミュニケーションや[[異言]](そのままでは意味不明の声を発する、一種の[[カタルシス]]現象)、[[奇跡]]の[[神癒]]に熱心に参加している。これらの教徒は[[ペンテコステ派]]に区分されるが、[[カリスマ運動]]([[:en:Charismatic Movement|Charismatic Movement]])、[[カトリック・カリスマ刷新]]など他の教派にも存在する。
今日のキリスト教圏には、エマージェント・チャーチ([[:en:emerging church|emergent church]])、[[キリスト教根本主義]]、[[復古正統主義]]、[[メシアニック・ジュダイズム]]、[[自由主義神学]]、ハウスチャーチ([[:en:House church|House Church]])といった運動がある。
現在もなお、キリスト教徒の生き方は[[新約聖書]]に書かれた[[イエス・キリスト|イエス]]という人物を信じることが根本である。完全に整った霊的状態は神の好意で与えられることによってしか実現しないといった教えにも見られるが、「人間の力では到底得られないものが神の憐れみによって与えられる」神与(天与)の[[恩恵]]([[:en:divine grace|Divine grace]])という考えもまた、カトリック教会の[[秘跡]](プロテスタント教会では[[礼典|聖礼典]]と呼ばれる)と並んで、いまだキリスト教徒特有の概念である。
[[八巻正治]]は「私は当然ながら『神学』と『信仰』は別だと思っています。何よりも信仰とは<疑うことではなく信じること>です。そして<信じることは委ねること>なのです。ですから<神学は語れても信仰は語れない>敗北的なクリスチャンたちがこの国には多くいるのです。」と一部の日本人クリスチャンを批判している。<ref>[https://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/12879 さわやかな風のように ―福祉のまなざしを求めて]―八巻正治著、キリスト新聞社(pp.235)</ref>
== 備考 ==
クリスチャンと対比し、キリスト教徒でない人を「[[ノンクリスチャン]]」と呼ぶこともある。この語の使用法や使用傾向は教派ごとに異なる。詳細は当該項目を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Christianity}}
{{Wiktionary|キリスト教}}
{{wikisource|聖書|聖書}}
* [[正教徒]]
* [[清教徒]]
* [[日本のクリスチャン有名人一覧]](明治時代以降の現代)
* [[日本のキリシタン一覧]]([[キリシタン]]:戦国時代末期から明治時代初期まで)
* [[新キリスト教徒]]
* [[ユダヤ教]]
* [[ムスリム]](イスラム教徒)
* [[アブラハムの宗教]]
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{{キリスト教 横}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きりすときようと}}
[[Category:キリスト教|きりすときようと]]
[[Category:キリスト教徒|*]]
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2003-09-17T08:09:23Z
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2023-10-14T06:20:58Z
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17,168 |
荒川
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荒川(あらかわ、あらがわ)は、河川および、それに由来する地名や人名。
一級水系の本流。
その他の河川。
日本人の姓のひとつ。
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荒川(あらかわ、あらがわ)は、河川および、それに由来する地名や人名。
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'''荒川'''(あらかわ、あらがわ)は、[[河川]]および、それに由来する[[地名]]や[[人名]]。
{{TOCright}}
== 河川 ==
=== 一級水系 ===
[[一級水系]]の本流。
* [[荒川 (関東)]] - [[埼玉県]]および[[東京都]]を流れ[[東京湾]]に注ぐ河川。
* [[荒川 (羽越)]] - [[山形県]]および[[新潟県]]を流れ[[日本海]]に注ぐ河川。
=== その他 ===
その他の河川。
* [[荒川 (北海道)]] - [[北海道]][[標津郡]][[中標津町]]を流れる[[標津川]]水系の河川。
* 荒川 (青森市) - [[青森県]][[青森市]]を流れる[[堤川]]の上流部分の名称。
* 荒川 (釜石市) - [[岩手県]][[釜石市]]を流れる[[甲子川]]水系の河川。
* [[荒川 (遠野市)]] - 岩手県[[遠野市]]を流れる[[北上川]]水系[[猿ヶ石川]]支流の[[一級河川]]。
* 荒川 (盛岡市) - 岩手県[[盛岡市]]を流れる北上川水系[[諸葛川]]支流の河川。
* 荒川<!--記事名未確定--> - 宮城県[[栗原市]]および[[登米市]]を流れる北上川水系[[迫川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (宮城県)]] - [[宮城県]][[柴田郡]][[村田町]]を流れる[[阿武隈川]]水系[[白石川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (小坂町)]] - [[秋田県]][[鹿角郡]][[小坂町]]を流れる[[米代川]]水系[[小坂川 (秋田県)|小坂川]]支流の一級河川。荒川川とも。
* [[荒川 (大仙市)]] - 秋田県[[大仙市]]を流れる[[雄物川]]水系[[淀川 (秋田県)|淀川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (福島県)]] - [[福島県]][[福島市]]を流れる阿武隈川水系の一級河川。
* [[荒川 (栃木県)]] - [[栃木県]]北部を流れる[[那珂川]]水系の一級河川。
* [[荒川 (栃木市)]] - [[栃木県]][[栃木市]]を流れる[[利根川]]水系[[巴波川]]支流の一級河川。
* 荒川 (日光市) - 栃木県[[日光市]]を流れる利根川水系[[行川]]支流の河川。
* [[荒川 (山北町)]] - [[新潟県]][[村上市]]山北地区を流れる[[大川 (村上市)|大川]]水系[[中継川]]支流の[[二級河川]]。
* 荒川 (富山県) - [[富山県]][[富山市]]を流れる[[神通川]]水系[[熊野川 (富山県)|熊野川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (福井県)]] - [[福井県]][[福井市]]・[[吉田郡]][[永平寺町]]を流れる[[九頭竜川]]水系[[足羽川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (山梨県)]] - [[山梨県]][[甲府市]]・[[甲斐市]]を流れる[[富士川]]水系[[笛吹川]]支流の一級河川。
* 荒川 (長野県) - [[長野県]][[伊那市]]を流れる[[天竜川]]水系[[三峰川]]支流の一級河川。
* 荒川 (岐阜県) - [[岐阜県]][[加茂郡]][[八百津町]]を流れる[[木曽川]]水系の河川。
* 荒川 (静岡県) - [[静岡県]][[牧之原市]]を流れる[[萩間川]]水系の河川。
* 荒川 (湖南市) - [[滋賀県]][[湖南市]]を流れる[[淀川]]水系[[野洲川]]支流の一級河川。
* 荒川 (湖南市・甲賀市) - 滋賀県[[湖南市]]・[[甲賀市]]を流れる淀川水系[[杣川]]支流の一級河川。
* 荒川 (高知県) - [[高知県]][[四万十市]]を流れる[[四万十川]]水系[[中筋川]]支流の一級河川。
* 荒川 (大阪府) - [[大阪府]]を流れる淀川水系[[恩智川]]支流の[[準用河川]]及び[[普通河川]]。<ref>{{Cite web|和書|title=八尾市内の主な河川・水路 |url=https://www.city.yao.osaka.jp/0000061083.html |publisher=八尾市都市整備部土木管財課 |date=2021-12-09 |accessdate=2023-08-08}}</ref>
* 荒川 (佐賀県) - [[佐賀県]][[武雄市]]を流れる[[松浦川]]水系[[川古川]]支流の一級河川。
* [[荒川 (熊本県)]] - [[熊本県]][[天草市]]を流れる[[内野川]]水系の二級河川。
* [[荒川 (いちき串木野市)]] - 鹿児島県[[いちき串木野市]]を流れる本流の二級河川。荒川川とも。
* [[荒川 (屋久島)]] - 鹿児島県[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[屋久島町]]を流れる[[安房川]]水系の二級河川。
* [[荒川 (沖縄県)]] - [[沖縄県]][[石垣市]]を流れる河川。
== 地名 ==
* [[荒川 (青森市)]] - [[青森県]][[青森市]]の[[大字]]。
* [[荒川 (山田町)]] - 岩手県下閉伊郡山田町の地名。
* [[荒川 (小山市)]] - [[栃木県]][[小山市]]の大字。
* [[荒川 (深谷市)]] - [[埼玉県]][[深谷市]]の地名。
* [[荒川 (荒川区)]] - 東京都[[荒川区]]の[[町丁|町名]]。
* [[荒川 (大津市)]] - [[滋賀県]][[大津市]]の地名。
* [[荒川 (東大阪市)]] - [[大阪府]][[東大阪市]]の町名。
== 人名 ==
日本人の姓のひとつ。
* [[荒川博]](プロ野球選手・監督など)
* [[荒川静香]](フィギュアスケート選手)
* [[荒川弘]](漫画家)
* [[荒川稔久]](脚本家)
* [[荒川良々]](俳優)
* [[荒川強啓]](アナウンサー)
* [[荒川戦一]](アナウンサー)
* 荒川(お笑いコンビ「[[エルフ (お笑いコンビ)|エルフ]]」のメンバー)
: など
== その他 ==
* 荒川 - [[荘園 (日本)|荘園]]「[[安楽川荘]]」の別表記。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
* [[荒川川]]
* [[荒川区]]
* [[荒川町]]
* [[荒川村]]
* [[堤川]] - 別称
* [[隅田川]] - 旧称・別称
* [[関川 (信越)|関川]] - 下流域の別称
* [[丸子川 (秋田県)|丸子川]] - 別称
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{{DEFAULTSORT:あらかわ}}
[[Category:同名の地名]]
[[Category:同名の河川]]
[[Category:日本の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
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ヤコブ
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ヤコブ(Jacob)は、ヘブライ語起源の人名ヤアコブの日本での慣用表記。
ヤアコブはヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」を意味するとされる。それは旧約聖書創世記25章26節には、ヤアコブ「יעקב」(イスラエル)が、双子の兄・エサウのかかと(アケブ「עקב」)をつかんだまま生まれ、後に兄を出し抜いて長子の祝福を得たことに由来すると説明されている。
ギリシャ語では Ιάκωβος, Iakôbos(古典:ヤコーボス/現代:ヤコヴォス)、ラテン語ではJacobus(ヤコブス)、日本語ではヤコブと表記するのが慣例である。ラテン語形Jacobusは音韻変化を経てJacomus(ヤコムス)に変化した。英語では Jacob(ジェイコブ)、 James(ジェームズ)、アイルランド語では Séamus, Seamus(シェイマス)、フランス語では Jacques(ジャック)または James(ジャーム)または Jacob(ジャコブ)(注:フランス語では、Jacquesが新約のヤコブで、Jacobが旧約のヤコブを指す)、ドイツ語では Jakob(ヤーコプ)、アラビア語・ペルシア語ではYa'qūb(ヤアクーブ)、トルコ語でYakup(ヤークプ)、イタリア語では Giacomo(ジャコモ)または Jacopo(ヤーコポ)、スペイン語では Jaime(ハイメ)または異形 Diego (ディエゴ)、Jacobo(ハコボ)、ポルトガル語では Jaime (ジャイム)、スラヴ語ではIakov, Yakov(ヤーコフ)、Jakub, Jakup(ヤクプ)など、ゲエズ語ではyāʿiqōb(ヤコブ)、アムハラ語ではyā'iqōb(ヤコブ)などによりいずれも男子の名としてよく見られる。
ヤコブの息子たち12人がイスラエル十二部族の祖となったことから、イスラエル民族のことを「ヤコブの家」と表すこともある。
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ヤコブ(Jacob)は、ヘブライ語起源の人名ヤアコブの日本での慣用表記。
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'''ヤコブ'''('''Jacob''')は、[[ヘブライ語]]起源の人名'''ヤアコブ'''の日本での慣用表記。
==概要==
ヤアコブはヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」を意味するとされる。それは[[旧約聖書]][[創世記]]25章26節には、ヤアコブ「יעקב」(イスラエル)が、[[双生児|双子]]の兄・[[エサウ]]のかかと(アケブ「עקב」)をつかんだまま生まれ、後に兄を出し抜いて長子の祝福を得たことに由来すると説明されている。
ギリシャ語では {{el|Ιάκωβος}}, Iakôbos(古典:ヤコーボス/現代:ヤコヴォス)、[[ラテン語]]ではJacobus([[ヤコブス]])、[[日本語]]ではヤコブと表記するのが慣例である。ラテン語形Jacobusは音韻変化を経てJacomus(ヤコムス)に変化した。[[英語]]では Jacob([[ジェイコブ]])、 James([[ジェームズ]])、[[アイルランド語]]では Séamus, Seamus([[シェイマス (曖昧さ回避)|シェイマス]])、[[フランス語]]では Jacques([[ジャック]])または James(ジャーム)または Jacob([[ジャコブ]])(注:フランス語では、Jacquesが新約のヤコブで、Jacobが旧約のヤコブを指す)、[[ドイツ語]]では Jakob([[ヤーコプ]])、[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]ではYa'qūb([[ヤアクーブ]])、[[トルコ語]]でYakup([[ヤークプ]])、[[イタリア語]]では Giacomo([[ジャコモ]])または Jacopo([[ヤーコポ]])、[[スペイン語]]では Jaime([[ハイメ]])または異形 Diego ([[ディエゴ]])、Jacobo([[ハコボ]])、[[ポルトガル語]]では Jaime ([[ジャイム]])、[[スラヴ語]]ではIakov, Yakov([[ヤーコフ]])、Jakub, Jakup([[ヤクプ]])など、[[ゲエズ語]]ではyāʿiqōb(ヤコブ)、[[アムハラ語]]ではyā'iqōb(ヤコブ)などによりいずれも男子の名としてよく見られる。
ヤコブの息子たち12人がイスラエル十二部族の祖となったことから、イスラエル民族のことを「ヤコブの家」と表すこともある。
== ヤコブの名を持つ人物の一覧 ==
*[[ヤコブ (旧約聖書)]] - 創世記に現れる。[[イサク]]の息子。[[イスラエル]]の名を得て、[[ユダヤ人]]の祖となる。
*[[ヤコブ (ゼベダイの子)]] - [[イエス・キリスト]]の[[十二使徒]]の一人。[[ヨハネ (使徒)]]の兄弟。
*[[アルファイの子ヤコブ]] - イエス・キリストの十二使徒の一人。
*[[主の兄弟ヤコブ]] - 伝統的にイエスの異母兄(正教会)または従兄(カトリック)と考えられているエルサレム教会の指導者で、初代エルサレム総主教。[[正教会]]では[[七十門徒]]に数えられる。
*[[ヤコボス・バラダイオス]] - [[6世紀]]のシリアの神学者。シリア正教会の聖人。東方正教会等からはキリスト教ヤコブ派の設立者とされる。
*[[エデッサのヤコボス]] - シリア正教会の神学者。
*[[ヤコブ (エチオピア皇帝)]] - [[エチオピア帝国]]・[[ソロモン朝]]の皇帝。在位[[1597年]]-[[1603年]]、[[1604年]]-[[1606年]]。
*{{仮リンク|アルフォンス・マリア・ヤコブ|en|Alfons_Maria_Jakob}}([[1884年]] - [[1931年]]) - ドイツの神経学者。[[クロイツフェルト・ヤコブ病]]に名を残す。
* [[ヤコブ・ポエートル]](1995 - ) - [[オーストリア]]の[[バスケットボール]]選手([[センター (バスケットボール)|C]])
== 関連項目 ==
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* {{intitle}}
{{人名の曖昧さ回避}}
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[[Category:ヘブライ語の男性名]]
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ヤアクーブ
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ヤアクーブ(يعقوب Ya'qūb)は、イスラム教徒やアラブ人のキリスト教徒の男子の名として用いられるアラビア語の人名。アラビア語を母語としない地域のイスラム教徒の間の言語では変形して、Yakub、Yakup(ヤークーブ、ヤークプ)などになったりもする。ペルシア語では「ヤアグーブ」。
ヤアクーブの語は、旧約聖書のヤコブに由来する。コーラン(クルアーン)において、ヤアクーブすなわちヤアコブは預言者、神の使徒のひとりとして名前があげられており、イスラム教でも尊敬の対象である。
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ヤアクーブは、イスラム教徒やアラブ人のキリスト教徒の男子の名として用いられるアラビア語の人名。アラビア語を母語としない地域のイスラム教徒の間の言語では変形して、Yakub、Yakup(ヤークーブ、ヤークプ)などになったりもする。ペルシア語では「ヤアグーブ」。 ヤアクーブの語は、旧約聖書のヤコブに由来する。コーラン(クルアーン)において、ヤアクーブすなわちヤアコブは預言者、神の使徒のひとりとして名前があげられており、イスラム教でも尊敬の対象である。
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'''ヤアクーブ'''('''يعقوب''' Ya'qūb)は、[[ムスリム|イスラム教徒]]や[[アラブ人]]の[[キリスト教|キリスト教徒]]の男子の名として用いられる[[アラビア語]]の人名。アラビア語を母語としない地域のイスラム教徒の間の言語では変形して、Yakub、Yakup([[ヤークーブ]]、[[ヤークプ]])などになったりもする。ペルシア語では「[[ヤアグーブ]]」。
ヤアクーブの語は、[[旧約聖書]]の[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]に由来する。コーラン([[クルアーン]])において、ヤアクーブすなわちヤアコブは[[預言者]]、[[アッラーフ|神]]の[[使徒]]のひとりとして名前があげられており、[[イスラム教]]でも尊敬の対象である。
== ヤアクーブを名とする著名な人物 ==
* [[ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール]]([[サッファール朝]]の創設者)
* [[アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世]]([[ムワッヒド朝]]第3代君主)
* [[ヤアクーブ・マンスール]](ムワッヒド朝第4代君主)
* [[アブー・ユースフ・ヤアクーブ]]([[マリーン朝]]第6代君主)
* [[アブー・ヤアクーブ・ユースフ]](マリーン朝第7代君主)
* [[ヤアクーブ (白羊朝)]]([[トルコ人|トルコ系]]王朝[[白羊朝]]の君主)
* [[ヤアクーブ・ベク]]([[コーカンド・ハン国]]の軍人、一度、[[清]]の[[新疆]]を征服。)
== 関連項目 ==
*[[ヤコブ派]]
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[[Category:アラビア語の男性名]]
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花笠まつり
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花笠まつり(はながさまつり)は、スゲ笠に赤い花飾りをつけた花笠を手にし、「花笠音頭」にあわせて街を踊り練りあるく日本の祭である。山形県内など数か所で開催されているが、例年8月に山形市で行なわれる「山形花笠まつり」が広く知られている。戦前から行われている東北三大祭りに戦後から始まり広まった「山形花笠まつり」を加えた4つの祭りを東北四大祭りと呼ぶ事もある。
花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は諸説あるが、大正中期に尾花沢で土木作業時の調子あわせに歌われた土突き歌が起源といわれており、昭和初期にこれが民謡化され「花笠音頭」(またの名を「花笠踊り唄」といわれる)となった。また、1963年(昭和38年)パレード用に振り付け、蔵王夏祭りとして始める。
しかしながら福岡市博多区で唄われる「博多祝い唄」と共通する歌い出しの歌詞がみられる点を尾花沢説では説明できないことから、「博多祝い唄」と同様に江戸時代の伊勢参りの際に伝わった伊勢の囃子音頭に起源を持つ可能性が考えられる。
また踊りについては、菅で編んだ笠に赤く染めた紙で花飾りをつけたものを景気づけに振ったり回したりしたのが発祥といわれている。
花笠まつりの振り付けは、山形県内だけでも各地域に約10種類の振り付けが存在していたが、山形花笠まつりのために誰にも手軽に踊れるよう一本化され「正調花笠踊り〜薫風最上川〜」が制定された。以降、これが標準的な振り付けとされたが、紅花摘みの作業唄からとったとされる、その楚々とした踊りの動作のため、主に女性が踊り手の中心となった。
1999年(平成11年)、「正調花笠踊り -蔵王山暁光-」んが、「薫風最上川」に並ぶ標準振り付けとして制定された。豪快な動作を取り込んでいるところが特徴であり、これにより男性の踊り手の増加に寄与したと言われる。
一方、「花笠踊り」の発祥の地とされる尾花沢(おばなざわ花笠まつり)では豪快に花笠を振り回す「笠回し系花笠踊り」が行われている。笠回しには5つの流派がある。これが花笠まつりである。
以下の祭り以外にも、様々なイベントで踊られる。
山形市で開催される花笠まつりは「山形花笠まつり」と呼ばれる。例年8月5日・6日・7日の3日間開催され、パレードは文翔館正面から南西方向に伸びる県道19号山形山寺線および国道112号(七日町商店街ほか)で開催される。
元々山形市の伝統行事は、山形藩初代藩主である最上義光を祭る義光祭(ぎこうさい)であった。山形新聞・山形交通(現ヤマコー)の社長で事実上の山形県の最高実力者であった服部敬雄が、山形県内で比較的伝統的な踊りを夏期観光の目玉として売り出すことを提唱し、1963年(昭和38年)に「蔵王夏まつり」のイベントの1つとして「花笠音頭パレード」が始まった。その後、1965年(昭和40年)から「山形花笠まつり」として独立し、現在に至る。
服部の影響下のマスコミ(山形新聞・山形放送)による大宣伝、バス会社による花笠見物を売り出す団体旅行の募集や旅館・ホテルのあっせんといった服部らの努力により、花笠まつりは以前と比べれば全国的な知名度を上げた。しかし、山形新聞、山形交通グループ企業で花笠まつりに関する諸権利をほとんど独占していることから、観光客が地元商店街に落とした金をほとんど吸い上げるとも批判されている。祭り期間中ゲストとして歌手が呼ばれ、山車行列をするが、服部が陣取る貴賓席の前に来ると、ゲストは山車から降りて服部に頭を下げて挨拶することが恒例であった。
団体によっては小学生以下の少女が厚化粧で参加する。「花笠音頭」は大塚文雄が歌唱するバージョンが多く流れる。JR山形駅では「花笠音頭」の発車メロディが採用されている。
2020年は新型コロナウイルス感染拡大に伴い、史上初の中止。
翌年の2021年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、規模を縮小し会場をきらやかスタジアム(山形市総合スポーツセンター内)で開催することを発表。2年ぶりに開催したが、花笠音頭にある「ヤッショ、マカショ」の掛け声はなしで、踊り手はマスクの着用となった。尚、祭り期間中"街なか花笠"も実施予定であったが、これは中止となった。
2022年、踊り手による「ヤッショ、マカショ」の掛け声禁止、観覧中の飲食や踊り手の水分補給の際の会話を原則禁止、踊り手の人数の上限を1団体あたり100人にするなどの新型コロナウイルス感染対策をしながら3年ぶりに山形市の中心部で開催した。2023年、4年ぶりに通常開催。「第61回山形花笠まつり」として3日間行った。
なお、中止となった2020年から再開後の2023年まで中心市街地の活性化と花笠の製作技術の継承を目的に、手作りの花笠で山形市の中心部を飾るプロジェクト「ハナサクヤマガタ」が実施された。
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花笠まつり(はながさまつり)は、スゲ笠に赤い花飾りをつけた花笠を手にし、「花笠音頭」にあわせて街を踊り練りあるく日本の祭である。山形県内など数か所で開催されているが、例年8月に山形市で行なわれる「山形花笠まつり」が広く知られている。戦前から行われている東北三大祭りに戦後から始まり広まった「山形花笠まつり」を加えた4つの祭りを東北四大祭りと呼ぶ事もある。
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== 花笠音頭と花笠踊り ==
=== 花笠音頭 ===
花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は諸説あるが、[[大正]]中期に[[尾花沢市|尾花沢]]で土木作業時の調子あわせに歌われた土突き歌が起源といわれており<ref>[http://www.obanazawa.net/kitekera/hanagasa/index.htm 花笠まつり] - きてけらっしゃい おばなざわ</ref>、[[昭和]]初期にこれが[[民謡]]化され「花笠音頭」(またの名を「花笠踊り唄」といわれる)となった。また、[[1963年]](昭和38年)パレード用に振り付け、[[蔵王]]夏祭りとして始める。
しかしながら[[福岡市]][[博多区]]で唄われる「[[博多祝い唄]]」と共通する歌い出しの歌詞がみられる点を尾花沢説では説明できないことから、「博多祝い唄」と同様に[[江戸時代]]の[[伊勢参り]]の際に伝わった伊勢の囃子音頭に起源を持つ可能性が考えられる。
また踊りについては、菅で編んだ笠に赤く染めた紙で花飾りをつけたものを景気づけに振ったり回したりしたのが発祥といわれている。
=== 花笠踊り ===
花笠まつりの振り付けは、山形県内だけでも各地域に約10種類の振り付けが存在していたが、山形花笠まつりのために誰にも手軽に踊れるよう一本化され「正調花笠踊り〜薫風[[最上川]]〜」が制定された<ref name="pnf">[https://www.hanagasa.jp/download/data/2023_hanagasa_pnf.pdf 山形花笠まつり] - 山形県花笠協議会、2023年7月16日閲覧。</ref>。以降、これが標準的な振り付けとされたが、[[ベニバナ|紅花]]摘みの[[作業唄]]からとったとされる、その楚々とした踊りの動作のため、主に女性が踊り手の中心となった。
[[1999年]]([[平成]]11年)、「正調花笠踊り -'''[[蔵王連峰|蔵王山]]暁光'''-」んが、「薫風最上川」に並ぶ標準振り付けとして制定された。豪快な動作を取り込んでいるところが特徴であり、これにより男性の踊り手の増加に寄与したと言われる。
一方、「花笠踊り」の発祥の地とされる尾花沢(おばなざわ花笠まつり)では豪快に花笠を振り回す「笠回し系花笠踊り」が行われている<ref name="pnf" />。笠回しには5つの流派がある。これが花笠まつりである。
== 花笠踊りが行われる主な祭り ==
以下の祭り以外にも、様々なイベントで踊られる。
<!-- 開催順に記載 -->
; 正調花笠踊り
* 8月上旬 山形県[[上山市]] 「'''踊る花笠・仮装花笠まつり'''」(場所:[[上山温泉]])
* 8月上旬 山形県山形市 「'''山形花笠まつり'''」(1963年(昭和38年) - 。場所:[[七日町商店街]]ほか)
* 8月上旬 山形県[[天童市]] 「'''天童夏まつり'''」(場所:[[天童温泉]])
* 8月中旬 山形県[[鶴岡市]] 「'''[[庄内地方|庄内]]花笠祭り'''」(場所:昭和通り、1997年に終了)
* 8月下旬 山形県[[尾花沢市]] 「'''おばなざわ花笠まつり'''」(場所:大正小路)
* 10月上旬 [[静岡県]][[伊東市]] 「'''[[伊東温泉]]花笠踊り'''」([[1998年]](平成10年) - 。場所:伊東駅前通り)
* 12月中旬 [[東京都]][[杉並区]] 「'''杉並花笠祭'''」([[1991年]](平成3年) - 。主催:[[サミット (チェーンストア)|サミット]]<ref>[http://www.summitstore.co.jp/news/060603.html 『山形県知事による県産農産物の店頭PR活動』実施のお知らせ] - サミット ニュースリリース (2006年6月7日)</ref>、場所:[[大宮八幡宮 (杉並区)|大宮八幡宮]])
; 奉納行事
* 5月4日・5日 山形県[[遊佐町]] 「'''吹浦口ノ宮例大祭'''」(場所:[[鳥海山大物忌神社]])
** 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮の田楽舞「花笠舞」は、県指定[[無形民俗文化財]]。
* 9月14日 山形県[[寒河江市]] 「'''日和田弥重郎 花笠田植踊'''」(場所:日和田八幡神社)
** 県指定無形民俗文化財。1846年([[弘化]]3年)より。
; その他
* 7月下旬 山形県尾花沢市 「'''花笠[[YOSAKOI]]まつり'''」(場所:尾花沢市役所そば)
== 山形花笠まつり ==
{{イベントインフォメーション
| イベント名称 = 山形花笠まつり
| 英文表記 =
| 画像 = Hanagasa Festa 2002.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = 2002年
| 種類 = [[祭り]]
| 通称 =
| 正式名称 =
| 旧名称 =
| 開催時期 = 8月
| 初回開催 =
| 最終開催 =
| 開催時間 =
| 会場 =
| 主催 =
| 共催 =
| 後援 =
| 協賛 =
| 企画制作 =
| 協力 =
| 運営 =
| プロデューサー =
| 出展数 =
| 来場者数 =
| 会場アクセス名 = <!--複数会場がある場合、主な会場名を記載-->
| 最寄駅 =
| 直通バス =
| 駐車場 = <!--駐車場の有無-->
| URL =
| 特記事項 =
}}
山形市で開催される花笠まつりは「'''山形花笠まつり'''」と呼ばれる。例年[[8月5日]]・[[8月6日|6日]]・[[8月7日|7日]]の3日間開催され、パレードは[[文翔館]]正面から南西方向に伸びる[[山形県道19号山形山寺線|県道19号山形山寺線]]および[[国道112号]]([[七日町商店街]]ほか)で開催される。
元々山形市の伝統行事は、[[山形藩]]初代藩主である[[最上義光]]を祭る'''義光祭'''(ぎこうさい)であった。[[山形新聞]]・山形交通(<small>現</small>[[ヤマコー]])の社長で事実上の山形県の最高実力者であった[[服部敬雄]]が、山形県内で比較的伝統的な踊りを夏期観光の目玉として売り出すことを提唱し、1963年(昭和38年)に「蔵王夏まつり」のイベントの1つとして「花笠音頭パレード」が始まった<ref name="pnf" />。その後、[[1965年]](昭和40年)から「山形花笠まつり」として独立し、現在に至る<ref name="pnf" />。
服部の影響下のマスコミ(山形新聞・[[山形放送]])による大宣伝、バス会社による花笠見物を売り出す団体旅行の募集や旅館・ホテルのあっせんといった服部らの努力により、花笠まつりは以前と比べれば全国的な知名度を上げた。しかし、山形新聞、山形交通グループ企業で花笠まつりに関する諸権利をほとんど独占していることから、観光客が地元商店街に落とした金をほとんど吸い上げるとも批判されている。祭り期間中ゲストとして歌手が呼ばれ、山車行列をするが、服部が陣取る貴賓席の前に来ると、ゲストは[[山車]]から降りて服部に頭を下げて挨拶することが恒例であった。
団体によっては小学生以下の少女が[[厚化粧]]で参加する。「花笠音頭」は[[大塚文雄]]が歌唱するバージョンが多く流れる。JR[[山形駅]]では「花笠音頭」の[[発車メロディ]]が採用されている。
=== 開催概要 ===
* 主催 - 山形県花笠協議会、山形花笠まつり実行委員会<ref name="pnf" />
* 開催日 - 毎年8月5日・6日・7日の3日間<ref name="pnf" />
* 会場 - 山形市街地(十日町・本町・七日町通り~文翔館)<ref name="pnf" />
=== 新型コロナウイルスによる影響 ===
[[2020年]]は[[COVID-19|新型コロナウイルス]]感染拡大に伴い、史上初の中止<ref>{{Cite web|和書|title=花笠まつりの中止決定 1963年の初回以来初|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance.php?par1=kj_2020042900846|work= 山形新聞|date=2020-04-29|accessdate=2020-04-29}}</ref>。
翌年の[[2021年]]は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、規模を縮小し会場をきらやかスタジアム([[山形市総合スポーツセンター]]内)で開催することを発表<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20210428-7TZH6HX44FPR5LUK5RW6PTNKCA/|title=「山形花笠まつり」2年ぶり開催へ、パレードは球場で実施|newspaper=産経ニュース|publisher=株式会社産業経済新聞社|date=2021-04-28|accessdate=2021-05-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20210428khn000062.html|title=花笠まつり、今夏は開催 規模縮小し球場でパレード|newspaper=河北新報オンラインニュース|publisher=株式会社河北新報社|date=2021-04-29|accessdate=2021-05-06}}</ref>。2年ぶりに開催したが、花笠音頭にある「ヤッショ、マカショ」の掛け声はなしで、踊り手は[[マスク]]の着用となった<ref>{{Cite news|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance.php?par1=kj_2021080500114|title=2年ぶり、熱い舞 山形花笠まつり開幕|newspaper=山形新聞|publisher=株式会社山形新聞社|date=2021-08-05|accessdate=2021-08-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASP863FKMP85UZHB004.html|title=2年ぶりの山形花笠まつり かけ声なし、演舞は野球場で|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=株式会社朝日新聞社|date=2021-08-06|accessdate=2021-08-07}}</ref>。尚、祭り期間中"街なか花笠"も実施予定であったが、これは中止となった<ref>{{Cite news|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance.php?par1=kj_2021080700152|title=街なか花笠中止・県花笠協議会|newspaper=山形新聞|publisher=株式会社山形新聞社|date=2021-08-07|accessdate=2021-08-07}}</ref>。
[[2022年]]、踊り手による「ヤッショ、マカショ」の掛け声禁止、観覧中の飲食や踊り手の水分補給の際の会話を原則禁止、踊り手の人数の上限を1団体あたり100人にするなどの新型コロナウイルス感染対策をしながら3年ぶりに山形市の中心部で開催した<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/article?k=2022080900327&g=jfn|title=3年ぶり「花笠まつり」 山形市|newspaper=時事ドットコム|publisher=株式会社時事通信社|date=2022-08-10|accessdate=2022-08-11}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamagata/20220804/6020014795.html|title=「山形花笠まつり」感染対策徹底し 3年ぶりに5日から開催|newspaper=山形 NEWS WEB|publisher=NHK NEWS WEB|date=2022-08-04|accessdate=2022-08-11}}</ref>。[[2023年]]、4年ぶりに通常開催。「第61回山形花笠まつり」として3日間行った<ref>{{Cite news|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance.php?par1=kj_2023080500122|title=山形花笠まつり開幕 4年ぶり通常開催|newspaper=山形新聞|publisher=山形新聞社|date=2023-08-05|accessdate=2023-08-11}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://smart.yamagata-np.jp/news/entrance.php?par1=kj_2023080700171.php|title=届けた熱気、宿った元気 山形花笠まつり最終日|newspaper=山形新聞|publisher=山形新聞社|date=2023-08-07|accessdate=2023-08-11}}</ref>。
なお、中止となった2020年から再開後の2023年まで中心市街地の活性化と花笠の製作技術の継承を目的に、手作りの花笠で山形市の中心部を飾るプロジェクト「ハナサクヤマガタ」が実施された<ref>[https://www.yamagata-np.jp/news/202307/15/kj_2023071500356.php 手作り花笠、最後の展示 山形市内「ハナサクヤマガタ」] - 山形新聞、2023年7月16日閲覧。</ref>。
== 作品 ==
* [[三波春夫]] 「東京花笠音頭」([[1966年]](昭和41年)4月発売の[[歌謡曲]]。花笠音頭を[[メロディ]]に用いている。東京誕生百年を祝って、東京の名所が歌詞に織り込まれている)
* [[小林久三]] 『東北四大祭り殺人事件』([[1987年]](昭和62年)発刊の[[小説]]。後に[[テレビドラマ]]化)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[盆踊り]]
* [[新舞踊]]
* [[東北六魂祭]]
== 外部リンク ==
* [http://www.hanagasa.jp 山形花笠まつり](公式ウェブサイト)
{{DEFAULTSORT:はなかさまつり}}
[[Category:山形県の祭り]]
[[Category:ヤマコー]]
[[Category:日本の伝統芸能]]
[[Category:音頭]]
[[Category:花に関する文化]]
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ステープラー
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ステープラー(英語: Stapler)またはホチキス、ホッチキス、紙綴器(かみつづりき)とは、紙に「コ」の字形の針(ステープル、英語: Staple)を刺し通し、針先の部分を両側から平らに曲げて、紙を綴じる文具である。JIS規格上の名称はステープラ。ごく限られているが、ジョイント(宮城県北部、山形県山形市など)、ガッチャンコ(北東北など)と呼ぶ地域もある。古くから鎹(かすがい)と称され、木材や陶器のつなぎ合わせに使われている。
現在、日本ではマックス株式会社の製品が市場の多数を占めている。
現在ステープラーと呼ばれている文具の原型が生まれたのは、18世紀頃のフランスと言われている。19世紀に入ると紙の使用量が増え始めたこともあり、ステープラーの開発も盛んに行われ、 複数の特許が申請された。
1850年代、ハトメ(アイレット)を打ち込む紙綴器、すなわちアイレットマシンがハイマン・リップマンによって開発された。これは大量に生産および販売された最初の機械式紙綴器であった。1866年、ジョージ・マギル(George McGill)が割りピンに似た形式の真鍮製のつづり針の特許を取得し、また1867年には紙束につづり針を通す穴を開けるプレス機の特許を取得した。1度の作業で針刺しと折曲げを行える紙綴器は、1877年にヘンリー・R・ヘイル(Henry R. Heyl)が特許を取得したほか、1879年にはマギルとウィリアム・J・ブラウン・ジュニア(William J. Brown, Jr.)がそれぞれ別の特許を取得している。これら3つの設計には部分的な類似性があり、特許を有する三者間で訴訟が繰り返された。予備の針を本体に内蔵し連続して作業が行えるモデルは、1878年に開発された。その後、金属製のワイヤーあるいはテープを内蔵し、これを切断した後に押しつぶして紙を綴る形式の製品や、針を使わず綴る製品なども考案されたが、1940年代までには事前に成形されたつづり針を多数内蔵する形式の製品が最も普及し、広く使われるようになった。
日本では商標の普通名称化により「ホッチキス」または「ホチキス」と呼ばれる事が多い。日本放送協会(NHK)では、かつては「ステープラー」と呼んでいたが、方針転換し「ホチキス」で統一している。
日本での「ホッチキス」という呼び名は、1903年(明治36年)に伊藤喜商店(現、株式会社イトーキ)がアメリカ合衆国より初めて輸入したステープラーが、E.H.ホッチキス社(E.H.Hotchkiss)のHotchkiss No.1というモデルであったことに由来する。E.H.ホッチキス社は1895年にジョーンズ製造社(The Jones Manufacturing Company)として創業され、1897年にE.H.ホッチキス社に改称した。ホッチキスの名はジョーンズ社の創業者うちジョージ(George Hotchkiss)とイーライ・ハベル(Eli Hubbell Hotchkiss)のホッチキス親子から取られたものである。
ホッチキスという呼び名の由来について、「オチキス社の創業者であるベンジャミン・バークリー・ホッチキス(B.B.Hotchkiss)が、機関銃の構造を元に発明した」、「イーライ・ハベルはベンジャミンの弟で、彼が発明した」などの俗説が語られることがある。
この俗説がテレビ番組で取り上げられたこともある。1989年(平成元年)には日本テレビの番組『TVムック・謎学の旅』はホッチキスの語源を探るべくベンジャミン・ホッチキスの故郷コネチカット州を取材したが、文献などによる証明は行えなかった。1994年(平成6年)、フジテレビの番組『なるほど!ザ・ワールド』の中で、「ベンジャミン・ホッチキスの弟のイーライ・ハベル・ホッチキスがステープラーを発明し、E.H.ホッチキス社を創業した」という説が紹介された。
この俗説の検証を行ったジム・ブリーンは、ベンジャミンとステープラーに直接の繋がりは見いだせないものの、ステープラーの販売を行ったホッチキス親子とベンジャミン・ホッチキスは共にコネチカット州出身であり、不確かながら親族からの証言もあったとして、何らかの血縁関係があった可能性までは否定しきれないとしている。
韓国においても、日本統治時代の影響からステープラーを「ホチキス(호치키스)」と呼称する場合がある。なお、韓国では「ホッチキスはベンジャミン・ホッチキスによって機関銃の構造を元に設計された」という説が長らく語られていたが、2013年に国立国語院が調査したところ、ホッチキスをベンジャミン・ホッチキスが作ったという証拠がないことが明らかとなった。国立国語院が出版する『標準国語大辞典』では、従来ホッチキスを「ステープラー(스테이플러)の別名。ステープラーの考案者の米国の発明家の名にちなんだ商標名」と定義していたが、この結果を受けて「ᄃ字形の針を使って、書類などを綴じる道具。米国の商標名から出た言葉である」と改められた。
JIS規格上の名称は「ステープラ用つづり針」である。
一般的にはしん、はり、たまなどと呼ばれるが、特に決まった呼び方はなく、マックス株式会社では一貫して「はり」と呼んでいる。また、ステープルという呼び方もある。
「ホッチキス」は、明治後期に伊藤喜商店がアメリカから輸入し、開発者の名前をとって「ホッチキス自動紙綴器」という名称で販売していた。その後まもなく国産品の生産に入り、輸入品との差別化を図るために鳩印をトレードマークに採用した。なお、日本橋の金物店がすでにホッチキスという商標登録をしており、1917年に伊藤喜商店がこの商標を買い取ったとする説もあるが、イトーキによれば、商標については社内の正式な記録としては何も残っていないとしている。
2014年現在、文房具分野での「ホッチキス」「ホチキス」という商標は取得されておらず、マックスが医療器具分野のみ「ホッチキス」を登録している(登録第4766203号)。
ステープラーは使用する針の大きさによって大きく3種類に分けられる。また特殊用途向けのステープラーも存在する。
針は一般的なスチールの他にステンレス鋼やアルミ、銅を用いたものがある。特にステンレス鋼の場合、スチールと同等の強度と価格でありながら腐食に強く、錆により書類が茶色に汚れることを防げる。なお、色付きの針もある。
紙を綴じている針の除去には除針器(リムーバー)が用いられ、小型ホッチキスなどでは最初から本体にリムーバーが組み込まれていることが多い。針の除去専用の道具もある。
紙をリサイクルする際に、あらかじめ針を除去しないといけないとする考え方があるが、実際は再生紙を製造する過程で除去(針は溶かされた古紙より比重が重く、撹拌過程で他の異物と共に沈殿・落下する)されるため、大きな問題になることはない。このためマックス社製の針の箱には、「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ありません」の注意書きが書かれている。
針を使用せずに紙をまとめるステープラーは20世紀初頭の時点で発明されており、例として1909年には、紙をU字型に切り出して、開いた切れ目に差し込んで綴じ込む方式の器具がイギリスで販売されていた。その後も複数の企業により同種の製品が断続的に販売されていたが、綴じ枚数の少なさや保持力の弱さといった問題などもあり、広く普及するには至らなかった。
しかし2009年12月になり、コクヨがこの技術を改良することで、保持力を向上させたうえにコピー用紙を10枚まで綴じられる卓上型の「針なしステープラー」を発売。後に「ハリナックス」のブランド名が付き、翌2010年7月には小型のハンディタイプ(4枚綴じ)を発売。針を使わないことによる省資源性や分別の容易さが注目されヒット商品となり、他社からも同種の製品が発売、針なしステープラーが広く普及するきっかけとなった。その後も技術改良により、切り口の形状を変更するなどして紙が外れにくくなり、卓上型では最大12枚、小型のものでは5 - 10枚を綴じられるほどになっている。
またコクヨは、紙に穴を開けず、金属歯で紙同士を圧着することで綴じる方式の「ハリナックスプレス」を2014年に発売した。綴じ部が目立たない等のメリットが挙げられるが、紙の引っ張り方によっては穴を開ける「ハリナックス」より外れやすいという欠点もある。
いずれの方式も、針を使用するものと比べれば保持力が勝らないことから、メーカーでは保持力を重視する場合、「角綴じ」や「複数綴じ」を推奨している。
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"text": "この俗説がテレビ番組で取り上げられたこともある。1989年(平成元年)には日本テレビの番組『TVムック・謎学の旅』はホッチキスの語源を探るべくベンジャミン・ホッチキスの故郷コネチカット州を取材したが、文献などによる証明は行えなかった。1994年(平成6年)、フジテレビの番組『なるほど!ザ・ワールド』の中で、「ベンジャミン・ホッチキスの弟のイーライ・ハベル・ホッチキスがステープラーを発明し、E.H.ホッチキス社を創業した」という説が紹介された。",
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"text": "韓国においても、日本統治時代の影響からステープラーを「ホチキス(호치키스)」と呼称する場合がある。なお、韓国では「ホッチキスはベンジャミン・ホッチキスによって機関銃の構造を元に設計された」という説が長らく語られていたが、2013年に国立国語院が調査したところ、ホッチキスをベンジャミン・ホッチキスが作ったという証拠がないことが明らかとなった。国立国語院が出版する『標準国語大辞典』では、従来ホッチキスを「ステープラー(스테이플러)の別名。ステープラーの考案者の米国の発明家の名にちなんだ商標名」と定義していたが、この結果を受けて「ᄃ字形の針を使って、書類などを綴じる道具。米国の商標名から出た言葉である」と改められた。",
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"text": "紙を綴じている針の除去には除針器(リムーバー)が用いられ、小型ホッチキスなどでは最初から本体にリムーバーが組み込まれていることが多い。針の除去専用の道具もある。",
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"text": "紙をリサイクルする際に、あらかじめ針を除去しないといけないとする考え方があるが、実際は再生紙を製造する過程で除去(針は溶かされた古紙より比重が重く、撹拌過程で他の異物と共に沈殿・落下する)されるため、大きな問題になることはない。このためマックス社製の針の箱には、「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ありません」の注意書きが書かれている。",
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"text": "しかし2009年12月になり、コクヨがこの技術を改良することで、保持力を向上させたうえにコピー用紙を10枚まで綴じられる卓上型の「針なしステープラー」を発売。後に「ハリナックス」のブランド名が付き、翌2010年7月には小型のハンディタイプ(4枚綴じ)を発売。針を使わないことによる省資源性や分別の容易さが注目されヒット商品となり、他社からも同種の製品が発売、針なしステープラーが広く普及するきっかけとなった。その後も技術改良により、切り口の形状を変更するなどして紙が外れにくくなり、卓上型では最大12枚、小型のものでは5 - 10枚を綴じられるほどになっている。",
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"text": "またコクヨは、紙に穴を開けず、金属歯で紙同士を圧着することで綴じる方式の「ハリナックスプレス」を2014年に発売した。綴じ部が目立たない等のメリットが挙げられるが、紙の引っ張り方によっては穴を開ける「ハリナックス」より外れやすいという欠点もある。",
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ステープラーまたはホチキス、ホッチキス、紙綴器(かみつづりき)とは、紙に「コ」の字形の針を刺し通し、針先の部分を両側から平らに曲げて、紙を綴じる文具である。JIS規格上の名称はステープラ。ごく限られているが、ジョイント(宮城県北部、山形県山形市など)、ガッチャンコ(北東北など)と呼ぶ地域もある。古くから鎹(かすがい)と称され、木材や陶器のつなぎ合わせに使われている。 現在、日本ではマックス株式会社の製品が市場の多数を占めている。
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{{Redirectlist|ホチキス|フランスの軍需品・[[自動車メーカー]]|オチキス|[[戯画 (ブランド)|戯画]]から発売されている[[アダルトゲーム]]|ホチキス (ゲーム)}}
[[File:staplter.jpg|thumb|中型ホッチキス]]
[[File:Büroklamern 24-6 PA120218.jpg|thumb|ホッチキスの針]]
'''ステープラー'''({{lang-en|stapler}})または'''ホチキス'''、'''ホッチキス'''、'''紙綴器'''(かみつづりき)とは、[[紙]]に「コ」の字形の[[針]](ステープル、{{lang-en|staple}})を刺し通し、針先の部分を両側から平らに曲げて、紙を綴じる[[文具]]である。[[日本産業規格|JIS]]規格上の名称は'''ステープラ'''。ごく限られているが、'''ジョイント'''([[宮城県]]北部、[[山形県]][[山形市]]など)、'''ガッチャンコ'''(北[[東北]]など)と呼ぶ地域もある。[[Template:いつ|古く]]から'''[[鎹]]'''(かすがい)と称され、木材や陶器のつなぎ合わせに使われている。
現在、[[日本]]では[[マックス (機械メーカー)|マックス株式会社]]の製品が市場の多数を占めている<ref name="maxir">{{Cite web|和書|title=業界動向 - 株主・投資家向け情報 - マックス株式会社 |url=https://www.max-ltd.co.jp/ir/faq02.html |accessdate=2021-04-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210429150545/https://www.max-ltd.co.jp/ir/faq02.html |archive-date=2021-04-29}}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:McGill Stapler.jpg|thumb|マギルの紙綴器とつづり針。つづり針は1870年に、紙綴器は1879年に特許を取得したモデル。]]
現在ステープラーと呼ばれている文具の原型が生まれたのは、[[18世紀]]頃の[[フランス]]と言われている<ref>{{Cite web |author= |date= |url= http://www.officewiseco.com/blog/the-history-and-types-of-the-common-office-stapler/ |title= The History And Types Of The Common Office Stapler |work= |publisher= OfficeWise |accessdate=2015-07-07}}</ref>。19世紀に入ると紙の使用量が増え始めたこともあり、ステープラーの開発も盛んに行われ、 複数の特許が申請された。
1850年代、ハトメ(アイレット)を打ち込む紙綴器、すなわちアイレットマシンが[[ハイマン・リップマン]]によって開発された。これは大量に生産および販売された最初の機械式紙綴器であった<ref name="EOM_1">{{Cite web |author= |url= https://www.officemuseum.com/stapler_gallery_eyelet.htm |title= Eyelet Machines |website= |publisher=Early Office Museum |date= |accessdate=2021-10-24}}</ref>。1866年、ジョージ・マギル(George McGill)が割りピンに似た形式の真鍮製のつづり針の特許を取得し、また1867年には紙束につづり針を通す穴を開けるプレス機の特許を取得した<ref name="EOM_2">{{Cite web |author= |url= https://www.officemuseum.com/staplers.htm |title= Antique Staplers & Other Paper Fasteners |website= |publisher=Early Office Museum |date= |accessdate=2021-10-24}}</ref>。1度の作業で針刺しと折曲げを行える紙綴器は、1877年にヘンリー・R・ヘイル(Henry R. Heyl)が特許を取得したほか、1879年にはマギルとウィリアム・J・ブラウン・ジュニア(William J. Brown, Jr.)がそれぞれ別の特許を取得している。これら3つの設計には部分的な類似性があり、特許を有する三者間で訴訟が繰り返された<ref name="EOM_3">{{Cite web |author= |url= https://www.officemuseum.com/stapler_gallery_single_staple.htm |title= Single Shot Staple Machines |website= |publisher=Early Office Museum |date= |accessdate=2021-10-24}}</ref>。予備の針を本体に内蔵し連続して作業が行えるモデルは、1878年に開発された。その後、金属製のワイヤーあるいはテープを内蔵し、これを切断した後に押しつぶして紙を綴る形式の製品や、針を使わず綴る製品なども考案されたが、1940年代までには事前に成形されたつづり針を多数内蔵する形式の製品が最も普及し、広く使われるようになった<ref name="EOM_2"/>。
=== 名称 ===
日本では[[商標の普通名称化]]により「ホッチキス」または「ホチキス」と呼ばれる事が多い。[[日本放送協会]](NHK)では、かつては「ステープラー」と呼んでいたが、方針転換し「ホチキス」で統一している<ref name="nhk"/>。
日本での「ホッチキス」という呼び名は、1903年(明治36年)に伊藤喜商店(現、株式会社[[イトーキ]])が[[アメリカ合衆国]]より初めて輸入したステープラーが、E.H.ホッチキス社(E.H.Hotchkiss)のHotchkiss No.1というモデルであったことに由来する<ref name="Max_hh">{{Cite web|和書|author= |date= |url= http://wis.max-ltd.co.jp/op/h_story8.pdf |format=PDF |title=ホッチキスの歴史 |work= ホッチキス物語 |publisher= [[マックス (機械メーカー)|マックス株式会社]]|accessdate=2015-07-07}}</ref>。E.H.ホッチキス社は1895年にジョーンズ製造社(The Jones Manufacturing Company)として創業され、1897年にE.H.ホッチキス社に改称した。ホッチキスの名はジョーンズ社の創業者うちジョージ(George Hotchkiss)とイーライ・ハベル(Eli Hubbell Hotchkiss)のホッチキス親子から取られたものである<ref>{{Cite web |author= |date= |url= http://www.lchr.org/a/24/8c/hotchkiss01.html |title= Hotchkiss time line |work= |publisher= Stapler Exchange |accessdate=2015-07-07}}</ref>。
ホッチキスという呼び名の由来について、「[[オチキス]]社の創業者である[[ベンジャミン・ホチキス|ベンジャミン・バークリー・ホッチキス]](B.B.Hotchkiss)が、機関銃の構造を元に発明した」<ref name="Max_hh"/>、「イーライ・ハベルはベンジャミンの弟で、彼が発明した」<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url= http://www.nttcom.co.jp/comzine/no028/long_seller/ |title= マックス・ホッチキス ニッポン・ロングセラー考 |work= |publisher= [[NTTコムウェア|COMZINE]]|accessdate=2015-07-07}}</ref>などの俗説が語られることがある。
この俗説がテレビ番組で取り上げられたこともある<ref name="Max_hh"/>。1989年(平成元年)には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の番組『[[TVムック・謎学の旅]]』はホッチキスの語源を探るべくベンジャミン・ホッチキスの故郷[[コネチカット州]]を取材したが、文献などによる証明は行えなかった。1994年(平成6年)、[[フジテレビ]]の番組『[[なるほど!ザ・ワールド]]』の中で、「ベンジャミン・ホッチキスの弟のイーライ・ハベル・ホッチキスがステープラーを発明し、E.H.ホッチキス社を創業した」という説が紹介された。
この俗説の検証を行った[[ジム・ブリーン]]は、ベンジャミンとステープラーに直接の繋がりは見いだせないものの、ステープラーの販売を行ったホッチキス親子とベンジャミン・ホッチキスは共にコネチカット州出身であり、不確かながら親族からの証言もあったとして、何らかの血縁関係があった可能性までは否定しきれないとしている<ref>{{Cite web |author= [[ジム・ブリーン]] |date= June 2017 |url= http://nihongo.monash.edu//hotchkiss.html |title= The Strange Tale of the Hotchkiss |work= |publisher= |accessdate=2018-07-17}}</ref>。
[[大韓民国|韓国]]においても、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の影響からステープラーを「ホチキス({{lang|ko|호치키스}})」と呼称する場合がある。なお、韓国では「ホッチキスはベンジャミン・ホッチキスによって機関銃の構造を元に設計された」という説が長らく語られていたが<ref name=":0">{{Cite web|和書|author= |date= 2013-09-26 |url= http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013092668428 |title=ベールを脱いだホッチキスの語源 |work= |publisher=[[東亜日報]] |accessdate=2015-07-07}}</ref>、2013年に[[国立国語院]]が調査したところ、ホッチキスをベンジャミン・ホッチキスが作ったという証拠がないことが明らかとなった。国立国語院が出版する『標準国語大辞典』では、従来ホッチキスを「ステープラー({{lang|ko|스테이플러}})の別名。ステープラーの考案者の米国の発明家の名にちなんだ商標名」と定義していたが、この結果を受けて「{{lang|ko|[[ㄷ]]}}字形の針を使って、書類などを綴じる道具。米国の商標名から出た言葉である」と改められた<ref name=":0" />。
=== 針の呼び方 ===
JIS規格上の名称は「'''ステープラ用つづり針'''」である。
一般的には'''しん'''、'''はり'''、'''たま'''などと呼ばれるが、特に決まった呼び方はなく、マックス株式会社では一貫して「はり」と呼んでいる<ref name="nhk">{{Cite web|和書
|url = http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qa_04100101.html
|title = ホチキスの「金具」の呼び名
|publisher = [[日本放送協会|NHK]]
|accessdate = 2012-03-07
|archivedate = 2008年10月5日
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081005182435/http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qa_04100101.html
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url=http://wis.max-ltd.co.jp/op/faq.html?search=1&category_no=1&middle_key=01#50
|title=FAQ(よくある質問)
|accessdate=2012-03-07
|publisher=マックス株式会社}}</ref>。また、'''[[ステープル]]'''という呼び方もある。
=== 商標 ===
「ホッチキス」は、明治後期に伊藤喜商店がアメリカから輸入し、開発者の名前をとって「ホッチキス自動紙綴器」という名称で販売していた。その後まもなく国産品の生産に入り、輸入品との差別化を図るために鳩印をトレードマークに採用した<ref>小学館『日本20世紀館』271頁</ref>。なお、日本橋の金物店がすでにホッチキスという商標登録をしており、1917年に伊藤喜商店がこの商標を買い取ったとする説もあるが、イトーキによれば、商標については社内の正式な記録としては何も残っていないとしている<ref>{{Cite web|和書|author=[[鴻上尚史]] |date=2012-05-21 |url=https://nikkan-spa.jp/207744 |title=「ホッチキス」という名称を巡る意外な事実【鴻上尚史】 |work=[[SPA!|日刊SPA!]] |publisher=[[扶桑社]] |accessdate=2012-05-21}}</ref>。
2014年現在、文房具分野での「ホッチキス」「ホチキス」という商標は取得されておらず、[[マックス (機械メーカー)|マックス]]が医療器具分野のみ「ホッチキス」を登録している(登録第4766203号)。
== 種類 ==
ステープラーは使用する針の大きさによって大きく3種類に分けられる。また特殊用途向けのステープラーも存在する。
=== 小型 ===
* 10号{{efn2|10号サイズの規格はマックス社が定めたものといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.max-ltd.co.jp/company/p05b_01.html|title=商品のあゆみ ホッチキス編|publisher=マックス株式会社|accessdate=2019-10-25}}</ref>。}}と呼ばれる大きさの針を使用するもの。通常タイプは[[コピー用紙]]を20枚程度まで綴じることができる。フラットクリンチ型のステープラーは最大26~32枚まで綴じられるものがある。
* 一般に「ホッチキス」と言えば、小型ステープラーのことを指す。
* 小型・中型折衷タイプの11号規格もある。針の太さは小型と同じであるが長さは中型と同じで6mmと10mmの2種類があり、6mm針はコピー用紙を40枚程度まで、10mm針は80枚程度まで綴じることができる。ハンディタイプは6mm針のみで、10mm針を使用するものは卓上タイプを使用する必要がある。
=== 中型 ===
* 3号、または35号と呼ばれる大きさの針を使用するもの。コピー用紙を30枚程度まで綴じることができる。
* 3号は日本のJIS規格、35号は米国や欧州で主に使用されている針である。どちらも使えるステープラーもあるが、針の太さが異なるため、一方の針のみ使えると考えた方がよい。
* 通常の3号針は針の長さが6mmだが、10mm針と呼ばれる針の長さが10mmのもの(大型1210針と同等の寸法)も存在する。これを使用すると、コピー用紙を75枚程度まで綴じることができるが、使用できるステープラーは限られている。
=== 大型 ===
* 1号、または12号と呼ばれる大きさの針を使用するもの。コピー用紙を綴じられる枚数は針の種類によって異なるが、50~250枚程度である。
* このクラスになると、折り曲げた針が長すぎて、紙を下から突き破ってしまうため、薄いものが綴じられなくなるので、製品仕様の最低綴じ枚数に注意しなければならない。
* 12号針の名前は、針の長さを表している。たとえば1210針は12号で針の長さが10mm、1217針は12号で針の長さが17mmのものである。
* 手動では相当の力を要するため、電動式が普及している。
=== 特殊用途・派生品 ===
[[画像:BookletStapler.jpg|thumb|中綴じ用ステープラー]]
* 本体を開いた状態で壁などに針を打つ使い方ができるもの。これに特化したホッチキスは「[[タッカー (工具)|タッカー]]」と呼ばれる。更に開閉機構を持たず、グリップとトリガーを装備したタイプは「ガンタッカー」と呼ばれる。
* [[中綴じ]][[製本]]のために、針と支点の距離を長くとったもの(中綴じ用ステープラー)。
* 通常使用と中綴じ用との両方に使用できるように、針を打つ部分だけを90度単位で回転できるもの。回転角度が自由なものもある。
* [[電動機|モーター]]駆動により半自動的に綴じるもの。電子式と呼ばれることが多い。
* [[複写機|コピー機]]の内部にあって、コピーされた紙を自動的に綴じるもの(オートステープラー)。
* [[段ボール]]箱の梱包に使用するもの。手動式、電動式がある。
* 医療において人体の傷口の縫合に使用するもの(スキンステープラー)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.wound-treatment.jp/next/wound280.htm |title=スキン・ステープラーはよくない |publisher=[[夏井睦]] |date=2005-8-17 |accessdate=2017-11-10}}</ref>。
[[画像:ステープラー.JPG|thumb|フラットクリンチ型ステープラー]]
* 通常のステープラーは綴じたときの針の形が「メガネ型」になるため、書類を何束も重ねると厚みが生じ、収納しにくい問題がある。フラットクリンチ型と呼ばれる製品を使用すると、針の裏側が平らに綴じられるため、書類の厚みを少なくできる。但し書類の保存状況によっては針の先が外側に突き出し、手を傷つけることがある。これを防ぐためには綴じた後[[プライヤー]]もしくは小さな[[槌]]などで綴じ先を改めてつぶしておくと良い。先が突き出す原因として綴じるときに十分な力を加えなかったことに起こることもある。
:フラットクリンチ型は針の受け手の側にスプリングを仕込むことで平らな綴じを実現しているが、このスプリングの弾性と強度の関係から中型以上の針を使う製品に実装した例は少ないが、スウェーデン発祥のラピッド社が開発したスーパーフラットクリンチ機能だとほとんどの針に対応可能で、フラットクリンチより約10%かさばらずファイリングが可能。
* 仮綴じ用に、針を外側に曲げる綴じ方ができるものもある。
=== メカニズムの違い ===
* はさむ力を軽減するために[[てこ]]の原理を利用したもの。本項のフラットクリンチ型の写真も、これを応用したものである。
* 針を折り曲げる前に、綴じる厚さに合う長さまで自動的に針を切るもの。一種類の針で、コピー用紙2~200枚程度まで対応できるものが実用化されている。
== 針の品質 ==
針は一般的な[[スチール]]の他に[[ステンレス鋼]]や[[アルミ]]、[[銅]]を用いたものがある。特にステンレス鋼の場合、スチールと同等の強度と価格でありながら腐食に強く、[[錆]]により書類が茶色に汚れることを防げる。なお、色付きの針もある。
== 針の除去 ==
[[画像:REMOVER,Staple.jpg|thumb|MAX REMOVER RZ-3F]]
紙を綴じている針の除去には[[除針器]](リムーバー)が用いられ、小型ホッチキスなどでは最初から本体にリムーバーが組み込まれていることが多い。針の除去専用の道具もある。
=== 古紙再生と針 ===
[[紙リサイクル|紙をリサイクル]]する際に、あらかじめ針を除去しないといけないとする考え方があるが、実際は[[再生紙]]を製造する過程で除去(針は溶かされた古紙より比重が重く、撹拌過程で他の異物と共に沈殿・落下する)されるため、大きな問題になることはない。このため[[マックス (機械メーカー)|マックス]]社製の針の箱には、「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ありません」の注意書きが書かれている<ref>[https://withnews.jp/article/f0161214002qq000000000000000W00o10101qq000014427A ホッチキス針、外す必要ない? 「古紙再生で支障なし」記載の真偽は] with news(2016年12月14日)2016年12月15日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://wis.max-ltd.co.jp/op/h_story4.pdf|title=ホッチキス物語◆古紙再生とホッチキス針|accessdate=2017-02-21|publisher=マックス株式会社}}</ref>。
== 針なしステープラー ==
{{宣伝|date=2021年4月|section=1}}
[[File:無針釘書機.jpg|thumb|コクヨ・ハリナックス(ハンディタイプ)]]
針を使用せずに紙をまとめるステープラーは[[20世紀]]初頭の時点で発明されており、例として1909年には、紙をU字型に切り出して、開いた切れ目に差し込んで綴じ込む方式の器具がイギリスで販売されていた。その後も複数の企業により同種の製品が断続的に販売されていたが、綴じ枚数の少なさや保持力の弱さといった問題などもあり、広く普及するには至らなかった。
しかし2009年12月になり、[[コクヨ]]がこの技術を改良することで、保持力を向上させたうえにコピー用紙を10枚まで綴じられる卓上型の「針なしステープラー」を発売。後に「'''ハリナックス'''」のブランド名が付き、翌2010年7月には小型のハンディタイプ(4枚綴じ)を発売。針を使わないことによる省資源性や分別の容易さが注目されヒット商品となり、他社からも同種の製品が発売、針なしステープラーが広く普及するきっかけとなった。その後も技術改良により、切り口の形状を変更するなどして紙が外れにくくなり、卓上型では最大12枚、小型のものでは5 - 10枚を綴じられるほどになっている。
またコクヨは、紙に穴を開けず、金属歯で紙同士を圧着することで綴じる方式の「ハリナックスプレス」を2014年に発売した。綴じ部が目立たない等のメリットが挙げられるが、紙の引っ張り方によっては穴を開ける「ハリナックス」より外れやすいという欠点もある。
いずれの方式も、針を使用するものと比べれば保持力が勝らないことから、メーカーでは保持力を重視する場合、「角綴じ」や「複数綴じ」を推奨している。
== 国内主要製造メーカー ==
* [[マックス (機械メーカー)|マックス]]
* [[コクヨ]]
* [[プラス (企業)|プラス]]
* [[ナカバヤシ]]
* [[ライオン事務器]]
* [[ソニック (文具)|ソニック]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Staplers}}
* [[鎹]]
* [[タッカー (工具)]]
* [[オチキス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.itoki.jp/showroom/pavilion1.html イトーキ史料館 ホッチキスの話]
* [http://wis.max-ltd.co.jp/op/h_story.html ホッチキス物語]([[マックス (機械メーカー)|マックス]]株式会社)
* [http://www.csse.monash.edu.au/~jwb/hotchkiss.html The Strange Tale of the Hotchkiss] 日本における「ホッチキス」という言葉の由来に関する考察
{{デフォルトソート:すていふらあ}}
[[Category:文房具]]
[[Category:接合]]
[[Category:締結 (機械要素)]]
[[Category:民生転用技術]]
[[Category:日本の呼称問題]]
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2003-09-17T11:17:45Z
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2023-11-02T09:49:17Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
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デッサン人形
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デッサン人形(デッサンにんぎょう)は、人間の関節と同じ動きをする関節を持つ人形のこと。画材販売のカタログやオンラインのカテゴリとしてはモデル人形とも呼ばれる。
人間のモデルとは異なり長時間同じポーズを取らせることができ、絵画、漫画等で人物を描く際にポーズの参考にするために使う。人間の全身を表した人形の他、手のみの人形もある。また、馬のデッサン人形も販売されている。
従来は木製で比較的高価であったが、最近は安価な量産品として、プラスチック製のカスタマイズドール用の素体が画材店でも発売されている。こちらの方が漫画・アニメの等身的にデフォルメされたキャラクター体型に合っている為に使い易い場合もある。ただし、プラスチック製でも骨格等が緻密に成型された高級モデルも存在する。
また、画像処理ソフトの機能として、デッサン人形の画像が表示できるものもある。木製やプラスチック製のデッサン人形よりも柔軟にポーズを作ることが出来、陰などの明暗表現も自動的に実現できるようになっている。一方で、実際のデッサン人形を操作することで、画像処理ソフト内のデッサン人形が連動して動き、直感的な操作と画像処理ソフトでのデータを変更し服などの装飾品を書く上での利便さを模索したものもある。
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デッサン人形(デッサンにんぎょう)は、人間の関節と同じ動きをする関節を持つ人形のこと。画材販売のカタログやオンラインのカテゴリとしてはモデル人形とも呼ばれる。 人間のモデルとは異なり長時間同じポーズを取らせることができ、絵画、漫画等で人物を描く際にポーズの参考にするために使う。人間の全身を表した人形の他、手のみの人形もある。また、馬のデッサン人形も販売されている。 従来は木製で比較的高価であったが、最近は安価な量産品として、プラスチック製のカスタマイズドール用の素体が画材店でも発売されている。こちらの方が漫画・アニメの等身的にデフォルメされたキャラクター体型に合っている為に使い易い場合もある。ただし、プラスチック製でも骨格等が緻密に成型された高級モデルも存在する。 また、画像処理ソフトの機能として、デッサン人形の画像が表示できるものもある。木製やプラスチック製のデッサン人形よりも柔軟にポーズを作ることが出来、陰などの明暗表現も自動的に実現できるようになっている。一方で、実際のデッサン人形を操作することで、画像処理ソフト内のデッサン人形が連動して動き、直感的な操作と画像処理ソフトでのデータを変更し服などの装飾品を書く上での利便さを模索したものもある。
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{{出典の明記|date=2019年3月}}
[[File:Wooden model.jpg|thumb|200px|デッサン人形(コンピュータグラフィックス・明暗も表現される)]]
'''デッサン人形'''(デッサンにんぎょう)は、[[人間]]の[[関節]]と同じ動きをする関節を持つ[[人形]]のこと。画材販売のカタログやオンラインのカテゴリとしては'''モデル人形'''とも呼ばれる。
人間のモデルとは異なり長時間同じ[[姿勢|ポーズ]]を取らせることができ、[[絵画]]、[[漫画]]等で人物を描く際にポーズの参考にするために使う。人間の全身を表した人形の他、手のみの人形もある。また、[[ウマ|馬]]のデッサン人形も販売されている。
従来は木製で比較的高価であったが、最近は安価な量産品として、プラスチック製の[[カスタマイズドール]]用の素体が画材店でも発売されている。こちらの方が漫画・アニメの頭身的に[[デフォルメ]]されたキャラクター体型に合っている為に使い易い場合もある。ただし、プラスチック製でも骨格等が緻密に成型された高級モデルも存在する。
また、[[コンピュータグラフィックス|画像処理ソフト]]の機能として、デッサン人形の画像が表示できるものもある。木製やプラスチック製のデッサン人形よりも柔軟にポーズを作ることが出来、陰などの明暗表現も自動的に実現できるようになっている。一方で、実際のデッサン人形を操作することで、画像処理ソフト内のデッサン人形が連動して動き、直感的な操作と画像処理ソフトでのデータを変更し服などの装飾品を書く上での利便さを模索したものもある。
== 関連項目 ==
* [[デッサン]]
* [[スケッチ]]
* [[キャラクター]]
* [[漫画]]
* [[アクションフィギュア]] - 代用される事もある
* [[QUMARION]] - [[セルシス]]が販売するデジタル対応の実物人型入力デバイス。人形を動かすことでディスプレイ内の3Dモデルも連動して動かすことができる。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Artist manikins}}
* [http://www.obitsu.co.jp/ オビツ製作所]
* [http://www.icinc.co.jp/ IC Inc.]
{{Manga-stub}}
{{DEFAULTSORT:てつさんにんきよう}}
[[Category:人形]]
[[Category:描画]]
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2023-11-16T12:31:18Z
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"Template:出典の明記",
"Template:Commonscat"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E4%BA%BA%E5%BD%A2
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一酸化炭素
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一酸化炭素(いっさんかたんそ、carbon monoxide)は、炭素の酸化物の一種であり、常温・常圧で無色・無臭・可燃性の気体である。一酸化炭素中毒の原因となる。化学式は CO と表される。Carbon oxide、Carbonic oxideと表記されることもある。
炭素や、それを含む有機物が燃焼すると二酸化炭素が発生するが、酸素の供給が不充分な環境で燃焼(不完全燃焼)が起こると一酸化炭素が発生する。さらに高温あるいは触媒存在下では C と CO2 とに分解(不均化)し、一酸化炭素自身も酸素の存在下で青い炎を上げて燃焼する。
高温では強い還元作用を示し、各種重金属酸化物を還元して単体金属を生成する。常温では遷移金属に配位して種々の金属カルボニルを形成する。その中のニッケルカルボニル (Ni(CO)4) は、かつてニッケル精製の中間体として用いられていた。
一酸化炭素は、二酸化炭素と異なり水にはほとんど溶けない。
この分子は様々な点で窒素分子(N2)に似ている。分子量28.0で窒素分子とほぼ同じ。結合長は112.8 pmに対して窒素は109.8 pm。三重結合性を帯びるところも同じである。結合解離エネルギーは1072 kJ/molで窒素の942 kJ/molに近いがそれより強く、知られている最強の化学結合の一つである。これらの理由から、融点 (68 K)・沸点 (81 K)も窒素の融点 (63 K)・沸点(77 K)と近くなっている。
上のような3つの共鳴構造を持つ。だが三重結合性が強いため、電気陰性度がC<Oであるにもかかわらず、炭素原子上に負電荷が乗った一番左の構造の寄与が大きい。全体として電子は炭素原子側に偏り、双極子モーメントは0.122 Dとなる。また、σ軌道は71%、π軌道は77%酸素原子側に分極している。
基底状態は一重項状態なので不対電子はない。
工業的には 800 °C 以上(普通は 1,000 °C 程度)に加熱したコークスと水(水蒸気)を反応させて作られる水性ガスから得られる。その反応は、
である。上記反応で右方向( ⟶ {\displaystyle {\ce {->}}} )への反応は吸熱反応であり、反応進行とともに温度が下がる。ここで排気弁を閉じ、空気を注入するとコークスが燃焼して温度が上昇するので、再び水蒸気を注入して一酸化炭素と水素を生成させる。これを繰り返してコークスがなくなったら、次のバッチを充填して反応を開始する。
実験室で作る時は、ギ酸を濃硫酸で脱水するとできる。この時、
の反応が起こる。一酸化炭素は水に溶けにくいので、水上置換で集めることができる。
また、シュウ酸を濃硫酸で脱水し、熱することでもできる。この場合、同時に発生する二酸化炭素を強塩基の水溶液で除く必要がある。
日本では古くから、カツオやマグロなどの鮮魚として出回る魚介を一酸化炭素処理すると、刺身にした際に発色が良くなり新鮮そうに見えることが広く知られていた。
一酸化炭素がミオグロビンに結びつくとカルボキシミオグロビンになり、鮮やかな赤色を呈する。このカルボキシミオグロビンは、酸素が結びついたミオグロビンや酸化されて茶色を呈するメトミオグロビンよりもより安定した物質である。この安定した色が通常のパックよりもあたかも長持ちして新鮮なように見えることとなる。
1980年代に入ると、日本のマグロ輸入量が急増。日本発の技術として一酸化炭素の処理方法は、輸出先の国々を中心に世界的に広まることとなった。こうした処理技術は消費者が判断する鮮度の基準を狂わせ、食中毒の原因にもなりかねないことから、1994年には、食品衛生法で禁止されることとなった。しかし、世界中に広まった技術を根絶することは難しく、未だに利用する海外の業者は多いとされる。現在でも輸入加工食品の一部で一酸化炭素処理が発覚する事例がしばしば発生する。一酸化炭素処理されたマグロは「COマグロ」と呼ばれることがある。
一酸化炭素中毒に罹患した場合の症状は右記の図を参照のこと。
一酸化炭素はC1化学の分野において、重要な原料化合物である。また、有機化学においてはカルボニル基の原料として、無機化学においては配位子として、一酸化炭素の応用範囲は広い。
例えば、ハロゲン化アリール(芳香族ハロゲン化物)にパラジウムなどの遷移金属触媒と求核剤を加えてクロスカップリングさせる際、一酸化炭素を共存させるとカルボニル基の挿入が起こる。
アルケンに対しても、適切な触媒の作用でホルミル基 (−CHO) の付加を行うことができる。これをヒドロホルミル化、あるいはオキソ法とよび、各種アルデヒドの工業的な製法のひとつである。また、日光や触媒により塩素と反応させるとホスゲン(COCl2、工業化学上重要な化合物、かつて毒ガスとして用いられていた)が得られる。
ほか、一酸化炭素を利用する人名反応として、ガッターマン・コッホ反応 (Gattermann-Koch reaction)、コッホ・ハーフ反応 (Koch-Haaf reaction) などが知られる。
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"text": "一酸化炭素がミオグロビンに結びつくとカルボキシミオグロビンになり、鮮やかな赤色を呈する。このカルボキシミオグロビンは、酸素が結びついたミオグロビンや酸化されて茶色を呈するメトミオグロビンよりもより安定した物質である。この安定した色が通常のパックよりもあたかも長持ちして新鮮なように見えることとなる。",
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"text": "1980年代に入ると、日本のマグロ輸入量が急増。日本発の技術として一酸化炭素の処理方法は、輸出先の国々を中心に世界的に広まることとなった。こうした処理技術は消費者が判断する鮮度の基準を狂わせ、食中毒の原因にもなりかねないことから、1994年には、食品衛生法で禁止されることとなった。しかし、世界中に広まった技術を根絶することは難しく、未だに利用する海外の業者は多いとされる。現在でも輸入加工食品の一部で一酸化炭素処理が発覚する事例がしばしば発生する。一酸化炭素処理されたマグロは「COマグロ」と呼ばれることがある。",
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"text": "一酸化炭素はC1化学の分野において、重要な原料化合物である。また、有機化学においてはカルボニル基の原料として、無機化学においては配位子として、一酸化炭素の応用範囲は広い。",
"title": "合成化学での用途"
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"title": "合成化学での用途"
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"text": "アルケンに対しても、適切な触媒の作用でホルミル基 (−CHO) の付加を行うことができる。これをヒドロホルミル化、あるいはオキソ法とよび、各種アルデヒドの工業的な製法のひとつである。また、日光や触媒により塩素と反応させるとホスゲン(COCl2、工業化学上重要な化合物、かつて毒ガスとして用いられていた)が得られる。",
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"text": "ほか、一酸化炭素を利用する人名反応として、ガッターマン・コッホ反応 (Gattermann-Koch reaction)、コッホ・ハーフ反応 (Koch-Haaf reaction) などが知られる。",
"title": "合成化学での用途"
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一酸化炭素は、炭素の酸化物の一種であり、常温・常圧で無色・無臭・可燃性の気体である。一酸化炭素中毒の原因となる。化学式は CO と表される。Carbon oxide、Carbonic oxideと表記されることもある。
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{{Chembox
| Name = 一酸化炭素
| ImageFileL1 = Carbon-monoxide-2D-dimensions.png
| ImageSizeL1 = 120px
| ImageNameL1 = 一酸化炭素の構造式
| ImageFileR1 = Carbon-monoxide-3D-vdW.png
| ImageSizeR1 = 120px
| ImageNameR1 = 一酸化炭素の空間充填モデル
| IUPACName = 一酸化炭素
| OtherNames =
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| CASNo = 630-08-0
| CASNo_Ref = {{cascite}}
| ChemSpiderID = 275
| RTECS = FG3500000
| EINECS = 211-128-3
| UNNumber = 1016
| PubChem = 281
| KEGG = D09706
}}
| Section2 = {{Chembox Properties
| Formula = CO
| MolarMass = 28.010 g/mol
| Appearance = 無色気体
| Density = 0.789 g/mL, 液体<br/>1.250 g/L at 0 ℃, 1 atm<br/>1.145 g/L at 25 ℃, 1 atm
| Solubility = 0.0026 g/100 mL (20 ℃)
| MeltingPt = -205 ℃ (68 K,-337°F)
| BoilingPt = -192 ℃ (81 K,313.6°F)
| Dipole = 0.112 [[デバイ|D]]
}}
| Section7 = {{Chembox Hazards
| ExternalMSDS = [https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0023&p_version=2 ICSC 0023]
| EUIndex = 006-001-00-2
| EUClass = 非常に強い可燃性 ('''F+''')<br/>Repr. Cat. 1<br/>有毒 ('''T''')
| NFPA-H = 4
| NFPA-F = 4
| NFPA-R = 0
| RPhrases = {{R61}}, {{R12}}, {{R23}}, {{R48/23}}
| SPhrases = {{S53}}, {{S45}}
| FlashPt = 可燃性気体
}}
| Section8 = {{Chembox Related
| Function = [[炭素]]の[[酸化物]]
| OtherFunctn = [[二酸化炭素]]<br/>[[亜酸化炭素]]<br/>[[一酸化二炭素]]<br/>[[三酸化炭素]]
}}
}}
'''一酸化炭素'''(いっさんかたんそ、carbon monoxide)は、[[炭素]]の[[酸化物]]の一種であり、常温・常圧で無色・無臭・可燃性の[[気体]]である。[[一酸化炭素中毒]]の原因となる。[[化学式]]は CO と表される。Carbon oxide、Carbonic oxideと表記されることもある<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nite.go.jp/chem/chrip/chrip_search/cmpInfDsp?cid=C004-661-31A&bcPtn=1&shMd=0&txNumSh=<NumTp=1<NumMh=0&txNmSh=5LiA6YW45YyW54Kt57Sg<NmTp=<NmMh=1&txNmSh1=<NmTp1=&txNmSh2=<NmTp2=&txNmSh3=<NmTp3=&txMlSh=<MlMh=0<ScDp=0<PgCtSt=100&rbDp=0&txScSML=&txScSML2=<ScTp=&txUpScFl=null&hdUpScPh=&hdUpHash=&rbScMh=&txScNyMh=&txMlWtSt=&txMlWtEd=&err=&trClCd=1:025&trClCd=1:025:0:GI_10_001 | title = NITE-CHRIP (NITE 化学物質総合情報提供システム) | publisher = [[製品評価技術基盤機構]] | accessdate = 2022-03-06 }}</ref>。
== 性質 ==
[[炭素]]や、それを含む[[有機物]]が[[燃焼]]すると[[二酸化炭素]]が発生するが、[[酸素]]の供給が不充分な環境で燃焼([[不完全燃焼]])が起こると一酸化炭素が発生する。さらに高温あるいは触媒存在下では C と CO{{sub|2}} とに分解([[不均化]])し、一酸化炭素自身も酸素の存在下で青い炎を上げて燃焼する。
:<chem> 2CO -> C + CO2</chem>
高温では強い[[還元]]作用を示し、各種[[重金属]][[酸化物]]を還元して[[金属|単体金属]]を生成する。常温では[[遷移金属]]に[[配位結合|配位]]して種々の金属[[カルボニル]]を形成する。その中の[[ニッケルカルボニル]] (Ni(CO){{sub|4}}) は、かつて[[ニッケル]]精製の中間体として用いられていた。
一酸化炭素は、二酸化炭素と異なり水にはほとんど溶けない。
この分子は様々な点で[[窒素分子]](N{{sub|2}})に似ている。[[分子量]]28.0で窒素分子とほぼ同じ。結合長は112.8 [[ピコメートル|pm]]<ref name="gilliam">{{Cite journal|author=O. R. Gilliam, C. M. Johnson and W. Gordy|title=Microwave Spectroscopy in the Region from Two to Three Millimeters|year=1950|journal=[[Physical Review]]|volume=78|issue=2|pages=140|doi=10.1103/PhysRev.78.140|bibcode = 1950PhRv...78..140G }}</ref><ref>Haynes, William M. (2010). Handbook of Chemistry and Physics (91 ed.). Boca Raton, Florida: CRC Press. p. 9-33. ISBN 978-1439820773.</ref>に対して窒素は109.8 pm。三重結合性を帯びるところも同じである。[[結合解離エネルギー]]は1072 kJ/molで窒素の942 kJ/molに近いがそれより強く、知られている最強の化学結合の一つである<ref>[http://www.wiredchemist.com/chemistry/data/bond_energies_lengths.html Common Bond Energies (D) and Bond Lengths (r)]</ref>。これらの理由から、融点 (68 K)・沸点 (81 K)も窒素の融点 (63 K)・沸点(77 K)と近くなっている。
[[画像:Carbon monoxide mesomeric.svg|250px|none|一酸化炭素の共鳴式]]
上のような3つの[[共鳴構造]]を持つ。だが三重結合性が強い<ref name=Stefan/>ため、[[電気陰性度]]がC<Oであるにもかかわらず、炭素原子上に負電荷が乗った一番左の構造の寄与が大きい。全体として電子は炭素原子側に偏り、[[双極子モーメント]]は0.122 [[デバイ|D]]となる<ref>{{cite journal | url=http://jcp.aip.org/resource/1/jcpsa6/v94/i10/p6660_s1 | last1=Scuseria | first1=Gustavo E. | last2=Miller | first2=Michael D. | last3=Jensen | first3=Frank | last4=Geertsen | first4=Jan |title=The dipole moment of carbon monoxide|journal=J. Chem. Phys. |volume=94 |issue= 10 | pages=6660 |year=1991 |doi=10.1063/1.460293|bibcode = 1991JChPh..94.6660S }}</ref>。また、[[σ軌道]]は71%、[[π軌道]]は77%酸素原子側に[[分極]]している<ref name="Stefan">{{cite journal | last1 = Stefan | first1 = Thorsten | last2 = Janoschek | first2 = Rudolf | title = How relevant are S=O and P=O Double Bonds for the Description of the Acid Molecules H2SO3, H2SO4, and H3PO4, respectively? | journal= Journal of Molecular Modeling | volume =6 | issue=2 |month= February |year=2000 |pages=282–288 |doi=10.1007/PL00010730}}</ref>。
[[基底状態]]は[[一重項状態]]なので[[不対電子]]はない<ref>[http://www.mpe.mpg.de/lab/CO/co.html Last accessed June 22, 2010.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060828201131/http://www.mpe.mpg.de/lab/CO/co.html |date=2006年8月28日 }}</ref>。
== 製法 ==
工業的には 800 ℃ 以上(普通は 1,000 ℃ 程度)に加熱した[[コークス]]と[[水]]([[水蒸気]])を反応させて作られる[[水性ガス]]から得られる。その反応は、
: <chem>C + H2O -> CO + H2</chem>
である。上記反応で右方向(<chem>-></chem>)への反応は吸熱反応であり、反応進行とともに温度が下がる。ここで排気弁を閉じ、空気を注入するとコークスが燃焼して温度が上昇するので、再び水蒸気を注入して一酸化炭素と水素を生成させる。これを繰り返してコークスがなくなったら、次のバッチを充填して反応を開始する。
実験室で作る時は、[[ギ酸]]を[[濃硫酸]]で[[脱水反応|脱水]]するとできる。この時、
:<chem>HCOOH -> H2O + CO (^)</chem>
の反応が起こる。一酸化炭素は水に溶けにくいので、[[水上置換]]で集めることができる。
また、[[シュウ酸]]を[[濃硫酸]]で[[脱水反応|脱水]]し、熱することでもできる。この場合、同時に発生する[[二酸化炭素]]を[[強塩基]]の水溶液で除く必要がある。
:<chem>(COOH)2 -> CO + CO2 + H2O</chem>
== 食品加工 ==
日本では古くから、[[カツオ]]や[[マグロ]]など<ref name=shokueishi.38.4_233>宮崎仁志、阿部政夫、麻野間正晴 ほか、「[https://doi.org/10.3358/shokueishi.38.4_233 GCによる魚肉中の一酸化炭素の簡易分析法]」『食品衛生学雑誌』 1997年 38巻 4号 p.233-239_1, {{doi|10.3358/shokueishi.38.4_233}}</ref>の鮮魚として出回る魚介を一酸化炭素処理すると、[[刺身]]にした際に発色が良くなり新鮮そうに見えることが広く知られていた<ref name=shokueishi.38.4_233 />。
一酸化炭素が[[ミオグロビン]]に結びつくとカルボキシミオグロビンになり、鮮やかな赤色を呈する<ref name=shokueishi.38.4_233 />。このカルボキシミオグロビンは、[[酸素]]が結びついたミオグロビンや[[酸化]]されて茶色を呈する[[メトミオグロビン]]よりもより安定した物質である。この安定した色が通常のパックよりもあたかも長持ちして新鮮なように見えることとなる<ref name="Meatsci1999_SORHEIM">{{cite journal|author=Sorheim, S, Nissena, H, Nesbakken, T|title=The storage life of beef and pork packaged in an atmosphere with low carbon monoxide and high carbon dioxide|journal=Journal of Meat Science|year=1999|pages=157–164|volume=52|issue=2|doi=10.1016/S0309-1740(98)00163-6}}</ref>。
[[1980年代]]に入ると、日本のマグロ輸入量が急増。日本発の技術として一酸化炭素の処理方法は、輸出先の国々を中心に世界的に広まることとなった。こうした処理技術は[[消費者]]が判断する鮮度の基準を狂わせ、[[食中毒]]の原因にもなりかねないことから、[[1994年]]には、[[食品衛生法]]で禁止されることとなった。しかし、世界中に広まった技術を根絶することは難しく、未だに利用する海外の業者は多いとされる。現在でも輸入[[加工食品]]の一部で一酸化炭素処理が発覚する事例がしばしば発生する。一酸化炭素処理されたマグロは「COマグロ」と呼ばれることがある。
== 一酸化炭素中毒 ==
{{See|一酸化炭素中毒}}
[[ファイル:CO toxicity symptoms (en).jpg|thumb|一酸化炭素中毒に罹患した場合の影響を描いた図。英語版。]]
一酸化炭素中毒に罹患した場合の症状は右記の図を参照のこと。
== 合成化学での用途 ==
一酸化炭素は[[C1化学]]の分野において、重要な原料化合物である。また、有機化学においては[[カルボニル基]]の原料として、無機化学においては配位子として、一酸化炭素の応用範囲は広い。
例えば、[[ハロゲン化アリール]](芳香族ハロゲン化物)に[[パラジウム]]などの遷移金属触媒と[[求核剤]]を加えて[[カップリング反応|クロスカップリング]]させる際、一酸化炭素を共存させるとカルボニル基の挿入が起こる。
: <chem>Ar - I + CO + ROH </chem>([[アルコール]])+ (Pd触媒)<chem>-> Ar - C(=O) - OR</chem>([[エステル]]の合成:アルコキシカルボニル化)
: <chem>Ar - I + CO + H2 </chem> + (Pd触媒)<chem>-> Ar - CHO</chem> ([[アルデヒド]]の合成:ホルミル化)
[[アルケン]]に対しても、適切な触媒の作用でホルミル基 (−CHO) の付加を行うことができる。これを[[ヒドロホルミル化]]、あるいはオキソ法とよび、各種アルデヒドの工業的な製法のひとつである。また、日光や[[触媒]]により[[塩素]]と反応させると[[ホスゲン]](COCl{{sub|2}}、工業化学上重要な化合物、かつて[[毒ガス]]として用いられていた)が得られる。
ほか、一酸化炭素を利用する人名反応として、[[ガッターマン・コッホ反応]] (Gattermann-Koch reaction)、[[コッホ・ハーフ反応]] (Koch-Haaf reaction) などが知られる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連文献==
*{{Cite journal |和書|author =村橋俊介|author2=堀家茂樹|title =一酸化炭素の化学反応|date =1960|publisher =有機合成化学協会|journal =有機合成化学協会誌|volume =18|issue =1|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.18.15|pages =15-30|ref = }}
== 関連項目 ==
{{commons category|Carbon monoxide}}
* [[木炭自動車]]
* [[ガス燃料]]
* [[北陸トンネル火災事故]] - 全犠牲者30名中、29名の死因が一酸化炭素中毒だった。
* [[一酸化炭素センサ]]
* [[金属カルボニル]]
* {{ill2|カルボキシヘモグロビン|en|Carbaminohemoglobin}}( COHb ) - 一酸化炭素とヘモグロビンが結合した形態。酸素より結合度が高く異常ヘモグロビンに分類される。
* [[水性ガスシフト反応]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{炭素の無機化合物}}
{{炭素酸化物}}{{大気汚染}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いつさんかたんそ}}
[[Category:オキソカーボン]]
[[Category:酸化物]]
[[Category:有毒ガス]]
[[Category:大気汚染]]
[[Category:燃料]]
[[Category:産業用ガス]]
[[Category:配位子]]
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製図ペン
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製図ペン(せいずペン、英: technical pen)は図面を書くためのペンで、他の筆記具のペン先が使用者の筆圧や摩耗などで変化するのに比べて、筆圧に左右されることなく、均一な太さや幅の線を描けるように、特定の太さの中空パイプの外軸と、毛細管現象を促すための中軸で構成されたペン先をもつ筆記具。製図用万年筆、パイプペンとも呼ばれる。
19世紀後半にアロンゾ・タウンゼント・クロスによって開発された、スタイログラフィックペンとも呼ばれる針先万年筆が前身である。針先万年筆の製造元であったドイツのロットリング社が、1953年に製図ペンの原型である最初の『ラピッドグラフ』を開発した。
現代の製図ペンは多様な線幅のペン先が揃えられているのが一般的である。線幅には従来の「標準」と、国際規格ISO 128(英語版)に定義された製図用の線幅に準拠したものがある。1988年には製図ペンの国際規格ISO 9175(ドイツ語版)が定義された。
1980年代になると競合品として、水性顔料系インクの極細マーキングペン(ミリペン)が登場した。これは廉価であるが、摩耗などの短所があり、ISO線幅のような規格的厳密さは確立されていない。
最近では製図にCADを利用する場合が多くなり、図面の出力にはプロッタと呼ばれる大型プリンタを用いることから手描きによる筆記具としての製図ペンは使われなくなりつつあるが、無機質で均一な幅の線が引けることからマンガ用の枠線を描く筆記具として、またそのまま無機質な絵を描くための筆記具としても使われている。
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[[Image:Rapidograf_3RB.jpg|thumb|right|ラピッドグラフ]]
'''製図ペン'''(せいずペン、{{lang-en-short|technical pen}})は[[図面]]を書くための[[ペン]]で、他の筆記具のペン先が使用者の筆圧や摩耗などで変化するのに比べて、筆圧に左右されることなく、均一な太さや幅の線を描けるように、特定の太さの中空パイプの外軸と、毛細管現象を促すための中軸で構成されたペン先をもつ筆記具。製図用[[万年筆]]、パイプペンとも呼ばれる。
19世紀後半に[[クロス (筆記具ブランド)|アロンゾ・タウンゼント・クロス]]によって開発された、スタイログラフィックペンとも呼ばれる針先万年筆が前身である。針先万年筆の製造元であったドイツの[[ロットリング]]社が、1953年に製図ペンの原型である最初の『ラピッドグラフ』を開発した。
現代の製図ペンは多様な線幅のペン先が揃えられているのが一般的である。線幅には従来の「標準」と、[[国際規格]]{{仮リンク|ISO 128|en|ISO 128}}に定義された製図用の線幅に準拠したものがある。1988年には製図ペンの国際規格{{仮リンク|ISO 9175|de|ISO 9175}}が定義された。
1980年代になると競合品として、水性顔料系インクの極細[[マーキングペン]]([[ミリペン]])が登場した。これは廉価であるが、摩耗などの短所があり、ISO線幅のような規格的厳密さは確立されていない。
最近では[[製図]]に[[CAD]]を利用する場合が多くなり、図面の出力には[[プロッタ]]と呼ばれる大型[[プリンター|プリンタ]]を用いることから手描きによる筆記具としての製図ペンは使われなくなりつつあるが、無機質で均一な幅の線が引けることから[[漫画|マンガ]]用の枠線を描く筆記具として、またそのまま無機質な絵を描くための筆記具としても使われている。
== 主なメーカー ==
*[[ロットリング]]社(rOtring)
*[[ステッドラー]]社(STAEDTLER)
*[[メカノーマ]]社(Mecanorma)
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年11月13日 (火) 07:26 (UTC)}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.jwima.org/mannehitsu_web/01rekishi/rekishi_nenphou.html|title=万年筆の歴史|publisher=日本筆記具工業会|accessdate=2021-7-9}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.holbein.co.jp/product/rotring/story.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140313054820/http://www.holbein.co.jp/product/rotring/story.html|title=ロットリング・ストーリー|publisher=ホルベイン画材|archivedate=2014-3-13|accessdate=2021-7-9}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.rotring.com/us/heritage|title=ヒストリー|publisher=rOtring|accessdate=2021-7-9}}
== 関連項目 ==
* [[カラス口]]
* [[プロッター]]
* [[ミリペン]]
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[[category:万年筆]]
[[category:製図用具]]
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17,182 |
ツクヨミ
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ツクヨミ、またはツキヨミは、日本神話に登場する神。
『古事記』は月読命、『日本書紀』は月夜見尊などと表記する。一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。
記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる。
ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。
この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。
日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。
ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。
上巻では、月讀命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の満月を現すと考えられる。
日本書紀・神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(月読命)を生んでいる。日と並ぶ月は日月分離前の新月を現すと考えられる。
ツクヨミの支配領域については、天照大神と並んで天を治めるよう指示されたとする話が幾つかある。その一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もある。これは潮汐と月の関係を現すと考えられる。
書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話であり、月が新月になるのは太陽との黄経差が0度、即ち見かけ上太陽と並んだ時であって、満月になるのは180度、即ち見かけ上太陽から最も離れた時であることを説明した神話と考えられる。
一方、古事記では似た展開で食物の神(大気都比売神・おほげつひめ)が殺されるが、それをやるのは須佐之男命である(日本神話における食物起源神話も参照)。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。
ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)に再び現れる。『書紀』巻十五の顕宗紀には、任那へ派遣された阿閉臣事代に月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された壱岐には月詠神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われている。が、これは現在では橘三喜の誤りで、宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされる。今は遷座され箱崎八幡神社に鎮座している。
日本書紀に続く六国史の第二にあたる続日本紀には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜した(占卜)ところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、毎年九月に荒祭(あらまつり)神にならって馬を奉るようになったとある。
逸文だが「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中つ国に下り、保食神のもとに至ったとき、湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。月と桂を結びつける伝承はインドから古代中国を経て日本に伝えられたと考えられており、万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。また、日本神話において桂と関わる神は複数おり、例えば古事記からは、天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至った山幸彦が挙げられる。
ただし、都久豆美命は渡津の守護の月神で、古くから千酌を守る土着神だったが、朝廷の支配が強まったため土地の人々が伊佐奈枳の子としたのであり、ツクヨミとは関係ないとする説がある。
万葉集の歌の中では、「ツキヨミ」或いは「ツキヨミオトコ(月読壮士)」という表現で現れてくる。これは単なる月の比喩(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格が読みとれる。また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者として現れ、「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘されている。
なお、万葉集の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現が見られる。
と記しており、記紀神話では性別に関する記述のない月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。
天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読尊のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。
一般的にはツクヨミと言われるが、月読を祀る神社はツキヨミと表記している。 古事記では「月讀命」のみであるが、日本書紀・第五段の本文には、「月神【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】」と複数の表記がなされている。万葉集では、月を指して「月讀壮士(ツキヨミオトコ)」、「月人壮士(ツキヒトオトコ)」「月夜見」などとも詠まれている。逸文ではあるが山城国風土記には「月讀尊」とある。
なお、「ツクヨミ」の上代特殊仮名遣を表記ごとにまとめると、以下のようになっている。
以上のように、『記紀万葉』においてツクヨミの「ミ」はいずれも甲類で一致しているが、ヨの甲乙は両方にまたがり、「ユ」の例すらある。
ヨ、ユ音に着目して表記例をまとめると、
に分かれる。
ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。
まず、最も有力な説として、「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち「日数み(カヨミ)」であるのに対して、ツキヨミもまた月を読むことにつながる。
「読む」は、『万葉集』にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が太陽暦に先行して発生した。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深いつまり、ツクヨミは日月を数えることから、暦を司る神格であろうと解釈されている。
その他にも、海神のワタツミ、山神のオオヤマツミと同じく、「ツクヨのミ」(「ツクヨ」が月で「ミ」は神霊の意)から「月の神」の意とする説がある。
このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして『記紀万葉』のみならず『延喜式』などやや後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」表記が並行して用いられている。
皇大神宮の別宮・月讀宮や、豊受大神宮の別宮・月夜見宮に祀られる。また、京都の月読神社は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである。日本百名山や出羽三山で知られる月山(ガッサン,1984m,山形県)の名称は、山頂に鎮座する神社(月山神社,旧社格:官幣大社)の祭神である月読之命に因んだものとされる。
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"text": "上巻では、月讀命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の満月を現すと考えられる。",
"title": "神話での記述"
},
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本書紀・神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(月読命)を生んでいる。日と並ぶ月は日月分離前の新月を現すと考えられる。",
"title": "神話での記述"
},
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"paragraph_id": 10,
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"text": "ツクヨミの支配領域については、天照大神と並んで天を治めるよう指示されたとする話が幾つかある。その一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もある。これは潮汐と月の関係を現すと考えられる。",
"title": "神話での記述"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話であり、月が新月になるのは太陽との黄経差が0度、即ち見かけ上太陽と並んだ時であって、満月になるのは180度、即ち見かけ上太陽から最も離れた時であることを説明した神話と考えられる。",
"title": "神話での記述"
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"text": "一方、古事記では似た展開で食物の神(大気都比売神・おほげつひめ)が殺されるが、それをやるのは須佐之男命である(日本神話における食物起源神話も参照)。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。",
"title": "神話での記述"
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"text": "ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)に再び現れる。『書紀』巻十五の顕宗紀には、任那へ派遣された阿閉臣事代に月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された壱岐には月詠神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われている。が、これは現在では橘三喜の誤りで、宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされる。今は遷座され箱崎八幡神社に鎮座している。",
"title": "神話での記述"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "日本書紀に続く六国史の第二にあたる続日本紀には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜した(占卜)ところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、毎年九月に荒祭(あらまつり)神にならって馬を奉るようになったとある。",
"title": "神話での記述"
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"text": "逸文だが「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中つ国に下り、保食神のもとに至ったとき、湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。月と桂を結びつける伝承はインドから古代中国を経て日本に伝えられたと考えられており、万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。また、日本神話において桂と関わる神は複数おり、例えば古事記からは、天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至った山幸彦が挙げられる。",
"title": "神話での記述"
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"text": "ただし、都久豆美命は渡津の守護の月神で、古くから千酌を守る土着神だったが、朝廷の支配が強まったため土地の人々が伊佐奈枳の子としたのであり、ツクヨミとは関係ないとする説がある。",
"title": "神話での記述"
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"text": "万葉集の歌の中では、「ツキヨミ」或いは「ツキヨミオトコ(月読壮士)」という表現で現れてくる。これは単なる月の比喩(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格が読みとれる。また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者として現れ、「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘されている。",
"title": "神話での記述"
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"text": "なお、万葉集の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現が見られる。",
"title": "神話での記述"
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"text": "と記しており、記紀神話では性別に関する記述のない月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。",
"title": "神話での記述"
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"text": "天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読尊のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。",
"title": "神話での記述"
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{
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"text": "一般的にはツクヨミと言われるが、月読を祀る神社はツキヨミと表記している。 古事記では「月讀命」のみであるが、日本書紀・第五段の本文には、「月神【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】」と複数の表記がなされている。万葉集では、月を指して「月讀壮士(ツキヨミオトコ)」、「月人壮士(ツキヒトオトコ)」「月夜見」などとも詠まれている。逸文ではあるが山城国風土記には「月讀尊」とある。",
"title": "ツクヨミの表記"
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"text": "なお、「ツクヨミ」の上代特殊仮名遣を表記ごとにまとめると、以下のようになっている。",
"title": "ツクヨミの表記"
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{
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"text": "以上のように、『記紀万葉』においてツクヨミの「ミ」はいずれも甲類で一致しているが、ヨの甲乙は両方にまたがり、「ユ」の例すらある。",
"title": "ツクヨミの表記"
},
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"text": "ヨ、ユ音に着目して表記例をまとめると、",
"title": "ツクヨミの表記"
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"text": "に分かれる。",
"title": "ツクヨミの表記"
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"text": "ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。",
"title": "ツクヨミの名義"
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"text": "まず、最も有力な説として、「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち「日数み(カヨミ)」であるのに対して、ツキヨミもまた月を読むことにつながる。",
"title": "ツクヨミの名義"
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"text": "「読む」は、『万葉集』にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が太陽暦に先行して発生した。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深いつまり、ツクヨミは日月を数えることから、暦を司る神格であろうと解釈されている。",
"title": "ツクヨミの名義"
},
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"text": "その他にも、海神のワタツミ、山神のオオヤマツミと同じく、「ツクヨのミ」(「ツクヨ」が月で「ミ」は神霊の意)から「月の神」の意とする説がある。",
"title": "ツクヨミの名義"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして『記紀万葉』のみならず『延喜式』などやや後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」表記が並行して用いられている。",
"title": "ツクヨミの名義"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "皇大神宮の別宮・月讀宮や、豊受大神宮の別宮・月夜見宮に祀られる。また、京都の月読神社は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである。日本百名山や出羽三山で知られる月山(ガッサン,1984m,山形県)の名称は、山頂に鎮座する神社(月山神社,旧社格:官幣大社)の祭神である月読之命に因んだものとされる。",
"title": "ツクヨミを祭神とする神社"
}
] |
ツクヨミ、またはツキヨミは、日本神話に登場する神。 『古事記』は月読命、『日本書紀』は月夜見尊などと表記する。一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。
|
{{otheruseslist|月神|小惑星|ツクヨミ (小惑星)|[[有馬啓太郎]]の漫画|月詠}}
{{redirect|ツキヨミ|[[King & Prince]]の楽曲|ツキヨミ/彩り}}
{{基礎情報 日本の神
| 名 = 月読命
| 画像 = Shinto-Tsukuyomi-no-Mikoto-Old-Artwork.png
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 月読命(ツクヨミノミコト)
| 世代名 = [[三貴神]]
| 神祇 = [[天津神]]
| 全名 = 月読命(ツクヨミノミコト)
| 別称 = 月読尊、月弓尊、月夜見尊、月讀尊
| 神格 = <!-- 太陽、月、山、海など司るもの -->月神、農耕神
| 陵所 =
| 父 = [[伊邪那岐神]]
| 母 = [[伊弉冉尊]](日本書紀のみ記述あり)
| 兄弟姉妹 = [[天照大神]]
[[スサノオ]]
| 親 = <!-- まぐあいによって生まれない場合 -->
| 神社 = 月読神社
}}
'''ツクヨミ'''<ref>{{Cite book |和書 |author=平藤喜久子 |editor=松村一男ほか|editor-link=松村一男 |title=神の文化史事典 |publisher=[[白水社]] |date=2013-02
|isbn=978-4-560-08265-2 |page=285 |chapter=スサノオ 建速須佐之男命(記)、素戔嗚尊(紀) }}</ref>、または'''ツキヨミ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ツキヨミノミコト(月読尊)-99149 |title=ツキヨミノミコト(月読尊)|work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2016-09-18}}</ref>は、[[日本神話]]に登場する[[神 (神道)|神]]。
『[[古事記]]』は'''月読命'''、『[[日本書紀]]』は'''月夜見尊'''などと表記する。一般的にツクヨミと言われるが、[[伊勢神宮]]・[[月読神社]]ではツキヨミと表記される。
== 神話での記述 ==
記紀([[古事記]]と[[日本書紀]])において、ツクヨミは[[イザナギ|伊邪那岐命]](伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。[[月]]を神格化した、[[夜]]を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。[[天照大神|天照大御神]](天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、[[スサノオ|建速須佐之男命]](素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる<ref group="注釈">記紀において性別は記述されていないが保食神を殺した際帯刀していたこともあり、一般には男神と考えられている(『[[#八百万の神々|八百万の神々]]』104頁より)。</ref>。
ツクヨミは、[[月神一覧|月の神]]とされている<ref name="八百万の神々">『[[#八百万の神々|八百万の神々 - 日本の神霊たちのプロフィール]]』103、105頁。</ref>。しかしその神格については文献によって相違がある。[[古事記]]では伊邪那岐命が[[黄泉|黄泉国]]から逃げ帰って[[禊|禊ぎ]]をした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神([[三貴子|三柱の貴子]])を成す。一方、[[日本書紀]]ではイザナギと[[イザナミ|伊弉冉尊]](伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った[[銅鏡|白銅鏡]]から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。
この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは[[比較神話学]]の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている<ref>『[[#日本神話の起源|日本神話の起源]]』126-138頁。</ref>。
日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある<ref>『[[#中空構造日本の深層|中空構造日本の深層]]』35-37頁。</ref>。同様の構造は、[[タカミムスビ|高皇産霊尊]](高御産巣日神・たかみむすび)と[[カミムスビ|神皇産霊神]](神産巣日神・かみむすび)に対する[[天之御中主神]](あめのみなかぬし)、[[ホオリ|火折尊]](火遠理命(ほおり)・山幸彦)と[[ホデリ|火照命]](ほでり・海幸彦)に対する[[火須勢理命|火酢芹命]](火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが追加されたためではないかと考えられている<ref name="日本神話事典">『[[#日本神話事典|日本神話事典]]』211頁。</ref>。
ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる<ref>『[[#東洋神名事典|東洋神名事典]]』235頁。</ref>。
=== 『古事記』 ===
上巻では、月讀命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の[[満月]]を現すと考えられる。
=== 『日本書紀』 ===
==== 神代紀 ====
日本書紀・神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(月読命)を生んでいる。日と並ぶ月は日月分離前の[[朔|新月]]を現すと考えられる。
ツクヨミの支配領域については、天照大神と並んで天を治めるよう指示されたとする話が幾つかある。その一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もある<ref>『[[#日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ |日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ]]』44頁。</ref><ref name="八百万の神々" />。これは[[潮汐]]と月の関係を現すと考えられる。
書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から[[保食神]](うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話であり、月が[[朔|新月]]になるのは太陽との[[黄道座標|黄経]]差が0度、即ち見かけ上太陽と並んだ時であって、[[満月]]になるのは180度、即ち見かけ上太陽から最も離れた時であることを説明した神話と考えられる。
一方、古事記では似た展開で食物の神([[オオゲツヒメ|大気都比売神]]・おほげつひめ)が殺されるが、それをやるのは須佐之男命である([[日本神話における食物起源神話]]も参照)。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある<ref name="日本神話事典" />。
==== 顕宗紀 ====
ツクヨミは、神々にかわって人間の[[天皇]]が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)に再び現れる。『書紀』巻十五の[[顕宗天皇|顕宗]]紀には、任那へ派遣された阿閉臣事代に月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り[[山城国|山背国]]の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された[[壱岐島|壱岐]]には[[月讀神社 (壱岐市)|月詠神社]]が存在し、山背国の[[月読神社 (京都市)|月読神社]]の元宮と言われている。が、これは現在では[[橘三喜]]の誤りで、宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされる。今は遷座され箱崎八幡神社に鎮座している。<ref>『式内社調査報告』山口麻太郎</ref>
=== 『続日本紀』 ===
[[日本書紀]]に続く[[六国史]]の第二にあたる[[続日本紀]]には、[[光仁天皇]]の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜した([[占卜]])ところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、毎年九月に荒祭(あらまつり)神にならって馬を奉るようになったとある<ref>『古代日本の月信仰と再生思想』276頁。</ref>。
=== 『風土記』 ===
==== 山城国風土記 ====
逸文だが「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中つ国に下り、保食神のもとに至ったとき、湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。月と桂を結びつける伝承はインドから古代中国を経て日本に伝えられたと考えられており<ref>{{Cite book |和書 |author=村上健司編著|authorlink=村上健司 |title=日本妖怪大事典 |publisher=[[角川書店]] |series=Kwai books |date=2005-07 |page=95 |isbn=978-4-04-883926-6}}</ref>、万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。また、日本神話において桂と関わる神は複数おり、例えば古事記からは、天神から[[アメノワカヒコ|天若日子]]のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至った山幸彦が挙げられる。
==== 出雲国風土記 ====
: 千酌(ちくみ)の驛家(うまや)郡家(こおりのみやけ)の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命(いざなきのみこと)の御子、「都久豆美命(つくつみのみこと)」、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。
ただし、都久豆美命は渡津の守護の月神で、古くから千酌を守る土着神だったが、朝廷の支配が強まったため土地の人々が伊佐奈枳の子としたのであり、ツクヨミとは関係ないとする説がある<ref>{{Cite book |和書 |author=武光誠|authorlink=武光誠 |title=出雲王国の正体 - 日本最古の神政国家 |publisher=[[PHP研究所]] |date=2013-04 |isbn=978-4-569-81218-2 |pages=29,32 }}</ref>。
=== 『万葉集』 ===
[[万葉集]]の歌の中では、「ツキヨミ」或いは「ツキヨミオトコ(月読壮士)」という表現で現れてくる。これは単なる月の比喩(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格が読みとれる。また「ヲチミヅ([[変若水]])」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者として現れ、「月と不死」の信仰として[[沖縄県|沖縄]]における「スデミヅ」との類似性が[[ニコライ・ネフスキー|ネフスキー]]や[[折口信夫]]、[[石田英一郎]]によって指摘されている。
なお、万葉集の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現が見られる。
=== 『その他の文献』 ===
==== 皇太神宮儀式帳 ====
: 月讀命。御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ。
と記されており、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。
==== 花喜山城光寺縁起・慈住寺縁起 ====
天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読尊のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。
== ツクヨミの表記 ==
一般的にはツクヨミと言われるが、月読を祀る神社はツキヨミと表記している。
古事記では「月讀命」のみであるが、日本書紀・第五段の本文には、「月神【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】」と複数の表記がなされている。万葉集では、月を指して「月讀壮士(ツキヨミオトコ)」、「月人壮士(ツキヒトオトコ)」「月夜見」などとも詠まれている。逸文ではあるが山城国風土記には「月讀尊」とある。
なお、「ツクヨミ」の[[上代特殊仮名遣]]を表記ごとにまとめると、以下のようになっている。
; 『古事記』
* 月読 ヨ乙・ミ甲
; 『日本書紀』
* 月読 ヨ乙・ミ甲 .月弓 ユ―・ミ甲 .月夜見 ヨ甲・ミ甲
; 『万葉集』
* 月読 ヨ乙・ミ甲 .月夜見 ヨ甲・ミ甲 .月余美 ヨ乙・ミ甲
以上のように、『記紀万葉』においてツクヨミの「ミ」はいずれも[[か行#上代特殊仮名遣|甲類]]で一致しているが、ヨの甲乙は両方にまたがり、「ユ」の例すらある。
ヨ、ユ音に着目して表記例をまとめると、
* ヨ乙 月読、月余美 .ヨ甲 月夜見 .ユ 月弓
に分かれる。
== ツクヨミの名義 ==
ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。
まず、最も有力な説として、「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある<ref name="八百万の神々" />。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち「日数み(カヨミ)」である<ref>『[[#神道の本|神道の本 - 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界]]』53頁。</ref>のに対して、ツキヨミもまた月を読むことにつながる。
「読む」は、『万葉集』にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に[[太陰暦]]が[[太陽暦]]に先行して発生した。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深いつまり、ツクヨミは日月を数えることから、暦を司る神格であろうと解釈されている<ref name="八百万の神々" />。
その他にも、海神の[[ワタツミ]]、山神の[[オオヤマツミ]]と同じく、「ツクヨのミ」(「ツクヨ」が月で「ミ」は神霊の意)から「月の神」の意とする説がある<ref>『広辞苑』1779頁。</ref>。
このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして『記紀万葉』のみならず『延喜式』などやや後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」表記が並行して用いられている。
== 『万葉集』におけるツクヨミを詠んだ歌 ==
* 巻四・六七〇 月讀の 光に来ませ 足疾(あしひき)の 山寸(やまき)隔(へ)なりて 遠からなくに
* 巻四・六七一 月讀の光は清く 照らせれど 惑へるこころ 思ひあへなくに
* 巻六・九八五 天に座す 月讀壮士 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ
* 巻七・一〇七五 海原の 道遠みかも 月讀の 明(ひかり)少なき 夜は更けにつつ
* 巻七・一三七二 み空ゆく 月讀壮士 夕去らず 目には見れども 因るよしもなし
* 巻十三・三二四五 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て 公(きみ)に奉りて をち得てしかも
* 巻十五・三五九九 月余美の 光を清み 神嶋の 磯海の浦ゆ 船出すわれは
* 巻十五・三六二二 月余美の 光を清み 夕凪に 水手(かこ)の声呼び 浦海漕ぐかも
== ツクヨミを祭神とする神社 ==
[[ファイル:Tsukiyomi-no-miya(Naiku) 02.JPG|thumb|150px|内宮別宮 月讀宮]]
[[ファイル:Tsukuyomi shrine Kyoto.jpg|thumb|150px|松尾大社摂社 月読神社]]
[[皇大神宮]]の別宮・[[月讀宮]]や<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isejingu.or.jp/about/naiku/tsukiyomi.html|title=月読宮|publisher=神宮司庁|language=日本語 |accessdate=2017年6月25日}}</ref>、[[豊受大神宮]]の別宮・[[月夜見宮]]に祀られる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.isejingu.or.jp/about/geku/tsukiyomi.html|title=月夜見宮|publisher=神宮司庁|language=日本語 |accessdate=2017年6月25日}}</ref>。また、京都の[[月読神社 (京都市)|月読神社]]<ref group="注釈">[[松尾大社]]([[京都府]][[京都市]][[西京区]])摂社</ref>は[[壱岐市]]の月讀神社から勧請を受けたものである<ref>笠井倭人 「葛野坐月読神社」『式内社調査報告 第1巻』 式内社研究会編、皇學館大学出版部、1979年。</ref>。[[日本百名山]]や[[出羽三山]]で知られる[[月山]](ガッサン,1984m,山形県)の名称は、山頂に鎮座する神社([[月山神社]],旧社格:[[官幣大社]])の祭神である月読之命に因んだものとされる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。-->
* {{Cite book |和書 |others=[[大林太良]]、[[吉田敦彦]]監修 |editor=青木周平ほか|editor-link=青木周平 |title=日本神話事典 |publisher=[[大和書房]] |date=1997-06 |isbn=978-4-479-84043-5 |ref=日本神話事典 }}
* {{Cite book |和書 |author=大林太良 |title=日本神話の起源 |publisher= |date= |isbn= |ref=日本神話の起源 }}
** [[角川書店]]〈角川新書 151〉、1965年7月。{{全国書誌番号|61010386}}、{{NCID|BN03329074}}。
* {{Cite book |和書 |editor=学研編集部 |title=神道の本 - 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界 |series=NEW SIGHT MOOK ブックス・エソテリカ2 |publisher=[[学研ホールディングス|学研マーケティング]] |date=1992-02 |isbn=978-4-05-106024-4 |ref=神道の本 }}
* {{Cite book |和書 |author=桂令夫ほか|authorlink=桂令夫 |others=[[山北篤]]監修 |title=東洋神名事典 |publisher=[[新紀元社]] |series=[[Truth In Fantasy]]事典シリーズ 7 |date=2002-12 |isbn=978-4-7753-0123-4 |ref=東洋神名事典 }}
* {{Cite book |和書 |author=河合隼雄|authorlink=河合隼雄 |title=中空構造日本の深層 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |ref=中空構造日本の深層 }}
** 中央公論社〈中公叢書〉、1982年1月。ISBN 978-4-12-001090-3。
* {{Cite book |和書 |author=戸部民夫|authorlink=戸部民夫 |title=八百万の神々 - 日本の神霊たちのプロフィール |publisher=新紀元社 |series=Truth In Fantasy 31 |date=1997-12 |isbn=978-4-88317-299-3 |ref=八百万の神々 }}
* {{Cite book |和書 |author=戸部民夫 |title=日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ |publisher=新紀元社 |series=Truth In Fantasy 63 |date=2003-10 |isbn=978-4-7753-0203-3 |ref=日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ }}
* {{Cite book |和書 |author=新村出 |title=広辞苑 第五版|publisher=[[岩波書店]] |date=1998-11|isbn=4-00-080111-2 |ref= }}
* {{Cite book |和書 |author=三浦茂久 |title=古代日本の月信仰と再生思想 |publisher=[[作品社]] |date=2008-10 |isbn=978-4-86182-205-6 |ref= }}
== 関連項目 ==
* [[日本の神の一覧]]
* [[日本の神の家系図]]
* [[月読神社]]
== 外部リンク ==
* {{CRD|1000101877|月読命について知りたい。|近畿大学中央図書館}}
{{神道 横}}
{{日本神話}}
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[[Category:日本の神]]
[[Category:天津神]]
[[Category:月神]]
[[Category:夜の神]]
[[Category:文化英雄]]
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神通川
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神通川(じんずうがわ、じんづうがわ、じんつうがわ)は、岐阜県および富山県を流れる一級河川(1969年4月1日指定)で、神通川水系の本流。上流域は宮川(みやがわ)と呼ばれる。
富山県の七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川)の一つ。河口部は傾斜が緩やかなものの、上・中流部は日本でも屈指の急流となっている。
岐阜県高山市の川上岳付近を水源とし、「宮川」として高山盆地や古川盆地を抜けて川上川・大八賀川・小鳥川などと合流しながら北へと流れる。富山県に入ると細入地域南部の猪谷付近で高原川と合流して、名前を「神通川」へと変える。猪谷から下流は河岸段丘が形成されており、この付近に神一ダム・神二ダム・神三ダムが建設されている。
大沢野地域笹津付近からは常願寺川との複合扇状地を形成し、大沢野地域岩木付近からは富山平野を直線的に北へと流れる。井田川・熊野川・いたち川・松川などと合流して富山湾に注ぐ。河口周辺は富山県指定の「神通川河口鳥獣保護区」として鳥獣保護区に指定されている。
下流域の新婦大橋付近、神通川本流と西派川に挟まれた富山市八尾町中神通・西神通の地域では輪中が形成されている。
一級河川のみ、下流側から順に記載(出典:岐阜県)。
神通川下流に位置する富山市の年降水量は約2,200mmで、左岸に位置する同市八尾町では約2,500 mmである。いずれも夏季の気温が高く冬季の雨量が多い日本海側気候となっている。上流部は高い山々に囲まれた盆地地域で、夏季に雨が多く気温が比較的低い内陸性気候であり、上流部の高山観測所における年降水量は約1,700 mmである。
高原川沿いには神岡鉱山という大規模な亜鉛・鉛・銀鉱山が所在し、神岡町(現・飛騨市)の小盆地に大規模な鉱山町を形成していた。その採掘の歴史は奈良時代にまで遡るが、2001年(平成13年)6月に鉱石の採掘を中止した。
長棟川の長棟鉛山は1626年(寛永3年)に山師である大山佐平次が発見したもので、流域に鉱山町を形成したが、昭和10(1935)年には廃村となった。
また、庵谷峠(神一ダム付近)では銀山が所在した。
上流部の樹木としてはミズナラやブナ、クリなどが多く、その中にアカマツが混じる。植物では、絶滅危惧I類のシャジクモや準絶滅危惧種であるミクリ、岐阜県の準絶滅危惧であるヒメザゼンソウ、チョウジギクなどが確認されている。
下流では、砂礫州にツルヨシが多く、カワラハハコの群落やアキグミ群落、ネコヤナギ群落などが見られる。高水敷は撹乱が少なく安定し、ススキが多く、落葉広葉樹林であるエノキやヌルデ、アカメガシワ、常緑針葉樹林のアカマツの群落が多い。
最下流にはカワラヨモギやカワラハハコの群落があり、高水敷にはオギやカナムグラ、ヨモギ、クズ、アズマハネザサの群落がある。この辺りではススキより帰化植物のセイタカアワダチソウが優勢となる。
上流部(小鳥川合流より上流)では、鳥類では、サギ類、カモ類、チドリ類、カワガラス、カワセミ、ヤマセミのほかに絶滅危惧II類であるオオタカやサンショウクイ、環境省指定の準絶滅危惧のチュウサギ、ハチクマ、ハイタカが確認されている。哺乳類では、ニホンザル、ツキノワグマ、タヌキ、アナグマのほかに国指定特別天然記念物のニホンカモシカが確認されている。
上流部の魚類では、アユ、ウグイ、オイカワ、カワムツ、アブラハヤ、イワナ、ニジマス、カワヨシノボリに、絶滅危惧II類に指定されるアカザやスナヤツメが生息する。
下流部には瀬と淵が形成され、アユ、サクラマス、アカザ、スナヤツメなどの希少な魚類が生息する。ワンドにはフナやコイが生息するが、外来生物のブルーギルも繁殖を続けている。
神通川流域は、富山、岐阜両県にまたがり、富山市、南砺市、岐阜県の高山市、飛騨市の4市からなる。流域の土地利用は、山地が約87%、水田・畑地が約9%、宅地等が約4%となっている。
流域人口は37万7000人で、支川数は105であった。
下流の富山平野区間では排水河川の役割もしており、右岸には常願寺川扇状地に押し出されるように神通川に合流した小河川が複数ある。
また、第一支流の井田川とその第二支流の久婦須川は両県に跨る大河川である。
神通川という名前の由来については大まかに2つの説がある。
一方、岐阜県内の「宮川」という名前はこの川の源流付近に飛騨国の一宮である水無神社があることに由来する。
『万葉集』に「売比川(婦負川)」「鵜坂川」の名があり、神通川の古名と見られている(鵜坂川は井田川のこととする説もある)。
サケやマス(サクラマス)が遡上する川としても知られていた。平安時代の延喜式には、都への献上品として神通川のサケのなれ寿司が登場する。後に、神通川から取れるサクラマスを使った鱒寿司は富山の名物となった。サクラマスの漁獲量は激減したが、神通川に近い市街地には鱒寿司を製造する店が多く存在する。
かつての神通川は、富山の街の中を東に大きく蛇行し、河口が現在より西側に位置していた。戦国時代には神通川のすぐ脇に富山城が築城され天然の堀として利用された。この際、佐々成政によって洪水による流路変更を利用して富山城の北側に流れるよう流路を付け替えている。
しかし蛇行部分でたびたび水害が発生していたため、明治時代の1901年1月から1903年5月21日にかけて、蛇行部分を短絡する分流路(馳越線)を作り(工事完成は同年5月31日)、一定量を超える洪水は、新たに造った馳越線に流れるようにした。しかし、洪水の度に、馳越線の方が本流のようになり、本来の本流には水が流れないようになってきたため、馳越線の方を本流とした。馳越線工事後の旧川については、水の流れを締切り、水が流れなくなった部分には1930年から建設が始まった富岩運河から出た大量の土砂で埋立て川幅を狭め、旧来の本流は松川と名を改めた。埋立地となった廃川敷には1936年には町名が設定がなされ、日満産業大博覧会の会場となるなど区画整理と土地利用が徐々に進み、富山県庁舎、富山市役所などの施設が建設されていった。
1918年、大沢野村から河口までの約20kmの川幅を広げ、両岸の護岸を統一的に見直す改修事業が開始され、予算や工期を見直す等して、1938年3月に完了した。。
河口部分については、1928年3月に東岩瀬港(現・富山港)と分離され、現在の流路が確定した。また、八尾町の中神通と西神通の輪中堤も整備された。
1968年(昭和43年)9月4日、一級河川の指定を受けた。
2019年(令和元年)10月5日、北陸新幹線神通川橋梁上流から熊野川合流部までの約3.7kmの区間の右岸堤防の整備を行う富山市街地重点防御築堤事業が着工した。同事業により堤防が平均80cmの嵩上げおよび平均3.3mの拡幅が行われ、2023年(令和5年)9月30日に竣工式が挙行された。
高度成長期、主に大正時代から昭和40年代にかけて神通川流域でイタイイタイ病が問題化した。これは、岐阜県の神岡鉱山(三井金属鉱業株式会社管理)から出された廃液中のカドミウムを原因とする公害病であった。
「ビタミンD不足説」と「カドミウム原因説」に意見が分かれたが、婦負郡婦中町(現在の富山市婦中町)にある萩野病院(当時)の院長である萩野昇が神通川流域のカドミウムが原因であると突き止めた。
新田次郎にイタイイタイ病を扱った『神通川』という小説がある。常願寺川と神通川をつなぐいたち川は富山に住んでいたことがある作家宮本輝の小説『螢川』の舞台となっている(1987年に映画化)。
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神通川(じんずうがわ、じんづうがわ、じんつうがわ)は、岐阜県および富山県を流れる一級河川(1969年4月1日指定)で、神通川水系の本流。上流域は宮川(みやがわ)と呼ばれる。
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{{Infobox 河川
|名称=神通川
|画像=[[画像:Jinzu River.jpg|300px|神通川 2006年7月4日撮影]]<br/>[[画像:View of Miya-gawa River from the Top of Furukawa-ohashi Bridge, Furukawa-cho Hida 2015.jpg|300px|宮川 2015年2月2日撮影]]
|画像説明=(上段)夏の神通川<br/>(大沢野大橋(富山市)からの眺め)<br/>(下段)冬の宮川<br/>(古川大橋(飛騨市)からの眺め)
|水系等級=[[一級水系]]
|水系=神通川
|種別=[[一級河川]]
|延長=120
|標高=1,626
|流量=163.6
|観測所=神通大橋観測所 2002年
|流域面積=2,720
|水源=[[川上岳]]
|河口=[[富山湾]](富山県富山市)
|流域={{JPN}}<br />[[岐阜県]]、[[富山県]]
|地図={{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=500|frame-lat=36.45|frame-long=137.20
|type=shape|stroke-color=#0000cc|stroke-width=1|id=Q1156518|title=神通川
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}}
|脚注=
|出典=
}}
'''神通川'''(じんずうがわ<ref>[[建設省]][[国土地理院]]地図管理部『標準地名集(自然地名)増補改定版』(1981年3月)<!-- 「増補改定版」は http://www.gsi.go.jp/REPORT/TECHNICAL/gsiryo5.htm に拠る - [[ノート:神通川#「神通川」の読み]]を参照 --></ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/114696/m0u/ |title=じんずうがわ【神通川】 |accessdate=2014-06-04 |author=[[小学館]] |work=デジタル[[大辞泉]] |publisher=[[NTTレゾナント]]}}</ref>、じんづうがわ、じんつうがわ<ref>[[国立天文台]]編『[[理科年表]] 平成24年』602頁「日本のおもな河川」(国土交通省[[水管理・国土保全局]]資料による)</ref>{{Refnest|group=注|「神通川」の3[[モーラ|拍]]目を[[濁音]]とする場合と[[清音]]とする場合があり、濁音とする場合の仮名表記に「じんずうがわ」と「じんづうがわ」が見られる。「神通川」の語源には諸説があり<ref>{{Cite journal |和書 |date=2013-03-15 |title=お気軽に おたずねください レファレンス事例集 Q 神通川の名前の由来が知りたい? |journal=ライブラリィとやま |issue=72 |page=3 |publisher=富山県立図書館 |url=http://www.lib.pref.toyama.jp/library/img/libr72/lib.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-10}}</ref>、語源からは仮名表記を定めがたい。名詞「[[wikt:神通|神通]]」の仮名表記によることとすれば、[[現代仮名遣い]]では「じんずう」が本則、「じんづう」が許容である。ただし、現代仮名遣いは固有名詞をかならずしも対象としておらず、実際には「じんずうがわ」・「じんづうがわ」のどちらの表記も広く通用している。}})は、[[岐阜県]]および[[富山県]]を流れる[[一級河川]]([[1969年]][[4月1日]]指定<ref>『富山工事事務所六十年史』(1996年2月、建設省北陸地方建設局富山工事事務所編集・発行)877頁</ref>)で、神通川[[水系]]の本流。上流域は'''宮川'''(みやがわ)と呼ばれる<ref name="gifu20220522">{{Cite news|url = https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/79490|title = 放流用の琵琶湖産の稚鮎が不漁 飛騨の高原川や宮川、漁協やきもき|newspaper = 岐阜新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20220522140213/https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/79490|date = 2022-05-22|archivedate = 2022-05-22|accessdate = 2022-07-24}}</ref>。
== 地理 ==
{|{{Railway line header}}
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[[ファイル:宮川 中橋 Tx-re.jpg|thumb|260px|筏橋からみた宮川(神通川)と中橋]]
[[ファイル:Toyama airport as seen from air 20080916.jpg|thumb|260px|神通川の河川敷に建設された富山空港]]
富山県の七大河川([[黒部川]]、[[片貝川]]、[[早月川]]、[[常願寺川]]、神通川、[[庄川]]、[[小矢部川]])の一つ。河口部は傾斜が緩やかなものの、上・中流部は日本でも屈指の急流となっている<ref name=国土交通省>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/080318/pdf/ref1-1.pdf |title=神通川水系の流域及び河川の概要(案) |website=[[国土交通省]] |accessdate=2022-08-19}}</ref>。
岐阜県高山市の[[川上岳]]付近を水源とし、「宮川」として[[高山盆地]]や[[古川盆地]]を抜けて[[川上川 (高山市)|川上川]]・[[大八賀川]]・[[小鳥川]]などと合流しながら北へと流れる<ref name=国土交通省 /><ref name=角川日本地名大辞典>{{Cite web|和書|url=http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7082068 |title=神通川【じんづうがわ】 |website=[[角川日本地名大辞典]] オンライン版 |accessdate=2022-08-19}}</ref>。富山県に入ると細入地域南部の猪谷付近で[[高原川]]と合流して、名前を「神通川」へと変える<ref name=角川日本地名大辞典 />。猪谷から下流は[[河岸段丘]]が形成されており、この付近に[[神一ダム]]・[[神二ダム]]・[[神三ダム]]が建設されている<ref name=角川日本地名大辞典 />。
大沢野地域笹津付近からは[[常願寺川]]との複合[[扇状地]]を形成し、大沢野地域岩木付近からは[[富山平野]]を直線的に北へと流れる<ref name=国土交通省 /><ref name=角川日本地名大辞典 />。[[井田川]]・[[熊野川 (富山県)|熊野川]]・[[いたち川 (富山市)|いたち川]]・[[松川 (富山市)|松川]]などと合流して[[富山湾]]に注ぐ<ref name=角川日本地名大辞典 />。河口周辺は富山県指定の「神通川河口鳥獣保護区」として[[鳥獣保護区]]に指定されている。
下流域の[[新婦大橋]]付近、神通川本流と西派川に挟まれた富山市[[八尾町中神通]]・[[八尾町西神通|西神通]]の地域では[[輪中]]が形成されている<ref name=国土交通省 />。
=== 流域の自治体 ===
* 岐阜県: [[高山市]]、[[飛騨市]]<ref name="gifu20220522"/>
* 富山県: [[富山市]]、[[南砺市]]
=== 主な支流 ===
一級河川のみ、下流側から順に記載(出典:岐阜県<ref name=岐阜県河川調書>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/248397.pdf |format=PDF |title=河川調書 |author=[[岐阜県]] |date=2021-04-01 |accessdate=2022-10-24}}</ref>)。
* [[いたち川 (富山市)|いたち川]]
** [[赤江川]]
** [[松川 (富山市)|松川]]<ref name="chu20220116">{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/401069|title = 「桜橋」(1935年〜) 命名由来は前田の殿|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20220116093258/https://www.chunichi.co.jp/article/401069|date = 2022-01-16|archivedate = 2022-01-16|accessdate = 2022-07-24}}</ref>
* [[井田川]]
** [[久婦須川]]
** [[山田川 (神通川水系)|山田川]]
* [[土川 (富山県)|土川]]
* [[熊野川 (富山県)|熊野川]]
* [[長棟川]]
* [[高原川]]
** [[ソンボ谷川]]
** [[跡津川]]
** [[山田川 (飛騨市)|山田川]]
** [[吉田川 (飛騨市)|吉田川]]
** [[蔵柱川]]
** [[双六川]]
*** [[中ノ俣川]]
**** [[北ノ俣川]]
** [[蒲田川]]
* [[鳥川]]
** [[稲越川]]
** [[金山谷川]]
** [[片野川 (岐阜県)|片野川]]
* [[戸市川]]
* [[殿川]]
** [[黒内川]]
** [[畦畑川]]
* [[太江川]]
* [[荒城川]]
** [[桐谷川]]
** [[十三墓岐川]]
** [[宮谷川]]
** [[漆谷川]]
* [[宇津江川]]
* [[瓜巣川]]
** [[脇谷川]]
* [[糠塚川 (岐阜県)|糠塚川]]
* [[小八賀川]]
** [[大萱谷川]]
** [[山口谷川]]
** [[小木曽谷川]]
** [[池ノ俣川]]
* [[川上川 (高山市)|川上川]]
** [[高曽洞川]]
** [[京塚谷川]]
** [[牧谷川]]
** [[今谷川]]
** [[大楢谷川]]
* [[苔川]]
* [[大八賀川]]
** [[山口川 (高山市)|山口川]]
** [[生井川]]
*** [[滝川 (岐阜県) |滝川]]
* [[江名子川]]
* [[常泉寺川]]
== 自然 ==
=== 気候 ===
神通川下流に位置する富山市の年降水量は約2,200mmで、左岸に位置する同市八尾町では約2,500 mmである。いずれも夏季の気温が高く冬季の雨量が多い[[日本海側気候]]となっている。上流部は高い山々に囲まれた盆地地域で、夏季に雨が多く気温が比較的低い内陸性気候であり、上流部の高山観測所における年降水量は約1,700 mmである<ref name="aaaa">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/080221/pdf/ref1-1.pdf|title=神通川水系の流域及び河川の概要(案)|format=PDF |publisher=国土交通省[[河川局]] |date=2008-02-21 |accessdate=2019-08-16}}</ref>。
=== 地下資源 ===
高原川沿いには[[神岡鉱山]]という大規模な亜鉛・鉛・銀鉱山が所在し、[[神岡町 (岐阜県)|神岡町]](現・[[飛騨市]])の小盆地に大規模な鉱山町を形成していた。その採掘の歴史は奈良時代にまで遡るが、[[2001年]]([[平成]]13年)6月に鉱石の採掘を中止した。
長棟川の長棟鉛山は[[1626年]]([[寛永]]3年)に山師である大山佐平次が発見したもので、流域に鉱山町を形成したが、昭和10(1935)年には廃村となった。
また、庵谷峠(神一ダム付近)では銀山が所在した。
=== 植生 ===
上流部の樹木としては[[ミズナラ]]や[[ブナ]]、[[クリ]]などが多く、その中に[[アカマツ]]が混じる。植物では、絶滅危惧I類の[[シャジクモ]]や準絶滅危惧種である[[ミクリ]]、岐阜県の準絶滅危惧であるヒメザゼンソウ、[[チョウジギク]]などが確認されている。
下流では、砂礫州に[[ツルヨシ]]が多く、[[カワラハハコ]]の群落や[[アキグミ]]群落、[[ネコヤナギ]]群落などが見られる。高水敷は撹乱が少なく安定し、[[ススキ]]が多く、落葉広葉樹林である[[エノキ]]や[[ヌルデ]]、[[アカメガシワ]]、常緑針葉樹林のアカマツの群落が多い。
最下流には[[カワラヨモギ]]やカワラハハコの群落があり、高水敷には[[オギ]]や[[カナムグラ]]、[[ヨモギ]]、[[クズ]]、アズマハネザサの群落がある。この辺りではススキより帰化植物の[[セイタカアワダチソウ]]が優勢となる。
=== 動物 ===
上流部(小鳥川合流より上流)では、鳥類では、[[サギ]]類、[[カモ]]類、[[チドリ]]類、[[カワガラス]]、[[カワセミ]]、[[ヤマセミ]]のほかに絶滅危惧II類である[[オオタカ]]や[[サンショウクイ]]、{{要出典範囲|環境省指定の準絶滅危惧の[[チュウサギ]]、[[ハチクマ]]、[[ハイタカ]]が確認されている|date=2022年7月}}。哺乳類では、[[ニホンザル]]、[[ツキノワグマ]]、[[タヌキ]]、[[アナグマ]]のほかに{{要出典範囲|国指定特別天然記念物の[[ニホンカモシカ]]が確認されている|date=2022年7月}}。
=== 魚類・水生生物 ===
上流部の魚類では、[[アユ]]<ref name="gifu20220522"/>、[[ウグイ]]、[[オイカワ]]、[[カワムツ]]、[[アブラハヤ]]、[[イワナ]]、[[ニジマス]]、カワヨシノボリに、絶滅危惧II類に指定される[[アカザ (魚)|アカザ]]や[[スナヤツメ]]が生息する。
下流部には瀬と淵が形成され、アユ、[[サクラマス]]、アカザ、スナヤツメなどの希少な魚類が生息する。[[ワンド (地形)|ワンド]]には[[フナ]]や[[コイ]]が生息するが、外来生物の[[ブルーギル]]も繁殖を続けている<ref> [https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/080318/pdf/ref4-1.pdf 神通川計画] 富山県</ref>。
== 神通川水系 ==
神通川流域は、富山、岐阜両県にまたがり、富山市、南砺市、岐阜県の高山市、飛騨市の4市からなる。{{要出典範囲|流域の土地利用は、山地が約87%、水田・畑地が約9%、宅地等が約4%となっている|date=2022年7月}}。
流域人口は37万7000人で、支川数は105であった。
=== 支流と流域自治体 ===
下流の富山平野区間では排水河川の役割もしており、右岸には[[常願寺川]]扇状地に押し出されるように神通川に合流した小河川が複数ある。
また、第一支流の井田川とその第二支流の久婦須川は両県に跨る大河川である。
== 名前の由来 ==
神通川という名前の由来については大まかに2つの説がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.toyama.jp/branches/1291/news/cyuugakusei.hukudokuhonn.pdf|title=甦った豊かな水と大地 イタイイタイ病に学ぶ|accessdate=2019/09/06|publisher=富山県|page=4}}</ref>。
* 川を挟んで[[鵜坂神社]]の[[神]]と[[多久比禮志神社]](塩宮)の神が交遊されていたので、「神が通られた川」という意味から神通川と呼ばれた。
* 太古の昔、神々が[[飛騨国|飛騨]]の[[船津町 (岐阜県)|船津]]から乗船し、[[越中国|越中]]の笹津に着船されたことから神通川と呼ばれた。
* [[神通力]]に由来するという説があるが、確実なものではない。
一方、岐阜県内の「宮川」という名前はこの川の源流付近に[[飛騨国]]の[[一宮]]である[[飛騨一宮水無神社|水無神社]]があることに由来する<ref>{{Cite web|和書|title=市町村・地名の由来【飛騨エリア】 - 岐阜県雑学|url=http://gifu-omiyage.sakura.ne.jp/zatsugaku/chimei-yurai05.html|website=gifu-omiyage.sakura.ne.jp|accessdate=2019-09-06}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 先史 ===
『[[万葉集]]』に「売比川(婦負川)」「鵜坂川」の名があり、神通川の古名と見られている(鵜坂川は[[井田川]]のこととする説もある)。
[[サケ]]やマス([[サクラマス]])が遡上する川としても知られていた。[[平安時代]]の[[延喜式]]には、都への献上品として神通川のサケの[[なれ寿司]]が登場する<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/111 神通川が生んだ名物 富山、ますのすし-森枝卓士]WEDGE(2017年1月3日閲覧)</ref>。後に、神通川から取れるサクラマスを使った鱒寿司は富山の名物となった。サクラマスの漁獲量は激減したが、神通川に近い市街地には[[鱒寿司]]を製造する店が多く存在する<ref>[http://www.toyama-masuzushi.or.jp/information.html/ 鱒寿司食べ歩きマップ]富山ます寿し協同組合ホームページ</ref>。
=== 河川改修事業 ===
かつての神通川は、富山の街の中を東に大きく蛇行し、河口が現在より西側に位置していた。戦国時代には神通川のすぐ脇に[[富山城]]が築城され天然の堀として利用された。この際、[[佐々成政]]によって洪水による流路変更を利用して富山城の北側に流れるよう流路を付け替えている<ref>『河川の歴史読本 神通川』(2001年3月、国土交通省北陸地方整備局 富山工事事務所企画・制作)18ページ。</ref>。
しかし蛇行部分でたびたび水害が発生していたため、[[明治時代]]の[[1901年]]1月から[[1903年]][[5月21日]]にかけて、蛇行部分を短絡する分流路(馳越線)を作り<ref>『富山県の歴史』(1997年8月25日初版発行、山川出版社)年表23頁。</ref>(工事完成は同年[[5月31日]]<ref>『富山市史 第二巻』(1960年4月15日、富山市役所発行)125頁。</ref>)、一定量を超える洪水は、新たに造った馳越線に流れるようにした。しかし、洪水の度に、馳越線の方が本流のようになり、本来の本流には水が流れないようになってきたため、馳越線の方を本流とした。馳越線工事後の旧川については、水の流れを締切り<ref name="kasen" />、水が流れなくなった部分には[[1930年]]から建設が始まった[[富岩運河]]から出た大量の土砂で埋立て川幅を狭め、旧来の本流は[[松川 (富山市)|松川]]と名を改めた<ref name="chu20220116"/>。埋立地となった廃川敷には1936年には町名が設定がなされ<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p639)1960年4月 富山市史編纂委員会</ref>、[[日満産業大博覧会]]の会場となるなど区画整理と土地利用が徐々に進み、[[富山県庁舎]]、[[富山市役所]]などの施設が建設されていった。
[[1918年]]、[[大沢野町|大沢野村]]から河口までの約20kmの川幅を広げ、両岸の護岸を統一的に見直す改修事業が開始され、予算や工期を見直す等して、[[1938年]]3月に完了した。<ref name="kasen">『河川の歴史読本 神通川』(2001年3月、国土交通省北陸地方整備局富山工事事務所企画・制作)34ページ。</ref>。
河口部分については、[[1928年]]3月に東岩瀬港(現・[[伏木富山港|富山港]])と分離され、現在の流路が確定した<ref>[[角川日本地名大辞典]] 16 富山県(昭和54年10月8日、[[角川書店]]発行)586ページ</ref>。また、八尾町の中神通と西神通の[[輪中]]堤も整備された<ref name="kasen" />。
=== 災害・事故 ===
* [[1914年]]<ref name="chu20220116"/>(大正2年)[[8月13日]] - 大水害。死者54人、行方不明60人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』303頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1948年]](昭和23年)[[7月25日]] - 集中豪雨による増水のため富山市内の堤防左岸が決壊、浸水家屋800戸以上。また、神通大橋の中央部が流失した<ref>「北陸三県に豪雨禍」『朝日新聞』昭和23年7月26日.2面</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)[[10月7日]] - 成子橋下流の[[渡し船]]が転覆。4人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=131|isbn=9784816922749}}</ref>。
=== 一級河川指定以降 ===
[[1968年]](昭和43年)[[9月4日]]、一級河川の指定を受けた<ref>『富山市史 第五巻』(1980年3月10日、富山市役所発行)36ページ。</ref>。
[[2019年]]([[令和]]元年)[[10月5日]]、[[北陸新幹線]]神通川橋梁上流から[[熊野川 (富山県)|熊野川]]合流部までの約3.7kmの区間の右岸堤防の整備を行う富山市街地重点防御築堤事業が着工した<ref>[https://www.hrr.mlit.go.jp/press/2019/10/191001toyama.pdf 富山の中枢を洪水から守る 神通川の堤防を高く、強く 富山市街地重点防御築堤事業 起工式を開催します。](国土交通省北陸地方整備局、2019年10月1日、2023年10月1日閲覧)</ref>。同事業により堤防が平均80cmの嵩上げおよび平均3.3mの拡幅が行われ、[[2023年]](令和5年)[[9月30日]]に竣工式が挙行された<ref>『北日本新聞』2023年10月1日付『神通川右岸 堤防かさ上げ完成 富山市街の洪水対策強化』より。</ref>。
== 公害 ==
{{Main|イタイイタイ病}}
[[高度成長期]]、主に大正時代から昭和40年代にかけて神通川流域で[[イタイイタイ病]]が問題化した。これは、[[岐阜県]]の[[神岡鉱山]]([[三井金属鉱業]]株式会社管理)から出された廃液中の[[カドミウム]]を原因とする公害病であった。
「ビタミンD不足説」と「カドミウム原因説」に意見が分かれたが、[[婦負郡]][[婦中町]](現在の富山市婦中町)にある萩野病院(当時)の院長である[[萩野昇]]が神通川流域のカドミウムが原因であると突き止めた<ref>{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/285606|title = 萩野病院(富山市)院長 青島恵子さん(71) 公害病の悲劇 次世代へ|newspaper = 中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20211102141556/https://www.chunichi.co.jp/article/285606|date = 2021-07-06|archivedate = 2021-11-02|accessdate = 2022-07-24}}</ref>。
== 文化作品 ==
[[新田次郎]]にイタイイタイ病を扱った『神通川』という小説がある。常願寺川と神通川をつなぐ[[いたち川 (富山市)|いたち川]]は富山に住んでいたことがある作家[[宮本輝]]の小説『[[螢川]]』の舞台となっている(1987年に映画化)<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.pref.toyama.jp/documents/11882/214-s6111.pdf|title = 県広報とやま 昭和61年11月号|publisher = 富山県企画県民部広報課|date = 1986-11|accessdate = 2022-07-24|format = PDF|page = 1}}</ref>。
== 河川施設 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-
!一次<br />支川名<br />(本川)<!--https://www.pref.toyama.jp/documents/11882/214-s6111.pdf-->
!二次<br />支川名
!三次<br />支川名
!ダム名
!堤高<br />(m)
!総貯水<br />容量<br />(千[[立方メートル|m<sup>3</sup>]])
!型式
!事業者
!備考
|-
|宮川
|-
|-
|宮川防災ダム
|29.0
| align=right|1,628
|[[アースダム|アース]]
|[[岐阜県]]
|
|-
|宮川
|-
|-
|角川ダム
|21.5
| align=right|879
|[[重力式コンクリートダム|重力]]
|[[関西電力]]
|
|-
|宮川
|-
|-
|坂上ダム
|23.5
| align=right|1,839
|重力
|関西電力
|
|-
|宮川
|-
|-
|打保ダム
|25.5
| align=right|4,524
|重力
|関西電力
|
|-
|神通川
|-
|-
|[[神一ダム]]
|45.0
| align=right|5,742
|重力
|[[北陸電力]]
|
|-
|神通川
|-
|-
|[[神二ダム]]
|40.0
| align=right|8,663
|重力
|北陸電力
|
|-
|神通川
|-
|-
|[[神三ダム]]
|15.5
| align=right|1,455
|重力
|北陸電力
|
|- style="background-color:yellow;"
|大八賀川
|-
|-
|大島ダム
|53.1
| align=right|4,720
|重力
|岐阜県
|建設中
|-
|小八賀川
|-
|-
|深谷ダム
|27.3
| align=right|300
|[[ロックフィルダム|ロックフィル]]
|岐阜県
|
|-
|荒城川
|-
|-
|[[丹生川ダム]]
|69.5
| align=right|6,200
|重力
|岐阜県
|
|-
|小鳥川
|-
|-
|[[下小鳥ダム]]
|119.0
| align=right|123,037
|ロックフィル
|関西電力
|
|-
|高原川
|-
|-
|[[浅井田ダム]]
|21.1
| align=right|340
|重力
|北陸電力
|
|-
|高原川
|-
|-
|[[新猪谷ダム]]
|56.0
| align=right|1,608
|重力
|北陸電力
|
|-
|高原川
|双六川
|-
|双六ダム
|19.0
| align=right|-
|重力
|富山共同自家発電
|
|-
|高原川
|山田川
|-
|山田防災ダム
|32.3
| align=right|1,246
|アース
|岐阜県
|
|-
|熊野川
|-
|-
|[[熊野川ダム]]
|89.0
| align=right|9,100
|重力
|[[日本海発電]]
|
|-
|井田川
|-
|-
|猿越ダム
|29.6
| align=right|-
|重力
|[[富山県企業局]]
|
|-
|井田川
|-
|-
|中山ダム
|24.0
| align=right|111
|重力
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|-
|-
|室牧ダム
|80.5
| align=right|17,000
|[[アーチ式コンクリートダム|アーチ]]
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|-
|-
|八尾ダム
|21.0
| align=right|300
|重力
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|大足谷川
|-
|仁歩水槽ダム
|19.9
| align=right|111
|重力
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|野積川
|-
|原山ダム
|18.5
| align=right|35
|アース
|-
|
|-
|井田川
|久婦須川
|-
|久婦須第二ダム
|18.6
| align=right|132
|重力
|北陸電力
|
|-
|井田川
|久婦須川
|-
|[[久婦須川ダム]]
|95.0
| align=right|10,000
|重力
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|山田川
|-
|菅沼ダム
|22.0
| align=right|524
|重力
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|山田川
|-
|[[若土ダム]]
|26.0
| align=right|242
|アーチ
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|山田川
|湯谷川
|湯谷川ダム
|63.7
| align=right|1,636
|ロックフィル
|富山県企業局
|
|-
|井田川
|山田川
|辺呂川
|藤ヶ池
|18.2
| align=right|615
|アース
|富山県企業局
|
|}
== 並行する交通 ==
=== 鉄道 ===
* [[富山地方鉄道]] [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海) [[高山本線]]
* [[あいの風とやま鉄道]] [[あいの風とやま鉄道線]]
=== 道路 ===
* [[国道41号]] - 高山市・宮峠 - 富山市市街地。ただし、飛騨市内で宮川は大きく西に蛇行するのに対し、国道41号は[[数河高原#数河峠|数河峠]]を越え高原川に沿うルートを通ってショートカットする。
* [[国道360号]]・[[国道471号]]([[国道472号]]) - 国道41号がショートカットする区間で宮川に並行する。
== 主な橋梁 ==
[[File:高山本線の車窓より神通川を臨む.jpg|thumb|260px|[[笹津橋]](手前)と[[新笹津橋]](奥) ]]
[[File:Arisawa Bashi @Toyama 02.jpg|thumb|260px|[[有沢橋]]]]
[[File:Toyama-oohashi.jpg|thumb|260px|[[富山大橋]]]]
[[File:Jinzū-Ōhashi.jpg|thumb|260px|神通大橋]]
* 山王橋
* 昭和橋
* 和合橋
* 枡形橋
* [[中橋 (宮川)|中橋]]
* 筏橋 - [[岐阜県道462号岩井高山停車場線]]
* 柳橋
* 鍛治橋 - [[国道158号]]
* 弥生橋
* 宮前橋
* 連合橋
* 万人橋 - [[岐阜県道458号町方高山線]]
* 松本橋 - [[岐阜県道460号石浦陣屋下切線]]
* 宮川大橋 - [[国道41号]]
* 八千代橋
* 天神橋
* 金桶橋 - 国道41号
* 新広瀬橋 - [[岐阜県道482号新田飛騨国府停車場線]]
* 四十八滝橋 - [[岐阜県道479号古川宇津江四十八滝国府線]]
* 新蛤橋 - 国道41号
* 宮城橋 - [[岐阜県道480号飛騨古川停車場線]]
* 新鮎ノ瀬橋 - 国道41号
* 鷹狩橋 - [[岐阜県道75号神岡河合線]]
* ヤソゼ橋 - [[国道360号]]
* 蛇渕橋 - 国道360号
* 大瀬橋 - 国道360号
* 成手橋 - 国道360号
* 平成橋 - 国道360号
* 新旭橋 - 国道360号
* 鮎飛橋 - 国道360号
* [[新国境橋 (国道41号)|新国境橋]] - 国道41号
* [[神峡橋]]
* 吉野橋
* 寺津橋
* [[庵谷町長大橋]] - 国道41号([[富山高山連絡道路]])
* [[布尻楡原大橋]] - 国道41号(富山高山連絡道路)
* [[観光橋 (富山市)|観光橋]] - 富山市市道楡原布尻線
* [[新笹津橋]] - 国道41号
* [[笹津橋]] - 自転車歩行者道・元 国道41号([[登録有形文化財]])
* [[大沢野大橋]] - [[富山県道341号八尾大沢野線]]
* 新婦大橋
* [[成子大橋]] - [[富山県道35号立山山田線]]
* [[新保大橋]]
* 神通川橋 - [[北陸自動車道]]
* [[婦中大橋]] - [[国道359号]]
* [[有沢橋]] - [[富山県道62号富山小杉線]]
* [[富山大橋]] - [[富山県道44号富山高岡線]]
* [[神通大橋]] - 富山市市道五艘大泉線
* 神通川橋梁 - [[北陸新幹線]]
* 神通川橋梁 - [[高山本線]]
* 新神通川橋梁 - [[あいの風とやま鉄道線]]
* [[富山北大橋]] - [[富山県道208号小竹諏訪川原線]]
* [[中島大橋 (富山県)|中島大橋]] - [[国道8号]]
* [[萩浦橋]] - [[国道415号]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[富岩運河]]
* [[松川 (富山市)|松川]] - 元の神通川本流。
* [[富山空港]] - 滑走路などが神通川右岸の河川敷に位置する。
* [[神通 (軽巡洋艦)]] -[[川内型軽巡洋艦]]の2番艦。艦名が本河川に由来する、[[大日本帝国海軍]]の[[軽巡洋艦]]。艦名の読みは「じんつう」。
* [[じんつう (護衛艦)]] - [[あぶくま型護衛艦]]の2番艦。軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]の艦名を襲名した[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。
* [[イタイイタイ病]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Jinzu River}}
* [https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0411_jintsu/0411_jintsu_00.html 神通川] - 国土交通省水管理・国土保全局
* [https://www.hrr.mlit.go.jp/toyama/ 国土交通省北陸地方整備局富山河川国道事務所]
* [http://www.pref.gifu.lg.jp/shakai-kiban/kasen/kasen/11652/seibi-keikaku.data/miyahonbun.pdf 岐阜県県土整備部河川課 神通川水系宮川圏域河川整備計画]
* [http://www.tomigyo.com/ 富山漁業協同組合(神通川での釣りに関するホームページ)]
{{一級水系}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんすうかわ}}
[[Category:富山県の河川]]
[[Category:岐阜県の河川]]
[[Category:神通川水系|*]]
|
2003-09-17T12:35:11Z
|
2023-12-07T21:15:32Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%80%9A%E5%B7%9D
|
17,184 |
密度
|
密度(みつど)は、一般には、対象とする何かの混み合いの程度を示す語である。ただし、科学において、単に密度といえば、単位体積あたりの質量(質量の空間微分)を指すことが多い。
広義には、ある量(物理量など)が、空間(3次元)あるいは面上(2次元)・線上(1次元)に分布していたとして、これらの空間・面・線の微小部分上に存在する当該量と、それぞれ対応する体積・面積・長さに対する比のことを言う(それぞれ、体積密度・面密度・線密度と呼ぶ)。微小部分は通常、単位体・単位面積・単位長さ当たりに相当する場合が多い。勿論、4次元以上の仮想的な場合でもこの関係は成立し、密度を定義することができる。
その他の密度としては、状態密度・電荷密度・ 磁束密度・電流密度・数密度など様々な量(物理量)に対応する密度が存在する(あるいは定義できる)。物理量以外でも人口密度・個体群密度・確率密度、などの値が様々なところで用いられている。密度効果という語もある。
水の密度の値(g/cmで表した数値)とその比重の値はほとんど同じであることもあって、混同されやすいが、根本的に異なる概念である。
なお、密度も比重も計量法における物象の状態の量(全89量)である。ただし、密度は典型72量に含まれており、取引・証明における規制の対象になるが、比重は「確立された計量単位のない17の物象の状態の量」の一つであり、規制の対象になっていない。
次式の形で定義される。
単位体積当たりの質量としての密度は国際単位系 (SI) では キログラム毎立方メートル(kg/m)を一貫性 のある組立単位として使用する。日本の計量法では、kg/m、g/m 、g/L の3つが定められている。 以下では、( )内は、計量法で列記されていない単位によるものである。
例えば、水の密度(標準気圧、温度3.984 °C)は、
g/cmという単位は国際単位系 (SI)では一貫性のない単位であるが、この単位での密度は、水に対する比重とほとんど同じであって直感的に分かりやすいためによく使用される。ただし、比重は無次元量であることに注意。
一般に 真密度 ≧ 見かけ密度 ≧ 嵩密度
以下では、単位としての一貫性はないが、よく使われる g/cm = 10 kg/m によるものを列記する。
我々はいろいろなものを手で持ち上げただけで、大抵は直接に密度を感じ取ることができる。従って、密度の概念はそれが「質量÷体積」で定義されるずっと前から存在していた。目の前に純金と銀に金メッキされた物を出されても、誰でも手に持って比べればどちらが純金かはすぐ分かる。それはその密度が2倍も違うからであるしかし、もっと微妙な差になると判定が難しくなる。アルキメデスが謎解きしたという「ヒエロン王の王冠の謎の問題」では、アルキメデスは「重さの減少分は、物体と同体積の水の重さに等しい」という原理を発見し、同じ重さの物体の浮力の相違は「密度・比重の概念」を数量的に認識させることとなった。
12世紀から13世紀にかけてアラビア語からラテン語に翻訳された「アルキメデスの書」の手稿本によれば、「2つの重さの相互の関係は二重の仕方で考えられる。その一つの方法は種類によるもので、もう一つは総額によるものである。種類によるものはたとえば金の重さを銀の重さと比べたいときに用いられるもので、これは金と銀の大きさを基礎としてなされなければならない」・「総額によってというのは、われわれが目方を知ろうとしてそれらのかたまりの大きさがどうであろうとおかまいなしに、金のあるかたまりは銀のあるかたまりよりも重いと判定するときの、2つの物体の相互の重さの関係である」と述べている。さらに「2つの大きさが等しい物体において、その目方がより多くのカルクリの数に等しいものは、その種類においてより重い」・「同じ種類の物体では、大きさと目方は比例している」・「種類による重さの等しい物体といわれるのは、その等しい大きさの目方が等しいものである」としている。この手稿の元のアルキメデスの本の中には比重、または密度の概念は出てこないが、この手稿本には質量と比重が明確に区別された記述が加えられている。
1590年頃のガリレオ・ガリレイの『運動について』では、「普通にいう物体の重さ」と「物体本来の固有の重さ」を区別し、「普通の重さ」は浮力や抗力などの外力で変化するが、「本来の重さ」は変化しないものと考えた。ガリレオは「物体の見かけの重さが変化しているときでも、物体の大きさと密度が変わらない」ことを根拠に、物体の本来の重さは「密度×体積」で決まる量であるとした。ガリレオは古代原子論者の考えを引いて「この(同じ)物質から作られている物体の中でも、同じ体積中にこの物質の粒子をより多く含んでいるものが、より密であるとよばれたのである」とのべている。ガリレオは古代の原子論者と同様に、密度を「単位体積当たりに含まれる原子の数」によってあらわされるものと考えた。アイザック・ニュートンはガリレオの原子論的密度概念と同じことを、その著書『自然哲学の数学的諸原理』Principia(1687年)において採用し、質量を「密度×体積」によって定義している。ガリレオもニュートンも共に原子論的な思考の上では、質量や重さよりも密度の方が根源的な量と考えていた。
東洋の文献で密度の値が書かれている最も古いものは西暦紀元1世紀の『漢書』の「食貨志下」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」である。これは「黄金は一寸立方で重さが一斤だ」ということである。これを今日の値に換算すると18.56 g/cmであるので、誤差は4 %足らずのよい値である。これはおそらく漢代には「黄金方寸一斤」が重さの単位の基礎として用いられていて、漢代の重さの単位は長さの単位と金の重さを元にして決められていたと考えられる。
3世紀の『孫子算経』の密度表でも「黄金方寸而重一斤」と同じ値が用いられていて銅・鉛・鉄の密度も今日の値に近いが、白金(銀?)は銀とすれば値が1.5倍も大きく、単位の違いなのか誤記なのか、あるいは白金が銀ではない何かをさしていたかはわからない。。
江戸時代には密度のことを「軽重」と呼んでいた。吉田光由の『塵劫記』の初版本(寛永八年:1627年)は、1595年の中国算書『算法統宗』の密度表を書き写した値が載っている。しかし中国書と日本は共に尺貫法を使っていたが、単位の大きさは違っていた。それなのに数値をそのまま引き写したので、その値は正しいものではなかった。たとえば銀の密度は正しい値の1.8倍も大きくなってしまった。吉田光由は密度そのものの物理的な関心が無かったことを示している。このような間違いの引き写しは江戸時代の他の和算書にも見られる。
1640年の今村知商『因帰算歌』には『塵劫記』の密度表を訂正した数値が載せられている。今村知商は『塵劫記』の密度表を5/6倍して、単位を換算しようとした。この結果金の密度は正しい値に近づいたが、鉄・鉛・銅の密度は『塵劫記』よりも悪くなってしまった。1660年代には和算書の密度表は著しく多様化した。同じ純物質の密度の値が異なれば、当然そのどれが一番真の値に近いかが問題になってくる。1684年には『増補算法闕擬抄』が同一の物質の密度について複数の数値をあげて、読者の疑問を喚起した。貞享四年(1687年)には『改算記綱目』が金の密度測定法を取り上げた。その中の「金重或問」で答として「金小判の一立方寸あたりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に水がこぼれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総質量を割ると小判に使われている金の純度が分かる。そのほか、純度を測りたい物はこれに倣え」と書かれている。しかしその測定結果は書かれていない。著者の和算家は実際には実験しなかったのである。この水で金の体積を量る方法は『改算記』でも取り上げられていた。
このように「金の本当の密度はどれほどか」という問題が1680年代の和算家に明確に取り上げられたかに見えたが、この問題はこれ以降の和算家には本格的に追求されることが無かった。金や銀や水の密度はこれ以降も正しい値に近づくどころか、かえって多様化する傾向さえ見られた。『塵劫記』の密度表は寛永八年(1631年)版のまま、江戸時代の全期を通じて百種以上も出版され、訂正されることが無かった。和算書は物理的な・実験的な測定事項に関しては1660年代以後停滞・退歩した。1660年代の和算書には「純物質の密度が一定」という考えまでぐらついていたし、1684年の和算書『増補算法闕擬抄』では物理的測定に対する関心が低下すると共に、書物によって密度の値が大きく異なることに対する疑問も起こらなくなってしまった。この傾向は18世紀以降には顕著となった。この原因としては徳川吉宗の享保の改革(1720年ごろ)で、儒学が重んじられ、それ以降、江戸の常識となったことの影響が大きいという。儒学の物質観では「密度は物質に固有な定数である」とは認められていなかったので、密度の測定への関心がもたれなくなった。
和算家が密度の実用性から離れたとしても、江戸時代には金の小判や銀板が広く流通していたので、その密度が問題になった。幕府の当事者は金の密度が和算家の数字と合わないことを気にとめて、金座に命じて金の密度を実測させ享保十四年(1729年)に130匁/立方寸の結果を得た。これは『塵劫記』や『孫子算経』の値より大幅に小さかった。しかし、今日の金の密度19.3 g/cmに換算すると143.2匁/立方寸であるので、金座の値は小さすぎる。これは測定に使った金の純度が悪かったというよりは、「金1立法寸の重さ」と幕府に言われたので、実際に金を1寸の立方体に作ったため、体積の精度が悪かったのだと考えられる。
このような測定が行われたきっかけは将軍徳川吉宗の蘭書解禁の政策。で西洋歴算書の『歴算全書』(1726年舶来)の和訳がなされ、西洋の密度の値が初めて日本に紹介されたためと考えられている。この本には金の密度19、銀の密度10.3と与えられていた。そこでヨーロッパの値と日本の値との違いを正すことが金座での密度測定の動機になった。
関西地方の和算の小さな会派であった「宅間流 」の和算書『(増補)算学稽古大全(さんがくけいこたいぜん)』(松岡能一:1806年)は、当時としては珍しく物理・実用的な事柄に多くの関心が見られた分厚い啓蒙書である。その書では密度が「寸重」・「尺重」という用語で表され、金144匁、水7貫400目などの値が記載されている。現代の値では金19.3 g/cm=143.2匁/寸、水1 g/cm=7貫420目/尺 となるので、かなり正確な値である。「寸重」・「尺重」という言葉は江戸時代において密度を表す数少ない述語らしい用語として注目に値するものであるという。
銭貨学の古典的大著『算貨図彙』(文化十二年:1815年)には、和算書や金座の測定値よりも現在の値に近い数値が与えられている。銀の密度が金の密度よりもずっと小さいことは金貨や銀貨を扱っていた商人たちには十分よく知られていた。それにもかかわらず和算家たちは自分たちの用いている密度の値を怪しまなかったのである。 江戸時代にはアルキメデスの原理が知られていなかったので、浮力を用いてサンプルの比重を測る方法は取られることが無かった。そこで西洋の数値に劣る結果しか得られなかった。むしろ江戸時代の密度の測定値は時を経るに従って改善されるということが無かった。江戸時代前半は人口が増えて、土木工事や経済活動が活発だった。その時代の和算家は金属や水や土の密度に深い関心を持ち、値を改善しようとした。しかし江戸時代後半に人口増加が止まり、経済も停滞すると、そのような物理的・実用的な問題に対する意慾が減退し、すでに書物に書かれているものだけに頼ることになり、古い『塵劫記』の密度表がそのまま引き写されるだけになった。
日本の書物で初めて浮力の原理に言及したのは文政十年(1827年)の青地林宗『氣海観瀾』である。この書では「称水」の項に浮力の原理が説明され、アルキメデスの発見であると明らかにしている。これを引き継いだ本では密度のことを「本重」という術語で表すようになった。「密度」という訳語は明治になってからの「物理学訳語会」(明治16–18年:1883–1885年)で初めて採用された。比重の語の初出は『理化新説』(明治二年:1869年)である。
|
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"text": "その他の密度としては、状態密度・電荷密度・ 磁束密度・電流密度・数密度など様々な量(物理量)に対応する密度が存在する(あるいは定義できる)。物理量以外でも人口密度・個体群密度・確率密度、などの値が様々なところで用いられている。密度効果という語もある。",
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"text": "水の密度の値(g/cmで表した数値)とその比重の値はほとんど同じであることもあって、混同されやすいが、根本的に異なる概念である。",
"title": "密度と比重の違い"
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"text": "なお、密度も比重も計量法における物象の状態の量(全89量)である。ただし、密度は典型72量に含まれており、取引・証明における規制の対象になるが、比重は「確立された計量単位のない17の物象の状態の量」の一つであり、規制の対象になっていない。",
"title": "密度と比重の違い"
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"text": "次式の形で定義される。",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "単位体積当たりの質量としての密度は国際単位系 (SI) では キログラム毎立方メートル(kg/m)を一貫性 のある組立単位として使用する。日本の計量法では、kg/m、g/m 、g/L の3つが定められている。 以下では、( )内は、計量法で列記されていない単位によるものである。",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "例えば、水の密度(標準気圧、温度3.984 °C)は、",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "g/cmという単位は国際単位系 (SI)では一貫性のない単位であるが、この単位での密度は、水に対する比重とほとんど同じであって直感的に分かりやすいためによく使用される。ただし、比重は無次元量であることに注意。",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "一般に 真密度 ≧ 見かけ密度 ≧ 嵩密度",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "以下では、単位としての一貫性はないが、よく使われる g/cm = 10 kg/m によるものを列記する。",
"title": "単位体積当たりの質量"
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"text": "我々はいろいろなものを手で持ち上げただけで、大抵は直接に密度を感じ取ることができる。従って、密度の概念はそれが「質量÷体積」で定義されるずっと前から存在していた。目の前に純金と銀に金メッキされた物を出されても、誰でも手に持って比べればどちらが純金かはすぐ分かる。それはその密度が2倍も違うからであるしかし、もっと微妙な差になると判定が難しくなる。アルキメデスが謎解きしたという「ヒエロン王の王冠の謎の問題」では、アルキメデスは「重さの減少分は、物体と同体積の水の重さに等しい」という原理を発見し、同じ重さの物体の浮力の相違は「密度・比重の概念」を数量的に認識させることとなった。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "12世紀から13世紀にかけてアラビア語からラテン語に翻訳された「アルキメデスの書」の手稿本によれば、「2つの重さの相互の関係は二重の仕方で考えられる。その一つの方法は種類によるもので、もう一つは総額によるものである。種類によるものはたとえば金の重さを銀の重さと比べたいときに用いられるもので、これは金と銀の大きさを基礎としてなされなければならない」・「総額によってというのは、われわれが目方を知ろうとしてそれらのかたまりの大きさがどうであろうとおかまいなしに、金のあるかたまりは銀のあるかたまりよりも重いと判定するときの、2つの物体の相互の重さの関係である」と述べている。さらに「2つの大きさが等しい物体において、その目方がより多くのカルクリの数に等しいものは、その種類においてより重い」・「同じ種類の物体では、大きさと目方は比例している」・「種類による重さの等しい物体といわれるのは、その等しい大きさの目方が等しいものである」としている。この手稿の元のアルキメデスの本の中には比重、または密度の概念は出てこないが、この手稿本には質量と比重が明確に区別された記述が加えられている。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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{
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"text": "1590年頃のガリレオ・ガリレイの『運動について』では、「普通にいう物体の重さ」と「物体本来の固有の重さ」を区別し、「普通の重さ」は浮力や抗力などの外力で変化するが、「本来の重さ」は変化しないものと考えた。ガリレオは「物体の見かけの重さが変化しているときでも、物体の大きさと密度が変わらない」ことを根拠に、物体の本来の重さは「密度×体積」で決まる量であるとした。ガリレオは古代原子論者の考えを引いて「この(同じ)物質から作られている物体の中でも、同じ体積中にこの物質の粒子をより多く含んでいるものが、より密であるとよばれたのである」とのべている。ガリレオは古代の原子論者と同様に、密度を「単位体積当たりに含まれる原子の数」によってあらわされるものと考えた。アイザック・ニュートンはガリレオの原子論的密度概念と同じことを、その著書『自然哲学の数学的諸原理』Principia(1687年)において採用し、質量を「密度×体積」によって定義している。ガリレオもニュートンも共に原子論的な思考の上では、質量や重さよりも密度の方が根源的な量と考えていた。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "東洋の文献で密度の値が書かれている最も古いものは西暦紀元1世紀の『漢書』の「食貨志下」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」である。これは「黄金は一寸立方で重さが一斤だ」ということである。これを今日の値に換算すると18.56 g/cmであるので、誤差は4 %足らずのよい値である。これはおそらく漢代には「黄金方寸一斤」が重さの単位の基礎として用いられていて、漢代の重さの単位は長さの単位と金の重さを元にして決められていたと考えられる。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
},
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"text": "3世紀の『孫子算経』の密度表でも「黄金方寸而重一斤」と同じ値が用いられていて銅・鉛・鉄の密度も今日の値に近いが、白金(銀?)は銀とすれば値が1.5倍も大きく、単位の違いなのか誤記なのか、あるいは白金が銀ではない何かをさしていたかはわからない。。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
},
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"text": "江戸時代には密度のことを「軽重」と呼んでいた。吉田光由の『塵劫記』の初版本(寛永八年:1627年)は、1595年の中国算書『算法統宗』の密度表を書き写した値が載っている。しかし中国書と日本は共に尺貫法を使っていたが、単位の大きさは違っていた。それなのに数値をそのまま引き写したので、その値は正しいものではなかった。たとえば銀の密度は正しい値の1.8倍も大きくなってしまった。吉田光由は密度そのものの物理的な関心が無かったことを示している。このような間違いの引き写しは江戸時代の他の和算書にも見られる。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "1640年の今村知商『因帰算歌』には『塵劫記』の密度表を訂正した数値が載せられている。今村知商は『塵劫記』の密度表を5/6倍して、単位を換算しようとした。この結果金の密度は正しい値に近づいたが、鉄・鉛・銅の密度は『塵劫記』よりも悪くなってしまった。1660年代には和算書の密度表は著しく多様化した。同じ純物質の密度の値が異なれば、当然そのどれが一番真の値に近いかが問題になってくる。1684年には『増補算法闕擬抄』が同一の物質の密度について複数の数値をあげて、読者の疑問を喚起した。貞享四年(1687年)には『改算記綱目』が金の密度測定法を取り上げた。その中の「金重或問」で答として「金小判の一立方寸あたりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に水がこぼれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総質量を割ると小判に使われている金の純度が分かる。そのほか、純度を測りたい物はこれに倣え」と書かれている。しかしその測定結果は書かれていない。著者の和算家は実際には実験しなかったのである。この水で金の体積を量る方法は『改算記』でも取り上げられていた。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "このように「金の本当の密度はどれほどか」という問題が1680年代の和算家に明確に取り上げられたかに見えたが、この問題はこれ以降の和算家には本格的に追求されることが無かった。金や銀や水の密度はこれ以降も正しい値に近づくどころか、かえって多様化する傾向さえ見られた。『塵劫記』の密度表は寛永八年(1631年)版のまま、江戸時代の全期を通じて百種以上も出版され、訂正されることが無かった。和算書は物理的な・実験的な測定事項に関しては1660年代以後停滞・退歩した。1660年代の和算書には「純物質の密度が一定」という考えまでぐらついていたし、1684年の和算書『増補算法闕擬抄』では物理的測定に対する関心が低下すると共に、書物によって密度の値が大きく異なることに対する疑問も起こらなくなってしまった。この傾向は18世紀以降には顕著となった。この原因としては徳川吉宗の享保の改革(1720年ごろ)で、儒学が重んじられ、それ以降、江戸の常識となったことの影響が大きいという。儒学の物質観では「密度は物質に固有な定数である」とは認められていなかったので、密度の測定への関心がもたれなくなった。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "和算家が密度の実用性から離れたとしても、江戸時代には金の小判や銀板が広く流通していたので、その密度が問題になった。幕府の当事者は金の密度が和算家の数字と合わないことを気にとめて、金座に命じて金の密度を実測させ享保十四年(1729年)に130匁/立方寸の結果を得た。これは『塵劫記』や『孫子算経』の値より大幅に小さかった。しかし、今日の金の密度19.3 g/cmに換算すると143.2匁/立方寸であるので、金座の値は小さすぎる。これは測定に使った金の純度が悪かったというよりは、「金1立法寸の重さ」と幕府に言われたので、実際に金を1寸の立方体に作ったため、体積の精度が悪かったのだと考えられる。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
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"text": "このような測定が行われたきっかけは将軍徳川吉宗の蘭書解禁の政策。で西洋歴算書の『歴算全書』(1726年舶来)の和訳がなされ、西洋の密度の値が初めて日本に紹介されたためと考えられている。この本には金の密度19、銀の密度10.3と与えられていた。そこでヨーロッパの値と日本の値との違いを正すことが金座での密度測定の動機になった。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
},
{
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"text": "関西地方の和算の小さな会派であった「宅間流 」の和算書『(増補)算学稽古大全(さんがくけいこたいぜん)』(松岡能一:1806年)は、当時としては珍しく物理・実用的な事柄に多くの関心が見られた分厚い啓蒙書である。その書では密度が「寸重」・「尺重」という用語で表され、金144匁、水7貫400目などの値が記載されている。現代の値では金19.3 g/cm=143.2匁/寸、水1 g/cm=7貫420目/尺 となるので、かなり正確な値である。「寸重」・「尺重」という言葉は江戸時代において密度を表す数少ない述語らしい用語として注目に値するものであるという。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
},
{
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"text": "銭貨学の古典的大著『算貨図彙』(文化十二年:1815年)には、和算書や金座の測定値よりも現在の値に近い数値が与えられている。銀の密度が金の密度よりもずっと小さいことは金貨や銀貨を扱っていた商人たちには十分よく知られていた。それにもかかわらず和算家たちは自分たちの用いている密度の値を怪しまなかったのである。 江戸時代にはアルキメデスの原理が知られていなかったので、浮力を用いてサンプルの比重を測る方法は取られることが無かった。そこで西洋の数値に劣る結果しか得られなかった。むしろ江戸時代の密度の測定値は時を経るに従って改善されるということが無かった。江戸時代前半は人口が増えて、土木工事や経済活動が活発だった。その時代の和算家は金属や水や土の密度に深い関心を持ち、値を改善しようとした。しかし江戸時代後半に人口増加が止まり、経済も停滞すると、そのような物理的・実用的な問題に対する意慾が減退し、すでに書物に書かれているものだけに頼ることになり、古い『塵劫記』の密度表がそのまま引き写されるだけになった。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本の書物で初めて浮力の原理に言及したのは文政十年(1827年)の青地林宗『氣海観瀾』である。この書では「称水」の項に浮力の原理が説明され、アルキメデスの発見であると明らかにしている。これを引き継いだ本では密度のことを「本重」という術語で表すようになった。「密度」という訳語は明治になってからの「物理学訳語会」(明治16–18年:1883–1885年)で初めて採用された。比重の語の初出は『理化新説』(明治二年:1869年)である。",
"title": "科学上の密度概念の歴史"
}
] |
密度(みつど)は、一般には、対象とする何かの混み合いの程度を示す語である。ただし、科学において、単に密度といえば、単位体積あたりの質量(質量の空間微分)を指すことが多い。 広義には、ある量(物理量など)が、空間(3次元)あるいは面上(2次元)・線上(1次元)に分布していたとして、これらの空間・面・線の微小部分上に存在する当該量と、それぞれ対応する体積・面積・長さに対する比のことを言う(それぞれ、体積密度・面密度・線密度と呼ぶ)。微小部分は通常、単位体・単位面積・単位長さ当たりに相当する場合が多い。勿論、4次元以上の仮想的な場合でもこの関係は成立し、密度を定義することができる。 その他の密度としては、状態密度・電荷密度・ 磁束密度・電流密度・数密度など様々な量(物理量)に対応する密度が存在する(あるいは定義できる)。物理量以外でも人口密度・個体群密度・確率密度、などの値が様々なところで用いられている。密度効果という語もある。
|
{{出典の明記|date=2012年9月17日 (月) 17:28 (UTC)}}
{{物理量
|名称 = 密度
|英語 = density
|画像 =
|記号 = ''ρ''
|次元 =
|M = 1
|L = −3
|階 =
|SI = [[キログラム毎立方メートル]] (kg/m{{sup|3}})
|CGS = グラム毎立方センチメートル (g/cm{{sup|3}})
|MTS = トン毎立方メートル (t/m{{sup|3}})
|FPS = ポンド毎立方フィート (lb/ft{{sup|3}})
|MKSG =
|CGSG =
|FPSG =
|プランク = [[プランク密度]] (ρ{{sub|P}})
|原子 =
}}
'''密度'''(みつど)は、一般には、対象とする何かの混み合いの程度を示す語である。ただし、[[科学]]において、単に密度といえば、単位[[体積]]あたりの[[質量]](質量の空間微分<ref group="注">直観的には、各点における物質の量(質量)という意味</ref>)を指すことが多い。
広義には、ある[[量]]([[物理量]]など)が、[[空間]](3次元)あるいは[[面]]上(2次元)・[[線]]上(1次元)に分布していたとして、これらの空間・面・線の微小部分上に存在する当該量と、それぞれ対応する体積・[[面積]]・[[距離|長さ]]に対する[[比]]のことを言う<ref group="注">異なる[[物理量]]どうしの演算で得られた新しい量であるため、[[SI組立単位|組立単位]]で表されるものであり、正確に比ではない。</ref>(それぞれ、体積密度・面密度・[[線密度]]と呼ぶ)。微小部分は通常、単位体・単位面積・単位長さ当たりに相当する場合が多い<ref group="注">より正確には、この微小部分は[[微分]]で考える[[微分小]]と同じであるが、[[物理量]]が異なる場合、純粋な[[幾何学]]のような[[比]]で表す事ができないため、各点における[[物理単位]]辺りの大きさで表している。</ref>。勿論、4次元以上の仮想的な場合でもこの関係は成立し、密度を定義することができる。
その他の密度としては、[[状態密度]]・[[電荷密度]]・ [[磁束密度]]・[[電流密度]]・[[数密度]]など様々な量(物理量)に対応する密度が存在する(あるいは定義できる)。物理量以外でも[[人口密度]]・[[個体群]]密度・[[確率密度]]、などの値が様々なところで用いられている。[[密度効果]]という語もある。
== 密度と比重の違い ==
[[水の性質|水]]の密度の値(g/cm<sup>3</sup>で表した数値)とその[[比重]]の値はほとんど同じであることもあって、混同されやすいが、根本的に異なる概念である。
なお、密度も比重も計量法における[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]](全89量)である。ただし、密度は典型72量に含まれており、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]における規制の対象になるが、比重は「[[法定計量単位#確立された計量単位のない17の物象の状態の量|確立された計量単位のない17の物象の状態の量]]」の一つであり、規制の対象になっていない。
{|class="wikitable"
|+ 表 密度と比重の違い
|-
!項目!!密度 !!比重
|-
|定義 ||質量/体積<ref>[[体積#体積と容積]]</ref> ||物質の質量/同一の体積を有する'''水'''の質量<ref>[[比重#定義]]</ref>
|-
|[[量の次元|次元]] ||有次元 ||[[無次元量|無次元]]
|-
|[[計量単位]] ||kg/m<sup>3</sup>、g/m<sup>3</sup>、g/L<ref group="注">この3つは[[法定計量単位]]となっている単位である。</ref> ||なし
|-
|(例)[[純水]]の値 ||{{val|0.99997495|u=g/cm3}}<ref>[[水の性質#密度]]</ref> ||1.0000(定義により)
|}
== 単位体積当たりの質量 ==
=== 密度の単位 ===
次式の形で定義される。
:<math> \rho = \frac{m}{V}</math> (''ρ'':密度 ''m'':質量 ''V'':体積)
単位体積当たりの質量としての密度は[[国際単位系]] (SI) では [[キログラム毎立方メートル]](kg/m<sup>3</sup>)を[[一貫性 (単位系)|一貫性 ]]のある[[組立単位]]として使用する。日本の[[計量法]]では、kg/m<sup>3</sup>、g/m<sup>3</sup> 、g/L の3つが定められている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番19、「密度」の欄</ref>。
以下では、( )内は、計量法で列記されていない単位によるものである。
: 1 kg/m<sup>3</sup> = 1000 g/m<sup>3</sup> = 1 g/L (= 0.001 g/cm<sup>3</sup>)
例えば、[[水]]の密度([[標準気圧]]、温度3.984 °C)は、
: {{val|999.97495|u=kg/m3}} = {{val|999974.95|u=g/m3}} = {{val|999.97495|u=g/L}} (= {{val|0.99997495|u=g/cm3}})
g/cm<sup>3</sup>という単位は[[国際単位系]] (SI)では[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のない単位であるが、この単位での密度は、水に対する[[比重]]とほとんど同じであって直感的に分かりやすいためによく使用される。ただし、[[比重]]は[[無次元量]]であることに注意<ref group="注">比重の定義は計量単位規則(平成四年通商産業省令第八十号)の別表第1で示されており、この表中の計量単位の欄に「(計量単位を付さない)」と記されていて、比重が無次元量であることが明示されている。</ref>。
: 1 g/cm<sup>3</sup> = 1 kg/L = 1 t/m<sup>3</sup> = 1000 kg/m<sup>3</sup>
=== 密度の種類 ===
* 真密度:物質の真実の状態の密度。物体の表面や内部の気孔の部分を除いた物体そのものの体積で、物体の質量を割った値。
* 見かけ密度:物体の表面の気孔の体積は除くが、内部の気孔の体積を含めて求めた密度。
* 嵩密度:粉体を容器内に詰め、容器内の隙間も体積と見なして測定した密度(この場合は見かけ密度ともいう)。
* タップ密度:粉体を容器に詰める際に振動させてより充填させて測定した嵩密度。
一般に 真密度 ≧ 見かけ密度 ≧ 嵩密度
=== いろいろな物質の密度 ===
以下では、単位としての[[一貫性 (単位系)|一貫性]]はないが、よく使われる<ref group="注">理科年表でもg/cm<sup>3</sup>単位による数値を挙げている。理科年表2020、pp.392-393</ref> g/cm<sup>3</sup> = 10<sup>3</sup> kg/m<sup>3</sup> によるものを列記する<ref>数値は理科年表2020、p.392 単体の密度</ref>。
* [[オスミウム]] - 22.59
* [[イリジウム]] - 22.56
* [[白金]] - 21.45
* [[金]] - 19.30
* [[タングステン]] - 19.25
* [[ウラン]] - 19.1
* [[水銀]] - 13.534
* [[鉛]] - 11.34
* [[銀]] - 10.49
* [[銅]] - 8.96
* [[鉄]] - 7.874
* [[チタン]] - 4.506
* [[アルミニウム]] - 2.70
* [[ケイ素]] - 2.3290
* [[マグネシウム]] - 1.738
* [[水]] - {{val|0.99997495}}(温度3.984 °Cにおける最大密度)<ref>[http://www1.lsbu.ac.uk/water/water_properties.html] Density maximum and molecular volume at the temperature of maximum density のaの欄 </ref>
* [[ナトリウム]] - 0.968
* [[カリウム]] - 0.862
* [[リチウム]] - 0.534
== 密度の測定方法 ==
;アルキメデス法
:[[アルキメデスの原理]]を利用する方法。空気中と水中での質量をそれぞれ測定し、両者から体積を求めて密度を算出する。
;比重びん法
:[[比重びん]]の重さ、試料をいれた比重びんの質量、さらに置換液を加えてびんを満たした時の質量、比重瓶を置換液で満たした時の質量を測定し、体積と質量を算出する。
==科学上の密度概念の歴史==
===古代===
我々はいろいろなものを手で持ち上げただけで、大抵は直接に密度を感じ取ることができる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=138}}。従って、密度の概念はそれが「質量÷体積」で定義されるずっと前から存在していた{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=139}}。目の前に純金と銀に金メッキされた物を出されても、誰でも手に持って比べればどちらが純金かはすぐ分かる。それはその密度が2倍も違うからである{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=139}}{{refnest|group="注"|このような直感的な密度の感じ方について、科学史家・板倉聖宣は、「鉄1 kgと綿1 kgはどちらが重いか」という問題に、多くの人は「鉄の方が重い」と感じることを指摘している{{Sfn|板倉聖宣|1978|pp=69-83}}。}}しかし、もっと微妙な差になると判定が難しくなる。[[アルキメデス]]が謎解きしたという「[[ヒエロン2世|ヒエロン王]]の王冠の謎の問題」{{refnest|group="注"|アルキメデスが[[ヒエロン2世]]から、金の王冠に混じりものが入ってないか調べるように言われた故事。その発見は[[アルキメデスの原理]]と呼ばれる浮力の原理である。(詳細は[[アルキメデス]]を参照のこと。)}}では、アルキメデスは「重さの減少分は、物体と同体積の水の重さに等しい」という原理を発見し、同じ重さの物体の浮力の相違は「密度・比重の概念」を数量的に認識させることとなった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=35-36}}。
===中世ヨーロッパの重さと比重の区別===
12世紀から13世紀にかけてアラビア語からラテン語に翻訳された「アルキメデスの書」の手稿本{{refnest|group="注"|「液体中にあるものに関するアルキメデスの書」Moody & Clagett:The Medieval Science of Weightsの41-51頁ラテン原文(英文併記)より板倉聖宣が訳出したもの{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=196}}。}}によれば、「2つの重さの相互の関係は二重の仕方で考えられる。その一つの方法は種類によるもので、もう一つは総額によるものである。種類によるものはたとえば金の重さを銀の重さと比べたいときに用いられるもので、これは金と銀の大きさを基礎としてなされなければならない{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}」・「総額によってというのは、われわれが目方を知ろうとしてそれらのかたまりの大きさがどうであろうとおかまいなしに、金のあるかたまりは銀のあるかたまりよりも重いと判定するときの、2つの物体の相互の重さの関係である{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}」と述べている。さらに「2つの大きさが等しい物体において、その目方がより多くのカルクリ{{refnest|group="注"|この手稿本で重さの最小単位としているもの{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}。}}の数に等しいものは、その種類においてより重い」・「同じ種類の物体では、大きさと目方は比例している」・「種類による重さの等しい物体といわれるのは、その等しい大きさの目方が等しいものである{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=198}}」としている。この手稿の元のアルキメデスの本の中には比重、または密度の概念は出てこないが、この手稿本には質量と比重が明確に区別された記述が加えられている{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=196}}。
===ガリレオとニュートンの原子論的密度概念===
1590年頃の[[ガリレオ・ガリレイ]]の『運動について』では、「普通にいう物体の重さ」と「物体本来の固有の重さ」を区別し、「普通の重さ」は浮力や抗力などの外力で変化するが、「本来の重さ」は変化しないものと考えた{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=29}}。ガリレオは「物体の見かけの重さが変化しているときでも、物体の大きさと密度が変わらない」ことを根拠に、物体の本来の重さは「密度×体積」で決まる量であるとした{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=29}}。ガリレオは古代原子論者{{refnest|group="注"|[[古代ギリシャ]]の[[デモクリトス]]、[[レウキッポス]]に始まり、[[エピクロス]]が重さの概念を基盤にすることで一応の完成を見た理論。[[共和制ローマ]]時代の詩人[[ルクレチウス]]はエピクロスを称えて原子論を詳しく紹介する詩を残し{{Sfn|板倉聖宣|2004}}、その詩は中世から近代科学が立ち上がる時代のヨーロッパに大きな影響を与えた{{Sfn|スティーブン・グリーンブラッド|2012}}。}}の考えを引いて「この(同じ)物質から作られている物体の中でも、同じ体積中にこの物質の粒子をより多く含んでいるものが、より密であるとよばれたのである」とのべている。ガリレオは古代の原子論者と同様に、密度を「単位体積当たりに含まれる原子の数」によってあらわされるものと考えた{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=30}}。[[アイザック・ニュートン]]はガリレオの原子論的密度概念と同じことを、その著書『[[自然哲学の数学的諸原理]]』''Principia''(1687年)において採用し、質量を「密度×体積」によって定義している{{Sfn|ニュートン|1977|p=15}}。ガリレオもニュートンも共に原子論的な思考の上では、質量や重さよりも密度の方が根源的な量と考えていた{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=138}}。
===中国の密度表===
東洋の文献で密度の値が書かれている最も古いものは西暦紀元1世紀の『[[漢書]]』の「食貨志下」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」である{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=140}}。これは「黄金は一[[寸]]立方で重さが一[[斤]]だ」ということである。これを今日の値に換算すると18.56 g/cm<sup>3</sup>であるので、誤差は4 %足らずのよい値である{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=141}}。これはおそらく漢代には「黄金方寸一斤」が重さの単位の基礎として用いられていて、漢代の重さの単位は長さの単位と金の重さを元にして決められていたと考えられる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=141}}。
3世紀の『[[孫子算経]]』の密度表でも「黄金方寸而重一斤」と同じ値が用いられて{{Sfn|板倉・中村|1990a|pp=143-144}}いて銅・鉛・鉄の密度も今日の値に近いが、白金(銀?)は銀とすれば値が1.5倍も大きく、単位の違いなのか誤記なのか、あるいは白金が銀ではない何かをさしていたかはわからない。{{Sfn|中村邦光|2007|pp=38-39}}。
===江戸時代の和算家と密度===
江戸時代には密度のことを「軽重」と呼んでいた{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。[[吉田光由]]の『[[塵劫記]]』の初版本([[寛永]]八年:1627年)は、1595年の中国算書『算法統宗』の密度表を書き写した値が載っている。しかし中国書と日本は共に[[尺貫法]]を使っていたが、単位の大きさは違っていた。それなのに数値をそのまま引き写したので、その値は正しいものではなかった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=40‐41}}。たとえば銀の密度は正しい値の1.8倍も大きくなってしまった{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=147}}。吉田光由は密度そのものの物理的な関心が無かったことを示している。このような間違いの引き写しは江戸時代の他の和算書にも見られる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=146-147}}。
1640年の今村知商『因帰算歌』には『塵劫記』の密度表を訂正した数値が載せられている。今村知商は『塵劫記』の密度表を5/6倍して、単位を換算しようとした。この結果金の密度は正しい値に近づいたが、鉄・鉛・銅の密度は『塵劫記』よりも悪くなってしまった。1660年代には和算書の密度表は著しく多様化した。同じ純物質の密度の値が異なれば、当然そのどれが一番真の値に近いかが問題になってくる{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=162}}。1684年には『増補算法闕擬抄』が同一の物質の密度について複数の数値をあげて、読者の疑問を喚起した{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=163}}。[[貞享]]四年(1687年)には『改算記綱目』が金の密度測定法を取り上げた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=163}}。その中の「金重或問」で答として「金小判の一立方寸あたりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に水がこぼれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総質量を割ると小判に使われている金の純度が分かる。そのほか、純度を測りたい物はこれに倣え」と書かれている{{Sfn|中村邦光|2007|p=42}}。しかしその測定結果は書かれていない。著者の和算家は実際には実験しなかったのである{{Sfn|板倉・中村|1990b|pp=164-165}}。この水で金の体積を量る方法は『改算記』でも取り上げられていた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。
===儒学と密度への関心の低下===
このように「金の本当の密度はどれほどか」という問題が1680年代の和算家に明確に取り上げられたかに見えたが、この問題はこれ以降の和算家には本格的に追求されることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=65}}。金や銀や水の密度はこれ以降も正しい値に近づくどころか、かえって多様化する傾向さえ見られた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。『塵劫記』の密度表は[[寛永]]八年(1631年)版のまま、江戸時代の全期を通じて百種以上も出版され、訂正されることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。和算書は物理的な・実験的な測定事項に関しては1660年代以後停滞・退歩した{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=170}}。1660年代の和算書には「純物質の密度が一定」という考えまでぐらついていたし、1684年の和算書『増補算法闕擬抄』では物理的測定に対する関心が低下すると共に、書物によって密度の値が大きく異なることに対する疑問も起こらなくなってしまった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=170}}。この傾向は18世紀以降には顕著となった。この原因としては[[徳川吉宗]]の[[享保の改革]](1720年ごろ)で、[[儒学]]が重んじられ、それ以降、江戸の常識となったことの影響が大きいという{{Sfn|中村邦光|2007|pp=44-45}}。儒学の物質観では「密度は物質に固有な定数である」とは認められていなかったので、密度の測定への関心がもたれなくなった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=44-45}}。
===金座における金の密度の測定===
和算家が密度の実用性から離れたとしても、江戸時代には金の小判や銀板が広く流通していたので、その密度が問題になった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=171}}。幕府の当事者は金の密度が和算家の数字と合わないことを気にとめて、金座に命じて金の密度を実測させ[[享保]]十四年(1729年)に130[[匁]]/立方[[寸]]の結果を得た。これは『塵劫記』や『孫子算経』の値より大幅に小さかった。しかし、今日の金の密度19.3 g/cm<sup>3</sup>に換算すると143.2匁/立方寸であるので、金座の値は小さすぎる。これは測定に使った金の純度が悪かったというよりは、「金1立法寸の重さ」と幕府に言われたので、実際に金を1寸の立方体に作ったため、体積の精度が悪かったのだと考えられる{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=172}}。
=== 西洋の密度の導入 ===
このような測定が行われたきっかけは将軍[[徳川吉宗]]の蘭書解禁の政策{{refnest|group="注"|従来は享保の改革で漢訳西洋科学書の禁書緩和が行われたとされていたが、実際には17-18世紀に中国から輸入されたイエズス会士がかかわって書かれた漢文科学書の影響がほとんどまったく日本の書物に表れていないことから、実際には吉宗の学問の奨励は「儒学の奨励」であり、「禁書の緩和」とは「特別に許可を得た学者に幕府の書庫内で閲覧を許されただけ」であり、実態は「禁書と出版の統制の制度化」が享保の改革で行われたのだろうと考えられている{{Sfn|中村邦光|2007b|pp=81-84}}。}}。で西洋歴算書の『歴算全書』(1726年舶来)の和訳がなされ、西洋の密度の値が初めて日本に紹介されたためと考えられている{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=173}}。この本には金の密度19、銀の密度10.3と与えられていた。そこでヨーロッパの値と日本の値との違いを正すことが金座での密度測定の動機になった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=173}}。
===宅間流和算の密度===
関西地方の和算の小さな会派であった「宅間流 {{refnest|group="注"|宅間流からは天文学、暦算家の主要な人物が輩出しており、[[寛政]]の改暦にも従事している{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。}}」の和算書『(増補)算学稽古大全(さんがくけいこたいぜん)』(松岡能一:1806年)は、当時としては珍しく物理・実用的な事柄に多くの関心が見られた分厚い啓蒙書である{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。その書では密度が「'''寸重'''」・「'''尺重'''」という用語で表され、金144[[匁]]、水7[[貫]]400[[目]]などの値が記載されている。現代の値では金19.3 g/cm<sup>3</sup>=143.2匁/寸<sup>3</sup>、水1 g/cm<sup>3</sup>=7貫420目/尺<sup>3</sup> となるので、かなり正確な値である{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}{{refnest|group="注"|中村邦光の論文では水の密度の単位に寸が用いられているが、それでは7貫=約27 kgと計算が合わないので単位を尺に訂正した。尺<sup>3</sup>なら(30 cm)<sup>3</sup>={{val|27000|u=cm3}}=27 kgであるから、水の密度の値と合う。}}。「寸重」・「尺重」という言葉は江戸時代において密度を表す数少ない述語らしい用語として注目に値するものであるという{{Sfn|中村邦光|2016|p=47}}。
=== 商人の用いた密度 ===
銭貨学の古典的大著『算貨図彙』([[文化]]十二年:1815年)には、和算書や金座の測定値よりも現在の値に近い数値が与えられている{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=174}}。銀の密度が金の密度よりもずっと小さいことは金貨や銀貨を扱っていた商人たちには十分よく知られていた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=175}}。それにもかかわらず和算家たちは自分たちの用いている密度の値を怪しまなかったのである{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=175}}。
江戸時代にはアルキメデスの原理が知られていなかったので、浮力を用いてサンプルの比重を測る方法は取られることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=179}}。そこで西洋の数値に劣る結果しか得られなかった。むしろ江戸時代の密度の測定値は時を経るに従って改善されるということが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=181}}。江戸時代前半は人口が増えて、土木工事や経済活動が活発だった。その時代の和算家は金属や水や土の密度に深い関心を持ち、値を改善しようとした{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=182}}。しかし江戸時代後半に人口増加が止まり、経済も停滞すると{{refnest|group="注"|これについては板倉聖宣『歴史の見方考え方』で詳しく論じている{{Sfn|板倉聖宣|1986|pp=103-120}}。}}、そのような物理的・実用的な問題に対する意慾が減退し、すでに書物に書かれているものだけに頼ることになり、古い『塵劫記』の密度表がそのまま引き写されるだけになった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=183}}。
===初めて「浮力の原理」と密度に言及した本===
日本の書物で初めて浮力の原理に言及したのは[[文政]]十年(1827年)の[[青地林宗]]『氣海観瀾』である。この書では「称水」{{refnest|group="注"|称水とは「水中にて物の重さを称(はか)る」からきた言葉。のちに「水称法」と呼ばれるようになった{{Sfn|中村邦光|2007|p=47}}。}}の項に浮力の原理が説明され、アルキメデスの発見であると明らかにしている{{Sfn|中村邦光|2007|p=47}}。これを引き継いだ本では密度のことを「本重」という術語で表すようになった。「密度」という訳語は[[明治]]になってからの「物理学訳語会」(明治16–18年:1883–1885年)で初めて採用された。比重の語の初出は『理化新説』(明治二年:1869年)である{{Sfn|中村邦光|2007|p=48}}。
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="注"|2}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
==参考文献 ==
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|title=ニュートンの質量の定義とガリレイ・ニュートンの原子論|publisher=岩波書店|journal=科学史研究|volume=|issue=59|pages=29-31|year=1961|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1961}} }}[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I2380307-00 国立国会図書館]
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=中村邦光|authorlink=板倉聖宣|title=初期和算書における金属と水の密度の値|publisher=仮説社 |journal=日本における科学研究の萌芽と挫折|pages=138-158|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉・中村|1990a}} }}{{全国書誌番号|92054782
}}(初出『科学史研究』1980年冬,第136号)
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=中村邦光|authorlink=板倉聖宣|title=1660年以降の和算書その他における金属と水の密度の値|publisher=仮説社 |journal=日本における科学研究の萌芽と挫折|pages=159-187|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉・中村|1990b}} }}{{全国書誌番号|92054782}}(初出『科学史研究』1981年夏,第138号)
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=|authorlink=板倉聖宣|title=中世におけるアルキメデスの原理と重さ・軽さ|publisher=仮説実験授業研究会『物理学史研究』復刻刊行会 |journal=物理学史研究 : 第1巻第1-5号|pages=196-199|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1958}} }}(オリジナルは日本科学史学会物理学史分科会, 日本物理学会物理学史懇談会編よって1958年5月から1959年5月の間に発行された)[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I002336558-00 国立国会図書館サーチ]
* {{Cite book |和書|author=アイザック・ニュートン|translator=中野猿人|authorlink=|title=プリンシピア 自然哲学の数学的原理|publisher=講談社 |isbn=4-06-122139-6|pages=|year=1977|ref={{Sfnref|ニュートン|1977}} }}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=江戸時代の日本における円周率の値の逆行現象|publisher=日本計量史学会|journal=計量史研究|volume=38|issue=1|pages=42-48|year=2016|ref={{Sfnref|中村邦光|2016}} }}[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10632319 国立国会図書館]
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=科学的とはどういうことか : いたずら博士の科学教室|publisher=仮説社 |isbn=|pages=|year=1978|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1978}} }}{{全国書誌番号|80004621}}
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=歴史の見方考え方 (いたずら博士の科学教室 ; 3)|publisher=仮説社 |isbn=|pages=|year=1986|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1986}} }}{{全国書誌番号|87013668}}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念|publisher=創風社|journal=江戸科学史話|volume=|issue=|pages=35-48|year=2007|isbn=978-4-88352-133-3|ref={{Sfnref|中村邦光|2007}} }}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=享保改革における「禁書緩和」は本当か|publisher=創風社|journal=江戸科学史話|volume=|issue=|pages=81-91|year=2007b|isbn=978-4-88352-133-3|ref={{Sfnref|中村邦光|2007b}} }}
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=原子論の歴史-誕生・勝利・追放(上)|publisher=仮説社 |isbn=4-7735-0177-4|pages=|year=2004|ref={{Sfnref|板倉聖宣|2004}} }}{{全国書誌番号|20682258}}
* {{Cite book |和書|author=スティーブン・グリーンブラッド|translator=河野純治|title=一四一七年その一冊がすべてを変えた|publisher=柏書房 |isbn=978-4-7601-4176-0|pages=|year=2012|ref={{Sfnref|スティーブン・グリーンブラッド|2012}} }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat}}
{{Wikidata property}}
* [[密度の比較]]
* [[比重]]
* [[SI組立単位]]
* [[計量単位一覧#密度]]
* [[単位の換算一覧#密度・質量密度]]
{{Normdaten}}
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[[Category:密度|*]]
[[Category:物性値]]
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電気陰性度
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電気陰性度(でんきいんせいど,英: electronegativity)は、原子が電子を引き寄せる強さの相対的な尺度であり、ギリシャ文字のχで表される。
異種の原子同士が化学結合しているとする。このとき、各原子における電子の電荷分布は、当該原子が孤立していた場合と異なる分布をとる。これは結合の相手の原子からの影響によるものであり、原子の種類により電子を引きつける強さに違いが存在するためである。
この電子を引きつける強さは、原子の種類ごとの相対的なものとして、その尺度を決めることができる。この尺度のことを電気陰性度と言う。一般に周期表の左下に位置する元素ほど小さく、右上ほど大きくなる。
定義:Eを原子同士の結合エネルギーとし、原子 A と原子 B の結合エネルギーの実測値を、E(A-B) とすると、純粋な共有結合と仮定した場合の結合エネルギーとの差、ΔE(A-B) が定義できる。
この ΔE(A-B) に関して、
を満たすように決めた χ P A {\displaystyle \,\chi _{\rm {P}}^{\rm {A}}} が原子 A に関してのポーリングの電気陰性度である( χ P B {\displaystyle \,\chi _{\rm {P}}^{\rm {B}}} は原子 B の電気陰性度)。K は適当な係数である。
定義:原子 A のイオン化エネルギーを IA、電子親和力を EAとして、
で求まる χ M A {\displaystyle \,\chi _{\rm {M}}^{\rm {A}}} が原子 A に関してのマリケンの電気陰性度である。原子 B では添え字が A → B になる。
ライナス・ポーリングの電気陰性度とロバート・マリケンの電気陰性度は、原子毎のその値の大小関係の傾向が互いに類似し、
のような換算式も存在する。違いは、マリケンの電気陰性度では、その定義式右辺にある IA、EA の値が周囲の状況によって異なることがあり、これにより同じ原子でもマリケンの電気陰性度が状況により異なることがある(例:アセチレンの炭素原子でのマリケンの電気陰性度は、メタンのそれより大きな値となる)。
定義:ある原子中の価電子の有効核電荷を Zeff、原子の共有結合半径を r として、
で与えられる χAR がオールレッド・ロコウの電気陰性度である。
この尺度は A. L. Allred と E. G. Rochow が提案したものであり、電気陰性度が原子表面の電場の強さで決定されるという考え方に基づいている。原子表面での電位は Zeff/r に比例し、電場の強さは Zeff/r に比例する。これを用いて、ポーリングの電気陰性度と似通った値になるように係数を選んだのがこの尺度である。
参考:w:en:Allred-Rochow scale
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電気陰性度は、原子が電子を引き寄せる強さの相対的な尺度であり、ギリシャ文字のχで表される。 異種の原子同士が化学結合しているとする。このとき、各原子における電子の電荷分布は、当該原子が孤立していた場合と異なる分布をとる。これは結合の相手の原子からの影響によるものであり、原子の種類により電子を引きつける強さに違いが存在するためである。 この電子を引きつける強さは、原子の種類ごとの相対的なものとして、その尺度を決めることができる。この尺度のことを電気陰性度と言う。一般に周期表の左下に位置する元素ほど小さく、右上ほど大きくなる。
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{{Expand English|Electronegativity|date=2023-11}}
'''電気陰性度'''(でんきいんせいど,{{lang-en-short|electronegativity}})は、[[原子]]が[[電子]]を引き寄せる強さの相対的な尺度であり、[[ギリシャ文字]]の'''[[χ]]'''で表される<ref name="shriver45">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.45。</ref>。
異種の原子同士が[[化学結合]]しているとする。このとき、各原子における電子の[[電荷]]分布は、当該原子が孤立していた場合と異なる分布をとる。これは結合の相手の原子からの影響によるものであり、原子の種類により電子を引きつける強さに違いが存在するためである。
この電子を引きつける強さは、原子の種類ごとの相対的なものとして、その尺度を決めることができる。この尺度のことを'''電気陰性度'''と言う。一般に[[周期表]]の左下に位置する元素ほど小さく、右上ほど大きくなる。
== ポーリングの電気陰性度(1932年) ==
定義:''E''を原子同士の結合エネルギーとし、原子 A と原子 B の結合エネルギーの実測値を、''E''(A-B) とすると、純粋な共有結合と仮定した場合の結合エネルギーとの差、Δ''E''(A-B) が定義できる。
: <math> \Delta E({\rm A-B}) = E({\rm A-B}) - {1 \over 2} \{E({\rm A-A}) + E({\rm B-B})\} </math>
この Δ''E''(A-B) に関して、
: <math> \Delta E({\rm A-B}) = K (\chi_{\rm P}^{\rm A} - \chi_{\rm P}^{\rm B})^2 </math>
を満たすように決めた <math>\, \chi_{\rm P}^{\rm A}</math> が原子 A に関してのポーリングの電気陰性度である(<math>\, \chi_{\rm P}^{\rm B}</math>は原子 B の電気陰性度)。''K'' は適当な係数である。
<center>
{| WIDTH="80%" align="CENTER"
|- align="CENTER"
| [[元素の族|'''族''']]
| [[第1族元素|'''1''']]
| [[第2族元素|'''2''']]
| [[第3族元素|'''3''']]
| [[第4族元素|'''4''']]
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| [[第8族元素|'''8''']]
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| [[第12族元素|'''12''']]
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| [[第14族元素|'''14''']]
| [[第15族元素|'''15''']]
| [[第16族元素|'''16''']]
| [[第17族元素|'''17''']]
| [[第18族元素|'''18''']]
|- align="CENTER"
| [[元素の周期|'''周期''']]
| colspan=19 |
|- align="CENTER"
| [[第1周期元素|'''1''']]
| bgcolor="#ff8500" | [[水素|H]]<br />2.20
| colspan=16 |
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ヘリウム|He]]<br />
|- align="CENTER"
| [[第2周期元素|'''2''']]
| bgcolor="#ffd200" | [[リチウム|Li]]<br />0.98
| bgcolor="#ffaf00" | [[ベリリウム|Be]]<br />1.57
| colspan=10 |
| bgcolor="#ff8c00" | [[ホウ素|B]]<br />2.04
| bgcolor="#ff6900" | [[炭素|C]]<br />2.55
| bgcolor="#ff4600" | [[窒素|N]]<br />3.04
| bgcolor="#ff2300" | [[酸素|O]]<br />3.44
| bgcolor="#ff0000" | [[フッ素|F]]<br />3.98
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ネオン|Ne]]<br />
|- align="CENTER"
| [[第3周期元素|'''3''']]
| bgcolor="#ffd900" | [[ナトリウム|Na]]<br />0.93
| bgcolor="#ffc400" | [[マグネシウム|Mg]]<br />1.31
| colspan=10 |
| bgcolor="#ffaf00" | [[アルミニウム|Al]]<br />1.61
| bgcolor="#ff9a00" | [[ケイ素|Si]]<br />1.90
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| bgcolor="#ff4600" | [[塩素|Cl]]<br />3.16
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|- align="CENTER"
| [[第4周期元素|'''4''']]
| bgcolor="#ffe000" | [[カリウム|K]]<br />0.82
| bgcolor="#ffd200" | [[カルシウム|Ca]]<br />1.00
| bgcolor="#ffbd00" | [[スカンジウム|Sc]]<br />1.36
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| bgcolor="#ff9300" | [[コバルト|Co]]<br />1.88
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|- align="CENTER"
| [[第5周期元素|'''5''']]
| bgcolor="#ffe000" | [[ルビジウム|Rb]]<br />0.82
| bgcolor="#ffd200" | [[ストロンチウム|Sr]]<br />0.95
| bgcolor="#ffc400" | [[イットリウム|Y]]<br />1.22
| bgcolor="#ffb600" | [[ジルコニウム|Zr]]<br />1.33
| bgcolor="#ffa800" | [[ニオブ|Nb]]<br />1.6
| bgcolor="#ff7e00" | [[モリブデン|Mo]]<br />2.16
| bgcolor="#ff9300" | [[テクネチウム|Tc]]<br />1.9
| bgcolor="#ff7e00" | [[ルテニウム|Ru]]<br />2.2
| bgcolor="#ff7e00" | [[ロジウム|Rh]]<br />2.28
| bgcolor="#ff7e00" | [[パラジウム|Pd]]<br />2.20
| bgcolor="#ff9300" | [[銀|Ag]]<br />1.93
| bgcolor="#ffa100" | [[カドミウム|Cd]]<br />1.69
| bgcolor="#ffa100" | [[インジウム|In]]<br />1.78
| bgcolor="#ff9a00" | [[スズ|Sn]]<br />1.96
| bgcolor="#ff9300" | [[アンチモン|Sb]]<br />2.05
| bgcolor="#ff8500" | [[テルル|Te]]<br />2.1
| bgcolor="#ff6900" | [[ヨウ素|I]]<br />2.66
| bgcolor="#ff6900" | [[キセノン|Xe]]<br />2.6
|- align="CENTER"
| [[第6周期元素|'''6''']]
| bgcolor="#ffe700" | [[セシウム|Cs]]<br />0.79
| bgcolor="#ffd900" | [[バリウム|Ba]]<br />0.89
| * <br />
| bgcolor="#ffbd00" | [[ハフニウム|Hf]]<br />1.3
| bgcolor="#ffaf00" | [[タンタル|Ta]]<br />1.5
| bgcolor="#ff7000" | [[タングステン|W]]<br />2.36
| bgcolor="#ff9300" | [[レニウム|Re]]<br />1.9
| bgcolor="#ff7e00" | [[オスミウム|Os]]<br />2.2
| bgcolor="#ff7e00" | [[イリジウム|Ir]]<br />2.20
| bgcolor="#ff7e00" | [[白金|Pt]]<br />2.28
| bgcolor="#ff7000" | [[金|Au]]<br />2.54
| bgcolor="#ff9300" | [[水銀|Hg]]<br />2.00
| bgcolor="#ff9a00" | [[タリウム|Tl]]<br />1.62
| bgcolor="#ff7e00" | [[鉛|Pb]]<br />2.33
| bgcolor="#ff9300" | [[ビスマス|Bi]]<br />2.02
| bgcolor="#ff8c00" | [[ポロニウム|Po]]<br />2.0
| bgcolor="#ff7e00" | [[アスタチン|At]]<br />2.2
| bgcolor="#ff7e00" | [[ラドン|Rn]]<br />2.2
|- align="CENTER"
| [[第7周期元素|'''7''']]
| bgcolor="#ffff00" | [[フランシウム|Fr]]<br />0.7
| bgcolor="#ffef00" | [[ラジウム|Ra]]<br />0.9
| ** <br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ラザホージウム|Rf]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ドブニウム|Db]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[シーボーギウム|Sg]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ボーリウム|Bh]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ハッシウム|Hs]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[マイトネリウム|Mt]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ダームスタチウム|Ds]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[レントゲニウム|Rg]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[コペルニシウム|Cn]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ニホニウム|Nh]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[フレロビウム|Fl]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[モスコビウム|Mc]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[リバモリウム|Lv]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[テネシン|Ts]]<br />
| bgcolor="#bbbbbb" | [[オガネソン|Og]]<br />
|- align="CENTER"
|
|- align="CENTER"
| [[ランタノイド]]
| * <br />
| bgcolor="#ffe000" | [[ランタン|La]]<br />1.1
| bgcolor="#ffde00" | [[セリウム|Ce]]<br />1.12
| bgcolor="#ffde00" | [[プラセオジム|Pr]]<br />1.13
| bgcolor="#ffdd00" | [[ネオジム|Nd]]<br />1.14
| bgcolor="#ffde00" | [[プロメチウム|Pm]]<br />1.13
| bgcolor="#ffda00" | [[サマリウム|Sm]]<br />1.17
| bgcolor="#ffd800" | [[ユウロピウム|Eu]]<br />1.2
| bgcolor="#ffd800" | [[ガドリニウム|Gd]]<br />1.2
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| bgcolor="#ffd700" | [[ジスプロシウム|Dy]]<br />1.22
| bgcolor="#ffd600" | [[ホルミウム|Ho]]<br />1.23
| bgcolor="#ffd500" | [[エルビウム|Er]]<br />1.24
| bgcolor="#ffd400" | [[ツリウム|Tm]]<br />1.25
| bgcolor="#ffe000" | [[イッテルビウム|Yb]]<br />1.1
| bgcolor="#ffd300" | [[ルテチウム|Lu]]<br />1.27
|- align="CENTER"
| [[アクチノイド]]
| ** <br />
| bgcolor="#ffe000" | [[アクチニウム|Ac]]<br />1.1
| bgcolor="#ffd000" | [[トリウム|Th]]<br />1.3
| bgcolor="#ffc100" | [[プロトアクチニウム|Pa]]<br />1.5
| bgcolor="#ffca00" | [[ウラン|U]]<br />1.38
| bgcolor="#ffcc00" | [[ネプツニウム|Np]]<br />1.36
| bgcolor="#ffd200" | [[プルトニウム|Pu]]<br />1.28
| bgcolor="#ffde00" | [[アメリシウム|Am]]<br />1.13
| bgcolor="#ffd200" | [[キュリウム|Cm]]<br />1.28
| bgcolor="#ffd000" | [[バークリウム|Bk]]<br />1.3
| bgcolor="#ffd000" | [[カリホルニウム|Cf]]<br />1.3
| bgcolor="#ffd000" | [[アインスタイニウム|Es]]<br />1.3
| bgcolor="#ffd000" | [[フェルミウム|Fm]]<br />1.3
| bgcolor="#ffd000" | [[メンデレビウム|Md]]<br />1.3
| bgcolor="#ffd000" | [[ノーベリウム|No]]<br />1.3
| bgcolor="#bbbbbb" | [[ローレンシウム|Lr]]<br />
|- align="CENTER"
| colspan=20 |
|}</center>
== マリケンの電気陰性度(1934年) ==
定義:原子 A の[[イオン化エネルギー]]を ''I''<sub>A</sub>、[[電子親和力]]を ''E''<sub>A</sub>として、
: <math> \chi_{\rm M}^{\rm A} = {1 \over 2} (I_{\rm A} + E_{\rm A}) </math>
で求まる <math> \, \chi_{\rm M}^{\rm A}</math> が原子 A に関してのマリケンの電気陰性度である<ref name="shriver47">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.47。</ref>。原子 B では添え字が A → B になる。
[[ライナス・ポーリング]]の電気陰性度と[[ロバート・マリケン]]の電気陰性度は、原子毎のその値の大小関係の傾向が互いに類似し、
: <math>\chi_{\rm P}=1.35\sqrt{\chi_{\rm M}}-1.37</math>
のような換算式も存在する<ref name="shriver47" />。違いは、マリケンの電気陰性度では、その定義式右辺にある ''I''<sub>A</sub>、''E''<sub>A</sub> の値が周囲の状況によって異なることがあり、これにより同じ原子でもマリケンの電気陰性度が状況により異なることがある(例:[[アセチレン]]の炭素原子でのマリケンの電気陰性度は、[[メタン]]のそれより大きな値となる)。
== オールレッド・ロコウの電気陰性度 ==
定義:ある原子中の価電子の[[有効核電荷]]を ''Z''<sub>eff</sub>、原子の[[共有結合半径]]を ''r'' として、
: <math> \chi_{\rm AR} = 0.744 + {0.359Z_{\rm eff} \over r^2} </math>
で与えられる χ<sub>AR</sub> がオールレッド・ロコウの電気陰性度である<ref name="shriver48">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.48。</ref>。
この尺度は A. L. Allred と E. G. Rochow が提案したものであり、電気陰性度が原子表面の電場の強さで決定されるという考え方に基づいている<ref name="shriver47" />。原子表面での電位は ''Z''<sub>eff</sub>/''r'' に比例し、電場の強さは ''Z''<sub>eff</sub>/''r''<sup>2</sup> に比例する。これを用いて、ポーリングの電気陰性度と似通った値になるように係数を選んだのがこの尺度である<ref name="shriver48" />。
参考:[[w:en:Allred-Rochow scale]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{cite book | title=シュライバー無機化学(上) | publisher=[[東京化学同人]] | author=Shriver, D. F. and Atkins, P. W. | year=2001 | isbn=4-8079-0534-1 | 1=和書 | others=[[玉虫伶太]]・[[佐藤弦]]・[[垣花眞人]]訳|ref=shriver}}
== 関連項目 ==
* [[物理化学]]
* [[化学]]
== 外部リンク ==
* [http://www.chm.davidson.edu/ronutt/che115/electroneg.htm Electronegativity: Pauling, Allred-Rochow, and Mulliken-Jaffé Scales]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんきいんせいと}}
[[Category:原子]]
[[Category:物質の性質]]
|
2003-09-17T13:28:27Z
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2023-11-07T01:56:09Z
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17,186 |
薩摩国
|
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の西部に属する。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直としたとされる(『国造本紀』)。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと/はやと/しょうこう)に分立したのが、薩摩国の始まりである。(日向国から分離して設置される以前は、この地域は阿多(吾田) と呼ばれていた。)
唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう。
国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
明治維新直前の領域は、現在の鹿児島県の下記の区域に相当する。現住人口の過半数が鹿児島市に集中している。
なお、現在の出水郡長島町(長島・伊唐島・諸浦島・獅子島)は室町時代後期まで肥後国天草郡に属していたが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
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"text": "国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。",
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"text": "国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。",
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"text": "現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。",
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"text": "二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。",
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"text": "なお、現在の出水郡長島町(長島・伊唐島・諸浦島・獅子島)は室町時代後期まで肥後国天草郡に属していたが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。",
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"text": "高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。",
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] |
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の西部に属する。
|
{{otheruses|日本の地方区分であった薩摩|この名をとった戦艦|薩摩 (戦艦)}}
{{統合文字|薩|[[画像:Kanji for another OS version - satu.svg|20px]]}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 薩摩国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|薩摩国}}
|別称 = 薩州(さっしゅう)
|所属 = [[西海道]]
|領域 = [[鹿児島県]]西部
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 13郡35郷
|国府 = 鹿児島県[[薩摩川内市]]
|国分寺 = 鹿児島県薩摩川内市([[薩摩国分寺|薩摩国分寺跡]])
|国分尼寺 = (推定)鹿児島県薩摩川内市
|一宮 = [[新田神社 (薩摩川内市)|新田神社]](鹿児島県薩摩川内市)<br/>[[枚聞神社]](鹿児島県[[指宿市]])
}}
'''薩摩国'''(さつまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属し、現在の[[鹿児島県]]の西部に属する。
== 沿革 ==
『[[古事記]]』の[[国産み|国産み神話]]においては、[[筑紫島]](九州)の4面に[[筑紫国]]、[[豊国]]、[[肥国]]、[[熊襲|熊曽国]]が見える<ref>『古事記』神代記。</ref>。
古代の南九州は『古事記』『[[日本書紀]]』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった<ref name="地名27">『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。</ref>。この中で、[[アマテラス]]の孫の[[ニニギ]]が高千穂に降臨し([[天孫降臨]])、子の[[ホオリ]]が兄・[[ホデリ]]を懲らしめた旨とともに兄の子孫の[[隼人]]が今も天皇に仕える由来だと述べ([[山幸彦と海幸彦]])、ホオリの子・[[ウガヤフキアエズ]]は初代天皇・カムヤマトイワレビコ([[神武天皇]])の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる([[神武東征]])。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち[[7世紀]]後半から[[8世紀]]前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される<ref name="地名27"/>。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている<ref name="地名27"/>。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている<ref>『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。</ref>。
[[5世紀]]の[[仁徳天皇]]の御代には[[隼人]]の長を改めて[[直 (姓)|直]]としたとされる(『[[国造本紀]]』)。
[[7世紀]]中期以降に[[律令制]]の成立に伴って、現在の[[鹿児島県]]の本土部分と[[宮崎県]]を含む広域に、[[日向国]]が成立した<ref name="名前なし-1">『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。</ref>。
[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])8月1日に起こった薩摩・[[多禰国|多褹]]の叛乱を契機に<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第二|『続日本紀』巻二]] 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。</ref>、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日までに'''唱更'''国(唱更 = はやひと<ref>「薩摩国」『世界大百科事典』 平凡社、「薩摩国」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 講談社、「西海道」『国史大辞典』 吉川弘文館。</ref>/はやと<ref>「九州地方」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 講談社。</ref>/しょうこう<ref>「薩摩国」『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』 平凡社。</ref>)に分立したのが、薩摩国の始まりである<ref name="名前なし-1"/>。(日向国から分離して設置される以前は、この地域は'''阿多'''(吾田) と呼ばれていた。)
唱更の更は、中国の[[漢]]代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう<ref>新日本古典文学大系『続日本紀』一の345頁、補注2の157。</ref>。
国名は、大宝4年([[704年]])に全国の[[国印]]を鋳造したときまでに'''薩麻'''国に改められた<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。[[8世紀]]半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)[[評]]が設置されていた。それは、文武天皇3年([[699年]])南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が'''[[鹿児島藩]]'''領であった。(307村・319,146石余)
** [[伊佐郡]](49村・51,340石余)、[[薩摩郡]](29村・38,647石余)、[[日置郡]](50村・46,562石余)、[[谿山郡]](8村・12,577石余)、[[揖宿郡]](11村・12,893石余)、[[頴娃郡]](8村・10,875石余)、[[鹿児島郡]](25村・27,368石余)、[[給黎郡]](8村・9,634石余)、[[甑島郡]](14村・3,508石余)、[[阿多郡]](20村・18,211石余)、[[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]](36村・30,444石余)、[[高城郡 (鹿児島県)|高城郡]](11村・12,657石余)、[[出水郡]](38村・44,424石余)
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鹿児島県]]'''の管轄となる。
* 明治30年([[1897年]])[[4月1日]]
** [[北伊佐郡]]・[[大隅国]][[菱刈郡]]の区域をもって[[伊佐郡]]が発足。旧・菱刈郡域が薩摩国の所属となる。
** [[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]のうち川辺郡十島([[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]、[[黒島 (鹿児島県)|黒島]]、[[竹島 (鹿児島県)|竹島]]、[[口之島]]、[[臥蛇島]]、[[平島 (鹿児島県)|平島]]、[[中之島 (鹿児島県)|中之島]]、[[悪石島]]、[[諏訪之瀬島]]、[[宝島 (鹿児島県)|宝島]])の所属郡が[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]に変更。大隅国の所属となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
国府は、『[[和名抄]]』、『[[色葉字類抄]]』、『[[拾芥抄]]』、易林本の『[[節用集]]』、いずれも記載がない。
現在の[[薩摩川内市]]の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある[[鹿児島県立川内高等学校|川内高校]]の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、[[1964年]]([[昭和]]39年)にこの高校が関連[[遺跡]]を発見した。[[国衙]]の遺跡はまだ見つかっていない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
; [[薩摩国分寺]]跡
: [[薩摩川内市]][[国分寺町 (薩摩川内市)|国分寺町]]。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社2座2社が記載されている(「[[薩摩国の式内社一覧]]」参照)。大社はない。
* [[頴娃郡]] [[枚聞神社]] ([[指宿市]])
* [[出水郡]] [[加紫久利神社]] ([[出水市]])
; [[総社]]・[[一宮]]
* 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
* 一宮 '''[[新田神社 (薩摩川内市)|新田神社]]''' (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
: 元々の一宮は[[枚聞神社]]であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに[[守護]]の[[島津氏]]の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた[[近代社格制度|社格]]も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市[[中郷 (薩摩川内市)|中郷町]]。
* 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
== 地域 ==
=== 領域 ===
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[鹿児島県]]の下記の区域に相当する。現住人口の過半数が[[鹿児島市]]に集中している。
* [[出水郡]][[長島町]]
* [[阿久根市]]
* [[出水市]]
* [[伊佐市]]の北部(大口青木・大口原田・大口金波田・大口堂崎・大口下殿・大口宮人以北<ref group="注釈">残りの市域南部も[[1897年]]([[明治]]30年)に薩摩国に編入。</ref>)
* [[薩摩郡]][[さつま町]]
* [[薩摩川内市]]
* [[いちき串木野市]]
* [[日置市]]
* 鹿児島市の大部分([[桜島]]を除く<ref group="注釈">桜島は1897年(明治30年)に薩摩国に編入。</ref>)
* [[指宿市]]
* [[南九州市]]
* [[枕崎市]]
* [[南さつま市]]
* [[鹿児島郡]][[三島村]]・[[十島村]]<ref group="注釈">いずれも1897年(明治30年)に[[大隅国]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]に移管されたが、[[1973年]]([[昭和]]48年)に所属郡が鹿児島郡に変更されている。</ref>
なお、現在の出水郡長島町([[長島 (鹿児島県)|長島]]・[[伊唐島]]・[[諸浦島]]・[[獅子島]])は[[室町時代]]後期まで[[肥後国]][[天草郡]]に属していたが、[[1565年]]([[永禄]]8年)から[[1581年]]([[天正]]9年)にかけて[[島津氏]]から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。
=== 郡 ===
高城郡には薩摩[[国府]]が置かれ、その北の出水郡とともに[[肥後国]]から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。[[養老]]4年(720年)の[[大隅国]]での[[隼人の反乱]]に際しては、これら2郡が補給基地となった。[[天平]]8年([[735年]])の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち[[伊佐郡]]を除いた13郡があり、前2郡の他は[[隼人]]が治めていたことが分かる。その約200年後の[[10世紀]]の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、[[近世]]初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
*[[出水郡]]
*[[高城郡 (鹿児島県)|高城郡]]
*[[薩摩郡]]
*[[伊佐郡]]
*[[甑島郡]]
*[[日置郡]]
*[[伊作郡]](後に阿多郡と統合)
*[[阿多郡]]
*[[谿山郡]]
*[[川辺郡 (鹿児島県)|河辺郡]]
*[[給黎郡]]
*[[揖宿郡]]
*[[頴娃郡]]
*[[鹿児島郡]]
=== 江戸時代の藩 ===
*[[薩摩藩]]、[[島津氏|島津家]](77万石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{main|薩摩国司}}
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1197年 - 1227年:[[島津忠久]]
*1227年 - 1265年:[[島津忠時]]
*1265年 - 1281年:[[島津久経]]
*1281年 - 1318年:[[島津忠宗]]
*1318年 - 1333年:[[島津貞久]]
==== 室町幕府 ====
*1333年 - 1363年:[[島津貞久]]
*1336年 - 1342年:[[阿蘇惟時]]
*1363年 - 1366年:[[島津師久]]
*1366年 - 1376年:[[島津伊久]]
*1376年 - {{0}}{{0}}?{{0}}{{0}}:[[今川貞世]]
*1393年 - 1411年:[[島津元久]]
*1411年 - 1425年:[[島津久豊]]
*1425年 - 1470年:[[島津忠国]]
*1470年 - 1474年:[[島津立久]]
*1474年 - 1507年:[[島津忠昌]]
*1507年 - 1515年:[[島津忠治]]
*1515年 - 1519年:[[島津忠隆]]
*1519年 - 1527年:[[島津勝久]]
*1527年 - 1566年:[[島津貴久]]
*1566年 - 1602年:[[島津義久]]
=== 戦国大名 ===
*[[島津氏]]
== 薩摩国の合戦 ==
{| class="wikitable"
!年
!合戦
!交戦勢力
|-
|[[養老]]4{{smaller|〜}}5年{{smaller| (720–21)}}
|[[隼人の反乱]]
|[[隼人|ハヤト族]] vs. [[ヤマト王権]]
|-
|[[長徳]]3年{{smaller| (997)}}
|[[新羅の入寇#長徳の入寇|長徳の入寇]]
|南蛮人{{smaller|(高麗国人?奄美島人?)}} vs. 九州全域の沿岸住民
|-
|[[応永]]20年{{smaller| (1413)}}
|[[伊集院頼久の乱]]
|[[島津久豊]] vs. [[伊集院頼久]]
|-
|[[天正]]15年{{smaller| (1587)}}
|[[九州征伐#薩摩の戦い|平佐城の戦い]]
|[[島津氏]] vs. [[豊臣政権]]
|-
|[[文久]]3年{{smaller| (1863)}}
|[[薩英戦争]]
|薩摩藩 vs. [[イギリス]]
|-
|[[明治]]10年{{smaller| (1877)}}
|[[西南戦争]]
|[[士族反乱|不平士族]] vs. [[明治政府]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈===
{{Notelist}}
=== 脚注 ===
<references />
== 参考文献 ==
* [[青木和夫]]・[[稲岡耕二]]・[[笹山晴生]]・[[白藤禮幸]]校注『[[続日本紀]]』一(新日本古典文学大系12)、岩波書店、1989年。
* [[角川日本地名大辞典]] 46 鹿児島県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Satsuma Province}}
{{Wiktionary|薩摩国}}
* [[令制国一覧]]
* [[三国名勝図会]]
* [[薩摩焼]]
* [[サツマイモ]]
*[[薩摩 (戦艦)|薩摩(戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[薩摩型戦艦]]の1番艦。艦名は薩摩国に因む。
{{令制国一覧}}
{{薩摩国の郡}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:西海道|国さつま]]
[[Category:鹿児島県の歴史]]
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17,189 |
近鉄湯の山線
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湯の山線(ゆのやません)は、三重県四日市市の近鉄四日市駅から三重県三重郡菰野町の湯の山温泉駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
鈴鹿山脈の麓にある湯の山温泉や御在所山への観光路線であるが、かつての宿場など比較的住宅の密集した地域を結んでおり、また沿線には近鉄グループや三交グループによって開発された大規模団地や県立の高校が集まっているため、地域住民の通勤・通学などの生活路線としての役割も担う。
ローカル線の加算運賃が適用されている。2007年4月1日より各駅に簡易改札機を設置し、PiTaPaおよびICOCAの利用が可能となった(2013年3月23日にはTOICA、manacaなどとの全国相互利用サービスを開始)。2012年10月ごろに中川原駅 - 菰野駅間の各駅には自動改札機が導入され、同時に近鉄四日市駅、桜駅、湯の山温泉駅を除く全ての駅が無人化された。
湯の山線ではワンマン列車であっても、ホーム側のすべてのドアが開く。ただし中菰野駅と大羽根園駅は簡易改札機による対応であるため、乗車券利用の場合は一番前のドアから下車する必要がある。
かつては特急が定期運行されていたため、一部の駅は一線スルーに対応し、高角駅 - 桜駅間では特急の続行運転ができるよう駅間で閉塞区間が分割されている。
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
現在は線内折り返しでワンマン運転の普通列車が主に朝夕15 - 20分、昼間約30分に1本の間隔で運行されているのみで、定期列車としては特急などの通過駅を伴う列車は運転されていない。
1990年代後半までは近鉄名古屋駅発着の臨時急行列車の直通運転もあった。また1970年代初めまでは近鉄名古屋駅発着の直通準急も定期列車で設定されていた。直通運転開始時の1964年時点では湯の山線内も準急が設定され、伊勢松本駅・桜駅・菰野駅に停車していた。
かつては湯の山特急が近鉄難波駅(現在の大阪難波駅)・近鉄名古屋駅 - 湯の山温泉駅間で直通運転されていたが、後に近鉄四日市駅 - 湯の山温泉駅間だけの運転(近鉄四日市駅で大阪・名古屋方面からの特急に接続)となり、さらに土休日のみの運転に縮小され、2004年3月のダイヤ変更で全廃された。しかし現在でも、特急車両の方向幕には「湯の山温泉」あるいは「名古屋 湯の山温泉」の表示が残っており、前者は後述する臨時の復活運転時に使われている。この名残から、湯の山温泉駅では特急券の発行設備が2018年3月17日現在でも残されている。
2008年以降、毎年夏(7月下旬 - 8月上旬の土曜・休日、2012年は7月14日 - 8月25日の土曜、2013年は7月20日 - 8月24日の土曜、2014年は7月19日 - 8月23日の土曜と8月17日、2015年は7月18日 - 8月22日の土曜と8月16日)に近鉄名古屋駅 - 湯の山温泉駅間の特急が1往復臨時運行されている。2008年は御在所ロープウェイ開通50年および鈴鹿国定公園指定40周年を記念し、初めて臨時運行された。2009年以降は「湯の山温泉サマーライナー」の愛称が付けられ2017年夏期まで運行された。地元提供の特製ヘッドマークが掲出されていたほか、近鉄名古屋駅での出発式や、湯の山温泉における指定施設での特典が受けられる乗車記念証の配布などのイベントも行われた。
なお、大晦日から元日にかけての終夜運転は、湯の山線では現在は実施されていないが、2019年と2020年の元日4時台に普通列車を1本増発して「初日の出号」として御在所岳へのアクセスを図った。
四日市鉄道が1913年に軌間762mm(ナローゲージ)の軽便鉄道として開業させた。後に国鉄の四日市駅まで延伸されるが、現在の近鉄名古屋線の前身である伊勢電気鉄道の桑名延伸に伴い、四日市駅 - 諏訪駅(現在の近鉄四日市駅)間を1927年度に廃止した。
以後、三重鉄道への合併を経て、さらに三重県下の交通事業者統合で三重交通になり、内部線・八王子線とあわせて三重線と称し、湯の山 - 四日市 - 内部間で直通運転していた。1964年に三重電気鉄道へと分社、標準軌に改軌、架線電圧を直流750Vから直流1,500Vに昇圧し、内部線・八王子線との直通運転をやめて近鉄名古屋線と直通運転を開始。1965年に近畿日本鉄道の路線となった。
廃止区間の駅は次節を参照。
四日市市駅 - 諏訪駅 - 堀木駅
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湯の山線(ゆのやません)は、三重県四日市市の近鉄四日市駅から三重県三重郡菰野町の湯の山温泉駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 湯の山線
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|ロゴ = [[file:KT number-K.svg|40px|K]]
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|画像説明 = 湯の山温泉駅へ向かう列車
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|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|最大勾配 =
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]-->
|最高速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 =
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#153f97
|title-color=white
|map=
{{BS||||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[関西本線]]|}}
{{BS5||STRq|BHFq|O3=HUBa|STRq|STRq|||[[四日市駅]]|}}
{{BS5|exSTR+l|exSTRq|exBHFq|O3=HUB|exSTRq|exSTRq|||''[[近鉄名古屋線|名古屋線]]旧線''|}}
{{BS5|exSTR|exKBHFa|O2=HUBaq|exKBHFa|O3=HUBrf||||''[[四日市駅|四日市市駅]]''|-1928||}}
{{BS5|exSTR|exSTR|exBHF||||''諏訪前駅''|-1928|}}
{{BS5|exBHF|O1=HUBaq|exBHF|O2=HUBeq|exSTR||||''[[近鉄四日市駅#諏訪駅|諏訪駅]]''|-1956|}}
{{BS5|exSTR|exABZgl|exABZql|exSTRq|exSTR+r||||}}
{{BS5|eABZqr|xKRZu+k2|kABZq+3|BHFq|O4=HUBa|xKRZu|0.0|K21 [[近鉄四日市駅]]|[[近鉄名古屋線|{{近鉄駅番号|E}} 名古屋線]]|}}
{{BS5||exSTR+l|O2=xkABZg+1|exSTRq|KBHFxaq|O4=HUBe|xABZg+r|||[[近鉄四日市駅|あすなろう四日市駅]]|}}
{{BS5||STR|||STR|||[[四日市あすなろう鉄道]]:[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]]|}}
{{BS3|eBHF||||''[[堀木駅]]''|-1969|}}
{{BS3|BHF|||1.7|K22 [[中川原駅]]||}}
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{{BS3|BHF|||2.8|K23 [[伊勢松本駅]]||}}
{{BS3|eBHF||||''[[小生駅]]''|-1969|}}
{{BS3|BHF|||5.3|K24 [[伊勢川島駅]]||}}
{{BS3|BHF|||6.7|K25 [[高角駅]]||}}
{{BS3|hKRZWae|||||矢合川||}}
{{BS3|SKRZ-Au|||||[[東名阪自動車道]]|}}
{{BS3|BHF|||8.7|K26 [[桜駅 (三重県)|桜駅]]||}}
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{{BS3|eBHF||||''[[神森駅]]''|-1969|}}
{{BS3|eBHF||||''[[宿野駅]]''|-1969|}}
{{BS3|BHF|||11.3|K27 [[菰野駅]]||}}
{{BS3|BHF|||12.6|K28 [[中菰野駅]]||}}
{{BS3|BHF|||13.5|K29 [[大羽根園駅]]||}}
{{BS3|KBHFe|||15.4|K30 [[湯の山温泉駅]]||}}
}}
'''湯の山線'''(ゆのやません)は、[[三重県]][[四日市市]]の[[近鉄四日市駅]]から三重県[[三重郡]][[菰野町]]の[[湯の山温泉駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
== 概要 ==
[[鈴鹿山脈]]の麓にある[[湯の山温泉 (三重県)|湯の山温泉]]や[[御在所岳|御在所山]]への観光路線であるが、かつての宿場など比較的住宅の密集した地域を結んでおり、また沿線には[[近鉄グループホールディングス#不動産部門|近鉄グループ]]や[[三重交通グループホールディングス#不動産業|三交グループ]]によって開発された大規模団地や県立の高校が集まっているため、地域住民の通勤・通学などの生活路線としての役割も担う。
ローカル線の加算運賃が適用されている。[[2007年]][[4月1日]]より各駅に簡易改札機を設置し、[[PiTaPa]]および[[ICOCA]]の利用が可能となった([[2013年]][[3月23日]]には[[TOICA]]、[[manaca]]などとの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]を開始)。[[2012年]]10月ごろに[[中川原駅]] - [[菰野駅]]間の各駅には自動改札機が導入され、同時に[[近鉄四日市駅]]、[[桜駅 (三重県)|桜駅]]、[[湯の山温泉駅]]を除く全ての駅が無人化された。
湯の山線では[[ワンマン運転|ワンマン]]列車であっても、[[プラットホーム|ホーム]]側のすべてのドアが開く。ただし中菰野駅と大羽根園駅は簡易改札機による対応であるため、乗車券利用の場合は一番前のドアから下車する必要がある。
かつては特急が定期運行されていたため、一部の駅は[[一線スルー]]に対応し、高角駅 - 桜駅間では特急の続行運転ができるよう駅間で[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]区間が分割されている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):15.4 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:10駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:80 km/h<ref name="terada" />
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
== 運行形態 ==
現在は線内折り返しで[[ワンマン運転]]の普通列車が主に朝夕15 - 20分、昼間約30分に1本の間隔で運行されているのみで、定期列車としては特急などの通過駅を伴う列車は運転されていない。
[[1990年代]]後半までは近鉄名古屋駅発着の臨時[[急行列車]]の直通運転もあった。また[[1970年代]]初めまでは近鉄名古屋駅発着の直通準急も定期列車で設定されていた。直通運転開始時の1964年時点では湯の山線内も準急が設定され、[[伊勢松本駅]]・[[桜駅 (三重県)|桜駅]]・[[菰野駅]]に停車していた<ref>『名古屋近郊電車のある風景今昔』(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 JTB 2003年) ISBN 4533045987 のp176に当時の時刻表が停車駅付きで記載</ref>。
かつては[[近鉄特急#湯の山特急|湯の山特急]]が近鉄難波駅(現在の[[大阪難波駅]])・[[近鉄名古屋駅]] - 湯の山温泉駅間で直通運転されていたが、後に近鉄四日市駅 - 湯の山温泉駅間だけの運転(近鉄四日市駅で大阪・名古屋方面からの特急に接続)となり、さらに土休日のみの運転に縮小され、2004年3月のダイヤ変更で全廃された。しかし現在でも、特急車両の[[方向幕]]には「湯の山温泉」あるいは「名古屋 湯の山温泉」の表示が残っており、前者は後述する臨時の復活運転時に使われている。この名残から、湯の山温泉駅では特急券の発行設備が2018年3月17日現在でも残されている<ref name="近鉄時刻表_20180317_営業案内">近鉄時刻表2018年3月17日ダイヤ変更号、p.81 - p.87</ref>。
2008年以降、毎年夏(7月下旬 - 8月上旬の土曜・休日、2012年は7月14日 - 8月25日の土曜、2013年は7月20日 - 8月24日の土曜、2014年は7月19日 - 8月23日の土曜と8月17日、2015年は7月18日 - 8月22日の土曜と8月16日)に近鉄名古屋駅 - 湯の山温泉駅間の特急が1往復臨時運行されている。2008年は[[御在所ロープウェイ]]開通50年および[[鈴鹿国定公園]]指定40周年を記念し、初めて臨時運行された<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/yunoyama20080513.pdf 名古屋 - 湯の山温泉直通臨時特急運転]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2008年5月13日</ref>。2009年以降は「湯の山温泉サマーライナー」の愛称が付けられ2017年夏期まで運行された<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/090617yunoyamasummerliner.pdf 納涼特急「湯の山温泉サマーライナー」を運転します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2009年6月17日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/20100603yunoyama%20.pdf 「湯の山温泉サマーライナー」を運転します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年6月3日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/120620yunoyamasummerliner.pdf 今年も納涼特急「湯の山温泉サマーライナー」を運転します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2012年6月20日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/samaraina.pdf 電車とお酒のいい関係納涼ビール特急「湯の山温泉サマーライナー」を運行します〜この夏、市街地より10℃も涼しい避暑地、御在所岳へ〜 ]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2013年6月7日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/yunoyama.pdf 電車とお酒のいい関係!!今年も納涼ビール特急「湯の山温泉サマーライナー」を運行します。〜乗車特典いっぱいの特急に乗って夏の湯の山温泉・御在所岳へ〜]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2014年6月13日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/samatuaa.pdf 今年も納涼特急「湯の山温泉サマーライナー」を運行します 〜行きも帰りも乗車特典いっぱいの特急で夏の湯の山温泉・御在所岳の旅へ〜]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2015年6月11日</ref>。地元提供の特製ヘッドマークが掲出されていたほか、近鉄名古屋駅での出発式や、湯の山温泉における指定施設での特典が受けられる乗車記念証の配布などのイベントも行われた。
なお、[[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]は、湯の山線では現在は実施されていないが、2019年と2020年の元日4時台に普通列車を1本増発して「初日の出号」として御在所岳へのアクセスを図った<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hayuhinodegou.pdf 初日の出観賞に便利なロープウェイと列車を運行します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2018年11月22日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2020hatsuhinodegou.pdf 初日の出観賞に便利なロープウェイと列車を運行します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース、2019年12月18日</ref>。
== 使用車両 ==
[[ファイル:恋結びの町 湯の山.JPG|150px|thumb|湯の山線の運用車両に取り付けられている看板。このデザインの物は2015年6月まで使われていた。]]
=== 現用車両 ===
; 一般車両
: 一般車両については、同じ三重県内のワンマン路線である[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]と共通で運用されている。途中の駅は3両編成まで対応のため、以下の車両が使われる。
:*[[近鉄1010系電車|1010系]] - ワンマン改造車のみ。
:*[[近鉄2000系電車|2000系]] - ワンマン改造車のみ。
:*[[近鉄2400系電車#2444系|2444系]] - [[近鉄2400系電車|2430系]]のワンマン改造車
: ただし、ダイヤ混乱時など車両のやりくりが出来ない時はワンマン非対応の車両が使用され車掌が乗務する。
; 特急車両
: 特急車両については、夏季の臨時特急列車として入線することがあり、それ以外の時期においても貸切列車として入線する場合がある。
:*[[近鉄12200系電車|12200系]] - 2008年と2009年の臨時列車で2両編成車が入線。定期運転廃止以前の湯の山特急でも運用
:*[[近鉄22000系電車|22000系]] - 2010年の臨時列車で2両編成車が入線。定期運転廃止以前の湯の山特急でも運用
:*[[近鉄22600系電車|22600系]] - 2011年以降の臨時列車で2両編成車が入線
=== 過去の車両 ===
{{Main2|ナローゲージ時代の使用車両|四日市あすなろう鉄道内部線#使用車両}}
; 一般車両
:*[[近鉄1000系電車|1000系]] - ワンマン運転開始前まで運用
:*[[近鉄1480系電車|1480系]] - 同上
:*[[近鉄1400系電車#2050系|2050系]] - 同上
:*[[近鉄1480系電車#2470系|2470系]] - 同上
:*[[近鉄2600系電車#2680系|2680系]] - 同上
:*[[近鉄2600系電車#2800系|2800系]] - 同上
; 特急車両
: これらは線内運転と近鉄名古屋直通および名阪乙特急併結の湯の山特急において運用されていた。
:*[[近鉄10100系電車|10100系]]
:*[[近鉄11400系電車|11400系]]
:*[[近鉄12000系電車|12000系]]
:*[[近鉄12400系電車|12400系]] - お召し列車でも入線
:*[[近鉄12400系電車|12410系]]
:*[[近鉄12400系電車|12600系]]
:*[[近鉄30000系電車|30000系]] - 原型車のさよなら運転時にも入線
== 歴史 ==
{{基礎情報 会社
|社名 = 四日市鉄道
|ロゴ = [[File:Yokkaichi Railway logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[三重県]][[四日市市]]浜田<ref name="NDLDC1023122"/>
|設立 = [[1911年]](明治44年)5月<ref name="NDLDC1023122"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[熊澤一衛]]<ref name="NDLDC1023122"/>
|資本金 = 300,000円(払込額)<ref name="NDLDC1023122"/>
|特記事項 = 上記データは1930年(昭和5年)現在<ref name="NDLDC1023122">[{{NDLDC|1023122/579}} 『日本全国諸会社役員録. 第38回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
四日市鉄道が1913年に軌間762mm([[狭軌|ナローゲージ]])の[[軽便鉄道]]として開業させた。後に国鉄の[[四日市駅]]まで延伸されるが、現在の近鉄名古屋線の前身である[[伊勢電気鉄道]]の桑名延伸に伴い、四日市駅 - 諏訪駅(現在の近鉄四日市駅)間を1927年度に廃止した。
以後、三重鉄道への合併を経て、さらに三重県下の交通事業者統合で[[三重交通]]になり、内部線・八王子線とあわせて三重線と称し、湯の山 - 四日市 - 内部間で直通運転していた。1964年に三重電気鉄道へと分社、[[標準軌]]に[[改軌]]、架線電圧を直流750Vから直流1,500Vに昇圧し、内部線・八王子線との直通運転をやめて[[近鉄名古屋線]]と直通運転を開始。1965年に近畿日本鉄道の路線となった。
*[[1910年]]([[明治]]43年)11月17日:四日市鉄道に対し鉄道免許状下付(四日市-菰野間)<ref>[{{NDLDC|805360/110}} 『鉄道院年報. 明治43年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1913年]]([[大正]]2年)
**[[6月1日]]:四日市鉄道が川島村駅(現在の伊勢川島駅) - 湯ノ山駅(現在の湯の山温泉駅)間(川島村-高角-桜村-神森-菰野-中菰野-湯ノ山)を開業<ref>[{{NDLDC|2952353/9}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年6月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[9月24日]]:諏訪駅 - 川島村駅間(諏訪-堀木-芝田村-中川原-松本村-川島村)が開業<ref>[{{NDLDC|2952454/6}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年10月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1916年]](大正5年)[[3月5日]]:四日市駅 - 諏訪駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2953195/6}} 「軽便鉄道運輸開始及哩程異動」『官報』1916年3月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*1918年(大正7年)2月20日:芝田村及び中菰野駅廃止<ref>[{{NDLDC|2953783/8}} 「軽便鉄道停留場廃止」『官報』1918年2月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1919年]](大正8年):この年までに四日市駅を四日市市駅に改称。
*[[1921年]](大正10年)[[11月1日]]:四日市市駅 - 湯ノ山駅間が電化<ref>[{{NDLDC|1190630/62}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1926年]](大正15年)1月1日:松本村駅を伊勢松本駅に改称<ref>[{{NDLDC|2956257/8}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1926年5月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1927年]]([[昭和]]2年)
**[[4月1日]]:中菰野駅再開業。
**[[11月29日]]:四日市市駅 - 諏訪駅間が廃止、伊勢電気鉄道へ跡地譲渡。
*[[1928年]](昭和3年):[[気動車|ガソリン動車]]の[[三重鉄道シハ31形気動車|ジ41形]]([[日本車輌製造]]製)使用開始。
*[[1931年]](昭和6年)[[3月18日]]:四日市鉄道が三重鉄道に吸収合併され、三重鉄道となる<ref>[{{NDLDC|1073565/9}} 『鉄道統計資料. 昭和5年度 第3編 監督』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1936年]](昭和11年)[[12月26日]]:中川原駅 - 伊勢松本駅間に製絨所前駅開業。
*[[1943年]](昭和18年):諏訪駅が移転、0.1km短縮。
*[[1944年]](昭和19年)[[2月11日]]:三重鉄道ほか6社が合併し、三重交通が発足。内部・八王子線と合わせて三重線となる。
*[[1952年]](昭和27年):この年までに諏訪駅 - 中川原駅間の堀木駅、中川原駅 - 伊勢松本駅間の製絨所前駅、松本村駅 - 川島村駅間の小生駅、桜村駅 - 菰野駅間の神森駅・宿野駅休止。
*[[1954年]](昭和29年)7月:川島村駅を伊勢川島駅、桜村駅を桜駅に改称。
*[[1956年]](昭和31年)[[9月23日]]:名古屋線四日市付近経路変更に伴い、諏訪駅 - 中川原駅間が廃止、近畿日本四日市駅(現在の近鉄四日市駅) - 中川原間の新線が開業。
*[[1959年]](昭和34年):架線電圧を直流600Vから直流750Vに昇圧。
*[[1964年]](昭和39年)
**[[2月1日]]:三重交通が鉄道事業を三重電気鉄道に分離譲渡。
**[[3月1日]]:軌間を762mmから1,435mmに改軌。架線電圧を直流1,500Vに昇圧。内部・八王子線との直通運転を廃止。桜駅を移転するとともにその近辺は大幅に経路変更<ref>{{Cite journal |和書|title=湯ノ山線改軌|date=1964-05|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|number=157|page=86}}</ref>。
**[[3月23日]]:近鉄名古屋線と準急列車の直通運転開始<ref>{{Cite journal |和書|title=3月のメモ帳|date=1964-05|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|number=157|page=78}}</ref>。大羽根園駅開業。
*[[1965年]](昭和40年)
**4月1日:近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併。
**[[7月15日]]:近畿日本名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)発着の名古屋線・上本町駅(現・[[大阪上本町駅]])発着の[[近鉄大阪線|大阪線]]直通の特急運転開始。
*[[1968年]](昭和43年)[[10月17日]]:ATS使用開始。
*[[1969年]](昭和44年)[[5月15日]]:休止中の堀木駅・製絨所前駅・小生駅・神森駅・宿野駅廃止。
*[[1970年]](昭和45年)[[8月1日]]:湯の山駅を湯の山温泉駅に改称。
*[[1983年]](昭和58年)[[3月]]:大阪線直通特急を難波駅(現・[[大阪難波駅]])発着として、名阪乙特急との併結運転([[白子駅]]で[[増解結]])を開始。
*[[1997年]]([[平成]]9年)[[3月18日]]:名古屋線直通の特急列車廃止。
*[[1998年]](平成10年)[[3月17日]]:大阪線直通の特急列車廃止。特急の運転区間が線内のみとなる。
*[[1999年]](平成11年)[[3月16日]]:普通列車のワンマン運転開始。
*[[2002年]](平成14年)[[3月20日]]:線内で運転されている特急を土曜・休日のみの運行に変更。
*[[2004年]](平成16年)[[3月18日]]:線内で運転されていた特急を廃止。<!-- 週末運転のため14日が最終運転日 -->
*[[2007年]](平成19年)4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
*[[2008年]](平成20年)[[7月19日]] - [[8月10日]]:[[御在所ロープウェイ]]開通50年および[[鈴鹿国定公園]]指定40周年を記念して、期間中の土曜・休日に特急の復活運転を実施。
*[[2009年]](平成21年)[[7月18日]] - 8月10日:土・休日のみの期間限定で、臨時納涼特急「湯の山温泉サマーライナー」の運転を実施。以後2017年まで毎年夏に運転。
*[[2010年]](平成22年)4月1日:近鉄四日市駅 - 湯の山温泉間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)の運用開始<ref name="knnews100330">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100330KRONOS.pdf 名古屋列車運行管理システム「KRONOS」が運用開始します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年3月30日</ref>。
*[[2012年]](平成24年)3月20日:昼間時毎時3本から2本に減便。
== 駅一覧 ==
=== 営業中の区間 ===
*全駅[[三重県]]内に所在。
*普通列車のみ運転、全列車が各駅に停車。
*大羽根園駅を除き[[列車交換]]可能。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #153f97;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #153f97;"|所在地
|-
!K21
|[[近鉄四日市駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]] (E21)<br />[[四日市あすなろう鉄道]]:{{Color|#00a0e8|■}}[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]]([[近鉄四日市駅|あすなろう四日市駅]])
|rowspan="6" style="white-space:nowrap;"|[[四日市市]]
|-
!K22
|[[中川原駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|1.7
|
|-
!K23
|[[伊勢松本駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|2.8
|
|-
!K24
|[[伊勢川島駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|5.3
|
|-
!K25
|[[高角駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|6.7
|
|-
!K26
|[[桜駅 (三重県)|桜駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|8.7
|
|-
!K27
|[[菰野駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|11.3
|
|rowspan="4"|[[三重郡]]<br />[[菰野町]]
|-
!K28
|[[中菰野駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|12.6
|
|-
!K29
|[[大羽根園駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|13.5
|
|-
!K30
|[[湯の山温泉駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|15.4
|
|}
=== 廃駅 ===
廃止区間の駅は次節を参照。
*[[堀木駅]](近鉄四日市駅 - 中川原駅間) - 1952年以前休止、1969年廃止。
*[[製絨所前駅]](中川原駅 - 伊勢松本駅間) - 1952年以前休止、1969年廃止。
*[[小生駅]](伊勢松本駅 - 伊勢川島駅間) - 1952年以前休止、1969年廃止。
*[[神森駅]](桜駅 - 菰野駅間) - 1952年以前休止、1969年廃止。
*[[宿野駅]](桜駅 - 菰野駅間) - 1952年以前休止、1969年廃止。
=== 廃止区間 ===
[[四日市駅|四日市市駅]] - [[近鉄四日市駅#諏訪駅|諏訪駅]] - 堀木駅
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『まるごと近鉄ぶらり沿線の旅』(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 河出書房新社 2005年) ISBN 4309224393
*『名古屋近郊電車のある風景今昔』(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 JTB 2003年) ISBN 4533045987
*『名古屋近郊電車のある風景今昔 2』(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 JTB 2004年) ISBN 4533050980
* カラーブックス『日本の私鉄 近鉄1』(著者・編者 諸河久・杉谷広規、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 458650904X
* カラーブックス『日本の私鉄 近鉄2』(著者・編者 諸河久・山辺誠、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 4586509058
*『近鉄時刻表』各号 (著者・編者 [[近畿日本鉄道]]、出版・発行 同左)
*『鉄道ピクトリアル'03年1月号増刊 特集:近畿日本鉄道』(著者・編者 電気車研究会 出版・発行 同左)
*和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、ISBN 4-88548-065-5
*今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』新潮社、2008年、ISBN 978-4-10-790026-5
*[http://www.kintetsu.jp/kouhou/History/A10004.html 近鉄ストーリー] - 近畿日本鉄道(公式サイト)
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|ゆのやません]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|ゆのやま]]
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[[Category:三重鉄道|路ゆのやません]]
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17,190 |
近鉄生駒線
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生駒線(いこません)は、奈良県北葛城郡王寺町の王寺駅から奈良県生駒市の生駒駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
奈良県西部にある生駒山地の東側を走る。沿線には住宅地が広がり大阪・奈良への通勤路線となっている。正式な起点は王寺駅だが、列車運行上は生駒駅から王寺駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
PiTaPa・ICOCA・Suicaなどの全国相互利用サービスのIC乗車カードが使用できる。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)の管轄である。
生駒山地と矢田丘陵に挟まれた場所を、ほぼ国道168号および竜田川に沿って走っている。生駒駅では奈良線・けいはんな線が乗り入れ、生駒鋼索線(生駒ケーブル)の鳥居前駅が近接している。
生駒線は専用ホームの5・6番のりばから発車している。駅を出てすぐに右にカーブして南下を始め直進する。しばらくすると高架になり、国道168号のバイパスと竜田川との交点にある菜畑駅から竜田川の左岸を走る。高架を下って住宅地が広がる中を進み、一分駅を過ぎると第二阪奈有料道路をくぐり、南生駒駅に到着する。南生駒駅から次の萩の台駅まで単線で、そこから再び複線になり、次の東山駅からは再び単線になる。東山駅は掘削部にホームが設置されており、東山駅を出ると下り勾配が続く。トンネルを3つ過ぎると急カーブが続くようになり、渓谷の中を走るようになり元山上口駅に到着する。萩の台駅 - 元山上口駅間は輸送改善工事により新線に切り替えられており、東山駅も移設されている。この際に路線総延長が12.6kmから12.4kmとなった。
その後、平群町の中心駅、平群駅に到着し、ここで列車交換を行う。次は、在原業平の和歌で知られる竜田川を渡ると竜田川駅に到着し、右にカーブして新興住宅地の中にある勢野北口駅・信貴山下駅と続く。信貴山下駅は三郷町の中心駅で、奈良側からの信貴山への入り口として、かつて東信貴鋼索線(東信貴ケーブル)が接続していたが1983年に廃止されており、その廃線跡の一部は道路に転用されている。
信貴山下駅を出発すると左に大きくカーブし、大和川を渡って関西本線(大和路線)や和歌山線、田原本線新王寺駅との乗換駅である終点の王寺駅に到着する。
王寺駅 - 生駒駅間の全線運転列車が基本的には1時間に3本運転されており、朝夕時間帯に全線運転列車が毎時4本(正確には最大13.3分間隔)運転されるほか、東山駅 - 生駒駅間の区間運転がある。全列車が各駅に停車し、通過駅を伴う列車の運行はない。
2004年3月18日から全列車でワンマン運転を実施している(20m車両4両編成によるワンマン運転は近鉄初、かつ唯一である)。過去には車庫があった南生駒駅発着の列車もあったが、1987年9月のダイヤ変更で萩の台駅発着となり、1993年の東山駅の移設後に実施したダイヤ変更(1994年3月)以後は東山駅発着となった。
運転本数に関しては2020年3月14日変更のダイヤでは、王寺駅 - 生駒駅間の全線運転列車は平日ダイヤで1日70往復、土休ダイヤで1日68往復、東山駅 - 生駒駅間の区間運転列車は平日ダイヤの朝方に6往復、夕方から夜間に3往復、土休ダイヤの朝方、夕方から夜間にそれぞれ2往復運転されている。東山駅 - 王寺駅間の単線区間では平群駅で一部列車を除き列車交換が行われる「ネットダイヤ」を形成している。
2017年10月23日の台風21号による勢野北口駅 - 竜田川駅間の土砂災害以降、同区間の一部で徐行運転が行われていた。この区間は単線であり、従来約15分間隔、1時間に4本を基本とするダイヤで運転されていた。2017年10月25日に運転は再開されたが、被害による徐行のため遅延が常態化し、15分間隔の運行が維持できなくなった。このことから、同年11月6日より、東山駅 - 王寺駅間は約20分間隔、1時間に3本運転(一部時間帯は4本)を基本とする臨時ダイヤに変更された。また、このダイヤ変更でそれまでは運行されていなかった平日夕方や土休日朝夕にも、東山駅発着の区間運転列車が設定された。2018年3月17日のダイヤ変更でもこの運行形態が継承されている。臨時ダイヤの詳細は「1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更#2017年(未実施)」を参照。
2020年3月14日のダイヤ変更から、勢野北口駅 - 竜田川駅間の一部での徐行運転を終了し、朝夕時間帯の生駒駅 - 王寺駅間の列車を毎時4本運転としている。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、2000年代以降は生駒駅 - 王寺駅間に普通を60分間隔で運転しているが、2009年12月31日から2010年1月1日にかけての終夜運転では、2010年が「寅年」で信貴山朝護孫子寺への初詣客が例年より多くなることが予想されたことから、例年よりやや多い10往復が運転された。
2022年5月16日には生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年を記念して王寺駅 - 大阪上本町駅間で臨時急行(生駒線内は各駅停車)が1往復運転された。
車両の出入りは生駒駅の西側にある奈良線との連絡線を使用し、奈良線の上り本線で折り返して西大寺検車区に回送されている。平日ダイヤの深夜帯に、当線運用後の回送列車を活用した普通列車(車掌乗務)が奈良線生駒駅→大和西大寺駅間に1本設定されている。ワンマン回送列車待避用として奈良線東生駒駅の4両編成停止位置付近にカーブミラーが設置されている。
ワンマン化される前の生駒線は、1988年までは田原本線と共に820系、800系、400系といった中型車で運行されていた。1984年からは支線区の冷房化率向上の一環で冷房改造された8000系2両編成の併用を開始し、1989年からはVVVF制御車の1230系(奈良線系統用は1233系)を同線に集中投入して中型車を完全に置き換えた。1233系の運行開始に際しては当時奈良線系統に所属する在来車の連結器高さが同系や大阪線等他線区の車両と異なるため(他線は880mmだが奈良線のみ800mm)、これらの連結器高さが揃うまでの間は連結時に運用上制約の生じる編成(8000系・8400系・8600系・8800系および8810系の4両編成車、900系および9000系の2両編成車)を同線へ優先的に投入した。
1992年からは8000系列の4両編成車をラッシュ時間帯に併用開始。1996年のダイヤ変更からはそれまで早朝深夜帯に残存していた2両編成による運転が廃止されて終日4両編成による運転とされた。
なお、2001年3月ダイヤ変更から2003年3月ダイヤ変更までの間には、昼間時間帯における輸送力適正化の一環として一部列車が3両編成で運転され、8000系・8400系3両編成車を主体として使用された。
また2018年5月7日から7月頃まで車両不具合による1021系・1031系の不足のため、8810系が午後から夜間にかけて運用に入ったことがある。その際、ドアの開閉は運転士が行い、車内放送は後ろに乗車した乗務員が行った。
信貴山朝護孫子寺への参詣鉄道として、信貴生駒電気鉄道が王寺駅 - 山下駅(現在の信貴山下駅)間の鉄道と山下駅 - 信貴山駅間の鋼索線(のちの東信貴鋼索線。1983年廃止)を開業させたのが始まり。生駒まで全通したのは1927年である。信貴生駒電気鉄道改め信貴生駒電鉄は王寺駅 - 枚方駅間を結ぶ計画を持っており、1929年私市駅 - 枚方東口駅(現在の枚方市駅)間に枚方線を開業させたが、これはのちに交野電気鉄道を経て京阪交野線となった。生駒駅 - 私市駅間は地形が複雑で勾配がきついことから、建設を断念した(のちに国道168号が建設された)。王寺駅 - 生駒駅間が近鉄の路線となったのは1964年のことである。
2015年11月10日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。
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生駒線(いこません)は、奈良県北葛城郡王寺町の王寺駅から奈良県生駒市の生駒駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 生駒線
|路線色 = #d21644
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|国 = {{JPN}}
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'''生駒線'''(いこません)は、[[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]の[[王寺駅]]から奈良県[[生駒市]]の[[生駒駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
== 概要 ==
奈良県西部にある[[生駒山地]]の東側を走る。沿線には住宅地が広がり大阪・奈良への通勤路線となっている。正式な起点は[[王寺駅]]だが、列車運行上は[[生駒駅]]から王寺駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]のIC乗車カードが使用できる。また、以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):12.4 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:12駅(起終点駅含む)
* 複線区間:東山駅 - 萩の台駅間、南生駒駅 - 生駒駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
** [[列車交換|交換駅]]([[単線]]区間):[[平群駅]]、[[信貴山下駅]]
* 最高速度:65 km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)の管轄である。
== 沿線概況 ==
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{{BS3|KRW+l|O1=HUB|KRWgr|STR||||}}
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生駒山地と[[矢田丘陵]]に挟まれた場所を、ほぼ[[国道168号]]および[[竜田川]]に沿って走っている。生駒駅では[[近鉄奈良線|奈良線]]・[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]が乗り入れ、[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]](生駒ケーブル)の[[鳥居前駅]]が近接している。
生駒線は専用ホームの5・6番のりばから発車している。駅を出てすぐに右にカーブして南下を始め直進する。しばらくすると高架になり、国道168号のバイパスと竜田川との交点にある[[菜畑駅]]から竜田川の左岸を走る。高架を下って住宅地が広がる中を進み、[[一分駅]]を過ぎると[[第二阪奈有料道路]]をくぐり、[[南生駒駅]]に到着する。南生駒駅から次の[[萩の台駅]]まで[[単線]]で、そこから再び[[複線]]になり、次の[[東山駅 (奈良県)|東山駅]]からは再び単線になる。東山駅は掘削部にホームが設置されており、東山駅を出ると下り勾配が続く。トンネルを3つ過ぎると急カーブが続くようになり、渓谷の中を走るようになり[[元山上口駅]]に到着する。萩の台駅 - 元山上口駅間は輸送改善工事により新線に切り替えられており、東山駅も移設されている。この際に路線総延長が12.6kmから12.4kmとなった。
その後、平群町の中心駅、[[平群駅]]に到着し、ここで列車交換を行う。次は、[[在原業平]]の和歌で知られる竜田川を渡ると[[竜田川駅]]に到着し、右にカーブして新興住宅地の中にある[[勢野北口駅]]・[[信貴山下駅]]と続く。信貴山下駅は[[三郷町]]の中心駅で、奈良側からの[[朝護孫子寺|信貴山]]への入り口として、かつて[[近鉄東信貴鋼索線|東信貴鋼索線]](東信貴ケーブル)が接続していたが1983年に廃止されており、その廃線跡の一部は道路に転用されている。
信貴山下駅を出発すると左に大きくカーブし、[[大和川]]を渡って[[関西本線]]([[大和路線]])や[[和歌山線]]、[[近鉄田原本線|田原本線]]新王寺駅との乗換駅である終点の王寺駅に到着する。
== 運行形態 ==
王寺駅 - 生駒駅間の全線運転列車が基本的には1時間に3本運転されており、朝夕時間帯に全線運転列車が毎時4本(正確には最大13.3分間隔)運転されるほか、東山駅 - 生駒駅間の区間運転がある。全列車が各駅に停車し、通過駅を伴う列車の運行はない。
[[2004年]][[3月18日]]から全列車で[[ワンマン運転]]を実施している(20m車両4両編成によるワンマン運転は近鉄初、かつ唯一である)。過去には車庫があった南生駒駅発着の列車もあったが、1987年9月のダイヤ変更で萩の台駅発着となり、1993年の東山駅の移設後に実施したダイヤ変更(1994年3月)以後は東山駅発着となった。
運転本数に関しては[[2020年]][[3月14日]]変更のダイヤでは、王寺駅 - 生駒駅間の全線運転列車は平日ダイヤで1日70往復、土休ダイヤで1日68往復、東山駅 - 生駒駅間の区間運転列車は平日ダイヤの朝方に6往復、夕方から夜間に3往復、土休ダイヤの朝方、夕方から夜間にそれぞれ2往復運転されている。東山駅 - 王寺駅間の単線区間では平群駅で一部列車を除き[[列車交換]]が行われる「[[ダイヤグラム#ネットダイヤ|ネットダイヤ]]」を形成している。
2017年10月23日の[[平成29年台風第21号|台風21号]]による勢野北口駅 - 竜田川駅間の土砂災害以降、同区間の一部で徐行運転が行われていた。この区間は単線であり、従来約15分間隔、1時間に4本を基本とするダイヤで運転されていた。2017年10月25日に運転は再開されたが、被害による徐行のため遅延が常態化し、15分間隔の運行が維持できなくなった。このことから、同年11月6日より、東山駅 - 王寺駅間は約20分間隔、1時間に3本運転(一部時間帯は4本)を基本とする臨時ダイヤに変更された。また、このダイヤ変更でそれまでは運行されていなかった平日夕方や土休日朝夕にも、東山駅発着の区間運転列車が設定された。2018年3月17日のダイヤ変更でもこの運行形態が継承されている。臨時ダイヤの詳細は「[[1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更#2017年(未実施)]]」を参照。
2020年3月14日のダイヤ変更から、勢野北口駅 - 竜田川駅間の一部での徐行運転を終了し、朝夕時間帯の生駒駅 - 王寺駅間の列車を毎時4本運転としている<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahennko.pdf 2020年のダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道 2020年1月21日</ref>。
大晦日から元旦にかけての[[終夜運転]]は、2000年代以降は生駒駅 - 王寺駅間に普通を60分間隔で運転しているが、[[2009年]][[12月31日]]から[[2010年]][[1月1日]]にかけての終夜運転では、2010年が「寅年」で[[朝護孫子寺|信貴山朝護孫子寺]]への初詣客が例年より多くなることが予想されたことから、例年よりやや多い10往復が運転された<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/091110syuyaosaka.pdf 年末年始ダイヤのご案内(大阪)]}} - 近畿日本鉄道 2009年11月10日</ref>。
2022年5月16日には生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年を記念して王寺駅 - 大阪上本町駅間で臨時急行(生駒線内は各駅停車)が1往復運転された<ref name="kintetsu20220428">{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/ikomashigikousaku100_2.pdf 生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年記念イベントを実施します]}} - 近畿日本鉄道 2022年04月28日</ref>。
== 車両 ==
* [[近鉄1220系電車#1020系|1021系・1031系]] (1020系・1026系のワンマン改造車両)
=== 運用 ===
車両の出入りは生駒駅の西側にある奈良線との連絡線を使用し、奈良線の上り本線で折り返して[[西大寺検車区]]に回送されている。平日ダイヤの深夜帯に、当線運用後の回送列車を活用した普通列車(車掌乗務)が奈良線生駒駅→[[大和西大寺駅]]間に1本設定されている。ワンマン回送列車待避用として奈良線東生駒駅の4両編成停止位置付近にカーブミラーが設置されている。
=== 変遷 ===
ワンマン化される前の生駒線は、1988年までは[[近鉄田原本線|田原本線]]と共に[[近鉄820系電車|820系]]、[[近鉄800系電車|800系]]、[[近鉄400系電車|400系]]といった中型車で運行されていた。1984年からは支線区の冷房化率向上の一環で冷房改造された[[近鉄8000系電車#8000系|8000系]]2両編成の併用を開始し、1989年からは[[可変電圧可変周波数制御|VVVF制御]]車の[[近鉄1220系電車#1230系|1230系]](奈良線系統用は1233系)を同線に集中投入して中型車を完全に置き換えた。1233系の運行開始に際しては当時奈良線系統に所属する在来車の[[連結器]]高さが同系や大阪線等他線区の車両と異なるため(他線は880mmだが奈良線のみ800mm)、これらの連結器高さが揃うまでの間は連結時に運用上制約の生じる編成(8000系・[[近鉄8000系電車#8400系|8400系]]・[[近鉄8000系電車#8600系|8600系]]・[[近鉄8000系電車#8800系|8800系]]および[[近鉄8810系電車|8810系]]の4両編成車、[[近鉄900系電車|900系]]および[[近鉄8810系電車#9000系|9000系]]の2両編成車)を同線へ優先的に投入した。
[[1992年]]からは8000系列の4両編成車をラッシュ時間帯に併用開始。[[1996年]]のダイヤ変更からはそれまで早朝深夜帯に残存していた2両編成による運転が廃止されて終日4両編成による運転とされた。
なお、[[2001年]]3月ダイヤ変更から[[2003年]]3月ダイヤ変更までの間には、昼間時間帯における輸送力適正化の一環として一部列車が3両編成で運転され、8000系・8400系3両編成車を主体として使用された。
また2018年5月7日から7月頃まで車両不具合による1021系・1031系の不足のため、8810系が午後から夜間にかけて運用に入ったことがある<ref>[https://railf.jp/news/2018/05/10/192000.html 近鉄生駒線に8810系が入線] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年5月10日掲載</ref>。その際、ドアの開閉は運転士が行い、車内放送は後ろに乗車した乗務員が行った。
== 歴史 ==
[[朝護孫子寺|信貴山朝護孫子寺]]への参詣鉄道として、[[信貴生駒電鉄|信貴生駒電気鉄道]]が王寺駅 - 山下駅(現在の信貴山下駅)間の鉄道と山下駅 - 信貴山駅間の鋼索線(のちの[[近鉄東信貴鋼索線|東信貴鋼索線]]。1983年廃止)を開業させたのが始まり。生駒まで全通したのは1927年である。信貴生駒電気鉄道改め信貴生駒電鉄は王寺駅 - 枚方駅間を結ぶ計画を持っており、1929年[[私市駅]] - 枚方東口駅(現在の[[枚方市駅]])間に枚方線を開業させたが、これはのちに交野電気鉄道を経て[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪交野線|交野線]]となった。生駒駅 - 私市駅間は地形が複雑で勾配がきついことから、建設を断念した(のちに国道168号が建設された)。王寺駅 - 生駒駅間が近鉄の路線となったのは1964年のことである。
* [[1922年]]([[大正]]11年)[[5月16日]]:信貴生駒電気鉄道 王寺駅 - 山下駅(現在の信貴山下駅)間、鋼索線山下駅 - 信貴山駅間が開業。
* [[1925年]](大正14年)[[11月6日]]:信貴生駒電鉄に信貴生駒電気鉄道の路線全線を譲渡。
* [[1926年]](大正15年)
** [[10月21日]]:信貴生駒電鉄 山下駅 - 元山上口駅間が開業。
** [[11月1日]]:竜田川駅が臨時駅として開業。
* 1926年([[昭和]]元年)[[12月28日]]:信貴生駒電鉄 元山上口駅 - 仮新生駒駅間が開業。
* [[1927年]](昭和2年)
** [[4月1日]]:信貴生駒電鉄 仮新生駒駅 - 生駒駅<ref name="chizucho">[[#imao|日本鉄道旅行地図帳]] p. 25</ref><ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』([[電気車研究会]] 1993年)では「新生駒」となっていたが、[http://www.tetsupic.com/seigohyo/index.html 正誤表] では「生駒」と訂正。</ref> 間が開業。仮新生駒駅が廃止。菜畑駅が開業。
** [[9月21日]]:茸山駅が臨時駅として開業。
* [[1930年]](昭和5年)[[12月19日]]:竜田川駅が常設駅となる。
* [[1935年|1935]]-[[1937年|37年]](昭和10-12年):菜畑駅が新生駒駅に改称<ref name="chizucho"/>。
* [[1939年]](昭和14年)以前:新生駒駅が菜畑駅に再改称<ref name="chizucho"/>。
* [[1951年]](昭和26年)
** [[9月10日]]:山下駅が信貴山口駅に、茸山駅が常設駅となり東山駅に改称。
** [[11月20日]]:勢野北口駅が開業。
* [[1956年]](昭和31年)
** 9月10日:信貴山口駅が信貴山下駅に改称。
** [[12月13日]]:生駒線の生駒駅が奈良線の駅に統合<ref name="chizucho" />。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:近畿日本鉄道が信貴生駒電鉄を合併。生駒線・東信貴鋼索線となる。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[9月21日]]:架線電圧が600Vから1500Vに昇圧。
** [[11月7日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始。
* [[1977年]](昭和52年)[[7月31日]]:菜畑駅 - 南生駒駅間が複線化。
* [[1980年]](昭和55年)[[4月23日]]:萩の台駅が開業。
* [[1983年]](昭和58年)[[9月1日]]:東信貴鋼索線 信貴山下駅 - 信貴山駅間が廃止。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[12月13日]]:菜畑付近が高架化。
* [[1993年]](平成5年)
** [[1月29日]]:元山上口駅 - 萩の台駅間が線路移設され、0.2km短縮。東山駅が移設。
** [[3月17日]]:東山駅 - 萩の台駅間が複線化。
* [[1994年]](平成6年)[[2月10日]]:菜畑駅 - 生駒駅間が複線化<ref>{{Cite news |title=近鉄生駒線生駒-菜畑間 あす複線運転開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-02-09 |page=1 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月1日]]:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。
** [[3月22日]]:日中の一部列車が3両編成(8000系・8400系の3連を充当)となる。
** [[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。
* [[2003年]](平成15年)[[3月6日]]:再び全列車が4両編成となる。
* [[2004年]](平成16年)[[3月18日]]:ワンマン運転開始。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]]:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2009年]](平成21年)[[3月1日]]:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道 2008年12月2日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[10月22日]]:[[平成29年台風第21号|台風21号]]による竜田川駅 - 勢野北口駅間での土砂災害の影響で全線が運転見合わせ<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207225.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第3報) (2017/10/23 12:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。
** [[10月23日]]:生駒駅 - 東山駅間が運転再開<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207347.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第4報) (2017/10/24 7:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。
** [[10月25日]]:東山駅 - 王寺駅間が運転再開<ref>[https://www.sankei.com/article/20171025-DS2TAHKU5BKO3KBWDTPGECJNEA/ 一部運休の近鉄生駒線が全線で運転再開 線路流入土砂の「撤去完了」] - 産経新聞、2017年10月25日</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)5月17日:王寺駅で生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年記念式典が行われ、王寺駅 - 大阪上本町駅間に臨時急行を運行<ref name="kintetsu20220428" /><ref>{{Cite news|url=https://www.nara-np.co.jp/news/20220517212644.html|title=近鉄生駒線と東信貴鋼索線が開業100周年で式典|newspaper=奈良新聞|publisher=奈良新聞社|accessdate=2022-05-17}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 運行系統上の下り<!--生駒駅より王寺駅-->方向に記述。『[[鉄道要覧]]』では起点を王寺駅としている。
* 全駅[[奈良県]]内に所在。
* 線路 … ∥:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∨:ここより上は複線・下は単線、∧:ここより上は単線・下は複線、▽:ここより上は複線・下は単線および生駒発着列車のみ交換可能
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #d21644;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:solid 3px #d21644;" colspan="2"|所在地
|-
!G17
|[[生駒駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]] (A17)・{{近鉄駅番号|C}} [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]] (C27)、{{近鉄駅番号|Y}} [[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]] …[[鳥居前駅]] (Y17)
|∥
|rowspan="6" colspan="2"|[[生駒市]]
|-
!G18
|[[菜畑駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|
|∥
|-
!G19
|style="width:100px|[[一分駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|2.3
|
|∥
|-
!G20
|[[南生駒駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|3.5
|
|∨
|-
!G21
|[[萩の台駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|4.5
|
|∧
|-
!G22
|[[東山駅 (奈良県)|東山駅]]<br><small>(近畿大学奈良病院 菊美台住宅地)</small>
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.4
|
|▽
|-
!G23
|[[元山上口駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|6.7
|
||
|rowspan="5" style="width;1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[生駒郡]]}}
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[平群町]]
|-
!G24
|[[平群駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|7.9
|
|◇
|-
!G25
|[[竜田川駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|9.3
|
||
|-
!G26
|[[勢野北口駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|10.7
|
||
|rowspan="2"|[[三郷町]]
|-
!G27
|[[信貴山下駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|11.5
|
|◇
|-
!G28
|[[王寺駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|12.4
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|I}} [[近鉄田原本線|田原本線]] (I43) …[[王寺駅|新王寺駅]]<br>西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]]: JR-Q31)・{{JR西路線記号|K|T}} [[和歌山線]]
|◇
|colspan="2"|[[北葛城郡]]<br>[[王寺町]]
|}
=== 過去の接続路線 ===
*信貴山下駅:[[近鉄東信貴鋼索線]] - 1983年9月1日廃止
== 主要駅の乗降客数 ==
[[2015年]][[11月10日]]調査による主要駅の乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/d.html 駅別乗降人員 生駒線 田原本線 信貴線 けいはんな線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*生駒 49,283人
*一分 5,418人
*南生駒 5,272人
*東山 3,802人
*平群 3,308人
*信貴山下 3,187人
*王寺 10,150人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = [[徳田耕一]](編著) | publisher = [[河出書房新社]] | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }}
*{{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = [[諸河久]]・山辺誠(編著) | publisher = [[保育社]] | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }}
*{{Cite journal | 和書 | journal = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = 近畿日本鉄道(編著)| publisher = 近畿日本鉄道 }}
*{{Cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | year = 2003 | month = 1 | volume = 増刊号 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = [[電気車研究会]](編著)| publisher = 電気車研究会 }}
*{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790026-5|ref = imao}}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://tid.kintetsu.co.jp/LocationWeb/trainlocationinfoweb02.html 生駒線] - 近鉄列車走行位置
{{近畿日本鉄道の路線}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|いこません]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|いこま]]
[[Category:信貴生駒電鉄|路]]
[[Category:奈良県の交通|きんてついこません]]
|
2003-09-17T16:46:00Z
|
2023-12-31T00:12:06Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E7%94%9F%E9%A7%92%E7%B7%9A
|
17,191 |
京阪交野線
|
交野線(かたのせん)は、大阪府枚方市の枚方市駅から大阪府交野市の私市駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。大阪への通勤路線であるとともに、私市周辺の行楽地への路線でもある。また、京阪本線とJR片町線(学研都市線)を結ぶバイパスとしての機能も果たしている。
2021年9月25日のダイヤ変更時点では、平日朝ラッシュ時は約6 - 9分間隔、平日夕ラッシュ時は12分間隔、土曜・休日の朝ラッシュ時は13分間隔の運転。日中は1時間に4本の運転で、平日は枚方市行きが14 - 16分間隔、私市行きが13 - 17分間隔、土曜・休日日中以降は枚方市行きが13 - 17分間隔、私市行きが14 - 16分間隔で運転されている。
2013年3月16日のダイヤ変更より京阪本線直通列車(後述の「おりひめ」「ひこぼし」)が全廃され、定期列車はすべて4両編成で線内折り返し運転の普通列車となっている。1987年6月1日のダイヤ改正までは、枚方市駅発の初発列車は交野市駅で折り返していた。
平日朝に私市駅から京阪本線・中之島線に乗り入れ中之島駅まで直通する通勤快急「おりひめ」、平日夜に中之島駅から私市駅まで直通する快速急行「ひこぼし」が運転されていた。「おりひめ」・「ひこぼし」とも交野線内では各駅に停車した。
「おりひめ」は2003年9月8日から平日朝に私市発淀屋橋行きのK特急として、「ひこぼし」は同日より平日夕方の天満橋発私市行きの準急として運転を開始した(おりひめはK特急だが、列車方向幕には「特急」と表示されていた。この時間の京阪本線枚方市駅 - 淀屋橋駅間の下りK特急停車駅は特急と同じであったため、さほど問題にはならなかった)。中之島線が開業した2008年10月19日のダイヤ改正で中之島線直通となり、それぞれ通勤快急・快速急行に列車種別が変更された。また「ひこぼし」の運転時間帯が繰り下げられた。
2006年4月14日、7200系が、およそ4年振りに入線した。2002年4月から運行されている10000系の増備車10004Fが2006年4月15日から入線、つづいて10005F・10006Fも入線した。
同年10月22日には7月29日から運転されていた「きかんしゃトーマス」のラッピングを施した10000系“10000系きかんしゃトーマス号”による「臨時K特急」が運転された。同系による「K特急」運用は2度目である。また、休日の「K特急」の運転は初となる。2007年1月21日には「きかんしゃトーマス」ラッピング電車のラストランとして「臨時K特急」が私市 - 天満橋間に運転された。
2007年9月22日より終日ワンマン運転が開始された(ただし5両編成での運転の列車および早朝・深夜の一部の列車を除く)。それに伴い、10000系全6編成と駅の保安設備更新も行われた。また、ワンマン運転実施にあたり、運転士の特別教習も実施されている。なお、車内放送は女性の声による自動放送となった。2600系の場合と、10000系でも早朝の一部列車と深夜の「ひこぼし」、およびその折り返し普通については従来通り車掌が乗務。10000系の場合、行先表示はワンマン運転時での「枚方市↑↓私市」ではなく「枚方市」ないし「私市」(「ひこぼし」では「交野線 私市」)のみを表示。
2013年3月16日のダイヤ変更で京阪本線・中之島線直通列車「おりひめ」・「ひこぼし」がともに廃止された。
2000年秋に「宇治快速」に代わる行楽期の支線直通列車として設定されたのが「きさいち快速ハイキング号」である。京阪本線からの臨時直通列車は1960年代頃に設定されていた臨時急行「きさいち号」以来となる(京阪電気鉄道発行の社史「京阪七十年のあゆみ」(1980年)の年表によると、1968年に宇治線臨時急行「宇治号」とともにこの「きさいち号」が運行されていた記録がある)。車両は5連車を使用していたが、「宇治快速」と違い、車種の限定は行われていなかった。
2往復設定され、当時の停車駅は淀屋橋駅 - 北浜駅 - 天満橋駅 - 京橋駅 - 枚方市駅と交野線全駅であった。なおこの折り返し列車は「宇治快速」では回送であったが、「きさいち快速ハイキング号」では臨時普通列車として運行されていた。「きさいち快速ハイキング号」は2001年の春と秋にも運行され、合計3シーズンの運行であった。
2002年春、「きさいち快速ハイキング号」は快速から臨時急行に格下げされ「きさいちハイキング号」に改称され、かつての「きさいち号」とほぼ同じ停車駅となった。また編成も5連から4連に短縮したが、新車のアピールも兼ねて10000系限定で運行されることになった(ただし初日の4月21日のみ1往復が2600系5連での運行であった)が、2往復体制に変化はなかった。また折り返しの臨時普通も存続されていた。この列車も同年秋と2003年春の3シーズン運行された。
2000年代前半に運行されていたこれらの列車は2003年改正で廃止されたが、後の「おりひめ」・「ひこぼし」のルーツとなっている。
以下は除籍分
1983年3月に第1陣が運行を開始した6000系は、同年12月の架線電圧昇圧までの約9か月間、昇圧時の6000系による置き換えの対象となっていた吊掛車である、600系、1300系、1700系とともに運用される姿が見られた。
生駒電気鉄道が生駒枚方電気鉄道として地方鉄道法に基づき1920年(大正9年)9月27日に免許を受けた枚方東口駅(現在の枚方市駅) - 生駒駅間を結ぶ鉄道計画が始まりで、京阪電気鉄道や近鉄の前身大阪電気軌道が後援したものの、資金調達が進まず計画は停滞していた。そこで現在の近鉄生駒線にあたる王寺駅 - 生駒駅間の鉄道を計画し、当時王寺駅 - 山下駅(現在の信貴山下駅)間と鋼索線を開業していた信貴生駒電気鉄道が、建設費の節減を図るとともに、王寺から枚方まで南北一貫すれば運輸上の利便も増して両社にとっても得策との判断から生駒電気鉄道を1924年(大正13年)7月6日に合併し、その鉄道計画を継承した信貴生駒電鉄が枚方線として、1929年(昭和4年)7月10日に枚方東口駅 - 私市駅間を開業させた。
そのため当時の軌道条例で建設された京阪本線・宇治線とは異なり、既存の道路上を走る併用軌道区間を造る必要も無いため宮之阪駅 - 交野市駅間はほぼ一直線に建設された。また車両面でも、車両の小型化による運行経費削減を目的として京津線より車両(旧京津電気軌道16形)を借り受けたときは地方鉄道法に適合するよう車両を改造している(この車両は京阪900型を名乗っていた)。
開業時は全線単線で行き違いができる駅は村野と交野、その他の中間駅はすべて1面1線の無人駅であった。自前の変電所を持たず、京阪より電力の供給を受けていたり、運営を委託して車両も借り受けるなど京阪との結びつきは強かった。
1939年(昭和14年)3月1日に午後2時45分に大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫第15番倉庫で弾体から信管を取り外し中に爆発。折からの強風に煽られ3時29分、砲弾・炸薬に引火誘爆、半径2kmに弾丸や破片が飛び散る大爆発で消火活動も行えない状態が3日間も続き、降り注いだ砲弾破片などで送電線・電車線・電気供給施設が破損。京阪線から電力供給を受けていた交野線も運行停止となった(京阪線は同月4日午後8時に運転再開するも、枚方駅の再開は同月6日までかかる。交野線の運転再開日は不明)。同年5月に信貴生駒電鉄から交野電気鉄道として分離、1944年(昭和19年)に京阪神急行電鉄に合併され、京阪電気鉄道の分離に伴い京阪電気鉄道交野線となる。未開業の私市駅 - 生駒駅間は1942年(昭和17年)1月13日に免許が取り消された。
戦後、観光シーズンには京阪線との直通臨時列車として臨時急行「いわふね号」が設定されていた。1960年は5月8日から11月27日までの日曜と祝日に運転され、天満橋駅を午前8時54分と同9時35分に、私市発は午後4時16分に発車で運行していた。途中停車駅は京橋駅・枚方市駅であったが大和田駅で特急を待避するために、当時単線の交野線では村野駅・交野駅で通券の授受のために運転停車があった。
身体障害者対策として 1981年(昭和56年)に交野線のすべての駅のプラットホームに視覚障害者誘導用ブロック(点字ブロック)が設置された。
交野線沿線は七夕にまつわる伝説が残る地であり、「ひらかた☆かたの七夕伝説」イベントの一環として、2004年から毎年7月7日には、同線終着駅私市駅において、準急「ひこぼし」と臨時K特急「おりひめ」が出会うイベントが開催されている。両列車の並びは5分程度だが、ヘッドマークの展示やヘッドライトの点灯など、ファンサービスが充実している。鉄道ファンのみならず、地域住民が大勢訪れ、テレビ局も取材に訪れる。 「おりひめ」・「ひこぼし」両列車の並びを見終えた後は、同線を利用し、“おりひめ”の機物神社(はたものじんじゃ)、“ひこぼし”の牽牛石(けんぎゅうせき)、そして、両者が出逢う逢合橋(あいあいばし)周辺で開催される祭に参加するのが、このイベントの楽しみ方とされた。
なお、2007年の7月7日は土曜日であったため、平日ダイヤでのみ運行される準急「ひこぼし」と臨時K特急「おりひめ」が出会うイベントは実施不可能となったが、代わりに交野線普通列車に新デザインのヘッドマークを掲出して七夕イベントを開催するとの公式発表があった。2003年の運行開始から数えて3代目となる新しいヘッドマークは七夕イベント当日に私市駅に展示され、準急「ひこぼし」とK特急「おりひめ」には7月9日月曜日の列車から使用された。
出会いイベントの代替手段として、7月7日の当日は私市駅の1番線に「織姫」の記念副標識(通常の「おりひめ」ヘッドマークとは異なり、第10回七夕サミットの枚方・交野開催記念を兼ねた特別のものである)・鳩マークを掲出した1929F(特急色)による臨時列車を約3時間臨時停車させ、交野線内折り返しの定期運用列車1編成(1919F充当)に「彦星」の記念副標識(この副標識も、通常の「ひこぼし」ヘッドマークとは異なり、「織姫」と同様の経緯で作成されたものである)を掲出して運行した。これにより私市駅では計5回の出会いが演出された。
2009年以降は、2008年のダイヤ改定により「おりひめ」・「ひこぼし」の種別がそれぞれ通勤快急・快速急行に変更、かつ「ひこぼし」の運転時間帯も夕ラッシュから深夜に変更され、夕刻でのイベントが行えなくなったことから、2007年の時と同じように交野線普通列車にヘッドマークを掲出して七夕の出会いイベントを開催することになった。しかし、2011年以降出会いイベントは開催されず、2013年のダイヤ改定で「おりひめ」「ひこぼし」は廃止となった。
2016年には枚方市・交野市の産業振興キャラクター「ひこぼしくん」と「おりひめちゃん」、双子のきょうだい星でサンリオキャラクター「リトルツインスターズ(キキ&ララ)」を10000系にデザインした車両を「キキ&ララトレイン」として2016年7月2日から10月30日までの期間限定運行がされた。特製ヘッドマークも掲出。イベントに因んだ限定商品も発売された。
交野線を含む京阪線の駅では省力化が進み、2015年3月には京阪線のすべての駅に駅員が改札口に居なくても遠隔操作で対応する「他駅サポートシステム」を導入、すべての駅に自動券売機・PiTaPaやICOCAなどのICカードに対応した自動改札機・運賃精算機・トラブル時に速やかに情報を提示する旅客案内ディスプレーが設置されている。枚方市駅を除き駅売店は無く飲料自動販売機が設置されているだけである。
2021年6月29日に私市駅・河内森駅・交野市駅・郡津駅にAEDが設置された。
バリアフリー対策として、全駅に車椅子対応スロープまたはエレベーターが設置され、券売機には点字の運賃表、ホームには点字ブロック、トイレには車椅子・オストメイトに対応した多目的トイレが設置されている。
2021年4月までに、枚方市駅、交野市駅を除き終日無人駅となった。
|
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"text": "交野線(かたのせん)は、大阪府枚方市の枚方市駅から大阪府交野市の私市駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。大阪への通勤路線であるとともに、私市周辺の行楽地への路線でもある。また、京阪本線とJR片町線(学研都市線)を結ぶバイパスとしての機能も果たしている。",
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"text": "2021年9月25日のダイヤ変更時点では、平日朝ラッシュ時は約6 - 9分間隔、平日夕ラッシュ時は12分間隔、土曜・休日の朝ラッシュ時は13分間隔の運転。日中は1時間に4本の運転で、平日は枚方市行きが14 - 16分間隔、私市行きが13 - 17分間隔、土曜・休日日中以降は枚方市行きが13 - 17分間隔、私市行きが14 - 16分間隔で運転されている。",
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"text": "2013年3月16日のダイヤ変更より京阪本線直通列車(後述の「おりひめ」「ひこぼし」)が全廃され、定期列車はすべて4両編成で線内折り返し運転の普通列車となっている。1987年6月1日のダイヤ改正までは、枚方市駅発の初発列車は交野市駅で折り返していた。",
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"text": "平日朝に私市駅から京阪本線・中之島線に乗り入れ中之島駅まで直通する通勤快急「おりひめ」、平日夜に中之島駅から私市駅まで直通する快速急行「ひこぼし」が運転されていた。「おりひめ」・「ひこぼし」とも交野線内では各駅に停車した。",
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"text": "「おりひめ」は2003年9月8日から平日朝に私市発淀屋橋行きのK特急として、「ひこぼし」は同日より平日夕方の天満橋発私市行きの準急として運転を開始した(おりひめはK特急だが、列車方向幕には「特急」と表示されていた。この時間の京阪本線枚方市駅 - 淀屋橋駅間の下りK特急停車駅は特急と同じであったため、さほど問題にはならなかった)。中之島線が開業した2008年10月19日のダイヤ改正で中之島線直通となり、それぞれ通勤快急・快速急行に列車種別が変更された。また「ひこぼし」の運転時間帯が繰り下げられた。",
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"text": "同年10月22日には7月29日から運転されていた「きかんしゃトーマス」のラッピングを施した10000系“10000系きかんしゃトーマス号”による「臨時K特急」が運転された。同系による「K特急」運用は2度目である。また、休日の「K特急」の運転は初となる。2007年1月21日には「きかんしゃトーマス」ラッピング電車のラストランとして「臨時K特急」が私市 - 天満橋間に運転された。",
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"text": "2007年9月22日より終日ワンマン運転が開始された(ただし5両編成での運転の列車および早朝・深夜の一部の列車を除く)。それに伴い、10000系全6編成と駅の保安設備更新も行われた。また、ワンマン運転実施にあたり、運転士の特別教習も実施されている。なお、車内放送は女性の声による自動放送となった。2600系の場合と、10000系でも早朝の一部列車と深夜の「ひこぼし」、およびその折り返し普通については従来通り車掌が乗務。10000系の場合、行先表示はワンマン運転時での「枚方市↑↓私市」ではなく「枚方市」ないし「私市」(「ひこぼし」では「交野線 私市」)のみを表示。",
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"text": "2009年以降は、2008年のダイヤ改定により「おりひめ」・「ひこぼし」の種別がそれぞれ通勤快急・快速急行に変更、かつ「ひこぼし」の運転時間帯も夕ラッシュから深夜に変更され、夕刻でのイベントが行えなくなったことから、2007年の時と同じように交野線普通列車にヘッドマークを掲出して七夕の出会いイベントを開催することになった。しかし、2011年以降出会いイベントは開催されず、2013年のダイヤ改定で「おりひめ」「ひこぼし」は廃止となった。",
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"text": "交野線を含む京阪線の駅では省力化が進み、2015年3月には京阪線のすべての駅に駅員が改札口に居なくても遠隔操作で対応する「他駅サポートシステム」を導入、すべての駅に自動券売機・PiTaPaやICOCAなどのICカードに対応した自動改札機・運賃精算機・トラブル時に速やかに情報を提示する旅客案内ディスプレーが設置されている。枚方市駅を除き駅売店は無く飲料自動販売機が設置されているだけである。",
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交野線(かたのせん)は、大阪府枚方市の枚方市駅から大阪府交野市の私市駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。大阪への通勤路線であるとともに、私市周辺の行楽地への路線でもある。また、京阪本線とJR片町線(学研都市線)を結ぶバイパスとしての機能も果たしている。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Keihan Symbol.svg|20px|京阪電気鉄道]] 交野線
|路線色 = #1d2088
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|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
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|路線図 = Keihan Electric Railway Linemap.svg
}}
<!-- 煩雑となるため、高架・乗り入れ先は記述していません -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線<!-- ←信号場も含めているので「停車場」 -->
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{{BS2|KRW+l|KRWgr|||{{駅番号s|#1d2088|#fff|KH}} [[京阪本線]]}}
{{BS2|BHF|BHF|0.0|KH21 [[枚方市駅]]||}}
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}}
'''交野線'''(かたのせん)は、[[大阪府]][[枚方市]]の[[枚方市駅]]から大阪府[[交野市]]の[[私市駅]]までを結ぶ[[京阪電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。大阪への通勤路線であるとともに、私市周辺の行楽地への路線でもある。また、[[京阪本線]]とJR[[片町線]](学研都市線)を結ぶバイパスとしての機能も果たしている。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):6.9km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:8駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#K-ATS|K-ATS]]
* 踏切数:15か所(すべて第1種甲)、うち12か所に[[踏切障害物検知装置]]が設置
* 最高速度:90km/h<ref name="piku" />
* 最急勾配:33[[パーミル|‰]](河内森駅 - 私市駅間)
== 運行形態 ==
2023年8月26日のダイヤ変更時点では、平日朝ラッシュ時は約7- 9分間隔、平日夕ラッシュ時は12分間隔、土曜・休日の朝ラッシュ時は13分間隔の運転。日中は1時間に4本の運転で、平日は枚方市行きが14 - 16分間隔、私市行きが13 - 17分間隔、土曜・休日日中以降は枚方市行きが13 - 17分間隔、私市行きが14 - 16分間隔で運転されている。
2013年3月16日のダイヤ変更より[[京阪本線]]直通列車(後述の「おりひめ」「ひこぼし」)が全廃され、定期列車はすべて4両編成で線内折り返し運転の普通列車となっている。[[1987年]][[6月1日]]のダイヤ改正までは、枚方市駅発の初発列車は交野市駅で折り返していた。
=== おりひめ・ひこぼし ===
平日朝に私市駅から京阪本線・[[京阪中之島線|中之島線]]に乗り入れ[[中之島駅]]まで直通する通勤快急「おりひめ」、平日夜に中之島駅から私市駅まで直通する快速急行「ひこぼし」が運転されていた。「おりひめ」・「ひこぼし」とも交野線内では各駅に停車した。
「おりひめ」は[[2003年]][[9月8日]]<!--ダイヤ改正日は9月6日土曜日-->から平日朝に私市発淀屋橋行きの[[K特急]]として、「ひこぼし」は同日より平日夕方の天満橋発私市行きの準急として運転を開始した(おりひめはK特急だが、列車[[方向幕]]には「特急」と表示されていた。この時間の京阪本線枚方市駅 - 淀屋橋駅間の下りK特急停車駅は特急と同じであったため、さほど問題にはならなかった)。中之島線が開業した2008年10月19日のダイヤ改正で中之島線直通となり、それぞれ通勤快急・快速急行に列車種別が変更された。また「ひこぼし」の運転時間帯が繰り下げられた。
2006年4月14日、[[京阪7200系電車|7200系]]が、およそ4年振りに入線した。2002年4月から運行されている[[京阪10000系電車|10000系]]の増備車10004Fが2006年4月15日から入線、つづいて10005F・10006Fも入線した。
同年10月22日には7月29日から運転されていた「[[きかんしゃトーマス]]」の[[ラッピング広告|ラッピング]]を施した10000系“10000系きかんしゃトーマス号”による「臨時K特急」が運転された。同系による「K特急」運用は2度目である。また、休日の「K特急」の運転は初となる。2007年1月21日には「きかんしゃトーマス」ラッピング電車のラストランとして「臨時K特急」が私市 - 天満橋間に運転された。
[[2007年]][[9月22日]]より終日[[ワンマン運転]]が開始された(ただし5両編成での運転の列車および早朝・深夜の一部の列車を除く)。それに伴い、10000系全6編成と駅の保安設備更新も行われた。また、ワンマン運転実施にあたり、運転士の特別教習も実施されている。なお、車内放送は女性の声による自動放送となった。[[京阪2600系電車|2600系]]の場合と、10000系でも早朝の一部列車と深夜の「ひこぼし」、およびその折り返し普通については従来通り車掌が乗務。10000系の場合、行先表示はワンマン運転時での「枚方市↑↓私市」ではなく「枚方市」ないし「私市」(「ひこぼし」では「交野線 私市」)のみを表示。
2013年3月16日のダイヤ変更で京阪本線・中之島線直通列車「おりひめ」・「ひこぼし」がともに廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/info/upload/2013-01-17_train-diagram.pdf 淀駅付近立体交差化事業の進捗に伴い3月16日(土)初発から京阪線のダイヤを一部変更します]}} - 京阪電気鉄道ニュースリリース、2013年1月17日</ref>。
=== きさいち快速・臨時急行 ===
[[2000年]]秋に「宇治快速」に代わる行楽期の支線直通列車として設定されたのが「きさいち快速ハイキング号」である。京阪本線からの臨時直通列車は[[1960年代]]頃に設定されていた臨時急行「きさいち号」以来となる(京阪電気鉄道発行の社史「京阪七十年のあゆみ」(1980年)の年表によると、[[1968年]]に宇治線臨時急行「宇治号」とともにこの「きさいち号」が運行されていた記録がある)。車両は5連車を使用していたが、「宇治快速」と違い、車種の限定は行われていなかった。
2往復設定され、当時の停車駅は淀屋橋駅 - [[北浜駅 (大阪府)|北浜駅]] - [[天満橋駅]] - [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - 枚方市駅と交野線全駅であった。なおこの折り返し列車は「宇治快速」では[[回送]]であったが、「きさいち快速ハイキング号」では臨時普通列車として運行されていた。「きさいち快速ハイキング号」は[[2001年]]の春と秋にも運行され、合計3シーズンの運行であった。
[[2002年]]春、「きさいち快速ハイキング号」は快速から臨時急行に格下げされ「きさいちハイキング号」に改称され、かつての「きさいち号」とほぼ同じ停車駅となった。また編成も5連から4連に短縮したが、新車のアピールも兼ねて10000系限定で運行されることになった(ただし初日の4月21日のみ1往復が2600系5連での運行であった)が、2往復体制に変化はなかった。また折り返しの臨時普通も存続されていた。この列車も同年秋と2003年春の3シーズン運行された。
[[2000年代]]前半に運行されていたこれらの列車は2003年改正で廃止されたが、後の「おりひめ」・「ひこぼし」のルーツとなっている。
== 使用車両 ==
* [[京阪10000系電車|10000系]]
* [[京阪13000系電車|13000系]]<ref>[http://railf.jp/news/2012/06/10/185800.html 「京阪13000系,交野線で営業運転開始」]交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース、2012年6月10日</ref>
=== 過去の使用車両 ===
* [[京阪6000系電車|6000系]] - 6001F-6005F・6012Fが4連時代のみ。末尾1-5の編成は架線電圧600V時代に制御装置を改造して暫定4連で運用された。6012Fは4連運用時には[[動力車|制御電動車]]Mc1とMc2の間の[[付随車]](T車)2両に制御装置とモーターを繋ぐ電線などが引き通されていた。現在、6000系は8連固定編成化されているため最長5連でしか運用できない交野線には入線することはできない。
* [[京阪7000系電車|7000系]] - 7003Fが4連時代のみ。現在では7連固定編成化されているため6000系と同じである。
* [[京阪7200系電車|7200系]] - 7201F・7202Fに限り5連に組み替えが可能な設計で、臨時運用で5連にした場合のみ乗り入れ可能であったが、7201Fが2015年に、7202Fが2016年に中間電動車を1両減車して7両固定編成化されたために交野線には入線することはできなくなった。
* [[京阪3000系電車 (2代)|3000系(2代)]] - 3001Fが2010年7月7日の七夕イベントに限り4両に短縮の上で使用された。また、試運転でも5両に短縮の上で入線した実績がある。
* [[京阪2600系電車|2600系]] - 1980年代から4連で線内折り返しの普通列車で使用されたほか、2003年9月から2013年3月までは「おりひめ」「ひこぼし」とそれに関連する列車に5連が使用された。
以下は除籍分
* [[京阪1900系電車|1900系]]
* [[京阪1800系電車 (2代)|1800系(2代)]]
* [[京阪1700系電車|1700系]]
* [[京阪1300系電車|1300系]]
* [[京阪600系電車 (2代)|600系]]
* [[京阪1500型電車 (初代)|500型]]
* [[琵琶湖鉄道汽船100形電車|800型]]
1983年3月に第1陣が運行を開始した6000系は、同年12月の架線電圧昇圧までの約9か月間、昇圧時の6000系による置き換えの対象となっていた[[吊り掛け駆動方式|吊掛]]車である、600系、1300系、1700系とともに運用される姿が見られた<ref>清水祥史『京阪電車』 JTBパブリッシング、2017年、110、111頁</ref>。
== 歴史 ==
<!-- 字下げのために「:」は使わないでください。段落始めの字下げはスタイルシートで設定できるので不要です。-->
[[信貴生駒電鉄|生駒電気鉄道]]が生駒枚方電気鉄道として[[地方鉄道法]]に基づき1920年(大正9年)9月27日に免許を受けた枚方東口駅(現在の枚方市駅) - [[生駒駅]]間を結ぶ鉄道計画が始まりで<ref name="kintetsu100-p350">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.350</ref>、京阪電気鉄道や近鉄の前身[[大阪電気軌道]]が後援したものの、資金調達が進まず計画は停滞していた<ref name="kintetsu100-p350" />。そこで現在の[[近鉄生駒線]]にあたる[[王寺駅]] - 生駒駅間の鉄道を計画し、当時王寺駅 - 山下駅(現在の[[信貴山下駅]])間と[[近鉄東信貴鋼索線|鋼索線]]を開業していた[[信貴生駒電鉄|信貴生駒電気鉄道]]が、建設費の節減を図るとともに、王寺から枚方まで南北一貫すれば運輸上の利便も増して両社にとっても得策との判断から生駒電気鉄道を1924年(大正13年)7月6日に合併し<ref name="kintetsu100-p350" />、その鉄道計画を継承した[[信貴生駒電鉄]]が枚方線として、1929年(昭和4年)7月10日に枚方東口駅 - 私市駅間を開業させた。
そのため当時の[[軌道条例]]で建設された京阪本線・宇治線とは異なり、既存の道路上を走る[[併用軌道]]区間を造る必要も無いため{{Efn|軌道条例や後身の[[軌道法]]では原則として道路上に軌道を敷設することが意図されている。}}{{Efn|『車両発達史シリーズ1 京阪電気鉄道』によると開業時京阪線の3分の1が併用軌道、宇治線も観月橋の側に110mの併用軌道区間が存在した。}}宮之阪駅 - 交野市駅間はほぼ一直線に建設された。また車両面でも、車両の小型化による運行経費削減を目的として京津線より車両(旧京津電気軌道16形)を借り受けたときは地方鉄道法に適合するよう車両を改造している(この車両は京阪900型を名乗っていた)。
開業時は全線単線で行き違いができる駅は村野と交野、その他の中間駅はすべて1面1線の無人駅であった。自前の変電所を持たず、京阪より電力の供給を受けていたり、運営を委託して車両も借り受けるなど京阪との結びつきは強かった。
1939年(昭和14年)3月1日に午後2時45分に[[禁野火薬庫|大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫]]第15番倉庫で弾体から信管を取り外し中に爆発。折からの強風に煽られ3時29分、砲弾・炸薬に引火誘爆、半径2kmに弾丸や破片が飛び散る大爆発で消火活動も行えない状態が3日間も続き、降り注いだ砲弾破片などで送電線・電車線・電気供給施設が破損。京阪線から電力供給を受けていた交野線も運行停止となった(京阪線は同月4日午後8時に運転再開するも、枚方駅の再開は同月6日までかかる<ref>出典・京阪電気鉄道開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』(2011年3月24日刊)171頁「枚方陸軍火薬庫の爆発」</ref>。交野線の運転再開日は不明)。同年5月に信貴生駒電鉄から交野電気鉄道として分離、1944年(昭和19年)に[[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]]に合併され、京阪電気鉄道の分離に伴い京阪電気鉄道交野線となる。未開業の私市駅 - 生駒駅間は1942年(昭和17年)1月13日に免許が取り消された<ref>[{{NDLDC|2961011/10}} 「鉄道免許取消」『官報』1942年1月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
戦後、観光シーズンには京阪線との直通臨時列車として臨時急行「いわふね号」が設定されていた。1960年は5月8日から11月27日までの日曜と祝日に運転され、天満橋駅を午前8時54分と同9時35分に、私市発は午後4時16分に発車で運行していた。途中停車駅は京橋駅・枚方市駅であったが大和田駅で特急を待避するために、当時単線の交野線では村野駅・交野駅で通券の授受のために運転停車があった<ref>出典・『関西の鉄道』No.58 「京阪電気鉄道 特集 PartV」京阪線開業100周年、p.52</ref>。
身体障害者対策として [[1981年]](昭和56年)に交野線のすべての駅のプラットホームに[[視覚障害者誘導用ブロック]](点字ブロック)が設置された<ref>出典・駅置き広報誌「くらしの中の京阪」1981年8月号より</ref>。
=== 年表 ===
* [[1929年]](昭和4年)[[7月10日]] 信貴生駒電鉄が枚方東口(現在の枚方市) - 私市間を開業。
* [[1930年]](昭和5年)[[10月21日]] 河内森駅開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[12月2日]] 信貴電磐船駅開業。同日開業の[[片町線]]の[[河内磐船駅]]との接続駅。
* [[1938年]](昭和13年)[[11月1日]] 星ヶ丘駅開業。
* [[1939年]](昭和14年)
** [[3月1日]] [[禁野火薬庫|大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫]]の爆発事故で運行停止。
** [[5月1日]] 交野電気鉄道に譲渡。交野線となる。
** [[5月15日]] 信貴電磐船駅を交電磐船駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364354/93}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第210号、日本電気協会、1939年6月、附録3頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1940年]](昭和15年)[[9月11日]] 中宮駅(現在の宮之阪駅)開業。
* [[1945年]](昭和20年)
** 5月1日 [[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]](現在の阪急電鉄)が交野電気鉄道を合併。交電磐船駅を京阪神磐船駅に改称。
** [[9月15日]] 中宮駅、星ヶ丘駅、郡津駅、河内森駅休止。
* [[1946年]](昭和21年)[[2月15日]] 中宮駅、星ヶ丘駅、郡津駅営業再開。
* [[1948年]](昭和23年)5月1日 河内森駅営業再開。交野 - 河内森間の京阪神磐船駅廃止。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[10月1日]] 枚方東口駅を枚方市駅に改称。
** [[12月1日]] 京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分離。
* [[1959年]](昭和34年)[[12月30日]] 3両編成運転開始<ref>出典・『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPartⅠ」41頁より</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)2月23日 交野変電所([[水銀整流器]]1000kW)が新設される<ref>出典・京阪電気鉄道開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』292頁「変電所の増強」より</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[9月16日]] [[第2室戸台風]]により16時30分より全線運転停止、翌17日午後9時より運転再開<ref>出典・「京阪電車開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』(2011年3月24日京阪電鉄発行)」資料編の222頁の「年表」より</ref>。
** [[10月1日]] CTC竣工。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[7月16日]] ATS使用開始。
** 12月1日 4両編成運転開始<ref>出典・『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPartⅠ」51頁より</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[6月6日]] 中宮信号所 - 村野間複線化。中宮信号所開設。
** [[6月20日]] 中宮駅を宮之阪駅に改称。
* [[1972年]](昭和47年)[[4月2日]] 村野 - 交野間複線化。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[3月3日]] 宮之阪駅高架化。
** 12月1日 宮之阪駅付近複線化。<!-- 宮之阪 - 中宮信号所間複線化 -->中宮信号所廃止。
* [[1975年]](昭和50年)[[8月7日]] 集中豪雨よる土砂崩れ・冠水により私市駅-交野市駅間が不通(翌朝復旧)<ref>出典・「京阪電車開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』(2011年3月24日京阪電鉄発行)」資料編の238頁の「年表」より</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)[[11月1日]] 交野駅を交野市駅に改称。
* [[1981年]](昭和56年)7月5日 [[京阪2600系電車|2600系]]のさらなる増備により、交野線で初めて冷房車の運転を開始<ref>出典・電気車研究会刊『[[鉄道ピクトリアル]]』No.427 1984年1月臨時増刊(特集:京阪電気鉄道)号68頁左下に掲載のモノクロ写真より。出典・日付は「京阪電車開業80周年記念誌『過去が咲いている今』(1990年7月1日京阪電鉄発行)」の年表より</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)[[12月4日]] 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1987年]](昭和62年)[[5月28日]] 交野市 - 森信号所間複線化。交野市 - 河内森間(河内森のやや交野市寄り)に森信号所開設。
* [[1991年]](平成3年)[[6月1日]] 枚方市 - 宮之阪間単線で高架化<ref>{{Cite news |title=京阪電鉄がダイヤ改正 来月1日 交野線高架切替えで |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-05-24 |page=1 }}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)
** [[9月12日]] 森信号所 - 私市間複線化<ref>{{Cite news |title=交野線河内森 - 私市間の複線化 今日から使用開始 京阪電鉄 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-09-12 |page=1 }}</ref>。森信号所廃止。
** [[11月28日]] 枚方市 - 宮之阪間複線高架化完成<ref name="kotsu19921128">{{Cite news |title=きょうから全線複線化 京阪電鉄交野線 枚方市 - 宮之阪間完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-11-28 |page=1 }}</ref>。交野線の全線複線化が完成<ref name="kotsu19921128"/>。
* [[1996年]](平成8年)[[1月8日]] 5両編成運転を開始<ref>{{cite news |和書|title=交野線を5両化 |newspaper=交通新聞 |date=1995-12-12 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。
* [[2003年]](平成15年)[[9月8日]] 定期列車としては初の[[京阪本線]]直通列車としてK特急「おりひめ」、準急「ひこぼし」運転開始。
* [[2004年]](平成16年)[[8月1日]] [[PiTaPa]]導入。
* [[2007年]](平成19年)[[9月22日]] ワンマン運転開始。
* [[2008年]](平成20年)[[10月19日]] [[京阪中之島線|中之島線]]開業に伴うダイヤ改正によりK特急「おりひめ」を通勤快急へ、準急「ひこぼし」を快速急行へそれぞれ列車種別を変更。中之島線との直通運転を開始。
* [[2012年]](平成24年)[[4月19日]] 線内の各駅において早朝・深夜を中心に駅係員が無配置となる時間帯が設けられる。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] ダイヤ変更に伴い、通勤快急「おりひめ」・快速急行「ひこぼし」が前日限りで廃止され、京阪本線・中之島線直通列車が全廃。また、すべての定期列車が4両編成での運転となる。
* [[2018年]](平成30年)[[8月25日]] 枚方市駅 - 私市駅間でK-ATSを使用開始<ref>出典・駅置き沿線情報誌『K PRESS』2018年9月号16面「くらしのなかの京阪」</ref>。
== 七夕伝説に関するイベント ==
[[ファイル:7 7kisaichi.jpg|300px|thumb|七夕伝説時のイベント風景([[京阪1900系電車|1900系]]現役時代)]]
交野線沿線は[[七夕]]にまつわる伝説が残る地であり、「ひらかた☆かたの七夕伝説」[[イベント]]の一環として、[[2004年]]から毎年[[7月7日]]には、同線終着駅[[私市駅]]において、準急「ひこぼし」と臨時K特急「おりひめ」が出会うイベントが開催されている。両列車の並びは5分程度だが、[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]の展示や[[前照灯|ヘッドライト]]の点灯など、ファンサービスが充実している。[[鉄道ファン]]のみならず、地域住民が大勢訪れ、[[テレビジョン放送局|テレビ局]]も取材に訪れる。
「おりひめ」・「ひこぼし」両列車の並びを見終えた後は、同線を利用し、“おりひめ”の[[機物神社]](はたものじんじゃ)、“ひこぼし”の牽牛石(けんぎゅうせき)、そして、両者が出逢う逢合橋(あいあいばし)周辺で開催される祭に参加するのが、このイベントの楽しみ方とされた。
なお、2007年の7月7日は土曜日であったため、平日ダイヤでのみ運行される準急「ひこぼし」と臨時K特急「おりひめ」が出会うイベントは実施不可能となったが、代わりに交野線普通列車に新デザインのヘッドマークを掲出して七夕イベントを開催するとの公式発表があった。2003年の運行開始から数えて3代目となる新しいヘッドマークは七夕イベント当日に私市駅に展示され、準急「ひこぼし」とK特急「おりひめ」には7月9日月曜日の列車から使用された。
出会いイベントの代替手段として、7月7日の当日は私市駅の1番線に「織姫」の記念副標識(通常の「おりひめ」ヘッドマークとは異なり、第10回七夕サミットの枚方・交野開催記念を兼ねた特別のものである)・鳩マークを掲出した1929F(特急色)による臨時列車を約3時間臨時停車させ、交野線内折り返しの定期運用列車1編成(1919F充当)に「彦星」の記念副標識(この副標識も、通常の「ひこぼし」ヘッドマークとは異なり、「織姫」と同様の経緯で作成されたものである)を掲出して運行した。これにより私市駅では計5回の出会いが演出された。
2009年以降は、2008年のダイヤ改定により「おりひめ」・「ひこぼし」の種別がそれぞれ通勤快急・快速急行に変更、かつ「ひこぼし」の運転時間帯も夕ラッシュから深夜に変更され、夕刻でのイベントが行えなくなったことから、2007年の時と同じように交野線普通列車にヘッドマークを掲出して七夕の出会いイベントを開催することになった<ref>[http://www.keihan.co.jp/traffic/topics/event_tanabata2009/kisaichi.html 私市駅「おりひめ」「ひこぼし」の出逢い] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090627160140/http://www.keihan.co.jp/traffic/topics/event_tanabata2009/kisaichi.html |date=2009年6月27日 }} - 京阪公式サイト 2009年</ref>。しかし、[[2011年]]以降出会いイベントは開催されず<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h23/2011-06-22.pdf 京阪線、大津線で七夕ムードを盛り上げます!]}} - 京阪公式サイト、2011年6月22日。</ref>、2013年のダイヤ改定で「おりひめ」「ひこぼし」は廃止となった。
2016年には枚方市・交野市の産業振興キャラクター「ひこぼしくん」と「おりひめちゃん」、双子のきょうだい星で[[サンリオ]]キャラクター「[[リトルツインスターズ]](キキ&ララ)」を10000系にデザインした[[ラッピング車両|車両]]を「キキ&ララトレイン」として2016年7月2日から10月30日までの期間限定運行がされた。特製ヘッドマークも掲出。イベントに因んだ限定商品も発売された。
== 駅一覧 ==
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は2014年4月1日に導入<ref>{{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20140405000025|title=関西鉄道各社、外国人受け入れ体制強化|newspaper=[[京都新聞]]|date=2014-04-05|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413130328/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20140405000025|archivedate=2014-04-13}}</ref>。
* 全駅[[大阪府]]内に所在。
* 普通列車のみ運転、全列車が全駅に停車。
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|[[枚方市駅]]
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|[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]]
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|[[宮之阪駅]]
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|[[私市駅]]
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=== 駅設備 ===
交野線を含む京阪線の駅では省力化が進み、2015年3月には京阪線のすべての駅に駅員が改札口に居なくても遠隔操作で対応する「[[駅集中管理システム|他駅サポートシステム]]」を導入、すべての駅に自動券売機・PiTaPaやICOCAなどのICカードに対応した自動改札機・運賃精算機・トラブル時に速やかに情報を提示する旅客案内ディスプレーが設置されている。枚方市駅を除き駅売店は無く飲料自動販売機が設置されているだけである。
2021年6月29日に私市駅・河内森駅・交野市駅・郡津駅に[[自動体外式除細動器|AED]]が設置された<ref>出典・『K PRESS』2021年8月号16頁「くらしのなかの京阪」</ref>。
=== バリアフリー対策 ===
[[バリアフリー]]対策として、全駅に[[車椅子]]対応スロープまたはエレベーターが設置され、券売機には点字の運賃表、ホームには[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]、トイレには車椅子・[[オストメイト]]に対応した多目的トイレが設置されている。
=== 駅の無人化の実施===
2021年4月までに、枚方市駅、交野市駅を除き終日[[無人駅]]となった<ref>[https://newswitch.jp/p/26736 京阪、20駅を無人化 今期黒字目指し構造改革]日刊工業新聞 2021年4月7日</ref><ref>[https://www.keihan.co.jp/traffic/station/stationinfo/216.html 宮之阪駅]など</ref>。
=== 廃駅・廃止信号所 ===
* [[中宮信号所]](宮之阪 - 星ヶ丘) - 1974年12月1日廃止。
* [[河内磐船駅|京阪神磐船駅]](交野市 - 河内森) - 1948年5月1日廃止。
* [[森信号所]](交野市 - 河内森) - 1992年9月12日廃止。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
{{京阪電気鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:けいはんかたのせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|かたのせん]]
[[Category:京阪電気鉄道|路かたのせん]]
[[Category:信貴生駒電鉄|路かたのせん]]
[[Category:大阪府の交通]]
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2003-09-17T17:00:00Z
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17,193 |
宝塚市
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宝塚市(たからづかし)は、兵庫県の南東部(阪神間)に位置する市。阪神北県民局管轄区域。国から施行時特例市に指定されている。宝塚市の「塚」は国や兵庫県では新字体の「塚」を用いているが、市では画数の1画多い「塚」を用いる。本記事では、基本的に「塚」を使用する。
阪急電鉄を始めとした阪急阪神東宝グループの創始者・小林一三が手がけた宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場があり、『歌劇の街』として全国的に有名である。漫画家・手塚治虫が青少年期を過ごした町としても知られる。かつては、阪急電鉄経営の宝塚ファミリーランドや東宝映画の源流の1つである宝塚映画製作所などを有して、阪急東宝グループの文化拠点としてのイメージが強かった。 阪急電鉄経営の宝塚ファミリーランドが2003年4月7日(鉄腕アトムの誕生日)に閉鎖され、宝塚ガーデンフィールズ(閉鎖)を経て、今では商業施設やタワーマンション・小学校等に生まれ変わっている。 現在は仁川、小林、逆瀬川、雲雀丘などの閑静な高級住宅街を有する阪神間の住宅都市である。またニュータウンである逆瀬台や仁川台も高級住宅街である。
阪神間北部に位置しており、西は六甲山系、北は長尾山系に囲まれて、中心部を武庫川が流れている。 関西の奥座敷として温泉場や1913年(大正2年)から続く宝塚観光花火大会や高級住宅地としても有名である。
一時、伊丹市・川西市・猪名川町と合併構想が持ち上がったが、現在は凍結している。
武庫川、逆瀬川、仁川、荒神川、羽束川、天神川
岩原山(573m) 、大峰山(552m) 、譲葉山(514m) 、社家郷山(489m) 、岩倉山(488m)、中山(478m) 、樫ヶ峰(457m)
市制施行時は約4万人であったが、大阪・神戸のベッドタウンとして宅地開発が進み、人口は増加した。
2010年の国勢調査で22万5587人に達して以降は横ばいとなっている。
川西市満願寺町(満願寺の周辺)が飛地として市内に存在する。
大阪市への通勤率は22.5%である(平成22年国勢調査)。
宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味する。宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、宝塚と呼ばれていた古墳に関しては諸説あって場所が特定されていない。江戸時代には「宝塚」の地名が使われていた。(後述)
このように古くからある宝塚の名称は、明治になって温泉名や駅名となった後、1951年(昭和26年)に初めて市町村名として採用される。
※歴代市長
宝塚市の財政状況は厳しくなっており、国民健康保険は10.9億円の赤字となっている。その為、宝塚市は、平成28年3月より医療費抑制のため、生活習慣病の予防を呼び掛けている。宝塚市は、「生活習慣病は、高血圧や心疾患、糖尿病などが最も多くの医療費がかかっている」と説明している。
2020年、市立病院の赤字は、前年同月比の3.4倍となる約2億280万円に上った。これにより、6年連続の赤字となった。市立病院は、厳しい経営状態が続いている。
2021年時点で、宝塚市は、財政難となっている上、予算に偏りがある。土木費などに予算が行き渡っておらず、インフラ整備などが停滞している。宝塚市の市道などの老朽化率は86%。公共施設の老朽化率は62%。全体で73%に達している。健全値と言われる30%の値から大きく乖離している。10年余り土木費や教育費などを削減し続けたことが、急速悪化の主因と指摘されている。
村野藤吾が設計し1980年に竣工した。
竣工から43年間、階表記がG階(グランドフロア)から始まり、1階、2階・・・と増えるイギリス英語式だった。敷地に高低差があり、駐車場がある東側の入口(G階)と、バス停がある西側の入口(1階)で階が異なるためだったが、利用者からの苦情もあり、2023年2月に第2庁舎が整備されたのに伴い、本庁舎も1階、2階・・・の表記に改められた。
2013年の宝塚市役所放火事件では、当時の1階部分にガソリンがまかれて炎上し、1,442平方mが焼損した。
宝塚市には宝塚クリーンセンターがある。現在の宝塚クリーンセンターは1988年に稼働した。稼働から既に30年以上経過しているため建て替えが必要とされており、建て替えと運営にかかる総事業費は20年間で最大約681億円となっていた。市は新たなごみ処理施設の建設と管理運営を一括して事業者に発注し、2021年8月に入札公告を実施し、2022年6月に整備工事費と約24年間の管理運営委託費を合わせ、予定価格より16億円少ない約598億円で川崎重工業グループが落札した。整備期間は2022年~2032年で、運営期間は2024年~2047年である。
指定金融機関:平成21年7月より池田泉州銀行・三菱UFJ銀行・三井住友銀行3行による輪番制を敷いていたが、2019年に三菱UFJ銀行が指定金融機関を辞退し、現在は池田泉州銀行(西暦の奇数年7月~翌年6月)・三井住友銀行(西暦の偶数年7月~翌年6月)2行による輪番制となっている。
1953年(昭和28年)から2009年(平成21年)まで公立高校入試において総合選抜を実施していた。
市街地が広がる市南部を中心に、鉄道網・バス網が整備されている。
市の代表駅として、中心的な役割を担っているのは、宝塚駅である。2社3路線(西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線、阪急電鉄宝塚本線・今津線)が当駅を利用している。
なお、市の代表駅である宝塚駅から大阪の梅田方面へ向かう電車のルートは、阪急宝塚本線(川西能勢口・石橋阪大前経由、急行・準急・普通大阪梅田行き)、阪急今津線(門戸厄神・阪急神戸本線塚口経由、準急大阪梅田行き)、JR福知山線(伊丹・尼崎経由、丹波路快速・快速・各駅停車大阪行き)の3つのルートがある。
隣接市の伊丹市には大阪国際空港があり、宝塚市を含め関西一円の航空利用者の交通拠点となっている。宝塚市も、大阪国際空港に対する地元自治体の連合である大阪国際空港周辺都市対策協議会(10市協)の一員である。宝塚市からは、鉄道・バス・自動車などにより大阪国際空港へ短時間で容易にアクセスすることができる。
なお、かつては10市協の他の自治体同様に、宝塚市も、大阪国際空港を発着する航空機の騒音に悩まされていたが、航空機の技術革新により騒音問題は大きく改善した。かつては国が定める騒音防止対策区域に宝塚市の一部も含まれていたが、2009年3月6日をもって宝塚市全域は区域の指定を解除され、少なくとも国の行政の視点からは市内の騒音問題は解決済みである。ただし、宝塚市は、さらなる騒音の改善を見据えて、現在も騒音基準の達成状況については詳細な監視を継続している。また、風速5 m/s以上の強い南東の風が吹くときに行われる逆着陸飛行(大阪国際空港の滑走路14R・14Lを使った運用)は、実施される頻度は極めて少ないものの、実施されると航空機が空港北西側のコース(尼崎市~西宮市~宝塚市~川西市のコース)を低空で空港への着陸に向けて飛行し、当該コース下の地域に通常よりも大きな騒音を与える。宝塚市は逆着陸飛行による騒音の影響が比較的大きいため、市は大阪国際空港の逆着陸飛行の動向も調査を行っている。
宝塚市の観光客の大部分は日帰りの観光客であり、宿泊者は全体の約1.3%である。また、中心市街地の観光客数は、約150万人前後である。
宝塚歌劇団や宝塚音楽学校を題材にした作品は多く、ロケ地としても度々使われている。
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"text": "宝塚歌劇団や宝塚音楽学校を題材にした作品は多く、ロケ地としても度々使われている。",
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宝塚市(たからづかし)は、兵庫県の南東部(阪神間)に位置する市。阪神北県民局管轄区域。国から施行時特例市に指定されている。宝塚市の「塚」は国や兵庫県では新字体の「塚」を用いているが、市では画数の1画多い「塚」を用いる。本記事では、基本的に「塚」を使用する。
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{{統合文字|塚|[[ファイル:U+FA10.svg]]}}
{{日本の市
| 画像 = Takarazuka grand theater03s3200.jpg
| 画像の説明 = [[宝塚大劇場]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Takarazuka, Hyogo.svg|100px|border宝塚市旗]]
| 市旗の説明 = 宝塚[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Takarazuka, Hyogo.svg|75px|宝塚市章]]
| 市章の説明 = 宝塚[[市町村章|市章]]<br />[[1954年]][[4月10日]]制定
| 自治体名 = 宝塚市
| 都道府県 = 兵庫県
| コード = 28214-6
| 隣接自治体 = [[神戸市]]、[[伊丹市]]、[[西宮市]]、[[川西市]]、[[三田市]]、[[川辺郡]][[猪名川町]]
| 木 = [[サザンカ]](1968年3月1日制定)
[[ヤマボウシ]](1995年3月1日制定)
| 花 = [[スミレ]](1968年3月1日制定)
[[ダリア]](2021年3月25日制定)
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = [[ウグイス]]、[[セグロセキレイ]](1995年3月1日制定)
| 郵便番号 = 665-8665
| 所在地 = 宝塚市[[東洋町 (宝塚市)|東洋町]]1番1号<br />{{Coord|format=dms|region:JP-28_type:adm3rd|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.8|frame-longitude=135.37|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Takarazuka city-office.jpg|250px|宝塚市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|28|214|image=Takarazuka in Hyogo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
'''宝塚市'''(たからづかし)は、[[兵庫県]]の南東部([[阪神間]])に位置する[[市]]。[[阪神北県民局]]管轄区域。国から[[特例市|施行時特例市]]に指定されている。宝塚市の「塚」は国や兵庫県では新字体の「塚」を用いているが、市では画数の1画多い「塚」を用いる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/faq/5000002/5000013/5000086/5000728.html |title=市名の「塚」の「ヽ」について |publisher=宝塚市 |accessdate=2015-06-12 }}</ref>。本記事では、基本的に「塚」を使用する。
== 概要 ==
[[ファイル:Takarazuka Hyogo.JPG|thumb|260px|[[武庫川]]の畔に建つ[[宝塚歌劇団]]の本拠地、[[宝塚大劇場]]をはじめとする劇場群と[[宝塚音楽学校]]]]
[[ファイル:Takarazuka arban area No,2.JPG|thumb|260px|[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]から望む宝塚市中心部]]
[[阪急電鉄]]を始めとした[[阪急阪神東宝グループ]]の創始者・[[小林一三]]が手がけた[[宝塚歌劇団]]の本拠地である[[宝塚大劇場]]があり、『歌劇の街』として全国的に有名である。漫画家・[[手塚治虫]]が青少年期を過ごした町としても知られる。かつては、阪急電鉄経営の[[宝塚ファミリーランド]]や[[東宝]]映画の源流の1つである[[宝塚映画製作所]]などを有して、[[阪急東宝グループ]]の文化拠点としてのイメージが強かった。
阪急電鉄経営の[[宝塚ファミリーランド]]が[[2003年]][[4月7日]]([[鉄腕アトム]]の誕生日)に閉鎖され、[[宝塚ガーデンフィールズ]](閉鎖)を経て、今では商業施設やタワーマンション・小学校等に生まれ変わっている。
現在は仁川、[[小林駅 (兵庫県) |小林]]、[[逆瀬川]]、雲雀丘などの閑静な[[高級住宅街]]を有する阪神間の住宅都市である。またニュータウンである逆瀬台や仁川台も高級住宅街である。
阪神間北部に位置しており、西は[[六甲山]]系、北は長尾山系に囲まれて、中心部を[[武庫川]]が流れている。
[[関西]]の奥座敷として温泉場や[[1913年]](大正2年)から続く[[宝塚観光花火大会]]や高級住宅地としても有名である。
一時、[[伊丹市]]・[[川西市]]・[[猪名川町]]と合併構想が持ち上がったが、現在は凍結している。
== 地理 ==
[[ファイル:Takarazuka city center area Aerial photograph.1985.jpg|thumb|330px|宝塚市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の9枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
=== 地形 ===
; 河川
[[武庫川]]、[[逆瀬川]]、仁川、[[荒神川]]、[[羽束川]]、天神川
;山
[[岩原山]](573m) 、[[大峰山 (兵庫県)|大峰山]](552m) 、[[譲葉山]](514m) 、[[社家郷山]](489m) 、[[岩倉山]](488m)、[[中山 (兵庫県)|中山]](478m) 、[[樫ヶ峰]](457m)
=== 人口 ===
市制施行時は約4万人であったが、[[大阪]]・神戸の[[ベッドタウン]]として宅地開発が進み、人口は増加した。
2010年の国勢調査で22万5587人に達して以降は横ばいとなっている。
{{人口統計|code=28214|name=宝塚市|image=Population distribution of Takarazuka, Hyogo, Japan.svg}}
=== 隣接する自治体・行政区 ===
川西市[[満願寺町]]([[満願寺 (川西市)|満願寺]]の周辺)が[[飛地]]として市内に存在する。
[[大阪市]]への通勤率は22.5%である(平成22年国勢調査)。
* [[神戸市]]([[北区 (神戸市)|北区]])
* [[伊丹市]]
* [[西宮市]]
* [[川西市]]
* [[三田市]]
* [[川辺郡]][[猪名川町]]
== 歴史 ==
=== 地名の由来 ===
宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓([[古墳]])」を意味する。宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、宝塚と呼ばれていた古墳に関しては諸説あって場所が特定されていない。[[江戸時代]]には「宝塚」の地名が使われていた。(後述)
# 旧川面村川面に宝塚と呼ばれていた古墳があり、近隣の新田(現:御殿山)も宝塚と呼ばれた<ref>『[[五畿内志]]』(1735年):江戸幕府編纂</ref>。[[1672年]]の[[検地]]記録に、川面村の[[小字]]として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。
# 宝塚山(ほうちょうざん)[[宝泉寺 (宝塚市)|宝泉寺]]<ref group="*">『宝泉寺縁起帳』(1596年)は宝塚の名の最も古い記録。境内の碑石には「高額比賣命宮、壬辰年六月七日薨、御年六十六歳」とある。</ref>(現:宮の町)の地に、[[神功皇后]]の母である[[高額比売命]](たかぬかひめのみこと)を祀った古墳があり、この高額塚(たかぬかつか)が宝塚(たからづか)へ転訛した。
# 旧米谷村(現:米谷)に塚があり、この塚の許で物を拾うと必ず幸せになったため、宝塚と呼ばれていた<ref>『[[摂陽群談]]』1701年、岡田徯志編纂。「宝塚-川辺郡米谷村ニアリ 此塚ノ許ニ於テ物ヲ拾フ者 必ス幸ヒアリ 此ヲ以テ宝塚卜号クル所伝タリ」</ref>。
# 旧良元村伊孑志に宝塚と呼ばれていた古墳があった(現:宝梅)。
このように古くからある宝塚の名称は、[[明治]]になって温泉名や駅名となった後、[[1951年]](昭和26年)に初めて市町村名として採用される。
=== 沿革 ===
==== 先史・古代 ====
* [[4世紀]]頃から[[7世紀]]にかけて、多くの古墳が造られる。
* 7世紀初期より、[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]、[[売布神社 (宝塚市)|売布神社]]などの寺社が創建される。
* [[10世紀]]後半、[[摂家|摂関家]]の私[[牧 (古代)|牧]](まき)として川面牧が成立する。
==== 中世 ====
* [[12世紀]]、川面牧が[[荘園 (日本)|荘園]]化し川面荘となり、米谷庄など新たな荘園も成立する。
* [[1223年]]([[貞応]]2年)「小林の湯」(後の宝塚温泉)の記録がなされる。
* [[15世紀]]末、小浜庄が成立、[[毫摂寺 (宝塚市)|毫摂寺]]創建により小浜が[[寺内町]]として発達する。
==== 近世 ====
* [[武庫川]]左岸は[[摂津国]][[川辺郡]]、右岸は同[[武庫郡]]に属す。
* [[16世紀]]後半、山本村で[[接ぎ木]]手法が発見され、[[豊臣秀吉]]の庇護の下、植木産業の礎が築かれる。
* [[17世紀]]、[[有馬街道]]の[[宿場町]]として[[小浜宿]]が設けられ、[[徳川幕府]]の庇護の下繁栄する。
* 小浜宿の設立とともに酒造が発達([[小浜流]])。[[灘五郷]]に先立つ大酒造業地となるが、[[18世紀]]から次第に灘五郷へ譲渡され消滅。
==== 明治以降 ====
* [[1887年]]([[明治]]20年) - [[宝塚温泉]]が開業。
* [[1897年]](明治30年) - 武庫川が氾濫する。 [[阪鶴鉄道]](現在の[[福知山線]](JR宝塚線)大阪~宝塚間)が開通。
* [[1902年]](明治35年) - 宝来橋完成。
* [[1910年]](明治43年) - [[箕面有馬電気軌道]](現在の[[阪急宝塚本線]])が開通。([[阪神間モダニズム]])
* [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月1日]] - 宝塚少女歌劇団(現・[[宝塚歌劇団]])第1回公演が挙行。
* [[1935年]]([[昭和]]10年)[[7月5日]] - [[集中豪雨]]により紅葉谷、宝塚南口で冠水。[[宝塚ホテル]]で5尺の深さとなる<ref>また阪神一帯に集中豪雨『大阪毎日新聞』昭和10年7月6日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p208 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
==== 第2次世界大戦後 ====
* [[1953年]](昭和28年)公立高校入試において[[総合選抜]]を実施。
* [[1954年]]([[昭和]]29年)[[4月1日]] - [[川辺郡]][[宝塚町]]・[[武庫郡]][[良元村]]が合併して'''宝塚市'''が発足。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月10日]] - 川辺郡[[長尾村 (兵庫県川辺郡)|長尾村]]を編入。
* 1955年(昭和30年)[[3月14日]] - 川辺郡[[西谷村 (兵庫県川辺郡)|西谷村]]を編入。
* 1955年(昭和30年)4月1日 - [[大字]]荻野・荒牧・鴻池・大野新田(旧・長尾村の一部)を[[伊丹市]]に編入。
* 1975年(昭和50年) - 年間を通じて[[交通事故]]による死者率が都市別で全国最小(10万人当たり1.3)を記録<ref>交通事故死 地域差の解消に重点『朝日新聞』1976年(昭和51年)1月14日朝刊、13版、22面</ref>。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[1月17日]] - [[阪神・淡路大震災]]によって、100人を超える犠牲者を出す。
* [[2003年]](平成15年)4月1日 - [[特例市]]に移行。
* [[2004年]](平成16年)4月1日 - 市制50周年。
* [[2010年]](平成22年) [[総合選抜]]廃止。
* [[2013年]](平成25年)[[7月12日]] - [[宝塚市役所放火事件]]。午前9時40分頃、[[宝塚市役所]]本庁舎1階の市税収納課付近で男性が[[ポリタンク]]入りの[[ガソリン]]と[[火炎瓶]]を投げつけて放火し、1階の一部を焼損。6名が負傷<ref>{{PDFlink|[http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/101/20130902tyuukanhoukoku.pdf 平成25年(2013年)7月12日発生 市庁舎火災事案検証中間報告書]}} - 宝塚市、2013年9月2日</ref>。
*[[2018年]] (平成30年) [[3月18日]] - [[新名神高速道路]] [[川西インターチェンジ]]-[[神戸ジャンクション]]開通により、[[宝塚北サービスエリア]]開業<ref>{{Cite news|title=川西IC-神戸JCT開通 宝塚北SA同時開業 「渋滞解消 物流に効果」 /兵庫|newspaper=https://mainichi.jp/articles/20180319/ddl/k28/040/254000c|date=2018-3-19}}</ref>。
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[山崎晴恵|山﨑晴恵]](2021年4月19日就任、1期目)
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|初代||田中九右衛門||1954年5月8日||1956年5月14日||
|-
|2-4代||田中詮徳||1956年6月10日||1968年6月9日||
|-
|5代||北俊三||1968年6月10日||1970年12月23日||任期中死去
|-
|6-10代||[[友金信雄]]||1971年2月7日||1991年2月6日||
|-
|11-13代||[[正司泰一郎]]||1991年2月7日||2003年3月13日||
|-
|14代||[[渡部完]]||2003年4月24日||2006年3月6日||辞職
|-
|15代||[[阪上善秀]]|||2006年4月9日||2009年2月27日||辞職<ref>[http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/000/987/196.pdf 議会報「かけはし」第196号(平成21年5月1日発行)]</ref>
|-
|16-18代 || [[中川智子]] || 2009年4月19日 || 2021年4月18日 ||
|-
|19代 || [[山崎晴恵|山﨑晴恵]] || 2021年4月19日 || 現職 ||
|-
|}
※歴代市長<ref>[http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/000/988/2015kosyatou.pdf 宝塚市調査年報資料(平成27年版)]</ref>
{{seealso|2013年伊丹・宝塚市長選挙}}
=== 財政 ===
宝塚市の財政状況は厳しくなっており、国民健康保険は10.9億円の赤字となっている。その為、宝塚市は、平成28年3月より医療費抑制のため、生活習慣病の予防を呼び掛けている。宝塚市は、「生活習慣病は、高血圧や心疾患、糖尿病などが最も多くの医療費がかかっている」と説明している<ref>宝塚市HP [https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/kurashi/kokuho/1029720/1019539.html#:~:text=%E5%B8%82%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%81%A5%E5%BA%B7%E4%BF%9D%E9%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD,%E5%8C%96%E3%82%92%E5%9B%B3%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 厳しい!宝塚市国民健康保険の財政状況]</ref>。
2020年、市立病院の赤字は、前年同月比の3.4倍となる約2億280万円に上った<ref>神戸新聞 2020.6.26. [https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202006/sp/0013455980.shtml 宝塚市立病院、赤字2億円超 前年比3.4倍に]</ref>。これにより、6年連続の赤字となった。市立病院は、厳しい経営状態が続いている<ref>毎日新聞 2020.9.2. 宝塚市立病院、6年連続の赤字 昨年度決算見込み /兵庫</ref>。
2021年時点で、宝塚市は、財政難となっている上、予算に偏りがある<ref>サンテレビNews 2021年4月9日</ref>。土木費などに予算が行き渡っておらず、インフラ整備などが停滞している<ref>サンテレビNews 2021年4月4日</ref>。宝塚市の市道などの老朽化率は86%。公共施設の老朽化率は62%。全体で73%に達している。健全値と言われる30%の値から大きく乖離している。10年余り土木費や教育費などを削減し続けたことが、急速悪化の主因と指摘されている<ref>令和元年(2019年)7月8日 宝塚市</ref>。
=== 市庁舎 ===
{{Main|宝塚市役所}}
[[村野藤吾]]が設計し[[1980年]]に竣工した。
竣工から43年間、[[階]]表記がG階(グランドフロア)から始まり、1階、2階・・・と増える[[イギリス英語]]式だった。敷地に高低差があり、[[駐車場]]がある東側の入口(G階)と、[[バス停]]がある西側の入口(1階)で階が異なるためだったが、利用者からの苦情もあり、2023年2月に第2庁舎が整備されたのに伴い、本庁舎も1階、2階・・・の表記に改められた<ref name="nisio">{{cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202204/0015198114.shtml |title=1階表示の「G」はなぜ?まさに〇〇〇アイデア! 宝塚市役所エレベーター|author= 西尾和高|date=2022-4-7|publisher= [[神戸新聞]]NEXT|accessdate=2023-2-23}}</ref><ref name="takabe">{{cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230131-OYT1T50000/ |title=首かしげる住民「ここが1階じゃないの?」、市役所からついに消える英国式「G階」表示|author= 高部真一|date=2023-1-31|publisher= [[読売新聞]]|accessdate=2023-2-23}}</ref>。
2013年の[[宝塚市役所放火事件]]では、当時の1階部分に[[ガソリン]]がまかれて炎上し、1,442平方mが焼損した。
=== 警察 ===
* [[宝塚警察署|兵庫県宝塚警察署]]が置かれ、市内全域を管轄する。
=== 消防 ===
* [[宝塚市消防本部]]が担当する。
=== ごみ処理施設 ===
宝塚市には宝塚クリーンセンターがある。現在の宝塚クリーンセンターは[[1988年]]に稼働した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/046/175/202209/0907sanken/20220907_sanken_104_001syusei.pdf |title=資料1 宝塚市新ごみ処理施設等整備・運営事業について |access-date=2022-11-12 |page=1}}</ref>。稼働から既に30年以上経過しているため建て替えが必要とされており、建て替えと運営にかかる総事業費は20年間で最大約681億円となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/043/759/2111_04-06.pdf |title=宝塚市の 財政状況 |access-date=2022-11-11}}</ref>。市は新たなごみ処理施設の建設と管理運営を一括して事業者に発注し、2021年8月に入札公告を実施し、2022年6月に整備工事費と約24年間の管理運営委託費を合わせ、予定価格より16億円少ない約598億円で[[川崎重工グループ|川崎重工業グループ]]が落札した<ref>{{Cite web|和書|title=宝塚市の新ごみ処理施設 可燃物用は27年秋稼働へ 概要や日程明らかに |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202208/0015558253.shtml |website=神戸新聞NEXT |date=2022-08-16 |access-date=2022-11-12 |language=Japanese}}</ref>。整備期間は2022年~2032年で、運営期間は2024年~2047年である<ref>{{Cite web|和書|title=新しいごみ処理施設の整備に向けて |url=https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/cleancenter/plan/1014879/../../../cleancenter/plan/1014879/index.html |website=宝塚市公式ホームページ |access-date=2022-11-12 |language=ja}}</ref>。
=== その他 ===
* 税務署:[[大阪国税局]]西宮税務署が管轄する。
* 年金事務所:西宮年金事務所が管轄する。
* 自衛隊:[[陸上自衛隊]][[中部方面隊]][[陸上自衛隊の演習場一覧#中部方面隊|長尾山演習場]]
== 議会 ==
=== 宝塚市議会 ===
{{Main|宝塚市議会}}
=== 兵庫県議会 ===
* 選挙区:宝塚市選挙区
* 定数:3人
* 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:189,543人
* 投票率:37.01%
{|class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 門隆志 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 56 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center" | 現 || 23,172票
|-
| 風早寿郎 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 18,923票
|-
| 橋本成年 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 14,754票
|-
| 練木恵子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 60 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 12,356票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[兵庫県第6区|兵庫6区]]([[伊丹市]]、宝塚市、[[川西市]](旧[[東谷村 (兵庫県)|東谷村]]を除く))
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:465,210人
* 投票率:55.58%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[市村浩一郎]] || align="center" | 57 || 日本維新の会 || align="center" | 元 || 89,571票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd"
| 比当 || [[大串正樹]] || align="center" | 55 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 87,502票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd"
| 比当 || [[桜井周]] || align="center" | 51 || 立憲民主党 || align="center" | 前 || 77,347票 || align="center" | ○
|}
== 姉妹都市・提携都市 ==
{{columns-start|num=2}}
=== 国内===
*{{Flagicon|島根県}}[[松江市]]([[島根県]])
*:[[1967年]]([[昭和]]42年)[[8月1日]] 姉妹都市提携締結。
*{{Flagicon|愛知県}}[[長久手市]]([[愛知県]])
*:[[2012年]]([[平成]]24年)[[10月27日]] 友好都市提携締結。
{{column}}
=== 海外 ===
* {{Flagicon|USA}} [[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ市]]([[アメリカ合衆国]][[ジョージア州]])
* {{Flagicon|AUT}} [[ウィーン|ウィーン市第9区]]([[オーストリア|オーストリア共和国]])
* {{Flagicon|AUS}} {{仮リンク|メルビル市|en|City of Melville}}([[オーストラリア]][[西オーストラリア州]])
{{columns-end}}
== 産業 ==
=== 金融 ===
[[指定金融機関]]:平成21年7月より[[池田泉州銀行]]・[[三菱UFJ銀行]]・[[三井住友銀行]]3行による輪番制を敷いていたが<ref>[https://www.sihd-bk.jp/fresh_news/i/news08/news1219.html 池田銀行 宝塚市の指定金融機関に決定]池田銀行、平成20年12月19日付</ref>、2019年に三菱UFJ銀行が指定金融機関を辞退し、現在は池田泉州銀行(西暦の奇数年7月~翌年6月)・三井住友銀行(西暦の偶数年7月~翌年6月)2行による輪番制となっている<ref>[http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/shisei/1009567/1033917/1038142.html 宝塚市指定金融機関の交替に係る告示について]宝塚市</ref>。
=== 企業 ===
* [[新明和工業]] - [[東京証券取引所|東証]]・[[大阪証券取引所|大証]]1部上場の輸送機製造メーカー。
* [[ハイレックスコーポレーション]] - [[大証]]2部上場、自動車用コントロールケーブル最大手。
* [[宝塚映像]]
* [[宝塚クリエイティブアーツ]]
* [[海山鉱業]] - [[2005年]][[11月]][[民事再生法]]を申請。
* [[三和建設]]
* [[TOA]]
* [[住友化学]]
* [[日本システム開発]] - コンピュータ応用機器の開発/製造メーカー
* [[ウィル (不動産会社)|ウィル]] - [[東京証券取引所|東証]]2部上場の独立系不動産会社
* ナルトシザー - 理美容ハサミの製造・卸売業
=== 特産品 ===
* 植木(日本三大植木産地の一つ)・花卉(ダリア・アイリス等)
* [[炭酸せんべい]]
* [[乙女餅]]
* [[やきもち]]
== 地域 ==
=== 教育 ===
==== 小学校 ====
{{div col}}
* [[宝塚市立良元小学校]]
* [[宝塚市立宝塚第一小学校]]
* [[宝塚市立小浜小学校]]
* [[宝塚市立宝塚小学校]]
* [[宝塚市立長尾小学校]]
* [[宝塚市立西谷小学校]]
* [[宝塚市立仁川小学校]]
* [[宝塚市立西山小学校]]
* [[宝塚市立売布小学校]]
* [[宝塚市立長尾南小学校]]
* [[宝塚市立末成小学校]]
* [[宝塚市立安倉小学校]]
* [[宝塚市立中山台小学校]]
* [[宝塚市立長尾台小学校]]
* [[宝塚市立逆瀬台小学校]]
* [[宝塚市立美座小学校]]
* [[宝塚市立光明小学校]]
* [[宝塚市立末広小学校]]
* [[宝塚市立丸橋小学校]]
* [[宝塚市立高司小学校]]
* [[宝塚市立安倉北小学校]]
* [[宝塚市立すみれガ丘小学校]]
* [[宝塚市立山手台小学校]]
* [[雲雀丘学園小学校]]
* [[小林聖心女子学院|小林聖心女子学院小学校]]
* [[関西学院初等部]]
{{div col end}}
==== 中学校 ====
{{div col}}
* [[宝塚市立宝塚第一中学校]]
* [[宝塚市立宝塚中学校]]
* [[宝塚市立長尾中学校]]
* [[宝塚市立西谷中学校]]
* [[宝塚市立宝梅中学校]]
* [[宝塚市立高司中学校]]
* [[宝塚市立南ひばりガ丘中学校]]
* [[宝塚市立安倉中学校]]
* [[宝塚市立中山五月台中学校]]
* [[宝塚市立御殿山中学校]]
* [[宝塚市立光ガ丘中学校]]
* [[宝塚市立山手台中学校]]
* [[雲雀丘学園中学校・高等学校|雲雀丘学園中学校]]
* [[小林聖心女子学院|小林聖心女子学院中学校]]
{{div col end}}
==== 高等学校 ====
[[1953年]](昭和28年)から[[2009年]](平成21年)まで公立高校入試において[[総合選抜]]を実施していた。
{{div col}}
* [[兵庫県立宝塚高等学校]]
* [[兵庫県立宝塚西高等学校]]
* [[兵庫県立宝塚東高等学校]]
* [[兵庫県立宝塚北高等学校]]
* [[兵庫県立川西高等学校宝塚良元校]]
* [[雲雀丘学園中学校・高等学校|雲雀丘学園高等学校]]
* [[小林聖心女子学院|小林聖心女子学院高等学校]]
{{div col end}}
==== 特別支援学校 ====
* [[宝塚市立養護学校]]
==== 各種学校 ====
* [[宝塚音楽学校]]
==== 専門学校 ====
* [[宝塚市立看護専門学校]]
==== 大学 ====
* [[甲子園大学]]
* [[宝塚大学]]
* [[宝塚医療大学]]
=== 主な文化施設 ===
* [https://www.takarazuka-c.jp/soriohall/ 宝塚市立文化施設ソリオホール] - 文化ホール。7つの会議室等を併せ持つ。300席。
* [[宝塚市立文化施設ベガ・ホール]] - 音楽ホール。ピアノや室内楽に特化。372席。
* [https://www.takarazuka-c.jp/bsk/ 宝塚市立宝塚文化創造館(宝塚音楽学校旧校舎)] - 複合文化施設。旧宝塚音楽学校本校舎を利用。
* [[宝塚市立文化芸術センター]] - 2020年6月にオープンした、ギャラリーを中心としたアートセンター。
* [[宝塚シネ・ピピア]] - 市内唯一の映画館。全国的にも珍しい公設民営映画館。
=== 主な病院 ===
* [[宝塚市立病院]]
* [[宝塚第一病院]]
* [[宝塚病院]]
=== 主な商業施設 ===
* [[宝塚駅]]:ソリオ、阪急百貨店、ユニベール宝塚、花のみち
* [[宝塚南口駅]]:サンビオラ
* [[逆瀬川駅]]:アピア、アピアきた、イトーピア
* [[仁川駅]]:さらら
* [[売布神社駅]]:ピピアめふ
* [[清荒神駅]]:清荒神参道商店街
* [[中山寺駅]]:グランドゲート宝塚
=== 放送メディア ===
* [[エフエム宝塚]]
=== 住宅団地 ===
{{colbegin|3}}
* [[都市再生機構]]逆瀬川団地
* 都市再生機構中山五月台団地
* 都市再生機構フレール宝塚御殿山
* 都市再生機構グリーンヒルズ仁川(仁川団地を建て替えた住宅団地)
* [[公営住宅|県営]]宝塚小林住宅
* 県営宝塚安倉住宅
* 県営宝塚御所ノ前住宅
* 県営宝塚山本住宅
* 県営宝塚中筋住宅
* 県営宝塚口谷東住宅
* 県営宝塚野里住宅
* 県営宝塚旭町住宅
* 県営宝塚安倉南住宅
* 県営宝塚泉町住宅
* 県営宝塚切畑住宅
* 県営宝塚福井住宅
* [[兵庫県住宅供給公社]]東仁川団地
* 宝塚光明住宅
* 宝塚安倉住宅
* 逆瀬川ハイツ
* ラ・ビスタ宝塚
{{colend}}
; かつて存在した住宅団地
* 都市再生機構仁川団地(建て替えで「グリーンヒルズ仁川」となった)
=== その他 ===
* [[郵便局]]:[[宝塚郵便局]](小浜)を中心に、22局ある。宝塚寿郵便局が星の荘にあり宝と寿が重なり縁起が良い郵便局として有名。
* [[宝塚市立図書館]]:中央図書館(清荒神)、西図書館(小林)、中山台分室、山本南分室の4か所があり、移動図書館すみれ号を有する。
* 公共施設:[http://www.tspf.or.jp/ 宝塚市立スポーツセンター](小浜)、[[宝塚市立宝塚自然の家]](大原野)
* [[公民館]]:中央公民館([[伊孑志]])、東公民館([[山本 (宝塚市)|山本]])、西公民館(小林)の3箇所がある。
* ごみ処理:宝塚市ごみ政策課が、クリーンセンター(小浜)で処理を行っている。
* 市営[[霊園]]:[[火葬場]]を有する長尾山霊園と、宝塚すみれ墓苑がある。
== 交通 ==
市街地が広がる市南部を中心に、鉄道網・バス網が整備されている。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Hankyu Takarazuka Station Takarazuka Japan01-r.jpg|thumb|250px|宝塚駅]]
市の代表[[鉄道駅|駅]]として、中心的な役割を担っているのは、'''[[宝塚駅]]'''である。2社3路線([[西日本旅客鉄道|西日本旅客鉄道(JR西日本)]][[福知山線]]、[[阪急電鉄]][[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急今津線|今津線]])が当駅を利用している。
なお、市の代表駅である宝塚駅から大阪の[[梅田]]方面へ向かう電車のルートは、阪急宝塚本線([[川西能勢口駅|川西能勢口]]・[[石橋阪大前駅|石橋阪大前]]経由、[[急行列車|急行]]・[[準急列車|準急]]・[[各駅停車|普通]][[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田]]行き)、阪急今津線([[門戸厄神駅|門戸厄神]]・[[阪急神戸本線]][[塚口駅 (阪急)|塚口]]経由、準急大阪梅田行き)、JR福知山線([[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹]]・[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]]経由、[[快速列車|丹波路快速・快速]]・各駅停車[[大阪駅|大阪]]行き)の3つのルートがある。
* 西日本旅客鉄道(JR西日本)
** [[福知山線]](JR宝塚線) (川西市) - [[中山寺駅]] - 宝塚駅 - (西宮市<ref group="*">この路線における西宮市の区間は宝塚市の間に挟まれる形をとっている。</ref>)- [[武田尾駅]] -(神戸市北区)
* 阪急電鉄
** 宝塚本線 (川西市) - [[雲雀丘花屋敷駅]]<ref group="*">川西市との市境に位置する。登記上の住所は宝塚市である。</ref> - [[山本駅 (兵庫県)|山本駅]] - [[中山観音駅]] - [[売布神社駅]] - [[清荒神駅]] - 宝塚駅
** 今津線 宝塚駅 - [[宝塚南口駅]] - [[逆瀬川駅]] - [[小林駅 (兵庫県)|小林駅]] - [[仁川駅]] -(西宮市)
=== 高速自動車国道 ===
[[ファイル:Takarazuka I.C.JPG|thumb|260px|宝塚IC]]
* [[中国自動車道]](市内を通る[[宝塚西トンネル]]は[[渋滞]]の名所として知られる)
** [[宝塚インターチェンジ|宝塚IC]]
* [[新名神高速道路]]
** [[宝塚北サービスエリア|宝塚北SA/スマートIC]]
=== 一般国道 ===
[[ファイル:Akurakita2 Takarazukacity Hyogopref Route 176 bypass.JPG|thumb|260px|市内の東西を縦断する国道176号<br />安倉北2丁目で撮影]]
* [[国道176号|国道176号線(イナロク)]]
=== 主要県道 ===
* [[兵庫県道16号明石神戸宝塚線|県道16号線(明宝線)]]
* [[兵庫県道33号塩瀬宝塚線|県道33号線(十万道路)]]
* [[兵庫県道42号尼崎宝塚線|県道42号線(尼宝線)]]
* [[兵庫県道51号宝塚唐櫃線|県道51号線(有馬街道)]]
* [[兵庫県道68号川西三田線|県道68号線]]
=== 一般県道 ===
* [[兵庫県道114号西宮宝塚線|県道114号線]]
* [[兵庫県道337号生瀬門戸荘線|県道337号線]]
* [[兵庫県道332号山本伊丹線|県道332号]]
* [[兵庫県道331号姥ヶ茶屋伊丹線|県道331号線]]
=== バス ===
* [[阪急バス]]
** 市内に[[阪急バス宝塚営業所|宝塚営業所]]を持ち市南部(宝塚市内線等)や[[宝塚駅]]から[[川西能勢口駅|阪急川西能勢口]]や[[大阪国際空港]]に乗り入れる。
*** 西谷自動車を前身とする[[阪急田園バス]]を2019年7月1日に吸収し、西谷出張所として市北部の[[西谷地区 (宝塚)|西谷地区]]の路線(主に[[武田尾駅]]発着)を担当していたが、2021年4月1日に宝塚営業所へ統合。ただし、宝塚駅と西谷地区を結んだ路線は廃止された<ref name="hankyubus210301">{{Cite web|和書| url=https://www.hankyubus.co.jp/news/images/210301t.pdf | title=【4月1日(木)より】宝塚市北部(西谷地域)、三田市域 運行内容の変更について | format=PDF | publisher=阪急バス | date=2021-03-01 | accessdate=2021-05-14}}</ref>。
** [[阪急バス山口営業所|山口営業所]]([[西宮市]])が宝塚駅から西宮市北部の[[塩瀬村 (兵庫県)|生瀬・名塩地区]]や[[山口村 (兵庫県有馬郡)|山口町]]、[[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]]の[[有馬温泉]]・[[岡場駅]]へ乗り入れる路線を担当。
** [[阪急バス西宮営業所|西宮営業所]](西宮市)が[[仁川駅]]から[[武庫川]]沿いを経由して[[逆瀬川駅|阪急逆瀬川]]や[[甲子園口駅|JR甲子園口]](西宮市)に乗り入れる路線を担当。
** [[阪急バス清和台営業所|清和台営業所]](川西市)が阪急川西能勢口から本市の花屋敷松ガ丘方面<ref group="*">「松が丘」の地名自体は宝塚市と川西市にまたがる地名となっている。</ref>に乗り入れる路線を担当。
** [[阪急バス伏尾台営業所|伏尾台営業所]]([[大阪府]][[池田市]])が[[雲雀丘花屋敷駅]]から[[川西市]][[満願寺 (川西市)|満願寺]]および[[川西能勢口駅|阪急川西能勢口]]・[[川西池田駅|JR川西池田]]に乗り入れる路線を受け持つ。
** [[阪急バス猪名川営業所|猪名川営業所]]([[猪名川町]])が武田尾駅から西谷地区の路線および猪名川町の[[日生中央駅]]と西谷地区を結ぶ路線を運行。2022年4月1日に宝塚営業所から移管<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyubus.co.jp/news/images/20220401t.pdf |title= 【2022年4月1日(金)より】武田尾線 運行内容の変更について|format=PDF|publisher=阪急バス|date=2022-03-23|accessdate=2022-04-02}}</ref>。
* [[阪神バス]] - 宝塚駅から国道176号・尼宝線沿いに[[尼崎駅 (阪神)|阪神尼崎]]、[[杭瀬駅|阪神杭瀬駅北]]、[[宝塚市立病院]]経由で[[甲子園駅|阪神甲子園]]に乗り入れる路線を運行。
* [[伊丹市交通局|伊丹市営バス]] - [[伊丹市]](主に[[伊丹駅 (JR西日本)|JR伊丹]]及び[[伊丹駅 (阪急)|阪急伊丹]])から[[中山寺駅|JR中山寺]]や山本団地に乗り入れる路線を持つ。
* [[神姫バス]](撤退) - 阪急バスと共同運行で[[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]から西谷地区に乗り入れる路線を運行していたが、2021年3月末で廃止(阪急バスも西谷地区から三田への路線は廃止した)<ref>{{cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sanda/202012/0013912060.shtml|title=阪急バス、三田市内の2路線廃止へ 2021年4月|newspaper=神戸新聞NEXT|publisher=神戸新聞社|date=2020-12-04|accessdate=2020-05-14}}</ref>。
=== 空港 ===
隣接市の[[伊丹市]]には[[大阪国際空港]]があり、宝塚市を含め関西一円の航空利用者の交通拠点となっている。宝塚市も、大阪国際空港に対する地元自治体の連合である[[大阪国際空港周辺都市対策協議会]](10市協)の一員である。宝塚市からは、[[鉄道]]・[[バス (交通機関)|バス]]・[[自動車]]<ref group="*">[[公共交通機関]]では、[[阪急宝塚本線]]と[[大阪高速鉄道|大阪モノレール]]の併用、[[福知山線]]と[[伊丹市交通局|伊丹市営バス]]の併用、[[阪急バス]](直行便)の利用などが挙げられる。[[自動車]]利用の際は、[[国道176号]]が市内と大阪国際空港を結ぶ主要経路となる。</ref>などにより大阪国際空港へ短時間で容易にアクセスすることができる。
なお、かつては10市協の他の自治体同様に、宝塚市も、大阪国際空港を発着する[[航空機]]の[[航空機騒音|騒音]]に悩まされていたが、航空機の技術革新により騒音問題は大きく改善した。かつては国が定める騒音防止対策区域に宝塚市の一部も含まれていたが、[[2009年]][[3月6日]]をもって宝塚市全域は区域の指定を解除され、少なくとも国の行政の視点からは市内の騒音問題は解決済みである<ref name="takarazuka-noise"/>。ただし、宝塚市は、さらなる騒音の改善を見据えて、現在も騒音基準の達成状況については詳細な監視を継続している。また、[[風速]]5 m/s以上の強い南東の風が吹くときに行われる'''逆着陸飛行'''(大阪国際空港の[[滑走路]]14R・14Lを使った運用)は、実施される頻度は極めて少ないものの、実施されると航空機が空港北西側のコース([[尼崎市]]~[[西宮市]]~宝塚市~[[川西市]]のコース)を低空で空港への[[着陸]]に向けて飛行し、当該コース下の地域に通常よりも大きな騒音を与える<ref group="*">そのため、大阪国際空港では通常は、滑走路32L・32Rを使った運用を行う。このときは、[[離陸]]機は空港北西側の地域を通過するが、騒音被害を抑えるため、早々に高度を上げて飛び去ってしまう。</ref>。宝塚市は逆着陸飛行による騒音の影響が比較的大きいため、市は大阪国際空港の逆着陸飛行の動向も調査を行っている<ref name="takarazuka-noise">{{Cite web|和書|url = https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/sub_file/01040101000000-h23houkoku08.pdf |title = 航空機騒音 |publisher = 宝塚市 |accessdate = 2013-9-29 }}</ref>。
== 観光 ==
{{Bar chart|title=宝塚市の観光客数の推移<ref name="tourist">{{Cite web|和書|url=https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/329/toshimasudai2syou.pdf|title=第2章 宝塚市の現況と課題|page=21|accessdate=2022-11-10}}</ref>|data_max=2000|label_type=年|data_type=観光客数 (万人)|label1=1985年|data1=1,821|label2=1988年|data2=1,815|label3=1991年|data3=1,776|label4=1994年|data4=1,734|label5=1997年|data5=1,590|label6=1999年|data6=1,679|data7=1,530|label7=2002年|data8=1,518|label8=2004年|data9=1,376|label9=2007年|label10=2012年|data10=927|label11=2014年|data11=978|data12=983|label12=2016年}}宝塚市の観光客の大部分は日帰りの観光客であり、宿泊者は全体の約1.3%である<ref name="tourist" />。また、中心市街地の観光客数は、約150万人前後である。[[ファイル:Tezuka museum.jpg|thumb|手塚治虫記念館]]
[[ファイル:TakarazukaHanaNoMichi.jpg|thumb|花のみち]]
=== 名所 ===
{{div col}}
* [[宝塚大劇場]]
* [[宝塚バウホール]]
* [[花のみち]]
* [[宝塚市立手塚治虫記念館]]
* [[阪神競馬場]]
* [[鉄斎美術館]]
* 正司邸 - 大正7-8年築の洋館・和館(設計[[古塚正治]]、国の登録有形文化財、NHK「[[ふたりっ子]]」撮影地)
* 宝塚市庁舎 - [[1980年]]、[[村野藤吾]]設計。
* 宝塚市市史資料室(旧松本邸)- 昭和12年築の洋館(国の登録有形文化財)
* 宝塚市立小浜宿資料館
* 宝塚市立文化創造館(宝塚音楽学校旧校舎)すみれミュージアム
* 高崎記念館 - ウィリアム・M・ヴォーリズの設計
* [[小林聖心女子学院]]本館 - 国の登録有形文化財、[[アントニン・レーモンド]]設計、[[1927年]]竣工
* [[千苅水源池]]
* [[中山 (兵庫県)|中山]]
* [[長尾連山]]
* [[最明寺滝]]
* [[丸山湿原群]] 兵庫県の天然記念物で兵庫県最大の湿原
{{div col end}}
=== 宿泊・温泉 ===
* [[宝塚温泉]]
** [[名湯 宝乃湯|宝乃湯]]
**[[ナチュールスパ宝塚]]
** [[宝塚ホテル]]
** 宝塚[[ワシントンホテル (藤田観光)|ワシントンホテル]]
**[[ホテル若水]]
* [[武田尾温泉]]
=== 旧跡・宗教施設 ===
[[ファイル:Nakayamadera hondo2040.jpg|thumb|中山寺]]
[[ファイル:Kiyoshikojin05s2000.jpg|thumb|清荒神清澄寺]]
==== 寺院 ====
{{div col}}
* [[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]
* [[清荒神清澄寺]]
* [[平林寺 (宝塚市)|平林寺]]
* [[普明寺 (宝塚市)|普明寺]]
* [[普門寺 (宝塚市)|普門寺]]
* [[大宝寺 (宝塚市)|大宝寺]]
* [[泉流寺 (宝塚市)|泉流寺]]
* [[宝山寺 (宝塚市)|宝山寺]]<!-- ここまで文化財あり -->
* [[普光寺 (宝塚市)|普光寺]]
* [[毫摂寺 (宝塚市)|毫摂寺]]
* [[宝泉寺 (宝塚市)|宝泉寺]]
* [[塩尾寺 (宝塚市)|塩尾寺]]
* [[妙久寺 (宝塚市)|妙久寺]]
{{div col end}}
==== 神社 ====
{{div col}}
* [[宝塚神社]]
* [[波豆八幡神社]]
* [[八幡神社 (宝塚市)|八幡神社]]
* [[素盞嗚神社 (宝塚市)#素盞嗚神社 (宝塚市長谷)|素盞嗚神社]](高司・長谷)
* [[伊和志津神社]]
* [[売布神社 (宝塚市)|売布神社]]
* [[松尾神社 (宝塚市)|松尾神社]]
* [[天満神社 (宝塚市)|天満神社]](山本・境野)
* [[八王子神社 (宝塚市)|八王子神社]]
* [[八阪神社 (宝塚市)|八阪神社]](平井・清荒神)
* [[小浜皇大神社]]<!-- ここまで文化財あり、殆どの寺社仏閣が県登録有形文化財以上なので、記事がないもの以外はわざわざ記さないほうがよいでしょう -->
* [[川面神社]]
* [[皇太神社 (宝塚市)|皇太神社]]
* [[住吉神社 (宝塚市)|住吉神社]]
* [[市杵島姫神社 (宝塚市)|市杵島姫神社]]
* [[春日神社 (宝塚市)|春日神社]]
* [[熊野神社 (宝塚市)|熊野神社]]
{{div col end}}
==== その他 ====
* 古墳
** [[長尾山古墳]](4世紀初頭)
** [[安倉高塚古墳]](4世紀頃)
** 万籟山古墳(4世紀末)
** [[白鳥塚古墳 (宝塚市)|白鳥塚古墳]](7世紀初)
** [[中山荘園古墳]](7世紀中頃)
* カトリック宝塚教会…[[1966年]]、[[村野藤吾]]設計
* 公園
** [[兵庫県立宝塚西谷の森公園]] - [[2008年]]開園。
** [[あいあいパーク|宝塚市立宝塚園芸振興センターあいあいパーク]]
=== 祭事・催事 ===
* [[宝塚歌劇団]]
* [[宝塚ベガ音楽コンクール]]
* [[宝塚国際室内合唱コンクール]]
* [[宝塚観光花火大会]]
* [[宝塚学検定]]
* [[宝塚音楽回廊]]
* [[宝塚映画祭]]
* [[宝塚記念]]
* [[宝塚まつり]]
* [[宝塚のだんじり祭]]…市内15の神社で開催、[[地車]]は計18基
== 著名人 ==
===出身者===
{{div col}}
* [[手塚治虫]]([[漫画家]]、[[アニメ監督]])
* [[岡崎慎司]](サッカー選手)
* [[井上聖也]](サッカー選手)
* [[井上衛]](映画・テレビドラマプロデューサー)
* [[東野幸治]]([[お笑いタレント]])
* [[板倉俊之]](お笑い芸人)
* [[相武紗季]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/tigers/2022/01/17/0014992136.shtml|title=阪神・佐藤輝と女優の相武紗季が震災報道番組に出演「後の世代にも伝わってほしい」|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-18}}</ref>([[俳優|女優]])
* [[山本太郎]]([[国会議員]]、元[[俳優]]・[[タレント]])
* [[ヒロド歩美]]([[朝日放送テレビ]]アナウンサー)
* [[堀潤]]([[日本放送協会|NHK]]元アナウンサー)
* [[土屋誠]](元[[広島ホームテレビ]]アナウンサー)
* [[中村佑介]](イラストレーター)
* [[キダ・タロー]]([[作曲家]])
* [[今岡真訪]](元プロ野球選手・コーチ、野球評論家)
* [[金村義明]](元プロ野球選手、野球解説者)
* [[石毛礼子]](元[[歌手]])
* [[伊藤榮子]](女優)
* [[今村孝矢]]([[ゲームクリエイター]])
* [[快児]]([[ピン芸人]])
* [[よじょう]](お笑いコンビ [[ガクテンソク]])
* [[奥田修二]](お笑いコンビ [[ガクテンソク]])
* [[信濃岳夫]](お笑い芸人)
* [[キャツミ]](ピン芸人)
* [[神山智洋]]([[WEST.]])
* [[武知海青]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]])
* [[大西正昭]]([[スタントマン]])
* [[安田寿之]](作曲家)
* [[安井牧子]]([[タレント]])
* [[谷口キヨコ]]([[ディスクジョッキー]]、タレント)
* [[山本美希]](NHK元アナウンサー)
* [[中條誠子]](NHKアナウンサー)
* [[亀井京子]]([[テレビ東京]]元アナウンサー)
* [[小正裕佳子]](NHK元アナウンサー)
* [[上泉雄一]]([[毎日放送]]アナウンサー)
* [[松川浩子]](毎日放送アナウンサー)
* [[関根友実]]([[フリーアナウンサー]])
* [[黒部亜希子]]([[テレビ大阪]]アナウンサー)
* [[丁野奈都子]](フリーアナウンサー)
* [[乾麻梨子]](朝日放送テレビアナウンサー)
* [[塚本麻里衣]](朝日放送テレビアナウンサー)
* [[森田茉里恵]](NHKアナウンサー)
* [[西阪太志]](NHKアナウンサー)
* [[嶋田ココ]](NHKアナウンサー)
* [[岸田奈緒美]](元[[信越放送]]アナウンサー)
* [[中川栞]]([[フリーアナウンサー]])
* [[斉加尚代]]([[テレビディレクター]][[報道記者]])
* [[西尾桃]] ([[読売テレビ]]アナウンサー)
* [[木興拓哉]](元プロ野球選手)
* [[衣川篤史]](元プロ野球選手)
* [[氷上恭子]](声優)
* [[間慎太郎]](歌手)
* [[ミスター珍]](プロレスラー)
* [[メレンゲ (バンド)|クボケンジ]](歌手)
* [[HALLCA]] ([[シンガーソングライター]])
* [[尾崎裕]]([[大阪瓦斯|大阪ガス]]代表取締役社長)
* [[奥克彦]](元外務省大使)
* [[笑福亭呂鶴]]([[落語家]])
* [[林家染左]](落語家)
* [[アン・ルイス]](歌手)
* [[寺内健]]([[飛込競技]]選手)
* [[玉井陸斗]](飛込競技選手)
* [[内田達也]]([[ザスパクサツ群馬]]所属)
* [[古部健太]]([[モンテディオ山形]]所属)
* [[岸和田玲央]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手)
* [[三島琳久]](ラグビー選手)
* [[上田現]]([[音楽家|ミュージシャン]])
* [[渡部やえ]]([[演歌歌手]])
* [[村田由香里]](元[[新体操]]選手)
* [[岩沢慶明]]([[ラジオパーソナリティ]]、[[スタジアムDJ]])
* [[高田郁]](時代小説作家)
* [[上田現]](音楽家)
* [[廣木道心]]([[武道家]])
* [[川勝茂弘]](洋画家)
* [[渡嘉敷勝男]](元プロボクサー、タレント)
* [[山路藍]]([[ガールズケイリン|女子競輪選手]])
* [[坪憲章]]([[競走馬]][[調教師]])
* [[橋田満]](競走馬調教師)
* [[簗田善則]](競馬騎手)
* [[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]](競馬騎手)
* [[志岐幸子]](1993年[[ミス・ユニバース・ジャパン]])
* [[中原詩乃]](ミュージカル俳優)
* [[佐々木恒男]](経営学者)
* [[片野泰敬]](講師)
* [[西村文宏]](ウェブデザイナー)
* [[板橋美波]](飛込競技選手)
* [[綾凰華]](元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]男役)
* [[七彩はづき]](宝塚歌劇団[[花組 (宝塚歌劇)|花組]]娘役)
* [[華純沙那]](宝塚歌劇団雪組娘役)
* [[天彩峰里]](宝塚歌劇団[[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役)
* [[土屋秋恆]](水墨画家)
* [[若槻昌高]](空手家)
* [[光森裕樹]](歌人)
* [[小園海斗]](プロ野球選手)
* [[三浦璃来]](ペアスケート選手)
* [[山守文雄]]([[テレビプロデューサー]]、[[作家]]、[[漫画原作者]])
* [[金岡又右衛門 (4代目)]]([[園芸家]])
{{div col end}}
=== 名誉市民 ===
* [[手塚治虫]]
* [[春日野八千代]](元宝塚歌劇団名誉理事)
=== 特別名誉市民 ===
* [[坂上頼泰]](木継太夫)
=== 特別市民 ===
* [[サファイア (リボンの騎士)|サファイヤ・フォン・シルバーランド]](手塚治虫原作/[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]「[[リボンの騎士]]」の主人公)
== 宝塚市が舞台になった作品 ==
宝塚歌劇団や宝塚音楽学校を題材にした作品は多く、ロケ地としても度々使われている。
{{columns-start|num=5}}
=== 小説 ===
* [[スィート・ホーム]]([[原田マハ]])
* [[阪急電車 (小説)|阪急電車]]([[有川浩]])([[阪急今津線]] [[仁川駅]] - [[宝塚駅]])
* [[弧猿]]([[井上靖]])<ref group="*">井上が社用で、日本画家・[[橋本関雪]](作中では谷村大峯)を売布神社の別邸に訪問した時のことが、作中に使われている。</ref>
* [[歌劇学校]]([[川端康成]])
* [[あるぷす大将]]([[吉川英治]])
* [[桜守]]([[水上勉]])
* [[がしんたれ]]([[菊田一夫]])
* [[宝塚海軍航空隊]]([[栗山良八郎]])
* ロミオの父([[阪田寛夫]])
{{column}}
=== 随筆・エッセイ ===
* [[宝塚の歌劇少女]]([[橋詰せみ郎]])
* [[寶塚]]([[平井房人]])
* [[寶塚物語]]([[平井房人]])
* [[續寶塚物語 寶塚夜話]](平井房人)
* [[宝塚花束]](平井房人)
* [[宝塚スター物語]]([[丸尾長顕]])
* [[宝塚小夜曲]](丸尾長顕)
* [[清く正しく美しく (書籍)|清く正しく美しく]]([[天津乙女]])
* [[おひたち記]]([[小夜福子]])
* [[葦笛 (書籍)|葦笛]]([[葦原邦子]])
* [[宝塚物語]](葦原邦子)
* [[白薔薇の抄]]([[春日野八千代]])
* [[夢の菓子をたべて-わが愛の宝塚]]([[田辺聖子]])
{{column}}
=== 漫画 ===
* [[アドルフに告ぐ]]([[手塚治虫]])
* [[紙の砦]](手塚治虫)
* [[スリル博士]](手塚治虫)
* [[東京シャッターガール]]([[桐木憲一]])
* [[タカラヅカが好きすぎて。]]([[細川貂々]])
* [[タカラヅカ 夢の時間紀行]](細川貂々)
* [[お多福来い来い てんてんの落語案内]](細川貂々)
* [[すみれの花咲く頃 (漫画)|すみれの花咲く頃]]([[松本剛 (漫画家)|松本剛]])
* [[阪急タイムマシン]]([[桐畑水葉]])
{{column}}
=== ドラマ ===
* [[虹を織る]]
* [[愛と青春の宝塚]]
* [[てるてる家族]]
* [[悲しみだけが夢をみる]]
* [[トイレの神様]]
* [[シンシア 〜介助犬誕生ものがたり〜]]
{{column}}
=== 映画 ===
* [[寳塚夫人]]
* [[小早川家の秋]]
* [[誘拐報道]]
* [[阪急電車_(小説)#映画|阪急電車 片道15分の奇跡]]
{{columns-end}}
== 脚注・参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{multimedia|宝塚市の画像}}
; 行政
* {{Official website}}
* {{LINE公式アカウント|takarazukacity}}
* {{Instagram|takarazuka_city}}
* {{Facebook|kohotakarazuka|宝塚市フォトニュース}}
* {{YouTube|user=CityTakarazuka|宝塚市広報課}}
; 観光・文化
* [https://kanko-takarazuka.jp/ 宝塚市国際観光協会]
* [https://www.t-clip.info/ 宝塚クリップ(宝塚市文化財団)]
* [http://www.zukanavi.com/ 宝塚市情報サイト ヅカナビ]
* [https://kageki.hankyu.co.jp/ 宝塚歌劇団]
; その他
* {{Osmrelation|900265}}
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中華民国の行政区分
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中華民国の行政区分(ちゅうかみんこくのぎょうせいくぶん)は、時期により大きく制度に相違点があるため、下記の各項目にて解説する。
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中華民国の行政区分(ちゅうかみんこくのぎょうせいくぶん)は、時期により大きく制度に相違点があるため、下記の各項目にて解説する。 南京臨時政府の行政区分 - 辛亥革命から北京政府成立までの行政区画。各省の軍政府を含む。
北京政府の行政区分 - 北京政府時代の行政区分。
南京国民政府の行政区分 - 国民政府時代、及び遷台から2006年まで中華民国政府が政府の公告資料に掲載いていた大陸地区(中華民国の境域から台湾地区を除外した地域)の行政区分。
汪兆銘政権の行政区分 - 汪兆銘政権の行政区分。
台湾の行政区分 - 台湾地区(大陳島撤退作戦以降も中華民国が実効支配し続けている地域)の行政区分。
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'''[[中華民国]]の[[行政区分]]'''(ちゅうかみんこくのぎょうせいくぶん)は、時期により大きく制度に相違点があるため、下記の各項目にて解説する。
# '''[[南京臨時政府の行政区分]]''' - [[辛亥革命]]から[[北京政府]]成立までの行政区画。各省の軍政府を含む。
# '''[[北京政府の行政区分]]''' - [[北京政府]]時代の行政区分。
# '''[[南京国民政府の行政区分]]''' - [[国民政府]]時代、及び[[中華民国政府の台湾への移転|遷台]]から[[2006年]]まで中華民国政府が政府の公告資料に掲載いていた[[大陸地区]]({{仮リンク|中華民国の領域|zh|中華民國疆域}}から[[台湾地区]]を除外した地域)の行政区分。
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17,205 |
台湾の行政区分
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台湾の行政区分(たいわんのぎょうせいくぶん)では、中華民国が実効支配する台湾地区(自由地区)の現行の行政区分について説明する。日本統治時代の台湾の行政区分については日本統治時代の台湾行政区分を参照、中華民国政府の台湾への移転以前の中華民国の行政区分については中華民国の行政区分をそれぞれ参照。
台湾における行政区分は、中華民国憲法とその修正条文、ならびに地方制度法の規定に基づいて区分されており、現在では第1級行政区分の6直轄市(台北市、新北市、桃園市、台中市、台南市、高雄市)、ならびに第2級行政区分の3省轄市(基隆市、新竹市、嘉義市)と13県に区分されている。
第1級行政区分として省(福建省、台湾省)という区分単位も名目上存在しており、第2級行政区分である省轄市と県は、省内を更に区分している。だが、1996年1月に福建省が、1998年12月に台湾省がそれぞれ行政機能を「凍結」させられた為、その機能は中央や第2級行政区分の省轄市、県へと分散された。
しかし、財政上は省と同格である2直轄市(台北市と高雄市)が厚遇されていたため、県や省轄市には十分な予算が回らないという問題が続いてきた。そのため、2007年に地方制度が改正され、人口200万以上の県市に直轄市並みの財政処置が可能とすることが決まった。この条件を満たす県市は複数あるが、まず台北県がこの準直轄市扱いとなった。なお、法律上は「準直轄市」という区分が存在しない。台北県も財政上の処置を除くと、他県同様の区分にとどまっている。2009年にまた法律が改正され、2010年末から台北県が新北市(直轄市)に昇格し、さらに台中市と台中県、台南市と台南県、高雄市と高雄県がそれぞれ合併して直轄市になった。同時に、桃園県の人口数が200万を超えたため、準直轄市扱いとなった。
なお、中華民国が領有する東沙諸島と南沙諸島の島々は高雄市に、また尖閣諸島(中国語名:釣魚台列嶼)は「中華民国領海及鄰接区法」の規定によって宜蘭県の所管とされている。
中華民国は戦後も自らが中国(台湾・モンゴルを含む)の唯一の正統な国家だと主張していた。そのため、南京時代の行政区画は有効とし、中国全土を数十の省他に分割していた。しかし国民党が台湾に渡った1949年以降、実効支配していたのは台湾省の全土と福建省の一部のみであった。この2省も1990年代に虚省化され、台湾省議会も消滅した。
2000年の改正中華民国憲法増修条文の規定により、それまで地方自治体だった省政府は中央政府の出先機関と改編され、実際の行政区分には存在しないため名目化された。『中華民国地方制度法律』では「省」の下部に「県」または「市」を設置すると規定されている。
2018年7月に台湾省政府が、2019年1月に福建省政府がそれぞれ事実上廃止されたため、現在は憲法上に存在する名義としての実態のみとなる。
直轄市は行政院に直属する地方自治体である。人口125万以上、政治・経済・文化の発展に重要な地域が指定される。2010年12月25日と2014年12月25日に変更があり、現在は既存の台北市と高雄市に加えて新北市・台中市・台南市・桃園市が指定を受けている。「市」の下部には「区」が設置され、「区」の下部に「里」、「里」の下部に「鄰」を設置している。
「県」は名目上は「省」の下部組織であるが、実際には行政院に直属する地方自治体。「県」の下部には「県轄市・鎮・郷」を設置し、「県轄市・鎮」の下部には「里」を、「郷」の下部には「村」が設置され、「里・村」の下部に「鄰」を設置している。
旧称を省轄市と称し、県と同等の存在として行政院に直属する地方自治体。人口50万以上125万人未満であり、政治・経済・文化で重要な地位を占める場合に指定される。「市」の下部に「区」が設置され、「区」の下部に「里」、「里」の下部に「鄰」が設置される。
行政院総合サービスセンター(行政院聯合服務中心)(中国語版)は省級の非正規な中央政府出先機関であり、行政院の各部会が各地域に出向した場合の総合庁舎として設置された。中心の責任者は主任である行政院副院長が兼務し、実際の政務は中心執行長(センター長)を中心に行われている。
聯合服務中心の管轄区域は『台湾地区国土綜合開発計画』で策定された台湾本島四大区域(北部、中部、南部、東部区域、および福建省金門、連江両県による金馬区域)を担当することとなっており、現在は行政院南部総合サービスセンター(中国語版)(行政院南部聯合服務中心)と行政院中部総合サービスセンター(中国語版)(行政院中部聯合服務中心)、行政院東部総合サービスセンター(中国語版)(行政院東部聯合服務中心)、行政院雲嘉南区総合サービスセンター(中国語版)(行政院雲嘉南區聯合服務中心)、行政院金馬総合サービスセンター(中国語版)(行政院金馬聯合服務中心)が設置されている。
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台湾の行政区分(たいわんのぎょうせいくぶん)では、中華民国が実効支配する台湾地区(自由地区)の現行の行政区分について説明する。日本統治時代の台湾の行政区分については日本統治時代の台湾行政区分を参照、中華民国政府の台湾への移転以前の中華民国の行政区分については中華民国の行政区分をそれぞれ参照。
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{{出典の明記|date=2019年10月}}
{{中華民国の行政区分 (サイドバー)}}
[[File:Cities and townships of Taiwan.svg|thumb|台湾の[[郷]](村)[[鎮]](町)[[市]]
<br />
グレー[[郷]](
緑[[山地郷]])
<br />
黄[[鎮]]
<br />
紫[[県轄市]]
<br />
青[[県級市]]
<br />
褐[[直轄市]]]]
'''[[台湾]]の行政区分'''(たいわんのぎょうせいくぶん)では、[[中華民国]]が実効支配する[[台湾地区]](自由地区)の現行の行政区分について説明する。[[日本統治時代の台湾]]の行政区分については[[日本統治時代の台湾行政区分]]を参照、[[中華民国政府の台湾への移転]]以前の中華民国の行政区分については[[中華民国の行政区分]]をそれぞれ参照。
{{Image label begin|image=Subdivision types of the Republic of China (2014).svg|width=300|float=right|margin=0px 0px 0px 15px|thumb=y|caption=2010年12月25日以降の[[中華民国]]の行政区画。
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== 概要 ==
台湾における行政区分は、[[中華民国憲法]]とその[[中華民国憲法増修条文|修正条文]]、ならびに地方制度法の規定に基づいて区分されており、現在では第1級行政区分の'''6[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]'''([[台北市]]、[[新北市]]、[[桃園市]]、[[台中市]]、[[台南市]]、[[高雄市]])、ならびに第2級行政区分の'''3[[省轄市 (中華民国)|省轄市]]'''([[基隆市]]、[[新竹市]]、[[嘉義市]])と'''13[[県 (中華民国)|県]]'''に区分されている。
第1級行政区分として[[省 (行政区画)|省]]([[福建省 (中華民国)|福建省]]、[[台湾省]])という区分単位も名目上存在しており、第2級行政区分である省轄市と県は、省内を更に区分している。だが、[[1996年]]1月に福建省が、[[1998年]]12月に台湾省がそれぞれ行政機能を「凍結」させられた為、その機能は中央や第2級行政区分の省轄市、県へと分散された。
しかし、財政上は省と同格である2直轄市(台北市と高雄市)が厚遇されていたため、県や省轄市には十分な予算が回らないという問題が続いてきた。そのため、2007年に地方制度が改正され、人口200万以上の県市に直轄市並みの財政処置が可能とすることが決まった。この条件を満たす県市は複数あるが、まず台北県がこの準直轄市扱いとなった。なお、法律上は「準直轄市」という区分が存在しない。台北県も財政上の処置を除くと、他県同様の区分にとどまっている。2009年にまた法律が改正され、2010年末から台北県が[[新北市]](直轄市)に昇格し、さらに台中市と台中県、台南市と台南県、高雄市と高雄県がそれぞれ合併して直轄市になった。同時に、[[桃園市|桃園県]]の人口数が200万を超えたため、準直轄市扱いとなった。
なお、中華民国が領有する[[東沙諸島]]と[[南沙諸島]]の島々は[[高雄市]]に、また[[尖閣諸島]](中国語名:釣魚台列嶼)は「中華民国領海及鄰接区法」の規定によって[[宜蘭県]]の所管とされている。
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== 行政区画の一覧 ==
{{Main2|各行政区画別の人口、面積などの統計|台湾行政区人口順位表}}
=== 省級 ===
==== 省 ====
[[中華民国]]は戦後も自らが中国(台湾・[[モンゴル国|モンゴル]]を含む)の唯一の正統な国家だと主張していた。そのため、[[南京国民政府の行政区分|南京時代の行政区画]]は有効とし、中国全土を数十の省他に分割していた。しかし国民党が台湾に渡った[[1949年]]以降、[[実効支配]]していたのは[[台湾省]]の全土と[[福建省 (中華民国)|福建省]]の一部のみであった。この2省も[[1990年代]]に[[台湾省政府功能業務・組織調整|虚省化]]され、[[台湾省議会]]も消滅した。
[[2000年]]の改正[[中華民国憲法増修条文]]の規定により、それまで地方自治体だった省政府は中央政府の出先機関と改編され、実際の行政区分には存在しないため名目化された。『中華民国地方制度法律』では「省」の下部に「県」または「市」を設置すると規定されている。
* 台湾省:11県3市を管轄。省政府は[[南投県]][[南投市]][[中興新村]]に位置する。
* 福建省:2県を管轄。省政府は[[金門県]][[金城鎮]]に位置する。
2018年7月に台湾省政府が、2019年1月に福建省政府がそれぞれ事実上廃止されたため、現在は憲法上に存在する名義としての実態のみとなる。
==== 直轄市 ====
[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]は[[行政院]]に直属する地方自治体である。人口125万以上、政治・経済・文化の発展に重要な地域が指定される。2010年12月25日と2014年12月25日に変更があり、現在は既存の[[台北市]]と[[高雄市]]に加えて[[新北市]]・[[台中市]]・[[台南市]]・[[桃園市]]が指定を受けている。「市」の下部には「区」が設置され、「区」の下部に「里」、「里」の下部に「鄰」を設置している。
{| align=center border=1 cellspacing=0 width=91% class="wikitable" style="margin-left:auto; margin-right:auto;"
!width=15% |市
!width=15% |下部行政区数
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|{{Flagicon|台北市}} [[台北市]]
|12区
|[[松山区 (台北市)|松山区]] | [[大安区 (台北市)|大安区]] | [[大同区 (台北市)|大同区]] | [[中山区 (台北市)|中山区]] | [[内湖区]] | [[南港区]] | [[士林区]] | [[北投区]] | [[信義区 (台北市)|信義区]] | [[中正区 (台北市)|中正区]] | [[万華区]] | [[文山区]]
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|{{Flagicon|新北市}} [[新北市]]
|29区
|[[板橋区 (新北市)|板橋区]] | [[三重区]] | [[永和区]] | [[中和区]] | [[新荘区]] | [[新店区]] | [[土城区]] | [[蘆洲区]] | [[汐止区]] | [[樹林区]] | [[鶯歌区]] | [[三峡区]] | [[淡水区]] | [[瑞芳区]] | [[五股区]] | [[泰山区 (新北市)|泰山区]] | [[林口区]] | [[深坑区]] | [[石碇区]] | [[坪林区]] | [[三芝区]] | [[石門区]] | [[八里区]] | [[平渓区]] | [[双渓区]] | [[貢寮区]] | [[金山区 (新北市)|金山区]] | [[万里区]] | [[烏来区]]
|-align=left
|{{Flagicon|桃園県}} [[桃園市]]
|13区
|[[桃園区]] | [[中壢区]] | [[平鎮区]] | [[八徳区]] | [[楊梅区]] | [[蘆竹区]] | [[大渓区]] | [[大園区]] | [[亀山区]] | [[龍潭区 (桃園市)|龍潭区]] | [[新屋区]] | [[観音区]] | [[復興区 (桃園市)|復興区]]
|-align=left
|{{Flagicon|台中市}} [[台中市]]
|29区
|[[中区 (台中市)|中区]] | [[東区 (台中市)|東区]] | [[南区 (台中市)|南区]] | [[西区 (台中市)|西区]] | [[北区 (台中市)|北区]] | [[西屯区]] | [[南屯区]] | [[北屯区]] | [[豊原区 (台中市)|豊原区]] | [[大里区]] | [[太平区 (台中市)|太平区]] | [[東勢区]] | [[大甲区]] | [[清水区 (台中市)|清水区]] | [[沙鹿区]] | [[梧棲区]] | [[后里区]] | [[神岡区]] | [[潭子区]] | [[大雅区]] | [[新社区]] | [[石岡区]] | [[外埔区]] | [[大安区 (台中市)|大安区]] | [[烏日区]] | [[大肚区]] | [[龍井区]] | [[霧峰区]] | [[和平区 (台中市)|和平区]]
|-align=left
|{{Flagicon|台南市}} [[台南市]]
|37区
|[[東区 (台南市)|東区]] | [[南区 (台南市)|南区]] | [[中西区 (台南市)|中西区]] | [[北区 (台南市)|北区]] | [[安南区]] | [[安平区]] | [[新営区]] | [[永康区]] | [[塩水区]] | [[白河区]] | [[麻豆区]] | [[佳里区]] | [[新化区]] | [[善化区]] | [[学甲区]] | [[柳営区]] | [[後壁区]] | [[東山区 (台南市)|東山区]] | [[下営区]] | [[六甲区]] | [[官田区]] | [[大内区]] | [[西港区]] | [[七股区]] | [[将軍区]] | [[北門区]] | [[安定区 (台南市)|安定区]] | [[楠西区]] | [[新市区 (台南市)|新市区]] | [[山上区]] | [[玉井区]] | [[南化区]] | [[左鎮区]] | [[仁徳区]] | [[帰仁区]] | [[関廟区]] | [[龍崎区]]
|-align=left
|{{Flagicon|高雄市}} [[高雄市]]
|38区
|[[塩埕区]] | [[鼓山区]] | [[左営区]] | [[楠梓区]] | [[三民区]] | [[新興区 (高雄市)|新興区]] | [[前金区]] | [[苓雅区]] | [[前鎮区]] | [[旗津区]]<ref>中華民国政府が領有する[[東沙諸島]]、[[南沙諸島]]の島々は旗津区に帰属している</ref> | [[小港区]] | [[鳳山区]] | [[岡山区]] | [[旗山区]] | [[美濃区]] | [[林園区]] | [[大寮区]] | [[大樹区]] | [[仁武区]] | [[大社区]] | [[鳥松区]] | [[橋頭区]] | [[燕巣区]] | [[田寮区]] | [[阿蓮区]] | [[路竹区]] | [[湖内区]] | [[茄テイ区|茄萣区]] | [[永安区]] | [[弥陀区]] | [[梓官区]] | [[六亀区]] | [[甲仙区]] | [[杉林区]] | [[内門区]] | [[茂林区]] | [[桃源区]] | [[那瑪夏区]]
|}
===県級===
====県====
「[[県 (中華民国)|県]]」は名目上は「省」の下部組織であるが、実際には行政院に直属する地方自治体。「県」の下部には「県轄市・鎮・郷」を設置し、「県轄市・鎮」の下部には「里」を、「郷」の下部には「村」が設置され、「里・村」の下部に「鄰」を設置している。
{| align=center border=1 cellspacing=0 width=91% class="wikitable" style="margin-left:auto; margin-right:auto;"
!width=15% |県名
!width=15% |下部行政区数
!width=60% |下部行政区
|-align=left
|{{Flagicon|新竹県}} [[新竹県]]
|1市3鎮9郷
|[[竹北市]] | [[関西鎮]] | [[新埔鎮]] | [[竹東鎮]] | [[湖口郷]] | [[横山郷]] | [[新豊郷]] | [[芎林郷]] | [[宝山郷]] | [[北埔郷]] | [[峨眉郷]] | [[尖石郷]] | [[五峰郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|苗栗県}} [[苗栗県]]
|2市5鎮11郷
|[[苗栗市]] | [[頭份市]] | [[苑裡鎮]] | [[通霄鎮]] | [[竹南鎮]] | [[後龍鎮]] | [[卓蘭鎮]] | [[大湖郷]] | [[公館郷]] | [[銅鑼郷]] | [[南庄郷]] | [[頭屋郷]] | [[三義郷]] | [[西湖郷]] | [[造橋郷]] | [[三湾郷]] | [[獅潭郷]] | [[泰安郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|彰化県}} [[彰化県]]
|2市6鎮18郷
|[[彰化市]] | [[員林市]] | [[鹿港鎮]] | [[和美鎮]] | [[北斗鎮]] | [[渓湖鎮]] | [[田中鎮]] | [[二林鎮]] | [[線西郷]] | [[伸港郷]] | [[福興郷]] | [[秀水郷]] | [[花壇郷]] | [[芬園郷]] | [[大村郷]] | [[埔塩郷]] | [[埔心郷]] | [[永靖郷]] | [[社頭郷]] | [[二水郷]] | [[田尾郷]] | [[埤頭郷]] | [[芳苑郷]] | [[大城郷]] | [[竹塘郷]] | [[渓州郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|南投県}} [[南投県]]
|1市4鎮8郷
|[[南投市]] | [[埔里鎮]] | [[草屯鎮]] | [[竹山鎮]] | [[集集鎮]] | [[名間郷]] | [[鹿谷郷]] | [[中寮郷]] | [[魚池郷]] | [[国姓郷]] | [[水里郷]] | [[信義郷]] | [[仁愛郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|雲林県}} [[雲林県]]
|1市5鎮14郷
|[[斗六市]] | [[斗南鎮]] | [[虎尾鎮]] | [[西螺鎮]] | [[土庫鎮]] | [[北港鎮]] | [[古坑郷]] | [[大埤郷]] | [[莿桐郷]] | [[林内郷]] | [[二崙郷]] | [[崙背郷]] | [[麦寮郷]] | [[東勢郷]] | [[褒忠郷]] | [[台西郷]] | [[元長郷]] | [[四湖郷]] | [[口湖郷]] | [[水林郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|嘉義県}} [[嘉義県]]
|2市2鎮14郷
|[[太保市]] | [[朴子市]] | [[布袋鎮]] | [[大林鎮]] | [[民雄郷]] | [[渓口郷]] | [[新港郷]] | [[六脚郷]] | [[東石郷]] | [[義竹郷]] | [[鹿草郷]] | [[水上郷]] | [[中埔郷]] | [[竹崎郷]] | [[梅山郷]] | [[番路郷]] | [[大埔郷]] | [[阿里山郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|屏東県}} [[屏東県]]
|1市3鎮29郷
|[[屏東市]] | [[潮州鎮]] | [[東港鎮]] | [[恒春鎮]] | [[万丹郷]] | [[長治郷]] | [[麟洛郷]] | [[九如郷]] | [[里港郷]] | [[塩埔郷]] | [[高樹郷]] | [[万巒郷]] | [[内埔郷]] | [[竹田郷]] | [[新埤郷]] | [[枋寮郷]] | [[新園郷]] | [[崁頂郷]] | [[林辺郷]] | [[南州郷]] | [[佳冬郷]] | [[琉球郷]] | [[車城郷]] | [[満州郷]] | [[枋山郷]] | [[霧台郷]] | [[瑪家郷]] | [[泰武郷]] | [[来義郷]] | [[春日郷]] | [[獅子郷]] | [[牡丹郷]] | [[三地門郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|宜蘭県}} [[宜蘭県]]
|1市3鎮8郷
|[[宜蘭市]] | [[羅東鎮]] | [[蘇澳鎮]] | [[頭城鎮]]<ref>中華民国政府は[[尖閣諸島]]([[中国語]]名:<span lang="zh-TW">釣魚臺列嶼</span>)の領有権を主張しており、行政区分上は頭城鎮に帰属させている。</ref> | [[礁渓郷]] | [[壮囲郷]] | [[員山郷]] | [[冬山郷]] | [[五結郷]] | [[三星郷]] | [[大同郷]] | [[南澳郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|花蓮県}} [[花蓮県]]
|1市2鎮10郷
|[[花蓮市]] | [[鳳林鎮]] | [[玉里鎮]] | [[新城郷]] | [[吉安郷]] | [[寿豊郷]] | [[光復郷]] | [[豊浜郷]] | [[瑞穂郷]] | [[富里郷]] | [[秀林郷]] | [[卓渓郷]] | [[万栄郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|台東県}} [[台東県]]
|1市2鎮13郷
|[[台東市]] | [[成功鎮]] | [[関山鎮]] | [[卑南郷]] | [[大武郷]] | [[太麻里郷]] | [[東河郷]] | [[長浜郷]] | [[鹿野郷]] | [[池上郷]] | [[緑島郷]] | [[延平郷]] | [[海端郷]] | [[達仁郷]] | [[金峰郷]] | [[蘭嶼郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|澎湖県}} [[澎湖県]]
|1市5郷
|[[馬公市]] | [[湖西郷]] | [[白沙郷]] | [[西嶼郷]] | [[望安郷]] | [[七美郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|金門県}} [[金門県]]
|3鎮3郷
|[[金城鎮]] | [[金湖鎮]] | [[金沙鎮]] | [[金寧郷]] | [[烈嶼郷]] | [[烏坵郷]]
|-align=left
|{{Flagicon|連江県}} [[連江県 (中華民国)|連江県]]
|4郷
|[[南竿郷]] | [[北竿郷]] | [[莒光郷]] | [[東引郷]]
|}
====市====
旧称を'''[[省轄市]]'''と称し、県と同等の存在として行政院に直属する地方自治体。人口50万以上125万人未満であり、政治・経済・文化で重要な地位を占める場合に指定される。「市」の下部に「区」が設置され、「区」の下部に「里」、「里」の下部に「鄰」が設置される。
{| align=center border=1 cellspacing=0 width=91% class="wikitable" style="margin-left:auto; margin-right:auto;"
!width=15% |市名
!width=15% |下部行政区数
!width=60% |下部行政区
|-align=left
|{{Flagicon|基隆市}} [[基隆市]]
|7区
|[[中山区 (基隆市)|中山区]] | [[七堵区]] | [[暖暖区]] | [[仁愛区]] | [[中正区 (基隆市)|中正区]] | [[安楽区]] | [[信義区 (基隆市)|信義区]]
|-align=left
|{{Flagicon|新竹市}} [[新竹市]]
|3区
|[[東区 (新竹市)|東区]] | [[北区 (新竹市)|北区]] | [[香山区]]
|-align=left
|{{Flagicon|嘉義市}} [[嘉義市]]
|2区
|[[東区 (嘉義市)|東区]] | [[西区 (嘉義市)|西区]]
|}
===行政院聯合服務中心(行政院総合サービスセンター)===
{{仮リンク|行政院総合サービスセンター|zh|行政院联合服务中心|label=行政院総合サービスセンター(行政院聯合服務中心)}}は省級の非正規な中央政府出先機関であり、行政院の各部会が各地域に出向した場合の総合庁舎として設置された。中心の責任者は主任である行政院副院長が兼務し、実際の政務は中心執行長(センター長)を中心に行われている。
聯合服務中心の管轄区域は『台湾地区国土綜合開発計画』で策定された台湾本島四大区域(北部、中部、南部、東部区域、および福建省金門、連江両県による金馬区域)を担当することとなっており、現在は{{仮リンク|行政院南部総合サービスセンター|zh|行政院南部聯合服務中心}}(行政院南部聯合服務中心)と{{仮リンク|行政院中部総合サービスセンター|zh|行政院中部聯合服務中心}}(行政院中部聯合服務中心)、{{仮リンク|行政院東部総合サービスセンター|zh|行政院東部聯合服務中心}}(行政院東部聯合服務中心)、{{仮リンク|行政院雲嘉南区総合サービスセンター|zh|行政院雲嘉南區聯合服務中心}}(行政院雲嘉南區聯合服務中心)、{{仮リンク|行政院金馬総合サービスセンター|zh|行政院金馬聯合服務中心}}(行政院金馬聯合服務中心)が設置されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[南京国民政府の行政区分]]:[[1949年]]の中央政府遷台以降も放棄されていない公式上の[[中華民国]]全土の行政区分
* [[台湾接管計画綱要地方政制]]
* [[台湾行政区人口順位表]]
* [[台湾の村里]]
* [[ISO 3166-2:TW]]
== 外部リンク ==
*[http://maps.nlsc.gov.tw/ 國土測繪圖資網路地圖服務] - [[中華民国行政院]]提供の官製地図。([[繁体字]][[中国語]])
{{中華民国の行政区分}}
{{アジアの第一級行政区画}}
{{Taiwan-stub}}
[[Category:台湾の行政区分|*]]
[[Category:地方区分の一覧|たいわん]]
|
2003-09-17T18:45:22Z
|
2023-12-22T14:58:23Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E5%88%86
|
17,206 |
新竹市
|
新竹市(シンジュー/しんちく し、中: 新竹市、英: Hsinchu)は、台湾北西部にある台湾省の省轄市。 IT関連の工場や企業が集中しているため、「台湾のシリコンバレー」と呼ばれている。
新竹市は台湾島の北西部に位置している。冬季には非常に強い季節風が吹くことから「風城」という異名がある。地質的には東南方向から西北方向に広がる沖積平野上に位置している。
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候 (Cfa)に属する。
新竹市の古称は竹塹であり、清代に新竹と改名された。日本統治時代の1920年、新竹街が設置され、1930年の地方行政改制により市に昇格した。1941年、香山庄全域及び旧港、六家庄の一部を統合し行政区域を拡大、下部に25区を設置した。
戦後の1945年10月25日、台湾行政長官は台湾総督から行政権の委譲を受け、11月5日に接管委員会の組織を公布、11月8日に新竹州接管委員が新竹に到着し行政権委譲作業が開始された。11月17日に新竹市政府が新竹市役所に置かれ、11月30日に日本統治時代の25区を9区に改組した。新竹県政府は翌年2月28日に桃園に移り、新竹市は省轄市へと改編されて東、西、南、北、竹東、寶山、香山の7区が置かれた。
1950年10月25日に中国国民党政府のもと地方行政改制を行い、新竹市に新竹県管轄下の関西、新埔の2鎮、湖口、紅毛、竹北、横山、芎林、北埔、峨眉の7郷、尖石、五峰の2山地郷を併合した上で新竹県に合併された。新竹県政府は新竹市に置かれた他、新竹県が3つに分けられて新たに桃園県、苗栗県が設置された。
1951年12月1日、東、西、南、北の4区を統合して県轄市に格下げされたが、1982年7月1日には新竹県が管轄していた香山郷が新竹市に統合されたのに合わせて再度県から脱離し、省轄市に昇格し、現在に至っている。
1990年の統計によれば、新竹市の閩南人比率は75%である。一方、新竹県は客家の多い區域。
国民中学・国民小学は下部行政区の項目を参照
なお、台湾高速鉄道の新竹駅は新竹県に位置している。
城隍廟屋台-- 炒米粉(焼きビーフン)、貢丸湯(肉団子スープ)、郭家潤餅(ルンビン)
市内に3店舗展開している鴨肉許で食べることができる各種鴨料理も名物の一つ。
土産-- 竹塹餅。城隍廟廟口で100年以上の歴史を持つ老舗菓子店「新復珍」にて購入可能。
名物の刺身-- 新竹漁港では、弁当箱いっぱいの新鮮な刺身を、僅か200台湾ドル程度で購入できる。
竹塹八景
|
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"text": "1951年12月1日、東、西、南、北の4区を統合して県轄市に格下げされたが、1982年7月1日には新竹県が管轄していた香山郷が新竹市に統合されたのに合わせて再度県から脱離し、省轄市に昇格し、現在に至っている。",
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"text": "1990年の統計によれば、新竹市の閩南人比率は75%である。一方、新竹県は客家の多い區域。",
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"text": "国民中学・国民小学は下部行政区の項目を参照",
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"text": "なお、台湾高速鉄道の新竹駅は新竹県に位置している。",
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"text": "市内に3店舗展開している鴨肉許で食べることができる各種鴨料理も名物の一つ。",
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"text": "名物の刺身-- 新竹漁港では、弁当箱いっぱいの新鮮な刺身を、僅か200台湾ドル程度で購入できる。",
"title": "食"
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] |
新竹市は、台湾北西部にある台湾省の省轄市。
IT関連の工場や企業が集中しているため、「台湾のシリコンバレー」と呼ばれている。
|
{{台湾行政区
|name=新竹市
|image=Hsinchu City Montage.png
|caption=時計回りに上から: [[国立清華大学]]の夜景、[[迎曦門]]、[[中華民国国旗]]と新竹市旗、[[竹塹城]]の堀、[[新竹州庁]]、[[国立清華大学]]工学院<br />{{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}
|map=[[ファイル:Taiwan ROC political division map Hsinchu City.svg|200px]]
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|chinese=新竹
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|katakana=シンジュー
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|address=[[北区 (新竹市)|北区]]中正路120号
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|year=2020年3月
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}}
'''新竹市'''(シンジュー/しんちく-し、{{Lang-en|Hsinchu City}})は、[[台湾]]北西部にある[[台湾省]]の[[省轄市 (中華民国)|省轄市]]<ref group="注">但し[[1998年]]に台湾省の機能が凍結([[台湾省政府功能業務・組織調整|虚省化]])されたことに伴って省轄市という区分も名目上のものとなり、単に「市」と表記されている。</ref>。IT関連の工場や企業が集中しているため、「台湾の[[シリコンバレー]]」と呼ばれている。
== 地理 ==
新竹市は[[台湾島]]の北西部に位置している。冬季には非常に強い季節風が吹くことから「風城」という異名がある。地質的には東南方向から西北方向に広がる沖積平野上に位置している。
=== 気候 ===
[[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]] (Cfa)に属する。
{{Weather box
|location = 新竹市 (1992-2010)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan high C = 18.9
|Feb high C = 19.4
|Mar high C = 21.4
|Apr high C = 25.2
|May high C = 28.6
|Jun high C = 31.0
|Jul high C = 32.9
|Aug high C = 32.6
|Sep high C = 31.0
|Oct high C = 27.8
|Nov high C = 24.9
|Dec high C = 21.2
|year high C =
|Jan mean C = 15.5
|Feb mean C = 15.9
|Mar mean C = 17.9
|Apr mean C = 21.7
|May mean C = 24.9
|Jun mean C = 27.4
|Jul mean C = 29.0
|Aug mean C = 28.7
|Sep mean C = 27.1
|Oct mean C = 24.2
|Nov mean C = 21.2
|Dec mean C = 17.7
|year mean C =
|Jan low C = 12.9
|Feb low C = 13.4
|Mar low C = 15.2
|Apr low C = 18.8
|May low C = 21.8
|Jun low C = 24.4
|Jul low C = 25.7
|Aug low C = 25.6
|Sep low C = 24.1
|Oct low C = 21.6
|Nov low C = 18.5
|Dec low C = 15.0
|year low C =
|Jan precipitation mm = 64.4
|Feb precipitation mm = 191.3
|Mar precipitation mm = 172.8
|Apr precipitation mm = 161.4
|May precipitation mm = 247.2
|Jun precipitation mm = 266.1
|Jul precipitation mm = 108.2
|Aug precipitation mm = 190.5
|Sep precipitation mm = 95.1
|Oct precipitation mm = 59.4
|Nov precipitation mm = 35.6
|Dec precipitation mm = 47
|year precipitation mm = 1639
|Jan precipitation days = 9.8
|Feb precipitation days = 13.8
|Mar precipitation days = 14.1
|Apr precipitation days = 13.1
|May precipitation days = 11.7
|Jun precipitation days = 10.2
|Jul precipitation days = 8.2
|Aug precipitation days = 11.2
|Sep precipitation days = 6.8
|Oct precipitation days = 5.4
|Nov precipitation days = 4.6
|Dec precipitation days = 7.7
|Jan humidity = 78.9
|Feb humidity = 80.1
|Mar humidity = 83.1
|Apr humidity = 80.9
|May humidity = 79.8
|Jun humidity = 78.3
|Jul humidity = 75.9
|Aug humidity = 78
|Sep humidity = 75.1
|Oct humidity = 76.4
|Nov humidity = 76.3
|Dec humidity = 76.3
|year humidity = 78.3
|Jan sun = 98.2
|Feb sun = 84.8
|Mar sun = 85
|Apr sun = 103
|May sun = 136.6
|Jun sun = 185
|Jul sun = 230.9
|Aug sun = 205.7
|Sep sun = 206.8
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|source 1 = <ref>{{cite web
| url = http://www.cwb.gov.tw/eng/index.htm | title = Statistics > Monthly Mean | publisher = [[Central Weather Bureau]] |accessdate=2009-06-07}}</ref>
|date=August 2010
}}
== 歴史 ==
新竹市の古称は'''竹塹'''であり、清代に'''新竹'''と改名された。日本統治時代の[[1920年]]、新竹街が設置され、[[1930年]]の地方行政改制により市に昇格した。[[1941年]]、香山庄全域及び旧港、六家庄の一部を統合し行政区域を拡大、下部に25区を設置した。
戦後の[[1945年]]10月25日、台湾行政長官は台湾総督から行政権の委譲を受け、11月5日に接管委員会の組織を公布、11月8日に新竹州接管委員が新竹に到着し行政権委譲作業が開始された。11月17日に新竹市政府が新竹市役所に置かれ、11月30日に日本統治時代の25区を9区に改組した。新竹県政府は翌年2月28日に[[桃園市|桃園]]に移り、新竹市は省轄市へと改編されて東、西、南、北、竹東、寶山、香山の7区が置かれた。
[[1950年]]10月25日に[[中国国民党]]政府のもと地方行政改制を行い、新竹市に新竹県管轄下の関西、新埔の2鎮、湖口、紅毛、竹北、横山、芎林、北埔、峨眉の7郷、尖石、五峰の2山地郷を併合した上で新竹県に合併された。新竹県政府は新竹市に置かれた他、新竹県が3つに分けられて新たに[[桃園県]]、[[苗栗県]]が設置された。
[[1951年]]12月1日、東、西、南、北の4区を統合して県轄市に格下げされたが、[[1982年]]7月1日には新竹県が管轄していた香山郷が新竹市に統合されたのに合わせて再度県から脱離し、省轄市に昇格し、現在に至っている。
[[1990年]]の統計によれば、新竹市の[[閩南民系|閩南人]]比率は75%である。一方、新竹県は客家の多い區域。
== 行政区画 ==
[[File:Hsinchu_Districts.PNG|thumb|250px|left|新竹市行政区画]]
* [[北区 (新竹市)|北区]]
* [[東区 (新竹市)|東区]]
* [[香山区]]
{{clear}}
=== 年表 ===
{{clear}}
== 教育 ==
=== 大学 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[国立清華大学]]
* [[国立陽明交通大学]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[中華大学]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[玄奘大学]]
* [[元培科技大学]]
</div>{{clear|left}}
=== 高級中学 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[国立科学工業園区実験高級中学]]
* [[国立新竹女子高級中学]]
* [[国立新竹高級中学]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[新竹市立成徳高級中学]]
* [[新竹市立建功高級中学]]
* [[新竹市立市立香山高級中学]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[私立磐石高級中学]]
* [[私立光復高級中学]]
* [[私立曙光女子中学]]
* [[私立世界高級中学]]
</div>{{clear|left}}
=== 高級職業学校 ===
* [[国立新竹高級工業学校]]
* [[国立新竹高級商業学校]]
国民中学・国民小学は下部行政区の項目を参照
== 交通 ==
[[File:TRA Hsinchu Station.jpg|right|thumb|新竹駅]]
* [[台湾鉄路管理局]]
** [[縦貫線 (北段)|縦貫線]]:[[北新竹駅]] - [[新竹駅]] - [[三姓橋駅]] - [[香山駅 (新竹市)|香山駅]]
** [[内湾線]]:新竹駅 - 北新竹駅 - [[千甲駅]] - [[新荘駅 (新竹市)|新荘駅]]
なお、[[台湾高速鉄道]]の[[新竹駅 (台湾高速鉄道)|新竹駅]]は[[新竹県]]に位置している。
== 新竹市に本社のある銀行 ==
* 渣打国際商業銀行([[イギリス]]の[[スタンダードチャータード銀行]]の台湾法人。旧[[新竹国際商業銀行]]であった)
== 食 ==
[[城隍廟]][[屋台]]-- 炒米粉(焼き[[ビーフン]])、[[貢丸]]湯(肉団子スープ)、郭家[[潤餅]](ルンビン)
市内に3店舗展開している鴨肉許で食べることができる各種鴨料理も名物の一つ。
土産-- 竹塹餅。[[城隍廟]]廟口で100年以上の歴史を持つ老舗菓子店「新復珍」にて購入可能。
名物の[[刺身]]-- 新竹漁港では、弁当箱いっぱいの新鮮な刺身を、僅か200台湾ドル程度で購入できる。
== 歴代市長 ==
{{main|新竹市長}}
== 姉妹都市 ==
*{{TWN}} [[嘉義市]]
*{{JPN}} [[岡山県]][[岡山市]]
*{{PHI}} [[パラワン州]][[プエルト・プリンセサ]]
*{{USA}} [[ワシントン州]][[リッチランド (ワシントン州)|リッチランド]]
*{{USA}} [[オレゴン州]][[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン]]
*{{USA}} [[ノースカロライナ州]][[ケーリー (ノースカロライナ州)|ケーリー]]
*{{USA}} [[カリフォルニア州]][[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパチーノ]]
*{{USA}} [[テキサス州]][[プレイノ]]
*{{AUS}} [[ニューサウスウェールズ州]][[シティ・オブ・フェアフィールド]]
*{{PLW}} [[アイライ州]]
== 観光 ==
'''竹塹八景'''
*[[:zh:%E9%A6%99%E5%B1%B1%E6%BF%95%E5%9C%B0|香山濕地]]
* [http://www.youtube.com/watch?v=stbirX_LLg4 新竹漁港]
* [[青草湖]]
* [[護城河親水公園]]
* [http://www.youtube.com/watch?v=YxDLKsI5SHM 新竹公園種植河津櫻10週年紀念牌揭牌儀式 ]
* [[新竹動物公園]]
* [[十八尖山]]
* [[古奇峰]]
== 出身有名人 ==
* [[田馥甄]] - [[S.H.E]]の一員(歌手、女優)。
* [[埴谷雄高]](はにや・ゆたか) - 日本の小説家。
* [[楊碧川]] - 独立運動家
* [[李遠哲]] - [[ノーベル化学賞]]受賞者。
* [[王心凌]] - 歌手、女優
* [[シュアン]] - 台湾出身YouTuber、女優、元アイドル
==脚註==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|台湾の行政区分|[[ファイル:Taiwan-icon.svg|34px]]}}
* [[台湾の行政区分]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|新竹市|Hsinchu_City}}
* [https://www.hccg.gov.tw/ 新竹市役所](中国語、日本語、英語)
* {{Wikivoyage-inline|zh:新竹|新竹市 {{zh-tw icon}}}}
* {{Osmrelation|2849488}}
{{新竹市の行政区分}}
{{台湾の都市}}
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[[Category:新竹市|*]]
[[Category:台湾の行政区分]]
[[Category:台湾の都市]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%AB%B9%E5%B8%82
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知多半島
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知多半島(ちたはんとう)は、愛知県西部、名古屋市や豊明市、刈谷市の南に突き出した半島。西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾に挟まれている。南は伊良湖水道を経て太平洋に通じている。愛知県南北部。蟹の足の様に渥美半島と向き合っている。
比較的細長い半島で、平地は狭く、ほとんどが緩やかな丘陵からなっている。海岸段丘の切り立った海岸も多い。最先端は南知多町にある羽豆岬である。
丘陵は地形的には愛知県中部を縦断する尾張丘陵の南に続くかたちとなっており、鞍流瀬川より南が大府丘陵、さらに阿久比川や大田川より南が知多丘陵となっている。
地方自治体としては、東海市、大府市、知多市、常滑市、半田市、知多郡の東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町の5市5町の全域、および名古屋市緑区と豊明市の一部が該当する。人口620,223人、面積392.2km2、人口密度1,581人/km2。(2023年10月1日、推計人口)。大府市と阿久比町は海に面していない。美浜町と南知多町は伊勢湾と三河湾の両方に面している。
東岸を走るJR武豊線沿いの武豊町、半田市には臨海工業地帯が発展している。また、西岸中部の常滑市は古くから焼き物(常滑焼)産地として知られ、明治時代からは陶製土管など陶器の大生産地である。西岸北部の東海市、知多市の沿岸部は名古屋港から続く埋立地に工場が連なり、中京工業地帯のコンビナートとなっている。西三河地域に接する東岸北部の大府市や東浦町では自動車産業の集積が見られる。醸造業も盛んであり、ミツカンが半田市に本社を置くほか、サントリーグループがウイスキー「知多」を生産している。
半島北部と対照的に南部は工業化が進んでおらず、漁港が点在する。西岸では砂浜がよく残り、内海海水浴場などを抱える名古屋圏の行楽地となっている。
知多半島のほぼ全域は名古屋鉄道(常滑線、河和線、知多新線)により名古屋圏と結ばれている。特に北部では住宅地開発が盛んで、企業が集積する名古屋市や西三河地方への通勤者も多い。また知多半島道路の整備により半田市、武豊町の内陸部の発展が著しい。
2005年には、常滑市沖を埋め立てた人工島に中部国際空港が開港し、知多半島が東海地方の海外に向けた空の玄関となっている。
大きな川が無い知多半島は古来水不足であった。岐阜県内から水を引く愛知用水(1961年開通)により、ようやく住民や観光客向けの水道水や農業用水、工業用水の需要を満たせるようになった。
かつて大府市の近崎(ちがさき、近世に行われた干拓事業により後に内地化)、半田市の亀崎、南知多町の鳶ヶ崎を「知多三崎」と称した。
律令時代、知多半島は尾張国に所属した。したがって、稲沢市に有ったとされる尾張国の国府に服属していた。
北部は早くから中京工業地帯の一角を形成していた。特に北西部では製鉄・石油化学・火力発電などが発達し、北東部には自動車製造業の進出がみられる。近年は名古屋市の衛星都市化進行で人口増加が著しい。一方武豊町より南の地域は第1次産業を主体とした漁村地域で、少子高齢化が進み人口も減少傾向にある。全国区の話題となった南セントレア市は、美浜町と南知多町が合併して誕生する予定だった市名である。しかし住民投票の結果合併案は否決され、2町は当分単独行政を続けることとなった。
衆議院小選挙区では10市町のうち大府市のみが愛知7区で、その他はすべて愛知8区に属する。概して自民党が比較的優位に立つ保守地盤で、久野忠治元自治相が涵養(かんよう)した県内有数の自民牙城であった。小選挙区制度に変更された後も、自民党が中部国際空港建設や各種産業の誘致などで域内の有権者に対する影響力を維持していたが、2003年衆院選以降は民主党伴野豊と毎回激しくしのぎを削るようになった。2020年現在、7区の山尾志桜里衆議院議員は立憲民主党を経て国民民主党に所属しており、8区の伴野は落選中ながら国民民主党に所属している。
知多弁が話されている。知多弁は広義の名古屋弁(尾張弁)に含まれるが、三河弁との共通点も多い。そのため、名古屋市や一宮市等の尾張北部とはアクセントや文法において幾分異なっている。
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"text": "衆議院小選挙区では10市町のうち大府市のみが愛知7区で、その他はすべて愛知8区に属する。概して自民党が比較的優位に立つ保守地盤で、久野忠治元自治相が涵養(かんよう)した県内有数の自民牙城であった。小選挙区制度に変更された後も、自民党が中部国際空港建設や各種産業の誘致などで域内の有権者に対する影響力を維持していたが、2003年衆院選以降は民主党伴野豊と毎回激しくしのぎを削るようになった。2020年現在、7区の山尾志桜里衆議院議員は立憲民主党を経て国民民主党に所属しており、8区の伴野は落選中ながら国民民主党に所属している。",
"title": "政治"
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"text": "知多弁が話されている。知多弁は広義の名古屋弁(尾張弁)に含まれるが、三河弁との共通点も多い。そのため、名古屋市や一宮市等の尾張北部とはアクセントや文法において幾分異なっている。",
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] |
知多半島(ちたはんとう)は、愛知県西部、名古屋市や豊明市、刈谷市の南に突き出した半島。西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾に挟まれている。南は伊良湖水道を経て太平洋に通じている。愛知県南北部。蟹の足の様に渥美半島と向き合っている。
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[[ファイル:Mikawa_Bay_Aichi_Japan_SRTM.jpg|thumb|right|250px|知多半島(左)、[[渥美半島]](下)、三河湾(間)の[[ランドサット]]衛星写真。[[スペースシャトル標高データ]]使用。]]
{{File clip | Geofeatures map of Chubu Japan ja.svg | width = 250 | 70 | 50 | 1 | 20 | w = 1080 | h = 1200 | 知多半島の周辺}}
'''知多半島'''(ちたはんとう)は、[[愛知県]]西部、[[名古屋市]]や[[豊明市]]、[[刈谷市]]の南に突き出した[[半島]]。西は[[伊勢湾]]、東は[[知多湾]]・[[三河湾]]に挟まれている。南は[[伊良湖水道]]を経て[[太平洋]]に通じている。愛知県南北部。蟹の足の様に[[渥美半島]]と向き合っている。
== 地理 ==
比較的細長い半島で、平地は狭く、ほとんどが緩やかな[[丘陵]]からなっている。[[海岸段丘]]の切り立った海岸も多い。最先端は[[南知多町]]にある[[羽豆岬]]である。
丘陵は地形的には愛知県中部を縦断する[[尾張丘陵]]の南に続くかたちとなっており、[[鞍流瀬川]]より南が[[大府丘陵]]、さらに[[阿久比川]]や[[大田川 (愛知県)|大田川]]より南が知多丘陵となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Aichi3frm.htm |title=H7 愛知県:加木屋断層、高浜撓曲崖 |access-date=2023-03-27 |publisher=地震調査研究推進本部 |year=1995 |work=(3)地形・地質概要}}</ref>。
[[地方公共団体|地方自治体]]としては、[[東海市]]、[[大府市]]、[[知多市]]、[[常滑市]]、[[半田市]]、[[知多郡]]の[[東浦町]]、[[阿久比町]]、[[武豊町]]、[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[南知多町]]の5市5町の全域、および[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]と[[豊明市]]の一部が該当する。{{郡データ換算|愛知県|東海市|大府市|知多市|常滑市|半田市|阿久比町|武豊町|東浦町|美浜町|南知多町}}。大府市と阿久比町は海に面していない。美浜町と南知多町は伊勢湾と三河湾の両方に面している。
== 経済・地理 ==
[[File:Yakimonosanpomichi2.JPG|thumb|陶栄窯(常滑市)]]
[[File:Mizkan.JPG|thumb|ミツカン本社(半田市)]]
[[File:Chidorigahama1.jpg|thumb|[[千鳥ヶ浜 (愛知県)|千鳥ヶ浜]](南知多町)]]
東岸を走る[[東海旅客鉄道|JR]][[武豊線]]沿いの武豊町、半田市には臨海工業地帯が発展している。また、西岸中部の常滑市は古くから焼き物([[常滑焼]])産地として知られ、明治時代からは陶製土管など[[陶磁器|陶器]]の大生産地である。西岸北部の東海市、知多市の沿岸部は[[名古屋港]]から続く[[埋立地]]に工場が連なり、[[中京工業地帯]]の[[コンビナート]]となっている。[[西三河]]地域に接する東岸北部の[[大府市]]や[[東浦町]]では自動車産業の集積が見られる。[[醸造業]]も盛んであり、[[ミツカン]]が半田市に本社を置くほか、[[サントリー]]グループが[[知多 (ウイスキー)|ウイスキー「知多」]]を生産している。
半島北部と対照的に南部は工業化が進んでおらず、[[漁港]]が点在する。西岸では[[砂浜]]がよく残り、[[内海町 (愛知県)|内海]][[海水浴場]]などを抱える名古屋圏の行楽地となっている。
知多半島のほぼ全域は[[名古屋鉄道]]([[名鉄常滑線|常滑線]]、[[名鉄河和線|河和線]]、[[名鉄知多新線|知多新線]])により名古屋圏と結ばれている。特に北部では[[住宅地]]開発が盛んで、企業が集積する名古屋市や[[西三河]]地方への[[通勤]]者も多い。また[[知多半島道路]]の整備により半田市、武豊町の内陸部の発展が著しい。
2005年には、常滑市沖を埋め立てた[[人工島]]に[[中部国際空港]]が開港し、知多半島が東海地方の海外に向けた空の玄関となっている。
大きな[[川]]が無い知多半島は古来水不足であった。[[岐阜県]]内から水を引く[[愛知用水]](1961年開通)により、ようやく住民や観光客向けの[[水道]]水や[[農業用水]]、[[工業用水]]の需要を満たせるようになった。
かつて大府市の近崎(ちがさき、近世に行われた干拓事業により後に内地化)、半田市の亀崎、南知多町の鳶ヶ崎を「知多三崎」と称した。
== 交通インフラ ==
[[File:Chubu Centrair8.JPG|thumb|中部国際空港]]
=== 道路 ===
* [[国道23号]]([[名四バイパス|名四国道]])
* [[国道155号]]
* [[国道247号]]
* [[国道302号]]([[名古屋環状2号線]])
* [[国道366号]]
* [[愛知県道511号武豊大府自転車道線]]([[知多半島サイクリングロード]])
* [[名古屋高速道路]]
* [[伊勢湾岸自動車道]]
* [[知多半島道路]]([[知多中央道路]])
* [[南知多道路]](知多中央道路)
* [[中部国際空港]]
* [[知多横断道路]]([[セントレアライン]])
* [[中部国際空港連絡道路]](セントレアライン)
* [[西知多産業道路]]
=== 空港 ===
* [[中部国際空港]]
=== 鉄道 ===
* [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]
* [[武豊線]]
* [[名鉄常滑線]]
* [[名鉄空港線]]
* [[名鉄河和線]]
* [[名鉄知多新線]]
* [[名古屋臨海鉄道]]
* [[衣浦臨海鉄道]]
== 10市町の概要 ==
[[律令]]時代、知多半島は[[尾張国]]に所属した。したがって、[[稲沢市]]に有ったとされる[[尾張国]]の[[国府]]に服属していた。
北部は早くから中京工業地帯の一角を形成していた。特に北西部では製鉄・石油化学・火力発電などが発達し、北東部には自動車製造業の進出がみられる。近年は[[名古屋市]]の衛星都市化進行で人口増加が著しい。一方武豊町より南の地域は第1次産業を主体とした漁村地域で、少子高齢化が進み人口も減少傾向にある。全国区の話題となった[[南セントレア市]]は、美浜町と南知多町が合併して誕生する予定だった市名である。しかし住民投票の結果合併案は否決され、2町は当分単独行政を続けることとなった。
; [[大府市]]
: 知多・名古屋・三河を結ぶ交通網の要衝であり、[[愛三工業]]や[[豊田自動織機]]、[[住友重機械工業]]などの大企業が軒並み本社・主力工場を構える工業都市。丘陵部では[[近郊農業|都市近郊農業]]が行われ、[[ブドウ]]・[[伊勢いも]]は県内一位の生産量を誇る。東浦町にまたがる[[ウェルネスバレー]]は、健康・医療・介護・福祉関連の機関の一大集積地として開発が進んでおり、[[健康都市連合]]にも加盟している。
; [[東海市]]
: [[日本製鉄名古屋製鐵所]]や[[大同特殊鋼]]、[[愛知製鋼]]の本社が立地する製鉄業の市で、儒学者[[細井平洲]]の出身地でもある。[[カゴメ]]の創業地である。また、[[洋ラン]]の栽培が盛んなことから「鉄とランの街」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokaikanko.com/3minutes/ |title=3分でわかる東海市 |website=観て・学んで・遊ぼう 東海市観光 |publisher=東海市観光協会 |accessdate=2019-06-12}}</ref>。
; [[知多市]]
: 火力発電の町で、近年は名古屋市のベッドタウンとしても発達している。中でも岡田地区は江戸時代から昭和30年代まで[[知多木綿]]の生産地として栄えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://okadamachinami.com/okada/ |title=知多市 岡田 |website=知多木綿のふるさと おかだ |publisher=岡田町並保存会 |accessdate=2019-06-12}}</ref>。また、[[サントリー]]の[[ウイスキー]]「[[知多 (ウイスキー)|知多]]」は[[サントリー]][[知多蒸溜所]]で生産されており、名前の由来ともなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chita.lg.jp/citypromotion/story/story02.html |title=
知多市の逸話ストーリー#2 サントリーウイスキー「知多」 |website=ちょうどいいまち 知多 |publisher=知多市 |accessdate=2019-06-12}}</ref>。
; [[常滑市]]
: 愛知県内の[[瀬戸市]]と並んで日本有数の窯業の町であり、[[INAX]](現・[[LIXIL]])の本社があった。[[中部国際空港]]の開港により大型ショッピングセンターやレジャー施設などが進出している。[[常滑市民病院]]、[[常滑市消防本部]]が丘陵地の飛香台に移転し、同市の防災機能を高めている。[[りんくう町]]周辺の開発も進んでいる。
; [[半田市]]
: 知多半島の中核であり、1937年に市制施行を果たした。江戸時代より醸造業が盛んで、[[ミツカン]]の本社がある。また[[山車|山車祭り]]が有名で、[[亀崎潮干祭]]が[[ユネスコ]][[無形文化遺産]]に登録された「[[山・鉾・屋台行事]]」の一つに数えられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/285246 |title=亀崎潮干祭の山車行事 |website=文化遺産データベース |publisher=文化庁 |accessdate=2019-06-12}}</ref>。
; [[東浦町]]
: 宅地開発が進む一方、郊外型大型SCの立地で新たな知多半島北部の商業拠点となりつつある。2010年の国勢調査で人口5万人の要件を達成し(速報値で50,080人)、2012年1月に[[市制]]移行を目指していたが、人口の確定がずれ込み移行時期を先延ばししている。
; [[阿久比町]]
: 農業が盛んで阿久比米である『[[れんげちゃん]]』の産地。近年は隣接市の影響を受け自動車部品の工場も立地している。
; [[武豊町]]
: 臨海部は工場立地が進んでおり、[[中部電力]]による大規模太陽光発電所『[[メガソーラーたけとよ]]』も建設されている。たまり、たくあん、味噌などが有名。[[富貴]]地区には浦島太郎伝説もある。
; [[美浜町 (愛知県)|美浜町]]
: [[野間埼灯台|野間灯台]]、[[南知多ビーチランド]]、[[日本福祉大学]](美浜キャンパス)などがある。海水浴場や釣り場を多く有し東海地方各地から観光客を集めているが、伸び悩んでいる。
; [[南知多町]]
: 漁業が盛ん。内海・山海の両海水浴場に夏季は多くの観光客が訪れる。タコやフグ漁で有名な[[日間賀島]]や[[篠島]]は、現在、[[知多郡]][[南知多町]]に属する。この2つの島はかつては[[三河国]][[幡豆郡]]に所属した。
== 政治 ==
[[衆議院]][[小選挙区]]では10市町のうち大府市のみが[[愛知県第7区|愛知7区]]で、その他はすべて[[愛知県第8区|愛知8区]]に属する。概して[[自由民主党_(日本)|自民党]]が比較的優位に立つ保守地盤で、[[久野忠治]]元自治相が涵養(かんよう)した県内有数の自民牙城であった。小選挙区制度に変更された後も、自民党が[[中部国際空港]]建設や各種産業の誘致などで域内の有権者に対する影響力を維持していたが、[[2003年]]衆院選以降は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[伴野豊]]と毎回激しくしのぎを削るようになった。[[2020年]]現在、7区の[[山尾志桜里]]衆議院議員は[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]を経て[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]に所属しており、8区の伴野は落選中ながら国民民主党に所属している。
== 方言 ==
[[知多弁]]が話されている。知多弁は広義の[[名古屋弁]]([[尾張弁]])に含まれるが、[[三河弁]]との共通点も多い。そのため、名古屋市や一宮市等の尾張北部とはアクセントや文法において幾分異なっている。
== その他 ==
=== 市外局番 ===
* 0562(尾張横須賀MA):東海市(一部を除く:旧[[横須賀町 (愛知県)|横須賀町]])、大府市、知多市(一部を除く:旧[[八幡町 (愛知県)|八幡町]]、[[岡田町]])、東浦町
* 0569(半田MA):半田市、常滑市、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町、知多市の一部(旧[[旭町 (愛知県知多郡)|旭町]])
* 052(名古屋MA):東海市の一部(旧[[上野町 (愛知県)|上野町]])
=== 自動車のナンバープレート ===
* 全地域で[[愛知運輸支局#愛知運輸支局本庁舎|名古屋ナンバー]]を使っている。
== ギャラリー ==
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Gennkinosato.jpg|[[JAあぐりタウン げんきの郷|げんきの郷]](大府市)
Shurakuendaibutsu1.JPG|[[聚楽園大仏]](東海市)
Streetscape of Okada.jpg|岡田の街並み(知多市)
Yakimonosanpomichi1.JPG|[[やきもの散歩道]](常滑市)
Kamezakishiohi Festival2.jpg|[[亀崎潮干祭]](半田市)
Kenkonin.jpg|[[乾坤院]](東浦町)
Sakabejo3.jpg|[[坂部城]]址(阿久比町)
Noma lighthouse.jpg|[[野間埼灯台]](美浜町)
Himakajima7.JPG|[[日間賀島]](南知多町)
Shinojima1.jpg|[[篠島]](南知多町)
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== 関連項目 ==
* [[愛知用水]]
* [[渥美半島]]
* [[志摩半島]]
* [[知多郡]]
* [[知多弁]]
* [[知多型|知多型山車]]
* [[あいち知多農業協同組合]]
* [[知多地区農業共済事務組合]]
* [[知多みるく]](知多娘。)
* [[ウェルネスバレー]]構想
* [[知多四国霊場]]
* [[常滑窯]]([[知多半島古窯跡群]])
== 出典 ==
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[[Category:知多半島|*]]
[[Category:伊勢湾]]
[[Category:愛知県の地形]]
[[Category:尾張国]]
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17,211 |
芝川 (埼玉県)
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芝川(しばかわ)は、主に埼玉県東部を流れる一級河川。荒川水系荒川の支流。
埼玉県桶川市末広2丁目を発する流れと上尾市菅谷を発する湧水が芝川の源流とされ、この2本の流れが上尾市本町の一本杉橋の北側で合流し、南に流れる。
その後東に流れを変えながらさいたま市の通称見沼田圃の沖積平地のほぼ中央を流れる。この付近の海抜は4 - 5 mである。加田屋川と合流し再び南に流れると、緑区と川口市の境界付近では芝川第一調節池が建設されている。 その後川口市に入り青木水門で芝川と新芝川(芝川放水路)に分かれる。川口市南端の領家水門で新芝川と再合流し、芝川水門で荒川(荒川放水路)に注ぐ。
芝川によって形成された低地は、大宮台地の浦和・大宮支台と片柳支台、鳩ヶ谷支台を隔てている。
さいたま市東部に存在した沼地である見沼に注ぎ、見沼から流れ出て荒川に注いでいた川が芝川の原形である。なお、網代橋から青木水門の付近は古入間川の流路であり、かつての芝川は網代橋までであった。
なお、江戸時代のはじめに、関東郡代の伊奈忠次によって溜井(ため池)に改修されていた見沼が、1728年(享保13年)に干拓されて見沼田圃(見沼たんぼ、さいたま市見沼区、緑区)になると、排水路として見沼田圃の最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた。さらにその下流も改修されて、芝川は江戸と干拓地を繋ぐ通船路としても用いられた。別名「見沼中悪水」といわれたが、ここでの悪水は汚い水の意ではなく農業用水でない水という意である。なお、現在の網代橋付近から青木水門付近までは江戸時代以前に流れていた旧入間川の流路跡を利用したものである。かつての旧入間川は北東方向に流れ、毛長川方面へ流れていた。
近代には荒川放水路掘削に関連して下流の治水を目指し、1916年(大正5年)より県による水利調査が実施され、1921年(大正10年)から1930年(昭和5年)にかけて現在のさいたま市大宮区堀の内町二丁目から荒川合流点までの河川改修工事および荒川合流点の逆止水門の設置を実施、1940年(昭和15年)には綾瀬川方面へ流れる放水路の建設が始まった。しかし戦争による中断で、開削した放水路(有明橋付近の約1,350 m)は水を湛えたまま放置された。戦後、開削した部分を活用して本流から東寄りに迂回した後に再度本流に合流して荒川に至る形に計画を変更して1955年(昭和30年)から放水路の建設を再開し、1965年(昭和40年)に新芝川(芝川放水路)が完工した。現在、新芝川を芝川の本流としているため、青木水門から先の芝川は「旧芝川」と呼ばれている。
上尾市の上平地区は、流域周辺の宅地化を理由に1989年(平成元年)から1995年(平成7年)にかけてボックスカルバート工法により暗渠化が行なわれ、その上部を親水公園や車道および歩道として改修されている。
1989年(平成元年)「芝川、水とみどりの遊歩道」が手づくり郷土賞(生活の中にいきる水辺)受賞。
かつては市街地を流れるため水質が悪くかつ川口市においては悪臭も漂っていたが、現在は河川流域の地方公共団体ならびに周辺市民の努力により水質は改善し悪臭も解消した。またゴミも減りつつある。2009年(平成21年)に環境省から発表されたデータによると、公共用水域環境基準をはるかに下回るダイオキシン類しか検出されていない。そのため近年は清流を保全させるための努力が行われている。その一例として、綾瀬川共々埼玉高速鉄道線のトンネルを活用して、荒川の水を芝川に注ぐことで水質を保全する工夫が行われている。
昭和40年代の中ほどまでは、堤防が整備されておらず、川口市青木地区の天神橋からオートレース場近辺、また辻地区(旧鳩ケ谷市)あたりにかけて、たびたび水害に見舞われた。特に、天神橋付近は特に低い土地があり、床上浸水があった折には、ボートでの避難を余儀なくされるなどした。その後、昭和50年代に入ると堤防も整備され、また、平成を過ぎたあたりからポンプも整備され、現在では浸水被害はなくなった。水害を防ぐため、現在川幅を広げる工事を行っており南側から着工している。
芝川をテーマにしたアートプロジェクトを推進するため、地元団体が集まり「芝川プロジェクト実行委員会」が設立された。清掃活動である「クリーン作戦」や環境に関する講演会、河川敷に子供たちが作ったフラッグを飾るなどのアート活動を定期的に行っている。2008年5月には、鳩ヶ谷市緑町(現・川口市鳩ヶ谷緑町)自治会が貝を入れたり、一部の交差点などに「芝川にゴミを捨てないで!」などのポスターを貼り付ける等、川の浄化に協力した。
芝川・旧芝川
新芝川 ※天神橋下流より分岐し、山王橋の下流で旧芝川と合流する。
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芝川(しばかわ)は、主に埼玉県東部を流れる一級河川。荒川水系荒川の支流。
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{{Infobox 河川
|名称= 芝川
|画像= [[ファイル:Saitama Sibakawa 1.jpg|300px]]
|画像説明= さいたま市緑区(2014年4月)
|水系等級= [[一級水系]]
|水系= [[荒川 (関東)|荒川]]
|種別= [[一級河川]]
|延長= 29<ref name="kadokawa427">[[#chimeidic|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]] 427-428頁。</ref>{{refnest|内、県管理区間は26.1 km<ref name="fuzu-1">{{PDFLink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a1007/kasen/documents/373035_1.pdf 荒川水系 荒川左岸ブロック河川整備計画 付図《県管理区間》]}}p. 1-8 - 埼玉県、2006年2月、2015年11月24日閲覧。</ref>}}
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|流域面積=96.8<ref name="fuzu-1"/><ref group="注釈">[[#chimeidic|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]] 427頁では116平方キロメートルと記されている。</ref>
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|脚注=
|出典=
}}
[[ファイル:Ageo Shiba River 1.JPG|thumb|right|[[アブラナ|菜の花]]と[[サクラ|桜]]に包まれる芝川([[上尾市]][[本町 (上尾市)|本町]]一本杉橋付近)]]
'''芝川'''(しばかわ)は、主に[[埼玉県]]東部を流れる[[一級河川]]。[[荒川 (関東)|荒川]][[水系]]荒川の支流。
== 地理 ==
埼玉県[[桶川市]]末広2丁目を発する流れ{{Refnest|group="注釈"|末広を発する流れは「しらこばと団地」の北側より[[上尾市]]錦町まで暗渠となっている<ref name="kamihira">{{Cite web|和書|date=2015-03-26 |url=https://www.city.ageo.lg.jp/site/kamihira-juniorhighschool/20153262.html |title=上平の歴史 |website=上尾市役所 |pages=6-8 |accessdate=2018-10-20 }}</ref>。}}と上尾市菅谷<ref name="kadokawa427" />を発する湧水<ref group="注釈">こちらも上平公園(上尾市民球場)付近は暗渠となっている。</ref>が芝川の源流とされ、この2本の流れが[[上尾市]][[本町 (上尾市)|本町]]の一本杉橋の北側で合流し、南に流れる。
その後東に流れを変えながら[[さいたま市]]の通称[[見沼田圃]]の沖積平地のほぼ中央を流れる。この付近の海抜は4 - 5 mである<ref name="kadokawa427" />。加田屋川と合流し再び南に流れると、[[緑区 (さいたま市)|緑区]]と[[川口市]]の境界付近では[[芝川第一調節池]]が建設されている。
その後川口市に入り青木水門で芝川と新芝川(芝川放水路)に分かれる。川口市南端の領家水門で新芝川と再合流し、芝川水門で荒川([[荒川放水路]])に注ぐ。
芝川によって形成された低地は、[[大宮台地]]の浦和・大宮支台と片柳支台、鳩ヶ谷支台を隔てている。
== 歴史 ==
さいたま市東部に存在した沼地である[[見沼]]に注ぎ、見沼から流れ出て荒川に注いでいた川が芝川の原形である。なお、網代橋から青木水門の付近は古[[入間川 (埼玉県)|入間川]]の流路であり、かつての芝川は網代橋までであった。
なお、[[江戸時代]]のはじめに、[[関東郡代]]の[[伊奈忠次]]によって溜井([[ため池]])に改修されていた見沼が、[[1728年]](享保13年)に干拓されて<ref name="kadokawa427" />見沼田圃(見沼たんぼ、さいたま市[[見沼区]]、[[緑区 (さいたま市)|緑区]])になると、排水路として見沼田圃の最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた<ref name="Shibahist">[http://www.pref.saitama.lg.jp/b1001/kasen/sibakawakaishuunorekisi.html 芝川改修の歴史] - 埼玉県、2010年3月19日、2020年10月7日閲覧。</ref>。さらにその下流も改修されて、芝川は[[江戸]]と干拓地を繋ぐ通船路としても用いられた。別名「見沼中悪水」といわれた<ref>{{PDFLink|[https://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/kawaguch-gaku/text/07text.pdf 母なる芝川―川口をつらぬく川―]}}p.6 - 川口市立文化財センター分館 郷土資料館 2017年10月、2021年07月21日閲覧。</ref>が、ここでの悪水は汚い水の意ではなく農業用水でない水という意である。なお、現在の網代橋付近から青木水門付近までは江戸時代以前に流れていた旧入間川の流路跡を利用したものである。かつての旧入間川は北東方向に流れ、[[毛長川]]方面へ流れていた。
[[近代]]には[[荒川放水路]]掘削に関連して下流の治水を目指し、1916年(大正5年)より県による水利調査が実施され、1921年(大正10年)から1930年(昭和5年)にかけて現在のさいたま市大宮区堀の内町二丁目から荒川合流点までの河川改修工事および荒川合流点の逆止水門の設置を実施<ref name="kadokawa427" />、1940年(昭和15年)には[[綾瀬川]]方面へ流れる放水路の建設が始まった。しかし戦争による中断で、開削した放水路(有明橋付近の約1,350 m)は水を湛えたまま放置された<ref>{{Cite web|和書|date=2010-03-19 |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/b1001/kasen/sibakawakaishuunorekisi.html |title=芝川改修の歴史 |publisher=埼玉県 |accessdate=2020-10-07 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。戦後、開削した部分を活用して本流から東寄りに迂回した後に再度本流に合流して荒川に至る形に計画を変更して1955年(昭和30年)から放水路の建設を再開し、[[1965年]](昭和40年)<ref name="kadokawa427" />に新芝川(芝川放水路)が完工した。現在、新芝川を芝川の本流としているため、青木水門から先の芝川は「旧芝川」と呼ばれている。
上尾市の上平地区は、流域周辺の宅地化を理由に[[1989年]](平成元年)から[[1995年]](平成7年)にかけて[[ボックスカルバート]]工法により暗渠化が行なわれ<ref name="kamihira" />、その上部を親水公園や車道および歩道として改修されている。
1989年(平成元年)「芝川、水とみどりの遊歩道」が[[手づくり郷土賞]](生活の中にいきる水辺)[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part4_h1/4-33.pdf 受賞]。
== 流域の自治体 ==
; 埼玉県
: [[桶川市]]、[[上尾市]]、[[さいたま市]]、[[川口市]]
; 東京都
: [[足立区]]
== 水質 ==
かつては市街地を流れるため水質が悪くかつ川口市においては悪臭も漂っていたが、現在は河川流域の地方公共団体ならびに周辺市民の努力により水質は改善し悪臭も解消した。またゴミも減りつつある。[[2009年]]([[平成]]21年)に[[環境省]]から発表されたデータによると、[[公共用水域]][[環境基準]]をはるかに下回る[[ダイオキシン類]]しか検出されていない。そのため近年は清流を保全させるための努力が行われている。その一例として、[[綾瀬川]]共々[[埼玉高速鉄道線]]のトンネルを活用して、[[荒川 (関東)|荒川]]の水を芝川に注ぐことで水質を保全する工夫が行われている<ref>{{Cite news |title=わが国初 地下鉄内に浄化用導水管を敷設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-01-28 |page=1 }}</ref>。
== 水害 ==
昭和40年代の中ほどまでは、堤防が整備されておらず、川口市青木地区の天神橋からオートレース場近辺、また辻地区(旧鳩ケ谷市)あたりにかけて、たびたび水害に見舞われた。特に、天神橋付近は特に低い土地があり、床上浸水があった折には、ボートでの避難を余儀なくされるなどした。その後、昭和50年代に入ると堤防も整備され、また、平成を過ぎたあたりからポンプも整備され、現在{{いつ|date=2023-09}}では浸水被害はなくなった。水害を防ぐため、現在{{いつ|date=2023-09}}川幅を広げる工事を行っており南側から着工している。
== 市民活動 ==
芝川をテーマにした[[芸術|アート]]プロジェクトを推進するため、地元団体が集まり「芝川プロジェクト実行委員会」が設立された。清掃活動である「クリーン作戦」や環境に関する講演会、河川敷に子供たちが作ったフラッグを飾るなどのアート活動を定期的に行っている。[[2008年]]5月には、鳩ヶ谷市緑町(現・川口市鳩ヶ谷緑町)自治会が貝を入れたり、一部の交差点などに「芝川にゴミを捨てないで!」などのポスターを貼り付ける等、川の浄化に協力した<ref>芝川プロジェクト実行委員会 [http://rw-ivent.hp.infoseek.co.jp/file0001-shibawakaproject.html]{{リンク切れ|date=2014年7月7日 (月) 05:34 (UTC)}}</ref>。
== 橋梁 ==
[[ファイル:Okegawa Shiba River Uppermost 1.JPG|thumb|200px|right|芝川最上流部(桶川市末広)]]
[[画像:ShibaKawa2005-8.jpg|thumb|200px|right|道三橋付近の芝川(上尾市内)]]
[[画像:芝川.JPG|thumb|200px|right|芝川(さいたま市緑区)]]
[[画像:shin shibakawa in kawaguchi city.jpg|thumb|200px|right|新芝川(川口市内)]]
'''芝川・旧芝川'''
* まなび橋<ref name="kamihira" />(これより上流は暗渠)
* 扇橋
* しあわせ橋
* 一本橋
* 末広橋
* 長浪橋
* 堤橋
* (この間、暗渠。暗渠化前は上流から中橋、氷川橋、坊ノ下橋〈[[埼玉県道87号上尾久喜線]]〉が架けられていた<ref name="kamihira" />。)
* 尾平橋
* ○○橋
* 本町橋
* 一本杉橋
* ひがし橋
* 矢岳橋
* 岡橋
* 道三橋([[埼玉県道150号上尾蓮田線]])
* 東橋
* 農協橋
* 日の宮橋
* 鎌倉橋
* 国体橋([[埼玉県道323号上尾環状線]])
* 新橋
* 日の出橋
* 西長橋
* 吉野橋(上尾市道50802号・さいたま市道12721号、2017年8月10日開通<ref>{{Cite web|和書|date=2017-07-28 |url=http://www.city.saitama.jp/006/014/008/003/006/004/p055002.html |title=(平成29年7月27日記者発表)吉野橋(市道12721号線)の供用開始-さいたま市北区吉野町地域と上尾市原市地域が結ばれます- |publisher=さいたま市 |accessdate=2017-07-30 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-07-27 |url=http://www.city.ageo.lg.jp/page/049117071301.html |title=吉野橋が開通します |publisher=上尾市 |accessdate=2017-07-30 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>)
* 東北・上越新幹線・埼玉新都市交通伊奈線芝川橋梁([[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]・[[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]])
* 野原橋([[国道16号]][[東大宮バイパス]]・[[埼玉県道3号さいたま栗橋線]])
* 船橋
* 今羽橋
* 砂伏越([[見沼代用水]]西縁)※一級河川管理区間起点
* 分水橋
* 砂大橋
* 東北本線芝川橋梁([[宇都宮線|東北本線〈宇都宮線〉]])
* 砂橋
* 見沼橋(人道橋)
* 神明下橋(神明橋通り)
* 鷲山橋(市民の森通り)
* 東武野田線芝川橋梁([[東武野田線|東武野田線〈東武アーバンパークライン〉]])
* 石橋(大和田公園通り)
* (竜神橋)(2021年11月 撤去)
* 境橋([[埼玉県道2号さいたま春日部線]])
* 稲荷岸橋(人道橋)
* 新橋([[埼玉県道214号新方須賀さいたま線]])
* 松山橋
* 高鼻橋
* 中川橋
* 片柳橋
* 首都高速埼玉新都心線芝川橋梁([[首都高速埼玉新都心線]])
* 山口橋
* 大道西橋
* 新大道橋([[埼玉県道1号さいたま川口線]]〈[[第二産業道路]]〉)
* 大道橋([[埼玉県道65号さいたま幸手線]])
* 大道東橋
* 上新宿橋
* 北宿大橋
* 新宿橋
* 宮後橋
* 見沼大橋
* [[新見沼大橋有料道路|新見沼大橋]]([[国道463号]][[越谷浦和バイパス]])
* 念仏橋(国道463号)
* 武蔵野線芝川橋梁([[武蔵野線]])
* 桜橋
* 八丁橋歩道橋
* 八丁橋([[埼玉県道・東京都道103号吉場安行東京線]])
* 通船堀大橋
* 在家人道橋
* 在家橋
* 柳根橋(埼玉県道1号さいたま川口線〈第二産業道路〉)
* 芝川根岸大橋([[東京外環自動車道]]・[[国道298号]])
* 網代人道橋
* 網代橋
* 地蔵橋
* 上根橋([[埼玉県道332号根岸本町線]])
* 境橋([[埼玉県道111号蕨桜町線]])
* SKIP橋(都市計画道路里上青木線・2018年3月17日開通。それまでこの50 mほど上流に『ポン・ジョリー』と名付けられた簡易河川歩道橋が仮設されていた。同仮橋の欄干には、設置当時近隣だった旧[[鳩ヶ谷市]]・川口市の小学生らによる『鳩ヶ谷・川口の未来』をテーマにした絵画を耐久処理されたパネルが常時展示されていた)
* 天神橋
* 上青木橋(青木水門)
* 新青木橋
* 五右衛門橋
* 新朝日橋
* 朝日橋
* 青木橋
* 新橋
* 中の橋
* 芝川橋
* さくら橋
* 上の橋([[国道122号]])
* 中央橋
* ([[埼玉高速鉄道線]]※地下で交差)
* 門樋橋
* 仙元橋
* 梛木の橋
* 榎木橋
* 芝川水門橋
'''新芝川'''
※天神橋下流より分岐し、山王橋の下流で旧芝川と合流する。
* 汐入橋
* 千歳橋
* 鳩ヶ谷大橋(国道122号・埼玉高速鉄道線※地下で交差)
* 白鷺橋
* 有明橋
* あずま橋
[[ファイル:Kawaguchi Shiba River Most Downstream 1.JPG|thumb|right|200px|芝川と荒川の合流点]]
* 入谷大橋
* 南平大橋([[埼玉県道104号川口草加線]])
* 新芝川橋
* 花の枝橋
* 稲荷橋
* 順信橋
* 領家橋([[東京都道・埼玉県道107号東京川口線]])
* 山王橋
== 支流 ==
* [[皇山川]]
* 山崎排水路
* [[加田屋川]]
* [[藤右衛門川]]
* [[藤右衛門放水路]]
* [[笹根川]]
* [[永堀川]]
* [[竪川 (埼玉県)|竪川]]
* 旧芝川(芝川放水路開削後、現芝川の分流となる)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |year=1980-07-08 |title=[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |publisher=角川書店 |page= |isbn=4040011104 |ref=chimeidic}}
== 関連項目 ==
* [[芝川 (曖昧さ回避)|芝川]] - その他の芝川
* [[芝川第一調節池]]
* [[見沼通船]]、[[見沼通船堀]]、[[見沼三原則]]
* [[東京都道・埼玉県道255号足立さいたま自転車道線]](芝川自転車道)
* [[都市農業公園]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20160318012629/http://www.pref.saitama.lg.jp/soshiki/b1001/kasen/index.html 河川について] - 埼玉県公式ホームページ(2016年3月18日付のアーカイブキャッシュ)
* [http://fukadasoft2.sakura.ne.jp/rivers/siba/index.html 芝川] - 有限会社フカダソフト(気まぐれ旅写真館)
* [https://web.archive.org/web/20110906012958/http://www.tv-asahi.co.jp/earth/shibakawa/index.html 素敵な宇宙船地球号 - 旧芝川再生プロジェクト 「大都会ドブ川の奇跡」](2011年9月6日付のアーカイブキャッシュ)
* [http://npo-jwg.com/kyusibakawa.html JWG ジャパン・ウォーター・ガード - 旧芝川再生プロジェクト]
{{Normdaten}}
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[[Category:埼玉県の河川]]
[[Category:荒川水系 (関東)]]
[[Category:日本の排水路]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B7%9D_(%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C)
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Subsets and Splits
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